ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 (ほしな まつり)
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きみの笑顔が……

現実世界でのキリトとアスナの学校でのお話です。
ほぼ2人の世界で話は進んでいますが、学校なのでオリキャラ2名出させていただきました。
少しすれ違う2人ですが、結局ほのぼのイチャイチャですね。


2025月、浮遊城アインクラッドから解放されて数ヶ月後。

生還者約6,150人の中でもログインした当時、中高生だった若者達が通う

特別措置の学校があった。

 

校内になんとも言えないざわつき感がまん延しようとしていた。

誰も確認はできなかったが、どこから発生したかもわからないこの胸騒ぎのような

正体不明の期待と不安が入り交じった感覚は間違いなく生徒全員が感じていると確信できた。

校内の各所で数人単位ではあるが、ある時は朝休みの教室で、ある時はお昼のカフェテリアで

ある時は放課後の特別教室で、更には授業中の通信内でこっそりと共通の単語が

飛び交っていたのである。

 

『ケンカ』

『別れた』

 

だいたいはその単語を含む文章の最後にはクエスチョンマークが付いていたのだが……。

 

事の起こりは約2ヶ月前にさかのぼる。

まだ校内が清々しい……とまではいかないまでも、普通の空気が流れていた頃だ。

ココだけはやたらに甘い空気が流れているなぁ、と全校生徒の認識が統一されるのに

4月の入学式から、そう日にちは必要なかった。

昼休みの中庭で週に3回は目撃される光景だ。

彼女の手作り弁当を食べ終わり、午後の授業が始まるまでのつかの間、笑いあったり

お互いピッタリと寄り添ってうたた寝をしたりとイチャコラする一組のカップル。

思わず見とれるか、逆に目をそらして心の涙を流すか、見なかったフリをするか、

怒り、嫉妬、羨望、苦笑……様々な感情が中庭を中心に展開される。

その数は生徒数にとどまらず教師も含まれるという影響力の強さは、このカップルが

凡庸な2人ではない証だろう。

 

彼女の方は入学と同時にSAOでの肩書きもバレたギルド『血盟騎士団副団長』様だ。

容姿、頭脳、内面性、社交性どれをとっても文句のつけようがない。

その傍らの黒髪の彼氏はこちらも一部の生徒の間では正体がバレている。

『孤高のソロプレイヤー』、加えて主に女生徒からは『黒の騎士』様とも。

 

SAOのゲームクリア直前に、この2人が結婚した、という噂が一部で流れたが……。

真偽の程を確かめる間もまくゲームクリアで現実世界に戻ってきてたプレイヤー達は

幸か不幸か、この学校でその情報は多分真実だったのだろうと確信することになってしまう。

 

 

 

 

 

「で、何をするんだ?」

 

アスナが作ってきてくれた弁当を食べ終えたキリトは、差し出されたお茶を一飲みしてから

尋ねた。

 

「うーん……具体的にはまだなんだけどね。とりあえず学校側には了承をとったって」

「それでアスナは?」

「参加するなら模擬店とか料理関係がいいって何回も言ったんだけど……」

「実行委員やるんだ」

「……うん……それでも最初はみんな悪ノリして『副委員長』を、って言ってたのを

なんとかヒラにしてもらったんだよ」

 

心なしか機嫌の悪いキリトに、アスナは懸命に説明を続けた。

 

「ほら、キリト君とよく一緒に放課後、パソコンルームにいる佐々井君も

実行委員メンバーだけど、『ネト研』でも参加するって」

「オレ、聞いてないけど……」

 

やぶ蛇だったようだ、アスナの笑顔がひきつる。

 

「この学校、生徒会もないから、部活動できないもんね。それでもみんな少しずつ自発的に

色んな事に挑戦しようとしてる。それを発表できる場があるのはいいことだよ。だからね、

少しでも力になれればって……」

「……アイツにそう言われた?」

「別にそういうわけじゃ……」

「でもアイツなんだろ、発起人で実行委員長なの。さっきまでそこにいた」

「……名前、『茅野』くん、だよ」

「知ってる」

 

これはもう何を言っても今すぐ機嫌が直ることはないとアスナは悟った。

キリトが「アイツ」と連呼しているのは、アスナのクラスメイトの茅野聡。

アスナと同じクラスという事は、多分キリトより年上である。

この学校はSAOからの帰還者を対象としているので明確な学年割りをしていない。

入学前のクラス分けテストの結果を参考に学力別で編成しているので、結果、ほぼ年齢別か、

もしくは学力が残念な場合、自分より年若いクラスメイトを得ることとなる。

その茅野聡は入学式で入学生代表をつとめた人物だ。

噂ではクラス分けのテスト結果でアスナと同じ最高点だったが、

彼女がまだリハビリ中ということで彼が代表に決まったらしい。

「さっきまでそこにいた」と言うのは、キリトが中庭に到着するまで、ベンチに座っている

アスナの前に立ち、2人で楽しそうに談笑しているのをキリトが目撃したからで、

茅野聡はキリトに気づくと「じゃあ、よろしく」とアスナに言い、立ち去ってしまったのだ。

何の話をしていたのか聞くと、今度『校内祭』をやる企画が通ったのだとアスナから

告げられたキリトは、とりあえずアスナの用意してくれた昼食を平らげたものの、

モヤモヤとした気分は晴れず、なぜか茅野と一緒にいた時のアスナの笑顔が

頭から離れなかった。

 

 

この学校には部活動がない。

先輩・後輩と言った学年差もない、全員が4月からの新入生で成り立っている学校なのだし

何より学校側もそこまでの余力がなかった。

そこで生徒達が同好会や研究会のような形で興味のある分野を追求するグループが幾つか

自然発生していったのである。

キリトが所属している通称『ネト研』も最初は放課後の教室でPC好きな男子達が

集まってワイワイしていたものが、パソコンルームや自由教室を使う時、代表名がないと

不便という理由で『ネットワーク研究会』と命名しただけで、活動内容はかなり多岐に

わたっている。

そこで茅野聡の発案で普通高校で言う「文化祭」が出来ないものか、と学校側に持ちかけたのだ。

「文化祭」と称すると参加資格が文化系に限定されてしまうし、それほど大規模なものを

目指してもいなかったので、『校内祭』と命名したらしい。

学校創設のいきさつから、どうしても偏見の目で見られがちな学校側としても、一般開放の

良い機会という点と、立案者の連名の中に校内トップの2人の名前があった事も承諾の後押しを

したに違いない。

 

学校側の了承を取り付けた後の行動は早かった。

茅野聡を中心とし、自由教室のひとつを実行委員会室として活動拠点に決め、参加希望の団体や

クラスを募り、内容を審議し、予算を組み、場所を割り当てるまでを1ヶ月でやりきった。

デジタルパンフの制作は「ネト研」に依頼がきた。

残り1ヶ月ほどで自分達の企画も準備を進めなくてはいけない。

決して時間的に余裕のある進行状況ではなかったが、立案者に佐々井が名を連ねてしまっていては

断るわけにもいかなかった。

 

「あーっ、またバグった……これ立入禁止領域にカーソル移動させると絶対だな」

「ん〜、プログラム作り直してる時間ないぜ、佐々」

 

通称『佐々』の佐々井が頭を抱える。

 

「カズゥ〜」

 

半泣き声を演出しつつ、自らの作業に没頭している桐ヶ谷和人に助けを求めた。

 

「知るか」

「ううう〜……」

 

『校内祭』の話が出始めたあたりからキリトの不機嫌は続いていた。

参加に異存はないようだが、実行委員会に関わる事となると途端にノリが悪くなる。

 

「あっ、オレもう実行委員の方に行くわ」

 

腕時計を見ながら立ち上がった佐々井はカバンを肩にかけると教室を出る前にキリトの隣に来て

しゃがみ込んだ。

 

「なにスネてんだよ」

「別にスネてなんていないさ」

 

キリトはPC画面から視線を外さず、キーボードを叩く手も止めずに応えた。

 

「姫、頑張ってるぞ。放課後は家の事情で遅くまで残れないからって、早朝に来て自分の担当分を

こなしてるし」

「……そうか」

 

佐々井に限らず、この学校の男子生徒のほとんどがアスナの事を「姫」と隠語で呼んでいる。

 

「だからさ、カズも頑張って、時間作って、バグの原因、見つけてくれよぅ」

「……時間が作れたら……な」

「サンキュー!」

 

これで問題は解決したとばかりの笑顔で佐々井は教室を出て行った。

 

 

 

 

翌週の午前中、キリトが移動教室を出て校内を歩いていると、後ろから佐々井がやってきて

強引に肩を組んでくる。

 

「カズ!、こっちから教室戻ろうぜ」

「なんで?」

 

佐々井がキリトの肩に回した腕に力を込めて、少し遠回りな方向へとキリトを

軌道修正させようとしていた。

 

「姫の教室の前を通るために決まってるじゃん」

「お前なぁ……、実行委員でも散々会ってるんだろ?」

 

確かめた事はないが、アスナのファンクラブで会員ナンバーの1ケタ代前半の番号を

佐々井が持っているという噂もあながち嘘ではない気がしてくる。

 

「委員会中の凜々しい姫もいいけどさ、やっぱ笑顔っしょ。この心身ともに疲れ切ったオレを

元気にしてくれるのは姫の笑顔しかないわけよ」

「委員会で、笑顔、ないのか?」

 

意外そうな声がもれる。

1ヶ月ほど前に目撃した茅野とアスナの様子からして、委員会でも和気藹々と

楽しくやっているのだと思っていたからである。

 

「あーっ、姫の笑顔を独り占めしてるお前には、わっかんないかぁ。

確かに、委員会でも笑ってる時はあるけどさ。違うんだよ、お前に向けられる時の笑顔はさっ。

そりゃあもう疲れも吹っ飛ぶレベルだから」

「……で、オレはお前の気力・体力レッドゾーンのHPバーをMAXにさせるダシなのか?」

「そういう事、そういう事……ほらっ、教室ちょっとのぞいてみようぜ」

 

そう言うと教室の前側のドアから顔だけを突っ込んでキョロキョロとアスナを探し始めた。

つられるように、佐々井の陰から顔を半分出すキリト。

と、突然、佐々井の襟首をキリトは力いっぱい引っ張った。

 

「ちょっ、ちょっ、ちょっ、どうしたんだよ、カズ?」

「いいから!……早く教室に戻ろう」

 

時間はまだあるだろ、と言いかけて佐々井は気づいた、キリトの表情がこわばっている事に。

まっ、ほんの一瞬だけど姫の笑顔が見れたからいっか、と思い直し、キリトの後を追いかける。

教室をのぞいた時、席にいたアスナの前には男子生徒が1人立ちはだかっていてアスナの姿を

ほとんど隠してしまっていた。

その後ろ姿は茅野聡だったのである。

同じクラスで、今は同じ実行委員会に所属している2人が一緒にいるのは何の不思議も

なかったが、茅野が少し動いた瞬間にのぞき見えたアスナの笑顔。

それはキリトでもわかるほど、特別だった。

SAOでのプレイヤーの男女比が極端であった事は、同様にこの学校の生徒の男女比にも

反映している。

当然、SAO時代からアスナの周囲に男子が多い事もキリトは当たり前の感覚ととらえていたが、

それに対するアスナの対応はこびることもなく、頑なに一線を画すこともなく、誰に対しても

一様に同じ態度を徹底していたのである。

それは裏をかえせば、特定の誰かを意識することがなかったわけだ、ただ1人を除いて。

しかし、先刻のアスナの笑顔は違っていた。

キリトに向けられる物とも違う笑顔とは……「あれはあれで、何だか癒やされたなぁ〜」と

ほんわり笑顔を浮かべた佐々井だったが「それはそれでカズにとっては問題かぁ」と笑顔を

終わらせて「頑張れよ」の意味を込め、隣を歩くキリトの肩を軽く2回たたいた。

 

 

 

 

 

その日の昼休み。

 

「アスナ、食べるか寝るか、どっちかにしろよ」

「……えっ?、あっ、うん……ごめん、ウトウトしちゃった……」

 

自分用の小ぶりのバーガー1個も食べ終わらないうちに、まどろみ始めたアスナを起こして

キリトは話を切り出した。

 

「弁当だけどさ、『校内祭』が終わるまで作ってこなくていいよ」

「……どうして?」

 

眠そうだった顔が一変、不安の表情になる。

 

「朝だって早く学校に来てるんだろ。弁当作る時間がなくなれば……」

「なら、一緒にカフェテリアかラウンジで……」

「オレも昼休み、『校内祭』の準備に充てないとマズい感じなんだ」

「……そうなんだ……」

 

それ以上はお互い何も言えなかった。

こうして名物となりつつあった昼休みの中庭での甘い空気は消散してしまったのである。

そして噂は超高速通信なみの速度で校内中に広がった。

 

『2人が中庭で一緒に弁当を食べなくなったということは……』

 

『校内祭』間近ということも手伝って、生徒達は浮き足だった。

しかし当人達に事実を確認しようとする勇者が現れなかった為、噂はひたすら噂のまま

「ケンカ」「別れた」というキーワードと共に生徒達の心を揺さぶり続けたのである。

 

 

 

 

 

そして『校内祭』前日。

教師陣の計らいで、前日は終日、準備日となった。

校内のあちらこちらで最後の追い込み作業が行われている。

『ネト研』のメンバーもパソコンルームで準備に奔走していた。

 

「佐々ぁ〜、ケーブルの長さ、全然足りないよぉー」

「くっそぉ〜っ、レイアウトしたの誰だよっ」

「てかさ、これ一斉に立ち上げてシステム展開したら電源落ちるんじゃ……」

「考えるなっ!、とりあえず祈れっ!、そして落ちた時は走って逃げよう」

「それ、シャレになんないから」

「隣の教室の電源にこっそり差しちゃうのは?」

「ハッキングして電圧変えるとか……」

「電圧変えてもコード変えなきゃ意味ないって」

「ケーブルどぉするぅー、佐々ぁ〜」

「だーっ、もうっ!」

 

なんてオレ達詰めが甘いんだろう、とメンバー達が自覚し始めた頃、部屋の隅で

心ここにあらずのメンバーがひとり。

 

「カズ、なーにひとりで黄昏れてんだよ」

「佐々か……オレ準備終わったし」

「ならさ、ケーブル長くするの手伝って」

「どんな魔法だよ。左右からひっぱる気か?」

「協力してくれよぉ。この『校内祭』は言わばお前のための『校内祭』なんだぞ」

「なにを大げさな……」

「大げさなもんか。だいたいお前が言ったんじゃないか。今組んでるシステムの

ユーザインタフェースの一般的な感想が欲しいって」

「……確かに言ったけど、それと『校内祭』とどういう関係が……」

「だから、その願いをオレが姫に言ったら、ほどなくして『校内祭』の話が来たから……多分

そういう事なんだろうなって」

「佐々〜、お前、いつの間にっ」

「誤解すんなよ。別にわざわざ言いに行ったわけじゃないぜ。前に姫が放課後、お前を迎えに

パソコンルームまで来た時、システムチェックが終わらないと帰れないって、

姫を待たせてた事があっただろ。そん時だよ」

「……油断もスキもないな」

「あったり前だっ。せっかく姫と言葉を交わせるチャンスを逃すもんかっ」

 

人の彼女だと言うのに、清々しいほどのミーハーっぷりにキリトも二の句が継げない。

それでこの『校内祭』の立ち上げ段階から佐々井の名前があったのか、と合点がいく。

 

「そろそろ暗くなってきちゃうからさ、実行委員会室行って、ケーブルもらってきてくれよ」

「お前が行けばいいだろ」

「バカ言うなよ、今オレが行ったら委員会室で終身刑だって。他の実行委員のやつら、

昨日から泊まり込みでずっと缶詰なんだぜ」

「なんでお前はここにいるんだ?」

「オレはね、今朝まで頑張っていたが、ちょっとトイレに行って、戻ろうとトイレの

ドアを明けたら、そこはパソコンルームだったんだ」

「……それって逃亡だろ」

「ワープだよ。学校の七不思議って言えよ」

 

多分、実行委員のやつらも佐々井のワープ先は承知しているのだろう。

連れ戻しにこないところを見ると、そこまで余裕がないのか……。

 

「実行委員、全員泊まり込んでるのか?」

「そっ、姫もだぜ。昨日だけ特別に家から許可がもらえたって」

「徹夜?」

「まさかっ、隣の準備室を倉庫兼仮眠室にして限界きたら代わる代わる寝てるさ」

「……ケーブルだったな」

「行ってきてくれんの?、カズ、ありがとぉ〜!」

 

パソコンルームを出て行くキリトの後ろ姿を見送りながら、佐々井は

「ついでにこの校内のザワザワもなんとかしてくれよー」

と心の中でエールを送った。

 

 

 

 

実行委員会室のドアは開けっ放しで制服姿の生徒をはじめ、ジャージ姿にエプロン姿と

様々な格好の生徒が忙しく出入りを繰り返していた。

ドアの取っ手横には『校内祭まであと「1」日』の紙が貼ってある。

 

「すみません……『ネト研』ですけど」

 

できれば足を踏み入れたくないのか、のぞき込むようにしてキリトは声をかけた。

室内はもの凄い喧噪で、誰もキリトの声に気づかない。

 

「あの……ケープルを……」

 

とにかく実行委員をつかまえようと室内を見回すと、窓際にいるアスナに自然と目がいく。

窓から入る夕焼けの陽光がアスナの顔を照らしていた。

 

「っ!!」

 

予測はしてたものの、怒りに似た感情が突如こみあげる。

いきなりつかつかと委員会室に立ち入り、机でひとりタブレットを見ているアスナに近づくと

腕をつかんで強引に立ち上がらせた。

 

「きゃっ!、え?、あっ、キリ……和人君」

 

驚くアスナの声で委員会室の中にいた生徒全員の視線が一瞬にして集中した。

キリトはそんな視線に構うことなく、無言でアスナを出入り口のドアに引っ張って行く。

 

「彼女、30分借ります」

 

それだけ告げると問答無用の勢いで出ていこうとするキリトに茅野がにこやかな声をかけた。

 

「桐ヶ谷君、結城さんの担当はとうに終わってるから、返してくれなくて大丈夫だよ」

「そうですか、じゃあお言葉に甘えて、いただいていきます」

 

丁寧な物言いとは裏腹に、茅野をにらみつけるとキリトはアスナを腕をつかんだまま委員会室を

出ていった。

残された室内の生徒は唖然としたまま、全員が動けず、さっきまでの喧噪がウソのように

たっぷり10秒間は水を打ったような静けさが実行委員会室を満たしたのである。

 

 

 

 

 

キリトはアスナを中庭に連れ出すと、いつものベンチに座らせた。

自分はアスナの向かいに立ったまま、うつむいて大人しく座っている彼女を見下ろす。

 

「ったく、何やってるんだ!」

「何って……『校内祭』の準備を……」

「そうじゃなくて、いや、それもそうなんだけど……ああっ、もう」

 

言いたい事がありすぎて、何から言えばいいのかまとまらないのだろう。

大きく息を吐きながらドンッとアスナの隣に腰を下ろす。

腕が触れあってお互いの体温を感じる。

その温かさが心を落ち着かせていく。

こんな風にぬくもりを感じることが、ひどく久しぶりのような気がして、心地よさに

涙がでそうになる。

自然と口調は静かになった。

 

「アスナ、少し寝ろよ」

「……うん……」

 

キリトの肩にアスナがもたれる。

もともと色白い肌だが、今は少し病的なくらい顔色が悪い。その顔にかかる栗色の髪を

キリトが指でそうっと耳にかき上げても、アスナの寝息が乱れることはなかった。

夜のとばりが下りる寸前、最後の力を振り絞るかのように夕陽が全ての物をあかね色に

染める刹那、その光に彼女と共につつまれる恍惚とした時間には様々な思いがかけめぐる。

 

そのまま15分程の時が経っただろうか、あたりは既に薄暗くなっており、ベンチの周辺に

設置されているライトが点灯を始める。

そこに静かな足取りで2人に近寄ってくる人影がひとつ。

 

「茅野……聡……」

 

はっきりと顔の識別が出来ない距離からキリトは迷うことなく人影の名前を口にした。

茅野聡は2人の目前に立つと、アスナの寝顔を見て安堵の表情を浮かべた。

 

「結城さんが休んでくれてよかった。昨晩から何度か寝るように声をかけたんだけど、

聞き入れてもらえなくてね」

「アスナは……近くに人が多いと眠れないんです」

「それは、君がいないと、っていう条件つきだろ」

 

全てを知っているかのようなニコニコ顔で言葉を返してくる。

佐々井から泊まり込みの話を聞いて、多分寝てないのでは、と予想はしていたが、無理にでも

休ませて欲しかったと身勝手な思いを抱いていた。

今の話からすると茅野聡も気に掛けてくれてはいたようだが……。

それよりも、まるでキリトがアスナお気に入りの毛布かぬいぐるみのような言い方がカンに

障ったのだろう、語気を少々荒げてキリトが問いかけた。

 

「実行委員長がこんな所に来ていていいんですか?」

「うーん、どうだろうねぇ。トイレ休憩にでたら、なぜか中庭にワープしたみたいで」

 

飄々とした口調は変わらない。

 

「学校七不思議ですかね」

「そうだね」

 

挑戦的な言葉もどこ吹く風といった調子で受け流されてしまった。

この短時間に七不思議をふたつも聞かされたキリトは、少々げんなりした気分で自分を

落ち着かせ、構えていた気持ちをほぐし、肩の力を抜いて茅野聡という人物を見定めようと

視線を送る。

 

「ところで桐ヶ谷くんはコレを見て、どう思う?」

 

いきなりそう言いながら茅野は自分の携帯端末を取り出して、トップ画をキリトに見せた。

光っている画面がまぶしい。

目を細めて見ると、そこにはピンク色のベビー服を着た赤ちゃんを抱っこしている茅野の画像が

貼ってある。

アスナが寄りかかっているので、姿勢を変えないように気をつけながら、端末を

のぞき込んだキリトは

 

「親戚の赤ちゃんですか?」

 

と、尋ねた。

 

「まぁ、普通はそう思うよね。歳の離れた妹とかさ。……入学式が終わってすぐの頃だったかな、

結城さんが偶然、この画像を見てね、何の躊躇もなく『可愛い娘さんですね』って言ったんだよ」

「はっ?!」

「驚くだろ?、僕も驚いた。『どうしてそう思うの?』って聞いたら、彼女こう答えたんだ。

『自分の娘をこんな風に愛おしい笑顔で見つめる人が私のすぐ近くにもいるんです』って」

「うっ……」

 

思わずうつむくキリトを見て、茅野は確信したようだった。

 

「その時は結城さんの父親のことかと思ったんだけどね。どうやら違ってたみたいだ。それで僕と

結城さんについて君に何か誤解されてたら困るなぁ、と思ってたんだけど。

僕、妻子持ちだからね。学校で浮気とか全然考えてないし」

 

まるで予想していなかった単語がポンポンでてきて、キリトは思考が追いついていかない。

 

「すみませんが、わかるように話してもらえますか」

「ああ、ごめんごめん。実は僕、あの世界に閉じ込められる前、高校生だったけど起業して

たんだよ。会社も順調だったから高校卒業と同時に結婚するつもりの彼女もいた。ところが

あの事件で2年間の浦島太郎だろ。現実世界に戻ってきてみたら彼女と僕の間にできた娘は

もう1歳半だったというわけさ」

「はぁ……」

 

何と言っていいのか感想すらでてこない。

茅野の方もキリトの感想は求めていないようで、話を進める。

 

「会社は彼女が守ってくれていたお陰で存続してたから、今度は僕が仕事を頑張ろうと思って

いたんだけど、折角ちゃんと高校を卒業できるチャンスがあるのにもったいないって

彼女に言われてね。

でもそれって更に彼女に負担がかかるだろ、だから『今更高校なんて面倒くさい』って

言ったんだ。そしたらね『将来、娘が、自分の父親の最終学歴が中卒な理由が、

高校を卒業するのが面倒くさかったからって知ったら、絶対、白い目で見られるわね』って

言われて……」

 

なんとなくその状況はキリトも、耐えられない、と思った。

 

「それでこの学校に入学したら早々に結城さんに娘の事がバレてね。でも結城さんは

僕の娘の話を本当に嬉しそうに聞いてくれるから、つい僕も休み時間とか話し込んじゃって」

 

照れ笑いをする茅野聡はすっかり娘を溺愛する父親の顔になっている。

そこでキリトは気づいた。

アスナのあの特別な笑顔は茅野聡に向けられたものではなかったのだ。

あれは茅野の娘の話を聞いて、ユイの事を想っていた母親の笑顔なのだと。

 

「話を聞いてもらっているお礼ってわけじゃないけど、結城さんが研究会で頑張っている人の

力になりたいって言ってたから『校内祭』を発案してみたんだ……桐ヶ谷くん、今回の

『校内祭』は『ネト研』や君のお役に立てそうかな?」

 

いつの間にか楽しげな口調に戻っている。

 

「……はい、それはもう……なんか……すみませんでした」

 

これ以上、なにをどう言えと?!、な心境だった。

根源をさらせばキリトが佐々井に言ったほんのつぶやきのような言葉が学校全体をまきこんでの、

文字通りお祭り騒ぎになっているのである。

それを佐々井が言うように「オレのための『校内祭』ですね」などと冗談でも言える

性格ではない。

全てが判明した今となっては『校内祭』の実行委員長をやっている茅野聡に対しては感謝しか

出てこないが、それを伝えるのも違うような気がする。

 

先ほど、実行委員会室で自分をにらみつけた人間と同一人物とは思えないほど恐縮している

キリトの姿を見て茅野聡は楽しそうにとどめの一撃を放った。

 

「そうだ、僕がトイレ休憩に立った時、ちょうど佐々井くんがこっそり君を探しにきてね。

うっかり僕が大声を出してしまったので、ウチの実行委員に見つかって捕縛されて

しまったんだよ。泣きながら『ケーブルを〜っ、ケーブルを〜っ』て唱えてたけど、

アレ、何の呪文なのかなぁ?」

「うわぁぁぁぁっっっっ」

 

思わず叫んでしまい、あわてて自らの手で口を押さえたが間に合わず、隣のアスナが目を

覚ました。

 

「……うう……ん、んーっ……あれ?、茅野くん?」

「おはよう、結城さん。あとは自宅でゆっくり休んでね。僕はそろそろ戻らないと校内放送で

指名手配されそうだから行くよ。じゃ、桐ヶ谷くんもあまり遅くならないように」

「……はい」

 

キョトンとしているアスナの隣で複雑な表情のキリトがボソリッと

 

「だから『茅』の字がつくヤツは苦手なんだ」

 

と統計学をぶん投げるような言葉を口にしていた。

 

 

 

茅野が去った後、2人はまるで2ヶ月前に戻ったように、おだやかな気持ちで

寄り添い合っていた。

いつの間にかアスナの左手とキリトの右の手のひらが重なり、指を絡め合っている。

 

「あ〜、ごめん、アスナ。オレまだ帰れそうなにない」

「いいよ、いいよ。ちょっと寝てスッキリしたから。後は家に帰って休むし。

キリト君も頑張ってね」

「ああ……っとそれから、佐々の言う事、いちいち真面目に聞かなくていいから」

「なんで?、キリト君の話、よくしてくれるよ」

「どんな?」

「色々面倒みてやってるって。バグの修正したり……」

 

キリトの頭の中で『ゴミ箱を空にする』SE(サウンドエフェクト)が鳴った。

アスナの口から発せられた邪心のない一言で、実行委員会室から佐々井を救出する

プランが『ゴミ箱』に移り、更に完全消去されたのである。

 

「とにかく、今日はちゃんと休んで」

「うん」

「明日は……オレ、『ネト研』は午後担当だから……その」

「知ってる」

 

アスナは握っていたキリトの右手に軽く力を込め、ちょんっと舌を出して笑った。

 

「実行委員だもん。調べちゃった。だから私も明日の午前中は空けてあるから、

『校内祭』一緒に回ってね」

「ああ、もちろん」

 

キリトの返事を聞いたアスナの笑顔は、佐々井に言わせればレッドゾーンどころか消滅した

HPバーさえも復活MAXにできるくらいの特別だった。

思わずアスナの頬にキスをする。

アスナを少し肩をすくめて、くすぐったそうな笑顔になる。

それを見て再びアスナの頬に、今度は唇で甘噛みをするキリト。

 

「ひゃんっ、なに?」

 

少し血色の戻った頬を赤らめてアスナはビックリしたようにキリトを見る。

 

「いや、アスナの手料理しばらく食べてないから、ちょっと飢えてて」

 

こちらも完全に照れ顔である。

 

「もうっ、だからって、いきなり……んんっ」

「ありがとう、アスナ」

 

照れ隠しの抗議は、キリトの言葉と口づけによって 最後まで言い切ることが出来ない。

中庭からはいまだかつて無いレベルの甘い空気が発生していた。

 

 

 

『校内祭』明けから中庭の空気は一転した。

と言うか、単にもとの甘い空気に戻ったのである。

同時に校内でのザワザワは跡形もなく消えていた。

生徒達はしばらく身体が重く、気力も萎えていたが、それは『校内祭』疲れだけが原因では

ないだろう。

ちなみに『ネト研』はキリトが持ち帰ったケーブルを使い、使っていない電源を隣の教室から

借りて、無事に『校内祭』での催事を乗り切ることが出来た。

そしてこの『校内祭』を境に実行委員会室として使っていた教室から夜な夜な

「ケーブルを〜」という声がする学校七不思議がまたひとつ誕生したのである。




お読みいただき、有り難うございました。
本来なら同じ学校に通っているはずのリズやシリカもご登場いただかなくては
ならなかったのですが……短くまとめたかったのでキリトとアスナの友人(?)を
1人ずつで。
オリキャラですが「佐々」には、またいつか登場してほしいです。
ただ、この子が出ると「重い」話にできない……ならない……。
では、次は仮想世界でのイチャイチャ話です。


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誓いのシルシ

現実世界に生還後、アスナが再び《ALO》にログインするお話です。
ユイを含め、仮想空間で久々の親子3人水入らずですね。


アスナは《ALO》で囚われの身から現実世界へと生還した後、過酷なリハビリに

取り組んだかいあって、春からキリトと同じ学校へ入学が可能と診断された頃には、

世田谷の自宅からの通院生活となっていた。

身体が回復するのは嬉しかったが、入院中ならキリトが二日と開けずに

病院を訪れてくれていたのに、自宅療養では会うことすらかなわぬ日々が

続いている。

 

ある晩、いつものように携帯端末でキリトとお喋りをしていたアスナが

意を決したように切り出した。

 

「あのねキリトくん、ユイちゃんをちょっと貸して欲しいんだけど」

「貸す?」

「うん、私ね、今度は普通に《ALO》にログインしようと思って」

「……っ!」

 

キリトは一瞬言葉に詰まった。

再びアスナと仮想空間で同じ時を過ごす、それは病院のベッドで

眠り続けているアスナを、見つめることしか出来なかったあの時には

想像さえしていなかった事だ。

ただ、最近、かつての仲間達が次々に妖精アバターとなり、妖精の国で

羽根を広げている姿を目にしていると、自然とここにアスナもいてくれたら、

と思わずにはいられない自分もいた。

しかし、そのアスナの言葉を手放しで喜ぶ気にもなれない。

 

「……大丈夫なのか?……その……まだ、そんなに急がなくても……それに

いきなり《ALO》じゃなくたって、他のVRワールドでも……」

 

キリトの言葉を予期していたかのように、アスナはすぐさま首を横に振った。

 

「うううん、ログインするなら、最初に《ALO》って決めてたの」

 

どうやら意志は固いらしい。

 

「……そうか」

 

端末画面に映るアスナの真剣ではあるが落ち着いた笑顔を見たキリトは、彼女の

気持ちを尊重しようと思いを決める。

 

「なら、最初に《ALO》にログインする時はあっちでオレが迎えに行くよ」

 

その言葉も想定内だったのか、アスナは

 

「それは、嬉しいんだけどね……」

 

と前置きをしてから、少し悪戯っ子のような表情に変わって、キリトを驚かすお願いを

してきたのだった。

 

 

 

 

アスナのお願いはこうだった。

キリトも承知の事だが、《ALO》でのファーストログイン時はアカウント情報登録や

キャラクターの設定作業が全て完了すると、選択した妖精のホームタウンに転送される。

そこでアスナはホームタウンである首都から飛行訓練等をしつつ、央都《アルン》まで

旅をしてくるというのだ。

その飛行訓練と旅の為に、娘であり《ALO》ではナビゲーション・ピクシーのユイを

貸してほしいという申し出だった。

 

「だからキリトくんには《アルン》で待っていてほしいの」

「でも、どの首都から出発したって《アルン》までは色々危険だぞ」

 

するとアスナの顔からスッと笑みが消え、物騒な光が瞳に宿る。

見まがうことない、アインクラッド61層、《セレムブルグ》のアスナの部屋で

食事用ナイフを向けられた時の表情である。

そして意味深な笑顔になると、よく通る声で言葉を投げかけた。

 

「あら?、忘れたのかしら、キリトくん。私の《SAO》でのステータスを?」

 

そうでした、と反省と後悔の笑みを浮かべるキリト。

新生《ALO》では《SAO》でのキャラクターデータがそのまま引き継げるのだ。

リセットしてしまったキリトと比べれば、ファーストログイン時のアスナ方が既に

数値の上ではキリトを上回っているはずである。

それでも、初めてのMMORPGでは何が起きるかわからない。

 

まあ、そこはユイもついていることだし、「何が起こるかわからない」のはRPGの

醍醐味ではないか。

それをアスナが楽しむ気になってくれたのは良いことだと解釈し

 

「じゃあ、ユイの起動設定にアスナのアカウントを追加しておくよ」

 

と言って通信は終わった。

 

 

 

 

 

それから数日間、キリトは《ALO》にログインしても、傍にユイのいない物寂しさを味わい

ながら、ゲームプレイに邁進してユルド硬貨を稼いでいた。

旧知の仲間達が妖精の種族的特徴を付加してはいるものの、《SAO》での姿で飛んで

いるのを見ると、自分もなんとなくあの古ぼけたコートが懐かしくなってきてしまったのだ。

そこで、再び黒のロングコートを買おうとユルドを貯めているのである。

まあ、他にも購入したい物は色々とあるようだが……。

 

ちょうど資金が潤沢に整った頃、現実世界でアスナからメールが届いた。

ついに央都《アルン》にたどり着いたのだ。

《アルン》にはいつも使っている宿があるので、到着したら、そこから

ログアウトするよう、ユイには伝えてある。

これでとうとう明日の晩、互いに同じ場所でログインできる手はずが整ったというわけだ。

 

 

 

 

 

涼やかな効果音と共に、定宿の一室にキリトの姿が現れる。

 

「ユイ」

 

久々に愛娘の名を呼ぶと、胸元のポケットからポフッとユイが顔を出した。

 

「お久しぶりです、パパ。約束の時間より随分早いですね」

 

ポケットから飛び出したユイはキリトの顔の前でホバリングをしながら、首を

かしげた。

一週間と離れていなかったのに「お久しぶり」と言われると、キリトもつい

懐かしい気分になる。

アスナにユイを預けていた時は「今頃、女同士で楽しく旅をしているだろうか」と

思いを馳せると同時に、現実世界で海外に単身赴任している父親と自分を重ね、

自ら苦笑いをしたものだ。

 

「ユイ、ママはちゃんとこの宿でログアウトしたか?」

「はい、ちょうど隣の部屋です。それにしても、どうしたんですか?

ママがログインするまで、三十分以上ありますよ」

「ああ、ユイの話が聞きたくてさ」

 

ウソではない。

母娘2人でどんな冒険をしたのか、気にならないわけがない。

しかし、一番の目的は他にあった。

 

「それで、ママのアバターはどの種族妖精なんだ?」

 

現実世界で、いくらアスナに聞いても教えてもらえなかったキャラクターの選択。

アスナだったらどれを選ぶだろう、と最初は想像を楽しんでいたが、仮想世界にログイン

しているのがわかっているのに会えない現状が次第に耐えられなくなり、やっと会える

今日、いてもたってもいられず、早めにユイと会い、情報を引き出そうとしたのである。

 

「それは……ヒミツです、パパ」

 

ほぼ同じフレーズを現実世界でもアスナに突きつけられていた。

 

「だったら、どの方向から《アルン》に旅をしたか、だけでも」

「それもダメです」

 

母娘は完全に結託していた。

方角がわかれば、ある程度領地も絞れるのだが……。

これはもう、あと三十分ほど我慢して本人の到着を待つしかないようだ。

今まで我慢したんだ、あと三十分くらい、と自らをなだめる。

 

「じゃあ、どんな旅だった?……それならいいだろ?」

 

アバターの件を断念したため、肩を落としながら部屋にあるベッドに

ストンっと座ると、お伺いを立てるようにキリトが問いかけた。

 

「ママと二人で楽しかったです。でも……大変だったんですよっ、パパ」

 

笑顔で答えていたユイが急に意気込む。

 

「飛行訓練がそんなに苦戦したのか?」

 

それはまずないだろう、と思っていたが、一応口にしてみる。

《SAO》でのアスナの剣舞には何度も目を奪われているのだ。あの動きが出来て、

飛行感覚の飲み込みが悪いとは、どうしても思えない。

 

「いえ、飛行そのものはログインした初日にコントローラなしで飛べるまでに

なりました」

 

そうだろうな、とキリトが頷く。

ましてやユイがついているのである。

ユイはキリトの初飛行訓練に始まり、その後データを引き継いでログインしてきた

リズベットやエギルの飛行訓練にもつきあっているのだ。

訓練方法など、その都度データを蓄積しているはずなので、ユイがレクチャーしたなら

アスナでなくても、短期上達は約束されているようなものだった。

 

「だったら、何が……?」

「それが、ちょっと歩けば、すぐに男性プレーヤーから声をかけられるし、飛行すれば

フレンド申請のメールがひっきりなしに届くんです」

「ああ……」

 

なるほど、そっちの「大変」か、と納得したようにキリトは苦笑いを浮かべた。

《SAO》時代は「攻略の鬼」などと呼ばれ、剣呑なオーラを全身にまとっていたため

声をかけるどころか、その姿を盗み見るくらいしか出来ない男性プレーヤーが

ほとんどだったのに対し、今回は愛娘と一緒の旅を存分に楽しみ、笑顔をふりまいて

いたのだろう……それはもう色々な輩が寄ってこないばすがない。

「ママ、モテモテでした」と、ユイも娘として少し自慢げに話をしている。

 

「でも、プレーヤー同士のトラブルはなかったんだろ?」

 

暗に男性・女性の区別なく聞いた質問には

 

「はい、大丈夫です」

 

との即答を得られ、一安心したように、キリトは深く息を吐き出した。

その後、場所の特定ができない程度に、ユイの手振り身振り付きの冒険談を

ひととおり聞き終わるとちょうど約束の時間となる。

 

「じゃあ、そろそろママを迎えに行くか」

「はい、パパ」

 

ユイが定位置となっているキリトの頭の上に着地するのを確認してから、部屋をでると

はやる気持ちを抑えながら隣のドアの前までやってくる。

 

コンッ、コンッ

 

「アスナ?」

 

ノックをしてから彼女の名を呼びかけると

 

「どうぞ」

 

すぐに彼女の声がした。

まるで結婚式前に新婦の部屋を訪れる新郎のように胸が高鳴る。

少し緊張気味の手で内開きのドアを押し開ける。

目の前にアスナの姿が飛び込んできた。

 

「……アスナ」

 

自分の名を呼ばれ、少し首を傾けながらニッコリと微笑む彼女。

白を基調としている衣装はかの世界で見慣れていると思っていたが、もうひとつの

基調色が青というだけで、印象がガラリと変わる。

清廉で純潔、まとう空気さえも清々しさを増しているようだ。

また髪もウンディーネ特有の水のように澄んだ青が、清らかな印象を強くしていた。

それでいて丈の短いチェニックとそこから見える細い足が愛らしさを加えている。

思わず足早に駆け寄り、その身体を抱きしめた。

 

「お待たせしました、キリトくん」

 

耳元でアスナがささやく。

 

「《アルン》へ、《ALO》へようこそ、アスナ」

 

しばらくそのまま互いのぬくもりを感じ合った後、少し身体を離してから、キリトは

改めてアスナのウンディーネ姿を見つめた。

 

「ウンディーネを選んだのか」

「うん……ヘン、かな?、髪の色、もっと薄いほうがいい?」

「いや、似合ってるよ」

「そういうキリトくんも、髪の毛、おろしたんだね」

「ああ、ユイのリクエストで」

 

カスタマイズの理由は至極単純で、ユイが座りにくいから、だそうだが、ツンツンしていた

時より《SAO》のキリトを彷彿させる。

キリトの頭の上に鎮座しているユイを見つけると、アスナは再び微笑みながら声をかけた。

 

「ここまで有り難う、ユイちゃん」

「私も楽しかったです、ママ」

「また、二人でお出かけしようね」

「はいっ」

 

極上の笑みを浮かべているのだろうと、頭の上のユイの表情を想像しながら、キリトは

アスナの手を取った。

 

「それじゃあ行こうか、《イグドラシル・シティ》へ」

 

 

 

 

 

宿を出て、まずはアルン中央市街に向かう。

世界樹の上部に《イグドラシル・シティ》が新設された影響で、以前ほどの賑わいはないが

それでも人通りは多かった。

広い通りを歩いていると、やはりどの種族妖精でも男性はもちろん、女性ですら

すれ違う瞬間、アスナに目を奪われている。

さすがに今はキリトが横にいるので、声をかけてくる者はいないが……。

キリトの中では《SAO》での懐かしい記憶がよみがえっていた。

 

この視線の多さ、確か57層の主街区でアスナとレストランに向かった時も

こんな感じだったな。

 

軽く思い出し笑いをしつつ、ユイとおしゃべりに夢中の隣のアスナを愛おしそうに

見つめながら歩みを進めると……やがて中央市街を包むように存在する世界樹の木根が

目の前に現れる。

それに気づいたアスナの顔からは笑顔が消えた。

キリトとユイをおいて、世界樹の根に駆け寄っていく。

そっと片手で根に触れる。

 

「これが……世界樹なんだね」

 

少し後ろから立ち止まって見守っていたキリトとユイにも、アスナの声が震えているのが

わかった。

かつて自分を閉じ込めていた鳥かごが、この根の先の幹、更に幹の上部の枝に

吊されていたのだ。

あの時、鳥カゴから下に見えるのは白い雲海だけで自分の存在はこの世界樹の枝葉に隠され、

探しに来てくれる人は誰もいなかった……たった一人をのぞいては。

その巨樹の根に触れることが出来る日が来るとは、あの頃は思いもしなかったに違いない。

 

いつの間にかキリトがすぐ後ろに来て、根に触れているアスナの右手に自分の右手を重ねた。

同時に左手を彼女の腰に回し、何も言わずピッタリと身体を寄せてくる。

アスナの震えをキリトが温かく包み込むように。

アスナ自身も、この全身の震えが何なのかよくわからなかった。

感傷とも違う気がする。

新生《ALO》となった今では、かつて自分を包み隠していた世界樹とは同じ物でありながら

異なる存在とも思えるからだ。

 

「……そろそろ、行きましょう、ママ、パパ」

 

時を見計らってユイが2人をうながした。

 

中央市街入口のシンボルともなっている巨大な門をくぐる。

初めてこの門をくぐった時、ユイがアスナのパーソナルIDを感知した場所だ。

今日はそのまま世界樹の中心に向かって、少しずつのぼりになっている道を進んでいく。

建物がまばらになってきた所で

 

「行こう」

 

力強い言葉と共にキリトが羽根を出現させ、アスナに向かって手をのばす。

アスナがその手をとった瞬間に、キリトは飛び立った。

急いでアスナも羽根をはばたかせる。

キリトの左のポケットにはユイ。

数ヶ月前、同じようにユイをポケットに急速上昇を続けた時の記憶が自然と蘇る。

あの時は飛行限界高度にはばまれたが、今はその縛りはない。

求め焦がれていた彼女が、今は自分の傍らにいるのだ。

もうこの手を離すことはしない、と心に固く誓いながら、アスナの手をギュッと握った。

 

 

 

 

 

樹上の都《イグドラシル・シティ》は妖精達で満ちていた。

華やかな街並みにはNPCが経営する大小たくさんのショップやレストラン、そして

中層・高層の建築物が乱立している。

アスナは事前にキリトから買い物に付き合って欲しい、と告げられていたので、

連れられるまましばらく街中を移動し、モダンな店構えの服飾雑貨を扱う

ショップの前へとやってきた。

中に入ると妖精達があれこれとモニターに映る商品を吟味している。

するとキリトが何かを思い出したように「そうだっ」と立ち止まった。

 

「ごめん、アスナ」

「何?」

 

突然、アスナに向かって両手を直角に合わせてキリトが頭を下げた。

 

「実は初めて《ALO》にログインした時、アイテム類全部破棄しちゃったんだ。アスナと

共通ストレージだったろ」

「ああ、そのこと」

 

なんの話かと身構えていたアスナが、少し安心したように微笑んだ。

 

「それはユイちゃんから聞いてるから。完全に文字化けしてオブジェクト化もできない

状態だったんでしょ。仕方ないよ」

「あとさ……ユルドも全部使っちゃったんだ」

「そうだってね。それもユイちゃんから聞きました……今度、何かおごってね」

 

それこそ財布が共通データだった頃には出来ない事なので、そのくらいは

お安いもんです、とキリトはコクコクうなずく。

 

「で、ここで何を買うの?」

 

その問いに、ちょっと間をおいてからボソリと答える。

 

「……黒のロングコート……」

 

明後日の方向を見ながら答えるキリトを見て、アスナは笑いながら

 

「また?」

 

と言ってからキリトの腕をとり、店内の空いているモニターへと引っ張っていった。

 

 

 

 

 

「うーん、これはどう?、ユイちゃん」

「こっちも良いと思います、ママ」

 

着用する本人の意見はまるで無視で、次々とコートを見ている二人に、キリトの笑顔は

引きつっていた。

「着るのはオレなんだけど……」と言いかけたが、多分取り合ってはくれないだろう。

「コート」のカテゴリを選び、色条件を「黒」に設定したら、ヒット数は数着だろうと

予想していたのが、甘かったようだ。

候補を全て見て、何点かに絞る段階で当のキリトは既に飽きている。

「一番シンプルなやつで……」と小声で言ってみるが、聞こえているのか、いないのか、

二人は楽しそうにコート選び爆進中だ。

 

「うんっ、やっぱりこれかな……ね、ユイちゃん」

「はい、そうですね、ママ」

 

やっと一点に決まったようで、有無をいわさずメニュー画面の

「フィッティング」をタッチする。

二人が選んでくれたコートは袖と前後の身頃に白いラインが入り、

短めのスタンドカラーにファーが着いたものだった。

 

「……地味なヤツって言わなかったっけ?」

「これでも十分地味な方だよ、うん、似合う、似合う」

 

聞き覚えのあるフレーズが応酬する。

アスナもユイも満足げな笑みを浮かべているので、異論を挟む余地はなさそうだった。

これといって他に気になるコートもないので、素直にオススメを購入する。

 

「他に買い物は?」

 

アスナの言葉に、キリトが「……ああ、うん……」と曖昧な返事をした。

アスナとユイが全くの同期で同じタイミング、同じ方向、同じ角度に首をかしげる。

キリトはアスナのそばまで顔を寄せてから、少し顔を上気させてアスナの耳元に口を

寄せ、二言三言ささやいた。

それを聞いた途端、アスナがキリト以上に頬を紅潮させ、その後、嬉しそうに頷くと

二人揃ってショップのアイテムウインドウをのぞき込んでいる。。

画面に映る商品を見て、ユイも事の次第がわかったらしく、幸せそうに商品を選ぶ二人を

嬉しげに見つめていた。

 

 

 

 

 

買い物が終わると、三人は一階がオープンカフェとなっている二階の個室で休憩をとっていた。

開いている窓からは外の賑やかな声や音楽が聞こえてくる。

 

「それでは、パパ、ママ、私は一足お先に失礼します」

 

一階のカフェで購入したキャラメル・マカロンの半分をたいらげたユイは、

そう告げると、少し驚いた顔の二人を残して、早々にキリトの胸ポケットへと消えていった。

 

「あっ、ユイちゃん……」

 

名残惜しそうにポケットを見つめているアスナに、残りのマカロンを口に放り込んだキリトが

軽く咳払いをし、照れ笑いを浮かべながら言った。

 

「あ−、その……ユイなりに気を遣ってくれたのかもな」

 

言葉の真意が伝わったらしく、アスナも「そうだね」と恥ずかしそうな笑顔になる。

そしてイスから立ち上がり、窓辺に近づいて外の景色を眺めながら、吹いてくる

風を気持ちよさそうに浴びた後、軽く吐息を漏らした。

 

「疲れた?」

 

その様子を見ていたキリトが気遣う。

すると、キリトの方に振り返ったアスナは軽く頭をふって

 

「うううん、そうじゃなくて。なんだか夢みたいだなと思って。キリトくんがいて

ユイちゃんがいて、こんな風に一緒にいられるなんて」

 

少し潤んだ瞳で微笑んだ。

 

「……そうだな」

 

そう言うと、キリトもテーブルを離れてアスナの隣に立ち、窓から見える《イグドラシル・

シティ》の街並みを見つめながら話を始めた。

 

「前にユイと話したんだけどさ、ここにもプレイヤーホームがあるらしいんだ。

あの頃みたいに一軒家ってわけにはいかないだろうけど、とりあず部屋を借りて、

ユイと……」

 

そこまで言うと、続く言葉が良く聞こえるよう両手で窓を閉めてから、アスナの正面に

向き直った。そして、かつて、あの浮遊城のアスナの部屋で一夜を過ごした後に彼女に告げた

言葉に込めた気持ちそのままに

 

「……アスナと一緒にすごしたい」

 

そう告げると、メニューウインドウを操作して、先ほど購入したアイテムをオブジェクト化

する。

キリトの手の中には二つの指輪が並んでいた。

 

《ALO》では《SAO》でいう「結婚」というシステムが存在しない。

したがって、男女が同じ指輪をはめていても、それは単にペアアクセサリーとしての意味しか

なさないのだが……。

 

アスナがキリトから指輪のひとつを受け取る。

その指輪にそっとキスをしてから、キリトの左手をとり、その薬指に近づける。

指輪はスッと消えてキリトの指に装着された。

次にキリトがもうひとつの指輪を左手に持ち、右手でアスナの左手をとると、そのまま実際に

リングをはめるように指先から指輪を滑らせる。

指の付け根に到達する直前、同様に消えた指輪はアスナの薬指に装着された。

そのままアスナの左手を自分の顔の高さ近くにまでもちあげ、光るリングごと彼女の

薬指にキスをする。

アスナはひと粒の涙で頬を濡らしながら、輝く笑顔を浮かべていた。

その笑顔を見たキリトは、握っていたアスナの左手をグイッと引き寄せ、アスナの薄い

唇に自分の唇を重ねた。

一瞬驚いたように見開かれたアスナの瞳が、すぐに閉じられる。

深く、甘く、長い、誓いの口づけだった。

 

 

 

 

 

「……キリトくん」

 

口づけが終わった後も、キリトは強くアスナの細い身体を抱きしめていた。

 

「ん?」

 

キリトはそのままで、続くアスナの言葉を待つ。

 

「この指輪を見たら、時々思い出してね。キミの後ろにはいつも私がいて、キミを

守ってるって」

 

その言葉を聞いて、キリトはなぜアスナがウンディーネを選んだのか、理由のひとつが、

わかった気がした。

ウンディーネは後方支援を得意とする種族だ。

あの世界でフォワードとバックアップだったように、お互いが支え合い、絶対の信頼が置ける

ポジション。

 

「ああ、オレもアスナを守るよ」

 

そう言ってアスナのおでこに軽くキスをする。

 

「うん」

 

安心したように微笑むアスナを見て、彼女の閉じられた瞳の瞼に、頬にと次々にキスをしていく。

耳に、首筋に、ついには肩先へとキリトの唇は移動していった。

 

「ちょっ、ちょっと、キリトくんてばっ」

 

赤面しながら無理矢理に自分の身体から引き離すと、キリトが不満げな表情でアスナを

見つめている。

 

「……そんな表情(かお)で……見ないで……」

 

つい情に流されてしまいそうになる。

 

「アスナ、退院したから全然リアルで会えないだろ。《ALO》にログインしても、今日まで

会えなかったし……」

 

その言葉を聞いて、アスナが思わず「ふふっ」と声をだした。

 

「あ、ごめんね、笑ったりして。でも……私も同じ事、思ってたから」

 

そう言うと、軽くつま先立ちになり、両手を伸ばしてキリトの頬を包み込み、紅潮した

ままの恥ずかしそうな顔を自ら近づけて、口づけをする。

今度はキリトが瞬時、驚いた表情を見せたが、すぐに両手で彼女の身体を支え、それに応える。

 

キリトの頬に触れているアスナの両手と、アスナの背中に回されたキリトの両手。

どちらも、その左手の薬指には誓いのシルシが輝いていた。




お読みいただき、有り難うございました。
原作の時間軸で言うと、新生《ALO》にはなっていますが、《浮遊城アインクラッド》は
実装前です……ハイ、《アインクラッド》実装前だとキリトのアバターは旧《ALO》の
ままのはずで、髪型のカスタマイズはもちろん、多分指輪もつけていないわけで……
確信犯でご都合主義を発動させていただきました。スミマセン。
キリトとアスナが再び仮想空間にログイン出来る日がきたら、すぐに指輪をつけて
欲しかったので。
では、次は現実世界での短編です。


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やさしい音

ご本家(原作)様の文庫本第16巻発売をお祝いしたく、急遽手持ちの中から
短めのを投稿させていただきます。
(今月投稿予定のものは、もっと短編ですが……)
和人と明日奈が約束通り、アメリカで生活を始めた頃のお話です。
今回のイチャイチャは「ほのぼの」カテゴリには入らないよーな……。



「……ただいま、明日奈……って、起きてないよな」

 

起きているとも思っていなかったが、無言で入るのも変にアヤシイ気がして

オレはいつも通りの言葉をささやきながら、寝室のドアをそっと開け、

続けて実況を呟きながら、やはり音を立てないよう慎重にドアを閉めた。

それからベッドサイドに向けて足を忍ばせる。

寝室と言ってもダブルベッドひとつが空間のほとんどを占めてしまう程度の広さだ。

サイドテープルにのっているアンティークデザインのランプが薄暗い寝室の中の

唯一の光源なので、その灯りを頼りにベッドをのぞき込むと、アミュスフィアを

片手に握ったまま、明日奈が寝息を立てていた。

「今夜は多分帰れない」と連絡しておいたので、あっちの世界でユイと一緒に眠りについて

そのまま「寝落ち」したのだろう。

無意識にアミュスフィアだけははずしたようだが、その寝姿に軽くため息をついてしまう。

 

「また薄着で……オレがいない時はちゃんと着ろって言ってるのに」

 

寒がりのくせに、明日奈は厚着を嫌がる。

オレが一緒の時はひっついて寝ているからいいが、忙しくて大学に泊まるケースも

度々あるので、前から気になっていたのだ。

 

「まあ、今晩は帰って来ると思ってただろうから……仕方ないか」

 

研究室でテイクアウトの夕食を取った後、そろそろ帰れると思っていた矢先に

追加課題が飛び込んできたのだ。

まあ珍しい事でもないので、事の次第をメールで送信した後、ほどなくして届いた

明日奈からの返信には、いつものように了解の旨の下に身体を気遣うメッセージが

添えられていた。

日付が変わる頃にようやくやり終えたので、他のメンバーはそのまま研究室に

泊まり込みを決めていたが、オレはなんとなく明日奈の寝顔だけでも見たくて

無理に帰ってきたのである。

 

明日の……いや、もう今日か……朝も早目に大学に行かないと、なんだよな。

 

研究室のメンバーもひやかす、と言うよりはあきれていた。

今から寝ても二〜三時間の睡眠だ。

あくびをしながら上下のスエットに着替える。

 

ここ、アメリカのサンタクララにある大学の近くに部屋を借りて一ヶ月半が

経とうとしていた。

慣れた、と言える程の余裕はまだないが、なんとか日々のパターンだけは出来上がって

きたように感じる。

それもこれも身の回り全般で明日奈の行き届いたサポートがあるお陰だった。

これ程まで不規則な生活になるとは自分でも予想していなかっただけに、彼女が一緒では

なかったら、と思うと想像すら怖くなる。

 

完全にオレのわがままに振り回してるな……

 

もちろん明日奈からは不満の一片たりとも聞いたり、感じたりしたことはないが、無理を

させているのは明かだろう。

 

「和人くんはそんな事、気にしなくていいのっ」

 

前にそう言われたので、結局明日奈に対してはそのまま甘えっぱなしになっている。

それを今考えても答えは出ないので、頭を軽く振って、意識を寝る事へと切り替えた。

アラームをセットしてから、できるだけベッドに振動を与えないよう、布団をまくり、

彼女の隣に潜り込む。頭を枕に預けた途端、明日奈がアミュスフィアを手放して、

オレの方に寝返りを打ち、いつものように首元に顔をうずめてきた。

なんという高性能な温感センサーなのか。

 

やっぱり寒いんじゃないか……

 

少し縮こまるような体制でくっついてくる。

 

だからちゃんと着ろって……

 

二度目のため息は出るが、思わず微笑んでしまう。

明日奈の手から離れたアミュスフィアを静かにサイドテーブルに移動させ、そのまま

ゆっくりと彼女の背中に手を回し、少し抱き寄せるようにしていつもの体制になる。

つい頬にキスをしそうになり、思いとどまった。

これ以上は明日奈を起こしてしまうかもしれない。

寝顔を見て、自分も寝ようと考え直した時、彼女の目尻に涙が溜まっているのに

気がついた。

さっきまでの思考がまだ頭の片隅に残っていたようで、原因が自分にあるのでは、と

思わずにはいられない。

 

……起こした方がいいんだろうか……

 

しかし、うなされているわけでもないので、ただでさえ不規則な生活に付き合わせて

いるのだ、睡眠を邪魔するのも気が引ける。

思案しているうちに、ゆっくりと、少しだけ明日奈の瞳が開いた。

 

「……音が、するね」

「うん?」

 

無表情に意味不明の言葉を発している。

オレの聞き間違いだろうか?

それとも寝言?

 

明日奈は見上げるように顔をオレに向けると、視点が定まらない瞳のまま、

再びつぶやいた。

 

「……雪の、降る音が聞こえる」

 

……完全に寝ぼけてるな。

 

トロンとした表情を間近に見て、オレは困りながらも可愛いと思ってしまう。

 

「さすがに雪は降ってないぞ」

 

やさしく静かに返してみる。

そうすればまた寝るかと思ったのだが……二、三回まばたきをすると

 

「……あれ?、キリトくん?」

 

半信半疑の様子で目をこすって起きてしまった。

 

「ごめん、起こした」

「うううん、夢、見てたみたい」

「雪の?」

「そう、宮城の祖父母の家で雪を見てるの。ちいさい頃は雪の降る音が好きで何時間でも

見ていられた……今こうしていると、さっきのは雪の降る音じゃなくて、キリトくんの

心臓の音だったのかも」

 

そう言って嬉しそうに再びオレの胸に顔を押し当ててくる。

 

「『キリト』って呼ばれるの、久しぶりだな」

 

跳ねるように明日奈が顔を上げ、表情を曇らせた。

 

「ごめんなさい」

「別に謝ることじゃないさ。明日奈、こっちで暮らすようになってから『キリト』って

言わないようにしてただろ」

「気づいてた?」

「ああ」

「現実世界で新しい一歩を踏み出そうとしてるのに、いつまでも『キリトくん』って

呼んでいいのかなって。それにこっちの周りの人達も変に思うかもしれないし。

あと……他の人が真似して呼んだら……ちょっとイヤ……なんだもん」

 

最後は恥ずかしかったのか、オレの胸に顔を押し当てて言ったので、なんとか

聞きとれる程度の音量だった。更に顔をうずめたまま小さな声が聞こえる。

 

「わがまま言って、ごめんね」

「どこがわがままなんだよ」

 

可笑しくなって、つい笑いながら彼女の頭を両腕で包み込んだ。

 

「二人きりの時ならいいさ」

 

髪の毛にキスをしてから強く抱きしめる。

その言葉に安心したのか、話は現実に戻ってきた。

 

「……あ、大学に行くの、朝早い?」

「ごめん、そうなんだ」

「それこそ謝ることじゃないよ。なら、朝ご飯、早めだね」

 

顔を起こしてオレに笑顔を見せる彼女。

それから半身起き上がり「だったら、早く寝なきゃ」と言いながら、オレに布団を

かけ直してくれる。

でも、その笑顔がいつもと違う気がして、どうしても聞かずにはいられなかった言葉を

口にした。

 

「……明日奈、なんで泣いてたの?」

 

オレの言葉が耳に届いた途端、彼女の笑顔が凍り付き、瞳から涙があふれ出てくる。

それを見せまいと、すぐに下を向いて両手で顔を覆ってしまった。

 

「……日本に、帰りたくなった?」

 

ためらいなく首を横にふる。

押し殺そうとしてもしゃくり上げる声が漏れ聞こえる。

 

「明日奈だけ……一週間くらい帰国して……」

 

最後まで言い終わらないうちに、さっきよりも激しく首をふる。

それでも肩の震えは止まらない。

言ってはみたものの、数日でも明日奈が海の向こうに帰ってしまう事がオレに耐えられる

のか、はっきり言って自信がない。

 

「……明日奈……」

 

オレがあきれていると勘違いしているのだろう……いや、確かに困惑はしていたが

理由がわからず困っているわけではなかった。

なんとなく……うまく言葉で説明は出来ないが、今までの無理が溜まっているのは

薄々感じていたのだ。

ただ、それをどうすればいいのか対処法がわからない……。

 

ふと明日奈の顔を覆っている細い指に切り傷があるのに気がついた。

オレも起き上がり、そっと手をのばして、その指に触れる。

 

「このキズ、どうしたんだ?」

 

そうオレに問われて、左手を自分の顔から離しキズを見つめながら、もう片方の

手の甲で懸命に涙をふこうとしている。

 

「……これは……昼間に包丁で……」

 

明日奈が料理の最中に手元を狂わすなど、あり得ない事だった。

「危ないなぁ」と無理に笑顔を作りながら、再び顔を覆ってしまわぬよう、その手を

強く握り、オレの口元へといざなう。

既に血は固まっていたが傷口をそっと舐めると、明日奈はビクッと震え、

反射的に手をひっこめようとした……が、握る手に力をこめ、それを許さない。

 

「まだ、痛い?」

「……ちょっとだけ……でも、料理はできるから」

 

何かを必死につなぎ止めようとする表情が痛々しくて胸がつまった。

 

「……明日奈、朝食は作らなくていいよ」

「えっ」

 

再び泣き出しそうになる彼女を見て、オレは慌てて言葉を続ける。

 

「おいで」

 

握っていた左手を引き寄せると、力の入っていない彼女の身体が簡単にオレの胸に

崩れ落ちてきた。しっかりと抱き留めてから

 

「朝食は大学に行く途中で買うから……今は明日奈とギリギリまでこうしていたい……

明日奈は?……オレにして欲しいことはない?」

 

やはりオレの胸の中で首を横にふるだけだ。

 

「明日奈もさ、もっとわがまま言えって」

 

彼女がおそるおそる顔を上げる。

 

「わがまま……なのに……いいの?」

 

きっと子供の頃から常に周りに気を巡らせていたのだろう。

少し不思議そうな顔をしている。

 

「オレになら、いいさ」

 

この場を収めるためだけに言っているのではない事を伝えたくて、微笑みながら彼女の

涙の跡に何度もキスをした。

 

「全部を叶えるのは無理かもしれないけどな……今、思いつくことは?」

 

不思議そうな表情が一転、綺麗な形の眉を寄せ、考え込んでいる。

そんなに頑張る事でもないのに、と思い、少し楽しくなってきてしまった。

少しして、自信なさげな顔で、か細い声が絞り出される。

 

「……もう少しだけ、キリトくんの心臓の音、聞いてもいい?」

 

そっと身体を寄せてくる。

 

「それってわがままじゃないだろ。他には?」

「……私のこと……『好き』って……言って」

 

そう言えば最近口にしていなかったな、と思い、彼女の頬を両手で優しくつつんで

顔をオレに向けた。

泣いたせいで瞳は潤んだまま、恥ずかしそうに視線をそらしている。

耳元に口を寄せて、静かに、それでいて甘く、深く、彼女の求めている言葉を

ゆっくりと注ぎ込んだ。

言葉と共に吐き出された息が耳をくすぐったのか、僅かに肩をすぼませる。

顔を離すと、彼女が怯えるようにオレを見つめてくるので、震えているその唇に

軽くキスをした。

それで少し落ち着いたのか瞳に安堵の色が混ざる。

 

「他には?」

「……あ……と……その……」

「なに?」

「……えっと……もっと……」

「もっと?」

「……キス……を……んっ」

 

彼女がうつむこうとしながら発した言葉を最後までつむぐ前に、その頬に添えた両手に力を入れ

強引に唇を奪った。

息ができないほど深く。

何も考えられなくなるほど強く。

そのまま華奢なあごのラインをなぞり、彼女の身体をベッドに横たえ、首筋から鎖骨へと

唇を這わせる。

 

「キッ……キリトくんっ、もう大丈夫だから」

 

明日奈が真っ赤な顔をして両手でオレの頭をつかんでいた。

 

「……何が大丈夫?」

「その……もう、わがままは叶ったよ……もう寝ないと、キリトくん、睡眠不足に

なっちゃうし……」

「……明日奈、そうやってオレ優先に考えたら、わがままじゃないだろ」

「そっか……うーん……わがままって難しい」

 

宙を見つめながら本当に困った顔をしている。

しかし、その表情にさっきまでの危うさはなかった。

アメリカでの暮らしで、あまりにもオレの事を第一に考えすぎて、自分の気持ちに

フタをし続けてきたのだろう。

もう少し気持ちを出せるよう、オレも配慮が足りなかったな、と反省する。

 

「なら、オレもわがまま言っていい?」

「いいけど……」

「そうだな……今日の弁当、昼までに大学の研究室に届けて欲しいんだけど」

 

何を言われるのかと身構えていた明日奈が、ホッとした表情となった。

 

「なんだ、そんな事?……おかずのリクエスト、ある?」

「……生姜焼き」

「ポークジンジャーね。いつものようにショウガ多めの味付けにするね」

「できたら量も多めで。この前の、研究室のやつらに取られてあんまり食えなかった」

「うん、わかった」

「あと……」

「なあに?」

 

すっかりいつもの笑顔に戻っているのを確かめてから、少し間をおいて……

 

「……明日奈にたくさんキスしたい」

「えっ……」

「ダメ?」

「ダメ……じゃないけど……やんっ」

 

了解を得たと判断し、すぐさま鎖骨からキスの続きを始めた。

 

 

 

 

 

チリリリリッ、チリリリリッ

 

セットしておいたアラームが鳴る。

重たい瞼をどうにかこじ開け、時間を確認してから、すぐ隣で寝ている明日奈に視線を

移した。

アラーム音には気づかなかったらしく、眠りを妨げなかったことに安堵する。

もう少し眠り姫を眺めていたいところだが、時間に余裕がないので、彼女の綺麗な寝息を

崩さぬよう、視線を寝顔に固定したまま、そっとベッドから抜け出した。

普段、オレが起きる時刻には、既に明日奈はキッチンに立っているので、珍しい状況だ。

シャワーを浴びて、再びベッドルームに戻ってくると、ドアを開閉する音が耳に届いたのか

今度は寝ぼけることなく、明日奈の瞳が開く。

 

「おはよう、明日奈」

「……おはよう、キリトくん」

「そのままでいいから。明日奈はゆっくりしてろって」

「うん……」

 

微笑みながら起き上がろうとする彼女に声をかけ、急いで準備を調え始めた。

明日奈は上半身を起こし、胸元まで布団をたくし上げ、小さくあくびをしてから、

オレが支度する様子をなぜか楽しそうに目で追ってくる。

 

「じゃあ行ってくる」

 

オレの声にいつものタイミングで顔を向ける彼女に、腰をかがめて、いつものように

「行ってきます」のキスをする。いつものように……

 

「んっ…………んんっ……っもうっ」

 

いつも以上に、ずっとキスをし続けていたら、さすがに明日奈に押しのけられた。

 

「いや……キスしてたら、そのまま押し倒したくなって葛藤してた」

「大学、遅れるよっ」

 

少し頬を赤らめてそんな事を言われても……。

続いて恥ずかしさが残りつつも、少し淋しそうな笑顔で「行ってらっしゃい」と言われると

ヘタなわがままよりタチが悪い。

 

「明日奈、顔に出すぎてるぞ」

「えっ?」

 

まいった……オレの言葉で自覚したらしい。

さっきより頬が赤くなって……ますます出かけられなくなってしまう。

「ほんの一瞬だけ」と自分に言い訳をして、ベッドに腰を下ろし、布団ごと明日奈を

抱きしめた。

それから軽く……とは言えないキスをした後、顔を近づけたまま明日奈に釘を刺す。

 

「そんな顔、外ではするなよ。あと、研究室に弁当届けてくれた時、オレが居なかったら

誰かに預けてすぐに帰ること」

「……うん」

 

オレの言葉の内、後半部分の理由は理解できないようだったが、とりあえずで返事を

したのだろう。頬を赤らめたままキョトンとしている。

以前、忘れ物を研究室に届けてもらった時、ニッポンの女性は年齢の割に幼い顔立ちが

ウケるという噂は本当のようで、男性メンバーの連中が興味津々で困った事態になった

過去があるのだ。

冷やかし半分で羨ましがられるのはまだいいが、中には半ば本気の顔つきだったヤツも

いて……。

日本より遠慮という意識が通用しないのはこの一ヶ月半で身にしみているし、注意するに

こしたことはない。

 

「今度こそホントに行ってくる」

「いってらっしゃい」

 

お互い離れがたい感情を自覚しているのは、辛い反面、自分の気持ちに意識がいくようになった

余裕の現れでもあるのかもしれない。

時計を見ると、本当にシャレにならない時刻が表示されている。

研究室の不届き者対策を考えながら、大学までダッシュだな、と覚悟を決めて、ドアを閉める

瞬間までお互いを見つめ合いながら部屋を出た。




お読みいただき、有り難うございました。
いきなりですが【お詫び】です。
サンタクララを検索したら「年間通じて気候は温暖」とありました……。
明日奈ちゃん、薄着で大丈夫かも、です。
ほぼ書き終わってから判明しまして……書き始める前に検索すべきでした。
スミマセン。
サンタクララでの生活は設定がない分、勝手ができて楽しかったです。
では、次こそは現実世界での短編です。


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甘い匂い

現実世界で学校生活を送る和人と明日奈の中庭ではない昼休みのお話です。
ほんのささいな出来事でもこの二人だと、こうなるかな?、と。
クラスメイトのオリキャラくんが再登場です。


昼休みの教室には十数名の生徒が残っていた。

売店で昼食を調達した者、お弁当を持参の者などなど……。

その中に教室前壁に取り付けられた大型パネルの設定ボックスをいじっている生徒が三人。

 

「カズくん、原因わかりそぉ〜?」

「んー……、今のところサッパリ」

「とりあえず食堂行って、昼飯にしちゃわない?」

「そうだなぁ……」

 

設定ボックスのフタを開け、液晶画面まではずして回線をチェックしている「カズ」こと

桐ヶ谷和人が諦め気味の表情を浮かべている。

 

「ちょっと、すぐには無理かもな」

「じゃあ、食堂行こうぜー」

 

カズが無理なら、オレにも無理だもん、と明るく開き直っている「佐々」こと佐々井が

何もしていないのに、疲れた筋肉をほぐしている。

 

「でもさぁ、このままじゃぁ、午後の授業、パネル使えないよぅ」

 

妙に間延びしたしゃべり方をするのは、和人と佐々井のクラスメイトで、

同じ「ネットワーク研究会」に所属している「久里(くり)」だ。

 

この学校は《SAO》事件の被害者の子供達の一括受け入れ皿として急遽開校したため、

学校で使用している教材や備品は他校からの流用品が少なくない。

よって未使用品ならまだいい方で、不用品などの中古品も数多い為、故障や不具合は

珍しくないのだ。

そして今日の午前中の授業で、突然、教室のメインパネルにノイズが入り出したのである。

教師陣も心得たもので、そんな時は業者を呼ぶより安上がりな方法を知っている。

幸いにも、このクラスには「ネト研」に所属している生徒が三人もいるのだ。

使わない手はない。

ヘタをすると他の教室の備品まで、修理を依頼されることさえある。

その過去の実績と技術力を買われて「出来れば午後の授業までにパネルを復活させて

欲しい」というのが今回の依頼だった。

 

「久里、先生は『できれば』って言ってただろ。カズが見て無理なら、無理だろ。

放課後、ゆっくりやろうぜ」

 

はなから直す気があるのか、甚だアヤシイ佐々井が手の中の食券をヒラヒラと動かしている。

 

「それよか、早くしないとAランチがなくなるっ」

「故障が直ってもいないのに、ソレ、使う気か?」

 

和人があきれ顔で問いかけた。

 

「この時間じゃぁ、どっちにしろ売り切れじゃないのぉ?」

 

カフェテリアで一番人気の日替わりAランチ。

佐々井は教師から今回の修理を引き受けた時点で、一人一枚、合計三枚の『特Aランチ

(サイドメニュー1品付き)』食券を依頼料として獲得していた。

この「特Aランチ」券は教師しか買えないレア食券なのだ。

こういう交渉事にはバツグンの才能を佐々井は持っている。

 

「そっかぁ……じゃあこの食券は次回だな」

 

佐々井が食券を凝視しているのに対し、和人は未だ回線を凝視していた。

 

「まあ午後の授業は可動式の簡易パネルを用意するって言ってたから、授業に差し支えは

ないだろうけど、出来れば原因のあたりだけでもつけておきたかったな」

 

諦め悪く回線の一本一本を丁寧に指でチェックしている和人の傍らで、佐々井が両手を

グーにして上下に降り始めた。

 

「カズ−、昼飯食べる時間がなーくーなーるー」

「ああ、わかった、わかったよ」

 

まるでデパートでオモチャをねだる子供だ。

もう時間的に故障原因の探求も佐々井の我慢も限界のようだった。

設定ボックスを元に戻している時に、足踏みをしながらまだかまだかとせかしてくる佐々井が

ピタッと動きを止める。

 

「あれ?、なんか、イイ匂いがする」

「うんうん、するねぇ」

 

久里も何かに気づいたらしい。

 

「そうか?」

 

和人も手を止めて、嗅覚に意識を集中するが、特に感じるものはない。

 

「カフェテリアから漂ってくる料理の匂いじゃないのか?」

「いやいや、イイ匂いが移動している。どんどんこっちに……」

「うんうん、ほらっ、もうすぐそこだよぉ」

 

教室の出入り口に栗色のロングヘアが見えたかと思うと

 

「あっ、和人くん」

 

明日奈がとびっきりの笑顔で軽く手をふりながら、愛しい名を呼んだ。

 

「あれ?、明日……」

「姫ー!!!!!」

 

和人の声をかき消す勢いで佐々井が絶叫した。

そんな佐々井の反応には慣れっこの姫こと「結城明日奈」が和人達の教室に

「お邪魔しまーす」と告げながら、ぺこりと頭を下げて入ってくる。

佐々井の絶叫と共に現れた校内の有名人である明日奈の登場に、教室のあちらこちらで

昼食を咳き込む声や、ドリンクを吹き出す音があがる。

 

「こんにちは、佐々井くん、久里くん」

 

挨拶をしながら和人の隣にやってくると

 

「よかった、教室にいてくれて」

 

と言って手に抱えていた包みを教卓にのせた。

 

「オレもっ、オレも教室に居残っていてホントーッによかった。このイイ匂いは

姫の匂いだったのかぁ」

「どうしたんだよ、明日奈。今日は午前授業だろ」

「うん、最後の授業が家庭科でね……って、私、何か匂う?」

「おおっ、確か今日は調理実習の日。この前、実習の先生が姫の手際の良さを

褒めてたよ。あと、姫はイイ匂いするって」

「揚げ物だったから、油の匂い、ついちゃったのかな?」

 

明日奈は片腕を鼻の高さに上げて、クンクンと自分の匂いを嗅いでいる。

それを見た和人は眉間にシワを寄せつつ薄く目を閉じ、軽くため息をつきながら、

明日奈の言動と思考をせき止めるように、片方の手の平を彼女に向けた。

 

「ごめん、ちょっと待って、明日奈……佐々、お前の副音声、うるさい。

話が散らかっていくだろ。それと……」

 

和人は明日奈に向き直ると、いきなり彼女の耳の近くに顔を近づけて、吸血鬼が

血を吸うような体制で鼻を効かせる。

 

「別に……いつもの明日奈の匂いだけど」

「……やだ、もう」

 

和人に咬まれたわけでもないのに、突然の急接近で明日奈は頬を赤らめ首元を手で

おさえている。

かたや教室内の生徒達ほぼ全員が懸命に鼻から空気を思いっきり吸い込んでいる事に

気づいているだろうか?

佐々井はうんざりしたような表情でお返しとばかり、おおげさにため息をついた。

 

「いつも嗅いでるからわかんないんだよ」

「明日奈、コイツらの野生の嗅覚は気にしなくていいから。とにかく佐々は

黙っていてくれ」

 

さすがに明日奈も話が脱線した自覚があるので助け船をだしてくれない。

黙って見ていた久里が佐々井に向かって、お口にチャックのジェスチャーをした。

 

「それで?」

 

和人が話の先をうながす。

 

「うん、佐々井くんが言うように、調理実習だったの。それで余った材料で簡単なのを

作ったから、和人くんが教室にいたら食べてもらおうと思って……」

 

そう説明しながら教卓に置いた包みを広げる。

綺麗なキッチンペーパーに包まれた中身は棒状の揚げ物だった。

 

「今日の実習のメニューは?」

 

和人が問いかけると、すかさず佐々井がピシッと右手を挙げた。

 

「……はい、佐々井くん、どうぞ」

 

半ば諦めたように和人が手の平をスライドさせ、佐々井に発言を許す。

 

「揚げ春巻きとチャーハン。デザートにリンゴです」

「それで、これは春巻きなの?、姫ちゃん。……ちょっと細いねぇ」

 

佐々井に便乗してなのか、久里まで発言権を行使してきた。

 

「これはね、デザートのリンゴを甘く煮て、チャーハンの予備の卵でカスタードクリーム作って

余った春巻きの皮に巻いた揚げアップルパイ。シナモンなかったから、ちょっとだけ黒コショウを

ふってみました」

 

聞いている分には結構手間がかかっているように思うが……いくら材料が余っていても実習の

時間はそんなに余るものなのか?、手際の良さにもほどがあるだろ、と聞き耳を立てていた

教室内の生徒が全員心の中でツッコミをいれている。

 

「はい、佐々井くん、久里くん、どーぞ」

 

そう言うと明日奈は広げたキッチンペーパーを両手で持ち、揚げアップルパイを2人の前に

差し出した。

 

「オレ達ももらっていいの?」

 

感動ひとしおの佐々井の横で「姫ちゃん、ありがとぉ」と早くも久里はスティックを

手にとり、口に入れている。

 

「和人くんも、パリパリのうちにどうぞ」

「あ、ごめん。今、手が汚れててさ」

「ん?、それじゃあ……」

 

明日奈が自分の口を「あーん」と開けつつ揚げアップルパイ一本を片手に持ち、和人の口元に

持っていく。

和人は何の気負いもなく、伏せ目がちにあごを少し突き出して口を開けた。

明日奈も微笑みながらキリトの口にスティクを運ぶ。

 

パリパリパリッ……

 

揚げた春巻きの皮を噛み続ける音だけが響き渡る。

いつの間にか教室中は静まりかえっていた。

生徒達の視線を釘付けにしたまま、スティックは和人の口の中へと短くなっていく。

スティックの端を持っていた明日奈の細い指が、どんどんと和人の口に接近し、速度を

緩めることなく唇に触れた瞬間、「チュッ」と音を立てた。

その途端、一時停止していた教室内の時間が一気に目覚める。

うめき声と咳き込みむせる声と何かを吹き出す音が盛大に飛び交った。

 

「うん、うまい」

「……ん、……なら、よかったけど……」

 

そんな阿鼻叫喚の様子も二人の目や耳には届いていない。

さすがの佐々井も頭を抱えてしゃがみ込んでいる。

 

「それじゃあ、また明日のお昼に中庭でね」

「ああ、気をつけて」

 

そう言って、心なしか顔を上気させた明日奈を見送った和人は、佐々井と久里に向き直り、

何事もなかったかのように飄々と二人を促す。

 

「じゃ、昼飯食べに行くか」

「うん、そうだねぇ」

 

同意する久里に対し、歯を食いしばり、床から起き上がりながら、上目遣いで佐々井が

和人をにらみ付けた。

 

「お前さ……今……オレ達にしか見えなかったけど……姫の指先……

舐めただろ……」

「……」

「何か反論しろっ。いや、してくれ。見間違いだと言えぇっ」

 

半泣き声で訴えられた和人は冷ややかな視線を送るだけだった。

 

「くそっ、完全に開き直ってるな……久里、お前も見た……いやいや、やっぱ答えなくて

いいや。お前にまで肯定されたら現実になっちゃうし」

 

佐々井はあくまでも幻か見間違いで処理をするつもりらしい。

ならば和人に確認しなければいいものを……うやむやにしたくない、と言うより、あわよくば

和人が否定してくれることを期待したのだろう。

 

「佐々ぁ、お昼、何食べるぅ?」

 

気を利かせたのか、それとも久里の頭は既に昼食のメニューに切り替わっているのか

いつもの調子で佐々井に声をかけるが

 

「なんか……オレ……サラダだけでいいかも」

 

佐々井の食欲はドン引きに萎えていた。




お読みいただき、有り難うございました。
TVシリーズ一期の『紅の殺意』で、アスナから「あーん」とされる妄想シーンが
あったので、叶えてあげようじゃないか、と意気込んで書いたのですが、うちの
キリアスさんだと既にその程度は何でもないレベルだったようです。
『君の笑顔が……』で登場させた佐々井くんに続き、実はこっそり二言ほど喋っていた
久里くんが今回正式登場です。
では、次は久々、仮想空間で長めのシリアスです。


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誓いのシルシ……ふたたび

以前、投稿しました『誓いのシルシ』の(内容的にはそれ程繋がりはありませんが)延長線上と
なる意識で書きました。
『第三回BoB』の直後という時間設定です。
キリアス至上主義としては「アスナを置いて、シノンに粉、かけすぎ!」の思い半分、
この後、突入する『アリシゼーション』へのエール半分でしょうか。
ともあれ、結局キリアスなんですけどね。


二〇二五年十二月……一部の関係者の間では後に『死銃事件』と称される事となる……

あたかも仮想世界のアバターにより現実世界のプレイヤーが殺害されたかのような巧妙に

仕組まれた殺人事件。

その事件解決に、まさに仮想と現実の両世界で奔走した桐ヶ谷和人が最後の事件現場となった

文京区のアパートから病院に運ばれ、検査を受けたあと、病室で警察官に事件の経緯を証言し、

やっとのことで解放された後に、迎えに来た母親と共に帰宅して自宅の部屋のベッドに身体を

投げ出した時はとうに日付が変わっていた。

警察官との事情聴取で、今回の総務省のお役人からのバイトを告げる事は回避した方が

懸命と判断し、単にネットゲーム内で知り合ったシノンこと「朝田詩乃」のアパートに遊びに

行った際、事件に遭遇した、という態を貫いたが……無理くりな部分はそれこそ総務省が

上からか、横からか、何とかしてくれるだろう……それぐらいは可能なはず、と全面的に

信用はしていないメガネの役人を思い浮かべ、確信する。

 

そのメガネに渡さなければいけない報告書の作成もあるが……今は無理だ

 

今夜シノンは病院に一泊するので、改めて明日会いにいったほうがいいだろうか、と思い、

次に自分が帰宅した時の直葉の泣き顔を思い出す。

和人の顔を見るなり、力が抜けたように玄関でペタンと座り込んで泣きだした妹に、

和人は玄関の上がり口に座り、彼女が泣き止むまで頭をなで続けた。

 

少なくとも、もう一人、泣かせたな……

 

第三回BoBの優勝が決まると同時に《GGO》からログアウトした和人は、覚醒した途端、

口に突っ込まれたスポーツドリンクを一本飲みきる間に【Sterben】の正しい読み方と

意味を聞き、ベットボトルを空にするのと同時に服をつかみ、病室を飛び出していた。

 

結局、会話らしい会話もせずに置いてきてしまった……

 

あの死闘の最中、現実世界でずっと和人の手を握り続けてくれた最愛の人を。

現実世界に意識が戻り、アミュスフィァを外した瞬間、そこにいるはずのない彼女が

自分の顔をのぞき込んでいたのだ。

その時の彼女の顔を思い浮かべる。

少なくとも、瞳に涙はなかったが……。

 

早々に再コンバートして彼女にメッセージを送らなければ……だけど今は無理だ

 

身体もクタクタだったし、神経もすり減っていた。

何より、考えが全くまとまらない。

次から次へと今日の出来事が頭の中を浮かんでは沈んでいく。

そのどれかを選んで、つかみ取り、吟味しようとする気勢も湧いてこないのを

いいことに、記憶は和人の意志を無視して無作為にシーンを再現する。

ベッドに横たわった途端、眠りに落ちると思っていたが、目は瞑ってみるものの

一向に夢の世界へは誘われない。

 

「はぁーっ」

 

大きなため息をひとつついて、おもむろに瞳を開き、天井を見つめた。

いまだ神経が高ぶっているのだろうか?

しかし頭が冴えているわけでもない。

何かを強く思って頭から離れない、という感覚でもない。

どちらかと言えば、全身には鉛のような疲労感が満ちていたし、頭はモヤがかかって

いるようにぼんやりとしている。

強いて言えば「落ち着かない」が当てはまる心理状態だった。

原因について考える気力も枯渇したまま、ただ、ただ、落ち着かない状態でベッドに

しばらく横になっていたが、一向に変わらぬ現状にしびれを切らして、数時間前まで

病室で装着していた物と同型の、だが自分のアミュスフィアに手を伸ばした。

 

「リンク・スタート」

 

 

 

 

 

自室のベッドが落ち着かないなら、それと同じか、それ以上に落ち着くであろう場所……

と考えて思い浮かんだ場所はひとつだけだった。

再コンバートを果たし《ALO》の《イグドラシル・シティ》に共同で借りている最上階の

プレイヤーホームにたどり着く。

現実世界よりはるかに身軽なはずの妖精アバターとなっても、足取りは重いまま、

家主しか入室できないリビングの奥の続き部屋へと足を運んだ。

 

結局、こっちに来ても、この気持ちに変わりはないな

 

再コンバートした途端に心が軽くなり気分が晴れる、と期待していたわけでもなかったが、

少なくとも《GGO》のアバターよりはこの胸の揺動が落ち着くと思っていたのだ。

俯いたままゆっくりと引きずるような足運びで目的の部屋へと近づく。

長めの黒髪が視界に入ってこない違和感に気づき、軽く苦笑をしたが、それもすぐに疲労感に

追いやられ顔から消えた。とにかく今は何も考えられなかった。

 

シャッ、と静かにドアがスライドした途端、微かだが鼻腔に届いた香りに存在するはずの

ない心臓が大きくひとつ鼓動を打つ、と同時に下を向いていた顔が素早く跳ね上がった。

 

「あっ」

 

どちらが発した声かもわからないくらい小さく、それでいて全くの同時。

ドアの向こう、寝室の中にはキリトより先客がいつもより軽装のシンプルな

アイボリーのチェニック姿でベッドの片隅に腰を掛けていた。

ドアのスライド音に反応して振り返ったのだろう、アトランティコブルーの

ロングヘアがサラサラと音を立てるように肩から背中へと流れていく。

一瞬驚いた表情を見せたが、すぐさま右手はその瞳からこぼれる涙を散らすように顔を

こすり、同時に左手は人差し指と中指を揃え、上から下へ、スッと空を切った。

 

「待っ!」

 

考えるより先に体が反応していた。

この寝室に入れる、もう一人の家主……水妖精アバターのアスナがウインドウを操作して、

今まさにログアウトしようとしていると直感し、キリトはそれまでの緩慢な動きからは

想像できないくらい俊敏に彼女の手の動きを阻もうと腕を伸ばした。

ほんの少しその細い手首に指が触れた瞬間、アスナの薄い唇から鋭い言葉が吐き出される。

 

「イヤッ」

 

同時にキリトの手をアスナの左手が払った。

 

あっ!

 

えっ?

 

またもや同時に同じ表情の二人。

振り払った左手に右手を添えてそのまま口を覆うアスナの瞳にも、振り払われた瞬間を

切り取ったように固まってしまったキリトの瞳にも驚愕の色が浮かんでいた。

アスナ自身さえ予期しなかった咄嗟の行動だったのだろう。

だが、その思慮の介入しない瞬時の動きが、逆に今のアスナの気持ちを正直に表していると

いえる。その事実に本人も気づいたのか、目を瞠っていた。

すぐさま表情は罪悪感と謝意に満ちたものへと変化したが、実際に言葉を口にすることはなく、

口元を抑えたまま、双瞳から再びポロポロと涙が湧きこぼれてくる。

一方、伸ばした手を拒絶されたキリトに至っては、動作はもちろん、思考も感情も完全に

機能を停止していた。

記憶している限り、《SAO》で知り合って以来、アスナに差しだした手を

振り払われた事など一度もないのだ。

それでも、目の前の彼女のはしばみ色の瞳からとめどなく溢れ落ちる涙を自分の視界に

捉えているうちに、抑えきれない感情が本能的に膨らみ始める。

 

抱きしめたい……

 

目の前で最愛の人が涙を流しているというのに、触れることさえ許されない。

しかし、再び手を伸ばすには先のアスナの反応に打ちのめされた心のままでは、勇気が

足りなかった。

それでも彼女から目をそらすことが出来ない。

アスナもまた止まることない涙をそのままに、キリトから視線をはずせずにいた。

 

「……アスナ」

 

ようやく名を口にする。

彼女の肩がピクッと震えた。

 

「……頼むから……もう少し、少しでいいから……ここにいてくれ……」

 

返答はなかったが、言葉を続ける。

 

「……オレも……座って、いいか?」

 

またもアスナからのリアクションはない……が、拒絶もされないので、ゆっくりと

刺激しないよう近づき、少し距離をあけてベッドに腰を下ろした。

お互い見つめ合いながらも、気まずい空気が流れる。

このままではアスナを引き留めておける時間が切れてしまうのではないかと焦り、

キリトはおずおずと口を開いた。

 

「……ゴメン」

 

先ほどまでのぼんやりとした感覚はなくなっていたが、さりとて頭がフル回転を

してくれるわけでもなく、今思うままの言葉をひとつだけアスナに向ける。

キリトの言葉を耳にしたアスナは両手を膝の上に下ろし、チェニックのスカートを

ギュッと握り締め、顔を背けるように俯いて抑揚の無い声を絞り出した。

 

「……ゴメンって……なに?」

 

サラリと髪が両脇に垂れアスナの表情を隠す。

改めて問われると、何に対しての「ゴメン」なのか、今回は思い当たる事が多すぎて、

やはり考えはまとまらない。

待っても問いに対する返答を得られないと判断したのか、アスナが独り言のように

繰り出した。

 

「……私、言ったのに……私だけ安全な場所で待ってて、もし、それでキリトくんが

帰ってこなかったら自殺するよ、って……そんなの守ってくれてるって……言わない……」

「……うん」

「今回のこと、キミが全部を話してくれてないってわかってた。でも……それでも

信じて待つって……決めて……」

「うん」

「……なのに……なのに、あんな戦い方して……私、《現実》でベッドに横たわって、

苦しそうにしているキリトくんの手を握ることしか出来なくて……」

「……でも……そのお陰で、オレは強くいれた」

「……それに……毒液注射まで……」

「アスナ……なんで、その事……」

 

今まで静かにアスナの言葉を受けていたキリトが目をしばたたかせた。

シノンのアパートであわや毒の薬液注射を打たれかかった事は、警察官には供述したが、

実際の被害にはあっていないし、家族に心配をかけたくないという理由で口外はしないで

もらえるよう念を押してきたはずなのだ。

アスナは自分で口にした事実を想像したのだろうか、今まで以上に肩をふるわせて

いる。

 

ああ……やっぱり……泣かせた

 

不本意にも当たってしまった予想に、先の驚きにやるせない気持ちが混じった。

 

「……キリトくん、病院を飛び出したきりだったから……菊岡さんに連絡して……」

 

ヤツか……そこまでは気が回らなかったな

 

己の詰めの甘さを痛感しつつ、頭のどこかで「アスナが一緒だったら、そんな不手際も

なかったろうに」と矛盾した考えが浮かび、自嘲気味の笑みを浮かべる。

 

「……ゴメン」

 

やはり他の言葉は見つからなかった。

今度はアスナも追求する気はないのだろう。

いや、キリトの言葉すら届いていなかったのかもしれない。

震える肩が時折、痙攣をするようにビクつき、声にも嗚咽が混じり始める。

 

「……キリトくんが……も、戻って……こなかったら……どっ、どうしようって……」

 

スカートを握り締めていた両手に更に力が籠もり、爪が肌に食い込みそうだった。

たとえ食い込んだとしてもアバターの体は傷も痕もつかないのだが、その姿を目の前にして

キリトはいてもたってもいられなくなり、不自然に空けた距離を一気に詰めた。

そこまでは動けたが……

いまだ顔を隠しているアスナがどういう表情をしているのか、反応がわからないせいで

それ以上は踏み出せない。

しかし微かに震えながらも強く握られたアスナの拳から視線を離すことはできなかった。

その手に引きつけられるように片手を伸ばし恐る恐る自分の手をかぶせる。

 

最初はそっと包み込むように

 

段々とその手の丸みをしぼませていく

 

そしてすっかりアスナの手に隙間なく自分のそれを密着させると

 

それからゆっくりとさすり始めた。

 

少しずつアスナに触れる段階で、自分自身に「大丈夫だ」と言い聞かせながら。

一方、アスナはキリトに片手をさすられ、未だ嗚咽は止まらないものの、その両の手は次第に

力が抜け始め、白い指が緩やかな放射線状に解放されていく。

その動きに合わせるように、広げられたキリトの手を見つめていると、重なっている

片方にだけ、自分の涙が彼の手の甲にこぼれ落ち、光となって消散していく様が

潤んだ視界に映った。

キリトは重ねた指を少しずらして、アスナのそれぞれの指間に自分の指を半ば強引に入れ込み、

指を曲げて、手の甲を包み込んでくる。

再び力を込めてその進入を阻止しようとする間もなく、アスナの手は上からキリトの手に

絡め取られてしまった。これではもう振り払うことは出来ないだろう。

愛娘のユイと共に想いを伝えようと握っていたその手に、今度は彼の手から想いが伝わって

くるようだった。

 

「……ホントは……もう二度と、あんな事……して欲しくないの」

 

俯いたまま、アスナが再び気持ちを告げる。

 

「でも……きっと……また同じような状況になったら、キリトくんは同じように飛び込んで

いく……私には『大丈夫だから、すぐ戻ってくるよ』って言って」

「……アスナ」

 

確かに彼女の言う通りなのかもしれない。

今回の件にしても、アスナがいたら……、と想像する事はあっても、彼女も一緒だったら……、

そもそもこの依頼を引き受けなければ……、といった後悔はなかったのだ。

やはり自分のわがままとわかっていても、少しでも命の危険がある場所に彼女を伴うことは

どうしても出来ない。

 

「そして、キミが、私の為に……全てを明かさずに行ってしまう後ろ姿を、私も見送るしか

ないんだよ……」

 

アスナがゆっくりと顔をあげ、はらはらと流れる涙をぬぐおうともせず、キリトに悲しげな

微笑みを向けた。

 

「お互いの事がわかりすぎてツライなんて、あるんだね」

 

思わず自分の手中にあるアスナのか細い手をギュッと握ったが、彼女が握り返してくることは

なかった。

「そんなことない」と言ってしまいたかったが、それが薄っぺらいその場限りの感傷からでた

言葉であることを、聡い彼女はすぐ見抜いてしまうだろう。

 

なら、これからは全てを彼女に打ち明けた上で、それでも黙って自分を待っていてくれ、

とでも言うのか?

 

あまりにも身勝手で自己中心的な発想に自分で嫌気がさし、彼女の顔を直視出来なくなった

キリトが、視線をそらしたのと同時に、アスナは左手の二本の指を揃え、再び宙にあげた。

 

「……変な事言ってごめんなさい……もう遅いから、私……」

 

最後まで言い終わらないうちに、キリトがハッと視線を戻す。

いくら強く握っていても、彼女がログアウトしてしまえば、この手からぬくもりは

消えてしまう。

握っていた片方の手を追いすがるように両手で包み、己の胸へと引き寄せ、全身を使って

包み込んだ。そして祈るような体勢のまま彼女の名前を口にする。

 

「アスナ……」

 

片手を引き寄せられた反動で、ウインドウは表示されなかったようだが、アスナはキリトを

見ようとはしなかった。

 

「ゴメン、多分……アスナの言う通りだ」

「……謝らないで……そういうキリトくんだから、みんな惹かれるんだよ……でも今は」

「それでもっ」

 

アスナが言葉を続ける前に、キリトの声が貫く。

 

「……それでも……それでも、オレは自分からこの手を放すことは出来ない……

まして……この手を誰かに譲るなんて……他のヤツがこの手を握っていたら、そうしたら、

きっと、もう、オレは壊れて、オレじゃなくなる……」

 

いつの間にか、キリトの瞳からも一筋の涙がこぼれ落ちていた。

大事な、大事な、手の中のぬくもりを確かめるように、そっと指に口づけをする。

 

「あっ……」

 

今までせつなげに歪んでいたアスナの面差しに、ほんのわずかな紅が差した。

 

「……ずるいよ……」

「……ゴメン」

 

何度目の「ゴメン」だろうか。

それでもキリトは顔を上げ、アスナを正面から見つめる。

 

「でも、この手だけは誰にも渡せないし、諦める気もない……」

 

黒曜石のような瞳に強い光が宿っていた。

 

「ちゃんと帰ってくるから……アスナの傍に帰ってくる」

 

そう言って握っている手の指先の一本ずつにキスをし、軽く舌でなでる。

 

「んんっ」

「帰ってきて……それから、アスナに言うよ『ゴメン』って」

「……ずるい」

「何回でも、許してもらえるまで謝る」

「それでも……許してあげなかったら?」

「許してくれるまで、こうやって、一晩中でも、手を握って……」

 

キリトの片方の手がスッと伸び、アスナの頬に添えられた。

 

「頬をさすって……」

 

キリトが顔を近づけ、頬に添えた手をひきよせ、アスナの桜色の唇に自分のそれを重ねる。

 

「キスをして……ゴメンって」

 

いつの間にか止まっていた涙が再びアスナの瞳に溢れてくる。

 

「またアスナを泣かせるかもしれないけど……ちゃんと抱きしめて、その涙が

止まるまで傍で謝るから……だから…………離れていかないでくれ」

 

ふわり、とアスナの体をキリトが包んだ。

緩く、優しく、両腕を回し、泣きじゃくるアスナの背中を何度も何度も撫でてくる。

 

「……そっ、そんなの、ずるい……」

「うん……ゴメン」

「キリトくんは……私を置いて……行っちゃうくせに……私には……離れるなって……」

「ゴメン……でも、オレだって離れてても、アスナを感じてるよ……実際、今回だって

《現実世界》からアスナはバックアップしてくれた」

 

背中に沿わせたのと反対の手で前髪を撫で上げて、おでこにキスをする。

次に瞼にも唇を落とすと、まつ毛の下に溜まっている大粒の涙を舐めとった。

それでも嗚咽混じりの言葉は止まらない。

 

「……菊岡さんから……注射の事……身体に別状はなかったって……聞いて……」

「ああ、大丈夫だよ」

「……それでも……それって……たまたまだったんでしょう?」

「うっ……」

 

確かに、その認識は間違いではないだろう。

取り忘れた心電モニターの装置の電極と、運良くそこに注射針が当たったお陰で、

今、こうしていられるのだから。

 

「部屋に……一人でいると……無事だったんだって……わかって……いるのに……

涙が……止まらなくて……」

 

キリトはたまらずにアスナの後頭部に手を添え、自分の肩にそっと押し当て、

そのまま細い純絹のような髪の毛をゆっくりと梳いた。

 

「……ゴメン…………それで《こっち》にダイブしたのか?」

 

肩口に顔を埋めていたアスナが頷く。

 

「……全然……眠れないの……」

 

くぐもった声が聞こえる。

キリトは小さく微笑むと、肩に乗っているアスナの頭に頬をすり寄せた。

 

「……オレもなんだ。ひどく疲れているはずなのに……全然落ち着かなくて……

でも、今、こうしてると、すごく安心する……」

 

瞳を閉じて、勿忘草色の髪に顔をうずめて香りを嗅ぐと、部屋で感じていた

ザワザワとした胸の揺動が跡形もなく消え去っていく。

腕の中のアスナがモゾモゾと動いたかと思うと、先ほど振り払ってしまった負い目を

感じているのか、遠慮がちに両手をキリトの背中へと回してきた。

程よく密着し、触れ合う感覚に、アスナが「はふぅっ」と感嘆の声を漏らす。

 

「……私も……安心する……」

「涙……止まった?」

 

再び無言で俯く彼女。

 

「……もっと、抱きしめていい?」

「……うん」

 

返事が耳に届くのとほぼ同時にキリトは彼女を包む全身に力を込めた。

 

「ん……ふっ」

 

微かな吐息が耳をかすめる。

記憶に染み込んでいるアスナの香りを久々に吸い込み、頭がぼうっ、とした。

五感の全てで彼女を堪能したくてたまらなくなる。

いつぶりだろうか、こんなに安らぎを感じたのは。

まどろみに似た気分を味わっていると、腕の中のアスナが何かを思い出したように

「あっ」と呟き、顔をあげた。

 

「ん?」

 

問うように彼女の顔をのぞき込むと、アスナは至近距離でキリトを見る瞳に再び

うっすらと涙を溜め、眉尻を下げている。

 

「なっ、何?!、どうしたんだよ、アスナ」

 

今までの話以外で泣かせるようなことをしただろうか、と慌てて再び記憶の高速リバースを

始めるが該当事項が見当たらない間に、アスナの口からためらいがちに声が漏れる。

 

「……BoBの最中も……こんな風に……洞窟で……その……」

 

BoBの最中に?

洞窟で?

…………あーっ!!…………やっぱりバッチリ中継されてたか……

 

「ちっ、違うよ、アレはそういうんじゃなくて、誤解だって……本当に誤解で……」

 

何をどこから、どう説明したらいいのか、完全にパニックに陥り、とにかく「違うんだ」

「誤解だ」をほぼ交互に口にしていた。

その様子に、涙をたたえながらもアスナが「クスリ」と微笑む。

 

「ア……アスナ?」

「リズがね……後でキッチリ説明してもらわなくっちゃ、って」

「う゛っ」

 

リズのことだ、誤解でも何でもとにかく理由をつけて何かをおごらせる気なのだろう。

おごりで誤魔化していると思われないよう、真実をきっちり説明できるようにして

おかなければならない。

報告書の作成以外にも、色々と事後処理が多くなりそうだと感じたキリトは、宙を見つめ

小さくため息をついた。

 

シノンのこともあるしな……

 

「キリトくん?」

「ああ、ゴメン」

「……事情があるんだって思ってるけど……やっぱり……あの……」

「そうだよな……ちゃんと理由がわかってても、もしアスナが他のヤツと……なんて、

オレだって、考えただけでも…………」

 

一瞬、キリトの表情が嫉妬と憤怒、悲哀を帯びたが、すぐに首をブンブンと勢いよく振って

それを吹き飛ばした。

 

「絶対無理…………だから、ホント、ゴメン」

「うん……」

 

ぽふんっ、とキリトの頭がアスナの肩に落ちた。

想像だけで、かなりのショックを受けたのだろう。

しばらく二人とも寄り添い会い、時間の流れるままに互いの温もりを感じていたが、

おもむろにキリトの背中に回っていたアスナの片手がゆっくりと滑るように動き、

自分の肩にある髪の毛に触れた。

現実の和人より幾分短いが、その色はあの城に捕らわれていた時から、いつも心のどこかで

追っていた懐かしい漆黒と変わらない。

 

「今回の戦いで……あの討伐のこと……思い出しちゃった?」

 

キリトに反応はなかったが、アスナの肩には何かが伝わったのだろう。

アスナはもう片方の手もキリトの髪にあて、優しく、優しく撫でていく。

 

「クラインさんがね、《こっち》で中継を観てる時、気づいたの」

 

何度も何度も髪を梳くアスナの細い指の感触が、キリトがあの戦いを思い出す度に

感じる胸の痛みを麻痺させていくようだった。

 

「……辛かったね」

 

それはあの時の戦いを言っているのか、はたまた今回のことを言っているのか。

アスナの肩に頭を預けたまま、キリトから小さく掠れた声が吐き出された。

 

「アスナにも……クラインにも、思い出させた……ゴメン」

 

かの討伐では『血盟騎士団』からも犠牲者がでたはずだった。

責任感の強いアスナのことだ、今も抱えているものがあるだろう。

忘れてはいけない記憶だが、不用意に思い出せさてよい記憶でもなかった。

 

「キリトくんのせいじゃないよ」

 

アスナは変わらずキリトの髪に指を滑らせる。

 

「頑張ったね……」

 

アスナの言葉がキリトを包み込んでいく。

頑張れたのは《仮想世界》と《現実世界》の両方からバックアップがあったお陰と

思っているが、今はその言葉に甘えたかった。

 

「頑張ってくれた……討伐の時も……ありがとう」

 

あの頃は素直に礼など言える自分ではなかったし、なにより討伐直後はそれどころでは

なかった。時間が経てば経つほどアノ討伐の事は口にしない暗黙のルールみたいなものが

出来上がり、アスナ自身も記憶の底に沈めてしまっていたのだ。

 

「言いたかったの、お礼……遅くなってゴメンね」

 

ゆっくりとキリトの頭が持ち上がり、アスナを見つめる瞳は動揺と驚きの色に満ちている。

あの戦いは誰にとっても後味の悪さしか残らなかったからだ。

そんな視線を受け止めながらも、アスナは微笑み続けた。

 

「今なら言えるよ……キリトくん、ありがとう」

 

共に戦ったアスナだからこそ口にすることを許される言葉だった。

 

「アスナ……」

 

キリトの指が迷うことなく伸びてアスナの桜色の唇をなぞる。

しっとりと潤いを蓄え、心地よい弾力が指先を伝わって脳までも刺激した。

浮遊城アインクラッドのアスナの部屋でその素肌に触れた時から、彼女のアバター生成だけは

通常よりメモリーが増設されているのでは、と疑いたくなるほどのなめらかさだ。

それでも現実の彼女の肌触には及ばないと知っているのはキリトだけなのだが……。

アスナはされるがままに、少し頬を紅潮させながらキリトの言葉を待った。

 

「この唇から紡がれる言葉は、オレにとって癒やしの魔法みたいだ」

 

唇の感触を味わった指がそのままおとがいをとらえ、クッと固定し、続いて己の唇でも

その弾力を貪る。

唇が離れると、アスナは恥じらいを混ぜて、小首をかしげ微笑んだ。

 

「だって、治療士(ヒーラー)だもの」

 

少し茶目っ気のある表情に胸の奥が温かくなるのを感じながら、キリトは再びアスナを

ギュッと抱きしめた。

 

「オレがあの城でも、他の世界でも『強い』と評されるなら、それは全てアスナ、キミが

いてくれるからだ」

「……私はキミを守れてる?」

「ああ、いつでも」

「繋がってるんだね……そうだ、ちょっと待って」

 

そう言うとアスナはキリトの抱擁を離れ、きちんとベッドに座り直し、左手の指二本を立て、

まるで音楽を奏で始めるように流れる所作でウインドウを出現させた。

その目の前の光景に三度キリトが取り乱す。

 

「っ!……アスナ?」

 

アスナは右手を口に当て「フフッ」と笑いながらも、ウインドウから目を離さず、操作する手も

止めなかった。

 

「大丈夫だよ」

 

最後にボタンをタッチすると、オブジェクト化された小さな物体がアスナの手の平に乗っている。

 

「コンバートする前、預かってたでしょ」

 

それはアスナの左手の薬指に輝いているのと同じデザインのリングだった。

キリトは《GGO》へコンバートするにあたり、手持ちのアイテムはエギルの店の

ストレージに預けていたのだが、このリングだけはどうしても他の物と一緒にすることが出来ず、

アスナに託していたのである。

《GGO》にコンバート中、何度、左手の薬指の付け根に触れたことだろう。

無意識にアスナとの繋がりを求めていたのかもしれない。

アスナがそっとキリトの左手をとった。

 

「この指輪がなくても、キリトくんとは繋がってるって信じてるけど……やっぱり同じ世界に

いる時は……」

 

気持ちはあの城で夫婦として過ごした時と何ら変わらない自信はあるが、それでもシルシが

欲しかった。

アスナはキリトの左手の薬指に指輪を装着させた後、先ほどのお返し、とばかりに指輪へ唇を

触れさせ、次にその指先に唇を押しつけると指だからわかる位の僅かな接触を舌先で試みる。

伝わるかどうかの感触だが、キリトが「つっ」と声にならない声をあげた。

アスナからの刺激が終わるやいなや、キリトは彼女の両肩に手を置いて困り顔をする。

 

「アスナ……」

 

アスナ自身も感情に流された行為だったのか、早くも自戒の念のこもった羞恥色を顔全体に

広げ、視線を落としていた。

 

「オレ……さっきも言ったけど、リアルの疲労感とこうしてアスナといられる安心感で、今、

結構、頭ボ〜としてて……その……」

 

キリトのゆるやかに困惑した表情の中に、ひとつだけ……瞳の色だけが深みを増してアスナを

捕らえている。

 

「抑えが……きかないんだけど……」

「えっ?」

 

アスナが顔を上げた瞬間に両肩を引き寄せられ、先ほどの自分の接触など比べものにならない

感触が口内にもたらされる。

そのままリミッターがはずれたように注ぎ込まれる激しい要求にどうすることも出来ず、

ギュッと強く瞳を閉じていると、キリトと繋がっている部分の感覚だけが研ぎ澄まされ、

自らも徐々に熱を帯びてくるのがわかった。

キリトは自分の求めにアスナが少しずつではあるが応じてくれるようになったのを感じると

一旦、唇を離し、問いかける。

 

「オレも、アスナにシルシ付けていい?」

「シルシって……んっ」

 

再びキリトの唇がアスナの問いかけを封じた。互いの吐息が何度も混じり合う。

そのまま乱れた湿音が首筋を下がっていくのを耳で感じながら、アスナは上がる息を

整えようとしつつ再び問いかけた。

 

「はぁっ……は……んんっ、キリトく……ん、シルシって……」

 

アスナが着ているチェニックは襟元が大きくあいて、ふちにはビーズがあしらわれていた。

そのビーズを手でもて遊びながら答えるキリトの息もまた上がっている。

 

「アスナには……オレがいるって……シルシ」

 

そう言ってアスナの鎖骨より少し上にひときわ強く、それこそシルシがつきそうなくらい唇を

押し当てた。

 

「あんっ」

「リアルだと、服に隠れるとこにしか付けられない……だろ」

「んくっ……だって……アバターには、そんなの……」

「付けても他の誰にも見えないんだから……いいよな、どこに付けても」

 

顔を上げたキリトがニヤリと笑った。




お読みいただき、有り難うござ産ました。
予告では「仮想空間で長めのシリアスです」と書きましたが、実はコレではなく、
かなり初期に書いた物を加筆・修正して投稿する予定でした。
ところが、いざ読み返してみると、なぜ初期にこんな大風呂敷を広げたのだろう?、と
唸るしかない状態で……悩んだあげく、すっぱり投稿を諦め、すっきりした次第です。
完全に内情ですが、「長め」とお伝えした事に、少々、良心の呵責があるので、続けて
番外編もお読み頂けたら、と思います。


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【番外編】想定外の初日

オリキャラの佐々井と久里が和人・明日奈と初めて出会った日のお話です。
【番外編】ではありますが、和人・明日奈はほぼ出突っ張りです。
やはり二人抜きには書けません(笑)


マズイ、マズイ、マズイ、マズイー!

って、オレ、朝飯も食べてないんで美味いも不味いもないデスけど……

 

「くだらない」と自覚のあるツッコミを自らに入れつつ学校への道をひたすら走り続けている

男子高校生がひとり。

 

うーん、このままだと待ち合わせの時間に間に合うか、間に合わないか、ビミョーかも。

 

トホホな顔のまま走る速度は変わらない。

 

アイツ、時間だけはウルサイからなぁ……。

駅から学校までは約三キロ。バス停五つ分。

駅でバスに乗るか迷ったが、走って正解。

ずっとバス通りを走っているけと、今までバスに追い抜かれてないし、ナイス、オレの脚力。

 

自分の選択に花マルをあげてから、遠くにある学校の最寄りバス停をゴール地点かのように

誇らしげに見つめる。

バス停前に据え付けられたベンチに座っている人影にふと気づいて、思わず首をかしげた。

 

アレってウチの制服だよな?

 

ちょっと独特な色のブレザーに特徴的なラインの入ったワイシャツの襟が視認できる。

バス停にバス待ちの列はないので、立ってバスを待つ必要はないようだが……。

 

ここまでバスで来て、ヒマつぶし中?

まさか入学初日にバックレるご予定なのだろうか?

 

だったらわざわざここまで来なくても、と思うが、それは人それぞれ。

しかも段々距離が縮まってみると、ベンチの御仁は女子生徒であることが判明する。

 

おおぅっ、女の子だ

 

なぜ「おおぅっ」なのかと言うと、彼がこれから通う高校には女子生徒が極端に少ないからだ。

こうなるともうゴールはバス停なのか、女子生徒なのか、いや、本来のゴールは校門の

はずなのだが、既に視線はベンチに釘付けである。

もうすぐベンチに最接近、という時に、肩に衝撃が走った。

 

「うわっ!、と……あ、すみません」

 

前から小走りにやってきた若いサラリーマン風の男性とぶつかったのである。

男性は聞こえるように「チッ」と舌打ちするとそのまま駅の方へ走って行ってしまった。

5ヶ月程前まで自分がいた世界での記憶が思い出される。

 

主街区でやたらジャラジャラと武装した連中にぶつかった。

レストランや商店の多い通りで、時間も夕食時、人はごった返している。

ぶつからない方が無理な相談、という場所で、やはり相手は「チッ」と言ってから

「オレ達は貴様らみたいにレベルの低い連中と違って、最前線で命を張って攻略を続けて

いるんだぞ」

とかなんとか、なんせもの凄い人通りで、発している言葉も正確には聞き取れなかったが

雰囲気からしてそんな事実をサイテーな言い方で言っているらしい事はわかった。

ここでトラブっても得はないから「すみません」と言ってその場は離れたのだ。

最前線で戦ってくれている人達には感謝していたが、そいつらをオレは王様のように

崇めなければいけないのか?、と悶々としたっけ。

 

と、そこまで思い出してから、芋づる式に……

 

最前線で攻略、と言えば……やたら強くて綺麗な女性剣士がいるって聞いたなぁ。

最強ギルドの副団長まで務めてるって。

周りにいた男性プレーヤーは色めき立って話をしていたけど、いくら綺麗でも、話を聞く分には

キツそうな雰囲気だったし……やっぱり女の子は優しくてふんわりしてる方がいいな。

 

などと好みのタイプに思考が転がり落ちそうになり、慌ててブレーキをかける。

持っていたカバンの外ポケットの中身を盛大にまき散らかしているのだ、早く拾わないと。

 

うう〜、想定外のタイムロス……

でも今日は新年度の第一週目、どこもかしこも想定外の出来事に遭遇しているヤツらばかりの

時期だもんなぁ

 

心の涙を流しつつ、己を慰めながら散らばったアイテムを拾い集める。

視線の延長線上に例のベンチの下まで飛んでしまった携帯端末があった。

後ろから腕を伸ばそうとした時、ベンチの向こう側から下に伸びた細い手がオレの携帯端末を

拾いあげる。

急いでベンチの前に回り込み「ありがとう」と声をかけた。

 

「はい、どうぞ。キズがついてないといいけど」

 

栗色のロングヘアにヘイゼル色の瞳、やわらかく微笑むその顔立ちは……

 

すっごく可愛いんですけど

 

うわっ、こんな子、あの世界にいたんだぁ〜。

『はじまりの街』から出なかったのかな……そうだよなぁ、間違っても最前線にいる

タイプじゃ、ないよなぁ。

 

「さっきぶつかった人、失礼ですよね、何も言わずに」

 

携帯端末を渡しながら、オレより憤慨した表情を浮かべている。

意外と気が強いのかも、と感じながら

 

「あ、見てました?」

 

と聞くと

 

「ちょっとだけ」

 

と、今度は茶目っ気のある笑顔を見せてくれた。

はぁ〜っ、こんな子が近くに居てくれてたら、あの二年間、もーちょっと楽しい思い出が

増えたんだろうなぁ、と頭がまたもやトリップを始める。

 

やっぱ女の子はこうでないと。ガンガン最前線で戦ってくれてたってゆう女性剣士さんには、

きっと、こんな笑顔を見せる相手もいなくてさ……

 

マイワールドが展開されている間に、目の前の彼女は少し離れた所に落ちている何かに

気づいた様子で、腰を浮かして手を伸ばしていた。

 

なんて名前だったかなぁ……その女性剣士さん……確か「ア」

 

「あっ」

 

小さく声をあげ、目の前の彼女が手を伸ばしたまま、バランスを崩し、膝から地面に

座り込んでしまう。

 

「明日奈っ」

 

そうっ、確か「アスナ」って……えっ?

 

オレが走ってきた駅の方角から、やっぱり全速力で走ってくるヤツが一人。

ヤツが発した「アスナ」という名前を耳にして彼女が振り返った。

彼女の手前で急制動をかけて、両膝に両手をつき、下を向いたまま、ゼーゼーと肩で息を

している。

やはりオレや彼女と同じ制服だった。

呼吸も整わないまま、やってきた男子生徒は彼女に少々声を荒げた。

 

「何やってるんだ。駅で待ってろって言っただろ」

 

こうなる事は承知の上だったのか、彼女は路上にペタンと座ったままの格好で困り笑いを

浮かべつつ、弁明の言葉を口にする。

 

「だって……一本早い電車に乗れたから、改札口で待ってたんだけど、なんかジロジロ

見られている気がして……」

 

そりゃあそうでしょ。

当然でしょ。

改札口でこんな子が立ってたら、もう朝からめちゃくちゃラッキーって見るでしょ。

 

そう言われてヤツもオレと同じ事を思ったようで、それ以上は何も言えず、うぐぐぐっと

いった表情になっている。

彼女もそれ以上は怒られないと判断したのか、ちょっと得意げに

 

「だから、先に行くねってメールして、のんびり歩いて、ここで待っててあげたんじゃない」

 

とすまし顔だ。

それを聞いたヤツの方は、じとーっと彼女を見つめると、大きく息を吐き出した。

 

「ウソつけ。ここまで来て休んでたんだろ。学校着く前に体力使い果たしてどうするんだ。

ほらっ、カバンはオレが持つから」

 

そう言って、彼女の前にしゃがみこんだ。

 

「……バレちゃった。その前に、アレ、拾ってくれる?……この人のだと思うんだけど」

 

悪戯が見つかってしまった子供のように、少し舌を見せて笑い、スッと人差し指を伸ばす。

彼女の指さした場所にオレのペンが転がっていた。

 

「え?……ああ」

 

その時になって初めてオレの存在に気づいたような反応だ。

面倒くさそうにペンを拾い上げ、オレに手渡ししてくれる。

 

「あ……ありがとう」

 

ここまでの仏頂面にお礼言うの生まれて初めてかもっつーくらいの愛想のなさだった。

すぐさま彼女の方に向き直ると、両手をまっすぐに彼女の身体へと伸ばす。

 

「とりあえずベンチに」

 

そう言いながら、慣れた手つきで彼女の正面から両脇に腕を差し入れ、お人形を

持ち上げるよう、大事そうに抱き上げる。一方、彼女の方もこれが初めてでは

ないのだろう、ヤツの腕が密着すると、その肩にそっと両手を乗せ、後ろのベンチの位置を

気にしながら移動した。

 

「ありがとう」

 

謝意を述べながらの彼女の笑顔……それは、さきほどオレに向けられた時より何倍もの

気持ちがこもった笑顔だった……それを見て、ヤツも笑顔を浮かべる。

今さっきの、オレの「ありがとう」聞こえてた?、と疑いたくなるほどの違いだ。

 

「少し、顔色悪いけど……」

「大丈夫。今日は午前中だけだし」

 

ヤツは心配そうな表情のまま、ベンチに置いてある彼女のカバンを自分のと一緒に持つと、

かがみ込み、空いている手を自然な仕草で彼女の腰に回した。

 

「ほら」

「えっ、いいよ、自分で立つから」

「サポートした方が楽だろ」

「……でも、ここ外だよ」

「今だけ……学校じゃやらないよ」

「……ん」

 

彼女の両手がためらいがちにヤツの首に伸びる。頬を薄紅色に染めつつも、目を細め、

嬉しそうな表情を織り交ぜながら、しっかりと首にしがみついた。それを確認してから、

ヤツはゆっくりと自らの腰をのばし、彼女を立たせる。

スカートの下から見える膝が少し震えていた。

腰に回した手と自分の腰で彼女を支えながら次の指示をだす。

 

「そのまま腕につかまって」

 

素直に従う彼女。

 

なんなの、この二人……それに「アスナ」って……アノ女性剣士サマ?

いやいや、普通あの世界ではキャラネームのはず。

偶然の一致だろうな。

 

時間も忘れて二人のイチャつきっぷりを傍観していると、いつの間にか登校時刻の

ゴールデンタイムに突入していたようで、次々と生徒達がやってくる。

 

やっばっっ、完全にタイムオーバーだ!

 

焦ったと同時に校門の方から今一番聞きたくない声が近づいてきた。

 

「佐々ぁ〜」

 

呼び方だけは妙に間延びしているが、機嫌を損ねていることがわかるくらい長いつきあいの

相方「久里(くり)」がトテテテッとこちらにやってくる。

 

「うわぁーっ、久里、ごめんっ、想定外の出来事が重なって……」

 

平謝りに謝り倒そうとした時、登校中の集団の中で騒がしい声があがった。

 

「おらおらっ、道を開けろよ。誰のお陰で現実世界に戻ってこれたと思ってるんだっ。

オレ達が最前線で命を張って攻略を続けてきたからだろうが」

 

おーっ、まいがーっ

なんつータイミング、なにも初日に出くわさなくっても……想定外にも程があるだろう。

 

そこのけそこのけで道の真ん中を歩いてくるヤロー集団の先頭の一人が、こちらに気づいて

近づいてきた。

オレは急いで久里に耳打ちする。

 

「手も口も出すなよ。この後、オレを保健室まで運ぶヤツが必要だから」

「おっけぇー」

 

先頭の男子生徒は迷うことなくオレの目の前までやってくると、睨み殺すかの形相だ。

 

「お前……『交渉屋のコトハ』だな……忘れてねえぞ、その顔」

 

今にも噛みつきそうな距離までその顔を近づけてきた。

幸いにも残りのヤツらは傍観を決め込んでいるらしい。その他一般の生徒は視線を向ける

だけで足早に校門へと歩を進めている。

 

「いやぁ、久しぶり。お互い現実に復帰できてよかったね」

 

ことさら明るく振る舞ってみました……けど?

 

「お前がオレ達にしてくれた事、忘れたわけじゃないよなぁ」

「うーん、ちょっと記憶障害がぁ……」

「ふざけんなよ、テメー!」

 

今度ばかりは想定内で、目の前の男子生徒が太い右腕を振り上げた。

 

ああ〜、初日からジェットコースターすぎるぅ

 

覚悟を決めて目をつぶった。

 

……が、いつまで経っても殴られない。

そ〜っと目を開けると、振り上げられた右手首をさっきまでイチャついてた彼氏くんが

つかんでいた。

 

へっ?

 

「何があったか知らないけど、ここでキャラネームはNGだろ」

「お前には関係ねーだろ、離せよ、オレ達は最前線で戦ってたんだぞっ……」

「最前線って言っても、あなた達が参戦してたのはせいぜい4層まででしょ。それだって

ほとんど後方支援で終わっていたはずだわ」

 

ベンチに寄りかかるように立っている彼女が怒気を含んだ声でこの場を制した。

手首をつかんだままの彼氏くんがその言葉に再びため息をつき、彼女に向かって静かに、

けれど少々威圧感を込めて短い言葉を投げる。

 

「明日奈も、それ以上はマナー違反だ」

 

真摯な眼差しで、彼女の口を封じた。

 

「げっ、お前……血盟騎士団のアスナ……イテテテテテッ」

 

どうやら彼氏くんがつかんでいる手首に更に力をこめたらしい。

それ以上余計な言葉は発するな、という事なのだろう。

 

「わかったよ。忘れてやるよっ」

 

そう言って腕をふりほどくと、振り返る事もなく元いた集団へと逃げるように走り去って

いく。その後ろ姿を見ながら、彼氏くんがオレに声をかけてきた。

 

「一体どんな因縁なんだよ、あれ、相当恨んでたぞ」

「まぁ、ちょっと、あっちの世界で肩がぶつかった事があってさ」

「絶対ウソだろ」

 

「ねえ、『交渉屋』さんって何?」

「佐々はねぇ、NPCと交渉してクエストの報酬の数とか変えられるんだよぅ」

「……クエストのNPCに交渉なんて……できるの?」

「佐々はできるんだぁ」

「ウソみたい……」

 

こっちはこっちで、あっちはあっちでウソのような話が展開されていた。

 

「まあ、とにかく助かったよ。サンキュー」

 

この短時間に、この無愛想なお顔に二回も礼を述べてしまった。

こうならないよう、早めに登校しようと久里と待ち合わせしてたんだけどなぁ。

 

「そっちの彼女さんも……えっと……『アスナちゃん』だっけ?」

 

彼女に話しかけた途端、HPバーが一気にレッドまで削られた時のような血の気の引く

オーラを隣から感じる。

 

うーん、もの凄い殺気がダダ漏れてますよ〜、彼氏くん……。

はいはい『アスナちゃん』はNGなのね。

どうやら彼女、有名人みたいだし、しかも本名をキャラネームにしちゃってる、ちょっと

うっかりさんな可愛いところもあるみたいだし……なら

 

「『姫』もありがとっ」

「え?」

 

いつの間にか久里と楽しそうにお喋りをしている彼女がキョトンとした。

もちろん、キョトン顔も、めっちゃ可愛い。

 

「いやいや、可愛いだけじゃなくて、正義感も強くて、気高くて、まさに『姫』じゃん。

だからこれからは『姫』って呼ぶから」

「お前なぁ……」

 

改めて自分と彼女のカバンを持ち直した彼氏くんが、オレにあきれた視線を送ってくる。

しかし、それもほんの一瞬、すぐにオレはアウドオブ眼中だ。

 

「ほら、明日奈、つかまれって」

「あ、うん……それじゃ、またね」

「またねぇ、姫ちゃん」

 

久里がヒラヒラと手をふる。

コイツが初対面で懐くなんて珍しいなぁ、と少し驚きつつ、オレもあわせて手をふる。

姫はオレ達にニコリと会釈をしてから、彼氏くんの腕に両手でギュッとつかまり、ゆっくりと

二人で校門へと向かっていった。

歩きながら二人の会話がかすかに聞こえてくる。

 

「アイツと何話してたんだ?」

「うん『交渉屋』さんについて……キリトくん知ってる?」

「『交渉屋』?」

 

ああ、あんまり「交渉屋」「交渉屋」ってオレの屋号、連発しないでぇぇぇっ、と思いつつ

二人を見送る。

 

「噂になってた女性剣士さんて、同年代だったんだ」

「そうだねぇ」

 

これは早速担任に交渉して全校生徒のクラス別名簿を手にいれなくてはっ、と決意したのは

言うまでもない。

 

その後、オレは時間をズラす意図もあって、その場で久里に登校中の出来事を、要はなぜ

待ち合わせの時間に遅れたのかを簡単に説明した。

それから平謝りに謝り、ようやく「許してくれる?」の問いに、いつもの「そうだねぇ」が

聞けたところで、改めて学校へと並んで歩き出す。

校門をくぐり、昇降口の手前でクラスを確認してから教室に向かった。

 

「同じクラスで良かったな」

「そうだねぇ」

 

久里の口癖は「そうだねぇ」だが、今のは結構嬉しい時の「そうだねぇ」だ。

結局、遅刻ギリセーフの時間帯になってしまい、慌てて教室に入ると正面のメインパネルに

席次表が映し出されていた。

新年度なので、おきまりの五十音順だ。

 

「久里とオレの間、誰もいないんだな」

 

前後の続き席に向かおうとした時、本日二回目の「おや?」な首かしげの光景が目に入った。

久里の席の前にいるのは……すぐさまパネルで名前をチェック。

そっと後ろに忍び寄る。

 

「やぁっ、また会ったね、桐ヶ谷くんっ」

 

声をかけると同時に肩も叩くスペシャルメニューを繰り出した。

ゆっくりと、しかもイヤそ〜な視線全開で姫の「彼氏くん」こと「桐ヶ谷」くんが

振り返った。そんな照れ屋さんな桐ヶ谷くんの視線をオレは笑顔で受け止める。

そして始業のチャイムが鳴った。

 

 

 

 

 

ホームルームが終わり、今日はこれで解散、と担任が締めたところで久里の前に

座っていた桐ヶ谷くんがすぐさま立ち上がった。

無駄のない動作でカバンをつかむと足早に教室を出ていく。

急いで後を追いかけるオレと久里。

 

「桐ヶ谷くん、ドコ行くのかな?」

 

一瞬振り返り、オレ達と認識すると、完全無視で校内を移動していく。

 

「桐ヶ谷くーん」

「ついてくるなよ」

 

顔は正面を向いたままだが、オレ達に言っているのは間違いないだろう。

だってオレ達以外、桐ヶ谷くんの後を追っかけてる人間いないし。

各教室から時間差でゾロゾロと生徒達が出てくる。

今日はどのクラスも午前中で終わりなのだ。

前から横から後ろから人があふれ、急ぎたくても思うように移動ができない。

 

「あっ、もしかして姫の教室に向かってる?」

 

そう言った途端、歩く速度があがった。

 

わっかりやすいヤツ(笑)

 

速度をあげても、すぐに人にはばまれて、速度を落とすことになるのに……。

なので結局オレ達をまく事もできず目的の教室に到着してしまう。

空いているドアから教室内をのぞき込むと、既に生徒の半分以上は教室から出て行ったようで、

空席の目立つ状態となっていた。

 

あそこにいるの、入学生代表だった人だな、ってことは、ココ、最高学年の

クラスかぁ。

 

そう思って見ると、残っている生徒がなんだか全員頭がよさそうな顔に見えてくる。

 

「あれ?、キ……和人くん、と……えっと……」

 

オレ達を見つけた姫が仏頂面の桐ヶ谷くんと、その隣で笑顔全開のオレと、さらにその隣の

普通な久里を見つけて困惑気味の笑顔を浮かべている。

つかつかと無遠慮に教室に足を踏み入れる桐ヶ谷くん。

それに続いてオレも笑顔を振りまきながらお邪魔する。

 

「明日奈、調子はどうだ?」

「大丈夫だって。心配しすぎ、キ……和人くん」

 

微かに、ホントーッに微かに、桐ヶ谷くんが照れている。

 

「それより、どうして三人一緒なの?」

「それはですね、『桐ヶ谷』『久里』『佐々井』と、同じクラスでしかも

五十音順でも固い絆でつながっている、さながら姫を守る三銃士みたいな関係だから」

 

笑顔で答えたオレの横っ腹に桐ヶ谷くんから愛のこもったエルボー攻撃が炸裂する。

それを見た姫がクスクスと笑った。

 

「初日で随分仲良しになったんだね」

 

オレと認識を共感してくれて、満足げなオレとは正反対の表情の桐ヶ谷くんだが、あえて

それ以上の反論や反撃はなかった。

これはもう、全員一致の共通認識となった証だろう。

 

周りを見ればいつの間にか教室に残っているのは姫と三銃士だけ。

 

「そろそろ帰るか?」

 

桐ヶ谷くんが持ちかけたが、姫は座ったままオレ達三人に上目遣いで聞いてきた。

 

「もうちょっとここでお喋りしてもいい?」

 

『この上目遣いに逆らえるヤツっているの?』レベルの強制力に思わずフラフラと

よろけそうになる。

 

「もちろんだよっ、姫。あ、じゃあオレは失礼して……朝メシ食ってなかったんで」

 

カバンの中からゴソゴソとコッペパンの卵サンドとハムカツサンド、それにコーヒー牛乳を

取り出しながら、知らない人の席のイスを借りて、姫の近くに陣取る。

姫の前席のイスは桐ヶ谷くんが使い、久里はオレの隣にイスを持ってきて座った。

 

「佐々井、お前、それ、ずっとカバンに入れてたのか?」

 

既に見なくてもわかる桐ヶ谷くんのあきれ顔を感じながら、パンのラップをはがす。

 

「『佐々』でいいよ。ずっとって言うか、式が終わって体育館から教室に戻る時、

売店のおばちゃんから買ったのさ」

「今日って午前中で終わりだから、売店、開いてないだろ?」

「ああ、おばちゃんつかまえて、教師の為に少し仕入れがあるって聞いたから、

交渉したら売ってくれた」

 

唖然としている桐ヶ谷くんと、苦笑いの姫と、当然顔の久里の顔を順番に見ながら、

パンを頬張り「何か問題でも?」と首をかしげる。

オレ、今日、人生で最高回数首をかしげてるなぁ。

 

「姫は久里から聞いたでしょ。オレ、あっちの世界で『交渉屋』だったって」

「……うん」

「『交渉屋』って言うのはさ……」

 

口火を切ったところで、桐ヶ谷くんがオレの言葉を手で制した。

 

「それ以上はいいよ」

「なんで?、自分から話すんだからいいだろ。それに具体的な話はしないし」

 

たいした話じゃないよ、と前置きをしてから、話を続ける。

 

「クエストでNPCから報酬を受け取る時に交渉して、量を多く貰って、それを

欲しがってるヤツに売ってコルにかえたり、物々交換したり、ってのが、まあメイン

なんだけど、たま〜にクエストに挑戦する連中と一緒に行って、その場でNPCに

交渉してやるってのもやっててさ……それが『交渉屋』」

 

ココで説明は終わり……のはずだった。

普段なら、ココで終わらせてたんだ。

いつもなら、ココまでで……それがオレも相手もほどよい関係を築けるから……。

 

「二人とも驚いた顔してるけど……」

 

そう、驚かれても、疑われても、事実は事実。

信じなくてもココで終わりなんだ。

同じ相手にもう二度とこの話をすることはない。

それ以上は……どうせ……言っても……。

 

「……NPCなんて、人間と違って言ってることにウラオモテないし、特にあの城の

NPCは他のMMORPGのヤツらより、なんつーか、表情が豊かだったし、会話能力も

ハイレベルだったから、逆に交渉はしやすかったくらいだな……」

「……佐々ぁ……」

 

隣の久里が心配そうにオレの名前を呼んだ。

 

そうなんだよな〜、ここまで話すと、まずヒャクパー、信じてもらえないんだよな。

結果は出してんのに、その手段の段階でNPCの表情が変わるとか、理解できないん

だろうけど。

だからNPCに対して公開されていない裏キーワードを知ってるんじゃないか、って

疑われたり、それを教えろって脅されたり……。

折角仲良くなれそうなのに、なんで調子乗って勝手に口が喋っちゃったかなぁ……。

 

話をしてからパンを食べるどころの気分ではなくなってしまった。

完全に自己反省に陥っている。

パンを持つ手が膝に落ち、下を向いてしまったオレを久里が見つめていた。

 

まあ、理解されなきゃ、されないで……今までだってそうしてきたし……。

オレってば慣れっ子さんだし、久里もいるから大丈夫、よし。

 

「ああ、わかるよ」

「そうだね」

 

信じられない言葉が耳に飛び込んできた。

急いで顔をあげると二人がオレに頷き、それから何か共通の想い出を確かめ合うように、

互いに笑顔で見つめ合っている。

 

「佐々ぁ、よかったねぇ」

 

表情の読み取りにくい久里が、珍しく誰にでもわかるくらいの笑顔でオレを見ていた。

二人の様子からして、オレに気を遣って同意をしてくれたのではないことくらい

『交渉屋』として表情の読み取りは得意中の得意なオレに判断できないわけがない。

 

「君たちって……無茶苦茶だよね」

「そうだねぇ、無茶苦茶だねぇ」

 

こんな話、信じるなんて無茶苦茶だ。

こんな話、久里以外に肯定する人間が二人もいっぺんに現れるなんて……なんて今日は

想定外盛りだくさんの日なんだ。

 

「そうね、少なくとも、和人くんは無茶無謀の人だから」

 

確信の笑顔で言い切る姫。

そう言われて、なぜかまたもや桐ヶ谷くんは微かな照れを懸命に隠そうとしつつ、右手を

のばし、姫の頬に触れた。

 

「そういう明日奈だって、無理して……気分、少しは良くなったのか?」

「……なんでわかっちゃうの?」

 

嬉しいと言うより、悔しいという表情もまた可愛い。

 

「朝だって顔色悪かっただろ。さっき教室来て顔見た時も思ったけど、すぐに

帰らないって言うし、お喋りしたいって言ったわりに、口数少ないし」

「ちょっと人当たりした程度だよ、もう大丈夫ですっ」

 

姫は背筋を伸ばして、ことさら元気をアピールしてくる。

 

「実はオレも姫の表情がすぐれないの、わかってたよ。まぁ、野生の勘で、久里にも

バレてたと思うけど」

 

オレの言葉で姫が肩の力を抜いて、照れたような、困ったような笑顔になった。

 

「ご心配をおかけしました、佐々井くん、久里くん、和人くん」

「……で、桐ヶ谷くんはなんでそう、いちいち照れてんの?」

 

もういい加減吐けよ〜、気になって仕方ないんだよ〜。

いやいや、これは「気になる」って言うより

 

「気が散って、姫に集中できないんだよぅ」

「しなくていいし、それに照れてないから」

 

またもや桐ヶ谷くんが無表情を装う。

無駄無駄、オレと久里の前で表情を誤魔化そうなんて、それこそあの城の100層に到達するよか

無茶無謀なのに。

 

「あっ、もしかして……桐ヶ谷くん、姫から『和人くん』って呼ばれるの、慣れて

ないとか?」

 

瞬時、桐ヶ谷くんがたくさんの感情が入り交じった、要するにビンゴの顔になったのを

オレは見逃さない。

だいたい桐ヶ谷くんが頑張っても、目の前の姫が完全に納得顔になってるし……。

 

「そうなのぉ?、姫ちゃん」

 

久里の一押しで姫が決壊した。

 

「あ……うん、今まではキャラネームで呼んでたから」

「明日奈っ」

「私もついキャラネーム言いそうになっちゃうけど……すぐ慣れるよ」

 

桐ヶ谷くんが頭を抱えている。

 

「では友人としてオレ達も協力しなくちゃ……なっ、久里」

「そうだねぇ」

「『和人くん』……ってのはなんか気持ち悪いから……『カズ』でいいな」

「じゃぁ、ボクはぁ……カズくん」

「お前達……別に名前呼ばれるのが慣れてないわけじゃないっ」

 

カズは両手を姫の机に乗せて、拳をプルプルさせている。

 

「人前で姫に呼ばれるのが恥ずかしいんだろ、ん〜なコトわかってるよ、カズ」

 

わざとあきれ顔で言ってやった。

ああ、どうしよう、心のニヤつきが止まらない、楽しすぎるっ。

 

「明日奈、帰ろう」

 

机に乗せている拳に力を入れ、ガタンッと大げさな音を立てて立ち上がり、無理矢理

話題転換という裏技を繰り出してきた。

これ以上遊ぶのはちょっと可愛そうだな、と姫、オレ、久里の表情に共通の色を見る。

 

「うん、そうだね」

 

素直に帰り支度を始めるところも、姫は優しいなぁ……いや、甘いと言うべきか。

姫が支度する様子を見ながらも、カズが窓の外に視線を移す。

 

「車、来てるんだろ?」

「校門の外で待っててくれてるはずだけど」

「ならそこまで一緒に」

 

当然のように、姫のカバンを持ち、立ち上がる姫の腕を支えている。

 

「なに?、姫はお迎えつき?」

「あ、そうなの。まだ本調子じゃなくって……」

「そうなんだぁ、エライねぇ」

「え?」

 

予想外の久里の言葉に驚いて、カズにつかまりながら歩き始めていた姫が足を止める。

オレが言葉の説明を引き継いだ。

 

「だってまだ調子悪いのに学校来るの、エライでしょ。オレだったら来ないね」

「そうだねぇ、佐々だったらこないねぇ」

「ほら、久里の保証付き……カズも心配ばっかしてないで、姫の頑張りを褒める事も

必要だぞっ」

「うっ」

 

言葉に詰まるカズを、楽しそうに見ている姫がこちらに顔を向ける。

 

「有り難う、久里くん、佐々井くん」

 

今日一番の笑顔をくれた。

 

 

 

 

四人一緒に校門からでると、姫と出会ったバス停の先に黒塗りのデカイ車が停まっていた。

てっきり親が誰かが普通の乗用車で迎えに来ているものと思い込んでいたオレは思わず

足が止まる。

姫の姿を認めると、スーツ姿の初老の運転手がでてきて後部座席のドアを開けた。

なんとなく近寄りがたいものを感じて、その場に立ち尽くしているオレと久里とは対照的に

姫が腕にしがみついているカズは当然の様子で車に近づいていく。

ハッキリとは聞こえないが、姫が運転手に向かって声をかけているようだ。

 

「……さん、遅くなってごめんなさい」

 

運転手は、優しく首をふり「お気になさらず」と言葉を添えた。

カズの手助けを受けながら、姫が座席に腰を落としたのを確認すると、運転手は運転席に

回り込む。

その間に、かがみ込んでいるカズの顔が車内の姫に急接近したが、それも一瞬で、

すぐに車の外に立ち、ドアをゆっくりと閉めた。

フィルターの張ってある車窓ガラスが静かにおりて、姫が顔をだし、手を振る。

それを見てカズも手を上げ、その後ろでオレは盛大に腕ごとふった。

車がスムーズに走り出すと、ちゃんと視線をオレ達に向けて、手を振ってくれる姫。

だが、車は角を曲がり、その姿はすぐに見えなくなってしまった。

 

「もしかして姫ってお嬢?」

 

オレ達が立ち尽くしていた場所まで戻ってきたカズは、意外にもその質問に素直に答えて

くれる。

 

「まあな……でも今のは明日奈の父親の運転手だよ。体調が戻るまでの期間限定って条件で

下校の時だけ迎えに来てもらうのを明日奈が受け入れたから」

 

その言い方から察するに、下校時のお迎えは不本意なのだろう。

お嬢なのに意外と言うか、姫なら納得と言うか、オレなら喜んで毎日送迎してもらうのに。

 

「姫って見た目より気が強いよな」

「まぁ『攻略の鬼』と呼ばれた『副団長』サマだからな……っと、オレまで口がすべった」

 

カズは思わず手で口をおさえている。

 

「そっか、あっちで『キツい』イメージなのはホントだったんだ……大変だったんだろうな。

女の子が最前線で……」

「ああ、明日奈はたくさんのプレーヤーの支えとして戦ってたから」

 

駅に向かって歩き出していたオレ達は、カズがあの世界での姫を思い出しているのを

感じながら質問を続けた。

 

「……姫、たまには笑ってたか?」

「そうだな。本当にたまに……攻略から離れた時は笑ってたよ」

「そっか……ちゃんと笑顔になれる時間があったなら……よかった。カズはあの世界でも

姫が笑顔を向ける相手だったんだな……」

「うっ……うん、まあ……そうかな」

「一緒にクエストしたり?」

「まあ、やったな」

「レベル上げしたり?」

「そうだな」

「メシ食ったり?」

「ああ、アスナ、料理スキル、コンプリートしてたし」

「一緒に暮らしたり?」

「そりゃあ、結婚してたから……」

 

質問したオレがバカなのか、正直に答えるカズがアホなのか……。

両者共にショックを隠しきれない表情で思わず見つめ合ってしまった。

口をパクパクしているカズの肩を叩きながら、ため息交じりにアドバイスを授ける。

 

「カズ、こんなの『交渉』って言わないからな。誘導尋問のレベルにも達していない。

お前うっかりしすぎ。結婚の事、あんま人に言うと姫に嫌われるよ」

 

それでもまだ口をパクパクしている。

 

「わかってるって。オレも久里も喋ったりしないから。オレは最前線で戦ってくれていた

攻略組の皆さんを崇拝しているのだよ、うん」

 

そう告げた途端、今度は久里が何かを訴えるよう、オレの肩に手を置いた。

 

「な、なんだよっ、これから崇拝するんだよ。確かにあの時はお前にも迷惑かけたけど……」

「……『あの時』って、なに?」

 

久里の手が乗っているのとは反対側の肩にカズが手を乗せた。

見れば表情は完全復活を告げている。

 

「うげげっ」

 

両肩にかかる圧のせいか、オレは諦めて肩を落とし、今は無きあの城で、アバターを通して

この肩がぶつかった高慢ちきな自称最前線攻略組の皆さんと、後になんの巡り合わせか

『交渉屋』としてクエストに同行し、報酬の数を逆に少なくしてやった武勇伝を

駅にたどり着くまで語らなければならなくなった。




お読みいただき、有り難うございました。
一番の「想定外」は、文章が予定の倍以上の長さになった事です(苦笑)。
オリキャラの佐々井目線なので【番外編】とし、キリアスのイチャこらぶりも
封印のはずでしたが、いつの間にかこっそりイチャついてますね……。
『交渉屋』としてNPCと接する事が出来る設定は『SAOP』を読む前から
出来ていたので、読んでビックリ……佐々井にキズメルを会わせて
あげたかったかも。
では、次は現実世界での二本立てです。


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その先の約束(みらい)

『きみの笑顔が……』で書いた「校内祭」当日のお話です。いちを、そちらを読んでいただいて
からの方がわかりやすと思います。
前々からこの作品を投稿するなら十月と決めておりました(笑)


静まりかえった校舎内とは対照的にグラウンドからは悲喜こもごもの男子生徒の声が、絶え間なく

この屋上にまで聞こえてくる。

『校内祭』最後を締める後夜祭の……メインイベントと言っていいだろう、フォークダンスに

おける運命の抽選会が行われているのだ。

ネット内の仮想空間に二年余りの間、約一万人分の魂を縛り付けた『SAO事件』。

その呪縛から解放された被害者の子供達だけが通うこの学校では、本日、生徒の自主的発案で

文化祭のようなお祭りが開催されていた。

そのラストを飾るイベントとして、一般来校者が引けた後、まだ夕暮れの日差しが校舎の窓を

あかね色に照らしている頃、基本的には全員参加の後夜祭が、そろそろ幕を開けようとしている。

 

ギギィッ……

 

校舎の屋上へと出る重たい扉がゆっくりと動いた。

閉まるのをその重さと勢いに任せ、すぐさまトトトトッと軽快な足音が一直線に近づいてくる。

その足音の主は無言のまま勢いも殺さずに、屋上の塀にもたれるように座り、制服のブレザーを

頭からかぶって居眠りを決めこんでいる生徒に抱きついた。

 

「うわっ!」

 

ブレザーの主が慌ててそれを払いのけると、豊かな栗色のかぐわしい長い髪が桐ヶ谷和人の胸元に

押し当てられている。

もちろん背中にはギュッと回された細い腕。

無意識に胸の上の小さな頭を抱きかかえようとして……和人は目の前のモコモコとした白い物体が

邪魔なことに気がついた。

しかもその物体はふたつ、ゆるやかに揺れている。

 

「……明日奈?」

 

その呼びかけに、少し間を置いてから抱きついた腕の力を抜いて結城明日奈がゆるりと顔を

あげ、和人を見上げるようにして、ほわんとした笑顔を見せた。

 

「和人くん、見つけた」

 

和人本人は別にかくれんぼをしていたつもりはなかったのだが……今の屋上には他に誰もいない

とは言え、恋人のいつもより積極的なふれあい方に戸惑いを感じながらも、微笑みを返した。

 

「ったく、オレじゃなかったらどうするつもりだったんだ?」

 

その言葉に少々機嫌を損ねたのか、おもむろに身体を起こして和人の前に座り直すと、

むぅっ、と口を尖らせながらプイッと横を向く。

 

「間違ったりしません」

 

真横を向いた動きに合わせて、白いモコモコも「みよんっ」と動いた。

彼女の機嫌を気にするより、どうしてもその動く物体に興味が向いてしまう和人は、人差し指を

立てて目の前の疑問を口にする。

 

「明日奈、それって……」

「ん?、これ?……ウサギ耳」

 

さして真剣に怒っていたわけではないようで、すぐに和人に向き直ると自分からは

見えるはずないウサギ耳をその瞳に映すように、軽く上目遣いをしてから、今度は和人に向けて

頷くように頭を上下に振った。

その動きに反応して、カチューシャから生えているウサギの白い耳が「ふにゅんっ、

ふにゅんっ」と前後に揺れる。

明日奈の白い肌とのコントラストも手伝って、全体的になかなか……いや、かなり可愛い

仕上がりになっていた。和人は口元が緩みそうになるのを必死にこらえ、手で覆い、

心情を隠すように少し早口で問いかける。

 

「なんで?、午前中はそんなの付けてなかっただろ?」

 

素直な疑問であり、当たり障りのない言葉を選んだつもりだったが、それを聞いた明日奈が

途端に眉を寄せる。

 

「……フォークダンス、仮装だよ?」

「はっ!?」

 

一瞬で和人の頬から緩みと赤みが消えた。

立て続けの予想外な質問と反応に、何かを感じ取った明日奈が冷ややかな視線を送ってくる。

 

「和人くん……ちゃんと在校生用のプログラム、見た?」

「……見た……つもりだった」

 

歯切れの、と言うより往生際の悪い返答に本人も苦笑いだ。

明日奈は、はぁーっ、と大きくため息をついてから「やっぱり」と小声で呟いている。

今回の『校内祭』実行委員を務めている身としては落胆を隠しきれない。

 

「あのプログラム、私の担当で一生懸命作ったのに……」

「ご、ごめん」

 

和人は後夜祭の内容に書いてあった「フォークダンス」の文字を見ただけで不参加を

即決していた。だいたいフォークダンスなど踊れるスキルも持ち合わせていないし、

明日奈の手を取れるなら、の思いもあったが、それ以上に他の男子生徒がその手を握る

光景を見るのは耐えられそうになかったのだ。

後夜祭終了後に各催事の片付けがあるので、帰るに帰れず、一人屋上で時間を潰していたと

いうわけで、当然フォークダンスの詳細など読んでもいなかった。

 

「一体誰が仮装フォークダンスなんか発案した……あ……もしかして……」

 

発案した生徒の顔が見てみたい、と思ったところで浮かんできたヤツが一人。

そいつも実行委員なので可能性は十分にあった……そして、その可能性を明日奈が即座に

100%に引き上げる。

 

「うん、佐々井くん」

 

ああぁ……と今度は和人が大きく息を吐き出す。

明日奈を「姫」と敬う彼女のファンクラブ会員であり、和人のクラスメイト兼同じ研究会

メンバーだった。

当初、後夜祭までは発案されていなかったのだが、佐々井がどうしてもやりたい、と

自分が担当になって全てを引き受けるから、と実行委員長の茅野に粘り強く交渉したのだ

という。

きっと誰もが思っただろう……「お前、自分が姫と踊りたいだけだろーが」と。

そしてその思いは多くの男子生徒も同じだったようで、わざわざ全員参加を謳わずとも

まさに今、グラウンドには屋上にいる二人以外の全校生徒が集結していた。

 

「でも、男女比が違いすぎるだろ。どうやるんだ?」

「……ホントーに読んでないのね……今やっている抽選会で男子生徒の三分の一の数の

アタリが入ってるから、それを引いた生徒が女子役にまわるのよ」

「うげっ……ああ、で、さっきからグラウンドから奇声が聞こえてきてるのか」

「まあ、そういうこと」

 

三分の一の確立で女子役に当たる危険を冒しても、女子と……更には明日奈と踊れる

かもしれない確率にかける男子がほとんどなのだろう。

そうでなければ和人のようにボイコットする生徒がもう少しいてもいいばすだ。

これは当たっても、ハズレても、思わず雄叫んでしまう男子の気持ちはよくわかる……

と言うか女子役はアタリではなくハズレではないだろうか。

これではちゃんと内容を読んでも不参加だな、と和人が自分の選択を再確認した後、

未だ校庭から響く喜声と嘆声を聞きながら彼女に問いかけた。

 

「で、明日奈はこんな所にいていいのか?」

 

ウサギ耳を付けているということは、ちゃんと後夜祭に参加するつもりなのだろうと

推測できる。それでなくとも実行委員なのだから、和人のように時間を潰している

暇などないはずだ。

明日奈は再び耳を「ほふんっ」と揺らしながら俯いた。

 

「……私はね、もう後夜祭が始まるから……校内に残っている生徒がいないかどうか……

確認してて……」

「それで白ウサギさんは校舎内はおろか、屋上までやってきたというわけか」

 

穏やかな微笑みと共に発せられた和人の言葉を聞き終わらないうちに、明日奈は下を

向いたまま、目の前の和人の胸にそっと顔を押し当てる。その肩を静かに受け止めてから、

和人は眉をひそめた。午前中、一緒に『校内祭』を回った時と比べて明らかに様子が

おかしい。

 

「……明日奈?……何かあったのか?」

 

 

 

 

 

「……姫、何かあった?」

 

同じ『校内祭』の実行委員を務めている佐々井が明日奈に声をかけた。

これから後夜祭の準備に移るため、佐々井と明日奈は放送室から運び出す放送機材の

チェックを行っている。

 

「えっ?」

 

突然の佐々井の言葉に明日奈は振り返った。

と同時に明日奈の表情を見た佐々井が苦笑いを浮かべる。

 

「あ、いいや、気にしないで。オレにはどうしてあげる事もできなさそうだし……」

 

そう言うと佐々井は少し考え込んでから時計を見て時間を確認した。

 

「そろそろ抽選会が始まるからさ、姫は校舎内に残っているヤツに声かけてきてよ。

……まあ、そんなヤツは一人くらいだろうけど」

 

含み笑いをしてから、明日奈が手にしていたフォークダンスの音源の入ったチップを

素早く奪い取る。

 

「後はオレがやっとくから」

「……でも」

「こっちは応援呼ぶから大丈夫。オレはさ……姫とフォークダンス踊りたかったけどさ……

踊りたかったんだけどさ……オレってば『全部引き受けます』って茅野さんに言っちゃった

から……茅野さんに……『なら、生徒の誘導はもちろん、司会進行も音楽のスイッチングも

任せていいんだね』って笑顔で言われてるんだよぅー」

 

言葉を重ねていくごとにどんどん俯く角度は深くなり、最後にはもの凄い猫背で

しゃがみ込み、床に崩れ落ちそうな勢いである。

 

「だからオレはダンスの輪にすら入れないし。だったら他のヤロー達と姫を踊らせる

くらいなら……さ……だから、行ってきて、姫」

「う……ん、でも見回ってから、ちゃんと校庭に行くよ。私だって実行委員なんだし」

 

明日奈が佐々井の様子を心配そうにのぞき込む。

 

「まあ……そんな事を言うところが姫だよなぁ」

 

顔をあげた佐々井が一瞬まぶしそうな表情となるが、すっくと立ち上がると大げさに

両腕を広げ、首を横に振った。

 

「今、自分がどんな顔してるかわかってないんだ」

 

ふうっ、と困ったように笑う佐々井を見て、明日奈は益々眉を寄せる。

 

「姫はこれから校舎内、見回って……ああ、ちゃんと屋上もね。そしたら多分いつもの

笑顔に戻せるヤツと遭遇するだろうから、しっかり元に戻ってきてよ。折角頑張った

『校内祭』だから、最後まで良い思い出にしたいってゆー、まあ、オレの

わがままだと思って……」

「佐々井くん……ヤツって?」

 

明日奈が戸惑っている間に、佐々井は足下の段ボールに顔を突っ込んで中身をゴソゴソと

漁りながら答えた。

 

「ん−……姫が、今、一番会いたいと思っているアイツ」

 

その言葉だけで、明日奈の顔がボンッと一瞬で沸騰したように赤くなる。

佐々井は取り出した白い物体を「ハイッ」と有無を言わさぬ勢いで明日奈に差し出した。

 

「実行委員の仮装はウサギ耳で統一することになってたから。これ頭に付けてけば絶対

喜ぶぜ、アイツ」

 

最後にウインクを決めると「付けて、付けて」と催促してくる。

明日奈が放送室内の鏡を見ながらウサギ耳付きのカチューシャを装着すると、佐々井は

満足げに頷いた。

 

「うんうん、姫のウサ耳姿を見たのはアイツの他にオレだけって、超レア」

 

佐々井が自ら扉を開け、従者のように一礼を捧げ、明日奈を廊下へと促した。

その前を肩をすぼめながら恐縮したように俯き、まだ頬に朱が残る明日奈が横切る。

小さな声で「いってきます」と言い残し、廊下に出るやいなや小走りに駆けだした姿を

佐々井はやはり満足げに見送ったのだ。

 

 

 

 

 

「……今日の午後、校内を様子を巡回している時に……」

 

和人の胸に頭を寄せたまま、明日奈が話し始めた。その細い肩に手を添えている和人は

無言で耳をそばだてる。

 

「茅野くんの……奥さんに会ったの」

 

今回の『校内祭』実行委員長を務める「茅野聡」は既婚者であり、すでに一児の父である

ことは明日奈も和人も承知していた。

 

「その時にね……私に……」

 

なかなか次の言葉が出せずにいることを感じた和人が、やさしく促す。

 

「明日奈に?」

 

明日奈は和人に預けていた身体を起こすと、自らウサギ耳の着いたカチューシャをはずして

隣に置き、俯いたまま話を続けた。

 

「『茅野の妻です』って挨拶してくれて……」

 

再び言葉が途切れる。明日奈は下を向いたまま呼吸さえ止めているかのように動かない。

彼女の心意がわからず、和人は軽く眉を寄せ、頷きながら相づちを打った。

 

「うん」

「…………」

 

完全な沈黙だ。

不安になった和人が彼女の様子を探ろうと身をかがめたその時、意を決したように顔を

上げて明日奈が微笑む。

 

「私もっ……私も一回だけ『妻です』って、名乗ったことあったなーって……えへっ」

 

ニコニコと笑う明日奈を見た途端、和人の表情が歪んだ。

咄嗟に自分の両手を明日奈の背中に回し、彼女の全身を自分の胸元へと引き寄せる。

明日奈は一瞬の事で感情だけが抜け落ちた笑顔のまま、気づいた時には和人の腕の中に

すっぽりと身体を預けていた。意識が追いつき現状に目を見開いたが、すぐさま

せつない声が降りてくる。

 

「無理に……笑わなくていいよ、明日奈」

 

その言葉が心に届くと、両の瞳から一筋の涙が流れ始めた。

激しく声を上げて泣きたいほど悲しくも辛いわけでもないのに、その流れは止まらなかった。

今まで溜めていた何かが和人の言葉とぬくもりで封が破れたように静かにとめどなく

あふれてくる。終わらない涙に明日奈自身が驚いていた。

 

「な……んで?」

「ずっと……我慢してたんだろ……自分で気づかなかったのか?」

 

背中にあった手がそっと明日奈の頭に触れ、やさしく撫でる。

確かにあの言葉を聞いてから、無性に和人に会いたい気持ちは膨らんでいたが、会った

ところで何が言いたいわけでもなかった。

ただ佐々井に「行ってきて」と言われ、思わず走り出してしまった自分がいただけだ。

 

なんとなく会いたかっただけ……なのに、なんで涙が……

 

「何かあったのか?」って聞かれて、どうして私はこんな話をしているんだろう……

 

目から流れる涙も、口からでる言葉も、まるで自分の言う事をきかず勝手なことを

している。話す理由も泣く理由もないのに。

 

「明日奈」

 

呼ばれて少し見上げれば二人きりの時にしか見せない穏やかで優しい笑顔が明日奈を

見つめていた。

戸惑いの上をあふれ続ける涙は頬を伝いキラキラと輝きながらこぼれ落ちていく。

その様子を見ながら、和人が囁いた。

 

「不安になった?」

 

不安?……なにが??

 

自分の言葉や涙の理由もわからないのに、和人までもが意味のわからないことを言う。

どうすればいいのか、今度こそ気持ちも泣いてしまいたいと弱気になった時、再び和人が

微笑んだ。

 

「ニシダさんを連れて、あの家に戻った時、明日奈が……『キリトの妻です』って言って

くれて……嬉しかった。結婚の事秘密にしてたから、名乗る機会、なかったもんな」

 

今はもう戻れない22層の森の家。その暮らしの中で起きた出来事は今でもハッキリと

思い出すことができる。

 

「……そうだね。たった一回だったけど、それでも……私も嬉しかった」

 

身近な友人達とシステムだけが知っている「夫婦」だった。

今更友人達に自己紹介をする必要はないのだから、今思えばあの一回は奇跡のような偶然

だったのだろう。

そんな夢のような関係もたった二週間で終わりを迎え、今は恋人同士という暫定的とも

思える立場にお互いを置いている。

「夫婦」が永久的なものと言い切ることは出来ないが、少なくとも「恋人」よりは確かな

繋がりを感じるられる気がした。

 

そうか……「妻です」って名乗れる、茅野くんの奥さんが……羨ましかったんだ……

 

以前は自分もその立場にいたのだから。

この先、自分はまたそう名乗れるようになるのだろうか?

こればかりは自分の努力しだい、気持ちしだい、とはいかない気がした。

あの森の家で彼に聞かれたことがある。

「オレ達の関係って、このゲームの中だけのことかな?」と……。

あの時は、少し……ほんの少しだけど腹が立った。

「私はもう一度キミと会って、また好きになるよ」と、自信を持って答えることが出来たのは、

それは自分だけのことだから。

和人くんの気持ちが信じられないわけではないけど……

 

考え込んでいるうちに、いつの間にか涙は止まっていた。

それさえ気づかず、僅かに眉を寄せ、弱々しい顔で彼を見つめていると、今、考えていた想いが

口からこぼれる。

 

「不安……なのかな?」

 

結局、自分でもわからないのだ。

自分を疑っているのか、彼を疑っているのか……疑ったところで未来はどうしようも

ないのに……そもそも、疑いたくもないのだから。

その問いに答えるように、目を細めた和人の顔が近づき、やさしく唇を重ねてくる。

口の隙間からこぼれた不安そのものをぬぐい去るように、ゆっくりと塞いで、何度も重ねて、

舌で丁寧に明日奈の薄い桜色の唇をなぞった。

その感触に名前の付けられない感情がふんわりと包み込まれる。

 

「……んっ……あふっ……」

 

僅かな吐息が漏れたのを合図のように、明日奈の背中と頭にあった和人の腕に力がこもる。

 

「ぁっン」

 

抱きしめられた途端、思わず反応してこぼれた声と入れ替えに、強く押しつけられた唇から和人の

舌が侵入した。先刻、明日奈の頭を撫でたようにしっとりと、それでいて力強く彼女を味わう。

最後に彼女のそれを包むように何度も絡ませて、明日奈が感覚に全てを委ねているのを感じると

口づけを解いた。

顔全体を紅潮させ、息を荒げている明日奈を再び胸元に抱き寄せる。

明日奈の息づかいを聞きながら、和人の鼓動も同じように早鐘を打っていた。

 

「……明日奈……オレに……どうして欲しい?……」

 

そう問われて、明日奈もまた荒い呼吸の中、素直に想いを伝える。

 

「……もう少しだけ……このままで……」

 

言葉はいらなかった。仮に言葉を欲してしまったら、きっと哀れなほどそれにしがみついて

しまうだろう。そして今度はその言葉を疑ってしまうかもしれない。

そんな風にはなりたくなかった。

最初から何かを言いたかったわけでも、何かを言って欲しかったわけでもないのだ。

いつもより必死にしがみついてきた明日奈が何を求めているのか、和人にはわかって

いたのかもしれない。

校庭からフォークダンスの音楽が微かに屋上まで流れてきた。

和人の胸に顔を埋めながら、明日奈がか細い声を紡ぐ。

 

「……また……わからなくなったら……こうしてくれる?」

「ああ」

 

もちろん、と言うようにやさしい笑みを浮かべて答える。するとやおら明日奈が顔をあげ、

いまだ頬に朱を残しながら言いにくそうな表情を向けた。

 

「……和人くんは……その……考えたり……する時は……ない?」

 

暗に言葉を含ませ問うてくる。

それに応じて、いかにもな真面目ぶった顔をして和人が頷いた。

 

「うん、そりゃあオレだって考えるさ。今度はちゃんとアレをしなくちゃいけないん

だよな−、とか」

「アレ?」

「そう、彰三さんの前で『お嬢さんをオレにください』って強制イベント」

 

聞いた途端、はしばみ色が大きく見開かれた。目の前の和人は恥ずかしそうに視線を

宙に泳がせている。照れ隠しなのか、すぐさま「それにっ」と言葉を続けた。

 

「今度は明日奈のウェディングドレス姿、楽しみだな−、とか」

「プッ……なにそれ」

 

思わず噴き出した明日奈が和人の腕のなかでクックッと声を出して笑っている。

その笑顔を見た和人もフッと安心したように微笑み、ギュッと抱きしめてから、明日奈の

額に唇を落とした。

 

「……よかった。いつもの笑顔だ」

 

笑い声が止まり、瞳を閉じた明日奈が和人の胸に頬をすり寄せる。

 

「心配させて……ゴメンね」

 

首を横に振ってそれに答えると、和人は明日奈の栗色の髪をゆっくりと梳き始めた。

 

「明日奈が感じるものも、なんとなくわかるよ。オレだってあの森の家で暮らしてた時より

もどかしいな、って思う事があるから。でもオレは……何て言うか……例えば旅をするのに

電車に乗っていれば必ず次の駅には着くだろ。そんな感覚で、もう明日奈とは一緒の

電車に乗ってて、そうすればいつか森の家と同じ駅にはたどり着くって、当たり前に

思ってるというか……。その駅は、まだ少し遠いけど、それはそれであの時見れなかった

景色を今、明日奈と一緒に見れる事が嬉しいんだ」

 

明日奈が漠然と危惧していた不確かな未来は、和人にとっては当然たどり着くべき未来なのかも

しれない。そんな和人の想いを受けて明日奈はこれからも旅路を共にするパートナーの背中に

両手を回す。

校庭から聞こえてくるフォークダンスの音楽はいつの間にか三回目のリピートに入っていた。

 

それにしても……と、明日奈はふと我に返り思案顔となった。

さっきの和人の言葉通りなら、彼の考え事は親への結婚の許可や、更に先の結婚式事と

いうことになる。明日奈としてはもっと前に最大イベントがあると思うのだが……果たして

彼は気づいているのだろうか。それとも既に《かの世界》で言ったから、とスルーするつもり

なのか……いやいや、それだけはちゃんと……欲しい……と強く思った。

プロポーズの言葉だけは……。

 




お読みいただき、有り難うございました。
やはりおままごとのような生活だったにしろ、プロポーズの言葉を口にして、それを承諾した
関係の二人が簡単に気持ちをリセットできるとは思えず書き始めた本作でしたが、書き進めて
いくうちに、この話だけではしんどくなってしまい、対となるべく話を同時進行で仕上げ
ました。自分の中では表裏一体的な二編です。
では、続いてその片編をどうぞ。


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たどり着いた約束(みらい)

『その先の約束(みらい)』の数年後です。特に日付の設定はありません。
ありませんが、気持ち的には十月に投稿したかったんです。
明日奈の和人の衣裳はネットで画像検索をかけた時に見たものを参考にしました。


「では、これからお二人には館内のスタジオに移動していただき、ご親族の皆様と

お写真っ……」

 

手入れの行き届いたホテル自慢の庭園でかなりの枚数の写真を撮り終えた二人に、

担当の女性スタッフが次の予定を伝えている最中、インカムに何か指示が入ったようで、

言葉が中途半端な途切れ方をした。

 

「……はい、了解しました」

 

どこを見るともなく、耳からの伝達事項に集中していた女性スタッフの意識が、ブツッと通話の

切れた音と同時に戻ってくる。

 

「……失礼しました。親族の方がまだ集合されていないので、お二人には外の東屋で少々

お待ちいただきたいのですが」

「ええ、わかりました。彼女も少し疲れているようだし……」

「では、ご案内いたします」

 

女性スタッフが右手をあげて、方向を示した。

そのまま二人の前をゆっくりと歩いて行く。

女性スタッフの後ろで、彼女はドレスの裾を踏まないよう、ベルラインのスカートを

左手で軽く持ち上げた。一歩先で待ってくれていた彼が彼女に向かっておもむろに左手を

伸ばすと、それを見た彼女は嬉しそうにその左手に自分の右手を重ねる。

そのまま多少入り組んだ小径を歩いて行くと、庭園の樹木に隠れるようにひっそりとやや小ぶりな

東屋が姿を現した。

 

「こちらは一般の方の立入をご遠慮いただいてますので、安心してお休みください」

 

女性スタッフは二人を東屋の中央に設置してある木製の長椅子へと導くと「それでは

準備が整いましたらお迎えにあがります」と一礼をして、もと来た道を足早に去って行った。

その後ろ姿を見送ると、彼が「ふーっ」と大きく息を吐き出して、ドサッと長椅子に腰を

おろし、スッスッと手慣れた手つきでタイを緩める。

それは二人が同じ学校へ通っていた頃によく見た彼のいつもの仕草で……当時の制服姿と

ダブりそうになるが、今日の装いはあの頃とはかけ離れて、ベストだけは薄色で染めた

白のスーツだった。

彼のイメージカラーとは真逆の色をまとっている姿に新鮮さを感じながらも、相変わらずの

部分に彼女も軽く笑みを浮かべる。それから静かに身体の向きを変え、今度は後ろの裾を気に

しながら彼の隣にフワリと座ると、やはり同じように小さく吐息を漏らした。

 

「疲れただろ、明日奈」

「うううん、大丈……」

 

「大丈夫」と言おうとして隣の和人の視線に気づき、言葉に詰まった。

 

「……ちょっとだけ」

 

肩をすくめ、ほわんっ、と微笑んで本音を言い直す。

既に十分見慣れているはずの和人の瞳なのに、その吸い込まれそうな深い漆黒に見つめられると

ヘンな強がりも言えなくなってしまうのだ。

和人は片手を明日奈の頬に伸ばすと同時に、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

 

「充電しようか?」

 

一瞬意味を計りかねた明日奈だが、その真意を悟るやいなや和人のぬくもりが伝わる頬を

紅潮させて言い返す。

 

「か、和人くんだって疲れてるでしょっ」

「ああ、だから……オレも充電させて」

「!!……」

 

最初から明日奈に選択権はなかったようで、そっと唇を重ねて、小一時間ほど前、ホテルの

敷地内に建つ教会の中で交わした神聖な誓いのキスよりゆっくりとその密着度を増していく。

少々じれったささえ感じる口づけに、疲れたと言った自分への気遣いを感じて思わず口元を

綻ばせた瞬間、その隙を逃すことなく、口内の深部にまで密着を許してしまった。

 

「んっ……はぁっ……もう……ルージュ落ちちゃうのに……」

 

さっきの女性スタッフが戻ってきた時、崩れたメイクの理由を想像されるのが恥ずかしい

のだろうが、本日挙式を上げる新郎新婦を人気のない場所に二人きりにさせれば、何が

あったとしても、素知らぬ顔をするくらいの思慮は持ち合わせているだろう。

 

「明日奈……やっぱりちょっと顔色が悪い気がするんだけど」

 

薄化粧をしているとは言え、頬を染めるその色に違和感を感じた和人が今度こそ心配そうな

瞳でのぞき込んでくる。

挙式は無事に済んだとは言え、まだ写真撮影も全ては終わっておらず、その後は披露宴が控えて

いるのだ。時間的には予定の半分も終わっていない、といったところだろう。

 

「昨晩、オレと電話した後、すぐに休まなかったのか?」

 

お互いちゃんと睡眠をとるため「もう寝よう」と言って電話を切ったはずなのだが。

明日奈が言いにくそうに口を開いた。

 

「あの後、すぐ里香から電話があってね。今日の披露宴に友人代表でスピーチお願い

したでしょ……それで緊張して『どうしよう』って……」

「……」

 

和人は口を半開きに固まっていた。

「どうしよう」も何も……それを明日奈に電話してどうするつもりだったのだろう。

だいたい今日は里香より明日奈の方が間違いなく大変なわけで、その相手に前夜電話をかけて

くるとは、一体何を考えているのか……。

複雑な表情で和人が自分の額に手を当てた。

 

「まあ……リズらしいと言えば、そうなんだけど……なぁ」

 

まさか明日奈の睡眠時間を削るような行為にでるとは予想していなかった。

人選を間違えただろうかか、と思考回路が迷いだす。こんな事なら……と考えて一番に

思い浮かんだのはエギルの顔だが……新郎新婦共通の友人という肩書きにはいささか

ビジュアル的に違和感が漂うと判断し、次の候補を思い浮かべる。

 

クライン……はダメだ、アイツは何を言い出すかわからない。

シリカなら……逆に緊張のあまり何も喋れなくなりそうだし……シノンもある意味

爆弾発言の可能性は否定できないしな。

 

結局自分たちの人選は正しかったのだ、という結論に至り、それでも感じてしまう

やるせなさが大きなため息となって口から吐き出される。

そのため息を見た明日奈がことさら明るく話しかけてきた。

 

「和人くんは?、ちゃんと眠れた?」

「ん?、ああ。すぐに寝たけど……朝が……早くから母さんやスグが大騒ぎしてて、

結局目覚ましより早く起こされたよ」

 

それを聞いて明日奈が「ふふっ」と微笑む。

 

「女性は準備に時間がかかるから……なら、スグちゃんや翠さん、あっ……

お義母さん、も……きっと寝不足だね」

 

昨日まで「翠さん」と呼ばれていた自分の母が、今日からは「お義母さん」と

呼ばれることに、和人は今更ながら実感が湧いてくる。

 

……やっと……たどり着いたな。

 

「なら、明日奈も寝不足だろ?」

「まあ……新婦は新郎より二時間前にホテル入りだからね。でも顔色が悪いのは

寝不足っていうより緊張から、かな」

 

自ら苦笑いをする明日奈を見て、意外だと言いたげに和人が目を見開いた。

 

「明日奈なら、大勢の人に囲まれるのは慣れてるかと思ったけど……」

 

その言葉に心外とばかりにすぐさま否定の言を述べてくる。

 

「そんなことないよ。父や兄のお供でパーティーには出るけど……今日は……そういう

のじゃ、ないでしょ」

 

言葉を濁しつつ下を向いてしまった彼女を見て、和人は改めて自分の隣に寄り添う全身

無垢な白を眺めた。

上半身はスッキリとしたビスチェにロンググロープだが、シンプルなデザインなだけに

胸のボリューム感が際だっている。《仮想世界》で身にまとっている戦闘衣よりも

むき出しの鎖骨、そこに華奢なデザインのネックレスを付け、細い肩から二の腕の途中まで

白い肌が露わになっていた。

くびれたウエストから下はふんわりとしたフリルを重ねて広がりを持たせ、いつもより

少し高めの白いハイヒール。

 

「……そうだな。あの時は結婚式的なコトすら出来なかったし……やっとここまで来たって

言うか……やっと明日奈のウェディングドレス姿が見れたって言うか……」

「……うん」

 

ほころぶように微笑む明日奈を目の前に、思わず和人の頬も淡く染まった。

この姿も手伝ってか、今日の彼女の笑顔や恥じらいの表情は、いつもより破壊力が

増している。

 

ホテル側が来期のブライダルパンフのモデルを依頼するわけだよなぁ。

 

当初は明日奈に直接話を持ちかけたようだが、あっさりと断られた為、それならば、と

新郎である和人に新婦の説得を頼みにきたのだ。

もともと彼女がそういった事をしたがらないのは知っていたし、既に断ったのなら

自分が口を出すことではないと、和人もハッキリ言ったのだが……。

わざわざ庭園での撮影、尋常ではない撮影枚数……多分まだ諦めていないのだろう。

 

これで持ち込んだドレスのデザイナー名がバレたら……。

 

「それにしても、よく連絡がとれたな」

 

誰と、とまで言わずとも明日奈には通じたようだ。

 

「うん、いきなりメッセージくれたから、私も最初は本人なのか疑っちゃったよ」

「結構忙しいんだろ」

「今頃はヨーロッパかな。スケジュールの合間を縫ってこっそり作ってもらったから、

これがアシュレイ・ブランドだって事は秘密だし」

 

そう言ってサラリ、とドレスの一部を軽く持ち上げた。

明日奈から聞くところによると、《現実世界》でも超人気の若手デザイナーさまは

コレクションに未だウェディングドレスがなく、本来なら今、隣で彼女が着ている一着が

初めて公にされたデザインということになるらしい。

注目度の高さも加えて、普通に購入したらいくらになるのか想像もつかない。

それを「《あの世界》で交わした約束だから」と明日奈に贈ってくれたのだ。

 

「連絡をくれた経緯は教えてもらえなかったのか?」

「うん……それは内緒だって」

「……ふーん」

 

旧《SAO》でのアスナとアシュレイの関係を知っている第三者の影を感じるが……悪意は

ないと判断し、それ以上の詮索はしないことにする。

明日奈は、もう一度微笑むと背筋を伸ばし、担当の女性スタッフが消えた方向を確認してから

隣の和人に身体を向けるように座り直した。

 

「そろそろ迎えに来てくれるんじゃない?」

 

言いながら、おもむろにロンググロープをはめた両手を和人の首元へと伸ばす。

和人が緩めたタイに触れ、元のように締め直そうとした時、和人がその両腕を捕らえた。

和人の目線の先には首から胸元にかけて、何ら覆う物のない明日奈の素肌が、しかも僅かな

面積ではあるが、その先を想像させるふたつの膨らみの一部さえ露わになっているのだ。

明日奈が伸ばした腕はそのまま引き寄せられ、同時に吸い寄せられるように和人の顔が彼女の

胸元へと近づく。

 

「ちょっ、ダメだったら!」

 

触れたタイから手を離し、咄嗟に和人の両肩をつかんでその接近を拒む。

もう少しで目的の柔肌へ着地せんとする寸前で両肩に抵抗を感じた和人が「ん゛?」と

不満気な声をあげながら明日奈の顔へと視線を上げた。

和人の吐く息を胸元に感じ、既に顔全体を紅潮させた明日奈が目を瞑って握る肩に力を入れる。

 

「いくらなんでもダメ」

 

その表情から察するに、一応の抵抗、という感じでもないらしいと判断した和人は、大切な日に

無理矢理はしたくない、と許しを求めた。

 

「……触れるだけ」

「ダメだよ」

 

真っ先に近づいてきたのが和人の顔、という時点で「触れる」のが手ではないことを

明日奈は悟っていた。きっと唇で……もしかしたら舌で「触れる」気かもしれない。

 

「……ほんのちょっと」

 

上目遣いで請われるが、そこを譲るわけにはいかない。

 

「デコルテにラメパウダー散らしてるからダメなの」

「……このキラキラしてるやつ?」

 

鎖骨のあたりを凝視している和人に向かい、明日奈は大きく頷いた。

そんな攻防を続けていると、小径の向こうからカツッ、カツッ、とヒールの音が聞こえ

女性スタッフが勢いよく歩いてくるのが見える。

 

「ほら、和人くん、迎えに来てくれたよ」

 

時間切れ、とばかりに安堵した表情で言うと、未だ不機嫌な顔のなのか、和人が俯いたまま

ゆっくりと上体を戻しながらも、明日奈には十分聞き取れる声でつぶやいた。

 

「なら、続きは今夜。ここのウェディング・スイートで、だな」

 

口の片端だけを上げ、一瞬、明日奈に向けて不遜な笑みを浮かべる。

二人は挙式後に宿泊までが含まれているウェディングプランを選んでおり、このホテルの

スイートルームが今晩の宿となっていた。

 

「なっ……」

 

返す言葉を探している間に、和人は立ち上がり、自ら緩んだタイをササッと締め直すと、

やって来た女性スタッフに何食わぬ顔で声をかけている。その様子を見た明日奈は、小さく

「もうっ」と困ったような怒ったような一言を漏らすが、顔は耳までも赤く染まっていた。

自分も、と明日奈が立ち上がろうとしたその時、ザァァァーッと一陣の風が吹き、東屋を

取り囲む樹木の葉擦れが明日奈の周りを舞うように駆け抜ける。

巻き上げられそうな髪とドレスの裾を押さえた時、ふいに東屋の外れから風に乗って声が

届いた。

 

「相変わらず、キー坊は甘えん坊だナ」

 

えっ?!

 

「アシュレイ女史への橋渡しが、ご祝儀だヨ」

 

アルゴさん?

 

「お幸せにナ、キー坊、アーちゃん!」

 

急いで振り返るが、そこには風に踊らされた樹木達が落ち着きを取り戻した姿しかなかった。

キョロキョロと必死な面持ちで辺りを見回している明日奈に、和人が首をかしげて歩みより、

手を差し出す。

 

「明日奈?」

 

不思議そうに見下ろしている和人の顔を受け、今起こった出来事を勢い込んで説明しようと唇を

開きかけた明日奈は、一拍後、静かに息を吐き出すと差し出された手を取って、ゆっくりと

立ち上がった。

そのまま和人の腕に手を絡ませ、耳元に囁く。

 

「アシュレイさんと引き合わせてくれた人、わかったわ」

「えっ?」

「『お幸せにナ、キー坊、アーちゃん』ですって」

 

言いざま「クスッ」と笑い声を漏らす。

だが逆に和人はたいそうな焦り顔に転じて、先ほどの明日奈以上の勢いでキョロキョロと

周囲を索敵した。しかし彼女同様、あの左右三本ずつのヒゲ模様を見つけることは出来ない。

《現実世界》で、あのフェイスペイントをしている可能性がゼロに近いことはわかっていても、

つい探してしまうのは《かの世界》で身についてしまった習性とでも言おうか。

しばらくして諦めがついたのか「はぁ〜っ」とため息をついてから、誰に言うでもなく

言葉を吐く。

 

「散々探したのになぁ……」

 

あの森の家で交わした会話を……100層に到達したら結婚式にはみんなを呼んで……それを

叶えるべく《ALO》はもちろん、旧《SAO》時代に懇意にしてもらったプレーヤー達も

探し出せるだけ探し、今回の招待状を送っていた。

だが、菊岡に頼んでも『アルゴ』の情報は一切手に入らなかったのである。

これはもう情報屋『アルゴ』が情報操作をしているとしか考えられないくらい、見事な

隠蔽っぷりだった。

 

「でも、ちゃんとお祝い言いに来てくれたのね」

 

あの22層の家の前で、まだMarriage申請も家の購入もしていない段階で、早々に

関係を見破られ、一番に祝辞をくれたアルゴには、是非《現実世界》での式に列席して

欲しかったのだが。

 

「あいつが大人しく披露宴の席に座っている姿なんて……想像できないしな」

「そうね」

 

顔も見せずに言いたい事を言って姿を消してしまう……なんともアルゴらしい。

また、いつか、どこかで会える日は来るだろう。既に《現実世界》でもキリトとアスナが

結婚をした、という情報は握られているのだから。

二人はお互いの顔を見合わせ「クスリ」と微笑み合った。

そうして改めてスタッフの元へと足を踏み出した時、ふと、明日奈はかつて二人が通っていた

学校の屋上で交わした言葉を思い出していた。

明日奈と一緒にたどり着くのは当たり前に思ってる……将来に不安を抱いていた明日奈に

和人が言ってくれた言葉。

 

「やっとここまで、二人でたどり着いたのね」

 

伝えるつもりもなく呟いた言葉だったが、和人は聞き逃さず、その意味を正確に受け取って

いた。

 

「ああ、またここから二人で一緒に色んな景色を見ていこう」

 

あの日と変わらない優しい眼差しを受けて、明日奈は絡ませた腕にギュッと力を込めて

輝く笑顔で答えたのだった。

 

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
前作と対関係の本作の二作には『シュガーリィ・デイズ』と『ザ・デイ・ビフォア』の設定を
かなり使わせていただいております。特典小説なので未読の方にはわかりづらい部分が
あると思います。申し訳ありません。
予告で二本立てとお伝えした通り、この二編で終わるつもりでしたが、どうせなら
「強制イベント」もやったろかい、と内で盛り上がってしまいまして、二本立てプラス
番外編となってしまいました。
投稿数が増える分には怒られないかな?、とビクビクしております。
では、よろしければ番外編もどうぞ。


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【番外編】ふたりの約束(みらい)

『その先の約束(みらい)』を迎えるまでのメインの二人と、そうでない方々のお話です。
【番外編】ということで今回の語り手はあのお方がいきなりの大抜擢。
結城家の皆様、オールキャストでご登場いただき感謝・感激です。


我が家の応接室では沈黙が続いていた。

俺、「結城浩一郎」の隣には父の「彰三」がソファにゆったりと座り、目を閉じている。

センターテーブルを挟んで、父の向かいに腰を下ろしているのは、珍しく、なのだろう、

お世辞にも着慣れているとは言えないスーツ姿の「桐ヶ谷和人」君が緊張した面持ちで背筋を

伸ばしていた。

 

コンッ、コンッ

 

その沈黙を破るようにノックの音がし、続いて妹の「明日奈」が「失礼します」と言って、盆に

茶器を乗せ入室してくる。

家の近くの公園あたりで待ち合わせていたのか、十五分程前に「ちょっと迎えに行って来ます」と

告げて家を出た明日奈は、ほどなくして桐ヶ谷君を伴い戻ってきた。

そのまま予定通りに彼を応接室に通し、オレは書斎にいた父に声をかけ、二人揃ってこの部屋に

入り着座したのだが……部屋に入った時、桐ヶ谷君は立ち上がり「お邪魔しています」と

頭を下げ、それに対して父が「まあまあ、座って」と座を勧めたきりの状態が今も続いている。

お互い何のためにここにいるのかはわかりきっているはずで……一体いつまでこの沈黙が続くの

だろうか。

俺は密かに小さく溜め息を漏らした。

 

 

 

 

 

昨晩、珍しくリビングで酒を飲んでいる父に声をかけられた。

「お前も一緒に飲まないか」と。

翌日の事を思うと、酒でも飲まなければやっていられないのだろうと考え、素直に父の

誘いにのった。変に気を遣って関係ない話題を持ち出す気にもなれず、しばらくは互いに

無言で飲んでいたのだが、父がポツリと漏らした。

 

「もう、随分と前から明日奈は桐ヶ谷君に持って行かれたようなものだがなぁ」

 

「持っていかれた」という表現を聞いて、この人も娘を持つ父なのだな、と内心苦笑して

しまった。

高校を出た後の明日奈は、自分の意志でもあったがアメリカまで桐ヶ谷君について行き、

帰国後はこの自宅で暮らしていた。時間が許す限り彼とは現実でも仮想でも行動を共に

しているらしい。

遅かれ早かれ、その日が来るのは父も母もわかっていたことだろう。

 

「明日だけど、俺も同席していいんですか?」

「ああ、構わんさ。明日奈が言っていたが、出来るならお前も一緒に、と言うのが桐ヶ谷君の

希望だそうだ。あいにくと京子がいないしな」

 

そうなのだ。我が家は父と母が揃って家にいる時間がほとんどない。父と母の予定を合わせ、

そこに桐ヶ谷君と明日奈の予定も合わせるのは不可能に近かった。

あまり先延ばしに出来る話でもないことは、母も見越していたのだろう。ここ数日仕事の為に

母は家を空けているが、逆に明日は父が半日家に居られる貴重な日という事で、母の了解を

得て、明日、桐ヶ谷君が来訪することになっている。

 

「……父さんだって、わかっていたでしょう」

 

見れば、先ほどからグラスの中身が全く減っていない。

 

「わかっては……いたが……いよいよ印籠を渡される気分だ」

 

そう言いざま、一気にグラスの中身を口に流し込んだ。

 

「なら、お酒はそれくらいにして、明日になって体調不良で桐ヶ谷君には会えない、なんて

言ったら明日奈に怒られますよ」

 

グラスを父の手から奪いテーブルに置き「さあ、もう寝ましょう」と言って父の腕を取り

寝室まで付き添った。

 

 

 

 

 

明日奈がまず客人である桐ヶ谷君へと茶菓を供している間、俺はちらりと父の様子を伺う。

どうやら昨晩の酒が残っていて気分が悪い、というわけでもなさそうだ。単にこの後の

展開を出来るだけ先延ばしにしたいがためのだんまりだろう。

この調子では数ヶ月後に執り行われるであろう式まで、ちゃんと出来るのだろうか。

社会人としての父は素直に尊敬すべき人物だが、父親となると、その姿には不安を覚える。

今日はたまたま俺が休みをとっていたからいいものの、これは一回母と相談しておいた方が

よいのでは……と思案している間に、俺の前にも茶菓が置かれ、明日奈が盆を小脇にして

一時退座すべく一歩下がった時、桐ヶ谷君が小声で「明日奈」とやさしく妹の名を呼んだ。

空いている自分の隣の席をトントンと軽く指で叩く。

今でもそんな風に妹の名を呼んでくれている事に胸が温かくなった。

明日奈は少し恥ずかしそうに頬を染めながらも、微笑んで招かれた場所に腰をおろす。

その様子を僅かに笑みを浮かべながら見ていた桐ヶ谷君は、明日奈が落ち着いたのを

確認して口元を引き締めた。

 

「本日はお忙しいところ、お時間を作っていただき、有り難うございます」

 

桐ヶ谷君が頭を下げるのとほぼ同時に明日奈も頭を下げる。

父が覚悟を決めたように黙ったまま目を開けた。

室内に緊張が満ちる。

俺は桐ヶ谷君に初めて会った時の事を思い出していた。

 

 

 

 

 

『SAO事件』が起きて二年以上、鋼鉄の城に囚われていたプレイヤー達が解放されてもなお、

約三〇〇人が目を覚まさぬままの不可解な状態が二ヶ月程続いていた二〇二五年一月……

俺は父を乗せて明日奈が入院している所沢の病院へと夜中に車を走らせていた。

病院から父の携帯端末に、明日奈が目をさました、と連絡があったからだ。

とほぼ同時に警察からは父が後見人をしている須郷伸之が逮捕されたという連絡も入っていた。

奇しくも須郷が逮捕された場所は明日奈の病院の駐車場ということで、車が病院に着いた後、

父は俺に先に明日奈の病室に行くよう指示をだしてから事件現場に向かった。

 

病室に入り、カーテンをそっと引くと……病院からの連絡は間違いだったのでは、と

思わせるほど明日奈は静かに眠っていた。

しかし、枕の上には何の拘束もない丁寧にケアされた栗色の髪のみが広がっている。

思わず駆け寄ると、その足音に反応して明日奈のベッドの横に腰を掛け、ベッドの端に頭を

乗せていた少年がおもむろに顔をあげた。

眠っていたのだろうか、何回か目をしばたたかせると驚いたように「誰ですか?」と尋ねて

くる。

こちらも驚いて「あ……明日奈の兄ですが」と答えると、ホッと安心したような表情になり、

立ち上がった。いや、正確には立ち上がろうとして、出来なかった。

彼の右手がベッドから離れず、かくんっ、と身体が傾いたのに自ら驚いて、その手に視線を

落とす。同時に俺も彼の手を見つめると……そこにはしっかりと繋がれた明日奈の左手があった。

この二年以上、ただベッドの上に力なく投げ出されていた手とは違う、その意志を感じる

仕草を見て俺は震えながら妹の傍に駆け寄った。

 

「……明日奈、……明日奈っ」

 

俺の様子を見て、慌てたように彼が言葉をかけてくる。

 

「あの、まだ耳がよく聞こえてないので……」

 

そう言って、妹と繋がっているその手に少し力を込め、軽く揺さぶった。そして俺には

「聞こえていない」と言ったにも関わらず「明日奈」と囁く。

俺より小さな声で妹の名を口にするその声は……大事な宝物をそっと優しく撫でる

ようだった。

手からのぬくもりとその声に導かれるように明日奈が身じろぐ。

ゆっくりと瞼が開き、ぱちぱちと睫毛を震わせる。ぼんやりとした表情が俺を認めた途端、

瞳に光が宿った。

 

「明日奈……」

「兄さん……」

 

ゆっくりと微笑みながら紡いだ小さくてたどたどしい声が耳に届く。

 

「ずっと……ナーヴギアを独り占めして……ごめんなさい」

「……明日奈……本当だよ、俺がどれだけお前に見せるんじゃなかったって後悔したか……」

 

例え明日奈の耳が聞き取れていなくとも、言葉は溢れてきた。

その後、担当医と共に病室に入ってきた父に、彼を紹介されたのが最初の出会いだったのだ。

 

 

 

 

 

「オレ……いえ、ボクは今の研修期間が終われば半年後には洋上の研究室での勤務が

決まっています。居住地も同じ施設内になります」

 

暗に洋上の施設名を伏せたまま桐ヶ谷君は話をしていたが、父もオレもそれが何を指して

いるのかはわかっていた。だが、あえて口を挟むことはしない。

 

「そこで始まるこれからを、明日奈……さんと一緒に歩んでいきたいんです」

 

……あの言葉が、ついにここまでたどり着いたんだな……と思った。

 

 

 

 

 

次に俺が桐ヶ谷君に会ったのは……明日奈に転院の話をした時だ。

桐ヶ谷君は明日奈が目覚める前から随分と足繁く見舞いに通ってくれていたそうだが、

俺は仕事があった為、そう度々病院を訪れることは出来なかった。

病院が都内ではなく所沢という場所なのも理由の一つにあっただろう。

明日奈が《現実世界》に生還して十日ほどが過ぎた頃、俺は時間を作って一人で明日奈の

病室を訪れていた。

《SAO事件》が起こった当初、明日奈は東京の自宅に近い病院に入院させるつもりでいた。

しかし当時、父と繋がりのある病院は個室が空いておらず、やむを得ずこの病院に

運んだわけなのだが、意識が戻った今、出来るだけ近くに、というのが両親の希望だった。

多忙な両親に代わり俺が転院の話をしに来たのだが、その話をした途端、妹は激しく首を横に

振った。

 

「絶対にイヤ……ここの先生やナースさん達とも折角仲良くなったのに……」

「……お前が嫌がる本当の理由は、桐ヶ谷君との距離が離れるからじゃないのか?……

彼に甘えてばかりはダメだ」

 

ベッドの上で半身を起こした姿勢の明日奈は折れそうな細い指で布団を固く握り締めたまま

黙ってしまった。図星だったか……と思い、少し可愛そうな気持ちになるが、最も重要な

転院の理由を告げる。

 

「お前は知らないだろうが『アーガス』から『SAOサーバ』の管理を引き継いだ

『レクト』のCEOの娘が『SAO事件』の被害者だって事がマスコミにバレてる。

未だにお前の姿を追っている記者がいるんだよ。ここじゃなくて、もっと管理や警備の

しっかりした病院に移った方がお前も安全なんだ」

「……警備が厳重の?」

「ああ、そうだ。外から誰にも見られないし、お前がいるって知られることもない」

「……また……私を……閉じ込めるの?」

「!?」

 

明日奈の瞳からポロポロと涙があふれ出した途端に両手で耳を塞ぎ「イヤッ、イヤッ」と全身で

拒否反応を示す。激しく上身体を左右に揺するのにあわせ、栗色の長い髪が広がった。何度も

繰り返し続ける否定の言葉は嗚咽で乱れ、布団の中で折り曲げた膝はガクガクと痙攣を

起こしている。

ほとんどパニック状態だ。俺は慌てて明日奈の両肩を押さえた。

 

「落ち着け、明日奈」

「イヤッ、もう一人は……イヤ……」

 

俺の腕を振り払い、何かを求めるように片手を伸ばす。

 

「助けて……キリトくん……」

「アスナッ」

 

いつの間に病室に来ていたのか、桐ヶ谷君がカーテンの向こうから飛び出し、明日奈に

向かってその手をつかもうと自らの手を伸ばした。しかし二人の手が繋がる前に明日奈が

急に声を詰まらせ、胸元を掴んで身体を屈する。桐ヶ谷君は折れるように倒れ込む

明日奈を片手で支えると、もう一方の手で素早くナースコールのボタンを押した。

すぐさま『結城さん、どうされました?』と応答が入る。

彼が緊迫した面持ちながらも、冷静に状況を伝えた。

 

「すみません、興奮して、胸部に痛みを訴えています」

『すぐに行きますっ』

「明日奈、オレに体重かけて、ゆっくり息して……大丈夫、一人にはしないから」

 

そう言われても明日奈は前屈みの体勢のまま、時折呼吸を止め、耐えられなくなると

ハァッ、ハァッと短い息を連続で押し出し、また呼吸を止める、を繰り返していた。

 

「明日奈、痛くても呼吸をしてくれ。止めると負荷がかかる」

 

泣いているのか?、と思わせるほど悲痛な声で言葉をかけながら明日奈の背中をさする。

明日奈も彼の腕にもたれたまま、なんとか頷いて理解を示していたが、垂れた髪のせいで

その表情は読み取れず、痙攣は全身に広がっていた。

俺は振り払われた状態のまま、目の前の二人をただ見つめることしか出来ずにいる。

すぐさま医師とナースがやってきて、明日奈に処置を始めたところで俺は呪縛が解けた

ように意識を持ち直し、心配そうにしている桐ヶ谷君の腕をつかんで病室の端まで

連れていった。

俺も彼もしばらく落ち着きなく明日奈への処置を見ていたが、妹に触れていた医師達の

手が引いていくのと同時に彼女の呼吸が整えられていくのを見て、ひと安心とばかりに

ほぼ同時に長く息を吐き出し、肩をおろす。

偶然にも同じ動作をした俺に気づいた桐ヶ谷君が話しかけてきた。

 

「よかった。落ち着いたみたいですね……すみません、立ち聞きするつもりはなかったん

ですが……」

「その前に、さっきは有り難う。それと立ち聞きの事は気にしないでくれ、どのみち君にも

話さなければならない事だ」

「……あの、転院は……決まった話、ですか?」

「うちの親の中では決定事項だね」

「それは、結城さんの為にも賛成しかねます」

 

処置を終え、鎮静剤が効いて眠った明日奈を確認してから医師達が退出する。一人残って

いた担当ナースが電子カルテを両手に抱えたまま話に割り込んできた。少し怒ったように俺達に

近づいてくる。

 

「結城さん、今回みたいにパニック障害を起こすの、初めてではないんです」

 

その言葉を聞いて俺も隣の彼も息をのんだ。

 

「夜になると、時々こんな風に……まだ内臓の機能は弱ったままなので心臓や肺への過度の

負担は痛みを引き起こします。発見が遅れれば一大事になるんです。結城さんは何度も

『一人にしないで』ってうなされてました。こんな状態の結城さんの転院は危険です」

「なら、なおのこと二十四時間完全管理の病院に移した方が安全じゃないのか?」

「それでは根本的な解決になりません。結城さん……彼がお見舞いに来てくれた夜は

ちゃんと眠れるんです。安心した寝顔で……私達ナースが嬉しくなるような寝顔なんです」

 

若いナースは一瞬、視線を桐ヶ谷君に向け微笑んだが、すぐさま俺を睨んでくる。

桐ヶ谷君が再び俺に向き直った。

 

「明日奈は一度だってさっきみたいに『一人にしないで』とオレを頼った事はありません。

自分一人だけが意識を持ち、囚われていた《あの世界》で……多分、ずっと言いたかった

言葉なんです。それを今まで我慢して……」

「そうですっ。パニック障害の事も、彼が来てくれれば眠れる事も、絶対に内緒にして

おいて欲しいって、一人で頑張って……」

 

二人がオレに詰め寄ってきた。しかしそう簡単に譲るわけにはいかない。

 

「なら、今、君はその内緒事を俺達に漏らしてる、という事だな。そんな病院にいたら

マスコミに嗅ぎつけられるのも時間の問題だ」

「それはっ……」

 

一瞬言いよどんだナースが僅かな逡巡の後、表情を和らげた。

 

「私の弟も『SAO事件』の被害者なんです。去年の末にやっと戻ってきて。それで

弟が言うには《あの世界》でとっても可愛いアイドルみたいな女の子の剣士がいたって。

強くて、みんなの憧れで、彼女がいてくれればいつか現実に戻れるんじゃないかって

希望を持たせてくれた、そんな存在で……笑っちゃいますよね、こっちは毎日心配ばかり

してたっていうのに、弟は《あの世界》でアイドルの追っかけしてたんですよ。でも、

その子のお陰で弟は自殺するのを思いとどまったんです。だったら少しくらい恩返し

したいじゃないですか」

 

本名をキャラネームに使った妹のゲーム初心者ならではの所業も意外なところで味方を

増やすんだな……と思いながら俺は肩の力を抜いた。

 

「わかったよ。まぁ……無理矢理転院させて毎日泣き暮らされても困るし。でも万が

一にでも明日奈の存在が外部に知られたら、その時は妹の意志は関係なく転院させる」

「あ……有り難うございますっ」

 

ナースは勢いよく深々と一礼するともう一度明日奈の様子を確認してから退室した。

ホッとした声が隣からも向けられる。

 

「有り難うございます」

「君から礼を言われるのも……ちょっと複雑な気分だな」

 

揶揄するように返せば、すぐさまトーンの落ちた声で「すみません」と詫びてきた。

あのゲームをクリアした英雄と聞いていたが、意外にも内気な性格らしい。

先ほどの明日奈への対応とはまた印象が違う。

 

「でも、明日奈の転院と君との関係は別問題だよ。父から聞いたけど《あの世界》で

妹と一緒に暮らしていたからといって、その関係が現実でも許されるとは思わないで欲しい。

ゲームの世界はあくまでもゲームだ。これから君も明日奈も現実で生きていく。

ゲームクリアというひとつの目標に向かってみんなが暮らしている世界ではなく、ね。

それぞれが自分の目標を持つだろう。そこに向かって色々な経験をして色々な出会いが

ある……言いたい事、わかるかな?」

「はい」

「妹もそれがわかっているから、君に全てを打ち明けなかったんだろう」

「……それは、違うと思います」

 

それまで俺の話を静かに受け入れていた桐ヶ谷君がハッキリと言い放つ。

 

「彼女の思いは違うと思います。彼女はオレなんかよりずっと強いから……。でも

その強さの裏には脆い部分もあって。オレは彼女のそんなところを守れるように

なりたいんです……今はまだ何を言っても信じてはもらえないと思いますが……いつか、

必ず《この世界》でも同じ道を歩んでいけるようにしてみせます」

 

真摯な眼差しに気圧されそうになった。まだ少年と言える容貌の彼がなぜそこまで強く

いられるのか。単に現実を知らないだけなのか……それならそれで、その時を見てみたい、と

思った。それでもなお、彼は妹の手を離さずにいられるのだろうか。

賭け……とも言えよう。

親が知ったら大激怒だな、と思う。それでも今の明日奈には彼が必要なのだ。

 

「とりあえず、俺はこれから両親を説得するよ、明日奈のためにね。君の言う『いつか』が

くるのだとしたら……とても楽しみだ」

 

 

 

 

 

「お嬢さんを……明日奈さんを……オレに……ください」

 

あの時と同じ深黒の瞳から熱誠の眼差しが父に向けられた。

黙していた父が大きくひとつ息を吐く。

 

「……もう、明日奈はほとんど君のものじゃないか。それが……完全に私の手から

離れるのだな……」

 

隣で居住まいを正す姿を見て、俺も軽く座り直し改めて彼を見つめた。

 

「桐ヶ谷君、娘を……明日奈をよろしく頼みます」

 

 

 

 

 

…………五ヶ月後…………

 

ホテル内の教会で誓いの儀式を終え、明日奈と桐ヶ谷君は庭園に移動した。

その間に親族はホテルへと戻り集合写真を撮るまでの間、思い思いの時間を過ごしている。

四半刻程前に見たウエディングドレス姿を思い返し、我が妹ながら……という身内贔屓が

あるのは自覚しているが、桐ヶ谷君の隣で彼女はとても綺麗だった。

 

「桐ヶ谷家、結城家のご親族の皆様、お集まり下さい」

 

スタッフの声に反応して散在している両家の家族・親類が集まってくる。

改めて京都の結城本家から足を運んでくれた親戚に頭を下げていると、母が早足に近づいて

きた。

 

「ちょっと、浩一郎」

 

軽く腕を引っ張ってくる。親戚に軽く会釈をしてから、二人で廊下の隅に移動すると、

母は笑顔ひとつなくイライラと眉を寄せていた。

 

「どうしたんですか?」

 

そう問うと、素早く周囲を見回してから声を潜ませ顔を寄せてくる。

 

「彰三さんが……」

「父さんが?」

「……トイレに籠もってるのよ」

「は?」

 

何の聞き間違いかと思ったが、隣の母はやれやれと言った風に額に手を当てて、頭を

振っている。

 

「教会で明日奈の姿を見て感極まったのか、さっきから出てこないの。ちょっと

様子を見てきてちょうだい。私はスタッフに話してくるから」

 

そう言って「後は全て頼んだわよ」の意味だろう、俺の腕をポンポンと叩くと、すぐさま

スタッフの元へと行ってしまった。

はぁーっ、とひと息吐き出さずにはいられない。

やはり最後の最後でこうきたか、と五ヶ月前の予感めいたものを思い出す。

主役の明日奈達をそうそう待たせるわけにもいかないだろう。

俺は急いで男性トイレへと踏み出した。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
『たどり着いた約束(みらい)』で、スタッフのインカムに入った指示の原因が書けてスッキリ
しました。それにしても「オレに……ください」は予想以上に重かったです。和人も真剣なあまり
一人称が「オレ」に戻っちゃってますね。
和人の勤務地が「洋上」なのは、今回のみの暫定的な(私的)設定です。「洋上」だと色々
縛りが出るので今後、自分の首を絞めかねませんから。でも一番説得力があるので使って
しまいました。
では、次回はイレギュラーですが珍しく年中イベントものを時期に合わせて十月末にお届け
出来れば、と思っています(というか、しないと一年寝かせることになってしまう……
間に合わせます……きっと)


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ハロウィンの夜

タイトル通り、ハロウィンを迎える二人のお話です。
留学中のサンタクララということで独自設定の二人暮らしですから、
イチャイチャし放題ですね。


玄関ドアをノックする音を聞いて明日奈が立ち上がった。リビングのソファからその姿を

見るともなく眺めていた和人が、キッチンの横を通り過ぎ、その先の玄関で無造作に鍵を

解除する明日奈にギョッとして立ち上がる。

 

「あっ、コラッ、ちゃんと確認しろって」

 

が、ドアが開いたと同時に部屋の中まで響くやんちゃな幾多の声。

 

「Trick or Treat!!」

 

ドアの外には日本で言えば小学生くらい子供達が皆それぞれの仮装をして瞳を輝かせていた。

本日我が家を訪れた何組めかのお化け集団を見て、明日奈が微笑む。

和人は軽くため息をついてから、明日奈の手作りクッキーが詰まった小袋をいくつか掴んで

玄関へと足を運んだ。

 

「明日奈、不用意にドアを開けるなって言ったばかりだろ」

 

そうだった、と思い出したように明日奈は肩をすくめ、自分のすぐ後ろまでやってきた和人に

向けて決まりの悪そうな笑みを浮かべた。

 

「でも、のぞき窓から見てもこの子達の背丈だと見えないよ」

「だからだ。覗いて見えなければ子供か大人かも判断できない」

 

今宵、ハロウィンの夜はお菓子を目当てにやってくる子供達ばかりではないのだ。時には

住人を、更に言えば若い女性目当ての男がドアを叩く可能性だってある。

残念なことに毎年十月三十一日の夜は犯罪件数が多いのもまた事実だ。

やはり大学の研究室メンバーに誘われたハロウィンパーティーに行かなくて正解だった、と

和人は心の中で呟いた。もともとどうしても行きたい集まりでもなかったし、明日奈が部屋に

いるのなら、ここで二人、アメリカで初めてのハロウィンの夜を迎える方が楽しいと思って

断りの連絡を入れたのだが……ここまで明日奈が無防備だとは予想外の展開である。

子供とはいえ本格的な仮装に身を包んだお化け達がドアを叩くたび、いそいそと玄関に向かう

彼女の後ろ姿は、ハッキリ言って浮かれていた。

日本でもここ数年で加速度的に浸透していったハロウィンイベントだったが、彼女の生い立ちを

考えると仮装して街を練り歩く人々を目にしたり、家にやって来るお化けにお菓子を渡す行為が

よほど新鮮なのだろう。

しかも日本は「明るく楽しい仮装大会」の色が濃いが、ここアメリカは本来の姿である恐怖の

対象となる仮装が多い為、服飾関係や美容関係のアーティスト指向のヤツらが手がけた仮装は

作品と言えるくらいクオリティの高い悪霊となって街中をうろついている。ハッキリ言って

「ホラー映画の撮影中」状態だ。誰も彼もが血色の悪い顔に血を塗りつけ、あるいは頭から

シーツをかぶり、はたまた仮面を付けて、一様に素顔を隠し、いつもとは違う自分を楽しんで

いる。これでは誰が何をしてもわからないだろう。

普通にドアを開けて、いきなり不埒なゾンビに襲われたらどうするつもりなのか……和人の心配は

絶えない。

自戒を混ぜた笑顔を和人に向け「ごめんなさい」とだけ言うと、改めて玄関先のお化け達の

目線までしゃがんで、優しく声をかけた。

 

「お化けさん達は何人かな?」

「ろくにーん」

「ろくだよぉ」

 

口々に声が上がる。

 

「はいはい、じゃあお菓子も六個だね」

 

和人から小分けにしたクッキーの小袋を受け取ろうとした明日奈が、違和感を感じたように再び

子供達へと視線を彷徨わせた。

 

「……五人しか、いないよね?」

「六人だよぅ」

「六人いるよっ」

「お姉さん……視えないの?」

 

え?……

 

その言葉で明日奈が凍り付いた。

「オネエサン、ミエナイノ?」……その言葉が明日奈の頭の中に木霊する。

血の気が引いていくのを感じたが、口も身体も全く言う事を聞かない。いつしか膝が

ガクガクと震え、心臓はバクバクと飛び出しそうに跳ねている。次第に力が抜けて

立っていられず、崩れ落ちそうになった瞬間、後ろの和人が明日奈の腰を支えた。

 

「……っと、大丈夫か?」

 

今は懐かしいあの鋼鉄の城の中でも、これと似たような状態に陥った記憶が蘇る。確か

あの時も「大丈夫か?」と声をかけた気がするが……かつてと同様に彼女からの返答は

なかった。

代わりに瞳に涙をたたえて和人の顔を見上げ、下唇を僅かに噛みしめ、目が合った途端に

身体をひねって、ひしっ、とその胸に顔を押し付けてくる。

いるはずの六人目のお化けが視えない、視えないけれどいる……は大丈夫ではないだろう。

和人の視線の先には両手をぶるぶると震わせながらしがみつき、全身を硬直させた明日奈の姿。

きっと、これ以上お化け達の相手は無理だ。

和人は明日奈を支えている手とは反対の手でお菓子を子供達に差しだした。

 

「ほら、持ってけよ」

 

子供達にとってはお菓子さえ手に入れば玄関にうずくまってしまったオネエサンの事など

お構いなしだ。

小さいお化け集団は嬉しそうに笑いながら去っていった。

本当にメンバーは六人なのか、お菓子を多く欲しいがための可愛い嘘なのか……考えても

答えは得られない。それより問題は固まってしまった明日奈だ。

しっかりとドアを施錠してから明日奈を抱き上げてリビングまで移動し、ソファに座らせると

共にそのまま和人も隣に座るが、変わらず明日奈は背中を丸め、和人にしがみついたまま顔を

上げようとしない。胸元の明日奈の頭を支えながら、和人は背中を優しく撫で続けた。

しばらくして震えが治まってきたところで「明日奈?」と声をかける。

 

「小さいお化け達はもう帰ったぞ」

「……何人で?」

「え゛?……」

 

ここはなんと答えるのが正解なのだろう。

五人……と答えたら……まだここに一人残っている、ことになるのだろうか?

かと言って六人、と答えたら明日奈が視えなかった六人目を肯定することになる。

果たして彼女は何人と答えて欲しいのか……。

 

「……えっと……五、六人で……」

 

全く、何の解決にもならない。

 

「あー……明日奈、この部屋には明日奈とオレしかいないよ……多分」

「いやぁっ、多分って……多分って、言わないでぇ」

「ゴメンナサイ」

 

自爆とはまさにこの事だ。

収まっていた感情が再沸騰し、明日奈は和人の胸元に押し付けた頭をふるふると振りながら、

更にぎゅうっとしがみついてくる。

頭を揺らしたことで、それに触れていた和人の手にサラリサラリと心地よい髪の感触が伝わり

不謹慎にも「おおっ」と驚喜の声を心中であげてしまった。

更に、こうやって怯えた明日奈がしがみついてくるってのも……何と言うか……悪く……ないな、

などと、それこそ不埒な思いが生まれる。

手を伸ばせば拒まれることはないが、それでもためらいや恥じらいを見せたり、ちょっとの

抵抗があったり、となかなか積極的に飛び込んできてくれることがない。

そう考え始めると、この状況は和人にとってはかなりレアなケースなわけで……思わず先刻まで

抱いていた庇護欲とは相反するような感情の湧き上がりにごくり、と喉を鳴らした。

明日奈には申し訳ないが、もう少しこの状態を堪能させてもらおう、と密かに頷きかけた時、

再び、玄関のドアをノックする音が室内に響く。

 

「……明日奈」

 

舌打ちしたいくらい恨みがましい視線を玄関ドアに放ってから、落胆を忍ばせて呼びかければ、

無言で首を横に振ってくる。

今はお化け達を見ることは出来ない、ということだろう。泣く泣く明日奈から身体をはがし

和人はひとりで玄関外の相手の応対にでた。

まずは小窓から外を覗う……が、人影は映らない。身長が足りないとしても何人かの

集団なら後方のお化けが見えてもよさそうなものだが。

続いて鍵を解除し、ドアを開けた……と言ってもこの部屋を借りた時に取り付けた

ドアチェーンは壁と扉を繋いだままだ。

やはり誰もいない。隠れているような気配もない。

腑に落ちない気はするが、とにかく誰もいない事を確認してからドアを元通りに

施錠して室内に戻った。

 

「……ぷっ」

 

リビングへと振り返った和人が思わず口元をおさえる。

見ればソファの上に丸くなっている明日奈は、背もたれに置いてあった大判のブランケットを

頭からすっぽりとかぶってダンゴムシ状態だ。離れてしまった和人のぬくもりの代わりに

したのだろう。しかもそのブランケットがチェック柄とはいえ臙脂色を基調とした生地だけに、

その姿は浮遊城で出会った頃を彷彿させずにはいられない。

 

「明日奈」

 

おかしさを堪えているのは悟られないよう慎重に名を呼ぶが、当の明日奈は和人の声の

変調まで気が回らないのか、きっちりと首元を合わせ微動だにしない巨大な臙脂色のマリモと

化している。再びその隣に腰を下ろした和人は片膝を曲げてソファの座面に乗せ、明日奈に

身体を向けるとチョンチョンと指でマリモをつついた。

やはりマリモは全くの無反応だ。

出会った頃もこうやって鉄壁の守りで身と心を固めていたっけ、と数年前の姿を思い浮かべる。

あの頃はフーデッドケープに触れるどころか、その中を覗き込むことさえ出来ずにいたが、

今は気軽に指でつつける自分だ。もう一度「明日奈」と、先ほどの無理矢理押さえ込んだ

愉快な感情は薄れ、穏やかな笑みさえ浮かべて愛しい名を呼んだ。

ブランケットの奥から微かな声が漏れてくる。

 

「誰か……いた?」

 

和人が玄関の扉を開けたのは音でわかったのだろうが、続いて外から聞こえるはずのお決まりの

フレーズがなかったことが、和人の呼びかけにも答えられなかった原因らしい。

そんな胸中などおかまいなしに和人がうっかりとありのままの現実を伝える。

 

「いや、誰もいなかったよ」

 

言った途端に彼女が「ひっ……」と引きつるように息を吸い込んだ。

その反応を見た和人が、しまった、という表情に転じたが後の祭りだ。

 

「ああああ、明日奈……誰もいなかったよーな、いたよーな……」

 

またしても視えないお化けの登場である。

臙脂色のマリモは貝のようにぴっちりと前を合わせ、再び小刻みに震えだした。

なんとかなだめようと和人がブランケットのふちを指でつまんだ時だ、奥の寝室に続く扉を

内側から、コンッ、コンッと叩く音がした。

 

「ひゃぁぁぁーっ」

 

固く閉じられていると思われた臙脂色の貝がカパッと開き、中から明日奈が飛び出してきた。

扉から聞こえた音に気を取られて顔を寝室に向けた次の瞬間、いきなりの悲鳴に驚いた和人が

「うおっ」と声を上げるのと同時に明日奈が胸に飛び込んでくる。

指で掴んだままだったブランケットはすっかりしぼんで、和人の手から垂れ下がっていた。

明日奈は両手で自分の耳を塞ぎ、小さな声で「いやいやいやいや」と呪文のように繰り返して

いる。逆にそうしていれば周りの音は聞こえづらくなるとも言えよう。

寝室の様子を見に行きたいのはやまやまだったが、こんな状態の明日奈を放っておくことも

出来ず、和人は軽く息を吐くと手にしていたブランケットを広げ、再び明日奈の頭からそれを

かぶせた。

そのままブランケットごと両手で抱きしめて、彼女の耳の位置に口を寄せ呟く。

 

「明日奈、聞こえるか?」

 

途端に明日奈の口から漏れていた呪文が途切れた。

和人にくっついているブランケットのてっぺんの膨らみがゆっくりと一回、上下する。

 

「なんだか懐かしい赤ずきんちゃんになってるけど……こうしていれば、大丈夫だろ?」

 

そう言いざま、包み込んでいる腕に少し力を込めた。

再びてっぺんが上下するのと同時に耳を塞いでいたであろう明日奈の両手が、和人の

胸元のシャツを掴んだのがわかる。突進するようにくっついてきたおでこも少しずれて

頬がすり寄り、それに続いて徐々に明日奈の身体全体が和人に密着していった。

そのぬくもりが和人に安堵と共に密やかな笑みをもたらす。

僅かな緊張を込めてブランケットの端をめくってみれば、明日奈はそれでも恐怖から、

これでもか、と言うくらい瞳と唇をきつく閉じたまま震えていた。

こんな風に弱さをさらけ出すことが希とは言え、昔に比べれば幾分か見せてくれる

ようになってきている。多分……と言うか、願望に近いが、少なくとも異性としては

和人が一番多くその姿を間近にしている……はずだ。

最強ギルドを率いる立場の世界から解放された後は、彼女を眺めるくらいの距離で取り巻く

人間から見れば明日奈のイメージは「穏やか」というものだろう。

実際、《現実世界》でも《仮想世界》でも彼女はよく笑うようになった。かつてはたまに

しか見る事が出来なかったからこそ、その笑顔で動悸が止まらなくなるキリトだったから

《かの世界》の夫婦生活の期間中でそれなりに慣れておいてよかった、と本気で胸をなで下ろした

ほどだ。逆に惜しげも無くその笑顔を振りまいてくれるお陰で、和人としては心穏やかでは

いられない光景にも度々出くわす。

そんな心中を察してか、明日奈は時々、何の前触れもなく繋いでいた手にぎゅっと力を込め、

和人の大好きな、ほわわん、とした笑顔を彼だけに向けるのだ。

加えて真剣な時のキッと引き締めた表情も変わらず魅力に満ちている。内で秘めたる炎を

燃やしているのが感じとれるが、そこに他を圧するキツさはない。

時折、自分より男前なのでは、と和人が苦笑いを浮かべるくらい彼女が《かの世界》で

得た『諦めない心』は健在で、窮地であればあるほど溜め込んだ熱は彼女を研ぎ澄まして

いき、微笑みすら浮かべさせ、彼女の剣そのもののようにより正確無比の行動をとらせる。

旧アインクラッド時代は彼女を凛と立たせていた強さは理不尽な弱さをなかなか肯定して

くれず、ましているかいないかわからない……そこが原因なのだが……お化けに怯える姿を

他人に見せるなど、あってはならない事態と定めていたようだ。

初めてアスナがお化けを、正確には幽霊が苦手だと気づいた時は……

 

なんだっけ……ああ……いきなりでびっくりしたから……って誤魔化そうとして……更には

開き直って、女の子なんだから当たり前……とか……言ってたよな

 

当時のアスナの姿を思い浮かべて、今の状態とを比べれば自然と溜め息も出るというものだ。

あの頃もこんな風に頼ってくれていたら……とも思ったが、あの頃の自分ではただおろおろ

するのみだったろう事も容易に想像できて、今度は自分に対して溜め息をついた。

やはりあの時があって今があるのだ。

こうして今という時に明日奈を抱きしめられる幸せを感じて、和人はその世界に浸ろうと

誘句を口にした。

 

「もう……今夜は休むか」

 

その提案に明日奈からの返答はない。

これだけ身体を緊張させて大声をあげたのだ、精神的にも肉体的にもかなり疲れて

いるだろう。

 

「このまま寝室に……」

 

連れて行くぞ、と告げてから抱きかかえようとした途端、確固たる声が聞こえた。

 

「絶対っ、イヤ!」

 

え……?……それは、オレと一緒に、がイヤって……コトデスカ?

 

短い言葉の意味を考えあぐねいていると、再び明日奈が和人の胸元から言葉を放った。

 

「絶対に寝室には行かない!」

 

ああ、そういうことか……って言うか、その言い方……

 

耳に懐かしいツンツンっぷりに、そしてツンツンしている明日奈を抱きしめている自分を

甘やかすように「わかった」と言って彼女の背中に回している片手に力を込める。まくった

頭部のブランケットはそのままだ。

 

「なら……今晩は、ここで、このまま……」

 

胸元にある明日奈の髪にそっと唇を落とす。震えているせいで和人の行為に気づかないのか、

彼女は身じろぎひとつしないが、それでも和人は止まらない。明日奈の前髪をかき上げる

手で少々強引に顔を上向きにし、おでこに優しくキスをする。怯えながら息を押し殺して

いた明日奈が「んっ」と反応をみせた。

しかし瞳はまだ何も映してはいない。はしばみ色が見たくて、閉ざしている瞳をノックするように

唇でつついた。その想いが通じたのか、震えながらゆっくりと瞼が持ち上がる。

今にも泣き出しそうなせいで、いつもより瞳がキラキラと揺らめいていた。そのまま

見つめられると、その弱みにつけこんで自分の内に閉じ込めておきたくなってしまいそうだ。

 

もしもオレのいないところで彼女が怯えるようなことがあったら……この瞳を他の誰かが

見つけてしまうのだろうか?

 

「明日奈……しっかりと両手で耳を塞いで、誰の声も聴かないで。声も漏さず、両方の目を

固く瞑って、誰も姿も見ないで」

 

それはまるで明日奈を和人の奥深くにしまい込んでしまう呪文のようだった。

けれどそう告げた途端、明日奈が驚いたように目を見開き、すぐに眉根を寄せる。

 

これではアスナを鳥かごに閉じ込めたアイツと同じだな……

 

彼女が不快に感じたのだろうと推測して、すぐさま情けない笑みを浮かべた。

 

「ゴメン……変な事を言った」

「それは……無理だよ」

 

自らが放った謝罪の言葉とほぼ同時に明日奈から小さく困ったような、それでいて暖かみの

感じられる言葉が紡ぎ出される。否定を覚悟していた耳に予想外の言葉が滑り込んできて和人は

眼を瞠った。そんな瞳を見つめながら明日奈は続ける。

 

「……キリトくんの声は聞こえちゃうし……キリトくんの姿は自然と目で追ってしまう

もの。それに……こんな風にされたら……声だって……んふっ」

 

それ以上大人しく聴いていることなど出来なかった。

強く吸い付いて、ゆっくりと中まで侵入し、内側から溶かすように何度も舌を動かす。

 

そうだった。声に出さずとも口が「アスナ」と動けば彼女は応えるように首をかしげるし、じっと

見つめれば照れたように微笑んでくれる。こうして触れればいつも甘い吐息を聴かせてくれるの

だから。

 

今日はいつもと違う姿の住人が街を歩く、いつもとは違う日。

いつもと違って服を着たまま、いつもと違って寝室にも行かず、ソファに並んで座り

こうしているのもいいかもしれない。

和人にはいつもと変わらず、明日奈が傍にいてくれればいいのだから……。




お読みいただき、有り難うございました。
イベントネタは苦手なのですが、単に明日奈を怯えさせたいという欲求のもと、
時期的にも良かったのでハロウィンに絡めてみました。
ノックの主の謎が残りっぱなしで申し訳ありません。
『冥き夕闇のスケルツォ』でアスナさんのお化け嫌いが結構細かく設定されて
いたので焦りました。妙な部分でスルーできない性格なんです。
さて、次回は二本、投稿します。
それは決定なのですが、どの二本にするか決めかねているので、詳細は省きます(笑)


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黒と白の行方

和人と明日奈が同じ高校に通い始めた頃のお話です。
『SAO』アニメ版第一期OP序盤、キリトが剣を抱いて座り込んでいる
カットからイメージをいただきました。
放課後の小さな出会いをお楽しみください。


四月の下旬とはいえ、太陽が陰ると肌寒いくらいに気温が低下した。

午前中のポカポカ陽気がウソのように雨雲が急速に空を覆い尽くす。

オレは学校の昇降口で上履きからスニーカーに履き替えると、空を見上げて

軽く息を吐き出した。

 

「天気予報、当たったな」

 

肩にかけたカバンから折りたたみ傘を取り出す。

今朝、無理矢理妹の直葉から押しつけられたものだ。

降水確率の数字が上がっているのは午後の数時間だけだったので、ちょうど家に

帰るタイミングで降られたらそれはそれで構わなかったのだが、制服を濡らすのは

直葉的にNGなのか……。

 

「お兄ちゃんが濡れるのは構わないけど、濡れた制服をクリーニングに出すのは

私なんだからねっ」

 

そう傘を突き出した妹の顔はどう見ても……やっぱり制服よりオレが濡れる事を心配して

くれている表情だった。素直ではない物言いに表情を緩ませつつ、有り難くあくまでも制服を

濡らさぬ為に傘を受け取ったのだ。

そんな今朝の直葉の顔を思い出して軽く苦笑いを浮かべながら、ボトボトボトッと降っている

大粒の雨にむけて黒い傘を広げる。

 

兄のオレに傘を押し付けたくらいだ、直葉自身も傘は携帯しているだろう。妹以上に気になる

存在と言えば……確か今日はオレよりも授業数は少なかったはず。きっと降り始める前に学校を

出たはずだ。

 

ぼんやりとそんな事を考えながら校門へと足を進めた。

万が一、雨が多少降り出していたとしても、明日奈には直接家まで送り届けてくれる車がある。

彼女は《現実世界》に生還してまだ数ヶ月しか経っていない。未だ体力も戻っておらず、

歩行さえも危なっかしい時がある為、学校からの帰路のみ父親の運転手付き自家用車での迎えを

受け入れていた。

ほとんど濡れることなく帰っただろうと思いながら、校門をくぐると……この時刻にいるはずの

ない見慣れた車がすぐ目の前の路上に駐車している。

すっかり顔見知りになっている品の良い初老の運転手が、車の外で傘を差しながら、

手にはもう一本、赤い傘を持ち、校門の中をうかがっていた。

オレが足早に近づくと、その姿を認めた途端、珍しく慌てた様子で駆け寄ってくる。

 

「桐ヶ谷さまっ」

 

いくら「様」はやめて欲しいと言っても聞き入れてもらえない事に少々苦笑いを浮かべてから、

直ぐに表情を引き締めた。

 

「明日奈は?」

「それが、まだ学校からでていらっしゃらないのです」

 

途方に暮れた様子でオレと校門を交互に見ている。

 

「何回かお嬢様に連絡を入れているのですが、お返事もなく」

 

オレは素早く時間を確認した。

ただでさえ自分より授業数が少ない日だ。いくらなんでもここまで遅くなるはずはないだろう。

何か事情があるとしても、明日奈が日頃世話になっている運転手に連絡を入れないのは

おかしい。嫌な想像がいくつも脳裏に浮かんだ。

 

「ここにいて下さい。校内を探してきます」

 

それだけを告げると、オレはきびすを返して校門へと駆けだした。

 

 

 

 

 

とりあえず明日奈の教室に行ってみようと昇降口を目指して走る。

さっきより勢いが強くなった雨の中、少し前屈みに傘を差して、所々に溜まった雨水など

気にも止めずスニーカーで跳ねかしながらオレは校舎に急いだ。無駄だろうと思ったが

オレからも連絡を入れてみるか、と考えていた時だ、傘に当たる雨の音と自分の靴音、

跳ねる水音にまじって微かな鳴き声を耳がとらえた。

 

ネコ?

 

思わず足を止め、頭を巡らし、耳を澄ませる。

 

……気の、せいか?

 

再び走り出そうとした瞬間、またもや耳に届いた小さな鳴き声。

 

ニャァー……

 

なぜか自然と鳴き声のする方に身体の向きを変えてしまう。

再び声は聞こえなくなったが、だいたいの方向はわかっていた。

迷うことなく歩を進めると人気のない体育館の裏手に鳴き声の主ではなく、本来の探し人の

後ろ姿を発見する。

しゃがみ込み、うずくまるように丸くなっているせいで、長い栗色の髪は毛先が

コンクリートの床に着いてしまいそうだ。

明日奈の姿を見て一安心するが、その後ろ姿から「体調が悪いのでは?」と懸念が生まれ、

足早に彼女の元に近づくと、小さな声が聞こえてきた。

 

「おいで、こわくないから。そこにいると濡れちゃうよ」

 

膝を抱え込んでいるのかと思ったが、近くまで寄ってみると明日奈の右手がまっすぐ前に

伸びているのがわかった。

 

「明日奈」

 

同じようにボリュームを絞って声をかける。

それでも急に名前を呼ばれて驚いたのだろう、ビクッと肩をふるわせて素早く後ろを

振り返ったがオレだと認識した途端安心したように、ふわり、と笑う。

 

「キリトくん」

 

互いに今日はもう会えないと思っていた相手の姿を見て思わず笑みがこぼれた。

いつもなら「キャラネームは……」と小言のひとつも言いたいところだが、他者に聞かれる

心配もない場所なのでここは大目に見るとする。

 

「どうしたんだ、こんな所で…………ああ」

 

 

明日奈が手を伸ばしていた先の雑草生い茂る中、小さくて真っ黒な雑巾が……いや、雑巾の

ようなネコが丸くなっていた。どう見ても野良猫だ。

 

さっきの鳴き声はお前か?

 

声にださない問いかけが聞こえたのか、ネコは顔をあげて「ニャァ」とひと鳴きすると

再び丸くなってしまった。

明日奈のいるコンクリートの上までは屋根が届いているので、多少雨が吹き込んでくる

程度だがその先の草むらにいるネコには容赦ない雨粒が降り注いでいる。

折りたたみの傘をたたんで、明日奈の横に同じようにしゃがみ込むと、彼女が口を開いた。

 

「帰ろうとしたら、この子の声が聞こえて。ここで見つけたの。震えてるから、どこかケガをして

るのかと思ったんだけど……違うみたいで。でも親を探すように鳴き続けるわけでもないし。

誰かに自分の存在を知らせるみたいに時々声をあげるだけで。そのうち雨もひどくなって

きちゃって……でも、私傘持ってないし、とりあえず濡れない場所に移動させてあげたくて……」

 

そう言うと、明日奈はさっきと同じように右手を伸ばし、おいでおいでをしている。

その手を見たオレはギョッとして彼女の腕をつかんだ。

 

「明日奈っ、この手」

 

手の甲にくっきりと引っかき傷がついて、血がにじんでいた。

オレの形相に困り笑いを浮かべて答える。

 

「あ……、さっき強引に抱き上げようとしたら嫌がられちゃって……」

 

……信じられない

 

口を開けたままのオレに明日奈は含み笑いをしつつ、オレを見つめながら言葉を続けた。

 

「大丈夫……黒い子の警戒心が強いのには、慣れてますから」

 

首を傾けてニッコリと笑いかけられ、オレは「うぐっ」と声を詰まらせる。

 

「……オレは……明日奈を引っかいた事、ないよ……な?」

 

気弱にも疑問形になってしまった。

明日奈は、その色白の肌のせいか、ちょっとしたことですぐに痕がついてしまうのだ。

彼女の素肌に、オレがどんなに大事に大事に触れているか……それをこんなボロ雑巾のような

仔猫にキズをつけられたかと思うと、はらわたが煮えくり返る思いだった。

 

「どうだったかなぁ?」

「へっ?」

 

全く予想もしていなかった返答に一瞬思考が固まる。

 

自分でも気づかないうちに爪を立てただろうか?

 

などと甘い記憶をチェックしていると、明日奈が華奢なおとがいに指をあてて再びオレの

顔をのぞき込んだ。

 

「アインクラッドでは、時々、心をひっかかれた気がするけど」

 

再び「ぐっ」と声を詰まらせる。

 

「それは……だ……な、明日奈……」

 

しどろもどろで言葉を探しているオレの様子を明日奈は楽しそうに見つめくるが、

再び仔猫の鳴き声を聞いて、そちらに気持ちを戻した。

 

「うーん……どうして逃げないんだろ。野良猫さんなら人が近づいたら逃げると

思うんだけど」

 

とりあえず、どこでもいいから移動して欲しいのだろう。

今以上に雨の当たる場所もそうないに違いない。

運よくどこかの軒下や公園の遊具の中にでも潜ってくれれば万々歳だ。

 

「手を差し出すと嫌がられちゃうんだけどね。かと言って自分から攻撃や逃走を

するわけでもないし……私に関心ないのかな……」

 

チクチク刺さるものを感じるのは気のせいだろうか。

落ち着け、ネコの話だ、この黒猫の。

 

動揺を悟られぬよう、あえて明日奈から目を逸らして黒猫を凝視していると、そいつが

うずくまってる草むらの更に奥から今まで聞いていたよりもう少し高い別の猫の鳴き声が響いた。

 

「ニャァーン」

 

途端に黒猫が耳をピンッと立てて、顔をあげ、自らも位置を知らせるように「ニャッ」と

短く鳴く。

ガサガサと草をかき分ける音が近づいてきた。

葉の間からヒョコッと出てきたのは……真っ白い仔猫だった。

 

「うわぁ、綺麗な白猫ちゃん……」

「確かに美ネコだ」

 

雨に濡れたせいで毛並みはペシャッとしているが、乾かしてブラッシングをすれば

白銀のフワフワになるに違いない。

黒猫と同様、仔猫ではあるが雨に打たれながらも優雅な足取りで顔をあげ、胸を張って

歩いてくる。多分、血統書付きのネコだろう、その証拠に……

 

「こっちは首輪がついてるな」

 

真っ白な毛並みに真っ赤な首輪がよく似合っていた。

白猫が近づくと、黒猫はゆっくりと立ち上がり、自分が濡れているにも関わらず白猫を

舐め始める。白猫は目を細くして気持ちよさそうに喉を鳴らしていたが、しばらくすると、

白猫も黒猫を舐め始めた。

 

「ふふっ、仲良しさんだね」

 

同じ位の大きさの仔猫のむつまじい光景を眺めて自然と明日奈の口元が緩んでいる。そして

何を思ったのか両手をぱちり、と合わせるとはしばみ色を輝かせた。

 

「あっ、もしかして黒猫くんがここを動かなかったのって、この白猫ちゃんと

待ち合わせしてたからかも」

 

だとしたら時折あげていた鳴き声も納得がいくが……果たしてネコがそこまでするだろうか?

しかも確かめたわけでもないだろうに、黒猫は「くん」、白猫には「ちゃん」を付けて

呼んでるし……。

 

「普通に黒が野良で、白が迷子なんじゃないか?」

 

裏手とはいえ学校の敷地内を飼いネコが散歩コースにしているとは考えにくい。

用務員にでも見つかれば追い払われるだろうし、生徒に見つかれば追いかけ回されるかも

しれない。何度かそんな目に合えばコースも変えるだろう。

そんなやりとりの間、白猫は明日奈に興味を持ったのか、舐めるのをやめてジッと見つめ、

それから臆することなく一匹で彼女に近づいてきた。後ろの黒猫は臨戦態勢で腰を落とし、

待機している。白猫に危害を加える気配を感じれば、いつでも飛びかかってくるに違いない。

 

お前……白猫を守る気なんだな。

 

明日奈の白い肌に引っかき傷を作った張本人(猫)ではあるが、その瞳に宿る光に決意を

見た気がして、引っかいたことは目をつぶってやるか、と嘆息を漏らす。

白猫が明日奈の目の前まできて腰を落とし、優しく「ニャア」と鳴いた。

 

「もしかしたら首輪に住所が書いてあるかも」

 

そう言って白猫を安心させるように頭や顎をやさしく撫でた後、首元へ手を伸ばし、首輪に

触れた途端

 

コトンッ

 

細い首輪がコンクリートの上に落下した。

 

「えっ?、私、ほんのちょっとしか触ってないけど……」

 

すり切れた部分があるわけでもなく、ほぼ新品に近い状態と思われる真っ赤な首輪は

どうやって仔猫の首から外れたのか、全く検討もつかない。

しかし、それで何かから解放されたように、白猫は思いっきりのびをすると再び

「ニャァン」とお礼を言うような声をあげて黒猫のもとへと戻っていった。

臨戦態勢を解いた黒猫が白猫を出迎えると、首輪の痕を消そうとでも言うのか、しきりと

首回りを舐めている。

しばらくして黒猫が納得したように白猫から顔を離すと二匹の仔猫は雨の中、並んで

草むらへと消えていった。

最後に黒猫だけが振り返り、オレに挑むような視線を送ってから。

 

「行っちゃったな」

「……うん……これからあの仔達は野良猫として生きていくのかしら」

「そうだなぁ、あの白いのだけなら、飼いたい人も出てくるだろうけど……黒は

完全ノラだな。目つきも毛並みも悪いし、かわいげもなかった……だいたいアイツは

飼い猫には向かない感じだったし」

「そうだね……でも、私、あの黒猫くん、なんか好きだったな」

 

そう言いながら明日奈はオレを見て微笑んだ。

 

「まあ、二匹一緒なら、なんとかやっていくだろ」

 

まるで自分が「好き」と言われたような錯覚を起こし、顔が熱くなるのを感じながら

立ち上がって明日奈の視線を逃れる為、意味も無く体育館を見上げた。すると頭の中で何かが

引っかかっている気がして……。

 

「んんっ?」

 

続けて「あーっ」と叫ぶ。

 

「何っ?、どうしたの?」

「どうしたのじゃない、明日奈、その手、早く消毒しないとっ」

 

黒猫に引っかかれたままの右手を素早く掴んで引っ張り上げると、明日奈がよろけて

バランスを崩し、膝をついた。

 

「イタッ」

「ごっ、ごめんっ」

「……うううん、大丈夫」

 

いまだ筋力が戻っていない上に長時間腰を落としていた為、感覚が麻痺しているのだろう、

折り曲げていた明日奈の足は、引き上げようとしても伸びるどころか全く言う事を聞かず、

しゃがんだ状態の形を崩そうとしない。

咄嗟にオレもしゃがみ込み、彼女を支える。

明日奈は左手で自らの足をしきりにさすっていた。

その顔をのぞき込むと下唇を噛み、表情を歪めている。

 

「痛むのか?」

「……少しだけ」

 

血流の低下により筋肉痛のような痛みが両足全体に広がっているようだ。いわゆる

エコノミー症候群のような症状だろう。個人差はあるだろうが痛みに対して明日奈が肯定の

言葉を口にしたと言うことは、かなり辛いに違いない。

 

「ごめんね……ちょっとこのまま……寄りかかってて……いい?」

「オレは構わないけど、それより誰か呼んだ方が……」

 

オレの提案には首を横に振るだけで答え、力ない手で両腕にすがってくる。

 

「このまま……しばらくすれば……痺れと痛みも治まると……思うから」

「明日奈、焦らなくていいよ」

「……うん」

 

しがみつくようにつかまれた両腕はそのままに、オレは明日奈に負荷をかけまいと

注意を払いながら距離を詰め、少しでも彼女が楽な体勢でいられるよう受け止める形で

胸元に引き寄せた。

その細い身体を密着させると明日奈の制服がひんやりとしている事に改めて驚かされる。

肩にあたっている頬には最近戻りつつあった薄紅色も影を潜めていた。

 

身体が冷えるもの厭わず……。

 

明日奈らしいといえば、そうなのだが、今の彼女はまだ万全の体調ではないのだ。

もう少し自分を優先させて欲しい、と思うが、それが無理な事も浅くはない付き合いで

わかりすぎるほどわかっている。

少しでも彼女を暖めようと、彼女が掴んでいるオレの腕を僅かに動かして両手を背中に回し

包み込んだ。

雨の降音がオレ達二人を世界から隔離したかのように、ゆっくりと時が流れる。

どのくらいそうしていただろうか、腕の中の彼女が身じろぐのと同時に僅かに足が動いた。

 

「明日奈?」

「……うん、感覚がもどってきたみたい。痛みも随分楽になったし……ありがとう

キリトくん」

 

自ら身体を離し、オレに微笑んでくる。

そのまま明日奈をエスコートしながらゆっくりと立たせると、オレの腕をつかんでいる

手に自然と目がいった。

血が乾ききっていない手の傷に視線が釘付けになる。その右手を持ち上げ、オレの口元に

もっていこうとした途端、明日奈が焦ったように声をあげた。

 

「だめだめだめだめーっ」

 

咄嗟に左手を傷のある甲にあててオレの行動を予測し阻む。

 

「細菌があったらキリトくんにうつっちゃう……」

 

なら、なんでそのまま放置してるんだ……とあきれ顔の視線で訴えたのが伝わったの

だろう。手の甲を隠したまま、下を向いてボソボソと呟いている。

 

「だって、さっきは黒猫くんを助けたくって……」

 

自分の事は後回しで黒い仔猫を優先したってわけか……。

 

再び、なにやらチクチクと刺さってくる感覚をはらうように、彼女を腕ごと包んで

抱きしめる。突然で驚いたのだろう、一瞬両肩に力が入ったもののすぐに緊張はとけて

軽く体重を預けてきた。片手で彼女の髪の毛を梳くと、気持ちがいいのかフワリと肩に頭を

寄せてくる。そのまま何回か髪を梳いたあとに、今度は彼女の首元で髪を束ねて首筋を

あらわにし、その白い肌に唇を押しつけた。

 

「やンっ」

 

突然の刺激に思わず声が上がったようで、再び肩に力が入る。

顔を上げ、オレから離れようとする瞬間に、彼女の背中に回したもう片方の手に力を込め

腕の中に閉じ込めた。

 

「ちょ、ちょっと、キリトくん……あっ……んっ……キリトくんてばっ」

 

顔を真っ赤に染めながらも途切れる息の合間に何度もオレの名を呼んでくる。しかしオレは

返事を返す余裕もなく、それどころか堪えるように名前を呼ばれることで内側の熱が加速度的に

膨れあがっていた。返事の代わりに唇で彼女の首筋に甘噛みをし、キスをして、舌を這わせる。

何を言っても言葉で返さないオレへ明日奈の乱れた息づかいに困惑が混じってくる。それを

耳で感じながらもオレの舐行は続き、段々と彼女の感情も押し流されていった。

そうして明日奈のようやく感覚の戻った足が再び自力では立っていられなくなる程首元にオレの

ぬくもりを注いだ頃には、既に抵抗を諦めた彼女は耳までも赤くしている。

はあっ、はあっと肩を上下させながらも唇や舌が触れる度に身体をピクリと震わせ肩をすくめて

小さい声を上げる、その仕草に刺激を受け、オレはとまらなくなっていた。

 

「ココなら痕がついてもいいか?」

 

ココ……がどこなのか、明日奈がわかるはずもない事を知った上での確信犯的な問いかけだが

「否」の返事がないことで了承を得たと判断する。いや、すでに「ココ」とは?、と問いかけを

口にするほどの理性さえ残っていなかったのかもしれない。

明日奈の髪の毛を後頭部に押しつけるように持ち上げ、その真っ白なうなじに音を立てて吸い付く

ようなキスをした。

 

「きゃっ……」

 

やはり今までより刺激が強かったのか、のけぞる様に身体をしならせる。彼女の栗色の髪の毛と

一緒に頭部をきつく掻き抱き、そのまま首の真後ろに、耳の後ろにと……雨はひどく音を立てて

いるのだが、オレから与えられる音しか明日奈には届いていないようだった。

 

「……オレも……明日奈と……ふたりなら……」

 

並んで去っていった猫達の姿が、初めて《現実世界》で彼女を抱きしめた時に見た光景を思い

起こさせる。病室の窓の外、激しく舞う雪の中、ゆっくりと遠ざかっていったふたつの人影。

伝えたい想いがうまく言葉に出来ず、途切れながら溢れてくるのを、自分には伝わっているのだと

示すように、明日奈は「うん」と短く応えてくれた。

そして息も荒いまま「私も……だよ」と言いながら、そっとオレの背中に両手を回してくれる。

自分でも手に負えないほどの熱は徐々に落ち着きをみせ、入れ替わるように優しい温かさが

身体全体に広がっていった。

 

これはオレの腕の中にある彼女からもたらされるぬくもりなのだろうか。

だとしたらもう一生手放すことはできないな……。

 

それでもいつまでもこうしているわけにもいかず、頭が理性で働くようになり、ようやく腕の

束縛から解放すると、明日奈は崩れ落ちる寸前でオレの腰をつかんだ。折り曲がろうとする足に

なけなしの力を込めているようで、わずかに震えている。

すぐさまオレも彼女の腕を支えるが……下を向いているせいで栗色の髪の毛がハラリと両肩から

流れ落ちて白いうなじが露わになった。

 

やっぱり、ついたな……痕。

 

自ら刻痕したにもかかわらず冷静に見つめていると、オレの思いが聞こえたように明日奈が

片手で首の後ろを隠すように押さえる。

いつも「痕はつけないで」とお願いさるのだが、「見えないトコならいいだろ」と譲らないのも

常で……しかし今回は服に隠れる場所ではない為、オレと同様に理性を取り戻した明日奈は

顔だけを上げて涙目で「うう〜」と唸ってくる。しかしこの反応は既に慣れっこだ。

あえて素知らぬ顔で支えていた腕に力を込め、ゆっくりと引き上げて立たせたが、足下を

ふらつかせているので支える手をその細腰に移動させた。

懸命に髪を後ろになでつけながら、まだ赤みの残る顔を向け何かを訴えてくる瞳に、

オレは僅かに取り繕う挙動不審な笑みを添えて自分を正当化する……かどうかはわからないが、

正直な気持ちを告げた。

 

「その……黒猫だけ、ズルイだろ……」

「……なにがズルイのよ……もうっ」

「だって黒猫のヤツ、明日奈に傷をつけたし……それにあんなに白猫をペロペロと……」

「……キリトくん、言ってること、意味不明だよっ」

 

キッとした視線でオレの真実ではあるが正論ではない理由があっさり一刀両断だ。

こうなるともう話題をそらすしか戦法を思いつかない。

 

「……あ〜、でも、ホント、あの白猫、綺麗だったな……赤い首輪、似合ってたのに

はずれちゃって……首輪してれば飼い主の元に戻れたかもしれ……」

「よかったのよ」

 

突然、明日奈が強く言葉を言い放った。

普段なら人の話を遮る様なことは絶対にしないのだが、まっすぐにオレを見つめ、ひんやりと

した両手でオレの頬を包み込む。

 

「白猫ちゃんは黒猫くんと一緒に生きていくって決めたんだもの。もう首輪は必要なかったん

だわ……首輪が外れた時、嬉しそうだったし」

 

打って変わって真剣な瞳で訴えてくる明日奈を見て、オレは思った。

 

あの二匹は、すっかり覚悟ができてたってことか。

 

無意識に明日奈の腰にあったオレの手が背中にまでまわり、ホールドするように抱き寄せた。

二匹の姿を思い浮かべ、意識が散漫になった刹那、今度はオレの頬に触れていた明日奈の両手に

僅かながらに力が籠もる。と同時に鼻が触れる程の距離まで明日奈の顔が近づいてきて、そのまま

オレの唇に柔らかいがヒンヤリとした感触が押しつけられた。その冷たさに意識が覚醒した途端、

更に優しく心地よい潤いが、さらりさらりと丁寧に上唇と下唇とにもたらされる。

 

「……明日奈?」

 

すぐに頬と唇の感触は離れてしまったが、オレは自分の身に何が起きたのか懸命に理解しようと

するのにいっぱいいっぱいで、考えたわけでもなく自然と問いかけるように彼女の名を呼んだ。

しかしオレの腕の中で俯いたままの明日奈は表情を見せずに早口でまくしたてる。

 

「白猫ちゃんもやってたから……だから、グルーミングッ」

 

それって、今さっき自分で「意味不明」って言ったヤツと同じだろ……。

 

意識が未だ唇に集中している隙をついて、明日奈がオレの腕をそっと取り払い背中を向けた。

オレ自身、鏡で確認せずともわかるほどに顔が火照っている。

 

やばい……まずい……なんと言うか……自分から明日奈に触れるより、彼女から触れて

くれる方が、百倍は恥ずかしい……いや……嬉しい。

 

たまらなく愛しい感情がわき上がってきた。

黒猫が去り際に向けた睨み付けるような視線の意味がわかったような気がして、じわりと

胸が熱くなる。

明日奈は自分のカバンを拾い上げながらオレに顔を見せることなく、更に言葉を重ねてきた。

 

「……あの黒猫くんだって本当はとっても優しくて、強くて……カッコよくて……

それに寂しがり屋さんだから、白猫ちゃんがついていてあげないと」

「……さっきの仔猫の話だよな」

 

カバンを両腕に抱え、後ろ向きのまま力強く頷いている。

 

「……そうよ」

「あのしっかり者の白猫も意外と泣き虫の寂しがり屋だと思うけど……」

「……」

 

ゆっくりと振り向いた明日奈は赤面のまま居たたまれないといった表情だ。

なにやら空々しい会話の応酬がされている自覚はあるのだが、そこはあえて受け流そう。

いつの間にか雨は小降りになっていた。

 

「そうだっ、明日奈、車、待たせてるだろう」

「あっ、いけないっ、すっかり忘れてて……いやーっ、こんなにメッセージ入ってる……」

 

カバンから取り出した携帯端末には運転手からの受信件数がどれほどの数になっていたのか。

 

「とりあえず連絡しろよ。保健室で消毒してから行くって」

「うん」

 

すぐさま携帯を操作し、運転手にオレと一緒だという事を含め、事情を説明している明日奈の

後ろで、オレはもう一度、二匹が消えていった草むらを見つめた。




お読みいただき、有り難うございました。
和人が初めて耳にした黒猫の鳴き声は、訳すと「お前の白、こっちにいるぞ」で
しょうか?……そして今回のテーマは『グルーミング』です(笑)
前回の予告で「どの二本を投稿するか未決」の旨を書きましたが、結局、執筆の古い順に
しました。
理由は単純で、時間が経てば経つほど恥ずかしくて投稿出来なくなるからです。
なので今回もかなり加筆・修正を致しました。
「いきおい」ってコワイけど大事ですね。
続きましてシリーズ化にしたい短編もお読みいただければ、と思います。


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【いつもの二人】寝顔編

森の家でいつもの様に仲間達が集い、いつもの様に楽しく過ごしていた
はずなのに……そんな中、仲間達が目にした光景は、二人にとっては
いつもの事で……。


シャリーン

 

涼やかな音と共に新生アインクラッドの22層にある森の家にログインしたキリトは

リビングのテーブルを囲んでいるメンバーを見て「はて?」と首を傾げた。

と同時に、キリトの存在にいち早く気づいた妹のリーファが人差し指を一本、顔の中心に

立てつつ、もう片方の手でしきりと手招きをしている。

音も声も立てずコッチに来て、という意味だろう。

素直に従って寄ってみれば、テーブルの上にはアスナが用意したと思われるクリームを

たっぷりとデコレートしたケーキがホールで二種類、それぞれ半分以上がなくなっていた。

消えたケーキの行方は推理するまでもなく、テーブルを囲んでいる妖精達三人の(存在しない)

胃の中だ。しかし、アスナ手製のケーキを食べた後とは思えないほど、目の前の妖精達は

萎えていた。

 

「どうしたんだ?」

 

小声で問いかければ、テーブルに突っ伏していたリズが顔をあげ、苦虫を噛み潰したような

形相でキリトを見上げてくる。リズの隣に座っているシリカは口を開けたまま舌を出し、

しきりと手で風を送っていた。

見れば二人の前には先日アスナが手に入れたばかりの、数種類のお茶がpopするカップが

鎮座している。

確か今日は学校の中間考査が終わった事を祝おうという集まりではなかっただろうか?、と思い

状況が飲み込めずにいるキリトは最もここにいるべき姿を求めた。室内に視線を巡らせると

……見た者の表情を思わず優しく緩ませる寝顔でアスナがキリトの指定席と言っていい揺り椅子に

身を丸くしている。

兄の視線がアスナを捕らえた事をその笑みから察したリーファが声を潜めて話しかけてきた。

 

「アスナさん、さっきまで私達にお茶やケーキを振る舞ってくれていたんだけど、いつの間にか

寝ちゃって……」

 

それも無理からぬことだろう。昨日まで自分のテスト勉強に加えて、リズやシリカ、多少はキリト

のテスト勉強も手伝っていたのだ。《かの世界》で最強ギルドのサブリーダーを勤めていた頃も

ギルメンのレベリングに付き合いつつ随分とハイペースで自らのレベルも上げていた事を

思い出し、キリトは「ふむ」と考え込む。

 

あの頃は見るからに無理をしていた風で危うささえ感じたが……。

 

キリトはテープルに片手をつくと、リズとシリカに囁いた。

 

「オレもあまり言えないけど、アスナばかりを頼るなよ」

「……だってアスナじゃないと、まともな味の液体が出てこないのよっ」

 

リズが眉を寄せて「仕方ないでしょ」と言わんばかりに剣呑な目線を返してくる。

食い違いを感じる返答にキリトが「はっ?」と小さく漏らした。

その反応に多少イラついたようにリズが説明を重ねる。

 

「だから、料理スキルのレベルに比例して味も決まるから……」

「いや、そうじゃなくて……何の話だ?」

 

噛み合わない会話の展開に再び苦笑いのリーファが口をはさんだ。

 

「お兄ちゃん、私達、アスナさんが寝ちゃったから自分たちで飲み物のおかわりを何とか

しようとしたんだよ。だけどこのカップはアスナさんでないと、ちゃんとしたお茶が

出てこなくて……」

 

そこで納得したようにキリトが「ああ」と頷く。それはキリト自身にも身に覚えのあることで、

カップを入手した当初はおもしろがって自分でもカップのふちを何回もタップしてみたのだ。

しかし料理スキルゼロの身ではやけに酸っぱい緑色の液体や、コーヒー色なのに口当たりは

トロトロとした無味無臭の葛湯のような液体しか出てこなかったのである。

 

「あまり頼るなって言ったのは勉強のことだよ」

 

キリトはそう言って、視線を一瞬アスナに向けた。それでリズも合点がいったのだろう。

「わ、わかってるわよ」と口ごもりながらも大きく頷く。

察するにシリカは飲んだ液体のせいで舌が痺れているのだろう、舌を出したまま「ひゃい、

しゅみませんれした」と頭を下げてきた。

キリトは微笑みながらも腰に手を当て、ひとつため息をついてからくるりと身体を翻した。

 

「台所に茶葉があるから、それを使ってくれ」

 

スタスタと台所に向かう姿を追うように三人が立ち上がる。

 

「助かったわ、家主じゃないと戸棚とか開かないし。口直ししないとケーキの味も半減だもの」

「まだ食べるんですかっ?、リズさん」

 

驚くリーファにキリトが戸棚に手をかけながら問いかけた。

 

「だいたいリーファは学校が違うんだからテストは昨日で終わってたはずだよな?」

「うん、だから打ち上げは友達と昨日やったよ」

「なんでいるんだよ」

 

ボソリと呟くように声に出せば、リズが割り込むように勢いよく答える。

 

「人数が多い方が楽しいに決まってるからでしょっ、ちなみに来週、シノンが中間考査終わった

後もまた集まるわよ」

 

「やったーっ」とガッツポーズを作るリーファの隣で、口がまともに動かないシリカも笑顔で

何度も頷いていた。

やれやれといったキリトは茶葉の入った容器をリズに手渡すと「後はまかせた、オレはアスナを

寝室に運ぶから」と告げ、リビングに引き返す。

赤子のように身体を丸めて眠り込んでいるアスナの元にひざまずくと、キリトはそっと彼女の

左手を持ち上げた。人差し指と中指を立て、スッと上から下に線を引く。「このへんかな」と

呟きながら握っているアスナの指で何回か宙を突っつくと……「シュワンッ」という微かな

音と共にアスナのほっそりとした両足からブーツが消散した。

それをキッチンから目撃した三人はあんぐりと口を開け固まる。

一番最初に立ち直ったのはリズだ。

 

「ちょっ、ちょっとキリト!……アンタ、今、何したのよっ」

「何って……アスナ、ブーツ履いたままベッドに上がるの嫌がるんだ」

「そういう事じゃなくてっ……ああっ、今日はとことんアンタと噛み合わないわね。アスナの

ウインドウが視えてるのかって事!」

「視えるわけないだろ」

「じゃあ、どうやって……」

「んー……たまにだけどあるんだよ。《こっち》でアスナが寝入っちゃうこと。だから

そういう時はこうして目算でウインドウを操作して、ブーツを解除してからベッドに

運んでるんだ」

「……ありえないよ、お兄ちゃん」

 

妹の呟きに残る二人もコクコクと首を縦に振る。

説明しながらもキリトは軽々とアスナを揺り椅子から横抱きにかかえ、立ち上がった。

ほんの少し揺すって、安定を良くする為にアスナの顔を自分の胸元へ寄せる。

その間、リズが何を想像したのか赤らめた頬を両手で包み、わたわたと挙動不審に陥った。

 

「なに?、じゃあ、うっかりキリトの近くで寝ちゃったら、勝手に装備を解除されるかも

しれないってこと!?」

 

え゛っ!?……その発言でシリカとリーファが一様に、ぽっ、と頬を染める。

 

「……いや、お前達にはしないし」

 

寸刻の照れも迷いも見せずに冷ややかな一瞥を浴びせられ、一同は「ああ、そうですか」と

表情は一気にふて腐れた。

リズが先ほどとはうってかわって険のある目つきでキリトを呼び止める。

 

「別にわざわざ寝室に運ばなくても、そのまま寝かせておいてあげればいいじゃない」

「んー、でもなぁ……オレ達がここに集まってるとクラインとか来そうだし」

 

複雑な表情を浮かべるキリトにリーファが問う。

 

「来ちゃダメなの?」

「ダメじゃないけど……アスナの寝顔は……」

 

傍観するしかないシリカは、隣にいるリズの(あるはずのない)頭の血管がプチッと切れる音を

聞いた気がした。

 

「んーっな事言って!、アンタ達、学校の昼休みに丸見えの中庭で寄り添ってグースカ

寝てるじゃないっ」

「別にあれは寝てるってゆーか、まどろんでる程度で熟睡してるわけじゃないぞっ」

 

今のこんなにあどけない表情のアスナを他のヤローに見せられるかよ、とケットシーの耳だけが

拾えるくらいのボソボソ声でキリトがこぼしたのをシリカは苦笑いで受け流す。

 

「お兄ちゃんもリズさんも、そんな言い合いしてたらアスナさん、起きちゃいますよ」

 

その間合いもバッチリで、アスナがキリトの腕の中でもぞもぞと頭や肩を動かしながら

「う、うん……」と吐息のような声を漏らす。安心しきった甘い寝顔にそぐうその仕草も

愛らしく、その場の全員が「ほぅっ」と見惚れるほどだ。

確かにこんな状態のアスナは万年金欠ならぬ彼女欠のクラインには目の毒だろう。

 

「だから、そういう事で……」

 

気のせいだろうか、若干頬を染めたように見える表情をフイッと隠すように台所から背を向け、

いまいち意味不明な言葉を口にしながらこの場を結んだキリトが寝室へと足を踏み出した時だ。

リーファが先刻から思っていた疑問を口にした。

 

「ベッドに寝かせるのに、上衣やニーハイはそのままでいいの?」

 

妹からの声かけだったせいか、キリトは振り向きざま自然に返答を口にする。

 

「ああ、それは寝かせてから解除するから」

 

リズの頭部からプチッ、プチッと複数音が聞こえた気がしたシリカだった。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
短くて軽い話が書きたい、という想いで【いつもの二人】と称し、何本かお届け
する予定です。
私の場合、ストーリーを考えるとシリアスになる傾向が多いので、時折、息抜き気分で
あえて気軽に書ける内容をひねり出し、バランスをとっています。
次回は、迷って今回見送った方の二本を投稿しますが、その前に『SAOP』第四巻の
発売を祝して10日頃、一本投稿します。


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家族のカタチ

ご本家(原作)様の『SAOP』第4巻発売を祝しての投稿です。
和人と明日奈が《現実世界》でも夫婦となってから17年ほどが経った頃のお話です。
既に二人の間には息子と娘がひとりずつ産まれております。


学校から帰ってくると、玄関に見覚えのない女物の靴を見て、和真(かずま)は首をかしげた。

いつもより勢いを殺して、伺うように「ただいま」と言いながらリビングに足を踏み入れると

オープンキッチンから母である明日奈の「お帰りなさい、和真くん」という優しい声と

かぶるように、リビングのソファに座っていた女性が片手を勢いよく挙げて「よっ、お帰り」と

迎えてくれる。

 

「ああ、リズさんだったんだ……お久しぶりです」

 

ペコリと頭を下げれば「んっ、お邪魔してまーす」と言って、にかっと笑い返してくる。

ここ一年ほどまともに顔も見ていなかった母の親友の元気そうな姿に、和真の中のよそよそしさも

急速に溶けて明日奈とよく似た、ふわりとした笑顔になった。

そして本人とは会っていないが、数ヶ月前に母親から聞いた彼女に関するおめでたい報告を

思いだし、気遣うように首をかしげる。

 

「出歩いて大丈夫なの?」

 

その言葉でリズは無意識に下を向き、自分の少し膨らんだお腹に手をあてた。

 

「うん、もう安定期に入ったしね。もともとつわりもそれ程ひどくなかったし。お医者さんにも

動くように言われてるのよ。まっ、ここなら何かあっても明日奈がいるし」

 

安心しきったように母を見るリズに、和真はやれやれと息を吐き出す。

 

「リズさん……いくらうちの母さんでも妊婦さんをどうこう出来ないよ。あまり母さんを頼り

すぎないでね。それでなくてもこのヒトは頼られたり任されたりすると無理をしがち

なんだから」

 

言われたリズはうんざりした表情でポソリ、と言葉を投げた。

 

「カズマ……アンタ、言うことがキリトにそっくりだわ」

 

それからお返しとばかり和真を上から下までしげしげと眺めてから、何が可笑しいのか、フンッと

軽く鼻で笑う。

 

「それにしても、相変わらずキレイな顔してるわよね。髪と肌の色は明日奈譲りで薄いのに、

瞳の色の濃さはキリトだからオリエンタルって言うか……」

 

そんな視線には慣れっこだと言わんばかりに、和真は余裕の笑みで肩をすくめた。

 

「まあ、正真正銘、両親なんだから仕方ないよ」

 

リズはニヤニヤと笑いつつ、目を細めてからかうように聞いてくる。

 

「高校で女の子に言い寄られたりしてるんでしょ」

 

親友の息子の焦り顔を見たいがゆえの発言なのだろうが、そんな問いかけに対して

やれやれといった微苦笑を織り交ぜた和真はとってきおきのネタを口にした。

 

「……言い寄られるって言うか、入学して一ヶ月もしてないのに、上級生の男子生徒から

『お姉さんを紹介してくれっ』とは言われたよ」

 

はっ?、という顔のリズが座るソファの横へ茶器を乗せたトレイを手にやって来た明日奈は、

困ったように笑いながら「もうっ、その話は」と和真にやんわり口止めをする。

 

「何?、何なに?、教えなさいよっ」

 

リズが意気込めば、和真としては是非とも披露したい内容なので、母からの制止も気づかぬふりで

表情をお得意の外面スマイルに変えて話を続けた。

 

「だから新学期で初めての授業参観に母さんが来たんだ。それを上級生がオレの姉だと勘違いして

交際を希望してきたという……」

 

はぁぁっ?、と悲鳴ともため息ともつかない息を吐き出したリズは、目の前のテーブルにお茶の

支度を始めた明日奈をジロジロと眺めて今度は嫌々ながらも納得したように頷いた。

 

「高校生の息子がいるってのに、この見た目じゃあね……それってキリトも知ってるの?」

「うん、夕食の時に話してたら、偶然、そこに父さんが帰ってきて」

「どうなった?」

 

いつの間にやらニヤニヤ顔に戻っている。

 

「一瞬固まって、すぐにガバッと母さんを後ろから抱きしめて、オレの事、もの凄い目つきで

睨み付けてきた。ついでに芽衣(めい)も『お母さんはもうお兄ちゃんの学校に行っちゃ

ダメっ』って大騒ぎさ。モニター越しにユイ姉が『大人げないですっ』って父さんを叱って、

母さんは芽衣をなだめ……うん、あれは結構おもしろかった」

 

普段の和真は穏やかなイメージが強いが、近しい人間は彼が父親の悪戯好きな部分をふんだんに

隠し持っていることを知っていた。母への交際申し込み話をしたのも、実は父親が帰宅したことに

気づいていたのでは、と勘ぐりたくなるところだ。

まだ小学校低学年の和真の妹「芽衣」は訳もわからぬ状態で巻き込まれていると思うと少々

可哀想な気もしてくる。

そんな騒ぎを面白がるところはさすがキリトの息子ね、とリズは苦笑いを浮かべた。

 

「相変わらず明日奈は溺愛されてるわね、キリトに……って言うか家族全員に、か」

「そうだな、父さんなんてオレがまだ幼稚園の時に『将来はお母さんをお嫁さんにする』って

言ったら、切り刻んでやろうか?、な視線でオレにトラウマを植え付けたくらいだし。あれで

完全に母さんを諦めたよ。でも妻としては父さんのモノだけど、母としては子供のモンだろ?」

「……って言うか、そこ、競い合うことなの?」

「バカな話はそれ位にして……」

 

優雅な所作でテーブルの上に茶器を並べ終えた明日奈がリズに紅茶を注ぎながら二人を

たしなめる。

 

「リズ、シフォンケーキは生クリーム、やめておく?」

「そうね、明日奈の手作りならクリームなしでも美味しいだろうし」

 

そのやりとりを聞いて首をかしげる和真に明日奈は微笑んでから説明を足した。

 

「つわりの時って乳製品ダメな人、多いのよ。リズはもうおさまってるみたいだけど

出先では用心した方がいいでしょう……和真も一緒に食べる?」

 

納得したように頷いてから、和真は「もちろん」と答えてから「部屋にカバン置いてくる」と

言ってリビングから退出した。

 

 

 

 

 

二階の自室で私服に着替え、洗面所で身ぎれいにしてから再びリビングに降りていくと、

リズは和真を待っていてくれたようで、目の前のシフォンケーキには手をつけず紅茶をすすって

いた。

「お待たせしました」と言いながら、リズの向かいのソファに腰を下ろすと、テーブルに

リズと自分の分しかカップが用意されていないことに気づく。

 

「母さん?」

 

キッチンにいるのかと声をかけてみれば、パタパタと廊下から足音が聞こえ、上着を羽織った

明日奈が慌てたように部屋に入ってきた。

 

「ごめん、和真くん、リズのお相手しててもらえる?」

「何かあったの?」

「うん、直葉ちゃんがりっちゃんのお迎えに間に合いそうにないって、今、連絡があって……」

 

ああ、またか……と和真は頭を垂れた。

父(和人)の妹、正確には従兄妹である直葉には幼稚園に通う娘がいる。

なぜか旦那や自分の実家より和人の住まいに近い場所に新居を構え、何かあると兄夫婦を頼りに

してくるのだ。兄妹なのだからそれは構わないと思うが……いや、思っていたが……

 

「直葉ちゃんもうちの母さん、頼りすぎ……」

 

下を向いたまま低く呟く声は目を閉じていたら和人と間違えそうなくらい似ている。

兄夫婦に長男が誕生した時、まだ二十代前半だった直葉から「『おばちゃん』って言われるのは

絶対にイヤっ」と懇請され、和真は小さい頃から叔母を『直葉ちゃん』と呼んでいた。

叔母の人なつこい笑顔を思い出しながら和真は腰を浮かせつつ母親に声をかける。

 

「いいよ、幼稚園のお迎えにはオレが行くから。母さんはゆっくりお喋りしてなって」

 

初めてではないこの展開は幼稚園側も了承している。伯母である明日奈が行っても、従兄弟

である和真が言っても園児の引き渡しに応じてもらえることは実証済みだ。

 

「ありがとう、でも、今、あの子、男の人がダメな時期らしくて。きっと大泣きすると思う

から……ちょっと行ってくる。三十分くらいで戻るから。ごめんね、リズ」

「いいって、いいって。私はのんびりさせてもらうから、ゆっくり行ってらっしゃい」

 

リズはひらひらと手を振って明日奈を送り出すと、玄関の閉まる音を聞いてから腰を下ろした

和真に向け、当然のように空になったティーカップを差しだした。

はいはい、と笑いながら母が用意していったポットからお代わりを注ぎ、続けて自分のカップにも

琥珀色の液体を満たす。ほどよい温度のそれをゴクリと飲み下してからほうっ、と息を吐き

出した。

 

「なんか明日奈も大変ねー。アメリカから帰ってきてキリトと結婚したと思ったら、すぐに

アンタを身籠もって……そうそう妊娠中も大変だったのよ」

「かなり長く入院してたってのは知ってるけど」

「うん、はじめは私達、明日奈が入院してる事も知らなくてね」

 

そう言ってリズは遠くの懐かしい何かを見るような表情で十六年以上も前の出来事を話し始めた。

 

 

 

 

 

ほんの数秒前まで和人を映していたはしばみ色の瞳が急速に輝きを失いカタカタと震え始める。

それに気づいた和人が病室のベッドで仰向けに横たわったまま無表情となった明日奈の顔に

ふわりと手のひらを近づけ、瞳に注がれる全ての光を遮断しながら、小さく「もう、目を

閉じて」と声をかけた。

こうなってしまうとすぐに意識も朦朧とし、眠りに落ちてしまうのだ。

最初の頃は虚ろな瞳のまま「大丈夫」と返していた明日奈だったが、そのまま目を開けていると

視界に映るものはぐにゃりと歪み、瞳の痙攣は全身にまで広がってしまうことを学習したせいか、

今ではこの症状がでると素直に瞼をおろす。

意識が落ちようとする寸前で、和人から「じゃあ、行ってくる」と告げられ、なんとか「うん」と

返事をしたつもりだったが、ちゃんと声が出ていたのか自信はない。頭の中では、その後に

「私も行きたかったな」と続いていたが、その頃にはすでに深い眠りについていた。

自分の体内に宿ったもうひとつの命の鼓動は医療機器を通さないと聞こえないくらい小さいが、

明日奈の心臓と共にとくん、とくんと同じリズムを刻みながら深く深く沈んでいくようだ。

明日奈が完全に眠ったのを確認すると、和人は立ち上がり、点滴のチューブに気をつけながら

腰をかがめて閉じられた瞳の上へといつものように唇を落としてから静かに病室を後にした。

 

 

 

 

 

和人と明日奈の結婚式から約四ヶ月後、御徒町の『ダイシーカフェ』には久々にいつもの

メンバーが集まっていた。《仮想世界》でもなかなか全員が顔を合わせる事は難しくなって

きていたが、今日はリズの呼びかけで半強制的な招集となっている。

社会人の集まりという事で時間もかなり遅めに設定した為、場所を提供したエギルは

かき入れ時とも言える営業時間帯をこの日ばかりは早めに切り上げ、貸し切り状態に

してくれていた。

既にリズを筆頭にシリカ、シノン、クラインは飲み物を片手に談笑を始めており、今回の

主役とも言うべきキリトの到着を待つばかりとなっている。

約束の時間まであと数分になっても現れないキリトに、時計を睨み付けながらイライラとして

いたリズの後ろで店の入り口扉の開閉を知らせるベルの音が鳴り響いた。

 

「キリト!、おっそーい!!」

 

聞き覚えのあるフレーズに出迎えられ、苦笑いとなる和人だが、こちらも「時間ちょうど

だろ」と言い返す。和人の後ろから直葉も、ひょこりと顔を出しいつもの明るい笑顔で

「こんばんはー」と挨拶をしながら入ってきた。

和人は「これでも仕事終えて、色々やってから、スグと合流して急いで来たんだぜ」と不明瞭な

説明をしつつカウンターのエギルに飲み物を注文すると、すぐさまクラインに後ろから

肩を組まれ「うげっ」とのけぞる。

一通り全員が近況などを報告し終わった頃、リズがゴホンッとわざとらしい咳払いをして

場を静めた。

 

「それじゃあ、今日の本題に入るわ……ズバリ聞くけど、キリト!、なんで私達、明日奈と

連絡が取れないの?!」

 

ビシッと人差し指を突き出され、思わずその指の進撃を押し返すように両手を並べた和人の

顔が引きつる。

 

「なんでって……まあ……」

「日本にはいるのよね?」

「……います」

「《現実世界》には……」

「います、います」

 

シャレにならない想像をすぐさま丁寧語で否定する。

その歯切れの悪い態度にイライラを再び募らせたリズは突き出した指を回収して、自らを

落ち着かせるように両手を固く握り締めた。

 

「確かに一ヶ月ほど前、明日奈から、しばらく連絡が取れないかもってメールは貰ったわよ」

 

その発言にシリカとシノンが同意を示すように頷いた。既に一ヶ月前からこうなる可能性も

考えていたのかと、改めて妻の手際の良さに和人は感服する思いだ。

 

「今までだって仕事で半月くらい連絡が取れないことはあったけど、今回はなんか違う気が

するのよ」

 

真剣な表情のリズを見て、さすがは親友と呼び合う仲だな、と感心すると同時に、自分の

大事な人にとってのその存在が頼もしくもなる。

そんな感慨にひたっていると、横にいた直葉が和人の脇をチョンチョン、とつついた。

「もう言っちゃいなよ」という催促だろう。確かに今日、この集まりに足を運んだのはみんなに

報告をするためなのだが……。いざ、となるとなかなか言い出しづらい内容であることが和人の

口を普段以上に重くしていた。しかしリズの表情を見れば、自分が躊躇などしている場合で

ないのは痛いほどに伝わってくる。

 

「心配かけてすまない。実は……」

 

そこまで言うと、その後は仲間の顔を直視しては言えない、とばかりに下を向いて言葉を続けた。

 

「明日奈の…………だ」

 

肝心の部分が全く聞き取れず、全員が怪訝な顔を突き出す。

 

「悪りぃな、キリト。よく聞こえなかったんだが……」

 

クラインが言えば、キリトは「だから」と言って繰り返した。

 

「明日奈の…………るんだ」

 

またも全員が首をかしげる。

次にシノンが苛立ったように冷ややかな声を投げつけた。

 

「もっとちゃんと言いなさいよ」

 

全員が今度こそ聞き漏らすまいと全神経を耳に集中させる。

 

「……だーかーらっ、明日奈のお腹ん中にユイの弟か妹がいるんだよっ」

 

 

 

 

 

「その時のキリトの顔、アンタにも見せてあげたかったわ」

 

思い出したように笑うリズの笑顔はとても素直で嬉しそうだった。元来照れ屋な和人のことだ、

妻の妊娠発表というのは、かなりの羞恥プレイだったろうと容易に想像がつく。

 

「それは、まあ、見たかった気もするけど……無理だよね」

「そうよね〜、アンタ、まだ明日奈のお腹ん中だったもんねぇ」

 

一変してケタケタと笑うリズは大きめに切り崩したシフォンケーキにぐさり、とフォークを

突き立てて一口で頬張る。リスのようにモグモグと咀嚼をした後、ごくんっと胃に収めれば

満足げに頷いた。その食べっぷりを見て和真も僅かに目を細める。

しかし紅茶を一口含んだ後のリズは表情を引き締めて続きを語った。

 

 

 

 

 

明日奈の妊娠……その報告は一瞬にしてその場を狂喜させた。

しかしその喧噪が収まってみれば、皆が一様に訝しげな表情となる。

代表として今回の発起人であるリズがその疑問を口にした。

 

「明日奈の妊娠と連絡がとれない事って、どういう関係があるの?……つわりが

ひどくて一日中横になってる、とか?」

「……まあ、当たらずとも遠からずってトコだな」

「そこまで言ったんだからじらさずにさっさと教えなさい」

 

スパッと射貫くような視線をキリトに向けたシノンの顔には明らかに不機嫌な色がのっている。

シノンにとってもアスナはかけがえのない友達なのだ。口にはださずとも随分と心配をして

いたに違いない。

 

「ああ……それが……うん……ええっと……」

「明日奈さん、入院してるんですよ」

 

見ていられない、といった風に直葉が横から口を挟んだ。予想外の告白に桐ヶ谷兄妹以外の

メンバーが一瞬言葉を失う。その間に病室のベッドで横たわっている明日奈の姿を思い

浮かべたのか、キリトが沈痛な面持ちで説明を始めた。

 

「明日奈が入院したのは半月ほど前だ。SAO時代に世話になった所沢の病院にいるから、

今はオレも実家から仕事に行ったり病院に寄ったりしてる。半月前に突然、家のリビングで

倒れて……今思えばその場にオレがいて本当に運が良かった。その少し前から明日奈は妊娠に

気づいていたようなんだけど、まだちゃんと産院で確認してなかったからオレにも教えてくれて

なくて。けど倒れる前から体調は良くなかったんだろうな。だからリズ達に連絡が取れなくなる

かもって知らせたんだと思う。来週には妊娠三ヶ月に入るところなんだけど……」

「ちょっと待って」

 

シノンが変わらず固い表情のままキリトの話を止めた。

 

「個人差もあるだろうけど、やっぱり入院の原因って……」

「いや」

 

最後まで言わさずに今度はキリトが言葉を重ねる。

 

「入院するほど体調が優れないのはつわりじゃなくて、とにかく貧血がひどいんだ。今は

ベッドから起き上がることも医者から止められてて……いや止められてなくても無理だな。

意識がハッキリしてる時間も短い。横になっていても頻繁に目眩のような痙攣を起こすんだ。

まともに食事も摂れないから随分と細くなってしまったよ」

 

ここに来る前に握っていた明日奈の手の存在を再現するように自らの手を見つめて、何回も

空を掴むように動かしている。

 

「そんなになっても気にするのはオレとお腹の子のことばかりで……ほんと、明日奈らしいよな。

そんな状態だから、しばらく連絡は取れないと思う」

 

細く震える声でシリカが尋ねた。

 

「お見舞い、行っちゃダメですか?」

 

その言葉に僅かに和人が微笑む。

 

「有り難う。でも本当にほとんど眠ってるんだ。それに……」

「私達が行ったら、明日奈、疲れちゃうわよね」

 

言いたかったけれど、言い出せずにいた言葉をリズが引き受けてくれた。

 

「すまない、もし産み月までこのままだと体力的に普通の出産は無理らしくて。まあ

安定期に入って落ち着けば退院できる可能性もあるから、そうしたら会いに来てやって

くれ」

 

そう力なく笑うキリトに、その場の全員がやるせない気持ちを抱いたが、そんな空気を

クラインの陽気な声が勢いよく吹き飛ばした。

 

「でもよう、とにかく楽しみだよな。男か女か……それにキリトが父親になるんだぜ」

 

こういう時のクラインの無理矢理の明るさはみんなを和ませる。

それに続いてリズも笑顔を振りまいた。

 

「そうよね、おめでたいことなんだから」

 

そして、後は全員でワイワイとキリトを囲んで育児談義に花が咲いたのだった。

 

 

 

 

 

「……母さんの状態、そんなにひどかったんだね」

「そうね……結局貧血はだいぶ良くなったんだけど、引き替えるように今度はつわりがひどく

なって、妊娠期間中、半分は病院のベッドにいたことになるわ。退院しても無理をしないよう

病院に近いキリトの実家に世話になってたし。いつ会いにいっても顔色が悪くてね、私達も

随分心配したものよ。とどめは出産の時」

「まだ何かあるの?」

「そう。出産自体は明日奈の強い希望もあって、なんとか普通分娩だったんだけど、その時の

出血がひどかったらしくてアンタを産み落としてそのまま気を失ったの。

キリトがそりゃあもう見ていられないほど辛そうな顔で明日奈の傍から離れなくてね。私達が

交代するって言っても、目覚めた時に傍にいたいからって……結局目覚めたのは丸一日経って

から。それもキリトとほんの少し言葉を交わして、また眠っちゃって。でも気を失っている

わけじゃないからキリトも安心したのね、私達が駆けつけた時は二人して手を繋いだまま

寝てたわよ」

 

その時の情景を思い出したように軽く笑うリズの向かいでは対照的に和真が俯き加減で表情を

固くしていた。

 

「父さんてさ……たまに母さんが体調崩して寝てると、ずっと手を握ってるんだよね」

「……私も詳しく知らないけど、多分ふたりの絆なんだと思う」

「……だからなのかな、オレと芽衣の歳が離れてるのは。そんな妊娠や出産だったら、すぐに

二人目が欲しいとは……思わないよね」

 

自嘲気味に口元を歪ませた和真にリズは正面から向き合ってその瞳を見つめる。

 

「まあキリトは明日奈の身体の心配もあっただろうけど、ふたりの一番の心配はアンタよ」

「オレ?」

「そう、二人目を妊娠したとして、また同じような状況になったら、まだちいさいアンタは

何ヶ月も母親と離れて暮らさなきゃいけない。キリトの負担も考えたでしょうけど、何より

明日奈はそれが嫌だったの。だから二人目はある程度アンタが大きくなってから、って

思ったのよ」

「そっか……」

 

和真がホッとしたように柔らかく微笑んだ。

 

 

 

 

 

(寒い……一体ここはアインクラッドの何層なんだろう)

周囲も薄暗くて、周りの状態が全くわからない

そうだ、とストレージにランタンがあったことを思い出す

それを取りだそうとした時、ふと左手の指にある指輪が目に入った

(《燭光》の指輪があったんだわ)

それに息をふきかけようとして、顔の近くまで持ってくる

(あ……違う……この指輪は……なんの指輪だっけ)

思い出そうとして動きが止まってしまった

(いけない……ちゃんと登らなくちゃ……

登る?……そうだ、しっかり登らないと、寒いけど、ここを登れば、きっと次は

温かいフィールドにでるはず)

既に何回も登っている螺旋階段

時々誰かと一緒に登っていた気がする

黒いコートを着て、背中に長い剣を携えて……その背中をいつも追いかけていた……

いつも私の前をいく背中が歩みを止めて振り返る

手が差し出される

その手の薬指には私と同じ指輪があって、私は嬉しくなってその手をとった……

 

「……キリ……ト……くん……」

「明日奈っ」

 

目が覚めるとそこは病院のベッドの上だった。

私が伸ばしたはずの手は、すでにそれ以上の温かさで包まれている。

すぐそばから涙声がそっと耳に触れてきた。

 

「……明日奈」

「手……握って……て……くれた……?」

「ああ……いつだって、そうだっただろ」

「うん……そう……だね」

 

なんとか笑おうとしたけれど、全然力が入らない。

声も思うように出なかった。

握っていると思っていた自分の手も、かろうじて彼の手に指をからめているだけだ。

そして彼の顔は疲れ切っていた。

 

「心配……かけて……ごめん……ね……あ……赤ちゃんは?」

「元気だよ。ちゃんと新生児室で寝てる」

「よかった……早く……会いたい……な……」

 

そう言って私は眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

玄関から明日奈の声が聞こえた途端、和真は立ち上がってリビングのドアに向かった。

和真が手を伸ばすより先にドアが静かにスライドし、少し息の上がった明日奈が駆け込むように

入ってくる。

 

「ごめんね、リズ、っと、ありがとう、和真く……えっ?、なになに?、どうしたの?、

和真くん?」

 

リビングに入ってくるやいなや、目の前に現れた和真が明日奈に抱きついたのだ。

既に明日奈より高い身長は父親の和人と変わらず、教わったわけでもないだろうに、その

触れ合い方は和人と間違えそうになるくらいよく似ている。

 

しょっちゅう見てるから、目で覚えちゃったのかしら?

 

記憶をたどれば和真に抱きつかれた事など、彼が小学生の時以来だ。

和人とよく似た触れ方と久しぶりの息子からの抱擁にしばし身を委ねてしまう。

すると頭の上からこれまた和人そっくりの小さな声がする。

 

「りっちゃんは?」

「うん、ちょうど途中で直葉ちゃんに会えたから……」

「なら、もうちょっとこのままで大丈夫だよね」

「え?……っと、それがね……ちょうど帰ってきた時、家の前で……」

 

途端に気まずい声を出した明日奈の後ろから足音が近づいてきて

 

「リズ、来てるんだっ……て……え?…………和真!!」

 

ノーネクタイではあるがスーツ姿の和人がリビングの入り口を塞いでいる二人の状態に

仰天の声をあげた。

母親より少し遅れてやってきた父親に、和真は視線だけを向ける。

 

「あ、お帰り、父さん」

「お、お、お前っ、明日奈から離れろっ、抱きついていいのは十歳までって言ってあった

だろっ」

 

それを聞いた明日奈が驚いて目を丸くした。

 

「和真くん、そんな事、お父さんから言われてたの?」

「ん、まあね。知らなかった?」

「知りませんでした」

 

抑揚なく言いながら横目で和人を睨み付ける。

 

「うっ……だってそうだろ。十歳なんてもう男だぞ。半分大人なんだから。オレ以外のヤツが

抱きついていいわけ……」

 

次第に声に勢いがなくなっていく。

リズはあきれた口調で久々の再会の第一声を放った。

 

「そんな事を十歳の息子に言ってる方がよっぽど子供よ、キリト」

 

そしてあきれ顔のまま挨拶を続ける。

 

「久しぶり、お邪魔してるわ……で、アンタはなんでこんな早く帰宅したわけ?」

「あ?……ああ、オレは資料を取りに帰っただけで……また戻るんだけど……一体なんで

こういう状態になってるんだ?」

 

不機嫌さを隠そうともせずに問うと、明日奈はしがみつかれた状態のままなんとか首を

ふるふると横に振った。明日奈は偶然和人と家の前で鉢合わせをしたので、それは当然と

判断し、視線をリズへと移動させる。

リズは一口紅茶を飲むと、しばし明日奈に抱きついている和真を眺めてからその奥に立ち

尽くしている和人へと苦笑いを浮かべた。

 

「んー、明日奈が出かけてる間に和真が生まれた時の話をしててね……」

「ああ……」

 

納得したように和人が右手でおでこを押さえた。

 

「だから聞かせたくなかったんだ」

 

明日奈が僅かに首を傾け不思議そうな表情をすれば

 

「だって、あの時の事を知れば、絶対、コイツ、今以上に明日奈に入れ込むだろっ」

 

吐き捨てるように断言する和人に、ますますわからない、といった風で明日奈が更に疑問の

眼差しを向ける。

 

「そこは……オレの息子だから」

 

途端、合点がいったのか明日奈の目元と口元が苦笑いを作った。要は自分と同じ反応を取る

だろう、と言いたいのだ。今の状態がまさにそれを証明している。

明日奈は目の前の息子に、ふっ、と力を抜いた息を吐き出してから優しい笑みを浮かべ、

ゆっくりと言葉をかけた。

 

「和真くん、母親なら当たり前だよ」

 

明日奈の耳元で小さく、しかし熱のこもった声が彼女の存在そのものに語りかける。

 

「それでも……ありがとう、母さん」

 

その様子を見ていた和人が、隠すようにひとつ息を漏らしてから、殊更大きな声で宣言した。

 

「おい、和真、オレが部屋から戻ってくるまでだからな」

 

それまでは明日奈に抱きついているのを許可してやる、と言外に告げているのだ。

きっとダッシュで資料を取りに行くに違いない和人からタイムリミットを設定され、

和真はこれみよがしに明日奈を抱きしめた両手に力を込め、父親に対してニヤリと笑って

了解の意を示した。

それを見た途端、チッと舌打ちをして足早に自室へと向かう和人だ。

 

 

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

息切れを隠すそぶりさえ見せずに自室を往復した和人の姿に、再び明日奈は苦笑いをし、

和真とリズはげんなりとした顔を向けた。

和真から解放された明日奈は、そのまま「お父さんのお見送り、してくるわね」と言い、

二人で玄関へと向かう後ろ姿を見送った和真はリズの向かいのソファへと戻ってくる。

一応「俺も」と父親の見送りに同行すべく、リビングを出ようとしたのだが、和人から

「お前はそこでリズとバカ話でもしてろっ」と言われたので、素直に従うことにしたのだ。

バカ話相手に選ばれたリズは愉快そうな顔で和真に話しかける。

 

「かなり拗ねてたわね……見送り、本当に行かなくていいの?」

「いいんだ。多分すぐには出かけないよ。今頃、玄関横のシュークローゼットにでも

母さん引っ張り込んで、きっとさっきオレが抱きついた分、時間かける気だろうしね」

 

なるほど、父親の行動パターンなど、DNAを受け継いだ息子にはお見通しというわけだ。

その逆も然りだったように。

 

「そうだ、リズさん。今度、乳製品が完全に大丈夫になったらカフェラテいれてあげるよ。

オレ、カフェ・アートできるんだ」

「……なんでそんなスキル持ってんの?」

「んー、文化祭で出せたらウケるかなって思ってやってみたら意外とハマってさ。女子は

好きだろ、ああゆうの。お陰で千客万来だった」

「……アンタって子は……キリトは消極的で無自覚だけど、アンタは積極的な無自覚ね」

 

和真の周囲の女子の苦悩をかつての自分にダブらせるように察したリズは、これもDNAって

わけか、とため息をつく。

 

「いやいや、これは無自覚を装った計画的なスキル構築だから」

 

何を目的としたレベリングなのか?、を問おうと口を開きかけた瞬間、リズはあの城で白を

基調とした騎士装の親友がその装いにいささか不似合いなバスケットを持ってウロウロと

していた光景を思い出す。

「だから、わざわざ偶然ばったり、なんて図ってないで、普通に渡してきなさいっ」と自分の

工房から背中を押して追い出した時のアスナもこんな顔をしていた気がしたからだ。

彼女が最強ギルドの副団長という激務をこなしながらも料理スキルという攻略には一欠片も必要と

しないスキルをコンプリートした理由のひとつは……要するに今の和真と同じく、何か目的が

あって、ではなくて誰か標的となる人物がいるのだ。

 

この子がカフェ・アートを披露して気を引きたい相手かぁ……

 

アプローチの仕方はアスナ寄りだが、手中に収めた途端の執着ぶりがキリト寄りだったら、と

思うと、それはそれで相手のご愁傷様ぶりが気の毒になる。

キリトとアスナの場合、多分お互い惹かれ合っていたのだろうが、自分の気持ちを行動に移した

のはアスナからだ。だが両者共に認め合ってからのキリトが見せたアスナへの固執は周囲が

戸惑うほどだった。

まあ、なかなか周りに気取られないようにしていたようだが、同じくらいの気持ちを明日奈も

抱いているのはリズを始めとしたいつものメンバーにはバレている。

あの城での二年間を少年少女と評される年齢で常にトッププレーヤーとして存在し続けた二人

だからこその依存度かもしれない。

《現実世界》で生活しつづける常人には理解されない狂気にも近い想いだが、わかってやって

欲しい、とは言わない、そんな二人を許してやって欲しい。

そして、そんなキリトなら幼い息子に言った言葉も明日奈に関しては冗談ではないのだ。

 

「それにしてもキリトったら、母親に抱きつくな、なんて普通、息子に言うかっつーの」

 

歳を重ねてもその変わらぬ執着心に呆れるやら、和真の気持ちを考えると腹立たしいやらだ。

自分を思いやってくれていると感じられる物言いに和真が答える。

 

「確かに父さんからは、母さんに抱きついていいのは十歳まで、って言われてたけど、それだけ

じゃないんだ。十歳すぎたら今度は大好きな人を守れるようになれ、って」

 

和人は十五歳の時にキリトとして命をかけて守りたい人と出会った。それをふまえての言葉

だったのだろう。なるほどね、と理解しつつ後半部分を明日奈にわざと告げていないだろう

和真は、和人の執着心を本能で感じながらも、納得はしていないのかもしれないと危惧する。

どのみち母親が息子のモノになるなんてことはないのだから、さっさと自分のモノになってくれる

相手を探した方が健全だろう。

親友の彼氏が自分の彼氏になってくれる気配すら思い出にないリズは、和真に問いかけた。

 

「で?……今現在、和真には守りたい人っているの?」

「うーん……父さんに言われた時は母さんだって思ってたけど……まあ、ほら、母さんには

父さんがいるしね。だから今のオレが守りたい人は……ナイショ、かな」

 

ちゃんとわかってるんじゃない。

カフェ・アートの標的だろうと直感するが、そこは大人の余裕で含み笑いだけを浮かべた。

 

「ふーん……まあ、それ以上は聞かないでおいてあげるわ」

 

 

 

 

和真の予想通り「急がなくていいの?」と問いかける明日奈をシュークローゼットへと半ば

強引に引き込んだ和人は、相変わらずの細腰に両手を回し、ぴっちりと身体を密着させていた。

毎朝の「いってきます」のキスはアメリカで生活していた頃から欠かしたことはないが、今は

朝でもないし、まだすぐに「行く」気もないので、思うままのキスが当然とばかり、抱きしめた

途端、明日奈の唇を塞いでいる。

さすがにそれ以上の行為はマズい自覚があるので、お互い自身と相手を煽らないよう自制しつつ、

ギリギリの線で濃厚な口づけを終えると、和人が先ほどの和真のより熟練された抱擁で

明日奈に触れた。和真とは断然に経験値が違うのだ。明日奈のラインも知り尽くしている。

どこに、どの角度で触れればより密着できるかは、お互いの身体が覚えていた。

そうやって、互いの触れ合いに充足度を実感していると、明日奈の耳元へと少し震えて

いるような声が落とされた。

 

「……産んでくれた事を感謝できる相手がいるってのは……いいよな」

「なら……今度のお休み、一緒にお墓参りに行きましょう」

「命日でも彼岸でもないのに?」

「そんなの関係ないわ。会いたいな、って思ったら行くべきよ」

「……そうだな」

 

お互いがお互いをギュッと抱きしめた。




お読みいただき、有り難うございました。
『SAOP』第4巻で出てきたアイテムを登場させた(と言ってもほぼ一瞬!)、
という単純理由で投稿作品に選びましたが、イレギュラー投稿にしては随分な内容量
ですね……私にしては……。正直、数日後のレギュラー投稿作品の方が短い……かも、
です……多分……すみません。
将来、ご自分、もしくは大切な人が妊婦さんになられる方へ……
明日奈の妊娠〜出産の状態は私が知っている症状の全てを三割ほど大げさにして
背負わせてしまったものなので、実際はここまで大変にはならないと思います。
おどかしてすみません。
年齢的にリズも二人目の妊娠でしょうか?……三人目かな??
正式な名前すら設定しなかった直葉の娘の「りっちゃん」も一人目ではないでしょう。
ちなみに「リーファ」の「リ」の字をいただいて「りっちゃん」です。
だらだらと長い後書きを書いていて気づきました。
今回の登場人物、最多です!(セリフない人含む)
では、次回(数日後)は予告通り二本立てです。


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癒やしのぬくもり

直葉から見た和人と明日奈のお話です。
明日奈の体調がすぐれない話が多いので、今回は珍しく逆にしてみました。


昨日から静かに降り続ける雨の音が心地よかった。

気を止める程の音量でもなく、かといって心もとなげの不規則なリズムでもない。

いつの間にか耳に入り込んで微かな日常の雑音だけを隠し、心を落ち着かせてくれる、

そんな雨音だった。

こんな雨は嫌いじゃない。

《ALO》だと天候設定が雨の日は羽を広げる気がしないので、あまり好きでは

ないけど……でも、そんな時は兄のプレイホームで美味しいお茶とお菓子をいただいて

お喋りに花を咲かせるのが恒例となっていた。

もちろんウチの兄はペチカの前の定位置となっている揺り椅子に沈み込んで、私達の相手

なんかしてくれない。

お茶とお菓子の準備をして私達をもてなし、その合間に兄の面倒を甲斐甲斐しくみるのは

プレイホームの清楚で美しい女主人……兄の恋人だ。

しかし、ここは《現実世界》……兄の世話を焼くのは妹である私の役目。

まあ、この役目もあと一ヶ月もせずにお役御免となってしまうけど。

その期限を前にして、なんと、うちの兄は……風邪を引いたのだった。

 

「嗚呼……洗濯物が乾かない……」

 

窓からぼんやりと長雨を見つめながら私、「桐ヶ谷直葉」は今日何度目かのため息をついた。

雨は嫌いではないけど、洗濯物の乾き具合とはまた次元の違う話だ。

風邪で寝込んでいる兄の衣類やタオルの乾きは早ければ早いほど助かる。

その兄である「桐ヶ谷和人」はこの梅雨があける頃には、アメリカのカリフォルニア州にある

サンタクララの大学へ進学することが決まっていた。

しかも《ALO》でもリアルでも恋人である、あの人と一緒に。

サンタクララとの時差は17時間……渡米する頃はサマータイムの16時間だろうか。

もう《ALO》で雨が降っても、あの22層の森の家にお邪魔する事は出来ないかも

しれない。

少しずつ自分も、自分を取り巻く環境も変わっていく。

わかってはいるけれど、兄と二人、《ALO》で冒険の旅をして、新たに実装された浮遊城へ

あの人に手を引かれて足を踏み入れ、たくさんの人達と出会い、色んな思い出を共有することが

できたこの二年ほどが、あまりに楽しくて、ついこの時間がずっと続けばいいのに、と

願ってしまう。

それでもタイムリミットが近づくにつれ、兄とあの人は留学の為に、時には一緒に、時には別々に

渡米をして準備を進めているので、既に森の家で二人と一緒に過ごすことは難しくなっていた。

 

「あとは乾燥機でなんとかなるかな……」

 

多少生乾きでも、タオルなどは仕上げに少し乾燥機をかけた方がふっくらと仕上がる。

熱をだした兄の為に新しいタオルを持っていった方がいいだろうか?、と思いながら窓辺を離れ、

二階の階段へ向かおうとしたその時、玄関のチャイムが鳴った。

 

「はーい」

 

単身赴任で日本に不在の父、仕事で忙しく不規則に家に戻ってくる母、頼りの兄が二年ほど

入院していて家に居なかった時、防犯を考えてドアチャイムとドアを新しくした。

「近頃物騒だから、ちゃんとインターフォンのモニターを確認してからドアを開けてね」と母から

再三言われていたが、今はそのまま玄関に向かう。

玄関扉の格子の間から磨りガラスごしにもわかる程見慣れたスッと姿勢の良い立ち姿に

兄と同じ配色の制服、栗色のロングヘアが確認できたからだ。

ダメ押しに「ごめんください」と鈴のような声が聞こえる。

ガチャッと鍵を解除し、ドアを開けると、花の蕾がほころぶような笑顔で兄の彼女が立っていた。

 

「こんにちは、直葉ちゃん」

「こっ、こんにちは、明日奈さん……どうしたんですか?」

 

普段でも到底太刀打ちできる気がしない自分の笑顔が、今は鏡で見なくてもわかるほど

引きつっている……絶対。

それにしても何の前触れもなく、突然一人で我が家を訪れるのは、礼儀正しい彼女にしては

珍しい振る舞いだ。

それとも兄と約束があって、それを兄が忘れていただけだろうか。

もちろん、そんな事は些細なことで、普段なら気にも止めないのだが……。

今日は……今日に限っては兄から絶対厳守の指令を帯びている。

私の表情から怪訝な色を感じ取ったのだろう、彼女は視線を落とし、両手で持つカバンの

取っ手を身体の前でギュッと持ち直すと、微笑みに戸惑いを混ぜながら再び鈴を転がした。

 

「……あの……キリトくんが、体調を崩したって……聞いたから……」

「え?……ええっ!?……なんで、それを……」

 

兄からは、絶対明日奈さんには知らせないよう、きつく言われていたのに。

まあ、ここまできたら嘘を突き通すのも追い返すのも無理に違いない。

だいたい、そういうの得意じゃないし。

だって元気な姿を見せようにも、当の本人がベッドから起き上がれないのだ。

ごめん、お兄ちゃん……心の中で手を合わせ、あっさりと(まず間違いなく)未来の

兄嫁を家に招き入れた。

 

「とにかく、上がって下さい。雨の中、すみません……タオル使いますか?」

「うん、ありがとう……でも、先にキリトくんの様子を……部屋に行ってもいい?」

 

よく見れば、少し息が上がっている。

多分駅から全速力とはいかないまでも、一生懸命来てくれたのだろう。

兄の部屋の場所は既にご存知なので、そのまま彼女だけを二階に促した。

 

「はい、とりあえず熱だけみたいで、薬飲んで寝てますから、先に行っててください。

私、タオルと飲み物、持っていきますね」

 

彼女は再び「ありがとう」とだけ言うと、タンタンタンと急ぎ足で二階に上がっていった。

 

 

 

 

 

トレイにタオルと飲み物を乗せて兄の部屋をノックする。

兄は寝たままなのか、明日奈さんの「はい」という小さな声が聞こえた。

音を立てないようゆっくりとノブを動かし部屋に足を踏み入れると、熱のせいで赤い顔を

して寝ている兄のベッドのすぐ横にキチンと正座をした明日奈さんがこちらを振り向いている。

すぐそばのローテープルにトレイを置き、両手でタオルを手渡した。

声は出さずに口の動きで「ありがとう」と伝えてくれる。

しっとりと濡れた毛先にタオルをそっと押し当てる所作を繰り返していると、明日奈さんの

髪が匂い立ち部屋に満ちた。

その香りが届いたのだろうか、兄が身じろぎ、瞼をうっすらと開け、掠れた声を出す。

 

「ん……あれ?、明日奈?」

 

すぐにタオルを手放し、兄の元に身を寄せる明日奈さんの後ろから、私もしゃがみ込むように

して兄をのぞき込んだ。

熱は今朝計った時より多少は下がったが、まだ苦しそうな息づかいは続いており、声も

枯れているので、兄の発する言葉は聞いていてかなり痛々しい。

本人も声を出すのは辛いのだろう、明日奈さんを見て、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに

眉を寄せ「どうして?」とだけ聞いて、視線を私に移してくる。

私が連絡をしたのか、と疑っているのだろう、慌てて首と手をブンブンと振って

「私じゃないよ」とアピールすると、明日奈さんがふんわり微笑んで兄の額に手を当てた。

 

「学校でね、偶然、佐々井くんに聞いて」

 

そう言いながら、額を中心に兄の髪を手で梳いている。

兄は一瞬げんなりとした顔になったが、すぐに明日奈さんの手の感触が気持ち良いのか、目を

閉じて僅かに笑みを浮かべ、ほぅっ、と軽く息を吐き出すと、再びすがるような眼差しを彼女に

向けた。

 

「ごめん、……明日奈だって……忙しく……してるのに」

 

通える日は学校に行き、同時進行で留学の手続きや渡航準備を進めている兄のスケジュールは

ハードだった。しかも一度海の向こうを往復すれば時差があるので帰国後は体力的にも

キツい日が続く。それを明日奈さんも同じようにこなしているのだから兄にしてみれば、

学校に行った日はそのまま家に帰って休んで欲しいに違いない。

 

「大丈夫だよ」

 

明日奈さんは手の動きを止めることなく再び瞳を閉じた兄に問いかけた。

 

「キリトくん……頭、痛い?」

「……ああ、少し」

 

気づかなかった。

今朝、なかなか起きてこない兄にしびれを切らし、部屋に起こしに行った時は既に

赤い顔をし、苦しそうな息づかいでベッドに倒れていたのだ。

すぐに熱を測り、病院に行くことを勧めたが「薬を飲んで家で寝ていれば

治るから」と「それと明日奈には絶対知らせるな」しか私には言ってくれなかった。

 

「あの、明日奈さん、なんでわかったんですか?」

 

思わず聞いてしまった……まさかこれも愛のなせるわざ、というやつなの

だろうか?

明日奈さんは兄の額に手を当てたまま、私に振り返り、ニッコリと微笑む。

 

「こうやって、こめかみのあたりを触ると和人くんの表情が緩んだから……頭痛の時って

ここを押すと、ちょっと気持ち良いでしょう?」

 

明日奈さんは空いているほうの手の人差し指で自分のこめかみを指した。

 

「それに、熱のある時って頭痛も併発することが多いし」

 

兄の表情が緩む……?

ダメだ、さっぱりわからない。

普段から明日奈さんが一緒の時の兄は顔が緩んでいる、とは思う……思うが、今、熱に

浮かされた表情の中でその変化に気づくのは……はっきり言って自分には無理。

しかも、そんな風に兄のおデコとか髪の毛とか……明日奈さんみたいに優しくさわれないし。

私自身、熱をだすことがほとんどない健康優良児なので、頭痛を伴うなんて経験ゼロに

等しい……やっぱりかなわないな、と思うと同時に、この人が一緒なら、の安心感も生まれる。

 

「キリトくん、他に痛いところ、ある?」

「……ん……喉が……かなり……」

 

言ってよ!、お兄ちゃん!!

なんで、そう、明日奈さん相手だとポロポロでてくるのっ。

学校休んでまで朝から看病してる私の立場はどうなるのよっ、と病人相手に半ば本気で怒りを

覚えてしまった。

まぁ、学校を休んだのは私の自己判断なんだけど。

私の両手の拳がプルプルと震えているのに気づいた明日菜さんが、困り笑いを浮かべて

いつものように、ほわんっと言葉をかけてくれる。

 

「きっと、直葉ちゃんに心配かけたくなかったんだよ」

 

はぁ〜っ、なんだか一気に力が抜ける気がした。

 

「ハチミツとショウガ入りのアイスティー作ってきたけど、飲む?」

「うん」

「白桃のジュレもあるけど……」

「うん」

 

即答だし……私には「何も食べたくない」ってスポーツドリンクと薬を飲んだだけのくせに。

……「私には」と思うのは、やっぱりまだどこかで明日奈さんをライバル視しちゃう気持ちが

あるのかな……それとも、家に居る時の兄は私が一番わかってるって思いたいのかな……。

頭の中がグルグル回りだしたところで「あれ?」と気がついた。

 

「明日奈さん、一旦自宅に戻ってから来てくれたんですか?」

「うん、だからちょっと遅くなっちゃったんだけど。少しでも口に出来れば、と思って

作ってきたの。でも直葉ちゃんの看病のお陰で、ちゃんと食欲もあるんだね」

 

食べ物を口にする意欲を聞いて、少し安心したように明日奈さんが声をかけてくれるが……

その労いの言葉がなんだか素直に喜べない……いいえ、私から受け取ったのはスポドリ

だけなんです、なんて……言えないよう。

喉が痛いって言ってくれれば、私だって…………のど飴くらい持ってきたのに。

そう言えば、小学生の時。やっぱり兄が熱をだして学校を休んだことがあった。

母はその時も忙しくて、でも同じ小学生の私が学校を休んで看病が出来るばすもなく、

家で一人で寝ている兄が心配で、学校が終わった途端、全力で走って帰ったっけ。

寝ている兄に「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だよ」って、全然大丈夫そうじゃないのに答えて

くれた。それから少しして玄関からダダダッと足音がしたと思ったら、母が勢いよくドアを

開け、笑顔で「和人、桃の缶詰食べる?」と片手にスーパーの袋を持ち、息を切らしながら

部屋に飛び込んできた光景を思い出した。

 

「明日奈さん、桃のジュレって……」

「うん、今日は急いでたから缶詰の桃で、喉にいいっていう羅漢果のお砂糖と一緒に

軽く煮て、潰してから冷やし固めてきたんだけど……」

 

やっぱり熱の時は桃なのかぁ……しかも明日奈さんは一手間掛けて……私なら母と同じで

缶詰のままかも。

短時間で仕上げてきたので、出来上がりに自信がないのだと言う。

明日奈さん的に及第点なら、間違いなく美味しいに決まってるのに。

 

「なら、私、ストローとスプーン、持ってきます……あ、あと、そろそろアイスピローを

取り替えようかと……」

 

私の言葉を聞いて、すぐに明日奈さんは兄の頭に敷いてあるアイスピローの温度を手で

確かめると、「そうだね……」と言ってから膝立ちになり、兄にかがみ込みこんだ。

兄は変わらず目を瞑ったまま、少し早い呼吸を続けている。

 

「ちょっと、ゴメンね」

 

その細い手をそっと頭の下に差し入れ、まるで自分の胸元に抱くようにわずかばかり兄の

頭を持ち上げると、素早くピローを引き抜き、静かに元の状態に戻す。

見ているこっちが赤面しそうだった。

朝から既に二回ほど取り替えているが、私の場合は「アイスピロー取り替えるよ」と言えば

兄が自主的に頭からはずし、私に寄越していたのだ。

明日奈さんに抱かれた時の兄の安らいだ表情といったら……。

そんな兄の表情を真上から見つめる明日奈さんもまた慈愛に満ちた笑みを浮かべている。

兄の頭に触れた手はそのままゆっくりと乱れた髪を整えるように全体を梳かし、最後に

首に張り付いた短いそれをはらうと、すっと兄の肌から離れた。

そのまま兄の上から去ろうとした明日奈さんがなぜかピタリと動きを止める。

 

「???」

 

明日奈さんの栗色の髪の毛をいつの間にかうっすらと目を開けた兄が細い束で握っていた。

 

「お兄ちゃん!?」

 

それを自分の鼻先までもっていくと、再び目を瞑って深く息を吸い込む。

 

「外、雨?」

 

低く小さい声で、短く単語だけを呟く。

 

「……うん、急いで来たから、ちょっと濡れちゃって……」

 

そう言えば、明日奈さんの髪の毛……タオルドライの途中だった。

 

「明日奈の髪の……生乾きの匂い……シャワーの後と同じだな」

 

 

 

「………………キ、キ、キ、キ、キリトくん!!!!!」

「………………お、お、お、お、お兄ちゃん!、なっ、なっ……何言っちゃってんの!!!」

 

病人の部屋だということを一瞬忘れ、私も明日奈さんも大声を上げてパニック状態に陥る。

兄の方を向いている明日奈さんは耳しか見えないけど、それさえ真っ赤に色づき、全身を

硬直させていた。私の顔も負けず劣らずの朱に染まっているはずだ。

そんな二人の顔色など兄の閉じた瞳には映っていない。

 

「肌の匂いと、一緒に嗅ぐと、すごく……」

「わぁーーーーーっ!!!!!」

 

これはもう、兄の言葉が耳に入るのを自分の叫び声で遮断するしか思いつかない。

と同時に明日奈さんは両手で兄の口を塞いでいた。

それほど力は込めていないようで、手の中で兄の口がモゴモゴと動いているのがわかる。

次にゆっくりと私に振り返った明日奈さんはトマトように真っ赤な顔で、瞳にうっすらと涙を

浮かべ、半泣き声で言葉を絞り出してきた。

 

「……直葉ちゃん……聞かなかったことに……して」

「……はい」

 

かつての《あの城》では夫婦だったんだし、《現実世界》に生還した後もラブラブなのは

知ってたし、今度は海外で一緒に生活をするんだし、そういう関係である事は承知していた

つもりだったけど、実際、兄の口からあんな言葉を聞かされると……ずっしりと実感してしまう。

なんだかオトナの関係と言うか……年齢的にはそれ程変わらないはずなのに、二人は随分先を

一緒に歩いてるんだと感じると……その距離が少し羨ましいような淋しいような。

甥っ子か姪っ子の顔が見られる日も、そう遠くないのかもしれない。

二人の子供だったら、どちらにしてもキレイな顔の子だろうな。

まだ見ぬ赤ん坊の顔を想像していると、未だ恥ずかしさが収まっていない明日奈さんが話題を

変えたいのだろう、少し早口で話しかけてきた。

 

「そ、それと、直葉ちゃん、小さい保冷剤ってある?」

「この前いただいたケーキのやつが、確か冷凍庫に……」

「うん、それで大丈夫。熱を下げるのに首の後ろ冷やすのもいいんだよ」

 

説明しながら兄の手に触れ、何気なくを装って自分の髪の毛をそっと引き抜いている。

 

「なら、それも持ってきますね」

「直葉ちゃんひとりじゃ大変だから、私も……」

 

明日奈さんの手が兄のそばから離れようとした瞬間、兄の両腕が伸びて、彼女の細い手首を

捕らえ、グッと自分に引き寄せた。

 

「きゃっ」

「明日奈は……ここに……いて」

 

明日奈さんがまたもやフリーズ状態に陥る。

兄の薄く開いた目はまるで捨てられてしまう仔ネコのような眼差しで、このまま

会えなくなる事を予感するように、眉毛はハの字に曲がっていた。

 

あの、兄が……甘えてる

 

熱のせいだとしても、決して、私には示してくれない表情と言葉だ。

《SAO》から生還して、明日奈さんを取り戻して、確かに兄は変わった……変わったという

より、昔に戻ったかのようだった。

私にも話しかけてくれるようになったし、笑いかけてくれるようにもなった。

時には頼りにもしてくれた……でも、こんな風に甘えてくれることは一度もなかった。

そりゃあ、私は年下だし、兄は男で、私は女で……でも、きっとそんな事は関係ないのだ。

兄には甘えられるぬくもりが既に、すぐ傍にいつもあるのだから。

「私には」なんて考えるだけ無駄だった。「明日奈さんだから」兄は全てを委ねられるのだろう。

いつか私にも「私だから特別」と思ってくれる人が、「私にとって特別」と思える人が

現れるだろうか。

 

「お兄ちゃんの傍にいてください。私、一人で大丈夫ですから」

 

そう言ってそそくさと部屋を出ようとする時、後ろから「困った人ね」と明日奈さんの

小さいけれど嬉しそうな声が聞こえた。

 

 

 

 

 

その夜、時計の針が十時を回ろうかという時、玄関で鍵の開く音がしてから「ただいまー」

という聞き慣れた声がした。

すぐに私がいるリビングに母が顔をだす。

 

「おかえり、お母さん」

 

こんなまともな時間に家に帰ってくるなんて珍しい。

 

「ただいま、直葉、今朝は連絡ありがとう。それで和人の具合はどう?、熱は?」

「午後に少し下がって、夕方またちょっと上がったけど、さっき計ったら今日一番

下がってたよ」

「なら大丈夫そうね……食欲は?」

 

そう言いながらキッチンに行き、手に提げていた荷物を置いて食器戸棚からコップを

取り出し、冷蔵庫に向かう。

 

「朝はスポーツドリンクだけ。でも午後は蜂蜜入りのジンジャーティー飲んで、桃の

ジュレ食べた」

 

母は冷蔵庫をのぞき込んだまま会話を続けてくる。

 

「桃のジュレって……あっ、これ?、やだ、美味しそう。私もいただいちゃおうかしら」

 

冷蔵庫を開けたまま、振り返って「食べていいの?」と聞いてくる。

 

「うーん……食べたら、お兄ちゃんが、拗ねる……かも」

 

振り返ったままの姿勢で母が一瞬キョトンとしたが、すぐに、ははーん、という表情に

変わった。

 

「明日奈さんの手作りかぁ……いいわよ、まだあと四つもあるんだから。急いで帰って

きたから小腹空いちゃって。直葉も食べるでしょ?」

「……食べる!」

 

実は明日奈さんが帰る時、兄の部屋で「よかったら残りは直葉ちゃんと翠さんで

食べてね」と言われたのだが……妙に兄からの視線が痛かったのだ。

「あの子ったら四つ全部食べる気なのかしら」とブツブツ言いながら、母がお茶の入った

コップにジュレとスプーン二組をトレイに乗せ私のもとに運んでくれる。

二人で「いただきます」と手を合わせてから、プルンプルンの桃ジュレをすくって口に

運んだ。

 

「幸せ〜」

「美味しいわぁ……なんか甘みがスッとしてるわね」

「なんて言ってたかな、ら、らかん……」

「羅漢果?」

「多分そう。それ使ったって言ってた」

「こんな美味しいもの、和人ったら独り占めするつもりだったのね。意外と独占欲が強いの

かしら?、普段の様子だとそんな感じでもないのに……ああ、でも」

 

そう言いかけて、母が「クスリ」と笑う。

 

「和人が小学生の時、熱を出したの覚えてる?」

 

偶然にも私が昼間思い出した記憶だった。

 

「うん」

「あの時、私が仕事から帰ってきた後、眠るまで手を離してくれなくてね、普段はそんなに

べったりくっついてくる子じゃなかったから、ちょっと驚いたわ」

「……それ、今日、明日奈さんにやってたよ」

 

思い出してちょっとドキドキしてしまった。

 

「あらまあ……それは明日奈さんも困ったでしょう」

「うん、嬉しそうに困ってた」

 

お互い、やれやれと言った風に笑い合った。

そんな会話を楽しみながら、あっという間にジュレを食べ終わってしまう。

私の分も一緒に容器とスプーンをキッチンに運んでくれる母の後ろ姿を見ていたら、

私もなんとなく、その後をついて行ってしまった。

洗い物をする手元を眺めながら、自分に問うように母へ言葉を投げかける。

 

「お母さん……淋しい?」

 

色んな意味を含んだ言葉だったが、母には伝わったようだ。

 

「そうねぇ……これから離れて暮らすこととか、もう病気になっても私の手は必要ないこと

とか、意外と寂しがり屋で甘えん坊な一面を明日奈さんにばかりみせてることとか、

淋しいなって思うことを考えれば色々出てくるけど……この桃缶も出番ないみたいだしね」

 

母が持って帰ってきた荷物の中には桃の缶詰が入っていた。

 

「でも逆に娘がもう一人増えると思えば、淋しいより嬉しいわね」

 

母がニッコリと私に微笑む。

そうか……。

女子力も学力も高く眉目秀麗で気立ての良い姉……実姉だったら小さい頃から比べられて

コンプレックスの塊になってしまいそうだけど、これから姉になってくれるのなら……

 

「そうだっ」

 

突然、母が思いついたように声を上げた。

 

「今度、明日奈さんと一緒に女同士で買い物に行きましょうよ。新生活のスタートをお祝いして

何か贈りたいし。……確か和人が寝室のサイドテープルに置けるライトが欲しいって

言ってたから、明日奈さんに選んでもらって。どうせ和人は明日奈さん任せなんでしょ」

「そんな事言って、お母さん、休み取れるの?」

「なんとかなるわよ……いいえ、なんとかしてみせます」

 

母は早くも楽しそうだ。

「今日のお礼も言いたいし、明日にでも明日奈さんにメールしてみるわ」と言っている。

兄を蚊帳の外で話を進めるのは……面白いかもしれない。

どうせサンタクララに行ってしまったら、兄が明日奈さんを独占してしまうのだ。

今のうちに一回くらい私達が独占しても文句は言わせない。

 

「それじゃあ和人の様子、見てくるわね」

 

そう言って、母はリビングを出て階段を上がっていった。

 




お読みいただき、有り難うございました。
「彼女」にベタ惚れの兄を持つ妹は苦労しますね。
将来、どんな男性に恋をするのか、はたまたレコン君とどうにかなるのか、
大いに気になるところです。
続きもの風で約一週間後のお話も書いてみました。
よろしければ続けてお読みください。


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癒やしのぬくもり【その後】

『癒やしのぬくもり』の約一週間後のお話です。
場所はふたりの留学先であるサンタクララ、共同生活を始める部屋の寝室で。
体調はすっかり回復したキリトです。


ベッドに腰掛けて手元に視線を落としていると、背後から聞こえたかすかな音に集中して

いた意識が途切れた。ゆっくりと振り返ればキィッという音と共に木製のドアが開き、その

隙間から濡れた髪の毛をタオルで巻き上げた夜着姿の明日奈が顔を覗かせる。

 

「キリトくん、こっちにいたんだ」

 

安心したように微笑んで部屋に入ってきた。

リビングダイニングに居なければ、残る部屋はこの寝室しかないのだが。

 

「ん〜、明日、帰国する前に一応書類をチェックしておこうと思ってさ」

 

留学に必要な手続きのほとんどはデジタル化されているので、かさばることはないが、それでも

紙媒体の重要書類はいくつかあった。特にこれから明日奈と共に暮らすこの部屋の契約等に

関するものは、見事に全て紙だ。

再び目線を手元に戻して数部の紙束を一枚一枚めくり、一束見終わると腰掛けているダブル

ベッドの上に無造作に投げ置いていく。

両手をついてベッドに上がった明日奈は、ペタンと座ってから、目の前に散らかっていく書類を

拾い上げては目を通し、キレイに重ねていた。

それを視界の隅で認識しつつ目は書類の文字列を追いながら軽く息を吐き出す。

 

「契約書って結構専門用語が多いよな」

 

デジタルならすぐに意味を引っ張ってこれるが、紙だといちいち感がハンパない。

暗にそう言いたいのを即座に読み取った明日奈が苦笑いを浮かべながら同意を示した。

 

「そうだね〜……でも大家のランディさん、アナログな人だから。お部屋借りる為の関係書類が

全部紙だって言ったら、うちのお父さん『まだそうなのかっ!?』って驚いてたよ」

「って事は、浩一郎さんが借りた時も?」

「きっと紙だったんだろうね」

 

互いに思わず苦笑いで顔を見合わせた。

 

オレと明日奈が一緒にサンタクララで暮らす、この願いを叶える為にオレ達は互いの親が

提示した条件をいくつか受け入れなければならなかった。

特に難航したのは住む場所だ。

予想していたことだが、最初は二人とも別々の場所に部屋を借りる事を要請された。

当然のことながら、明日奈の両親の方が強い口調だったと思う。

それはそうだろう、互いの気持ちはもう随分と前から決まっているが、それはあくまでも

当人同士の事であって、大人の常識から言えば、要は「早すぎる」のだ。

しかし、その条件に猛烈な異議を唱えたのは明日奈だった。

生活をする場所が離れるのはどうしても容認できる事ではなかったらしい。

どうやら彼女にとってこの海外留学は自分の可能性を広げる、と同じくらいの比重で、オレを

支える、という二大柱で成り立っているらしかった。

後に何と言って両親を説得したのかと聞いた時、明日奈はニッコリと微笑んでから教えてくれた。

「離れた場所で生活するなら、私は和人くんの部屋を行き来する際、時には夜の

サンタクララの街中を一人で歩くことになるかもしれないのね、って」……懐かしくも

『閃光様』を彷彿させる物言いで。

これで明日奈の両親は折れたのだそうだ。

どちらかと言えば治安は良いとされているサンタクララだが、娘にそんな風に言われて不安に

ならない親はいないだろう。

それならば、と明日奈の両親は「これだけは譲れない」と前置きをしてから切り出してきた。

知人がアパートメントをやっているから、そこにそれぞれ部屋を借りてくれ、と。

フタを開けてみれば、そこは明日奈の兄・浩一郎さんが留学時代に一時期住んでいたアパート

メントだと言う。多分、オレと一緒に云々がなくても、明日奈の住居候補には挙がっていたの

だろう。当然、結城家は兄が借りていた最上階のワンフロアぶちぬき物件を提示したが、それにも

彼女は否を口にした。

できるだけ両家に負担をかけたくない、というのが明日奈と、もちろんオレの意向だった。

どちらの親も、そんな事は気にしなくていい、と言ってくれたが、オレの事情を言えば

ウチには直葉もいるのだ。

オレにばかり金をかけさせるわけにはいかない。

明日奈は明日奈で、思うところがあったのだろう。

そんなワケで初めて二人でサンタクララのこのアパートを訪れた時、空いている部屋を

尋ねたところ、最上階のワンフロアと、隣に大家が住んでいるこの部屋しかなかったのだ。

知人のアパートメントという条件はクリアしていたし、大家が隣にいれば、という安心感は

明日奈の両親はもちろん、オレにもあった。

慣れない土地の見ず知らずの隣人が居る部屋で明日奈が一人暮らしをするのが心配でないと

言えば嘘になる。

そこでようやく明日奈の両親から渋々だが同居の許可が下りたのだ。

明日奈は一度、浩一郎さんが住んでいた頃にアパートメントを訪れた事があるらしく、大家の

ランディ夫妻との再会を心から喜んでいた。

それから、時には別々に、時には一緒にこの地を訪れ、進学の準備を進め、住まいを調えると

いった作業に追われ、今日に至るのである。

 

「うん、大丈夫だな」

「そうだね」

 

明日奈はまとめた書類をオレに手渡してくれると、頭を覆っていたタオルをパサリと広げて

髪を丁寧に乾かしはじめた。

一気に香りがあふれ出す。

 

「ドライヤーは?」

「今は乾燥してるから、タオルだけで結構乾いちゃうよ」

 

言いながらも手にしたタオルで前後から髪を押さえる度に、いい香りが漂ってくる。

思わず吸い寄せられるように、オレもベッドの上へと這い上がった。

 

「ここだと、風呂ないけど、よかったのか?」

 

今更ではあるが、あれだけ風呂好きな明日奈にシャワーしかない部屋で生活をさせるのは

心苦しいものがある。それこそ確認はしていないが、最上階の部屋なら小さくても

バスタブくらいはありそうなものだ。

 

「うん、だいたい日本の標準的な大きさの浴槽なんてこっちの小ぶりなアパートメントには

ほとんどないし。あっても学生二人が住むような部屋じゃないでしょう?」

 

確かに……そんな手足が伸ばせる程の風呂があるなら、まず間違いなくもっと贅沢な間取りの

集合住宅か一軒家だろう。

へたをすれば浴槽どころかサウナやホームバーまで完備していそうだ。

 

「大丈夫、お風呂に入りたくなったら《あっち》にダイブするから」

 

なるほど。

 

《仮想世界》にあるもうひとつの我が家、《ALO》の浮遊城アインクラッド22層の

森の家だ。虜囚となっていた頃の受動的な皮膚の常在感覚は他の視覚や聴覚と比べると決して

同等と言えるものではなかったが、あれから数年が経った今、その技術は格段に進歩を遂げて

いた。

 

「そうだな、《あっち》なら二人で入れるし……」

 

総檜造りの広い湯船を思い浮かべ、続けてそこに入るアスナの姿も思い浮かべ……

ようとした時、小さな声が耳に届く。

 

「ばか」

 

明日奈の頬がほんのりと桃色なのは、シャワー後だから、というわけではなさそうだ。

それにしても一緒に風呂に入る事がどうして「ばか」発言に繋がるのか、理不尽な気もするが、

それは今までのオレの所行からして、普通にただ風呂に入るだけでは終わらないことを

明日奈さんが十分承知なさっているからだろう。

そうとわかっていても、少々意地悪に言い返してみたくなる。

 

「『ばか』ってなんだよ。明日奈の髪だって洗ってやるオレに。好きだろ、人に洗って

もらうの」

 

前にオレの冗談めいた提案を実行した結果、思いの外好評だったようで、湯船につかったままの

彼女の髪を洗ってやったら、目を閉じてうつらうつらしたくらいだ。

その時の感覚を思い出したのか、あらがえない誘惑と戦っているような表情の明日奈が更に頬を

濃く染めて、こくり、と頷く。

 

「人に、って言うか……《あっち》で髪の毛洗ってもらうのなんて……キリトくんにだけ……

だよ」

 

確信はしていたが、その言葉に「当然」とばかり片頬が上がる。だいたい洗う意味さえない世界

なのだから、オレだって明日奈がいなければ風呂に入る回数など半分以下になっただろう。

そんな会話の間も羞恥に頬を色づかせながら休むことない彼女の手は、その香りを発し続けて

いる。

オレは香りに誘われる虫のように、抗うことも出来ずその香源へと再び間を詰めた。

 

「やっぱりダブルベッドってデカいな」

 

寝室として使うこの部屋がさして広くないせいもあって、この存在感はすさまじい物が

あった。すぐ横にサイドテーブルを置いたら、後は動線しか残っていないに等しい。

オレのその言葉に明日奈が反応する。

 

「だってシングルふたつなんて入らないよ」

「まあ、そうなんだけど」

 

初めは別々の場所で生活を、などと言われていた割に、随分と近距離状態の生活と

なったものだ。

そんな感慨にふけっていると、ポンポンと二回タオルで髪をはたくのが終わりの

決め事なのか、明日奈が手早くタオルを小さくまとめて持ち、ベッドから降りようと

シーツの上の足をずらした。

追うようにオレも身体ごと滑らせ、更に片手を伸ばし明日奈の髪の一房を掴む。

 

「きゃっ」

 

こちらを振り向く前に、素早く手の中の髪の香りを堪能した。

 

「やっぱり、この匂い……」

 

満足げなオレの横で、明日奈が再び頬を赤らめつつ、眉間にしわを寄せている。

 

「それ、この前、直葉ちゃんに見られて、すっごく恥ずかしかったんだから……って

覚えてないかも、だけど……」

「この前?」

 

ああ、あの時か。

 

オレが一週間ほど前に川越の自宅で熱を出して倒れた時のことだ。

明日奈が家まで見舞いに来てくれて、直葉も一緒の時にこんな風に彼女の髪の匂いを

思わず嗅いでしまったのだ。

あの時は熱で頭が朦朧としていたし、そんな時は本能に従ってしまうものだし……。

明日奈は何を思い出したのか一層頬を染め、視線を落として聞いてきた。

 

「その時、なんて言ったか……覚えてる?」

「なんか……言った?」

「言った…………覚えてないなら……いい」

 

ホッとしたような、それでいてちょっと拗ねたような口調だ。

これは覚えていた方が良かったのか、いない方が良かったのか……。

そんなオレの葛藤を吹き飛ばす勢いで明日奈が顔を上げた。

 

「とにかくっ、キリトくんは先週、熱を出して病み上がりなんだし、明日の飛行機の時間は

早いし、今日はもう寝ましょ」

「……」

「先に横になってて、私、このタオル、軽く洗って干してから寝るから」

「……」

 

そうオレに告げたものの、オレが髪の毛を一向に手放そうとしないので動くことの出来ない

明日奈が、じっとオレを見つめて疑問符を飛ばしてくる。

 

「聞こえてた?、キリトくんは病み上がりよね?」

「うん、まあ、そうかな」

 

答えてからズズッと髪を掴んだまま身体を寄せ、やっと彼女と自分の足が密着する距離に

たどり着く。

 

「明日の飛行機、早いわよね?」

「うん、そうだな」

 

そのまま顔を近づけ、首筋のあたり、ちょうど髪の毛と首のはざまに鼻を突っ込んだ。

 

「ひゃぁっ」

 

いきなりの突進を受け、とっさにのけぞろうとした明日奈の両肩を素早く掴む。

 

「うん、シャワー後の明日奈の素肌と生乾きの髪の匂い、一緒に嗅ぐとすごく気持ち良い……」

「う〜っ、覚えてたんじゃないっ、もうっ」

 

首筋までも紅潮させ、小刻みに震えているのがわかる。

そのまま彼女の肩に軽く頭をのせたまま、「何が?」と問いかけたが、返事はして

もらえなかった。

代わりにしどろもどろの言葉を投げかけてくる。

 

「キ、キリトくん、病み上がりだし」

「それ、もう聞いた」

 

首筋に甘噛みを一回。

 

「んんっ……明日の飛行機、早いし」

「それも聞いた」

 

そのまま首筋から上にチョンチョンと唇をスキップさせて到達した耳たぶに再び

甘噛みを一回。

 

「あっ、ちょっ、やんっ……もう来週の終わりにはこっちに引っ越してくるんだし」

「……なら、このベッドのスプリングの状態も確認しとかなきゃ、だな」

 

そう言って、オレは明日奈の両肩を掴んでいた手をそのまま背中に回し、軽く体重をかけて

静かに押し倒した。




お読みいただき、有り難うございました。
サンタクララに限らず、海外の住宅事情に関しては全くの無知ですので、アパートに
おける風呂の有無は個人の責任でご確認ください(笑)
さて、今年の投稿はこれが最後となります。
お付き合いいただき、有り難うございました。
来年もまたよろしくお願い致します。
年明け一本目は《現実世界》のお話です。



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再会

アスナが《現実世界》に復帰して半月ほどが経った頃のお話です。
未だ入院生活を送っているアスナのもとにキリトと一緒に懐かしい二人が
お見舞いに訪れます。


二月も半ば、今季何度目かの雪が散らつく中、篠崎里香は埼玉県の所沢にある総合病院に

向かって歩を進めていた。後にデスゲームと称された《ソード・アート・オンライン》という

MMORPGの《仮想世界》で知り合った大切な親友が入院をしてるのだ。

それを教えてくれたのも、やはり同じゲームの世界で唯一の二刀使いとして剣を振るっていた

ソロプレーヤーの剣士である。

閉じ込められた《仮想世界》から《現実世界》へ生還して三ヶ月が過ぎようとした頃、

どうやって自分の情報を仕入れたのか、かの二刀剣士である「キリト」は突然里香に連絡を

よこしてきたのだ。今はなきあの世界で鍛冶職人でありマスターメイサーでもあった

「リズベット」としては、キリトへの想いがかなうことはなかったが、《現実世界》に

戻ったらもう一度自分の気持ちに正直に行動しようと決めていた彼女にとって、キリトからの

連絡は予想外の驚きと同時に大きな期待を感じさせた。しかしコンタクトの内容はリズベットの

親友である「アスナ」が未だ入院中でリズにとても会いたがっている、というものだった。

予想とは違った内容だったが「アスナ」という名前を聞いたら、そんな感情も一瞬で吹き飛んで

しまい二つ返事で依頼を快諾し、すぐさま日程を合わせ、今日という日を迎えるに至ったのだ。

 

「ここ……よね?」

 

教えられた病院名を確認して、病院の敷地内に足を踏み入れる前にその建物を仰ぎ見た。

病院と聞いてイメージする四角いデザインとはかなり違っている。

万人の誰もが診察を受け、入院が出来るとは思えない格式の高さを感じ、踏み出す一歩を

戸惑わせた。ぎこちなさを自覚しつつなんとか病院の正面へと続く歩道を歩き出すと、すぐ

傍の警備員の視線が気になり、軽く緊張が走る。

何を聞かれても困ることはないはずなのに、自分が見舞客であるなんて信じてもらえないのでは、

とのプレッシャーが自然と生まれる。

そんな懸念も取り越し苦労で、咎められることもなく段々と病院の正面玄関に近づくと、院内の

豪華さが窓ガラス越しにも見て取れた。

病院らしからぬ外観にも目をみはったが、その外装に恥じぬ内装となっているらしい。

 

「一人じゃなくて、よかった」

 

十代の女の子が初めて足を踏み入れる場としては、かなり気後れしてしまう雰囲気だ。

ふと見ると、同行者のひとりが既に入口に立っている。

 

「エーギル!」

 

緊張をほぐすように元気良く手をふりながら、これまた《SAO》時代の友人のキャラネームを

呼んだ。

 

「……リズか?」

 

黒い肌に長身でガタイがよく、一見カタコト日本語を喋るかと思われる風貌の「エギル」こと

アンドリュー・ギルバート・ミルズはリズをいぶかしそうに見つめた。

半信半疑のような口ぶりだが《現実世界》では初対面なのだ、戸惑うのも無理はない。

 

「他にこの時間にこの場所でアンタに声をかける女の子がいるっての?」

 

顔を合わせるのは数ヶ月ぶり……現実世界では初めまして、の間柄だが《あの世界》と

変わらぬ口調が自然と口から飛び出したのはアバターの顔が《現実世界》のプレイヤーと

同じせいかもしれない。お陰でどうしようもなかった緊張感がすっかりほぐれている。

 

「髪の毛が茶色だとヘンな感じだな」

「あのね、《現実世界》でベイビーピンク色の髪の方がよっぽどヘンでしょ。それにしても

エギルはまんまね。一瞬アバターかと思った」

「ほっとけ」

 

病院の入口で軽口の応酬をしていた二人の後ろから、突然あきれたような声がした。

 

「随分盛り上がってるな」

「よう、キリト」

「えっ?」

 

リズが急いで声のした方を振り返ると、ジーンズに黒のダウンジャケットを羽織った

少年が「よっ」と片手をあげている。

 

「キ……リト?」

「ああ、今日は有り難うエギル、と……リズ、だよな?」

 

こちらは《SAO》時代のアバター姿を彷彿させるのは、ジャケットの色くらいで、髪の毛も

随分と短くなっている。

 

「なんか髪が茶色だと……イテッ!」

 

しげしげと髪の毛を見られた後、またもやの感想を最後まで言わせるものか、とリズはキリトの

足を問答無用で思いっきり踏みつけた。エギルは苦笑いを浮かべるだけだ。

キリトは顔をしかめつつ軽く足をさすりながら、早速話を本題へうつすのが賢明と判断し、

二人を院内へと促した。

 

「とりあえず中に入ろうぜ。アスナも待ってる」

 

キリトが先頭にたち病院の自動ドアをくぐる。

一歩中に踏み入れると、暖房の効いた建物内は病院特有というより、アロマのような

控えめな香りが漂い、中央に設置されているいくつかのソファもゆったりとした大きさで

高級感があふれていた。

ホテルのロビーを思わせる受付に進むと、既にキリトとは顔見知りになっているようで、

デザイン性の高い制服を着た事務の女性が「今日はお友達とご一緒?」と微笑みながら

通行パスを渡してくれる。

「ええ、まあ」と曖昧な答え方をしながらパスを受け取ると、キリトは人差し指を

クイ、クイ、と動かしてエレベーターホールを指した。

待つことなく乗り込んだエレベーターは一気に最上階まで上がっていく。

三人の貸し切り状態なので、リズは先刻から思っていた疑問をキリトに告げてみることに

した。

 

「ねぇ、キリト。アスナってもしかしていいトコのお嬢様?」

 

他に誰もいないのだが、なぜかひそひそ話のように声の音量を絞ってしまうのは

エレベーター内部でさえ高級感をビシビシと感じるせいか……。

 

「ん〜、まあ、その辺は本人に聞けよ」

「そっか……」

 

それは聞いていいんだ。

 

リズが少し安心したような表情になった。

と言うのも、今回、なぜアスナが未だに入院生活を送っているのかと彼女が聞いた時、

キリトは「『ALO事件』に特殊な形で関与していたから」としか教えてくれなかったからだ。

詳しく聞こうにも、キリトは「その話はアスナ本人にも触れないで欲しい」と言うだけで、

それ以上は完全に口を閉ざしてしまったのである。

《あの世界》にいた時でさえ、どんな出来事も前向きに受け入れようとしていたアスナに

一体何があったのか、聞けばアスナはちゃんと答えてくれるのではないか、とも思ったが

彼女の最愛のパートナーであるキリトにそう言われてしまっては、事情を知らない自分が勝手な

判断で口にしていいものでもないと承知せざるを得なかった。

ほどなくしてエレベーターは目的の十八階に到着する。

先程と同様にキリトの後ろに着いて長い廊下を歩きながら、リズは隣のエギルに尋ねた。

 

「エギルもお見舞い、初めてなの?」

「ああ。この前キリトからお前が見舞いに来るって聞いてな。ちょうど今日は店が

定休なんだ。前からオレも来たいと思ってたし」

「ふーん、リアルでもお店やってるんだ」

 

あの世界では鍛冶屋として店主を務めていたリズは、エギルを見る目に自然と尊敬の念が込もる。

 

「それはそうと、キリト。お見舞いは花がいいって言うから、そうしたけど、ホントに

良かったの?」

「アスナのリクエストなんだ……食べ物はまだ無理だし……リズからも、なんとか食事を

とるよう言ってやってくれよ」

 

前を歩いているキリトが振り向きながら笑顔で言うが、その表情は怒りや悲しみ、困惑が

混じり合っているようで、それを見たリズの心臓がとくんっと跳ねた。

 

「もしかして、まだ流動食なの?……アレってホント不味いもんねぇ。でも、胃を慣らさなきゃ

いけないとかで、私も無理矢理口に入れられたわ」

 

その時の味を思い出したのか、眉間にしわを寄せ口はへの字に曲がっているリズを見て、

キリトは更に困惑の色を濃くした。そんなキリトの変化に気づかないリズはそのまま自分の

体験談を語り続けている。最後に「アスナはアインクラッドで自分の美味しい手料理食べてた

から、余計に食べられないかも…」と推測したところでキリトの足が止まった。

目の前のドア横のプレートには『結城明日奈 様』と書かれている。

 

「ユウキ、アスナ……あの子、本名、キャラネームにしてたの?」

 

驚いているリズの隣で、エギルも無言ではあるが同様の表情となっていた。当然の反応なので、

キリトも今度は完全に苦笑いだ。

受付で渡されたパスを使い、ドアを開ける。

室内から、わずかだがひんやりとした空気と共に花の香りが漂ってきた。

ここまでの道案内を終えたキリトが先頭を譲るように、正面から身体をずらし、手と表情でリズを

促す。カーテンで仕切られている、その向こうにいるであろう親友の姿を想像しつつ、リズの足が

歩き出した。

カーテンに手をかけ、おそるおそる声をかける。

 

「アスナ?」

 

思ったより小さな声になってしまった。

カーテンをそっと開けると、窓辺に車イスがひとつ。

リズの声には気づかなかったのか、そこに一人の少女が外の景色を眺めるように座っていた。

あの世界で見ていた色と同じ栗色の長い髪が、数センチほど開いている窓からかすかな風に

乗って吹き込んでくる雪と共に揺れている。

顔がよく見えないせいで車イスに座っているのは親友と同じ髪の色をした人形なのかも、と

疑念が生まれるくらい生命力を感じない姿に、リズは不安になってそれ以上足を踏み込めずに

いた。

何かを感じ取ったらしいキリトが素早くリズの横をすり抜け、足早に窓辺へと駆け寄ると、

車イスの人物の顔を覗き込むように顔を近づける。

それから優しく諭すような声を静かに落とした。

 

「何やってるんだ、アスナ。外は雪が舞ってるんだぞ」

 

同時に手は急いで窓を閉め、鍵を掛けている。

外を向いていたアスナの顔がゆっくりとキリトを見上げた。

突然目の前に現れたキリトに驚いたのだろうか、目を見張ってはいるものの俊敏な動きには

つながらない。しかしすぐさま愛しい存在に向けた驚きは消え、目を細めて弱々しく微笑んだ。

 

「……キリトくん」

 

少し乾燥気味の薄い唇は、かつて桜色だったと思わせる色がほんのりのっているだけで、

肌も陶器のような白と言うより、血色の悪さを感じさせる色だ。

キリトを安心させようと、ゆっくりとか細い声を紡ぎ出す。

 

「ごめんね。さっきまでリハビリしてたの。急いで病室に戻ってきたから、外からの風が

気持ち良くて……ちょっと、ぼうっとしちゃった」

 

そう言って口元を緩めるアスナだったが、それに対するキリトは彼女の言葉と表情では安心

できないのか、何かを確かめるように額や頬、首元をそっと手で触れ始めた。

アスナはされるがまま、キリトの手の感触を気持ちよさそうに目をつぶって受け入れている。

程なくしてキリトも納得したのだろう、軽く息を吐き出してから告げる口調に戸惑いは消えて

いた。

 

「具合が悪いのかと思ったよ……ほら、リズとエギルが来てくれたぞ」

「……リズ?」

 

アスナが首を巡らせた。

カーテンの傍で立ち尽くしているリズと目が合う。

タイミングを合わせるように、キリトがアスナの後ろに移動し、車イスの向きを

ふたりへと変えた。

 

「アスナ」

 

今度こそ親友の姿を確かに認め、リズがアスナの元に急ぐ。

 

「リズ」

 

アスナが膝の上に重ねていた細く白い手を震えながらリズへと伸ばした。

あの世界で何回も繰り返してきた懐かしい仕草で、両手の指を絡ませ再会を喜ぶ。

二人の姿をキリトもエギルも嬉しそうに見つめていた。

 

「今日は来てくれて有り難う、リズ……と、エギルさん」

 

リズの背後を横からのぞき込むように、アスナが上体を傾けてエギルにも笑顔を向ける。

その言葉に応じて、片手を挙げたエギルが何か言おうとする前に、キリトが車イスの

後ろから腰をかがめてアスナに顔を近づけ、ニヤリとした表情をした。

 

「な、言ったとおりだろ」

「うん」

 

笑いを堪えるように片手で口を隠しながらアスナが微笑んだ。

そのやりとりを見ていたリズは、合点がいったように、やはりニヤリ顔になる。

 

「ははーん、キリト。さては、あんたエギルが、まんまだってアスナに言ってたんでしょ」

 

エギルはぎょっとした表情になるが、すぐに諦めたようにポリポリとスキンヘッドの

後頭部を手でかいた。アスナは肯定も否定もせず、ただ微笑んでいるだけだ。

キリトとリズはクスクスと笑いが止まらない。

ひととおり空気が和んだところで、リズがエギルに持っていてもらった花束をアスナに向けた。

 

「アスナ、これ……キリトから花がいいって聞いたから」

 

そう言いながらも病室内に飾ってあるたくさんの花を見回して、少し気恥ずかしそうに

している。無理もないだろう。既に花瓶に生けられている豪華な花たちと比べると、今、

自分が手にしている花束が見劣りするのは否めない。

 

「有り難う、リズ、嬉しい……お花持ってきてくれた友達はリズが初めてなの……ここに

あるお花はいつも父が持ってきてくれてる物だから……ああ、でも前にキリトくんの妹の

直葉ちゃんからも、お花いただいたんだよね。ちゃんとお礼伝えてくれた?。今度改めて

紹介してね」

「ちゃんと言ったし、また連れてくるよ」

 

アスナの後ろに立っているキリトが、彼女の頭をそっとなでながら言葉に応じる。

そんな二人のやりとりを見ていれられなくなったのか、エギルが割って入った。

 

「オレは花ってガラじゃないから……」

 

持っていた紙袋から小ぶりのスープポットを取り出す。

 

「アスナがなかなか食べられないってキリトが言ってたからな。店でだしてる

クラムチャウダーなんだが、牛乳やクリームを入れる前のベースを薄味に調整して、

飲み込みやすいよう、軽くとろみをつけてみた」

 

フタをキュッキュッと回して開け、スプーンを添えてアスナに差し出す。

ところがアスナが手を伸ばす前に、当たり前のようにそれをキリトが受け取った。

「ん?」と訝しむエギルとほぼ同時にアスナが小さく憤慨気味の声をあげる。

 

「キリトくんっ、自分で出来るから」

 

その言葉を受けたキリトはすでにスープをひとすくい自分の口に流し込み、味と

温度を確かめている。

 

「今は無理だろ」

「そんなこと……」

 

言いつつスープポットに伸ばした手が小刻みに震えているのが自分の目にも映ったのだろう。

ぺたんっ、と膝に手を落とし、その手を見つめるように彼女自身も俯いてしまう。

自らの手で飲もうとすれば、スプーンの中身は盛大にこぼれてしまう事がわかっただけに

作ってきてくれたエギルの前でそんな失態は出来ないと自分の感情を抑え込んだ。

そんなアスナの葛藤を気づかぬふりでエギルが説明を加える。

 

「具は除いてある……無理はしなくていいが、ほんの少しでも口にしてみてくれ」

「有り難う、エギルさん」

 

キリトが膝をついて目線を合わせ、アスナの口元にスープを運んだ。

薄く開いた唇に少量の液体をゆっくりと流し込む。

キリトが不安そうに見守る前でこくんっ、とスープが喉を通った。

 

「大丈夫か?、アスナ」

 

飲み込んだのを確認してからキリトが声をかける。

 

「……うん、美味しい。有難うエギルさん」

 

安心させるように、キリトに向かって頷いてからエギルに笑顔を見せた。

しかし二口目を強請らないアスナにキリトの表情が曇る。その視線を受け止めて

からアスナはエギルに詫びた。

 

「ごめんなさい、まだ量が食べられなくて……」

「気にするな。一口でも飲んでもらえてよかったよ。なあ、キリト」

「……ああ、そうだな」

「……花瓶借りるね、アスナ」

 

ワケ知り風の会話についていけないリズが、持参した花を生けようと、備え付けの洗面所に

置いてある空の花瓶を指さした。花瓶に水を注ぎながら、花束のラッピングをほどいている間も、

キリトとエギルの会話が聞こえてくる。

 

「なんでクラムチャウダーなんだ?」

「クラムチャウダーの本場はボストンなんだぜ」

「ああ、奥さんの出身地か」

「そういう事だ」

 

花を生けた花瓶をアスナの枕元近くに置くとリズはキリトに声をかけた。

 

「なんか喉かわいちゃった。エレベーターホールの傍に自販機あったわよね。キリト、

付き合いなさいよ」

「はっ?」

「エギルも何か、コーヒーでも買ってこようか?」

「おう、ブラックで頼む」

 

キリトが口を挟む間もなく話が進んでいく。

リズはキリトの腕をつかむと、半ば強制的に病室から連れ出した。

アスナはひらひらと手を振り微笑みながら二人を見送った後、

ドアの開閉音を聞き終わってからエギルに向き直った。

 

「エギルさん、キリトくんから聞きました。《ALO》で私のスクリーンショットを

知らせてくれたって。有り難うございました。エギルさんからの情報がなかったら、きっと

私は今もあの世界に……」

「オレはたまたま入手した情報をヤツに見せただけさ。頑張ったのはキリトだろ……。

それにしても随分アスナに対して過保護になったもんだな」

 

その言葉を聞いてアスナが軽く笑う。

 

「やっぱりそう思います?……私がこんなだから……」

 

膝の上に乗せている筋張った両手の甲に、情けない視線を落としているアスナの様子を

エギルは痛々しく見つめた。浮遊城で細剣を振るい、舞うようにフロアボスを攻撃していた

姿が思い出される。しかしそれとは逆に先ほどまで目の前で世話を焼いていたキリトの姿は

数週間ほど前とは比べものにならない事を彼女に告げた。

 

「でも初めてオレを訪ねてきた時よりはマシだ。あの頃はアスナが目を覚まさないって

表情すらほとんどなかった……今は思いっきり頼ってやれよ」

 

ウインクをしてアスナを元気づけるように笑った。

 

「エギルさんにも心配をかけて……ごめんなさい」

「そう思うなら、早く病院なんか退院してオレの店にキリトと遊びに来てくれ」

「キリトくんと二人でエギルさんのお店に……なんか懐かしい」

「ああ、やっぱりこの《現実世界》でも二人が並んでいる姿を見て、オレもやっとあの

デスゲームから解放されたんだと実感できるよ」

 

泣き出しそうな笑顔のアスナにエギルも笑顔を向ける。

「それに、こっちでもアスナがアルバイトで店を手伝ってくれたら、客足が伸びそうだな」と、

冗談とも本気ともつかない提案を口にしながら。

 

 

 

 

 

「アスナに一体、何があったのっ」

 

エレベーターホールのすぐ前にある休憩スペースに自販機は設置されていた。

休憩スペースと言っても、やはり高価そうなイスとテーブルが配置されており、

廊下からは視線が届かないようパーティションとして観葉植物が並んでいる。

運良くスペースには他に誰も居なかったので、リズは早速飲み物を買おうとしている

キリトに声を荒げた。

ゴトンッと出てきた缶コーヒーを取り出すと、キリトはイスに腰を下ろしタブを開け、

外気温を無視したように選んだアイスコーヒーをゴクゴクと喉に流し込む。

 

「リズ、《現実世界》に戻ってきてから、こうやって普通に液体を飲み込む事が出来るまで

どの位かかった?」

 

コーヒーの缶を見つめながら、リズの質問が聞こえなかったようにキリトが問いを

投げかけてきた。

勢いをそぐような態度が癇にさわり、更に声を荒げようとしたが、キリトの表情を見て

思い直す。

 

「……そうね、最初に水で二日だったかな。二年ぶりで水の味さえ舌が

受け付けなくて……すっかりアインクラッドの味に慣れちゃってたから」

「それでも味が受け入れられれば、その後、飲み込む事に苦労はしなかっただろ」

「そりゃぁ、飲み込む自体は《あの世界》でも疑似体験してたし」

「そうなんだよな。《あの世界》の食事は生命維持という点では無意味だと思ってたけど、

こうやって《現実世界》に戻ってきてみると、あれはあれで意味はあったんだ」

「……どういうこと?」

「《あの世界》でやっていた事は《現実世界》でも順応しやすいってことさ。逆に服を着替える

なんて慣れるまで結構面倒だったし」

「確かにそうね。それまではタッチひとつで着脱できたんだから」

 

リズにも思い当たるふしがあるようで、少し表情が緩む。

 

「それと今のアスナとどう関係があるのよ」

「……《ALO》でアスナは……まともに食事をしていないんだ」

 

リズの時間が止まった。

続いてじわじわと驚きと疑問、哀れみ、怒り、悲しみ……様々な感情が混じり合い、何を

優先していいのか自分でもわからなくなる。

しかしこの自分の感情に思い当たる記憶があった。

先刻、アスナの病室へと向かう途中、キリトが見せた表情だ。

 

「……それで……さっき、食事がとれないって……」

「ああ」

 

キリトはうつむいているが、両手で握っているコーヒーの缶が微かに震えていた。

まだ半分ほど中身は残っているのだろうが、感情のままに力を入れているのだろう。

すでに缶が軽く変形している。

 

「……だって、エギルのスープを飲んでたじゃない」

「ここ数日で、やっと液体なら飲み込めるようになったんだ。それでも、いつもってわけじゃ

ない。最初は口に物を入れることも出来ないで……口にした途端、吐き出したり……エギルは

本当に薄味にしてくれたから。水以外の物をあんなに素直に飲んだのは初めてだよ。エギルが

作ったっていう安心感も手伝ったんだろうな」

「どうしてそんな事に……私、キリトから聞いて自分でも『ALO事件』を調べたけど、事件の

被害者はそれほど深刻な状態ではなかったって……」

「だからアスナだけは違うんだっ……」

 

今度はキリトが声を荒げたが、すぐに押し殺すように「アイツが……」と呟く。

缶が音を立ててひしゃげた。

 

「……食事が出来ない状態だったってこと?」

「いや、多分、アスナの意志で食べ物を摂取しなかったんだと思う。オレにも詳しくは

言いたがらないんだ。でも、そう考えれば……今でも食べ物を口にすることに、どこかで

ブレーキがかかるんだろう」

「なら流動食どころか……」

「今も栄養のほとんどは点滴からだよ」

「……そんな……だから……だからあんなに細くて、弱々しくて……」

 

ギルド《血盟騎士団》の副団長としての凜々しい姿も、自分の店を訪れてくれた時の元気

いっぱいの姿も、二人で街を歩いた時の楽しそうな姿も、今でもハッキリと思い出せる。

彼女の仕草、表情、ブーツのかかとを鳴らすクセ。

それは仮想世界ではあってもアスナの本当の姿だと思っていた。

今の姿は本当に自分の知っているアスナなのか……現実が本当なら《あの世界》でのアスナが

偽物だったのか、そう感じてしまうほどかけ離れてしまった二つの世界での親友の姿。

 

「そんな状態でリハビリを始めたのっ?」

 

なぜ誰も止めなかったのか、怒りにも近い感情がわき上がっていた。

 

「アスナが強く望んだんだ……それに身体を動かせば食欲が戻るきっかけに

なるかもしれない、と希望的な憶測もあった……そうはならなかったけどな」

 

微々たる栄養接種状態でリハビリをしたのでは、体力は奪われるばかりだろう。

 

「……それでも……アスナはちゃんと自分で戻ってくるよ」

 

未だ缶を握りしめたまま、キリトは前を向いた。

 

「アスナは強いから……」

 

信じる気持ちに揺るぎはないのだが、その為に自分は何が出来るのか。

《現実世界》に生還した時より、みるみる細くなっていくアスナをキリトは見守る事しか

できずにいた頃、ふとした会話の中でリズベットの話が出たのだと言う。

アスナが願う事を叶えたい一心で、自ら連絡をくれたキリトもまたアスナと同様の強さを

持っているのだろう。

リズは一瞬でもアスナを疑ってしまった自分を恥じた。

同時にキリトが傍にいてくれればアスナはきっと自分の知っているアスナに戻ってくれるに

違いないと確信する。

 

しばらくこの二人を見守ろう

 

リズはそう心に決めて、笑顔でキリトの背中を叩いた。

 

「そうね。私の親友はアインクラッドで最強ギルドのサブリーダーを勤めてたんだから。

簡単に自分を諦めたりしないわ。私もアスナを信じる。ほらっ、エギルの分のコーヒー買って

病室に戻ろ」

「ああ」

 

残りのコーヒーを一気に飲み干したキリトが立ち上がる。

リズはその間にブラックコーヒーを買い、それをキリトに渡した。

 

「私、洗面所に寄って顔洗ってから行くから、先に戻ってて」

 

アスナの話を聞いて、涙がこぼれそうになったのが理由と言うよりは、自分の気持ちを

仕切り直す為だろう。素直にコーヒーを受け取ると、一足先にキリトは病室に向かった。

 

 

 

 

 

病室に戻り仕切りのカーテンを開けると、キリトの目にアスナがひとりで車イスから

立ち上がろうとしている光景が飛び込んできた。

フットプレートから両足を下ろしているが、腕にも足にも力が入り切らないので、

アームレストを持つ手が震え、肘が伸びきらない。

 

「危なっ!」

 

キリトは持っていた缶コーヒーをサイドテープルに投げるように置くと、素早くアスナに

駆け寄った。と同時にアスナは車イスから中腰で上体を前に傾けた途端、自身を支えきれずに

バランスを崩し前のめりに倒れ込む。病室の床に身体を打ちつける寸前でキリトの両腕が

後ろから彼女を抱き止めた。

そのままゆっくりと自らも膝をついてアスナを床に座らせる。

あのまま床に倒れていたらガラス細工のように粉々に砕けていたのではないかと、ありえない

妄想が湧き上がるほど腕の中の彼女の身体は細かった。

座り込んだままのアスナを改めてしっかり包み込む。

 

「……はぁっ、間に合った」

 

アスナはすっかりキリトに身体をゆだねる状態で、浅い息を何度も繰り返していた。

 

「あ……ありがとう」

「何がしたかったんだ、アスナ」

「そろそろ、点滴の時間なの……車イスのままだと……後でベッドに……移動するのが、

大変だから……今のうちに、と思って」

「ベッドに移動すればいいんだな」

 

途切れ途切れに答えるアスナを支えたまま正面に回り込んだ。脇の下から腕を差し入れ、

しっかりと身体を密着させると、背筋を伸ばして彼女を抱きかかえながら立ち上がる。

 

「……うん、ベッドまで……連れて行ってもらえる?」

 

力は入らないまでも、なんとか自分の両手をキリトの肩に置き、未だ浅い息づかいをしながら

上目遣いで見つめてくる……その表情と言葉に、不意を突かれてキリトの頬に朱が走った。

 

「随分……素直だな」

 

今までなら「自分でできる」とか「一人で大丈夫」と拒まれるが常なのだ。それでも

結局最後にはキリトが手を貸しているのだが、最初からこんなアスナは珍しい。

 

「あ……エギルさんがね、今はちゃんと……キリトくんを、頼れって……」

 

そう言われて最初から何でもかんでも甘えてくる性格ではないと知っている故のエギルの

アドバイスだろう。すぐに人に頼ることをあまり良しとしないせいか、アスナも珍しく

ほんのり頬を染めて、呼吸を整えている。

 

「……アスナ、唇から血がでてる」

「え?、別に痛くないけど……乾燥してるから、ちょっと切れたのかも……んっ」

 

アスナの身体を支えたまま、その唇をキリトが舐めた。

 

「んふっ……」

 

血の滲んでいる部分を軽く舐めた後、今度はしっかりと重ねて舌を使いアスナの唇を潤す。

 

「あっ……ん……」

 

未だ口呼吸をしている隙をついてそのまま舌を入れ込み、絡ませてディープキスにまで及んで

しまうキリトに対し、もともと抗う体力もない状態のアスナは、なんとか身体を反らそうと

もがいてみるがほとんど意味はない。

 

「っもうっ……リズやエギルさんがいるんだよっ」

 

やっとのことで逃れた、と言うよりキリトが解放したアスナは恥ずかしそうに上気したまま、

瞳を潤ませ頬を膨らませている。

 

「今はいないだろ……うん、随分血色が良くなったよ」

「こんな方法はダメだからっ」

 

そうは言っても、ずっとキリトに体重を預けたままでいるので、今彼が手を離したら

すぐさま床に崩れ落ちてしまうに違いない。キリトの手をふりほどけない自分の体力のなさと、

意思の弱さより、彼を愛しく思う気持ちが膨れあがり、両手で触れている肩にそっと顔を

うずめてしまう。

キリトは衝動的にアスナを思いっきり抱きしめたくなるが、僅かに震えている華奢な身体を

気遣い、背中に回した腕に少しだけ力を入れ、耳元でささやいた。

 

「もっと頼れよ、アスナ…………ベッドまで、足動くか?」

「うん」

 

数歩の距離をゆっくりと移動させ、静かにベッドに座らせる。

そのまま頭と肩を支えながら、アスナが横になるのを手伝い、胸元まで毛布をかけた。

 

「そう言えばエギルはどこ行ったんだ?」

 

リクライニングの上部を電動で起こしながらアスナに問いかける。

 

「ちょっと連絡を入れてくるって、思い出したように出ていったけど、休憩スペースで

会わなかった?」

「ああ、なら非常口の方に行ったのかもな」

「キリトくんこそ、リズは?」

「洗面所に寄ってから戻るって」

 

そんな会話を交わしている間に病室のドアの開閉音がする。

タタタッと足音がしたかと思うと、リズが顔をだした。

 

「アスナ、点滴だって。ナースさん来たよ」

 

続いてトレイを手にしたナースとエギルが入ってきた。

ナースは点滴の準備をしながらニコニコとアスナに声をかける。

 

「ちょうど病室の前でお二人と会ったのよ。スープが飲めたんですって?

よかった……なんだか顔色もいいし」

 

顔色がいい理由を思い出して、アスナは気恥ずかしそうに俯いたまま小さな声で「お願い

します」とだけ言うと、既に点滴用の針だけが常時刺さったままの左腕を出した。

ナースは針にチューブを手早く繋げると時間を確認して「また様子を見に来るわね」と

言い残して病室を出て行く。

ナースが退出すると、三人はアスナのベッドを囲むようにイスをセットし、腰を下ろした。

それから、リズは下を向いたままのアスナの顔をのぞき込むように話しかける。

 

「アスナ、お願いがあるの」

「……なに?、リズ」

 

顔を上げ、ちょっと不思議そうな表情のアスナにリズは言葉を続けた。

 

「私達がこの世界に戻ってくるまでの間、こっちでも色んな事が起こってたでしょ」

「……うん」

「新しいお店も知らないうちにたくさん出来てるし……」

「……うん?」

「ドーナッツとか、クロワッサンとか、パンケーキとか、ポップコーンとか……」

 

んんんっ?!

黙って聞いていたキリトとエギルが高速で瞬きをする。

 

「全くクリアーしてないスイーツがたくさんあるの、これって十代の女子として

あるまじきことよっ」

 

スイーツ制覇が何かのクエストのようにリズは語り続けた。

 

「だからアスナ、退院したら、私、アスナと一緒に行きたいの」

 

内容はさておき、リズは真剣にアスナの顔を見つめている。

その表情を見て、アスナもふわりとした笑顔で答えた。

 

「うん、行こう」

 

二人のやりとりを聞いていたキリトが、思い出したように少々うんざりした顔で声を漏らす。

 

「そういえば、この前『宇治金時ラズベリークリームパフェ』をオゴらされたよ」

 

その表情は名前のせいなのか、実物のビジュアルのせいなのか、はたまたオゴった値段の

せいなのか。ゴージャスなネーミングにリズが食いつく。

 

「それ、どこで食べれるの?」

「まあ、うちの近所のファミレスだけど」

「一体誰にオゴったのよ、そんな乙女系のスイーツ」

 

じと目で探るような視線を送ってくる。

 

「妹だよ」

「へぇっ、キリトに妹ねぇ……」

「ホントだってば。さっきアスナとも話してただろ」

「アスナ、知って……」

 

言いかけてアスナに振り向いたリズが声を止めた。

いつの間にかベッドに身体を預けたアスナが静かに寝息を立てている。

リズが顔の正面に人差し指をまっすぐ立てて、頷いた。

それからボリュームを絞ってベッドの向こう側にいるキリトに告げる。

 

「そろそろ私達帰るわね。キリトはどうする?」

「オレは……」

「まだ、握ってろ」

 

エギルが小さくウインクした。

見ると、アスナの左手とキリトの右手がしっかりと繋がれている。

 

「すまない」

 

空いている左手を挙げて謝辞を表した。

 

「今日は本当に有り難う。お陰でアスナも肩の力が少し抜けたみたいだ……」

 

荷物を持って、足音を偲ばせながら病室を出ていこうとする二人に改めて礼を言う。

 

「なに、気にするな。さっきオレのスープを病院側に預けてきたから、少しはアスナも

食べれるようになるかもしれん……また何か作ったら連絡するから、キリト、店まで取りに

来いよ」

「ああ」

 

リズは声をださず、大きく口で「ま・た・ね」と伝えると素早く手を振り、最後にアスナの

寝顔を見てエギルと一緒に病室を出ていった。

 

 

 

 

 

アスナの瞼が何回かゆっくりとまばたき、うっすらと瞳を開く。

 

「アスナ」

 

かの世界で何回聞いたかわからない自分の名を呼ぶ声……何回聞いても耳に届く度に胸が

温かくなる声が近くに聞こえた。

 

「……キリトくん?」

 

意識を覚醒させ、かの人を視線で探す。

アスナが横になっているベッドのリクライニングの上部は少し角度をつけたままで、

すぐ左側に声の主がわずかだが陰りのある瞳をたたえ、彼女の顔を見つめていた。

視線が交差するのとほぼ同時に、自分の左手に優しいぬくもりを感じる。

今出来る精一杯の想いを左手に込めてそっと握り返した後、ふと感じた疑問を呟きながら

ベッドの左右を見回した。

 

「あれ?、私……寝ちゃって……リズとエギルさんは?」

「アスナが眠ったから帰ったよ。十五分くらい前かな」

「はぁっ……折角来てくれたのに、私ったら」

 

自分の所行が情けないのか、ため息と共に目を閉じて眉を寄せている。

素早く動かせるのなら、人差し指を眉間にグリグリさせたい勢いの落胆ぶりだ。

 

「仕方ないさ、リハビリの後は疲れてるだろ。リズもまた来るって言ってたし」

 

アスナを元気づけたい為の笑顔である事はお見通しなのだろう、それよりも気がかりなのは

目が覚めた時に見たキリトの表情だった。

 

「……どうしたの?」

「えっ?」

 

彼女の言葉が何を意図しているのか瞬時わからない様子だったが、すぐに納得したように

苦笑いを浮かべる。

 

「ああ、こうやって点滴の針が刺さったアスナの左手を握っているとさ、どうしても

思い出しちゃうんだ……アスナが眠り続けていた頃のことを」

 

今はアスナの頭を拘束している物は何もないのだが、体力が落ちているせいで微動だにせず

睡眠を取っている姿が、あの頃の昏睡状態とオーバーラップしてしまうのだろう。

 

「また……アスナが目を覚まさないんじゃないかって……怖くなる」

 

あの日、キリトはこの病室で《ALO》から目覚めたアスナと再会を果たした。

互いの姿を瞳に映し、声を聴き、ぬくもりを感じたはずなのに、それが全て夢だったと

突きつけられる、その瞬間がやってくるのではないかと、そんな妄想に捕らわれる。

 

「……それは私も同じだよ。……夜、眠る時、次に起きた時、自分の居る場所があの鳥かごの

中だったらどうしようって……またキリトくんのいない世界にたった一人になっちゃう……

ホントはね、いつも、ずっと、こうやって手をつないでいたい」

 

その言葉を聞いて、今度はキリトが握る手に力を込めた。

 

「でも、それってキリトくんも、自分さえも信じてないことになるでしょ」

 

アスナの言葉を聞いたキリトは、彼女の左手に更に自分の左手も重ねた。

自分の手が彼に包み込まれる……そのたまらない幸福感に僅かに微笑む。

 

「私はいつでもキリトくんを信じてるし、キリトくんはちゃんと私を助けに来てくれた。

これを現実じゃないかもって疑うのは失礼だよ……」

 

彼女はそこで言葉を句切ると、何かを思い出すように遠い目をした。

 

「今日ね、リズやエギルさんと会って……エギルさんに今度、キリトくんと一緒に

お店においでって誘われて、リズからは一緒に出かけようって約束ができて……

どんどんこれから現実世界でやりたい事が増えていくの。もしかしてこれは夢なのかも、

なんて考えるヒマ、なくなると思う」

 

アスナがキリトに向けて、笑顔を向ける。

少し首を傾けて笑うのは、あの世界で何回も見た彼女の癖だ。

 

「私ね、現実のこの世界でもキリトくんと一緒にお茶したり、お散歩したり、

お買い物したり、向こうの世界でしてた事……うううん、向こうで出来なかった事でも

やってみたいって思ってる事、たくさんあるんだよ」

「そうだな…………ああ……っと……」

 

アスナの話を聞いて、不安が少しずつ小さくなっていったのか、キリトの表情にも笑顔が

混じり始めた時、何かを思い出したように小さく声をあげた。目線を下げ、しばらく

考え込んだ後、再び顔を上げてアスナを正面から見つめ、改まった口調になる。

 

「なら、アスナ…………結城、明日奈……さん」

「……はい?」

 

突然のフルネーム、しかも「さん」付けで呼ばれたアスナは、キリトの様子を見て

何を言われるのかと小首をかしげる。

返事をしたものの、顔はこちらを向いているのになかなかキリトの言葉が続かず、

もう一度声をかけようとした時。

 

「……こういうの、初めてなんだけど……」

「……うん」

 

意を決したようにアスナを見つめていたキリトの視線がまたもや下に落ちる。

耐えきれず、小さな声で恐る恐る促した。

 

「なぁに?」

「オレと……」

 

言葉を発した途端、顔を上げたが、最後まで言い切らずに目をつぶって深呼吸を一回はさむ。

再び、アスナをしっかりと瞳に映し、最後に再び深く息を吸い込んだ。

 

「付き合って……く……ださい」

 

つっかえながらも全てを吐ききるように交際の申込みを告げる。

キリトは既に下を向く余裕もなくなったのか、顔を赤くしながらほとんどフリーズ状態だ。

アスナもまさかこのような言葉をもらえると思ってもみなかったので、自分の顔が

徐々に火照っていくのを自覚する。両手で顔を覆いたかったが、左手はキリトと繋がって

いるため、右手だけを頬にあてた。

 

「あ、まさか、コレってさっきみたいに血色を良くするとかいうのじゃ……」

「ちっ、違うって」

 

急いで首を振るところを見ると、本当に交際を申し込んでいるようだ。

 

「……どうして?」

「どうしてって……」

 

交際を申し込んだ相手から「どうして」という返事もなかなかレアで、予想外の返答に

キリトも言葉を詰まらせる。

しばらく逡巡した後、顔を赤くしたまま、キリトは真剣に説明を始めた。

 

「この世界でアスナがしたい事って何かな、って考えた時……アインクラッドの血盟騎士団

本部で言ってただろ。現実世界で……その、オレと……ちゃんと付き合いたいって……。

だから、まず……こう言えば……いいかと……」

 

最後まで言い切らないまま、結局下を向いてしまう。

これがつい三十分ほど前にアスナを抱きしめ、少々強引なキスをした相手だろうか。

そもそも《SAO》では夫婦として生活をしていた人から、改めて交際を申し込まれるとは……

 

言った……確かに言った……「現実世界でちゃんとお付き合いをして」と……それを

 

「覚えていて……くれたんだ……」

「……うーん、覚えてたって言うよりは、思い出した、だな」

 

相変わらずわざわざ言わなくてもいい事を正直に言うヒトね、と微笑みながらも眉がさがる。

 

「それで、返事は?」

 

下を向いていたキリトが、少し上目遣いで心配そうに聞いてきた。

 

「……今すぐ、お返事した方が、いいですか?」

 

一転、アスナが茶目っ気のある表情に変わっているのに気づき、キリトも、悪戯っ子のような

笑顔を浮かべる。

 

「ぜひ」

「なら…………お友達から」

「へっ?」

「ゴメン、冗談……一度言ってみたかったんだもん」

 

軽く首をすくめながら微笑む姿を見て、違う意味でも安心をする。

アインクラッドでアスナはキリト以外からも求婚をされているはずだ。

多分現実世界でも交際を申し込まれた経験は何回かあるだろう。

今の言葉を聞く限り、そういった申し込みに「お友達から」という返事すら

使った事がないということに、それだけでもアスナの中の自分の存在を実感する。

 

「焦った……笑えない冗談だぞ」

 

ふうっ、と息を吐きながら左手だけをアスナから離し、自分の顔を覆うようにして下を向く。

肩を落とした姿を見て、アスナはクスクスと笑いながら小さく声をかけた。

 

「右手、かして」

「ん?」

 

言葉と同時に繋がれていたキリトの右手をアスナの手が導く。

手がどんどんとアスナに引き寄せられるのに合わせ、キリトはイスから腰を浮かし

身体ごと彼女に近づいていった。

アスナはキリトの右手を自分の頬にあてると、宝物を抱くように両手で大事に包み込み

目を閉じてそっと頬ずりをした後、まっすぐにキリトを見つめ笑顔で告げた。

 

「はい……お願いします……桐ヶ谷、和人くん…………これで、いい?」

 

本名をキャラネームにしていたアスナと違い、キリトは《現実世界》での本当の名前を

アスナの口から聞くことに慣れていないせいで、一瞬にして全身が固まる。

アスナはそんなキリトの姿をただ、ただ少し照れつつも微笑みながら見つめるだけだった。

そうして視線を交わしているうちに、自分に向けられた明日奈の照れ笑いで胸が満たされた

キリトは次第に頬の照りが冷めて、逆に瞳の奥に熱を孕み始める。

ベッドの端に斜めに座り、アスナの頬に触れている右手と同様に、反対側の頬にも

左手を添え、彼女の顔を挟むような体制になると、そのまま自分の顔を近づけた。

 

「このベッドで眠り続けるアスナにずっと話しかけていたよ。目を覚まして欲しい、

声が聴きたい……君に会いたいって……今、アスナの口から現実のオレの名前を聞いて

実感した、本当に《現実世界》で再び君に会えたんだって」

 

キリトの言葉を聞いているうちにアスナの顔からも笑顔が消え、双眸から一筋の涙がこぼれ

落ちた。それが両頬に触れているキリトの手に伝わる。

キリトは更に顔を近づけ軽くアスナの唇に触れると、泣き出しそうな表情で彼女に懇請した。

 

「……オレを呼んで……この唇から……『キリト』って、聴かせて……」

「…………キリトくん」

 

声を聴いて、キリトはそっとアスナの右頬にキスをする。

唇の感触が離れると再びアスナはその名を口にした。

 

「キリトくん」

 

続いてキリトが左の頬に口づける。

 

「キリトくん」

「……もっと……」

 

こんな風に甘えてくるキリトは珍しい。

アスナの口から自分の名が呼ばれる事をどれほど焦がれていたのか、それを想いアスナも

胸が苦しくなった。それでも彼の名を呼び続ける。

 

「キリトくん」

 

華奢なおとがいに、おでこに、こめかみにとキスの雨を降らしていく。

キスをする度に自分を呼ぶ彼女の声が耳に届く、その回数を重ねる毎に少しずつ心が軽く

なっていくのわかった。

 

「キリトくん……キリトくん」

 

段々と急くように自分の名を呼ぶ彼女の声。

今はなきあの浮遊城で、あふれる想いを伝えたい時の懐かしい口調だ。

閉じた瞳にキスをした後、震えながらアスナの瞼が開き、キリトをじっと見つめた。

今度は僅かに眉を寄せ、訴えるような表情になっている。

何が言いたいのか、だいたい想像はつくのだが、わざと首をかしげ微笑みながら

問いかけた。

 

「なに?、アスナ」

「……キリトくんも……呼んで」

 

《現実世界》に生還した後、何度もうなされた彼女のいない悪夢の中で、又は眠り続ける彼女の

傍らで手を握りながら念じ続けた事もあった。《ALO》で世界樹のガーディアンに囲まれた時も

何度も呼んだ彼女の名前……いつも返事はなかった……けれど今は……

 

「……アスナ」

「……はい」

「アスナ」

「はい」

 

アスナにとっては、あの崩れゆく世界で最後まで呼んでもらった名前、次に囚われの身と

なっていた時、唯一彼だけが呼んでくれた名前、《現実世界》で目覚めて初めて呼ばれた名前

……全てキリトが呼んだ《仮想世界》と《現実世界》での自分の名前。

 

「……アスナ」

「やんっ」

 

アスナの名前を呼びながら、啄むようにキスをしていたキリトが最後に彼女の耳元に囁くように

その名を口にした後、耳垂を甘噛みし、耳孔全体に舌を這わせる。

 

「んーっ、いじわる……」

「彼女にいじわるなんてしないさ」

「だって……んんっ」

 

最後のお楽しみにとっておいたと言わんばかりに、アスナの薄い唇にキリトのそれが重なる。

何度も音を立てて吸い付き、小一時間ほど前の比ではない位、舌を使い彼女を味わうと、

アスナだけに見せるやわらかい笑顔でもう一度、その名を呼んだ。

 

「アスナ……」

「……キリトくん」

 

惚けた瞳で見返すアスナの顔はすっかり色づいている。自分ばかり余裕がない気がして、

アスナはその色を見られまいとキリトの頬に顔を寄せた。

 

「私ね、あの城にいた時、キリトくんに言ったことがあったでしょ。《現実世界》に帰りたい

理由……やり残したことがあるって」

「ああ、そう言えば、言ってたな。セレムブルグのアスナの部屋で」

「うん……でもね、私が帰れたら一番したかった事って、《現実世界》でやり残した事でも、

《現実世界》に居る人に会いたいって事でもなかったんだよ」

「じゃあ……」

 

問いかけるようなキリトの言葉を耳にしながら、アスナはゆっくりと顔を起こした。

輝く笑顔をキリトに向け、その答えを告げる。

 

「君にもう一度出会うこと……私の一番の願いを叶えてくれて、有り難うキリトくん」

 

そして二人はゆっくりと抱きしめ合った。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナが《現実世界》に復帰した後、アスナの心身の状態が原因でしばらくはキリトも精神的に
不安定ではないだろうか?、という思いで書いてみました。
基本、この『かさなる手、つながる想い』はキリトに続きアスナが《現実世界》に
復帰した後を舞台としたエピソードを考えていますので、本作が時間軸では一番古いものに
なると思います。
しかし、実を言いますとこれも私的にはかなり初期の作品でして、年末年始は恥ずかしさに
もだえながら加筆・修正作業を行いました。
『再会』はいろいろと意味を含ませていますが、書いた当時、珍しくシンプルに即決できた
タイトルです。
そして多分、ご本家(原作)様ではアスナがエギルと《現実世界》で会うのはダイシーカフェだと
示唆されていると思うのですが、《ALO編》でキリトにきっかけをくれたエギルなら、
お見舞いに行くのもありでしょう、と勝手をさせていただきました。
では、引き続き「お年玉」的に短編も投稿しますので、よろしければお付き合いください。


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【いつもの二人】歳の差編

【いつもの二人】シリーズです。
今回は《現実世界》の学校で明日奈が「う゛〜っ!」となるお話です(笑)。
頭では理解できても、心が納得できないと素直になれないのが女の子って
ものではないでしょうか?


何がどうしてこうなった?

 

明日奈が作ってくれた弁当を目の前にして、思考が迷走し始める。

しかし少しでも気を抜くと前から横から後ろからクラスメイトの男子達の手が伸びてくるので

落ち着いて考えることもままならない。

 

どうしてオレは自分の教室でアスナの弁当をひとりで食べるはめになってるんだ?

 

再び命題を自分に問う。

実際にはひとりで食べる、と言うよりは周囲から横取りしようとする魔の手から弁当を守りつつ

なので孤独感はまるでない。

本日のメインディッシュがぷるんっ、と魅惑の輝きを放っている。

 

照り焼きチキン……オレの好物なんだよな

 

あれが好き、これが好き、と言った覚えもないのに、明日奈が作ってきてくれる弁当には必ず

オレの好物が入っている。《かの世界》や《この世界》で食事を共にする度に、明日奈は

オレが何をどんな表情で食べているのかを見て察してくれているのだろう。

いつもならつややかな照りを見ただけでゴクリと唾を呑み込むのだが……オレの代わりにすぐ

横からゴクリという音が聞こえた。

 

「これが姫の愛情こもった手作り弁当かぁ……噂には聞いていたが、現物は想像以上だな」

 

確かに……今ではかなり見慣れてしまったが、フタを開けた時は彩りの良さ、栄養バランスの

良さに驚き、そして何より全てに繊細さを感じる味付けは感動ものだ。

しかもその味付けが自分の好みにアレンジされているとなれば、そこから感じる愛情は筆舌に

尽くしがたい。

 

「カズ、おれのかーちゃんの愛情こもった弁当と取り替えようぜ」

 

お前のかーちゃんの愛情はお前が受け取れ、という視線で答えてからオレは誰に分け与える

ことなく、ひとりで明日奈が作ってくれた弁当を食べた。

 

 

 

 

 

キレイに完食した後、オレの頭の中は今朝の出来事を再生していた。

今朝は寝坊と電車のダイヤの乱れのダブルパンチで本当に遅刻ギリギリだった。

いつもなら駅から歩くところを、駅前のロータリーで出発寸前のバスに飛び乗り、これで

間に合う、とつり革につかまり一安心した時だ、バスが急ブレーキをかけた為オレは

よろけて隣にいた女子生徒の足を踏んづけてしまったのだ。

女子生徒の驚いた表情がすぐさま苦痛に転じるのを見て、オレは盛大に焦った。

同じ制服だったので、学校前のバス停で下車する際に手を貸し、そのまま一緒に校門をくぐり、

昇降口まで彼女の腕を支えながら登校した。

幸い腫れてはいなかったが、痛そうに足を引きずる彼女はオレにピッタリとひっついて

腕を絡めていた。申し訳なさでいっぱいだった為気づかなかったが、今考えると、そんなに

くっついて歩かなくても、と思わなくもない。思わなくもないが、そんな事を言える立場では

ないのもまた事実だ。

校舎に着いてから、何度も「保健室へ」と言ったのだが、彼女は「大丈夫ですから」と断り続け、

時間的に誰もいない昇降口でオレより下の学年の下駄箱へと姿を消した。

オレはその後ろ姿を見送ってから自分の下駄箱に行き、靴を履き替えようとした時、明日奈が

目の前に息を切らしてやって来て……

 

「キリトくんのバカ!、大嫌いっ」

 

と言い放つやいなや、きびすをかえして階段を駆け上がっていってしまったのだ。

残されたオレは呆然とするしかなかった。

折角学校に遅刻せずに済んだというのに、午前中の授業は何一つ頭に入ってこなかった。

休み時間の度に、周囲から「下級生にまで手をだすのかっ」だの「朝っぱらから見せつけて

くれるなぁ」とか「二叉とかマジありえねーだろ」などの罵詈雑言を浴びていたが、オレの

頭は授業と同様に言葉の意味を一切理解していなかった。

この上、明日奈から「バカ」だの「大嫌い」だのと言われた事が知られていたら一体

どうなっていたことか……などと想像力さえ枯渇しているオレの頭は思いつきもせず、ただ

オレに対して告げられたという事実だけが全てを占めていた。

そうして午前の授業が全て終了した時、教室の出入り口から「キリト!」と呼ぶ声が耳に

入ったのだ。その声に反応できた自分を褒めてやりたいくらいオレは憔悴しきっていた。

見ればリズが弁当の包みを顔の高さまで上げて意味ありげな視線を送ってきている。

もちろんその弁当の作り手がリズでないことは瞬時に判断できていたが、それをリズが

持っているという光景が更にオレを打ちのめした。

ヨロヨロとリズの元へ歩み寄ると、彼女は包みをずいっとオレの前に突き出し、もう片方の手を

腰にあてて大きなため息をついた。

 

「はい、これ。明日奈から。一緒に食べる気分にはなれないみたいだけど、アンタに食べて

欲しいって気持ちはあるみたいね」

「ああ、ありがと」

 

オレは力なく弁当を両手で受け取ると、会話を続ける気分にもなれず自分の席に戻るため身体の

向きを変えた。

 

「まあ、それ食べてどうするか考えなさいよ。こんな宅配みたいなサービス、もう二度と

しないからねっ」

 

それだけをオレの背中に言うとリズの足音はすぐに廊下へと消えていった。

 

弁当を食べて欲しいって気持ちはある

 

弁当を食べ終えたオレの頭の中では、リズの言葉が何回も響いていた。

その言葉にすがるように携帯端末を取り出す。

迷う事なく明日奈に短いメッセージを送ると、返信は程なくして届いた。本文にはひとこと

だけ「承知しました」と書かれていた。

 

 

 

 

 

放課後、学校の屋上に出ると、唯一の先客の姿が目に入りホッと肩の力を抜く。明日奈は柵に

寄りかかってグラウンドを眺めているようだった。風にのってサラサラと栗色の髪が揺れて

いる。いつもの癖で、すぐに彼女に近づくことはせず、その姿をいっとき堪能した。そして

彼女の方もいつもの様にオレの視線に気づいて軽く頬を染める。まるでいつも通りだった。

朝、彼女から「大嫌い」と言われた事が夢か幻だったのではないかと思えるほどに。

しかしいつもなら頬を染めてすぐに笑顔になり、その後で照れたようにツンと視線を逸らすのが

お決まりなのだが、今日の彼女は頬を染めたまま笑顔を見せることなく視線を下に落とした。

オレはいつもよりゆっくりと彼女の元へと歩み寄り、手に持っていた空の弁当を差しだした。

 

「これ……有り難う」

「うん」

 

弁当箱を返したいから、放課後、屋上まで来て欲しい……と送ったメールの用件は簡単に

済んでしまった。しかし本来の目的はこれからなのだ。それは明日奈もわかって応じて

くれたのだと勝手に解釈していたが、彼女はそっと包みを受け取ると、そのまま脇を

すり抜けて行こうとしたので驚いたオレは慌てて手を伸ばした。

 

「ちょっ、明日奈……」

 

咄嗟に腕を掴んだが、振り払われることはなく彼女はピタリと足を止めた。しかし俯いた顔を

上げようとはしない。「明日奈?」ともう一度呼びかければ、意を決したようにゆっくりと顔を

こちらに向けて、眉をハの字に曲げたまま小さく呟いた。

 

「今は……謝れない。どうしても、無理」

「は?」

 

何を言っているのかすぐに理解できず、間の抜けた返事をしてしまった。

 

「だから……今朝、女の子と一緒にいたこと。あの子、シリカちゃんと同じクラスの子

なんだって。バスの中で何があって、どうして二人で登校したのかはシリカちゃんから

聞いたけど……頭ではわかってる。キリトくんは当然の事をしたんだって。でも……」

 

そこまで言って再び下を向いてしまう明日奈に、オレは未だ状況がつかめないままでいた。

「バカ」と言った事が謝れないのだろうか……今の明日奈の気持ちさえわかりかねている

バカなオレだから?

とりあえず朝の出来事は正確に明日奈に伝わっているようだが……まあ「謝れない」と

言っている時点で本当は謝りたいのだという明日奈の気持ちを察し、少し安心する。

 

「別に、無理に謝らなくてもいいよ……」

 

だいたい勝手に誤解されたようだが、勝手にそれは解決したようだし。

謝りたい気持ちは既にオレに伝わっている。

 

「それは……ダメ」

 

俯いたままこぼす姿を見て、クスリと笑ってから、明日奈らしいな、と独りごちる。要は筋は

通したいが、今は感情が邪魔をして出来ない、というところだろうか。

誤解が解けても尚、素直になれない感情とはなんなのか。

またオレの気づかないところで気持ちを持てあましているのか、オレの彼女は……。

そのまま明日奈は言葉を紡いだ。

 

「やっぱり……男の子は年下の可愛い女の子と一緒にいる……が……よね……」

 

ああ、そういうことか……

 

最後の方はよく聞き取れなかったが、明日奈が何を気にしていたのかはわかった気がした。

 

「オレには明日奈が一番可愛いけどな」

「……でも……年上より、年下の方が……」

 

最後まで言わさずにつかんでいた腕を引き寄せる。

 

「そんな事で拗ねてる明日奈は、とてもオレより年上には見えないけど」

「うっ……」

「それに、時々そんな事言ってるけど、それってオレありきの話だろ。なら明日奈のせいじゃ

ないし、もっと言えば原因はオレだよな」

 

少々強引な論理であることは自覚していたが、今はとにかく明日奈の重い心をどうにか

してやりたかった。常にオレという存在を基準に考えてくれる彼女は、自分がオレよりひとつ

年上ということがいまだ気になるようで思い出したように笑顔を曇らせる時がある。

 

「ちゃんと顔、見せて」

 

頬に手をあてると、ふるふると首を横に振った。

 

「今、すごくイヤな顔になってる。キリトくんに腕を借りていた下級生の女の子を見て、それを

許しているキリトくんを見て、胸が苦しくなって、ついキミにひどい言葉、言って……そんな

自分が何だかたまらなくイヤになって……もうグチャグチャだもん」

「グチャグチャでも可愛いから、いいよ」

「こんな顔見せたくなくて、でもお弁当は食べて欲しくて、リズに無理矢理頼んだのに……

リズったらお弁当箱返してもらう時は絶対自分で行きなさいって……」

 

リズのやつ、ナイスアシスト……とは思うが、きっと後で何かしらの要求がきそうだ。

 

「そう言えば、今日の弁当だけど……」

 

故意に言葉尻を濁してみれば、気になった様子の明日奈がおずおずと上目遣いでオレを見上げて

きた。無理にこちらを向かせなくても自分のした事はきちんとする明日奈らしい反応と共に、

予想通りその瞳に溜まっている涙を見て抱きしめたい衝動をグッと堪える。

 

「……何か……不味かった?」

 

震える声でおそるおそる尋ねてくる明日奈に、オレは真面目ぶった顔で軽く頷いてから彼女の

耳元にかがみ込んだ。

 

「いつもより美味しくなかった気がした……多分、明日奈と一緒に食べられなかったから」

 

これは嘘でもお世辞でもなく本当のことだ。好物の照り焼きさえ何か違う気がしたのだ。

多分、好きな人と食べればコンビニの弁当でもその美味しさは倍増するのだろう。

明日奈は一瞬眼を瞠ったが、一層眉根を寄せて口をきつく結んでいる。瞳の涙が頬に溢れ落ちた。

オレは慌てて唇を寄せ、チュッと音を立てて吸い取る。

 

「一緒に弁当を食べたいって思うのは明日奈だけだよ」

 

掴んでいた腕を一旦放して、改めて両手を彼女の背中に回した。

 

「こんな事したいって思うのも、明日奈だけ」

 

背中をゆっくりと摩りながら、再び顔を近づける。

 

「こんな事とか」

「……んふっ……ダメ……」

 

明日奈がオレから逃れるように顔を背けるがすぐに捕まえて貪った。背中にある片方の手を

徐々に移動させ、小さな頭に触れて、その長い髪を梳く。

 

「こんな事も」

「あっ……だから……ここ、学校……」

 

何回も、何回も、徐々に変えて。

髪を触りながら、もう片方の手で細い腰をぐっと抱き寄せる。

 

「そうだな。学校なのに……ここな風に我慢できなくさせるのは、明日奈だけ」

「ひゃんっ……ホントに……あっン……ダメ」

 

そのまま続けながら、手は乱れた髪の毛を耳にかけて、頬を経て顎へ、首筋へと明日奈の

感触を指先で楽しみながら移動を続けた。

 

「明日奈だけ……だから……」

「ああンっ……わかったから……んふっ……ちゃんと……だから……んんッ……

ごめん……なさい」

 

既に耳まで真っ赤に染まっている。

オレはニヤリと笑うと明日奈から身体を離し、一歩下がって顔を覗き込んだ。

明日奈は上がった息を整えつつ慌てて手櫛で髪を整え、ブラウスの襟元を正している。

 

「じゃあ、ちゃんと謝ってもらったことだし……とりあえず、場所を変えるか」

 

明日奈が無言でこくんと頷いた。

 




お読みいただき、有り難うございました。
こんな単純なストーリー展開なのに、ラストにキリトが責めまくってます(汗)。
(すみません、止まりませんでした)
キリトだって「いつも」女子から狙われているんです、という「いつも」の意味ではなく
(実際は狙われていると思いますが……)仲の良い二人でも、時々、感情が先行して気持ちが
すれ違う事もあるでしょうが、結局「いつも」の関係に戻る、という「いつも」です(苦笑)。
ふとした事で、時々気にしている事が一気にドーッンと重くなる事ってありますね。
さて、次回の舞台は《GGO》です……勇気を振り絞って投稿します。


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オオカミと野ウサギ

『アリシゼーション』の序盤でキリト、アスナ、シノンが話していた第五回BoB戦。
その為にコンバートしたキリトとアスナのお話です。珍しく舞台は《仮想世界》、しかも
《GGO》です。


はぁっ、はぁっ、はぁっ……

 

《ガンゲイル・オンライン》内の中央都市《SBCグロッケン》の街中をアスナは疾走していた。

霧なのか埃なのか、常にうっすらと視界を遮るそれに胸の内で舌打ちをしながら、時折

周囲の高層建築群の隙間から覗く総督府を視認しつつ自分の位置を予測する。

さっきまで走っていたメインストリートから、すぐさま横道に入り、入り組んだ路地を

選んだせいで空中回廊などはなく、ひたすら細く曲がりくねった道を前後左右に神経を張り巡らせ

ながら突き進むしかなかった。

「狭い路地裏」と言えば《SAO》でのアルゲードの代名詞のようなものだが、ここは世界が

違うせいか道には人々の賑やかな活気も雑然と置かれた生活感あふれる日用品もなかった。

薄暗く、人の気配すらしないが、角を曲がった途端NPCなのかプレイヤーなのかさえ

一瞬判別しかねる風貌の人らしき塊がうずくまっていたりと……その度に「ひゃんっ」と小さく

悲鳴を上げ、足を止めるが、ギロリと睨まれ、再びそこからも逃げるように走り出す……

そんな逃走を既に何回か繰り返していたので、自分を追ってくる足音が聞こえなくても

自らの足を止めることは出来なかった。

コンバートの為、俊敏性……AGI値は低くないはずだが、さっきまで自分の後ろを

薄ら笑いを浮かべてついてきた男達が突然走り出し、一瞬で距離が縮まった瞬間に

感じた身の毛もよだつような恐怖は今もぬぐえないままだ。

前回のログインまでは《GGO》をホームとしていたシノンが一緒だったが、今回、彼女は所用で

ダイブしていない。その代わり……と言うわけでもなかったが、自分より数日遅れて彼が

コンバートを予定していた日が今日だった。

あまり待ち合わせの場所から離れるわけにはいかない。

きっともう彼はその場所に到着して自分の姿を探しているはずだ。

速度を出来るだけ緩めず後ろを振り返るが、来た道をたどる勇気はなかった。

そもそも道が複雑な上に、振り返って改めてわかった事だが、道筋がかなりささくれ状になって

いる。男達が諦めた、という確信があったとしても同じ道を戻ることは不可能に近かった。

再び自分の位置を確認しようと総督府のタワーを探す……と、周囲への気配りがおろそかに

なった瞬間、いきなり手首をつかまれ、更に狭い袋小路へと引っ張り込まれた。

 

 

 

 

 

待ち合わせの場所に到着してキリトは首をかしげた。

かしげた拍子にはらりと黒髪が頬にかかるが、それを慣れた手つきで耳にかける自分の

無自覚な仕草を自覚した途端、うんざりとした表情になる。

久々の《GGO》へのコンバートだが、アバターの扱いに問題はないらしい。

喜ぶべきか、悲しむべきかを悩み、そんな事を悩んでいる場合ではない、と結論づける。

時間を確認し、再度、周囲を確認し、やはり腑に落ちない表情となった。

 

待ち合わせにアスナが遅れるなんて、珍しいな。

 

もう少し周囲を探してみよう、と足を踏み出した時、前方の壁によりかかっている

迷彩服に身を固めた二人組の痩せ形の男達の会話が耳に入ってきた。

 

「スッゲェ可愛かったなぁ」

「ああ……ココであんなアバターが見られるなんて、今日はツイてるぜ」

 

思い出したように頬を染め、だらしなく口元を緩めている彼らに近寄り、声をかける。

 

「すみません、今の話って……」

「うおぉぅっ」

 

二人が同時にのけぞり、更に頬を赤らめ、にへら顔になった。

女の子が……しかも向こうから声をかけてきた……と丸わかりの表情だ。

あえて訂正は入れずにキリトは微妙な笑顔のまま話しかける。

 

「今の話、聞かせてもらえますか?」

「今の?」

「ええ、可愛かったって……」

「ああっ、アンタも可愛いけどな。少し前に、そこに、これまた可愛い子がいたんだよ。

人待ち顔って感じで。でもガラの悪いヤツらに囲まれて、なぁっ」

 

見ようによってはこの二人も充分ガラの悪いヤツらだが……とキリトは思うが

口には出さず、同意を求められたもう一人に視線を移した。

隣からの振りに応じて、もう一人が話の続きを請け負う。

 

「おう、それで逃げるように振り切って……あっちの方に……」

 

そう言って、目線をそちらに向ける。

キリトは方向を確認すると話を遮るように二人に顔を近づけた。

 

「それで、ガラの悪いヤツらは?」

「なんか、そのまま追うような感じで同じ方向に歩いていったよなぁ」

 

もう一人もコクコクと頷いている。

その様子を見た途端、キリトは「ありがとう」と言い放ち、確認した方向に駆けだした。

 

 

 

 

 

悲鳴を上げる間さえなく、口元を手で覆われる。

突然、思いもしない方向に引っ張られ、腕からバランスを崩し思わず目を瞑ったが、すぐに

口を塞ぐ手も、手首を掴んだ指も感触を消し、代わりに背中から腕ごと抱きしめられた。

「いやっ」抵抗しようとした時、耳のすぐ近くでふわりと声がする。

 

「アスナ……か?」

「え?……」

 

恐る恐る首をひねりながら目を開けると、すぐ横には黒いロングヘアに白い肌、大きめの

黒い瞳が心配そうな、それでいて半信半疑の視線を送っていた。

 

「キ……リトくん……」

「ああ……アスナだ」

 

安心したような微笑みと口からこぼれた自分の名に緊張が解かされ、すぐに身体を反転させて泣き

出しそうな顔をその首元にすり寄せた。キリトもすっぽりと腕の中にアスナを収め、抱く両手に

力を込める。

 

「キリトくん、キリトくん……」

 

力が抜けたように、こてんっ、とキリトの肩に頭を預けたアスナは、再び瞳をキツく閉じて

うわ言のように小さくキリトの名を何回も呼んだ。その声を聴きながら、キリトは優しくアスナの

背中をさする。

 

「もう、大丈夫だから」

 

その言葉と重なるように、今までアスナが走ってきた細道から複数の男の声がした。

ビクッと肩を振るわせるアスナにキリトが囁く。

 

「もう少し奥に入って、やりすごそう」

 

壁際にアスナの背中を押しつけ、闇に紛れるかの黒を基調とした戦闘服姿のキリトは

アスナの身体が自分の影に収まるよう斜めに構えた。キリトの肩越しにチラリと見えた

男達は豪快に笑いながら通りを移動している。どうやらアスナを追ってきたわけでは

なさそうだった。

互いに合わせたようにフーッと息を吐く。

それにしても……とキリトは思った。

目の前のアスナのアバターは、自分が初めてコンバートした時に声をかけてきた男の知識を

借りるなら、間違いなくめ〜ったに出ないと言うF一三〇〇番系だろう。コンバート前の

アカウントを使い込んでいるほどレアアバターは出易いと言っていたから、やもすれば

自分以上にレアなアバターかもしれない。

身長は小柄な自分とそう変わらないが、なにしろ全体がコケティッシュだ。

上半身は薄手のぴったりとしたハイネックノースリーブの上に、ファーで縁取りされた裾の短い

オフショルトップスをふわりと羽織っている。細いウエストから下は多めのプリーツでふわりと

膨らんだキュロットスカート。その下からはタイツで覆われた足がすらりと伸びていた。

更に……キリトが一番驚いたのはその髪だ。今までアスナのシンボルマークとも言えた

ストレートのロングヘアの面影は一切無く、細く白い首がむき出しで、ふわふわくるんと

カールした《現実世界》より濃いめの飴色のショートヘアが小さい顔の周りを

華やかにしている。アイボリーのグローブと同色の足下のショートブーツにもファーが

付いており、全体的に……これは……

 

まるで、野ウサギだな。

 

加えて、見知らぬ男達に追われたせいで、小刻みに震え、瞳にうっすらと涙を浮かべている

姿は否が応でも男共の狩猟本能に火をつけるだろう。

男達の笑い声は遠ざかっていったが、無意識に掴んでしまったキリトの胸元を離すことすら

アスナは思い至っていないようだ。

旧《SAO》でも時には公に、時にはこっそりとファンを自称する連中に追いかけられた事は

あるだろうが……やはりアスナを見る目に宿る感情が根本的に違うのかもしれない。

ファンならば基本的に好意的、又は憧憬の念を抱いているものだ。しかし《SAO》よりも

圧倒的に男性プレイヤーが多く、《戦い、殺し、奪う》を目的にダイブしている彼らには

アスナのような容姿の女性アバターは獲物としか映らない。

それを直感的に感じたからこそ、元来気が弱いとは言いがたい性格の彼女がこの様な状況に

陥っているのだ。

 

一体何人の男達にこの姿を曝したのか……。

 

オレも一緒にコンバートすべきだった……とは思ったが、そんな後悔以上に不快感が強く

胸に広がる。

自分の服を掴んでいるアスナの手に押し付けるように自らの手を重ねる。その強めの

ぬくもりが届いたのか、アスナが震える唇に僅かな微笑みを乗せ、首をかしげた。

 

「でも……どうして、ここが?」

「ああ、待ち合わせ場所で待ってたら、ガラの悪い連中に追われてる女の子がいるって

聞いたからさ。多分、そうだろうと思って。で、アスナなら待ち合わせの場所から、そう

離れずに移動するだろうし、目印に使うなら総督府だろうから、こっちかなと。

お互い、伊達にあの城で迷宮区や入り組んだダンジョンに何時間も潜ってたワケじゃない

だろ。だいたいの行動パターンはわかるさ」

 

アスナがキリトの言葉を聞いて信頼と安堵の色を乗せた笑顔となり、思わずその身を

預けるように再び頭を首元に寄せる。

 

「あ……ありがとう。来てくれて……」

「まあ、オレ、まだ《こっち》でアスナとフレンド登録してないし、アバターも見て

なかったから、焦ったけどな」

 

そう言ってカールした飴色の髪に触れると、毛先がくるんっと震えた。

これはこれで新鮮な感触だったのか、キリトは人差し指をアスナの髪に巻き付けては

引き抜いて、髪の動きを観察している。

 

「それにしても随分イメチェンなアバターになったな」

「うん……自分でも驚いた……けど……」

 

アスナは、くすっと笑って目の前に垂れている黒髪を見つめた。

 

「キリトくんほどじゃ、ないよ」

 

和人がダイブしていた病室で第三回BoBの中継画面から初めてその姿を見た瞬間は確かに

驚いたが、あの時はそんな事はすぐ頭から抜けてしまった。

キリトの肩に頭を乗せながら、白い肌やクリッとした瞳を間近にすると改めて不思議な

感覚にとらわれる。

 

本当に女の子みたい。

 

初対面の時、シノンが勘違いをするのも無理はない、と納得した。年齢が今より若かったことも

あって、旧《SAO》でも女顔だとは思ったが、今はそれ以上だ。

この街で自分に妙な視線を送ってくる男性とは全く違う。

自分の手に触れているキリトの手ひとつとっても、リアルで繋ぐ時に感じる包み込まれるような

和人の手とは比べようもなく華奢だ。多分、大きさや指の細さも自分とさして変わりはない

だろう。

自分とそれほど体格差のない女の子のようなアバターに甘えきっている今の状態が少し

恥ずかしくなったのか、アスナは顔を上げると照れたように微笑んだ。

少し落ち着いた様子にキリトも安心したのか、気になっていた事を確認する。

 

「追いかけられた連中に、何もされなかったか?」

「あ……うん、大丈夫だよ」

 

アスナの視線が一瞬自分から離れ、怯えの色が掠めたのをキリトは見逃さなかった。

 

「本当に?」

 

どんなアバターになろうとも、キリトの瞳の色だけはアスナの大好きな深い黒だ。

その大好きな色は全てを見通しているかのように、アスナがしまっている最奥の感情さえも

引きだそうとする。

アスナは観念したように、少し俯いて話し始めた。

 

「……五人の男の人達が……最初は……普通に声をかけられただけなの……それで、一緒に

遊ばないかって誘われて……私が、人を待ってるからって断ったら…………いきなり肩を

つかんできて」

 

その言葉を聞いた途端、キリトから表情が消え、いきなりアスナの両肩をきつく掴んだ。

 

「きゃっ」

「どっち?」

「え?」

「だから、どっちの肩、つかまれたんだ」

「あ……と、左……んぅっ」

 

すぐさま左の肩にキツめの刺激がもたらされる。

ノースリープのインナーに両肩を出したデザインのトップス姿は、ほっそりとした肩だけが

素肌のままで、だからこそひときわ視線を惹きつけてしまうのだろう。

キリトは何回も強く唇を押し付けて、最後に軽く歯を立てた。

 

「あッん」

 

当然圏内なのでHPが減ることはないが、擦傷を表す蛍光色の赤い花弁のようなエフェクトが

散り、肩に短い引っかき傷のような痕を残す。

自分が付けた痕を見ながら、やはり無表情なままで短く呟いた。

 

「オレが触れる前に……」

 

それから両肩に手を置いたまま真っ直ぐに、しかし、少々冷ややかな視線でアスナを見つめた。

 

「だいたいどうしてそんなに接近される前に移動しなかったんだ」

 

いつものアスナなら《現実世界》でも和人が一緒にいない時はそんな雰囲気の男性が、

しかも複数で自分の元に寄ってきたら声をかけられる距離になる前に、とりあえずその場を

離れるようにしている。それが一番穏便な回避策と心得ているからだ。

普段とは違うキリトの声色に、自分の落ち度を責められていると感じたアスナは

俯きながらもか細い声を落とす。

 

「だって……」

 

続きを言いかけた時、またも通りを移動していると思われる男達の声が耳に届いた。しかも今度は

走りながら何やら語気を荒げている。

途端に、アスナが怯えた顔を跳ね上げた。

が、逆にそれを見たキリトがギリリと奥歯を噛みしめる。

 

ダンッ!!

 

利き手の手のひらでアスナの顔のすぐ横の壁を力一杯叩いた。

ビクッとアスナが大きく全身を震わせる。

状況が飲み込めないまま、キリトを震える瞳で見つめ、身体全体を萎縮させて無意識に同じ

言葉を繰り返した。

 

「だって……」

 

男達の声が更に大きく聞こえる。

思わず通路の方向に視線を逸らせた。

逸らせた直後、唇を塞がれる。

 

「んんッ」

 

壁を叩いたキリトの手はそのままアスナとの距離を縮める為、肘まで壁と密着し、もう片方の

手は目の前のおとがいを捕らえて、舌は強引に彼女の唇に割り込んでいる。何度も何度も

角度を変えて唇を合わせ、その度に口内を舐め上げ、まさぐり、絡みつけた。

アスナの瞳からぽたりと一粒、涙がこぼれ、それを見たキリトがようやく束縛を解く。

 

「はぁっ……オレの目の前で、他の男を、気にするなんて……」

 

アスナはこぼれ落ちる涙もそのままに、苦しそうに歪んだキリトの表情にハッと気づいた後

眉尻を下げた。

 

「っつ……ごめん……なさい」

「わかってるか、アスナ……このアバターだって、中身はオレなんだ……」

 

再びアスナの顔に手を伸ばし頬を伝う涙を親指でグイッとぬぐう。そのまま顔を近づけると

アスナも小さく「うん」と呟き、キリトだけを思って瞼を閉じた。

静かに重なり合った唇は一時も離れることなく互いを結び続ける。

複数の足音がすぐそばまで迫ってきたが、キリトはその音がアスナに届くことを妨げるように

より深く彼女の奥に侵入した。彼女の唇が僅かに震えているのに気づき、密着していた自分の

それを僅かにずらし、そっと請う。

 

「オレに集中して」

 

その言葉に応じるようにアスナが両手でキリトの胸元をすがるように掴んだ。

外からの感覚を遮断するように、更にきつく目を瞑る。

キリトは両手で優しく彼女の頬を包み込み、再びその姿を覆い隠すように自分との隙間を潰す。

繋がった二人の意識の遠いところで、数人の足音と怒号が通り過ぎた。

しばらくの時をそのままに流し、周囲に静寂が戻ったと確信したところで、キリトが抱擁を解く。

すっかりキリトに身も意識も委ねていたアスナはその存在が無くなったことで、結果、キリトの

胸へ身体ごと崩れ落ちた。

未だ息を荒げつつキリトは彼女を受け止めると、そのままその細腕には似合わない力で

アスナを抱きしめる。

自分と変わらない位置でアスナの胸が上下に揺れ、肩に置かれたアスナの紅潮した顔からも

早い息づかいが聞こえた。その息づかいの合間にアスナが名を呼ぶ。

 

「……キリトくん……」

「ん?」

 

目線を肩の上に向ける。アスナはそのままの姿勢で小さく吐露した。

 

「いつもより……ちょっと、コワい」

「オレが?」

 

こくん、と頷く。

 

「ああ……っと……」

 

多少自覚があるのか、アスナを抱きしめたまま宙を見つめる。

 

「その……《この世界》だと、やっぱり『男』の部分がより敏感になるっていうか……」

 

アスナがその言葉にビクッと反応した。

 

「あっ、変な意味じゃなくて……本能的なモノ、だな……だから男達がアスナを見る目も

獲物を狙うハンターみたいになる」

 

ちらり、とアスナがキリトを盗み見る。

 

「……キリトくんも?」

「オレの場合はハンターじゃなくて……オオカミだろ」

 

自分で言って微かに笑った。

 

「オレは既にアスナを捕獲してるから、あとは食べるだけ」

 

そう言って肩に乗っている飴色の髪の毛に唇を押し付ける。他に誰がいるわけでもないのに

そのままアスナの耳に囁いた。

 

「だから知らないヤツに狙われるのはおもしろくない……束縛したい……所有欲だな……」

 

そんな欲が今までが全くなかったわけではないが、《GGO》では自分より先にアスナの姿を

見、触れた他の男達の存在に無性に腹が立ったし、何よりそれを許したアスナに苛立ってしまった。

 

「アスナ……さっきの続き、話して」

 

そう促されて一瞬戸惑いを見せたが、すぐに頭をキリトの肩から離し少し視線をそらしたまま

アスナは再び「だって……」と口にした。

 

「だって、キリトくん、まだ私のこの姿、知らなかったでしょう。だから約束した場所を

離れたら会えなくなるんじゃないか、って……」

「……それで、あそこに居続けて男達に捕まったのか?」

「捕まってないよ。すぐに逃げたから」

 

軽く頬を膨らませ、むきになって訂正してくる。

 

「肩、つかまれただろ」

「そ、それは……そうだけど……それだけ……だったし」

「それだけでもダメ……全部オレのだから」

 

言うなりふわり、と抱き寄せられた。アスナは俯いたままその抱擁を受け、小さくモゴモゴと

「ごめんなさい」とだけ発してから左右の手をキリトの背中に回す。

結局原因はオレか、とキリトはアスナに気づかれぬよう苦笑を漏らした。

アスナがあそこまで怯えた理由は多分肩を掴まれたことだけではない、とキリトは思って

いる。それは男達の目つきだったり、笑う口元だっり、足音を極力抑えた歩き方だったりと

全身から醸し出す何かなのだ。そう思う自分でさえアスナが「コワイ」と感じる程の

何かを感情のまま彼女にぶつけていたのだから。

戦闘となればその何かは益々大きくなる。

シノンの頼みとは言え、別にアスナはキリトと違い借りがあるわけでもない。

あの《BoB》の戦場に出場させて大丈夫なのか、と不安がよぎった。予選はトーナメント方式

なのでフォローし合うことも出来ない。

初めてライトセーバー(フォトンソード)を握った時はその軽さ故に、剣の速さと正確さに

ずば抜けたアスナ向きかもしれないと思ったが……。

 

「アスナ……久々にオレとコンビ、組む?」

「え?」

「何とか《BoB》の予選さえ勝ち抜いてくれたら、本戦でさ」

 

魅惑的な提案に瞬時心を動かされたように時を止めたアスナだったが、すぐさま頭を横に振った。

 

「嬉しいけど……それはダメ……今回はシノンの助っ人でしょ。キリトくんはシノンと

連携とらなきゃ」

「アスナは?」

 

キリトからの問いに未だ怯えが残る笑顔を向ける。

 

「私は……いつでもキミのバックアップ」

 

シノンにはキリトの暴走制御装置などと命名されたが、この状態を見る限り、キリトは後ろの

アスナが気になってシノンとの連携どころではないだろう。

本戦はバトルロイヤルだ。シノンには悪いがアスナと同じフィールドにいられるなら面積はかなり

広いがどうとでもなる。

しかしそれはそれで別の問題があった。

本戦はネット中継される。

戦闘服はまた違うのだろうが、この容姿を他のMMOにまで中継されるのかと思うと……。

大会が終わり次第早々にアスナと共に《ALO》への再コンバートを決意したキリトの耳元に

今までにはない確かな声が届いた。

 

「それに《BoB》でなら、やっつけていいでしょう?」

「へ?」

 

つい間の抜けた返事となる。真っ直ぐに見つめてくるアスナの笑顔の瞳の奥には先ほどまで

なかった鈍く重い光が宿っていて、キリトの背中をゾクリとさせた。

久々に感じる『閃光』の色だ。

《この世界》で本能的な部分が敏感になるのは男に限ったことではないらしい、とキリトが

悟ると同時に、自分の方が彼女の暴走制御に回るのではないか、と笑えない予感が頭を

よぎった。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
何とかして「ファントム・パレット編」のキリト(キリ子?)とアスナを
いちゃいちゃさせたく、絞り出した本作です。
キリトはあのアバター(容姿)なので逆に思い切って「男」っぽさを全面に、
かつ強めにしてみました。
そして、そんなオオカミさんに食べられてしまうのは、やはりウサギさんしか
いないわけで、髪の毛ショートのクルクルでフワフワファー付き衣裳の
アスナちゃん……いいかも、です。
では次回は少し短めですが、珍しく《仮想》と《現実》両舞台でのちょっと
不思議な二人をお届けします。


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変わるもの・変わらないもの

《ALO》にログインしていたキリトは《イグドラシル・シティ》の部屋で居るはずのない
人物と出会うことになります。その人物とは……。



一瞬、ザザッと大きなノイズ音が直接脳に響いたか感覚に陥り、同時に世界がガクンと斜めに

ブレる。

何事かとソファに身を委ねていたオレはすぐに立ち上がり、辺りを見回した。

目眩?、と思い頭を二、三度降ってみるが身体に違和感はない。

ここが《現実世界》ならば地震かと思うだろう先刻の揺れは、もちろんこの《仮想世界》で

起こるはずもなく、当然室内の装飾品や食器類にも影響は出ていない。

しかし、もし、この《ALO》で地震が起こったとしたら、《イグドラシル・シティ》の

最上階であるこの部屋はかなりの揺れを感じるだろうな、と思い高層建築の耐震構造について

思考が切り替わろうとした時、頭の中を無機質なシステムの自動音声が鳴り響く。

 

『警告、警告。プレーヤーの皆さんは速やかにログアウトをして下さい。

「アルヴヘイム・オンライン」は緊急システムチェックに入ります。

繰り返します。プレーヤーの皆さんは速やかにログアウトをして下さい。

指示に従わない場合は十分後、自動的に強制ログアウトとなります。』

 

どうやらさっきの揺れはシステムのバグが原因だったようだ。

この機に乗じてよからぬ事を企むプレーヤーも出ることだろう。しかしそういった面倒事を

招くとわかっていても強制ログアウトを決断するほどのシステム障害が発見された、という

ことだろうか。

GMも大変だな、と人ごとのように呟きながらオレは素直に指示にしたがうべく、寝室にいる

アスナの元へと向かった。

 

 

 

 

 

「アスナ、聞こえたか?、今日はもうログアウト……」

 

寝室に足を踏み入れたオレは、水妖精特有の勿忘草色の髪より更に見慣れた栗色の髪に目が

釘付けになる。ベッドに腰掛けている後ろ姿の妖精の栗色の髪は、立ち上がれば膝までも

あろかという豊かさだ。しかし色を変えてもその絹のような輝きはそのままに、ベッドの上で

しなやかな広がりを見せている。

ありえない、と思う反面、一番アスナらしいその色に郷愁が胸をよぎった。

 

「……アスナ?」

「?………ここ、どこ?」

 

オレの声が聞こえていないのか、きょときょと周囲を見回しているその姿に再び殴られた

ような衝撃が走った。水妖精特有の尖った耳はそのままだが、身に纏っている衣装はかつて

世界樹の上に幽閉されていた時に着用していた薄手のワンピースだったからだ。

 

「アスナッ」

 

思わず荒げた声に反応して彼女が振り返る。

 

「?……アスナって……私?」

 

そう聞いてから少し困ったように笑って彼女は自分の名を口にした。

 

「私は……ティターニア」

 

「アスナって言う人と似てるのかな?」と申し訳なさそうに微笑んでいる。

その姿を見てオレは混乱する頭をどうにか働かせ、この事態の原因を推測した。

確かに姿形はティターニアとしてヤツに設定されていたものだ。

そしてオレのようにアバターをリセットしなかったアスナは、ティターニアだった頃のデータを

水妖精となった今でも持っている……。

だいたいあれはアスナのアカウントの上からティターニアのそれを上乗せしたような状態だった

はずで……つまりアスナのデータを持たないティターニアとしてだけのわずかな存在が今の

アスナを構築しているキャラクターデータの片隅に残っていた、ということだろうか。

これはヤツが組み上げた純粋なティターニアの姿なのか?

先程のシステム異常でティターニアとしてのアカウントが優位に立ってしまったのは間違い

なさそうだった。

アスナと姿も声も全く同じであってアスナの部分を持たない彼女は不安げな表情で

ベッドに行儀良く座ったまま、目の前にやってきたオレに対し、顔を上げて再び同じ

問いを繰り返してくる。

 

「ここは、どこ?」

「ああ……ここは……《イグドラシル・シティ》だよ」

 

やっと得た答えでも聞き覚えのない単語なのか、少し首を傾けながら考え込んでいる。

ティターニアでいた時には実装されていない場所なのだから当然の反応だ。

そもそもティターニアとしてはどれ程の知識をヤツから与えられていたのか……。

表情も口調も仕草も、実際のアスナより幼さを感じるせいかオレの対応も手探り状態となる。

 

「えっと……世界樹の更に上……なんだけど……」

 

オレの言葉を聞いて眼を瞠った彼女はすぐにオロオロと視線を漂わせた。

 

「私、早く戻らないと……」

「……戻るって……どこに?」

「オベイロン陛下のところ……そうしないと、とても怒られるわ」

 

次第に不安感が膨らんできたのだろう、それまでの興味本位の瞳がすっかり光彩を失っている。

段々と迷子の子供が泣き出すように眉を曲げ、オレを見つめてきた。

オレは彼女の前に跪き、目線を合わせてなだめるように話しかける。

 

「キミは……戻りたいの?、その人の所に」

「戻らなくちゃいけないの」

「キミの気持ちは?」

「あの方は、とても怖いのよ」

「キミはどうなの?」

「戻らないと……きっと今頃すごくお怒りだわ」

 

とにかく戻らなくては、と繰り返す彼女に段々と胸が苦しくなるが、それを堪えて精一杯

優しく問いかけ続けた。しかし「キミが戻るのはヤツのそばなんかじゃない」と叫びたいのを

懸命に押しとどめているせいで段々と上手く言葉が出せなくなる。

 

「アス……ティターニア、戻って……どうするんだ?」

「あの方のそばにいないと……だって、私、妻なんだから」

 

妻……その言葉をオレに言うのか……何かがオレの中で弾け、妖精王オベイロンの妻と

設定されていると知った時のすさまじい感情が再び刃物のようにオレを切り裂いた。

違う、違う、違う……ティターニアとしての彼女にぶつけても理解されない想い。

それでも問わずにはいられない。

 

「本当にキミはオベイロンの妻?」

「そうよ、あの方が言ったんだもの……でも、どうすれば戻れるのかしら?……ああ、この羽で

飛べればいいのに」

 

何も疑わずヤツの言う事を信じているその姿が荒れ狂う感情を押し留めた。

 

「……飛べないのか?」

「……うん、いつも鳥カゴの中だから」

 

居るべき場所を思い浮かべたのか、少し陰りのある笑顔の奥に本来のアスナの姿を見た気がして、

荒ぶっていた己よりもその瞳に心が囚われる。その姿はヤツを夫として容認しているとわかって

いても、手を差し伸べたくなるほどに脆く儚げだった。

 

「ずっと?」

「そう……いつも樹の枝と空の雲とお日様を見て過ごしてるの。時々、鳥が飛んできてくれる

けど」

「淋しくない?」

 

オレの言葉の意味をゆっくりと考えてから、かぶりを振る。

 

「……わからない……それに、オベイロン陛下がいるし」

「その人といる時は……幸せ?、その人といると嬉しい?」

 

万が一にでもアスナとしてではなく、純粋に妖精王の伴侶として彼女がその身を肯定するので

あれば、それは受け入れなければいけないのかもしれない。

しかし彼女は笑みひとつ浮かべることなく気持ちを吐露した。

 

「……あまり、嬉しくない。楽しくもないし。触れられると涙が出そうになる」

「触れるって……」

「頬とか髪とか……あと腕も……とても気持ち悪くて、一生懸命我慢するの」

「それでもキミは……戻りたいの?」

 

静かに俯いて「そうしなくちゃ、いけないから」と下を向いたまま、決められたような答えを

口にするアスナの姿をした小さな女の子のような彼女に庇護欲とも言うべき感情が膨れあがる。

 

「……オレも……触れてみて……いい?」

 

驚いたように顔を上げ、一瞬迷ったように視線を外されたが、すぐにこくりと頷いてくれた。

彼女の隣に腰をおろし、両手でそっと肩に触れ、そのままふわり、と包むように身体を寄せる。

 

「不思議……全然イヤじゃない。知らない人なのに……これは夢なのかしら……いつもの

夢と随分違うけど」

「いつもはどんな夢を見てるんだ?」

 

そのまま抱擁を解かずに聞けば、彼女が僅かに笑みを浮かべながら思い出すように瞳を

閉じたのが視界の端にうつった。

 

「静かな森の中で木のお家で暮らす夢。近くに湖もあるのよ。いつもいつも同じ夢なの。

行ったこともない所なのに、すごく懐かしい……ああ、でも本当にもう戻らないと」

 

オレの胸を両手で押し返し、身体を離そうとする仕草に、引き留めなければという焦りが

先走る。

 

「ア、ティターニア……オレは」

「ありがとう、お話できて楽しかった」

「行かないで……くれないか」

「ダメよ……戻らなくちゃ……私、あそこで……待ってるの」

「えっ?」

 

今までとは違う微笑みに言葉が詰まった。

 

「誰なのかは思い出せないけど、はぐれたら必ず見つけてくれるって約束した人がいるから。

きっとその人が迎えに来てくれるわ」

 

『只今より強制ログアウトを開始します』

 

再びGMからの警告メッセージが頭の中に響く。

 

「……ああ、そうだ。きっともうすぐ迎えにいくから。すぐだから、待っていてくれ」

 

アスナがいつもするように小首をかしげて微笑む彼女は安心した表情で目の前から消えていった。

同時にオレの視界も徐々に暗転していく。

 

 

 

 

 

《現実世界》に戻ったオレはすぐさま明日奈に電話をかけた。オレから連絡があると予想して

いたのか、すぐに応答してれたが随分と戸惑っている声だ。

 

「会いたいんだ。少し出られるか?」

「うん、大丈夫」

「この時間なら明日奈の家まで、バイクで三十分くらいだから」

 

いつもの公園に着いたら再度連絡をする旨を伝え、くれぐれもこんな夜中に一人で外で

待つような事はしないよう釘を刺してから急いで上着とバイクのキーをつかみ取った。

 

 

 

 

 

夜の十時をすぎたばかりだったが明日奈の自宅周辺は住宅街特有の静けさが漂っていた。

オレは乗ってきたバイクのエンジンを切り、自己主張の強いその音を消して公園まで残り

五十メートルほどの道のりをゆっくりと両手でハンドルを押しながら進む。

公園の入り口横にバイクを駐め、それによりかかりながら呼び出した明日奈を待っていると、

ほどなくしてパタパタと急ぐ足音が響いた。

人通りはなかったが、それでも邪魔の入ることを危惧してすぐさま明日奈の手を引き、公園の

奥へと移動する。樹木で彼女が隠れる位置に落ち着くと、未だ呼吸が整わずにゆるく上下する肩を

何も言わずに抱きしめた。突然の事に一瞬驚いたように身体を強張らせたが、すぐにオレの

背中へと両手が伸びてくる。

 

「明日奈……」

 

呼び掛けに「うん?」とオレの耳元で小さく応じる彼女。再び名を呼べば、やはり優しく

「うん」と答えてくれる。ただ、ただ返事が聞きたくて何度も彼女の名を口にした。

そんなオレに返事以上の言葉は口にせず、ひたすら穏やかな笑みを浮かべている彼女の存在に

やっと心が満たされたオレは「ごめん」と謝ってから背中に回した手を緩め、その慈愛に満ちた

笑顔を見つめながら事態の説明を始めた。

 

「明日奈の魂が、またどこかへいってしまったような気がして……電話だけじゃ我慢

できなかったんだ。ちゃんと見て、触れて、確かめたかった」

 

明日奈はシステム異常を知らせる警告メッセージさえ記憶になく、《仮想世界》の寝室にいた

はずが、気がついた時には《現実世界》の自室のベッドでアミュスフィアを装着した状態だった

と教えてくれた。

慌てて《ALO》に再ログインを試みたが、既にメンテナンス中の表示が出るだけで

ダイブは出来ず困惑していたところにオレからの連絡が入ったらしい。

 

「……ティターニアと、話したよ」

 

『ティターニア』という単語を発した途端、触れ合っているオレの腕に彼女の身体の強ばりが

伝わってきた。

 

「ごめん……思い出したくなかったか」

 

少し俯いてふるふると首を横に振る明日奈に、いつかの光景がだぶる。ふと夜空を見上げると、

都会の空らしく数えるほどしか見えない星々が懸命に輝いていた。

 

「《向こう》の方が、星座がはっきりわかるな」

 

オレの言葉に促されるように明日奈も顔を上げる。と、それだけで何が言いたかったのか

伝わったようで、オレに視線を移しながら僅かながらに微笑んだ。

 

「『ブリンク・アンド・ブリンク』のテラス席で見た?」

 

オレは小さく頷いて肯定してから再び明日奈を胸に抱き寄せた。《現実世界》に復帰してから

徐々に彼女との身長や体格に差ができ、今ではこうして密着させれば彼女の小さな頭がオレの

首元に埋まり、左右の腕を少しずらせば華奢な肩と細い腰の両方を包み込むことが出来る。

《あの世界》と変わらないのは夜空に浮かぶ星座のはずなのだが、この街ではそれを確認する

には余りにも地上は明るすぎた。

 

「オレ、あの時……第五層主街区の《カルルイン》で《現実世界》と同じ星座を見たら……

アスナが喜ぶと思ったんだ」

 

オレの今更な告白にアスナは驚いたように目を見開いた。

 

「だから、アスナが星座に気づいて俯いてしまった時……すごく後悔して、何か言わないと、って

思って口を開いたけど言葉が見つからなくて、焦っている間にアスナに『何も言わないで』って

言われて……すごく情けなかった。アスナはいつだって前を見て進もうとしていたのに、それを

オレが邪魔したみたいでさ」

 

だから、同様に彼女が鳥かごに囚われていた時の名前を聞きたくなければ、あの時の事を思い

出したくなけばこれ以上は話すのをよそう、と心を決めた時だった、今まで静かにオレの言葉に

耳を傾けていたアスナの眉尻が下がったのは。

 

「それは……それは、違うの。あの時はキリトくんに頼ってばかりじゃダメだって、それ

ばかり考えていたから」

 

それからオレの大好きな笑顔へと表情を変える。

 

「でも、今は違うよ……辛い時でも一人じゃないんだってわかってる……教えて、彼女の事」

 

そう言ってオレの腕から一歩離れてジッと視線を向けてきた。明日奈がオレの話を聞いて

くれる事を自分自身が納得できたところで、オレはGMからの警告があったところから話を

始めた。

ログアウトしようとアスナを探して寝室に入った時の状況を話すと、彼女は懐かしい

友人の姿を思い出すようにゆっくりと瞳を閉じ、軽く息を吐き出してから、再びオレに

微笑む。

 

「ああ、彼女、怯えていなかった?、いつもそうだった。須郷の言いなりで。彼のこと

受け入れる事も出来ないのに、背くことも出来ない臆病な子……」

「そうだな、可哀想なくらい……しきりにヤツのことを気にしていた」

「いつも、いつも……ずっと震えながら我慢ばかりして……」

「明日奈?……」

 

そう告げる明日奈の肩も小刻みに震え始めたのに気づき、オレは慌ててその肩を包み込んだ。

 

「私に……妻なんだから……我慢しなくちゃ、って……私がいくら、あんな人の妻じゃ

ないって言っても……そうしないといけないって……」

「明日奈……」

 

オレの肩に額を付けて顔を見られまいとする明日奈の声が、震えとともに途切れを作る。

片方の手でその頬を包むように触れれば、そこは既にしっとりと濡れていた。更に頬から

オレの手を伝い彼女の涙が流れ落ちてくる。

 

「段々と……その声が……ティターニアのものなのか……自分のものなのか……わからなく

なって……」

「明日奈」

「きっと……最後に私の意識が封印されていたら……彼女が……妖精王の妻として……暮らして

いくはずだったんだわ……」

 

頬に添えた手の親指で涙を拭おうとしたが、次から次へと溢れてくるそれに為す術がない。

そんなオレの手に明日奈が両手をかぶせ、頬ずりをするように首を傾けた。

 

「こんな風に……触れてくれるのがキリトくんなら……嬉しいって感じることも知らずに」

「……ティターニアも……同じだよ」

 

明日奈がゆっくりと顔を上げて驚いたように口を小さく開けたままオレを見つめた。

涙に潤んだままの瞳には月の光がキラキラと反射している。

 

「きっと、アスナがティターニアのアカウントを使ったことで彼女の設定はデフォルトのままでは

存在しなくなったんだ。データにないはずの森の家を懐かしがったり、オレのことは誰なのか

わかっていなかったけど、触れてもイヤじゃないって言ってくれた。それに、ログアウトする

直前に……迎えに来てくれる人がいるって、その人を待つんだって微笑んでたよ」

 

オレの最後の言葉を聞いた途端にこぼれ落ちる涙をそのままに、明日奈が輝くような笑みを

浮かべた。

 

「ありがとう、キリトくん。キミのお陰で、あの子、きっともう怯えてない」

 

頬に接している手をそのまま引き寄せると、自然と明日奈が瞳を閉じる。その瞳に溜まっている

涙を舐め取りながら手を頬からその細いおとがいに移し、少し上向きに彼女の顔を持ち上げると

同時に、そのまま濡れている頬に唇を落としながら最後には艶めく桜色の唇を塞いだ。

 

「……ンっ……ふっ……」

 

もう片方の手で彼女の後頭部を支え、自らも屈んで更に唇の密着度を上げる。ほんの一瞬でも

離れてしまえば彼女がさっきのティターニアのように微笑みながら消えてしまうような気がして、

深く深く彼女の中へと侵入した。おとがいに添えていた手は顔の輪郭をなぞってから徐々に下がり

首筋を指先でたどると、ピクッと彼女の両肩が震える。そのまま鎖骨をたどって肩をさすり再び

頬へとなで上げた後、指で耳を弄びながら明日奈の舌を自分のそれと絡ませた。

 

「……あッ……んん……」

 

舌と指の動きを同期させると、明日奈の反応がより強くなり目尻に新たな涙が溜まるのが見えた。

さすがにこれ以上は場所も時間も無理だな、となんとか理性が働き、最後にもう一度瞳にキスを

しつつ涙を吸い取る。

 

「ごめん、やっぱりさっきのティターニアと明日奈が重なって……その」

 

そう言いながら密着していた身体を起こすとそのまま明日奈がオレの胸に顔をうずめてきた。

 

「?……明日奈?」

 

問うように名を呼べば、ふるふると頭を振る……振った拍子に鼻先が首をかすめ、その触れるか

触れないかの僅かな感触に背筋が震えた。

 

「……やだ……もうちょっとだけ、このまま……」

 

吐息まじりの小さな声の熱量がオレの鎖骨にあたって、そのままオレの内を温度を上げる。

相変わらず無自覚にオレを煽るのはやめてほしい、と内心苦笑しながらその背中をポンポンと

軽く叩いた。

そうしてしばらく明日奈はオレにぴったりと身体を寄せて、時折自分の匂いでもつけようと

いうのか顔をすりすりとすり寄せる動作を繰り返している。

あの時のように、かける言葉を失ったオレはただ明日奈の行為を受け入れるだけで、唯一

出来る事と言えばひたすら絹糸のような触り心地の彼女の髪を梳くことだけだった。

やがて互いに気持ちが落ち着いた頃、徐に明日奈が赤らめた頬をオレに向ける。

 

「ごめんね……キリトくんにくっついていると安心するって言うか」

 

安心……オレの方は心臓爆発しそうだけど、などと余裕のない本音を打ち明けるわけには

いかない。

 

「気持ちいいって言うか」

「気持ち……いい?」

 

もう一度言って欲しくて聞くと、明日奈は言葉では返してくれず、頬どころか顔全体を朱に染めて

こくん、と一回頷いた。

それから意を決したようにオレを見つめてから、自分から言い出すのはよほど恥ずかしかったのか

羞恥に声を震わせながら可愛いおねだりをしてくる。

 

「私はもうティターニアのアカウントは使えないけど……今度《ALO》でギュッて抱きしめてね。

それから頬をさすって髪を梳いてくれたら…きっと彼女に届くと思う」

 

そんな事を言われて、次のログインまで待てるわけがない。

 

「こんな風に?」

 

そう言ってオレは明日奈を抱きしめる腕に力をこめ、予行演習と称して再び彼女との距離をゼロに

した。




お読みいただき、有り難うございました。
「アリシゼーション編」でアスナが創世神ステイシアのアカウントを使う事で与えられる
権限があるのなら妖精王妃ティターニアでも独自のプログラムがあったら……いや須郷なら
嬉々としてやりそう……と思い、勝手にティターニアというひとつの個を作ってみました。
キリトの推測の説得力が弱いのは見逃してください。
さて、次回は定期投稿前にその「アリシゼーション編」の新刊発売を祝しまして、珍しく
アダルトな(?)キリアスを発売日頃にお届けする予定です。
アダルトとは言いましてもそこは「R15」タグですから、読んで下さる方々の想像力に
かなり縋ってしまいますが……。
加えて今回と同時投稿でもうひとつキリアスの連載をスタートさせます。
今後は不定期投稿ですが、お知らせするのに初回のみ同時が都合が良いので。
「後書き」で告知して申し訳ありませんが、どちらも楽しんでいただけると幸いです。


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【特別編】ないて……[移動をお願いします]

先週、20話目として『【特別編】ないて……』を投稿しましたが、諸事情により
別枠に移動させていただきました。
詳しくは本文をご覧下さい。


「ソードアート・オンライン」第17巻刊行を祝しまして発売日である4月9日に、この

『ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》』へ20話目を投稿しましたが、

投稿を機に「R−18」タグを付けたところ、どうしても違和感が拭いきれませんでした。

全作品がそのレベルではない事と、今後、「R−18」的な投稿の予定がほとんどないからです。

その路線を期待してくださる方がいらっしゃるかも、と思うと大変心苦しいので、再び

「R−18」は削除し、完全に該当するであろう20話だけを別枠でアップすることに

いたしました。

(なので「違うな」と感じた方は、遠慮なく「お気に入り」をはずしてください)

投稿スタイルが二転三転してしまいました事、大変申し訳なく思っております。

また続き内容でないとは言え、続けて読んでいただく場合、いちいち移動していただかなくては

ならなくなってしまいました事、謹んでお詫び申し上げます。

今後もキリトとアスナのほのぼの……だったり、ほのぼの……以上だったりするイチャイチャ

エピソードを綴っていきたいと思いますので、今回のお騒がせに懲りず、お付き合いいただけると

嬉しいです。

 

                                ほしな まつり 拝

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

◇                                         ◇

◇  大変お手数をおかけしますが、本編は別枠の短編としてアップしました       ◇

◇                                         ◇

◇ 『ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》【特別編】ないて……』  ◇

◇                                         ◇

◇  で、ご覧下さい。                               ◇

◇                                         ◇

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

(「本文」の文字数が少ないと投稿できないので、以下『変わるもの・変わらないもの』の

スピンオフ的な短編をお届けします)

 

 

*******************************************

 

 

 

私が《ALO》の工房でアイテムのチェックをしていた時だ、勢いよく扉を開けて息をきらした

リーファが飛び込んできた。

 

「リズさん!!」

「リーファ、いらっしゃい……って、どうしたの?」

「お、お、お……お兄ちゃんがっ……あ、キリトくんがっっ」

「キリトが?」

 

《この世界》では苦痛は感じないはずなのに、苦しそうに肩で息をしながらも作業場にいた私の

目の前までズンズンと迫ってきたリーファは大きな瞳を一層見開いてズイッと顔を近づけてくる。

 

「なに、なに、なんなのよっ、もう」

 

鼻が触れ合いそうなほどの距離に思わずのけぞった。

 

「落ち着いて聞いてくださいね、リズさん」

 

……落ち着いて欲しいのはアンタよ、リーファ……

 

「キリトくんが……浮気……してるかもしれないんですっ」

「はあぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!?????」

 

浮気……その言葉に一瞬にして頭が真っ白になる。にわかには信じられなくて……と言うより

信じたくなくて、思考を放棄したままひたすらジッとリーファを凝視してしまった。

 

「冗談やウソじゃないですよ」

 

どうやら私からの視線が発言の真偽を疑われているのではと勘違いしたリーファが、身の潔白を

示すようにフルフルと首を横に振る。サフランイエローのポニーテールが緩やかに跳ねた。

一時、無の時間が私達の間に流れる。その後、ようやく私が目を二、三回しばたたかせて自分を

取り戻すと、次に脳内を襲ったのはいくつものクエスチョンマークだ。

 

「浮気って……相手は誰なのよ。まさか私達も知ってる人?、もちろんアスナは知らない

のよね?、それでリーファはどうして知ったわけ?」

「だから落ち着いてくださいって」

 

形勢逆転で身を乗り出した私に対しリーファは両手で押し返すようにして私をなだめ、

俯いてふぅっ、とひとつ息を吐き出してから再び目線を合わせる。

 

「それが、昨日の夜なんですけど……《ALO》が急遽メンテナンスを行った事、リズさん、

知ってます?」

「ああ、それね。私、昨日はログインしてなかったけど、ネットニュースで見たわ」

 

確か夜も更ける前にシステム障害が発見されたとかで、ログインしていたプレーヤー達は

早々に一斉ログアウトの勧告を受けたと報道されていた。結局システムが復旧したのは翌日の

朝方で、一晩アクセスできなかったという事態はかなりの酷評を受けている。

それとキリトの浮気がどうつながるのだろう。

私の疑問を読み取ったのか、リーファはすぐさま話を続けた。

 

「GMからメッセージが届いた時、私、シルフ領に居たんですけど、すぐにログアウトして

隣のお兄ちゃんの部屋に行ったんです。そうしたら、ドアが少し開いてたんで、覗いてみたら

まだベッドの上でアミュスフィアを装着したままのお兄ちゃんが『ティターニア』って呼び

かけてて……」

 

リーファの口から出た名前について、私はもの凄い勢いで記憶を漁った。

 

「ティターニア、かぁ……確かにそんな名前のプレーヤーは知らないけど……」

「絶対、女性名ですよね」

「うーん、確かにそうねぇ」

「しかもGMからログアウト勧告が出てるのに、グズグズとその人といたって事ですよっ」

「まあキリトのことだから、何か事情があったんじゃないの?」

「でも『ティターニア』って呼んだ時のお兄ちゃんの口調、すっごく甘くて切なかったんです」

「えっ?、それって……アスナを呼ぶ時みたいな感じの、アレ?」

 

私の信じられないと言った表情を見て、リーファがうんうん、と真剣な顔つきで肯定を表した。

アスナを呼び寄せる時のキリトの声……これについては前にリーファとシノンの三人で話をした

事がある。聞いているこっちの耳が溶けそうなくらい甘く切ないアノ口調。

当の本人は特に意識しているつもりはないようだが、それだけに自然体でなんとも耳に心地良い。

あんな風に自分の名前も呼んでもらえたら、と想像しただけで顔が熱くなる。

しかしあの優しい響きは「アスナ」の三文字を口にする時にしか発動しない。

そう、今までは……それが……「ウソでしょ」と言わずにはいられなかった。

もちろんリーファの話を疑っているわけじゃない。でもキリトがアスナ以外の人をそんな風に

呼ぶなんて、どんな事情があっても納得できそうにない。

私はキリトの相手が自分にとっての大事な親友のアスナだから、なんだかんだと文句を言っても

溜め息を漏らしても、最後には苦笑いで二人を見守ってきたのだ。

それが他の女だと?……許せんっ。

 

「どうしたらいいんでしょう、リズさん」

 

先程までの勢いはどこへやら、不安げな眼差しを向けてくるリーファとは対照的に私の瞳は

メラメラと燃えていた。

 

「キリトは?、今、どこにいるのっ?」

「え?、はい……さっきログインして、今は……えっと……《イグシティ》の部屋にアスナさん

と……」

 

フレンドリストを確認しながら教えてくれたリーファの肩を強く掴んで私は大きく頷く。

 

「今から行って、問い詰めてやるわっ。一緒に来てっ、リーファ」

 

鼻息を荒くした私は返事も待たずに、その腕をむんずと掴んで工房の出口へと引っ張った。

どんな言い訳だろうと聞き入れるつもりはない。アスナの前で白黒はっきりつけてやろうと

私は外に出た途端、羽を広げる。

その頃、《イグシティ》の最上階の部屋でキリトがアスナをギュッと抱きしめているとは

思いもせずに……。




お読みいただき、有り難うございました。
アミュスフィアはナーヴギアより拘束度が緩和されているようなので、ダイブ中に
口にしていた言葉を寝言のようにリアルでも言っているかも……と、ムリクリな
発想で書いてみました。
次は別枠に移動しました『ないて……』のオマケ的小話です。
続けて読んでいただかなくても大丈夫な内容ですので、そのまま「次の話>>」でも
問題ありません。


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【特別編】ないて……(リターン)

前作『ないて……』と対をなす……ほどの内容ではありませんが、そちらを書いたので
こちらも書いてみました、といった(当初、書く予定のなかった)追加的、かつ
オマケ的なお話です。
【特別編】を冠するのですから、という理由で『ないて……』と場所や書き出しの二人の
状態は統一してみました。


ベッドボードに枕をあててそこに寄りかかると、隣で火照った肌を静めていた明日奈が

むくりと起き上がってちょっと嬉しそうに這いずり上がりオレの胸に頭をのせる。オレが手を

めいっぱい伸ばして置き去りにされた上掛けを引っ張りあげ、未だ醒めきっていない細い肢体に

かけてやれば猫が喉を鳴らすがごとく至福の笑みをオレに向けて彼女が頬をすり寄せてきた。

 

「また……オレの心臓の音?」

「うん」

 

時計を気にしなくていい時に限るが、肌を重ね合わせた後、明日奈はよくこうやってオレの心臓が

ある位置に耳をぴたりと着けてくる。思い返せば初めて互いの音を聴きあったのは、あの鋼鉄の

城に囚われて22層の家で夫婦として暮らし始めたベッドの上だった。正確には『心臓の音を

再現したSE』とも言うべき音だったが、それでも明日奈は今と同じように嬉しそうにオレの胸に

耳を押し付けていた。

それから今日に至るまで時には《仮想世界》で、時には《現実世界》で、何度、こうして彼女に

心音を晒しているだろうか。

ついさっきまで可哀想になる程啼き乱れてオレを感じていたはずなのに、まだこうしてオレの音を

求めてくる彼女に愛しさがこみ上げる。

胸の上にある小さな頭をそっと両手で抱きしめようとした時だ、明日奈が「あれ?」と首を

傾げると同時にさらりと栗色の髪がオレの脇腹に流れ落ちた。

顔を上げて今の今まで頬が触れていた場所にそっと細い指を這わせている。

彼女の反応に「ん?」と問いかけ気味の声をあげたオレは明日奈の指が撫でるように往復して

いる胸の一点を見て「ああ」とすぐさま合点の意を表した。

 

「ここ……どうしたの?」

 

そうだよな、気づくよな……。

多分、直接触れなければ分からないくらいの違和感……当のオレでさえ忘れていたくらいだ。

正直に説明した後の彼女のリアクションが予測できない。

怒る……だろうか?

 

「ああ、それな……」

 

オレは明日奈の腰に手を回して彼女の反応をすぐさま感じ取れる体勢を整えてから説明を始めた。

心拍と体温のデータをモニターするための超小型センサー……インプラントの提案をしてきたのは

向こうからだが、最終的に首を縦に振ったのは自分だ。

とは言えこうして直に触れ合う関係にある明日奈が嫌がるなら、その気持ちもわからなくはない。

オレが説明をしている間、ずっとセンサーの上をなぞっていた明日奈の指がようやく止まった。

 

「身体を動かす時、痛みとかは、ない?」

「うん、別に」

「屈んだり、逆に背伸びをしたりして、筋肉に当たったり皮膚がつれたりする感覚は?」

「大丈夫だよ」

「そう……なら、いいんだけど……キリトくんが決めたことだし……」

「アスナ……」

 

まずオレの身体を心配してくれる言葉に嬉しくなって思わず腰を抱き寄せた。

 

「でも……ひとことくらい、相談して欲しかった……な」

 

あ……やっぱり機嫌を損ねたか……。

抱き寄せたことを嫌がるほどではないにしろ、顔をこちらに向けて喋らないのは怒って

いると言うより拗ねている証だ。

 

「ゴメン……でもバイトを始める時、その場で決めなきゃなんなくてさ」

 

腰に当てていた手の片方を彼女の後頭部に移動させ、機嫌を直してもらえるようひたすら

優しく撫でる。

 

「うん……なら……仕方ないけど……」

 

口調は弱々しかったが渋々納得してもらえた手応えを感じ、心中で安堵の息を吐き出した。

しかし、おずおずとオレに向けられた表情は眉をハの字にした淋しげなもので、そんな瞳で見つめ

られると自分の決断の是非が容易にぐらつく。

そして明日奈はそのまま「だったら」と続けた。

 

「そのデータ、私も欲しいな」

 

うぉっ?!

オレの外見は数秒間フリーズしたが、脳内はけたたましいパニック状態だった。

まず耳からは、明日奈がオレのバイタルデータを欲しているという想定外も甚だしい情報が脳に

伝わる。

常に明日奈がオレの体温と心拍数をチェックするのか?!……いや、常に、というわけではない

だろうが……それは、なんと言うか……気恥ずかしいものが……。

と同時に目からは、オレの胸元にある明日奈の顔が必然的にオレを見上げる角度になるわけで、

自然と上目遣いで僅かに潤んだ瞳は……破壊的とも言える懇願の表情が脳に伝わり、総じて盛大な

パニック状態へと陥ったのである。

加えて頭を持ち上げたことでよけいオレの肌に押し付けられる形となった彼女のふたつの膨らみの

柔らかさがパニックに色を添えた。

彼女はいつの間にこんなハイレベルの『お願いスキル』を習得したのだろうか……。

だが、思い返してみればあの城の低層で暫定的にペアを組んでいた頃から、オレは明日奈の

お願いに逆らえた記憶がない。

それは有無を言わせない物言いだったり、当然といった口調だったり、時に気弱に覗ってくる目線

だったりと、場面によって彼女の表情は違っていたのだが、どれもが叶えてやりたい、と思わず

にはいられないものだった。

オレが内と外の温度差に翻弄されている間も明日奈はひたすらにその愛らしい瞳をオレに向け

続けている。もしかして同じクラスの男子にもこんな仕草で頼み事をしているのだろうか、という

懸念が新たに脳内を支配しようとした時、いつまでも返答のない事に痺れを切らしたのだろう、

明日奈が再び唇を動かした。

 

「ダメ……かな?…………だよね」

 

どうやら自分の希望がオレを困らせたのかも、と思い至ったのだろう。取り繕うように上辺だけで

笑って「遊びじゃないんだもんね、うん」と自己解決をしきりと口にしている。

ああ、もう、そんなに淋しそうな目で無理に笑わないでくれ。

 

「ダメなわけ、ないだろ」

 

頭で考えるより先に両手が明日奈の脇の下を支え、キスをするのにちょうどいい高さにまでその

ほっそりとした身体を引き上げる。「ひゃっ」と飛び出した短い驚声はすぐさまオレに吸い

取られた。

 

「んっ」

 

鼻にかかる声を漏らしながら彼女の瞳が嬉しそうに細められる。一旦口づけを解いて「アプリ

組むから一日待って」と早口で告げ、その返答を口にさせる前に再びそれを塞いだ。

時間はまだ大丈夫なはず。約束したアプリのプログラムを頭の中で構築させながら彼女との位置を

反転させる。オレと彼女を覆っていた上掛けがベッドの脇に落ちたがそれに構う余裕はなく、

今度はオレが明日奈の心臓の真上に自分の耳を、ではなく唇をチュッと吸い付けた。




お読みいただき、有り難うございました。
世の女性の皆さん、自分の願いを彼氏に聞き入れてもらう方法として、今回のアスナのような
潤んだ瞳に上目遣いはOKです。頑張ってハイレベルを目指しましょう(笑)
おねだりされた男性は後日「しまった、やられた……」と思うかもしれませんが、そこは
惚れた弱みだと思って諦めてください。
アスナのおねだり……は、特に『SAOP』の彼女を見ていると、もう、こちらがキュン
キュンしてしまうシーンが多く、4巻で「遺物拾い祭りやりたい」と言った時は挿絵の
魅力と相まって心臓打ち抜かれました。
が、冷静に考えてみると恋人の心拍数と脈拍って知りたいですか?……ううーん……やはり
アスナもキリトへの所有欲(独占力)が強いのでしょうね。
22層の森の家で心音を聞き合うのは特典小説のエピソードです。
続きまして【いつもの二人】シリーズをお届けします。


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【いつもの二人】その関係

【いつもの二人】シリーズです。
既に互いを知り尽くしているかのような二人に翻弄されるリズベット視点の
お話です。


学校の昼休み、私「篠崎里香」は友人達と昼食を摂ろうとカフェテリアの一角にいた。

私の隣にはシリカこと「綾野珪子」。向かいの窓側にはアスナこと「結城明日奈」が、そして

アスナの隣にはキリトこと「桐ヶ谷和人」が今まさに隣の彼女から渡させた弁当の包みを

期待充分の笑みで解こうとしている。

《あの世界》に囚われていた時に夫婦としての関係を築いた目の前の二人は《現実世界》に復帰

しても、その気持ちを違えることなく普通の高校生カップルとは思えない位の親密なオーラを

入学当初から迷惑なほど放ち続けていた。

昼食の弁当にしてもそうだ。

入学してから半月ほどが経った頃だろうか、ある程度アスナの体調が戻ると二人は当然のように

校内の中庭で彼女手製の弁当を広げるようになった。

……彼氏の為に頑張って作ったお弁当を恥ずかしそうに差し出す彼女、それを照れながらも嬉し

そうに受け取る彼氏……

 

ってゆーのが普通の高校生カップルのあるまじき姿でしょーがよっ!

 

なのに目の前の二人は清く正しい男女交際の基本を完全にすっとばしているのだ。

早起きして作ってきたんだけど、美味しいって言ってくれるかな?、といった乙女のドキドキ感や

友人達がいる学校で食べるのは照れるけど、彼女がオレの為に作ってきてくれたんだから……

といった純朴な青年の気恥ずかしさはないのかっ、と、このカフェテリアの窓から何度中庭に

向けてパックジュースを投げつけたいと思ったことだろう。

 

まあ、既にこの二人はカップルと言うより夫婦なのよねぇ……。

 

もちろんアスナ一人なら、クラスの友達とお喋りしている時や教室で授業を受けている時は

高校生らしく年相応の姿なのだが、いざキリトが同じ空間にいると途端にまとう雰囲気が

変わってしまうのだ。

それは多分キリトも同じなのだろう。

現にキリトは当たり前のようにアスナから昼食を受け取り、アスナも当然のように持参したお茶を

カップに注いでキリトに手渡している。

 

「はぁーっ……」

 

目の前の展開に思わず溜め息も出るというものだ。

そんな私の憂いを見とがめたアスナが小首を傾げて視線をこちらに向ける。

 

「どうしたの?、リズ」

「カレーが足りないのか?」

「!!??」

 

キリトのあまりの言いように手にしていたスプーンを落っことすところだった。

 

女子高生の溜め息の原因が昼ご飯のカレーの量かもと思うってどういうことっ!

 

けれどここで冷静さを欠いたら負けだ……何に対しての負けかはよくわからないけれど、

自分の中の自分がそう告げている。私はスプーンを握りなおし、キリトの言葉に対して

引きつる頬を力業で抑え込んで涼しげな笑顔で応えた。声が多少震えているのは

愛嬌と思って欲しい。

 

「カレーの量で溜め息つくわけないでしょ」

「……なら、味とか?」

 

こいつは……私にケンカを売っているのかっ。

 

笑顔をキープしつつも二、三カ所、頭の血管の破裂音が聞こえた気がした。

 

「いつもと変わらず美味しいですよ、ねえリズさん」

 

そんな私の内情に気づいているのか、いないのか、同じメニューを選んだ隣のシリカが

モグモグと小動物を思わせる仕草で口を動かしながら、同意を求めてくる。

 

「オレもアスナと食べられない時はここのカレーを食べる事が多いけど、ここの、結構

美味(うま)いよな」

 

それを聞いたアスナがすぐにキリトへと視線を移した。

「そうなの?」の問いに、笑って「ああ」と答えている。

 

「キリトくんの好みなら、辛めなんだね」

「アスナにはちょっと無理かもな」

「ひどいっ」

 

子供扱いをされたと感じたのかアスナは拗ねたように少し口を尖らせている。そんな表情も

たまらなく愛らしい。そう感じたのは私だけではないようで、キリトはそんなアスナの態度に

対して慌てるそぶりすら見せずに、目を細めて「じゃあ今度一緒に食べるか?」と更に

アスナをからかいたいのか片頬を僅かに上げて言う。

放っておいたらこの二人のいちゃつきは止まらないだろう。

目の前で解き放たれているピンク色のオーラにあてられ、私の怒りが空中分解を始めた。

 

なんか、もう……いちいちがどうでもよくなってくるわ……。

 

半強制的に自分を仕切り直すと、ぷんぷんっ、と絵に描いたように可愛らしい拗ね顔で

キリトを睨み付けている明日奈へカフェテリアの裏情報を提供する。

 

「大丈夫よアスナ。女子にだけ辛さ控えめの裏メニューが用意されてるの」

 

それから……その表情はやめなさい。キリトを余計に喜ばせるだけだから。

 

私の発言を聞いて一瞬キョトンとしたアスナだったが、すぐに納得したようで私のカレーを

覗き込んできた。

一方キリトは「そうなのかっ?!」と初めて知ったらしい裏メニューの存在に驚いている。

だいたい少し考えれば、私はともかくお子様味覚のシリカが辛口カレーを美味しいと言って

食べるはずがないと気づくだろうに。

まったく、どうしてこうもこいつは私達への関心が薄いのか……自然と二回目の溜め息が

出そうになる。目の前の男は……基本、周囲には気を遣うし、優しい言葉もかけてくれる。

一般の男子高校生と比べればそのフェミニストぶりは平均以上だ。でも彼も同様、アスナが

近くにいると途端にその視野は狭まってしまう。

結局ほとんどアスナしか見てないし、アスナにしか注意を払っていない。

 

「はぁーっ……やっぱりアンタ達とお昼ごはん食べるのって……」

 

結局、我慢できず、大きく息を吐き出してしまった。

それを見たアスナが再び「んっ?」と小首をかしげてくる。

その視線から目を逸らして、一口カレーを味わってから大げさに頷いた。

 

「うん……みんなで食べると楽しいなって」

「……それで溜め息?」

「そう、それで溜め息」

 

アスナは納得できないと言うように眉をハの字に曲げているが、私は無視してカレーを

口に運び続けた。

この二人が中庭で食べるのを監視するかのようにカフェテリアの窓際を陣取って昼食を

とる時はとる時でモヤモヤするが、寒くなってきて一緒の席で昼食をとるようになった

最近では目の前で繰り広げられるバカップルぶりに、それはそれでげんなりする。

要は遠くで見ていても、近くで見ていてもやりきれないのだ。

溜め息くらいつかせて欲しい。

はす向かいに座っているキリトはそんな私の溜め息の原因など深く追求する気もないのか、

手を合わせて「いただきます」と軽く頭を下げてから、さっそく箸を動かしている。

 

「アスナ、この味噌炒め、いつもと味が違う気がする……」

「美味しくない?」

 

少し不安気な表情でアスナが問うと

 

「これはこれで美味い」

 

ちゃんとアスナに顔を向けて笑顔を浮かべた。その返事に安心したように顔を綻ばせてから

彼女も同じ味噌炒めを口に運んでいる。

 

「少し刻みショウガを入れてみたの」

 

多分、寒くなってきたから身体を温める効果のあるものを、と思ったのだろう。アスナの

料理の腕は確かだが、だからと言ってただ「美味い、美味い」と食べるだけではなく

キリトは色々と感想を言ってくれるそうで、それが嬉しい、と前にアスナが話していた。

今のやりとりを見ていると、作ってきてくれるアスナに気を遣って無理に言っているわけ

でもなさそうだ。

キリト自身、家のキッチンに立つことが多いらしいから、自然と色々思うのだろう。

味付けからはじまって、食材の話など今日のお弁当の中身で会話がはずんでいる。

私も隣のシリカとクラス内で起こった出来事などを話題にしながらカレーを堪能した。

 

「……そうなのよねっ、クラスで女子が少ないと、そういう時に、」

 

カチャンッ

 

いつの間にかシリカとの会話に夢中になっていた時、前にいるアスナがお箸を落としたらしく

弁当箱に当たった音で会話が止まった。見れば少し俯いて両方の目をギュッと瞑っている。

すぐ異変に気づいたキリトが覗き込むように声をかけた。

 

「アスナ?」

「……ん、大丈夫。ちょっと目の前がチカチカして……」

「貧血か?」

「う、ん……」

「大丈夫ですか?、アスナさん」

 

隣のシリカも心配そうに声をかけているが……そこまでの会話を聞いて私は「そう言えば」と

思い出す。朝からアスナの様子が少しおかしかったから、どうしたのかと聞けば困ったように

笑って「今日はちょっと辛いんだー」と言われて全てを納得したんだっけ。

 

まあ、このしんどさは男のアンタにはわかるまい……。

 

なのでアスナも曖昧な返事を返したのだろう。これ以上は追求しないでやって欲しい。

 

「ありがとう、シリカちゃん。大丈夫だよ。食事、続けて」

 

アスナは力なく微笑んでシリカを促した。その言葉を素直に受け取って再びスプーンを

動かし始めた様子をアスナは安心したように眺めているが、その表情に横から不安げな視線を

送り続けている男がひとり。そして私はその男の一挙手一投足を見張っている。

いくら彼氏でも高校生の男子に女子特有の身体の状態を告げるのは抵抗のある女生徒が

ほとんどだ。更にアスナに問うようなら間に割って入ろうと見守っていた時、キリトが

しばし考え込んでから、アスナの耳元に顔を寄せた。

 

「薬は?」

「……うん、今朝飲んできたけど……食べ終わったらまた飲む」

「ならもう少し箸をつけろよ。痛み止めは胃が荒れるから」

 

小さい声だったが確かに聞こえて、アスナのお弁当箱を見れば半分以上残っている。

かたやキリトの方は大きめサイズの弁当箱にもかかわらず、完食目前だ。最後に食べるつもり

だったと思われる一口サイズに切ったリンゴをポンポンと口に放り込むと、キリトは食べ

始めと同じように両手を合わせて「ご馳走様」と言うやいなや、ガタンとイスから立ち上がり

「水、とってくるよ」と告げて席を離れていった。

あっけにとられている私の横で、シリカがカチャカチャと食べ終えた食器をまとめながら

首を回してキリトの後ろ姿を目で追っている。

 

「あれ?、キリトさん、お水取りにいったんですか?……私、次が体育なのでお先に失礼

しようと……」

 

多分、私と会話を楽しんでいた頃から時間を気にしていたのだろう、目の前の二人の

やりとりには気づかなかったふうで普通に水を取りに行ったと思っているのか、キリトから

視線を外すと「ご馳走様でした」と言い、すぐにイスから立ち上がった。

そんなシリカを見上げながらフォローをいれる。

 

「あ、うん。キリトには私から伝えておくわ」

 

その様子にアスナも慌てたように軽く微笑んだ。

 

「またね、シリカちゃん」

 

私とアスナからの言葉に笑顔で頷くと、空の食器を乗せたトレイを持って急ぎ足でテーブルを

離れて行く。二人きりになったところで、再び冴えない表情に戻ったアスナに向かい、首を

伸ばして小声で話しかけた。

 

「ねえ、アスナ……もしかして、キリトってアンタの生理周期まで把握してるの?」

「ふぇっ!」

 

何を言い出すのかと驚声を上げたアスナはすぐさま顔を赤くして勢いよく首を横に振る。その

せいで更に目が回ったらしく、いつもは意志の強さが籠もっているヘイゼルの瞳は焦点が合わずに

宙を彷徨い、それに引きずられるようにフラフラと頭をふらつかせた。

 

「ごっ、ごめんっ、ちょっと、大丈夫!」

「う……ん、ちょっと……横になる」

 

消え入りそうな声でそう告げると、熱に浮かされたような表情のままキリトの座っていた場所に

パタンと上半身を倒す。そんなに辛いなら保健室に行って横になればいいのに、と思って

午前中も何度か勧めてはみたが、「病気じゃないんだから」と言って聞き入れてはくれなかった。

それにしても気になるのは、さっきのキリトの勘の良さだ。

アスナの体調を今の今まで知らなかったのなら、あれだけの会話で正確な答えを導き出すほど

あいつは女の子慣れしたヤツだったろうか?……否である。

だったらどうして?……と考えて、ふと、思いついてしまった自分を全力で否定しなくなる想像が

頭の中を占領した。

 

えぇ?……まさか……まさか……ねぇ……でも……アイツなら……ありうる……かも。

 

「キリトとどこまでいってるの?」……この問いを今まで何回アスナに向けただろうか。

その度に頬を真っ赤にそめて「ないないない、全然ないよう」と引きつった笑顔で

否定の態を崩さない親友に、それでも私は疑いの眼で見ずにはいられなかった。

そんな表情で発した言葉を素直に信じるほど付き合いの浅い仲ではないのだ。

だいたいキリトに同様の質問をすれば「ははは……」と乾いた苦笑いで誤魔化される。

そう、ヤツは否定をしない。

それに《あっちの世界》でも《こっちの世界》でも二人の様子を見れば何もないわけが

ないことなど一目瞭然だ。

ちょっと目を離せば寄り添っているし、ふと見れば手を繋いでいる。

キリトがアスナの頭をポンポンと撫でるように触れるのなんて日常茶飯事だ。騒がしい

場所ではいつの間にか顔を寄せ合って内緒話をしているし、うっかり人気のない場所で

二人を見つけて声をかければ、慌てたように二人揃って背筋を伸ばしている。

だいたいこの二人はお互いが傍にいることに緊張がない、なさすぎる。

どちらかと言うと自分達の周りに私達がいることで緊張しているように見えるくらいだ。

そんな様子から導き出した私の信じたくない想像は……キリトがアスナの生理周期を

計算ではじき出したのではないか?、ということだ。

アイツは乱数を利用したアルゴリズムでもモンスターのポップする間隔をほぼ正確に

はじき出す……そんなアイツならアスナのこれまでの不調時期を知っていれば、だいたいの

目安はつくのでは……。

そしてここからが拒否反応を示す核心的な想像部分だけれど、アスナがここまで不調を露わに

するのは珍しい、という点から普段は周囲に気づかれる程ではないのだ。

それでもキリトが彼女の体調不良を知るきっかけは何かと考えれば、それは……

 

キリトの……その、甘いお誘いをアスナが生理を理由に断ったから……かも……とか……

 

考えを順番に整理していって到達した結論に頭を抱えたくなった。

 

「何してるんだ?、リズ」

 

ふいにいつの間にか戻ってきたキリトの声が頭上から降ってきて、無意識に《現実世界》で

頭を抱えていたことに気づく。

 

「わっ……ああ、なんでもないわ」

「アスナ、寝ちゃったのか?」

「寝てないと思うけど……ごめん、私がつい精神的に揺さぶったら倒れちゃったの」

 

「まったく、何やってくれてるんだよ」と言いながらも「アスナ」と優しく呼びかければ、

虚ろな瞳のままのろのろとアスナが両手をついて上半身を起こすのが見えた。

辛そうに俯いたまま、横に置いてあったカバンの中身をゴソゴソと探りポーチに入っていた

錠剤の薬を取り出す。

それを見ながら元の席に座ったキリトが手にしていた紙コップを渡すと、明日奈は小さく

「ありがとう」と言って薬と共にコップの水を口に流し込んだ。こくん、と音が聞こえ

そうなくらい白いのど元が上下する。

すぐにキリトがアスナの手から紙コップを受け取りテーブルに置くと、ほぼ同時にもう片方の

手で彼女の小さな頭を抱き寄せて自分の肩に乗せた。それから寄りかかったアスナに

向かって今度は聞き取れないくらいの声をかけたのか、彼女は小さく頷くとそのままさっきの

ようにパタンと横に倒れた……そう、キリトの膝の上にだ。

……驚きのあまり、声も出せなかった……。

けれど同時に湧き上がる感情はカフェテリア最奥の窓際席を選んでよかった、の安堵。

この席でなければキリトの膝枕で横たわるアスナの姿がカフェ内を移動する生徒達から

丸見えになる。この様な事態を想定したわけではなかったが、出来るだけ平穏に昼食を摂る為、

アスナを他の生徒の目から隠すという意味でこの二人と食事をする時は敢えてこの席に座る

ようにしていた。

多分、膝枕を言い出したのはキリトからだろうが、それをアスナが素直に聞き入れるのが少し

意外で、体調の辛さが推し量れた。

「もう食べる気はなさそうね」と言いながら、半分も手をつけていない彼女のお弁当のフタを

閉め、キリトのと重ねて一緒に包む。

 

「シリカは次が体育だからって、先に行ったわよ」

「ああ、水を取りに行った時、すれ違った」

「アンタは?、これから授業あるの?」

「ん、午後は一コマだけだ。予鈴が鳴るまでここにいるよ」

「そう、なら、このお弁当箱は私が先に教室へ持って帰るから、あとは頼んだわ」

「悪いな」

 

片手をあげて私に礼を言うと、そのままポケットから携帯端末を取り出して何やら覗き込んで

いる。

これならパッと見は授業が始まるまでネットでも眺めて時間を潰している一人の生徒にしか

見えないだろう。しかしよくよく観察すれば、もう片方の手の行方は……膝の上に乗っている

アスナの頭を撫でているらしく僅かに左右に動いている。

 

「薬、効きが遅いようなら無理せず保健室に行きなさいって言っておいて」

「りょーかい」

 

キリトは画面から視線を私に移すと、珍しく穏やかな笑顔を私に向けた。

 

「は〜っ、アンタってアスナがらみだと、そういう顔するのよねぇ」

「はっ?」

 

私の言った意味が理解できないのか、目を見開いている。

 

「無自覚だからよけいタチが悪いわ。誤解する子が続出するからホント大迷惑」

 

未だ訳がわからないといった風のキリトが何か言葉を発するより早く、私は荷物を持って

立ち上がり、すぐさまその場を後にした。

 

 

 

 

 

そして私がカフェテリアから去った約十分後……予鈴が鳴り終わった時だ……既に教室に

到着していた私の耳には入るはずのない会話が、いまだカフェテリアの最奥で予鈴を静かに

聞き終わった二人の間で密やかに交わされていた。

 

「アスナ……予鈴鳴ったけど……」

「うん、ちょっと楽になった。有り難う、キリトくん」

 

そう言いながらもキリトはアスナの髪を梳き続けている。

 

「教室、戻れるか?」

「大丈夫、今日はあと一コマだもん」

「そうだな……で、放課後、オレん家で課題を一緒にやる約束だけど……」

「予定どおり、お邪魔させて」

 

見上げるように顔の向きを回してキリトに微笑む。

 

「ああ」

 

優しく頷くその表情を見てからアスナは少し言いにくそうな口ぶりで「でも」と言葉を

紡ごうとすると、キリトの人差し指がそっと彼女の柔らかな唇に触れ声を遮った。

 

「わかってる……今日は……我慢するよ、キスだけで」

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
女性は大変です。その辺はもう照れることなくキリトは労ってくれる
間柄だと思って書いてみました……でもキスはするんですね(笑)。
キリトは甘味も辛味もいける口だと思うのですが、アスナはキリトほど
辛い物は得意ではないかな?、の独自設定で進めました。
イメージで言うと辛いのが大丈夫なのはシノンでしょうか?
次がリズベットあたりかと……。
次回は《現実世界》のお話です……までは決まっていますが、内容は
どのエピソードを投稿するか未定です。


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【「お気に入り」100件突破記念大感謝編】超S級な存在

《かさなる手、つながる想い》を「お気に入って」くださった皆様、
本当に有り難うございます!!!!!
投稿を始めた頃には予想もしていませんでした「100」という数に嬉しさいっぱい、
恐れ多さいっぱい、今後のプレッシャーいっぱいです(笑)
そこで急遽、感謝とお礼の気持ちをめいっぱい詰め込んで【大感謝編】を用意させて
いただきました。

久々、オリキャラの「茅野 聡」君登場です。
明日奈のクラスメイトで彼女と肩を並べるほどの学力を有しています。「かの城」に
囚われた時には既に高校生で起業しており、《現実世界》に復帰後、卒業と同時に
結婚するはずだった恋人と結ばれ一人娘がおります。
(詳しくは第一話『きみの笑顔が……』をご覧下さい)

その茅野聡を巻き込んで、今回は明日奈を自分の腕の中に捕まえようとする和人という、
少し異色の雰囲気でお届けします。



 『結城 明日奈(ユウキ アスナ)』

   姿・形は非常に愛らしく、食用に限らず愛玩用・観賞用としても一級品である。

   また知能も常に高水準を維持しており、ビジネスパートナーはもちろんプライベート

   パートナーの対象としてもきわめて優秀なレベルにある。

   平時は大変穏やかな気性で周囲に対しハイクオリティな癒やしを提供するが、一旦

   攻撃モードに転化した場合、ミリ単位の正確無比な攻撃力を発揮する。

   日常の生活能力においてはインテリアセンスと調理技術に特筆すべき才を持つ。

   以上のように、全てにおいて最高品質の希有な存在だが残念なことに既に所有者が

   決定しており、その溺愛ぶりから所有権を放棄することは生涯ないものと思われる。

 

 

 

 

 

トテテテテッ、と小刻みに近づいてくる足音に気づいて茅野聡が振り返れば、結城明日奈が

校舎のすぐ前の中庭から小走りにこちらへと向かって来ている。

同じクラスの男子生徒二名と渡り廊下を歩いていた彼は一直線に自分の元へとやってくる

彼女を不思議に思いながらも手をあげて声をかけた。

 

「ああ、結城さん。午後の授業、移動教室に変更になったよ」

 

耳まで届いたであろうその言葉には一切反応せず、そのまま自分の胸に飛び込んでくる勢いの

彼女にますます疑問を抱きながらもその様子を観察すれば、片手にはバスケットを握っている。

その振り加減からいって中身は既に消費済みのようだ。

中庭方面からやってきたことを考慮に入れれば、今の今まで昼食をどこの誰と過ごしていたのかは

明白だった。しかし週に数回しかタイミングが合わないらしい貴重な昼休みを想い人と共にして

いたわりには思いっきり不機嫌そうに表情を歪ませている。まず間違いなく原因はその彼氏

なのだろうが……。

 

なんとかは犬も食わない、って言うからなぁ。

 

彼氏側とも多少の面識を持つ茅野にしてみれば、この二人の諍いに関しては「関わった人間が

バカを見る」という実例をいくつも耳にしていたし、目にもしていた。一度などは自分も該当者に

なったくらいだ。

その言葉を証明するかのように彼女の後方からは焦り顔で当の彼氏である桐ヶ谷和人が懸命に後を

追って来ている。

 

「アスナッ」

 

和人が恋人の名を呼んだ途端、明日奈はピクリと肩をすくませて跳ねるように茅野の背中に

回り込んだ。

その行動に驚いたのは茅野だ。

 

「ええっ!?、なにっ?、どうしたの結城さん!」

 

茅野の背後を陣取った明日奈はバスケットを持っていない方の手を茅野の肩に乗せ、そこから

覗き込むようにしてやってきた和人を睨んでいる。

息を切らしながら茅野と対面する位置で立ち止まった和人は呼吸を整えながら手を差し出した。

 

「ったく、走るなって言ってるのに……ほら、おいで、アスナ」

 

まるで野生の小動物を手なずけようとしている仕草に茅野も先刻の驚きを忘れて顔を

引きつらせる。一緒にいた友人達は明日奈が茅野にひっついた時点で無関係を装う英断を

下したようで、事の成り行きを見守ろうと数歩離れた場所で静観を決め込んでいた。

安地に避難した友人達はアテにならないと覚悟を決めたのか、茅野は殊更穏やかに自分の

背中にしがみついている明日奈に声をかける。

 

「えっ……と、結城さん?、桐ヶ谷くんが呼んでるよ」

 

事を穏便に済ませたく、刺激しないように誘ったつもりだが、彼女は「うう〜っ」と唸る

ばかりだ。

だが、自分の後ろに身を隠している彼女は確かに怯える小動物のようだった。

よく見れば不機嫌に寄せた眉の下ではゆらゆらと瞳が揺れている。

 

「どうしたの?、桐ヶ谷くんとケンカでもした?」

 

やっと言葉が通じたのか、明日奈が上目遣いに茅野を見上げ、無言でゆっくりと首を横に

振った。

 

「……なら、何があったの?」

 

とにかく落ち着かせようと優しく声をかけたのだが、その思いは通じず明日奈は一気に声を

荒げる。

 

「だってっ、キリトくんが明日のお出かけ、行かないって!」

「大声を出すなっ、アスナ!」

 

彼女の状態の何を危惧しているのか、和人が再び焦ったように言葉を被せた。しかし自分までも

興奮してはマズイと判断したようで、一気にトーンを落とすと笑みまで浮かべて

幼子(おさなご)に言い聞かせるような口調に変わる。

 

「誰も行かない、とは言ってないよ。明日じゃなくて明後日の日曜にしようって言ってるだけだ」

「お昼ご飯食べるまでは、ちゃんと明日行こうって言ってたのに……」

 

なるほど、それで彼女のご機嫌を損ねたと……そこでようやくひとつ納得してから茅野は考えた。

 

それにしてもこの違和感は何だ?

 

内にたゆたう疑問符をつかもうと思考に意識が集中ている間も明日奈は「理由聞いても教えて

くれないし……」と色々な不満を漏らしている。

その言葉にだんだんと和人の拳が震えだし、ついにはリミッターが切れたのか苛立った声を

発した。

 

「とにかくっ、茅野さんの後ろが出てくるんだ、アスナ」

「やっ!」

 

あまりの即答に和人が固まった。それからジロリと明日奈の盾となっている人物を睨み付ける。

その殺気を伴うような視線に茅野は胸から背中までを細く冷たいものが突き抜けた気がした。

 

「ええっと……久々に命の危機を感じるなぁ。あるはずのない自分のHPバーが急速に目減りして

いくようだよ……確認しておくけど、この件に関して僕は部外者だよね?。たまたまここで

結城さんを見かけただけで、もっと言えば僕は被害者と言っても……」

「茅野さん、アスナを渡してください」

「だから僕が引き留めているわけではないから……結城さんも、お願いだから僕の肩をギュッと

掴むのはやめてくれ。彼の視線で心臓に穴が空きそうだ」

 

その頃には騒ぎを聞きつけた野次馬達が渡り廊下を中心に続々と集まってきている。

「姫をめぐって争う茅野と桐ヶ谷」を期待していたギャラリーは「茅野の背にしがみつきながら

桐ヶ谷を威嚇している小動物のような姫」という構図に戸惑いを見せてはいたものの、普段は

余裕の笑みで何事もこなす茅野と、飄々とした態度で特定の人物以外には無愛想な桐ヶ谷の

二人が明日奈に振り回されて困り切っている姿の新鮮さに加え、何より凛とした佇まいを

封印した保護欲をかき立てる彼女のいとけなさに夢中になっていた。

さすがにギャラリーの多さが気になってきたのか、なんとかこの事態の収拾を計ろうと茅野が

リザインを示すように両手をあげる。

 

「とにかく、前にも言ったけど僕は君達の仲をどうこうする気は全くない……という事を理解して

もらってから、桐ヶ谷くん、僕の肩を掴んでいる結城さんの手に触れてもいいだろうか?」

 

平時ならば何をわざとらしくまどろっこしい言い方を、と反感を買うところだが、今の和人の

表情を見てそれを思う生徒はひとりもいなかった。

誰の目にも明かなほど、和人は自分以外の男に明日奈が密着しているという今の状況に爆発寸前の

形相となっているからだ。

恋人が頼り切っている男に他意がないことを自身になんとか納得させたらしく、ゆっくりと

一回頷くのを確認してから茅野はそっと明日奈の手に触れる。

触れたと同時に「おや?」と思い、すぐさま「なるほど」と納得した。

 

それで、あの違和感だったのか……。

 

違和感の正体と原因に気づけば明日奈と和人のそれぞれの言動理由は氷の溶けるがごとく

すんなりと解せる。

 

「大丈夫だよ桐ヶ谷くん、こういう時の姫君の扱いには多少の心得がある」

 

少し余裕を取り戻してこっそりと和人に頷いた。

それからポンポンと二度明日奈の手を叩いて注意を自分に向けさせると、得意の穏やかな笑みで

彼女に話しかける。

 

「結城さん、最近ちゃんと睡眠とれてる?」

 

突然の問いかけに意表を突かれた明日奈は瞳をパチパチとしばたたかせてから「んんぅー」と

言葉にならない声をだして首を傾げた。

返答を聞く前に今度は明日奈の手の甲を優しく撫でる。

 

「少しだるくない?、さっき走ってたよね。立ってるの、辛いから僕に寄りかかってるんじゃ

ないかな?」

「うー……わかんない」

「考えるの大変?……なら保健室でちょっと休もうか?」

「……いや(嫌)」

「大丈夫。ちゃんと桐ヶ谷くんも一緒だから」

「キリトくんも?」

「そう、結城さんが眠るまで手を握っていてくれると思うよ」

「その通りだよ、アスナ」

 

明日奈が会話に気を取られている間に茅野に手招きされた和人が、いつの間にか彼女のすぐ隣

まで移動していた。茅野の肩にあった明日奈の手を掴むと同時に自分へと引き寄せ、もう

片方の手を彼女の腰に回してから「やっと、つかまえた」と心底安心したように大きく息を

吐き出す。

ぼんやりとした表情で和人を見上げた明日奈は抵抗も見せず、困ったように眉をハの字にして

「少し眠くなっちゃった」と打ち明けた。

それを聞いた和人は掴んでいる彼女の手の甲を自分の頬にぴたりと当て「さっきより上がってる

かも」と呟くと、うまく力の入らない明日奈の身体を気遣いながら「ほら、保健室行こう」と

促した。

それを見た茅野が明日奈のバスケットを見て申し出る。

 

「どうせ教室に戻るところだから、彼女の荷物、持って行ってあげるよ」

「すみません、お願いします……でも、よくわかりましたね。アスナに微熱があるって」

 

すると茅野は和人に顔を近づけて声を潜めた。

 

「娘がね、同じなんだよ。ちょっとの熱でもすぐに手があったかくなるんだ。それに言葉遣いが

いつもの結城さんと違ってただろ。ぼーっとすると頭も舌も回らずにグズりだすトコも

ホント一緒」

 

娘を思い出したのか、少し可笑しそうに笑う茅野を見て、和人も僅かだが表情を和らげる。

 

「昼飯を食べ終わってから手を握ったら暖かかったんでオレもそうだと思ったんです。でも当の

本人は無自覚だし、発熱を教えて明日の外出を取りやめようと言えば絶対アスナは平気だって

言い張ると思ったんで……」

「それで理由を告げずに行かれないと言ったら怒り出したと……」

「まあ、そうです。微熱だったから明日一日休めば明後日は行かれるかもしれないと思ったん

ですが……」

 

そこまで言うと和人は惚けたように焦点の合っていない瞳の明日奈を見つめてから両手で彼女を

支えている為、唯一自由になる頭を寄せておでこで同じく彼女のおでこをグリグリとこすった。

 

「とにかく熱があるくせに走るは、騒ぐは、でもう。挙げ句にオレ以外の男にしがみつくし……

こっちがどれだけ大変な思いをしたかわかってるのか?」

「ふぇっ、痛い、痛い……んっ、んんー、噛んだら痛い……よぅ」

 

されるがままの明日奈だが、おでこから離れた和人が次にほっぺたに甘噛みをし始めると、

さすがにそれは嫌なのか必死に顔をよじっている。

 

「本気で噛んでないだろ……それより、アスナ、オレと出かけたい?」

 

優しく問われれば、明日奈は和人の肩にこてんと頭を預けてたどたどしく返事を口にした。

 

「うん、お出かけ、したい」

「なら今晩は早く寝て、明日は大人しく休むって約束、できるな」

「うう〜」

「アスナ、約束」

「……する」

「ん」

 

満足げに微笑むと和人は熱で淡いバラ色染まっている明日奈の頬へ今度はそっと唇を押し付けた。

一部始終を間近で見ていた茅野が肩をすくめる。

 

「熱のせいでグズって幼児返りしたような結城さんは可愛いね。それにしても桐ヶ谷くんは随分と

大胆になったもんだな」

「こうでもしておかないと、週明けから大変なんですよ」

 

その返答に首を傾げることで内を表せば和人はすぐさま言葉を続けた。

 

「走って逃げるアスナをオレが追いかけているのを目撃されただけで『不仲説』はあっという間に

広まります。こうやって関係が修復した事を見せつけておかないと、アスナを手に入れようとする

男が後を絶たないので」

「なるほど。君も苦労するね。結城さんはS級食材のように希少だから、一口でも囓ってみたいと

思うのが男ってもんだよね」

「……一口だって分け与える気はありません」

「うーん、S級食材を独り占めかぁ。羨ましい気もするけど……一回でもいいから食べてみたいと

思う不埒なバカ共には十分気をつけて」

「わかってます。味見だってさせませんから」

 

和人の肩の上の明日奈は既に目をとじてすっかり身を任せている。熱のせいなのか無防備に開いて

いる口からは微かに荒い息が漏れていた。誘うように開いている僅かな隙間に差し入れたい衝動を

どうにか堪え、入り口の桜色の唇をゆっくりと周囲に知らしめるように味わうだけで収める。

だが、その行為だけでも周囲をどよめかすには十分だった。やりすぎ感をいなめない茅野が和人を

促す。

 

「桐ヶ谷くん、もう十分だろう?……そろそろ保健室に行きなよ」

 

そこまで言ってから思い出したように言葉を足した。

 

「そうだ、ちゃんと結城さんが眠るまで傍に居て手を握ってるんだよ」

 

お節介を承知で告げれば意外そうな目で返される。

 

「まさか、アスナが起きるまでずっと一緒にいます」

 

さも当然の如く口にする言葉に今度は茅野が驚く。

 

「だって、桐ヶ谷くん、授業は?」

「今までの会話、一体何人の人間に知られていると思ってるんですか?、こんな状態のアスナを

一人で保健室に寝かせておいたら保健室に男共が殺到します」

「あー……そっかぁ……そうだね……でも一番結城さんを食べたそうにしてるのはキミだよね、

桐ヶ谷くん」

「食べませんよ、少なくとも熱が下がるまでは」

「……うん、そうしてあげて」

 

疲れたように笑う茅野は明日奈が手にしてたバスケットを受け取ると「じゃあね」と言って

友人達と合流してその場を去った。

やっぱり、あの二人に関わるとロクな事にならない……まさになんとかは犬も食わない、だな

……いや既に彼女自身は桐ヶ谷くんに美味しく食べられちゃってるか……と思いながら。




お読みいただき、有り難うございました。
「お気に入り」に加えてくださった皆さんに捧げます、の気持ちで書き始めたのですが
書き終わってみれば、折角「お気に入り」に加えて下さったのに、皆さんに怒られるのでは
ないだろうか?(冷汗)、という気持ちしかありません(苦笑)
ごめんなさい、少し崩壊させすぎました。
あまりに浮かれてて足を踏み外してしまったかのような内容で……ですが個人的には
ずっと腕の中に閉じ込めておきたいのにチョロチョロと勝手に動き回るアスナに振り回される
キリト、という関係性も美味しいな、と思っています。
次の定期投稿ではちゃんと元に戻っておりますのでご安心ください。
そして全くの偶然ですが、次回も茅野くん登場です。


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秘め事

キリトとアスナが通う高校でのお話です。
高校生ともなれば、明日奈に惹かれるのは周りの生徒ばかりではないようで……。

珍しく二人以外は全員オリキャラとなってしまいました。
内、一人は何回か登場してくれている「茅野聡」くんです。
彼の詳細は一話『きみの笑顔が……』をご参考ください。


カフェテリアの大きな窓から見えるその空一面を覆うのは、久しぶりに本格的な雨粒を

降らせているどんよりとした灰色の分厚い雨雲だ。お陰で昼休みに突入したばかりにも

かかわらず、晴天時とは比べものにならない数の生徒達が続々と集まり始めている。

ランチメニューのチケットを買い求める者、既に目当ての料理をトレイにのせている者、

とりあえず席を確保する者、既に持参した昼食をテーブルの上に広げている者と様々だ。

その中でひとり、テーブルに突っ伏している男子生徒がいた。

両腕で輪を作りそこに頭を沈ませている。

食事を摂る気がないのならこんな喧噪の中、わざわざ昼食時の貴重なカフェテリアの一席を

占めることはしないだろう……と言うことは人待ちなのか。

そんな男子生徒に誰も気を止めることなく、次々と席が埋まっていく。

唯一、彼の隣の席だけは誰にも譲る気はないのだ、と主張するように彼の物と思われる制服の

ブレザーが置かれていた。

 

「ほっちゃん、まだ諦めてないんだな」

「そーそー、もしや以外と押しの強い肉食系?」

「見た目は思いっきり草食系……いや、実はインスタント系なのになぁ」

「うんうん、実験室のビーカーでラーメンばっか作ってるよね」

 

テーブルの上に頭を預けたままピクリとも動かない男子生徒のすぐ後ろの席で、数人の男子

生徒集団が当校の科学教師を話題にあげていた。

 

「あれで本人は周囲にバレてないと思ってるのがイタイよな」

「なに?、ラーメンの話?」

「違うって……あれ、おまえ知らねーの?」

「だから何の話だよ」

「わが校で唯一、二十代のイケメン教師、女生徒の間では『穂坂会』なんてファンクラブまで

あるほどの人気教師がさ……」

「うんうん」

「女生徒を口説いてんだよ」

「はぁー!?」

「って、声でけぇよ、お前……しかも口から何か俺の方に飛んできたぞ」

 

さすが育ち盛りの色ボケざかり、食事の手は一切止まらず、それでいて会話が途切れることも

ない。ひとりだけ、話題の内容を初めて知ったと思われる生徒の口から驚嘆の声と共に

吐き出された何かを受け止めた生徒は心底嫌そうな顔でテーブルに備え付けの紙ナプキンを手に

取った。

 

「悪い、悪い……でもマジか。あのさわやかほっちゃんが……」

「しかも相手は彼氏持ちだもんなー。チャレンジャーだよなぁ」

「……ってことは……『別れて、僕と付き合って欲しい』って迫ってんの?」

「いやいや、噂によると『ふたまた』で構わないって」

「ひええっ!?」

「な、意外だろ?」

「意外っつーか『ふたまた』でいいって口説く心理が俺には理解できない」

「しかも、ついさっき屋上出入り口のエントランスに二人で上がっていくのを見たから、

今現在も絶賛口説き中だぜ」

「この天気じゃ屋上に行くヤツもいないだろうから、がっつり攻めてんだろーな」

「……それってマズイんじゃないのか?、学校側にバレたら」

「バレるっても今んとこ俺達のクラスの連中しか知らないだろうから、まだ大丈夫だろ」

「なんで?」

「口説かれてるのがウチのクラスの女子だから」

「……あーっ!!」

「だから叫ぶなっ、飛ばすなっ」

「……さわやか熱血で男子生徒からの兄貴的存在ゆえ人望も厚く、面倒見がよくて誰にでも

向ける笑顔に女生徒の心も鷲づかみの『ほっちゃん』こと穂坂センセが口説かずにはいられない

お前んトコの女子って……まさか」

「さすが現国の成績だけは常にトップクラスなだけあるなぁ、よくもまあそうペラペラと言葉が

出てくるもんだ……そうだよ、前回のテストで唯一お前が負けた相手」

「……結城明日奈さん……か」

 

校内一の有名人と言っても過言ではない女生徒の名前が出た途端、テーブルにつっぷしていた

男子生徒がガタンッと派手な音を立てて立ち上がり、その勢いでポケットから落ちた携帯端末も

そのままにカフェテリアから飛び出して行ったことを後方の男子生徒達が気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

「穂坂先生、何度も申し上げますが、私の気持ちは変わりません」

 

目の前の彼女は何度目かの僕の呼び出しに律儀に応えながらも、苛立ちを隠しきれない口調で

これまた何回聞いたかわからない返答を冷固な感情を込めて告げてくる。

 

「まあ、そう言わないで。何もすぐに返事が欲しいわけではないから」

 

彼女からの答えを暫定的なものにしたくてなんとか保留の形で受け取ろうとすると、今日

ばかりはそれすら認めない覚悟なのか、困ったように眉根を寄せた。

 

「そうはいきません……先生だって……困るでしょう」

 

困らせているのは僕の方なのにそんな表情を無防備に晒されると、わずかに残っていた罪悪感に

チクリと胸を刺さされる。

 

「うーん……とりあえず結城さんが心を決めてくれるだけで僕は満足だよ。別に急ぐ必要はない」

「でも……私……今でも余裕なんて全然ないんです……」

「そうだろうね。あれだけの成績を常に維持しているんだし、人間関係の付き合いも色々ある

みたいだし」

 

僕のその言葉に何を連想したのか、わかりすぎるほどあからさまに頬を染める。その変化だけで

彼との交際が順調なことを読み取ってしまい無意識に自分の片頬が歪んだ。

 

「何回も言っているけど、無理をさせる気はないよ。今の生活のまま結城さんの時間のある時

だけでいいんだ。月に一回か二回でいい。もちろん彼との事を優先させてくれて構わない」

 

我ながら心にもないことをよくもまあ止めどなく口をついて出てくるものだ。

自分の知らなかった一面に頭の片隅で驚きながら、同時に狡猾な考えが湧きだしている。彼女が

首を縦に振ってくれれば多少なりとも彼と過ごす時間を削ってもらわねばならないのはわかり

きっていた。

とにかく今は彼女から不承不承でも肯定の言質を取り付けたいの一心だ。

僕の口から「彼」という単語が出たことで彼女の瞳が僅かに揺らいだ。

 

「あの……この事、キ……桐ヶ谷くんには……」

「もちろん言ってないよ」

 

とは言え、いくらクラスが違っていても彼の耳に入るのは時間の問題だろう。普段の飄々と

授業を受ける姿からは想像できないが、有事の際の行動力はそこらの高校生の比でないことは

十分承知している。まして校内でも知らぬ者はいないと断言できるほどのおしどりカップルだ、

僕の行動を知った途端、相手が教師だとてためらいなど皆無で動くに決まっている。この押し

問答もそろそろ決着をつけないといけないな、と覚悟を決めた時だった。階下から一人、足音を

忍ばせて上がってくる人影に気づき、その主を想像する。

ああ、そろそろタイムオーバーか……。

 

「僕を助けると思って、ね、結城さん」

 

彼女にその足音を気づかせまいと、一歩前に踏み出して両手でその細い左手を握った。

いきなりの行動に驚いたのだろう、彼女は「ふえっ!」と小さな動揺の声を上げて困った

ように僕を見つめてくる。

ああ、それでいい。頭の中は僕のことでいっぱいになっているはずだ。

残念ながら中身はどうやってこの話を断ろうかと懸命に考えているに違いないが……。

 

「お誘いは光栄なんですけど、やっぱり私には無理です」

「僕には君しか考えられないんだけどな」

 

足音がすぐ近くで止まった。きっと真剣に聞き耳を立てていることだろう、と頭の中のどこか

切り離された部分が冷静に判断する。

 

「何度も言っているとおり、気楽にこっちは二番手とでも考えてくれればいいよ」

「……このお話を、お受けしたなら、そんな一番とか二番なんて、できません」

「結城さんは真面目だなぁ。まあ、そんな君だからお願いしてるんだけどね」

「先生、もうしかして、私を困らせて楽しんでます?」

「まさか、心外だな。真面目に言ってるのに……僕のお願いは聞いてもらえない?」

 

すぐ近くから発せられるイライラとした気配に背中が焼かれそうだった。

これで最後だ。

 

「結城さん……僕は本気だよ」

 

今までは逃げられないよう常に彼女の前では無害の笑みを絶やさずにいたが、最後だと思えば

自然と視線は真剣みを帯びた。真っ直ぐに僕に相対してくれている彼女の瞳に今までにない化学

変化を見た気がする。見つめ返す僕の瞳の意味に彼女は気づいているだろうか?

 

「ごめんなさい、穂坂先生。とても有り難いお申し出なんですけど、やっぱり私には……考え

られません」

 

言外に、もうこれ以上は何も受け付けないと、自分の答えが翻ることはないと突きつけられる

ような固い笑顔だった。その表情を見て僕の焦りが諦めに変わる。ひとつ息を吐き出してから、

僕は握っていた手を離していつもの笑顔を浮かべた。

 

「そっか……わかった。ごめんね、何回も」

 

力なく謝ると彼女は少し俯いて僕の顔を見ることなく、ふるふると頭を振った。

 

「まぁねー、茅野君が『結城さんがサブをやってくれるなら』なんて言うもんだから、つい

僕も熱が入っちゃって、ホント、ごめん」

 

おどけた様に軽く言うと、顔を上げて合わせるように彼女もわざとらしく眉をひそめた。

そこにさっきまでの瞳の色は霧散していて、いつもの柔らかい色に戻っている。

 

「そうですよっ、茅野君の我が儘に付き合ってたら身が持ちませんよ、先生」

「だな。サブは改めて茅野君と相談するか。悪かったねお昼に時間とらせちゃって。待ちきれ

ない彼氏が迎えに来てるよ」

 

階下に続く階段に目線で教えてあげると、彼女が「えっ?!」と発するのと同時にバツの

悪そうな表情で桐ヶ谷君が顔をだした。

 

「待たせたね、桐ヶ谷君。今度、生徒会の前段階として準備委員会的なものを発足することに

なってさ。で、会長を茅野君にお願いしようとしたら『結城さんが副会長を引き受けてくれる

ならやってもいいですよ』なんて言うもんだから、再三口説いてたんだ」

 

申し訳なさ気に笑いながら桐ヶ谷君に説明すると、彼の想像とは違う内容だったようで意表を

突かれた顔を見せたがすぐに安堵へと変化した。教師の目から見た生徒としては感情を激しく

表に出すタイプではないと思っていたが、こと彼女の事となると違うらしい。

その懸命さに思わず親近感を覚えるが、すぐさま彼と自分の決定的な違いを見せつけられ、

身体が固まった。

桐ヶ谷君が聞こえるかどうかの声で「アスナ」と唇を動かし手を差し伸べたのだ。

今までに見たことのないような桐ヶ谷君の柔らかな表情に驚いていると、結城さんは彼の

行動を予期していたかのように、待ちきれないと言った笑顔で瞬く間に僕の横をすり抜け、

ハッと我に返った時には既に彼の手に自分の指を絡ませている。

いくら僕が請い求めても差し出される事のなかった白い手を、いともたやすく手に入れる

彼を見て「特別」を誇示された気がした。そして彼女も迷いの一欠片さえ見せずに、

むしろ望んでその手の中に収まっている。

微動だに出来ない僕の異変など気づきもせず、結城さんは彼に寄り添い「待たせてゴメンね」と

謝っていた。それに対し軽く笑いながら首を横に振るだけで応える姿に、彼女もまた安心した

ように微笑んでから僕に振り返り「それでは、失礼します」と頭を下げる。

僕は思わず顔を背け、手をあげて応じるだけで精一杯だった。

遠くなる二組の足音と共に二人の会話が途切れ途切れに届く。

 

「アスナなら……集団を……で能力が生かせると……」

「また……デジャブったよ……から……なかったのに」

「……のか?」

「いい……!」

 

 

 

 

 

職員室の席より自分の居場所感が強い科学準備室でイスに腰掛け天井を見上げていると、すぐ

近くで「穂坂先生っ」と強く呼ばれた。

 

「えっ!?……ああ、なに?、茅野くん」

「なに?、じゃありませんよ。とっくにお湯、湧いてます」

「おっ、ゴメン、ゴメン」

 

目の前の生徒の様子からして、どうやら何度も呼ばれていたらしい。すでにゴポゴポと勢いよく

音を立てている耐熱容器のガラスポットの取っ手を白衣の裾で包んで持ち上げる。

インスタントコーヒーの粒が入っているカップにお湯を注ごうとして、ふと手を止めた。

 

「あ、茅野くん、コーヒーよりラーメンの方が良かった?」

 

放課の鐘はもう随分と前に鳴り終わっており校内に残っている生徒は自主的に部活に準ずる

活動をしている者がほとんどだ。この時間、育ち盛りの男子生徒ならコーヒーよりラーメンの

方が、と気を利かせたつもりだったが僕の言葉を聞いて目の前の彼は教師に向けるとは思え

ない余裕の笑みを浮かべて言い放った。

 

「今、ラーメン食べたら帰宅してから妻の手料理が入らなくなるので、コーヒーで結構

ですよ」

「……ああー、言うんじゃなかった。聞くんじゃなかった。教師の自分より高収入で奥さんが

いて娘さんまでいる現役の教え子ってどうなんだろうね」

「すみせん、って言った方がいいですか?」

 

ふてくされた表情で彼の目の前にコーヒーを置いてあげれば、楽しそうに目を細めた

茅野くんが「ごちそうになります」と礼儀正しく頭をさげた。

 

「別に謝って欲しいわけじゃないよ。教師と生徒って関係を抜きにすればこんなゴチャゴチャ

した準備室でインスタントのコーヒーを社長さんに出す僕の方がどうなの、って感じだろう?」

「それこそ、それは校内で関係ナシですよ。僕的にはもう一年歳を取っていれば先生の失恋に

ヤケ酒も付き合えるのにコーヒーになってしまって申し訳ないなぁって思ってるくらいですから」

「失恋のヤケ酒を生徒に付き合ってもらうってのも、どうなのかなぁ?」

「いいんじゃないですか?、散々、内でこじらせていたのを見かねて口説くきっかけを

作ったのは僕なんですから」

「……うん、まあ、その点に関しては、感謝してるよ、ホント」

「その笑顔、結城さんでなければ効果はかなり高いと思うんですけどね」

 

『校内の女生徒の目をハートマークに変えるほどの甘い笑み』と生徒達の交流サイトで

評されているのを知った時には絶句したが、ハートマークに変えたい相手に通用しないのでは

何の意味もない。

自分の中で膨れてしまった想いの処理に悩んでいた時、声をかけてきた茅野くんには本当に

驚かされた。もともと周りの感情の機微には敏感な生徒だとは感じていたが、まさか自分自身で

さえ肯定を渋っていた気持ちが見抜かれていたとは。

そんな僕に対して彼は軽く笑いながら提案してきたのだ、とにかく彼女と二人きりで話す

きっかけを作りましょう、と。

そしてそれに僕は乗った。

生徒会を発足させる為の準備委員会の設立話は本当だったし、そのトップに推される名前が

茅野くんしか挙がっていなかったのも事実だ。だから茅野くんがその役職を引き受けてくれれば、

構成メンバーは彼の希望が優先されるのは当然の事だった。何より既に小規模ながらひとつの

会社という集団をまとめ上げている彼ならば、人選に対するセンスも問題はないだろうと

教師達は安心していたから。

そこで彼はサブに結城明日奈さんの名前をあげてきた。

もちろんそれに異を唱える教師はおらず、準備委員会設立の担当をしていた僕は正々堂々

結城さんと二人きりで話をするチャンスを得たというわけだ。

 

「始めから、当たって砕けると思っていたからね……と言うか茅野くんが背中を押して

くれなかったら当たる勇気もなかったし」

「その辺は、立場上、仕方ないと思いますよ」

 

こくり、とコーヒーを一口啜ってから向けてくる笑顔はとても僕より四つも年下の十代の

青年とは思えなかった。

ああ、でも社会にでれば四つなんてたいした差ではないし、彼は既に人の上に立つ人間であり、

来年は成人だしな、とぼんやり笑顔をみつめながらそんなことが頭に浮かぶ。

 

「今は当たってよかったと思ってる。サブの誘いを隠れ蓑に言いたかったこと、散々言ったしね。

結城さんはずっと勧誘だと思ってただろうけど……でも最後に桐ヶ谷くんにかっ攫われた時は

やっぱり痛かったなぁ」

 

無理に笑ってみせれば、珍しく茅野くんが何とも言えず、出来の悪い生徒を見る教師みたいな顔に

なっていた。

手元を見ると自分の分のコーヒーが空になっていたので、再びお湯を沸かそうとガラスポットを

持って立ち上がった時、背後から茅野くんが小さく何かを呟いた気がして振り返る。

 

「結城さんも、わかっていたと思いますよ」

「えっ?、何か言った?、茅野くん」

「ええ、ならサブは誰がいいかなぁ、と言ったんです。ここまできたら結城さんが受けてくれ

ないから、やっぱりやりません、は通用しないでしょう?……やるからには出来るだけ楽がしたい

ですからね。弁の立つヤツがいいな……ああ、隣のクラスに僕より現国の得意なヤツ、いました

よね。結城さんの成績には及ばずとも、普段から理屈だか屁理屈だかわからない言葉が止めどなく

スラスラと出てくる口達者で、切り返しの早い……」

「ああ、彼ね」

 

二人で共通の生徒を頭に思い浮かべ、次なる候補者として勧誘すべく話を進める前に僕は

ポットを持って水道へと向かった。

 

 

 

 

 

そしてここにもコーヒーを啜る一組のカップルがいる。

 

「キリトくん……課題、終わったの?」

「……いや」

「私……コーヒー飲みたいんだけどな」

「……うん」

「うん、じゃなくてっ、もうっ」

「え?」

 

突然、声のトーンが切り替わった隣の恋人に向けて、驚いた表情でキリトはシパシパと瞼を

動かした。

場所は御徒町にある『ダイシーカフェ』のテーブル席。

昼の営業時間はとうにすぎた夕刻に「準備中」の表示があっても入り口がロックされていなければ

入店可能と認識しているキリトは何の躊躇いもなく差してきた傘を畳んで明日奈と共に扉を

くぐった。

カウンターにいた店主が驚いたのも一瞬で、すぐさま大きな溜め息を吐き出すと「コーヒーしか

出せないぞ」と告げられる。

「それで十分」と応えるキリトに対し、明日奈は申し訳なさそうな笑顔で「スミマセン」と頭を

下げるが、店長であるエギルにとっては毎度の事だ。

二人で並んでテーブル席に腰を掛け、カバンからタブレットや携帯端末を取り出す頃にはエギルが

香ばしい匂いを漂わせるコーヒーを邪魔にならない場所に置いてくれた。

「有り難うございます」と言う明日奈にはいつもの笑顔で応じ、続いてキリトに目をやれば

微妙な違和感を感じる。

「ああ、これは何かあったな」と年長者の勘が告げた。

キリト本人に自覚はないようだが、こと明日奈の事に関するとおもしろいように表情に

表れるのだ。

 

「俺はこれから厨房(なか)で仕込みをするからな。しばらくこっちにはこないから、何か

あったら声をかけてくれ」

 

多少くどいほど自分はこの場から消える旨をキリトに言い聞かせて、店主はカウンター奥の

厨房へと引っ込んだ。

禿頭のエプロン姿が扉の向こうへと消えた後、本来の目的であった課題にとりかかってしばらく

経った頃だ、ずっと無言で各の作業に没頭していると思っていた明日奈がタブレット画面の文字に

集中していると、テーブルにのせてある自分の左手がほんわりと暖かいのに気づく。

「ん?」と思い、視線をずらせばいつの間にかキリトの右手が覆い被さっていた。

いつものようにギュッと握るわけでもなく、指を絡ませてくるわけでもない。外界から遮断する

ようにふわりと明日奈の左手を自分の中に閉じ込めている。

自分の手を包み込むほどのキリトの手の大きさに《かの城》に囚われていた頃より一層の

頼もしさを感じて自然と頬が緩むが、そっと視線をその手の持ち主に移してみれば、その瞳は

予想外にもボンヤリとその手を見ているような見ていないような……。

不思議に思った明日奈はしばらくそのままキリトの様子をこっそり見守っていたのだが、当の

キリトは相変わらず自分の右手で明日奈の左手を包んだまま虚ろな視線を送っている。

こうなってくると課題どころではなくなってしまい、痺れを切らして声をかけてみれば、やはり

その返事は上の空だった。

「コーヒーが飲みたい」と……暗にキリトの手がその妨げになっている、と……そう明日奈の

言葉の意味を解釈して急いで手を引っ込めたキリトは、未だボンヤリが残った口調で詫びてきた。

 

「ああ、ゴメン、ゴメン……これじゃ、コーヒー飲めないよな」

 

しかし明日奈とて本気でコーヒーが飲めないと言ったわけではない。それなのに耳に入って来た

言葉だけに反応したような返答を聞かされて益々混乱が深まる。

それでもコーヒーが飲みたい、と言った手前もあるので自分を落ち着かせる意味も込めて

少しぬるくなってしまったコーヒーカップを両手で包んで啜った。

 

「どうしたの?、キリトくん」

 

カップを置いてから覗き込むように首を傾げる。

 

「あ……うん、アスナの手が目に入ったらさ、昼休みに穂坂先生が握ってたのを思い出して……」

「うん」

 

そこまで言うと、その先の行動は無意識だったのか、説明に困ったように言葉を詰まらせた

キリトに、それでも理由を聞きたくて明日奈は続きを強請るように見つめた。

 

「ぼんやりそんな事を考えてたら……いつのまにか手がのびてたみたいだ」

 

もう一度「ゴメン」と言いながら苦笑いをするキリトを見て、明日奈はほんの少しだけ身体の

向きをずらして情けない笑みを浮かべている恋人と向き合った。キリトは自嘲気味のまま膝の

上に行儀良く並んでいる明日奈の片手に再び手を伸ばす。

 

「相手は教師なのに……」

 

今度はしっかりと意志を持って、その白くて細い手を閉じ込めるように強く握りしめた。

 

「そうだね……でも、そんなの……関係ない……よ」

「うん……アスナに惹かれる気持ちに年齢とか立場は関係ないよな。でも、誰だろうと

オレ以外のヤツがこの手に触れるのは許せそうにない」

「そうじゃなくて……」

 

今度は明日奈が苦笑いをする番だった。

 

「私に対して誰がどんな感情を抱くのか、そんなの私にはあまり重要じゃないって事。

私が欲しい感情はキリトくんしか持っていないし、私は……キリトくんにしか触れて

ほしくないもの」

 

その言葉を聞いてスイッチが入ったようにキリトの瞳が色づく。

 

「なら、遠慮なく」

 

言うやいなや握っていた明日奈の手を更に己へと引き寄せた。

 

「ひゃっ、ダッ……ダメだったら……舐めないでっ」

「触れて、いいんだろ?」

「そういう風にじゃ、なくて……」

「なら……こう、とか?」

「よけいダメッ」

「……なんで?」

「き、汚いし……」

「……だから、アスナに汚いとこなんてないって……」

「んんーっ……」

「あのな……泣くほど、声、我慢するなよ……」

「だっ……て、奥に……エギルさん……いる……」

「エギルがいるから、ってのはオレ達の場合、理由になんない気がするけどな……むしろ

エギルの店以外じゃこんな事、出来ないし……」

 

キリトの言う意味が《現実世界》の店の事だけではないと思い至り、あの《アルケード》の

二階で居候をしていた時の記憶が耳までも赤く染めた。

あの店ではアスナの異変を案じて二階に上がってきたエギルがキリトに蹴り落とされて以来、

二人でいる時は決して階段を上って来ようとはしなかったが、今はドア一枚を挟んだ場所に

いるのだ。《あの世界》と違ってその防音性はアテにならない。

明日奈は左手の自由を奪い返そうとしていた気力もすっかり使い果たして、今は漏れる声を必死に

抑えようと俯いたまま右手の甲を唇に強く押し当てていた。

ヘイゼルをぎゅううっと瞼のウラに隠し、はらはらと涙を零しながら時折耐えきれないと

言うように首を左右に振る仕草を見て、キリトは一旦口を離し「ホント、敏感だな」と漏らす。

それから軽く笑って今日の昼休みの時のように小さく「アスナ」と呼びかければ、ゆっくりと

瞼が開き潤んだ瞳が顔を出すのと同時に視線がキリトへと上がった。逆に唇に密着していた

右手が重力のままに下がる。

その途端、明日奈の手を握っているのとは反対のキリトの手が素早く彼女の後頭部にまで伸び、

声を上げる間さえなくグイッと抱き寄せられ、上気した顔はキリトの胸部のワイシャツに

押し付けられた。

 

「この方が、声、聞かれずにすむだろ」

 

胸元で僅かに頷く仕草を続行開始の合図と認め、キリトは自分以外の男が触れた恋人の手に

再び口を寄せた。




お読みいただき、有り難うございました。
モブ(?)の男子生徒集団を除き、わかっていないのはキリトだけです(笑)
そして全てがわかっているのは茅野と明日奈でしょう。
その為、後日、多分茅野は教室で明日奈に思いっきり足を踏まれるくらいの
意地悪はされると思います。
明日奈はニッコリ笑って「あ、茅野君、ごめんね」と謝るでしょうが、その笑顔の
意味も理解している茅野は多少引きつった笑顔で「大丈夫だよ」とでも返すので
しょう。
それでチャラにしてあげて下さい。
穂坂先生が基本とってもいい先生なのはわかっている二人なので。
次回は珍しく《仮想世界》でのお話にな…………ると思います(苦笑)


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分かち合う息

新生《浮遊城アインクラッド》でフロアボスの攻略戦に挑んだ後のお話です。
階層は二十層より少し前あたりでしょうか……。


シルフ領のNPCレストラン内で片隅のテーブル席に陣取り、注文したドリンクが

テーブルに置かれた途端それまで会話もなく互いの顔さえ見ずにうなだれていた三人は、

無言のまま申し合わせたようにグラスに手を伸ばしてその中身を一気にあおった。

いち早く中身を空にした火妖精のクラインが「ぷはーっ」と胸のつかえまで吐き出す勢いで

息を押し出す。

続いて少し間をあけてから残りの二人も同じように「はふぅっ」「はあぁっ」と息を

ついてから空にしたグラスをテーブルに置いた。

再び三人の間に沈黙が訪れる。

しかし空になったグラスを半眼で睨み付けていた工匠妖精の鍛冶職人リズベットが珍しく

気弱な声で口火を切ってその空気を破った。

 

「一体なんだったのよ、今回の攻略は……」

「ホントです……何て言うか……その……」

 

同じように困惑の色を濃くしながらケット・シー特有の大きな耳を垂れ下げ、猫妖精の

シリカが言葉を探す。

それを受けて一番の年長者であるクラインはウンウンと頷いてから徐に口を開いた。

 

「こう言っちゃ申し訳ないが……やりにくかったよなぁ」

 

その発言に二人もゆっくりと頷いた。

そうなのだ、一言で言えばさっきまで挑戦していた新生『浮遊城アインクラッド』のフロア

ボス戦はとてつもなくやりづらかった、と表現するしかない。

モンスターの形状や特性が、ではなく攻略に挑んだ集団戦が、だ。

大規模ギルドでなくても少数のパーティーメンバーや小規模ギルドが複数で組んでボス

モンスターに挑戦するのは、フロアボス攻略法のひとつである。それに倣い今回はキリトを

筆頭にリーファ、クライン、リズベット、シリカ、シノンの六人が他のギルドから声をかけられ

今現在未攻略のフロアボスに挑んだわけなのだが……珍しくアスナが不参加だったのは攻略日と

決めた日時に前々から《現実世界》で予定が入っていたからだ。

そうなるとこちらのメンバーにヒーラーが不在となってしまうが、そこは他のギルドにある程度の

人数がいる、という事でさして問題にはならなかった。

ところが、である……いざボス部屋でボスと戦い始めてそれが致命的な過誤だった事が判明した

のだ。他のギルド所属のヒーラーと、既に当たり前のようになっているアスナからのバック

アップの差違があまりにも大きすぎて戸惑いしか生まれず、結局、キリト側は誰一人として戦いに

集中できない事態に陥り、ボスの攻略はHPバー最後の一本を半分程までは削り取るに至った

ものの残念ながら倒すには及ばなかった。

 

「気づかないうちに、私達すっかりアスナに甘えてたのね」

 

珍しくしおらしい態度でリズがうなだれると、クラインも同意を示す。

 

「……そうかもなぁ……俺、ボス部屋に入る前、集合場所で向こうの連中とちょっと話したんだ

けどよ、あちらさん今回の攻略でアスナさんと一緒に戦えるって結構楽しみにしてたみたいで」

「ああ、そうでしょうね。有名人って事もあるだろうけど『旧SAO帰還者』だったら《あの

時》は最前線の攻略組レベルでないと共同戦線なんて張れなかったんだし」

「まあ戦う以外にも男連中は近くで拝めるだとか、あわよくば声をかけようなんて諸々の思惑も

あったらしいんだが、アスナさんが不参加なのは士気を下げるとかでギリギリまで黙ってて

くれって釘刺されてたからなぁ。色んな意味をひっくるめてそのヤロー共のワクワクと

ガッカリが同じギルドの女性ヒーラーさんのご機嫌を損ねたらしくて……」

 

クラインからの情報に同じ女性として納得の渋い表情をしたリズは頷いている途中ではた、と

動きを止めた。

 

「……えっ、まさか、そのヒーラーって……」

「おうよ、今回のヒーラー達を仕切ってた、あのちょっと気の強そうな……」

「あああぁぁぁ」

 

先刻まで戦っていたボス部屋のフロア後方でヒーラー達に指示を飛ばしていた妙に高い声の

プレイヤーを思い浮かべ、リズは全身の力が一気に抜け落ちる。

 

「それがヒャクパー原因ってわけじゃねえだろうけど、俺達がやりづらかったんだからよ……

キリの字がああなるのも……まあ、わかるっつーか、仕方ねえっつーか……」

 

攻略戦のキリトの様子を思い出した三人は一斉に奈落の底に頭から突っ込む勢いで頭をカクンと

落とした。

まず最初に這い上がってきたのはシリカだ。

 

「それでも、あんなキリトさん、初めて見ました」

「だよなぁ……」

 

しかし今回の原因を初顔合わせのヒーラーひとりに押し付けるのも申し訳ない気がしてリズが

フォローを入れる。

 

「でも、あのヒーラーに意地悪されたわけでも、特に下手だったってわけでもなかったわよ。

私達にだってちゃんと回復魔法かけてくれたし」

「まあ、そうなんだけどよ。あんなやたらめったら……タイミングっつーもんがあるだろうがよ。

あれは絶対にアスナさんへの対抗意識が入ってたぜ」

「……それは……私も少し疑ったけど……こっちもアスナのサポートに慣れすぎてて、タイプの

違うヒーラーに戸惑ったってのもちょっとはあるんじゃない?」

 

リズが懸命に絞り出した可能性にクラインは腕組みをして少し考え込んでから無情にも否を

唱えた。

 

「うーん、他所(よそ)様のヒーラーさんを悪く言う気はねえけど、やっぱりアスナさんは

単純にレベルだけじゃなくてヒーラーセンスも高いんだよなぁ」

 

クラインの見解に首を傾げたのはシリカだ。

 

「どういう意味ですか?」

「だから前に組んだことのあるパーティーメンバーが驚いたように言ってたんだよ。アスナ

さんのバックアップだとすげぇやりやすいって。そん時のヒーラーは男だったけど勉強に

なったって言ってたくらいだから、やっぱ根本的に今回のヒーラーさんとは格が違うっつーか

……そーゆー事なんじゃねえか?」

 

数字化されたレベルの格差ならいざ知らず、センスの問題となってくると今ひとつピンとこない

のか、リズはクラインの話が進むと共に徐々に寄ってしまった眉をピョンッと跳ね上げて、イスの

背にもたれながら大きく伸びをする。

 

「とにかくっ、今日の攻略、無駄に疲れた感しかないわ。シノンは早々にログアウトしちゃうし」

「そうですねー……でも今回の戦いでボスの情報はかなり詳しくわかりましたから次こそは

倒せるんじゃないですか?」

「次があれば、よね。解散する時は、また同じメンツでやろうなんて言ってたけど……キリト、

返事してなかったし」

「アスナさんが参加してくれれば大丈夫なんじゃ……」

 

シリカの素直な意見にクラインが再び「うーん」と唸った。

 

「それはそれで向こうのヒーラーさんと上手く連携とれるか……アスナさんが大変なんじゃ

ねえか?」

「まあ、その辺は、あの子、うまく立ち回れると思うわ」

 

クラインの心配そうな表情を見て、リズがニヤリと口角を上げる。

伊達に親友を自負してはいないのだ、とばかりに確信を示して胸を張る姿に信頼を寄せて

クラインも安心したように顔を緩ませた。

 

「どこまでもハイスペックな人だな」

「『血盟騎士団』のサブリーダーを勤めてた頃も人間関係には苦労してたもの。私は愚痴

聞いてあげるくらいしか出来なかったけど……キリトも少しは人間関係で苦労しろって話よね。

気持ちは分かるけど、あの態度はないわー」

「何言われても最低限の返事しかしてませんでしたよね」

「シノンの無言の圧もハンパなかったしよぅ」

 

普段から口数が多いとは言えない二人が不機嫌さも露わにほぼ無言を貫いた場面を思い浮かべ、

残りの自分達がどれほど気を遣ったかも同時に脳裏に再現されて全員が一様に半眼となった。

しかし、その時の相手の反応から思いついた憶測をシリカが目の前の二人に明るく告げる。

 

「でも相手のギルドリーダーさんはボスが倒せなかったせいだと思ってたみたいですから、

やっぱりあのヒーラーさんは普段からあんな感じなんですよっ」

「要するに、お使い系かなんかのゆるいクエストならまだしも、ボス攻略戦ではアスナさんは

絶対はずせねーって事がよーくわかったぜ」

「特にキリトさんにとって、ですね……」

 

シリカの言葉に痛感の思いでクラインが深く首肯した後、リズが店の戸口へ視線を漂わせた。

 

「それにしても、リーファ遅いわね。つかまらないのかしら?」

 

その声が聞こえたかのようなタイミングで新たな客が店内に入ってくる。いや、飛び込んで来た、

と言った方がいいくらい勢いよくやってきた風妖精族の少女は、トンッと軽やかに靴音を

ならして急制動をかけるとトレードマークとも言えるサフランイエローのポニーテールを跳ね

かせながらキョロキョロと店内を見回した。

すぐに彼女の存在に気づいたリズが片手を振って「リーファ!」と名を呼ぶ。

その声に安心したように肩の力を抜くとリーファは急いで三人の待つテーブルへと足を運んだ。

 

「お待たせしました」

 

リーファが四人掛けテーブルの最後の席を埋めた途端、彼女を含めた女性三人がかしましく

喋り始める。

 

「で?、アスナはつかまったの?」

「はい、ちょうど帰宅したところだったみたいで。お疲れのところ申し訳ないなぁ、と思ったん

ですけど……」

「しょうがないわよ。キリトがあれじゃあ。もうアスナを引っ張り出すしかないでしょ」

「なんですよねー。スミマセン我が兄ながら面倒なヒトで。私もあのままログアウトして同じ

屋根の下にいるのは耐えられそうになくって」

「これでいつものキリトさんに戻ってくれるといいですね」

「ホント、そうよねー」

「あの……私、まだ大人数の攻略戦ってよくわからないんで、いつもキリトくんの指示頼み

なんですけど、そんなに今日のギルドさん達って連携取りづらかったですか?」

 

どうやら一旦ログアウトしてアスナと連絡を取って来たらしいリーファは状況を説明しながら

ドリンクを注文した後、今回の戦いについて素直な疑問を口にした。

それに返答したのはそれまで傍観していたクラインだ。

 

「いやぁ、特に別段今日のメンバーがダメだったって事はねーよ。全員そこそこレベルは

あったし構成も偏ってなかったしな。強いて言うなら……だ、キリの字とアスナさん、あの

二人のシンクロ率がハンパなさすぎなんだよ」

「それって、どういう?」

「少し前に《ALO》で『風林火山』の連中とクエストに挑んだんだけどよ、二人に助っ人

頼んだ時なんかすごかったぜ。HPを半分以上持っていかれるの承知で接近戦に持ち込んだ

キリトが大技を繰り出せば、そのタイミングにピタリと合わせてアスナさんは回復魔法かける

しよ。最後はキリトが切り込んだと思ったらいつの間にか前線にまで上がってきてたアスナ

さんとアイコンタクトもとらずにスイッチしてたしなぁ。ありゃあもうシンクロっつーより

フュージョンだろ」

 

その時の二人の姿を思い出したクラインは見てはなけないレベルの物を見てしまったかのように

両手で自らの腕を抱いて身震いをした。

 

「うわーっ、それはちょっと想像を絶しますね」

「まあ、さすがに新生アインクラッドのボス攻略には大人数で挑むからそこまでのコンビネー

ションは必要ねーんで、二人とも団体での戦いを楽しんでるみたいだけどよ……それでも、

やっぱりここぞ、と言う時に自分の後ろを預けることが出来るのは一人だけなんだって事が、

アイツも今回の戦いでよーく身に染みたんじゃねえか?、それと今までどんだけアスナさんが

頑張ってくれてたかってのがよ、うんうん」

 

不出来な弟子を諭すように上から目線で説き、最後に大仰に頷いてみせたクラインに向け、

矢継ぎ早に女子からの反論が降ってくる。

 

「それ、私達だってキリトのこと言えないわよね、クライン」

「そうですよ、クラインさん」

「どちらかと言えばキリトくんよりクラインさんの方がアスナさんのお世話になってる気が

するんですが……」

 

三方からのジト目に囲まれてクラインが全身を縮こませてつつも反論を試みた。

 

「へっ?、まあ、ほら、あれだ、アスナさんの有り難みが実感できたって事で今回はよかった

よなぁ、よかった、よかった」

「よくないっ」

「よくないですよっ」

「よくなんかありませんっ」

 

三対一の不利な戦況下で否が応にも己の失言を自覚したクラインが白旗を揚げようとしている頃、

キリトの元には「バーサクヒーラー」の二つ名を持つ水妖精が訪れていた。

 

 

 

 

 

常ならば《イグドラシル・シティ》の最上階に位置する寝室からは気象条件はもちろん、時間帯に

よっても様々な景色が堪能できる。プレイヤールームを借りようと幾つかの部屋を下見した時、

キリトにすれば窓からの景観などさほど重要でもなかったが、もう一人の共同借り主がここからの

眺めをいたく気に入り、ヘイゼルをキラキラと輝かせた段階で安いとは言いがたい家賃さえも

「どうにかなるだろ」という言葉を口にしていた。

だが、今のキリトにはそんな風景を楽しむ余裕など更々なく、ベッドに腰掛けたまま両手を真横に

伸ばして後ろに倒れ込み、全身の力が抜けた状態で瞳だけをギュッと瞑っている。

一体どのくらいの時間そうしていただろうか、常に頭に浮かんでくるのは今日のフロアボスとの

戦いの事ばかりだった。

 

「はぁーっ」

 

思い出しては溜め息を吐く、それを何回か繰り返した時だ。寝室の扉がシュッと微かな開閉の音を

立てる。既にキリトは室内のベッドの上にいるのだから、その扉が反応する人物はあと一人しか

いない。コト、コト、と落ち着いた足音と共に近づいてくる衣擦れの音を聞いてキリトは先刻

までの溜め息とは比べものにならないくらい細く吐息を漏らす。

自分のすぐ傍で音が止んだのを耳で感じてから、それでも瞼はきつく閉じたまま僅かに眉間に皺を

寄せ不機嫌な声音で尋ねた。

 

「リーファか?、それともリズが連絡した?」

 

ゆっくりと傍らのベッドが沈む。

気配が更に近づいてきて、そっとキリトの前髪と額に細い指先が触れた。歪んだ眉がピクッと

震えるが、そのまま髪を梳くように指の感触が移動する。ひととおり前髪を整え終わったのか、

指が離れていくのを感じた途端、思わず瞼を上げて目の前から去っていく細い手首を捕まえて

いた。

 

「アスナ……」

 

名を呼ばれたアスナはベッドの上にちょこんと正座をしたまま別段驚いた風でもなく、ふんわりと

笑っている。

 

「兄さんにエスコートされたパーティーからさっき帰ってきたの。私、ああいう場所はやっぱり

苦手。気分転換したくてログインしたらキリトくんに会えてよかった」

 

さも偶然を喜んでいると言いたげなアスナの言葉を聞いてキリトは不機嫌そうな表情もそのままで

上体を起こした。

掴んでいた手首に視線を落としてからゆっくりと顔を上げ、もう一度「アスナ」と彼女の名を

囁く。その声の中に戸惑いと苛立ちを感じ取ってアスナはじっとキリトの次の行動を待った。

だがキリトは再び俯いてアスナからの視線を避け、掴んでいた恋人の左手首へと目線を落として

彼女が出席したパーティーの話題を口にする。

 

「浩一郎さんだって彰三氏の名代だったんだろ?」

「うん、どっちにしろ私をエスコートして出席することになってたけど……兄さんが早くお相手を

見つけてくれれば、少しは私の出番が減るのになぁ……」

「こんな可愛い妹がいたら、それは難しいんじゃないのか?」

「可愛いなんて思ってるかしら……あっ、そっか、キリトくんは、そうだもんね」

 

言われている意味が理解できず、思わず顔を上げる。

 

「そう、って……?」

「リーファちゃん、兄としては可愛い妹でしょう?」

 

純粋な笑顔で言われ、ますます眉間の皺が深くなった。

 

「……オレのフォローの為に疲れているアスナを担ぎ出すようなヤツは可愛いって言うより

困った妹だろ」

「ホントは可愛いくせに……もう、素直じゃないんだから」

 

「それに……」と言葉を続けながらアスナは自分の手首を拘束しているぬくもりからするりと

抜けだし、逆にすぐさまキリトの手をギュッと握る。

 

「気分転換にログインしようと思っていたのは本当だよ」

 

惜しみなく自分に向けられる大好きなほわんほわんとした笑顔も今だけは直視出来ず顔を

背ければ、気づいたアスナが拗ねたように口を尖らせた。

 

「キリトくん?」

 

呼びかけに無反応な恋人の態度に困ったように息を軽く吐き出し、自分を見ようとしない

その横顔へ静かに声をかける。

 

「私……傍に居ない方が、いい?」

 

キリトの肩が一瞬跳ねたが、それだけだった。

 

「……リビングにいってるね」

 

少し淋しげに微笑みながら繋いでいた手の力が緩まりアスナの温もりが離れていく、と

考えるよりも先にキリトはそのぬくもりを自らの手で引き戻していた。後から意識が

追いついて、己の所業に呆れたように歪んだ笑みを浮かべ、ジッとその手を見つめてから

小さく漏らす。

 

「ごめん、アスナ」

「……謝ってもらうようなこと、何もないよ」

 

離さずにいてくれた手が嬉しくてアスナもそっと握り返す。

そのぬくもりに後押しされたようにキリトは細くて白い手を見つめたまま口を開いた。

 

「何度も思った、アスナがいてくれたら、って」

「それって……」

「今夜のフロアボスの攻略戦」

 

掴んでいる手をそっと引き寄せて自分の両手で包み込む。アスナも座り直してキリトの傍に

腰を寄せた。

 

「こんな時、アスナならそんな指示はしない……アスナだったらとっくに動いてる……

そんな事ばかりが頭に浮かんで全然集中できなかった」

「キリトくん……」

「アスナはいつもオレの攻防を先読みしてるだろ。それが当たり前になってたから、今回、

思い通りに動けない自分にイラついて、他のギルドのヒーラーにもイラついて、クライン達

との連携も全然上手くとれなくて……」

 

吐き出されるような言葉は一度口にしてしまえば次から次へと喉を上がってくる。

 

「……とにかく最悪だった。あれが昔のアインクラッドだったらオレは死んでたかもな……

思い知ったよ、作戦を立案できて、更にそれを遂行できる人間が完全にバックアップに回って

くれることが、どういう事なのかって……」

 

キリトは自分の手中のほっそりとした手の感触を愛おしむように指で撫で続けた。

 

「こんな風に近くにいなくてもアスナと一緒に戦っていると怖いくらいに感覚が同期してる

時がある。見なくても誰の為に詠唱してるのかがわかるし、そうすると視界に入れなくても

周りのプレーヤーの状態が把握できて自然と次の行動が見えてくるって言うか……うわっ」

 

そこまで言うと、今まで静かにキリトの言葉に耳を傾けていたアスナが堪らずにキリトの手から

抜け出して、両腕を目の前の恋人の首に巻き付ける。

 

「アッ、アスナ?」

「ごめんなさい……けど……嬉しいんだもん……『あの城』でずっとソロだったキリトくんが

そんなに必要としてくれてるなんて……」

「あのなぁ……アスナが言ったんだろ『私とパーティー組みなさい』って。あの時からオレは

自分がソロだと思ったことなんかないぞ」

 

ギュッと抱きついて離れない恋人の背中に片手を添え、キリトはもう片方の手で自分の肩にある

彼女の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

「ホントに、どうしてくれる……『あの城』でアスナがオレのパートナーになって以来、今じゃ

傍にいてくれないと、肝心のボス戦さえまともに戦えなくなってる」

 

困ったように笑いながら、そう吐露する自嘲気味の様子に自分自身への不甲斐なさが伺える。

その言葉をすぐ横で聞いていたアスナは自然と綻ぶ口元から今まで故意に話していなかった

過去を告白した。

 

「私だって、随分前だけど『血盟騎士団』で一緒だった子に《ALO》でヒーラーの助っ人を

頼まれたことがあって……」

 

初耳の出来事に少し目を丸くしたキリトが続きを促す。

 

「へぇ……で?」

「もう後ろで見ていられなくなって……気づいた時にはレイピア握ってLA取ってたの……」

 

「プッ」と小さく吹き出した声がすぐ傍からあがったかと思うと、自分の顔が乗っている肩が

プルプルと震えだした。

アスナはパッと顔を上げて、恥ずかしさから染まった頬もそのままに再び唇を尖らせる。

 

「もうっ、笑わないでっ……随分反省したんだから……あれから助っ人の話は受けないことにして

るし……だから、もうそんな事はありませんっ」

 

羞恥の色に加えて決意の興奮も混ざって更に顔全体を赤くしながら言い切るアスナを見るキリトの

目は、徐々に穏やかさを取り戻している。茶化すように口ぶりも軽くなっていた。

 

「少し前にクラインの助っ人、したじゃないか」

「だって、あの時はキリトくんが一緒だったもん。私一人だったらやらないよ」

「だからか……時々、なんか意味ありげに『専属のヒーラーがいて羨ましい』みたいな事、

言われるぞ」

「キリトくんの『専属』?」

「そうだな、少なくともオレは他のヒーラーとじゃ無理だろ」

「うんっ」

 

声を弾ませてもう一度キリトの頬へ自分のそれをすり寄せる。それに応えるようにキリトも

腕の中に細い身体を閉じ込めてサラサラとしなやかなアトランティコブルーの髪ごと

しっかりと抱きしめた。

「んっ」と少し苦しげに鼻から抜ける声がして力が強すぎたのかと慌てて抱擁の手を緩めてから

軽く息を吐き出し、彼女の耳元に囁く。

 

「……本当は……すごくアスナに会いたかった……ゴメン、疲れてるのに」

「大丈夫……こうしてるとパーティーの疲れもどこかにいっちゃいそう」

 

甘えた声で自分を受け入れてくれる恋人に、やっとキリトの表情も緩んで腕の中にあるアスナの

髪をひたすらに撫でる。

 

「戦いの時だけじゃなくても、オレはアスナがいないとダメだな」

「ふふっ、私だってそうだよ」

「アスナを寄越したってことは、あいつらにもバレバレなんだろうし」

「リーファちゃんにクラインさんとリズ?」

「シノンは入ってないのか?」

「シノノンはきっともう一人でログアウトしてると思う……ちょっとキリトくんと似てるもの。

一人で抱え込みそうだから、明日にでも連絡してみるね」

「……結局、全員、アスナにフォローされるってわけか」

「話を聞くなら今回参戦していなかった私が適任でしょ」

「だいたいアスナが参戦してたら、こんな事にはならなかっただろうけどな」

「……そんなに、ひどかったの?」

 

キリトの首に腕を回したまま、少し顔を離して目線を合わせれば、居心地の悪そうな表情の

キリトがしばしの逡巡の末ボソリと漏らした。

 

「……忘れた」

「えっ?……忘れたって……」

「だから、もう忘れたっ」

「きゃっ!」

 

これ以上その話はしないとばかりに言い切って抱きしめていたアスナごと、巻き込むように

ベッドへと横倒しになる。いきなりの行動に慌てふためいたアスナは思わず目を瞑って

しまったが、キリトにがっちりとホールドされていた為たいした衝撃も感じることなく、

目を開けてみればベッドの上で横向きに顔を合わせ唇が触れ合いそうな距離でキリトが自分を

見つめていた。

突然の事に思考が止まったままでいると、ぺろんっ、と鼻の頭を舐め上げられる。

 

「ひゃっ」

 

無意識に肩をすぼませようと顎を引けば、更に前髪の間からのぞくおでこを舐められた。

 

「キッ、キリトくんっ」

「ん?、アスナ、目、閉じて……」

「ふゃっ」

 

言われた言葉の意味を理解するより先に視界いっぱいにキリトが迫ってきて、反射的に瞼を

おろせばそこにも柔らかな舌の感触がもたらされる。

 

「なななっ、なにっ?」

 

返事の代わりにすぐさまもう片方の瞼も舐められ、目を開くタイミングが計れないアスナは軽く

パニックに陥りながら身体を強張らせていた。視界を塞いでいるせいでキリトの次の行動が予測

できない。戦闘時ならばその後ろ姿を目にしているだけで彼が見ている物や何を考えているのかが

自分にもわかる気がするというのに、今は彼の舌が次はどこに触れてくるのかと、うずうずとした

期待と不安の混ざった不思議な不安定感に支配されていた。

瞳を固く瞑っていると次はほんわかとした柔らかい感触が片頬に押し付けられる。

ホッと気を抜いてゆっくりと瞼を押し上げれば、そこには目を閉じたキリトが軽く開けたままの

口を密着させていた。頬に唇を付けたまま、やはり舌を使って猫が水を飲むような仕草で何度も

舐めてくる。

 

「ふっ……ううっ……キ、キリトくん、くすぐったい」

 

少しの間、我慢していたアスナだったが、まるで動物に舐められているような感触に耐えられなく

なり身をよじるとキリトが頬から口を離し、真っ黒な瞳を向けてきた。

 

「もう少し……」

 

言うやいなや反対側の頬にも食むように唇を押し付け、舌で溶かすようにゆっくりと舐める。

これは気の済むようにさせてあげるしかないのかしら、とこそばゆさから顔全体をうっすらと

染めてぷるぷると身体を震わせていると、やっと頬からキリトの感触が消えた。

やれやれと脱力したのも束の間、最後は一番敏感な唇にしっとりと湿ったキリトの舌が覆い

被さってくる。

 

「んんっ」

 

アイスでも食べているように何度も何度も舐められ、本当に溶けてしまうのではないかと思った

時だ、ふと見れば穏やかな色だったキリトの瞳が仄暗い飢えた黒に変わっていた。

その色で見つめられると頭でうまく物事が考えられない。

気持ちが抑えきれなくなる。

その証拠にキリトから小さく「舌、だして」と請われれば、躊躇いもなく薄く唇を開きおずおずと

自分のそれを彼に向けていた。舌先のみでアスナの唇に触れていたキリトが自分の唇を押し付け、

差し出された舌を一心に味わってくる。

しばらくは今までと同様にぺろり、ぺろりと舌を往復させていたが、次第にアスナの舌を絡める

ような動きに変わり、更に唇のすき間から舌に沿って口内へと侵入してきた。

その頃になるとアスナの表情もすっかり惚けてしまい、押し返すことも逃げることもできず

互いのそれを深く交じ合わせている。

絡まりをほどいたキリトは口内で丹念にアスナの舌を裏からも側面からも舐め取ると、ようやく

彼女を解放した。

『現実世界』で激しい口づけをされた時のように息苦しさを生みだしてしまった感覚を鎮めて

アスナは未だ強く自分を抱きしめているキリトにコツンとおでこをくっつける。

 

「……一体どうしたの?」

「あー……なんかもの凄くアスナを補給したくなって……」

「なにそれ」

「アスナだって、時々オレの顔にすり寄ってくる時、あるだろ」

「あっ、あるけどっ、あれは……その、なんか……安心するんだもん…………もしかしてイヤ、

だった?」

 

恐る恐る窺うような声を出せば、そんなアスナを安心させるかのようにキリトは接している

額をぐりぐりと左右に擦らせて否定の意を表した。

 

「別に、オレも気持ち良いから構わないよ……だから、それと同じような感じで……」

「私の、あんなに激しくないよ」

「それだけ今日、アスナがいなかった分は大きかったってことで」

「もうっ」

 

不可抗力をひたすらに押し通してくるキリトの言葉を聞いて眉尻がだんだんと下がってくる。

ここで許してしまうから以前と比べてどんどんとキリトの態度がエスカレートしてしまうの

だとわかってはいるのだが、戸惑いながらも拒めない自分に困惑してアスナは全てを思いを

合わせ、大きく一息吐き出した。

その吐息の意味を何と理解したのか、キリトは腕の中に閉じ込めていたアトランティコブルーの

髪をあやすように撫で始める。片腕とはいえ未だキツくアスナの身体を抱え、もう片方の手と

額はしっかりと前後からアスナの頭部を固定してすっかり密着した状態でキリトも深く息を吐く。

 

「はぁーっ……なんか今日はすっごく疲れた」

「キリトくん?」

「で、こうしてると……すっごく気持ちよくて……」

「……」

「……オレも……安心でき……る……」

「……」

「……」

「……キリトくん?…………ウソ……寝ちゃって……る?」

 

僅かにアスナの顔が強張った。

自分の傍で心やすくしてくれるのは素直に嬉しい。

嬉しいが、この体勢はかなり困った状況になっている。

なぜかと言えば最近のキリトは益々筋力値を上げているらしいのだ。

本人からは特に何も聞いていないが、またこっそりと新しいソードスキルの練習でもしている

のではないか、とアスナは思っている。

とにかく、軽く抱きしめられただけでも以前より強い圧迫感を感じるのだが、自然と漏れて

しまう吐息でキリトが察してくれるので今までは問題なかった。

しかし今現在、キリトはしっかりとアスナを抱きしめたまま寝入っている。

苦しさを覚えるほどではないが、腕の中から抜け出すことはもちろん、ウィンドウを開くために

自分の腕を振り上げることすら出来ない。

しかも《現実世界》の身体はパーティーでくたくたに疲れており、こうやってキリトの腕の中に

収まっている居心地の良さは自らも急速に睡魔を呼びよせる。

このまま寝入ってしまっては、明日の朝、二人して寝過ごしてしまう可能性はかなり高いに

違いないと判断をして、未だ額をくっつけたままで寝てしまったキリトの表情に向けて、困った

ように微笑んだ。軽く開いたままになっている唇に自分の唇をそっと寄せて「お返し」の意味を

込めてさらりと彼の唇を舐めてから小声で「おやすみない」と告げる。

そうしてから、この状態を見られるのは心底恥ずかしいのだが、同時に自分の呼びかけだけで

反応してくれる愛娘にこの窮地を救ってもらうべく、彼女の名を口にするために頬を赤らめ

ながらもアスナは薄い唇を動かしたのだった。

 

 

 

 

 

アスナの声に反応して出現した黄金色に輝く数多の光粒がキュッとひとつに凝縮した途端パッと

はじけて、たった今生まれ落ちたように無垢な笑顔のユイが現れた。

 

「こんばんは、ママ」

 

まず人と会ったら挨拶を、の約束をきちんと守っているユイは出現したと同時に両親の状態を

視認しているが、そのままでも問題はないと判断してキリトにがんじがらめにされているアスナに

向け満点の微笑みを向ける。

 

「こ、こんばんは、ユイちゃん」

 

見事に自分達の状況をスルーされるのも辛いものがあるようで、アスナは少々引きつった笑顔で

挨拶を返した。挨拶が終わるとユイはふわりっと旋回して、アスナの額に近づき、密着している

キリトの顔を覗き込む。

 

「パパは……寝てるんですね」

 

ここ《ALO》での愛娘から見たキリトの行動パターンは大きく分けてみっつ。

『戦っているか、食べているか、寝ているか』なのだそうだから、この状態は極めて平常なの

だろう。いや、僅かな表情の差違さえも読み取ることを得意とする元カウンセリング用AIの

ユイとしては、アスナが傍にいる時のキリトの寝顔は平常以上に安らぎを得ているのは確かで、

それを踏まえれば極上の状態であると言っていい。

 

「攻略戦を終えてから随分と不安定でしたが、今は完全にリラックス状態です」

 

キリトのメンタル数値をチェックしたと思われるユイが安心したような表情を浮かべてから、

アスナの顔全体を見下ろせる位置に移動した。

 

「それで、どうしたんですか?、ママ」

 

どうやらユイにとってはキリトとアスナがどういう状態で触れ合っていても、それは両親が

仲の良い証拠としか映らないようだ。

親と自負している自分が娘の前で現状を晒すことにとてつもない羞恥を抱えていたアスナだった

が、何の戸惑いも窺わせないユイからの質問にそれはそれで困惑してしまう。

しかし今更この状況は自分が望んだわけではない、などと言い訳じみた訴えをしても意味はなく、

アスナとしてもキリトの抱擁を拒んでもいないし、むしろ自分から抱きついた自覚はあるので

ユイが説明を求めてこないならば、と自らもこうなった経緯などはスルーすることに決めて

肝心の用件に入った。

 

「あのね、ユイちゃん。キリトくんも寝ちゃってるし、私はこの通り全く動けないからウィン

ドウを出してアラームをセットする事も出来ないの。だから申し訳ないんだけど、明日の朝、

私達を起こしてくれる?」

「はい、わかりました。パパ、今日の戦闘で随分無理をしてたから疲れちゃったんですね」

 

目覚まし時計代わりの失礼なお願いを快く引き受けてくれたユイはひらりとキリトの顔に

近づいて、いつもアスナがするように黒い前髪を愛おしそうにそっと撫でる。

それを至近距離で見つめていたアスナが少し苦しげな表情でユイに問いかけた。

 

「やっぱり……今日の戦い、大変だった?」

 

アスナの言葉に振り返ったユイは再びキリトの顔の上空に移動して大きく頷く。

 

「はい、パパったら戦闘中、合計三十二回も舌打ちをして、二十九回も後方を振り返っては

眉毛をぎゅぅって寄せて、眉間にこーんな皺を作ってふるふるって頭を振ってました」

 

その時のキリトの表情の再現を試みたユイが自分の眉間に手を当てて深い縦皺を作り出した。

 

「技を繰り出すタイミングも、攻撃をかわすタイミングもいつもよりコンマ二秒反応が遅くて、

そこから次の流れに影響がでて身体的にも精神的にも数値が下がる一方でした。終盤は私の

サポートも耳に入っていなかったようです」

 

ユイからの報告で、これではキリトが「忘れた」と言いたくなるのも頷ける惨状だったらしいと

容易に想像がつく。

そこまで黙って聞いていたアスナがふと思い出したように「あっ」と声を漏らした。

 

「ごめんなさい、ユイちゃん。もしかして攻略データの処理中だった?」

 

《仮想世界》でユイと共に過ごした後、彼女は「眠る」と同義でその日あった出来事の

データ処理を行っている事を今更に思い出したのだ。フロアボスの攻略戦ともなればデータの

量は膨大に違いない。「朝、起こして欲しい」などと小学生のような頼み事の為に自分がその

作業を中断させたのなら、と思うと身勝手さに居たたまれなくなる。

しかし、そんな心配は必要ないと言わんばかりの微笑みでユイはかぶりを振った。

 

「いいえ、ママ。フロアボスのデータ処理は既に終わっています。今はママが一緒にいる時と

いない時のパパの戦闘能力値の違いを計算していました」

「えっ?」

 

予想外の返答にアスナはパチパチと瞬きを繰り返す。

 

「そ……れって……どうゆう……」

「ですから、ママのバックアップの有無でパパの戦闘値が格段に変化するんです。攻撃力、

防御力はもちろん思考力、判断力なども総合するとパパはママがいないと二十四%はダメダメに

なります」

「えっ……そんなに?」

 

以前、コンビを組んで戦っていた時ならまだしも、今は後方支援が主となっている。

多少の影響はあると思っていたが、自分の存在値ともいえる数字の予想外の大きさにアスナは

驚きの声を漏らした。

『オレはアスナがいないとダメだな』……ほんの少し前に自分に耳に情けない口調で伝え

られた言葉を思い返してアスナは思わず頬を赤らめる。

 

「はい、特にメンタル面での数値の低下が著しいですね」

 

ユイはそう言ってからキリトの顔の傍まで来ると頬をツンツンと指でつついて「パパは

ママがいないと、ホントにもう」と言って苦笑いをベースにした困り顔という高度な表情を

浮かべた。

そんな娘の笑顔を見てアスナも思わずふわりと笑みになる。

 

「なら、今度の攻略戦は私も参加しなきゃ、だね」

 

そうしてユイに起床時刻を頼んでから触れ合っている額を更にすり寄せてアスナもゆっくりと

目を閉じた。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナがいないとダメダメで、ダメダメになった状態のキリトを引っ張り上げられる
のもアスナだけで……要するに最初から一緒にいなさい、という事ですね。
父親のダメっぷりを冷静に分析する娘……あるあるです(笑)
クリスマスイブの二十一層のフロアボス攻略戦は久々のコンビネーションが
見られて、ちょっと「ぐふふっ」となりました。
では、次回は《現実世界》のお話です。




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視線

高校生の和人と明日奈が週末にデートをする(はずだった?)お話です。


土曜日の御徒町……駅の周辺には取り立てる程の観光名所がないとは言え、平日に比べれば

行き交う人達の歩調は緩やかで、中にはキョロキョロと物珍しそうな視線も彷徨っている。

歩く人々の流れは街に平日とは異なる雰囲気を醸し出し、それは大通りに面していない裏通り

でも同様で、休息場所を探し求めて偶然にも辿り着いた喫茶店へと足を踏み入れる人達は、

やはりいつもの常連客とは違う空気を纏っていた。

そんな迷い子のような客を受け入れるべく『ダイシーカフェ』は土曜・休日に限り昼間の営業

時間から区切ることなく店を開けている。

 

「アスナ、一番奥のテープルにアイスコーヒー持っていってくれ」

「はい、エギルさん」

 

バリトンボイスがカウンターの中から響くと同時にアイスコーヒーのグラスが二つトンッと差し

出された。カウンターの手前ではトレイを手にした明日奈がそのグラスを受け取り、素早く

シロップとコーヒークリーム、ストローとコースターをその隣にのせ注文主のテーブルへと運んで

いく。

その息の合った様子を憮然とした表情で眺めているのはカウンターの一席を占領してタブレット

端末を意味もなく指先でトントンと叩いている和人だ。更にその隣に陣取っているクラインが

アイスコーヒーを運んでいる明日奈の後ろ姿を眺めながら呟いた。

 

「アスナさんのエプロン姿、いいよなぁ」

 

その呟きが後頭部に突き刺さったのか、すぐさま和人は振り返ってクラインを睨み付ける。

 

「あんま、見るなよ」

「なーに言ってやがる。カフェのウエイトレスさんは見られるのも仕事のうちだろ」

 

とは言え、今の明日奈のエプロンと言えば、普段は女性従業員がいない『ダイシーカフェ』故に

特に見られる事を意識したデザインなどでは決してない。もっと言えばエギルの付けている

ソムリエエプロンと同じ無地の黒で、丈が短いだけのごくシンプルなカフェエプロンだ。時々

エギルのサポートに入るという奥さんが使っているものを一時的に借用しているだけなのだから

客受けの要素は皆無だった。

しかも私服にエプロンという姿は和人とて目にするのが珍しいわけでもない。今までに何度も

明日奈を自宅に招き、その料理の腕を振るってもらっている。

だが……だから、こそ、なのである。

自分の「彼女」のエプロン姿を衆人環視に晒す事に苛立ちを感じずにはいられないのだ。

今まではその姿を眺める権利を独占していたのだから。

しかし、その原因が自分となれば、その事を口にするわけにもいかず、更に自分以外の男との

連携を目の前で見せつけられると原因終結の手も止まり、彼女が店の手伝いをする時間も

ズルズルと延びてしまうという悪循環に陥っている。

土曜日の二時すぎということもあり、店内は満席とまではいかずともそこそこの席が埋まって

いた。女性グループやカップルの客はお喋りに夢中のようだが、男性のみの客達はあきらかに

視線が明日奈を追っている。そして視線を外さないままコソコソと小声でやりとりをしてる様を

目にしてしまえば自然に「チッ」と舌打ちもでるというものだ。

その音を聞きつけたクラインが鼻から息をだして言う。

 

「ふーむ、キリトよう、こんな視線は学校で慣れっこなんじゃねえのか?」

 

その問いかけに無理矢理明日奈から視線を外した和人が答えた。

 

「校内じゃ、こんなあからさまな視線はもうないさ……入学当初はこんな感じだったけど、その

頃はアスナが歩行すら危なっかしい状態だったから、こっちも気にする余裕がなかったし」

「なるほど」

 

クラインは顎に手をあてて、大仰に頷いた。

 

「なら校外はどうなんだよ。登下校とか……街中でデートだってしてんだろ?」

「周囲からアスナへの視線に気づく時は常にオレが隣にいるだろ」

 

言外に見知らぬ男共からの無遠慮な視線に対しては隣にいる自分が存在を誇示しているのだと

言ってのけた和人にクラインは呆れた表情で「アア、ナルホドナネ」とカタコトで納得を示す。

それにしても、と隣の年若い友人を見てクラインは思った。あの城で初めて自分にレクチャーを

してくれた時とは別人のようだ、と。「はじまりの街」で別れてから何があったのかは知ら

ないが、再び最前線で攻略組の中にキリトの姿を見つけた時は嬉しさや安堵より驚きの方が

強かった。それまではちょっと人付き合いの苦手なゲームオタクといった印象だったが、

その時の様子はまるで他人を寄せ付けない刃物のようなオーラを全身に纏っていたからだ。

それでもビーターなどと忌み嫌われつつもゲームクリアに懸ける姿勢は誠実で、そこは変わって

いないのだと安心したものだ。そしてそんなピリピリとしたアイツに物怖じもせず突っかかって

いく最強ギルド『血盟騎士団』の副団長殿も当初はかなり尖った印象があった。

攻略会議の時は笑みひとつ浮かべず淡々と作戦の説明をする彼女はアインクラッドのアイドル

なんて可愛い存在には思えなかったものだ。

その二人に偶然にも迷宮区の安地で遭遇した時の衝撃は今でも忘れる事が出来ない。

お互いを涙が出そうなくらい優しい空気が包み込んでいた。「攻略の鬼」の異名を持つあの

少女が年相応に可愛らしく微笑んでいるのを目にした時は思わずリアルの情報を交えて自己

紹介をしてしまったほどに。

だが、その自己紹介も最後までは言わせてもらえず、今現在、隣で店内の男性客の様子を注意

深く監視しているこの男から横っ腹に強烈な一発をお見舞いされたことを思い出し、クラインは

何度か小さく頷いた。

あの時からコイツは既に無意識下で彼女に執着していたのだろう、と。

しかし、その対象となっている彼女もそれを喜んで受け入れているのだから問題はない。それ

こそあの時も「アイツを、頼みます」と言った自分の言葉に少しの躊躇も見せず「任され

ました」と笑顔で断言してくれたのだ。

あの時から互いは互いのものとして存在しているくせに、彼女がコイツ以外を瞳に映すはずが

ない事などわかりきっているのに、《現実世界》に生還してからのコイツは呆れるほどの

執着心を恥ずかしいくらい堂々と見せつけているらしい、という情報源は事ある毎に送られて

くるリズベットからの報告書とも言うべき長文メールだ。

別にクラインは普段の二人の様子を知らせてくれとリズベットに頼んだ覚えは一切ない。

それなのに、なぜか時折送信されてくるメールには二人の目に余る所業がつらつらと書き綴られて

いる。そしてお決まりの締め文句は「どうにかして欲しいもんだわ」だ。

そしてクラインも読む度に「俺にどうこうできるわけねぇだろ」の決まり文句をこれまた律儀に

口にしている。

そして目の前の和人の様子を見てクラインは確信した、これは本当に俺にどうにかできる

レベルじゃねぇな、と。それならば、自分に出来ることはこの状態を出来るだけ早く終わらせる

ことだ。

 

「ほら、キリト、早いとこ片付けろよ。これじゃあ折角の休みなのにアスナさんがバイトで

終わっちまうぞ」

 

その言葉を受け入れたのか、和人がしぶしぶタブレット画面に視線を戻した時だ、新たな来客を

告げるドアベルの音がかららん、と店内に響いた。その音に反応して明日奈が「いらっしゃい

ませ」の涼やかな声と笑顔で客を迎える。入店してきたのは制服姿の男子高校生四人組だった。

明日奈の声につられるように顔をあげた和人はカウンター横のテーブル席に案内されている

四人の高校生を見て眉をひそめた。どの顔も明日奈を見た途端、口元がだらしなく緩んでいる。

そしてクラインもまた四人の高校生の表情を見、それから彼らを睨み付けている隣の友に視線を

移し、嘆息してからその頭を小突いた。

 

「いい加減にしろよ、キリの字……」

「あれ?……桐ヶ谷か?」

 

四人のうち一番後ろにいた男子高校生が和人を見て足を止める。残りの三人は立ち止まった

一人に気づかないまま明日奈に誘われるようにテーブル席へと足を進めていた。

方や和人は小突かれたクラインの指を払うでもなく、自分の名字を口にした高校生を見つめて

いる。声をかけた高校生は和人が自分の存在を認識してくれないことに苦笑いを浮かべて

困ったように頭を掻いた。

 

「中一の時の校外学習で同じグループだったんだけどな。まあ、あれからお前、大変だった

みたいだから仕方ないか」

 

中学の同級という事は和人が在学中に《あの城》の虜囚となったことは承知しているのだ

ろう。それまで黙って相手を凝視していた和人がやっと記憶をたぐり寄せたのか「ああ」と

納得した声をだして「久しぶり」と幾分か表情を和らげた。

和人からの認知で安心したのか、男子生徒はタネ明かしをするように自らの名前を口にして

近況を語った。

 

「俺、東京の高校に通ってるんだ。スポーツ特待の枠でさ。で、今日は他校との交流試合で

御徒町まで来たんだけど、どうにも小腹が空いたんで帰りにアイツらと何か食べていこうって

ことになって……」

 

そう言いながら先に席に落ち着いた三人を指で示すので、自然と視線を動かせば三人は興奮

気味に我先にと明日奈に向かってメニューの相談を口にしている。

内一人がなかなかやってこない友人に対して注文をどうするのか、のジェスチャーなのだろう、

メニューをこちらに向けてトントンと指で叩けば、その意味を察した明日奈が大丈夫だと示す

ように和人達に手で合図を送ってきた。

和人が片手を挙げて詫びるように合図を返すと同様に、和人の元クラスメイトもペコリと頭を

下げ、そのまま言葉を続ける。

 

「駅前のファストフード店はこの時間でも全然席が空いてなくて。で、この店を見つけたん

だけど、桐ヶ谷はなんでここに?」

「あー、まあ、オレも今は東京の高校に通ってるんだけどさ。今日は……」

 

そこで言いよどんだ和人を見て首をかしげた彼は、それから明らかに知り合いと思われる隣の

社会人男性の存在からある推論に辿り着く。

 

「あ、もしかしてオフ会か?、相変わらずネットで色々やってるんだな」

 

その言葉にクラインがブッと吹き出した。

クラインの反応に自分の仮説が見当違いだったのかと思い、慌てて謝罪の言葉を口にする。

 

「違いました?、スミマセン。俺、勝手な事言っちゃって……」

「いやいや、いいってことよ。それにオフ会ってのもあながち間違いでもねぇしな」

 

恐縮のあまり肩を縮こませている高校生にヒラヒラと手を振って肯定とも否定ともとれない返事を

したクラインは「それよりよ」と逆に身を乗り出した。

 

「中学ん時のキリト……いや和人と同じクラスだったんだろ。コイツ、どんな感じだったんだ?」

「どう、って……そうですね」

 

親しげに話しかけられたことで肩の力が抜けたようだが年上相手なので言葉を丁寧に発した彼は、

一瞬宙を見つめて当時を思い出してから再び二人に視線を戻した。

 

「まあ、口べたで無愛想で他人に関心のないゲームオタクって感じでしょうか」

 

その評価にあんぐりと口をあけたままの和人とは逆に隣のクラインが再びブッと肩を跳ねかせ

れば、ほぼ同時に反対側からもクスッと可愛らしい声が響いた。

和人の元クラスメイトが驚いたように振り返ると、ほんの少し前まで友人達の注文を取って

いたウエイトレスが、手の甲で口を隠しながら可笑しそうに目を細めて立っている。

 

「ごめんなさい、盗み聞きみたいになっちゃって」

 

栗色のロングヘアを片方に寄せて左肩の位置で結び、綺麗な姿勢で立つ彼女の白い肌を黒い

エプロンが更に引き立たせていた。すぐ近くで見ても驚くほど整った顔立ちをしている。

一瞬、我を忘れて見とれてしまったのを誤魔化すように、和人の元クラスメイトは慌てて少し

上ずった声を発した。

 

「あ、スミマセン。注文ですよね」

「ええ、三時までランチメニューが大丈夫なので、お連れの方は皆さんパスタセットをご注文

いただきましたけど……」

「なら、俺もそれで」

「パスタをお選びいただけますか?、本日はペスカトーレとポモドーロです」

「ポモ?」

 

聞き慣れないパスタメニューに首を傾げた彼の反応に明日奈はにこりと笑ってから説明を

始めた。

 

「ポモドーロはトマトソースのパスタです。普通はホールトマトで作りますがうちはフレッシュ

トマトも使っているので、トマトがお好きでしたら酸味もしっかりと効いていて美味しいですよ。

逆にペスカトーレはトマトソースというイメージが強いですけど、魚介を使っていればペスカ

トーレなのでうちはトマトではなくブイヤベースのスープを使ってますから魚介の旨味がお楽しみ

いただけると思います」

 

よどみない説明に聞き惚れていた彼は明日奈の言葉が途切れた事を残念に思いながらもメニューを

思案した。

 

「うーん、どっちも捨てがたいな……ならポモ、ドーロ、でしたっけ?、そっちで」

「はい、有り難うございます。セットなのでパンとサラダにコーヒーが付きますけど、コーヒーは

アイスにしますか?」

 

店内は快適な温度に設定されているせいで長く居ると外気温の意識が薄くなりがちだが、入店した

ばかりの彼らの額やワイシャツの襟元から見える肌が一様にうっすらと汗ばんでいるのに気づき、

加えて一般的に男性は女性より暑がりだという認識で明日奈は「アイスコーヒー」を口にした。

その提示に彼が笑顔で頷いたことで、彼女も安心したように微笑んで「少々お待ち下さい」と頭を

下げてから足早にエギルの元へと戻り、オーダーを伝える。

「はいよ」と頼もしい返事に続いて「これ、向こうのテーブルだ」とケーキセットの乗った

トレイを渡しながら目線で場所を示せば、明日奈も「はい」と受け取りつつテーブルを確認した。

その無駄のないやりとりを目で追っていた和人の元クラスメイトが無意識に「ふーん」と

漏らしたのに気づいて和人がその顔を覗き見れば、今まで何度目にしたかわからないくらい

見慣れてしまった俗に言う「宝物を発見したような浮かれた顔」がそこにある。「ああ、コイツも

か」と思って牽制の言葉をかけようとすれば、先制攻撃のように素早く彼が和人に向き直り

「なあ、桐ヶ谷」と話しかけてきた。

 

「ウエイトレスのあの娘(こ)、名前とか知ってる?」

「へっ?」

「お前ってこの店よく来んの?……あ、ひょっとしてお前も彼女狙い?」

 

どうやら目標を決めたら即行動が彼の持ち味のようだ。さすがスポーツ枠の特待生だけのことは

ある。《現実世界》では和人が足下にも及ばない初速度の速さだった。

「お前も」の「も」ってなんだよっ、と言いたいのをギュッと拳を握りしめてやりすごそうと

したのがクラインには丸わかりだったようで、目線を和人の手に固定したまま「ぷぷっ」と

笑い出したい衝動を堪えている。

和人がジロリと睨めば、芝居がかったように肩をすくめながら両手を広げたクラインがニヤニヤ

顔で寄ってきた。

 

「だからよう、店内の客にガン飛ばしてねえでサッサと宿題を終わらせりゃーよかったんだ。

これじゃあ獲物を見つけたオオカミが増える一方じゃねえか」

 

その言葉を耳にした元クラスメイトが驚いたように「げっ」と一声発する。

 

「なにっ、桐ヶ谷、いつもここで宿題やってんの?」

「んなわけないだろ。たまたまここで休憩してたら同じクラスのヤツから連絡入って、それで

レポートの提出日が今日に変更になってたのを思い出したんだよ」

「で、ここで仕上げてんのか?」

「ああ……と言ってもほとんど出来てたから……」

「さっさと終わらせてデートに行けばいいのによう」

「デート!?」

 

クラインからの横槍が予想外の単語を含んでいたせいで、元クラスメイトが素っ頓狂な声を

上げたその時だった。ケーキセットをセッティングしていたテーブルでカチャンッ!、と

耳障りな音があがる。

すぐさま、そのテーブルに座っていた二十代前半の女性が恐縮したように「ごめんなさいっ」と

明日奈に謝る声が和人達の元にまで届いた。見ればテーブルの上にはケーキの隣に置かれた

ティーカップが倒れ、中身の紅茶がソーサーからも溢れて床にまでしたたっている。

明日奈は冷静に「大丈夫ですよ。それより火傷はしていませんか?」と女性客を気遣っていた。

落ち着いた対応に客も幾分気持ちを静めて「ええ」と頷く。

向かいの席に座っていた彼氏とおぼしき男性も腰を浮かせて明日奈に「すみません」と謝り

ながら女性に「大丈夫か?」と声をかけていた。

その間にも明日奈はテーブルに常備してある紙ナプキンでこぼれた紅茶を吸わせつつ

「すみませんがこちらの席に移動をお願いできますでしょうか?」と男性の隣の席を示した。

もともと四人掛けの席に向かい合って座っていた二人だったので、異を唱えることなくすぐに

女性客が立ち上がる。そのタイミングを逃さず、明日奈は「お洋服にかかっていませんか?」と

女性客の全身をチェックしながら自分は床にこぼれた紅茶を始末すべくしゃがみ込んだ。

その瞬間、しゃがみ込むと同時に腰を浮かせていた男性客と立ち上がっていた女性客、それに

離れた位置で一部始終を見ていた和人が、ハッと息を飲む。

その気配を敏感に察知して明日奈が不思議そうに顔を上げた。

見上げれば二人の客が顔を真っ赤にしている。

 

「あの……」

 

「どうかなさいましたか?」と続けようとした言葉は素早く駆け寄ってきた和人によって

遮られた。しゃがみ込んでいる明日奈の腰に背中から手を回し入れて抱え込み、立ち上がらせると

「ごめん、アスナ、ちょっと、こっち来て」と早口に告げ、半ば引きずるようにエギルのいる

カウンター横から奥の部屋へと連れ込む。

 

「えっ?、なに?、なになになに?」

 

目を白黒させながら強引に和人に連行される明日奈をエギルやクラインはもちろん、店内の客

全員が凝視していた。バタン、と奥へと続く扉が閉まると「はーっ」と頭痛に苦しむような

顔で溜め息をもらしたエギルはコーヒー一杯ですでに数時間居座っているクラインに向けて雑巾を

投げる。

 

「ほらよっ」

「なんだよっ、これ!」

「あそこの床、拭いてきてくれ」

「はーっ?、なんでオレがっ!」

「有能な臨時バイトの女の子がたった今、休憩に入ったからだ」

「えーっ、そりゃねえよう」

「なら、もっと注文しろ」

 

その言葉に反論できず、渋々とクラインが立ち上がる。

呆気にとれらた表情で立ち尽くしていた元クラスメイトの男子がクラインを引き留めた。

 

「あの……もしかして桐ヶ谷のデートの相手って……」

「あ?、ああ、そうだよ。あいつのレポートが出来上がるのを待つ間だけって事で店を

手伝ってた、あのウエイトレスさんさ」

「ウソ……でしょ……」

「まあ、色んな意味でそう言いたくなるのも、ちーっとはわかる気がするけどな。あいつら互いに

ぞっこんで執着しまくりのバカップルだからよ、他の人間にはどうこうできねーと思うぜ」

「執着しまくり?……桐ヶ谷が……?」

 

信じられない目でもう一度彼らが消えたドアを見つめている和人の元クラスメイトを置いて

クラインは渡された雑巾をクルクルと振り回しながら床を掃除すべくその場を離れた。

 

 

 

 

 

一方、奥の部屋へと連れ込まれた明日奈は状況が理解できないまま後ろから和人に腰をホールド

された体勢で固まっていた。

和人は、と言えば髪を垂らしていない方の右肩に顎をのせ、鼻の頭を首筋にこすりつけている。

なんの説明もする気がないらしい事を悟って、明日奈は可能な限り首をひねり後ろの和人に

向かって不満の声を上げた。

 

「もうっ、どうしちゃったの?、私、早くホールに戻らないと。床だって汚れたままなんだよ」

 

答えなければますます彼女の機嫌を損ねることは容易に予測できて、これから打ち明ける内容を

思ってこれ以上興奮させるのは得策ではないと判断し、彼女に密着したまま素直な気持ちを口に

する。

 

「……いや、もう、ちょっと、オレの方も限界だから……」

「また意味の分からないこと言って誤魔化そうとしてるっ」

 

素直すぎる言葉は目の前の彼女には届かず、結果、伝わらなかった事実に加えて懸命に振り

返ろうとしている彼女の口から漏れ聞こえた「また」という単語が心をえぐる。

 

……「また」ってなんだ?、オレ、そんなに意味のわかんないこと口走ってるか?

 

未だ抱く思いに言葉が追いつかない自覚はあるものの最愛の人から突きつけられると、それは

それでまたひと味違うらしい。何とか言葉を尽くさねばならないことを頭では理解しているの

だが、思った以上に「また」が内に残ってしまい自然と口から出る言葉は彼女からの問いの返答

ではなく、己の頭を占めている疑問となってしまう。

 

「アスナ……オレ、今までも意味のわかんないこと言ってる?」

「えっ?」

 

そこを聞き返されると思っていなかった明日奈が和人の腕の中で動揺を表して身を固くした。

答えを強請るように和人の鼻先でゆっくりと首筋を上下に撫でられると、その行為からもたら

される刺激に「ふぅ……っん」と思わず鼻から息が抜ける。

 

「アスナ」

 

唇までも首に触れそうな距離で名を呼ばれ、思考を手放してしまいそうになるのを懸命に堪えて

唇を震わせた。

 

「……昨日、だって……」

「昨日?」

 

一旦、和人の顔が離れるが腰に回された腕はそのままだ。それでも先刻よりは自由が効いて形勢

逆転を図るべく肩越しに少々唇を尖らせ、上目遣いに睨み付ける。

「昨日」と言われた和人は頬を淡く染め、困っているのか怒っているのか判断に迷う瞳と、突き

出された桜色の唇といった煽情的な恋人の表情をなるべく視界に映さないよう斜め上を向いて

記憶をさらった。

「昨日」と言えば和人も明日奈も学校で同じゴゴイチの選択科目が急遽休講となり午前の授業が

終了した時点でフリーとなった為、中庭で食べるはずだった明日奈お手製の弁当を桐ヶ谷家まで

持ってきて二人で食べたのだが……仕事に出ている母の翠は来週まで深夜帰宅の早朝出社が続くと

聞いていたし、妹の直葉は平日は部活があるので夜になるまで戻ることはなく……平日の午後の

丸々半日を二人きりで過ごすという予期せぬ事態に、最初は和人の部屋で、翌日のデートで

観たい映画の話などで盛り上がっていたのだが、そのうちに肌が触れ合う熱を抑えきれなくなり

自然と互いを求め合って……とそこまでを思い出しても和人には明日奈の口から出た「昨日」に

該当する自分の発言が全く思い当たらず、顔をしかめて頭を傾けた。

 

「何か言ったか?」

 

降参、と言った面様で視線を下げれば、変わらず見上げてくる恋人の眼差しは自分の感情を煽って

いるとしか受け取れず、色々な意味で溜め息が漏れる。

 

「昨日だけじゃないけど……時々キリトくん、私に言うじゃない……『そんな顔、他の男の前で

するなよ』って。そんな顔ってどんな顔なのか、自分じゃわかんないし、そう言った後って……

その……全然私の言う事聞いてくれないで……色々……するでしょ……それに、今さっきだって

『限界だから』って……どういう意味なのか……」

「ああー……」

 

脱力したように和人の顔が再び明日奈の首筋に密着した。

 

「うん、アスナが無自覚なのは十分わかってる」

「ひゃんっ、そこでモゴモゴ喋らないでっ」

 

堪らずに肩をすくめた明日奈の非難めいた声などお構いなしに和人は話し続ける。

 

「あれが練り上げられた戦略だって言うなら、《あの城》でオレはアスナに攻略された最初の男に

なるからな」

「攻略って何の話っ……また意味わかんない」

「わからなくていいよ。わからないのは承知の上で言ってるんだ。言わずにはいられないような

顔をするアスナのせいだから」

 

そう告げられた途端、ヒヤリと湿った感触が首筋を下から上へと這う。

 

「んんーっ!」

「自分の彼女が男達のにやけた視線を浴びまくってるのを目にしながらレポートを仕上げろとか、

どんな拷問だよ」

 

続いて和人の唇が明日奈の真っ白い首筋にきつく吸い付いた。

 

「っん……あつっ……」

「しかも、いきなりでエギルとの息の合ったコンビプレー見せつけられて……」

 

自分の腰にある和人の腕にすがりつきながら懸命に振り返った明日奈の目元はすっかり朱に

彩られ、はしばみ色は涙の膜に覆われてキラキラと真目映い光を放っている。頬は一層羞恥に

染まり口元の僅かな隙間から聞こえる短い呼吸音と同期して胸元が小刻みに揺れていた。

首筋に続いて剥き出しになっている耳の後ろへと和人の唇が移動する。

 

「ふぅっ、んーっ、そこ……ダメ……」

「知ってる……今の顔だって絶対他の男には見せられないぞ。昨日だって、オレの部屋で無防備に

あんな顔するから……」

「あっ、やだやだ、噛まないでっ」

「痕に残るほど強くしない」

「……絶対?」

「ああ」

 

その言葉を証明するように耳朶へ甘噛みをすると幾分肩の力を抜いた明日奈が思い出したように

言葉を詰まらせた。

 

「あ……でも……」

「ん゛?」

 

明日奈の耳たぶを咥えたまま怪訝な音を発すれば、耳への刺激に耐えるように肩を震わせている

彼女が少々息を荒くしたまま言葉を紡ぐ。

 

「首の後ろ……傷があるでしょ?」

「……え゛っ……」

 

その指摘にキリトの心臓が跳ねた。

 

「ちょうど真ん中あたり」

「あ……うん」

「ペンダントの金具で引っかいたのかなぁ」

「あー……、そうだナ。そんな感じだナ」

「……キリトくん?」

 

感情の機微に聡い明日奈が和人のまるでとってつけたかの口ぶりに疑問を抱くのはしごく当然の

結果だった。

 

「……まさか……」

 

和人からの刺激が止まったことで理性を取り戻した明日奈が、限りなく確信に近い疑惑を込めて

レイピアを操るが如く、鋭い視線で正確に和人の心を貫く。そのまま半眼で睨み続ければ、

ただでさえ言葉を駆使する事に苦手意識を持っている身としては偽りを口にするなどという高等

技術を披露出来るはずもなく、明日奈を拘束していた腕の片方を解いてお決まりのように指先で

頬をポリポリと掻くことで自らの心の内を表した。

 

「ひどいっ、痕はつけないでって言ってるのに。眠っている時につけたんでしょっ」

 

いくら乱れていたとは言え意識のある時には身に覚えのない場所なのか、自分が眠ってしまった

後に付けたのだろうと見当を付けて明日奈は和人の腕を振りほどき、くるりと向き直って正面

から憤慨の声をあげた。その言葉に慌てて和人が首を横に振る。

 

「違うって、眠ってる時じゃないよ」

「なら、一体いつの間に……」

「えー……っと、ですね……アスナさんがうつ伏せでオレの枕を抱きしめている時に……」

「えっ?」

 

そこまでの説明で昨日の和人とのベッドの中での具体的な行為を思い出したのか、みるみる

うちに明日奈の顔全体は火が吹き出そうなほど真っ赤に色づいた。

両頬を手で包むようにしてオロオロと視線を泳がせているその仕草さえ愛おしくて、今度は

自分の胸にその細い身体を強く引き寄せる。

 

「昨日もそんな風に顔を赤くして目をギュッと閉じたまま声を押し殺すようにオレの枕に必死に

しがみついてただろ。そんな姿を上から見ていたらさ……その……我慢できなくなって……思わず

後ろから……ごめん、囓った」

「か……囓った!?」

「うん、だから、ごめんって」

「えっ、私、鏡で見ようと思ったんだけど、なかなか上手くいかなくて……手で触った感じから

金具で引っかいたと思ってたんだけど……」

「……やっぱり気づいてなかったんだな。一応、声はかけた……けど」

「ううっ……あの時……そんな余裕なかったもん……」

「だよな……いや、オレも拒否られても止められなかったと思うし……」

「えーっ、もしかして歯形とかついてるの?」

「いや、そんなにガッツリ囓ったわけじゃないよ……でも」

「でも?」

「……経験者だと……多分、原因がわかる、と思う……だから、あの二人はああいう反応をしたん

だろ」

「あの二人って……」

 

ふと明日奈の脳裏に先程までいたホールでティーカップを倒してしまった女性客とその同伴者で

ある男性客の反応が蘇ってきた。

 

「ええーっ!」

「まあ、あの二人にも身に覚えのある痕なんだろうな……」

「もうっ、なんでこんな場所に……服で隠せるトコって約束っ」

「悪い……でも髪の毛縛るなんて思わなかったしさ……それにいつも隠れてる真っ白い首筋が

ほんのりピンク色に染まってて……つい」

 

その時の色を思い出したのか、明日奈の腰に回した和人の片腕に力が籠もると同時に自分の頬を

栗色の髪にすり寄せる。もう片方の手でそっと首筋を撫でながら耳元に寄せた口から「痛い

か?」と気遣う言葉が囁かれた。

和人の言う通り、普段は長い髪で隠れている背中側の首筋は雪のように白くて、それだけに

赤みをおびている傷跡は艶めかしい程に和人の執着心を表している。

和人の首元に未だ熱の冷め切らない顔を埋めている明日奈は小さく「もう痛くないよ」と

返すと身をよじった。

 

 

「ちょっと放して……見えないように髪を緩く後ろで三つ編みに結い直すから」

 

そう告げれば離れてくれると思った和人の腕が自分の腰から一向に緩まないのを不思議に思った

明日奈は怪訝な顔で見上げる。

 

「……飲食物を扱うから髪はまとめなくちゃダメでしょ。それに早く戻らないと。お店の

お手伝い、放り出してきちゃったし」

「……そうしたら、また客の男共はアスナと喋りたくて追加オーダーしたり、コーヒーのお代わり

頼んだりするんだよな」

「べっ、別に私と喋りたいからってわけじゃないと思うけど」

 

はぁっ、といささかわざとらしく息を吐き出した和人は目の前の額にコツンと自分のそれを

上から軽くぶつけた。

 

「ほんと、アスナってそういうところ鈍感だよな」

「キリトくんが気にしすぎなんだと思うよ」

「違うって……あんな欲を帯びた視線の中、よく笑顔でいられると半ば感心するよ……ああ、

アスナにしてみればそれがずっと当たり前だからか」

 

再び軽く嘆息する和人を見てこれ以上異論を唱えても無駄と諦めたのか、明日奈は困った

ように眉を歪ませて額をくっつけたままポソリと「キリトくんだけだもの」と小さく呟いた。

そのまま目を閉じて言葉を続ける。

 

「中庭でお弁当を食べる時、私のこと、こっそり覗いてるでしょ。でも、いつもキリトくんの

視線だけはわかるの」

 

それを聞いて和人は目を瞠った。確かに学校の中庭で明日奈と待ち合わせをしている時、彼女が

先に到着していれば、自分を待ちわびる恋人の愛らしい姿を物陰からこっそりと盗み見てしまう

のは抗えない本能のようなもので、毎度彼女からお小言を頂戴する度に謝りはするが直す気も

ないのが正直なところだ。しかし、思い返してみれば和人が覗き始めると、いつも程なくして

明日奈がその視線を感知するという事実にたどり着く。

 

「あ……オレの視線って店のやつら以上に欲を孕んでいるから、とか?」

 

返された推測に明日奈はくっついていた顔を逸らして思わず、プッと吹き出した。

 

「それは、どうかわからないけど……私の大好きな真っ黒い瞳に見守られている時の暖かい

気持ちになるから、自然とわかるんだと思う」

「そりゃあ視線だけで明日奈を守れるなら、いくらだって見つめるけどさ」

 

言いながら逸らされた視線を取り戻すように明日奈の頬を両手で積み込んで、そのはしばみ色を

覗き込む。

 

「オレの視線なんか太刀打ちできないくらいの数が周りからアスナに飛んでくるだろ。その

視線のひとつひとつがこの瞳を見たり、唇を見たり、身体のあちこちを見てるかと思うと……

切り落としてやりたくなる……全部、オレのなのに」

 

明日奈の唇に触れるだけのキスを落とすと、当たり前のように彼女の両腕が和人の背中に

回った。

 

「キリトくんは……普段、見えない所だって……」

 

その後の言葉は明日奈が顔を和人の首元に押し付けてきたのでごにょごにょと不明瞭になって

しまったが、言われた当人には届いたらしく、意味を理解した途端ニヤリとご機嫌な笑みを

浮かべる。

 

「そうだな、見ただけじゃわからないアスナの色も、形も、味も、匂いも、声も、それに手触り

だってオレは知ってるし」

「……また、そういう……言い方……」

「どこもかしこも柔らかくて……」

「ふうっ……っん」

「中はあったかくて、すごく気持ち……い……いでででででっ……」

 

額に、頬に、鼻の頭にと明日奈の顔中にキスの雨を降らせていた唇が徐々に首筋まで下りた

ところで、和人の頬が思い切りつねあげられた。

 

「アスナさん……まじで痛いデス」

「うん、本気でつねらないと、キリトくんやめてくれないでしょう?」

 

悪びれもせずニッコリと微笑むその姿は和人以外の人間ならすぐさま蕩けてしまうのだろうが、

当の和人は不満顔も露わに明日奈をにらみ返す。そんな圧のこもった視線などものともせずに

明日奈の表情はますます笑顔の度合いを増した。

 

「だいたいキリトくんはレポート、終わったのかしら?」

「あ゛……」

「私がエギルさんのお手伝いを始めた原因、覚えてる?」

「……ハイ」

「本来なら今頃は二人で映画を観てる時間よね?」

「……ソウデシタ」

 

気まずそうに顔を背けようとすれば素早く明日奈の両手が和人の両頬を包み込んだ。

《あの城》の森の家で暮らしていた時も明日奈に頬をギュッと挟まれた記憶が鮮明に蘇り、

思わず頬が染まる。そんな色づいた頬にむぎゅっ、と手のひらを押し付けながら明日奈は漆黒の

瞳を強く見つめた。

 

「ならレポートに集中して」

 

視線の強さはそのままに、フッと表情が和らぐ。

 

「終わったら映画、行こ。私、キリトくんと映画観るの、楽しみにしてるんだから」

 

少し恥ずかしそうに笑う明日奈からの視線を一身に浴びて「りょーかい」と返せば今度こそ

心からの笑みを向けられ和人も思わず口元を緩ませた。覗き込むように注がれる彼女からの

視線を真っ直ぐに受ければ自分への想いを痛いほどに感じる。周囲からの視線を遮ることは

出来ないが、彼女からの視線を独り占めにする為に和人は優しく明日奈の瞳を見つめ返した。




お読みいただき、有り難うございました。
以前投稿した『再会』でエギルが「《現実世界》でもアスナが店を手伝って
くれたら……」な台詞があったので、機会があれば実現させたいな、と思っていました。
まあ、臨時の超短期なバイトでしたが……今後は和人が「させない」でしょうから
男性客の常連が増えることはないでしょう。
パスタの「ポモドーロ」……馴染みがないと思っていましたがスーパーのパスタソース
売り場でちゃっかり(?)ありました。
あれ?、メジャーでした??
では、次はご本家さま新刊発売記念でお会いしたいと思います。


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キスのタイミング

ご本家(原作)様の『アリシゼーション・ラスティング』発売を祝しての投稿です。
高校生らしい女子達のおしゃべりから色々と気づかされる事があるのですが……。


放課後……学校の教室に残っている生徒が女子四人だけとなれば、自然と話題は恋バナになる

わけで……。

日直の女生徒が日誌を書いている机の周りにイスを持ち寄った三人は目の前の日誌に几帳面な

文字がスラスラと書き綴られていく光景を見るとはなしに目の端に収めながらも、うち一人の

最近彼氏が出来たという彼女の話を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていた。

 

「それで?……何て言われたの?」

「……俺と、付き合って欲しいって……」

 

言い放った途端、真っ赤になった頬を両手で隠すように抑えた女生徒は恥ずかしいのと嬉しい

のがごちゃ混ぜになった表情となり、その時の光景を思い出したのか唇をキュッと引き締めた。

 

「いいなぁ。言われてみたい、その台詞」

「やっぱりちゃんと言葉にしてもらえると嬉しいよね」

「うん。ずっと私からモーションかけてたけど、最後は向こうから言って欲しいもん」

「そうだね。ここ最近はほとんど『付き合ってますー』みたいな雰囲気だったから、私、

とっくに告られてるのかと思ってたよ」

 

その言葉に照れながらも満面の笑みを浮かべているカップルなりたてホヤホヤの彼女は、ふいに

「あっ」と何かを思い出したように言葉を詰まらせる。

 

「で、でもね……私が頷いたら、すぐに『キスしていい?』って聞かれて……」

「ええっ」

「うーん、それはまた随分と積極的と言うか、がっついてると言うか」

「へぇぇっ、ちょっと意外。アイツっていきなりそこまで求めてくるヤツだったんだ」

「OKしたの?」

 

にやつき顔で聞いてきた友人の言葉に今の今まで顔全体を茹で上げさせていた彼女が眉尻を下げ、

力なく首を横に振った。

 

「だって告白されたのだって初めてなのに……いきなり、そんなの……」

「ああ〜、まあ、そうだよね」

「向こうの気持ちも分からないでもないけどさ。両思いになりました、はいキスしていい

ですか?、はちょっと色々すっ飛ばしてるかも」

「で?、向こうの反応は?」

「すぐに『ごめん』って謝ってくれたんだけど……」

「うん、よかったじゃない。わかってくれたんでしょ?」

「けど、こっちから拒否っちゃったから、次、どうやって……その、キスを……」

「ああ、そっかー。向こうだって、ならいつならいいんだ?、って次のタイミングを図り

かねてるかもね」

「こうなったら、思い切ってこっちから迫っちゃう、とか?」

「えーっ、無理無理……初めてなのにこっちからなんて」

「でも初めてだからこそ、雰囲気でOKを伝えるのとか、かなりハードル高いよ」

「だからね……」

 

そこで彼女は意を決したように日誌を書き終えようとしている女生徒の名を呼んだ。

 

「……さんに聞きたいんだけど……」

「えっ?……私!?」

 

それまで日誌を書く手を止めず、あえて会話に入らず傍聴者を決め込んでいた女生徒は突然

呼びかけられた自分の名前に、驚いて肩を震わせた。

 

「……さんが告白された時って、どんな感じだったのかなーって」

 

告白してきた相手の名は言わずともここにいる全員が承知しているらしい。

 

確かに帰りのHRが終わった後、パラパラと教室から出て行く生徒達を見送って日誌を書き上げて

しまおうと机に座り直した時、同じクラスの女子三人から相談事があると話を持ちかけられた。

日誌を仕上げてからでいい?、と尋ねたら、それまで一緒に雑談をしながら待ってる、と言われて

少しでも早く終わらせようとペンを走らせていたのだが……まさか雑談が本題の導入部分だとは

思ってもみたなかった。

 

「今までの話、聞いててくれた?」

「うん……聞いてたけど……」

「……さんは《あの世界》からお付き合いが続いてるみたいだから……色々と教えて欲しいなぁ、

って……」

「ええっ!?」

「ああ、確かに。私達より色々知ってそうだもんね」

「うんうん、色々ね……」

 

色々って……色々って……と、色々な記憶が頭の中を渦巻き始める。

 

「という事で、まずは最初の告白の言葉から聞きたいな」

「ふぇっ?」

 

えーっと……えーっと……《アインクラッド》で言ってもらった言葉で『オレと付き合って

下さい』的な意味のよね……えーっと……

 

『結婚しよう』

 

ダメダメダメ……それは言えない。

 

「……ちょっと、それは、内緒ってことじゃ……ダメ?」

「そう言われるとますます気になっちゃうとこだけど」

「まあまあ、大事な言葉だもんね。自分だけの秘密にしておきたいものわかるよ」

「なら、告白されてからキスするまで、どのくらいデートした?」

「あ……うう……」

 

言葉より先にキスしました……も……言えない。

 

「う……ん……割とすぐだったような……気が……」

「そっかー、そうなんだぁ」

「ふぅぅぅん」

「へぇぇぇっ」

「やっぱり最初は『キスしていい?』とか聞いてくるタイプ?」

「うっ……」

 

いきなり奪われちゃった……かも。

 

羞恥と困窮が相まって頬を染めながらも瞳には涙が溜まってくる。

もうこれ以上は……と思い始めたちょうどその時、教室のドアを開ける音と共に待ち人の声が

した。

 

「お待たせ、アスナ。日誌、書き終わったか?」

 

救世主の登場にホッと明日奈の気が緩む。

かたや周囲の女生徒三名は「きゃぁっ」と悲鳴にも似た喜色を帯びた声を上げると、いそいそと

立ち上がった。

 

「姫の王子様登場だね。今の話の続きは今度また」

「ありがとね、結城さん」

「じゃあ、また明日ね」

 

口々に明日奈に声をかけながらイスの位置を戻しカバンを手にした三人はクスクスと含み笑いを

しながら明日奈を迎えに来た和人の横を通り過ぎていく。

その様子を首を傾げつつ見送った和人は未だ立ち上がろうとしない恋人の元へ向かうべく教室に

足を踏み入れた。

近づいてみれば明日奈はうっすらと瞳に涙を湛えて何かを強請るような視線を向けている。

 

「ごめん、オレなんかタイミング悪かった?」

 

そう問いかけても返事は返ってこない。

机の上に広げられている日誌に目を落とせば明日奈らしく記入欄は丁寧な文字でほぼ隙間なく

埋めつくされていた。

明日奈の前席のイスの背もたれを掴み、跨がるように腰を降ろして愛しい恋人の顔を覗き込めば

涙を堪えているのか、はたまた言いたい事があるのか、微かに唇を震わせている。

震えを止めてやりたくて、一瞬廊下に視線を巡らせた後、和人は身体を伸ばしてチュッとその

唇を自分のそれで包んだ。

すぐさま離れて再び問うように「ん?」と視線を送れば、それがきっかけとなったのか、明日奈の

唇がゆっくりと開いて今度は震えた声がこぼれ落ちる。

 

「い……つも、そうやって、いきなり……」

 

何の事を言っているのか皆目見当がつかず「んん?」と眉間に皺を寄せると、今度は少々

涙まじりの声が弱々しく吐き出された。

 

「キス……して、いい……かって、聞かれたこと、ない……」

「はっ?」

「だから、いつも、いきなり……で……」

「んなの……今更な……」

 

いきなり、という単語に少々引っかかりは感じるが、《あの世界》を含めれば今まで何度唇を

重ねてきたのか、と思い和人は明日奈の言葉に唖然とした。しかも唇以外も重ね合わせている

間柄で「何を今更」の言葉しか出てこない。

だいたい嫌がる明日奈の唇を無理矢理に力ずくで、というのは自分の記憶の中では一回もして

いないつもりだし、とそこまで考えて、正真正銘初めての口づけは多少そんな感じだったかも、と

思い至り、知らずに「うーむ」と考え込む。

それでも森の家のデッキチェアで二人並んで座っている時など、自分の傍らでまどろんでいた

彼女が目を覚ましてすぐに未だ夢うつつの表情で請うように顔をあげてくれば自然とその唇に

吸い寄せられてしまうのは仕方のないことだし、と自らを擁護した。

 

「それは……アスナだから」

 

和人からの言葉に全く意味がわからない、といった表情で返してくる明日奈を見つめながら、腰を

浮かして片手を机につき、もう片方の手で細いおとがいを捕らえると啄むように何回も桜色の唇の

感触を味わう。

 

「んっ……」

「そんなの、聞いてられない」

「んんっ……」

「こんなに美味しそうなのに」

「ふっ……ん」

「それに、オレがしたいって思った時は、アスナも同じだってわかってるし」

 

一旦離れて「だろ?」と当然といった風で薄く笑いかければ、堪えきれずに流れ落ちた涙を手の

甲で拭いながら、それでも納得できないと言いたげに顔を上げて薄く開いた唇から囁きのような

言葉を紡ぐ。

 

「あと……」

「あと?」

「《アインクラッド》で、付き合って欲しい、とか……言ってもらえなかった……し」

「う゛……それは……」

 

一転して怯んだように顔を引きつらせた和人は困り笑いをしながら頬をポリポリと掻いた。

 

「対人スキルの低いオレに、それを求めマスか?」

 

未だ目を赤くしたままこくん、と頷いてから、顔全体を朱に染め上げて期待に満ちた瞳で見つめ

られると、求められているものとは違うところでゴクリと喉が鳴る。

思わず立ち上がり、机を回り込んで明日奈の目の前までやってくると後頭部と顎を同時に

捕らえて、すぐさま腰を屈めた。

 

「ああ、ホントにもう……」

「んんっ」

「我慢とか、無理だろ」

「んぅっ……」

「オレを困らせて、そんなに楽しい?」

「んーっ」

「声、抑えてアスナ」

「はぁっ、はぁっ……キリトくんが……キスするから……だよぅ……っ……」

「……だって、まだキスして欲しいって、顔、してる」

「してなっ……んんーっ」

 

噛みつかれるように強く唇を押し付けられ、拒む間さえ与えてもらえず咥内に侵入してきた

和人の舌が歯列をねぶるように巡ってから更に奥へと明日奈を求める。為す術もなく怯えるように

息を潜めていた彼女の舌を探り当てると嵐のような勢いは急速に鎮まり、一転してそっと優しく

撫で始めた。

何度も……何度も……あやされるようにゆっくりと触れられると縮こまっていた舌の緊張も解け、

同時にキツく瞑っていた瞼をこっそりと開いてみれば、目の前には愛しさを湛えた漆黒の瞳が薄く

自分を見つめている。その眼差しにほっと力が抜け、再びゆっくりと瞼を閉じると和人の目は

満足そうに弧を描いた。

と同時に単調だった舌の動きに変化が現れる。

誘うようにツンツンと舌先をつつかれ、それに戸惑っていると少し強引に舌が絡みつきキュッと

吸われた。解放された後のジンジンとした痺れが身体のすみずみにまで徐々に伝染していき、

ふるり、と身を震わせると、それを鎮める仕草でおとがいを捕らえていた二本の指が首筋を這う。

再び舐めるように舌先を刺激されれば、先刻の快感を受けた身は抗うすべを知らず、今度は

すぐさま明日奈の舌がそれに応えた。

咥内をぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てて互いの舌が絡み合い、堪えきれないのか縋るように彼女の

手が支えを求めて彷徨う。

片方の手は和人のブレザーを掴んだが、もう片方の手はそこにたどり着く前に首筋を伝っていた

和人の手に絡め取られてしまった。

いつもベッドの上で抑え込まれる時と同じように交互に指が絡み合い、痛いほどにグッと

握られる。

 

「……っ、アスナがすぐ傍にいてくれるだけで、オレがどんな気持ちになるか、知らないくせに」

「っン……ぁっ……」

「姿を見て、声を聴いて、匂いを嗅いだら……」

 

息苦しさと羞恥で既に明日奈の理性はとんでいた。酸素を求めているのか、はたまた愛しい存在を

求めているのか、瞳を薄く開け蕩けた表情でふらり、と力を失って上気しきった顔が倒れ込めば

当然の如く和人がそれを受け止める。

 

「言葉にしている時間なんてない」

「ふぅ……んんっ」

「抑えられない……あふれてきて……」

 

最後に後頭部にあてた手に力を込めて殊更きつく唇を押し付け彼女の内(なか)の弱い部分を

何度も何度も擦りあげた。ブレザーを掴んでいる手も絡ませている指もふるふると震え、それが

腕を伝わり両肩にまで及ぶと強すぎる刺激に一瞬、意識が飛んだようでくらり、と明日奈が和人の

腕の中に崩れ落ちる。

それを優しく抱き止めて腕の中の彼女の瞳から流れ落ちた涙に口づけを落とし、そっと耳元で

囁いた。

 

「だから、こぼれてしまう前に……こうやって口伝え……するしかないだろ」

 

意識のない彼女に言っても伝わらない言葉を仕方なさそうに笑いながら口にする和人は、明日奈が

目覚めた時の顔を想像してくすり、と笑う。

意識を飛ばした自分を恥じて涙を湛えながら俯くだろうか、それとも恥ずかしさから顔を真っ赤に

して口をばくぱくさせるか、教室という場所を気にして怒るかもしれない……もしかしたら返事を

聞きそびれたと言ってもう一度同じお願いをしてくるかもしれないな……しかしどのパターンでも

返す行動はいつもと同じ、ひとつしかないのだと思い、再び溢れそうな想いを胸に押しとどめ

彼女を抱きしめている腕に力をこめた。

 




お読みいただき、有り難うございました。
この二人のなれそめ、あの環境下だったから、という部分を差し引いても色々と
ぶっ飛ばしてますよね?……と常々思っていたので(笑)
キリトに至っては言葉によるコミュニケーションは多少苦手なのかもしれませんが、
それを補って余りある行動力が十分、備わっていますし。
この人、疼いたら即行動でしょ、と(なんせ反則級の反応速度の持ち主ですからね)
とにかくアスナに触れたがる、堪え性のない一面を持つキリトでした。
では、次はまた5日後の定期投稿で。


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ハハ・ハ、ツヨシ?

和人と明日奈が結婚して既に十五年以上が経っている桐ヶ谷家です。
以前投稿しました『家族のカタチ』に登場の高校生の息子「和真」と
小学生の娘「芽衣」から見た母親(明日奈さん)のお話です。



眠っているはずなのに、苦しそうに歪んでいる眉に薄く開かれたまま荒めの息を吐き出している

唇をベッドサイドから見下ろしていると、自然とオレの眉間にも皺が寄る。同じように隣で母を

見下ろしていた妹の芽衣が珍しく気弱な声で「お母さん、大丈夫かなぁ」と言いながらオレの手を

ギュッと握った。

オレはすぐにその手を握り返し、しゃがんで芽衣と目線を合わせてから普段の外面スマイルでは

なく、歳の離れた妹を安心させたい一心で優しく笑い「大丈夫だよ。もうすぐ父さんが帰って

くるから」と告げれば、途端に芽衣は表情を一転させ満面の笑みを浮かべる。

どうやら母にとって万病の薬は父なのだと幼心にも理解しているようだ。

その笑顔が合図のように、玄関から解錠の音がこの二階の寝室にまで届く。

続けて階下よりドンドンと勢いよく階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきたかと思うと、その

ままの勢いで足音は廊下を移動し、すぐさまこの部屋のドアが開いた。

 

「明日奈!」

 

予想通りの人物の登場にオレと芽衣が同時に人差し指を立て「しぃ〜っ」と勢いよく歯列の隙間

から空気を吐き出す。

そんな息子と娘の仕草など全く視界に入っていないのだろう、海外出張から戻ったばかりのオレの

父「桐ヶ谷和人」は一目散でオレの母「桐ヶ谷明日奈」の枕元へと駆け寄った。

手荷物は玄関先にでも放り出してきたのか、何も持っていない手はすぐさま布団の中の母の手を

求める。予想通りの常識外な到着時間にオレは軽く息を吐き出した。

 

「ユイ姉」

 

芽衣の手とつながっていない、もう片方の手に握りしめていた携帯端末で姉の名を呼べば未だ

「愛らしい」という表現がしっくりくる声がすぐさま応答してくれる。

 

「なんですか?、和真くん」

「また……やった?」

「ちょっとだけです。渋滞や事故にはつながっていませんよ」

 

桐ヶ谷家の長女として認識されているAIの「桐ヶ谷ユイ」はとにかく父に甘い。そしてそれ

以上に母に甘い。

風邪でぶっ倒れた母から申し渡された「海外にいる和人くんには絶対に知らせないで」の言葉尻を

取って、父の乗った飛行機が日本の航空領域に入ったと同時に母の容態を伝え、空港からの道路

信号に関して交通管理システムにハッキングをかけて父の乗ったタクシーがスムーズに我が家まで

辿り着くよう誘導した事は容易に想像できた。

「それ、オレが学校に寝坊した時もやってよ」と少々呆れ口調で願えば「和真くんは寝坊なんて

しないでしょう?」とハッキリ、キッパリ返される。

父が帰ってきてくれたお陰で寝室の中に満ちていた緊張も途端に和らぎ、芽衣がオレの手から

離れて「お帰りなさーい」と父へ抱きつくためにパタパタと駆け出した時だ。

布団の中で母の手を探り当て、それを両手で包んだらしい父が顔をあげオレを睨み付けた。

 

「和真、お前、明日奈の熱、ちゃんと計ったか?」

「えっ?、ああ、小一時間ほど前だけど、その時は起きてたから母さんに体温計渡して……」

「お前が直接表示を確認したかって聞いてるんだ」

「……いや、計ってる間、母さんにタオルを持って来て欲しいって頼まれたから一旦部屋をでて、

戻ってきたら計り終えた母さんが『38度ちょっとあった』って。それからずっと様子を見てる

けど別段変化はなくて……ま、まさか……?」

「ユイから聞いたのと違う……39度は超えてるな。ここ一時間で上がったんじゃないと

すれば……」

 

そこまで言うと父はうなだれて「はぁーっ」と深く息を吐ききってから小さく「一応そこまでは

理性があったのか」と呟いてから、素早く顔をあげた。すぐそばに寄ってきていた芽衣にそっと

微笑んでから「ただいま、芽衣」と言って片手を布団の中から出して頭をグリグリと撫でる。

 

「ごめんな芽衣、抱き上げてやりたいけど今はお母さんを楽にしてあげるのが先なんだ。和真と

一緒にフリーザーから氷をボウルに入れて持ってきてくれるか?」

 

大好きな父からのお願いだ。しかも大好きな母のためだと言われればグズるような芽衣ではない。

使命感に満ちた瞳を輝かせ両手をグーにしてやる気満々を振りまきながら大きく頷いた。

 

「わかったっ。芽衣、氷、たーっくさん持ってくる」

 

その元気いっぱいの声に反応して母が微かな声を上げる。

 

「う……っん……ふうっ……」

 

辛そうに息を吐きながら長い睫毛が震えた。

 

「明日奈?」

 

上から覗き込むように身を屈めている父の顔を母のはしばみ色の瞳が捕らえる。

 

「……っう……ううっ……ふっ……ふえっ……」

 

見る見るうちにその瞳に涙が湧き上がり唇がわなわなと意味不明の音を紡ぎ出すと、オレの脳内は

非常事態宣言を発令した。

 

「キ……キ……キリトくん……」

 

マズイ、ヤバイ、マズイ、ヤバイ……脳内に限らず全身のあちらこちらからこれから先に起こるで

あろう困窮の事態に備え警鐘を鳴らしてくる。

母さんが父さんをキャラクターネーム呼びする時……それは母さんがもの凄く壊れている時だ。

ぶわっ、と一気に涙があふれ出した瞬間、母は顔を真っ赤にしながら目の前の父に必死に訴え

始めた。

 

「痛い、痛い、すごく痛いよう」

「うんうん、頭だろ。それだけ熱があるんだから関節も痛いだろうな。声もいつもと違うから

喉もやられてるのか」

 

父の言葉に必死に頷こうとして頭に響いたのだろう、更に勢いよく涙を流しながら「ううっ、

痛い」とグチャグチャになっている。

普段のおっとりとした姿からは想像もできない母の変貌ぶりに驚いて芽衣が固まってしまって

いるのに気づいたオレは、急いで妹に声をかけるため口を開きかけた時、信じられない言葉を耳に

した。

 

「あーあ、お母さん可愛くなっちゃった」

 

それからオレに振り返り「ね、お兄ちゃん」と呆れたように笑っている。

 

「え?……芽衣……もしかして、母さんが熱出してこうなった姿、見るの、初めてじゃない

のか?」

 

オレは随分と間の抜けな顔になっているだろう自覚はあったが、修正する気力すら無く妹に恐る

恐る尋ねた。

「まさか」の思いも空しく、芽衣はさらり、と一言「うん」と頷いてくる。

いや、だって、それおかしいだろ。オレなんて母さんが熱を出した時は父さんから絶対に寝室には

入るなって言われて、結構淋しかったのに頑張って我慢した記憶が何回かある。それこそ入室を

許されたのは小学校の高学年頃で……とそこまでを思い出して愕然となった。

そうだ、オレが父さんから「母さんに抱きついていい」と許されていたのは10歳までで……

当時のオレが熱を出した母さんの姿を見たら迷わず抱きつく、と今ならはっきり断言できる。

だからか……抱きつけない年齢になってから、熱を出した時だけ今のように無防備で無邪気な母の

いる寝室に入る許可を出したのは……。

父の意図するものを悟ってオレは一気に落ち込んだ。

今日の今日までオレが寝室に入れなかったのは、小さいオレに病気をうつさない為だと解釈して

いた自分は、まだまだ母に対する父の執愛がわかっていなかったのだと。

オレの落ち込む姿など気にも懸けず父は泣き続けている母に向かって顔を寄せた。

 

「ほら、泣くとよけい息が浅くなって苦しくなるぞ」

 

言うなり目尻から流れている涙に口を付けてチュッっと吸う。

 

「ちょっ、父さんっ、芽衣の目の前で……」

 

いくら夫婦仲が良いとはいえ小学校2年生の娘に見せていい姿ではないだろう。

母との触れ合いに水を差されて面白くないのか、ジロリとオレに視線だけを向けてからそのまま

芽衣を見るので、つられてオレも見れば頭を撫でた父の手が今はしっかりと妹の両目を塞いで

いる。

そういうところはそつが無いんだな、と妙に感心していると再び枕もとから庇護欲をそそられる

声が聞こえてきた。

 

「ふえっ……ふぅうっ……それにポカポカ……クラクラする……の……」

「見栄張って和真に体温誤魔化すからだろ」

 

少々の怒り口調が心に刺さったのか、怯えたように眉を一層歪ませている。

それでも熱のせいで火照った顔を自分に向け、必死に弁解する母の姿を映す父の瞳にキツさは

なかった。

 

「ううーっ、だって……だって、和真くんに……ふうっ……心配かけたく……なかったんだもん」

「ったく、家族に余計な気を遣って……そのクセ、まだなおってなかったんだな」

「ごっ……ごめんなさい……」

 

再びポロポロと透明度の高い涙がこぼれ落ち、当然のように父が口づける。

父の手で顔を覆われている芽衣がそろそろ我慢の限界で、バタバタと暴れ始めたので後ろから

両肩をつかんで「おいで、芽衣」と言いながら、くるりと身体を回転させ自分の足下に引き

寄せた。

父は芽衣に触れていた手をそのまま母に移し、汗で額にはりついた前髪を払っている。

 

「謝るなら和真に、だろ」

「……和真くん、いる?」

「いるよ、ここに」

「んぅっ、ごめんね」

 

潤んだ目でぼんやりと自分を見つめ、舌っ足らずの口調で謝られたら何をされても許してしまい

そうだ。我が母ながら、これは本当に反則級だと痛感する。父の所行も夫としては納得だな思い

ながら、それでも布団の中で母の手を握り、一方の腕で小さい頭を抱え込むようにして母に密着

している父も……何と言うか息子の自分から見ても呆れるほど色々と壊れているようだ。

 

「いいって……でも今度からはちゃんと正直に言ってよ」

「っ……うん」

「ほら、和真、氷、芽衣と取ってきてくれ」

 

これで母と息子の会話は終了だ、と言いたげに、母の返事にかぶせるように父がオレ達を部屋から

追いだす勢いで、顎でクイッ、クイッと部屋のドアを指す。

オレに注がれていた母からの視線は力尽きたように瞼で遮られてしまい、加えてその上を父の手が

ゆっくりと労るように往復しているとなれば居たたまれなさ大爆発だ。

芽衣の手を引いて氷を取りに行こうと母に背を向けた時、誰に請うわけでもない小さな呟きが耳に

飛び込んできた。

 

「んー……ババロア……食べたい」

 

母の願いにすぐさま父が反応する。

 

「和真」

「作ってあるよ。冷蔵庫に冷やしてあるから氷と一緒に持ってくる」

 

そう答えれば、父がこの部屋に入ってから初めて「上出来だ」とオレを褒めるような眼差しで

笑った。

我が家では誰かが熱を出すと必ず母がババロアを作る。

卵に砂糖、牛乳と生クリームにゼラチン……材料はいたってシンプル。冷たくてツルンとした

舌触りは喉ごしもよく、食欲が落ちていても口に入れやすい。母ならこれに季節に応じて苺を

使ったり桃やメロンを入れてくれる時もあるが、今回オレは早く仕上げる為にごくごくオーソ

ドックスなババロアを用意していた。

今では何もまごつく事なく作れるようになったババロアだが、初めて挑戦したのは意外にも父と

共にだ。

オレが幼い頃キッチンで作業をする時、そのすぐ隣には常に母の存在があったが、ババロアに

限っては父と共同戦線を張らざるをえなかった。なぜなら肝心の母が熱を出していたからだ。

自分が困らない程度には家事全般をこなす父だったが、スイーツとなると未知の領域で当時は

二人で大騒ぎをしながらモニター越しにユイ姉に作り方を教えてもらいババロアを作った記憶が

ある。結果、後で味見をしたらほとんど甘みのないババロアを母はベッドの上で「美味しい」と

言って食べてくれた。

そんな事を思い出しながら冷蔵庫からババロアの入ったカップを取り出していると、ボウル

いっぱいの氷を抱えた芽衣が隣にやってくる。

 

「芽衣もババロア食べるか?」

「うんっ、うんっ、お母さんと一緒に食べる!」

「母さんと一緒は無理だ。父さんも帰ってきたし、母さんの熱が下がるまではうつるといけない

からあまり傍にいっちゃダメ」

「芽衣、うつらないよっ。芽衣、丈夫だもん」

「お前が我が家で一番健康優良児なのは事実だけどな。お前が良くても母さんが気にするだろ」

「お母さん、いつも言ってるよ。一緒にご飯食べる人がいると、とっても嬉しいし美味しい

ねって」

「まあ……それは、そーなんだけどさ……けど、お前に風邪がうつったら……」

「大丈夫だよ、芽衣、強いもんっ。今日だって6年生やっつけたよー」

「……は?!」

 

 

 

 

 

自分用と母用のババロアを両手に握った芽衣を半ば引きずるようにして二階まで連れて行き両親の

寝室に放り込むと、続けて自分も入り素早く後ろ手でドアを閉めたオレは片手に氷の入った

ボウルを抱えたまま脇に挟んでいたタオルを父に渡しながら「遅くなってゴメン」と謝り、入手

したての情報を報告した。

 

「今、ユイ姉に手伝ってもらって裏を取ってたんだけど、母さん、今日の昼間、外に出かけ

たって」

 

ベッドのすぐ脇に母のドレッサー用のイスを移動させ、そこに腰掛けて片手で母の手を握り、

反対の手でオレから手渡されたタオルを使い母の汗を拭おうとしていた父が固まる。

 

「……この状態でか?」

「うん……まあ、朝はここまでひどくなかったんだ。珍しく『少しだるい』って弱音吐いたから、

これは相当しんどいんだな、と思って今日の予定聞いたんだけど、来客の予定もないし仕事も

急ぎはないから今日一日休んで元気になるよ、って笑ってて……なら家事は学校から帰ってきて

オレがやるからゆっくりしてなよ、って言ったたんだけど……」

「何か仕事でトラブって……」

「じゃなくて……原因は……コイツ」

 

サイドテーブルにボウルを置いたオレは眠ってしまった母の額にババロアの容器をあてて熱を

冷まそうとしている芽衣の後頭部を小突いた。

反射的に恨めしそうな眼差しでオレを睨んでくる妹に構うことなく、話を続ける。

 

「なんか、芽衣のクラスメイトが休み時間に廊下で6年の男子児童とぶつかったとかでさ」

「桜花(おうか)ちゃん廊下で芽衣とお話ししてただけだもん。6年生が走ってきたんだよ」

「で、それに腹を立てた芽衣がその男子児童を呼び止めておいて、掃除用具の箒を使って……」

「桜花ちゃん転んじゃったのに6年生のお兄さん『ごめんなさい』しなかった!」

「男子児童は膝を擦りむいた程度のケガだったらしいんだけど」

「芽衣、何もしてないのにお兄さんが転んだの!」

 

いちいちオレの言葉に解説をつける妹の口にスプーンですくったババロアを放り込む。

 

「まあ、もともと悪いのは向こうなんだけど、悪気はなかったし、何より芽衣が箒を持ちだした

だろ。それで一応親の耳にも入れておこう、ってことになって母さんに連絡がきたんだ。そこで

真面目な母さんは……」

「わざわざ学校まで出向いたってわけか……」

 

無言で頷いたオレの隣でごっくん、とババロアを飲み込んだ芽衣が満足そうな笑顔を浮かべつつ

「お母さんと一緒に食べるから後は残しておこーとっ」と、母のババロアの隣にひとすくい欠けた

ババロアの容器をスプーンと一緒に置いた。

 

「芽衣、箒持ってただけなのに……」

「掃除の時間でもないのに、わざわざ取りに行って6年生の前で構えたって聞いたぞ」

「……構えただけだもん」

「お前なぁ……剣道の小学生の部で全国大会にでてるヤツが長さ50センチ以上の棒を構えるって

事は、ゲームの中でレベルひとケタの相手を前に父さんが二刀流を構えるようなもんだぞ。既に

視覚的攻撃でダメージ与えてる…………ホントに、後先考えずに溢れる正義感で突っ走るのは誰の

血なんだろうなぁ」

 

ぼやくように言えばベッドの中から小さく「キリトくんだよ」の声がする。

すっかり眠っていると思っていた母が布団から顔をだして、むくれ顔でオレを凝視していた。

頬を膨らませると先程までの芽衣の表情とよく似ていて、つい妹に話しかけるような口調になって

しまう。

 

「父さんの血だね、って断定はできない気がするけど。それより、ババロア持って来たよ、

食べる?」

 

オレの返答がご不満らしく頬を膨らませたまま、それでもこくん、と頷く母を見て不本意ながら

胸のあたりが甘くうずく。

そんなオレの心情を察知したのだろう、父がその母の表情を遮るように覆いかぶさり上体を抱える

ようにしてベッドから引っ張り上げ、クッションを置いたヘッドボードに寄りかからせた。

もともと水を張って置いてあった洗面器に持って来た氷とタオルを入れ、固く絞って顔にあてれば

冷たさが気持ち良いのか母の表情が蕩ける。そのまま冷えたタオルを小さく畳んで首の後ろに

あてると、幾分楽になったのだろう、ほうっ、と息を吐き出してから潤んだ瞳で父に「ババ

ロア」とねだった。父も僅かに微笑んで「わかってる」と一言告げて容器に手を伸ばす。

以前、父から母が高校生の時、当時は微熱でも今のように壊れて大騒ぎになったことがあると聞か

されて絶句したが、その頃からの経験でこうなってしまった母の扱いには慣れているのだろう、

何を言われても余裕の表情で応じている父はどこか嬉しそうにも見える。

それを見ていた芽衣も「お母さんと一緒に食べるー」と再び自分のババロアを抱えてベッドの

母のすぐ隣に這い上がった。

普段なら照れて絶対させないだろうに、父がババロアののったスプーンを口元まで運べば嬉し

そうに口を開けて迎え入れる母を見てオレの方が照れるような恥ずかしいような微妙な気分だ。

ほんのひと欠片、口に入れて貰ったババロアをゆっくりと味わって、こくんと喉に送ったのを

見届けてからもうひとくち、と父がスプーンですくおうとすれば、さっきの欠片を飲み込むまでで

体力を使い切ったようなか細い声が「も、いい」と浅い息と共に吐き出される。

 

「美味しかった……ね……芽衣ちゃん」

 

隣の芽衣を見つめて小さく笑うと、芽衣もうんっ、うんっ、と釘をたたくトンカチのように首を

縦にふってから膝の上にスプーンの入った容器をのせ「ご馳走様でした」と両手を合わせた。

芽衣のババロアはすっかり完食されている。

芽衣が母親と一緒に食べたがっているのを知ってて無理して食べたのか、と問うように

「明日奈」と父が睨めば、そんな父の視線などお構いなしで、オレに「ありがと……和真くん……

ごめんね、残しちゃった」と眉尻を下げた。

 

「構わないよ。また冷蔵庫に入れておくから」

 

何でもない事のように言って父の手からババロアを受け取ろうとすると「なら、残りはオレが」と

言ってパパッと口に放り込み、すぐさま空になった容器をオレに渡してくる。

それを見た母の眉が今度は中心に寄った。

 

「和人くん、帰ってきて……そのまま……でしょう。着替えて……晩ご飯はお魚の粕漬け……

作っておいた……から……焼いて、食べて」

 

父への呼称がキャラネームでなくなった事で母の容態が幾分落ち着いたのだとわかる。

それは父も同様に感じたようで、ほっと息を吐き出すと「横になるか?」と言って再び母の身体を

自ら支えつつベッドに横たえた。

そのまま自分の手を握って離そうとしない父に向かい、今度は母が威嚇するようにベッドの中から

父を見つめる。当人は十分睨んでいるつもりのようだが、未だ熱でぼんやりとした眼差しの上目

遣いはある意味、普通に睨まれるよりも効果があるようだ。

観念したように父が口を開いた。

 

「いいよ、機内食出たから、腹減ってないし」

 

散々渋って出た言葉がそれか……と、母もオレも軽く嘆息を吐いた。

 

「父さん、それを信じろって?……泊まりの出張帰りはいつも母さんの料理を楽しみに空腹で

帰ってくる父さんが、機内食なんて食べてくるはずないだろ」

 

オレの言葉に、まさにその通り、と言いたげな表情の母がベッドの中で小さく頷く。

 

「せっかく……キリトくんの……好きな、お漬け物……作って……おいたのに……」

 

再び父を「キリトくん」呼びしている母の言動に内心冷や汗を流しながら、それでも今は父の

食事だ、と判断してオレも追い打ちをかけた。

 

「昨日の残りの煮物と和え物にサラダもあるし、肉はちゃっちゃとタレにからませて焼けばいい

だろ。芽衣、先にキッチンに行って冷蔵庫から粕漬けの魚を出してから炊飯器のスイッチ押して

きて」

 

目的のババロアを食べ終えて満足したのか「はーい」と返事をすると、素直にベッドから下り、

戸口に向かおうとする妹に「それと」と更に言葉をかける。

 

「スイッチ押したら、直葉ちゃんに今日の事、報告しろよ」

「えーっ」

 

すぐさま振り向いて不満の声をあげるが、それを受け入れる気は毛頭無い。

 

「当たり前だろ。こんなご近所に住んでるんだ。お前のしでかした事なんてすぐ耳に入る」

「ししょーに怒られるぅ」

「だろうな」

 

当然だろう、お前は4つも年上の男子とは言え全くの素人相手に剣の構えをしたんだから、剣道

教室で芽衣を厳しく鍛えているオレ達の叔母である直葉ちゃんがこれを許すはずがない。

オレは生まれた時からの約束で叔母のことを「直葉ちゃん」と読んでいるが、芽衣は剣道の師と

いう意識が強いのか……単に使い分けが出来ないだけという説もあるが……道場に限らず叔母の

事は常に「ししょー」と呼んでいる。

そんな時、直葉ちゃんの話で思い出したように父が割り込んできた。

 

「スグなら明日、土産を貰いにうちに来るってオレんとこに連絡入ってたぞ」

 

剣道から離れれば自分の兄の海外出張のお土産を毎回楽しみにしている叔母は、可愛らしい

一面もあればちゃっかりした一面も併せ持っている。

 

「ほら、明日まで引き伸ばすと更に怒られるだろうなぁ」

「むー……、わかった」

 

そこまでのやりとりを微笑みながら聞いていた母が赤い顔で芽衣にこっそりと「えらいね」と

囁くのが聞こえた。

母からの言葉に幾分気分が上昇したのか足取りを軽くして空になったババロアの容器とスプーンを

二組持ったまま「電話、してくる」とだけ言い残して部屋から出て行く。

ドアが完全に閉じたのを確認してからオレと父は、ふぅっ、と息を吐き出すやいなや急いで二人

同時に母の枕元へ近づいた。

「キリトくん」を口にしたという事は母の熱がぶり返したという証だ。

近づいて見れば、芽衣がいなくなった事で気が緩んだのか息づかいに荒さが戻っていた。

オレが新たに氷水でタオルを絞っている脇で父が母の手と繋がっていない方の手で、早くしろと

いいたげに指で催促をしてくる。

 

「ったく、喋るのだって辛いくせに……」

 

オレが差し出したタオルをひったくるように奪うと母の顔をはじめ首筋から胸元の辺りまで熱を

冷ます為にゆっくり押し当てれば、すっかり目を閉じてしまった母が気の抜けたように深く息を

吐き出した。

 

「父さんが帰ってくるまで、芽衣も母さんが心配ですっかり大人しくなってたから、母さん、

それが嫌だったんだろ」

「だからって……無理して……平気そうに…」

 

何やら小さく文句を言いながら手にしたタオルで母に触れつつサイドテーブルに置きっ放しに

なっていた携帯端末に「ユイ」と呼びかければ、「はい、パパ」と姉がすぐさま返事をする。

家族の使っている携帯端末ならば持ち主でなくてもユイ姉とコンタクトが取れるようになって

いるが、ホログラムを展開できるのはリビングだけなので今は音声のみだ。

 

「後でモバイルモニターをこの部屋に設置するから、朝まで体温センサーモードで明日奈を

看ててくれ」

「わかりました、パパ」

 

ユイ姉にとっては朝飯前のような要望に対し二つ返事で了承の意を表すと、母が声を絞り

出すようにして「キリトくん」と父を呼ぶ。

 

「ユイちゃんに、家庭用メディカルシステム、みたいなお願いは……やだ……」

 

その言葉に反応したのはユイ姉だった。

 

「ママ、もし私が《こっちの世界》で肉体を持った娘だったとしても、やっぱりママが心配で

朝まで看病しましたよ」

 

オレの携帯端末から聞こえたユイ姉の言葉にまたもやポロポロと母の瞳から涙が溢れ始めると

「ああ、もうっ」と怒っているのか困っているのか少し乱暴に、そして何度も何度も父の唇が

母に触れる。

 

「ふうぅっん……キリトくん……いた……い……」

 

熱による症状なのか、きつめに吸われている父からの刺激なのか再び震える声で父のキャラ

ネームを呼ぶ母の喘ぎ声にギョッとしたのはオレだけではなかったようで、モニター越しの

ユイ姉が早口に「ちょっと芽衣ちゃんを見てきますね」と告げて自発的に回線を閉じた。

オレも使ったタオルをまとめて手にしてから「食事、出来たら呼ぶよ」と言えば、母に密着した

ままの父がオレを見る事なく、追い払うように空いている手だけをシッ、シッと動かして退室を

強制してくる。

ここにいても自分が役立つことはなさそうだと判断して思春期の想像力をかき立てる母の声と

吐息を耳に入れないようにする為、お粥も作らなきゃな、とこれからの段取りで頭をいっぱいに

する努力をしながら早々に両親の寝室を出た。

 

 

 

 

 

コンッ、コンッとドアをノックしてからゆっくり五つ数えて、オレは両親の寝室のドアノブに

手をかける。とりあえず顔だけを入れて「父さん、ご飯、出来たけど」と小さく言いながら

室内を覗くと、先程よりも規則的な寝息だけが部屋に漂っており、父は相変わらずベッド

サイドに陣取って両手で母の手を包み、その寝顔をジッと見つめていた。

その静かな眼差しは母の全身を包み込んでいるようで、男のオレでさえドキッとさせられる。

ベッドに近づきつつ動揺を誤魔化すように小声で「玄関にあった父さんの荷物、書斎に運んで

おいたよ」と言えば、やっとオレの方を向いてくれた父が「さんきゅ」と表情を和らげる。

周りの友人達はこの父を見る機会がないので母ばかりを羨ましそうに、キレイだの美人だのと

褒め称えるが、クラスの女子が父を見たら大騒ぎをするんだろうな、という予想が容易にできる

くらいウチは二親ともに人の目を引く容姿を持っている。

ただ互いの事が好きすぎて壊れ気味なので、あえて自分から自慢げに見せる気にならないのが

残念なところだ。

まあ、父さんがこんな表情で甘い視線を注ぐのは母さんしかいないけど、母さんは無自覚に

ふりまくからなぁ……頼むからオレの友達の純心を弄ばないで欲しい、と最近、切実に思うオレは

やけに自宅に遊びに来たがる友人達の顔が思い浮かんできて、慌ててそれを追い払った。

 

「様子はどう?」

「ん、だいぶ落ち着いた。熱も8度台にまで下がったし」

「……わかるの?」

「当たり前だろ」

 

そうだった、この二親は当たり前でない容姿に加えて、当たり前でないスキルを当たり前のように

発動させるんだった。

容姿においては労せずしてオレも恩恵にあずかっているから文句を言うつもりはないが、己の

超感覚が一般的だと思い込んでいる部分はいただけない。しかしそこをいくら指摘してみた

ところで「そうなの?」「そうか?」と見事に同期した表情と返事を返されるのもまた経験済み

なので、オレは軽く鼻から息を吐き出すだけで流すと「なら下でご飯食べられる?」と言うだけに

留めた。

 

「そうだな。でもその前に書斎からユイのモニターを持って来ないと……」

 

言いながら母から離れて父が立ち上がった時だ、寝ているはずの母の手が父のぬくもりを探して

空をかき父の上着の裾を掴む。

父に食事をさせたがっていたくせに、離れるのを嫌がる母の行動に父が困り笑いを漏らした。

 

「本能と理性が混ざってるな」

「……だね」

 

再びイスに腰を降ろそうとする父に向かい、オレが思わず「ならオレが……」と口にすれば、

途端に挑むような笑みで父が「お前が?」と聞き返してくる。

 

「父さんが食事している間、オレが代わりに手を握ってるよ」

「ふーん、お前がね……やってみれば?」

 

からかうように言われ、少々ムッとしたオレは父の上着の裾を掴んでいる母の細い指を一本一本

ゆっくりとはずすと、場所を交代してさっきまで見ていたように両手でふわりと包み込んだ。

が、途端にするりと母はオレの手の中から逃げ出して父を求め、手を彷徨わせている。

後ろの頭上から、くっくっくっ、と忍び笑いが聞こえるが、それに反応する気力は持ち合わせて

いなかった。

 

「……なんか、地味にへこむね、これ」

 

寝ていながら自分の夫と息子の手の違いがわかるって……こっちも超感覚か。

 

「当たり前だろ……一体どれだけオレが明日奈と手を重ねてきたと思ってるんだ」

「そうなんだろうけどさ……」

 

再び「当たり前」を聞かされてオレが溜め息をつくと、父がばさり、と上着を脱いでそれを母に

被せる。「少しだけ、これで我慢しててくれ。すぐに戻ってくるから」と言えば、母は眠った

まますぐにその上着をギュッと抱えると安心したように顔を埋めた。

 

 

 

 

 

深夜の三時を過ぎて、音を立てないよう両親の寝室に入ると相変わらず母の手を片手で握って

いる父がベッドに顔から突っ伏してスースーと寝息を立てている。寝落ちする直前まで仕事を

していたのか、もう片方の手元には既にブラックアウトしたタブレットが掛け布団の上で危うい

バランスをとっていた。床に滑り落ちそうなそれを回収してから持参したブランケットをそっと

父にかけると、音を立てたつもりはないのに「和真くん?」と母が細い声でオレの名を呼ぶ。

 

「ゴメン、母さん、起こしちゃった?」

 

父が眠ってしまったことでユイ姉が部屋の照明を調節したのだろう、薄暗い室内では母の顔色も

よくわからなかったが名前を呼んでくれた声に数時間前よりもしっかりとしたものを感じて少し

安心する。「今まで起きてたの?」と聞かれたので軽く頭を振ってから「あっ、見えないか」と

自嘲して言葉を続けた。

 

「ちゃんと今まで寝てたよ。でも三時の段階で父さんが寝ちゃってたら、オレを起こして欲しい

ってユイ姉に頼んでおいたんだ」

 

まさに予想したとおり、とちょっと可笑しくなってフフッと笑いながら父を見る。

 

「どうせ強行軍で帰国したんだろ。時差ボケだってあるだろうに、ホント、母さんの事となると

無茶するよな父さんって」

「そうだね。現地の最終便のチケットとって、無理矢理帰ってきたみたいだから……本当はもう

一泊の予定だったのに……」

 

その声は慣れ親しんだ母特有の慈愛に満ちたもので、それだけで体調が随分と良くなったのだと

わかる。

 

「母さんだって、ここ最近、随分と仕事入れてたよね?」

「んー……昔からお世話になってる方からのお仕事が偶然重なってね」

 

「お断りするのも申し訳なくて……」と言い訳がましい口調で言った後「でも、それで家族に迷惑

かけたらダメだよね」と反省の色を見せた。

 

「うん……病気は誰だってなるから、それは仕方ないと思うけど……父さんだって言ってたろ、

家族に気を遣いすぎだって。母さんは仕事もあるのに家事も完璧にこなしたがるからね……」

 

そこで一旦区切って、オレは以前から聞きたかった言葉を口にした。

 

「……本当は今の仕事、本格的にやりたかったんじゃないの?」

「えぇっ?」

 

母はオレからの問いが随分と意外だったらしく短い驚声をあげたまま固まってしまったようだ。

 

「だって今の生活を維持するだけなら父さんの稼ぎで十分だろう?」

 

母への烈火の如き愛情には呆れるが、仕事の面では業界内で『桐ヶ谷和人』の名を知らぬ者は

いないとさえ言われている程、常に成果を上げ続けている父だ、ヘッドハンティングの話も後を

絶たないらしいし、そうなれば母が我が家の家計のやりくりに窮しているとは考えにくい。

 

「前に父さんが呟いていたことがあってさ……『明日奈がオレみたいに、やりたい事を思いっきり

やれる環境だったら、オレなんか足下にも及ばない事を成し遂げるんだろうな』って……」

 

オレが告げた父の言葉に薄明かりでも分かるほど母の表情が喜色めいたものへと変化した。

 

「ホントに?……和人くん、そう言ってた?」

「ああ、オレだって母さんに非凡の才がある事くらい、わかってるつもりだけど?」

 

でなければとうに会社を辞め主婦業を軸としている母に断らなければないない数の依頼がくる

はずがない。

オレが告げた評価に「ありがと」とだけ言うと母は軽く首を横に振った。

 

「でもね、違うの、和真くん。私の事じゃなくて……今、和人くんはちゃんとやりたい事がやれて

るんだって事が、とっても嬉しいの……だってね、私が一番にやりたい事は……和人くんを支える

事だから」

「……母さん……」

「私と和人くん……キリトくんが出会ったのが『デス・ゲーム』と呼ばれるゲーム内なのは

知ってるでしょう?」

 

母が唐突に口にした父との出会いに、オレは少しの戸惑いを感じながらも小さく頷きながら

「うん」と答える。

 

「キリトくんとパーティーを組んだのはゲーム内に閉じ込められて一ヶ月くらいが経った頃

だったかな。それからしばらく一緒に行動してたけど……数ヶ月後のある時、パーティーを

解消しようってなってね」

「父さんが母さんの手を放すなんて信じられないな……」

「あの時は……二人とも口にはしなかったけど、そうする事でしかお互いを守れなかったの……

私はまだまだキリトくんとのレベルの差がありすぎて、一緒にいたら足をひっぱるってわかって

たし、キリトくんはキリトくんで一緒にいれば私を余計な厄介事に巻き込んでしまうって思いが

あって……」

 

母はその頃の想いを少し辛そうな声でオレに伝えると、ひと呼吸置いてから真っ直な視線をオレに

向けた。

薄暗い室内でもハッキリとわかるくらい、そのはしばみ色の瞳には強い決意が浮かんでいる。

 

「だから今度は、キリトくんが必要としてくれる位強くなろうって頑張ったんだよ。そうすれば、

いつか、キリトくんを傍で守れる日がくるかも、って思って……結局、レベルは追いつかなかった

けどね」

 

そこで母はちょっと悔しそうに笑った。

しかしそこまでの想いをオレが理解出来る日は来ないんだと痛感する……だってオレにとって

ゲームはやはりゲームでしかないのだ。それは父親がVRワールドの世界に大きく関わっている

からこそ、AIを姉と認識しているからこそ強く実感してきたオレなりの答えだった。

 

「でも……ここはゲームの世界じゃないよ」

「ふふっ、私達にとっては同じなの。私が『守ってね』って頼れるのは和人くんだけだし、

和人くんが守ってくれてるから、私も和人くんを『守る』ことができるんだよ……ああ、もちろん

和真くんやユイちゃん、芽衣ちゃんもね」

「お前はついでだけどな」

 

突然、むくりと父が顔をあげた。

 

「お、起きて……たんだ」

「ああ」

「結構前から起きてたよね?」

「バレてたか」

「うん、だって、手、繋いでるし」

 

さも、わかるよー、と言いたげな口ぶりの母のおでこに父がそっと自分の額を押し当てて、安堵の

息を漏らす。

 

「それに、大好きな和真くんの声がして、和人くんが起きないはず、ないでしょ?」

「だっ、大好き?」

 

母の発言にオレの声が裏返った、と、ほぼ同時に父の眉が不機嫌に歪む。

 

「こんなむさ苦しいヤツ、大好きなわけあるか」

「大好きなくせに……ちっちゃい頃はどんなにお仕事で疲れてても、和真くんが呼べば絶対

起きて、遊んであげてたじゃない」

「昔の話だろ」

「今だって変わらず好きでしょう?」

「……ずっと変わらないのはオレの一番が明日奈だってことだよ」

 

母の前だとどうしてこうもこそばゆい台詞が吐けるのか、我が父ながら呆れるを通り越して

尊敬に近い感情すら感じた。

その父の言葉をとても嬉しそうに受け止めている母も、ある意味尊敬に値する。

互いが守っているから、互いを守ることが出来るなんて、まだまだ子供のオレには理解できそうも

ない。

父から受け継いだ「大好きな人を守れるようになれ」という言葉の重みを実感して、思わず

溜め息をついていると父が身をよじって母のドレッサーの上に設置してあるモニターに声を

かけた。

 

「ユイ、ありがとう。朝までのモニタリングはもういいよ」

「でも、パパ……一応あと数時間、様子をみていた方が……」

「ユイ姉、父さんが言ってるんだから大丈夫だよ。それにこのままこの二人をモニタリングして

いると妙な負荷がかかると思う」

「なんだよ、妙な負荷って……出張中、ずっと一人で寝てたんだぞ」

「父さん、それ、当たり前だから」

「全然休んだ気がしなかった」

 

そう言うなり、父がベッドに潜り込み母を抱きしめる。

「じゃあ、おやすみ」と言いながら早々に部屋から出ようとドアに向かうオレの背中に母の

小さな声が聞こえた。

どうやら父の仕事の予定を聞いているらしいが、既に父の声は半分寝ているような状態だ。

出張後のいつものパターンなら数日は有休を取っているはずで、その間、四六時中母にべったり

張り付くのもパターン化している。

しばらくは家の中でうっとうしい夫婦の姿を見なくてはいけないのか、と思うと同時に、父が

有休の間は男友達を家に招くことは出来ないな、と判断してオレは断る理由を考えつつ、

それでも母の回復に安心と嬉しさを足取りに混ぜながら自室に戻った。

 

 

 

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

明日奈の枕元に和人と和真が駆け寄っている頃、兄に言われ、学校での出来事を直葉に電話で

報告する芽衣は……

 

「……でね、6年生のお兄さんが『うおーっ』って来て、桜花(おうか)ちゃんが『うひょーん』ってなっちゃったから、芽衣がね……」

「ちょっと待った、芽衣っ」

「なーにー、ししょー」

「今、そこに和真はいないの?」

「お兄ちゃん?、お兄ちゃんはお母さんトコだよ」

「ならおにい……じゃなかった。お父さんは?」

「お父さんもお母さんトコー」

「二人とも明日奈さんトコ?、何やってんの?」

「うん、お母さんね、ふにゃふにゃとろ〜ん、って可愛くなっちゃったの」

「……うーん、明日奈さんは昔から綺麗で可愛いけどなぁ」

「そうじゃないってば、ししょー」

「ああっ、もう、話が見えないっ。いいよ、芽衣。明日そっちにお土産貰いに行くから、その時

ゆっくり聞く!」

「わかったー。じゃあ、おやすみなさーい」

「はい、おやすみー」

 

プチンッ、と画像が切れてビデオ通話を終えると、ちょうど二階から和真が下りてくる。

 

「芽衣ー、直葉ちゃんにちゃんと連絡したかー?」

「したよー」

「ユイ姉、聞いてたんだろ?、大丈夫だった?」

「……明日、きちんと報告しましょう……」




お読みいただき、有り難うございました。
VRの技術が発達しているだろうその時代に、海外出張はかなり珍しいのかも
しれませんが、そこはそれ、どんな世の中でも直接見て話すことに意味がある事も
あるのですっ(無理矢理!?)
『超S級な存在』の「発熱した時の明日奈さん」の独自設定を流用させていただきました。
この後、せっかくの有休なのに和人は絶対寝込むだろうなー、と思います(笑)
では、次回は二人が婚約中のお話をお届けしたいと思います。


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甘え上戸(じょうご)

ご本家(原作)様の『アリシぜージョン』最終巻で和人がアメリカ留学を
変更してしまいましたが……今回はそのままサンタクララに明日奈と共に留学したと
仮定した場合のお話です。
二人で留学を終え、帰国して……時間軸的にはこちらに投稿してあります
「【番外編】ふたりの約束(みらい)」の途中になります。


今夜は明日奈を主役として里香、珪子、詩乃、直葉が一つの丸いローテーブルを囲むように

座布団に腰を降ろしている。

場所は都内、独身女性をターゲットとして建てられた小綺麗なアパートで、大学に通うため

一人暮らしを始めた直葉の部屋だ。

一人暮らしと言っても川越の自宅より会社に近いという理由で母の翠がしょっちゅう泊まりに

きている。一人娘を思いやっての行動だろうが、今現在、翠しか住んでいない桐ヶ谷の家に

長い移動時間をかけてまで帰りたいと思えないからでもあるのだろう。

そんなわけで普段なら一人で、もしくは泊まりに来た母と二人で使うには充分な大きさの

テーブルに、今夜ばかりは置ききれないほどの料理が並んでいた。

そして部屋にいる女性全員が思い思いの飲み物を手にした事を確認すると、この場を

仕切る里香が自らのグラスを掲げる。

 

「では、アスナの帰国と婚約を祝しまして……」

 

その音頭で里香を含める四人が「カンパーイ」を声を合わせた。

今日の主役の明日奈が「ありがとう」と照れ笑いを浮かべつつ、それぞれにグラスを鳴らす。

ゴクゴクゴクと一気にビールをあおった里香のグラスが一瞬にして空になると、主役である

はずの明日奈が隣からすかさず新たにビールを注いだ。

その手つきを眺めていた里香の瞳が怪しくキラーンッと光る。

 

「あああ〜、ついに《現実世界》でも左手の薬指にリングをするようになったのねぇ」

 

その言葉にその場の全員の視線が明日奈の左手に集中した。そこには水妖精アバターの瞳色を

思わせるサファイアがキラキラと幸せの光を放っている。

小粒ではあるが質の良い天然石でロイヤルブルーと呼ばれる深い青だ。

 

「ううっ……そんなに見ないでよぅ」

 

思わず頬を赤らめつつ右手で左手を包み込む。

その仕草に詩乃が冷めた視線を送った。

 

「なら、なんでわざわざ付けてくるの……」

「だって……キリトくんが『虫除け』にいつも付けてろって……」

「あーはいはい、ご馳走様」

「シノノンっ」

 

たまりかねたように染めた顔のまま詩乃を睨むが、当の詩乃は気にする風でもなく、ごくんっと

グラス内のビールを飲み干す。

早くも数本の缶ビールが空になったのを見て、部屋の主である直葉が「ビール、冷蔵庫から取って

きますね」と立ち上がった。

明日奈と共にアルコール度数の低い柑橘系サワーを飲んでいた珪子が、ほうっ、と頬を緩ませ

ながら溜め息をつく。

 

「ウンディーネのアスナさんの瞳と同じ色で、ホント綺麗ですねぇ……キリトさんが選んだん

ですか?」

 

純粋な憧れの視線を薬指に感じ、照れながらも「うん、誕生石でもあるし」と素直に答える

今宵の主役を見て、里香と詩乃も溜め息をついた。

そこにビールを持った直葉が爆弾を投下する。

 

「お兄ちゃんたらアメリカに留学していた間もアスナさんに指輪付けさせてたんですよー」

「ええーっ!、なにそれ、ホントなのアスナ?」

「う……ん、まあ……」

 

困ったように笑いながら肯定する明日奈に里香は口を開けたまま唖然としていた。

その時の記憶を思い出したのか直葉が少々興奮気味に言葉を続ける。

 

「私もサンタクララに遊びに行かせてもらった時、見て、ビックリしました。普通にペアリング

してるんですから。向こうで籍を入れちゃったのかと思って」

「……すごい独占欲ね」

 

詩乃が低い声で言い放った。それを慌てて否定するように明日奈が両手をパタパタと振る。

 

「そうじゃないってば……日本人ってやっぱり実年齢より若く見えるみたいで、向こうの大学

校内でやたら声をかけられたのよ。『迷子かな?』とか『一緒についていってあげようか』って。

だからとりあえず左手の薬指に指輪でもすれば、少なくとも校内に迷い込んだ子供には見えない

だろう、って事だったと思うの」

 

その説明にその場の全員の瞳がやるせない色に変わったのに明日奈は気づかない。

「ああ〜っ」と脱力したように息を吐き出し、里香がうろんげに明日奈に問う。

 

「アスナ……あんた、それ、本気で言ってる?」

 

対する明日奈はしごく真面目な面持ちで首を傾げた。そのリアクションに詩乃の目つきが

ますます剣呑なものとなる。仮にそんな馬鹿馬鹿しい理由が本当なら、ペアリングにする

必要がない事は少し考えればわかるでしょう……と視線で訴えてみるが、当の本人はそれ

以外の理由に思い至らないのか「んんー」と言いながら唇を尖らせていた。

 

「変なところでズレてるのよね、アスナって……キリトも苦労するわね」

「そうなんですよ、アスナさんの自覚が薄いせいか、向こうでのお兄ちゃんときたら、こっちに

いた時よりベッタベタになってて……本人は、アメリカだと普通だって言うんですけど。一緒に

いて本当に目の遣り場に困りましたっ」

 

え?、そうだったの?、と明日奈は目をパチクリさせている。「言ってよ、直葉ちゃん」と眉尻が

下がったのと同時に詩乃が「結局、独占欲じゃない」と漏らしたのが耳に入り、ますます眉が

ハの字になった。

そんなやりとりを見ていた珪子が苦笑いをしながら直葉に問いかける。

 

「確か春休みに行ってきたんですよね?」

「うん、最初は初めての海外ってことで一人で行くのにお母さんがあまり良い顔をしなかったん

だけど、あっちの空港までお兄ちゃんが迎えに来てくれたし……ああ、あとね、その年のお正月に

お父さんが帰国してておせちつつきながら、年末年始にお兄ちゃんとアスナさんが帰国しない

のって、アスナさんのお腹が大きくなっちゃってるからだったりしてなー、なんてほろ酔いで

言ったんですよね」

「えええええーっ!」

 

途端に明日奈が両手で頬をおさえてオロオロと視線を彷徨わせた。と、ほぼ同時に両隣の里香と

詩乃が思わず明日奈のウエストラインを確認する。

 

「そ、そ、そ、そんなっ、おじさまったら」

「まあ、まあ、落ち着きなさい、アスナ」

 

別段、体型に変化のないことを確認し、里香は親友を静めようと明日奈の背を軽く叩いた。

 

「それを完全に真に受けたわけではないと思いますけど、なんかお母さんもその辺りから

前向きになってくれて……。サンタクララの部屋にお邪魔してアスナさんがキッチンに立って

いる間に、お兄ちゃんにその話をしたら絶句してました」

 

思い出したようにクスクスと笑う直葉の前で明日奈は言葉を失っている。

 

「あ、大丈夫ですよ、アスナさん。お兄ちゃんにも言いましたけど留学前にうちのお母さんが

妊娠だけは絶対にダメだからって釘刺したこと、信用してなかったわけじゃないですから。

それよりアスナさんに京都の帰省をさせたくなくてお兄ちゃんがアメリカに引き留めたんじゃ

ないかって、そっちを気にしてたんです」

「それは……違うの。あれは逆に私がキリトくんを引き留めてしまったようなもので……」

 

その説明に今度は里香が首を傾げた。

 

「どういうこと?」

「うん、私の家は毎年年越しに京都の本家に行くでしょ。でも留学した最初の年はうちの

両親が京都に同行しなくていいって言ってくれて。どうせ留学の内容より海外で男性と同棲

してることで色々言われるに違いないからって」

 

身内の有り様を恥じるように明日奈は苦笑いをしてから再度口を開く。

 

「それで、その時は兄が久しぶりに行ける事になって『くだらない話題が出ないくらい俺が

注目を浴びてくるよ』って。だから私は一人で世田谷の家でお留守番をするつもりだったん

だけど、それを知ったキリトくんが『だったら川越のウチに来ればいい』って……」

「当然ね」

「そうですよっ、ウチに来てくれれば良かったのにっ」

 

ほぼ同時に詩乃と直葉が声を上げる。二人の言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべた明日奈だったが

そのままゆるく首を横に振った。

 

「それはできないよ。京都で両親や兄が親族から好奇の目で見られたり、謂われのない言葉を

受けている時に、原因である私がぬくぬくと大好きな人達に囲まれているなんて……」

「……アスナ」

 

隣の里香が優しく明日奈の背中をさする。

 

「世田谷の実家に一人でいるのもダメ、かといって桐ヶ谷のお家にお邪魔も出来ない、『なら

このまま二人でアメリカにいよう』ってキリトくんが言ってくれて……だからキリトくんが

日本に帰れなかったのは私のせいなの」

 

申し訳ない気持ちでいっぱいになった明日奈が俯いてしまったのを見て、直葉は慌てて「いいん

です」と何度も繰り返した。

 

「お兄ちゃんの気持ちも、アスナさんの思いもわかりますから……それなのに変な事言ってた

ウチの父がバカなんです」

 

その言葉を聞いてほんの少し笑顔を取り戻した明日奈だったが、すぐさま直葉に向けて少し首を

傾げる。

 

「有り難う、直葉ちゃん……でも……確かおじさま、日本に帰国される前にサンタクララに寄って

くださって……その時にちゃんと帰国しない理由をお伝えしたんだけど……それに、私の体型

だって、その時にご覧になってるはずで……」

 

そこまで口にしてから目の前の直葉の拳がプルプルと震えていることに気づいたのか言葉が

止まった。

 

「あん……のっ、狸おやじっ……私とお母さんをからかったんだわっ」

 

言うやいなや直葉は缶ビールのタブをプッシュッとあけるとそのまま一気に中身をあおった。

明日奈は困ったように微笑むと「そんなところはキリトくんと似てるね」と嬉しそうにグラスに

口をつける。

婚約者であるキリトが実は直葉の父と全く血縁がないことはかなり前に本人から打ち明けられて

いたが、それでも父子として育ってきた環境は少なからず影響を与えているのだろう。普段は

遠方の地に赴任している直葉の父なので、なかなか当人に挨拶をする機会もなかったのだが

二人の留学先がアメリカという事で奇しくも留学中は同じ国内に住まう事となった為、度々

仕事の合間を縫っては和人と明日奈の様子見に来てくれていた。

キリトにとって父親の訪問は歓迎すべきものではないらしく「絶対、アスナの手料理目当て

だっ」といつも不機嫌そうな顔をしていたが、家族で食卓を囲む機会の少なかった明日奈に

とって和人の父の来訪は楽しい時間でしかなく……その際に感じた事だが、血の繋がりは

なくとも桐ヶ谷家の父と息子はよく似ていた。

息子をからかう口調も、その為にヘソを曲げてしまった息子を見つめる優しい眼差しも、

ひいては料理の味付けの好みまで。自分の父と兄はこれ程似ていただろうか、と記憶を攫って

しまう程に。そして和人と父親の相似点をひとつ見つける度に明日奈は嬉しくなってしまうのだ。

だから直葉の口から「からかわれた」と聞いた時も思わず頬を緩めてしまったのだが、当の

直葉にしてみればおもしろくないのだろう、唸りながらも立て続けに次の缶ビールを空にする

飲みっぷりを見ると、こちらは母娘の共通点なのかもしれない。

そんな直葉の様子を見て、しばらくは手が付けられないだろうと判断した周囲は、直葉をその

ままに話題を明日奈の婚約へと戻した。

 

「それにしてもアスナの帰国祝いで集まろうって声をかけた時、リーファから婚約の話を聞いて

ホント、驚いたわよ。だいたいアインクラッドで結婚した時はちゃんと報告してくれたのに、

なんでリアルでは何の連絡もないわけっ?」

 

少々目の据わった里香からの視線に明日奈が「ごめんねー」と申し訳なさそうに笑う。詩乃も

手にしていたグラスの中身を一気に飲みきって、はぁっ、と息を吐き出すと隣の明日奈に向かい、

不敵な笑みを浮かべた。

 

「って事は、アイツ、ついにアスナのご両親に頭を下げたってことよね」

「その時、どんなだったんですかっ」

 

食い気味に問うてきた珪子の瞳がキラキラと輝いている。

二人からの追求の眼差しに明日奈は飲みかけていたサワーが気管に入ったのか、むせながらも

若干頬を引きつらせながら困り笑いを浮かべた。

 

「ごふっ、どんなって……別に……けふっ、けふっ……普通だよぅ」

 

涙目で答えてみるが納得してくれる様子は皆無だった。咳き込む明日奈を気遣って里香が背中を

トントンと叩いてくれるが、優しいのはその手だけで表情は全く優しくなっていない。

 

「普通ってどーゆーのなのよ」

「なら普通でいいから、その普通を聞かせて欲しいわ」

「是非、聞きたいです」

 

ずずっ、と三人の顔が明日奈の周りに迫ってくる。

その光景に気づいた直葉がニヤリと兄譲りの笑みを浮かべた。

 

「あっ、あの日ですよねー。お兄ちゃんが珍しく朝からスーツ着て、ガッチガチに緊張してた……」

「ひーっ、キリトがスーツ!、想像しただけで笑えるっ」

 

大げさにお腹を抱えている里香とは反対に詩乃は静かにプッと吹き出している。

その時の姿を思い返しているのか直葉もにまにまと頬を緩ませていた。

 

「私も思わず笑っちゃったんですけど、どうしたの?、って聞いても絶対理由を教えて

くれなくて。帰国してすぐだったんで、まさかアスナさんのお宅にご挨拶に行くなんて思わな

かったから、その日はいつも行ってる研修所じゃなくて本社に行くのかなーって思ってたん

ですけどね」

「その頃はまだ家から通ってたの?」

「はい、今は研修所近くの研修者用マンションに居ますけど……でも、夕方帰ってくるなり玄関の

上がり口に座り込んで『ああ、やっとだ……やっと』て呟いてるのが聞こえたから、もしかし

てって思ったんです」

 

直葉が段々と落ち着きを取り戻してくると、その口から語られる言葉に明日奈が泣き出しそうな

笑みを浮かべる。

 

「なんだか声もかけられなくて、お兄ちゃんに気づかれないように急いでリビングに入って

お母さんとテレビ見てたら、何でもなかったような顔でお兄ちゃんが『ただいま』って来て、

続けて『アスナと婚約したから』ってさらりと言った時はさすがにウチの母も一瞬固まって

ました」

 

何事にも動じないタイプの翠にとっても息子からのその報告は随分と前から予期していた事とは

いえ言葉を失うには十分な衝撃だったのだろう。

「アイツらしいわね」と肩をすくめた里香は幸せそうに笑う親友にその肩をすり寄せる。

 

「なら既に結納も済ませたってこと?」

 

里香からの問いに軽く明日奈が手を振った。

 

「うううん、結納は省略しちゃった。だってうちの両親の休みなんて結婚式当日の一日を

合わせるだけでやっとだもん」

「ならその指輪はいつ買ってもらったのよ」

「これは……キリトくんがウチに挨拶に来てくれた日の午後に……」

 

手元に視線を落として大事そうに指輪をさする明日奈を見て詩乃があきれ口調となる。

 

「速攻ね……結局、独占欲が強いのよ、アイツは」

 

再び同じ結論にたどり着いたと言わんばかりに頷いてから、手にしている小さなグラスに透明の

液体を注いだ。いつの間にか詩乃の前には日本酒の小瓶が並んでいる。

 

「そう……なのかな?」

 

こくり、と明日奈もサワーの残りを飲み干して首を傾げた。

 

「そうでしょうよ」

 

テーブルに頬杖をつく里香。

 

「ですよねー」

 

コクコクと頷く直葉。

 

「高校の時からずぅーっと、でしたもんねぇ」

 

ぽ〜っと頬を染めた珪子。

 

「そうかなぁ……」

 

消え入りそうな明日奈の声が隣から聞こえて、手のひらに顔をのせたままの里香が、生温かい

視線を向けた。

 

「アンタはずっとキリトが基準だからわかんない……あー、アスナ?」

 

気づけば自分の婚約者の独占欲について考えていたはずの親友はこてんとおでこをテーブルに

のせて、静かにスースーと寝息を立てている。

 

「ちょっと、アスナ?、寝ちゃってるの?……ウソ……だってまだサワー一本しか空けて

ないわよ……」

「あー、やっぱり、ホントだったんだ」

 

直葉が予測していたように笑いながら未だ明日奈が握り締めている空のグラスを細い指から

そっと抜き取った。

 

「実は、この飲み会の事をお兄ちゃんにも伝えておいたんですけど、その時『きっとすぐに

寝ちゃうだろうから適当な時間に迎えに行く』って」

「はあああっっっ、アスナのことなら全てお見通しってわけね」

 

呆れた声をあげた里香に続いて珪子がじとーっ、と羨望の眼差しと共に溜め息を吐き出した。

 

「あー……、いいなぁ、アスナさん」

 

それから何やらゴソゴソと四つん這いで明日奈の後ろに移動すると、膝立ちになってそっと

彼女の髪をなでる。

 

「こーんなに髪の毛もツヤッツヤのサラッサラで……ふむぅっ、気持ちいい……」

「えっ……シリカ?」

「頭もちーっちゃくて、なんか良い匂い……するしぃ」

 

さらさらと髪の毛を触っていたかと思うと、ゆっくりと覆いかぶさるように両手で明日奈の頭を

抱え込んだ珪子はすりすりと頬をすり寄せた。

 

「あれ?、こっちも酔ってる?」

「ああ……なんだか面倒くさくなってきたわね」

「うーん、この二人はこっちに移動させましょうか……」

 

直葉の提案で明日奈から剥がされて後ろから抱えられ、座ったままの状態でズルズルと部屋の

隅まで移動させられた珪子は、ペタンと座り込んだ膝の上にやはり移動させられた明日奈の頭を

のせてもらい、満足そうにひたすら彼女の髪の毛を手櫛で梳いている。

珪子に膝枕状態で横たわる明日奈へタオルケットをかけた直葉は「じゃ、飲み直しましょう」と

仕切り直して再びテーブルに戻った。

 

 

 

 

 

それから三十分程が経った頃……ピンポーンとインターフォンの鳴る音を聞いて「あ、来た

来た」と直葉が立ち上がり玄関に向かった。

ガチャリ、と鍵を解除する音がするとすぐに「あれ?」と驚いた直葉の声が聞こえる。

「まあ、どうぞどうぞ」という声がリビングに近づいてくるのに合わせて里香と詩乃が顔を

上げると直葉の後ろから相変わらず黒系の衣服を身につけた今日の主役の婚約者が部屋に入って

きた。留学期間中のタイムラグを感じさせない仕草で「よぅっ」と片手をあげた和人を見ると、

まるで高校時代に戻ったような感覚に陥った里香が応じるように自分の片手を持ち上げる。

 

「いらっしゃい……てのもなんか変よね……あ、ご婚約、おめでとうございますぅ」

 

ニヤニヤと笑いながらわざと語尾をのばして祝いの言葉を述べれば、当人は「ああ……、

有り難う」と照れたように頬をぽりぽりと掻き、すぐさまギョッとした表情に転じる。その和人の

後ろからは予想外の人物がもう一人「お邪魔しまーっす」と顔を出した。

 

「げっ、クライン……なんでアンタまで居んのよっ」

 

驚いた様子の里香に「へへっ」と笑うと勧められもしないうちに遼太郎は里香の向かいに腰を

降ろした。

 

「いやぁ、昼間、キリトに男同士で飲もうぜって電話したら、夜はアスナさんを迎えに行くっ

つーから、近くの駅前で迎えに行くまで一緒に飲んでたんだ。で、まあ俺も誰かさんを送って

やろうと思ってよ」

「あーと……すまないけど、これは……どういう……状況、なんだ?」

 

話を遮るような声に遼太郎が見上げれば、和人はリビングに足を踏み入れた位置で部屋の隅を

凝視したまま固まっている。「なんだ?、なんだ?」と言いつつ和人の視線の先である里香の

背後を覗き見れば、寝ている明日奈の頭を膝にのせた珪子がとろんとした目つきで一心に

明日奈の髪をなでていた。

口元は僅かに緩み、耳をすませば「ふふっ、ふふっ」と小さく悦に入った声を漏らしている。

リビングに入ってきた和人にはスッと手をあげ、続く遼太郎にはペコリと頭を下げて挨拶を

済ませた詩乃がガラス製のお猪口にくぴくぴと口を付けながら、ようやく声を発した。

 

「婚約おめでとう、キリト。それね、二人とも缶サワー一本で出来上がっちゃったのよ。アスナが

そうなるのはわかってたんでしょ?」

 

その問いに頷きながら「アリガト」と儀礼的に謝辞を述べると、和人がおもむろに部屋の隅の

二人へと近づく。

その姿を横目で見ながら詩乃は説明を続けた。

 

「シリカの方はさすがビーストテイマーと言うべきかしら。アスナの毛並みがいたくお気に

召したようで、さっきからずっと撫で続けてるの。アスナも気持ちよさそうに眠ってるから

そのままにしておいたんだけど……ダメだった?」

「いや、ダメって言うか……これは……うーん」

 

明日奈の傍に跪いた和人は自らの後頭部をさすりながら二人を眺めた。目の前に現れた和人に

気づく様子も見せず、珪子はひたすら明日奈の毛繕いにせっせと手を動かしている。

 

「えっと……あの、もしもし、シリカ、悪いんだけどアスナを……」

 

そう言いながらおずおずと伸ばした手が珪子の視界に入った途端、キッと鋭く睨み返された。

 

「ひっ!」

「あー……完全に敵認定ね」

「そんな……」

 

和人と詩乃のやりとりを黙って聞いていた里香が呆れ声をあげる。

 

「そんなのアスナを起こしちゃえばいいじゃない。どうせ、もう連れて帰るんでしょ?……

アースーナーっ、起きなさーいっ」

「うわぁぁっ」

 

途端に和人が振り返り、シーッ、シーッ、と人差し指を立てている。そんな騒ぎを不思議に

思った直葉がキッチンから二人分のグラスとお茶の支度を持ったまま「どうしたのー?」と

リビングに入ってきた。今度はトレイを持ったまま直葉が大声で「アスナさーん」と呼び

かける。

 

「アスナさーんっ、お兄ちゃん来ましたよー!」

「おまっ、スグ!、やめろ!!」

 

兄妹の雄叫びに眠り姫が身じろいだ。

 

「う……ふむゅ……んー……」

 

のろのろと手をついて起き上がると目をこすりながら和人を見上げる。自分の手から離れて

しまった栗色の毛並みを名残惜しそうに、珪子の両手は宙に浮かんだままだ。和人が

「アスナ」と小さく呼びかけると、ふにゃりと微笑んで和人に向けて両手を広げた。

和人はそっと身体を寄せて細腰に両手を回し彼女を支えると優しく耳元で囁く。

 

「まだ、寝てていいよ、アスナ」

「ん……おはよぅ、和人」

「あ……」

 

甘い微笑みを浮かべていた和人の顔が一瞬にして固まった。と同時に里香、詩乃、直葉、遼太郎も

一様に目を見開き表情を氷らせる。遼太郎がギギギッと音がしそうなほどぎこちなく首を動かして

和人に視線を向けた。

 

「今……アスナさん、なんつった?」

 

半眼の詩乃が低い声で言い放つ。

 

「か・ず・と……って聞こえたけど」

 

よっこいしょ、と明日奈を抱えるようにして立ち上がった和人は故意に明後日の方向を

向いたまま「そりゃあ、オレの名前『和人』だからな」と何食わぬ顔で言うと「じゃ、タクシー

呼んであるから帰るよ」と言ってリビングを出ようとしている。それを遮るように地を這う

ような太い声が響いた。

 

「そこにぃ……座れれれぇぇぇっ!」

 

その怒号にビクッと震えた和人は、里香の人差し指がビシッと指し示した場所に明日奈を伴った

まま素早く正座で座り込んだ。

明日奈の方はもぞもぞと和人の膝の上に腰を降ろし両足を揃えて座布団の外に逃がしているが、

両手は変わらず婚約者の首にしがみついたまますりすりと頬をすり寄せている。

 

「ふぅぅ……和人ぉ、朝ごはん、パンでいーい?」

 

その問いかけに和人は緊張したままの面持ちで正面を向いたまま端的に答えた。

 

「うん、アスナ、今は朝じゃないからな、パンはまた後でいいよ」

「んー」

 

納得したように和人の胸にこてんと頭を預け、両手をぱたりと降ろした明日奈がスースーと

寝息を立て始めた。

 

「聞き間違いじゃあ、なさそうねぇ」

 

里香がじとーっ、と睨んでくる。「ああ、まあ」と言葉を濁していた和人だったが、四人からの

視線にいたたまれなくなったのか観念したようにまず一息吐き出した。

 

「だから……アスナ、酔うとやたらと甘えてくるんだよ」

「さっきまでは大人しく寝てたわよ」

 

詩乃が真実を見極めようと視線を鋭くした。

 

「そこは、まあ……その、オレ限定……らしくて」

「なにそれ」

「たまんねーな、そりゃ」

 

驚く里香の声と同時に遼太郎がニヤリと笑う。今度は和人がジロリと遼太郎を睨んだ。話の先を

進めようと詩乃が再び口を開く。

 

「それと『和人』呼びとはどう繋がるの?」

「多分だけど、普段は恥ずかしくて出来ない行為が酔ったことで枷杭が外れるみたいなんだ。

で、留学中は向こうのヤツらってみんな名前を呼び捨てだろ。それをアスナが気にしてた

みたいだからアスナも呼び捨てにすればいい、って言ったんだけど、どうも抵抗があるらしくて

……でもたまたま部屋で軽くアルコールを飲んだ時に、酔って甘えてきて、それで……」

「名前を呼び捨てにした、と……」

「ああ……でもこんなのお前達が知ったら……」

「格好の的ね。いいつまみになりそう」

「……だろ」

「だからアスナを起こしたくなかったのね」

 

先ほどからの挙動不審の理由が判明したところで一同が示し合わせたかのように瞳を光らせた。

一番近くにいた詩乃が目を細め口の端を僅かに上げたかと思うと、ちょんちょんと明日奈を

つつく。

 

「アスナ、アスナ」

「ふ……むぅ……んー、和人ぉ、今日はぁ……また、大学の研修所にぃ……戻るぅ?」

「シノン、余計なことすんなよっ」

「和人ぉー……」

 

詩乃のちょっかいで目覚めかけの朦朧とした明日奈の意識はサンタクララでの留学中と混同

しているらしく、一旦部屋に戻ってきた和人が再び大学に戻るのかをしきりと気にしている。

詩乃のイタズラに少しばかり声を荒げた和人だったが、胸元からのとろけた声を無視する

わけにもいかず、いつも明日奈に向ける柔らかな視線を落とした。

 

「戻らないよ。ってか大学は研究室、今通ってる研修所とごっちゃになってるぞ……週末は

普通に休みだからアスナと一緒にいるよ」

「一緒?……ホントにぃ?」

「ああ、本当に」

「んー、嬉しい……ずぅーっと……ずぅーっと……一緒に、いてね」

 

極上の笑みを浮かべた明日奈を見て、友人達は男女問わず一様に頬を赤らめた。

唯一、その笑みを独占し続けている和人だけが困ったように微笑んでから「当たり前だろ」と

言って婚約者の額に口づけを落とす。

 

「だからお兄ちゃん、ここ日本だから。そーゆーの普通じゃないからね」

 

うんざりしたような妹の口ぶりに兄はとぼけた調子で「そうか?」と返す。

「それに」と直葉は続けた。

 

「いくら婚約中だからってけじめは大事だよ。今夜はアスナさん家に送って行くんでしょ」

「いや、オレのマンションだけど……」

「お兄ちゃんっ」

「大丈夫だって。週末にアスナが泊まりにくる事はあっちの両親も了解済みだから。それに

研修中の身だと有給なんてとれないから休みは土日しかないんだ。なのにアスナの両親とうちの

母親は休みがまちまちだろ。だから式の段取りとかは明日奈が仕事量をセーブして、全部一人で

連絡を取り合って進めてくれてるんだよ。オレが休みの日は少しでも負担を減らしてやりたい

から出来る事は一緒にしないと……」

「そうだったの……それじゃあ缶サワー一本で潰れるほど疲れてるわけよね」

「まあ、もともと強くないけどな」

 

渋々納得したように頷く詩乃の言葉に和人がおどけたように笑う。

 

「私達への連絡が遅くなったのも仕方ないかぁ……」

 

明日奈の寝顔を見つめながら里香が呟いた。「オレなんか婚約の話を聞いたの、さっきだぜ。

しかも駅前の居酒屋でっ」とブツブツ文句を言っている遼太郎に女性陣三人、同情の視線を

送るが「まぁ、いいけどよう」の言葉でつくづくこの男もキリトには甘い、と苦笑に変わる。

遼太郎が周囲の視線を集めていると、和人の腕の中で再び「ふぅぅ……」と小さな吐息が

漏れた。気づいた和人が囁くように「アスナ?」と名を呼ぶ。

 

「ん……かず、と……のど、かわ……いた……」

 

僅かに眉間に皺を寄せ、うっすらと開いた瞳で幾分掠れた声をだす様はなんとも色香に満ちて

いる。慌てたように直葉が「お水、持ってくるね」と立ち上がりかけた時、和人は明日奈を

支えているのとは反対の手で妹を制すると「それでいいよ」とテーブルの上の飲み物を

指した。

それは和人と遼太郎がやってきた時に直葉が用意したお茶だ。

合流した二人が一緒に飲めるよう追加分のグラスと、アルコールを飲まない可能性を考えて

冷蔵庫から出したファミリーサイズのペットボトルのお茶がトレイに乗ったままテーブルの

端に鎮座している。

すぐさまグラスにお茶を注ぎ、それを兄の手に渡した。

 

「言っとくけど、お兄ちゃん、口移しとかやめてよね」

「……お前達の前でするかよ」

 

口をへの字に曲げて返した言葉に遼太郎がうなだれる。

 

「……オレ達がいなかったらすんのかよ……」

 

そんな言葉には気にも留めず明日奈の頭を腕に乗せた和人がグラスを彼女の口元に近づけた。

 

「アスナ、口、開けて」

 

その言葉に何の躊躇もなく、小さく唇が動く。

ゆっくりと、少しずつお茶を流し込んでいく様子を友人達が静かに見守っていると、ひとしずく、

口の端からお茶がこぼれた。

「あっ」と声を出す間もなく、しずくは酔いのせいで軽く火照って色づいた頬を伝わり細い

おとがいから滑り落ちる直前に素早く和人の唇によって吸い上げられる。

「あああああぁぁぁぁぁ〜」と声が聞こえそうなほど、その場の空気が沈んでいくのとは反対に

一人だけ「んぐゅぅぁぁぁあああっ」とキレた声を上げたのは直葉だった。

 

「おにーちゃんっ」

「なんだよっ。お茶だから服に落ちたらシミになるだろ」

「……絶対っ、そんな事思ってないよねっ」

 

頭から湯気を出す勢いで叫んでいる直葉とは対極的に里香は冷め切った視線を和人に送る。

 

「ああ……もう、いいから、水分補給したら、さっさとアスナを連れて帰りなさい、キリト」

 

続いて遼太郎も憮然として大息した後うんざりとした表情となった。

 

「そうだな、なんか、こう、思ってたのと違うってゆーか、全然お前をつまみに酒を飲む気に

なれねぇ」

 

二人の意見に従うように詩乃も冷たい眼差しで告げる。

 

「そうね……折角今までの腹いせにこの二人で遊べると思ったのに……」

 

物騒な物言いに和人が口の端をひくつかせた。

 

「あの……シノンさん、腹いせって……」

 

そう言いかけたところで和人の携帯が鳴る。

グラスをテーブルに置いて端末画面を確認した和人は「じゃあ、下にタクシー来たから」と

言うと改めて明日奈を抱き起こし玄関に向かう。半ば夢うつつのような状態の明日奈に女性陣が

靴を履かせると、もとよりそのまま和人のマンションに行くつもりだったと思われる少し

大きめの明日奈のカバンは遼太郎が持ち、里香と詩乃、直葉は玄関先で和人達を見送った。

マンションの外で和人に支えられながらタクシーの後部座席に収まった明日奈を確認し、

遼太郎は反対側から乗り込む和人にカバンを渡す。

 

「サンキュー、クライン。助かった」

「なんの、これしき。それよりアスナさんをタクシーの中で起こすなよ。ドライバーが運転

どころじゃなくなるぞ」

「わかってる」

 

バタンッとタクシーのドアが閉まると窓越しに手をふるクラインに手を挙げるだけで応えて

和人と明日奈を乗せたタクシーは直葉のマンションから走り出した。

タクシーが見えなくなるまで手を振り続けるクラインを残して。

 

 

 

 

 

タクシーの車内で「まったく……」と、自分の肩に頭を乗せて気持ちよさそうに寝入っている

婚約者の顔を覗き込んでから、和人は独りごちた。

『嬉しい……ずぅーっと……ずぅーっと……一緒に、いてね』……オレがどれだけ一緒に

いられるよう、その手をつないでいられる人間としてふさわしくありつづけようと努力して

いるか、そんなの明日奈が一番知っていると思っていたのに……どんなに所有の証がその左手の

薬指にあっても不安だった……《あの城》の森の家でアスナはオレだけのものだと言ってくれ

たけど《現実世界》では、その言葉だけで彼女と一緒になんていられるはずもなく、焦って、

気負って、もがいて、余裕なんて全然なくて、オレが傍にいられない時も他のヤツを牽制する

為に指輪を付けさせて……それでも不安で仕方なかった……それなのに、明日奈はそんな憂いを

あっさりと飛び越えて真っ直ぐオレの中に入り込んでくる。あまりに愛おしくて震える声を隠す

為に短い言葉で返すのが精一杯だった。『当たり前だろ』なんて自分でもよく言えたものだ。

当たり前にする為に笑えるほど必死になっているのに……まいった、オレはもう一生彼女には

敵わないんじゃないかと思う。

あんな言葉をあんな笑顔で、しかもアイツらの前で不用意に晒した明日奈をこのままマンションで

寝かせてやるなんて出来そうにない。

明日は式場の下見に行く予定だけど午後からでも問題はないな。

 

和人はマンションに着いてからの行動を決めたところで、隣でスヤスヤと寝息をたてている

婚約者を引き寄せ、その髪の毛に静かに唇を寄せた。

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇ おまけ ◇◇◇◇◇

 

和人が明日奈の腰を支えている手に力を込め髪に顔を埋めている頃、二人を見送った後の直葉の

部屋ではお酒のせいばかりではなく頬を染めた里香と、その腕を掴んでいる遼太郎との言い合いが

続いていた。

 

「だーかーらー、なんでアタシがアンタに送ってもらわなきゃなんないのよ」

「そりゃあ、酔っ払ってるからだろ」

「酔ってなんかないって」

「酔っ払いの常套句だな」

「それならシリカの方がよっぽどじゃない」

 

どうだっ、と言わんばかりにピッ、と人差し指で珪子を指させば、やりとりを傍観していた

直葉が申し訳なさそうに口をはさんだ。

 

「あ、シリカは今夜、うちに泊まる約束してて……」

「ええぇぇっっ……」

「ならシリカちゃんは心配いらねーってことだな」

 

うううううーっ、と下唇を噛みしめて最後の砦と思われる詩乃に縋るような視線を送れば、彼女は

未だひとりでちびりちびりとお猪口に口をつけている。里香の視線に気づいたのか、ん?、と問う

ようにこちらを見る瞳は朦朧としてもいなければ、眠そうでもなく、どうひいき目に見ても

酔ってはいなかった。

 

「シノン……アンタってば、見た目通りすぎるわ。イメージそのまんまじゃない」

「それって褒められてるの?」

「ザルもいい加減にしなさいって言ってんの。アスナみたく可愛く酔え、とは言わないけど、

こうもうちょっと、ほら、あるでしょ〜、ほんのり赤くなるとか、呂律が回らなくなるとか

さーっ」

「無茶言わないでよ。リズこそ、その妙なハイテンションは酔ってるってことなのかしら?」

「だから、酔ってなーいっ」

 

うっきーっ、と小猿が威嚇するような仕草で頑なに酔いを否定している里香の頭を遼太郎が

ぽんぽんとはたいた。

 

「ああ、わかったわかった。普段から割とテンション高めだからわかりにくいけどよ、お前は

立派な酔っ払いだから素直にオレに送られろ」

 

その言葉に直葉がニヤニヤと笑う。

 

「わかりにくいのに、わかっちゃうんですねークラインさん」

「まっ、コイツとは長い付き合いだからよぅ」

「じゃあ、リズさんのことはクラインさんにお願いするとして……」

「ちょっとっ、リーファッ、勝手にお願いしないでよっ」

「シリカが起きるまで、もう少し二人で飲みましょうか?、シノンさん」

「そうね」

「ねぇっ、聞いてるっ?」

「邪魔したな、リーファちゃん。ほら、帰ろうぜ」

 

再び遼太郎に腕をつかまれ、ズルズルと連行されるように玄関に引きずられていく里香にむかい、

飲み直す気まんまんの二人は軽やかに手を振った。




お読みいただき、有り難うございました。
『アリシゼーション』最終巻を読む前に書いたとは言え、結局サンタクララにも
行かなければ、桐ヶ谷峰高氏もそれ程おちゃめな一面は持っていない御仁の
ようで……なんか、もう、結果、もの凄いオリジナル設定なお話になって
しまいました。
次回も、もう一本、留学(するはずだった)地、サンタクララでのお話を
お届けしたいと思います。


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捕まえて、独り占めにする

もしも和人と明日奈がサンタクララへ留学をし、同じ部屋で生活を
共にしていたら……のお話です。
実は「やさしい音」の続編と言いますか、翌日のお話なので、そちらを
先に読んでいただけると嬉しいです。



「Don’t touch(勝手にさわんなよ)、it’s mine(オレのだ)」

 

低く怒気を孕んだ声が頭のすぐ後ろから響いてきて、自分に向けられた言葉ではないとわかって

いるのに思わず身が竦む。

と、すぐさま背後から伸びてきた声の主の手が私の両肩に置かれていた大きな手の一方を、多分

物凄い力を込めて掴んだ。

 

 

 

 

 

事の起こりは私がキリトくんのお弁当を届けに彼の研究室を訪れた時のこと。

「オレが居なかったら、誰かに(弁当を)預けてすぐに帰ること」と言われていたけれど……

 

誰か、って誰もいないじゃない……

 

研究室は空だった。

置いて帰るのは不安だし、と考えあぐねいていると、いきなり両肩にバンッと野球のグローブの

ような大きくてぶ厚い手が降ってくる。

 

「ひゃっ」

 

一瞬、天井から何かが落ちてきたのかと錯覚する程の衝撃だった。

思わず膝が崩れそうになるのに堪えると、すぐ後ろから陽気な声がする。

 

「Hi、アスナ」

 

この声は……前にも一度研究室にお邪魔した時、やたら私に肩を寄せてきていた……確か……

アントニオ?

 

両肩を掴まれているせいで振り返ることが出来ない私は、なんとか相手を確認しようと

首を回す……と私の肩越しに顔を突き出した彼と、かなりの至近距離で目を合わせてしまった。

 

「どうしたんだい、今日は。またカズトの忘れ物?、カズトならすぐ下にいたから、

もう来るヨ」

 

軽く挨拶だけ済ませ、お弁当をお願いしてすぐに退出しようとしていた私に躊躇が生まれる。

それに肩に置かれた手はかなり重く、それに比例するようにアントニオはアメフト選手並の

体格だ。この束縛から脱するには、かなりの筋力値が必要だろう。

 

「それにしても相変わらずアスナの髪、キレイだネ」

 

え?!

 

声を上げる間もなくアントニオの顔が近づいてきて……ダメ!

と咄嗟に目を瞑り首を竦めた瞬間、すぐ近くで愛しいけれど、いつもよりかなり怒気のこもった

声が聞こえた。

 

 

 

 

彼がアントニオに怒声をぶつけ、手を取り払ってくれたお陰ですぐに両肩は自由になり、代わりに

「Oh!カズト、早かったネ」と相変わらず明るいアントニオの声がする。

私がすぐさま隠れるようにキリトくんの背に回ると、軽く息を切らしながらも、チラリ、と彼が

振り返った。「だから言っただろ」と不機嫌な視線が刺さる。それからもう一度牽制するように

アントニオに威嚇の眼差しを送っているが、アントニオはどこ吹く風だ。

その態度が更に気に入らなかったのだろう、私に向きなおると「アスナ、弁当ありがと」と

包みを受け取ってくれたけど……目が全然笑ってないっ。

しかも続けざま、いきなり唇を重ねてくる。

ほんの一瞬、掠めたその行為に私が反応できずにいる前で、キリトくんはこれ見よがしに

後ろのアントニオを再び睨んだ。

 

所有権を明確にしたいってことなのかしら……

 

私は居た堪れなくなって、頬の熱さをそのままに「うん、じゃあね」とだけ告げるとそそくさと

その場を離れた。

 

 

 

 

 

その日の夕方、いつも通り先に帰った私が夕食の支度をしていると、キリトくんが帰って来て、

いつも通りに二人で食べて、いつも通りに食事の後片付けをしている間に、キリトくんが

シャワーを浴びている。

いつもと違うのは、彼が極端に口数が少ないってことで……。

「ただいま」や「いただきます」「ごちそうさま」は言うのだけれど、それ以上の言葉と

なると、私の話に「うん」とか「ああ」と応えるだけで、まるで会話は弾まない。彼が帰って

くるなりお説教……を半ば覚悟していただけに、現状の方が針の筵だ。表情も不機嫌と言う

よりは何かを考え込んでいるように思える。

 

もう今日は出来るだけ顔を合わせるのはよそう

 

そう決めて彼がシャワーを終えた後も、さも締め切り間近なレポートがあるようなふりをして、

PCを睨み続けた。少ししてからキリトくんが寝室に引っ込んだのでふぅっ、と一息ついて

私もシャワーを浴びる。最後に戸締りを確認し、明日の準備をしてから、そっと寝室のドアを

開けた。

もう寝ててくれますように……と祈るように覗いた寝室の中では……彼がベッドに腰をかけ、

こちらに背を向けた姿勢でタブレットをいじっている。

リビングの明かりは消してしまっているし、今更開けたドアをそのまま閉じるような間の

抜けた事は出来ない。それに、もしかしたら私がドアを開けた音はタブレットに夢中の彼には

届いていないかもしれないし……。

それに賭けるしかなかった。

彼に気づかれないよう、素早くベッドに潜り込めれば……そう決意して寝室にそろり、と一歩を

踏み出した時だ。

 

「アスナ、やること終わった?」

 

静かな声と共にキリトくんがゆっくりと振り返る。

やはり彼の索敵スキルは今もって健在らしい。

抜き足差し足の状態で固まっている私は引きつった笑顔を浮かべるしかない。

 

「……うん。だから、もう寝るね」

 

そう宣言してシーツに手をつく。

キリトくんはこちらを向いてベッドの上にあぐらをかくと、組んだ足の中央を指差した。

 

「その前に……ここ、座って」

「うっ……」

 

拒否権は……ない……わよね。

おもむろにベッドに這い上がり、彼の顔をジッと見つめる。

不機嫌なわけでも、逆に機嫌が良いわけでもない……あらかじめ決まっていたかのような

自然体だ。

両手を広げているキリトくんがじれたようにチョイッ、チョイッ、と指を動かした。

これはもう観念するしかない、と覚悟を決め指定された場所におずおずと近づく。

たまに二人、ベッドの上でタブレット画面を覗く時などは、こうして彼の懐に入り込み、彼の

胸と私の背中を密着させて私の肩越しに画面を眺める彼と他愛もない会話を楽しむのだけれど

……今日は耳元でお説教を聞くのね、と思うと密かにため息も出るというものだ。

身体の向きを反転させて、思わず「お邪魔します」と断りつつ彼の元へと身を沈める。

すぐさまキリトくんが私を腕ごと包み込んだ。

更に後頭部にあたっているのは彼の額なのか、私は軽く押されて少し俯いた姿勢となる。

いきなりの抱擁に驚いたのも一瞬で、頭に、背中に、腕に、ピタリと寄せられた部分から

もたらされる圧に、身体の芯が痺れるようだった。

 

「んっ……ッ……」

 

かけられた微弱の圧から、思わず吐息が押し出されてしまう。

どういう事なのか戸惑っていると、後ろから探るような小さな声がした。

 

「ごめん……オレ……こっちに来てから独占欲が強くなってるな」

「……う……んんっ」

 

応じようとした短い言葉は漏れる息となり、鼻から抜けてしまう。

 

「アスナの肩にアニーの手が乗っているのを見ただけで、もう我慢できなくて……それにアイツ、

この髪に……」

 

髪をかき分けるようにキリトくんの鼻がクンクンと潜り込んでくるのがわかった。

嗅覚に意識が集中しているのか、先ほどより幾分私を縛る腕から力が抜ける。

 

「うん……あの時は有り難う。私……髪の毛を触られるのあまり好きじゃなくて……」

 

言った途端に後ろの気配がビクッと震えるのを感じ、慌てて言葉を足した。

 

「キリトくん以外の人に……だよ」

 

すぐさま安堵の吐息が聞こえる。

 

「それに、ごめんね、研究室からすぐに帰るよう言われてたのに……」

「ああ、弁当を渡そうにも誰もいなかったんだろ」

「それもあるんだけど……アントニオからキリトくんがもう来るって聞いて……」

「聞いて?」

 

言わなくてもその先はわかってるくせに、時折彼は意地悪な聞き方で返してくる。

見えないけれど、こんな時は絶対にニヤリとした笑みを浮かべているのだ。

 

「その……言わなきゃ……ダメ?」

「オレが来るって聞いて?……ちゃんとアスナの口から聞きたい」

 

耐えきれずに、拘束されている腕をそのままに肘だけを曲げ、一層前屈みになって両手で自分の

顔を覆いつつ小さく漏らした。

 

「キリトくんにちょっとでも会いたいなって……」

 

前屈みになったことで露わになった後ろの首筋に湿気を含んだ柔らかい感触が音を立てて

何度ももたらされる。

ひやりと感じるのに茹で上がった私の顔はその度に益々熱をおびていくようだ。

そうして私の首に絶え間なく唇を押し当ててくるキリトくんをそのままにして私は溜め息をつく

ように心情を吐露する。

 

「……これじゃあ、《アインクラッド》にいた時と変わらないよう」

「へ?……なにが?……なんでこのタイミングで《アインクラッド》?」

 

突然、理解不能な私の発言にキリトくんがその行為を止め、横からのぞき込んでくる視線を強く

感じるが、私は顔を隠したまま言葉を続けた。

 

「だからっ、《KoB》のお仕事の空いた時にキリトくんを探してホームに行ったり、夜にMob

狩りしていそうな場所に行ってみたり……してたの……」

 

そこまで告げてから小声で「会いたかったんだもん」と白状したら、当たり前の事を言い返して

くれる。

 

「だ、だってフレンド登録した後は、圏内なら居場所、わかっただろ」

「そうだけど、キリトくん同じ所に長くいないじゃないっ。行ったらもう移動してたり……

見つけても……声かけられなかったり……」

「なんで?」

 

自然の流れで素直に口にした問いだろう事はわかっていたけど、それだけにグサリと刺さった。

キッと顔を横に上げキリトくんを睨み付ける。

 

「つっ……声かけると面倒くさそうな顔するからでしょっ!」

 

突然荒げた声の勢いに、驚いた顔のキリトくんが少しのけぞった。私の言葉の意味をあらぬ方向を

眺めて瞬刻考えていたようだが、すぐに苦笑いを浮かべ顎を私の肩に乗せてくる。

 

「別にあれはアスナに対してじゃないぞ」

「じゃあ、どうして……」

「そりゃあ……天下の『血盟騎士団』副団長サマがソロのオレなんかに声かけてきたら……

ほら……周囲のヤツらの……視線がさ……だから……だよ」

 

優しい声色の中にも照れた色を感じて、沸騰していた感情が急速に収まっていった。

その後に小さく「お声をかけていただき、光栄でした」とボソボソ言っている。

腕に回された彼の手にそっと触れ、しかし「それでも……」と思う。

 

「なんだか低層にいた頃から、ずっとキリトくんの後ろばかり追いかけてた気がする。もちろん、

最初は追いかけてたっていうより、引っ張ってもらってたって言った方が、正しいんだけど……

いつか隣に並びたいって思ってたのに……レベルも追いつかなかったし」

 

悔しいような残念なような、色々な感情のこもった笑みをこぼすと、戸惑い気味の声が肩から

聞こえた。

 

「……そんなに、オレの後ろは……イヤ?」

 

私も、ちょっと視線を宙にやってからあの頃の気持ちを整理する。

 

「逆だよ。キリトくんの後ろは居心地が良すぎるの。なんだか前にいてくれると、辛い事とか

苦しい事も全部ひっくるめて一緒に背負ってもらえる気がして……でも私はイヤ。そうしたら

キリトくんの痛みを背負えないでしょ。だからキミの前、とは言わないけど、隣がいいなって」

「……アスナ」

 

名を聞くのと同時に緩んでいた彼の腕が再びギュッと私を抱きしめた。

 

「あっ……ンふっ……」

 

やはり思わず息が漏れる。しかしすぐにキリトくんがからかうような口調になった。

 

「今なら、オレの前にいるけど?」

「……こんな状態じゃ背負うって言うより、キリトくんに捕獲されてる気分だよ」

「ま、そうだな、オレのだし……」

 

昼間耳にしたものと同じ台詞を耳元で呟いている。

 

「この髪の毛一本一本も全てオレのものにしたいくらいなのに、アニーのやつ……」

 

昼間の出来事を思い出したのだろう、苦々しげな口調に変わっていた。

 

「さっきから気になってるんだけど、アントニオって『アニー』って呼ばれてるの?」

「そうだけど」

「普通『トニー』とか『トーニョ』じゃ……?」

 

なんだか女性の呼び名みたい、と思っていたのがわかったのか、キリトくんが歯切れの悪い口調で

説明をしてくれる。

 

「ああ……それは……まぁ、本人の希望で……あいつこの前アスナに会った時から、この髪の毛が

すごく気に入ったみたいで……自分の理想なんだと……」

「ええっ!?」

 

どういう理由で男性の彼が自分のようなストレートのロングヘアが理想になるのだろうか。

それならキリトくんだって結構サラサラヘアなのに……と考えている傍で再び言いづらそうな声が

届く。

 

「アイツさ、自分よりマッチョな男が好きなんだよ」

「ふへっ?」

 

耳から入った情報に理解がついていかなかった。

 

「つまりは、そういうヒトなわけで」

「あっ……そう……なんだ……」

「好みの相手が自分より筋肉ムキムキって時点でかなり無理があるけどな。だから別にアスナを

無理矢理どうこうするとは思ってなかったけど……アイツ、馬鹿力だから……研究室の方から

アスナの名前を呼ぶ声とバンッて音を聞いた時は、本当に焦った」

 

「だから、ちょっと確認」と言いながら片手で私の夜着の胸元のリボンをスルスルッとほどく。

 

「えっ、ちょっと!」

 

襟ぐりがだらしなく緩んだところで、私の拘束を解いた彼の手がすばやく肩口までそれを

引き下ろした。

 

「きゃっ」

「やっぱりな……ちょっとアザになってる」

 

剥き出しの肩にキリトくんの視線を間近に感じて、再び顔が熱を帯びてくるのを感じた。

抱きしめられていた腕が解かれたとはいえ、片方の手は変わらず腰に回っている。

逃げ出したい衝動とキリトくんの視線に絡み取られて動けない自分がせめぎ合った。

ひとまずなんでもない事をアピールしようと試みる。

 

「別にどこも痛くないよ……」

「跡がつきやすいからな、アスナの肌。自分じゃ見えないだろうけど結構赤くなってるぞ」

 

その言葉が耳に届くやいなや、チュッ、と肩口に小さく痺れるような刺激を受ける。

 

「ひゃっ」

「痛い?」

「痛く……はないけど」

 

「なら」と何度も音を立てて唇で吸い付いてくる。

 

「んんっ」

 

自分の意志とは無関係に声が漏れてしまうのが恥ずかしくて、なんとか彼の行為を止めようと思い

つく言葉を口にした。

 

「そ、そんな事したってアザは治らない……よ」

 

腰に回された腕へと逃げるように両手でしがみつくが、キリトくんは追うように身体の向きを

変えて今度は唇を押し付けたまま、舌を這わせてくる。

 

「気持ちの問題……言ったろ、アスナを独占したくて堪らないって……」

「はふっ……ンっ……なんで?」

 

涙が滲んでくる。彼は肩を食むように口に含ませ、さらに舌を大胆に動かしてきた。

 

「はぁっ……なんで……かな」

 

私の問いに答えるためか、一旦離れると、クスリ、と笑いを漏らす。

 

「こうやってアスナの全てをオレでコーティングしたい気分……」

 

その瞬間を逃さずキリトくんの抱擁から逃れるように預けていた上体を起こし、くるりと反転して

彼と向かい合わせになるよう座り込んだ。彼の片手をギュッと両方の手で握って、怪訝な表情の

黒い瞳を覗き込む。

 

「ちゃんと、答えて」

「へ?」

「ちゃんと、聞きたいの……私ばっかりズルいよ」

 

潤んだままの瞳で下から挑むように詰め寄れば、キリトくんは私の視線から逃れるように明後日の

方向を向き、空いている手で頬をポリポリと掻きながら「ズルいのはどっちだよ」と頬を赤くして

いる。それから、やれやれという風に微苦笑を浮かべつつ私の瞳に顔を近づけてきた。

 

「反撃……デスカ?」

 

私は大きく頷く。

 

「大学で無理してない?」

 

その質問にキリトくんは自嘲気味に笑って目を瞑った。

 

「そりゃあ……多少の無理はするさ。わがまま言ってこっちに留学して、アスナにまで

ついて来てもらったんだから」

 

そう言ってから、ふぅっ、と大きく息を吐き出す。

 

「たまに、自分のいる場所がわからなくなるんだ。望んで来たはずなのに。ここにちゃんと自分は

いるのかって。周りにどんどん流されているような感覚が、さ。言われたことをこなすのに精一杯

なのに、他のヤツらは余裕に見えるし」

 

いつも「時間なさすぎだろ」とか「レポートの量ハンパないな」「まともに寝てない」などの

文句はこぼしていたが、弱気な発言は一切なかった。

私の両手の中のキリトくんの手が微かに震えている。キリトくんは俯いて顔を隠したまま言葉を

吐き続けた。

 

「それでも、この部屋に帰って来てアスナの顔を見れば、ここにいていいんだって思えるんだ。

アスナがそばに居てくれる……その事が正しい事だって。オレは間違ってないって自分を信じ

られる」

「だから、昨夜もあんな時間にわざわざ帰ってきたの?」

 

目の前の漆黒の髪が軽く横に揺れた。

 

「……頭で考えて帰ってきたわけじゃない。無性にアスナの顔が見たかったんだ……ごめん……

こんなの自分の為にアスナを利用しているだけだ」

 

握っていた手を離すと自分から離れていっていまうと感じたのか、キリトくんの身体がひくりと

震える。構わず私はミシッとベッドを軋ませて、ふわりと彼の頭を包み込んだ。

はだけている首元に押し当てられたキリトくんの瞼が閉じるのがわかる。

《あの世界》で、エギルさんのお店の二階で月夜の黒猫団の話を打ち明けられた時のように、私は

彼をやさしく抱き寄せた。

あの時と同じにベッドの上に膝立ちになり、キリトくんを包む。あの時の違うのは、そのまま指で

彼の髪を穏やかな気持ちで梳くことと、彼の両手が迷わず自分の背中に伸びてくること。

 

「留学の事、打ち明けてくれる時まで、私ね、勘違いしてたの」

 

なにを?、と聞き返されるかと思って私は少し間を置いたが、彼からの問いかけはなかった。私の

言葉に集中してくれているのがわかって、そのまま言葉を続ける。

 

「キリトくんが悩んでるのは、きっと留学の事を私に言い出しづらいんだろうなって。私は

日本で、自分はアメリカで離れて暮らす、それがキミの中で前提だと思ってた。だからキミが何と

言おうと、私はアメリカに付いていくって勝手に自分で決めてたの。キリトくんはやさしい

から……自分の気持ちを押し付けること、あまりしないでしょう。でも一緒に来て欲しいって

言われて、どんなに私が嬉しかったかわかる?……いつも自分のしたい事は自分だけで勝手に

決めて突き進んでしまうキミだから」

「……まぁ、それがソロの悲しい性だよな」

 

情けなく笑いながら胸元から聞こえるその声に、私は思わず唇を尖らせた。

 

「違うでしょ。自分だけで決めちゃうのは、その結果も責任も一人で背負い込もうとするから

でしょ」

「そう言えば聞こえはいいけどさ、結果が失敗なら一人でおっかぶるけど、成功なら独り占めって

事だろ。要するに協調性の無いヤツが勝手にバタバタあがいてるようなもんさ。だから《あの城》

でのオレは一人でレベル上げに邁進して、時間がかかっても一人でクエストをこなしたり

モンスターを倒したりして欲しいアイテムを手に入れてた。一人じゃ入手できないアイテムは潔く

諦めて……でも、いつの間にかどうしても手に入れたい存在が近くにあって……それはゲームの

アイテムみたいに頑張ればどうこうできるもんじゃなくて……それどころかオレの傍にいるだけで

危険だったから……だから離れたんだ」

 

最後の言葉を聞いて思わず彼の頭を抱く両手が震える。

そう、あの別れは互いに納得して出した結論だった。

なのに涙が溢れて溢れて、止まらなくて、あの時は《アインクラッド》で囚われの身になって

宿屋に閉じこもっていた頃みたいに、ただただ泣き続けた。

今思い返せば、キリトくんとは別の道を踏み出したあの時の決断が恐怖に近い感覚で蘇って

思わずキツく目を瞑っていると、そっと私の手の甲を温かい感触がかぶさってくる。

確認するまでもなく、それはキリトくんの手で……そのまま彼の頬にまで導かれるとすり寄せて

くるその仕草がたまらなく愛しい。

でも、私の手を頬にぴたりと貼り付けたまま、キリトくんは苦しそうな言葉を紡いだ。

 

「あの時はちゃんとこの手を離せたのに……自分を抑える事が出来たのに……五十五層の迷宮区で

アスナがオレから離れようとしているってわかった途端、どうしても我慢できなかった」

 

確かにあの時、私のせいで彼が罪の意識を持ち続ける事になってしまった責任を感じ、

キリトくんとはもう会わないと、もう関わらないと告げようとしたのに、反対にそんな私の為に

自分の命を使うと、最後の瞬間まで一緒にいると言ってくれたのは彼だった。

そして、そんな彼を受け入れた時からもう離れるなんて出来なくなっているのだ。

例え、もし、今、あの時のように、互いに離れた方が良いと思う事態になってもきっと私達は

手を離す事はしないだろう。

 

「諦めることも、手放すことも……もう、出来ない」

「うん」

 

キリトくんの頬に触れていたはずの私の手のひらは、いつの間にか彼の手と唇に挟まれていて、

逃げる隙さえ与えてもらえずキスのコーティングが始まる。

ジワジワと手から這い上がってくる快感に全身が震えると、キツく腰を引き寄せられて

身動きが取れなくなった。

一旦、手のひらから離れた彼の手はすぐに私の後頭部に回り、唇は優しく私の名を呼ぶ。

返事をする間もなく簡単にベッドの上へと押し倒されて息が苦しくなるまで唇を塞がれた。

やっと解放されて呼吸を整えていると、熱を溜めてゆらめく大好きな漆黒の瞳が真上から私を

見下ろしている。

視線を交差させたまま、すぐにその漆黒が下りてきて僅かに弧を描く唇が再び触れようとする

寸前、彼の願いが甘く耳に侵入してきた。

 

「オレのものになって、アスナ……」

 

キリトくんがこの言葉をもう一度私に捧げてくれるのはこれから数年後の事。

その時は更に「これから先、一生」という言葉が付け足されていた。




お読みいただき、有り難うございました。
一年以上も前に投稿した作品の「続き」で、色々と申し訳ありません。
情けない言い訳は「活動報告」で述べさせていただくとして……アントニオは
もちろんオリキャラです。
理想の恋人が現れることを心から祈っております(笑)
さて、次回は……自分でもどうなるかわかりません(困笑)


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贈り物(和人編)

『【いつもの二人】歳の差編』をふまえての後日談的なお話です。


休日の午後、都内の大型ショッピングセンター内は人で溢れかえっていた。

コートが必需品となってきた季節柄、普通の買い物目的とは別に親密な人への贈り物を探して

いる様子の客も少なくなく、店側もそういったニーズに合わせた品揃えとディスプレイを前面に

押し出している。

服飾関係のテナントが充実している階層で、高校生とおぼしき男女のカップルが女性物の小物

コーナーの前で肩を並べ、何やら思案顔となっていた。

 

「悪いな、リズ。付き合ってもらって」

「別にいいわよ。ここのスイーツをリクエストしたのは私なんだし。奢ってもらったついで

だから」

 

常日頃、私服と言えば黒ベースでコーディネートしてくる和人の隣は毎回その彼氏の目は

もちろん、周囲の視線さえ眼福だと思わせる容姿を持った明日奈がセンスの良い出で立ちで

寄り添っているはずなのに、今日に限り、その位置には里香がいる。

とは言っても明日奈と一緒の時のように肩をぴたりと寄せ合って、手を握っているわけでは

ない。現実空間のほどよい距離感は同様に心の距離感を表しているかのようだ。

それでも里香と一緒でなければ踏み入れる勇気は出なかっただろう店内は和人以外ほぼ

客層は若い女性が占めている。

少し離れた場所に恋人と思われる女性の買い物に付き合っている男性が一人いるだけで、

和人にとってあまり居心地の良い環境とは言いがたかった。

これ以上、女性客が増えるようなら店を変えようか、と思っていたところで隣から里香が

話しかけてくる。

 

「さっきのお店も混んでたわね」

 

やはり里香も人の多さが気になっていたのだろう。

益々申し訳なくなって和人が一旦店を出る提案をしようとした時だ、更に里香が言葉を

続ける。

 

「でも、お客さんが多いって事はお店の品揃えや品質が良い証拠だもの」

 

なるほど《かの世界》でも店主をしていた里香らしい発想だと思い、和人は柔らかく

微笑んだ。

 

「確かにな。さっきの店も並んだかいはあったし」

 

和人の同意に里香は嬉しそうに瞳を輝かせ「見た目も味も評判通りだったわ。今度は明日奈と

来て、今日食べられなかった個数限定のを注文しなくちゃ」と早速次回の来店を決意している。

そう、今日は里香からのリクエストで今いる場所より上階にあるスイーツ専門店に二人で

やって来ていたのだ。

 

「こうやって奢ってもらえるなら、あんた達二人の痴話喧嘩もたまにはいいわね」

「……あの時は助かりました」

「でしょー。お弁当をわざわざ届けてあげたり、空のお弁当箱をアスナに受け取りに行く

ように言ったり、ほんと、ごねるアスナを説得するの大変だったのよ」

「感謝してます」

「うんうん、アスナからもこの前、お弁当作ってきてもらったしね」

「ええっ!?」

 

寝耳に水の話に場所も考えず声を上げてしまった和人はいそいで口を閉じ、さらに手の平を

被せた。里香は隣にいる親友の彼氏とは真逆の表情で話を進める。

 

「だって、喧嘩両成敗って言うじゃない」

「それ、なんか違う気がするけどな」

「それに、お弁当はアスナから言い出したのよ」

「まあ……リズなら、いっか」

「……他の男だったら黙ってないって感じね」

「当たり前だろ」

 

なんともまあ心の狭い事を、と思いつつ再び商品に視線を戻した和人の顔を里香は

こっそりと観察した。

《仮想世界》に閉じ込められていた二年間、自分と同様に見た目の変化がなかった

「キリト」は《現実世界》に生還した後、数ヶ月で外見も中身も成長を遂げ、「桐ヶ谷

和人」として自分の前に現れた。更に数ヶ月経った今は背も伸び、顔つきも精悍になった

気がする。

何より《あの城》で「攻略」を軸に行動していた彼からその重圧が消えた時、彼の心に

残ったのは同じ重圧を担っていた一人の少女の存在だった。

結果、今、和人の心を支える一番太い軸となっているのは《あの世界》から恋人であり続けて

いる自分の親友なのだ。

ただその二人に何かあった時こそ、離れそうになる二人の手を繋ぎ止める役回りは自分で

ある、と思っている……思ってはいるけれど、本当に自分がいなければ目の前の少年と自分の

親友たる少女の手が完全に離れるなんて事がありえるのだろうか、の疑問もないわけではない。

自分などいなくても二人の問題は二人で解決してしまうのではないか……と思っていた矢先に

事件は起きた。

まあ、一時は周囲も騒然となったがたった一日で、いや正確には放課後に二人で話し合いの

場を設ける手はずまで整えた後、夜には明日奈から仲直りの報告を受けている。

暴言を吐いてしまった後悔と下級生の女子に腕を貸していた和人の姿を思い出す度に

授業中ですら唇を噛んでいた親友が報告をしてくるモニター越しの表情は、それはもう打って

変わって嬉しさと恥じらいを滲ませたもので、要件だけを聞いてさっさと通信を切ったのは

致し方ないことだ。

そんな明日奈が自らお詫びと御礼を兼ねて里香の為にお手製の弁当を持って来てくれたのは

つい先日のこと。

たまに覗き見る和人の弁当とは違って、洋風のメニュー中心で少量ずつのおかずがたくさん

可愛らしく詰め込まれているのを見た時は心の底から面倒を見てよかったと思ったものだ。

そして今日はもう一人の当事者であった和人に「あの時の謝礼はまだなの?」と言って前から

狙っていたスイーツをご馳走になった里香はそのまま和人の買い物に同行している。

 

「何を買うのか決めてるの?」

 

目当てのスイーツを食べ終わろうかという頃、時間があればこの後、明日奈へのプレゼント

選びを手伝って欲しいと和人に言われた里香は二つ返事で引き受け、カジュアルファッ

ションのフロアーに移動してきたのだ。

 

「うん、手袋がいいかな、と」

 

確かにさっきから和人は手袋の並んでいる棚ばかりを見ている。

これから冬本番という今の時期、素材も色も形も多種多様の商品が並んでいた。

 

「ふーん、それってクリスマスプレゼント?」

 

準備をするには少し早い気もするが、最近は購買意欲を煽るためか、本番の一ヶ月半以上も

前から街のあちらこちらでは雰囲気を盛り上げている。

 

「いや、今年のクリスマスはオレもアスナも、欲しい物は同じなんだ……まあ正確には

クリスマスイブに手に入れる予定になってる物、なんだけど……」

 

そう言って顔を里香に向けた和人の照れた笑顔は本当に幸せそうで、その表情だけで言わんと

している内容が思い当たり「ああ、そっか」と納得で頷いた。

 

「《新生アインクラッド》にもあるといいわね」

「ああ、アスナはあるって信じてるからな」

 

再び《あの城》の二十二層のログハウスを購入する、その為に二人が凄く頑張ってユルドを

貯めている姿を里香はずっと応援してきたのだ。

ならば今回の買い物は……と疑問の表情を浮かべている里香に和人は少し言葉を詰まらせて

応じた。

 

「て……手……が……最近寒くなってきただろ、アスナの手が冷たいなって思って……で、まあ

日頃、弁当とかの御礼の意味を込めてさ……」

 

なるほど、と里香の口がへの字に曲がる。

明日奈の手が冷たい、と……どうして知っているかなんて聞くだけ野暮な話だ。

確かにクリスマスまで待ってはいられない、そういう理由ならすぐにでも和人は明日奈に

プレゼントするだろう。

しかしそれなら明日奈の手を握っていればいいではないか、いつものように……と思った時、

更に追い打ちがかかった。

 

「オレと手を繋いでいる時はいいんだけどな」

 

曲がった口にくわえて眉間に皺が寄る。

里香の表情など気にも止めず再び視線を手袋に戻した和人の表情は彼女の手の冷たさを思い

出しているのか、手袋を選ぶ瞳に気遣いの色を帯びていた。

言外に和人が手を握ってやれない時用の手袋なのだとわかってしまい、せっかく美味しい

スイーツを食べた後のご機嫌な気分がぼすぼすとヘコまされていいく。

隣の里香の心中を察することなく和人は自分の彼女の親友ならば、と軽く問いを投げかけて

きた。

 

「リズ、アスナってさ、何色の手袋持ってるんだ?」

 

聞かれて里香はピクッと眉を跳ね上げる。

和人は明日奈が持っている手袋の色を知らない……それは彼がそういった事に関心が薄い

せいもあるだろうが、何よりは明日奈が和人と一緒にいる時は手袋をしないからだ。

少なくとも片方の手だけは和人から暖を取っている。

明日奈なら繋いでいない方の手だけ手袋をするなんてことはしない。

ええ、ええ、私は知っていますともっ、と勢いをつけて里香は覚えている限りの親友の手袋の

色を並べた。

 

「一番よく使っているのはファーの付いた落ち着いたブルーグレーね。これは制服と色と

合わせてるんだと思うけど。それ以外は結構濃い色のが多いわよ。コートの色と同系色に

したり、ポイント的に反対色にしてみたり、私が知ってるのはざっくり編んだニットの白と

ノルディック柄の茶、レザーの赤、カシミア生地の緑に黄色と紺のチェック……そんなとこ

かしら」

 

里香の口から飛び出した色の多さに気圧され気味の和人は「な、なるほど」と言ってから

「さすがアスナだな。ほとんどの色を抑えてるか……」と思案顔に転じる。

そこは「さすが、リズ、よく知ってるな」じゃないのかしら?、と半眼で睨み付けていると

「なら、やっぱりコレかな」と和人がひとつの手袋を手に取った。

その口ぶりからすると既に自身の中ではほぼそれに決めていたらしい。

里香の視線が和人の手へと移る。

そこにあったのは……羊毛100%のタグの付いた温かそうな黒い手袋だった。

黒……それは《あの世界》で二年間を過ごした「キリト」の代名詞とも言える色だ。

明日奈の手を握れない時にと選んだ手袋の色が黒って……これは単に持っていない手袋の色、

というだけの選択ではないだろう。

そうと決まれば長居をしたくないのか、「買ってくる」と言ってレジへと向かう和人の背中を

ぼんやりと見つめながら、残された里香は人目を気にする余裕もなく、大きな溜め息を

ついたのだった。

 

 

 

 

 

レジ前で会計をする客の列に並びながら和人はホッと息を吐き出した。

無事にプレゼントの品を決められたからではない、先程の里香とのやりとりを思い出して

いたからだ。

里香からクリスマスプレゼントなのか?、と聞かれ、否定をしたところまでは普通の会話

だったのに理由を説明する段階になって、うっかり言いそうになってしまった……アスナの

手足が冷たいな、と思っていた事を。

ここで「手」だけに言い留まった自分はなかなかの反応処理速度だったと思う。

万が一口を滑らせて「手足」と言ってしまった事が明日奈に知られたら大目玉を食らうことは

必然だったし、当分手足を触れ合わせてくれないかもしれない。

しかし、数日前に触れた明日奈の手足は本当に冷たくて、本人はのんきにも「キリトくん、

あったかい」などと言いつつ下からしがみついてきたが、眉をひそめると寒い時期はいつも

こうなのだと聞いて思わず自分の足を彼女にすり寄せた。

それまで唇や指先で散々明日奈の身体のラインをトレースした為、顔はもちろん上気して

いる全身から彼女の素肌の色香が濃く匂い立っていて、くらくらと酔いそうになっていた

和人だったが、その足先の冷たさに意識は気遣いへと変化する。

「大丈夫なのか?」と聞けば、少し息を荒げたまま「女性は冷え性の人、多いんだよ」と

苦笑気味に告げる明日奈を見て安心できるはずもなく、身近な女性と言えば一つ下の妹だが、

真冬でも離れの道場に行き、裸足で竹刀を振る姿を当たり前に目にしていても和人としては

心配が消える事はなかった。

だからと言ってそれまでの行為を止めることも出来ず、自分の足で彼女の足を挟みこみ

温めながらもその付け根に指を這わす。

優しく刺激を繰り返せば、段々と明日奈の腰が揺らめき、鳴き声も一層高くなって、豊かな

ふたつの膨らみもふるんっ、と震えた。

それを抑え込むように唇で、舌で愛撫をしばらく続けた後、ようやく暖まってきた彼女の

両足の間に自身を割り込ませ、さらなる深みへと押し入ったのである。

あの時までは、繋いでいる手が冷たいな、と時折思うだけだった和人が、気にしてみれば

明日奈の手はいつも冷えているのだとわかって、普段、靴下や靴で覆われている足先よりも、

と手袋を贈ることを思いついたのだ。

 

 

 

 

 

レジをすませた和人が急ぎ足で里香の元へと戻ってくる。

のんびりと店内の商品を眺めていた里香はその様子に僅かな疑問を感じたが、目の前まで

やってきた和人の放った第一声に仰天した。

 

「ごめん、大丈夫だったか?、ラッピングに時間がかかっちゃってさ」

「は?」

 

言わんとしている事が理解できずに素っ頓狂な声を上げた里香はしげしげと和人を見つめる。

 

「なに?、大丈夫って……」

「え?、だからさ……あっ……ああ、うん、いいんだ……気にしないでくれ」

 

逆に己の発言の意味を問われた和人は途中から何かに思い至ったようで、途端に場を誤魔化す

ような言葉で里香から視線を外した。

しかしその思惑を敏感に察知した里香が逃すものか、と詰め寄る。

 

「すっごく気になるわ」

「いや、何でもないって」

「いきなり『ごめん』っ謝って、『大丈夫だったか』なんて聞いてきたくせに、何でもない

わけないでしょ」

 

里香の不機嫌な声色と自分の弱気な声のやりとりに周囲の客の目と耳が集まり始めたのを

感じた和人は声を潜めて「とりあえず出よう」と促した。

渋々といった足取りで隣を歩く里香の様子をチラチラ、と確認しながらショッピングモールの

外の広場までやってきた二人は、空いているベンチに腰を降ろす。

陽が落ちればグッと気温が下がる時期だが、今日は天気も良く、陽当たりのいい広場は

のんびりと休日のひとときを家族や友達、恋人と過ごす人達の笑顔で満ちていた。

そこにしかめっ面の少女と弱り切った様子の少年が並んで座っている様はどこか笑いを誘う

ものがあり、どう見ても互いを愛おしむ恋人同士には見えないだろうな、と里香は溜め息を

つく。

すると目の前にスッと温かい缶コーヒーが登場した。

どうやらぼーっ、と広場を見渡している間に和人が買ってきてくれたらしい。

とりあえず「ありがと」と礼を言ってコーヒーを受け取り、両手で包み込むと缶の温かさに

自然と息が抜ける。その姿を横で見ていた和人が話の糸口を探るようにそっと声をかけて

きた。

 

「その……やっぱり、リズも、手とか冷たいのか?」

 

すでに過敏になっている聴覚は和人の「手とか」の部分に素早く反応し「とか、って何よ。

手以外のどこを聞きたいわけ」と心中穏やかではなかったが、コーヒーも買ってもらったこと

だし、とそこは胸に納めて素直に言葉を返す。

 

「そうね。普通だと思うけど……ああ、アスナは私から見ても冷たいわよね」

 

それこそ学校の休み時間にアスナの手袋コレクションを話のネタにしている時だ、「だって、

手、冷たいんだもん」と可愛くも不満げに言った親友は「ほらっ」と言っていきなり里香の

頬にぺたり、と両手を押し当ててきたのだ。

その冷たさは突然さも加わって「うきゃーっ」と悲鳴をあげるには十分なほどで、目の前で

クスクスと笑う明日奈と目を丸くして自分を見ている教室内のクラスメイトからの視線が

やけに痛かったことを思い出す。

更に今より寒くなれば使い捨てのカイロは必需品になるんでしょうね、と考えていると、

隣から和人がボソリ、と呟いた。

 

「オレさ……今までアスナ以外とこんな風に出掛けた事ってあんまないから……」

 

その後、付け足すように「スグとは買い物に行ったりするけど、アイツは、まあ、あんな

感じだろ?」と同意を求めるような視線を送りつつ、またもや何が言いたいのかよく

分からない言葉をつらつらと綴る和人に、今度は里香も辛抱強く付き合う。

 

「それでさ、アスナと二人で人の多い場所に行った時は、さっきみたいに傍を離れたり

すると……」

 

そこまで言っておきながら、これ以上を躊躇うように言葉を切った和人へ里香が先を促した。

 

「離れると?」

「……いつの間にか知らない男に声を掛けられてたり、複数の男に囲まれてたり……」

 

ああ、なるほど、と里香は納得する。

自分が離れると「連れ」が見知らぬヤローからちょっかいをかけられる、というのが和人の

デフォルトになっているのだ。

だから、レジで時間を食ってしまった和人は足早に里香の元に戻り、自分の不在中の心配を

してくれたというわけなのだが……残念ながら、その気遣いは里香にとって無用の長物で

あるし、逆に引きつった笑いしかでてこない。

多分、和人もそれに気づいたのだろう、だから途中で言葉を変えて、自分の発言をなかった

ものにしたかったに違いない。こと女性に関する考え方や行動において、和人はすっかり

明日奈仕様になってしまっているのだ。

これは辛い……うっかり二人きりで出掛けた日には、常にそこに居ない明日奈の存在を感じ

続ける羽目になってしまうのだから……。

今回の和人との外出は当然明日奈公認とは言え、かなり浮かれていた里香の気分が今は

すっかり萎えてしまっていた。

 

「……なんか、もう、アンタも明日奈も、色々と大変ね」

「えっ?……そうか?」

 

心底意外そうな顔を向けられて、里香は「ああ、余計な事を言ったわ」とすぐさま自分の

発言を後悔する。これは外野の感想であって、当の本人達はいつもの事、なのだから。

きっとこれからも和人は明日奈の隣に寄り添い、離れても常に彼女の身を案じ、傍にいられ

ない時は自分の想いで彼女を温めていくのだろう。

和人にもらった缶コーヒーで両手を温めつつ喉を潤していると、同じように隣で缶に口を

つけていた和人が「んっ?」と言うなり飲むのを止めて携帯端末を取り出した。

バイブにしていたのだろう、呼び出し音は聞こえなかったが、画面に表示された発信者の

名を見て途端に相好を崩す。

その反応を見ただけで発信者の見当をつけた里香が確認するように「アスナ?」と聞けば、

端末を操作しながらも和人が嬉しそうに頷いた。

 

「どうしたんだ?」

 

明日奈の声は聞こえなかったが、和人の受け答えを聞く限り、火急の用件ではなさそうだ。

 

「ああ、まだ一緒にいるよ。ちょっと待って」

 

そう返すなりすぐに音声をスピーカーモードに切り替え、自分と里香の間に端末を持ってくる。

里香が端末に向かって呼びかけた。

 

「アスナ?」

「リズ、ちゃんとキリトくんにエスコートしてもらってる?」

「あー、今は屋外の広場のベンチに座って缶コーヒーをご馳走になってるわ」

「えっ!、ちょっとキリトくんてば……寒くないの!?」

「えーと、そのぉ……」

「大丈夫よ、日差しが当たって気持ち良いくらい」

「なら、いいけど……とにかくっ、リズの事よろしくね、キリトくん」

「こっちはアンタが心配するような事は何もないから安心して。週明けに学校で詳しく

報告するから」

「ん、わかった」

 

それから音声を通常モードに戻した和人は二言、三言会話を交わすと通話を切って、困った

ように笑った。

 

「結局、なんだったんだ?」

「あの子もなんだかんだと心配性なのよね」

「そう……かもな」

 

何を思いだしたのか、困り笑いが本当の笑顔に変わっている。

それを横目で見ながら缶の中身を飲み干した里香は勢いよく立ち上がり、「じゃ、そろそろ

帰りますか」と言いながら腕を広げて思いっきりのびをした。

数秒遅れて和人が「ああ」と同意を示してベンチから腰を上げる。

夕焼けにはまだ早い陽の光を背に浴びて、二人は駅に向かって歩き出した。

その数日後から明日奈が黒の手袋ばかりを着用するようになった事に気づいた学校の男子

生徒達がグッ、と唇を噛みしめた事など、もちろん和人が知るはずもなく、あてつける

ように男子達が揃って黒い手袋を使い始めた意味にも気づく事はなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
はい、すみませんっ、わかってますっ……厳密には「別枠(R−18)」的内容が含まれて
いることは……ですが、ほんの数行なので……見なかったことに……
いえ、読まなかったことに……?
ですがココがないと、イチャ度があまりに低い気がして(苦笑)
キリトとリズのお出かけ話でも私的にはキリアス話なのですが……読んで下さった
皆様はいかがでしょうか?
次回は『贈り物(明日奈編)』をお届けする予定です。


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【「お気に入り」200件突破記念大大感謝編】選ばれし者

《かさなる手、つながる想い》を「お気に入って」くださった皆様、
本当に、本当に有り難うございます!!!!!
以前、「100」件突破の際も感謝の気持ちで投稿しましたが、更に100人の方が
この作品を気に入ってくださるなんて……芸の無い事ですが……本当に感(激)謝の
言葉しかありません。
そこで今回もまた急遽、感謝とお礼の気持ちを溢れるほどに詰め込んで【大大感謝編】を
用意させていただきました。

直接の登場はありませんが、キリトやアスナと同じ高校に通うオリキャラ男子生徒が
三名でてきます。
(詳しくは今までの作品を振り返って読んでみてください)

では、初心にかえって二人のほのぼのイチャイチャ話をどうぞ。



『桐ヶ谷 和人(キリガヤ カズト)』

  姿・形は非情に中性的で全体の印象は細身であるが、その外見に似合わず筋力・

  握力・瞬発力等は平均以上の数値を保持している。

  特に好奇心が旺盛で、魅入った物(者)への執着とこだわりは他の追随を許さず、

  飽くなき追求心に真心を添えて真実、及び深層へ辿り着こうという強い意志を常に

  抱いている。

  平時においては「うっかりやさん」「のんびりやさん」と評される事が多々あり、

  言葉によるコミュニケーション能力の低さを自己評価として下すほど「言わなくて

  いい事」をすべらせる場面も珍しくない。

  日常の生活能力においては可も無く不可も無く、やろうと思えばそこそこの水準に

  達した成果を上げられるが、当の本人にその気がない事と、すぐ傍らに高水準を

  難なく披露する存在がいるため、ほぼ依存状態となっている。

  以上のように、興味のある事項とない事項への温度差は歴然で、広く他者への

  関心が強いとは言いがたいが、反面、心を許した物(者)への愛着心はすさまじく、

  諦めることはまずない。

 

 

 

 

 

気持ちの良い秋空の下、吹く風は頬を撫でるように通り過ぎ、心地よさのみを残していく。

人目を遮蔽するために低木の茂みを前衛に配置し、その奥の陽当たり良好の草地の上に

寝転んで食後の休憩を取っていたジャージ姿の和人の元へサク、サク、と草葉を踏む足音が

近づいてきた。

目を開けなくてもわかる……と言うより目を瞑っている事でより敏感になった嗅覚が、耳が

足音を捉えるのとほぼ同時に好ましい香りに反応していた。

だからこそ、何の警戒心も抱かずにそのままの状態で香りを堪能し、これから耳にする

だろう優しい声を待ちながらまどろんでしまいたい誘惑にかられた時だ、予想に反した呆れ

声が随分と懐かしい物言いで上から降ってくる。

 

「こんな所でなにやってるの?……他のみんなはもうグラウンドに戻ってるよ」

 

あの時はなんと言われたんだっけ?……、と、かけられた言葉の内容よりふとした疑問が記憶を

掻き回す……あれは五十九層のダナクの主街区で……「攻略組のみんなが必死に迷宮区に挑んで

いるのに、なんでのんびり昼寝なんかしているのよ」……とかなんとか……と言う事は、今の

状況に置き直すと……「クラスのみんなが必死にスポーツ大会に挑んでいるのに、どうして

のんびり昼寝なんかしてるの」……あたりだろうか?、と言葉の変換を吟味するあまり瞼さえ

動かさずにいると、更に甘い匂いが強くなり、同時に自分の顔の上を何かが覆って日光を

遮った。

 

「ホントにもうっ、君ってばこういう場所を見つけるのは天才的なんだから」

 

随分とトーンが柔らかくなって、望んでいた声に近くなる、と同時に和人の額にぴとり、と

薄い手の平がのっかった。

 

「気分……悪いの?」

 

その気遣うような言葉と声音に驚いて、ぱちり、と和人が目を見開く。

目の前には少し不安げな明日奈の顔がもうあと数センチで触れてしまいそうなほど接近して

いた。どれほどの至近距離で見つめてもその美しさは損なわれず、いや、ゼロ距離でその

感触を何度も味わっている身だというのに、目を開けた途端いきなりの彼女の顔には思わず

どきん、と心臓が跳ね上がる。

形の良い眉、長く整った睫毛にはしばみ色の瞳、まっすぐ通った鼻梁の両脇には薄紅色の

柔らかそうな頬、艶やかな桜色の唇の下の細いおとがいに手を伸ばしたいのを懸命に堪えて

「大丈夫だよ」と安心させるように微笑んだ。

 

「なら、いいんだけど」

 

ほっ、と息を吐き出しながら、彼女の顔が遠ざかっていくのが少し寂しくて、せめて、と

額から離れていく手を掴む。

 

「キリトくん?」

 

一転して今度は不思議そうに首を僅かに傾けるが、嫌がる素振りはないので、そのまま

離さずに「何でそう思ったんだ?」と問い返した。

今日は全校上げてスポーツ大会が執り行われている。

「体育祭」と銘打つほど大がかりな内容は時間的にも予算的にも無理だったが、「球技

大会」とするには経験者が少なすぎて試合にならず、更に男女比に著しい差がある本校と

しては一番無難な運動系の学校行事という事で競技内容はほぼほぼ小中学校の「運動会」の

それに近い「スポーツ大会」という名で落ち着いたというわけだ。

天候にも恵まれ、屋外で身体を動かすには最適の気象条件の下、大したケガ人も出ず午前の

部を消化し終えて昼食休憩を挟み、もうそろそろ午後の部が始まろうかという頃である。

明日奈は問われた内容から口にするべき言葉を選んでいるのか、少し考えてから返答を

ぽそり、と口にした。

 

「さっきみんなで食べたお弁当、ちょっとキリトくんが苦手な味付けがあったかな?って

思って……」

 

その指摘に一瞬驚いた表情をした和人だったが、すぐさま眉尻を下げて曖昧な笑みを

浮かべる。

 

「敵わないな、アスナには……ここだって絶対バレない自信があったんだけど」

 

それを褒め言葉と受け取った明日奈がふふっ、と笑った。

 

「キリトくんがこういう場所を見つける天才なら、私はキリトくんを見つける天才だもの」

 

そう言って、自分の脇に置いてあった水筒を取り出しキリトの前に置く。

 

「アイスコーヒー、少し飲む?」

「ありがとう、もらうよ。サンドイッチの方はあっという間になくなったもんな」

「うん、みんな美味しそうに食べてくれてよかった」

「オレはいつも食べてるんだからって、伸ばした手を佐々にはたかれた」

「えっ?、そうだったの?……うーん、でもキリトくんにはいつでも作ってあげられるから。

今日は仕方ないよ」

 

不満げに口を尖らせた和人を見て、明日奈がほわり、と微笑む。

その笑顔を向けられたら納得するしかないのか、と渋面を作ったまま和人は上半身を起こした。

コーヒーをもらうために明日奈の手を解放すれば、すぐに水筒から香ばしい液体がカップに

注がれる。

 

「アイスなのにいい香りだよな」

「そう?、豆から挽いて時間をかけて抽出してるからかな」

 

今の時期だと持参する飲み物の温度に悩む所だが、今日は身体を動かすし天気予報でも風は

穏やかと言っていたのでアイスを仕込んできて正解だったと明日奈は笑顔を添えて和人に

カップを差し出した。

受け取った和人は香りを嗅ぐと話題をコーヒーからさっきの昼食のおかずにうつす。

 

「それにさ、アスナが作ってくれる南蛮漬けならツンッ、てしたことなかったんだけど……

今日のは……誰が持ってきてくれたやつだったのか……」

「ああ、あれね。やっぱりキリトくんにはちょっとキツかったんだ」

「正直、あれは一瞬ウッ、ときた」

「うーん、女子はあれくらい何ともないけど、やっぱり梅干しやレモンと違うもんね。男の

人だとあんまり強いお酢は苦手かな?、って思って、いつものお弁当には一旦煮立てて味を

丸くしてるの」

 

その説明を聞いて、口に含んだコーヒーをゆっくりと飲み込みながら和人は納得で頷いた。

このコーヒーの渋みと酸味のバランスもいつの間にか和人好みの配分になっている。

注いでもらったコーヒーを飲み干してすっきりとしてから和人は難しい顔で腕組みをした。

 

「こんな時くらい、大勢で食べるのも楽しいかと思ったけどさ……」

 

今日はスポーツ大会という事で誰の発案だったか、女子は明日奈に里香、珪子、男子は和人と

同じクラスの佐々井と久里が同席して中庭での持ち寄り昼食会となったわけである。

和人の言葉を受け、明日奈が尋ねた。

 

「楽しくなかったの?」

「いや、楽しいことは楽しかったけど……やっぱり弁当はアスナの……」

 

和人の話の途中で校内放送が流れる。

それは午後の部の開始と参加者の招集を促すものだった。

一発目は出し物とも言うべき教師陣による仮装リレーだったが、その次は注目の男女ペア

での二人三脚である。

女子が極端に少ない為に全クラス、女子は全員参加の競技だった。

 

「アスナ……集合かかってる」

「あ、うん……でもね」

「茅野さんと組むんだろ」

「それなんだけど……」

「ほら、遅れるなんてアスナらしくないし、みんなに迷惑や心配かけるぞ」

「キリトくん……」

「オレなら大丈夫だから」

「キリトくんてばっ」

 

話を取り合ってくれない和人に痺れを切らして明日奈が声を跳ねかせる。

女子は全員参加だが、男子は女子の人数分しか競技に参加できない。

スポーツ大会の準備が始まった頃、明日奈のクラスでは誰が男女ペアの二人三脚に出るのか、

更には誰が「姫」とまで呼ばれている結城明日奈と組むのかで血を見る騒ぎにまで発展したと

校内ではもちきりだった。

本当のところは公平にジャンケンにすべきだ、とか、くじ引きにしようと、といった意見が

飛び交って興奮の余り鼻血を出した生徒がいたり、最初の立候補者を募った段階で我先にと

あげた手が当たって引っかき傷を作った生徒がいたり、とまあそんな具合だったのだが

結局のところ、クラス内でさえ「姫」とペアを組めるたった一人の男子生徒は嫉妬と羨望の

的になるのだ、その名前が校内に知れ渡ったらどれ程の恨みや嫌がらせを受けるか計り

知れないと悟った明日奈のクラスの男子達は我が身かわいさで次々とあげた手を下ろしたのだ。

逆にそれらの敵意をものともせず、あるいは敵意さえ起こさせないほど説得力のある人間、

という事で「茅野聡」に白羽の矢が立てられた。

前々から時折噂になっていたカップリグに校内はざわめき、様々な憶測が飛び交う中、当日を

迎えたわけなのだが……多分一番面白くないのは和人だっただろう。

クラス単位での参加競技では文句をつけるわけにもいかず、さりとて全く面識のない男子

生徒が明日奈と組むよりは、と思ってみても明日奈の隣に立つ男として周囲からの反発を

加味した上でクラスの男子生徒らが「茅野聡」を選んだと聞けば、常日頃から「もったい

ない」だの「不相応」といった言葉を頂戴している身としては複雑なものがある。

だから本番の二人の姿は見ずにおこう、と昼食を済ませた後、雲隠れを決め込んだのだが当の

明日奈は全く気にしていないのか「クラスの応援、しなくていいの?」とまで聞いてくるの

だから返答に困る事このうえない。

ハッキリと正直に「クラスの応援よりアスナと茅野さんが二人三脚で走る姿なんか見たく

ないんだ」とでも言ってしまえればいいのだが、さすがにそれは子供じみているというか、

言われたアスナが困るだけだろうと考えて和人は「ああ……ううん……」と曖昧な返事を繰り

返し、果てには「やっぱりちょっと調子が悪いかも」などと口走った。

目の前の恋人のそんな態度を観察していた明日奈は空になったカップを受け取り、水筒と

一緒に片付けるとふんっ、と珍しく鼻から空気を押し出していきなり両手を伸ばし、和人の

頬を挟みこむ。

 

「キリトくんっ」

「うわっ」

 

突然のスキンシップに明日奈と茅野の二人三脚で思考を巡らせていた和人は驚声をあげた。

そんな和人には構わず、明日奈はずずっ、と顔を寄せる。

 

「忘れちゃったの?……あのログハウスで言ったこと。私は《現実世界》でもキリトくんと

もう一度会って、好きになるって」

「忘れて……ません」

 

両頬をむぎゅっ、とされたまま神妙な顔つきで和人は答えた。

まさに今のような状態で二人向かい合ったままアスナは真剣な瞳でキリトを見つめて言って

くれたのだ。

 

「なら、わかるでしょ。茅野くんはクラスの男子が選んだ相手。私が決めたわけじゃないよ」

「それって……」

「私が選んだ私の相手はキリトくんだけってこと」

 

そう言って明日奈は目を閉じながら自らの唇を和人のそれにそっと合わせた。

触れただけですぐに離れようとすると、その気配を察知した和人がすかさず明日奈の

後頭部と細腰に手を回す。

 

「ぁ……ふっ」

 

そこから先の主導権は簡単に和人に奪われて、いつものように彼の舌が明日奈を翻弄した。

二人の世界に溺れそうになる意識を再びの校内放送が引き戻す。

名残惜しそうに明日奈から離れた和人は視線を合わさずに「ほら、明日奈」と促した。

しかし彼女はその場を離れようとせずに、クスッ、と微笑んで和人の頬を人差し指でつん

つん、と突く。

 

「なっ……」

「拗ねてるキリトくん……かわいい」

「ちょっ……オレは別に……」

 

焦る和人を置き去りにして、明日奈は言葉を続けた。

 

「あのね、私、二人三脚、棄権なの」

「はっ?」

「だから、茅野くんとは出ないの」

 

和人の頬をちょんちょんと押しながら「さっきから言おうとしてるのに、キリトくん、全然

聞いてくれないんだもん」と楽しそうに口を尖らせている。

明日奈に頬を弄られ続けていることさえ気づかない様子の和人は、思考の働かない頭は

放棄して単純な言葉で思っている全てを表した。

 

「……なんで?」

「午前の騎馬戦でね、なんだか茅野くんボコボコにされちゃって」

 

そうは言っても茅野は大将騎でもなければ、あまつさえ騎手でもないただの馬だ。

ところが戦開始の合図と共に敵方の騎馬が一斉に彼の騎馬へと突進してきたのだ。

味方の大将騎が唖然とした事は言うまでも無い。

大将騎を囲んでいた守りの騎馬達が慌てて茅野の騎馬の救援に向かったのだが……よく

見れば、味方とはいえ他のクラスの騎馬との連合軍である、茅野達を助けようとしていた

ようには思えたが、どさくさにまぎれて……「やっちゃってるわね、あれは」とは戦いを

明日奈と一緒に観ていた里香の言だ。

幸いなことに単身、自由に動けた味方の大将騎が敵の大将騎の後ろを取って勝敗は

あっさりと決まったのだが……。

 

「二人三脚に出られないほどのケガでもしたのか、茅野さん?」

 

説明を聞いていた和人が心配そうな声で聞くと明日奈は苦笑いですぐさま首を横に振った。

 

「うううん、騎手が馬を攻撃することは高低差があって無理だから、馬同士がみんなで

団子状態になって足で蹴り合ってただけで大事にはなってないんだけど、茅野くんがね

『このまま二人三脚に出たら、今度は何をしかけてくるかわからないよ』ってすっかり後ろ

向きになっちゃって。『僕は仕事もあるし、育児もあるから、悪いけど棄権させてね』って

騎馬戦が終わった途端、大会本部に言いにいっちゃったの」

「なんだ、それ……」

 

口を半開きにしたまま固まった和人はもう一度、心の中で「なんだよ、それ」と繰り返す。

明日奈が茅野と二人三脚に出ると知った時からの自分の時間を返して欲しい、とまで思った。

しかし、それならば、と当たり前の考えが浮かぶ。

 

「なら、他の誰かが茅野さんの代わりに出るんじゃないのか?」

「うーん……普通ならそうなるんだろうけど、誰も代役をやりたがらなくて」

 

午前中の騎馬戦で敵味方入り交じって襲いかかってきた騎手や馬達の血走った形相は明日奈の

クラスの男子達にすっかりトラウマを植え付けたようだ。

 

「だから、私も棄権届け、出しちゃった」

 

そう言って安心させるよう胸に飛び込んできた明日奈を受け止めながら、生真面目な彼女に

しては珍しいことだ、と和人は内で思う。

とは言え自分にとっては嬉しい状況だ、覆すような提案をするつもりはさらさらなく、やっと

気を抜いて腕の中の彼女の感触とその香りを味わった。

 

「なら、オレと出ればよかったな」

 

余裕を取り戻した発言に明日奈が瞳をぱちくり、とさせてから悪戯っ子を優しく叱るような

笑みで無言のまま頭を横に振る。

 

「なんで?、クラスが違うからか?。別にアスナのクラスの助っ人扱いでいいぞ」

 

そのふざけた提案に明日奈はやはり表情はそのままで頭を振った。

 

「アスナとなら練習してなくても、何とかなりそうな気がするけど……」

 

色々な意味を兼ねて「やっぱり無理か」と呟くと、我慢出来なかったふうに明日奈がきゅっ、

と和人の首にしがみつく。

 

「逆だよ。キリトくんと私が組んだら、練習なんか必要ないでしょ。それこそみんなから

恨まれちゃう」

 

即席で組んだベストカップルがいきなり優勝をさらったとなれば、これまで練習してきた

ペアからはもちろん、全生徒を敵に回しそうだと言いたい明日奈に「それもそうだな」と

和人は笑って彼女の腰を引き寄せた。

だったら集合要請に従う必要はなくなったんだし、と考え二人三脚に出る生徒達には申し訳

ないと、一瞬心の中で手を合わせてから日差しを浴びてほんのり温かい栗色の髪に顔を埋める。

 

「なら、もう少し、ここで一緒に……」

 

その誘い文句を最後まで口にする前に、明日奈の両腕が更に強く和人を抱きしめた。




お読みいただき、有り難うございました。
「100件突破」の「超S級な存在」はキリトにとってのアスナだったので、今回は反対に
アスナにとってのキリトを表すサブタイにしてみました。
色々とキャラ名はでてきましたが、終始登場しているのはキリアス二人のみ、というのは
久々でしたね。
そして企んだわけではないのですが【感謝編】になると一番の被害者になる茅野くん。
心底、もうこの二人には関わりたくないと思っていることでしょう。


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贈り物(明日奈編)

二つ前の投稿が「贈り物(和人編)」だったので「明日奈編」もないと片手落ちかな?、という
心持ちで書いてみました。


地下鉄と地上の路線が交差している駅周辺は隣接された大型商業施設を中心に常に人通りが絶えることはないが、再開発の余波でどうしても場所が確保できなかったのたろう、公共の駐輪場は一本裏通りを入った閑散とした場所に設置されていた。

ちょうど利用客が途切れる時間帯に当たってしまったようで、通行人もおらず、駐輪場の入り口に見える人影は淡い藤色のラムウールコートを着た明日奈と見知らぬ男の二人だけである。

何度経験したかもわからない、下卑た笑いを口の端に乗せた二十代前半とおぼしき男の視線が自分を上から下まで値踏みするようにまとわりつき、明日奈は持っていたバッグの取っ手を両手でぎゅっ、と握りしめた。

駅までの道を一緒に来て教えて欲しいという男の要求をやんわりと断り続けているが、それもそろそろ限界のようだとカツカツと踏みならす男の靴音が告げている。

と、そこに新たな音が耳に飛び込んできた。

一般的には思わず顔をしかめたくなるような騒音に近いバイクの走行音。

しかし明日奈にとっては待ち焦がれた音だ。

咄嗟に音のする方に顔を向けると、通りの角から見間違うことなどありえない程、見慣れたバイクがこちらに向かって走ってくる。

だが同時に明日奈が男から視線を逸らした為、関心を他に向けられて苛立った男の手がコートの袖ごと明日奈の腕をとらえた。

びくりっ、と一回身体を大きく震わせた明日奈が視線を男に戻すが、さっきまでのらりくらりと男をかわしていた言葉が今は全くでてこない。

男がさっきよりも激しく何かを訴えていたが、明日奈の耳には声すら届かず、つかまれた腕を振りほどくことも思い及ばない状態で半歩後ずさりをすると、更に男が間合いを詰めてきた。

男の顔は憤りを表したかと思えば、強請るように歪んだ笑みに変わり、明日奈が反応を示さなければ再び憤慨を繰り返していたが、突然、驚いたように目を見開いて明日奈のすぐ横に視線を移す。

そこには明日奈に触れている男を引き離そうと、男の手首を満身の力で掴んでいる和人がいた。

 

「オレの連れに何か用なのか?」

 

細身の体格に女顔と評して差し支えない容貌の黒髪の少年は一見穏やかで争いごとなど無縁の雰囲気だが、その双眸は野生の獣のように鋭く尖っており、掴まれている手首の痛さに男は思わず明日奈から手を離した。

見れば少年のすぐ隣にも同じような黒髪で制服の上にキルティングジャケットを羽織っている少女が携帯端末を構えて自分を睨み付けている。

分が悪いと悟った男はチッと舌打ちをすると、和人の手を振りほどき駅とは反対の方向へ足早に逃げていった。

その後ろ姿に向かって「いーっ」と歯をむき出した後、携帯を鞄のポケットに仕舞った直葉が振り返り、明日奈に声をかける。

 

「ケガとかしてませんか?、アスナさ……」

 

最後まで言い終わらずに言葉が途切れた。

目の前には明日奈をしっかりと抱きしめている兄である和人の姿。

その腕の中で深く息を吐き出した明日奈はゆっくりと顔をあげ、ぎこちない表情で「ありがとう、もう大丈夫」と微笑んだ。

「でも……」と言いよどむ和人に向けて、直葉が低く「お兄ちゃん」と呼びかける。

そこで妹の存在を思い出したのか、和人は慌て顔で「誤解すんなよ、スグ」と待ったをかけた。

 

「オレは別にいつでもどこでもアスナに触りたいと思っているわけじゃないぞ」

「そうなの?……学校でもイャコラしまくってるって聞いたけど」

「……誰だよ……いや、誰が言ったのかは、だいたいわかる」

 

そこで一旦眉根を寄せて軽く溜め息をついてから再び直葉に視線を戻す。

 

「アスナはさ、《現実世界》に戻ってきてから男に触れられるのが苦手になってて……今はかなり平気になったんだけど……でも」

 

懸命に事の次第を説明しようとする恋人に抱きしめられたままの明日奈が、もぞもぞと恥ずかしそうに拘束を逃れようとしているのに気づかないのか、和人は腕を緩めずに話を続けた。

確かに《SAO》から《ALO》を経て、無事《現実世界》に帰還した明日奈はしばらくの間、男性の医師はもちろん時には父親や兄にさえ触れられると身体を強張らせていた。

その反応に一番心を痛めていたのは彼女自身だ。

そんな明日奈が唯一何の拒否反応も示さない相手、身も心も安心して預けられる存在が……

 

「オレだけは大丈夫だったんだ」

 

そう、和人だけはどんな時でも明日奈の手を握り、身体を抱きしめてやることが出来た。

《ALO》でのアスナの軟禁状態を知っていた和人だけは、彼女のその反応の理由を理解していたが、それを他者に告げる事は明日奈自身が望んでいなかった為に和人は彼女が震える度に抱きしめながら背中を摩り続けたのである。

当時の明日奈の姿を思い出して、和人は顔を曇らせた。

 

「ごめん、アスナ。もっと人通りの多い場所で待ち合わせればよかった」

「さっきは知らない人が突然だったからだよ。今はもう平気……きゃっ」

 

すっかり元の涼やかな声で安心させるように微笑んだ明日奈の背後から突然、ガバッとしがみついてきた存在がいた。

 

「そんなのっ、平気なわけない」

「スグ……」

「直葉ちゃん……」

「知らない男の人に腕を掴まれて平気な女の子なんていません、アスナさん」

 

怒りながらも明日奈を背中から抱きしめた直葉がボソリ、と「竹刀、部室から持ってくればよかった」と物騒な呟きを落とせば、明日奈を挟んで和人が「おいおい、竹刀持ったバイクの二人乗りって、絶対捕まるだろ」と苦笑いを浮かべる。

それから一転、落ち着いた声で「そうだよな、普通に、平気なわけないよな」と呟くと、先刻の光景が脳裏に蘇ったのか、明日奈の背中に回していた手に力が籠もった。

前後から桐ヶ谷兄妹に抱きつかれ、どうしていいのかわからずに身動きのとれないまま困りながらも嬉しさで頬を緩めていると、背後の直葉が明日奈の髪に、くんくんと鼻を寄せてくる。

 

「アスナさん……いい匂いですね」

「えっ?、そう?」

「お兄ちゃんの気持ちが少しわかるかも……クセになりそう」

「こらスグ、オレを『アスナ中毒』みたいに言うなよ」

 

妹の問題発言にすぐさま兄が反応した。しかし、すぐに勢いを落として不愉快そうに、ぼそぼそと明日奈越しに声を落とす。

 

「それに……あんまり嗅ぐなって……」

「なんで?、自分ばっかりずるい」

「ずるいってなー……お前」

 

自分を挟んで言い合いをしている兄妹の声をくすくす、と笑いながら聞いていた明日奈が「ほんと、仲良しさんだね」と感想を漏らした。

明日奈に本当の笑顔が戻ったことを見取ってゆっくりと和人が腕の抱擁を解く。

 

「いつも言ってるけど、へんなヤツが近づいてきたら、すぐに移動しろよ」

「うん、さっきはちょっとぼんやりしてて……」

「そう言えば、少し顔色も悪いか?」

「えっ、大変、今日の外出、無理させちゃったんじゃ……」

 

顔を寄せようとした和人の前に一旦明日奈から離れた直葉が割り込んできた。

心配そうに顔を見つめてくる彼女にふわり、と笑いかけてから「大丈夫。最近ちょっと寝不足気味だったの」と打ち明けると、勝手にその内容を推察した直葉がうんうん、と頷く。

 

「そうですよね、アスナさん、いつもトップの成績だって言うし。今日はお疲れのところ、買い物に付き合ってもらっちゃってすみません」

「あっ、いいの。私も直葉ちゃんとお買い物できるの、楽しみにしてたから」

「どうしても、今日しか部活、休みがなくて……」

「でも、急遽昼過ぎまで活動してたんでしょ?」

「そうなんですけどね」

 

困ったように笑う直葉を見て、明日奈は「直葉ちゃんこそ、お疲れ様」と労えば、後ろで二人の会話を聞いているだけだった和人が憮然とした表情で口を挟んだ。

 

「そうは言っても、学校からはオレのバイクの後ろに乗ってただけだぞ」

「はい、はい、学校まで迎えにきてくれてありがとう、お兄ちゃん」

 

その瞬間だけ振り向いて兄に礼を述べてから、直葉はこそっ、と明日奈の耳元に囁く。

 

「でも部活終わってからだとアスナさんとの待ち合わせが遅くなっちゃう、って言ったら、お兄ちゃんの方から『学校まで迎えに行ってやる』って言い出したんですよ」

 

その事実を聞いて明日奈が小さく笑った。

つられるように直葉も笑う。

なにやらコソコソと話をしている二人を置いて、和人は「ちょっとバイク駐めてくるから待っててくれ」とだけ言い残し、すぐさま駐輪場の中へと消えていった。

その間も今朝から和人が随分と入念に直葉を学校まで迎え行く際の打合せをしてきた話などを明日奈に聞かせていると、ほどなくして和人が戻ってくる。

意味ありげな二人からの視線を完全にスルーして、歩みを止めることなく「ほら、行こうぜ」と目的地に向かって二人を促した。

いつもは和人の隣に明日奈がいて、その数歩後ろをついて行くことの多い直葉だったが、今日は元々自分と明日奈の二人が出かける予定だったので遠慮無く明日奈の隣を陣取る。

歩く度に微かに鼻腔を刺激する明日奈の髪の香りを楽しみながら、直葉は会話を再開させた。

 

「実は突然、卒業した先輩達が稽古を見てやるからって連絡が来て……」

「ああ、それで急遽活動日になったんだね」

「はい」

「部活が終わってから、先輩方と一緒にいなくてよかったの?」

「それが、聞けば先輩達ってば夕方から同窓会なんですよ。で、その前に懐かしの高校に来て、ついでに後輩の指導をしてやろうってことだったみたいで、部活終わったら、じゃあねー、ってあっさり帰っちゃいました」

 

先輩達の所行を頬をぽりぽり、と掻きながら困り笑いで歩く直葉を見て、兄妹共通のクセを密かに微笑ましく思い明日奈も軽く笑う。

 

「そっかー。でも卒業しても見に来てくれるなんて剣道部のみんな、仲よさそう」

「そうですね、だからクリスマス会なんてやるんだし」

 

今日の買い物の目的は、直葉が冬休み前に剣道部の女子達で行うクリスマス会に持参するプレゼント選びだった。

用意する当の直葉よりもうきうきと瞳を輝かせている明日奈は声を弾ませる。

 

「プレゼント交換、どんな物にするか決めてるの?、直葉ちゃん」

「うーん、誰の所に行くかわかんないですし、一応予算も設定されてるんでクリスマス柄の雑貨あたりかな、って考えてるんですけど、これと言って目当ての物は決めてないです」

「そっかー。いい物、見つかるといいね」

「はい」

 

自分の数歩後ろでかしましくお喋りをしながら付いてくる女子二人の会話を聞くともなしに耳に入れながら、和人はこんな関係がずっと続けばいいと思わず頬を緩めたのだった。

 

 

 

 

 

目当ての大型商業施設周辺は既に街路樹にもイルミネーションが取り付けられており、本番まで残り一ヶ月を切った現在、どこもかしこもクリスマス一色に彩られている。

建物内に足を踏み入れれば、休日の午後という絶好の買い物タイムなのか通路にまで人が溢れかえっていた。

直葉が見たいと言っていたクリスマス関連の小物や雑貨を置いてあるブースは更に身動きすら自由にならないほどの混雑ぶりで、和人の足が店の入り口で躊躇うように止まる。

 

「ちょっと……これは……オレには……」

 

言いたくもなるだろうほどに、店内は女性客のみで埋め尽くされていた。さすがの直葉もこの状況には笑いながら「いいよ」と言って手を振る。

 

「上の階の家電売り場にでも行ってて。終わったら連絡入れるから」

「……そうさせていただきます」

 

神妙な表情で有り難く妹からの言葉を受け入れると、一応店内を軽く見渡し、これなら明日奈が声を掛けられる心配はなさそうだ、と判断して栗色の髪にぽんっ、と軽く触れると「じゃあ、後でな」と言い、そのままその手を振ってそそくさとエスカレーターの方へ消えていった。

そうして直葉から言われた通り、家電製品売り場であれこれと商品を眺めて小一時間が経った頃、ようやく和人のポケットの携帯端末からメールの着信音が鳴る。

その内容を確認し終えると、和人は少し固い表情ですぐさま二人の元へと急いだ。

 

 

 

 

 

ワンフロアーの半分を占めているフードコートの片隅のテーブル席で明日奈は、ふぅっ、と深く息を吐き出した。

寝不足の自覚はあったものの、それももう最後と思い、昨晩はいつもより更に深夜まで起きて仕上げをしていたせいか、ふと気が緩むとすぐに注意力が散漫になってしまう。

それでも直葉とプレゼント交換の品物を選んでいた時はその場の雰囲気に気持ちも高揚して眠気など吹き飛んでいたのだが、買い物が済んでしまうとはしゃいでいた気分が疲れとなって被さり途端に頭の芯がぼぅっ、としてきた。

そんな明日奈の表情の変化に目聡く気づいた直葉が「少し休憩しませんか?」と言ってフードコートに誘ってくれた心遣いには感謝するやら申し訳ないやらですっかり恐縮してしまった明日奈だったが、そのままだと足下すらおぼつかなくなりそうだったので、素直に同意して広いフロアの中でも柱の陰になる窓際の席に腰を降ろす。

 

「お兄ちゃんには連絡しておきましたから、しばらくしたら来ると思います。アスナさんはここで席を取っていてください。私、飲み物を買ってきますから」

 

テーブルの横に立って明日奈の様子を気遣いながらも発するはきはきとした口調は直葉そのものを表すようで、押しつけがましくなく耳に心地よい。

たった二歳しか違わないとは言え、相手が恋人の妹という意味でも自分は年長者らしく振る舞わなければ、と思うのに今日はすっかり面倒を見てもらっている場面が多くて明日奈は情けなく微笑んだ。

 

「あの……色々とごめんね、直葉ちゃん」

 

いきなり謝られて、逆に「えっ?」と短い驚声を発した直葉はすぐにむむっ、と眉間に皺をよせる。

 

「アスナさんにそう言われたら、買い物に付き合ってもらった私はもっとごめんなさいになっちゃいます」

 

ちょっと怒った風に睨まれて、その仕草から自分が無理をした時に恋人から向けられる視線を思い出し明日奈はほんわり、と心を温めた。

 

「なら……私の体調を気にしてくれて、ありがとう。お買い物が楽しくてちょっと夢中になりすぎたみたい」

「すごい混雑ぶりでしたから、寝不足の上にあの熱気で人酔いしたんじゃないですか?」

 

心配そうに顔を寄せてくる彼女に儚げな淡い笑みで返した明日奈が上目遣いで「アイスティー、頼んでいい?」と素直に甘えると、さっと頬を染めた直葉は、ぴきっ、と背筋を伸ばし、少々カタコトで「ココで待ってテくださいネ」と言い残し席を離れていく。

そうして、直葉の後ろ姿が人混みに紛れるまで見送った明日奈は、ふぅっ、と深く息を吐き出したのだった。

一人になって改めて周囲を見渡せばフードコート内は空席も数える程しかなく、家族連れや友人同士といったグループでテーブルを囲んでいる人達がほとんどだ。

絶え間なく聞こえてくる話し声や客と店員とのやりとり、食器の触れ合う音、調理の音も微かに混じっているのだろう、休日のせいか施設内全体への館内放送も頻繁に流れてきて、それら全てが混ざり合いゆるやかに明日奈の周りを包み始める。

ほどよい室内温度に加えて人々の体温や料理の熱がただ椅子に座っているだけの彼女をじわじわと温めていき、ぬるま湯に浸かっているように意識がぼんやりとしてきた時だ、更に優しい声がそっと耳に忍び込んでくる。

 

「アスナ?」

 

ゆっくりと首を回すとすぐ目の前に漆黒の瞳が飛び込んできた。

わずかに不安げな色を混ぜてこつん、と額を合わせてくる。

 

「んー……熱は……ないよな?」

「キ……リトく……ん?」

 

一瞬、自分がどこにいるのかがわからず、何をしてたのかも思い出せない。

とにかく自分の傍に大好きな存在がいてくれる事が嬉しくて自然と顔がほころび、すっと両手をのばしてその首にしがみつく。

 

「アスナ?……あー……寝ぼけてるのか?」

 

咎めることなく明日奈の髪と背中を優しく摩り「珍しいな」と呟いてから、和人は言いづらそうに言葉を続ける。

 

「柱の陰になってるとはいえ、周りに、結構、人がいるぞ……」

 

いくつもの和人の声がふわふわ、と彼女の周りに浮いてゆっくりとその身に入り、ようやく脳に届いた瞬間その意味を悟り、自分のいる場所と理由を思い出した明日奈は大きく目を見開き、「きゃっ」と驚声を上げて慌てて身体を離した。

 

「やっ……私ったら……」

 

両手で頬を押さえて顔をかくすように俯いている明日奈の隣の椅子にはいつの間にかやって来た和人が腰をおろして頬杖をつき、楽しそうにその様子を観察している。

 

「そこまで寝不足になるほど手こずる課題でもあったのか?」

 

お互い時間のある時は結構な深夜まで《仮想空間》に潜っている身だ、夜更かしにはある程度慣れっこのはずなのに、と和人は不思議に思って首を傾げた。

 

「それに……スグは?」

「直葉ちゃんは私の分も飲み物を買いに行ってくれてるの。お手洗いにも寄るって言ってたから、少し時間がかかってるのかも」

「あいつ……アスナが体調を崩したから早くフードコートに来いって……」

 

どうやら妹からのメールが少々大げさだったことに気づいた和人がほっ、と肩の力を抜くと明日奈が申し訳なさそうに「ごめんね」と両手を合わせる。

 

「いいよ。全くの嘘ってわけでもないし。でも、本当にあまり無理するなよ」

 

ついさっきもよく似た視線を頂戴した明日奈は未だ引かない熱を頬に乗せたまま膝の上に置いていたバッグの中に手を入れる。

なにやらがさごそと中身を探りながら「寝不足の原因はね……」と言って綺麗にラッピングしてある袋を取り出した。

 

「やっぱり《現実世界》だとスキルの上達はなかなか思うようにいかなくて……本当は学校で渡そうと思ってたんだけど、今日、会える事になったから昨夜頑張っちゃったの」

 

そう言って「はい」と差し出された紙袋を和人は驚きと疑問を同居させた顔で見つめながら、人差し指で自分の顔を指し「オレに?」と問いかける。

当然のようにひとつ頷いた笑顔の明日奈からおずおずと両手で袋を受け取った和人が「ありがとう」に続けて「開けてもいいのか?」と聞くと、再び明日奈が満面の笑みで頷いた。

未だ事の理解が出来ずに不思議そうな顔で袋の中に手を突っ込んだ和人は、取り出したそれを見て明日奈お手製の弁当箱のフタを開けた時と同じく、黒真珠のように丸くした瞳を輝かせる。

 

「これって……」

「前にバイクの後ろに乗せてもらった時、風が冷たくなってきたら首筋が寒そうだなーって思ったから少しずつ編んでたんだけど……」

 

照れ笑いを浮かべたまま、今度は気恥ずかしさで頬を淡く染めて「編み目が納得いかなくて何度も編み直してたら、すっかり遅くなっちゃった」と言い訳じみた言葉を口にしているが、和人から言わせれば自分の手にある毛糸の黒いマフラーは店で買ったと言っても誰もが疑うことない出来映えだった。

太い毛糸のざっくりとした編み目ではなく、細い黒に更に細い青や薄茶が混じり合った毛糸のぴっちりと隙間ない編み目は風を通すことなく和人の首元を温めるだろう。

編み目がきっちりと細かいわりには柔らかな肌触りが気持ちよくて、思わず頬にあてて感触を楽しんでいると、明日奈が「ウールの他に少しだけシルクが混ざった毛糸なの」と説明をしてくれる。

 

「色も真っ黒より、黒がベースで差し色が入っていた方が色々合わせやすいでしょ」

 

にっこり、とそう言われて、最近、和人は服装に色々と黒以外も取り入れていることを彼女がちゃんと気づいていた事実に「やっぱり、アスナだな」と笑顔を見せた。

そっ、と首に巻いてみれば長さももたつくことなく丁度いい。

ふわり、と自分の首を優しく温めてくれる感触に何かを思い出して和人は口の端を上げ、ニヤリ、と微笑む。

 

「なんだか……アスナに抱きつかれてるみたいだ」

「ええぇっ!」

 

突然の問題発言に名前を出された明日奈は慌てふためいた。

確かにさっきはぼんやりとして本能のままに両手を伸ばしてしまったが、そんな事がしょっちゅうあるわけではない。

一体、何の話なのかと眉間に皺を寄せてじっ、と睨み付けると、和人は得意気な笑みもそのままにタネ明かしを始めた。

 

「気づいてないのか?……アスナってさ我慢出来なくなると、オレにしがみついてくるから……」

 

そこまで聞かされても何の話なのかさっぱり見当がつかない明日奈は視線だけを和らげ、むううっ、と眉間の皺をますます深くする。

さらにヒントを与えようと和人が彼女の耳元に口を寄せた。

 

「ほら……ベッドでさ……」

 

和人の耳打ちによって一瞬にして正解を悟った明日奈は同時に火を吹きだすほどの勢いで顔全体から熱を発する。

真っ赤な金魚が空気を求めて口をぱくぱくと動かしているような姿があまりにも可愛くて、和人は明日奈にしか向けない愛おしげな笑顔を浮かべた。

そうなのだ、普段は純情可憐な微笑みと仕草で周りを魅了している明日奈も、唯一、和人の腕の中でだけは、はしばみ色の瞳に涙を貯めたまま顔を朱に染めて浅い息を繰り返し、涙声で必死に「キリト」の名を呼ぶほど理性を溶かされる。

最後の最後には掴んでいたシーツから指をはがし、すがるように和人の首にしがみつくのがお決まりなのだが、そこに行き着く頃にはすっかり和人の熱に浮かされている状態なので、明日奈自身、考えた末の行動ではないから気づかなくても当然だった。

 

「そっ……そっ……そんなっ……」

 

やっと声が出せるようになった頃、三人分の飲み物をトレイに乗せた直葉が合流した。

ずっと座って待っていたはずの明日奈の顔がすっかり上気していることに驚いた直葉が心配そうに覗き込んだが、隣にいる和人の平然とした態度から原因は自分の兄なのだという事に気づき、和人をひと睨みしてから向かいの席に着く。

買ってきたアイスティーを飲んで落ち着きを取り戻した明日奈と少しおしゃべりを楽しんでから時計を見て、そろそろ帰る時刻だと外にでた。

和人と二人で駅の改札口まで明日奈を見送り、駐輪場まで引き返す。

バイクを出してきた兄の後ろにまたがると、ふと目の前に高校からここまでの時にはなかったある物に気がついた。

 

「……お兄ちゃん、マフラーなんてしてたっけ?」

「んー?……まあな……」

「ふーん。いい色だね。それにあったかそう。今度貸してよ」

「それは……悪いけどちょっと無理だな」

「なんで?」

 

妹からの問いに小さく応えた和人の声は、爆音と称するにふさわしいバイクのエンジン音にかき消され直葉の耳に届くことはなかった。

 

(アスナは誰にも貸せないから……)




お読みいただき、有り難うございました。
「和人編」では確信犯的に「別枠(R−18)」的内容が盛り込まれておりましたが、
「明日奈編」ではスレスレ、ギリギリ……セーフ?……アウト!?……超厳密には
別枠ですよね、な数行を練り込んでみました。
ほんのり隠し味的な……まあ、なくても軽くイチャこらしてますけど、あった方が
いいかなぁ〜、っと思ったものですから(苦笑)
次回は、二人が結婚して数年後のお話をお届けする予定です。


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【いつもの二人】禁句編

ご本家(原作)様の『ムーン・クレイドル』発売を祝しまして【いつもの二人】
シリーズをお届けします。
今回は和人と明日奈の息子、高校生の和真視点です。


ガチャリ、と玄関の扉を開けるとすかさずオレの脇からするり、とオレより先に玄関に足を踏み入れたクラスメイトの柴杜小太郎(しばもり こたろう)がポイッ、ポイッ、と靴を脱ぎ捨てながら「明日奈さーん」と母の名を呼ぶ。

 

待て待て小太郎、ここはオレの家だし、それはオレの母親の名前だからっ

 

友人の家に遊びに来た、と言うにはあまりにも無遠慮に上がり込み、「明日奈さん、リビングかな?」と言って廊下を歩き始めようとしている友の自由奔放な行為に焦ったオレは、自身も乱暴に靴を脱ぎ、急いでヤツの腕を掴み引き寄せた。

 

「ほんっとに今日はマズイんだってば。頼むからこのままオレの部屋に行って大人しくしててくれよ」

「何言ってんだよ和真、友達の家にお邪魔したらまずはお家の人に挨拶しなきゃ、だろ」

 

んな事、絶対思ってないだろーっ、と眉毛を痙攣させながらオレは掴んでいる手に更に力をこめる。

ずずっ、と顔を寄せ半眼で睨み付けながら声のトーンを落として「小太郎」と友の名を口にした。

 

「オレは言ったよな。今日まで家には呼べないって。それを無理矢理付いてきたのはお前なんだから、勝手をして痛い目に遭っても知らないぞ」

「ほおおっ、イケメンは凄んでもイケメンだなっ」

 

斜め上の感想を漏らした友のあまりの緊迫感の無さにガクリ、と肩を落としたオレは鞭がダメならと飴を差し出してみる。

 

「お前が来てる事はちゃんと母さんに伝える。そしたらオレの部屋に茶菓子を持って来てくれるだろうから、それまで良い子で部屋で待ってような」

 

優しく笑顔で言ってやったのに小太郎は反対にジトリ、とオレを睨んできた。

 

「それまでなんて待てるかよ。オレはテスト期間という荒波を乗り切った心の疲れを今すぐ明日奈さんに癒やされたいんだ」

「……ガキじゃないんだから、我慢って言葉、知らないのか?……それに人の母親に癒やしを求めるのは現役男子高校生としてどうかと思うぞ」

「お前は生まれた時から常に明日奈さんの癒やしパワーを受けてるから感覚が麻痺してるんだ。羨ましいヤツめ」

「とーにーかーくっ、今日は本当にマズイんだ、ヤバイんだ、ヘタしたらお前、殺(や)られるって」

「なーに大げさでわけわかんない事言ってんだよ和真」

 

そう言うと小太郎はするり、とオレの腕を振りほどき一目散にリビングのドアへと駆け寄っていく。

ここまで廊下で騒いでいるのに母さんがやって来ないって事はほぼ間違いなく二人でくつろいでいるに違いないのに……オレは再度友を捕獲しようと目一杯腕を伸ばしスナップを効かせるが、空しくもその手は中を掻いた。

小太郎が勝手知ったる、でリビングのドアを開け母の名を「あっすなさーん」とお気楽に呼んだ時だ。予感的中の二人の話し声が耳に飛び込んでくる。

 

「ほらっ、和人くん、動かないでってば」

「あ……うん」

 

オレの目の前にはリビングの入り口で扉の取っ手に手をかけたまま微動だにしない柴杜小太郎。

ヤツが邪魔で中が確認できないが、多分オレの予想通り、ソファあたりで小太郎の突撃にも気づかない程仲睦まじくしている二人の姿を目に焼き付けてしまったのだろう、盲目的にという言葉が全く大げさではないほどオレの母を敬愛している友がゆっくとり音を立てずに振り向いた。

固まったままの顔の中、唯一口だけを動かして俺の耳元に寄せてくる。

 

「和真、お前ってにーちゃんいたっけ?」

 

唐突になんの話なのか?、オレんトコの家族構成は承知しているはずなのに、と思いつつその真剣な眼差しに茶化す気にもなれず正直に回答を口にした。

 

「知ってるだろ。俺は長男だし、男兄弟はいないって」

「だよな」

「うん」

「それに、あの、まさか《現実世界》で目にする事になるはずはないと信じていた、あの光景はなんなんだ?」

 

ひょいっ、と首をかしげ、小太郎の顔の横からリビングを覗き込む。

ソファには小太郎のお目当ての母が座っていた……そしてその膝の上にのっているのはタブレットを弄っているオレの父の頭……そう、俺の父は母の膝枕で耳掃除をしてもらいながらタブレットを操作しているのだ。

 

まあ……アレは……うちだと『あり』な光景なんだけどな……

 

そんなオレの心の声が届いたかのように小太郎かぷるぷると顔を左右に捻りながら小声で訴えてくる。

 

「ないないないないっ、アレはないだろーっ、誰なんだよっ、俺の明日奈さんの膝の上にどたま乗せてんのっ」

「いつからオレの母親がお前の物になったのさ。どっちかって言うと母さんの所有権の九十九%はアノ人だから。俺とユイ姉と芽衣が合わせてイチパーくらいだし」

 

そんな不毛な言い合いをしていると、再び二人の会話が聞こえてきた。

 

「また向こうの研究所の人と意見交換?」

「まあ、そんなとこかな」

「今度は気をつけてね。自分の研究内容漏らすなんて本当にいくつになってもうっかりさんなんだからっ」

「いや、この前はちょっと煮詰まってたしさ。休みの日に軽い雑談チャットのつもりが互いに近況報告をしているうちに今の仕事内容にまで話が発展しちゃって……でもお陰で新しい側面からのアプローチも見えたし……」

「それでもだよっ。国際裁判になってもおかしくなかったんだから」

「はいはい、それにしてもよくすぐに研究所のメインスポンサーのトップと連絡とれたよなぁ」

「相手の国がアメリカだったし現地時間もお昼前だったからね。正確にはあの企業の筆頭顧問弁護士の奥さんを知ってただけだけど……」

「でも、明日奈がすぐに動いてくれたから一部共同開発ってことで落ち着いて……うちの所長とあのメガネが揃ってうちまで頭下げに来たんだから、やっぱり明日奈のお陰だろ」

「そもそもの原因は和人くんなのに……私がいたたまれなかったよ」

 

クスクスと笑っている父に母は「ほら、だから動いちゃダメ」と顔をしかめながらも優しい声を落として父の耳にほっそりとした白い指を沿わせている。

両親のグローバルな会話を黙って聞いていた小太郎が「和真ぁ」と情けない声で俺を呼んだ。

 

「なに?」

「なんか、俺……明日奈さんの包容力のデカさと言うか深さ?……ハンパない器の大きさに目眩がしてきた」

「そうだろうね、うちの母さんのバックアップ機能って一般人には魔法レベルだから」

「それにしてもだっ、あの男、誰なんだよっ」

 

オレが真実を告げようとした時だ、ようやく扉の前の挙動不審な高校生二名に気づいたのか母が「あれっ?、和真くん?……もしかして小太郎くんも一緒?」と声をかけてきた。

観念して小太郎を自分の背後に回し、飛び出して来ないよう自らの身体でブロックしながらリビングに顔を覗かせる。

 

「うん、ただいま、母さん」

「おかえりなさい。小太郎くんもいらっしゃい」

 

オレの後ろに声をかけつつ立ち上がろうとしているのに、気づかないふりで全く膝の上から動こうとしない父に母が痺れを切らした。

 

「和人くん、ちょっといい?」

「……さっきから扉の前でゴソゴソと、目障りな奴らだな」

 

と言う事は父はしっかりオレ達に気づいていながら無視し続けていたというわけか。

父の物言いに母の声が険のあるものへと変化した。

 

「和人くん……」

 

上から見つめられているはしばみ色の圧に耐えかねたのか、父は気まずそうに視線を泳がせつつゆっくりと上半身を起こす。

 

「……おかえり、和真……」

「ただいま、父さん……」

「父さんっ!?」

 

突如、素っ頓狂な声がオレの背後からクラッカーのように飛び出した。

 

「父さんっ、和真の父さんってことは明日奈さんの旦那さん!?」

 

両足をふんばり、オレを乗り越えてリビングへ駆け込みそうな勢いの小太郎を両手を広げて阻止しつつ両親に精一杯の笑顔を向ける。

 

「邪魔してごめん、オレ達は部屋に行ってるから」

「何言ってんだよっ、和真っ。オレ、明日奈さんに挨拶してないだろー。オレは明日奈さんに癒やされに来たんだからっ。それに明日奈さんの……」

「小太郎、やめろ、口を閉じとけ。でないと……」

「和真」

 

後ろから顔の近くでキャンキャンと騒いでいる小太郎の声を押しのけて父の低い声がぞわり、と耳から侵入してくる。

 

オレまで巻き込むのは勘弁して欲しい……

 

オレの返事さえ待たずソファから立ち上がり片手にタブレットを掴んだままの父が目の前に立ちはだかった。

長めの真っ黒な前髪が顔を傾けた拍子にぱさり、と双眸を覆う。

有休期間はラフな格好で常に母が見える場所でのんびりしているか、母にくっついているかの父だから出で立ちに威圧感はないが、前髪の奥から注がれる眼力が……小太郎風に言えば……ハンパない……。

 

息子相手に凄まないでよ……オレだって邪魔したくて邪魔したわけじゃないんだから……

 

「和真、お前の友達は友人の父親の妻を名前で呼ぶ悪癖の持ち主なのか?」

「えーっと……」

 

何と答えたらいいものか、と逡巡している間にオレの肩に顎をのせた小太郎が見ずともわかるほどに興味津々の瞳で声を弾ませて父に話しかけた。

 

「和真のオヤジさん!……ってことは明日奈さんの旦那さんかぁ……ふぎゃもごっ」

 

オレの家を殺人現場にする気かっ

 

咄嗟に小太郎の口を塞ぎ、既に客観的に見て笑顔になっているのか引きつっているのかも自己判断できない状態で固まっている唇をなんとか動かす。

 

「ははっ……」

 

ダメだ……乾いた笑いしか……と言うか既に口から言葉が出てこない……

 

とにかくこれ以上小太郎に声を出させてはダメだ、何かが終わる、と本能が告げ、唇を動かす事は諦めて持てる力の全てを使って奴の口を押さえることに専念していると、全身の強ばりを瞬く間に溶かす声が父の後ろから柔らかく耳に忍び込んでくる。

 

「そんな所で何してるの?」

「あふにゃはんっ」

 

一瞬緩んだ父の殺気が再び蘇る。

しかしこの時を逃すものか、とオレは小太郎の口を更に圧迫しながら自由になった手足で奴を身体ごとじりじりと二階へ続く階段に押しやった。しかし父の横からひょこり、と斜めに顔を出した母は不思議そうな顔で爆弾を投下してくれる。

 

「今日は小太郎君ひとり?、珍しいね。いつも定期考査の最終日はみんなで集まるからシフォンケーキを焼いておいたのに」

 

母の言葉を聞いて父が小さく「いつも?……みんな?」と呟くのと同時にどす黒さが増幅したオーラがオレを襲った。

 

「ほらっ、父さんの有休、今日までだろ。あまりうるさくしたらいけないと思って……」

「そんなの気にしなくていいのに」

「せっかくの有休なんだしさ。ゆっくりしてもらいたかったんだ。なのに小太郎はいくらダメだって言っても付いてきちゃって……」

 

母との会話に集中していたせいか知らずに緩んでいたオレの手を小太郎が両手でグイッとはがし、すかさず文句を訴えてくる。

 

「和真っ、その言い方だとオレは道ばたの段ボールに入ってた捨て犬みたいじゃないかっ」

 

その言い方がツボったのか母がコロコロと声を上げて笑えば、その笑顔を見て父の表情があからさまに穏やかなものへと変化した。

すると小太郎が「ああ、和真の目の雰囲気はオヤジさん似なんだな」と笑って言うとすぐに母が「そうなのっ」と賛同して嬉しそうに食いついてくる。

何やらオレと父との共通項で盛り上がり始めている二人を複雑な思いで傍観していると、母と会話が出来ることで小躍りする勢いの小太郎が余計なことを喋り始めた。

 

「和真のイケメン要素は明日奈さんのお陰だけじゃなかったんですね。オレ、最初お二人を見た時、和真のにーちゃんかと思ったくらいで……」

「えっ?」

 

母の顔が微かに強張る。

 

「オヤジさんだなんて全っ然見えないですよー」

「……それって……」

 

母の表情の変化にも気づかず言葉を続ける小太郎を止めようとした時には手遅れだった。

 

「格好いいし、若々しいし、二十代だって言っても通用するくらい……」

「二十代で十六の息子がいてたまるか」

 

小太郎の暴走を遮ったのは父の呟きだった……が、既に母の眉は思いっきりハの字に曲がっている。

 

「それって……和人くんが私より若く見えるって……こと?」

「あ……」

「あ……」

 

オレと同時に父からも事の深刻さを悟った困惑の一言がこぼれ落ちた。

 

踏んだ……踏んだな、小太郎……たった今、お前は触れてはならないボタンを躊躇いもなくスキップで踏んだ……

 

「私……お茶の用意してくる……」

 

母は力なくそう言うなりくるり、と身体を反転させてリビングの奥のキッチンへと足早に逃げ込んでいく。

それを慌てて追いかける父は素早く振り返りオレ達二人を睨み付けた。

 

「しばらくここは立入禁止だ、それと和真、そいつ二、三発殴っとけ」

「りょーかい」

「明日奈っ、ちょっと待てって」

 

今度は素直に了承の意を示して母の後を追う父を見送る。

多分、今頃はあの柔らかそうな唇を噛みしめて、はしばみ色の瞳に大粒の涙を湛えているに違いない。

そうなってしまった母の対応は父にしか出来ないので、オレはオレの役割に徹することにする。

 

とりあえず、不用意に父の見た目を褒めたこの口に制裁を加えてやろうか……

 

母の変貌を唖然とした面持ちで見ていた小太郎と対面してその口から頬にかけてを思いっきりつねあげた。

 

「いっ、いひゃいっ、いひゃいっ」

「母さんのダメージと今までのオレの心労を考えたらこれでも足りないくらいだけど、本当に二、三発、殴ろうか?」

「かっ、かずゅま、ごみぇん、なんらかよくわかんらいけど、ごみぇんなひゃいっ」

 

ちょっとだけ気がすんで手を離すと、少し変形したままの口元を両手で押さえた小太郎が涙声で理由を聞いてくる。

 

「なにっ?、なんでっ?、オレ、なんかした?」

「あのね、うちでは父さんが若く見えるって禁句なの」

「どーしてっ!?、明日奈さんはもちろん、オヤジさんだって二十代でもいけるぞっ」

「二人共若く見えるのはいいんだよ」

「……どーゆー意味だ?」

「だから、父さんだけを言うと、母さんより若いって言われてるみたいに感じるらしいんだ」

「だ、誰が?」

「母さんが」

「はぁ?……だって、オヤジさんとは今日初めて会ったんだから、その外見の印象を言っただけで、明日奈さんが若く見えるのなんて今更だろ。うちの学校の連中、みんな知ってるぞ」

「それでもだよ……母さん気にするから……事実、年上だし」

「いくつ?」

「ひとつ」

 

その数字に小太郎は呆れたように口をパッカリ開けたまま時を止めた。

 

「…………え?、たったひとつ?……それを気にしてんの?」

「そう」

「明日奈さんって…………可愛いな」

「あ、それも禁句」

「なんでっ!?」

「自分の妻がヤローに可愛いって言われると父さんの機嫌が悪くなる」

 

我が家の夫婦情報に小太郎はげんなり、とした表情に転じるとポソリ、と落とした。

 

「何か色々と言いたい気がするけど、言ったら殴られそうだからやめとく」

「そうだな、それが正解だと思う。それより部屋に行こう。お茶とケーキはしばらくおあずけになるから我慢しろよ」

 

リビングのドアを閉めて先に階段へ足をかけるとすぐ後ろから小太郎が「ケーキがぁ……」と小さく呟いている。

いつも定期考査の打ち上げと称して我が家に集結するメンバーの為に母が自慢の腕をふるった手作りお菓子を用意してくれるのだが、今日に限っては父が有休で在宅中の為、なんとかメンバー達を誤魔化して帰宅したお陰で、小太郎のケーキの取り分はかなりの量になるだろう。

それを告げて小太郎を慰めつつ、出来るだけ早めに母さんを復活させて下さい、の願いを心の中で父に送ったのだった。

 

 

 

 

 

肩を落とした和真達が二階の自室へと向かっている頃、リビングの奥ではポットに茶葉を入れる為、缶を手にした明日奈の肩を和人の手が後ろから支えていた。

 

「ほら、明日奈、機嫌なおせって」

「別に、不機嫌じゃないよ」

 

和人の片手が肩から離れて、そっと明日奈の右手を包む。

 

「だったらなんで、手、震えてるんだ?」

 

缶から茶葉をすくうメジャースプーンが小刻みに揺れ、サラサラと葉が滑り落ちていく。

 

「うぅっ……とにかくお茶をいれるんだから向こうに行ってて」

「和真は甘党だから紅茶がしょっぱいと飲まないだろ」

 

明日奈が掴んでいたスプーンから指をはずさせ和人の手で缶の中に戻すと、そのまま缶を調理台に置いてすかさず両腕で閉じ込めた。

 

「明日奈、こっち向いて」

「やっ」

「拗ねてないで、涙がこぼれ落ちるぞ」

「す、拗ねてないものっ」

「ったく、歳の話になると相変わらずだな」

 

そう言えば高校の時も屋上で似たような展開になった事を思いだした和人は昔も今もこんな明日奈に対する態度が一つしか浮かばない自分に苦笑する。

 

「相変わらずなのはオレも一緒か……」

 

和真達が自室のドアを閉めた時、ちょうどキッチンではリップ音の雨が降り始めた。




お読みいただき、有り難うございました。
昨夏に投稿しました『ハハ・ハ、ツヨシ?』で和人が有休を取ったらずっと家に
いる(明日奈にひっついてる?)から和真が友達を呼べない云々、のくだりが
あったので、それを元に書いてみました。
和人達が高校生の時、明日奈が年上なのを気にしてるのは同じく【二人】シリーズの
『歳の差編』をご参照ください(CM?……苦笑)
柴杜小太郎くん……めっちゃイメージは子犬ですっ。
では、また五日後に『みっつめの天賜物』(後編)でお会いしましょう!


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みっつめの天賜物・前編

和人と明日奈が夫婦となって数年の月日が流れ、一人息子の和真(かずま)も
保育園に通うまでに成長した頃のお話です。
ある日の夕方、職場から帰宅しようとしていた明日奈の元にやってきたのは……。


夕方の五時を過ぎ、勤め先の事務所があるオフィスビルのエントランスホールからオートドアをくぐり抜けた明日奈はいつもなら気づかないだろうビルの谷間から僅かに見える夕陽にふと足を止める。

懐かしい色によく似た黄昏の陽射しに目を細めていると、背後から「明日奈先輩っ」と元気の良い声と共に軽やかなヒールの音が近づいてきた。

人の動きが多い時間帯、同じように一日の勤めを終えたと思われるスーツ姿の男性やかっちりとした服装の女性、逆にこれからが本番、と言いたげに気合いの入っている私服姿の若い女性陣といった人混みをかき分けて、明日奈と同じ職場で働く『莉々花(りりか)・リンドグレーン』が肩までのゆるいパーマをふわふわと揺らしながら駆け寄ってくる。

明日奈より十センチほど小柄な彼女は隣に辿り着くと息を弾ませたまま「珍しいデスね」と大きな瞳を向けて来た。

かけられた言葉の意味が分からず首を傾げると、にこり、と笑った後輩は「だって」と続ける。

 

「うちの職場、フレックスタイム制なのに明日奈先輩ったら必ず五時に退社して一目散に帰っちゃうじゃないデスか。こんな所で立ち止まってる先輩、初めて見ました」

 

そう告げられて初めて明日奈も「そうだね」と自分の行動に苦笑した。

確かに、よほどの理由がない限り明日奈はいつも同じ時刻に出社をし、やはり同じ時刻に退社をする。

それは明日奈自身の性格も理由の一端ではあるが、根本的な理由は共働きの為、一人息子の和真を保育園に預けているからだ。

時折、思い出したように夫である和人が「たまには俺が送り迎えをしようか?」と言ってくれるが、研究・開発部門で働く彼は明日奈より時間の自由が効く代わりに突発的に呼び出される場合も少なくなく、「お父さんが迎えに来てくれる」と喜んでいた息子をガッカリさせたくなくて和真の送迎は自分の担当だと明日奈はとうに割り切っている。

そのお陰で自然と出社時間、退社時間も定刻になるわけだが……今日に限っては保育園に急ぐ必要がないせいで目に入った夕陽の色に魅入ってしまっていたのだ。

 

「今日はね、息子のお迎えを私の母がしてくれて、そのまま外食したいって。だから少しのんびり気分だったのかも」

 

いつまでも出入り口で立ち止まっていては邪魔になるだろう、と、後輩を誘うように端に移動した明日奈は自分が立ち止まっていた理由を莉々花に明かした。

今日の昼間、母の京子から急に時間が空いたので和人の母の翠と一緒に和真と三人で晩ご飯を食べる段取りになった旨の、ほぼ決定事項の確認書のような文章のメールが届いたのだ。

既に翠も了承している話ならば異を唱える理由もなく、自分の結婚後、知らない所で随分と親交が深まっている母と姑の関係はむしろ歓迎すべきものなのだろう、和真のお迎えもしてくれると言うのでその言葉に甘え、すぐに園へ連絡を入れたついでに画面越しに息子へ事の次第を話した時も父親譲りのニヤリ、とした笑みを浮かべていたから安心して二人の母に任せて自分は久々に時間に追われることなく職場からの帰路につこうとしていたのだが……これでは自分の夫ばかりを『のんびり屋さん』と評してはいられないと心中で苦笑いをしていると、目の前の後輩は途端に日本人離れした瑠璃色の瞳を輝かせて明日奈の片腕を両手で捉えた。

 

「ならっ、今日はこれからご飯食べに行きませんかっ?」

「ええっ?」

「だって明日奈先輩、いくら誘っても食事会や飲み会に参加してくれないじゃないデスか」

 

不満を表すように軽く桃色の頬を膨らませた莉々花はジッと上目遣いで明日奈を睨んでくる。掴んでいる明日奈の腕に離すまいと力を込め「それに、先輩、お昼ご飯はだいたいいつもお弁当だし」と更に非難の色を濃くした。

毎回誘われる度に申し訳ないと思いつつも二人分のお弁当作りは既に習慣のようになっている明日奈は、夫が出張などで数日間家を留守にする時は職場の女性陣の誘いにのってランチを楽しんでいるのだが、どうやら莉々花としてはその程度の頻度では満足していないらしい。

一時も視線を外さずクリクリとした瞳で懇願の表情をされると職場でも自分のサポートを勤めてくれている彼女の願いを無下には出来ず、明日奈は考え込むように唇をギュッと引き締めた。

息子の事は既に母達に任せてある、そして夫はここ数日帰宅すらままならない程仕事が大詰めを迎えており、今夜は仕事の関係者と食事の予定だ。ここはひとつ彼女のお誘いに応じようか、と唇を動かしかけた時、前の大通りを挟んだ向かい側に建つショッピングビル外壁に取り付けられた大型モニターから流れてくるニュース映像の音に明日奈の意識はひっぱられ、思わず顔を向ける。

明日奈の視線を追うように莉々花もモニターを見上げると「ああ、発表会見、今日だったんですね」と軽く頷いた。

画面には今日の昼過ぎに全世界へと生中継された最新の次世代型VRマシン発表会見の録画映像が映し出されている。

ずらっ、と長テーブルの向こう側に横一列、中央に座している中年の男性は発売元の社長だ……世界中に配信されている事を意識してか常に穏やかな笑みを湛えているが額にはうっすらと汗が滲んでいた。

両隣には販売担当者と開発担当者が控え、更に画面の隅に近い場所に開発プロジェクトのチームリーダーがワイシャツに白衣を羽織ったラフな格好で幾分眠そうな表情を晒している。

今は開発担当者がこれまでの経緯を熱く語っている場面だが、ちょうど隣のチームリーダーの口がふわぁ、と大きく開きかけた。

すると、すかさず画面の端から鋭角な肘だけが映り、彼の脇腹に素早く食い込めば、「ぐぇっ」という小さな呻き声をマイクが拾う。

開発担当者の発言が終わると、そんな緊張感の欠片もない白衣姿のチームリーダーに向け進行役が事前に用意されていた質問用紙を読み上げた。

 

「では続きまして、今回、開発プロジェクトの中心となった桐ヶ谷和人さんにお聞きします、二十代という若さでチームを率いる才能は、あの茅場晶彦の再来とも言われていますが、それについてはどう思われますか?」

 

中継カメラのこちら側にいるであろう関係者や取材陣達の視線が痛いほど集中したのが感じられる。

しかし渡されたマイクを左手で受け取ると和人はまさに欠伸をかみ殺した顔で訥々と質問に答え始めた。

 

「茅場晶彦氏に関しては、ある部分、尊敬もしていますが、オレは彼の後ろを追うつもりはありませんし、彼のようになりたいとも思っていないので『再来』という言葉には正直、違和感しか感じません。だいたいこんな仕事をしてますが、それほど《仮想世界》にのめり込んではいないですよ、《現実世界》に一番大事な人がいますし……」

 

特に表情も変えず言い放つとまたもや急に画面の横から腕が伸びてきて、和人が握っていたマイクを強引にかっさらいながら囁くように「お前な、全世界にのろけ配信をする気かっ」と密やかながらも鋭い叱責の声がそれこそマイク越しに全世界配信されて会場が生温かい雰囲気に包まれる。

そのやりとりをフォローするように進行役がフレーム外の人物紹介を求めた。

 

「えっ……と、画面には映っていませんが、桐ヶ谷さんのお隣の方は……?」

 

固定されているメインカメラが和人の隣を映す事はなかったが、その場の全員が顔の向きを一方向に動かす。

一拍間を開けて渋々といった表情で販売担当者が自分の前に置かれているマイクを持ち上げ、かなり無理矢理な作り笑顔を浮かべた。

 

「ああ、彼は普段営業部の人間なのですが、今回は広報として動いてもらってるんです。主に桐ヶ谷君のサポートとして」

「つまり、桐ヶ谷さんの付き人のような存在、という事でしょうか?」

 

進行役の発言を聞いた途端、ぷっ、と吹き出す音と「ええっ」と驚く声が同時にマイクに集音される。

口元を隠しつつふるふると肩をふるわせている和人の隣からはまたもや「勘弁してくれよ」と弱々しい声が拾われていた。

その場の雰囲気を正すように販売担当者が早口で「それで、発売時期についてですが……」と視聴者がもっとも聞きたいネタで本来の会見内容へ軌道修正すると、すぐさま進行役が興味を移す。

そうして会見内容は再び商品の詳細説明へと戻っていった。

 

「……桐ヶ谷和人って人、初めて見ました」

 

莉々花が何かを探るような視線でモニターを眺めながら、ふと感想を漏らす。

その言葉を受けてほんのりと頬を染めていた明日奈は「そうだね」と同意を示した。

 

「あまりメディアに出ない人だから……」

 

すると今度は逆に莉々花が堰を切ったように興奮気味の口調で明日奈に語り始める。

 

「そうデスよね、前々から電子新聞やウェブニュースなんかでは騒がれてましたけど、画像とか一切出回ってないし……私、半分都市伝説かと思ってました」

「と……都市伝説って……」

「だいたい私と同じ二十代であれだけのプロジェクトを背負うなんてありえないデスよ。どんだけ天才なんだって感じで……」

「そう?、意外と努力の人……なのかもよ?」

「それにVRマシンの開発なんて絶対ネット中毒の孤独なアブナイ感じの人だと思ってたのに、なにあれっ、見ました?、明日奈先輩っ」

「えっ?、何を?」

「指輪デスよっ、指輪。マイクを持ってた左手の薬指っ。会見場で堂々と。それに全世界中継で『一番大事な人』って……奥さんの事でしょう?」

「そ、そう……かも……ね」

「あーんな事さらっと言っちゃって、しかも結構顔の造りも良いじゃないデスかっ」

「とりあえず落ち着いて、莉々花ちゃん」

 

鼻息も荒く桐ヶ谷和人について語る後輩の肩を宥めるようにさすると、莉々花がふぅっ、と息を吐き出してしみじみと言葉を落とした。

 

「……世の中にはいるんデスね、桐ヶ谷和人みたいに容姿と才能と、天から二物を与えてもらってる人って……」

 

その言葉に肯定も否定も出来ず、明日奈がそっとフワフワの髪をなでていると、莉々花は少し照れたように笑って「そう言えばここにもいました」と明日奈を見つめる。

 

「ハイレベルな美貌と頭脳を兼ね備えている人」

「……私!?……そんな事ないよっ」

 

明日奈が慌てて首と手を振って否定を表すと莉々花は半眼になって再び明日奈の腕を捉えた。

 

「先輩、それ謙遜を通り越して嫌みに聞こえまえから素直に肯定してください」

「それなら莉々花ちゃんだってとっても可愛いよ。綺麗な瞳だし」

「ここだけはどうしてもハーフのせいで北欧系の色なんデスよね」

 

一層見開いて明日奈を見つめる双眸は深い瑠璃色の瞳に淡緑の虹彩が瑞々しく輝いている。

 

「それに職場でだって、私の補佐をしながらちゃんと自分の仕事だってしてるじゃない」

「それは私がフォローしやすいように明日奈先輩が仕事を振ってくれるからデスよ。研修で付いた水嶋さんの時はそりゃあ大変だったんデスからっ」

「ちょっと、職場のビルの出入り口で人の悪口言わないでくれないかな?」

 

ふいに二人の背後から呆れ声が飛んできた。

 

「ぎゃぁっ……みっ、水嶋さん……な、なんでっ?」

「いや、俺も帰るトコなんだけど……珍しいね、結城がとっとと帰らずに立ち話してるなんて」

「うん、今日は急いで帰らなくても大丈夫なの」

「それで莉々と一緒に俺の悪口言い合ってたのか。同僚なのにひでぇ」

「水嶋さんこそ人聞きの悪い事、言わないでください。だいたい悪口なんて言ってませんから。私は真実を明日奈先輩に言っていただけデスっ。それに私の名前は『莉々花』デス、勝手に省略しないでっていつも言ってますよね」

「日本じゃ莉々花でも、むこうでのファーストネームは『リリー』なんだろ。いいじゃないか、呼びやすいし」

「明日奈先輩だったらむしろ呼ばれたいデスけど、水嶋さんは駄目です」

「お前って、ほんとーに結城のこと好きだよね」

「そうデスっ、明日奈先輩は綺麗だし、優しいし、仕事も出来る私の憧れの先輩デス」

 

勢い込んで言い切った後輩の言葉に明日奈が苦笑を浮かべる。

かたや同僚である結城明日奈との差をハッキリと断言された水嶋は鞄を持っていない方の手でずり落ちそうになる眼鏡を軽く直した。

長身とは言いがく、明日奈よりこぶし一つ分ほど高い背丈だが小顔のせいで均整の取れた体格をしている。短く刈り込んだ髪とハッキリとした目鼻立ちから実年齢より若く見られる事が多く、口調の柔らかさも手伝って人受けは非情に良いのだが、本当に気を許した相手にはかなり砕けた言葉使いになる癖の持ち主だ。

 

「莉々花ちゃん、水嶋君の業績ってうちの事務所のトップクラスなの、知ってるよね?」

「でもでもっ、お陰で研修期間中、水嶋さんの仕事量が膨大すぎて、私、朝から晩までつきっきりだったんデスよっ」

「それは、研修中のお前の要領が悪かったせいだから」

 

そう言い返されて莉々花は悔しそうに口を噤んだ。その表情を見て再び後輩の頭を撫でながら僅かに眉尻を下げた明日奈も、莉々花がまだ研修生だった頃、水嶋の補佐に付くのは大変だろうな、と思っていた一人である。確かにあの時はいつ見ても二人は一緒だったが、とにかく水嶋の指示についていくのが精一杯で余裕など全くなかった莉々花に対し、水嶋の眼差しは意外にも新人の指導役といった厳しいものばかりではなかった事に気づいていたのは明日奈と所長くらいだろうか。

もっと素直に好意を示せばいいのに、と思いながら入社当時から色々と世話になっている同僚のフォローを試みる。

 

「水嶋君はね、入社したての頃、既に結婚が決まって式の準備で忙しくしていた私を気遣ってくれたし、出産前後、一年以上も仕事を休んでしまった時も代行を引き受けてくれたり、とっても親切で頼りになる人だよ」

 

いくら大好きな先輩からの言葉でも、これだけは受け入れられない、と言いたげに噛みつきそうな顔で後輩から睨まれている水嶋はひらひらと手を振って陽気に応えた。

 

「あれは結城の結婚披露宴に呼んでもらった事でチャラどころかお釣りがくるくらい人脈が広がったから気にしなくていいって。逆にこっちが感謝したいくらいだよ。あんなハチャメチャな披露宴パーティー、初めてですっごく面白かった。年齢も職種もてんでバラバラの人間があれだけ集まるって君達夫婦の恐ろしさが身に染みたけどさ」

 

喜ばせたのか怖がらせたのか判断のしづらい感想をもらい、明日奈はひくり、と頬を引きつらせる。

しかし水嶋の発言に敏感に反応したのは明日奈だけではなかった。

 

「ええーっ、水嶋さん、明日奈先輩の結婚披露宴にお呼ばれしたんデスかっ!?、なら先輩の旦那さんも見たことあるんデスよね?」

「まあ、そりゃあね」

「どんな人なんデスか?、明日奈先輩、いくら聞いても教えてくれないんデス。職場では旧姓のままだから、私、名前すら知らないのにっ」

「どんなって……まあ、この結城と結婚するくらいの御仁だから……」

「やっぱり天から二物を与えられてるような人なんデスか?」

 

ぐいぐいと迫ってくる莉々花に気圧されるように半歩後ずさった水嶋は質問の内容が飲み込めず「はぁっ?」と間の抜けた声を発する。

もどかしさを両手の握り拳にこめて上下にシェィクした後、莉々花は「あれデスよ、あれっ」と目の前のショッピングビルの上方を指さした。

大型モニターには未だ会見の録画映像が流れている。

ふと画面端の黒髪の人物に気づき「おや、珍しい」と小さく呟いてから、再び「リアルで会見なんて今時珍しい事をするなぁ」と言葉を重ねた。

そこに明日奈が「そうだね」と微笑む。

つられて莉々花もうんうん、と首を動かした。

 

「普通は《仮想空間》に用意した会見場所へ関係者や取材陣がダイブしてそのまま流すのが主流なのに、今日の会見場所は……うわっ、あの最高級ホテルだしっ」

 

更に興奮度を高めた莉々花の瞳が一層キラキラと輝いて画面下隅に表示されているホテル名を見つめている。

それは、今、明日奈達がいる場所から電車で二区間先にあり、古くから国内外の要人を何度も迎え入れてきた日本を代表する老舗ホテルだった。

 

「すごい……私、入ったこともないデス。あのホテル、お部屋も素敵でルームサービスのお料理ももの凄く美味しいって、友達の間でも憧れのホテルなんデスよ」

「……だってさ、結城」

 

水嶋から意味ありげな視線を送られるが、明日奈は淡い微笑みでスルーする。

しかし莉々花は夢から覚めたようにパッ、と顔を上げると水嶋に向かって眉を吊り上げた。

 

「じゃなくてっ、私は明日奈先輩の旦那さんの事を聞きたいんデス」

 

再度、ピシッと人差し指で大型モニターに映し出されている桐ヶ谷和人をロックオンすると、真剣な表情で水嶋に向かって「あの人、桐ヶ谷和人なんデス」と唸るような声で告げる。

それに反してさして感動することもなく「ああ、そうなの」と軽い反応を見せると、それが気に入らなかったのか莉々花は「水嶋さんっ」と声を跳ねかせた。

 

「知ってますよね?、桐ヶ谷和人。都市伝説級の人デスよっ」

「……だってさ、結城」

 

微笑んでいる明日奈の眉尻がほんの少し困ったように下がる。

そんな大好きな先輩の表情の変化には気づかず、莉々花はまくしたてた。

 

「私、今さっき初めてあの映像で顔を見たんデスけど、想像してたより何倍もカッコイイし、しかもあの若さでプロジェクトリーダーなんデス。『天は二物を与えず』って言葉がありますけど、ちゃっかり『二物』持ってる人じゃないデスか。だから明日奈先輩の旦那さんもそんな感じなのかなっ?、て……」

「ああ、なるほどねぇ……うーん……」

 

水嶋は口の端をひくひくと痙攣させながら何かを懸命に堪えて真面目ぶった表情をキープしつつ思考を巡らせた。

結城明日奈の披露宴パーティーを思い出してくれているのだろう、と次に出てくる言葉を期待に満ちた表情で待っている莉々花を見下ろし、何かを内包した意味ありげな笑みを贈ってから一言一言を言い聞かすようにゆっくりと告げる。

 

「莉々、残念ながら、結城の旦那さんはね……『三物』持ってる人、だな」

「ええーっ!」

 

莉々花が場所も忘れて叫んだ時だ、突然、明日奈の背後に人影が現れたかと思うとギュッ、と彼女を後ろから包み込むように腕ごと両手で抱きしめた。

いきなり身体の自由を奪われた明日奈は一瞬、息を飲んで硬直したがすぐに大声をだそうとして寸前でその声を飲み込む。

自分の髪に押し付けられた鼻先、背中に密着している細身ながらも芯のある身体つき、守るように自分の手に絡ませてくる指、それら全ての感触は鼻腔をくすぐる背後からの匂いと共に明日奈の一番大切な人のものだったからだ。




お読みいただき、有り難うございました。
が……すみませんっ、ついにやってしまいました……かっ、書き上がらなかったデス(平身低頭!)。
落とすよりはマシかと思い、前編と称して切りの良い所まで投稿させていただきました。
もともと前後編の構成で、とは考えていなかったのでほとんどイチャコラ出来ず
申し訳ありません。
次回、後編まで見捨てずに待っていて下さいっ。


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みっつめの天賜物・後編

お待たせいたしました、後編です。
職場から帰路につこうとしていた明日奈が後輩の莉々花と同僚の水嶋と共に
次世代型VRマシン発表会見の録画映像を見た後、突然背後から抱きすくめられて……。


自分を包み込む背後からのぬくもりに、知らずにふぅっ、と気が緩んだ明日奈はわずかに頭をめぐらせて自らその存在にすり寄った。

「どうしたの?」と小さく問うと相手は未だ自分の髪に顔を埋めたまま唇を動かす。

 

「充電しに来た……」

 

その言い回しに微笑みながらも困惑してちょっと明日奈の眉尻が下がった時だ、続いて聞き慣れた少し悪戯っ子のような物言いが耳をくすぐる。

 

「足りなくなってるだろ……オレが」

「えっ?!」

 

問い返す間さえ与えてもらえず髪に触れていた顔がもぞり、と動き、すぐさま角度を変えて耳朶に触れてくる唇は吐息と共に意外な言葉を吹きかけてきた。

 

「ユイ経由で和真から連絡が来たんだ。お母さんの笑顔がちっちゃくなってきちゃったから何とかしてって」

 

息子の表現に思わず言葉を失った明日奈だったが、その気持ちが嬉しいのと、息子の前ではいつも通りにしていたはずなのに、の恥ずかしさからジワジワと頬が色づいていく。

 

「か、和真くんたら……あっ、じゃあもしかして今夜の外食って……」

「ああ、もちろん京子さんとうちの母さんの予定が合わなきゃ、別の手段を考えてたみたいだけどな」

 

ここ二日ほど、夜になるとベッドの中で「ユイ姉とお話する」と言って自分を子供部屋から追いだしていた息子の行動理由がわかって明日奈は泣きそうな笑顔で「そうだったのね」と呟いた。

気づかぬうちに自分は随分と息子に心配を掛けていたようだ。

昼間のモニターごしの和真の笑顔は作戦がうまくいった事への満足感と明日奈への気遣いだったのだろうか。しかし嬉しさはすぐにおさまって、明日奈は脳裏に浮かんだ疑問を口にした。

 

「でも、今日はこれから会見記念のパーティーでしょう?」

 

その言葉を聞いた途端、短い溜め息が耳元で落とされる。

 

「発表会見には出たんだ、もうオレがいなくてもいいだろ」

「そういうわけには……」

 

そこまで言って明日奈はようやく目の前のふわふわの髪の毛がぱたぱたともの凄い勢いで揺れ動いているのに気がついた。

追って聴覚が耳元の声以外を拾い始める。

 

「明日奈先輩がーっ、明日奈先輩っ、大丈夫デスかっ、はっ、離してください水嶋さんっ、明日奈先輩が襲われてますっ、明日奈先輩っ、今助けますからっ」

「落ち着け、莉々、こら、暴れなさんなってっ」

「そうだっ、けっ、警察、水嶋さん、警察呼んでくださいっ、不審者デスっ、不審者が思いっきり明日奈先輩に抱きついてますっ」

 

明日奈に向かって必死に両手を伸ばしながらジタバタと暴れている莉々花を、足下に鞄を置いた水嶋が両手を使って羽交い締めで抑え込んでいた。最終兵器を発動させる決意の唇が少し意地悪気に歪み、メガネの奥の瞳が細められるとスゥッ、と深く息を吸い込んだ水嶋が莉々花の耳のすぐ近くまで顔を寄せて低く静かに「莉々」とだけ口にする。途端に莉々花は口をつぐみ顔を真っ赤にして腰が抜けたのかヘニャヘニャと水嶋に支えられ大人しくなった。

 

「そ、それっ、反則ですっ、水嶋さん」

「こうでもしないと静かになんないでしょ、お前」

 

莉々花の反応に驚いて目を見開いていた明日奈だったが自分の後ろの人物を彼女に説明しなければ、と思い至り「莉々花ちゃん」と優しく呼びかけた。

その声に反応してガバッと顔を上げた莉々花が「まだくっついてるー」と噛みつきそうな表情を明日奈の後ろの人物に飛ばすと再び水嶋が焦ったようにその声を遮る。

 

「いいんだよ、アノ人は。それに結城を見てわかんないの?、あんなに安心しきった顔、仕事場じゃ見せないだろ」

「え?……」

 

明日奈の後方の人物ばかりに気を取られていた莉々花は水嶋に言われて、そっ、と視線を大好きな先輩へと移した。

自分がサポートを担当している職場の先輩と言う意味でも常に明日奈の表情や仕草には注視している莉々花でさえ驚きを隠せないほど今の明日奈は穏やかで優しい笑みを浮かべている。

同性の莉々花が憧れとは違う感情で思わず赤面してしまうくらい魅力に溢れた笑顔だった。

水嶋に羽交い締めにされたまま、ぽぅっ、と見とれている莉々花に向け、明日奈に密着していた人物がゆっくりと顔を持ち上げる。

 

「誰?」

 

ようやく二人の存在に気づいたような声で短く問うと、すぐさま明日奈が拘束から逃れて二人に向き直り、片手を莉々花の近くに添えた。

 

「私のサポートをしてくれてる莉々花・リンドグレーンさん」

「ああ、同じ職場の子?」

 

明日奈との距離を再び縮めてその人物が寄り添うように立つと、明日奈も見上げてその言葉を肯定するように微笑みかける。

その後、ゆっくりと視線を莉々花に向けてきた人物を見て「うひゃーっ」と飛び出した叫び声は、それを予期していた水嶋の手によってすぐさま塞がれた。

 

「みゅぃ、みゅじゅしましゃんっ、きっ、きっ、きりぎゃぁかずゅとデス!」

「はいはい、莉々、人様を指でさしたらいけなの、知ってる?、ついでに言うとご本人前にして呼び捨てもNGだよ……っと、すみません桐ヶ谷さん、お騒がせして」

「あ?、ああ……水嶋さん」

「はい、和真くんが産まれた時にお会いして以来だから随分とお久しぶりです。ちょっとだけ見ましたよ、録画でしたけど会見映像」

 

一瞬、うんざりと眉を寄せた和人だったが、会見には触れず「明日奈がお世話になってます」とだけ言い、当たり前のように妻の腰に片手を添えれば、それを気にする風でもない明日奈を見て逆に水嶋は楽しそうな口ぶりで二人を眺めた。

 

「相変わらずの執着っぷりですね」

 

その感想に自覚があるのか不敵な笑みを浮かべて和人も言い返す。

 

「オレ達はこれが普通なんで。水嶋さんこそ」

 

目線で水嶋と捕獲されている莉々花を交互に示すと、水嶋は「いやいや、俺はまだまだ」と器用にも莉々花を閉じ込めたまま肩をすくませた。

 

「でも、まっ、ぐずる子をあやすのはアノ手が一番でしょう?」

「ああー、そうですね。オレもたまに使うかな」

 

男同士の見えない会話に明日奈が眉間に皺を寄せ始めた時だ、和人のリストバンドが携帯端末の通話着信をバイブで知らせる。

バンドに浮き上がった通話相手の表示を一目見るなり和人が手首を口元に運び「コネクト・カット」と小さく呟くとバイブが止まり、五秒後に今度は明日奈の鞄の中から携帯端末の着信音が鳴り響いた。

急いで取り出し、「はい」と応答するやいなや騒がしい声が飛び出してくる。

 

『姫っ、そこにカズいるよねっ、いや、絶対いるっ、アイツ、今、俺からのコール、瞬殺したしっ』

「あ……っと、佐々井くん……」

 

明日奈が苦笑いで和人の元クラスメイトの名を呟くとすぐさま和人が妻の端末を横から取り上げた。

 

「佐々、なんでお前、明日奈のアクセスナンバー知ってるんだ」

『へへーんだっ、こーゆー時の為に決まってんだろー。それよりカズ、もうパーティーまであんま時間ないぞ』

「オレはこのまま明日奈と家に帰る」

『バカ言うな。何の為に今回の会見をバーチャルじゃなくてリアルにしたと思ってんだよ』

「オレに関係ないだろ」

『全部お前を引っ張り出すためだろーがっ。あーっ、だから広報の助っ人なんてイヤだったんだ。だいたいうちの会社がカズんトコと提携とか、なんの悪夢だよ』

 

心底、後悔と落胆に満ちた声を聴いて明日奈が慰めるように横から割り込む。

 

「佐々井くん、会見見たよ。凄いね、全世界に映ってたし…………えっと、肘が……」

『ああぁ……アリガト、姫……うん……あの後、営業部長と広報部長に両サイド挟まれて、しこたま怒られた……』

 

今回の一大プロジェクトに対し所属の部署から派遣を要請され、今回のプロジェクトリーダーと高校で懇意にしていたという理由で『付き人』という表現が不本意ながらもピッタリな役割を当てられた佐々井は端末の向こうからでも漏れてきそうな程の深い溜め息を吐き出した。しかしそんな報告にも情けは無用と明日奈との会話を和人の声が遮る。

 

「とにかくオレは出ないからな」

『そんな我が儘が通用するかっ、だいたい今までだってお前は我が儘すぎだろ。一日一食は姫の手料理が食べたいとか言いやがって。お陰で毎朝社員がお前の自宅まで姫が作った弁当を取りに行ったんだぞ……俺が行きたかったのに』

「オレが会えないのに、お前を明日奈と会わせるわけないだろ」

『そのせいで広報部内じゃ、姫と朝の挨拶をする権利が毎日争奪戦だったわっ。今日だって会見前に用意したホテルのルームサービスは口に合わないとかほざくし。何年、愛妻手料理食ってるんだって話だよっ』

「《あの世界》でも食ってたからな、それを入れると……」

『真面目に数えるなっ』

 

血管が切れる勢いで叫び続けている佐々井の声は近くにいた莉々花と水嶋の耳にまで届いたようで、莉々花は口と目を丸くしたまま会話を聞いていたが、ゆっくりと後ろの水嶋を振り返った。

 

「水嶋さん……明日奈先輩の旦那さんって……」

「うん、よかったね莉々。知りたかった結城の旦那さんと都市伝説級の人物、同時に会えて」

「うえええぇぇぇっっっ」

 

再び崩れ落ちそうになる莉々花を支えた水嶋が「こらこら」と言いながら羽交い締めにしていた両手の位置を自分の傍から逃がさんとばかりに彼女の腰に回す。

 

「ったく、危なっかしいな莉々は」

「だって、水嶋さんっ、明日奈先輩の旦那さんが……あの桐ヶ谷和人?」

「『さん』ね」

「そんなのっ、そんなの……乙女ワールド大爆発じゃないデスかー!」

「お……乙女?……なに?」

「だからっ、明日奈先輩みたいにありとあらゆる面で完璧な女性なんて既に別世界の存在に近いのに『そんな先輩でも旦那さんは以外と普通の人なんデスねぇ』ってゆうオチが独身乙女の理想なんデスっ。なのにあれじゃあご夫婦揃って異次元転移?、異世界転送?、この世に存在してはいけないカップルになってマス」

「……莉々、SFだかファンタジーだかわかんなくなってるって。でも、ま……その感想はわからなくはないけど…………でもね」

 

どうやら桐ヶ谷夫妻共通の知人であるらしい通話越しの人物に向かって駄々をこね続けている桐ヶ谷和人とそれを懸命に宥めている同僚の明日奈を眺めながら水嶋はぽふん、と莉々花のフワフワの髪の毛に顎をのせた。

 

「……あそこまで互いを想い合ってると逆にあの二人でないと不自然というか、二人でピタリとピースが合致するっていうか……」

 

同じく大好きな先輩とそのパートナーを凝視している莉々花は二人を見れば見るほど反論の言葉が見つからず、それでも認めたくないのか「う゛う゛〜」と唸る。

 

「私の明日奈先輩がぁ……」

「諦めてお前は俺のモノになっちゃえば?」

「それだけは絶対に嫌デスっ」

「莉々も頑張るなぁ」

 

わざと本気とも冗談ともとれる軽めの誘い文句にしているのに、莉々花から拒否られるのはこれで何回目だろうか、と水嶋が思わず口から深く重く息を吐いていると、未だ決着のつかない不毛なやりとりが耳に入ってきた。

 

『だからっ、普段表に出てこないカズが画面に映れば宣伝効果バツグンって事でリアル会見にしたのっ。部屋だっていいとこ取ったし、ルームサービスだって経費で落ちるっ。会見記念パーティーまでホテルに引き留めておけなかった事がバレたらオレの首が飛ぶんだよっ』

「そんなのはそっちの勝手だろ。オレには高級ホテルの一室より居心地の良い場所がちゃんとあるし、ルームサービスより美味いと思う食事があるのは佐々ならわかってるよな」

『んなこたー百も承知の上だよっ。それでも上司から言われたらやんなきゃいけないのっ。オレ、普通のサラリーマンだからっ』

 

微妙に涙声になってきた通話口の声に多少同情めいた気持ちが芽生えた水嶋がふと思いついた案を口にする。

 

「だったら、そのパーティー、結城も同伴で出ればいいんじゃないの?」

 

ぽそり、と呟いた程度のつもりだったが、一拍おいて嬉々とした声のみが耳を痛める勢いで飛んできた。

 

『その案、もらったーっ』

 

同時にギョッとした表情に転じた明日奈は「ええっ」と驚声をあげたがすぐに隣の声がかぶさってくる。

 

「ああ、なるほど、それなら出てもいいな」

「ちょっ、ちょっと和人くん、何言い出すのっ。私、全然関係ないし」

『大丈夫だって、姫。全世界に配信されたカズの「大事な人」発言の当事者だから、もいっっきり関係者になってる。それにどうせパーティーでその話題を振られるに決まってるからさ、オレやカズがどうこう説明するより、本人が隣に居てくれた方が一発で納得させられてこっちも助かるしっ」

「佐々井くんまで……だいたい服装はどうするの?、今から取りに帰ってたら間に合わないでしょ?」

 

明日奈の言葉に途端、佐々井の勢いがしぼんだ。

 

『あ、そっかぁ……』

 

しかしすかさず和人がにやり、と片頬をあげる。

 

「そこはオレに考えがある……佐々、ホテルのブライダル部門に連絡して。六年ほど前だから、まだ明日奈のデータは残ってるだろ。ウェディングドレスは持ち込んだけど、その他のドレスは何点かレンタルしたからな。あの時とサイズが変わってないのはオレが保証するし、靴とアクセサリーも合わせた物を二、三着用意しておいてもらってくれ」

 

その提案に再び焦り声をあげたのは佐々井だ。

 

『いっ、今からかっ!?』

 

不可能だと言いたげな口調を遮るように和人が更に携帯端末に口を近づけ周囲に聞こえないよう言葉を吐く。

 

「出来るだろ……『交渉屋』なら」

 

しばらくの無言の後、小さく愉しそうな笑い声が送られてきた。

 

『…………ははっ、久々に聞いたわ。でもそれを言われたら、やんないわけ、いかないよな……それでお前がパーティーに出てくれて、更に着飾った姫が見られるなら…………言う事聞いてやるよっ』

「服はオレのとあわせてパーティー開始の十五分前に持って来てくれればいい。それまでは明日奈と過ごすから部屋には誰も入れるなよ」

 

最後の要望には素直な返答をせず、幾分拗ねた声で『誰が入るかっ』と捨て台詞のような言葉を言い放ち通話は切れた。

手にしていた携帯端末を持ち主に返そうとすると、少々乱暴に和人からそれを受け取った明日奈は自分の存在を無視して話がまとまってしまった事に不満一杯の声をぶつけてくる。

 

「ひどいっ、私、行くなんて一言も言ってないのにっ、いきなりパーティーだなんて……」

「パーティーならオレより明日奈の方がずっと場数を踏んでるだろ」

「そういう事じゃなくてっ、それにドレスのサイズだって……」

「明日奈のラインはすっかり記憶してるから、間違いないはずだけど」

「そっ、そっ、そっ、そーゆー事、言っちゃダメなのっ」

 

恥ずかしさに頬を染めて、それでも眉を跳ね上げて怒っている明日奈を和人はひたすら愛おしい者に対する瞳で見つめ続けている。今度こそ正面からその細い腰に両手を回し、未だ文句を言い続けている明日奈をそっと抱き寄せると落ち着かせるために背中を軽く撫でた。

 

「だって、まだ充電、足りてないし……」

「私ならもう大丈夫よっ」

「なら、次はオレの番」

「うぅっ……でも、和真くんがお家に帰って来た時、誰もいなかったら……」

「それなら今夜は川越の家か明日奈の実家に泊めてもらえるよう頼んである。明日は保育園もないし、明日奈も休みだろ?、オレもやっと一息つけるからパーティーが終わったらそのまま翌朝までホテルでゆっくりしよう」

 

自分達の存在など完全に忘れてしまったように目の前で繰り広げられている会話の中、和人が小声で通話口の相手に告げた言葉は聞き取れなかったが、それでもあの高級ホテルと明日奈の繋がりを感じ取った莉々花は事情を知っているだろう背後の人物の名を呼ぶ。

 

「水嶋さん……明日奈先輩とあのホテルって……」

「んー……、六年ほど前にさ、あそこのホテルの会員専用サイトが話題になったの、覚えてるか?」

「……ああっ、あのウェディングプランの。はいはい、私も友達の伯父さんが会員だったんで、頼み込んでアクセスして見ましたけど、すっごく素敵なウェディングドレスで。更にそれを着こなしてる花嫁さんが顔出しNGだったんで余計注目されましたよね」

「そう、それ」

「実際にあのホテルで挙式したカップルってなってましたけど、花嫁さんのスタイルも良かったし、遠目からの画像でも美人さんぽくて、色白の肌に髪の色が茶系だったから日本人じゃなくて外国人モデルだってゆーのがもっぱらの……ああ、でもモデルにしてはそこまで身長は高くなさそうだったなー」

 

莉々花が語る人物像を黙って聞いていた水嶋は大げさに溜め息をついた。

 

「そこまで覚えててわからないって……莉々は本当におばかさんだな」

「あーっ、研修中もそうやっておばか、おばかってっ」

「だってそうでしょ」

 

水嶋は後ろから両手で莉々花の頬を挟むと、くいっ、と向きを明日奈の顔へと軌道修正して答えを導くために問いかける。

 

「莉々の大好きな先輩の肌は?」

「そりゃあもちろんきめ細やかで雪のような白い肌デス」

「髪の色は?」

「ちょっと日本人離れした栗色デスね、でも染めてるわけじゃないんデスって」

「最後に全身を見て言うことは?」

「一児の母とは思えないプロポーションデス。出ているとこは出てて、細いとこはとことん細くて、それでいて全体に柔らかいフォルムだから思わず、ギュッ、てしたくなりますっ……って……あれ?……あれれ?……ええーっ!」

「ああ、もうっ、おばかな子ほど可愛いって、ホントなのがよくわかる」

 

背後からむぎゅぅぅっ、と水嶋に抱きしめられているというのに、それすら意識できず莉々花は放心状態で目の前の夫婦を見つめ続けた。水嶋の問いから辿り着いた答えは、憧れの先輩が数年前、世間を大いに賑わせたあのウェディングモデルその人だという事だ。

そう言えばワンショットだけ、口元まで映っている画像があった事を思いだし莉々花は目をこらす。

画面越しに見た華奢なおとがいに艶桜色の唇は本当に幸せな笑顔を想像させる形を作っていて、自分もこんな表情で式を挙げる花嫁さんになりたいと思ったのだ。

あの笑顔の持ち主は本当に目の前の女性?……なら、その笑顔を向けられていた相手が堂々と先輩を腕の中に包み込んでいる桐ヶ谷和人?……頭の中で考えを整理しようとすると、莉々花の耳が躊躇いがちの明日奈の声を拾う。

 

「それにホテル側にも迷惑かけて……」

 

ことさら周囲には気配りを怠らない明日奈だ、いきなり複数のパーティー用ドレス一式を用意してもらう事に抵抗があるのは莉々花も十分理解できたが、それにしては随分と歯切れの悪い口ぶりと戸惑いの表情が不可解で思わず首を傾げた。すると莉々花の疑問を読み取ったように水嶋が小さく漏らす。

 

「結城も素直に一緒に行きたいって言えばいいのに」

 

そういう事なんデスね、と納得していると和人の声が僅かに尖った。

 

「それぐらい気にすることない。あの時、ちゃんと明日奈は断ったのに半ばゴリ押しの形で画像を使ったのはあっちだ」

「でも、ちゃんと顔はわからないよう気を遣ってくれたし……」

「当然だろ……おまけに後ろ姿とはいえオレが一緒のも使ったしな」

「それは……仕方ないよ……隣にいて欲しいのは和人くんだけだから」

 

淡く頬を染めてふわり、と笑う明日奈の唇が莉々花の記憶を刺激する。間違いなくかのモデルが目の前の先輩と確信した時、すぐさま明日奈の眉がへにょり、と歪んだ。

 

「だからって迷惑をかけていい理由にはならないでしょう?」

 

そう言われてしまうと納得させるのは無理と切り替えて、和人は明日奈の耳元に口を寄せ、妻の職場の人間達には聞こえない位の囁き声で願いを口にする。

 

「でも……オレは一緒にいたい……それにもう佐々は動いてる、あいつなら何とかするぞ」

「う゛う゛〜……そうやって外堀から埋めるのズルイよ」

 

ここで自分が行かないと言い張れば、今度は今頃奔走しているであろう佐々井の努力が無駄になる事もわかっているし、本音を言えば明日奈だって久々に和人をすぐ傍で感じたいのだ。それでも最後に残ったほんの小さな気持ちの欠片がついていけず素直に首を縦に振れない自分に困惑と戸惑いを混ぜて顔を上げると、和人がフッと笑って耳朶を舐めるように唇を押し付けてきた。

 

「明日奈」

 

深い声がやっくり、ゆっくりと忍び込んでくる。数日ぶりに呼ばれると耳から直接心に届く自分の名が何かの呪文のように身体の力を奪い、へたり込みそうになって足下がふらつくとそれを予想していたように和人が強く支えた。

 

「そ、それ、ダメって言ってるのにっ」

 

心臓がバクバクとうるさくて冷静な判断が出来なくなった明日奈は両腕で和人にしがみつくと、赤みを差した頬を晒しながらも上目遣いで睨み付ける。しかしそんな言葉や視線を気にも止めず和人が目を細めた。

 

「明日奈の悪いクセだぞ、頭で考えすぎ……ホラ、行こう、オレに無理矢理連れて来られたって事にしていいから」

 

顔を上げた和人が水嶋の方に向き直り「じゃあ、オレ達はここで失礼します」とさらりと言う。「えっ、ちょっと……」と焦る明日奈の手を引きながら「タクシー待たせてあるんだ」と振り返りもせずに告げ、その場を離れようとした時だ、莉々花の縋るような声が明日奈を引き留める。

 

「あのぅ、明日奈先輩、ご飯は……」

「あっ」

 

そう言われて明日奈は莉々花に食事に誘われていた事を思い出し足が止まった。向かい側の大型モニターに意識を奪われる寸前、自分は承諾の返事をするつもりだったのだ。

しかし明日奈の一瞬の躊躇いを読み取った水嶋が事も無げに笑顔を向けてくる。

 

「ああ、大丈夫、今夜はオレが莉々と一緒に食事に行くし」

「えーっ」

 

寝耳に水の発言に莉々花が驚きの声をあげると、すかさず水嶋は莉々花の隣に立ってその肩を抱き寄せ、もう片方の手をヒラヒラと振って桐ヶ谷夫妻に別れを示した。当然それに異を唱えたのは莉々花だ。

 

「なんで私が水嶋さんとご飯に行かなきゃならないんデスかっ」

「まあまあ、スモーガスボードの専門店に連れてってあげるから」

「スモーガスボード!」

「こっちじゃ珍しいだろ。食べたいんじゃないの?」

 

もうひとつの母国であるスウェーデンの伝統料理名を言われ莉々花の心がぐらり、と傾く。

 

「た……食べたい……デス」

「なら決まりだね……そういうわけだから気にせず行ってきなよ、結城」

「あ、有り難う、水嶋くん」

 

和人と手を繋いだまま立ち止まっていた明日奈が複雑な表情で水嶋に感謝を口にした。今回に関しては自分のフォローを請け負ってくれたというだけではなく、彼個人の感情がかなり含まれているはずだ。あまりイジメないようにね、と目で訴えて、チラリ、と視線をその隣に移せば、既に瑠璃色の瞳を興奮させている莉々花は純粋に郷土料理を楽しみにしている様子で、なんと声をかけたものかと考える。

 

「莉々花ちゃん、ごめんね。ご飯は今度必ず一緒に行くから」

「はーいっ、明日奈先輩、約束デスよー」

 

明日奈との食事の確約も取れ、すっかりご機嫌顔の莉々花は隣の水嶋のメガネの奥が怪しく光っていることに気づきもしない。僅かな不安を感じた明日奈だったが、その逡巡も和人から握っている自分の手にギュッと力を込められ、「明日奈」と呼ばれれば足は自然と動いてしまい、最後に笑顔で見送ってくれる後輩と同僚に手を振ってその場を離れた。

連れ去られるように和人に手を引かれていた明日奈だったが、少し行くと自らその隣に並び、とびきりの笑顔を向けている姿を見て莉々花が羨ましそうに溜め息をつく。そんな莉々花の頭をクシャリ、とひとなでした水嶋は鞄を持ち直して「ほら、オレ達も行こう」と促したが、莉々花はそのフワフワの髪の毛を揺らして水嶋のメガネの奥を覗き込んだ。

 

「そう言えば水嶋さんが言っていた先輩の旦那さんが『三物』持ってるって話デスけど……」

「ああ、それね。これは結城にも言えることだけどさ、容姿と才能……でもきっとあの二人にとっては互いの存在こそが天に与えられたかけがえのない物だろ?」

 

水嶋の言葉に莉々花は深く頷いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
なにげに以前投稿しました「たどり着いた約束(みらい)」の後日談的内容も
軽くひっかけてみましたが……要は耳元で好きな人に名前呼ばれると明日奈も莉々花も
弱いよね、ってお話です。
きっと遠くない未来、水嶋くんは明日奈に「莉々がどうしても式はあのホテルで
やりたいって言うんだけど、結城の名前でどーにかなんない?」みたいな相談を
持ちかけるのでしょう。
大丈夫、水嶋くん、きっとどうにかなるよ(笑)
では次回は珍しく季節ネタでお届けしたいと思います。


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ホワイトデー

オリキャラとして和人と明日奈の高校生の息子、和真と私立の小学校に通う娘の芽衣を
まじえ、桐ヶ谷一家のホワイトデーにまつわるお話です。


三月十三日

 

未だ春と呼べるほどの穏やかな日差しではなく、かと言って冬の痛いくらいの風も吹いていない日曜の午後、すぐ隣の校庭からボールを追いかけつつ響いてくる小学生達のかけ声を背中で受けながら、自分がこの小学校に通っていた当初はもっと重たいと感じていた体育館の扉をゴゴゴッ、と動かすと、背後の声をはるかに上回る多重音量が正面から体当たりしてくる。

 

「有り難うございましたっ」

 

既に全ての防具を外した状態で背筋を真っ直ぐに伸ばし、綺麗に整列している稽古着姿の生徒達の顔ぶれは色々で、かなりの年配男性もいれば社会人と思われる女性、下は小学生前の子供もいて列はきちんと直線で揃っているのに頭の位置がでこぼこしている為、和真が自分の妹を探すためにヒョコヒョコと身体を動かしていると明るくもハッキリとした声が体育館内に響いた。

 

「はい、有り難うございました。お当番さんは雑巾の片付けをお願いします。では、また来週」

 

列の前方中央に一人、生徒達とは向かい合わせの位置で肩のあたりに切りそろえた真っ黒な艶髪をさらり、と揺らし、この剣道教室の師範を務めている直葉が真っ直ぐに生徒達の顔を見回してから頭を下げる。あらかじめ決められているのだろう、当番とおぼしき数名の生徒が素早く体育館の端に用意されていたバケツを取りにいくと、戻ってくるのを待たずに他の生徒達が歩み寄り、次々と手に持っていた雑巾をそのバケツに入れていく。ちゃんと「お願いします」と感謝の言葉を全員が口にしているところも礼節を重んじる直葉の剣道教室らしさを表していた。その中から聞き覚えのある声をみつけて和真が声をかける。

 

「芽衣っ」

「あ、おにーちゃんっ」

 

途端に幼児から熟年者まで、この体育館内に存在する全ての人間の視線が集中するのを感じた和真だが、その程度の視線は自分が母親と一緒に歩いている時の比ではないと、臆することなく稽古の終わった妹に歩み寄った。

 

「お疲れ……って、なんでお前、あご、擦りむいてるんだ?」

 

剣道ならば面という防具があるはずなのに?、と妹の顎を凝視していた和真の後ろから「和真がお迎えなんて珍しいね」と先程、体育館内に響いた声よりも親しみの籠もった口調が耳に飛び込んでくる。振り返るとやはり未だ稽古着姿の直葉が首にかけたタオルで軽く髪を拭きながら立っていた。

 

「あ、直葉ちゃんもお疲れ様。いつも芽衣が有り難う」

「うわっ、台詞も言い回しも明日奈さんそっくり」

 

身内に向ける砕けた声色と少し呆れたような笑顔で返されて返答に迷った和真は「それと……」と話題を変え、妹の迎えとは別のもう一つの目的を果たすべく、手にしていた紙袋を差し出す。

 

「これ、一日早いけどお返し」

 

目の前に差し出されたシンプルなデザインの紙袋を見て、直葉の瞳がキラキラと輝きだした。

 

「やったっ……もちろん、明日奈さんの手作り……だよね?」

「直葉ちゃん……もしかしてお返し目当てで俺にバレンタインのチョコくれてたりしてる?」

 

甥っ子から疑いの混じった鋭い指摘に直葉はひくり、と頬を引きつらせる。

 

「えっ?、そんなことないよ。大好きな甥っ子の和真へ親愛の証なんだからっ…………で、今年はなに?」

 

結局中身が気になって我慢出来ずに問うと、同じように頬をぴくり、と動かした和真がぽそり、と答えを口にした。

 

「スフレチーズケーキ」

「おおっ」

「チーズケーキぃっ」

 

直葉の歓声と同時に和真のすぐ隣下からも喜色に満ちた声があがる。

 

「お兄ちゃんっ、お家に芽衣の分もあるよねっ」

 

赤くなっている顎のまま自分達の叔母と同じ位瞳を輝かせた妹を苦笑いで見下ろした和真は「ちゃんと母さんが用意してくれてるよ」と答えてから「それより芽衣、着替え。それとこれが剣道教室でもらった人達へのお返しだから」と別の紙袋を見せれば「渡してくるっ」と言って兄から袋を受け取った芽衣が更衣室の教室仲間達の元へ駆けだしていく。

 

「あらら、明日奈さん、一体何個チーズケーキ用意したの?」

「……さすがにあの数は無理だよ。あっちはボックスクッキーの詰め合わせ。それに、オレだってそのチーズケーキ作る時、ちゃんと母さんを手伝ってるんだからね」

「あははっ、アリガト、和真」

「うん……あっ……俺もメールでしか言ってなかったよね、先月はチョコ、有り難う」

「なんのっ、我が家もバレンタインには明日奈さんからガナッシュチョコレートケーキ貰ってるからね、ちゃんとお返し渡さなくちゃ、と思ってるんだけど……きっと明日のホワイトデーに向けて、和真ん家は今、お菓子屋さん状態でしょ?」

 

先程の会話でも証明されたように、明日奈がお返し分だけでなく、家族で食べる分も怠りなく用意しているだろう事を見越して直葉はいつも時期をずらして御礼を用意していた。

 

「ご名答、家中に甘い匂いが充満してるのに、更にもっと甘ったるい雰囲気になっちゃってる二人がいるから芽衣の迎えを引き受けて、家から逃げて来た」

「あー、日曜日だもんね、お兄ちゃん、ちゃんと休みなんだ」

「そう、いつもバレンタインのお返しは俺と母さんで用意してるんだけど、今日は父さんも家に居たから、なんか俺が母さんとずっと二人でキッチンにいるのが気に入らなかったみたいで、ウロウロ、チョロチョロと……」

「……相変わらずだね。どうせお兄ちゃんが貰ってきたお返し分も作ってるんでしょ?、手伝わせればいいのに」

 

叔母の推測に和真が軽く首を横にふる。

 

「それがさ、その辺は父さん徹底してて……職場からは絶対受け取って来ないんだよね。まあ圧倒的に女性スタッフが少ないってのもあるだろうけど、母さんに聞いてみたら今の研究所に勤め始めた時は既に結婚してたんで、それから今まで一度も貰ってこない……らしい、と言うか、ような?」

 

和真の言い回しに理解不能の直葉が首を傾げて「ような?」と聞き返した。

 

「うん、俺はうっすらとしか覚えてないんだけど、随分小さい頃に一度父さんの研究所に連れて行ってもらったことがあって……父さん曰く、同じ職場の研究者はもちろん他の部署の人や掃除のおばさん達までその日いた女性スタッフ全員と言っていい人数に俺が取り囲まれて大人気だったって……」

「ああ、そりゃそうなるよね。ちっちゃい頃の和真、外国人とのハーフみたいに綺麗ですっごく可愛かったもん」

「……そうだった?……まあ、その時の事を思い出す度に父さんが『連れて行くんじゃなかった』ってブツブツ言うくらいだから、今でも覚えていてくれてる人が結構いるみたいで……その……俺宛にくれるんだよね」

「は?」

「だから、父さん宛てじゃなくて『息子さんに』って、バレンタインのチョコをさ……」

 

再び直葉の首が傾く。

 

「それってさ……ホントに和真宛なの?」

「まさか。ほとんどが俺にかこつけて父さんに渡したいチョコなんだろうけど、さすがにそう言われると、いくら父さんでも受け取り拒否は出来ないらしくて、バレンタインの夜は家に帰ってくるなりすっごい不機嫌な顔で紙袋いっぱいのチョコを俺に押し付けて『やっぱり連れて行くんじゃなかった』って睨まれるのが毎年なんだ」

 

困ったように笑う甥っ子に同情の眼差しを送って「だから貰ってこない、ような?、なのかぁ。和真も苦労するね」と告げた直葉はそれでもすぐに目を細めた。

 

「だってちゃんと和真宛てのも学校で貰ってくるんでしょ?……今年はいくつもらった?」

 

にやにやと楽しそうに聞いてくる叔母の笑顔に母の親友からも同じ質問を受けたんだけど、と思いつつ軽く手をふって答える。

 

「そんなに貰ってないって」

「ほんとぉぅ?」

「ホントに……数で言ったら、うちで一番貰ってくるのは芽衣だから」

「えっ?」

「だから、芽衣なんだよ」

 

聞き間違いを確認するように「芽衣?」と聞かれて和真はこくん、と首肯した。

 

「芽衣が言うには上級生の女子生徒から貰うのが『お姉さんチョコ』、幼等部の子からが『妹ちゃんチョコ』、もちろん同級生から『お友達チョコ』貰って、この剣道教室でも貰ってきたし、近所のおばさん達からも直接家に届くんだ」

「なんなの、それは……」

「それはこっちが聞きたいよ。有り余る正義感でご近所ではちっちゃいヒーロー扱いだしさ、上級生や下級生の女子がわざわざ学年の違う女子にって俺がこの小学校に通っていた頃はなかった気がするけど、私立特有のなんかなのかなぁ……」

 

甥っ子の疑問に直葉も同じくうーむ、と口をすぼめて前に突き出す。

 

「別に女子校ってわけでもないのにね。私も幼等部からつながってる私立の学校事情なんて詳しくないから……ああ、それこそ明日奈さんに聞いてみたら?、中学までエスカレーター式の有名私立校だったでしょ?」

「とっくに聞いたよ」

「そしたらなんて?」

「笑って誤魔化された」

「ええっ?」

「だから、含みのある笑顔で返されただけ……それ以上は聞けないでしょ?」

「なるほど……うん、そうだね……そういう時の明日奈さんの笑顔って、ある意味最強だもんね」

 

叔母が神妙な顔で頷くのを見て和真もうんうん、と頭を動かした。この質問をした時、自分の妻と息子のやりとりを見ていた和人がぽそり、と「鬼の副団長サマだからな」と口を滑らせれば、すぐさま笑顔をキープしたまま「和人くん」と明日奈が笑顔の矛先を変え、途端、和人の肩がぶるり、と震えたことを目撃した事は和真の胸の内に留める。

そんな立ち話をしていると和真の元へ着替えを済ませた芽衣が駆け寄ってきた。

 

「お兄ちゃん、お待たせー」

「っと、芽衣、忘れ物ない?、お返しはちゃんと渡せた?」

「うんっ、みんな喜んでたよっ」

「帰ったら用意してくれた母さんにちゃんと『有り難う』しなくちゃな……って、もう帰って大丈夫かな」

 

ちらり、と体育館内の時計で時刻を確認した和真が考え込む。

和真の困惑を見ていた直葉が苦笑いで「私が電話しようか?」と申し出てくれた。

 

「チーズケーキの御礼を伝えれば、明日奈さんだって二人がそろそろ家に帰ってくるってわかるでしょ」

「気を遣わせてごめんね、直葉ちゃん」

「そうだっ、お兄ちゃん、おうちでチーズケーキが芽衣を待ってるっ」

 

直葉が口にした単語で家にあるというチーズケーキの存在を思い出した芽衣がそわそわと身体を動かし始めた。家までの道のりをダッシュで制覇する勢いの妹の手をしっかりと掴み、和真は「じゃあ、電話、お願いしていい?」と申し訳なさそうに微笑む。

 

「少し待っててね、着替えてから電話してくる」

 

そう言って直葉は剣道教室の生徒達が更衣室として使っている部屋とは別の部屋へと足早に姿を消した。その後ろ姿を見送ってから、手元で暴れている妹を宥めるため和真がしゃがみ込む。

 

「芽衣、髪の毛ボサボサだぞ。ブラシとか持って来てないのか?」

「持ってるよ」

 

シャキーンッと音がする素早さで鞄からブラシを取り出す様子を呆れ顔で見ていた和真は「だったらなんでその頭?」と疑問を口にしながら「ほら、後ろ向いて」と言って妹の細い髪の毛を背後から丁寧に梳かし始めた。

 

「お前の髪の毛、細いなぁ」

「いつもお稽古終わった後はお母さんがしてくれるのっ」

 

それを聞いて妙に和真が納得の目をする。一事が万事おおざっぱな芽衣の髪がこれほど艶やかな原因はやはり母のケアのたまものだったのかと思うと同時に、髪の色は自分の方が母から受け継いでいるが、髪質は芽衣の方が近い事を知ってブラッシングを終えた髪をさらり、と撫でた。母ほどの長さはないが、それでも指の隙間を通り抜ける絹糸のような感触は息を飲むほどに心地よく、事ある毎に父が母の髪に触れたがるのもわからなくはないな、と疑似体験をしていると、いきなり芽衣が振り返り正面から和真と顔を合わせる。

 

「終わった?お兄ちゃん」

「わわっ」

「ありがとっ、だったら芽衣、早く帰ってケーキ食べたい。ここから思いっきり頑張れば十分かからないよっ」

「……お前、剣道の稽古終わったばっかでよくそんな体力残ってるな。そんな元気なら荷物は全部お前が持つんだぞ」

「うんっ、ししょーに自分の剣道の荷物は自分で持ちなさいって言われてるから、いつも持ってるもん」

 

当たり前だよっ、といいだけに胸を張る妹を見て和真の父親譲りの真っ黒な瞳が大きく見開かれたのも一瞬で、すぐさま眉間に深いシワが出来上がった。

 

「……なるほど、そんなだから毎回毎回、ウチがここの学区内だっていうのに母さんが送迎をしてるのか……」

 

日曜の午後に地元の小学校の体育館で開かれている剣道教室は冬でも陽が落ちる前に終わるので、小学生以上の生徒は保護者を伴わずに通っているケースがほとんどだ。いくら自分の通っている学校でないとはいえ家から徒歩圏内の場所まで母が毎週送り迎えをしているのはなぜだろう?、と不思議に思っていた和真の疑問がようやく解決する。

要はちゃっちゃなヒーローの暴走抑止の為なのだ。

稽古前の体力がみなぎっている状態の時は当たり前で、稽古後でさえ防具や竹刀といった結構な重量の負荷を与えても家まで走って帰れると豪語するような芽衣はちょっとした悪事も見過ごさないし、困っている人も見逃さない。

人助けなら大いに推奨すべきなのだが、芽衣の場合はバスに乗るお年寄りに手を貸したままそのバスで見知らぬ土地まで連れて行かれてしまったという前科があるので明日奈としては常に目を離すわけにはいかないのだろう。

まあそんな手のかかる娘の世話を母は楽しそうにしているので、ここへの送迎も特に負担には感じていないんだろうな、と和真は先程の剣道教室の生徒達の反応を振り返って苦笑を浮かべた。

芽衣が兄を認めた途端、男性生徒があきらかに意気消沈したのだ。

多分、毎週この教室にやって来る度に振りまいている母の笑顔を楽しみにしている方々なのだろう、と推測した和真は自分の高校でも授業参観の日に異様なそわそわ感をこれでもか、と充満させている教室内を思い起こす。なぜ自分の保護者が既に到着している者まで、未だ教室の戸口を気にするのだろう?、とそれこそ小学生の頃からの疑問が解決したのはいつだっただろうか……ここなら直葉ちゃんもいるし、一応芽衣もいるから妙な事をする男もいないと思うけど……と和真はそれとなく残っている男性達を見回した。

万が一にでも母になにかあれば間違いなく父が暴走する。

それは芽衣の暴走など比較にならないほどのキレっぷりなのは容易に想像できて、おまけにそんな時に限ってキャパを全解放で協力するユイ姉もいるものだから手に負えない。

そんな考え事をしながら視線を合わせたままの芽衣の手を握り直葉を待っていると、兄妹の横を帰り支度の終わった生徒達が声をかけて通り過ぎていく。

 

「またね、芽衣ちゃん」

「ばいばーい」

「今日はお兄ちゃんと一緒でいいね」

 

女性陣は芽衣に挨拶の言葉を贈ってから少し頬を染めて和真に会釈をし、出口に向かうのだが、男性陣の中には芽衣だけでなく和真に声をかけていく者もいた。

 

「じゃあ、芽衣ちゃんまた来週……あの、お、お母様にもよろしくお伝え下さい」

「はい、有り難うございます」

 

ご挨拶やお礼はきちんと、の母の教えを守って笑顔で対応する和真だが内心ではその後、「すみません、伝えませんけどね」ときちんと謝辞を浮かべる。そんな言葉をいちいち伝えていたら自分が父から睨み殺されるからだ。

そんな風に大方の生徒達を見送った後、ようやく着替えを済ませた直葉が和真達の元へとやってきた。

 

「ごめん、ごめん和真。明日奈さん、なかなか携帯に出てくれなくてさ」

 

叔母の言葉に、やっぱりまだ少し早かったかな?、と苦笑いをしてから和真は「ありがとう」と礼を述べる。

 

「芽衣と一緒にのんびり帰るよ」

「あー、それとも芽衣のその傷、ここで手当していく?」

 

直葉が人差し指で芽衣の顎を指しながら「確か救急箱があったと思うから」と言うが、既に傷の事よりチーズケーキて頭がいっぱいの芽衣は顔をぷるんぷるんっ、と勢いよく振った。

 

「お家でお母さんに飛ばしてもらうから大丈夫っ」

「えっ?、飛ばす?、なになに、明日奈さん、ついに《現実世界》で回復魔法使えるようになったとか?」

 

あながち冗談ともとれない真剣な面持ちで詰め寄ってきた直葉に対して芽衣がちょっと得意気に目を細め、傷のある顎を反らす。

 

「知らないの?、ししょー。『痛いの飛んでけ』ってお母さんが言うと、飛んでっちゃうんだよ」

 

剣道教室の生徒でもある自分の可愛い姪っ子の言葉に直葉が破顔した。

 

「なるほど。さすがは超一流のヒーラー師、明日奈さんだね」

「で、そもそもその傷はどうやって作ったのさ?」

 

直葉のすぐ隣に顔を寄せて傷を観察している和真が問いかけると、直葉の笑顔が困り笑いに転じる。

 

「これねー、稽古の最後に全員で床掃除の雑巾掛けをするんだけど、勢い余った芽衣が見事、顎から突っ込んだんだよねー」

「……お前は……」

 

想像した痛ましさに和真の両方の口の端がうねった。どうりで剣道の練習中ではないのだから防具が守ってくれないはずだ、と和真が納得して「今日は怪我人続出だな」と零す。

すぐ横から発せられた甥っ子の呟きを耳にした直葉が表情を一転させて「他にも誰か怪我したの?」と心配そうに聞いてきた。

 

「ああ、大した怪我じゃないんだけどね。俺が母さんとバレンタインのお返しをキッチンで作ってた時にさ……」

 

和真は軽く笑ってから自分が妹を迎えに来ることになった経緯を話し始めた。

 

 

 

 

 

「和真くん、そろそろメレンゲOKだけど、そっちはどう?」

 

ちらちらとキッチンの時計を気にしながら少し前まで手にしていた電動ミキサーをいつの間にかホイッパーに持ち替え、卵白の泡立てを手動で仕上げていた明日奈が隣でクリームチーズと卵黄をすり混ぜていた息子の和真に声をかける。

 

「こっちも出来たよ」

「うん、タイミングばっちりだね。なら……」

 

和真は持っていたボールを母に渡しつつ、明日奈がオーブンレンジに視線を移したのを見逃さずに続くはずの言葉を遮る。

 

「今、入ってるやつ、そろそろ出来上がる頃だね。はい、次の型ここに置いておくから母さんは生地を入れちゃって。こっちは俺が見るよ」

「ありがとう、そっちはお願い」

 

きめ細かいメレンゲの泡を潰さぬよう和真から受け取ったボールの中身とを手早く合わせた明日奈は今現在蒸し焼きにしているチーズケーキを息子に任せて、用意してもらった次の型へ生地を流し込む作業に集中する。明日奈が生地の表面をならしていると、オーブンレンジから取り出したケーキの熱の入り具合をチェックしていた和真が「焼き色もいい感じだね」と言いながら母の目の前に出来たてを持って来た。立ち上る甘い香りと共にケーキの色や形の状態を見て明日奈もにこり、と笑顔になる。

 

「これは明日持っていく分だからこのまま冷まして、これがラスト、我が家の分ね。庫内が随分温まってるから加熱時間を調節しないと……」

「とりあえず五分ほど短くしてみようか?」

「そうだね……あと直葉ちゃんに渡すのは大丈夫?」

「箱には入れたけど、フタを閉めずに冷ましておいたからもう紙袋に詰めても平気だと思うよ」

「じゃあ、後は……」

「ほんと、いいコンビネーションだな……」

 

それまで黙ってキッチンとリビングの境にあるカウンターへ寄りかかりながら妻と息子の息の合ったやり取りを面白くなさそうに眺めていた和人が独り言のように言葉をかけてきた。

ラストワンとなったスフレチーズケーキの生地を無事型に流し入れて終わりが見えてきたせいか、安堵感と少しの疲労感を織り交ぜて明日奈が微笑む。

 

「そりゃあね、和真くんはちっちゃい頃からキッチンで私のお手伝いをしてくれてるもの」

「そうだったな。あの頃はチビだったくせに、いつの間にかデカくなって……」

 

徐にキッチンへ足を踏み入れてきた和人は和真の隣に立って自分といくらも変わらない背丈にまで伸びた息子をしげしげと眺めた。どう好意的に見ても我が子の成長ぶりを喜んでいる父というよりは限られた空間のキッチンで自分の彼女に勝手に近寄っている邪魔な男を見る目つきにしか見えないのはなぜだう?、と和真が苦笑いをしていると、いつまでも息子を眺めているのに飽きたのか、和人が明日奈に向き直る。

 

「片付けくらい手伝おうか?」

 

そう言ってシンクに置きっ放しになっている計量カップやスパチュラを手に取ろうとすると、慌てた様子で明日奈が口を開いた。

 

「あっ、そのボウルの下にナイフが置いてあるのっ」

 

チーズケーキの前に作っていたボックスクッキーで、バターを刻んだ時に使ったナイフがボウルの下に隠れているのを思い出した明日奈が言葉と同時に手を伸ばしてくる。包丁ほど鋭い刃ではないが、それでも刃物は刃物だ、知らずに触れれば皮膚を傷つける可能性は十分にあった。妻の言葉に一瞬、驚いて手を止めた和人の目の前で珍しく焦り顔の明日奈が「きゃぁっ」という悲鳴と共につるりっ、と足を滑らせる。

 

「うわっ、明日奈!?」

 

バランスを崩した明日奈を支えようと咄嗟に和人が両手を伸ばすが、仰け反った妻の手は夫の手を掴む前に調理台に置いてあったオーブンレンジの天板の上へと着地しかかる。それを背後から見ていた和真が怒鳴るように声を荒らげた。

 

「天板っ、まだ熱いから!」

 

見た目にはわからないがつい先程まで百八十度に設定された庫内にあった天板がそうそうすぐに冷めるはずもなく、ハッと顔色を変えた明日奈が手をひっこめ、体制を立て直すことなくそのまま床に尻餅をつく。身を縮めた拍子に調理台の上のボウルやホイッパーを道連れにしてしまい、床に落ちた調理器具が派手な高音を幾重にも響かせた。

 

「大丈夫かっ、明日奈!?」

「大丈夫っ、母さん!?」

 

すぐにしゃがみ込んで自分の無事を確かめようとしてくれる夫と息子に前後を挟まれ、明日奈は未だ驚きではしばみ色の瞳を見開いたままぎこちなく無事を告げる。

 

「う……ん、びっくりしたけど……大……丈夫」

 

ふうっ、と肩の力を抜いた和真が「ごめん、オレが混ぜたクリームが床に飛んでたかも」と母が足を滑らせた原因を推測すると、すぐさま振り返った明日奈が「和真くんのせいじゃないよ。私がクッキーを作る時にバターを落とした可能性もあるしっ」と力説して息子の意見を覆した。ほぼ一日かけてお菓子を作っていればこうなる事は当たり前なのだから、要は慌てた自分がいけなかったのだと言おうとした時だ、後ろの息子ばかりを気にしていたせいで、前にいる夫の動向を見ていなかった明日奈の手がふっ、と持ち上がる。

 

「赤くなってる。天板にかすっただろ」

「ひゃっ!?」

 

急いで正面に向き直れば、掴まれた手の小指の付け根に和人が唇を押し当ててぺろり、と舌を這わせていた。驚きと恥ずかしさのあまり何も言えずに固まっている母の後ろで和真もまた、呆然と見つめてしまった父の手元から無理矢理視線を外し、もっともな意見を口にしてみる。

 

「火傷なら、水をあてて冷やした方がいいよ」

「熱は持ってないから火傷にまではいってない」

 

そう答えると再び手を舐めてくる和人に明日奈の顔の方が熱を持ち始める。後ろにいる和真にその顔を見られずに済むのは幸いだが、いつまでもこうしてはいられないと恥ずかしさを堪え「和人くん……」と呼びかけた。か細く紡ぎ出された自分の名に目線を上げると小指の付け根の赤さなど比べるまでもないほどに茹で上がっている明日奈の顔が飛び込んできて……ふっ、と笑った和人が掴んでいた彼女の手を引き寄せた。ペタンと座り込んでいた明日奈の上体が和人に向かって傾ぐ。

いきなり手を引っ張られ、状況が把握できずに赤面のまま驚きで目を丸くした明日奈の頬を和人の唇が受け止めた。

 

「ここ、クリームついてるぞ」

 

頬を食むように唇を動かして言うとすぐさま舌で舐めとる。その刺激に思わず明日奈が「んっ」と息を漏らした。息子の存在を意識してか声を出すまいとする必死さがよけいにそそられる吐息となってしまうことに気づかない明日奈がふるふると身を震わせる。今にも泣き出しそうなのを堪えるように固く瞑られた瞳、声を漏らさない為にきつく閉じられた唇、誘うように色づいた顔全体の朱を見て和人の目が満足げに笑った。

 

「こっちにもついてる」

 

さっきとは別の場所に舌で触れれば震えていた明日奈の肩がぴくんっ、と跳ねる。次々に母の顔へ唇を落としている父を横目で見ながら、こうなると本当にクリームが付いているのかどうかは怪しくなってきたが、和真はあえて触れずに母の背後でボウルとホイッパーを拾い上げた。

 

「ボウルに残ってたメレンゲが飛び散ったんだね」

 

すると明日奈の顔から離れた和人が彼女越しに声をかける。

 

「ここの片付けはやっておくから、和真、お前は芽衣を迎えに行ってこい」

「……わかった。芽衣のお返し分のクッキーと直葉ちゃんへ渡すケーキ、持ってくね」

 

顔のあちこちを和人の舌で刺激された明日奈は既に母親の顔ではなくなっているのだろう、振り返る事も出来ず、いつの間にか和人に肩を抱き寄せられていて、そのままの体制で小さく「お願いね、和真くん」とやっとの声を紡いでいた。

 

「母さんは何も気にしなくて大丈夫だよ」

 

父の腕の中に収まっている母にだけ声をかけ、せっかくの休日にずっと妻が息子と一緒にいたのがそこまで面白くなかったのか、と和真はあきれ顔で大きな溜め息をこれ見よがしに落としてから菓子の入った紙袋を手に取り、キッチンを出たのだった。

 

 

 

 

 

和真が閉めたドアの音を聴き終わってから明日奈はゆっくりと顔をあげた。溜め込んでいた息を小さく開いた口から、ほっ、と短く吐き出し、咎めるように揺らめかせながら蕩けそうな色を混在させた瞳で和人を見つめる。向けられた視線を受け止めて和人が嬉しそうに目を細めた。

 

「ああ、それ。その表情(かお)が見たかったんだ……オレだけに見せる明日奈の表情(かお)」

 

既にどこに触れられたのか覚えきれないほど和人の唇に翻弄された明日奈の顔へ再び唇を寄せると、僅かに開いたままの唇をさらり、と舐める。

 

「んあっ」

「……うん、甘い」

「……お砂糖入ってないメレンゲだから……甘いはずないよ」

 

精一杯、余裕のない表情のまま言い返してくる明日奈の言葉に、たじろぐどころか余裕の笑みさえ浮かべて和人は自分の両手を妻の腰に回した。

 

「だったら、これは明日奈が甘いんだな」

「だ、だめ……ここのお掃除もしなきゃだし、芽衣ちゃんも帰ってくるから……」

「和真が付いてるんだ。いきなり帰ってくるようなことはしないだろ」

「え?」

「アイツだってあんなデカくなるまで、ずっとオレ達を見てきてるんだし……」

「そ、それって……」

「これでも調理が終わるまで待った……今日はずっと和真にとられてたんだ、そろそろオレのとこに戻って……」

「ンッ……」

 

既にほとんど力の入らない腕での抵抗も簡単に閉じ込めて、二人きりになった和人は今度こそしっかりと唇を合わせ、自分の妻を深く味わったのだった。

 

 

 

 

 

芽衣の「ただいまー」の声が玄関に飛び込んだかと思えば、後ろに付いていた和真が玄関戸を閉める頃には防具や竹刀を担いだ妹の姿はリビングへと消えていた。続いて和真もリビングに向かうと廊下にまで響く声で「お母さんっ、チーズケーキっ」と芽衣が強請っている。数秒遅れで「だだいま」と声をかけながらリビングに足を踏み入れた和真はそこでソファにゆったりと腰掛けてコーヒーをすすっている父と、すぐそばで床に両膝をつけ娘と目線を合わせている母を見て僅かに息を抜いた。

すっかり通常に戻っている我が家の空気に安心して気を緩ませるとコーヒーカップを手にしたままの父がこちらに顔を向けて微笑む。

 

「おかえり、和真」

 

その表情を見てすぐさま和真の口が軽くへの字に曲がる。

自分が芽衣を迎えに行く前までとは別人のように余裕のある態度と満足げな笑みだ。和人の声を聞き、明日奈も顔を上げた。

 

「お帰りなさい、和真くん。あと、有り難う……あの……色々と……ごめんね」

 

顔を上げて自分を真っ直ぐに見つめつつも申し訳なさそうに言葉を選ぶ母へ、和真はとぼけた調子で軽く笑う。

 

「何のこと?……教室のみんなへのお返しはちゃんと芽衣が自分で渡したし、直葉ちゃんには……連絡、あったでしょ?」

「うん、ちょうどキッチンのお掃除してたから着信に気がつかなくって……慌てて出たら、なぜか『おっ、お取り込み中、ご、ご、ごめんなさいっ、明日奈さんっ』て謝られちゃったんだけど……」

 

こちらは本当に意味が分からないらしく、不思議そうに首を傾げている母を見て和真の頬がひくついた。母の意外な部分での鈍感さにも驚くが、己の刀さばき同様に真正面から切り込むがごとく叔母の物言いにも言葉を失う。

そんな会話を交わしていると芽衣が「お母さん」と明日奈を注意を引き付け、再び「芽衣、ケーキが食べたいっ」と願いを口にした。しかし明日奈は人差し指を立てると芽衣の目の前に持って来て「晩ご飯が先ね」と諭してから、その指で芽衣の顎を指した。

 

「でも、晩ご飯より先に……芽衣ちゃん、この傷、どうしたの?」

「お稽古終わってお掃除する時、床にビッターンッ、てぶつけたの。その時ね、すっごく熱くてびっくりしたっ」

 

芽衣の説明に明日奈の笑顔が苦笑に変わり、再び想像力を刺激された和真は思わず自分の顎を手でさする。ソファの向こうからは「応用力学の摩擦熱を体感した記念日だな」という声がボソリ、と届いた。和人の感想は無視して明日奈はよくよく傷を覗き込む。

 

「少し擦りむいてるだけみたいだけど……痛い?、芽衣ちゃん」

「んー……、ちょっとだけ。お母さんに『飛んでけ』してもらったら治るから大丈夫っ。お母さん、やってっ。そしたら芽衣もお母さんにやってあげるっ」

 

わくわくと母からの回復呪文を待つ芽衣の言葉に再び明日奈が首を傾げた。

 

「芽衣ちゃんが……私に?」

「そうだよ、お母さんも赤くなってるもん」

「え?」

 

傾げたままの明日奈の首筋に今度は芽衣が人差し指を突きつける。

 

「ここっ、首のとこ、赤くなってるよ、お母さん」

 

電話口の直葉の言葉とは違い、すぐさまその意味と原因を正確に理解した明日奈は一瞬表情を氷らせた後、首筋の痕と同じ位顔全体を赤くしたがその眉間には深いシワが出来、口元は怒りに震えていた。

時を同じくしてソファのあたりから「ぶぉほっ」とコーヒーを吹き出す破音に続けて「げほっ、げほっ」と気管に液体を詰まらせたと思われる聞き苦しい咳き込みが繰り返される。

両親である二人の様子を眺められる位置に立っていた和真が今度こそ呆れた溜め息を大仰に落とした。多分、和真になら見つかっても口にはしないだろうと和人は高をくくっていたのだ……明日奈に気づかれぬよう残した愛情の痕が、まさか大ざっぱな芽衣に見とがめられ、指摘されるとは計算外だったようだ。

娘が指さした箇所を片手で押さえた明日奈はどこか意味深な笑顔でもう片方の手の人差し指をくるり、と回し「痛いの、痛いのぉ……」と呪文を唱える。それが終わると痛みが遠のいた芽衣も母を真似て人差し指をクルクルと回した。

正直に言えば特に痛みもなかったから気づかなかったのだが、娘の好意を嬉しく受け取った明日奈は母娘共々呪文をかけおわってから、芽衣に御礼を言った後、チラリ、とソファに視線を走らせて悪戯っ子のように笑う。

 

「芽衣ちゃん、今夜は久しぶりに芽衣ちゃんのお布団で一緒に寝ようか?」

「ほんとーっ」

「ええっ」

 

嬉しげな歓声を上げた芽衣と和人が驚声を発したのはほぼ同時だった。

急いでソファの背もたれから顔を出し、自分が耳にした言動の真偽を確かめるように妻を見つめるが、当の明日奈はどこ吹く風で和人の視線を無視して久しぶりに娘と二人で過ごす夜を楽しみにしている様子だ。同様に笑顔を全開にしている芽衣を気遣いつつも和人は堪らずに妻の名を呼ぶ。

 

「あ……の、ええと……明日奈さん?」

 

縋るような目と及び腰の口調が和人の心境を物語っていた。しかし明日奈は和人に振り返ると躊躇なく最強の笑みをニコリ、と贈る。

 

「そういうわけだから、今夜は一人で寝てね」

 

最後通牒を突きつけられた気分でがっくり、と肩を落とした和人は数秒間、打ちひしがれた様子で微動だにしなかったが、やがてゆっくりと顔を上げ、和真を見つめた。まさか母の代わりに自分と一緒に寝ようなどと言い出してくるのか?、と和真が身構えた時だ「和真」と父の低い声が地を這うように耳に届く。

 

「全部、お前のせいだからなっ」

 

そう言い放った途端、素早くリビングを出て二階の書斎に上がってしまった和人を呆然と見送った和真のすぐそばでは「まったく、もうっ」と零す明日奈とわけがわからず不思議そうに父が出て行った扉を見つめている芽衣の姿があった。




お読みいただき、有り難うございました。
「ホワイトデー」と題しましたが……ホワイトデー話かな?、と
自分でも疑問符が浮かんでおります。
ですが、ホワイトデーきっかけで浮かんだ話なので、良しとしよう、と
押し切らせていただきました。
ここで申し上げておきたいのですが、この作品は「エスカレーター式の
私立の学校」に対して、特定のイメージを植え付けるものではありませんのでっ。
ひとえに芽衣が男前(ヒーロー)すぎるせいです。
誤解とか、偏見とか、勘違いとか、しないで下さいね。
次回は久々に帰還者学校に通っていた頃に戻ります。


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【「お気に入り」300件突破記念大大大感謝編】傍にいてくれる人

《かさなる手、つながる想い》を「お気に行って」くださった皆様、
実に、誠にっ、思いっきり有り難うございます!!!!!!!!!!
さすがにこの数字は予想の斜め上も上、成層圏外あたりのはるか上空を漂うほどに
手の届かない物と思っていましたので、正直、喜び以上に驚きが上回って
おります(苦笑)
毎回、毎回、進展のない内容ばかりをつらつらと書き綴って参りましたが……
このまま「ほのぼのイチャ」を続けていていいのかも、と勇気をいただいた
気がしますっ。
こんな私の背中を押してくださった皆様に、僅かながらもお返しの気持ちが届く事を
願って……。

今回は「きみの笑顔が……」(と「その先の約束(みらい)」)の後のお話です。


週末の夜八時半を過ぎようかという頃、カジュアルな雰囲気のイタリアンレストランの店内では来店客のピーク時が過ぎたとは言え、かなりの座席数が埋まっていて欧州南部の料理を楽しんでいる声や音、香りがふんだんに充満している。そこにカランッ、カランッ、と出入り口の扉が動いた合図の鐘音が響き、すぐさまホール担当の若い女性スタッフが店内に入ってきた制服姿のグループに駆け寄ってきた。

 

「いらっしゃいませ」

「すみません、少し遅れました。予約しておいた……校の茅野です」

「はい、お待ちしていました、奥の個室にご案内いたします」

 

笑顔の女性スタッフを先頭にぞろぞろと同じ制服の生徒達が二十名近い人数で店内に入ってくる。この時間帯に高校生が集団でわざわざ個室を予約しての来店理由は何か?、と興味を持った店内の客達が不躾な視線を送ってくるが、それを気にする事無くワイワイと楽しそうに会話を続けている女子達もいれば、逆に店内をキョロキョロと見回しながら足を進めている男子、周囲は関係なく疲れ切った顔でヨロヨロと歩いている男子もいた。その中でひときわ目立つ男女のペアが一組。

密着している男子の腕を両手で頼り、栗色の長いストレートヘアも並んで歩く彼の肩口に押し付けて俯き加減で歩いている彼女を気遣うように腕を貸している男子が声を掛ける。

 

「ほらっ、アスナ、もう少しだから」

「……うん……だいじょう……」

「頼むから歩きながら寝るなよ」

 

半ば引きずられるように足を動かしている女子に、手を焼いている風な言葉をかけつつもその男子の表情は慈愛を漂わせ、支える手つきも至極優しげだ。見知らぬ高校生のカップルの姿に眺めている側の客の方が頬を赤らめてしまいそうな雰囲気を漂わせながら、その二人は他の生徒達と共にゆっくりと個室へ消えていった。

 

 

 

 

 

ロングテーブルの片側、壁際に固定された椅子の列の最奥に明日奈を座らせた和人は当然のようにその隣に腰を降ろす。すると隣にやってきた茅野が数名の女子を呼んで向かいの席を勧めた。

和人が窺うように明日奈の顔を覗き込んでも顔を僅かに傾けたままぼんやりとした視線を漂わせているだけで、今にも瞼が閉じてしまいそうだ。その様子を正面の位置から見ていた女子の一人が穏やかに笑って「結城さんのそんな顔、初めて見たよ」と誰に言うとも無く声を落とす。

改めて向かいの席の女子達を見れば『校内祭』の実行委員会室で見た面々だと認識した和人が軽く頭を下げると「桐ヶ谷君もお疲れ様」と名前を言われ少し驚くが、返事をする前にすぐ隣から笑いを含んだ声が割り込んできた。

 

「結城さんの手作り弁当を食べていれば有名人にもなるよ、桐ヶ谷君」

 

しかし当の女子達は「最近はそのお弁当を食べられなくなった桐ヶ谷君、って形容詞だけどね」と訂正の言葉を口にしている。しかし、茅野聡は耳に届いたその言葉を短い脇息で一掃してから、室内を見回して一緒にやって来たメンバーの席がほぼ落ち着いたのを確認すると「それに」と続けた。

 

「今日はデジタルパンフの不具合で迷惑かけたし」

 

『校内祭』を訪れた一般客用に準備したデジタルパンフだったが、当日になって各の位置情報にズレが生じるというアクシデントに見舞われ、たまたま休憩に入る明日奈を迎えに来ていた和人が修正を施しトラブルを解決したのだが、前日も結城明日奈を実行委員会室から連れ去った人物として二日続けて話題となった彼に対し、その場にいた多くの生徒が和人の顔と名前を記憶したのは当然のことだった。

 

「あれはもともとウチが基礎を組んだプログラムだったので……」

 

それ程大層な事をしたわけではないのだと言いたげな和人はそっと周囲に視線を巡らせ、茅野の耳に顔を少し近づけた。

 

「それより、オレなんかが実行委員会の打ち上げに参加してよかったんですか?」

 

何を今更な、と可笑しそうに微笑んだ茅野が視線を和人の向こう側の明日奈に伸ばせば、つられるように和人も自らの隣に首を回す。椅子の座面に身体を支えるように座らせたはずの明日奈はいつの間にか和人の肩に寄りかかり舟をこいでいた。なんとか眠り込んではいない状態で、とろん、とした目元を見ていると自然と頬が緩む。

 

「そんな状態の結城さんのお世話を桐ヶ谷君以外、誰にやらせるっていうの。それに今回は担当の先生から打ち上げ費用として潤沢に資金をいただいてるから人数が多少増えたところでどうって事ないよ」

「でも……」

 

二人の向かいにいる女子生徒が、ふふっ、と笑って軽く手を振った。

 

「桐ヶ谷君の他にも実行委員じゃないけどサポートしてくれた人達が混ざってるから、気にしない、気にしない」

 

そこまで言われ、ここまで来ている身ではそれ以上口にすべき言葉もなく、和人は端的に「有り難うございます」と受け入れてから表情を崩す。

 

「アスナが……オレは打ち上げは辞退させてもらって家に帰った方が、と言ったんですが、最後まで参加するって聞かなくて……」

「うん、結城さんらしいよね」

「今朝も一番早く来て、色々と準備してくれてたし」

「私達としてはこんなほうけてる結城さんが見られてラッキーだから…………はぅっ、可愛いしっ、撮影したいしっ」

 

向かいの席の女子達からうっとりとした視線を送られ、和人はギョッと焦り顔に転じるが、隣の茅野は呆れた調子で彼女達を諫めた。

 

「ちょっと、ちょっと、女子でもその反応?……ダメだよ、画像も、映像も禁止」

「わかってるさ、茅野くん。言ってみただけだよ。目に焼き付けるだけで我慢するから安心しなって」

 

そう言うと女子三名がじいいっ、と本当に網膜に焼き付けるがごとく熱意で明日奈の顔を凝視してくる。

 

「まったく、向かいの席を女子で固めた意味がなかったなぁ……まあ、男子よりはましか」

「だってこんなふにゃふにゃの結城さん、『校内祭』の準備期間中には見たことなかったし」

「そうそう、いくら仮眠室使ってねって言っても『大丈夫だから』って休んでくれなかったし」

「まさに無防備っ、そそられるねー」

 

キラキラと言うよりはギラギラと瞳を輝かせた女子生徒の視線さえも気づくことなく自分に身体を寄せている明日奈に代わり、和人がぶるっ、と身を震わせた。口では敵わないと諦めたのか、茅野がテーブルに置いてあったメニュータブレットを向かいの女子達に差し出す。

 

「結城さんは逃げないから、とりあえず注文する料理を決めちゃってくれる?」

 

受け取った三人はすぐさま視線を画面に映し出されているメニュー画像に集め、楽しそうに思い思いの料理をタッチし始めた。

一方、茅野がもうひとつのタブレットを隣の和人に渡しながら「結城さんの注文はどうしようか?」と尋ねれば、心得た様子で「ちょっと起こします」と答えて栗色の髪を優しく撫でる。

 

「アスナ、何頼むんだ?」

「んー……」

 

和人の肩に乗せていた頭がゆっくりと持ち上がり、長い睫毛が重そうに持ち上がる……が、それもほんの僅かで、何もしなければ再び閉じてしまうと思われたタイミングに和人が明日奈のおでこを指でつんっ、とはじいた。

 

「ううっ」

「勝手に決めるぞ」

「……うん」

 

本当に内容を理解した上での了承なのかは怪しかったが、一瞬、呻いた時に渋くなった顔がすぐに溶けてしまったのをやれやれといった風で眺めていた和人は構うこと無くメニューをタッチし始める。

 

「どうせ今日一日まともな物は口にしてないんだろうから、胃に負担にならないような……えっと、トマトよりクリーム系の方が好きだったよな。なら『サーモンとほうれん草のきのこたっぷりクリームリゾット』と……オレは『黒オリーブとベーコンのペンネアラビアータ』にして……あと『カプレーゼ』は一人前でシェアすればいいし……飲み物はアイスティー…………ホットか?」

 

そこまで考えて再び肩に乗っている小さな頭に呼びかける。

 

「アスナ、アイスでいい?」

 

既に完全に閉じてしまった瞼は動かず、代わりに小さな桜色の唇が薄く開いた。

 

「ん、アイス……」

「りょーかい、ならアイスティーふたつ、っと」

 

あまりにも経験値の高さを窺わせる行為に向かいの女子達はもちろん、隣の茅野でさえ手元にあるタブレットのメニューボタンを指でタッチしたまま和人を見つめてしまう。二人分の注文をし終えた和人がタブレットをテーブルに置くと、目の前から呟きのような単語がひとつ、落とされた。

 

「熟年夫婦?」

 

顔を上げてみれば、ついさっきまで自分の隣にしか興味のなかった三人分の視線が今は真っ直ぐ自分に伸びていて……びくり、と身体を震わせて姿勢を正すと、はす向かいに座っていた女子が茅野に向けてテーブルに身を乗り出し、ニヤニヤと目を細くする。

 

「これじゃあ茅野君がつけいる隙、ないねぇ」

「……妙な事、言わないでくれるかな。つけいろうなんて考えた事もないし」

「何をおっしゃる。教室じゃあ茅野君の方から声をかける女子なんて結城さんくらいでしょ」

「だから、それは今回の『校内祭』の事とか色々相談があったからで……」

 

少し焦り顔で返事を口にしながら隣の和人へ向け何やら目線で訴えていた茅野が小さく「同じクラスなんだよ」と補足を加えた。目の前の男子二人の親密ぶりを意外そうに眺めつつ明日奈や茅野のクラスメイトだという女子はわざとらしい溜め息をついて姿勢を元に戻す。

 

「はいはい、そういう事にしておいてあげよう。それにしても……」

 

彼女の視線の方向が斜めに移動した。

 

「ちょっと思ってた感じとは違ったなぁ、桐ヶ谷君って」

 

一体どう思われていたのだろか?、と聞いてみたいような聞かない方がいいような相反する感情に揺り動かされながら僅かに首を傾げれば、その反応さえも新鮮なのか今度は和人と明日奈の向かいの女子達がクスクス、と笑い声を零す。

 

「桐ヶ谷君は結城さんに甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうのを当たり前に受け取る人なのかな、って思っていたもんだから」

「そうそう。そしてついに愛想を尽かされたって噂だったし」

「顔よし、スタイルよし、頭よし、性格よしと、よしよしずくしの結城さんだけどさ、そーゆー人が尽くしてくれると男としては……何て言うの?……オレってやっぱすごいよなー、みたいに勘違いする人?」

「コレはオレのだからー、って自分の付随物感覚になっちゃう人?」

「……はぁ……」

 

自分はそこまでおごった男だと思われていたのか、と開いた口も塞がらず、まともな言葉も出てこない和人はこっそり「オレのだから……とは思ってる……かな」と胸の内に落とした。肯定も否定の言も出てこない和人を置き去りにして三人の口は動き続ける。

 

「昨日だって……ねぇ?」

 

同意を求めるように三人が顔を見合わせれば残りの二人が見事な同期でうんうん、と頷いた。

 

「いきなり結城さんのこと、実行委員会室から持って行っちゃうし……」

「『いただいていきます』って言ってね」

 

あの時の自分を改めて思い返し、和人の唇がうぐぐっ、と震えると、同時に隣の茅野の口からはぷぷっ、と笑いがこぼれ落ちた。

 

「そのくらいにしてあげたら?」

「別にいじめようと思ってるわけじゃないんだけど」

「そうだよ、破局したって聞いてたけど、結城さんはちゃんと大切にされてるんだなーっ、て安心したっていうか?」

「案外、結城さんの方が尽くされてるのかな?、とか?」

 

ポンポンと飛び出してくる自分と明日奈の関係を推測する言葉にこれ以上は勘弁して欲しい、と無理矢理、和人が茅野に同じクラスメイトであり、和人が所属している「ネットワーク研究会」の仲間で『校内祭』の実行委員をしている友人の話題をふる。

 

「ところで、佐々井はどうしたんですか?、来てないみたいですが」

 

その意図をくんで茅野が軽く苦笑いをしてから時刻を確認し、その返答を口にした。

 

「そろそろ合流すると思うけどね。なんせ後夜祭のリーダーだから色々と片付けがあるだろう?。終わり次第こっちに来ることになってるんだ……」

 

ガチャリ

 

計ったように廊下へと続く扉が開いたが、個室に入ってきたのは料理を運んできた店のスタッフだった。『校内祭』の実行委員を中心に今回の打ち上げの飛び入り参加者を含め、今か今かと料理を待っている生徒達の前へ次々と美味しそうに盛りつけられた皿やグラスが並べられる。最後の料理がテーブルの上に配置される前に今度こそ和人が明日奈の肩を強く揺すって覚醒を促した。未だぼんやりと夢現のような明日奈だったが、手に渡されたアイスティーの冷たさとすぐ近くで立ち上がった茅野による『校内祭』に尽力した生徒達への労いの言葉を聞いているうちに表情がはっきりとしてくる。

 

「……では、まだ明日の片付けが残っていますが、今日の『校内祭』の成功を祝して……乾杯」

 

それを合図にこの場にいる面々が「乾杯」や「お疲れ様」と言い合いながら身近な人達と飲み物のグラスを触れ合わせた。

明日奈も和人を始め周囲のメンバーとグラスを軽く鳴らした後、こくこくとアイスティーを喉に流し込んですっかりいつもの調子に戻り、目の前に置かれたクリームリゾットに瞳を輝かせる。コンソメスープで柔らかく煮込まれた米が生クリームと絡んで乳白色にツヤツヤと輝き、サーモンの赤橙色とほうれん草の緑が食欲を刺激していた。スプーンを手にしたところで隣の和人から小さく「料理、それでよかったか?」と少し不安げな声が聞こえて、すぐさま彼の顔を真っ直ぐに見つめて「うん、有り難う」と極上の笑みを添えて答える。

今日は朝、家を出てから食事らしい食事を摂っていないのだ。それを見越し、更に自分の好きな味をわかって選んでくれたメニューだと思うと自然と頬が緩む。一口分をすくうと待ちきれずに口に運んだ。

 

「あつッ」

「アスナっ?」

 

息を吹きかけて冷ます手間も惜しんだせいで予想以上に熱々だったリゾットが明日奈の舌を直撃する。すぐにアイスティーを口にしたが舌先はジンジンと痺れを訴えていた。

 

「急いで食べるから……大丈夫か?」

 

自分の食事も忘れて明日奈を覗き込んでくる和人に少し泣きそうな顔で頷いてから「ちょっと火傷したかも」と告げるなり、そっと舌を出す。途端に周囲がどよめいた。

舌の違和感でそれどころではない明日奈は周囲の異変にも気づかない様子だが、いきなり和人に腕を掴まれ、ガタンッ、と椅子から立ち上がった彼につられて引っ張り上げられる。

 

「ふへ?」

 

何事かと口を開けたまま、わけがわからずはしばみ色の目を瞬かせていると、和人がぐいぐい、と明日奈を腕を引っ張りながらドアに向かい突き進んでいく。ようやく反応を示したのは茅野だった。

 

「えっ?、ちょっと桐ヶ谷君っ」

 

名を呼ばれても振り返ることすらせず、昨日の実行委員会室での再現のように和人は早足で室内を移動して明日奈の腕を掴んだままドアの取っ手に手をかけた。勢いよく扉を開け、一言だけ「氷をもらってきます」とだけ言い残すと和人は有無を言わさず明日奈を連れて個室を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

明日奈が困惑したように「キリトくん?」と問いかけてくるが、和人はそれには応じずスタッフがきびきびと動いている店のホールとは反対の、個室の壁に沿って伸びている廊下の奥へと彼女を引っ張った。行き止まりではあるが突き当たりの横にくぼみのようなスペースがあって予備の椅子やテーブルが積まれており、二人の姿を人目から隠してくれるくらいの空間がある。

そこに明日奈を押し込めると、彼女を隠すように和人が立ちふさがった。

明日奈がもう一度「キリトくん?」と名を口にする。それを聞いて、はぁっ、と息と共に心中に渦巻いていた感情の中身までも吐き出した和人が改めて明日奈と視線を合わせた。

 

「舌は?」

「うん……まだちょっと痺れてる……かな」

「……見せて」

「……見てわかるの?」

「確かめる」

「何を?」

 

押し問答のようなやり取りが続いたが、最後の明日奈の質問に答える気はないようで、和人はジッと強請るように明日奈の口元を見つめている。根負けしたように明日奈がゆっくりと桜色の唇のすき間から舌を出せば、あっという間に和人がそれを舐めた。

 

「んぁっ……なっ、なにっ?」

 

なぜ痺れている舌先を舐められるのだろう、まさか怪我を舐めて治すのと同じ感覚なのだろうか、と疑問符がいっぱいの明日奈の顔を和人は変わらずじっと見つめてくる。

 

「どうだ?」

「な、なにが?」

 

真剣に問うてくる瞳から目が離せず、それでも聞かれた意味がわからなくて困っていると和人が更に顔を寄せてきた。

 

「だから、舌に触れられると……痛いとか……」

「ああ……」

 

何を確かめたかったのかが理解できて明日奈は肩の力を抜くと共に、ほんの少し前の行為を思い返す。確かにいきなりで驚きはしたが、痺れている舌を刺激されても痛みは走らなかった。

 

「う……ん、それは……大丈夫……かも」

「なら遠慮なく……」

 

そう言うなり再び唇を重ねてくる和人だったが、今度は明日奈も素直にそれを受け入れる。後夜祭の最中に屋上で交わした口づけよりも優しく、ゆっくりと絡ませてくる舌の動きに癒やしを感じて心がほわり、と温められた。「遠慮なく」と言いつつも次にそっと撫でるように上あごを舐め上げ、さするように歯茎から舌の付け根の裏側までを緩く刺激されれば徐々に舌先の痺れよりも全身が疼き始める。

静かに唇を離した和人が目の前の恋人を見ると、薄暗がりでもわかるくらい瞳は潤み、頬が熱を持って上気していた。打ち上げの個室で自分の肩にもたれていた時のとろん、と眠たさに惚けた表情とはまた違い、力無く蕩けているくせに求めている色はハッキリと宿っていて、これを目にした者は一欠片の抗いも生み出せずに己を差し出してしまうだろう。

 

「当分……食事に戻れそうにないな……」

 

明日奈はもちろん、自分とて空腹には違いないのだが……そもそも自分が傍にいると途端に無防備な仕草や表情を晒す恋人がいけないのだと理不尽な理由付けをして、まずは胃袋よりも満たされていない欲求を解消すべく和人は明日奈の身体を抱き寄せてからもう一度彼女の唇を塞いだ。

 

 

 

 

 

「ねえねえ、茅野くん、一体何が起こったんだろうね?」

「お願いだから僕に聞かないでくれ」

 

困惑しつつもどこか楽しげなクラスメイトの女子からの質問に茅野聡は抱え込みたくなる頭を片手で押さえるだけで耐えていた。一方、和人がいた席とは反対側の男子生徒達は一様に頬を赤らめて、いまだ興奮状態を隠せずにいる。

 

「茅野っ、見たかっ?、あの姫の表情っっ」

「さっきまでのぼんやりとした顔もたまらんかったが、なんだよっ、あれっ」

「ちょこっと見えた舌がもぅっ」

「我慢してますって感じの目元がもうっ」

「…………なのに、なんですぐに桐ヶ谷がガードに入るんだよぅっ」

 

文句をぶつけたい相手が既に座を離れてしまっているせいで、やり場のない思いを全て隣にいた茅野に注ぐ気なのか、終わりの見えない野次が飛んでくる。それら全てを「だから、僕に言うなっ」と一喝したところでガチャリ、と部屋の扉が開き、全員の視線が一気に集中した。

 

「あっ、すみませーん、遅くなりましたぁ」

 

にへらっ、と笑って入ってきたのは最後まで片付けを命じられていた佐々井だ。室内の空気が氷っている事にも気づかずにトコトコと皆のテーブルに近づきつつ「ちゃんと戸締まりもしてきまたから。あー、それにしても腹減った。何頼もうかなぁ」と一人で喋り続けている。

先刻の騒動でほぼ全員の頭の中から存在が抜け落ちていた佐々井の登場に茅野だけが満面の笑みを浮かべて彼を迎え入れた。

 

「お疲れ様、佐々井君。ところで佐々井君は桐ヶ谷君と同じクラスで更に同じ『ネットワーク研究会』所属だったよね?」

 

いきなり予想外の質問を向けられた佐々井が少々戸惑いながら「は、はい」と肯定すると茅野の笑みが更に深まる。

 

「なら、桐ヶ谷君と懇意にしていると思うんだけど、どうして彼があれほど結城さんを独占できるのか、ここにいるみんなに説明してあげてよ」

「はあぁぁぁーっ!?」

 

毎回、毎回、当事者ではないのに周囲から妬みやひがみの的となり、果ては事態の状況説明まで一連の後始末を任されるのは割に合わないと痛感していた茅野は自分に求められている役割を転嫁できる相手を見つけ、心から微笑んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
「活動報告」でも軽くお知らせしましたが、コンセプトは「【感謝編】になると
被害者になる茅野くん」デス(笑)……がっ、今回は最後のどんでん返し(?)で
被害者が交代しました。
それにしても一年以上ぶりに読み返しましたよ「きみの笑顔が……」。
ひーっ、恥ずかしいっっ、そして未だ処女投稿作ネタをひっぱっての投稿……。
(使える物は使わないとっ)
で……お店で食べるリゾットって、なんであんなにあっついんでしょうね……(苦笑)


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【番外編】いくつもの出会い

キリトやアスナが帰還者学校へ通い始めてまだ間もない頃のお話です。
お昼に中庭で二人がお弁当を広げるようになる少し前、でしょうか……?
今回はオリキャラちゃん目線なので【番外編】とさせていただきました。


春からこの帰還者学校に通い始めてもうすぐ一ヶ月、ようやく《現実世界》で学校生活という日常に慣れた頃、私はひとつの運命的な出会いを果たす……。

 

 

 

 

 

うぅっ、残り十分もないっ、と心の中で焦りながら同じように慌てふためいている女友達二人と連れだって中庭を突っ切ろうとした時だ、なんだか随分ガヤガヤと大勢の声が頭上から降ってきて、私と友人達は同時に足を止め顔を上げた。

 

「なにごとっ」

 

おそらく私を含めた三人の感想はまさにその一言だったと思う。

中庭に面している校舎の各階の廊下の窓という窓を全開にして、二階から四階までがほぼ隙間無く人の顔で覆い尽くされている。これで全員が生気の無い表情で張り付いていたら「ホラー映画の撮影かな?」と思うこと間違いなしだ。

うげげっ、と思いつつも目を反らせずに観察すると……この学校は男子生徒が圧倒的に多いから仕方が無いんだけど……その面々は中等部から高等部までのほぼ男子のみ、しかも期待のこもった喜色満面の笑みが大半で、視線は中庭と言うよりそれよりもっと先の校庭に注がれているような……。

 

「なんだろう……笑顔でもあそこまで並ぶとかえって不気味というか」

「うんうん、それも何かえげつない煩悩を抱え込んでる笑顔だしね」

「女の子アイドルのライブでステージから観客席を見たら、あんな感じなのかな?」

「うわっ、だったら私、アイドルするの絶対無理っ」

 

校舎の窓枠から溢れそうな笑顔集団の異様な光景に立ち尽くしたままの私は両隣の友達と思い思いの感想を交わしながら、ふと自分のクラスのアイドル級の容姿を持つ小柄な女子生徒の存在を思い出す。

 

「珪子ちゃんっていつも男子からあんな風に見られてるの?」

「やーっ、だったら大変だね」

「本人あまり気にしてない感じだけど、慣れてるのかな?」

「なんかちょっと羨ましい気がしてたけど、今はもうお気の毒としか思えないよ」

「そだねー」

「でもさ、珪子ちゃん、私達より先に校舎に入ったはずだよ」

「あれ?、そうだっ。さっき『お先にっ』って声かけてくれたもん」

「だったらあの人達、何見て……」

 

改めて窓に並ぶ顔、顔、顔を眺めていると、一人だけ横向きのあきれ顔で隣の友人と思われる生徒に話しかけている男子の存在に目が止まった。話しかけられている男友達らしき人物はその他の生徒達同様に窓枠に手をかけ身体を乗り出してワクワクと外を眺めたまま適当に会話をしているようで、横向きの生徒の表情が段々と険しくなっていく。

どうやらあのヒトだけはあの場にいたくているというわけではなさそうだ。

血走った目をして口元をだらしなく緩めている有象無象の中で唯一まともな人で……それだけの理由でなんだかもう、もの凄く格好良く見えてくる。

あ……でも普通にちょっとタイプかも……高等部の人かな……顔をよく覚えておいて、今度クラスを探しに行かなくてはっ。

その為にも……と観察眼を光らせれば周囲の男子生徒集団と比べて遠目にも随分と髪色の黒が目立つ事に気づく。

そのまま一心不乱に見つめ続けていると、すぐ隣の男子生徒が興奮気味に彼の肩を叩くのと同時に二階、三階、四階にかけて「おおーっ」と言う野太い声が一斉に放たれた。

私達三人も思わずその声に気圧されて、視線の先を振り返ると……校庭の方から体操服姿の女子生徒が二人、足早にこちらに向かって来ている。ジャージを上下着用しているにもかかわらず遠目にもわかるくらいプロポーションの良い女子の手をもう一人の女子がひっぱっていた。

 

「っとに、あんな馬鹿げたお願いでこんなに時間をとられるとは思ってもみなかったわよっ」

「ご、ごめんね、リズ」

「なんでお願いされたアスナが謝るのっ」

「だって一緒にいてくれたから遅くなっちゃったんだし……」

「もとはと言えば『体操服姿の画像を撮らせてください』なんて真正面から言ってきたあのアホ中等部男子のせいでしょっ」

 

校舎内の窓枠からはみ出るように頭を突き出している生徒達にまでその声は伝わっていないようだけど、私達の耳はしっかりとその会話を拾っていて……思わず三人の表情が固まった。

た、体操服姿を撮らせて欲しい……って……うわーっ、どこのクラスの奴か知らないけど、そんな恥ずかしい直球を投げるアホが同じ中等部にいるなんてっ、と他人事なのに羞恥で膝から崩れ落ちそうになる。

確かに思わず画像に収めたくなるほどすらり、とした肢体の持ち主であることは認めるよ、でも面と向かって頼むっ?、普通!……などとアホ中等部男子に同意する反面、同じ女子として自分だったら後ずさって逃げるより一歩前にでて殴り飛ばすなぁ、と思っていると、隣の友人が少々うっとり気な呟きをこぼした。

 

「あ、やっぱり、姫先輩」

 

どうやら友人は校舎内の男子生徒の群がり具合から、彼らのお目当てを予想していたようで、ぽわっ、と頬をピンク色に染めて、未だ友人と思われる女子生徒に手を引かれている先輩を見つめている。

姫先輩……中等部の生徒達は男女問わずその名で呼んでいる高等部の、うううん、この学校一番と言って差し支えない美人で才媛の結城明日奈先輩だ。

段々と近づいてくる二人に私の心臓もバクバクが加速する。

だって中等部なんて授業が同じになる事はないし、教室のある棟も違うし、前に何回かカフェテリアで見かけたくらいはあるけど、こんな近くでお目にかかるなんて初めての経験だ。

体育の授業後と思われる姫先輩こと結城先輩はお友達らしい女子生徒に手をひかれながら、もう片方の手で三つ編みにまとめていた髪をほどいた。それだけの仕草も流れるように綺麗で、ほぅっ、と口を開いた途端、やっぱり校舎から「おおーっ」と感嘆の多重音声が飛んでくる。

さすがにこの量の視線と声を無視できず、手を引いていたお友達が「だーっ、さっきから、うっとうしいわね、あいつら」と校舎に向かって睨み付けていると、結城先輩が手に持っている髪留め用のゴムを見つめて「リズ」と手が繋がっているお友達を呼んだ。

 

「これ、シリ……珪子ちゃんに返しに行なきゃ」

「えっ?、でもこれから着替えてたら中等部の教室まで行ってる時間ないでしょ。あの子も予備だって言ってたから急いで返さなくても大丈夫よ。明日のお昼は一緒に食べるんだし、その時でいいんじゃない?」

「うーん、でも……」

 

確かに結城先輩の手の中にある髪ゴムは先輩が選ぶにしてはちょっと子供っぽすぎる、と言うか、とにかく可愛いが前面に押し出されているデザインだった。そして会話の中から聞こえた『珪子ちゃん』と『中等部』という単語に頭で考えるより先に口が反応して、ちょうど目の前を通り過ぎようとしている先輩方二人に「すみません」と声をかけてしまう。

少し驚いたような顔で足を止めてくれた二人に見つめられ、途端に私の口はあわあわと震え始めた。

ありとあらゆる面で校内一の超有名人な先輩を引き留めてしまった、という事態に今更「なんでもありません」と言える度胸も無く、それどころかまともな思考も停止して、立っているだけの足さえガクガクが止まらない。

両隣の友に助けを求めようと左右に目だけを動かしてみたけど、既に二人共直立不動で固まっていて、全くあてにならないし……。

声を掛けてきたのにその後が続かない私に向かって結城先輩が足をこちらに踏み出して距離を縮めてくる。恐ろしいほど綺麗な顔がどんどんと迫ってきて私の心拍数は一気に加速し、顔全体が沸騰したように熱くなっていた。

 

「えっと……なにかな?」

 

にこり、と微笑んで小首を傾げた途端、心臓が飛び出すほどの衝撃が身体中を駆け巡る。

かっ、かっ、かっ、かっ、可愛いぃぃっっっ、でもって、すっ、すっ、すっ、すっごく綺麗ぃぃっっ。

肌、しろっ。それにきめ細かくて柔らかそうですべすべで……睫毛、ながっ。瞳も大きくて色もすごいっ、はしばみ色ってホントなんだぁ……鼻も高くて、スッと通ってるし唇もふっくらつやつやしてて……なんかもう……食べちゃいたい。

不思議そうな顔のまま目の前に佇んでいる結城先輩は妙なキノコでも食べて全身が痺れているように震えているだけの私の返答を辛抱強く待ってくれていたが、その後ろに控えていたお友達が先に痺れを切らす。

 

「アスナ、時間ないわよ」

「うん、でも……」

 

少し振り返ってお友達を見てから、結城先輩はもう一度私に視線を合わせてくれた。その心遣いが嬉しくて、それを勇気に変えて思い切り力を込めて口を動かし、言葉を発する。

 

「あのっ、その髪ゴムっ」

「ふえっ?」

 

私が発した単語が予想もしていない言葉だったのだろう、澄んだはしばみ色の瞳を一層大きく見開いている先輩に私は畳みかけるように話し続けた。

 

「その髪ゴムっ、綾野珪子ちゃんのならっ、返しておきましょうかっ?、私、おっ、同じクラスなんですっ」

 

一瞬、何を言われたのかわからなかったみたいでキョトンとした表情の先輩だったが、私の申し出の意味を理解するとちょっと心配そうに眉尻を下げて「ほんとに?、迷惑じゃない?」と気遣ってくれる。しかし次の瞬間、私の全身に強烈な電流が走った。

あの結城先輩がふわり、と笑ったのだ。

 

「……有り難うっ」

 

は、は、は……鼻血……でそうなんですけど……いやいやいや、ここで流血したら絶対先輩にドン引かれるっ、耐えろ、私……。

根性で鼻血を堪えた私は次にずっと半開きになっていた口の端から垂れ出ちゃったヨダレを慌てて啜った。

女王様から下賜される宝物のように跪いて受け取りたい気分に浸りながら、さすがにそれはこの衆人環視の中、私も恥ずかしさが勝って、それでもおずおずと……女神の泉から清水をすくうように両手で器を作って先輩の前に差し出すと、まさに鈴を転がすような声で「宜しくお願いします」と丁寧な言葉を添えて私の元へと宝が……違った、髪ゴムが渡される。

そして手の中にゴムが無事収まった時だ、校舎の窓という窓から声とは思えない怒号が一斉に吹き出した。

ええっ!?……もうなにがなんだかわけが分からず、ゴーゴーと荒れ狂う怒りをまともに浴びて身体が硬直したまま突然の事態に対応できず突っ立っていると、目の前に華奢な両肩を覆う栗色の長い髪が現れる。

二度、三度、瞬きをして自分を取り戻すと、それが私の前に立って嵐を防いでくれている結城先輩の背中だと分かった。

と同時にこのブーイングの集中砲火は声を聞き取れない距離にいる校舎の男子生徒達にとって、今の一連の流れが私が結城先輩に髪ゴムを強請ったように見えたせいなのだと気づく。

どうしたらこの事態を収拾することが出来るのかわからず、頭が真っ白になっていると、先輩がクッ、と顔を上げて校舎を睨み付けた。

……途端に嵐が消滅する。

しんっ、と静まりかえった校舎の窓に向けて、普通なら届くわけがない距離の中庭から先輩の声が響いた。

 

「私がお願い事をしたの。なにか文句ある?」

 

こっそり後ろから覗き見た結城先輩の横顔の凜々しさと言ったら……カッ、カッ、カッ、カッコイイ……再びこみ上げてくる鼻血を懸命に押しとどめて私は手の中のゴムをギュッ、と握りしめてから、その高貴さを窺わせる尊顔に向かって思わず「姫……センパイ」と求めるように口から声を忍び出す。

その声に気づいてくれた姫先輩が私の方へ振り返ろうとした時、ふいにその動きが止まった。

少し意外そうに細い眉毛が山なりに持ち上がる。

けれどそれも一瞬で、すぐに表情はふにゃり、と柔らかく綿菓子のように溶けて……脇を締めたまま、片手をちょっと持ち上げて手の平を小さく揺らす合図は誰に送ったものなのか……。

姫先輩の瞳は校舎の窓枠に並んでいる男子生徒の中の、たった一人を見つめていた。

その視線を追うと、少し前まで私が見上げていた方角と全く同じだという事実に気づく。

 

んんっ?

 

同じようにして私も視線を伸ばせば、そこには未だ横向きのままの黒髪の男子生徒がいて……でもさっきと違うのは顔だけがこちらを向いており、あきれ顔だった目元は今はうっすらと朱に染まって、けれどとっても優しげに細められている。

そして……それから……周囲に気づかれないようになのだろうか、窓枠からちょっとだけ顔を出した手は指しか見えない位置で、それが気恥ずかしそうにゆっくりと数回、左右に動いた。

そんな自分達、校舎側の事情など見えるはずもない数多の男子生徒達は一瞬にして変化した姫先輩の表情にボルテージは一気にマックスまで上り詰めたようで「うおおおっっっ」とさっきまでの静寂がウソのように訳の分からない雄叫びを上げている。加えて姫先輩が振った手に対して手を振り返す輩が後を絶たず、窓枠から上半身が飛び出している者はバランスを崩してあわや転落か!?、と危なっかしい状態なのだが、そんな男子生徒達の安全などに気を削がれることなく、私の頭の中はさっきの二人の合図のやりとりでいっぱいになっていた。

 

姫先輩が合図を送った相手って……あのヒト?

 

先輩の確かな視線の先、あんなにこの場にいるのは不本意だと言いたげな態度だった男子生徒が表情を一転させて愛おしそうに見つめ返す瞳を見たら……。

 

うん、なんだかもう……あのヒトはダメだな

 

まあ、外見がほんのちょっと好みかな?、って思っただけだし……性格とか全然知らないし……声も聴いたことないし……これは、ああ、あれだ、クラスに残念な男子しかいないせいだ………

 

それと……この学校に入学すればすぐに《フードの人》が見つかると思ってたから……それで最近ちょっと落ち込んでて……でも、やっぱりもう少しだけ《あの世界》で私を助けてくれた《フードの人》を探すとしよう…………だって瞬間にわかっちゃったから……

 

あのヒトは絶対に姫先輩以外の人に向けてあんな顔をすることはないって……

 

大丈夫、大丈夫……私には…………姫先輩がいるっ!

 

一気に心の糧を得た私はようやく振り返ってくれた姫先輩に目一杯の笑顔を向けた。

 

「姫先輩、姫先輩っ、珪子ちゃんにはちゃんと渡しておきますからっ、あっ、でも心配ですよね、知り合ったばかりの中等部女子ですもん。なので私の名前、お教えしておきます。ちゃんと覚えて下さいね。中等部に何かご用がありましたら是非、私にお声かけください。ご用がなくっても声をかけていただけると嬉しいですけど……ゆくゆくは連絡先、交換して下さいね。ああ、校舎の窓から3Dみたいに飛び出してる男子なんて相手にしなくて大丈夫です。あの人達と比べたら姫先輩の方が何十倍もカッコイイですからっ」

「え?」

「アスナ……アンタ、またユニークな信者を獲得したわね」

 

姫先輩のちょっと引きつった笑顔と姫先輩の後ろであきれ声を落としたお友達の視線を浴びながら私は満ち足りた気分になったのだった。

 

 

 

 

 

それはあのデスゲームから解放される二ヶ月ほど前、戦闘系のスキルを持たない代わりに索敵スキルだけは結構なレベルに到達していた私が背後から近づく影にまったく気づかず、主街区から少し出た野原で懸命に土をほじくり返していた時だ。

 

「もしもーし、こんな所で女の子が一人は危ないよ」

「うきゃぁっ」

 

しゃがみこんでいた背中に突然降ってきた男性の声に色気もなにもあったもんじゃない悲鳴をあげて振り返ると、そこにはフードを被った人がひとり立っていた。声と体格からして男性なのは一目瞭然だったけど顔が見えないし気配を感じさせない雰囲気に疑問が宿る。しかしすぐに目の前の人物がその疑問の回答を与えてくれた。

 

「えっと……俺、NPCじゃないからね」

 

多分、同じような疑問を持たれた経験が何度かあるんだろう、随分と人の表情を読み取るのが得意らしい。

 

「それに……ここ、モンスターは出ないし主街区もすぐそこだけどさ、やっぱり一人ってゆーのは……」

 

一人でいた見ず知らずの私を心配してわざわざ声をかけてくれたのだろうか?……いい人だなぁ、とは思うがこちらも色々と事情があるのだ、はい、そうですね、と言って引き下がるわけにはいかない。何から説明したらいいだろう、とちょっと思案顔になった途端、またもや《フードの人》が口を開いた。

 

「あ、もしかして《無限の花びら》ってゆークエストやってる?」

 

内心、再び「うきゃぁっ」と叫んで、とりあずうんうん、と頭を縦に振る。

な、な、な、なんでわかったんだろう……もしかして「読心」スキルとか持ってる人なの?、と今度は心を読まれないよう警戒警報を発令して二重三重に分厚い心の壁を用意しようとした時だ、《フードの人》がわたわたと手を動かした。

 

「驚かせてごめんね、俺もそのクエスト、手伝ったことがあったから」

 

意外な種明かしに肩の力が抜けて、まじまじと《フードの人》を見上げるが、やっぱり顔はよく見えない。

 

「男の人……ですよね?」

 

確認するように問いかけると、今度は向こうがうんうん、と頭を振った。

 

「わりと女性向けのクエストだなっ、て思ってたんですけど……」

 

クエスト名《無限の花びら》……『種屋』という植物の種を専門に扱っているショップの店長さんに頼まれた三つの材料を用意すると不思議な花の鉢植えを作ってもらえるのだ。その花は種を植えれば翌日には花が咲くという成長の早い植物なのだが、成長はそこまでで、あとは常に花が咲き続ける。一つの花は三日ほどで落ちるがすぐ次が開花して、結局花が尽きることはないそうだ。

店長さんが要求してくる三つの材料はいたってシンプル、水と土と肥料……ただ咲き続ける為の花の養分としてなのか、量がハンパない。よって多人数で挑まなければ到底クリアは叶わず、ひたすら水やら土やらを集めるだけの長時間の単純作業を経て、得られるのが花の種を蒔いた鉢ひとつ、という事で男性には人気のないクエストだと思っていた。ちなみに私は肥料を探してこの野原で手を土まみれにしながら既に半日を過ごしている。

 

「俺の時は付き合ってる女性にプロポーズしたいから、花を一緒に渡したいって依頼……じゃなくてお願いされてさ」

「へえ……ロマンチックですね」

「それはそうと、一人であの量は無理じゃないの?、時間制限あったよね?」

「えへへっ……実は、私の場合は今度友達が自分のお店を持つことになったんです。それで他の友達五人とこのクエストに挑戦して花を贈ろうって事になって……」

「まあ、それぞれの材料に最低二人は欲しいもんなぁ」

「グー・チョキ・パーで分けたら……」

「君がひとりで肥料担当になった、と」

「そーゆー事です。でも他の材料が集まり次第、手伝いに来てくれる手はずになってるんですけど」

「いやいや、あとの水と土だってかなりの量なんだから。二人だと制限時間めいっぱい使ってどうにかっ、てとこだよ」

「そうなんですかぁ……」

 

確かに自分達の担当材料が集まり次第、連絡をくれると言っていた四人からは未だなんのメッセージも送られてこない。こうなると他の材料がなんとかなっても自分の肥料だけが揃わずに種を分けてもらえない可能性が濃くなってきた事を実感して涙腺が緩みそうになった時だ、フード越しに頭をポリポリと掻いた《フードの人》が小さく「たまにはいっか」と呟いた。

 

「君が集めた肥料、全種類揃ってる?」

「え?、はい、種類は全部見つけましたけど、量がまだ足りなくて」

「とりあえず種類が揃ってるなら、なんとかなるかな。あの『種屋』のオヤジとは前に交渉した事あるからクセも覚えてるし」

「交渉?、クセ?」

「あー、気にないで。それより時間ないんでしょ。『種屋』に行こう。後は俺が何とかしてあげるから」

 

《フードの人》に追い立てられるように主街区へと戻った私は、半日で集めた分を『種屋』の店長さんに見せた。当然、店長のおじさんは「これじゃあ足らないなぁ」と腕組みをしたけど、そこで私は《フードの人》から店を追い出されてしまったのだ。驚いて店先で待っているとほどなくして店から出てきた《フードの人》は一言「あれで納得させたから大丈夫」と言ってその場を立ち去ってしまった。急いで後を追いかけようとしたけど、ちょうど後ろから水と土を持った友人達が帰って来て……結局、私はよく訳が分からないまま一人で肥料を揃えたと勘違いしてる友人達から感動されるやら労われるやらで居心地の悪い思いをしながら、でも、どう説明したらいいのかもわからなかったから《フードの人》の事は誰にも話さないまま友へのお祝いの花を手に入れたのだ。

 

 

 

 

 

顔は全然見えなかったけど、声や喋り方は覚えてるし、それにあんまり歳も離れてない気がしたんだよね……

 

この学校に通い始めてからまだ一ヶ月とちょっと、中等部には該当する人がいなかったけど、中等部より断然人数の多い高等部がある事に期待を寄せて私は友達二人と一緒に校舎へ急いだ。どうか《フードの人》があの黒髪の男子生徒ではありませんように、と祈りながら。




お読みいただき、有り難うございました。
放課後、キリトが「オレは選科が一緒だからだいたい知ってるけど、なんで
他の奴らがアスナの時間割、把握してるんだよ」とぶつぶつ言いそう(笑)
《フードの人》……ちょっと黒髪の男子生徒から目線をずらせば隣に
いたんですけどね(苦笑)
きっと姫先輩につきまとっていれば、そう遠くない未来に出会えると
思います。
では続けて《オーディナル・スケール》SSをお届けします。
BD出るまで我慢しますっ、の方はご注意ください!(ネタバレ有りです)


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〈OS〉ワガママと嘘

《オーディナル・スケール》より「ほのぼのイチャ」をひねり出して
みました。
序盤シーンのネタなので、この辺りはまだ空気感が軽くて楽しいですよね。


「キーリートーくーん」

「キーリートー」

「キーリートーさーん」

 

アスナ、リズ、シリカの三人から夜中に都内を移動する為の「足」としてご指名をいただいたのとほぼ同時にキリトの手元の携帯端末へ送られてきたメッセージ内容はクラインからの《オーディナル・スケール》への誘いだった……。

 

 

 

 

 

クラインからの招請はひとまず置いておいて……とキリトは目の前の制服姿の女子三名を眺める。

いずれの女子も自分にとっては長い付き合いの部類に入る面々で、内一人は長い……と言うより深いお付き合いをしている女子なのだが、横一列に期待の瞳が三組並ばれるとたじろがずにはいられない。

 

これは……オレに同乗者を選べ、という事……デスか……?

 

やけにプレッシャーのかかる状況であり、責任重大なミッションのように感じる胸中を表には出さないよう心がけて「出来れば、そっちで決めてもらえないか?」と言いそうになった口を寸前で封じた。正直言って今まで自分の彼女であるアスナは何度も後ろに乗せたことはあるが、他の二人は前例がない。頭の中を高速回転させてシミュレーションを展開する。

 

例えばこの場でなんらかの方法を用いて同乗者が決まったと仮定しよう……それがリズやシリカだった場合、オレはアスナが見ている前で他の相手と、どこどこの何時に待ち合わせをしよう、という話をするのか……。

 

その場面を想像しただけで、なぜか理由もわからず眉間にシワが寄り、心が重たくなった。

これが偶然、街中で出会ったリズやシリカだったらここまで気が塞ぐことにはならないだろう……どこに行くのかを聞き、方向や時間に問題がなければ「乗っていくか?」くらい口に出来る気がする。けれどアスナの目の前で彼女にその言葉を聞かせるのは……。

 

理屈ではなく本能的に感情が「嫌だ」と告げていた。

 

頭ではわかっている、今回の同乗者はアスナも含めた中で決まる一人だと言う事を。当然、アスナも納得しての結果になるはずなのだと……だから、これはアスナを気遣って、とか、そういうのではなくて単にオレが…………オレの…………我が儘だ。

 

「……今さ……クラインからメールがきたんだ……《オーディナル・スケール》を一緒にやらないか?、って……だから……その……オレもAR戦闘はほとんどやってないから……」

 

そこまで言って、キリトは無意識に視線をアスナに合わせる。ARの戦闘に不慣れなのは本当だった。オーグマー自体さえ装着していないのが当たり前なくらいだ。しかし、その視線の意味を汲んでくれたのはアスナではなく、その隣にいる人物だった。

 

「なら、アスナ、今回はあんたがキリトと一緒に行きなさいよ」

「リズ?」

「えぇ〜、リズさん、そんなぁ」

 

ちょっと驚いたようにはしばみ色の瞳を見開いていてるアスナの隣でシリカが不満げな声をあげる。そう言えばシリカからはこれまでにも何回か「今度バイクの後ろの乗せてくださいね」と頼まれていた事を思い出し、若干申し訳なく思ったが、キリトはリズからの助勢を無駄にする気はおきなかった。

 

「じゃあアスナ、今晩、いつもの場所に迎えに行くから」

 

自分達ならこれでわかるよな?、と簡単な言葉で待ち合わせの約束をすれば、その言い方に気恥ずかしさを覚えたのかアスナの頬が淡く色づいて……それでも綻ぶような笑顔に安堵の色を混ぜて小さく「うん」と頷く。

去年の夏休みに自分達が通う帰還者学校のプールを使って直葉に泳ぎを教える時は「直葉ちゃんも一緒なんだから安全運転でね」と、くどいほど念を押され、二人乗りの件に関しては特に気にしている風でもなかったから、自分がバイクの後ろに誰を乗せようとさして意識はしないのかと思っていたキリトだったが、それは相手が妹だったからなのか、と結論づけ、重くなっていた気分がアスナの反応で浮上する。

すぐさまクラインに了解のメールを送ると、ほどなくしてヤル気に満ちた文面が届くが、そこでキリトは二つの問題点に思い至った。

 

実際のAR戦闘っていつぶりだ?

 

リズやシリカに打ち明けたようにキリトは《オーディナル・スケール》にほとんど参加をしていない。未だランキングナンバーは10万番台というお粗末さだ。旧《S.A.O》並みの、そこまでとは言わずとも今の《A.L.O》あたりの戦闘力を期待されているのなら、それはとんだお門違いで、本音を言えば足を引っ張る事になるのでは、と思っているくらいだ。

 

そこは、アスナがいるから大丈夫か……。

 

自分が役不足でも彼女がいれば立派な共闘者となるだろう、と判断して次の問題点の検証を始める。

それは今夜のゲームイベントにアスナを連れて参加すると伝えなかった事だ。これは全くキリトの意志ではなく、たまたま普段から付き合いのある女子達に《オーディナル・スケール》のイベント場所までの送迎を請われた日とクラインからの誘いの日が重なっただけで……。

 

って言っても信じないだろうな……。

 

もともと《かの世界》で夫婦としての姿を目にしているせいか《A.L.O》の新生アインクラッドにある二十二層の森の家でキリトとアスナの仲睦まじい姿を見るクラインはいたって普通なのに、いざ《現実世界》で同じ二人を目にすると途端にからかい混じりの視線を送ってくるのだ。なんでも今度はARのイベントで新たな出会いを求めているらしい『風林火山』のリーダー様は、ギルメンと共に女性受けを意識したらしい随分と気合いの入った戦闘衣を揃えたと言っていた。

それと主旨を同じくしているわけではないのだがキリト達もデザインに統一感のあるコスチュームをそれぞれが持っている。特別に二人だけが色違いを纏っているわけではないのだが、その場にいるのがキリトとアスナしかいなければ、カップリングコーデと判断されても仕方なく、今夜、クラインと合流した時に自分達に向けられるであろうニヤけた表情を予測してげんなりとなったキリトはそっとアスナの耳元に口を寄せた。

 

「今夜、アスナと一緒に行くこと、クラインに伝えてないんだけど……」

「え?」

「ほら、アイツ、《こっち》でオレ達を見ると必ず冷やかしてくるだろ」

「あー……ああ、うん、そうだね」

 

その点についてはアスナも思い当たる節があったのか、小さく苦笑しながら肯定し、「気にしなくていいんじゃないかな?」と軽く返してきたが、未だキリトが、うーむ、と眉根を寄せている顔を見て「だったら」と少し自信ありげに笑った。

 

「たまたま私が一緒ってことにすればいいのよね」

 

具体的な対策を聞かないままアスナとはまた夜に会う約束をして各自家路に就いた事を、キリトは数時間後に後悔することとなる。

 

 

 

 

 

無事にアスナと合流して三十分ほど前に告知されたばかりのイベント場所、秋葉原UDXに二人が到着してみると、そこには既に多くのプレイヤー達が集まっていた。

この中でクライン達と出会えるのか?、と思ったちょうどその時、《現実世界》でも赤いバンダナを着用し、『風林火山』のメンバーを引き連れているリーダーが十数メートル先からこちらに歩いてくるのが見える。片手を振って二人に気づいた途端の第一声が昼間のキリトの予想を的中させた。

 

「なんだ、アスナも一緒なのか?」

 

何気ない風を装っているが、視線がやけに生温かい。

しかしそこは旧アインクラッドのボス戦で作戦参謀も務めていたアスナだ、想定内の相手の反応にニコリ、と微笑み「キリトくんがあまり乗り気じゃなかったので、引っ張ってきちゃいました」と言い切る。

 

あまり乗り気じゃなかったのは事実なので良しとしよう、でもその言い方だとオレが完全にアスナの尻に敷かれてるみたいに聞こえないか?

 

そんな疑問をぽわんっ、と浮かべていた時だった、アスナの言葉が終わりだと思っていたキリトの耳に更なる愛しい人の声が飛び込んでくる。

 

「それにジャンケンで勝ったので……」

 

えっ?、えっ?、ええっ?……なんですかアスナさん、そのとってつけたようなジャンケンって……

 

唖然としてアスナを見つめるだけのキリトと同様に『風林火山』のメンバーも全員の表情が一瞬固まったが、そこは年の功と言うやつなのだろう、すぐさま立ち直り、その場の雰囲気とアスナに対して抱いた自分達の甘酸っぱい気持ちを切り替えるように代表してクラインが声を張り上げる。

 

「よーし、そんじゃあアスナにいいトコ見せるぞー」

 

そのかけ声にメンバー達も応じてからそそくさとアスナと視線を合わさないよう移動を始めたが、キリトはその後ろ姿を見ながら自分の内なる本能と懸命に戦っていた。

確かにあのままキリトが今夜のバイクの同乗者を選ぶ権利を放棄すれば、対象者である女子三名の内、誰か一人を決める方法として無難なのはジャンケンあたりだったろう事は容易に想像がつく。だからこの場にいる理由として「ジャンケンで勝った」と言うのは決して真実味が無い訳ではないのだ。

しかしながらあえて言おう……「それにジャンケンに勝ったので……」……ちょっと自信なさげな笑顔で相手の様子を覗いながら、瞳は「ウソじゃないですよ」と言わんばかりの必死さを漂わせて……他者への関心が薄く場の空気が読みベタなキリトでさえ一瞬で表情の違和感に気づいてしまったくらいだ、『S.A.O』というゲームであってゲームではなかった世界に囚われる以前から仲間と呼べるほど他人と連携をとっている彼らが気づかないはずがない。

 

オレがアスナを誘って来たと思われないようにって考えたんだろうけどなぁ……

 

今日の昼間、別れ際に聞いた彼女の台詞が思い出される。

 

たまたまアスナが一緒に……って、絶対思われてないよなぁ…………けど……

 

でも、もう、そんな事はどうでも良くなっていた。奇しくもやっぱりアスナが言ってくれた、気にしなくていい状態に今の自分はなっている。どんな些細な事でもきちんと真面目に答えるアスナがキリトの為と思ってバレバレの小さなウソをついてくれたのだ。しかも本人はちゃんとクライン達を納得させられたと思っているのだから可愛いことこの上ない。

 

ああ…………抱きしめたい

 

とは言え周囲には続々と《オーグマー》を装着した若者達が集まってきていた。さすがにこの状況でアスナの身体を引き寄せるのはマズイと判断したキリトはせめても、と幾度となく味わっているその感触を脳内で再生する。

すっかり身長差が出来た現在、両腕で彼女を包み込めば首元に小さな頭がすっぽりと収まり、そこに上から自分の頬をすり寄せて、片手は彼女の腰に、もう片方の手は彼女の象徴とも言える栗色の長い髪をゆっくりと梳く……密着する事で互いが補完し合い、すっきりとひとつに落ち着く充足感はもうアスナ以外では得られないとキリトは確信していた。

昼間のうちにアスナからクラインへの対策を聞いておけば、こんな不意打ちを食らうことはなかったのだと自分の迂闊さを心底後悔しながらつい彼女に伸びてしまいそうな手を我慢で震わせていると、キリトの心情など全く意に介していないアスナがそろそろイベント開始の時刻であると告げてくる。ゲーム終了後、すぐに自宅に送らなくても大丈夫だろう、などと不埒な考えを浮かべながらキリトは隣にいる彼女に続いてキーとなる音声入力を行った。

 

「オーディナル・スケール、起動!」

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇ おまけ ◇◇◇◇◇

 

モンスターとの戦闘が終結しクラインをはじめ『風林火山』のメンバーと別れてからバイクを駐めた場所まで戻ってくると、ふいにキリトがアスナの両脇に手を差し入れて彼女を持ち上げバイクのシートに横乗りに下ろした。突然の事にアスナが目を白黒させていると、ほぼ視線の高さが合った位置でキリトがジッとはしばみ色を見つめて短く言葉を吐く。

 

「オレ以外と……」

「え?、なに?……どうしたの?、キリトくん」

 

いつもとは違う様子に心配そう眉根を寄せたアスナは思わずキリトに顔を近づけた。

 

「……キス……」

「キス?……あっ、さっきのユナからの!?……だって……いきなりだったし」

「でも……さ……」

「それに……相手は女の子、だよ?」

「それでも……」

 

そんな事はわかってるよ、と言いたげに口を曲げ、ちょっと不機嫌な目つきで見つめてくるキリトに向け、アスナはひとつ苦笑いをこぼす。

 

「ほっぺたなのに……」

 

そして「キリトくん」と呼びかけ、バイクから落ちないギリギリまで身体を乗り出して「おでこ、赤くなってるよ」と言うなり、そこにチュッと唇を押し付けた。




お読みいただき、有り難うございました。
劇場版本編の正確な台詞は覚えていないので、ちょっと違ってますよー、な
ご指摘があれば修正させていただきます。
ただ、クラインの「アスナも一緒なのか?」は耳で聞いた限りでは
「一緒なんか?」と砕けていたようにも聞こえましたが、文字におこすと
ちょっとわかりにくい気がしたので「なのか?」表記にしました。
(切実にアフレコ台本が欲しいデス)
そしてこの後、アスナは絶対「連れ込まれてる」と思います(苦笑)
では、次回は珍しく《仮想世界》のお話をお届けする予定です。


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金色の羽根

新生《アインクラッド》で既に二十二層のログハウスを購入済みの二人ですが、
今回はクエストに挑戦し終え、リズベットの店に集まったところから
話は始まります。


イグドラシル・シティ大通りにある《リズベット武具店》の店奥でテーブルを囲む面々は一様に無言で難しい表情を浮かべていた。理由は単純明快、ついさっきまで挑戦していたクエストが失敗に終わったからだ。

しばらくしてその場の空気に耐えきれなくなったのか、メンバー内で自分の立ち位置を兄貴分と自認しているクラインがボスの特徴をぽそり、と呟く。

 

「動きがノロイ替わりに頑丈だったよなぁ」

 

全員が同様に抱いていた感想に改めて頷く気もおきないのか、その場にいるキリト、アスナ、リズベット、シリカ、エギルは微動だにせずその言葉を受け入れた。

奇しくも旧アインクラッドで知り合ったメンバーで構成された今回のパーティー、ようやく辿り着いたダンジョンの最奥で、どっしりと構えている巨大ウミガメと形容するのがピッタリのモンスターを倒すべく攻撃を続けたのだが、当のカメはとにかく攻撃力より防御力に特化しておりHPバーが残り一本となった時点で甲羅内に引きこもって防御一択形態となった。それでも散々その甲羅に刀を、ダガーを、メイスを振り下ろしたのだが……フォワードの単独攻撃で手応えを得られたのはキリトくらいで、結果、惜しくも時間切れとなり強制的にダンジョンから排除されたのだ。

固い甲羅めがけて懸命に斧を振り下ろしたエギルがその時の感触を思い出したのか痛むはずのない手首をさする。

 

「問題は超合金なみの甲羅の固さだろうな。俺やクラインじゃ僅かな傷をつけるのがやっとだ。制限時間がなけりゃコツコツ削る手もあるだろうが……」

「そうだよなぁ、それにダンジョン内が狭いせいで多人数で集中攻撃をしかけるのも無理ときてるしよう」

 

エギルの意見に同意したクラインは、その後唇を尖らせて「オレの愛刀が折れるかと思ったぜ」と、やはり甲皮の固さに辟易した様子で文句を零した。終盤、ほとんど役に立たなかったシリカは項垂れ、ポジティブ思考が持ち味のリズベットさえも申し訳なさげに視線を落としたまま小さく溜め息をつく。

そんなしんみりとした空気の中、一人だけ次回の挑戦に向けてハイスペックと賞賛されている頭脳をフル回転させていたウンディーネの少女がおもむろに唇を動かした。

 

「フォーメーションを組み直したらどうかな」

 

一斉に視線が集まる。

それに臆することなくアスナは自分のおとがいに手をあてたまま真剣な目つきで話し始めた。

「ヒールがもっと広範囲に届けばいいんだけど……」と前置きをすればすかさずリズベットが睨み付ける。

 

「アスナのせいじゃないわよ、複数の対象者への同時ヒールをさせない為のアノ構造なんだろうから」

 

親友からの気遣いを笑顔で受け取ってからアスナは目の前のメンバーの攻撃力で今現在考えつく作戦のうち、一番勝算の高い戦術を口にした。

「とにかくバーが最後の一本になってからの攻撃時間を出来るだけ長くしたいから……」と序盤からの動きの指示をそれぞれへと伝えていく。それに頷き返す仲間達を見ながら彼女は説明を続けた。

「最後の一本になった段階でキリトくんをヒールし終えたら私も前に出て…………最終的には私とキリトくんのどちらかがHPゼロになるかも、だけど、これで倒せると思うの。だからリズとシリカちゃんにはリメインライトの回収をお願いしたいん……」

 

ガタンッ

 

アスナに最後まで言わさず、それまで沈黙を守っていたキリトが耐えかねたように勢いよく立ち上がる。

突然の事に驚いて口を開いたまま固まってしまったアスナも他のメンバーと同様に黒のロングコートを羽織っている影妖精を見つめた。

キリトは何か思い詰めたような表情のまま「オレは……」と小さく吐くとアスナを真っ直ぐに見つめて「その作戦には同意できない」と言うなり、周囲からの言葉を拒絶するようにコートの裾を翻して足早に店から出て行ってしまう。

あっという間の出来事に唖然としたままのメンバーだったが店の扉がパタン、と閉じた音と同時に我に返り一様に理解が追いつかない頭を捻った。

思いっきり眉をひそめたリズがぱちぱちと目を瞬かせ、鳩が豆鉄砲を食ったような表情のシリカはおろおろと顔を左右に振って仲間達の反応を覗う。

 

「え?、ちょ、ちょっと……何?、キリトのやつ、どうしたっていうのよ」

「アスナさんの立てた作戦で何か問題でもあったんでしょうか?」

「それにしたってあの態度はないでしょうが、ねぇっ、エギル」

「あ……ああ、まるでアスナが副団長だった頃のボス攻略会議みたいだったな」

 

ほんの少し懐かしさを浮かべたエギルが苦笑いをしながらキリトが出て行った扉を見つめていると、それまで黙り込んでいたアスナがふらりと腰を上げた。その顔は苦しげに眉がうねり、瞳は心配の色に染まり、唇はきつく引き結ばれている。

視線をアスナへと移したエギルはその面差しがキリトの心の内を渦巻いている物にちゃんと気づいている事を見取って「行ってこい」と声をかけた。行動力に長けたアスナにしては珍しく一瞬の戸惑いを見せるが、すぐに頷くとしっかりとした足取りでついさっきキリトが出て行った扉の向こうに飛び出すように駆けていく。

立て続けにこの場から消えた二人と何かを勘づいている様子のエギル、完全に自分達は蚊帳の外なのだと疎外感を感じながらもただ事ではなかった様子のキリトを心配したリズが筋骨隆々とした禿頭の土妖精へと視線を投げた。問いただすような鋭い眼力にやれやれと肩の力を抜きながら一息吐いたエギルは「リズやシリカはあの場にいなかったからな……」と言って、思い出と呼ぶには悲惨すぎる記憶を静かに語り始めたのである。

 

 

 

 

 

リズの店を出たアスナはウインドウからキリトの居場所を確認することなく水妖精特有の透けるように薄い氷水色の羽根を広げ、彼が居ると確信する場所へ向け飛行移動に移った。先刻の様子からしてのんびりと空中散歩を楽しんではいないだろう事は容易に想像でき、一刻でも早くあの瞳に宿っていた不安を取り除こうと速度をギリギリまで上げる。

しばらくして見慣れた景色の中にひっそりと佇むログハウスを見た時、窓から漏れている灯りに自分の推測が間違っていなかったと安堵したアスナはすぐさま高度を下げて戸口の前に降り立った。

カチャリ、と音を立て、既に自宅と言っても差し支えない感覚となっているログハウスに足を踏み入れる。

果たして探し求めていた人物は、と室内を見回すまでもなくいつもの揺り椅子をわずかに揺らしながらキリトが目を瞑ったまま身を沈めていた。コト、コト、とブーツの音を抑える事なく彼に近づく。ログハウスの扉が開いた時点でアスナの存在に気づいているはずのキリトはそれでも無反応を貫いて全てを拒むように固く目を閉じたままだった。

 

「……キリトくん」

 

目の前までやってきて腰を屈めたアスナは覗き込むように顔を近づけて恋人の名を呼ぶ。自分を呼ぶアスナの声に応えない、という選択肢などキリトの中には存在しなかったが、声は出さず瞼をゆっくりと上げるだけに留める。その瞳にリズの店で見た感情が少しも薄らいでいないと認めたアスナはキリトが座っている座面の端に片膝をのせ身体を寄せると、そっと彼の頭を両手で抱えて自分の胸に押し当てた。それでもキリトは何も言わない。ただ椅子の揺れを止めてされるがままにアスナに包み込まれ、胸の内を占めているどうしようもない感情が外に漏れ出さないよう身を固くしている。

いつもならこんな風にアスナと密着して彼女の香りを存分に味わう距離に自分を置けば、どんな緊張も瞬く間に溶けてなくなるというのに、今回ばかりはこの緊張が緩むことはなかった。

 

「キリトくん、私は……ここにいるよ」

 

漠然としたアスナの言葉にキリトの肩がピクリ、と反応する。

 

「ちゃんとキリトくんの傍でどこまでも一緒にいるから」

「…………でも……オレは……」

 

続く言葉は出てこず、自分を守るようなアスナの優しさに甘え、キリトは縋るように自分の額を愛しい人の胸元に押し付けるだけだった。

 

 

 

 

 

「公には『黒の剣士』と呼ばれていたプレイヤーによってあのデスゲームがクリアされた、としか伝わってないからお前達が知らないのも無理はないがな……」

 

そう静かに告げたエギルは何事かをクラインと視線で相談し、小さく頷いてからリズベットとシリカが知らずにいた真実を口にした。

 

「キリトをゲームクリアに導いたのはアスナがキリトに託した意志と言っても過言じゃあない」

「……託した?」

 

すかさず疑問を口にするアスナの親友たるリズにエギルは視線を合わせる。

 

「ああ、そうだ。キリトがゲームをクリアする寸前、アスナはキリトをかばってその身に致命的な傷を負い、キリトの腕の中で光となって消滅したからだ」

 

リズとシリカの全身に衝撃が走った。

一瞬、大きく震えた身体が次の瞬間には硬直し、体内をエギルの言葉が駆け巡る。告げられた真実をどこで理解すればいいのかわからず、ただ闇雲に暴れまくる言葉を先に己のものとして溶け込ませたのはリズだった。

 

「ウソ……アスナが……」

 

目を大きく見開きエギルを見つめたままリズは理解しても納得できない気持ちを表す。そこへ寄り添うようにクラインが「まあ、そんな話、簡単には信じられねぇだろうけどな」とリズの反応を肯定した。

 

「ウソじゃねえんだ。それこそあの場にいたオレ達の方がどれほど嘘だと思いたかったか……キリトを助ける為に……そんな二人を見ているしか出来なかった自分はどんだけ情けねー男だと悔やんだか……」

 

絞り出すように低い声で言い放ったクラインの顔は珍しくも痛々しいほどに歪んでいた。隣に座っていたエギルは一旦リズから視線を外ずし、ポンッとクラインの肩を叩いて強張りを緩めてやると再びリズとシリカへ顔を戻す。

 

「ああ、だから俺も《現実世界》に生還した後、キリトと再会してアスナが病院のベッドで昏睡状態だと聞かされた時は自分の耳を疑った」

 

本来のタイトル名より『デス・ゲーム』という呼称の方が世間に浸透しているゲームソフト『ソードアート・オンライン』……正式サービス開始初日にその体内へプレイヤー約一万人を飲み込み、それからほぼ二年後に吐き出された『生還者』と呼ばれるプレイヤーの数は六一四七人。しかし内三百人は《現実世界》へ帰還することなく再び別のゲーム内へと意識を拘束された。

だが、リズもシリカもアスナだけが不運にも偶然その三百人の中に入ってしまっただけで《現実世界》への復帰に今の今まで何の疑問も抱いていなかったのだ。

 

「なら……エギルの話が本当なら、なんで、どうやってアスナはっ」

 

事態の不可解さにリズの中で恐怖に似た感情が押し寄せようとした時、目の前でつい先刻まで顔を歪めていた火妖精が軽く彼女の勢いを散らす。

 

「正直、俺は、んーなことぁどうだっていいんだ。からくりはわかんねーが、アスナさんはちゃんと生きていて、笑ったり怒ったり……それを隣でキリトのヤツが嬉しそうにしてやがる…………今はそれでいいじゃねえか」

「そうだな、アスナの生還に関してはキリトやアスナが自ら明かさない限り、俺としては詮索はしないつもりだ。今、気になってるのは、あの時、確かにアスナはキリトの腕の中で消滅したって事で……」

「あの場にいた全員が忘れられない光景だよな。アスナさんの全身が金色に光り輝いて……俺はあん時、何が起こったのかもわからなくなっちまって、馬鹿みたいにその神々しさに見とれて……なのに次の瞬間にはパァッ、て光の粒になっちまった…………それを……それをっ、キリトが両手で必死にかき集めようと……して……よぅ……」

 

声を詰まらせたクラインがスッと下を向く。両肩が静かに震えていた。

同様に表情を険しくしたままのエギルが続きを請け負う。

 

「とにかくだ、キリトがゲームクリアを果たした時、アイツが手にしていたのはランベントライトだったんだ」

 

己の会心の一振りと言える剣の名が出てリズが息を呑んだ。

 

「それって……」

「知ってるだろ、《あの世界》で結婚をした二人は全情報と全アイテムを共有する。アスナの愛剣は彼女が消えた後、もう一人の所有者であるキリトがその意志と共に受け継いだんだ」

 

最期の場面を思い出している様子のエギルが口を閉じると、それまで押し黙っていたシリカがいつの間に泣き出していたのか、小さく鼻を啜る音がリズの耳に届く。エギルとクラインから告げられたあまりにも衝撃的な内容に混乱した頭をリズがようやく落ち着かせた時、ふと話の原点に返って疑問符が浮かんだ。

 

「それが、さっきのキリトとどう関係があるわけ?」

 

その問いに僅か呆れを含ませて一息吐き出したエギルは「考えてもみろ」と再び諭すようにリズとシリカ、そして今度はクラインへと順に視線を巡らせる。

 

「あいつらは《あの世界》で夫婦だったんだから、あの時も互いのHPバーが表示されてたんだぞ……」

 

 

 

 

 

キリトの頭部を母親が赤子を抱くように両腕の中に収め、自分の鼓動を聞かせるように胸に押し当てたまま黒髪をゆっくりと梳く。何度も何度も手を往復させて固くなった心を解きほぐすように撫で続けているとキリトのくぐもった声だけが弱々しくアスナの耳に届いた。

 

「……ごめん、アスナ」

「なにが?……みんなと一緒のクエストで戦闘になると私がバックアップばかりなこと?……それとも、戦闘中だと終盤にしかキリトくんが私を前線に呼んでくれないこと?……それとも…………私のHPゲージが減ることに恐怖感が拭えないこと?」

 

何でもない事のようにさらり、と告げられた内容に絶句したキリトは恐る恐る顔を上げる。

 

「気づいて……たのか……」

「そりゃあね」

 

どこか寂しげに微笑んでからアスナは抱擁を解くと一旦椅子から降り、改めてちょこん、とキリトの膝の上に横向きに座り直した。アスナの行動を予期できなかった為に彼女が腰を降ろした反動で椅子が振り子のように揺れ、咄嗟にキリトがその細腰を支える。

いつもの、と言っていい体勢に落ち着いたアスナはキリトの肩先に自分の頬をあてて身体を預けた。

 

「初めて私が《A.L.O》でリメインライトになった時、リーファちゃんが蘇生してくれてる間、キリトくんったら残り火になった私をずっと両手で大事に包んでくれてたでしょ……あんな顔されたら、わかるよ」

「ごめん……頭ではわかってるんだ。これは本当にただのゲームでHPがゼロになっても《現実世界》には何の影響もないって。でも…………やっぱりアスナのHPが減っていくのを見ると、あの時を思い出して……」

 

 

 

 

 

「……普通のゲームとはわけが違う。あの『デス・ゲーム』の中で夫婦となるくらい深い絆で結ばれた相手のHPゲージが何の躊躇いもなく、砂が流れ落ちるように減っていくんだ。まるで命の量を示すように……それを否が応でも視界の端に表示されてみろ、それはもう拷問でしかないだろ」

 

エギルの言葉にその時のキリトを想像してか、クラインがぶるり、と震えて自分の両腕をさすった。それからおもむろに両方の手の平を広げてその上にある見えない何かを見つめる。

 

「しかもその相手が自分の腕ん中にいるなんて、考えただけでも気が狂うぜ。なのにアイツはその後アスナさんの剣を手にしてゲームをクリアしたんだから……ホント、すっげーよなぁ」

「ああ、だが……やっぱりトラウマは残ったようだな」

 

大きく頷くように禿頭を上下させたエギルは深く考え込むように目を瞑って太い腕を組む。それにリズが反応して首を傾げた。

 

「トラウマ?」

 

ゆっくりと瞼を上げたエギルはそれまで語っていた記憶に呼び起こされた感情の波を穏やかにしてから少し困ったような顔でリズの問いに答える。

 

「クエストやらで戦闘になるとアスナは後方支援の位置にいる事がほとんどだから気づかなくても当然だが…………たまにあるだろ、どうしてもっ、て時が……」

「それはアスナの手が細剣を握る時ってこと?」

「ああ、ほとんどの場合、戦いの終盤にキリトがタイミングを見計らって前線に呼ぶが、その場合でも最終的にアスナのHPゲージはレッドになってないはずだ」

「それって……」

「あいつがちゃんと計算してるのさ。ボスを倒すまでにアスナのHPが最悪でもどのくらい削られるのかを、そしてそれを実行する為の自分の役割も、だ……多分あいつはアスナのHPが極端に減る事がどうしようもなく怖いんだ」

 

そこでクラインが納得したようにウンウン、と頭を振る。

 

「それでか、アイツが呼ばねえのにアスナさんが前に飛び出してくるとキリの字が血相変えてフォローに入んのは」

「でも、まあ、アスナもわかってると思うがな。『たまにはフォワードやりたい』って愚痴ってるが、自己判断で前線に出てきた時はきっちりキリトの指示に従ってるし。HPがギリギリイエローの時は一旦引いて自己回復させてる」

 

エギルの説明から新たな疑問を感じたリズが困惑の声を上げた。

 

「だったらなんで今回に限ってはHPがゼロになるかもしれない作戦なんて立てたのよ……」

「それはまあアスナにも色々と思うところがあるんだろう。キリトのトラウマをわかった上での発言だったなら俺達が気を回してもどうにもならないさ。あとは二人で解決してもらうしかないな」

 

不安げな表情のリズとシリカに向けて笑ったエギルの瞳は既にいつもの大きな安心感を与える色に戻っていた。

 

 

 

 

 

あの時のように両手で細いアスナの身体を支えながらキリトは無意識にその手に力を込めて自分の中から消える事を許さないとばかりに彼女を強く囲い込む。さっきまではアスナがキリトを優しく包んでいたのに、逆に今は小さな男の子が自分の宝物をなくすまいと必死にしがみついているようだった。

キリトにされるがまま掻き抱かれていたアスナはふぅっ、と小さく息を吐くと視線を上げて自分の頭部に頬を押し付けている影妖精の真っ黒な髪を見つめる。

 

「原因は私だから……強くは言えないんだけど……ね……」

 

アスナの言葉を聞いてもキリトは両腕を緩めず唇だけを動かした。

 

「なら、さっきの作戦じゃなくて……」

「でも、あの方法以外に倒せる見込みはないでしょう?」

 

言葉を遮られるまでもなくキリトも十分わかっていた。再度あの巨大なウミガメもどきのモンスターに挑むのならアスナが治癒師としてではなく剣士として終盤の戦いに加わることが必須だという事は。それでも彼女のHPがレッドゾーンに突入し、あまつさえそのアバターが消滅する可能性を考えるとどうにも気持ちを切り替える事が出来ない。

 

「やっぱり……ダメだ……」

「……キリトくん……」

 

まるで答えの出ない堂々巡りだった。アスナとしてもこの短時間でキリトのトラウマがどうこうなるとは思っていない。ただ当人にその自覚があるのか、また、その根がどの程度、心にはびこっているのかを確かめたかっただけなのだが、実際問題あのクエストには彼女が剣を握って参戦しなければ攻略は到底無理だろう。

しかし、このままではキリトにとっても良くないと判断したアスナは怯えた彼の心を撫でるように、柔らかい声で包み込む。

 

「もう私はキリトくんを置いて消えたりしないし、傍を離れたりもしないから、大丈夫だよ」

「わかってる……って言うより、アスナがいてくれないとオレが無理だし」

「だから、ね?、リメインライトになってもすぐに蘇生してもらえばいいんだから」

 

そう言われてキリトは更に思い切りギュッとアスナを抱きしめて考え込んだ。《現実世界》ではひ弱な体型の自分だが、多分こんな風に目一杯力を込めればアスナは苦痛に顔をしかめるだろう。実際、ほんの数回だが理性のたががはずれ、《現実世界》において組み敷いた彼女の細い身体を無我夢中で抱いてしまった事がある。ようやく自身が落ち着いて、それまでとは違う意味の涙をじわり、と滲ませ、声を詰まらせていたアスナの表情に気づき、慌てて腕の力を緩めたのだが……もしHPゲージが表示されていたら間違いなくレッドゾーンまで削ってたな、と思い返したキリトは彼女からは見えない角度で自嘲気味に口の端を上げた。

だが、自分以外の他者から加えられた力によってアスナのHPが減るのを……ましてや彼女の身体が消える瞬間など冷静に受け止められるほど心の整理が簡単につくはずもなく……キリトは一旦アスナの頭部から離れて宙を見上げ、己の心に向き合う。

そんな葛藤を黙って見守ってくれている腕の中の水妖精に再び視線を落とすと、見上げるような角度で不安に揺れるアトランティコブルーの海へ飛び込むように顔を近づけた。

 

「ならさ……アスナのHPがレッドゾーンに食い込むのは我慢する。ただ、さっきの作戦だとリメインライトになる確率はどっちか、なんだろ?」

「うん……多分」

「まあ、オレの感触から言ってもそんな感じだろうけど……だったらそれはオレがなる…………残念だけど今回のLAはアスナに譲るよ」

 

最後ににやり、といつもと変わらないような笑みを浮かべると反論を口にする猶予を与えず、キリトはアスナの唇を自分のそれで封じた。啄むように何度も触れながらその合間に「カメを倒したらすぐに蘇生魔法かけてくれよ」と強請る。

アスナを安心させる為にわざと普段通りの軽い口調で話しているのは明白だった。

それでもさっきのリズの店での態度からすればキリトとしては随分譲歩をしてくれたのだと感じたアスナは彼の背に両手を回し、口づけを受け入れる。背中をさする慈愛の手に気づいたキリトが苦笑いを零して小さく呟いた。

 

「弱気になってるオレを甘やかすとつけあがるぞ」

 

その言葉に負けじとアスナも言い返す。

 

「いいよ……意地っ張りなキリトくんを甘やかしてあげたいから……」

「その言葉、後悔するなよ」

 

言うなり噛みつくようにアスナの唇を塞ぐと戸惑う舌を探りあて強引に絡め取った。こんな性急な口づけは《あの世界》で自分が彼に向け、「もう会わない」と言おうとした時と同じだと感じたアスナはキリトの不安と焦りを思いやり舌の愛撫に素直に応じる。しかし、優しく宥めるようなアスナの思いもキリトの抑えきれない感情はそれ以上なのか、一向に荒々しさが鎮まることがない。

 

「っ……アスナ、もっと」

 

乱れるはずのない呼吸が乱れ、痺れるはずのない舌が擦れ合う強さに痺れる。それでもキリトの求めが弱まることはなかった。

 

「もう二度とオレの目の前で消えさせたりしない」

 

誓いにも似た言葉に微かに頷くだけでその意を受け止めたアスナが覚悟を決めたようにその身を預ければ、キリトは内に閉じ込めるように強く、強く、その細い身体を掻き抱く。息が止まりそうな錯覚を起こすほど全身をキリトに包まれたアスナは蜜月と呼ぶにはあまりにも短かった《あの時》のように「……向こうの部屋に……」とだけ薄桃色に染まった頬と共に届ければ、フッと優しい笑みが降ってきた。

彼女の膝の裏へ手を差し入れ、抱きしめていた身体を横抱きにして立ち上がるとキリトは隣の寝室を目指して大股で移動する。一瞬大きく揺れた視界に驚いて咄嗟にしがみついてきたアスナのクリスタルブルーの髪に歩調を緩めてそっと唇を落としてから自分の不安を押し込める為に腕の中の存在を存分に味わうべく隣室への扉を開けた。




お読みいただき、有り難うございました。
久々に第一巻を読み返しました(笑)
アスナが散った後、キリトが様々な気持ちを経て最期に
「これでーーいいかい……?」と問うシーン
たまりませんね……。
次回は軽めでいきますっ(苦笑)


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きみからの声

いちを二部構成……と言いますか、三部構成……と言いますか。
前半はアスナ視点、キリト視点の対構成で、後半はキリトとアスナに対する
周囲の反応……みたいな……。
時間軸としては新生アインクラッドの森の家は購入済みで〈OS〉の前、あたりです。


「見たところキミはソロみたいだし、一人だとどんな小さなミスも命取りになりかねない」

 

アインクラッド第一層の迷宮区の最奥で自分が歩いてきたはずの方向も向かうべき方向もわからないくらい朦朧とした意識の中、壁に背中を預けて座り込んでいる私に向け発せられた突然の声に苛立ちを乗せた視線を返されても、冷静に助言とその意味を説明してくれた彼は初対面の私の命にさえ気遣いを持つ剣士だった。

 

「あんたを助けたわけじゃない」

「助けたかったのは、あんたが持ってるマップデータさ」

 

後に幾度となく目にすることになる冷笑的な口元から響く低い声。

今ならそんな言葉が本心でないことくらいすぐにわかって、逆にそんな言い方に腹を立てただろうけど、あの時の私は何も言い返すことが出来なかった。

 

「待てよ、フェンサーさん……」

 

彼は既に私に対して、何をどう言えば耳を傾けるのかがわかっていたんだと思う。

 

「……言い換えれば、君をそこまで追い込んだのは、ある意味では俺の……」

 

どこまでも優しくて責任感の強い彼はその日知り合ったばかりの私に対してでさえ、あの《デス・ゲーム》内の惨状と私が絶望に追い込まれた原因の一旦を自分の責任だと背負い込んで、告白しようとしていて……。

そして彼が私の名を初めて呼ぶ時は唐突にやってきた。

 

「アスナ、手順はセンチネルと同じだ! ……行くぞ!」

 

そんな状況でないことは百も承知だったけど、その瞬間、驚きと郷愁と困惑がいっぺんにわき上がって、大きく跳ねた心の奥底の小さな嬉しさには気づけず、でも瞬時にそれを押し込め視線を彼から前方へと移しボスモンスターの存在へと集中する。そうして既にパーティーを組んだ時点でキャラネームが表示されていた事を知った私は初めて第二層に辿り着いた喜びさえ押しのけて自分のあまりの無知さに思わず笑い声を上げてしまった。

それから何度、彼に名を呼ばれただろう。《あの世界》の虜囚となって初めて私の名前を呼んでくれたプレイヤー。《現実世界》と同じ音なのに彼が口にしてくれる三文字にはたくさんの感情が内包されていて、それがこんなに耳に心地いと初めて気づかせてくれた存在。

普段の彼なら「アスナ」、躊躇いがちに、こちらの反応を探り探り伺うような口調の時は「アスナさん」、それから一転して漆黒の瞳の奥に真摯な光を宿せば……ふと、あの時、不安に負けて口にしてしまった問いに対する彼からの答えが頭の中をよぎる。

 

「君が充分に強くなって、俺が必要なくなる時まで」

 

彼の言う強さが私に充分備わったかどうかはわからないけど、これだけは言える、私が彼を必要としなくなる時なんて来ない、と……。

それでも私達は其々に別の道を選んだ時があった。まるで彼の事なんて関心がないかのように振舞っていたあの頃、偶然ひとつの事件の真相を追いかけていた最中、彼は私を《おまえ》と呼び、次に《貴女(あなた)》、《副団長》……《閃光様》と……もうっ、何かの嫌がらせかと思えるほどの距離感を突きつけられて頭にきた私は目線をそらしつつ不承不承にも自ら口にしたのだ、アスナでいい、と。

そうして彼の口から私の名が出てくる度に彼に惹かれていく自分を止める事が出来なかった私は「アスナ……今夜は、一緒にいたい……」という言葉の意味を覚悟を決めて受け止めた。

そうして紆余曲折を経て互いの気持ちを確かめ合ってから《あの世界》が崩壊するまではあっという間だった気がする。その後、別の世界に囚われてしまった私を救い出してくれたのも彼だし、《現実世界》で最初に会いに来てくれたのも彼だった。

やっとの思いで医療用ジェルベッドから半身を起こした私は、力の入らない腕を使ってなんとか頭部にあるナーヴギアを外すとそれだけで今ある全体力を使い果たしてしまい、呼吸を整えることに専念する。

ふぅっ、と大きく息を吐き出してから周囲の状況を確認する為に頭を巡らせると、先刻、ログアウト前に彼から告げられた通り、窓の外の暗闇を見て今が夜なのだと実感した。しかしぼやけた視界が徐々に鮮明になってくるとその闇の中にちらちらと白く光る小さな物体がいくつも降っている事に気づく。

……雪?……途端に《あの世界》で見た雪の風景が脳裏に蘇って……オープンテラスで初めて舞い落ちてくる雪を見た時、私の隣にいてくれたのはやっぱり彼で……と、その時、誰かに呼ばれた気がしたのだ。それまでたくさん、たくさん私の心を震わせてきた声とは少し違うような、けれど秘められた優しさと真っ直ぐさは変わらず……でも、その時の私は聴覚が衰えていて周囲の音は何も拾えなかったから、気のせいかと思ったのだけど……自然と振り返れば、そこには少し息を切らしながらも不安な色を黒曜石のような瞳に混ぜ込んだ彼がカーテンの隅に立っていた。

 

「おかえり、アスナ」

 

聞こえなくても聞こえる、彼が私を呼ぶ声……そうしてやっと私は《現実世界》でも彼の声がすぐ傍に聞こえる場所に戻ってきた。

彼に強く包み込まれているのに、私の内の奥深くにも彼がいて求められる喜びとその激しさが絶えず私を翻弄する。溢れる幸せに涙が止まらず、彼からの熱に溺れてしまいそうになるのを必死にしがみついて流されまいとすると、彼もまた限界だとでも言いたげに最後は荒く掠れた声で私の名を一回だけ呼んでくれる。それから高みへ上り詰めた意識が遠のく瞬間、時折思い出したように記憶の底から彼の声が聞こえるのだ。

 

「なあ、アスナ……俺たちの関係って、ゲームの中だけのことなのかな……?」

 

時にはこっちがビックリするような行動を取るくせに、二人だけになると気弱な一面を見せる彼が愛おしくて守ってあげたくて、いつも心の中で繰り返す…………私は何度でも君を好きになるよ、って……。

 

 

 

 

 

なぜあの時……アインクラッド第一層の薄暗い迷宮(ダンジョン)の奥底で、自分の行動規範に反してまで近づき、声をかけたのか……今でも明確な答えは出てこない……強いて言えば小学生の時に見たのと同じくらい眩しい流星を見せてくれたから、だろうか……?

しかしその煌めきさえも薄らいでしまう程の衝撃がすぐにオレを襲うこととなる……そう、初めてあの声を聴いた時だ。

 

「…………過剰で、何か、問題があるの?」

 

女性である事を示すそれはひどく小さく、感情も読み取れるものではなかったが、それでも美しさは十分に伝わってきた。

その後は偶然だったり、その場の流れみたいなもので彼女と行動を共にする時間が増えたが、彼女とパーティーを組んだ後でもオレ達は互いを名前で呼び合うことはなかった。オレはそれをこの関係が一時的なものだと彼女が考えているからだと思っていたが……第一層のフロアボスを倒した後、彼女は怪訝な顔で聞いてきたのだ「あなたに名前教えてないし、あなたのも教わってないでしょう?」と……。

そこでようやく彼女がパーティーを組む事さえ初めてだったのだと理解したオレはあえて自分の名を口にはせず、表示されている位置を教えた。

きっと頭で考えるよりも先にオレは彼女にその文字列を読んで、オレの名前を呼んで欲しいという渇望が全身を占めていたのだろう。

 

「き……り……と。キリト? これが、あなたの名前?」

 

初めて……初めて彼女の薄く形のいい唇から発せられたオレという個を指す三文字が耳をくすぐる。それは今で感じたことのない感覚パラメータからの信号だった。

そしてそれ以降、相変わらず「あなた」や「キミ」と呼ばれる事はあったが、圧倒的な割合を占めていたのは「キリト君」だった。

最初に呼ばれた時、《君》はいらないよ、と言ったのだが、今現在も彼女はオレの事を「キリト君」と呼ぶ……彼女の中のこだわりは長く同じ時を過ごしていても未だによくわからない部分が多いけど、この呼び名は今となってはすっかりオレの中に唯一無二として定着していて、むしろそう呼ばれる度に胸の奥があたたかくなるくらいだ。

それでも一時期、彼女がオレの名を呼ばず……正確にはある場所においてオレを「キリト君」と故意に呼ばずにる振る舞いをしていた時期があった。それはオレとの暫定的なコンビを解消し、彼女が正式にギルドへと入り、そのギルドが攻略組の指揮を執るような存在となった頃からだ。

事ある毎に作戦会議で意見を衝突させていたオレは彼女の中に変わらず存在し続けるゲームクリアに向けた真剣な姿勢を感じていたものの、それを覆う表情の硬さが気になっていたのだが……しかし攻略組ばかりが集まっている会議場の外では……そう、主街区のカフェなどで偶然(と思っていたが、実はそうでもなかったらしい)出会った時などは、パーティーを組んでいた時のように口元を微笑ませて少し得意気に「キリト君」と呼んでくれていた。

そして偶然にも、またコンビを組み、更に様々な意味で互いをパートナーと認識し、システム的にも伴侶となった彼女は突然にオレの前から姿を消す……彼女だけは安全な場所で……彼女だけは生き残って……彼女だけはオレが守ると誓ったはずなのに……。

病室のベッドで昏々と眠り続ける彼女を見る度にオレの内はひび割れ、砕けて、パラパラと暗闇の底に落ちていくようだった。

しかし、オレは再び彼女を《仮想世界》で探しだし、今度こそ《現実世界》で再会を果たす。

病室の窓の外、白い雪に目を奪われていたらしい彼女がゆっくりと振り返り、《あの世界》と同じようにほわんと優しく微笑みながらオレの名を呼ぶ……。

 

「キリト君」

 

途端に暗闇で粉々になっていたオレの欠片はひとつに集結し再構成を果たして光の世界へと引き寄せられる。そしてもう二度と彼女の声が届かなくなる事がないように、と祈りながらその細い身体を抱きしめた。

そうして今では《仮想世界》でも《現実世界》においてもオレの一番近い場所でオレの名を口にする彼女の声を聴く。

何度も、何度も、もう何回呼ばれたのかさえ数えきれないほど上がった息づかいで熱に浮かされたように繰り返されるオレの名は例えようもなく甘い。

堪らずにその甘さを味わうべく、オレの名を呼ぶ声を唇で封じると……直接、甘い吐息に溶けたオレの名を舌がすくい上げ、その味を堪能し続ける。そんな中、置いてきぼりにされている理性の片隅で忘れられない言葉がふと浮かんだ。

 

「……ねえ、あなたは、いつまで、わたしと一緒にいるの?」

 

かつて薄暗い螺旋階段を上る途中で彼女から投げかけられた問い……今なら何の躊躇いもなく答えを口にするだろう…………いつまでも、君が望んでくれるなら、と……。

 

 

 

 

 

新生《アインクラッド》……二十二層のログハウス。家主であるキリトはおらず、女主人よろしくアスナが客であるクラインとリズベットをもてなしていた。

主が不在の揺り椅子が定位置であるペチカの前で少し寂しそうに自身を持てあましている。自分達がこの家を訪れている時は必ずと言っていいほどその座面と背面へ無防備に身体を預け、来訪者に向けて睡眠誘導魔法を全身から放っている影妖精の寝顔がない事に違和感を感じずにはいられないのか、クラインは何度も無意識に顔を揺り椅子へと巡らせ、その度に首から肩にかけてを手で撫でていた。

その様子を視界の端に映していたリズが堪りかねたように鼻息を荒くする。

 

「さっきから何なのよっ、もう」

「いやぁ、なんっかこう、あそこにキリトがいねえと、落ち着かなねーってゆーか……」

 

ただそこで寝ているだけなのにその存在感を誇示している友の不在がクラインにとってはログハウスの居心地の良さにも関わってくるのか、どこか落ち着かない視線でリズの勢いを苦笑いで受け止めると、当のリズは少し呆れたように「違うわよ」と火妖精族に人差し指を向けた。

 

「私が言ってるのはその首っ。何回も手で触ってるでしょ」

「えっ?……あっ、ああ、これか……これはよ、《現実世界》で今朝起きたら見事に寝違えてて……今日一日ずっと気になって手でさすってたら癖になっちまったみたいで……」

「……そーゆー事ね……まあ、ケガとかじゃないんなら……」

 

ちょっと安心したような口ぶりに、途端、クラインの目と口がニヤニヤとうねる。

 

「おっ、なんだよ、心配してくれたのか?」

「べっ、別にそういうわけじゃないわよっ」

 

なんとなく気になっただけだからっ、と他意が無い事を顔面で表現しつつ思いっきり否定の言葉を口にしてから鍛冶妖精族はトレードマークのペールピンクの髪をふわり、と揺らし「ケガと言えば、今日、学校でね……」と急に神妙な顔つきに表情を変えて眉根を寄せた。

 

「校舎の最上階にある特別教室からアスナと一緒に校庭を眺めてたら……ちょうどキリトのクラスがグラウンドでバレーボールの授業をやってて……アイツ、隣のコートからボールが飛んできたのに気づかなくて、あわや直撃かっ、て時に、ふいにこっちを見上げたのよ」

「お前が『あぶなーいっ』とか大声でわめいたんじゃねえのか?」

「ちょっ、そんな事してないわよっ。だいたいこっちだって授業中だったし。私とアスナは早めに課題が終わっただけで先生もいたんだから。窓も閉まってたし、そもそもあの距離じゃいくら叫んだって聞こえやしないわ」

「で、結局キリの字はどうなったんだよ」

「それが、こっちを見上げたタイミングでボールはアイツにかすりもせず足下に落下したってわけ」

「ふーん、まあ良かったじゃねえか。怪我もなくて」

「そうなんだけどね、話はここからなのよっ」

 

リズは眉間の皺を一層深くしながら機密事項でも打ち明けるかのように声を潜め、クラインに顔を寄せる。

 

「どうしても気になって、昼休みにキリトに聞いたの。バレーボールの授業中、ボールが飛んで来た時いきなり校舎を見上げたわよね?、て……そしたら……」

「そしたら?」

「アイツ……アスナが自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたんだ、って……」

「それって……もちろん、アスナさんがお前の隣でキリトの名前を叫んだりは……」

「するわけないでしょ。確かにボールが飛んできた瞬間、アスナも小さく『あっ』て言って身を強張らせていたようだけど」

 

その返答を聞いたクラインが両手を交差させて自分の腕をわさわさと擦りながら「うおぉぉっ」と身震いを止めようとするが、顔の片頬が明らかに痙攣していた。その反応に納得のリズが「怖いでしょー」と頷いていると「どうしたの?」とお茶の準備をしていたアスナがキッチンからトレイを手にやって来る。

ぱっ、とクラインとの距離を元に戻したリズは誤魔化し笑いを浮かべて「クラインったら首を寝違えたんだって」とアスナに告げた。

 

「えっ、大丈夫ですか?」

 

客人ふたりの前にお茶の入ったカップと切り分けたロールケーキを並べてから向かいのイスに腰を降ろし、心配そうに見つめてくる水妖精族の澄んだ瞳を見て、野武士面のバンダナ妖精はその気遣いを軽く左右に振った手ではね除ける。

 

「ありがとよ、アスナさん。でも、こんなの《現実世界》で一晩寝れば治っちまうから」

「湿布とかあります?」

「んー、確かどっかにあったような……」

「貼ると大分違うと思いますよ。ご近所さんだったら私の家にあるのをお届けに行けるんですけど」

「そいつは大歓迎だな。ついでにアスナさんが湿布を貼ってくれたら治癒魔法みたいに一瞬で治るかもしんねー……って……」

 

クラインからの九割九分冗談で一分本気の発言に少し考え込むように人差し指をおとがいに当てたアスナは小さく「んんぅ……」と唸ってからぽそり、「アスナさん、かぁ」と火妖精族を熱っぽく見つめる。しかしその眼差しに全身を硬直させたクラインはそんな呟きさえ耳に入らず、いきなり顔を頭のバンダナと同じくらい真っ赤にさせてその視線を遮断すべく小刻みに震える手の平をアスナに向けた。

 

「えっ?!、ちょっ、ちょっ、ちょっと待ったっ、アスナさん。いくらなんでもそれはマズイって。ご近所さんでもねーし。湿布なんざ近くのドラッグストアに行けばいくらでも売ってんだから……それに、ほらっ、オレはキリの字との友情を大事にしたいってゆーか…………でも…………でも、だ……まあ、アスナさんが、どーっしてもっつーんなら…………汚い部屋だけどよ……」

 

ひとりあたふたと手を振ってみたり落ち尽きなく腕を何回も組み直したり天井を見上げて考え込んだりとアスナの視線を誤解しているだろうクラインにリズが哀れみの視線を送る。

 

「アンタ、何勝手にひとりで困ってるわけ?」

「いやーっ、やっぱダメだ。アスナさんはまだ未成年だし……」

「未成年だとダメ……なんですか?」

 

しゅんっ、と眉尻をハの字に落としたアスナを見てクラインが更に盛大にあわてふためいた。

 

「あーっ、まあ、その、こればっかりは気持ちの問題だから……うん、俺の同僚にもダブりはしてねーけど、結構とっかえひっかえで長続きしない奴とかいるしな」

 

クラインの言葉に少し安心したように肩の力を抜いたアスナだったが、後半の言葉に意味がわからず首を傾げる。

 

「とっかえひっかえって……そんなに呼び方を変える同僚さんが?」

「えっ?」

「だから、クラインさん、私の事、未だに『アスナさん』って呼ぶでしょう?。もう攻略組ってわけでもないし、私もギルドの副団長じゃないから……それにクラインさんの方が年上なので…………呼び捨てにしてもらえませんか?」

 

さっぱりとこれまでの憂いを払うように清々しい笑顔でお願いを言い切ったアスナに口を丸く開けたままのクラインがもう一度「えっ?」と問い返すと、横で笑いを堪えていたリズが目に堪った涙を拭いながら親友の言葉の意味を再度説明する。

 

「だから、アンタもアスナの事を『アスナ』って呼んで欲しいって言ってんのよ」

「えーっ!、えっ?、えっ?……俺がアスナさんを呼び捨てに?」

「はい、キリトくんもエギルさんも呼び捨てだから……」

「うーん……嬉しいけどよ。それはそれでちょっと緊張するなぁ」

 

それまで脳内でアスナの言動から勝手に展開していた自分の妄想などすっかり抜け落ちた様子のクラインは誤解を恥じる暇なく今度はアスナを呼び捨てにする自分を想像し、あれやこれやと再び考え始めた様子で……その姿にかける言葉さえ見つからないリズベットはさっさと見切りをつけて話題を変えた。

 

「そう言えばキリトは《イグドラシル・シティ》まで買い物に出掛けてるのよね?」

「うん、自分の用事ついでに雑貨屋さんで私が注文しておいた調味料も受け取って……」

 

そう説明していたアスナの言葉が不意に途切れる。

そして何かに導かれるようにスッ、とイスから立ち上がって迷いもなく外へと通じる玄関ドアの前まで歩いて行き、ノブを掴んでゆっくりと動かせば……目の前には両手いっぱいに荷物を抱えたキリトが立っていた。

突然開いた扉に驚いて目を見開いていたが、出迎えてくれたアスナに対しすぐに嬉しそうな口元で「ただいま」と言えば、当然のように優しい笑みが「おかえりなさい」と一緒に返ってくる。

しかし、その笑みはキリトの姿をしげしげと眺めた後、徐々に別の感情と混ざり合って少々剣呑な声へと結びついた。

 

「それにしても……なんでそんな大荷物になってるの?」

 

アスナのこめかみがピクピクと細かな動きを見せ始めたのを即座に視界に収めたキリトが、自分も口元をひくつかせる。

 

「えーっと、これはですね……途中で色々とありまして……」

「ふーん、大方、《イグドラシル・シティ》に行くまでに妙な横道を見つけたり、私が頼んだ品物を受け取った後も露店で怪しい買い物をしたりでストレージに入りきらなくなったんでしょ」

「……その通りデス……でもすごくレアなヤツだったから、アスナに料理してもらえば絶対美味いと思って……」

 

無邪気に闇妖精族特有の真っ黒な瞳を輝かせるキリトを見て、これまでの経験からアスナは思わず半歩後ずさりをした。

 

「こ……今度は何?……私、手とか足がたくさんあるの、嫌だからね」

「それは大丈夫。草むらの奥で見つけた沼にいたのはでっかいカタツム……」

 

最後まで言い切る前にアスナが眉を吊り上げ勢いよく両手をグーにして叫ぶ。

 

「イヤッ!! とにかく絶対にイヤッ。ここで実体化させたら窓から放り投げるからっ」

 

玄関先でいつものように周囲からみれば、じゃれ合っているのか?、とげんなりさせてくれる会話を続けている家主の二人にクラインの声が割り入った。

 

「まあまあ、フランス料理にだってエスカルゴってのがあるじゃねーか。とりあえず見てみたらどうだ? ア……アスナ……」

 

一瞬でキリトから表情が消える。

その変貌ぶりにまたもやリズが懸命に吹き出すのを堪え、お腹を抱えて身体をくの字に曲げ全身を震わせた。

幾分、緊張気味に表情を固くしながらも嬉しさと恥ずかしさの交じった照れ笑いでアスナを呼び捨てにしたクラインに向けるキリトの視線は殺気を帯びていると言っても過言ではないくらいに冷たい。

パートナーの異変に気づいたアスナが取り成すように表情を緩めて「キリトくん」と最愛の影妖精族の名を呼んだ。

 

「私がクラインさんに呼び捨てにして欲しいって頼んだの」

 

彼女から望んだ事だと聞かされれば問いただす言葉もなく、確かに自分を始めクライン以外の親しいプレイヤー達は男女問わずほとんどがアスナを呼び捨てにしている事を思えばそれも当然とは思うが、今までの「さん」がなくなった途端、互いの距離感さえ急速に縮んだように感じてしまうのはどうにも止められず、はっきり言っておもしろくない、と無意識にへの字に歪んだ口が物語ってしまう。

加えてキリトの反応を見るやいなや、それまで緊張が張り付いていたクラインの顔に勝ち誇ったように口元に浮かんだ笑みが更にキリトを煽った。

実体化させて持っていた荷物のうちの一つをアスナに差し出し「これ、頼まれたやつ」とだけ短く告げて渡すと「ありがとう」と笑う彼女に向かい、一瞬表情を緩めるが真っ黒な瞳はすぐに冷気を纏う。

アスナが受け取った荷物を持ってキッチンへ移動する後をなにやら不穏な気配を察知したリズがこの場から逃げ出すように追い、何食わぬ顔で「なになに?、何を買ったのよ?」と、いたって普段と変わらぬ態度でアスナと女同士でお喋りを楽しむ風を装い避難を完了させた。

一方、キリトはクラインから視線を外したまま自分の指定席でもある揺り椅子に近づき、その他の荷物を乗せて両手が空くと即座にウインドウを操作し始める。

何を始めるつもりなのか?、とクラインが予測不能の友の行動にこれまた一抹の不安を抱いていると、いまだウインドウの表示を見つめたままのキリトの本気の声が耳へと届いた。

 

「アスナを呼び捨てにしたいなら、まずはオレの剣を受けてからだ」

 

同時にクラインの視界に映ったのはかつて「黒の剣士」と呼ばれた友から送られてきたデュエルの要請を示すメッセージと二本の剣を実体化させたその姿だった。

一方、ある程度展開を予測していたリズはひょこり、とキッチンから顔を出し、クラインの凍りついた表情に哀れみの視線を送ってから二人に声をかける。

 

「ちょっとー、物騒な事は外に出てやりなさいよ。あと、キリト……剣は一本までっ、エクスキャリバーは仕舞いなさい。アンタの今の殺気で二刀なんて使われたら一瞬でクラインがリメインライトになるわ」

 

互いに自分のウインドウから目を離さず……片やデュエルの受諾を待つ影妖精族に、片やデュエル受諾か否かの画面を睨み付けながら、自分に選択権などない気がしている火妖精族という膠着状態の二人の元へキッチンの奥からアスナの涼やかな声だけが聞こえてくる。

 

「どうしたの?、リズ」

「あー、なんでもない、なんでもない。キリトとクラインがリビングでふざけあってるから外でやれって言ったのよ」

「そうなの?、随分静かだけど……」

「ほら、ドラマであるでしょ。結婚の承諾をもらいに彼女の実家へ行った彼氏が、娘が欲しければ問答無用で一発殴らせろー、って父親に言われるやつ」

「……私、テレビとかあまり見ないから……」

「それよりアスナ……」

 

そこまでで二人の会話はリビングへは届かなくなった。

リズはアスナの腕を引っ張り、自らも親友の綺麗な顔に近づいて真面目な表情となる。

 

「さっき、なんでわかったのよ?」

「えっ?、わかったって……何が?」

「ほら、キリトが帰って来た時。自分からドアを開けに行ったでしょ……索敵スキル?」

 

リズの推測を聞いてアスナがふふっ、と笑う。

 

「そうじゃなくて……なんだか聞こえた気がしたの」

「……何が?」

「キリトくんが私を呼ぶ声」

 

今度はリズが背筋が寒くなったのか、ぶるり、と腰から肩まで這い上がるように身を震わせた。




お読みいただき、有り難うございました。
一貫してストーリー性のある構成ではないので、どうかな?、と
思いますが……それ以上に前半の台詞部分、まるまる原作様から抜き出しなんですけど
大丈夫でしょうか?(冷や汗)
キリトとアスナが初めて出会う場面はSAOの1巻ではなくプログレに準じて
みました(その方が書きがいがあったので)
次回はがっつり《現実世界》です。


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絆・前編

キリトとアスナが帰還者学校に入学して数ヶ月経ち、夏休み目前といった時期の
学校でのお話です。
少しだけ『【番外編】想定外の初日』の序盤の内容が出てきますが、読んでなくても
大丈夫です(きっと)



現実に自分で身体を動かすとこんなに心臓ってばっくばっく痛くて息苦しいもんなんだなー、と約二年ぶりの感覚に目眩までおこして手すりにしがみつき、それでもすぐ傍にいる若い看護婦さんの前では格好を付けたくて『このくらい何でもないデス、余裕ッス』の笑顔を向けるとオレの男気を受け取ってくれた二十代半ばと思われる白衣の天使はケタケタと笑いながら「佐々井くん、体力なさすぎー」と俺の紙カルテをパタパタと振って風を送ってくれたっけ……なんて《この世界》に生還したばかりの自分の姿を思い返せば、本日最後の授業である体育でグラウンドのトラック十周をこなし終えた俺は、随分体力ついたなぁ、とグラウンド横の更衣室で制服に着替えたものの、止まらない汗を拭いながら同じクラスの男友達と校舎へ向かう途中、しみじみと実感する。

 

「しっかし、毎回、毎回『じゃ、今日のシメは……』とか言って飲み会帰りのラーメンみたく腕立て三十回とかグラウンド十周とかで授業を締めくくる体育教師ってどうなんだかね。しかも午後の二コマ目って、ただでさえ体力も気力も底が見えてんのに……」

「文句言うと『お前達の寝たきりで衰えまくった筋力復活の為だっ』つーけどよ、ハッキリ言ってそのシメのお陰も含めて《あの世界》前より筋力はついてると思うぞ」

「だよなー。俺だって昔は時間があればゲーム三昧の日々だったからなぁ。体力なかったもんなぁ」

 

自分達の担当体育教師について不満のような感謝のような言葉を交わしていると、その会話を黙って聞いていたカズがふと足を止める。

 

「どしたー、カズ?」

「これ、頼む」

 

問いかけは無視したくせに持っていた体育着の入っている袋は俺に押し付けて、急ぎ足で体育館の出入り口へと向かった先には……先週の終わり、うちのクラスに編入してきた女子が外廊下へと降りる階段を躊躇うように見つめていた。

そう言えば女子は体育館で授業だったんだな、と思いつつも、編入生の女子は松葉杖をついているので体育は見学だったのだろう、当然、服装も制服のままだ。

男子と同じように女子も授業自体は終わっているらしく、背後の体育館からは女子特有の軽やかな声と共に用具の片付けをしている音が漏れ聞こえている。

多分、自分が居ても片付けの役には立たないという判断と松葉杖に頼りながらの歩行は教室まで時間がかかるという理由でクラスの女子達より先に体育館を出たのだろうが、ただでさえ人数の少ない女子なのに、そんな単独行動をとって馴染めるのか?、とも思う。

ともあれ編入してきてまだ数日、ヘタに男の俺が声をかけない方がいいかも……と考えている俺の視線の先でカズが編入生に声をかけた。

 

「手、貸すよ」

 

なんなんだろうなっ、あの男はっ。

下心ありありで話しかけてくる女子には面倒くさそうに最低限の会話しかしないくせにっ。

これって『編入生にちょっかいをかけている姫の彼氏!』ってタイトルで校内ネットに載せられても反論できない光景だぞ。

そんな誤報を流させない為にも、と俺は一緒にいた奴らに「ちょっと寄るとこあっから、先戻ってて……あ、これもお願い」と告げ、二人分の体育着を有無を言わせない勢いで託して急いでカズの元へ向かう。

あいつらが一緒の方がよりワイドショー的な雰囲気は緩和出来るけど、今度は編入生女子ひとりに複数の男子という構図が、見た目にも、当の編入生にも違う種類のワイドショーネタを想像させそうだから、まぁ、俺一人でいいだろ。

それにこの編入生の表情について、俺はちょっとばかし不安感を抱いていたから、きっとまだ顔も覚えられていないクラスの男子が一度に何人も関わらない方が良い気がする。

この帰還学校への中途編入と言うだけで完全に珍獣扱いの彼女だったけど、担任の話によれば、俺達のように去年末に《現実世界》へ生還を果たした者達ではなく、約三ヶ月遅れて覚醒した、彼女のような「第二次生還者」達はこの学校の四月入学にリハビリが間に合わず、夏期休業期間も使って勉強の遅れを取り戻し、体調も万全に整えてから九月の秋入学というのが主流らしい。

だから夏休み明けに何人もの編入生が仲間入りするらしいけど……確かに自分だったら、と考えると、いくらリハビリが完了したとしても、夏休み目前にわざわざ編入して二週間程度を学校で過ごしても目立つだけであまり意味はない気がする。

それとも、その数日間でも学校へ来たい理由が彼女にはあるんだろうか?……でも念願の学校生活をウキウキで満喫している感じにも見えないんだよなぁ。

まだまだ歩行も頼りない状態で……それでも休み時間は一人で教室を出て行く後ろ姿を何度か見かけた事もあって……なにか事情があるんだろうけど、その、人を寄せ付けない印象はどうにも心が波立つ。

そう言えば、数日前の放課後、姫と二人で帰ろうとしていたカズが嫌がるのをからかいながら無理矢理校門まで一緒した時、編入生の話をしたら、カズが足を止めて俺の存在も無視したまま姫の手の甲を両手でさすりながら言ったんだよな。

 

「だからアスナが春入学なんて、どれだけ無理をして身体に負担を掛けたか……そろそろ本格的に暑くなってきたし、少しでも調子が悪くなったらすぐに言えよ」

 

姫はちょっと苦笑いで「大丈夫だよ」って言ってたけど、そこで初めて俺は姫が「第二次生還者」だと知ったくらいだ。

なるほど、それなら姫やカズと初めて会ったあの入学式の翌日、姫の体調を過干渉と思えるくらい心配していたカズの気持ちも納得できる。俺は単純にリハビリが思うように進まなかったんだろうな……姫、ほっそいもんなー、筋力も体力も、元からなっさそうだもんなー、って勝手に納得してたけど、改めて考えれば意志が強くて、ちょっと頑固で頑張り屋の姫がリハビリをサボるなんてあり得なかったし、と言うか約三ヶ月のハンデを必死に縮めた努力と根性って並みの男よりスゴイ気がする。

それを傍で見守るしか出来なかったカズも結構しんどかっただろうな、と想像して、遅まきながら今のカズの行動が腑に落ちた。

未だ、俺の目の前で編入生に向け片手を差し出しているカズと、その手をジッと凝視している彼女。

受諾も拒絶も示さない彼女にカズが更に言葉を重ねる。

 

「そこの段差、松葉杖をついて降りるには幅が狭くて、ちょっと怖いだろ」

「……怖い?」

 

カズが口にした単語のひとつに彼女が反応した。

まるで自分も経験したかのような言葉に俺も、はて?、と心の中で首を傾げる。

カズは俺と同様、「第二次生還者」と区別する意味で「第一次生還者」と呼ばれる、いわゆるこの学校の生徒の……多分姫以外の全員にあたる、昨年のうちに《現実世界》に戻り、入学までしっかりリハビリ期間を有していた者のはずだ。この段差を怖いと思う事などあるわけがない。だけど「怖い」という単語を指摘されたカズの表情で俺はすぐさま真実を看破した。

 

「カズ……お前、同じような場面に……もっと言えば姫が同じような状況になった経験があるんだろ」

 

目元を少し赤くしたカズが小さく素直に「ああ」と認める。

 

「入学する前に、まだ松葉杖を使っていたアスナが学校の下見をしておきたいって言うから、許可をもらって二人で……」

 

姫の松葉杖は入学までにとれるかどうか、といった状態だったらしい。だから学校側も入学式の代表挨拶を姫に依頼する事は早い段階で諦めたのだと職員室で教師達が話していたのを聞いた覚えがある。

 

「ふーん、それで体育館を下見した帰りに姫がこの段差で戸惑ったんだ」

「ん、まあな」

「そこでお前はすかさず手を貸したと……」

「う……ん、そんな感じだった……かな」

 

カズの僅かな躊躇い口調を俺が見逃すはずもなかった。

 

「違うな……手を貸した……んじゃなくて…………ああっ、わかった……わかってしまった……なんで俺ってばわかっちゃったんだろー……」

「佐々?」

 

俺の脳内には一気にカズと姫との初対面シーンが浮かび上がって……それは疲れて座り込んでしまった姫に対し、さも当たり前のように両手を伸ばしたカズの姿で……どうせここでも頬を染めて恥ずかしがって拒む姫を無視し、松葉杖をその辺に立て掛けてその腰に両手を回し、抱き上げて下まで降ろしたんだろう妄想映像を一刻も早く消し去ろうと、俺は両手で自分の頭をかなり乱暴に掻き乱した。

もう一度「佐々井?」と、ちゃんとした名字で問いかけてくるカズに向かって俺は最後の仕上げとばかりに頭をぶるんぶるんと振り回す。

 

「多分、いや間違いなく正解に辿り着いてしまった妄想をたった今、きれいさっぱり消去したところだ」

「髪の毛……もの凄いことになってるぞ」

 

……だろうな、力いっぱい掻いたし、振ったし……とにかくっ、だ、この段差が松葉杖を使って降りるのが少々困難な事は理解した、後はこの編入生がカズの手助けを受け入れるかどうか、だ。

すると編入生に向き直ったカズが改めて安心して降りられる為の手段を口にする。

 

「別にオレが君を抱き上げよう、って言ってるわけじゃない。松葉杖をはずして、俺の手を支えにしてもらっていいから」

 

……それって、姫の時は抱き上げたけど、って言ってるようなもんだよな……折角消した俺の妄想を肯定するような発言に気が遠くなりかけるが、編入生が無言で頷いたのを見て頭を切り換え「なら、俺が松葉杖を預かるよ」とこちらも手を伸ばした。

数段の段差分、やや上から見下ろす目線で「ありがと」と言いながら松葉杖を渡してくる編入生は意外にも柔らかな印象で、これなら今後、クラスにも溶け込んでいけるのでは、と安心が芽を出す。

存外、素直に俺に松葉杖を渡し、カズの手に自分の手を重ねた編入生は少しふらつきながらもゆっくりと片足ずつを動かして外廊下に着地した。それから慣れない場所での段差をクリアする事に加えてクラスメートの男子の手に緊張したのか、ふぅっ、と息を吐き出している。カズの手を離し、落ち着いたところで預かっていた松葉杖を返しながら俺は笑顔でプチ情報を提供した。

 

「カズが姫以外の女子に気を遣うなんて滅多にないから、これってかなり貴重な体験だよ」

「おいっ、佐々っ」

「……姫?…………さっきから言ってる『姫』って、誰?」

 

不機嫌な声を吐くカズを無視し、俺は彼女の疑問に答える。

 

「まだ知らないか……この学校ではかなりの有名人だから、すぐ耳に入るし目にすると思うけど……こいつの彼女さんのこと。綺麗で優しくて賢いから別格的存在で『姫』って呼ばれてる人。こいつとは《あの世界》からお付き合いが続いてるって言うんから羨ましい限りだよ」

「えっ!?」

 

小さな驚声と共に彼女から柔らかさが萎んで表情が消えた。ぼんやりと開いたままの唇から「《あの世界》から?」という疑問が小さく転がり落ちたかと思うと、今は同じ場所に立っている為、少し俺達を見上げるようにして視線を刺してくる。

 

「《あの世界》で知り合った人? もともと彼女じゃなくて?」

 

なぜか責めるような物言いで畳みかけてくる質問の意図がわからず、戸惑っていた俺の隣でカズが「……ああ」とだけ返答すると、益々彼女の眼差しがきつくなった。

 

「《仮想空間》で出来た彼女が《現実世界》でも恋愛感情を持つなんて続くわけない。今は《あの世界》にいた人達ばかりの学校に通っているから延長線上みたいな感覚でいるだけよ。すぐに《こっちの世界》で囚われる前の生活に戻るんだからっ」

 

一気に吐ききった言葉へ驚きよりも疑問が勝って……。

 

「な……なんでそんな事を……?」

 

しかし、俺の問いに答えることなく、彼女は顔をしかめて絞り出すように最後の言葉を浴びせた。

 

「《あの世界》の関係なんて、所詮、仮なの。あの狂った世界の中だけに決まってるでしょ!」

 

黙って彼女の言葉を受け止めていたカズは唇を噛みしめ、荒れ狂う感情を抑え込んでいるのか固く握りしめた両手を震わせている。普段激しい感情を見せない瞳が赤黒く燃え上がって彼女を睨み付けていた。その表情に俺が一瞬怯んだ時だ、カズは何も言い返す事なく、くるり、と向きを変えて駆け出して行ってしまう。その後ろ姿に思わず声をかけようとしたが、発すべき言葉が見つからないままどんどんとその姿は小さくなっていった。

残された俺は振り返って編入生を正面から見つめる。

 

「……そんな顔するなら、なんであんな事言ったの?」

 

まるで自分がひどい言葉を投げつけられたみたいに顔を真っ赤にして目に涙を浮かべているが、唇は頑固に閉じたままだった。

 

「姫の事だって知らなかった君が、あんな事を言う権利はないと思うけど」

「……だって……そんなの……《あの世界》はもうないんだから、みんな目が覚めたら《あの世界》の事なんて夢の出来事みたいになって、《現実世界》で一緒に過ごしていた人達との生活に戻るの、当たり前でしょう……」

「それは俺達みたいに生きて戻ってこれたから言える台詞だけどね……まっ、《あの世界》が夢だったら、なーんて、それこそ《あの世界》に閉じ込められた連中のほとんどが思った事だろ。それを何とか諦めずに自分の存在を守ってきたんだ……俺も……君も」

 

俺は一歩前に出て編入生の目の前に立ち、腰を屈めて顔を近づける。

 

「カズと姫はね、《あの世界》で自分達だけじゃなくて他者の存在まで守ろうと頑張ってくれた二人なの。君はまだリハビリも完全じゃなくて、編入してきたばかりの女の子で、何か事情を抱えてるんだろうけど……ごめんね、今の俺にはそんな事どうだってよくなっちゃってる。あの二人は俺にとってもすごく大切な人達なんだ。こういうのはあまり好きじゃないけど……なんであんな事を言ったのか、少々キツい思いをしても、ちゃんと教えてもらうから」

 

久々に気持ちが爆発するのを止められなかった…………まあ、髪は既に爆発してたけど……。

 

 

 

 

 

カズと俺、二人分の鞄やら何やらを抱えて体育館前から姿を消したアイツを探しまくった放課後、靴はあったから校内のどっかにいるんだろう、とパソコンルームに行ったり、図書室を見てみたり、カフェテリアの覗いたり……で、ようやく辿り着いた屋上で我ながら痛々しいほどにゼーゼーと息を切らして、汗だくになって、膝をがくがくさせて倒れ込みそうなって、《現実世界》に生還した後、リハビリを始めたばかりのような状態の俺の数メートル先にカズがいた……。

屋上の縁をぐるりと一周している座るのにちょうどいいでっぱりに寝転んで……。

もっと正確かつ詳細に言えば、そこにスッと背筋を伸ばして座っている姫の膝を枕にしてっ……。

多分、屋上の扉が開閉する音と荒い息づかいでやって来たのが俺だとわかったんだろう、カズは仰向けになっていた体勢をすぐさまゴロリ、と転がして姫のお腹に顔を押し付けるように横向きになり、俺に背中を向ける。

ちょっと待て、俺はあの後、大変だったんだぞっ、の勢いを足音に変え、息が整わないままズンズンと二人の前まで到着すれば、姫が申し訳なさそうな笑顔で「こんにちは、佐々井くん。キリト君の荷物、持って来てくれたの?、有り難う」とカズが述べるべき言葉を口にした。

普段、俺が姫とお喋りを始めると秒刻みでイライラが深くなってくカズが寝たふりを決め込むらしい態度につけ込んで、ここはひとつ貴重な会話を楽しむ事にする。

これくらいのご褒美は当然のはずだ。

 

「あっれー、姫、なんで残ってんの?、今日は俺達よりコマ数少なかったよね?」

 

姫の時間割は完全に把握している……今日の午後は一コマだけのはずで、いつもなら先に下校してしまう日だ。

既に俺の口から出る自分に関する情報に驚きもみせなくなった姫は、ちょうど白い雲が夏の日差しを遮り心地よい風が吹く屋外で汗まみれの俺がこれ以上は接近できないな、と判断した境界ギリギリまで近づくと、涼しげな声で「よく知ってるね」と小さく前置きをしてから少し言いにくそうに口をすぼめる。

 

「一緒に帰る約束のリズがね……小テストの追試になっちゃったの……だからここで時間を潰してたんだけど……」

 

そこにカズが飛び込んできたってわけか……どうやら一人で時間を潰していたのは本当らしく、姫が腰掛けているすぐ横に読みかけの……珍しく紙媒体の文庫本がおいてある。カズがこんな状態の時、引き合うようにここで鉢合わせて姫が受け止めてくれた偶然に感謝すると共に、二人の結びつきの強さを見せつけられた気がした。少し距離を取って立ち止まった俺に対して小首を傾げた姫はカズがいない側を手で示して「座ったら?」と誘ってくれたが、自分の汗臭さが気になって曖昧な苦笑いで手を横に振ってから会話を続ける。

 

「へぇぇ……篠崎先輩、何の追試くらってんの?」

「日本史の百本ノックって言われてて、歴史上の人物を一問一答形式で百人答えるの」

「ひゃく……俺らの体育も熱血だけど、姫んとこも相当だね。合格ラインは何人?」

 

単純な質問なのに姫が言いよどんだ。宙を睨み「九十だったかな?……あれ?、九十五?」と呟いている所を見ると、姫の頭脳的には合格ラインを気にするような難易度ではないんだろう。

全く、この人の記憶容量は底なしだなぁ、と羨ましいやら恐ろしいやらで片頬がひくつく。

 

「これは追試になってくれた篠崎先輩に感謝しなきゃだね。お陰で精神状態ぐらぐらのカズが逃げ込む場所があったわけだから」

 

わざとカズに聞こえるように大声を出してみたけど、相変わらずその背中はちっとも反応がなかった。でも自分の膝にカズの頭を乗せている姫は何かを感じたのか……いや、多分ここでカズと遭遇した瞬間に間違いなく何かを感じ取っただろう、軽く息を吐き出してからその白い手でそっとカズの髪の毛を撫で始める。

 

「やっぱり…………何かあったのかな?、とは思ってたんだけど……」

「カズ、何も話してないんだ」

 

少し寂しそうな笑顔で小さく頷きながらも愛おしそうに漆黒の頭に触れている姫に向かって俺は体育館前であった出来事を話した。

カズが段差に戸惑っていた編入生に手を貸したこと、その編入生がカズと姫の関係を知った途端、態度を豹変させたこと……そしてカズにひどい言葉を浴びせたこと。

俺の話を聞きながら、姫の手は止まることなくカズの髪の上をゆっくりと、まるで荒波を鎮めるように何度も何度も諦めずに撫で続けている。

 

「その人、《仮想世界》での関係は《現実世界》では通用しないってキリトくんに言ったのね」

 

二人の関係性を侮辱されたと言ってもいい話に、不思議と姫の表情は穏やかなままだった。

 

「うん……そうなんだけど……」

「そこまで言い切るのなら、きっと理由(わけ)があるんでしょう…………そう言えば、キリトくんも前に同じような事、私に言ったことがあったよね?」

 

間違いなく俺達の会話を聞いているであろうカズに向け、姫がちょっとからかうような笑顔で膝の上の頭をつんつん、と指でつつくが、俺は内心の動揺を隠すのに精一杯でそれどころじゃなかった。

カズもあの編入生の彼女と同じように《仮想世界》と《現実世界》を区別して考えてたってことか?

しかし目の前の光景を見る限りでは絶対《あっち》でも姫を独占してただろっ、と思わずにはいられないほど自然に姫と密着しているカズが、つつかれた頭は意地でも動かさない気なのかバツが悪そうに両足だけをもぞり、とよじらせると、その反応を可笑しそうに眺めていた姫が再び俺に向き直る。

 

「佐々井君はその理由、知ってるの?」

「そりゃあ、あそこまで言われたら黙ってらんないっしょ」

 

俺の返答を聞いた姫の眉毛が途端にハの字になる。それから下を向いてカズへと小さく何かを告げたようだった。

ゆっくりと顔を上げた姫は困り顔のまま下から俺を見上げる角度で気遣いの言葉をくれる。

 

「強引なこと、してない?」

 

思わず、ぐっ、と言葉に詰まってしまった……『交渉屋』の屋号を持つ俺が言葉に詰まるなんて、なんて情けないっ、と恥じ入るより、姫、その角度からの上目遣い、反則だからっ、でもってその視線と俺を気遣ってくれる言葉が身にしみて、心にまでしみて……なんかもう全身全霊がスポンジ状態で染まるわっ。

 

「安心して、俺ってば荒事は苦手だし……まぁ、言い方によっては言葉も柔らかいのから痛いのまであるから、そこは使い分けしたけどさ」

 

具体的な説明はあえて省くけど姫が心配するような事にはなってないから、と言いたかったんだけど……明るく爽やかに言い切ったつもりのオレの言葉に対して、姫はまたもや困ったように軽く怒って「全然安心できないよ」と今度は視線で俺を咎める。そのお叱りを少しこそばゆい気持ちで受け取ってから、俺は彼女の理由を二人に打ち明けた。

 

「その編入生さんもさ、付き合ってる人がいたんだって。姫達と同じように《あの世界》で出会って恋人関係に発展して、二人で《現実世界》に帰ろうって頑張ってたらしい。ログアウトする瞬間まで一緒にいたんだけど……彼女は生還が遅れて、でも随分リハビリも頑張ったんだろうね、その彼にもう一度会うために。きっと相手も自分の事を懸命に探してると信じて……だから一刻も早く生還者達が集まっているこの学校に来たかったんだよ。《こっち》での名前や住んでる場所を知っていても部外者に生徒の情報は開示できないから。それで、まだリハビリが完了していないのに編入してきたんだ。でも……校内を探してみても彼の姿はなかったらしい」

「もしかして……」

「うん、彼も第二次生還者でさ。それが確認できたのがつい最近らしくて、ラッキーな事に入院している病院もわかったから早速会いに行ったって言ってた……でも」

「もう、いなかったの?」

「ちゃんといたよ…………彼が《あの世界》に囚われてる間もずっとお見舞いに通い続けていた幼馴染みの彼女と一緒に……」

「っ!」

 

息を呑むのと同時にカズに触れていた手がピクリ、と跳ねたけど、またすぐに姫は愛おしそうに頭を撫で始める。その手から何が伝わっているのかなんてわかるはずもなく、ただ俺は思ったままを言葉にし続けた。

 

「これはさ……多分、誰が悪いって話じゃないんだと思う。いきなりあんな状況に置かれたら誰かと寄り添い合っていないと希望を持ち続けるのは難しいし、《現実世界》に置いてきぼりにしてきた彼女がいつまでも待っていてくれるなんて確証もない……だから……」

 

俺はその後に続く最後の一言を、ほんの少し前、俺に告げてきた編入生の表情を思い出しながら一言一句違わずに、そしてきっと同じようなやるせない笑みを浮かべて姫に告げる。

 

「これは、どうしようもない事だったんだって諦めるしかない」

 

けど、今度は逆に姫の顔が納得できないとばかりに静かに歪んだ。

 

「そんなの……本当にそれでいいの?」

 

どうしてこの人はそんなにすぐに他人の事を、それも顔も名前も知らない学年も違う編入生で、しかも自分の大好きな人を侮辱した人間の為に真剣になっちゃうかなぁ……自分達と似た境遇だから肩入れする気持ちもわからなくはないけどさ。

 

「だって他にどうしようもないでしょ? 彼女と一緒にいる病室に乗り込んで《あの世界》では私が恋人だっんだって主張したところで、幼馴染みの彼女がその場所を譲ってくれるわけないし……姫がそんな気に病むことはないんだよ、編入生さんも誰かに言いたかったみたいで……話し終わったら随分とスッキリした表情になってたから、コレはコレで……あとはカズが乗り越えてくれれば丸く収まったって感じになるんじゃないかな?」

 

俺の顔をずっと凝視したまま「めでたし、めでたし」に落ち着かせようとしている台詞を聞き終えて、姫はぽそり、とひとつの単語を投げてきた。

 

「嘘」

「えっ?」

「佐々井君がそこまで事情を知って、話の聞き役で終わるはずないよ」

「ええっ……と、それはちょっと俺の事、買いかぶりすぎと言うか……俺は単にカズにひどい言葉を吐いた理由が知りたかっただけなんだから、その後のフォローまで面倒みる気は……」

「でも……何か言ってあげたんでしょ?」

「あー……、まあ、気休め程度のことは、ね」

「……うん、よかった。なら、きっと大丈夫ね」

「…………」

 

なんだろう……なんで姫はこんなに俺の事、信じてんの?、まだ出会って三ヶ月程の俺なんて個人的に付き合いがあるわけでもないし、有り体に言えば彼氏であるカズのちょっとばっか仲の良い友達で、自分にとっては「姫、姫」と事ある毎に積極的に話しかけてくる、この学校に数多いるファンのひとりにすぎないでしょ?、名前を覚えてもらってる分、ちょっとは親密度が高いかな、とは思ってるけどさぁ……。

姫からの大きすぎる信頼にビビりかけた俺の目の前で顔を背けているカズがつんつん、と栗色の長い髪を引っ張って姫の気を引く。すぐに姫は顔を傾けて耳をカズの口元に寄せた。そこで何を聞かされたのか、ふふっ、と軽く笑うと「大丈夫、私、人を見る目は小さい頃から養ってるから」と言い切ってから全てが納得出来たような落ち着きを見せ、今度は口元を緩ませたまま慈愛の表情で優しくカズの髪を梳き始める。

なんだか居たたまれなくなった俺はもうひとつ、編入生の新情報をさっさと告げてこの場を去ろうと決心した。

 

「その編入生さんだけどさ、夏休み中に関西へ戻るらしいよ」

「えっ?」

「生まれはこっちなんだけど中学に上がる時、関西に引っ越したんだって。たまたま親戚の家に来ていて《あの世界》に囚われたからリハビリが済んだら関西に戻る予定だったのに彼氏を探したくて夏休み前の数週間、なんとか親を説得してここに編入してきたって……そんなわけだから、カズっ」

 

俺は少し声を張り上げて未だ姫の膝を当たり前のように独占している友に呼びかける。

 

「夏休みに入るまではクラスメートだからなっ、仲良くしろとは言わないけど、あんまギクシャクすんなよっ。それと、お前の荷物、ここに置いてくから」

 

言いながら早足で二人に近づいて姫の傍にカズの荷物を置き、素早く姫に目配せをしてから漆黒の頭をコツンッ、と小突く。軽い衝撃の犯人をすぐさま悟ったカズはそれでも顔をこちらに向けることなく、はたかれた部分を手でさすってから俺に向かって追い払うようにシッ、シッ、と手を振った。友からの友情溢れる態度に肩をすくめて息を吐き出した俺はそれでも大人の対応を見せて声を荒げることなく既に二人から距離を取って「姫っ」とここに来た目的の友ではない呼び名を悪戯めいた笑顔で口にする。

 

「じゃあ、俺、戻るから。ああ、先生には上手いこと言っておいたから大丈夫。ただ……今週、カズは教室の掃除当番なんだよね。久里が代行してるから、今度あいつが当番の時、代わってやって、ってカズによぉーっく言っといて」

 

途端にクラス委員長気質の姫の瞳がキラリ、と輝いた。気のせいかカズの肩がプルッと震えたように見える。その二人の反応を満足げに認めた俺はもう一度「じゃあね」と手を振って気持ちの良い風の吹いている屋上を後にした。




お読みいただき、有り難うございました。
「第一次生還者」「第二次……」はもちろんオリジナル固有名詞です。
でも絶対、入学時期はズレますよね?……そして、きっと関西にも帰還者学校は
あるだろう、と思ってます。
佐々井君はゆるい天パなのでしょう(苦笑)
次回はそのまま「後編」となります。
(「後編」と言っても、この続きのその後、ではありませんが……)


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絆・後編

前回の「絆・前編」より、視点の人物を変えてお届けします。


今日の午後、お昼休み明け最後の授業前半で生徒達の端末に送信された小テストは『古今東西、歴史上の有名人・100人だ〜れだっ』と随分ふざけたタイトルが付いていたけれど、中身は日本に留まらず世界各国の人物を対象としており、加えてその範囲が政治的な重要人物に加え音楽史や美術史などの芸術関連から建築史や宗教史、科学史と多岐にわたっていて、まず全問に目を通した私の感想は『バランスの良い問題だな』だった。

とりあえずストレスのない得意分野から始め、あとの時間をいくつか残った空白の解答欄を埋めるために使う。

全問を答え終え、二回見直しをし、テスト終了時間前でも提出していい、と言われていたので教室の前に座っている歴史の担当教諭の持つ端末へ解答を送信した。

余った時間、ちらり、と何気なく窓の外に視線を移すと校舎に隠れていてほとんど見えないが、体育着姿の男子生徒達が数グループに分かれて陸上競技を行っている。

……そう言えば、キリト君、次の最後の授業、体育だったよね、と思い出せば、すぐに頭の中は彼の事でいっぱいになってしまった。

自分のように早めに小テストを終わらせてしまった生徒が思い思いに時間を過ごしている中、私は明日のお昼のお弁当のおかずを考えると同時に食事の場所についても考えを巡らせる。

日差しがキツくなってきたから、そろそろカフェテリアに場所を移したほうがいいかな……でも、なぜかカフェテリアで食べるの、キリト君はあまり気が進まないみたいだし……今日みたいに晴れていても日差しが雲で遮られていれば外の方が気持ち良いんだけど……と、やっぱり屋外で食べる想定でメニューを考え始めた。

暑いだろうからスパイスの効いたカレーピラフを薄焼き卵で包むか、それとも少し濃いめに味付けしたお揚げに酢飯を詰めてお稲荷さんもいいかな……どちらにしてもしっかり火を通すか、酢を効かせて衛生管理をしっかりしなくちゃ、と心に留めておく。

思案しているうちに小テスト終了の時間となったが、締め切り時間前に提出した生徒は全員合格点だと告げられた。

その後、前回の続きから授業は始まったが、いつの間に生徒全員分の解答に目を通したのか、授業の最後に小テストの不合格者が発表される。該当する生徒はこのまま放課後に追試を受けなければならず……そして、残念なことに居残り追試の対象者の中に一緒に帰るはずの親友の名前が入っていた。

 

 

 

 

 

「ごめんっ、アスナっ。追試は一回でクリアするから、帰るの少しだけ待っててっ」

「いいよ、リズ。今日は授業数も少ない日だし、適当に時間潰してるから……それより追試、頑張ってね」

 

両手の平をぴっちりと合わせて目線の高さまで持ち上げ、目をギュッと瞑って謝ってくれるリズに「気にしなくていいから」と何度も言ってから笑って応援の言葉を送る。

リズに手を振りながら追試者だけが残っている教室を出て、さて、どこに行こう?、と考えた。

ライブラリーの視聴スペースで気になっていた公開講座の映像を観るのもいいかもしれない……でもリズが宣言通り一回で追試をパスしたらそれ程時間はかからないはずだし……ちょうど鞄に入っている文庫本をカフェテリアで読むのは……うううん、あそこで一人になると声を掛けられる事が多いから読書には向かないかなぁ……そこで、よくキリト君が利用している屋上の存在を思い出す。

『ひとりで作業に没頭したい時とか、結構穴場なんだ』……そう言って少し照れたように笑う彼の顔は暗にソロプレーヤーの性とでも言いたいのか、別にそんな風に感じてないけど……と、思わず唇を尖らせると、私の言いたい事を察した彼が顔を寄せて困ったようにちいさく『わかってるよ』と言ってきた。

キリト君は自分で思っている程、他人と関わるのが下手じゃないと思うのに、当人は苦手意識があるせいかやたらと自己を卑下する傾向にあって、その度に私が訂正するものだから最近は私の口を封じるように耳元で囁かれる……なら、そんな顔をしなければいいのに……。

とにかく私は鞄を持って屋上へと続く階段を上り、重いドアを押し開けた。

予想通り、そこには人影ひとつなく、広い屋上を独占っ、と思うとちょっと気分が高揚する。

雲で日光が遮られているお陰で眩しくないし、明るさは十分、風もそよいでいて周囲の雑多な音も逆に気分が落ち着くから冷房でキンキンに冷えている屋内より快適に過ごせそう、と屋上の縁に腰掛て大きく伸びをしてから早速文庫本を取り出した。

読み始めると集中してしまい、すっかり時間を忘れていると、突然耳に飛び込んで来た携帯端末へのメール着信音に驚いて顔を上げる。急いで画面を見れば送り主はリズで、短い文章と絵文字が追試二戦目の突入を告げていた。

多分、次のテスト開始まで時間もあまりないだろうから、送ってくれたメッセに対して一目でわかるよう「大丈夫だよ」の旨を返してから時刻を確認すると、もう次の授業もそろそろ終わろうかというくらい時が過ぎている。

そこで、ふと、この時間、こっそりキリト君の体育でも見に行けばよかった、と思ったが、週に何回かの昼食の光景を思い出し……彼は中庭の端から私を眺めるくせに、逆に私が彼を覗こうとするとすぐに気づかれてしまうのが常で……きっと体育の授業も見に言った途端バレちゃうんだろうなぁ、とちょっと悔しい気分になるけど、見つかった時の彼の表情を想像をすれば楽しさがこみ上げてしまう。

きっと一瞬ギョッ、とした驚きの表情が飛び出して、でもすぐに、一見不機嫌そうでも照れた目元に変わって、口元は困ったようなへの字になるかな…………とキリト君の顔を想像していると、突然、重いはずの出入り口のドアが勢いよく開いて、寸前まで脳裏に描いていた表情とは真逆の本人の顔が視界に映る。

掴んだままのドアの取っ手に少し体重を預けて、ここまで走って来たらしい身体を休ませているみたいだけどその顔は荒い息づかいや流れる汗を無視してしまえるほど苦痛に歪んでいた。

いつもの様に誰もいないと思っていたのか、人の気配を察した途端、上下している両肩とそれに合わせた激しい呼吸以外の動きが一瞬で止まったけど、視線の先にいるのが私だと気づくと驚くより安心したように緊張が解けて……私もいきなりのキリト君の登場にびっくりしたけど、彼の変化と会えるはずがないと思っていた偶然に嬉しさが広がる。

でも、何かを思い出したように彼の顔が僅かに強張り、瞳の色に影が落ちて、キリト君の方は単純に「嬉しい」とは思ってくれていないのがわかってしまった。

もしかして顔を合わせたくなかった?、って思うくらい視線を合わせず気まずそうにし、それでもそのまま私の存在を無視して引き返す事は出来ないのか、やってきた勢いを完全に殺してゆっくりと屋上に足を踏み入れてくる。

俯き加減で慎重にまっすぐ私の元へと歩いてくる彼は荷物も何も持っておらず、服装は制服……まだ授業中のはずなんだけど、体育の授業はちゃんと受けたのかな?、と考えながら私も本を脇に置いて立ち上がった。

 

「こんにちは、キリト君」

 

声をかけるとようやく彼が顔をあげる。

 

「あ……ああ……どうしたんだ? アスナ、こんな場所で……」

 

それはこっちの台詞だよっ、て言いたかったけど、ちらり、としか私を見ようとしない彼には何を聞いても答えてくれそうになかったから、ここはこの場を譲った方がいいわね、と判断して場所を移動しようと荷物をまとめながら簡潔に答えた。

 

「リズの用事が終わったら一緒に帰ることになってるの。もうそろそろだと思うから、私、行くね……」

 

そう言って彼の横を通り過ぎた時だ、緩く腕を掴まれて……まさか引き留められるとは思っていなかったから咄嗟にその手に視線を向けてしまう。焦りから急いで伸ばされた手でもなく、決して離すまいという力が籠もっている手でもない……ただ、離れていく私に追いすがるように自然と触れてきた意志を持たない手が、逆にキリト君さえ気づいていない本心を告げているようで…………ここに一人で置いていくなんて出来ないなぁ、と軽く苦笑いで彼を見つめた。

視線の先のキリト君は自分の無意識の行動に驚いてるようで、私の腕を掴んでいる自らの手に目を見開いている。

 

「あっ、ゴメン、アスナ。引き留めるつもりは……」

「うん」

 

そう言いながらもキリト君の手は私の腕を掴んだ状態で固まっていて「あれ?、変だな」と呟いているうちに小刻みに震え始めた。まるでキリト君の今の心そのものが震えているようで、せつなくて、愛おしくて、包むように上から自分の手を被せる。

太陽が陰っているとは言え、風がなければ少し蒸し暑いくらいの今日、ここまで息を切らしてやってきたはずのキリト君の手は意外にも冷たくて、何があったのかを気にするより先に小さな迷い子のように心細さを感じさせる手を安心させるように、そっと重ねたままさすってみれば益々キリト君が困り顔になった。

しばらくそのまま言葉も交わさずにいたけど、完全に震えが止まったのを見届けてから私はキリト君へと顔をあげ、殊更明るい笑顔を見せる。

 

「もしかして、ここにお昼寝に来たの? 今日は気持ちの良いお天気だものね」

「えっ!?」

 

思ってもみなかった事を言われて戸惑っているキリト君に向かい、私は言葉を続けた。

 

「私ももう少し、ここにいようかな……用事が済めばリズからは連絡が入ることになってるし」

 

そう言って、さすっていたキリト君の手をギュッと握って私の腕から離し、繋いだままグイッと自分が元いた場所まで引っ張っていく。さっきまでと同じにストンと腰を落として座り、鞄を脇に置いて、握っているキリト君の手を力いっぱい引き、戸惑い一色に染まったままの顔の彼を私の隣に座らせた。小さく「おわっ」とよろけてきたタイミングを逃さず、自分の両手を自由にしてキリト君の頭を抱え込むように捕獲し、自分の膝の上に押し当てる。

 

「っ痛…………アスナ……」

 

きりなりの行動と無理矢理の膝枕にどこかを痛くしたのか、キリト君の眉間に皺が寄り、咎めるような視線と不機嫌な声が下から突き上げてくるけど、それには構わず満面の笑みを落とした。

 

「寝てていいよ。私はもう少し本を読みたいし」

 

さっきまではまともに視線すら合わせてくれなかったのだ、それを思えばちょっと荒療治だったけど、いっぱいいっぱいだった雰囲気が少し和らいだし、自分が屋上に来た理由を私が聞かないことにも安堵した様子で…………きっと一人にはなりたくないけど、聞かれたくない何かがあったのね、と推測して、ただ傍にいるだけに徹する。

この状況が少々不本意なのか、不満げに送られてくる視線を鞄から取り出した本で遮って、読書に集中し始めると、ほどなくして、スー、スーと聞き慣れた寝息が耳に届き始めた。

そっ、と本をずらして盗み見れば、起きている時より僅かにあどけない寝顔が私の膝の上にあって、安心しきった表情に呆れるやら、嬉しくなるやら……しばらく静かに見つめていると、バタンッ、と前方で大きな音がして、見知った男子生徒が一人、肩で息をしながら腰をまげて屋上扉の入り口にヨレヨレで立っていた。

 

 

 

 

 

ちょっとコワイ顔つきと突進してきそうな勢いで私達のすぐ前までやってきた佐々井くんは私に視線を合わせるなり、ころりと表情を変えて「何で残ってんの?」と汗だくだけど朗らかな笑顔で話しかけてくれる。やっぱり私の時間割はすっかり覚えているみたいで、それに関してはもう慣れっこになってしまったからそこには触れず、リズが追試になったことを明かした。

佐々井くんが屋上に登場した途端、目が覚めたらしいキリト君はすぐに寝返りを打つように身体の向きを変え、顔を私の身体に押し付けて彼からの視線を避けている。その態度に笑顔のままピクピクとこめかみを痙攣させた佐々井くんは開き直ったようにキリト君の存在を無視して私との会話を続行させた。事情がわからない私は佐々井くんに問われるままに会話を進めて…………それよりも、額から滝のように汗を流し、息も上がって痛々しいほど辛そうな様子なのに腰を降ろそうとはしない佐々井くんの髪型がもの凄く気になるっ。

いつもとは随分イメージの違う髪型になってるけど……イメチェン?、佐々井くんは気に入ってるのかな?、でも、どうやったらそんな髪型に出来るんだろう??

会話を続けながらも、どうしても目は彼の頭部にいってしまって……あまり見たら失礼よね……でも……髪型の事、言った方がいいの?……と頭の片隅で悩んでいると、リズの追試に感謝の意を口にした佐々井くんがキリト君の精神状態を「ぐらぐら」と表現した。

 

…………やっぱり…………

 

心の内で呟いたつもりの言葉が知らずに口から零れていて、私も佐々井くんも話が本題へと移ったことを意識する。

キリト君もほんのちょっと身体を強張らせたから、それをほぐしてあげたくて彼の髪の毛に触れながら佐々井くんの話を聞くことに。

「《あの世界》の関係なんて、所詮、仮初め」……それはキリトくんが私に問うた「俺達の関係ってこの世界だけのことなのかな?」と同義の言葉。

どうしてあんな事を言い出したのか、あの時はよくわからずに怒ったけど、今なら少しわかる気がした……きっとキリトくんにその言葉を投げつけた編入生の彼女も《仮想世界》と《現実世界》との違いで親しい人との間に何かあったのだろう。

あの時は「私の気持ち、信用されてない?」って、ちょっと悔しかったり、悲しかったりしたんだよね……と当時を思い出して、ついキリトくんの頭をつんつんしてしまう。

それから、ふと、その彼女には何があったんだろう?、と心に引っかかっている疑問を佐々井くんに尋ねると、彼はあっさりと聞き出した行為を認めてきて……過酷な言葉を言われたのは佐々井くんじゃなくてキリト君なのに、当然のように「黙ってられない」って言ってくれたのが嬉しくて、けどクラスメートの女子から事情を聞き出すって今度は佐々井くんとの関係が悪くなったりしないかと心配にもなるけど、それを含めてキリト君の為に動いてくれただろう事に思わず腰をかがめてキリト君に顔を寄せ「佐々井くん、優しいね」と告げてしまう。

それでも出来れば悪感情を持たれるような事はして欲しくなくて確認すると、佐々井くんは明らかに言葉に詰まっていた。

一体、どんなやりとりをしたんだろう……佐々井くん、本領発揮の交渉術は見せてくれないのよね。

前に「無関係のギャラリーいたら効力が弱まっちゃうしさ、手の内を大勢に明かさないのは基本だよ、姫」って言われたけど。

思うに今回はお互いちょっとキツい会話になったんじゃないかと推察できる言い方だったから……全然安心できない。

その後、佐々井くんが編入生さんの事情を話してくれだけど、はい、俺は聞いてきただけ、みたいに言い終わった彼にちょっと苛立って「嘘」の一言を真っ直ぐに投げる。

多分、無反応でもこの会話を聞いているはずのキリト君を気遣ってそう言ってくれたんだろうけど、キリト君はその編入生さんを怒ってるわけじゃないのに……だから彼女の気持ちがほんの少しでも救われるような言葉を佐々井くんがかけてもキリト君は安堵こそすれ腹立たしく思うことはないんだから。

相手の表情から心情を推し量る事も、その人の為になるような言葉を選ぶ事も佐々井くんならちゃんと出来るって知ってるよ、と信頼を笑顔で表すと佐々井くんが呆れたように無言になって、代わりにキリト君が私を呼ぶように髪を引っ張ってくる。

内緒話をするように彼の口元に耳を寄せれば……

 

「佐々を買いかぶりすぎ」

 

忠告と言うよりは拗ねているような口調で囁く言葉。自分だって安心したような声になってるの、気づいてないのかな?

 

「大丈夫、私、人を見る目は小さい頃から養ってるから」

 

それに佐々井くんへの信頼は私よりキリト君の方が大きいと思うのに、たまに私が他の男性にみせる関心を困り笑い程度で済ませてくれるキリト君が今日はちょっと……いつもと違う。

精神状態が「ぐらぐら」のせい?……なら、言葉だけじゃなくても伝わるように……私が一番信じてるのはキリト君だよって想いを込めて、彼の細くてさらり、とした髪を大事に梳く。

すると、安心したようにほんの微か、細い息を吐く彼。

私とキリト君との間に互いしか見えない濃い空気が覆い始めた時、少し焦ったような佐々井くんが話題の中心人物だった編入生さんは夏休み前までしかこの学校に在籍しない事を教えてくれた。

それからキリト君の荷物を私の隣に置き、空いた手がそのまま私の膝の上の彼の頭へと伸びていく。あっ、と思ったけど、佐々井くんの視線に制されてそのまま見守ると、その手がキリト君の頭を小突く事で今までの色んな思いが伝わったらしくキリト君もまた大人しく頭を手でさすっているだけ……こうゆうの、男の子同士の友情って感じなのよね。

きっと二人に告げても「そーゆーのじゃないからっ」って目一杯否定されそうだから言わないけど。

ちょっと羨ましいなぁ、と二人を交互に見ていると、キリト君に手で追い払われた佐々井くんは元居た場所に戻って私を「姫っ」と呼びかけてから、キリト君のお掃除当番の代行を久里くんがしていると教えてくれる。

えっ?……それってなんだかとっても久里くんに申し訳ない……知らなかったとは言え私とキリト君が屋上で過ごしている間、久里くんがお当番を代わってくれてただなんて……これはちゃんとキリト君に言わないとっ、と決意を固めた私のすぐ傍でキリト君の肩が不自然に揺れ、それを見た佐々井くんがなぜかとっても満足そうに頷いて屋上を出て行ったのが何だかとっても不思議だった。

 

「それで、キリトく君、起きてるよね?」

「…………はい」

 

よかった、佐々井くんが居なくなってから全然動かないし、話もしてくれないから、本当に寝ちゃったのかと思ったよ。

私の問いかけに渋々応えてくれた声のキリト君が仕方なさそうに目を開き、むくり、と起き上がる。ほんの少しだけ私との距離をおいて隣に座ったキリト君はやっぱり私の方を見ようとはせず、気まずそうに俯いていた。

私は軽く覗き込むようにして唇を尖らせる。

 

「お掃除当番っ」

 

焦り顔でキリト君がこっちを見てくれた。

 

「ごめんっ、それに関してはホントに忘れてたんだ」

「謝る相手は私じゃないよ……久里くんに御礼言って、今度ちゃんと代わってあげてね」

「ああ、もちろん」

 

そう言ってすぐにまた下を向いてしまう。それ以上何も言おうとしないキリト君に小さく溜め息をついてから、私はもう一度話しかけた。

 

「もうキリト君はわかってるでしょ? 《仮想世界》の気持ちが『仮り』ばかりじゃないって……私もね、アミュスフィアでゲーム世界を楽しむようになってあの時のキリト君の気持ちの理由がちょっとわかった気がするの」

 

私の言葉が随分と意外だったのか、キリト君が驚いたように顔をゆっくりと上げてくる。

 

「空を飛んだり魔法が使えたり、《現実》では不可能な事が出来るっていう点では《現実世界》とは違う自分なんだろうけど、《現実世界》だと大人しい人が《仮想世界》では行動的だったり、そういう意味でも違う自分を楽しむ人もいるんだなぁ、て。そうやって区別してたら、気持ちも区別するプレイヤーが当たり前にいるんだね」

「……アスナは、初めて会った時からアスナだったよな」

 

それって褒めてる?、と首を傾げると懐かしそうにキリト君が笑うから、多分キリトくんにとっては《仮想世界》でも《現実世界》でも変わらない私が嬉しいのだとわかって、つられて頬が緩んだ。けれど、キリト君からすぐに笑顔が消える。

 

「オレはあのゲームをクリアして『英雄』なんて呼ばれてるけど、《こっち》ではなんの力もないただの高校生ゲーマーだって思い知ったからな。そんな《こっち》のオレをアスナが受け入れてくれてるのが不思議って言うか……正直言って、不安も少しあるよ」

「《現実世界》に生還して一ヶ月ちょっとで私の病室まで訪ねてきてくれたキリト君が?…………お父さんがね、言ってたの」

「省三氏が?」

「うん。《S.A.O》の維持管理をレクトが引き継いでいたから、その関係で第一次生還者の様子も経過観察していたらしいんだけど、リハビリが進んでいた人でも松葉杖を使っている段階なのにキリト君は初めて会った時、普通に歩いて私の病室にやって来たって」

「あの時は『普通に』とはほど遠いレベルだったぞ」

 

そうだったの?、ってちょっと笑って話を続けた。

 

「でもお父さん、そんなキリト君の姿を見て、さすがはゲームクリアをした英雄だな、とても強い少年だっ、て感じたんだって。だから私の病室の面会パスも渡してくれたんだよ」

 

多分、初めて聞いた話だったみたいでほんのりと彼の耳が赤くなっている。けれどすぐに落ち着いた声で「でもさ」と彼が真剣な面持ちで私を正面から見つめてきた。

 

「アスナの入院している病院が分かったのは、あのメガネの役人に聞いたからだし、そもそもアスナがあの時本名を教えてくれてなかったらたどり着けてたかどうか……結局なんだかチート行為みたいだよな……」

「もうっ、そんなことないのに……菊岡さんはキリト君の《あの世界》での情報と交換したんでしょ。ならそれはキリト君が価値のあるプレイヤーであり続けた努力の結果だし、私の名前は先にキリト君の本名を聞いたからで……」

 

それから私はほんの僅かな距離さえなくすように両手を伸ばしてキリト君の頬を包み込む。

 

「…………あの時、最後の瞬間は《仮想世界》とか《現実世界》とか関係なく君の事をたくさん知って、私の中を君で一杯にして消えたかったの」

 

綺麗な夕陽も崩れ落ちていくアインクラッドも見えなくなって、目の前のキリト君だけを見つめて、キリト君の事だけを考えて、そうすれば二人はひとつになれるのだとあの時は本当に信じていた。

こんな気持ちになるのは彼しかいない……それは《現実世界》に生還した後でも変わることはなかった。

 

「だから……やっぱりキリト君は《あの世界》でも《この世界》でも、私にとって一番大事な人だよ」

「ああ、そうだな……オレも。《あの世界》で頑張れたのはアスナを《現実世界》に戻したかったからだ。ゲームクリアが出来たのは、それをキミが望んでいると思ったから。アスナが眠っている病院を訪れたのは《この世界》でもとにかく傍にいたい、とオレが望んだから……勇者と呼ばれる行為はみんなアスナが原動力なんだ」

 

やっとキリト君の深く黒い瞳が優しい色になって私を映す。でもその色が艶を纏った途端、彼の口の端がニヤリ、と上がった。

 

「《仮想世界》でも《現実世界》でも変わらない、このどうしようもない気持ちは絶対に仮なんかじゃない。アスナが傍にいるとこんな風に触れてもっとアスナを知りたくなる」

 

少し早口で言い切ると彼の手が動いて頬に触れている私の手の片方を捕獲し、素早く手の平へ唇を押し当ててくる。何度も啄むように唇で触れられて、たまにちろり、と舌先が掠めると、それだけの刺激で全身が震えた。

 

「ひぁっ……くっ……くすぐった……」

 

むずむずとした感覚は笑いへとはつながらず、徐々に内を疼かせて……その熱を抑えようと肩をすくめて目を瞑る。息さえ止めて堪えていると、ようやく唇を離してくれたキリト君が呼吸を整えている私を見て苦しげに微笑んだ。

 

「なのにアスナがいてくれないとちょっとした他人の言葉で自分やアスナの気持ちを疑ってしまうんだ」

「なら…………ずっとキミの傍にいるよ」

 

傍にいて、ほんの少し臆病で綺麗で柔らかい心を持つ強いキリト君を守るから、キリトくんは私を守ってね……上がった息のまま、熱を宿した顔で微笑めばますますキリト君の眉尻が下がる。

 

「だから…………あんな状態の時にはアスナに会いたくなかったし、誰よりもアスナに会いたかった」

 

それはこの屋上にキリト君が飛び込んできた時のことなのだとわかった瞬間には強く手を引かれて彼の胸の中へ身を委ねていた。うなじから髪をすくい上げるようにキリト君の手が差し入れられて、身を屈めた彼の顔が頭頂部に当たり包み込まれるように密着する。

 

「《こっちの世界》に戻ってきてから知ったアスナの事、たくさんあるよ……」

 

私の耳元でそう囁いたキリト君の言葉の意味を問い返すより早く、耳たぶから縁をなぞるように舌で舐め上げられて、私はこれ以上はないというくらい身を竦ませた。

 

「ふっ……んんぅっ……」

 

しっかりと抱き込まれていて身動きがとれないせいでキリト君の匂いを一層深く吸い込んでしまい、外から与えられる熱と内からの火照りとが混ざって軽い酩酊状態のように強張っていた身体から徐々に力が抜けていく。支えきれなくなって首を僅かにかしげると、露わになった首筋にキリト君のキスが降ってきた。

 

「こんなふうに耳が感じやすかったり、首元が敏感だなんてあの頃は知らなかったし……」

 

そんなのっ、私だって知らなかったよ…………って言いいたいのに、口からは堪えきれずに漏れ出てしまう恥ずかしい声だけで、言葉を紡ぐ余裕なんてまるで無くて……《あの世界》でのアバターの身体は痛みを感じないし、例のコード解除設定をオンにしていたからちょっとの触れ合いで強い快感を得てしまっていたけど、《この世界》に戻ってきてからはキリト君によって自分でさえ知らなかった反応をたくさん引き出されて彼に翻弄されるばかりだ。

私の頭を支えていた彼の左手の力が緩むと自然と二人の間に空間が生まれるけど、それを計算していたようにもう片方の右手が私の胸元のリボンをしゅるり、とほどく。ゆるんだリボンの奥にあるワイシャツのボタンを第一、第二と手早く外して鎖骨のくぼみに鼻を埋めたキリト君が私の肌に強く吸い付いた。

 

「あっ……ダメ……」

 

痛くはなかったけど……絶対、痕がついてる……制止の言葉なんて耳に入ってなかったみたいに、ちょっと満足げな顔のキリト君は私に対して悪戯が成功した時と同じような楽しげな視線を送ってきた。

 

「アスナ、いつも第一ボタンまできっちり閉めてるから問題ないだろ」

 

『あの世界』だとどうやっても痕を残す事が出来ないせいか、時々、キリト君は私の肌にマークを付けたがる。それでも私が出した、絶対お洋服で隠れる場所、という条件は守ってくれていたから今までは大丈夫だったんだけど……。

 

「この前、肩につけたやつ、体育の着替えの時リズに見つかって大変だったんだから」

「今の時期なら、虫に刺されたとか言えば……」

「言ったよっ……そうしたら『どうせ全身黒ずくめの虫でしょ』って…………」

 

その時の恥ずかしさといったら言葉で言い表せるものじゃなかった。さっきまでの熱と思い出の羞恥が相まって顔全体が熱くなる。その熱を原因のキリト君に移したくて彼のワイシャツの胸元におでこを押し付け、ぐりぐりと擦っていると頭部に触れていた手に加え、背中にまで腕が回ってぽんっ、ぽんっ、とあやされた。

 

「笑った顔はもちろん、蕩けた顔も、怒った顔も、困った顔も、恥ずかしがってる顔だって、どれも《あの世界》から……だなんて……こんなの…………」

 

私の頭の上でボソボソとなんだか困ったように呟いてるけど、よく聞き取れなくて顔を上げようとしたら更に上から顎を押して付けられ、全然身動きが取れない。なんとか「キリト君?」とこもった声を出してみると「はぁーっ」と大きく吐き出した息の存在を頭上で感じた。

 

「なんであんな言葉で不安になったんだろうな」

「もう……大丈夫?」

「ああ、こうしてアスナと一緒にいられれば……」

「よかった」

 

今度は私が安堵の息を落とすと傍に置いてあった鞄の中からメールの着信音が聞こえてくる。その音を合図のように腕の力を緩めてくれたキリト君に「ごめんね」と断ってから携帯端末を取り出した。

 

「あ、やっぱりリズから……追試終わったのかな………………」

 

メッセージを読み終わったまま口を噤んで固まっている私にキリト君が首を傾げる。

 

「リズとどこで落ち合うんだ?、昇降口か?、それとも教室?」

「リズ…………まだ……追試だって……」

「え!?」

「もう覚えているはずの人名まで出てこなくなっちゃったって……」

「そりゃぁ…………ハマったな……」

「私に、先に帰ってて欲しいって……どうしよう……」

「多分、アスナが『待ってる』って言ったら余計プレッシャーになるだろうから、言う通り帰ろう。オレもこのまま帰るしさ」

 

立ち上がったキリト君に佐々井くんが持って来てくれた荷物を渡してから手早く制服のボタンとリボンを直す。自分では見えない位置だから家に帰ったらすぐに確認をしないと、私服ならデザインによっては着られない可能性だってある。ちょっと恨めしげにキリト君を見上げれば、見つめる私の視線を遮るように口元を手で隠して眉根を寄せている。

そんな不機嫌そうな顔をされる理由がわからなくて頬を膨らませると、口元を覆っていた手が真っ直ぐ私に伸びてきて……つんっ、とおでこを弾かれた。

 

「そんな顔すると、ここで襲うぞ」

 

どうしてそんな発言になるのか、ビックリして目を丸くするとキリト君はすぐに困ったように笑って「冗談だよ」と言ってから手を差し出してくれる。少し不可解な気持ちのままその手に自分の手を重ねて立ち上がり、私達は屋上の出口へと向かった。けれど途中で私達より少し前にその出口から姿を消した男子生徒の後ろ姿を思い出して、隣のキリト君に尋ねてみる。

 

「ねぇキリト君、佐々井くんの髪型なんだけど……」

「あー……あれはさ……気づかなかったって事で忘れてやって。明日には元に戻ってるから」

「そうなの?」

「ああ、佐々だしさ」

「……そうだね、佐々井くんだもんね」

 

佐々井くんだから……それが一番しっくりくる答えだった。




お読みいただき、有り難うございました。
要するに、こっちをメインで書きたかったんですけど、事の発端である
編入生とキリトのやりとりを佐々井くんに長々と説明させるのが面倒だった
ので「前編」という形で下準備をさせていただきました。
次回は二人の結婚後をお届けする予定です。


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女神な彼女

ご本家(原作)様のSAO20巻『ムーン・クレイドル』発売を祝しまして、
ほぼ一年前になりますが明日奈がクラスメイトに恋愛相談を
持ちかけられた『キスのタイミング』に対し(?)和人の場合は……と言うことで、
やっぱり書き出しは「放課後……」です(笑)


放課後……ネットワーク研究会のアジトであるパソコンルームではお子様向けヒーロー番組で悪事を画策する悪役集団のように数名の男子生徒達が一所に集結していた。ただし、その中心でPCを弄っている生徒は完全に無関心を貫いている。そんな男子生徒の態度が気に入らないのか、一人の生徒が情けなくもどこか甘えた声をあげた。

 

「だから、わかるだろー、カズぅ」

「ああ、そうだな」

 

どう見ても……いや、どう聞いても、ただ声をかけられたから答えました、の返事にしか聞こえない。だいたい桐ヶ谷和人は声をかけてきた生徒の顔さえ見ていない。

 

「このまま彼女とは程よい友人関係で高校生活を楽しく過ごすか、思い切って告白するか、いっくら考えても答えが出ないんだ」

 

どうやらさっきから自分の周囲で盛り上がっていたのはコイツの恋バナだったのか、と和人は頭の片隅で認識したもののすぐにPC画面の端に表示されている時刻を視認して作業中のプログラミングに意識を集中させる。

すると恋バナの主人公である男子生徒の隣に座っていた佐々井が「でさ」と口を挟んできた。

 

「結局のところ、総合すると、今現在で告った場合、勝算はどのくらいなわけ?」

「そうそう」

「それがわかれば今後の展開は予測可能だろ」

「あーっ、もうっ、だからお前らは理系脳って言われるんだよ。そんな勝算なんて計算できるわけないだろ。だいたい出来たとしてどの程度の数字が出れば告っても安パイだって言えるんだよ」

 

爆発するように言い返されて佐々井を始め周囲の男子達が口をつぐむ。それからコソコソと視線を交わし、小声で「ハチゼロ?」「いや、ハチゴーは欲しいだろ」「完全勝利を目指すならハチハチは譲れないな」と囁き会う声がかの男子生徒の周りに漂い始めた。

 

「だーかーらー、どこを見て、何を根拠にハチゼロとハチハチの違いを判断するんだっ」

 

今度こそ完全な沈黙がパソコンルーム内に流れる。そこに和人が打つキーの高速音だけが規則正しく響いていると、ふぅっ、と大きく息を吐いた恋する男子が和人の横顔を覗き込んだ。

 

「そこで、だ…………桐ヶ谷和人くぅーん」

 

再び男子生徒の声が緩む。

 

「お前はこの学校の最難関であり最高峰でもある姫に告って勝利を手にした男だろ。教えてくれよぅ」

 

そこでピクッと和人の手が止まった。相変わらず視線はPC画面に固定されているが、漆黒の瞳の網膜は画面のライトに照り返されているだけだ。

 

(告った?……オレ、告ったっけ?)

 

「姫への告白に踏み切ったきっかけとかさ。何かこう、これならOKを貰えるだろう、って確信できる決定的な出来事とか……」

 

改めて考えてみると告白した覚えもなければ、交際を申し込んだ覚えもない。もっと言えばアスナが自分の彼女となってくれる自信など今の関係になる以前はこれっぽっちも持ったことがないのだ。

 

「何て言ったんだよ?、ここだけの話にするから」

 

そう問いただされて和人は未だ画面を凝視したままあの頃の己の言葉を振り返っていた。

 

(「……結婚しよう」?…………って言う前にあんな事やこんな事もしちゃったしなぁ……)

 

とことん自分は言葉が足らないのだと自覚したところで、すぐ近くから呆れ声が横槍を入れてくる。

 

「多分カズに聞いても無駄だと思うぞ」

 

そう言ってもらえると助かる気もするが、同時に不本意な気持ちも湧いてきて、思わず声の主を軽く睨めば、わざとらしく両肩をすくめた佐々井が「だってそうだろ?」とさもわかってるような口ぶりで和人を見返した。

 

「カズの恋愛における経験値って少ないのに深いからバランス悪いんだよ。まともな恋愛感覚なんて持ち合わせてるわけないって」

 

佐々井の言う自分の恋愛経験が「少ないのに深い」発言に妙に感心してしまった和人がそれでも素直に肯定できず反抗的な視線を返すと、佐々井は再び呆れ声を容赦なく浴びせてくる。

 

「あの姫が至近距離にいるのに平気でうたた寝出来るとか、完全に感覚おかしーだろ」

 

(いや、アスナが傍にいてくれるから更に心地よく寝られるんだけどな……)

 

室内なら空調がほどよい設定の、屋外だったら暑くもなく寒くもなく、そよ風程度の爽やかな気候の中で互いが寄り添い合い、その暖かくて柔らかい彼女に触れながらウトウトと微睡んでいるところに時折その長い髪が自分の肌をくすぐると押さえきれない幸福感が湧き上がってくる。よく、寝ている自分からは《眠気パラメータ》が発生しているのではないか、と身近な友人達に言われるが和人に言わせれば明日奈こそが自分にとって一番の安らぎであり、眠気を催す存在なのだ。

しかし、佐々井の言葉を訂正しようと開いた口は周囲からの「そうだよなー」の声に気圧されそのままの状態で固まった。

 

「普通、あんな綺麗な顔がすぐ近くにあったら緊張で呼吸さえ出来ずに違う意味で永遠の眠りにつきそうだもんな」

「確かに、あの状況で眠くなるとか、ありえねーわ」

「だろ、だからカズの意見は参考にならないって……だいたいコイツ、姫が他の男に告られても不機嫌になるだけなんだぞ」

 

今度は佐々井の発言に和人を含めた全員が頭上にクエスチョンマークを浮かべる。内ひとりがマークを浮かべたままの顔で首を傾げた。

 

「そりゃあ自分の彼女が他の男から告白なんてされたら面白くないだろ。その感覚は普通じゃないのか?」

 

同じネト研仲間からそう指摘され、佐々井は人差し指だけを伸ばして芝居がかった仕草で、ちっちっちっ、と左右に振り動かす。

 

「そういう意味じゃない。姫の気持ちがグラつくかも、って不安になる事がないんだよ、コイツは。ただ単に見ず知らずの男が姫に近づくのが気に入らなくて不機嫌になるってゆー……」

「……すんげー自信だな」

「お前って意外とオレ様タイプだったのか」

 

周囲の感想にいたたまれなくなった和人が今度こそは、と口を挟んだ。

 

「そうじゃないって」

「いや、そうだろ。お前、気づいてないかもだけど、姫が呼び出されたって知った時、もの凄いオーラだすぞ」

「あ−、そこはそうなんだけど……そこじゃなくて……オレはアスナがオレから離れていく時は他の男が原因じゃなくて、オレに愛想を尽かした時だろうな、って思ってるから……」

「なるほど……」

「それなら、うん、そうだな……可能性としては……」

 

妙に納得されても居心地が悪くて視線を泳がせていると、もともと恋バナをしかけてきた男子生徒が「そう言えばさ」と話を切り出してくる。

 

「佐々井って姫に告白とかしねーの? 端から見てもかなりの信者なのに……」

 

姫こと明日奈の彼氏であるオレの目の前でその発言はどうなんだっ、と出かかった言葉は恋バナ男子の、とにかく告白する判断材料が欲しいんだっ、と切なる願いの籠もった瞳に免じて、ごくんっ、と飲み込まれた。

姫への告白と聞いて、ちらり、と和人の反応を横目で確認してから、佐々井は冷ややかな目つきで問いかけてきた男子生徒を見る。

 

「お前もわかってないなー。そう、俺は信者なの。姫は崇拝対象であって恋愛対象じゃないんだよ」

「よくわからん」

「だから、姫は俺にとって非日常なわけ。日常の疲れを癒やしてくれる存在とでも言おうか、あの笑顔で癒やされ、ささくれだった心を穏やかにしてくれる女神っ……お前、神様に恋愛感情って持たないだろ」

「ナルホド」

「わかった気がする……お前が思っていた以上にアブナイ奴だったって事が……」

「あのなぁ、隣にいたら呼吸も出来ない存在なんて日常生活で一緒に居られるか?」

 

何かを諭すように教師然とした口調で集まっている男子ひとりひとりを見回しながら佐々井は問いかけた。

 

「そうか……そうだな……」

「校内で自分と同じアホ面さげた面々と一緒になって少し遠くから眺めるからいいんだよ。これが週末とか二人っきりで会うなんてなってみろよ……」

 

(あー、そう言えば昨日は日曜だったからアスナと行った買い物も混んでたよなあ)

 

「冷静に考えれば私服姿の姫が見られるって喜ぶより隣に並ぶ自分の服装をどうするかにまず頭を抱えるだろ」

 

(結局、昨日も上下共に黒ベースだったから急遽オレの服を見ようってアスナが言い出して……)

 

「更に関係性が発展してみろ、寝起きのボサボサグチャグチャダラダラを姫に見せられるか?」

「それは……キツいな……」

「で、しっかり者の姫は絶対先に起きて朝ご飯の支度とかしてくれてるんだぜ」

「それは……たまらんだろ」

「お前さ、自分の母親しか知らないような目玉焼きの焼き加減とか姫が知ってるって想像できんのかよ」

「うー……なんか一気に生活感、きたな」

「エプロン姿は見たいけどな」

「女神様がフライパンで目玉焼きを焼く姿か……」

 

和人と佐々井以外の男子生徒が一様に目を閉じて想像力に全エネルギーをつぎ込む。

 

「マズイ……佐々井の言っている意味が理解できる気がしてきた……」

「俺も……」

「そう考えるとカズはホント、よく平気でいられるよな」

 

なぜか自分まで存在自体がありえない生物のような観察眼で見られ始めて息苦しさを覚えた和人は大きく溜め息をついた。

 

「お前達、アスナの事神聖視しすぎだよ。結構普通の部分もある…………と思うぞ」

 

言いながら普通の女子基準があやふやになってきた和人が語尾を誤魔化すと、すかさず佐々井が興味津々といった顔で「例えば?」と聞いてくる。改めて考えるとなかなか披露出来るエピソードが浮かばず思索に耽れば、他の男子生徒が待ちきれないと言った顔で急かしてきた。

 

「じゃあ逆にだ、強いて挙げるなら姫の、ここは直した方がいいな、って感じる所とかあるのかよ」

「そうそう、自分の彼女に対する小さな不満ってやつ。よく聞くのは、片付けがヘタな所、とか……料理が苦手な所、とか……怒りっぽい、とか……」

 

例えを聞いて和人は普段のアスナを思い浮かべる。

 

「片付けは……ちゃんとしてる……と思う」

 

初めて訪れたセレムブルグのアスナの部屋も本人は「散らかってる」と評していたが、そのまま雑誌に掲載されていてもおかしくない、と思えるほどきちんと整っていて、且つセンスの良さも抜群だった。

 

「うん……だろうな……」

「見るからに、だよな」

「それに料理に関しては……カズに聞くまでもないし」

 

一同が無言で頷く。しかし、そこで和人が「ああ」と大きく頷いた。

 

「怒りっぽい……は、ちょっとあるかもな……」

「そうなのか?」

 

そこで和人の頭の中はぷんぷんっ、と薄紅色に染まった頬を膨らませ、眉根を寄せているアスナの愛らしい顔でいっぱいになる。

 

「ちょっとイタズラをした時とか……すぐ怒られるし……」

「お前なぁ……」

「それ、怒りっぽいって言いうか?」

「自業自得が正しい気がする……俺からすれば、羨ましい、のカテゴリーだ」

 

逆に責められ、和人は急いで自分の記憶容量の中のアスナの表情集にあれこれと検索をかけた。

 

「なら……ちょっとドジな所とか……うん、あれは直した方がいい気がする」

 

そして今度は頭の中に昨日のある光景が再現された。

 

「昨日、アスナと買い物に出掛けたんだけど……」

 

二人で過ごした外出時の出来事を思い浮かべている和人は、その時点で自分を囲む男子生徒の目がどんよりと濁ったことに気づかない。

 

「インテリア小物が見たいって言うから、雑貨屋をぶらぶらしてたら、商品を見るのに夢中になってたアスナが店内を歩いている時、柱におでこをぶつけて……ああいう所は直した方がいい部分だろ……そうそう、その後、クレープを食べようって事になったんだけど、目の前でクレープを作ってくれるのを見るのが初めてらしくて、アスナがずっと食い入るように男性店員の手元を見つめてたら、店員が顔を真っ赤にして緊張して……ああいう不用意な行動も直してもらえると助かるなぁ、って…………なんだ?」

 

そうしてやっと周囲のじめじめとした視線の集中砲火に気づいた和人が不思議そうに友人達を見回すと、代表して佐々井が「カズ……」とやるせない声をだした。

 

「お前さ、その時の姫を見て、情けないからやめてくれよ、とか、恥ずかしいからよせよ、とか思ってる?」

「思うわけないだろ」

 

(柱にごっつんして「ふぇっ」とビックリしておでこを押さえたアスナも、「今度、お家で作れるかなぁ」と呟きながらクレープの出来上がるまでを子供のように夢中で見ていたアスナも、とにかく可愛いしかない……当たり前だ)

 

「おい、論点がだだすべりして妙な方向へズレまくってる」

「だな」

「俺の告白云々がすっかり影も形もなくなってるし……」

「……そうだった」

「わりぃ……」

「だから言っただろ、根本的にカズに告白の相談を持ちかける事自体が間違ってるんだって」

 

締めくくるように佐々井がそう宣言すれば、恋バナ生徒を含めた和人以外の男子生徒全員が肩を落として項垂れ、沈黙をもって自分達の浅はかさを認める。そこで再び和人がPC画面の時刻を見て、いつの間にか止まっていた手を慌てて動かし始めた時だ、部屋の出入り口のドアをコンッ、コンッと丁寧にノックする音が静寂のパソコンルーム内に響いた。

下を向いていた顔が次々と持ち上がり、とりあえず佐々井が訝しみながら「はーい、どうぞぉ」と答えると、ガラリ、とドアがスライドして、隙間からサラサラのロングヘアが見えたかと思えばすぐに柔らかな微笑を湛えた明日奈の顔が現れる。

「お邪魔します」と涼やかな声が室内に流れ込んでくるのとほぼ同時にひとりの男子生徒が「……女神降臨」と夢現の表情で呟くが、誰も、いや呟いた本人でさえも女神の声しか耳に入っていなかっただろう。

お邪魔します、と言ったわりには両手でドアを掴みながら顔だけを覗かせている明日奈は、こてっ、と僅かに首を傾け、和人に向けて「帰れる?」の合図を送る。メッセージを正確に受け取った和人は半身をひねりながら彼女に向けて申し訳なさそうに「悪い、アスナ。すぐに終わらせるからっ」と早口で言い放つと、すぐさまPCに向き直りキーボードを叩き始めた。

事情を察した佐々井が立ち上がり、明日奈のすぐ傍まで歩み寄る。

 

「ごめんね、姫。俺達が話しかけてカズの作業を邪魔しちゃってたんだ」

 

今日は朝も昼も会えなかったから帰りは一緒に、と約束をしていた明日奈だったが、何かに集中してしまうと周りが見えなくなってしまう和人の性分は十分承知していたので、決めていた時刻に帰り支度が整っていないのは全くの想定外でもなかったようだ。

佐々井は苦笑いで「中に入って待ってる?」と気遣うが、それには首を横に振って「ここでいいよ」の答えを聞くと、「ところでさ」と背後の様子を警戒するように一瞥してから一歩距離を詰める。

 

「……目玉焼きの焼き方って……姫はカズの好み、知ってる?」

「んー、確か中身は半熟の両面焼きだよね」

 

初級者向けクイズ問題に答えるようにさらり、と正解を口にした明日奈とは反対に出題した佐々井は、ホントに知ってたよ、の呆れ半分、やっぱり知ってたか、の侘しさ半分で頭をポリポリと掻いた。

 

「姫……お願いだからカズの奴を見捨てないでやってね」

 

わざとらしく泣き真似までする佐々井の言動とほんの少し前の質問に困惑している明日奈が意味を尋ねようとした時だ、ガタンッと音を立ててイスから立ち上がった和人が横にあった鞄をひったくるように肩に掛け小走りにやってくる。

佐々井の前に割り込み「お待たせ」と告げるやいなや当たり前のように明日奈の手を掴んで自分も廊下へと出た。空いている方の手でドアを閉めながら、中にいる男子生徒達に向け「じゃあな」と言えば、和人の向こう側からぺこり、と明日奈が笑ってお辞儀をする。

呆気にとられていたネットワーク研究会の面々が未だ一言も発せずに硬直していると廊下から楽しげな声が聞こえてきた。

 

「そう言えばアスナ、おでこは?」

 

一呼吸置いて明日奈の「きゃっ」と跳ねた声がする。

 

「前髪あげないでっ」

「あーあ、まだ少し赤くなってるな」

 

少しの静寂の後、今度は「ひゃっ」と先程より艶をおびた息を呑む声がした。

 

「そ、そんな事しても、治らないよ……それに、ここ、学校なんだから」

「誰もいないからいいだろ」

 

確かに放課後のこの階はネト研が活動拠点としているパソコンルームしか使用していない為、廊下には人気が無いのだろうが……ここに俺達がいるんですけど……と全員が心の内で呟いた声が二人に届くことはなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
「前書き」を書く為に確認したのですが『キスのタイミング』も
ご本家(原作)様の単行本発売を祝しての投稿でしたね。
完全に偶然ですが、ちょっと「おおっ」と思ってしまいました(苦笑)
クレープ屋さんのお仕事っぷり、見ていて飽きません(笑)
ただ残念ながら「自分にも出来るかなぁ?」とは、微塵も思いませんが……。
では、次は一週間後の通常投稿でっ


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来訪者

既に和人と明日奈が夫婦となり、息子の和真(かずま)も四歳になっています。
微妙に『みっつめの天頂物』とリンクしておりますが、時間軸的にはこちらの方が
先だと思います。
もちろん未読でも問題ありません。


基本、昼休憩の時間設定は個々の自由だが、この研究所で働くほとんどのスタッフが多少の時差はあるものの昼の十二時近くになると各の研究室や実験室からこのスタッフルームに戻って来る。

それぞれ抱えているプロジェクトは違っていても、スタッフルームで会えば互いに情報を交換したり別の角度からのアドバイスを貰ったりとハイレベルな刺激を受けられる為、一癖も二癖もあるメンバーばかりが集まっていると言われているこの研究所でも自然と交流が深まっているようだ。

そんなスタッフルームに着用している白衣とは正反対の漆黒の前髪を掻き上げながら入室してきた和人はすぐに自分のデスクのイスへドサリ、と少々乱暴に腰を降ろした。

午前中に今、手がけている開発で納得のいく成果が出なかったのか、疲れたように長く息を吐き出してからスタッフルームに戻ると必ずチェックする携帯端末へ手を伸ばす。仕事中は余計な機器類を持ち込めない為、ここで働く研究スタッフの全員が私物のPCや携帯端末はこの部屋の自分のデスクに置きっ放しだ。

しかし今日はその画面を視認するより先に「桐ヶ谷君」という先輩女性スタッフの落ち着いた声で意識が逸らされた。

面倒くさそうに首を巡らせ声の元へ振り返れば自分より五つ程年上(推定)でここの女性スタッフの姉御とも言うべき存在の「松浦女史」が何やら楽しそうに目を細めている。女史の右後ろにはやはり先輩の女性スタッフが一人、左後ろには和人と同僚の女性スタッフ、その三人に隠れるように最後方には後輩の女性スタッフが興味津々といった瞳を輝かせフォワードの松浦に全てを委ねるように全幅の信頼を寄せて彼女の動向を見守っていた。

どの面々も仕事をする上では信頼と尊敬に値する人物達だが、こと休憩時間での接触となると女性特有の好奇心を満たす会話がほとんどだと学習している和人は自然と眉間に皺を寄せる。

 

「何ですか?」

 

そうは言っても相手は職場の先輩なので、最低限の礼儀はわきまえて言葉を返した。

会話に応じる気があるとわかると、松浦女史はそこで第一関門クリアを示すように今度は片方の口の端を上げてから「ふふんっ」と上位の立場を示す笑みを浮かべる。

 

「今日はどうしたのかな?」

「何がです?」

 

こちらの出方を覗っているのか、どうとでも取れる問いかけに和人もまた質問形式で答えた。

 

「おやおや、わかってるくせに。いつも君が大事に抱えてる宝箱が今日は見当たらないよね」

「宝箱?」

「そう。ここのスタッフの間ではそう呼ばれてるの知らないのかい?」

 

そこで和人は「はあ」と気のない返事を溜め息と共に吐き出すが、これは知らなかった事の肯定というよりは随分と大げさなネーミングへの呆れを表しているようだ。

 

「君の突拍子もない着眼点や常識破りの発想力はあの宝箱のお陰に違いないって半ば本気で信じてるスタッフも結構いるんだよ」

 

松浦女史はそう告げてから再び可笑しそうに「ふっ」と笑った。

この研究所の女性メンバーは誰もが世間一般では「才媛」と呼ばれる部類の人間なのだろうが、和人にとっては最も近しい間柄で十代半ばから自分の傍らに居続けてくれている一人の女性のお陰で「才媛」という存在にはかなりの免疫が付いてしまっている。普通の男性スタッフならば複数の女性スタッフを引き連れた松浦女史を目の前にして平然とぐだぐだな受け答えをする度胸など持ち合わせていないのが大多数だが、今回ばかりはスタッフルーム内の男性達は女史に対する和人の態度に驚嘆するよりも話の内容に耳をそばだてていた。

一方、和人は女史が問うてきた……と言うよりはこの場のほぼ全員が気に掛けている内容を理解して更に眉間の皺を深めて己に向けて嘆息する。

宝箱にそんな効力があるとしたら十年近くその恩恵にあずかっている自分の今の状況はかなり不甲斐ないと言いたいのか、唇が自嘲気味に歪んだ。

 

「弁当箱の事なら、今日はたまたま持って来なかっただけです」

「たまたまぁ!?……うっそだー。だって、桐ヶ谷くんはこの研究所で働くようになって私と同じ六年目、その間お弁当持ってこなかった日ないよねっ」

 

どうにも我慢が出来なかったのか、松浦女史の左後ろの和人の同僚が素っ頓狂な声を上げた。

 

「ない……って大げさだな」

「ないよ、絶対だよ。お弁当箱じゃなくても、ちゃんと途中で買ってきてたりしてたもん。私が出張中や有休の時もチェックは他の人に頼んでたから統計に間違いはないよっ」

「お前は……一体何の為にそんなデータを取ってるんだ」

「ちなみに手作り弁当の時とそうでない時の割合も出してるからっ。奥さんが妊娠出産関連で入院してた時を除けばお弁当の確率は九割を超えてるんだよっ。桐ヶ谷くんトコ共働きだからあのスゴイお弁当を、奥さんはほぼ毎日二人分作ってるんだよねっ?」

 

既に何らかのスイッチが入ってしまった同僚は途切れることなく「尊敬するよ、出来れば私の分も作ってくれないかなーっ、て思っちゃってるよ」と喋り続けている。そんな彼女の声を遮って松浦女史が「とにかくね」と仕切り直した。

 

「いつもこのスタッフルームの男性陣のみならず女性陣からも注目の的となっているお弁当を桐ヶ谷君が持参していない。しかも途中で調達する余裕もないという事態に私達は非情に興味があってね」

 

まるで起こるはずのない現象を目の当たりにしたような研究者の探究心溢れる輝きを纏った松浦女史の瞳がまっすぐに和人を捉えている。疑問を抱くとその根源が気になってしまうのは和人にも理解できる感覚だが、その対象物とされるとは、と予想もしていなかった事態にいんかせん申し訳ない気持ちが生まれた。

 

「そんな大層な理由や原因を期待されても困るんですけど。単に妻に作る余裕が無かっただけで、加えてオレも少々寝過ごしたので買う時間がなかっただけです。今朝は全体ミーティングがあったので遅れるわけにもいかず……たまには研究所のラウンジで食べるのもいいかな、と」

 

薄く笑う和人に松浦女史が一歩を踏み出してくる。

 

「まあ、そう言われてしまうと我々はそれが真実かどうかを確かめる術はないな」

「本当ですよ……」

「嘘とは言っていないさ」

 

そこで再び同僚の女性スタッフが訳知り顔で頷きながらも人差し指だけを天井に向けた。

 

「桐ヶ谷くん、この際ハッキリ言っちゃおうよ」

「いやいや、ハッキリも何もこれ以上何を言えって言うんだ……」

「だ、か、ら、さ……ついに、やっちゃったんでしょ?」

「ついに?」

「私から言うのはちょっとなぁ……」

「いいから言ってくれ。頼むから」

 

段々と会話の内容が見えなくなってきた和人が痺れを切らすように同僚を睨み付ける。しかしキツイ視線を向けられたにもかかわらず、彼女はにまにまと笑いながら立てていた人差し指をくるんっ、と回した。

 

「桐ヶ谷くんてさ、この研究所で働き始めたのとほぼ同時に結婚したよね」

 

いきなり数年前の事実を告げられ、その意図はわからないがとりあえず和人は素直に首を縦に動かす。

 

「披露宴は上の人しか参列してないし、職場の皆でお祝いの場を設けようって提案してたのに日程や場所決めで手間取ってたら奥さん妊娠しちゃって、結局ここにいる全員、奥さんにもお子さんにも会ったことないんだよね」

「まあ……そう、かもな」

 

多少正確性には欠けるが、ほぼその通りなのであえて否定はせず、話の続きを促した。

 

「でさ、普通新婚だと奥さんの画像とか、家族が増えれば産まれたお子さんの画像とか、家族みんなの画像なんかをデスクに飾ったり、携帯端末の待ち受けに設定したりするのに、桐ヶ谷くん、それもしてないでしょ」

 

同僚の少々自分基準な発言に対して、さすがにそれが「普通」だとは思えないが、言葉通り妻や今年五歳になる息子の画像を他人の目に触れるような行為はしていないのも事実、と頷き返す。

 

「そこで私はあるひとつの仮説を立てたんだよ」

「……と言うと?」

「桐ヶ谷くんの結婚理由は、料理はもちろん日常の生活面での不自由さを無くすのが要因であって、料理以外は特に取り柄も無い奥さんから少々強引に押し切られた妥協の結果なんだろうな、って」

「はぁっ?」

「だからね、桐ヶ谷くん、研究に打ち込める環境が欲しいのはわかるけど、愛の薄い結婚は色々問題が出てくるもんなんだよっ…………という事で……ズバリ、ついに、奥さんと大喧嘩したんでしょっ」

 

いまだ独身のお前が結婚云々を語るなっ、という周囲からの視線は完全に無視して仮説を立証したかのようにやりきった感いっぱいの満足げな彼女は最後の仕上げとでも言うのか、それまで天井に向けていた人差し指をピシッと和人に突き出した。

しかし結果的には松浦女史の真横ににゅっ、と伸びたそれはやんわりと女史の手で下に降ろされる。

色々と指摘したい部分があり過ぎて頭を抱えたい気分の和人に松浦女史も苦笑いの表情だ。

 

「とまあ、さすがにそれは極論すぎると私も言ったんだけどな。新婚当初から奥さんの存在を誇示するのがあの豪華すぎる弁当だけっていうのがどうも不自然すぎて、我々も仕事の息抜きを兼ねて色々と推論を出し合うのが楽しくてさ」

 

才媛達が疲弊した脳のリフレッシュに他人の夫婦関係をネタにしていたとは露ほども知らなかった和人の頬がひくり、と震える。

 

「オレ達夫婦ばかりが標的に?」

「まさか、ちゃんとうちの弟の女癖の悪さの根拠なども仮説の議題項目には上げているさ。しかしあいつの場合、ただの事実だから推論の余地があまりなくてね。脳の活性化に貢献できる素材としては不向きだな。そこへいくと桐ヶ谷夫妻はミステリアスな匂いがするし、突っ込んで言えば敢えて奥さんの存在を隠そうとさえしているように思えるから思考の余地はより深く、広く、私の前頭連合野にとても良い刺激を与えてくれる」

 

自分の思考やひらめきの為には弟の女性交友や後輩の夫婦関係すら利用するのか、と和人が脱力して両肩を下げ、自分の同僚である松浦女史の弟が使っている隣のデスクに視線を送っていると松浦女史は続けて「他にも色々と推論があるんだが、聞きたいかい?」と小声で聞いてきた。それを全力で拒むと「だったら……」と再び不敵な笑みを浮かべて更にもう一歩、距離を詰めてくる。

 

「せめて画像とか、ああ、馴れ初めでもいいか。桐ヶ谷くんほどの人間をその若さで結婚まで決意させ、尚且つ、日々、あの手の込んだ料理を生み出す女性に私はとても興味があるんだ」

 

すると今度は和人が一旦目を閉じて余裕の笑みを浮かべる。再び開かれた漆黒の瞳は女史の放ったひとつの単語に反応して何かを懐かしむように穏やかだった。

 

「決意なんて、そんなのとうの昔に済ませてます。結婚できる環境が整ったからやっと実行に移しただけで……」

 

そう言いながら手にしていた携帯端末を自分の元へと引き寄せ、触れると同時に起動したトップ画面に目を走らせた瞬間、周囲の視線も先輩女史の存在も忘れて勢いよく立ち上がる。すぐ近くの男性スタッフに「受付からオレにコールが入ったら既に向かったと言ってくれ」と頼むやいなや携帯だけをつかんでスタッフルームを全速力で飛び出すと、ちょうどすれ違いざまに入ってきた女性スタッフの肩にぶつかった。

「すまないっ」と声を飛ばし、片手で謝罪の意を示しながも足を止めず、駆けていく和人を驚きの表情で見送った女性スタッフは「いつも温和な桐ヶ谷さんが珍しいですねぇ」と言いながら入ってくる。そして部屋にいた全員が自分を見ている異様さに臆すことなく目当ての女性を見つけると声を上げた。

 

「松浦さーん、弟くんの彼女さん、ついに職場まで乗り込んできてちょうど戻って来た松浦弟と話し込んでるって目撃情報入りましたー」

 

その朗報に身内にあるまじき野次馬さで瞳を輝かせた女史は大層興味を引かれたらしく「ほうっ」と口角を吊り上げる。

 

「しかも、もの凄い美人さんらしいです」

 

追加情報を告げた時、かぶるように和人のデスク近くの内線が鳴った。和人に頼まれていたスタッフが応対すると、どうやら予告通り受付から和人を呼び出す内容だったようで、既に向かった旨を告げて「ちなみに誰が面会に来てるんだ?」の問いを口にした男性スタッフがその答えを聞いてフリーズする。数秒後、とっくに受付との会話を終えている彼がようやく震えながらも口を動かした。

 

「今……受付に桐ヶ谷の奥さん、来てるって……」

 

途端にガタガタッとスタッフ全員が立ち上がる。たった今、スタッフルームに入ってきた彼女は「松浦弟の彼女と桐ヶ谷くんの奥さんのマッチングなんて見応えありますねー」と軽やかにきびすを返した。

 

 

 

 

 

初めて和人の職場である研究所を訪れた明日奈が若干緊張気味の歩みで受け付けに向かって足を進めていると、すぐ後ろから「明日奈さん」と聞き覚えのある声をかけられる。

すぐに立ち止まり振り返ってみれば、そこにはスーツ姿の和人の同僚が数年前と変わらぬ柔和な笑みを浮かべていた。

 

「松浦さん?」

「あれ?、僕の事、忘れちゃいましたか?。僕は後ろ姿でも数年ぶりの明日奈さんがわかったのに」

「ごめんなさい、そういうわけではないんですけど。あの頃はスーツ姿を拝見した事がなかったので、ちょっと自信がなかったと言うか……」

「それでも、この研究所で貴女を『明日奈さん』と呼ぶ人間なんて僕くらいだと思いますけどね」

「……そうですよね」

 

数年ぶりに顔を合わせた和人の同僚は相変わらず丁寧な物言いだが、どこか親しみを込もった口調で明日奈を「明日奈さん」と呼び、彼女が和人の妻だと知っている数少ない人物だ。同じ研究所に勤める松浦女史の弟と言うことで姉と区別する為に所内では「松浦弟」と呼ばれているが、明日奈と知り合ったのはこの職場で働く前の研修期間中、研修者用マンションに暮らしていた頃だったから明日奈は普通に彼を「松浦さん」と呼んでいた。

久々の再会で当時を思い出したのか松浦の目がより優しげに明日奈を見つめる。

 

「まあ、あの頃はスーツなんて着る必要もありませんでしたから。今日は午前中、第一分室に行っていて、こっちは午後からなんです。途中、どこかで昼食を、と思ったんですけど、どこも混んでいたので結局ここのラウンジで済ませようと。でも、そのお陰で明日奈さんに会えたわけですから今日はついてるかもしれません。それで今日はどうしたんですか?」

「あの和人く……いえ、主人に届け物を……でも研究所にお邪魔するのは初めてなのでちょっと心細かったんです。松浦さんに会えてよかった。実は松浦さんにも持って来た物があるんですが……ご本人に直接会えるなんて私もついてます」

 

そう言って大きめのトートバッグの中からお弁当箱サイズの容器が入っているらしい紙袋を取り出した。心当たりのない松浦は小首を傾げる。

 

「僕にですか?」

「はい、毎年夏に作る度に思い出していたんですが、主人に渡してくれるよう頼むのも悪いかな、って思って」

 

言いながら袋の中身を取り出すと、そこには透明なプラスチック容器に色とりどりの野菜が詰まっていた。

 

「お好きでしたよね、夏野菜のマリネ」

「……覚えていて……」

「そりゃあ、あの頃、色々と差し入れしましたけど『美味しかったです』って言って下さったのコレだけだったから」

 

明日奈からの少々恨みがましい目つきに松浦は慌てて言葉を紡ぐ。

 

「すみません、全て美味しかったんですけど、僕、基本的に女性からしてもらった行為への賛辞は送らない主義なので。それに毎回『美味しかった』って言うと桐ヶ谷が不機嫌になるでしょう?」

 

言われた言葉全般が同意しがたい内容だったのか無言のまま明日奈の眉根が僅かに寄った。それに気づいて松浦が堪えきれずにクスッと笑う。

 

「明日奈さんに関する事だと桐ヶ谷は過剰反応しますからね。とにかく桐ヶ谷を呼び出さないと。いつまでもここで僕と喋っていると……ほら、あの時なんかすごかったじゃないですか」

 

そう言って「ちょっと待ていて下さい。受付を通した方が確実なので」と言い残して明日奈に背を向け足早にインフォメーションデスクに駆け寄り手早く代行を務めてくれる松浦の後ろ姿を見ながら、彼から言われた「あの時」とは何の事かとほんの数刻考え込んだ明日奈はある出来事を思い出して、戻って来た松浦に笑顔を向けた。

 

「思い出しました。私が毎週末に研修者用マンションを訪れていた時の事ですよね、一度だけ和人くんが帰宅していない日があって」

「ええ、そこで隣部屋だった僕が桐ヶ谷の部屋の前でぽつん、と立っていた明日奈さんに声をかけたんです。『やましさゼロパーなんで、僕の部屋で待ちますか?』って……本当にいつも差し入れをしてもらってる御礼のつもりだったんですよ。そうしたら明日奈さんは桐ヶ谷が今、全力で走ってこっちに向かってくれてるみたいだから、って……」

「そうそう」

「だから『桐ヶ谷と連絡が取れたんですか?』って聞くと、首を横に振って……でも、それからとても嬉しそうな笑顔で携帯端末を見つめて言いましたよね」

 

そこで明日奈は当時を再現するようにバッグから携帯端末を取り出して画面をチェックする……一瞬瞠目してからあの時の同じように「ふふっ」と幸せいっぱいに頬を染めた。

 

「……すっごい心拍数になってる」

 

その表情を見て全てを悟った松浦もまた苦笑しながら「受付で呼び出す必要なかったですかね」と呟く。しかしそれを聞きとがめた明日奈は「そんな事ありません」と言って頭を下げた。

 

「お気遣い有り難うございました。和人くんがラボにいる時は電波が遮断されてしまうからデータ受信は出来ないんです。同様に彼も端末を持っていないので私の居場所は確認出来ないし……」

 

要は和人の手元に携帯端末がなければ受付に頼むしかなかったのだと言いたかった明日奈だが、松浦はいつもの和人の行動パターンを思い出して可笑しさに口元を緩める。

 

「それででしょうね。桐ヶ谷のヤツ、スタッフルームに戻ってくるとまず一番に端末チェックしてますから。奥さんの居場所がマップ表示される起動画面なんて、下手な待ち受けの画像よりよっぽどだと思いますよ」

「私はとっくに慣れてますから……それに私も時間が空くと、つい彼の心拍数を眺めちゃうの、癖になってるんで……」

 

少し恥ずかしそうに頬を染める明日奈を見て松浦は今度は穏やかに微笑んだ。

二人を知らない者が聞いたら思わず耳を疑う夫婦間の携帯事情だが、それを告げる明日奈の笑顔を目の前にしてしまうと、女性に対して今ひとつ本気の恋愛感情が抱けない松浦でさえほんの少しの羨ましさが湧いてくる。

そんな研修期間中も隣同士の部屋で、今現在、スタッフルームでもデスクが隣り合っている同僚の最愛と言って過言ではない女性を見つめつつ、渡された紙袋を両手で受け取った松浦は他意のない笑みを返した。

 

「ともあれマリネを有り難うございます。早速ランチメニューと一緒にラウンジでいただきます……と言いたいところなんですが、研究所内で蓋を開けると強奪される危険性があるので、今夜、自宅でゆっくり味わいます」

「……強奪、ですか?」

「ええ、文字通り、奪われるんですよ。桐ヶ谷は慣れてるんでしょうね、毎回鉄壁のガードで完食してますが。折角の好物です、奪われるのはしゃくですから……ああ、でも立場が逆なら僕も奪いに行くかもしれませんね……」

「っ、はあっ、はっ……誰が……誰を奪うって?」

 

突然、明日奈の目の前が真っ白な布でいっぱいになる。

少し目線を上げれば見慣れた細身の肩が大きく上下に揺れていた。

一方、いきなり自分の前に割り込んで完全に妻の姿をその身で隠した同僚の焦りっぷりと威嚇の視線にあの時の記憶が完全に重なった松浦は呆れ半分、可笑しさ半分で眉尻を下げる。

 

「桐ヶ谷…………君は、所内をエレベーターも使わずに走ってきたんですか?」

「タイミングが悪くて……待ってられなかったんだよ……それより奪うって……」

「明日奈さんが作ってきてくれた料理ですよ。君のように死守しつつ食べるなんて芸当、僕には出来ませんから奪われないよう家に持って帰って食べます、と言っていただけです」

 

そう言って軽く紙袋を持ち上げると和人の肩越しに明日奈も口を添えた。

 

「研修時代にお分けした時、『美味しかった』って言ってもらえた野菜のマリネ。和人くんも昨夜食べたでしょ」

 

すると和人はクルリと身体ごと振り返り松浦に向けた鋭さとは全く別物の眼差しを妻に落とす。

 

「ああ、オレだってあのマリネ、美味いって言ったけど」

「うん、有り難う。まだお家にあるから今日のお夕食にも食べる?、あ、でも、あれは和真くんも好物だから結構食べるのよね。ちゃんと和人くんの分、取り分けておかないと……」

「出来るだけ早く帰るよ」

「無理はしないでね、それから……」

 

再びトートバッグの中に手を入れて今度は和人も見慣れている包みを取り出した。

 

「今朝は寝過ごしちゃってゴメンなさい。起こしてくれればよかったのに」

「いや、オレも結構ヤバイ時間に飛び起きたから……」

「でも、わざわざユイちゃんに私を起こさなくていいって言ってから家を出たでしょ」

 

そこで和人は明日奈の耳元に顔を寄せる。ついでに両手で細腰を引き寄せてから少々楽しげに自分の妻へ睦言のような小声を吹き込んだ。

 

「だって今日は仕事、休みなんだろ。和真も昨日からオレの実家に行ってるし……昨夜は久々に無理させたからさ……」

 

昨晩の長い房事を思い出したのか、明日奈の顔全体がみるみるうちに朱一色に染まる。「もうっ」と眉を吊り上げるが、荷物を抱えている両腕ごとホールドされているので、羞恥でじわり、と滲んだ涙ごしに夫を睨むしか出来ない。弱々しく睨まれた和人は小さく脇息してから再び顔を妻に近づけた。

 

「そういう顔、外ではするなって言ってるのに……」

 

言い終わるやいなや明日奈の瞳に溜まった涙を慣れた仕草で吸い上げる。驚きで「ふひゃっ」と言葉にならない声を上げた後、明日奈はどうにか震える声を吐き出した。

 

「か、かっ、和人くんだって、そういう事っ……」

「今朝、家を出る時、キス出来なかったからその分だよ。それともここで堂々といつもみたいなキスをしていいのか?」

 

和人が悪戯をしかける時に見せる特有の笑顔を間近で見て、明日奈がぷるぷると首を何度も横に振っていると、くっくっ、と楽しげに笑う声が少し先から耳に届く。

 

「本当に君は明日奈さんの事となると相変わらずですね。そろそろ周りを見て下さい、桐ヶ谷の豹変ぶりにみんな驚いてますよ」

 

ハッと我に返った明日奈が和人の腕の中で首を巡らせると、受付前にはずらり、と白衣のスタッフが二重三重の人垣を作って自分達に注目していた。

 

「ひゃぁっ……かっ、和人くん、離してっっ。皆さんに見られてるからっ」

「そんなの、明日奈がこの研究所に来た時点でこうなる事はわかってたし。だからオレのだって認識させようとしてるんだけど」

「それはもう十分に伝わったと思います」

 

松浦のいつもの笑みに少しだけ困惑が混じっている。しかし未だ明日奈を抱いたままの和人は振り向いて同僚の言葉に否を唱えた。

 

「だいたい女性に関しては来る者は拒まず、去る者は追わず、のお前でさえ明日奈に対しては随分と態度が違うよな」

「ああ、それで警戒されてたんですか。でもそれは桐ヶ谷が懸念しているような感情ではありませんよ。だって明日奈さんは僕の一番になりたいと思う事は絶対にないでしょう?」

 

言われて明日奈は自身に問いかける……自分にとっての一番は……迷うことなくたった今、自分を包んでくれているこの人だ……と答えが出れば無意識にその胸へと頬がすり寄っていき……するとすぐに明日奈を抱く和人の腕に力が籠もる。二人の疎通を言葉で確認できなくとも松浦には雰囲気で伝わったのか当然のようにひとつ頷いてから自らの内を語った。

 

「だから明日奈さんは安心できるんですよ。女性というのは好意を寄せている男性にとって自分の立場を一番にして欲しいと願う人が多いですが、残念ながら今のところ僕の一番は仕事なんです。だから僕も相手の一番を要求したりはしません。どうもそれを理解してくれる女性が現れず……」

「だからとっかえひっかえなのか……」

「人聞きが悪いですね、桐ヶ谷。単に一番には考えられない、と告げると離れていく女性ばかりだというだけの事です」

「賛同は出来ないが、お前の女癖の悪さの原因はわかったよ。とりあえず折角明日奈が持って来たんだ、マリネは家でゆっくり食べてくれ」

「和人くんたらっ、そんな言い方して。松浦さんには研修時代からずっとお世話になってるでしょ」

 

自分の腕の中で未だ赤みの引かない頬を憤怒のせいにしてしまいたいのか、ぷくり、と膨らませ眉根を寄せている妻の顔に視線を戻した和人はお小言を頂戴しているにもかかわらず、ほとんど無意識にふっくらと色づいている頬を唇で食む。

 

「和人くんっ」

 

当然、怒声を上げる明日奈だったが、それを気にする素振りもなく「ああ、悪い」と思ってもいないだろう口ぶりで謝罪の言葉を落とし、「だって美味しそうだったからさ、つい……」などと続けている和人を見かねて松浦が歩み寄って来た。

 

「いい加減にしないと、本気で明日奈さんに叱られますよ。ここのスタッフは海外経験も豊富な者が多いので、ある程度のスキンシップは見慣れていますが、桐ヶ谷がそういう事をする人間だとは思っていなかったでしょうから数日は話題の中心になりますし」

「ふぇぇっっ」

「君はともかく、明日奈さんを無責任なネタにされるのは面白くないでしょう?」

「まぁ、確かに……」

 

渋々といった表情で明日奈を自分の腕から解放した和人は今更にぐるり、と周囲に視線を巡らせてから言い放つ。

 

「この場にいる全員の顔は覚えた。妙な話や画像が出回ったら発信源は突き止めるからな」

 

その言葉全てが嘘やはったりでない事はこの研究所での和人の働きを知っている者なら誰もが疑うことなく納得する。一瞬にして緊張感のある静寂がフロアに満ちた時、それを破ったのは凛とした、それでいて慈愛に満ちた声だった。

 

「一緒にお仕事している皆さんなんだから、失礼な事言ったらダメだよ」

 

そう和人に告げてから、軽く着衣を整え直した明日奈は改めて夫の隣に立ちふわり、と極上の笑みを振りまいた。

 

「ご挨拶が遅れ申し訳ありません。初めまして、桐ヶ谷和人の妻です。主人がいつもお世話になっております」

 

丁寧なお辞儀と共に長い栗色の髪が肩からサラサラと滑り落ちる。洗練された仕草とシンプルながら上品なサマーワンピースからうかがえる抜群のスタイルの良さに男性陣のみならず女性陣までもがうっとりと見とれていると、その視線を弾くように和人が明日奈の斜め一歩前に身体をずらした。

そんな同僚の行動パターンにはすっかり慣れっこの松浦が同じように周囲を見渡しながら意味深げな笑顔を一人一人に送る。

 

「こちらの桐ヶ谷の奥様は僕も大変お世話になっている方なので、今後、皆さんが浅慮な行動を起こした場合、コイツが動く時は僕も全面バックアップに回りますから」

 

最後に浮かべた人畜無害と言いたげな甘い微笑みを見たその場のスタッフは一様に背筋が凍る思いを味わった。和人とはまた別の意味で松浦弟も人外レベルの逸才だからだ。

松浦の宣告をそれほど深い意味で受け止めていなかったのは明日奈くらいだろう、ちょっと申し訳なさそうに眉尻を下げて「松浦さん、いつも有り難うございます」と彼に向けて感謝を伝えると、和人が拗ねたように唇を尖らせる。

夫のそんな表情につい口元を緩ませた明日奈はそっと肩を並べて周りからは見えないようにその手を繋いだ。

 

「だって和人くんの苦手なマスコミ対応も助けてもらってるんでしょう?」

 

明日奈の口にした「いつも」のバックアップ内容に納得した松浦はわざと楽しそうな口ぶりを醸し出す。

 

「そうですね、今時、顔出しNG、インタビューNG、プロフ非公開の研究者なんてまずいませんから。本人と直接コンタクトが取れないからと、遠回しに僕へ接触してくる連中をあしらうのも結構疲れます」

「あしらうついでに相手から色々と情報を引き出してるだろ、お前は」

 

痛いところを突かれた和人が尖らせた唇を今度は反対に強めに噛みしめ半眼で睨み付けてから暗に借りを作っているばかりではないと訴えたが、明日奈は益々恐縮したように頭を下げた。

 

「本当にお世話になりっぱなしで……」

「いいですよ、そのお陰で明日奈さんからお裾分けをいただけるんですから」

 

見せつけるように紙袋を持ち上げた松浦に対して、和人は早口でまくし立てる。

 

「言っておくけど、それはおまけだからなっ」

 

言い切ってから自分の妻へ向き直り、繋いだままの手を持ち上げてその甲を親指で撫でた。

 

「弁当、わざわざ作って持って来てくれたんだろ」

「うん……迷惑じゃなかった?」

「まさか。午前中、調子が出なかったから助かった」

 

そう言って妻からいつもの包みを受け取った和人は心底嬉しそうな笑顔を明日奈に向け「ありがとう」と告げる。その言葉を受けてふわり、と微笑んだ彼女に、続けて「明日奈、自分の昼食は?」と尋ねた。

 

「私は寝坊したから遅めの朝ご飯だったし、それにこれから約束があるの」

「休みの日にわざわざ会うのか?、リズ?」

 

そこで首を横に振る妻を見て、優しさに溢れていた和人の瞳が僅かに硬くなる。微妙な変化も見逃さない明日奈は和人を安心させるように片方の手を伸ばし、全速力で入ってきた為に四方へ飛び跳ねている夫の髪の毛先を手櫛で整えて最後の仕上げにちょんっ、と細い人差し指の腹で物言いたげな夫の唇をつついた。

 

「お会いするのはお仕事の関係で知り合ったご婦人です」

 

生真面目な口調でそう明かしてから表情を崩す。

 

「この前話したでしょ、慈善事業の件でご依頼くださった頭取の奥様。当初の見込みより良い方向に話がまとまったみたいで、とても喜んでもらえたの。報酬は既にいただいてお仕事自体は完了してるんだけど、今後もお付き合いを続けさせて欲しいっておっしゃっていただいてね……私が料理好きな事を知ってヨーロッパから珍しいお野菜を取り寄せたから色々と分けて下さるって」

「おお、S級食材」

「ふふ、そうかもね。だからこれからご自宅にお邪魔するの」

「相変わらず明日奈さんの交際関係は底が見えませんね」

 

会話を聞いていた松浦が感心したように呟くが、同様に明日奈の話を聞き取っていた周囲のスタッフの顔は硬直しているか痙攣しているかのどちらかだった。特に和人の妻の人物像を色々と想像していた同じスタッフルームの面々は先刻の『料理以外は特に取り柄もない』論と桐ヶ谷夫婦の『奥さんから強引に押し切られた愛の薄い結婚』論に「どこがだよっ」と心の中でツッコミを入れている。そして当初は松浦弟の彼女と和人の妻の二人がやって来たと思っていたスタッフ達が松浦弟と親密に話をしている女性こそが和人の妻だとわかった時点でただ者ではないと感づいたのは、恋愛がらみでもなく、かと言って仕事がらみでもない女性をあの松浦弟が認めているという事実が十分驚嘆に値するからだ。

そんな周囲のビビリ具合もよそに明日奈は恐縮した笑みを返した。

 

「古い友人達が色々と個性豊かな面々なので、そのツテで繋がりが広がるだけで私の力ではないんですよ」

「いくらご友人を介しているとしても、仕事の面で成果を出していなければその後の関係は続かないでしょう?」

「それはそうかもしれませんが……」

「明日奈さんは仕事の能力と、仕事相手とのコミュニケーション能力の双方が高くてバランスがいいので人との繋がりが広がっていくんでしょうね。桐ヶ谷に見習って欲しいものです、こいつはバランスが悪いので」

「松浦も意外とバカなんだな。オレのバランスが悪いから明日奈が必要なんだろ」

「そうきますか」

 

気を許している者同士の軽口の応酬をニコニコと楽しげに聞いていた明日奈が思わず口を挟む。

 

「私にとっても和人くんは必要な人なので……」

「……はいはい、確かに僕がバカでした。本当にバカな事を言ったと、今、心の底から後悔してますよ」

 

少し気恥ずかしそうに告げてくる同僚の妻のあまりにも可愛らしい表情に自然と目を細めるとすかさずその夫が、見るなと言わんばかりに身体をずらしてきた。その威嚇行動にさすがの松浦も「いい加減にして下さい、桐ヶ谷……」と言いかけた時だ、自分の背後から地底より湧き上がってくるような不気味な声が「ふふふふふっ」と近づいてくるのに気づく。

聞き覚えのある声にすぐさま振り返れば、キラキラを通り越してギラギラと形容するのが最もふさわしい程に目を輝かせている自分の姉が珍しくお供の女性スタッフを引き連れずに単身で自分達のすぐ傍までやって来ていた。多分、松浦姉の取り巻き達はこれまでの松浦弟と和人、そして明日奈のやり取りを聞いて気後れしてしまったのだろうが、別に普段から松浦姉が自ら望んで彼女達を集めているわけではなく、その姉御肌的な気質と彼女の才能に魅了された女性スタッフ達が自発的に寄ってきているだけなのだから松浦姉としては何の躊躇いも感じていない。

一方、弟の方は先程の和人の行動が自分から妻を隠す為ではなく、自分の姉から守る為だと瞬時に理解し「面倒な人に目を付けられましたね」と表情を曇らせた。

明らかに招かれざる客だと言わんばかりのオーラを放っている弟と後輩の後ろに秘された明日奈に向け、松浦姉は好奇心いっぱいながら確実に獲物を捕獲をすべく狙いを定めた獰猛な獣の視線を送り、牙が現れそうな口元をゆっくりと開く。

 

「本当にバカな弟が迷惑をかけてすまないね。世話になっている弟の姉として桐ヶ谷夫人に挨拶をしたいのだが?」

 

女史の目論見通り、姉という単語に明日奈が反応を見せる。小動物ならばピコピコと耳を動かしただろう驚きと疑問と高揚感に満ちたはしばみ色の瞳で和人の背から斜めに顔を覗かせた明日奈が「お姉さん?」の問いを薄い花唇から零した。

 

「顔を出すなっ、明日奈」

「ダメですっ、明日奈さん」

 

同時に上がった男二人の焦り声が耳に届くよりも早くターゲットをロックオンした猛獣が片方の手を伸ばす。

 

「初めまして、桐ヶ谷夫人。私は松浦の姉なんだ」

 

社交性の高い明日奈が自分の目の前に出された手を、しかも和人の同僚であり自身も知人である男性の姉と名乗る人の手を無視するわけもなく、ほぼ条件反射的に己の手を差し出した。握手を交わす……と思われた松浦女史の手は明日奈の手の甲を通り過ぎ、ガシッとその細い手首を掴む。

 

「ええっ?」

 

驚きで咄嗟の判断が追いつかない。女史は巣穴から小動物を引っ張り出すように素早く和人の後ろから明日奈をグイッと連れ出すとその全身を一瞬で眺めてから、自分の懐まで引き寄せて強引に抱きしめた。

呆気にとられていた和人と松浦弟が未だ呆然としている明日奈の代わりに揃って「あ゛あ゛ぁっ」と驚きとも怒りともつかない声を吐き出す。

 

「はっ、離せっ、今すぐ明日奈から離れろっ」

 

既に同じ職場の先輩に対する敬語も抜け落ちた和人が明日奈の後ろから必死の形相で女史に訴えかければ、反対に女史の後ろにいる松浦弟も「ダメですっ、姉さん。明日奈さんはノーマルな一般人なんですよっ」と姉を叱咤した。

そんな前後からの雑音など右から左に聞き流した女史は恍惚とした表情でしっかりと明日奈を堪能し続ける。

 

「ああ、華奢なのに骨張っておらず、ほど良い弾力性としっとりとした肌触り。胸部と臀部のフォルムと重量感もとても良い。細く艶やかな髪に神の御業のごとき完璧な顔面における個々のパーツの美しさと配置の見事な比率。これがノーマルだって?。バカも休み休み言え、我が弟よ。このきめ細やかな細胞が内にまで広がっているかと想像するだけで身震いが止まらないよ。私は桐ヶ谷夫人の全身をくまなく隅々まで赤裸々に暴きたい」

 

賛辞だとは思うのに、ひゅうっ、と乾いた空気だけが明日奈の喉を通り過ぎ、言葉を紡ぐ余裕のない妻の後ろから噛みつきそうな形相で和人が声を荒げた。

 

「それをしていいのはオレだけだっ」

 

途端に松浦弟が痛む頭に片手を当てる。

 

「桐ヶ谷も、そこを言い返さないで下さい。姉さん、念のために言っておきますが明日奈さんは研究素材ではありません」

「……ダメ、なのか?」

「ダメに決まってるだろっ」

 

和人が明日奈を取り返そうとその細い腰を抱え込んだ。

 

「どうしても?」

「どうしても、です」

 

松浦弟が諦めを促すように姉の肩に手を乗せる。

欲しいオモチャを買ってもらえない幼児のように眉根を寄せて不機嫌な口元となった松浦女史は最後のあがきとばかりに尖らせた唇を明日奈の耳元に寄せた。

 

「ならば、せめて互いの連絡先を交換しよう」

 

ささやくほどの音量だったが、しっかりと明日奈に身を寄せていた和人にも聞かれてしまい、明日奈の肩を挟む形で互いににらみ合う。

 

「却下だっ。金輪際、明日奈をその目に映す事も、声を聴く事も、肌に触れる事も絶っ対にさせないっ」

 

和人の叫びが研究所一階、受付前フロアーに木霊した。

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇ お ま け ◇◇◇◇◇

 

 

自分が桐ヶ谷の祖父母宅に一泊している間、母が父の勤務先を訪ねた事を知った和真は目をまん丸くして驚きの声をあげた。

 

「えーっ、お母さん、お父さんのケンキュージョに行ったの?、ずるいっ、僕、前から行きたいって言ってたのにっ」

「えっと……ごめんね、和真くん。でもお父さんにお弁当を渡すだけだったから入り口までしか行ってないよ」

「今度行く時は僕も行きたいっ」

 

期待を込めて強請ってくる息子の目の前に和人は真面目な顔で近づいた。

 

「和真、お母さんはもう二度と研究所には来ないから」

「どうして?」

「どうしてもだ」

「うん、そうだよ和真くん。お母さん、これからはちゃんとお弁当作るし」

 

そこで少し俯いて何かを考えた和真は純真な瞳を母に向け、素直な疑問を口にした。

 

「お母さん、どうしていつもみたいに、朝、お弁当をお父さんに渡さなかったの?」

「えっ?、あ……あのね、ちょっとお寝坊さんして作るの間に合わなかったの」

「どうしてお寝坊さんしたの?」

「ふぇっっ?……うーっんと、えーっと……」

「お腹痛かった?……お母さん、病気?」

「ちっ、違うよ、元気だから大丈夫…………そうだね、病気じゃなくて、ちょっと疲れちゃってたのかな?」

「どうして疲れちゃったの?」

「ええーっ!」

「ねぇ、どうして?」

 

何を言ってもその先を聞きたがるのはこの年頃特有のものなのだろうが、深く原因を追及してくる好奇心に明日奈は困り切って眉尻を落とす。すると母親にそんな表情をさせてしまった事に何かを感じたのか和真はいきなり矛先を父親へと変えてきた。

 

「ねえ、お父さん、お母さんが疲れちゃったのはどうして?」

「…………」

「お父さん、お母さんの事なのに、知らないの?」

 

自分の父は母の全てを把握しているのだと信じきっていた瞳がわずかに陰る。少しの疑いさえ屈辱と感じた和人が少々ムキになって「知ってる」とボソリ落とせば、途端に和真のどうして攻撃が再開された。いい加減耐えきれなくなった和人がうんざりした顔で内緒話をするように和真と鼻が触れそうな位置まで近づく。

 

「知ってるけどお前には教えない」

「えー……」

 

母の事で父が知っていて自分が知らないのは我慢ができないのか、普段は聞き分けの良い和真が思いっきり不機嫌になる。しかし一拍おいてから眉を跳ね上げて今度は訝しげな半眼で父を睨み付けた。

 

「もしかして、お父さんが原因?」

「う゛っ……」

 

いきなりの核心を突いた問いに和人は上半身を引いて言葉を詰まらせた。その反応に手応えを感じたらしい和真はずずいっ、と逆に自分から父へと詰め寄る。

 

「お母さんに何したの」

「……」

「何したのっ、お父さんっ」

「……」

「お母さんにひどい事したんだっ」

「……」

「お祖父ちゃん達やお祖母ちゃん達や直葉ちゃんに言いつけてやるっ。お父さんがお母さんにお寝坊しちゃうほどひどい事したって」

「ちょっと待て和真。その言い方は色々とマズイ……」

「だったら僕も今度連れてってね、ケンキュージョ」

 

途端にご機嫌になった和真は振り返って明日奈に抱きついた。

 

「お母さんっ、お父さんが僕もケンキュージョに連れて行ってくれるって」

「うん……よ、よかったね、和真くん……」

 

自分と同じ位母の事が大好きな父がひどい事をするなど端から思ってもいなかった和真は研究所行きの約束を取り付けて満足そうに明日奈の腕の中で微笑んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
蛇足ですが、松浦女史は性的にアブノーマルな人なのではなく、人間的に
アブノーマルな人です(苦笑)
いえ、大なり小なりここの研究スタッフは全員アブノーな気がしますね。
個人的にはアブノーなキャラは魅力的で大好きです(笑)
〈おまけ〉では、これまでの作品の中で一番幼少期の和真くん。
中高生の時は「父さん・母さん」呼びですが、この頃は「お父さん・お母さん」です。
そして二人の遺伝子継いでますからね、当然、頭は回るでしょう(笑)
次回は帰還者学校の頃のお話となります。


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【「お気に入り」400件突破記念大大大大感謝編】肌恋しい

えっ?、本当に??…………カウント数の推移はチェックしていましたが
実際にホンモノ(笑)の数字「400」を目にすると、思わず疑ってしまうほど
なんて予想外で夢のような数字400!
うわぁぁっ、有り難うございますっ、有り難うございますっっ。
紅白餅でもまきたい気分ですよ!
お一人、お一人にお餅を手渡しできない代わりに、投稿という形で感謝の意を
表したいと思います。
けれど……すみません、今回は【感謝編】としての単品の作品ではなく、前回の
『来訪者』から数日後の小話となってしまいました。
それでも楽しんでいただければ幸いです。


『ネット社会』という単語が世に出回り始めた頃ならまだしも、娯楽はもちろん、教育や医療、経済、政治から日々の生活を支える物流、金融、情報など、形の有る無しは関係なく通信機能は今や人々の生活に深く根付いている。

一昔前ならば電車や飛行機を乗り継いで目的地まで赴かなくては進まなかった仕事も、画像と音声によるネットを通じてのリアル対談、もしくは仮想空間での多人数による交渉会議で済ますことが出来るようになった。

しかしそんな時代になっても……

 

「どうしてわざわざオレが出張しなきゃ(でばらなきゃ)らならないんだっ」

 

そう吐いて、和人は皺ひとつない真っ白なシーツの上に乱暴にボストンバッグを放り投げた。何の特徴もない真っ黒なバッグの中身は二日分の肌着と使い慣れた日用品、それに明日から着用するネクタイとアイロンのかかったワイシャツに白衣だ。到着した空港で夕飯を済ませ、そこからタクシーでホテルに辿り着いた現在、ホテル内もすっかり静まりかえっている時間帯だった。

 

「桐ヶ谷さん……そろそろ諦めて下さいよ。もうここまで来ちゃったんだし。それにその台詞、もう聞き飽きたんで……」

「お前に聞かせる為に言ってるわけじゃない。だいたい第三分室の不具合ならオレ達の研究所に映像を送って対処すれば済む話だろ。百歩譲ってウチから人を送るにしても、お前がいれば十分だ」

「お褒めの言葉として受け取りますけどね、多分、不具合は口実ですよ」

「口実?」

「こっちの分室の研究スタッフ全員が頑張っても解明できない不具合が起こった、と言うかでっち上げた?、これはもう桐ヶ谷さんに来ていただくしかないっ、て状況にしたかったんでしょうね」

 

同じ研究所で働く後輩の麻倉(あさくら)の推測にまるで意味がわからない、と益々眉間の皺を深くした和人だったが、和人の隣のベッドに腰掛けた麻倉はその反応に苦笑いで対応した。

 

「第三分室の皆さんの気持ちも分からなくはないです。桐ヶ谷さんはオレらが働く研究所(本部)の虎の子ですから。ちょっとやそっとの理由では上の人間も貸し出したりしないでしょ。加えて本人が超マスコミ嫌いで画像すら検索に引っかかんない謎の研究者とくれば、何とかして顔を拝みたい、その腕前を見てみたい、と思うのはある意味しごくまっとうな研究者魂なんじゃないですか?」

「迷惑だ」

「でしょうね。桐ヶ谷さんて泊まり込みとか嫌いですもんね」

「当たり前だ。オレは一旦に自宅に帰る、と言ったのに……」

「本気ですか?、二日間も飛行機で往復する気だったんですか?」

「……一日で終わらせる」

「それはそれでその腕前をオレっちも近くで見たいです」

 

第三分室が総力を挙げて作り出した……かもしれない不具合を一日で解決すると言い切る和人に麻倉までもが研究者魂に火を付けられたのか、キラキラと瞳を輝かせる。

 

「向こうさんだって面目ってのがあるでしょうから、いくら桐ヶ谷さんでも一日でなんとかなるレベルの不具合じゃないと思うんですが……」

「とにかくオレは一刻でも早く戻りたいんだ」

「仕事、そんなに詰まってましたっけ?」

「家に戻りたいって意味だよ。しかもこの状況は何だ?、どうしてオレがお前とホテルのツインルームを使わなきゃならないっ」

「仕方ないです。シングルの階が全室水漏れだって言うんですから。どちらかと言えばツインを確保したオレに感謝して下さい。ツインの空きがもうこの部屋しかないとかで、最初はダブルになる予定だったんですよ」

 

今回の宿泊先であるホテルに到着早々、予約しておいたシングルルーム二部屋が使えないと告げられたのは想定外だったが、麻倉はすぐにツインルームに変更してくれるよう掛け合ってくれたのだ。

 

「オレだって桐ヶ谷さんとダブルベッドに寝て、夜中に奥さんと間違われて抱きつかれるのは嫌ですからね」

「誰がお前なんかと明日奈を間違えるかっ……て…………ああぁっ」

 

不本意な出張に予想外のツインルームで色々と弱っていたのか、平時ならあり得ない事に和人がうっかりと愛妻の名を漏らす。

 

「へぇっ、奥さん、明日奈さんって言うんですか」

「忘れろ」

「はい?」

「他人の妻の名前を覚えたって何の得にもならないだろ」

「うーん、そうとは限りませんよ。世は情報社会ですからね。それが桐ヶ谷さんの奥さんの名前となれば、結構使い道はありそうな……あれ?、でも、奥さんって先日、研究所に来ましたよね?」

「よく知ってるな」

「知らない人間がいると思ってるんですか?、その認識の方がビックリです。オレ、その日、休みだったんですよねぇ、部屋でダラダラして過ごす位だったらオレも奥さん見たかったですよぉ。だーれも画像を撮ってないって言うんです。名前も教えてくれないし、話も聞かせてくれないんですから」

 

拗ねたように唇をアヒルのごとく突き出して上目遣いで職場の尊敬すべき先輩を見つめた麻倉は和人の目がスッと細くなった変化にドキリ、と心臓を跳ねかせた。

 

「麻倉、オレと松浦を敵に回したくなかったら明日奈の名前は忘れろ」

「な、なんだってそんな物騒な流れになってるんですか?、だからですかっ?、みんな口を噤んでるのはっ…………一体、奥さん、何系の人なんです?」

 

その問いかけに和人の脳内は瞬時にして『癒やし系一点集中攻撃型意地っ張り属性』なる単語が浮かんだが、それが口から声となって出ることはなく、代わりに何の感情も映していない冷ややかな目で後輩を睨み付けた。無言の圧にヒクリ、と麻倉が頬をひくつかせる。

 

「…………わかりました。忘れるのは多分無理なんで二度と思い出さない事にします」

「それでいい」

 

自分の休日に和人の妻が研究所を訪れたと知った時、どんなに頼んでも誰一人として画像はおろかその名前も容姿すら教えてくれない事にずっと疑問だった麻倉だったが、和人はもちろん松浦までもがその隠蔽に関与していると知って、とりあえず決して触れてはいけない類いの話題なのだと胸の奥底にしまい込む。

ならば、と話題を変えようと室内を見回して無意識に袖をさする自分の手に気づいた。

 

「それにしても、この部屋の空調、ちょっと冷房がキツくないですか?」

 

壁に取り付けてある表示を見ると、結構な温度設定になっている。

 

「そうだな、外から入って来た時は気持ちよかったが、慣れてくると少し寒いな」

「よかったぁ。ここで桐ヶ谷さんに丁度良いって言われたら、オレ、風邪ひくところでしたよ」

「まあ、こういう感覚は人それぞれだし」

「そうですよね。うちのスタッフルームは女性陣が強いんで冷房温度も高めですから、時々廊下の方が涼しいくらいで」

「やはり一般的に女性の方が冷房に弱いんだろ……う…………」

 

何を思い出したのか話を途切れさせた和人は焦ったように自らの鞄から素早く携帯端末を取り出し、麻倉の存在を無視して起動画面を確認するやいなや誰かにTVコールをかけた。

少し長い呼び出し時間を経て小さく「うにゅ?」と寝ぼけた声が端末から聞こえてくる。

 

「明日奈っ、悪い、寝てたか?」

「んんぅ……か……ずとくん?……ど、したの?」

 

思い出さないと決意したばかりの人名が耳に飛び込み、好奇心に負けて和人の背後からこっそりとその画面を覗き見た麻倉の目には落ち着いた色の少々だぼっとしたパジャマを身につけた女性が目をこすりながら首を傾げていた。少し乱れた栗色のロングヘア、すっぴんとは思えない艶のある唇があどけなく開き、加えてはだけたパジャマの襟元からはきめ細やかで真っ白な首筋とその下の鎖骨までもが晒されている。

思わずごくり、と鳴った喉の音を和人の耳が拾わなかった事にひとまず安堵した麻倉は続く和人の言葉に目眩を覚えた。

 

「寝室のエアコンの温度かなり下げてあるから。ちゃんと設定し直したか? いつもはオレが抱きしめてるから丁度いいだろうけど、明日奈一人だ……と…………」

 

そこでまたもや言葉を続けられなくなった和人はひたすら画面に映っている妻を凝視している。少しして夫の声が聞こえなくなった違和感に気づいた明日奈はゆるゆると意識を覚醒させて「和人くん?」と問いかけた。画面の向こう側で唖然とした表情のまま固まっている夫に純粋な疑問の視線を送るとみるみるうちに和人の頬が染まっていく。

 

「明日奈……その格好……」

「格好?…………きゃぁっ、みっ、見ちゃダメぇ」

 

慌てて自分自身の身体を隠すように片腕を回すが、やはりサイズが合っていないのだろう細い腕はパジャマの袖をまくり上げた状態の中から伸びている。和人に指摘されて瞬く間に顔から首に至るまでを見事な朱に染め上げた明日奈は恥ずかしさからプルプルと身体を震わせていた。その姿を画面越しに見せられた和人もまた頬の赤みを濃くしている。

 

「それ……オレのだよな?」

 

もはやどうやっても誤魔化せないと諦めたのか、ゆるい襟元を片手でかき合わせてから明日奈は真っ赤な顔のまま神妙に頷いて目線を下げた。

 

「ううっ……ごめんなさい」

「怒ってるわけじゃないよ」

「でも、勝手に借りちゃったから、和人くんのパジャマ」

「別にいいんだけどさ、なんでまたオレのを……」

 

問われて明日奈は視線を合わさずにポソポソと可聴音量ギリギリで唇を動かした。

 

「たまたま……ちょっと、その……間違えて……」

 

しかしそこまで言うと何かを振り切るように決意の表情で茹で上がった顔を勢いよく上げ、和人に言い切る。

 

「…………べっ、別に和人くんの匂いに安心するとかじゃ全然ないんだからっ」

 

そこまで言うと震えるだけの口を噤んでいたたまれなさに今にも泣き出してしまいそうな瞳から限界まで溜まっていた恥じらいの涙が彼女の意志に反して火照った頬の上を流れ落ちた。

一部始終を見聞きしていた麻倉は完全に動きを止め、口をぱかーんと開けて「ナンデスカ?、アノ絶滅危惧種レベルに可愛いイキモノは……」と声にならない己の呟きをふわふわと吐き出している。

一方、流れ落ちた涙を「あっ」と声に出した明日奈が慌てて手の甲で拭き上げ、すんっ、と鼻を鳴らすと、そこに低く静かな和人の声が届いた。

 

「明日奈、絶対、明日の夜には帰るから」

 

 

 

 

 

……翌日、一時の休憩も取らずに無表情で淡々と復旧作業をし続ける和人を見守るように観察していた第三分室のスタッフ達は高速で切り替わる多数のモニター画面に酔い、一人、また一人と脱落していく。同行して来た麻倉も段々と顔色が悪くなり思わず「うっ」と片手で口元を押さえた時だ、カタッ、と立ち上がった和人は長めの前髪をかき上げ、短く息を吐き出してから「後は平常値の最終チェックだけだからお前に任せた」と言うなり荷物を抱えて足早に立ち去っていく。

既に白衣を脱ぎながら遠ざかっていく後ろ姿に向け、蒼白の顔色ながら「了解です」と痙攣する口元で引き継ぎの受諾を告げた麻倉に分室長がよろめきながら近づいてきた。

 

「あの、桐ヶ谷氏は?」

「一足先に帰るそうです」

「はぁっ!?」

「アノ人、今日中に絶滅危惧種を捕獲・保護しなきゃならないんで……大丈夫ですよ、後はオレが最後まで責任持ってやりますから」

 

麻倉は気分の悪さを吹き飛ばすように両手で自分の両頬を叩きながら「それくらいしないと、トップシークレットを覗き見た事、許してもらえませんからねぇ」と呟くと、その若さに似合わず「どっこらしょ」と口にしながら和人が腰掛けていたイスに座り、両手を擦り合わせて「さて」と全画面を一瞥し、大きく息を吐き出した。

 

「オレも最終便には乗りたいですからね、飛ばしていきます」

 

そう告げ、一瞬だけ昨晩の幻かと思えるほど可愛らしい稀少生物の姿を思い浮かべてモチベーションを上げた麻倉は口元を綻ばせて作業に取りかかった。




お読みいただき、有り難うございました。
正確には「人肌恋しい」で使う言葉ですが、この二人の場合「恋しい」のが誰の
「肌」なのかは完全に決まっていますので、不特定多数を連想しそうな「人」は
省かせていただきました。
「癒やし系一点集中攻撃型意地っ張り属性」……はい、完全にキリトの理性一点に
絞って無自覚に集中攻撃してます、アスナさん(笑)


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息子の宝物・前編

キリトとアスナが同じ帰還者学校へ通い始めて二ヶ月程が経ち、
《現実世界》の生活と互いの関係に慣れ始めた、とある週末のお話です。


国際線の空港からそのままタクシーに乗り二時間弱、週末の夕刻ということもあって何度か軽い渋滞に巻き込まれながら約五ヶ月ぶりに辿り着いた我が家の玄関は真っ赤な夕陽の照り返しを受けていて、眩しさに思わず片手で目を覆ってしまう。

アメリカでも日本でも夕陽は同じはずなのに、木造の家屋や和風然とした庭の植木や草花、その先にある古びた道場が朱の陽光を浴びた姿はどこか懐かしく自分を落ち着かせてくれた。

海外での赴任生活にはすっかり慣れたつもりだったが、知らずに郷愁を覚えていたのだろうか?、と自分に疑問を投げかけつつもスーツケースを足下に置いて手にしていた鞄から玄関の鍵を取り出す。

週末とは言えこの時間、多分妻は不在だと予想してあとの家族二人の姿を思い浮かべるが、娘は部活動に心血を注いでおり夜にならないと帰ってこない事が常だと知っている。息子の方は体調がどれほど回復したのかこの目で確かめるまでは気遣ってやるべきだろうと判断して二階の自室で横になっている可能性も考え、インターフォンの音を鳴らさず自ら差し込んだ鍵を四分の一、回転させた。

もしかしたら全員留守かもしれないな、と思いながら知らずにふぅっ、と息を吐き出す。

アメリカの気候に慣れた身体で現地を出発し、空調の整っている機内で数時間を過ごした。日本の空港から全く外気に触れずここまでやって来たところでタクシーを下りた途端、六月の日本という梅雨特有の蒸し蒸しとした湿り気の先例を受けた身としてはとりあえず風呂に入りたい。

しかし家族が誰も居なかったら長距離移動で疲れ切っている身体のまま風呂の準備をしなくてはいけないのか、と考えると、つい、シャワーでいいか、と妥協に傾いてしまうのは長期に渡る単身赴任の弊害だ。

しかし玄関の扉を横開きにした途端、そんな想像の範囲をはるかに超えた事態が正面の廊下奥からやってきて、桐ヶ谷峰高氏は玄関に片足さえ踏み込められない状態のまま固まった。

解錠の音が聞こえたのだろう、キッチンから廊下に顔だけを覗かせた少女が一瞬キョトンとした表情を浮かべたものの、すぐにパタパタと廊下を小走りでこちらに向かってくる。

上がり口までやってくると、スッと膝を落としてスカートの後ろのプリーツを手で整えながら流れるような動作で正座をし、伺うような視線で「あの、どちら様でしょうか?」と尋ねてきた。

「どちら様?」と尋ねたいのは私の方だが……と口にしそうになった峰高氏は、彼女のあまりにもこの家に馴染んでいる様子に一瞬だけ自宅を間違えたのでは?、と内で狼狽する。

しかし、すぐに自分が持っている鍵で玄関を開けたのだから、と気持ちを落ち着かせ、次なる可能性として娘の友人なのか?、と彼女を観察した。

しかしすぐに違和感を感じる。

娘……直葉の友人とは直接会った事はないが、妻の翠から伝え聞いた話では中学に上がってから今現在も土日はほぼ部活で学校に出掛けているらしく、家に友達を連れて来る事は滅多にないらしい。たまの休みでも部活の仲間達と買い物に出たり遊びに行ったりと家に全く居着かないとこぼしていたが……だいたい翠も仕事でほとんど家に居ないのだから直葉に文句は言えないだろう、と峰高氏は妻と娘のバイタリティーに富んだ共通点を認めてから改めて目の前の少女を眺めた。

直葉と同い年というなら随分と大人びていると言うか、落ち着きがあり、尚且つ初対面の人間に対しても礼節をわきまえた態度だ。

突然の見知らぬ少女の登場に驚くばかりだったが、こちらも気を静めてみれば先程キッチンからこちらに向かって来た姿は、昨今、欧米並みのスタイルを有した若者が珍しくなくなってきたとは言えスラリと伸びた手足に色白の肌、十代後半の危うい均整さを保つ魅力的な身体の線に加えてこちらを見つめているその瞳の美しさは彼女全体を象徴していると言ってもいい。

随分と可愛いと言うか、美しいお嬢さんだな……峰高氏がうっかり見惚れてしまいそうになった時だ、背後から急速に足音が近づいてきたのに気づき、振り返ろうとするよりも早く、耳元で「アスナっ」と息子の焦り声が飛び込んできた。

 

 

 

 

 

玄関の扉が開いていて、そこに男性の後ろ姿を目にした和人は両手を塞いでいるスーパーの袋の重さなど物ともせず玄関に向かって走り出した。

なぜ玄関の鍵を開けたのか、男に何かされてないか、疑問と不安と焦燥感で足をもつれさせるように彼女の無事な姿を確認すべく入り口を塞いでいる男の横に身体を滑り込ませる。

片や峰高氏は自分の耳元で女性の名を呼び衝突する勢いでやって来た和人の姿に唖然とした。これほど息子が感情を露わにするのを見るのは本当に久しぶりだったからだ。

 

「……和人」

「と……父さん!?」

 

互いに見つめ合い、互いに驚きの表情で互いの呼称を口にする。

そして一拍遅れて明日奈が「えっ?」とはしばみ色を大きくした。

唖然としたまま静止状態の父子に代わり明日奈がパチパチと瞬きをした後、峰高氏に向かって「キリ……いえ、和人くんのお父様、ですか?」と確認するように問いかければ、仰天したままの顔をぎこちなく動かして視線を戻した氏が「ああ」と肯定の言葉と共にひとつ頷く。

途端に恐縮したように細い肩を縮混ませた明日奈は両手を床に着いて「ごめんなさいっ」と頭を下げながら謝罪の言葉を口にした。

 

「和人くんのお父様とは知らずに、どちら様ですか、なんて……本当に失礼な事を……」

 

そこですかさず和人が父の横をすり抜けて玄関に入り、荷物を置いて明日奈の肩に手をおいた。

 

「いいってアスナ。アスナは留守番をしてくれてただけなんだから」

 

息子の言葉に父の目つきが険しくなる。

 

「和人……他所様のお嬢さんに留守番をさせていたのか」

 

少し低めの声で咎める視線を送られた和人は怯むことなく父を見返して気負いも見せずにさらりと言葉を吐いた。

 

「まだあまり無理をさせたくないんだ。買い物に連れ回すより家にいてくれた方が安心する」

 

息子の確固とした言い様に、おや?、と内心、少し意外に思った峰高氏だったが、すぐに寸刻前とは打ってかわった歯切れの悪い息子の声が思考を遮る。

 

「で、……あー……ええっと……その……彼女はさ……」

 

言葉を探しているのか明日奈とも峰高氏とも視線を合わせず自分に向け小声で「父さんに紹介するのはもっと先だと思ってたんだよなぁ」とブツブツ言い訳じみた呟きをこぼしていた和人が、ふと正座をしたままの明日奈に気づき急いで土間を上がった。

まずは先に、と彼女の足を気遣って立ち上がらせる為に隣に移動し、腰をかがめて両手を差し出すがそれを栗色の髪を揺らすことで拒んだ明日奈は改めて背筋を伸ばし正面から峰高氏を見上げる。

 

「初めまして、結城、明日奈と申します。お留守中、勝手にお邪魔して申し訳ありません。」

 

少し高めの澄んだ声と柔らかな笑顔の次に見せた恐縮しきった表情、どれもが彼女の清廉さを示しているようで、もともと彼女に対して負の感情など抱いていなかった氏は丁寧な謝辞に対し、慌てて己の手を振った。

 

「いやいや、こちらこそ留守居などさせて。和人の父の峰高です。私の留守中とおっしゃられても、私は海外赴任中でほとんど家を空けていますので……」

「そうだよ。突然帰国する父さんが悪いんだろ」

 

どこか開き直ったように全ての原因は父親だと言いたげな和人が横柄な口をききながら今度こそと少々強引に明日奈の手を掴む。異変がないかを確かめる為にほんの束の間、華奢な手を包み込んだまま彼女に顔を近づけた。

 

「……アスナもびっくりしただろ、突然知らない男が玄関開けて入って来たんだから」

 

和人が怯えや震えを確かめているのだとわかった明日奈は安心させるように軽く微笑んでから「大丈夫」と小さく頷く。

 

「雰囲気がとても優しくて穏やかだったから……少し和人くんと似てるなぁって……」

「似てるか?」

「うん」

 

肯定しがたい言葉なのか、僅かに渋る口調の和人へハッキリと言い切った明日奈は支えを借りて立ち上がると「有り難う」と告げてから峰高氏に向き直った。

 

「帰国されたばかりでお疲れですよね。お風呂の準備しましょうか?」

「それは有り難い」

「和人くんは買ってきた食材をキッチンに運んでおいてね」

「了解」

 

てきぱきとこの場を仕切ってから浴室に向かって去って行く明日奈の後ろ姿を見ながら置きっ放しになっていたスーパーの袋を持ち上げる和人の隣で、ようやく我が家の敷居をまたいだ高峯氏がこれまた自分のスーツケースと鞄を手にしたまま彼女を見送る。

少し急ぎ足の歩調に合わせて揺れる栗色の髪が廊下から消えると、父はゆっくりと顔を横に向けた。

既に身長差はないに等しい。

 

「私の帰国は一週間ほど前に翠に伝えておいたはずなんだがな……」

「あー……、母さんとはここ数日、まともに顔を合わせてないんだ」

「相変わらずか」

「うん、相変わらず……かな。母さんも、もちろんスグも」

 

唯一、息子だけは随分と変貌したように見えて、峰高氏はしげしげと息子の全身を眺めてから気になっていた体調を尋ねた。

 

「それで和人、お前、身体の方はどうなんだ?」

「もうすっかり元通りだよ。でもアスナは時々だけど足に痛みが出るらしくて……」

 

まるで自分の事のように表情を歪めた息子に高峯氏は瞠目した。息子が目で見て分かるほどに他者に心を砕く様を表すとは、あの二年の入院生活より以前には想像も出来ない姿だ。

しかし、言葉も忘れて自分を見つめている父の視線などまるで気にならないのか、和人は明日奈の指示通り食材と思われる荷物がたっぷり入った袋を左右に持ってキッチンへと歩き出す。しかしすぐに足を止め、思い出したように「そうだ」と呟いてこちらに振り返った。

 

「マウンテンバイクの資金、有り難う。バイトを始めたらちゃんと返すから」

 

妙に律儀な事を言う息子が可笑しくて峰高氏は頬を緩める。

 

「それは翠と私からの、お前の退院祝いと二年分の誕生日プレゼントだと言っただろう?」

「でも……」

「いいから、そんな事は気にしなくていい」

「なら……有り難う」

「ああ…………で、あのお嬢さんか、お前がその自転車で見舞いに通っていた相手は……」

「う゛…………そうだ……けど……なんでその話……」

「翠がな……嬉しそうに電話してきた」

「…………母さん…………」

 

素直に礼を言った時の穏やかな笑み、母によって自分の所行が筒抜けだったと知った時の気恥ずかしさと呆れが混じった口元、この短い会話の中でくるくると表情を豊かに変える息子を見るのは峰高氏にとって何年ぶりかのような気がした。和人が十歳の時、自分の本当の出生を知って以来、父親と思っていた男を見る彼の目が変わってしまったと感じていたからだ。

それでも自分にとっては息子である存在に変わりない和人があの《仮想世界》に囚われて約二年、無事に意識を取り戻したと連絡が入った時、峰高氏はすぐさま取れるだけの休暇を職場からもぎ取り、日本に帰国してクリスマス休暇と合わせて二ヶ月ほどを彼の傍で過ごした。

大人の自分が見ても、どうしてそこまで、と胸が苦しくなる程がむしゃらにリハビリに励む息子の姿はまるで何かに取り憑かれたようで、早く、早くとその先にあるはずの物を手に入れようとするがごとく前進を続ける必死さはかつての無気力に等しい瞳とは全くの別物になっていた。

松葉杖なしでも歩行が安定した頃、峰高氏の休暇も終わりを告げ、くれぐれも無理はしないようにと言い聞かせてアメリカへ戻ったのだが、ほどなくして妻から和人がマウンテンバイクを欲しがっているとの連絡が入り、その願いにも大いに目を見開いた覚えがある。

もともと身体を動かす事が不得手ではなかったようだが、ジムに通いたいと言い出した時も自分の身体の為、と言うよりは誰かの為といった雰囲気を漂わせていたので、今回のマウンテンバイクの件もただ単純な物欲だけではないのだろう、と判断してすぐさま許可を出した。

案の定、ややあってそこそこ乗りこなせるようになった和人が所沢の病院に三日と開けずに見舞いに通っているらしいと妻から氏へ報告が入る。

一体誰の元へ通っているのか、と仕事をしながらも気にはなっていたが、直接息子に問うのは気がひけてそのままにしていると二月の半ば頃だったろうか、娘の直葉からの又聞きという形で妻によってもたらされた、息子が《あの世界》で知り合った少女の元を訪れているのだという情報は氏を随分と驚かせた。

年齢を考えればごく当然の事なのだろうが、父親としては何と言うか息子は異性に関心が薄いタイプだと思い込んでいたようだ。

ともあれ、その後、年度末の慌ただしさに伴い和人が春から通う帰還者学校への手続きやら準備やらで翠も多忙だったらしく、しばらく何の連絡も無かったのだが……五月の中旬、和人がゴールデンウィーク中に例の彼女を家に連れて来たと随分浮かれた妻の声が峰高氏の鼓膜を刺激した。

 

「それがもうっ、本当にお人形みたいに綺麗なお嬢さんなのっ」

「ほお」

 

意外にも和人は面食いだったのかと、これまた息子の知らない一面を見たようで、峰高氏は携帯端末を持つ手を僅かに揺らす。

 

「それに和人がね、こっちが照れるくらい彼女に優しく接するのよ。まるで大切な宝物を守るみたいに、大事にね」

「……」

 

もう言葉も出なかった。確かに元来、優しい性格の息子だが女の子一人にそこまで特別扱いをする姿がまるで想像できない。

 

「それに彼女の方も和人の事が大好きなのね……仕草とか視線とか言葉でそれが伝わってきて……あー、早くあなたにも会わせてあげたいわ」

 

と、そこまでの夫婦の遠距離通話を思い出し、先程の息子と彼女とのやりとりを見て峰高氏は納得した。名前は聞きそびれていたが……自分はどうやら帰国早々、自宅の玄関で息子の宝物からの出迎えを受け、妻の言葉が大げさでも何でも無く彼女の容貌はもちろん、互いを想い合う言葉や所作はまさに相思相愛のそれに違いないということを。

 

 

 

 

 

風呂から上がった峰高氏の足は何やら楽しそうな気配が漏れているキッチンへ自然と引き寄せられて、次にその入り口に近づくにつれ気配だけではなく和食特有の出汁や醤油の香りに鼻が反応する。

途端に空腹を自覚した氏がそっとキッチンを覗くと、そこには若い新婚夫婦かと見まがう程の仲睦まじげな二人の姿があった。

 

「悪いな、アスナ。急に一人増えちゃって」

「うううん、大丈夫だよ。もともと保存が効く物は多めに作って冷蔵庫や冷凍庫に入れておいてね、っておばさまにお願いされてたから」

「……いつも来る度に頼んでるよな。でも、ほんとアスナの作り置きは正直助かる」

 

二人の会話を聞いていた峰高氏は自分の妻の遠慮の無い要望に頭痛のする思いを味わった後、ゆっくりとキッチンに足を踏み入れた。

 

「ああ、さっぱりしたよ。けれど、なんだか申し訳ない。お客さんである明日奈さんに家事をさせておいて先に風呂をもらうなんて……」

 

幾分照れた笑顔で峰高氏がやって来ると明日奈は濡れていた手を拭きながら和人に向かって小声で「焦げないようにかき混ぜててね」と木べらを渡すと「冷たいお茶でもどうですか?」とニコリと尋ねた。

 

「気になさらないで下さい。私の兄も海外出張から戻ってくると、いつもお風呂に一直線の人なんです。浴槽に浸かると日本に帰ってきたって実感するんですって」

 

少し恥ずかしそうに身内の話をした明日奈に和人と峰高氏が揃って「へぇ」「ほぅ」と相づちを打つ。冷蔵庫から取りだした冷茶を彼女がグラスに注いでいる間に和人が「風呂好きは兄妹共通なんだな」と呟く声を隣で聴いた氏は、そんな事まで知っているのか、と目を見開いたが、それを口にするより先に目の前に盆に乗ったお茶が差し出された。空腹ではあるが、それ以上に冷えた飲み物は風呂上がりの身に有り難く「すまないね」と素直に受け取る。

ゴク、ゴク、と半分ほどを飲み干してから峰高氏は明日奈に対して僅かに眉尻を下げた。

 

「さっき和人から聞いてね、学校の弁当まで作ってくれているそうじゃないか。それに、今日みたいにうちで料理をするのも初めてではないようだし……少し前の会話、聞こえてしまったんだが妻がずうずうしいお願いを……」

「いえっ、お弁当は私が言い出したんです。それに毎日じゃないんですよ、週に三回くらいですから…………私は自分が作ったお料理を食べてもらうのが嬉しいので……」

 

そこにすかさずニヤリと口角を上げた和人が口を挟む。

 

「今日の夕食、期待してていいよ、父さん」

「キリ……和人くんっ」

 

明日奈の戸惑う声とは反対に当然とばかり自信に満ちた和人の声は「オレが保証するから」と楽しそうだ。

 

「だってアスナの手料理を一番食べてるのはオレだろ?、そのオレが言うんだから間違いないよ」

「それは、そうだけど……でも、私、おじさまのお好きな食べ物とか知らないから」

「味付けの好みなんかは割とオレと似てるよな」

 

問いかけてくるような視線に思わず峰高氏が頷く。

 

「そうだな。翠や直葉は基本甘党だが、私と和人は辛い物も好むし……」

「あ、なら、よかった」

 

心底ホッとしたような柔らかな笑顔の明日奈に父親が目を細めたのを見た和人が、チョン、チョンと彼女の肩を突き自分の方へとその笑顔を向けさせ「アスナ、まだか?」とかき混ぜていた鍋の中身へ視線で導いた。まるで父の視界から彼女を遠ざけるように和人が二人の間に回り込むと、一瞬面食らった表情の峰高氏だったが、ははぁ、これが翠の言っていた宝物を守るように、というやつか、と内で苦笑いを零す。別に触れようとかあまつさえ盗もうなどとは露ほども思っていないのだが、つい目がいってしまうのは事実で、これほど色々と整ったお嬢さんならば下心を抱いた男性からの視線は多いだろう、と息子の気苦労を察すると同時に既に条件反射のように彼女を庇う息子の男っぷりを頼もしく思う。

 

「妻に言わせると私と和人は味覚が精神的に似てるらしいんですよ」

「おばさまらしい言い方ですね」

 

穏やかな微笑みの意味をくみ取って、手前に居る和人に視線を移せばこちらも落ち着いた笑顔で頷くので、峰高氏は自分と和人に血縁がない事を明日奈が承知していると確信した。その上で出会った玄関先で自分と息子の雰囲気が似ていると言ってくれたのだと気づき胸の奥がじわり、と温まる。

そんな穏やかな空気の中、突然、和人の携帯端末のコール音が鳴り響いた。




お読みいただき、有り難うございました。
峰高氏の人物像が把握しきれていないので、ほぼオリキャラに近い
感じで勝手をさせていただきました。
ほのぼのイチャは後半までお待ち下さい。


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息子の宝物・後編

お待たせ致しました、後編です。
明日奈が来訪していた桐ヶ谷家(自宅)に帰ってきた峰高氏、夕食の支度を
している明日奈と和人の所に加わって話をしていると、和人の携帯端末が
鳴り……。


急いでリビングのテーブルに置きっ放しになっていた端末を手にした和人が表示を見て「あれ?、スグだ」と呟いてから通話を始める。

 

「スグ、どうした?、もう夕食になるぞ…………えっ?、なんだよ、それ。折角アスナが来て…………まあ、そりゃあそうだろうけど…………そうだ、父さんも帰ってきてるんだ……から…………はっ?!、なに言って……おいっ、ちょっとっ、スグ!」

 

どうやら一方的に回線を切られたようで、端末をジッと睨んでいる和人の目はその遙か先にいるであろう妹に視線を送っているようだった。

和人の言葉しか聞こえていない明日奈と峰高氏は揃って疑問の表情となっていたが、先に父親である氏がどうやら息子を困らせたらしい娘の様子を聞いてくる。

 

「和人……直葉がどうしたんだ?」

「あ……ああ、今晩なんだけど、母さんは帰れないって言ってたからスグとアスナと俺の三人で夕食を食べて、アスナはそのままスグの部屋に泊まっていく予定で……」

「直葉ちゃん、遅くなりそうなの?」

「いや、アイツ、部活仲間と恋愛話で盛り上がって、明日は休みだからそのまま友達の家に泊まっていいか?、って」

「おいおい」

「普段なら『泊まるからっ』で済ますヤツなんだけど、今晩はアスナが来てくれてるから、一応気を遣ったんだろうなぁ。でも父さんが帰って来てるって言ったら『お父さんがいるなら私がいなくても、お兄ちゃん、アスナさんに変な事出来ないからいいよね』って……」

「ふぇっ?」

 

一瞬、意味を理解できずに上ずった声を上げた明日奈だったが次にはパッと頬に朱を注ぐ。

 

「『恋愛で悩んでる友達を放っておけないよっ、お兄ちゃんだってアスナさんっていう素敵すぎる恋人がいるんだから悩みも色々あるでしょ』とか言って勝手に切られた……ああ、あと最後に『アスナさんが作ってくれた私の分のおかずは絶対に残しておいてね』だってさ」

 

いくら端末を睨んだところで事態は好転しないと諦めた和人がお手上げとばかりにおどけた仕草で両手を軽く持ち上げた。多分、直葉にかけ直しても呼び出しには応えないだろう。最悪電源を切っている可能性もある。直葉らしいと言うべきか一度口にした事はやり通す芯の強さはいかなる状況にも適応されるようだ。

娘の長所であり、時には短所にもなりうる性格を十分承知している父、峰高氏もこれ以上強引な手立てに出る気はないようで、少し遠い目をしつつ長い溜息を吐き出した。

 

「他所様の大事な娘さんが我が家で料理をしてくれて、うちの娘は私の帰国を承知した上で外泊とは…………やれやれ、我が家は大丈夫なのか?、和人」

「あー……、まあ自己責任の覚悟と自立心は大いに培われていると思うよ」

「……そのようだな」

 

長期に渡り単身で海外赴任をしている身としてはこれ以上言うべき権利はないと考えたのだろう「我が儘な娘で申し訳ない、明日奈さん」と困った笑みでわびの言葉を口にする峰高氏に明日奈はふわり、と軽やかな笑顔を返した。

 

「いいえ、直葉ちゃんとはまた機会がありますから。それに今夜はおじさまと晩ご飯をご一緒出来るので……こちらの機会の方が滅多にないですよね?」

 

少しふざけた口調で直葉の件はまるで気にしていないと言いたげの明日奈は「お料理、だいたい出来ましたから食べましょうか」と話を締めくくると既に大皿に盛りつけてある料理を指さして和人に視線を向ける。

 

「じゃあ、このロールチキン、直葉ちゃんのリクエストだったからちゃんと取って置いてあげてね」

 

切り口をしげしげと観察した和人が「アスナ、黄色いの、何?」と疑問を口にした。

 

「スイートコーン。今日はニンジンとアスパラを一緒に青じそで巻いたの。だからタレも和風にしてみたんだ」

「この前のはチーズが入っててタレはトマトベースだったよな」

「うん、よく覚えてるね。今日は二種類タレを作ってきたからおじさまと和人君はピリ辛の方でいい?」

 

色違いの小さな保存容器の片方を手にした明日奈が確認するように和人に尋ねると、和人の視線は明日奈が手にしていない方の容器へと注がれる。

 

「そっちは?」

「こっちは直葉ちゃん用に甘口なの」

「なら両方」

「え?」

「アスナが作ってきてくれたんだから、どっちも味わいたいだろ。ピリ辛と甘口、半分ずつかけるよ」

「……」

 

まさか両方と言い出すとは思っていなかった明日奈の口が一瞬止まると、その隙間にすぐ近くから「なら私も」と小さな声が入り込んで来て再び声を無くすが、次の瞬間には「ぷっ」と吹き出してから「ホント、似てるんだね」と楽しげに笑い「じゃあ、二つとも用意します」と、かしこまった口調で二人のリクエストに応えたのだった。

 

 

 

 

 

ことんっ、と微かな音に驚いて明日奈が振り返れば、そこには二時間ほど前に「おやすみなさい」を言い合ったパジャマ姿の恋人がキッチンの入り口に立って、明らかに困った笑みを浮かべている。

 

「どうしたの?、キリトくん。あっ、もしかして、水音、二階まで届いちゃってた?」

「いや、オレもちょうど喉が渇いて下に行こうかと思ってたとこ」

「寝て……なかったの?」

「うん、だから起こされたわけじゃないよ」

 

微妙な笑顔のままシンクでコップを洗っていた明日奈の前をスタスタと通り過ぎ、冷蔵庫まで移動した和人が中から冷茶の入ったジャグを取り出すと、すかさず目の前に新しいコップが差し出される。

「さんきゅ」と受け取ったコップに飲み物を注ぎ、喉が渇いて、と言った割りには一口しか口を付けずにコップをキッチンカウンターに置いた和人は改めて「アスナは?」と問いを投げかけた。

 

「え?」

「客間の布団で寝付けなかったんじゃないのか?……知らない部屋だしいつもはベッドだろ?」

「そんな事ないよ、京都の本家や宮城の祖父母の家に泊まる時はいつもお布団だったからベッドじゃなくても大丈夫」

「でもさ、スグと二人で寝る予定だったのが、急遽殺風景な部屋でひとりになっちゃったから……」

「初めてのお部屋でも全然気にしないし……むしろホテルの部屋なんかよりキリトくん家の客間の方が落ち着くくらい」

 

そうなのだ、さすがに部屋の主が不在なのに明日奈の布団を直葉の部屋に敷くわけにもいかず、結局一階の客間で寝てもらう事になったわけだが、どうりで客間の押し入れにあった布団一式を手際よく準備していると思ったら京都や宮城での経験が生かされていたらしい。

ならば自分とは違い、本当に喉が渇いて起きてきただけなのかと和人が認識しかかった時だ、今さっき自らが使ったコップを食器戸棚に戻すため自分に背を向けた明日奈の動きに違和感を感じて咄嗟に後ろから腕を掴み、その手にあったコップを奪い取った。

 

「きゃっ……なっ、なに?」

 

突然の出来事に足がもつれるが、そこはしっかりと和人が支えて事なきを得る。綺麗に洗浄されたコップを彼女の代わりに元に戻してから和人は視線を落としてほっそりとした明日奈の白い足を凝視した。

 

「アスナ……足、痛いんじゃないのか?」

 

疑うように険しい表情の和人を見て明日奈は一瞬、目を丸くしたがすぐにそれを細め、安心させるように笑顔を返す。

 

「ううん、大丈夫。痛みは出てないよ」

 

しかしその返事を聞いて益々和人の目が疑惑の色を濃くした。

 

「痛み、は?……なら他の自覚症状があるのか?」

「えっ?、違うよ、キリトくんてば、そういう意味じゃ…………わわっ」

 

いきなりしゃがみ込んで明日奈の片足に触れた和人が「えっ?」と驚きの声をあげる。

 

「アスナっ、こっちの足先……すごく冷たくなってる」

「キ、キリトくん、あまり大きな声は……」

「そんな事言ってる場合じゃないだろ。とにかくオレに掴まってリビングのソファに」

「ホントに大丈夫なの。ちょっと痺れてて感覚がないけど一人で歩けるし……」

 

自身の足の事よりも和人の声の大きさをしきりと気にしている明日奈に対して諦めたように鼻から息を抜いた和人は「わかった」とひとこと簡潔に告げて明日奈の腰に手を回した。

 

「小声で話せばいいんだろ。だけど手は離さない」

 

和人に密着された明日奈は一瞬、困ったように笑うが思うように力が入らない足は彼のお陰で負担も和らぎ身体の安定感も得て気づかないうちに張り詰めていた緊張が緩む。「ありがとう」と素直に口にしてゆっくりと二人ひとつでソファに移動すれば、腰を落ち着けた時には思わず揃って安堵の息が出た。

 

「ごめんね、キリトくん、迷惑掛けて。でもこれくらいはたまにあるし、朝には治ってるから心配しないで」

「アスナ……はいそうですか、ってそのままになんかしておけるか。とりあえず温めた方がいい。蒸しタオルとお湯を用意するから、その間は大人しく座ってろよ」

 

座ったのも束の間、素早くソファから腰を浮かせた和人に明日奈は焦って声を掛ける。

 

「えっ?、もう遅いからいいよ。キリトくんだってそろそろ寝ようとしてたところでしょう?」

 

振り返ったキリトは半眼となり何とも言えない表情で明日奈を見つめた後、反論を許さない口調で言葉を押し付けた。

 

「このままだと色んな意味でオレが眠れない」

「…………」

「とにかく、そこにいて。すぐに用意する」

 

そう告げてリビングを出て行った和人は程なくしてタオルと盥(たらい)を手に戻って来ると、タオルをキッチンの水道で湿らせてから電子レンジで温め、盥はそのままに電気ポットでお湯を沸かし始める。先に出来上がったホカホカのタオルを持ち明日奈の所に戻って来ると足下に跪いて彼女の足を包み込んだ。

思わず「ふぁっ」と快感の声とも息とも判別しづらい空気を吐いた明日奈を見てようやく和人も気を緩める。

 

「感覚……戻ってきたか?」

「うーん……足首のあたりはなんとなくだけど……」

「明日奈は肌が白いから血行が悪くてもわかりにくいな」

「そうかな?、でも寝られなかったのは足のせいじゃないから、本当に気にしないでね」

「……って事はアスナも何か他に原因があって寝られなかった、って事か?」

「あ……」

 

つい口を突いて出てしまった本音を今更誤魔化すことも出来ず、ほんのりと頬を染め、視線を泳がせたままの明日奈の足下で和人は僅かに口の端を上げる。

 

「なら、足を温めている間、アスナが寝られなかった理由を聞くことにするよ」

「えっ!?、それは……ちょっと……」

「なに?、オレには言えないような事?」

「そういうわけじゃ……ないような……あるような……」

 

珍しく煮え切らない口ぶりに和人が上目遣いでひと睨みすると明日奈は観念したように重たい口を開いた。

 

「あのね……お夕飯の前の電話で……直葉ちゃんが言っていた事が……」

「スグからの電話で?……何を?」

「その……キリトくんの傍に私がいる事で色々悩みがあるって……」

「あー……あれか……。言っとくけど、別にスグに何かを相談したわけじゃないぞ」

「うん。でも何か心当たりがあるような感じだったから……」

 

相変わらずの洞察力に見上げてる状態だった和人の目が瞬く。それからすぐに、くっ、と小さく笑うと明日奈の足を包んでいたタオルを丁寧にたたみ直してまだ温度の高い部分を探し、再度押し当てた。

 

「悩みって言うかさ……やっぱり《あっちの世界》にいた時とは違うなぁ、って少し戸惑ったって言うか……」

 

言われた言葉の中の単語にぴくり、と反応を見せた明日奈の眉が心細そうに垂れる。

 

「やっぱり……細剣使い(フェンサー)じゃない私だと……」

「ああっ、そうじゃないよ。そういう意味じゃなくて……ごめん、言葉が足らなかったな」

 

慌てて自身の言葉を否定した和人が明日奈に向け優しく微笑みかけた。

 

「アスナの事じゃなくて、アスナに対する周りにって意味だよ」

「私の……周り?」

「そう……《あっちの世界》だと血盟騎士団の副団長って肩書きもあったし、何よりアスナの雰囲気がさ……その、割とツンツンされていらっしゃいましたよね?」

「ふへっ?」

 

突然の丁寧語に加えて一瞬、言われた意味が把握できずに開いた口の形から飛び出たままの声を発してしまったが、その唇はすぐに固く閉じられ、加えてぷるぷると振動を起こし始める。《あの世界》でも何度か似たような場面に出くわした経験を持つ和人は当然そのリアクションも予測して、彼女からお小言を頂戴する前にさっさと話を続けた。

 

「だけどさ《こっち》に戻って来てからのアスナはなんだか……その……やわらかくなったって言うか……もちろん、オレはずっと前からアスナのそういう所も知ってたけど……きっと《あっちの世界》にいた時ならアスナの事を遠目で見ていただけの連中が……つまり……」

 

なんだか貶されているのか褒められているのかわからなくなった明日奈は最後の「つまり?」の部分だけを繰り返して小首を傾げる。

 

「普通に声をかけてくるだろ?、更には告白とか……」

 

そう言って視線を明日奈の足に落とした和人はタオルを手にして温度を確かめると、既にぬるくなってしまった事に気づいて自分の脇にそれをよけた。一方、明日奈は確かに告白めいた手紙や呼び出しは受けているが、そこは誠意を持ってはっきりとした態度を示しているので何の後ろめたさもなく「キリトくん」と彼の頭を見下ろす形で名を呼ぶ。

 

「私、ちゃんとお断りしてるよ」

「うん、知ってる……でも、学校に通い始めてから後を絶たないよな」

「う゛……」

「……オレから奪えるって思われてるのかな、って……」

 

うつむいているせいで和人の表情が読めない明日奈が焦り声を上げるのと、自分の足に和人が触れるのは同時だった。

 

「そんな事っ、ひゃっ」

 

《現実世界》に帰還した後、懸命にリハビリに励む自分の足を病室で何度か和人にマッサージをしてもらった事はあるが、今のそれはあの時のものとは確かに何かが違っている。医者から運動制限を解除された後、既に文字通り身も心も和人に奪われている明日奈だったが、未だ自分の身体を気遣ってくれている為、その回数は数えるほどしかなかった。

 

「まだつま先の方は冷たいけど、足首周りは感覚、戻ってきたんじゃないか?」

「うっ……ん……」

 

足首からふくらはぎへと和人の手が優しく移動すれば、それに伴って腰から背中へ電流のような感覚が這い上がってくる。前面に手が回って陶器の曲線を愛でるように手の平全体を使い、吸い付くような肌の感触を確かめながら撫で下ろされると、そのまま足の甲まで降りてきてもう片方の手と一緒につま先を上下から挟み込まれた。

 

「この辺は?、オレが触ってるってわかるか?」

「な……んとなく。多分……何かにぶつけたりすれば……わかる……程度には……」

「少し強めの刺激ならってことか……」

 

途端に顔を寄せようとした和人に明日奈が音量を気にしつつも「ダメっ」と制止の声をぶつける。

その声に一瞬動きを止めた和人だったがゆっくりと首を回して視線を上げれば、そこにはいつの間にか頬を朱に染め上げ涙目になりながらも恨みがましい目つきで睨んでいる明日奈の顔があった。

 

「別に本気で噛んだりはしないけど……どのくらい感覚が戻ってるのか確かめるついでに……」

 

言外に何をされてもほとんど感じないのだから、と言われているのは理解できたし、自分でもその通りだと思うのだが、それでも感情は納得してくれない。《現実世界》で初めて想いを確かめ合った時、和人はまさに隅から隅まで、それこそ髪の毛の一筋まで残さず明日奈を味わい尽くした。《仮想世界》で幾度となく同じように交わっていたはずなのに、彼から与えられる感触と様々な匂い、欲を孕んだ瞳色に耳に容赦なく忍び込んでくる生々しい音と互いの息づかいや嬌声といった五感を刺激する全てが《あの世界》の比ではなくて、お陰でそれ以来少しでも熱を持った瞳で見つめられたり、手で触れられたりするとすぐに心が反応して心臓が早鐘を打ち始めてしまう。

そんな状態ではいくら感覚がないとは言え和人の唇が自分の足先に触れるのを見た途端、一気にあの時の感覚が蘇ってくるのはわかりきっていて、既に先程の触れ合いで揺れ始めている気持ちを払うように明日奈は強く首を横に振った。

 

「だめ……おじさまがいらっしゃるのに……」

「どうせ移動疲れでぐっすり寝てるよ」

「それでも……きっと……声、我慢でき……ない……」

 

そうまで言われてしまっては無理矢理にでも、という選択肢は和人にはなかった。

タイミング良く電気ポットが沸騰を告げ、和人はそっと明日奈の足を床に置いて立ち上がると持って来た盥に熱湯をあけた後、水を足しながら適温を計る。

それから重さを感じさせない機敏な動きでお湯を張った盥を明日奈の目の前まで持って来ると、先程まで自分の手の中にあった白くて細い足を何も言わずに持ち上げてゆっくりと湯の中に沈めた。

全てをやり終えるとソファに座ったまま恐縮した声で「有り難う」と言う明日奈の隣に腰を降ろし、不機嫌な声をだす。

 

「我慢できないのはオレの方だよ……」

「え?」

 

身体ごと寄り添うように密着させると和人は更に明日奈に顔を近づけた。

 

「同じ屋根の下にいて別々の部屋って……それで普通に寝ろって言う方が無理だろ」

「そ、それは……でも、私、もともと直葉ちゃんのお部屋に泊めてもらうはずだったし……」

 

僅かに細められた瞳の奥、薄暗がりの部屋の中でもハッキリとわかるほど漆黒が艶めいている。

 

「うん、それはそれで隣の部屋とか……実現してたら拷問だったなぁ」

「キリトくん……」

 

更に明日奈の耳元まで唇を寄せた和人は自嘲気味に息を吹きかけた。

 

「本当を言うとさ……今日は父さんにまで威嚇した自分に戸惑ってるんだ」

「ふえっ?!」

 

耳を刺激した弱い息と言葉の意味が驚きだけではない感情を引き出し、思わず高く飛び出してしまった反応に「アスナ、声」と言う低い響きの後、咎めるように明日奈の桜唇を塞がれる。けれどそれもすぐに解放されて、自由になった口からは先程と同じ台詞が再び飛び出した。

 

「だっ、だから、おじさまがっ」

「わかってる、さすがに父さんが寝てる近くでアスナに手をだそうとか、そこまで理性は吹っ飛んでない…………けど」

「け、ど?……」

 

怖々と続きを促す明日奈の声もまた確かに色を含んでいて、そんな少しの変化さえ見逃せずにいる余裕のない自分に対して、和人は何かを吹っ切ったようにひとつの妥協案を口にする。

 

「とりあえず今はお湯の温度が冷めるまで、このくらいはいいだろ」

 

そっ、と壊さないよう、大事に、優しく薄紅色に染まった頬を両手で包み込み動きを制してから愛しさの眼差しで否定の言を封じ、最後にどうしようもなく焦がれる想いで和人は明日奈にキスの雨を降らせ始めた。

静まりかえっているリビング内に軽いリップ音だけが無数に弾けている。

その音の後を追うように明日奈の小さくて短い吐息が混じり始めると、和人はその息を吸い取るべく彼女の唇と自分のそれを重ね内側からも柔らかな部分を愛おしむ仕草で撫でた。

そうして足湯の温度が下がるより前にすっかり茹で上がり蕩けきった明日奈と、その顔を満足げに見つめて大切に己の胸元へ抱き込んだ和人の二人がリビングのソファで未だ互いの温もりを享受している時、すぐ近くには時差ボケで眠れない峰高氏が喉を潤す欲求を満たせず廊下に佇んだままキッチンへ足を踏み入れるタイミングを計りかねていたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
峰高氏が水分補給を出来るのはいつでしょう(苦笑)
足湯が冷めるまで、という時間制限があるので、あともうちょっとだけ
我慢していただければ……きっと……。
次回こそ、学校モノをお届けする……と思います。


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約束(みらい)……その手を継いで

「約束(みらい)シリーズ」……シリーズだったんですね……のラストです。
かなり前の作品になりますが「たどり着いた約束(みらい)」と
「【番外編】ふたりの約束(みらい)」の半日〜一日後くらいのお話しです。
未読でも大丈夫です。
和人と明日奈が結婚式を終えた日の翌朝のお話です。


『あすな……

 あすな……

 なくなよ、あすな……こんどはちゃんと、おれがまもってやるから……な、あすな……』

 

「明日奈……明日奈……」

「う……んん……」

 

少し焦りを含んだ声に呼びかけられて徐々に意識が覚醒していく。

クイーンサイズのベッドの上で僅かに身じろぎながらゆっくりと長い睫毛を震わせると、ベッドサイドで腰に手を当て覗き込むように顔を近づけてくる和人の表情がはしばみ色にぼんやりと映った。

視界はあてにならなくとも、自分の名を呼ぶその声は間違えようもなく最愛の人のもので、けれどそこに含まれている僅かな不安を感じ取った明日奈はその理由がわからず、まだ完全には目覚めていない意識のもと、素直に眉根を寄せる。しかしその反応が更に困惑の量を増やしたのだろう、和人の声から甘さが完全に抜け落ちた。

 

「明日奈?」

 

気遣う声で再び名を呼ばれ、未だ、とろん、と溶けた瞳と意識のままで声の主の顔を見定めようすると、なぜか未だに視界がボヤけていて、あちこちに散らばる疑問に収拾がつかない。

 

「大丈夫か?、明日奈」

 

さっきから何度か名前を口にしているのに、一向にまともな返事をくれない最愛のパートナーは大きくて柔らかな枕に長い栗色の髪を散らばらせたまま柳眉を軽く歪めて少し難しい顔をしているが、自分の大好きなはしばみ色はぼんやりと綺麗なままこちらを見ているので、これは珍しくも寝ぼけているらしいと判断して、和人は彼女が横たわっているベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりとその頭をなで始めた。

和人の手からもたらされる感触は既に馴染み深いと表現していいはずなのに、触れられる度にほんの少し跳ねる心臓と胸に広がる温かさは今も変わらず、その心地よさに思わず明日奈は再び瞼を閉じそうになる。気持ちは心配そうな様子の和人に何か声をかけなければ、と強く主張しているのだが、無情にも瞼はどんどんと重くなる一方だ。

そうして彼女の意志が敗北し、その視界が遮断されようとした瞬間……つつーっ、と頬を伝わる感触に自ら驚いて、同時に意識がまどろみをはじき飛ばし、はっと瞳を見開く。

えっ!?……涙?、と驚くと同時に流れ落ちた一滴はすぐさま明日奈の髪に触れていた和人の指がぬぐい上げた。

 

「……な……んで?」

 

自問のように口にした言葉を拾って和人が困ったように微笑む。

 

「いや、それはこっちのセリフ。シャワーを浴びて出てきたら明日奈の目に……だから心配になって起こしたんだけど」

 

見上げれば視界はようやく晴れて、視線の先の和人は濃紺のバスローブ姿で肩に白いタオルをかけていた。多分髪を拭いている途中で明日奈の涙に気づいたのだろう。かき上げられた真っ黒な前髪は水気を含んで後頭部へ撫でつけられているがベッドに横になっている明日奈を覗き込んだ拍子にパサリと数本が垂れ落ちている。

 

「か……和人くん、ここ……」

 

掠れて思うように声が出せない事に軽く戸惑いながらも頼りなげな眼差しを和人に向けた。

意識は完全に覚醒したが、記憶が繋がっていないせいで問うような視線で和人を見てから、おずおずと周囲を観察する。初めて見る壁の模様とそこに掛けられている絵画、記憶にないサイドテーブルとその先にある重厚感のあるカーテンももちろん覚えがない……やはり唯一安らげるのは和人の存在だけだ。

不安そうな瞳の意味を察して和人が口ごもった。

 

「あ……まあ、部屋に入って……その、すぐに……だったから、室内の様子は……覚えてないかもな……」

 

部屋に入って……すぐ?………………!!!!!…………その言葉がきっかけとなり記憶が一気に繋がった。

二人は自分達の披露宴の後、二次会、三次会と続き、最後まで残ってくれたリズ達と別れて予約してあった最上階のスイートルームの扉を開けた途端……明日奈は和人に抱き上げられて薄明かりのついていたリビングを通り抜け、薄暗い寝室へと一直線に運ばれたのだ。

確かに昼間、ホテルの中庭で彼からの接触を拒んだ時「続きは今夜」と言われたけど、あんな時間までみんなと騒いでいたし、朝だって早く起こされたって言ってたのに……と、自分の方は全く気持ちの準備が整っていなかった段階での和人からの有無を言わさぬ熱い求めに改めて驚きを感じていたが、そこにちゃんと喜びも存在して、ようやく緊張が解け口元が緩む。しかし続いてそれからの記憶が蘇り、声が枯れている原因を思い出した途端にぼわっと火がでそうな勢いで顔を朱に染めると身体に巻き付いていたシーツを口元まで引っ張り上げた。

その様子を照れた様子で頬をポリポリと掻きながら眺めていた和人だったが、おもむろにその指を明日奈の顔へと伸ばし、シーツの端に引っかけて、くいっと下げる。隠されていた彼女の桜色の唇が現れた途端、もう片方の手をベッドに着いて体重をかけぬ姿勢で彼女に覆い被さりながら自らの唇で軽く触れた後、上体を起こし柔らかな笑みを落とした。

 

「おはよう、明日奈」

「……おはよう、和人くん。今……何時?」

「まだ早いよ、七時前だ。でも……湯船、浸かりたいだろ。今、バスタブにお湯はってるから……」

「ありがと……」

「……で、なんでドンドン隠れていくんだよ」

 

和人と会話をしつつも、明日奈は再びシーツを引き上げ、既に目元近くまでを覆っている。

 

「だって……恥ずかしい……って言うか……」

「何が?」

 

確かに今の明日奈が身に纏っているのはシーツ一枚だけだが、そんなことは今までに何度も経験した状況だ。明日奈が口にした言葉の意味を理解できず和人が首を傾げれば、はしばみ色を縁取る朱がより一層鮮やかさを増す。

 

「《こっちの世界》で……和人くんの奥さんになって……初めてだったし」

 

改めて彼女から言われると、和人にとっても特別な夜だったし、今、特別な朝を迎えている自覚が芽生えてくる。

 

「そうだな……やっと、また夫婦になれた」

 

こくん、と頷くだけで肯定の意を表した明日奈だったが、その眼差しは喜びに満ちていた。

 

「ストレージは共通じゃないけど……今度は……名字が共通だね」

 

桐ヶ谷明日奈……これから一生名のる名だ。

明日奈の父、彰三氏に彼女を「ください」と言った意味の重さが込められている気がして和人の所有欲を刺激する。

 

「そうだな……もう一度オレと結婚してくれて有り難う、明日奈」

「それなら私も同じ」

 

自らシーツを引き下げると、真っ直ぐに和人を見つめつつも眩しい笑顔が露わになった。

 

「私をまた和人くんの奥さんにしてくれて、有り難う」

 

たまらずに和人は重力に従って自然と頭を下げ再び明日奈の額に、瞼にとキスを贈る。最後に未だ僅かに見えるこぼれ落ちた涙の痕へと舌を這わせると、くすぐったそうに彼女が身をよじった。

そんな仕草に、ふっと笑ってから今度は両手を明日奈の顔の左右について完全に閉じ込めてから笑顔のまま少し意地の悪い口調になる。

 

「何か飲むか?」

 

確かに色々な意味で身体は水分を欲していたが、その一番の原因である和人に全く反省の色が見えず、むしろ含み笑いでどこか楽しんでいる風の様子に明日奈は顔を赤らめたまま唇を尖らせて上目遣いで和人を見上げた。

 

「そ、それくらい、自分で……」

「無理だろ」

 

即座に短く否定され、一体何を根拠に?、と不可解な気持ちのまま腕を持ち上げようとした時だ、それまでは和人の両腕に挟まれているせいで思うように動かせないと思っていた身体全体に力が入らない。

 

「あ……れ?」

「ほら、な」

 

予想通りと言いたげな台詞に当の明日奈が困惑していると、小さく「取ってくる」と言い残して和人は身体を起こし、ベッドから離れていく。すぐに戻って来るとミネラルウォーターと日本茶のペットボトルを一緒に持つ片手をあげ「どっちにする?」と問いかけてきた。

先程よりは幾分声が出しやすくなったものの喉のかすれは取れておらず、明日奈は素直に「お水」と要望を告げる。すると、サイドテーブルにペットボトルを置いた和人がまるで《仮想世界》から解放され、リハビリを受けていた頃の明日奈に触れるようにそっと優しく上体を起こしてくれた。

 

「有り難う」

 

巻き付けたシーツがずり落ちないよう気をつけながら渡されたペットボトルを受け取ると、その震える手が危なっかしいと思ったのか、すかさず和人が手を添える。既に蓋を開けた状態で渡されたミネラルウォーターを一口、ゆっくりと喉に流し込んだ明日奈は、ふぅっ、と軽く息を吐き出した。

その様子を見つめていた和人が眉尻を下げて、何を思い返したのかクスッと笑みを漏らす。

 

「シーツを握ったり、枕を抱え込んだり、最後にはあれだけオレに抱きついてたら握力もなくなるよな」

 

握力どころか全身の力が入らない今の状態が明日奈だけの責任とでも言いたげな口ぶりに羞恥よりも驚きと軽い怒りが上回って、はしばみ色を鋭く注ぐと途端に和人が自らの失言を認め頬がひくついた。

 

「いや、その……明日奈がそうなったのは……まあ、七割くらいはオレのせい……か……」

「……残りの三割は?」

「んー……あんなに乱れた姿を晒したのが一割、あんなに色づいた泣き顔を見せたのが一割、最後の一割はあんなに可愛い声で啼いたせいじゃないか?」

「なに、それっ」

 

今度こそ全身を恥ずかしさで茹で上げて、違う意味でペットボトルを握る両手を震わせている明日奈をニヤリ、と笑いながら眺めていた和人はしれっと「もっと飲んだ方がいいぞ」と水分補給を勧めてくる。

ほぼ一晩中、明日奈を組み敷いていた和人はシャワー後というせいもあってか、随分とさっぱりした様子で身体のだるさを微塵も感じさせず上機嫌だ。片や、部屋の内装すら眼に止める間もないほど性急に求められた明日奈の方はいつも以上に高ぶっていた和人の熱に戸惑いはしたものの、和人への恐怖ではなく自身の感覚の高まりに怯え、大粒の涙を振りまいては何度も和人にしがみつく事で耐えきれない快感を受け止め続けたせいで声は枯れ身体はすっかり力を失っていた。

ようやくペットボトルの半量ほどを体内に取り入れて人心地ついた明日奈が腕を降ろすと、自分も飲みかけのお茶をサイドテーブルに置いた和人が探るように顔を近づけてくる。

 

「で……どうしてオレの……奥さんは、オレがシャワーに行っている間に泣いてたんだ?」

 

再び自分の泣き顔に話題が戻ってきた明日奈はその質問に目を見開いてふるふると首を横に振った。

だが、その仕草を言いたくない、と受け取った和人は少しだけ眉をひそめ、彼女が背中を預けている枕に腕をつき耳元へ触れそうな距離まで唇を寄せて熱を込めた声で名を呼ぶ。

 

「明日奈」

「んぅっ……違うの。あまりちゃんと覚えてなくて……」

「覚えてない?」

 

こくり、とひとつ頷けば、その仕草があまりにも素直な為、一旦、距離を置いて話を促すような視線を和人が注ぐと、それに安心したのか明日奈は持っていたペットボトルを見つめながらポツポツと語り始めた。

 

「夢を見たの。私は小さい子供の姿で、それで誰かにいじめられて家の近くの、ほら、あの公園で泣いていたら、目の前に男の子がやってきて……それから私の頭をやさしく撫でて……今度はおれがまもってあげるからって……」

 

それを聞いて益々和人の眉間のしわが深くなったが、必死に夢を思い出そうとしている明日奈は気づかない。それから夢の続きをたぐり寄せようとしている彼女に和人は探るような声を漏らした。

 

「それって……ホントに夢なのか?」

「う……ん……そう聞かれると、なんだか昔、そんな事もあったような……きゃっ」

 

益々意識を内に向けて考え込んでいた明日奈の身体を包んでいるシーツごと、がばっと和人が抱きしめた。驚きで手にしていたペットボトルも揺れるが中身が飛び出すことはなく、それに安堵していると頬をぴたりと密着させて少し拗ねた和人の声が耳から侵入してくる。

 

「新婚初夜に……オレ以外の男の夢を見て、泣いてたんだ」

 

そう尋ねられて明日奈は言葉に詰まった。問われて正直に答えた自分に比は無いと思うが、確かに和人は面白くないだろう。その証拠にかなり棘を含んだ言い方だ。

それに、まるで夢に出てきた男の子に泣かされたとような言い方だが、覚えている限りでは、泣かされたのを慰めてもらっていた気がするし、随分と自分は幼い感じだったから、泣くこと自体珍しくはない年齢なのだろうが……今の明日奈にそれを指摘する勇気はなかった。

顔を見ずとも明らかに不機嫌なのがわかって、明日奈は触れている頬を慎重にすり寄せる。

 

「……ごめんなさい」

 

反応がない。

仕方なくそのまま頬をすりすりしていると、ぱらりと崩れた生乾きの髪の感触を直に感じる。

どうにか首を横に回し、彼の頬をかすめるように唇を動かして「ごめんね」と呟くと、ようやく和人が小さく息を吐いた。

 

「どんな……やつだった?」

 

やっと返ってきた言葉にまたもや意表を突かれる。詮索は続くらしい。ここは慎重に言葉を選ばなくてはならない、と明日奈は表情を引き締めた。

 

「うーん、私は幼稚園くらいだと思うけど、それよりは年上だった気がする。ちゃんと名前を呼んでくれたから知ってる人なのかも。でも下を向いて泣いてたから声しか聞こえてなかったし……それくらいかな」

「声に聞き覚えは?」

「そこまでちゃんと覚えてないよ」

「……そっか……」

 

しばらくの間、和人からの声は途切れ、次に何を言われるのかと内心びくびくしながら待ち構えていた明日奈だったが、ようやく気が済んだのかゆっくりと抱擁を解いてはしばみ色に映るべきは自分だと言いたげに視線を合わせてくる。

 

「それにしても……あれだけグズってたのに、まだ流す涙の水分があったんだな」

 

妙に感心したように言い放った内容が昨晩の房事でくちゃくちゃに泣き乱れた自分の事を言われたのだと理解した途端、明日奈は深く眉根を寄せつつつも頬を染めて「ばかっ」と一言、可愛らしく言い返したのだった。

 

 

 

 

 

明日奈から短いお叱りの言葉を受けてすぐ、浴槽の準備が整った電子音を聞き取った和人は問いかけることもせずシーツに包んで明日奈を抱き上げ、そのまま浴室まで運び込んだ。

抵抗と言えば彼女の唇から飛んでくる弱々しい抗議の言葉だけで、手足をばたつかせる体力もないらしく、結果、ほぼ無抵抗に近い状態でそのままシーツをはぎ取られ、バスローブを脱いだ和人に抱かれた体勢で二人密着したまま湯船に浸かる。

心地よい僅かな浮遊感と温まる身体、その力の入らない身体を安心して預けられる和人の存在に思わず、ふぅっ、と息を吐き出せば、そんな緩みきった表情さえ愛しげに見つめてくる漆黒の瞳に気づき明日奈の体温は更に上昇した。

しかし、ここまできてしまったら今更じたばたと恥ずかしがっても仕方ない、と切り替えてそのまま寄りかかるように和人の胸元へ頬を寄せると自分を支えてくれる和人の腕の囲いが心なしか狭まってくる。どうしたのだろう?、と純粋に疑問の色で見上げると和人は目を瞑って栗色の髪に鼻をうずめていた。

 

「……やばいかも」

「え?、なにが?」

「なんか、どんどん明日奈の匂いが強くなって……」

「ひぁっ」

 

それ以上、言葉での説明を省いた和人は再び明日奈の肌の味を堪能しながら、脳裏ではかつてほんの二週間ほど、自分の妻と名乗ってくれていた時の彼女の言葉を思い出していた。

 

『……わたし、もう、キリトくんの奥さんだもんね』

『……したいことして、いいんだよ……今はもう、キリトくんだけの、わたしなんだから』

 

うん、かなり昔に取った言質だけど無期限有効ってことで……と都合の良い解釈のもと、体力の尽きていた明日奈を気遣い緩慢な動きで時間をかけ十分に溶かしてからゆっくりと内部の温かさを満喫する。指先さえ震えていた状態の明日奈はしがみつく力さえ残っておらず、全てを和人に委ねたまま、時折、声と身体を跳ねかせて、ただその欲望だけを受け入れた。

そうして朝、目が覚めた段階で既に思うように動けずにいた妻を再度貪ればこうなる事は当然だったろう自分の腕の中で意識を飛ばしてしまった明日奈を満足げに抱き留めたまま、和人は湯船の中でふと、披露宴後に交わした浩一郎との会話を思い出していた。

 

 

 

 

 

「お疲れさま、桐ヶ谷くん……っと、今日からは『和人くん』と呼ぶべきか」

「じゃあオレは『お義兄さん』……と?」

「あーそれは遠慮するよ。俺の事は今まで通り名前で呼んでくれ」

「わかりました、なら、浩一郎さん、今日は有り難うございました」

 

既にレンタル衣装から私服に着替え終えた和人は自分より時間のかかっている明日奈をホテルのロビーで待つ間、携帯端末で二次会の場所を確認していたのだが、そこに明日奈の兄である浩一郎がやって来たのだ。披露宴の途中で明日奈から聞いた話では新婦の父である彰三氏は朝からかなりナーバスな精神状態に陥っており、時折心を乱しては今回の結婚披露宴の進行を妨げていたが、その度に息子である浩一郎がなだめすかし、恫喝し、何とか丸め込んで新婦の父としての役割を全うさせたとかで、その整った顔に浮かぶ疲労困憊ぶりは本日の主役であるはずの和人より著しい。

そんな意味も含めて頭を下げた和人だったが、その言葉を軽く手を上げて受け取った浩一郎はそのまま手首の腕時計に目をやって時間を確認した。

 

「これから二次会なんだろ?、時間、大丈夫なのかい?……明日奈はまだなのか?」

 

ぐるりと周囲を見回してみても妹の影すら拾えない事を気にする浩一郎に対し、和人は時間を気にする様子もみせずに苦笑いをこぼす。

 

「まあ、二次会に集まる連中は《あっちの世界》で知り合った人間がほとんどなんでオレ達がいなくても勝手に盛り上がるでしょうから」

 

暗に主役の二人が到着せずとも初めての団体オフ会よろしく先に楽しくやっているだろう事は容易に想像がついて、和人もそれほど焦ってはいない。なんなら自分達が居なくても成り立つのではないか?、とまで思っているくらいだが、ここですっぽかすなどパートナーである明日奈が承知するはずもなく、加えて後日二次会幹事達から何を言われるか分かったものではないので、とりあえず顔は出さないとまずいよな、程度の心持ちで会場として貸し切った店の場所をチェックしていたのだ。

そんなのんびりとした感じで明日奈の到着を待っている和人を見て、浩一郎は「君も相変わらずだね」とこちらも苦笑に転ずる。

 

「こっちはこれから本家の人間の接待だよ」

 

確かに今回の桐ヶ谷家と結城家の婚姻は京都の結城本家からしたら分家の勝手な行動と思われたらしく、加えて明日奈が出来るだけ本家の人間は招待したくない意向を示した為、結城家の親戚として出席した人数は多いとは言えなかった。それでもわざわざ京都から出向いてきた親類縁者をそのままにしておくわけにはいかず、これから浩一郎は場所を移動して彼らの相手をしなければならないらしい。

 

「今日ばかりはうちの両親をこき使うわけにはいかないだろ?」

 

続けて「父は特にね、あれじゃ本家の人間の前でも今日の式を思い出して泣き出しそうだし」と、あながち大げさとも言い切れない可能性に今日から義理の兄弟となった二人は揃って緩い笑顔となる。それから浩一郎は一歩分和人との距離を詰めると申し訳なさそうに眉尻を下げ、声の音量も下げた。

 

「それと、今日はその親戚達が失礼な真似をしてすまなかった」

「え?」

「式の間は君の存在を全く無視していたくせに、披露宴で勤め先を知った途端、手の平を返したように近寄っていっただろ?」

「ああ……まぁ、別に気にしてませんから」

 

披露宴のスピーチで和人の職場の名前を知った結城家の親戚達は和人との繋がりが自分達の利になると判断したのだろう、お色直しで二人が中座したタイミングを見計らい、明日奈より先に着替え、披露宴会場の外で時間を潰していた和人を見つけて出して積極的に話しかけてきたのだ。

 

「比較的温厚な人間を招待したつもりだったんだけどね。たまたま会場から出てきたうちの母とお色直しを済ませた明日奈が彼らに囲まれている君を見た途端、同時にこめかみを痙攣させた時はどうなる事かと……」

「はぁ…………あの時は有り難うございました」

 

両手を強くグーにして半眼の刺すような視線を新婦と新婦の母という二つの方向から向けられていた和人は、いの一番に駆け寄ってきてくれた浩一郎が素早く親戚達を引きはがしてくれた場面を思い出して、もう一度頭を下げる。

 

「いや、そもそもの原因はこっちだし。もし今後、明日奈を飛ばして和人君に直接アポを取ってくるような事があったら遠慮なく俺に連絡してくれ。君や明日奈に迷惑がかからないようこちらで対処するから」

 

眉尻を下げ、申し訳なさそうに揺れる瞳は今まで気づかなかったが、意外にも明日奈と似ていて、そんな色で見つめられるのが一番困るのだと和人は小さく笑いながら「わかりました」と了承した。

多分、そんな事が起これば結城の姓を離れた明日奈や、もとより他人の自分があれこれと応じるより分家筋とは言え結城の名を継ぐ浩一郎に任せた方がややこしくならずに済みそうだと、和人としてはごくシンプルな考えで受け入れたつもりだったが、本家の考え方ややり方を知っている浩一郎はそれでも懸念が残るのか少し視線を落としてから「特に明日奈が……」と呟くように妹の名を口にする。

 

「あいつは和人君の事となるとすぐに感情を高ぶらせるだろう?……ましてや自分の親戚筋のせいで君が迷惑をしていると知ったら、それこそ自分で何とかしようと考えそうだし」

 

浩一郎の言葉に少しの違和感が生まれて和人が返事をし損ねていると、その心中を察したのか浩一郎は顔を上げて少しせつない笑顔を浮かべた。

 

「昔はね、もっと表情の硬い子だったんだ。今みたいに感情をストレートに表現するようになったのは和人君のお陰だろうね」

 

それは自分のちょっとした悪戯やうっかり口を滑らせた言葉で彼女のお怒りをちょこちょこと引き出している事を言われているのだろうか?、と和人が考え込んでいるとそれさえも察知したかのように浩一郎が「今はよく笑うようになったって言いたいのさ」と言葉を足す。それから遠い日を思い出して昔語りを始めた。

 

「俺が小さかった頃は両親と共に過ごす時間も十分にあったんだ。けど明日奈が物心ついて今の家に引っ越したあたりから父の会社が軌道に乗り始めてね、同時に母の仕事も忙しさを増してきて、俺も学校があったから時々しか明日奈の相手をしてやれなかった。それでも家族の中では俺だけが毎日ちゃんと家に帰っていたから、何か困った事があると俺の部屋にやって来ては相談事を口にしていたよ。けれど段々と我慢と努力が当たり前みたいな子になってしまって……だから俺が居なくても息抜きに俺の部屋に入っていい、とは言っておいたんだ。多分、あの日もきっと気晴らしに部屋にあったナーヴギアを手に取ったんだろう……」

 

いくら明日奈が兄のせいではない、と言い重ねても浩一郎が首を縦に振ることはない事を和人は知っていたし、明日奈も既にその件に関しては口にしないのが一番だという結論に至っている。それでも未だに浩一郎の傷は塞がっていないのか苦悶の表情を浮かべたは彼は「俺が守ってやるって言ったのにな」と自らを責めるような言葉を口にした後、少し悔しそうな笑顔で「明日奈を守る役目はとっくに君のものだったね」と和人に告げてから口元を緩めた。

 

「幼い頃はね、気弱と言うか、結構泣き虫で。何かあるとすぐに泣きついてきて……そうそう、引っ越してすぐの頃、近所の公園で知らない男の子に泣かされてた事もあったな。学校帰りに偶然通りかかって、びっくりしたっけ。身内の俺が言うのも何だけど、明日奈は泣き顔もなんだか可愛くてさ、俺もつい笑いながら慰めたよ……」

 

当時の光景を思い出しているのか、すっかり純粋な笑顔になった浩一郎を見ながら、和人もまた明日奈の泣き顔を思い浮かべ同意の言を述べそうになるが、自分が見る場合の泣き顔は兄に対するそれとは違うと思い直し、笑顔で頷くだけに留める。そんな風に男二人で時間を過ごしていると「待たせてごめんね」と涼やかな声がその空気に入り込んできて、同時に振り返った和人と浩一郎はまさに一瞬でその場を華やかに彩る容貌と幸せに満ちた笑顔の持ち主の登場に目を細め、自分達の間に迎え入れたのだった。

 

 

 

 

 

ああ、そうか……と和人は明日奈が話していた夢物語に合点して、その寝顔を見つめた。明日奈が夢に見たのは多分、浩一郎が話してくれた幼い日の出来事だったのだろう。

となると、彼女に守ってやるから、と告げたのは……既に明日奈が泣き顔さえも可愛いことを知っていた実の兄だったわけだが、そうと分かっても胸中に潜む僅かな抵抗は拭えない。それでもこれからは彼女の泣き顔を見るのは自分だけだと決意のような優越感を抱いてそっと淡い朱頬に残る涙の痕に唇で触れると、その刺激ではしばみ色がゆっくりと顔を出した。

今度はすぐに焦点を合わせ、怒っているような、困っているような、それでいて恥ずかしさと嬉しさを同居させた複雑な思いで見つめられて、和人は全てを受け取ってから笑顔を返す。

これまで他者の思惑に振り回されて望まぬ状況を強いられても懸命に抗い続けてきた彼女だったが、せめてこれからは自分の隣で安心して思いっきり笑ったり泣いたりして欲しいと、言葉にするより直接唇を彼女に重ね、思いを捧げた。

拒む力が残ってないのか、と危惧していた触れ合いは隙間から滑り込ませた舌を彼女が迎え入れ、すぐに優しく深まる。じゃれ合うように何度も絡めては解しを繰り返して初夜の余韻を楽しんだところで徐に唇を離した和人が真っ直ぐにその漆黒の瞳で明日奈を見つめた。

 

『これからはオレが守るよ』

 

きっと口にすれば凜々しい彼女のことだ「私も君を守るね」と言ってくれるに違いないから、引き継がれた分の存在をわざわざ言いたくなくて心の中で誓うと、何かを感じ取ってくれた彼女がふわり、と表情を緩める。

 

「ありがとう、キリトくん」

 

何に対しての言葉なのか、疑問の欠片すら存在しなかった。久々に呼ばれたキャラクターネームに和人のこれまでの記憶も一気に押し寄せてくる。そうして和人もまた様々な思いを込めてしっかりと妻を抱きしめたのだった。

 

「ありがとう、アスナ」




お読みいただき、有り難うございました。
本文中のかなり昔の言質は特典小説からの引用です。
ここまでを「ひとつ」の約束(みらい)として考えていたので、
かなり時間が経ってしまいましたが、お届けする事が出来、とても
嬉しく思っております。
まぁ……当分、ホテルから帰れそうにないですけどね、この二人……(苦笑)
次回の内容は未定ということで(すみません)。


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姫ロス

和人と明日奈達が通う帰還者学校での夏休み明けのお話です。
キリトのようにゲームクリアによって11月に《現実世界》へ生還した人達を「第一次生還者」、
そのまま《仮想世界》に囚われ、アスナのように翌年の1月に生還した約300人の
人達を「第二次生還者」とする独自設定をご了承ください。


 — 水曜日 —

 

「……うん、大丈夫。もう学校に着いたよ……平気だってば。説明会は一緒に来てもらったし。それより夜勤明けなんでしょ、気をつけて帰ってきてよっ。今日は入学式の後クラスメイトとの顔合わせだけで授業はないから、適当に買い物してお昼には帰るね」

 

ぽちっ、と通話を終わらせて携帯端末を鞄にしまう。

看護師をしている母は仕事のシフトの関係で今日の私の入学式に来られない事を未だに気に病んでいたようで、勤務が終わったと同時に病院からわざわざ連絡をくれたようだ。

「忘れ物はない?」とか「ちゃんと迷わずに学校までの道のりは覚えてる?」などなど十六歳の娘に対して少々心配性な部分が多めの母だが、女手一つで私を育ててくれた上に今年の初めまで《仮想世界》に囚われていた私は、母の中では未だ十四歳の娘感覚が抜けないのだろう。こっちはしっかり《あっちの世界》で二年間を生き抜いてきたから、それなりに精神的には成長していると思うのに、母にしてみればずっと寝ていた十四歳の娘が起きた途端十六歳になってました、と切り替えるのは難しいのだそうだ。

 

そうだよね、十代の二年間って結構長いよね

 

幸か不幸か自分の(アバター)容姿はこの二年間変化がなかったから実感が湧かなかったけど、目覚めてから初めて鏡を見た時の衝撃は結構大きかった。

なんせ栄養摂取は点滴からのみだったし、身体はもちろん顔だって表情筋とか動かしてないと十代であろうと色々と衰えるのだという事を実感した私は看護師である母からのアドバイス……とにかく身体を動かすっ、顔を動かすっ、感情を思いっきり表すっ、を徹底的に実践した。

もともと入院していた病院が母の勤務先だったから他の看護師さんや医師の先生達ともすぐにうち解けて、自分で言うのも何だけど持ち前の明るさを武器に病院内でのアイドル的存在になるべく日夜努力を重ね、お肌モチモチ若さピチピチの十六歳となっていざ天下無敵の女子高生へと変貌するはずだったのに……。

モチピチにはなったけど、相変わらず両手はすぐにプルプルするし両足はヨタヨタでなかなか思うように動いてくれない。

聞けば昨年末に《仮想世界》から解放された「第一次生還者」はほぼ普通の生活を送れるまでに回復していて、この四月からSAOサバイバーの救済処置の一つである帰還者学校への入学が可能らしい。

出来れば私も春からそこに通いたかったなぁ、と思うように動かない身体をベッドに横たえたまま、窓から見えた桜の花を眺めるしかなかったのは五ヶ月前の私だ。

あれからリハビリに励み、ついでに遅れに遅れていた学力を向上させるべく病院を退院した後も運動がてら図書館に通い勉強を頑張った。

そして、ついに夏休み明けにこの帰還者学校へ入学の運びとなったのだ。

 

な……長かった。あの二年間も長かったけど、こっちの五ヶ月間も長かった

 

半月ほど前、九月入学者を対象とした説明会で一回学校には来てるけど、あの時は夏休み中だったから一般の生徒はいなかったし、説明会に来た人間は当然全員が私服だったから親子っぽい二人組が多かったけど、生徒になる本人だけだったり、保護者のみだったり、判別不能な感じの人もいたし、とにかく普通の入学説明会と違って参加者の年齢に結構なばらつきがあった。

でも今日は違う……校舎に向かっている人達はそのほとんどが揃いの制服を着た生徒で、後は入学式の保護者席へと収まるだろう私服の人達だ。既に慣れた様子で何人か固まってお喋りをしながら登校しているのは四月入学を果たした「第一次生還者」の生徒達だろう。

私みたいにキョロキョロと周囲を観察しつつも、少し緊張気味の表情で歩いているのは今日からこの学校に通う編入生に違いない。

校門から適当な間隔に配置されている教師と思われる大人達が「編入生はそのまま体育館へ向かってください」と声をかけている。

まあ、わかっていた事だったけど体育館へと流れていく生徒の数はかなり少なくて、普通に校舎の下駄箱へと向かう生徒がほとんどだ。

「第二次生還者」と呼ばれる覚醒が遅れた人達は約三百人、その中からこの学校への通学を希望する者は年齢や住んでいる場所など、幾つかの条件を満たさなくてはいけないわけだから単純計算でひとクラスに一人程度の割合で編入するらしい。加えて男女比は圧倒的に女子が少ないので同じクラスになった女子とうまくやっていけるかどうか、まず一番最初の関門はそこだ。

 

確か三十人弱のクラスに女子が五、六人って言ってたはず

 

説明会で聞いた話を思い出しながら体育館に向かっていた所で母からの連絡が入ったのだ。

通話を終えて携帯端末を鞄にしまい、代わりに体育館履きを取り出す。どうやら靴は体育館の入り口で配られているビニール袋に入れ、帰りまで持ち歩く事になるらしい。

九月とは言え未だうだるような外気温の中、バス停からここまでの徒歩は初日の緊張が手伝っているのか思っていた以上に体力と気力を奪ってくれたらしく体育館から流れ出ている冷房の効いた空気が頬に涼しい。自然と緩んだ気分の中、靴を脱ごうと屈んだ時、体育館の角の向こうから男子の声が聞こえてきた。

 

「……うん……大丈夫だって……ちゃんと起きたから、って言うかもう学校だし……ああ、わかってる……」

 

おやおや?、漏れ聞こえてくる言葉から察するに、他にもうちの母親みたいな心配性の保護者を持つ生徒がいるみたい

 

少しにんまりと嬉しくなって脱ぎかけていた靴を素早く履き直し、声のする方の角から顔だけをそっ、と覗かせる。

するとそこには予想通り、ここの制服を着た男子生徒がちょうど携帯端末をポケットにしまう所だった。

しかしその男子生徒はちらり、と時間を確認してすぐに体育館から離れて行ってしまう。

 

あれっ?、編入生じゃないの?

 

私はちょっと不思議な雰囲気を持つ細身の彼の後ろ姿をただ静かに見送ったのだった。

 

 

 

 

 

無事に入学式を終え、在校生として同席していた「第一次生還者」と一緒に発表されたばかりの配属クラスへ移動する。このクラスに編入したのはやっぱり私ひとりで、窓際に固まっていた女子達が手招きで私を呼び寄せてくれた。

 

「女子が増えて嬉しいっ」

「これからよろしくね」

「わからない事があったら何でも聞いて」

 

抱いていた不安は拍子抜けするくらい的外れだったらしく、すぐに自分の中から消えて、代わりに私は教室に入ってきた時から感じていた疑問を聞いてみることにした。

 

「このクラスの男子って……なんか皆随分元気ないよね?」

 

そうなのだ、体育館で在校生と編入生、その保護者が一堂に会した時はざわざわと活気というか長期の夏休み明けで色々とテンションが上がっている感じだったのに、式が終わって各自が教室に戻る頃にはひそひそと男子を中心に声をひそめ合い難しい顔を並べていたと思ったら教室の席に着いた時には誰もが項垂れてぶつぶつと独り言だったり隣近所、小声で何かを話し合っている感じなのだ。

そんな私の問いに苦笑気味で答えてくれたのは最初に教室の入り口に立っていた私に向け手を振ってくれた女生徒だった。

 

「ああ……どうも姫がね、今週いっぱい学校に来ないらしくて。ただでさえ夏休み中、姫に会えなかった奴らには衝撃が強すぎたんじゃない?」

「姫?」

「そう、私達よりひとつ上のクラスの女子ですっごい美人さんなんだよ」

「それに成績もいいし運動神経も抜群だしね」

「へえぇっ、そんなスゴイ生徒がいるんだ」

「加えてスタイルも完璧。更に性格も良くて私達下級生女子には優しいし、乱暴な男子とかには毅然とした態度で意見してくれるしね、凄く頼りになる人でしかもマジでお金持ちのお嬢様」

「な……なんか、すごいね」

「でしょー。告白する男子も多いけど、女子を含めてこの学校の殆どの生徒にとっては憧れの存在って言うか……」

「そうそう。カリスマ性って言うのかな、あの笑顔には性別を超えてみんながうっとりしちゃうんだよねぇ」

「だから『姫』って呼ばれてるの?」

「うん、私達より下の学年の子達は『姫先輩』なんて呼んでるけど、うちのクラスには熱狂的なファンがいて……ほら、アイツ」

 

肩越しに指さされたその先には、もしかして泣いてるの?、と自分の目をこすりたくなるくらい顔をヨレヨレにした男子が自分の席の後ろの男子に向かって声を震わせている。

 

「かぁぁぁずぅぅぅっ、なんでなんだっ、どうしてなんだっ、俺が何をしたって言うんだぁ」

「別にお前が何かをしたせいじゃないだろ」

「俺がっ、俺がっ、どれだけ夏休みの終わりを待ち焦がれていたか、お前にわかるかっ」

「わからん」

「そうだろ、どうせお前は夏休みの間も俺みたいに『姫ロス』に苦しむ事なんかなかったんだろっ」

「『姫ロス』って……」

「折角夏休みが明けて姫に会えると思って張り切って登校したって言うのに来週まで会えないなんてあんまりだー」

 

うわぁっ、確かにこれは熱狂的って言うかもはや狂信的レベル?……ヘタなアイドルのファンより日常で会えちゃうもんだから抑えが効かないって言うか……はい、アブナイ奴認定

 

私の心の声が聞こえたみたいに目の前の女生徒が片手をひらひらと振った。

 

「ドン引くでしょ。まあ普段はあそこまでじゃないしクラスのムードメーカー的な気の良い奴だから。とにかくアイツが先輩の事を『姫』呼びしてるんで私達も自然と呼び捨てにしちゃってるんだよね」

「怒られたりは……しない?」

「まさか。全然大丈夫だよ。来週登校してきたら教えてあげるね……って言うかきっとそれこそ『姫ロス』状態の奴らが登校を待ち構えて群がるだろうから、すぐにわかると思うけど」

「へーっ、じゃ、月曜日をちょっと楽しみにしようっと」

 

一体どんな先輩なのか、怖いもの見たさにも似た興奮がむくむくと湧いてきて目を輝かせていると、その反対にいわゆる『姫ロス』で死んだ魚のような目の男子生徒達は呪文のごとく来週までのカウントダウンを「あと五日、あと五日かぁ」と始めている。

けれどそんな中、『姫ロス』と言うより『姫禁断症状』と言った方がしっくりくるさっきの男子生徒が後ろの机につっぷして悶え苦しんでいると、その机が自分の席であるらしい男子生徒が頬杖をついてシャーペンで彼の脳天をぐりぐりとほじり始めた。

 

「佐々、いい加減、自分の机で泣けよ」

「うるさいっ、せめてお前に嫌がらせをして少しでも気分を晴らすんだっ」

 

お子様か……

 

もはや哀れみに近い視線を送っていると、自分の机を『姫禁断症状』の男子生徒に占拠されている彼もまた冷めた目で友達の頭をほじり続けていて、その表情はこの教室内にいる他の男子達とは全く違っていることに気づく。

 

なんでだろう……この人は姫に会えなくて、がっかりしてないのかな?……

そう言えばアブナイ奴が言ってた……どうせお前は姫ロスに苦しむ事がない、とかなんとか……と言うことは……このクラス内、と言うよりこの学校内の男子生徒の殆どが苦しんでる『姫ロス』になってない……姫の事をなんとも思ってない……ってこと?

 

そう思うとどんどんと彼に興味が湧いてくる。

目の前の友を見る迷惑そうな目、と言うよりどうでもよさ気な目は真っ黒で、加えて今時の若者なら逆に染めないとそこまでは、と疑いたくなるような程髪の毛も真っ黒。前髪だけが少し長くて、その下の病弱感はないけど色白の肌とのコントラストがなんとなく目を引くと言うか……ああ、そうか、見た目が柔和な女顔だけにちょっと冷たく感じる目元とか笑わない口元なんかがアンバランスで、それで余計に目立っちゃうんだ。

方や感情を爆発させてる『姫ロス』のアブナイ奴と、もう一方は無表情に近い黒髪君とのコンビもアンバランスなんだよねぇ。

 

つい目が離せなくなって、睨むように観察している私に隣の女子がクスクスと笑いながら彼らの名前を教えてくれた。

 

「『姫ロス』でのたうちってるのが佐々井君。その被害者が桐ヶ谷君だよ」

 

ふむふむ、佐々井君に桐ヶ谷君ね。確認するように頭の中で繰り返して同時に彼らの顔をインプットする。既にクラスの女子の名前は覚えたから、男子の名前はまずあの二人からだ。

 

 

 

 

 

 — 木曜日 —

 

翌日の朝、まだまだ新鮮な気分で通学路を歩き校門をくぐる。

周囲は知らない生徒だらけの中、十数メートル先に昨日覚えたばかりの黒い髪を見つけた。一人で歩いている後ろ姿はなんだか近寄りがたくて、それは他の人も同じなのか誰も声をかけようとしない。

でもそんな周囲の反応なんて気にした様子もない桐ヶ谷君はスタスタと校舎に向かって歩いて…………いたと思ったら、急に向きを変えて昨日の私の様に体育館のある方向へと移動していく。今までよりも歩調を早めて、制服のズボンのポケットから携帯端末を取り出しながら体育館の裏手に付くと手の中の端末を耳に押し当てた。

ここなら人の目も気にしなくていいし、ちょうど日陰だから九月とは言え夏の日差しと変わらない日光も遮断出来る。

 

あれっ、もしかして昨日もこの場所で喋ってた人って……桐ヶ谷君?

 

思わず桐ヶ谷君の後を付けるような格好で体育館の角まで辿り着いた私は、やっぱり昨日と同じようにそこからチラリ、と顔を覗かせようとして思いとどまった。

 

今日も桐ヶ谷君のお母さんか誰かが昨日の私の母のように心配で電話をかけてきているのなら、それを覗き見とか、それは絶対によくないよね、うん。

 

それにしても、既に春からこの学校に通っている桐ヶ谷君を心配するなんて、随分心配性の人なんだなぁ、と思いながら、その場を立ち去ろうとした私の耳に、ほんの少し、風に乗って桐ヶ谷君の声が届く。

 

「……無理してないか?…………そっちの時間は…………」

 

うぬぬ?、親に対する言葉遣い……にしてはちょっと違うような……世に言うお友達親子な関係ってやつかな?

 

勝手な想像と都合の良い解釈を織り交ぜて私はちょっぴりコソコソと昇降口へ向かったのだった。

 

 

 

 

 

 — 金曜日 —

 

こうなってくるともう誰も天下御免の女子高生の好奇心を止める事は出来ない。

言っておくけど私は桐ヶ谷君のストーカーでもないし、覗きが趣味な人間でもない……と思いたい。ただ単純に、どうやら誰も気づいてないみたいだけど、桐ヶ谷君は毎朝、学校に着くと誰かと電話をしてるんですよ、といった自分だけの秘密みたいな物を確立したいだけなのだ。だからその内容を盗み聞きしてやろう、なんて悪趣味な事は考えていないわけで、とにかく今朝も同じ場所で桐ヶ谷君が通話をしている姿を確認すれば気が済むって言うか…………あれ?、なんだろう?、突き詰めると自分だけが知ってる桐ヶ谷君、みたいな特別を求めている?……うーん、深く考えるのはやめよう……これは単に乙女の純粋な好奇心のはず。

 

今朝は一本早い電車に乗って先に体育館の裏へと到着する。これで桐ヶ谷君が来なかったら限りなく空しい感じになるけど、三日続けて電話がかかってくるのかどうかを気にしながら、気にしていないふりで登校する方がよっぽど精神的に良くないしね。

当然、その場所にはまだ誰も居なくて、私はどこで桐ヶ谷君を待とうか、と周囲を見回した。

 

きっと、あっちから来るはずだから……

 

「あ……」

 

彼がやってくるだろう方向を確認した時だ、一昨日、昨日、と私が足を止めた体育館の角に冷ややかな視線を送ってくる桐ヶ谷君が立っている。

鞄を肩にかけたまま、半袖から伸びている腕を組んで、口をきつく結んだままの桐ヶ谷君は明らかに…………不機嫌かも。

 

「えっと…………おはよう」

 

そう言えば今の今まで言葉を交わした事、なかったんだった……

 

こんな場所だけど自己紹介から始めた方がいいのかな?、などと次の言葉を探していると桐ヶ谷君は私の挨拶を見事にスルーさせて、低い声で短い単語を投げかけてきた。

 

「何?、迷子?」

「はっ?」

 

えっ?、私、迷子だと思われてる?……確かにこの学校に通い始めてまだ三日目だけど、それって私が校門から昇降口までの一直線すら歩けない奴って思われてるって事だよね?

 

そう考えると桐ヶ谷君を待ち伏せようとしていた事なんてすっかり忘れて、元来の負けん気が顔を出す。

 

「失礼なっ。私はアインクラッドの雪山でだって森林の中でだって迷子になったことがないくらい方向感覚には自信があるのっ」

「へぇ」

 

言い返してくるとは思っていなかったのか、ちょっと意外そうに真っ黒な目を見開いた桐ヶ谷君の言葉は感心されているのか小馬鹿にされているのか、いまいちわかりづらい。

けど迷子になった事がないのは本当だ。砂漠でだって密林の中でだって迷わないっ、と宣言したいけど、残念ながらアインクラッドにはそんな感じのステージはなかった……いや、もっと高層の階に行けばあっのかもしれない。

とにかく小さい頃から方向感覚だけは良かったんだからっ…………っと、今、それって自慢げに言うことだったかな?

 

少し冷静になって自らの発言の是非を自問していると、さっきよりも微妙に雰囲気が軽くなったような桐ヶ谷君の口元から今度は単語じゃなくて文章が飛んでくる。

 

「雪山って……なんかのクエスト?」

 

おっ、桐ヶ谷君が食いついてきた。

《あの世界》での話題はタブーって聞いたけど、実際の学校生活では完全に箝口令がしかれているわけでもなくて、少人数単位の日常会話レベルならぽろぽろと笑える思い出話みたいに会話に混じってくる。

私は雪山登山も森林探検も当初の目的は叶わなかった事を思い出して、少し苦笑気味にぽりぽりと後頭部を掻いた。

 

「星をね……見たかったんだよね」

「星?」

「そう、私、星空見るのが好きなの。だから高い場所とか自然が多い場所に行けばもしかして見られないかなぁ、と思って……」

「星空だったら、アインクラッドの五層に……」

「あーっ、うん、それは知ってる。あそこでも何回か見たけど……私ね、一人で見上げるのが好きなんだよ」

 

子供の頃は母が夜勤の日は決まって夜空を一人で眺めた。別に寂しさを紛らわすとか、そんな感情はなかったと思うけど、不思議と夜、一人で見る空が好きだったのだ。月が大きくて明るい夜も、曇りで真っ暗な夜も好きだったけど、一番は星がたくさん見える日の夜空だった。

アインクラッドの空、と言うか天井は夜になると真っ黒だったから当然星の輝きなんてなくて、だから満天の星が見られるって言うレストランにも言ったけど周りに人がいる場所で見上げる夜空は何か違う気がして、それから私は星空を探し求めモンスターを避けながらあっちこっちを彷徨った。結局星が見える場所は見つけられないまま《あの世界》から放り出されたわけだけど。

あの頃の思い出に浸っていた私の耳に少し躊躇いがちな桐ヶ谷君の低い声が響く。

 

「オレは……流星なら見た、かな」

「ええっ!?、ホントっ?」

 

それってただの星空よりスゴイ経験だよっ

 

流星が見られる場所なんて情報、全然知らなかったなぁ、と今度は悔しさと羨ましさが膨れて私の苦笑を押しのけ、ついでに勢い込んで桐ヶ谷君の目の前まで迫り寄ると桐ヶ谷君はまさに夜空のように真っ黒な瞳を柔らかく細めて「ああ」と頷いてくれる。

 

「もっとも、オレが見たのは迷宮区の中だけどな」

 

その時の光景を思い出しているのはすぐにわかった。今まで……と言ってもたった三日間だけど、黒い瞳を見た事もないくらい優しい色で覆って、口元だって緩んで……あの無口、無愛想、無表情のイメージが強かった桐ヶ谷君が…………微笑んでる。

九月の気温のせいだけではなく自分の顔が熱くなった。

 

「でも、毎朝ここに星を探しに来てるわけじゃないんだろ?」

「へっ?」

「一昨日も昨日もここにいたよな?」

「ど、ど、ど……どうしてそれを!」

「オレの場合、《こっちの世界》でも索敵スキルには自信があるんだ」

 

それまでの純粋な微笑みが、ニヤリ、としか言い表し様がないほど悪戯っ子の笑みに変貌をとげている。

ここはひとつ素直に白状して謝るしかない。

 

「ごめんなさいっ、一昨日は偶然声が聞こえたからなんだけど、昨日は……その……」

 

後を付けました、ってゆーのはちょっと違うって言うか、もちろん客観的にはそうなんだけど、つい、思わず、出来心で、みたいな感じをわかって欲しいとゆーか……

 

その先に存在する感情まで行き着くことなく言葉を探している私に、桐ヶ谷君は突然「あ、悪い」と早口で話しかけてきた。

 

「もう三日目だからわかってると思うけど、オレ、これからちょっとここで通話したいんだ」

「あ……やっぱり今日もなんだ」

「まあ、今日で最後だけどな」

「そうなの?」

「ああ、週末には戻ってくるから」

「誰?、お母さん?」

 

私のしつこい追求に桐ヶ谷君は軽く笑って「母さんが帰ってくるのは週明けかな」と小声で言ってから、少し考え込むように宙を見つめた後、ゆっくりと私に視線を合わせてくる。

真正面から見つめられてその真っ黒な目の中に星のような輝きを発見した時だ、まるで私が夜空いっぱいの星々に両手を伸ばした時のような嬉しさと愛しさを込めた笑顔でそっと答えを教えてくれた。

 

「流星が、オレの所に落ちてくるんだ」

 

何を言われたのか理解出来ず一瞬の間が開いて、言葉の意味を問おうと口を開きかけた時、まさにタイミングを見計らったように桐ヶ谷君の鞄の中から無機質な電子音が鳴り響く。すると彼は予定通りと言わんばかりにすぐさま携帯端末を取り出し今まで聞いたことのない声で「アスナ?」と相手の名前らしき固有名詞を優しく口にした。

それからすぐに視線だけを私に移して片手を挙げる。

 

はいはい、ここから立ち去れってことね

 

当初の目的である三日連続で連絡は取るのか?、という疑問の検証は済んだわけだから私だってここにいる必要はない。

けど、なんだろう、なんか面白くないって言うか、さっきまで私と話してたのに電話がかかってきた途端、私の存在が急に空気みたいに薄れて、あの端末の向こうにいる「アスナ」って人に桐ヶ谷君の全部を持って行かれた気分だ。

もう彼の黒い瞳は私を映すことなく、ここには居ない「アスナ」って人を見つめている。

私はどうにも晴れない気分を抱えたまま、今日ばかりは意識的に彼の話し声を耳に入れないよう頭の中を大好きな星空の夜景を思い出す事にめいっぱい集中して、そっとその場を離れた。

 

 

 

 

 

 — 土曜日 —

 

「それでは秋編入のお二人さん、《現実世界》への生還おめでとう、リハビリお疲れ様でした、そして我が帰還者学校へようこそっ……カンパーイ!」

 

佐々井君の音頭取りで各自手に持っているグラスを高々と上げ「乾杯っ」と言ってから隣近所のグラス同士で、カチンッと音を立て合う。

カラオケボックスの飲み放題用に用意されているプラスチックグラスだから音が安っぽいのは致し方ない。

私もここ三日間ですっかりうち解けたクラスの女子達に囲まれ、まずは一杯目のアイスティーをごくごくと半分ほど飲み干した。

 

「うーっ、生き返ったぁ。土曜なのに電車が結構混んでてさ。あんまり冷房効いてなかったんだよね」

 

今日は隣のクラスと合同でパーティールームを借りての親睦カラオケ大会なのだ。クラスの皆が集まれる場所、と言う事で結局学校の最寄り駅にあるカラオケ店が会場となっている。

とりあえず喉を潤し終わった私は、明るいパーティールーム内をぐるり、と見回した。

同じクラスの男子生徒もだいたい顔は把握したから、見覚えのない顔は隣のクラスの男子なのだろう。いくら平日の登下校に使っている交通手段があるとは言え、わざわざ土曜日に集まってくれた人数としては結構な数だ。

 

「なんだか申し訳ないなぁ、編入生一人に……隣のクラスの人も入れて二人だけど、こんな会を計画してもらって……」

 

すると隣の友人が含み笑いで肩を揺らす。

 

「気にしなくていいよ。歓迎会も嘘じゃないけど、男子達の慰労会も含まれてるから」

「慰労会?」

「そう、姫がやっと明後日から学校に来るでしょ?」

「ああ、今まで『姫ロス』に堪え忍んだ自分達を労う的な?」

 

なるほど、だから隣のクラスは女子が不参加なのか。

隣のクラスの編入生は男子で……ちなみに顔は覚えていない。今、探してみてもピンと来る顔はないし、ポツンと浮いた奴もいないから、その男子も既にクラスに溶け込んでいるんだろう。

今回の会の目的が私とその男子の歓迎、兼、『姫ロス』の憂さ晴らしなら隣のクラスの女子が積極的に参加しないのも頷ける。

けれど、私の推測に向かい側の友が「違うよぅ」とおっとり口調で否定してきた。

 

なら、なんの慰労会?

 

首を傾げながら、なぜか目は自然と黒髪の男子を探してしまって……もうこのパーティールームに入ってから何度も確認したはずなのに、私の視線は私の言う事を聞いてくれない。こうなったらはっきりさせよう。そうすればこのそわそわも落ち着くに違いないから。

 

「……あのさ……佐々井君が仕切ってくれてるのに、仲の良い桐ヶ谷君は来てないの?」

 

佐々井君にかこつけた私の質問を聞いた途端、両隣の友達が同時に吹き出した。

 

へ?、なんで?、私、なんか可笑しい事言った?

 

「ふふっ……ご、ごめん……桐ヶ谷君は何か用事があるとかで来られないって聞いたよ」

「って言うか、桐ヶ谷君が不参加だから慰労会も兼ねてるんだよね」

 

ますます意味がわからない

 

左右からの同時攻撃に疑問符でしか応戦できない私のすぐ近くで、突然、佐々井君が吠えた。

 

「みんなっ、よくぞ今日まで堪え忍んだっ」

 

その言葉に男子達が一斉に「おーっ」と呼応する。そして、そこかしこから呪詛めいた愚痴の囁きが始まった。

 

「ほっんと、この三日間、機嫌悪かったよなぁ」

「にこりともしねーし」

「俺なんか、うっかり姫の事聞いたら視線で刺されるかと思った」

「まったくピリピリしやがってよう」

「普段独占してる奴の反動ってタチが悪いよな」

「お前だけじゃねーっ、つーのっ」

「どうせあいつは夏休み中も会ってたんだろ?」

「俺達の方がどんだけ長期間我慢してきたか、全然わかってないっ」

 

ここで佐々井君がまたもや声を張り上げる。

 

「隣のクラスの男子諸君にもうちの桐ヶ谷が多大なるご迷惑をおかけしたっ」

 

そこで一気にルーム内の男子の結束が固まりぶくぶくと増大していった。

 

「そうだっ、合同体育の授業の時なんか、桐ヶ谷のヤツ、目がマジなんだぞっ」

「クラスの対抗戦は授業の一環であってアイツの苛立ちのはけ口じゃないだろっ」

「俺達なんて同じクラスだから味方のはずなのに全く手加減がなかったっ」

 

もう個々には聞き取れないほど桐ヶ谷君への意見申し立てが続いている。やんややんやと異様な盛り上がりの中、私とその周りの女子だけがその光景をあきれ顔で眺めていた。そうしてこのパーティールーム内はマイクで思いの丈を歌い上げる猛者やら、アルコールはないはずなのにポロポロと涙を流す者、それを慰める者もいれば、つられて泣き出す者もいて、なにがなにやらカオス状態だ。

 

「……一体、なにがどうなってるの?」

 

とりあえず目の前のお菓子をつまみながら状況把握に努める。私と同じようにお菓子を口に放り込んだ友がモグモグと咀嚼しながら端的に答えを提供してくれた。

 

「要は一番の『姫ロス』が桐ヶ谷君だったってこと」

「ええーっ!?」

「この三日間、ひどかったもんねぇ」

「うん、私達女子は男子ほど被害が出てないけど」

「桐ヶ谷君に気ぃ遣って教室全体が緊張してたのは逆に面白かったぁ」

「私は別に何とも思わなかったけどな。どうせ月曜には元に戻るんでしょ」

「間違いないね」

 

妙に達観した様子の女友達が周囲の男子達よりずっと頼もしく見えて、私の開いたままの口からは「ほえぇ」と意味不明の音しか出てこない。放心状態に近い私の様子を見て、クスッ、と笑った友人は更なる説明を追加した。

 

「だからね、いつもの桐ヶ谷君はあんなに無愛想じゃないんだよ」

「そっ、全体的に穏やかな雰囲気だけど、割と喋るし表情だって豊かだし」

「この三日間が特別だったって事で……」

「……なんで?……だって桐ヶ谷君は『姫ロス』には……」

 

そうだ、彼と仲良しの佐々井君は言ってた、どうせ桐ヶ谷は『姫ロス』にはならないって……

 

「それは夏休み中の話。だって姫は桐ヶ谷君の彼女だもん」

 

は?????

 

「夏休み中もちょいちょい会ってたんじゃない?」

「校内でだってイチャこらしまくってるもんね」

 

もう思考がついていかない……桐ヶ谷君の彼女さん?……男子達だけじゃなく女子達からも高評価の『姫』とまで呼ばれるような人が桐ヶ谷君の彼女さん?

それに桐ヶ谷君は普段は全然無愛想な人じゃなくて、無口でもなくて、無表情でもないって…………私が見ていた桐ヶ谷君は姫がいない時の桐ヶ谷君って事で……ならいつもは…………っそうか、私が見た体育館裏の桐ヶ谷君がいつもの彼に近いのか…………だったらなんであの時だけは…………

 

『流星が、オレの所に落ちてくるんだ』

『アスナ?』

 

あの時、恋い焦がれるような切ない笑顔を見せた時の桐ヶ谷君の言葉が脳裏に浮かぶ。

 

「ねえ、姫の本名って……」

「あれ?、言ってなかったっけ?…………結城、明日奈さん、だよ」

 

なんとなく自覚しつつあった淡い恋心は、同時になんとなく予感していた彼にとってかけがえのない存在の名を知った所で見事に溶けて消えていった。脱力しきった私を放置したまま、友達からの姫情報は止まることなく耳に入ってくる。

 

「でもさ、何で姫、学校に来ないの?」

「それがね、姫のお母さんの論文が海外メディアで取り上げられたとかで、アメリカで特別講演するんだって。それで社会勉強兼スタッフとして同行してるらしいよ」

「あー、姫、バイリンガルだもんね」

「じゃあ週末まで海外かぁ」

「いいなー」

 

ちょっと待って……と言うことは毎朝、桐ヶ谷君は姫と国際電話してたって事だよね?

全然『姫ロス』じゃないよね?

ちゃんと毎日電話で喋ってたくせに『姫ロス』って…………どんだけ姫好きなの、桐ヶ谷君…………

 

 

 

 

 

夏休みが終わって学校が始まってもそこに明日奈がいない、そんな非日常のような日常に慣れずにいたオレは積極的に誰かと喋る気も起きず、無気力に近い状態でなんとなく時間をやり過ごしているだけの三日間を送っていた。よく覚えていないが、前の席の佐々だけが懲りもせず話しかけてきて、オレは適当にあしらって……記憶を辿ると佐々以外の人間と会話をした覚えがない。

三日間を振り返ってみれば、なぜかクラスの奴らがオレを避けていたようにも感じる。

理由はわからないが、とにかく放っておいてくれたのは有り難かった。

無理に喋ったり、笑ったりできる精神状態じゃなかったから…………ああ、でも昨日の朝は体育館裏で少し喋ったっけ。

相手は今月からクラスに編入してきたばかりの女子で、名前は……なんだったかな……とにかく学校初日にオレがあそこで明日奈と通話をしているのを見かけたらしく、次の日も来ていたし、昨日なんかオレより先に到着していた。

 

結局、あの女子は何がしたかったんだ?

 

八月下旬に京子さんと一緒に渡米した明日奈は毎日決まってあの時間に国際電話をくれた。時差を考えればこっちの日本時間に合わせてかけてくれていたのは明白で、明日奈の方は無理をしていたに違いない。

何度か「そっちだと電話をしているような時間じゃないんだろ?」とは言ってみたが、その度にころころと笑って「そんな時間だから電話できるんだよ」と言い返された。

日中は京子さんのスタッフと混じって講演の手伝いや、明日奈自身の見聞を広める為にと京子さんにあっちこっち連れ回されているらしい。

ならばきっとくたくたに疲れているだろうに、明日奈は欠かさず電話をくれたし、オレも「電話はいいよ」と言い出す事は出来なかった。

オレにとっては会いたくても会いに行かれない距離にいる彼女と、ほんの僅かな間、繋がる貴重な時間だったから。

それを編入してきたばかりの女子に気づかれたのは予想外だったが、彼女はまだ明日奈の存在さえ知らないのだから問題はないだろう。

と、そこまで思い出してみても……ダメだ、編入生の名前が出てこない。

 

こんな事、アスナが知ったらきっと柔らかな頬を軽く膨らませて「もうっ、キリトくんったら」と優しく怒られるんだろうな……

 

そんな表情を想像していると、人でごった返している空港の到着ロビーに更に新たな人の波が押し出されてくる。老若男女、年齢も性別も国籍さえもバラバラな人達が入国審査を終え、ひとかたまりとなって吐き出されてきた。

この中に居るのかどうかさえわからない一人を見つけ出すのは…………簡単なことだ。

 

「アスナっ」

 

見間違うはずもない栗色の髪が人混みの中で揺れていて、そこに向かって少し声を張り上げれば、かき消される事なく届いたオレの声に彼女が反応する。雑多な音が入り乱れる場所でも互いの姿、声は特別な物として認識できるからだ。

少し小走りになって人の群れをかき分けながら眩しい笑顔で「キリトくんっ」とオレの名を口にした明日奈がようやく腕の中に到着する。

 

やっと……流星が落ちてきた……

 

 

 

 

 

金曜日の朝、通話はいつものように挨拶から始まった。

 

「アスナ?」

『おはよう、キリトくん』

 

声に異変がないかを慎重に聞き取りつつオレは片手をあげて、この場にいる編入生に会話の終了を伝える。今からは明日奈との時間に集中させて欲しい。

オレの意をくみ取ってくれた編入生が静かに遠ざかって行くのを目の端で確認しながらオレも言葉を返した。

 

「おはよう、アスナ」

『うん、今日もちゃんと学校に到着してるみたいだね』

「わかるのか?」

『そりゃあ、わかるよ』

 

何からどう判断しているのか、オレにはさっぱりわからなかったが明日奈にとっては至極簡単な事らしい。

 

「週明けにはアスナも学校にいるんだよな」

『そうだね……月曜日は一緒にお昼食べられるから、お弁当のおかず、リクエストがあったら考えておいてね』

「帰国してすぐなんだから無理しなくても……」

『大丈夫だよ。私だけ一足先に明日の午後、帰国する事になったから』

「ホントか?」

『うん、お母さんは予定通り日曜の昼頃に帰国だけど、私は月曜日から学校でしょ、体調を整える為に一日早く帰国していいって』

「アスナひとりで?」

『そう、どうせお父さんも兄さんも仕事で日曜の夜にならないと帰宅しないし、土曜日は誰も居ないの。だから帰国して家に着いたら早速《A.L.O》にログインするね』

「……うちも母さんは週明けまで留守なんだ。スグも剣道の大会があって土曜が予選で日曜が本戦だから土日は会場近くで一泊するって…………アスナ、飛行機のフライトナンバー教えて」

『え?』

「空港まで迎えに行く」

『…………うん、ありがとう』

 

オレが迎えに行く意図を受け入れてくれた明日奈の返事に、思わず笑みがこぼれた。

 

 

 

 

 

「キ、キリトくん……」

 

明日奈の戸惑う声に頭の片隅では「そりゃあ、そうだよな」と同意しつつも彼女を抱きしめる己の腕は力を緩めようとはしなかった。

彼女は手荷物一つで帰ってきて「ほとんどの荷物はお母さんと共同で使っていた大型スーツケースの中なの」と説明した後、ちょっと申し訳なさそうに「だからお土産も月曜日まで待ってね」と優しい微笑みを向けてくれる。

オレは明日奈さえ無事に戻って来てくれればいいんだ、と伝える余裕もなく、抱擁を一時解くと身軽な彼女の手を引いて近くにあったコインロッカールームへと連れ込んだ。

ずらり、と並ぶロッカーの最奥まで彼女を引っ張って行き、そこでもう一度彼女の全身を強く抱きしめる。

機内での冷房を考慮したのだろう、半袖のカットソーの上に薄いカーディガンを羽織っているが、それでも柔らかな肌の弾力は十分に伝わってきて、明日奈の声、明日奈の匂い、それら全てがオレの内(なか)に浸透していった。

 

「もう少しだけ…………カラカラなんだ」

 

いつ誰がやって来るかもわからないロッカールームだ、加えてオレも明日奈もこの後の時間は十分にある。あえて今ここで明日奈を閉じ込めなくてもいい事くらい頭ではわかっていた。

わかってはいたが……到着ロビーで軽く触れてしまっただけでもうダメだった。すっかり乾ききっていたオレの魂が生命(いのち)の源泉とも言える明日奈を貪欲に求め始めてしまう。全身が明日奈を欲して止められない。

離れていた時間は同じはずなのにオレだけがこんなにも彼女を渇望しているのかと思うと少し情けない気がして、多分困った顔をしているだろう彼女の視線を受け止めるべく腕の力を抜くと、オレの肩に頬を寄せていた明日奈がそろり、と顔を上げる。

ただ抱きしめていただけなのに、少し久しぶりのせいか小さなかんばせは元来の色白さをどこかへ追いやり、すっかり紅潮しきっていた。

その色さえもオレの渇きを潤すように内(なか)へ内へと吸収されていく。

そしてゆっくりと明日奈の細い両腕がオレに向かって伸びてきて、オレの両頬を薄い手の平が包み込んだ。軽く固定するように顔を挟み込まれて、されるがままになっていると、桜色の唇が少し震えながら近づいてくる。

 

「私だって……充電したいもん」

 

ヒールを履いた明日奈のかかとが浮き上がったのがわかって、両手を腰の位置に回し華奢な身体を支えると、オレ達はゆっくりと互いを満たし合った。




お読みいただき、有り難うございました。
朝のほんの数分、端末ごしの会話ごときではキリト(和人)は満足できませんっ(笑)
無自覚にイライラを振りまいていただろう彼が、アスナが戻ってきたことでの
豹変ぶり(元に戻った姿)を週明けの月曜日に初目撃する事となる「第二次生還者」の
皆さん……ご愁傷様です、この学校にはイチャこらしまくるバカップルがいるんですよ。
次回は短めのモノを二本……一本は確実に短編の〈OS〉モノです、もう一本は
短い予定なんですけど……そう言って無駄に長くなる傾向にあるので……とにかく
二本お届けする予定です。


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【いつもの二人】白と黒の反転(リバース)

ご本家(原作)様の『SAOP』5巻の発売を祝しまして。
桐ヶ谷家に晩ご飯を作りに来た明日奈が空いた時間を和人と一緒に
リビングで過ごすお話です。
久々の【いつもの二人】シリーズですので、今回は和人視点です。
(かなり前の投稿に『黒と白の行方』がありますが、全く関連性はありません)


「えっ?、アスナ、今まで一度もやった事、ないのか?」

 

あの鋼鉄の城に囚われていた間も、時折こんな風に「ほんとに?」「まさか?」「もしかして?」と彼女のリアルの生活環境を想像した事はあったが、実際、予想していた通り、明日奈が世に言う都会のお嬢様育ちだった事実を知った今でも同種の驚きを感じる事がたまにある。

そんなオレの素直な反応に対し気恥ずかしさに頬を淡く染めつつも、同時に眉を盛大にハの字にした明日奈は桜色の唇を尖らせた。

 

「だって家になかったんだもん」

「ネットのフリーゲームでいくらでも出来ますけど……」

 

この手のボードゲームは逆にどこにしようかと悩むほどネット上にあふれている。とは言ってもやはり最初は実際の盤上で家族や友人を相手にいちから覚えるのが一般的だろう。かく言うオレも小さい頃は散々直葉の相手をさせられたものだ。

一体、結城家の兄妹は幼い時、何をして遊んでいたのか、と疑問に思ったのが顔に出てしまっていたようで、明日奈は口に出してもいないオレの質問に答え始めた。

 

「兄さんとよくやったのはトランプかなぁ」

「ああ、なるほど。確かにそれもあるよな」

「お母さんにはカードゲームをするなら百人一首にしなさい、って言われて頑張って覚えたりもしたけど……」

「……それって競技かるたの事か?」

 

確かに無料ゲームサイトの中に存在はしているが、あまりカードゲームという認識のなかったオレは明日奈につられるように眉をうねらせた。それにしても、さすが、と言うべきか、やはり、と言うべきか親に言われて百人一首をきちんと覚えるあたりは彼女の生真面目さを物語っている。

 

「でも手軽に遊べるのはトランプでしょ?、けど兄さんが二人だと面白くないって言い出して……」

「まあ、そうだろうな」

 

これも二人兄妹あるあるなのか、相手の手札がわかってしまう「ばば抜き」や「七並べ」は暇つぶしにさえならないほど面白みを感じなかったオレに対し、なぜか妹の直葉は毎回嬉々としてオレを誘ってきて、その度に「スグ、面白いか?」と尋ねると決まって「うんっ」と笑顔が返ってきていた。

確かうちでも何かのタイミングで兄であるオレが直葉に「面白くないから」とは言わなかったと思うが「別のゲームをしよう」と提案したのがきっかけで既に家にあったボードを母さんが出して来てくれた気がする。そして案の定、妹はそれにもすぐ夢中になったわけだが……。

 

「で、浩一郎さんと明日奈は次に何をしたんだ?」

「確か……その頃兄さんがハマってたチェスだったかな……」

「……なるほど……」

 

そっちデスカ、と言うのが正直な感想だった。

確かに子供の時はオレとひとつしか違わない直葉が相手だとトランプは別として、面白いと思う遊びにあまり違いは出なかったが、浩一郎さんと明日奈はそれなりに歳が離れている。当時の浩一郎さんの年齢を考えればかなり年下の、しかも異性である明日奈と遊ぶのはなかなか大変だった事だろう。それでも相手をしているのだから、やっぱり妹が可愛かったんだろうな、とオレは幼い日の二人の姿を微笑ましく想像した。

しかしトランプまでは共通だが彼女はそこから百人一首やチェスに移行していったわけで……やっぱり生活環境が違うと色々と違うもんなんだなぁ、と半ば感心していると明日奈は初めて手にしたらしい、まん丸いチップの表と裏の交互を熱心に見比べている。

 

「これ、どっちを使ってもいいの?」

「あー、確かちゃんとしたルールだと先手が黒で後手が白だっと思う。どっちの色を使うか、決め方は色々あるみたいだけど、そこまできっちりしなくてもいいだろ。アスナはどっちの色にする?……って聞くまでもないか」

「私が、って言うよりキリトくんが黒を使いたいんじゃないの?」

「さすがにそこまで黒にこだわる気はないけど……」

 

でも初めてならオレが先攻の方がわかりやすいか?、と思った時だ、玄関の扉を開く音がリビングまで届くと同時に「ただいまー」と言う直葉の声が飛んできた。数秒遅れてパタパタと廊下を移動する足音が大きくなり、リビングに入って来た直葉は開口一番「いい匂いーっ」と目を瞑って嗅覚に全神経を集中させている。

その様子を笑顔で見ていた明日奈が「おかえりなさい、直葉ちゃん、お邪魔してます」と迎え入れると慌てて直葉も「いらっしゃい、明日奈さん」と鞄を持ったまま近づいて来た。

 

「わぁっ、なつかしー。オセロだ」

 

オレと明日奈が向かい合って座っているソファの間のテーブルにはここ何年か日の目を見る事のなかった緑地に正方形のマス目が引かれたオセロ盤が鎮座している。素早くそれを見つけた直葉が驚きと喜びが混じった声を上げると明日奈が「キリトくんが出してきてくれたの」と説明を始めた。

 

「今ね、ポトフを煮込んでるから、その間、何かゲームでもしようって事になって……」

「あっ、この匂い、ポトフだったんですね」

「アスナが作るポトフはソーセージの他にも厚切りのベーコンが入ってて美味そうだぞ、スグ」

「ベーコンからもコクのあるおダシが出るし、他にも野菜の芯や皮を煮込んでるから深みのある味に仕上がると思うよ。それに普通はポトフに入れないけどゆで卵も入れて煮卵みたいに味を染み込ませてるから楽しみにしててね」

 

味の想像をしたのか直葉がごくんっ、と唾を飲み込む。

 

「でも、まだ煮込むんですよね?、だったら私もアスナさんとオセロやりたいっ」

 

昔からオセロ大好きっ子だった直葉の目は既にオセロ盤に釘付けになっていて、どうやら制服を着替えることなく明日奈と一戦交える気満々のようだ。初戦の相手はオレが、と思っていたのだが直葉は隣に腰掛けてきたかと思うと、すぐにぐいぐいと横からオレを押し出し「ほらっ、お兄ちゃんズレてよっ」と言って明日奈の正面を陣取ってくる。

それを苦笑いで受け入れたオレは大人しく妹に場所を譲り、口出しをする気はないが応援が必要なのは直葉の方かな、と予想を立て、改めてゲームスタートのコマの配置を伝えた。

 

「最初に盤の中央に白黒二枚ずつ並べて……お互い、白が右下になるようだよ、アスナ」

 

何を今更、と言った説明に隣から疑問の視線を感じてオレは明日奈がオセロ初挑戦なのだと教えると途端に直葉の瞳が期待に輝き始める。

 

「だったら私でも明日奈さんに勝てるかもっ」

 

随分と脳天気な憶測にオレはひくり、と頬を跳ねかせるだけにとどめて「だといいな」と慰めに近いエールを送ると、それを素直に受け取った妹は「うんっ、明日奈さん、私、昔からオセロは得意なんですっ」と爆弾宣言を投下した。

オレの記憶が大幅に改ざんされていなければ、ひとつしか違わないオレ相手でさえ直葉は勝てた事がなかったように思うが……もしかしたら直葉の方の記憶が大幅に改ざんされているのかもしれない。

 

「未経験者とは言え『攻略の鬼』のアスナに随分と強気な……」

 

聞かされているこっちが恥ずかしくなって小声で漏らすと、その二つ名がお気に召していない元副団長サマは、キュッとオレを軽く睨み付けてからこちらも元来の負けん気を発揮させ、直葉に向かって「手加減なしでいいからね」と正々堂々の勝負を挑んでいる。

かくして幼少の頃から百人一首やチェスを嗜んでいた明日奈と自称オセロが得意な直葉の対決が幕を開けたのだった。

 

 

 

 

 

パチ、と石が置かれると、すぐにパチ、パチ、パチ、パチとモノクロの反転する音が続き、その音に隠れるように「ぅっ」と小さな明日奈の呻き声が混ざる。

明日奈が白い石を置いて何回かパチ、パチと盤の上で音を響かせると、すぐさま直葉はその倍近い数の音を響かせていた。既に盤上は光沢のある黒に半分以上を覆いつくされ、緑の大地が残っているのは全体のほぼ四分の一、各地に点在している白が必死の抵抗をみせている。

明らかに誰がどう見ても明日奈の劣勢だが、それは宣言通り、直葉がものすごくオセロに強いわけではないし、初心者の明日奈が意外にも攻略に戸惑っているわけでもない。

隣で見ているオレには明日奈が打つ手の意味が痛いほどわかるのだが……要は単純に直葉相手に考えすぎと言うか、裏の裏を読みすぎているのだ。それで結局墓穴を掘る展開を強いられている。

直葉としては自然な流れで特に深く熟考もせずパチ、と置くだけでどんどん石が黒へとひっくり返って行くのが嬉しくて仕方ないらしく、鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌なのだが、反対に可哀想なくらい追い詰められているのは明日奈だ。白い石を置けばおくほど黒の面積が広がっていく。

最初の予想に反して応援が必要だったのは明日奈の方だったか、と想定外の事実に対し、今から逆転は無理だが精神的なケアだけでも、とオレは自分までも追い詰められた心持ちで口を動かした。

 

「ほら、あれだな……オセロはルールを覚えるのは一分だけど、極めるのは一生って言われてるくらいだし……」

 

なにも初戦で負けたって落ち込む必要はないさ、みたいな言葉を続けようとした時、テーブルの横に置いてあった直葉の鞄の中からやけに陽気な音楽が流れてくる。それに気づいた直葉がすぐに音源である携帯端末を取りだして表示を見るやいなや、素早く立ち上がった。

 

「あ、友達から電話きちゃった。お兄ちゃん、交代っ」

「はっ?」

「私の続きで明日奈さんのお相手、よろしくっ」

 

既に勝敗がわかりきっていたせいか、何の未練もなくその場を離れた直葉は通話を始めながらダイニングテーブルに移動してはずんだ声で会話に夢中になってる。後に残されたオレは承諾もしないまま押し付けられた気分で少し恨みがましい視線を妹に送ってから渋々明日奈の正面に再び座り直した。内容的にはひっくり返る事はありえないと断言できる勝ち戦が盤上に展開されていて、逆に「これ、最後までやります?」とお伺いを立てたくなるくらい選手交代の無効化を切望したくなる。

ここまで圧倒的な差で『攻略の鬼』から勝ちをもぎ取った妹は人の気も知らずに後方で笑い声を発していて、惨敗間近の恋人に最後の印籠を渡す役だけを任されたオレは気まずさしかない。

とりあえず直葉の番だったので、代わりに石を持ち、三箇所ほど候補はあったがどこに置いてもさして違いはなかったので一番手近なマスに黒を上にして石を打った。皮肉なことにひっくり返せる白い石の相対数が少ない為、パチ、と音ひとつで明日奈の番となる。

しかしそこでオレは気づいてしまった……もう、明日奈が白い石を打てる場所がないことに。

 

「あ……」

 

更に遅れて気づいた事は、これで明日奈がパスをすれば次にオレが打ち、続けてもう一度オレが打つ。最後に明日奈が打って、残ったひとマスにオレが石を置けばゲームオーバーだった。かと言ってパスするしかない明日奈が打てる手はなく、そんな事は本人が一番よくわかっているはずなのに唇をむずむずと小刻みに動かしている。

初めてとはいえ勝負事にパスをするのが不本意なのか、負けるのが悔しいのか、さっきまで直葉相手の時は感情をコントロール出来ていたのに対戦相手がオレに代わると、ジッとオセロ盤を睨み付けていた視線がゆっくりと上がってオレを真っ直ぐに見つめてきた。

 

「う゛っ……」

 

未だきつく閉じた唇は微かに震えていて、眉は中央に盛大に寄り眉間に深いシワを刻んでいると言うのに、その下のはしばみ色はきらきらと潤み今にも泣き出しそうな目元はほんのりと朱色に染まっている。当人は自らの情けなさを堪えているのだろうが、オレにとっては羞恥に打ち震えるか快感に戦慄く様を想起させるばかりで、こちらの頬まで熱を持ち始めた。

 

「……アスナ、それ……反則だから……」

「ふぇっ?」

 

特にオセロの盤上をいじっていない明日奈としては自分の何が反則行為だったのか想像も出来ていないだろう。

 

「そういう事されるとオセロどころじゃなくなるし……」

 

オレは持っていた数枚の石をテーブルに置くと自分の弱さに頭を抱えつつ「結局勝てないのか……」と小さく心情を吐露してから気持ちを切り替え、と言うより感情に従い、テーブルの向こう側に移動して明日奈の腕を捉え、引っ張り上げた。

 

「えっ?、なに?、どうしたの?、キリトくん」

 

一瞬、ダイニングテーブルを振り返り、こちらに背を向けて友達との通話に集中している直葉の背中を確認してから、石を握ったまま戸惑いで一杯になった明日奈の顔を覗き込むと素早く耳元に顔を寄せる。鼻先で軽く栗色の髪をはらって耳たぶを探しだし唇で挟んでその柔らかな感触を楽しみつつ、ふちをぺろりと舐め上げた。

元々耳の弱い明日奈だが直葉が近くにいるので「ひぅっ」と短く息を飲み込むだけで耐えている。

これ以上本格的に舌を這わすと止まらなくなりそうだったので、オセロの勝敗が一旦頭から離れただろう隙を狙って明日奈の耳へそっと息を吹き込むように囁いた。

 

「スグは長電話確定だから、ポトフの火は落としてオレの部屋に行こう、アスナ」




お読みいただき、有り難うございました。
「白と黒の反転」は当然、オセロの事でもありますし、アニメの第8話のタイトル
『白と黒の剣舞』をもじっての二人の事でもあります。
なのであえて「白」を先に持ってきたのですが……なぜ黒(キリト・主役)が
後なのだろう、と今更に疑問に思ってしまいました(苦笑)
直葉の長電話が終わった時には、ちゃんと二人共リビングに戻って来ていて
キリトはアスナのリベンジに付き合っていることでしょう。
では、また5日後に……。
(ウラ話は15日にまとめますっ)


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うるおい

キリトとアスナが帰還者学校に通うようになって
夏が過ぎ、秋が終わりを迎え、初冬の候のお話しです。
なので、まだアスナは京子さんと和解していません。


けほっ、けほっ、と軽い咳を片方の手の平で抑えつつノックをしてから保健室のドアを開けると、小春日和に公園でひなたぼっこをしているような優しくほんわかとした暖気に迎えられ明日奈の眠気は一層膨らむ。

なんとか「失礼します」と声を出すと、後ろから自分の荷物を持って付いて来てくれた里香が「うわっ、石油ストーブっ」と驚きの声を上げた。

既に放課後の時間帯ではあるが窓際の机で仕事をしていた年配の女性養護教諭が顔を上げて少し得意気に唇と目で弧を描き「いいでしょー」と明日奈と里香に振り返る。しかし明日奈が再び「けほっ」と咳を落とすと表情を一転させて「あらあら、結城さん、大丈夫?」と歩み寄って来て「ちょっと失礼」と言いながらその額に手を当てた。

 

「うーん、熱はないかな」

 

その診断に小さく頷いてから明日奈は「少し咳が出る程度なんですけど、とにかく眠くて……」と保健室を訪れた理由を述べる。

 

「ここ数日でぐっ、と気温が下がったものね。風邪の引き始めってとこかしら?……少し寝ていっていいわよ」

 

三台ほど並んでいるベッドを個々に覆い隠しているカーテンの一つをあけながら「昼間もね」と保健医は話を続けた。

 

「結構体調を崩す生徒が来て…………ああ、シーツやカバー類はその都度交換しているから大丈夫。それに今は誰もいないから」

 

その気遣いに頭を下げた明日奈がそのままふらふらと倒れ込むようにベッドに腰を掛ける。それでもどうにかブレザーを脱ぎ、きちんと上履きを揃えている間、里香は物珍しそうに石油ストーブを眺めていた。

 

「先生、これ、どーしたの?」

 

その問いかけに明日奈を気遣いながらも視線のみを里香に移した保険医はこの学校の物置に眠っていたのを発見したのだと説明した。ストーブの天板に置かれているヤカンからはしゅーっ、と白い湯気が真っ直ぐに伸びている。

 

「エアコンだと乾燥するでしょう?、それにこっちの方が何だか暖かさも柔らかい気がするし……ちゃんと整備と点検はしてもらったから安全よ」

「今度、これで焼き芋作ってよー」

「はぁっ、今日だけで何人もの生徒からその台詞を聞かされたわ」

「だったら、これからもっと寒くなるでしょ。ヤカンじゃなくて鍋のせて甘酒とか作れば売れそう」

「売るんだ…………篠崎さん、商魂たくましいわねー」

 

くすくすと笑いながら明日奈がベッドに横になるのを待って静かに肩まで上掛けをかけてくれた保健医と入れ替わるようにここまで付き添ってきた里香がストーブから離れて用意されていた椅子に明日奈の荷物を置き、表情を一転させて申し訳なさ気に顔を近づけてきた。

 

「ごめんね、アスナ。週末、親戚が遊びに来るから」

「……うん」

「いとこの姉妹達だけ小学校が終わり次第、先にうちに来て今日から泊まっていくの……」

 

既に明日奈も知っている事情を律儀に繰り返す里香へ精一杯の微笑みを向ける。

 

「私なら大丈夫。少し休めばちゃんと一人で帰れるし。リズのお家、誰も居ないんでしょう?、いとこさん達が到着する前に帰らないと……けほっ」

「ほっんと、ごめんっ、アスナ」

 

ここまで一緒に来てもらっただけで十分だと優しい笑みを浮かべて「また来週ね」と伝えると、里香は晴れない表情のまま気まずそうに「うん」と返せば状況を察した保健医が明るく「ほらほら」と口を挟んできた。

 

「結城さんを休ませてあげましょ。後は私がいるから」

 

そう言って里香の背中を押しベッドから遠ざける。その二人の後ろ姿をぼんやりとした視界で見送りながら、明日奈はふぅっ、と息を吐いた。

兄は出張中だし、今夜も両親の帰宅は遅いはずだから家政婦の佐田の前でだけ普通にしていれば体調不良を気づかれる事はないだろう。

和人はネットワーク研究会の活動日なので元々一緒に帰る約束はしていない。今夜の《A.L.O》へのログインは無理そうだが、とにかく一晩で体調を持ち直さなければ明日の朝に顔を合わせるだろう母から何と言われるか、と明日奈は先の予想に気分を落ち込ませた。

体調管理には殊更気をつけていたつもりなのだが、そんな心がけなど意に介することない母は正面から鋭い言葉を投げてくるに違いない。きっと夜遅くまでVRで遊んでいるせいだと決めつけてくるのは容易に想像が出来た。

そう言えば今朝はなぜかいつもより肌もかさついて、唇も乾いていたような気がする。

それも体調を崩す前兆だったのかと思い至り、明日奈はそっ、と片手を動かして上掛けから出し、中指の腹で自分の唇を撫でた。

 

キリトくん、気づいてくれなかったなぁ……

 

今日は先日、里香と一緒に買い物に行った時に購入した新しい色つきリップを試してみたのだ。色つきと言ってもほんのり色がのる程度だから気づかなくても不思議はないのだが、和人の友人の佐々井は登校した昇降口で靴を履き替えた明日奈に廊下の向こうから自分の唇をちょんちょん、と突いて親指を立てウインクを送ってくれた。

あそこまでの目聡さは求めていないけれど、ちょっとでも違和感と言うか、何かいつもと違う部分がある事に気づいてくれるだけで嬉しいのに、と明日奈は目を閉じたままつらつらと考えながら、それでもそういう所が和人なのだと自分の中で納得させて再び、けふっ、けふっ、と小さく咳き込む。

意識を完全に手放してはいないものの、とりとめのない考えが頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消え、いつもなら気にもしない事がいくつも同時に浮遊している夢現の状態の明日奈は保健室を出て行く直前に里香が保健医にかけた言葉を聞き取ることはなかった。

 

「じゃあ先生、アスナの事、くれぐれもよろしくお願いしますっ」

「はい、はい、お任せください」

「あっ、それとアイツにはもう知らせてあるから」

「ああ、結城さんがちょっとでもケガをしたり体調崩すとすっ飛んでくる彼ね」

「そーそー、これで帰りは安心して任せられるってもんでしょ」

「篠崎さんも気をつけて帰るのよ」

「はーい」

 

 

 

 

 

パチパチと薪の爆ぜる音がリビングから聞こえてきて、そこに微かにキィッと揺り椅子の傾ぐ音が混じれば、それは明日奈にとって一番心が安らぐ我が家の音だ。料理の手を止めてキッチンからそっ、と顔を覗かせると赤々と燃える暖炉の炎は優しく部屋を暖め、その前で揺り椅子に身を沈めている少年は椅子の動きと同期して黒髪の頭をこっくり、こっくり、と揺らしつつも、自分の膝の上に身体を丸めているピクシー姿の愛娘を両手でしっかりと包んでいる。

そんな光景に思わず目を細め、溢れそうなくらい幸せな心持ちで胸の内を温めていると綻んだ口元にもほんわりと温かく湿ったぬくもりが覆いかぶさってきて、明日奈は一層満ち足りた気分で、んっ、と吐息を漏らした。

それに呼応するように、ちゅっ、とリップ音が聞こえた気がして、ゆるゆると意識を覚醒させると目の前にぼんやりと人の顔らしき輪郭を認識する。それが誰なのかを疑問に思う前に熱く低い声が明日奈の耳へじわり、と侵入してきた。

 

「アスナ……苦しいのか?」

「キ……リト……くん?」

 

揺り椅子でうたた寝をしていたはずじゃ……?、とほんの少し前まで自分が見ていた状況を振り返り、回らない頭で、ああ、あれは夢だったのね、とどうにか意識の一部を現実に引き戻した明日奈は少し息が上がったままの恋人の顔をふわふわと見上げた。

未だに頭も視界もぼんやりとしたままで、どうしてここに和人がいるのか、と一番先に浮かんだ素朴な疑問すら再び夢の中へ誘おうとする眠気に邪魔をされ、眉根を寄せて唇で小さく空気を食むのがやっとだ。

その仕草の意味をどう捉えたのか、和人は僅かに明日奈から視線を外し「えーっと……」と言いよどんだ後、決まりが悪そうな表情でぽそり、と言葉を落とす。

 

「しんどそうだったから……オレに移せば少しは楽になるかな、って……」

 

普段の明日奈だったなら和人が自分の表情を誤解しているのだと、すぐに気づいて修正の言葉を口にするのだろうが、いかんせん今の状態では彼が何を言っているのかさえ理解が追いつかず、当然疑問を投げかける気力などどこからも湧いてこない。とにかくすぐ傍に和人がいてくれる、それだけで夢の続きのような安心感に包まれ、加えて保健室全体を暖めているストーブの熱がどこかあの森の家の暖炉の暖かさにも似ていて、明日奈は長い睫毛をゆっくりと閉じた。

再び寝入ってしまった明日奈を見て、和人は困惑気味に「アスナ?」と口にしてみるが、今の彼女はその声に瞼さえ動かそうとしない。けれど自分が里香から連絡を受けて保健室に急行し、ベッドに駆け寄った時よりも幾らか和らいだ表情の彼女に安堵して呼吸を整える仕上げのように、ふぅっ、と大きく息を吐き出すと、すぐ背後でひょこり、と保健医がカーテンの端から顔を覗かせてきた。

 

「あら、君の顔を見て安心したのか、息づかいも随分落ち着いてきたわね。一眠りしたら帰宅できるでしょう。週末に身体を休めれば、これ以上悪くならずに回復するんじゃないかしら?」

「すみません、オレ、自分の荷物を取ってくるんで、その間、アスナをお願いできますか?」

 

ネットワーク研究会の活動中に里香からメールを受信した和人はその内容を読むなり周りにいたメンバーには何も告げず教室を飛び出してきたのだ。もちろん自分の鞄やコートも置きっ放しである。

まるで明日奈の伴侶のごとき言い方に苦笑を滲ませた保健医だったが、それでもこの二人ならばなぜか自然な気がして「急がなくていいわよ」と言葉を添えた。

 

「三十分くらい寝た方がすっきりすだろうし。その頃迎えにいらっしゃい。結城さんは一人で帰れるって言ってたけど、駅まで一緒に行ってあげるんでしょう?、もし早めに目が覚めるようなら引き留めておくから」

 

しかしその申し出に首を横に振る事で意を示した和人は、一瞬、明日奈の寝顔を見つめてから保健医に向き直った。

 

「いえ、すぐに戻って来ます…………アスナの目が覚めるのを待つのは……慣れてますから。それに駅までじゃなくて、ちゃんと家まで送りますし」

 

静かな口調とその微笑に保健医は目の前の生徒が本当に高校生なのか、と疑問を抱く自分の感情に驚き、目を瞠る。この帰還者学校には時折、年齢にそぐわない言動や表情を見せる生徒が何人かいるが、この桐ヶ谷和人もそこのベッドで眠り姫のように横たわっている結城明日奈も間違いなくその中のひとりだ。

もう一度、明日奈が深く眠っているのを確認した和人が静かに、それでいて足早に保健室から出て行く後ろ姿を保健医はかける言葉もなく、ただ見つめるしかなかった。

 

 

 

 

 

ネットワーク研究会が活動拠点としているパソコンルームに戻った和人は足を踏み入れた途端、室内にいたメンバー全員から注目の的となったが、ただ一人、佐々井だけは一瞬にして顔色を変え、大慌てで和人の元へと突進する勢いでやって来るなり、ガッ、と腕を取り部屋の隅まで強制的に引っ張り込む。

 

「なんだよっ、佐々」

 

普段から突拍子もない言動や行動が持ち味の友人だが、今は出来る限り早く明日奈の元へと戻りたい和人は苛立ちを込めて佐々井の腕を振り払った。しかしそんな和人の憤懣の声さえも呆れ顔で受け止めた佐々井は諭すように自らの人差し指で天をかき混ぜる。

 

「なんだよ、じゃないってカズ。お前があそこまで切羽詰まった顔になるのは姫がらみだって事くらいは想像がつくけどな……」

 

どうやら突然パソコンルームから飛び出して行った和人に対し、残されたメンバー達にとっておおよそ推測される原因はひとつしかないらしい。荷物があるのだから一旦は戻って来るだろう、と呑気に活動を続けていた佐々井以外の面々は和人の説明を今か今かと興味津々顔で待ち構えていた。

 

「俺達に事情を説明する前に、だ……」

 

そこで佐々井はピシッと伸ばしていた人差し指を今度は教室の棚の上に置いてあったティッシュボックスに横移動させ、さっさっとティッシュを数枚引き抜き、有無を言わさず和人へ押し付ける。

 

「カズ……お前、唇つやつやだぞ」

「……は?」

「もっと言えば薄ピンク色が付いてる」

「?…………っ!!!!!」

 

何を言われているのか、原因が何なのかを理解した途端、頬を真っ赤にした和人が電光石火の速さで口元をティッシュでゴシゴシと擦った。その所作を他のメンバー達には見えないよう己の身体でカバーしつつ佐々井は両手を腰に当て、わざとらしく「ふぅっ」と嘆息する。

 

「今日の姫、珍しく色つきリップだったもんな」

「なんで知って……」

「んーなの遠目でも見りゃ気づくだろ」

「……」

「で、カズの口に色移りした事すら気づかない状態にあるわけだ」

「……少し体調を崩して、今は保健室で眠ってる」

「……カズ…………まさかとは思うけど、眠ってる姫に…………」

「…………」

 

無言の返答で事の次第を察してしまった佐々井はもう一度わざとらしく「はぁぁっ」と全身を脱力する大きさの溜め息を落とし、珍しくも義憤の声で「お前なぁ」と和人を睨み付けた。

 

「具合の悪い姫に理性飛ばしてどーすんだよっ」

「ち、違うって……具合が悪そうだったからこそ……その、オレに移せば良くなるかな、と……」

「ひゃくぱー、それだけを思ってないだろ」

「う……」

 

保健室ベッドの上で、けほっ、と小さく開いたままの唇から無意識にこぼれ落ちた咳は、それだけで痛々しくて、と同時にいつもよりも血色の悪い青白の肌に唯一薄桃色の彩りを乗せているふっくらとした唇から目が離せなかった。気づけば塞ぐように自分のそれと重ねていて、息苦しくさせただろうか?、と慌てて離れようとした寸前、いつも軽いキスを繰り返している合間に明日奈が気持ち良さそうに上げる吐息が耳元で聞こえて、つい音を立てるほど彼女の唇に吸い付いてしまったのだ。

その時の背徳的な感触を思い出したのか、一層赤みを増した和人の頬にやりきれない思いを抱いた佐々井は半眼となって「もう帰れ」と不機嫌この上ない声で友を突き放した。

 

「ちゃんとお前が家まで送って行くんだよな?」

 

決定事項の確認とも言いたげな脅迫めいた口ぶりに、こくこく、と頷くだけで肯定した和人は汚れたティッシュをポケットに突っ込んで「佐々……」と窺うような声を出す。いつもなら飄々とかわす友の弱気な態度が珍しいのか、佐々井は軽く苦笑いで表情を緩ませてから面倒くさそうに手をひらひらさせて和人を追い払った。

 

「こっちの説明は俺がしとくから、早く姫の傍に行ってやれって」

「……さんきゅ」

 

自信ありげなニヤリとした笑みではなく、信頼と感謝の気持ちを込めた言葉を佐々に送ると和人は自分の荷物をひったくるように抱え込み、背後で待機状態だったネト研メンバーにちらり、と振り返って「悪い、先に帰る」とだけ言い放ってパソコンルームを出たのである。

 

 

 

 

 

アラームに急かされるわけでもなく自然と意識を浮上させると、さっきまでは重くて仕方のなかった瞼がスムーズに動いて、すぐに意識も視界もクリアーに開けた。まず目に映ったのはベッドサイドに腰掛け、俯き加減で携帯端末を見つめている濃黒の瞳。

器用に片手だけで操作をこなしている姿は明日奈が長く閉じ込められていた《仮想世界》から戻ったばかりの頃、いつも病室のベッドから見上げていたのと同じ角度で、つい当時の記憶が蘇る。

思うように身体が動かせず、すぐに疲れて目を閉じてしまう彼女を和人はいつもこうやって静かに待ってくれていた。

何の画面を見ているのか、明日奈が目覚めた事すら気づかない程集中している様子に少し悪戯心が湧いてきて、端末に触れているのとは反対の、当然のように自分の手を包んでいる和人の手を内側からくすぐってみようかと動かした途端、罰でも当たったように「けほっ、けほっ」と咳き込んでしまう。

結果、明日奈の指先からもたらされた刺激ではなく、その咳音に弾かれたように顔を上げた和人が急いで腰を浮かし、端末を仕舞いながら彼女の元へと身を屈めてきた。

 

「起きたのか?」

「っこほ……うん」

 

すぐに咳は治まったが小さな悪巧みの失敗が恥ずかしいのと続けざまに跳ねた呼気のせいで僅かに目を潤ませ頬を淡く染めれば、和人が呆れたように溜め息をつく。

 

「やっぱりだったなぁ……」

「え?」

「今朝、なんだかおかしいな、って思ったんだ」

「……おかしい?」

「ああ、違和感って言うか、なんだかいつものアスナと違う気がして……そうしたら放課後になってリズから体調を崩したって連絡が入ったから……」

「……キリトくん……」

 

自分でさえ自覚のなかった不調に気づいてくれた、もうそれだけで明日奈の心の中はふわふわと嬉しさが膨らむが、抱きつきたくなる衝動はここが学校の保健室なのだと思い出して自らを律し、代わりに未だ和人の手の中にある自分の指を上掛けの中で絡ませた。いつものように軽く握り返してもらい、はた、と気づく。

 

「あっ、ネットワーク研究会は?」

「早退してきた」

「……ごめんね」

 

自分の為に動いてくれるとわかっていたから故意に知らせなかったのだが、そんな罪悪感さえお見通しと言わんばかりに和人が苦笑を漏らした。

 

「オレが嫌なんだよ。不調の予感はあったのにオレが知らない所でアスナが苦しい思いをするのが」

「……ありがとう、キリトくん……」

 

謝罪の言葉よりも相応しい言葉を口にするとカーテンの向こうから「結城さーん、入るわよ」と何やら気遣いをみせた保健医の声が響いてくる。その呼びかけに「はい」と答えながら身を起こそうとすれば繋いだままの和人の手が優しく明日奈を引き起こし、ちょうどその場面に遭遇してしまった保健医の顔は笑ってはいたものの僅かに強張り口の端がヒクついていた。

 

「うん、だいぶ顔色も良くなったわね」

「有り難うございました。ベッドをお借りしたお陰で眠気も取れましたし、これなら……」

「大丈夫です。オレも一緒ですから」

 

明日奈の返答を少々強引に遮り、和人が自分の意志を明示するがごとく言葉を割り込ませてくる。「えっ?!」と少し驚いた顔の明日奈をよそに保健医も既に承知済みの話なのでひとつ頷くだけで是認して、手にしていた物を彼女に差し出してきた。

 

「これ、良かったら使って。冷たい空気は吸い込まない方がいいし、電車の中での咳は気を遣うでしょうから」

 

手渡されたのは個別包装してある使い捨ての白いマスク。

明日奈がそれを謝辞と共に受け取っている間に椅子に置いてある彼女のブレザーを和人が手にする。どうやら明日奈の身支度の間も一緒にいるつもりなのだと気づいた保健医は今度こそ呆れ顔を前面に押し出して、お邪魔虫である自分の立ち位置に短く脇息した。

ここは保健室で私は保健医のはずなのに……などと大人げない感情は生徒に見せないよう、さっさとカーテンの外に出るべく背中を向けると後ろから「ほら、明日奈」「ん、ありがと」と日常会話の色を纏った声が耳に届く。

とても高校生同士のカップルとは思えない熟練した空気に恥ずかしいような羨ましいような複雑な感情が入り乱れて、そんな心を落ち着かせるべく自然と口から深い息を吐き出した。

それでも自分の頬の妙な火照りが取れない保健医は室温が高すぎるのかも、と火力調整の為にストーブに近づき「あらっ」と、ある表示に気づく。そこですぐに明日奈と和人のいるカーテンの向こうに少し声を張り上げた。

 

「結城さんっ、桐ヶ谷くんっ、私、ストーブの灯油を貰いに行ってくるから、支度が出来たらそのまま帰っていいわよ。保健室のドアだけちゃんと閉めてってね」

 

すぐに「はい、わかりました」と和人の声が聞こえたので「お大事に」と返してから、きっと結城さんの家に辿り着くまでずっと桐ヶ谷くんは手を繋いで彼女を支えるんでしょうねぇ、と思いつつ灯油タンクを持って保健室を後にしたのである。

 

 

 

 

 

身体を回してベッドの縁に腰掛ける体勢となった明日奈はブレザーのボタンをはめながら先程の和人の言葉の意味を確認する。

 

「一緒に、って最寄り駅までのことだよね?」

「まさか、ちゃんとアスナの家まで送ってくよ」

「え、いいよ。すごく遠回りになっちゃうから」

 

見上げる形で視線を合わせてくる明日奈を見て和人は無意識に今日、何回目かの皺を眉間に寄せた。眠気は取れた、と本人は言っていたが、それでも普段と比べれば、はしばみ色はまだまだトロン、と溶けていて全体に無防備感がダダ漏れている。

こんな状態で通勤通学者の多くが交通機関を利用する時間帯に一人で電車に乗せるなど、オオカミの群れの中にウサギを一匹放り込むようなものだ。

 

「電車の中で眠り込んだらマズイだろ。寝ているアスナをガードするのは《あの世界》に居た時からオレの役目だし」

 

さすがに《現実世界》では勝手に身体を移動させられる事はないだろうが、それ以前の問題として寝てしまった明日奈の寝顔を不特定多数の人間が見たり、あまつさえ偶然にもその身体に誰かが触れるかもしれないと考えただけで和人の手は知らずに握り拳を作る。そんな心配とは別に明日奈は明日奈で、今の体調でも暖かい車内で揺らされたら起きていられないかも、と想像し、乗り継ぎの駅で寝過ごす可能性に「んんー」と唸った。

 

「でも一緒にいたら、うつしちゃうかもしなれいし……」

「マスクがあれば大丈夫なんじゃないか?。それにうつるなら、もううつってるだろうから……」

「え?」

 

意味不明の返答に軽く小首を傾げれば、慌てた様子で和人が「とにかく帰ろう」と下校を促す。

 

「陽が落ちると更に寒くなるだろ」

 

そう言いながら椅子の背面にかけてあった明日奈のコートを取ろうとした時だ、彼女が「ちょっと待って」と自分の鞄を膝の上に置いてなにやらゴソゴソと中身を探っている。

 

「寝ている間に結構唇が乾いちゃって、マスクをする前に……」

 

目的の物がリップだと気づいた和人の瞳の奥に熱がこもり、リップを捜索中の明日奈が気づかぬうちに距離を詰める。頭の上から「なら、オレが……」と静かに和人の声が降ってきて、驚いた明日奈が顔を上げた。

 

「キリトくん、リップ持ってる……ふゃっ!」

 

意外にも和人がリップクリームを携帯しているのかと尋ねようとした明日奈の両頬がふわり、と和人の暖かな手に包まれ上向きに軽く固定されると、すぐに乾燥している上唇と下唇交互に水分が補給され潤う。まさかそんな事をされると思ってもみなかった明日奈はやはりいつもより反応が鈍くなっているのだろう、驚きのまま固まっていたせいで調子に乗った和人が僅かな隙間から舌を差し入れてきた。

上唇の内側も外側と同じように緩急をつけてしばらく舌先で撫でていると明日奈の瞳が徐々に恍惚と細まっていく。

いつもならば人気のない場所限定とは言え校内で唇を重ねると、ほどなくして頬を染めた彼女が終わりを懇願するように僅かな抵抗をみせ始めるのだが、今回に限っては和人からの刺激を嬉しそうに受け入れていて、逆に和人の方に戸惑いが生まれる。

ボーダーを見極めたい欲求に突き動かされ明日奈の舌を己のそれでつつけば、逃げもせず素直に従ってきて、おまけに尚も乞うように「ん〜……」と甘えた声をのせてきた。

一旦、口づけを解いた和人はそれでも明日奈の頬を離さず、はしばみ色を覗き込むようにして顔を近づける。

 

「……アスナ、気持ちいい?」

 

ベッドの上、という場所は同じであるものの、今とはかなり異なる状況下で聞いてみた事はあるが、いつもなら懸命に首を縦に振るだけで言葉を返す余裕のない明日奈なのに、今はとろけた瞳が一層ふにゃふにゃに緩んでいる。

 

「ん、気持ちい……」

 

どうやら顔を両手で包み込んだせいも手伝ってか生温かい湿り気で唇を塞ぎ、と同時に咥内を乱したせいで頭部全体が茹だって再び眠気を催した様子の彼女は寝ぼけたように素直に気持ちを口にした。想像するに大好きな風呂でうたた寝をしているような完全に力の抜けている状態なのだろう。

これはこれで閉じ込めたくなる程に可愛らしいのだが、このふわふわ状態をいつまでも堪能しているわけにはいかない、と和人は念入りに再度明日奈の唇のみを潤してから無理矢理に姿勢を起こしてペチペチと軽く彼女の両頬をはじいた。

 

「アスナ、もう帰るぞ」

「ううっ……んン……」

 

再び隠れてしまいそうなはしばみ色を引き戻す為、柔らかな頬を軽くつねり「ほら、立って」と脇の下を両手で支えて立ち上がらせる。膝の上の鞄の存在を忘れていたらしく、床に落ちたドサッ、という音で意識がいくらかハッキリしたようだ。少し散らばってしまった中身を「あわわっ」と言いながらしゃがみ込んで素早くかき集めている間に、和人は自分の帰り支度をする為、カーテンの外に出た。自分もコートを羽織りながら目の前のストーブを睨み付ける。確かに灯油の残量はほぼエンプティを示していた。

あのふわふわ状態の明日奈はこの暖かな保健室も原因じゃないのかなぁ?、と考えなから、自分でもここにいたら体調に関わらず眠気を催すだろうと確信していると、シュッとカーテンが開いて身支度を終えた明日奈が出てくる。

 

「お待ちど〜さま……」

 

口元はしっかりとマスクで覆われているが、カーテンを開ける寸前に欠伸でも出たのか、瞳は潤んでやはり無防備感は拭えていない。加えて未だ眠気と戦っているのだろう、ぼんやりとした口調がマスクの内にこもって足下も心なしかおぼつかなく見える。具合の悪さも気にはなるが、今はそれ以上の心配事で頭がいっぱいの和人はすぐに明日奈の片手を捕獲し、しっかりと握った。

 

「まっすぐ歩けるのか?」

「むぅ〜……」

 

失礼な物言いに不満を唱えた声かと思ったが、俯き加減の彼女のはしばみは全く不快な色を表しておらず、どうやら肯定の意だったのだと遅れて理解した和人は益々憂心が深くなる。

 

「知らない人について行くなよ」

「うぅ〜……」

 

これも別段、和人に言われた事について、どうしようかな?、と唸っているわけではない。

 

「それと、今夜は早く休むこと」

「……ふぅ〜……」

 

もはや吐息か溜め息と呼べるレベルのリアクションに和人も呆れを通り越して苦笑気味の顔で最後の念押しをした。

 

「とにかく、家に着くまで、ずっとオレの傍から離れるなよ」

 

多分、聴力も曖昧で後半部分の和人の声しか拾っていなかったのだろう、それでも明日奈は意志を持って眩しそうに和人の瞳を見つめると、マスク越しでもわかるほど満面の笑みを浮かべ、嬉しげに「うん」と頷く。それを見た和人も一瞬目を見開いたもののすぐに真っ黒な瞳を優しく細め、明日奈を見つめ返した。

彼女が自分の言葉を誤認しているのはすぐにわかったが明日奈の認識も間違ってはいないのでそのままにして「帰ろう、アスナ」と告げ、やさしく手を引いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナを見て気づく違和感は、キリトの場合、見た目の違いではなく
もっと本能的な言葉に出来ないレベルのものかと(笑)
補足しますと、まだ二十二層の森の家は再購入していない段階なので
アスナの夢は旧SAOの記憶と今のALOでの記憶がごちゃって
出てきています。
では、よろしければ続けて《OS》のSSをお楽しみ下さい。


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〈OS〉『いいよ』

劇場版SAO《オーディナル・スケール》のあのシーンについて。
勝手に加筆・修正した部分もありますのでご了承ください。
なお、「円盤は購入したけど、実はまだ観ていないんです」という方は
ネタバレ、バレバレなので読まない方が……。
(そして早く円盤鑑賞しましょうっ)
前回の〈OS〉SSに続き、今回もキリト視点です。


『……いいよ……』

 

オレを見上げるアスナの栗色の目が優しさに溢れ、薄く開いた小さな唇がゆっくりと動く。

声を出さずに告げられた言葉もその意味も正確に読み取ってしまったオレは困惑と焦りを混ぜて己の情けなさに眉尻を落とした。

……いいよ……彼女にそう言わせてしまうくらい、オレはこんな状況でアスナを欲しているという事だ。

オレよりもオレの感情を読み取ることに長けている彼女に間違いはないのだろうが……。

 

「いや……さすがに…………マズいだろ……」

 

今までは彼女を自宅に送り届けてもそれは門の前までで……「寄っていく?」と半ば期待に満ちた目で誘われても頑なに断り続けてきたのだが、今日、東都工業大学の駐輪場で携帯端末越しに聞いたアスナの声はどこか頼りなく、加えて「外に行くのはちょっと怖い」などと聞いてしまったら自分の口はなんの心の準備も出来ていないまま自然に「オレがアスナの家に行くよ」と発していた。

手土産でも用意してくれば良かったかな、と気づいたのは既に結城家の敷居をまたいだ後で、アスナはいつものようにコロコロと笑い声をあげながら事も無げにこう言ったのだ。

 

「誰もいないから」

 

一瞬、返すべき言葉が見つからず、それどころか怒りにも近い驚きがオレの中を駆け巡る。

誰もいない?……こんな状態のアスナを家に一人で居させてるっていうのか?

あの鋼鉄の城に囚われていた二年間の記憶が抜け落ちて、更にそれ以降の記憶すら失う可能性もあると告げられ、どれほどの不安を抱えているか、そんな彼女を放っておく結城家の人達はそこまで自分達の娘より仕事の方が優先順位が上なのかと感情が高まった時、そんなオレの情動を素早く察知したアスナが苦笑気味に口元を緩めた。

 

「記憶の事はね、両親や兄には言ってないの」

「なっ……どうしてっ」

「言っても心配させるか迷惑をかけるだけでしょ?」

「だからって……」

「傍に居てもらっても記憶が戻るわけじゃないし……それになくした記憶の中に家族はいないから……」

「アスナ……」

 

どちらかと言うと《あの世界》に否定的なアスナの両親にとっては、その時の記憶の価値は彼女と大きくかけ離れているだろう事は容易に想像できる。記憶をなくした上にその価値すら軽く扱われたらと思うと言い出せないアスナの気持ちも理解できた。

でも、だからと言って外に出る事すら臆病になっている彼女がたった一人にされているという現状は…………ああ、だからか…………『ちょっと声を聞きたくて……』……端末の向こうから送られてきた彼女からの精一杯のSOS……記憶が薄れていくと自覚した時は深夜という時間帯にも関わらず連絡が来て、あの時は珍しく冷静さを欠いていたのだろう。

普段のアスナだったら絶対に取らないような行動にオレも疑問や困惑といった不安ばかりの気持ちでログインしたが、ほんの少しだけオレを頼ってくれたという事実に嬉しさも存在していた。しかし事態の深刻さが判明すると同時に、さすが、と言うべきかアスナはオレの前でも感情を乱す事をしなくなったのだ。

当然、笑顔は薄らいでいったし、口数も減ってはいったが、変化はそこまでで時折不安そうな表情は見せるもののそれをオレに言ってもどうにもならない、と理解で感情を制しているようだった。そんな様子を少しもどかしくも感じたが、だからと言って今のオレが無責任な言葉をかけるわけにもいかず、ただ心細くしている彼女の傍にいてやるぐらいしか出来ないのだが……。

彼女はオレを二階へと続く階段に案内しながらちょっと申し訳なさそうに「だから、次の検診の日も一緒に来てくれる?」と窺うような瞳を向けてくる。

もともと港北総合病院を教えたのはオレだったし倉橋医師とは今でも交流が続いているのだから否を唱える理由は一つも無い。だいたいアスナの記憶障害が判明してすぐに病院へ連れて行った時、倉橋医師は身内でもないオレをアスナの問診からメディキュボイドでの診察まで当たり前のように同席させてくれたのだから、既にオレの扱いは家族と同列だ。

快く了承の意を伝えたオレは「未来部屋」と称されていてもどことなくセルムブルグの彼女の部屋の雰囲気を併せ持つアスナの部屋へと案内された。お茶を煎れてくると言って部屋を出て行った間にアスナの日記を見つけてしまい、彼女の想いを知ったオレは戻ってきたアスナの身体を抱きしめつつそのままベッドへと押し倒す。

その先を望んでの行動ではなかったがこの体勢では何を言っても言い訳にしかならないだろう。何よりアスナの口の動きから伝わってきた言葉がオレの欲を証明している。

けれど…………と、オレの理性と常識が冷静に状況を判断した。

ここは初めて訪れた恋人の家の中なわけで、しかも未だ彼女のお母さんに挨拶を済ませていないオレが留守中に許可無く上がり、あまつさえアスナの部屋でそういう行為に及ぶというのは……何と言うか……やはりよろしくないだろう…………と思う……思うが…………。

このタイミングでオレの内なる葛藤をまたもや敏感に感じ取ったらしいアスナが乞うように「キリトくん」と震える声を絞り出す。

もうその声だけでオレは生唾をゴクリと飲み込み、身体中の感覚神経は過敏に反応を始めていた。

さっきまで彼女に覆いかぶさるように自らを密着させてはいたが、正直、同じようにしても直に素肌を重ねた場合とでは充足感がまるで違う。それは単に性欲が満たされるだけでなく、もっと身体の奥深く、もしかしたら心という領域がアスナの優しさやぬくもりによって包み込まれるような幸福感を得るからだろう。

そこでオレはふと思った。

もしもアスナがオレと同じようにオレと繋がる事で心が満たされるのだとしたら、少しでも今の不安な思いを軽くしてやれるのなら……身勝手とも取れる言い分かもしれないが、今のアスナの怯えている心をなんとかしてやりたくてオレは本能に抗うことをやめ、静かに彼女の唇を啄み始めた。

 

 

 

 

 

「ど……して?」

 

オレとしてはただアスナに気持ちよくなって欲しいと思って、殊更優しく軽めの愛撫を繰り返し、少しずつ時間をかけて彼女の甘く柔らかな身体を溶かしたのだが敏感なアスナは結局お決まりの様に泣き顔を晒し、オレの想いを受け入れた後、浅い息を落ち着かせながらも未だ舌っ足らずな口調で問いかけてくる。

 

「ん?、たまにはいいだろ。こんな風にゆっくり触れ合うのも……」

 

乾ききっていない頬の上を流れた涙を唇で吸い取ってからオレは少しすました顔で腕の中のアスナに笑いかけた。

それでもいつもよりは強すぎる快感を堪えるように顔を顰める回数は少なくて、その代わりずっと蕩けるような目で涙を零しつつ絶えず喘ぎ声を上げていたから、きっとオレの目論見は成功したと言っていいのだろう。

時折、オレからの弱い刺激がじれったかったのか、もっと、とせがむように「キリトくん」と呼ばれた時はこっちも理性が飛びそうになったが、最後にアスナが下から抱きついてきて、オレの首元にキスをするように顔を埋め「んーっ」と高い声を漏らしながら額や頬をぐりぐりとこすりつけてきたのは本当に危なかった。咄嗟にオレの決意とここがどこなのかを自分の中で再確認しなければ、つい「アスナ、もう一回」と口走っていたかもしれない。

彼女の方は泣き顔の中にも嬉しさと困惑を潜ませてさっきのような疑問を口にしてきたわけだが……これでアスナの不安定な心が少しでも満たされてくれればいい、そんな願いを隠しながら答えた言葉に彼女は首を横に振った。

 

「そ、じゃなくて……ど……うして、絶対に私の記憶を……取り戻すって……」

 

彼女と身体を重ねる前に誓ったオレの言葉の意味が納得出来なかったらしく、誘うように開いたままの唇が再度、更に詳しい問いかけを切れ切れに紡ぎ出す。

そっちの事か、とオレは今更ながらに質問の意味を理解して彼女の乱れた前髪を軽く整えてから、ずっとオレの答えを待っているはしばみ色を見つめ返した。

 

「オレには《あの二年間》の思い出があるけど、きっとアスナはこの先、何か不安を感じた時、それを記憶がないせいかもって一人で我慢して泣くだろ」

「……キリトくん」

「アスナは意外と泣き虫だからな」

 

オレだけが知っているアスナの一面を楽しそうに口にすれば、すぐに腕の中の柳眉が不本意と言わんばかりに動く。けれど泣き濡れたままの瞳でオレを見上げ、今なお上気している肌をオレに抱きしめられている状況ではその効果は彼女の意志とは違う方向に発揮されるばかりだ。

 

「そうだろ?」

 

否定の言葉など受け付けない、と伝える為に絶え間なく呼吸を繰り返していた桜桃を塞ぐ。声を発しようとしていたのか、それとも未だ収まらない息づかいを妨害されたせいなのかアスナは眉をピクリ、と跳ねかせたがそんな反応さえ愛しくて重ねるだけのつもりが、つい唇であわいをなぞってしまえば閉じていた唇が当たり前のように薄く開いた。

 

「んっ……」

 

鼻から漏れる小さな吐息さえもオレの全身を支配して感情と感覚を高ぶらせる。こんな存在に出会えた奇跡を本当の意味でオレはわかっていなかった。

ゆっくりと顔を起こしてそのまま彼女の隣へ身体をスライドさせる。するとそのオレを追いかけるようにアスナは横向きになってオレの胸元へ手の平と頬をすり寄せてきた。すがるような姿勢を受け止める為、オレも彼女の背中に手を伸ばして軽く引き寄せ、呼吸と気持ちを落ち着かせようと滑らかな肌を撫でる。

 

「アスナにとっては、苦しくて、辛くて、悲しい事の方が多かったかもしれない二年間だけど、それでもオレの知ってるアスナだったら、そんな思い出さえも忘れたい、とは絶対に思っていないはずだから……」

「……そう……かな?……」

 

オレの顎の下にあるアスナの表情は読めなかったが、記憶に異変を感じた時からどことなく気弱な口ぶりが多くなってしまった彼女に伝わるよう、確信を持って力強く頷き、ついでにそのまま顎の先で小さな頭のてっぺんを軽くこすった。

 

「臆病でごめん…………やっぱりオレは心のどこかでアスナと出会ったのがあの城でなかったら、あそこで一緒に過ごした日々がなくなったら、オレを受け入れてはくれないんじゃないか、って思ってたんだ」

 

自分自身でさえ情けないとしか言いようのない告白にアスナは肯定も否定もせずにオレの胸元でただ静かにオレの言葉に耳を傾けてくれている。

 

「けど……アスナの日記からアスナの気持ちを知って、オレ自身の気持ちに気づかされた」

 

オレの腕の中にあった栗色の髪がさらり、と揺れ、ゆっくりと少し不安げに揺れるはしばみ色が見上げるようにしてオレの視線と交じり合った。

 

「もしもアスナがオレの事を忘れてしまっても、きっとオレはアスナへの気持ちを失うことはないんだ。アスナが永遠に変わらないと言ってくれたように、オレも絶対に変わることはない。怖いのは変わる事じゃなくて無くす事で……アスナがそれを恐れているのなら、不本意に奪われたあの頃のオレへの気持ちは絶対に取り戻さなきゃ、だろ?」

「……キリトくん」

「だから……アスナへの気持ちは何があったとしても、ずっと変わらないよ……信じてくれ」

 

多分、今の彼女にはわからないだろう、綺麗なはしばみ色の瞳に大粒の涙を湛え、それでも輝くような笑顔が《あの世界》で初めて想いを交わした後にオレが「結婚しよう」と言った時、見せたものと同じ美しさだということに。




お読みいただき、有り難うございました。
このシーンに関しては自分なりに数パターン解釈・展開があったのですが
一番共感が得られるかな(?)、というルートで適当に誤魔化しながら
書いてみました(苦笑)
加えて私の中での別枠のボーダーラインがすっかりぼやけてます……。
確信犯と言えば確信犯のような、無自覚と言えば無自覚のような。
(一番タチの悪いやつですね、はい)


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最強の助っ人……たち・前編

和人と明日奈の息子、高校生の和真視点のお話です。


『うん、いいよ、和真くん…………でも、モンスターとの戦闘なんて随分久しぶりだから、上手に出来るか、ちょっと自信ないけど……』

 

母さんが笑顔で俺からの助っ人要請を快諾してくれた後、いつものようにほっそりとした人差し指を華奢なおとがいにあて、少し考え込むように首を傾げる姿を見た俺はそんな台詞が自分の想像とは全くレベルの違う心配だったのだという事をその時は知る由もなかった。

 

 

 

 

 

事の起こりは高校が夏期休業に入る直前、突然知らされた少し残念な報告からだ。

それは《A.L.O》で遊んでいるグループの中のひとつ、今現在は男性メンバーだけで構成されていて人数も中級程度のモンスター戦をするならギリという、良く言えば少数精鋭な集まりの内のひとりが親の仕事の都合で外国へ移住することになったという打ち明け話が発端だった。

海外でも今までと同じように《仮想世界》で遊ぶことは出来るが、いかんせん時差がある。なんとか時間の都合をつけても、今までのような全員揃っての長時間ダイブは無理だろうし、何よりまずは新生活に慣れる事を優先して欲しい。

そこで今のメンバーで集まるのはしばらく難しくなるだろう、と考え、記念に少しだけ難易度の高いクエストに挑戦しないか?、という話が出たのだ。

しかし、そこでひとつ問題が浮上した。

実はこのグループ、つい先日、唯一の女性メンバーだったヒーラーが同じグループ内で彼氏でもあった男性メンバーと喧嘩別れをしたとかで、一切連絡が取れなくなってしまったからだ。

ただでさえいつもよりクリアが難しい戦闘にヒーラーの不在はあり得ない。急遽、皆で知り合いのヒーラーをあたったのだが、海外行きの奴は引っ越しまでさほど日数がなく、かつ渡航準備等でそうそう時間も取れない為、条件に合うヒーラーが見つからず困り果てた所でふと俺は自分の母の存在を思い出したのだ。しかし俺達が集うのは当然夜中なわけで、夜中に母さんを貸して欲しいと頼んだ場合……絶対、激速で父さんが拒否るだろうとダメモトで母にお伺いを立ててみたのだが……。

 

『お父さん、週末までお仕事で研究所に泊まり込みだって言ってたから大丈夫』

 

なんと、あっさりと母さんの協力を得ることに成功してしまったのだ……思いつく限りで最高のヒーラーと一緒にモンスター戦に挑める……なんとなく出来すぎのような気がしなくもなかったが、幸運の女神が味方をしてくれたのだと解釈して俺は金曜の夜に水妖精族の首都で落ち合う約束をし、この朗報を一刻でも早く伝えようとメンバー達にメッセを送ったのだった。

 

 

 

 

 

母さん……アスナさんを連れていつもメンバーが馴染みにしている酒場兼レストランに足を踏み入れると既に集まっていた仲間達が奥のテーブルから手を振ってくる。その合図に軽く手を上げてアスナさんを気遣いながら店内を進むと……《現実世界》と同じようにテーブルの横を通り過ぎる度にパタパタと客達が自分達へ顔を向け、視線を浴びせてきた。

そんな周囲からの色めいた羨望など全く意に介さないアスナさんは、トンッとブーツの踵を鳴らし俺の耳に顔を寄せてくる。

 

「こんなお店あったんだね。全然知らなかったよ。トウマ君達はいつもここに集まってるの?」

 

『桐ヶ谷和真』……一番最初と最後の漢字を使って名付けた俺のキャラクター名を戸惑いも見せず口にして、勿忘草色の長い髪をふわりと揺らしながら店内を眺めているアスナさんの横で俺は改めて自分の母の仮想、現実を問わない規格外じみた容姿に溜め息をついた。

元は十代の頃の姿をほぼ忠実に再現したアバターで、それをALOに持って来た時、髪と瞳が水妖精特有の色になったらしいが、今はアバターの年齢設定を二十代の成人型に移行させた為『以前は「綺麗でもあり可愛くもあるアスナさん」が今では「可愛い」のほとんどが「綺麗」に上乗せされ「もの凄く綺麗なのに時折可愛いアスナさん」へと変貌した感じだな』とはバンダナコレクターの父の旧友さんから聞いた話だ。

とにかく《現実世界》での母を見慣れている俺が特に違和感を感じないのだから、実際に高校の先輩が母の事を姉と誤認するのも無理はないなぁ、と店内にいた客の妖精達の頬が男女問わず見事にピンク色に染まるエフェクトを眺めつつアスナさんの問いに手短に答える。

 

「うん、ここってちょっと珍しい料理があるんだ」

「珍しいって?」

「ソースの味がしない焼きそばとか……」

「……トウマ君ってやっぱりキリト君似だよね……」

「ええっ、なんでっ?、とう……キリトさんって基本、美味しい物って言うかアスナさんが作ったのしか食べないよね?」

 

初めてALOにログインした時、風妖精族を選択して首都スイルベーンに降り立った俺を迎えに来てくれたのが父である影妖精族の『キリトさん』だった。その肩にいたピクシー姿のユイ姉にも手伝ってもらいながら、なんとか自力で飛行出来るようになった後、キリトさんはいきなり浮遊城アインクラッドの二十二層まで俺を連れて行ったのである。

今考えても飛行を覚えたての初心者にかなりの無茶ぶりだったと思うが、そのログハウスで俺の到着を待っていてくれたアスナさんの笑顔を見て、俺の疲労などたちまちに吹き飛んだのだ。

実際、ヨレヨレの俺を見た途端、アスナさんが回復魔法をかけてくれたせいもあったのだが、それから何回かアインクラッドでキリトさんと出掛ける時は必ずアスナさんが弁当を持たせてくれたはずで……と、そこまで記憶をたぐって、今の今まで忘れていたキリトさんとの男と男の約束を思い出す。

 

『アスナにはナイショだからな』

 

そう言って、確か一度だけ第五十層あたりにある食堂で「そば」っぽい物を二人で食べた事があった。味があるような、ないような、「そば」なのに「ラーメン」のような不思議な食べ物だった気がする。

『トウマ、どうだ?』とキリトさんに聞かれて『うん、なんだかよくわかんないけど面白い』と答えたら『よし、合格だ』と珍しく純粋に喜んでいるような笑顔を向けられて、それから二人で笑いながら「そば」っぽい物を完食したのだ。

 

「いやいやいや、ここ、ちゃんとした普通の料理もあるしっ」

 

全力で父親似を否定したい気分で首を横に振るが、アスナさんの目は半眼でちっとも俺の言葉に納得した様子がない。

 

「まっ、いいけど……それより早く紹介してよ、トウマ君」

 

いつの間にか最奥のテーブルを陣取っていた仲間達の元へと辿り着いていて、当然、全員の頬にも見事にエフェクトがかかっている。しかし一人だけ、ガタンッと椅子をひっくり返す勢いで立ち上がり自分の人差し指を真っ直ぐアスナさんに突きつけてくる奴がいた。

 

「アッ、アッ、アッ……アスナさーん!」

 

猫妖精族最強の視覚的武器とも言えるケモノミミと細長いシッポがちぎれんばかりに高速回転で跳ねている。

そうだった、このメンバー内で唯一《現実世界》で俺の母を知っている奴が「まんまアバター」のアスナさんの正体に気づかないはずがなく、おまけに母の大ファンである事を自認しているのだからそれはもう星が飛び散る勢いで目を輝かせていて、口からは思うがままの言葉が次々と飛び出してきた。

 

「ええーっ、なんでっ?、どうしてっ?、トウマが連れて来る助っ人のヒーラーさんってアスナさんなの?、うわーっ、俺、俄然ヤル気でてきたぁ!」

 

超ド級に興奮度マックスのコータを落ち着かせる為、俺は一旦アスナさんの傍を離れて奴の隣に立ち、肩を組んで顔を引き寄せ頭部のネコ耳に囁いた。

 

「コータ、アスナさんの正体、ここのメンバーにバラさないこと。あとこの件は父さんに内緒だから」

 

《現実世界》でのうちの家族の人となりを知っているコータは「父さん」という単語にピリリッ、と耳と尻尾を器用に震わせると、ぱちっ、と貝のごとく口を閉じ、無言で頭をウンウンと振りまくった。アスナさんがうちの父さんにどれほどの影響力を持っているのかを実体験しているコータは理解が早い。その反応速度に満足してコータを椅子に座るよう促してから、俺は再びアスナさんの元へ戻りこちらも空いている椅子の背を両手で引いて着座をエスコートする。

コータの反応に困惑気味ではあったものの「有り難う」と小声で言ってから綺麗な所作で椅子に腰掛けたアスナさんはぐるり、とメンバーを見回して今度は、ふわり、と微笑んだ。そこですかさず隣に座った俺は少々わざとらしく、こほんっ、と咳払いをしてから手の平をアスナさんに向ける。

 

「えーっと、今回、助っ人を引き受けていただいた水妖精族でヒーラーのアスナさんです。俺とは《現実世界》でも知り合いだけどそれ以上は詮索しない方向でよろしく。あっ、でも誓って彼女とかじゃないし、アスナさんには既に専属パートナーがいらっしゃるので、今回は本当に特別だから。そういった意味でも勧誘とかナンパは絶対になしでっ」

 

万が一にでもそんな事が父さんにバレたら俺は確実に《仮想世界》からも《現実世界》からも存在が消える……アスナさんの協力が得られると言うことは同時に自分の身の保持を心配しなければならないということで、それでも今回だけは俺にとっても特別なクエストだからと、もうすぐ日本を離れてしまうメンバーに顔を向けると、脳天気にもアスナさんを見つめ目尻と口元を垂らしている顔に少しだけ腹が立つ。

眉間に皺を寄せた瞬間、少しの間が空いて、そこに「はいっ」とメンバーの一人が発言を求めてきた。

 

「コータはアスナ……さんの事、知ってんの?」

 

美形の確率が高いらしいと噂されている水妖精族でもここまで神秘性を纏ったアバターはなかなかお目にかかれないせいか、はたまた既に俺とコータが「アスナさん」呼びをしているせいか、いつもならどんな相手でも呼び捨てにするキャラ名に自然と「さん」が付く。本名と同じだけにメンバーが母の名を呼び捨てするのは弱冠抵抗があったので、指摘せずに問われた内容を考えた。

確かに、詮索はするな、と言っておきながらコータだけは彼女を知ってるという状況は面白くないかもしれない。ログインする前、アスナさんからは「母です、って言っちゃダメなの?」と聞かれたが、さすがにこの年齢で母親と一緒にクエストというのはイタイ気がするし、今ではほとんどログインしていない母のステータスが未だトップレベルのプレイヤーと遜色ないのも現役としては妙に自尊心が傷つくし、何より母のアバターがリアルの姿とそれほど変わりがないなど、信じろと言う方が無理だろう。かと言って《現実世界》で会わせる気もないし、若作りのアバターだと思われるのも息子としては我慢出来ない。なので話せるギリギリのラインを探って口を動かす。

 

「知ってると思うけど、俺とコータは《現実世界》でも友達だから、アスナさんとも何回か顔を合わせた事があるんだ」

「へぇっ、アバター見てわかるなんて随分似せてるんだな。それに名前も……」

「ああ、この人、キャラクターネームに本名使ってるから」

「め……珍しい人だね」

「だってよく知らなかったの……」

「へっ!?」

「うわーっ、違うっ、違うっ、どんな名前にしたらいいか、よくわからなかったんだよねっ、ねっ、アスナさんっ」

 

俺の必死のフォローの意味が伝わったらしく、アスナさんが大人しく「うん」と首を縦に振った。

普通は本名とキャラクターネームを一緒にしないと知らないなんて、どんな初心者を連れて来たのかと思われてしまう……それでいて実力は超一流なんて説明できっこない。

 

「と、とにかくヒーラーとしての腕はかなりの人だから信頼できるよ」

 

俺の引きつった笑顔とは真逆の、その場を一瞬にして小春日和にするような柔らかい笑みで周りを包み込んでからアスナさんは改めて自らを名乗った。

 

「初めまして、アスナと言います。今日はトウマ君に頼まれてご一緒させて頂きます。モンスター戦は久しぶりなので上手く出来るかわかりませんが、精一杯、頑張りますね」

 

その笑顔を受けてその場の全員の顔にHPを一気に全回復したような安心感と高揚感が現れ、そのままの勢いでメンバー達の自己紹介が始まる。

一通り、俺以外の紹介が終わると肝心のクエストの中身へと話し合いは進んだ。事前に大まかな内容は俺から説明しておいたので、特にひっかかる部分もなく全員の認識が統一できたところで次にフォーメーションと動きの確認に入る。序盤、中盤、終盤と今判明している情報を基に闘い方を組み立てていくわけだが、そんな話し合いの中でもアスナさんは終始笑顔でただ耳だけを傾けていて……この反応は俺的には少し意外だった。

さすがにこの場を取り仕切るとは思っていなかったが、もっと百戦錬磨のアスナさんらしくアドバイスだったり、注意点を口にしてくると予想していたのに…………逆に不安になって話が一息ついたところで、こっそりと耳打ちをしてみた。

 

「何か気になる所とか、ないの?」

「気になるって?」

「うーん、例えばこのメンバーで……」

 

とそこまで言いかけた所でアスナさんが「ぁっ」と何かを思い出したように小さく声を上げて内緒話をするように手で口元を隠しながら顔を近づけてくる。

 

「……もしかして、あのケットシーさんって……小太郎くん?」

 

終始へにょり、と耳を垂らしてアスナさんに見とれつつ懐っこい視線を送っていた対角線上の席にいるコータの顔を見つつ問いかけてきた内容に俺は少々脱力した。

えっと……気になるって、そーゆーのじゃなくてさ……でも、まあ、バレてしまったのなら隠す必要もないだろう。

 

「うん、そうだよ」

「やっぱりっ。なんかね、とっても雰囲気が似てるなぁってさっきから気になってたの」

 

確かに、本名の柴杜小太郎といい、性格といい、振る舞いといい、アイツほどケモノミミとシッポ付きアバターが似合う奴はいないに違いない。惜しむらくはイメージとしてはネコではなくイヌなんだけど…………って、そこはどうでもよくてっ。

どうやら俺とアスナさんの話題が自分の事だと目聡く察知したコータが、目元と口元を更ににんまり、とさせてこちょこちょと手を振ってくる。アスナさんも律儀に手を振り替えしているといつの間にか話がまとまったみたいでグループのリーダー格が立ち上がった。

 

「よしっ、そんじゃー行こうかっ」

 

 

 

 

 

途中、絶え間なく行く手を阻んでくる小物モンスターを倒しつつ目当てのラスボスのテリトリー前に到着した俺達は、それまでの戦闘で受けたダメージを回復させるべくポーションを取り出す。HPもイエローゾーンまでは達していないが、いよいよ最終決戦だし、ここまで倒してきた小物モンスターは一様に麻痺属性の技を繰り出してくる奴ばかりで、多少なりともその後遺症が残っていた。

少し手や足が痺れているといった程度だが、違和感は拭えなくて、それは皆も同じなのだろう、麻痺時間が切れるのを待つ間も仲間達はしきりと手首や足首をクルクルと痺れを振り払うように動かしている。

ただ、その中に一人だけクエスト開始から変わらぬ微笑みを浮かべたままのウンディーネさんが両手をぱちり、と合わせた。

 

「お疲れさま、じゃあラスボス戦の前にヒールするね」

 

小物モンスター戦の間はひたすら後方で俺達の戦いっぷりを授業参観よろしく静観していたアスナさんの右手に短杖(ワンド)が現れる。なぜ戦闘中にヒールを行ってくれないのか?、の疑問を後方のアスナさんにぶつける暇さえないほど次から次へと湧き出てくる小物モンスターのお陰でここまで来てしまったが、当然ここにいる全員が抱いていた思いのはずで、思わず「えっ!?」と声にならない声を吐いた為に見事に皆の口の形が揃った。

そしてその感嘆符と疑問符の中身は俺なんかより他の奴らの方がたくさん詰まっていることだろう。

まずは全くダメージを受けていない様子のアスナさんの笑顔だ。

戦闘には参加していなくても広範囲の魔法攻撃は受けていたはずなのに麻痺の「ま」の字も影響が見られない。しかし、それもそのはずでアスナさんはあらゆる種類の攻撃魔法において無効化のアクセを幾つも所有している……と言うか貢がれている、と言った方が正しいかもしれない。なぜならこれまた今現在でも悔しくもトッププレイヤーレベルを保持しているキリトさんがドロップアイテムの中に無効化関連のアクセがあると、当たり前のようにアスナさんに贈るからだ。

最近は戦闘系のクエストもしていないようだが、割と頻繁に俺が同行していた数年前は必ずと言って良いほどLAはキリトさんが取っていて、アイテムの配分となるとアスナさんが強請るでもないのに「ほいっ」と気軽に差し出して、アスナさんはちょっと苦笑気味に、それでも「ありがと」と言って受け取るのがいつもの光景だった。

女性向けのデザインだからかな、とも思っていたがアスナさんを「守る」事にかけては『異常なまでに固執してるのよ、アイツは』とは母の親友であるリズさんの言だ。

とにかく、ちょっとやそっとの魔法攻撃などアスナさんにとってはそよ風のごとしなわけで、指輪にしろイヤリングにしろバングルにしろ、どうやらその時々のモンスター情報に合わせて変えているらしく、唯一、常に装着しているのは何の効果もない左手の薬指のリングだけだ。

そして感嘆符と疑問符の第二の中身は出現した短杖だろう。

俺が「ヒーラーとしてかなりの腕」と評した彼女のワンドがあまりにも見た目がちっぽけすぎるのは同意できる。

あれが伝説級武器だなんて詐欺もいいところだ。

しかし皆の色々と中身満載の視線を一身に浴びているアスナさんは何の気負いもなく微笑したまま目を閉じて、その葉っぱが一枚だけくっついてる枝をまるでオーケストラの指揮者が演奏会の始まりを誘うタクトのように優雅に振った。

すると突然、彼女の姿を隠すカーテンのように詠唱したはずの大量の文字がパンッ、といきなり現れる。

と思った直後にはヒールは完了し、手足の痺れさえも止まっていた。

 

「え……今の……」

「高速詠唱?……いや、超高速詠唱?」

「俺、なんも聞こえなかったけど……」

「だって唇、動いてなかったろ?」

 

そうだ、俺達の視線は完全にアスナさんに集まっていた。なのに誰も唇が動いている瞬間を見ていなかったんだ。

 

「ちょっと待った……超高速詠唱できるヒーラーだって詠唱した文字は高速とは言え上から現れるよな?」

 

さすがにリーダー格のメンバーが冷静さを取り戻して今見たありえない現象を口にする。確かに、どれほど早く唱えようともシステムの都合上、文字は口から出た順番に表示されるはずだ。けれどアスナさんの場合は一瞬で全てが出現していた。

そんな俺達の驚きと困惑をよそに、アスナさんの優しい声がその場の空気を弛緩させる。

 

「よかったぁ。上手くいったみたいで」

 

こうなったら本人に直接聞くのが一番確実だろう、と俺は彼女の目の前に歩み寄った。

 

「アスナさん……今、詠唱した?」

「してないよ」

 

ちょこん、と小首をかしげて「ダメなの?」と問うような視線で見つめられてもこっちが困るんですけど……。

 

「なら、どうやって発動させたの?」

「んー、声に出すのって発動条件じゃないのよね。ほら、右手と左手の意識を切り離して片手ずつ左右連続で剣を振るうヒトがいるでしょ?、あれを見た時、だったら詠唱も自分の脳を『言った』ことにして騙せるんじゃないかな、って思って……」

「……無詠唱回復魔法ってこと?」

「そう。あっと言う間だからヒールが間に合わないなんて事態も防げるし、便利なの」

 

ほわんほわんとした笑みで己の脳を騙すなどという無茶苦茶な説明をしたアスナさんを前に俺は両肩を落として項垂れた。これって便利とか便利じゃないとかの次元の話じゃないよね。助っ人を頼んだ時、「久しぶりだから上手に出来るか自信がない」と言っていた内容がこれほどのレベルだったなんて、と俺は自分の推測の甘さに涙が零れそうだった。

しかも俺達全員のHP回復と同時に麻痺における状態異常回復も行っているのだからこれはもうアスナさんの存在自体が伝説級武器と言っても過言ではないだろう。

想像すら遠く及ばないハイスペックぶりに、この人をキリトさんの了承なくクエストへ連れ出した事がどれほどの禁忌を犯した事を意味するのか、今更ながらに実感した俺はアスナさんの実力を知って小躍りしている仲間達の中で一人頬を引きつらせたのだった。




お読みただき、有り難うございました。
すみません「助っ人……たち」と複数形になるのは後半です(苦笑)
クエスト攻略は主軸ではないので、あまり詳しく書きませんでした。
(私自身、RPGをしないので「詳しく書けない」が正しいかも)
後編も含めてですが用語等の使い方、間違っててもスルーでお願いします。
「ウラ話」も来月、まとめてお届けします。


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最強の助っ人……たち・後編

ようやく助っ人が「たち」になる後編です(苦笑)
アスナのハイスペックぶりを知って、やる気に満ちている
トウマ(桐ヶ谷和真)と仲間達はいよいよボスモンスター戦に挑みます。


「うーん……みんな、無茶するなぁ……」

 

困っているような内容とは裏腹にその口調はのんびりとしていて、そんな後方から聞こえてきたアスナさんの声に俺はボスモンスターと対峙したままの体勢でクスッ、と同意の苦笑いをこぼした。

確かに、これは文字通りメンバー全員が「思う存分やりたい放題」という戦い方だったからだ。

アスナさんの桁外れのステータスを頼りに俺達はとにかく攻撃して、攻撃して、攻撃しまくっている。当然向こうからの反撃もあるのだが、この場に居る全員が完全に大船に乗ったつもりになっていて、いつもより防御を気に掛けていないのは明かだった。

確かに敵の攻撃パターンも一発でHPが消し飛ぶような物はないみたいだし、アスナさんの回復魔法はポーション並みに効果絶大だから気が大きくなるのもわかるけどね、と自分を含めかなり強引な戦闘に持ち込んでいる仲間達を見て知らずに軽い溜め息は漏れるが、それでも今まで一緒にALOを楽しんできたメンバーだけあって連携が崩れることはないし、何より皆、本気で倒せると思ってラスボス戦に挑んでいる。

けれど相手も今までの雑魚モンスターとは比べものにならないレベルで強いし、いくらこっちのHPやMPが補充され放題状態でも向こうのHPがほとんど減りを見せず時間ばかりが過ぎていて、本来なら弱気な憶測が首をもたげそうだが俺達は誰一人として諦めの色を見せることはなかった。それどころか今、このメンバーで戦えるこの時間を心から楽しんでいて、必死な形相の中にも全員が瞳を輝かせ口の端に笑みを浮かべている。

多少無謀な挑戦だったが、こんな展開になれたのもアスナさんのお陰、と後方支援の一環なのか涼しげな声援まで送ってくれている彼女の期待に応えるべく気合いを入れて風属性魔法の大技、サイクロン・ソードをお見舞いすると顔面にヒットした後、突然ボスモンスターがうずくまった。見ればHPバーの一本がようやく消滅して、ついに最後の一本となる。

となるとこれは形態変化の準備動作か、と全員が固唾を呑んでボスモンスターを見つめていると頭部を覆っていた帯状の布がはらはらとほどけていき、ダークカラーの頭髪が徐々に現れて……と認識していた俺は大きく目を見開いた。多分メンバー全員がほぼ同じ反応だっただろう。髪の毛と思われたソレは不気味にうねるたくさんのヘビだったのだ。

 

「うぇっ……きもわるー」

「メデューサ的なやつか?」

「見たら石になるっつー、あの?……ってか、もう全員見ちゃってるだろ」

 

期待充分に現れておいて、見たらNGのヤツってどんだけセコい設定なんだ……さすがにそれはないだろうと全員慌てる事なく蛇頭を晒して立ち上がるボスモンスターに警戒する。

 

「だいたいメデューサって女だろ?、あのモンスターどう見ても女には見えないし」

「ターバン巻いてたからインドの蛇使いとか?……蛇使いが出てくる話、なんかあったかなぁ?」

「ヤマタノオロチって可能性もあるんじゃね?」

 

各々が思いつく蛇関連の神話・伝承を口にする。

そうなのだ、このALOのクエストは古今東西、無国籍で昔語りやメジャー小説のごった煮を元に生成されるので、蛇ひとつで……いや、実際にはドレッドヘアよろしく数十匹が今までターバンの中で抑圧されていた胴をほぐすように生き生きと蠢いていて、こいつらの出典元はいくつも浮かんでくる。

元ネタがわかれば少しは敵の出方が読めるのだが、俺達が脳内で蛇伝承を検索している間に時間切れを告げる攻撃魔法が蛇達の口から弾丸のように飛び出して来た。

 

「しょえっ」

 

俺の一番近くにいたコータが奇妙な声を上げつつ咄嗟に横に飛びすさる。いくらアスナさんの存在があっても真正面からまともに攻撃を受ける度胸はないらしい。今までコータが立っていた場所にはねっとり感のある紫色の液体がこびりつき、じゅわっ、と煙を上げていた。

 

「えっと……硫酸的なやつかな?」

「えーっ、これ浴びたら溶けんのかよっ!?」

「ビジュアル的にも受け入れがたいダメージだ……」

 

次々に飛んでくる紫色のスライム唾弾をかわすだけで全員が精一杯になってしまい、なかなか攻撃に転じる隙が生じない。だいたい見るからに痛そう、熱そう、HPすんごく減りそうと三拍子揃った毒系魔法弾だ、痛みこそ感じない《仮想世界》とは言えかなりの衝撃と不快感は受けるに違いなく、俺も治癒魔法はそこそこ使えるがこの攻撃を避けつつ仲間のケアなど超高速詠唱が出来なければ無理なので、ここは自分を含め己の対処能力で乗り切るしかないだろう。とりあえずタンクの奴らに攻防ラインを守ってもらうがこのままではメデューサもどきボスモンスターの最後のHPバーを削るべく接近戦に持ち込む機会は永遠に来ない気がしてくる。

それでもスライム弾をかわしながらその合間になんとか遠距離攻撃をしかけてみるが、その程度ではHPが1ミリも減る気配がなく、それどころか攻撃体勢に入ったタイミングで飛んでくる唾がクリティカルではないものの飛沫で俺達の装備を溶かしていく。自らの装備が変色し僅かに上がる煙から異臭が漂った。

 

「これ……この煙……麻痺毒だっ」

 

さっきまで小物モンスターから散々かがされていた麻痺成分を含んだ煙に俺達は咄嗟に鼻を手で覆う。どうやらプレイヤーの装備品か装着品、もしくは直接皮膚に接触した場合のみ麻痺毒が発生する仕組みらしい。ここで身体の自由を奪われたらいくらアスナさんが付いているとはいえ、さして時間をかけずにゲームオーバーの結末を迎えるのは間違いない。今回のクエスト攻略の助っ人を頼む時、アスナさんには後方支援のみで絶対に細剣を握らないようお願いしてあるから正真正銘、自分達で活路を開かなければならない崖っぷちの局面だ。

全員がこれまでとは表情を一転せて状況を打破する糸口を探している。前線を後退させ持久戦に持ち込むべきか、全員で一気に攻め込むべきか、どちらがより勝算が高いかを誰もが判断しかねていた時だ、後方から少し申し訳なさそうなアスナさんの声が響いた。

 

「えっと……ごめんね、さすがに私のMPもそんなに保ちそうになんいだけど……」

 

全員のケアをたった一人で担当してくれていたのだ、なんとなくアスナさんのHPやMPは無尽蔵なのかも、と錯覚していたのは俺だけではなかったようでその場の悲壮感に拍車がかかる。

とは言え平均的な数値から見れば彼女のそれはほぼ底なしと表現して問題ないのだろうが……。

とにかく、そういう事なら必然的に持久戦の線は消え、俺達は覚悟を決めて各々の武器を握る手に力を込めた。

それでも、と闇雲に全員が突っ込んでも玉砕は目に見えているから少々の小細工はさせてもらおう。

 

「俺を含めたフォワードが囮になってヘビの気を引くから、その間に一番敏捷力の高いコータがアイツに近づいて……」

「ふぉめーん、とーまー」

 

この緊迫場面に思いっきり不似合いな力の抜けた声がすぐそばから弱々しく流れてきた。訝しげに声の主へと振り返れば両手で鼻を押さえたコータが涙目で俺に何かを訴えている。

 

「はな……もげそう……」

 

はあああっっっ!?…………そうだ、そうだった、このグループで唯一の猫妖精族(ケットシー)のコータは当然敏捷度ナンバーワンだが、同時に嗅覚もナンバーワンで……さっきまでの雑魚モンスターからの麻痺毒は無臭だったのだが、このヘビからのスライム唾弾の着弾地点からは汚臭とも言える臭煙が立ち上っていて、俺達ですら臭いに辟易して顔をしかめるのだからコータに及ぼす効果は絶大だった。

麻痺状態からの回復魔法ならばアスナさんにお願いできるが、自らの嗅覚が拾ってしまう臭いまではどうにもならない。まさかケットシーの動きを封じる意味もあっての悪臭効果付きスライム唾弾なのか?、と妙な方向に深読みしそうになる思考をどうにか振り払う。

となると全員で波状攻撃をしかけるしか……俺と同じように戦況を見つめていたリーダー格の仲間に視線を走らせると、どうやら同じ事を考えていたようで、俺に向け小さく頷いてから一陣、二陣とメンバーへ再構成の指示を飛ばす。後方のアスナさんが一瞬にして全員のHPを回復させ、続けて麻痺状態からの復活呪文を唱え終わると自然と全員がメンバー同士の顔を見回した。

どうあがいても最終局面、このメンバーで戦えるのももしかしたら最後かもしれない。程よい緊張感と高揚感が全体を包む。

互いが互いを鼓舞し合うように挑戦的な視線を送り合えば誰もがその瞳に闘志を宿し不敵な笑みを浮かべた。

最後に大きく息を吐き出し、視線を動かして倒すべき敵を睨み付ける。

最初は記念クエストみたいな軽い気持ちで挑戦した戦いだったが、もう誰一人として、負けてもいい、なんて思っていないことはメンバーの顔を見ればわかりきっていて、その一体感を胸に吸い込んでから「突撃っ」と鋭い一言をきっかけに第一陣の俺達は走り出した。

コータ程ではなくとも先駆けメンバーは俺も含めて敏速に動ける奴らで構成されていたが、それでも完全に弾を避けきることは出来ず、飛沫がHPを少しずつ削っていく。俺の剣でも弾に当てる事は出来るが、粘着成分が含まれているせいか跳ね返したり、叩き落とす事が不可能で、逆に刃に付着したまま耐久値を奪っていくから、これはもうひたすら避け続けるしか防御の手段がない。

そうやって大方の蛇達がすばしっこく動き回る俺達一陣に向け執拗な攻撃を続けている間に二陣が数人がかりで一匹ずつ確実に蛇の頭数を減らしていこうという作戦なのだが、蛇髪の多さのせいでなかなかボスモンスターのHPバーが減っていかないのが現状だ。

そもそも蛇頭ひとつを落としてもボス本体を倒さなければ、一定の時間が経つと再生してしまうのだから段々と俺達の焦りは色濃くなっていって、それでもなんとか敵に立ち向かえているのはこの過酷な状況下で全員のHPバーが常にイエローを示すことのないようアスナさんがヒールを頑張ってくれているからだろう。

さすがラスボス、と言うべきか、スライム弾にかすると直撃ではなくてもかなりのHPを持って行かれるから、先程のようにHPがある程度減るまで放置ではなく、こまめに一人一人面倒を見てくれている。その姿はまるで妹の芽衣が昔大好きだったアニメ番組にでてくる、踊るようにステッキを振りながら魔法をかける妖精のようだ。

それでも攻撃を交わしながら常に蛇達の注意を引き付ける為に跳躍し続ける俺達、再生の間を与えないよう猛攻を続ける仲間達、なかなか活路を見いだせず疲弊していくのはアスナさんも同じだったようでほぼ全員のHP量が安定したのか、束の間、ふぅっ、と桜色の唇から気の抜けた息を吐き出したその時だ、ボスモンスターの蛇髪たち全てが一つの意志を持ったように一斉に頭をもたげ、口を開けた。

 

「全員回避!」

 

ヘビを攪乱する為、メンバー同士の間隔はかなり広くとってある。各々が自己判断で回避行動に移ろうとすると、そんな有象無象など眼中にないと言いたげな蛇達の顔が俺達の存在など全くの無視で不気味なほど同じ方向に向いた。

その蛇眼の視線が集中する先は…………。

 

「アスナさんっ!!」

 

まさか最後方にいるヒーラーの位置まで攻撃が届くと思っていなかった俺達は完全に油断しきっていた。

気を緩めていたアスナさんの反応が一瞬遅れる。

まずいっ、全ての蛇からあのスライム弾を浴びたら、いくら無効化のアクセを装着しているアスナさんでもHPがレッドゾーンに食い込むのは確実で……間違いなく最悪の展開だ。

俺の焦りをあざ笑うかのように容赦なく蛇達の口から一斉にスライム弾が放たれる。

俺達メンバー全員がスタンしたように一歩も動けず彼女に向かって一直線に飛んでいくつもの魔法弾をただ見つめることしか出来ずにいると、弾が近づくにつれ、まるでスローモーションのようにアスナさんのアトランティコブルー色の瞳が驚きで徐々に大きくなっていく。

けれど蛇達から放たれた多弾が一点に集結して大きなひとつの魔法弾となり、その大きさに俺達の視界に映るアスナさんがすっぽりと隠された時だ、いきなり真っ黒な突風が彼女の前に滑るように割り込んできて巨大な葡萄ゼリーの塊でも切るかように一刀で弾を分断した。

続けて聴覚と視覚に届いたのは、ジュゥッ、と何かが焼けるような音と同時にはじけ飛ぶような細かい光の粒、そしてその場を覆い隠す程の煙と共に焦げ臭い匂いが辺り一面に漂う。

思わず顔をしかめた俺がすぐさま風魔法でその大量の煙と焦臭を追いやれば、流れていく煙の向こうからはアスナさんの嬉しげな笑顔とは真逆に固い表情のまま、それでも彼女にピタリと寄り添っている黒衣の影妖精族(スプリガン)が現れた。

突然の出来事に俺達の思考はもちろん、ボスモンスターさえ現況に戸惑っているのか、この場の全員が固まる。

しかし、その凍り付いた無音の時を溶かしたのは場違いな程柔らかなアスナさんの声だった。

 

「ありがとう、キリトくん」

 

ほんの少し前までの驚きと焦りの張り詰めた空気は霧のように薄らいでいって、そこに存在するのは互いの絶対的な信頼感しかない。HP回復効果さえあるのではないか、とメンバー達が密かに噂しているアスナさんの笑顔を一身に受け、強張っていたスプリガンの表情が小さな溜め息と共に崩れた。

 

「……オレと一緒じゃなきゃ助っ人はやらないんじゃなかったか?」

 

少し咎めるような視線にアスナさんは笑顔をキープしたまま僅かに眉尻を下げる。そこでようやく俺はあわあわと多種多様な感情が入り交じって震えが止まらない口からどうにか声を絞り出した。

 

「とっ……キ、キリトさんっ」

 

さっきの蛇頭達同様、相手にするつもりもない十把一絡げの雑魚を見る視線だけがチラリ、と一瞬だけこちらを射貫く。

 

「お前との話は後だ」

 

アスナさんと同じく青年型に移行してあるキリトさんのアバターはそれでも《現実世界》とは違いアスナさんとの身長差があまりない。だからこそ、なのだろうが未だ居心地悪そうに戸惑いの色を浮かべているアスナさんの額へと頷くように頭を下げれば、すぐにこつん、とキリトさんの額がくっつく。その僅かな接触にも反応するアスナさんの声は妙に色を纏っていて、それで幾分気が晴れたのかキリトさんの声が穏やかなものに変化した。

 

「大体の事情はユイから聞いてる。で、そのユイからなんだけど、芽衣がベッドから落っこちて頭にたんこぶ、こしらえて泣いてるって」

「えっ?」

「ええっ!」

 

アスナさんとオレが驚嘆の声をあげたのはほぼ同時……でも、その中身は微妙にずれている。

可能だったらあの二人の間に割って入り声を大にして「ちょっと待ったっ」と会話を遮りたいところだが、残念ながらそんな度胸も勇気も1バイトだって持ち合わせていない俺はただ酸欠の魚みたいに口だけをはくはくと動かした。

周囲の困惑と疑問と畏怖をこね合わせた理解不能の状況に陥っている空気をものともせずアスナさんはいまだキリトさんとおでこをこっつんこしたまま、少しおろおろとしながらも上目遣いに黒ずくめのスプリガンへ「どうしよう」と助言を求めている。一方、キリトさんは慌てることなく、それどころか少し悪役ぶった笑みさえ浮かべて顔を上げると手にしていた長剣を勢いよくザクッと足下に突き立てた。

 

「アスナはすぐにログアウトしろよ。その代わり…………」

 

キリトさんが今度こそ身体ごと向きを変えて堂々と俺達の視線を正面から受け止める。

 

「こいつらの助っ人はオレが交代するから」

 

トレードマークと言っていいキリトさんが愛用している黒のロングコートの裾がはためき、同じく真っ黒な少し長めの前髪がふわり、と風に煽られた。と、その闇色の奥からは今の今までアスナさんを見つめていた色と同色とは思えない底光りする瞳の黒輝がメンバー全員を射殺すように突き刺さってくる。

なぜだろう、俺達が今まで剣を向けていた先にはボスモンスターがいたはずなのに、今度は背後から正真正銘の最強モンスターが現れた錯覚に囚われているのは……。

キリトさんが出現してから凍結したままの俺達と蛇頭モンスターを見事にスルーしたままアスナさんは、ぱっ、と花咲くような笑顔を取り戻し、近所の八百屋さんまでおつかいを頼む気軽さで「ホントに?、じゃあ、お願いしちゃおっかな」と言うが早いかワンドを掲げて残りのMP全てをほぼ使い切ったのだろう、一瞬で俺達全員のHPに無詠唱の回復魔法をかけた。その手際を間近で見たキリトさんは目を見開いたがすぐに微笑んで「相変わらず見事なもんだな」と賛辞を送る。

その言葉に微笑で応えてからアスナさんは素早く短杖を仕舞うと左手を振ってウインドウを開いた。今にもログアウトボタンを押しそうなアスナさんに向かってオレは「あー……っ、あー……っ」と全く意味を成さない間延びしたような唸り声を吐くのが精一杯だが、心中では必死に母を引き留めようと心の声を発している。

 

『ちょっ、ちょっと、待ってっ、母さんっ。落ち着いてよーっく考えてみてよっ。あの芽衣だよっ。そりゃあ夜中にベッドから落っこちるのなんて日常茶飯事だし、それに気づくのがユイ姉なのもいつも通りだけど、芽衣はたんこぶくらいで泣いたりしないからっ。むしろ落ちた事すら気づかず、そのまま寝てるに決まってるからっ。父さんの言うままにログアウトしないでっ。俺達を見捨てないでっ』

 

多分、オレが事態の真相に気づいている事をキリトさんは見抜いている。だからこそ、オレがアスナさんを呼び止める言葉が出せないよう、もの凄い目でこちらを睨んでいるのだろう。オレの必死の視線だけの訴えをアスナさんは隣にいる最愛の存在に気を取られていて気づかない。

これまでの経緯、この状況、どう考えてもキリトさんが俺達に対し好意だけで助っ人を買って出てくれたはずはなく、ここでアスナさんという制御装置的存在がいなくなったら……終わる……色々な意味で。

だいたいさっきの一振り……あれだけの多弾が集中して一気に質量を増したはずのスライム弾をたったの一振りで両断したキリトさんの剣には俺達が切ることを躊躇っていた原因の粘つきが一欠片も付着していない。多分、剣を振り下ろす速度が尋常ではないレベルなのだ。だからあのスライム弾でさえ剣に絡みつく前にその摩擦熱で焼け焦げ、蒸発してしまったのだろう。閃光を目にした後に漂った焦臭と煙に麻痺毒の成分は含まれておらず、純粋な消滅に伴うエフェクトだったのだと分析して、助っ人としてはアスナさんと同格に頼りになるが、今ひとつそれを素直に喜べない自分の直感は間違っていない、と混乱していた思考がようやく落ち着きを取り戻した頃には既にアスナさんの姿はメンバー達に手を振りつつ徐々に光の粒に包まれている。

その隣では少し名残惜しそうな眼差しでログアウトしていくパートナーを見送りながら、そっと「オレもすぐにそっちに戻るから」と囁いているキリトさんの姿。しかしアスナさんの姿が完全に消滅してしまうと、一変してスッと冷徹さのオーラを纏ったキリトさんが真っ直ぐオレに視線を合わせてきた。

 

「さて、トウマ……オレに何か言いたいことは?」

 

そう問いかけられると逆に何から話していいのか順番を決めかねてしまい、迷いの思考を置き去りに引きつった口元からは意志とは関係ない言葉がこぼれ落ちる。

 

「えっと……久しぶりだね、キリトさん」

「そうだな、《この世界》で会うのも、だが、《現実世界》でもオレが忙しかったのは知ってるよな?」

 

それはもう、と重々承知を示すため小刻みに頭を上下に振り続ければ、いつの間に硬直状態から抜け出したのか背後からペタリ、と俺の両肩に手を乗せたコータがおぶさるように張り付いて、小声で震える口を耳元まで伸ばしてくる。

 

「トウマ、あのスプリガンって……もしかして…………」

 

そっか、アスナさんほど顔の造作は似せていないけど、やっぱりアバターの持つ雰囲気でわかるのか……いや、違うな、コータはそこまで察しの良い奴ではなかったはず。だとすればアスナさんに対するあの密着度合いからか、はたまたアスナさんが身を委ねきっていたからか、総合して他の介在を許さない二人だけの鉄壁領域を展開していたせいか。

いずれにせよコータの推測は間違っていない事を振り返らずに軽く頷くだけで伝えると、途端に俺の背中に向かって「うわっ、マジで親父さんかよ……」と驚きとも恐れともとれる呟きを落としてくる。

一方、キリトさんの方は俺を盾にしつつ恐る恐るも顔の半分だけを出して親子のやりとりを傍観しているケットシーの正体など気にもしていないのだろう、少しじれた様子で再び「トウマ」と俺の名を呼んだ。

 

「さっきのアスナへの攻撃、受けていれば確実にHPはレットゾーンだったな」

 

その言葉にオレの混迷していた思考はもちろん、アバターの心臓さえピタッ、と止まる。

そうなのだ、キリトさんはアスナさんのHPがレッドゾーンになる事を絶対に許さない。それは俺が初めて《仮想世界》にダイブした時に申し渡された何よりも優先される重い約束だった。

 

「……ごめん……」

 

俺だってあの距離までモンスターの攻撃が届くなんて夢にも思わなかったのだ。けど、そんな言い訳は口に出来ない。アスナさんはたとえ自分がリメインライトになったとしても気にせず最後まで諦めずに戦ってね、と言ってくれていたが、これは俺がアスナさんと一緒に《仮想世界》を楽しむ為の大原則。

俺はキリトさんの目を見つめ返してもう一度謝罪の言葉を口にした。

 

「ごめん、キリトさん……俺の考えが甘かった。モンスターの情報収集も十分とは言えなかったし」

「でもっ、それは時間が足りなかったからで……」

 

コータが俺の肩越しにフォローの言葉をくれるが、その気持ちだけ有り難く受け取って片手で奴を声を遮断する。

 

「そもそもキリトさんに内緒でアスナさんを巻き込んだのだって謝らなきゃ、だし……」

 

今夜までは父さんが帰宅しないと踏んでいた事自体が甘かった……この人が予定通りの日数をかけずに早めに仕事を終わらせる可能性なんて充分考えられたのに。

あの時は母さんの助っ人参戦の了承をもらって、かなり浮かれてたからそこまで考えが及ばなかった……と、自分の迂闊さを悔いているとキリトさんがイライラとした口調で追い打ちを掛けてくる。

 

「ああ、そうだな。やっとアスナに会えると思っていたのにログイン中だし、しかも《A.L.O》でお前の助っ人だって?、オレは何も聞いてない」

「それについては本当に……何と言っていいか……けど、どうしてもヒーラーの助っ人が欲しくて……今回だけは……このクエスト挑戦だけは特別なんだ」

 

俺だっていつものお遊びクエストだったら、自分の母親まで引っ張り出したりはしない。今回はこのメンバーで挑む記念のクエストだったから、可能な限り善戦できる体勢で望みたかったんだ…………けど、そんな事をキリトさんにわかって欲しいと言うのは虫が良すぎる、と思い直した時、キリトさんが少し諦めたような呆れたような溜め息を吐き出してから一転、柔らかな声と眼差しで「わかってる」と俺の頭を撫でるように言葉を落としてくれた。

 

「基本、アスナは一人だと助っ人は受けないしな。それにユイからも大体の事情は聞いてる……しばらくこのメンバーでは集まれないんだろ?。そういう事ならアスナは絶対加勢するだろうし…………昔、やっぱり同じようにアスナに助っ人を頼んできたギルドリーダーの女の子がいたよ。ここに自分達が一緒にいたっていう証を残したいって言ってな……」

 

懐かしむような瞳の色はここではない遠い過去を映していて、泣きそうな笑みを浮かべたキリトさんは、ザッ、と地面に突き立てていた長剣を片手で軽々と引き抜くと、それをくるり、と回して肩に担ぐ。それから周りのメンバー達にも伝わるように低く力強い声を響かせた。

 

「一回だ」

「えっ?」

「一回だけ、チャンスを作ってやる」

「キリトさん……」

「オレがあの蛇達の頭を斬り落とすから全員で突っ込め」

 

あの数の蛇頭を一人で斬り落とす…………そんな事が可能なのか、問いかけるだけ無駄だと思わせる自信に満ちた笑み。キリトさんがこの顔をする時はただ信じればいいって事を俺は幼い頃から知っている。

キリトさんの言葉を聞いて静観したままだった仲間達が改めて武器を持ち直し、瞳を期待とやる気で輝かせてボスモンスターに身体を向けた。何の躊躇いもなく自分の後を任せたアスナさんの信頼の高さと、何より集中魔法弾を一刀両断したその剣技を見てキリトさんの言葉を疑う人間は誰もいない。

メンバー全員が攻撃の姿勢に入ったのを見て最後にキリトさんが少し意地悪気に笑いながらエールをくれた。

 

「蛇どもが再生する前に勝負を決めろよ」

 

それからスタートダッシュの為、俺達より前線位置に出たキリトさんがゆっくりと膝を落とし剣を脇構えで水平に伸ばす。スプリガンという比較的小柄な種族でありながらキリトさんが操る長剣は見た目以上に重いから筋力値がかなり高くないと出来ない構えだ。計算しつくされたように綺麗なバランスを保っていて久々に見る剣士としての姿に溜め息が出そうになる。それは他の奴らも同様のようで、キリトさんが剣を構えると皆の視線が集中したのがわかった。しかし実は更にもう一段階上の構えがある事を知っているのはごく限られた人間だけだ。

それはキリトさんが二振りの剣を構えた時。それはもう「静の美しさ」としか言いようがなく、それとは対照的に「動の美しさ」と言えばアスナさんが細剣を振るう姿だろう。

今回、アスナさんには剣士としての腕は封印してもらっていたし、キリトさんにおいてはアスナさんの為にしか二本目の剣を実体化させる事はないのでその神聖性すら漂わせる二つの「美しさ」を目にする事は叶わなかったが……それでも伝説級の黒の剣士の本気が一瞬でも見られる幸運に俺は身を震わせた。

僅かもぶれることのない剣先……二刀流の時はあの剣を片手で操るのだから当然といえばそうなんだけど、前に俺が持たせてもらった時は上段の構えですら少し時間が経つと剣先が揺れてしまって、完全に剣に振り回された。

なのに今のキリトさんは蛇達を連続で斬り落とす為にそのタイミングが来るまでの間、まるで時を止めたかのように静止したままだ。

じっ、とボスモンスターを睨む漆黒の眼光だけでヘイトが高まっていくのか、蛇達が次々に頭を巡らせてキリトさんに向かい視線を固定し始める。

全ての蛇がまず一番に倒すべき相手とキリトさんを認識した後、タッ、と耳に届いた微かな音が地を蹴ったものなのだと気づいた時には真っ黒な疾風が数多ある細長い蛇首全てに一筋の光の線を引いていた。

 

 

 

 

 

早朝の桐ヶ谷家の二階、夫婦の寝室でベッドサイドのコンパクトテーブルに置いてある和人の携帯端末がヴー、ヴーと振動する。一定の呼び出し時間を終えると留守電応対に切り替わるがメッセージを残すことなくすぐにプツッ、と回線が切れてすぐさま着信のランプが点滅し、再度ヴー、ヴーと振動が始まった。

端末がその動作を何回か繰り返していると、振動音が伝わったのかベッドで眠っていた明日奈が「んぅっ……」と覚醒の気配を見せる。

すると音速の速さでベッドの中から端末に片手を伸ばした和人がちょうど呼び出し振動中の端末の通話ボタンに触れた……通話相手の表示名を見て瞬時に回線を切る。

当然のように再び振動し始めた端末に向かい和人は寝ぼけた小声で「ユイ、頼む」とだけ告げるとテーブルの定位置にそれを戻し、改めてもぞもぞと布団を被りなおした。

後を任されたユイが『仕方ないですね』と小鼻から息を抜き、飽くことなく接触を試みてきている相手に『はい、桐ヶ谷和人の端末です。麻倉(あさくら)さん、どうしました?』と通話を開始すれば、相手は少し戸惑った声で躊躇いがちに「えっとぉ……」と言葉を探して口ごもった。

 

「……すみません、お電話口、奥様ですか?」

『いいえ、私は娘のユイです』

「あ、お嬢さんですか。朝早くからすみません。オレ……いえ、僕は桐ヶ谷さんと同じ研究所の麻倉と申しまして……」

 

既にユイが「麻倉さん」と呼びかけたにもかかわらず、律儀なのかテンパっているのか麻倉が丁寧に名乗るとユイは明日奈を手本にした愛らしくも軽やかな声を返した。

 

『はい、パパの職場の後輩さんですね』

「そうです、そうです。こんな時間に非常識なのは承知の上なんですけど、どうしても桐ヶ谷さんの手をお借りしたい事態になってまして……」

『今は無理です』

 

キッパリと、いっそ清々しさまで感じる端的な言い切りに麻倉の言葉が詰まる。

 

「っ…………と、申しますと?」

『パパの手はママを抱きしめてますから』

「あー……それは……また……羨ましいと言うか何と言うか、だなぁ」

 

一瞬、気が遠くなりかけたせいか、麻倉の口調が普段使いに戻ってきた。

 

「えーっと、そこをなんとかお願いしたいんで、桐ヶ谷さんに代わってもらえます?」

『それも無理です』

「どーして?」

『パパは通話相手が麻倉さんだとわかっていて私に託しました。それは麻倉さんとの会話よりママを優先するという意志表示です。加えて麻倉さんからの度重なるコールで一緒に寝ていたママが起きてしまいそうになったんです。まだまだママと一緒にいたいパパは今、少しご機嫌がよくありません』

 

懇切丁寧な回答に端末の向こうから「う゛う゛っ」と呻き声だけが流れてくる。

 

「……もしかして、さっき一瞬通話が繋がって切れたのは偶然じゃなくて?」

『はい、振動音を止めるためにパパが瞬殺しました』

「あぁーっ、もぉーっ…………あれ?、って事は今、ユイちゃんは奥さんを抱きしめてる桐ヶ谷さんを見てるってこと?」

『そうです』

 

桐ヶ谷家の家族であれば誰でも端末でユイとコンタクトが取れる為、先程和人に呼ばれたユイは「頼む」と言われた時点で両親の状態を把握済みだ。

 

「桐ヶ谷さんも娘さんの前で大胆だなぁ」

『パパとママは私が娘になった時からいつもこんな感じですよ』

「赤ん坊の目の前でもいちゃいちゃしてたのか、つくづく羨ましい…………って桐ヶ谷さん家の夫婦関係を聞きたくて連絡したわけじゃなくてですね。なら、ユイちゃんから頼んでもらえないかな」

『何をですか?』

「桐ヶ谷さんに今すぐ研究所に来て欲しいんだよ」

『事情を説明して下さい』

「実は数時間前に桐ヶ谷さんが組み上げたばかりのプログラムのゲスト用アクセスキーを新人が無限海という名のサイバースペースに落っことしてくれましてね。下っ端全員で今まで探したんだけど、どうにもサルベージ出来ないんだ。だから今現在はプログラムマスターである先輩のバイメト認証しか受付ない状態で……」

『パパは週明けまでずっとママと一緒に過ごす予定になってます』

「はい、そうでしょうとも、そうでしょうとも、三徹四日ぶりのご自宅だからね。一泊だって外泊がお嫌いなのは十分存じ上げてるんだけど、このままだとオレ達も仕事が終わらないしっ。新人は後でオレがきっちりシメておきますから、って伝えてもらえないかなぁ……」

 

既に語尾が涙声になっている。

 

「ホントに、一瞬だけ、指紋認証、声紋認証、虹彩認証さえ通してもらえれば、すぐにご自宅まで送るから」

 

事の次第を聞いてユイはふむ、と腕組みをした。和人がユイに「頼む」と言ったのだから、これはどんな手段を使ってもいいという事なのだと解釈して、多分、麻倉の後ろで和人の承諾を待っているだろう研究所の若手所員達の為にも、と自信に満ちた声で『わかりましたっ』と和人の代役を引き受ける。

 

『パパが構築したプログラムなら一回だけ使える裏コード設定があるはずです。それを使って防壁をこじ開けますから、麻倉さんはその間にアクセスして下さい』

「へっ!?」

『あまり長時間は保たないので侵入のタイミングはこの端末で指示します。そのまま切らないで下さいね』

「待って、待って、ユイちゃんっ。それってハッキング!?、うちの研究所にハッキングかけるの!?」

『大丈夫です。こういうのは得意ですからっ』

「えーっ」

 

麻倉が素早く背後に「おいっ、リンクのスタンバイっ。隙間が空いたら滑り込むよっ」と指示を飛ばす声が聞こえた。どうやら端末の向こうに控えていたらしい、いわゆる下っ端の所員達がバタバタと慌てふためく声と音が混じり合って聞こえてくる。以前、和人から麻倉がとても優秀な後輩だと聞いていたユイはその技量を疑うことなく、自分は研究所の回線に潜り込み裏コードの探索に集中した。

和人が手がけたプログラムならば必ず不測の事態に対処できるようユイだけに使用可能なコードを埋め込んでくれているはずなのだ。既に設定されているコードを使用するのだからハッキングとは違う気もするが、外部回線から接触するのでこれも広義ではハッキングと解釈するのかもしれない、と、このデータ処理が終わったらハッキングについての定義を詳細に調べてみようと思っていると目当ての裏コードを発見する。

 

『麻倉さん、みつけました。カウントスタートしますっ』

「いつでもどーぞっ」

 

ーーーーー可愛らしい数字のかけ声がゼロを告げ、麻倉のパーソナルアカウントが無事にブログラム内にアクセスするのを見届けてからユイは再び桐ヶ谷家に戻ってきた。データ処理という休眠に入る前に家族の様子をチェックしようとそれぞれの寝室を覗く。

芽衣は枕に足を乗せて気持ち良さそうに眠っていた。

ベッドから落っこちている姿をユイが発見した時タイミング良く和人が帰宅したのだが、芽衣にとってはいつもの事なので苦笑いをしながら和人がベッドの上まで運んでくれたのだ。ちょうど明日奈が和真の助っ人で《A.L.O》にダイブしていたので事情を説明するとすぐさま自分達の寝室に走って行ったから、多分和人もダイブしたのだろうと予想がついた。

和真は少し前にログアウトしていて、随分と疲れているのかピクリとも動かずに熟睡している。

覚醒した時『クエストは楽しかったですか?、和真くん』とユイが訪ねたら、こちらも苦笑いで「うん、渡航する奴も含めてみんなで笑いながら、ある意味もの凄く思い出に残るクエストになったよな、って言い合ったよ」と報告してくれた。

最後に和人と明日奈の眠る寝室を訪れたユイは二人がいつものように仲良くくっついて寝ている姿を見て微笑んだ。

さっきは早々に一人でログアウトしてきた明日奈に驚いたが「芽衣ちゃんが泣いてるって」と聞いて、素直に『芽衣ちゃんは泣いてませんよ、ママ』と答えてしまってから明日奈の目がどんよりと変化したのに気づいたユイもだいたいの経緯が想像でき、苦笑いをこぼした。

ほどなくしてログアウトしてきた和人に対し、最初は拗ねた様子の明日奈だったが数日ぶりに会えた嬉しさには抗いきれなかったようで結局二人でベッドに入り、和人の腕の中に収まって安心しきった寝顔で眠りについている。

和人の方も一度は麻倉からのコールで起こされたが、明日奈が目覚めなかったのを幸いに再び愛しい妻を抱きしめたまま深い眠りに落ちているようだ。

週末の今日は学校も仕事も全てお休みの桐ヶ谷家。少しくらい目覚めが遅くとも誰も困ることはないだろう。家族全員がスヤスヤと寝入っているのを確認したユイは『みんな、おやすみなさい』と小さく口にしてから自分もまた静かに眠りについたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
助っ人とは言えメンバーが途中で交代できるのか?、といったあたりは深く
追求しないで下さい(懇願っ)
独自設定ですが、アスナのHPがレッドになるのをキリトが嫌がるのは
『金色の羽根』を、和人の後輩・麻倉くんは『肌恋しい』をご参照ください(苦笑)
結局、最後の最後で見せ場を持って行ったのは……ユイ?


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【いつもの二人】不測の事態

SAO「プログレッシブ」6巻の発売を祝しまして【いつもの二人】シリーズを。
今回はリズ視点でお届けします。


ランチタイムのカフェテリアはいつも混んでいる。特に外が季節外れの冷たい雨の日は温かい物が食べたくなるのは自然の摂理、万物の法則なのだ、と大宇宙の原理に従って、私、篠崎里香の目はメニュー一覧の麺類カテゴリーで「きつねうどん」と「たぬきそば」の間を何度も往復していた。

甘辛く煮た大きめの油揚げがちょっと平たいうどんにのっているこのカフェテリアの「きつねうどん」は絶品だ。

少し行儀が悪いけど、重い、とさえ感じる分厚い油揚げを箸で持ち上げてそのまま口まで運び歯で噛み切れば、じゅわっ、と濃いめの煮汁が口の中に染み出してきて、その余韻が残っているうちにうどんをすする……たまらない。

油揚げの上にパラパラ、と落としてある緑色の細ネギの小口切りがこれまた彩りを良くしていて、甘ったるくなった口の中で時折、ネギがそのキリッとした存在感を主張してくる。

方や、このカフェテリアの「たぬきそば」は具だくさんだ。

メインの天かすは中央にふんだんに盛られていて、その周りを囲むように薄く切った厚焼き卵とかまぼこ、茹でたほうれん草が栄養バランス抜群に配置されている。天かすは天丼や天ぷらそば・うどん用の天ぷらを作った時のものだから出来たてでサックサク。温かい蕎麦つゆに浸かっている部分はふにゃりと味が染み込んでいるし、それより上に盛られている部分はカリカリで二種類の食感が楽しめる……たまらない。

しかもここのそば、結構腰があってそば本来の風味も損なわれていないし、運が良いと蕎麦つゆもサービスしてもらえる。

 

「もう、どっちにするか、いい加減決めないと……」

 

何度自分自身に問いかけたか分からない言葉を口に出してみて、それを自分の耳で聞き取り、ちょっと自分を急かしてみた。

だって、既にカフェテリアの最奥の窓際の席にはキリトとアスナが待っているのだ。

 

いやいや、待ってないで先に食べてて、って言っておいたから多分大丈夫……なはず

 

ついさっきまでアスナも一緒にいてくれたけど、アスナは二人分のお弁当持参だったし……誰と誰の分かなんてのはわかりきっている……今日はまだ会ってないけど、キリトからはいつもの場所を確保した旨の連絡が入ってたから既に席にいると思われたので、メニューを決めかねていた私はアスナだけを先に行かせたのだ。

けど、あの二人のことだから「少し、待ってようか」なんて言って私の到着を待ちながら仲良くお喋りでもしてそうなのよね、と充分あり得る事態を想定して、私は自分の決断力をフルパワーに上げ「きつね」か「たぬき」か、どっちを選ぶべきなのかっ、と自分の胃に詰問していたのに、すぐ横を通った男子達の会話から「桐ヶ谷が大変だったんだ」という小さな声を拾った直後、一瞬で「きつね」と「たぬき」を蹴り飛ばし、その男子生徒の制服の端を掴んでいたのだった。

 

 

 

 

 

『ええっと……ですね、今日の午前中、移動教室に向かう途中で桐ヶ谷を含めた俺達数人が階段を上がろうとした時、少し前にいた下級生の女子が上から勢いよく駆け下りてきた男子とぶつかって、落ちてきたんです……と言っても二段か三段くらいですけど……でも打ち所が悪ければ大ケガですよね。その時、俺の隣にいた桐ヶ谷が咄嗟に彼女の背中を支えようと片手を伸ばして……』

 

どうやらキリトと親交のある男子生徒から聞き出した話では階段途中でバランスを崩した女生徒を助けようとしたアイツはそのまま自分もその女子と一緒にコケて手首を捻挫したらしい。

 

見知らぬ上級生の女生徒にいきなり制服を掴まれ、詰め寄られ、問いただされて、弱冠……かなり怯えてたっぽいけど、事情をわかりやすく説明してくれたあの男子は良い奴だわ、うん。

 

そいうい事なら……、と逃げられないよう満身の力で握っていた制服から手を離し、笑顔で御礼を言って解放してあげた男子生徒とその仲間達を見送った私はとりあえず適当な食券ボタンを押して昼食メニューを決めると……ちなみに運任せで出てきた食券は「カレーうどん」だった。私、昨日もここの「カレーライス」食べたばっかりなのよね……速攻で券を現物に引き替えてカラトリーコーナーへ急いだ。

自分用の割り箸と一緒にフォークと、一瞬迷ってスプーンにも手を伸ばす。

それらを素早くトレイに乗せて最後にセルフサービスのお水をコップに注ぐと私はキリトとアスナのいる席へ足早に向かった。

 

ここからは先は時間との勝負だ。今日、アスナが用意してきたお弁当はおにぎりと和惣菜だから箸しか持ってきていない。カフェテリアに来る前、たまたまアスナに献立を聞いたのが幸いした。その時点で今日の午前中にキリトの身に起こった出来事をアスナはまだ知らなかったはずだ。知っていたら当然、話題にしただろうし、捻挫をしたのは利き手である右手だそうだから箸の持てないキリトの為にフォークなどを持っていっただろう。

きっと、アスナはメニューに悩んでいた私と別れ、先に席に到着して、包帯をしたキリトの手を見てから初めて事の次第を聞いたに違いない。そして今日のお弁当には箸しか持ってきていないと気づく。

素早くアスナがカラトリーコーナーまでやって来ただろうか?……一番奥の席からそこまでの時間はなかったはず。

まさかキリトがそれを見越してフォークだけを持って待っていたとも考えにくいし……その光景は想像するとちょっと笑える。

とは言え当人達はあまり自覚がないようだけど、あの二人はやたら異性からの注目と恋心を集める吸引力抜群のカップルなんだから、事情を知っていて状況を察したどこぞの女生徒が自分が持っていた未使用のフォークを「よかったら、使ってください」などと言ってキリトに差し出す可能性も充分あるわけで……とにかく急がないと。

私が一番に、そしてちょっと得意気にキリトの前へフォークを差し出してやるのだ……ほら、これ使いなさいよ、スプーンもあるけど?、と言って。

これで私の事を気の回らなくて、鈍感で、がさつな女だなんて二度と言わせないわっ、クラインにっっ。

だいたい私の隣には繊細で、洗練されてて、気遣いの良すぎるアスナが一緒してる事が多いから、そこと比べられたらそんなの私でなくたって世の中のほとんどの女は大ざっぱな性格くくりになるわよっ、と、ここにはいない野武士男への不満を内で吐き出しながら競歩の勢いでカフェテリア内を突き進んでいく。

少々荒っぽい扱いをしても汁が零れる恐れのないトロ身のあるカレーうどんは偶然とは言え、良いチョイスだったかもしれないと思い直しながら……。

けど、目当ての席に近づくにつれ、段々と周囲の様子がおかしい事に気づいた私は速度を落としてキョロキョロと近くの生徒達を観察した。

お昼休みで混雑しているカフェテリアなんだから、もちろん席は人で埋まっている。そして席に座っている生徒達の前には当然、昼食であるここの料理だったり、持参したお弁当だったり、購買部か登校途中で購入したと思われる商品があって…………なのにみんな一様に手が止まっているのだ。

そして口を中途半端に開けたまま頬を痙攣させて目が据わっている。

もし全員が同じ物を口にしていたなら食中毒を懸念せずにはいられないくらい具合が悪そうなオーラを背負っていて、その様子を不思議に思いながら進んでいくとその先に目当ての二人が並んで腰を降ろしているのが視界に入った。

予想通り、キリトの右手には包帯が巻かれ、痛めていない方の左手でおにぎりを持っている。

そして隣のアスナは箸を持ったまま、顔だけをキリトに向けていた。

 

「次、何食べる?」

「そーだな、卵焼きかな」

「はい、どーぞ」

 

色むらのない綺麗な黄金色の卵焼きを箸で挟み、その下に左手を添えてゆっくりと移動させていく先は照れも遠慮もなく開いているキリトの口の中だ。

卵焼きが舌に触れたのを合図に口を閉じれば絶妙のタイミングで箸が抜かれる。すぐに咀嚼が始まり、ほどなくして嚥下し終わるとキリトが笑顔で「うん、相変わらずアスナの卵焼き、絶品だなぁ」と褒め、それに対して嬉しそうに微笑んだアスナが「よかった……次はあんかけつくね、食べる?」と言葉を返す。それに素直に頷いているキリトを見て二人が何をしているのかに気づいてしまった私はそこで足を止めた。

口を中途半端に開けたまま頬が痙攣して目が据わる……のも一瞬で、聞こえてはいけない「プチッ」という音が頭の中で響いた途端、ほぼダッシュで二人の元へと駆け寄った。

 

「ちょっ、ちょっとっ、アンタ達っ……」

「あ、リズ。メニュー決まった?」

「へえ、カレーうどんかぁ。リズって結構カレー食べるよな」

「これは偶然よっ。って、それより何やって……」

「あっ、キリトくんね、手、ケガしちゃったんだって」

「それは知ってるわっ」

「ああ……ぱっと見、アスナと同じくらいの背格好の女子だったから支えきれると思ったんだけどな」

「本当に無茶するんだから。だいたいキリトくんより上段からバランスを崩したんでしょう?、勢い付いてて一緒に転んじゃうに決まってるのに」

「いや、きっと相手がアスナだったら受け止められてたと思うぞ。いつも……」

「キリトくんっ」

 

キリトが言いかけた言葉を咄嗟に名を呼ぶことで遮ったアスナの瞬発力を私は心の中で褒め称えた。

 

「いつも」って何なのよ、何が「いつも」なわけ?、アンタは「いつも」どこにアスナが倒れ込むような場面を支えてやってるってゆーのっ!

 

一体どんなシチュエーションなのか……考えようとして、それを阻止すべく自動的に己の防衛本能が反応する。そうね、これは深く追求しちゃいけない案件だわ、私の中の野生の勘がそう告げた。そしてこの二人に関してその勘は外れた事がない。

 

「とにかくキリトは右手が使えないんでしょ」

 

そう話をまとめれば対面している二人が見事にそろって頭を上下させる。そこで私は予定通り「だから、私が……」と言う為に口を開き、ドヤ顔を用意してトレイの上からフォークを持ち上げようとすると、まだ声に出していないはずの台詞が耳に入ってきて、思わず幻聴!?、と顔を上げればアスナがつくね団子をキリトの口に入れているところだった。

 

「だから私がね、こうやって……」

「そうなんだ。この通り、オレはアスナに手伝ってもらわないと食べられなくて時間がかかるから、悪いけど先に箸をつけたぞ、リズ」

 

口をモグモグさせながら包帯が巻いてある右手を垂直に顔前に挙げて……どうやら私を待たずに昼食を食べ始めた事を謝っているみたいだけど、さも当然のようにお弁当の中身を口まで運んでもらっているキリトは母鳥に給餌されているヒナ鳥のようで、全然申し訳なさが伝わってこない。アスナもキリトが左手のおにぎりをパクついている間に自分の食事を併行させていて、ある意味、見事なまでのコンビネーション……。

そこにまたお約束のように一粒だけご飯をくっつけているキリトの口元へアスナの細くて長い指が伸び……くすっ、と笑いながら「ご飯粒、ついてたよ」と、つまんだそれを見せれば「あ、悪い」と言うが早いかパクリ、とキリトの唇が私の親友の指先ごと米粒を捕らえる。少しビックリした様子のアスナは「もうっ」とさして怒ってもいない声で指を取り戻し、キリトにおいては何事もなかったかのように「アスナ、スープ」と汁物を強請っていて……なんなの?、この甘ったるい小劇場は。

ちなみにアスナがその要求に従ってスープジャーからカップに注いだそれはかき玉汁。湯気の立つ表面に、ふーふー、と息を吹きかけてから「はい、気をつけてね」とまたもやキリトの口元にカップを運ぶ姿を見て私の脳内には再び「プチッ、プチッ」という破裂音が響いた。

 

キリトっ、アンタ、おにぎり食べ終わってるんだから左手空いてるじゃないのっ

 

百歩譲って、おにぎりを掴んでいた手でカップは持ちたくないとしても、アスナはちゃんとお手ふきまで用意してきてるんだから手を拭けばいいだけの話。要はすっかりアスナに甘えきっているのだと確信した私は無用の長物となったトレイの上のフォークとスプーンに向かって冷めた視線を落とした。

誰が自分より先にキリトにフォークを差し出すかもしれない、ですって?……そんな想像を浮かべていた数分前の自分に言ってやりたい、私の都合の良い思惑なんてこの二人には全く通用しないって事を。

キリトにはアスナが、アスナにはキリトがいればだいたいの事はどうにかなってしまうのだ。

そして私がここに到着するまでの間も展開されていたと思しきこの二人の小劇場を周囲の生徒達は強制的に観客にさせられていたのかと思えば、そりゃあ食欲も落ちるでしょうよ、と同情の念を禁じ得ない。

例えばだ、これがもう少し違った雰囲気だったら……そう、よくある感じで男子の方が「食べさせてくれよ」と頼んでいるのに、女子が恥ずかしがって「えーっ」と拒んでいたり、逆に女子が「食べさせてあげよっか?」と言っているのに男子が「だ、大丈夫だよっ」と強がってみたりしていたら…………うん、それはもう恰好の標的で周囲はからかいまくるだろう。

「いいじゃん、食べさせてもらえよっ」とか「リアル『あーん』かぁ」などと、にまにま笑って盛り上がるに違いない。

いっそカップルが互いに、キャッ、キャ、ウフフ、と自分達だけの世界を構築していたら、それはそれで逆に周囲は「あー、はいはい、勝手にやってて」といった感じで我関せずを貫けるかもしれない。

なのにこの二人の様子は全くのデフォ状態……普通に、当たり前のテンションで進行しているから素直に周囲の目や耳に届いてしまい、結果、無抵抗のまま空気感染して身を蝕むウィルス的やりとり。

だいたい無自覚、鈍感、唐変木のキリトはいざ知らず、他者のちょっとした異変に敏感なアスナが周りの食べ盛りで多感なお年頃ごった煮状態カフェテリアでこの一角だけ食事の音が止まっているという異常事態の原因に気づかないものなの?、とも思うが……うん、キリトしか見えていないのね。

特に今はケガをしているせいもあって、キリトの身だけを一心に案じているアスナの眼差しや気遣う声は本当に慈愛を帯びており、この様子を耳や目から入ってくるのを拒む事も出来なけど、揶揄するなんて、何と言うか……人として出来ない。

そんな崇高さだけを漂わせていたなら周囲だって羨ましくも微笑ましく見守るだろうに、そこに時折、妙な甘さが加わるから始末に負えないんだわ、と、予測不能な一瞬の隙を突いて繰り出されるカウンターパンチのように、この二人のやりとりは油断ならない。

現に今だってキリトとアスナはデザートを食べ始めていて、彼女の手元を見れば、薄皮さえ綺麗にむいて果肉だけになったオレンジが小さめの容器に行儀良く並んでいる。横並びに座っている二人だけど、既にほぼ向かい合わせに近い状態まで身体の向きを寄せていて、キリトに至っては無事な方の左手は椅子の背もたれに乗せているのだから、これはもう完全に自力で食事をするつもりがないのは明白だ。

先程と同様に箸の先のオレンジをキリトの口が受け取り終わってから、アスナも自分の口へと同じ容器からオレンジを運ぶ。キリトは一房全部を頬張ったがアスナはそれを一口ではいかず歯で噛み切ると、その拍子にオレンジの果汁がピュッ、と飛び出して彼女の頬に付着した。

アスナの右手は箸を持っている。

アスナの左手はオレンジの詰まった容器を持っている。

そして至近距離にはアスナから貰ったオレンジをもぐもぐ、ごっくん、し終わったキリトの口…………一呼吸分、アスナの躊躇いの隙間に滑り込むように何の前触れもなくキリトの唇は当然の早さで彼女の頬に近づいていって…………チュッ、と音を立てて果汁を吸い上げ、ご丁寧にも舌でひと舐め。

この二人に背中を向けて座っていた生徒達は意味不明の音に思わず振り返り、ちょうどアスナの頬にキリトの舌が接触している瞬間を目撃したのだろう、一様にぐらり、と上体を揺らしてテーブルの上に撃沈しそうな頭を寸前、両手で抱え込んでいる。

当然、向かいに座っている生徒達は果汁を吸い上げるシーンから観劇してしまっているわけで、すでに支えきれなくなった頭を背もたれに預け、天井を見上げる形で額と目を手の平で覆っていた。

当事者である二人はどうか、と言えば、キリトは何食わぬ顔で次のオレンジを強請るように口を開き、アスナは少し頬を染めながらも跳ねた果汁の後始末をしてくれた事に対して「あ、ありがと」と感謝の言葉を吐いている始末。

 

違う、違う、違う、違う、ぜーったい、何かがちがーうっ

そこ、吸い取るトコ?

でもって、さらに舐めるトコ?

しかも、そこで御礼言っちゃう?

 

口に出してもこの二人には私が望むリアクションなんて期待出来ないから眉間の皺をさらに深めるしかないけど、それでも思う気持ちは止められない。加えて頭や顔を押さえ込んでいた周囲の生徒達がちらちらとこちらに視線を移してくるのに気がついた私はその数多の瞳を直視してしまった事でそこに込められたメッセージを多分、間違いなく、正確に読み取ってしまった。

これは常日頃からキリトやアスナに対して遠慮の無い言葉で物申している私に何とかしろ、と…………そーゆーことよね。

私だって何とか出来るものならとっくにやってるわよっ、と全方位に叫びたい衝動をグッ、と堪える。

お昼休みの時間は無情にもどんどんと短くなっていくのにカレーうどんの麺はびろびろと伸びていく一方だ。

しかし二人の食事は既に終盤のデザートに突入しており、ここで私がヘタに口を挟んで藪から蛇を引っ張り出さなくても自然と時が経つのを待った方が事態は収束するのでは?、と自分のパッシブとも取れる賢明な判断に従おうとした時、最後のオレンジ一房をキリトの口に運び終わったアスナが考え込むように閉じたままの唇から「んー」と声を漏らす。

 

「その分じゃ、数日は右手を使わない方がいいよね」

 

そう言われたキリトも改めて自分の包帯が巻いてある手をしげしげと見つめ「そうだな」と同意を口にした後、ごくり、とオレンジを飲み込み、続けて「ご馳走様でした」とアスナに視線を移した。

一旦、微笑んで「お粗末までした」と応じたアスナは再び思案顔に戻り「なら……」とキリトを見つめ返して窺うように首を傾げる。

 

「明日のお弁当はサンドッチかバーガーにしようかな。手づかみで食べられる物だとロールサンドでもいいけど、ボリュームあった方がいいでしょ?」

 

アスナの提案に真っ黒な瞳をピカピカと輝かせたキリトは「おおっ」と高揚の声を上げてから激しく二回頭を縦に振った。

 

「悪いな、アスナ。ケガのせいでメニューに気を遣ってもらって。それに食べる時もオレの面倒で忙しくさせちゃうし」

「食事を手伝うのは全然構わないんだけどね、それよりお家でのご飯は……」

「ちょーっと、待ったぁぁぁっっっ」

 

黙って静観しようと決めていた私よ、ごめん、もう無理、なんなのコイツら、もしかしてお馬鹿さんなの?

 

見事に周囲を石化させた今の会話によって私の堪忍袋の緒と一緒に、プチッ、プチッ、と色々な何がブッ千切れる。

 

どーして、明日以降もアスナの手を借りて食事をしようと思っちゃってるわけ?

でもって、なんでアスナもその方向で何の問題点もなく話を進めようとしちゃってるわけ?

アンタ達、フォークとかスプーンっていう便利道具を知らないのかーっ?

 

ここが《仮想世界》だったら間違いなく口から火を吐くエフェクトが飛び出していただろうと確信する勢いで私は二人の会話に割って入った。

 

「どうしたの?、リズ」

「なんだよ、リズ、大声だして。それよりカレーうどん食べないのか?」

 

二人からの不思議そうな疑問の表情に私は火炎放射口をむぐっ、と閉じて何をどう言えばいいのかを疲れ切っている頭で考える。

アスナに食べさせてもらう事に何の抵抗もないキリトと、食べさせてあげる事に何の戸惑いもないアスナ…………あ、ダメだ、なんかこっちのうずうずもやもやが伝わる気が全然しない。

 

「ちょっとお聞きしますけど……アンタ達、フォークって知ってる?」

 

私の問いかけにすぐさま反応をしたのはアスナだった。

 

「フォークって、食器の?」

「そう」

 

そこにキリトの声が加わる。

 

「もとは農具のピッチフォークをヒントにして作られたんだよな」

「そうだね、ピッチフォークの歯は二本の物もあるから、それで初期のフォークの歯は二つだったらしいし……」

「ごめん、もう、いい」

 

自分の発した愚かしい質問に知識量では到底太刀打ちできないと思い知らされる雑学混じりの答えが返ってきて…………私が聞きたいのはそういう事じゃないの。

 

「キリト、アンタ、アスナとお昼食べられない時はその手でどうするのよ」

「そうだな、左手だと箸は無理だけどスプーンくらいなら使えるだろうから炒飯とかカレーライスにすれば……」

「じゃあ、なんでアスナのお弁当は箸以外を使って自分で食べようと思わないの?」

 

そんな質問の存在すらあり得ないといった顔つきで二人がキョトン、と目を丸くする。

 

「そんなの……アスナがいるからに決まってるだろ」

「うん、私がいるんだから、ね」

 

アスナが「ね」と言った拍子にタイミングよく顔を見合わせた二人が嬉しそうに笑顔を交わしたのを見て、私は己の失態に気づいた。

 

あ、これ、完全に藪をつついたわね……

 

周囲の石化が更に進んで風化しそうになっている。なんとかこの事態の責任を取るべく必死に頭を悩ませて導き出した答えはこれだ……この二人の小劇場が閉鎖できないのなら、出来る限り観客から遠ざけるしかない。

 

「アンタ達、明日から昼食は中庭で食べなさい」

「は?!」

 

唐突に何を言い出すのか?、と目で訴えてくるキリトに、そもそもの原因はコイツのケガなのだと思い至り眼光を鋭くする。

 

「だから、天気予報では雨も今夜で止むってゆーし、気温も平年並みに戻ってポカポカ陽気になるらしいだから、昼食をとるのは中庭でも問題ないでしょ。だいたい外で食べられる日はいつも中庭じゃないの」

「まあ、それはそうだけどさ」

「はい決定。アンタの右手が箸を持てるようになるまで、アスナと一緒にお弁当をカフェテリアで食べる事は禁じますっ」

 

そう宣言した途端、周囲から一斉にどよめくような「おおーっ」という歓声と同時に割れんばかりの拍手が沸き起こった。




お読みいただき、有り難うございました。
そろそろリズファンの方に殴られそうな気がしてます(汗)
「カフェテリア」というオシャレな(?)名称なのに、中身は普通の学校内にあるような
学食メニューばかりですね(苦笑)
「きつね」や「たぬき」に関する麺料理については、地域差が色々とあるようなので
今回は私の思う物で書かせていただきました。
フォークの起源もヨーロッパで農具のピッチフォークを模したのがきっかけなのは間違いない
のですが、初期のフォーク(食器)が2つ又だった理由までは明言されていないようです。
「ウラ話」は5日後にまとめて書きますっ」


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罪の共有

『ALO事件』も解決して、和人の待つ《現実世界》へと生還を
果たした明日奈の病室でのお話です。


一週間ほど前までは病室の前に来る度に祈るような気持ちでスリットにパスを差し込んでいた手順も、今は急いている心を反映してもどかしい作業の一環でしかない。和人は手慣れた段取りを早々に終わらせると、シュッとドアがスライドし終わる前に室内へと足を踏み入れた。その瞬間、鼻腔に届くのはいつもの様に香しい花の存在と、それ以上に甘く郁々たる明日奈の匂い。と同時に明日奈の父、彰三氏や男性医師が発する大人の男の匂いが混在していて和人は無意識に眉根を寄せた。

その匂いの持ち主が彰三氏や医師でないことは百も承知だからだ。

それを証明するかのように、聞き覚えのない成人男性の声がここからは見えない部屋の奥、明日奈がいるはずの医療用ベッドの近くから漏れ聞こえてくる。

 

「本当に覚えてないのかなぁ?」

 

相手を気遣いつつ問いかけられた言葉、と言うよりは明らかに不信感を込めた疑いを持つ嫌な感じの喋り方だった。

 

「もっとよく思い出してよ」

「少しでも何か覚えてないの?」

 

矢継ぎ早に質問を浴びせられ、明日奈の気配がギュッ、と固くなった事を敏感に感じ取った和人はすぐさま歩みを早め、カーテンの向こうにいる人間達全員の意識がこちらに向くよう引き裂くような勢いでパーティションの生地に手をかける。

案の定、彼の思惑通り、シャァッとカーテンが横に流れるのと同時に「失礼します」と怒気を含ませた和人の声にベッドの上で身を起こしていた明日奈はもちろん、ベッドサイドに立っていた二人の男達も、少し離れた場所にいた若い看護師の女性も一斉に新たな登場人物へと視線を集中させた。

 

「キ……リトくん」

 

結局《現実世界》に戻った今でも和人をキャラネームで呼んでいる明日奈があからさまに安心した様子できつく両手で握りしめていた掛け布の端から力を抜く。怯えたヘイゼルの瞳と縋るような小さな声に和人は男達を無視してすぐさま彼女の傍らに歩み寄り、その細い肩を支えた。

一方、男達は突然現れた未成年とおぼしき青年に対し疑問の上に不愉快さを加えて誰何の声を上げる。

 

「君、誰なの?、勝手に入って来られたら困るんだけど」

「そうそう。今は結城さんと大事な話をしている最中なんだから。部外者は入室禁止だよ」

 

彼らの言葉に和人の立場を思いやった明日奈が「あ……」と戸惑いの表情を見せた。確かに《あの世界》では夫婦という関係であった自分達だが《現実世界》ではただの未成年の恋人同士という間柄でしかない。

目の前の二人の男性が主張するように、この場に同席してもらう権利は和人にはないのだ。

しかし和人の方は自分に向けられた男達からの幾分威圧的な視線や声をかわすどころか完全に無視をして部屋の隅に立っていた看護師へと柔らかい声をかけた。

 

「オレが付いてますからナースステーションに戻って下さい、ここは大丈夫です」

 

その言葉に明日奈の担当看護師は、ホッと息を吐き固まっていた表情を緩めて「なら、お願いね」と寄り添う二人に笑顔を向けた後、表情を一転させて、キッと男達を睨み付ける。

 

「何か勘違いをされているようなので申し上げますけど、ここは特別病室です。私達のような医療従事者か受付で入室パスの貸与を許可されている人、或いはそれらの人間の同行者しか入れない、そういった病室なんですよ。私が付き添っているからあなたた達は結城さんと面会が出来ているんです。あの事件の担当刑事さんだからって何でも許されるわけじゃないんですらねっ。それに突然押しかけてきて再度、事件の事情聴取を行うなんて随分と横暴じゃないですか。ここにいる桐ヶ谷君は結城さんが覚醒する前からずっと彼女の側にいて、当然、入室パスの使用許可がおりている人です。私から言わせれば、覚醒してまだ間もなくて、まだまだ体調だって体力だって戻っていない結城さんにとってはあなた達の方がよっぽど邪魔で迷惑な部外者ですっ」

 

さっきまで男二人に問い詰められるように言葉を浴びせられているばかりの担当患者である明日奈を、助けたくても助けられず、ただハラハラと心配げに見ている事しか出来なかった看護師はここぞとばかりに胸の内をまくしたてた。

普段はさすが特別病室の担当となるだけあってか、年齢の割に冷静でいつも穏やかな笑みを浮かべながら明日奈の看護をしてくれている彼女がここまで感情をむきだしにする姿など想像もしておらず、明日奈と和人は揃って目をパチクリとさせ、対して刑事である男二人はその剣幕にわずかにたじろぐ。

それでも若い刑事達は少し面白くなさそうに、ふんっ、と鼻を鳴らした後「お忙しい看護師さんにお時間を取らせて申し訳ありませんでした」とわざとらしく看護師に軽く頭を下げた。

 

「でも、この……桐ヶ谷君、でしたっけ?、パスを持ってる彼が同席してくれるなら、僕達はこのまま結城さんに話を伺ってもいいんですよね?」

 

その言葉に明日奈の表情が強張った事に気づいた和人は触れている肩にそっと力を込める。

そもそも和人は見舞いの為に病院の最上階まで上がってきた後、ナースステーションで呼び止められ、事情を説明された上で病室で付き添っている担当看護師と交代してもらえないか、と言われてここにいるのだ。どうやら病院にやって来た時の刑事達の態度もあまり好意的に受け止められるような物ではなかったらしく、和人に状況を伝えてくれた看護師達はみな一様に怒りや困惑の色をのせていた。けれど病院側としては警察の公務だと言われれば従わざるを得ない。強硬な手段や態度には出ず、ただ話を聞くだけなら今の明日奈でも何の問題もないからだ。

けれど男達二人の様子から考えて、平穏な雰囲気で明日奈を気遣いながら聴取を進めるとは思えず、心配していた所にタイミング良く和人がやって来たというわけで、ナースステーションの看護師達は自分達よりも一般人である和人が側に居た方が抑止力になると判断したのだった。

言うだけ言って、少しスッキリとした顔になった看護師は明日奈に向かい落ち着いた声で一言、一言を区切って注意事項のように言い聞かせる。

 

「いい?、結城さん。何かあったら、すぐに、ナースコールするのよ」

 

それから小さく「みんなでかけつけるからね」と言うと共に頼もしい笑みを送り、刑事達の横を通り過ぎる際はもう一度、釘を刺すような視線を飛ばしてから病室を出て行った。

やれやれ、と言った風に肩を上下させ、病室のドアの開閉音を聞き終えてから刑事達は互いに顔を見合わせると不本意さを隠しもせず片方の男が和人に向かい口を開く。

 

「僕達は例の《ALO事件》の担当者でね……」

 

その自己紹介に僅か、和人の瞳が警戒の色を濃くした。

基本、和人も明日奈も「SAOサバイバー」と呼ばれる《SAO事件》の被害者であり生還者とされるが、細かい分類で言えばALOに意識を拉致監禁された三百人は《ALO事件》の被害者でもある。和人などはこちらの事件解決でも一番の功労者と言える立場だったが、詳しい説明を求められても困るので一般には全くの無関係を装っていた。

多少なりとも関わっているはず、と勘づいているのは総務省の眼鏡をかけた役人くらいだろうが、そこから末端の担当刑事にまで情報が漏れるとは考えにくく、この二人の聴取目的が明日奈のみに関する事項なのだと結論づける。

それならば、なぜ今になって彼女の所に刑事がやってくるのか?……、と和人は男達二人から視線を外さず思考を進めた。

ALOから三百人が解放された後、当然の如く被害者全員の元には警察が訪れていて拉致監禁されている間の記憶の有無を確認しているはずだ。明日奈においては事情が特殊だった為《ALO事件》の担当者ではなく、《ALO事件》を含めた形で統括本部である「SAO事件対策チーム」から菊岡がやって来て、和人が立ち会いの下、既に事情聴取は済んでいる。

もともと《ALO事件》はその首謀者が明るみに出るまで《SAO事件》の延長として茅場の陰謀だとされる意見が大半を占めていた為、半独立的な位置づけで《ALO事件》を担当とするチームが起ち上げられたのは事件が解決した後だと聞いてた。要は担当と言っても、被害者は無事《現実世界》に生還し、犯人達も拘束し終えてから結成された、いわば仕事の大半が事後処理的な内容を任された人達ということになる。既に事件の全貌はほぼ解明され、今は首謀者の男とそれに協力した部下達が留置所に身柄を勾留されている段階だった。

 

「犯人達の自供は取れたんですよね?」

 

主犯の男の名前を明日奈に聞かせたくなくて敢えて出さず、暗に今更なにを聞きに来たのか?、と語気を強めて和人が言葉を突きつけると刑事達二人はもう一度互いにアイコンタクトをしてから、コホン、と咳払いをして場を仕切り直し、探るような視線を明日奈に向ける。

 

「まあ、大筋は解明できているんだけど……あの非人道的な実験チームを運営していた奴らの一人から妙な証言が飛び出してねぇ」

 

明日奈が自分達より年若い未成年だからか、はたまたベッドで上体だけを起こしているその儚げながらも整った容貌に俗な感情を抱いているのか、病室の入り口で耳にした時から気になっていたやけに馴れ馴れしくもぞんざいな口調に和人の声が苛立ちを露わにする。

 

「妙、と言うのは?」

 

すると刑事達は薄く優越感を滲ませた笑みを和人に向け「これは僕達が取り調べで得た情報だから、口外は無用で」と前置きをしてから再び明日奈に視線を戻した。

 

「あのサーバに囚われていた三百人は全員が無自覚のまま洗脳実験を施されていたと公表されているけどね、どうも一人だけ、違う扱いを受けていた人物がいたらしんだよ」

「そうそう、なんでもALOの中心に設定してある世界樹とかいうでっかい樹木の上にね、女の子がいたっていう証言が出たのさ」

 

支えていた華奢な明日奈の両肩がビクリと跳ねたのを気づかれないよう、すぐに和人は彼女の肩を抱き寄せて腕をさすりながら「寒くないか?、明日奈」と気遣う素振りで誤魔化す。すぐそばにあったクリーム色のカーデガンを取って彼女の正面まで身を乗り出し、ふわり、と広げて後ろから両肩に羽織らせた後、そのまま軽く抱き寄せて刑事達の視線を遮断すると、落ち着かせるようにゆっくりと背中を撫でた。

その意味をくみ取った明日奈からの「有り難う」と言う細い声を聞き、はしばみ色の瞳が凪いでいるのを確認してから身体を離す。

自分達の一連のやりとりを憮然とした面持ちで見ていた刑事達に「話の途中にすみませんでした」と謝罪した後、和人がベッドサイドの簡易椅子を引き寄せ、腰を降ろしてから片手を伸ばせば、当たり前のようにそこに明日奈の白い手が乗せられた。バフ頂戴、と言われた時のように、いや、あの時以上にしっかりと細い指を包み込む。

話の続きを促すように「女の子、ですか?」と和人が素知らぬ風で尋ねれば、対する二人は和人の存在など見えていない態度で、再び探るように明日奈の表情を観察し始めた。

 

「これが十代半ばから後半くらいの若い子らしくてね、髪の長い綺麗な顔立ちで今回の事件の首謀者である須郷が毎日会いに行っていたそうなんだ」

 

須郷の名前が出るとほぼ同時に明日奈の手を握る和人が力を込める。何も反応できずにいる明日奈の代わりに和人が口を開いた。

 

「それで、その女の子がいたっていう証拠は?」

「いや、残念ながら実際に彼女を見た事があるって言う証言も、僕達が取り調べをした一人だけなんでね。信憑性には欠けるけど、もしそれが本当だったら極めて重要な関係者だろう?」

「たった一人の証言を真に受けるんですか?」

「全ての証言の裏をとるのが僕達の仕事なんだよ。そこで被害者の中から十代の女の子、ということで結城さんに話を聞きに来たのさ」

「彼女以外にも該当者はいると思いますが……」

「まあ、そうだけど。長い髪の綺麗な女の子っていう条件が……」

「アバターの容姿にリアルの姿は関係ないはずです」

「でも、結城さんは須郷と随分前から交流があったはずだよね?」

「明日奈が『ALO事件』に巻き込まれたのは他の被害者の方達と同様に《現実世界》へ生還する途中で偶然あの世界に取り込まれたからですよ」

 

これ以上、和人と問答をしても埒が明かないと会話を切り上げた刑事は、ズイッ、と明日奈の元へ一歩を踏み出す。

 

「だから、ねぇ結城さん。もう一度よーく思い出して欲しいんだけど、本当に……」

「待って下さいっ。『ALO事件』の被害者に実験中の記憶はないはずです。明日奈だって何も覚えていません」

「いい加減にしてくれないか、僕達は結城さんに聞いてるんだから」

 

和人も刑事達二人も既に苛立ちを隠すことなくにらみ合っていた。自分の為に盾となり刑事達に意見してくれている姿に居たたまれなくなったのか明日奈がか細い声で和人を呼ぶ。

 

「……キリトくん……」

 

それで少し冷静さを取り戻した和人はひとつ溜め息をついてから改めて二人の男達に静かに断言した。

 

「明日奈は本当に何も覚えていません。今回の事件、被害者側が誰一人として記憶がない為に加害者達の言葉の真偽を確かめる事が困難なのはわかりますが以前の事情聴取で話せる事は全てお伝えしてあります」

 

自分の手の中で小刻みに震えている明日奈の手を強く握りしめ、揺るがない意志の強さを示す瞳で見返すと刑事の一人が目を眇める。

 

「被害者、ねぇ……」

 

その思わせぶりな口調にひっかかりを感じた和人は更に焦燥感を募らせるが、逆に刑事達はいよいよ侮蔑に近い態度で嘲笑を浮かべ代わる代わる畳みかけるように言葉を重ねていく。

 

「その樹の上にいたっていう女の子が被害者、とは限らないんだよねぇ」

「そう、被害者の共通点は実験中の意識がない事、だからさ」

「けど、その女の子はアバターの身体を持ち、動いて、喋ってたらしいんだ」

「そうなると、彼女はどちらかと言うと……」

 

二人の視線がジリジリと明日奈を追い詰めていく。けれど彼女のすぐ隣から地を這うような低い声が吐き出された。

 

「……どういう……意味ですか……」

 

言葉を紡ぐことさえ限界だと言いたげに歯を食いしばった和人の瞳は怒りさえも通り越した凶暴な感情を懸命に抑え込んでいる。けれど相手も警察官だ、その刃物のような怒気に気圧されることなく、いや、逆に哀れみさえも含ませた声で和人に相対した。

 

「だからね、ずっと結城さんが目覚めるのをこっちの世界で待っていた君は想像したくもないだろうけど、その女の子が加害者側って可能性もあるんだよ。あっちの世界で須郷と一緒に仲良く実験を眺めていたかもしれないだろ?」

「馬鹿なっ」

「綺麗なアバターの身体でALOにいて、首謀者の須郷が毎日会いに行くんだ。もしかしたら計画の一端さえ加担していたかもしれない」

「時に結城さん、君は須郷とも昔から面識はあるし、SAOに囚われる前は学校の成績も随分と良かったそうだね。さすがに主犯格となるほどの知識があったとは思えないが僕達がそう推論づけるのも無理はないと思うだろ?」

 

再び視線を明日奈に戻した刑事達は自分達の調査で辿り着いた仮説が今まで暴かれていなかった「ALO事件」の新たな一面だとでも言いたいのか、執拗な目つきで彼女の口から真実が語られるのを待っている。その視線の圧に耐えきれなくなったのか、明日奈が小さく弱々しい声を絞り出した。

 

「……私は……何も……」

 

ようやく開いた口から否定の言葉が出かかるのを更なる刑事達の言葉がのし掛かるようにして押しつぶす。

 

「もう一回、ゆっくりでいいから思い出して」

「何か覚えてる事があるんじゃないのかなぁ」

「本当はあそこで自分が何をしていたか、覚えてるんじゃないの?」

「それを僕達に教えてくれれば、大丈夫、君はまだ未成年なんだから、ちゃんと守ってあげるよ」

 

再三、記憶の再生を迫られていた明日奈の息づかいが段々と短くなっていき、苦痛を訴えるように表情を歪ませた時、刑事の口から飛び出したひとつの単語でスッ、と憑き物が落ちたように濁りの消えたしばみ色が瞳に宿り、俯いていた顔がゆっくりと動き出す。それを観念と受け取ったのか、ますます饒舌に男達二人は明日奈からの告白を強請った。

 

「ようやくその気になってくれたかな?」

「さあ、何があったのか、話してくれるよね」

「心配はいらないよ、全てを僕達に打ち明けてくれれば悪いようにはしないから」

「僕達を信じて、ね」

 

そこに細く小さくとも固く真っ直ぐな芯の通った声が響く。

 

「……貴方たちを信じる?……何を根拠に信じろと言うんですか?」

 

明日奈の唇が動くのを期待に満ちた目で見つめていた彼らはそこから予想外にしっかりとた声が静かに自分達へと向けられた事に戸惑い、言葉を失った。

 

「警察官だから?、公権力を施行できる機関に属しているからですか?」

 

なんの迷いもない澄んだ瞳が鋭い刃先のように彼らを射貫く。

 

「でも私が二年以上も囚われていた世界で、私を助けてくれたのは《現実世界》の法律でも、ましてや刑事さん達でもありません。《あの世界》は現実のどんな力も届かない場所でした。あそこで私を支え、守ってくれたのは……」

 

そして明日奈は今の今まで和人に重ねていただけの手を力を込めてしっかりと握り返した。その声を聞き表情を見た和人が、ふっ、と息を吐き出して僅かに目を細め、彼女の手を更に握り込むとそれに勇気づけられたように明日奈は言葉を続ける。

 

「私に……ALOに囚われていた時の記憶はありません。確かに、す……須郷とは小さい頃から何回が会った事がありますが、それだけの間柄です。もっと言えば私はあの人に対してこれっぽっちの好感も抱いていませんから」

「えっ?」

「ちょっ……」

 

強く言い切る明日奈に男達は慌て顔で再度、説得を試みようと二人同時に声を発する……と、うち一人の背広の内ポケットから低い振動音が流れ出した。少し忌々しそうに眉をひそめ携帯端末を取り出すが、発信元の表示を見て「失礼」と断りの一言と共にすぐさま明日奈に背を向けてパーティションの裏側へと姿を消す。

けれど「そんなっ、僕達は今…………でもっ………………わかり……ました。すぐに戻ります」と、どうやら最初は通話相手からの用件に納得出来なかったのか、こちら側まで届くほど大きくて感情的な声を発していたが、それも段々と勢いが小さくなっていった。

端末を仕舞いながら戻ってきた相棒に怪訝な顔を向けていたもう一人の刑事も通話相手との会話があまり喜ばしい内容ではないと察し、声のトーンを一段下げて「どうした?」と尋ねる。

 

「ああ、とにかく一旦戻ってこいってさ」

「なんでだよ。こっちはちゃんと捜査内容だって申請してあるのに」

「さあな、詳しい話は戻ってかららしい。今すぐ戻れ、の一点張りだ」

 

顔を見合わせて不可解な表情を浮かべていた二人が仕方なさそうに肩を落とし、ちらり、と明日奈を振り返る。

 

「今日のところはこれで失礼しますよ」

「お邪魔しました」

 

明日奈への非礼も詫びず、全く心のこもっていない挨拶に和人が眉を曇らせるが、明日奈は二人からの尋問に解放される事の方が大きいのか、ふぅっ、と肩の力を抜いて軽く頭を下げるだけだった。

苛立ちを表すようにドカドカと乱暴な足音を立てて刑事達が病室からいなくなれば、ふらり、と上体を揺らした明日奈を咄嗟に和人が抱き留める。

 

「大丈夫だ、明日奈」

 

気遣う和人へ、その腕の中で、こくん、と弱々しく頭を上下させてから明日奈はそのまま身体をすり寄せた。もう刑事達はいないから、と安心させるようにまだまだ細すぎる彼女の身体を内に閉じ込め、それでも足りなくて栗色の髪に頬を摺り合わせる。耳からではなく、直接伝えるために顔を接触させたまま「もう、あの男達は来ないよ」と言い切れば、その意味を問うように明日奈がもぞり、と顔を上げてきたのでさっきまでの強張りがようやく溶けたはしばみ色を見つめ返した。

 

「ナースステーションで刑事二人が来てるって聞いて、総務省へ確認を取ったんだ」

「それって……あの、菊岡さん?」

「そ」

「だからあの刑事さん達、帰ってくれたの?」

「だろうな。明日奈の事は他の『ALO事件』の被害者達と同じように扱うって約束したんだから、末端の担当刑事達が来てるって知ってすぐに動いてくれたんだろ」

「今度、御礼言わなきゃ、だね」

「必要ないよ。本当の事情はあの時ちゃんと話したんだし、その情報は明日奈に迷惑がかからないように対処するって言ったんだから、あんな手柄欲しさに邪推ばかりする刑事達の動きを把握しきれてなかったのはの向こうの落ち度だ」

 

つまりは事の次第を和人から寝耳に水の状態で聞いた菊岡が早急にあれこれと手を回してあの刑事達の上司に引き上げ命令を出すよう指示したのだろう。これで明日奈への接触は二度とないはずだ、と和人はようやく自分の緊張を解くように安堵の息を吐く。何度も「思い出せ」と繰り返し聞かされた言葉の重さは明日奈ほどではないにしても、和人の記憶も無理矢理に呼び起こされた上に、あろうことか明日奈が犯人側の一人ではないかという疑いの態度と言葉には怒りで全身の血液が沸騰する思いだったのだ。

 

「よりによって明日奈を疑うなんて……」

 

あの鳥籠に閉じ込められていた間、彼女がたった一人であの男に立ち向かっていた勇気も、計略を暴こうと奮闘した聡明さも知らないくせに、と今更にあの二人への苛立ちが膨れようとすると、明日奈が気弱に視線を落とす。

 

「でも……一回だけあそこを抜け出した時、ラボでナメクジアバターの二人と接触してるから、その事を口にされたら、それが誰なのか当然調査はするでしょう?」

「その話も含めて明日奈の存在に関しては機密事項で扱う事になってる。別に明日奈自身が実験に関与していたわけじゃないんだし、あの首謀者の男以外の犯人達とは何の関わりもなかったんだから。もう一人のナメクジから同じ自供が出てきたとしても、今度は上手くやってくれるよ」

「そう……だと……いいんだけど……」

 

未だ気分の晴れない様子の明日奈は和人の腕の中で身体を預けたままあの鳥籠の中で一人だけの時を過ごした時のような不安で、ふるり、と肩を振るわせた。あそこでどんな風に過ごしていたか、あの男にどんな扱いを受けたのか、あの狭い籠の中でいくら自分自身を励ましても次の瞬間には絶望に飲み込まれそうになる、そんなゆらゆらと不安定に揺れ続ける心の弱さにも情けない思いを抱き、それを強引に払いのけ、それでも完全には拭えずに弱気な考えがすぐに芽を出す……時間の感覚も曖昧な世界でキリトの生死もわからないまま心を保ち続ける事がどれほど辛かったか、ついさっき刑事達に「記憶はありません」と言ったくせに、ちょっと振り返ればあの時の記憶は怖いくらい鮮明に明日奈の周りを埋め尽くした。

そんな胸の内を見通しているのか和人は明日奈にしか聞こえない程の小声で「明日奈」と優しく名を呼び、彼女の意識を引き上げる。

顔を向けてきた彼女に対し、まだ角度が足りない、と背中に回していた手の片方を、そっ、と華奢なおとがいにあて更に上向きにして、さっきまで刑事達から浴びせられていた侮慢な言葉の数々に堪えていた唇へ労るように自分のそれを重ね合わせた。

啄むようなキスを繰り返し、明日奈の張り詰めていた雰囲気が少し緩んだのを見計らって今度は角度を変えてその名の通り口づけをする。身体の方はまだまだ頼りなげな状態だし頬や手の甲も《あちらの世界》で触れた時の記憶の方がふっくらとしていたように思うが、唇の感触だけは寸分違わず、いや、もしかしたら《現実世界》での方がより明日奈を感じる事が出来る気がしている。

《現実世界》で初めて交わした口づけもこの病室のベッドの上だった……目覚めたばかりの明日奈の唇は今よりも血色が悪くて、力も入りきっておらず僅かに震えていたけれどそれでも意識を取り戻した彼女と少しでも多く触れ合いたくて、指を絡めるだけでは我慢できず唇を重ねてその細い身体を抱きしめた。

あの日から数日が経過し、その間は手を握るか軽く肩を抱き寄せるくらいしかしていなかったが、今、あの時の鳥籠での記憶を思い出す事も、その記憶を正直に話さなくてはいけないとわかっていながら口にしたくない感情の存在に苦しんでいる事も、そしてその原因を作った男の事が明日奈の頭から消えない事にも明確には名前の付けられない苛立ちが抑えきれず、和人はもう一度愛しい名前を掠れた声で呼ぶ。

 

「あ……すな……思い出さなくていいんだ、あの時の事はもう二度と喋る必要はないんだから」

 

そう告げてみたところで彼女の瞳は和人の言葉を受け入れるには戸惑いと少しの抵抗を見せていて、それが自らを苦しめる彼女の強さと正しさなのだと理解している和人はその痛みを少しでも軽くしてやりたい、と以前、菊岡に告げた願いを再び口にした。

 

「これはオレが勝手に頼んだ事だ。明日奈をただの『ALO事件』の被害者として扱って欲しい、って。だから明日奈はオレのせいであの時の事を話せない……そう思ってくれていいから」

「……キリトくん……そんなの、ダメだよ」

「なら…………これはオレ達二人で決めた事にしよう。明日奈一人が責任を感じる必要はないよ。実際、オレだって無関係を装ってるんだし、この件については今後、オレと明日奈以外には話さないって事で、それならいいだろ?」

 

問いかけるように首を傾げれば、明日奈は泣きそうな顔で僅かに微笑み、声にならない声で「キリトくん」と和人の名を呼ぶ。それを了承と受け取った和人は出来ることならあの記憶が二度と呼び起こされる事がないよう彼女の頭の中の引き出しに厳重な鍵をかけたいくらいだが、まずは今、それらの意識をどこか遠くへ追いやりその頭の中も心の中も自分だけでいっぱいにしたい、と、自分の意志を押し通すべく、薄く開いたままの彼女の唇ごと吸い付くような勢いで自らの唇を強く押し付けた。




お読みいただき、有り難うございました。
特殊な形で関わっているキリトとアスナの存在を知らなければ、当然
真実を追究する若い刑事さん達は突進してくるでしょう。
そんなにイヤな人達ではないのかも。
(口調はいかがなものか、と思いますが、そこは若さゆえ、って事で)
この後上司に理不尽に怒られ、二人だけで「くっそー、絶対、手柄立ててやるー」
「犯人捕まえて、偉くなるぞー」って酔っ払うかもしれません(苦笑)
次回は今回の「罪の共有」の続編っぽいモノをお届けする予定です。


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優等生メソッド

前回の「罪の共有」のその後、とも言えますが内容的には
全くの別物と思ってください。
《現実世界》に生還して数日の明日奈と見舞いに訪れていた和人、
病室で二人きりのお話です。


無事に《現実世界》へと生還を果たしたもののまだまだ身体を自由に動かすことさえおぼつかず、未だ検査以外でこの病室から外へは出たこともない明日奈をベッドの上で上半身を起こしている体勢で抱き寄せ、薄い背中に手を当てて挟み込み、おとがいを固定して都合の良い角度に顔を上げさせた和人は劣情の赴くまま世界樹での記憶に不安を形作っていた唇へと自分のそれを押し当てた。

突然、強い刺激を与えられて咄嗟に閉じてしまった明日奈の桜貝のような唇はいくら待ってみても固いままで、ならば、と強引な手立ては諦め、ご機嫌を取るために何度も何度もリップ音を重ね、時間をかけて宥める。こんな行為でもなければ面倒くさい、と途中で投げてしまいそうだが、触れる度に彼女の力が抜けていくのがわかって、と同時に互いの唇で奏でる音を拾う彼女の耳が次第に赤く染まっていく様を眺められるのだから和人にとっては煩わしさなど欠片もなかった。

バードキスの途中に羞恥で顔を背けられないよう、おとがいを支えている手はそのままに啄む合間を短くする。

頃合いを見計らって少し大きく口を開き、かぶりつくようにその唇に密着してそのふっくらとした質感をやわやわと己の唇で甘噛みしてみたり、少し強めに押し付けてみたり、と存分に感触を楽しんだ後、別の感覚器として舌でぺろり、とひと舐め。

さすがに明日奈の方も新たな感触に肩が過剰反応を起こして大きく跳ねるが、そこは背中を支えていた和人の手が、大丈夫、と言わんばかりに幼子をあやすがごとき指先で、とんとん、と宥めてくる。

背中と顎、そして唇を奪われている明日奈はほぼ身動きがとれない状態で、珍しく冷静な判断も出来ないらしい事は既に耳だけでなく頬まで侵食している色でわかり、おまけに事態を受け止めるだけで精一杯らしく、瞳もギュッ、と瞑ったままだ。そんな余裕のない表情も可愛らしくて唇を堪能しつつ、和人の目元と口元が同時に弧を描く。

上唇と下唇をそれぞれ交互に舐め、途中で少しだけ谷間もなぞってみるが、なけなしの力で閉じているだろうそこに隙間が生じる気配はまだない。

しかし嫌がる素振りもないので、和人は明日奈の背に触れている手は穏やかに、逆に唇を攻める舌は刺激的とも言える動きで籠絡を試みる。

すると、ついに明日奈から「んっ」と鼻にかかる声が漏れ出た。

…………《現実世界》で眠る明日奈を初めてこの病室で見た時、事前に聞かされていた通り、頭部にはヘッドギアが装着されていてピクリとも動かない昏睡状態の彼女は和人が知っている細剣使いであり、自分の「妻」である姿とはあまりにもかけ離れていて、だからこそ、これが現実なのだと思い知らされた。

けれど、同時に《あの世界》で見ていた通りのきめ細やかな白い肌に、そこに寸分の歪みなく配置されている長いまつ毛を持つ瞼や高い鼻梁、瑞々しく形の良い唇は造形美さえ漂うほどで、とても《現実世界》に存在する人間とは思えず、まさにゲームの世界から抜け出てきたような完璧な美しさだった。

見慣れたアバターと信じられないほどに同一だったから和人はその姿に感嘆としたものの、すぐに彼女が本当に《あの世界》で出会ったアスナなのだと確信したのだ。

そして和人より数ヶ月の差で《現実世界》において意識を取り戻した彼女が間違いなくあの二年間を彼と同じ世界で生き抜いた存在で、最後の二週間がそれまでにないくらい共に濃密な時間を過ごした相手ならば、と確信めいた予想を実証すべく少し視線を正す。

僅かな緊張を込め、尖らせた舌先で貝のごとくピタリと閉じたあわいを軽くつんっ、と数回突けば、あの《仮想世界》で夫婦として過ごした蜜月の間、身に染み込んだ反応が目覚めて今度こそ何の躊躇もないままふっくらとした唇が上下に薄く開いた。

そんな反応はあの頃と何一つ変わらず、いきなり強引とも言える和人からの刺激に翻弄され続けている状態でも自然と自分を受け入れてくれる明日奈に安堵と歓喜を同居させて自らの舌をするり、と《現実世界》では初めての彼女の咥内へ忍び込ませる。その行為に再び怯えてしまうだろうか?、とそっと表情を伺えば、すでにさっきまで不安と困惑が一点に集結したようにきつく閉じられていた瞳はいつの間にか力が抜けていて、先程からのキスでようやく感情がふやけているのがわかる。

そんな初々しい姿にまるで二人の関係性が《あの世界》の森の家を購入する前に戻ってしまったかのようで少し心配になるが、《現実世界》では正真正銘、つい数日前に「はじめまして」と言葉を交わしたばかりなのだと思い至り和人は知らず苦笑気味に眉根を寄せた。

けれど、《あの世界》での経験はちゃんと《こっちの世界》にも反映するらしいとわかって更なる確証を得るべくおとがいを支えている自分の手をずらし、頬を包みつつ桃色の小さな耳たぶまで指先を伸ばす。

 

「ンふっ」

 

途端に甘い反応が返ってきて和人の笑みが深まる。やはり自分が探求して知り得た彼女の《仮想世界》でのアバターの弱点は《現実世界》においても通用するのだ。柔らかい耳たぶをふにふにと刺激しながら未だ全てを解放しきってはいない次の関門である歯列を強請るようにこすると拒絶の意味を持っていなかったそれは既に力なく、即座に更なる侵入を許容してくれた。

遠慮無く舌を進め、ようやく辿り着いた先で和人は待ちに待った彼女の内を存分に味わおうとまずは上顎を舌先で擽れば僅かに明日奈が身を震わせる。

《あの世界》で深く口づけを交わしてる時、彼女の両手はキリトの腰か首後ろにまで回る事が多かったが《現実世界》に生還してまだ一週間程度の今は、そこまで体力が回復していない。きっと快楽に身を委ねきるふんぎりもつかないまま精一杯の力で掛け布を握りしめ、《この世界》で初めてと言っていいい程強い和人からの情欲行為を享受してくれているのだろうと想像すれば、その姿さえ愛しく思えてきて、更に、と彼女を望む気持ちが膨らんだ。

食らうように押し付けている唇からさえ明日奈の感情を読み取りたくて、頭で考えるより先に背中に触れていた手が下がって腰を支え、もう片方の手が耳から後頭部に移動する。少し傾げるように自らの顔の位置をずらせば一分の隙もないほどピタリと唇が重ね合わさって「あっン」と彼女の喉奥から響いた甘い声は外に漏れ出ることなく、そのまま和人の内へと飲み込まれた。

背と顔で彼女を包んでいた時より頭部と腰を確りと固定された方が筋力も落ちている今の身体には負荷が少ないらしく、明日奈の肩の力が抜けたのがわかる。なら、ともっと身体を引き寄せて自分の胸の内に抱き込むように彼女と密着すれば、どこもかしこも細すぎる肢体から火照ったように甘ぬるい香りが立ち上がり、それが鼻をくすぐり如実に和人の欲に拍車を掛けた。

あの二週間、手を伸ばせば当たり前のように触れる事が出来た自分にとって唯一無二の存在。

涙が出るほど嬉しい時も一緒だったし、声が出せないほど悲しい時も一緒だった。

そんな関係を《現実世界》でも築いていきたいと心から思わせてくれた彼女のその心は和人の知らない場所で非道な扱いを受けていて、同じく彼女の現実の身体は自分の目の前で自分の見知らぬ男に触れられていたのだと思い出せば、その時の憤りが何倍にも増大して黒い瞳に凶暴性が宿る。和人の手や口づけから伝わってくる刺激ではなく、もっと奥深い所から湧き上がってきた痛みさえ伴うような鋭い気配を感じ取った明日奈が、掴んでいた掛け布から手を離し心配そうに和人の脇腹へ添えてきた。

そっ、と触れられた事に気づいた途端、制御しきれなかったどす黒い感情が一気に沈静化する。

乱すのも、静めるのも、いつだって和人の心を大きく動かすのは明日奈なのだ。

ただ、明日奈本人にあまりその自覚がないのが困ったところなのだが、それでも彼女から触れてくれた事に和人の中から憂慮の思いが消え、上顎を弄っていた舌先がぐるり、と歯裏を撫でて咥内の中央にいるであろうそれを探し求める。大胆に舌を動かし、時折巫山戯るように頬の内側の粘膜をたんたん、と突き目的のものを追い詰めていくと、予想通り《現実世界》で初めて自分の咥内に他者のそれを迎え入れ、どうしていいのかわからない、と縮こまっていた明日奈の舌に辿り着いた。

それまでと全く違う感触が和人の舌に伝わり、すぐさま全身を駆け巡る。

ほんの少し、先端に触れただけで明日奈の身が再び強張ったが、それを溶かすように優しく舐めていると、誘われるように彼女の舌がおずおずと前にでてきて、タイミングを逃すことなく絡め取った。捏ねるような動きでそれ自体を余すことなく味わう。

表も裏も側面さえも、全体にゆっくりと舌を這わせて形を覚え感触を楽しみ、時には弾力を引き出す為に軽く吸い上げると、つられるように明日奈の息も、ひぅっ、と引きつった。和人の脇腹に触れていただけの手が次第に縋るような弱々しさで服を掴んでくる。

それでも和人は目の前の潤んだはしばみ色が、恥じらう頬の朱が、何より未だ咥内で彼に差し出されている柔らかな舌の存在が拒絶を表していない事を充分にわかっていて、喜悦と共に更に強く擦り合わせればそれに応じるように彼女の舌が戸惑いながらも緩く動き、くちゅっ、と音を立てた。

途端に明日奈の顔が真っ赤に茹だり、目に涙の粒が湧き上がり始めて「ん〜っ」と慌て声を喉から絞り出してくる。

仕方なく口づけを解くと、ぱちぱち、と忙しなく瞼を動かし、荒い息づかいで「はあっ、はあっ」と呼吸を繰り返す明日奈の様子を不思議に思った和人が後頭部を支えていた手を下ろし、背中をゆっくりと撫でた。

 

「明日奈?…………もしかして、息、とめてた?」

 

そういう事をストレートに聞かないで欲しい、と、わかりすぎるほどに目元の朱を濃くして、じわっ、と散らしたはずの涙が復活している。泣き出しそうな顔だが、当人は息を整えながらも睨み付けているらしく、そのアンバランスさえ魅力的に見えてしまうのだから、これはもうどうしようもないな、と和人は自分に向けて呆れの吐息を、ふっ、と漏らした。それを勘違いした明日奈が「ううっ」と小さく唸る。

 

「だ、だって……向こうでは…………キ……キス……してる時だって……息苦しさなんて……感じなかったし……」

「そりゃあ《仮想空間》だもんな。ホントに呼吸してるわけじゃないし」

「わ、わかってるよ……頭では、わかってるの」

「うん」

「でもっ……色々と……いっぱいいっぱいに……なっちゃって……こっちでは……キスなんて……したこと…………なかったから……」

 

どうしてこのヒトはこの状態でオレを煽るかなぁ……、と和人は目眩がしてふらつきそうになる頭を、ふるり、と振って持ちこたえた。懸命に言葉を重ねようとする桜色の唇にこれ以上翻弄されてはかなわない、と、再び己の唇で蓋をしてあわいが閉じてしまう前に舌を忍び込ませる。今度はすぐに舌同士を触れ合わせ唾液でコーティングするように互いに絡ませればさっきよりも、くちゅくちゅ、と響く音を外からは耳が拾い、内からは直接脳に響いて全てが充足感へと繋がった。

唇を離して明日奈の顔を覗き込めば、やはりまだ上手く呼吸が出来ないのだろう、相変わらず肩で息をしている。少し落ち着くまで、と和人は彼女の背に当てた手を動かしながら感じたままを口にした。

 

「やっぱり…………舌、ちいさいな」

「えっ?」

 

聞き間違いを問いかける視線に和人が肯定を示すように笑って独言のように小さく漏らす。

 

「さすがにそこまで忠実な再現は無理か……」

 

それから徐に自分の脇にしがみついている彼女の片手を掴んで手の甲を上にし、目線の高さにまで持ち上げると、その指先をしげしげと見つめた。

 

「先に謝らなきゃ、だよな。ごめん、明日奈。ずっと気にしてたんだ。リアルの姿を明日奈の許可なく先に見ちゃって……」

 

何を言い出すのかと身構えていた明日奈は突然の謝罪に急いで首を横に振る。明日奈の昏睡期間が和人よりも長かったのは彼のせいではないのだし、それどころか明日奈のいる病院を見つけ出し、自身が病院を退院をしてすぐに面会に通い始めてくれたのだという事は既に病院スタッフからも散々羨ましげに聞かされていたから謝罪を受けるどころか、こちらが感謝を述べなくてはいけないくらいだ。けれど明日奈が口を開く前に和人は「それに……」と続ける。

 

「見舞いに来てこの病室で明日奈と二人きりでいる時、勝手に手も握ったし……」

 

明日奈の瞳が驚きでまん丸く見開かれた。その反応に慌てた様子の和人が「ご、ごめんっ」とつっかえながら再度謝罪を口にする。けれど明日奈はすぐさま、ぷっ、と吹き出し、少し首をかしげてふわり、と笑った。

 

「そんなの、キリトくんになら……いいのに」

 

お咎めの言葉が飛んでこなかった事に安堵した和人は明日奈の様子を覗いつつ目の前の彼女の細い指を見つめる。

 

「その時、思ったんだよ。手は《あっちの世界》のアスナと同じだけど指の爪はリアルの方が細長いな、って」

 

明日奈は「そう?」と言って改めて自分の指の先に視線を伸ばすが、それはしっかりと和人に捕獲されていて思うように見る事ができない。取り返したくてもまだ思うように力の入らない身体だ、そうしているうちに和人がじっ、と見つめていた彼女の一番長い指の先をちろり、と舐める。触れられた指だけが、ぴくっ、と痙攣して明日奈から「ふゃっ」と鼻にかかった声がこぼれ落ちた。指先に唇を近づけたまま和人が少し上目遣いで明日奈を見上げ「それと同じでさ」と言いながら再びきつめに閉じられている桜唇に視点を合わせる。

 

「明日奈、舌、見せて」

 

請われた要求に従えばきっとどうなるのかがわかってしまい、明日奈は唇に力を入れたままその吸い込まれそうな漆黒の瞳から少しでも逃れる為に顎を引いた。無言の抵抗に彼女の腰に回していた手でグッ、と細い身体を自分へと押し出し、仰け反りそうになる体勢をもう片方の手が素早く後頭部を支える事で回避する。明日奈のすぐ目の前には夜空よりも深い黒が迫り、その奥に潜む熱で彼女の意志を溶かしていった。

 

「明日奈」

 

名を呼びながら更に和人の顔が近づいてくる。視線や声で身の内を揺さぶられ、強請られ、急かされて、明日奈の唇がゆっくりと動き、合間から綺麗な薄桃色の舌が顔を出せば黒い双眸は三日月型に細くなるが孕んだ熱は身を焦がすほどに勢いを増していた。さっきまで昏睡状態の明日奈の姿を見た事や手に触れていた事に後ろめたさを抱いていた人物とは思えない豹変ぶりだ。

 

「やっぱり、舌もリアルの方がちいさいよな」

 

にやり、と口元に笑みを浮かべた和人が明日奈の予期していた通り、ぴちゃり、と自分の舌を押し当てる。

 

「ひゃんっ」

 

予想してはいたものの飛び跳ねる声を抑えることは出来なかった。そのまま唇と唇が合わさる。引っ込めようとした舌は早業で和人の舌に捕まり、きつく吸い上げられると敏感な先端がじりり、と痺れた。その感覚が背中の真ん中を一直線に駆け下りて腰に抜ける。身体中が一気に火照り、熱に浮かされたようにふわふわと思考があちこちに散らばって回収できそうにない。逡巡も困惑も羞恥も二年前まで明日奈がいた《現実世界》では良しとされる類いではなかったが、《仮想世界》で自分と懇意にしてくれた人達の反応はまるで違っていて、特にキリトという少年はなぜか嬉しそうに、楽しそうに、そして自分もちょっと気恥ずかしそうにそんな彼女を受け入れてくれていた。

もともと些細な違和感はあったものの、あの二年間で根本的な価値観さえ一新された明日奈は以前にキリトの傍で思ったように「私、こんな子だったかなぁ?」と、幾分その時より上向きな気持ちで自分の感情を許すことに決める。《仮想世界》に囚われの身となっていたとは言え、最終的には今、抱きしめられている少年と婚姻まで交わした仲だ、《現実世界》でも身も心も捧げることに躊躇はない。

それでも今更ながらに《仮想》と《現実》違いを和人から実感させられた明日奈は甘く、熱く、激しい想いの受けとめ方を上手く出来ずに胸の苦しさを訴えた。ギブアップを申告するように弱々しく和人の腕を指で二回タップすると、彼の喉奥が愉快そうに、くっ、と鳴ってから唇を解放される。

 

「明日奈……鼻で息」

 

苦笑の混じった声で端的に名詞と接続詞だけで諭されるが、そんな事は言われなくても承知しているのだと伝えられるのは情けなくも眉間に寄った皺と潤んだ瞳だけで、あとは呼吸困難を脱するのに精一杯の状態だ。本人が申告した通り、いっぱいいっぱいの表情が珍しいのか、和人はじっくり堪能する眼差しで明日奈を見つめている。

 

「この病室で初めて覚醒した明日奈と対面したとき、初めて聴いた明日奈の声が《あっち》のアスナと違ってたから……」

 

自分自身ではあまり自覚していなかったらしく、キョトンとする彼女をそのままに和人は後頭部を支えていた手をゆっりと動かした。

 

「だから舌の形が違うのも影響してるんだろうな。でも反対にカスタマイズしていないのはわかってたつもりだったけど、実際に《あっち》のアスナと同じ栗色の髪を見た時は少し驚いたし、何よりようやく見れた明日奈の瞳の色も……」

 

髪を撫でていたはずの優しい手つきが急に一人の男性の手へと力強く変化して、逃げられないと一瞬で悟り、瞠目する明日奈と睫毛が触れそうな距離に豊潤な黒が現れる。

 

「アスナと同じだ」

 

嬉しそうな声でそう告げられれば拒む気持ちなど欠片もおきず、再び息苦しさの限界まで和人の口づけに翻弄された明日奈は、はあっ、はあっ、と息を切らしながら、こてり、と和人の胸に身を預けた。

 

「んー、今日はここまでだな」

 

力の抜けきった華奢な身体をしっかりと抱え込んで早く息が整うようにと背中を摩ってくれていた和人のまるで学校教師のような口ぶりに「ふへ?」と間の抜けた声を出した明日奈が、問いかける目線で、そっ、と顔を上げれば、色々と含みを感じさせる笑みが送られてくる。

 

「さすがにこれ以上は無理させられないだろ…………でも」

 

言葉を句切ってから注がれる視線は少し挑戦的とも言えるほど強く圧倒的で、思わず後ずさりしたくなる己の防衛本能に従い明日奈が身じろぐと、両の手の囲いから逃すまいと捕食者のごとき素早さで和人が仕上げにかかり始めた。

 

「頭ではちゃんとわかっているのに、出来ないまま……なんて、明日奈らしくないし」

 

あくまでも笑顔の態を崩さずに、既にわかりきっているはずと言わんばかりの口ぶりだが、出来ない事の内容を考えればいささかその物言いには疑問符が浮かぶ。それでも「そうだろ?」と確かめるように軽く首を傾げる姿を見れば、元来、生真面目で負けず嫌いな優等生気質の明日奈に否定の言葉はなかった。

その否定なき無言が肯定の言質とでも言いたいのか、和人の口の端がご馳走を前にした肉食獣のように上機嫌となる。

 

「だったら、出来るようにならなきゃな」

「出来る……ように?」

 

深く考えもせずオウム返しに口にした事で、すっかり自らが甘い罠にはまってしまったのだと気づかず、もがくことも抵抗することもない獲物に和人は恭しく協力を申し出た。

 

「ああ、それには何回も練習するしかないし。大丈夫、練習相手にはオレがなるよ、って言うかオレ以外は認めない」

 

どのみち練習相手も本番相手も変わりはしないのに妙に真面目ぶって満足げに頷いている和人の腕の中ではぽわり、と頬を染めた明日奈が飲み込めない事態と、それでも何やら蠱惑的なお誘いを受けたのだというのは理解できて「えっ!?、それって……」と詳細を求めようとした途端、耳元から「こういうこと」と囁く声が聞こえたと思えば、すぐさま唇を塞がれ言葉ではなく行動で教えられるはめになったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
《仮想世界》での触れ合いしか経験のない二人が《現実世界》で同じような事を
試みると、戸惑い(主に明日奈が)、暴走気味になる(主に和人が)のでは?、と(笑)
「私、こんな子だったかなぁ……」は、蜜月中、あまりにもイチャり過ぎて漏らした
特典小説のアスナの台詞です。
少し久々に十代でちょっと腹黒な和人でしたが、それを煽って誘導してるのは
無自覚の明日奈なので……まあ、お互い様でしょう。


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芳甘清香(ほうかんせいか)

和人と明日奈が夫婦となって、息子の和真が高校生の
とある週末の日のお話です。


リビングでタブレットを眺めていた和真の耳にカチャリ、と玄関のドアを解錠する音が届き、すぐさまパタタッ……パタパタパタと廊下を小走りに移動する気配が近づいてくる。

その軽快な音に合わせて顔を上げれば、ちょうど良いタイミングで扉が開き、軽く息を切らせた母である明日奈が飛び込んできた。

 

「ただいまっ、遅くなってごめんね和真くん。お留守番有り難う」

 

基本、週末は仕事を入れない明日奈だったが、今朝は業務用の携帯端末が鳴り響き、通話相手から突発的な緊急事態を告げられると、途端に顔つきをお仕事モードにシフトチェンジして三十分後にはリビングで拗ねに拗ねている和人の唇に触れるだけのキスを捧げ、ちょっと後ろ髪を引かれる思いで家を後にしたのだ。常日頃から余裕を持って先の先を読み、考えつく限りの対応策を立てている彼女だったが、今日ばかりは先方が今すぐ、どうしても、と譲らなかったようで、明日奈自身もその緊急性を納得したから不機嫌丸出しの夫を息子に任せて休日出勤と相成ったわけだ。

突然の呼び出しにあまり支度時間を取れなかったせいでリビングの扉を開けたその姿は薄化粧に後頭部でゆるくひとつにまとめた髪、淡い色のブラウスにAラインスカートという、平日の通勤着よりは幾分ラフだが、かえって休日の人混みでもさほど違和感のない装いとなっている。加えて帰りに買い物をしてきたらしく手には仕事用のシンプルなデザインの鞄の隣でエコバッグがぱんぱんに膨れて存在を主張していた。

 

「おかえり母さん、お疲れさま。昼間、特に来客も電話もなかったよ」

「そう?、よかった。ずっとリビングにいたの?、部屋の方がはかどらない?」

 

リビングからキッチンに移動しながら投げかけられた母親の疑問に和真は手元のタブレットを持ち上げる。

 

「あー、まあ、一応テスト勉強はコレさえあればどこでも出来るし……午前中は部屋にいたんだけどさ、なんか向かいの父さんの書斎から悶々としたプレッシャー感じちゃって……」

 

二階への階段を上がってすぐにある左右の部屋が和人の書斎であり、和真の私室である。和真の隣が妹の芽衣の部屋で、廊下の突き当たり、一番奥の広めの部屋が和人と明日奈、夫婦の寝室だ。

隣り合わせの部屋ならいざ知らず、廊下を挟んで向かいの部屋から漂ってくるプレッシャーを感じるという息子の高性能センサーと、その根源である夫の状態に明日奈は曖昧な笑顔を見せる。こと和人に関しては呆れる程の言動も愛しさ故に苦笑いひとつで許してしまう自分の態度は、昔から親友にも「甘いんだからっ」と散々言われ続けているのだがこればかりはどうしようもない。それでも週明け、定期考査を迎える息子が自室で居心地の悪さを感じてしまう責任の一端を思って、明日奈は「ごめんね」と今度は違う意味で先刻と同じ言葉を向けた。

しかし和真にしてみれば折角の休日に大急ぎで家に残る家族の昼食まで用意して仕事に出た母に対しては不満などあるはずもなく、むしろ労いの気持ちしかない。冷静に見れば謝罪の言葉を口にするのは母が急遽不在となった事で子供のように拗ねた父の方だろう、とは思うのだが、なにぶん週末が休日になる事の方が珍しい職種に就いている父が、大好きな母と共に休日を過ごす事を心待ちにしていたのも知っていたから、ここは誰が悪いって問題じゃないよね、と、眉尻を下げている母に「慣れてるから平気だよ」と返す。

そう、普段の和人は比較的穏やかで優しい性格の父親なのだ、ただ、こと明日奈の事となると平常心を欠くというか、独占欲が膨らむというか、少々過剰な反応を示すのである。そんな父の姿をそれこそ物心ついた頃から見てきた和真にとって今回の和人の行為は経験値に基づく想定内なのだがいくら慣れているからと言って、向かいの私室で泰然自若とテスト対策をしていられるほど肝が据わっているわけでもなかった。

今日に限って緩衝材になりえたかもしない芽衣が剣道教室の合宿で家に不在だった為、午前中、たった一人で悶々とした不穏なオーラを浴び続けていた和真は正午近く、階下に降りてきた時に必要以上にすり減ったHPを母が準備しておいてくれた昼食で回復させた後、どうしても自室に戻る階段を上がる気力が湧いてこなかったのである。それでも母に頼まれていた父の昼食だけは書斎に届けたのだが……。

 

「母さん……父さん、昼食に手をつけずにずっと仕事してるんだよ」

 

リビングからキッチンに移動していた明日奈はエコバックから購入してきた品々を取り出す手を一旦止めて、それから「あー……」と呆れと嘆きが混ざったような、それでも全く予想していなかったわけではなかったのだろう、すぐに「もうっ」と眉間に皺を寄せつつ買ってきた物を手早く仕分けし始める。

 

「和人くんの好物の照り焼きチキンサンドにしたのに」

 

ぽつぽつと言葉を漏らす母に和真は心の内で「母さんのチキンサンドは俺も芽衣も好物なんだけどなぁ」とせつない気持ちを訴えてみるが、そもそもは父親である和人の好物でなかったら子供である自分達の口に入ることはなかったのかもしれないと思い直し、明日奈には自分の善戦ぶりを語り始めた。

 

「ちゃんとお昼に持って行ったんだけどさ、父さん、机で業務用のARゴーグルかけて仕事してたから視界はダイブしちゃってるし、マイクとヘッドホンでユイ姉とコミュしながら音声コマンドでモニターのスイッチングして、手元のキーボード操作と音声入力で同時に打ち込みしてるせいで俺の声も届かなくて…………」

 

最悪、口に照り焼きサンドを突っ込んでみようかとも考えたけどマイクアームが邪魔だったし、その後の報復が怖かったから実行には移せなかったよ、とまで告げる必要はないだろう、とそこは端折って久々に見た父の仕事への集中力を思い出す。今は一般家庭に広く普及しているARゴーグルだが和人が使用している業務用は精度が普通のと格段に違って設定が実にタイトだ。僅かな瞳孔の動きにも反応してしまうせいでストレスなく操作できるようになるには単純に努力だけではたどり着けない部分がある。その点、和人は天性のセンスを有していたらしく、使いこなすのにそれ程時間は必要なかったと事も無げに言っていたから和真も最初はそれ程操作が難しい代物とは認識していなかったのだが「試してみるか?」と和人がその場所を譲ってくれた時、好奇心にかられるままゴーグルを装着した五分後にはひどい船酔いのような状態になっていた。

書斎の真ん中にある明日奈がこだわりぬいて選んだ重厚な天然木高級書斎机の天板に片頬を密着させてぐったりしている息子を腕を組んで眺めていた和人は、くくっ、と喉を鳴らしてから「まあ、初めてにしちゃ上出来だな」と高評価をくれたのだが……だいたい初心者は一、二分で目を回し、ひどいと椅子にすら座っていられず転倒する場合もあるそうだ。それを今日の和人は朝から装着しつづけ、複数のモニターを同時展開させており、しかもメイン画面の選択を手動ではなく音声で行っているのでユイとの会話の合間にキーワードを混ぜ込みつつ連動している実際のキーボード上では十本の指が高速で舞い続けているのだ。

その光景を照り焼きチキンサンドとコーヒーがのっているトレイを持ったまま眺めていた和真はわざと足音を消さずに近づいてみる。試しにチキンサンドを皿ごと父親の鼻先に近づけてみるがARゴーグルのせいで和人の視界に好物が映り込む事はなかった。ここまで存在を無視されると、むしろ人外に対するような畏怖の念さえ湧いてくる。

明日奈と共にゆっくり週末を楽しむ心づもりが砕かれた腹いせで自棄を起こし、無意識に怨念じみたオーラを撒き散らしながら没我の境に入っているのだから、和真からすればその仕事ぶりは凡人に遠く及ばず間違いなく自分の父がある種の鬼才であると確信した後に、その発端が愛しすぎる妻を想う所以の結果なのだと思い出せば、途端に父を見る目は胡乱げとなり、これもまた間違いなく息子としては甚だ残念な父親だと認識せざるを得ない。

一方、明日奈の方は好物のチキンサンドの匂いすら和人の鼻が反応しなかったという事実を聞いて、これは重症かも、と唇を、むむっ、とすぼめた。

 

「じゃあ、朝から何も食べずにお仕事してるの?」

「多分ね」

「……そーゆーとこ、変わんないなぁ……」

「きっとユイ姉も困ってると思うよ」

 

明日奈は常日頃から和人の体調管理に気を配っているので、和人の不摂生が続くとユイも明日奈の真似をして「パパ、もっとお野菜を摂らないとダメです」やら「少し運動しましょう」と声かけをするのだが、今日のあの様子ではユイ自身もそんな言葉を挟む余地がないほど和人のサポートに負われているはずだ。父である和人の身体を案じているだろうユイの心境を表した和真だったが、明日奈は更にユイの身も心配になる。

 

「そうよね、ユイちゃんだってちゃんと休ませてあげないと……」

 

そう言って夫と娘が詰めている二階の書斎方向を上目遣いで見つめた明日奈は「私、ちょっと様子見てくるね」と言いキッチンから出てきた。ちょうど入れ替わるように和真がやってきて仕分け終わった食材やその他を目にする。

 

「父さんが手を付けてないチキンサンド、冷蔵庫に入れといたんだけどさ。食べちゃっていい?、ちょっと小腹空いちゃって……」

「うん、いいよ」

 

育ち盛り、食べ盛りの和真なら、夕食前に少々胃を膨らませたところで消化量に響くことはない。チキンサンドを取り出すついでに冷蔵庫へ収納すべき食材をしまってくれているので、明日奈は小さく「有り難う、和真くん」と声を掛けてからリビングのドアへと身体を向けた。その瞬間、ふらり、と揺れた身体を咄嗟にダイニングテーブルにある椅子の背を掴む事で支えてから、そっ、と和真に視線を向けるが、丁度冷蔵庫の扉を開けて頭を突っ込んでいたところでこちらに気づいた様子はない。

明日奈はこめかみのあたりをぐりぐり、と拳で刺激してから改めて背筋をピンッと伸ばし、気合いを入れなおすように深呼吸をしてからいつもの迷いのない真っ直ぐな歩みを心がけ、リビングを出た。

 

 

 

 

 

儀礼的に書斎の扉をノックするが返事を期待せず、すぐににカチャリ、とノブを回す。

と、そこには和真に聞いた通りの状態が時を感じさせず明日奈の目に飛び込んで来た。止まる事を忘れたように踊り続ける和人の両手とさえずり続ける和人の唇……それを見て知らずに明日奈の口元から深い溜め息が落ち、意気込んでいた両肩がさがる。

室内に絶妙な空間バランスで配置されているキャビネットや書架は書斎机と一緒に明日奈が和人と共に選んだ天然木の一点物だ。機能性も重視しつつアンティーク家具のような暖かみを感じるデザインになっている。更に和人が腰掛けている椅子は今も《二十二層》のログハウスに設置してあるロッキングチェア……とまではいかないものの、一人用としてはかなりゆとりのあるサイズでリクライニングの角度も自由に調節がきき、座面、背面にある特殊素材の極厚クッションのお陰で長時間無理なく歪みのない姿勢がキープできる。加えて各所のフレーム部分に木材を使用しているので部屋の調和を乱す事はない。

けれどこの部屋の主はこんな落ち着いた空間にそぐわない怨念じみた熱意を放ちながら八つ当たりのような執念で仕事を続けている。

確かに向かい部屋の息子が落ち着かないと零すのも同意できるほど単純に仕事への真剣な気配だけではないものを感じてしまえば明日奈もひくり、と片頬がひくつくのを抑え込むことは出来ない。これではまるで禁断の呪術を操っているまじない師のようだ。

そう思ってしまえば和人が口にしている言葉もそのほとんどがアドホック・プログラミング言語で成り立っていて、さすがの明日奈もそこまでの専門用語の知識は持ち合わせていない為、だんだんと呪文にも聞こえてくる。知らずにそろり、そろりと気配を消し、足音を消してゆっくりと和人に近づく明日奈の心境はクエスト中に敵NPCの背後へと不意打ちを狙う作戦遂行中のそれに近かった。

どうせ視覚も聴覚も外界から遮断されている状況なのだからここまで緊張しなくてもいいのはわかっているのだが、相手は全てを牛耳る黒幕級の《黒の剣士》だ、用心にこしたことはない、と既に手の届く距離まで近づいた時点で明日奈は呼吸すら止めてその横顔を覗き込む。ARゴーグルのせいで表情は読めないが、呪文が途切れることなく呟かれているのでやはり妻の侵入には気づいていないのだろう。

大声を出してみようか、それともそっと身体に触れてみようか、と次の手段を明日奈が考えあぐんでいた時だ、いきなりキーボードから両手を離した和人が椅子をくるり、と九十度回転させて明日奈の両腕ごとその細い身を抱きしめ自らの腿の上へと横向きに引きずり込む。

ふわり、とスカートがひるがえった。

 

「きゃぅっ」

 

何の予備動作もなく、突然捕獲され尻餅をつくような勢いで膝にのせられた状態の明日奈はふたたび襲われた目眩に耐えきれず視界の揺れが収まるまで、と一瞬強張った身体を落ち着かせ溜め息のような深い息を吐きながら、逆に抗議の言葉を飲み込んで目を瞑り、仕方なしに和人の胸元に寄りかかった。

和人の方はすぐさま何事もなかったかのように明日奈を腕の中に囲ったまま椅子の向きを戻し、キーボード上で指を踊らせている。ちなみに明日奈に手を伸ばした時から今も呪文は途切れてはいない。

明日奈は片方の目だけ薄く開けて、回ってはいないがぼんやりとした景色を確認してから、そうっ、と顔を上げた。出会った時と変わらず細いラインの顎が唇と連動して動いている。きっとこの距離で声をかければ耳に届くとは思ったが、なぜか言葉を発する事は出来なかった。

それどころかこの体勢で自分が動けば和人のタイピングが乱れて迷惑がかかってしまう、と思い至れば口どころか指の一本すら動かせなくなってしまう。なにより今日は予定外の出勤となったから朝から気を抜く暇もなかったので身体も心も自覚している以上にクタクタで、こうやって安心して身体を預けてしまえば当然のように明日奈の瞼ははしばみ色に蓋をし始めた。徐々に閉じていく瞼と意識に抗えず、それでもどうして彼は自分の存在に気づいたんだろう?、と明日奈はまどろみの中で考える。

大好物の照り焼きチキンサンドの存在すら感知しなかったのに……けれどこればかりはいくら考えてみたところで正確な答えに辿り着く事は出来ない気がした。和人の……キリトの思考や発想は昔から悪戯じみていて、そのきっかけは彼にしか見つけられないような反則級の場所に転がっているのを知っていたから。

頭の上から湧き出るように流れ落ちてくる抑揚のない和人の低い声、その声で紡がれている呪文が子守歌のように次第に明日奈の思考力を奪っていく。

ここで眠っちゃダメ、とわかっているのに縫い付けられたように上下の瞼が合わさってしまって動かせない。

和人くんにちゃんと食事と休憩を取ることの大切さを説いて、ユイちゃんの長時間労働を労い、すぐに晩ご飯の準備に取りかからなければいけないのに…………ああ、でも和真くんはチキンサンドを食べているはずだから、ほんのちょっとだけ晩ご飯が遅くなっても大丈夫かな?、とうつらうつら考える。

だけど、この状況はちょっとひどい…………明日奈とて好きで出勤したわけではないのに、ゴーグルのせいで目すら合わせる事なく、言葉も交さず、出し抜けに妻を荷物のごとく自分を膝の上に乗せたまま仕事を続行している夫だって十分仕事人間ではないか、と顔を少し上向きにしたまま拗ねたように小さく小さく鼻をすんっ、と鳴らしてみる。

すると、すぐに呪文のとぎれた一瞬を隙を突いて額に湿った感触がちょんっ、と跳ねるように降ってきた。

まるで降り始めの雨粒のごとき不規則さで、けれど止むことなく音声入力が滞らないよう、わずかな合間を縫って和人の唇が明日奈の額に降り注ぐ。

これは仕事で和人の帰りが深夜になってしまった時、先に眠っている明日奈の寝顔を安らかにするいつもの方法だ。

夫の帰りを待ちわびながら寝てしまった不安げな寝顔の明日奈に、帰宅して寝支度を整え終わった和人が顔中に触れるだけのキスをすれば段々とその表情から力が抜けていく。

その変容を眺めている間に和人もようやく仕事の緊張から解放され、仕上げに明日奈を抱きしめれば穏やかな夢の世界へと誘われるのである。

今回も同様に唇で明日奈に触れれば触れるほど、和人の不穏なオーラは四散されてゆき、いつものようにすー、すー、と可愛らしい寝息が腕の中で生み出される頃には丁度和人の呪文も終わりを迎えた。

 

「有り難う、ユイ。今日はここまでにしよう」

「はい、パパ。お疲れさまでした」

 

天板に埋め込み型になっているキーボードをスライド式の蓋で仕舞って机上をフラットにする。

寝入っている明日奈の姿勢を動かさないよう注意しながらゴーグルをはずした和人は、その寝顔を見て複雑な表情を浮かべた。今週は仕事が立て込んでいるとかで十分な睡眠を取れていないのはここ数日ベッドの中で触れているだけの手足の体温が低くなっている事でわかっていた。

やっとの週末、今日は自分と一緒にのんびり過ごして欲しかったのに朝から明日奈は電話一本で迷うことなく家を出て行ってしまうのだから、心配のあまり和人の機嫌が急降下するのも致し方ないだろう。

今日あたり目眩などの自覚症状が出てくるかも、と和人が予想した通り、部屋に入ってきた明日奈の細腰に両腕を回して引き寄せればいともたやすくバランスを崩し自分の腕の中に崩れ落ちてくる。そのまま大人しく休むかと思えば、寂しそうに鼻を鳴らすものだから仕事が終わってもいないのにキスが止まらなくなってしまった。

明日奈の気配、明日奈の声にならない音……そんなもの、目や耳が使えなくてもすぐに伝わってくる。

和人はそのまま椅子のリクライニングを倒して確りと明日奈を抱き直し再びマイク越しに「ユイ」と愛娘の名を口にした。

 

「明日奈が今してる仕事って先月食事に行ったホテルだよな?」

「そうです、パパ」

「ったく、そんな大規模なイベントのコンサルティングを個人契約で受けるか、普通……」

「一応ママはアシスタント的なセカンドコーディネーターとして、ですが」

「だったら週末にまで呼び出さなくてもいいだろ」

「仕方ないです。今回の依頼はその前に受けたツアー会社の社長さんからのご紹介で……」

「ちっ、余計な事を……」

「それに、偶然なんですけど、今回のホテルのオーナーさん。実は『血盟騎士団』の幹部のお一人だったんです」

 

明日奈の全身を自分に寄りかからせて自分はぼんやりと視線を漂わせていた和人の両肩がピクリ、と跳ね、思わず「えっ?」と予想外に大きな声が出てしまう。その動きと声に反応した明日奈が、もぞり、と身をよじった。

起きてしまいそうになる妻の背をトントンと優しく叩きながら「なるほど、それでか……」と先月抱いた不可解さの原因に納得した和人はそのオーナーと対面したホテルのレストラン前での光景を思い出す。

今度仕事をするホテルでディナーの招待券をいただいたから、と言う明日奈と一緒に和人は息子の和真、娘の芽衣と家族四人で食事に赴いたのだ。ホテルのロビーの端に姿勢良く立っていた年配の男性に気づいた明日奈が近づいて頭を下げ、招待券の礼を告げた後、その男性が少し驚いたような顔で「アスナ君、そちらの方は……」と言った時が違和感の最初だった。不躾な眼差しに少し居心地の悪さを感じると同時にその理由がわからず、加えて「アスナ君」という呼び方にも小さくない苛立ちを感じたのだったが、元『血盟騎士団』団員であったなら当時の呼び方が抜けていなかったのだろう。そしてアスナの隣に存在する和人の容貌に「キリト」であった当時のアバターの面影を見たのだ。そうでなければ明日奈が「主人の桐ヶ谷和人です」と紹介してくれた時、口の中で咀嚼するように「きりがや、かずと……キリがや、かずト」と小声で和人の本名を数回繰り返した後、何かに納得したように微笑んで「なるほど」と呟くはずがない。

更に思い返してみれば和人が「初めまして」と挨拶した時も、妙な間を開けて「初め……まして、桐ヶ谷くん」と笑いを堪えるように口元を隠していた。

明日奈も教えてくれればいいものを、と思った和人だったが、同じギルドメンバーだったからという理由で仕事を受けたわけでもなく、そもそも所属していたのは二十年以上も前の話であるし、結末として自分達の団長がSAO事件の犯人であったという驚愕の事実は互いに良い思い出にもなってはいまい。ならばわざわざ和人に告げる必要もないと思ったのか、仕事が終わってから何かのきっかけで話すつもりだったのか…………とにかく自分にとっても全く面識のない相手ではないとわかった所で和人は、はぁっ、と大きく息を吐いた。

すると胸元から細く弱々しげな声が上がってくる。

 

「……和人くん、怒ってる?」

「明日奈……起きちゃったのか?」

 

寝不足のはずなのに、やっぱりちゃんとベッドに横になっていないせいで眠りが浅かったのだろうか?、と胸元に顔を向けた和人の視線の先には、とろーん、とも、ぽやぽやぁ、ともとれる夢現のはしばみ色がこちらを見上げていた。瞳が潤んでいるのは眠気のせいか、はたまた仕事の依頼人の正体を告げなかった事で和人が気分を害していると思って気落ちしているせいなのか…………いや、今のユイとの会話は和人の声しか漏れていないので、折角和人が家にいる週末なのに急遽明日奈が仕事に出てしまったせいで機嫌を損ねたと思っているのか、とにかく、へにょり、と力無く垂れている眉毛と相まってその顔立ちはあるはずのない罪悪感を生み出させ和人の心中をチクチクと刺激してくる。

身体は強く休眠を欲しているはずなのに、それでも夫の様子を気に掛けずにはいられない妻の問いかけに和人はわざと素っ気なく答えた。

 

「怒ってるって言うより……疲れが溜まってるくせに休日でも呼び出されれば応じる明日奈に呆れてるんだ」

 

少しは反省してくれるだろうか?、とその顔色を覗っていると明日奈は益々眉尻を落とし、ついでになぜか楽しげに目尻まで下げて「ふふっ」と笑い声を漏らす。

 

「今日ね、おんなじ事、言われちゃった。『相変わらず、アスナ君は少し頑張りすぎだな』って……」

 

誰に言われたのかは聞かずとも知れた。覚束ない口調はまだ続く。

 

「『これでは彼も未だに心配が尽きないだろう』って、だから……今度は二人でゆっくり過ごせるように……バーラウンジのワンドリンク付きペアしゅきゅ、はく……ちけっと、こっそりくださっ……て……」

 

言葉の語尾が徐々にあやしくなってきたが、とにかく、要は今回の埋め合わせに二人だけの時間を作れるよう手配してくれたということだろう、と和人の両の口角も嬉しそうに持ち上がった。

『血盟騎士団』の元幹部ならキリトとアスナが二人揃ってデスゲーム攻略の最前線から離脱していた理由も、その一時脱退中に七十五層のボスモンスター戦の為に呼び戻された事も知っているはずで、ならばキリトが攻略戦復帰の条件としてパーティー全体よりアスナの安全を最優先にすると言った宣言もあの場で聞いていたはずだ。

今回の明日奈の休日返上はホテルのイベントスタッフからの要請であってオーナーがいちいち口を挟むレベルではないものの、キリトとして、和人として、ずっと明日奈を大事にしてきたのがわかってのオーナー特権のチケット配慮だろう。久々に夫婦水入らずの時間が過ごせそうだと、すっかり機嫌を良くした和人は半分ほど閉じかけている明日奈の瞼を完全に下ろそうと唇を押し当てる。

 

「んっ……ダメ……だよ。ごはんの……したく…………」

「こんな状態で無理しなくていいよ。大丈夫、夕方届くようにデリバリー頼んでおいたから」

「ホント、に?」

「明日奈、『皇嘉楼』の薬膳スープ、好きだろ?」

「うん」

「あと『アワビと胡桃の胡麻だれ和え』と『海鮮春巻き』『小籠包』に『豚肉とザーサイの炒め物』『葱つゆそば』」

「……あそこのおそば、和真くんの……好物……」

「だよな。あとはオレの好きな『激辛麻婆豆腐』と『牛肉の炒飯』」

「そんなに……食べられる?……」

「ああ、だから夕飯の心配はしなくていい。明日奈は早く体調を回復させてくれ」

 

それから睦言を囁くように少し身を屈めて明日奈の耳元へ和人の唇が近づいた。

 

「オレは早く明日奈が食べたい」

 

吐息のように甘い言葉がするり、と耳から侵入して疲れている明日奈の心を優しく包む。

朦朧とした意識の中でも和人の言葉の意味は明日奈に伝わったらしく、ぽぽっ、と頬が薄紅色に染まり、それを隠す為に一層和人の胸に顔を押し付けてきた明日奈の小さな頭を抱え込んだ和人はその反応に満足して自分も瞼を閉じた。

ユイが気を利かせて部屋の調光を操作して室内を薄暗くし、空調設定を最適化した頃には明日奈は既に寝入ってしまっている。

和人は目を伏せたまま「ユイ、オレと明日奈は少し仮眠をとるから夕食が届いたら起こしてくれ」と頼むと、腕の中のぬくもりを確かめるように一度だけ、ぎゅっ、と力をいれて抱きしめた後、和人は薄闇の中でも感じ取れる彼女の香りを胸一杯に吸い込んでから眠りについた。

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇ おまけ ◇◇◇◇◇

 

和人が手を付けなかった……と言うより存在すら気づかなかった照り焼きチキンサンドを食し終えた和真が後片付けを終わらせてリビングに戻って来た時だ、ホログラム映像のユイがしゃらり、と現れた…………と、すぐに、へなへなとフローリングの床に座り込む。

 

 

「あ、ユイ姉、今日は一日父さんのサポートお疲れさま」

「ホントですっ。冷却機能が追いつかないかとヒヤヒヤしました。和真くんが昼食の時、PCにアイスシートを被せてくれなかったら、今頃は熱中症でダウンしてまたよ」

「あー、そうだね。今日の父さん、全然周りに目がいってなかったから……」

 

普段の和人ならばこれ程長時間、ユイを稼働させ続けるような真似はしない。

 

「演算処理に必死でパパに食事や休憩を促す言葉も挟めなくて」

「でも、今、ここにいるってことは…………母さんが?」

「はい」

「よく声かけられたなぁ」

 

怨霊……いや悪霊化したと言っても過言ではない状態の父を思い出した和真はぷるり、と身体を震わせて取り憑かれた気のする呪いの破片をふるい落とした。

 

「声はかけていません」

「え?、じゃあ身体、揺すったとか?」

 

随分思い切りの良い行動に出たものだ、と感心してうんうん、と頷く。けれどその推測にもユイは首を横に振って否定した。

 

「いいえ、ママはパパのどこにも触れていません」

「ええっ!?、じゃあどうやって父さんは母さんを認識したの?」

「何もしなくてもパパはママが近くにいればわかるんですよ、和真くん」

「……」

 

なんだろう、この敗北感……まるで自分事のように自慢げに語る姉に和真は半眼となる。好物のチキンサンドと自分の息子がワンセットになっても気づかないくせに、自分の妻への感知能力の高さときたら、まさに人ならざる者……野生動物?……まあ、ある意味、母に対する父は獣じみた一面がある事は否めないけど……と父親の習性を再確認したところで野暮かもしれないと予感しつつ問いかける。

 

「で、母さんは?」

「ママはパパに抱きしめられて寝ちゃってます」

「……父さんは?」

「パパはママを抱きしめて寝ちゃってます」

 

結局二人揃って夢の世界に入ってしまった両親に対し和真はうぐぐっ、と唇を震わせた。文句が言いたいわけではないのだ。ましてや一緒に寝たいわけでもない。けれどさらり、と「あ、そうなんだ」と流せるほどに達観もしていない高校生男子の自分の感情は決して間違っていないだろう、と自分で自分の心を肯定し慰める。

 

「でも和真くんっ、大丈夫ですっ」

 

和真の反応をどうとらえたのか、なぜかユイが勇気づけるような勢いで両手をグーにしつつ一回だけ深く頷いた。

 

「晩ご飯はパパがデリバリーを頼んでくれましたからっ」

「え、ホント?」

 

どうやら母が眠ってしまったと聞いた食べ盛りの男子高校生の弟は晩ご飯が心配になってしまったのだろう、とユイは考えたらしい。

 

「はい、晩ご飯は『皇嘉楼』さんから和真くんが好きな『葱つゆそば』が届きますよ」

 

自分のお気に入りメニューを聞いて「やったー」と男子高校生の感情は簡単に浮上した。しかし一拍遅れて父親の思惑にも気づいてしまう。

 

「あー……『皇嘉楼』のチョイスってさ、母さんに薬膳スープを飲ませたいからだよね?」

「和真くんも気づいてましたか」

「うん、オレは母さんがさっき帰って来た時だけどさ……」

 

廊下に響く足音が一瞬不規則だったのだ。よろけたのかな?、とは思ったがリビングに入って来た時の母は顔色も悪くなかったし声の調子もいつも通りだったので、気のせいで済ませてしまったのだが、父は既に見抜いていたらしい。でなければ作るのに時間のかかる薬膳スープはすぐにオーダー出来ない。

 

「お料理が届いたらパパとママを起こすことになってます」

 

そう言いながらユイも大きな欠伸をしている。

 

「なら、料理が届くまでユイ姉も休みなよ」

 

そう言って和真はユイが消えるのを見届けてから、両親がくっついて寝ている書斎の向かい部屋にはこれまた居づらいなぁ、と苦笑いをしながらリビングのソファに腰を降ろしてテスト勉強を続行すべくタブレット上に指を滑らせ始めた。




お読みいただき、有り難うございました。
タイトルの「芳甘清香(ほうかんせいか)」は造語です。
明日奈を表す雰囲気(匂い)を表現できれば、と。
そして、それに敏感に反応する和人と(苦笑)
次回は高校時代のお話をお届けする予定です。


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  【「お気に入り」500件突破記念大大大大大感謝編】もしも……

《かさなる手、つながる想い》の「お気に入り」カウントが
「500」を越えて下さっちゃって、本当にっ、本当にっ
有り難うございます!!!!!
ポチッとして下さった皆様にひたすらで膨大な感謝の気持ちを表すべく
いつものキリ番感謝投稿より、ぶっ飛んだ(?)内容と量をお届けしたいと思います。
めいっぱいの嬉しさを込めまして……。



百年余りの歴史を持つこの私立学校は都内の一等地に有りながら広い校地を維持し続け、ゆとりある校舎配置でその周囲には多くの緑が茂っている。外周の幹線道路から中を覗こうとすれば、そこには背の高い木々の群れが海外の国立公園の如く乱立しており、その視線を拒んでいて遠くに学校のシンボルである記念講堂の尖塔が望めるくらいだ。

この自然豊かな環境だけで入学を希望する者も多いと聞くが、実際にこの学校の生徒となれるのは高額な学費を支払える財力のある家の子女である。少し意外なのは親の戸籍、職種に関しては一切条件がないことで、所謂、先祖代々由緒ある家柄だの、元華族だのといった肩書きは通用しない。極端な話、宝くじが当たった、でも、石油や鉱脈を掘り当てた、でも何でもいいのだ……若き理事長に言わせれば「運も実力のうちですから」という事らしい。

そして、そこまでは保護者の力、そして最後は受験する本人の実力、という訳でこの学校に合格する生徒達は資産家の息子、娘だから、と言った偏見で見る者が無知を意味するほどに高い智賢力の持ち主ばかりだった。

 

 

 

 

 

そして季節は校舎の周囲をとりまく木々や草花が秋の色を纏う頃、高等学部三年生の教室では担任教諭が自らの腹部を片手で押さえつつ、一人の大学生を隣に立たせていた。

 

「はい、注目ー……ってか既に注目しっぱだな。担任の俺のこと、誰も見てないし……おーい、誰か、俺も見て。そんで『今日の佐々井先生、なんだか元気ないけど、大丈夫?』とか心配して」

 

懇願された生徒達の一人が目を細くして「佐々っち、それってどうせ賞味期限切れのコンビニ弁当食べて腹痛とか、二日酔いの吐き気とかでしょ」と冷淡に言い放つ。教室全体の空気からして担任佐々井の現状は珍しいものではないようだ。過去に何度か起こした事例を挙げられた佐々井は、ぐっ、と言葉に詰まり無言で腹を撫でた。

 

「ま、いーや。俺も急いでるし。で、君らがずっと気にしてるこの若者が今日から二週間、うちのクラスで教育実習する『桐ヶ谷和人』……先生?、あれ?、まだ教員免許ないけど敬称って先生でいいのか?……俺も実習生持つの初めてだからなぁ」

 

相変わらず手の位置はそのままに佐々井は数年前、自分が実習を行った時の体験を思い起こす。

 

「俺ん時は……あー『佐々っち』だったか……実習生の時から俺ってば親しみやすさ満点だったから」

 

生徒から舐められてたから、の間違いだろう、と教室内にいる全員が思ったがここで口を挟んだら話が進まない事も生徒達はわかっていたので、生ぬるい視線を捧げるだけにした。その代わり佐々井の隣にいたピシッとアイロンのかかっているワイシャツとスラックス姿の桐ヶ谷和人が口を開く。

 

「あ、他の実習生は『先生』って呼ばれるとテンション上がるって言ってたけど、オレは逆に緊張しちゃうから『さん』付けでお願いします。大学三年なんでこの教室にいる皆とは三つか四つしか違わないし」

「『桐ヶ谷くん』でも違和感ないよねー」

 

女子からの茶々に教室全体が湧いた。しかしすぐに佐々井がそれを制する。

 

「はい、そこ、調子のらない。『くん』呼びは俺だけね。君らは『桐ヶ谷さん』ってことで。こいつ、ここのOBじゃないから校内とかチンプンカンプンなんだよ。なんでクラス委員の二人はフォローよろしく」

 

視線で起立を促すと部屋のほぼ中央にいたにこやかな笑顔の男子生徒と後方の窓際にいた静かな佇まいの女生徒が立ち上がった。

 

「クラス委員の茅野君と姫。桐ヶ谷くんは今日一日、基本こいつらにくっついて行動して……」

「先生」

 

すらり、とした見事なプロポーションで立っている窓際の少女が佐々井の言葉を遮り、澄んではいるが氷のように固く冷たい声を発する。

 

「私を『姫』と紹介するのはやめて下さい」

「んー、だってうちの生徒、中等部を含めてほぼ全員君のこと『姫』って呼んでるでしょ?」

「実習生の方は生徒ではありません」

「俺も呼んでるけど?」

「直して下さい、と何度お願いしても先生が聞き入れて下さらないだけです」

「理事長と同じ名前を気軽に呼べないよぅ」

「佐々井先生は理事長の事を『結城さん』とお呼びになるんですか?」

「えっ?、まさかー。ちゃんと『理事長』って呼んでマス」

「でしたら私の事を名字で呼んで何の不都合もないと思いますが」

「……うっ……相変わらず真面目だなぁ」

 

方や至極真面目に、方やはぐらかすようにポンポンと会話を続けている二人を眺めていた和人が思わず「ぷっ」と吹き出した。それを見た佐々井が不思議そうな目を向ければ「すみません」と謝ってから優しげな瞳で女生徒を見つめる。

 

「随分と楽しそうに会話をしていたので」

 

その発言に女生徒は不機嫌を通り越して睨み付ける勢いで渋面を作った。それを気にする風でもなく和人は「なら、ボクは彼女の事は『結城さん』で」と言ってからにこり、と笑い教室全体を見回す。

 

「改めまして『桐ヶ谷和人』です。これから二週間という短い期間ですが、宜しくお願いします」

 

と告げて頭を下げたのである。

 

 

 

 

 

「んーじゃあ一時限目の久里センセーの授業は自習だから。君らはしっかり勉学に励めよ。それと、あんま桐ヶ谷くんを質問攻めにしないことっ。そのへんのガード、茅野君よろしくね」

 

自習と告げたくせに実習生を困らせる事態になるだろうと予想している口ぶりでクラス委員の一人に念押しをする佐々井はしっかりと教師の顔をしていた。しかし和人を残しいそいそと教室を出ようとした時、「ぐうぅっ」と空腹を訴える音がその腹部から鳴り響く。

 

「……佐々っち、もしかして腹へってんの?」

「それで元気ないとか、小学生か」

 

教室の廊下側の席の男子生徒達から揶揄の声が次々にあがると佐々井は「うるへー」と顔をクシャクシャにして言い返した。

 

「二十代後半の独身男の人生はこれからなんだよ。遠くない未来、朝、優しく起こしてくれて、美味しい朝飯作ってくれる奥さんとのツーショット画像を君らの端末に一斉送信してやるからなっ」

「……要は寝坊したのか……」

「で、朝飯を食い損ねた、と……」

「佐々っち、食べる物あんの?」

 

段々と生徒達の目が憐れみを帯びてくる。

 

「おうっ、俺、一限目授業ないから、カフェテリアで食ってくる」

「え……この時間、自販機しか使えないっしょ」

「へへん、君らの担任を甘くみるなよ。俺の専門は『イン・コミ(インターネット・コミュニケーション)』だけど、もともと実際の対人交渉が得意分野なのさ。仕込み中のおばちゃん達に声かければ一人分の料理くらいいくらでも手に入るっつーの」

 

不敵に笑い、似合わないウインクを生徒達に送って佐々井は小走りに教室から出て行った。残された生徒は担任が消えた出入り口を凝視したまま一様に深い溜め息をついている。

 

「なに、あのドヤ笑み」

「しかもウィンク……さぶきもっ」

「あれって初犯じゃないよね」

「既に数回の前科有りとみた」

「はーっ、『交渉学』じゃ若手のホープのくせに」

「警視庁からだって声かかってたんでしょ?」

「なのに、なぜ彼女の一人も作れないっ、うちの担任っ」

「ま、いいんじゃない?、本人、満足そうにへらへらっと学校教諭やってるし……」

「そうだね、一応、担任してるクラスの生徒達からは好かれてるもんな」

「いつか、そのうち、きっと佐々っちの告白という交渉で頷く女も出てくんだろ」

「あははっ、楽しみだねー……そだっ、桐ヶ谷さんは?、彼女さんいるの?」

 

教壇に残されたまま突っ立っていた和人が突然話題対象としてロックオンされた。

 

「うえっ!?、か、彼女?……あー、まぁ……彼女は…………どう、かな」

「なに、その返事」

「いる、って言わないって事は……両思いじゃないとか?」

「まさかアプローチ中に実習期間突入?」

「ち、違う、違う」

「でも片思いなんでしょ?」

「そーゆーんでもないデス」

「あーもー、ハッキリしないなぁ」

「いや、その……」

「はい、はい、そこまで。佐々っちにも言われたでしょ。質問責めはNGだって」

 

生徒達から次々投げかけられる矢のような問いから守るように茅野が和人の前に立つ。するとピタリ、と質疑の波が収まった。和人はその頼もしい背に小さく『有り難う、助かった』と感謝を述べてから教壇を降りる。

 

「オレは少し茅野君から学校の事を聞くから、みんなは自習を進めてくれ」

 

そう言われてしまっては興味は尽きないものの和人の言葉を無視する生徒もおらず個々に思い思いの行動を取り始める。こういう切り替えの早さはさすがだよな、とその様子に少し感心しながら和人は茅野に連れられるようにして廊下側の最後尾席に腰を降ろした。

 

「ほんと、助かった。さすがクラス委員だな」

「んー、まあクラス委員って事もあるんですけどね、僕、高校二年の後に海外留学で一年休学してたのでクラスの連中より年上なんです。だからまあ一緒にノリよくふざけるよりどっちかって言うとストッパー役になる事が多くて」

「なるほど……」

「あ、でも、クラスに馴染めてないってわけじゃないですからご心配なく」

「あ、うん……じゃあ茅野君、まずはクラスの子達から教えて欲しいんだけど……」

 

和人は教室内を見回す。数人のグループで集まって談笑しているケースがほとんどだが、中には一人熱心に携帯端末の画面に見入っている者もいれば、その画面を連打している者もいた。必死の形相でタブレット上にペンを走らせているのは遅れている課題を仕上げているのか、上着を頭から被って居眠りを決め込んでいる者もいるし……その中でスッと背筋を伸ばした綺麗な姿勢で一人読書をしている少女がいる。

 

「もう一人のクラス委員の結城さん、彼女は……」

 

ただ本を読んでいるだけなのに、なぜか視線が外せなかった。魅入られたような和人の瞳を見て茅野がくすり、と笑う。

 

「彼女、目を引くでしょう?」

 

無言で和人が頷くと茅野も結城明日奈を見ながら言葉を続けた。

 

「うちの学校は品行方正をあまり重視してませんから教室の雰囲気も砕けてますけどね、蓋を開けてみれば血筋家柄抜群の生徒なんてごろごろいるんですよ。彼女もそのひとり。ここのOBでなくても明治から続く結城財閥はご存じでしょう?……未だ政界、経済界への影響力は強いですし何よりこの学校の理事長は彼女の実兄です。うちの生徒は偏った分野に突出した学力を持つ人間も多いんですが彼女の場合はオールラウンダーですし、しかもハイレベルの。加えてあの容姿。立ち居振る舞いも見事だし、『姫』の呼び名は皆が憧れや尊敬を持って使ってるんです…………まぁ、でも、今はちょっとご機嫌斜めかな?」

 

からかうような茅野の笑顔に和人はその裏を探る意図で「男子達は憧れや尊敬だけ、じゃないだろう?」と問いかければ、含みに気づいた茅野は軽く肩をすくめていつの間にか自分に向けられている深黒の瞳に「そうですねぇ」とあくまで軽い口調で肯定する。

 

「人間的にとても魅力的な人ですけど、男は馬鹿ですからね。佐々っちを笑ってばかりもいられない」

 

馬鹿と評された男に自分も入るのだと気づいた和人が声を出さずに自嘲気味の笑みを零した。

 

「だよな。特に十代後半の男なんて本能が服着てるようなもんだし」

「桐ヶ谷さんもそうでした?」

「ああ、けど後悔は全くしてないよ」

「それは羨ましい。同じような感じで彼女に告白する男は後を絶たないんですけど、今のところ全員見事に玉砕してます」

「……へぇ…………君も?」

 

つい口を突いて出てきてしまったあまりにもプライベートな質問にすぐさま「ごめんっ」と和人が謝罪すると、茅野は特に気にした様子もなく「いいえ」と首を軽く横に振った。

 

「僕は結城さんに出会う前から彼女いるんで」

 

先程からどこか余裕のある態度はそのせいなのか、と妙に納得していると茅野は珍しくも困ったように眉を寄せて歳相応の少し情けない笑顔を晒す。

 

「じゃなきゃ一緒にクラス委員なんて他の男子から呪い殺されますよ」

「随分と過激だな……」

「大げさな事ではないと桐ヶ谷さんも納得してるんじゃないですか?。既に随分と結城さんの事を気にしてるようですし……」

「オレは……彼女もクラス委員だから、今後、世話になると思ったからで……なのに、いつもあんな感じで一人なのか?」

「ああ、そんな事はないです。先週から一番仲の良い篠崎さんが海外に行ってしまってるんで、たまたまですよ。『篠崎物流』の社長令嬢なんですけど貿易会社なので父親が仕事で海外に行く時は必ず同行するんです。桐ヶ谷さんの実習期間中に帰国すると思いますけど社長令嬢って言うよりは商人(あきんど)の娘さん、と言った感じで、明るく気さくな性格で家業の商売が大好きな人です。けど…………ああ、ほら、結城さんだって他の女子が声を掛ければ普通に笑顔で対応しているでしょう?」

 

ちゃんと自習をしていたグループもあったようで数人の女子が結城明日奈を取り囲み、困り顔でタブレットの一点を指で差している。多分、全員で頭をひねっても理解出来ない箇所があったのだろう、それに対し彼女は笑顔で解説をしていた。

 

「本当だ……」

 

安心したような穏やかな微笑みに逆に茅野が目を瞠る。けれどその笑顔を見ていたのは茅野だけではなかった。お喋りを楽しみつつ、ちらちらと視線を送っていた女生徒達が「ひゃっ」だの「きゃぁ」だの俗に言う黄色い声を小さくあげている。茅野は不用意にクラスメイトである女生徒達の心を誘惑する笑顔を隠すべく「桐ヶ谷さん」と彼の意識を呼び戻した。

 

「それにしてもOBでもないのに、よくうちの学校で教育実習の許可がおりましたね」

「オレの母校は統廃合でなくなっちゃっててさ。この学校に知り合いがいたから融通してもらったんだ」

「へぇ……校舎内の案内は、とりあえず特別教室はその都度で。体育館や講堂の場所はわかってますか?」

「んー、その辺は大丈夫かな」

「あとは……図書室とか保健室、購買部かな…………桐ヶ谷さん、今日のお昼は?、僕、カフェテリアで食べますけど、一緒します?」

「あー、昼は弁当持って来てるから職員室で食べるよ」

「そうですか……あ、弁当と言えば結城さんのお弁当は一見の価値ありですよ」

「そう……なのか?」

「はい、実は彼女実家から出てマンション暮らししてるとかで、いつもお昼は自分の手作り弁当なんです。前から料理好きだって言ってましたけど、毎日の弁当の中身がそれは見事で……ちゃんと自炊してるんですね。そういう所、素直に偉いなって思います」

「うん……オレもそう思うよ」

 

和人がゆっくり頷くと茅野は思い出したように「あ、午後の授業ですけど……」と人差し指一本を天井に向ける。

 

「環境観察をするので屋上に集合です。昼休みが終わる頃、職員室に迎えに行きますから」

「悪いな」

「いえ、高等部の校舎は屋上へ通じる階段が少しわかりにくい場所なんで初めての人はまず迷うんです。じゃあ次はここのカリキュラムの説明をしましょうか……」

 

そう言って茅野は自習になった一限目を和人の為に費やしたのだった。

 

 

 

 

 

職員室の扉の前に立ち、その取っ手に手をかける前に素早く左右を見回して他の生徒の影がないことを確認すると明日奈は目を閉じ、「ふぅっ」と大きく息を吐き出して心の平静を自分の中で再確認する。三年間通っている校舎に加えクラス委員という役目を担っている為、職員室を訪れる事自体に緊張はない。だから大丈夫、いつも通り、普通にやればいいのだと自分に言い聞かせて明日奈は職員室の扉をノックした。

 

「失礼します。三年の結城です」

 

扉を開け、名を名乗りながらお辞儀をして足を踏み入れる。

運が良いのか悪いのか、ちょうど目の前を担任の佐々井が横切るところだった。

 

「もっ、姫、どした?」

 

佐々井は片手に自分専用のマグカップを持ち、片手に細いスティック型のスナック菓子がデザインされている赤いパッケージの紙箱を持っていて、口にはそのスナック菓子が一本突っ込まれている。ちなみにそのスティック菓子は三分の二ほどがチョコレートでコーティングされている商品なのだが、佐々井の口から出ているそれは既にチョコ部分ではなく、まるで竹串をまっすぐ口に入れているような具合になっていた。

自分が無意味に気を張っているのはわかっているのだが、それにしても間近に登場した自分の担任の余りの緊張感のなさに明日奈は理不尽な苛立ちを感じる。無意識のうちに中央に寄った柳眉を見て未だ口をもぐもぐ動かしていた佐々井は焦った口調で「もももっ」と意味不明な平仮名を連発した。その不思議間投詞に一気に脱力した明日奈に更に追い打ちを掛けるがごとく佐々井が咀嚼し終わった菓子をごくんっ、と飲み込み勝手に話を進め始める。

 

「そうそうっ、環科(環境科学)のセンセーから午後の授業で使う観察キットを屋上に運んどいて、って預かってたんだった」

「佐々井先生、それ、朝のHRですべき日直への伝達事項ですよね」

「だったけど、すっかり忘れてた。だって、ほら、今朝は俺、元気なかったし」

「…………いいです。私が持って行きます」

「助かるっ、姫。ちっちゃい段ボール箱ひとつだし。軽いから」

 

そう言って佐々井が「ちょっと待っててね」と明日奈の前からいなくなると、遮蔽物がなくなって自然と視線が職員室の奥まで届く。

明日奈の片方の眉がピクリと跳ねた。

職員室の壁際に設置してある三人掛けのソファには真ん中に和人を置いてその周りを同じ実習生らしい若い女性達とやはり二十代の高等部の女性教諭が固めている。職員の入れ替わりがほとんどない私立では教え子でもない見ず知らずの教育実習生が珍しいのだろう、会話は聞こえないが女性陣は皆一様に楽しげな表情で、うち一人は和人に煎餅や饅頭が入っている菓子箱をお茶請けに勧めていた。

再び理不尽を自覚している胸のもやもやが膨れあがりそうになった時、佐々井が戻って来てその光景を遮断する。さすがにマグカップはどこかに置いてきたようだが、当人が言った通り中身は随分と軽いようで、両手で抱えてはいるものの片方の手は一緒に赤い菓子箱を掴んだままだ。

 

「ほいっ」

「あ、はい」

 

自ら引き受けた用件を思い出し、明日奈は半ば押し付けられるような形で小さな段ボール箱を両腕の中に収めた。それでも先刻目にしてしまった光景に気持ちが引きずられ仏頂面を晒していると、佐々井が「あれ?」と小首を傾げる。

 

「まだふくれっ面してんの?」

「ふっ!?、別に膨れてなんかいませんっ」

「しょーがないなぁ。一本だけだぞ。教材運んでくれる御礼なっ」

 

佐々井は手にしていた菓子箱からスティック菓子を一本取り出すとそれを明日奈の口元に向けた。

 

「ほいっ」

「えっ?、い、いりませんってば」

「ほらほら」

 

スティックの先端はどんどん明日奈の唇へと近づいてくる。

 

「別にお菓子が欲しかったわけじゃっ」

「はい、あーん」

 

両手が塞がっている明日奈は懸命に首を横に振りながら可能な限り上体を仰け反らせた。それでもチョコレートでコーティングされている菓子の端っこが真っ直ぐ桜色の唇めがけて迫ってくる。最後には唇を固く閉ざして「んーっ」と拒否の音声を響かせるが佐々井は呑気に「遠慮しなくていいってば」と明日奈の口に挿入する気満々だ。

彼女の唇のあわいとチョコにおおわれた丸みを帯びた菓子との距離があと数センチという所まで縮まった時、突然、ぐいっ、と明日奈の両腕が斜め後方に引かれる。当然よろける様にバランスを崩すが左右の二の腕をしっかりとホールドされている為、醜態をさらすことはなかった。

少し痛いくらいに腕を掴まれている明日奈の頭の上から冗談を言うみたいな軽さで低い声が降ってくる。

 

「佐々井先生、そういうお菓子のあげ方、女生徒にはダメですよ。結城さんも、なに餌付けされそうになってるの」

 

けれど明日奈が驚いて見上げた先にある和人の顔は目だけが笑っていなかった。そんなちぐはぐな様子に気づいてないのか、佐々井は持っていた菓子をひっこめて「えっ、そうなの?、だって姫の両手、塞がってたしさぁ」と他意のなさをしきりと呟いていてから「ごめん、姫」と素直に謝罪を述べて、手にしていたスティック菓子を自分の口に押し込み一気にポリポリポリッとその存在を消す。

明日奈はすぐに自力で姿勢を整えると振り向いた状態で和人に「有り難うございました」と軽く頭を下げてから上目遣いで視線を鋭くした。

 

「けど、餌付けされているわけではありませんから。私より桐ヶ谷さんの方がよっぽど……」

「は?」

 

明日奈の脳裏にさっきまで同世代や年上の女性達に囲まれていた和人の姿が蘇っている。その中心にいた和人は少し困り顔にはなっていたが、遠目にも嫌がってはいなかったし差し出されたお茶請けをどことなく嬉しそうに受け取っていたのだ。今朝、教室に登壇した時も思ったが、この実習生は自分の見た目の影響力の自覚が足りないのではないだろうか?、と明日奈はその真っ黒い瞳を見つめて思う。

細身の体型ではあるが、脆弱さや頼りなさを感じるような身体の線ではないし、優しげな顔立ちでも心の強さを感じさせる瞳の力強さは一瞬で周囲を魅了する。加えて誠実でありながら親しみやすい言葉遣いで気さくな笑顔を振りまけば自ずと結果は見えるのに、と今朝からどこか浮き足だっているクラスの女子達の様子を思い出して明日奈は溜め息をついた。気持ちの高揚まではクラス委員が口を出すべき領域ではないとわかっているが、実習期間が終わるまで毎日あんなふわふわとした雰囲気の中で授業を受けなければならないのかと考えると頭痛がしてくる。

 

「ちょっと、結城さん。なんで溜め息?!」

 

ぎょっ、と驚いた顔で聞かれて明日奈はその質問に対しても漏れてしまいそうになった呆れの息を寸前で飲み込んだ。

どこまでこの人は鈍いのかしら……いっそ憐れみさえ芽生えそうになるが今の状況を顧みれば少しの違和感も生じる。ついさっきまで職員室の奥で女性陣に囲まれていたはずの和人が明日奈の窮地に気づき、素早くここまでやって来てくれたのだから……思わず自分まで心が浮き上がってしまいそうになるのを「こほんっ」と少々わざとらしい咳で諫めて、未だ自分の腕に和人の手がある事に気づき身体をひねった。

和人と相対する位置に立ち、溜め息の理由は黙秘で押し通して「桐ヶ谷さん」と落ち着いた声を出す。

 

「そろそろ午後の授業が始まります。屋上まで案内しますから付いて来て下さい」

「それって茅野君と約束したんだけど?」

「彼は生徒会役員に捕まってしまったので私が代役を頼まれました」

「茅野君って生徒会のひとなのか」

「前生徒会長です。代替わりしたばかりなので、まだ時々呼ばれるんです」

「そっか……それで結城さんが迎えに来てくれたんだ」

「はい、私もクラス委員ですから桐ヶ谷さんのフォローは当然です」

「ふーん。じゃ実習期間中はずっと仲良くしてもらえるのかな?」

「……クラス委員として、ですけど……」

 

両手で持っている段ボール箱を挟むように和人が明日奈との距離を詰めてきて、悪戯を仕掛けてくるような笑みで覗き込まれれば、居心地の悪さを感じた明日奈は頬の赤みを見せまいと顎を引いた。背後にいる佐々井は気づいていないだろうが、既に和人の手は段ボールの下に回り込んでいて、箱を持つ明日奈の柔らかな手を包み込んでいる。

一方、二人のやり取りを静観していた佐々井がその会話と職員室の壁に掛かっている時計で時間に気づき、ペペッと菓子をつまんでいた指を舐めた。

 

「やばっ、俺も午後イチの授業の準備しないと。じゃ、姫、桐ヶ谷君の事は宜しくね」

「あ、はい。わかりました」

 

佐々井の言葉に応じるタイミングで振り返って和人の手から脱出した明日奈は「段ボールは私が持ちますから、とにかく付いて来て下さい」と言って和人の横を通り抜け職員室を出る。その凛とした後ろ姿を肩をすくめて眺めていた和人は「りょーかい」と巫山戯た返事をして「ファイル取ってくるからそこで待っててくれ」と彼女に言葉を投げかけた。

 

 

 

 

 

和人を従える形で廊下を歩く明日奈は、キョロキョロと楽しそうに視線を飛ばしている背後の教育実習生の姿を盗み見ながら「はぁっ」とこっそり心労の息を吐き、眉尻を落とした。自分が校内を移動する時に浴びる様々な視線にはいい加減慣れているが、今はそれ以上に好奇の目に晒されている。かと言って並んで歩けば、それはそれで自分の方も色々ともちそうにない。

そんなこちら側の悩みなど爪の先ほどもわかっていない和人の様子に段々と腹も立ってきて、明日奈は無言のままひたすら屋上へと続く階段まで足を運び続けた。

 

「突き当たりの角を曲がるとご覧の通り、下に行く階段があるんですけど、その脇を通り抜けて進めば……この壁の向こう側に……ここです」

「なるほど、まるで隠し階段だな」

 

壁の終わりまで来ると、その影に隠れるように屋上へと続く階段が現れる。

 

「ここまで構造が入り組んでいるのはこの校舎の建物年代が古いせいで増改築を繰り返したからだそうです」

「ふーん、なんだかダンジョンの入り口みたいでワクワクするけど」

 

子供のように濡れ羽色の瞳を輝かせている和人が「ここに来るまでにも、一見、何の部屋かわからない扉もあったし」と言うのを聞いて明日奈は瞬時に自分の失態を察した。

 

「ごっ、ごめんなさいっ」

「へ?、なにが?」

「ここに来るまでに特別教室の前をいくつも通ったのに、私ったら全然説明しなくて……」

「あ……ああ、まぁ、いいよ。今度ゆっくり案内してもらうし。それより時間ないだろ。その観察キット、早く持っていかないと」

「あっ、そうだ」

 

明日奈は少しの気まずさを残しながらも改めて自分の手にある段ボールを持ち直し屋上へと続く階段を上り始める。後から上り始めた和人は一段飛ばしですぐに明日奈を追い越すと、一足先に屋上へと続く扉の前に立ちその取っ手に手をかけた。

ギギッと重い扉を動かして明日奈の歩みが止まらぬよう道筋を作ってくる。その気遣いを今度は素直に受け取って扉を押さえていてくれる和人の前を通り過ぎる時、ちらり、と視線を上げると表情の選択に困りながらも「有り難う」と伝えれば、優しい眼差しが返ってきた。

その微笑みから逃れる為、慌てて顔を反らし屋上へ降り立って周囲を眺めれば、既にクラスメイト達はほぼ集まっている状態だ。予鈴はまだ鳴っていないし担当教諭も到着していないが、それでも明日奈の性格上、授業の教材を持っている自身の責任を感じて急ぎ足になるが、ちょうど屋上ならではの突風が彼女の髪をぶわり、と巻き上げる。

踏み出した足を咄嗟に止めて「きゃっ」と小さな声をあげると、すぐ後ろから「待って」と身長差をなくす為に屈んでいるらしい和人の声が耳裏で聞こえた。あまりの至近距離に思わず固まっていると更に耳たぶに唇が触れているのではないかと錯覚する程の位置から秘め事を囁くような甘い声が明日奈だけに注がれる。

 

「髪ゴム、ポケットだろ?」

 

問うまでもない確信めいた言い方で、暗にポケットを探るからと承諾を得る為だけの言葉に何の否定も拒否反応も示す間なく、明日奈の制服のブレザーポケットに和人の手が滑り込んだ。既に右か左かなどという些末事は口にする程の事もないらしい。そこにあるのが当然とばかりに迷うことなく目当ての物を手に入れた和人は、屋上で思い思いに過ごしている他の生徒達が気づかぬうちに慣れた手さばきで明日奈の髪に触れた。片手は下からすくい上げるように手の平で髪全体を収め、もう片方は手櫛としてサラサラの指通りを楽しむように何度も梳く。艶やかな栗色の髪と白くて細い首、短い後れ毛に綺麗なうなじと盆の窪はなまめかしささえ感じられて、和人は知らずに唾を飲み込んだ。

 

「ん?……これでよし」

「……ありがとう」

「こんな入り口でなーにイチャついてるんです?」

 

振り返る事も出来ないまま、なんとか御礼だけを口にした明日奈は更に背後からの乱入者に声すら上げられず両肩を大きく跳ねかせる。

 

「ああ、茅野君。生徒会はもういいのか?」

「はい、授業に遅れるからと言って逃げてきました。一回捕まると余計な事まで手伝わされるんですよ。それより随分結城さんと仲良くなったんですね、桐ヶ谷さん」

「んー、オレは仲良くしてもらいたいんだけどさ、彼女、なかなか鉄壁で。ここ、風が強いだろ。髪が乱れてたからゴムで結わいてあげてたんだよ。オレ、妹いるから慣れてるし」

「なるほど。でも、結城さんの髪に触ったなんて男子生徒にバレたら本当に呪い殺されますよ」

「呪いって……わかった、気をつけるよ」

 

渋々明日奈から離れ、両手をハンズアップした和人は背筋も伸ばして降参をアピールした。距離を取ってもらえたことで緊張し続けていた肩の力を抜き、ゆっくりと振り向いた明日奈を見た茅野はその両手が塞がっていた事に改めて気づき、頷くもそのまま小首を傾げる。

 

「手が使えなかったんだ。それにしても珍しいな、いつもの結城さんならあそこまでの接近は許さないのに……」

 

茅野が漏らした小さな疑問の声は屋上の風に吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

夜…………マンションのリビングにあるテーブルでラップトップPCを開き学校の課題を進めていた明日奈は背後から近づいてくる足音に気づいて顔を上げた。と同時に自分と同じボディソープの香りを漂わせた存在が背中から力強く自分を抱きしめてくる。

一瞬詰まった呼吸と緩く編んだ髪をサイドに流しているせいで露わになっているうなじへの、チュッ、という刺激に「んっ」と鼻にかかった声が漏れた。キーボードを叩かなければならない指が止まない首筋への刺激と連動してピクッ、ピクッと震えるたびに明日奈の肌が段々と朱を深くしていく。何度柔らかな唇に触れられただろうか、火照った肌は首筋の体温も上げていて今は繰り返し降り注がれる湿った接触がひんやりと心地よく感じるほどだ。ぞくり、と腰から背筋をまっすぐに這い上がってくる感覚を追い払おうと、明日奈は震える声で愛しい人の名を呼んだ。

 

「キ……リト、くん……」

「なに?、アスナ」

「ひゃぅっ」

 

逆効果だった。うなじに吸い付かれている状態で自分の名を口にされた事で、普段陽に晒さない敏感な肌の上を彼の唇が悪戯に動き回り、結果、全身を疼かせる刺激に堪らず悲鳴のような声が飛び出す。その声がツボったのか「くくっ」と楽しそうに喉を鳴らして明日奈の肩に顎を乗せた和人はまるで猫のように頬を彼女の首筋にこすりつけた。

 

「学校の屋上ではヤバかったな。実習初日からこれじゃ、あと二週間、我慢できそうにない」

「はっぁ…………もうっ、うちでお料理してる時に髪をまとめてくれるのは助かるけど、学校でやるなんて思わなかったよ」

「だって全然アスナに触れられないし。それにさ、学校だとオレへの態度、違うだろ」

「あっ、当たり前でしょっ。学校では生徒と教育実習生なんだからっ」

「昼休みには担任に餌付けされそうになってるし」

「だから、あれは、ちがぁ……ぁんっ」

 

首元にすり寄せていた頬がいつの間にか舌に代わり、耳の下から鎖骨の辺りまで首筋をつーっ、と舐め降りてくる。

 

「それに男どもは『姫』『姫』って……」

 

『姫』の呼称は男子生徒や男性教諭からに限っているわけではないのだが、それを言うと更に機嫌を損ねそうだと、明日奈は訂正を諦めた。和人が身を乗り出して胸元が緩い明日奈のパジャマに顔を突っ込み鎖骨の下の柔肌にきつく吸い付いてくる。鈍い痛みを感じた事で赤い所有印の存在を確信したが、位置的には制服のブラウスでも体操服でも隠れるし、昼間、職員室で女性陣に囲まれていた和人を思い起こせば、彼からの余裕のないマーキングは明日奈に嬉しい安堵と少しの優越感をもたらした。

 

「『ヒメ』じゃなくて、オレの『ヨメ』だけど、って何度も言いそうになった……」

「……ひぁっ……そ……それ、ダ……メ……」

「『ダメ』って?、アスナがオレの奥さんだってバラすこと?、それともこっち?……」

「ふぁっ……あッ……んンッ……」

 

所有印の上を和人の舌がちろちろと傷口を癒やすように舐めてくる。痛みと呼べる程の痛みでもない、和人に印された痕の上を更に和人によって刺激されると、薄い皮膚の内側と外側の両方から攻めてくる違和感が徐々に甘い感覚へ変換されて次第に息が上がっていく。加えて明日奈のウエストで交差していた夫の両手はもぞもぞと不埒な動きを見せ始めていた。

このまま流されるわけにはいかない、と明日奈はキーボード上にあった自分の手でパジャマの下に入り込もうとしている和人の手を捕獲する。

 

「っン……はぁっ、はぁっ……だから……ダメッ。この課題、やっちゃわないと」

「んー、ホント、クラス委員の結城さんは真面目だなぁ。今日はずっとアスナのクラスにいられたけど、さずかに明日からは担当教科の先生と行動する事が多いから、学校ではあんま話せないぞ」

 

要は近くにいるのに接触できない分、今、存分に触れ合いたいのだと強請る漆黒の瞳を間近に見て、明日奈は宥めるように風呂上がりで僅かに湿っている和人の髪を頬で撫でた。

 

 

「その方が私としては落ち着くんだけど。だいたい何でうちのクラスに配置されたの?、普通は担当教科の先生のクラスでしょう?」

「佐々井先生の『イン・コミ』も全くの畑違いってわけじゃないし、そもそもオレの担当教科の先生は今期、クラス担任をしてないらしい」

「だからって…………」

 

しっかりと和人の手を押さえ込んだ形で会話を続けていた明日奈はひとつの推論に行き着き、眉間に皺を寄せた。

 

「あー……きっと、それも兄さんの仕業ね」

 

昨晩、夫である和人から、明日から二週間は教育機関のとある施設に研修に行く、とだけ告げられた明日奈はあまり深く考えずに、大学生でもそういう事があるのね、程度に受け止め、今朝はいつものようにお弁当を渡して「行ってらっしゃい」と見送った…………まさか二時間も経たないうちに同じ教室で顔を合わせるとは思ってもみずに。

なんとか平静を装ってその日の学校生活を終えてマンションに戻り、教育実習生の歓迎会を適当に抜けて帰って来た、という和人を「おかえりなさい」と出迎えた後、当然すぐに問い詰めたのだ。

 

『どうしてキリトくんが教育実習をするの?、大学を卒業したら今のアルバイト先の研究所への正式採用が決まってるでしょう?』

『浩一郎さんとの約束だったんだ。アスナと結婚するのに色々と協力してもらう為のね』

『だったら私にも教えてくれたって』

『うーん、それもさ、約束のひとつで。アスナには内緒にして驚かせようって』

 

和人と結婚するとき、自分の兄が反対するどころか両親や親族への説得まで味方になってくれた事に単純に喜んでいた明日奈は自分の浅慮さに落ち込んだ。あの若さで理事長をしている兄が何の見返りもなく妹の幸せを後押ししてくれるはずがなかったのだ。

きっと教育実習にやって来た自分の夫を教室で見て心臓が止まりそうなくらい驚き、それを必死に隠そうとする妹の姿を想像して楽しんだことだろう。その為に理事長特権で実習の話を内密に進め、配置も明日奈のクラスにしたに違いない。

そして実妹だからこそわかってしまう、それだけではない兄の思惑が……やり手の兄は既に国家機密さえ扱う国内トップクラスの研究所に採用内定がでている程の頭脳を持った妹の伴侶を、あわよくば、将来、学校教諭として自分の元に迎えたいのだ。その為に結婚への協力条件として「教員免許の取得」を掲げ、実習校の便宜も図ったのだと明日奈は確信していた。

我が兄ながら本当に頭の切れる人物だが、きっと妹の幸せを願って協力してくれたのも間違いなくて、明日奈は「ふぅっ」と息を吐き出してから、月に一度、理事長室に差し入れするお弁当の中身を来月は兄の苦手なピーマンづくしにしようと決意する。

 

「ホントに兄さんったら勝手なんだから」

「それでも、まだ学生であるオレのアスナを娶りたいっていう我が儘を叶えるためにあっちこっち手を尽くしてくれたのは事実だよ」

 

和人は数年越しの想いを実らせてやっと手に入れた、《現実世界》で法的にも伴侶となった明日奈をギュッと抱きしめた。

和人が明日奈と出会ったのは約四年前、《仮想世界》のキリトとして偶々MMORPG初心者だったアスナにゲーム世界での楽しみ方をレクチャーしたのがきっかけだった。それまでどんなに親しくなった女性プレイヤーであっても「結婚しよっか?」と誘われた途端、困り顔の中に曖昧な笑みを浮かべ「ごめん」と断ってからそれまでの関係性を続けられなくなり疎遠になるのがパターンだったキリトが、なぜかアスナには特別な感情を抱いたのである。自ら「結婚しよう」と告げた相手は彼女が初めてだったし、その言葉は《現実世界》でも同じ女性にしか口にするつもりはなかった。

共に二年間という時間の半分以上を《仮想世界》では夫婦という間柄で過ごした後、アスナが《現実世界》で高等部へ進学するのを機に自立の為に家を出て一人暮らしをするつもりだと知った時、既に大学生であり自らの才気と努力で特殊な研究所でのバイトも始めていた和人は結婚を前提に同棲生活を申し入れたのだ。

ただ、その為には彼女の両親から承諾を得ねばならず、それが生半可な気持ちでは通じないことも覚悟していたが、そこに思いもよらない協力者が名乗りを上げてくれたのである。それが彼女の兄だった。力強い味方のお陰もあって双方の両親から許しをもらい二人での生活をスタートさせ、《現実世界》でも二年が経った時、和人は明日奈が十八歳の誕生日を迎えるのを待って今度は正式に結婚を申し込んだのである。

当然、周囲からは難色の色が示された。あの時、心から喜びを表してくれたのは明日奈だけだったと言ってもいいだろう。

既に進学先の大学も合格が決まっていた明日奈には「大学を卒業してからだって」や「せめて二十歳すぎてから」「高校卒業まであと半年もないのに」といった言葉の数々が和人の想像以上に浴びせられたに違いない。

そのひとつひとつに対し「妹は笑顔で『半年後でも二年後でも四年後でも、私が和人くんのお嫁さんになりたいって気持ちは変わらないの。だったら今でもいいでしょう?』と嬉しそうに答えているんだよ」と、兄の浩一郎から聞いた和人はそのまま将来の義兄を置き去りにして明日奈の待つマンションへ走って帰ったのだ。

そして明日奈の両親も娘からの根気強い説得と、和人の丁寧かつ誠実に婚姻を熱望する姿勢に加え、息子からのとりなしもあって、ついに二人の仲を認めたのである。

しかしながら当然、不要な混乱を避ける為、和人と明日奈が結婚した事はそれぞれの大学や高校には伏せられていた。だから明日奈も今朝、教室で和人を紹介された時、驚きは一瞬ですぐに困惑と憤りが膨らんだし、和人とは初対面を装ったというのに当の本人はニコニコと他の女生徒を始め女性教諭らと談笑しつつも気まぐれに自分に触れてくるものだから今日一日は振り回されっぱなしだったのだ。

改めて思い返すと少し前に入ったお風呂で流したはずの疲れがぶり返してくる。

 

「どうせどこかのタイミングで挙式をするんだから、いずれバレるだろ?」

 

彼の言うタイミングとは和人か明日奈が大学を卒業した時か、はたまた今はちゃんと対策をとっているが新しい家族を望んだ時か、とにかく今でないことは確かだと、明日奈は心を強く持った。教育実習生と配置先のクラスの女子生徒が実は夫婦でした、などと知られてはこれからの二週間、平穏な学校生活を送るのはまず不可能だ。いや、和人は二週間しか学校にいないが、明日奈はこの先、卒業するまで在籍するのであって、今回の事で和人を知る生徒や教師が急増してしまったのに、今後一人でその好奇心のただ中に居続ける度胸は自分にはない。

数年後に二人が晴れて夫婦であると公表した暁には高校の友人達から質問攻めにあう気がするが、それはその時考えよう、と明日奈は腹をくくった。

 

「とにかく実習期間中、学校ではクラス委員として、教育実習生の『桐ヶ谷さん』に接しますからっ」

 

妙に丁寧な言葉遣いが気に障ったらしく、和人が不満げに唇を突き出して反撃を試みる。

 

「ふーん、もっと言うならアスナは『姫』でも『結城さん』でもなく、もう『桐ヶ谷明日奈』なのになぁ……」

「学校では『結城明日奈』で登録したままだものっ」

「……まっ、仕方ないか。アスナもオレのこと『キリトくん』って呼ばないように注意しろよ」

 

出会いが《仮想世界》だった為、互いの呼称はキャラネームのまま実生活を送っている二人だったが、実はうっかり呼びそうになってしまった日中の場面を思い出して明日奈が頬を染めれば、すぐに心中を察した和人が揶揄いの言葉を続けた。

 

「明日は一緒にお昼を食べて欲しいってクラス委員さんに頼んでみるか……そうだ、中庭に丁度良いベンチがあったっけ。どう?、結城さん?」

「そ、そんなのダメに決まってるでしょっ」

「なんで?」

「あそこの中庭、カフェテリアから丸見えだし。それにお弁当の中身が一緒じゃないのっ」

「うん、アスナが作ってくれた弁当、今日の職員室でも皆驚いてたよ」

 

誰が作ったんですかっ?、ってしつこく聞かれて参った…………と聞いて、明日奈の眉がへにょり、と垂れ下がる。

 

「お弁当、実習期間中は持って行くのやめておく?」

「どうして?」

「だって……色々聞かれたら、困るでしょう?。キリトくん、そういう事で嘘つくの嫌いだし……」

「別に、嘘なんかつかなくても適当に誤魔化せるさ。それよりアスナの弁当がなくなる方がよっぽど困る」

 

それからマンションには二人しか居ないというのに、和人は内緒話をするように明日奈の耳たぶに唇を近づけた。

 

「オレの一番のエネルギー源だし。まあ、実習期間中、時々一緒にカフェテリアで食べるのもいいな…………それなら、いいだろ?、クラス委員さん?」

「んぅっ……クラス委員の茅野くんも……一緒なら……大丈夫、かな」

「……はぁっ、その実直さもアスナらしいんだけどさ」

 

感心しているのか、呆れているのか、再び明日奈のうなじへと鼻先を密着させた和人は上気した肌からあがる甘い香りを胸一杯に吸い込む。それから、ふと今日の午後、学校の屋上で同じように妻の首筋を見て抱いた疑問を思い出した。

 

「あれ?、でも、アスナ。昼間、首にチェーン付けてなかったか?」

「ぴゃぁっ」

 

今更チェーンの痕跡など残っているはずもないのに、確かに見たのだと証明するように和人の唇がうなじの下をぐるり、と啄む。刺激の再開に反応した声なのか、それとも聞かれるとは思っていなかった質問だったのか、少々素っ頓狂な声を発した明日奈は珍しく「あ……んっ……えと……」となかなか言葉にならない。

それでも更に迫るような口調で「あのチェーン、なに?、立派な校則違反だよな?」と誤魔化しが効かない事を痛感する言い方で問われれば、明日奈は観念したように「……あれは……ね」と言いながら後ろにいる和人へと振り返った。顔のすぐ横に左手を挙げて見せる。

何を意味しているのかがわからず、和人が怪訝な顔をすると明日奈はその薬指にはめているマリッジリングを見て小さな声で「これ」と恥ずかしそうに呟いた。

 

「えっ?」

「だから……制服の時はチェーンに通して首にかけてるの……結婚指輪」

「アスナ……」

 

アクセサリーの類いが校則違反だということはクラス委員でもある明日奈が知らないはずがない。けれどイヤリングや指輪のように目に付くような装身具でなければ、たとえ校内で付けていたとしても黙認してくれるのが実情だった。しかし真面目な明日奈なら咎められなくても違反と定められている事をするはずがないのもわかりきっていて、それでも結婚指輪だけは肌身離さず持ってくれているのだと知った和人は堪らずに振り向いたままの妻の唇を塞ぐ。

 

「んっ……ふぁ……あッ……ン」

 

指輪を見せるためにあげていた左手は、快楽に捕らわれまいと助けを請うように和人の寝衣の胸元をくしゃりと掴んだ。より強く、より深くと求めるように横向きのままの明日奈の頬を抱き込むようにして手の平を這わせ、もう片方で細い肩を抱き寄せる。肌を舐めた時や上気した匂いを嗅いだ時よりも直接彼女の内を味わう方が数倍も甘く感じるのはなぜだろう、と思う理性も、時折あがる明日奈の鼻にかかった嬌声で耳を刺激され、羞恥とその奥に見える淫らな欲望が溶け込んだ美しいはしばみ色を目にしてしまえば、すぐに焼き切れた。

これじゃあ十代後半の本能が服を着ている男子生徒達と変わんないか…………と頭の片隅で思うものの、まさに自分もその歳の頃に《仮想世界》で、とは言え、当時中学生だったアスナに結婚を申し込んだのだから、男の本能って怖いもんだな、と茅野から言われた「呪い殺されます」発言に今更ながら納得する。

確かに、今の関係にまで発展していなければ、学校で明日奈の本意ではなくても男子生徒に言い寄られていると知ったら自分もその相手を呪うくらいするかもしれない、と彼女の咥内で舌を遊ばせながら和人は考える。同時に明日奈が婚姻可能年齢に達してすぐ結婚を申し込んだのは正解だったと、和人は自分の判断を心から賞賛した。

自分の腕の中で蕩けている妻は桁違いの器量よしで時にそこらの軟弱な男より男前な部分もあり、かと思えば料理上手の家庭的な一面を併せ持つという多才で魅力あふれる存在だ。加えて結城財閥の一人娘でもあり有名私立校の理事長を兄に持つ文句の付けようがないお嬢様なのである。彼女を狙うオオカミどもは同世代の男子生徒だけに留まらず、同じ高校の若い教師や財界の子息達もその群れに名を連ねるだろう。

そんな彼女がこうやって自分にだけはどこまでも触れる事を許し、あまつさえ強請るような言葉と仕草まで向けてくるのだから、男として夫として、歓喜に震えるしかない。

絡めた舌を解き、わざとピチャピチャと音が立つように彼女の舌をくすぐってやれば、音と刺激に反応して両肩をふるり、と揺らし、堪えきれない快感が涙と共に零れ落ちる。それを拭うことも出来ず、和人の唇や舌で与えられ続けている愛撫に明日奈はどんどんと追い込まれている自分を感じていた。

こんな風に和人によって乱されるのはとても困惑するのに、それを嫌だと思う感情がこれっぽっちもみつからない。

普段の自分からは想像も出来ないような甘ったるい声は恥ずかしくて、けれど抑える術もなく、そんな声が素直に出てしまうと和人の瞳が嬉しそうに細くなり、自分の内の彼の舌がもっと深い部分をこすってきて、それを気持ち良いと感じてしまう自分にまた困惑するのだ。

さっきまで自分の舌を弄んでいた和人が今度は誘うように角度を変えて触れてくれば一人では出せない音が咥内で生まれて、隙間なく唇を塞がれているせいでそれが直接脳に響いてくる。こうなってくると徐々に明日奈の感覚はひとつに絞られ、ただ和人の熱しか感じられなくなり、その熱をもっと、と望んでしまうのだ。

和人の胸元を掴んでいたはずの手もすっかり力が抜けて、いつの間にか、ただそこに触れているだけになっている。

口づけを解いたらすぐにバランスを失って倒れ込んでくるだろうと予想し、和人は次の段階に進むべく最後に彼女の唇を舐めると素早く明日奈の隣に回り込んで、その小さな頭を受け止めた。抱き上げて寝室へ運ぼうとすれば、ぼんやりとした視線だけがゆらり、とテーブルに置きっ放しのPCへ落とされて、それが何を意味する気がかりなのかを悟った和人は軽く苦笑いをしてから明日奈の額に唇を落とし、囁く。

 

「課題の締め切りにはまだ日にちがあるんだから、今夜はこのまま……いいだろ?」




お読みいただき、有り難うございました。
JKと教師(今回は教育実習生ですが)モノ、王道です(笑)
とは言え、すでに入籍済みですが……。
(今度、婚姻可能年齢が女性も18になるので使わせていただきました)
本当にタイトル通り「もしも……」のif設定でございます。
ここまでくると《かさ、つな》のパラレルですね(苦笑)
あまりにもパロすぎて受け入れられない、という方が多くないといいのですが……。
(それだと感謝投稿にならない)
この設定は今回限りですのでご安心を。


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【いつもの二人】いつかぶん

急遽、予定を変更しまして【いつもの二人】シリーズをお届けしたいと
思います。
今回は和人と明日奈の息子、和真の目に映る「いつもの二人(両親)」と
いうお話です。


リビングのソファに座ってお気に入りの本を読んでいた時だ、この本は初めお母さんが僕に読んでくれてたけど、今年、小学生になった僕はもう自分で読めるようになっている。お昼ご飯のお片付けも終わったはずのキッチンからなんだかいい匂いが流れてきて、僕は何十回も読み返している、黒ずくめの勇者が長い旅をして、その度に仲間を増やして、悪い怪物に攫われた髪の長いお姫様を取り戻すっていうこの冒険物語は、何度読んでも夢中になっちゃうのに、そのいい匂いをかいだ途端、その読みかけの本をすぐに放り出してソファによじ登り、背もたれを両手でつかんで膝立ちの状態でキッチンの方に身を乗り出した。

 

「お母さんっ、今日、お父さん、帰ってくるの?」

 

この匂い、お父さんが大好きな『お母さん特製・いろいろたっぷりシチュー』の匂い。

このシチューをお母さんが作る時は絶対、夜にお父さんが帰ってくる。

お昼ごはんの食器を片付け終わって、そのまま晩ご飯の仕込みに入っていたお母さんは、ひょこっ、とキッチンから顔だけ覗かせて、嬉しそうに「ふふっ」って笑った。

 

「うん、和真くん。今朝ね、お父さんから連絡あったの。なんとしても今日中に帰ってみせるって」

 

「なんとしても」「帰ってみせる」……さっきまで読んでいた本に出てくる勇者も、お姫様の事を「なんとしても、取り戻してみせるっ」って何度も言ってる……力強くて、格好良いい台詞だ。それに魔法の鏡を使って遠くの人とちょっとだけお話できるお姫様だって、黒い勇者に「待っていてくれ、必ず迎えに行くから」って言われるととっても元気になって笑顔一杯になるんだ、ちょうど今のお母さんみたいに。

でも……今日中かぁ、もしかしたら僕が晩ご飯を食べる時間には間に合わないかもしれない……寝るまでには帰って来てくれるといいな……夜中に帰ってきても朝早くにお家を出ちゃうことが珍しくない僕のお父さんは、研究所っていう場所で難しいお仕事をしている。

難しいから、終わるまで何日もかかるんだってお母さんが教えてくれた。

あんまり難しくない時はちゃんと毎日、おうちに帰ってきてくれるけど、この前、最後に会った時は物々交換みたいに玄関先で洗濯物の入った紙袋をお母さんに渡して、代わりに新しいお洋服と肌着の入った鞄、それとお母さんが作ったお弁当を受け取ったお父さんは僕の頭に、グリッ、って手の平押し付けて『明日奈を頼んだぞ、和真』って言うから『お父さんこそ、ヨレヨレのボサボサだけど大丈夫?』って心配したら、はぁっ、って大きな溜め息ついて『今、修羅場なんだよ』ってもの凄い不機嫌な声で言われた。

『シュラバってなに?』って聞いたのと、お母さんが『和真くんにそういう言葉、まだ早いからっ』って眉毛をぴんっ、と吊り上げたのは同時で、でもお父さんは時間がなかったみたいで全然違う事を言った。

 

『タクシー待たせてあるから、見送りはここでいいよ…………明日奈』

 

お父さんと一緒に外まで出ようとしていたお母さんは名前を呼ばれてちょっとだけ背伸びをする。

あ、いってらっしゃいのほっぺチューだ。僕も保育園に通っていた時は、毎朝、お母さんとバイバイする時、かならずやってもらってた。

でも、お父さんは受け取った荷物を片手にまとめて持つと自由になった手でお母さんの顎をつかまえたまま、ほっぺたじゃなくてお口同士をくっつける。

ビックリしたお母さんが『んんっ!』て言って、慌ててお父さんの胸をポスッ、ポスッ、って叩くとチューが終わって、急いで振り返って真っ赤なほっぺをして僕を見るけど、僕ちゃんと知ってるよ、これはお父さんだけがお母さんにしていいチューなんだって。

今までに何回も見てるし、ほっぺにチューし合うより一回で済むし、ほっぺチューより仲良しになれるんだってお父さんが教えてくれたから、僕もお母さんとしていいのかな?、って思ったんだけど、ユイ姉に聞いたら『絶対にやめて下さい、和真くん』って珍しく真剣なお顔と声で言われた。

『あのチューは男の子がお嫁さんにしたい女の子か、お嫁さんになってくれた女の子にするチューなんです』って物知りのユイ姉が僕にもの凄く顔を近づけてきて、そんなに近くで喋らなくても、僕、聞こえるんだけど……だからお母さんとは出来ないチュー。

保育園生だった頃はお母さんをお嫁さんにしたいなぁ、って思ってたけど、そうしたら他の保育園のお友達の男の子もみんな『和真のママをお嫁さんにしたい』って言い出して、大げんかになった事がある。

たまたま、その日は急遽お父さんがお迎えに来てくれて、保育園の先生からケンカの原因を聞いたお父さんが今まで見た事もないくらい怖い顔で『明日奈を嫁に欲しいってほざいた園児全員呼んで来い』って言って…………あ、これ思い出すと涙でちゃうからダメなんだった。

これもユイ姉に聞いたら『軽いトラウマっになっちゃったんですね、和真くん』って困った笑顔で言われて『大丈夫ですよ、保育園でパパがやらかした騒動はママがきっちりパパを叱って、園にもお友達にも許してもらっていますから』ってホログラムだけど頭を撫でてくれた。

とにかく、僕のお父さんはお母さんの事が大好きで、お母さんもお父さんの事が大好きなのは…………ほら、珍しくお料理しながら鼻歌歌ってる。

本当はお歌もとっても上手なのに、普段は絶対に歌ったりしないから。

保育園の謝恩会で僕達卒園児と保護者が先生達にお歌のプレゼントをしようって決まって、練習した時、お歌を教えてくれたお友達のお母さんが驚いてたっけ。

そのお母さんは「せいがくか」っていう勉強をした人で、やっぱりとっても上手いんだけど、今でも週に一回、歌うのが好きな人達を集めて練習してて、是非、参加してみない?、ってお母さんを誘ってた。

お母さんは御礼を言ってから申し訳なさそうに断ってたけど、そんな風に上手なお母さんの鼻歌とカチャカチャお料理する音とを一緒に聴いてると、なんだか眠くなってくる。お母さんはお鍋の蓋を閉じると鼻歌を終わりにして「あとはじっくり煮込むだけね」って言ってキッチンから出てきた。

 

「あれ?、和真くん、眠くなっちゃった?」

「うん」

「じゃ、お昼寝する?」

「うん。お母さん、夕方、起こしてくれる?」

「そっか。土曜日だから和真くんが楽しみにしてるテレビ、あるもんね」

 

お母さんのほわん、ほわんな笑顔を見ていると思わず大きな欠伸まで出てくる。だけどその時、ガチャッてリビングのドアが開いて、のっそりと男の人が…………お父さんが入ってきた。

 

「和人くんっ」

「お父さんっ」

 

お母さんはお料理しながら鼻歌も歌ってたし、僕はうとうとしてたから玄関が開いたのも全然気づかなかったんだ。お父さんはこの前見た時よりもっとボロボロになってて、伸びすぎの前髪がお顔の半分を隠してて一瞬誰だかわかなんいくらいだった。でも黙ったまま、タッタッタッ、って大股に力強く真っ直ぐしっかりと一直線にお母さんの目の前に辿り着くと、ジッとお母さんの顔を見て……お母さんはすごく驚いてお目々を大きくしてたけど突進してきたお父さんにちょっとだけ口の端っこをヒクッ、ってさせてから「お、お帰りなさい、和人……くん?」って覗き込むように顔を近づけた。

そうしたら、いきなりガバッてお母さんに抱きついて、両腕でギュウッて抱きしめて、ほっぺをスリスリッてして、仕上げにそのほっぺに軽くチュッってしてから嬉しそうな声で「ただいま、明日奈」って言ったんだ。

僕も慌てて「お帰りなさいっ、お父さんっ」って声をかけたら、顔だけをこっちに向けて、ニヤッって笑ってから「ああ、和真、ただいま」ってお返事してくれる。

それからお母さんを抱きしめたまま、僕にこう言った。

 

「夕方まで明日奈はオレが貸し切るから、お前は一人で大丈夫だな」

「二人でお出かけしちゃうの?」

「いや、寝室にいる。和真、お前、オレが何日家を留守にしてたか分かってるか?」

「えっと……いち、に、さん……みっか?」

「はずれ。三日前は玄関先に寄っただけだからノーカンで正解は五日間だ。だから五日分、取り戻す」

「あっ、勇者とおんなじ台詞。お父さんが欲しいお母さんからの五日分ってなに?…………あ、チュー?」

「ふぇぇっ!?」

 

お父さんにぴたっりくっついてるお母さんから面白い声が飛び出すと、お父さんはにんまり笑って「それは正解」って頷くから僕は、あれ?って思って手の平を出した。

 

「お母さんがお父さんにするチューって、行ってらっしゃい、とお帰りなさいと……」

 

指を折って数を数えていく。

 

「そうだっ、あとおはようのチューだよね」

 

今度はお父さんが「うへっ?」って面白い声を出した。

 

「なっ、なんでお前が知ってるんだよ、和真っ」

「えー、だって僕も朝とかお昼寝から起きる時、お母さんにチューしてもらってるもん」

 

僕はその時を思い出して、たまらずに両手をギュッと握った。お父さんがしてもらえなかった五日分のチューをまとめて、ていう気持ちはとってもよくわかる。お母さんがチュッ、ってしてくれる瞬間、とっても良い匂いがするし、とっても嬉しい気持ちになれるから。だから保育園でバイバイする時も我慢できたし、お迎えに来てくれた時にしてくれるチューでとっても安したんだ。

僕は頭に浮かんだままの数字をお父さんに告げた。

 

「一日三回だから五日分だとチュー十五回かぁ。いいなぁ、お父さん」

「……ちょっとまて、和真。今の小学校は公立でも一年生にかけ算を教えるのか?」

「……かけ算、ってなに?」

「かけ算の定義知らなくて、どうして計算できるんだよ」

「計算なんてしてないよ。だって一日三回だから五日で十五回なの、当たり前でしょう?」

「あー、わかった、わかった。和真はそういうのを理屈じゃなく直感で理解するタイプか……明日奈みたいに概念から理解するタイプだと応用が効くんだけどな。こいつ、ピンとこない物はきっといつまでもピンとこないままだぞ」

 

呆れたような、それでいて同情って言うの?、そんな感じの目でお父さんが僕を見てくるとお母さんが、くすくす、と笑い声を立てる。

 

「和人くんみたいね。でもその代わりひらめきや発展力は強いと思うよ」

「かもしんないけどなぁ……とにかくだ、和真、夕方までオレや明日奈がそばにいなくても大丈夫だろ?」

「うん、僕、これからお昼寝するんだ」

 

お父さんが帰ってきてうっかり忘れそうになってたけど、やっぱり何だか頭の中がほわほわしてきた。

 

「でね、テレビの時間になったらお母さんに起こしてもらうの」

「それは無理だな」

「えーっ、なんで?、なんで無理ってわかるの?」

「断言してもいい。お前はアラームをセットするなり、ユイに起こしてもらうなりしろ」

「お母さんからチューを十五回してもらうのに、夕方までかからないでしょう?」

「五日分は色々とかかるんだよ」

「ちぇーっ……。ユイ姉、ユイ姉」

 

僕が呼ぶとすぐにユイ姉のホログラム映像がリビングに現れる。

 

「どうしました?、和真くん」

 

ユイ姉の姿は僕が生まれてから二回ほど外見がバージョンアップされてて、今は中学生のお姉さんって感じなんだ。

 

「僕、ソファでお昼寝するから起こしてくれる?」

「お安い御用です」

「でね、起こしてくれる時、お母さんみたいにチュッって…………やっぱりいいや」

「え?、和真くん?、ここならホログラム展開できるのでチューできますよ?、ねぇ、ねぇ、和真くん」

「うん、ありがと。でもいい。チューはお母さんのがいいんだ」

 

ちょっと寂しそうなユイ姉にはごめんなさい、だったけど、ホログラムだからとかじゃなくて、きっとチューしてもらって起きても、お母さんと違うなぁ、って寂しくなるのは嫌だったし、そーゆーのユイ姉はすぐ気がつくから、ユイ姉を悲しませるのも嫌だったんだ。

逆にお母さんはちょっとウルッとしたお目々で「……和真くん」って優しく僕を呼んでくれたけど、お父さんがその空気をぶち壊した。

 

「こらこら、和真っ、明日奈をほだすなっ……ユイ、和真には寝付くまで、おやすみのチューでもしまくってやれ」

「はいっ、わかりました、パパ」

 

ユイ姉が途端に元気になる。

それからお父さんはお母さんの腰を片手で引き寄せて、まるで悪い怪物がお姫様を攫うみたいにしてお母さんをリビングから連れ去っていっちゃったんだ。

 

 

 

 

 

夕方、ユイ姉と並んでソファに座ってテレビを見ていたらリビングのドアが開いた……お父さんだ。

お家でのんびりする時によく穿いている黒のスウェットパンツに上は裸んぼさんのまんまでタオルを首にかけているから、どうやらシャワーかお風呂上がりみたい。そのタオルで乾ききっていない髪をガシガシとこすりながら「お、和真、ちゃんと起きたのか」って言ってソファの後ろを通り過ぎようとしたら、ユイ姉が「パパっ、また痩せましたねっ」ってほっぺたを膨らませた。

 

「あぁ、明日奈にも言われた。仕方ないだろ、明日奈に作ってもらう弁当って二食分が限度だし」

「パパ……まさか、ママのお弁当以外、口にしてなかったんですか?」

「さすがにそれはないよ。適当にカロリーサポート飲料とか摂取してたから」

 

いつものお仕事だと『ユイ姉にお願い』すれば、ちょっとだけなら研究所のお父さんの様子を覗いてきてもらえるんだけど、とっても難しいお仕事の時は分厚くて高い『壁』がいくつも重なってるからユイ姉でも簡単に『覗き見』は出来ないんだ。だからお父さんがちゃんとご飯を食べてなかったって知ったユイ姉はますますほっぺたを赤くさせた。

 

「そんなのばっかりはダメですっ、パパ!」

「わかってるけどさ、胃を動かすより頭と手を動かす事で意識がいっぱいになってるって言うか……特に修羅場ん時は明日奈の弁当じゃないとわざわざ作業を中断してまで食事をする気にならないし、そもそも空腹を自覚しない……」

「パ〜パ〜」

 

滅多に聞かないユイ姉のお腹の底から響いてくるような怖い声だったけど、お父さんは、フッ、て笑って「そういうとこ、明日奈に似てるよなぁ」ってしみじみと言うと、途端にユイ姉のプンプンがしぼんでいく。

ユイ姉、お母さんに似てるって言われると嬉しくなっちゃうんだよね。

お父さんは思った事を言っただけだ、って言うけど、そう言われるとユイ姉はお父さんの事、怒れなくなって、悔しそうなんだけど、でもどこか嬉しそうで、それから「ズルイですっ、パパっ」って言うのがお決まりのパターンなんだ。

それにしても、お腹が空いてるのもわからなくなっちゃうくらいお父さんのお仕事が難しいのにはビックリだけど、お母さんのお弁当だけは特別なんだ、ってわかったら僕も嬉しくなって、それから今日の晩ご飯はいろいろたっぷりシチューをみんなで食べられるって思ったら、もっと嬉しくなって、だってみんな揃っての晩ご飯は……あれ、みんな?……お母さん?

 

「ねえ、お父さん。お母さんは?」

「ん?、ああ、明日奈ならオレと一緒に風呂に入ったけど、まだ休息が必要だったから寝室にいる」

「えー、じゃあ、今日、僕、お母さんと一緒にお風呂に入れないの?」

「そうだな。明日奈はもう入ったんだし。どっちみちここ数日はお前とは一緒に入れないから、オレが入ってやるよ」

 

って言う事はお父さん、しばらくお仕事お休みって事だよね。

やったー、そしたら途中まで一緒に組んでたゲープロ(ゲームプログラミング)の続き出来るかなぁ、あと《VRゲーム》で成人保護者同伴ならチャレンジできるクエストとか、お母さんだと絶対一緒に行ってくれないムシムシランドやホラーアドベンチャーにも行きたいし…………お父さんとやりたい事が頭の中にたくさん浮かんできて、まず何をお願いしようかと、僕はキッチンに移動していくお父さんの姿を目で追いかけた。

お父さんはコトコト煮込んでいる途中のお鍋の蓋を持ち上げて「やっぱり、この匂い、明日奈の特製シチューか」って嬉しそうにしてから蓋を戻して冷蔵庫を開ける。

お風呂上がりだから冷たいお茶のポットを取り出そうとして少し前屈みになった時、僕はお父さんの背中にある赤い傷に気がついた。

 

「お父さん、背中、どうしたの?、ケガしてるよ、痛い?」

「……ああ、これはいいんだ」

「でも赤くなってる。お薬つけてあげようか?」

 

お洋服を着ているはずなのにどうしてそんな所をケガするんだろう?、って、僕は全然が理由がわからなくて、お父さんの背中にある何かに引っかかれたみたいな細い傷は血は出てなかったけど、ケガしたばかりみたいに赤くなってたから心配したのに、隣にいたユイ姉が「大丈夫ですよ、和真くん」ってソファの上で僕に向かって正座をしながらお父さんを睨むっていう器用な事をしていた。

 

「パパのあの傷はママと仲良しの証拠なんです」

「仲良しなのにケガするの?」

「和真くんも大人になったらわかります」

「じゃあ、お母さんもケガしてるの?、だから寝室でお休みしてるの?」

「オレが明日奈を引っ掻くわけないだろ。まあ、違う方法で赤い痕はいくつもつけたけどな」

「パパっ、和真くんに余計な事は言わないで下さいっ」

 

結局、またユイ姉に怒られて、お父さんは両肩をすくめると冷蔵庫から取りだしたお茶をコップに注いでゴクゴク飲み干す。全く懲りてない様子のお父さんに溜め息をついたユイ姉は「それに……」と更に言葉を続けた。

 

「今週は和真くんの小学校の臨時保護者会やお仕事のトラブルも重なって、おまけに結城のお家からもお呼びがかかったりして、ママ、とっても忙しかったんですよ。なのにパパは帰ってくるなりママに無茶させてっ」

「あー、だからか。オレの不在もあって精神的に結構まいってたんだな。どうりでグズり始めるのがいつもより早いと……」

「パパっ!」

 

ユイ姉の大きな声を聞いてピタッ、っとお口を閉じたお父さんは、コップにもう一杯お茶を注いでからポットを冷蔵庫にしまった。それからそのコップを持って、そそそっ、と足音を立てず僕の側までやって来ると「……ユイ、寝室に行って明日奈も飲み物が欲しいか聞いてきてくれよ」って気まずそうに髪の毛をタオルで拭くふりをしながらユイ姉と目を合わせないでいると、お母さんが心配らしいユイ姉はお口をへの字に曲げたまま「わかりました」って行ってホログラムを消す。それまでユイ姉が座ってた場所に「はぁっ」って腰を降ろしたお父さんはテーブルの上に置いてあった本に気づくとコップを置いて、代わりにそれを手に取り表紙をじっくり眺めてから「へぇ、懐かしいな」って優しい声で言った。

 

「この本、和真が歩けるようになった頃、本屋に行った時にお前が自分で選んだヤツだ」

「そうなの?」

「覚えてないか……絵本じゃないから挿絵しかないし、話が長いからまだ早いだろ、って言ったんだけど、お前が離さなくってさ。きっと表紙が気に入ったんだろうな。明日奈が、自分が少しずつ読み聞かせするから、欲しいっ、て思う本は買ってあげたいな、って」

「うんっ、今でも一番好きな本だよ」

「勇者が怪物からお姫様を助け出すってやつだろ?」

「そうっ」

「でもさ、和真。この勇者は普通の人間だから、助け出せたのは仲間がいたからで、この物語のあともずっとお姫様を幸せになんて出来ると思うか?」

「……お父さん?」

「やっぱりいつもお姫様の側にいてお姫様を幸せに出来るのは王子様って決まってるんじゃ……」

「お父さん、この本、ちゃんと読んでないの?」

 

笑ってるのに、なんだか弱気なお父さんの言う事がどこかズレてて、僕は一生懸命口を動かした。

 

「勇者とお姫様はね、初めからお互いの事が好きだったんだよ。でもそれを知らない王様は他の国の王子様達にお願いしてさらわれたお姫様を助けに行ってもらうの。お姫様を助けたら結婚できるって約束だったけど、家来の兵士達を困らせてばかりの王子様やすぐに諦めて戻ってきちゃう王子様ばかりで誰も怪物のいる場所までたどり着けなかったんだ。けど勇者だけは本当にお姫様の事が好きだったから沢山の試練を乗り越えられたし、お姫様だって勇者の事が大好きだから自分がいる所を教える為に怪物の隙をついて魔法の鏡を手に入れる事が出来たんだ…………勇者だってお姫様だって、相手をとっても大事に思ってないとあんなに沢山の勇気は湧いてこないよ」

「でも、勇者は王子様じゃないんだ。王子様と結婚していればお姫様だってずっとお城で贅沢に暮らせただろ?」

 

確かに、他のお姫様がでてくる物語はだいたい王子様と結婚してお城に住んで幸せになりました、ってなってるから、やっぱりお姫様はお城に住みたいのかな?、って思った時、リビングのドアが開いて「そうとは限らないんじゃない?」ってお母さんの澄んだ声が飛び込んできた。

柔らかな生地のルームウェアワンピースを着ているお母さんは僕達のいるソファまでタタッ、てやって来て、お父さんの隣にすとんっ、て座ると「はい、シャツ。風邪ひいちゃうよ」ってお父さんに前開きのシャツを羽織らせてあげてそのまま背中に両手をほっぺたをくっつける。

 

「きっとお城で暮らすより、勇者のお嫁さんになった方が幸せって思うお姫様もいるよ」

「仕事が忙しい時は五日も家に帰ってこない勇者でもか?」

「うん、忙しいくせに毎日連絡くれたり、疲れてるのにタクシー飛ばしてわざわざ顔見に来てくれる勇者ならね」

「そんな面倒くさい勇者のお嫁さんになってくれる物好きなお姫様、なかなかいないだろ」

「一人くらい、いるんじゃないかな?、きっとお姫様の方も気が強くてもの凄く頑固かもしれないけど」

「なるほど。そうだな、怪物の所でも大人しく嘆いているだけのお姫様じゃないなら、そんな勇者と結婚してくれるかもしれないな」

 

お父さんは僕に本を渡すと振り返ってお母さんをふわり、と抱きしめる。お母さんはお父さんの腕の中でとっても嬉しそうな笑顔のまま「それにね……」って、ちょっと得意気にお口をカーブさせた。

 

「お城の豪華なお食事もいいけど、家族みんなで一緒に食べる特製シチューだって負けないくらい美味しいと思うの」

 

お母さんより少し遅れてリビングにホログラムでやって来たユイ姉も一緒に、お父さんと僕の三人は当然さ、ってニヤリ、と笑った。

 




お読みいただき、有り難うございました。
両親のイチャっぷりにはかなりの免疫がついている和真です(笑)
(ユイは和真以上に学習してますね)
恒例の「ウラ話」の方で、前回のキリ番記念投稿の「ウラ」と併せて
今回の「おまけ」も書きましたので、よければお立ち寄り下さい。
次回こそ、高校時代のお話をお届けできれば、と思います。


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彼女のいない日

帰還者学校に通っている頃の、和人の休日のお話です。


学校から帰って来て玄関の鍵を使い家に入る……洗面所の電気をつけ、手洗いうがいをすませ、また電気を消す……暑い季節はキッチンに寄って喉を潤したりもするが、そうでない時はそのまま二階の自室を目指し階段を上がる……部屋で着替えを済ませた後はその日によって色々だが一貫しているのは、玄関の扉を開けてからこれまで言葉を交わす相手には出会わない……それは和人にとってはごく当たり前の日常だった。

父親は長く海外赴任が続いており、母親が自分より早く帰宅しているなど、思わず明日の天気を心配してしまうそうになる。一見飽きっぽい性分に見える妹は、その実七歳の頃から打ち込んでいる剣道を中心に生活している為、放課後も毎日遅くまで練習をしている彼女には常に「おかえり」と言う立場だ。

家の中に自分ひとり……そんな状況を苦に思ったり寂しいと感じた事はあっただろうか?、と自分に問いかけてしまうほど、そんな感情は既に朧気ではるか遠くか、もともと存在しなかったのかさえ判断しようがない。

それに《あの世界》から生還して帰還者学校に通うようになってからは、家に誰も居ない、という状況の恩恵には少なからず浴しているのだから条件が変われば環境の見方も色々と変化するものなのだ。

だからこの三連休、和人は自分以外の家人が全員不在でも特にどうといった感慨はなかった。

普通の週末の状態が一日分長いだけだ。

逆に昨日、学校が終わって一旦家に戻った明日奈が荷物を持って泊まりに来てくれたので、久々に二人だけの蜜月の時間をゆっくりと過ごす事が出来、まさに、家に誰も居ない恩恵を受けたばかりである。

そうして今現在、やはり和人はひとりでリビングのソファに座り、壁にかかっている時計に目をやった。

そろそろ明日奈の乗った新幹線が仙台駅に着く頃だ。

幼い頃に訪れていた宮城の祖父母の家は既に存在しないらしく、年忌法要を営む事もないとかで明日奈は毎年祖父か祖母の命日近くに一人で墓参りをしているのだと言っていた。「今年は二年ぶりになるから色々と報告してくるね」と東京駅のホームで笑って手を振る姿を見送ったのが約二時間前。自宅に帰って来るなり昨日から一緒だった明日奈がいない分、なんとなく穴があいたような気分になってソファで放心していたのだが、いつまでもこうしているわけにもいかないだろうと腰を浮かせた時だった、来客を知らせる玄関のチャイムの音が室内に響く。インターフォン越しに「はい?」と応対してみれば、すぐさま聞き間違いではないものの、聞くとは思ってもみなかった声が耳に飛び込んできた。

 

「カズか?」

 

そして少し遠くなった声は「よかった、この家で合ってたぞ」と誰かに語りかけている。

細胞間のシグナル伝達であるシナプスさえフリーズしたのは一瞬で、和人は咄嗟に玄関に向かって走り出していた。

 

 

 

 

 

「ふつう……本当に……来るか?……」

 

玄関の扉を横に引いてみれば、そこにはしたり顔のクラスメイト兼同じネットワーク研究会の佐々井と他二名のやはりネト研仲間がどこか誇らしげに立っている。

 

「まあ、お前の利用している路線や駅は知ってたしな」

「そうそう、あとはちょちょいっ、と佐々が昨日のうちに担任を口八丁でたらしこみ……」

「駅からは地元っぽい人に聞いてみたり……」

「まあ、お前の端末からの通信履歴とかもぽんぽんっ、と辿ればだいたいの位置は……」

「そーそー、俺達、伊達にネト研じゃねーし」

 

桐ヶ谷家を探し当てた自分達の功績を笑顔で告げてくる友とは逆に和人の目は明らかに驚きから呆れへと変化していた。

 

「お前らな……それって軽く個人情報保護法違反だぞ……」

 

怒っているわけではないものの単純に我が家へようこそっ、といった歓迎の雰囲気がない事に少しばかり面白くない佐々井は、ふんっ、と胸を張って言い返す。

 

「フレンド登録してれば圏内だと居場所筒抜け生活を二年間も送って来た者同士、何を今更っ」

「そういう問題じゃないし、ここは《現実世界》だ」

 

あくまでも想定外の迷惑な来客扱いをするつもりらしく、未だ頑固に玄関先で立ちふさがっている和人に向かい、佐々井は戦法を変更すると共に声音も変えてみる。

 

「だってさ、カズ。お前この連休中、家に誰も居ないんだろ。そんなの俺だったら寂しくて絶えられないし、お前が家に一人ぽつん、といる光景を想像しただけで、いてもたってもいられなくてさっ」

「佐々……お前、昨日学校の教室で既に『遊びに行ってやろうか?』って言ってたよな。しかも担任に交渉したのも昨日なんだろ」

「だから、昨日のうちに想像したからお前に言っといたんだよ。今夜は俺達が泊まっていってやるからっ」

「はっ?」

「そうそう、夕食の材料も仕込んできたしな」

「ちょ、ちょっと待て」

「ネト研の合宿ってことで、合宿と言えばカレーだろ」

 

佐々井の後ろにいた仲間二人がスーパーの袋をこれ見よがしに持ち上げた。半透明のビニール袋の中にはニンジンやジャガイモ、カレールーの箱がぼんやりと透けて見えている。

 

「百歩譲ってうちで晩飯を食べて行くのはいいとしても、泊まるのは無理だぞ」

「なんでだよ」

「三人分の布団なんてないし……」

「あー、大丈夫、大丈夫。なんたってネト研の合宿だもんな」

「ああ、どうせ今晩は寝ないから」

「ちゃんと自分達の分のアミュスフィアやモバイルPC、バッテリーも持参してる。心配すんな」

 

三人三様で自分達の荷物を示している所を見ると本当にネト研ならではの私物を持って来たのだろう。その用意周到さに軽く目眩を覚えた和人は三人の決意をようやく諦めに近い感情で受け入れる覚悟を決め、渋々と「まあ、上がれよ」と玄関口から身を引く。そこでぱあっ、と笑顔になった三人は「お邪魔しまーす」と口々に告げて桐ヶ谷家に上がり込んだのだった。

 

 

 

 

 

三人をリビングに通し、和人は対面キッチンでグラスを四つ用意した。預かった食材の入ったスーパーの袋はそのまま作業台に置き、冷蔵庫から麦茶を取りだしている間、佐々井を始めメンバー達はしげしげと室内を観察している。

 

「うん、まあ、驚くほど普通だな」

「……一体、どんな家を想像してたんだ」

「ほら、庭に道場があったからさ、こう、もっと絵に描いたような純日本家屋的な?」

「そうそう、土間に囲炉裏に五右衛門風呂とか……」

 

さすがにそれは想像と言うより少し時代錯誤だろう、と軽く頬をヒクつかせて三人が腰を落ち着けたソファの向かいに座った和人は自分用に手にしていたグラスの縁に口を付け、麦茶をズズッと啜った。それに倣うように目の前の三人も出された冷たい麦茶を口に含む。

 

「あれ?」

「なんだ、これ」

「なんか……ウマい」

 

三人がそれぞれ驚きの目でグラスの中身を見つめる中、和人だけは訳知り顔で「あー……」と伸ばしてから空いている方の手の指でポリポリ、と頬を掻いた。

 

「それ、アスナが昨日作ってったやつなんだ」

「なんと!?」

「なんとっ、なんとっ!!」

「姫がっ?、昨日、ココにっ!!!」

 

大興奮のまま両手でグラスを握りしめている三人を見て「折角、冷えてる麦茶がぬるくなるぞ……」と呟いた和人はここ数十分で何回ついたかわからない溜め息をやっぱり堪えきれずに細く長く吐き出した。

 

「まぁ、理由はお前達と同じだよ。オレの食事を心配したアスナが料理を作りに来てくれたんだ。で、今飲んだのが粒タイプのハトムギを煎ってから煮出したハトムギ茶」

 

『ちょっとひと手間かけるだけで、味が違うでしょ?』

 

昨日、まだ冷める前の、逆に温茶としては適温の麦茶を味見し終わった時、空になった湯飲みを受け取りながら、にこり、と笑う明日奈は得意気にそう言っていたが、確かに味は違うし、断然こっちの方が美味しいと思うものの自分で作るなら麦茶パックをぽんっ、とジャグに放り込んで水を注ぎ、冷蔵庫のドアポケットに入れる以上の手間をかける気にはならないなぁ……、と心の内だけで本音を漏らした和人は目の前の恋人の眉尻が下がり、同時に告げられた言葉に驚く。

 

『って言ってもキリトくんは作らないでしょうから、空いているジャグ二本分作って冷蔵庫に入れておくね』

 

どうやら同じ作業工程の実行を求められていたわけではなかったらしい、と、ホッと胸を撫で下ろしたした和人だったが、声に出していない本心を見透かされては『有り難う、アスナ』という声もどこかぎこちない。けれど自分では作らないが、自分以外の誰かが、もっと言うなら料理上手の可愛い恋人が手間をかけて作ってくれた冷茶なら美味しくないはずがなく、出来上がったハトムギ茶は残りの休日二日間、自分が美味しく飲もうと思っていたのに、突然、と言うより突撃に近い形でやってきた同級生の男(ヤロー)三人は明日奈が作った冷茶だと聞いた途端、ゴクゴクともの凄い勢いでグラスの中身を飲み干し、声を揃えて「おかわりっ」と叫んだのだった。

 

 

 

 

 

二杯目のハトムギ茶もへらへらとだらしない笑顔で飲み終えた三人のうちの一人、主犯格である佐々井は、壁掛け時計で現在の時刻を確認すると「んーじゃ、そろそろ始めますか」と言って二人と和人を促した。

「おうっ」「そーだな」と同意を口にしながら立ち上がる三人を前に和人の頭上にはハテナマークがひょこっ、と飛び出る。

肝心のこの家の住人が立ち上がらない事にじれったさを感じたらしい佐々井が少々ぶっきらぼうな口調で和人を急かした。

 

「そろそろ始めないと晩飯、遅くなるだろ。米研いだり、野菜切ったり……言っとくけど、俺達、料理スキルは一ケタ台だからな。カズ、お前が頼みの綱だ」

 

やっぱり残りの二人が同意を示すように、うんうん、と頷く。

押しかけて来ておいて料理は不得手だからお前が頑張れ、と言われるとは思ってもみなかった和人は「はっ?」と目を見開いた。

 

「ちょっと待てよ。じゃあなんでカレー作る段取りになってるんだ?。適当に弁当でも買っくれば……」

「それじゃあ合宿感が出ないだろっ」

「そうだっ、そうだっ」

「合宿と言えばカレーライスだっ」

「……お前ら三人とも料理スキルか、その固定観念のどっちかを何とかしろ」

 

立ったまま壁のように一歩も譲らない姿勢は見事な団結力で、それでも理不尽な要求には毅然とした態度で臨まなければ、と和人も友人達をにらみ返す。

 

「だったらせめてカレーはレトルトで済ませるとか、カレーライスを食べる方法はいくらだってあっただろ」

「わかってないなー、カズ。あたふたしながら慣れない作業を全員で乗り越えてこそ真の友情が芽生えるんだってば」

「そうそう、とは言え俺達の普段の食事はすっかり親まかせ、コンビニまかせ、学食まかせだ」

「オレだって似たようなもんだけど。ま、オレの場合、親まかせの部分が多少、アスナまかせ、になってるくらいで」

「あーっ、そーゆーのはいちいち言うなっ。殺意を覚える」

 

これから真の友情を芽生えさせようという相手に向けるとは思えない暴言を吐いた友の肩を佐々井が慰めるように、とんとん、とあやした。

 

「とにかく、それでも、だ。カズ、お前、前に休みの日、家にいる時はほぼ『ぼっち飯』だって言ってただろ?」

「ああ、そうだな。母親も妹も、土日でも居ない事が多いし……」

「更に、そういう時は買いに出るのも面倒だから自分で適当な物を作って済ませる、とも言ってたよな?」

「よく覚えてるな……」

「それらの話を総合して、少なくともお前の料理スキルは俺達よりレベルが上だと判断した」

「……オレの『ぼっち飯』の定番は具無しペペロンチーノだぞ……」

 

あまり公にはしたくなかったが、さほどレベルの差はないのだと言いたくて得意料理の名を明かすと、一時の間はあったものの佐々井はゆっくりとひとつ頷いて片手の拳を高々と天井に向ける。

 

「よしっ、四人で一致団結してカレーライスを作ろうっ」

 

ここまで事態が進行してしまってはこれはもう作るしかないだろう、と覚悟を決めた和人は一呼吸送れて「おー……」と力弱く雄叫びを上げたのだった。

 

 

 

 

 

とりあえず和人が米を研いで炊飯器にセットしている間にあとの三人は持参した食材を取り出し、調理を開始する。

 

「ジャガイモだろ、ニンジンに玉ねぎ。あとはカレールー、完璧だな」

「カズ、皮むき器、あるか?」

「ピーラーなら一番上の引き出しに入ってる…………ところで、肉は?」

「ん?」

「だから、肉」

「ああっ、肉か……肉ね……」

「まさか…………肉なしカレーなのか?」

「貧乏くさいネーミングはやめてくれ。ベジタブルカレーって言えよ」

「最初はちゃんと買うつもりだったんだぞ」

「そうなんだ、けどさ……」

「けどな……」

「そうっ、豚か鶏か牛か、でモメてさ……うん、決して予算の問題とかじゃないから……」

 

三人全員が微妙に目を合わせず、思い思いの方向で宙を見上げれば、和人がぽそり、と「予算の問題なんだな」と真実を見破り「うーん、なんかあったかなぁ」と言いながら冷蔵庫を覗き込んだ。その言いように期待の眼で和人の背後から同じく桐ヶ谷家の冷蔵庫を覗いた三人は、その整然と並ぶ保存容器の美しさに「おおーっ」と感嘆の声を上げる。

 

「なんか、スゲーな。カズん家の冷蔵庫」

「中身が分かるようにラベルも完璧だし」

「あ、『ナスの煮浸し』がある。俺、ナス、好きなんだよ」

「『甘酢漬け』ってカレーに合いそうだな」

「おー、『ポテサラ』もあるし」

 

思い思いに冷蔵庫の中身を吟味している三人を牽制するかのように和人は両肩をいからせた。

 

「勝手な事言うなよ。手、出すなって」

「『ミートボール』発見っ。これカレーに入れればミートボールカレーになるっ」

「それはトマトソースに絡めるパスタ用で、明日の昼飯にしようと思ってたやつっ」

「んー、じゃあ……『つくね』っ、『つくね』があるしっ」

「ダメだ、それは軟骨が入っててショウガが効いてるアスナ特製でオレの好……物…………」

「へ?」

「え?」

「は?、……まかさ……もしかして……これ、全部……姫の作り置き…………なの……か?」

 

返答の代わりにパタンッ、と和人が冷蔵庫のドアを閉じ三人に背中を向けたまま動かない。もう絶対に冷蔵庫の中身は見せない、と語るその後ろ姿に三人はザクザクと容赦ない呆れの視線を刺し始めた。

 

「通い妻かよ」

「もしくは単身赴任の夫を支える出来た嫁か」

「なんかカレーの材料を買ってきた俺達が空しくなってくるよなぁ」

 

止むことなきひがみに近い感想は鋭い視線が突き刺さったままの背中をジリジリと焼いていく。これ以上は、と耐えきれなくなった和人は再びゆっくりと冷蔵庫の扉を動かすと「これは冷たいお茶漬けかうどんに乗せるつもりだったのに……」と言ってひとつの容器を取り出した。

蓋を開けると和風の鶏だし汁がゼラチン状に固まった中にそぎ切りにされた肉が埋まっている。

 

「蒸し鶏のもも肉。もう火は通ってるから常温に出しておけばそのままカレーのトッピングに使えるだろ」

 

提供された肉を見て三人の視線が一気に集まり、且つ喜色に染まった。

 

「うっわ、ぷるんぷるんだな、このつけ汁が固まったやつ」

「カレーの野菜を煮込む時にこのつけ汁も一緒に入れようぜ」

「いいな。料理上手な姫のことだから、この汁だけでも美味そうだし」

 

一旦蒸した鶏もも肉はふっくらと仕上がっており、更に味付けがしてあるつけ汁に一晩漬け込んだお陰で鶏肉には味が染み込んでいて、逆につけ汁には鶏の旨味が染み出している。明日奈の味つけを余すことなく堪能する意見を聞きその嬉しそうな様子を見れば、和人もこれはこれで良かったかな、と思い直して蒸し鶏の容器を佐々井に渡し「じゃ、さっさと作っちゃおう」と言って包丁やまな板の準備を始めた。

 

 

 

 

 

結局「俺達、ネト研だから」などと言って調理の途中、カレーの隠し味についてネット検索を始めた三人は煮込んでいるカレー鍋にインスタントコーヒーや蜂蜜、味噌、チョコレートといった食品を次々に投入し、結果、それらの味が全く隠れていない、かと言って渾然一体にもなっていない、カレー風味の何か、と表現するしかない料理を作り上げた。

それだけでも十分に美味しい明日奈が作ってくれた蒸し鶏も上からカレーもどきをかけられたお陰で繊細な味がすっかり台無しになっている。

予定では今日の夕飯は明日奈が仕込んでいってくれた豚肉を食べようと思っていたのだが……特製のピリ辛ダレが絡まって、あとは焼くだけになっている豚肉は明日の夜に回そう、と計画しつつ可能な限り蒸し鶏からカレーもどきを取り除いて口に運びながら和人はやるせない気持ちを肉と一緒にごくんっ、と飲み込んだのだった。

そうやって微妙な空気の中、夕食を終えた四人は後片付けを済ませると和人の案内で二階にある彼の私室へと居場所を移した。

客間から持って来た座布団の上に腰を降ろした三人に向け、飲み物と適当にお菓子でも持ってくる、と言い残して再び和人だけが階下へと下りていく。

改めて友の私室に落ち着いた三人は、ふぅっ、と息を吐き、ぽんっ、ぽんっ、と膨れた腹を撫でた。

 

「まっ、カレーはちょっと独創的な味になっちゃったけどな」

「けど当初の予定通り、あたふたしながら作るという目標は達成できたしな」

 

本来の目標は真の友情を芽生えさせる事であって、決してあたふたするのが目標ではなかったはずなのだが、そこにはあえて触れずにとにかく男四人でキッチンを右往左往した楽しい思い出に満足する。

 

「カレーの他は姫が作った麦茶を飲んで、ポテサラに甘酢漬け……デザート用にゼリーまで冷蔵庫に入ってたもんなぁ」

「おうっ、予想を遙かに超えて豪華な晩飯になった」

「ちょっとだけカズの視線が痛かったけどなっ」

「そんなんで怯むかよ。姫の手料理だぞ」

「食べられるチャンスなんてそうそうないし」

 

学校では週に数回とは言え昼休みの中庭を貸し切り状態にし、姫の手作り弁当と姫自身を独占しているヤツが彼女の作り置き惣菜を友人達に振る舞うくらい何て事ないだろっ、と三人は一様に「当然」と言った表情で互いに顔を見合わせ無言で頷いた。しかし次に佐々井が鼻から吐いた大きな息は満腹ゆえの苦しさからくるものではなかった。

 

「にしてもカズのヤツ、既に自分ちの台所を姫に使わせてるなんて、着実に外堀を埋めにかかってるよな」

「あー、それを言うなら既に内堀も埋まってる感じだと思う。俺、ちらっ、と見ちゃったんだけどさ。冷蔵庫のドアにメモがくっついてた」

「メモ?」

「『明日奈さんへ、卵、出来たら使っちゃってね。週明けに新しいのを買ってくるから』って……多分、あれ、カズのかーちゃんだろ」

「うぇっ、既に姑と嫁で良好な関係を築いちゃってる感が……」

「こりゃ、もう完全に埋まったな」

「ああ、埋まってる」

「って事はさ……」

 

冷蔵庫にマグネットでとめてあったメモを目聡く発見した男子が……ちなみにそのメモは彼の視線がメモへと注がれた途端、それに気づいた和人が引きちぎるようにして手の中に収めズボンのポケットに押し込んでしまった……お約束のようにキョロキョロと周囲を警戒し、且つ、階下から上がってくる足音がないことを確認してから声を潜める。

 

「既に桐ヶ谷家では姫の存在は公認されているわけだよな」

「……と考えるのが妥当だろ」

「姫は既に何回かこの家を訪れ、しかも台所の使用も自由なほど馴染んでいる、と」

「なんか、もう、揺るぎないな……くっそー、カズのやつ。カズのくせにっ」

「と言う事は他の部屋だって出入りしている可能性はかなり高いよな?」

「……例えば?」

「…………この部屋……とか?」

「………………この……カズの部屋……に?……姫が…………」

「のおおぉぉっっ」

 

それは英語で否定を表す「No」だったのか、魂の叫びだったのか、とにかく感情の発露をほとばしらせる友の声に仰天した両脇の二人は素早くその発生源である口に手の平で蓋をした。

 

「落ち着け、騒ぐな」

「気持ちはわかるが、今は堪えろ」

 

一瞬にして二重に口を塞がれた男子は叫び声と共に吐いた空気の補充が出来ず、息苦しさから逃れる為にコクコクと首を縦に振り、冷静さを取り戻す。

 

「ごめん、つい……」

「いや、わかるよ、わかるけどさ、ここはひとつ慎重に話を進めよう」

「だよな。考えてみれば姫とカズは付き合ってるわけだしな」

「だろ?、そりゃ、男からしたら付き合ってる彼女が自宅に来れば、当然自分の部屋に……連れ込むよな?」

「連れ込む、って言うな」

「連れ込まんのか?」

「……連れ込みたいけど……ま、その時の雰囲気とか?、状況にもよるな」

「状況……状況な……家には自分と彼女しかいなくて……彼女は既に何回もこの家に来ているからリラックスしていて……親兄弟は当分帰宅しない」

「うん、絶対連れ込む」

「のおおおぉぉぉっっっ」

 

叫声を聞いた途端、再び男子二人が計ったようなタイミングで自分達の間にいる友の口に今度は容赦なく叩きつけるような勢いで手の平をびたんっ、と密着させた。

 

「いい加減にしろ」

「ほんと、怒るぞ」

 

思わず吠えてしまった喉も多少痛いがそれ以上に唇がじんじん痺れている男子は自然とにじみ出てきた涙でじわり、と目を潤ませてもごもごと短い単語を呻く。それが謝罪の言葉らしいと判断した二人は、ふぅっ、と落とした溜め息と同時に手を離した。

 

「もうお前は自分の手で口を押さえてろ」

「それがいい。真ん中で俺達の話を聞くだけ。絶対に大声を出すな」

 

さすがに自分でも「もう大丈夫」という自信はないのだろう。素直に「そうする」と口にした男子は北関東にある有名な神社の彫刻のお猿さんのように自らの口の上に両手を重ねた。一方両側の二人はこれで安心、と気を取り直し会話を再開させる。

 

「……とまあ、仮に連れ込んだとしよう」

「仮に、な」

「そう、仮に、だ」

「まずい……」

「どうしたんだよ?」

「俺、連れ込んだ事ないから、この先、どうしたらいいかわかんね」

 

お猿さん化している真ん中男子も、うんうん、と激しく同意を表していた。

 

「……あー……そういう面でも同年代の男子と比べると二年のブランクはデカいよなぁ」

 

まずもって女性が圧倒的に少ない閉鎖的な世界に閉じ込められ、異性とそういった関係性に発展するチャンスも訪れず、その手の情報を得ることすら難しかった二年間を思うと自分達の恋愛面のスキルの低さを思い知らされる。けれど今悩んでも先には進まないのでそこは気持ちを切り替えて前向きな提案を試みた。

 

「その辺は各自スキルアップを目指すとして、今は自分がどう行動するか、じゃなくて姫とカズの話だろ」

「そっか……でもあの二人の行動予測なんて余計難易度上がってないか?」

「そうでもないさ。例の学校の昼休みの中庭の延長と思えば……」

「なるほど。だとすると……絶対二人でひっつくよな」

「ひっつくだろうな。それから……」

「それから…………」

「………………やばいっ、今、俺の頭の中は思春期絶好調の妄想が暴走したっ」

「やっべぇ、俺も……」

「んーっ、んーっ」

 

大人しく口を塞いでいたはずの真ん中男子が片方の腕を真っ直ぐ伸ばし和人のPCが乗っている机を指さしている。律儀に片手は口元を押さえたままで、それでもしきりと何かを訴えていた。

 

「んーっっ」

「いや、別に普通に話す分には構わないんだけど……」

「なんだよ?、なんか見つけたのか?」

 

よっこらしょ、と机に一番近い佐々井が立ち上がり、真ん中男子の人差し指が指し示す方向の延長線上を予測してみれば、そこにはちいさな髪留め用のゴムがある。思わず手を伸ばし、つまんで、鼻先まで持って来て、クンクンと匂いをかいだ佐々井は何とも言えない表情を二人に晒した。

 

「これ……姫のだ」

「マジかっ!。ってか佐々ぁ、お前さすがっつーより、そこまで来るとちょっとコワイわ」

「誤解すんなっ……まぁ、匂いもちょっとだけ残ってるけど髪の毛が一本からまってんの。ほら、こんなに長くて栗色」

「ああ、なるほど」

「……って事は、仮定が仮定じゃなくなったかもな」

 

意味ありげな視線を髪ゴムに集中させていた三人は各自この部屋に明日奈が連れ込まれる場面を想像する。示し合わせたわけでもないのに、和人がいかにも、といった悪役的笑みを浮かべているのは共通だ。

そして、ついに真ん中男子の口が開いた。

 

「カズめ、やっぱり昨日、この部屋に姫をっ」

「いや、まだその髪ゴムだけじゃ弱いな。他に物的証拠がないか探そうぜ」

「おうっ」

 

結局、最終的に何がしたいのかが有耶無耶なまま和人が明日奈を自室に連れ込んだかどうかを判定する事に夢中になった三人は部屋の各所に目を凝らし、匂いを嗅ぎ回る。とにかくありとあらゆる物を手に取ったり鼻を寄せたり、と調べていると、熱中していたせいで階下からの足音に気づかなかったのだろう、カチャリ、とドアが開き、目の前の光景の意味がわからずベットボトルとお菓子の袋を持った和人が立ち尽くしていた。

視線の先には三人並んで真ん中だった男子がベッドの上に座り込み、そこにあった枕を両手で持ち上げている。

 

「うほっ、カズ……」

「オレの枕……どうかしたか?」

「あー、うーん……なかなか良い枕だなっ」

「…………」

 

とりあえず部屋に入り、眉間に不可解さを表す皺を刻んだままテーブルに食糧を置いていると、持っていた枕をベッドに戻し、ついでにぽふっ、ぽふっ、と叩いて小声で「髪の毛はないし、匂いは……わかんないなー」と呟いた友の声が届いたらしく、「はぁ?」と和人の声が裏返った。

ぴく、ぴく、と片方の口の端を引きつらせて再び訝しげな目で友を見る。

 

「髪の毛とか匂い、って…………オレの?」

 

完全に不審者(ヘンタイ)を見る目つきに、折角芽生えたと思っている真の友情が泡となるのを焦った佐々井が握っていた手の平を開いた。

 

「違うってば、カズ。ほら、これ」

 

そこにはシンプルな明日奈の髪ゴム。

佐々井が握っていた物を見て今の今までこの三人が自分の部屋で何をしていたのかを察した和人がやっぱり呆れたように半眼で三人を見つめ返す。

 

「それはアスナの忘れ物だよ」

「んーなのわかってるよ。俺達が知りたいのはこの部屋で……」

 

佐々井の発言を遮るように和人は「料理を作ってる時」と声を被せた。

 

「へ?」

「だから、昨日、料理を作っている時に髪が邪魔だからそれでまとめてたんだ。帰る時に持ってくのを忘れたみたいだから、来週にでもアスナに返そうと思ってそこに置いといたんだけど……探してるかもしれないから、一応知らせとくか」

 

説明を聞いた途端、三人の顔が「なーんだぁ、そうだったのかぁ」と素直に緩む。その反応を確認してから和人は「オレの端末、下に置きっ放しだから取ってくるよ」と言って再び部屋を出て行った。

「なんだよー、誰だよー、妄想爆発させたヤツー」などと陽気な声が部屋から漏れ聞こえてくるのを背中で受けつつ階段を下りながら、ふぅっ、と小さく息を吐き出す。何とか誤魔化せたようだが、嘘は言っていない。

あの髪ゴムが明日奈の物である事も、昨日、料理を作ってくれている時に使用していたのも事実だ。ただ、その後、お風呂上がりの彼女の髪をまとめていたのもあのゴムで、けれどベッドへ横たわらせた時、いつものように髪を弄りたくてそれを外したのは和人だった。

触れて、吸って、時には甘噛みをして、ふにゃふにゃに溶けてしまうと自分を律する事が出来なくなった明日奈は脆くもぐずりだすので、髪を梳いてやって、涙を舐め取り、ひたすら甘やかすのが和人にとってはたまらない喜びなのだ。

いつもは冷静で優等生な彼女が自分の腕の中だけで見せる素直で子供のような表情を独り占めにし、誰に気兼ねすることなく時間をかけて存分に彼女を味わい尽くした昨晩を思い起こす。

ベッドのヘッドボードに背中を預けた姿勢の和人に明日奈が向かい合って腰を落とせば、羞恥で肌は上気して、はしばみ色の瞳には見る見るうちに透明の涙が溜まった。「ほら、アスナ、あと少し」と声を掛けるのだが「……もぅ……むり」と言うなり抱きつくように倒れ込んできて、その泣き顔と声、それに密着した結果、押し付けられた二つのふくらみに刺激されて和人の余裕が吹き飛ぶ。

また、それから少し経った後、彼女の荒い息づかいによってサラサラと背中から両肩へ流れ落ちる髪を眼下に眺めながら細い腰を支えて揺すると、それだけで折れてしまうのではないかと思うほど背をしならせて和人から贈られる快感に耐えきれずふるふる、と頭を振り涙を散らす紅顔を見たくて背後から「アスナ」と呼びかけ、振り向かせ、顔を近づければ、その行為はより深く彼女の内を抉り、あがる嬌声は和人に吸い取られる。

そうやってベッドの上でひとつになって熱を与え合い、抱き寄せたまま眠り、共に朝を迎えるのは《現実世界》では初めての事で、あの二十二層の森の家で過ごして以来の幸せに満ちた時間だった。

正直、明日奈の髪にあったゴムなど、外した途端、意識の外に追いやってしまったので、今日、彼女が新幹線に乗るのを見送り、帰宅してからベッドの下に落ちているのに気づくまで忘れていたのだ。きっと、少々朝寝坊の時間に起きた明日奈が耳まで真っ赤にして、まだ寝ぼけ眼の和人を無理矢理ベッドから追いだし、枕カバーとシーツを勢いよく剥いだ時に髪ゴムが吹っ飛んだのだろう。洗濯機が動いている間に朝食を済ませ、使った食器を和人が洗い終わって明日奈の様子を見に行けば、ちょうどシーツを干しているところで、やっぱり頬がほんのり色づいているのを目にして思わず後ろから抱きついてしまったのは不可抗力だったようだ。

その後は几帳面な明日奈らしく、きっちり掃除機までかけていったのだからあそこに彼女の痕跡など残っているはずがないのに、と和人は勝手に自分の部屋の捜索していた三人を思い出し、ふっ、と少しだけ意地悪な顔で微笑んだ。

今夜は仙台のホテルに宿泊しているはずで、夕方に合流予定の兄の浩一郎さんと久しぶりに夕食を食べるのだと楽しみにしていたようだし、何より明日奈の心の拠り所のひとつとなっている大好きな祖父母の墓参りなのだから、とあえて連絡はしなかったのだが……。

 

「まぁ、髪ゴムを部屋に忘れていった事だけ知らせておけば、時間のある時にアスナから返信がくるだろ」

 

リビングに置いてあった携帯端末で用件のみを送信した和人は、その後自室で男友達三人とPC談義に花を咲かせている時に明日奈からビデオ通話が入り、ホテルの部屋を背景に風呂上がりの恰好が画面に映し出された途端、ピッとサウンドオンリーに切り替えた瞬発力はさすが「黒の剣士」と言える早業だった。




お読みいただき、有り難うございました。
はい、『確信犯シリーズ』の新たな仲間ですね(苦笑)
もはや何作目になるのかは把握していませんが、既に隠れシリーズ化している
自覚はあります。
そして何回も書きますが、回想シーンのほんの数行分で別枠(R−18)タグを
付けるのはそれこそ詐欺行為だと思うので、厳密には別枠とわかっていても
「このくらい、いいデスよね?」と、しらをきる……というのが
『確信犯シリーズ』の定義なのです(冷や汗)
話変わりますが、一般的にパックをポンッの「麦茶」の原料は大麦(六条大麦)ですが
「ハトムギ茶」はハト麦なので「麦茶を丁寧に一手間かけて作る」イコール「ハトムギ茶になる」
わけではありませんっ。
本来なら本文中の「麦茶」「ハトムギ茶」表記を分けるべきなのですが…………
めんどくさ…………あっ、いえいえ、そこまではいいかなっ?、と(笑)
どっちも大きなくくりでは「ムギ茶」!
ややこしくしてスミマセン(謝っ)


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〈アリシ〉銃の世界で揃う

私にしては珍しい予告なしのゲリラ投稿です(苦笑)
TVアニメ「SAOアリシゼーション編」第一話を見た勢いのままに
書き上げたので内容うっすーいデス(笑)
時間を置いてしまうと投稿できなくなっちゃうヤツなので、惰性がついて
いるうちに上げてしまいます。
「放送、見られないんですけどっ」の諸事情を抱えている方には
ゴメンナサイ!


ゴタンッ、ガガガッ…………一体いつまでこんな道なき道を走行するつもりなんだ?、痛みを感じないVRワールドとは言え尻に響く不快感はどうにも慣れないよなぁ

 

こんな状態があと十分以上続くのなら、トラックの荷台を下りて走ったほうがマシだな、とキリトは内で呟いて、けれどそんな単独行動は絶対にお許しがでないだろうと諦め、溜め息に混ぜて吐き出した。続けて隣にいるパートナーの様子を盗み見る。

ピックアップトラックの荷台の後方にちょこん、と荷物よろしく進行方向とは逆向きに座っている美少女ははしばみ色の瞳をワクワクと輝かせ、車のスピードに合わせて流れていく周囲の風景をキョトキョトと眺め……つまりキリトとは真逆の表情でどうやらこの状況を楽しんでいるらしい。

だいたい今回共闘する他のメンバーのアバター衣装は全員アーミーグリーンをベースにしているし、自分は前回と同様、黒基調のGGOアバターなのに、なぜ彼女だけ見事なまでに鮮やかなホワイトとワインレッドのツーカラーベースなんだ?、とキリトは初めてその姿を眼にした時の感想をもう一度頭の中でこねくり回した。

 

しかもあっちこっち肌が見えてるし……

 

似合うか似合わないか、で論じれば、一片の迷いもなく「似合うっ」と強く頷くだろう。ALOで見るアトランティコブルーの髪や瞳の色、アクアホワイトを基調にオメガブルーのラインがアクセントになっている衣装だってもちろん似合っていると思うが、栗色の髪にはしばみ色の瞳、そしてかつて最前線で戦う攻略組の中で最強ギルドと謳われた『血盟騎士団』の副団長を彷彿させる色合わせの衣装はアスナに言わせると「あの頃カラー」でもありキリトにとっては「アスナの色」として認知されているものだ。

その彼女が再びそのカラーリングのコスチュームを纏い自分の隣にいてくれる事がこんなにも心落ち着かないのはなぜなのか?、とそこでキリトは自問を始める。

 

浮かれている?…………うん、それはあるな、確実に

 

神妙な顔つきで自己分析を試み、出てきた結果のひとつに肯定のマークを付ける。

何せGGOでは初めての共闘だ。予想通り、アスナの主武器はキリトと同じフォトンソード。GGOのプレイヤーの中では保有者さえ珍しいとされるオマケ的な武器をメインとしてこれからツートップで戦うのである。アスナとの連携がどういう展開になるのか、不安は欠片もなく期待しかない。

今日の日を迎えるにあたり事前に数回、アスナとは、このGGOで実践を見据えての演習を行ってきた。剣のバランス感覚さえ掴んでしまえばもともとキリトより軽い細剣を操っていたアスナだ、その順応性は舌を巻く早さだった。

キリトの光剣による銃弾斬りの技も一度間近で見てから「ふーん」と少し考え込んだ後「こうかな?」と言って、シノンに撃ってもらった弾をいきなり当ててのけたのだから言葉も出ない。そして初めて光剣で実弾を弾いてから数時間後にはアスナらしく剣舞と言えるレベルのしなやかな動きで四方から飛んでくる撃弾を無効にしたのである。

 

それと…………グロッケンでアスナを遠巻きに見ていた男達の視線への苛立ちがまだ残ってる?

 

次の分析で出てきた結果には三角マークを付ける。

当然と言えば当然だ。アスナの顔立ちとスタイルに加えこのコスチュームで中央都市を移動すればただでさえ女性プレイヤーが少ないGGO内、衆目を集めるのは必至だった。しかしキリトにとっては今更と言えば今更なのである。旧SAOで多分最初にアスナから眼が離せなくなった男は自分だろう、という自負があるから奴らの気持ちは十分理解できるし、当のアスナが気にしていなければ多少面白くはないが、それ以上どうこうしようとは思わない。

 

だったら、やっぱり…………あれ、かな?

 

自分の心を素直に肯定してみれば、そこには堂々の二重丸マークが付いた。

そこで相変わらず派手にゴトンッ、ゴトンッと揺れ続けている荷台に手を突き隣のアスナへ身を乗り出す。

 

「アスナ」

「ん?、なあに?」

 

トラックの荷台に並んで腰掛けている二人だったが、初めて見るGGOの世界観に目を奪われていたアスナがようやく視線を周囲からすぐ隣のキリトへと向けた。予告もなしに車が跳ねる事もあるので絶えず振動に合わせて身体を揺らしつつ衝撃を分散させる。

 

「結構揺れてるけど、大丈夫か?」

「うん、宮城のお祖父ちゃんの家に行く時もこんな感じだったの。なんだか懐かしくなっちゃった」

 

確かアスナの母方の祖父母の家は宮城県内の自然豊かな場所だと聞いていたので、そこに辿り着く道も平坦ではないのだろう、と一瞬、納得しかけたが、いやいやいや、ちょっと違うだろ、と流されそうな自分を引き留める。

 

「確かに道っぽい所を走ってないせいもあるけど、単純にクラインの運転が荒いんだとオレは思う」

 

わずかに振り返ってみるが運転席でハンドルを握っている様子までは見えない。

 

「でも、シノノンが合流地点に指定した場所まで最短で行かなきゃ、でしょ?」

「そりゃあ、そうなんだけどさ」

 

今回の作戦はシノンの立案だった。もっと言えばキリト達は共闘を依頼され、それに応じたからGGOにいるのだ。既に一人で先行しているシノンはそろそろ標的としている敵チームに遭遇する頃合いだ。うまく合流地点まで誘導し、同時にこちらも遅れずに到着しなければ作戦自体に変更が生じてくる。

それにしてもこの乗り心地はないだろう、とキリトはドライバーを任せたクラインに届くはずのないジト目を送った。

銃砲を据え付けたテクニカル仕様のピックアップトラックを用意した時、真っ先にドライバーに立候補したのはクラインだった。キリトもGGOではバギーを運転した経験がある為、自分が運転手役になるだろうと予想していたのだが、別にどうしても運転をしたかったわけではない。

 

ハンドルを握りたいのなら快くドライバー席に座る権利を進呈しよう。その代わり……

 

『ならオレとアスナは荷台に乗るよ』

 

クラインが名乗りを上げるやいなや、キリトはすぐさま自分の隣に座る人物を特定したのである。いや、クラインの隣に座る人物候補からいち早くアスナを除外させた、と言うべきか。幸いだったのは《現実世界》でもトラックの荷台になど乗った事のないアスナがその提案を大変乗り気で受け入れてくれた、という点だ。

結果、荷台にセットした重機関銃を担当するシリカは自動的に助手席候補者から外れた為、クラインは自然な流れで「んーじゃ、ナビはリズ、頼むわ」と声を掛けて乗車場所が確定したのである。

「げっ」と濁音を発したリズだったが、その後、小声で「キリトがナビすればいいじゃない。私達は女三人、荷台でお喋りしたかったのにっ」と恨みがましい目で見つめられたのは気づかないふりでやり過ごした。

こうして各々、所定の位置に乗車して予め聞いていたシノンの指示通りトラックのエンジンをかけ走り出した数十分後、キリトは未だ見慣れないアスナの髪型を凝視していたのである。

 

「ど、どしたの?」

 

流石にあまりに近くから発せられる熱心な視線に耐えきれなくなったアスナが僅かにつっかえながらその理由を尋ねてくる。

 

「やっぱり印象が大分変わるなって思ってさ」

「あっ……髪?」

「ああ、今まではどんな戦いの時も敢えて髪型をカスタマイズすることってなかっただろ?、どういう心境の変化なんだ?」

「別にあまり深い意味はないんだけどね。ほら、GGOだとキリトくんも長いから……」

「へっ?、オレ??」

 

まさかアスナが髪型を変えた理由の一端を担っているとは思っていなかったキリトは思わず自分の人差し指で自分の顔を指した。キリトの場合はアスナ達と違ってキャラクターの外見データは全くのランダムで引き当てた結果だ。

それでもかなりのレアアバターである事は間違いないらしく、その気になれば高値で売れるらしいがコンバートでもあるので今更変更する気にはなれない。けれど自分の見た目と恋人の髪型の関係が理解出来ないキリトは驚きで寸時集中力が途切れた。

 

「うおっ」

 

狙ったようなタイミングでトラックが跳ねる。

片手を無造作に浮かせたまま一瞬呆けたキリトが尻から受けた衝撃を殺せず、身体ごと大きく浮き上がって勢いそのままアスナに体当たりをかけた。

 

「きゃぁっ」

「っごめん!」

 

二つ同時の叫び声に同じ荷台にいたにも関わらず、最後の総復習とばかりに自分が操作する重機関銃のマニュアル画面に集中していたシリカが顔を上げ、ビックリしたように二人を見るが…………そこにはペッタリ、とアスナに抱きついているキリトがいて、途端にシリカの大きなストロベリーレッドの瞳がうんざりと下りてきた瞼で半分ほど隠れる。「大丈夫ですか?」と声を掛けるのも馬鹿馬鹿しくなって、すぐにシリカは視線を画面に戻した。

 

「キ、キ、キ、キリトくんっ」

「わざとじゃない、わざとじゃないんだ」

「わかったから……」

 

だから、離れて……と続けようとしたアスナは耳のすぐ近くでキリトが、すんっ、と鼻を鳴らす音を拾ってピクリと肩を揺らす。その動きを押さえつけるように、片側の肩に軽い負荷がかかった。キリトの顎だ。続けて腹部と背部から腕を回され完全に身動きが取れなくなる。

 

「うん、こうしてくっついてた方が揺れないな」

 

より快適に荷台に乗る方法を提案しているような言い方だが、アスナとしては「こっちの方が落ち着かないわよっ」と声を荒げようとして、つい真横にいるキリトを間近に見てしまい、うっ、と言葉を飲み込んだ。

つぶら、と言う表現に値する瞳が長い前髪からこちらを純粋に見つめている。このアバターでいる時の平時のキリトにはなぜか強い態度に出られないアスナは抵抗を諦め、肩の力を抜くついでに、ふぅっ、と細い息を吐いた。

どうやら大人しく腕の中に収まってくれるのだと判断したキリトが彼女の見えない所で小悪魔的な笑みを浮かべる。高さのある立ち襟に顔を寄せれば普段は長い髪に隠れているはずのうなじが外気に晒されており、更にそこからスッキリと伸びている白い首元にはコスチュームと同じワインレッドのチョーカーが巻き付いていてその細さを強調していた。今までアスナの首筋を堪能できる男は自分だけだと思っていたのに、という独占欲とそこを守るように装着されているチョーカーに自分の接触さえも拒絶されているようで心が波打つ。

やっぱり落ち着かない最大の原因はこれだな、と確信すると邪魔なチョーカーとアスナの首との境界に軽く歯を当てた。

 

「ひゅっ」

 

言いようのない感覚を首元に覚えてアスナが息を飲む。続けて少し不機嫌そうな声、と言うよりは吐息のような低い息がうなじを刺激した。

 

「アスナ……このチョーカー……」

「だって……GGOだと、指輪ってないから……」

「え?」

 

これまた予想もしていなかった「指輪」という単語を聞いてキリトの脳内は大混乱に陥り、一旦顔を上げる。

 

「悪い、アスナ。さっきから髪型にしても、このチョーカーにしても、全然話が見えないんだけど」

 

あまり追求されたくない話題だったのか、アスナが唇を尖らせ顔ごと視線をキリトとは反対方向へ逸らせば結果的に、どうぞ、と言わんばかりに彼女の首筋がキリトの目の前に差し出された。話をしてくれないのなら本能のまま行動するだけだけど?、とチョーカーを避け遠慮無くキリトの唇がそこに吸い付く。きつめに吸っても《仮想世界》で痕は残らないが相応の疼きを感覚パラメータはアスナに与えるわけで……。

「んぅっ」と声を堪えたアスナだったが、そのまま離してくれそうにないキリトの行為に根負けをしたのか、降参の意を含んだたどたどしい声がキリトの名を呼んだ。

 

「……で?」

 

狙ったわけではないが、どうもこのアバターでは「可愛らしい」に分類されてしまう仕草が自然と出てしまうキリトは、こちらに向き直ったアスナに、こてん、と首を傾げ話の続きを求めた。再び、あぅっ、と声を詰まらせるアスナ。

呆れたような、諦めたような目でキリトを見つめてから一旦表情を引き締めるが、いざ説明する為に唇を開くと今度は声より先に眉尻が下がる。

 

「……別にね、それほど意識して選んだわけじゃないの。だから、リズに言われて気づいたくらいで……」

「リズに……何て言われたんだ?」

「『GGOだと薬指じゃなくて、そこに輪っかをはめたのね』って。あと『今度は髪型まで似たもの夫婦するの?』とも……」

 

リズのやつ、変なところに目聡い、と言うか予想外の部分で想像力が働くよなぁ、と感心するというよりは多少勝手な憶測に近い感想に苦笑いが出た。アスナがコンバートする前に自分が髪型をカスタマイズするべきだったか、と振り返り、ほぼ同時にGGOでの初顔合わせの時に散々クラインやリズに髪で弄ばれた記憶が蘇る。

アスナが髪をいじった事によって見ず知らずの男性プレイヤー達が鼻の下を伸ばす理由を増やしたのだから、キリトにとっては恋人の新鮮な髪型がなかなか素直に喜べないのも道理だった。

けれど、むむっ、と眉間に刻まれた深い皺も、少々恥ずかしげに飛び込んできたアスナの言葉によってすぐに消し去られる。

 

「だから髪型はちょっと変えてみようなかって。でもこのチョーカーは……無意識にキリトくんとおそろいにしたかったみたい」

 

照れくさそうにうっすらと頬を薄紅色に染めたアスナがキリトにふわり、と微笑みかけた時、助手席からリズのハイテンションな声が飛んできた。

 

「そろそろ目的地に到着するから、サーチされないように二人は隠れてっ」

 

当初の計画通り事は進んでいるらしい。キリトとアスナは奥の手扱いなので戦闘参加人数を誤魔化す為にも予め用意しておいた布の中に隠れる算段だ。

 

出番までまだ少しあるな…………落ち着いて考えてみればオレはアスナの露わになった細首やその他の場所だって目で触れる事しか出来ないわけじゃないし……それに、うん、この髪型だと…………

 

元々フィールドを移動中のトラックの荷台には見知らぬ他者からの俗な色を纏った無遠慮な視線などどこからも飛んではこないのだが、違う意味での視線から守る為、分厚い布の中に自分とアスナを隠して外界からの接触を完全に遮断したキリトは、二人の出番が来るまでアスナに対する自分の特権を行使した。




お読みいただき、有り難うございました。
リズとシリカのコスチュームデザインもなかなか可愛かったですけどね
やはり目を引いたのはアスナです。
ツートップを見越してのカラーリングですよねー。
奇しくも「活動報告」欄の予告通り「全編《仮想世界》モノ」にはなって
いますが……当然、コレの事ではないので……でもコレを手がけてしまったので
スミマセン、定期投稿、遅れます(謝)


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her true character

予定外で投稿した前作も《仮想世界》が舞台ですが、こっちが本来
「久しぶりの全編《仮想世界》です」と前書きするはずだったお話です(苦笑)



「場所を変えましょう」……そう言われてキリトがやって来たのは《現実世界》だったらそう簡単に辿り着く事は叶わない巨岩に周囲をぐるっと塞がれた平地だった。三百六十度、大小さまざまな形を成した岩が余所者の興味からこの場所を守るように配置されている。大小と言っても「大」に比べれば「小」と言うだけで、一番小さな岩でも高さはゆうに五メートルは越えおり、それらの岩達が複雑に重なり合う事で分厚い壁となってこの平地を観客のいない闘技場にしていた。

その平地のほぼ中心部に立ったキリトは自分から数メートル離れた場所に相対している少女をジッと見つめる。

同様に向かいの少女もキリトに挑むような視線を返していた。

人が通れる程の隙間はなくとも風はすり抜けられるのだろう、岩の間から、ヒィーッという叫鳴のような高音と共に強い風がキリトの纏っている黒いコートの裾をはためかせ、続いてその先にいる少女の長い栗色の髪をかき上げる。

《現実世界》ならば風と一緒に細砂や小さなゴミが運ばれてきそうで思わず目を瞑るか顔を背けるだろうが、幸いにもここは《仮想世界》だ。異物の混じっていない純粋な空気の強流なので、例え口を開けっ放しにしていたとしても「ぺっ、ぺっ、うぇっ」となる事はないし、手で顔を防護する必要もない。

それでも少女は一旦舞った髪を落ち着かせる為、後頭部を手の平で撫でつけ、顔にかかった髪は斜め上に顔を傾け同時に手の甲で勢いよく後ろにはらった。

 

「じゃあ、始めましょうか?」

「……本当に……やるのか?」

「ここまで来て何を言ってるの?」

 

少女の細い眉が歪み不機嫌を表す。はしばみ色の瞳は敵意に近い挑戦的な輝きを放っていた。彼女の右手が既に細剣を握っているのを見て、諦めたように深く息を吐き出したキリトは自分の背にある愛剣の柄に手をのばす。

その動きで渋々でも自分と剣を交える気になったのだと判断した少女は何の前触れもなくキリトめがけ、草が一本も生えていない土塊ででこぼこの地面をブーツのつま先で蹴った。

細い剣が自分に向かって真っ直ぐに伸びてくる軌道を目で捕らえながらも未だにやる気のないのんびりとした瞳で薄青い片手剣を引き抜く流れのまま、その剣先をいともたやすく跳ね返す。けれどその程度の動きは予測済みだったのだろう、少女は唇をギュッ、引き締めただけですぐさま体勢を立て直し、今度は下からすくい上げるようにキリトの顔を目指してくる。しかし、それも僅か顎を反らせるだけで回避され、細剣は空しくも空を切った。

とんっ、とんっ、と後退して少しばかりの距離をとった少女が細い身体を跳ねかせるリズムを崩すことなく、今度はそのまま前へと跳ねる。剣と共に腕を伸ばし、キリトが避けても避けても次々と素早い動きで突きを繰り返した。しかしキリトの表情は相変わらず冷静なままで何度かその攻撃をかわした後、スッと腰を落として長剣を水平にはらう。

突然繰り出された攻撃に一瞬、目を見開いた少女だったが咄嗟に上体を倒し片手を地に着けて身体を支え、そのままバク転を何度か繰り返して岩壁の近くまで移動し、キリトから離れる。ちなみにこの戦いが始まってからキリトはその場から一歩も動いてはいなかった。片や少女の方はこの数分で何度もキリトに接近し剣を繰り出しているが、その刃は目的とする対象物に触れる事はないし、唯一の接触は自分の攻撃をはじき返される時の剣刃同士だけだ。

今だって、キリトは平然と少女に背を向けたまま剣を構えることなく、ただ、そこに立っている。

その後ろ姿を見て悔しそうに顔を歪めた少女は栗色の髪を揺らして頭をふるり、と振ると、一転、目を細めて少し威圧的な声をあげた。

 

「そこまでの実力があるのに、なぜトーナメント戦に出ないの?」

 

その問いかけに答えることすら面倒くさいと言いたげな緩慢な動きでキリトが振り返る。

けれどその唇は一向に開く気配すらなく、それどころか漆黒の瞳は「まだ続けるのか?」と逆に少女に問いかけていた。

 

「答える気はない、ってことね…………まぁ、いいわ。ここで勝負をつければいいんだから」

 

ふぅっ、と細く息を吐き出し気持ちを整えた少女は改めて柄を握り直し、半身を引いて細剣を垂直に備える。細剣使いならではの突進技を仕掛けてくるつもりなのは誰が見ても明白だが、それでもキリトは剣先をだらり、と地面に落としたままだった。

構わずに少女が地を蹴り「はっ」という気合いの声が聞こえたと思った瞬間には既に細い刃の先端がキリトの身体を突き刺すか、という距離にまで迫っている。振り返る勢いを利用して長剣を斜めに上に引き上げ、その剣を弾いたキリトはぽそり、と「速さ(スピード)は悪くない」と呟いた。その言葉に侮辱を感じた少女は頬を怒りに染め、続けて二撃目を繰り出す。

けれど相変わらず飄々とした動きでそれをかわすキリトは先程と同じように、何の感情も宿らない声で「正確さ(アキュラシー)は合格点だな」と落とした。益々頭に血がのぼった少女は剣技とは言いがたい荒々しさで剣の刃先をキリトの顔に向け突き出した。

今度はキリトも半身を捻り、目の前へと急速に迫ってくる剣先を避けると同時に空の手を少女へ向かって伸ばし、肩をぽんっ、と弾く。それほど力は籠もっていなかったものの、相手の予想外の動きに中途半端な反応になった事と小突かれた影響で思わず片足がよろめいた。すぐにもう片方でふんばり醜態をさらさずに済んだが、それを冷ややかな目で見ていたキリトは既に勝負はついたとでも言いたげに肩の力を抜く。

 

「身体全体のバランスが悪い。腕だけで強引に剣を操ろうとするから別の所に負荷がかかるんだ。今みたいに外部からのベクトルが加わると簡単に崩れるだろ。例えば……」

 

今まで移動する事のなかったキリトの片足が大きく一歩を踏み出した…………かに見えた動きは一歩どころではなく、あっと言う間に相手との間合いを詰め、構える暇さえ与えられず多方面からの強い衝撃を数回受けたのだと理解した時には少女は既に地面に座り込んでいた。

 

「……え?」

 

HPカーソルは一気にイエローゾーンの半分以上まで削られている。

 

「嘘……これが…………」

 

軽くいなされた後とは言え常に相手から視線を外さず気を張っていたのに、動きさえ追えず攻撃された箇所は今になって気づく肌をチリチリと焼く感覚でようやく認識できた。信じられない物を見る目でキリトを見上げる少女からは怒りも焦りも消え去っていて、さっきまでの勢いは明らかに格の違う相手によって無残に切り刻まれ、そこにはもう悔しさからこみ上げてくる涙を懸命に堪える弱者になり果てている。

今なら素直に答えてくれるだろうか?、とキリトが口を開きかけたその時だった、足元からミシミシと細かな振動を感じて視線を下に向ければ、いつの間にか地面に細かな亀裂が生じている。

すぐにその場を離れる決断を下したキリトだったが、未だキリトからの攻撃のショックと突然の揺れに対処しきれず唖然としたまま座り込んでいる少女を視界に納めれば、考えるよりも先に身体は前へ飛び出した。

けれどキリトが飛び出した先を通せんぼするかのように、一気に土塊が膨れあがり破裂する。

その風圧と共に押し寄せてくる土煙、小さな砂も紛れて飛んできたのだろう、粉塵のベールで朧気な輪郭しか確認出来ないが、少女の「きゃぁっ」という悲鳴のすぐ後に「やだっ、髪の毛グチャグチャ……」と不満気な声が聞こえてきた。どうやら硬直状態からは抜け出したようだが、声の位置から察するに未だ座り込んだままでいるらしい。ひとまず無事なようだ、と安心したキリトは改めて地面から現れた黒い影に意識を集中させた。

そして土埃が収まってみれば地面を割り出てきた正体は真っ黒な巨大蜘蛛モンスターだった。

四対の長い歩脚とは別に捕食器官である大きな触肢は攻撃に特化した鎌状となっている。けれど、それ以上に不気味なのは《現実世界》に生息している蜘蛛ならありえない数の眼が黒褐色の胸頭部を斑点模様のように覆い尽くしていることだった。

 

「雰囲気からしてモンスタークラスは中の上ってとこか……」

 

どこを見ているのかわからない……いや、無数の眼を保有している巨大蜘蛛に死角はないようだ。それこそ地中にでも潜らない限り地面を底辺として半球状に網羅されている視界から逃れることは不可能だと悟ったキリトはさっきまでとは一転、漆黒の瞳に戦意の火を灯す。

ゆるく持っていただけの剣の柄をぎゅっ、ぎゅっ、と繰り返し力を込めて握り芯を捉える。片足でトントンと地を踏み、初速で一気に加速をかける足場を確保した。

 

「あんま時間ないしな」

 

余分な力を吐く息に混ぜ、最後に独り言を混ぜて全てを空にしてから新しい空気を軽くスッ、と取り込み、目標物を改めて視認。巨大蜘蛛めがけ突進した。

初めから蜘蛛との距離はさほどない。走り出す一歩目に全力を掛け可能な限りの瞬発力を引き出し、敵が反応するより先に接近戦に持ち込みたかったのだが、キリトが蜘蛛の胸頭部と腹部の境目を狙って突き出した剣先はその隙間を突く前に鎌状の触肢によって弾かれる。何度攻撃してみても触肢の間合いに入った途端、剣を受け止められ圧倒的な力で振り払われる、の繰り返しだった。

そのうち、防戦一方だった大蜘蛛が今までにない動作を始める。

しきりと鎌で威嚇をしながら腹部をピクピクと揺らし始めたのを見て、何かの予備動作だと気づいたキリトが一旦後退をしようと身体を傾けた時だ、腹部の後端にある突起から真っ白な細糸が束になって飛び出してきた。糸はキリトの全身を包むように等間隔に大きく広がりながら伸びてくる。

すんでのところで糸を避け後方に飛び退いたキリトは、自分が今までいた場所に獲物を捕らえ損ねた無数の糸が勢いを失って地面を覆い尽くすほどに重なり合い、光の粒子となって消えゆく様を眺めた。あと一歩遅ければあの数多の糸に絡め取られ、蚕の繭のようになっていたに違いない。けれどあまり広範囲に糸は届かないらしく、距離を取ったキリトに向け、再び糸が吐き出される事はなかった。

束の間の小康状態に、一時、緊張を緩め、息を吐く。

と、背後から呪いの言葉でも紡ぐようなおどろおどろしい声が忍び寄ってきた。

 

「……やっぱり……アナタ……」

 

蜘蛛モンスターとの攻防ですっかりキリトに存在を忘れられていた少女が、結局動けなくなってしまった場所から一ミリも移動することなく未だにペタリ、と座り込んだまま上目遣いにキリトを睨み付けている。

蜘蛛が出現した時、キリトがその場からの離脱を選ばなかったのはひとえに腰が抜けたように動けなくなっている少女を見捨てておけなかったからなのだが、本人はそんな理由になど全く気づいてもいないのだろう、先刻から繰り広げられているモンスターとキリトとの戦いを見て自分の考えが正しかったのだと自信を得た彼女は益々キリトへの視線を鋭くさせた。

 

「あのデスゲームで攻略組にいた黒の剣士でしょっ」

 

まるで推理ドラマのラストで独擅場を演じる探偵か刑事の如く、誰も予想していなかった真犯人を名指しした勢いで二つ名を言われたキリトは、思わず振り返って「うえっ?!」と声を裏返した。

まさかそれを確かめる為に剣の手合わせを申し込まれたのだろうか?、と今日、初めて会った風妖精族の少女の唐突で半ばケンカ腰の要請の真意を考える。ただ、初対面ではあったが、この少女の噂は少し前から耳に入っていたから、キリトの方も問いただしたい事があって、その要請を受けたわけだが……この状況下であの鋼鉄の城での身バレについて素直に認めるべきか、はぐらかすべきか、と逡巡していると追い打ちを掛ける少女の言葉が飛び込んできた。

 

「知ってるんだからっ。アナタ、攻略会議でいっつもアスナさんに楯突いてたそうねっ」

「はがっ??!!」

 

どうやら、目の前の栗色の長い髪にはしばみ色の瞳を持つ風妖精族の少女は自分と同じく二年間を《あの世界》で生き抜いた生還者(サバイバー)なのだろう、と認め、キリトは思わず開いてしまった口をそのままにして真っ直ぐ少女を見下ろした。確かに攻略会議においてはアスナの立案に何度か意見した事はあったが、それが「いつも楯突く」という表現になるのだろうか?、と思考していると、その態度が益々火に油だったらしく、更に少女の声が爆発する。

 

「しらばっくれようとしても無駄よっ。あのアスナさんに逆らうなんて。女性の彼女が最強ギルドの副団長をしていたのがそんなに気にくわなかったのっ?、いくら剣士としてのレベルが高くても、そんな嫉妬、男として最低だわっ」

「うえぇっっ???!!!」

 

初めて声を掛けられた時からやけに敵意を感じさせる物言いだと思っていたキリトはここに来て、ようやくその原因に当たりをつけた。アスナを彷彿させる髪と瞳、それに《かの世界》での戦闘時において、筋力値に物を言わせて空間を翔るが如きアスナの姿を再現するのなら飛行速度に長けているシルフの種族選択も頷ける。彼女のアバターの意味をなんとなく理解した所でキリトはずっと聞きたかった疑問を口にした。

 

「それで、なんでアスナのふりをしてオレに近づいたんだ?」

 

SAOというデスゲームの世界から抜け出す為、常に最前線で戦い続けてきた「攻略の鬼」、血盟騎士団のアスナが今度はALOに現れたらしい、という噂を耳にしたのは桜の開花宣言が日本列島の半分を通過した頃だった。もし、その話を聞いたのがそれより二ヶ月程前だったら、キリトはそれこそ血眼になってその姿を探し求めただろう。しかし、《現実世界》の明日奈の病室の窓から見える景色にも段々と春の気配が感じられるようになり、天気の良い昼間なら上着を羽織って自分の押す車イスに乗り、病院の中庭を散歩できるまでに回復した明日奈の笑顔を知っているキリトにとっては、ALOの人物がアスナ本人でない事はわかりきっていた。けれどいくら経ってもその噂は消えることなく、それどころか偽アスナはトーナメント戦に出場して、かなりの上位まで勝ち進んだというのだ。

一体、何が目的なのか…………気にはなっていたが、彼女自身が自分は元血盟騎士団のアスナだと公言する事もなかったようなので、わざわざ会いに行く必要もないか、とそのままにしておいたのだが…………偶然にも今日、あろう事か当の本人から声を掛けられ剣の相手をしている最中、モンスターに襲われ、彼女からは心当たりのない非難の言葉を浴びせられ……「男として最低」にはかなり抉られている。

けれどシルフの少女は不本意とばかりに、目を怒らせて、ガッ、と立ち上がった。

 

「近づいた、とか言わないでくれるっ。私はアスナさんの代わりに黒の剣士、アナタに剣で勝って、ひとこと言ってやりたかっただけよっ」

 

えー……、剣で勝ってないくせにしっかり文句は言ったじゃないか……という表情で見返すが、そんなキリトの冷めた視線など物ともせずに少女は喋り続けた。

 

「私はただアスナさんに憧れているだけなのっ。本人だと偽る気もないわ。あの鋼鉄の城から解放されて《現実世界》に戻って来た後、このALOでキリトと名乗る黒づくめのスプリガンがいるって聞いて、それが《あの世界》のキリトと同一人物かどうか確かめにログインしたのよ。で、その時忘れていた事に気づいたの。SAOだとアバターは《現実世界》の自分とそっくりだったけど、本来、ゲームの《仮想世界》なら好きな姿に設定できるんだって」

「だから……その姿にしたのか……」

「そう。けどいくらアバターをいじっても《あの世界》のアスナさんの方が綺麗なのよね。一体《現実世界》じゃどんな美少女なのっ、て話よ」

「うん、それに関しては大いに賛同する」

「やっぱりアナタ……最低ね」

「へ?……あっ、違うよっ。君よりアスナの方が、って意味じゃなくて。《現実世界》での明日奈が、って話で……」

「ま、いいわ。とにかく、アナタがあのキリトだったら、トーナメント戦で叩きのめしてやろうと腕を磨いてたんだけど、いつまで待ってもエントリーしてこないし」

「だから声を掛けてきたのか」

「そうよ。叶うなら『ホンモノ』のアスナさんがALOにログインしてくれると嬉しかったんだけど、今のところそれらしい人はいないみたいだし、だったらアスナさんの代わりに自分が、って思ったの」

「そうだな、もう少し慣れたら一緒にトーナメント戦に出たいって言ってたけど……」

「何の話?……まあ結局、私の剣じゃアナタの足下にも及ばなかったわけだけど、言いたい事は言えたから気は晴れたわ」

「勝手だなぁ……」

 

気は晴れた、と言い切るだけあって、すっきりとした顔つきになった少女とは反対にキリトの方は理不尽さを隠しきれない。それでも彼女は相変わらずお構いなしに自身の剣を鞘に収めると両手をキリトの両肩に乗せた。

 

「自業自得よ。アナタがアスナさんを妬んで突っかかったのがいけないんでしょ」

「だから、それって……」

「はいっ、今の相手は私じゃなくて、こっちっ」

 

キリトの肩を掴んだまま片手を引き、もう一方の片手を押し出す。まさにクルリ、と回転させられたキリトの目前には巨大蜘蛛が音も立てずに迫りつつあった。

 

「うげっ」

 

糸を吐き切ると一定時間活動を休止するのか、先程の攻撃を躱してから追撃がなかった事に今更気づいたキリトは、なんだか充電マックスといった巨大蜘蛛のヤル気さえ窺わせる軽やかな足運びを見て片頬を引きつらせる。完全に獲物をロックオンした無数の眼全てがキリトを捉えていた。何の対策も浮かばないままドンドンと距離が近くなる蜘蛛に向け先に打って出るべきか、背後の少女と共に回避行動へ移るべきかを天秤に掛ける。しかしその天秤が傾く前に、ん?、とキリトが視線を泳がせた。同時に後ろからぽんっ、と軽く背中を叩かれる。

 

「私の動き、スピードは悪くないんでしょ?、だったら……」

「えっ?!」

 

突然、シルフの少女がキリトの影から飛び出し猛ダッシュをかけた。

 

「囮になるわ」

「バカっ、無茶だっ」

 

標的が二つに分かれようともそれを捕捉する眼はいくらでもある。キリトのその思考を肯定するように蜘蛛は足を止め、その眼の半数ほどが少女を追跡し始めていた。更に動く物を優先的に狙う習性でも備わっているのか、先刻と同様に再び腹部を揺らし始めているのに気づいたキリトは、させまい、と自らは正面から蜘蛛に突進する。

大きく跳躍して上から頭部を狙うように剣を振り下ろせば当然の如く蜘蛛の鎌が旋回してくるが、それを身体を捻って足場にし、鎌を蹴って更に飛んだ。狙いは糸が噴出される出糸突起だ。

しかしキリトの意図を察知した蜘蛛が素早い足の動きで身体の向きを変えてくる。少女に向いていた糸の放出は一旦阻止する事が出来たようだが、瞬時に突起への攻撃から胸頭部と腹部の切断へと狙いを切り替えたキリトの剣は蜘蛛が体勢を変えた事で鎌の間合いに入ってしまい、あえなく防御された。

キリトが攻撃を仕掛けたのを見て、走るのを止めた少女のすぐ前に着地したキリトだったが、打つ手なし、と言いたげに肩を落とし大きく息を吐く。

そんなスプリガンの後ろ姿を見た少女のはしばみ色の瞳もまた囮の効果がなかった事で諦めの色に覆われようとした時だ、この状況に不似合いなほど軽い口調でキリトがポソリ、と呟いた。

 

「あー、オレも正確さ(アキュラシー)はまだまだだな……って事で……」

 

ふっ、と顔を上げ、周りを囲んでいる岩場の一点へと視線を固定する。

 

「そろそろ手伝って欲しいんだけど……アスナ」

 

キリトにつられて声が飛んで行った方向に目を向けた少女の耳へ、岩影から流れ出る細い吐息だけが辛うじて届いた。

巨岩郡の間に隠れていたらしいアトランティコブルーの髪の毛先が風に揺れてさらりと顔を出す。続けて響くブーツの音。コツ、コツ、と少しずつ音が大きくなれば、そこにはまさにホンモノの妖精かと錯覚する程の清楚さを滲ませたウンディーネが現れた。

 

「もうっ、相変わらず信じられない索敵スキルだね、キリトくん」

 

かくれんぼで鬼に見つかった子供のように小さな桜唇を尖らせ、柳眉をうねらせて、澄んだ湖を思わせる彩碧水の瞳で不満そうに見つめられたキリトは苦笑をひとつ落とすと「悪い」と素直に反省の言葉を述べる。

 

「すぐ戻るつもりだったんだけど……待ち合わせの時間、過ぎちゃったか?」

 

それを聞いて、ふるり、と顔を横に揺らしたアスナは、とんっ、と岩肌を蹴り、同時に翅を出して綺麗な放物線を描きながらキリトの元へと舞い降りた。

 

「大丈夫。ちょうど今頃かな」

「?……だったらなんで?」

 

待ち合わせ時間をすっぽかしたからわざわざやって来たのだろう、と思っていたキリトが怪訝な顔をすれば、今度はアスナの表情が一転して微笑みに変わる。

 

「なんとなく?……探しに行った方がいい気がして、ユイちゃんにお願いしてキリトくんのプレイヤーIDの場所を教えてもらったの」

 

さすがに何の手がかりもなくALO内でたった一人を短時間に見つけ出すのはキリトの索敵スキルでも無理だろう。「ちょっとズルしちゃった」と笑うアスナだったが、キリトにしてみれば自分の索敵スキルなどよりアスナの勘の方が遙かにとんでもない代物だ。

 

「っと、今はあまりお喋りしてる暇はないのよね。あの蜘蛛モンスター、キリトくんは鎌をお願い。私は眼をやるから」

 

即座に作戦を立て、それを口にすれば、キリトが短く「ああ」と従ってアスナと並び立ち「行くぞっ」と声を掛け走り出す。

先にキリトが仕掛け、二、三度打ち込み、最後に思い切り振り下ろされた重い長剣を軋みながらも受け払った蜘蛛の鎌がそのままの勢いで大きく上へと浮き上がればすぐさまキリトの「スイッチ!」という声に応じてそこに出来た無防備な空間にアスナが飛び込み、無数の眼に高速の打突を浴びせた。

キリトの呼びかけに応じて姿を現した水妖精族を見た時から、唖然として口を開けたまま、目も見開いたまま、の少女がただひたすら二人の戦いを眺めている。再び自分が囮に、などという考えは浮かびもしなかった。なぜなら眺めているしかないからだ。

正確には眺めていても目は全てを捉え切れていない。まるでエフェクトの音と光を楽しんでいる観客のような気分だった。

自分はあの二人と同じ舞台(ステージ)に立つレベルではないのだと理解して、同時にあのウンディーネが『ホンモノ』だと確信する。

巨大蜘蛛は糸を吐き出すいとまさえ与えられず光の粒となって消滅した。

カチャリ、と剣を鞘に収める二つの音を合図に恍惚の表情で戦いに魅入っていた少女は我に返って思わずアスナの元へと駆け寄る。

 

「あのっ、アスナさん……ですよね?」

 

ALOにログインするようになってからまだそれほど経っていないのに、どこかで会ったかな?、とアスナが小首をかしげると、少女はその他のプレイヤーがいないはずのこの場所で声を潜めた。

 

「……副団長だった……」

 

ここではない《仮想世界》で、それもデスゲームと称される忌まわしい世界での肩書きを口にするのは躊躇いがあったのだろう、けれどアスナは気にする様子も見せず、合点がいったように小さく笑って「アナタも?」とだけで彼女の問いに正直に答えた。

 

「はいっ、ずっとアスナさんと一緒に戦いたいと思ってレベル上げをしてたんですけど……」

 

少し悔しそうな笑顔の彼女が攻略組に入る程のレベルに達する前に《あの世界》がゲームクリアとなったのだろう、「でも友達が所属していたギルドが攻略組だったので、話はたくさん聞いてました」と語る彼女を見て、キリトが「それでか……」と独りごちる。

 

「今日は《あの世界》で黒の剣士だったこの人に、アスナさんに対する卑劣な態度について文句を言ってやったんですっ」

 

得意気に語る彼女とは対照的にアスナは不思議そうな顔をして、隣にいるキリトに「卑劣な態度?」と説明を求めた。その問いかけに肩をすくめたキリトは諦めたように溜め息をつく。

 

「SAOでのオレへの評価は驚くほど悪意が混ざるからなぁ」

「そうなるように振る舞ったのはキリトくんでしょう?」

「確かにそうだけど、特に絶大な人気を誇る『副団長サマ』が絡むと混ざるどころかコーティングされるっぽいんだ」

「どういう意味?」

「だから、オレとアスナが結婚したって話は意外と広まってなかったって事だよ」

「ふぅん、そうなんだ。あの時の釣り大会でてっきり皆にバレちゃったと思ってたのに」

「多分、あの場にいたアスナのファン連中の『信じたくないっ』て深層心理が働いたんだろうなぁ……」

「なによ、それ」

「だから、オレ達ってもの凄く仲が悪いって思われたままみたいだぜ。さっきもこのシルフさんにえらい剣幕で怒られた」

「その理由がキリトくんから私への卑劣な態度、なの?」

「ソウラシイデス」

 

困り顔のキリトを見てアスナが、ぷっ、と吹き出す。

信じられないほどの親密な二人のやり取りに口を挟めずにいたシルフの少女だったが、「結婚」というキーワードを聞いて更に驚きで何も言えなくなる。友人からの情報では黒の剣士と『血盟騎士団』の副団長アスナは犬猿の仲のはずで、それもどうやら女性ながら最強ギルドのナンバーツーの座に就いているアスナへの僻みから、キリトが高圧的な態度で戦略会議の度にアスナへケンカを売っているという話だったが、目の前の二人は見つめ合い、笑顔を交わしながら互いに気を許し、信頼しあっている関係性を窺わせている。

抑も、反発し合っているのが本当ならさっきの二人の息の合った戦いはありえないだろうし、けれど友人が自分に嘘を言う理由も思いつかず混乱していると、ふと、二人の左手の薬指に装着されているお揃いのリングの存在に気づく。

どうやらあの「結婚」発言は聞き間違いではなかったのね、それならなぜ?、と友の言葉があまりにも事実と違うその意味を考えている少女の耳にいつの間に変化したのか、キリトとアスナの少々険悪な雰囲気が入り込んできた。

 

「でも攻略会議でキリトくんとぶつかってたのは本当よね」

「それは……サブリーダーの頃だって主街区でオレとお茶する時は店のNPCに必ず『有り難う』って言うくせに、そのNPCを囮に使うなんて言い出したからだろ。あんな作戦、成功したってアスナは後悔して傷つくってわかってるのに」

「あの時だけじゃないでしょ?」

「ああ、アスナがボス戦を仕切ると自分にかかるリスクを他のメンバーの分まで余計に被ろうとしてたからな」

「指揮を執る人間が安全な場所に引っ込んでいるわけにはいかないもの」

「適材適所ってわかってマス?」

「ならレベルから言っても私がリスクの高い役割を担当するのは当然じゃないっ」

「へぇっ、でもアスナの立案だとオレはいつも単体で動きやすいポジショニングだったけど?」

「そ、それは、キリトくんはソロだったからギルメンとの連携は大変かと思って……」

 

やっぱり会えばケンカをする仲だったの?、と二人の関係を再び認識し直そうとした直後、キリトの声が砂糖を含ませたように甘くなった。

 

「そうだな、連携ならアスナとが一番いい」

「……でしょ?」

 

言われたアスナはそれまでの興奮からか、一番と言われた恥じらいからか、頬を薄紅色に染めながら少し前の刺々しさなど全て抜け落ち、ふにゃり、と頬を緩ませていて、そこに相変わらずピーッ、という高音と共に岩間を通り抜け出てくる細長い風がウンディーネの髪とシルフの髪を乱していく。

せっかく憧れてカスタマイズした長い髪なのに、と少女が「やっ、またっ、もうっ」と広がってしまった髪を両手で撫でつけている目の前で、何が違うのだろう?、と心底不思議に思わずにはいられないアトランティコブルーの髪は一瞬ふわり、と持ち上がったが絡まる事なく艶やかな輝きを放ちながらシャラシャラと元の落ち着きを取り戻していくのだ。それなのにキリトの手はゆっくりとアスナの髪に触れ、必要のない手櫛で何度も彼女の髪を梳いて、アスナも喉を鳴らしそうな笑顔を捧げている。

 

「じゃ、少し遅くなったけど買い物に行くか」

「そうだね」

 

どうやら二人が待ち合わせていた目的は買い物だったようだ。

 

「アスナ、感覚に違和感とかないか?、ここまで飛んできたんだろ?、そのあと軽く動いたし……」

「キリトくん、心配しすぎ。この位の距離なら全力飛行で往復しても平気だよ」

「でも、まだ長時間のダイブや連続運動は気をつけた方がいい。ナーヴギアとはまた違うし、それに……」

 

自分が側にいてやれなかった間、脳に関する人体実験を嬉々として行っていたヤツが彼女を管理していたのだ、《仮想世界》へのダイブでアスナにだけ負荷がかかる可能性もまだ残っている、と続けたかったキリトは、その心配と同じくらい鳥籠の記憶を呼び起こさせたくなくて口を噤む。けれど勘の良いアスナはキリトが飲み込んだ言葉を正確に受け止めたようだ。「だから、大丈夫」と安心させるように微笑んで絹糸のような髪の間から水面を思わせる薄くてしなやかな翅を出す。

 

「今度のお部屋はどんな感じにしようかな?、森の家にはニシダさんしかお招き出来なかったけど、今度はリズやクラインさん達も来てくれると思うし……」

「え、アイツら呼ぶの?」

「当然でしょ。やっぱりテーブルは大きいのがいいわよね」

「アスナさん……あの時と違って、オレ、今、すっからかんだから天然の一枚板とか無理デスけど……」

「わかってるわよ。とにかくお店、見て回ろ?」

「そうだな」

 

続けてキリトの背中からも薄墨色の翅が出現した。

最後にシルフの少女にアスナが軽く会釈を送るとキリトは彼女に向け少し悪戯っぽい笑顔になる。

 

「じゃあオレ達は戻るよ。アスナがちゃんと本気を出せるくらい《この世界》に慣れたら、オレも一緒にトーナメント戦へ出るつもりだから、その時に対戦するかもな」

 

返す言葉が見つからない少女を置きざりにしてスプリガンとウンディーネの二人はふわり、と空中に舞い上がった。二人揃ってシルフの少女に手を振ったかと思うとあっと言う間にその姿は小さくなっていく。どこまでも並んで飛んでいく二種族の妖精達を呆気にとられた顔で見つめていた少女は別れ際に言われた言葉を反芻していた。

ちょっと待って、さっきの蜘蛛モンスターと戦っていたアスナさんって本気じゃなかったってこと?、あの容姿はSAOのキャラクターデータを引き継いでいるはずだからステータスも同様のはずで、更にあの黒の剣士まで出場するトーナメント戦なんて…………あの二人がエントリーするトーナメント戦などこれまでと桁違いの戦いになるのは容易に想像できて、折角今のアバターで上位入賞まで果たしたというのに、これはうかうかしていられない、と少女はあの鋼鉄の城で日夜レベル上げに明け暮れた日々をほんの少し懐かしく思い出し自分に気合いを入れなおしたのだった。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
ALO内なので翅を出して、飛行を混ぜての戦闘……になるべきなのですが
スミマセン、そこまでの展開は私的に色々と無理だったので、移動手段に
限定させていただきました。
シルフの少女……単にアスナの真似っこしたがりさんだったので
《現実世界》では「少女」でもないのかも……(笑)


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借りモノ競走で借りてもいい?

『「お気に入り」200件突破記念大大感謝編】選ばれし者』の
スポーツ大会で午後の部のお話です。
内容的には『女神な彼女』をお読み頂いてからのほうが
すんなりつながります(苦笑)


空は高く澄み渡り、校舎からグラウンドへと吹き抜ける秋風は湿気もなく肌に心地よい。穏やかな日差しの下、手探り状態で開催されているスポーツ大会もそれなりの盛り上がりを見せ、プログラムも午後の部の終盤に差し掛かっていた。

グラウンドの片隅では出番を待つ生徒達が思い思いにウォーミングアップを始めている……はずなのだが、次の競技に限ってはそれほど身体を解す必要もないのでほとんどの生徒がお喋りに興じていた。

その中にひとりぽつん、と哀愁を漂わせている男子生徒の背後に佐々井が忍び寄る。

 

「おーい、モンモン……」

「誰が『モンモン』だよっ」

 

しょんぼりと落ちていた肩がすぐさま怒り肩に尖り、と同時に振り返りざまに佐々井を見る目も完全に尖りきっている。しかしそんな反応にも頓着しない佐々井は普段通りゆるみきった顔で友人の視線を受け流した。

 

「誰って、お前だよ、お前。好きな女子に告白するとかどうかで悶々と悩み続けている、お・ま・え」

「お前らが勝手にオレの事をお猿さんちっくに『モンモン』なんて呼び始めたから、最近は語源を知らないヤツらまでオレの事を『モンモン』って呼ぶんだぞっ」

「いいじゃないか、かわいくて……モンモン」

「よかねーわ。ついにっ、ついに、だっ……さっきこの待機場所に移動してる途中、目当ての彼女にまで『モンモンって呼んでいい?』って聞かれたわっ」

「えっ、それはおめでとうっ」

 

佐々井の目と口が驚きで大きく丸くなった後、すぐにそれは笑顔へと変わった。心底嬉しそうに、楽しそうに笑うその表情の裏に気づいたモンモンが目一杯眉間に皺を寄せ眼光鋭く斜め下から佐々井を睨み上げる。

 

「佐々……お前、それ、絶対おもしろおかしんでるだろ」

「ひどいなぁ、モンモン。オレは純粋に彼女がお前に関心があってよかったね、って思ってるだけなのに……」

「人の恋心を弄びやがって。純粋だって言うならお前もカズも、もうちょっと普通に応援してくれっ」

 

先日、ネト研が活動していたパソコンルーム内での会話を思い出したモンモンが噛みつきそうな勢いで顔を近づけると、たじろぐ事なく佐々井がひらひらと片手を振って動じないテッパンの笑みを浮かべた。

 

「オレは告った事もなければ今のところ告る予定の相手もいないし、カズに至っては人の恋愛サポートより自分の恋愛で手一杯だろー」

「佐々……お前って恋愛感情をうっかりストレージから削除しちゃった可哀想なヤツなのか?」

 

一転して哀れみの視線を送られると佐々井の笑顔の中でピクリと眉だけが持ち上がる。

 

「告らなくても彼女は出来るんだぞ、モンモン」

「は?…………それって……ええっと…………げっ、ま、まさか……ええっ?!、お前がっ??、まじかっ」

「モンモンは意外と失礼なヤツだな…………そっ、自分から告らなくても、相手が告ってくれれば、それをOKして彼女ゲットだ」

 

その言葉を聞いて文字通り、モンモンがグラウンドの地面に崩れ落ちた。

 

「無理だ……彼女がオレに告る?……何をどうしたらそんなシチュエーションになるのか想像すら出来ない」

「うん、オレもモンモンが上手いことそんな感じに女子の感情を誘導するなんて高等テクを習得できるとは思ってないよ」

 

地面に座り込んでいるモンモンの肩をポンッと軽く叩いた佐々井がへらっ、と笑って「お前がそうやって悶々としている姿がオレは大好きだぜ」と告げると、モンモンがキキッ、と顔を上げる。

 

「佐々、お前はわざわざオレを打ちのめしに来たのかっ」

「まさか。オレは久里の背中のクラスゼッケンが取れそうだからそれを直しに来たんだよ。久里もお前と同じでこの後の借り物競走に出るんだ。まぁ、順番はお前のひとつ前だから一緒に競うことはないけどな」

 

そう言いながら周囲を見回して久里を見つけると佐々井は「じゃあな」と言ってモンモンから離れて行った。しかし、数歩足を運んでからくるり、と振り返り、未だ立てずにいるモンモンへ得意気な笑みを向ける。

 

「そうだっ、モンモン。お前、この借り物競走、最終組だろ?……最後は盛り上がるように全員、借り物のお題を『好きな異性』にしといてやったからっ」

「はぁっ!?」

 

バネ仕掛けのように顔を上げたモンモンが同時に驚愕の声を上げた。

 

「なんだよっ、そのお題はっ」

「だからさ、きっかけ作りに協力してやろうと思って。ダメモトで実行委員に提案してみたらノリのいい連中だよなぁ、二つ返事で採用してくれたんだ。だからちゃんと走る前に彼女のいる場所、チェックしとけよー」

 

朗らかに手を振りながら去って行く佐々井とは反対に、お題ネタを耳にしてしまった最終組の出場者はモンモンと同様に驚愕の顔に転じて慌てふためき、足をもつれさせながらも会場内の応援席に視線を走らせ始める。捜索のためにこの場から離れるのは時間的に無理だが、意中の女子、又は男子、又は教師の位置情報を得ようと必死だ。しかし中には全く変化のない者も若干名……既にパートナーが居る者達だろう。逆に走る前にお題が分かって安心しきった顔になっている態度が妙に腹立たしい、と余裕のある生徒数名を視界の端におさめながら、やはりモンモンも目を凝らしてさっきすれ違ったばかりの彼女の姿を探したのだった。

 

 

 

 

 

「位置について、用意……」

 

パンッ、とグラウンドに響くスターターピストルの音を合図に久里はスタート地点からトテトテと走り出した。

歩いてはいない……から、これは走っているのだ、と、いかにも言い訳じみた走り方だったが、所詮「借り物競走」、全力疾走が結果に直結しない競技である。左右を走る同じ組の出場者達も同様で、お題を手にするまではライバルと言う緊迫感より同一行動を取る連帯感さえ漂わせる表情で男女問わず緩やかな足運びのまま『借りモノ』の書いてあるカードが入った封筒が置いてある机までほぼ横一列のまま辿り着いた。

そしてここからは運との勝負だ。

先に『お題』を選んだからといって勝ちが取れるわけでもない。

日本には『残り物には福がある』という諺もある。

けれどお腹も膨れた午後のまったりとした時間帯で行われているせいか、各クラスの応援も順位を急かす雰囲気はなく、どこかお祭りのような賑々しい和気あいあい感満載だ。そんな楽しげな空気の中、久里を始めたとした競技者達は別段諍い合うことなく自然と自分から一番近い位置にある封筒に手を伸ばした。

僅かな緊張と共に封を開けて小さなカードを取り出し、そこにある文字を目にした途端、全員がピシッ、と音を立てたように固まる。

カードに書かれていた硬直呪文が発動したのか?、とその光景を不思議そうに見つめる応援席の生徒達の疑問を解消すべく、実況担当の女子生徒が急いでマイクを手に出場者達に駆け寄った。

 

『えーっと……こちらの一年の男子が選んだ『借りモノ』はですね…………あれ?、え?、ウソ…………ええっ?』

 

戸惑いの声がグラウンド内の各所に設置されているスピーカーからこぼれ落ちる。

そこに書かれているはずのない文字を見たと思われる実況担当者は一年生が手にしていた紙面をギョッと覗き込むと、素早くその隣の生徒のカードにも目を走らせ、反対側の生徒が持っているカードにおいては確認だけで一瞥を投げてから頬をポリポリと掻くと、何かを吹っ切ったように頬に触れていた手を広げて空に伸ばし四方に向けて笑顔全開で声を張った。

 

『すみませーん、ちょっと手違いがあったみたいで、どうやらお題が次の最終組用のと入れ替わっちゃったぽいですけど、こうなったら仕方ないです。とゆーわけで『借りモノ』は全員同じ……『好きな異性』っ。張り切って探してきてくださーいっ』

 

開き直った実況担当者の声が響き渡った一瞬の後、応援席では「うぉーっ」と言う野太い声と「きゃーっ」という悲鳴に近い喜声があがり、その中に紛れ込むように「ええーっ」と細く困惑の声が混じっていたが、総じてその場の空気は一気に色めき立つ。

その空気に飲まれ気味の出場者達は唖然とした顔で数刻前の自分達を振り返っていた。

実は聞こえていたのだ、佐々井がモンモンにかけた言葉を。

だからその時は完全に他人事で「うわー、最終組にならなくてよかったー」ぐらいに思っていたのだが、蓋を開けてみればこのうっかりミス……目頭が熱くなる。

けれど頭を数回振って無理矢理意識を現実に戻し、自分達を見守るそわそわとした落ち着きのない視線の集中砲火を浴びながら「ウソだろ」「もしかしてチャンス?」「えーっ、無理っ」と前向き、後ろ向き、それぞれに思考を働かせ己の取るべき行動を考え始めた。

全員が一様に熟考しているところを見ると奇跡的に誰も彼氏、彼女持ちはいないらしい。

そんな中、意を決したようにキリリッと顔を上げ、覚悟を決めた足取りで全校生徒が待ち構えている応援席へと一直線に進んで行く…………ならばこの場も更に盛り上がっただろうに、一番最初にトテトテと気負いなく足を動かしたのは久里だった。

難なくお目当ての人物を見つけたようで、普段、あまり気持ちが顔に出ない久里にしては珍しくちょっぴり目を細める。

 

「姫ちゃーん」

 

片手を顔の隣に持って来て、招き猫よろしく、おいでおいでの仕草で呼んでいるのはあろう事か結城明日奈そのヒトだった。

途端にグラウンド全体がどよめく。

多分、同じ男子出場者達の誰もが一瞬は選択肢の一人として彼女の影をよぎらせただろう。しかしこの全校生徒と全職員達を立ち会いにして公開告白ショーを披露する度胸はないし、ヘタをすればファンクラブの奴らから凄まじいブーイングの嵐に襲われる危険性もある……ああ、それでもゴールするまでの僅かな距離、姫と手を繋いで走れるのなら、そんな一時の思い出作りにチャレンジするというのもアリだったか……と様々な思考と想像が交錯している間に、明日奈は大笑いしながら隣に座っていた里香に背中を叩かれて、少し照れながらも困ったように眉を落としたまま久里の前まで歩み出て来ていた。

何と言葉を発して良いのかわからず、明日奈にしては珍しくまごついていると、「姫ちゃん」とお日様のような笑顔でもう一度、久里だけが使っている呼称で呼ばれる。

 

「ゴールまで一緒に来てよぉ」

「うっ……えっと……」

「だめ?」

「ダメって言うか……」

 

お題は『好きな異性』なんだから、手招きした時点で告白と同義になっている事をわかってるのかしら?、と明日奈は返答に窮した。

久里は佐々井と一緒に和人のクラスメイトである。もっと言うならばただのクラスメイトと言うよりは「仲の良い」を付ける間柄で間違いない。だから当然、明日奈が和人と付き合っている事は知っているはずで、それなのに『好きな異性』として名指しされた明日奈としては戸惑うばかりだ。しかし、それと同時に恋人である和人と懇意にしている人の頼みなら出来る限り協力をしたいという気持ちもある。けれどこの条件での協力要請には応じて良いのか判断に迷うところだし、仮にその手を取ってしまった場合、告白を受け入れた事になってしまうのでは?、との心配もあった。

 

「ねぇ、久里くん。好きな女の子、いないの?」

「ボク、姫ちゃん、好きだけどなぁ」

「……有り難う、久里くん……でもね……」

「ちょっと待てっ、久里っ」

 

明日奈の背後からグラウンドの砂を蹴る足音がして、すぐに息を切らした和人のいつもより低い声が飛んできた。

 

『はい、「ちょっと待った」来ましたーっ』

 

実況女子の合いの手が入る。

他の出場者達もようやく決心したのか、思い思いの方向に足を進め、目的の異性をひたすら目で探す者や友人達に頼み込んで人海作戦に入ろうとしている者もいる中、やはり一番オイシイのはここだろう、とマイクを握りしめた実況担当者は瞳を輝かせ、慌てふためきながらやって来た闖入者の次の動向を待った。

久里が明日奈の名を呼んだ時点で、もう自分がその名を呼ぶ権利はないのだと決めつけていた男子出場者達は「待った」の声で、一瞬「それってアリなの?」と胸に小さな希望の火を灯す。久里の誘いを明日奈が断った場合、一縷の望みをかけて「じゃあ俺は?」と聞いてみてもいいんじゃないか?、と、聞くだけならタダだ、と、こうなったら借り物競走の獲得順位なんて知ったことか、と……公衆の面前で名前を叫んで呼び出す勇気はないが、既にそこに姫がいるのなら自分の恋心を伝えてみるのも青春だ、と妙にピンクに色づいている会場の雰囲気に酔ったらしく、男子出場者達が次々に「俺も、待った……」と言いながら振り返って目にした光景は、のんびり笑っている久里と困り顔の明日奈の間に牙を剥く形相で和人が割り込んでいて、その三人が視界に収まる距離で実況担当の女子生徒がワクワクオーラを発散しまくっている。

「待った」をかけたのが同じ出場者ではなく、更に言えばどす黒い気迫を纏ったまま射殺しそうな目で久里を睨みつけている桐ヶ谷和人で、その背に庇われながら安心したように、でもほんの少し嬉しそうに頬を染め、その後ろ姿を見つめている結城明日奈。その二人の前には何の圧も感じていない様子で自然体のまま、ぽけっ、と立っている久里に少し離れた場所には事の一部始終を見逃すまいと前のめりにマイクを構えている実況女子。そしてその場を遠巻きに包み込んでいるピンクのオーラ……。

 

「カオスだ……あそこにカオスフィールドが発生してるっ」

「無理だな、俺の耐久値じゃ……あのフィールドに足を踏み入れた途端……消滅確定だ……」

 

結果、暖色、寒色、無彩色が溶け合うことなく複雑に入り交じっている混沌空間へのダイブを試みる猛者は現れなかった。

己は己の戦いをするだけだっ、とカオスフィールドへの関心を断ち切った男子達はそれぞれ当初の目標に立ち返り、改めて応援席へと向き直る。そんな中、実行委員で司会進行役の男子の声がスピーカーから興奮気味に流れてきた。

 

「一年生の女子が、今、トップでゴールテープを切りましたっ。彼女の『好きな異性』として一緒にゴールしたのは……ほっちゃんですっ。若手の科学教師、穂坂先生っ。噂によるとカフェテリアの調理主任『俺達の胃袋かあさん』と呼ばれているヨシエさん、カッコ、永遠の三十代、カッコとじ、も密かに恋心を寄せているという我が校のイケメン教師っ…………あーっと、応援席からブーイングが飛んで来ていますっ。どうやら『穂坂会』会員の女子から非難の声があがっているようですっ」

 

和人が久里を睨み付けている間に一位は決まったようだ。

カオスフィールド内に留まっていた実況担当者がすぐには対応できないと判断した進行役の男子の機転で、一位を獲得した女子の様子を司会として常駐しているゴール前の本部テント内から伝えると、やはりカオスフィールドに釘付けになっていた観衆の視線が一気に移動する。一位の女子と手を繋いでいる教師にいち早く反応したのはその教師、穂坂のファンクラブと言うべき『穂坂会』の会員となっている女生徒達の悲鳴と怒号のミックスだった。衆人環視の目がカオスフィールドに向いている間にこっそりと穂坂を連れ出してゴールテープを切った女生徒もあまりの過激な反応に驚き、慌てて繋いでいた手を離すがブーイングが収まる気配はない。

カオスフィールド内の三人に張り付いていた実況女子がこの騒ぎを収拾する為に急いで駆け寄り、マイクのスイッチを一旦切って一位の生徒と穂坂に話しかけている。

どうやら『借りモノ競走』出場者の生徒はこの場に残ってもらうが、協力してくれた相手が留まる必要はない、と伝えているようだった。穂坂を連れて来た一年の女子はしきりと頭を下げ、感謝の礼を告げているが、穂坂はそれに応えるように笑顔で手を振るとそのまま彼女の頭をぽふ、ぽふ、と軽く労うように触れる。

 

「「「ひぃぃゃやあぁぁぁぁぁっ」」」

 

同時多発的に引いているのか押しているのか分からない叫悲の声が会場内をうねり巡った。

ポフポフされた女生徒、それを間近で見た実況女子、そして、応援席に点在する『穂坂会』会員達がそれぞれ、驚きと嬉しさと恥ずかしさと妬ましさと羨ましさのどれかの感情が全身を占めて言葉にならず、ただ頬を真っ赤に染め上げ穂坂を見つめている。

単に「お疲れさま」のつもりだった穂坂は予想外の反応に「んん?」と首を傾げたものの、実行委員の女子スタッフにこの場を退場して欲しい旨を伝えられた事を思いだし「じゃあね」と声を掛けてグラウンドの外に出るが……途端、バタバタと殺到してきた女生徒達が次々に頭を差し出してきて、彼女達のポフポフリクエストに頬をヒクつかせながら応じる羽目となってしまったのだった。

そしてその頃、カオスフィールドのただ中にいる和人は明日奈を背で隠しつつ久里を問いただしていた。

 

「どうしてアスナなんだ、久里」

「うーん、だって『好きな異性』ってお題だからだねぇ」

「そうじゃなくて……」

 

こいつ、オレとアスナの関係に気づいてなかったとか言わないよな、と久里ならばありえる可能性に和人は痛みを覚えたのか片手で頭をおさえた。自分に向けられた不安と疑いの眼差しに「大丈夫だよぅ」と久里が気の抜けた声を出す。

 

「ボク、カズくんも好きだし、佐々も大好きだからぁ」

「あっ?、あぁ……あー……」

 

一音の強弱だけで疑問と戸惑いと納得を示した和人はもう一度「だからそうじゃなくてさ……」と次に続く言葉に悩んだ。お題の『好きな異性』の『好き』は同性に抱く『好き』と同じじゃないから、をどう表現していのかがわからない。

すると和人の背中から優しい声と同時に明日奈が歩み出てくる。

 

「あのね、久里くん。もし私が同じように『借り物競走』で『好きな異性』ってお題が出たら、私は久里くんじゃなくて和人くんを呼ぶの」

 

みんなが魅了されるほわん、ほわん、とした笑顔が添えられた明日奈の発言に和人が目元を染めて「あ、ありがと」と小さく返すと「もうっ、当たり前でしょ」と明日奈の眉毛が跳ねた。けれど互いを見つめ合う二人の前で久里が臆することなく「姫ちゃん」と明日奈を呼ぶ。

 

「姫ちゃん、ボクの事、好き?、嫌い?」

 

二択を迫られてはどうしようもなく、明日奈は「うん、好きだよ。でもね……」と続けようとすると、久里はホッとしたように顔を緩ませた。

 

「うん、ボクも姫ちゃん、好きだよぉ」

 

どうやら話が振り出しに戻ったらしいと気づいた和人が「あー……」と項垂れる。それでも懸命に説明をしようと試みる明日奈が「確かに私は久里くんが好きだけど……」と言うと、それを遮るように「いいよ、アスナ」と和人が諦めの声を吐いた。

 

「なんかアスナの口から『久里が好き』とか聞かされるのも無理だし」

「でも、和人くん」

「久里ってさ、確か幼馴染みの彼女がいるって佐々が言ってた気がするけど……」

「えっ、そうなの?」

「ああ、だからこの学校には、そういう意味での『好きな異性』はいないんだろ。きっと……多分……ちゃんと……わかっててアスナを呼んだんだと……思う」

「あー、よかった」

 

心底ホッとしたような顔の明日奈を横目で見ながら和人は「だからってなんでわざわざアスナを選ぶんだよ」と不満げに文句を零しながら改めて久里の前に進み出た。

 

「久里」

「なぁに?、カズくん」

「これは『借りモノ競走』だ」

「そうだねぇ」

「借りるんだから当然そのモノには所有者がいるって事だよな?」

「そうだねぇ」

「だから今回だけはお前にアスナを貸すよ。いいか、ゴール地点まで貸すだけだからな」

「うん、ありがとぉ、カズくん」

 

言外に明日奈の所有者は自分だと言ってのける和人に久里は相変わらずの笑顔で応えるだけだ。困った笑みを浮かべている明日奈は二人の取り決めが終わったところで「じゃ、ゴールまで走ろっか、久里くん」と言って久里の隣に立つ。周囲に目を向け、借りモノ交渉に成功した出場者達がパートナーと手を繋いでいるのを見て逡巡すると、それに気づいた和人が後ろから「今回だけな」と渋々お許しを出してくれた。

くすっ、と笑って明日奈が久里に手をのばす。その手を嬉しそうに握って走り出した二人の後ろ姿を苦笑いの溜め息と共に真っ黒な瞳が見送っていた。

その光景をすぐ近くの応援席から眺めていた佐々井が目に涙を貯めて笑い悶えていた事も、もちろん、その次に控えていた最終組のモンモンがスタート地点で既に泣き崩れていた事も言うまでもなく、そんなグラウンド内の状況には目もくれずに永遠の三十代であるヨシエさんはキラキラとした若々しい笑顔で穂坂にポフポフしてもらう列の最後尾についたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
今回は『秘め事』で出た穂坂先生(に関連して「穂坂会」)なども登場で
あっちこっち《かさ、つな》オリジナルキャラばかりが絡んでいて
少し読みにくかったでしょうか?
ヨシエさん……煮豆が得意です(苦笑)……既に小学生のお孫さんもいる
永遠の三十代ですっ。
世に言う「頭ポンポン」は結構、賛否両論みたいですけど「セットした髪が
乱れるっ」とゆーご意見もあったので、あまり勢いなさげな「ポフポフ」に
してみました(笑)


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硝子越し

祝・SAO21巻「ユナイタル・リングⅠ」発刊で短編をアップさせて
いただきます。
久々、《現実世界》で高校生のキリト視点です。


それはほんの一瞬の出来事だったんだ……

 

夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間帯、もしも自分が小学生だったら背中に背負っている大きくて重いランドセルを放り出す為、自宅に向かって懸命に足を動かしていたかもしれない。或いは、中学生だったら無意味に感じる拘束時間を終え、放課後を共に過ごす同世代の表情の眩しさの横を通り過ぎながら一刻も早く《あの世界》に潜る事だけを考えていたかもしれない。

その日の気分であっと言う間に過ぎてしまったり、逆に、やけにのんびりと流れていくようにも感じるこの時間帯、今現在のオレはやっぱり学校から家に帰る為、いつも通学で使っている電車に揺られていた。

いつも、と少し違うのは、いつも利用するより早い時間帯なので車内がかなり空いている事と、オレのすぐ隣に可愛い恋人が座っているという事だろう。

一緒にこの沿線に乗るのは初めてではない。ただ、いつもの時間帯だったら仕事帰りの通勤者だったり、自分達と同じ様に学校帰りと思われる制服姿の若者だったり、肩書き不明の老若男女達だったりが入り交じって乗車しており、座席など空いている事がないのだ。まあ、オレの場合、それでも利用する公共機関はこの路線一本なので乗ってしまえば「降車駅に着くまでの我慢」で済むのだが、隣にいるアスナの場合はバスと二本の電車を乗り継いで通学しているのだから、その苦労は推して知るべしである。

と同時に彼氏として、オレ的にも色々と心配の種は尽きない。

 

「このくらい空いてればなぁ」

 

思わず考えていた事が口から漏れてしまい、ハッ、となったが、幸いな事に隣の彼女は一般的な感想としてとらえてくれたようだ。

 

「そうだね」

 

軽く苦笑しつつも同意を示してくれる。

あえて誤解を解かないままオレはアスナに気づかれないよう安堵の息を吐いた。こっちの《現実世界》でいわゆる、お付き合いをしている関係となった彼女サマ曰く、オレは少々「心配しすぎ」で「過保護」な彼氏となっているらしい。自覚はないが《この世界》で医療用ベッドに横たわったまま正に妖精のように儚げな姿を見続け、覚醒した彼女に一番最初に会い、それからのリハビリを見守ってきた身としてはその回復の度合いにまだまだ安心は出来ないし、なんと言ってもそのアイドル並みの容姿で毎日、公共機関を利用して通学しているのだ、目の保養だけで済ませるならまだいいが、同じ車内に乗り合わせた男の中にはよからぬ事を考える輩がいないとも限らない……いや、いる、絶対に。

アスナが利用する電車やバスの乗客率が今くらいならばそうそう強引な接触は出来ないだろうと思って、つい口から衝いて出たのがさっきの言葉だったわけだが、当の本人は背後の窓から差す陽の暖かさのせいか完全にまったり状態だ。

そんな無防備な表情を見て、オレは素早く車内を見渡す。

立っている乗客はいない。はす向かいに座っている中年男性は鞄を抱えたまま俯いて寝入っているし、それより少し遠くにいるサラリーマン風の男性は手元の携帯端末に夢中のようだ。オレ達と同じ座席サイドにいるのは他校の制服の女子三人だけだし…………この女子達はチラチラとアスナに視線を送っていたが、警戒する類いの物ではない。

残るは真正面に座っている学生と思しきカップルの二人。けどこちらは完全に二人の世界に入っているようで、静かな車内の空気を壊さないよう、わざわざ相手の耳元まで口を寄せる行為を交互に繰り返しながら楽しそうに秘密の会話を続けている。

そんな向かい側の二人の姿もいつものように一人で乗っている時なら気にも止めないのに、自分の隣にも向かいの男性と同じように恋人が座っていると思うだけで微笑ましく思ってしまうのだから不思議だ。オレはつい自分の膝の上で絡んでいるアスナの手をギュッと握った。

すると、すぐにはしばみ色の瞳が「どうしたの?」と隣の少し下方から覗き込んでくる。

特に意味があったわけじゃないし、今の気持ちを上手く言葉にする自信もないから「なんでもない」と曖昧に笑って軽く首を横に振ると、不思議そうな顔をしたアスナは、ぱち、ぱち、と瞬きをした後、ふわり、と笑ってくれた。なんだかそれだけで気持ちが伝わった気がして、つられるようにオレも笑い返す。

そうしている間に電車が減速して駅に着いた。

オレ達の降りる駅はあと少し先だったが、向かいのカップルの男性はここで降りるらしく、名残惜しそうな顔で手を振りながら女性一人を残して車内から出て行く。女性の方はそのまま身体を捻って後ろの窓に顔をくっつけるようにしながら男性の姿を追っていた。男性の方もホームに降り立ったものの、すぐにその場を去ることなく車外から彼女が座っている窓の位置までやって来る。

客が少ないせいで、人の動きがないまま開きっぱなしになっている車両の扉がなんだか空しい。

いつもホームと車内で乗降者が気忙しく入り交じる様は停車時間を随分と短く感じさせるが、今日に限っては時間の感覚さえ狂ってしまいそうなほど長く感じられる。

すると、車両の窓を挟んで互いの視線を絡ませていたカップルも同じ感覚だったのか、ホームにいた男性が誘うように人差し指でトン、トン、と窓を叩いた。振り返ったままの女性の表情は見えなかったが、男性が叩いた場所にゆっくりと顔を近づけていく。

そして、今度は彼女の後頭部に隠れるように男性の顔が重なって…………ほんの一瞬の出来事だったんだ。

その瞬間、今度はオレの手の中にあったアスナの手が、キュッ、と固くなった。

 

 

 

 

 

家族団らん……と言っていいのだろうか、珍しく夕食に間に合う時間に帰宅した母さんをはじめ、スグ、オレ、それにアスナの四人で桐ヶ谷家の食卓を囲み、主にオレの幼少時代の暴露話をアスナに聞かせるという、オレ的は消化に悪そうな話題で大いに盛り上がり、女性陣三人は満足げな顔で食事を終えてもなおソファに移動して黒歴史の話題を続けていたので、オレは巻き込まれない為にも食事の後片付けを買って出た。

ひとしきり喋って気が済んだのか、将又思い出せるネタが尽きたのか、ようやく暴露大会が終演すると、遠慮するアスナを客人なのだから、と半ば強引に我が家の一番風呂に案内した後、母さんは「仕事をするわ」と自室に引き上げ、スグは「ちょっと振ってくる」と言って道場に消えた。

多分、アスナの後にオレが風呂から上がった頃合いに戻って来て、自主練でかいた汗を流すつもりなんだろう。

オレは台所の片付けを終わらせ、次に今晩アスナが使う布団を準備する為に一階にある客間の電気を付けた。程なくして、ホカホカと言う表現がピッタリの彼女が「お先にいただきました」と言いながら寝間着姿でやって来る。

 

「あ、お布団。有り難う、キリトくん」

「おう」

「次、お風呂の順番、誰に声かけたらいい?、おば様?」

「いや、母さんは仕事始めたら一段落するまで部屋から出てこないから、オレが入るよ。スグも素振りしに道場行っちゃったんだ」

「そうなんだ。なら後は私、自分でやるから。キリトくん入って」

「んー、じゃシーツと枕カバーはそこにあるのを使ってくれ」

「うん、わかった。いつもゴメンね。用意してもらって」

「いいって。この客用布団、新品のまま誰も使ってなかったから、母さん、昨日、庭で干しながら『無駄にならなくて良かった』って喜んでたし。もうウチじゃ客用布団じゃなくて『アスナの布団』だよな。そうそう『今度、茶碗とお箸も買い揃えましょうか?』って言ってたぞ」

「えっ、それは……嬉しいけど……いいのかな……?」

 

ゆるい寝間着の間から風呂上がりで上気したアスナの匂いがオレの鼻まで届く。少し湿ったままの髪の幾筋かが細い首に沿って不自然な流れを形作っていて、それを理由に彼女の肌に伸びてしまいそうな手を懸命に堪えた。

他家である桐ヶ谷の家に自分専用の物がある、という話に戸惑いと遠慮を浮かべながらもその頬は綺麗に色づいており、その原因が湯上がりである事だけでないのは明白で、しっかりと夕飯を食べたはずなのに飢えた狼のようにゴクリ、と喉が鳴る。

ここは家で、すぐ近くの部屋では母親が仕事をしてて、きっとあと三十分もしないうちに妹も戻ってきて……そんな状況を自分に言い聞かせ、衝動を抑える声で「アスナが……嫌じゃなければ……」とだけ返せば彼女は慌ててフルフル、と首を振った。

 

「嫌だなんて、そんな……」

 

否定の動作で首筋にあった髪が離れる。手を伸ばす理由がなくなってホッ、としたような、残念なような……複雑な心境に翻弄されていると、今度はさっきまで漂っていた彼女の肌の香りに新たな匂いが加わった。思わず、すうっ、と深めに息を吸い込めば、うちの風呂で使っている嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いとアスナの匂いが混じり合って肺を一杯に満たす。

自分の家にアスナの物が存在する事も、アスナの匂いの中に自分の家の日用品の匂いが混じる事も、ひどく新鮮で気持ちが高ぶった。

このままだと理由なんかなくても、つい触れてしまいそうになる。

さすがにそれはマズイと理性が警鐘を鳴らしているうちに客間から去るべくオレはアスナに背を向けた。

 

「オレも……風呂、入ってくるから」

「うん…………あれ?」

 

レアアイテムでも見つけたような声が最後に飛び込んできて、廊下まで出ていたオレは無意識に振り返る。するとアスナはオレのすぐ近くまでやってきて、すとん、と腰を降ろした。閉めようとしていた客間の障子の下段部分の格子を細い指でなぞると、きちんと障子の正面に座り直し、改めて両手で格子を掴んで可動する下段部分を静かに押し上げる。

ここ数年は動かした事などなかったのだろう、ガタ、ガタ、とつっかえながらなんとか上段の障子に重なるように持ち上げると、その下に硝子が姿を現した。

 

「ここ、雪見障子?」

「……オレは『上げ下げ障子』って覚えたけど……普段使ってないから忘れてたよ。廊下からは硝子面が見えてるのにな」

「障子を下げたままだと廊下側から見ても普通の障子みたいに見えるしね……あ、でも、お庭に面してないから厳密には雪見障子とは呼ばないのかも……」

 

廊下にいるオレからは硝子の向こうで正座をしたままこの障子の呼び名を考えているアスナの真剣な顔が見えていて、そんな姿さえ愛しく思ってしまう温かな感情と同時にこちらに振り向かせたいという子供じみた独占欲が共存してオレを動かす。

彼女に気づかれないまま廊下の床に片膝をついて手を伸ばし、未だ考え込んでいるアスナのすぐ目の前の硝子を、コツ、コツ、と指の関節で叩いた……そう、昼間、帰りの車内で目撃した、向かい側にいたカップルの男性のように……。

音に気づいたアスナが顔をあげる。

一瞬、きょとり、とはしばみ色の瞳を大きくさせたが、オレがもう一度、今度は指先で硝子の一点を、とんっ、と指定すると、すぐに記憶を呼び起こしたのだろう、困惑と羞恥で眉根を寄せたまま目の縁を赤くした。きっとアスナもさっきのオレと同じように、この現状から理性が警告を告げているはずだ。それでも否定の動作も言葉も出ないのなら、とオレは硝子越しに小さな誘い文句を口にしてみる。

 

「っと……その……やってみます?、オレ達も……」

 

相手は硝子の向こう側だ。同意を得られなければどうやっても実行できないあの行為。

治まっていたアスナの朱が目元からジワジワと広がっていく様に目が離せないでいると、少し表情を強ばらせた彼女の顔がゆっくり近づいてくる。いつもなら柔らかな頬や華奢なおとがいに手を添えてやるので、距離感も測れるし、何と言ってもこれまでの経験値から唇を重ね合わせるなど容易いのだが、アスナに一切触れることなくタイミングを合わせるというのは…………自分から誘ったくせに、迷って、悩んで、考えている間にどんどんと綺麗な顔はこちらに差し出されてくる。

膝頭の位置に両手をついて腕と背とをまっすぐに伸ばし、畳の上で裸足の指先を立て、その艶やかな花唇があと少しで硝子面に、という距離でアスナがゆっくりと瞼を下ろすのを見ていたオレは我慢出来ずに、勢いよくガタリッ、と音を立てた。

 

「ん゛っっ!!」

 

閉じかけた瞳は逆に目一杯見開かれて、硝子面に触れるはずだったふっくらとした唇の感触を堪能しつつ驚きと恥ずかしさだけの朱ではない、先に誘ったオレが土壇場で裏切り行為に出た事に少々お冠になっているらしい頬の赤みを鎮めるため、邪魔な障子を押しやった手で優しく包む。と同時にもう片方の手で彼女の腰を抱き寄せ完全に動きを封じた。

弾力があってしっとりした滑らかな頬は手の平に吸い付くようで、円を描くように撫でながら指先で耳たぶを弾くと「んっ」とさっきより幾分甘さのまじった声が漏れ出る。

触れられる距離にいるのに、なんで硝子ごときにその感触を味わう権利を奪われなくちゃならないんだよ、と、硝子越しという好奇心より簡単に欲望の方が上回ったオレは、ここで彼女から離れたら間違いなくお小言をいただく事態になると予想できて、それならば今少しその口を塞いでおこう、と、打算と劣情のままに密着の度合いを深くしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
キリトとアスナの通学事情はSAOOS特典小説に基づいております。
で、結局しないんかーいっ、と(苦笑)
変だな……「する」はずだったのに……いくら私が頑張ってみても
障子、開けちゃうんですよ、キリト君……。


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不可侵領域

OLさん視点のお話です。


お世辞にも広くて綺麗とは言えない会社の会議室では、椅子は全て取っ払らわれ、年季の入った長机の上にデリバリー料理の大皿がどーん、どーん、どーん、と並んでいる。そのデリバリー料理だってオシャレな盛り付けなんかしてなくて、これ、どこぞの冷凍食品をチンしただけじゃありません?、とか、いつだったか会員制の大型倉庫店で大量に売っているのをテレビで見た気がするんですけど、それをお皿に載せただけじゃありません?、とか、品数はそこそこあるけどどれもお財布に優しい料理ばかりだ。

ただでさえ食生活が乱れきっているとゆーのに、胃に優しい料理はないのっ?!、と目で検索してもサラダとトルティーヤくらいしか該当物が見当たらない。

うちの会社主催ではこれが限界なんだろうけど…………うん、ここ一週間ほど、連日連夜、栄養サポート系のゼリー飲料やらクッキーバーみたいなのが主食だったんだから贅沢は言うまい。何せ全て会社持ちの納会、タダで一食浮くと思えばそこはかとなく有り難みさえ湧いてくる。

それにしても「ざ・守銭奴」みたいな経理部長がよく許可してくれたもんだね、と思いながら、私は「もしかして、遠いご先祖様にタヌキがいらっしゃる?」と尋ねたくなるような体型の我が社の「タヌキ親父」のお腹周りを頭に浮かべた。もちろん「タヌキ親父」とは女子社員同士だけの経理部長を指す隠語だ。

年末と言うことも手伝って、ここ数日、何をしていたか記憶が朧気になるほどの仕事量をこなしていた私は、今、栄養不足に加え睡眠不足、ついでに体力不足だと言うのに、立食パーティー形式という名の、本当は狭くて椅子が置けないんだよね、な自社の納め会に参加している。

基本、社員全員参加という「おふれ」だったし、どうせ参加を辞退して一人暮らしの小さなアパートに戻ってもまともな食材の買い置きはない。帰る途中でスーパーに寄る体力も残ってないし……あ、明日の朝、食べる物ないな……きっと今晩は帰った途端、泥のように眠っちゃうだろうから、せめてこの納会で少しでも胃を満たしておこう、という腹づもりだ。

取り敢えず、今現在、誇張表現でも何でもなく文字通り社運を賭けて取り組んでいるプロジェクトがようやく試作段階一歩手前までこぎ着けた事で上役の機嫌もいいみたいだし、今なら明日の朝食分を包んで持ち帰っても怒られないかもしれない。

どこかに手頃なサイズの空いてる容器とラップないかな……と、周囲を見回した時、私のいるテーブルの対角線上から「おおっ」「へーっ」という感嘆の声が大きくあがった。

 

「あまり沢山はないんですけど……」

 

清涼感を含んでいる声の恐縮した言葉に自然と私の視線もそっちに動く。そこには三段構えの迫力のある重箱がたった今、風呂敷包みからその姿を現したところだった。

使い捨て容器ばかりが並んでいる長机の上に場違いなほど貫禄のある塗りのお重。それを取り囲み、今か今かと蓋が持ち上がるのを待ち構えているうちの社員ども。

きっと浦島太郎が玉手箱を開く時の期待度もこのくらいあったんだろうなぁ、とほのぼの思っていた私は、そこに現れた料理を見た途端、瞳に野生の光を宿した。

あそこっ、あそこに胃に優しい料理があるっ。

彩り野菜の湯葉巻きにスパニッシュオムレツ、小さめサイズのロールキャベツと山芋の磯部揚げ、それにトマトを豚肉で巻いて焼いたやつ……ああっ、あとはよく見えないっ、とにかく、間違いなく、今の私の胃が欲している料理の数々っ。

料理を目にした途端、ごくり、と唾を飲み込んだ社員達に後れをとるものかっ、と私は取り皿と割り箸を素早く掴み、寝不足のせいでよろつく足を叱咤激励しながらお重目指してダッシュした。私の他にもお財布に優しい方の料理を仕方なくつついていた社員達が重箱の中身に気づいて駆け寄ってくるのを横目で睨みつつ、ライバルが増える現況に更に闘志の火を燃やす。

当然だ、他の社員達だって勤務状態は私と大差ないはずだから胃が求める物は自ずとかぶってくる。

それにしてもちょっと意外だったのは、今回のプロジェクトで外部から招いた心理アドバイザーの彼女が料理を持参した事だ。

モデル並みのスタイル、芸能人並みの容貌、大学教授なみの知識、まさに出来る女、働く女性の理想像といった彼女は自分のアドバイザーという立ち位置を逸脱することなく、常に控えめに、それでいて的確な助言を私達に提供してくれた。噂によると児童心理学や犯罪心理学といった聞き覚えのある分野はもちろん、デザイン心理学とか環境心理学にまで精通していて、その学識は広く、深く、そして豊かだ。

うちの仕事を受ける前は地方都市の再開発事業で街作りのプランニングに関わっていたらしいし、かと思えば大型イベントのコンサルタントを務めた事もあるというマルチな働きを聞いた時にはさすがに「実はAI?」と半分本気で勘ぐったけど、お嬢様然とした立ち振る舞いの中に時折混ざる天然ぶりは彼女の人間味を更に魅力的にみせている。

そんな彼女だから左手の薬指に指輪があっても仕事第一、仕事優先、仕事が生きがい、みたいな仕事中心の生活なんだろうなぁ、と勝手に想像して、理解のある旦那さんなのか、はたまた既に冷え切った仲のか、でも彼女なら十分生きていけるよね、って思ってたから、正直、料理をするヒトのイメージがなかった。

そしてそんな彼女は今、華麗な箸さばきで殺気さえも帯びて突き出される周囲の箸先よりも早く、手にしていた取り皿にパパッ、と持参した料理各種を少量ずつ確保している。

その一瞬後、文字通り飢えた社員達がハイエナのごとく並べられた重箱に群がった。料理しか見えていない大柄男性社員の勢いづいた巨体が彼女の肩にぶつかり、彼女の唇から吐息のような小さな声が零れ出る。

 

「ぁっ」

 

咄嗟に料理をこぼさないよう取り皿を庇った彼女がバランスを崩した。華奢な身体が簡単によろめく。

つい届くはずのない手を伸ばしながら……今日の会議中もいつもの優しげな雰囲気の彼女だったけど、本当は私達と同じように少しの衝撃でもフラつくほどに疲れていたのかもしれない、とスローモーションで傾いていく彼女の姿を目で追いながら自分の口が「危ないっ」の「あ」の形になった時だ、彼女に背を向ける格好で隣の長机にいた男性がまるで見えていたかのように、くるり、と振り返り、両手で彼女の肩を支える。

 

「あ?」

 

「あ」の口は無駄にならなかった。

とんっ、と男性の胸元に背中を預ける形で転倒を免れた彼女は見るからに安心した様子で、ほっ、と息を吐き出している。受け止めた男性の方も大事に至らなかった事を知って肩の力を抜いたようだ。

けど、点になったままの私の目も「あ」の形に固まった口も元には戻らない。

だって、あの二人は今日の昼間の会議でお互いがアドバイザー的な立場だったにも関わらず、うちの社員達よりも熱いバトルを繰り広げていたからだ。

我が社が社運を賭けているプロジェクト……それは現代において各家庭にひとつ、ではなく、一人にひとつまで保有率が上がったVRマシンで簡単な健康チェックを行える装置を開発する事だった。大手の医療機器メーカーは競ってメディキュボイドの後継機を開発しているけど、ウチみたいな中小企業はそこまで大掛かりな物は作り出せない。だから治療用としてではなく日常で簡単に使ってもらえる検診用マシンの開発に着手したわけだ。

例えば、体調管理という面で基礎体温や血糖値を気にしたり、毎日血圧を測っているお年寄りだって少なくない。その測定結果が平常値と違えば原因は分からなくても体調不良の自覚は出るから日々の生活面を見直したり、病院に行こうかと考える人だっているだろう。そういう風に従来のVRマシンを装着するだけで簡単に身体の健康状態を数値化できるよう試行錯誤しているのだ。

本体はすでに普及しているVRマシンで出来る、のが売りだから要は新たな付属装置を製品化するのが目的なわけで、それで今回だけはVRマシンの開発プロジェクト側から特別に技術者さんにも意見を伺おうと参加していただき、ついでに納会にも参加して下さったのがその男性なわけで……はっきり言って初顔合わせした時は内心「わかっ」と驚いた。他社での開発商品の参考程度に呼ばれただけだもんね、きっとプロジェクトチームの下っ端さんなんだろう。

それでもチームの一員なんだから将来有望株なのは間違いなく、加えて見た目も良さげな人だったんで早速うちの女性社員とか、提携してるソフトの制作会社の女性達が我先にと名刺交換を求めてた。

私は……一応、これでも彼氏持ちなので、彼は鑑賞対象だな、と観察眼で見るだけで十分に満足…………いやいや仕事でお付き合いのある男性を鑑賞しちゃダメか?。

それに、そもそも彼、無愛想な草食系っぽくて私の好みのタイプとは正反対。技術職の人ってなんかこだわり強そうでズボラな私としては仕事の上なら信頼できるけどプライベートでのお付き合いは遠慮したいという先入観がある。

うちの父親がそんな感じの人なのだ……ああいう人は身内に一人いれば十分。

自分のテリトリーと言うか、譲れない分野だととことん我を通そうとする姿は一見頼もしく見えるけど、それに付き合わなきゃいけない家族としては、はいはい、また始まったよー、でスルー機能のスイッチをオンにするしかない。そういう所はやっぱりあの男性も同様で、昼間だって開発に携わった者として自分への挑戦だととらえたのか、アドバイザーの彼女さんとすっごい積極的に討論してて……

 

『この製品の場合、見た目はさして重要じゃないだろ』

『外観の事を言っているわけではありません。これはVRマシンを一種の医療用測定器としての役割を持たせる製品なんです。しかも実際操作するのは一般人、もっと言えばこれまではバーチャルショッピングやコミュニケーションツールといった一部の機能だけを集中的に使っていた年配の方もターゲット層なんですから、見てわかる操作性デザインは絶対的な条件です』

『そうは言ってもそれを重要視した為に性能が落ちたら意味ないと思うけど』

『何もデザインを最優先にする必要はありませんが、測定される数値も医療機関が求めるレベルの精密さは必要ないと思います』

『なんだか曖昧だな』

『例えば体温計で熱を測った場合、37,5度でも37,8度でも通常より高い事に変わりはなく、その対処法も変わることはないでしょう。それと同じと考えて下さい。それよりも見やすい表示だったりわかりやすい操作性の方が利用者の心理的には使いやすい器具としての印象が強く残り、結果、多くの購入者に長く使ってもらえる製品になります』

『逆にセッティングが面倒かもな。その辺りの見極めはここのチームが考える事だけどデータ処理の簡素化はマシン本体に干渉する場合もあるから方向性が決まったら、一応こっちにも教えて欲しい』

 

そんな感じでその後はウチの開発チームとの話し合いになって……流石に仕事の話だから私もスルー機能は起動させなかったけど、それまでは椅子に腰掛けて資料を見ながら聞いてんのかどうだか、な態度だった彼なのに……きっと彼も集中しちゃうと寝食忘れるタイプなんだろうな、と想像して、そんな人のテリトリーに入っても尚、怯まずに自分の意見を口にする彼女も格好良かったっ、と思い、ビジュアル的にもこの二人の口論って互いが真剣な表情だけに魅せられた部分も大きくて、ちょっと不謹慎だけど眼福、ご馳走様でした、と追想する。

けど、昼間の様子を思い出しながら視線はぼんやりと二人に固定したままになっていた私の目は理解不能な光景を激写してしまい、一気に意識が現実へと戻ってきた。

それはアドバイザーの彼女が死守した料理の乗っているお皿を自然な動作で技術者の男性に渡したからだ。

よろめいた事を支えてくれた御礼ならばもう少しやり取りがあってもいいのでは?、と思う程、当たり前のように皿が彼女から男性へと手渡しで移っていく。しかし、その様子を捉えていたのは私だけではなかった。

 

「あらっ、桐ヶ谷さんもそういう料理を召し上がるんですか?」

 

いつの間に移動して来たのか、二人の前に現れたのは今回、ウチと提携しているソフト開発会社の女性スタッフ、通称ハデ美様だ。確かご本名は可愛らしく「晴美」だったと思うけど、良く言えば大変化粧映えのするお顔立ちで、加えて服の好みに原色使いが多く、更にゴールドのアクセを常に着用しており、仕上げにお言葉遣いがとても高慢チックという……今度、酔った勢いで「キャラ、作りすぎですよーっ」と背中をバンバン叩いてやりたいお方だ。

そのハデ美様がお得意の見下し目線で技術者の桐ヶ谷さんが手にしている料理を一瞥し、次にその料理を持参した彼女を横目で見る。

 

「なんだかこれ見よがしな気がしてしまうのは私だけかしら?、まるで仕事が出来るだけじゃなくて、家庭的な面もあるってアピールしてるみたい」

 

少し高めのハデ美様の声が納会場所である会議室内に響き渡った。

一瞬にして皆が口を噤む。けど、アドバイザーの彼女はそんな雰囲気に飲まれる事なく綺麗な目を細めて微笑んだ。

 

「仕事が出来る、と評価して頂いて有り難う」

 

多分、彼女とハデ美様の年齢はそう変わらないだろう、ハデ美様の職場では後輩はもちろん同期の人達だって誰も彼女に面と向かって言い返えせないって聞いた事があるから、この反応はハデ美様にとっては新鮮、且つ、腹立たしてものに違いない。その証拠にアイブロウで描かれた芸術的な曲線が今はほぼ逆ハの字の一直線になっている。

 

「そうねっ、仕事はご一緒してますから。でもお料理を作っている所は誰も見てませんしね」

「どういう意味ですか?」

「別に疑っているわけじゃありませんけど、今はお惣菜なんて手軽に買えますし……」

「わざわざ買ってきた物を詰め直して持って来た、と?」

 

そこで彼女は、ふぅっ、と大きく息を吐いてから、軽く肩をすくめた。

 

「そうね」

 

肯定の言葉に場内が一瞬、ギョッとなる。

 

「貴女には私が何を言っても納得して貰えそうにないから……だったら誰が作ったのかなんて気にせず食べて下さい。この一週間、貴女を含めてここにいらっしゃる社員の皆さんはこのプロジェクトにかかりっきりで食事の時間も削ってたでしょう?」

「そうやって綺麗な顔で良い子ちゃんぶるのはやめで欲しいわっ。今日だってそこの桐ヶ谷さんに対して偉そうな口を利いてたくせに、今度は言い寄るみたいに料理を渡してっ」

 

あくまで冷静な彼女と完全に噴火したハデ美様、段々と会場内の空気がしらけていく。

だいたいさー、彼女は別に「これ、私が作ったのー」とか言いまくってたわけじゃないし、これまでの彼女を見てたら本当に私達の体調を気遣って料理を持って来てくれたんだって皆わかってるし、要するにわかってないのはアンタだけだよ、ハデ美様。そんなだから仕事はできんのに人望ないんだよ。

ハデ美様は提携関係にある会社の社員さんだけど、ここで黙ってたら今まで我が社の為に頑張ってくれたアドバイザーの彼女に申し訳ないっ、と私が足を踏み出し、一言、物申して差し上げようとした時、一瞬早く彼女の半歩前に桐ヶ谷さんが身体を被せる。

 

「偉そうな口……じゃなくて、彼女はちゃんと自分の立場で物を言っただけだ。オレは開発チームの一員としての意見があるから、互いに自分の考えを提示するのがこのプロジェクトのアドバイザーとしてのオレや彼女の役目だろ」

「っぐ」

 

正論を言われてハデ美様が悔しそうに唇を引き結んだ。

取り敢えずは会話が収まったようだと判断したウチの若い男性社員が「じゃっ、有り難くいただきますっ」と叫んでお重の中に箸を突っ込んだのを合図に、場は再び賑やかさを取り戻したのだった。

 

 

 

 

 

差し入れ争奪戦で美味しい戦利品を胃に収め、何とか空腹を脱した私はお手洗いで中座した納会に戻りながら、やっぱり持ち帰り分は無理だったなぁ、ともの凄い勢いで空になったお重の中身を名残惜しく思い出していたが、会場となっている会議室前の廊下にいる二人の男女を見て、思わず身を隠した。

なにやら親密そうに会話をしている雰囲気に自然と耳が大きくなる。事業部長直々のお小言の時は聞こえづらくなるのに……どうやら私の耳は時と場合に合わせて自在に大きさや聴力を変えられるらしい。

その大きくなった耳がそこにいる男性、桐ヶ谷さんの声を拾った。

 

「オレ達は部外者なんだからもう抜けてもいいんじゃないか?」

「んー、そうね……」

「このあとオレは研究所に戻る必要はないけど……」

「あ、私もそのまま帰れるよ」

「なら空の重箱を回収して出よう。出来れば、もうあの人に会いたくないし」

「もうっ、そんな事言って。久しぶりですごく喜んでくれてたじゃない」

「とにかく、今、中にいる一番上の人間は……開発部長か?、彼に挨拶すればオレ達は消えても問題ないだろ」

 

素直にこくん、と首を縦に振るアドバイザーの彼女を見て私は慌てた。

わーっ、ダメダメっ、なに簡単に桐ヶ谷さんに『お持ち帰り』されそうになっちゃってんですかっ、それにしても桐ヶ谷さんも意外と手が早いと言うか、これじゃ私の料理の持ち帰り計画よりよっぽどだよ。

急いで物陰から飛び出し、彼女を引き留めようとした私はまたもや一歩及ばず、桐ヶ谷さんは彼女の手をひいてスタスタと会議室へと戻っていってしまった。当然、室内がどよめく。そんな周囲の反応などものともせず目当ての開発部長の前まで一直線に進むと桐ヶ谷さんは彼女の手を繋いだままぺこり、と頭を下げた。

 

「今日は有り難うございました。オレ達はお先に帰らせていただきます」

「えっ?、あぁ、そうか。もう少し話がしたかったけど、うん、お疲れさまでした。今日は納会まで参加してくれて有り難う」

「いえ、こちらこそ楽しかったです。オレはもう直接こちらにお邪魔する事はないと思いますが、彼女の方は引き続き宜しくお願いします」

「こちらこそ、だよ。結城さんの知識や見識は今回のプロジェクトにおいて大変有意義だし、何より彼女が参加してくれてると場が活気づくからね、特に男性社員がはりきる」

 

茶目っ気たっぷりに笑う開発部長の言葉にアドバイザーの結城さんがふわりと笑って御礼を言い、続けて「途中で辞する非礼を……」とか何とか言ってる横で私の大きな耳は聞いた、桐ヶ谷さんがチッ、と小さく舌打ちする音と「指輪だけじゃ全然虫除けなってないのか」と忌々しそうに呟く声、それに対して「来年もよろしくね」などと呑気に口にしている部長に対して笑顔のままの結城さんが小声で「和人くんっ」と叱責する囁きを……。

なんだ、あれ?、と思った私は桐ヶ谷さんの言った「指輪」というキーワードに反応して結城さんの指にはまっているそれを見る。

いつも必ず着けている結婚指輪……あれがあるから既婚者なんだな、ってわかったし、けどその精力的な仕事ぶりから、夫婦関係どうなってるんだろう?、って余計なお世話的想像を勝手に膨らませていたわけだけどぉ……お?、おおっ!?……おんなじ指輪だ、おんなじ指輪がある……桐ヶ谷さんの指に……もちろん左手の薬指。

どういう事?、そういう事?

すると私の心の声が聞こえたの?、というタイミングでハデ美様が再び登場した。

 

「どういう事ですかっ、お二人でって……お二人はっ……」

 

その問いかけに桐ヶ谷さんは繋いでいた手を離し、その手を結城さんの腰に回して引き寄せ、自慢げな笑みをハデ美様に返す。

 

「どういう事って、夫婦だけど?」

「ふっ、ふっ……」

「改めまして、桐ヶ谷の妻です。今日は主人共々お世話になりました。私は旧姓のまま仕事をしているので、年明けからもこれまで通り『結城』と呼んで下さい」

 

ハデ美様の言葉にならない声を遮り、清々しい笑顔付きで二人の関係性を明かした結城さんが周囲への挨拶を済ませた後、手早く空のお重を風呂敷と一緒に紙袋に収め終わると、唖然としている社員達が見守る中、二人はさくさくと帰り支度を完了させ、並んで出口へと向かって行く。けれどどうにも収まりのつかないらしいハデ美様が二人の背に声を飛ばした。

 

「夫婦である事を隠して同じ仕事場に来るなんてっ」

 

非難めいた声に桐ヶ谷さんが振り返る。

 

「別に隠してたつもりはないけど、最初に夫婦だって明言すると変な先入観を持たれる可能性がありそうだったしな」

 

昼間の応酬を見てた人間ならこの二人が夫婦だなんて絶対に思わないよ、桐ヶ谷さん……。

 

「それに、オレ達が夫婦だって知ってて今回の指名をしてきたのはそっちだし……」

 

それは初耳だった。こんなハイスペックなご夫婦の知り合いがウチの社内にいるとはっ、意外とやるじゃないか、我が社。

驚きの嵐が吹き荒れている中、唯一ニコニコとこの状況を楽しんでいる風の開発部長以外、社員達は完全に石化している……どうやら部長は知ってた側の人間らしい、ならこの二人を指名したのは部長?。

私の脳内は寝不足を吹き飛ばす勢いで可動していて、そこに全エネルギーを使っているのか身体は相変わらず固まっている……あ、でも耳は絶対大きくなってると思うな、きっと過去最大。一言も聞き漏らすまいと、逆にこの場の全員の動きが止まっている事がありがたい。

 

「ああ、それと……」

 

何を言いかけたのか、桐ヶ谷さんが口を開いた途端、それまでより低めの声から何かを察したらしい結城さんが、ぐいっ、と旦那さんの腕を引っ張る。けど気持ちの収まりがつかなかったのは桐ヶ谷さんも同じだったらしい。ビシッ、と視線をハデ美様に定めると冷めた口調で言い放った。

 

「君が疑ってた料理、あれ、ちゃんとアスナが作った手料理だから」

「はい?」

 

突然言われた内容に理解がついていかなかったらしいハデ美様が珍しくもおマヌケ様な顔になっていらっしゃる。

 

「お陰で昨夜は下ごしらえをするから、ってなかなか寝室に来ないし、今朝は今朝で早くにベッドから抜け出すし……」

「和人くんっ」

 

きっと我慢出来なかったんだろう、こっちも珍しく結城さんが大きな声を出して……そうだよね、旦那さんに家での様子を暴露されるって結構照れくさいと言うか恥ずかしいよね。桐ヶ谷さんは自分でも言ってたように、今後はウチの社に顔を出すことはないんだろうけど、結城さんの方はこのプロジェクトの試作製品完了までは私達と一緒するんだから……って、ちょっと同情めいた気持ちになってると焦り顔のままの結城さんがそれでも綺麗な尊顔を桐ヶ谷さんに近づける。

 

「今朝、やっぱり起こしちゃってた?」

「ああ、この時期、触れていたぬくもりがなくなると結構寒いんだよな」

「ごめんね」

 

至極真面目に普通に会話してるそこの夫婦、最強かっ?。焦ってた原因はそっちなのか、結城さんっ!?。

桐ヶ谷さんの言葉から察するに、今朝、結城さんが抜け出したのはベッドはベッドでも、正確にはベッドで一緒に寝ていた桐ヶ谷さんの腕の中から、てなとこですよね?

一体、どこのどいつだ、この夫婦を名指ししたウチの腐れ社員は……開発部長か?、やっぱり開発部長なのかっ!?

今日の納会は料理と一緒に当然お酒も出てる。私は無事にアパートまで帰り着きたいから二杯目以降はソフトドリンクにしたけど、かなり出来上がってた社員達の浮かれ顔が可哀想なくらい煩悶の表情に一変してて、今にも何かを吐きそうな口元を懸命に堪えている姿は…………あ、ダメだ、感情があっちこっちに振り切れて、見てるだけで涙出そう。

けれどそこに一人の勇者が登場した。

 

「もう結構ですっ。お二人とも先にお帰りになるんですよねっ?、桐ヶ谷さん、有り難うございましたっ。我が社が担当してますソフトも基本部分が組み上がりましたらデータを送らせていただきますので、ご意見をお聞かせ下さいっ。あと結城さんもお疲れさまでしたっ。来年も宜しくお願い致しますっ。さあ、どうぞお帰り下さいっ」

 

すごいぞハデ美様っ、全ての語尾が跳ね上がってるっ。

でもお陰で結城さんは「はい、ではお先に失礼します。よいお年をお迎えください」と会釈して桐ヶ谷さんの肘に手を添え、一旦止めていた足を出口に向け動かそうとして……桐ヶ谷さんがついてこないもんだから、あれ?、と言った表情で振り返った。原因となっている桐ヶ谷さんはもう一度ハデ美様を見て、不敵に笑う。

 

「あ、ひとつ言い忘れた。さっきはアスナの『綺麗な顔』を褒めてくれて有り難う……ま、綺麗なのは顔だけじゃないけどな」

 

はぁーっ、どうやら桐ヶ谷さんは少し前にハデ美様が結城さんにぶつけた『綺麗な顔で良い子ちゃんぶる』発言を覚えていたらしい……覚えてたって言うか、忘れるなんて出来ずに内でグツグツと煮込んでいたっていうところかな。さすがのハデ美様も頬をヒクリと痙攣させ、まるであり得ない物を見るかのような目で桐ヶ谷さんを見つめている。一方、桐ヶ谷さんはハデ美様からのある意味熱い視線をさらり、とかわし、清々とした穏やかな瞳で隣の結城さんに「じゃ、行くか」と微笑みかけた。

ああ、あのやりきった表情はアレだ、自分のテリトリーを守り切った爽快さを含んだ安堵の顔だ、うちの父が家族を前に譲れない分野を語りきった時の顔とおんなじ。さしずめ桐ヶ谷さんの譲れないテリトリーの真ん中にいるのはあの結城さんなんだろう。

どこが無愛想な草食系?……自分の目のでっかい節穴っぷりにため息が出る。あれはいざとなったらがむしゃらな肉食獣に変化して猛火を瞳に宿すタイプだ。彼の許可なくそのテリトリーに足を踏み入れる事は出来ないし、もしかしたら覗いたただけで牙を剥かれるかもしれない。きっと彼のテリトリーから自由に行き来できるのは結城さん只一人。

じゃなきゃ彼女があんなに生き生きと仕事をしているはずないから。桐ヶ谷さんの腕の中で大人しく守られているだけの女性じゃないもんね、結城さん。

既に二人が出て行った後の会議室は妙な疲労感が漂っていて誰も彼もが……ああ、開発部長以外の人達はなんとも言えない顔で肩を落としている。

 

バタンッ

 

「おそうなりましたっ、いやぁ、やっと終わりましたわ…………随分、静かやな、どないしました?」

 

その静寂をぶち破る勢いでお腹をたゆんたゆんと揺らしながら笑顔の経理部長が飛び込んできた。

十二月だと言うのにジャケットも羽織らず、ワイシャツの袖をめくってハンカチで額の汗を拭っているところを見ると経理部の仕事納めが済んで走ってきたのだろう。この会社に務めるようになって何年目かは知らないけど、一向に関西弁の抜けないタヌキ親父はぐるり、と室内を見回すとワイシャツの襟の影で存在のよく見えない首を、それでも僅かに傾げた。

 

「あの二人、もうおらへんっ?」

 

あの二人?

今度は私が首を傾げると新しいプラスチックカップと冷えた缶ビールを持った開発部長がタヌキ親父にカップを手渡し、プシュッと缶を開けてビールを注ぐ。

 

「お疲れさまです。ささ、まずは一杯。彼らは今さっき帰ったんですよ。ほぼ入れ違いでしたね」

 

誘われるままにゴクゴクとビールをあおったタヌキ親父は早くも目の周りをほんのりと赤くさせ、ますますタヌキ顔になった。

 

「なんや、せっかく話が出来ると思ってましたのに。桐ヶ谷はんなんて昼間、アスナはんに連れられて、ペラッと挨拶しに来ただけでっせ」

「そうだったんですか?、こっちはご夫婦揃って色々な意見を出していただき、会議も白熱しましたよ」

「ならあの二人を口説き落とした甲斐がありますわー」

 

経理部長っ、あんたかーっ。

そんな丸っこい体型で昔話の常連みたいな顔してんのに、どこであんな超ド級に傍迷惑な夫婦とお知り合いになってくれちゃったんだっ。

私の内なる叫びなんて気づきもせずご機嫌な部長二人は互いにビールを注ぎあいっこしながら、わはは、わはは、と和やかに笑っている。

 

「アスナはんの方は個人交渉なんでどないかなりましたけど、桐ヶ谷はんの方は大変でしたわ。あそこの研究所のガードが固い固い。なんせあのVRマシン本体の開発プロジェクトリーダーやから簡単には貸し出しでけへん、言われましてな。そこを何とかって、最後にはアスナはんに泣きついたんですわ」

「それは、それは、ご苦労様でした。でもお陰で我が社の開発も順調に進み、良い物が出来そうです」

 

リーダー?……今、タヌキ親父は桐ヶ谷さんがあのマシン本体のメイン開発者って言うたんですかーっ……はっ、つい経理部長の話を聞いてると口調が移っちゃう……そんな事よかっ、あの若さでリーダー職とかマジあり得ないっ、あの夫婦ばりばり仕事しすぎっ、でもって公共の場でいちゃいちゃしすぎっ。

あまりに衝撃的な情報に身体の呪縛が解けた私は、そそっ、と部長二人の元に近寄った。

 

「すみません、お二人って桐ヶ谷さんや結城さんとどういうご関係なんです?」

 

ここまで来たらどんな答えが返ってこようが聞かずにはいられない。私の不躾な質問に対し、二人はちょっと顔を見合わせた後、うーん、と言葉を探し始めた。

 

「今から十五年程前になりますかね?」

「もう、そんなになりますかいな」

「私達はその時も同じ集団に所属してまして」

「平たく言うと、アスナはんはその時の上司ですわ」

 

じっ、上司!?……どんな答えでもっ、と、どすこい身構えていたつもりだったけど、結城さんがこの二人の上司!?……意味がわからん。

私の混乱を他所に二人は懐かしそうな顔で語り続けている。

 

「上司と言っても直属というわけではなかったんですが……」

「会社で言うたら彼女は副社長さんやなぁ」

「そうそう、それで桐ヶ谷君は……フリーター?」

「ははっ、せや、最強の黒いフリーターさんやったわ」

 

副社長にフリーター……色々と違いすぎる気がするけど……「その頃からあの二人は一緒だったんですか?」と聞けば親父二人はにんまり、と笑った。

 

「そうだね。いつも真剣に互いを想い合っている感じだった」

「お陰でえろう儲けせてもらいましたわ」

 

このタヌキ親父、根っからの守銭奴かっ。

結局、部長二人が教えてくれた思い出話はあまりよく理解出来なかったけど、ずっと前から桐ヶ谷さんのテリトリーに結城さんが存在してたのはよくわかった。

そしてもう会うことはないのかもしれないけど、もし、次に桐ヶ谷さんが自分のテリトリーを守ろうとする場面に遭遇したときは速攻でスルー機能のボタンを押そうと私は心に深く刻み込んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
どなたか関西弁をご指南下さいっ(汗)、と急請したくなるほど
一番大変だった経理部長の台詞(苦笑)
「ここの関西弁、ちょっと違いますよ」など、ありましたら
ご一報頂けると助かります。

今年も《かさなる手、つながる想い》にお付き合いいただき
本当に有り難うございました。
アスナはんを見習って……「よいお年をお迎えください」


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優しさと甘さ

帰還者学校での休み時間のお話です。



帰還者学校が一般的な高等学校と異なる部分はいくつかあるが、学年を問わずに選択できる授業が多いこともその一つだ。

結果、ホームとなるクラスや教室はあるものの殆どの生徒がひとつの授業を受け終わると今いた教室からまた別の教室へと移動する場合が多く、必然的に休み時間も少々長く設定されている。

よって毎回授業が終わる度に教室内や廊下では慌ただしい足音や賑やかな声が溢れるのだ……。

 

「里香ぁ、ちょっと引っこ抜いてほしい子がいるんだけどーっ」

 

教室内にいる篠原里香に廊下から声を掛けてきたのは通学で同じ路線を使っている同級生の女生徒、真琴(まこと)だった。

クラスは違うが比率的にも少数派の女子同士、同い年でしかも登下校に利用する電車が一緒となれば《あの世界》でよほどの因縁でもない限り犬猿の仲にはならない。

教室の入り口から顔を覗かせ、声を張り上げている友人を見て里香は驚きもせず「またかぁ」と曖昧な笑顔で立ち上がった。今受けた授業と次の授業は珍しく同じ教室に割り振られていたから移動する手間がないのでのんびりと休憩時間を過ごすつもりでいたのだが、この友人はそれさえもしっかり把握した上で訪ねてきたのだろう。

どことなく姉御肌な部分は自分と共通するものがあって、だからこそ面倒見がいいと言うか、世話焼きさんな彼女がこうやって自分に依頼してくるのは初めてではない。それを断れない自分も自分なのかも……と思いながら、それでも頼られる事がイヤってわけじゃないのよね、と自身にも苦笑いをこぼして里香は戸口まで足を運んだ。

 

「またなの?」

 

相手の具体的な用件も聞かずに言葉を返せば、それを受けた真琴も困ったように大きな溜め息をつく。

 

「そ、桐ヶ谷君にも困ったもんよね。何とかならないのかしら」

 

やっぱりアイツの話なのね……と里香も呆れ交じりの息を吐き出した。「引っこ抜いてほしい」と言われた時から薄々予感はしていたが、この学校に通うようになってからこれで何回目?、と記憶を掘り返そうとして、それは無駄な時間だと気持ちを前向きに切り替える。

 

「あれね……無自覚だから……で、どこ?」

 

友人が連れて来ているはずの対象者を目で探すと、数メートル離れた廊下の角からひょっこり、と顔半分を覗かせている少女がいた。

あの娘(こ)かな?、と確認するよりも早く真琴が「おいで〜」と手招きををする。呼ばれた少女は警戒心の強い小動物のようにキョロキョロと辺りを見回してから、タタタッ、と足早に里香達の前までやって来て、ギュッと真琴の腕に両手でしがみついた。顔を振る度、小走りに細い足を動かす度に髪に付いているピンク色の細いリボンが揺れている。

 

「真琴さん……心臓がばくばくしてます……」

 

困り眉で里香の友人の腕をつかんだ少女は再び周囲に視線を巡らせ、まるでうっかり迷宮区に足を踏み入れてしまったビギナープレイヤーのように突然何かが飛び出して来るのではないか?、とビクビクしながら緊張で泣きそうな細い声をしていた。

自分の腕を抱え込んでいる少女の頭を真琴はよしよし、と撫でてからそのスキンシップを気にすることなく里香に向け「この子よ」と、何とも簡単な紹介を口にする。

「この子」と言われた少女はシリカこと綾野珪子と同い年くらいかしら?、だったら妹のような扱いも納得がいくけど……と、いくつかの疑問を目で訴えると、それを見た真琴が声を潜めた。

 

「《あっちの世界》で同じ宿屋を借りてた子なの。こっちに戻って来てこの学校で再会してから色々相談に乗ったりしてて……」

 

それで今回の相談事の解決の為に私に引き合わせたってわけね、と里香はふむふむ頷いてから話の続きを待った。

 

「気が弱いくせに少し思い込みが激しいっていうか……悪い子じゃないんだけどね。《あっち》でも時々こうやって泣きついてきてたから……」

 

ちなみに今は高等部の教室が並ぶ階に自分がいるという状況に緊張度がマックスなのよ、と聞いて、なるほど、すっかり姉妹属性が確立されるってわけかぁ、と真琴とその彼女にひっついている少女の二人を見て里香は珪子と自分の関係性を比較した。自分が姉御肌な自覚はあるが珪子がこんな風に、なよっ、と頼ってくる姿は想像できない。可愛くて健気で明るい珪子は庇護欲をかき立てられる容姿をしているが、その実、《仮想世界》ではリズよりも戦闘力は上だしビーストテイマーとしても超一流のプレイヤーだ。

私の周りにはいないタイプの子かも、と思いつつ里香はその少女と視線を合わせる為、少し屈んでニコリ、と笑った。

 

「私は篠原里香。よろしくね。早速だけど話を聞かせてくれる?」

 

出来ればこの休み時間内に引っこ抜いてしまいたい、と里香が少し急かすと少女は困惑気味の顔で真琴を見上げる。

 

「あー、引っ込み思案で人見知りなのよね。だから私が説明するわ」

 

そう言って真琴は少女から聞いたらしい話を語り始めた。

 

「昨日の休み時間、この子、廊下でコケたみたいなの。そしたらね、側を通りかかった桐ヶ谷君がわざわざ近くまで来て座り込んでいるこの子の前にしゃがんで声をかけてくれたんだって」

「優しい声で『大丈夫か?』って聞いてくれました」

 

真琴の説明に少女が小さく捕捉をするが、正直、里香にとっては何と言われたのかなんてあまり重要ではない。けれどあまりつれない態度は失礼かも、と「そっか、そっか」と頭を振る。それから真琴は記憶しているはずの話を引っ張り出すように自分のこめかみを拘束されていない方の手の指先でトントンと二回叩いた。

 

「それでね、えっと……なんだっけ?……ああ、そうそう、手を貸してくれたんだっけ?」

 

ちらりと真琴が少女に視線を落とせば、それを受け止めた少女はその時の場面を思い出したのか頬をほんのりと染めてコクン、と頷き「私の手を取って立たせてくれました」とうっとりとした声を漏らす。その姿を見て里香も、私だって白龍の洞窟でアイツと手を繋いだけどなぁ、と僅かな対抗意識を抱きつつ、それでも表面上は「そっか、そっか」と頭を動かした。

 

「そこからがさすが桐ヶ谷君って感じなんだけどね、彼女が膝を擦りむいてるのに気づいて一緒に保健室まで付き添ってくれたそうよ」

「私、大丈夫ですっ、て言ったんですけど……」

 

まるで「このまま君を放ってはおけない」とでも言われたように少女の目が蕩けている。

少女の表情が夢見心地に変化していくのに正比例して里香の目はどんよりと濁みが増していった。確かに、ほぼ初対面の人間にそこまでされれば嬉しいのはわかる。しかも相手が異性の上級生で加えて見た目もそこそこの容姿なら、女子としてはときめく場合もあるだろう。けれど普段から和人の素行を知り尽くしている里香からすればはっきり言って「その程度で……」だ。

そこで、さっきの真琴の言葉を思い出す……だから「少し思い込みが激しい」って事なのね、と納得してから少女の意識を現実に戻すべく里香は顔を突き出した。

 

「一応確認させてもらうけど……アイツにれっきとした彼女がいるのは知ってるの?」

 

まるで真琴の腕を離したら途端に溺れてしまうのだと言うように、ぎゅぅっ、としがみついている少女が素直に頷く。

 

「その彼女がこの学校で何て呼ばれてるのかも?」

 

里香の質問に少女は蚊の鳴くような声で答えた。

 

「『姫』先輩……ですよね?」

 

里香は、はい、大正解、と言うように今度は偉そうに両手を脇に当て大きくのけぞって胸を張り、ゆっくりと頭を上下に振る。

こういう時、私の親友の絶大なる魅力はとっても便利よね、と里香は内心、ふふんっ、と自分事のように口角を上げた。

だってアイツの彼女はあのアスナなのよ、綺麗で可愛くて頑張り屋さんで、頭も良いし運動神経も抜群、責任感が強くて友達思いだし、おまけにお金持ちのお嬢様ときてる、もう完璧…………と脳内で親友の長所を並べまくっていた里香はそこで、あれ?、と首を傾げる。

アスナの存在を知っていてもなお……って事は……と今度は逆に自分を含め身近にいる女友達が抱いている共通の思いを目の前の少女の表情から探し始めた。

別にあの二人が別れたらいいなんて微塵も思っていないし、アイツがアスナを見る時みたいな目で自分を見るなんて想像もしていないけど、それでもなかった事にはできない気持ちを奥底にしまったまま距離を置くことも出来ない中途半端な思いをこの子も?……と胸の苦しさに眉が反応しそうになった時、少女はやっぱりおずおずと唇を動かした。

 

「でも……桐ヶ谷先輩は、優しいから……」

「から?」

 

続く話の行き先が全く見えなくて、違う意味で里香の眉に、むむっ?、と力が籠もる。けれど少なくとも里香よりは少女との付き合いの長い真琴は嫌な予感がして口の端を震わせた。

少女が意を決したように顔を上げ、里香と目を合わせる。

 

「姫先輩みたいな素敵な人に付き合って欲しいって言われたら、断れないと思うんです」

 

人間って心底驚くと呼吸すら止まるのね、と里香は言葉も発せず一心に少女を見つめた。

イマ、コノコ、ナンテイッタノ?……と思考が完全にカタカナ化して、自分すらも意味がくみ取れない状態の里香は少女が口にした言葉が、聞いた事もない国の言葉だったのかしら?、と唯一納得出来る答えに辿り着く。

しかしすぐ側の真琴は「あーあ……」と、脱力感いっぱいの声で今度は額に手の平をあて、やらかしてくれた少女に対してかける言葉が見つからないのか、すがるような瞳で里香を頼っていた。

な、なるほど、アスナの存在に怯むどころか、彼女を自分と同じ位置づけにするとは……キリトがアスナの彼氏なのはアイツの優しさだと思い込んでいるわけか……あの二人が互いを想い合う気持ちの強さがわかってないなんて、やっぱりこの子は私達とは違うわね、と結論づけた里香は一旦肩の力を抜いて「そっか、そっか」と気合いを入れなおす。

 

「んーじゃ、引っこ抜きにかかるとしますか」

 

まるで畑の大根でも抜くかのように肩をさすって肘を回し準備運動をする里香に、真琴から「よろしくっ」と短いエールが飛んでくる。

 

「ちょうど次は二人共同じ授業のはずだから、いつものように迎えに……あ、噂をすれば、来た、来た」

 

里香が顔を向けた先の廊下に和人の姿が現れた。それを真琴の影に隠れるようにしながら見た少女の口から「きゃっ」と驚きと嬉しさを兼ねた声が飛び出す。けれど里香はその声を無視して今度は自分が背を向けている教室内を振り返った。

 

「で、こっちも…………さすが、タイミングばっちりね」

 

本人のあずかり知らない所で話題の中心になっている明日奈が次の授業を受ける為、和人と合流して教室を移動すべく荷物を持ってやって来る。里香を始めとする三人の女生徒の視線が自分に釘付けになっている事に、僅かに首を傾げつつ曖昧な微苦笑で里香のすぐ脇を通り過ぎようとした時だ、明日奈が里香に向かって言葉を発しようとする寸前に里香が「アスナっ、ちょっとゴメンねっ」と早口で謝りながら、トンッ、と肩を軽く突いた。予想外の行動を受け明日奈の顔が一瞬にして焦り顔に転じる。

 

「わわっ、えっ!、なに!?」

 

加害者であるはずの里香さえも「えっ!?」と驚くほど、明日奈は大きくバランスを崩し、とっ、とっ、と片足のケンケンで何とか転倒を免れようと必死になっているが全体重を支えている片足首が耐えきれなかったのか、荷物を抱きかかえたままの身体が前に傾いだ。慌てた里香が「うそぉーっ」と叫びながら倒れていく親友の身体を引っ張り戻そうと両手を伸ばす。

けれど里香の手は明日奈の身体に触れる前にその傾斜が止まった事に気づき、続いて、ぼそり、と自分に向けられた不機嫌声の「リズ……」という和人の声に宙ぶらりんのまま行き場をなくした。ぱっ、と直立不動に姿勢を立て直し、目の前で荷物ごと明日奈を前から抱きしめるようにして支えている和人の顔が栗色の小さな頭の向こうから自分を睨んでいる。

 

「ナ……ナイスキャッチ!」

 

意識的に明るく和人のファインプレーを褒めてみたが里香に対する射貫きそうな視線は緩むことはなかった。その硬い瞳が見えていないはずの明日奈から安堵の吐息が細く漏れ、この場の緊迫感を和らげるように細い肩の力が抜ける。しかし明日奈の体勢が安定したにもかかわらず和人はその腕から彼女を解放せず、いつもより気が回っていないのだろう、もう一度「リズ」と普段なら帰還者学校内では呼ばないキャラネームを口にした。

一方の里香も想定していたより大事になった事態に驚きを隠せずにいる。

明日奈の肩を押した力はほんの少しで、里香の予想では軽くよろける程度で済むはずだったのだ。そして、そこにやって来た和人が明日奈を大切に接する姿を見せれば真琴が連れて来た少女の誤解に近い思い込みも解け、目も覚めるだろうと画策したわけだが……どうしてあの程度の突きで運動神経の良い親友があそこまで平衡感覚を失うのか理解出来ない。けれど自分が押した為に明日奈が床に転びそうになったのは事実だし、しっかりとその現場を見た和人が自分に怒りを覚えるのも当然なんだから何はともあれ謝らないと……、と里香が決意した時だ、和人の腕の中の栗色の髪がさらり、と流れた。

 

「キ……和人くん、ありがと。もう大丈夫」

 

少し顔を上向きにして和人に話しかけた明日奈の声だったが、それには答えず和人は相変わらず視線を里香に固定している。

 

「どういうつもりだ」

 

間違っても和人は怒りっぽい性格ではない、どちらかと言えば温和で人当たりも柔らかい人間だ。気を許した相手には時折しょーもない茶目っ気を発揮するが、それに対して本気で怒ったり不快に思ったりする事はないし、むしろそれだけ親しい間柄なのだと感じられて嬉しい位なのだが……そんな和人が見知らぬ相手でも臆せずに怒りを露わにするのは明日奈が絡んだ時で……いや、正確に云うなら「仲間」と認めている人間が同様の目に遭っても腹を立ててくれるのだが、それが明日奈だと殊更に過剰反応をするのである。

里香は内心「ひぃっ」と悲鳴を上げたい気分で、それでも情けない笑顔を強張らせたまま和人の怒りを受け止めた。

私だってこんな事になるとは思わなかったわよっ、と声を大にして言いたいが、多分……絶対、和人は聞く耳を持たないだろう。

理由や経緯を説明したいが、まずは明日奈に「ごめんね」と声を掛けようとすると、またもや和人の声がそれを阻む。

 

「アスナが足首を痛めてるって、知らなかったのか」

「えっ!?、それ、ホント?」

「大げさだよ。最初から痛みもほとんどなかったんだし……」

 

和人に抱きしめられた状態のまま明日奈が言葉を被せてくるが、知らなかった事とはいえ里香の罪悪感は膨れる一方だ。泣き出しそうな顔で「アスナ、ほんっと、ごめんっ」と両手の平を祈るようにピタリ、と合わせ、そこにおでこをくっつけて謝罪の言葉を口にすれば、その反応を見て和人もようやく張り詰めていた息を吐き出す。

 

「昨日の朝、アスナが乗っていた電車に強風で飛ばされた看板か何かが飛んできて急停車したんだ。その時、隣にいた年配の女性が転んだのをアスナが支えて、その時に変な方向に足首を捻ったらしい」

「そうなのっ?、アスナっ」

 

と、里香が問いかけをしてみたものの、未だがっちりと和人にホールドされている明日奈は振り返る事すら出来ない。

 

「アスナが登校してくるの、珍しくギリギリだっただろ。その急停車でダイヤが乱れたから」

 

けれどそこまで事情を聞いた里香の頭のてっぺんから、ポンッ、とクエスチョンマークが飛び出した。

 

「ちょっと待って……アンタ、どうしてアスナの登校時間、知ってるのよ」

 

確かに昨日の明日奈はHRが始まる寸前に教室にやって来て、里香も「珍しいわね」と目で合図を送ったのを覚えている。それには曖昧な笑みで答えていた彼女だったが、特に変わった様子もなかったので、そのまま深くは追求せずに過ごしてしまったのだ。その日にあった出来事として明日奈が和人に語ったのなら和人が知っていてもおかしくないのだが、さっきの口調がまるで見ていたかのような言い方だった事に里香の表情は一瞬にして疑いの色を滲ませた。

里香からの問いの答えを探して和人の目が泳いだ途端、今度は里香の声が一段と低くなる。

 

「もしかして……また屋上から見てたの……?」

 

ジト、っと里香の眉が横一直線に走り、それに平行して半眼となると和人はいかにも不本意だと言いたげに唇を尖らせて「また、ってなんだよ」と勢いのない声で反論してきた。

 

「たまたまだって。あそこ、朝は人がいなくて集中できるんだ」

「人目がないのをいいことに、アスナの登校姿を見るのに集中してるってこと!?」

「どうしてそうなるんだっ、オレはただ屋上でユイとメカトロニクスコースでやってる課題について色々と……」

「とにかくっ、アンタは昨日の朝、屋上からアスナが登校してくるのを見たわけね」

 

シンプルな質問に渋々和人が「ああ」と顔を上下させる……と言うか上下させているかに見せて、すりりっ、と明日奈の頭に頬をすり寄せている。

 

「だから、次の休み時間に保健室へ湿布をもらいに行ったんだ」

「どういう意味?」

「あんな時間に登校してきたら、アスナは保健室に寄らないだろうし」

 

生真面目な彼女の性格を知り尽くしている和人の発言に一旦納得しかけた里香だったが、ぷるぷる、と頭を振って話を戻した。

 

「そうじゃなくて、どうして湿布が必要だってわかるのよっ」

「そんなの……見ればわかるだろ」

 

逆に問われる意味がわからない、と言いたげな表情の和人の答えに嬉しさからなのか、明日奈の耳が赤く染まっているのが見える。

要するに、和人は地上にいる明日奈の姿を屋上から見て、その歩行に違和感を感じたというわけだ。

 

「アスナの歩き方ってブレがないから、少しでも歪みが出てるとすぐわかるんだよ」

 

確かに親友の歩き方は綺麗だが「そんな僅かな違いに遠距離から気づくのはアンタくらいよっ」と言い投げてしまいたい衝動を必死に堪えている里香の隣で、同じようにうんざり顔の真琴が「桐ヶ谷君こそブレないよねー」と言いつつ「あ、それで保健室かぁ」と、一人、納得したように頭を揺すっている。

 

「桐ヶ谷君、その保健室に行く前に遭遇したでしょ……この子、覚えてる?」

 

ぐいっ、と力業で和人の方に向けさせられた少女の顔は期待と羞恥で赤らんでいたが、それを見た和人の方は素直に頭を横に傾げた……と言うか傾げた拍子に、ぽふんっ、と明日奈の頭に頬を乗せている。全く記憶に残っていないらしい反応を予期していた真琴だったがそれでも決定打を得る為に苦笑交じりで少女の頭を撫でながら言った。

 

「保健室に行く前に、廊下でコケてた下級生に手を貸してくれたと思うんだけど」

「あー……あった……かな。うーん、悪い、よく覚えてない……」

 

手を貸した相手を覚えていないどころか、そのエピソード丸々忘れてるのっ!?、と、和人の記憶力の使い方にかなりの偏りを認めた里香が呆れて口を開きっぱなしにしている横で真琴は慰めるように少女の頭をぽんっ、ぽんっ、と軽く叩く。

 

「その下級生って私の知り合いでね、この子なの」

 

改めて真琴が知り合いの少女を紹介しようとした時、それまで我慢していたのか和人の胸元から明日奈が堪りかねたように身体を捩った。

 

「もうっ、学校の廊下でいつまでこうしてるつもり?」

「えっと……その、つい……もう癖になってるって言うか……」

 

癖になってる……一体、今まで何回そういう体勢になってるわけ?、と聞きたいような聞きたくないような疑問は誰も口にしない。

少し残念そうな顔の和人の腕の中からようやく抜け出した明日奈は向き直って里香に「大丈夫だから、気にしないで」と優しげに微笑んだ。

 

「そもそも和人くんが心配しすぎなの。足首だって腫れてたわけじゃなかったのに……」

「そーゆーの、後から腫れる事もあるんだぞ」

 

隣からのちょっとふて腐れたような声の忠告には聞こえないふりで明日奈は下級生の少女を見る。

 

「さっき転びかけたのはね……はい、これ。あなたのでしょう?」

 

荷物を抱いたまま、ストン、としゃがんだ明日奈は足元の床から細長い物体を拾い上げた。

 

「あ、それ……私の、リボン……有り難うございますっ」

 

明日奈の白い手の平には、少女が髪に着けていたピンクのリボンがのっている。

確かに転倒しそうになったきっかけは肩を押されたからだが、そのまま姿勢を崩したのは落ちていたリボンを踏むまいと彼女が無理に身体の方向を変えようとしたからだったのだと理解して、里香は全ての原因が自分の予想外に発揮された腕力でなかった事に胸を撫で下ろした。

と同時に隣の真琴は少女の頭からリボンが解けたのは自分が無意識に何度も彼女の頭に触れていたせいだと思い当たり、明日奈に「ごめん」と心から詫びるが、その意図がわからない明日奈は、ふわり、と笑って静かに首を横に振る。

 

「よくわからないけど、リズが私を押した時、ちゃんと『ゴメンねっ』って言ってくれたから、突然でビックリしちゃったけどね……嫌がらせや悪ふざけじゃないのは分かってるよ。後でちゃんと理由を聞かせてね。それに、そのリボン、とっても綺麗な色だったから踏まずに済んでよかった」

「アスナ……そろそろ移動しないと、時間、やばい」

「えっ、ほんとだっ。じゃ、私達、行くね」

 

和人に促され、急いで里香、真琴、それに下級生の少女に軽く手を振りながら歩き出した明日奈の横に、スッと手が伸びてきた。

 

「荷物、持つよ」

「大丈夫なのに」

「少し早歩きにしないと、だろ。だから……」

 

少しでも足にかかる負荷を軽くするべきだと引っ込める気のない手に渋々荷物の半分を渡した明日奈が「行こ」と和人を誘えば、今度は歩きながら顔を寄せてくる。

 

「足、湿布してるか?」

「はいはい、昨夜も散々言われたから、ちゃんと湿布して寝たし、今朝も新しいのに取り替えてきましたっ」

 

明日奈の丁寧な口ぶりが逆に不自然すぎて、里香は二人の後ろ姿を見ながら「湿布の件、どれだけしつこく言ったのよ」と笑顔が引きつるが、ふと、真琴の隣を見れば結果的には、スポンッ、と勢いよく見事に引っこ抜けたらしく蕩けた瞳は存在しなかった。さすがにあそこまで見せつけられ、加えて保健室への同行がついでだったのだとわかれば理解しただろう、今は二人を見送る視線が妙に生温かい。

 

「昼休みにちゃんと足首見せてくれ。あと、今日の帰りはバイクで送ってくから」

「今日はネト研の日でしょう?」

「休む」

「……」

 

遠ざかっていく会話はどこまでも甘くて、思わず真琴の溜め息が漏れる。

 

「なに、あれ。桐ヶ谷君ってあそこまでの人だった?」

「まぁ、アスナに対してのみ、ね」

 

和人の優しさは沢山の人間に向けられるが、和人が甘え、甘やかす存在はたった一人しかいないのだ。




お読みいただき、有り難うございました。
オリキャラ、二人共名無しだと不便なので「真琴」だけ命名しましたけど、
多分、この先の出番はないと思います(苦笑)


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愛らしきさま

和人と明日奈が《現実世界》で夫婦となって暮らしているお話しです。
一人息子の和真は保育園に通っていますので、話の位置的には
「みっつめの天賜物」より後になります。この時に登場させた(オリキャラの)
明日奈の同僚男性・水嶋とハーフの後輩女性・莉々花が出ますが
詳しくは「みっつめ……」を参照して下さい(苦笑)


家に帰って来た時からどうも変なんだよなぁ……、と和人は息子、和真と湯船で向かい合って暖かいお湯に身を……いや、鼻の頭までを浸しながら、うーん、と眉間に皺を寄せていた。目の前の和真は限界が近いらしく、和人と同じ真っ黒な目を今はギュッ、とつむって、和人とはまた違う意味で眉間にこれでもか、と力を入れている。

明日奈似の色白の肌がすっかり血色の良い色に変わっていて、これ以上赤くなったらヤバイな、と判断した和人は、そっと手を伸ばして和真の脇腹をちょんっ、と弾いた。

途端に「ぷはぁっ」と勢いよく水面から口をだした和真は目も口も大きく開いたまま、すーっ、はーっ、すーっ、はーっ、と懸命に堪えていた呼吸を大きく再開させ、それが落ち着くとふっくらとした頬を更に膨らませる。

 

「お父さん、ずるしたっ。僕、もっと我慢できたのにっ」

 

息止め競争で負けた事に納得できない和真は父親からの脇腹への悪戯に猛抗議を続けていたが、そんな息子の剣幕にも動じずに未だ浴槽の中に顔の半分を沈めて息を止めていた和人は「ぼぅおぼぅるる、ばぁうぅぶわっぱ」とお湯の中で息を吐いた。

 

「なんて言ってるのか、全然わかんない」

 

ふて腐れた顔でそう言われて水面までしっかりと顔を出し、「今日もオレの勝ちだな」と、にやり、と笑ってから「和真、今日は何して遊んだんだ?」と赤みの引いていない息子の頬をつんつんするとその小さな顔は見る見るうちにぱぁっ、と輝いた。

和人が勤め先の研究所から早めに帰宅できた時は和真と一緒にお風呂に入って湯船に浸かりながらその日の出来事を聞くのがいつものパターンだ。聞かれた和真は喜び勇んで少し舌っ足らずな口調ながらも日中、保育園での生活を語り始める前に……

 

「あのねっ、今日のお母さんの爪、とっても綺麗な桜色だった」

「……それはオレも知ってる」

「だから、保育園に行く途中で『綺麗だね』って言ったら、お母さん、にっこりしたよっ」

「……」

 

なんで保育園に向かう時の明日奈と手を繋いでいる所から始まるんだよ、と今度は和人が憮然とした表情で息子を睨む。けれどそんな父親の視線など物ともせずに興奮気味の和真は「それからねっ」と母である明日奈の様子を語り続けた。

結局和真が話した内容の半分は母親に関することなのもいつものパターンで……一日のほとんどを保育園で過ごしているはずなのに、よくもまあそれだけ明日奈の話題があるもんだな、と半ば感心気味に和真の話を聞き終わった和人は息子の観察眼に期待して問いかける。

 

「今日、いつもと違う感じがした事はなかったか?」

「あったっ」

 

即答か……、と頼もしさの前に、お前はどれだけ自分の母親の事が好きなんだっ、と僅かなライバル意識が芽を出す。

けれど和真は父親の感情を更に増長させようというのか、少し得意気に目を細めて何を思い出しているのか、ふふっ、と嬉しそうに笑った。

 

「今日のぎゅぅっ、は長かった!」

 

明日奈が朝、息子を保育園に預けていく時と、夕方、迎えに行った時の二回抱きしめているのは和人も知っているので、簡潔に「どっちだ?」と聞くと、和真もすぐに「お迎えに来てくれた時っ」と声を張り上げる。多分、長かった、と言ってもいつもに比べればのレベルなのだろうが、そんな事すら敏感に感じ取って覚えている和真に少々呆れながらも、今回ばかりはヒントとなったのだから、とこれまた明日奈似の髪色の頭を「よかったな」と言って撫でた和人はもう一度、ふむ、と眉間に皺を作った。

和真は単純に嬉しい出来事として喜んでいるが、自分が帰宅した時の妻の様子を考えれば残念ながらその時の彼女はいつもの笑みではなかっただろう。何せキッチンにいた明日奈は和人が背後に立つまで、その存在に気づかなかったのだから……。

 

 

 

 

一心不乱に……と言うよりは心ここにあらずといった表情で機械的に手を動かしている明日奈の背後から、和人は静かにその細い腰に両腕を回した。同時に「ただいま」と耳朶を食むように告げると、大げさなくらい両肩が跳ね上がる。

 

「ひゃぁっ…………あ……お帰りなさい」

 

夫が近くにやって来た気配どころか帰宅したことすら気づかなかった明日菜は感情を取り戻し、バツが悪そうな顔で振り返ろうとしたが腰を拘束されているせいで身動きが取れない。それどころか肩に和人の顎が乗っかってきて、まな板の上を覗き込んだ後、微妙な声で「晩飯のメニュー、なに?」と聞いてきた。その質問に明日奈もまた、はた、と自分の手元に視線を落とす。

 

「わわっ…………一袋、剥いちゃった……」

 

そこにはピーラーで皮を剥かれたツルツルのジャガイモがいくつも転がっていた。

 

「珍しいな、考え事してたのか?」

「……う……ん、まぁ……それより、このジャガイモ、何に使おう。サラダは二個あれば十分だし。蒸かしてジャガイモのポタージュかポテトグラタンか……」

「お母さんっ、僕、フライドポテトが食べたいっ。それとね、明日の朝はポテトパンケーキがいいなぁ」

 

リビングの床に座りこんでブロック遊びをしていた和真が立ち上がってリクエストを叫んでくる。その要望に「はーい」と明るく返事をした明日奈は「それじゃあ、和人くん」と首を傾げ、自分の肩にある癖のない深黒の髪に、びとっ、と頬を当てた。

 

「晩ご飯が出来上がるまでもう少しかかるから、その間に和真くんとお風呂、入っちゃってくれる?」

 

無理矢理作った笑顔でも明日奈のそれは見事な出来映えで、少しの悔しさを覚えた和人だったが、この場で追求しても無駄らしいと判断して「わかった」と溜め息混じりに頷き、妻から身を離して、くるり、と振り向くと両手でブロックを握っている息子に片付けを促したのだった。

 

 

 

 

 

風呂から上がった後もジャガイモづくしの夕食を味わった後も明日奈は平静を装っていたから、和人はチラチラと妻の様子をうかがい見ながらタイミングを計っていたがどうにも切り出せず、結局そのまま寝室のベッドの布団に手をかける時間まで不可解さはもつれ込んだ。

ちなみに明日奈はこれまたいつも通り、子供部屋で和真の瞼が落ちるまで側についている。

結局十代の頃と変わらず、向こうからやって来る相談事には親身に耳を傾けるが、やって来ない物を自分からたぐり寄せるのは不得手なんだよなぁ、と和人が己の成長のなさに落胆していると、ようやく母親としての役目を終えた明日奈がゆっくりとドアノブを回して入って来た。

 

「あれ、まだ寝てなかったの?」

 

和人が先に就寝していた場合を考えて音を控えていたらしい明日奈は眠っていないどころか横にさえなっていない自分の夫の姿に驚いたようで目を見開いている。夕食を家族揃って食べられた日の夜でも、そのまま深夜まで書斎に籠もる事が多い和人だったから早々に寝室へ引き上げた理由はよほど眠たいからなのだと思っていたらしい。

少し考え込むようにして和人を観察していた明日奈だったが、手持ち無沙汰の様子でベッドに腰掛けている夫は睡魔と戦っているわけでも、考え事に集中しているわけでもないらしい、と見定め、僅かな戸惑いを浮かべた瞳で静かに近づいて来る。

シーツの上に座っていた和人の元まで辿り着き、自分も同じように隣へ、ちょんっ、と腰を下ろすと、ちらり、と再度夫の表情を確認してから自分の横にある和人の腕を両手で抱きかかえ、その肩口におでこをくっつけた。

突然の懐きっぷりに動揺を隠しきれなかった和人の声が上ずる。

 

「あっ、明日奈……さん?」

「んー」

 

返事なのか鳴き声なのかよくわからない、それでもいつもより弱々しい声なのは確かで、明日奈の顔が見えない和人は一拍跳ねた心臓を落ち着かせて可能性を探った。

 

「えーっと……どっか具合が悪い……とか?」

「んー」

 

くぐもった声と一緒に肩に押し付けられている栗色の髪が一回だけ横に振られる。とりあえず体調不良ではないのだと安心して空いている手を伸ばし、ゆっくりと栗色の小さな頭を撫でると、それが気持ちよかったのだろうか今度はすり寄るように顔を動かしてきた。

 

「なんだ、随分と甘えたさんだな」

 

二人きりの時以外では決してみせないであろうそんな仕草が可愛くて愛おしくて自然と口元が緩む。パートナーである自分に対してでさえ滅多に弱音を吐くことの出来ない性分なのは《あの世界》にいた頃からで、だからこそ何の脈絡もなく気分でこういう行為を仕掛けてくるはずがないのもわかりっていたから心の内を引き出す術を持たない和人は代わりにひたすら優しく手を動かした。

セルムブルグで初めて一緒に夜を過ごした日、アスナがキリトに向かって告げた「少し、疲れちゃった」という言葉の内側にはどれほどの思いが含まれていたのだろう、と考えれば、多分、今の明日奈に必要なのも休息なのだろうとうかがい知れる。だからわざと軽い口調で単純に日々の疲労が溜まった身体を気遣う言葉を選んだ。

 

「……少し、疲れたんだろ」

 

言い切ってやれば今までで一番小さな「んー」が細く漏れてきて、まるで泣き声のようなそれが明日奈の弱った心を表しているようで、和人は目を閉じて妻の頭に自分の頬を乗せる。力が籠もっているわけではないが、明日奈の両手が絡みついている腕もまた必死さが伺えて、彼女が内に持つ不安を少しでも軽くできないものか、と和人は肩を抱き寄せ、その背中に手を当てたまま指先で、とん、とん、と宥めるように叩き続けた。

そう言えばかなり昔の記憶になるが二十二層の森の家にプレイヤーメイドのロックチェアを置いた時、やはり明日奈はこうやって「んー」だけで和人に意志表示をしたのだが、その時はあれやこれやと指示があった事を思い出し、それと今回を照らし合わせてみれば、きっとこうやってただ受け入れてやる事が正解なのだろうと推測して余計な詮索をせず、赤ん坊を寝かしつけるように心臓の鼓動に合わせ指を動かす。自分一人では解決できない問題でもそこで立ち止まってしまうような彼女ではない、ならばどうにも消化しきれない感情の揺れあって、それが息子を抱きしめる時間やジャガイモの皮を剥きまくる原因になったのだろう、という考えに至り、自分よりよほど口達者なくせにこういう時、愚痴の一つも言えない妻に「あんまり頑張りすぎるなよ」と栗色の髪にキスをひとつ落とした。

こくん、と頭が動いて今までで最短の「ん」と言う声が了解を示す。

どうやら今夜はもう「ん」以外の言葉を発する気はないらしい。

それはそれで可愛いなぁ、と単純に思ってしまうのは惚れた弱みというやつなのだろうか、いやいや、ぱっと見の第一印象では「キレイなオネーサン」の明日奈だが、付き合いを深めていけばちょっとした表情や仕草はキレイを当たり前にしてカワイイに到達するのは彼女の周囲にいる人間全員が首を縦に振る真実だろう。時に無自覚にその可愛らしさを振りまいているのはどうかと思うが、こうやって心を寄せてくる相手は自分しかいないのだから、と、もう少し明日奈の「ん」を引き出すべく和人は妻の名を口にした。

 

「明日奈」

「んー」

「和真に爪の色、褒められたんだって?」

「ん」

「その色、前にオレが、いいなって言ったやつだよな」

「んっ」

 

まぁ、正確にははにかんで頬を染めた明日奈から「どうかな?、この色」と問われた時、目の前にかざされた白くて細い指とその先端にある薄紅色の小さな爪がまるで明日奈そのもののようで、思わず目を細めて「いいな」と言ったわけだが、その爪色が似合っているのも事実だから嘘じゃないよな、ともうひとつキスを落とす。

他愛のない会話を繰り返し、ようやく腕の中から聞こえていた声が寝息となった頃、和人は妻を起こさぬようにと慎重に抱き枕になっていた自分の腕を引き抜いた。さっきまでとは違う、更に幼さを滲ませた「んぅっ」という吐息のような悲しげな声が奪われた温もりを探しているようで、慌ててその髪を撫で、耳元に唇を寄せて「ちょっと待っててくれ」と猶予を請うと、それで安心したのか寝顔が安らかになる。

ホッ、としたのは和人も同じで、それでも手早く寝支度を整えようと、するりベッドを抜け出すとセキュリティを確認してから寝室の照明を落とそうと手を伸ばした時、近くにあった携帯端末がゆるやかな音楽を奏で始めた。

職場からでもなく、実家の人間や結城の人達からでもない。ましてやクラインやエギル、それにリズを含め学生時代の友人達からでもないこの着信音は滅多に聞かないメロディーで、設定していた事さえ忘れていた音色と共に表示された文字がこれまたアドレス交換の事実さえ忘れかけていた人物の名で一瞬、かけ間違いを疑った。

けれど自分が知る範囲でこの人物がそんなミスを犯すとも思えず、こんな時間にかけてきた意味を考えてすぐに通話の為に携帯端末を手に取ると、「まだ?」と問いたげなちょっとご機嫌が斜めった「ふぅっん」という拗ね声がベッドから聞こえて、和人は場所を移す事を諦め、やれやれとベッドに腰を降ろした。

可能な限り声を落として通話相手の呼び出しに幾分怪訝な応答をする。

 

「……水、嶋さん?」

『夜分に申し訳ありません、桐ヶ谷さん』

 

かなり恐縮した声の主は明日奈の職場の同僚、水嶋だった。背後でゆったりと流れている旋律はピアノの生演奏だろうか?……声や音の反響具合からしてどこかの落ち着いたバーか高級酒場あたりと思われるが、それを推察する思考はいきなり割り込んできた『きーっ』という高い声で阻害された。

 

『でっ、でんわーっ、誰にかけてんデスかぁーっ』

『うわっ、莉々、騒ぐなっ』

 

どうやら水嶋の隣にはこれまた明日奈と職場が同じ、莉々花・リンドグレーンがいるらしい。

以前、和人が明日奈の職場の近くで会った時に紹介された彼女は明日奈の後輩であり仕事上でも補佐役を務めているとかで、随分と明日奈に心酔していたように記憶しているが、逆になんとか莉々花を手なずけようとしていた水嶋に対してはあからさまに反発の意思が見えていた。

とは言えどう見ても水嶋の方が一枚も二枚も上手なのは初対面の和人の目にも明らかで、あれから一緒に食事をする程度には距離を縮められたらしい、と水嶋が莉々花を見る目の奥に自分が明日奈に抱く想いと同種の色を思い出して和人は軽く口元を緩める。

それにしても狙っている女性との時間を割いてまでわざわざオレに連絡をしてくるなんて……と用件を問おうとすれば、端末の向こうからは『お前はフルーツでも食べてろ、ほら、口開けて』と、命令口調ながらも甘さを含んだ水嶋の声が少し遠くに聞こえてきて、どうやら莉々に口を閉じさせた事に成功したのがわかった。

すぐに『すみません、お待たせしました』と丁寧な声に戻った水嶋は更に声を潜め『余計な事かもしれませんが……』と前置きをした後、躊躇いの間が空く。

 

『……結城、大丈夫ですか?』

 

大丈夫かと問われればいつも通りの明日奈ではなかったのだが、こうやって自分が側にいるのだから大丈夫だと言いたい気持ちもあるし、それ以上に妻の職場の同僚の男が気遣いをみせて来るのが多少面白くないと思ってしまう方が大きい。何よりさっきまでの明日奈が「ん」しか発せず自分にすり寄ってきた事など絶対に教えなくなくて、確かに結婚する時と明日奈が妊娠・出産で休職していた時はかなり世話になった相手なのだが和人は素っ気なく質問に質問で返す。

 

「と言うと?」

『いや、俺もさっき莉々から聞いたんですけど……』

 

そう言って水嶋は今日の昼間、莉々花のサポート役という形で明日奈も同行した契約会社との打ち合せの話を打ち明け始めた。

それは都心にほど近い場所にあって、かなり年数が経ち住居者もまばらな公営団地を新たに公営住宅地として整備し直す計画の一端を担っている会社との仕事だった。住宅街の一部として計画されている緑地デザインを請け負った会社から単発でコンサルティングを依頼され莉々花が担当になったわけだが、向こうの担当者の態度が最初から刺々しかったらしい。

打ち合せ相手の若い男性社員は初めて担当を任された仕事という事で随分肩に力が入っており、そもそも自分はコンサルタントの必要性を感じてはいない旨を言葉の端々で匂わせていたようだ。とは言えこの会社との仕事は以前から継続的に行っており、それなりに成果も出している為、上からの指示でやむなく受け入れているのだろう、常時固い表情の担当社員とは反対に、後ろに座っていた指導役という立場の彼の上司はニコニコと穏やかな笑みで莉々花と明日奈に対し「今回も宜しくお願いします」と握手を求めてきたという。

 

『本来ならその程度の規模の単発業務なら莉々ひとりで十分なんですけどね』

 

なぜか自分事のように水嶋の声に張りが上乗せされたせいで隣にいるらしい莉々花が反応する。

 

『私がなんデスかーっ、あーっ、私の悪口言ってるんデスねーっ、水嶋さんもあのナスと一緒なー』

『「なー」って何だよ、それに悪口も言ってねーって。むしろ褒めてる』

『ウソなーっ、水嶋さんが私を褒めるはずないデスーっ』

 

莉々花・リンドグレーンはどうやらかなり酔っ払っているらしい、と和人は思い、それにしてもナスって、あの野菜の?、と疑問を浮かべ、最後にかなり前の話になるが、明日奈が和人に「水嶋君はもうちょっと素直に莉々花ちゃんに接するべきだと思うの」とこぼしていた事を思い出す。

しかし程なくして水嶋は『何度もすみません』と詫びを口にしながらこちらとの会話に戻って来た。

今度はどんな方法を使って意中の女性の口を塞いだのか、興味がないわけではなかったが、今は明日奈が気落ちしていた理由を知るのが最優先と「それで?」と話の先を促す。

水嶋がコホン、と咳払い一つで気持ちを切り替えて語った続きは明日奈が莉々花に同行した理由で、それは偶然にも明日奈が今手がけている仕事が公営住宅地化全体を仕切っているメインプロジェクトだったからだと説明した。

 

『さすがに結城の方はプロジェクト起ち上げ初期から指名を受けてメンバーに名を連ねてます。単発とは違って継続的に関わりますから責任も重大ですがハッキリ言って俺や結城クラスの長期契約は結構高くつくんですよ』

 

それは和人も薄々気づいていた事だった。これでも和人とて国内最高峰と言っていい研究所の一員としてプロジェクトリーダーを務める働きをみせているのだ、薄給ではないと思っているが、懐かしくもストレージ共通化よろしく支払いカードを明日奈と共通化していて生活費に貧窮した事は当然ないし、それどころか個人的に必要性を直感して購入してしまうPC関連機器の引き落としに際しても一括でエラーが出た事はない。

一体、オレ達の預金高っていくらあるんだろー?、と今更ながらに疑問に思わないでもないが、そのあたりの管理は全て妻任せなので「精密機器」のシールが貼ってある段ボールが届く度に「またなの?」と明日奈から睨まれるだけで済んでいるのだから余計な詮索はしない方がいいのではないかと思っている。

和人は慎重に振動を与えぬようベッドに腰掛け、シーツの上に広がっている栗色の髪をさらり、と指で梳きつつ「もしかして、オレより稼いでます?」と絶対に聞けない問いを内に浮かべた。けれど出会った頃から変わらない艶髪の手触りに集中しかけていた意識は端末からの声で遮られる。

 

『とは言っても今回のような単発仕事だって相応の報酬は要求しますが……多分向こうの若手担当者の心情としては散々予算削減を強いられたのにコンサルタントは付けろと強要させられたのが面白くなかったんでしょうね。加えてやってきたのが自分と同年代の女性でしかも見た目で仕事してるみたいな容姿が二人もですから…………まぁ、随分と穿った見方をしてくれたもんです』

 

最後の水嶋とどす黒い声と同様に和人の瞳もスッ、と氷結した。

自分のパートナーの容姿に対する高評価は当然と思うが、それのみで人格を判断されるのは不愉快でしかないのはどちらも同じらしい。水嶋は付け加えるように『今回の結城の同行はあくまで結城の好意によるものだからギャラは発生してないってのに……』と独白した後、トーンを戻して『けれどその程度で怯むような二人ではありませんので、とりあえずその場は新人担当と莉々を中心に打ち合せを進め、一旦休憩になった時でした』と話の核心部分に近づいていった。

 

『指導役の上司がその場を離れたタイミングで結城が提示されていた書類の不備を指摘したんです。結城としては上司の前で言うのをはばかったんでしょうが、上司は上司で結城がそのプロジェクト本体のスタッフだと担当者に伝えていなかったらしく……多分、メインスタッフが同席する打ち合せだと知ったら新人が緊張すると考えたようで、結城もあえて肩書きを莉々と同じ事務所のコンサルタントとしか名乗らなかったせいもあり、案の定、担当男性は結城の指摘を受け入れず……』

『そうなんデスっ、あの担当っ、折角結城先輩が優しく教えてあげたってのに、自分の仕事は完璧だーとか言ってデスねーっ』

『うげっ、莉々、お前寝てたんじゃ……うわっ、オレの端末っ、返せってっ』

 

ガガッ、ガタッ、と手荒に扱われているらしいどこかに擦れているような耳障りな音が通話口から響いてきて、思わず和人は耳から端末を遠ざける。弄っていた栗色の毛先を指に絡ませて遊んでいるとようやく決着がついたのか水嶋が少し荒めの息混じりの声で『桐ヶ谷さん?』と名を呼んできて会話が繋がった。

 

『で、結局、書類の不備については担当である莉々の方から上司が戻って来た時に確認を求めたそうですが、案の定、申請漏れがあり……』

『あの申請、通るまで時間かかるんデスよっ、あん時、明日奈先輩が気づいてなかったらぁー』

『お前はナッツ食ってろっ』

『ふぁごっぅ』

 

和人がリクエストしたわけでもないのに端末の向こうで繰り広げられている絶妙な間合いのコントのような二人の会話に些かげんなりしてきた頃、どこか慎重さを滲ませた水嶋の声が何度目かの謝罪の後に『それで打合せ終了後の帰り際に……』と続けると、突然、莉々花の震えた声が飛び込んで来た。

 

『「結城さんはご結婚をしていらっしゃるみたいですが、そんなに気が強くて可愛げがないと旦那さんも大変ですね」って言いやがったんですよっ、あのナスっ、マジもんのナスデスっ』

 

和人の息が止まる……と同時に体内の血液が一瞬で沸騰したように身体が熱を持った。

端末からは水嶋が焦ったように『莉々っ、お前いつの間にオレのブラントン飲んだっ!?』と自身がオーダーしたのであろうバーボンの銘柄を叫んでいる。かなり度数の高い酒を口にした莉々花は段々と呂律のまわらない口調で、それでも管を巻き続けた。

 

『うーっ、明日奈しぇんぱいの可愛さがわかんないんなんて、ほんっと、分からず屋のナスなー。あんなナスは挽肉と一緒に炒めちゃえばいいんれすぅ』

『こら、莉々。契約相手を炒めるのはナシだからな。やるんなら契約満了してからだ』

「水嶋さん……」

『あ、すみません。本音ですけど炒めるのは我慢しますよ。莉々は結城が言われた言葉にいたく憤慨してますが、同様の事を莉々も言われたらしくて、それで今後の事を考えて結城が所長に軽く報告してくれたようです……コイツはまだあと何回かその担当者と仕事で会いますからね』

「明日奈は?」

『結城はもう会う事はないでしょう。本家のプロジェクト会議の場まで下請け担当者が出てくる事もないでしょうし』

「そう……ですか」

 

固まっていた肩の力が抜ける。

 

『まぁ、この程度の事はトラブルと言うレベルでもないんですが、莉々が騒ぐのはともかく退社時の結城の様子までいつもと少し違って見えたので……』

 

少し照れたような声で『どうも気になって桐ヶ谷さんの端末にかけてしまいました』と告げられ、存外、この男は惚れている女以外には素直な言動をするんだな、と、つれらるように和人の表情も笑みに変わった。

多分、自分の事を何と言われようが仕事上だけの付き合いである相手になら明日奈は完璧に感情をコントロールする。幼い頃から社長令嬢というフィルター越しに視線を送られ、有名私立校に通って腹の探り合いや社交辞令の中に潜む本音を聞き分けながら生活してきたのだから自身の不当な評価や言いがかりには冷静に対処できるはずだ。

しかし、左手の薬指にある指輪の存在から既婚者であると知られたのが原因で自分の夫の気持ちまで勝手な憶測で告げられた時、僅かでも心が揺らいでしまったのだろうと想像して和人は呆れに近い溜め息を吐いた。

多少なりとも明日奈に自覚があるせいなのはわかるが……

 

「そんな事、オレが思うわけ、ないだろ……」

 

指に絡めていた髪を手放し、頬にかかっていた髪を耳裏に流してやると、くすぐったそうに柔らかな「んぅ」という声が緩んだ口元から転がり出てくる。

全く妻の後輩の言う通りだと和人はそのままベッドに乗り上げ、そっ、と労るように頭を撫でた。寝姿だけでも自然と手を伸ばしてしまう程に可愛いのに、「ん」しか発しなくても愛しくて堪らないのに、「大変」と言うなら《あの世界》で明日奈が自分の半身の証である指輪を装着してくれてからもう随分になるのに、いつまで経ってもこんな感情に振り回される大変さの方で、一体明日奈のどこを見て可愛げがないなんて判断を下すのか理解できない……と蕩けそうな瞳で妻の寝顔を見つめていた和人はひとつの考えに至って、ふむふむ、と頷いた。

別に万人に理解されなくていいではないか、と。むしろその方が自分もやきもきしなくて済むし、と。

明日奈の可愛げがわからないヤツに、わざわざ反論して教えてやる必要などないのだ、むしろその可愛げは自分だけに見せてくれれば十分なのだから。

手にしている端末からは未だに小さく『あのナスぅー』と意味不明な莉々花の呪詛のごとき呟きが漏れ聞こえていて、彼女を介抱しているらしい水嶋の『ほら、水飲めって』と言う困った声がなぜか少し嬉しそうに聞こえてくるが、和人は構わず「水嶋さん」と彼を呼び戻した。

 

「わざわざ有り難うございました……けど、明日奈の事は大丈夫です。オレがいますから」

 

自信を覗かせる言い様に水嶋が少しの間を開けて『そうですね』と納得の同意を示す。とは言え水嶋のお陰で理由がわかったのだから、と和人は改めて礼を述べてからずっと気になっていた単語の意味を尋ねた。

 

「それにしてもさっきから水嶋さんの彼女が口にしている『ナス』って……」

『ああ、それですか』

 

自分の彼女という部分にはあえて否定を入れず、水嶋はこちら側にもわかるくらい楽しそうに解説を始める。

 

『あれで莉々は最大級に人を罵倒してるつもりなんです。帰国子女あるあるなんですかね、どうやら「おたんこなす」という言葉の「おたんこ」をどこかに置き忘れてきたらしくて……』

 

『可愛いでしょう?』という声が聞こえたような気がした。

和人にとっては疑問が解消されればそれ以上の興味はないが、和人にとっての明日奈がそうであるように、水嶋にとっては莉々花のそんな姿さえ甘く香しく映っているに違いない。

これ以上は互いに会話を続ける必要性もないし、何よりそれぞれ隣にいる相手を構いたくて通話はその後すぐに終了した。

水嶋からの着信が届く寸前に落とそうとしていた照明へ身体をひねり、先にその手前へ定位置となっている端末を置くと微かに響いた、コト、という音に明日奈の瞼が反応する。

 

「キ……リトくん?」

 

キリト呼びは意識が曖昧な証拠だ。げんにはしばみ色はボンヤリとふやけたように夢と現実を彷徨っている。

和人は室内の照明をいつもの暗さまで落とすと、これまたいつものように妻の隣に身体を滑り込ませ華奢な肢体を抱き寄せた。普段ならそれだけで明日奈の身体はリラックス状態になり、すぐにでも夢の世界へと誘われるのだが今日に限っては自ら顔を和人の首元に埋め一層身体を密着させてくる。

 

「明日奈?」

 

ハッキリ目が覚めていたようには見えなかったけど……と不思議に思って返事を待ってみるが和人の耳に入って来るのは、スー、スー、と、それすらも聞いているだけで口元が緩んでしまう明日奈の寝息だけで、なんだ、やっぱり寝ぼけてたのか、と結論づけようとした時、胸元から「……電話、……だれ?」と吐息のような声がぽわり、と浮かぶ。

 

「ん?、……明日奈んとこの水嶋さんだよ。随分前に連絡先の交換してたんだ。一緒に明日奈の後輩の子もいたらしいけど」

「……莉々花、ちゃん?」

「ああ」

 

朧気に通話をしている事は認識していたようだが、内容までは耳に入っていなかったのだろう、和人の通話相手を知って幾分、声色が芯を持ち始めた。

 

「昼間ね、一緒に行った打ち合せ先で莉々花ちゃん、ちょっと嫌な事、言われちゃったの……」

 

それは明日奈も同じだろ、と言いかけた口を閉じ、その代わりに就寝前の時と同じように静かに妻の背中をさすってやる。

 

「でも、水嶋君と一緒なら大丈夫かな。素直に話せてると思うし…………そういう所が、可愛いんだよね」

 

どこか羨ましげな明日奈の声に和人は背中で動かしていた手を止め、身体を丸めて明日奈を抱き込み、その耳元に唇を近づけた。

 

「そういう所って……オレから言わせれば明日奈だってよっぽどわかりやすいけど?」

 

じわじわと赤くなっていく耳たぶを見て満足げに微笑んだ和人は、普段ならここまで身体を拘束すると抵抗を見せる妻が今夜は随分と大人しく腕の中に収まってくれる事に笑みを深くして、更に強くきつく閉じ込めて隙間をなくす。

息苦しさから漏れた息は鼻にかかっていて妙に艶めかしい。それでももがこうとしないのは明日奈も全身で和人を感じていたいのか……抱きしめられている事も手伝って既に耳だけでなく肌は色づき芳香を放っている。

もっと直接、深く感じたくて、感じて欲しくて、本能のままに「明日奈」と呼べば、それだけで理解した明日奈が和人の中で埋もれたまま小さく、こくり、と頷いた。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナさんが「んー」で話すのは原作者サマのうっすーい本からの
引用です(が、ちゃんと読み返さなかったので間違いがあるかも……)
新人担当者くん、社会的に抹殺されなくてヨカッタ。
そして炒め物にもならずにヨカッタ。


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恋だったり、愛だったり

帰還者学校に通っている時の明日奈と和人のお話です。


和人や明日奈が通う帰還者学校のカフェテリアは放課後であっても生徒達の姿が僅かに点在している。

昼食時の一種戦場のようなフロア全体を包む高揚した賑わいはないが、それでも多人数で囲んでいる幾つかのテーブルでは男女問わずに十代後半ならではのテンションで盛り上がっているようだ。

そんなグループから少し離れた場所で背筋をスッ、と伸ばしテーブルの上のタブレットに真剣な眼差しを注いでいる女生徒がひとりで座っている……いや、そんな近寄りがたいオーラを放っているからこそ、近くには誰もいないのだろう。さらり、と絹糸のごとく細くしなやかな栗色の長髪が白磁の頬にかかるのを無意識に耳へとかける仕草だけで、すこし離れた場所でチラチラと視線を送っている生徒達から溜め息がもれるほどの清楚さとその奥に漂う色香を匂わせて。

そんな不躾な視線に気づかないほど集中しているのか、はたまた既に慣れっこになっているのか、タブレット用のデジタルペンを持ったままの手で髪を弄った後、明日奈はふたたび目の前の画面上にそのペン先を踊らせた。

画面に映し出されている問題文を読み解いて空白欄を上から順に埋めていく。

すると画面はオートスクロール機能が働き、ストレスを感じない一定の速度を保ちながら次から次へと問題を流してくるのだ。

まるでリズムゲームのようにノーミスの速度で最後まで問題を解き終わった明日奈は一番最後にある「採点」ボタンをタッチした後、ペンを静かにテーブルの上におき、ふっ、と緊張を緩めた。

と、そこに絶妙のタイミングで後方から親友の声が飛んでくる。

 

「アースナっ」

 

画面から顔を上げて振り返ればリズベットこと篠崎里香がカフェテリアの入り口から軽く手を振りながら近づいて来るのが見えて、明日奈も笑って手を振り返した。

 

「アイツと一緒に帰ったんじゃなかったの?」

 

里香は明日奈が座るテープルまでやって来て首を傾げた。アイツとは桐ヶ谷和人のことだ。

 

「うん、ちょっと居残りになっちゃったんだって。そんなに時間はかからないって言うから待ってるんだけど」

「相変わらず仲良しさんだねぇ、結城ちゃん」

 

一緒にカフェテリアに入って来たのだろう、里香の後ろから、ぬっ、と顔を出したのは明日奈や里香と同じクラスの女子だった。

その組み合わせは特に珍しい物ではない。だいたいどのクラスでも圧倒的に女生徒の数が少ないのだから、どこかの黒の剣士のように望んでソロを貫かない限り同じクラスの女子はそこそこ仲良くなるものだ。

だから明日奈もクラスメイトの二人が共に居る事自体は何ら不思議に思わず、それよりも揃って飲み物のカップを持っているのを見て今度は明日奈の方から「よかったら一緒に座る?」と誘いをかけた。

そこで里香はちらり、と親友の手元に視線を落とす。

タブレット画面には派手なエフェクトが散っていて、中央には「正解率98%」の文字が大きく飛び出していた。

 

「何やってたの?、邪魔じゃない?」

「とりあえず全体の雰囲気は掴んだから大丈夫。間違えた問題だけ今のうちに復習したいんだけど……」

 

誘っておきながら……と、少し申し訳なさそうに見上げてくるはしばみ色に里香は首を横に振った。何の試験問題なのかはわからないが正解率が98%なら間違えたのは一問か二問だろうと予想して、明日奈ならばそれ程復習に時間はかからないはずと判断する。それよりも伺いを立てるなら一緒にいるクラスメイトの方だろう、と隣に視線を移せば彼女も全く気にしない様子で「私達の事は気にせず、どんどんやっちゃって」と随分と気前の良い台詞を言いながら「お邪魔するねー」と明日奈の向かい側に腰を降ろした。

その隣に座りながら里香が再びタブレットを覗き込む。

 

「何かのテスト対策?、検定試験とか資格試験?」

「う……ん、大学受験の公開模試を受ける事になっちゃって」

「は?、どういう事?」

「母からの抜き打ちテストみたいな感じかな。この学校に通う事あまり良く思ってないから。常に成績の上位キープと……それだけじゃダメで、学力検査として外部の模試も受ける約束なの」

「はーっ、アンタも大変ね。少しの待ち時間まで勉強してるくらいだから模試まであまり日にちないんでしょ?」

 

明日奈は困ったように笑ってから「今朝ね、朝食の席で、申し込んでおいたから明日行きなさい、って言われて」と打ち明ける。

 

「あっ、明日ぁ!?……しかも言われたのが今朝なの?」

 

素っ頓狂な声をあげた里香にとなりの女生徒がポンポンと落ち着かせるよう肩を叩いた。

 

「篠崎ちゃん、篠崎ちゃん、抜き打ちってそーゆーもんでしょ」

「あー、まー、そーだけどさぁ、それにしたって……週末なんだからアスナだって予定とか、あったんじゃないの?」

「んー、今回、それは大丈夫だったからよかったんだけどね」

 

抜き打ちが初めてではないらしい、と思わせる口ぶりに里香は、はぁーっ、と溜め息をつく。

 

「話には聞いてたけど、ホント、厳しいお母さんなのね。でもそれにきっちり応えてる娘のアンタもスゴイわよ」

 

今朝寝耳に水の模試の対策勉強でその日の夕方には正解率98%を叩き出すのだ、その母にしてこの娘あり、だろう。和人にしても明日奈と外出した帰りは何が何でも門限を破らせないよう家まで送っているそうだから、この二人は単純に一緒にいたい、という願いを叶えるだけでもなかなか大変なのよねぇ、と里香は持っていた耐熱カップに入っているアイスレモンティーを、ずずっ、と啜った。

苦笑いでおめでたいエフェクト画面を閉じた明日奈は次に復習画面への操作をしつつ「それで?」と向かいに座ったクラスメイトの顔を交互に見る。

 

「二人はどうしてここに?」

 

仕上げに軽く小首を傾げると、途端に里香の眉が、ぬぬっ、と波打つ。

怒っているのか、困っているのか、どっちにもとれる表情に明日奈だけでなく女生徒まで、えっ?、とその意味をはかりかね、焦り声をあげた。

 

「なになにっ、篠崎ちゃんっ、そんな重い話なのっ!?、さっきは『ちょっとお茶しながらお喋りしよー』って、かるーい感じで誘ってくれたのに?」

「私にとっては十分重いのよっ。だからここでアスナを見つけられて逆にラッキーって思ったくらいで……」

「え?、私!?」

 

突然、話に巻き込まれた明日奈は、ぱちぱち、とはしばみ色を見え隠れさせて目の前の親友をジッと見つめる。その視線に耐えられなくなった里香はさっきよりもごくごくっ、とレモンティーを勢いよく飲み込んでから、ふぅっ、と一息ついた。

 

「と、とりあえずアスナは勉強して。模試は明日なんだから」

「そんなの、リズの話が気になって解けないよう」

「ぬぬっ、ごめん……じゃ、こっちは先に事実確認しとくから、なんとなく聞いててもらえれば……」

 

渋々と言った様子でタッチペンを握り直した明日奈はそれでも画面に映し出された問題に意識を落とし、かつてよくリズベットの店で響かせていたブーツの音よろしく、トントン、とペン先を鳴らして復習を始める。その様子にひと安心した里香は改まって隣の友人に顔を向けた。

 

「あの……さ、実は、それとなく聞き出してくれ、って頼まれたんだけど、そういうの私、苦手なのよ。だから先に確かめたいんだけど……隣のクラスの男子と付き合ってるわよね?」

 

明日奈のペンが不自然に揺れる。けれど目は画面から離さず復習として画面に映し出された二問目の問題文を追っていた。

 

「あっ、その話かぁ……うん、付き合ってた、が正しいんだけど」

 

予想外にあっけらかんと告げられた言葉は里香が予想していたとおりのものだった。

 

「で……その……こっからが……えっと……何て聞いていいのか……」

「別れた理由?、そんなに篠崎ちゃんが深刻な顔するほどのモンじゃないんだけどなー」

 

里香が言葉を選びに選んで、選びきれずにいるうちに本人から言われてしまい、さすがに明日奈も顔を上げて女友人の表情を確認する。けれどそこには全く何の含みもなくて、普通に二人並んで道を歩いていたら左側を歩いていた彼氏と右側を歩いていた自分の道がいつの間にか真ん中から分かれて左右別々になっていたから、そのまま歩いているだけのような、自然な流れだから疑問も抵抗も生まれていない顔だ。

そこでますます里香の顔が険しくなる。

 

「もしかして……他に……」

「やだなー、浮気なんかしてないし、もちろん他に好きな人が出来たわけでもないって……アイツにもちゃんと言ったのに」

 

さすがに困惑したように口を尖らし「やっぱり信じてなかったんだね」と呟いている彼女は付き合っていた男子に既に未練はないようで、ひたすら「どうしたらいいかなぁ」と呟いているが表情は実にサッパリしていた。

女生徒は里香と同じように持っていたカップに口をつけ、ひとくち、中の液体を含むとしばらくおいてから、ゴクッと飲み込みこんで、そこでやっと明日奈の視線に気づく。

 

「あ、ごめーん、結城ちゃん、へんな話聞かせて」

「えっ、全然……って言うか私まで聞いちゃってよかったのかな?」

「私は別に構わないよ。だって、ほら、うちの学校って女子少ないから、誰と誰が付き合ってるとか別れたとか、すぐ広まるし」

「……そうなの?……知らなかった……」

「アンタはそういうの、あまり気にしないでしょ……って言うか自分の恋愛しか目がいってないってゆーか……」

「そんな事っ」

「はいはい、で、復習、終わったの?」

「うっ…………あと一問」

 

里香は無言で明日奈の手元にあるタブレットを指さした。隣にいるクラスメイトとの話も大事だが、里香にしてみれば明日の親友の模試だって重要案件だ。明日奈の母に納得してもらえる点数をとって、明日奈とはずっと一緒にこの学校に通いたい。

とにかくアンタはそっちを片付けなさい、と指先からタブレットに向けビームを発射しているように真っ直ぐ伸ばしている人差し指をクルクルと回して明日奈の意識を戻した里香は「でもね」と再び隣を見た。

 

「向こうはまだアンタのこと、好きなんだと思う。どうしても納得できないって」

「だから理由を聞き出して欲しいって頼まれたの?……もーっ、ホント、迷惑なヤツでごめん。そういうトコも理由の一つなのに」

「そういうトコ?」

「そう、アイツってなんか色んな事、遠回しに言ってくるの。《あっちの世界》にいた時は気づかなかったんだけどね」

「ちょっと待って」

「なに?」

「もしかして、あの城にいた頃から付き合ってたの?」

「ちゃんと付き合い始めたのはこの学校で再会してからだよ。向こうでは私のお店に来てくれるお客さんの一人だったから」

 

店主と客という関係性を聞いて里香の表情が曇るが、すぐに「なんの店?」と好奇心が覆い隠す。けれど明日奈が遮るように冷静な声で「リズ」と親友のキャラネームを呼んだ。

帰還者学校が開校してすぐの頃は《あの世界》での話題はタブーだったが、それも数ヶ月が過ぎた今、本人が拒まない限り呼び名においては暗黙の了解で、リアルネーム呼びでもキャラネーム呼びでも咎められることはなくなっている。

鋼鉄の城で武具店を営んでいた里香だから同じ店主と聞いて思わず問いかけてしまったが、さすがにそこまで立ち入った質問はマナー違反だったと明日奈の一声で我に返った。バツの悪そうな顔を見て女生徒は少し笑ったが、それから声を潜め片目を瞑って「パン屋さん、けっこう人気店だったんだよ」とこっそり教えてくれる。

 

「低層で食べたパンが衝撃的に不味くって。こんなの、形がパンってだけの別の何かだよーっ、って叫びたくなっちゃうようなヤツ。それでもう絶対美味しいパンを作ってみせるって決意したの」

 

その話を聞いて明日奈が思わず「あー」と、力の抜けた声を漏らす。女生徒の思い出のパンに自分も心当たりがあると言いいたいのか、それとも、同じように《あの世界》で口にした料理がきっかけで絶対自分がちゃんとした味を作り出してみせる、と決心した経験があるのか……実はその両方の場面でアスナの隣には同じ黒髪の少年が存在していたわけだが、そんな事を知る由もない二人は明日奈の発した声にただ首を傾げただけだった。

料理スキルをコンプリートするほどの明日奈だからパン職人をしていたというクラスメイトを見る目にもつい熱がこもる。

 

「美味しいパン屋さん……素敵。知ってたら絶対買いに行ってたのに……」

「閃光サマが常連になってくれてたら、もっと繁盛したかもね」

 

互いに秘密を共有するように顔を近づけて笑う二人に今度は里香が「ちょっと、明日奈」と友を窘めた。

 

「勉強は?」

「ん、あとちょっと」

 

悪戯が見つかった子供のような顔で姿勢を正した明日奈が再びスラスラとタブレットの画面上でペン先を踊らせる。その優雅さに見とれそうになった里香は強引に視線を外し、隣の友へ話の続きを促した。

 

「でも、この学校で再会してから付き合い始めたとしても、既に《あっちの世界》で仲が良かったからでしょ?」

 

ある程度好意を持って相手を知っていなければ、再会を喜んだとしても恋人として付き合うまでには時間が足りない気がする。

 

「そうだね、向こうはしょっちゅうパンを買いに来てくれてたし、私も会えれば嬉しかったし。お客さんがいない時は店の端っこでお喋りして、パンの材料を一緒に探しに行った事もあったっけ…………楽しかったよ」

 

その時を懐かしむ彼女の顔はとても優しい笑顔で、なら、どうして?、と疑問が表情に出ていたのか、里香を見て、くすっ、と笑った彼女は、それからちょっと泣きそうな顔になった。

 

「きっとね、《あの世界》にもうちょっとだけ閉じ込められてたら、やっぱり恋人同士になってたかな、って思う。でもお互いの気持ちを確かめる前に《現実世界》に戻ってきて、それでもまた会えて、喜んで、付き合うことになって……そうしたら今度はなんか違うな、って思っちゃったの」

「違うって?」

「うーん、何だろう……《仮想世界》と《現実世界》の違いなのか、それとも付き合うまで知らなかった部分が原因なのか、少しずつ違和感って言うか、あれ?、こんな人だったっけ?、って……」

「ああ、それがさっき言ってたやつ?」

「そう。《あっち》ではもっと単純に好きだった気がするんだけど、《こっち》で付き合うようになってからアイツと一緒にいると自分の気持ちがよく分からなくなっちゃったの。世界が変われば仕方ないのかもしれないし、相手を知れば知るほど意外な面が見えてきちゃうのも当たり前だってわかってるんだけど……」

 

「今まで隠されてた一面を知って、もっと好きには……ならなかったの?」と小さな声が割り込んでくる。

声の主へと二人が顔を向ければ、そこにはペンを置いて祈るように両手を組み合わせている明日奈が、静かにクラスメイトを見つめていた。

 

「そっかぁ……そうだね。もっと好きになれたら良かったんだね。けど私の『好き』はどんどん小さくなってアイツから離れていっちゃったみたい。だからアイツが納得するような原因とか理由がないのよ」

「だからクラスメイトの私んトコに来たってわけね」

「アイツめ、人の良い篠崎ちゃんを巻き込んでっ」

 

おどけた仕草で腕組みをして頬を膨らませると里香が軽く首を振る。

 

「それはいいのよ、ただ、そういうの頼まれても私には無理だって何度も言ったんだけど……」

「篠崎ちゃん、話しやすい雰囲気あるもん。さすがに結城ちゃんに頼み事は持っていけないだろうし」

 

クラスメイトの発言に明日奈の眉毛が気落ちしたように下がった。

 

「私って話しかけづらい……かな?」

 

《あっちの世界》で副団長を務めていた時は規律を重んじ、部下にもそれを求めていたから同じギルドでも男性メンバーから気さくに声を掛けられる存在ではなかったと思うが、《こっちの世界》でただの高校生となった今でも周囲から遠ざけられる雰囲気が出ていたのかと、自然に顔が俯く。肩を落としたまま固まってしまった明日奈にクラスメイトの女子は笑いを堪えて「違うよぅ」と言った。

 

「結城ちゃんは《あっちの世界》でも《こっちの世界》でも、とびきり格好良い美人さんだから、男としては、フラれた理由を元カノに聞いてきて欲しい、なんて情けなくて頼めないんだよ。それにさ、男の自分と二人で話してる場面を万が一にでも桐ヶ谷君に見つかると……ね」

「見つかると?、ダメなの?」

「そりゃ、ダメでしょ」

「どうして?」

 

同級生の相談にのれない理由のひとつが和人のせいだと理解できない明日奈は模試の対策問題を解くよりも深く考え込む。

 

「ウソでしょ、篠崎ちゃん……もう、どうしようもないくらい結城ちゃんがカワイイ」

「でしょ。この子ってキリトに関しての純粋度がヒャクをぶっちぎってるから」

「リズ、それどういう意味?」

「まあ、まあ、二人とも。とにかく、そんな感じなの……どう言ったらアイツに分かってもらえるかなぁ?。別に嫌いになったわけじゃないから変に傷つけるような言葉は選びたくないし……」

 

女生徒の投げかけに全員が口を閉ざした。

しばしの黙考後、明日奈がひね出すように桜色の唇を動かす。

 

「恋が、冷めました……とか?」

「恋……うーん、そうだね……恋かぁ……」

 

すんなりとは飲み込めない様子の女生徒に里香が言葉を重ねた。

 

「ほらっ、よく言うじゃない『百年の恋も一時に冷める』って。そういう具体的な出来事がなかったとしても、アイツとアンタとの間に気持ちの温度差があるっていうのは事実でしょ?」

「うん、そう言われるとしっくりくるような。確かに結城ちゃんと桐ヶ谷君はいつも熱々だよね」

「ふぇっ!……そっ、そっ、そんな事はっ」

「こらこら、今はアスナで遊んでる場合じゃないから」

「はーい…………でもさ、さっきの結城ちゃんの言葉で思ったんだけど、私、アイツの事ちゃんと好きだったんだよね。きっと恋をしてたんだと思う。あの店で、食べてくれる人が美味しいって言ってくれるといいな、って思いながらパンを作っている時、思い浮かべてたのはアイツの顔だったし、お客さんを待ってる時もやっぱりアイツの姿を探してたから」

 

クラスメイトの言葉を聞きながら明日奈も里香も、うんうん、と頷いた。自分達も《あの世界》で同じような感情を抱いたからだ。

 

「だから《こっち》で恋人同士になれた時は本当に嬉しかったんだけど……」

「けど?」

「恋人にはなれたけど、それ以上にはなれないってわかっちゃった」

「それ以上?」

「うん、さっき結城ちゃんが聞いてくれたでしょ?、今まで知らなかった面を知ってよけい好きにならなかったの?、って。もしかしたら、それが愛してるって事なのかなって。相手のどんな部分でも好きになっちゃうの、そう思えたら恋人以上になれたのかもって」

 

恋人以上と聞いて里香はあのデスゲームのシステムを思い起こした。《あの世界》では何人でも登録可能の「フレンド」という立ち位置より更に上位の肩書きが存在していたからだ。ひとりのプレイヤーの唯一となれる結婚システム…………互いのストレージ共有化によってある意味《現実世界》のそれより隠し事は不可能となる。自分をさらけ出しても不安などひとつもない存在で、同時に相手の全てを受け入れられると思える存在、互いを信じる純粋度は《あの世界》でも《この世界》でも変わる事のない二人が里香にはすぐ近くにいた。

 

「恋はさ、夢と一緒で叶ったり、叶わなかったりするって言うから自分の願望みたいなものなんだよ。だから私の恋は叶ったけど、愛にはならなかったってこと。大丈夫、篠崎ちゃんや結城ちゃんと話して自分の気持ちの整理がついたから、私が直接、アイツに言うよ」

「だい……じょうぶ?」

 

まるで失恋をしたみたに顔を歪めながら微笑んでいる彼女に明日奈が声を掛ける。

いや、彼女の言った事をふまえればこれはひとつの失恋なのだろう……好きだった心を、恋心を失ったのだから。

 

「別れ話を言い出したのは私の方なんだよ、結城ちゃん。心配するならアイツの方だって」

 

それからちょっと焦ったように「あ、でもでもっ」と続けた。

 

「実際、本当に心配はしないでね。そんなのが桐ヶ谷君にバレたら……」

「またダメなの?」

 

知っている同級生の二人が互いに失恋をしたというのに、それを心配するのもダメだと言われればその原因が自分の恋人であっても理由がわからない明日奈は戸惑いより理不尽さが膨れる。幼ささえ滲ませたむくれ顔に女生徒は「はぅっ」と珍妙な声をあげて自分の胸元をおさえた。

 

「もしかして、私、結城ちゃんに弄ばれてるっ!?」

 

その芝居がかった動作に里香が半眼の視線を送る。

 

「バカやってないのっ」

「ふぇーん、篠崎ちゃんが冷たい。でもそんな篠崎ちゃんの事も私は大好きっ」

「はいはい、ありがと」

「あ、信じてなーい。ひどーい」

 

打って変わって二人の巫山戯た明るいやりとりに明日奈は思わず、ふっ、と安堵のような息を吐いた。場の空気が浮上したところで女生徒は宣言するように拳を握り明日奈と里香を順に眺めてからニッコリ、と笑う。

 

「次に好きな人が出来たらね、『愛してますっ』って心から告げられるよう、頑張るよっ」

 

堂々とした決意表明に里香が益々呆れた目で溜め息にのせ疑問を返す。

 

「それ、頑張ることなの?」

「頑張らないより頑張る方がいいでしょ?、結城ちゃんは?、桐ヶ谷君に言ったことある?」

「えぇっ……」

「否定しないかぁ。そっかー、いいなぁ。でも負けてらんないっ、女の子はね、好きになった人の数だけ綺麗になるんだからっ」

 

えっへんっ、と無意味に胸を反り返らせ勝ち誇った笑顔で言い切った女生徒に対して、彼女の前に座っていた明日奈はクラスメイトの口から飛び出した未知の言葉に、今朝、母親から突然の模試日程を聞いた時などとは比べものにならない衝撃を受け、驚きで声を詰まらせた。

 

「っ?!…………それ……ほひゃっ」

 

仔猫が何かにけつまずいたような情けないながらも愛らしい鳴き声をあげた明日奈の背後にはいつの間にやって来たのか、ひとりの男子生徒が立っていて彼女の両耳を、ぴたり、と自分の両の手で塞いでいる。

 

「……アスナに変な迷信、吹き込むなよ」

「迷信って……アンタ、聞いてたの?」

「わっ、噂の桐ヶ谷君、登場っ」

 

一瞬、驚きと警戒で両肩が跳ね上がったものの、その存在感と手の温もりで背後の人物の正体に気づいた明日奈は既に落ち着きを取り戻して、聴力を幾分か遮られたままキョトン、と事の成り行きを見守っている。

和人は触り慣れている栗色の髪ごと明日奈の頭を左右から挟む形を保って目の前の女生徒二人に厳しい視線を浴びせた。

 

「ほらほらこんな顔、結城ちゃんは知らないんだろうなぁ」

 

全く以てこの男の独占欲や、自分の恋人が自分以外の男と関わると問答無用で吹き出す鬱陶しいオーラを結城ちゃんはわかっていないんだから、と女生徒が大げさに嘆くと和人はポソリ、と不機嫌な声で「知ってるよ」と呟く。

 

「え?」

「だから、アスナが知らないオレの事なんてひとつもないから……全部、アスナは知ってる」

 

どうやら不機嫌な、と思っていた声の半分は恥ずかしさが混ざっていたらしく、両手が使えないせいで和人の耳の赤を隠す手立てがない為、否が応でも二人の視界に入てきて、つられて女生徒達の頬もわずかに色を持った。

和人が発した「アスナは知ってる」の言葉に、はっ、と何かを思い出した女生徒は「こういう事なんだね」と納得したように、ひとつ頷くと「桐ヶ谷君はさ……」と和人に話しかける。

 

「結城ちゃんの事を知れば知るほど『好き』が大きくなっちゃうんでしょ」

 

ウソや誤魔化しの反論は認めない、と視線で釘を刺されて、和人は一旦開いた口をすぐに閉じ、気まずげに顔を逸らした。

 

「うんうん、こっちも否定しないかぁ。やっぱり羨ましい。私も早く次の恋を見つけたいよっ。好きになった人の数なら結城ちゃんに負けない気がするっ」

「はいはい、なんか見てるこっちが恥ずかしくなってきたわ。キリト、私達はこれ飲んだらもう帰るから」

「さっさと飲み終わってくれ」

 

明日奈に余計な言葉を聞かせたくないのか、早く二人きりになりたいのか……これ以上からかわれたくないのもあるらしい、視線を合わさぬままそれでも少しぶっきらぼうに「気をつけて帰れよ」と添えてくるのだから始末に悪いのよ、と里香は無理矢理カップの中身に意識を集中させた。

明日奈に触れながら寄越してくる和人の気遣いの言葉なんてろくでもない物に翻弄されないよう、苦い気持ちをアイスティーと一緒に飲み込んだ里香が隣の女生徒を見れば、同様にカップを空にした彼女が大きな溜め息をついている。

 

「すごいね、篠崎ちゃん。こんな桐ヶ谷君を知っても結城ちゃんて普通にほわん、ほわん、してる…………で、そんな結城ちゃんの全部が好きな桐ヶ谷君かぁ……」

 

和人が来てくれた事が嬉しいのか、相変わらず会話がよく聞き取れない状態でも穏やかに微笑んでいる明日奈を見てその包容力の高さに女生徒は、うんうん、と頷いていたが、和人のどんな感情や言動にも対応してしまう明日奈もすごいが、そのスゴイ明日奈を丸ごと受け入れている和人も大概なわけで、こうなってくるとどっちがどっちなのかわからなくなってくる。

 

「二人共すごくて、考え始めると出口がなくなっちゃう……」

 

どうやら迷路にはまってしまった様子のクラスメイトの腕を里香は立ち上がりながら半ば強引に引き上げた。

 

「ほら、帰るわよっ」

「うん、そうだね…………じゃ、また来週、結城ちゃん」

「アスナ、模試、頑張ってねっ」

 

里香と女生徒は交互に明日奈に声を掛けて手を振りカフェテリアを出て行く。その二人に笑顔で手を振り返している明日奈の後ろには憮然とした面持ちで未だ明日奈の両耳に手を当てている和人だ。

クラスメイトの女子二人を見送った後、明日奈はゆっくりと塞がれている両耳を軸にして顔を上へ向ける。

さらり、としなやかな髪が肩から背中に流れ落ちた。

そして視界には見慣れない角度からの逆さまな和人の顔……ちなみに耳にはまだほんのり赤が残っている。

 

「キリトくん」

 

ちいさく呼びかけると「ん?」と逆さまの顔が近づいてくる。

少し長めの前髪がすだれのように和人のおでこから離れて不安定に揺れた。

こうやって見上げると睫毛の長いことがよくわかる……男の子なのにな……本人は女顔を気にしているから言わないけれど、恋人という身内贔屓を差し引いて見ても「整った」と形容できる顔立ちだ。

 

「よく考えたらね、私、結構好きな人、いるかも」

「はぁっ!?」

 

寄せてきた顔の近くで仰天の声をあげられて、それにビックリした明日奈の目が大きくしばたいた。

その反応に慌てて和人が狼狽え、戸惑いを見せ始める。

 

「ごめんっ、アスナ。でも……え?、それって……いや……そりぁあ……まあ、アスナだって……子供の頃とか……」

 

どうやら明日奈の耳から手を離すという行為はすっかり頭から抜け落ちているらしい。

フロアボス攻略の時だってこれ程動揺する姿はなかなか目にしたことがない明日奈は上を向いたまま至極真面目な顔をキープしつつ更に追い打ちをかけた。

 

「この三年で……五人くらい、かな」

「…………」

 

もう和人の口からはなんの声も出てこなかった。

 

「五人、好きになった分、綺麗になれたと思う?、キリトくん」

 

ちょっとすまし顔で問いかけてみると、こつり、と和人の額が明日奈のそれにあたる。

 

「もう……十分すぎるほど……」

 

頭の後ろの方で聞こえた弱々しい声はそれでも額が密着しているから確実に明日奈に伝わって、それに和人の前髪が鼻先や頬をくすぐるので色々合わせて可笑しくなってしまった明日奈は和人から見えるはずのない唇の端を、にまり、と持ち上げた。

 

「一人目はね《仮想世界》で出会った男の子なの」

 

これ以上は聞きたくないんですけど……、と訴えるようにくっついている額がウリウリと横に振られるが明日奈は構わず話を続ける。

 

「すっごくゲームの事に詳しくて、何も知らなかった私に自分の知識や情報を惜しみなく与えてくれた優しい男の子」

 

和人のウリウリが止まった。

 

「次はね、そのゲームの世界で一番強い男の子。その子のお陰で閉じ込められていた人達は《現実世界》に戻ってこれたの」

 

和人が吐息のような声で「アスナ?」と口にしたように聞こえたが、やはり明日奈は構わず喋り続ける。

 

「でも、その時、私は《現実世界》に戻れなくてね、だから三人目はそんな私を迎えに来てくれた勇敢な男の子。四人目は《現実世界》に戻って来ない私をずっと待っていてくれたちょっと寂しがり屋の男の子で、私が目覚めた時、一番に会いに来てくれた人」

 

ゆっくりと和人の顔が持ち上がっていく。

 

「五人目は自分が関わった人の事となると痛みも我慢してどこにでも行っちゃう仕方のない人……意外と泣き虫さんなのに…………ほらね、三年間で五人も好きになっちゃうなんて、意外と私、惚れっぽいのかも…………自分でも知らなかったよ」

 

笑う明日奈に向け、和人が「アスナ、それって全員……」と探るような視線で問いかけようとすれば、最後まで言い終わらないうちに「言ったでしょ?」と遮られた。

 

「あのお家で、《現実世界》に戻っても私はまた好きになるよ、って。何度だって、どんな世界でだって、私はやっぱりキミの事をどんどん好きになっちゃうの」

 

それはかつて鋼鉄の城の中でキリトがアスナに告げた言葉と同じだったのだろう。

 

『それまで見えてた面はもう好きになってるわけだろ?、だから、そのあとに新しい面に気付いてそこも好きになれたら……』

 

和人がずっと触れていた明日奈の耳から腕ごとそのまま彼女の胸元に、すりっ、と落とし、同時に後ろから軽く体重をかけると、見上げていた明日奈の視線が前を向く。その小さな頭を自分の胸の内にしまい込んで食むように耳たぶへ唇を寄せ、一気に温度の上がった息が「アスナ」という囁き声と共に耳から中に注ぎ込まれた。

普段の、少なくとも日中の校内では聞くはずのない熱の籠もった声に明日奈の肌が粟立つが、それよりも気になる和人の表情は押し当てられた唇のせいで確かめられない。

多分、顔を見られたくないのだろう、と思い当たれば逆にどういう心情なのかは想像できて、明日奈は口元を緩めた。

和人にしてみれば予想外の不意打ちである。

それこそ日中の校内のカフェテリアでなんて事を告げてくるんだ、この恋人は……と耳だけで収まりきらない赤を持てあまし、その熱で溶けた声を今度は言葉にして彼女の耳へと忍び込ませる。

 

「初めて知った…………ラッキーだな、ってオレは思うよ」




お読みいただき、有り難うございました。
「恋」や「愛」についての定義は色々ありますので、今回の解釈はそのほんの
一例です……正しいかどうかも自信ないですし(苦笑)
ただし「人」という字が付くだけで「恋人」と「愛人」はかなり意味合いが
変わると思いますっ(日本語の不思議……)


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おばけの屋敷

高校生のキリト達が遊園地を訪れるお話です。


「随分……ガラガラね……」

 

ぽそり、と呟いたリズの声をしっかりと耳に入れたクラインはジトッ、と粘着質な視線を投げつつ「無料(タダ)で来てんだ、そういう感想は思っても口にするなよなぁ」と若干惨めったらしい訴えを心の中であげていた。

そもそもクラインはこんな事態になるなど夢にも思っていなかったのだから……。

 

 

 

 

 

『いや、俺はいいって。このチケットは四枚ともやるから、お前らで行ってこいよ』

 

それはいつものように、と言うほど頻繁ではないにしろ、月に一、二回は御徒町の「ダイシーカフェ」で顔を合わせている現役高校生達に放った言葉だった。店のマスターを含め、その場にいる人間達とは《仮想世界》で過ごしている時間の方がはるかに長い。それでもこうやって時折、リアルでも会いたいと思ってしまうのは「風林火山」のギルメンでなくとも確かな繋がりを感じているからだろう。

そして会社の同僚から貰ったレジャー施設の招待券をヒラヒラと高校生達の目の前でたなびかせたクラインは十数日後、なぜかキリト、アスナ、リズベットの三人と一緒に自分の地元で愛され続けて半世紀近くは経っているこぢんまりとした遊園地にやって来ていた。

もともと《仮想世界》で付き合いのある年下連中に渡すつもりで手に入れたチケットだ、キリトに預ければ当然アスナを誘うだろうし、あとは都合の付くメンツで行くだろう、と予想した通り、丁度その場にいたリズベットとシリカが名乗りを上げ、スムーズにチケット枚数分の人数が決まったと安心していたのに、直前になってシリカに急用が入ったのだとリズが連絡をよこしたのが事の始まりである。

「なら三人で行きゃあいいじゃねーか」と言ってはみたが携帯端末の向こうにいるリズは頑として譲らなかった。

 

『どうせその日は仕事も休みでダラダラしてるんでしょ、元々はアンタが持って来たチケットなんだし出てきなさいよっ』

 

俺はいざって時の補充要員かっ、と出かかった言葉は一段低くなったリズの声に押し戻される。

 

『いかにも、なデートスポットで、私ひとり、あの二人の後ろを付いてけってゆーの……』

 

あー……なるほど、よく考えたらシリカが抜けた三人だと……まぁ、キリトやアスナに限ってリズを蔑ろにするとは思わないが、多少居心地が悪くはなるかもなぁ、と納得し、更にここで固辞し続けたら確実に《向こうの世界》で武器メンテに支障が出ると気付いたクラインは「わかった、何時にドコ集合だ?」と休日返上を決意した。

その返事を聞いて途端に機嫌が良くなり『助かったわ、シノンもリーファも予定入っちゃってたし。他に暇そうな人いなくてっ』と随分失礼な発言をかましたリズだったが、その彼女が園内に足を踏み入れた第一声が……

 

「随分……ガラガラね……」

 

だったのである。

入場ゲートをくぐれば真っ直ぐメインストリートが伸びているのだが、その視界を遮るはずの来場者がまばらなせいで園内の半分は見渡せてしまう敷地面積が恨めしい。リズの歯に衣着せぬ物言いにクラインも改めて園内を見回し、うっ、と言葉を詰まらせた。

小学生の遠足で来た時はもう少し広かった気もするが、その分、自分がでっかくなったんだよなぁ、と妙な感慨に耽けてリズの感想を頭から追い出す。

けれどしらけた顔つきのリズとは反対にアスナは目を細めて嘘偽りのない笑みを浮かべていた。

 

「私はみんなと来られただけで嬉しいよ。それに空いてるなら待たずに色々乗れるでしょ?」

 

ほんっと、いい娘(こ)だよなぁ、キリの字にはもったいないぜ、と思っていたのがバレたのか、にやけていたクラインの顔へと針を刺す……いや、釘を打ちつける力強さで隣にいたキリトがギッ、と睨んでくる。

遊園地の入り口で多種多様な表情を浮かばせていた四人だったが、まずは、と各自分担で持ち寄った昼食をロッカーに預けてからクラインは三人に向かって「さっ、お前らまずは何に乗りたいんだ?」と兄貴風を吹かせた。

 

 

 

 

 

豪華な手作り弁当を堪能する時間を挟んだ午前と午後で園内を楽しんだ四人は、唯一足を踏み入れていないラスボスの部屋とも言いたげなおどろおどろしい趣の館の扉を前にこれを制覇すれば全アトラクションをコンプリートという状況で興奮を隠せずにいた。

付け加えて言うならば看板でだけでなく建物自体もかなりの年季を思わせる老朽感が満載だが、これについては経年劣化の恩恵なのか、はたまたダメージ加工の妙技なのか定かではない。

そして、約一名、興奮……と言うよりは緊張と言った方が正確な者もいたのだが、とにかくクライン的には昼食時にアスナが持参した弁当の蓋を開けた瞬間と同じくらいワクワクしている。

しかし昼食の場での燃え上がった歓喜は横にいたリズの一言でバケツの水をぶっかけられたように鎮火した。

 

『キリトは学校で週に三日はそんな感じのお弁当を食べてるのよ』

 

おいおい、マジかよ…………半年ほど前に結婚した職場の先輩だって未だ新婚オーラを撒き散らしてっけど、ここまで手の込んだ愛妻弁当は持ってきてねーぞ……とクラインは毎日昼休みに嬉しそうに弁当箱を取り出している先輩の顔を思い出し、それに比べてアスナから取り皿と割り箸を受け取っているキリトはいかにも当然と言った面持ちに理不尽さを覚えて今度は朝のお返しに自分から睨み付けてみるが、キリトの方は全く気付いていなかった。

いや、気付きながらも無視した可能性の方が高そうだ。

だいたいこんな昼飯、高校生が作るレベルじゃねーし、高校生が食っていいレベルでもねぇだろ……こいつら《現実世界》でもハイレベルだなぁ、と感心を通り越して半ば呆れたクラインだったが、自分の口に入るならこれ程有り難い事はないわけで、普段の独身一人暮らしの食生活から次元を越えた料理の数々に大いに舌鼓を打ったわけだ。

ちなみに当初はアスナがおかず担当で、リズは主食のおにぎり、キリトが飲み物でシリカが菓子やデザートの類いだったらしいが、代役のクラインが甘味を用意するのはハードルが高いという事でキリトへ交代申請をしたのだ。飲み物だったら現地の自販機で買えばいいのだし、逆にキリトがやけにすんなりとデザート担当を交代してくれたなぁ、と不思議に思っていると、なぜかデザートのカットフルーツやバナナマドレーヌまでアスナの弁当の包みから出てきた。

コイツ……急遽デザートを用意する役になったのを口実にアスナに相談しやがったな、と朝から睨み付けるのは二度目になるが、今度は無視もされず肩をすくめて飄々とした顔を返される。

 

『ちゃんとオレもバナナ潰したり、粉をふるったりしたさ』

 

それってマドレーヌをアスナと一緒に作ったって話だよなぁ……どうりで二つ返事、とまではいかないにしても割とすんなり了承したと思ったら……あの渋々、と言った表情は演技だったわけだ、と事の真相に辿り着き、苛立ち紛れにマドレーヌ一個を掴んで口に放り込んだのだが、悲しいかな何の罪もないバナナマドレーヌは超が付くほど美味かった。

そうやって腹も満たされた所で午後もレベリング……ではなく、未踏破のアトラクションを端から制覇していって最後に到達したのが「お化け屋敷」だったのである。

最近はホラーイベントだの恐怖体験だのといった、ひたすらに参加者を戦慄させる事に重きを置く仕様もあるようだが、ここは昔からの風情残るファミリー層も安心して楽しめるのが持ち味の遊園地だ、なぜそこまでカチコチに表情と身体を強張らせているのかが理解出来ないクラインは、怪訝な顔でアスナを見たが、当のアスナのはしばみ色の瞳はおどろおどろしい看板画に釘付けになっている。

ここはひとつ年長者の役目として、と思い、「どうかしたのか?」と気遣いを見せようとした寸前、彼女の隣にいたキリトが「アスナ」と呼びかけた。何かの判断を促すように「ん?」と顔を近づけると、すぐさま看板から視線を移動させたアスナが真剣な目でキリトを見つめ返し、意を決した表情で重く、深く、頷く。

しかしそれを受けたキリトは、ふっ、と軽く笑うと「じゃ、入るか」と言って入り口へと歩き出した。

 

 

 

 

午前中から制覇してきた乗り物系では四人乗り、というのが回転型アトラクションのコーヒーカップしかなく、その他は自然と二人ずつに別れて、アスナとリズ、キリトとクラインのペアで楽しんできたのだが、最後のお化け屋敷に足を踏み入れる段階になってクラインは首を捻った。

自分の前にはお化け達の挑戦を真っ向から受けて立つ気満々のリズベットが元気良く「どっからでもかかってきなさいっ」と実に物騒な台詞を吐いている。

クラインもほんの少し前までは同様のテンションだったのだが、今は後ろの二人が気になって仕方がない。

一番手でリズが「入口」を通り、一気に周囲が暗闇となった空間を意気揚々と歩いて行く後ろ姿を見送ってから、クラインはその手前でちらり、と背後を振り返った。

さっきのキリトの「じゃ、入るか」の合図で全員が足を動かしたはずなのに、前にいたはずのキリトとアスナが自分の後ろでもぞもぞしているからだ。まるでボス部屋へ侵入するかのように慎重に歩を進めているアスナは全身に力が入りすぎているのが傍目にも分かって、それを間近で感じ取っているだろうキリトもまた急かすわけでもなく、茶化すわけでもなくアスナの速度に付き合っているから、ついクラインが二人を追い越してしまったのだが、「お前ら、早く来いよ」と口を開きかけた途端、まるで野良猫でも追い払うようにキリトが無言で、先に行けと片手を動かす。

最後のアトラクションなんだから四人で一緒に行ったっていいじゃねぇか、だいたいなんでアスナもリズじゃなくてキリの字にひっついてんだ?、と思案に暮れながら「入口」をくぐったクラインは、いきなり「どわぅっ」という低い呻き声が前方から飛んで来てそちらに意識が引っ張られる。

「入口」から漏れている光を頼りに目を凝らせば、先に入ったリズがこの僅かな時間でどうやって手に入れたのか、程よい長さの棒きれを握ってボロ着を纏ったお化けの鳩尾にその先端をお見舞いしていた。

 

「おいッ、リズっ、ノックダウンゲームじゃねーってのにっ」

 

慌てて凶器の回収に走ったクラインの後ろでは慎重な足取りでようやくゲートを通過したアスナが警戒の色で周囲を索敵している。

 

「キ……キリトくん」

「なんだ?」

「なにか……見える?」

「なにか、って言われてもなぁ。そりゃあお化け屋敷なんだからソレっぽいモノは色々ぼんやり見えるけど……」

「そういうんじゃなくてっ……見えそうで見えなさそうな感じのものとか……」

「……この暗さだとほぼ全部そんなだぞ、アスナ」

 

ここが《仮想世界》ならば暗闇での視界補正も可能だろうが、《現実世界》では陽光降り注ぐ野外からいきなり薄暗い屋内に放り込まれた目は慣れるまでに時間がかかる。

視界の悪さも手伝ってまるで断崖絶壁を歩いているように、そろりそろり、と足を少しずつ前へ押し出していたアスナの横から突然、シューッ、と白い煙が噴き出してきた。驚いたアスナが「にえっ!」と叫ぶとすかさずキリトが「懐かしいなぁ」と気の抜けた声を発する。

煙をスクリーンにして幽霊の画像が朧気に投影されると「ひぅっ」と息を飲み込んだアスナががっちりとキリトの腕をホールドして肩口に額を押し付けた。

 

「やだやだやだやだっ」

「……だから外で待っててもよかったのに」

「それもイヤなんだもんっ」

 

今日は四人でずっと一緒にアトラクションを楽しんできたのだ、最後の最後になって自分だけ不参加とは言いたくなかったアスナだったが、実態の薄い存在を苦手としているのは克服できていないので及び腰になるのも無理はない。だからその苦手意識を知っているキリトと一緒にいたのだが、既に入って数メートルの地点で頼りにしているその腕にしがみついて一歩も動けない状況に陥っている。

一方、キリトは顔も上げられず小刻みに震えているアスナの姿を見て、予想通りと薄闇の中で一人口角をあげた。

一応、確認はしたのだ、表の看板を見上げている顔ですら既に緊迫感が漂っていたから、どうする?、と目で問いかけた。それに対してこれも予想通りと言うか、気丈にも攻略の意を示したのはアスナなわけで、ならば恋人として恐怖に怯える彼女をリードするのは自分しかいない。そう、この役目は彼女にとっての親友であるリズでもなければ、間違ってもクラインではないのだ。

 

「ほら、アスナ。オレの腕、掴んでていいから進むぞ」

「……うん」

 

ちょっとだけ顔を上げたところを見ると、煙が噴出していた場所は見ないように横目で進行方向を確認したのだろう、けれど更に奥へと進むのには多少の勇気が必要なのか、抱え込まれている腕への圧がきゅっ、と高まる。当然キリトにとっては痛みや不快を生むものではないし、むしろ押し付けられている弾力のある膨らみに心地よさすら感じ取っていた。

前方では先行しているクラインが立ち止まって不可解そうに振り返り、こちらに合流しようと引き返す素振りを見せたので慌ててジェスチャーで押しとどめる。いくらクラインとは言えこんな状態のアスナを自分以外の男の目に晒す気はない。

そっちはそっちでしっかりリズを見張っててくれないと……と思っている間にもクラインの更に先にいるのだろう、周囲が暗いのと距離があるせいで姿の見えないリズの「とりゃーっ」という雄叫びだけがキリトとアスナの元まで響いてくる。

過敏になっているアスナはそれが親友の声とは気付かず、折角踏み出した足を凍らせて「ぴゃぁっ」と再び勢いよくキリトに顔を密着させた。

その華奢な全身を「おっと」と受け止めたキリトはこちらを心配していたクラインがすぐに頭を掻きながら前方へかけ出していく姿を確認してから、空いている方の手で何度触れても飽きない栗色の髪を撫でる。アスナは声さえも震わせてキリトの胸元に混乱を吐露した。

 

「な、なに?……いまの……声?……」

「うーん、そりゃあここはお化け屋敷デスから……」

 

その後に続くはずの言葉、「お化けに挑もうってヤツの気合いの声だって聞こえてくるよなぁ」はあえて省略する。

 

「とにかくアスナ、ゆっくりでいいから進もう。後ろがつかえると困るだろ」

 

そう告げられれば生真面目なアスナのことだ、他人に迷惑をかけまいとするのがわかっていて口にしたキリトだったが、言った本人はそれほど後ろからの新たな入場者を気にしてはいない。今日一日この遊園地で過ごしてみて最初に放ったリズの言葉通り、良くも悪くも入園者はまばらだったから、そうそうすぐに後続者から追い立てられる事はないだろう。けれどこうでも言わないと立ち止まったままの自分達をまたクラインが探しに来ないとも限らないし、入場者が少ないだけにお化け達が挑戦的なリズを避けて驚かし甲斐のあるアスナをターゲットとしてロックオンしても面白くない。

まばらな入園者数に比例するようにこの遊園地の従業員も必要最低限の人数雇用に留めているようで、お化け屋敷の内部はホンモノの人間のお化けとコンピュータ制御の映像を駆使したニセモノの怪奇現象が融合した形で成り立っていた。

アスナの負担にならない速度で足を動かし一緒に前進を始めたキリトは既に暗闇の視界にも慣れた様子でイベント発生のキーアイテムを見つけるかのごとくお化け屋敷の仕掛けが発動するポイントをチェックしていく。

生身のお化け達からの攻撃は自らが対処し3D、4Dが入り交じるARワールドじみた精巧且つ絶妙なタイミングで現れる幽霊世界にはしっかりとアスナの五感で受け取ってもらい、その度にあがる悲鳴と彼女の感触を味わっていた。

そして、その悲鳴は少し先でリズの行動を監視しながらお化け達に「すまねぇな」と詫びを入れているクラインの耳にも届いていた。クラインとて相手がNPCならばここまで恐縮した気持ちにはならなかっただろう。けれど目の前のリズは「入口」から今まで、意気揚々と歩を進め、唸り声を上げて襲いかかってくるお化け達に怯えるどころか、どこぞの黒の剣士のように、ニヤリ、と不敵に微笑んで撃退を試みるのである。

当然、向こうは驚かす事が役目であるスタッフだから対抗してくる客に応戦する事はできない、いわば無抵抗状態だ。

クラインが止めなければお化け達がやられる、確実に。

なんで俺がこんな役回りに……、いい加減トホホ気分に項垂れそうになったクラインの背後から「ふゃぁーっ」といかにも庇護欲を刺激される悲鳴が飛んでくる。

そうそう、俺が聞きたいのはそういう悲鳴なんだよなぁ、と振り返れば数メートルほど離れた後方に二人分の影が見えた。

暗がりで鮮明には見えないが、どうやらキリトの腕に、ひしっ、とアスナがしがみついているらしく、それでも二人揃ってゆるゆるとこちらに向かって歩いている。

少しずつ近づいてくる二人の様子をジッと観察していると、飛び出してくる実態アリのお化けにはキリトがアスナを庇うようにして立ち回り、ホログラムなどが映し出されるとそれが見えるようさりげなくアスナに顔を向けさせ、怯えと狼狽の声に加え自分への接触に誘導しているようだ。

キリトのやつ……あれ、完全にわざとじゃねーか……と思ってはみたものの、アスナがあそこまで気を許せるのもキリトしかいないわけで、ある意味、正しい恋人同士のお化け屋敷の歩き方とも言えるか……と今見た二人の姿は忘れる事にして自分はリズのお守りをする為に果敢にも飛び出そうとしているお化けに向け「ちょっと待ったー」と声を張り上げた。

そんなクラインの姿を視界の端で捉えていたキリトは、こちらの願いが通じたかのように立ち止まったままこちらを見ていたいた体勢が、くるり、と方向を変えてくれて、ホッ、と息を吐く。そろそろ出口が近そうだな、と思ってはいるが既に足に力が入らなくなっているアスナはキリトに支えられてどうにか歩いている状態で、こんなフラフラな姿と、すっかり気弱になって涙ぐんでいる顔のまま外に出すわけにもいかないだろう、と思案に沈んだ。

このお化け屋敷は園内でも一番退場ゲートに近い位置にあるから最悪アスナだけをタクシーに押し込めて家に帰すという手もある。荷物はリズにでも預ければいいだろう。そんな事を考えていたキリトの胸元で「きゃんっ」と仔犬のようなアスナの悲鳴が小さくあがった。

特にここにはなんの仕掛けもないはずだけど……と周囲を確認する間もなく、アスナが怯えとは違う表情で「キリトくんっ」とこちらを睨んでいる。

 

「なんだ?」

「なんだ、じゃなくてっ。こんな所で妙なイタズラは禁止っ」

「イタズラ?」

「耳を触ったでしょっ」

「触ってないって」

「うそっ、私が、耳、弱いの、知ってるの……キリトくんだけ……だし……」

 

言いながら徐々に頬が紅潮していく様はお化け屋敷の暗がりの通路でもはっきりとわかって、既に潤みきっているはしばみ色が上目遣いでこちらをジッと見つめてくるのは何の忍耐試験なんだ?、とキリトは唾をゴクリ、と飲み込んでから無実を証明する為に「ほら」と手にしている二人分のお札をヒラリと見せた。

このお化け屋敷は神社を模した場所の裏手にある祠まで行って、そこにあるお札を持ち帰るというクエスト付きなのだ。キリトはアスナの分と合わせて二枚のお札を持っている為、手が塞がっているのだから、という意を示したところで、アスナが「そっちじゃなくてっ」と眉間の皺を深くする。

 

「私の耳に触れたのは反対側の……」

「……って、そっちの手はずっとアスナさんに拘束されてますけど?」

 

「入口」からずっと掴んでいたせいで感覚が麻痺していたのだろうか、お札を持っている方の手よりももっと自らの意思では動かせないキリトの手の存在をアスナも認知して、サーッ、と血の気が引く。

一気に全ての動きを止め、表情をなくしたアスナが一瞬の後「いやああーっ」と絶叫した。

今まで両腕で抱えていたキリトの腕を離し、今度はその身体にむぎゅーっ、としがみつく。

突然、抱きつかれたキリトはその勢いに「うわっ」と思わずお札を手放し、半歩下がってアスナを受け止めた後、空いた両手でしっかりと彼女の背中と頭を支え、包み込んだ。

 

「ふぅぅぇぇっっ」

 

涙腺は決壊し半泣き状態でパニックを起こしているらしい。

キリトは改めて周囲を警戒し生身のお化けがいないことを確認してから、むむっ、と口をへの字に曲げる。アスナの耳に触れるほど一般のお化けの接近を許した覚えはないし、生体反応を感知して起動する気体、液体、固体の類いだとしても密着していた自分の腕に違和感がないのはおかしい。だいたいアスナの耳というピンポイントに接触する高性能な仕掛けはこのお化け屋敷、いやこの遊園地のまったりとした雰囲気からして余りにも不自然だ。

そう、小規模ながら数十年間も同じ土地で長く親しまれている遊園地、そしてこの「お化け屋敷」が遊園地創設当初から続いていることもパンフレットに記載されていた。それだけの長い年月を経ている「お化け屋敷」ならば…………結局のところこの不可解な出来事を解明しようとすれば合理性を導き出す為に極めて不合理な答えに辿り着くのだが……。

 

「へぇ、じゃ、どこの誰ともわからない『おばけ』がアスナの耳に触れたって事だよな……」

 

低く、小さく呟いたキリトの不機嫌な声は精神的に目も耳も塞いでしまっているアスナに届くことはなく、ただキリトの腕の中でぷるぷると震え続けるだけだ。もうこれ以上一歩だって歩ける気がしないアスナはキリトの胸元に顔をこすりつけ、しゃくり上げながら弱々しい声を零した。

 

「ひぅっ……もぅっ……無理ぃ……ぅっく……」

「そうだな、オレも限界かも……」

 

同じくキリトが弱音とも取れる言葉を細く吐いたかと思えば身体を屈め、かぷり、とアスナが触られたと言った耳にかぶりつく。

 

「ひゃっ」

 

目と耳からの刺激は受け付けなくとも直接的な接触は……しかもそれが「弱い」と自覚のある部分になら届いたようで、アスナの両肩がピクリと跳ねた。

 

「アスナの弱い所に触れていいのはオレだけだろ……」

 

そう言ってアスナを腕の中に閉じ込めたまま『おばけ』に勝手に触れられた耳がその感触を忘れるまで攻め立てた後、半ば抱き上げるようにして出口まで脇目も振らず通り抜けたキリトはそのまま遊園地のゲートを出たのだった。

そうとは知らないクラインとリズはお化け屋敷の出口からさほど遠くない場所にある自販機の前で喉を潤していた。キリトとアスナがお化け屋敷から出てきた時、周囲を見回せば容易に気付く位置だったから特に出口は気にしておらず、リズに至っては「いい運動になったわぁ」と爽やかに汗まで拭っている始末だ。

 

「俺は恥ずかしさと申し訳なさで妙な汗が全身から噴き出しっぱなしだったぜ、だいたいなぁ……」

 

とリズに説教を始めようとすれば、ジーパンのバックポケット内にある携帯端末からメールの着信音が聞こえて、言葉を途切らせたクラインは画面を見つめてから「んだとぉー!?」と最大音量で叫び声を上げる。端末画面に映し出されているのはキリトからの簡素な文章だった。

 

『悪い、アスナと先に出る』




お読みいただき、有り難うございました。
「お化け屋敷」のスタッフの皆さん、色々と辛い思いをされた
ことと思います(苦笑)
身体的に痛いのと、精神的に吐きそうなのと……、仲間(お化け)達の苦痛の
呻き声と同時に彼氏にしがみつく美少女の悲鳴が混じり合う「お化け屋敷」内。
その合間に飛ぶクラインの必死な謝罪と牽制の声……。
まさにカオス(笑)


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存在位置

和人(キリト)と明日奈(アスナ)の結婚後、一人息子の和真が
小学校に上がったばかりの頃のお話です。


桐ヶ谷和人の職場である研究所での一日の行動はほぼパターン化されている。

同じ所員達の中には時間にルーズな者も少数派ではあるが存在していて、一見、その手のタイプに見える和人でも、意外に出勤時間にそれほど幅はない。

一度、後輩所員が「ちょっと意外ですよね」と失礼な口をきいた事があったが、その感想に対し和人は機嫌を損ねた様子もなく「家に誰も居ないのに、オレひとり居ても仕方ないだろ」としごく当たり前のような、それでも和人が言うとそんな凡人じみた答えも予想外で「なるほど」と妙に深めな納得の声が後輩の口から転がり落ちた。すると隣にいた和人と同期の松浦がすかさず足りない言葉を付け加える。

 

「要するにですね、最愛の奥様と息子さんが通勤、通学の為に家を出る時間が一緒なので、家に一人取り残されるのが嫌で桐ヶ谷もこの研究所にやって来る、というわけです」

「……それ聞くと、もし奥さんがずっと家に居たら、桐ヶ谷さん、在宅で仕事しそうなんですけど……」

 

ICT(情報通信技術)が発達している今の時代ならばそういったリモートワークタイプも珍しくない。現にこの研究所でもある程度仕事内容は限定されてしまうが地方や海外にいながらネットを通じて働いている者も存在している。

 

「そうしたい気持ちもゼロではないでしょうが、まぁ大丈夫ですよ。桐ヶ谷もこの研究所でやりたい事があるようですし、何より奥様がそれを望んでいますから」

「んーで、昼飯は毎日栄養満点、彩り満載、でもって想像ですけど味付けプロ並みな、その奥さんの手作り弁当を食べてる、と」

「そうです。だから桐ヶ谷は泊まりがけの仕事や出張の時、機嫌が悪いでしょう?」

「いや、機嫌が悪いなんてレベルじゃないですって、松浦さん。はっきり言って殺気だってますよっ」

「そうですか?、僕は桐ヶ谷の集中力も上がるし、周りのスタッフもつられてポテンシャルが上がるから、いいと思ってますけど」

「マジで言ってます?、あれ、つられてるんじゃないですからっ。自分の凡ミスで桐ヶ谷さんの足引っ張ったら殺さ(やら)れる、って全員ビビリまくって神経研ぎ澄ませちゃってるだけですからっ」

「そうだったんですか……でも結果的に桐ヶ谷がチームリーダーのプロジェクトって効率高いですしね」

 

終わりよければすべてよし、みたいな感じで締めくくられて後輩所員はガクリ、と肩を落とした。

 

「だから結果論ですよ、それ」

「まあ、うちの所員でも桐ヶ谷の仕事ぶりを見て自信を喪失する者と憧憬を抱く者とで極端に別れますが、毎回桐ヶ谷がメインのチーム編成で筆頭に名前が上がる君は色々な意味で有能な証拠ですよ、麻倉クン」

「オレ絶対、緩衝材役ですよねっ。なんか下僕体質の誤解を受けてるんであんま嬉しくないです。それにオレが桐ヶ谷さんに抱く感情はどっちかって言うと畏怖なんで。でも仕事を終えて家路に就く桐ヶ谷さんはもう普通の人に戻ってるから不思議ですよねぇ」

「そりゃあ家では奥様が待っていますからね」

 

穏やかな笑顔で言いきる松浦に麻倉が安心と呆れと尊敬する先輩の奥様への感謝の念を抱きつつ「……オレも結婚、したいですよぉ」と悲願を呟いた日から約半年後、和人は自らそのパターンを破る決意をすることになる。

 

 

 

 

 

昼食時、いつものように研究ブースからスタッフルームに戻って来た和人は自分のデスクに腰掛けるとルーティンとなっている携帯端末の画面チェックをする。

その隣では朝からデスクワークでずっとスタッフルームにいた松浦が特に顔も向けず飲みかけのコーヒーが入っているカップに手を伸ばしながら「お疲れさま、桐ヶ谷」と声をかけた。この研究所に就職し、研修期間に使用していたマンションの部屋割りでも「おとなりさん」だった二人はそれ以来ずっと職場で「おとなりさん」関係を続けている。

と言っても、常にべったり、というわけではない。互いに所内でも優秀な人材であるが故に同じプロジェクトに配された事はないし、第一、和人は就職してすぐに妻帯者となったのに対し、松浦は未だ独身貴族を望んで貫いているから生活スタイルもかなり違う。それでも新婚の熱が冷めれば仕事仲間との退勤後の時間の共有も多くなるかと思われたが、和人に至っては未だ熱が冷める気配すらないし、松浦は松浦で「来る者拒まず、去る者追わず」の女性関係のせいで、これまた退勤後は色々と予定のある日が多いのだ。

だから「仲が良い」二人、という言葉もしっくりこない。互いの本質を理解しているが、けれど必要以上に踏み込んではいかない距離感がなぜか出会った当初から自然とわかったのだから、どちらかと言えば「波長の合う」二人なのだろう。

現にPC画面を横目に見つつコーヒーカップを口元に運びながら自分の発した労いの言葉に何の返答がなくても松浦は気分を害したりしない。昼休憩で自分のデスクに戻ってきた和人はまず端末画面に映し出されているフリップの位置をチェックして、それから持参した弁当を大事に取り出し、蓋を開けて「いただきます」と言ってから、周囲に気を配るからだ。

しかしこの日の和人は違っていた。

端末を見つめ、画面上の地図倍率を操作し、広域へ、広域へ、広域へと表示範囲を広げ日本全土をチェックしてから画面を凝視したまま「ま……つうら」と頼りない声で「おとなりさん」の呼ぶ。そこでようやく異変に気付いた松浦は和人へと顔を向けた。

 

「どうしたんです?」

 

この数秒で一気に血の気の失せた和人の顔がゆっくりと動いて松浦と視線を合わせる……かに見えたが、その焦点は実はどこにも合っていない。

 

「明日奈が……」

「明日奈さんが?」

「……明日奈がどこに居るのかわからないっ」

 

ガバッ、と身を乗り出して愛する妻の名を口にしたら内側で真っ白になっていた思考がようやく意識や感情と直結したのか、和人の焦りと悲壮感をごちゃ混ぜにした顔が迫ってくるのを「う゛っ」と身体を仰け反らせる事でなんとか距離を確保した松浦が無言で瞬きを数回繰り返した後、静かに「桐ヶ谷」と口を開いた。

 

「落ち着いて下さい。いちを言っておきますが、勤務先にいる夫が妻の居場所を把握できないなんて世間一般では当たり前の事です。それをいくら十代の頃からのお付き合いだからと言って桐ヶ谷の端末への表示を今も許している明日奈さんが寛容すぎるんですよ。明日奈さんだって不可視にしたい時くらい……」

「今まで一度もなかった」

「そ、そうですか……でも、通信状況が悪い場所にいる可能性だって……」

「地下シェルターや海底トンネルはもちろん、上空は通常の旅客機が飛ぶ高度までなら受信できるよう設定してある」

「……桐ヶ谷」

「それに今の明日奈なら飛行機には乗らないはずだし」

「どうして言い切れるんです?、急な仕事で、という可能性だってゼロではないでしょう?」

「仕事は……辞めたんだ」

「え?」

 

予想外の答えに松浦が言葉を詰まらせると、今はそんな話をしている場合じゃない、と苛ついたように片手で髪を掻きむしった和人が握りしめていた端末に「ユイっ」と呼びかける。いつもならすぐに「はい、パパ」と返ってくる愛らしい声はいつまで経って聞けず、代わりに一通のメール着信音が響いた。短い文章を一読した和人が、スッ、と表情を引き締める。

すぐそばの松浦はそれを見て僅かに口元を緩め「ああ、起動したな」と和人の頭脳がフル稼働を開始した事を悟った。

端末を片手で高速操作しながらザッ、と立ち上がると同時に白衣を脱ぎ、椅子の背に無造作にかけた和人はデスクの横から鞄を取り上げると用が済んだ携帯端末を突っ込み、すっかり帰り支度を整えてから松浦に振り返る。

 

「早退するから後は任せる」

「だと思いましたよ」

 

手に持っていたコーヒーカップを所定の位置に戻した松浦の表情は和人がスタッフルームに戻って来た時同様、通常モードに戻っていて、唯一の違いは「早くお行きなさい」と視線も寄越さずにたなびかせている手だけだ。退勤時刻まで待てと言っても聞きはしないだろうし、強制しても今の精神状態では使い物にならないのが確実だから、それなら問題を長引かせず早期解決の道を選ぶのは当然だろう、と松浦は後を任された責任を果たすべくさも当たり前のようにチームリーダー不在の穴を埋める為、和人の下僕的後輩の呼び出しをかけたのである。

 

 

 

 

 

『ちゃんとママを迎えに来てくださいね、パパ』

 

和人が職場でユイを呼び出そうとして応答の代わりに届いたメールの文章は間違いなくその愛娘からのもので、「迎えに行って」ではなく「迎えに来て」という表現からちゃんとユイが明日奈と一緒にいるのだと読み取った和人はひとまず安心して、すぐに妻の現在地特定に思考を切り替えた。緊迫感のない文体は危機的状況に陥っているのではないと判断できるし、何より寄越したメールの発信元が明日奈の携帯からなのだ、その場所を辿るなど和人にとっては朝飯前の作業である。

きっと居場所を明かしたくない明日奈の気持ちを尊重したユイが、それでも、と考えたのだろう。

 

「本当にユイはできた娘だよ」

 

機転の利く母親(明日奈)の影響に違いない、間違っても父親である自分にこんな気の利いた真似は出来ないしなぁ、と飛び乗ったタクシーの後部座席で僅かに苦笑した和人だったが目的地に近づくにつれ、不安がじわじわと心に広がり始めた。

松浦に明かした通り、明日奈が自分の携帯の位置を不可視にするなど今回が初めてなのだ。その位、今朝のやり取りにショックを受けていたという証で、けれどその件に関しては和人も引く気はない……引く気はないが、それでより明日奈にストレスを与えてしまうのも本意ではなかった。

 

「ちょうど相談できる相手がいるのも助かるな」

 

タクシーを降りた和人は明日奈の姿を早く確認したい気持ちと同時に、朝、逃げるように家を出てしまった後味の悪さを引きずりながら彼女が居ると思われる住居のインターフォンのボタンを押す。

インターフォンからの応答はなかったが、カメラ越しに和人の存在を確認したのか、それとも既にユイがここの住人に和人の来訪を予告していたのか、カチャリ、と細く玄関ドアが開きその隙間からまさにジトッとした湿っぽい半眼がこちらを睨み付けてきた。その物言いたげな鈍い眼光に片方の頬をヒクつかせた和人はそれでも気を取り直して無理矢理笑顔を作る。

 

「よ、よぅ、リズ、久しぶり…………あー、アスナ……来てる…よな?」

「来てるわよ、和真と一緒に」

「和真と?……あ、そっか、今日は土曜だから学校、休みか……」

「って言うか、和真とユイちゃんがアスナを連れてきたようなもんよ」

「はっ?、和真とユイが?」

 

明日奈の存在に安堵した瞳が一気に見開かれる。しかしその反応に玄関扉をバンッ、と勢いよく開け、噛みつきそうな剣幕で和人の目の前に顔を突き出したのは里香だった。

 

「そうよっ、アンタっ、なんでアスナにあんな事、言ったわけっ?」

「と、とりあえず、中に入れてもらってもいいか」

 

玄関先で相応しくない音量と声量に、はたっ、と里香も気付いたのだろう素早く隣近所の様子を見回してから、はぁっ、と大きく溜め息を吐いて気を落ち着かせ、今度は静かに「どうぞ」と言って身体を横にずらし自宅内へと招き入れたのである。

久々に訪れる里香の家だったが、それこそ今日が土曜日だと認識した和人はその静寂ぶりに疑問を抱く。

 

「リズだけなのか?」

「ええ、旦那と子供は今日明日と泊まり込みで『親子でワクワク!ドキドキ!サムライ体験ツアー!!』に参加してるわ」

「……相変わらずだな」

「そうね。ウチはね。問題はアンタんとこよ、キリト」

 

リビングに通された和人がまず目にしたのは、ソファの上で丸く横たわり、すーぴー、すーぴー、と無垢な寝息を立てて寝入っている小学生の息子の姿だった。

 

「和真……」

「ここまで明日奈を連れて来て疲れたんでしょ。ウチの子と違って繊細そうだものね、和真は。いちを事前にユイちゃんから連絡は貰ってたけど、玄関を開けた時のアスナと和真の状態、すごかったわよ」

「すごい、って?」

「もう、アスナは半泣き状態だし、そのアスナの腕を両手でしっかり支えながら一生懸命慰めてる和真だって泣き出したいのをギリギリで我慢してて……」

「っ……そうだっ、で、今っ、アスナは?!」

「奥の和室でちゃんと布団敷いて寝てるから大丈夫」

 

家人に断りもなく勝手に奥へと駆け出してしまいそうになる和人を里香が「こら、待て」と飼い主のごとき言い方で引き留める。

 

「とにかく説明しなさい」

 

親友の明日奈の事となればかつてSAO最強と謳われた黒の剣士を相手でも一歩も怯む気配のない里香に視線を合わせられず、和人は和室に一番近いソファを選んで腰を落とした。とりあえず話の出来る状態になった事で里香もやれやれと一仕事終えたように肩をほぐしてキッチンに向かう。

 

「お茶いれるわ、アスナみたいに上手じゃないけどね。あ、それとも何か軽く食べる?、この時間にウチまで来たって事は、お昼ご飯、食べてないんでしょ?」

「お茶だけでいい。昼飯は……アスナが作ってくれたのがある」

「ああ、今回の原因ね」

 

すっかり客をもてなすモードに落ち着き、対面カウンターの向こうのキッチンでカチャカチャと音を立てている里香に和人は改めて「リズ」と話しかけた。

 

「和真のやつ、どうやってここまでアスナを連れて来たんだ?」

 

今までに何度か母親の明日奈に連れられて遊びに来ているのは知っているが、それでもバスや電車を何回か乗り継がなくてはたどり着けない場所だ、小学生になったばかりの和真が記憶していたとは考えにくいし、そもそも半泣き状態の明日奈を公の交通機関を使って移動させるなどユイが止めるだろう。和人の心配の内容に気付いた里香が二人分のお茶を用意して「タクシーに決まってるでしょ」とリビングにやって来る。

 

「ちゃんとユイちゃんが女性ドライバー指定でタクシー呼んで、ウチの住所も和真の携帯の通話口からユイちゃんが告げたそうよ。当然、ここまでの支払いは端末決済にしたそうだから」

 

うひひっ、とうねる里香の眉毛に反して、和人の眉は、げげっ、と中央に寄った。

和人と明日奈の家から里香の家まで、ドア・ツー・ドアなら結構な金額を支払う距離だ、加えて自分もさっき研究所からタクシーを飛ばしている。それに予定という名の確定事項だが、明日奈の目が覚めれば今度は親子三人で我が家に戻るのだ、和人としては一刻も早く明日奈を連れ帰りたいので移動手段はタクシー一択である。今日一日だけでかなりの交通費を費やすことになりそうだと脳内で計算していた和人だったが、それも今回はやむを得ないだろうと早々に加算を放棄する。明日奈が行方をくらました先が互いの実家である結城家や桐ヶ谷家だったら、これほどすんなりと敷居をまたがせて貰えないのは容易に想像がついた。怒って、拗ねて、泣いても結局は和人が探しに来やすい場所に逃げ込むのだから、意地を通そうとしていた和人も「仕方ないな」とタクシー料金と自分の気持ちの譲歩を受け入れる。

困った口ぶりのくせにその顔は嬉しそうに笑っていて、とりあえず和人の中で問題の決着が着いたのだと察した里香が「ホント、いい加減にしてよね」とわざとらしく両肩をすくめた。

 

「学校が休みだからって寝坊して起きてきた和真がリビングでハンカチ握りしめて鼻を啜ってるアスナを見てパニクったらしいわよ。理由聞いても首を横に振るばかりで、和真がユイちゃんに助けを求めた後は二人してアスナを慰めてたらしいんだけど、いきなりアスナが私ンとこに行くって言いだして。それからユイちゃんが『パパにメールでお知らせしておきましょう』って言った途端、アスナが自分の携帯をいじって位置情報のアプリを切ったらしいわ」

 

これがウチに来てから和真とユイちゃんから聞いた話ね、と一旦話を切った里香はずずっ、とお茶を啜った。

 

「ウチに到着したのは十一時頃だったかしら……玄関を開けて顔を合わせた瞬間、嗚咽混じりでウルウル状態のアスナの放った第一声が『キリトくんが私のお弁当、もういらないってぇー』よ。それ聞いて和真も泣き出すし。そん時、私がどれだけ大変だったかわかるっ?!」

「う゛っ……」

「一体どういう事なの?、アスナのお弁当の何が気に入らないのよ。アスナはアンタが飽きちゃったんだ、って言ってたけど」

「なわけないだろっ」

 

それだけは誓ってないっ、と和人は前のめりに身体を倒した。確かに十代の頃から明日奈の料理を堪能し続けているが、その腕は停滞することなく和人の好みの味付けという範囲内で常に進化し続けている。中でも体調に合わせ、季節に合わせ、細やかな気配りが凝縮されているおかずが詰まった弁当は仕事の上での和人の原動力と言っても過言ではなく、その存在にはバフ効果があるのでは?、と所内でまことしやかに噂されているほどだ。

けれど和人が説明をしようと口を開きかけた時、耳が微かな声を拾う。

 

「っアスナ」

 

素早くリビングの奥へと首を巡らせた和人は里香が制する間もなく立ち上がり、今度こそ和室へと続く障子を開け、むくり、と起き上がりかけている明日奈の元へ駆け寄った。寝起きで僅かにふらつく身体に腕を回し、未だ虚ろなはしばみ色の瞳を覗き込む。

 

「アスナ、気分は?、気持ち悪くないか?、吐き気は?、目眩や頭痛があれば病院へ行った方が……」

「……キ……リト……くん?」

 

寝起きと泣いたせいで目の腫れぼったさから霞む視界にぼんやりと黒髪が映り込む。その色の持ち主は頭で考えずとも一人しかいなくて、明日奈は至近距離にいる存在を見定めようと目を擦って、けれど意識がしっかりと覚醒する前に今朝の記憶がむくむくと蘇った。

 

「ううっ、キ、キリトくん、もう……もう、いらないって…………私……を、いらないって…………ふぅぇぇっっ」

「ちょっと待ったっ、アスナっっ。なんでオレがアスナをいらないって話になってるんだっ」

「いらないっ、て言ったもんっ」

「言った、『いらない』は言ったけど、それは弁当の話だろっ」

「やっぱり……もう、飽きちゃった?……飽きちゃったんだぁ……私…………を」

「飽きてないっ、飽きてないっ、飽きてないからっっ。アスナが作ってくれる弁当はもちろん、アスナに飽きるなんて一生ないっ」

 

あの鋼鉄の城に囚われていた時、アスナと二十二層の森の家で生活するようになってから三日目、キリトはしみじみ実感したのだ「『美人は三日で飽きる』なんて大ウソじゃないか」と。結局その言葉の「三日」は「三ヶ月」の間違いでもなかったし、「三年」の間違いでもなかった。きっと「三十年」の間違いでもないんだろう、と和人は思っている。

明日奈の口から涙と共にこぼれ落ちてくる言葉はことごとく「弁当」の文字が抜け落ちていて、和人がオロオロしながらも必死に「いらない、って言ったのは『アスナが作ってくれる弁当を』だからな」と言い聞かせている光景を見ていた里香は腕を組んで軽く障子に寄りかかったままひとつの推論に辿り着いた。

 

「ねえ、キリト。そこまでアスナが情緒不安定なのって……もしかして…………」

 

早くもぐすぐすと鼻をならし始めている明日奈の頭を抱え込み、その背中をゆるく撫でていた和人が顔を上げて少し言いづらそうに言葉を詰まらせる。

 

「あ、ああ……本当は来週末、アスナの口から伝えるつもりだったんだけど……」

 

和人が言った「来週末」というキーワードに思い当たる事と言えば、半年以上ぶりにほぼ全員の予定が合った御徒町のダイシーカフェでの集まりだろうと里香は黙って頷いた。

 

「七年前はオレしか参加できなかっただろ。だから今度は一緒に行けそうだって、アスナ、楽しみにしててさ。和真を身籠もってた時だと、もう今くらいの頃には入院してたからな。けど今回は体調もそれほど悪くならなくて、仕事も退職してるから家でゆっくりしてたんだけど……」

「だったら尚のことお弁当作るのに問題ないじゃない」

「それが、二、三日前あたりから気持ち悪そうにしてる回数が増えて……」

 

里香は自分にも覚えのある感覚に、ああ、と気の毒げに眉尻を下げ「だから作らなくていい、って言ったの?」と逆に問いかける。

 

「ああ。今朝だって起き抜けにトイレに行って……けど、そんな状態なのに弁当作るってきかないんだ」

 

責任感が強くて妙なところで意地っ張りな明日奈のことだ、仕事も辞めて家にいるのにお弁当作りすらしない自分は許せないのだろう。

 

「ヘンに無理して和真の時みたいに入院生活になるなら、オレが弁当を我慢すればいい話だし……」

「それ、ちゃんとアスナに伝えた?、キリト」

「朝は時間がなかったから、とりあえず『明日から弁当はいらない』って言ったら『作る』『いらない』の押し問答になって……」

「アンタね……今のアスナにそれだけで理解しろ、って、無理でしょ。それにね、アスナにとっても得意の『頑張る』を我慢しろ、って事なのよ」

「そうか……そうだよな」

 

いつだって他者の為に頑張る事を厭わないアスナの、その頑張りの恩恵を一番多く貰っているのはオレだったな、と自嘲気味に笑った和人は明日奈の背に触れていた手をそのまま反対側の肩まで伸ばし、ふわり、と抱きしめた後、髪に唇を押し付けて「ごめん、アスナ」と囁いた。

泣き濡れたままの顔がぎこちなく持ち上がる。

 

「和人くん……」

 

ようやく自分を包み込んでいる存在の正体をしっかりと認識した明日奈が、ぱちくり、と瞼を開閉させれば、すでに幾筋も頬に残っている跡の上を新しい涙が上滑りしていく。と、それが流れ落ちきる途中で和人の唇がそれを吸い上げた。

すぐに背後から懐かしい単語が低い声で飛んでくる。

 

「ちょっと、そこのバカップル。誰がウチの和室でイチャコラしていいって言ったのっ」

 

しかし、更に里香の背後から和真の「んーっ」とのびをする声が響いた。

 

「あ、悪い、リズ。和真の方、頼む」

「はぁぁっ?、ちょっとキリ……」

「う゛う゛う、リズちゃーん、どこぉー、お母さんはぁー?」

「あー、もうっ。はいはい、和真、起きたの?、なんか飲む?、アスナなら大丈夫だから、それとキリト、じゃないや、お父さん、来たわよ」

 

急ぎ足で遠ざかって行くリズの声に和真の声が混じる。

 

「リズちゃん、ほんと?、お父さん、お母さんと僕のお迎えに来てくれたの?、よかったぁ。ユイ姉が言ってたとおりになったねっ」

「そうね、和真のお父さんはアスナの事となると単純よね」

 

リビングから聞こえてくる容赦ない自分への批評に、ぬぬっ、と眉間に皺を寄せた和人だったが抱きしめていた明日奈の両手が、そうっと自分の背に回ってきた感触に、すぐに意識は腕の中の妻へと集中した。

 

「アスナ、気分は?」

「……今は大丈夫」

 

限定的な言い方だったが、いくら病気でないとは言え具合の悪そうにしている姿を見ているしかない身としては不調でないと聞くと幾分安堵で力が抜ける。

気の緩みが伝わったのか、今度は逆に明日奈が、キュッ、と和人を抱きしめ返してきた。

 

「あの……私も、ごめんね、和人くん。端末の位置、オフにしちゃって……」

「……アスナがどこにいても、ちゃんと迎えに行くけどな……」

「うん、ありがとう」

 

ここ数日、気分の悪さから目に見えて食欲が落ちてしまった明日奈をしっかりと支え、結うことなくシンプルにおろしたままの栗色の髪を、さらり、さらり、と撫で梳いていた和人は「アスナ」と呼びかけてから少し身体を離し、その頬に手を添えてしっかりと目を合わせる。

 

「弁当のことだけど……これからは出勤時間を少し遅くするから、途中まで一緒に行かないか?」

「どういう意味?」

「アスナが教えてくれた、ウチから駅に行く途中の住宅街にある一軒家のパン屋、あそこなら朝から開いてるからさ。そこで一緒に昼食用のパンを選んで、オレはそのまま駅に行く、アスナは家に戻る。…………アスナの弁当は嬉しいけど、朝起きてみて体調が悪い時だってあるだろ?。だったら今まで通りにこだわらず、今だから出来る事をしよう。もう一人家族が増えたら二人で散歩なんてなかなか出来なくなるだろうし……」

「うん…………そうだね。和人くんとお散歩、あの頃みたい」

「肩車はしないからな」

 

真面目ぶった口調に明日奈がクスクスと笑い声を上げた。すっかり涙の止まった瞳に明るさが戻っているのを見て、和人の目も和らぐ。

 

「それと、アスナの体調はもちろんだけど、気象設定も考慮するから」

「それって、暑くもなく寒くもなく?」

「ああ、陽射しも風も気持ちよくて……」

「お昼寝したくなっちゃうような?」

「そうそう」

「じゃあ、明日からはパン屋さんの前でお見送りね」

「帰りは一人にさせちゃうけど……」

「大丈夫だよ、ちゃんとユイちゃんが一緒だから」

「そうだな」

 

のんびり歩いても徒歩で十分足らずの場所にあるパン屋だ、それにアスナが家に辿り着くまでは自分も端末で彼女の位置をこまめに確認すればいいし、と和人は自分の提案を受け入れてもらった事に満足してから、あっ、とひとつの事実に気付く。

そうなると、いつも家を出る前にしていたアレが出来なくなるなぁ、と。アレはアスナの弁当と同じくらいその日の活力源なんだよなぁ、と。

さすがに朝の往来で人目もはばからず、は明日奈がさせてくれないだろうと和人の気分がほんの少し落ち込んだ時だ、「和人くん」と胸元で呼ばれて「ん?」と返そうとした和人の唇に柔らかな感触が押し当てられる。しっとりとしているが同時に瑞々しい弾力があり、触れているだけでは我慢が出来ず、吸い付きたい衝動に駆られる明日奈の唇もまた十代の頃から何度味わっても飽きることない触感のひとつだ。

ここはリズの家の一室だし、今、隣室にはそのリズがいる。息子の和真は今更自分達のこんな場面を見ても何とも思わないだろうが、何よりアスナの体調は万全とは言いがたいのだから、とすぐに離れていってしまった未練に悶えていると、明日奈もまた友人宅での自らの少し大胆な行動に頬を赤くしていた。

 

「今朝は『おはよう』のも、『いってらっしゃい』のも……出来なかったでしょ?」

 

いつもなら必ずどちらかのタイミングで一回は触れ合わせている行為だったが、今日の朝はそれどころではなかったのだ。今のが朝の分と言うなら今日は既に職場を退勤してきたのだから、と思わず片方の口角を上げた和人の耳に後方からリズと和真の会話が聞こえてくる。

 

「和真、お腹空いたでしょ?、ちょっと遅くなっちゃったけど、お昼ご飯、オムライスでいい?」

「オムライスっ、僕、大好きなんだー」

「よかった。じゃあキッチンでお手伝い、よろしくっ」

「うんっ」

 

更に自分達から遠のいていく二人の分の足音を確認しながら和人はニヤリと笑い、さっきの感触を追い求めた。

 

「オレ、もう、今日は『ただいま』なんだけど」

 

「えっ?」と出るはずだった明日奈の声が和人の中に吸い込まれる。改めてグッ、と腰を抱き寄せ自分と密着させて安定を図り、同じように頭部の前後も手の平と唇で挟んで固定すれば、起こしている上半身を完全に和人に委ねた状態の明日奈の感覚は否が応でも唇に集中した。

微量の吐息すら漏れ出る事を許さずに密着させて、少しでも彼女の柳眉が歪めばすぐにわかるよう細めた目で表情を観察する。しかし和人の憂慮は杞憂でしかなく、食む事で快感を引き出すと緩んだはしばみ色の瞳は徐々にふにゃふにゃに溶けていき、同様に気をよくした和人は慎重に隙間から内へゆっくりと侵入を果たした。

その間にもキッチンからリズと和真の声が和室まで流れてくる。

 

「昨日の夕食で多めに作っておいたチキンライスをケチャップ味にリメイクして、と。和真、冷蔵庫から卵だしてくれる?」

「はーい。いくつ使うの?」

「キリトはお弁当持ってるでしょ。アスナは……食べられるかしら?」

「リズちゃんっ、僕のお母さんね、オムライスを食べる時にナイフで真ん中を切ると中の半熟卵がとろんっ、て出てくるふんわり卵を焼くの上手なんだよ」

「う゛……あー、和真んちのオムライスってそっちのタイプなのね」

 

自慢げな眼差しに思わず和真からの視線を避けた里香へ期待のこもったとどめの一言が追いかけてきた。

 

「リズちゃんも上手?」

 

すぐに里香が和室に向けて叫ぶ。

 

「アスナーっ、起きられるー?、卵、焼いてーっっ」

 

未だ明日奈の唇を塞いでいる和人がこめかみをピクッ、と痙攣させた……炒飯でいいだろっ




お読みいただき、有り難うございました。
もうちょっとキスをしていたかったキリトです(苦笑)
和真は高校生の時は「リズさん」呼びでしたが、小学生の時はまだ
「リズちゃん」です(笑)
それにしても『親子でワクワク!ドキドキ!サムライ体験ツアー!!』
……楽しそうだな、おいっ。


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【「お気に入り」600件突破記念大大大大大大感謝編】Countdown・10min

「お気に入り」カウントのキリ番感謝投稿も、はや6回目でございますっ。
1番目のヒトから600番目のヒト、本当にどうも有り難うございます!
今回はいつもより短め軽めの内容となってしまいましたが、「粗品」気分で
受け取っていただけたら幸いです。
読んでいただくにあたり、一作目の「きみの笑顔が……」と
「その先の約束(みらい)」あたりを思い出していただけると、
わかりやすいかと……(苦笑)


『…………ブッ……エ……エマージェンシー、エマージェンシー……部、本部、応答願いっ…す』

 

少々感度の悪い雑音混じりの声だったが、それでも緊迫感は十分に伝わってきて、通信担当の女生徒は素早くマイクのスイッチをオンにした。

 

「こちら本部、どうぞ」

『こ、ちら正門前の……ブッ……一般来……者…………多数……ブッ…………既に……」

「もうっ、ある程度の電波障害は予想してたけどこれ程だなんてっ」

 

苛つきを隠しもせずに吐き出した彼女はそれから、スゥッと息を吸い込むとマイクに向け大音声をぶつけた。

 

「とにかく用件だけ叫んでっ」

 

一瞬の沈黙の後、正門を担当している男子生徒から悲鳴とも取れる声が届く。

 

『「姫」目当ての来校者、多数っ、至急対応せよ!』

 

「校内祭」当日、一般来校者用に設定されている正門の開門時刻まで残りあと十分だった。

 

 

 

 

 

和人や明日奈達が通っている、約二年間を《仮想世界》に囚われていた十代のプレイヤー達の為の通称、帰還者学校……今日はこの学校が『校内祭』と称して一般開放を行う日だ。

和人はクラスの催し物と所属している「ネットワーク研究会」の体験型展示の両方に関わっているが、準備段階ではどちらかと言えば「ネト研」に重きをおいて動いていた。クラスの方は研究会や同好会に属していない生徒が中心でしっかり回っていたし、逆に「ネト研」は今回の『校内祭』において一般客用のデジタルパンフの作成を依頼されていた為、やらなければないない事がてんこ盛りだったからだ。

一方、明日奈の方は半強制的に『校内祭』の実行委員のメンバーとなっていたから準備期間中は一時、和人との仲に亀裂が入りかけるほど多忙を極めていた。

しかしそれも昨日までの話…………既に元の鞘に収まった二人は『校内祭』当日、午前の空き時間を合わせて一緒に校内を回る約束をし、朝から各々の持ち場で準備に追われていたのだが、一般客が来場する時間になって予想外の事態が判明したのだ。

 

「うっわ、拡散スピードがパねーな」

 

実行委員会室にいたスタッフ全員がそれぞれ自分達の携帯端末を取り出して四角い画面を睨みつけている。しかし、その中で一人、今回の『校内祭』用に学校側から支給されたPCを操作している男子生徒が叩きまくっていたキーボードから、ふっ、と両手を離し、諦めたように痺れている十指ごとだらん、と腕を脇に垂らした。

 

「無理だ、このPCと俺の打ち込みじゃ話にならないっ」

「今から『ネト研』に頼んでも……そーだっ、ここにもいたっ」

「佐々っ、お前私物のラップトップ持ち込んでんだろ。この拡散止めろよっ」

「え?、なに、そのムチャぶり。この速度に対応できるヤツなんてカズくらいしかいないっしょ」

「カズって……ああ、桐ヶ谷か」

「今から捕まえて、事情を説明して、対応してもらって…………えぇっ、絶対間に合わない、だって開門まであと八分だよぉ」

 

佐々井を始めとする『校内祭』実行委員会の面々が次々に頭を抱える。

 

「だいたい何で今朝になって爆発的に増殖してるわけっ!?」

「あー、待て待て…、よっしゃーっ、拡散防壁の構築は無理だけど、原因を辿るのは出来たっ」

「えーっと、なになに?……『帰還者学校の開放日、あの「閃光サマ」がバニーガールで登場か!?』だって」

「なんだ、それ」

「どうしてバニーガールなんて単語が出てくんのよっ」

 

旧SAOでアイドル的存在だった「閃光サマ」ことアスナが《現実世界》でも遜色ない容姿を有している事実は入学式直後、瞬く間に生徒達の間に伝わり、そこから更に広範囲に渡って情報が伸びていったわけだが、隠し撮り等の画像に関してはいくらネット上にあげようとも閲覧不可になってしまうという不思議現象が起きていた。結局、数ヶ月経った今ではその現象に抗い、挑戦し続ける者もいなくなり、ようやく落ち着いた現況に安堵の息を吐き出し「お疲れ、ユイ」「はい、パパ」といった会話がこっそりとなされた事は誰も知らない。

それが今回の一般解放でリアルの明日奈との面識や免疫のない来校者が彼女を目当ての一つにする事は容易に想像が出来た。だから明日奈には当日、実行委員室内での仕事が割り振られていたのだが、「バニーガール」などという刺激的な文字がネット上に流れる理由が分からず室内は混乱を極めた。

と、そこで素朴な「あ……」という声がぽとり、と落ちる。

 

「なんだ佐々、なにが『あ』なんだよ」

「なにか妙案でも浮かんだのっ?」

「言えっ、さあ言えっ、すぐに言えっ」

「そう期待されると言いにくいんだけどさ……その『バニーガール』の原因って、もしかしたら…………コレかも」

 

ゴソゴソと机の下に置いてあった段ボール箱から取り出したのはフワフワで真っ白なウサギ耳の付いたカチューシャだ。

 

「それ、って……」

「昨日、納品されたんだよなー、後夜祭で実行委員が付けるウサ耳カチューシャ」

 

今日の『校内祭』最後のイベントである「後夜祭」はグラウンドでの仮装フォークダンスだった。判別しやすいように、と実行委員は全員同じ仮装にする事までは決まっていたが、担当の佐々井がどんな物を用意するのか今の今まで他のスタッフは知らなかったのである。

 

「そのカチューシャがなんでバニーガールに変換されんだよっ」

「俺さ、放課後にこの段ボールを一階の搬入口からここに運ぶまでウキウキで『明日の姫のウサ耳姿、可愛いだろうなあー』って呟き続けちゃったんだよね」

「まさか……?」

「その呟きで……?」

「どっかのアホが結城さんがバニーガール姿になるって勘違いしたってゆーの!?」

「なんて妄想の激しい迷惑人間っ」

「そんで、その迷惑人間が流した妄想を信じた奴らが今、続々と正門前に集まってきてるって事か……」

「とりあえず正門のスタッフを増員してっ。それとバニーガール云々はデマだって説明も……」

「うわっ、あと五分しかないっ」

「えーっ」

「あ、そろそろ校内の最終点検してた茅野君や結城さん、戻って来るんじゃない?」

「じゃあ結城さんにはほとぼりが冷めるまで、この委員会室に隠れていてもらうしかないか……」

「彼女、午前中は折角の自由時間なのに」

「あ、私、代わってもいいよ」

 

実行委員会室にいるメンバー達の話し合いで、とりあえず明日奈は一般来校者が入室禁止のこの部屋への避難が妥当と判断された時だ、それぞれ別行動で校内を見回っていた二人が途中で合流したらしく、すぐそばの廊下から茅野と明日奈の会話が近づいてきた。

 

「やっぱり飲食系の模擬店は衣装が凝ってたなぁ」

「そうだね、同じウェイトレスやウェイターでもクラスによって随分違ってたし」

「僕が見たクラスでは男子もウェイトレス姿に扮してたよ……ああ、アレは『メイド姿』って言うのかな」

 

苦笑を浮かべながらドアを開けた茅野がさりげなく明日奈に先を譲る。

さらり、と髪を揺らしながら入ってきた明日奈に続き茅野が実行委員会室に収まると二人は全員の視線が集中している事に気づいて歩みを止めた。

実行委員長である茅野の「どうしたんだい?」と問う声と重なって、待ち構えていたメンバー達の声が飛んでくる。

 

「はっ、早くっ」

「とにかく結城さんはここに隠れててっ」

「絶対この部屋から出ちゃダメだからねっ」

「あと三分っ」

「ふえぇっっ!?」

 

わけもわからず女子スタッフにグイグイと部屋の奥へ引っ張り込まれる明日奈はすぐ隣にいた佐々井に「どういう事?」と説明を求めた。尋ねられた佐々井は言いづらそうに視線を逸らした後「今、正門前に猟師どもが集まってるんだよ。目当てのウサギが見つからないと暴徒化しそうに興奮状態らしいんだ」とかなり遠回しな言い方で答えると、隠しても無駄と思ったのか混乱の原因を見せる為に携帯端末を取り出し、ふと自分も画面に目をやって「え?」と驚きの声を出す。

 

「拡散が……止まってる」

「ほんとっ!?」

「あ、ホントだっ」

「スゲ……誰がどーやったんだ?」

「しかも別の噂が急速に侵食してるっ」

「なんだって?、『「閃光サマ」がメイド服姿でおもてなし!?』って、こっちもデタラメじゃねーかっ」

「でもさ……」

「うん、メイド姿の生徒だったら……」

「そうだよっ、今日はこの校内に何人もいるんだからすぐにウソだってバレないっ」

 

ワッと喜びに湧いた実行委員の面々を見て今ひとつ事態の全体を把握できていない委員長の茅野だったが時刻を確認して、パンッ、と手を打ち、場を仕切り直した。

 

「なんだかよくわからないけど、問題は解決したみたいだね。さっ、開門の時間だ、みんな『校内祭』スタートだよ」

 

茅野が実行委員会室で号令をかけているまさにその時、「ネト研」が使うパソコンルームの片隅で二つの口元から、ほっ、と息が吐き出されていた。

 

『間に合いました、パパっ。これでママと自由時間を過ごせますねっ』

「ユイのサポートのお陰だよ。それにアスナの噂にも気付いてくれて助かった」

『はい、画像はもちろん、パパとママに関する幾つかの単語も定期的にチェックしてますからっ』

 

耳に装着しているワイヤレスイヤフォンごしでもわかるほど、その声は愛らしく誇らしげだった。




お読みいただき、有り難うございました。
和人はパソコンルームの片隅で取り憑かれたように高速タイピングを
繰り出していたことでしょう……殺気漂うオーラにネト研の仲間も
声がかけられなかったようです。
午前の自由時間、アスナの周囲はSPよろしくファンクラブメンバーが
こっそりガードしますから(苦笑)。
気付いてるキリトは半眼モノでしょうが。
「ウラ話」は今日更新する「活動報告」の「投稿予告」と合併させて
いただきます。


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種族特性・噂の実証[移動をお願いします]

今回は「R−18」タグの付くお話となりましたので、別枠を設けさせて
いただきました。
こちらの通常投稿(本文)を読んでから移動していだだいても、別枠を先に
読んでいただいても問題ありません。
お手数ですが、よろしくお願いいたします。


週明けの月曜日、いつもの時間に登校した里香は自分より早く教室に来て席に着いている親友の姿を数日ぶりに見て、トトッ、と駆け寄った。

 

「おはよう、アスナ…………随分お疲れみたいねぇ」

 

朝の挨拶の次にかけられた労りの言葉に思わず「ひぇっ?」と明日奈が驚きの声をあげる。ぶわっ、と頬を染め親友の顔を見返しているはしばみ色はこれでもか、と大きく見開かれていて挨拶を返す余裕すらなく、ぎこちなく開いた唇からは震える声がよろよろと這い出てきた。

 

「どっ……ど、して……」

「何が?、だってずっと捕まってたんでしょ?」

「えぇっ!?……なんで、知って……」

「土日を使ったとは言え、わざわざ学校休んで五日間だっけ?、京都の本家と病院を往復してケガ人のお世話なんて、そりぁ看病する方だって疲れるに決まってるわよ」

 

里香が気遣ってくれた内容が、明日奈にとって京都にある結城家の本家が決して居心地の良い場所でない事と、今回、その本家に泊めてもらい昼間は兄のサポートの為、入院先の病院通いを続けていた事を指しているのだとわかって、ふっ、と緊張を緩める。

 

「う、うん。まあ、兄さんが重傷じゃなかったのは不幸中の幸いだったし」

 

まだ強張りが残る微笑を親友に向けつつも内心で大きく安堵の息を吐いていた明日奈に対し里香は疑いの目で更に距離を詰めて来た。

 

「それにしても本当に顔色が良くないわね……帰って来たの遅かったの?」

「えっとね……夜の七時すぎ頃かな、家に着いたの」

「その後、ちゃんと寝た?」

「ふぇっ!……あぅっ……うぅ……色々片付けをしたりして…………寝るのがいつもより遅くなっちゃった、かも」

「もう、アスナってば。キリトもね、ずっと元気なかったわよ。いつもの年越しの京都行きとは違って今回はいきなりだったでしょ?、でも理由が理由だから、自分からはなかなか連絡しづらかったんじゃない?」

 

明日奈が学校を休んでいた間の和人を思い出しているのか、里香の笑顔が少しだけ弱くなる。

 

「私は、ほら、グループ発表の割り振りとかあったから担任からも連絡しておいてくれ、って言われたし」

 

けれど僅かな笑みを浮かべていた里香の口元が突然、ふふっ、と得意気な曲線に変わった。

 

「カフェテリアで偶然会った時『アスナ、日曜にはこっちに戻って来るのよね?』って言ったら、アイツ、驚いて一瞬口を開けたまま固まったのよ。それからスゴイ勢いで詰め寄ってきて『ホントか!?』って聞かれたから教えてやったの。『あら、知らなかったの?、昨夜、電話で喋った時に言ってたわよ』って」

 

更に里香の目もこれまた「にんまり」という表現に相応しい曲線に変化する。

 

「見物だったわよー。レアアイテムを横から掠め取られたみたいに悔しそうな顔しちゃって」

 

日頃から何かとしてやられた感を和人から味あわされている里香としては多少溜飲が下がる気分だったのだろう。親友のクルクルと変化する感情とそれを表す面容に可笑しさを含めて明日奈は自分の日常が戻って来た事を実感する。

 

「うん、キリトくんにもメールしようと思ったんだけど、リズとお喋りしたあの夜はついそのまま寝ちゃって……」

 

確かに翌日の夜キリトにも連絡をしたのだが、少し拗ねた様子で『リズから聞いたけど』と言われた事を思いだし、明日奈の表情が苦笑に変わった。二人で顔を見合わせて、互いに「ぷっ」と噴き出すと里香は少し表情を改めて秘め事を打ち明けるように顔を近づけ「けど結果的には京都に行ってて正解だったかもね」と告げ「……実はALOでね……」と小声で囁く。それを聞いた明日奈は思い当たる事があるのだろう、再び頬を赤らめて「あ、ウンディーネの?」と問い返せば、妙に神妙な顔つきの里香がゆっくりと頷いた。

 

「知ってたの?、集団で一人のウンディーネを拘束して、くすぐり倒した事件」

「く……くすぐり?」

「信じられないわよね。それまでは仲良くしてたのにウンディーネだからって、よってたかってくすぐるなんてっ」

「え?……それって、どういう……」

 

まるで自分事のように憤慨の声を荒げた里香は機関銃のように喋り続ける。

 

「だからっ、ウンディーネの涙に妙な効果がある、って噂が立って、でも痛みは感じないから、いくら暴力に訴えても涙は出ないでしょ?。そこでくすぐって涙を出させよう、って計画を実行したのよっ」

「…………」

「実際、GMに訴え出たのは男性ウンディーネだけど、懇意にしていた多種族の妖精達に散々くすぐられて,泣かされて、顔中舐め回されたらしいわ。しかも関与してたのが全員男……想像しただけで本当に鳥肌エフェクトが出るかと思ったわよーっ」

 

すっかり顔の赤みが落ち着いた明日奈はポカンとしたまま二の句が継げない。

 

「まぁ、昨夜遅くに公式発表で噂はデマだって明言されたから、もう大丈夫だろうけど」

 

一気に話し終わって事態の収束を喜んでいる親友の笑顔とは裏腹に、昨晩の記憶を呼び起こしていた明日奈はヒクリと片方の頬を痙攣させながら、力なく「うん、そうね」と返したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
これから別枠へ向かわれる方、いってらっしゃいませ(笑)
先に別枠をお読みになった方、珍しくキリアス被害にあっていない
リズさんです(笑)
被害にあっていないどころか無邪気な発言でアスナを翻弄させて
います(珍)
いえ、一番の被害者はくすぐり倒され、舐め回された男性ウンディーネさん
ですかね……。


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理想と現実

和人と明日奈が結婚して数年経った頃のお話です。


「あれ?……遼…太郎?……か??」

 

イチかバチか、の気をふんだんに含み過ぎて、成分の殆どが空気みたいな覚束ない声を斜め後ろから吹きかけられた壷井遼太郎は手にしていたグラスをカウンターに置いて、んあぁ?、と口を半開きにし、胡乱な者を見る目つきで振り返った。

こんな最高級ホテルの最上階のラウンジで俺の名前を口にする奴がいるはずねぇっ、と断言している顔がみるみるうちに驚愕に変わる。

 

「聡史?!、聡史じゃねーかっ」

「あーっ、やっぱり遼太郎だぁ。うわっ、久しぶりだなぁ」

「おうっ、いつぶりだ?」

「えー……と、数年前の同窓会は……あ、悪ぃ…………その前だから……成人式か?」

 

遼太郎に聡史と呼ばれた青年は過去にあった同窓会を口にした途端、気まずい顔をしてから更に記憶を遡らせたらしい。その表情から旧友の言った同窓会が、自分が頭にナーヴギアを装着して病院のベッドの上にいた間に行われたんだろうと察した遼太郎は自ら明るく笑いかけた。

 

「なんだなんだ。俺が寝てる間に同窓会なんてやってやがったのかよっ」

「あ、ああ」

「なんも気にする必要はねーだろっ」

「いや、その同窓会でお前が昏睡状態だって知ってさ。だから次の年にあのデスゲームから解放されたって聞いて連絡を取ろうと思ったんだけど……お前、番号…………」

「あ、そうかっ…………俺一人暮らしだからよ、端末の支払いとかそのまま未納扱いになって、《現実世界》に戻ってみたら勝手に契約解除されてたんだ。だから再契約で番号変わっちまったんだよなぁ……」

「あーっ、なんだぁ、そうだったのかぁ……」

 

安心したように息を吐き出した聡史は互いが制服を着ていた頃の面影を匂わす、くしゃり、とした笑顔で素直に喜びを表す。

 

「あの事件が解決した後さ、色んな報道があっただろ。《現実世界》に適応できない人がそのまま違う病院に移ったとか、さ……」

 

約二年間、何の準備もないまま《現実世界》から隔離されたプレイヤー達は悲願のゲーム世界からの脱出が叶っても、すんなりと元の生活に戻れる人間ばかりではなかった。身体的に思うようにリハビリが進まないケースも含め、二年間のギャップによる戸惑いから逆に現実を受け入れられないケースも少なくなく、特に自分の最も身近にいたはずの人間が離れていってしまったり、仕事を失っていたりと心理的に立ち直るまで時間を要する人達は成人男性が多いと分析が出ていた。

その点、日頃は文句ばかり言っている遼太郎だが、恵まれた職場への感謝を忘れたことはない。それに《現実世界》でも変わらぬ絆を示してくれるギルメンや御徒町に集まる連中の存在の有り難さを噛みしめ満面の笑みを浮かべた。

 

「俺は色々とラッキーだったからよ。こっちに戻って来ても元気にやってるぜ」

「そっかぁ。なら、よかった…………ま、お前に限ってあの二年の間に《仮想世界》でカノジョが出来るなんてありえないしな。加えて《現実世界》に戻って来てこっちのカノジョと修羅場になる、とか『遼太郎なら絶対ないっ』って同窓会の時も話してたんだっ」

 

屈託なく笑う聡史に悪意がないのは明らかで、確かにそっち方面でのトラブルも「SAO事件」解決後、ワイドショーを賑やかせていたのは遼太郎も知っている。大半の、良識在る、とされるコメンテーターはゲーム感覚の恋愛とリアルの恋愛を混同させるなど大人のする事ではない、と半ば呆れ声で正論と疑わない言葉を吐いていたが、《あの世界》を必至に生き抜いたクラインにとっては簡単に容認も反論もできるものではなく、とりあえず自分の周辺ではそういった問題が起こっていない事をよしとするだけだった。

 

「って、なんで俺がVRでもリアルでもモテねぇ事になってんだよっ」

「なら、あの二年でできたのか?、カノジョ」

 

全く期待していない、むしろからかいたくて仕方ない声音で問われて、遼太郎は「ああ、そうだった、こういう奴だったよなぁ」と出会って数分で昔の関係性を取り戻した口調の友人へ拗ねた顔を晒す。

 

「わかりきってる事、聞くんじゃねーよ」

「だろ?」

 

再び顔をくしゃくしゃにして笑う聡史に遼太郎も懐かしさで顔がほころんだ。あの閉鎖された異常な空間でパートナーを得る意味の重さは《あの世界》にいた者でなければ理解できないだろうし、聡史が分かった風な口をきくつもりがないのも最初から伝わっていて、ただ、自分達の空白の時間を埋める為に選んだ話題が恋愛話というだけだ。

 

「そーいやお前だってVRゲームは結構やりこんでたよな?」

「ああ、なんせ俺の理想はゲーム世界でカノジョをゲットしてそのまま現実世界でゴールインする事だからなっ」

「高校ン時から語ってる夢、まーだ持ってンのか、お前は……」

「おうよっ。『初志貫徹』っ、『岩の上にも三年』だっ」

「そこは『岩』じゃなくて『石』だろ」

 

こじらせてんなぁ、と馬鹿な掛け合いで完全にかつての感覚を取り戻した遼太郎は《仮想世界》を合コン会場か出会い系コンテンツ扱いしている友に「時間あるか?」と空いている自分の隣席の座面をポンポンと手で叩く。

聡史はちらり、と手首を見て時間を確認してから「いいのか?」と言いながら腰を降ろした。

 

「遼太郎がこんな敷居の高いラウンジにいるなんて、本命のカノジョと待ち合わかも、って、実はほんの少し思った」

「はっ、まさか。アイツはこんなトコよりもっと気楽で賑やかな飲み屋の方が喜ぶぜ」

「ってことはちゃんとカノジョいんのかー。くそっ、遼太郎に先超されたっ……なんだよー、《あの世界》でもモテなかったって言ってたくせに」

「いや、《あっち》じゃモテなかったけどよ……まぁ、《あの世界》きっかけ、ってやつ、だな」

 

安地で偶然出会った美少女には思わずリアルの年齢と独身である事を口走ってしまったが、彼女の隣にいた黒い剣士(ダチ)に瞬殺されたしなぁ、と、にが痛い思い出を振り返って、それでも懐かしさに顔が緩む。迷宮区内でも攻撃は無効の場所で、しかも痛みを感じないゲーム内、それなのに腹に食い込んだ衝撃を「痛み」だと脳が誤認するほど拳に込められたアイツの感情なんて一発貰えばすぐに気付いた。

まぁ、そっから数日で「結婚したんです」と聞かされるとは予想してなかったけどなぁ、とその時の彼女の笑顔とヤツの視線を合わせてこずともにじみ出ていた嬉しさのオーラを思い出す。

 

「うわっ、なんだよ、そのキモい思い出し笑顔はっ、ノロケかっ」

「ちげーよっ」

「で、どんな感じの子だよ。美人系?、可愛い系?、俺はさ、一見クールビューティーなんだけど、俺にだけは甘えてくれるような子がいいんだよなぁ」

「そうかよ」

「髪はストレートのロングだな。ゲームのアバターだと奇抜なカラー設定を選ぶ子も多いけど、そこは控えめに薄茶とか水色とかでさ、ピンクなんてもってのほかだ」

「お前、俺にケンカ売ってんのか?」

 

僅かにヒクついている遼太郎の口の端に構わず聡史は喋り続けた。

 

「まあアバターは誰でもそこそこ整った容姿になるから、そこはあまりこだわらないさ。ゲーム内で見極めるのはその子の気質だ」

「おいっ、それ、昔、放課後の教室で延々聞かされたのと同じじゃないだろうな」

「覚えていてくれたのか、遼太郎。俺は嬉しい」

「って事は同じなんだな……」

「『初志貫徹』だっ、『崖の上にも三年』っ」

 

コイツ、確か学校の成績は良かったよなぁ、と残念な目で隣を見つめながら遼太郎は話題の転換を試みる。

 

「で、なに飲む?」

 

カウンター席に落ち着いたものの何もオーダーせずに話し込んでしまっている事に気づいた聡史が慌ててバーテンダーに手で合図を送った。話が途切れるのを待っていたのだろう、急かすことなくイヤな顔も見せずに落ち着いた笑顔で居心地の良い空間を作り出してくれるプロの仕事にホテルの格が伺えるというものだ。しかし聡史が頼んだ飲み物の名前を聞いて遼太郎は「えっ?」と疑問の声を飛ばす。

 

「酒、ダメなのか?」

「強いってほどじゃないけど、普段なら飲むよ。けどまだ仕事中なんだ」

 

そう言って両手で自動車のハンドルを回す仕草をみせた聡史は続けて「今夜は運転手でさ」と肩をすくめた。

 

「大宴会場にいる親父が少し風邪気味だから適当なところでピックアップして家に連れて帰んないと」

「それって、もしかして若手の起業家と業界トップの交流会ってやつか?」

「よく知ってんな、遼太郎」

「俺も少し前に聞いただけだ。お前の親父さんって弁護士だったよな?」

「まぁ、そこそこ大手の取締役になってる。で、俺は今そこのペーペーの新人弁護士。ボスの命令には逆らえない身さ」

 

おどけた顔をしてみせてはいるが、本当は親思いのヤツだって事を遼太郎は知っている。それよりも今は聡史が告げた仰天の単語が耳にこびりついていた。

 

「はっ、お前っ、ちゃんと高校ン時の宣言通り、弁護士になったのかっ」

「俺のモットーは『初志貫徹』だからなっ」

 

そうは言っても遼太郎と聡史が通っていた高校は進学校でも何でもない。いくら学年で上位の成績を修めていたとしても、それが全国区に通用する学力でないのは目の前の友人もわかっていただろう。親が弁護士でも自分は関係ないと口にしていた聡史が突然何が原因なのか「弁護士になる」と言いだしたのは高校生活も半ばを過ぎた頃だったろうか……理由までは明かしてくれなかったが「皆にそう言っておけば恥ずかしくて簡単には諦められないからさ」と笑っていた聡史の周りで「そんな夢みたいな話、口にする方が恥ずかしくないのか?」とあざ笑っていた奴らに今のこいつを見せてやりたいっ、と遼太郎は嬉しさを溢れさせ聡史の背をばんっばんっ、と叩いた。

 

「痛いって、遼太郎。だから後、貫徹するのはカノジョなんだっ」

 

ギュッと握った拳の前にバーテンダーがグラスを静かに置く。それを掴んだ聡史はそのグラスを遼太郎に向けた。

 

「じゃ、とりあえず再会を祝して」

「おうっ」

 

カチンッ、と音を鳴らし、互いにグラスの中身を一口飲み込むと喉が潤った事で思い出したのか、逸れたと思っていた話題が再び舞い戻ってくる。

 

「やっぱり食事は大事だよなぁ。料理上手、とまではいかなくても一緒に食べるなら楽しい方がいいし……遼太郎のカノジョさんは?」

「あ?、あー……どっちかってーと作るよりは食べるのが得意な方だな。なんでも美味そうに食う」

「いいね。俺も多少は料理するし」

「お前がっ?」

「そりゃね。弁護士なる為にバイトする時間があまり取れなかったから。赤貧の一人暮らしじゃ必要に迫られるんだよ、自炊が」

 

どうやら実家を出て、自活して司法試験の勉強していたらしい聡史は十代の頃の「親は関係ない」発言を貫いていたのだろう、変わらぬ部分を思わせる反面、料理をすると聞いてその変化もまた嬉しく感じた遼太郎だったがこれまでの友の理想像をつなぎ合わせると、ぬぬっ、と表情を一転させ、うーん、と唸り声を漏らした。

清楚なアバターで《仮想世界》で出会い、《現実世界》でも恋人となってそのままゴールインする。しかもカノジョが料理好きとくれば思い浮かぶ夫婦は一組しかいない。

 

「でもな、理想は理想のままにしといた方がいいと思うぞ、聡史。実際、そんな嫁さんがいたら色々面倒だからよぅ」

「なんでお前がそんな実感こもったアドバイスをするんだ?」

「いるんだよ、俺のダチに。しかもそいつ、ついさっきまでそこにいたんだ」

 

遼太郎はげんなりした様子で、ぴっ、ぴっ、と人差し指を使い聡史が座っているカウンタースツールを示した。

 

 

 

 

 

聡史が現れる一時間程前、最上階ラウンジの見事な夜景に一瞥もくれず、桐ヶ谷和人は「奢ってやるから」と呼び出した遼太郎を隣に座らせてバーカウンターの上で組み合わせた両手に視線を落としたまま重々しい口調で話を切り出した。

 

「アスナが……口をきいてくれないんだ」

「はぁっ?、ケンカか?、お前らが?……珍しいな、って言うかお前らでも険悪な感じになるんだな……」

 

ボス部屋攻略会議以外でよ、と和人が纏う重い空気を混ぜっ返そうとした言葉はその表情を見れば引っ込めざるをえない。そんな遼太郎の気遣いもお構いなしで、和人はひたすら自分の手を見つめていた。

 

「まあ、ちょっとした言い合いはあるけど、お互い譲る部分はわきまえてるし。意見が食い違う時はとことん話し合うからケンカらしいケンカはしない、な……」

 

こちらに顔を向けず思い詰めた様子の和人を見て、こりゃぁ本格的にマズい感じか?、と遼太郎もゴクリ、と唾を飲み込む。

 

「で?、原因は何なんだよ」

「実は……今、下の大宴会場で行われている交流会にアスナが事務所の所長と出席してるんだけど……」

「交流会?」

「若手の起業家と様々な業界トップとの交流会だよ」

 

若手の方は資金目当てだったり、ノウハウ目当てだったり、大企業の方は新しく柔軟なアイディアだったり、投資目的だったりと、総じてこれまでは触れ合う機会のなかった者同士が互いに刺激し合い人脈を広げようというのが目的らしい。とは言えここまでの会場を使っての交流会だ、既に会が発足して数年が経っており発起人達が最初にセッティングしたメンバーからの繋がりで広がっている交流会参加希望者は年々増えていて今ではその招待状にかなりのプレミアが付いている。

 

「そこにアスナが出席してんのか?……って言うかアスナは起業家でもねえし、業界のトップでもねえだろ」

 

遼太郎が知っている限り、彼女が所属している事務所も手広く仕事をすると言うよりは所長が自らスカウトした有能な人材のみの少数精鋭で丁寧かつ堅実な仕事方針のはずだ。今更方針転換で事業拡大をするとは考えにくいし、若手起業家へのアドバイスというのも職種柄違う気がする。アスナの場合なら実家がらみで出席してる方がしっくりくるけどな、と遼太郎が首を捻っていると、隣で、ふぅっ、と和人が一息吐いた。

 

「どっちでもないさ。アスナ達はノウハウの立場なんだ」

 

そう聞かされて、なるほど、と納得する。

悩みがあったり、問題が起きたりした時、自然と助言を請いたいと思わせる……単なるネットの検索結果のような知識だけではない、多角的にその人間に必要な情報を伝授してくれる存在という意味で明日奈は既に十代の頃からその片鱗を窺わせていた。

 

「事業主達にとっては見えていなかった弱点の指摘、今後起こりうるトラブルの回避、発想の転換……とにかくアスナからのアドバイスは仕事を成功へと導く女神の声、みたいなもんか。けど基本、単発の仕事はしないだろ?」

 

紹介制でのみ仕事を受ける明日奈だったが、それでも殆ど途切れる事なく依頼が詰まっているらしいのだから、相変わらずの有能ぶりである。

 

「ああ、最初はアスナが子供の頃から面識のあった大手グループの社長がアスナの事務所の所長とも知り合いで、だったら久しぶりに顔が見たいって誘われたらしいんだけど、交流会では仕事は受けない、って言っていたにもかかわらず……」

 

苦々しく唇を歪めた和人を見て遼太郎は察した。

 

「老若男女、群がったってわけか……」

 

それはもう鳥や虫に花に近寄るな、って言っているようなもんだろ、と遼太郎も苦笑いをするしかない。見た目だけでも一級品の貴重花だ、新たな人脈を築こうと集まっている者達が目に留めないわけがなく、吸い寄せられるように人だかりとなっただろう事は容易に想像がつく。

 

「去年の交流会の後、仕事上の付き合いとしてって結構しつこくしてきたヤツもいたらしいんだ」

「まぁ、アスナの性格上、仕事だからって言われると無視も出来ねえか」

「事務所の所長と一緒になんとか穏便に処理したらしいんだけど、何より精神的に結構しんどかったって後で聞かされて……」

「ならなんで今年も参加してんだよ」

「主催者側からどうしても、って頼まれたそうだ」

「なんだかんだ言ってアスナは甘いからなぁ。ならお前がアスナに付いててやりゃあいいんじゃ……」

 

この男の職場も業界内では最先端の研究所だ、招待状を手に入れるのは難しいことではないだろう、と遼太郎が今更に「何でこんなトコにいんだよ?」と問えば、やるせなさと哀れみのまじった息を大げさに吐かれた。

 

「オレの職場の母体は民間企業じゃない」

 

研究所だけなら民間からの研修者も一定数受け入れているし、一般企業の協賛も得ているが、大手を振って交流会の会場に足を踏み入れるのはさすがに問題になると言いたい和人は呆れた視線を遼太郎に送ってから、カウンターの上に置いてある携帯端末の画面をチラリと見る。そうは言ってもその交流会会場のホテルのラウンジまで来て、アルコールも飲まずにいるのだから何かあれば駆けつける気満々なのは丸わかりで、コイツは相変わらずアスナの事となるとまっしぐらだな、と遼太郎は薄く微笑んだ。

 

「で?、その交流会とお前らのケンカと、何の関係があんだよ」

 

そして、なんで俺は突然呼び出されたんだっ、とそこまで問い詰めたい気持ちを上等なウヰスキーを一口含んで一緒に飲み込む。せっかくのおごりだ、いい酒はゆっくりじっくり味わいたい。

しかし、問題の核心を聞かれると、いきなり和人は口ごもった。

 

「あー、だから……アスナと一緒に会場に入れないから……代わりに、だな……」

「代わりに?」

 

コイツの代役なんて……といくら考えても誰も浮かんでこない遼太郎の隣で「ごほっ」とわざとらしい咳払いをした和人は明後日の方向を向いたままポソリ、と呟く。

 

「わざとじゃないんだ……いつも気をつけてるし……アスナからも散々言われてるし」

「なんの話だ?」

「けど、オレの居ない場所で知らない連中がアスナに群がるのを想像したら……」

「だから、なんの話だよ」

「今思えば、オレの存在を主張できれば少しは牽制になる、って考えたのかもしれないけど、気付いたらアスナの首筋に……」

 

アルコールを飲んでいない和人の目元が如実に赤みが差している事に気づいた遼太郎は同時に和人の言葉の意味にも気付いて、お返しとばかりに大きく、大きく、溜め息をついた。

 

「相変わらず独占欲のつえぇヤツだなぁ」

 

要するに、どうやっても服装で隠せない場所に赤い所有印を付けたってことか…………と、正解に辿り着いた遼太郎は更にもう一口、美味いタダ酒を喉に流し込んだ。

 

「そりゃあアスナだって怒るだろ。キリト、お前が悪い」

「いや、普段ならそこまで怒らないんだ」

「はぁ?」

「もちろん、小言は言われる。少し涙目で、頬を染めて、唇を尖らせて……そりぁ、もう…………」

 

壮絶に可愛い顔なんだな……と、これまた正解に行き着いてしまった遼太郎は、俺が攻略会議でおちゃらけた時はアイスピックみたいな視線を突き刺さされたけどな、と懐かしくも痛々しい記憶を蘇らせる。

 

「じゃあ、何だって今回に限って口もきかない程怒ってんだよ」

「それが分からなくて、だからオレもなんだか意地になって今朝から顔も合わせずにいたんだ」

「お前らの場合、かなりの大事だな」

 

悩みなのかノロケなのかよく分からない相談事だったが、ここにきてようやく和人の深刻な表情に納得した遼太郎が、むむむっ、と考え込んだ。多分、和人としては、そこまで怒らなくても、という甘えと、自分の気持ちも理解してもらいたい欲求と、何も言ってくれない不満から明日奈と同じ無言の対抗策に出てしまったのだろうが元凶は和人である、ここはもうひたすら謝り倒す以外の道はないだろう、と諭そうとした時だ、和人が「けど……」と言って愛おしそうに、そっと端末の表面を撫でる。

 

「アスナが出掛けてからユイがこっそり教えてくれて。今夜の装いにはオレが贈ったアクセサリーを揃いで付けていくつもりだったって」

 

和人の言うアクセサリーとは毎年、明日奈の誕生日にひとつずつ買い足しているシリーズものだった。いつも誕生日のプレゼントに頭を悩ませていた和人に、明日奈の方からリクエストがあったとかで、一年目はペンダント、二年目はイヤリング、三年目はブレスレット、というふうに増えていくのを二人で楽しんでいたのだという。

遼太郎に言わせれば「お前の給金なら一回で全部買いそろえられるだろ」だったが、そこは「アスナがさ、ひとつずつがいい、って言うんだ」と和人の応えを聞いて、そういう慎ましい所もあっちこっちから好かれる要素だよなぁ、と微妙に腐った目になる。和人が言うには「それもあるけど、どのアクセサリーにするかはオレが選ぶから、毎年それを楽しみにするって」と追い打ちをかけられるような言葉をもらい、更に遼太郎のどんよりとした瞼が目の半分を覆っていった。

 

『ママ、言ってました。「ちょっと気が重いけど、頑張るっ、お仕事だもんね」って。それからジュエリーボックスを取り出して「それに、私にはキリトくんからもらったコレがあるし」って嬉しそうにペンダントやイヤリングを見てましたっ』

 

ユイが和人に話した明日奈の言葉を知れば、交流会に付けていくアクセサリーで気分を奮い立たせていたのは間違いなく、それを邪魔された明日奈が口もききたくないほど機嫌を損ねていたのは当然だろうと、カウンターに横並びで座っている男二人は揃って、はぁぁっ、と重い溜息をゆっくりと落とす。

 

「結局、全部お前が悪いンじゃねーか」

 

今、下の階で強張りそうな笑顔を浮かべながら相手の気分を害さないよう必死に対応している明日奈は柔らかなラインのデザイナーズスーツに身を包み、結婚指輪、それに和人から贈られたイヤリングとブレスレットを装着して首には何でもない淡色のスカーフを巻いている……あとひとつ、装備が整っていないせいか精彩を欠いている受け答えにつけ込んでくる輩が彼女を二重三重に取り囲み始めていた。

遼太郎からは見えない、反対側の和人の耳に『パパっ』と宴会場の防犯カメラ映像をハッキングしていたユイの緊迫した声がコードレスイヤフォン越しに飛び込んでくる。

 

『限界ですっ、もう捌ききれなくなりましたっ』

「すぐ行く」

 

触れていた画面をトンっ、とひと弾きして表示を落とした和人はカタンッ、とスツールから立ち上がりながら隣の遼太郎に「あと一杯、好きなの飲んでくれ」とだけ告げて素早く会計を済ませると、「遠慮しねーぞ」と送り出してくれる声に振り返りもせず片手を上げて応じ、足早にラウンジを出て行った。

 

「ったく、なんだよ。俺はアイツがスタンバってる間の暇つぶしに呼ばれたのかよ」

 

こうなれば自分の懐事情では絶対に手が出せない上等な美酒を飲んでやろう、と、どこぞの厳つい顔をしたバリトンボイスの禿頭ではなく、人好きのする静かな笑みを絶やさないバーテンダーを呼び寄せ、あれやこれやと酒の相談を始めたのだった。

 

 

 

 

 

「だからな、聡史、悪い事は言わねぇ。顔よし、スタイルよしで気立ても良くて機転も利くような、おつむの出来も超一流なんて女を嫁さんにしてみろ、面倒事がしょっちゅう起こるんだぞ」

 

隣の旧友を説得しようと、ズイッ、と真面目な顔を近づければ聡史は一瞬、ぽかん、と口を開けた後、破顔して、ぷっ、と盛大に噴き出した。

 

「りょ、遼太郎っ、なに言ってんだよ。そんな子、現実にいるわけないだろっ」

 

ケラケラと笑いが収まらない聡史の言葉を聞いて、今度は遼太郎の顔が時間を止める。

 

「俺の理想はそこまで非現実的じゃないさ。一緒に食事をするのが楽しくて、休みの日には同じVRゲームを楽しめるような気の合う子がいいって話だよ。なんだよさっきの…えっと、美人でスタイルも良くて性格も良くて……あとなんだっけ?、頭脳明晰な子だっけ?……すごいな、お前。聞いてるこっちが恥ずかしくなるぞ。そんな完璧な子、どこ探したらいるんだよ」

 

すぐ下の階にいるんだよ、と言いたいのを苦笑いで誤魔化した遼太郎は「だよなぁ」と渇いた声で流した。そんな理想の嫁さんなんてそうゴロゴロいるわけねぇもんなぁ、と行き過ぎた心配に自嘲が濃くなる。

そして現実は、もともとそんな理想すら抱いていなかったヤツがうっかり手にしてしまうものなのだ。それは偶然だったのか、必然だったのか、けれど一向に色あせる気配すらない美貌と聡明さを持つ女性と夫婦になったお陰で、いつまで経っても「自分のだっ」としがみつき、周りを威嚇し続けるのもご苦労様なことで……遼太郎はある意味「理想の夫婦」ともとれる二人が結婚してもう何年になるんだったかなぁ、と指を折り、今でも交際を申し込んでくる男がいるらしいからなぁ、と、こちらはこの前の居酒屋デートで又聞きした話を頭の中で反芻する。

しかし、そんな二人の惚気ともとれる行き違いが原因で遼太郎はこうして優雅な空間で高価な酒にありつけ、旧交を温める事まで出来たのだから「結果オーライだな」とひとり納得して聡史と新しい連絡先を交換しようと携帯端末を取り出したのであった。




お読みいただき、有り難うございました。
「崖の上にも三年」……自分で書いておいて「ポ○ョかっ」と
思いました(苦笑)
聡史のお父様は明日奈さん目当ての参加ではないと思います(笑)
息子にもあんなお嫁さんが見つかるといいなぁ、と眺めてるくらいで。


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理想の現実

二ヶ月ぶりでございますっ(謝っ)
大変お待たせいたしました、前回の「理想と現実」の明日奈視点の
お話となっていますので、前作をふまえてお読みいただければ、と思います。


大宴会場専用のパウダールームの壁に取り付けられている大きな鏡を覗き込んだ明日奈は細い指二本で前髪をつまんで弄り、そのまま僅かな眉間の皺をトントンと叩いて消すと今度は両手の指先で、ぺふっ、と軽く頬を弾いて目の前の自分に語りかけた。

 

「こんな顔、ユイちゃんや和真くんに見つかったら大変ね」

 

きっと優しい娘は『どうしたんですか?、ママ』と心配するだろうし、聡い息子は『お父さんにいじめられたのっ!?』と真っ黒な瞳をまん丸にするだろう。なぜか母親である明日奈の眉がハの字になると原因は父親だと一直線に思う息子の思考回路はいまいち理解できないが、当たらずとも遠からずなので、そんな時は決まって『大丈夫だよ、ユイちゃん、和真くん』と二人を落ち着かせるのが明日奈の日常だ。

それでも今日ばかりは平気な顔で「大丈夫」と言える自信がなかったから、和真が昨日から二泊三日で和人の実家に泊まりに行っているのは幸いだった。

睡眠不足と精神状態が万全ではない為の顔色の悪さはメイクで誤魔化せているが、いつもの明日奈を知っている人間がみれば表情が固いことはすぐにわかってしまうだろう。現に事務所で待ち合わせをした所長には会った途端『大丈夫なのかい?』と気遣いの言葉を貰ってしまった。

何の説明もしていないのに、ちゃんと原因を知っているみたいに『ホント、ゴメンね』と苦笑いをされ、ひらめいたっ、と言わんばかりの表情で『来年は水嶋君に出席してもらおうっ』と口にされたら、本当にこの人は何をどこまで見通しているのか、今更ながらに所長の本質が測りきれない。

しかしすぐに『莉々花ちゃんでもいいんだけど、そしたら僕が水嶋君に怒られそうだしなぁ』と人畜無害なのんびり口調に戻ってしまうのだから本当に厄介な人だ。

交流会会場のホテルに行く前に事務所に寄ったのはミーティングルームで今回の参加者リストを確認する為だったが、そこに去年の交流会後、つきまとってきた男性達の名前が載っていなかった事を確認して明日奈が少し気を緩めると、所長が『ま、当然だね』と説明してくれた。

 

『彼らは起業家として参加してたんだから、一年経ってもまだ顔を出すならこの一年で成果を上げられなかったと言っているようなものだし』

 

聞けば主催者側もよほどの理由がない限り起業側の人間に二年連続で招待する事はないそうだ。

 

『だから今回も初対面の人ばかりだと思うけど、職種と名前だけでいいよ』

『はい、それなら覚えました』

『うん、さすがに早いね』

 

満足げに頷いた所長がリストにある若手起業家約五十名の社名や店名まで覚える必要はないと言った意味は、この交流会の参加資格を得ている者でも数年後まで生き残っている名前が半分ほどだからで、ホヤホヤとした笑顔のままの所長も、それを当たり前に受け入れている明日奈も、しっかりと現実を認識している。

 

『大手の方々も多少変動がありますね』

 

明日奈にとっては幼少から馴染みのある事業主や、次代に移った名前で、どの人達もすぐに顔が浮かぶのは昨年と変わらないが顔ぶれは少し異なっていた。単にスケジュールの都合や、毎年同じ会社では、という主催者側からの配慮かもしれないが、中には時代に合わなかったり、長年の膿の蓄積で経営が傾き始めている企業があるのかもしれない。

 

『うちみたいなコンサルティング業の人間以外にも弁護士や税理士、司法書士と多彩に呼び寄せたらしいから今年は賑やかだろうね』

 

去年は経営論を言い争う一角もあったりとかなり会場内は白熱したのだが、少々ヒートアップのきらいが強すぎて会の後半はギスギスした雰囲気がまん延していたからだろう、今年は緩衝材的な役割に期待しているのか招待者の職種が幅広くなったらしい。

 

『あとは会計士、社労士…行政書士もいたかな。うちは去年と同様に営業はしないから適当に大手側の挨拶回りをしてもらえればいいよ』

 

明日奈はその指示を聞いて、事前にそれだけの情報を収集しているなんて、もしかしてうちの所長って主催者の一人なのかしら?、とゼロではない可能性を頭の片隅で思いながら再度、挨拶の際に話題に上がる可能性のある時事問題や知っている限りの個人情報を脳内で総ざらいする。そういった下準備を済ませて所長と二人、ホテルの会場に移動した明日奈は結局去年と同様に財界の重鎮方への挨拶があらかた済んだあたりでタイミングを見計らっていたらしい若い起業家数名に一気に取り囲まれそうになってパウダールームへと逃げ込むはめになったのだ。

もう一度「ふぅっ」と肩の力を抜き、取り出したコンパクトで軽くメイクを直してから結び目が緩んでいるスカーフに手を伸ばす。

一旦ほどいて今まで隠れていた首元を鏡越しに覗き込んだ。

 

「……ほんとに…絶対に…ダメって言ったのに…………」

 

未だに鎮火し切れていない憤りの朱と昨夜の記憶を刺激した羞恥の朱が混じり合って明日奈の頬を染める。同じように和人によって刻まれた皮下出血の跡は血痕のように赤々とその存在を主張していた。ベッドの上でグズグズに溶かされ、しゃくり上げながら浅い呼吸を繰り返すのが精一杯でまともな口などきけるはずがない状態だったが、それでもそんな自分を見下ろしていた和人の口の端が僅かに吊り上がったのを明日奈はしっかりと覚えている。それから一分の隙もないほど強く抱きしめられた後、抵抗をする間もなく和人の唇が首筋にきつく吸い付いてきたのだ。

事態を理解した明日奈が息を呑み、次の瞬間、頭を振って逃れようとした時には既に事は終わった後で、軽い熱と痛みを生んでいる場所を眺めている和人は満足げに目を細め、次にその行為の意味を問おうと震えながら開いた明日奈の唇を乱暴に塞いだのである。その後は呼吸すらままならないほど求められ、押し上げられて、ついには意識を手放してしまい、明日奈がはっきりとその痕跡を視認したのは、すっかり朝日が昇りきった頃の自宅の洗面所の鏡の前だった。

今日という日を迎えるにあたり、明日奈にとって和人から贈られているアクセサリーはお守りのような意味を持っていて、それを身につける事で気の進まない仕事でも萎縮しない勇気をもらおうと思っていたのだから、それを当の本人に妨害されたと知った時の落胆と湧き上がってくる腹立たしさは堪えようがなかった。ひとつやふたつの文句では言い表せない自分の気持ちは爆発寸前まで膨張すると、それをぶつける前にどこかに小さな穴が空いて、ただ、それで萎んでしまわずに常に膨らみを維持したまま、シューッ、と勢いは衰えることなく細く鋭く感情が噴き出し続けている。その状態は数時間続き、和人にかける言葉は絶え間なく抜け続けていたから結局朝から何の言葉も交わさずに明日奈は家を出て来てしまった。

和人は和人で、触らぬ神に祟りなし、とでも言いたいのか、最初は、マズい、と後ろめたそうな表情で明日奈の様子をコソコソと窺っていたのに、口をきかないままでいると、次第に平静を装うようになり、ヘタにつついて更なる悪化を招くよりは、と消極的な選択をしたらしく、和人の方から話しかけてくる事はないままに終わっている。

交流会会場に戻れば、きっとまた起業家達の相手をせねばならないだろうし、会が無事に終わったとしても今の状態で家に帰るのも気持ちの整理がついていない。いっそ和人が出掛けていてくれれば、とも思うが、折角帰っても誰もいないとわかったら、それはそれで複雑な気分になりそうだ、と、明日奈は和人と顔を合わせたいのか、どうなのか、自分の感情すら正確に把握できないまま「はぁぁっ」と溜め息を付いてからスカーフをキレイに巻き直す。

とはいえいつまでもパウダールームに篭っているわけにもいかず、そろそろ戻らないと所長が心配し始めるかも、と最後にもう一度スカーフの具合を確認すると「よしっ」と小声で気持ちを仕切り直し会場に戻ったのであった。

 

 

 

 

 

出来るだけ壁際に寄り気配を消してひっそりと佇む。

会場の中央部分にはクロスのかかった小ぶりな丸テーブルが等間隔で並んでいて、それぞれに集まっている人間達は和やかな雰囲気の所もあれば、少々緊迫した雰囲気の所もあって千差万別だ。

そこから少し離れた場所には簡易的ではあるがより濃い対談用にテーブルとイスのセットが点在している。

一定時間、明日奈が会場から姿を消していた間に若い起業家達は自分がこの会場にいる本来の目的を思い出したようで、今はあちこちに散って明日奈に浴びせていた物とは少し違う種類の熱を瞳に宿し、頭脳をフル回転させていた。そんな姿を控えめに見やって明日奈は壁の花どころか壁の模様と化して彼らの注意を引かぬよう静かに移動する。

出来ることならこのまま物陰にでも隠れて時を過ごしてしまいたいと願っていると、ふと、少し先に自分と同じように壁を背にして立っている壮年の男性の姿が目に入った。

見覚えがないので大手企業の人間ではないのだろう。だとすれば緩衝材として呼ばれた一人か、それよりも問題はその男性のグラスを持っていない方の手だ。白いハンカチを使い口元を覆っているが、その動きが不自然に震えている。本人は談笑の揺れに合わせているつもりらしいが、その男性と会話をしている相手は気付かずとも、明日奈の目は男性の身体が僅かに揺れてスーツの背が壁を擦ったのを捉えていた。

頭で考える間もなく、素早く身体が反応する。

 

「お久しぶりです」

 

閃光の早さで男性の元へと駆け寄った明日奈は親愛の声で話しかけ、そっと腕を掴んだ。同時に男性が持っていたグラスを抜き取り、通りかかったウェイターのトレイへと返却すると、握手をする形で腕と手を支えバランスを取る。突然、距離を詰めてきた明日奈に男性は一瞬、たじろいだ様子だったが、すぐに意図するところを理解したようで、すぐに「ああ、久しぶりだね」と知人へと向ける柔和な表情を装った。

 

「少し、彼女と話をしたいんだ、いいかな?」

 

唖然とした顔を戻せないままでいるのはそれまで男性と喋っていた相手だ。了承をとるように明日奈も顔を向ければ、支えている男性と同じヒマワリをモチーフとした記章が相手の胸にも付いている。要は弁護士同士という事だろう。

明日奈と握手をしている人物よりは若く見えるが、近年弁護士事務所を起ち上げた、という雰囲気ではない。

とは言え法曹界の上下関係まではそれ程詳しくないし、どちらの男性も明らかに明日奈より年配者だったから勝手な口を挟むことなくこのまま無難に立ち去ってくれる事を願っていると、なぜか男性は驚きから表情を一転させ、明日奈に向け少し悔しげと言うか忌々しげに眉を歪ませると視線を男性に戻し「後日、連絡させていただきます」とだけ言って離れて行った。

 

「有り難う、もう大丈夫だ」

 

彼の存在が完全に視界から消えたところで男性が明日奈に向け弱く微笑む。

 

「呑むつもりはなかったのだが、どうにも断れなくてね」

「お酒を召す以前にお加減が悪いのでは?」

「……ああ、貴女に下手な隠し事は無理か……結城さん…………それとも桐ヶ谷さん、とお呼びした方がいいか?」

「え?」

 

今度は明日奈が目を見張る番だった。

明日奈は仕事ではずっと旧姓の『結城』で通している。それは既に明日奈の実家である『結城家』が業界内で名が通っている為、その娘としての認知度も高い明日奈が『桐ヶ谷』と改名する事で配偶者である和人にまで余計な負担をかけたくないからと、逆に自分のプロフを公表したくない和人が万が一にでも明日奈に迷惑のかかる可能性を危惧したからだ。

とは言えひた隠しにしているわけではないし、和人も明日奈も結婚指輪は常に装着しているので、少なくとも明日奈が名乗っている『結城』が旧姓である事は結婚前から彼女を知っている人間ならば承知している話なのだが……初対面の男性に『桐ヶ谷』の名を口にされた明日奈は声を詰まらせた。

 

「貴女を驚かす事が出来たのなら僥倖だ」

 

男性は悪戯が成功した時の和人のように無邪気に微笑んだ。明日奈が握っていた自分の手にキュッと力を込め「職業上、隠し球があると、つい使いたくなるもので」と不遜に口を歪める。しかし、そこに悪意がない事を読み取った明日奈は呆れた笑顔を男性に向けた。

 

「特に秘密にしているわけではありませんが……それより、立っているの、お辛くないですか?、座った方が……」

「いや、大丈夫。多少ふらついた程度だ。実は少し風邪気味で。どのみち今夜は早めにお暇させていただくつもりで、もう少しすれば迎えが来る手はずになっている」

「では、そのお迎えの方がみえるまでご一緒させて下さい」

「こんな老齢に近い男でも虫除けになるかね?」

「ええ、もう、十分に」

 

体調を気遣われるより、あえて明日奈側に理由をつけて傍に居る事を許す男性の言葉にのっかる。男性は明日奈の支えを辞すると、そのまま会場中心から背を向けている彼女に隠れるようにして壁に身体をもたれかけさせた。

 

「いやいや、この程度で……やはり歳かな」

 

その言葉に明日奈も目の前の男性とそう変わらない年齢であろう自分の父の姿を思い出す。最近は少し忙しくて実家から遠のいていたから、今度の休みには息子を連れて顔を見に言ってこようかしら、と考えていると、男性は今までで一番張りのない声をゆっくりと吐いた。

 

「それにしてもさっきの彼の態度は大人げない。代わって謝罪します。申し訳なかった」

「別に…気にしてませんし……」

 

明日奈の仕事は様々な人間と交流を持つ。例えこちらが見覚えのない相手であっても間接的に関わっていたのだろう、と推測するのは簡単な事だし、軽く睨まれた程度で実害はない。それに同じ職種故に親交があるというだけでこの男性が謝罪を代弁する必要はないはず、と言葉を続けようとすると、男性は見越したようにそれを遮った。

 

「若い頃、私達は同じ弁護士事務所でね。しかも彼は私が直接指導した後輩で、今は互いに自分の事務所をまとめる立場になっているのだが……」

 

二人ともこの交流会の招待状を手にしているのなら、その弁護能力と経営能力は確かな物なのだろう。最初は同業者に弱みを見せたくないから気丈にも震えを堪えていたのかと思ったが、どうやら男性は後輩弁護士に余計な心配をかけまいと平然を装っていたらしい。

 

「実は以前、彼の事務所の新人が競合に負けた企業の訴訟依頼を受けた事があって。依頼者側の言い分は、自分達が提示した内容とほぼ同じ企画なのに選ばれなかった理由はどこかに不正があったに違いない、と」

「不正、ですか」

「弁護士の方は若さゆえの少し盲目的な正義感で裁判を約束してしまったらしいのだが、採用になった企画には結城さん、貴女がアドバイザーとして関わっていた……まぁ、貴女に限った事ではないが、貴女が所属している事務所が関係している仕事にまず穴はない。加えて貴女が携わった企画ならば、一見、他と同じように見えても、その実、細かな配慮と二重三重の付加価値が内包されている事は間違いないから。経験不足の新人弁護士はまだそれを知らなかったのだろう。安易にその依頼を受けてしまい、調べてみた結果、訴訟など起こせるはずもない事実だけが判明してしまった、と……早計もいいところだ」

 

やれやれ、といった風で息を吐き出した男性に対し、明日奈は対応に困惑を浮かべた。不正だと思い込んだのも、その言い分を信じたのも完全な勇み足だが、自分が関与した仕事の延長でそんな事態になっていたと知らされては高揚感とは反対の感情が少しだけ生まれてしまう。けれど男性の話はまだ終わりではなかった。

 

「これは私が彼と懇意にしているから知り得た話だが、なぜか他の弁護士達にもこの一件が知れ渡っていて。どうやら貴女の誠実な仕事ぶりを不正扱いされた事に心底腹を立てた御仁がいたのだろう。彼としても出来るだけ公にはしたくなかったのだが、事務所内でも当の若い弁護士と所長である彼しか知らない話が、瞬く間に業界内に広がって赤っ恥を晒したというわけで」

 

そう話す男性の表情は憤っているわけでもなく、不可思議に戸惑っている様子でもなかった。明日奈の為に腹を立てた人物の正体を知っているのか、その行為を渋々肯定する苦い笑みを垂れ下がった眉と口角が表している。

 

「世はデジタル社会だ。ネットワーク内の情報を自分の思うように操れる人間を怒らせてはいけない、という事だな」

 

そこまでの説明を聞いて明日奈もまた居心地の悪さに表情を曖昧にした。これはどう考えても自分の夫の所行を指しているに違いない。もしかすると愛娘も協力しているのではないだろうか、と溜め息と文句を同時に吐きそうになった口元をすんでの所でとじ合わせる。普段、どちらかと言うと模範的な言動の多いユイなのだが、嬉々とした表情で和人の手伝いをしている時の娘は明日奈に言わせると、だいたい「ろくでもない事」に関わっている場合が多い。とは言え、人を貶めたり危害を加えるような行為ではないと確信しているから、明日奈も気付かぬ振りをするのだが、まさか自分の仕事に対する不当な認識を察知しているとは思わず、更に積極的な介入までとは想定もしていなかった。

知らなかった事とは言え居たたまれず、もごもごと唇を動かすだけで言葉を選びきれない明日奈に対し、男性は、くくっ、と軽い笑い声を漏らす。

 

「まあ、こちら側としても、良い新人研修事案になった、と言っている者もいるくらいで……あまり気にせずに。どちらかと言えば、そちらの所長が動く方がよっぽどの面倒事になる。実はさっきの彼ともそう言い合っていたんだ」

「うちの所長が、ですか?」

「あの人は本気になると『加減』という言葉の意味を忘れるから、本当に色々と面倒なのだよ」

 

観察眼には自信のある明日奈だったが、男性の言う所長の姿とは微妙に食い違っている気がして、きょとん、と目を丸くした。最近聞いた所長の本気と言えば、事務所の近くにあるイタリアンレストランの大盛りチャレンジメニューに事務所の若い子を誘っている時に聞いた「僕の本気を見せるからっ」と息巻いていた台詞くらいで……けれど明日奈の反応さえも、さも当然と言った風で男性はうんうん、と頭を軽く上下に振った。

 

「相変わらず、身内と認めた人間にはのんびり顔しか見せていないのか……結城さんのご主人と違って狡猾な人だからな」

「うちの主人の事も御存知なんですね」

「とりあえずご両人とも『怒らせてはいけないやっかない人物』として認識している」

 

そう言う割りにはどこか楽しそうな口調につられて明日奈も口元を緩める。

 

「先程、主人の名も口にされていましたけど……」

「ああ、実はお名前を存じ上げる前から、その存在は貴女を含め知っていた…………あの事件は法曹界にも激震が走ったからね」

 

抽象的な言い方だったが、それだけで明日奈は息を呑み表情を固くした。

 

「ゲーム世界での死が現実の死と直結し、直接的な死因が全て同じでもその原因究明が不可能な前代未聞の事件だった」

 

当時の状況を窺わせるような重く深い溜め息が男性から吐き出される。

 

「乱暴な言い方をすれば殺人犯は一人だった。けれど全てを背負わせるのは違う、と誰もが感じていたが、《現実世界》から切り離された場所で何が起こっているのか知る術がこちら側にはなく、大事な家族や友人に『死』がいつ訪れるかもわからないと毎日怯えて暮らす日々が二年続き、その間に約四千人近くの方々が別の世界へと旅立った。事件勃発後、当然『被害者の会』は結成されたが、それはあくまでも《仮想世界》に囚われた人達の親族や身近な人間がかの天才ゲームデザイナーを始めハードとソフトの関連企業を訴えるという単純な構図で、その後報告される死者の数が増えるにつれ、特に我々弁護士はこれはとんでもない事件なのだと再認識させられた。何せ人ひとりが亡くなってもそれが自殺なのか他殺なのか、あるいは事故なのか…加害者がいたとしてもモンスターなのかプレイヤーなのかさえ、こちらでは分からないのだから」

 

そこまでを話して男性はそれまでの重苦しい空気を僅かに緩めた。

 

「結城さん、こちら側で待つしかない者は、昨日までベッドの上で眠っていた身内や友人がある日突然死者になってしまった現実をすんなりとは受け入れがたく、大概は『自殺をするような人間ではない、無茶をするような人間ではない』と自分や周囲に言い聞かせ、『もしかしたら誰かに……』と他者に原因を求める。実は私の息子の友人もあの事件の被害者の一人で……ああ、無事に生還が確認できているので気遣いは無用だ。ただ、息子もあの二年間は、もし、その友人が逝ってしまったら絶対にその原因を突き止め、犯人がいればそいつを探しだし法の裁きを受けさせる、と断言していましたがね。そんな関わりもあって事件後、うちの事務所も事件関係の訴訟を何件が受けて私は被害者の方々に話を聞いて回ったんだが、そこで帰還した多くの人達が口にされていたのが『攻略組』と呼ばれる存在だった」

 

懐かしい単語に明日奈の胸が跳ねた。その反応を確認して更に男性の目が優しい弧を描く。

 

「とても美しく可憐で、それでいて強くて厳しい少女がいたそうだよ。『攻略組』とそれを指揮する彼女の存在があったから現実への帰還を諦めなかった人や励まされた人が数多くいた。それにもう一人、集団には属していなかったようだが『攻略組』や戦闘レベルが上位のプレイヤー達の間では有名な全身黒ずくめの少年がこれまた強く、先の少女と二人であのゲームを攻略したという噂まであった」

「それは……その……」

「私はオンラインゲームと言えば将棋くらいしかしないがね、それでも本名を使ったりはしない」

 

恥じ入るように明日奈の視線が下がった。

 

「けれどそのお陰であの事件の数年後、仕事の関係で調べた人物が貴女の結婚相手とわかり、そしてこれ以上ないくらいに納得した」

 

明日奈と男性がしっかりと目を合わせる。

 

「ああ、結ばれるべくして結ばれたお二人だ、あなた方ご夫婦は」

 

結婚する時、祝福の言葉ならたくさん貰った。ただ、自分達二人が寄り添い合う事を当たり前のように喜んでくれたのは、互いの家族と《あの世界》で知り合えた人達がほとんどで、裏では「レクト」CEOの一人娘を手に入れた和人を「うまくやった」と揶揄する声や、「あらあら」と結城の本家の人達が歪んだ笑顔で嘲りの声を上げていたのも知っている。

だからなのか、既に結婚して数年が経っていて二人の間には新しい命まで誕生しているというのに、当時、《現実世界》から傍観するしかなかった人が、法的な目で事件を検証し、事件後に自分達の存在を知り認めてくれたという事実がどうしようもなく嬉しくて、自然と明日奈の声が震えた。

 

「あ…りがとう、ございます」

「それにしても、だね。貴女のご主人も中々に厄介事を引き込む質のようだな」

「は?」

 

一転して思わず気の抜けた素の声を発してしまった明日奈は慌てて口元を手で覆う。

 

「最初は何だったか……ああ、エグゼクティブサーチファームが訴えられた案件か」

「えっと……それは、どういった?」

「とある企業の依頼で貴女のご主人がヘッドハンティングの候補者となったのだが、コンタクトが取れなくてやむを得ず違法な手段をとってね。しかし訴えたのは依頼主の企業側で……共犯と見なされる前に被害者の立場を獲得した形になった。この一件はご主人の耳まで届いてないだろうが、私はあの研究所の上層部が動いたと見ている。他には……世間一般ではご主人は実在しているのかどうかさえ疑われているから、腕利きのフリーライターがその素性を調べるよう大手出版社に依頼されたのに、その情報をライバル出版社に持ち込んだとかで裁判になった」

「主人の情報とは……」

「ところが実際の裁判直前に保存しておいたはずのデジタルデータがバックアップも含め、全て消失して裁判自体流れたがね」

 

ほっ、と息をつく明日奈に男性は「まだあるが、聞く気は?」と意地悪く微笑んだが、明日奈としてはもう十分なので「いえ、有り難うございました」と今まで知らなかった和人の周囲の出来事に軽い苦笑いで礼を述べた。察するに一部の人間には自分達の関係は知れ渡っていて、その上で極力回避されているのだろう。あまり聞こえの良い事ではないが、そのお陰で余計な騒ぎに巻き込まれずに済むのならそれにこしたことはない。

弁護士としては決して愉快な話ではないはずなのに男性は機嫌の良さそうな声で「と、こんな感じで……」と目を細めた後、そのまま明日奈に片目を瞑ってみせた。

 

「貴女の今の姓が『桐ヶ谷』である事を知っている者ならこの会場にもいるが、それがあの研究所でもトップクラスの実力の持ち主と同一人物である事までを知っているのはほんの数名といったとろこだろう。私も容姿までは把握できていないので機会があれば是非拝顔の栄に浴したいものだ…が…………」

 

突然、表情を強ばらせた男性が眉間に力をこめ、唇をギュッ、と引き結んだ。

ゆらり、と揺れた男性の身体が壁に沿って崩れ落ちていく。

頷いていた頭はそのまま糸が切れたように俯いてしまい、表情はうかがい知れない。

明日奈は周囲への配慮も後回しで咄嗟に男性の腕を掴んで転倒を回避させたが、細腕では支えきれるはずもなく、男性の身体を床に敷き詰めてある絨毯の上へ座るようゆっくりと誘導するしか出来なかった。元々の体調不良に予定外のアルコール摂取と明日奈との立ち話で徐々に酔いと高揚感が全身を巡ったのか、ついに平衡感覚を狂わせて座り込んでしまった男性は自由になるほうの手を額に添え、歪みを正すようにゆるゆると頭を動かした。

 

「申し訳…ない」

「吐き気などありませんか?」

「それは、大丈夫……少し調子に乗ってお喋りが過ぎたようだ」

「お迎えの方は?」

「ああ……あと三十分もすれば来るだろう…………なに、今度こそ水でも飲んで…大人しくイスに座っていよう」

 

さすが弁護士だけあって、このような状況でも言葉遣いが支離滅裂になる事はなく、意思の疎通にも問題はないから無闇に周囲へ助けを求める声は必要はなさそうだと明日奈はひとまず詰めていた息を吐き出す。そうは言っても自力で立ち上がるのは危ないし、明日奈一人で大の成人男性を移動させる自信もない。出来れば穏便に済ませたくて、こっそりホテルの男性従業員の手助けをお願いできないだろうか?、としゃがみ込んだまま振り返った明日奈のはしばみ色の瞳は、数名のホテルスタッフとその倍以上の数の交流会参加者達が慌てた様子で自分達めがけて駆け寄ってくる光景に大きく、丸く、見開かれた。

 

「えっ!」

 

どうやらいつの間にか自分達の存在はすっかり認知されていたらしく、それでも話し込んでいた相手が若い経営者ではないせいで声を掛けられずにいたのだと今更に男性が言った虫除け効果を実感する。そして集まってきたのは若者ばかりではなく、むしろ男性と同業の弁護士や明日奈も顔見知りの大手企業の人間の方が多いのだから、こちらは純粋に男性の身を案じての行動だとわかり、この人物の持つ人望のあつさを改めて感じ取った。

しかし元より明日奈達がいた場所は会場の隅の壁際で、そこに向かって明らかに必要以上の人員が押し寄せてきている圧迫感に緊張と恐怖で唖然としていると、次々に人がやってきて、あっと言う間に幾重もの人垣が出来上がる。

 

「ちょっ、ちょっと、待ってくださいっ」

 

人々を制そうとする明日奈の声は全く届かず、どんどん周囲との距離が狭まっていく。

男性の不調の具合を尋ねてくる人はもちろん、気遣いの言葉をくれる人、状況説明を求める人、果ては明日奈とこの男性の関係を問うてくる人の声までが重なり合い、こうなってしまうと誰に反応していいかもわからない。人だかりとなっている中心の明日奈は人々の顔と声に取り囲まれて押しつぶされそうになり、思わず助けを求めるように視線を漂わせた。

 

「アスナっ」

 

その時、大勢の人達の間を縫って、ここでは聞こえるはずのない声が耳に飛び込んでくる。

信じられないが、それでも信じたくて、声のした方を見れば、アスナしか見えていないのか少々乱暴に人の波を掻き分けながら、もどかしさに苛立ちを滲ませて和人が懸命にこっちに向かってくる姿があった。

 

「かっ」

 

思わず「和人くんっ」と呼びそうになったが、今「桐ヶ谷和人」の名前と顔をここにいる人間に知られるのは避けた方がいい、と和人の姿と声でいつもの冷静さを取り戻した明日奈は咄嗟にそう判断して口を閉じる。強引に明日奈の元までやって来た和人は息を切らしながらも「大丈夫か?」としゃがみ込んでいる妻の無事を尋ねた。

和人にしてみれば何がどうなっているのかはわからないが、明日奈は今、壁際に座り込んでいる男性の腕を支えたまま不安に瞳を揺らし、困り切ったように眉根を寄せているというのに、それでも唇を固く結んで、こくん、と頷きだけを返してきて、その反応に焦りが増長する。

 

「アスナ…」

「明日奈くんっ」

 

こんな状況になっても口を利いてくれない妻に周囲の目を忘れそうになった時、和人のすぐ後ろを付いて来ていた彼女の事務所の所長が訳知り顔でその声を遮った。

 

「所長……」

 

心の底から安心した明日奈の声が余計に和人の心を乱す。

 

「アスナっ」

「こらっ、明日奈さん、だろう?」

 

和人の肩に手を置き、動きを制した所長がいつものとぼけた口調でこちらに注目している人達への説明を口にする。

 

「お騒がせしてすみません。彼はうちの事務所の関係者で、僕がいつも結城くんの事を名前で呼んでいるものですから、うちの人間は殆ど彼女の事を下の名前で呼んでるんです……それにしても、いくら慌ててたからって呼び捨てはダメだよ」

 

こつん、とわざとらしく和人の後頭部を拳で一突きした所長は「あとは大丈夫ですから」とホテルスタッフ数名を残して他を追い払うように解散させた。スタッフ二名に両腕を担がれて立ち上がった男性は移動する前にその支えから抜け出して少しだけ微笑んでから明日奈へ一歩近づいて声を潜める。

 

「こんな時に先の願いが叶うとは……黒ずくめの少年は大人になっても貴女の傍が似合う。色々と有り難う、桐ヶ谷明日奈さん」

「あのっ……お、お大事になさって下さいね」

 

和人にも軽く会釈をした男性はそのままスタッフに誘導されて隣接している控え室へとゆっくり足を進めていき、その後ろ姿を見送っていた所長と明日奈、それに和人の三人は揃って安堵の息を吐いた。しかし、すぐに厳しい表情に転じたのは明日奈だ。

 

「所長、どうしてここに……えっと、この人がいるんですか」

 

さっき聞いた話を思い返すと、ここに桐ヶ谷和人がいると知られればこの会場に集まっている殆どの人間が何らかの興味を抱く事は間違いない。

 

「僕も今年は大丈夫だ、って言ったんだけどね。去年は、ほら、この会の後、結構苦労したから」

「結局、今年も取り囲まれてたじゃないか」

 

独り言のように無遠慮に呟いてから「ユイのあの言い方、絶対わざとだろ」と悔しさの中に恥ずかしさを内包させている和人へ所長が宥めるようにポンポン、と肩を叩いた。

 

「だから、さっきのあれはそういうのじゃなかったし。今回は主催者を通してちゃんと注意喚起してあるから。ホントにもう、僕って信用ないんだなぁ」

 

欲しい答えが得られず言葉を変えて再度明日奈が疑問を投げる。

 

「それで?、どうして二人が一緒に?」

「あー、さっき明日奈くんの元にホテルの従業員や会の参加者達がわらわら集まった時、僕も行かなきゃって思ったら、なぜかタイミングピッタリで、うちの事務所の人間が来てる、って会場入り口まで呼び出されてね。で、行ってみたら彼でさ。だからちょっと遅れちゃったけど二人で駆けつけ……そんな目で睨まないでよ、明日奈くん。だって去年の一件で彼にしこたま怒られたから、僕も断り切れなかったんだ」

 

ふえーん、と泣き真似までしてみせる所長に明日奈は殊更大きく肩を落とした。どうせこの人のことだ、入り口に呼び出された時点でその人物の正体などお見通しだったろうし、タイミングの良さの理由も大方予想をつけているだろう。

今回ばかりはユイちゃんと少しお話しなくちゃいけないわね、と決意する明日奈だったが、「ママ」であるアスナの為、そして「パパ」であるキリトの為にと健気に頑張ってくれる娘に対し、結局強くは言えずに終わるのだという未来も容易に予測できて、ふぅ、と今日何度目かになる溜め息をつく。

それをどう捉えたのか、和人は所長に否を言わせない距離まで顔を近づけた。

 

「明日奈…さん、は疲れているようなので、もう連れて帰ります」

「えっ、もう帰っちゃうの?。折角来たんだから二人でもう少し居ればいいのに。結構面白い話が聞けるよ」

 

テーマパークがアトラクション施設にでも居るように目を輝かせる所長へ明日奈も渇いた視線を投げる。

 

「そういったお話は既に伺いました。でも私はともかく、この人は……」

 

自分から遠ざけるかのような発言に和人が顔を不機嫌に歪ませるのを見た途端、逆に所長は可笑しげに、ぷっ、と噴き出した。

 

「ふふっ、明日奈くんて意外と鈍感と言うか怖い物知らずだよね」

「それはオレも認めます」

「うっ、どうしてそこで二人が意気投合するのっ」

 

不満げに頬を染め、拗ねた声で気を許した口調に今度は所長と和人が揃って大仰な息を吐く。

 

「しかも天然」

「まったく……」

 

芝居がかった仕草で両肘を軽く曲げて手の平を上にし、首をブンブンと横に振った所長は「前言撤回」と宣言した。

 

「なんか心配して損したかも。じゃあ来年もこの交流会は明日奈くんに出席してもらうって条件で、今日は帰っていいよ」

「所長!?」

「所長!?」

 

まさに息ピッタリの二つの声が同時に耳に飛び込んできた後、所長のすぐ傍に居た和人が噛みつかんばかりの勢いで詰め寄ってくる。

 

「またさっきみたいにっ」

「落ち着きたまえ」

 

今度は所長が一歩踏み込み和人の耳元まで顔を寄せた。

 

「去年、明日奈くんに言い寄っていた連中は、もうここにはいない」

「それはっ…」

 

起業家として続けてこの会に呼ばれる事はないからだろ、と昼間、所長自らが明日奈に語ったのと同じ言葉を続けようとした和人の耳に豹変した温度のない声が吹き込まれる。

 

「そうじゃない。起業家として、もうこの業界に存在していないんだよ」

 

パッ、と仰け反って顔を離した和人に所長は普段通り、ニコリ、と微笑んだ。けれど小さな声は未だ温度を取り戻してはいない。

 

「当たり前だろう?。うちのスタッフに迷惑を掛けたんだから。日本での存在は許してあげてるけどね」

「今年は大丈夫の意味って…………」

 

ゴクリ、と唾を飲み込んで、今、自分の耳に語りかけてきた声は本当にこの人だったのか?、と半信半疑の視線を送る和人に所長は纏う空気をガラリと変え温かな笑顔で心底安心したように、へにゃっ、と口元を緩めた。一方、所長の言葉を聞き取れなかった明日奈は小首をかしげるばかりだが、それを誤魔化すようにいつもの声で、いつもの口調で、巫山戯ているとしか思えない言葉が披露される。

 

「うん、よかった、よかった。明日奈くんはうちの大事な主戦力だから、そっちの彼が僕を信頼してくれないと明日奈くんもどこか心ここにあらずでポテンシャル発揮してくれないし」

 

その意見に明日奈が慌てた様子でさらに頬を染めた。

 

「しょっ、所長っ、そんな事はっ」

「そんな事あるよ。ささっ、今晩はもう帰っていいから、週明けはいつもの明日奈くんで出勤しておいで」

 

ほんの少し前までは「帰っちゃうの?」と行っていた人間と同一人物とは思えない積極性で所長がグイグイと背中を押してくるので、どこか納得のいかない顔の明日奈と胡散臭い物を見るような目つきの和人は会場の出入り口まで追いやられる。結局は諦めて、「じゃあね」とお気楽に手を振る所長に何度か頭を下げながら挨拶を済ませエレベーターホールまで辿り着いた二人は無言で大宴会場から一階のフロントロビーまでの直通エレベーターに乗り込んだ。他に乗客はおらず、二人だけの空間で並んで立ったまま気まずげに視線を逸らしている和人の様子をこっそり覗いながら、明日奈が口を開く。

 

「あ、あのね、和人くん……」

「ア…スナ……、やっと……」

「……うきゃぁっ」

 

いきなり和人が、ガバッ、としがみつく勢いで明日奈をきつく抱きしめた。

 

「ふぇ?、なに?、どうしたの!?」

「さっきの会場でも全然オレと口きいてくれないし……やっぱり、まだ怒ってるんだと」

「え?……あ、そう言えば……」

 

とにかく和人の名前を口にしないよう、そればかりに神経を使っていて、確かにあの場ではまともに会話をしていなかった事に気付いた明日奈は小さく「ごめんね」と謝った。

 

「それと、さっきは、有り難う……来てくれて」

 

明日奈の両手もゆっくりと和人の背中に回る。

 

「たくさんの人達に囲まれて、誰が何を言っているのかもわからないくらい言葉が飛び交ってる中で和人くんの声だけがハッキリ聞こえたの」

「……」

「そうしたら、すごく安心できて……」

「……」

「ちょっとビックリしたけど……嬉しかった」

「アスナ……」

 

明日奈の身体を包んでいた和人の手が片方だけ柔らかな頬に伸びて、ススッと滑るように撫でた後、上を向くよう促せば同時に互いの瞼が閉じて、当たり前のように唇が重なった。少しきつめに押し付けてふっくらとした触感を感じ、更に揉みほぐすように上下の唇をうねらせ、次に味覚を満足させようと和人の舌が紅唇を這う。次第にそれだけでは我慢できず、あわいを強請るように何度も突けば徐々に隙間が生まれ…………そうになった時「むぅーっっっ」という明日奈の籠もった声と、背中をぺしぺし、と叩く力弱い刺激に、渋々和人が顔を上げた。

 

「どうしたんだ?、アスナ」

「こ、ここっ、エレベーターのなかっ」

「それが?」

「防犯カメラとか…ほらっ、あれっっ」

 

エレベーターの天井の一角には明日奈の慌てぶりを見て、心なしか申し訳なさそうに監視角度を自動回転させているカメラがある。その存在を一瞥して「邪魔だな」と言いたげに、チッ、と舌打ちした和人はすぐさま笑顔で「大丈夫、大丈夫」と軽く明日奈を腕の中に囲って彼女の視界からそれを隠した。

 

「こういうホテルのエレベーター内じゃ、こんなの日常茶飯事だろ」

「えっ、でもっ、もう一階に着いちゃうしっ」

 

そう言われてみれば数時間ぶりに口をきいてくれた嬉しさでついがっついてしまったが、確かにエレベーターの位置表示は既に一桁代のフロアーナンバーだ。高速エレベーターの名に恥じぬ昇降速度に理不尽なイラつきを覚えてしまった和人は「だったら、続きは帰ってからだな」と告げたがエレベーターが止まるまで明日奈を離す事はなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
険悪な二人をなんとかしよう、と実は影ながらユイちゃん、
頑張ってました(苦笑)

あと本作とは全く関係ないのですが、この場をお借りしてお礼を。
(ココが一番閲覧していただける可能性が高いと思いますので)
今月上旬、この《かさ、つな》が数話、無断転載されました。
その際、色々と動いて下さった皆さん、本当に有り難うございました。
無事、解決いたしました事、心からお礼申し上げますm(_ _)m


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短編集・シリカ編

ご本家(原作)様のSAO22巻「キス・アンド・フライ」発刊を祝しまして
短編6本をお届けしたいと思います。
まずはシリカ視点から……。


放課後の学校のカフェテリア……リズさんとアスナさんを待っている私の向かいにはなぜかキリトさんが座っていて、テーブルに片肘をつき、そこに顔を乗せてぼんやりと外を眺めている。

……ま、まるで、放課後デートみたいっ、って意識しちゃうと、途端に心臓がドキドキして顔がポカポカして、私は自分を落ち着かせるために下を向いたままこっそり、すーっ、はーっ、深呼吸を繰り返した。結局あまり効果はない気がして、自分の膝にのっている手ばかり見つめていた顔をほんの少しあげ、上目遣いでキリトさんの様子を盗み見る。そうしたらちょっと物憂げな表情から目が離せなくなってしまった。

うわぁ、睫毛…長い…………髪の毛や瞳の色が真っ黒だからすごく目立つなぁ……肌も色も薄いし……前に本人にそう言ったら「いつも家の中にいるから、日に当たらないせいかもな」って困ったように笑って、そしたら横にいたアスナさんが「じゃあ、今度のお出かけは公園でバドミントンでもしよっか?」って提案してた。

当たり前に二人で出掛ける話をしてるのがすごく羨ましくて、きっと顔に出てたんだと思う。すぐにアスナさんが「どうせなら皆で行く?」って誘ってくれて「行きたいですっ」って返事をしたら優しく頷いてくれたキリトさん。

アインクラッドの三十五層で出会った頃は私の事を妹みたいって言ってたけど、昨日の夜、幼馴染みの女の子達四人で話してたら、その中の一人が部活の先輩とお付き合いする事になったって報告してくれた。その子も最初は先輩から「後輩のお前なんて妹みたいなもんだろ」ってからかわれていたらしいけど、彼女が同じクラスの男子生徒から告白されたって聞いて、自分の本当の気持ちに気付いたみたい。

そんな話を聞いたら、もしかしたら私も、って、諦めきれない想いが胸の中でいっぱいになって、そしたら早速翌日には放課後にキリトさんと二人きりだなんてっ、こんな偶然っ、どうしたらいいのか嬉しいのと困ったのがゴチャゴチャになってる。

キリトさんは相変わらず外を見ながら手にしていた耐熱カップの中身をゴクリ、と一口飲んだ後「アスナ達、遅いな」って私に話しかけてくれた。

 

「そ、そうですか?」

 

選択している講義数が違うから今日は一コマ分の差があるのはわかってたし…それに私としては、もっとずっと二人でいたい。

 

「三人で買い物に行くんだろ?」

 

買い物を楽しむ時間が短くなる事を心配してくれる言葉も嬉しいけど、やっぱり私にはこっちの時間の方がずっと貴重で、心の中で「もうちょっとだけっ」って祈るように膝の上の両手を握りしめた時、カフェテリアの入り口から「シリカーっ」ってリズさんの声が飛んできた。

パタパタと元気良くこっちにやってくるリズさんの後ろで優しげな微笑みのアスナさんの長い髪がふわり、と揺れている。

私の目の前まで到着した二人はキリトさんの存在に驚いて目を丸くした。

 

「どーしてアンタまでいんのよ、キリト」

「最後の授業、休講になったんだよ。コーヒーでも飲んでから帰ろうと思ったら、ぽつんとしてるシリカを見つけてさ」

「あのっ、私はいいって言ったんですけど、キリトさんが、リズさん達が来るまで一緒に居てくれるって」

 

あわあわと説明する私にアスナさんの眉がハの字に下がる。

 

「校内とは言え中等部の女の子が放課後、カフェテリアに一人は心細かったよね……ごめんね、待たせて」

「そうね、変な男子が声かけてこなかった?」

「大丈夫ですっ、キリトさんが一緒だったし」

「こんなのでも虫除けになったんならよかったわ」

「…こんなのって……、リズ……」

 

不満げに唇を尖らせているキリトさんには構わず、リズさんは思い出したように「あっ、変な男子って言えば……」と私に顔を近づけてきた。

 

「この前の告白、返事したの?」

「リズさんっ」

 

こんな時に聞いてこなくてもっ、って言うか、その話、リズさんに全部報告しなきゃダメなんですかっ?!

周囲には気を遣ってくれたみたいだけど、すぐそばのキリトさんとアスナさんにはしっかり聞こえちゃって、アスナさんは口から飛び出しそうになった驚きを咄嗟に手で抑え込んでいる。けど意外にもキリトさんは「えっ」と眉を跳ねかせてから真剣な目で「シリカ」と私のキャラネームを呼んだ。

 

「そいつ、うちの学校のヤツなのか?」

「は、はい……」

「どんなヤツだ?、クラスは?」

「……キリト、さん……」

 

熱心に聞いてくるキリトさんの表情は真剣そのもので、その真っ直ぐな瞳に私の心臓がまたドキドキと反応を始める。

え?、なんでキリトさん、そんなに告白してきた人のこと気にしてくれるんですか?……もしかして他の男子が告白したのを知って、私のこと…………。

その時、携帯のデフォルト着信音が聞こえて、アスナさんが慌てて鞄の中から端末機を取り出した。

 

「はい……えっ、今日はこれから約束があるから……でも…………」

 

アスナさんは端末に手を被せて一旦会話を中断させると「リズ、シリカちゃん」と私達の方に顔を向け「ごめんね」と弱々しい声で謝ってくる。

 

「もうちょっとだけここで待っていてくれる?」

「あー、アスナもなのね。いいわよ。ねっ?、シリカ」

「はい」

 

きっとアスナさんは私達との約束を優先してくれようとしたんだと思う。けど、それを受け入れられない事情が相手にはあるみたいで、私は今日、少しくらい帰りが遅くなっても平気だからアスナさんにそんな申し訳なさそうな顔をしてもらわなくても大丈夫。

アスナさんは繰り返し「ホントにゴメンね」と言ってから、チラッ、とキリトさんの表情を覗った後「すぐに行きます」と通話相手に返事をして端末を鞄にしまい、カフェテリアから出て行った。姿が見えなくなるまで見送っていたリズさんが私の隣の椅子に腰掛けてくる。

 

「じゃっ、私達はアスナを待つ間、シリカの告白話でも聞こうじゃないのっ」

「リ、リズさんっ、私が告白したわけじゃありませんっ」

「それにしてもキリト、やけに質問してきたけど、やっぱり気になるの?、相手の事」

 

きゃぁぁっ、リズさんってば、なんでそんな事、ずばっ、と聞いちゃうんですかぁっ。

キリトさんの返事、聞きたいけど、ここで「気になる」って言われたらどうしよぅ、と頭の中であたふたしている私を見ながらキリトさんは「そりゃあ、気になるだろ」ってあっさりと、と答えた。

 

「シリカはオレにとって妹みたいなもんだし。付き合うならちゃんとしたヤツじゃないと」

「アンタの言う、ちゃんとした、ってどういうのなのよ」

「それよりアスナの用事って……」

 

リズさんと話ながら携帯を取り出したキリトさんはジッと画面を見つめている。

 

「どうせ察しは付いてるんでしょ?」

「ちょっとオレも行ってくる」

 

何の事かわからない私をそのままにリズさんが「はぁっ!?」と声を荒げたが、キリトさんは持っていたカップをグシャリと握りつぶしながら既にテーブルに手をついて腰を浮かせていた。

 

「別に割って入るような真似はしないし」

「当たり前でしょっ。そんな事したらアスナにめちゃめちゃ怒られるに決まってるんだから……あのねぇ、そんなに心配しなくても大丈夫よ。私も知ってるヤツだし……」

「そういう問題じゃない」

 

リズさんの言葉を低い声で遮ったキリトさんは私達二人を置いてきぼりにして足早にカフェテリアから立ち去ってしまった。

 

「あーもーっ、アスナならすぐ戻って来るのにっ。アイツはアスナの事となると堪え性がないってゆーかっ」

「リズさん、アスナさんはどこへ行ったんですか?」

 

アスナさんさえ予定外の事みたいなのに、端末の短いやり取りで事情が把握できてるらしいキリトさんは珍しくリズさんの意見も禄に聞かず、ほとんど振り切るようにして行ってしまって、事情のわからない私はただポカンとするばかりだ。

 

「私も場所までは知らないわよ。でも、多分だけどこの前告白された相手に返事をせがまれたんでしょ。普段から温厚って言うか、ちょっと気の弱い男子でね、告白は携帯端末でしてきたけど、アスナからの答えは『どうせフラれるんだから二人きりで会って聞きたい』って言われたらしいわ」

「へぇ。もう断られるの前提で告白してきたんですか」

「そりゃあ、あの子、今までの告白も全部キレイに断ってるし、それにアイツがいるでしょ」

 

確かに校内でも二人でいる姿は中等部の私でさえ度々目撃してるし、その様子が二人にとっては「いつも通り」なんだろうけど周りの人間からしたらどう見ても、リズさんがよく言う「イチャイチャする」って感じで、私は見るたびに羨ましさでいっぱいになっている。けど、今はそれよりもリズさんの言った「今までの告白」という言葉で、アスナさん、一体今までどれだけ告白されてきたんだろう、って若干顔が引きつった。

 

「キリトさん、アスナさんに告白したお相手がどんな人か気になるんでしょうね」

 

私の時だってあんなに気に掛けてくれたんだから、と思って言ったら、なぜかリズさんには小馬鹿にしたような冷めた笑顔を返される。

 

「はっ、アイツが今更そんなの気にするわけないじゃない。いい?、シリカ。アイツはね、アスナに告るヤツはどんな人間でも気に入らないのよ」




お読みいただき、有り難うございました。
さんざん使わせていただいている原作設定ですが、アスナの位置情報は
キリトの端末に表示されてます。


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短編集・シノン編

続きまして、シノン視点です。


ポーンポーン、とボールがバウンドするようなドアチャイムの音に私は素早く立ち上がった。

少し前までならこの安アパートを訪れる人なんているはずもなく、自分の部屋だというのに「こんな音だったんだ」と最近改めて気付いたくらいで、でも今日に限ってはこの音を聞くのは二回目になる。

一回目は今から三時間ほど前…………

 

 

 

 

 

『施錠はちゃんとしろよ』

『そうだよ、シノノン。女の子の一人暮らしなんだから、鍵は最低でもあと二つは必要じゃない?』

 

自宅の敷地内には剣道の道場まであるというキリトと都内の高級住宅街に住んでいる社長令嬢のアスナは私の小さな部屋にも躊躇わず届け物をしにやって来たけど、『お茶でも飲んでいけば?』という誘いには二人揃って玄関で首を横に振った。

 

『有り難う、シノノン。でも今日はそれを届けに来ただけだから』

『陽が落ちるのが早くなったしな、暗くなる前に戻るよ』

 

戻る……要するにキリトはこのままバイクでアスナを世田谷の自宅に送り届けるのではなく、もう一度川越の自分の家まで連れ帰るらしい。

 

『わざわざ来て貰って悪かったわ』

『そんな事ないよ。ちょうど困ってたの。シノノンが引き受けてくれて助かったんだから』

 

本当に花が綻ぶように笑う人っているのね、と初めて見た時から変わらないアスナの笑顔が真っ直ぐ私に向けられて、その威力は絶大で、この部屋のチャイム音よりももっと長く忘れていた私の笑顔をほんの少し引き出してくれる。

元より一人暮らし用の安くて狭いアパートだから玄関口には人一人しか立てるスペースがない。そこにアスナがいて、キリトは完全に閉まりきっていないドアから身体半分を覗かせて、早くアスナを連れ帰りたくてムズムズしているの、わかってるわよ。

わかっていないのはアスナくらいでしょ。

意外とそういう所はお嬢様育ちのせいなのか、元来の気質なのか、逆にそこに翻弄されているキリトをこっそり見るのは悪くないわね、なんて思ってしまうあたり、私も結構意地が悪いかも。

とにかくこれ以上引き留めると本当にキリトがヘソを曲げかねないし、そうなると以前頼んだBoBの助っ人もあやしくなってしまうから、私はもらった荷物を少し持ち上げて『これ、ほんとにご馳走様』とサヨナラの代わりにもう一回お礼を言った。

それなのにアスナは内緒話をするみたいにこちらに身を寄せてきて『今度はシノノンのお部屋に泊まりにきてもいい?』なんて聞いてくる。

すぐに浮かんだ言葉は「アスナ……あなた、普段、あんな家で暮らしてて私のこのボロアパートで寝られるの?」だったが、前にアスナとリズが遊びに来てくれた時の第一声も『うわぁ、きちんとしてるね、シノノン』で、単に物が少ない部屋なのよ、と思ってみても私はいつもの否定の言葉じゃなくて、消え入りそうな声で『あ、ありがとう』と返してしまって、やっぱり今回も『いいけど』と頭にあったのとは違う言葉が勝手に零れてしまった。

そこでさすがに痺れを切らしたキリトが『絶対ねっ』と嬉しそうに言っているアスナの手を引っ張ってようやく二人は帰っていったわけだが……今日、二回目のチャイムボタンを押したのはリズだ。

 

「いらっしゃい」

「おっじゃまっしまーす」

「道、大丈夫だった?」

 

以前、アスナとリズが来た時は昼間だったが、この辺は夜になると結構暗くて細い道も多いし慣れないと迷ったりする可能性も高い。

 

「うん、前にも来てるし…………わっ、いい匂いっ。っと、その前に、はい、これ」

 

鞄から取り出したのは私が《ダイシー・カフェ》に忘れていったメガネだ。

 

「助かったわ。取りに行ける時間なくて」

「ここの最寄り駅から私の家までは乗り換え一回だし、たまたま今日、エギルに用があったから。それよりシノンの方こそ、このメガネなくて大丈夫だったの?」

 

視力という点では伊達眼鏡だから問題はないけど、私がメガネをかけている理由を知っているリズは不安げにこっちを見つめてくる。

 

「ええ。これは休日用なの。学校にはまだいつものメガネじゃないとダメだけど、休みの日に《ダイシー・カフェ》を往復するくらいなら、特注品じゃなくても平気になってきたから」

「そっか、ならよかった」

 

その安心はこれが予備のメガネだったからか、それとも私の「防具」の必要性が少しだけ薄らいできたと知ったからなのか、きっと両方ね、と確信させるリズの笑顔はアスナとはまた違う威力があって、私が不安定になりかけると「慌てなくていいからね」と、ゆっくりのんびり落ち着かせてくれる。

休日用とはいえ在るはずの物がない落ち着かなさを解消できた私は受け取ったメガネをケースにしまってからリズを食卓に招いた。

 

「どうぞ座って。すぐに食べる?」

「もちろんっ。こんな匂い嗅いで我慢できるわけないでしょっ」

「たくさんあるから、って言っても私が作ったわけじゃないけど」

「ほーんと、アスナったら、これまた随分頑張ったわねぇ」

 

テーブルに並べてある料理はどれもさっきアスナとキリトが持って来てくれた物だ。

今日はアスナがキリトの家へいつものように料理を作りに行ったらしいのだけど、途中、買い物をした先で随分と食材をオマケしてもらったとかで、それが偶然にもキリトの母親が用意しておいてくれた食材と重なって、結果、どこかの運動部の合宿か学校給食か?、という量が出来上がってしまったらしい。

冷凍保存にもしたそうだが、それでも桐ヶ谷家の冷凍庫には入りきらず『迷惑じゃなかったら』とアスナから連絡がきたのである。

一人暮らしの身には助かるばかりで、それがアスナの手料理となれば逆に無料(タダ)で貰っていいの?、と気後れしてしまうくらいだったから、ちょうど忘れ物を届けに来てくれるというリズが一緒に食べてくれるなら私としてはとても有り難い。

鍋で温め直していたブラウンシチューを二人分お皿によそってテーブルに並べれば、いつもはスカスカの食卓が今晩は料理の豊富さと食べる人数が増えたせいで隙間もないくらいに賑わっている。

 

「アスナったら、食後用にフルーツタルトまで持って来たのよ」

「あの子……キリトの胃袋だけじゃなくて桐ヶ谷家全員の胃袋を掴んでいそうね……」

 

二人で向かい合わせになって座り、手を合わせて「いただきます」と言ってからお互い申し合わせたようにシチューを口に運ぶ。

 

「お肉、ほろほろでやわらかーい」

 

リズがまるで落ちるのを防ぐかのようにほっぺたに手を当てた。アスナが今晩は私が何も用意しなくていいようにと、さすがにこれは買ってきた物だと言っていたが、しっかりパンまで荷物の中に入れてきてくれたので、それをちぎって少しシチューに浸し味を染み込ませる。

パンの香ばしさとシチューの深い味を口の中で同時に感じているとリズが料理を見渡して「それにしても」と息を吐いた。

 

「なに、このメニュー。キリトの好物ばっかりじゃない」

 

多分、今頃、桐ヶ谷家でもキリトが舌鼓を打っているだろう。

だが、ここまでのレベルになるとアスナがキリトの好物を作っているのか、アスナの作った料理がキリトの好物になっているのか、判別は難しい。だいたい二人の食べ物に関しての唯一の相違はキリトがVRでゲテモノ食材をゲットしても絶対アスナは調理をしないという点くらいで、それだって冷静に考えれば、どうしても食べたいのなら多少の出費はかかるがプレイヤーレストランに食材を持ち込んで調理をしてもらえばいいだけの話だ。

結局、キリトはアスナが作った料理を食べたいのだと結論づけた私は次回のBoBで黒の剣士の手綱を握る人物に援護要請のOKをもらえた事に心強さを感じ、うんうん、と胸の内でほくそ笑む。けれど、そんな私の心中を察したようにリズが「あ、そうだ」と話しかけてきた。

 

「シノン、あんた、アスナの事、キリトの暴走制御役に、って次のBoBに誘ったでしょ」

「よく知ってるわね」

 

とは言ってみたが、アスナとリズは親友同士だし学校も同じなんだから、話が伝わっていても不思議じゃない。

 

「それ、諸刃の剣だから気をつけなさいよ」

「……どういう意味?」

「確かにキリトの暴走を食い止めるにはアスナが一番だけどね。逆にアスナに銃弾の一発でもかすってごらんなさい……アイツ、マジギレするから」

「…………」

 

ついさっきまでの心強さが一瞬にして灰になった気がした。




お読みいただき、有り難うございました。
キリトが暴走する制御装置でもあり、起動装置でもあるアスナさん……。


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短編集・エギル編

そしてかなりレアなエギル視点です。


ぺらり、と雑誌のページをめくる小さな音は気が抜けていて、聞くだけでやる気のなさが伝わってくる。俺はグラスの手入れをしながらその音を生み出したカウンター席の少年に「おい、キリト」と話しかけた。

自分の店を構えると決まった時にこだわって選び抜いた自慢のカウンターボードへ頬杖を突いて、今時珍しい紙媒体の印刷物をおざなりに眺めている腑抜け者の名は桐ヶ谷和人。だが俺は「キリト」というキャラネームでしかヤツを呼んだことがない。

そのキリトは今、学校帰りに堂々と制服姿のまま御徒町の俺の店に寄り道をしているというわけだ。

しかも今は営業時間外だと言うのに、遠慮の欠片もない不遜な態度で当たり前のように店に入ってきてカウンタースツールに腰掛け、ボソリと「ジンジャーエール、頼む。辛口で」と注文まで投げて寄越した。おいおい、と思いつつもジンジャー・リキュールの瓶を手に取ってしまう俺はつくづくコイツに甘い。

あのデスゲームに閉じ込められた時、下層で知り合ってからいつ途切れてもおかしくない程度の関係性がなんだかんだと今も続いているのは俺がお人好しのせいなのか、女神の化身かと噂される程の美貌の持ち主であるヤツのパートナーの加護なのか、はたまたこれはもう運命なのか……むすり、とした表情は可愛げなど毛ほどもないのだが、どうにも邪険に出来ない程には気に入っているんだろう、という推測は絶対に本人には知られたくない。

雑誌に夢中で俺の声が聞こえていないのか、はたまた俺の声が聞こえているのに反応を見せないのか、……まず間違いなく後者だろうな、と当たりをつけて俺はもう一度、さっきよりも強く「キリトっ」と奴の名を呼んだ。

いかにも面倒くさそうな目がこちらを見る。

 

「なんだよ、エギル」

「なんだよ、じゃねえ。用がないなら帰れ。アスナと待ち合わせってわけでもないんだろ」

 

確信を持って言い切ればキリトは少し悔しそうに視線を逸らした。客商売の俺の目を侮るなよ、普段は飄々とした態度だが、ここでアスナと待ち合わせの時はモゾモゾ、ソワソワが止まんねぇ事をコイツ自身気付いてないんだろうが……。

言外に「こっちは夜の仕込みで忙しいんだ、お前の相手はしてられん」と軽く睨めば、諦めたような溜め息をひとつついて、雑誌をぱさっ、と閉じ、不承不承の態で「わかった」と言ってから残っていたジンジャーエールを飲み干す。

深刻な悩みならこっちが問いかけずとも口を開くはずだから、どうせここ数日、アスナが忙しくてまともに相手をしてくれない、あたりの理由で拗ねてる程度だろ、と思って、今夜、店を閉めてからALOのクエストでも一緒にやるか?、と誘いの言葉をかけようとした時だ、店の扉がまたもや開いた。

 

「おーっ、エギルっ、なんか冷てぇモン、くれっ」

「……クライン、お前もか……」

 

今日はつくづく「準備中」の札の無意味さを痛感させられる日だ。こうなってくると半ば本気で準備時間中は内から施錠すべきか?、と考えたくなってくる。

キリトと同じようにあのデスゲームきっかけで《現実世界》でも付き合いが続いている壷井遼太郎こと「クライン」がワイシャツの第一ボタンに続き、第二ボタンまで外しながら店に入ってきた。ちなみにこっちの男は歴とした社会人だ。

 

「久しぶりに仕事でこっちに来たら、時間も時間だからそのまま直帰していい、ってなってよ」

 

そしてコイツは聞かなくとも喋りたい事は喋り倒す男だ。

 

「なんだよ、キリトも来てたのか」

 

どかっ、と少々乱暴な仕草でキリトの隣のスツールに腰掛けたクラインは反対側に持っていた荷物を置くと、今、まさに立ち上がりかけていた身体を抑え込むようにして制服の肩に手を置いた。

クライン……もう少しで俺が店の仕込みに集中できるようになるところだったのに、お前という男はどうしてそういうタイミングで現れるんだ。しかもキリトの顔色など気にもせず、やれ乗ってきた電車の中でマナーの悪い乗客がいただの、やれ仕事先で出された茶が薄かっただのと口を動かし続けていて、他に客がいないせいか、その無駄にデカい声は止まる事を知らない。俺はそれを適当に聞き流し、確か奴は「冷たい物」を欲していたな、と思い出して、もう氷水で十分だな、とウォーターサーバーのコックに手を伸ばす。

しかしキリトの方はグズっていた少し前の姿が嘘のように、素っ気なく「もう帰るとこなんだ」とクラインの声を断ち切ると、広げていた雑誌を仕舞おうとカバンを手に取った。それを目聡く見つけたクラインが一段と声を高くする。

 

「なんの雑誌だよ、キリト……ああ?、『ソフトウェアの実用的デザイン特集』?……お前なぁ、健全な男子高校生ならもっと相応しい雑誌があんだろっ」

 

すぐに自分の鞄の中身を漁り始めたクラインはすぐさま一冊の紙媒体を取り出した。

 

「ほらよっ、会社の後輩がくれたモンだがお前に貸してやってもいいぜ、キリト」

 

バシッ、と勢いを付けてカウンターに置いた雑誌の表紙には見事なプロポーションを惜しげもなく晒した若い女性が二人、官能的なポーズでこちらに微笑みかけている。俺は痛み始めたこめかみをグリグリと手でほぐしながら「クライン……」と唸るようにヤツのキャラネームを呼んだ。

 

「なんだよ、エギルもか?、いいけどよ、嫁さんに見つかるなよ」

「そうじゃない」

 

誰かコイツをなんとかしてくれ……どう言えば伝わるのか、言葉に迷っている間にクラインはウキウキとページをめくり始めている。

 

「俺はどっちかって言うとこっちがタイプだな。このへんのラインとか、ここの丸みとか……あー、でも顔はこっちで……キリの字、お前はどうなんだよっ」

「んー……」

「気のねぇ返事だなぁ。他にもたくさん載ってるぜ、持って帰っていいからゆっくり見ろって」

「いや、別に……」

「遠慮すんなっ、十代後半なんて触りたいお年頃・揉みたいお年頃・吸い付きたいお年頃だろーがっ」

 

目と口がにんまり、といやらしげな三日月型になったクラインに俺は悲哀の目でヤツを一瞥した。

 

「クライン……お前いい加減にしろよ。いいからその雑誌、仕舞え」

「なんでエギルの旦那が怒るんだよ」

「怒ってるわけじゃない。馬鹿馬鹿しい話をこれ以上聞きたくないだけだ」

「馬鹿馬鹿しいって、随分だな……」

「よく考えてみろ、その雑誌に載ってるグラビアアイドルなんて顔負けの存在がいつもコイツのすぐ傍にはいるだろ。そんな雑誌、見せるだけ無駄だ」

 

そこでようやく何かに気付いた様子のクラインが「あー……」と声と共に今までのテンションまでを吐き出して、そっ、と手元の雑誌に目を落とした。多分、そこに載っている女性の柔らかく膨らんだ胸にくびれた細い腰、弾力のある肌さえ霞んでしまうだろう少女の存在を思い浮かべているのだろう。しかしその途端、キリトが、ダンッ、と音を立ててクラインの持って来た雑誌に手をつき、今日一番の生命力溢れる炎の色でヤツを睨んだ。それから鋭い一言を放つ。

 

「想像すんなっ」

 

一瞬、場が凍り付いた。

けれどその沈黙はキリトのポケットの中から鳴り響いた端末の着信音で砕かれる。

 

「アスナ?……ああ、まだ外だけど…………わかった。じゃあ、今夜、ログハウスで待ってる」

 

何事もなかったかのように、いつもの不敵な笑みを浮かべジンジャーエールの代金を寄越したキリトは「ごちそうさん、エギル」と俺に言い「じゃ、お先に」とクラインに挨拶代わりの言葉をかけ、軽い足取りで店を出て行く。

すっかり縮こまってしまったクラインが小さく「こえぇっ」と声を吐き出せたのはキリトの姿がすっかり居なくなってからだった。




お読みいただき、有り難うございました。
男性陣しかいないのでクラインの発言も下世話な感じになってました。


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短編集・リーファ編

リーファ視点です。
「劇場版オーディナルスケール」をご覧頂いてなくても……大丈夫かな?


秋葉原で『オーディナルスケール』をアスナさんと一緒に挑戦してきたお兄ちゃんが帰宅するなり私の部屋のドアをノックしてきた時は驚いた。いつもならデートから帰って来た後もすぐにお風呂を済ませてアスナさんと長電話をするか、《仮想世界》にダイブするかの二択がほとんどだからだ。これは急遽クエストの応援要請かな?、という私の予想を裏切ってお兄ちゃんは普通に「スグ、これから、時間あるか?」と、誘いともとれる言葉を投げかけてきた。

 

「えっ?、う、うん。大丈夫だけど?」

 

たまにはアスナさんじゃなくて私を夜のツーリングに連れて行ってくれるの?、なんて淡い期待は一瞬の後に消えてなくなる。

 

「今晩、ログハウスに来てくれ。皆に話したい事があるんだ」

「あー……うん、わかった」

 

集合時間を聞いて、私はうっすーい笑みを浮かべ「じゃ、あとでね」と言って静かに、けれど素早くドアを閉めた。

 

 

 

 

 

ALOの《イグドラシル・シティ》にログインした私は上昇気流に乗って上空に浮かんでいる鋼鉄の城目指し空を駆け上がる。今日の風はいつもより勢いがあるみたいで私を軽々と押し上げてくれて、それにつられるように私のスピードもどんどんと加速していった。

そのせいだろう、想定していた時間よりかなり早く到着してしまいそうになって、私は二十二層までやってきてから途中で一旦地面に降り、周辺を見渡した。

妖精郷の空に《浮遊城アインクラッド》が実装されてこの二十二層が開放されるまでは半年以上かかったけど、ほぼ全面が深い森と草原と湖で構成されているのは、アスナさん曰く「あの頃のまんまだね」らしくて、要するに刺激的要素がかなり少なめに設定されている場所なのだ。ある意味、癒やしの層、と言えなくもないが、そういった大自然感なら既にALOの世界で十分に味わっているから、ハッキリ言ってクエストやモンスターとの戦いを求める妖精達にとっては人気のあるエリア…とは言いにくい。

この場所にシルフやケットシーの領主、サラマンダーの将軍が時折訪れているなんて、きっと誰も予想出来ないだろう。

当然いつも彼らのお目当てはこの先の森の中にあるログハウスで、手土産にと持参した食材はいつも最高級の料理となってテーブルに並び、賑やかな語らいの場をより一層盛り上げてくれる。

だから同様に私も二十二層内ではあの森の家にしか行った事がなかったけど、ふと、前に聞いたアスナさんの話が頭に浮かんで、ちょっと確かめてみたくなったのだ。

 

『キリトくんたらね、眼と勘だけで見つけたんだぞ、って…相変わらずメチャクチャよね』

 

困ったように笑うアスナさんは本当に綺麗で、私は思わず見とれてしまうそうになった自分を誤魔化す為に『キリトくんらしい』って笑ったんだっけ、と思い出しながら広大な湖のほとりを歩く。

 

「あっ……ここ、かな?」

 

うわー、ほんとに……こんなの普通気付かないよ、と呆れつつも、これを見つけた時のキリトくんの笑顔と、更にそれをアスナさんに教えた時の得意気な表情を想像して私の頬も自然と緩んだ。

そこは事前に聞いてなかったら全く目に付かないほど細い道で、目印になりそうなのは高い針葉樹くらい。それに私は目的地であるログハウスの位置を知ってるから探せたようなもので、これを自力で見つけたというキリトくんの…何と言うか、執念?、幸運度?、ゲームセンス?……素直に羨ましいとは思えない何かがこのうっすらとした細い道に凝縮されているような気がする。

それから私はキリトくんがあのデスゲームで見つけた道と同じであって同じではないここを歩いてみよう、といつもなら空をひとっ飛びで到着してしまう森の家を目指し、そっ、と足を踏み入れた。

慣れてしまえば、そのうっすらとした道を見失うことはなく、なだらかな丘を登り切ればあの優しい佇まいのログハウスが見えるはず、と殊更のんびりと周囲の様子を楽しみながら歩いた私が緩やかな頂上に立った時、風に乗って来たふたつの声を耳が捉える。

 

「んー、やっぱりどう頑張っても足りないかも」

「クライン達にはなくていいだろ」

「そうはいかないよ」

 

アスナさんとキリトくんの声だ。

風向きもあるけど風妖精族は聴力に長けている。そうは言っても室内の声や音は外に漏れるはずがないから、二人はログハウスの外で会話をしているのかな?、と思えば、次のアスナさんの声でその疑問は解消された。

 

「キリトくん、ウッドデッキの揺り椅子、中に入れてくれる?」

「おう」

 

意識を集中して耳を澄ませればほんの少しの違いだけどアスナさんの声の方が多少籠もって聞こえる。それに僅かだけど陶器の食器を重ねたり、金属の……あの家には銀のカトラリーがフルセットで何組もある……フォークやスプーンが擦れる音がして、それでアスナさんはこれからログハウスに集まる人数分の接待準備をしていて、キリトくんは外にいるから玄関の扉が開いたままなのだと気付いた。

でも普段から来客は多いはずだし、この前、外でバーベキューをした時はそれこそ十何人の妖精達が集まったはずで、今更食器類が足りないなんて事態にはならないはず、と不思議に思いつつも丘を下ろうとすれば未だに扉は閉じられていないらしく、二人の会話と、キィ、キィ、と規則的に椅子の揺れる音が流れてくる。

 

「お皿やティーカップは十分あるんだけど……」

「声を掛けたのがリズ、シリカ、シノンにリーファだろ、あとエギルとクライン」

「キリトくんはそのままそのイスでいい?」

「ああ、俺の指定席だしな……だいたいオレとアスナ、ユイの三人で使ってるプレイヤーホームに三人掛けのソファが二組って、十分だと思いますけど」

「そうよね。揺り椅子だってあるんだし……考えてみたらちょうどメンバー全員がこのお家に揃う事ってなかったから今まで気付かなくて」

「大人数の時は外も使って飲み食いしちゃうしな」

「うん、あれはあれで楽しいよね」

 

アスナさんの嬉しそうな声はきっとあのバーベキューの時を思い出しているんだろう。

偶然、耳にしてしまったこれまでの会話で足りないのはイスの数なんだとわかった私はそのままログハウスに向けて歩き始めた。確かにゲストの頭数は六つだけど、あのソファ、エギルさんが座ったらあと二人、座れるかな?、と思いつつ、視界に入ったログハウスの扉はまだ開いたままになっているから二人の声はどうしても聞こえてしまう。

 

「足りないのはあと一人分なんだろ?」

「うん、だから私は別に立ったままでもいいかな、って」

「ここに座ればいいじゃないですか」

「ひゃっ…………キ、キリトくんっ」

 

突然、アスナさんの跳ねた声と同時に揺り椅子の、ギッ、と床を擦る音がして「えっ?」と思った次にはすぐにキリトくんのしれっ、とした声がした。

 

「別に、しょっちゅうこうしてるし。この揺り椅子、丈夫ですし?」

「だっ、だからって、皆がいる前では駄っ……ン」

 

不自然に途切れたアスナさんの声の理由は考えないようにして、私はお兄ちゃんに言われた集合時間ギリギリまでどこかで時間を潰すべく、もう一度羽根を出して飛び上がるとその場から急速離脱をしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
劇場版OSでメンバーがログハウスに集まっているシーン、
結局エギルとアスナが立ってましたね(笑)


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短編集・リズ編

リズ視点です。
こっちは「劇場版オーディナルスケール」をご覧頂いてないと
ちょっとわかりづらいかも……。


店内を見回し、イスに腰掛けている見慣れた黒ずくめの後ろ姿を見つけて私は「お待たせ」と声を掛けた。

顔だけをこっちに向けたキリトは、持っていたカップをテーブルに戻して「よっ」と短い声を返してくる。

 

「悪いな、リズ。呼び出して」

「別にいいけど……ん?、コーヒーだけ?、アンタにしては大人しめね」

 

私はキリトの向かいの席に腰をおろすとテーブルの端をタップしてメニューウィンドウを出した。

このカフェは主街区の中心からは少し外れているけど、そのお陰で混雑もしていないし窓の外の景観もなかなかでオマケにメニューの種類が豊富な事もあり、随分前にアスナに教えてもらってから私のお気に入りの店のひとつになっている。

だからキリトから相談事を持ちかけられた時、だったら、とこのカフェを指定したんだけど、階層と店名を言ったらすぐに「ああ、あそこか」って知ってたみたいだから……まぁ、そうよね、私に教えるくらいだもんね、既に二人で来た事があるんだろう。

あまりない事だけど、こんな風にアスナ抜きで会う時、キリトは絶対にログハウスを選ばない。

もちろんアスナがあの場所をとっても大事に思っているのを知ってるから私達も勝手に押し入ったりはしないけど、きっと色々考えた末の行動じゃなくて、キリトにとってもあの家は、アスナと一緒にいる場所、なんだと思う。

まあ、アスナの作ってくれるスイーツが食べられないのは残念だけど、ここのはここのでまた美味しいし、とメニューを上から順に眺めながら「どれにしようかしら」と迷い、悩む。

折角だからここのメニューでまだ食べたことのないケーキは、と考えつつ、そう言えばこの前ログハウスで食べたアスナお手製のチーズケーキ、美味しかったなぁ、と思い出し、選択肢からチーズケーキを除外した。

ちらり、と見ればキリトのコーヒーも既に半分以上減っている。

 

「キリトも何か追加オーダーする?」

「そうだな、じゃ、同じのをもう一杯」

「え?、またコーヒー?、どうしたの?」

「どうしたの、って…別に……」

 

手持ちのユルドが底をつく程くだらない買い物でもしたのかと思って、今日の相談事ってもしかして破格の金額で武器メンテをしてくれ、とか、そういうヤツ?!、と思わず警戒の目で見てしまった私にキリトは「あーっ…、うー…、えーっと……」と殆どア行の言葉だけを吐き出し続けている。

 

「わ、わかったわよ、ここはオゴってあげるから」

「ちがうって!」

 

焦り顔で身を乗り出して私の心優しい申し出を拒否したキリトは「とにかく、オレはコーヒーでいいんだ」と言い切ってから珍しく少し視線を泳がせたままメニューウィンドウを指さした。

 

「オレが呼んだんだし、リズの分もオレが持つから」

「ほんとに?、いいの?、じゃあちょっと贅沢して、このアップルシュトロイゼルクーヘン・ベリーソース添えにカフェオレ!」

 

ぴっ、ぴっ、とメニューをタップして、ついでにキリトのコーヒーもオーダーする。

一気に機嫌を良くした私がうきうきと声を弾ませて「で?、相談ってなんなのよ?」と、何でも来いっ、の心意気を表した言葉にベリーソースではなく笑顔を添えるとキリトは残っていたコーヒーをズビッと啜って「例えば、なんだけどさ」と話し始めた。

 

「例えば、……付き合ってる彼女の家に行く時って、やっぱり手土産とか持って行った方が…………いいよな?」

「はっ?」

「だから……あ、そうそう、オレの友達がさ、今度、恋人の家に行くらしくて……それで、さ、親にも顔を合わせる……かもしれなくて……」

 

その、取って付けたような例え話って言うか、自分の事のくせに架空の友達登場させるの、やめなさいよね……と言いたかった私は、って言うかもうほとんど言っちゃう一歩手前だった私は、咄嗟に頭の中で「アップルシュトロイゼルクーヘン・ベリーソース添え」を三回唱えて湧き出てくるはずのない唾をごくんっ、と飲み込む。

 

「へぇ、そうなの…ふーん、例えばね……なるほど、キリトの友達が彼女の家に……そーなんだぁ」

 

結局、例え話なのか友人話なのかどっちつかずのまま話は進行した。

 

「ああ、その……初めて母親に会うんなら、やっぱり手土産くらい、必要だろ?」

「そうねぇ、そんなに悩むんなら手っ取り早く、その彼女に聞いちゃえば?」

「いや、ア……じゃなくて、彼女はいらないって言ってる……らしい、場合は……、そう言われても、例えば、既にその母親の心証があまり良くなかったりする時は……あった方が、と……」

「そうねぇ、ないよりはあった方がいいのかもね」

「だよな」

 

自分の意見を肯定されて安心したのか、ふむふむとテーブルに視線を落としたまま頷いているキリトには見えていないでしょうが、私の唇の端は痙攣エフェクトというかなりレアな現象を起こしている。

それにしても、なんだってそんな相談を私に…………と思ったところで、ああ、そっか、と一つの仮設が浮かび上がった。

 

「そうは言っても的外れな手土産じゃ逆効果になりそうだから、そこは相手の好みとか重要かも」

「うーん、好みかぁ……」

 

その点、私はアスナのお母さんに会った事はないけど、アスナの家に遊びに行った事はあるからアップルシュトロイゼルクーヘン・ベリーソース添えとカフェオレの代金分くらいはアドバイスしてあげるわよ、と自分の優位性に胸を張る。

 

「例えば……だけど」

 

と言ってから、これ、私も「例えば」って付ける必要あるの?、と頭の隅で思いつつ、大部分の所でアスナの家の内装を思い浮かべながら言葉を選んだ。

 

「雰囲気が近代的な洋風のお家だったら……」

「そうだな、純和風の木造家屋ではないよな」

「でも外観だけで判断しちゃ駄目よ。室内が可愛い感じなのか、シンプルな感じなのかで……」

「そこはシンプルで。パッと見、あまり物がない感じだった」

「だったら落ち着いた色合いの花束とか?、花なら嫌いな人はそういないでしょうし」

「大丈夫だ。確か玄関先やリビングにも飾ってあったし……あ…………」

「リビング?、はぁ?」

 

と、そこまでの会話で互いに気付いた内容が容赦なく顔に出ていて、私達は声を詰まらせ見つめ合った。

まずはキリトだけど……うっかり仮定設定も友人設定もすっとばしている状況に、「しまった」感が口を「あ」の字で固定している。

次に私は、キリトが初めてアスナの家に行く、という前提が全くの間違いだった事を悟ってしまい、「はぁ?」と奇しくもやっぱり「あ」の字の口のまま斜め下からヤツを睨み付けている。

これは、絶対、間違いなく、アンタ、アスナが家に一人の時に上がり込んだわねっ、という私からの批難をめいっぱい込めた視線に金縛り効果でもあったのか、キリトは微動だにせずただ冷や汗だけをタラタラと流し続けていた。

 

「…キリト、アンタ……」

「そ、そうだなっ、もし、仮に友達が恋人の母親への印象改善を試みるなら花は効果的かもな、うん……」

 

それ、まだ中身あったの?、と突っ込まずにはいられないカップを素早く持ち上げ、私から顔を隠すようにしてコーヒーを飲み干すキリトにはもう呆れてかける言葉がみつからない。

するとようやくNPCウェイトレスがやって来て、待ちに待ったアップルシュトロイゼルクーヘン・ベリーソース添えのプレートとカフェオレのカップを私の目の前に並べ、次に向かいの席にコーヒーカップを置いた後、未だ掴んで離さないキリトの手からとっくに空になっているカップをもぎ取っていく。キリトは半ば強引に持って行かれた空のコーヒーカップを少し名残惜しそうにしながらも新しいカップの中身を一口啜った。

私は気分を一新させてケーキに集中し、期待に胸をふくらませてプレートが置かれたと同時に現れたカトラリーを手に取る。

 

「じゃ、遠慮無く、いただきますっ」

「どーぞ、どーぞ」

 

注文の品が到着した事で私の意識が逸れたせいか、相談した悩み事にある程度解決の糸口が見えたのか、キリトは落ち着きを取り戻して私にケーキを促した。

真っ白なお皿にはふっくらとした丸形のパン生地にリンゴのキャラメリゼがのっていて、更にその上にはそぼろ状のシュトロイゼルがあり、ベリーソースがたっぷりと添えてある。まずはそのまま食べてから次にベリーソースを絡ませるという二段階の楽しみ方で味わおうと決めた私は早速一口目を頬張った。

 

「んーっ、美味しいっ」

「それはなにより」

「あ、手土産だけど、お菓子でもいいんじゃない?」

「なるほど、なるほど」

 

妙な合いの手を入れてくるキリトは二杯目のコーヒーを大人しく飲んでいて、私もそれに倣ってカフェオレで一旦味覚をリセットさせ、次にベリーソースをこれでもか、とケーキですくい取る。

 

「うーんっ、このベリーソースもっ…………ん?」

 

なんだろう?、この違和感……美味しいはずなのに、絶対美味しいはずなのに……なんか違う。

 

「リズ……なんか、違う感じ、しないか?」

 

ゲホホッ、とベリーソースの酸味が上手く飲み込めなかった感覚も手伝って、私は内心を言い当てられた驚きに喉を詰まらせた。

 

「な、なによ、いきなり…」

 

急いでカフェオレを流し込み、違和感もろとも飲み込んでから探るような目のキリトに尋ねる。

 

「実は……どうやら、最近、またアスナが料理の腕を上げたっぽくってさ……」

「は?、あの子、料理スキルはコンプリしたんじゃなかったの?」

「それは旧SAOでの話で、ALOだとレベルがない分スキルの上限がさらに上がってるやつがあるだろ?」

 

そう言われてみれば確かに浮遊城アインクラッドが実装されたタイミングで全てのスキルではないけど、上限の大幅拡張があったというニュースが出回ってたわね、と記憶をほじくり返す。それにしても、もともとALOは種族対抗で世界樹頂上への到達を競う事がメインのゲームだったし、アインクラッドにはゴロゴロあったヘンテコ料理なんて存在すらも怪しいくらいだから、わざわざ料理スキルを極めようとする妖精なんて殆どいなかったでしょうに……それなのに料理スキルの上限を変動させたなんて、これはもはやアスナとGMとの戦いなんじゃないの?、それでいて二つ名は「バーサクヒーラー」なのよね、と親友の多彩な能力に感動を通り越して苦笑いしか出てこなくなった私は、今の話とこのケーキの味とがどうつながるのかが分からなくて首を傾げた。

 

「だから、この前、ログハウスで食べたチーズケーキ。あれにもベリーソースがかかってたの、覚えてるか?」

「ああっ、そうね、そうだったわ。チーズケーキも美味しかったけど、あのソースも絶品だった」

「うん、あれはアスナがシリカと一緒に森で摘んできたベリーでさ」

「シリカと?」

「正確にはピナと、だな。そういうの見つけるの、ピナが得意らしい」

「へぇ」

「アスナいわく、ただ単にそれをシロップと一緒に煮詰めただけ、らしいんだけど……」

 

どんどん記憶が刺激されてあの時の色や味が脳裏に蘇ってくる。

艶のある赤紫色のソースは味も濃厚でレモンの風味付けがしてあるチーズケーキとの相性は抜群だった。あんなソースを味わってしまうと、それ以上のベリーソースなんてない気がして、現にこのお店のベリーソースの印象さえアスナの味の前では霞んでしまうのだ…………ああっ、もう私、普通のベリーソースじゃ満足できなくなってるかも、と恐ろしい現実に気付いたついでに、今、私と相対している男が、甘味も喜んで食べるはずのこの男が、頑なにコーヒーしか口にしない理由にまで気付いてしまって、せっかくの奢りのケーキの上に盛大な溜め息を落としたのであった。




お読みいただき、有り難うございました。
劇場版OSのエンディングロール中のカットでは、ちゃんとキリトが
手提げ袋を持っていたので……花はやめたようです(笑)


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短編集・キリト編

最後はキリト視点です。


暑くもなく寒くもなく穏やかな陽射しが木々の隙間から差し込む場所にピクニックシートを広げ、そこにちょこん、と正座するアスナの隣はオレの指定席で、当たり前に寝転んでその膝に頭を乗せてうたた寝をしていた…………はずだったのに、公園の広場でなぜか右手に長剣、ではなくバドミントンのラケットを握って五メートルほど離れた位置にいるクラインと相対しているオレは未だに眠気が取れず、こっそり欠伸を噛み殺した。

 

「よっしゃーっ、いくぜっ、キリト!」

「おー…」

「先に五点取った方が勝ちだからなっ」

「…わかった」

 

テンションの温度差など物ともしないのは相変わらずで、クラインはやはりオレと同様、右手に構えたラケットでシャトルを打ち込んできた。スパンッ、と小気味良い音が聞こえたかと思えば、まっすぐシャトルがこっちに飛んでくる。オレはそれを片手剣ソードスキル、バーチカルの要領でクラインに打ち返した。軌道を読んだクラインがすぐさま反応して再びシャトルをラケットのガットに垂直に当ててくる。

少し浮いたシャトルが放物線を描いて戻って来るのを見て、落下地点を予測し今度は肘から指先までを外側にひねり、バックハンドで応戦した。

 

「キリトさーんっ、クラインさーんっ、頑張ってくださーいっ」

 

シリカの明るい声援が広場を囲む木々の方から飛んでくる。

 

「キリト……、負けたら何かおごってもらうわ」

 

しっかり聞こえてるからな、シノン…………シリカのすぐ隣からも、応援、と言うよりは一方的な要求が耳に届いて、その冷静な物言いがシノンらしくてシャトルを目で追いながら内心で苦笑した。

今日は都内、と言ってももうすぐ埼玉県との県境がある森林公園にやって来ている。

当初はいつも通り、週末のオレとアスナだけの外出のはずだったのだが一緒に行きたそうだったシリカも誘い、他にも声を掛けて公園でバドミントンをする事になったのだ。それは別に構わない。オレだってワイワイと賑やかな雰囲気も嫌いじゃないし……。

だからほんの少し前まで、オレは木陰に敷いたピクニックシートの上で公園の木々の葉がそよぐ音を子守歌代わりにアスナの膝枕で惰眠を貪り、シリカとシノンは陽射しの元でバドミントンを楽しみ、俺達の横ではそれを眺めながらクラインがビール風味の発泡アルコール飲料を飲むという、それぞれが至福の時を過ごしていたというのに、そろそろお開きに、という時間になって、最後にクラインがオレに勝負を挑んできたのである。

眠気覚ましに、程度の軽い気持ちで受けたオレだったがクラインはアルコール摂取のせいなのか、持ち前の闘争心に火が付いたらしく、やけに本気モードで鼻息も荒くラケットを振ってくる。ピクニックシートの傍で立ち上がって声援を送ってくれる弾んだシリカの声とは裏腹に、これが今日最後の大一番とでも言いたげなクラインの渾身の鋭いスマッシュがオレの胸元辺りを狙い容赦なく飛んで来た。

そこそこの量を呑んでいたように見えたが、そう言えばARの『オーディナルスケール』でも動きは良かったな、と思い出して、これは決着が着くまで少々時間がかかるかも……、と半歩身体をずらし腕をしならせてロブショットで返す。

すぐさま「ちっ」と微かな舌打ちが五メートル前方から聞こえてきた。

後ずさりでシャトルを追いかけたクラインが少々強引な体勢で打ち返したせいか、こちらに戻って来る球威は殆どと言っていいほど出ていない。

ヨレヨレのシャトルがなんとかオレの元まで辿り着く寸前……

 

「が、がんばってっ…二人とも……」

「はぁっ!?」

 

公園という公の場所で声を張り上げる事に幾らかの抵抗があったのだと容易に推測できる程か細かったが、オレがその声の主を間違えるはずもなく、思わずその音源ならぬ声源に振り向いてしまった直後、オレの足元にぽとり、とシャトルが着地する。

 

「うおぉーっ、まずは一点先取だっ」

 

クラインの喜声がやけに耳障りだった事までは覚えているが、その後、オレがストレート負けをした状況は全く記憶に残らなかった。

 

 

 

 

 

「ふゃっ!」

「アスナ?」

 

オレとクラインの勝負がついた後、一旦ピクニックシートに座り喉の渇きを癒やしていた時だ、一緒に座っていたアスナの声と肩が小さく跳ねた。ちなみにシリカとシノンは帰り支度を済ませ、連れだってトイレに行っている。

隣にいたアスナはもぞもぞと上半身を動かしたかと思うとオレのTシャツの裾を軽く引っ張り、小声で「キリトくん、ちょっと」と助けを求めるように困り顔で見つめてきた。事情がわからずに首を傾げたオレの耳に桜色の唇が近づいてくる。

 

「あの、ね。背中に、なんか、虫が入っちゃった……みたいで……ひぅっ」

 

言っているそばから虫の感触を拾ってしまったのだろう、既に目元が潤み始めていて、色々な面で事態の深刻さを訴えていた。

暦の上では既に秋だが少し動けば肌は汗ばむし、何より本能的に陽射しは避けたい、と思う程に太陽の熱は未だ衰えを見せていない。当然、オレ達の服装も薄着で肌露出の高いものとなっているわけで……。

 

「服の中ってことか?、だいたいの場所が分かればオレが服の上から叩いて……」

「絶対、いやッ」

 

デスヨネー……自分の肌と服の間で虫を叩き潰すなどアスナが受け入れるはずもなく、とりあえずオレは「言ってみただけだって」と本気ではないアピールをしてみる。けれどそうなると生きたまま不埒な虫を捕獲しなくてはならないわけだが、オレはしばし考えた後、さっきのバドミントン対決ですっかり酔いが回ってしまったらしいクラインに「荷物番、頼む」とだけ伝えてその場からアスナを連れ出した。

理想としては誰かと一緒に女性トイレにでも行って服をまくってみればいいのだろうが、生憎と今日はそんな頼み事に適任のリズは参加していないし、シリカとシノンはそのトイレに行ってしまっている。しかもオレ達がシートを広げた場所は運悪くトイレからかなり離れた位置で、二人が帰ってくるまでにはまだ時間がかかるだろうし、帰って来た途端、もう一度行ってくれ、と頼むのはアスナでなくても気が引けるだろう。

これだけ広い公園なんだから、もっとトイレの設置場所を増やしてくれてもいいよなぁ、と思いながらオレはアスナの手を引きながらズンズンと木々が生い茂っている中を進み続けた。

ここまで来れば、と周囲の樹木が完全にオレ達を隠してくれている事を確認したうえで、くるり、と振り返る。

黙ってついて来てくれたアスナはいきなり足を止めたオレが目の前に迫ってきた事に驚いたのか「にぇっ?」と何語かわからない言語を発した。こういうのは先手必勝だ……理由を問われる前に「じゃ、失礼して」とすっかり身体が覚え込んでいる仕草で彼女の細腰に両手を回し、腕の中に閉じ込める。

一瞬、驚きで走った身体の強張りがすぐに和らいだ事を直に感じてオレの口元も自然と緩んだ。

こんな触れ合いはもう数え切れないくらい繰り返していて、今更戸惑いや緊張は生まれないが、逆に何度経験しても飽きることはないし得られる多幸感は薄れることもない。オレはうっかりいつものようにアスナから受け取る五感の充足度に酔いそうなっていた自分を慌てて呼び戻し、目的はそうじゃなくて……、と自身に言い聞かせ片手をアスナの背中に侵入させる。

今日のアスナは淡い鳶色のキュロットスカートの上に生成り地のノースリーブシャツを被せていて、色だけなら秋を感じさせるが、ハッキリ言って虫だけではなく、よこしまな視線も入り込み放題だ。シリカ達とバドミントンをしている間、その前を意味もなく往復を繰り返していた男が何人いたと思っているのか……その時の苛つきがぶり返して、ついアスナの背骨の上を、つつーっ、と首めがけて一本指で撫で上げれば「ひゃぅっ」と跳ねた声がオレの首元に吹きかけられた。

 

「キリトくんっ」

「悪い悪い、で?、虫は?」

「うっ……なんか今のでよくわからなく…………あっ、肩っ、肩の方っ」

「どっちの?」

 

あまり聞く機会の少ない焦り声で「右っ、右の肩っ」と言われたので都合良く首元まで侵入していた手を右に移動させると、途端に「そっちじゃなくてっ」と今度はよく聞くお叱りの声が飛んでくる。向かい合わせの状態なんだからアスナが言う「右」はオレからしたら「左」になるわけで「今のは理不尽なんじゃ…」と口から出かかった文句も、プルプルと両肩を震わせている姿を見てしまえば「ゴメンナサイ」という、それこそ己の本心的には理不尽でしかない言葉が素直にこぼれ落ちた。

それから気を取り直したオレは言われた通りアスナの右肩へ手を伸ばしてみるがそれらしき感触を拾う事は出来ず、とりあえず、ぱっ、ぱっ、と服の内側で払い落とすような動作をしてみるが、依然としてアスナはもぞもぞと背を捩っている。

 

「まだいるか?」

「う、ん……さっきより下の方に移動したみたい……」

 

下?、肩より下なら脇の下あたりか?、それとももっと背中の中心の方とか?…などと考えて手を動かしてみれば、当たり前のように存在する物があって、オレは少し考えてから思い切った案を提示した。

 

「えっと、アスナ……ホック、外していい?」

「ふう゛ぅっっ」

 

それって、いいの?、だめなの?、と判断に困る声が返ってくる。

多分、彼女の中でも葛藤があるんだろう、しかし、考えている間にも虫は移動を続けるわけで、ここは迅速な決断が求められる場面だ。

 

「このまま下着を伝って前側に虫がいっても困るだろ?」

 

オレの言葉にその光景と感触を想像したらしいアスナがぞぞぞっ、と鳥肌を立てて再び「うなっ」といずこの地の言語を操る。アスナとしても早期決着を目指しているはずだ。オレは《こっちの世界》でもアスナといわゆる恋人同士というお付き合いを続けているお陰で、今では目で見なくても彼女の下着装備の解除を可能にするスキルを習得している。

さすがに日中の公園という場所でこのスキルを使うとは予想もしていなかったが、何よりこれはアスナの為だし、と正義感に胸を熱くしたオレは彼女の口から「いい、けど……」の言葉が漏れると同時に指を金具に絡ませた。

プチッ、という軽い振動の後、結合部から解き放たれた柔らかな帯状の布地が弾力によって左右に引っ張られ、すぐに勢いをなくして垂れ下がる。

オレの前身に密着しているアスナの胸部の重力が僅かに増した感覚で技の発動が成功したことを悟ると、今度はアスナがユニークスキルを繰り出してきた。

 

「手探りじゃなくて、キリトくんが私の背中を直接見てくれればいいと思うの」

「は?」

 

それは暗にこうやって抱きしめる体勢ではなく、オレがアスナの背中側に回り、シャツの裾をまくり上げろと言っているのだろうか?、と一瞬気が遠のく。

さっきから手の平へと伝わってくる素肌の滑らかさと程よい弾力、それにオレに触れられているせいかいつもより少し高めの体温と小刻みの震え、どれもが理性の糸を断ち切りにかかっているとしか思えないのに、ここにきて更に色白の肌を目にし、その匂いを深く吸い込んだりしたら…………生殺しもいいところなんだけど、オレをどうしたいんデス?、と彼女からのクリティカルヒットに足元がふらつく。

 

「さっきの応援といい、なんか、オレ、試されてるのか?」

「応援?」

「クラインとバドミントンした時。アスナ、どっちも頑張れ、って言っただろ」

「あっ……あれ、あれね…うん」

 

そこまで認めて口を閉じてしまったアスナに、だんまりは許さないぞ、と障害のなくなった背中の上を好き勝手に手を這わし始めれば、堪えきれなくなった声にほんの微量の艶めかしさが混ざり込んだ。

 

「んっ……ぁっ……キリトくんっ」

 

手を止めて更にもうひと押し、とばかりに背と腰を強く抱き寄せ、アスナの耳元まで顔を近づける。

 

「それで?」

「うっ……だって……クラインさんが……」

「クラインのやつが?」

「キリトくんにどうしても勝ちたいから自分だけ応援してくれ、って」

「アイツ、そんな事を……」

 

卑怯とまでは言わないが、武士道からは外れるんじゃないのか?、と思う反面、たかが公園でやるバドミントンにそこまで策を巡らせるクラインに、知らず重い溜め息が落ちた。

 

「けど、クラインさんだけ応援するのはちょっと……って言ったら、なら平等に二人共って事になって……」

 

二人共、の妥協案でさえオレはストレート負けだったんだから、これでアスナがクラインの要望通り、アイツの名前だけを口にしていたらオレはきっとその場に崩れ落ち、試合放棄となったことだろう。

 

「あれで戦闘意欲が一気になくなったんたぞ」

 

自分でも無意識に拗ねた声と口調になってしまったが、それを敏感に聞き分けたアスナがなぜか逆に機嫌を良くしたらしく「ふふっ」と嬉しげな笑いを添えてオレの肩に、こてん、と頭を預けてきた。

 

「ごめんね。あんなに動揺すとるは思わなくて」

「なんだか楽しそうだな、アスナ。だったらオレのストレート負けの責任はとってもらわないと」

 

こっちは半分酔っ払いの、しかもあのクラインに完敗を喫したのだから、たかが公園でのバドミントンとは言えその屈辱たるやそんじょそこらの敗北感と同じに思ってもらっては困るのだ。

 

「じゃあ、晩ご飯はキリトくんの好きな物、作るから」

 

まだ、くすくすと笑いながら提案してくるアスナに一瞬、単純に「おっ」と気分を浮上させかけたオレは「んん?」と首を捻って肩にあるアスナの小さな頭にこっそりと頬をすり寄せた。今日はこの後、公園で解散したらオレとアスナは夕飯の買い物をしつつ川越のオレの家に来て一緒に過ごすことになっているから、それはいい、献立がオレの好物になるのはむしろ大歓迎なのだが……それって、いつもと同じだよな。むしろアスナが作ってくれた料理で「この味はちょっと…」と眉をひそめた経験なんてないんだから。

ここはもう少しおねだりをしても許されるだろう、と「あとは?」と彼女の髪の上で口を動かした。

 

「ふぇぇっ……えっと……帰りは、バイクで送ってくれるんでしょう?」

 

単に帰宅の為の手段を確認しただけなのに恥ずかしさで細い声は更に震え、耳を美味しそうな朱色に染めているアスナに知らず抱きしめる腕に力が籠もる。

埼玉県の、もっと言えばオレの家までの移動時間がそうかからない公園を選んだ理由と、事前に今日は家に誰も居ないんだ、と告げた意味とを正確に理解しているアスナからの、許されるギリギリの時間までオレを受け入れてくれる意思を読み取ったオレはニヤリとした笑みを浮かべ「もちろん」と返事をしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
……虫、どこいったー!(苦笑)

いちを一番手「シリカ編」の伏線の回収という感じで「キリト編」を最後に
6編を並べてみましたがいかがでしたでしょうか?
ウラ話は通常投稿とまとめて上げたいと思います。


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黒猫争奪戦

珍しく季節ネタでALOでのハロウィン・イベントですっ。


『それでは、今年の黒猫化種族の抽選を行いたいと思います』

 

ハロウィン・黒猫イベントの参加者達が熱い視線を送るモニター画面の向こうで、涼しげな表情のまま淡々と進行役を務めているのNPCの青年が巨大なジャック・オー・ランタンに真っ白な手袋をはめた手を優雅に突っ込んだ。

 

「キリトくんっ、抽選、始まったよ」

 

アスナの囁き声を受けたキリトのとんがり耳がもぞり、と反応を見せる。

 

「くぅぁっ……アレ、使い方、間違ってるだろ」

 

欠伸をしつつ呟いたキリトの寝ぼけ声を合図にその場にいた全員が苦い笑みを浮かべた。

今の時期はALO内も《現実世界》に倣ってハロウィン一色になっていて、今日は時間限定で開催される黒猫イベントの日だ。この一ヶ月はアバターのコスチュームや小物もハロウィン仕様にチェンジできたり、ショップで購入できたりと様々な方法で楽しめる。現にここ、キリトとアスナのホームとなっている《イグドラシル・シティ》の最上階の部屋もインテリア雑貨に留まらず、今日のために用意されたアスナ特製のパンプキンパイが盛り付けられている皿やカップの色形まですっかりハロウィンの装いだった。

それに今回のイベント開催を待ちわびていたのはアスナ達だけではない。今日ばかりはこのALOに集いし妖精達はこれから始まる抽選会の結果次第ですぐに行動を起こさねばならず、結果、立地的に最も時間的ロスが少ない中央都市に集まっている者が大半だが、中には自分の種族の領地でこの抽選会中継を見守っている者も少なくないらしい。

ともかく、抽選の公正を期する為にとGMが用意したホストの青年はドラムロールが鳴り響く中、思わせぶりにジャック・オー・ランタンの中をかき混ぜるように片手を動かしている。

それを見たキリトがまたもや冷やかしのような一言を零した。

 

「だから、アレ、本当ならローソクとか入ってるはずだよなぁ……」

 

確かに……本来、ハロウィンのジャック・オー・ランタンとは、中身をくりぬいて提灯になったカボチャのはずだが、そこはもう「ハロウィンだから」で押し切った感がヒシヒシとあって、執事然とした格好のNPCの青年は当然、何の疑問も抱いていない無表情で抽選のタイミングを図っている。

そして数秒後、ドラムロールが鳴り終わった後の空白に誰かがの喉がゴクリ、となった。

その為の無音時間さえも計算したように彼の腕がゆっくりとジャック・オー・ランタンの中から引き抜かれる。

その手につままれている一枚の紙は意思のない彼が選んだというのに、その紙を開いた瞬間、それまで完全なる無表情だった彼の口元が僅かばかり楽しげな曲線を描いた。しかしそれもすぐにかき消え、感情のない声がひとつの種族の名を告げる。

 

『今回の黒猫化は…水妖精族、ウンディーネです』

 

「ぇっ!」

 

隣に座っていたアスナの小さな驚きの声を聞くと同時に顔を向けたキリトだったが、そこに居たはずの可憐なウンディーネの姿は既に輪郭のみが朧気な光の粒子構成で残っていて、それすらもすぐに霧散した。

一拍遅れてリビングで一緒に抽選会の中継を観ていたリズ、クライン、リーファが立ち上がる。

 

「んーじゃ、私達はとりあえず〈三日月湾〉を目指しますか」

「だな。っにしても今年はウンディーネかぁ。競争率高ぇんじゃねーのか?」

「そーですよねぇ。ただでさえ支援系の魔法に強い種族なんですから」

「と言う事は、俺が黒猫ちゃんを捕まえて刀を振れば向かうところ敵なしになるわけだな」

「アンタにつかまるようなドジな黒猫がいれば、の話よね」

「そもそもハロウィンの仮装に刀って……クラインさんらしいというか……あっ、お兄、キリトくんっ、待ってよっ」

 

リーファの焦り声を受けたキリトはいつの間にかリビングを移動して外へと通じるドアを開き、その背中には既に羽根が出現していて、お喋りに興じている三人に無言の催促を告げていた。

 

「はいはい、そんなに急かさないでよ」

「今日ばかりは気流も穏やかで飛行移動にはハンデがない設定になってるって、レコンが言ってました」

「アイツは今日のイベント、参加してないの?」

「ははっ、猫アレルギーらしくて……」

「んぁ?、それって《リアル》でだろ?」

「なんか、《こっち》でも気分の問題で反応しちゃうらしいです」

 

それを聞いたリズとクラインが繊細そうなレコンがクシャミを連発する様を想像して納得する。

思わず和んでしまった三人に向け、キリトが高速で羽根を「ブァンッ」と音を立てて震わせた。

 

「あーっ、ごめんっ、て」

「キリトよう、マジで睨むなよ」

「じゃ、全速力で急ぎましょうっ」

「それってついて行けるのキリトくらいなんだから、ちょっとだけ手加減して、リーファ」

 

外に出てみれば数多の妖精達が次々に《イグドラシル・シティ》を飛び出し、一路、東のウンディーネ領を目指して降下を始めている。

その光景を見た四人はすぐさまキリトを先頭にその流れに乗るべく羽根を広げて飛び立った。

 

 

 

 

 

GMが用意したNPCが取り仕切る抽選会で選ばれた一種族が黒猫化をし、それを多種族の妖精達がパートナーとして同伴する事が参加条件になっている限定イベントや限定クエストといった大規模ハロウィン・イベントが行われるようになったのは、世界樹の頂上よりも高くに位置する空中都市イグドラシルシティが実装されてからだ。

猫化と言えば既に猫妖精族のケットシーが存在するが、このイベント中での黒猫とは魔法使いの傍らが相応しいまさに正真正銘全身を黒い毛並みでおおわれた四つ足獣の姿である。妖精アバターの外見の特徴は一切反映されず、誰も彼もが《現実世界》の仔猫サイズとなり、その意識もまた猫化にふさわしく本能での行動が強く表れる。

抽選の結果、猫化種族が発表されると、すぐに対象の妖精達は領地へと転送され猫となり自分達を求めてやって来る妖精達を迎えるのだが、そこは気ままな性質そのままに積極的にパートナー要請を受け入れようとする猫は皆無に近い。だから猫化に当たらなかった種の妖精達は必死になって猫の機嫌を取るのである。

そうやって何の気まぐれか、なにをもって判断するのか、黒猫がハロウィン・イベント限定パートナーとなる契約をすれば、その妖精は一時的ではあるがスキルの熟練度が一気に跳ね上がり、今まで味わったことのない無双感でイベントやクエストを楽しむ事が出来るのだ。

一方、イベント中、猫化したプレイヤーは終始夢を見ているような感覚で、その記憶は朧気にしか残らないらしい。だからこそ、他種族の同じパーティーメンバーと出会ってもすんなりパートナーと認めるとは限らないし、逆に見知らぬ者とペアを組んで限定クエストに挑む場合もある。予想外だったのはずっと領地内で自由奔放なネコライフを満喫してイベントを終える者も少なくなく、それはそれで満足だったというのだから、もはやハロウィン感はどこにもない。

 

「ねぇ、リーファ…こんなに急いで行っても猫化したアスナを探し出すのは不可能に近いわけでしょ?」

「…そうですねぇ…」

 

先頭を飛んでいるキリトに気を遣ってか、小声でぼやくリズに対してリーファもまた声を小さくして同意すると、リズは片手で口元を隠して内緒話をするようにリーファとの距離を少しだけ詰めた。

 

「だいたいキリトってば、さっき、抽選会が始まるまでは隣にいたアスナの肩にもたれて寝てたじゃないのっ」

「はい、だから私も、キリトくん、黒猫イベントには興味ないのかな、って思ってたんですけど……」

 

ハロウィン・イベント開催中は黒猫を伴っていなくても楽しめる催しが幾つも用意されている。低確率の黒猫獲得に無駄な時間を費やすより最初から黒猫を必要としない方向で楽しむ妖精達もいて、特に顕著なのはケットシーだ。自分達の容姿が猫化に似ているという理由もあるが、殆どがモンスターをテイムしている為、数時間限定でも違う動物をパートナーとする事に抵抗があるのだろう。

そもそも黒猫化をする妖精は九種族いる中の一種なので圧倒的に猫側の数が少ないわけで、更に契約の成立は準レアアイテム獲得のような確率だから、今、ウンディーネ領を目指している妖精達は最初からかなり強い意志を持っているはずだ。

そんな熱意を露ほども感じさせていなかったキリトが最高速度と言っていいスピードで飛行をしている理由と言えば……

 

「やっぱ、他のヤツがアスナとペアを組むのが面白くねーんだろーよ」

 

二人の会話をしっかり聞き取っていたらしいクラインが、やれやれ、と言った風に肩をすくめながらも「俺はもとからこのイベントに参加するつもりだったから構わねーけどな」と飛行速度を保ちながらウィンドウを開き、ハロウィングッズのショップから猫用の何かを購入したらしく、ユルドが引き落とされたSEが鳴っている。

 

「だーかーらー、見た目だけじゃどれがアスナかなんてわからないでしょっ」

 

今、ウンディーネ領にどれだけの黒猫がいると思ってるのよ、と今度はクラインにぼやき始めたリズも目的地が近くなったことでそれ以上の言葉は慎んだ。猫化抽選の結果予想が立てられない為、どの領地にもほぼ同距離の《イグドラシル・シティ》から駆けつける妖精達が圧倒的に多いが、いざウンディーネ領が近くなってみれば各地から飛んでくる妖精達も加わって綺麗な集中線を描いている。

キリト達は目的地であるウンディーネ領の〈三日月湾〉の湾岸に到着すると、とりあえず首都を目指して徒歩での移動を開始した。

周辺には数名ではあるがキリト達よりも先に到着したハロウィン仮装の妖精達が黒猫を見つけると手当たり次第に声を掛けたり、準備してきたニャンコ誘惑アイテムを駆使して気を引こうと躍起になっている。直接首都を目指している妖精達が頭上を飛んで行く様を眺めながら、クラインは先頭を歩くキリトに疑問を投げた。

 

「キリトーっ、俺達はこのまま歩きでいいのかよ?」

「ああ、ホームタウンにしてたセルムブルグとか森の家もそうだけど、アスナって割と水辺の場所が好きなんだ。だから多分、この辺りに……」

 

キリトが何かを確信している足取りのその先の岸辺には大きな樹木が並んでおり、根元では二人の男性妖精が声を張り上げている。

 

「おーい、黒猫ー、降りてこいって」

「いい仔だから。ほらっ、お菓子あるぞー」

 

手にもっているクッキーをブンッブンッと振ってアピールしている目線の先には木の枝葉で隠れて見えないが黒猫がいるのだろう。見事な枝振りと、密集して葉が生い茂っている為、羽根を使って飛んで黒猫まで近づくことが出来ないらしく、男達はしきりと地上から誘い文句を投げかけていた。

けれど一向に事態が進展しない事に業を煮やした一人があげていた腕をおろす。

 

「ありゃあ無理だな。ずっとこの木で昼寝でもするつもりだろ」

「さっきのやつらはこのクッキーでその辺を歩いていた猫を手なずけてたけどなぁ」

「早くしないとクエストの時間なくなるぜ。どっちにしろもう一匹見つけなきゃだし……」

「諦めて他の猫を探した方が早いか」

「けど、あの猫、いい感じだから惜しい気はするよな……」

「確かに。綺麗な猫だし」

 

なかなか諦めきれずに見上げているその先の猫はかなりの器量良しなのだろう、見目の良い黒猫ほどパートナーに及ぼす影響が強いというのがこのイベントの通説になっているせいか、男達は一抹の望みを掛けるようにもう一度両手で持ったクッキーを猫の視界に入れようと珍妙な踊りともとれる動きで手足をバタつかせていたが、やがて肩を落として首都方面へと飛び去っていった。

二人の姿が小さくなっていくのを見届けてからキリトはゆっくりとさっきまで男達が立っていた木の下へとやって来て上を見上げる。

地上から二メートル以上はあるだろうか、太い幹から伸びている枝の途中に真っ黒い猫が優雅に伏せていた。黒猫の居る位置より低い場所にも枝が縦横に伸びていて、そこに生えている葉の多さで全身は見えないが、それでも毛艶の見事さや体躯の曲線の滑らかさは十分に伝わってきて、その猫と一緒ならかなりのスキル上昇が期待できそうだ。

キリトより少し遅れて到着したクライン、リズ、リーファも枝葉の隙間から黒猫を見つけ興奮に声を高くする。

 

「いきなり上等な猫にぶち当たったな」

「でも、さっきの人達の誘いには全然反応してなかったみたいよ」

「私達も無理なんじゃ……?」

「あいつらは食いもんだっただろ。腹が減ってねぇのかもしれねえし、違うのを試してみようぜ」

 

クラインが言うが早いかストレージから先刻購入したらしい猫じゃらしを取り出す。

それを高々と掲げ、ついでに思いっきり背伸びまでして猫の視界に入れようと大きくゆぅらゆぅらと振ると、黒猫はチラリと気のない視線を寄越して、すぐに、ふぁぁっ、と大きな欠伸をしてから背を丸めてしまった。

 

「ちょっとっ、クラインっ。催眠術かけてどーすんのよっ」

「いやっ、そ、そんなつもりは……」

 

慌ててクラインから猫じゃらしを取り上げようとするリズの横ではリーファが「何かあるかな」とウインドウを出し、自分のストレージから猫の気を引けるような物がないかとスクロールを続けている。

そんな中、キリトが静かに両手を黒猫に向けて伸ばし、一言「おいで」と囁いた。

黒猫にその声が届いたのか、閉じてしまった瞼の片方だけを開いて声の主を見定めると次にもう片方の瞼も押し上げ、ジッ、とキリトを冷ややかに見つめてくる。小さな顔に大きな金色の瞳は吸い込まれそうな引力を宿していて、僅かばかりも逸らせない代わりに黒猫からの視線も真っ直ぐに受け止めたキリトは微動だにせず時を待った。そうしてキリトと黒猫はしばし視線を交わしていたが、動かないキリトに飽きたのか先に黒猫が伸びをしながら四本の足で立ち上がる。

腰を落とすジャンプの予備動作を見たリーファが思わず「あっ、逃げちゃうっ」と叫んだ。

黒猫はリーファの読み通り、まるで羽が生えているような身軽さでとんっ、と枝を飛び移り、その先端の枝葉が揺れる前に次の枝へ、そしてまた次の枝へと移動して、最後に……すぽっ、とキリトの腕の中に納まる。

キリト以外の三人が「えっ?」と目と口を丸くしている前で、黒猫は「みぅ、みぅ」と耳の後ろをキリトの胸にこすりつけていた。

多分、黒猫を抱いた瞬間にキリトにだけはパートナー獲得を知らせるSEが鳴り響いただろう。しかし、そのSEをかき消すほどの大音声を振りまいたのはクラインだ。

 

「はぁぁっ?、なんだよぉっ、そりゃないだろ。俺が一生懸命猫じゃらしを振ったから寄ってきたんじゃねーか。なんでキリトんトコに行くんだよ」

「まあ、まあ、落ち着きなさいよ……それにしても何も使わずに呼んだだけで黒猫と契約なんて、出来るのね」

「うわっ、近くで見ると、この仔、ほんっとに綺麗な猫ちゃんっ」

 

キリトの腕の中にいる黒猫は間近で見るとそれは見事な毛並みを有しており、真っ黒な毛はしっとりとした潤いとハチミツのような光沢を併せ持っている。こぶりな顔に大きな金色の瞳は宝石のような存在感で、それ自体が発光しているかのように煌めいていた。仔猫サイズの猫なのにどこか気品が漂っていて気軽に触れることを躊躇ってしまう雰囲気から、黒猫とキリトを取り囲んでやいのやいのと騒いでいるだけの三人に向けその中心人物は何の気負いも見せずにポツリと漏らす。

 

「ああ、だって、この猫、アスナだし」

「あ゛あ゛?」

「はい?」

「ええっ?」

 

形はそれぞれ違うが開きっぱなしの口のまま三人は更に、ずずいっ、と黒猫を覗き込んだ。

痛いくらいの視線のせいか、荒い鼻息のせいか、一番近くまで迫ってきた野武士顔に黒猫が目にも留まらぬ早さで爪を立てる。

「うおっ」と怯んだクラインだったが、おでこにうっすらと浮かんだ赤い三本線の傷からは当然痛みなどなく、その傷跡はすぐに消えてなくなり、黒猫の方は機嫌を損ねたようで未だに「ふぅ゛ぅ゛っ」と威嚇の声を伸ばして睨み付けていた。

 

「なんだ、なんだ、結構気が強ぇんだなぁ……」

 

調子を取り戻して、からかうように、にまり、と笑み、顎に手を当てて猫の攻撃範囲ギリギリの所で再び覗き込むクラインは黒猫の視線で何かを思い出したように小さく頷く。

 

「そうだ、この感じ。アインクラッドの攻略会議に寝坊で遅刻した時もこんな感じで副団長サンに……」

「クライン……」

 

呆れ声は小さすぎて、その場の誰のものかはわからなかったが、きっと全員が気持ちは同じだったろう。黒猫は攻撃の範囲外と悟るやいなや、相手にはしない、とばかりにプイッ、とクラインから顔を背けた。

 

「うーん……アスナさんってこんなにツンツンしてたっけ?、キリトくん」

 

リーファが思うアスナは、時折、感情のままに照れた笑顔や困り顔、慌て顔や思案顔と表情を変えるが、だいたいいつもは慈愛と余裕に満ちた微笑みを浮かべているイメージだ。自他共に認めるアスナの親友たるリズも「そうよねぇ」と首を捻っている。

けれど男衆は、わかっていないな君達……と言わんばかりに無言で首を横に振った。

 

「確かによぅ、今のアスナだったらツンツンのツの字もねぇけどよ、あの頃の副団長サマっつーたら『攻略の鬼』、まさに鬼、攻略会議の時なんざずっと鬼の形相だったよなぁ」

 

「な、キリト」と振ってくるクラインに、うっ、と僅かに声を詰まらせたキリトだったが全員の注目に耐えきれなかったのか「ま、まぁ…」と言葉を濁せば、すぐに黒猫の両耳がピンッ、と立ち、凜々しくも鋭い視線で、キッ、とキリトをひと睨みした後、ぴょんっ、とその腕から飛び出して次にリズのベイビーピンクの髪に軽々と着地する。驚きと頭の上に黒猫が移動してきた震動でヨロついたリズだったが、すぐにバランスをとって恐る恐る自分の頭に手を伸ばした。

 

「うほっ、すっべすべじゃないのぉ……あれ?、でも私のパートナーにはならないのね」

 

片手で猫を抱っこしたまま自分のウインドウを出したリズは猫マークが定着せずに点滅しているのを見てがっかりと肩を落とす。

 

「一回契約すると黒猫が望んだ時しか解除できないんです」

 

リズの腕の中でふみゅふみゅ、とヒゲの手入れをしている猫の頭をなでながら説明をしてくれたリーファもまた「くうーっ、この触り心地っ」と夢中になっていた。そのシステムは猫の取り合いを防ぐ為だが、単に自分の扱いが気に入らなければ他の契約候補者がいなくても猫は解除をしてしまうのでパートナーになったからといっても安心は出来ないという仕組みだ。

 

「でも点滅中はリズさんが仮パートナーなのでレベルは上がってるはずですから……」

「えっ?、ほんと?……わっ、ほんとだーっ」

 

早速自分のレベルを確認したリズが片手でガッツポーズを示し「ユグドラシル・シティに連れ帰りたいっ」と目を爛々と光らせているところを見ると鍛冶屋に関するスキルが上がったのだろう。けれど自分を見つめる瞳の狂気的な輝きにぞわり、と毛を逆立てた黒猫は「にゃっ」と短く鳴くと同時に、するりとリズの腕から抜け出して次にリーファの肩へと着地した。

すぐさまリーファも自分のウインドウを覗き込む。

 

「ぅわぁ、この風魔法、なかなかスキルが上がらなくて苦労してるのに……」

 

今度はリーファのウインドウに猫マークが点滅しているのは間違いなく、一時的とはいえよほど嬉しいのだろう、にまにまと嬉しそうな笑顔がこれでもか、と溢れて出ていた。

 

「このまま猫ちゃん借りてクエストやりたいなぁ……あ、とりあえず、今、一回だけ魔法使ってみてもいい?」

 

強請るような視線を兄であるキリトに向けるリーファだったが、キリトが反応を見せる前に、にょきっ、とクラインの手が伸びてきた。

 

「どれどれ?、そんなにスゲーのかよ」

 

猫の扱いに相応しく首根っこを掴もうとしたのか、細い首へと無遠慮に急速接近してきた手甲を察知した黒猫が再び「なぅっ」と不機嫌な声を浴びせかけリーファの肩から高くジャンプする。

あと少しというところで上質な毛並みに触れ損なった手は空しくも宙を掴み、クライン、リーファ、リズの三人の頭は黒猫を追って空にかかる虹のように大きな半円を描いた。

黒猫を虐めるつもりは毛頭なかったが、結果的に居心地の悪い思いをさせてしまった事は明白で、折角能力値の高い猫をパートナーと出来たのにあわやこのまま契約解除か?、と三人の顔に焦りが差した時、トテッ、と、かの猫が着地したのは……まさにデジャブか?、と見紛うほど平然と「おかえり、アスナ」と自分の元に戻って来た小さな存在を受け入れたキリトの腕の中だ。

 

「気は済んだのか?」

「み」

 

そのひと鳴きで意思の疎通が出来ているとは信じがたい光景だったが、それでも黒猫は落ち着いた様子でキリトの腕にいるし、契約解除はひとまず免れたらしいので三人は揃って安堵の息と共に肩の力を抜いた。

 

「ねぇ、一匹は契約できたんだし、もう、これでいいんじゃない?」

「う〜ん……ハロウィンの限定クエストだとそんなにえげつないのはなさそうだし、必要に応じて猫ちゃんを貸してもらえれば……」

「おうっ」

 

本当はクラインもリズも、リーファだって自分と契約してくれる黒猫を探したいのだが、今、キリトの胸元で再び耳の後ろをコシコシとこすっている猫以上にスキルアップを望める美猫との遭遇と契約如何といった諸々の事情を考慮すれば、さっきいたプレイヤー達も言っていたようにウンディーネが黒猫化している時間には限りがあるのである。黒猫との契約にこだわりすぎてイベントやクエストに挑めないのでは本末転倒だ。キリトの様子からして黒猫を貸すこと自体に拒否反応はなさそうなので、一匹の黒猫を複数の妖精達が共有するというやり方も珍しい事ではないし、と話がまとまりそうになった所でクラインが好奇心に口角を上げる。

 

「キリト。お前、ちょっとエクスキャリバー出してみろよ」

 

その提案が何を意味するかを誘ったリズとリーファの瞳が途端に期待で輝き始めた。

 

「そうよっ、その黒猫と契約してる状態で二本の剣を操ったらどうなるのっ」

「お願いっ、お兄ちゃんっ」

 

二人の少女妖精達のふたつの拳が興奮でグーになっているのとは真逆にキリトは黒猫の小さくて丸い頭に優しく手を当て「痒いのか?」と伺いながら後頭部に指先を潜らせ小刻みに弄っている。

そんなのんびりまったりの空気に穴を開けるように「キリトっ」とクラインが突っつくと、キリトは視線を黒猫から外さずに「断る」と短く返事を返した。

 

「なんでだよ、お前だってどのくらいスキルが上がるが確認しといた方がいいだろっ」

「オレはこのままアスナと《イグシティ》に戻るし」

「はぁ?、クエストやんねーのかよ?、だいたいそうは言ってもその黒猫がアスナだって証拠は……」

「アスナだよ」

 

クラインの声を遮って静かに断言するキリトに毛繕いをされてニャゴニャゴと満足そうにヒゲをピクつかせている黒猫をリズが改めて覗き込む。

 

「うーん、確かに美人さんよね、それは認めるわ。でも私達、ここに来てこの猫しか見てないわけだし……まぁ、他の猫と見比べたってアスナだって分かるとは思えないけど……」

 

少々面倒くささを含ませる小息を落としてからキリトは言葉少なに説明を始めた。

 

「オレを契約者に選んだだろ」

「それは、たまたまって言うか、偶然の可能性もあるじゃない。じゃあアンタはこの猫が自分と契約したからアスナだって言うの?」

「オレと契約しても、ちゃんとリズとリーファに仮契約を許したし」

「逆にクラインに懐かない頭の良さはアスナっぽいけど」

「んだとっ、リズ!」

 

急に荒げた声に驚いた黒猫がシッポの毛を逆立ててボワッ、と大きくすれば、すぐにキリトが緩く抱きしめて宥める。

 

「けどそれだけじゃ説得力に欠けるよ、お兄ちゃん」

「支援能力値の高さもあの子のスキルを考えれば分からなくはないけど、だからってアスナだって断定は……」

「そうだぜ、キリト。もっと明確に分かるような理由はねぇのかよ」

 

自分の周りでガヤガヤと言い合いをしている声が次第にホワイトノイズと化してきたのか、自分をしっかりと支えてくれている腕の安心感からか、黄金色の瞳がゆっくりと閉じていくのに気付いたキリトは、くすり、と意識を黒猫にだけ向けて微笑むと薄墨色の羽根を出現させた。

 

「別にオレは納得してもらわなくてもいいんだけどな」

 

極力振動を与えたくないのだろう、ふわりと浮き上がったキリトの腕の中ではもうすっかり身を委ねきった黒猫が、スー、スー、と軽やかな寝息を立てている。

 

「あんまり言うとアスナに怒られるんだけど……今なら大丈夫か」

 

腕を持ち上げて仔猫の寝顔を確認したキリトは猫化している間の記憶が朧気だという情報を思い出して僅かに眼を細めた。

 

「最初に見た時からわかってたさ」

「最初、って木を見上げた時から、ってこと?」

「ああ」

「あんなちょっとしか見えてなかったのに!?」

「瞳の輝きも、顔を背ける角度も、それに身体の線がアスナだったから」

 

キリトの言葉に回線の処理が追いつかないのか、三人はラグったように完全停止した。

 

「ここまで近くにいれば間違えるはずないアスナの匂いも……」

 

そう言って鼻先を黒猫に近づけたキリトは大きく深く息を吸い込むと満足そうに頷いてから「そういうわけで木から飛び降りてきた時に確信したんだ」と告げると「じゃ、あとは頑張れよ」と言い残して先刻飛んで来た空の道を引き返していった。

置いてきぼりを食った三人はあんぐり、と口を開けたままキリトが見えなくなるまでその背を眺め、黒い点がなくなった時点で我に返る。

 

「ええーっ、なによっ、あれっ」

「結局、あの猫、ほんとにアスナだったのか?」

「ってゆーかお兄ちゃん、黒猫イベント、やっぱり興味なかったんだ……」

「なら俺達と一緒に抽選映像なんて見るなって話だよなぁっ、紛らわしいったらねぇ」

「あー、それはきっとアレね。アスナが楽しみにしてたから。あの子、猫か犬か、って聞かれたら犬らしいんだけど、基本的に動物好きなのよ。だから今日のイベントも楽しみにしてて……キリトは付き合うつもりだったんでしょ」

「じゃあ、楽しみにしてた本人がその猫になっちまったってのか」

「キリトにしてみたら、これ幸い、だったんじゃないの?」

「そうですね。アスナさんを《イグシティ》の部屋に連れ帰ったら、のんびり一緒にうたた寝でもするつもりでしょうから」

 

リーファの想像に誰一人として異論を唱える者はいなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
で、結局「争奪」もしてないし……。
ハロウィン・イベントにも参加しないし……。
きっと取り残された三人がこれから必死に黒猫を追いかけるのだと
思います(苦笑)


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【いつもの二人】家庭の味

SAO「ユナイタル・リングⅡ」の発刊を祝しまして
【いつもの二人】シリーズをお届けしたいと思います。
今回は既に結婚して二人の子供もいる和人視点です。


明日奈に倣ってゆっくりと風呂につかり、身体の芯まで温まって疲れを取ったオレは僅かに酩酊したような気分を内に残したままリビングのソファに座っている妻の隣へと腰掛けた。

と同時に無意識に「ふぅっ」と息を吐き出せば明日奈が視線を手元から逸らさずに、クスッ、と笑う。

 

「お疲れさま、そんなに気の張る食事会だったの?」

「別に……そういうわけでもないけど……」

 

二十代後半に手がけたプロジェクトで老舗ホテルの大宴会場を借りきっての関連企業までも含めた盛大な公式発表記念パーティーに出席して以来、なぜか場所をホテルの食事会にすればオレが出席するというデマが浸透してしまい、今夜も昨年にオープンしかばかりの煌びやかな外資系ホテルでフレンチをセッティングされたオレは半ば強制的に上からの指示でレストランに赴き、前菜からデザートまでを口に運び続けた後、ようやく開放されて我が家に戻って来たというわけだ。

レストランの食事が口に合わないというわけではない。

十代の頃から続くオレの代表料理「具無しペペロンチーノ」でも舌は満足しているのだから、そこいらのファストフードだって十分に美味しいと感じる味覚は持っているし、それがフランスの三つ星レストランから引き抜いてきたシェフのコース料理ともなれば言わずもがなである。いわゆる、家庭では再現できない味、という物があるのもわかっているから今日の晩餐はまさしくその部類だったんだろう。

芽衣が生まれる前は明日奈にせがまれて和真と家族三人、何度かホテルに食事に行った事もある。

すると決まって料理を口にした明日奈の『この味、どうしたら出せるのかなぁ』と呟きながら考え込んでいるその表情は、まさに味覚再生エンジンに与えるパラメータを解析しているそれで、オレと和真は同時に肩をすくませながらこっそり顔を見合わせたものだ。

芽衣の、今はまだ幼いが故の予期せぬ突飛な行動がもう少し落ち着けば、今夜のホテルに家族で行くのもいいな、と明日奈の喜ぶ顔を想像しながら、そろり、と手を伸ばし隣の細い腰を軽く引き寄せる。

けれどオレが隣に座った時点でこの行為は想定内だったらしく、彼女は何のリアクションも見せずにただ黙々と両手を動かし続けていた。

流石にこの程度で驚く事はないと思っていたし、嫌がられたらそれはそれでショックだが、これと言った反応がなにもないのも面白くない。

さっきから規則的に動き続けている彼女の両手が原因なのだと、その動きを妨げない程度に軽く細い肩に顔を乗せ上から睨むと僅かな負荷に一瞬手の動きが乱れたがすぐに調子を取り戻し、まるでなかったかのようなスムーズさで再び彼女の白い手は編み棒を踊らせている。

 

「なに編んでるんだ?」

「うん、寒くなってきたから芽衣ちゃんが制服のスカートの中に履く……」

「……いわゆる、毛糸のパンツ、ってやつ?」

「…………そう」

「で、この色と柄は芽衣のリクエストなのか?」

「…………うん。私もね、本当にコレでいいの?、って聞いたんだけど……」

「さすがにこれは既製品じゃ、なさそうだしな……」

「そうなのよね。芽衣ちゃん、今、あの歌が大のお気に入りだから」

 

明日奈の言葉で私立の幼等部に在学中の娘が、最近よく歌っている歌を思い出し、オレは「あー」と納得と苦笑いを同時に吐いた。現実世界でもそこそこ裁縫スキルのある明日奈だから実現可能となってしまった毛糸のパンツは目にも鮮やかな黄色と黒の配色が絶妙のバランスで亀裂模様に交差している。

 

「なぁ、明日奈。最近、家族で外食してないよな」

「ん?、んー……そう言われてみれば、そうかも」

「明日奈が働いていた頃は外で待ち合わせて食べに行ったり……」

「そうだったね。和真くんを保育園からそのまま連れて行くから、途中でお洋服着替えたりして」

「今は芽衣がいるからなぁ……アイツ、なんであんなに落ち着きがないんだ?」

「そこは好奇心旺盛って言ってあげて。好奇心の塊みたいなキリトくんの娘だもん」

「うっ……で、でも、好奇心ならアスナだって負けてないだろっ」

「じゃ、私達二人の娘だから、ってことで」

 

やっと明日奈がオレの顔を見て、ふわり、と微笑んでくれる。その笑顔を見るだけで全てが丸く収まってしまうのだからオレも単純だ。

 

「それ、まだ頑張るのか?」

 

言外にそろそろ寝室への誘いを含ませてみれば明日奈はやっと手の動きを止めて、ふっ、と一呼吸置いてから両手で編み棒を目の高さまで持ち上げる。当然、それまで編んできた成果である黄色と黒の毛糸面がだらり、と垂れ下がるわけで、それを眺めた明日奈は出来具合に満足したのか、うんうん、と頭を二回振った。

 

「とりあえず今日はここまでていいかな……」

 

作業の終了を予感させる声にオレが思わず目を輝かせた時だ、リビングへと近づいてくる不穏な歌声がオレ達夫婦の鼓膜を震わせた。

 

「……にぃーっ、のパンツは、い〜いパンツぅー……」

 

うっ、と思った時には既に遅く、バタンッ、と豪快な勢いでリビングのドアは開け放たれ、ご機嫌な歌声と表情の芽衣はソファに座る明日奈を見つけると歌う音量そのままに「おかあさーんっ」と叫んだ。子供特有の高音に怯むことなく、少し眉尻を下げた明日奈は穏やかに笑いかける。

 

「どうしたの?、芽衣ちゃん」

 

芽衣のすぐ後ろから付いて来た和真だけは間が悪い事をわかっているのだろう、困り果てた顔つきで故意にオレと視線を合わせようとしない。だいたい芽衣はそろそろ寝る時間のはずで、多分、オレが不在の時は明日奈が寝かしつけているのだろうが、その時間にオレが家に居る時の寝付かせ役は兄である和真と決まっている。

寝る前の挨拶に来たのならさっさと終わらせろ、と伝える為に明日奈の腰に回した手にキュッ、と力を込めて、こちらを見ずとも伝わるほどに睨み付けてやれば明日奈譲りで勘の良い和真の両肩が、びくっ、と強張った。

 

「ほ、ほらっ、芽衣っ、父さんと母さんにおやすみなさいを言いに来たんだろ。早く言って寝るぞ」

「うんっ……お父さんっ、お母さんっ、ぅおーーーっ」

 

なぜか「お」を伸ばし続けている芽衣の眼がどんどんと輝き始める。

 

「おにのパンツだーっ」

 

両手で万歳をした芽衣が明日奈の膝元にべたっ、としがみついてくる。オレは反射的に、取られまいっという本能が働いて更に明日奈を抱き寄せようと力を入れてしまい、結果、彼女の喉元から「きゅぇっ」とカエルのような声が飛び出してきた。

 

「かっ、母さんっ、大丈夫っ!?」

 

慌てて和真まで駆け寄ってきて、二人掛けのソファを中心に家族が勢揃いする。

嬉しさを抑えきれない芽衣はその感情の発露を母親の膝を抱きしめる事にしたらしく、明日奈の膝の上に身を乗り上げて目の前に広げられた黄色と黒の模様を一心に見つめている。

娘に両足をすっかり固定され、オレにウエストを締め上げられる形となった明日奈はさすがに軽く苦笑いになって背後に立つ和真へ「だ、大丈夫」と信憑性の薄い声を吐いていた。

落ち着きを取り戻した和真は、芽衣と張り合うようにして明日奈にひっついているオレに一瞥を投げてくるが、オレは芽衣と違ってすぐに力を抜いたし、今は夫婦の時間であってそこに割って入って来たのはお前達なんだからオレに比は無いと、堂々と視線を返す。

それで諦めたように……決して、呆れたように、ではない……鼻から軽く息を抜いた和真は明日奈ごしに芽衣へと呼びかけた。

 

「芽衣、おやすみなさいの他にお願い、あるんだろ?」

「そうだった!」

 

鬼のパンツ柄の毛糸のパンツに感情が振り切れていた為に忘れていたらしい何かを思い出したのか、目と口を丸くさせたままの芽衣は毛糸から大好きな母親へと顔を上げる。

 

「あのねっ、あのねっ、お母さんっ、オオタニさんのパンケーキが食べたいっ」

「え゛っ!?、今から?」

 

おやすみなさい、を言いに来る時刻に何を言い出すのかと、ギョッとしたのはオレだけじゃなかったようで再度和真が慌てて口出しをしてきた。

 

「芽衣っ、『いつ・どこで・だれに・なにを』の『いつ』が抜けてるっ」

「あ、そーか」

 

直情的な行動が多い芽衣は言葉も同じくまずは伝えたい事が最優先だ。とは言え相手は幼児なんだからある程度は仕方ないが、芽衣の場合、今の段階で気をつけてやらないと今後もそのまま直球言語で突き進む可能性を大いに孕んでいる為、言葉のコミュニケーションについては和真に限らずオレも明日奈もその都度丁寧に接するよう心がけている。これまた明日奈譲りだろう、面倒見の良い和真はユイと相談した結果、芽衣の言語伝達能力の向上においては『いつ・どこで・だれに・なにを』を求める事にしたらしい。既にトップダウン型AIとしては世界的にもトップレベルの存在となっているユイと中学生男子がリビングでうんうん唸りながらひねり出した案だ、少なくとも間違ってはいないだろう。

ちなみにその時のホログラム映像のユイと和真が正座で膝を突き合わせて悩んでいる姿を傍観者に徹して微笑ましそうに見ていた明日奈は、芽衣の育児を通してユイと和真の成長を促しているのだから見事なものだ。

そんなかいがあってか普段だったら言葉の組み立てもまずまずの芽衣が今のように願望最優先なのは気分が高揚している証拠で、やっぱりこの個性溢れるデザインの毛糸のパンツがよほど嬉しいんだろうな、と力が抜けたオレは再び、とん、と明日奈の肩に顎をのせた。

 

「大谷さんのパンケーキ?、誰だ?、大谷さんて」

 

オレが把握していないだけで芽衣の同級生の名前だろうか?、と故意に明日奈の頬へ、すりっ、と顔を傾ける。けれどオレの素朴な疑問という脇道など完全無視で芽衣は次の要望に向けまっしぐらだ。

 

「今じゃないよっ。明日のブ……ブラシ?、ブラシに作ってっ、お母さんっ。あとテイさんのポテトサラダもっ」

「ブラシ、じゃなくてブランチだよ、芽衣」

 

すかさず和真のフォローが入る。

しかしオレの頭の中は増大したハテナマークの処理に追われてそれどころではない……丁さん?、今度は中国系の人なのか?、なのにポテトサラダ?

作ってはならぬ、食してはならぬ、の決まりはないだろうが中華のサラダと言えばイメージ的にはごま油や酢醤油ベースのドレッシングで春雨やキュウリを味付けした物ではないだろうか?、そして大谷さんと丁さんの関係性はあるのか?、更にここが一番重要な部分だが、産まれてからずっと明日奈の手料理を食べ続けている芽衣が二品も他者の味をリクエストするなんて、その二人は一体何者なんだ?、と頭を捻りながら、すりすり、と明日奈の頬へ額をこすりつけていると背後の和真がわざとらしい咳払いでオレに警告してくる。

さすがに芽衣の前ではここまでが限度だ、オレだってわかっている。だいたい明日奈が容認しているんだからお前にとやかく言われる事ではないはずだ、と視線を投げればいち早く感知した和真はそれを避けるように、サッとオレとは反対側の明日奈の傍らへ上体を屈めた。

 

「父さんが休みの日は母さんも少し寝坊するだろ。だから明日はいっそブランチにして母さんもゆっくりして欲しいんだ」

「え!?…うっ……うん、それは、嬉しいんだけど……」

 

父親が休日の朝は母親が起きられない理由をわかってるんだろうな、と思わせる中学生の息子の発言に明日奈の頬が一気に染まる。

 

「あと俺からもリクエスト。もちろん手伝うからオークラのプレーンオムレツもメニューに入れてよ」

「和真くんはチーズ入りにした方が好きでしょう?」

 

髪色が同じせいか雰囲気の似通った二人が至近距離で嬉しそうに微笑み合う光景は妻と息子でなければ眼福と表していいのだろうが、今はお前までも大倉さんという名前付きメニューを望むのか、と疎外感で自然と眉間に皺が寄った。そんなオレの表情の変化に気付かないままの明日奈は膝の上の芽衣と自分のすぐ横に顔を突き出している和真の交互を見てから頼もしさ溢れる笑顔を返す。

 

「じゃあ明日のブランチはパンケーキにポテトサラダ、それにオムレツね」

「わーいっ」

 

編みかけの毛糸の鬼のパンツを発見した時のように芽衣は両手を挙げて緩みきった口元と目元で喜びを表し、和真も嬉しそうに目を細め、「うん」と言ってから妹に就寝を促した。

 

「じゃあ芽衣、俺達は上にあがろう」

「うんっ。おやすみなさいっ、お父さん、お母さん」

「ああ、おやすみ、芽衣」

「おやすみなさい、芽衣ちゃん」

 

芽衣に手招きをして自分の傍に呼び寄せた和真もオレ達に向け「おやすみ」と言ってから妹に付き従うようにしてリビングを出て行く。その後ろ姿に「おやすみ」「おやすみなさい、和真くん。芽衣ちゃんをお願いね」と声をかけ終わればリビングは再びオレ達だけの空間だ。けれど廊下からは興奮気味の芽衣の声がここまで届いてくる。

 

『桜花(おうか)ちゃんね、この前オオタニさんに行ったんだってー。だから芽衣もパンケーキ、食べたくなって……」

 

階段を上っていく足音と共に声も小さくなっていって可聴範囲からも子供達の気配が消えると、明日奈がクスッと笑った。

 

「あの分じゃ、なかなか寝付かないかも」

「和真がなんとかするだろ」

 

会話をしつつ毛糸や編み棒を片付けようとしている明日奈の意識を全てこちらへ集める為に腰に回している両手で彼女を身体ごと抱き寄せる。「ん?」とオレに対し疑問の声をあげた明日奈が振り返る前にさらに隙間を無くさんと彼女の耳元まで口を寄せた。

 

「大谷さんや丁さんて誰なんだ?」

「え?……あ、和人くんは知らなかったのね」

「知ってるわけないだろ」

 

申し訳ないが芽衣の交友関係は全く把握していない。ぼんやり覚えてるのはさっき名前が聞こえていた「桜花ちゃん」くらいだ。

 

「それに和真が言ってた大倉っていうのも……」

 

そっちはあいつの友人関係か?……何にしても、こうも人名が付いた料理ばかりリクエストしてくるのはなぜなんだ?、と、いくら考えても答えのでない疑問に早々に白旗を揚げ、オレは答えを求めるために明日奈の耳朶に唇で触れる。

 

「明日奈」

「ひゃぅっ」

 

耳の弱い明日奈が肩を震わせながら息を飲む。それから「もうっ」と小さな憤りを口にしてから、ぽすっ、とオレに身を預けてきた。しっかりと抱き留めてから正解を待つ。

 

「芽衣ちゃんが丁寧に『さん』付けしてるだけで、リクエストされたのはホテルニューオータニのパンケーキと帝国ホテルのポテトサラダよ。ちなみに和真くんが言ってたのはホテルオークラのオムレツ」

「は?」

「芽衣ちゃんのクラスの子がハイクラスのホテルで食事をしたって自慢したらしくて。でも芽衣ちゃんが気になるのはホテルよりもそこでの食事だって言うから、それなら近い物が私にも作れるかな、って」

「それで……作ったのか?」

「うん。とりあえずそのホテルクラスの名物って言われてるのを一品ずつ。手に入りにくい食材はなかったし、私も小さい頃から何度か食べて味は覚えてたから。それ以来、芽衣ちゃんも和真くんも、時々ああやってリクエストしてくれるの」

 

事もなげに日本の御三家と呼ばれる老舗ホテル伝統レシピの味を再現したと告げてくる明日奈の笑顔は《あの世界》でオレの指に醤油をひとたらししてくれた時のように何の気負いもない。あの成果だってやろうと思えばいくらでも自分の利益に繋がったはずなのに、彼女はそれを使ってオレに食事を作り、ニシダさんにも気軽に分けていた。多分アルゴが情報操作をしてくれたお陰とほぼ同じタイミングでオレ達が二十二層に雲隠れをしたせいで大事にはならなかったが、醤油の再現という偉業は《あの世界》での革命と言ってもいいだろう。

同様にホテルの味の再現も明日奈は子供達に食べさせたい一心で行ったのは間違いなく……ただ、それをオレが今まで知らなかった事だけがどうにも納得しかねるが、明日にはオレも味わえるのだから良しとしよう。

明日のブランチへの期待を抱きつつ今度はこれからの行為の始まりを告げるように彼女の耳全体を軽く甘噛みしながら誘いを直接吹き込む。

 

「なら、子供達の了承も得たことだし、明日の朝はゆっくり出来るんだから、何の気がかりもないよな」

 

弄んでいる耳がみるみるうちに赤く熟れていくのを間近で見ながらオレはニヤリと微笑んだ。




お読みいただき、有り難うございました。
がっつりホテル名を出してしまいましたが……大丈夫かな?
ウラ話は通常投稿とまとめます。


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見学会

すみませんっ、投稿日、大幅にズレました!
それでも今年最後なのでなんとか……(苦笑)
和人と明日奈が帰還者学校に通っている時のお話です。



デスゲームから生還した十代の若者達の受け皿として政府が用意した通称、帰還者学校……そこに週末なら居るはずのない教師と生徒達の姿が今日に限っては集団で校内を移動していた。

 

「では、教職員の方々はこのまま真っ直ぐ僕に付いて来てください」

 

カウンセリングルームの案内を終えた後、次の段取りを告げた茅野はすぐ傍にいる教師達よりも堂々とした振る舞いで今回のホスト役を務めている。その声でそれまで一団となっていた人間達は制服姿とそうではない姿の二つに別れた。本来ならば制服の集団に属するはずの茅野と数名の生徒達は事前の打ち合わせ通り生徒達のグループを結城明日奈に任せ、自分達は自校の教師らと共にこの訪問を希望してきた都内でも有名な私立大学付属高校の教師達を導くべく、大人集団の先頭に立つ。

 

「そちらの生徒会の方々は結城さんが案内しますから」

「結城明日奈と申します。宜しくお願いします」

 

それまで集団の最後尾近くに控えていた明日奈が普段ならこの校内で目にするはずのないデザインの制服を着た数名に微笑んだ。とは言え都心で生まれ育ち、自分の親がそれなりに教育熱心で加えて両親の社会的地位も高いとなれば当然目にした事のある制服であるし、耳にした事のある学校名の生徒達である。特に明日奈にとっては中等部を卒業した後の進学先の候補として名前が挙がっていただけに僅かだが思うところもあった。

それに数ヶ月前、個人的にこの附属高校に赴き大学の公開模試を受けていたのだから、ひょっとしたら向こうの校舎ですれ違った生徒がこの中にいるかもしれない、と不思議な縁さえ感じていたほどだ。

とは言え今回は生徒会という組織が存在しないこの学校への見学要請という事で、学校側から頼まれた案内役をきちんと全うすべく、持ち前の優等生気質を十二分に発揮して担当となっている有名私立校の生徒会役員達と共に教職員達とは違う方向へと案内を始めようとした時だ、今まで一番後ろを面倒くさそうな顔で付いて来ていた黒髪の男子生徒がのんびりと手を上げた。

 

「えっと……オレはどっちに付いてったら?」

「ああ、君は結城さんの方をお願いするよ」

 

すかさず茅野が笑顔で答えるが、明日奈の内心は「割り振ってあったのに、もうっ」と穏やかではない。しかし、そんな感情は微塵も見せずに「では、生徒会の皆さんはこちらへどうぞ」と角を曲がりつつその男子生徒をチラリ、と振り返ってみると、相変わらず眠たそうな表情ではあるがちゃんと列の最後尾に付いて来ている。

明日奈はひとまず男子生徒を意識から外して案内役に徹しようと、相手校の生徒会長に笑顔を向けた。

 

「統廃合で閉校後、すぐに帰還者学校となる事が決まった校舎なので放置されていた期間はほぼありません。それに私達が使いやすいよう色々と最新設備も導入されています。けれど一般教室にはほとんど手を入れていないので、そこは緒ノ宮会長の学校の方が遙かに好環境だと思いますが」

「いやいや、我が校も伝統と言う名の老朽化が些か目立ってきているから……それで?、これからは生徒達だけでどこへ?」

 

今回来校した私立大付属高校の生徒会長緒ノ宮は先導役の明日奈の隣をさり気なくキープしてエスコートさながらの仕草を見せる。昨今、私立か公立かという線引きで校則の自由度は測れないが洗練されたデザインの制服に身を包んだ緒ノ宮は緩いパーマのかかっている前髪をかき上げて、明日奈よりも高い身長を持てあますように腰を屈め、顔を近づけてきた。

素早い反応で、サッ、と一歩前に出た明日奈は完璧な笑顔を保ったまま相手校の生徒会役員達全員と今回の見学会の応対に駆り出された自校の生徒達を見回して皆に届くよう懐かしき副団長よろしく広く声を行き渡らせる。

 

「では、これから『調理室』にご案内します」

 

 

 

 

 

『調理室』に続き『化学実験室』でも高校生が使うにしてはかなりハイレベルな器具が設置されている事に緒ノ宮達は素直に感嘆の声を漏らした。案内した教室ごとに、その特別教室をよく使用している生徒達が中心となって来校した生徒達に説明を行ったのだが、今回は緒ノ宮達生徒会側が事前に見学希望の教室を申請していたので彼らも色々と下準備をしてきており活発な質疑応答が交わされている。その様子を教室の入り口で明日奈が静かに見守っていると音も無くその緒ノ宮が近づいてきた。

 

「……確かに、ここまでの設備が揃っているなら一般の生徒でも転校を考えたくなる気持ちがわかるな」

「数は少ないけど後期からの編入生の中に《あのゲーム》からの帰還者ではない生徒もいます。ただ、閉校予定の学校でしたから校舎全体はかなり年代物ですが」

「修復よりも添加をとったわけだ」

「長期的な運営予定ではないので」

「だとしても少々例外的だが完全単位制のモデルケースとしても注目されていたはず……」

 

一時期、何回かメディアに取り上げられた事を言っているのだろう。ただ、その報道は純粋にカリキュラムの紹介と言うよりは二年間もゲーム世界の虜囚となっていた十代の少年少女が今度はひとつの学校という世界に隔離されている様子にスポットを当てた編集となっていた。

 

「そうですね。私達にとってもこの学校のカリキュラムは個々に対応してくれるので助かる部分もあるけれど、逆に観察され実験されている気分にもなります……」

「こうやって見学にやってくる人間を受け入れなくちゃならないし?」

「あ、気分を悪くされたらごめんなさい」

「構わないさ。実際その通りだ。結城さんは知っているかな?、僕の父親はうちの学校の創設者であり現在の総理事長なんだ。僕も将来的には後を継ぎたいと考えている。この学校のように年齢に関わらず授業が選べるのは実に先進的だと思ってね。是非自分の目で見てみたかったんだ」

 

自信に満ちあふれた緒ノ宮の言葉に明日奈は尊敬を込めた素直な笑みを返した。

 

「自分の進路をしっかり考えて行動してるんですね」

「親の敷いたレールが自分の望むレールと重なっていただけさ」

「そのレールをちゃんと二本だと認識している所が緒ノ宮会長の素晴らしい所だと思います」

「……うん、有り難う、結城さん……」

「アー……結城さん、ちょっと失礼」

 

更にもう一歩、彼女との距離を縮めようとした緒ノ宮を遮るように、ついさっきまで化学実験室の窓際で手持ち無沙汰に室内を見回していた黒髪の男子生徒が明日奈の名を呼びながら駆け寄ってくる。

 

「どうしたの?、キリ、ヶ谷くん」

「どうもカフェテリアに設置したモニターの調子が悪いらしい。ちょっと来てくれって……」

 

片手に携帯端末を握っているところをみると直接、和人に連絡が入ったらしい。

明日奈達生徒グループはこれからもうひとつ特別教室を回った後カフェテリアで教職員達と合流し、そこでお茶を飲みながらの意見交換会を予定している。その際に使うモニターに不具合が出たのだろう。

学校側から和人に電気通信機器トラブルの救援要請がかかるのはいつもの事なので明日奈はすぐに「ここはいいから」と送り出す。

和人は一瞬だけ物言いたげな瞳を明日奈とその隣の緒ノ宮に向けるが、諦めたように調理室を出て行った。

その真意を受け取りきれずに明日奈は小首をかしげるが和人の後ろ姿を見つめている自分の横顔に注いでくる痛いくらいの視線に気付き、取り繕うように早口になる。

 

「あっ、ごめんなさい。何のお話でしたっけ?」

「ちょっと気になったんだけど、歳の違う生徒が同じ授業を受けているとやはり上下関係は希薄になるのかな?、例えば言葉遣いとか、呼び方とか」

「うーん、全員が全員そうとは限りません。ただ、私達はほとんどの生徒が四月の一斉入学なので、先輩後輩の意識は薄いと思います」

「なるほど……先程の男子生徒は同い年?」

「…いえ、ひとつ下ですけど」

「それでも君の事は『先輩』ではなく『さん』付けで呼ぶわけだ」

「えっと……この学校では年上の生徒に対して『先輩』を付ける方が珍しいんです。私の場合、中等部の子達からは『先輩』を付けて呼ばれたりもしますけど」

 

どうにも苦笑いになってしまうのは、それが『結城先輩』ではなく『姫先輩』だからだ。

 

「入学当初は《仮想世界》でのキャラネーム呼びはマナー違反と言う事で禁止されていましたが、今ではだいぶ緩和されています。本人が嫌でなければキャラネームも一種のあだ名のような物だと思いますし、その人を示す言葉に違いありませんから」

 

そこまで会話をしてから明日奈はふと時間に気付いて「ごめんなさい。余計なお喋りをしてしまいました」と謝ると化学実験室内の生徒達に移動を呼びかけた。そして一行は次の目的地である『ライブラリー』へと向かったのである。

 

 

 

 

 

「結城さん、君ともう少し二人で話がしたいんだ」

 

悪戯が成功した時のような笑顔は見慣れているはずなのに、人が違うと随分違って見えるのね、と少々呑気な感想を抱いている明日奈は緒ノ宮と二人きり、ライブラリーの狭い個室に閉じ込められていた……いや正確に云えば、不本意に閉じ込められているのは明日奈だけで、緒ノ宮は明日奈を閉じ込めた側の人間である。

ここはもともと広すぎた図書室の半分にフリーに使えるPCが十数台設置されていたのだが、帰還者学校として使用する際に防音壁で一台ずつスペースを確保してネカフェのような空間に作り替えた特別教室だ。

『ライブラリー』と呼ばれているここを案内し終え、いざ合流地点のカフェテリアへと移動していた時、緒ノ宮が「忘れ物をした」と明日奈を呼び止めたのが数分前。

他の生徒達にはそのままカフェテリアに向かってもらい緒ノ宮と明日奈だけがライブラリーへ引き返したのだが、「ここかな?」と、呟く緒ノ宮に続いて個室に入った明日奈は一緒に忘れ物を探そうという段階になって彼が何を忘れたのかを知らずにいた事に気づき「何を忘れたんですか?」と尋ねたところ、カチャリ、と内側から鍵をかけられてしまったのだ。

扉を背にして立つ緒ノ宮は悪びれる様子もなく変わらない笑顔で本心を告げ明日奈を見つめている。

一方、明日奈もこの状況に焦る気持ちは全くないのか、緒ノ宮の表情を冷静に観察していた。

 

「なら、忘れ物と言うのは?」

「うん、嘘だね」

「……とりあえず、その点は安心しました」

 

一旦肩の力を抜いた明日奈は改めて目の前の緒ノ宮に向かい合い対応に考えを巡らせるが、すぐに大声を上げる事も力尽くでどうにかしようとする事も得策ではないと判断を下す。四方が防音壁に囲まれているとは言え利用者はヘッドフォンを着用するのでそこまで完璧な遮音効果ではないにしろ、廊下まで声が届くかは微妙な所だし、《現実世界》では同年代の男子をねじ伏せられる程の筋力値もないからだ。ここで抵抗しなくてもカフェテリアに戻るのが遅くなればいずれは誰かが様子を見に来るはずで、当然緒ノ宮もそれはわかった上での行動だろう。ならば相手に意向に従うのが一番穏便に済むと考えた明日奈だったが、それでも些か緊張しているのか、こくり、と唾を飲み込む。

この狭い空間で会話以上の何かを求められる事などないと頭ではわかっているのに、その可能性がほんの少し頭をよぎっただけで知らずに両手を握りしめてしまうのは鳥籠に閉じ込められた記憶のせいだ。

やっぱり不意打ちで異性と二人きりになるとまだ強張るのね、と客観的な判断を下せる部分に気持ちを持ち直した明日奈は己に「大丈夫」と半ば暗示を掛けて笑顔を作った。

 

「お話、とは?」

「少し前になるけど、結城さん、君はうちの高校で公開模試を受けたよね?」

 

いきなり色気のない話を振られて明日奈はパチパチと瞬きを繰り返すが、逆にその話題が緊張を解かして緒ノ宮の質問に「ええ」と返事をする。

緒ノ宮達の高校名を聞いた時に思い出してもいたが、その模試は明日奈の意志ではなく母親である京子が勝手に申し込んだものだ。

帰還者学校に通い続ける条件として、京子は時折、抜き打ちテストのように明日奈の学力を試す為の模試をセッティングするのである。いつも実施日前日に告げられるので予定が入っている場合は本当に困るのだが、この模試の時は丸一日をかけて対策に取り組み結果も合格点だったはず、と数ヶ月前の出来事を肯定した。ただ、模試会場となっていた緒ノ宮会長の高校の生徒も三年生は全員受験していたらしく、明日奈は外部生として随分目立っていた覚えがある。

 

「大学の付属校なのに模試受験を課すのも少し珍しいけど、希望者全員がそのまま大学に上がれるわけではないし。あの模試の点数も内部進学の加点になるんだ。だから生徒達は定期テスト同様、真剣に受けるわけで……」

 

そういう事だったのか、と今更ながらに教室内に満ちていた硬い空気の理由を知って明日奈は頷いた。明日奈自身は特に誰とも会話することなくいつものように淡々と模試を受けるだけだったが、周囲の生徒達は進学に影響するとなればプレッシャーもかかっていただろう。

 

「あの模試の結果、結城さんは二位のグループに入っていたと記憶してるんだけど?」

「そうですね。前日の朝に母から公開模試を受けるよう言い渡されたので努力はしたんですが一問、ミスをしました」

「…………前日に言われて受けた模試でその成績か……それ、絶対うちの生徒達には言わない方がいいな」

「けど、あの模試は満点で一位の人が二十人以上いましたよね?」

 

朧気な記憶だが、一位の二十数名の中に緒ノ宮の名前もあったはずだ。

 

「当たり前さ。僕を始めうちの生徒達は半月以上前から準備してるんだから…………君ならデスゲームから解放された後、この学校に入学しなくても大丈夫だっただろうに」

 

確か京子が用意していた自分の編入先に緒ノ宮の学校名が印刷されて封筒があった事を思い出した明日奈は曖昧な笑みを浮かべた。

 

「けど、今日、ご覧頂いた通り、この学校も魅力的なんですよ」

 

最大の理由は他にあるのだが、それはわざわざ言わなくてもいいだろう、と明日奈が緒ノ宮との話が公開模試の件だっのかとすっかり気を許した時だ、化学実験室の時のように彼がスッ、と踏みだし距離を詰めてくる。ただし今回はそこに割って入ってくる和人の声はない。

 

「まぁ構わない。どうせ高校生という肩書きもあと一年はないし。僕はこのまま内部進学で大学に上がって教育学部を卒業した後、他の大学で経営学を学びなおす。学校の経営にはどちらも不可欠だからね。その後、実際の教育現場で経験を積んでゆくゆくは自分の教育理念に基づく学校経営をするつもりなんだ…………そこに結城さん、君も加わってくれないか?」

「え?、私ですか?」

 

突然の申し出に明日奈の声が動揺で揺れた。明日奈が考えている将来はどのような職に就こうとも根本に流れているのは自分にとって特別な人を支えたいという強い願いだ。教育や経営という分野に興味がないわけではないが今日初めて面識を持ち言葉を交わした相手と将来の話というのは急すぎるとしか思えず、困惑の気持ちしか出てこない。

しかし緒ノ宮はそんな明日奈の思いを持ち前の行動力で引き込もうというのか、戸惑いさえも安心に変えそうな頼もしい声でまたもや予想外の内容を告げてきた。

 

「僕と結城さんなら公私ともに良いパートナーになれると思うんだ。僕は外見の容姿、内面の性格、それに学力、運動能力…自分次第で変えられる所は全て努力しているしそれなりの成果は伴っていると思う。加えてこれは僕の力ではないけど親の社会的地位も悪くない。僕は今まで自分の望む人生を歩むために全力を注いできたし、今のところ思い通りの人生を進んでいる自信もある。だからそろそろ伴侶となってくれる人を、とを考え始めた頃に模試会場であるうちの学校で君を見かけてその美貌、立ち居振る舞いに自然と目が離せなくなった。それにあの模試結果だ。更に今日、案内役を務めていた時の統率力や対応力……結城さん、まさに君は僕の理想だ。僕は自分が望んだ女性には同様にその人からも望んでもらえるような男となるべく自分を磨いてきたつもりだ。どうだろう、取り敢えず互いをわかり合う関係から始めてみないか?」

 

怒涛のごとき迫力で紡がれる言葉と共に一歩、また一歩と近づいてくる緒ノ宮の圧に明日奈はスペース最奥まで後退し、背中に壁が触れた所で、ふぅっ、と息を吐き、あえて微笑みかける。

 

「……わかり合う関係……それはつまり…………お友達ですね」

「え?、あ、いや……僕は将来を見越した関係をっ」

 

再び雄弁に語り始めようとする緒ノ宮を明日奈のはっきりとした声が遮断した。

 

「私も将来緒ノ宮会長の教育理念がどんな物になるのかとても興味がありますし、十代で築いた友情がずっと続くのって素敵だと思います」

「……ウソだ…………ここまで揃っている僕に結城さんが友情以上の感情を抱いてくれないなんて……」

 

それまで輝き煌めいていた緒ノ宮の瞳は陰り、愕然とした口はうっすらと開いたままだ。自分がこれ程の好意を示したというのに肝心の相手からは相応の好意が得られない事が理解不能なのだろう。今まで経験したことのない事態に対処できずただ瞬きを繰り返しているだけの緒ノ宮に対し明日奈は懸命すぎる彼の純粋さに好感を持つが、その願いを聞き入れる事は到底出来ない。

結果、思考が停止している緒ノ宮とそれを見てただ静かに微笑んでいる明日奈という微妙な空間が出来上がっていた。

しかしそんな間の抜けた空気は突然ドンッ、ドンッ、ドンッと外側から扉を乱暴に叩く音と「アスナっ」と叫ぶ悲痛な声に打ち破られる。

緒ノ宮と明日奈は揃ってビクリ、と身体を震わせるが一足先に冷静さを取り戻したのは明日奈だった。

 

「緒ノ宮会長、こちらへ」

「へ!?」

「内開きのドアが壊れますから」

「なっ!!」

 

ぎょっ、として背後にある扉へと緒ノ宮が振り返ったその時、バキッともの凄い音がして鍵が壊れ飛び、抑制の外れた扉が勢いよく内側に押し開かれる。運良くその扉をすんでの所でかわした緒ノ宮は「ひっ」と情けない声をあげて二歩、三歩と後ろによろめき、意図せずに明日奈のいる方へ身体が寄ってしまった途端、いきなり正面からグッと腕を掴まれた。

あぅっ、と呻くと同時に強引にその腕を引かれて個室の外まで放り出される。

状況が掴めないまま強い力に翻弄された緒ノ宮が足をもつれさせたもののなんとか持ちこたえれば、今の今まで自分がいた場所には明日奈を背に庇うようにして立つ黒髪の男子生徒がこっちを睨み付けていた。

一方、和人に守られるようにして個室の奥に立っている明日奈もまた頬に手を当てて困り笑顔で緒ノ宮を見ている。

 

「大丈夫か?、アスナ」

「うん、大丈夫じゃないのはここの扉よね。でも、来てくれて有り難う、キリトくん」

「どっ、どういう事なんだっ、結城さんっ」

「緒ノ宮会長、今日説明した通りです。この学校に追加設置された電子機器は最新の物が多いけれど、ここの扉の鍵などは元々校舎内で使われていた資材の再利用なので既に耐久性も低くなっていて、それに鍵自体が簡単な掛け金式だから……」

 

男子高校生一人の力で容易に蹴破れてしまうんです、と説明するアスナの言葉に緒ノ宮は首をぶんっ、ぶんっ、と振って否を唱えた。

 

「そうじゃないっ……」

 

ゆっくりと持ち上がる緒ノ宮の片手が明日奈の一点を指さす。頬に触れていない方の明日奈の手はしっかりと和人の腕にしがみついていた。

 

「私は彼の傍が一番安心なんです。絶対に守ってくれるから」

 

揺らぐ事などあり得ないと感じさせる信頼の声に緒ノ宮の声が驚きで掠れる。

 

「そ…の、男子生徒より……僕の、方が…劣っているのか?」

「いいえ、緒ノ宮会長。会長がさっき言っていた見た目、性格、学力、運動能力、その他においてここにいるキリトくんの方が全て優秀だとは言いません」

 

キッパリと宣言する明日奈の言葉に少しだけ和人の眉間に皺が寄る。けれど明日奈は気付く事なく緒ノ宮を真っ直ぐ見つめたままだ。

 

「自分を磨く努力を怠らない会長の強い意志や行動力は賞賛に値しますし尊敬もしますが、だからと言って必ず友情以上の感情を抱くとは限らないんです…………だって、好きになったら、きっとそういう物がなくても、もう、どうしようもないでしょう?」

 

今まで自分に想いを打ち明けてくれた女子は皆必ず緒ノ宮の容姿だったり、性格だったり、学校の成績だったりとそれまで自分が努力した結果に惹かれたと言ってくれていたのに、それが必要ない物のように感じた緒ノ宮はがっくりと肩を落とした。打ちのめされ、言葉もなく項垂れてしまった緒ノ宮に明日奈の優しげな声が響いてくる。

 

「大丈夫です、会長。なりたい自分になる為に磨き続けて下さい。そういう所が緒ノ宮会長らしさなんだと思います」

「僕……らしさ?」

「ええ。今まで頑張ってきたんですから。自分が進みたい道を進むために」

「う、ん…………うん、そうだな。結城さんとはひとまず友情を続ける事にして……」

 

どうやら納得の方向に収まりつつある緒ノ宮の見て、和人は小声で「ひとまずってなんだよ」と不機嫌な声を漏らすが、ぎゅっ、と明日奈に腕を引かれて口を閉じた。

 

「では緒ノ宮会長、先にカフェテリアに行っててください。ここを少し片付けてから私達もすぐに向かいます」

 

場所はわかりますか?、と聞かれた緒ノ宮は素直に「ああ、わかる」と答えたがまだショックが抜け切れていないのだろう、幾分ふらつきながらライブラリーを出て行く。その後ろ姿が完全に消えたところで和人と明日奈はそろって大きく息を吐いた。

未だ自分の後ろにひっついている明日奈に向かい和人が首を巡らせて「アスナ」と呼びかければ、彼女は途端に背筋をピンッと伸ばし、慌てて「ごめんね」と謝ってくる。

 

「別にキリトくんを侮辱したつもりはないんだけどっ」

 

どうやら先程の、和人が緒ノ宮より優秀ではない発言で気を悪くさせたのだと思っている明日奈は懸命に言葉を重ねるが、それに対して和人はゆるく頭を振った。

 

「そうじゃなくて、本当に大丈夫なのか?」

「え?」

「手、震えてる……」

 

自分の腕を掴んでいる白くて細い手が小刻みに揺れている事を視線を落とすことで指摘した和人は明日奈に向き直り、その手をゆっくりとはがして今度は明日奈ごと包み込む。和人の胸元に頬をすり寄せた明日奈は嗅ぎ慣れた匂いに安堵して「うん、大丈夫」と暗示ではなく心からの言葉を告げた。

ゆるく抱きしめてみて本当に震えているのは手だけなんだと確認した和人だったが、それでも問いかけずにはいられない。

 

「アイツに何かされたわけじゃないんだな?」

「二人きりになった時はちょっと驚いたけど、緒ノ宮会長、真っ直ぐな人だから。本当に話をしてただけ」

「こんな事になるなら傍を離れるんじゃなかった」

「あら、見学に来られた皆さんを案内している間、『桐ヶ谷くん』はずっと退屈そうに見えたけど?」

「退屈じゃなくて、アスナのこと『結城さん』って呼ばなきゃいけないのが嫌だったんだよ」

「仕方ないでしょ?…他校の生徒の前なんだし」

 

加えて今日、訪問者の対応で登校している生徒達には名字を呼び合うようにと学校側から指示が出ている。明日奈の場合は本名でもあるわけだが、緒ノ宮に話した通り校内ではキャラネームで呼ばれている生徒もいる為、デスゲームでの情報を無闇に漏らさない対策だろう。

 

「私はちょっと新鮮で楽しいけどなぁ、『桐ヶ谷くん』って呼ぶの」

「オレは出会ってからずっと『アスナ』って呼んでるから……なんか他人行儀って言うか……」

 

実際他人なのだが、そう思ってくれると言うことは既に和人にとって自分は身内同然の存在なのだと感じた明日奈の口元が嬉しげに緩む。いつの間にか手の震えも収まっていた。

 

「それはそうと、あの鍵、どうしよっか……」

 

和人の腕の中に収まりながら、そろりと視線を流せば開け放たれたままの扉の縁に項垂れたようにひしゃげた鍵の一部がぶら下がっているのが見える。明日奈に言われて同じように自分のしでかした結果を視界の端に収めた和人は予想される反応を見越して、今度はギュッと力強く押さえつけるように腕に力を込めた。

 

「うん、この校舎、古いもんなぁ」

「え!?、ちょっ、ちょっとっ、キリトくんっ、何言って……」

「ここの鍵もネジが緩んでたんだろうなぁ」

「ネジ云々の状態じゃないじゃないっ」

「まあまあ、後でオレがちゃんと付け替えておくから」

 

校舎内の機器修繕の経験がある和人は備品のありかも把握済みだ。これ以上は何を言っても無駄だと悟った明日奈は抵抗を諦め、最後に「忘れないでね」とだけ釘を刺して話を切り替える。

 

「それじゃあ、そろそろ私達もカフェテリアに行きましょうか?、桐ヶ谷くん」

「へーい、そうですね、結城さん」

 

見上げるようにして自分に向かい笑いかけてくる明日奈に対し、一気にうんざりとした表情に転じた和人は脱力ついでに、コツンとおでこを突き合わせたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
そして、今年も一年お付き合いいただき、有り難うございました。
また来年も宜しくお願いします。


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給餌

《現実世界》で既に結婚している二人のお話です。

和人の職場の同僚「松浦」と後輩の「麻倉」
明日奈の同僚の「水嶋」
が出てくるオリジナル男性キャラ祭り(笑)っぽくなっていますが
「水嶋」に関してはちょうど三年前に投稿した「みっつめの天賜物」を
思い出していただけると、わかりやすいと思います。


まるで穴蔵の中を進んでいる錯覚に陥る高さのない天井、幅狭い通路……加えて『ここは慣れた人間しか来やしないよ』とでも言いたげに、あまり意味を成していない緩い光量……そんなアーケード内の左右には客本位の商売など鼻からするつもりもない小さな店構えの商店ばかりが並んでいる。それなのに、悔しいかな、どの店も足繁く通い続けていると思われる客達が薄暗く狭い店内で無造作に並べられている商品に瞳を輝かせ、興奮気味に店主とのやり取りを楽しんでいた。

そんな店と店主と客とそれら全てを内包しているこのアーケードの雰囲気に若干飲まれつつも目が離せず、けれどここではぐれたらシャレにならない、と先導してくれている職場の先輩のジャケットを常に視界の端にキープしながらグルグルと視線を四方八方に飛ばしていた青年が声を潜めて前の男に声を掛ける。

 

「……松浦さんっ、松浦さんっ、なんスか?!、ここ!!」

 

問われた長身の男、松浦はとにかくこの場を早く通り抜けたいらしく、いつも以上の歩行速度で振り返りもせずにポソリ、と答えた。

 

「何って…………商店街です」

 

間違ってはいない……商品を売る店が通りを挟んで左右に建ち並んでいる場所、いわゆる商店街……年齢的にも立場的にも目下に当たる人間に対してすら崩すことない丁寧な物言いだ。しかしそこに麻倉の感謝の念は生まれない。

 

「そうじゃなくて、ですね。《現実世界》にこんな場所があるなんて……俺、時間があるなら片っ端から見て回りたいですっ」

「麻倉君…時間はないですし、例えあったとしても僕は絶対付き合いませんから。もし誰かを誘うなら桐ヶ谷をお薦めします」

 

競歩じみた足取りを緩めることなく松浦は前を向いたまま補足説明を加える。

 

「この場所もこれから行く店も桐ヶ谷に教えて貰ったので」

 

それを聞いた麻倉がすぐに納得の頷きを繰り返した。どう見ても、どう考えても、実際にこの場を闊歩している後ろ姿を目にしている今でさえ、ここに松浦が存在する構図は違和感しかないからだ。

麻倉にとっては松浦も桐ヶ谷も職場の尊敬すべき先輩である事に変わりはないが、その二人は同期で実力こそ拮抗しているものの性格などは似通っている所がまるでなく、共通する部分がなさすぎて逆に気が合うんだろうなぁ、というのが麻倉と周囲の見解だった。

そしてこの雑多な空間で怪しげなオーラが充満している謎の商店街の雰囲気は間違いなく松浦ではなく桐ヶ谷和人がお似合いである。

 

「桐ヶ谷さん、こーゆーの子供みたいに喜ぶんでしょうね」

「みたい、ではなく、完全に子供に戻りますよ、桐ヶ谷は」

「あー……ははっ、そうですね」

 

確かに桐ヶ谷和人という人間はそういう子供っぽい一面を持っていた。けれど逆にそういった部分が常識にとらわれない柔軟な発想に繋がっているのだという事もこの二人には分かっている。

 

「一見、飄々としてますけど、実は好奇心旺盛だし、独占欲も強いですよねぇ、桐ヶ谷さん」

「そうですね、僕は研修生の頃からの付き合いですから身に沁みているので、今回、いかに君が大変だったか他の所員達よりは理解していると思いますよ」

「だからですか?、珍しく食事に誘っていただいたのは?」

「まあ今夜は君の慰労と、僕自身の慰労も兼ねてます」

「はぁ、そうなんスか」

「女性が喜ぶような雰囲気とはまた別の意味で独特な雰囲気のある店ですが料理はなかなかです。ただ、あそこを通り抜けないとたどり着けないのが最大の問題点ですね…………さ、ここです」

 

商店街を抜けた先、街灯もまばらな薄い暗闇の中にのっそりと一軒家が建っていた。窓から溢れている室内の光のせいで建物の輪郭を一層ぼやかしているが確かにお世辞にも洗練された、とは言いがたい佇まいである事はわかる。狭い洞窟からようやく這いだし、辿り着いて目にする灯りなのだから温かみや安堵感を生み出しても良さそうなものだが、昔話で言えば、どうにも中で山姥が鎌を研いでいるような気がしてならないのはなぜなのか?、と麻倉が首を捻っている間に松浦は臆することなくドアノブに手を掛け木製の扉を動かした。

想像を裏切らない、ギギィッ、と立て付けが悪そうな音がする。

それから松浦が振り返り、少し悪巧みをしているような笑みを口元に宿した。

 

「どうぞ、麻倉くん」

 

 

 

 

 

松浦にエスコートされ恐る恐る足を踏み入れた麻倉の目に映った光景は、意外にも、と言うと失礼だが清潔感のある明るいごく普通の料理店といった感じの店内だった。しかし完全予約制なのかそれとも店自体が通りすがり程度で見つけられる場所にないせいか、夕食時にも関わらず半分近くが空席という寂しい有様だ。

連れてきてもらって何だけど、この店、色んな意味で大丈夫なのかなぁ、と苦笑いを浮かべていると案内されてもいないのに松浦がスタスタと店の中を進み四人掛けのイスに腰を降ろす。それに倣い麻倉も若干何かに警戒しつつ松浦の隣の席に落ち着いたものの小声で「勝手に、いいんですか?」と周囲を見回し、店員の姿を探した。

 

「いいんですよ。ここはシェフが一人でやっている店なので席は客が勝手に決めるんです。ちなみにメニューもないので待っていれば今日の料理が出てきますから、麻倉くんはお水を取ってきて下さい」

 

視線で促されれば片隅にあるテーブルには大きなガラスピッチャーが三つとシンプルなタンブラーグラスが幾つも置いてある。職場の先輩に水を所望されれば「はい」と言う選択肢しかありえない麻倉は腰掛けたばかりのイスからすぐに立ち上がり、水を求めて店内を横切りピッチャーの前まで来たものの「う゛っ」と眉間に皺を寄せた。

三つのピッチャーの中身はどれも水らしいのだが、うち一つにはレモンの薄い輪切りが浮かんでいて、もう一つにはミントの葉がたくさん詰まっている。

最後の一つには何も入っていないので、きっとこれはナチュラルウォーターだろうと予想できるが、さて松浦がどの水を欲しているかがわからない麻倉はくるりと振り返った。

 

「松浦さーん、お水、普通のでいいんですかー?」

 

既に提供されている料理を笑顔で口に運んでいるカップルも、食後の飲み物を手にしつつ楽しげに会話を弾ませているスーツ姿の男性グループも、その他、店の客としてこの場に居る誰も彼もが麻倉を見てから次に松浦へと視線を移動させる。これまで何人もの女性に告白されては付き合い、別れ、また告白され、をほぼ途切れる事無く続けているのも納得の容貌を有している松浦に注がれる視線はそこで停滞した。

昔から初見で他者から受ける視線の長さに慣れている松浦は諦めたように息を吐く。特に女性は凝視に近い深さまで一瞬で濃度が増すのだ。

違う反応、と言えば、数年前、研修生だった頃に隣部屋の住人を訪ねて来た女性くらいでしょうか……と松浦はある日、偶然マンションの廊下で出くわせた事で嫌そうな顔に変化した和人に「紹介してよ、和人くん」と強請る女性の淑やかな姿を思い出していた。

僕に対して好奇心や色めいた感情など一滴も視線に混ぜず、さらり、と通り過ぎて、媚びることない涼やかな声と優しい笑顔を向けてくれたあの女性はとっくに一番を決めていた人だったし、そもそも僕も彼女を恋愛対象として見ることはないので、だからこそたまに連絡を取り合う程度の付き合いが今も続いているのだと言えますが……と視線が散っていく間、懐かしい記憶で時間を潰していた松浦は、ふと固定され続けている視線に気付いて発信源を見返した。

そこには料理を待ちながら端末画面を眺めていたらしい一人の青年が目を見開いている。

おや?、と思うのと麻倉が再度返事を求めて「松浦さーん」と呼ぶのは同時だった。

しかし松浦は麻倉の声を無視したまま、たまたま居合わせた同世代の青年と少し離れた距離から見つめ合っている。

驚きの表情で松浦を見ている青年はシャープなフレームのメガネと、短く刈り上げた髪、サックスシャツにライトグレーのジャケットを羽織っており、どうも一般的なサラリーマンとは違う業種の人間と思われた。その彼が小さく「……松浦って……」と呟くやいなや、ガタッとイスから立ち上がり「あーっ!」と声を上げたかと思えば俊敏な動きで松浦達のテーブルまで突進してくる。

 

「失礼ですが、もしかして……桐ヶ谷さんと同じ職場の方では?」

「…ええ、そうですが」

 

肯定した途端、青年が早口でがまくしたててきた。

 

「やっぱりっ。うわっ、すごい偶然ですね。ああ、俺の事は覚えてなくて当然なので気にしないで下さい。あの披露宴会場にいた顔ぶれなんて当人達も把握してなかったそうですよ」

 

思い出し笑いをしている青年の言葉に思い当たる節があったのか、遅れて松浦も「じゃあ、あなたも」と声を緩ませる。

 

「俺は……桐ヶ谷さんの奥さんの同僚としてあの会場にいた水嶋といいます」

「彼女と同じ事務所の方でしたか。気付かずに申し訳ありません」

「いえ無理もないですよ。一体どうやってあそこまでの人数が集まったんだか、ってくらい盛大でしたしね。俺は職業柄、人の顔と名前はとりあえず覚える派なんです」

「ちなみに俺は顔だけでもなんとか覚えようと努力だけはする派です」

 

突然、二人の会話に巫山戯た台詞で割り込んできたのは両手に水の入ったグラスを持った麻倉だった。

 

「はい、松浦さん、水です。返事がなかったんで、なんの味もついてないヤツとミント味のヤツ、どっちにします?…あとレモン味のもあったんですけど、俺、酸っぱいの得意じゃないんで松浦さんが飲まない方を飲もうと思ってのチョイスです」

 

松浦の前に二つのグラスを置いた麻倉は空いた手の片方をそのまま水嶋に差し出した。

 

「失礼しました。初めまして、麻倉といいます。桐ヶ谷さんや松浦さんの職場で後輩という名の下僕をやってます」

「それはそれは、なかなか誰にでも務まる役職ではないですね。俺は桐ヶ谷さんの奥さんと一緒に働いてる水嶋です」

「桐ヶ谷さんの奥さんって……明日奈さん、でしたっけ?」

「ああ、名前を御存知なら話は早い。彼女はうちの事務所では旧姓で通してるので俺は『結城』って呼んでますけど、勝手に彼女の下の名前や旧姓をばらすと桐ヶ谷さんに怒られるから」

「ああ、桐ヶ谷の性質をよく御存知なんですね」

 

一層親近感が湧いたのか、松浦は穏やかに微笑んだ。

 

「披露宴でお見かけしたのが最初ですけど、結城が妊娠出産で休職中俺がフォローに回っていたので、その時、モニターや携帯端末越しに何度かやりとりを。そして出産後にうちの所長とお祝いに伺った時、初めてちゃんと対面したんです。まあそんな感じであそこの夫婦とはだいたい常にニコイチで接してましたから、そりゃあまあ、わかりますよ」

「うわぁっ、桐ヶ谷さんて奥さんの同僚さんにも態度変わらずなんスね」

「どちらかと言うと逆に過剰防衛に走る傾向にありますね、桐ヶ谷は。しかし明日奈さん程の女性なら過去に色々とあったでしょうから、仕方ありませんよ」

 

直接本人達から聞いた事はないが少しでも明日奈を知る者なら、何のトラブルもなく平々凡々と人生を送ってきました、と言われて信じる人間はまずいないだろう。そして十代半ばからずっとパートナーとしての関係が続いているのだから明日奈が辛い時は必ず和人が怒りや歯がゆさをを覚えていたに違いないのだ。

それは社会人となった今現在の明日奈にも言えることで、過去の経験のお陰か防御策や対処法は色々と身についているようだが、あくまでも友人という立場で水嶋も気に掛けていた。

 

「結城は別格としても、うちの事務所の女子って人数は少ないんですが全員見た目もかなり良い感じの子ばかりなんで、まあスタッフは男女問わず所長がスカウトしてくるんですけど、本当にどこから見つけてくるんだか……結城は大学の時に書いた論文がきっかけだって言ってましたけどね」

 

そこまで話したところで麻倉は自分達のテーブルで空いている席のイスをズイッと動かして水嶋に向ける。

 

「よかったら一緒に食事どうですか?…俺も色々とお話聞きたいですし。ね?、松浦さん、いいですよね?」

「そうですね。水嶋さんがよろしければ」

「是非」

 

持ち前の人好きする水嶋の笑顔は偽りのない喜びを表していた。

 

 

 

 

 

離れた席に置きっ放しだった手荷物を移動させて四人掛けテーブルの三辺に不思議な組み合わせが出来上がる。

明日奈の職場である事務所の同期で入所当時から互いに尊敬し合う間柄から結婚披露宴パーティーにも出席した水嶋。

その水嶋の向かいに座っているのは和人と同僚の、こちらは勤務前の研修期間から研修生用のマンションでも隣部屋同士で、今現在もスタッフルームで机を並べており、加えて明日奈が研修中の和人の元を尋ねていた為その頃から彼女とも交流のあった松浦。

そして二人の間には和人と松浦の職場の後輩であり、明日奈とは直接面識のない麻倉が、松浦の選ばなかったミント水をゴクリ、と飲んで喉の渇きを潤していた。

 

「そう言えばここって、飲み物もオーダーできないんですか?」

「麻倉さんはこの店、初めてなんですね」

 

水嶋の言葉に裏付けを添えたのは松浦だった。

 

「ここ半月ほど麻倉くんは桐ヶ谷のお陰で結構大変な思いをしたので、今夜は僕がご馳走してあげようと誘ったんです。彼ならこの店の見てくれやシステム込みでここの味が気に入ると思ったので」

「ああ、この店は相性がありますから」

「水嶋さんは明日奈さんからこの店を?」

「はい。今は結城のサポートに就いている女性所員と一緒に教えて貰ってから二人ともハマってて」

「へぇっ、そんなに美味いんですか、楽しみだなぁ」

「……そうですね、何と言うか、不思議な味ですよね」

「……確かに、シンプルに美味しい、ではなく、不思議と美味しい、がしっくりきます」

「なンすかそれ。一体何料理なんです?」

 

「なんでしょう?」と素直に水嶋が松浦を見る。

 

「当てはまる言葉が見つかりません……ですがさっき麻倉くんは酸っぱい味が苦手と言っていましたよね。僕も好物ではありませんがこの店の酢漬けと明日奈さんのマリネは箸が進みます」

「はぁ……さすが、桐ヶ谷さんお薦めの店。味付けが似てるんですかね」

「そうかもしれないな。結城も気に入っている店ですから」

「あ、なら大丈夫だ。あの弁当を作ってる奥さんのお墨付きなら。あー、よかった」

 

これで味の保証はついたと言わんばかりの安心しきった笑顔に水嶋が、ぷっ、と小さく吹き出した。

 

「面白い人ですね、麻倉さんは。あの桐ヶ谷さんの下僕と言うだけはあります」

「でしょう?、うちの研究所自慢の下僕体質ですから」

「ちょ、ちょっとっ。下僕、下僕って、ヒドくないですか?」

「最初に自分で言ったんですよ。だいたい桐ヶ谷の個人購入書類の提出を気軽に引き受ける時点で立派な下僕じゃないですか」

「あん時はついでがあったんですっ。まさかあんなに注目されるなんて、知ってたら絶対断ってましたっ」

「一体何の書類なのか…伺っても大丈夫ですか?」

 

和人の勤め先を知っている水嶋が遠慮がちに問うと、麻倉は逆に「聞いて下さいよっ」と話し始めた。

 

「うちの研究所ってシステム開発やらなんやらやってる関係で結構色んなトコと取り引きあるんですよ」

「まぁ、そうでしょうね」

 

『なんやら』の内容や『色んなトコ』の具体的な名前はスルーする分別がある水嶋は、うんうんと頷くだけで話の先を促す。

 

「だから個人的に欲しい商品があれば研究所経由で発注してもらえるんです。もちろん代金は給料から引かれますけど」

「なるほど」

 

そういう制度は別に珍しい事ではない。さっきの話から察するに和人がその制度を利用して何かを購入する為の書類に麻倉が関わったのだろう、と理解した水嶋は「それがどう大変なんです?」と更なる説明を求めた。

 

「桐ヶ谷さんに頼まれた書類が個人購入の発注書なのはわかってたんですが、急いでたんでろくに見もせず自分が提出する書類と一緒に出したらですね……まぁ、大騒ぎになりました」

「はい?」

「事務方の人間でもうちの所員ですからそれなりの知識はあるんで、先輩のオーダーしたパーツがほぼ小型PC一台分だと分かったんでしょう」

「へぇ、じゃあ自分で一から組み上げる為にって事ですか」

「まぁ、平たく言うとそうです」

「すごいですね」

「いやいや、ただ組み上げるだけなら俺にも出来ますよ。問題って言うか、大騒ぎになったのは、あの桐ヶ谷さんがどこのメーカーのどのパーツをチョイスしたか、って事で、なぜか発注先にまで注文主が先輩だって情報が漏れて、書類を提出した俺が代理人だと思われ、連日メーカーから問い合わせが殺到するし、所内は所内で珍しく先輩が勤務時間後に居残ってソフト面のシステム構築やハード面の組み上げ作業をやってるもんですから情報を取ってこいとか色々注文くるし……」

 

自分の仕事にさえ支障が出るほど対応に追われた目まぐるしい日々を振り返って麻倉は「はあぁっ」と大きな溜め息をつく。メーカーにとっては桐ヶ谷和人が選ぶ製品という情報はかなりの値打ちがあるのだろう。メーカー同士の提携や契約といった縛りもなく予算の上限もないとなれば茅場晶彦の再来とさえ言われている桐ヶ谷和人が制作するPCは間違いなく超ハイスペックな究極の一品に違いない。

そこに今度は松浦の声が加わった。

 

「と、まあ、ここ二週間ほど色々と桐ヶ谷の周囲はざわつき、この麻倉くんはヘロヘロに振り回されていたんですが、桐ヶ谷の帰宅が連日遅いせいで明日奈さんが心配して珍しく僕に何度か連絡をくれまして、二人の板挟みで僕も結構疲れました」

「だいたい小型PC一台を組み上げるなんて桐ヶ谷さんなら朝飯前ですよね。なんであんなに時間かかったんですか?」

「それは僕も思いました。ただ、それでもあまり帰宅が遅くならないよう退所時間を調整していたようだったので手伝える事があれば協力しますよ、と言ったんですが」

「げっ、やめて下さいよ。桐ヶ谷さんだけでも大騒ぎになったのに、これで松浦さんとの共同開発なんて事になったら俺の端末鳴り止まなくなります」

「それが、桐ヶ谷は自分一人でやるから大丈夫だ、と。ただ、その時随分軽量化を重視していたようなので、もしかしたらと思って明日奈さんに伺ったら案の定でした。あれは明日奈さんの為のPCだったんです。それなら桐ヶ谷が帰宅を遅らせてまでこだわりを持って打ち込むのも納得です」

「なるほど。松浦さんに関わらせないのも当然ですね。ってかそのPCに妙なソフトを開発仕込んでるからって可能性も……」

「明日奈さんに対してだと否定できないのが桐ヶ谷ですね」

 

学生の頃からずっと明日奈の携帯端末位置情報を把握している事を知っている松浦が残念そうに首を振る。

 

「けれどそんな日々も終わりです。今日は昼休憩まで使って仕上げてましたからね。持ち帰ったPCを今頃得意気に明日奈さんに披露しているでしょう」

「あーっ、助かったぁ……それにしても今日の桐ヶ谷さん、随分焦ってましたよね。なんか作業も急ピッチって感じで……」

「あのぅ……それ、うちの莉…所員のせい……です」

 

それまでずっと松浦と麻倉の会話の聞き役に徹していた水嶋が随分と気まずい表情でおずおずと口を挟んできた。

 

「桐ヶ谷さんが製作していた結城のラップトップPC……今まで使っていたのは今月の初め頃から時々調子が悪くなるって結城が事務所でボヤいてたんで実は俺が助言したんです。『旦那に相談して早めに新しいの用意しておいた方がいいぞ』って。餅は餅屋、って言うか桐ヶ谷さんなら色々と詳しいと思ったもので……ただ、俺は単純にどんなPCを購入するか相談して決めればいいと思って言ったんですけど、まさかご自分で作り上げるとは……」

 

予想を超えた和人の行動に水嶋の声が途切れる。続きを大人しく待てない麻倉が「それで?、水嶋さんとこの所員さんのせい、ってのは?」と先を急かせば、落ち着いた松浦の声が場を静めた。

 

「水嶋さんの予想は明日奈さんも同じでした。『今度、新しくしようと思う』と桐ヶ谷に伝えたところ、すぐに『なら、任せろ』と言ったそうで。それで明日奈さんも色々な製品の比較検討をしてくれるのだと思っていたそうです。しかしなぜかその数日後から連日帰りが遅くなるようになり、本人に聞いても理由をはぐらかすような態度だったので僕に連絡がきまして……正直に告げましたら『既製品を買うからちゃんと帰宅するように言ってくださいっ』と僕が叱られましたよ」

「んーでも既に製作に入ってた桐ヶ谷さんはそのまま作業を進め、松浦さんとこには明日奈さんから再三連絡が入り、ってわけですか……それはちょっと羨ましいなぁ」

「何を呑気なことを言ってるんです。本気で明日奈さんがヘソを曲げたらその対応に桐ヶ谷は何の躊躇もなく長期の有給を取りますよ。そうなれば全てのしわ寄せは麻倉くん、君にくるのに……」

「…………ウソです、すみません、全然羨ましくなんかないです。だから松浦さんは全力であの夫婦のフォローをお願いします」

「とにかく、今回はPCが間に合ってよかったです。ああ、でも水嶋さんの事務所の方も関わっていらっしゃるというお話でしたが?」

「はい、先程も言いかけたんですけど、結城は調子が悪くても慣れたPCだったので今までどうにか使ってたんです。ところが今日の午前中に偶々そのラップトップを抱えていた彼女にサポートの後輩女性が背後から助走を付けて抱きつきまして……」

「抱きつき?!」

「あー、新人研修の時は俺が面倒見た子なんですけど、その頃から結城の事がめちゃくちゃ大好きなんですよ。しかもハーフの帰国子女なんで感情表現がストレート、と言うか勢い任せ、と言うか……俺に対しての愛情表現は極端に消極的なんですけどね。とにかく突然の接触に驚いた拍子に結城は持っていたPCを壁にぶつけたんです。俺もその現場を見てましたけど、軽く当たった程度で控えめな音しかしなかったんですが、とにかくその時から電源が入らなくなってしまい……」

「ああぁ……」

「多分、通常なら不具合が生じる程の衝撃ではなかったと思うんですが元々調子が悪かったPCですから完全にとどめを刺した形になって……バックアップはこまめに取っていたらしく、なんとか今日の仕事は乗り切ったようですけど」

「それで急遽、新しいPCが必要になったと」

「ええ、きっとすぐに桐ヶ谷さんに連絡したんだと思います」

「だから今日の先輩、昼休みも作業してたんスか」

「それにしてもその女性所員さん、大丈夫ですか?……明日奈さんの事が大好きなら余計にご自分を責めていらっしゃるのでは?」

「そりぁもう、今まで見た事ないくらい落ち込んでます」

「お気の毒に。たとえぶつけなくても遅かれ早かれダウンしたと思いますが……」

「結城もそう言ってくれたんですけど…………普段はふわふわしていますが責任感はしっかりある子なので」

 

水嶋の口調と表情の変化に気付いた松浦は何かを悟ったように眉をピクリと動かす。しかしその何かを口にしてもいいだろうか?、と考えている間に奥の厨房から一人の男性がカートに料理を乗せ運んで来た。

テーブルを移動した水嶋をきちんと把握していたようで、カートにはちゃんと三人前の料理が並んでいる。

着衣からその男が店のシェフである事は一目瞭然だが、ヤル気皆無のトーンで「いらっしゃいませ」と平坦に言われ、ただ黙々と定速でテーブルに料理を移していく様はまるで人間味を感じさせない。ここが《仮想世界》ならば彼がNPCであると言われても全く疑問を抱かないだろう。

初めてこの店を訪れている麻倉は唖然とした面持ちでシェフを見つめていたが、次々にテーブルへ移動してくる料理の香りに鼻を刺激されて自然と視線を料理に移した。

 

「わっ、うまそーっ」

 

口を子供のように開けて、目を輝かせている後輩の姿に珍しくも温かな笑みを浮かべる松浦がいる。一方水嶋はシェフが料理を並べ終わるのを待って「いつものやつ、持ち帰りで一つ頼めますか?」と問いかけていた。

相変わらず無表情のままのシェフがゆっくりと頷く。それに対して「有り難う」と礼を言うとシェフはもう一度頷いて再び厨房へと消えていった。

テーブルには和え物の小鉢にサラダ、麺の入った小ぶりの丼にメイン料理の平皿と汁物の椀、それにガラスの器に数種類の漬物が盛ってある。中央には大きな土瓶と空の湯飲みが三つ置いてあるので、きっと中身はお茶だろう。

 

「今日の料理は……和風ですかね」

「しかしメインの皿はローストビーフに見えますが……」

「そこにかかってるソースはおろし醤油みたいですけど」

「もーっ、美味けりゃ何だっていいですよ。俺、すっごく腹ぺこなの思い出しました。食べましょうっ」

 

麻倉に促され三人は揃って手を合わせてから箸を持ち、次々に料理を口に運び始めた。ひとつひとつの品を味わう度に松浦と水嶋は満足そうに口角を上げているが、一人だけ賑やかにも「うまっ、うまっ」とボキャブラリーの貧困さをどんどん露呈させている麻倉がガラス容器の中身から漂う匂いに気付く。

 

「あ、これ、酢の物かな。うーん……」

 

悩んだのも一瞬でこの短時間で味わった料理の美味しさに後押しされたのか、ままよっ、とばかりに大きめにカットしてある野菜をひとつ、口の中に放り込む。ぽりぽり、こりこり、と良い音を立てて噛み砕いた瞬間「んまーっ」と悦なる声を上げた。

 

「こらこら麻倉くん、行儀悪いですよ。それに他のお客様もいらっしゃるんだから」

「あ、しょーでした…こりぽり…すーましぇん…ぽりぽり…でも、コレ、美味くて……」

「あー、わかります。今日のはピクルスですね。毎回漬物が付いてくるとは限らないけど、うん、美味いなぁ。おかわりしたい」

 

麻倉と水嶋は止まらなくなっているのか、ぽりぽりし続けている様子を見ていた松浦もつられてピクルスに箸がのびる。

 

「確かに、香辛料の配合が絶妙です。ところで水嶋さん、先程シェフに頼んでいた『持ち帰り』というのは?」

「結城に抱きついた女性所員にですよ。多分、マンションの自室に引きこもって何も食べずに後悔と反省でうんうん唸っているでしょうから、帰りに届けてやろうと思って」

 

少し照れくさい笑い方と共に「頼んだのは彼女の好物なんです」と明かす水嶋の頬が僅かに色づいていて、交際相手を自分の中で一番に置けない松浦は僅かに羨望を込めた。

 

「水嶋さんは釣った魚のお世話をマメにする方なんですね」

「そうならいいんですが、実は今、釣り上げようとしてる最中なんです」

 

何の話かを瞬時に理解した水嶋が困り笑いで現状を明かすと、逆に松浦は意外だと言いたげに目を見開く。

 

「先程からのお話ぶりで、てっきり釣り上げていると思っていましたが……」

「いえいえ、針にはしっかりとかかっている手応えはあるんですけど、なかなか手元まで引き寄せられず。とりあえず好みのエサで餌付け中ですよ」

「さっきから何の話です?」

 

ピクルスを完食した麻倉が話に加わってきた。

 

「『釣った魚に餌をやらない』などという言葉は今時通用しない、という話ですよ」

「ああ、なるほど」

 

こちらも意外と察しの良い麻倉が『釣り』や『魚』と言ったキーワードが何を指すのかに気付いて「俺はちゃんと尽くすタイプですっ」と胸を張る。

 

「誕生日とかクリスマスなんかは絶対に贈り物を用意します」

「えーと、麻倉さん、言いにくいんですけど、その二大イベントでの贈り物は当然の認識なので『餌』には該当しないようです」

「えっ、そうなんスか?!」

 

驚いた顔の麻倉に松浦は学校の先生口調で講説を垂れた。

 

「一般的に『餌』をやらなくなるは…この『餌』という表現も甚だ時代錯誤ですが…口説き落とした後は相手に興味を失ったり、餌の必要性を感じなくなったり、といった理由のようです」

「はぁ、なんかゲームの攻略済み、みたいな感じですかね」

「そうかもしれません、僕には理解出来ませんが」

「松浦さんはいっつも餌を貢がれる方じゃないですかっ」

「別に僕から要求した事はありませんが」

「わーっ、そういう発言がダメなんですよっ」

「まあまあ、麻倉さん。松浦さんみたいな人に限って『餌』をあげたいお魚さんが現れた時はきっと大変ですよ」

「ああ、加減もわからずにガンガンあげそうですよねー」

「まさか、桐ヶ谷じゃあるまいし」

「そっか、桐ヶ谷さんはガンガンですね」

「しかも独自配合のやつを」

「他の『餌』なんて一粒も食べさせたくないんでしょうね」

 

三人がアップテンポで会話を弾ませている中に突然別の声が投下される。

 

「オレがなんだって?」

「ぎゃっ」

「おや」

「ぅわっ」

 

突然ふってきた声に座っていた三人がそれぞれの反応みせると、大成功とばかりに和人の口元が悪い笑みになった。

 

「桐ヶ谷……一体どこから現れたんです?」

 

この店のドア特有の「ギギィッ」という音を捉えていない松浦が謎の解明を求めると、和人は何でも無いような顔で店の奥を指す。

 

「厨房の勝手口から」    

「全く、君は出入り業者ですか?」

「似たようなもんだな。ピクルスが美味く出来たからアスナが持って行くって言うんで和真も連れて三人で来たんだ」

「へ?、じゃあさっきまで食べてたのって……」

「結城の手作り?」

「うわーっ、勿体ないことしたっ。俺、一気に食べちゃいましたよ」

 

空になったガラスの器を見つめる麻倉の目が気のせいか潤み始めている。

 

「え?、なら今までこの店で食べた漬物も全部…?」

「まさか、本物の業者じゃあるまいし。ただこの店の味については結構相談に乗ってるからアスナの味付けに似てるかもな」

「ああ、どうりで……僕がここの酢漬けなら食べられる理由がわかりましたよ」

 

謎が解けてみれば、恋愛対象にならないとは言えしっかり胃袋を掴まれていたらしいと自覚した松浦が苦味を混ぜた笑顔になり、水嶋はこっそりと「レシピ、結城にもらえないかな」と呟いていた。そんな三人を見回して和人は、ふむ、と鼻から息をはく。

 

「それにしても、珍しいメンバーで食事してるんだな」

 

そこで松浦が今夜は自分が麻倉をここに連れて来て、水嶋とは偶然出くわしたのだと話せば「へぇ」と既に興味は失せたような返事がかえってくる。すると話の区切りが付いたところで水嶋がイスから立ち上がり、和人に対してペコリと頭を下げた。

 

「今日はうちの莉々が結城のPCを壊してしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「それに関してはオレに謝る必要はないですよ、水嶋さん」

「けれど作業を急かしてしまったのでは?」

「いえ、いい加減組み上げないとアスナが本気で拗ねる寸前だったんで、どのみち今日明日には仕上げるつもりだったし」

「そう言っていただけると莉々も少しは浮上するかと」

「ああ、それと水嶋さんが頼んだ『持ち帰り』、今、奥でアスナが作ってますから」

「それは…莉々が完全復活します」

「えっ、その『持ち帰り』、俺も頼みたいですっ」

 

生気を取り戻したように、麻倉がガバッと身を起こしてきらめく目で和人を見上げれば、ふふん、と小馬鹿にしたような細い目で見返される。

 

「今日、初めて店に来た客に『アルゲード焼き』は出せないな」

「なんスか、それ。水嶋さんが頼んだ料理って『アルゲード焼き』って言うんですか?」

「いや、俺も初めて聞いたけど……」

「ちなみにそこの丼の中身が『アルゲードそば』だ」

「え?、このラーメンみたいな麺がそば?」

「かつてオレとアスナがその謎を究明すべく、どれほど辛く苦しい道を共に歩んだか……」

 

言葉だけでは、かつてデスゲームと言われた《仮想世界》でここのシェフがNPCかプレイヤーであるかを確かめる為に二人が限界まで『アルゲードそば』を食べ続けた黒歴史だとは予想もつかないだろう。

 

「そんな前から結城と桐ヶ谷さんはここのシェフと面識があったんですか」

「まあ知り合ったのは十代の頃だけど、その時はここのシェフ、荻窪でやってたラーメン屋が既に潰れててさ」

「じゃあ、やっぱりこれはラーメンなんじゃ……」

「その後、色々あってアスナに味の相談なんかをしているうちに他の料理にも興味が湧いたらしくて数年前にこの店をオープンさせたんだ」

「この店に来るまでの胡散臭い商店街もそうですけど、よくこんな場所で商売をやろうと思いましたねぇ」

「それは……この辺の雰囲気がかつて店があった場所と似てるからかもな……」

 

呟くような声に郷愁が混じっていたのは気のせいだったのか、けれど次にはトーンを一転させて和人は三人に顔を近づけた。

 

「それで、さっきオレがどうとか言ってたのは何の話なんだ?」

「え?、ああ…桐ヶ谷さんなら釣った魚にはオリジナルブレンドの餌をホイホイあげそうだな、って言ってたんです」

「は?、釣った魚なら美味しく食べるだろ?」

 

妙に当を得ている和人の言葉に、三人は言葉を失ったのだった。

 

 

 

 

 

寝室の扉がゆっくりと開く。

数刻前に家族で訪れていた料理店のドアと違い何の音も立たなかったが中に居た和人は既に寝る支度を済ませた姿で索敵スキルを発動していたのか素早くその動きを察知していた。少し気まずそうに、でもちょっと唇を尖らせたパジャマ姿の明日奈が寝室の中を確認するように、こそっ、と顔を覗かせる。

途端にばっちり和人と目が合ってしまい明日奈は諦めたように肩を落とし、ふぅっ、と溜め息を落としてから静かに寝室へ入ってくるが、そこで一旦足を止めた。一連の様子を見守っていた和人がベッドの上に腰掛けたまま手にしていた携帯端末をサイドボードに移動させて「アスナ」と呼びかける。

それでもその場から動かない明日奈に和人は根気よくもう一度「アスナ」と彼女の名を口にした。

抗えないと覚悟を決めたのか、コクリ、と唾を飲み込み、硬い表情のまま和人の目の前まで来て足を止める。和人はそれ以上明日奈の名を呼ぶことなく見上げる形で彼女と視線を合わせた。

 

「和真を寝かせてからリビングでラップトップいじってたのか?」

「…うん」

「どうだった?、セットアップはユイにも手伝ってもらったからすぐに使える状態だと思うけど」

「データ移行も済んでたし、画面も全部今まで使ってたPCと同じだった」

「打ち込みの反応速度は前のより少し上げてみた」

 

ほんの少し前までタイピングの感触を試していただろう明日奈の手に和人がそっと触れる。

 

「うん、今の設定の方がスムーズ…かな」

「全体の重量は軽くしたけどメモリは増えてるから」

 

明日奈の指先を緩く包んで小さな爪の形を確かめるように親指の腹でゆっくりとなぞると彼女の肩から力が抜けた。

 

「そう…なんだ」

「ボディカラーは赤がいいって言ってただろ?」

 

半月ほど前、夫婦の日常会話の延長で『そろそろ買い換えなきゃ、かもなの』と言った時、告げる気もなくただぼんやりと独り言のように『やっぱり次も赤がいいな』の小さな呟きをちゃんと拾って覚えていてくれたのだとわかった明日奈の目元がようやく緩む。

 

「とっても綺麗な色ね。和人くんが選んでくれたの?」

「ああ、アスナの色だからな」

 

ようやく淡い微笑みを引き出せたタイミングでニヤっと笑った和人が軽く明日奈の指先を引っ張りながら「気に入ったか?」と最後の質問を口にした。

体勢を崩すほど力は入っていなかったが、それが合図のように明日奈が和人の腕の中へ堕ちてくる。

 

「もうっ、当たり前でしょ……有り難う、和人くん」

 

しっかり受け止めて細い腰を抱きしめると、お返しとばかりに和人の首に両腕を回した明日奈も頬を摺り寄せてきた。けれどすぐに「でも……」と声を落ち着かせると和人に抱きついたまま後ろにある部屋の壁を見つめて眉根を寄せる。

 

「お仕事だけでも大変なのに、毎日遅くまで研究所に残って組み立ててくれなくても」

「その辺は全然苦にならないと言うか……」

「睡眠時間だって短くなってたでしょ」

「これでも早めに切り上げてたんだけどな」

「お夕飯も全然一緒に食べられなかったし」

「それに関しては……ごめん」

 

オレの身体を心配するのと同じ位寂しくて拗ねてたんだな……と察した和人が「よっこいしょ」と重くもない明日奈の身体を持ち上げベッドに横たえた。体勢が変わった事でしがみついていられなくなった明日奈の腕はそのまま枕の両端に、ぽすん、と着地し、すぐさま上から和人の手によって縫い付けられる。

 

「大丈夫だ、アスナ。ここ十日ほどは連日遅い夕飯に寝るだけの日々だったから、さすがにオレも飢えてる。今夜はゆっくり時間を掛けてアスナを味わうからさ」

 

和人の瞳に荒ぶる欲を感じ取った明日奈は「えっ?!」と獣に捕獲された小動物のように身を震わせるが、内では待ち望んでいた自分もいて、軽く頬を染めながらも身を捧げるべく静かに目を閉じたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
「ウラ話」で、ほんのちょっとだけ補足のオマケを
載せておきます。


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バレンタイン・ギフト

帰還者学校に通っている時のバレンタインデーのお話です。


二月十四日……バレンタイン当日の夜、御徒町にあるカフェバー《ダイシー・カフェ》ではチョコレート菓子が飛び交っていた。

 

「エギルさん、これ、いつもお世話になっているので」

「わざわざ悪いな、アスナ」

「いえ、みんな同じ物で申し訳ないんですけど」

 

エギルに手渡された小さなギフトボックスの中にはオーソドックスな丸形や見た目が可愛らしい花形、他にも星形やハート形といった型抜きクッキーが数枚、どれもザクザクに刻まれたチョコチップが表面に散らされている。明日奈が口にした通り、日頃の感謝の気持ちが表現されているほんのお礼の品といったサイズだ。全く同じ物を既にゲットしている遼太郎は奥のテーブル席で早々と、そのクッキーを口に放り込んでいる。

 

「やっぱ手作りは違うよな」

 

ボリボリと盛大な音を立てて明日奈お手製のクッキーを味わう遼太郎の満足そうな笑みに、向かいに座っている和人が半眼になった。

 

「普段、クッキーなんて食べてるのかよ」

「んなもん、食ってなくても俺にはわかんだよ」

 

全く根拠はないのに、なぜか自信たっぷりの言い切りにそれ以上の追求は無駄と判断した和人の元へおずおずと珪子がやってくる。

 

「あ、あのっ、キリトさん、これっ」

 

和人の目の高さまで両手で大事そうに持ち上げられたそれは水玉模様のフィルムバッグで、今日の珪子の髪を彩っているリボンと同じイチゴ色のラッピングタイが袋の口がキュッ、とすぼめていた。

 

「お、サンキュー……開けてもいい?」

「どうぞっ」

 

恥ずかしそうに頬を染めている珪子からバレンタインの品を受け取り、ゴソゴソと中身を取り出した和人は手の平に乗せたココア色のカップケーキに「おおっ」と嬉々とした声を上げる。

 

「シリカが作ったのか?」

「はいっ、アスナさんに教えてもらって…溶かしたチョコレートを混ぜてあるんです」

 

しげしげと全方位からカップケーキを眺め回している和人の視線がまるで自身に向けられているようでいたたまれなくなった珪子がモゾりと身を震わせてから、くるりと向きを変え、最後のクッキーを頬張っている遼太郎に「クラインさんもどうぞっ」と同様のフィルムバッグをテーブルに置いた。

 

「ありがとよ、シリカ」

 

すると早速パクつこうと袋から出したカップケーキを見て「ん?」とバンダナの端が疑問で揺れる。

 

「なーんかよう……俺の、キリの字のより、ちっさくねぇか?」

「ええっ!?……あっ、それっ、それはっ、えっとっっ」

「なにしみったれた事言ってんのよっ。はいっ、これは私からっ。ほら、キリトもっ」

 

あわあわと文章にならない言葉を弾けさせている珪子の隣に登場した里香が『お徳用』と書かれたパッケージの大袋からキューブチョコレートをひとつかみずつ、遼太郎と和人の前に盛り上げた。見るからに形だけ、と言った渡され方にさすがの和人も謝意を述べるより先にうっかり呆れ声で不平を鳴らしそうになる。

 

「リズ…これ……」

「なに?、なんか文句あんの?」

「イエ、ナイデス」

 

お徳用だろうが業務用だろうがチョコはチョコだ。

デス・ゲームに囚われる前の自分を考えればバレンタインにチョコレート菓子を渡されるなど、それこそゲームイベントでもなければ無理だったし、と思い直し「サンキュー、リズ」と謙虚な姿勢に徹して、フィルムバッグに戻した珪子のカップケーキと一緒に有り難く鞄にしまう。既に鞄の中には遼太郎やエギルが受け取った物と全く同じ、明日奈からのクッキーも入っていて、それをチラ、と上から見た和人は何かを決めたように、うん、とひとつ頷いた。

無事に和人にカップケーキを渡せた事で緊張が解けたのか、「エギルさんにもあるんです」と言いながら軽い足取りでカウンターに向かって行く珪子を見て、里香もまた、ほっ、と息を吐く。

数日前、帰還者学校のカフェテリアで和人、明日奈、珪子、里香の四人が集まっていた時だ、昼休みもそろそろ終わりという頃になって意を決したように珪子が和人に『バレンタインの日、チョコ貰ってくれますか?』と尋ねたのである。わざわざ事前に聞かなくても、と思った里香だったが、それだけ珪子にとってはチョコに込める気持ちが真剣なのだろう……例え和人の隣に明日奈という存在がいてもこの日は自分の気持ちを素直に表現したいという願いのこもった眼差しを尊重して事の成り行きを見守る。

一方、聞かれた和人は一瞬、理解が追いつかずに表情を止めていたが、すぐに破顔して『ああ』と珪子に笑いかけた。事の真意をどこまでわかっての返答なのかは測りかねたが、ちゃんと受け取って貰える言質を取り付けた珪子はカフェテリアから教室に戻る途中、前を歩く和人の様子を伺いながら明日奈にこっそり問いかける。

 

『アスナさんはバレンタイン、どんなチョコを用意するんですか?』

『うーん、今年は父や兄にも渡したいし、エギルさんやクラインさんにも、って思ってるからクッキーを沢山焼こうかな』

 

「もちろん、シリカちゃんの分も用意するからね」と告げる明日奈の笑顔はいつも通りで、それを見た珪子も嬉しそうにと頬を緩めた後、わかりやすく思案顔に転じた。

 

『アスナさんがクッキーなら、私はどんなお菓子を作ろうかなぁ……』

『あら、シリカも手作りにするの?』

 

二人の会話を聞いていた里香が少し意外そうな声を割り込ませる。カフェテリアでは大胆な申込みをしていたが、やはり明日奈が渡すチョコとは比べられたくないのか、単純に同じ物では申し訳ないと思ったのか……それでも手作りの物を、と考えているあたりは珪子の精一杯を感じさせる。妹のように接している珪子の悩みに里香が持ち前の面倒見の良さを発揮して首を捻った。

 

『私は中学の調理実習でカップケーキなら作ったことあるけど……』

『あっ、私も作りましたっ。あれなら私も失敗せずにできそう』

 

喜ぶ珪子の隣で明日奈もまた助言を口にする。

 

『バレンタインだからチョコ味にするんでしょう?、生地にココアを混ぜ込むだけでもそれっぽい感じになるけど、バターを湯煎する時に少しだけチョコも加えるとコクが出るわよ』

『わかりました、やってみます』

 

珪子は明日奈からのアドバイスを何の引っかかりもなく受け入れていたが、そもそもそれは和人に渡すバレンタインのチョコレート菓子なわけで、多少季節のイベント気分が後押ししているとは言え和人と恋人関係にある明日奈の心情を気遣った里香は教室に戻ってから親友の後ろ姿を呼び止めた。

 

『ちょっと、アスナ……私が言うのも今更だけど、シリカのあれ、いいの?』

 

そう聞いただけで察しの良い明日奈は里香の言いたい事の見当がついたのだろう、小さく笑ってから『うん』と頷く。

 

『バレンタインは女の子が好きって気持ちを伝える勇気をもらえる日でしょう?、私は大好きなシリカちゃんが持っている大切な気持ちを大事にして欲しいの』

『その気持ちの先がキリトでも?』

『それは……仕方ないよ。その気持ちは自分だけのものだもの。リズも……そうだよ?』

 

変に自分に気を遣うことはないのだとキレイに微笑む明日奈の顔を見ていられなくなった里香は、ぱすっ、と目の前の華奢な肩を叩いた。

 

『そんじゃ私は手作りなんてがらじゃないからスーパーで特売のチョコでも買ってくるわ。そんなチョコ、逆にアスナは食べたことないでしょ?、ちゃんとアンタにもあげるっ』

 

お日様のように笑う里香に明日奈も『もちろん、私もリズにクッキーあげるからね』と約束を交わす。好き、を伝えるというなら里香にとっては和人も明日奈も優劣はつけられない存在だ。

結局、バレンタイン当日は夕方《ダイシーカフェ》に集まる事になったわけだがアルバイトが入っている詩乃は参加できず、休日だと言うのに部活があった直葉は制服のままのやってきて、既に部員同士で交換しあったという可愛らしいサイズのチョコレートが沢山入っている袋の中に更に明日奈と里香、珪子からのチョコを入れて満面の笑みを浮かべつつ自分も準備しておいたチョコレートを配り歩いている。

日々、剣道に打ち込んでいる直葉はアルバイトをする時間もないので「安物なんですけど」と前置きしているが、海外赴任中の父親は当然家におらず、母親も仕事で在宅の時間はあまりない、更にゲーマーの兄は家事全般において頼れる存在とは言いがたく、むしろ妹である直葉が世話を焼いている始末だ。そんな家庭環境の中で部活にも熱心に取り組み、加えて兄の影響で始めたMMORPGでもハイレベルプレイヤーの彼女に対し、どれほどのチョコでも文句を言う人間などここにはいないだろう。

店に集まった女性陣が一通りチョコを配り終わったところで時刻を確認した和人がイスから立ち上がった。

 

「アスナ、そろそろ出ないと、だろ」

「えっ、もうそんな時間?!」

「この時間帯は道も混んでるしな」

「んー…もうちょっといたかったんだけど……」

 

来る時は家から公共の交通機関を利用した明日奈だったが、帰りは和人のバイクで送ってもらうことになっている。折角なので貰ったチョコを一つでも食べてみたかった明日奈は自らも時計を見た後に、あと少しだけ待ってもらえないかな?、と和人に視線で懇願するが、明日奈のお願いには弱い和人が珍しくも「ほら」と彼女のショートコートを寄越して帰り支度を促した。

 

「ううぅ……キリトくん」

「今夜はログハウスでユイが待ってるんだし」

 

自らも上着を羽織った和人がグズる明日奈に愛娘の名を出す。それを聞いた里香も後押しするように「そうね」と数日前のユイの様子を語った。

 

「ママと一緒にチョコレートケーキを作るんだって、ユイちゃん、すっごく楽しみにしてたもの」

「それは私だって楽しみにしてるけど……」

「スグっ、お前はどうする?」

 

カウンターで珪子とお喋りに夢中の妹へ声を飛ばす。自分のバイクに乗って帰るつもりなら明日奈を送り届けてからもう一度《ダイシーカフェ》に戻ってくるつもりなのだろう。けれど問われた直葉はすぐに片手を振って兄にノーサンキューの合図を送った。

 

「いいよ、お兄ちゃん。私はシリカと一緒に電車を使うから」

「そうか。ならあまり遅くならないようにしろよ」

「はーい」

 

お手本のような返事に少々懐疑的な視線を送るが、当の直葉は兄の存在などすぐに忘れ去ったように珪子との会話を再開させている。

そんな妹の姿をやれやれと眺めている和人の元へコートを着込んだ明日奈がバッグを持って小走りにやって来た。

和人はある程度慣れているが、陽の落ちた冬のバイク走行はとにかく寒い。明日奈の服装を確認した和人が徐に両手を細い首元へと伸ばし、ショートコートのボア襟をしっかりと合わせやってから小声で「手袋は?」と問えば「ちゃんとあるよ」とバッグの中から出てきたそれを見て「うん」と頷く。そうやって準備万端、と互いに微笑み合った二人は仲間達に別れを告げ《ダイシーカフェ》を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

和人と明日奈が店を出てから三十分近くが経った頃だろうか、里香が私もそろそろ、と荷物をまとめようとした時、ふと近くのイスに明日奈のふわふわとした暖かそうな帽子が置きっ放しになっている事に気がつく。「アスナったら、忘れていったのね」と、親友の珍しいうっかりに驚きつつ帽子を手に取ると、柔らかな本物のミンクファーの手触りにうっとりしかけた所で、んん?、と眉間に皺が寄った。

和人と明日奈が帰った時も既に外はかなり気温が下がっていたはず。しかも和人は明日奈の防寒を随分気に掛けていた。なのに明日奈が帽子を被っていない事は指摘せず、明日奈自身も屋外に出てすら帽子の存在がない事に気づかないのはおかしい……そこまで考えて里香は「あ、そっか」と眉を一気に跳ねかせた。

きっと《ダイシーカフェ》を出てすぐに明日奈は店の前に駐めてある和人のバイクのヘルメットを被ったのだ。

それなら帽子を忘れた事さえ気づかないのも納得だわ、と里香は自分の辿り着いた答えに満足し、明日奈の帽子を持ったまま店の隅に移動する。この時間ならとうに明日奈は帰宅しているはず、と端末を取り出し、彼女のアドレスを呼び出した。

トゥルルルッ、トゥルルルッ、と繰り返す呼び出し音を何回聞いただろうか、携帯端末の近くにいないのかしら?、といい加減諦めがよぎった時だ、「…リズっ?」少し余裕のない印象の明日奈の声が耳に飛び込んでくる。

 

「あ、アスナ?、《ダイシーカフェ》に…」

 

帽子を、と続けようとした声が耳からの情報に負けて不本意に止まった。

里香の聴力が、小さかったがハッキリと『アスナ』と恋人の名を紡ぐ和人の声を捉えたからだ。それが幻聴ではない証拠に、端末から顔を離したらしく、里香に向けた言葉ではない『ちょっと待ってて』と少し遠い明日奈の声が続く。

 

「は?、どういう状況?、アスナっ、アースーナーっ」

 

端末を顔前に持って来て通話口に向け力いっぱい友の名を呼び、素早く受話口に耳を足当てる。すると里香の声がしっかり届いたのだろう、明日奈が戻って来た。

 

『あ、ごめんね、リズ』

「まだ家に到着してないの?!」

 

一体どこで寄り道してるのよ、と里香の声が無意識に尖る。

バイクに同乗中なら呼び出しに応じるはずはなく、かと言ってまさかこの時間に和人が明日奈の家に上がり込むことはないだろうと考えれば答えはひとつ、世田谷の結城家に送る途中どこかでバイクを止めているに違いない。

だいたいさっきはあれほど明日奈に帰宅を勧めていた本人がいまだ送り届けていないなんてどういうつもりよっ、と里香の血管がプチっ、と音を立てる。

 

「ちょっとっ、キリトは何考えてんのっ、アスナの門限、もうすぐじゃないのっ!」

 

彼女の家が厳しいことは百も承知のはずの和人とは思えない無責任な行動に思わず声量がマックスになった事で里香の声は和人にも十分聞き取れたようだ、すぐに先刻とは違い確かな声が少しぶっきらぼうに返ってくる。

 

『大丈夫だよ。ここ、アスナの家のすぐ近くだから』

 

と言う事はどこかの建物内ではないのだろう。それはそれで別の心配が里香の心に湧いてくる。

 

「だとしてもよっ、こんな時間に外にいたら風邪引くでしょうがっ」

 

すでにとっぷりと日は暮れていて、いくら外套を着ていても寒さを感じないはずはない。それに明日奈は帽子を忘れたままだ。けれどそんな里香の心配をよそに端末の向こうでは和人が明日奈に呑気な声で問いかけている。

 

『うーん、こうしててもまだ寒いか?』

『だ、大丈夫だから』

『そうだ、こうすればもっと…』

『ひゃぁっ、ほ、ほっぺたっ、冷たいからくっつけないでっ』

 

明日奈からの「大丈夫」の返答にも関わらず、更にもう一段階行動を起こしたらしい声に高ぶっていた里香の感情が一気に萎えた。

 

「……なにやってんの、あんた達……」

 

端末の向こうでは里香の存在をすっかり意識の外に追いやってしまった二人のやりとりが続いている。

 

『わかったよ……それよりアスナ、もう一枚……』

『ええっ、まだ食べるの?』

 

少しの間を開けて、ポリッ、と何かを囓る音が聞こえてきて、その音に盛大に心当たりのある里香は鼻から、ふぅぅっむ、と長い息を押し出した。

微かに聞こえたあの音は小一時間ほど前、遼太郎が食べていた明日奈からの手作りクッキーを噛み割った音と同じだ。と言う事は和人は今、明日奈の家の近くまで到着しているにも関わらず、送り届けはせずに明日奈とかなり密着度が高めの体勢で《ダイシーカフェ》で貰ったクッキーを食べさせてもらっているということか……。二人の様子を想像してしまった里香はしかめっ面で「うげっ」と苦い息を吐く。

しかしクッキーで和人の口を塞いだ隙を突いたのか、恐縮しきりの明日奈の声が再び受話口から『ごめんね、リズ』と素早く滑り込んできて、里香は改めて端末を持ち直した。

 

「もういいわ。なんかタイミング悪かったみたいだし」

『そっ、そーゆーんじゃ…』

 

十分、そーゆー状況じゃないのっ、と出かかった反論はバレンタインデーに免じて飲み込む事にする。《ダイシーカフェ》では仲間達と賑やかに過ごし、これからログインするだろう《ALO》では愛娘を交えて家族で楽しく過ごす事を想像してしまえば、肝心の二人きりの時間は今しかないのだから。

 

「あんたが《ダイシーカフェ》に忘れていった帽子、学校で渡すって伝えたかったのよ」

 

そして息を思いっきり吸い込み端末に向けて「キリトっ」と勢いよく呼びかける。

 

「アスナに風邪でも引かせたら承知しないんだからっ。あと、ちゃんと門限忘れないことっ」

 

すると、少しの間が空いてボソリと『了解』の低い声が返ってきた。とりあえず伝えたい事は全部言えた里香が「じゃあね」と通話の終わりを告げると、明日奈の『うん、有り難う、リズ』と落ち着いた声が聞こえるのと同時に、その向こうで痺れを切らしたような声が『アスナ』と何かを急いている。

ピッ、と通話回線を切った後、里香は疲れたように、ふぅっ、と溜め息をついて「ほんとに、あの二人は……」と膝の上にある上等な手触りの帽子をひと撫でしたのだった。

 

 

 

 

里香が《ダイシーカフェ》で、ふぅ、と息をついた頃、彼女の声が鳴り止んだ事に、やはり、ふぅ、と安堵のような息を落とした和人は、明日奈が携帯端末を仕舞ったバッグをベンチの座面に戻すを待ってから改めてその細い腰を支え直し、ピタリと身体を寄せた。

時間が時間なだけに結城家の目と鼻の先にあるこの公園には二人以外に人影はおらず、高級住宅地ならではの重い静けさが周囲の冷気をより硬くしている。

 

「…、ってリズには言ったけど、本当に寒くないか?、アスナ」

 

明日奈の手から口に入れてもらったクッキーを食べ終わった和人が問いかければ、氷さえ溶かしてしまいそうな、ほわんほわんとしたあたたかい笑顔がこっちを見上げてきた。

 

「うん、平気……でも、こんな所でクッキーが食べたいなんて言い出すとは思わなかったよ」

 

少し困ったように、呆れたように笑う明日奈だったが、それでも自分が贈ったお菓子を望んでもらえる嬉しさの方が勝っているらしい。「残りはお家で食べてね」と優しく微笑まれると少しささくれていた和人の心が滑らかさを取り戻していく。

 

「……アスナに貰ったやつを一番に食べたかったんだよ」

 

気恥ずかしさから視線を逸らした和人の横顔を見て、今度は驚きの籠もった目が一拍おいて嬉しそうに弧を描いた。けれどそんな穏やかな空気も再び明日奈へと視線を戻した和人の「でも」という声の重さに下へと沈んでいく。

 

「彰三さんや浩一郎くんと張り合う気はないけどさ、クラインやエギルと同列の扱いなのは……」

「同列?」

「アスナだって言ってただろ。このチョコクッキー、みんな同じ物だって」

 

温度の冷めた濃黒の瞳と幾分拗ねた口調に和人の言わんとしていることに気付いた明日奈が軽く蹴るように、とんっ、と声を放り上げた。

 

「あれ?……キリトくん、気付いてなかったの?」

「え?」

 

聞かれて今度は和人が戸惑う。

明日奈はいつものように、しょうがないなぁ、と言いたげにはしばみ色の瞳を和ませてから、自らも身体をすり寄せた。

 

「クラインさんが食べてた時、ずっと見てたんでしょう?……まぁ、キリトくんらしいって言えばそうなんだけどね」

 

なぜか楽しそうに「レアアイテムはすぐ見分けるのに」と呟きながら未だ自分の手の中にあったクッキーの入っているギフトボックスを持ち上げる。

 

「キリトくんにあげたクッキーは全部ハート形なんだよ」

 

ちょっと得意気な声で、それでいて頬を僅かに染めた明日奈の言葉に和人は目を丸くしてすぐさま彼女の手元を覗き込んだ。

 

「……ほん、とだ」

 

残っているクッキーはどれもハート形。言われてみれば、さっき口に運んでもらったクッキーも全てハート形だった事を思いだした和人の明日奈を閉じ込めている両腕に更に力が籠もる。

 

「ありがとう、アスナ」

「どういたしまして」

 

キリトや和人を想う「好き」という気持ちなら誰にも負けない自信はあるけれど、自分の恋人は周りの女の子達から寄せられる沢山の「好き」を断るなんて出来ない優しい人で、それなら自分は自分なりに一番特別な「好き」を渡すだけ、と明日奈の気持ちが形になったハート形クッキー。

 

「ちゃんと、伝わった?」

 

未だうっすらと紅潮したままの顔を向ければ、ようやく和人の柔らかな笑顔がもらえて明日奈の気も緩む。

 

「いちをみんなにもハート形は入っているんだけどね」

「……クラインやエギルのにも?」

「え?…うん、入ってると思うよ」

 

先に和人用にハート形だけを詰めてから残りを他の形のクッキーとごちゃ混ぜにし、そこから家族を含め人数分をランダムに箱詰めしたのだと説明する明日奈の声に耳を傾けつつ、和人は《ダイシーカフェ》でクラインが食べていたクッキーを思い出そうとするが、さすがに正確な形までは記憶に残っていない。これはもう運と確率の問題になってしまうと正解の追求は断念するも、むくり、と頭をもたげた偏狭な欲は抑えきれずに「面白くない」と和人の双眸に熱を入れた。

 

「やっぱりもっと食べたいな」

「残りのクッキー?」

 

何枚か減ってしまったが、明日奈の手にしているギフトボックスの中にはハート形クッキーがまだ入っている。けれど、そのうちの一枚を取り出そうと手を動かした明日奈の耳に和人は温かな息と声を吹き込んだ。

 

「そっちじゃなくて……」

 

頭の防寒をしていない明日奈の耳はすっかり冷たくなっていて、だからだろう、よけい過敏に反応してしまいビクリと両肩が跳ね上がる。理由の分からない距離感から咄嗟に耳を遠ざけるのと同時に和人の言葉の意味を問おうと顔を向ければ、尋ねるより先に開いた距離を縮めながら和人が小声で答えを口にした。

 

「もっと甘いほう」

「んンっ!」

 

ハート形のクッキーが独占できないのなら、いっそ作った本人を、と言わんばかりに和人は耳同様にひんやりとした、でもしっとりと潤いのある明日奈の唇に自分のそれを強く押し付ける。冷たくても失っていない柔らかな弾力を確かめるように何度も唇で食み、感触を十分に味わってから溶かすように舌を這わせていると、和人の熱であたたまった綴じ目に緩んだ隙間がぼんやりと空いた。

タイミングを逃すことなく舌を滑り込ませるが、明日奈の方は驚きかそれともここまでの深い口づけは予想外だったのか「ぁっ」と短く鼻にかかった声が跳ねる。

すっかり日が暮れた時間の薄暗い公園内とは言え、外は外、しかも明日奈の家はすぐそこだ。偶然顔見知りのご近所さんに目撃されないとも限らない。頭の隅ではそんな自分達の状況を冷静に分析する和人だったが彼女を求める感情は衰えるどころか貪欲に膨れあがった。

これまでに何度も玩味しているのに明日奈のあたたかくて柔らかい咥内は甘美な果実のようで、もっと欲しいと本能が叫び、誰にも分け合いたくないと独占欲が己を支配する。

自分の内だけに閉じ込めておきたくて、彼女の内に這入れるのは自分だけで、そんな二律背反のような願望を明日奈も抱いているのだろうか?、と荒れ狂う脳内に一滴の疑問が落ちた時、決心がつかずに狼狽えるばかりだった彼女の舌が明確な意志を持って和人の舌先に触れ、強請るように奥へと誘う。確かめるべく彼女の面をそっと見れば潤んだはしばみ色の奥には羞恥と情欲が混在していて、それを認めた和人は、ふっ、と目を細めた。そして二人は静かに目を瞑り明日奈の門限時刻ギリギリまで互いを独占し続けたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
キリトの次にハート形クッキーがたくさん入っていたのは……
偶然でも多分、リズの分かな、と(苦笑)
「俺のには一枚あったな」(エギル)
「ホントかよっ?!、俺んトコ、いっこも入ってなかったぞ……」(クライン)


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ホワイトデー・ミッション

前作の「バレンタイン・ギフト」からのホワイトデーのお話です。


三月十四日……ホワイトデー当日の夜、御徒町にあるカフェバー《ダイシー・カフェ》では非売品スイーツを堪能する女子達が集まっていた。

 

「このチーズケーキ、とっても美味しいです、エギルさん」

「そうか?、ありがとよ、シリカ」

 

同意を示すように大きく頷いた里香が持っていたフォークで次の一口分としてケーキに大きめの切り込みを入れる。

 

「これもメニューに加えればいいのに」

「ケーキの種類を増やすのはちょっと無理だな。作っておいて余っても始末に困るし」

 

だからこれは試作品じゃなくて、ちゃんと特別に作ったんだと示されて、ケーキに込められたエギルの気持ちに一同の喜びが増した。

それでも里香が切り取ったケーキにフォークを突き刺しつつ、にんまり、と口角を上げながら「売れ残ったら私達が食べてあげるわよ」と申し出るが、冗談とわかっているのでエギルも苦笑でやり過ごす。

 

「いつものアップルパイも美味しいけど、これも甘さ控えめでチーズがとてもなめらかね」

 

普段、あまり甘味類には手が伸びないという詩乃でさえ休むことなくフォークが進んでいた。

今日は先月のバレンタインデーにチョコレート菓子を貰ったお返し、という事でエギルがメニューにはないチーズケーキを作って里香達に振る舞っているのである。

ちなみにそれぞれがオーダーした飲み物は遼太郎が代金を支払う事でこちらもバレンタインのお返しという扱いだ。

 

「でもエギルさんはわざわざ新作のケーキを作ってくれたのに、クラインさんは飲み物代だけ、って、ちょっとズルくないですか?」

 

ちゃっかりカフェオレを飲みながらの直葉が手間暇の事なのか、費用の事なのか、どちらともとれる二人の格差を口にすると、里香がにんまり顔をそのまま向けてくる。

 

「リーファ、飲み物は一杯だけって決まりはないのよ」

 

すぐさま直葉が、そっか、と得心した後、残り少なくなっていたカフェオレを迷うことなく飲み干して「エギルさん、おかわり、お願いしますっ」と空のカップを持ち上げた。

この件に関しては今、この場にいない遼太郎から明確な指示を受けていないエギルがこれまた、くっ、と片頬を持ち上げ「おう、いくらでも飲んでけ」と気前の良い言葉を投げる。

数日前、キリトとアスナが所有する二十二層のログハウスに集まった時、エギルがホワイトデーには店でケーキを無料提供すると申し出た時に、すかさずクラインが乗っかる形で『じゃ、俺はそん時の飲み物代を払ってやるよ』と、我ながら妙案だと言わんばかりの笑顔を輝かした時はきっと女子達がおかわりをする事まで想定していなかったのだろう。けれど不在の遼太郎には止める術も文句を言う権利もなく、直葉に倣うように里香、珪子、詩乃までもが揃って二杯目をオーダーしたのだった。

 

「それで?、キリトの奴は家でへばってんのか?」

「はい、私が出かける時、部屋にいたんで声をかけたんですけど、ベッドに突っ伏したまま手を振ってたんで、かろうじて意識はあったみたいですよ」

 

気の毒そうな声色ではあるが、その原因の一端となっている直葉としては面白がっている節もみえて、同様に残りの三人からも笑みがこぼれる。

 

「早めに晩ご飯をすませてからユイちゃんのお願いをきくって言ってましたから、今頃は最後のアスナさんの番になっていると思います」

 

そうなのだ、エギルやクラインと同様に女子達からバレンタインのチョコレートを受け取ったキリトがホワイトデーの贈り物として提示したのが『3月14日に《仮想空間》で何でもひとつ言う事をきく』という精神的な謝礼だったが、実際は体力的にも相当削られる結果となったらしい。あの二年間を乗り越えたキリトにしてみればたった一日の《仮想空間》への連続ダイブなど大した負荷にもならないはずなのに朝から代わる代わる女性プレイヤー達に付き合わされたお陰で直葉が見た兄の姿は瀕死に近いほどくたびれていた。

今日、キリトと時間を共有する順番決めは『私は一番最後でいいよ』と笑うアスナを抜かし、ユイを含めた五人がジャンケンで決めたのだが「最初は誰だったんだ?」というエギルの問いかけに珪子が「はいっ、私です」と元気良く返事をする。

 

「《ALO》のイグシティに行ってキリトさんと一緒に色んなお店を見て回りましたっ」

 

現在の《ALO》内では多種族がごった返していて一番賑やかな場所と言えば《空中都市イグドラシル・シティ》で、当然デートスポットとしても人気が高い。ピナがひっついているとは言えキリトを独占できたシリカのはしゃぎっぷりが目に浮かぶようだ。とは言え定番のデートスポットならば当然大勢の妖精達が集まっているわけで、人気の無い場所でキリトと二人きりという状況ではない事にどこからか安堵の息が落ちる。

そして、間の良いエギルが「二番手は?」と次を問えば、静かに詩乃の手があがった。

 

「私は《GGO》で練習台になってもらったわ」

 

実にシノンらしい要望に一同がうっすらと苦笑いを浮かべる。そしてエギルが三番手を尋ねる声より先に自ら名乗り出たのは直葉だった。

 

「その後は私ですっ。今日の《ALO》の風はサラマンダー領のガタン上空から古森を越えて一気にケットシー領のフリーリアまでを吹き抜ける強風だったので、そのコースでお兄ちゃんに勝負を挑みました。ちなみに結果は十戦九勝ですっ」

 

得意気にボリュームのある胸を突き出すスピードホリックのリーファには呆れがちな視線が集中する。

そうなると自動的に残りのプレイヤーはリズになるわけで「コホンッ」と咳払いで場を仕切り直した里香は全員が自分の発言を待っている状況に気分良く微笑んだ。

 

「私はアインクラッドでモンスターがうじゃうじゃ出る洞窟の奥までレア素材の収穫に同行させたわ」

 

「おおぅっ」というどよめきはその素材がいずれ自分への恩恵となるかもしれない期待からか、いつもは泰然自若としたイメージのエギルでさえカウンターから少し身を乗り出して「うちで買い取ってもいいぞ」と商売っ気を滲ませている。キリトが評する「ぼったくり屋」を信じているわけではないが、その誘いには「考えとくわ」とかわしてから自分のカップの中身をこくり、と飲んだ里香はふっ、と息を吐いた後、今日一日目まぐるしい勢いでホワイトデー・ミッションを遂行していたキリトの別れ際の姿を思い出していた。

素直に『助かったわ、キリト』とお礼を言った先にはヨレヨレの黒いスプリガンがまともな口をきく気力も残っていないのか『おー…』と片手を振るだけで、ゆっくりと空中に浮上する。キリトはこれから一旦ログアウトして夕食を済ませた後、ユイと待ち合わせをして、この浮遊城アインクラッドを含む《ALO》内に生息する植物で一番大きな花を探しに行くのだ。リズは以前アスナから『ユイちゃんには《おっきいものブーム》がきてるみたい』と聞いた覚えがあるが、どうやらそのブームは今も鎮火していなかったらしい。

自分の知識が追いつく範囲での《現実世界》の巨大な花と言えば「ラフレシア」とかいう見た目も中々にインパクトのある花だったと思うけど、果たして《この世界》に咲く巨大花はどんな姿形をしているのかしら……とりあえず『強烈な臭いを発する花じゃないといいわね』と同情に近いエールをリズが贈ると、気のせいかキリトの尖った耳先がヘタレたように見えた。

どちらにしても愛娘からのお願いだ、キリトとしても和人としても日頃から何かとお世話になっているユイの為なら花を探しに行くなど可愛い要望ではないか、と自分を含めた四人の女子からのミッション内容と比較した里香は、うんうん、と頷き、それから遼太郎のおごりである飲み物の三杯目のおかわりをエギルにオーダーしたのである。

 

 

 

 

 

「それで、どんなお店に行ったの?」

 

天上から天使が舞い降りて来るような優しく清らかな声を浴びて、キリトはその声の主を見上げつつ数時間前の記憶をたぐり寄せた。

 

「…………っと…、まず最初に行ったのが…た、確か……テイマー御用達の店とか言う……《現実世界》のペットショップみたいな……いや、ペットは売ってなかったけど、テイムした動物用のグッズとか餌なんかが置いてある店で……ネームタグなんかもオーダーメイド出来るって言ってたなぁ……」

 

うろ覚えな説明だったがアスナはそれだけで見当を付けたようで「あ、きっとあそこかな」とイグシティの人気店のひとつを思い浮かべる。とりあえずシリカと一緒に行った一番目の店はなんとか思い出せたが、その次となると全く記憶が覚束ないキリトは結局「それから何軒も《イグシティ》内にあるシリカのお薦め店を案内された」と一括りにまとめた。

 

「それから一旦ログアウトして《GGO》でシノンと対ビームサーベルの実践練習に付き合わされて、昼食を挟んでもう一度《ALO》に戻ってリーファと飛行対決だろ……」

 

アスナが小声で「フォトンソードね」と苦笑しながら訂正するが、キリトは構わずに報告を続ける。

 

「リズと行った洞窟ではアイツ、モンスターの相手は全部オレにさせたくせにドロップアイテムは半分よこせって言うんだぜ」

「そもそもバレンタインのお返しなんだから間違ってはいないと思うけど……」

「『お徳用』チョコ、五個しか貰ってないんだけどなぁ」

「チョコレートはチョコレートだよ、キリトくん」

 

幾分窘めるような言い方になってしまったせいでキリトの唇が不満げに尖ったのに気付いたアスナは触れていた黒髪をゆっくりと撫でた。

 

「でも、リズが欲しがってた素材アイテムはちゃんと手に入ったんでしょう?」

「…ああ」

 

渋々といった肯定に「ふふっ」と笑ったアスナが「ユイちゃんとのお出かけはどうだったの?、お花、見つかった?」と話を進ませる。

ユイとキリトが花探索から帰って来た時、ログハウスで出迎えたアスナだったがキリトとの外出がよほど楽しかったのか興奮冷めやらぬ様子のユイは「とっても楽しかったですっ」と声を弾ませてから「たくさんデータを収集したので、私はもう寝ますね」と言い終わるやいなや、すぐに消えてしまったのだ。

《現実世界》の子供なら「いっぱい遊んで疲れたからもう寝る」と言ったところだろうか。

だからアスナはユイのお目当ての花が見つかったのかどうかも知らないままキリトとの時間を共有する自分の番を迎えたのである。ユイの様子からして空振りに終わったわけではないと思うが、愛娘と一緒に帰宅したキリトの方は口を開く余裕すらない疲労困憊ぶりだったので、すぐに話を、と強請れる雰囲気でもなかったのだ。

 

「あー、でっかい花ね、うん。あった、あった」

 

疲れが再びぶり返してきたように、どんよりと瞳を濁らせたキリトの言い方が何を意味しているのかがわからずアスナが不思議そうに顔を近づける。

 

「キリトくん?」

「でっかい花って結構定番なんだよなぁ」

「定番?」

「そっ。旧アインクラッドと全く同様に実装された四十七層なんてフロアが花だらけだろ。北の端には《巨大花の森》なんてのもあるし、昔、オレがシリカと出会った頃に遭遇した《歩く花》も結構デカかった」

「歩く…花?……なにそれ?、そんなお花、聞いた覚えがないんだけど……」

「まあKoBの副団長サマの耳には入ってなかったかもな。名付けたのオレだし」

「キリトくんっ」

 

ぷぅっ、と薄紅色に膨れた頬を下から、つんっ、と軽く突けば柔らかな弾力が指先を通じてキリトの中へ安らぎを浸透させてくる。

 

「要するにクエストに関する物はもちろん、そうでない物も含めて『巨大』サイズの花はあっちこっちにたくさん咲いてて……ユイと一緒にアインクラッド内はもちろんALO中に点在してるでっかい花を探してどれだけ飛び回ったか……」

「それでユイちゃんはデータがたくさん収集できた、って言ってたのね」

 

真っ黒なスプリガンがピクシー姿の娘と一緒に花を探して飛び回る姿はまるで花の蜜を求める鳥か昆虫のようで、嬉しそうなユイの笑顔を前にしたら「もういいだろ?」とは言い出せなかったらしいキリトの優しさにアスナが微笑む。

 

「予想していたより帰りが遅いな、とは思ってたんだけど……」

「悪い、随分待たせたよな?」

「ユイちゃんが楽しかったのならいいよ。そのつもりで順番も最後にしてもらったんだし」

「でも、アスナだってやりたい事、あったんだろ?」

 

今朝からほぼ休みなしで女子達の希望を叶えてきたキリトが振り返れば、その全員がちゃんと自分にやって欲しい事を用意していた。きっとアスナだって自分と一緒にしたい事があったはずだ。それを我慢させたのではないか、と本命である自分の恋人とこそきちんとホワイトデーを過ごすべきだった後悔でキリトは伸ばしていた手でアスナの頬に触れる。

両手が塞がっているアスナはその手の感触を頬をすり寄せる事で受け入れてからキリトの大好きな、ほわんとした笑顔を浮かべ「ちゃんと叶えてもらってるよ?」と意外な言葉を口にした。

漆黒の瞳が大きく丸くなった後、それはすぐに疑問の形に変わる。

ユイが『もう寝ます』と言って消え、さあ、アスナの要望は何なのか?、と聞く前に彼女はキリトの手をぐいぐい引っ張りログハウスのリビングにあるソファまで連れて来て、先に腰掛けたかと思えばすぐに自分の隣をトントンと急かすように叩いたのだ。誘われるままにアスナと並んで腰を降ろしたキリトは、次にどうすれば?、と問いかける暇もなく『さ、どうぞ』と膝の上で両手を広げているアスナに言われ、情けなくも『へ?』と返したのである。

 

「アスナにはここ最近またバックアップばっかお願いしちゃってたからさ、今日は戦闘系のクエストで交代制のフォアードかと思ってたんだけど……」

「うーん、それも魅力的だけど……やっぱりこっちかな」

「ホントにこんなのでいいんです?」

「うんっ、ユイちゃんから聞いてずっとやってみたいって思ってたのっ」

「そんなに?」

 

完全には彼女の言葉を信じ切れないキリトの顔は疑問の色を残したまま、ちょうどおでこの辺りから後ろへと髪を梳く細い指の感触のあまりの心地よさに小さく「んうっ」と快感の息を漏らした。

 

「ふふっ、さらふわだね、キリトくんの髪の毛」

「そうか?」

 

キリトの《ALO》でのアバターの髪はとにかく短い。

その反動の呪いで《GGO》ではあのアバターを引き当てたのかと勘ぐったくらいだ。

最初はツンツン頭だったのをピクシー姿の娘から『座りにくいですっ、パパ』と訴えられ半ば強制的に髪型をカスタマイズしたわけだが、その後の感想は特になく、それ以来当たり前のようにユイが頭上に収まっているので多少なりとも居心地は改善されたんだろうな、くらいにしか思っていなかったキリトは自分では思ってもみなかった髪質への評価に改めて自身の髪の毛先をつまんだ。

つまんで、よじって、ぴんっ、と引っ張ってみたが、望んで触りたいか?、と問われれば首を傾げざるをえない。そこに髪を弄び始めたキリトへアスナの軽い叱責の声が落ちてくる。

 

「今は私が触ってるんだから、キリトくんは大人しくしてて」

 

どうやら自分の髪の毛だと言うのに、今、この時はアスナが独占権を有しているらしい。しかし惜しくも悔しくもないので「へーい」と素直に指示に従い、それよりも格段に良い触り心地だと断言できる水色の髪へ手を移す。

アスナは自分の膝の上にキリトの頭を乗せ、少し前屈みになっているのでキリトにとってはすぐ近くに垂れている細絹に触れる事は自分の髪を掴むより容易い。

 

「でもさ、これじゃあ……」

 

ホワイトデーなんだからオレがアスナに何かをあげる日なのに、オレがアスナに癒やしを貰ってる状況になってる気が……、と清らかな水の色を持つ髪に指を滑らせながら戸惑えば、同系色の澄んだ青い瞳がキラリと光った。

 

「だから、いいのっ……ユイちゃんがね、キリトくんの頭に座ると、とっても気持ち良いって言ってたから……うん、ホントにずっと触ってても飽きないよ」

 

そんなのもっと早く言ってくれれば……髪に触りたいというだけでアスナに膝枕をしてもらえるならこんな頭いくらでもどうぞ、と、つい差し出してしまいそうになったキリトは今日がホワイトデーである事を思い出してプルプルとアスナの指が差し入れられたままの頭を振る。

 

「じゃあ、確認するけど、アスナがオレにして欲しい事は、オレの頭を撫で回す事でいいんだな?」

「うんっ」

 

嘘偽りのない笑顔でアスナが首肯した。

確かに、こんな願い、他のプレイヤーから頼まれたら確実に断る要望だ。アスナにだから許せる行為であり、この膝枕もアスナだから甘えられる。

けど、だったら折角のホワイトデーだし、アスナの次に自分を待つ者は誰もいないし、とキリトの口角が意地の悪い笑みを作った。

 

「アスナ、こうやって膝枕で髪をいじるよりもっといいやり方があるぜ」

「もっと?」

「オレの髪を触るの、気持ち良いんだろ?」

「そうなのっ、見た感じだとわからないけど、ユイちゃんが言ってた通り、ふわっと弾力のある柔らかさなのに指通りはさらっとしててすっごく気持ち良いよ」

 

疑いを知らないはしばみ色の瞳が嬉しそうにキリトへ向けられる。その応えを聞いたキリトはアスナの髪を手放し上半身を起こすと、互いの鼻先が触れ合うほど距離を縮めた。

 

「だったら膝枕より抱き枕で」

「え?」

「ここじゃなくて寝室でさ」

「えぇっ?」

「アスナはオレの頭を抱きかかえて思う存分髪を堪能してくれ」

「ふえぇっ!?」

「オレはアスナをもっと気持ちよくさせるから」

「……っ!!」

 

真っ赤に茹で上がったアスナの口から発せられる言葉は消え、存在しないはずの無慈悲な空気だけがうっすらと開いたままの唇から出入りを繰り返している。その隙間を条件反射のように自身の唇で軽く塞いだ後、すぐにソファから立ち上がったキリトはホワイトデーのアスナからの願いを更に叶えるべく、あっちの部屋へと誘ったのであった。




お読みいただき、有り難うございました。
「抱き枕」?、「抱かれ枕」?、「抱きかかえ枕」?
どっちが枕になるんだろう?、と真剣におバカな事を
考えてしまいました(苦笑)


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強制イベント発生中

結婚後の和人と明日奈を二人の訪問者が頼るお話です。
いちを以前の作品をいくつか踏まえていますが……読んでなくても忘れていても
大丈夫だと思います(苦笑)


和人と明日奈が結婚して暮らし始めたマンションのリビングに訪問者が二人。四人掛けのダイニングテーブルを囲み、並んで座っている桐ヶ谷夫婦を前に内一人が背筋をピシッと伸ばし全身を硬直させ、唯一、唇だけを振動させている。

 

「お、お、お…お義兄さんっ、ア、アスナさんっ。リっ、リーファちゃんを……じゃなくてっ、リーファしゃんをっ」

 

緊張のあまり噛み噛みになった結果、言い直した意味があまりない結果となってしまった発言者に和人は手の平を垂直に突き出して待ったをかけた。

 

「ちょっとタイム。一旦落ち着け」

「リ、リ、リ、リーファさんうぉぅっ」

「勢いで乗り切ろうとするなよ……おい、スグ、コイツ止めてくれ」

「はいはーい……」

 

だよねぇ、と兄からの要請を苦笑いで受理した直葉が「はいっ、すとーっぷ!」と自分の隣に座っている男性の言葉を遮る。

全身に力が入りまくっていた男性はお世辞にも頼りがいがあるとは言いがたい細身の身体をプルプルと震わせていたが、直葉が「ゆっくり吐いてーっ、吸ってー」と深呼吸の音頭を取ると、素直に応じてそのプルプルを静めた。

硬直状態だった顔の筋肉が少し緩んでいつもの人の良さがにじみ出ている、ちょっと情けない角度の眉毛が蘇る。膝の上で固く握りしめられていた両手に血色が戻った事を確認した直葉がすかさず二人の目の前に並んでいる品の良いデザインのカップを勧めた。

 

「お茶飲んだら?、明日奈さんが煎れてくれるの、《こっち》でも美味しいよ」

 

義妹からの嬉しい言葉に和人の隣の明日奈が静かに微笑む。

 

「い、いただきますっ」

 

ずずぅーっ、と勢いよく飲んだせいで、すぐに「げふぉっ」とむせた青年の背中をトントンと叩く直葉の姿を見て、和人は「はぁぁっっ」と大仰な溜め息を付いた。

 

「それで、なんでオレ達んトコなんだよ」

「え?、お母さんから聞いてないの?」

「アレだろ?、うちの父さんが絶対に会いたくない、って頑張ってるんだろ?」

「そう、それ」

 

全く、困ったもんだよねー、と気楽に笑う直葉の隣では再び顔から血の気が引いた男性の手にあるカップとソーサーがカタカタと音を立て始める。

 

「や、やっぱり……僕では……ダメなんでしょうか……」

「そういうんじゃないから、って何度も言ってるのに」

「そうそう、オレ達が十代の頃はずっと海外赴任で家に居なかったくせに、いざスグに結婚って話が出た途端『まだ早い』の一点張りだって母さんから聞いた時はオレも驚いたよ。だから、今嫁に出さずにいつ出すんだってこの前電話で言っといたんだけどなぁ」

 

隣にいる自分の夫である和人の溜め息顔を見て明日奈が「だからじゃないかな?」と小さく口を挟んだ。向かい側に並んで座っている直葉と彼女の交際相手もその言葉に疑問の目で明日奈を見る。

 

「今まで直葉ちゃんとの時間が思うように取れなかったのにこれでお嫁に行ったら益々会えなくなるでしょう?。きっとお義父さま、寂しくなっちゃったのよ」

「いやいや、会えなくなるって、大げさだろ」

「そうでもないと思うよ。うちの父だって……」

 

そこまで言って笑顔のまま明日奈が言葉を切ると、今度は逆に和人がそわそわと落ち着きをなくし身体の向きを変えて明日奈と膝頭を触れ合わせた。

 

「え?、彰三さんから何か言われてるのか?、もしかして連絡とか頻繁に来てる?」

 

その慌てっぷりに少し間を置いてじらした明日奈は、いつもの癖で「んー」とおとがいに人差し指をあてた。

 

「流石に今は和真くんのお世話で大変なのがわかってるからそんなにメールも来ないけど、結婚したての頃は、今度はいつ帰ってくるんだー?、って割とよく聞かれてたかな」

 

愕然とした和人の様子に、クスッと笑った明日奈は「だからね」と再び客人達に視線を戻す。

 

「娘を持つ父親って、そんな感じなのよ」

 

明日奈が思うに、父親とは娘に対し幸せになれる結婚相手を見つけて欲しいと願うし、自立して望んだ仕事で人生を充実させて欲しいと考える反面、いつまでも自分の手元に置いておきたいとも思う我が儘で身勝手な愛情を沢山抱えていて、それを普段は中々素直に言葉や行動で表せない不器用な存在らしい。そんな父を思いやって結婚してから一ヶ月に一回は実家の結城家を訪れていた彼女だったが、早々に身籠もり、妊娠中も入院が必要となったり、退院しても桐ヶ谷家に世話になっていたりでとんと男親を頼る機会はなく、お陰で彰三氏は自身の役立たずっぷりに「家で溜め息ばかりついているわよ」と京子からの報告を聞いて苦笑したものだ。

和人にしてみれば岳父である明日奈の父、彰三とはそれこそ明日奈がSAO事件から《現実世界》に帰還するよりも先に顔を合わせ交流を持った仲なので、一般的な父親とその娘の夫という関係性よりは多少なりとも互いを理解しているつもりだったのだが、妻から聞かされた事実に「やっぱり娘を自分から奪う男って認識は共通なのか?」とさっきよりも更に深い溜め息が落ちる。

しかし、今は自分と彰三氏の事よりも直葉の結婚に対する自分の父親の態度だ、と和人も改めて前を向いた。

 

「とにかくオレ達に結婚の申し出をしても意味がないだろ?」

 

直葉から結婚について相談したいと言われ、交際相手の同行も含めて今日の訪問を受けた和人と明日奈だったが、いきなり婚姻の申込みをされた和人は改めて二人に「そういうのは親父に言えよ」と呆れ声で促す。

 

「だからそのお父さんがつかまらないからお兄ちゃんに言ってるのっ。変だなぁ、お母さん、ちゃんと伝えておくって言ってたのに……」

 

後半はぶつぶつと独り言のようになってしまった直葉をそのままにして隣の青年がオロオロと困り切った顔で和人と明日奈の交互に視線を振り動かしている。

 

「お、お義兄さんっ、アスナさんっ、きっ、聞いていたらけないでしょうかっ……」

「予行演習って事で、聞くだけなら構わないけど……既にちゃんと言えてないぞ」

「頑張って」

 

悲壮感すら漂い始めている青年に向け、ふわり、と微笑んで声援を送る明日奈とは違い既に色々と諦めたように自分のカップの中身をのんびりと飲んだ和人は改めて「ん?」と疑問符を発した。

 

「けど、さっきからなんでオレだけ『お義兄さん』なんだ?……それにオレ達なら構わないけど、親父相手にスグを『リーファ』呼びはマズイだろ」

「や、や、や、やっぱり…ダメでしょうかぁ……」

 

緊張と困惑があちこちからダダ漏れしていた所に更に哀れ気すら上乗せさせ、もう泣き出さんばかりの弱気な声がくにゃくにゃの口からあふれ出した所で携帯端末をいじっていた直葉が慣れた手つきで彼氏の肩をトントンと叩く。

 

「まぁ、今日は『リーファ』でいいよ。呼び慣れている方が少しは気が楽なんでしょ?…………あ、もしもし?、お母さん?」

「ありがとうっ、リーファちゃんっ」

「なんか……前途多難だな」

 

母親に連絡を取ろうとしていた直葉は端末で会話を始めながらも隣に「いいから、続けて」と演習再開を促し、青年は涙で滲んだ瞳を輝かせ直葉に感謝の意を表し、その二人を見ている和人の目はすっかり気力を失っていた。

 

「それで言うならオレは『キリトさん』じゃないのか?」

 

呼び慣れているなら『リーファちゃん』『アスナさん』『キリトさん』であるべきなのだ。

指摘された青年は今度はなぜか頬を薄く色づかせ恥ずかしげに和人から視線を逸らした。

 

「それはっ、そのっ、そうなんですけど……キ、キリトさんが僕のお、お、お、お義兄さんっ…になるんだと思ったら、う、嬉しくなって……早く呼んでみたくて……」

「そ、そっか……」

 

緊張と気恥ずかしさが移ったようで和人までもが詰まり気味の声となり体温が上がったらしい頬をぽりぽりと指で引っ掻いている。互いに明後日の方向を見ながらもじもじと挙動不審になっている男性二人に対しぷくり、と明日奈が頬を膨らませた。

 

「和人くんだけズルイっ。……ねっねっ、だったら私もお義姉さんよね?」

 

実際には既に『お義姉さん』と呼んでくれるはずの義妹がすぐ目の前にいるのだが、彼女はそれこそ十代の頃からの呼び方を今でも続けていて、せがんでみても「今更呼び方を変えるなんて無理ですっ」と断られてしまうのだ。明日奈に請われて「ぅえぇっ!?」と狼狽え始めた青年は助けを求めるように隣の直葉を見るが無情にも彼女は未だ母親との会話を続けていて、無邪気にコロコロと笑いながら「うん、それでね、今、お兄ちゃんトコにいるんだけど」と話を弾ませている。

頼みの綱が頼れないと判断した青年はゴクリ、と唾を飲み込みヘタれた眉のまま覚悟を決めたように明日奈へ震える唇を力を込めて動かした。

 

「お、お、お…おねっ、お義姉さんっ」

「きゃっ」

「なしだ」

 

明日奈が両手で頬を挟み嬉々とした笑顔になった途端すぐに和人から冷ややかな声で却下の判断が下される。

 

「スグと同じで『アスナさん』にしろ」

「えー、いいじゃない、和人くんっ」

「なに?、なに?、私がどうしたの?」

 

自分の呼称にちょうど通話を終えた直葉が反応すると和人は明日奈の反論を相手にせず、「お義姉さん」と呼んだ青年に釘を刺すように一瞬だけ強く睨み付け、すぐに妹へ「母さん、なんだって?」と話を振った。その際に小さく「唯一コイツだけの呼び名なんてっ」と吐き出した声はしっかりと明日奈の耳にだけは届いて、それを聞いてしまえば残念さを微苦笑に残しつつも抗う気持ちは収まっていく。

一方、現状をいまいち把握し切れていない直葉だったが、隣の青年が無意味に汗をかくのはいつものことだし、小刻みに震えているのも問題なしと片付けて、今、端末越しに交わした会話を兄に伝え始めた。

 

「お母さんからは『和人も人の親になったんだから少しはお父さんの気持ちがわかるでしょ?、だったら桐ヶ谷家の男として話を聞いてあげてちょうだい』だって」

「おいおい、結婚を申し込んでくるヤツの相手なんて父親歴数ヶ月のオレには早すぎだろ。それにウチにいるのは息子なんだから将来は申し込む側だ」

 

直葉の交際相手との対面を拒絶し続け、頑として時期尚早を主張している峰高の代わりに兄である和人が妹の結婚話を了承するなど荒唐無稽な話であるくらい母の翠もわかっているはずなのに「相変わらず無茶苦茶な屁理屈で面倒事をオレに寄越してくるんだからなぁ」と困り切った声で母親からの無茶ぶりにどう対応しようかと考えていた兄へ、向かいの妹が「そうだっ」と明るく笑った。

 

「だったらお兄ちゃんを参考にさせてよ」

「は?」

「だから、お兄ちゃんが明日奈さんのお父さんに挨拶に行った時っ」

「ええーっ」

 

何を言い出すんだっ、と思わず仰け反る和人とは反対に向かいの青年も「聞きたいですっ」と身を乗り出してくる。

直葉は記憶を掘り起こして「確か就職してすぐだったよねー」と当時の様子を口にした。

 

「明日奈さんちから帰宅した後もスーツ姿のまましばらく玄関に座り込んでたし」

「おまっ、見てたのかっ」

「うん、なんか声かけづらい雰囲気だったからそのままリビングに行ったけどね」

「お、お義兄さんでも、緊張するんですね……」

「……オレを一体何だと思ってるんだよ。緊張するに決まってるだろ」

 

少し不愉快そうに言い返せばすぐさま「すっ、すみませんっ」と謝られて、そんな自然とにじみ出る青年の変わらない素直さに和人の口元は穏やかさを取り戻す。和人としては元々直葉の結婚にも、この結婚相手にも、何の異議もないのだ。互いに十代の頃、直葉から紹介されて以来主に《仮想世界》で交流があり和人個人としてもこの青年とは短くない付き合いである。直葉に対しては現実と仮想の両世界で関わっていたこの青年はいわば直葉をすっかり理解している存在と言っていいだろう。

当然、明日奈とも知り合ってから随分経つわけだが、和人がこの青年を直葉の相手として認めている最大の理由は未だ嘗て明日奈を色を含んだ目で見た事がないからだ。

要するにこの青年は少年の頃から直葉一筋なのである。

紹介された頃は、一見、少し気の弱い少年と勝ち気な妹という取り合わせに思えて直葉が振り回しているのかと思っていたが、その実、互いを「放っておけない」相手として認識しているのだとわかり、少年はキリトに「リーファちゃんと一緒が楽しいんです」と断言し「アスナさんは綺麗すぎて緊張します」と、やっぱり眉をハの字にしていた。

明日奈の魅力が十分に伝わらないという点では複雑な思いだが妹の夫が自分の妻に懸想する可能性など、直葉の兄としても明日奈の夫としても絶対に許容できないし、確かに自分も明日奈に対して愛情を抱く理由は彼女が容姿端麗だから、が一番ではなく、純粋に一緒にいて欲しいから、なのである。

 

「それで?、お兄ちゃんは明日奈さんのお父さんとお母さんに何て言ったの?」

 

既に自分達の参考にというのは口実でしかないと断言できるほど直葉の顔は好奇心に満ちていて、逆にこうなってしまうとなかなか諦めてくれない事も承知している和人は仕方なく気乗りのしない声でボソリと短く答えた。

 

「……正確には彰三さんと浩一郎くんに、だ」

「どういう意味?」

「挨拶に行った時、京子さんは不在だったから」

「えーっ。確か、どっちかって言うと明日奈さんのお父さんよりお母さんの方がお兄ちゃんを見る目は厳しいんじゃなかったっけ?」

「あー……、まあ最初の頃はそうだったけど、帰還者学校に通っている間にちゃんと挨拶には行ったし」

「それでもそういう時ってご両親に挨拶するもんじゃないの?」

 

片方でいいなら父親を抜きにしてさっさと母親への挨拶だけで結婚の了承を得てしまおうという魂胆が見え見えの妹の顔に、和人は慌てて言葉を続ける。

 

「仕方ないだろ、忙しい人達なんだから。決してオレと会うのを拒絶されたわけじゃないぞ」

「でもさー、それじゃ宝箱の鍵を手に入れる為のモンスター戦闘に、モンスターを倒さないまま運良く鍵を手に入れちゃった感じだよね」

 

いきなりゲームのクエスト攻略になぞらえるあたりが直葉らしいのだが、その兄も負けてはいなかった。

 

「いいんだよっ。最終的に箱を開けてお宝を手に入れられればっ」

 

と言う事は宝箱は結城家で鍵の守り人……まさにキーパーソンが結城京子、箱の中の宝物は明日奈になるのだろう。その関係性をそのまま今の状況にスライドさせれば桐ヶ谷家という箱を開ける為の鍵は峰高氏が保有しており、鍵を渡してもらわないと箱の中の宝である直葉が手に入らないという意味になる。

少なからずキリトというプレイヤーに憧れを抱いている青年は自分も何とかモンスターと戦わずして鍵を入手し、宝を貰えないものか、と口を尖らせてウーンと唸っているが、その思考はあっさりと看破されて「お前は正攻法で親父から鍵をもぎ取れよ」と和人から先に念を押されてしまった。

和人とて別に奇襲作戦で箱の鍵を掠め取ったつもりはない。それこそデスゲーム内の虜囚となっていた時、既に『お嬢さんをオレに下さい、的な強制イベント』はアスナの親に発動する心づもりでいたくらいだ。それに自分と明日奈の両親とは《現実世界》に帰還した時から多少の面識は持っていたものの明日奈を《現実世界》でも自分の伴侶に望んだ時、やっぱりこういう場面では、と二人に頭を下げる覚悟はしていたのである。しかし彼女の両親の時間を合わせるのがどれ程難易度の高いミッションなのかは結婚式の日取りを決める段階になって痛感した事でもあった。

それに比べて目の前の青年と自分の父親とは未だに互いの顔すら知らないままなのだ。今現在、父は海外赴任を終えて川越の家から通勤しているのだし、母もいまだ出版社に籍はあるものの以前のように私生活も殆どなく仕事に忙殺される日々からは開放されている。

少なくとも母さんはスグの結婚を応援してくれているんだから、あとは二人で力を合わせて親父を攻略するしかないだろう、と和人が自分の話は参考にならない事を伝えようとして「とにかく……」と場を仕切り直そうとした時だ…………こてり、と小さくて軽い温もりが肩にあたり、同時にふわりと鼻を擽るのは、もう十年以上も嗅ぎ慣れた花のような甘い香り。

「明日奈?」と愛妻の名を口にしようとする寸前で肩先を見た和人はそれを飲み込んだ。

和人に倣い、対面の二人も自分の驚きや慌ての行動を押し殺す。

誰も動かず何も発しない無音に近いリビングに清楚な寝息だけが静かに流れた。

少しの間だけ様子を見て、動く気配がないことを確認した和人がそっと身を捩り、どうにか明日奈の頭を両手で受け止めてゆっくりと自分の膝の上へと落ち着かせる。無事、彼女の意識を揺り起こさず任務をやり遂げた達成感に、ふっと肩の力を抜けば、それを合図のように直葉が声を響かせぬよう口元を手でガードしつつ和人に謝った。

 

「ごめん、お兄ちゃん。長居しすぎちゃったね」

 

客人を前にして眠ってしまうなど、本来ならキリトの専売特許のはずなのだが毎日の明日奈の多忙ぶりを知っている和人としては当然の事と受け止める。午後の陽射しがゆったりと差し込んでいるリビングで、明日奈にとっては絶対的な信頼の置ける和人が隣にいて、すぐ目の前では「微笑ましい」と映る兄妹のやり取りが続いていれば、ふと気が緩むのも仕方ない事だし、向かい合っている二人もそれだけ心を許している存在という証だ。

 

「気にしなくていいさ。明日奈もスグ達が来てくれるのを楽しみにしてたし……ただどうしても睡眠不足の日々が続いているから……」

 

明日奈の顔にかかっている長い栗色の髪を慣れた手つきで耳に掛け、そのまま束の間の安らかな睡眠を手助けするように優しく頭を撫でる和人はほんの少し苦しげに眉を寄せるがすぐに笑顔に戻った。

 

「けど明日奈は欠伸しながらいつも笑って和真の世話をしてるんだ。大して役に立たない父親歴数ヶ月のオレより既に『母は強し』って感じだよ」

「そっかぁ。さっき寝てる和真に会わせてもらった時も、明日奈さんニコニコして『お腹が空いた時とかオムツを替えて欲しい時とか、ちゃんと教えてくれるのっ』って嬉しそうに言ってたけど、他にも色々大変なんだろうね」

 

頷く事で肯定を示した和人は明日奈と結婚して一年と少しで家族が増えた今をしみじみと振り返る。定時に職場から帰宅できた日や休日などは和真の風呂担当は和人だが、オムツ替えは明日奈の方が圧倒的に場数を踏んでいるし何より授乳は明日奈にしか出来ない。妊娠中にあまり食べ物を受け付けなかった彼女は出産を経て食欲が元に戻るかと思いきや、落ち着いて食事をする時間がない日常に初めての育児の迷いや不安、それに伴う睡眠不足も手伝って、未だに口に運ぶ料理の量は少なめだ。

ただ、授乳中という事もあり摂取する食材のバランスは意識しているようだが、それらはほぼ和真の栄養になっている気がする和人はまだまだ細いままの明日奈の手首をじっ、と見つめた。一時、妊娠期間中の入院で点滴のみだった頃のように骨張ってはいないものの、手首だけではなく元々細い腰つきも首元もどこもかしこも多少はふっくらとしてきた程度で、逆に豊かな膨らみを持つ胸部は授乳中だからこそさらに重量感を増しており彼女自身はアンバランスな体型が少々ご不満の様子だが、和人としては「これはこれで」とこっそり思っている。

ただ和人も出来るだけ明日奈の負担は減らしたいと考えているのに、自分と一緒に風呂に入ると途端に和真は不機嫌になるし、オムツを交換している間はずっと母親を目で探したり声のする方へ必死に顔を向けようとするのだ。極めつけは和真が意味不明で泣きわめき明日奈の注意を引こうとする時は必ず明日奈と和人が一緒に過ごしている時なのである。

最近は明日奈が抱き上げれば泣き止むとわかっているからこそ「赤ん坊は泣くのが仕事みたいもんだからな」とわざと和人が抱っこして密かに父と息子の攻防戦が繰り広げられている事は男同士の秘密だ。

 

「それに今日は検診日で、午前中和真と外出したから少し疲れたんだろ」

 

病院から戻ってきた明日奈が『そろそろ離乳食を始めなきゃ』と言った時のワクワク顔を思い出して自然と口元が緩む。離乳食作りにかつてSAOで料理スキルをコンプリートした血が騒ぐのだろう。基本、自分達が食べている料理を更にとろとろくたくたにすればいいらしいが、明日奈は自分の手料理を息子が食べるという瞬間が待ち遠しいらしい。そして『それとね』と付け足すように続けた彼女は一転して言いづらそうに下を向き、その先の言葉を探すように前身で組み合わせていた両手をこちょこちょと動かした。

 

『……もう、大丈夫ですよ、って』

『……何が?』

 

明日奈の言わんとしている事が全く思い当たらず聞き返せば、わからないこっちがいけないみたいに『もうっ』と勢いを付けて発せられた声と共に和人へとフォーカスを合わせたはしばみ色の瞳の周囲はすっかり朱に染まっていて、和人は内心『そんなに怒ることか?!』と慌てふためく。けれどうっすらと瞳を覆い始めた透明な液体が溢れ落ちる前に明日奈はその朱を広げながら消え入りそうな小さな声でこう告げたのだ。

 

『キリトくんと仲良くしても大丈夫って……』

 

明日奈が自分の事を「キリトくん」と呼ぶのがどんな時かを心得ている和人はその一瞬で彼女の朱が怒りではなく羞恥なのだと誤解に気付き、と同時に言葉の意味を理解して素早く彼女を抱き寄せまずは落ちる寸前の涙を唇で吸い上げる。

 

『ひゃうっ、まだっ、まだダメっ……夜まで、ダメだからっ』

 

和人の腕の中でジタバタともがく明日奈の言葉に「なら今夜は確定なんだな」と言質を取った和人は隣室から『ふんぎゃーっ』いきなり響き始めた和真の泣き声に、うぐっ、と小さく唸った。右も左も分からない赤子なのにどうしてこうも勘が鋭いのか、明日奈が和人とは別行動で家事をしている時はスヤスヤと寝入って手もかからないのだが、いざ二人で軽く触れ合っているだけでそれを妨害するかのようなタイミングで泣き始めるのである。

和人は急いで和真の元へと行こうとする明日奈を押しとどめ、妻の代わりにベビーベッドへ赴いて自分の息子を抱き上げた。

一方、和真は自分へと伸ばされた手が母親のものではない時点で一層『ふえぇーっ、ふえぇーっ』と泣き声を高くしている。そんな我が子と目の高さを合わせた和人は軽く揺すりながら『ほーら、和真、いい子だな……ほんっと、お前は…いい度胸してるなぁ』と微妙な笑みで顔を近づけた。

父親が自分に告げてくる言葉が分かっているのか、いないのか、和真はムッとしたように顔をしかめると母親を求めて頭を左右に振るが、和人は自分の額を和真の額に密着させてその動き制する。

 

『いいか、和真…明日奈はオレのものだからな』

 

仕事で一緒にいられない時は仕方ないとしても、今まで通り風呂にも入れるしオムツも率先して面倒見よう。だから後はなるべく早く明日奈に頼らず離乳食で栄養を摂る方法を覚えさせないと、と和人は誓い、ついでに沢山泣けば夜はぐっすり寝てくれないかな、と様々な期待を胸に抱きつつ和真をあやしたのだった。

 

「そうだな、明日奈は…色々、大変だな、うん」

 

改めて妹が発した言葉の意味の含有率を上げ、和人は労るように明日奈の頭や髪に触れる。

周囲の連中は当たり前のように思っている節があるが、和人自身は明日奈という唯一無二の宝物を手に入れる事は自分の弱さも含め「やっと」という思いがあるし、手に入れた後も正直な気持ちとしては、それこそ箱に入れて鍵でもかけておきたい心境なのだ。

ただでさえ育児で体力や気力を削がれている明日奈に対し、自分の相手も、と望むのは強欲なのだろうが検診で得た医者からの言葉を素直に伝えてくれた事が明日奈の意志でもあるととらえた和人は正面の青年に向け不敵な笑みを放つ。

 

「大事なのは宝物を手に入れた後もだぞ」

 

強制イベントを首尾よく成し遂げたとしてもその先はまだまだ続くのだから……。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
直葉のお相手は……まあ、あの彼を想定しているわけですが(笑)
そこまで支持が得られるのか不安だったので名前は伏せて。
明日奈さん……ますます体力と睡眠時間が削られることに……。


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【いつもの二人】赤と白

ご本家(原作)さまの24巻の発売を祝しまして
【いつもの二人】シリーズを今回はキリト視点でお届けしたいと思います。


パチパチ、と数回瞬きを繰り返して視界をクリアーにすると周囲の様子が霧が晴れたように鮮明になる。

今までに何百回も…もしくは何千回かもしれない、この感覚を経験している身としては何の問題も無いはずなのに、視覚が認識する周囲の景色からもたらされた驚きと混乱にオレは思わず「ぅぇっ!?」と小さな声を漏らしてしまった。

いつもなら《ALO》にログインしたオレの目に映る最初の景色は二十二層のログハウス内のリビングで……アスナと二人でもう一度あの家を購入した後、ログイン時の基本設定にしているからだ……それなのに今、オレの足は木製の床ではなく地面を踏みしめ、左右に首を振れば舗装すらされていない、いわゆる田舎道が延びていて、ついでに言うとNPCはもちろんプレイヤーらしき人影すら存在していない。けれど「ココハドコナンダ?」というお決まりの台詞を吐く前にオレは見覚えのある針葉樹を見つけて自分の現在位置を把握した。

ログハウスと同様に新生アインクラッドでも記憶通りに再生されている杉の木のような大木の根っこにはやはりうっすらとした細い道が分岐している。

やっぱり……ここはログハウスに通じる道だ。

自分の意識がデスゲームの世界に囚われて半年ほどが経った頃、まさかその一年半後に新婚生活を送ることになる家がこの先にあるなんて夢にも思わず、単に好奇心の赴くまま足を踏み入れた道の始まり。《ALO》に新生アインクラッドの二十二層が実装された後はログハウスに直接ログインするか、飛んで行くかだったから道の存在すら忘れかけていたが、この道もちゃんと復元されてたんだなぁ、と思うと様々な感情がわき上がる。

けれど、いくらオレが常日頃からアスナに「うっかりさん」だの「ぼんやりさん」と評されていても今の状況を「ま、いっか」ととらえる程脳みそ日向ぼっこ状態ではない。

この前アスナは『美味しそうなリンゴが売ってたの』と腕にかかえた何個かの真っ赤なリンゴを見せてくれて『何を作るんです?』とうずうずしているオレに得意気に笑い『リンゴ煮とカスタードソースを挟んだミルフィーユにしようかな?』と教えてくれたのだ。

《現実世界》ではもちろん、《こっちの世界》でもお菓子作りはかなり高度な料理スキルが求められる。

ミルフィーユの作り方など当然知らないオレだが出来上がりの繊細な感じから作業工程が大変なのは想像出来た。だから今日はアスナがそのミルフィーユを作ってくれる日で、オレは大変心待ちにしていたと言うのにログハウスにログイン出来ないなんてどこのゲームの神様の悪戯なのか、それともカーディナル・システムの気まぐれと言うべきか……。

とにかくこんな場所でのんびりしている余裕はない。

一刻も早くログハウスに向かわなくてはっ、とオレはロングコートは裾をはためかせ懐かしきその道を駆け出した。

 

 

 

 

 

道の周囲もあの頃のままで、あの二週間の間に何度かアスナと手を繋いで往復したなぁ、という感慨は視線の先に現れた見慣れない箱によって消し去られる。道脇の草むらに置かれているのは一点の曇りもないガラス製の大きな箱。蓋はないが壁面が周囲の景色や陽光を反射して中身が見えづらい。

しかしオレはその箱の中身よりもその周囲にうずくまっている数名の人影に気付き、走る速度を落とした。

この場所をアスナとの新婚生活の場に選んだのは強大なモンスターがポップせず、訪れるプレイヤーもほとんど居ないからだ。時折釣り師(フィッシャーマン)を見かけるものの、それは湖畔限定だし森に入ってくる木工細工師(ウッドクラフター)も一人か、多くて二、三人で行動しているのが常だ。それなのにガラスの箱の傍にいるのがNPCなのかプレイヤーなのかは判断ではないが少なくとも五人以上はいる。そいつらが全員ガラス箱を取り囲んで草むらの上に座り込み、中身を覗き込んでいるとわかったのはオレの足が既に駆け足から忍び足に変わった頃だった。

それでも隠蔽スキルを使用していたわけではないから静かに近づくオレの気配に気付いた一人が顔を上げる……と、オレもそいつの顔を見て、オレ達は同じような表情で互いに見つめ合い、そして互いの名前の二文字を口にした。

 

「佐々……」

「カズ……」

 

は?、なんで?、どうしてここに佐々井がいるんだ?

頭の中がハテナマークで埋め尽くされる。パニックを起こしている自覚はあるのにそれを当然と受け止めている自分もいて「ああ、そうか」と遅れて理解が追いついた。

帰還者学校の生徒は全員《SAO》のアカウントを持っている元プレイヤーなんだからクラインやエギルのようにそのままステータス移行によって《ALO》でも《現実世界》の容姿のキャラ設定が可能になる。ならここでは……

 

「コトハ…って呼ぶべきなのか?」

「うわーっ、なんか違和感しかないっ。えっ?、なに?、じゃあ俺も……キリト?」

 

なるほど、確かにもの凄い違和感だ。

《仮想世界》に限らず今や《現実世界》でもオレの事を「キリト」と呼ぶ人間の方が圧倒的に多いせいか……この名を一番口にしてくれる人物は両方の世界で同じ名前なので全く違和感がないのが今は心底羨ましい……逆に本名からの呼称でしかオレを呼んだ事の無い学校の友人からいきなり「キリト」と呼ばれるとどうにもむず痒さがこみ上げてくる。

 

「いや、出来たら今だけでも『カズ』呼びで……」

「うん、俺も『佐々』でいーわ……って、そんな事言ってる場合じゃなかったっ、カズっ、姫っ、姫がっっ」

 

姫?、佐々が姫と呼ぶ人物と言えばアスナしかいないわけで、再びガラスの箱の縁を両手で握りしめ、中を覗き込んでいる佐々につられるように、それこそこんな森の中では違和感しかない箱の中身に視線を移動させるとそこには……

 

「……アスナっ!?」

 

妙な既視感がオレを襲う。

規格外の美しさと真っ直ぐな清らかさを放ちながら静かに眠り続けている少女はアスナに間違いない。

眠っているとわかるのは白磁の肌にほんのりと色づいている頬、ふっくらと柔らかな唇に長い睫毛、光の加減によっては飴色にも見える栗色の髪が眩しいほど生命力を放っていて、純白の薄衣を纏っていてもわかる綺麗な曲線の胸元が規則正しい上下運動を繰り返しているからだ。

その光景が《現実世界》のあの病室で彼女の手を握る事しか出来ない無力さを味わい続けた記憶と重なって、息を呑む。

けれどその胸元から下に視線を流すと腹部に乗っているアスナの両手は血のように真っ赤なリンゴを握っていて、そこには一口囓った痕跡が残っている。

 

「リンゴ?」

 

途端にオレの思考は連想ゲームよろしく「リンゴのミルフィーユ」を思い浮かべるが、それを踏み倒す勢いで佐々が泣きわめいた。

 

「カズーっ、どうしようっっ。姫が俺達の知らない間に毒リンゴ食べちゃったよー」

「は?、毒リンゴ?……って事は、麻痺毒状態っなのか?。それならポーションを飲ませるか、ほっといても少し待てば回復するだろ?」

 

確かに麻痺状態で動けない間に危害を加えられる危険性は軽視できないが、だからってわざわざ棺みたいな箱に入れる必要はないと思うし、それよりも気になるのは佐々が言った「俺達の知らない間」という意味だ。

 

「大体お前、どうしてこの場所を知ってるんだよ。アスナに聞いたのか?」

 

佐々井と明日奈は学校でオレを通じて多少の交流はあるようだから二十二層のログハウスの存在を聞かされていても不思議はないのだが、それだったらアスナの性格上、オレに話すだろうし……何よりアスナが無警戒に麻痺毒のリンゴを食べてしまったというならオレこそが「知らない間に」と言っていい立場だろう。

だが、佐々はオレの質問にキョトンとした顔をしてから少し偉そうに胸を張った。

 

「ふふんっ、俺達七人はな、姫と一緒にこの森で暮らしてるのさっ」

「はあ?」

 

待て、待て、待て……ここでアスナと一緒に暮らしていたのはオレのはずで、それだってこの城からログアウト出来ない時の話で、それに七人って…………そう思って見れば佐々と同じように箱にしがみついている何人かに見覚えがあって、オレはその正体を確かめるべくゆっくりと口を開いた。

 

「佐々、お前達七人のメンバー構成って……」

「モチロン、姫のファンクラブ会員だっ」

「それで、アスナがお前達と暮らすようになったきっかけは?」

「なんかなー、姫ってば母親とケンカしてお城を飛び出てきたらしいんだ。そんで元々この森にいた俺達と出会ったんだよなー」

 

その答えでオレは一つの仮説に辿り着く。

 

「ちなみに、佐々、お前の誕生日は?」

「……そんなん教えられっかよー」

 

本物の佐々なら喜んでオレに誕生日を教えただろう。更に「何?、なんかくれんの?、何がいっかなぁ」くらいの事は言ってのけるヤツだ。それなのに自分の誕生日をはぐらかす意味は…………知らないのだ、自分の誕生日を……それは、オレが佐々の誕生日を知らないから。

要するに、ここは進行中のクエストの一場面であり、登場人物はオレの知識を投影したキャラ設定になっているらしい。当然、アスナも佐々もファンクラブの面々もオレの頭の中から引っ張り出された情報を元に出来上がっているただの幻影なのだ。

一体、いつ、何をきっかけに始まったのかは分からないが、このクエストの元ネタはだいたい想像がついた。

森の中で眠る「姫」とその周りでわちゃわちゃしている奴らが七人いるなら「白雪姫」……「姫」と言えばオレの中ではアスナ一択だし、アスナを「姫」と呼ぶ連中と言えば筆頭は佐々だから配役としては適任と言えよう。

だとすればガラスの棺の中のアスナを目覚めさせればクエスト終了か……と思った時、ふと、森の中で眠るのは「眠れる森の美女」もあったな、とかなり古い記憶が呼び起こされた。

小さい頃、母親に頼まれて留守番中のスグとその手の童話を何冊が読んだ思い出がある。

しかし、どちらも森の中で横たわっている「姫」という共通項以外オレの記憶力は定かではなく、蘇生方法の違いなんて全くわからない。ただ「リンゴ」が小道具として用いられるのは「白雪姫」だった……よな?、くらいの自信はある。

とりあえず深い眠りについている「お姫さま」を目覚めさせる方法が「解毒ポーションを飲ませる」でないことは確かだ。

物語の内容を思い出す気配すらないオレの焦りが移ったのか、佐々が痺れを切らしたように「あぁぁぅぅっ」と苛ついた声を上げた。

 

「俺達は早く森の奥に行かなきゃならないってのにっ」

 

どうやら佐々達は佐々達で他にやる事があるらしく、しきりにアスナとさっきまでオレが目指していた道の奥を交互に見比べている。

 

「森の奥に、何かあるのか?」

「オオカミがいるんだよ。真っ黒いヤツが一匹」

「オオカミ?……」

 

二十二層の森で大型獣の類いは見たことがなかったが、クエスト中ならポップするのかもしれない。アスナを目覚めさせる条件として、そのオオカミを倒す必要があるのだろうか?

でも「白雪姫」にオオカミなんて出てきたっけ?、と傾けた耳元に佐々は表情を険しくして顔を近づけてきた。

 

「実はな、カズ。この奥にある家にケープを被っている女の子がその黒いオオカミと一緒に住んでるんだ」

 

ケープ……ケープ……オレの知識や経験から言うなら「ケープ」と言えば「フーデッドケープ」なわけで、それを被っていた頃のアスナをオレはこっそり「《赤ずきんちゃん》時代」と呼んでいたのだが…………このクエストは「赤ずきんちゃん」も混じってるってわけか。

軽く溜め息混じりの息を吐きながらも、だけど待てよ?、と思う。「赤ずきんちゃん」では森の中の家に住んでいるのは彼女のおばあさんのはずだろう?。さすがにそのくらいの童話知識は持ち合わせている。

それなのに森の中で暮らしているのがケープを被っている少女となれば……それはアスナの可能性が高く、一緒に住んでる?、黒い?……あれ?

 

「オオカミと一緒に暮らすなんて、女の子がそのオオカミに食べられちゃうだろ?、でも姫もこのままにしておけないしっ。だから早く姫を起こさなきゃって、みんなで困ってたんだ」

「ちなみにこのお姫様を起こす方法は?」

「んーなのキスに決まってんだろ?、キスだよ、キッス!、唇にちゅっ、てすんだよっ……でもさ、姫にキスなんて、したいようなしちゃいけないような?、だからって誰かにどうぞ、って譲るのも悔しいしさ、結局俺達七人で誰が姫にキスするか、ずーっと決まんないんだけど、どうしたらいいと思う?、カズ」

「……誰もしなくていい。アスナとキスするのはオ…………」

 

 

 

 

 

「……トくん、キリトくんっ、キリトくんてば!……先に食べちゃうよ?」

 

少し拗ねたような呆れたような声はすっかり耳に馴染んだ口調で、その中に優しさを感じながらオレはゆっくりと瞼を押し上げた。

食べちゃう?……なにを?……それよりもアスナとキスって…………アスナにキスするのは…………

揺り椅子に身体を預けているオレの視界いっぱいに見えるのは鼻先が触れそうな距離にある大きな瑠璃色の瞳に真っ直ぐな鼻梁、そして僅かに突き出された艶やかな唇で、オレは何も考えず片手を持ち上げて彼女の後頭部に回し、その唇を引き寄せつつ自身も迎えに顎を上げれば「んッ!?」っと鼻にかかった吐息のような甘い声が耳を擽る。

よかった……誰にも先を越されなくて……これでアスナは眠りから目覚めて…………けれど睫毛さえ交差しそうな距離にあるアスナの瞳は既に目一杯見開かれていて、オレは「あれ?」と思いつつも抗いがたいその感触を貪り続けた。

佐々は「ちゅっ」とすればいいと言っていたが、瑞々しい弾力の心地よさにすぐには離れがたくなってしまう。アスナを知るまでは唇がこんなにも繊細に本能を揺さぶる感覚を拾う器官とは思いもよらなかった。

指先や手の平が彼女のきめ細やかさや柔らかさ、湿感、温もりを感じるのと同様に唇でも同じ快感を受け取れるとわかってからアスナと唇を重ねる頻度は増し、時間が長くなっている自覚はある。でもそれはオレだけの一方的な想いなんかじゃない事はアスナの反応からもわかっているので更に彼女を味わうべく舌先で唇のあわいを突こうとした時だ。抱き寄せていた手の力が知らないうちに緩んでいたらしい……すっ、と頭を引いてオレの腕の中から抜け出したアスナは、背筋をピンッと伸ばして腰に手を当てご立腹の体勢でオレを睨み付ける…………睨み付けてはいるが、その瞳はうるうると潤んでいるし、顔全体は真っ赤なので可愛いしかない。

 

「もうっ、いきなりどうしたの?!…ミルフィーユ、出来たから起こしたのにっ」

 

そうだった、リンゴのミルフィーユ……言われてようやく嗅覚を目覚めさせてみるが、今の今までアスナとほぼ密着状態だったから、彼女の残り香しかしない。

 

「うーん、ミルフィーユは食べたい。食べたいけど……」

 

幸にもこの世界の食べ物は耐久値が切れる寸前まで出来たて状態を保っていられるんだから……森の家に住んでいる《赤ずきんちゃん》は一緒に暮らしている《黒いオオカミ》に食べられちゃうらしいし……オレは勢いよく揺り椅子から立ち上がると《赤ずきんちゃん》ならぬアスナを抱き上げ「今はもっと食べたいものが」と呟いて奥の部屋へと運び込んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
森の中にはいろんな童話の登場人物達が隠れ住んで(?)いるわけです。
ウラ話は15日にまとめます。


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〈OS〉もう少しだけ

『劇場版オーディナルスケール』のその後(半月後くらいかな?)のお話です。


《ダイシーカフェ》の表扉にかかっている「準備中」の札を無効化するプレイヤーが《現実世界》には数人いる。

だから夜の営業開始時間にはまだ少しあるというのに、カラン、と扉が開くベルの音を聞いて顔を向けた店主であるエギルは驚きもせずカウンター内から気安く「おうっ」と彼なりの挨拶の言葉を投げた。しかし入り口に立っている人物は店主に挨拶を返すことなく、その扉を手で押さえたまま自分のすぐ後ろにいるもう一人を招き入れる。

 

「ほら、アスナ」

 

さらり、と長い栗色の髪を揺らして静かに店内へと入って来たアスナは少し儚げな微笑みで「こんにちは、お久しぶりです。エギルさん」とカウンターの中の店主に会釈をした。

確かに、例の新国立競技場で行われたユナのライブでの事件以来、エギルはアスナと現実でも仮想でも顔を合わせていない。事件後はゴールデンウィークという客商売にとっては繁忙期だった事もあり「アスナの傍にはキリトがいるんだから大丈夫だろ」と思っていた為と、二人と同じ学校に通う少女達から、そのゴールデンウィークを利用してキリトとアスナが泊まりがけで外出したと聞いたから体調面の心配はほぼ無用なのだろうと判断し、会わない事を特に不自然とも感じていなかったからだ。

しかしゴールデンウィークが明けて一週間以上が経ってもなおエギルはアスナの顔を見る事はなく、それどころかキリトさえ「しばらく、のんびりするから」と言って周囲のプレイヤーからのクエスト等の誘いを全て断っていた。それでも二人共メッセージを送れば返信は来るし、平日はちゃんと帰還者学校に通っているようだったので、大半の人間はあの事件の疲れが癒えればまた一緒にゲームの世界を楽しめるだろうと思っていたようだが、エギルだけは少し違う。

彼にはキリトはもちろんだが、アスナも《ALO》にダイブしていたはずだという確信があった。

なぜなら時折キリトが《新生アインクラッド》にあるエギルの故買屋を訪れていたからだ……それも「絶対、コイツが使うモンじゃないな」と断言できる「おつかいメモ」持参で。

とは言え「仲間」カテゴリーに分類されるスプリガンは「黒の剣士」だった頃から店の上客でもあり、彼らの事情を根掘り葉掘り聞くような無粋な真似を生粋の江戸っ子であるエギルがするはずもなく、ただ店を出て行くキリトの背に「なんかあったら言えよ」と声をかけるだけで静観を続けていた。

だから久々に見るアスナにエギルは知らず僅かな安堵の息を漏らし、準備中のこの時間に来たのがそこにいる黒髪の少年や、かしましいバンダナ青年だけだったら絶対に見せないであろう極上の笑みで「何か飲むか?」と自らオーダーを尋ねたのである。

 

「えっと……アイスコーヒーを……あっ、やっぱりジンジャーエールにしようかな?」

 

梅雨入りにはまだ幾分早い季節だが今日の気温は例年よりも高く、求める水分も冷たい物をと望むのは自然の流れだったし、他店では滅多にお目にかかれない辛口ジンジャーエールはアスナの密かなお気に入りだった。けれど選択に迷っている隙を突いてキリトが滑り込んでくる。

 

「ホットにしとけよ。それに出来るだけカフェインレスをって言われただろ」

「一杯くらい大丈夫よ」

 

アスナのオーダーに意見するキリトも珍しいが、二人の短いやり取りから察するに好ましくない行動をとろうとしているアスナを諫めるキリトという図式も更に珍しい。

二人の様子をカウンターごしに観察していたエギルは「おいおい」と戸惑い、ほんの少しだけ目を見開いた。

ただし、この二人に関しては「なんでコイツら、こんな感じになってるんだ?」と思ったのは一度や二度ではない。

あのデスゲームの世界で初めて会った時も二人は並んで立っていたが、第一層攻略後キリトが自らを「ビーター」と名乗った後も二人は行動を共にしていて、互いに怒ったり笑ったり恥ずかしがったりと見ているこっちが驚くほど自然に振る舞っている姿にもそう思った。

そして、そんな関係がずっと続くのかと楽観視していたところに「アスナとはコンビを解消したんだ」と聞かされ、その時のキリトの表情にも頭痛と共に同じ感想を浮かべた記憶がある。

加えて言えば数日後、同じようにアスナからも同様の言葉を聞かされ、やっぱり同じ感想で頭痛を覚えた。

どう見ても互いに不本意な決断だったと悔いているのが筒向けなのに、同時に他に選択肢はない決断だと信じきっていたからだ。

そして数ヶ月後、最強ギルドのサブリーダーという役職に就いたアスナと相変わらず最強ソロプレイヤーのキリトは攻略会議おいて衝突を繰り返し、常に「なんでコイツらは……」と思いながらエギルの眉間に皺をこしらえる原因となったのである。

しかし、何がきっかけだったのか再び二人の間に生ぬるい空気が漂い始め、ラグー・ラビットを仕留めてきた後のキリトがどう見ても自分から飛び込んで来たアスナまで仕留めた時は頭を抱えながら「いいから、店の二階を使え」と自分のねぐらまで提供してやったのだ。さすがに「こりゃあ時間の問題だな」とは思っていたが「結婚しました」のメッセージを受け取った時は「おいおい」を通り越して「おおっ」と思わず歓声がでた。

そして今、懐かしくも思い慣れた感想を再びエギルは胸に抱いている。

今度は何が原因なのか、どんな理由なのか、気にならないと言えば嘘になるが問いを口にする前にキリトからオーダーが入った。

 

「アスナには暖かいミルクココアで」

「そんなもんあるか」

 

カフェバーと称しているが比重としては圧倒的に「バー」の方が重いのだ。さすがにそこまでカフェメニューの品揃えはない。妥協案としてメニューの中で一番カフェインの低い飲み物を提示する。

 

「カフェオレでいいか?」

「ミルク多めな」

「わかった」

 

勝手にオーダーを決められてしまったアスナだったが、むぅっ、と口を尖らせるだけでそれ以上は何も言わず、いつものようにカウンター席へ向かいかけて、トトッ、と何かに躓いたようにバランスを崩す……が、予期していたように素早くキリトが彼女の腕を掴んだ。

 

「危なっかしいなぁ」

「……ありがと」

 

いつもなら嬉しげに細まるはしばみ色の瞳が今日ばかりは少し不本意そうにキリトから視線を逸らす。

キリトはそのまま一番近くのテーブル席のイスを引き、少々強引にアスナを座らせると自らも隣に腰を降ろし背筋を伸ばしてカウンターの方を見遣った。

 

「エギルっ、オレにはコーヒーっ」

「おう」

 

アスナにアイスコーヒーを断念させた手前自分だけがアイスを選ぶ事はないだろうと確認は取らなかったが勝手にホットと決めつける。

手際よく二人分の飲み物を用意し、少し離れたテーブル席まで運び終えるとエギルは再びカウンター内に落ち着き、高校生のカップルが訪れる前まで睨み付けていた鍋の中身の表面を確認しつつも、ふと視線を感じて顔を上げた。

無言で何かを言いたげな目のキリトにエギルは一拍考え込んだ後すまなさそうに片手をあげて詫びの言葉を飛ばす。

 

「悪いが、今ここを離れるわけにはいかなくてな。新メニューを考案してて鍋のアク取り中なんだ」

 

だがら俺のことはNPCとでも思ってくれ、と彼らの会話が誰にも知られる事はないと約束して先程アスナがカウンター席に来ようとしたのを阻止したのはそうゆう理由か、と納得しながら再び鍋の表面に集中し始める。

一方、テーブル席のアスナは温かなカフェオレを一口ゆっくり飲み込んで、ほぅっ、と息を吐いていた。

その様子を見ていたキリトは気遣うように「大丈夫か?」と彼女の顔色を覗う。

 

「うん。いちを今日の検査で定期検診は終わりって事で色々時間かかっちゃってゴメンね、キリトくん」

「オレはただ座って待ってただけだからいいけど」

「でも、待ちくたびれたでしょ?」

「そうでもないさ。倉橋先生からメディキュボイドについて色々と話も出来たし」

 

未だにアスナはその最先端の医療機器の名前を聞くと一瞬表情が強張るがキリトはそこには触れずに「今日の検査結果、出たらちゃんとユイに伝えとけよ」と愛娘の名を出した。

 

「ほんとに、ユイちゃんの心配性は誰に似ちゃったんだろうね?」

 

アスナが《SAO》でのアカウントデータを《ALO》に移行させた為に起こった《離脱現象》の一件以来、ユイは「ママ」と位置づけているアスナの体調を常に気にしている。キリトにしてみれば学校で目を擦りながら欠伸を連発すれば、すぐに「また体重落ちたでしょ。バランスよく食べてる?」と健康を気遣ってくるアスナだって立派な心配性だ。

しかしアスナにその自覚はないのか、今度は隣にある純黒の瞳の中に映る自分を探すように顔を近づけてくる。

 

「キリトくんだって……シノノンから聞いたよ。《オーディナルスケール》で順位を上げる為に随分無茶したって……」

 

途端にキリトの表情に気まずさが広がった。

ユイにはちゃんと箝口令を敷いたのだ。嘘や隠し事はNGだから「詳しく話すとアスナが心配するだろ?」と言って単純に「パパはとっても頑張って順位を上げた」という表現をお願いしておいた。

 

「他のプレイヤーとも衝突したって……」

「まぁ、オレの評判なんて今更だし」

 

自虐的に笑えば反対にアスナが泣き出しそうに顔をしかめたのでキリトは慌てて発言を訂正する。

 

「違うな……オレの評判なんかよりアスナの記憶の方が大切だから」

 

今思い返してみてもあの時の戦い方は酷いマナー違反だと言えるが、ああしなければアスナの記憶は取り戻せていなかったという思いは少しも揺らいでいない。

 

「それに、もう《オーグマー》で戦闘系のイベントに参加する気はないから、それで勘弁してもらうしかないさ」

 

元よりARよりVRの方が肌に合うと言っていたキリトだ、今回の事件が収束した後はそれまで通り《アミュスフィア》ばかりを装着しているし、《ALO》にもプレイヤーの数が少しずつではあるが戻ってきている。

アスナはあまり飲み慣れていないカフェオレを意外にも気に入ったようで、程よい温度の液体をこくこくと美味しそうに飲んでからカップをテーブルに戻し「それでね、キリトくん」とあらたまって両手を膝の上に重ねた。

 

「そろそろお昼のお弁当を再開したいんだけど」

「まだダメだ」

「どうして?、検診だって今日でおしまいなんだよ?」

「さっきも電車の中で寝そうになってたくせに」

「それはっ、横浜の病院の往復と検診で少し疲れたからでっ」

「アスナ……そりゃオレだってアスナの料理は食べたいさ、けど今は弁当を作る為の時間を睡眠にあてて欲しいんだ」

 

一方的にこちらの気持ちを押し込めようとするなら絶対に引かない覚悟だったアスナも、キリトも本心は手料理を欲していると打ち明けられてしまえば強気には出られない。いくら中身を簡単な物にするから、と食い下がってみても二人分の弁当作りを今の起床時間で用意するとなれば、前夜に仕込みを済ませるしかなく、結局睡眠時間を削るしかないのだ。

そもそもただでさえ平時より睡魔が襲ってくるし、担当医の倉橋先生からは脳のスパインの再生の為にも睡眠をより多くとるよう言われているのだからキリトの言い分が正しい事はアスナ自身が誰よりも理解していた。それでもやはりゴールデンウィークを挟んだとは言え一ヶ月近くもキリトにお弁当を作れないのはそろそろ我慢の限界にきている。せめて週に一回、と譲歩案を提示しようとしたアスナにキリトは更に深刻そうに眉を寄せた。

 

「それに……まだ、うなされてる時、あるぞ」

 

ぽそり、と付け加えられた言葉が決め手になったようで、アスナがしゅんっ、と項垂れる。

そうなのだ、旧SAOに囚われていた時もアスナの眠りは極端に浅かった。悪夢を見て目覚めてしまったり焦燥感から眠れなかったりで、いつも四時間ほどうつらうつらした時間を睡眠と呼んでいたのだが、不思議な事に黒の剣士が傍に居てくれる時はぐっすりと眠れたのである。

しかし、今回、事件に気付いた発端が旧SAOの記憶を徐々に消失していく夢だったせいか、記憶が戻った後も眠いはずなのに眠ると悪夢を見るという症状に悩まされていたアスナがとった行動が《ALO》にログインして森の家で眠る、という方法だった。

もちろん、この方法はもう一人のログハウスの所有者であるキリトにすぐにバレてしまい、このところ毎晩彼の腕の中で眠るという状況になっている。

アスナとしてはこの方法で随分と睡眠改善はされたものの、ごくたまにあの時に見たのと同じ夢を見ていた事をキリトに気付かれていたと知っては余計に自分の意見が通しづらくなってしまう。流石に夢の内容は余計心配を掛けるだけとわかっているので打ち明けていないが、お弁当の再開を説得する材料として、そろそろログハウスで寝なくても大丈夫だと伝えるつもりだったのに、それすら口に出来ない現状には「う゛う゛ぅっ」と諦めきれない呻き声しか絞り出せない。

一方、カウンター内でアク取りに専念しているエギルは聞くともなしに耳に入ってくる二人の会話から再び「おいおい」と内心で溜め息をついていた。

どうやらキリトはアスナが記憶の一部を無くした時から一緒に病院まで付き添っているらしい。

お前はアスナの親かっ、家族かっ、とツッコミたいところだがゲームであってゲームではない世界で結婚をした二人は既に世界の有り様など関係なく互いが伴侶という存在である事に何の疑問も抱かなくなっているに違いない。それを受け入れている倉橋とかいう医師も医師だが……と思いつつもエギルは自分の勘が正しかったことに微動の範囲で頷いた。

やっぱりコイツらログハウスで一緒にいたんだな……と確証を得た今では「おつかいメモ」に書かれていた植物の肥料や稀少なスパイス、滅多に出回らない染料などの使い手は自ずと分かってくる。多分、キリトが宣言した通り、あの二人は毎晩あのログハウスで思い思いにのんびりと過ごした後、揃って眠りに付いていたのだろう。

店に入ってきた時はいつもと違う滑らかさを欠いていた二人のやり取りにクエスチョンマークを浮かべたエギルだったが、アスナの事はキリトに、キリトの事はアスナに任せるに限る、と結論付け、結局行き着く先はいつもの通り「気を揉む必要はなかったな」に落ち着いた。それでも助けが必要だと言われればいつでも手を貸す心構えだけは整えておいて、エギルは鍋に蓋をして火を落とし「何かあれば奥にいるから呼んでくれ」と告げてその場から姿を消す。

いくら絆が強くともそこはまだ年若い二人だ、まだまだこれからも「なんでコイツら、こんな感じになってるんだ?」と首を傾げたり、いかつい顔面を引き攣らせる事態も起こるだろう、けれどエギルはこの二人と出会った当初からそれを迷惑とは全く思っていないのだから。

そして、そのエギルの退場を見届けたキリトはイスごと更に近づけて改めてアスナに向き合った。

医師からもより多くの睡眠を要請され、本人も昼間でさえ眠気と戦っている節がある体調では、とにかく素直にたっぷりと寝て欲しい……出来れば自分の目が届く場所で、というのがキリトの正直な気持ちだ。

学校で昼食を一緒に食べる時も待ち合わせの場所では、先に到着しているアスナがとろんっ、とふやけた目で無防備にキリトを待っているし、さっきの電車内でも欠伸を噛み殺す「っんぁ」という声はキリトだけでなく周囲の男性乗客達の本能にも揺さぶりを掛けていた。おまけに無自覚に庇護欲をかき立てられるどこかぼんやりとした佇まいはキリトがこれ見よがしにアスナの身体を支えていなかったら、車両の震動で少しでも不自然にその華奢な体躯が傾けばすぐさま救いの手と声が集中したことだろう。

だから《ALO》でも不特定多数の目に触れないようログハウスで過ごすようにしているのだが、確かに今日は横浜までの往復と検診後という疲れもあって、ふわんふわん感が盛大に駄々漏れていただけなのかもしれない、と思い直せばキリトの意思が少しだけ欲に負けて緩む。

もともとあの事件とは関係なくキリトと一緒ならゆっくり眠れるアスナなのだ。旧SAOの森の家で過ごした二週間の間はそりゃあもう二人で場所や時間も気にせずひっついて惰眠やあれやこれやを貪っていた。

そんなキリトのほんの少しの心境の変化に気付いたアスナは、説得の糸口を逃すまいとするようにテーブルの上にあった彼の指先をそっと掴まえて、自分の記憶と見比べる。いつの間にか繋ぐことが当たり前になっている彼の手は《仮想世界》で黒の指ぬきグローブをはめて生死を賭けた戦いをしていた頃とはやっぱり少し違っていて少年から青年に変わろうとしていた。けれどその違いに気づけるのもあの時の記憶があるお陰だ。

 

「あのね、私の部屋のカレンダーにキリトくんと星を観に行く約束の日にシルシをつけてあったんだけど……」

「……うん」

 

突然話し始めたアスナに手を握られているキリトは戸惑い顔で耳を傾ける。

 

「あの二年間の記憶がない時は、そのシルシを見る度に胸が苦しくてね」

「アスナ……」

「だって折角キリトくんが約束を叶えようとしてくれているのに、私自身が約束した事を覚えてないんだもの。それにラグー・ラビットのシチューも……その味を思い出せない自分がすごく悲しくて……」

 

昼食に作ったのがパスタだけだと知って驚いたアスナがキリトに求めた手料理のリクエストに、その時は冗談半分の軽い気持ちで答えた思い出の味だ。その後は思い返す余裕もなかったせいで何の配慮も出来なかったが、あの約束もアスナにとっては心の負担になっていたのだと知って今度は逆にキリトがアスナの両手を包み込む。しかしそれに応えるアスナの声は既に記憶と共にいつもの柔らかさを取り戻していた。

 

「だから……記憶が戻ってキリトくんが喜んでくれた味とかメニューを思い出したら、早く作りたくなっちゃって……」

 

なるほど、弁当の再開を切望していた理由はそれか、とアスナの自分への想いに思わず頬が緩んだキリトは照れくさそうに俯いている彼女へと更に距離を詰める。

 

「そうだな、アスナには美味い料理をたくさん作って貰ったし」

 

だったら弁当を再開した時の最初は何がいいかなぁ、と頭の中に食べたい物リストが表示された時、近づいていたからこそ聞き取れたか細い声が、すうっ、とキリトの耳に忍び込んでくる。

 

「それに……その……あのお家で過ごした二週間も色々思い出しちゃったから……」

 

一瞬の間が空いた後にキリトの脳内から料理のリストはきれいさっぱり消えていた。

 

「ああ、確かに……色々したもんな」

 

品行方正な優等生を自負していたアスナがアイデンティティを疑うほど濃い内容の二週間を一気に思い出したのなら、今、目の前で耳まで真っ赤になっている理由はだいたい想像がつく。

誰もいない《ダイシーカフェ》のフロアで、彼女の耳元まで唇を近づけたキリトは意味深めに声を潜めて低音で囁いた。

 

「アスナ、寝なくていいなら……寝かさないけど?」

「ええっ!?……それはっ、そのっ…………もうちょっと、待って欲しいって言うか……」

 

今更動揺する自分もどうかと思うがアスナはあくまでキリトにお弁当を作りたいのであって、そういう行為をお願いしているわけではないのだと、より一層赤みを増してしまった顔を隠そうとして両手をしっかり捕まえられている事に気づく。これではもう俯く以外方法がなくて肩をすくめながら上体を逸らそうとするが、がっちりと固定されてしまった両手のせいでほとんど身動きが取れない。

 

「寝なくても、大丈夫なんだろ?」

 

幾分からかいの色が混じっているようだが目を白黒させているアスナは「そうなんだけど、そうじゃなくて」と筋の通らない言葉を並べるのに精一杯だ。

キリトとしてもアスナの言いたい事は十分わかっているのだが、時折、自分の腕の中で顔を歪ませて悪夢にうなれされている彼女を知っているだけに情に流されて安易に「もう大丈夫かもな」という判断はくだせない。どうにかこの場を収めたいアスナのあたふたとした表情を楽しんだキリトはわざとらしく、うむうむ、と頷くと嘘くさい笑みを顔に貼り付けた。

 

「二人で暮らしたあの二週間の間も、夜更かしして出掛けたりしたよな。それこそ夜空を見に散歩したり」

 

キリトの台詞から顔の朱に羞恥とは別の感情を混ぜ合わせたアスナは、キッと涙目で睨み付ける。

 

「もうっ、からかったのねっ」

「一体何を思い出してたんだ?」

 

問われたところで到底アスナの口からは説明できない。それはキリトもわかって聞いているのだから、ぷうっ、と膨らんだ抗議の頬を見て、苦笑したまま彼女のおでこに自分のそれをくっつけて今度こそ素直な声を出す。

 

「な?、オレも我慢するから、アスナももう少しだけ我慢してくれ」

 

キリトの言う「もう少しの我慢」が何を指しているのか、確認したいようなしてはいけないような複雑な気持ちを抱えたまま、今度はアスナからも唇を寄せて甘くまろやかな声で「もう少しだけ、ね」と期待を持たせる言葉を返したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
懐かしいですねぇ。


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和人と明日奈の息子、和真が小学校四年生の時のお話です。


小学校の「相談室」というプレートの付いている、いわゆる多目的室に通された明日奈は一般教室で使用されている物よりは座り心地の良いイスに浅く腰掛け、スッと背筋を伸ばして口元だけ微笑みの形を作り、冷めた声で「息子がお世話になっております。四年生の桐ヶ谷和真の母です」と自己紹介を終えた後、一段声を低くして対面している校長に細剣から繰り出したような鋭い視線を突き刺した。

 

「納得出来る説明を求めます。なぜうちの和真くんのお友達のユウくんが反省文を提出しなくてはいけない事態になっているのかを」

 

薄く艶めいた桜色の唇から発せられた言葉の意味を理解しなくては、と思うのに本年度から校長という役職でこの小学校に着任した中年男性は向かい合っている保護者の姿に釘付けになっている。彼とて三十年以上公立小学校という生の教育現場で懸命に働いてきたのだから、それこそ何千人という保護者に対面してきた。管理職になった年齢を考えれば小学生の保護者で自分よりも年上の者は希で、だからこそ余裕のある態度で接する自信もついていたはずなのだ。けれど今、自分の目の前にいる女性ほど圧倒的な存在感を放つ人物にはお目にかかった事がない。

綺麗な身なりの保護者、と言うならここまでの驚きはなかっただろう。

今の時代、男女問わず育児や家事、仕事と多方面での役割を担うのが当たり前で、自分の外見や内面に気を抜かず常に向上意識持ち続けている人間はいる。

しかし結城和真の母親のそれは明らかに一般人とは一線を画していた。

まず、単純に「小学生の母親」と言われて信じる人間がどれほどいるのだろう?、という若々しさは立場がなければ「一体何歳の時に産んだんですか?」と聞きたくなってしまう。よく耳にする若い頃のスタイルや肌状態を今も維持している、というある意味での年月の経過は微塵も感じられず、素直にあり得ないレベルの年齢詐称というのが一番納得できる容姿だ。それなのに彼女からは積み重ねてきた時間以上の多種多様な経験と深い知識、華奢な身体に眠っているカリスマ性と神秘性が僅かににじみ出ていて、静かな憤りの光を内包しているはしばみ色の瞳と相まって、威圧感のような重くて固い壁が押し迫ってくるのとは違う、薄くて柔らかいのに決して歪まない膜が何層にも重なり広がっては自分の身体を通り抜けていくような感覚の享受に手一杯だった校長は再び明日奈の「校長先生?」という声で我を取り戻した。

 

「し、失礼しました」

 

来客の為に用意されたお茶だったが明日奈が手を付けるよりも先に自分の分をグイッ、と飲んで喉を潤した校長は声の調子を確認するように軽くコホッと咳払いをして「申し訳ありませんが」と改めて話の詳細を求め、今度こそ意識を彼女の言葉に集中させる。

 

「隣のクラスのユウくんが反省文の作成を担任の先生から言い渡された件についてです。うちの和真くんが三日前に一緒に下校をしたそうですが、それは無理矢理ではありません。本人の意思です」

 

その言葉に校長は少し考え込んだ。親から友人関係やそれにまつわる行動理由を問われれば、本人にとっては不本意だったとしてもその感情を素直に告げる子ばかりではない。そんな例はこの三十余年現場でいくらでも見て来た。

 

「そうはおっしゃりますが……」

「校長先生は御存知でしょうか?、ユウくんの通学路は途中までうちの和真くんと一緒なんです。低学年の時は同じクラスだったので下校後、一緒に遊んだりもする仲でした」

「はあ……」

 

確かに本年度赴任した校長としては前年度以前のクラス名簿までは把握していない。しかし夏休み前までは仲良しだった子達が夏休み明けにはそれぞれ他の子と仲良くするなど当たり前の話で、低学年の頃の友情が今も続いている確証はないだろう。

校長の薄い反応で心の内を察した明日奈だったが構わずに続きを話した。

 

「確かに今はクラスが違うので息子から一緒に下校したという話は最近聞いてませんが、だからこそ三日前はたまたま昇降口で顔を合わせて久しぶりに帰ろうという事になったんです」

「なるほど」

 

そこまで話を聞いていた校長はさっきから明日奈が口にしている「反省文」という言葉が何を指しているのかに気付いて少し背筋を伸ばし彼女の言葉ひとつひとつを吟味するように目を細める。

二日前、学年主任からその前日の夕方、地域の住民から学校に通報があったとの報告が上がっていたからだ。

通報があった日…つまり今から三日前は午後から学校を不在にしていたので急を要しない連絡事項は一昨日まとめて聞いたのだが、その内のひとつに我が校の男子児童の二人が通報者の家の前を歩いていたのだと言う。それだけなら何ら気になる光景ではないのだが、内ひとりがもうひとりの荷物を全て持たされていたというのだ。しかも二人はそのまま進行方向の途中にあるコンビニに入って行ったのだと。

荷物を持っていない男子はいつもその道を通っていたから通報者も顔だけは知っていたらしく、多分三、四年生くらいだと言うので、それを元に学校側は通報者の住所前を通学路にしている児童を調べた。結果、その道を通る児童は一人しか該当せず、それが明日奈のいうユウくんだったのだ。

早速、担任教諭がそのユウくんの家へと電話をしたが連絡が取れず、翌日は彼の母親から病欠願いが出て欠席だった後、昨日登校してきた彼に事実確認をした担任の対応が「反省文を書かせる」になったのだと昨日の放課後、校長は学年主任から報告を受けていた。

すると通報者が見た男子児童のうち、二人分の荷物を持っていたのが桐ヶ谷和真だったのだろう。

確かに数年前は息子と仲良しだったはずが今は荷物を持たされるような関係になってしまったというのは親としては受け入れがたい事実だと思うが、と校長は少し気の毒そうな目で明日奈を見る。

けれどやはりこんなケースは決して珍しい事ではなく、教師側としてはむしろ多人数の荷物を一人の児童が預かるようなケースでなかった事に安堵すらしたほどだ。

二人の間でどういったやり取りがあったのかまでは確認していないが、反省文という比較的軽い対応なら荷物に関しては巫山戯半分の可能性が高く、どちらかと言えば下校中にコンビニに立ち寄った事への反省を促していると考えられる。

 

「桐ヶ谷さん、御存知と思いますが下校途中の購買行為は校則で禁止となっているんです」

 

しかも通報者の言によればコンビニで買い物をしたのは和真で、ユウくんはコンビニの前で中身を確認するように袋の中を覗き込み、うんうん、と頷いていたそうだ。そこで荷物を持たされ、買い物まで要求されたと確信した通報者は急いで学校に連絡してきたのである。

こういった場合、大半は自分の息子を被害者と捉え、学校側の指導の至らなさや生徒同士の関係性を把握しきれていなかった点への謝罪や改善を求めてくる保護者が多いのだが、桐ヶ谷和真の母親は自分の息子の為はもちろん、何より加害者と認識してもおかしくないユウくんの為に学校までやって来ているのだから校長としてはどうにも違和感を感じる。

和真への対応は担任からの口頭注意で終わっているはずで、それに関しての異論はないのだろう。

明日奈の感情を的外れの物と見くびっているような、妙に穏やかに話す校長へそれでも明日奈は瞳の鋭さを鈍らせずに真っ直ぐに返した。

 

「コンビニに寄った事が校則違反なのは和真くんもユウくんも承知の上ですから担任の先生から注意を受けた事は息子も私も当然と思っています。それでも立ち寄った理由を校長先生は御存知でしょうか?、うちの和真くんが何を購入したのかを」

 

そう問い返されて校長は言葉に詰まり眉間に皺が寄る。

なぜならそこまで詳細には事態を把握していないからだ。二人分の学校の荷物を和真一人が持っていた事とコンビニに寄った事をユウくんが認め、和真が買った商品は全てユウくんが貰った事も分かったので、ユウくんの担任は彼を加害者的な立場とみなし、とりあえず校則違反のコンビニの件を含め友人との接し方についての反省文を求めたという事だったはずだ。

答えられない校長に対し明日奈の声に怒りの刃が潜む。

 

「三日前、うちの和真くんはユウくんと一緒に下校している時、彼の様子がおかしい事に気づきました。ユウくんの顔が真っ赤でおでこが熱くてびっくりしたそうです。きっとその日は学校でも体調は良くなかったと思いますが……」

 

ここで明日奈がスッと目を細め、言葉に重みをかけた。

 

「担任の先生はお気づきにならなかったんですね」

 

校長は背筋に一滴、氷水が垂らされたような冷たい感覚に思わず身を強張らせる。

 

「だから和真くんはユウくんの荷物を持ってあげたんです。そしてそのまま分かれ道で別れる事なく彼の荷物を持ったまま家まで送りました。その途中、ユウくんはお母さんと二人暮らしで、夜にならないとお母さんが帰ってこない事を知っていた息子はユウくんにスポーツドリンクなどが必要だと考えました。そこで校則違反だとわかっていながらコンビニに寄ったんです。他にも冷却ジェルシートやゼリーを購入したそうです」

 

明日奈の口から語られる未知の事実に徐々に校長の顔から余裕が消えていった。

この「相談室」で初めて相対した時に抱いた見惚れるような浮ついた気持ちはきれいさっぱり無くなっており額にじわり、と脂汗がにじみ出てくる。

 

「そう……でしたか…………」

 

絞り出した声は果たして目の前の女性に言葉として届いたかどうか、それすら自分の耳では判断できないくらい校長の脳内は問題が山積みになっていた。表面上の報告と地域住民からの声を頭から信用して子細には疑問を持たなかった彼の浅はかさは着任早々の大失態だ。さすがにここまで聞いた全部が明日奈の作り話と疑うほど愚鈍な頭脳でなかった事は幸いだろう。現にユウくんはその翌日学校を病欠しているのだし、和真が嘘を練り上げたとしても明日奈ならそれを簡単に見破るはずだ。

これでは桐ヶ谷和真の母親の目的である「納得出来る説明」など並べられる物はひとつもない……そう焦った校長は乾ききった喉を潤そうと持ち上げた湯飲み茶碗の軽さに自分の分のお茶などとっくに飲み干していた事に気づいてそのまま茶托に戻した。

しかし本来なら説明を求めてくるのはユウくんの母親の方なのではないか?、確かに勝手に被害者扱いされた和真にも不満はあると思うが校則違反の自覚はあるそうだし担任からの注意も素直に聞き入れているのなら、と考えていた校長の思考は再び明日奈の鋭利な声に射貫かれる。

 

「ユウくんのお母さんからはその夜連絡がきてお礼の言葉を何度もいただきました。ユウくんの容態は落ち着いていたようですがそれでも大事を取って翌日は学校を欠席させるとおっしゃっていたので私も和真くんも安心していたんです。ところが今日になって学校から帰ってきた息子がすぐに私に伝えに来ました。先日のコンビニでの買い物の件が自分は先生から注意を受けただけだったが、ユウくんの担任の先生は友達との付き合い方も含めて反省しなさい、と作文で提出するよう言ってきたと」

 

校長はもう俯いて痛む頭を押さえるしかなかった。

 

「当事者である児童からは一切説明をさせず薄っぺらい事実確認だけをして反省文を書かせるなんて……私にはどうしても…納得…出来ません……」

 

努めて平静を装っていもののついに堪えきれなくなったのか明日奈の柳眉が苦しそうに歪み言葉の語尾が震えている。

 

「和真くんが言うには……ユウくんは、先生に反抗して…それでお母さんに連絡がいくと……心配を掛けるから、と……」

 

要するに不本意でも反省文を書いて事を穏便に済ませたいという彼なりの母親への気遣いなのだ。ユウくんの想いが更に追い打ちとなり校長は顔を上げられないまま今後の対応について必死に考えを巡らせていた。

一方、明日奈の震えは声だけに留まらず膝の上に重ねられていた両手までもがいつの間にか固く握り合い細かく揺れ動いている。

明日奈は大人としての振るまいよりも自身の感情が膨れあがってくのを感じながら、キュッと唇を引き締め、校長に真っ直ぐ視線を注ぎ、校長は校長でそんな視線には一切気付かず、まずはユウくんとその母親に対し今回の問題をどう理解していくべきか話を組み立てるのに夢中で、結果「相談室」にはちぐはぐな静寂が流れていた。

取り敢えずは認識を共有する為にも当事者である二人の生徒のそれぞれの担任や学年主任に話をしなければ、と顔を上げた校長は明日奈にもう一度事の詳細をきちんと確認する旨を伝えようと口を開いたまま思わず固まった。なぜならそこにはプルプルと唇までも震わせて目の縁を朱に染め上げ、懸命に自分を睨み付けている…………それは頼りなげな顔があったからだ。

 

「え?……あの、桐ヶ谷さん?」

 

歳相応の落ち着きはどこへやら、校長の声が上ずり思わず腰を浮かせて「どうかしたんですか?」と片手が伸びそうになった時、ノックもなしにいきなりガラッ、と「相談室」の扉が開いた。

 

「明日奈っ」

 

突然乱入してきた男性は校長の存在など一瞥もくれず一直線に明日奈の元へと駆け寄る。と同時に自分の名を呼ぶ声に反応した明日奈が立ち上がって驚きという感情に顔も身体も支配されていると少々乱暴とも言える仕草で頭を抱き寄せられた。

自分の胸元に明日奈の顔を押し付けた和人は、ふぅっ、と息を吐いてから小さく「間に合ったようだな」と落としてからそのままの体勢で校長に向け何でも無いような声で「桐ヶ谷和真の父です」と身分を明かす。

いきなり入室してきた男性の後を追って来たのだろう、出入り口に立っている事務の女性に視線で問えば無言で頷いているし、和真の母親が何の抵抗も見せていないのだから身元に間違いはなさそうだと校長も挨拶を交わすべく立ち上がった。

けれど一言も発する暇すら与えてもらえず明日奈の頭部を抱えている手とは反対の手が、待ったをかけるように突き出され発言権を奪われる。

 

「事の次第は把握してます。言うべき事は妻が言ったと思うので速やかに対処にあたって下さい。それともなにか、まだ他にうちの妻に用件が?」

 

漆黒の瞳に一瞬、刃物のような鋭利な光が横切り校長は発言権どころか発言の自由さえ斬りふせられた。半強制的に操り人形よろしく首を横にふる校長へ和人は表情ひとつ変えずに次の指令を出す。

 

「オレ達の事はお構いなく。妻が落ち着いたら連れて帰りますから」

 

言い終わって扉に視線を移したのは早くここから立ち去れという意味なのだろう、と察し、校長は和人の胸元に顔を押し付け僅かに肩を震わせている明日奈に頭を下げた。

 

「わざわざ足をお運びいただき有り難うございました。今回の件、早急に詳細を確認し、ユウくんと親御さんには私から直接話をしたいと思います。もちろん学級担任にも適切な指導を行い、全教職員で問題点は共有しますので」

 

続けて和人に軽く会釈をした校長は駆け足に近い速度で扉まで移動し興味津々に室内を覗いていた事務員を急かして「相談室」から去って行ったのである。

丁寧にもパタンと扉が閉められたのを確認した和人は一気に肩の力を抜き、それから少し上がっていた息を整える為、深呼吸をしようとしてちょうど心臓の辺りにくっついている小さな頭を見た。苦しくない程度の力で押さえつけているから少し耳を澄ませば明日奈の「ひっく」としゃくり上げる声が漏れて聞こえてくる。この声さえ他者には聞かせたくなくて追い立てるように校長を退出させたのだ。当然明日奈の泣き顔など自分以外の誰にも目にさせるわけにはいかない。

深呼吸は諦めて頭部に触れていた手の力を抜き、そのままゆっくりと髪を撫でながら「明日奈」と呼びかければ見上げるようにして鼻を赤くした泣き顔が現れた。

 

「っう……だって……ユウくん、とっても……ふぇっ……良い子なのにっ……」

 

「そっか」と答えてから細い背中に手を回しポンポンと軽く叩くと今度は明日奈から和人の胸元へ頭をこすりつけてくる。すん、すん、というすすり泣きはまだ止まらないようだ。

取り敢えず背中を支え、明日奈の頭を褒めるように優しく撫でつけていた和人はふと遠い記憶を思い起こした。

明日奈の涙を初めて見たのは《SAO》の第五層フロアボス《フスクス・ザ・ヴェイカントコロッサス》という巨体ゴーレムを倒した後だ。フロアで二人きりになった時、彼女はキリトの為に静かに涙を流し続けた。

明日奈はいつだって自分の為ではなく、他者の為にその綺麗な涙で頬を濡らすのだ……だから和真には随分前に告げて置いたのである。何かあったら迷わず連絡しろ、と。

その時の和真はピンときていない様子だったが、今回は「よくやったと褒めてやらないとな」と息子の判断能力に満足げに頷いた。

今日はたまたま同僚の松浦の代わりに第一分室へ出向いていたのもラッキーだったのだ。ユイ経由で連絡が来て既に帰り支度を始めていた和人は挨拶もそこそこで分室を飛び出し、移動途中で事のあらましを聞いて真っ直ぐ和真の小学校へタクシーで乗り付けたのである。

とにかくあの校長に妻の泣き顔を見られずに済んでよかった、と安堵でもう一度「ふぅ」と細く息を吐けば只管触れ続けていた明日奈の頭がおずおずと動き、それに気付いた和人も手を止めて気遣うように首を傾げた。

 

「明日奈?」

「あ、ありがと、和人くん。来てくれて…………えっと…ユイちゃんが?」

「まあ直接的にはユイだけど、ユイに頼んだのは和真だよ」

 

携帯端末の向こうの息子の声は珍しくオロオロとして『お、お父さんっ、お母さんが、お母さんがね、小学校に行ってくるね、って』……なんでもその時の明日奈の笑顔が怒っているような泣いているような、今まで見た事の無い物だったらしく和真は一瞬で今が父親に連絡をする時だと直感したらしい。そこからはユイのフォローもあり明日奈の携帯端末の場所を目当てにここまで辿り着いたというわけだ。タクシーの中で和真からそれまでの経緯は理解したが、聞けば聞くほどこれは明日奈が感情を高ぶらせるだろうと確信した和人は彼女の瞳から涙が決壊する前に抱き寄せられた事に心から安堵し、未だ頬に残る光の筋に唇を寄せる。

和人からの刺激に反応して「ンっ」と小さくあがった涙声が妙に艶めかしい。

それにしても、校長も感じたようにいくら自分の息子が訴えたとしてもここまで理不尽さに憤るとは、いつまでも純粋な輝きを持つ明日奈へ和人が少し困ったように、でも優しく微笑む。

 

「そういうところ、本当に変わらないよなぁ」

 

もちろん変わってほしいわけではなく、むしろ変わらない強さが和人の好む明日奈らしさだ。

 

「だっ…だってぅ…………ふっ…ぅンっ……」

「涙、止まったな?」

「ん」

 

仕上げにそっと抱きしめ、いつもの明日奈へと戻る時間を二人で過ごす。

少し前まで窓の外から聞こえていた児童達の元気な声はすっかり消えていた。するとその静寂も手伝って冷静さを取り戻した明日奈が「あっ」と焦りを混ぜた声を上げる。

 

「芽衣ちゃん、大丈夫かな」

「ユイと和真が面倒見てるだろ。オムツの交換は和真も出来るし、作り置きしてある芽衣用のビスケットとゼリーがあれば問題ないさ」

 

離乳食が進んでいる芽衣の為に明日奈が手作りしている間食用のビスケットとゼリーは大のお気に入りで、食べる姿が可愛いくてつい与えすぎてしまうくらいだ。

 

「そうだ、明日奈。ゼリーと言えば和真がそのユウくんとゼリーを買った時の話、知ってるか?」

 

当然興味を持った明日奈が顔を上げて涙ではなく好奇心で瞳を輝かせ話を続きをねだる。

 

「うちだと誰かが熱を出した時、ババロアを用意するだろう?」

 

それは、こくり、の無言で頷いた彼女が決めた桐ヶ谷家のルールみたいな物だ。ただその理由はまだ十代の頃、明日奈が和人に作ったお弁当のデザートや和人が熱を出したと知って持参したお見舞いでゼリーやプリン、ババロアを手渡した時、彼の反応でパパロアが一番好感触だったからだが、当の本人は気付いてないらしい。

 

「それで和真もユウくんにババロアを、と思ったらしいんだけど生憎コンビニに置いて無くて、それでゼリーを買ったらしい」

「そうだったのね」

「その時、和真がうちではババロアを食べるんだ、とユウくんに教えたら、ユウくんはババロアを食べた事がないって……」

 

そこまで言えば察しの良い明日奈のことだ「わかるだろ?」という意図を込めて和人が笑えば、はしばみ色の瞳は更に輝きを増した。

 

「そんなのっ、お鍋いっぱい作ってあげるのにっ」

 

再びぷるぷると震えだしそうな細い身体を和人は笑いながらキュッ、と腕の中に閉じ込める。

 

「まぁ、それでも喜ぶだろうけど……和真ももうババロアなら作れるし、今度ユウくんを誘ってうちで二人に作らせたらどうだ?」

 

念の為明日奈が一緒にキッチンに入れば危ない事も失敗もないだろうと提案した和人はさっきとはまた違う古い記憶を掘り起こし、自分も友と懸命にチーズケーキを作った思い出を懐かしんだ。




お読みいただき、有り難うございました。
なぜ「ユウくん」なのか……それはキリトもアスナも
「ユ」から始まる大切な友がいるので、息子の
和真もそれに倣ってみました。
(よって名字も付けられず、漢字にもできず……)


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【「お気に入り」700件突破記念大大大大大大大感謝編】〈OS〉贈り合う準備

毎回のように書いていますが……もうないだろうと思っていた
キリ番感謝編でございますっ
やれ、めでたやっ!、やれ、うれしやっ!
今まで以上のお礼の言葉は語彙力弱め、少なめ、薄めの私にはないので
月並みではありますが…………「お気に入り」にポチっとしてくれた
700人の皆様、ふぉんとぉーっに、有り難うございます!!!!!
今回の「感謝編」、〈OS〉が付いていますが時間軸的には
『劇場版オーディナルスケール』本編前となります。



爪の形や指腹の柔らかさを味わうようにゆっくりとシーツの上にある自分の手に、違う人の手が這っている。

静けさを気遣うような接触に刺激され瞼を動かした明日奈は狭くぼやけた視界に自分が知らないうちに微睡んでいた事に気づいて、ふっ、と息を吐いた。

今、裸身のまま横たわっているこの場所は自室のベッドではないけれど、背中に密着している人からの温もりがあればここがどこだって不安は微塵も湧いてこない。吐息の分を補充する為にそっと吸い込んで、一緒に背後から自分を抱き込んでいる彼の香りも取り入れる。

甘い、とか清々しいとか、芳しいという表現では違う、すっかり慣れ親しんだ「彼の匂い」だ。それが素肌同士で触れ合っているせいでいつも以上に濃く己の内を満たす。

《現実世界》に帰還して二人は二度目の春を迎えた。

少し前に明日奈は大切な友の旅立ちを見送ったせいでどこか笑顔にも無理があり、心ここにあらずの時も少なくなかったから和人を含め周囲の人間達はそんな彼女をゆっくりと見守ってきた。そして表情に不自然さが薄れてきた頃、和人は以前から考えていた明日奈との約束を果たすべく、今度は和人の方がどこか迷うような表情でぎこちない言葉を口にしたのだ。

 

『えっと……星でも……観に、行か…ないか?』

 

きっと明日奈でなかったら彼が自分を元気づけようとしてくれている事や《SAO》に囚われていた時の約束を覚えてくれていた事にも気づかなかったかもしれない。そのお誘いに一も二もなく目一杯の笑顔で『うんっ』と即答してからの明日奈は逝ってしまった友への想いを抱きつつもそれまでどおりの彼女に戻っていったのである。

そして今、二人は桐ヶ谷家の和人の部屋にいた。

珍しく午前中で学校が終わり、そのまま明日奈は和人に連れられ電車で埼玉までやって来て彼がいつも通学で利用している駅近くで少し遅めの昼食を済ませた。それから誰も居ない桐ヶ谷家にお邪魔して二階の和人の部屋へと入り、『今日は時間、大丈夫なんだよな?』と聞かれた所までは覚えているが、はっきりと返事をした記憶はない。

そもそも平日の午後、桐ヶ谷家に人が居ることは滅多になく……午前中なら徹夜明けの翠が枕を抱きしめている場合もあるが、それでも昼には出社するのが常で、直葉が兄より早く下校する事も希だから和人は帰宅後、しばらく一人で過ごすのが日常だ。

明日奈もそれを知っていて来たのだから今更彼女の時間の余裕を聞いてくる意味はもはや確認でしかなく、行為の始まりへのきっかけにすぎない。

それまではどことなく明日奈が沈んでいたせいで和人もあえて濃厚な触れ合いは求めずにいたから、久しぶりに身も心も溶け合う時間は深く激しくて、明日奈は和人の全てを受け入れた後、どうやら軽く意識を飛ばしてしまったらしい。

目が覚めてみれば何も纏わないまま和人のベッドに横たわり、背面にはぴったり、と彼が肌をくっつけていて、シーツの上に無造作に置いてある自分の腕にも重なるように彼の腕が伸びている。けれどぼんやりとした視線の先にある自分の指先に触れている和人の手は何かの意図を持って動いているような気がして「ん?」と、明日奈はこっそり眉根を寄せた。それらかパチパチと目を瞬かせ視界を鮮明にして、改めて指に絡みついている自分のより少し大きな手を見つめる。

そうしていると「初めてこの手を意識したのはいつだったっけ?」とつい記憶を探ろうとして、けれどすぐに諦めた。

多分、意識するよりもずっと早く《向こうの世界》で彼が剣を握る度に、自分を導いてくれる度に、その手を見て自然とあるはずのない心臓を跳ねかせていたからだ。そして今では唯一、明日奈の全てに触れる事を許されている手でもある。

少し前まで彼女の柔肌をその手掌で堪能し、ふたつの蕾や敏感な花芽を指先で弄び、果てにはその内までも押し拓いて散々悪戯を仕掛けていた和人の手は、今はなぜか執拗という表現すら過剰ではないくらい明日奈の指に固執していた。

明日奈の中のハテナマークは増えるばかりだ。

眉間の皺をそのままに「んん??」とその手を見つめていると、特定の指が丹念に触れられている事に気づいて、ようやく一つの仮説が浮かんでくる。

しかしその仮説が正しいとしたら……多分いつまで経っても目的には達せないであろうし、普通に考えれば無意味な行動と言わざるを得ない。それでも明日奈には自分の指を見つめているだろう背後にある和人の真剣な顔を想像して「ホントに、もう」と自然、眉の角度は変わり口元には嬉しさの笑みが浮かぶのだ。

まさか明日奈の眉がハの字に下がり唇が小さな弧を描いているなどと思ってもいない和人の触れ方は彼女の眠りを妨げまいととても慎重で、それでもどこか戸惑っているようなたどたどしさが彼の心情を表している。いつの間にか背丈と同じように《仮想世界》での慣れ親しんだ黒のアバターより成長した手は無骨とまでは言わないがそれでも着実に青年のそれへと変化を遂げていて、張りのある弾力と少し太くなった関節など多分和人本人よりも明日奈の肌の方が如実に感じ取っているだろう。

そんな指の動きにずっと視線を注いでいた明日奈だったが「一体いつまで触り続けるつもりなのかしら???」と再びもこもことハテナマークが膨れ出す。

すると和人の方もようやくこのままでは問題は解決しないと悟ったのか、静かに彼女の指を開放して今度はその隣で自分の手をパッ、と広げてみせた。

それを見た瞬間、さすがの明日奈も目をぱちくりと瞬かせ、続いて噴き出しそうになる口元にキュッと力を込める。少しだけ両肩が震えてしまったが自分と明日奈の手を見比べる事に夢中の和人には気付かれなかったようだ。二、三度、手の甲と平をくるくる回転させて自分の指を観察しているらしいが、やっぱり納得のいく答えは得られなかったのかピタリ、と動きが止まる。

けれど自分の目の前に大きく広げられた手を見て今度は明日奈が何かに気付いたようにそれを凝視し始めた。

実は今、丁度和人への贈り物を探しているのだ。

一番の候補はバイクグローブなのである。

デザインは和人のカラーでもある黒がメインの物と決めているが、サイズを迷っていて、それでも出来るなら彼には打ち明けずに用意したいと考えていた。「だいたいでもいいからキリトくんの手の大きさを確かめられないかな」と明日奈はさっきまでの和人に負けず劣らずの真剣な眼差しでその手に見入っていたが、ただ見ているだけではどうにも判断がつかない。

だが、明日奈の唇がじれったさにむずむずしていると力尽きたように和人の手が明日奈の手の上にパタリ、と被さってきた。

どうやら寝ている(と思い込んでいる)指をいじったり自分の指と比べてみても無理だとようやく諦めがついたのだろう。

明日奈にとっては絶好のチャンスだ。

自分の手を基準に和人の手の幅や指の長さをそっと目算で計って記憶する。

サイズ選択の悩みが解決したスッキリ感で「うんうん」と満足していると「アスナ?」とすぐそばから吐息のような和人の声が空気を震わせた。位置を合わせる為にこそっ、と動かした手の動きで意識があるとバレてしまったようだ。こうなっては仕方ない、と潔く認めて肩をすくませ、クスッ、と笑い声で返事をした明日奈は首を捻って顔を和人の方へ向ける。

 

「サイズは7号かな」

 

和人もまた少し起き上がって覗き込むように彼女の顔を見つめつつ言われた言葉に「は?」と今は純朴な黒い瞳を見開くが、明日奈は微笑むばかりだ。そこで少ししてからようやく合点がいって「ああ」と軽く頷いた後、今までの自分の行為の意味がすっかり相手にバレていた事に気付いて、決まりが悪そうに視線を泳がせる。

それでも明日奈からの嬉しそうな笑顔はどこまでも付いて来て、居たたまれなくなった和人はボソリと白旗を揚げた。

 

「自分のサイズだって気にした事ないのに、アスナのなんて全然わかんなくてさ……」

「うん、普通はそうだと思うよ」

 

一般的に男子高校生が自分の指輪のサイズを把握している割合などかなり低いだろうし、たとえ自分のを知っていたとしても、見比べた程度で相手のサイズがわかるわけもなく、直接触れてみたところでやはり判断は難しいだろう。

二十二層の湖畔で《現実世界》に戻ったら今日と同じように一緒に星を観ようと約束した時、指輪を贈ると言った事を和人もちゃんと覚えていてくれた喜びで明日奈がふわり、と微笑むと、重なっていた和人の手が明日奈の手を包みその体温を分け与えた。

 

「……やっぱり女子は指輪のサイズとか、知ってるんだな……」

 

少し感心したように呟く和人に今度はスッ、と明日奈が視線を逸らす。こと明日奈の挙動に関しては目聡い和人が再び問いかけるように「明日奈?」と呼び、捕捉するように身を起こして彼女の手に僅かな体重をかけ、指を交互に絡ませてシーツに押し付けた。さっきまでは素色だった黒に艶が混じり始めている。

どうやら誤魔化せないと観念した明日奈は「ううっ」と唸ってから「あのね」と語り始めた。

 

「私も自分のサイズ、つい最近測ったの」

 

という事は薬指への指輪を用意する為にサイズを聞かれた事もないし、強請った事もないのだ。だったらなぜ最近になってそれを知る事となったのか……疑問が顔に現れていたのだろう、真上から落とされる追求の視線に耐えきれなくなった明日奈がぷいっ、と横を向きながら答えを口にした。

 

「……この前、星を観に行く日を決めた時……キリトくん、覚えててくれてるかな、って考えたら、知りたくなっちゃって……」

 

《仮想世界》では衣類や防具、服飾品の類いは装備すればフィットするので関係ないが《現実世界》ではそうはいかない。明日奈もまさに同じ問題に突き当たり、奇しくも先程解決したばかりだ。

さっきの和人と同じように出来れば明かしたくなかった胸の内を吐露した明日奈の頬は恥ずかしさですっかり美味しそうに色づいている。それを見てコクリ、と喉を鳴らした和人まもた自分からの贈り物に期待を膨らませたらしい明日奈の様子を想像して思わず相好を崩した。そして心の中で数年後、彼女と指輪を交換する未来を固く誓って上体を降ろす。

 

「時間、まだ大丈夫だろ?」

 

横を向いたままの明日奈の耳に和人の唇がかすった。

そして今日、二度目の同じ質問に彼女が答える声はやはり聞こえなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
そしてついに「感謝編」で投入してしまいました……「確信犯シリーズ」(苦笑)
苦手な方があまり多くないと良いのですが。
そして「劇場版」を観てない方もあまり多くないと良いのですが。
とりあえず男性陣のみなさん、目分量(?)で贈る指輪のサイズを決めるのは
やめておきましょう。
サイズが合ってない……を笑って許してくれるパートナーさんならOKですけど。




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言葉にして届けよう

帰還者学校に通っている頃のお話です。
雰囲気的には《現実世界》で同じ学校に通い始めて
半年以内くらいの感じで……。


放課後……一緒に帰る約束をしていた明日奈は急いで二人が待つ教室へと向かっていた。早足で目的の教室に近づき開いたままの扉に辿り着いて中を覗いたちょうどその時、明日奈に背を向けた位置で彼女を待っている和人と里香が並んで座っているのを見つけて、声を掛けようと口を開けばそれよりも先に和人の声が飛び込んできた。

 

「リズ…って可愛いよな」

 

えっ?……と一瞬で身体が凍り付く。

頭の中が真っ白になる、という表現があるが、今の明日奈の頭の中は白という色さえない虚無の空間だった。何もない空っぽの中を今聞いた和人の声だけがいつまでも残響となって消えずに彷徨っている。それをどう処理していいのかもわからないまま彼女は本能的に踵を返し、全速力でその場から逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

可愛い……ちょうど今日のお昼休みに明日奈は自分に対してではなく、その言葉を聞いていた。

和人と一緒にお弁当を食べる日ではなかったので自分の教室で里香やクラスメイトの女子達と机を囲んでいた時。

『それにしても随分思い切ったわね』と里香が告げた先はサンドイッチを食べていた女生徒で、先週末までは明日奈ほどではないけれど、それでも胸元近くまであったセミロングヘアが今はバッサリとショートヘアになっていた。更にゆるふわパーマをかけた彼女は頬で揺れている毛先をくるんっ、と指先で遊んでから『うんっ』と嬉しそうに頷いたのだ。

 

『彼に相談したら「ショートも似合うんじゃないかな」って言ってくれたから』

 

すぐさま彼女の隣から『で、その彼氏にはもう見せたの?』の質問が滑り込んでくる。

 

『すぐに端末の画面越しに見せたよー』

『そしたら?』

『へへっ…「うん、やっぱり短いのも可愛い」っだって』

『うほっ、彼氏、大学生だっけ?』

『はぁー、「可愛い」なんて普通に言えるのはやっぱり年上の余裕ってやつ?』

 

すると里香が『年上だから、とは限らないんじゃない?』と食べかけのおにぎりを左右に振った。

 

『年上だって言わないヤツは言わないし、年下だって言うヤツは言うでしょ』

『それもそっか』

 

妙に納得した雰囲気が流れて話題は次へと移っていったのである。

 

 

 

 

 

「はいっ、やり直しっ。なんなのキリト、その無表情はっ」

「……いや、そうは言っても」

「だいたい隣にいる私に『可愛い』って言うのに、何で前向いたまんまなのよっ、顔見てないじゃないのっ」

「わざわざ見なくても顔は知ってるし……」

「そういう問題じゃないっ」

 

明日奈を待つ間、今日の昼休みの話題を思い出した里香が和人にした質問がきっかけで始まった訓練は難航を極めていた。

里香が予想した通り「普段から明日奈の事『可愛い』とか『綺麗』とか言ってあげてるの?」という問いに和人は鳩が豆鉄砲を食ったみたいな表情で固まり、さらーっ、と視線を逸らしたのである。

里香は気付いていたのだ、髪を切った級友がその髪型を彼氏から褒められた事を打ち明けた時、ほんの一瞬親友の表情が沈んだ事を。そして放課後、運良く和人と二人だけになったので聞いてみれば案の定である。

そこで明日奈が教室に戻ってくるまでに私で練習しなさい、と自分に「可愛い」を言うよう強要してみれば、どう見てもどう聞いても及第点にはほど遠い結果だったのだ。

 

「面と向かって言うの、苦手なんだよ」

 

ほとほと弱り切った声で和人が後頭部を掻いているがここで手心を加えるような里香ではない。

 

「面と向かって言わなきゃ誰に言ってるのかわかんないでしょーがっ」

「だいたい明日奈だったら『可愛い』なんて散々言われ慣れてるし……」

「ちょっとキリト…今…『明日奈だったら』って言ったわね」

「あ……」

 

他意のない言葉だったのは明白だが、捉えようによっては明日奈と里香の違いを表現したようにも聞こえてしまう事実に後から気付いた和人は口を「あ」の形で凍らせたまま言い訳も見つからずに里香からの冷たい視線を受け続けた。

数秒間和人を睨んでいた里香だったがまるっきりの嘘でもない為「はーっ」と深く息を吐き出す事で和人の失言を流す。

 

「わかってるわよ私だって。明日奈と二人で出掛けると周囲の視線はあの子に吸い寄せられて、その後に小さく『可愛い』とか『綺麗』って呟かれるのはお決まりだもの」

「そうそう、オレと一緒の時もそんな感じだし」

「だからよっ」

「へ?!」

 

そんな簡単な事もわからないの?、と言わんばかりの顔がズイッ、と寄ってくる。

 

「アンタだって、あのデスゲームをクリアした英雄って言われた事、ない?」

 

里香の問いかけに、僅かに和人の全身が強張った。彼の事を皮肉めいた声で「英雄くん」と呼んだ男の所行は忘れたくても忘れられないが、それは里香のあずかり知らない事なのですぐに表情を緩め少々芝居がかった仕草で「うーん」と考え込む。

 

「まあ、本当に数回、なら……」

「でしょ?…例えばそれが偶然《ALO》で出会った元《SAO》プレイヤーに言われるのとアスナに言われるの、どう?、同じ?」

 

今度は考える時間は一秒も必要としなかった。すぐに「同じじゃない」と答えてから実際に呼ばれたあの時に思いを馳せる。

『きみは私のヒーロー』……自分はひとりじゃ何も成せない鍍金の勇者だと思い知らされた心さえ彼女からの言葉だけで前向きになれるのだからその重みは絶大だ。なるほど、と内心で頷いていたのがバレたのか、里香が「やっとわかったか」と言いたげに呆れ顔を寄越す。

 

「だーかーらー、アンタがこの手の言葉を言うのに苦手意識があるとか言ってる場合じゃないのよっ。別に毎日言えって言ってるんじゃないんだからっ、他の男にアスナを取られてもいいのっ!」

「うぇっ!?」

 

明日奈が他の男に言い寄られるのをある程度黙認しているのは彼女の心が簡単には揺らがないと信じているからで、「可愛い」や「綺麗だ」といったありきたりの賛辞にいたっては挨拶みたいなもんだろうと思っていた和人だったが、確かに里香の言い分も一理ある、と考え直してから「それでもなぁ」と、そっと溜め息をついた。

 

「やっぱり直接言うのはさ……」

 

徐々に声が小さくなっていく和人の態度に業を煮やした里香が野生の猛獣のようにグワッ、と噛みつかんばかりの大口を開けた時、同時に互いの携帯端末からメッセージの着信音が流れる。一転して、おや?、と互いに驚きと疑問の目を合わせてから取りだした端末画面を見た二人はこちらも同時に同じ単語を口にした。

 

「アスナからだ」

「アスナからだわ」

 

そこには母親からの急な呼び出しで一緒に帰れなくなった旨の同一文章がコピー送信されており、それを読んだ二人はまたもや顔を見合わせて数秒、先に後里香がなんとも気まずげな声を出した。

 

「っと……じゃ、駅まで一緒に帰る?」

「んー、悪いけど少しパソコンルームに寄ってくよ」

 

これ以上帰り道まで里香相手に褒め言葉の練習をさせられてはかなわないと思ったのか、はたまた里香と二人きりで駅までの道を歩くことに僅かな抵抗があったからなのかは分からないが、里香の方も和人の返事にどことなくホッとしたような顔になって「それじゃあ、また明日ね」と言って先にイスから立ち上がり鞄を手にする。

けれど一言釘を刺しておかないと気が済まなかったのか「わかってる?、今度アスナにちゃんと言うのよ」と人差し指でロックオンしてきた。それをまともに顔の正面で受けた和人は少し仰け反ったまま「うっ」と声を詰まらせ、両手をホールドアップした状態で「わ、わかった」と頷く。

手を振りながら教室を出て行く里香に和人も手を振り返しながら、それでもポツリと「苦手なんだけどなぁ」と苦笑いをしたのだった。

 

 

 

 

 

苦手なんだろうな、って思ってたのに…………和人と里香に一緒に帰れなくなったと連絡した明日奈は、教室から逃げ出した勢いのまま放課後も利用可能なライブラリーの個室でひっそりと溜め息をついていた。

いちを母の京子から呼び出しがあったのは嘘ではない。ただ、そのやり取りは既に昼休みの間に終わっていて、和人や里香と一緒に学校を出ても間に合う時間だったので明日奈としては予定通り二人と下校してから途中の駅で行き先を変えるつもりだったのだ。

けれど自分の居ない所で里香を「可愛い」と言った和人の声を聞いてしまった為、とてもではないがあの後平然と二人に接する自信がなかったからライブラリーに駆け込んでメールを打ったのである。

このまま帰ればもしかしたら一緒に帰る二人の姿を目撃してしまうかも、と考え、しばらくここで過ごそうと据え置きのPCをいじってはみたものの、以前から視聴してみたかった講義内容も画面から流れてくるだけで全く頭に入ってこなかった。

そのままBGMのように映像を再生し続けた明日奈だったが、ぼんやりと目に映していた画面がいつの間にかエンディングを迎えている事に気付いて時計を確認する。

もうライブラリーの利用時間も終わりの頃だ。まだ予定の場所に向かうには少し早いが他に校内で時間を潰せる場所も思いつかなかったので緩慢な動きで明日奈は昇降口に向かおうとどこか虚ろな目のまま廊下に出た。既に大半の生徒は下校した後だから不自然な様子の彼女を見とがめる者は誰もいない。オートパイロット状態のように単調に足を動かし続けているせいで校内のどこを歩いているのか認識しないまま明日奈の頭の中では少し前に見た二人の姿と和人の声が未だに再生を繰り返していた。

 

『リズって可愛いよな』

 

別におかしな点はどこにもない。明日奈だって自分の親友が可愛い事はとっくに知っているのだから。いつも明るく真っ直ぐで一生懸命で一途で頑張り屋さんの親友は自分なんかよりよっぽど強くて可愛くて眩しい存在だ。

だからもし親友の事をよく知らないまま「可愛くない」と評する人がいれば絶対腹が立つだろうし、むしろ「可愛い」と言われるなら、それは当然で嬉しいはずなのに……その気持ちがそれよりもっと大きくて重い感情に覆い隠されてしまっている心が苦しくて、その感情の正体がわからないまま、里香への「可愛い」を素直に受け入れられない自分に嫌悪感すら抱いて明日奈は無意識に顔をしかめた。

その時、通り過ぎようとしたどこかの教室の扉がガラッと開き、中から出てきた生徒が「おっと」と明日奈との追突を回避する。

 

「あれ?、アスナ」

 

いるはずのない人物、聞くはずのない声に彼女の足が止まり肩がビクリと跳ね上がった。一拍遅れてゆっくりと声の主へ振り向く。

 

「キ…キリトくん……帰ったんじゃ?」

 

なぜか「リズと一緒に」という言葉は声に出来なかった。

 

「それはこっちのセリフだろ……どうしたんだ?、顔色悪くないか?」

 

当たり前のように手を握られ、引き寄せられ、今、和人が出てきたばかりのパソコンルームに招き入れられる。有無を言わせない素早さで出入り口近くにあったイスへと座らされた明日奈は、自分の手を離さないまま目の前に片肘を突いて見上げてくる和人の顔を直視出来ず視線を逸らした。

そこで明日奈のいつもとは違う様子に気付いた和人は内心で首をひねりながら「アスナ?」と呼びかけてみるが、彼女は一向にこちらを見ようとはしない。怒らせてわざとツンッと逸らされる事はあるがこんな風に気まずげに避けられた経験のない和人の中でなぜか里香の言葉が浮かび上がった。

 

『他の男にアスナを取られてもいいの!』

 

ゴクリ、と唾を飲み込んで合わない視線のまま問いかける。

 

「一緒に帰れないってメールもらったけど……」

「う、うん」

「オレじゃなくて……誰か他のヤツと帰るつもりだった?」

「え!?」

 

予想もしていなかった質問に思わず明日奈が和人を見れば、そこにはしゅんっ、と項垂れたような弱々しい黒の瞳が上目遣いで答えを待っていた。

 

「違うの、そうじゃなくて……」

「オレと一緒に帰りたくなかったんだろ?」

 

明日奈は心の中でもう一度「そうじゃないのっ」と叫んだ。素直に言えば里香を「可愛い」と言っていた和人のそばで普通に振る舞える自信が無かったからだが、それを言ってしまうと故意ではないが立ち聞きしたことがバレてしまう。それにその後逃げ出した理由については明日奈の中でまだ気持ちの整理がついていないのでただ首をフルフルと横に振るしか出来なかった。

それを返答の拒否と捉えた和人が包んでいた明日奈の手を逃がさないとばかりに握りしめる。

 

「京子さんに呼ばれたんじゃなかったのか…」

「それは本当っ」

「それは?」

 

しまった、とばかりに手で口元をおさえようとしたが、そもそも和人に拘束されていて叶わない。

いつもなら適当に誤魔化そうとする和人の言動を諫めるのが明日奈の役目なのに、今は完全に立場が逆転していた。

苦しげに眉を歪めている明日奈を見つめている和人の表情もまた固く困惑に満ちている。そんな顔をさせたくなくて、明日奈はふぅっ、と小さく息を吐くと「ごめんね」とまずは謝罪の言葉を口にした。

 

「でも呼び出されたのは本当」

 

ちらり、とパソコンルームの時計に視線を移した明日奈を見て和人が少し慌てたように「えっ、それじゃあ…」と腰を浮かせようとすると、明日奈が「でも、まだ時間は大丈夫」と薄く微笑む。

 

「約束通りキリトくんやリズと一緒に帰っても時間はかなり余るはずだったから、途中でお茶でもして調整しようと思ってたし」

「なんだ、言ってくれればそのくらい付き合ったのに……」

「うん、ありがと」

 

でも、それはリズも誘って?……そんな不確定な未来にさえ怯えてしまう自分の情けなさに明日奈の瞳が潤んだ。それに気付いた和人が明日奈の不可解な反応に疑問を持つ。

 

「アスナ、何かあったのか?……オレには話せないこと?」

「そうじゃないんだけど、私もうまく説明できないって言うか……」

 

その言葉に和人はえっ!?、と目に焦りを滲ませた。明日奈はいつだって自分に対しては感情を偽りなく見せてくれたから、それが伝えられない言うことは自分にとって受け入れがたい内容なのか?!、と推測する。

明日奈が自分を避け、その理由がハッキリとは言えないと、どこかよそよそしささえ感じられるぎこちない態度で涙ぐんでいて……正直、和人は悪戯をしかけるのが好きだ。対象者は明日奈に限った事ではないが、特に明日奈に対してはその反応を見るのが大好きな自覚はある。

悔しそうに柔らかい頬を膨らませる姿も、怒って艶やかな唇を尖らせる姿も、驚いて綺麗なはしばみ色の瞳を丸くする姿も、恥ずかしさから目元を薄い朱に染める姿も、困って細い眉をハの字にする姿も、どれも全てが和人にとっては明日奈の可愛い仕草なのだ。それなのに、今は和人に言えない感情のせいで彼女の目には透明な膜が張って鮮やかなヘイゼル色をぼやかしている。

それでも彼女の涙はどこまでも美しくて、こんな時なのに和人は吸い寄せられるように顔を近づけ、それを拒むように顎を引いた明日奈の目から涙がこぼれ落ちると、頬を伝い落ちる前に唇で堰き止めた。

いつもと変わらない柔らかくて弾力のある感触を押し付けた唇で拾い、ついた彼女の涙を舌で舐めとる。けれどその涙の原因を知らされていない和人の心に歓喜は湧いてこなかった。それどころかこんな風に触れる権利が自分から他の誰かへと移ってしまう可能性に戦慄さえ覚えて正直な胸の内を吐露する。

 

「オレ……アスナが喜ぶような言葉とか思いつかなくて……」

 

突然何を言い出すのかと、少しキョトンとした目で明日奈が盗み見るようにそっと顔を向ければ、今度はすぐ目の前の和人の方が視線をそらしたままそれでもポツポツと言葉を紡いでいく。

 

「アスナが『可愛い』とか、そんなのオレにとっては今更だし……」

 

ぽわっ、と彼女の頬に赤みがさした事に気付かない和人はこっそり「怒った顔や泣いた顔が可愛いと思ってるなんて言わない方がいいよな」と内で区切りを付けた。中庭で昼食の待ち合わせをしてる時、気付かない間に観察されていた事を知ってむくれる顔が見たくて声をかけないでいるのだと知られたらお弁当を作って貰えなくなるかも、と頭の片隅で余計な心配までする。

それに明日奈が綺麗な事はその顔にとどまらず、それこそ全てを知り尽くしている和人が一番感じ入っている言葉で、例えばシーツの上に無造作に広がる髪の流線すら計算されたように美しいのだから他のヤツらのように単純に顔の造作だけで使ってはいけない言葉だ。

だからどんな言葉を伝えれば明日奈が嬉しいのかわからないし、そもそも面と向かって恋人を褒めるという行為自体が和人にとってはアインクラッド百層への壁より高い難題だ。そのくせ余計な事は口走ってしまうから、よく明日奈からもお小言を頂戴するわけだが…………「確かに、苦手とか言ってる場合じゃないか」と覚悟を決めたように和人が明日奈へと向き直る。

 

「それでも、オレはアスナの一番近くにいたいんだ」

 

それは一点の曇りもなく和人の心からの声と言葉で、それを受け止めた明日奈の瞳は和人から「可愛い」以上の言葉を貰えた事で大きく瞠目してからすぐに細まり緩いカーブで嬉しさを表した。

 

「うん、私だっていつもキリトくんの一番近くにいるからね」

 

同じ気持ちを返してくれた明日奈が今までの強張りを解いて、和人の大好きなふにゃり、とした笑顔を浮かべる。その笑顔を見られて和人も安心したのか、今度は答えを貰えるだろうか、と再び同じ疑問を口にした。

 

「それで…なんで一緒に帰れないって…」

「あっ、あのねっ」

 

そこは追求してほしくない明日奈が慌てて話題転換の口火を切る。

 

「クラスメイトの女の子が髪を切ったの。それで私も……」

 

伺うように和人を見た明日奈は「短いのも似合うかもな」くらいの言葉を軽く期待しただけでそれほど本気だったわけでもないのに、いきなり顔面に制服を押し付けられて「うぷっ」と声を詰まらせた。突然の事で目を白黒させたが、どうやら素早く立ち上がった和人に頭を抱え込まれたのだと理解した頃「いやだ」と短く低い声が直接響いてくる。

 

「……そりゃあ、アスナがどうしても切りたいなら仕方ないけど、迷ってるならオレはこのまま長いほうがいい」

 

デートの時、服装やアクセサリーに関しては積極的に感想を言わない和人が自分の髪型にここまで強い希望を持っていたとは思っていなくて、腕の中で少し苦しいのも我慢して「キ、リトくん……」と呼びかけたが、当の和人はそんな明日奈の声も聞こえていないのか、小さな頭を抱きしめたまま「まさか……」とだらしなく口を開いた。

 

「誰かに切った方が可愛い、とか言われたのか?」

 

さっきから言葉の端々に出てくる仮想人物は一体なんのかしら?、と首を傾げたいところだが、そこはがっちり和人にホールドされているので諦め、代わりに明日奈は開放された両手をそっと和人の背に回す。抱きしめ返すのかと思われたその手はすぐに高速でポフッ、ポフッ、と二回動いた……タップアウトだ。

急いで腕の力を弱めた和人の胸元から「ぱぅっ」と大きく息を吸い込む明日奈の顔が出てくる。

 

「悪い、アスナ。つい力が……」

「だ、だい、じょう…ぶ……だけど、なんでさっきから私がキリトくんより他の人を気にしているみたいに聞くの?」

 

ちょっぴり、むうぅっ、と唇を尖らせ不機顔で訴えると、それを見た和人がなぜか口元を手で押さえながら明後日の方向を見て、はぁっ、と悩ましげな息を吐き出した。それから「うう゛っ」と声の調子を整えつつ気持ちを落ち着かせ、小声で「こーゆーとこだよなぁ」とひとりごちる。

頭の上から落ちてきた小さな言葉が思わず出てしまった本音だと直感した明日奈は、自分の言い方が可愛くなくて落胆させたのだと思い和人の腕の中で俯いた。

きっとリズだったらもっと違う言葉を選ぶのだろう、とこちらも弱々しく本音がこぼれ落ちる。

 

「リズは……可愛いものね」

 

明日奈の声ならどんなに掠れていても拾う和人の耳がぴくり、と反応した。

 

「リズ?」

「うん、リズって……可愛いでしょ?」

 

あまり何度も言わせないで欲しい、と更に声を小さくして、ついでにおでこで和人の胸をぐりぐりと押してみる。なぜここにきてリズの名前が出てくるのかわからない和人だったが、それよりも明日奈からのマーキングのような仕草に今度は声にすら出来ず「勘弁してください」と彼女を落ち着かせるように背中をそっと撫でた。

 

「えっと…リズ?、リズが可愛いって話だったよな?」

 

ぐりぐりを止めた明日奈が無言の肯定でおでこを、うりっ、とこすりつけてくる。

 

「う゛っ……リ、リズな……うーん、全然知らない奴が『可愛くない』って言ってたら気分は悪いけど、オレ個人としては、もうリズはリズだし……」

 

どうやら和人の中では里香に「可愛い女の子」というタグは付いていないらしい。

すんなり「可愛い」を肯定して欲しかったのか、そうではなかったのかもよくわからない明日奈だったが困ったように眉根を寄せている和人の反応を見て、あれ?、と混乱する。今の和人の言い方も嘘偽りないものだと確信できるが、里香と教室で二人きりの時に告げていた「可愛いよな」もまた本心からの声だと断言できるからだ。

すると今度は和人の方から「可愛い、って言えばさ」と話をふってきた。

 

「さっき教室でアスナを待ってる時、リズからアスナに『可愛い』とか言ってるの?、って聞かれて……」

 

どうやら親友も昼食での会話で「可愛い」という単語が頭に引っかかっていたらしい、と理解した明日奈だったが、そこから自分と比べれば里香の方が可愛いと和人が思ったなら、と想像して思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られる。しかし抱きしめられている上に今度は頭上に和人が顎を乗せてきたせいで再び全く身動きがとれない状況に陥っていた。

 

「とりあえずリズに向かって『可愛い』って言う練習をさせられたんだけど、なかなか上手く言えなくて……」

 

そこで明日奈は驚きで固まる。

 

「リズが『私の笑顔とか、可愛いでしょうっ』ってもの凄い迫力で言うから、その場を乗り切る為にアスナがユイと遊んでる時やリズとお喋りしてる時の笑顔を思い出して……」

 

明日奈の心臓がどくんっ、と大きく跳ねた。

 

「だから『リズと一緒に笑ってる時のアスナって可愛いよな』って思いながら、『リズ…って可愛いよな』って……うわっ、アスナ!?」

 

今度こそ、きゅぅぅっ、と明日奈にしがみつかれ頬をすりすりと寄せられた和人は一瞬慌てふためいたものの「もうこれはオレのせいじゃないな」とどこか達観したように遠い目になった後、自分が思う彼女の「可愛い」を引き出すべく明日奈が母親との待ち合わせに間に合う時間までパソコンルームに閉じ込めたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
結局二人共、ずばっ、とストレートには告げていないですね。
タイトルの「言葉にして届けよう」は、何とかして言わせようと
頑張った私(筆者)が二人に言いたかった言葉です(苦笑)


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想い、想われ……

和人と明日奈が帰還者学校に通っている頃のデート話(?)です。


週末を挟んだ四連休と言う事で東京から電車を乗り継ぎ一時間ちょっと。少し足を伸ばし初めて降りた駅から手を繋いで、初めて訪れた街中を二人で歩く。「なんだか新しい階層に一番乗りした気分だよ」と隣で笑う明日奈の言葉に和人が苦笑いで答えたのは同じ感想を抱いていたからなのか……とは言えここで生活をしているのは《仮想世界》のNPCではなくて《現実世界》の人間達なのだが、見た事のない景色と見ず知らずの人達という点ではあまり違いはないのかもしれない。

駅前から続く商店街は土産物を扱う店より地元の住民が日常的に利用する類の店の方が多くて、もしここで暮らしていたらあちこちの店に立ち寄って買い物をしたりそこの店主と顔なじみになったりと、その行為は都心のデパートで全ての買い物を済ませるのが当たり前の明日奈にとってはより《向こうの世界》に近い感覚だろう。

 

「街並みも綺麗ね」

 

キョロキョロと観光しながらの明日奈が言うとおり、建ち並ぶ商店の中には歴史を感じさせる店構えも多いが、かといって古く寂れた印象はなく、長い年月で培ってきた趣のある落ち着いた佇まいである。

既に商店街を歩くだけでちょっとした観光になったわけだが、今日の目的はこの先にある水族館だ。

連休突入直前、ふとした会話がきっかけで「水族館…行ったことないの」と何とも言えない表情で笑う明日奈はすぐに「博物館や美術館はあっちこっち行ったよ」と捕捉してきたので、和人は「それって国内の?」と浮かんだ疑問をギュウッと元の場所に押し込んで「じゃあ、どこか行ってみるか?」と誘いの言葉に変換したのだった。

都内のいわゆる「デートにオオスメ!」的な水族館を選ばなかったのはせっかく時間はたっぷりあるわけだし、日帰り小旅行気分を味わいたかったからと、和人には理由がもうひとつある。それは出来るだけ人目を気にしたくなかったのだ。

かつて、まだアスナが赤と白を基調とした騎士装を身に纏いキリトに対してもツンツンプリプリしていた頃、ひょんな事からキリトにゴハンを奢る事になった時、NPCレストランへ向かう間も店内を移動する間も彼女には数え切れない程の視線が集中していた。その時は「大変だなぁ」と他人事気分だったキリトも今やその少女は自分の恋人なのである。しかも無自覚に愛らしい笑顔を振りまくというオマケ付きだ。きっと知名度が高くて入場客の多い水族館に連れて行こうものなら明日奈の周囲にいる男性客(ヤロー共)全員に和人は「魚を見ろっ」と声を飛ばしたくなるだろう。

だから駅前の商店街同様にちょっと古いが地元住民によって支えられているこぢんまりとした水族館にやって来たというわけだ。ただ明日奈にとって初めの水族館がここでいいのか?、というほんの少しの申し訳なさは抱いていた和人だったが、到着して手作り感満載の入場ゲートを見た時の明日奈は「かわいいっ」とはしばみ色を輝かせて、「初めての水族館がキリトくんと一緒で、それにこんなに心のこもった素敵な場所だなんて」と繋いでいた手をきゅっと握ったのだった。

 

 

 

 

 

それから昼食を挟んで数時間後、明日奈と一緒に水族館を楽しんだ和人は一人で館内の壁に寄りかかり案内パンフを見ながら「だいたい全部観たなぁ」と呟いていた。もともとそれほど広くない水族館だ。予想通り混み具合もそれ程ではなかったからのんびり移動しながらゆっくり一つ一つの水槽を眺める事ができた。知識欲旺盛な明日奈は丁寧にそれぞれの解説を読み、実物と比較して終始楽しそうに水槽を覗き込み、時には中の生物に喋りかけて……和人としてはアクリルガラスの向こう側の生き物達よりそんな明日奈の姿を眺めている時間の方が長かったかもしれない。

今後の予定は決めておらず、さて、これからどうしようか?、とパンフレットをポケットに突っ込んだ和人が周囲を見回した時……「え!?、カズ??」と聞き慣れた声が耳に届いて顔を向ければ、そこには大きく目と口を開いた佐々井が立っていた。

 

「佐々、なんでっ?!」

 

不特定多数の男達からの視線を避けるべくわざわざ地方の小規模水族館を選んだと言うのに、よりによって同じ学校の友人に出くわすなんてどんな確率なのか、と神様の悪戯に文句を言いいたい気分の和人だったが、方や佐々井の方は喜色満面の笑みで小走りに近寄ってくる。

 

「まさかここで会うとはなー」

「それはお互い様だろ」

「俺はさ、中学ん時の担任が定年退職してこの近くに隠居したって聞いたから会いにきたんだ。で、帰る途中で水族館見つけて寄ったんだけど……」

 

普段の佐々井からは想像できないくらい義理堅い理由に意外だ、という意味を込めて「へえぇ」と返せば、それこそ意外に軽く照れた顔で「俺が昏睡状態の時も定期的に病院まで見舞いに来てくれた先生なんだよ」と打ち明けてきた。

 

「定年前、最後に担任したクラスで俺だけちゃんと卒業できなかったの、気にしてたって聞いたから」

 

それを言うなら今、帰還者学校に通っている生徒達は全員元の学校を卒業しないまま新たな学校生活を送っているわけだが……約二年前、中学生ないし高校生の若者達が《SAO》というデスゲームに囚われてしまった時、彼らが病院に収容された時点で学校側はその生徒を長欠扱いにした。残念なことにゲームクリア前に《SAO》から離脱した者は《現実世界》への生還は叶わなかった為、昏睡状態が一年を過ぎた頃には保護者の方も復学を考える気持ちは次第に小さくなっていったのだと言う。結局その後、sao生還者(サバイバー)と呼ばれた内の十代の子達は無事に虜囚の身から解放されたとは言え二年の年月経過は学年によっては級友達が元の学校から既に卒業しているケースもあり、それでなくても《現実世界》に適応するのに必死で母校の様子など過去を気にする余裕のある者は少なかっただろう。

ならば連休を利用してわざわざかつてのクラス担任を訪ねるなど普段のおちゃらけた言動の多い佐々井からは考えられない優等生ぶりだが、本人は認めたがらないものの実は周囲の小さな変化も当たり前のように気付く目聡くて優しい性格だと理解している和人としては理由さえ知ってしまえばそれ程イメージからかけ離れた行動ではない。

 

「ってことは後ろにいるのは中学ん時の?」

 

佐々井の少し後ろからこちらを覗くように身を傾けている少女がいて、ジッと警戒心を露わに見つめてくる様子は人慣れしていない仔ネコのようだ。

 

「藤緒(ふじお)、こっち来て挨拶しろよ。お前も知ってるヤツだから」

 

は?!、と和人が佐々井の言葉の意味を問おうと声を出す前に、緩いウェーブのかかった髪を器用に編み込んでいる少女が少し緊張した面持ちで佐々井の隣に並んだ。

 

「えっと…佐々の幼馴染みで中学まで一緒だった那須野藤緒(なすのふじお)よ」

 

あちこちにレースがあしらわれた薄いオレンジ色のチェニックシャツの袖口からは色白の細腕が、シャツの裾とほぼ重なっているチェック柄のミニスカートから下はこれまたほっそりとした足が伸びていて、佐々井の同級と言うなら和人とも同い年のはずだが一見すると珪子のクラスメイトと言われても不思議ではないくらい細身な少女が細い声で名を口にする。

そしてつい無遠慮にジロジロと和人が眺めてしまったせいか、やっぱり警戒心の抜けない視線で軽く睨んできた。

 

「ごめんな、カズ。こいつもの凄い人見知りさんだから。おまけに今、片割れがいないんで……」

「佐々、余計なこと言わなくていい。それで?、この人が佐々が今通ってる学校のクラスメイトなの?」

「そ。桐ヶ谷和人。俺や久里と同じクラスで同じ『ネト研』仲間さ」

「ども、桐ヶ谷です」

 

とりあえず自らも名乗って自己紹介を終わらせようとする和人の顔を那須野藤緒は更にジィィッと睨み付けてくる。

 

「みっちゃんと同じクラスの桐ヶ谷、カズ…トって……あっ、もしかして『姫ちゃん』て呼んでる子の!?」

「俺は認めたくないんだけどねー。なんか姫の彼氏っぽい生き物らしい」

「なんでお前に認めてもらわなきゃならないんだ」

 

更に言えば「彼氏っぽい」「生き物らしい」とはあまりにも不確定要素が多すぎる。佐々井のは言い方ではっきり冗談と分かるし普段の交友もあって笑って受け流せるが、明日奈信者の中には本当に和人を彼氏と認めない者もいて、まぁ、その辺は「アスナがオレを恋人って認めてくれてればいいんだし」と割り切っている和人である。

しかし和人が明日奈の恋人と知った途端、藤緒は今までの消極的な態度から一転して佐々井よりも前に出てしげしげと初対面の相手を観察し始めた。

 

「へぇぇ、この人が……みっちゃんの言ってた……そっかぁ」

 

少し下の角度から見上げるようにして和人の前身を眺める様はまるで敵か味方かを匂いで判断しようとしている野生動物のようで、その意図を図りかねている和人は思わず身体を仰け反らせる。

なんとなく言葉による意思の疎通が難しそうな相手だと判断した和人は佐々井に視線で救援要請を請うが、頼りの佐々井は諦めたように溜め息を吐き、頭を横に振っていた。

するといつの間にかかなりの至近距離にまで近づいていた藤緒が挑戦的な目で「ねぇ」と話しかけてくる。

 

「君の彼女、美人なんでしょ?」

「え?」

 

聞き返したのは明日奈が美人かどうかを迷ったからではなく、いきなりの質問内容に驚いたからだが、和人が肯定を提示する前に後ろから佐々井が冷静に返答した。

 

「藤緒、姫はただの美人じゃなくて、もっのすごい美人だから」

 

その答えに振り返りもせず「ふーん」と唇を尖らせた藤緒はすぐに自信たっぷりの笑顔に転じる。

 

「私も結構可愛い方だと思うんだけど?、どう?」

 

どう?、と聞かれ、今日初めて会った友人の幼馴染みに向かって否を唱えるのはNGな事くらいの社交性は持ち合わせている和人は客観的に見ても少し強気な仔猫といった感じの少女の顔は可愛いと言えるだろう、と自分の好みはさておきコクコクと頷いた。

すると少し満足したように目を細めた藤緒が次の質問をぶつけてくる。

 

「ああ、あと、頭も良いんだっけ?、その彼女」

 

なぜ会ったこともないはずの明日奈と張り合うような質問ばかりしてくるのかは理解出来ないが、今度は佐々井が答える前に和人が「ああ」と認めたものの捕捉とばかりにやはり後方から声が飛んできた。

 

「単純な学力でも全国模試で常に上位に入ってるからな、姫は。知識は豊富だし回転は速いし察しも良いし向かうところ敵なしって感じだよなー」

 

自分が「ああ」で済ませてしまった明日奈の優秀さが佐々井の口にかかると本当に桁外れなレベルなのがよくわかるなぁ、と素直に感心している和人の目の前で藤緒が憮然とした面持ちに急変する。

 

「あっそ。でも私だって校内の学力テスト順位なら全科目上位に入ってるし」

「相変わらず負けず嫌いの性格は変わってないんだなぁ。あの進学校で上位なんてすげーけど、ちなみに貴雄(たかお)は?」

 

何かを刺激されたように、ぱっ、と藤緒は佐々井に振り返り、焦りとも怒りともとれる声を突き刺した。

 

「あいつは更に上位よっ。佐々、あんた知ってて聞いてない?!」

「ガッコー違うんだから知ってるわけないだろー。でも貴雄って昔っから全然勉強してるように見えないのに成績良いよなぁ」

「ホントにねっ」

「あいつ、一体いつ勉強してるんだ?、って聞いても藤緒はいつも『わかんない』だしなっ」

「同じ家に住んでたってわかんない事もあるのっ」

 

ポンポンと言い合っている二人の会話で聞き捨てならない部分があって、和人が自然と頭の角度を斜めに変えた時、佐々井の後ろから「お前ら、何してんの?」と線の細い少年がやってくる。

 

「おー、貴雄、おかえり。トイレ、混んでたのか?、こいつさ、偶然ここで会った俺の今の学校の友達。藤緒に紹介してたんだ」

 

紹介?……どっちかって言うと問い詰められてた感じなんだけど、という感想が顔に出ていたのか、苦笑いの和人と彼の目の前にいる藤緒のあまりにも近い距離感に佐々井よりもずっと真面目な性格なのだろう、表情を歪めた貴雄は「藤緒」と少しの呆れを含ませて彼女の肩に手を置き、数歩後退させた。

 

「お前はまた後先考えずに……佐々もちゃんと藤緒を止めてくれよ」

「俺の言うことなんか聞かないって」

「ホントに満重(みつしげ)がいないとお前達は……」

「それは違うぞ貴雄、そもそもここに久里(くり)がいればこんな事態にはなってない」

「とにかく…………藤緒がご迷惑を…えっと…」

 

和人に謝罪をしたものの名前がわからずに戸惑う貴雄が問うように瞳を泳がせたので、すかさず佐々井が「和人だよ。桐ヶ谷和人」と二回目になる名の披露をする。

それを噛み砕くように「桐ヶ谷くんね」と認識した後、「あ、もしかして、君、満重とも友達?」と問いかけてきた。しかし聞き覚えのない「満重」と言う重々しい名前に和人が再び頭を傾けそうになった時、ここでのハブ的存在の佐々井がガシガシと頭を雑に掻いて「あ゛ーっ」と叫んだ。

 

「情報が錯綜して収拾がつかなくなってきてるっ。まずは基礎知識を共有するぞっ……カズ、こいつらは二人共俺の幼馴染みで中学まで一緒の友達。でもってよく見て貰えれば気付くだろうけど双子の姉と弟」

 

教えてもらって「そうか」と、なんとなく胸の奥底で漂っていたもやもやが霧散した。性別が違っていたせいですぐに分からなかったが二人が並んでいると確かに雰囲気と言うか根っこの部分で共通している何かがあるように思える。後から登場した少年は藤緒の弟とは言え歳は同じだから和人とも同い年なのに骨格は双子として似てしまうものなのか、和人が親近感を覚えるほどに細身で、身長も和人より低い。

 

「那須野貴雄(なすのたかお)だよ。本当にごめん、藤緒が失礼な態度をとっただろ?」

「桐ヶ谷和人だ。大丈夫さ。少し驚いたけど…」

「藤緒は満重も一緒に来られるはずだったのがドタキャンになって機嫌が悪いんだ。これでも普段はもうちょっと落ち着きがあるんだけど」

 

「身内贔屓かな?」と小さく笑う貴雄に佐々が「藤緒に落ち着きなんてどこ探せば出てくるんだよ」と言った後、すぐに「二人ともっ」と完全にお怒りモードの藤緒が目を吊り上げている。

 

「なんだよー、藤緒がいきなりカズに噛みついたのが悪いんだろ」

「やっぱり俺がトイレに行っている間に……」

「うん、そうだな、貴雄がトイレから帰ってくるのが遅かったせいだな」

「だって混んでたんだよ」

 

男性トイレが混んでるなら女性トイレはもっとだろうと予想して和人はさっきから会話の端々に出てくる覚えのない名前の正体を聞き、早々に開放してもらおう、と自ら話しかけた。

 

「満重(みつしげ)って誰なんだ?」

 

そして最初に佐々井が藤緒に対して和人の事を「知っているヤツ」と言った事とも関係しているのだろうか?、と思いつつ素直に出した疑問に、それを聞いた三人が一斉に「え?」と言った面持ちで固まる。

 

「カズ……お前、それマジで言ってる?、いや言ってるな、これは……うーん、そっかー、アイツのこと『みっちゃん』とか『満重』って呼ぶの、今の学校にいないもんなぁ」

「もったいぶらずに教えろ」

 

そしてお前達は早くどっかに行ってくれ、の願いが届いたのかあっさりと佐々井は回答を告げた。

 

「久里だよ。アイツのフルネーム『久里満重(くりみつしげ)』。俺と那須野姉弟と久里は幼馴染み四人組なのさ」

 

満重が久里の名前…と聞いて恥ずかしい程身近な人間についての質問をしてしまった自分に今度は和人の方が「あれ?」と気まずい笑いで誤魔化すが、やはりいくら考えても久里の下の名前は今の今まで覚えておらず「やっぱり俺の記憶力って偏ってるんだな」と確信を得てから、それでさっき藤緒が言っていた明日奈の『姫ちゃん』呼びに納得する。

 

「それでアスナの事、色々知ってたのか」

「貴雄が久里に学校の様子を聞いた時にさ、まぁ、あいつ、見た物聞いた事を片っ端からペラペラ喋るタイプじゃないだろ?」

 

そこで佐々井を除く三人が揃って首を縦に振った。きっと内心では「ペラペラタイプはお前だ」とも揃って思っているだろう。

 

「そんな久里が話題にした中に姫が出てきたんだよ」

 

久里の話の何十倍も佐々井が補足をしたんだろうな、とは簡単に想像出来て「そういう事か」と和人の疑問が解消したところで思い出したように藤緒が「そうよっ、その彼女の話っ」と和人の前へ一歩踏み出す。

 

「確か料理も得意なのよね、その『姫』って子」

 

咄嗟に「姫、じゃなくてアスナだ」と出そうになった声を飲み込んだ。

那須野姉弟が久里の事を下の名前で呼ぶように、久里と佐々井は明日奈の事を『姫』呼びするのが普通だから、多分藤緒は『姫』の本名を知らないのだ。ならばこれ以上明日奈の情報は開示しないのが良策と思い直した和人はこの問答の早期決着を目指してわざとそっけなく「そうだな」と返した。

どうせこれまでのパターンだと次には自分も料理が出来ると言ってくるのだろうが、料理の腕前はゲームと違って差別化や数値化は無理だから互いに料理上手で終わるはずだ、と和人が予想した通り藤緒は「私も一通りは作れるけど、洋食ならかなり自信あるんだ」と得意気な笑顔になる。

 

「ハンバーグとかパスタ、エビフライやオムライス…」

「なんかお子様ランチメニューだな」

「黙って、佐々。満重の好物なんだから」

 

胸を張る藤緒の後ろで佐々井と貴雄が何やらヒソヒソと囁いているが、それに構わず藤緒は「そうだっ」と自信満々に微笑んだ。

 

「煮込み料理なんかもよく作るけど……例えば…シチューとかね」

 

思わず和人の眉がピクリと反応する。それを見逃さなかった藤緒は益々目を細め、まさにニヤリ、と言う表現が相応しい唇になった。

 

「あ、君、シチュー好きなんだ。今度みっちゃんの家においでよ。うち近いから作って持ってってあげる」

「それってただ久里に食べさせたいだけだよな?」

「だから黙って、佐々。折角藤緒が満重ん家に行く口実作りを頑張ってるんだから」

「んーなの口実なんて作んなくたって……」

「私の手料理、美味しいよ」

 

藤緒が上目遣いで和人の顔に近づいていき、もう少しで触れようかという時、いきなり違う方向から和人の片方の腕がグイッと引っ張られるが本人は驚きもせずに「うげっ」と身体をやじろべえのように傾け、そのまま腕にしがみついてきた存在に向かって「おかえり」と平然に声をかける。けれどそれに応じる事なく澄んだ叫び声は真っ直ぐ藤緒へと飛んで行った。

 

「私のお料理だってとっても美味しいんだからっ!」

 

トイレから戻ってきた明日奈が和人の片腕を抱えたまま、こちらも仔猫なら毛を逆立てているだろう勢いで藤緒に向かって威嚇している。突然この場に現れ、当たり前のように和人に寄り添う美少女に幼馴染みの三人が目を見開いた。

 

「誰っ?!」

「誰っ?!」

「姫ー!!」

 

双子達の揃った声にかぶせるように佐々井の喜声が放たれる。

 

「やっぱりカズと一緒に来てたんだぁ。コイツが一人で水族館はないと思ってたんだけどさ」

 

和人を見つけた時より数十倍輝く笑顔で手を振ってくる佐々井の声を聞いても明日奈は藤緒から視線を外さずに固い声のまま挨拶をした。

 

「こんにちは、佐々井くん。こちらの双子さん達はお友達なの?」

 

一瞬で二人を双子と見破るあたりはさすが明日奈の観察眼と言うべきか、佐々井ひとりを除いて和人さえも驚きで目を丸くしている。

けれどすぐに立ち直った藤緒は明日奈からの鋭い眼差しに正々堂々受けて立とうと力を込めて見返しつつ、こちらも冷静な声で「ああ、あなたね」と彼女の正体に気づき、ふっ、と笑った。

 

「確かに佐々の言う通り、かなりの美人ね」

「ホントだね。それじゃあこの人が満重が言っていた『姫ちゃん』さんか」

 

納得するタイミングさえ一緒の双子に明日奈がほんの少し警戒を解く。

 

「満重、って……久里くんよね?」

 

今度は和人が感心したように「おお」と賞賛の声を上げた。

 

「アスナは覚えてたんだ、久里の名前」

「うん、随分前に聞いたと思うよ」

「さすがだな。オレはアスナに関する事以外だとあんまりなんだよなぁ」

 

一般的に考えれば直すべき短所なのだろうが明日奈本人にしてみたら怒ることの出来ない和人の一面になってしまう。けれど嬉し恥ずかしで少しだけ緩んだ口元はすぐにツンッとした尖り型に戻ってしまった。

 

「でも、なんで佐々井くんのお友達がキ、和人くんに手料理をふるまう話になってるのっ?」

 

いちを疑問形になっているが藤緒の向こうにいる佐々井に向けた明日奈の表情にいつもの優しげな雰囲気は皆無だ。けれどそれさえもレアだと言いたげな佐々井は鋭い視線と声の両方を独り占めしてご満悦らしく「実はさ……」と事の次第を説明した。

フロアボスの攻略会議で見たようなオーラを纏ったアスナを前にしても臆すること無く言葉を紡ぐ佐々井はさすが『交渉屋のコトハ』と讃えるべきだろう。

状況を飲み込んだ明日奈がもう一度藤緒と目を合わせて「那須野さんは…」と話しかけると、すかさず彼女が「藤緒でいい。貴雄もいるし」と少々ぶっきらぼうに言い放つ。

 

「じゃあ藤緒さん…あなた、和人くんに手料理を食べさせる目的は何?」

 

和人への害心を疑っているのか、真意を探るべく再び警戒の色を濃くし始めたはしばみ色の瞳は先程よりもずっと鋭く冷たかった。無邪気な嫉妬心で放たれるようなただ熱いだけの視線ではなく、細く固く確実に急所に突き刺さるような目でジッと見つめられて本気で焦った藤緒は追い詰められたように突破口を探すべく周囲を見回すが逃げ道はないし、助け舟もやって来ないと観念してゆっくりと口を動かす。

 

「だって……みっちゃんが…あなたの作ったのが美味しかった、って……」

「え?……私、久里くんにお料理したこと、あったかな?」

 

久里を愛称で呼ぶ藤緒の声がどことなく泣きそうに不満げで、一気に臨戦態勢を解いた明日奈だったが、すぐには心当たりが出てこず、問いかけるようにしがみついている腕の先へ顔を向ける。すると「アスナに関する事」だったせいか和人が「あ…あれかもな」と覚えのある記憶を口にした。

 

「学校側から暑くなる前に、って『ネト研』が校内の機器点検を依頼された時、遅くまでかかるって言ったら、アスナが差し入れしてくれた事があっただろ?……えっと、パウンドケーキみたいなやつを色々」

「お野菜やソーセージを入れたケークサレね。あとバナナブレッドも作ったはず」

「そう、それそれ。バナナの方、なんかやたら久里が食べてた」

 

和人と明日奈の会話を聞いていた貴雄がポソリと隣の佐々井に「満重、バナナ味、好きなんだよね」と呟くと、佐々井もまた「あいつ、カフェテリアの自販機でバナナ・オレばっか飲んでるし」と少々げんなりした声で顔を見合わせる。

 

「でも、久里くんが私の料理を褒めてくれた事と藤緒さんが和人君に料理を食べさせたい事はどう関係するの?」

 

明日奈は所有権を主張するように再びギュウッと和人の腕を抱きしめた。絶対に渡さないから、と射貫くような視線の容赦ない突き技を受けて狼狽えた藤緒は「それは……」と答えを詰まらせたが、すぐに意を決してよろけそうになる足を踏ん張り両手を固く握りしめて大きく上下に振った。

 

「みっちゃんが私以外の人が作った料理を褒めてるの初めて聞いたのっ。だからその…『姫ちゃん』って人の彼氏が私の料理の方が美味しいって言ってくれれば、私はその人……要するにあなたより料理上手って証明されるでしょっ」

 

その後下を向いて「あなた、頭も良いって聞いたのに、そんな事もわからないのっ」と悔し紛れに零している藤緒の頭へ左右からガシッと佐々井と貴雄の手が乗ると、そのままグイッと下に圧がかかり同時に二人が頭を下げる。

 

「ごめんっ、姫」

「ごめんなさいっ、姫ちゃんさん」

「うわっ、ちょっ、いきなり何っ」

 

佐々井と貴雄がまるで双子のように揃って明日奈に謝罪の言葉を発しているその真ん中で無理矢理頭を押し下げられた藤緒だけがもがいて両手をバタつかせていた。

 

「久里の事になると斜め後ろに走り出すのは昔からだけど、これはもう逆走だぞ、藤緒」

「とにかく藤緒も桐ヶ谷くんや姫ちゃんさんに謝って」

「なんでよっ、私の料理の腕はあんた達だって知ってるでしょっ」

「そういう問題じゃないって」

「本当にうちの藤緒が重ね重ね失礼な事を」

 

藤緒を諭す佐々井に、藤緒の頭を押さえながら和人と明日奈に謝罪する貴雄、未だに抵抗している藤緒の三人を見て毒気を抜かれた明日奈が思わず「ぷゅっ」と噴き出す。

 

「…姫?」

「姫ちゃんさん?」

「仲が良いのね」

 

ふわり、と全てを包み込んでしまうような優しい笑顔に佐々井はもちろん、貴雄までもが頬を淡く染めて明日奈を見ていると、うっかり腕の力が抜けたらしく藤緒がえいっ、と顔を上げて「じゃあ、私のシチューっ」と誘いの言葉を投げ終わるより先に、和人の手が明日奈の腕から抜けだし、逆に彼女の頭を捕らえてその笑みをこれ以上晒すまいと自分に押し付けた。

 

「悪いけど……いくら君の料理が美味しくても、オレにとっての一番はアスナの料理なんだ」

「は?」

 

ずっと言葉少なに応対されていた藤緒だったから和人の発言の大胆さに思わず聞き返すような一言しか出てこなかったせいで更に追撃の台詞を打ち込まれるはめになる。

 

「だから、オレは美味しい料理じゃなくてアスナの料理が好きなんだよ。もちろん客観的に見てもアスナはすごく料理が上手いんだけど、もし君とアスナが同じ料理を作ったら、君の方が高級な食材や調味料を使ったとしてもやっぱりアスナの方が美味しいと思うだろうし、そもそもアスナだったらその差を挽回するような工夫をするし、オレの味の好みなんかも知ってるし……」

「キ、キリトくん……」

「カズ……」

「桐ヶ谷くん……」

 

既に藤緒に対して発していると言うよりは思うままにとめどなく言葉を紡いでいる和人の胸元から嬉しいけど恥ずかしくて少し困った明日奈の声と、完全に降参状態の佐々井と貴雄の声が重なった後、それを総括するように藤緒が震える声で「もうっ、わかったわよっ」と場を締めくくった。

 

「結局、料理でも私はこの人に勝てないんだ……」

 

ネコ耳があればぺたり、と閉じてしまいそうなくらい気落ちしている藤緒にポンッと肩を叩いた佐々井が「今更だけどさ」と言葉をかける。

 

「カズが昼休みに姫と弁当を食べにいそいそと教室を出た後、時々久里が言ってるんだ…『最近、ふぅちゃんのご飯食べてないなぁ』って。アイツも自発的に食べたいって思うのは藤緒の料理だけなんだろ。だから昔みたいに『ご飯作るけど食べる?』って誘えば喜ぶと思うよ」

 

柔らかな声の後「まぁ、お前も忙しいだろうから無理しない程度で」と藤緒も気遣うのが佐々井らしい。

 

「そうそう。桐ヶ谷くんの好みは知らなくても満重の好物を一番理解してるのは藤緒だしね。だいたい満重と佐々が帰還者学校に通うって知らせに来た時『学校は違っちゃうけどこれからもずっと一緒だよ』って満重、言ってたよね?、で、藤緒も『私の一番はいつもみっちゃんだから』とか返事してただろ?、だからもう完全にくっついたんだって思ってたんだけど……」

「それな、オレもその認識だったわ。だいたいお前達一日おきくらいの頻度で連絡取り合ってるだろ?」

「な、仲良しだったら、それくらい、する…かも……とか…思ったり……」

「藤緒はさ、うちの高校の仲いい男友達とそんな事してる?」

「するわけないでしょっ」

「お前さぁ、頭も良い方だし、見た目も良い方だし、そこそこ何でもそつなくこなすくせに、なんでそーなの?。それでさ、今日の事を久里に報告すると『ふぅちゃんはそういう子だからねぇ』っで終わるんだよ。昔っからそうだよ。俺が周りにあれこれ説明して、貴雄が謝って…」

「そう言えばそうだったな。そんなやり取り、二年間出来なかったから忘れかけてた」

「二年間してなくても、やれるね、私達」

「いや、そこは二年の間で成長しておいてくれよ」

 

脱力して両肩を落としている佐々井に「じゃあ、そろそろ」と頃合いを見計らった和人から声がかかる。

見れば幼馴染み達が小気味よい会話を交わしている間、ずっと栗色の髪を梳いていたのだろう、三人の会話の微笑ましさと相まって明日奈の目が気持ち良さげに溶けていた。

 

「なんか晩飯にアスナのシチューが食べたくなってきたし…ちょっと早いけど買い物して戻ろう。煮込むのに時間、かかるだろ?」

「そうだね。あ、でも帰りに途中の商店街で気になったお店に寄ってもいい?」

 

地元ならではの食材があるかもしれないから、と当然のように和人からの夕食メニューのリクエストに応じようとしている明日奈へ「姫っ!?」と素っ頓狂な声を佐々井が発する。

ところがその声を華麗に聞き流した明日奈は和人の隣でもう会わないかもしれない双子達に「もしよかったら、だけど…」とひとつの提案をした。

 

「前に私が作ったバナナブレッドのレシピ、見る?、それを元に藤緒さんが久里くん好みの味にアレンジすればもっと美味しくなるんじゃないかな?」

「いいの?!」

「うん。粉の配合も参考になると思うし、普通はあまり使わないメープルシロップや糖蜜で甘みを付けたから試してみて」

「わかった。あ、有り難う」

「有り難うごさいますっ。こんなにご迷惑をおかけした藤緒に……」

 

似通った二人の瞳に僅かばかり心酔の色が混じり込んでいる。

 

「えっと…佐々井くんを通せばいい?」

 

明日奈の迷いに分かりやすくパッ、と顔を輝かせた佐々井だったが「もちろんっ」と答える寸前に「それよりも」と和人の声が滑り込んできた。

 

「直接の方がやりとりしたい時、楽だろ?」

 

明日奈や藤緒の為、と涼しい顔で助言しているが、さっきまでは双子達に明日奈の本名すら明かさずに済ませようとしていた和人だ、これ以上明日奈に自分の友人とは言え他の男と接触させまいとする魂胆が佐々井には見え見えでつい「お前なぁ」と文句を言いそうになるが隣の藤緒が珍しく嬉しそうな声で「色々聞きたいっ」と宣言したので水を差すわけにもいかず、ぐっ、と堪える。

 

「ほら、アスナ。待ってるから連絡先の交換しちゃえよ」

 

和人に文字通り背中を押された明日奈と貴雄に送り出された藤緒が互いに歩み寄り、端末を取り出して楽しそうに喋りながら交流する姿はまさに眼福の光景だった。

 

「レシピは自分の部屋にあるノートを見ないと正確な数字がわからないから、明日の夜にでも送るね」

 

和人の元へと戻り端末を仕舞いながら告げた明日奈の言葉に、単純に「うんっ」と返した藤緒とは違い、貴雄は少々苦笑いで気付かないふりをするが、佐々井は遠慮無く「カズっ」と声を張り上げる。

つまりは今日中に明日奈は自分の家には帰らないと示唆しているわけで、その原因であるだろう和人は佐々井と顔を合わせないようにして「じゃあな」と小さく告げ、引っ張るようにして明日奈を連れ去ったのであった。




お読みいただき、有り難うございました。
タイトルの「想い、想われ……」は和人と明日奈でもあり、
久里と藤緒の事でもあります。
ただ、久里と藤緒カップルに関しては
「わかりやすいってゆーか、わかりにくいってゆーか」な
二人です……(苦笑)


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思いの違い

前回の「想い、想われ……」の続きです。



「アスナ?」

「アスナさん?!」

 

隣から和人の声が、向かいから直葉の声がほぼ同時に飛んで来て、「えっ?」と驚いた明日奈は手にしていたフォークが皿の縁に当たりカチャンッと耳障りな接触音を立ててしまった。

 

「ご、ごめんなさいっ」

 

咄嗟に謝ってしまったのはここが母と一緒の食卓や結城の本宅だったら絶対に許されない行為だからだ。

 

「いや、謝んなくたっていいけどさ、どうしたんだ?、大丈夫か?」

「そうですよ。今日は朝から出掛けてて疲れてるんじゃないですか?」

 

気遣われる理由がわからずに小首をかしげると正面に座っている直葉が恐る恐る、といった声で「それ」と明日奈の手元を指さしてくる。

 

「フォークですよ、アスナさん」

 

指摘されて視線を落とせばシチューを食べようと右手が握っているフォークがかろうじて人参を引っかけていた。

 

「ええっ!?」

 

自分で自分の行為に驚いている明日奈だったが、その様子に納得した上で呆れているような兄の姿に直葉は逆に安心を覚える。いつも沈着冷静な彼女がこんな状態の理由に心当たりがあるのだろう。でなければ「熱でもあるのか?」とか大騒ぎするに決まってるのだ。

今日は朝から兄と二人で少し遠くまで出かけていたようだし、そのまま桐ヶ谷家に来て夕食まで作ってくれたのだから多少疲れが出ているのも本当だろうと推測して、直葉は深く詮索はせずに「アスナさんでもぼんやりする事、あるんですねっ」と笑って彼女の得意料理の代名詞とも言えるブラウンシチューを口いっぱいに頬張ったのだった。

 

 

 

 

 

「買い物から調理までやって貰ったんだから、後片付けは私がやりますっ」と宣言された明日奈は二階へ続く階段口までギュウギュウと追い立てられるように直葉に背中を押され、戸惑いの歩みでそれでも最後には「ありがとう」と言って手すりを掴んだ。

後ろでは二本の冷えたペットボトルを持った和人が笑っている。

 

「客間にお布団も用意しておきますからっ」

 

昼間訪れた水族館でスグのお土産にと明日奈が選んだクッキー効果だろうか?、と思いながら和人も「じゃ、後は頼んだ」と妹の横を通り過ぎ二言三言、言葉を交わしてから先に上がっていった明日奈の後を追った。

水族館のお土産コーナーには水の生き物を模したクッキーが数種類あって、明日奈が迷わず選んだのが『クラゲクッキー』だったのだ。和人は内心「え、ホントにそれにするの?」と思い「なんだか原材料がクラゲか、クラゲの味がするクッキーみたいだな」とも思ったが、もちろんそんな材料でも味でもなく単にクラゲ形をしているクッキーだ。ただ、パッケージを見ないと「クラゲ」だとはわかりにくい造形になっているだけで……他にもペンギンクッキーやイルカクッキーがあって、どう見てもそれらの方が売れ行きも好調のようだったが、果たして直葉の反応は?、と思えば和人の予想に反して妹は大喜びしたのである。

 

『なんだかトンキーみたいっ』

『でしょ?、私もそう思ったのっ』

 

どうやら明日奈は兄である和人よりも直葉の好みを把握しているらしい。さすがに羽らしき物はないが角度を変えれば羽化前のキリトが表現した「象くらげ」にも見える……気がする。

とにかく妹の全面協力のもと、夕食後、二階の自室へと明日奈を招き入れた和人はドアをパタンと閉めた後、ぼんやりと部屋の真ん中で佇んでいる明日奈の手を引っ張り、並んでベッドに腰掛けた。「ほら」と言って渡したお茶のペットボトルも「うん、ありがと」と受け取ってもらえたが彼女の両手の中で握られたままだ。

少し俯いている明日奈の頭を後ろから抱えて自分の方へ傾ければ、小さなそれは簡単に和人の肩に寄りかかってくる。困っているとか迷っているといったシンプルな感情ではなく、きっと明日奈の中でも色々混ざり合っていて気持ちの整理が付いていないのだろう。だから常に頭から離れないのだ。

そういう時はいくら考えても答えは出ないのかもしれないが、とにかく彼女が落ち着くまで待とう、と和人は栗色の髪を彼女の耳にかけながら、自身もまた数時間前、明日奈の同級生との偶然の出会いを思い返した。

 

 

 

 

 

『結城、さん?』

 

それは水族館の最寄り駅から川越に向かう途中、乗り換えの駅で聞こえた小さな声が発端だった。

すぐに反応した明日奈がピタリと足を止め、声の方向にゆっくりと顔を巡らせる。声の主は自分と明日奈との間を行き交う人の流れが途切れるのを待ってゆっくりと近づいて来た。けれどそこに明日奈の笑顔はなく、それどころか声に反応した時のまま驚きで止まっている。

 

『こんな所で会うなんてね』

 

ショートボブの少女が大きな瞳をくるりと回して少々芝居がかった微笑みを明日奈に向けた。けれど彼女の目はそのまま明日奈の内面までも暴くようにジッ、と見つめたまま顔から髪、そして首元から腕や胸へと移動して足元まで下りた後、再び顔まで戻って来る。

 

『元気そうね。退院したのは知ってたんだけど……あの病院もうちの系列だし。随分強引なリハビリをしたって聞いたわ。相変わらずなのね結城さん』

 

相変わらず、と言う声が妙に冷たくて、明日奈がよろけるように一歩下がるとそれを補うように和人が一歩前に出た。

 

『あら、彼氏さんかしら?、へぇ、貴女が男の人と二人でお出かけなんて少し意外だわ。それで今度はその人の後ろに隠れるの?』

 

挑むような口調に明日奈がきゅっ、と唇を引き結んではしばみ色の瞳に意志を宿す。

 

『……三郷(みさと)さん…確かにあの頃、私はあなたの後ろにばかりいたけれど、彼はそういうんじゃないの』

 

三郷と呼ばれた少女は少し面食らったように目を瞬かせた。その間に明日奈が和人の隣に来ると寄り添う隙間ですぐに手を握られる。安心して握り返し、大丈夫だよ、と伝えるように軽く頷いてから『紹介するね』と彼女を真っ直ぐに見た。

 

『小中学校が一緒だった三郷さん。あの事件で入院していた病院も彼女のお父様が経営しているの……三郷さん、彼は桐ヶ谷くん。今は同じ学校に通ってるわ』

『と言う事はこの人も生還者なのね』

『ええ』

『貴女がゲームの世界に囚われたって聞いた時は驚いたけど……だってオンラインゲームなんて全く興味なさそうだったでしょ?』

『うっ』

 

確かに、あの頃の自分を振り返ってみると興味どころか勉強の妨げにしかならないという認識だったから三郷の驚きは最もだったろう、と言葉に詰まる。

 

『もしかしてこの彼に誘われたの?』

『違うわっ、あれはあくまで私の意志よっ。それに彼に出会ったのはあの世界に閉じ込められてからだものっ』

 

和人が悪者扱いされるのは我慢出来ないと声を荒げた明日奈の勢いに三郷が一瞬驚いた後、珍しい物を見たと言いたげに淡いピンク色の唇で弧を描いた。

 

『あら、自分をちゃんと出せるようになったんだ』

『…え?』

『だって貴女、同じ女子校だった頃、駆け引きめいた言葉のやり取りや理不尽な会話には無関心なのかと思ってたら、私の後ろで聞いている間、すっごく我慢してたじゃない』

 

気付いてたわよ、といわんばかりの優越感を滲ませた口調に明日奈はポカンと口を開ける。

 

『うちの学校の生徒って周囲からの期待とか義務感でストレス数値高めが当たり前だし、発散方法間違ってる子や溜め込む子も少なくなかったから』

『気付いてて……』

『まさか「言ってくれたらよかったのに」なんて思ってないわよね?…そういうお友達ごっこ、私、好きじゃないし』

 

バッサリ言い切ったわりになぜか三郷の頬が僅かではあるが赤く染まっていて、気のせいか視線も揺らいでいた。

確かに、あの頃の明日奈では隠していた感情に気付かれたと知ったら弱みを握られたと思い、三郷からも距離を置くようになっていたかもしれない。三郷の方も自分の性格からして明日奈に受け入れてもらえるような、穏やかで丁寧な話し方がわからなかったのだろう。結果、二人は向き合うことをせずに前後の関係が中学三年まで続いてしまったのだ。

目線をチラリ、と明日奈に戻し、けれどすぐに違う方向へ向けた三郷が唇を軽く尖らせる。

 

『全国模試の上位ランキングに時々名前があったから結城さんは変わってないのかと思ってたわ』

『三郷さんの名前は気付かなかったけど……』

『当たり前でしょ。私、医大系の模試しか受けないもの』

 

要は自分と関係ない模試結果も気にしていたらしい……それが何を意味するのか、今の明日奈なら言葉にしてもらわなくても気づけるし、それを指摘すれば「たまたまよ」と彼女がはぐらかすのもわかっていたから勝手に嬉しく受け止めて、それでも彼女の言葉に少し表情を暗くする。

 

『三郷さんは……お医者さまになる道を……変えてないのね』

 

自分の声なのに「道」が「レール」に聞こえた気がした。

彼女の家は身内から多くの医者を輩出しており、しかも父親は明日奈が入院していた一見ホテルかと見紛うハイクオリティな総合病院をいくつか運営していて、大手の事業社とも提携しているグループ病院のトップだ。

多分、三郷に限らず明日奈達の通っていた女子校の生徒は親に決められた道を進んでる子が大半だっただろう。それが最も安全で確実な道なのだと邁進できる者はいい、けれどそこに疑問を持ってしまったり、進む努力に空しさを覚えてしまったら……それでも自分で道を探す勇気を持たない者は立ち止まったまま一歩も動けず、あるいは道から外れて途方に暮れ、それとも止まる事に恐怖を覚え、重い足を懸命に動かし続けていた者もいて……明日奈もまたデスゲームに囚われた当初、あまりにもあっけなく道からつまみ出された己の身を嘆いた。

一刻も早く《現実世界》に戻らなければ今までの努力も我慢も全て無駄になるのだと……けれどそれを無駄じゃない、と教えてくれたのがキリトだ。

幼い頃より真っ直ぐに医師を目指している三郷は何を思ってその道を歩いているのだろう?、と、そぅっと伺うような仕草に勘を働かせた三雲がふんっ、は鼻を鳴らす。

 

『言っておくけど、私が医者になると決めたのも貴女と同じ、自分の意志よ』

 

悪戯が見つかった子供のように明日奈の両肩がぴょっ、と跳ねた。どうも彼女の前ではかつての自分に少し戻ってしまうらしい。無防備に驚いて、それから勝手な憶測に少し自己嫌悪をして、それでも三郷がちゃんと自分と目を合わせてくれている事に安堵していると、ふぅっ、と息を吐き出した彼女がその視線をスライドさせた。

 

『君…桐ヶ谷君って言ったっけ?』

 

今まで完全に存在を無視されていた和人が名前を確認されてこくり、と頷く。

 

『結城さんて見た目よりずっと面倒な人よ』

 

いきなりの爆弾発言に明日奈は声も出せず瞳を大きく見開いた。

 

『だいたい何でもある程度のレベルまでは出来てしまうけど変なところで不器用だし、強情だし、意地っ張りだし。そのくせ妙に責任感とか正義感が強いから一人で抱え込むし。女子校育ちのせいか対人スキルは高いのに立ち回りが上手い、とは言えないし』

『確かに……そうだな』

 

和人の同意の言葉に驚きすぎて明日奈ははむはむ、と口の開閉を繰り返すのがやっとだ。そして和人からも隣で制止や抗議の声が上がらないのをいいことに爆弾が飛び出した。

 

『それに実は泣き虫で寂しがり屋だろ』

 

さすがに黙っていられなくなった明日奈が和人に向け『そっ、それはキリトくんだってっ同じじゃないっ』と叫ぼうとした寸前、一瞬誰の声?、と迷うほど柔らかく嬉しげな言葉が耳に染みいってくる。

 

『わかってるならいいわ』

『え?』

 

振り返った時にはもう遅く、三郷はいつもの挑戦的な目と声で『じゃあ』と立ち去ろうとしていた。明日奈は考えるよりも先に一歩踏み出して『連絡先っ』と叫ぶ。

 

『……変わって、ない?』

 

思いも寄らない問いかけだったのだろう、三郷は一瞬意味を理解出来ずに動きを止めるが、すぐに明日奈から視線をはずし、やっと聞き取れるくらいの声で『同じよ』と伝える。その返答に勇気づけられたのか明日奈の声に芯が生まれた。

 

『メール、しても……ううん、するからっ。必ずするからっ』

『あのねぇ、私だってそんなに暇じゃないんだから……すぐに返信は…出来ないわよ』

『あ、ありがとうっ』

 

何に対しての礼なのかは言及せず、三郷は明日奈と和人に向け軽く手を上げたかと思えばすぐに背中を向け歩き出す。まるで自分の顔を見られまいとするかのような素早さだった。

 

 

 

 

 

「昼間会った人、三郷(みさと)、って言ったっけ、アスナの同級生」

 

明日奈の小さな頭を肩にのせたまま和人がそっ、と尋ねる。

 

「うん、彼女とはね、小学校三年生の時から私が《SAO》に囚われるまでクラスがずっと一緒で……」

「へぇ、すごい確率だな」

 

素直に感心している和人へ少し言いづらそうな声で明日奈が説明をした。

 

「そうじゃなくて……私が通ってた学校は初等部の三年生からクラス分けが偏差値順になるの」

「へ?!…てことは……あの子とアスナは……」

「うん、ずっと一番上のクラス……だからクラスメイトってライバル意識と同時に変な仲間意識みたいなのも生まれるんだけど、逆に新しい学年になってクラスが落ちた子とは口を利かなくなったり、新しくクラスに入って来た子にわざと疎外感を味あわせる人達もいて……だから私はなるべくクラスの子達とは関わらないように彼女の後ろにいるのが当たり前になってた」

 

声にならないような小ささで「ズルイよね」と呟いてから明日奈はまた話し始める。

 

「無関係、無関心を貫く事も出来なくて、三郷さんの背中に隠れるようにして、彼女が何も言ってこないのを言い訳にして自分を守ってたの」

「多分だけどさ……もしそんなアスナの態度が気に入らなかったらハッキリ言うんじゃないかな?、そんな感じの子だろ?」

 

言われてみれば、と明日奈がゆっくり顔を真っ直ぐに持ち上げた。明日奈がそうであったように、少なくとも表面上は他者に対して必要以上に関心を抱かないスタイルの人だと思っていたが、今日だって三郷は自分から声を掛けてくれた。

記憶の中にある三郷を思い出している明日奈の横顔を見つめながら和人が柔らかく笑う。

 

「もしかしたらオレと同じかもな……後ろにアスナがいる、って思うと頑張れるって言うか」

「でも私、三郷さんに何もしてあげられてなかったんだよ。それこそ《SAO》の低層でキリトくんに教えてもらってばっかりの時みたいに」

「それでもオレはアスナと一緒にいたい、って思ってたよ。だから、ずっと気にしてくれてたんだろ。アスナの模試の順位とか、駅で会った時だってすごく真剣にアスナの全身を見てたし。あれって無茶なリハビリの影響が出てないかチェックしてたんだと思う」

 

不躾な視線の意味に明日奈が驚いていると少しの躊躇いの後に和人が何気なさを装い打ち明けてきた。

 

「実はオレもアスナがリハビリしてた時は見舞いに行く度に身体のバランスとか筋肉の付き方なんかをこっそり確かめてたし」

「あっ、だからやたらとペタペタ触ってきてたのっ?!」

 

思い起こした大胆なスキンシップに明日奈の頬がうっすらと色づく。

 

「あれは……痛みがあってもアスナは素直に言わないから、が半分」

「あとの半分は?」

「……オレが触りたかったからデス」

 

頬の赤味がさらに濃くなった。

おどけた雰囲気で言ってくれているが本当は明日奈の身を案じてが半分以上だったのは、あの時の和人の真剣な瞳を思い出せば明らかで、だから「もうっ」とだけ返しておく。

随分といつもの明日奈に戻って来たと感じた和人はもうひと押しとばかりに自分の分のお茶を飲み喉を潤すと、ペットボトルを机に置いてしみじみと言った。

 

「今日の外出は色々と予想外が多かったな」

「そうだね、水族館で佐々井くんに会ったのは驚いたけど、貴雄くんや藤緒さん……それに三郷さんね」

「オレはスグがこんなに早く帰って来るのも想定外だった。予定ではもっと遅いはずだったから、アスナと二人の夕食になると思ってたし」

 

気のせいか最後の方は和人の顔つきが幾分イラついていたような気がして、明日奈は「そうなの?」と目を瞬かせた。どちらにしても三人分の夕食を作る予定だったから、明日奈としては直葉も一緒の賑やかな食卓の方が良いような気がするのだが、和人の思惑は違ったらしい。

 

「佐々のヤツ、オレ達と分かれた後アスナのクラスの茅野さんに連絡して、そこからリズ経由でスグの所まで辿り着いたらしいんだ」

「さ、さすが交渉屋さんだね」

「スグが言ってた、夕飯がアスナが特製シチューだって知って部活終わりに寄り道せずすっ飛ばして帰って来たって」

「私は晩ご飯一人で食べる事が多いから楽しかったよ」

「アスナならそう言うだろうと思ってたけど……それにしたってオレ達を二人きりにさせない為に何人巻き込むつもりだよ」

 

ここにはいない級友に向けたうんざり顔に明日奈が、ぷっ、と軽く吹き出すと、和人の顔も柔らかさを取り戻す。

 

「…やっと笑った」

 

安心したような声に今度は明日奈が驚きの表情で止まった。

振り返ってみると三郷と別れてからつい無意識に昔の自分と彼女のやり取りなどを思い出してはその意味を再確認する作業を繰り返していたような気がする。和人がずっと気に掛けつつも、何も言わずに待っていてくれたのだと知って明日奈が心からの笑顔を見せると、嬉しそうにその頬を手で触れて「そう言えば」と思い出したように付け加えた。

 

「アスナの笑顔については言ってなかったな」

「三郷さんが?……うん、小中学校ではあまり嬉しいとか楽しいとかなかったし……」

「でも今思えば女子校育ちのアスナが《SAO》でいきなりオレとコンビ組むなんてよく受け入れたと言うか……オレなんか出会った頃からアスナの笑い声が聞こえる度にフードの中覗き込みたくて、我慢するの大変だったんだぞ」

「そうだったんだ」

 

くすくすといつもの笑い声で「覗いてもよかったのに」と言っているが、当時本当に「ちょっと失礼」などと覗き込んでいたら間違いなく腐った牛乳ひと樽では済まなかったはず、と和人も微妙な顔で誤魔化す。

今なら我慢などしなくても、いくらだって笑顔はもちろんむくれ顔もすまし顔だって見放題だ。

更に言うなら、ただ見るだけではなく直接触れる権利だって得ているわけで……和人が頬に当てている手の親指で笑みをなぞるように明日奈の唇をぬぐうと、その先を強請るように隙間が生まれてゆっくりとはしばみ色の瞳が瞼で覆われる。彼女に触れている指先でほんの少し角度を調整しつつ、和人自身も僅かに首を傾げて互いの唇をピタリ、と重ねる事が造作も無くなったのはいつの頃からか……決して平面ではない個々の一部分(パーツ)なのに、パズルのピースがあるべき場所にはまった時に似た気持ち良さが口づけだけで全身を巡る。

その後、遠慮なく舌を差し入れると階下にいる直葉の存在を思い出した明日奈が慌てて「んーっ」と抗議のくぐもった声を喉奥から響かせるが、いつの間にか頬だけでなく後頭部にまで和人の手があって顔の動きを完全に封じられている状態だ。

それでもまだ理性は抵抗を主張していて這入ってきた舌を押し返そうとすれば、逆に和人の思うつぼだったのか巧みに絡め取れ、擦られ、擽るように弄ばれて次第に「んふっ」とあらがう声に色が滲み込んでくる。こうなってくると和人も目を細めて明日奈の頭を軽く固定していた手の力を緩め、「キスくらいなら大丈夫だろ」と宥めるように髪ごと撫でるものだから、うっかり「ンっ」と肯定したような鼻声が漏れて益々咥内を好き勝手に振る舞う舌に翻弄される羽目になるのだ。

唇が塞がれているせいで声が部屋の外まで漏れる心配はないが、同時に明日奈には「わざとなのっ!?」と泣きたくなるくらい舌と唾液が奏でる恥ずかしい音が身の内に響いて、両手で握りしめているペットボトルが発せない抗言の代わりにペコッと音を立てた、とその時……

 

「おにいちゃーんっ」

 

ノックと同時にドアの向こうから直葉の声がして明日奈の両肩が大きく跳ねる。

階段を上ってくる足音すら気付かなかったのは部屋の防音性能が高いのか、和人から受け取る刺激でいっぱいいっぱいだったのか……この状況を直葉ちゃんに見られるのはっ、と気持ちばかり焦っている明日奈だったが、あれだけ訴えていたのに聞き入れてくれなかった和人の方はあっさりと唇を離し落ち着いた声で「どうした?、スグ」と返事をしながら、肩で息をしている明日奈の頭を抱き寄せ胸元を貸す。落ち着かせるように背中からとん、とん、と軽く振動を与えられて明日奈も慎重に大きく息を吐いた。

 

「お風呂、アスナさんに入ってもらってっ。私はレースに参加してくるからっ」

「わかった、頑張れよ」

「うんっ」

 

直葉が隣の部屋に入る音が聞こえた後は再び何の音もしなくなる。

何の話?、と上目遣いに問いかけると、和人は少しばかり、してやったりの笑みを見せながら明日奈の瞳に溜まっていた涙を指ではらった。

 

「今夜、スプリガン領でスピードレースがあるんだ。ホームタウンの古代遺跡を含む周辺がコースになっていて、障害物となる遺跡を躱しつつ変則的な風の流れを読まなきゃいけないから……」

「リーファちゃんでもそう簡単には勝てないってことね」

「ああ、それにトーナメント方式だから優勝者が決まるまで結構時間がかかるし」

 

リーファが勝ち上がるのを確信しているところは明日奈も同意出来るのだが、要するにこれから直葉は《ALO》にログインするから、当分の間は二人だけの時間が過ごせると言いたいわけだ。

もし和人が予想していた時間に直葉が帰宅していればレース大会には間に合わなかったはずで、佐々井の所行を呆れていたわりに、この短時間で直葉にレースの参加を促す行動力だって似たようなものである。

 

「隣の部屋にスグがいるってわかってると……これ以上は、無理だろ?」

 

これ以上?……キス以上!?……言わんとしている事がわかって、首元まで真っ赤に染めながら急いで頭を上下に振ると、まるで明日奈が我が儘を言ったように肩まで落として「ふぅっ」と溜め息をついた和人が、こつり、と額を当ててくる。

 

「オレはいいんだけどさ。アスナがいつもよりちょっだけ声を我慢できれば多分バレないし」

「……むっ、無理っ」

 

我慢が出来る出来ないの問題ではなく、隣室に恋人の妹がいるのにキス以上の行為なんて、明日奈にとっては気付かれてしまうかどうか以前の話だ。

 

「うん、無理だよな。アスナって敏感だし」

「そっ、そーじゃなくてっ」

「スグがアミュスフィア装着状態でレースに夢中になってるって知ってても……」

「絶対、だめっ」

 

怒っているのか恥ずかしがっているのか、とにかく真っ赤に熟した顔で、せっかく弾いた涙を再び瞳に宿らせ必至に言いつのってくる感情全開の明日奈は和人にしてみれば何度も見ている顔で……同時に何度見てももっと高ぶらせたいと加虐心が刺激される顔でもあり、昼間に会った明日奈の女友達は見たこともないだろうな、と思えば少しの優越感に胸がすく。そして更には恋人の自分だけに晒される顔を望んで「それじゃあ」と代替案を提示した。

 

「スグも言ってたし、風呂にするか」

「え?」

「森の家のほど広くないけど二人で入れないことはないし、さすがに風呂場の声や音は二階まで届かないから」

 

自室のベッドに横になった直葉はアミュスフィアを装着する寸前、隣から響いてきた明日奈の「えーっ!?」という、彼女にしてはちょっとはしたない大声に「珍しいな、明日奈さん」と呟いた後、どうせ兄がくだらない悪戯でも仕掛けたんだろう、と深くは考えずにすぐさま「リンクスタート」と音声入力を行ったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
前回に続きタイトルに「おもい」を使っていますが
個人的なイメージで「想い」は恋愛感情で、「思い」はそれ以外の
感情という区別で使っています。
今回の「思い」は三郷から明日奈へ、明日奈から三郷へ、の
気持ちです。


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〈UW〉君とはじまる・前編

キリトとアスナがそのまま《アンダーワールド》に残ると決めてから
すぐのお話です。


何に苛立っているのか、暗黒神ベクタをこの世界から退け、人界を守った英雄と呼ぶに相応しい黒髪の剣士は古代遺跡の地で彼の無事を祈っていた人界守備軍と再会を果たした後、東の大門へと移動した。最終的には計六名の整合騎士たちと合流したが内五名と共にすぐさま央都セントリアの白亜の塔《セントラル・カセドラル》へ。飛竜を必要としない彼は自らの服を翼に変形させ、その両腕で女神を抱いたまま……。

生き残った人界軍の衛士や修道士は殆どが移動に馬や馬車を使うので、キリトの後に続いたのは飛竜に乗れる者達だけだ。そして大理石が敷き詰められているセントラル・カセドラル五十階の大広間に到達した整合騎士はシュータを除くファナティオ、デュソルバート、リネル、フィゼル、そしてレンリ。

彼らを前にしてキリトは一段と声を低くして言い放った。

 

「一日二日の徹夜で解決するなら喜んでやるさ……だけどこれはどう考えても無理だろ」

 

この場に騎士長であるベルクーリが存在しない理由を問う者はおらず、多分、その事実を一番最初に受け止めただろうファナティオが落ち着いた声で「そうは言ってもね」とキリトの隣でこちらも困った顔をしている真珠色の騎士装の女性剣士に視線を移す。レンリからの説明で彼女がキリトと同じくここではない世界、リアルワールドという異世界からの来訪者というのはすぐに納得できたが、ただの人間という言葉には些か説得力が足りない。

彼女の姿はまさに神画の《創世神ステイシア》そのものであり、この世界に顕現した時には大地を割り巨大な渓谷を作り出したというからだ。

けれどその神の所行と呼ぶに相応しい御業を為した彼女が今は最初に挨拶を交わしたきり、一言も声を発せずにずっとキリトに手を繋がれたまま静かに佇んでいる。神でもこの世界に降り立った時から疲労感や虚脱感が生じるのだろうか?、と疑問が浮かぶほどにその存在は儚げで頼りなげだ。しかし彼女が腰の右側に吊っているのは一目で神器級の剣だとわかる。

どうにもちぐはぐな印象に戸惑っていると隣にいたデュソルバートも同様の心持ちだったのだろう、炎色の瞳を気遣いで揺らし、すっ、と手を伸ばして「アスナ様はどこかお身体の具合でも……」と一歩踏み出すと、すぐさまキリトの鋭い声が彼の足を阻んだ。

 

「近づかないでくれ」

 

古参の整合騎士の動きすら容易に止めるキリトの光素防壁に当のデュソルバートはもちろん、その場の全員が無意識にゴクリ、と唾を飲み込む。一瞬にして大広間の空間に広がった緊張感を唯一感じていないアスナがますます眉尻を下げ小さく窘めるように「キリトくん」と呟くと、すぐに息を吐いたキリトが「すまない」と壁を霧散させた。

 

「つい…制御が出来なかった」

「落ち着きなさい、坊や……そこまで気が立っている原因は…彼女なの?」

 

僅かな逡巡の後、ゆっくり頷くとキリトはアスナと繋いでいる手を見つめた。

 

「手が……すごく冷たくなってるんだ……早く休ませて…」

 

そこに「ごめんなさい」とアスナの声が割り込んでくる。

 

「皆さんだってかなり疲労や消耗をなさっているのにこうして今後の話し合いの場を設けているんだから、私も同席したい、ってキリトくんに我が儘を言ったんです」

 

まさに死闘と称すべきアスナの戦いぶりをレンリの口から聞いていたファナティオは、ふう、と顎に手を当てて考え込んだ。

 

「確かに、この場にいる者たちだけで勝手に話を進めるわけにはいかないわね……居住区の三十階にちょうどいい部屋があるから二人にはそこを使ってもらいましょうか」

 

ファナティオの柔軟な対応に少し驚いた様子の整合騎士たちだったが、振り返って「私が戻って来るまでに……」と各々へ指令を飛ばす姿に手加減はない。それでもまだ少し何か問いたげなデュスルバートが近づくと、発言を遮るように手の平をかざし、顔はキリトとアスナを見て「昇降盤に行っていて」と二人を促す。

軽く頭を下げたアスナを伴いキリトが支えるようにして寄り添い歩く後ろ姿を見てからファナティオは「待て」状態のデュソルバートに溜め息をついた。

 

「雄竜があんな風になる時があるでしょう?」

「雄…竜ですか?」

 

いきなりの飛竜の話題に戸惑うデュソルバートへ、まだわからないの?、と言いたげにファナティオが察しの悪い困った子を見る目になる。

 

「番をみつけた時よ」

「つが……は?……あっ、ああ…あれは威嚇、ですか」

 

ようやく納得してくれたようだが、その顔は色々と慌ただしいことになっていて、そんな紅蓮の騎士をその場に置きっ放しにしたままファナティオは二人の後を追うため昇降盤へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

ファナティオに案内されたリビングの広さを隅から隅までを大きく顔を左右に動かして確認したキリトとアスナは揃って目を見開き何も言えずに唖然とした表情で固まっていた……いや、アスナはこれまでの《現実世界》での経験上、廊下でファナティオが開けてくれたこの部屋の一枚目の扉の向こうに存在したエントランスルームの大きさを見て少し予感はしていたのだ……が、結局は二人共リビングルームに一歩足を踏み入れた状態で動きを止めている。

エントランスルームが四畳ほどあれば、その先の部屋もそれなりに広いんだろうな、くらいは思っていたアスナもさすがにこれは予想外だったようだ。しかも烈日の騎士が言うには更に奥にはキッチンや寝室があるらしい。

怖々とした声で「寝室、見てもいいかな」と口にしたキリトに手を握られたままアスナも一緒にそろそろとリビングを横切り、東側の部屋を覗いてみれば、そこにはキングサイズより一回りは大きいベッドが部屋の主を気取っていた。

 

「二人で使うには十分でしょう?」

「十分すぎだよ」

 

ここまでくると半ば呆れたような声で応えるキリトにファナティオはふふっ、と目を細める。

 

「二人で使う事に異論はないのね。言っておくけれどベッドの交換は無理よ、扉の方が小さいの」

 

この世界で二百年を過ごす覚悟をした二人だったが、だからと言って贅沢な暮らしをしたいとは思っていなかった。しかしこの場合、もっと普通サイズのベッドに、と要望すれば部屋のどこかを破壊せねばならず、それはかえって余計な手間と時間とベッドが必要になるわけで、結局既にある物を素直に受け入れるのが一番という結論に落ち着き「有り難く使わせていただきます」と頭を下げたのだった。

 

「そうそう、向こう側にはキッチンの他にバスルームもあるのよ」

 

アスナの手が冷たいと訴えていたキリトの言葉を思い出したのか、ファナティオが告げるとすぐにキリトが「入ってこいよ」と、ようやく彼女の手を離し、背中を押す。「うん」と返事はしたものの自分だけ先に入浴する事に抵抗があるのか、この場にキリトとファナティオの二人を残す事が気がかりなのか、未練を残しているアスナに古参の女性騎士は軽く微笑んだ。

 

「ゆっくり温まって疲れを取るといいわ。その間、ちょっとだけ坊やを借りて急ぎのものだけ処理をしたらすぐに返すから」

 

やはり今後の混乱を避ける為にも少なからずやらねばならない事はあるのだろう。けれどアスナの身を気遣うキリトを納得させるには先に部屋へ案内すべきと判断したファナティオは間違っていなかったようだ。明らかに先程より険の取れたキリトはアスナに向け安心させるように頷いてから「風呂の中で寝るなよ」と少しばかり意地悪な口調でからかい、それでもすぐに表情を引き締めて「行こう」とファナティオと共に部屋を出て行ったのである。

 

 

 

 

 

本当に最低限の手配を済ませ、後は主要なカセドラルの各部局長たちも集めてから、という合意に落ち着き解散となった後、キリトは飛ぶようにしてアスナが待つ三十階の部屋の前まで戻って来た。

廊下に面している扉は急いている気持ちを表すように少々乱暴に素早く開け、エントランスを駆け足で抜けてリビングへと通じるドアの前で一瞬よぎった不安から足に急制動がかかる。それはかつていつ目覚めるともわからない明日奈の病室のカーテンに手を掛けた時の感覚に似ていて、本当に彼女がアンダーワールドまでやって来てくれたのか、《果ての祭壇》でアリスと一緒にログアウトしたのではないか……さっきまで繋いでいた手さえ都合の良い幻だったのでは、と自信が無くなって、祈るような気持ちでドアを開けたその先には……

 

「……アスナ」

 

広々とした部屋の片隅、南側に面している巨大な窓の前に求める存在の後ろ姿を見つけて、ほっ、と息を吐く。

細絹の髪を真っ直ぐにおろし、ゆったりとしたシンプルなデザインのワンピースを着ているアスナはキリトが帰ってきたのも、名を呼ばれた事すら気付かないまま、一心に外を見つめていた。

真珠色のブレスト・プレートも、レイピアもないせいかその姿はどこか朧気で、キリトはその姿が今にも光の粒となって消えてしまうのではないかという不安から一時も目を離さず静かに歩み寄る。

 

「……何を見てるんだ?」

 

驚ろかさないように少し後ろから囁くように問いかけた。

窓の外は既に夜の闇に覆われていてこの高さからの眺めは一面の黒しかない。

けれどアスナにはその暗闇の中で何かが見えているのかずっと真っ直ぐ前を向いていて、不思議に思ったキリトは同じように窓の外を見ようとして、はっ、と気付く。それは窓に映ったアスナの顔だ。

彼女の瞳には外の景色は映っていなかった。

ただ、ひたすら祈るような目でガラスの向こうに意識を飛ばしている。

 

「何を、見てるんだ?」

 

アスナのはしばみ色の瞳に一体何が見えているのか、今のキリトには全くわからなくて、それが二年間という時間の長さを感じさせて同じ質問なのにどんどん息苦しくなっていく。けれど二度目のキリトの声にも反応しないのかと思われたアスナは前を向いたまま、まるでNPCのように用意してあったのかと思われる答えを淡々と返してきた。

 

「このガラスの向こうにね、キリトくんがいるの」

「…え?」

「私、ここから見ていることしか出来なくて……現代医学ではキリトくんの身体、治療不可能だって……でも」

「アスナ……」

「だから、時間がある時はこうやって会いにくるんだけど」

「今は……ここにいるよ…だから、もう、寝よう」

「眠れないよ………キリトくんが、ただいま、って言ってくれるまで……その為なら私の心も体も全部あげたって構わないのに…」

「アスナっ」

 

我慢出来ずにアスナの小さな両肩を乱暴に掴んで無理矢理振り向かせると、そこでようやく意識を取り戻したらしく、パチパチと瞬きを繰り返す長い睫毛とまん丸の瞳は驚きを表していて、それがキリトの苦しげな表情につられるように泣き出しそうな笑顔になる。

 

「あ、キリトくん……ごめんね、ちょっとぼんやりしてたみたい。おかえりなさい。今、何か話しかけてくれてた?、整合騎士の皆さんとのお話、終わったの?」

「ただいま……ただいま、アスナ」

 

あの戦場でも伝い合った言葉だが、本来なら次にキリトがアスナへその言葉を告げられるとしたら、それは二百年も先になるはずだったのだ。それを何も伝えなかったのに感じ取り、決断してくれた彼女の細い身体を抱き寄せる。こんなにも華奢な肢体の中に驚くほど強い意志を秘めていて、あの牢獄のような世界で初めて出会った時から何度もその強さに驚かされ、救われ、惹かれてきた事を思い出したキリトは例えこれまでの二年間が耐えられたからと言って、これから先の二百年が耐えられると思った自分の浅慮さを激しく後悔した。

 

「アスナ、ありがとう」

 

突然の言葉だったがアスナはふわり、と笑って「うん」と応え両腕を広げると、当たり前のようにキリトが抱きしめてくれる。アンダーワールドにダイブするまでは顔さえ見られずガラスの向こうで医療用ジェルベッドに横たわったままピクリとも動かない和人の姿を思い出したアスナの瞳から一滴の涙が落ちた。

 

「もう、大丈夫だよ……アリスはちゃんと《ラース》に保護して貰えたし、キリトくんの身体は安岐さんが責任を持って守ってくれるって言ってたから…あ、もちろん私の身体も、だけど」

「安岐さん!?」

 

そうか、と思い当たって看護師であると同時に安岐のもう一つの肩書きを明かすと、ぐったりと力の抜けたキリトの頭がアスナの肩に落ちてくる。

 

「それじゃあ今、オレとアスナの身体は伊豆諸島沖に停泊しているメガフロート内部にあって、安岐さんや菊岡さんと一緒なんだな」

「うーん、多分、だけど他の場所に移動するんじゃないかな。元々キリトくんのご家族にはちゃんと説明するって言ってたし」

 

襲撃に遭ったこともあるが、あの施設に一般人を招き入れるわけにはいなかいだろう。

 

「ってことは、オレと同じようにSTLを使用しているアスナの両親にも……」

「あ、そうだね」

 

《オーシャン・タートル》へ向かう時、核心をぼやかしたままの説明に明日奈の母である京子が納得していない事はわかっていたけれどそれでも送り出してくれたのだから、今の自分の決断もなんとなくだが理解を示してくれそうな予感がしていた。しかしキリトの方は自分の為にアスナをこの世界に引き留めてしまった責任に顔を青くしている。

 

「折角……京子さんとも普通に会話ができるくらいになったのに……」

「意外とお父さんの方が暴走してるんじゃないかなぁ」

「えぇっ!」

「でもそれはキリトくんに対してじゃないから安心して……それより、もしかして、なんだけど……」

 

少し言いづらそうに上目遣いで見つめられたキリトは「ん?」と首を傾げた。

 

「私達の意識がない所で、ご両家顔合わせ、なんて状態になってたりして……」

 

アスナの予想にキリトが更に顔色を悪くさせて「うえぇっ」と情けない声を上げる。こんな状況になってしまえばアメリカにいる父親も帰国するだろうし、手間と時間を省くために二人の親達を同時に召集するくらいむしろ率先してやりそうな人物がアリシゼーション計画を仕切っているのだ。

いずれは互いに紹介し合うことになるだろうが今じゃないだろ、とキリトは再びアスナにもたれかかる。しかも当人同士が昏睡状態のままで両家が揃う場にいるのがアノ眼鏡の役人かと思うと気が気ではない。とは言え、今の自分達に出来るのはその予想が外れる事を祈るくらいで。

 

「それは……もう少し先にして欲しかったな。せめて普通にオレ達が同席の上で」

「うん、そうだよね」

 

ポンポンとキリトの背中を慰めつつもアスナはきっと冷静に対応するのは母だろうなぁ、と確信ともいえる思いに表情を和らげた……まるで今の自分のように、と思えば今まで意識した事はなかったが意外な部分で母親似なのかもしれない、と新たな認識に遠い存在となってしまった両親や兄へちょっとだけ切なさがこみ上げてくる。

けれどそれを振り払うように軽く頭を振ったアスナはいつもの柔らかな笑顔をキリトに向けた。

 

「アリスもリアルワールドで頑張ってるんだから、今は私達もこの世界で頑張らないと」

「そうだな」

「あと《オーシャン・タートル》へ行く為に神代博士も協力してくれたの。それでごめんね、ユイちゃんに頼んで勝手にキリトくんのPCにあった凛子さんへのアドレス、使わせてもらっちゃった」

「それはいいけど……え?、ちょっと待ってくれ…オレがあの夜、ジョニー・ブラックに襲われてから何日経ってるんだ?」

 

その質問にアスナは少し苦しそうな顔で「十日くらい」と答える。

和人が倒れ、ユイに励まされながらシノンやリーファと共に《ラース》へと辿り着き、神代博士にメールを送ってから実際の大型海洋研究母船《オーシャン・タートル》に乗り込むまで一週間以上かかってしまった。そこで過ごした時間とアンダーワールドにダイブしてからの時間を足せばちょうどそのくらいになるだろう。

キリトにとっては二年分の時間と経験の重みがたった十日間に凝縮されてしまったような感覚なのか、驚愕と呼べる表情に「大丈夫だよ」と伝えたくて、包み込むように背中に回した両腕に力をこめると、それを引き剥がすようにキリトがアスナの肩を押し返した。

 

「十日…たった十日……」

「キリトくん……大切なのは時間の長さじゃないよ」

 

PoHと対峙した時、絶望的な状況でアスナに力を貸してくれたのはもう《現実世界》からは旅立ってしまった年下の女の子だ。彼女と共有した時間は決して長くはなかったが、これから先もずっと心の中から消える事はない。

しかしキリトは「違うんだ」とアスナの言葉を軽く否定すると、慈しむような仕草でその頬をゆっくりと撫でた。

 

「そうじゃないんだ。オレの事じゃなくて……たった十日で《オーシャン・タートル》の存在まで見つけて神代博士にコンタクトを取り、乗り込んだって言うのか?」

 

アスナの無言の肯定にキリトの顔がくしゃり、と歪む。

 

「自分がどけだけ無茶な真似をしたかわかってるのか、アスナ……」

「だって……私はきみのいく所ならどこにだって一緒にいくって決めてるの」

 

拗ね顔のアスナの額をとんっ、と人差し指で弾いたキリトはすぐに彼女の片方の手を掴むと少々強引に窓辺から引き剥がした。

 

「どうせまともに寝てないんだろ」

 

口をつぐんだまま大人しくキリトに手を引かれているアスナの手はすっかり体温を取り戻していたが、それでも安心は出来ない。デスゲームに囚われていた時もアスナはキリトさえ驚くほど睡眠時間が短かった。自然と目が覚めてしまうと言っていた時もあったし、『血盟騎士団』に所属していた時はギルメンと自分のレベリングに睡眠時間を削っていたのは明らかで、それでも二十二層の森の家で過ごしていた時はキリトに負けず劣らずうたた寝をするようになっていたから、精神的に不安定な時は睡眠に影響が出るタイプだと知っているのはキリトだけかもしれない。

離ればなれになってから約十日間、周囲には大丈夫と言いながら驚くべき洞察力と行動力で軍の機密施設まで追いかけてきてくれたアスナがそんな場所で安眠なんて出来るはずもなく、最終的にはこのアンダーワールドでキリトと関わった女性達と共に彼の話題で夜遅くまで語らっていたのだから「本当にもうどうしてくれようか、この女神サマは……」と、キリトはリビングを横切りながら、アスナの体調を思うと離れていた期間が十日程で済んだのはまだ幸いだったのかもしれないと考えを改めた。

 

「とにかく今日はもう横になろう」

 

寝室に連れて来たアスナは、じいいっ、とベッドを眺めているが、キリトは先にぼふんっ、とシーツの上に腰掛ける。

さっき案内された時、戸口から覗いただけでも頬が痙攣しそうになった広い寝室とその場にあって全く見劣りしない大きめのベッドは中に入って近くで見ると更に不相応に思えてきて、けれどあの森の家ではベッドは二つあったがほとんど一つしか使っていなかったので、ここで「やっぱり二つに」と提案するのも違う気がするし、アスナだって既に了承しているんだから二百年も使っていれば慣れるだろう、とキリトは自分を納得させた。

大きさ以外はシーツの触り心地もスプリングの具合も文句はない。

何かを躊躇っていた様子のアスナが、小声で「キリトくん」と呼びかけてきたので顔を上げると、自分達以外には誰も居ないのにアスナは声を潜めたまま問いかけてきた。

 

「このお部屋、昨日まで誰かが使ってた、なんて事はないわよね?」

 

きれい好きなアスナが聞きたくなるのも当然、とキリトは安心させるようにアンダーワールドではチリやホコリの類いの掃除は実に簡単なのだと説明し、ついでにこの部屋が使用されたのはかなり昔だと、さっきファナティオに確認してきた事を伝えると、やっと納得したアスナがキリトの隣に落ち着く。

 

「ホテルのベッドなら気にならないんだけど、まるで使う予定があったみたいにきちんと整えられてたから……」

 

城にいる高位の術師かそれこそ整合騎士が自分達の為にこの部屋を追い出されたのかも、と懸念して、それならこのベッドは昨日まで違う誰かが使っていたのでは?、と思い当たったらしく、それで座ることすら出来ずにいたらしい。《仮想世界》では人の痕跡が物に残るはずがないのはアスナだって分かっているはずなのに、そんな当たり前の感覚すら忘れさせてしまうほどこのアンダーワールドという世界は《現実世界》との区別がつかないのだ。

これでもう気がかりはなくなっただろうから、と就寝を促そうとしたキリトの肩に、こんっ、とアスナの頭が乗っかり、続いて細い寝息が聞こえてくる。やれやれ、と呆れつつもキリトは小さく笑いながら、そっ、とアスナの身体をベッドの上に横たえ、自分もすぐさまその隣に寝転んだのだった。

 

 

 

 

 

すっかり寝入っていたみたい、とアスナが久々に自分が熟睡していた事を自覚したのは二人でふかふかのベッドで並んで横になってから数時間後の事だ。キリトならいざ知らず、アスナにとっては十日程しか時間の距離はなかったと言うのにその存在が懐かしくてついいつものようにすり寄って眠っていたのだろう、すっ、と意識的に離れていった温もりに意識が呼び戻される。

アスナよりも先にキリトが目覚めるのが珍しくて、何かあったのかしら?、とまだぼんやりとした思考だけがもぞもぞと動き始めた時、明らかに負の感情を伴った深い溜め息が重く吐き出され、それがキリトの物だと理解した途端、アスナは身体を強張らせた。悩み事や心配事の類いではない、刺々しい苛立ちを含んだ黒い吐息なんて少なくともアスナの知るキリトが零すとは思えない荒んだ行為だ。

続いて耳が拾った微量の低音はキリトが起きていると知らなければ、彼が寝ぼけて意味のない単語を並べただけと思っただろうが……

 

「やっぱり、アスナと一緒には……眠れないな……」

 

その言葉にサーッと血の気が引いた。

まるで全身が冷たく、固く、心臓すら止まった氷像になったような感覚に陥る。

「やっぱり」と言う事は、キリトが目覚めてしまった理由は予想通りアスナが原因と言うことだろうか、それとも既にその予感があってアスナが安心しきって眠っている間、彼は一睡も出来ずにいたのだろうか?……認めたくはなかったがアスナ以外の誰かとなら一緒に眠れると言いたげなその呟きに真っ先に浮かんだ人物は金色の長い髪に蒼い瞳の女性剣士だ。キリトは彼女と一緒に半年間も二人で生活を共にしていたのだから心神喪失状態だったとは言え気を許している部分は大きいだろう。けれど、今、彼女はこの世界には存在していない。それとも誰か別の人?、とアスナはあの晩、幌馬車に集まった女性達を思い出しながら拒否感から溢れ出てしまいそうな涙を懸命に堪えた。

アンダーワールドに強制的にダイブさせられてキリトが必死に生き抜いてきた二年間、たくさんの人達と出会っただろう。閉じこもってひたすら時間が過ぎるのを静観しているような性格でないことはアスナも分かっているし、菊岡や比嘉からもその行動力や影響力は驚きや賞賛と共に語られていた。だからこそ身を以て知っているのだ……二年間という時間はキリトと関わった人の感情を大きく揺さぶるのに十分な時間である事を。




お読みいただき、有り難うございました。
アニメ版だと最終的にはステイシア・アスナにも羽が生えて
飛んでましたけど、ご本家(原作)さまでは飛べない設定なので、
そちらで。
あの羽はキリトさんの心意による物だったらしいですよ。
ほほぅ、キリトさんのイメージだと「アスナに羽を」と思った場合
天使の羽っぽいのが具現化されるんですね(笑)


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〈UW〉君とはじまる・後編

「やっぱり、アスナと一緒には……眠れないな……」
二人並んでベッドに入った数時間後、ひとり起き上がったキリトの
呟きを聞いてしまったアスナは……
という前話の後編です。


息を止めたままどれくらいの時が経っただろうか……多分、キリトが思わず吐露した本音を聞いてしまってからほんの僅かな間だったのだろうが、アスナにとっては時間さえも凍り付いてしまったように長く感じる。

すると触れ合っていた肌を自らの意志で遠ざけたキリトは、更に彼女から距離を取るように、むくり、と起き上がった。

もし、少しでもアスナを気に掛けて、その寝顔を見ようと振り向けば泣き出す一歩手前の彼女の瞳がまっすぐ自分を見ている事に気づいただろう。けれどキリトはアスナに背を向けたまま項垂れて何か思い悩んでいるようだ。

アスナと一緒では眠れない……ならばキリトにとって悩んだ先の選択肢が少ない事はアスナにもわかって、もう一度、今度はさっきよりも幾分小さく息を吐いたキリトがベッドに手を突き、立ち上がる為の予備動作に入った時、一番選んで欲しくない選択をキリトがしたのだと解釈したアスナはピシッと心にひびが入る音を聞いた気がした。

 

「どこに、行く…の?」

 

誰かが待つ場所に行くの?、と思いながらキリトを呼び止めた声は随分と掠れていて、しかしキリトはそれを寝起きだからと思ったらしく、すぐにいつもの優しい笑みで振り返る。

 

「起こしちゃったか?……」

 

少し気まずそうに見えるのは自分の心に渦巻く不安のせいだろうか?、とアスナはもっとよくキリトの顔を確かめたくて同じように身体を起こした。

近くから覗き込めばアスナの大好きな漆黒の瞳には隠し切れていない苛立ちがうっすら漂っていて、それがさっきのキリトの独白と重なり自分の考えが単なる思い過ごしかも、という願いを消し去る。声を掛けなければキリトは静かにベッドからおりて部屋を出て行き、そのままアスナが知らない二年間で心を開いた人の元へと向かうつもりだったのだろうか。

キリトが自身のフラクトライトを攻撃してしまう程の強烈な後悔と絶望に飲み込まれてしまった時、隣に居られなかったアスナが言える事は彼の行為を認め許す事だと心に誓ってこの世界にやってきたはずなのに、アスナ以外の誰かがキリトを支え、キリトもまたアスナよりもその人物への気持ちの方が大きいのだと思うと、それを受け入れる事は容易ではなかった。

《現実世界》では自分の選んだ進路へ向かう時は共に明日奈も、と欲してくれた和人だったが、それはもう彼の中では二年前という過去になっていて、「アスナが居ないとだめだ」と言ってくれたキリトはとっくに存在せず、今のキリトはもう別の人のものだと認める勇気なんて、どこを探しても見つからない。

全てをひっくるめて、どうしたらいいんだろう……、と途方に暮れるアスナにとって頼れる人物はやはり一人しかいなくて、情けなくも「キリトくん……」と名を呼んでしまい、次の言葉が見つけられずにいると先にキリトから「ごめん」という謝罪がぽつり、と返ってきた。

何に対してなのか、もうアスナへの気持ちは薄らいでしまったという告白は聞きたくなくて、身を硬くしていると目を合わせないままキリトが言葉を続ける。

 

「アスナの腕が切り落とされるのも、その身体が顔も見えない赤い兵士の剣に貫かれるのも、地面に膝を突いて血を吐いていたのも、みんな分かってたのに……オレは、何も……」

 

絞り出された声を聞いた瞬間、それまで石のように動けずにいたアスナは気がつけばキリトを抱きしめていた。

 

「ちゃんと…ちゃんと守ってもらったよ。《現実世界》の私はキリトくんのお陰でかすり傷ひとつついてないよ。だから……」

 

今度は自分が彼を守る為に、と思っていたのだが、この状況はキリトにとって望むべき結果ではなかったのかもしれない、と思っていると、キリトが「アスナ、悪いんだけど……」ともぞもぞと居心地が悪そうに身体をよじらせる。ぱっ、とキリトを包み込んでいた両腕を離し「ご、ごめんね」と隣に座ったまま、シーツを見つめるアスナだったが続くと思っていたキリトの声が途切れたままなので盗み見るように、そっと顔を上げると、そこにはやはり気まずそうに視線をそらした彼が途方に暮れた様子で肩を落としていた。

さっきより苛立ちは薄まったように感じるものの、触れられる事すら厭うキリトの態度に少なからずショックを受けたまま何も話しかけられずにいると、何度目かわからない溜め息をついてからキリトが覚悟を決めたように打ち明けてくる。

 

「……さっきまではとにかくアスナの体調が心配で、そればかりに気を取られてたんだ……だけど……」

 

途切れた言葉の先の怖さに、こくっ、とアスナが唾を飲み込んだ。

 

「オレの感覚だともう数年前の記憶なのに、同じベッドに並んで眠ってみたら隣にアスナの温もりがあって、アスナの寝息が聞こえて、アスナの匂いがして……今更なんだけど、目を閉じていてもわかるくらいにアスナがオレの隣にいるんだなって実感したら……」

 

それはアスナも同じような感覚に陥ったので黙ってその続きを待ち受けて両手を握りしめる。

 

「もう眠るどころじゃなくなった……」

「え?」

「だから……我慢できそうにないんだ……」

「なにを?」

「……アスナを」

 

素直な告白に驚いて目を見開いていると、顔を背けたままのキリトの耳が真っ赤になっているのに気付いて今度はアスナが、ふあぁっ、と全身の力を抜いて大きな息を吐いた。

 

「…それじゃあ、キリトくんが眠れない理由って……」

「アスナに……触れたい」

 

言葉と同時にキリトが真っ直ぐアスナを見つめる。

 

「ごめん、アスナはこの世界に来たばかりで色々不安だろうし、今までずっと《アンダーワールド》の為に戦い続けてくれて休息だって必要だ。それにいきなり《現実世界》に戻れなくなって……だから、アスナに触れたいなんてオレの我が儘なのはわかってる」

 

だから一緒にはいられないと、我慢が出来ないから逆にアスナから離れる選択をしたキリトの優しさが逆に彼女を誤解させ傷つけたのだが、それをアスナは「仕方ないなぁ」と苦笑ひとつで流した。

 

「もうっ…私はいつだってキリトくんのものなのに」

「それっ、て……」

 

ほんの少し前まで触れる事さえ厭うていたキリトがアスナの笑顔に引き寄せ慣れるように身体を乗り出してくる。けれど今度はアスナがキリトの接近を「あ、でも、ちょっと待って」と一旦拒んで、ふいっ、とキリトの視線から逃れた。

 

「えっとね……ちょっと確認したいんだけど……」

「確認?」

「この世界の愛情表現って《リアルワールド》といっしょ?」

 

アスナの言わんとしている事がはっきりと分かっているわけではなかったが、自分の知る限り表現方法に違いはなかったと感じていたキリトは少しの戸惑いを含ませながらゆっくりと頷く。

 

「だと思う……実体験はないから自信を持って、とは言えないけど」

 

やましさは全くなかったっ、とステイシア神に誓って言えるが……とは言え、よく考えればそのステイシア神の生まれ変わりと囁かれている人は今、キリトの目の前にいるわけで……とにかく、この世界の女性を何人か抱きしめた記憶はあるものの、アスナに対して後ろめたい気持ちは一つもない。だからキリトの感覚で言えば異性に特別な情を示した覚えはない、と言うことになるのだろう。

《アンダーワールド》にダイブしてから交流のあった女性達の様子から見るにキリトの感覚とのズレを感じずにはいられないアスナだったが、それはこの世界に限ったことではないので、内心で「やっぱり」と溜め息をついて少し意地悪な口調になってしまう。

 

「二年間もこの世界にいて?」

「当たり前だろ」

 

平然と言い切ってくるキリトに毒気を抜かれたのか、これ以上考えても仕方ないと割り切ったのか、こっそり「キリトくんだもんね」と納めていると「それよりも、アスナ……」とさっきよりも近くからキリトの声が振ってきた。

 

「その手の確認はオレ以外の男に聞くの、絶対ダメだから」

 

他の雄を警戒する言葉が五十階の大広間で聞いた声音と同じだと気付いたアスナが顔を上げるとそこには唸りを上げるような熱を再燃させ、けれどそれをギリギリのところで抑え込んでいるのか苦しげな顔のキリトがいる。

そんな心配や我慢はどこにもいらないのに、とアスナがキリトの胸へ額を押し付けるとそこから直接頭の中にキリトの感情が響いてきた。

 

「ごめん……多分…いや、絶対…加減できない」

 

それでもいいか?、と問いかけてくる漆黒の瞳の奥はとっくに飢えた獣を思わせるギラついた欲が灯っているが、そんな物、見なくてもわかっているアスナはすぐにキリトの胸元を一回だけ上下に擦る。

 

「オレにとっては…二年ぶりのアスナなんだ」

 

最後に気弱な言い訳なのか、渇望しすぎて思うように喉から声が出せないのか、掠れ声にアスナが顔を上げて応えようと唇を開いた途端、黒い獣は噛みつくようなキスをした。




ここまでお読みいただき、有り難うございました。
続きは「R−18」となりますので18歳以上でこの先が気になる方は
別枠に移動をお願いします。


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・はじまり

「ソードアート・オンライン」のキリアスSSを投稿し始めて5年と半年、
この度《かさなる手、つながる想い》が100話を達成しました。
読んでくださる皆様の存在がとても大きく、改めて深く感謝申し上げます。
そこで記念として少し長めのお話をお届けしたいと考えました。
がっ……ここで皆様にお願いが(苦笑)
少し設定が特殊なので読み手の方に「脳内変換」作業を行って
いただけると、キリアスSSになる仕様です(笑)
100話目にしてお手数をおかけしますが、よろしくお願いします。


それは世に言う「反抗期」とされる年齢ゆえの行動だったのかもしれないし、単なる気まぐれだったのかもしれない。

いつも通り、家政婦さんが作ってくれた理想的な夕食を一人で食べ終えた後、自室でぼんやりとしていた時にふと思いついた考えを実行してしまったのは。

いつもなら学校の宿題をしているはずの時間だったが、たまたま夕食前に済ませてしまい特にする事もなく、日中に中等部のクラスメイト達が話題にしていたコンビニという単語がうっかり脳裏に浮かんでしまったのと、運良くと言うのか運悪くと言うのか、一ヶ月ほど前に家から徒歩で十分もかからない場所にそのコンビニなる存在がオープンしたからだ。

 

「えっと、地域限定?…期間限定……だったかな?」

 

とにかく同じクラスの生徒でも挨拶くらいしかしない女子達が教室の自分から少し離れた場所に集まって、少々ボリューム過多の声量で話していた単語を正確に思い出そうとして「ま、どっちでもいいわ」と諦める。

小中一貫教育の私立の有名女子校に通っていても偏差値をキープする事をモチベにしている生徒ばかりではない。

人は人、自分は自分なのだからと頭では理解していても同意できない事項にはクエスチョンマークが付き、こっそり好奇心が芽生える。春から中学二年生になったが相変わらず勉強、勉強の毎日で、それを苦痛とも思わなければ楽しいとも思わない単調な繰り返しだったが、そこに疑問も抱かない生活の中でなぜそんな単語が浮かんでいつもなら起こさない行動の後押しをしたのか、靴を履きながら玄関先で考えてみたが結局よくわからなかった。

家ではほとんど顔を合わせることのない両親や兄が嫌いなわけではない。

人に誇れる立派な仕事をして忙しいのだとわかっているし、自分の成長に必要な物は潤沢に与えられている……主に学業面においてだが。

だからわざと心配をさせたいなどという試し行動ではなくて、ちょっとだけそのコンビニという小売店まで行って中を覗いて帰ってくるだけ…「そう、軽いお散歩なの」と自分に言い訳をしながら玄関の重厚なドアを開けた。

通学に使う駅に向かうのとは反対方向だが閑静な高級住宅街の道というのはどこも似た感じで、広い車道の両脇には一定の間隔を開けて街灯が並んでいる。時折、静かなエンジン音を携えて乗用車が通り過ぎる時だけそのライトが眩しい程の光量で周囲を照らし出した。

自分の足で歩くのは久しぶりの道だったが、小道や横道があるわけでもないので迷いのない足取りを続けていると目当てのコンビニが見えてくる。住宅街の中を来たはずなのに高い塀や樹木が並んでいた為、歩道まで家の灯りが届いていなかったせいで囲いのないコンビニはその存在自体が目映い光の塊のようだった。

「まるで深海で獲物をおびき寄せている生物発光みたいね」と思いながらも素直にその光に引き寄せられる。

だが、コンビニの駐車場に足を踏み入れた時、靴の裏の違和感に気付いて歩みを止めた。なんだろう?、何か小さい金属のような固い造形物を踏んでしまったような感覚……一端片足を後退させて腰を折るが、何かは見えるのに何なのかまではわからない。

コンビニの光もそのコンクリート地面までは十分に届いていなくて、なぜか吸い寄せられるように手を伸ばした。

そして普段なら考えられない夜の散歩と初めて訪れるコンビニという存在に少なからず平常心を欠いていたのか、指先が冷たい感触を拾った直後、軽くよろけてしまい「きゃっ」と声が飛び出す。

一瞬だけ目を瞑ってしまったが、すぐに足を動かして転ぶことなく体制を立て直すと……

 

「え?…………ここ、どこ?」

 

目の前では昼間の明るい太陽の下、大勢の人達が行き来をしていた。

前だけではない、後ろにもたくさんの人が歩いていて、その人達は皆幸福そうな笑顔と生気に満ちた動作で陽の光をいっぱいに浴びながら自身のやるべき事をしている。ある者は大きな荷物を担いで先を急ぎ、またある者は荷車を引いていた。後ろからその荷車を押している子供とは親子なのだろうか、重そうな荷だが二人の顔に悲壮感はない。

女性の姿も少なくなかった。連れだってお喋りをしながら歩いている二人はそれぞれ似たようなカゴを持っている。幼い子供の手を引いて歩く母子らしい二人連れもいた。

そしてこの場に居る人達はみな中世ヨーロッパの庶民のようなゆったりとした綿素材と思われる衣服を身につけている。

 

「なに?!、なんで?!、どうして?!」

 

沢山の人達が行き来している往来の真ん中に呆然と立っている自分の方が完全に異邦人だ。それなのに周囲の人々は彼女に気をとめることなく、まるで透明人間の扱いで素通りしていく。

 

『落ち着いてくださいっ』

「ひゃっ」

 

突然響いてきた可愛らしい声に驚いてキョロキョロと辺りを見回すが、声の主らしき人物は見当たらず、更に混乱を極めようとしていると、再びさっきの声が聞こえた。

 

『私の姿は見えてないのでアタナに直接声を届けているんです』

「ちょ、直接!?」

『はい、ちなみにアナタの姿や声も周りには認知されていないので安心してください』

「そんなの全然安心できないわよっ」

 

要するに今、自分は幽霊のような状態になっているのだろうか?、と思い至ってしまえば、その手の存在が苦手な分恐怖が増すが、更に別の可能性に思い至って自然と身体を震え出す。

 

「えっ?……もしかして…わ、わたし……死んじゃった…の?」

 

全く身に覚えはないけれど、こっそり夜に家を抜け出し初めてのコンビニへと向かう途中で知らないうちに死んでしまったなんて、余りにも惨めだ。しかし少女の今にも泣き出しそうな声に被さるようにして大慌ての否定が彼女の頭の中に響き渡った。

 

『違いますっ、違いますっ、死んでなんかいませんっ』

 

えっと…だったらこの状況は何なのだろう?、と全く自分の知識では推し量れない現状に少女は人差し指をおとがいにあて考え込む。次に思いついたのは「夢?」という万能の言葉だがそれを口にする前に頭の中を読んだのか、またもや否定の声が飛んで来た。

 

『ちなみに夢でもないです……あ、でも夢とあまり変わりないかもしれませんね』

「どういう意味?」

 

ここは素直に聞くのが一番早いと結論付けた少女が問いかける。すると頭の中の声はちょっと安心したようにゆっくりと語り出した。

 

『アナタはこのゲームの世界に転移したんです』

「ゲ、ゲームの世界?、転移?、なにそれ」

『あれ?、随分思っていた反応と違いますね。「ついに私がっ!?」とか「やっぱり本当にあるのねっ」とか、もう少し興奮してもらえると思っていたのに……』

 

なぜか、シュンとしてしまった声に少女は少し唇を尖らせる。

 

「だって、ゲームなんてした事ないんだもの」

 

トランプ程度なら経験はあるが、きっと声の言うゲームとは違うんだろうくらいはわかって、知らずに手をギュッと握りしめた。既に世の中は革新的なヘッドギアタイプのデバイスの誕生が秒読み段階で、それに伴い世界初となるVRのMMORPGが発売されると噂では聞いたことがあるが、もともと彼女の家庭環境では遊戯に関連する電子機器は買い与えない、という暗黙の了解みたいな物が存在していた。彼女自身も特に欲しいと熱望を抱かなかったのだが「知らない」「持っていない」「使った事がない」といったワードは思春期の少年少女達にとっては時として自分や相手を貶めるきっかけにもなるわけで……少女は自分の父親が大手の総合電子機器メーカーの人間であるにも関わらず、自身の無関心のよる無知さに頬を染め、それを隠すように俯いた。

だが、下を向いた所で直接聞こえてくる声には何の意味もなく、次に吐き出されるであろう嘲笑を込めた言葉に備えて身体を固くしていると、意外にも軽やかで嬉しそうな声が跳ねる。

 

『だったら私がガイドを務めますっ』

「ガイド?」

『はい、本来は初期説明だけで後はプレイヤーさんに自力で攻略していただくのですが、アシスタントAIとして私が常にご一緒します』

「ほ、ほんと?、ずっと一緒にいてくれるの?」

『あくまでサポートとしてです。それに夜はデータ整理の時間なので一日中ずっと、というわけにはいきません』

「それでも構わないわ。ありがとうっ」

 

心強い味方を得たところで少女は早速、今の会話でわからない単語の説明を求めた。

 

「あの、あなた……今、アシスタントAIとして、って言ったわよね?」

『はい、言いました。私はAIですから』

「AI……」

 

少女は自分の身の回りに搭載されているAIとのやり取りを思い出し首を傾げる。ここまで滑らかでスムーズな会話が成立するAIなんて経験したことがない。

 

「あなた、とっても高性能なAIなのね」

『有り難うございます。でもまだ試作段階なんです。だからこうやって沢山の人の考え方や行動パターンをリサーチする為にゲーム世界に転移したプレイヤーさんを観察させていただいてます』

 

収集したリサーチデータを整理する為に夜の時間を使うのだと理解した少女は次の質問に移る。

 

「それで私はここで何をすればいいの?、さっき攻略って聞こえた気がしたけど」

『アナタはこれからここで生活をしながらいくつかのイベントを経て対象の青年を攻略して頂きます』

 

途端に説明口調になったAIに少女は驚いて顔をプルプルと横に振った。

 

「無理無理無理っ。攻略って……つまりその相手を攻撃して打ち負かすことでしょう?、しかも男性なんて、どんなに特訓したって私には無理だと思うの」

 

運動神経は決して悪くないと思っているが人に対して攻撃なんて物騒な真似はした事がない。少女が及び腰になった途端、無機質だったAIの口調に焦りが混じった。

 

『意味が違いますっ……いいですか?、ここは乙女ゲームの世界なんです』

「乙女…ゲーム?」

『はい、これからこの世界で何人かの攻略対象となる青年に巡り会うことになってるので、その中でアナタが選んだ人と恋人になって下さい』

「こっ、恋人!?」

『最後にその人と一緒にこの街を治めているお城まで来ればゲームはクリアとなり、アナタは元の世界に戻れます』

「えっ!、よかった、戻れるのね」

『だってアナタは「転移者」ですから。この世にはある日突然それまで自分が生きてきて世界とは異なる世界に引き寄せられたり、終わったはずの人生の記憶を持ったまま生まれたり、思い出したりする人がいます。そういう人は「転生者」と呼ばれる事が多いんですが、アナタの場合はもとの世界と平行世界にあるこの乙女ゲーム世界に移動しただけなので「転移者」なんです』

「なんだかよくわからないけど……そもそもどうして私が『転移者』になったのかしら?」

 

何か条件があるの?、と小首をかしげる少女にまたもや声は当然と良いだけに『そんなの決まってます』と堂々と言う。きっと姿が見えていたらふんっ、と胸を張っているだろう。

 

『コンビニの前で躓きましたよね?、たからです。コンビニの前で躓いたら異世界に飛んでしまうんです』

 

常識を語るような口ぶりの声とは逆に少女は心底理解出来ない、と愛らしい顔を盛大にしかめた。しかしここで更なる説明を求めても時間の無駄だと開き直ったように気合いを入れなおす。

 

「なんだかよくわからないけど、とにかく戻れるなら頑張るっ」

『はいっ、私も出切り限りサポートします』

「ありがとう、っ!……あなたの事、なんて呼んだらいい?、名前は?」

『私はAIなので試作製品としてのロットナンバーしかありません』

「ナンバーで呼ぶのも変だから……」

 

そう言って少女はニコリと笑った。

 

「アイちゃんっ、AIだからアイちゃんて呼ぶわっ」

『私の……名前……有り難うございますっ。ではアナタの名前も決めて下さいっ』

「え?、決めるって、私にはちゃんと名前が……」

『プレイヤーネームです』

「ぷ?」

『ゲームを始める時の基本です。それが決まったらゲームスタートですっ』

 

心なしかウキウキ感の増した声が先を急かす。

 

『決まったら教えてくださいっ。決まりましたか?』

「ま、待っ…なっ……」

『「ママナ」ですねっ、登録完了ですっ、』

「えーっ!」




お読みいただき、有り難うございました。
先に謝罪を……連日投稿の予定でしたが、やはり難しくなって
しまいましたので、「はじまり」話から切りの良い「ご」話までを今月は
お届けしたいと思います。
(残りは次月で……ほんと、すみません)


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・に

転移した先で少女は……


街一番の繁盛店と言われるだけのことはある食堂のフロアでエプロンを翻しながら笑顔で接客をしているママナにつられるように食事をしながら彼女を盗み見ている男性客の目尻は下がり、鼻の下も伸びているが、実は当の彼女は顔には出さずアイからの言葉を全力で拒否していた。

 

『ママナっ、あの客さん、攻略対象者ですっ、もっと積極的に声をかけましょうっ』

(無理だよー、アイちゃん。他のお客さんのオーダーも取らないとだし……)

 

そうこうしているうちにアイが言っていた青年が昼食を食べ終わり席を立つ。

 

「ごちそうさんっ。ママナ、代金はここに置いとくぞっ」

「あ、はーい、エギルさんっ。有り難うございましたっ」

『あっ、帰っちゃいますっ』

(だから今は後片付けもあるしっ、出来たお料理も運ばなきゃだしっ)

『そんな事を言ってたら攻略できませんっ』

(そもそもエギルさんて奥さんいるのよっ、アイちゃんっ)

『でも毎日ここにご飯を食べに来てます。この街でも手広く商売をしてる人なんですよ、頑張ってくださいっ』

(そーゆーの頑張れないしっ、毎日ご飯を食べに来てくれてるのは奥さんが身重だからだものっ)

 

ママナは噛みつくようにアイに叫んだ……内心で、だが。

アイが言うところの《豪商エギル・ルート》は毎日ママナが働いている食堂に通ってくれるエギルにアプローチして攻略しなければならないのだが、エギルは妻帯者で食堂に来るのも身重の奥さんの負担を減らす為に弁当を断っているからなのだ。そんな相思相愛の夫婦の間に割って入りエギルを振り向かせるなんてママナには出来る気もしないし、やりたいとも思えない。

 

『それじゃあママナは《エギル・ルート》は選ばないんですね』

 

ちょっと拗ねたようなアイの声にママナは毅然と答えた。

 

(そうよ、エギルさんはあくまでもこの食堂の気の良い常連のお客さん)

 

それに相手の容姿をどうこう言うのは好きではないが、色黒で禿頭で体格も良く世話好きのエギルは恋愛対象の青年というより頼れる親戚のお兄さんにしか見えない。

ママナはエギルが置いて行った料理の代金ときれいに空になった食器をトレイに乗せてからササッ、と布巾でテーブルを拭くと、振り返ってタイミング良く店に入ってきた客に「いらっしゃいませっ」と元気良く声を掛けた。

 

 

 

 

 

この乙女ゲームの世界に転移してから既に五日。結局咄嗟に発してしまった「ま・ま・な」をつなぎ合わせた三文字がキャラネームとして認定されてしまった少女はガイドをしてくれるというAIのアイが勧めるまま街に溶け込める姿となって食堂で住み込みの給仕係をすることになった。

最初は異世界という場所で右も左も分からない状態に動揺していたママナだったが、約束通り必要な知識はすぐにアイが頭の中でフォローしてくれるし、攻略を成功させれば必ず元の世界に戻れると断言してくれたお陰で元来の前向き思考に切り替わったようだ。それに離れてしまった家族を思うといきなりの失踪はさすがに大騒ぎになると心配していたから元の世界への帰還はこの世界に転移した時と同じ時刻、同じ場所に戻れるのだと知った事も大きな安心となった。

 

(アイちゃん、もう一度確認するけど、攻略対象者の誰かと一緒にお城まで行けば私は自分のもといた世界に戻れて、しかも時間は経っていない事になってるのよね?)

『そのとおりです』

(この世界の人達の記憶にも私は残らない?)

『はい』

 

だったら例え恋心が芽生えなくても、なんとか対象者にお願いしてお城まで一緒に行ってもらえれば条件はクリアするはずだ。今、一番心苦しいのはママナの事を田舎からこの街にいるはずの兄を頼って出てきた身寄りのない少女だと信じて迎え入れてくれたこの食堂のご夫婦に対してだが、そこは給仕係として頑張って恩返しするしかない。

本来ならゲームの初期設定には幾つかの選択肢が用意されてたらしいのだが「乙女ゲーム」の存在すら知らなかったママナにキャラクターの選択はどれが妥当なのか皆目見当がつかなかったので、全てアイの言う通りに街にやって来たばかりで働き口を探している少女として食堂の扉を叩いたのである。ちなみに外見はこれまたアイの希望で髪は本来の長さのまま色がアトランティコブルーになり、今は動きやすいよう左右に分けて緩い三つ編みにしている。顔立ちも幾分元の顔とは違っているが一番驚いたのは瞳の色だ。元の世界では黄色味がかった薄茶色で小さい頃は色々と揶揄されもしたがこの世界では髪と同じ鮮やかな水色になっている。最初は違和感が拭えなかったが、さすがゲームの世界と言うか周りの人達の色とりどりの髪色や瞳の色を見慣れてきた今では全く気にならなくなってしまった。

ちなみに雇ってくれた食堂のご夫婦は見た感じはまだ三十前後くらいで二人共とても働き者だ。

ママナは住み込みなので食堂の二階にある部屋を使わせてもらい、朝はこの食堂のご主人でもある料理長が作った焼きたてのパンと暖かいスープ、それにソーセージと卵付きの食事をおかみさんと一緒に食べる。その後、仕込みが始まるとママナは食堂の周りの掃除や表に置いてある鉢植えなどの手入れをし開店の準備をするのだ。

繁盛店だけあって店を開ければすぐにお客で満席になる。かなり遅めの朝食なのか少し早めの昼食なのか、ママナの元の世界で言うところのブランチを済ませたお客が終われば一息つく暇も無く本格的なお昼ご飯の時間で、戦場のような勢いでお客が次から次へと来店しては栄養のバランスも見た目の盛り付け具合も見事な料理を胃に収め店を出て行く。当然、この目が回るような昼の時間帯が過ぎるまでママナを始め店のご夫婦も厨房の料理人達も一切休みなしで働き続けるのだ。

だからいくら攻略対象者がやって来たとは言え、そこでお喋りに興じる時間などあるはずもなく、ママナは店を出て行くエギルの背中に「奥様、お大事にして下さいねっ」と声をかけるのが精一杯で……その時のエギルの反応は、ちらり、と振り返って親指を立て、短く「おうっ、ありがとよ」と相変わらずの頼もしい笑顔だった。

そうしてやっとお昼のお客が途切れた頃にママナは店の片隅で賄いをいただくのだ。

 

「わっ、豪華っ。サラダに蒸し鶏が入ってる」

「今日はいつもより少し寒いせいか魚の煮込み料理の注文の方が多かったのよね」

 

食堂を閉めているわけではないので、ポツポツとやって来るお客の対応でカウンター近くにいた店のおかみさんが「昼に残った蒸し鶏をピリ辛にして夜のメニューにするから、味付け前のをうちのダンナがサラダに入れたんでしょ。ママナは細っこいからちゃんと食べなきゃ駄目よ」と言いながら、こっそりエプロンのポケットから薄紙で包んだシュガーボンボンを渡してくれる。

 

「有り難うございますっ。それに、いつもご飯、私が先に食べちゃってすみません」

「あら、いいのよ。私は後でダンナと一緒に食べるもの」

 

カラカラと笑うおかみさんが、普段は無口な料理長から熱烈なプロポーズを受けてこの食堂に嫁いできた話は有名らしく、ママナは働き始めた初日にお客さんから聞いて他人事ながら胸をときめかせた。しかしママナは肝心の料理長の声を聞いたことがない。料理の注文を伝えても頷くか手を上げるかで返事をしてくれるのは他の料理人達ばかり。それでも初日のまかないでソテーされたお肉に手こずっていたら翌日のお肉はちゃんと切ってあったし、ママナのまかないには必ずフルーツの小皿が添えてあって、それを見たおかみさんが「あら…」と言って笑ったから、多分特別なんだろう。

三日目になるとさすがにアイが『無口にもほどがありますっ』と叫んでいたが、料理人としての腕はピカイチだし、それを補うほどにおかみさんが愛想の良い口達者なので、ママナとしては「とってもお似合いのご夫婦じゃない?」とちょっと羨ましい気さえしたほどだ。

だから余計に嘘をついているのが心苦しいわけだが…実は私、転移者なのでこの世界の人間じゃないんです、とも言えないし、雇用条件だってママナの都合に合わせてくれていると思うと益々申し訳なくなって食事の手が止まる。

 

「それに…本当は夜もお手伝いしたいんですけど……」

「あー、それは絶対ダメ。もともと昼食時間に働いてくれる給仕係を募集してたんだし、夜はお酒も出すから酔っ払いの相手なんてママナにさせられないわ」

「でも昼間のお給仕だけで住み込みさせてもらって、ゴハンまで」

「いいのよ。お昼ご飯食べに来るお客さん、ママナ目当てで更に増えたしっ」

「えっ?!」

「それにお兄さん、探さなきゃでしょ?」

「あ、えと、それは……」

「この街、結構広いのよねー。うちはいつまでだって居てくれて構わないんだから、無理せずに頑張って」

 

そうだ、兄を探すために街へやって来たんだったっけ、とママナは忘れそうになっていた嘘の目的を思い出し、ついでに元の世界にいる兄は元気かな?、と少し歳の離れた肉親の顔を思い浮かべた。両親もそうだが兄も大学が忙しいとかで最後に顔を合わせたのがいつだったのか、正確には思い出せない。

ママナが俯いたまま「はい」と返事をするとおかみさんは「ああ、それと」と今までとは打ってかわり芯の通った声で「ママナ」と彼女がこちらを向くのを待った。

 

「お兄さんを探すのは日が暮れるまで。夜は絶対外に出ないこと」

「どうして…ですか?」

「お客さん達が話してたの、気付かなかった?…最近、この国に『カラス』がでるの」

「カラス?!…ってあの、黒い鳥の?」

「そっちじゃなくて『黒の盗賊』とも呼ばれてて深夜に人の家に侵入して物取りをしてるヤツのこと。まっ、うちなんかが狙われることはないでしょうけど、とにかく物騒だから部屋にいてね」

 

実のところ、兄を探すという口実で食堂の給仕係を終えた後はアイにせっつかれて攻略の情報集めをしているのだが、夜中に出歩くほどの体力や気力は残っていないので素直に「わかりました」と答えて楽しみに残しておいたフルーツの小鉢に手を伸ばす。

すると食堂の奥の通用口から一人の少年がゆっくりと入って来た。

お昼の時間もとうに過ぎたというのに、いまだ眠たげな目をして欠伸を噛み殺している。おかみさんはそのその様子に軽く困り笑いを向けて少年を手招きした。

 

「ほらっ、キリト。あんたもここでママナと一緒にご飯食べなさいっ」

「んー」

 

それ返事なの!?、と質問したいような叱りつけたいような気持ちをグッ、と堪えて向かいの席に座った少年、キリトに「お、はよう?」と声を掛ける。時間的には「こんにちは」だが目の前の少年の状態はどう見ても寝起きだ。

 

「んー」

 

どうやら「んー」はキリトにとって返事でもあるし挨拶でもあるらしい。

 

『ママナ、ヘンな人と口きいちゃダメですっ』

 

攻略対象者には声を掛けろってぐいぐい言うくせにー、とさっきのおかみさんのような困り笑いになったママナを見たキリトがポソリ、と声を漏らした。

 

「あ、ごめん…おはよう」

 

ママナの表情を自分がちゃんとした挨拶を返さなかったせいと誤解したようだ。けれど続けて我慢出来なかったらしい欠伸が「ふあぁっ」と出てきたのでママナも堪えきれずに「びゅっ」と笑いを吐き出した。




お読みいただき、有り難うございました。
《豪商エギル・ルート》は選ばない、の回でした。
攻略対象者が妻帯者って斬新ですよね(笑)


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・さん

食堂で働くママナは……


ママナに笑われて居心地がわるそうに頬を指で掻いているキリトの元に「はい、どうぞ」とおかみさんが料理を置いて行く。

 

「しっかり食べて今夜もよろしくね」

「ああ」

 

食べ物を前にしてようやく目が覚めたのか、少し長めの前髪の奥から髪色と同じ真っ黒な瞳が現れた。食事の後はそのまま店で働くのだろう、既にキリトの服装は上下共黒いシャツにパンツ、おまけに手に持っていた上着と指ぬきグローブも黒である。

自分と同い年か、もしかしたら年下かもしれない少年を間近で観察していたママナは、ぱくり、とフルーツを口に入れてモグモグしながらユイに話しかけた。

 

(ねぇ、アイちゃん。ここで働かせてもらってる私が言うのも変だけど、この世界には学校ってないの?)

『士官学校ならあります。一般的な教養は貴族の子達ならそれぞれ家庭教師に教わるんです』

(なら街や村の子達は?)

『親から習ったり、あとはお医者さんが先生になる事もあります。貴族の子達に教えていた人が引退して自分お家の周辺の子達に教える事も……もしママナが貴族令嬢を選んでいたら家庭教師や貴族社会のお茶会で出会った人が攻略対象者になってましたっ』

(そ、そうなのね……うーん、でも……まだまだ攻略は進んでないけど私は今の自分がいいな。もし貴族のご令嬢だったらここのご夫婦や常連のお客さん達とも出会えなかったと思うし…)

『……ママナの反応はいつも私の予測とは違うんですね』

(そうなの?)

『貴族の令嬢より食堂の給仕係の方がいいなんて……綺麗なドレスや華やかな社交界に興味はないんですか?』

(ないこともないけど……着飾ってパーティーに出てもそんなに楽しくないと思うの。私はこの食堂で働いている方が楽しいかな)

 

初期設定で貴族令嬢より食堂の給仕係を薦めたのはアイだ。恋愛SLGの経験値がゼロのママナでは発生イベントの多い貴族令嬢は処理しきれないと考え、どのルートでも攻略対象者が訪れる食堂を選んだのだが、毎日目が回るように忙しい労働の方がいいと言われたアイはそれをデータとして笑顔で受け取った。

 

『ママナが楽しいならいいですっ』

(ありがとう、アイちゃん……でも、そっかー、学校がないならキリトくんみたいにお寝坊さんしても問題ないわけね)

 

再びママナは向かいの席で休むことなく大盛り料理を口に運んでいる黒髪の少年を見た。

おかみさんが言っていた通りキリトはこらからが仕事の時間だからほぼママナと入れ違いなので存在に気付いたのは三日前。顔を覚えたのが二日前。きちんと名前を紹介されたのは昨日のことだ。

夜の営業時間中ずっと店にいるのだが別に調理をするわけでも料理を運ぶわけでもない。さっきもおかみさんが言っていた通り、夜は酒を出すので羽目を外した酔っ払いが店内で暴れたりケンカに発展するのを止めるのが彼の仕事だ。

それを聞いた時は「こんな少年が!?」と思ったが細身ではあるものの意外にも結構強いらしく剣の扱いも相当なもので最終手段として短剣や投擲武器も幾つか身につけているらしい。

ともあれ物騒な事が起こらなければ終始店の隅でじっと待機しているだけなので、どこかのんびりゆったりと構えているこの少年には合っているのかもしれない、とママナはいちを「今晩もキリトくんの出番がありませんように」と祈ってから食べ終えた食器を前に「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

「お先に」とキリトに声を掛けてから立ち上がり、続けて「あ、そうだ」と思いついて一旦ポケットにしまった物を取り出す。

薄い油紙に包まれたシュガーボンボンを二つ、キリトのお皿にのせて「おすそ分け。おかみさんからいただいたの」と笑顔も添えた。

驚いて目を丸くしているキリトに「お仕事、気をつけてね」と言ってテーブルから離れて行くママナの背に、口いっぱいに頬張ってしまったキリトから「んー」の返事が届いたかどうかは定かではなかった。

 

 

 

 

 

攻略は一向に進まないが食堂でのママナは元来の生真面目さを発揮して迅速丁寧で気の利く給仕係へと成長していた。本人も働く楽しさを見出していてその笑顔には無理がない。それに元の世界へ戻ればたとえ高校生になったとしても親から言われているバイト禁止は変わらないだろう。結局、元来の自分は両親に連れられ何度も海外に渡航しているのに、近所のコンビニには行ったことのない偏った人間なのだからこの世界にいる間は自らたくさんの事柄に触れてみたい、と積極的に客にも声をかけるようになっていた。

今日もそろそろ本格的に昼食を求める客が増え始める時間、入り口の扉が開く音に素早くママナが反応する。

 

「らいっしゃいませっ…六名様ですね」

「おうっ」

「こちらにどうぞ」

 

運良く空いていた一番大きなテーブルへと案内する。常連客ならば好き勝手に「いつもの場所」へ座るのだが初めての客だろう、というママナの予想は当たっていたようだ。

 

「…ここの食堂は何が美味いんだ?」

「もう腹がぺこぺこで倒れそうなんだよ」

「とにかく肉が食いたいよなぁ」

 

男性客達が口々に言い合っている様子をしばらくその場で見ていたママナに最初に店に入ってきたリーダー格の赤銅色の髪をした青年が「すまねぇな」と片手を挙げる。

 

「意見がまとまんねーから、ここのお薦めを六人前頼む…………っと、お嬢さん、別嬪さんだな」

「えっ!?…あ、有り難うございます」

 

この手の言葉も少々硬い笑顔で流せるくらいには経験値を上げてきたママナだ。すぐに注文の確認を取るため切り替えようとすると、突然アイの叫び声が頭の中に響く。

 

『ここはもっと喜ばないとダメですっ、ママナ』

(ええっっ!?、だ、だって、おかみさんが食堂の給仕係を褒めるのはお客さんからの挨拶みたいなものだって)

『毎日のように来てママナを娘か孫を見る目で「可愛い、可愛い」って言ってるおじさん達はそうですが、この人は攻略対象者ですよっ』

(こ、この人が……)

 

言われて改めて青年を見るが、この『乙女ゲームの世界』に来て今まで目にしてきた人達とは少し違う雰囲気を持っていて、逆立てている赤銅色の髪には同系色の布を巻き付け顎には無精髭まであり服装もこの街の人達とはどこか異なっていた。同じテーブルについているお仲間と思しき人達もやはり違和感を感じる。

つい、しげしげと見ていた事で何か勘違いをさせたのか、青年が軽く頬を赤くしてから「そうだ」と握手を求めるように片手をママナに向け伸ばしてきた。

 

「俺とこの街の先にある城に行かねーか?」

「ええーっ!」

 

今度こそママナは思いっきり声に出して驚きを表し、お盆を胸に抱えてその手から距離を取るように半歩下がる。身体を反らした事で生まれた空間に棒状の何かが青年めがけて一直線にヒュッ、と飛んで来た。

店内にゴンッ、と鈍い音が響く。

 

「うぉっ!、何すんだよっ、いきなり!」

「それはこっちの台詞よっ、うちの大事な給仕係にっ」

 

おかみさんの威勢の良い声で我を取り戻したママナは今厨房から飛んで来た物の正体を知ってそれを床から拾い上げた。それは昨日、若い見習い料理人が洗い物中、調理場の床へ落とした際に取れてしまった鍋の柄だ。柄だけだし、当の青年の胴にはしっかりと防具が装着されているからそれほど痛くはないはずだが……それにしても見事な投球…いえ投柄?、だったわ、とママナは腕組みをしてこちらを睨んでいる投手の料理長へ一種の尊敬の眼差しを送った。

多分それでも相手はお客だからと頭部ではなく胴部分を狙ったのだろう。キリトが用心棒的な存在としてこの食堂に雇われる前までは荒くれ共の相手は料理長がしていたらしいので納得と言えば納得なのだが「あの人、騒ぎを静める、じゃなくて酔っ払いを沈めてたから、いつ営業停止処分になるかとヒヤヒヤものだったわぁ」と、おかみさんは陽気に笑っていたので料理長は料理の腕を磨くことで腕力も鍛えられたらしい。

今は青年への牽制の一撃を食らわせた料理長から引き継ぎ、おかみさんがママナの前に立ちはだかって鼻先を囓らんばかりの勢いで食ってかかっている。

 

「アンタね、初対面でこの娘(こ)をお城へ誘うなんていい度胸じゃないのっ」

「はぁ?、初対面だろうが何だろうが関係ねーだろ」

 

心底訳が分からないといった表情の青年におかみさんが一拍考えてから口を開いた。

 

「……お客さん、この国に来て日が浅いわね」

「お?、おう、俺達は昨日の夕方、国越えして宿で一晩世話になってからさっきこの街に入ったばかりだ」

「ははーん、その格好からすると傭兵集団ってとこかしら?、宿のお客にこの国のお城の事で何か吹き込まれた?」

「ああ、朝飯ン時、隣のテーブルの奴らがこの街じゃ気になる娘を見つけたら城へ誘うのがいいって……違うのか?」

 

ぐったり、と糸が切れたようにおかみさんの頭が前に落ちる。

 

「アンタね、それ、かつがれたのよ」

 

その後、おかみさんはとくとくと青年に説いて聞かせた。

この国では平民が簡単に城に入ることは出来ないこと、入れるとしたらそれは婚姻の儀式をする時で「城に行こう」は「結婚してほしい」という意味で使われること、だからその決まりを知らないと思われた青年が宿のお客にからかわれたのだということ……それを聞いて後ろに座っていた青年の仲間達は大笑いをしたが青年とママナは一様に口をポカンと開いたまま動けずいた。

しかし先に立ち直った青年は茹でたように顔を赤くして第一声、「わっ、わりぃっ」とおかみさんの背後にいるママナに謝罪の言葉を投げてから「ちくしょー、あのヤロー、そう言えば変にニヤついてやがったしなぁ」とブツブツ文句を言い続けている。

けれど謝られたことすら気付いていないママナは必死に今の説明を反芻していた。

 

(こ、婚姻!?、お城に誘うだけで?…そ、そんなぁっ、そ、それじゃあ私からお城に…なんて……無理っ、無理っ、絶対無理っ。けど相手から誘って貰うって事は……その人は、私と…って事になるのよね。いくらお城がゴールでその後私の事を忘れるとしても、そこまで決心する程想い合わなきゃいけないなんて……)

『だから、それが「乙女ゲーム」なんです』

 

アイの声が若干呆れを含んでいるように聞こえるのは気のせいだろか?、とママナは泣きそうな声で話しかける。

 

(だってアイちゃん、私まだ中学二年生だよ?)

『そのくらいの年齢の子達だって普通に「乙女ゲーム」をやってるし、本当に結婚するわけじゃありません』

 

きっぱりと言い切られてまたしても同年代の子達と自分の違いを認識してしまったママナは次にアイから提示された条件についても相手を攻略するという本質から外れて安易にお城まで一緒に行ってもらえればいいと考えていた自分に落ち込んだ。

 

(アイちゃん、私ね…別に好きになったりしなくても、とにかく攻略対象者の誰かとお城に行けばそれでゴールだと思ってた)

『それじゃ全然「乙女ゲーム」になってません』

(うん、そうだよね)

『だから攻略者との接触よりも給仕係のお仕事を優先させてたんですね』

(そうなの)

『ママナ、ここは「乙女ゲームの世界」です。だからお仕事を楽しむのも大事ですけど、それ以上に恋愛を楽しまないとゴールに近づけないんですよ』

 

ちょっとだけアイの口調が柔らかくなったのはママナがこれまでオンラインゲームとは無縁の生活だった事を思いだしたからか、けれどすぐにいつもの強気のアイに戻ってしまう。

 

『じゃあ積極的に話しかけていきましょうっ、さぁっ、ママナっ』

(えぇーっ)

 

そう簡単に切り替えが出来れば苦労しないわよ、とアイに悟られないようママナは小さく溜め息を付いておかみさんの後ろからそっ、と攻略対象者の青年を見る。これまの人生でちゃんと好きになった人もいないのにいきなりゲーム世界の人と恋愛をするなんて学校の抜き打ちテストより緊張するし、せめて手引き書でもあれば、と思うが、その役割となってくれるはずのアイは攻略対象者を教えてくれるまでで具体的な攻略方法については手助けしてくれない。

始めに教えてくれたのは攻略対象者は五人いること。既に一人目は『豪商・エギル』と判明しているし攻略はしないと決めたから残りは四人……目の前の青年が二番目の人というわけだ。

おかみさんの影に隠れるようにしてこちらを見ているママナに気づいた青年が人好きのする笑顔で語りかけてくる。

 

「驚かしちまったみたいですまなかった。しばらくこの国に滞在する予定だから、ま、その、よろしくな。俺はクライン。傭兵団『風林火山』の団長やってる。んーで、こいつらがダチで団員の仲間達だ」

「おっちょこちょいな団長が迷惑掛けたな」

「許してやってくれ。これでも気の良い俺達の団長だからよ」

 

さっきまでお腹を抱えて大笑いしていた団員達が口々にクラインのフォローをしてくるところをみると団長としては人望のある人なのね、とママナはおかみさんの横に立って微笑んだ。

 

「私も驚いてしまってすみませんでした。お昼ご飯、お任せで六名様分承りました」

「こっちもうちの主人が悪かったわね。お詫びに飲み物は店からサービスされてもらうわ……でも、この娘(こ)はこの店の大事な従業員なの。この国の決まりを知ったからって、そう簡単にお城には行かせないわよ」

 

おかみさんの笑顔が笑顔じゃない……顔をひきつらせたママナの後ろの厨房から同意を示すように一斉に鍋やフライパンを叩く音が聞こえてくる。本当は一刻も早くお城に行ってこの『乙女ゲームの世界』から転移したいのに、もっとここで一緒に働きたい気持ちも確かにあって板挟みになったママナは思わず厨房に叫んだ。

 

「お鍋やフライパンがヘコんじゃいますっ」

 

ママナの一喝で一瞬静まり返った厨房だったがすぐにいつもの雑多な調理の音が満ち始める。その中へママナのオーダーの声が明るく飛び込んで行った。




お読みいただき、有り難うございました。
《傭兵団「風林火山」団長クライン・ルート》は選ばない、の回でした。
何気にゲーム攻略を食堂のスタッフが邪魔するという(苦笑)


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・よん

給仕係にも慣れてきたママナだったが……


数日後、時間的には昼食目当てのお客の胃袋は十分に満たされ、既に店内の人影もまばらになった頃一人の男がふらりと入店してきた。すぐに対応にでたママナが席へと案内すると、イスに座った男はズレてもいない眼鏡を指先で直し「ご注文は?」と尋ねた彼女に「その前にちょっと伺いたいのですが」と油断ならない笑顔で話しかけてくる。

問われたママナは逆に笑顔を忘れてこの男性の真意を看破するようにレンズの奥を睨みつけた。

ただ頭の中のアイの声だけが浮かれている。

 

『ママナっ、攻略対象者ですっ』

(この人が?)

 

ママナはこっそり首を傾げた。豪商エギルに傭兵団のクライン、今までに会った攻略対象者はまだ二人だがどちらも人が良さそうな、それこそ女性が恋をしたくなるような好感の持てる人達なのに今回の対象者からはどうもそれが感じられない。

 

『はい、この人はこの国の諜報機関の室長で……』

「僕はこの街にある城のしがない下っ端役人でして……」

『おかみさんが言っていた盗賊カラスの情報収集に来た……』

「ここの食堂が美味しいと聞いたので来てみたのですが……」

『クリスハイトさんです』

「クリスハイトと言います」

 

(名前しか合ってないじゃないー!)

 

ママナは器用にも心の内で絶叫した。

 

(アイちゃん、私、この人ぜぇったいっ無理!、胡散臭さしか感じないものっ。言ってる事がほとんど嘘ってどういう人なの?!、全然信用できないっ)

『えっと…ママナ、諜報部の人なので当たり前なんです。こういうミステリアスな人も人気あるんですよ』

(そう……なのね……ミステリアス……こういう人をミステリアスって言うの?……攻略対象者なんだから魅力的な人なんだろうけど……)

『はいっ、だから是非仲良くなって下さいっ』

 

なんとか落ち着きを取り戻しつつあるママナにアイが攻略を促す。しかし発言がほぼ嘘の相手とどうやって心を通わせろと言うのか、きっかけを探している間に都合良くクリスハイトの方がママナに話しかけてきた。

 

「アナタはこの店で長く働いているんですか?」

「いえ……一週間くらい、前から、です」

 

諜報機関と聞いてなんとなく返答がぎこちなくなるが、クリスハイトは構わずに嘘くさい穏やかな笑みを浮かべたまま「ところで」と質問を続けてくる。

 

「この食堂は随分繁盛していると聞きましたが、客層はこの街の住民が多いのでしょうか?」

「…ほとんどが、この街にお住まいの方や職場が近いお客様ですが、旅装束の人も珍しくないです」

 

ママナはつい最近会った強烈な印象のある『風林火山』の団員達を思い浮かべた。

 

「なるほど。では、最近、他国からやって来た旅人を何人くらい見かけましたか?」

「ほぼ毎日、少なくとも一人か二人はいらっしゃってます」

「やはり隣国からが多い?」

 

クライン達が隣国からやって来たはずと思い出したママナが「はい」と答えようとすると、クリスハイトが「商人の一団や傭兵団は除外して単身でやって来た者では?」と条件を追加してきたので、咄嗟に首を横に振る。

 

「いいえ、私の知る限りではいらっしゃいません……けど、旅の方がどこから来たのか、いちいち聞いてもいませんから……」

「ああ、そうですよね、失礼しました」

 

常に浮かべている貼り付けたような笑みは既に外せなくなっているのかもしれない、と思うほど感情が表れないクリスハイトに対してママナの警戒心が一向に緩まない事にじれたのか、再びアイがプリプリと声を尖らせた。

 

『ママナっ、もっと相手の好感度を上げるような言い方でっ』

(えぇっ!?、今の質疑応答でどうやって好感度を盛り込むのよっ)

『それは教えられませんっ。けどまずは会話で相手に興味を持って貰うのが大事なんですっ』

(アイちゃん、残念だけど私はこの人にイチミリも興味が湧かないわ…って言うか不信感でいっぱいよっ)

『うぅっ……ママナがそこまで言うなら……残念ですが……《諜報部室長クリスハイト・ルート》は……諦めましょう……か?』

(「か?」じゃないわっ、これは決定事項っ。この人を攻略なんて出来れば関わりたくないタイプの人だものっ。あ、もちろん食堂のお客さんとして接客はちゃんとするから)

 

アイを説得できて安心したのか、ほっ、と息をついて気持ちを切り替え、クリスハイトに料理のオーダーを取ろうと最近習得しつつある営業スマイルを向けると彼はママナの顔を見てパチパチと瞬きをしてから「くっ」と軽く噴き出す。

 

「口元と眉がかなり不自然ですね」

 

営業スマイルは彼の方が一枚も二枚も上手なのかもしれないが、そうハッキリ言うことないじゃないっ、と恥ずかしさと怒りで頬を赤くしつつもママナは更に片方の頬をヒクつかせながら少々強めに「ご注文はっ」と尋ねたのだった。

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」と綺麗なマナーで食事を終えたクリスハイトは追加で注文した甘味のデザートも完食して、やっぱり変わらない笑顔のまま席を立った。

 

「お代はここに置いておきます。ああ、あと何か気になる事があれば、次に来た時教えてくださいね」

「有り難うございましたっ」

 

いつもなら「またどうぞ」とママナなりの言葉を足すのだが、このお客に限っては「もう来なくていいですっ」と顔に出てしまっているので、ヘタに取り繕ってもまた笑われるだけだと察して、それでも「お気を付けて」と送り出す。

クリスハイトが帰ったからか、それとも彼が最後のお客で店内が空になったからか、少しほっ、と気が抜けて代金と空の食器を回収してテーブルを拭いていると背後から、コトッ、と音がした。振り返ればいつの間にかキリトが壁に寄りかかるように立っていて、そう言えばクリスハイトの来店した時間が遅かっただけでいつもならとっくに彼が食事を始めている時間だ。ただ、普段は客が数名残っていても端のテーブルでひっそりと食事を摂るキリトなのに、まるで彼が退店するのを待っていたかのようなタイミングで現れてママナをジッと見つめている。

 

「えっと、ごはん、これからよね?」

「今帰った客と何か話したか?」

「それってクリスハイトさん?、キリトくん、知り合いなの?」

「そうじゃないけど……」

 

ふいっ、と視線を逸らされて二人の間に沈黙が流れた……「ぐうぅっっ」というキリトのお腹の音が鳴るまでの数秒間だけだったけれど。

 

「いつもの席に座ってて。ご飯、貰って来るから」

 

いちを口元を手で隠したつもりだったが思わず吹き出てしまった笑い声が聞こえてしまったのだろう、キリトの目元が赤くなっていて、小さく「悪い」と言うのでママナは厨房に向かいながら上半身だけ捻り、ピッ、と人差し指を立ててフンッフンッ、と振った。

 

「そういう時は『ありがとう』よ」

 

鳩が豆鉄砲を食ったような顔で今度はしっかりとママナを見たキリトだったが、既にママナは二人分の食事を取りに厨房の中まで入ってしまっていたので大人しく定位置となっているテーブルのイスに座り彼女を待つ。

キリトにとっては早めの夕食、ママナにとっては遅めの昼食となるわけだが同じメニューでも量が全く違うのに両手でそれぞれのトレーを持つ姿はすっかり食堂の給仕係として様になっていた。

 

「あ、りがと。オレの分、重かっただろ?」

 

絵に描いたように見事な山盛りのパンにてんこ盛りのおかずとカップボウルに目一杯のスープ。サラダの量だけは二人共同じくらいどっさりなのは料理長の心遣いだ。

ママナに労うような言葉をかけてから、何かに気付いたように自嘲気味の笑みを浮かべたキリトだったがすぐに目の前の料理に真っ黒な瞳を輝かせる。そんな表情を微笑ましく思いながらママナも当たり前のように向かいのイスに腰掛けた。おかみさんからキリトを紹介された時は「うちの優秀な番犬よ」と冗談半分に言われたが、表情が乏しくて人を寄せ付けない雰囲気の少年に対し実は「ホントに人間に興味のない無愛想なワンちゃんみたい」とこっそり思っていた。

そもそもお昼ご飯時が終わってお客さんが居なくなってからまかないを食べるママナと、夜のお客さんが来る前に食事をするキリトでは微妙に時間がずれていて、顔を合わせたとしてもママナがほとんど食べ終わった頃にキリトがやって来る、といった感じだったから社交辞令的な挨拶の言葉を交わす程度の交流しかなかったのだ。

それが二人で食べるようになったのは、数日前、たまたま少し早く店に来たキリトがポツンと一人で料理を口に運んでいるママナの姿がなんとなく放っておけないと感じたからで……。

 

『いつも、ひとりで食べてるのか?』

『うん……いつも…ずっと前から…食事はいつも一人』

 

これまでの綺麗な笑顔がなんだかひどく不格好に見えて、それでも『ご飯をちゃんと用意して貰えるんだから幸せだよ』と自分に言い聞かせるように笑う彼女の視線の先にいるのはこの食堂の夫婦じゃない気がしたキリトはつい『オレも一緒に食べていい?』と聞いてしまったのだ。ちょっと驚いた顔をしたママナだったがすぐに微笑んで『どうぞ』と言われて、随分大胆な申し出をした事に気づいたキリトが取り繕うに口を動かした。

 

『いつもは料理長達と食べてるって言うか、テーブルは別なんだけど、一緒に食べるとあの夫婦、食べながら色々聞いてくるし、それで…、あ、それが嫌なんじゃなくて、オレ、上手く答えられなくて…だから……』

『君、そんなにお喋りできたのね』

『……得意じゃないけどな』

『なら、私がこう言えばいいのね……一緒にご飯、食べてくれる?、キリトくん』

『……ああ』

 

その承諾の声を聞いたママナは、大変よくできました、と言うようにニッコリ笑ったのだった。

それからだ、二人が揃って食事をするようになったのは。もちろんたまにキリトが息せき切って店に駆け込んでくる時もあるが、その時はママナが「仕方ないなぁ」と笑って「お寝坊さんだね、キリトくんは」と言いながら冷たい水を持って来てくれる。料理長やおかみさんも二人が同じテーブルで食事をするのをこっそり微笑ましく眺めていて、今では当たり前のように同じ時間に二人分のまかないを準備してくれていた。

結局今日も腹の虫に催促されたキリトはとりあえず「いただきます」と手を合わせてパンを掴んだあたりまではチラチラとママナに向け問いたげな視線を送っていたが本格的に食べ始めてしまえば手も口も止まる事はない。

ママナはそれを楽しそうに見ながら自分のまかないを綺麗な所作で食べ進める。

キリトの皿の中身が半分以上減った頃、空腹感も少し落ち着いてきたのだろう、水を飲んでからグラスをテーブルに戻すと「さっきの客だけど」と再び話をふってきた。

 

「さっきも気にしてたみたいだけど、珍しいわね」

 

キリトは良くも悪くも常に食堂の客には無関心な態度を貫いているからだ。おかみさん曰く店で騒ぎを起こすような客も酒が入っていなければ気の良い人が多いから、たまたま嫌な事があったり、飲み過ぎたりで迷惑をかけるケースが多いらしい。騒ぎを収めたキリトが次にその客に会っても特に蒸し返すことなく静かで素っ気ない対応に戻るので客の方も「手間掛けさせて、すまなかったな」と謝っていつも通りまた店に来てくれるようになるのだそうだ。

だから今日初めて来たらしい客をここまでキリトが気に掛けるのは初めての事で、ママナは小首をかしげて彼の言葉を待った。

 

「いや…えっと……随分話し込んでたみたいだから…何を話してたのかなぁ、と……」

 

その言い分には違和感がある。ママナは常連の客はもちろん、初めての客とも会話を厭うことはない。それはおかみさんの影響なのだが厨房が美味しい料理を提供するなら、それをもっと美味しく食べて貰うため居心地の良い場所作りは給仕係の仕事なのだ。それにママナは生き別れた兄を探しているという名目もあるので、本当は攻略の為の情報収集も兼ねているのだが客との交流に積極的なのはキリトも承知のはずだった。

理由はわからないけれど、どうやらキリトはクリスハイトとの会話の内容が知りたいのだ、と理解したママナはアイから教わった知識を混ぜないよう注意しながら胡散臭いお客と交わした不毛なやりとりを打ち明けた。

 

「自分の事はお城の役人さんだって言ってたわ。それで隣国から来た旅の人を探してるんですって」

「旅人?」

「そう。しかも一人旅の」

「働いている部署や旅人を探す目的や理由は言ってたか?」

 

すぐに「諜報部」という文字が頭に浮かぶがそれをパパッ、と消してぎこちなく笑う。

 

「うーん、そこまでは……」

「そうか…それで、ママナはなんて答えたんだ?」

「正直に『知りません』って答えたわ。だって本当に心当たりさえないもの」

 

ママナの答えを聞いて考え込んでいたキリトは少ししてから「ありがとう」と固い表情のまま礼を述べると再び食事に戻ったのである。




お読みいただき、有り難うございました。
《諜報機関室長クリスハイト・ルート》は選ばない、の回でした。
多分、乙女ゲームの攻略としてはこのルートが一番難しい
のではないかと(苦笑)……だからアイもすぐに引き下がって
くれたのかな?


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・ご

『乙女ゲーム』の世界に転移してから十日目のママナは……


食堂で働き始めてからはや十日が経った頃、ママナは賑わう街中をひとりで歩いていた。とは言え頭の中では少々浮かれたアイの声がずっと響いているので寂しくも退屈もしていない。

昨日、まかないを食べ終わった後、おかみさんから明日一日好きに過ごしなさい、とお休みを貰ったのだ。

振り返れば、この世界に慣れ、食堂の給仕係に慣れるのに精一杯の十日間でゆっくりとこの街を出歩く時間はなかった。店のおつかいで頼まれた物を受け取りに行ったり、隣近所まで料理を運んだりはしたが、所詮、食堂から目と鼻の先の距離だったし、給仕係の仕事が終わってから日が暮れるまで兄の情報収集と称して出掛けたりもしたが攻略ルートを決めかねていた為、精力的に歩き回ると言うよりはのんびり店の周囲を散歩するくらいしかしていなかったのである。だいたいご近所だとママナの事を知っている人達も増えて不安もなかったから、今日は一日かけてドキドキワクワクしながら街のあっちこっちを探索するつもりだ。

それに「今まで、よく頑張ってくれたわね」とおかみさんが僅かだが特別に十日分のお給金を先渡しにしてくれた。ママナが生きる本当の世界ではないけれど、自分の労働で手に入れた初めてのお金だ。

コンビニさえ入った事のないママナは斜めがけにしているポシェットの紐を片手で強く掴んだまま緊張と興奮でキョロキョロと周囲の街の様子を見物しながらアイの声を楽しく聞いていた。

 

『あそこは洋服屋さんですね。もっと働いて余裕が出来たら新しい服を買いましょうか?、あ、それとももっと先のお菓子屋さんっ、あそこの季節限定のお菓子、とっても人気があるんですっ。もう少し行くとお花屋さんもありますよ。ママナの部屋は少し殺風景だと思うので花を飾るのもいいですね』

(アイちゃんはこの街のことをよく知ってるのね)

『当たり前ですっ。私はAIなんですから、この「乙女ゲームの世界」の情報ならたっくさん入ってます』

(うーん、それじゃあクリスハイトさんの言っていた旅人さんの事も知ってる?)

『知ってますっ…知ってますけど……ママナ、やっぱり《クリスハイト・ルート》を攻略する気になったんですか?』

(ふぇっ!?、しっ、しないっ、しないっ、絶対それだけはしないからっ)

『むぅ…それじゃあ「旅人」についての情報は教えられません。それに彼の言う「旅人」の意味は知ってますけど、それが誰なのかはママナがゲームを進行させて自分で気付かないとダメなので私の中でもロックがかかっているんです』

(それって数学の問題を解く時、どの方程式を使うのかは教えてもらえるけど実際の計算は自分でやって答えを導き出さなきゃいけないって事?)

 

ママナの例えに珍しくアイの返答の間が空く。

 

『……多分そんな感じだと思います』

(そっか、本来ならどの方程式を使うのかも自分で考えないとダメなのに、私は特別にアイちゃんに手伝って貰ってるんだから早く攻略対象者を決めなくちゃ、だよね)

『それはそうなんですけど、ママナは一刻も早くこの世界から転移して元の世界に戻りたいと思っていますか?』

 

改めて聞かれてママナは人の往来が少ない道の端に移動して足を止め考え込んだ。

意外にもこの世界を楽しめているのはアイという助言者がいるのと、元の世界では時間が経っていない事になると聞いたからで、気分的には学校や家から一時離れて宮城の祖父母の家に遊びに来ているような感覚だからだ。夏休みや冬休みを利用して祖父母の家で過ごす時間は父や母のような大人から見れば何の価値のない物でもママナにとってはドキドキする事やワクワクする物がたくさんあってそこでの日々は短いながらもいつも宝物のように輝いていた。

 

(ちゃんと元の世界に帰れるなら、私はもう少しこの世界を知ってみたいな)

 

祖父母の家から自宅に戻る時はちょっぴり寂しくて、悲しくて、別れを惜しむママナに祖父母は「またいつでもおいで、待ってるから」と言って必ず頭を撫でてくれたのだ。そう思うと二度とは来られないだろうこの世界で心残りは少ない方がいい。

 

『それならまずは攻略対象者全員と知り合いましょう。そしてこの世界をたくさん楽しんでくださいっ』

(そうね。それじゃあ今日はこの前エギルさんに教えて貰ったお店でお昼を買って広場で食べようかな。あと雑貨屋さんも覗きたいし、お菓子屋さんにも行ってみたいし……)

『決まりですね。じゃあまず最初はお昼ご飯ですっ』

 

アイに促されて再び歩き出したママナに迷いはなかった。

 

 

 

 

 

お昼を済ませて満腹になったママナは気になっていた雑貨屋を堪能した後、次なる目的地、城下で一番人気だという菓子店を目指して歩いていた。

すると背後からいかにも落ち着いた大人の男性といった低い声が「すまないが、道を尋ねたい」と耳に響いてくる。

私に?、と振り返ればそこには白地に赤の縁取りがしてあるマントで全身を覆っている一人の騎士が立っていた。

その姿を認めた途端、すぐに脳内でアイが『わっ』と驚きの声をあげる。

 

『ママナっ、ママナっ、血盟騎士団の団長サンですっ、攻略対象者ですよっ』

「騎士団!?……の方、です…か?」

 

ついアイの言葉に反応して声を出してしまったが、咄嗟に目の前の騎士への問いかけに変換すると、壮齢の男性は無表情に「ああ」と肯定した。

 

『でも…変ですっ、攻略対象者とは全員ママナが働いている食堂で出会うはずなのに……』

 

イレギュラーらしい出来事にシステムの不具合を気にしていたアイだったが、彼女の権限ではそこまでアクセスできないのか、すぐに『対象者と接触できたので良しとしましょうっ』と前向きに事態をとらえる。その声を聞きつつ、ママナは真っ直ぐに自分の前に立っている男性を見上げ困惑に眉根を寄せていた。

アイの言う通り、自分はとにかく攻略対象者の全員と知り合うのが最優先事項だ。しかし自分より背が高くマント越しでも分かるくらいしっかりとした体格はさすが騎士と思えるが、この人が攻略対象者?、という違和感は拭えない。大人の雰囲気が漂う理知的な面立ち、と言えば聞こえはいいがママナの感想はハッキリ言って「親戚のおじさんみたい」だ。もしかしたら自分より父の方が年齢が近いのでは?、と思えてくる。

 

(アイちゃん、私……ちょっと、この人は年上すぎて恋愛対象には……)

『何を言うんですかっ、ママナっ。「歳の差婚」って言葉があるくらい恋愛に年齢差は関係ありませんっ』

(う、うん。私も別に歳の離れたカップルをどうこう言うつもりはないのよ……例えばっ、例えばね、好きになってから年齢を知って、その人が自分よりずっと年上だったり、意外にも年下だったりするならいいけど、最初から歳の差恋愛がいいな、とは思えなくて)

『そんな事を言っていたら誰も攻略できませんっ、この人の他に出会っていない対象者はあと一人しかいないんですよ』

 

それを言われると言葉に詰まってしまうママナだ。

贅沢を言ってるつもりはないのだが、どうにも「もしかして、この人となら」と気持ちが揺れる気配すらない。

勝手に恋愛対象には見られないなどと失礼なやり取りをされているとは露ほども思っていない騎士団長はもう一度表情を変えることなく「道を教えては貰えないだろうか?」とママナに問いかけてきた。

 

『ママナっ、こういうのを渋いロマンスグレーのおじさま、って言うんです。憧れる女の子はたくさんいます』

 

気のせいだろうか、アイの声が心なしかえっへん、と得意気に聞こえる。

 

(えっと……ロマンスグレー、って白髪交じりの頭髪で初老の人の事よね?、この人はまだ初老じゃないと思うし、髪は白金に見えるけど)

『いいんですっ、とにかく上品な大人の魅力に溢れてる事に変わりありません』

 

さすがに攻略対象者が残り二人になってしまったからか、アイは対象者の賛辞に対しては意味よりも数で押し切る作戦にしたらしく、しきりと利点を並べてくる。

 

『騎士団の団長さんですからお給料も多いはずですし退職金もたくさん貰えると思いますっ』

(そういうの関係ないわよね?)

 

攻略対象者の誰か一人と両想いになって二人で城に行けばそれでゴールだ。

するとさっきから反応の薄いママナをジッと訝しげな目で見ていた騎士団団長がほんの少し困り声になって「飲食店までの道が知りたいのだが」と声を落としてきた。

 

「あ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしてしまって……飲食店に行きたいんですね?」

 

やっと話が通じて安堵したのか声が冷静に戻る。

 

「ああ、副団長に呼び出された」

「副団長さんに……」

 

この団長さんを呼びつけるなんて副団長さんってどんな人なのかしら?、と意識がほんの少し逸れたママナに静かな声が追い打ちを掛けた。

 

「ラーメン屋で待つ、と」

「ふへ?」

 

団長さんの言い間違いか、はたまた自分の聞き間違いか、とママナはアイが言うところのロマンスグレーのおじさま団長を見つめるが訂正の声はいつまで経っても出てこない。

ついさっき出会ったばかりだが、その時からほとんど変わらず冷静沈着を貫いている物腰に、何に対しても無表情に受け止め感情の起伏を表に出さない印象の彼の口から紡がれるにはあまりにも衝撃的な単語にママナの脳内は思考を拒否した。

 

(……アイちゃん、この人、今「ラーメン屋」って言ったの?)

『ママナ、「この人」じゃくて名前はヒースクリフです』

(今は名前なんてどうでもいいから……言ったわよね?、「ラーメン屋」って……)

 

この街並みにそこで生活する人達の服装や生活様式から考えても「ラーメン屋」は登場していい飲食店ではないような気がする。しかしママナの困惑を違う意味にとらえたのか、騎士団長ヒースクリフは更に言葉を重ねてきた。

 

「醤油の味がしない醤油ラーメンを出すラーメン屋らしい」

 

違うのっ、何味なのかがわからなくて困っているわけじゃないのっ、むしろ何味なのか分かっても問題はもっと前だしっ、と叫んでしまいそうな衝動をママナはグッ、と堪えた。そもそもヒースクリフの言を信じるならラーメンの味さえ店を探すヒントにならない。

だいたい醤油の味がしないのに醤油ラーメンと呼ぶのも不思議だし、それなら結局何味なのか?、という疑問も残る。一番はその訳の分からないラーメンを平然と説明する彼に対してで、これでは恋心どころか店の存在にもラーメンの味にもヒースクリフにも全てにおいて理解不能だ。

けれど道が分からずに困っているのは本当みたいだから、とママナはペコリと頭を下げた。

 

「ごめんなさい、この街にあまり慣れていないのでラーメン屋さんの場所は分かりません」

 

するとヒースクリフは自分に向けて下げられたママナの頭をジッと見つめた。

 

「街の住人ではないと?」

「この街には十日ほど前にやって来たんです。だから詳しくなくて」

「家族と共に?」

「え?、いえ、家族は家に居て、と、友達と二人でっ」

 

なんだか《現実世界》で中学生の自分が街中でいきなり「こんな所で何をしている?」と大人に問われたような気分になったママナは、少しの後ろめたさが手伝って、つい口を滑らせた。この世界では親はおらず、この街にいるはずの兄を探しにやって来たはずなのだが、アイの事はもう友達だと思っているので全くのデタラメじゃないしっ、と作り笑顔でこの場を乗り切ろうとする。

しかしなぜかヒースクリフは更に質問を続けた。

 

「兄弟は?」

「あ、兄がひとり」

 

これは共通しているので即答すると今度はアイが再びウキウキと頭の中で話しかけてくる。

 

『ママナはヒースクリフ団長の家族の事とか聞かなくていいんですか?』

(別に興味ないんだけどな)

『まずは互いをよく知ることから始めないとっ』

(それにきっともう会うこともないと思うし)

『えーっ、それじゃあ《騎士団長ヒースクリフ・ルート》も選ばないんですかっ』

(ごめんね、アイちゃん。最後の一人に掛けてみようと思うの)

 

そこに再びヒースクリフの声が割り込んできた。

 

「ご両親と兄君は共にご健在なんだな?」

 

たまにしか顔を合わせないし会話らしい会話も最近はほとんどしてないけれど健在には違いないとママナが頷くと、ヒースクリフは「そうか」と言って納得したように彼女から視線を外し周囲を見回す。他にラーメン屋を知っていそうな人間を探そうとしているのだろう、と思った時、背後からよく知る声が「ママナ?」と飛んで来た。

 

「キリトくん?」

 

声の方に振り返る。互いに名前を呼び合ったがキョトンとしたまま動けずにいると、ママナの隣にいるヒースクリフに気付いたキリトの眉間に皺が寄った。すぐに駆け寄ってきて「どうしたんだ?、今日は休みだろ?」と言いながらママナとヒースクリフの間に身体を割り込ませ、彼女を背に庇う。

 

「この騎士団長さんに道を聞かれたの」

「団長?!」

 

目の前の人物が団長と聞いてキリトはヒースクリフを見上げた。ヒースクリフの方はいきなり現れた少年に対し感情を乱した様子もなく落ち着いた態度で二人のやり取りを眺めている。

 

「この街にあるラーメン屋さんを探してるって。キリトくん、知ってる?」

 

ママナの問いに一気に力が抜いたらしいキリトが「はーっ」とも「あーっ」とも聞こえる声を吐き出してから小声で「そっか、この人が……」と呟いた後、一歩移動してママナとヒースクリフが左右に見える位置に立った。

 

「知ってる」

「ほんと?、よかったぁ…あ、でもね、団長さんが行きたいお店って」

「醤油味のしない醤油ラーメンの店、だろ?」

「……もしかして、この街のラーメン屋さんってそこだけなの?」

「……いや、たまたま知ってただけ……いいよ、オレが案内するから」

 

その意外な申し出にママナは「えっ?」と目を見開く。そもそもキリトが昼間から店の外に出ている事自体珍しいのだ。

実はキリトもママナと同じくあの食堂で寝起きしており、いつもは昼の営業時間が終わる頃に起きてきてかなり遅い昼食を摂り、そのまま夜の営業時間中ずっと店の隅にいるらしい。終われば賄いの食事を部屋まで持ち帰り、それを食べてから就寝する。ちなみに部屋は食堂の裏にある小さな牛舎の二階を一人で使っているから食堂以外でママナと会う機会がないのだが、本人は牛舎ならではの「牛乳飲み放題」特権を気に入っているようだ。

だからこの時間にキリトが起きている事も、ましてや街に出ているなんてママナが食堂で働き始めてから初めて見る光景だったから思わず首を傾げる。

 

「何か、予定があるんじゃないの?」

 

でなければいつも寝たりなさそうに起きてくるキリトが今日に限って意味も無く街をぶらついていたとは思えない。だったらその予定を変更させるのは、なんとなく気が引ける。

自分がラーメン屋を探しているわけでもないのに申し訳なさそうな顔で見つめてくるママナに、ふっ、とキリトが笑った。

 

「オレの用事もそっちの方なんだ。だから気にしなくていい」

「では道案内を頼めるかな」

 

話が付いたと判断したらしいヒースクリフの低い声が割り込んでくる。親子ほどの年齢差を感じさせる二人が並び、キリトが「こっちだ」と指さす方向へ歩き出そうとした時、その背中にママナが「ありがとうっ」と声をかけると足を止めたキリトが振り返った。

 

「あまりキョロキョロして迷子になるなよ、あと暗くならないうちに帰れ」

 

ママナが休みを利用して観光客のように街を見物していると言いたげな口ぶりについ「そんなにキョロキョロしてないわよっ」と言い返すと、何が可笑しかったのか、くすっ、と笑って「じゃあな」と背を向ける。

食堂以外の場所で見るキリトの笑顔に心臓が、とくんっ、と波打った意味には気付かないまま、ママナは二人の背中を見送って、じゃあ私達も、と当初の目的である菓子店を目指したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
《血盟騎士団団長ヒースクリフ・ルート》は選ばない、の回でした。
年内の更新はここまでとさせていただきます。
皆様、よいお年をお迎えください。


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・ろく

食堂の給仕係に随分と慣れてきたママナは……


ふあぁっ、と思わず漏れそうになる欠伸を、はむっ、と唇をとじ合わせて出口を塞ぎ、そのまま、んぐっ、と飲み込む。

そぉっ、と店内を見回して、大丈夫よね?、見られてないわよね?、と確認しようとしたのだが、なぜだろう、気のせいか食堂にいる男性客が次々にママナから視線を外していくように見えて、それでも窓際席の一人の「しまったっ、タイミングを逃したっ」と言わんばかりの焦りが顔とバッチリ目が合ってしまい、とりあえずニコリとすれば相手の顔はヘニョリと緩んだ。

 

「ママナがうちで働いてくれるようになってから、ホンッとに男の客が増えたわねぇ……」

 

いつの間にか隣にいたおかみさんが店内をぐるりと見回してからなぜか声に圧をかける。

 

「妙に色気づいてる客がねっ」

 

その迫力に、ヒェッ、と数人の男性客と共に両肩を持ち上げてしまったママナだったが、すぐに元に戻して、欠伸しそうになってたの気付いてるかしら?、と覗き込めば、いつもの豪快な笑顔が返って来きた。

 

「この前なんて夜の酔った客まで『ママナちゃんはいないのかー』って叫んだりするもんだから……」

 

名前を覚えてくれているお客さんが知らない間に増えていた事に驚いて「どうなったんですか?、その人」と聞くと、さも当たり前のような声が返ってきた。

 

「キリトに背中を蹴飛ばされてたわ」

「ひぃっ」

 

勢いよく床に顔面からいって大人しくなったので「よし」と言ってキリトはそのままいつもの場所に戻ったのだと聞いたママナは、昨日の昼間、彼から「暗くならないうちに帰れよ」と言われた意味にそういうのも含まれていたのかと気付いて、はぁっ、と溜め息をつく。

ママナがさっきから眠気を散らしているのも実はキリトのせいなのだ。

とは言え別にキリトに何かをされた、という意味ではなく勝手にママナが夜更かしをしただけなのだが……夜はデータ処理の時間に充てているからアイさえも知らない事なので、さっきから頭の中で『どうしたんですか?』と聞かれる度に「ちょっと寝付けなかったの」と詳しくは答えないままにしている。

昨日の外出の最後に訪れた菓子店でママナは食堂の皆に、と少しばかりお土産を買ってきたのだ。

正真正銘、人生で初めてのお給料だったから大好きな人達に何か選びたくて食堂の従業員のみんなに甘さ控えめのナッツクッキーを「休憩時間に食べて下さい」と昨日帰った時に渡したら、とても喜んでもらえた。そして、それとは別に小さな袋入りをひとつ、キリトの為に買ってきたのである。

だから昨晩はいつものように食堂の二階の部屋に戻ってアイに「おやすみなさい」と言ってから営業時間が終わるまで起きていて、キリトに渡そうと待っていたのだ。

そうして閉店の時間になりお客が食堂から居なくなる時間になるとキリトはいつものように裏口から出てきて夜食の乗ったトレイを持ったまま寝起きしている牛舎の二階へトントントンと足取り軽く駆け上がっていった。部屋の戸口の影からキリトの仕事が終わったのを確認したママナはすぐに階段を下りて牛舎に向かおうとしたのだが、暗闇の中、頭上で再びバタンとキリトの部屋の扉が閉まる音がしたので咄嗟に物陰に隠れて様子を窺っていると、階段を下りてくる足音が聞こえてくる。

身体を少しずらして顔を出すと食堂から漏れてくる明かりで、その足音の主がキリトだとわかり呼び止めようとしたのだが、キリトがキョロキョロと周囲を警戒するような仕草をした為足を動かすことが出来なかったのだ。

結局そのままキリトは夜の闇に溶けてどこかに行ってしまい、ママナはクッキーの入った小袋を持って階段に腰掛けて彼の帰りを待っていたのだが食堂の片付けや夜食の時間も終わり、明かりも消えたのでおかみさんやご主人に見つかる前にと部屋に戻ったのである。

昨晩の事を思いだして今度は、ふぅっ、と溜め息を吐いたママナは食堂の扉が開いた音に一拍遅れて気付き、慌てて「いらっしゃいませっ」と身体の向きを変えたのだった。

 

「お二人様ですか?」

 

店内に入ってきたはいいが出入り口のすぐそばで立ち止まったまま、珍しそうに店内の様子を見ている若い男女ペアの二人に歩み寄る。この食堂が、いや、もしかしたらこの街を訪れたのが初めてなのかもしれない……そう感じさせるほど女性客の瞳には好奇心が宿っており、反対に男性客の瞳には戸惑いの方が大きい。どちらにしても席に案内するのがママナの仕事だ。

ここでアイが興奮した声が『ママナっ』と呼びかけてくる。

すぐにママナは内心で頬を引き攣らせた……悪い予感しかしない。

それでも今のママナはちゃんとお給金を貰っている従業員なのだから、と笑顔で「こちらのお席にどうぞ」と外も眺められる窓際のボックス席を選ぶと、男性がスマートな所作で女性の為にイスを引いた。

けれど何が気に障ったのか途端に女性は綺麗な顔をしかめ、腕組みをして不満を表している。

 

「この国に入ってから何度も言っていますが、ユージオ、私達の立場は同等なのだからそのような気遣いは無用です」

 

どことなく気弱そうに見える男性客は困ったように笑い、それでも反省した様子はなく亜麻色の髪をポリポリと掻いている。

 

『この人っ、この人が最後の攻略対象者ですっ』

(あー、やっぱり……)

 

けれどママナはユージオよりも彼を叱りつけている女性の方に目が釘付けになっていた。

今までこの食堂で働いていてレディファーストが身についている男性客を見たのも初めてだったが、それに腹を立てる女性を目にするなんて正真正銘、生まれて初めてだったからだ。

二人共ママナよりは年上だろうが、それでも十代後半といった雰囲気で、端から見ればお似合いのカップルだし、さっきの彼女の言葉から察するに二人は他国から来た人達で、彼の紳士的な振るまいも今が初めてではないらしい。

毎回こうやって怒られているのかしら?、と思いつつ、それでも二人が席に着くのを待っているとユージオと呼ばれた青年は外見に違わず優しげな声を発した。

 

「アリス…立場とかは関係ないと思うよ」

 

その言葉にアリスという名の女性客が背中に垂らしている黄金色の長い三つ編み髪が不機嫌に揺れる。

 

「ならばユージオは相手が誰であろうと同じような振る舞いをするのですね」

「えっ?!…うーん……どうかな……やっぱりアリスだから、かな?」

 

爽やかに笑うユージオとは逆にアリスは唇を尖らせた。

 

「そ、それは同じ騎士として納得できません」

 

納得できないと言いつつほんのりと頬が染まっている事に本人は気づいているのかいないのか……二人のやり取りをただ見ているしかなかったママナは「うーん…」とアイにちょっとうんざり口調で話しかける。

 

(アイちゃん、このアリスさんって人、結局ユージオさんに特別に思って欲しいのかそうでないのか、よくわからないんだけど)

『それが複雑な乙女心なんですっ、ママナも見習ってくださいっ』

 

見習え、と言われてもどこをどう見習えばいいのかしら?、と首を傾げると、それに気付いたユージオが勘違いをしたらしく「あ、ごめんね」と気さくに謝ってからアリスに着座を促した。

ようやく席に落ち着いてくれた二人だったが、それまでの言い合いで店内の客から注目を集めてしまい、あちらこちらから隠しきれていない視線がチラチラと飛んで来て、更に「騎士だってさ」や「どこの国のモンだ?」とひそひそ声の囁きが漏れ聞こえてくる。居心地の悪さにテーブルの上に乗っているアリスの両手が硬い拳を作るが、元を正せば自分の不用意な発言が招いた結果なので、俯く事で耐えているようだ。

ユージオの方はそんなアリスの姿を呑気な困り笑いで見ているので周囲の反応はあまり気にしていないのかもしれない。

とは言え、これでは食事も満足に楽しめないだろう、とママナが困惑しているとこの場の空気を一掃するようなおかみさんの声が飛んできた。

 

「ママナっ、注文はどうしたのっ?、初めてのお客さんには丁寧に説明するのよっ」

「は、はいっ」

 

丁寧、と言われてひらめいたママナはメニュー表を閉じて店内を振り返った。

 

「ランチセットは三種類です。あそこのヒゲのおじいさんが食べているのが豚肉と野菜の煮込み。大きめの根野菜が柔らかくなるまで煮込んであって味も十分染み込んでいます。あっちの体格の良い男性三人がオーダしたセットが一番ボリュームのあるメニューでチキンソテーにベイクドポテトと人参のキャセロール添えです。チキンの皮はパリパリ、中はしっとりジューシーに焼き上がっていて料理長特製のソースがかかっています。あちらのご婦人方のテーブルに並んでいるのが厚切りベーコンとキノコのトマトペンネです。ベーコンは自家製なのでスモークの加減が絶妙の逸品です。そしてどのお料理にもパンとスープ、それにサラダが付きます」

 

初来店ならメニュー表から選ぶより実際に料理を見てもらった方が分かりやすい。

それにママナの説明に合わせて俯いていたアリスの顔があっちこっちに動いて「あれは美味しそうですね、あ、こっちも」と常連客達が食べている料理を眺める碧い瞳は先程までとは打ってかわって子供のような純真さに満ちている。それを確認しながらユージオはママナに紹介された料理を食べている客達に向けて会釈を繰り返していた。客の方もさっきまでのコソコソとした態度を一転させ、ママナが料理の説明をする度に「今日の煮込み野菜はカブと人参よ」とか「このソースは本当に旨いんだ」と補足の声を投げてくれる。

一通りメニューの紹介が終わる頃には、店の中の雰囲気はいつものように賑やかで温かいものへと戻っていた。

 

「ありがとう、お陰でどんな料理なのか、とってもよくわかったよ」

 

ユージオがニコリと微笑んで「アリスは何にする?」と問いかければ、決めかねていた様子のアリスは少し悩んだ末に「ペンネにします」とママナに告げる。ユージオが注文したチキンソテーと合わせて二人分のオーダーを確認し、いつも通り「少々お待ちください」と頭を下げてから厨房に伝える為この場を離れようとすると「ちょっといいかな」とユージオの声が彼女を呼び止めた。




お読みいただき、有り難うございました。
最後の攻略対象者はユージオですっ(笑)


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・なな

ユージオとアリスの接客をするママナに……


「さっきは本当にありがとう。もう分かっちゃったみたいだけど僕達は隣国の騎士なんだ」

 

『そうですっ、整合騎士ユージオ・ルートですっ。もうこのルートしか残っていませんからねっ』

 

せっついてくるアイの声は聞こえない事にしてママナはいつもよその土地から来た人を接客する時に尋ねる決まり文句を口にした。

 

「ご旅行ですか?」

「そうだね、いちを二人共休暇中ってことになってるから…」

「いちを?」

「私達は『カラス』の行方を追っているのです」

 

話に加わってきたアリスの言葉から、そう言えば数日前から店のお客さんも話題にしていたと思い出して、大きく頷いた。

 

「カラス……ああ『黒の盗賊』のことですね」

「そうです。この国に入国したらしいとの情報を得たので来てみたのですが…」

「休暇中なのにですか?」

 

さっきのユージオの台詞には「いちを」が付いていたが「休暇中」だと明言されていた。ならばわざわざ休暇を利用して『カラス』を追って来たのだろうか?、と軽く首を動かすと今度はそのユージオがやっぱり困ったように笑いながら「休暇のついで、なんだけどね」と説明してくれる。

 

「もともと休暇をとって二人で他国を旅行するつもりだったんだ。だけど寸前まで『カラス』の事件に関わっていたから、どうせなら彼が行方をくらませた先のこの国に行きたい、って…彼女がね」

 

目の前に座っているアリスに向けて笑いかけているユージオは多分『カラス』とは関係ない土地で彼女との旅行を楽しみたかったのだろう。それなのに彼女の希望通り旅行先をこの国にしてしまうとは……。

 

(もう完全にユージオさんはアリスさんの尻に敷かれてる状態ね……)

『そのお尻がママナになるよう頑張ってくださいっ』

(ひょぇっ!?……だいたい私、男の人を尻に敷くって具体的にどうすればいいのかわからないんだけど?)

 

一番身近なカップルと言えば自分の両親だが、父が母の尻に敷かれているか?、と問われれば多分否である……と言うか二人共日々それぞれの仕事に忙殺されていて家で会話をしている姿を見たのはいつが最後だったか思い出そうとしても思い出せない。仲良くしている姿もケンカしている姿も見ていないから自分の親の関係性を表す適切な言葉が見つからない。

ママナの内面によぎった影に気付くはずないユージオは変わらない笑顔を添えてアリスを代弁して問いかけてきた。

 

「それで食事もなんだけど、この食堂で『カラス』について何か話が聞けないかな、と思って」

 

どうやら食堂という場が色々な人達の会話が飛び交う情報の宝庫という認識はどの国でも同じらしい。

尋ねてきたユージオよりも真剣にママナの言葉を待っているアリスからの視線に若干たじろぐが、ママナは「すみません」と素直に頭を下げた。

 

「私、『カラス』が隣の国からやって来たことも知りませんでした」

 

諦めきれない様子のアリスが更に質問を重ねてくる。

 

「そうなのですか。けれど被害が出たから『カラス』の存在に気付いたのでしょう?……盗難被害にあった者や盗まれた品物について何か聞いていませんか?」

 

言われてみればお客さん達の話はいつも『カラス』がでた、というばかりでどこに出たのか、何を盗んでいったのか、といった肝心の部分が抜けていて、なんでかしら?、と逆にこっちが聞きたいと疑問が膨れてしまったママナの顔で何かを察したようにユージオが「やっぱりね」と溜め息をついた。

 

「この国でも、あってはならない物ばかり盗んでるんだな、あいつは」

「あってはならない物?」

「僕達の国でもそうだったんだけど、貴族の屋敷や商人の家に隠してある不当に入手した物ばかりを狙ってるんだよ。だから盗まれても被害を訴えられないんだ」

「それならどうして盗難にあった話が広まるんですか?」

「被害者の当主や店主が口を閉ざしていても、そこで働いているいる使用人が気付いて話を漏らすんだと思うよ、どうやら『カラス』が何かを盗ったらしい、ってね」

 

そっか、だから具体的に何が盗まれたのかはわからないまま話が広まっていくのね、と納得したママナは続けて、話の出所を雇用主に探り当てられるとマズいから被害者の名前も伝わってこいないのだろう、と推測する。しかし、ユージオはさっき休暇の寸前まで『カラス』の事件に関わっていた、と言っていた。やはり騎士として引き続きここでも『黒の盗賊』を探すつもりなのかと思ったが、この国にはこの国の騎士団がいる。

やはり縄張り的なものがあるのでは?、と昨日出会ったこの国の騎士団長を思い出しつつママナが「『カラス』を捕まえるんですか?」と尋ねるとユージオは「ああ、そうじゃなくて」と自分達の仕事を話してくれた。

 

「ごめん、少し誤解させたみたいだね。『カラス』の事件に関わっていた、と言っても『黒の盗賊』を追っていたわけじゃなくて……いや、結果的には追っていた感じになるけど……」

「盗難にあった者を探していたのです」

 

アリスが端的に言い放つ。

 

「被害者さんのほうですか?」

「被害者……私に言わせれば善良な人達から嘘や暴力で強引に金品を巻き上げていた彼らの方が加害者という認識です」

 

柳眉を逆立てて怒りを露わにしているアリスの手を「まあまあ」と落ち着かせるようにユージオが触れる。

 

「『カラス』が盗みに入ったという事は不正を行っていたわけだから、どちらかと言うと僕達はそっちの悪事を暴くために動いてたんだ。まあ、向こうも隠していた物が盗まれたんだからその存在自体を認めないし、色々大変だったけど……だから元々この国にいるらしい『カラス』を捕らえる指令は受けてなくて……単に興味があるだけだよ」

「興味……」

 

(盗賊に興味を抱く騎士さんってちょっと変わってるかも)

『心の広い攻略対象者ってことですねっ。探究心が強いとも言いますっ』

(アイちゃん……なんだか良い方、良い方に解釈してない?)

『だってもうこの人しか残ってないんですから、ママナには絶対この人を攻略してもらわないとっ』

 

確かに今まで攻略対象者に会う度「この人は無理」と言い続けてきてしまったし、昨日はハッキリと「最後の一人に掛けてみる」と宣言したばかりだ。しかしこのユージオという騎士はどう見ても向かいに座っているアリスという女性に片想いをしており、そのアリスもどうやらユージオの事が……と、恋愛ゲームの経験すらないママナでさえ分かるほど分かりやすい、例えるなら穴埋め問題の回答欄にうっすら答えが書いてあるみたいに互いの気持ちが透けて見える二人の間に割って入るというのは、ユージオに恋愛感情を抱くより先に罪悪感が湧く。

 

『今までの攻略対象者の中では一番ママナと歳も近いですっ』

(それは…そうなんだけど……)

 

エギルに始まり、クライン、クリスハイト、ヒースクリフ……確かにこれまで出会った攻略対象者はママナより随分と年齢が離れていた。

 

『ユージオは亜麻色の髪に緑色の瞳の温厚で誠実な好青年ですっ、恋愛対象としてとてもオススメだと思いますっ』

(別にユージオさんの容姿や内面がどうこう言うわけじゃなくてね、アイちゃん)

 

少し会話をしただけで優しい笑顔を浮かべながら親しみやすい口調で話す彼はきっと周囲からの人望も厚い騎士だというのがわかる。

どちらかと言えばさっきから食い入るような目でママナからの情報を期待しているアリスという女性騎士の方が、ユージオへの恋慕には無自覚のまま『カラス』の方に強いこだわりを持っているようで、それに振り回され気味のユージオにちょっと憐れみすら感じてしまい、ママナの心境的には「がんばって、ユージオさんっ」と応援したい気分だ。

 

「私は可能ならば『カラス』に直接聞きたいのです……」

 

話し方ひとつとっても彼女がとても真面目な性格なのはわかるが、憎からず想っている男性と二人きりでの休暇旅行中に『盗賊』の行方を探すのはいかがなものか、とユージオに同情したママナは小声で「『カラス』って男性なんですか?」と尋ねた。これまた情けない笑顔でこくり、と頷くユージオにママナが代わりに大きな溜め息をつく。

ユージオとママナの小さなやり取りに気付いていないのか、アリスはきゅっ、と表情を引き締めて己の考えを語り続けていた。

 

「どうやってターゲットが不法な金品を所持していると知ったのか、そして、目撃者の一人も出てこない完璧な侵入ルートの情報や手段……」

 

そこまで聞いて再びママナはユージオにこっそり話しかける。

 

「目撃者、いないんですね」

「うん、いつも夜の闇に紛れて窃盗を行っているから『黒の盗賊』とか『カラス』って呼ばれてて、目撃者はもちろん、これまで犯行中の現場に鉢合わせた人間すらいないから負傷者も出てないんだ」

 

怪我人も出さずに悪い人から悪事で得た物を盗んでいるならそれはちょっと義賊みたいで、一方的に『カラス』が悪い犯罪者とは思えなくなっていたママナはさっきのユージオの言葉に疑問を持った

 

「えっ!?、それじゃあ、なんでユージオさんは『カラス』が男性だって…?」

 

ちらり、と未だ『黒の盗賊』について熱弁をふるっているアリスを確認したユージオは一層声を潜めて「アリスには内緒なんだけど」と前置きをしてから教えてくれる。

 

「一度だけ『カラス』と思しき人物に遭遇した事があってね」

 

そんな重大な事、私に話しちゃっていいんですかっ、と大きく目を見開いたママナにユージオが相変わらず優しく笑った。

 

「多分、だから……騎士の勘、って言うのかな?」

 

ただ、犯行現場で見たわけじゃないから上には報告していないんだ、と打ち明けてくれたユージオの顔がなんだか随分と楽しそうで、嬉しそうで、それでママナはもしかしたら彼が『黒の盗賊』に興味があると言うのは好意に近い感情なのかも、と直感で思い至る。

思わず「ユージオさん、て……」と、その先の言葉を考えないまま名前を口にした所でアリスがそれを遮った。

 

「ちゃんと聞いているのですかっ?」

「は?!、はいっ……えっと、ごめんなさい…何のお話ですか?」

 

勢いよく返事はしたもののユージオとの会話に夢中になっていてアリスの話を全く聞いていなかったママナがトレイを両手で抱え込んで恐る恐る問い返すと、ぷくっ、と頬を膨らませたアリスは「だから」と声を一段と大きくする。

 

「『黒の盗賊』が賞金首になっているのですっ」

「アリス、声を落として」

 

滑らかな声に諭されて、ハッとした様子のアリスが肩をすぼめモショモショと続きを話し始めた。

 

「私達の国で『カラス』の被害にあった者がなんとか自力で取り返そうと懸賞金を掛けたらしく……」

「既に何人か賞金稼ぎが来てるはずなんだ。この食堂にも僕達みたいに『カラス』の事を聞きに来たり、もう少し漠然と隣国から入国してきた者がいないかどうか尋ねられたりしてない?」

 

それを聞かれるとママナの心当たりは一人しかいない。

 

(でもクリスハイトさんが諜報部の人だって言うわけにはいかないのよね。だけど、あの人が探してるのは『黒の盗賊』なのかしら?、それとも賞金稼ぎ?)

『だからあの時もっと好感度を上げておけばよかったんですっ』

(きっと好感度を上げても教えてくれない気がするけど……それに両方って可能性もあるし)

 

彼以外で今の所『カラス』について聞いてきた客はいないので「いません」と答えると、ユージオがほっとした顔になった。

 

「賞金稼ぎをしている連中は荒事が得意だから普段から粗暴なヤツも多いし、君も気をつけてね」

 

(食堂の給仕係にも気を配ってくれるユージオさんて本当にいい人ねっ)

『ママナ……いい人、じゃなくて、愛しい人にしてくださいっ』

(早くアリスさんと恋人同士になれるといいのにっ)

『私はママナに恋人になって欲しいんですっ』

(さっ、お喋りしすぎちゃったから働かないとっ)

 

もうユージオとアリスの恋路を応援したい気持ちでいっぱいのママナは『もうっ、どうするんですかーっ』と頭の中で鳴り響くアイの叫び声より大きな声で厨房に向かい二人のオーダーを告げたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
当然《整合騎士ユージオ・ルート》は選ばない、と言うより
《整合騎士アリス・ツーベルク・ルート》を攻略中のユージオを
心の中で応援すると決めた回でした。


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・はち

昼時の食堂でのママナは更に忙しく……


ユージオとアリスのテーブルに料理を運び終えママナは彼らの後から入店してきた客四人が注文したそれぞれの料理が出来上がるタイミングを見計らって、先にセットのスープを運んでいた。

既にパンとサラダは客の前だ。

来店者が一人か二人の場合はパンとサラダ、それにスープを一度にトレイへのせる事が出来るが、さすがに四人前は無理なので全ての料理を出し終えるまで何往復かしなければならなくなる。相変わらず店内はほぼ満席だが、開店してすぐにやってきた第一陣の客達はほとんどが食事を終えてそろそろ席を立ち始める準備をしていた。

昼の営業時間は客が回転するタイミングが重なるのでこの時が一番目まぐるしい。

新しく入店してくる客を席に案内してメニュー表とお水を出す、料理が決まった客の注文を取り厨房に伝える、出来上がった料理を運ぶ、食事中の客の様子も窺わなくてはならないし、食事を終えた客が席を立つ前に代金も受け取らなくてはならない。それから食べ終わった食器を片付けテーブルを次のお客の為に整える……それら一連の動作をテーブルの数と来店してくれた客の人数分、おかみさんと手分けしながら時間差で繰り返すのだ。

だから熱々のスープの入ったカップ四人前をのせたトレイを持っていてもママナは店内のあちこちに気を配っている。

そこに昼食を食べ終え支払いを済ませた男性客達が喋りながら店の出口へと向かっていて、その一人がトンッとママナにぶつかった。

互いに別々の方向を見ていたし混んでいる店内では仕方が無かったのかもしれないが、運の悪いことにママナが持っているトレイにはスープカップが四つものっている。

「あっ」と小さく驚きの声をあげたママナは傾いた自分の身体には構わず、なんとかバランスを保とうとトレイを持った両腕をぴんっ、と伸ばした後、なぜかすぐに自分の方へと引き寄せた。

全てのカップが湯気の出ている中身をママナの顔めがけてこぼれる角度で倒れる寸前……

パンッ、とトレイを力強く弾く衝撃と共に、ギュッと片腕で彼女の顔が誰かの胸元に抱え込まれる。

 

「熱々のスープをかぶる気かっ!」

 

それは普段、お世辞にも感情豊かに会話を楽しむタイプとは言えないキリトの珍しく怒りを含んだ焦り声だった。

驚いて顔を上げるママナの耳に少し遠くから床に落ちたトレイとカップの割れる音が響く。どうやらちゃんと人のいない場所めがけてママナの手からトレイごとカップを払い飛ばしたようだ。当然、着地地点は悲惨な状態になっているが途中でスープの中身が飛び散る事もなかったようで、誰も熱い思いはしていない。

一瞬にして静まりかえってしまった店内で腰を中途半端に浮かせていたユージオがコトッ、と音を立てて椅子に座り直すと、おかみさんが仕切り直すようにパンッ、パンッ、と手を叩き「驚かせてごめんなさいね。さあっ、どうぞ食事を続けてちょうだい」と客に笑いかけた。すると次々に「あービックリした」「でもケガ人が出なくてよかったな」「ママナちゃんも気をつけろよー」と言い合う中、ぶつかった客だけが「ごめんな」と謝ってくる。

ママナは、ほっ、と息を吐いた後、いまだキリトに抱き寄せられたまま「いえ、こちらこそすみませんでした」と笑顔で返した。

 

「それに…キリトくんもありがとう」

 

そっ、と身を離し頭を下げる。

しかしキリトは未だ不機嫌な顔のままママナを睨んでいた。

 

「どうしてこぼれるのがわかってて無理に引き戻したんだ」

 

するとママナはキリトの腕を掴み「ちょっとこっちに来て」と店の隅に連れて行くと、少し声を小さくして「ほんとにありがとう」ともう一度礼を言ってから自分がいた場所を見る。

 

「あそこでカップが倒れると絶対お客さんにかかっちゃうでしょ?」

 

ママナの視線の先には食事を楽しんでいる子供二人とその両親と思われる家族の笑顔があった。

 

「ちょうどお子さん達の上だったの」

 

多分ママナがトレイの方向を変えなければ熱いスープは子供達の頭や顔に降り注いだだろう。そうなっては折角美味しく食べている料理も楽しい空間も台無しになってしまう。

キリトだってあのまま客にひっかけてしまえばいいとは思っているわけではないが「だからってなぁ」と納得出来ないまま黒い髪をガシガシと掻いていると、ママナが何かに気付いたように小首をかしげた。

 

「それにしても、キリトくん、今日は随分早いんだね」

 

いつもは昼の営業時間が終わる頃店にやって来るキリトなのに、今はまだ昼食を食べている客でいっぱいの時間だ。

 

「あ、ああ、今日は半ドンで…」

「ハンドン?」

「ちっ、違ったっ、たまたまっ、そうっ、たまたま目が覚めてさ」

「ふぅーん、昨日の夜、あんなに遅かったのに?」

「へ?」

 

あやしいなぁ、と言いたげな目つきでキリトを睨んでいたママナだったが、さっき助けてもらった事でもあるし、とそれ以上の追求は止めてエプロンのポケットに入れておいた小袋を取り出す。

 

「昨夜渡そうと思って寝ないで待ってたんだけど、きみ、食堂が終わってから出掛けたでしょ?」

「うげっ、それ、見てたのか?」

「うん。すぐ帰ってくるのかなっ、て思ってたけどなかなか戻ってこないから……はい、これ、昨日街で買ってきたクッキー」

「オレに?」

「そ。騎士団長さんをラーメン屋さんまで案内してもらったし」

「それってママナがオレに感謝する事か?」

「じゃあ……いつもお昼ご飯を一緒に食べてくれるお礼?」

「なんだよ、それ」

「もうっ、いるの?、いらないの?」

 

そう聞かれれば答えは一つだ。

 

「いるっ、いりますっ……あ、ありがとう」

 

満足そうな顔になったママナが「うん」とうなずく。

 

「あ、でも、今日はこれからどこかに行く?」

 

さっきは焦って一緒に食事をしてくれる事をクッキーの理由にしてしまったがキリトが働く夜の営業時間まではまだ随分と間があるから外出も十分可能で、それなら昼食はママナひとりになる。辺に気を遣われるのもイヤだから「気にしないで出掛けてね」と言おうとすると、それよりも先にキリトが「店にいるよ」と笑った。

 

「そ…う、なんだ」

 

いいの?、と案ずるよりも嬉しいと思う気持ちの方が強いのは、多分、気を張らなくていい相手と一緒に食べられる食事が久しぶりだからだろう、と自分の心境を分析したママナの横から、ぬぅっ、とおかみさんが現れる。

 

「だったらキリトは自分がしでかした後始末をしてっ」

 

おかみさんが伸ばした人差し指の先にはさっきママナの手からすっ飛んでいったトレイ、それに割れて粉々になったスープカップとぶちまけられたその中身が見るも無惨な状態で床に散らばっている。手に持っていた箒、ちりとり、それにバケツとモップをキリトに突きつけて食器の後片付けと床の掃除を命じたおかみさんはママナに「怪我はないわね?」と確認してから、はぁっ、と息を吐いた。

 

「まったく、いくらママナのためだからって、あそこまでハデに立ち回らなくてもいいでしょうに……ママナは早く新しいスープを運んでちょうだい。キリトは床をピカピカにすることっ」

「はいっ」

「へーい」

 

キリトはママナからもらったクッキーの袋をポケットに入れて床掃除へ向かい、ママナは新しく用意されたスープを取りに厨房のカウンターへ……離れる寸前「じゃあ、あとでね」「ああ」と言葉を交わしてそれぞれの持ち場へと分かれる。

「大変お待たせしました」とスープを出し終わればそれが冷めないうちにメイン料理を運ばなくてはならない。二回に分けて料理を全て出し終えたママナはユージオがちょいちょい、と手招きをしているのに気付いて急いでテーブルに駆け寄った。

なにかサービスに落ち度があったかしら?、それとも料理の味付けが気に入らなかったとか?……ユージオもアリスもまだ食事の途中だから会計に呼ばれたわけではないだろう。

少し緊張しながら傍に行くと食事に夢中の様子のアリスがママナに気付いてこちらを向いた。

 

「この料理は大変美味しいです」

「お口に合ったようでよかったです……ユージオさんはいかがですか?」

「うん、僕も美味しくいただいてるよ」

 

その言葉に一安心したママナが肩の力を抜くとユージオは気軽なお喋りを楽しむみたいに「ところでさ」と話しかけてくる。

 

「君を庇ったあの少年、いつからここで働いてるの?」

「キリトくんですか?…私の方が後から入ったので正確にはわかりませんけど、この食堂の用心棒は半月ほど前からって言ってたような」

「ふぅん、用心棒なんだ……この食堂に来る前はどこにいたのかな?」

「さぁ、そこまでは……あの、キリトくんが何か?」

「さっき君を助けた時の彼の反応速度がすごかったな、って思って」

 

店にやって来てからいつも笑顔だったユージオの表情に何か違う感情が混ざっていて、わけもわからずママナが不可解に眉根を寄せていると耳に届かないくらい小さな声で「僕より早いなんてね」と自嘲気味に唇が動いた。

 

「え?、何か言いました?」

 

聞き返すといつも通りの笑みに戻ったユージオが首を横に振る。

 

「君は彼と仲が良いみたいだから、『黒の盗賊』に懸賞金がかけられた事、教えてあげるといいよ」

「キリトくんに、ですか?」

「うん、知ってた方がいいと思うから」

 

そこで少し考えたママナは賞金稼ぎがこの食堂に来る可能性を考え、ユージオが「荒くれ者が多い」と言っていたのを思い出して「そうですね」と頷いた。

そこでおかみさんに呼ばれたママナがユージオ達のテーブルから離れると、今の今まで静かだったアイがいきなりお怒りモードで喋り始める。

 

『せっかくイベントが発生したのに、どうしてあの人がママナを助けちゃうんですかっ、あそこはユージオが助けてくれるシナリオのはずなんですっ』

(えっ、そうだったの!?)

『ママナはいい感じです。今回はとっても頑張ってますねっ』

(私……何か頑張ってるかしら?)

『はいっ、ユージオとたくさんお話して好感度も上がってますっ』

(そう?)

『今だってわざわざママナを呼んでお喋りしたじゃないですかっ』

 

言われてみれば、これまでの攻略対象者とは違ってとても話しやすいし会話も楽しいがユージオの態度にその手の好意は感じられないし、ママナの方もやっぱり特別な気持ちは生まれていない。ちらり、と振り返ればユージオは向かいに座っているアリスと食事をしながらお喋りをしてて、その蒼い瞳はママナと相対していた時にはない甘さが含まれていた。

 

(けど、やっぱりユージオさんはアリスさんが好きなんだと思うな)

『それはさっきのイベントを邪魔されたからですっ』

 

アイの言う邪魔者キリトは床に散らばったカップを拾い集め終わったらしく、今はモップを手にしていた。いつもは夜の食堂が彼の仕事場なのに、ママナはそれを見た事がないから昼間に不慣れなモップさばきで床を掃除している姿が妙に新鮮で、それを目の端に収めながら同じ空間で働いているのが嬉しくなり元気良くおかみさんの元へ歩み寄る。

そんなママナの後ろ姿をほんの少しだけ追っていたユージオを見逃さないアリスは「どうかしたのですか?」と問いかけた。

 

「随分とあの娘が気になるようですね。確かに料理の説明やスープを零しそうになった時の気転は素晴らしいものでしたが」

「僕が気にしてるのはあの少女じゃなくてあっちの少年のほうかな」

 

だから何も気にする必要はないよ、と微笑めば頬をうっすらと染めたアリスが怒ったように強く「そうですかっ」と言って無理矢理視線をユージオからはがして食事を再開させる。

ユージオはそんなアリスを好ましく眺めてから今度は店の隅で腰を屈めている少年を見た。

顔を見たわけではないから確信はないが、背格好は似ている。そもそもユージオより早く動ける人間が『黒の盗賊』が現れたと噂の立つ場所で立て続けに現れるなんて偶然にしては出来すぎだ。今現在は他国で休暇を過ごしている身なので自分達を知っている者はいないが、職務に復帰すれば市井の食堂で舌鼓を打っているアリスもユージオも自国の最高峰である整合騎士団の一員である。咄嗟の行動で一般の人間に後れを取ることはありえない。

それでもママナに言ったように『黒の盗賊』に関しては捕縛する気もないしあくまで休暇のついでに情報を収集していたにすぎず、彼が食堂の警護として働いているならどちらにしろ懸賞金の話は無駄にならないだろう、とそれ以上の詮索はしない事に決めて残りの食事を口に運んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
お嬢様育ちのママナは「ハンドン」の意味を知らなかったようです。
で、すみません、切りが良いのでここで連日投稿は終わります。
後は不定期に単発でお届けしますので、よろしくお願いします。


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・きゅう

そしてどの攻略対象者も選べないまま時は過ぎ……


深夜の街中はまっ暗で、追っ手をまくのは簡単だったがそれでも全力疾走をして辿り着いた先に見慣れた食堂の看板を目にすると「ふぅっ」と気が緩む。

それをもう一度引き締め、振り返って追跡者がいないのを念入りに確認したキリトはねぐらにしている牛舎の二階を目指して店の脇にある細道に身体を滑り込ませた。今夜潜り込んだ屋敷の警備体制は今までで一番人員を配していたが、事前に掴んだ情報のお陰でなんとか目当ての物を見つけ、切り抜ける事が出来たので満点とはいかないが無事にミッションクリアだ。

 

「あいつらが徒党を組んでたのには驚いたけど…終盤のせいだろうな」

 

残る案件はあとひとつ。難易度は数をこなす度に少しずつ上がってきている。

セカンドステージとも言えるこの国ではただ歩き回ったり話しかけたりするだけでは情報は得られず、お礼に食事をご馳走したり、情報屋を頼らなければならない場合もあり、どちらも代価が必要だ。だから手っ取り早く金銭を得る方法として用心棒のような職を選んだキリトだったが、今では単なる稼ぎ場所以上の居心地の良さを覚えてしまっている。

食堂なら何らかの形で有力な情報が耳に出来るかも、と考えていたのに、そこはほぼ期待はずれだったにも関わらず毎日通ってしまうのは単純にただの従業員として自分を頼りにしてくれる食堂の料理長やおかみさんに情が湧いてしまったからか、加えてホールで働いている給仕係がなんとなく気になってしまうからか……けれどその理由を色々と考えてみても意味は無いと思考にけりをつけて牛舎の階段に片足をかけた時だ、ふいに後ろから澄んだ声で「キリトくん」と名を呼ばれてあやうく階段を踏み外しそうになる。

 

「ぅわっ!…………なんだ、ママナかぁ…ビックリした」

 

完全に周囲の警戒を怠っていた。折角ここまで頑張ってきたのに、うっかりやられるわけにはいかない。

素早く振り返るとほんの少し前に頭に浮かんでいた顔があって、キリトは、ほっ、と胸をなで下ろした。

 

「びっくりしたのはこっちよ。きみ、こんな夜中にどこへ……え?!、ちょっと!、怪我してるのっ?!」

「あ……うん、まあ…でも大した怪我じゃないから」

 

言いながらも隠しそびれた左上腕部の傷口からぽたり、と血が流れ落ちたので説得力は全くない。案の定、ママナは細い眉を吊り上げて「それの、どこが、大した怪我じゃない、なの?」と静かに怒りを露わにしている。

 

「いや、ホントに、こんなの時間が経てば治るし」

 

全く痛そうな素振りを見せないキリトはやせ我慢をしている風でもなく、それでも出血が止まらない左腕という状況は一種のカオスだ。『ゲームの世界』だからここの人達は痛みを感じないのかしら?、と思ったママナだったが、頼れるアイは情報整理の時間なので呼びかけには応えてくれないだろう。それに食堂の調理場ではついこの間も新人の料理人がうっかり指を傷つけて「イッテー」と叫んでいたから痛覚がないわけではないはずだ。

ママナはぴんッ、とキリトの眉間の前あたりに人差し指だけを突き出し「そこに座って待っててっ」と有無を言わせない勢いで言い残すと食堂の二階へかけ上がっていった。

残されたキリトはママナに言われた通り、と言うよりはいきなりの展開に理解が追いつかず、ただポカンとしたままその場に固まっていただけで、結局理解が追いつくよりも早くママナが戻って来る。

 

「はい、腕みせて」

 

差し出された手は白くて小さくて、そこにちょっと薄汚れている自分の腕を乗せるなんて貴族の屋敷の二階から飛び降りるより勇気が必要な決断を迫られたキリトが「うっ」と怯んでいると、ママナが奪い取るように目当ての腕を掴んで袖をまくり上げた。

 

「なにこれっ?!」

 

そこには鋭利な刃物で切り裂かれたとしか思えない見事な一直線の傷口があり、今も鮮血が真っ赤な糸のようにそこから何本も伸びている。

 

「一体こんな夜中にどこでなにをしてきたのよっ」

 

荒っぽい口調とは裏腹にキリトの傷口を消毒するママナの手の動きは繊細だ。脱脂綿に消毒用のアルコールを振りかけ、丁寧に傷口の周辺の血を拭っていく。どうやら結構深く切れているようで、ぱっくりと露わになった患部を見たママナは、上目遣いにキリトを見ると真剣な顔つきで「我慢してね」と前置きを口にしてから「えいっ」となぜか自分に気合いの一言を付けて新たにアルコールを染み込ませた脱脂綿を傷に押し当てた。

丁寧に、それでいて手早く消毒を済ませて恐る恐る顔を上げると、キリトは頬を真っ赤にして眉根をギュッと寄せ、痛みとは違う何かに耐えているような顔つきになっている。

 

「あとは傷薬を塗って油紙で覆ってから包帯を巻くから……」

「うん…悪い」

「……違うでしょ」

 

そっ、と撫でるように軟膏を塗る指先は細くてしなやかだ。つい目が釘付けになっていたキリトはママナの訂正を促す声に慌てて反応した。

 

「あ…りがとう」

「どういたしまして。私が使わせてもらってるお部屋、料理人さんが住み込んでもいいように簡単なキッチンもついているし、薬箱もあるの」

 

料理の練習も出来、それで怪我をしても準備万端というわけだ。

傷口に油紙を押し当てたママナは静かに「ここ、押さえていて」とキリトに指示を出して、自分は白い包帯を手に取る。

 

「それで、どうしてこんな事になったの?」

 

再び自分の腕に包帯を巻いていく手際のよさに見とれていたキリトは一拍遅れて「うぇっ?」と珍妙な声を発した後、視線を明後日の方向にやって「う゛う゛ぅ」としばらく唸ってから「ナイフがさ」と渋々話し始めた。

 

「飛んできて……よけたんだけど…」

「よけ損なってるわよ」

 

間髪入れずに顔を上げないままママナが事実を正確に指摘する。

 

「まぁ、結構な人数を相手にしたからな」

「ここの食堂で、ってわけじゃないわよね?」

 

いくら酒が入って暴れる客が出ても大人数でナイフまで飛び交う事態になるとは思えない。

 

「夜の散歩に行った先で……」

「ずいぶん物騒なお散歩ね」

「たまたまオレみたいに散歩してる連中がたくさんいて、ですね…」

「それでどうしてきみにナイフが飛んでるの?」

「散歩しながらナイフ投げの練習をしてたヤツがいた……のかもな」

 

納得しかねる顔でそこまでの会話を交わしていたママナは「はい、できたわ」と包帯を巻き終わると、改めてキリトの顔を正面から見つめ、その視線をゆっくりと下ろして一番下の靴まで辿り着くと再び同じ道を上がり戻って来た。

 

「だいたい深夜にそんな真っ黒な格好で歩いてたら誰も気付かないと思うけど」

「だからうっかりオレの方にナイフが飛んできたんだろ」

「きみねぇ……」

 

これ以上何を聞いても適当な返答しか出てこないと諦めの溜め息を付いたママナへ、今度は攻守交代とばかりにキリトから質問が投げかけられる。

 

「ママナはどうしてこんな時間に起きてたんだ?」

「私?、私はね…」

 

問われたママナはなぜか得意気に笑顔を浮かべて持って来た薬箱の隣にある紙袋を自分とキリトの間に置いた。

 

「これを作ってたのっ」

 

ガサガサっ、と音を立てつつも慎重な手つきで現れたのは小ぶりのカップに入っている黄色い液体と言うより少し固めのクリームだ。

 

「はい、どーぞ」

 

袋の中には同じカップが二つ入っていて、ママナは先に取り出した方をキリトに渡した。

 

「あったかい……」

「うん、さっき蒸し上がったばかりだから」

「これ…?」

「プリン!…てっ……知ってる?、ケーキじゃないけど、やわらかくて甘いお菓子なの……とにかくスプーンですくって食べてみて。右手は大丈夫なのよね?」

 

続いて受け取ったスプーンを持つ右手は特に異変はないし、なんならプリンを持つ左手だって普通に動かせるのだが、包帯のせいで逆に少しぎこちない。キリトはまだ温かさが残っているカップを持ち滑らかな月色の表面にスプーンを差し入れた。スプーンの侵入に反応してプリンの表面がぷるんっ、と揺れる。

すくい上げて急いで口に入れればほんのり温かいプリンの甘さが広がって張り詰めていた気持ちをふわり、と包み込んでくれた。

 

「うまいっ」

「よかった。蒸し加減が難しくてなかなか綺麗に仕上がらなかったの。それで何回も作ってたらこんな時間になっちゃったけど、材料はね、ここの牛乳と卵を使わせてもらったから……うんっ、濃厚な味で美味しいっ」

 

キリトに続いて自分もプリンを堪能したママナが満足そうに笑う。

 

「カップの底にカラメルソースが敷いてあるから一緒に食べてね」

 

そう言われてキリトはすぐにスプーンをぐっ、と突っ込み底辺からすくい上げた焦げ茶色のカラメルとプリンを一口で頬張った。噛む必要はないが口いっぱいに広がる優しい甘味とそれを引き立たせる僅かな苦味をいつまでも口の中で味わっていると、ママナが嬉しそうに目を細め「カラメルもね、思い通りに固まらなくて苦労したんだ」と打ち明けてくるので、労うようにコクコクと必死に頭をふればそれが可笑しかったらしく、ますます彼女の笑みが深まる。

ちょっと名残惜しい気持ちでごくんっ、と飲み込み、次の一口を、とスプーンを動かす間に何気なく「料理、好きなのか?」と尋ねてみると、それまでキリトに比べればゆっくりとだがプリンを綺麗な所作で食べていたママナの手が止まった。

気付いたキリトがプリンから目を離し顔をあげる。

すると、なぜか問われたママナも驚いたような不思議な顔をしていた。

 

「好き…なのかな?」

「好きでもないのに、こんな時間まで作ってたのか?」

「これはおかみさんと料理長にこれまでの感謝のつもりで……もちろん、厨房の料理人さん達やキリトくんにもだけど。ただ、今、私が出来る事ってこのくらいしか思いつかなくて……それに、これ、料理って言わないでしょ?」

「それでも寝ないで作ってたんだろ?、好きだから、とか、得意な事だから寝る時間を削ってでも出来るんじゃないのか?」

「うーん、私はどっちかって言うと不得意な事を克服する為に時間をかけちゃうかな。得意だったらすぐに終わるし」

 

互いの意見はまるで正反対なのは思い描いている対象がズレているのでは?、とそこまで気付いているのに通じ合えないもどかしさに、むむっ、と二人が眉根を寄せたまま見つめ合う。

少しの間、相手の言葉を頭の中で反芻する時間が流れた後、食欲に負けたキリトが思考を放棄してスプーンを動かしプリンを口に運んだ。

 

「やっぱり美味い……ならさ、このプリンを作ってる時はどんな気持ちだった?」

「気持ち?」

「不得意な作業だったら、やめたくなったり苛ついたりしないか?」

「あ、そうね……うーん、なかなか思うとおりに出来なくて悔しかったけど……それでも楽しかった、かな」

「じゃあ好きなんだよ」

「好き……そっか、私、プリン作るの好きなのね……他にも色々作ってみようかな」

 

パッ、と笑顔になったママナの反応につられるように笑いながらも「ほどほどにしとけよ」とキリトが釘を刺す。

 

「この街に来た目的は兄貴を探す為なんだろ?」

「あー…うん、大丈夫、それはわかってるわ……私ね、今まで自分の好きな事をする、ってあまりなかったの。だからお料理が好きなのかも、って思ったら、今、すっごく嬉しくて……」

 

意気込んで前のめりに「ありがとうっ」と伝えてくるママナに若干上体をのけぞらせたキリトがついでに頬も引き攣らせた。

 

「いや、プリンもらってお礼を言うのはオレのほうだし……あれ?、なんか落としたぞ」




お読みいただき、有り難うございました。
深夜だけどプリンくらいならいいよねっ


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・じゅう

夜中に食堂裏でキリトとママナの会話は続き……


キリトの方へ身体を突き出した拍子に胸元からころり、と小さな何かが地面に転がり落ちる。それを慌てて拾い上げたママナは指でつまんで顔の高さまで持ち上げた。

 

「これね、私のじゃないんだけど……」

「指輪?」

 

それはママナが唯一この世界に持ち込んだ物だった。

転移したあの夜、万が一にも自分の行動を家族に知られたくなくてGPS機能付きの携帯端末はわざと部屋に置いてきた。家の玄関はオートロックだが登録してある家人の指紋や声紋で外側から解錠できる。だから本当に何も持たず、だからこそ身も心も軽くなって自分にしては突飛な行動が取れたのかもしれない。

ところがこの『乙女ゲームの世界』に転移した時、ママナはこの指輪を握りしめていた。

推測だが、コンビニの前でよろける原因となった足元の違和感はこの指輪を踏んだせいで、自分でも意識せずに転移寸前に拾い上げていたのだろう。

コンビニの駐車場に落ちていた誰の物かもわからない指輪だったけれど、この世界に転移するきっかけを作ってくれたのだと思えば今は少しだけ感謝したくなる。

だから元の世界に戻る時までなくさないようにずっと持ち歩いていたのだ。

ママナに指輪を見せられたキリトがその意匠を確かめようと顔を近づけたその時、今まで雲に隠れていた月が現れてその光が降り注ぎ、ママナ達の居る場所を、もちろん彼女の手元も明るく照らす。

 

「この指輪って……」

 

なぜかキリトが目を見開き指輪をジッ、と凝視した後、その視線をママナに移し月光を弾くように輝いている髪や瞳を見つめてから「ママナ」と静かに呼びかけてきた。

 

「なあに?」

「兄貴を探してるんだよな?、この街にいる」

「そ、そうだけど……」

 

実は兄を探すのは口実で決められている五人の男性の中で誰かを攻略して恋人になってもらい、この世界から再び転移して元の世界に戻るのが本当の目的だが、それを告げるわけにはいかない。

 

「ママナの親は?」

「お、親?」

「どんな両親なんだ?」

「ええっ、とね……」

 

食堂で雇ってもらう時もアイから言われた通り「身寄りがない」と話せばそれ以上は聞かれなかったので改めて問われると口ごもってしまう。何と答えようか、と考えたがキリトに対して下手な嘘や作り話はしたくなくて、ママナは「ごめんね」と謝った。

 

「よく、わからないの」

 

アイに聞けば、もしかしたらもっと詳しい設定が用意されているのかもしれないが、よく考えてみれば兄を探しているわりには名前や特徴さえも把握してない。実際は探してなどいないのだから不便はなかったが今まで気付かなかった自分の迂闊さにママナの表情がみるみるうちに萎んでいくと、逆にキリトは確信めいた声で「そうだったのか」と呟いた後、嬉しさと寂しさを同居させたような笑顔で手を差し出した。

 

「城に行こう、ママナ」

「へ?!、お、お、お城?!」

 

突然、城へと誘われたママナは大いに狼狽える。

今なら異性を城へと誘う意味をちゃんとわかっているから、キリトの真剣な言葉を受けて胸が痛いくらいに高鳴っていた。

 

「その、それって…そういう意味で…えっと、ちょっと……あの……」

 

恥ずかしい……もうどうしようもなく恥ずかしくて絶対顔は真っ赤に茹で上がっている確信はあるけれど、「それって私に告白してるのよね?」なんて確認はしたくても口も声も言うことを聞いてくれず、ただ切れ切れの意味をなさない単語が勝手に零れ出てくる。結果、ママナは困り果ててその原因であるキリトを混乱の涙目で叱りつけた。

 

「もうっ、きみはいきなりすぎるのよっ、ばかっ」

「ご……ごめん」

 

さすがに唐突すぎた自覚があるのか、キリトが黒髪をポリポリと掻きながら眉をハの字にしてもう一度ママナの手にある指輪を見ながら静かに口を開く。

 

「けど、城で待っている人がいるから。オレはその人に頼まれたんだ」

「待っている人?」

「ママナが持ってる指輪を……その人は探してるから」

「え?」

 

今度は違う驚きでママナは自分が持っている指輪に視線を移した。

元の世界から自分と一緒に転移してしまった物だとばかり思い込んでいたけれど、元々自分の所有物でもないのでキリトの言い分を真っ向から否定はできない。お喋りがあまり得意でないにしてもいい加減な事を言うような人ではないから、キリトとしては城で待っているという人物がこの指輪の持ち主であると断言できる理由があるのだろう。

けれどアスナにとってもこの世界にやって来てからずっと大事に持っていた指輪だ、そう簡単に手放す気にはなれずキリトの目から隠すように手の中に握り混み、申し訳なさそうに少し上目遣いになる。

 

「確かにこの指輪の持ち主は私じゃないんだけど……あっ、盗んだりはしてないわよっ」

「わかってる」

 

指輪を取り上げられるのが怖くなり、知らないうちに早口になっていたママナが落ち着きを取り戻せるよう、キリトの口調も笑顔も穏やかだ。

 

「だからママナも一緒に城まで行って欲しいんだ」

「あ、だから?……そっか、そういう事なのね。それで私をお城に……」

 

『乙女ゲームの世界』のゴールである「城へ一緒に行く」とは意味が違った事に納得したママナはなぜか自分が落胆しているのに気付いて首を傾げる。よくよく考えてみれば攻略対象者ではないキリトと城に行ったところでゴールにはならないだろうから、元の世界に戻れるわけではないのだ。キリトに「城に行こう」と言われた時、驚いたけれど嫌ではなく、それどころかちょっと嬉しささえ感じてしまった自分を冷静に振り返って、その意味の追求を拒む心に自嘲の笑みを添えて蓋をしてから平静を装う。

 

「一緒に行くのは構わないけど、もし、これがお目当ての指輪じゃなかったらちゃんと返してくれる?」

「もちろん、約束するよ……それで、今からでも、いいか?」

 

まさかの性急な提案に口をあんぐりと開けたまま声も出せずにいるママナを前にキリトはパンッ、と両手を合わせて拝むように頭を下げた。

 

「頼むっ」

「これから、って……こんな夜中にお城に行くの?」

「まぁ、城に着く頃にはちょうど夜が明けるだろうし」

「……私、寝てないんだけど」

「オレだって寝てないさ」

 

だったら今じゃなくても、という意図が伝わらない事に「はぁっ」と大きな溜め息をついたママナだったが、普段は頼み事どころか自分の気持ちすらあまり表に出さないキリトの願いだと思い直して「わかったわ」と渋々承諾を告げる。

その返事に喜ぶキリトの顔が少しだけ寂しそうだったのは月光の影でママナには見えなかった。

 

 

 

 

 

二人、並んで夜の道を歩き、途中、誰に会うこともなく街を抜けて城前に辿り着くと城の背後にそびえ立つ山々の稜線がうっすらと色を変えていて、朝陽の輝きを予感させている。この『乙女ゲーム』のゴール地点を初めて見たママナは中世ヨーロッパの巨城とよく似た雰囲気の建築物とその背景として広がっている大自然が一枚の壮麗な絵画のようで、ふぁっ、と感動の息を吐いた。

 

「すごいっ、綺麗なお城ね」

「…そうだな」

 

心なしか城が近くなるにつれて口数が少なくなっていたキリトがママナの感想に城を仰ぎ見る。

初めてここを訪れて依頼を受けた時はキリトも今のママナのように高揚感で一杯だったのだ。それが今、ようやく達成できるというのに気分は浮き立つというより沈み込むように鬱屈している。けれどそんな感情は無意味だと、ママナを城に誘った時から何回も繰り返し自分に言い聞かせて、キリトは振り切るように一歩足を前へ踏み出した。

振り返ってママナに手を伸ばす。

既にキリトは城に来たことがあるらしいから案内してくれるつもりなのだろう、とママナは少し気恥ずかしそうにしつつも黒い指ぬきグローブをはめているその手に自分の手を重ねた。

すぐにさっきまでのようにキリトの隣に追いつき、並んで城の正面にある大きな門を目指す。

ママナのイメージでは明け方とは言え常時門番がいるものと思っていたが、ここがゲームの世界だからか、大きな門の周辺に人影はなく、まるで二人が来る事を知っていたように大きく開いて招き入れる準備が整っている。

ママナはキリトと繋いでいないほうの手を、ぎゅっ、と握り込み、中にある指輪の存在を確認しつつ、すぐ横にある黒髪の少年を見た。男の子にしては少し色白い肌で、対照的に髪と瞳は黒曜石を思わせる濃い黒だ。長めの前髪から見えるその目はいつも眠そうで、それでも食堂の賄いを前にすれば嬉しそうに弧を描いて、細身なのに意外と食べる量は多くて「やっぱり男の子ね」と思っていた。少し前に食堂で熱々のスープをかぶりそうになって、助けてくれた時の力強さにも別の意味で「男の子」を感じてしまったけれど、同時に心臓がもの凄い勢いでバクバクして身体中の血液がグルグル巡って、それを気付かれないように振る舞うのがどれだけ大変だったかを思い出して頬が少し熱を持つ。

視線に気付いたのか、ふいにキリトが顔をこちらに向け「どうした?」と問うように僅かに表情を変えたが、ママナはふわり、と微笑んで「なんでもない」が伝わるように軽く頭を振った。

あと数歩で門まで辿り着く。そこをくぐって指輪を依頼人に見てもらえれば今回の件は解決するだろう。

そろそろアイも起きてくる頃だから、情報があれば教えてくれるかもしれない。

その後急いで食堂に戻って……とママナが考えているとキリトが門の直前で足を止めた。

つられるようにママナも止まる。

落ち着いた声で「ママナ」と呼ばれて横を向けば、ちょうど陽光が伸びてきて黒いはずの髪や瞳が一瞬金色に見えた。

 

『ママナっ、どうしてこんな所にいるんですかっ?!』

 

突如、アイの声が頭の中に響き渡る。

 

(あ、アイちゃん、おはよう)

『おはようございます…って、こんな朝早くに…、ここ、お城ですよねっ?!』

 

AIであるはずなのにその慌てた反応はどこまでも人間ぽくて、ママナは内心で苦笑いをしながら事情を説明しようとした。けれどそれをキリトの声が遮る。

 

「ここでお別れだな」

「えっ!?」

 

一瞬、何を言われたのかわからずにポカンとしてしまったママナから手を離したキリトは一歩さがって彼女の背中を両手で、とんっ、と押した。

乱暴な衝撃ではなかったがそれでも身体は前によろめき、転倒を防ぐために彼女の足は不均等に二歩、三歩と歩みを進める。その不安定な後ろ姿にキリトは語りかけた。

 

「きみが探している兄はこの国の若き国王さ。オレはその国王に王家の紋章が刻まれている指輪を持つ妹を探してくれと依頼されたんだ」

「え?、何言って……あっ!、えぇっ?!」

 

キリトに背中を軽く突かれた形で、とっとっとっ、と門をまたいでしまったママナの足元から幾つもの光の筋が立ち上る。それは次第に幅を広げ一本の太い柱となってママナを中心に包み込んだままどんどん上空へと伸びていった。

 

『ママナっ、転移が始まりますっ』

(どういうことっ?!)




お読みいただき、有り難うございました。
びっくりしてても律儀に「おはようございます」と言うアイちゃん(笑)


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・じゅういち

『乙女ゲームの世界』から転移が始まったママナは……


一瞬の間を開けてアイが興奮気味に声を張り上げた。

 

『「隠しルート」ですっ』

(隠しルート?)

『たった今、私の中に情報が開示されました。ママナと一緒にお城まで来たあのキリトという少年は実は攻略対象者だったんですっ』

(キリトくんがっ!?)

『はい、だから二人でお城まで来た事でこの「乙女ゲーム」は攻略クリアとみなされました』

(でもっ、私達そういうつもりでお城まで来たんじゃないのよ)

『ママナ、忘れちゃったんですか?、どんな理由でも攻略対象者と一緒にお城まで来て転移が始まったという事は……』

(という事は?)

『お互いが好意を持ってるって事です』

(……ふえっっ!)

 

他者に自分の気持ちを教えられたママナは慌てふためき、思わずキリトに問いかけるような眼差しを向ける。キリトはさっきも指輪の持ち主がママナの兄でこの国の王だと言っていたので純粋に彼女が指輪を持っていたから、という理由で城へと誘ったのは疑っていないが、両想いという実感もないままシステムに判定されるなんて思いも寄らない結末に抵抗を覚えずにはいられない。

 

(わ、私、まだキリトくんに、何もっ…)

 

今の状態に驚きと焦りでいっぱいなのになぜかその瞳だけは切なげで、何かを問いたいのに口に出来ないもどかしさに唇を噛みしめているママナにキリトが光の向こうで困ったように笑った。

 

「また、会える……と、いいな」

 

やっと聞こえるかどうかの声にママナが大きく目を見開いた後、泣きそうになるのを堪えて大きく頷き一番の笑顔で返す。

 

「私も、会えると嬉しい」

 

届くと思っていなかったのか、応えてくれると思っていなかったのか、ママナからの返事に今度はキリトが真っ黒な瞳をまん丸くした。けれど互いの顔も光が濃くなるにつれてドットの粗い印刷物のように見えにくくなっていく。二人はその姿が完全に視界から消えてなくなるまで視線をはずすことなく見つめあっていた。

 

 

 

 

 

キリトの姿もその背景もすっかり消え、今はただ光にすっぽりと包まれた状態でなんとなく程度の浮遊感を味わっていると少しずつだがゲームをクリアしたのだという実感が湧いてくる。

 

「それにしても『乙女ゲームの世界』に転移する時は一瞬だった気がするのに、戻る時は時間がかかるのね」

 

思わず独り言のように呟いてしまうと、すぐにアイの声が響いた。

 

『今、同時に処理が進んでいるんです』

「処理?」

『はい、さっきまでいた世界の人達は私やママナから見ればゲームのキャラクターですが、その設定を認識している人はいません。食堂のおかみさんやお客さん達は世界が違うだけでママナと同じように自分達の世界で普通に生きているんです。だからママナの存在をなかった事にするのに記憶操作のような単純な処理では無理で……』

「そうなの?」

『だって食堂の二階の部屋はママナが生活していたままになってます』

「あっ、プリン!……みんなの分、作ったのに……」

 

結局キリトとママナしか食べず残りは部屋に置きっ放しになっている。

頑張って挑戦したプリンの存在を思い出して残念がるママナだったが、アイの言う通り、ただ記憶を消したとしてもそんな訳の分からない痕跡が残っていたら誰でも混乱するだろう。

 

「それじゃあどうするの?」

『ママナがこうやって転移しているように、あの世界もママナが存在しなかった時間軸に転移させてるんです』

「世界ごとっ!?」

 

あまりの規模の大きさに思わず見開いた瞳の色は、本人は気付いていないが本来の色へと戻りつつあった。

 

『ゲームで言えば「リセット」ですね』

「リセット……」

 

あの世界に転移した時、アイからゲームがクリアされれば自分の事は記憶に残らないと聞いた時は安心したはずなのに、今はなんだか少しだけ胸が痛い。ママナの表情が陰った事に気づいたのか、ママナが明るく声を弾ませた。

 

『そうだっ、言い忘れていました…ゲームクリアおめでとうございますっ、ママナ。それにしてもいきなり「隠しルート」の対象者を攻略しちゃうなんて、驚きました』

 

アイからの祝福にママナは痛みを抱えたまま眉尻を下げる。

 

「うーん、攻略した覚えはないんだけど」

『一般的にはレギュラーの攻略対象者を全員攻略した後に「隠しルート」の存在が明らかになる場合が多いですから』

「そうなの?」

『もしかしたら五人の対象者がみんなママナの事を好きになって、この「黒の盗賊キリト・ルート」が展開されたのかもしれないですね』

「え?、五人全員が私のことを?……」

『はいっ、強い恋愛感情とまではいかないかもしれませんが』

「それでも一人か二人、納得出来ない人がいるんだけど」

 

ママナが思い浮かべているのは発言が嘘だらけの諜報部室長クリスハイトと、表情と言動の違和感が著しい騎士団長ヒースクリフだ。その二人についてはアイも強引に説得するのは無理と判断したようで『うーん、そうですね』と珍しくもちょっと悩むような言葉を告げる。

 

『好意、と言うよりママナの事を気に入ったのかもしれません……』

「まぁ、不愉快に思うような態度はとっていないと思うから、多分、嫌われなかった、程度よね」

 

とにかくゲームはクリアされたのだ、ここで深く追求しても無意味だろう。攻略対象者達五人…いや、キリトを含めれば六人だろうか…彼らはもちろん食堂の夫婦も調理人達も店の常連客や街で触れ合った人々はこれからもあの世界でママナの存在をなかった事として生きていくのだ。

となるとキリトと別れ際に交わした言葉も当然叶うことはない。それでもママナにはアイとの出会いも含めて大切な思い出となっていつまでも自分の中に残るのだと両手を胸の前で握り合わせればその中にある指輪が優しく微笑むように熱を持つ。

慌てて手を広げると段々とその形状が溶けて光の粒子となっていくのを見てママナは「アイちゃんっ」と叫んだ。

 

『もうすぐ転移完了だからです。これはゲームのキーアイテムでしたから』

 

ママナがゲームの世界に転移するきっかけとなり、キリトが探し人を見つけるヒントでもあった指輪は役目を終え、その姿はどんどんと薄れ霞んでいく。みるみるうちに手の平の上には何もなくなりママナはポツリと呟いた。

 

「もう、お別れなんだね……」

 

そして最後はアイとの別れだ。

 

『ママナっ、私、お願いしてみようと思いますっ』

 

何かを決意したような芯のある声にママナは小首をかしげた。

 

『私はまだ試作段階のAIですが、いずれ正式名称と人型タイプのアバターが与えられるんです』

「そっか、私、アイちゃんとたくさんお喋りしたけど姿は見たことないものね」

『はいっ、だからママナみたいに長い髪の女の子がいいな、って……名前も…『アイ』は無理かもしれませんが、それに近いものを希望するつもりです』

「じゃあ元の世界に戻ったら新しいAIに注意してみるわ……アイちゃんだって、わかるといいけど」

 

人間の行動や感情を学んでいるのだからきっとたくさんの人達が利用する家電機器やアプリなどに搭載される可能性が高いと予想したママナは、自分でも干し草の中から針を探すような発言とは分かっていたが、気持ちに偽りはない。

ところが、アイは一転して弱々しい声となる。

 

『ママナ……ママナも元の世界に戻ったら、転移していた間の記憶は残らないんです』

「えっ?!……」

『だから私の事も覚えていませんし……それに、きっとゲームプレイヤーのカウンセリングを担当するAIになると思うので……ママナは普段、ゲームはしないんですよね?』

 

アイの問いにママナは口を噤んだ。

確かに今回の記憶がなくなってしまえば元の世界で元の生活に戻った時、ゲームに関心を示す事はないかもしれない。

それでもママナは気休めではなく勘のようなものを働かせて少しだけ微笑んだ。

 

「覚えてなくても、もしかしたらゲームにだって興味がわくかも……あ、そうだっ、知ってる?、すっごいデバイスが開発されたの。ゆくゆくは教育や医療の現場でも取り入れられるみたいだし、私だって受験が終わって高校生になったら勉強だけじゃなく色んな事をやってみて自分が好き、って思える物をたくさん見つけたいから…」

 

そんな風に思えるようになったのは、ママナが料理好きかもと気付かせてくれたキリトのお陰で、そうやって興味の範囲を広げていけば、いつかどこかでアイと出会えるかもしれない。

だから、だから、諦めないで欲しい、とママナは必死に訴えた。

 

「私がアイちゃんの事を忘れてても、アイちゃんが私の事をわからなくても、また出会ったらきっと仲良くなれると思うの」

 

転移する前だったらAIと仲良くするなんて思いもしない発想だったが、今のママナの口からは当たり前のように出てくる。

いつの間にかママナを包んでいた光の輝きが薄くなってきていた。もうすぐ元の世界へ到着し、自分が「ママナ」と呼ばれていたことすら忘れてあの誰もいない家へと帰るのだと思ったら気ばかりが急いてしまう。

 

「それでねっ、えっと……」

 

レースのカーテンのように光は儚くなって向こうの景色を透けさせている。

 

「アイちゃんっ、ありがとうっ」

 

心の中で精一杯叫んだ時、一瞬だけ前髪を短く切りそろえ背中まで伸ばした黒髪をふわり、と揺らす少女の笑顔が見えた気がした。




お読みいただき、有り難うございました。
ようやくママナは元の世界に戻りました……いつの間にか攻略していたようで。
数年後には「攻略の鬼」になるとか、ならないとか(苦笑)


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【100話記念】うっかり転移したら、そこは『乙女ゲーム』の世界でした!?・おわり

元の世界に戻ったママナに続きこちらも……


最後に見た花が綻ぶようなママナの笑顔が脳裏から離れなくてキリトはしばらく城の門の前で立ち尽くしていた。

視界の斜め上にはゲームクリアを意味する『Congratulation!』の文字が浮かび、華々しい音楽が頭の中で鳴り響いているのに、なぜかその音すら遠くに感じる。半月以上毎日プレイしてようやく迎えたエンディングだと言うのにキリトには達成感よりも別の感情の方が大きくて、そんな自分に戸惑ってもいた。

 

「NPCの少女に『また、会える……と、いいな』なんて……」

 

今なら馬鹿な事を言った自覚もあるし後悔もしているのに、あの時は言わずにはいれらなかった。

その呟きに戸惑ったのか、ちょっと間を置いてから「私も、会えると嬉しい」と笑った彼女は本当に可愛くて、あんな受け答えをするNPCなんて……

 

「はぁっ、本当に反則だろ」

 

全く運営側にクレームを入れたいレベルの破壊力だった。ゲームとは言えあんな少女の近くで暮らしていたら《現実世界》の女性に興味を抱かなくなってしまう男性プレイヤーが増産されるに違いない。

とは言え兎にも角にもゲームはクリアされたのだからキリトは強制的にこのゲームの世界から離脱する……いや、当人の意思に関係なく、排除されるのだ。

朝陽を背にするように振り返ると、すっかり馴染んでしまった街並みがキラキラと輝いている。

ふと、数刻前に食べたプリンの味を思い出し、もう一度食べたかったなぁ、と思いながらキリトはこの世界からログアウトした。

 

 

 

 

 

当選したとわかった時は「自分が持っている一生分の運を使ったかも」と思うくらい信じられない数字の競争率だった新しい家庭用ゲーム機対応ゲームのベータテスター。その試用が始まるまで、はやる気持ちを落ち着かせようと時間潰し程度の気持ちで始めたこの推理アドベンチャーゲームでキリトは『黒の盗賊』として次々にミッションをこなした。アバターの容姿がどことなくリアルの自分と似ていたのはゲームの神様の悪戯かもしれない。

『黒の盗賊』は依頼者であるNPCから頼まれた物を見つけ出し、それを盗むという手段で取り返す事でスキルを得たりレベルが上がっていくキャラだ。

序盤は退屈を覚えるほど簡単なゲームだったが少しずつ難易度が上がってくると、安直に入手した情報が偽物だったり隠し場所がそれまでより更に巧妙に秘されていたり中盤には邪魔をするNPCまで登場してくるようになった。しかも一回捕縛されてしまえばゲームオーバー。それまでのセーブデータは全て消去されてしまう容赦の無さだ。

当初の予想に反していつの間にか必死でミッションをクリアするようになっていたキリトは中盤以降、セカンドステージに移行してから毎日のようにそのゲームにログインするようになっていた。

そこで出会ったキャラクターが無口な食堂の料理長と賑やかで世話好きのおかみさん、そして給仕係のママナだった。

キリトはゲームにログインすると食堂の夜の営業が始まるまで情報を収集し、夕方から店内の片隅で客同士の他愛もないトラブルを力業で解決して閉店後の時間は『黒の盗賊』として活動していた。ママナというNPCが食堂の従業員として現れてから、情報収集の時間が削られても彼女と一緒に食事を摂るようになっのは相手を知ったり自分を知ってもらったりという行為が少し久しぶりで、それが存外心地よかったからかもしれない。

なぜかNPCであるはずの彼女も同じような気持ちでいてくれているような気がして、つい自分の分の食事を運んでもらった時は「重かっただろ?」などと気遣いの言葉まで口にしてしまったくらいだ。

ゲームの世界のキャラクターの仕草や言葉なんて制作スタッフが作り出した表情と台詞が、何十、何百通りの組み合わせで返ってくるだけのはずなのに学校からの帰宅が遅くなってしまい、いつもの時間にダイブできなくて食事に遅れても笑って許してくれたり、寝坊だと勘違いされて呆れられたり、あんな反応をしてくるNPCは今まで見たことがなかった。

そもそもあのゲームのNPC達はまるで最初からあの世界の住人であるかのように生き生きと日々の生活を送っていて、情報屋に橋渡ししてもらった騎士団長の固い表情や我を突き通す抑揚の少ない話し方さえ彼の個性に見えてくる。

その団長と言うのはこのゲームの最後の依頼を完遂する為に必ず会わなくはならない人物で、情報屋がセッティングしてくれた場所が「醤油味のしない醤油ラーメン店」だったのだ。

ちょうどママナが休みをもらう日だったから昼食はそのラーメン屋にしようと、いつもより早くログインして街に出てみれば偶然にもママナを後ろ姿を見つけたわけだが、そのすぐ前に自分の知らない男が立っているのがわかった途端、なぜか駆け寄って二人の間に割り込んでしまった理由はよくわからない。

ママナと話していた相手がキリトの目当ての人物だったのには大いに肩すかしを食らった感はあったが、結局店まで同行して美味いのか不味いのかもわからないラーメンを二人ですする事になった。あの団長も国王の妹を探す任を得ており、同時にこのミッションの挑戦者に赤ん坊の頃に連れ去られたという王女の髪や瞳の色を教える役目も担っていた。ただラーメン屋までの道を尋ねた時にママナがその人かもという可能性に至らなかったのは今ひとつ腑に落ちないが、髪や目の色だけでは王女だと断定出来なかったからだろう。

それにしても最後の探し物がずっと自分の身近に存在していたとは、灯台もと暗しと言うか、その彼女から自分に賞金がかけられていると聞かされたのだから、情報の提供者でもあり盗み出す対象者でもあると言う一人二役を担っていたわけだ。

『黒の盗賊』への依頼だから先代国王夫妻の忘れ形見である王女はどこかに軟禁でもされているのかと思ったが、ママナが指輪をキリトに見せなければきっとクリアまでもっと時間がかかっていただろう。キリトの《現実世界》での事情を言えば定期テストの一日目が明後日に迫っており、これまでゲームに時間を費やしすぎてテスト対策を完全に怠けていたからママナが目当ての王女だと確信するやいなや性急に城への同行を切り出してしまったのだ。

予想通りママナが入城した途端、ミッションクリアを示すようにその姿は消えていきゲーム自体もエンディングを迎えた。これでもうこのゲームにログインする必要はなくなり心置きなくテスト勉強に打ち込めると自分に言い聞かせたキリトだったが、本当に気持ちを切り替えられたのかどうかは定かではなかった……。

 

 

 

 

 

それから数年後……

 

 

 

 

 

夜の高級住宅街の中、少しだけ場違い感のあるコンビニの自動ドアが開き、すらりと目を引くスタイルで栗色の長い髪の少女が両方の手それぞれにホットコーヒーが入った耐熱カップを持って出てくる。

少し歩いた所で明るい店内から夜の駐車場で目が慣れていなかったのか、何かに躓いたように体勢を崩した。

「ひゃっ」と言う可愛らしい驚声はうっかり転びそうになったせいか、それともすぐさま自分の背後から腰に腕を回されたせいか……。

 

「気をつけろよ。コーヒー、かかってないか?」

「ん、大丈夫……って、あれ?、前にもこんな事、あった…っけ?」

「いや……あ、まてよ、うーん…なんかあったような気もするけど……記憶力に関してはあんまり自信ないからなぁ」

「もうっ、堂々と言う事じゃないでしょ、キリトくん」

「堂々と何でもない所で転びそうになったのは誰ですか?、アスナさん」

 

和人は明日奈の肩越しから覗き込むようにして、その明日奈は首を捻って、互いの顔を見合わせて同時に「ぷっ」と吹き出す。

コンビニの前だが深夜でもないのに人や車の往来はなく、駐車場にも和人のバイクしか停まっていない。今出てきたコンビニも二人が出てきた後は店内に客はおらず、ちらっ、と和人が振り返って見ればレジカウンターにいた店員はバックヤードに引っ込んだようで姿が見えなくなっていた。

けれど明日奈の気がかりは周囲の目より自分が持っているビニール袋の中身だ。

 

「だって、暗くてよく見えなかったんだもん。それより、プリン、崩れてないかな?」

「まぁ、多少崩れたって味は変わらないだろ。それを言ったらオレはこれから川越までバイクで運ぶわけだし」

 

明日奈はコーヒーの他、たった今コンビニで購入したと思われるプリンの入った小さな手つきビニール袋を肘にかけていた。同様に和人も彼女の身体にからめていない方の手で別のビニール袋を掴んでいる。

 

「このプリン、名前の通り本当にとろんとした柔らかい生地みたいだからいつも以上に安全運転じゃないとダメだよ」

「ああ、スグのやつ、明日奈の家の近くのコンビニにこのプリンが売ってるって知ってから、買ってきてってずっと言ってたからなぁ」

「どこのコンビニにも置いてある商品じゃないのね」

 

自分の肘にぶら下がっているビニール袋の中身は見えないが、その存在を確かめるように明日奈は軽く腕を持ち上げた。彼女の言葉に和人が微苦笑を浮かべる。

二人が持っている正式名称『とろとろとろりんプリン』は都内の一等地に店を構えるパティシエ監修の厳選された材料で作られたちょっぴり高級感のあるプリンだ。同じ系列でも各地に全国展開しているコンビニでは扱っておらず、ワンランク上のプレミアム商品を取りそろえている都内の所謂富裕層の住宅地に近い一部のコンビニでしか手に入らない。

自宅からバイクで明日奈を家まで送ってきた和人だったが、家を出る時に「今日こそ忘れないでよ、お兄ちゃん」と念を押され、それを明日奈に聞かれて、それなら結城家に到着する前に寄っていこうとなったのである。

今日は門限ほぼギリギリの時間になってしまったのでいつもの公園に寄る暇はなく、コンビニの駐車場でコーヒーを飲み終えたらすぐに明日奈を送らなければならない。彼女は歩いて帰れる距離だからここでいい、と言ってきたが、既に陽は落ちて周囲はまっ暗だ。ここまで自分が一緒に来たのに僅かな距離でも夜道を明日奈一人で歩かせるなんて選択肢は和人の中にはない。

それにバイクで送ればあともう少しこうして二人でいられる時間は増えるのだ。

家から歩ける距離にあるコンビニとは言え普段通学に使う駅とは反対方向にある為明日奈もそう頻繁に訪れているわけではなく、プリンの存在も直葉から聞いて初めて知ったようで商品棚に並んでいたプリンをジッ、と見つめている姿に思わず和人が彼女の分も購入したのである。

 

「私まで買ってもらっちゃって、ありがとう、キリトくん」

「別にこのくらい……でもそんなに緩いプリンなのかぁ。オレはこの前アスナが作ってくれたプリンがちょうど好みの固さだったな」

「あっ、あれね、初めて作ってみたんだけど思いのほか上手くできて……なんだか何度も作った事があるような感じがしてちょっと不思議だったんだ」

 

奇妙な体験を語る明日奈の身体には未だに背中から和人がぴたりと密着していて、もう支えてもらわなくても大丈夫だと伝える為に胸元にある腕をタップしようとして両手を塞いでいる耐熱カップに気付いた後、「あの……キリトくん」とおずおず声を掛ければなぜか更にぎゅぅっ、と締め付けが強くなる。

 

「えぇっ?、なんで!?」

「……なんだか離れがたいと言うか、離したくないと言うか……ほら、今日はオレん家でもずっとリビングでスグと一緒だったし……」

 

確かに今日は和人が明日奈を連れて帰宅した時に珍しく先に直葉が帰っていたのでそのまま三人で過ごす流れになり、当然過度な触れ合いはせずに桐ヶ谷家での時間は終わったのだ。

 

「でも今夜はログハウスでまた会えるでしょ?」

「そうだけどさ、どうせリズ達が来るだろ?」

「あ、そっか……定期テスト、もうすぐだもんね」

 

放課後、明日奈と一緒に学校の門を出るタイミングで後ろから里香が大きく手を振りつつ「今夜、お邪魔するからー」と叫んでいたのを思い出した和人は内心、違う意味で邪魔されるんだよなぁ、とぼやく。

明日奈は日々予習復習を欠かしていないのでテスト前に慌てる事はないだろうが、里香や珪子はいつもテスト対策に明日奈を巻き込み、二十二層のログハウスで勉強をするのが当たり前になっているのだ。

 

「そういうキリトくんは大丈夫なの?」

「オレ?、オレは…得意科目ならやる気が出るんだけど……苦手科目は前日くらいにならないと……」

 

今から勉強をする気にはなれないとほのめかす和人に明日奈の両肩の力が抜ける。

 

「キリトくんたら…、苦手だから時間をかけて克服するんでしょ」

 

明日奈のちょっと呆れモードの声に、うぬ?、と和人が眉根を寄せた。

 

「なんだか以前にも同じような会話、した気がするなぁ」

「そう……だね……」

 

記憶を辿ってみるがそれらしい思い出が蘇ることはなく二人共黙り込んでいると、和人が「そう言えばさ」と口を開く。

 

「《SAO》に囚われる前の話なんだけど、毎日ログインしてたゲームがあって」

「相変わらずだったんだね、キリトくん」

「すごく夢中になってた記憶はあるのに、そのゲームの内容が思い出せないんだ」

「キリトくんが!?」

 

明日奈が驚くのも無理はない。かつて《SAO》のベータテスターとして得たキリトの驚異的な情報量はゲーム初心者だったアスナに数え切れないほどの知識を与えてくれたからだ。

 

「ああ、その時は定期テスト直前までかかってゲームクリア出来たんだけど、テスト期間が終わる頃にはほとんど覚えてなくて……でも本当に楽しかったのは間違いないんだ」

「ふぅん…………で…ね……キリトくん……」

 

この体勢になってから既に数分が経過している。相変わらず通りは静まりかえっているが自分の家のすぐ近くという状況はいつもの公園と同じだが何の遮蔽物もない駐車場では落ち着かないのか、身体をもぞもぞと動かしている明日奈が何が言いたいのかを察した和人が額を栗色の髪に押し付ける。

 

「もうちょっとだけ」

 

なんだか寝起きの悪い子供がグズっているような声に明日奈がすぐ「そうじゃなくて」と押し返すように小さく頭を振った。

 

「…もっと、ちゃんと……」

 

和人に言われて改めて認識してしまうと明日奈も一方的な温もりだけでは物足りなさが生まれてしまったのだろう。どこまでを求められているのかはあえて追求せず少し先に駐めてあるバイクへすぐに移動するとコーヒーとプリンをその上に置いて、和人は胸に抱きついてきた明日奈を包み込み全身で互いのぬくもりを確かめ合ったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
【100話記念】、これで完結です。
100話(以上)書いても、まだキリアスネタが浮かぶので
これからもお付き合いいただけると嬉しいですっ。


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【いつもの二人】抱き寄せて

「ユナイタル・リング」の新刊発売を祝しまして
【いつもの二人】シリーズです。
今回はキリト視点で、UWから《現実世界》に帰還した後、
アスナに続きキリトも退院して数日経った頃の《ALO》でのお話です。


うーん…、とログハウスのキッチンの奥でこっそりと困り抜いた顔をしているアスナに気付いたのはオレだけで、それは多分もう無意識のレベルで常に彼女を気に掛け、目で追っているからだろう。

度数ゼロのはずのアルコールテイスト飲料の入った瓶を片手に、オレに対して「それにしても二百年もアスナを独り占めしてたのかよう、でも無事で何よりだよなぁ、それにしても……」と延々ループ状に管を巻き続けているクラインの拘束から抜け出してキッチンに入り「どうしたんだ?」と声を掛けたのがほんの少し前。

そしてその理由を聞いたオレは苦笑いをするしかなかった。

今日はアスナの発案でオレの快気祝いに二十二層のログハウスへ皆を招いていたのだが、アスナが予想していたよりも多くの友人達が訪れてくれて飲み物が足りなくなりそうだと言うのだ。なんでも声を掛けたほぼ全員が参加してくれているらしい。

これはもうオレの人望と言うよりアスナの料理目当てだろうな、とは思うけれど皆の笑顔が多い事に嬉しいのは間違いなく「それならオレが買い足しに行ってくるよ」と申し出てから今はログハウスの戸口で少し押し問答になっている。

 

「今日の主役はキリトくんなんだから、私が行ってくるよ」

「快気祝いって言うならアスナも含まれてるだろ。発案者でもあるアスナはここにいろって」

 

だいたいこの人数が集まっている中で飲み物や食べ物を過不足なく提供しつつ、加えてあっちこっちで笑顔を振りまきながら会話を盛り上げるなんて高度な接待術はアスナしか習得していないスキルだ。オレが抜けても問題ないだろうが、ホステス役が居なくなってしまえば最悪無法地帯になる可能性もあるわけで……オレはチラリとアスナの肩越しに屋外で異様な盛り上がりを見せている四人に目をやった。

以前にもここでシルフの領主であるサクヤとサラマンダー最強のユージーンが鉢合わせをした時は一触即発の緊張した空気になりかけたのだが、今日はそこにケットシーの領主アリシャ・ルーに加え、なんとアリスまでもが混ざって何やら豪快な笑い声を上げている。

えっと…あれってどういう状況?……と冷や汗とともにクエスチョンマークの発生が止まらない。

どんな会話をしているのか、知りたいような、知らない方がいいような……とにかく今はお互い手に持っているのはグラスや取り皿だが、それがいつ、どんなタイミングで剣になるかもしれず、それを回避、もしくは沈静化するアイテムがオレのストレージにあるはずもなく、だからどちらがこの場に残るかなんて考える余地もない。

オレの視線の先と言いたい事をすぐに察したアスナはそこでちょっと眉尻を落として笑いながら「大丈夫」と言ってオレを追い抜き、外に出ると細い指を後ろ手に組んでブーツの踵をトンっ、と鳴らした。

 

「エギルさんがいてくれるから」

 

そう言われてよく見れば四人に混ざってはいないが、アリスのすぐ隣にエギルがいてヒートアップしそうな雰囲気になると絶妙なタイミングでその場の空気抜きをしている。

 

「それにユイちゃんと一緒にリズやリーファちゃんも手伝ってくれてるし」

 

なるほど、アスナ一人分の働きを分担してユイのサポート付きながらリズやリーファがこまめに動いており、そこになんとなくではあるもののシリカやシノンがフォローに入っている。

 

「ちょっとの間なら私がいなくても平気だよ」

 

だから、と続きそうになるアスナの声をオレは「それでもさ」と遮った。

 

「今回はオレ、ほんとに何にも手伝ってないし…」

 

手際の良いアスナだからオレの退院の日取りを知ってすぐに動き始めたらしく、オレ的には感覚として実に二年以上ぶりの、もし記憶が蘇ったとしたら、それこそ二百余年ぶりの《ALO》へのダイブ後、すぐに快気祝いの日になっているので下準備から何から全てアスナに任せっきりなってしまったのだ。

この後、日を改めて《現実世界》でもエギルの店で快気祝いをしよう、という話になっているが、今日集まってくれたこのログハウスはアスナだけじゃなくオレの家でもあるんだから、それなら少しくらいホストとしてもてなしの一端を担わせて欲しいと頼むと、ようやくアスナが考えを改めようとしているのか唇に力を込めて、うむむっ、と唸った。

 

「でも、やっぱり一番頑張ったのはキリトくんだし……色んな意味でね」

 

ここにいる連中はリーファとシノン、そしてアリス以外全員があの時《アンダーワールド》にコンバートしてくれたプレイヤーだからオレが覚醒する瞬間も見ているし、きっと多少は事情も理解しているだろう。だからこそ、とも思うが病院を退院できた事よりもっと遡れば《現実世界》に生還できた事、それは本来なら人として生きるには耐えられない可能性の方が遙かに高い膨大な時間を共に過ごしてくれた存在があったからに違いなく……そこまで考えて、はた、と気付く。

 

「SAOだってオレ一人でクリアしたみたいになってるけど、アスナが身を挺して助けてくれたからだし、死銃事件の時もアスナがファイブセブンの存在に気付かせてくれたお陰だし、それに今回の《アンダーワールド》でだって……やっぱりオレはアスナが一緒にいてくれないとダメなんだな」

 

思い返してみれば、もしもアスナがいなかったら、と想像するだけで血の気が引くような場面が次から次へと湧き出てきて、自分の非力さに項垂れていると、すぐ目の前でウンディーネ族の中でも目を引く綺麗なアトランティコブルーの髪が、さらり、と揺れた。

 

「うん、でもそれはお互い様なんじゃないかな?……そもそもキリトくんに出会っていなかったら私がSAOで生き残っていたかどうかもわからないよ」

 

迷宮の奥で初めて彼女を見た時、ひたすら剣を振っているアスナの姿を唯一知っている身としてはそれが決して大げさな表現でない事はわかっているが、だからと言って買い出しに行く役をアスナに譲る気にはなれない。オレが折れないのでちょっと呆れ顔で笑ったアスナは秘密を打ち明けるように、その顔を近づけてきた。

 

「それにね、飲み物の他に食材も少し欲しいな、って」

 

と言う事は飲み物だけでなく、料理の方もあやしい感じになってきているのか、とオレはあんぐり口を開ける。

アスナならオレが適当に買ってきた食材でもプロの逸品に仕上げるだろうが、購入する時点でそれを調理する彼女が選んだ方がベストなのは当然で、それでもオレは未練がましく「あんなに用意してあったのになぁ」と乾杯をする時点で目にしていた料理の数々を思い起こした。

もう絶対に快気祝いじゃなくてアスナの料理に舌鼓を打つ会になってるよな……と確信すると、主役…という自覚はほとんどなかったが…の座を潔く料理に明け渡すべくスタスタとログハウスから出て振り返り、きょとんとしているアスナに右腕を伸ばした。

 

「だったらもう二人で行ってこよう。ほら、転移門まで飛ぶぞ」

 

一瞬アスナの顔が分かりやすく戸惑う。

主役とされているオレとホステス役の自分の二人が同時にいなくなる事に抵抗があるのだろうが、はっきり言って今まで戸口で喋っていても誰もオレ達を探しに来ていないのだから、短時間抜けた所で問題はないだろう。買い出しに行ってくる旨はアスナがユイに伝えてあると言うので同時にオレが消えていれば、その意味をすぐに理解出来る娘がここに残っているならいつでも連絡は取れる。

「アスナ」と呼んで、ちょいちょい、と手招きをすれば自分の中で決断を終えた彼女は気持ちを切り替え「うんっ」と満面の笑みでオレの胸に飛び込んできた。互いにすっかり慣れ親しんでいる動作でオレは右腕で彼女の腰を抱き、黒いコートの一部を翼に変形させる間にアスナは両腕をオレの首にしっかりと回して……

 

「あれ?」

「あれ?」

 

これ以上はないという密着度の状態でオレ達は同時に固まり、疑問符を口からこぼした。

首元に直接唇が触れているような距離でアスナが「なんで、私?」と自らの行動に少々パニクっているようだったが、それはオレも同様で、ほぼ無意識だったのに二人共息がピッタリだったのが余計に謎を深める。

ただ、それ以上に片腕で支えているアスナの温もりが余りにも心地よく、しっくり馴染んでいてオレはなんだか理由(わけ)もわからず懐かしさに「はぁっ」と愉悦の吐息をもらした。

アスナに限っては正面から両腕で囲い込んでも、背後から抱きしめても、それぞれしっくりくるのだが今までこんな風に抱き寄せた記憶はそれ程ないはずなのに、とかかえている力を緩めずに考えていると、やっぱりオレにしがみついたままのアスナがちょっと切なそうな声で「覚えて、るんだね……」と囁く。

 

「……アンダーワールドで、初めてキリトくんの心意で飛んだ時、わたし、これからもこうやって抱っこしてもらうって言ったでしょ?」

 

そう告げられてオレは彼女の囁きの意味を察し、郷愁の念に駆られて声を詰まらせた。

つまりオレはあの時のアスナの宣言通り《アンダーワールド》で二百年もの間、飛行移動をする度にこうやって彼女を抱きかかえていたのだと、記憶を消去されても互いの身体が覚えているのならきっと今のように当たり前になるくらいオレ達は支え合って一緒に生きていたんだと、アスナの存在の大きさを実感して片腕だけでは足りず、ぐっと彼女の細い腰に両手を回して抱きしめる。

思い出せない記憶の中でさえオレはアスナが傍にいてくれないとダメだったんだなぁ、と思えば、この《ALO》ではアスナがオレに頼らず自由に飛べてしまう事すら少し寂しくて、面白くなくて、彼女に見えないように口を尖らせていると、耳元で躊躇いがちな声が小さく聞こえた。

 

「…キリトくん、主街区まで…抱っこしてほしいな」

 

元より訪れるプレイヤーが極端に少ない場所だ、湖周辺で釣りに興じている妖精達の目に留まらなければ噂になることはないだろう、とオレはすぐさま「もちろん」と答えたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
くどいようですが、ご本家(原作)さまでは
アスナは空を飛ぶ時はキリトに抱っこしてもらう
宣言をしているので、その設定でっ(苦笑)


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だって、つい……

ご本家(原作)さまの「プログレッシブ7巻」
『赤き焦熱のラプソディ(上)』の発刊を記念しまして
ALOでのほのぼの(?)です。


新生アインクラッド二十二層のログハウスまでもう少しという所で並んで飛んでいるリズベット、シノン、シリカの三人のうち、ケットシー族のシリカは大きな獣耳をぴこっ、と動かして年長者であり、頼れる存在のリズを見た。

 

「えっと…アスナさんはいるんですよね?」

「そのはずよ」

 

リズはついさっきキリトから送られてきたメッセージの中身を思い出しながらシリカに頷き返す。

 

「キリトはエギルの店にレアアイテムが持ち込まれてクラインに呼び出されたからちょっと行ってくる、って」

 

多分、キリトに見て欲しい気持ち以上に知識の宝庫であるユイの意見を聞きたいのだろう。メッセージにはユイも連れて行くけどログハウスにはアスナがいる、という内容の後に……『オレが出る時はデッキチェアで寝てたから、リズ達が到着しても起きてなかったらそのままにしてやってくれ。オレがすぐに戻る』で締めくくられていた。

果たしてアスナは目覚めているのか?……針葉樹林の中にこっそり隠された宝物のような存在とも言えるログハウスの屋根が見えてくる。

三人はその建物をしっかりと視認できる距離までやってくるとスピードを落とし、思わず互いに顔を見合わせた。真剣な表情でシノンが自分の顔の前に人差し指を立てる。その意味を残りの二人は深く頷くことで受領して音を立てないよう慎重に着地てから、まさに「抜き足差し足忍び足」状態でこっそりと、それでいて素早く建物に近づいた。

ログハウスの入り口横にあるウッドデッキにはキリトのメッセージにあったようにアスナが大きめのデッキチェアに腰掛けたまま少し身体を傾けて小さな寝息を立てている。

その姿に驚きを隠せない三人は静かにログハウスの階段を上りアスナに近づくが、いつも気配に敏感な彼女にしては珍しく何の反応も見せず、午後の穏やかな陽光を浴びながら気持ち良さそうに無防備な寝顔を晒してた。

と、誰かがゴクッ、唾を飲み込む微かなSEがその場の静寂を破る。

ぱっ、と二人分の視線が飛んで来て、シリカは慌てて両手の平を合わせ上下にシェイクして顔を赤くしながら謝った。それでも感情が収まらないのかシノンが「ふぅ゛っ」と鼻から息を吐き出すので、更にあわあわとシリカがウィンドウを開き一瞬で操作を終えれば殆ど同時にリズとシノンの視界にメッセージの着信アイコンが点滅する。

 

『ごめんなさいっ。でも、間近で見るアスナさんの寝顔って珍しくて、つい…』

 

読んだリズが仕方なさげに自分もホログラムキーボードの上で手を動かす。

 

『あんたねぇ』

『だってアスナさんて私達の前で寝落ちとかしないじゃないですか。私やピナなんてキリトさんが寝てるとすぐ眠くなっちゃうのに』

『まあ、確かにそうだけど』

 

《現実世界》の授業中でも寝ている姿なんてありえないし、中庭でキリトにもたれている時はこれほど近距離では拝めない。

キリトの眠気パラメータには抗えないようだが、そんな時は自分達も既に目を閉じてしまっているから、ここにいる三人はアスナの寝顔をじっくり眺めるなんてこれまで経験した事がない貴重な体験だ。

 

『……で、どーすんのよ、これ』

『どうする、って、どういう意味ですか?、リズさん』

『だから、アスナよ。起こす?、それとも……』

『とりあえず、もうちょっと鑑賞をっ』

『カンショウ?』

『間違えましたっ。キリトさんが戻ってくるまで見守りましょうっ』

 

間違えたのは入力操作ではなくて選ぶ言葉だったのか、と、わたわたとキーボードを打つシリカを呆れたように見ていたリズは、ふと、隣の無言の存在に違和感を感じて顔を向ける。

そこには標的をロックオンしたかのような鬼気迫る鋭い眼差しをしたシノンがいて、激圧眼力で一点を睨みつけていた。

 

『シ、シノン?』

 

躊躇いがちにメッセを送ると着信のシグナルさえ視界の邪魔だと言いたいのかピクリと眉が持ち上がり、顔は固定したまま視線だけをリズにスライドさせて「なに?」と唇を動かす。

 

『なにを見てるの?』

 

ここまでシノンの表情が真剣味を帯びるのはモンスターを見つけた時くらいだ。もしかしたら自分やシリカが気付いていない異変を感じ取ったのかも、とリズも素早く周辺に目を走らせる。

すると今度は口パクでは伝わらないと思ったのか高速タイピングでシノンからリズに答えが届いた。

 

『アスナの寝顔』

「は?」

 

つい声が漏れてしまった。

シノンからの視線に軽く殺意が乗り、シリカが懇願の涙目になる。

リズは片手を手刀のようにして軽く上下させながら苦笑いで「ごめん、ごめん」とジェスチャーで謝ってからそっとアスナの様子を伺うが、幸いな事にその澄んだ寝顔は一切崩れてはいなかった。ほっ、と安堵の息を吐き、改めて親友の寝顔を見つめる。

あのデスゲームで知り合ってから変わる事のないきめ細やかな素肌にすっ、と通った鼻筋、薄桃色の唇とふっくらとした頬は思わず、つんつんしたくなる弾力性を持っていて、加えて目を閉じているからこそ強調される長い睫毛。

見惚れているのはリズだけではなく、両脇にいるシリカとシノンも目が釘付けになったまま微動だにせずアスナの寝顔をひたすら鑑賞し続けるだけの時が流れていく。

しかしそれもほんの束の間、シノンの《GGO》で鍛えられた感知能力は《ALO》でも健在のようで、ぴっ、と耳を釣り上げ残念そうに大きく嘆息して振り返り上空を見上げれば、そこにはログハウスに真っ直ぐ高速で向かって来ている黒い点があった。

シノンの視線に気付いた二人も同様に顔を上げればその黒い点だったモノから薄墨色の妖精羽根が見え、すぐに三人が予想した通りの人物が空から飛び降りたみたいに着地する。

《現実世界》だったら肩で息をして額に汗でも浮かべているだろう必死さが伺えるキリトは三人の隙間からアスナの寝顔を確認すると、ふぅっ、と息を吐いてから、やっと三人を視界に納めた。

 

「待ったか?」

 

ちょっと気の抜けた低い小さな声にプルプルとシリカの髪が左右に揺れ否定を示す。

キリトは静かにログハウスの階段を上がると入り口の扉をキィッ、という微かな音と共に開き、自らは中に入らず三人を促した。我が家に向かい入れる、という歓迎の笑顔ではなく、早く入ってくれと言いたげな余裕のない催促の表情にやれやれと肩をすくませたリズが両脇に居る二人の妖精達の背を押す。扉を開けたままの状態で保っているキリトはそれ以上動かず、補う言葉もなく三人が自分の前を横切って家の中に入って行くのを黙って見送ると、タタッ、とアスナの傍らに歩み寄った。

キリトがログハウスを離れる時は乱れていなかったのだろう、少し姿勢が傾いているせいで水妖精特有の色の髪が一房頬にかかっていて、それを慣れた手つきではらいながら「アスナ」と優しい声を発する。すると今まで気配や物音に一切無反応だった長い睫毛が僅かに震え、サナギが羽化するように瞼がゆっくりと持ち上がり、生まれたばかりのあやふやな瑠璃色の瞳は潤んだまま声の主を見上げた。

清らかな寝息が艶をまとって吐息となり「んぅ…?」と誘い文句のように色づく。無垢と妖艶を同居させたようなアスナの寝起き姿に困り笑いを浮かべたキリトはもう一度「アスナ」と囁きながら彼女の頬をさらり、と撫でた。

 

「……キリトくん」

 

目の前の影妖精を認めると目元も口元もふにゃり、と嬉しさを表して、傾いていた上体はゆっくりと引き寄せられていく……と同時に両腕は真っ直ぐに伸びてキリトの首に巻き付いた。

その様子をログハウスの扉の隙間から縦に並んだ三つの顔のうち二つがあんぐりと口を開けて声もなく見つめている。とは言えキリトの背中越しなのでアスナの表情は伺えないがスプリガンの黒いコートのファー付き襟元に交差された華奢な手の持ち主は言わずもがなで、屈んでいるキリトの両手が当然のように彼女の脇下を支えており、多分だが角度的には互いの顔もかなり接近しているに違いない。

 

「……シノン、気が済んだ?」

 

自分の頭頂部にシノンの顎が触れているリズはうんざりした小声で尋ねた。

親友の寝顔は貴重だったが、キリトが起こしてしまえばああやって触れ合いタイムに突入するのは学校の昼休みと同じ見飽きた光景だ。ただ、さすがにあそこまでのスキンシップは校内で目撃した事がないので、ちょうどお腹の前あたりにあるシリカの顔は自分の両手でしっかり覆っている。

そのシリカが声をくぐもらせて「リズさーん」となにやらモゴってきた。

 

「あのぉ、全然見えないんですけど…キリトさんとアスナさん、なにしてるんですか?」

「いつも通りのイチャこらよ。目の毒だから見ないほうがいいわ」

 

ここがキリトとアスナにとって本当の意味でのホーム故の自然体なのか、アスナが寝起きのせいなのか、今までの経験から言うと「いつも以上」のスキンシップぶりだが「目の毒」なのは間違いないし三つも年下のシリカが見るにはまだ早いと姉御肌であるリズが下した判断だ。すると、リズの頭の上からボソリ、とシノンの声が落ちてきた。

 

「あれが、いつも通り、なわけ?」

「あのねぇ、言い出しっぺはシノンでしょーが」

 

シリカの両目を塞いだままリズの顔は笑いつつも眉毛だけが微妙に歪んでいる。すると今度はシノンまでもが眉根を寄せて唇をへの字に曲げた。

 

「だって私は学校も違うし、キリトとアスナが二人きりでいる場面なんてあまり見たことないんだもの」

「あの二人が二人きりでいる所なんて、端から見たって楽しくもなんともないわよ」

「…そうね。よくわかったわ……けど、アスナを起こすな、ってキリトからのメッセージは何だったのかしら」

「あー、それは確かに私も謎だった…」

 

上下位置で交わしている二人の会話はキリトの耳にしっかりと届いていて、振り返らずとも感じる視線に「はぁ」という溜め息が口から零れ、そのままの勢いでアスナの額に、こつり、と自分のそれをくっつける。

 

「やっぱり、予想通りだったな…」

「よ、そぉ?」

 

未だ眠気の取れきっていないアスナがオウム返しにキリトの言葉を口にするが、呂律の怪しささえ可愛らしく、ほんのちょっと開きっぱなしになっている唇の隙間に、つい悪戯したくなる気持ちを懸命に押し殺して、ぐりぐりっ、とおでこに刺激をあたえる。

途端に「うぅっ」と反応があって、ようやく完全に目が覚めたのかぱちぱちと瞬きを数回繰り返してから、むぅっ、と口をすぼめるアスナに、キリトは呆れた口調で「本当に無自覚なんだな」と頭痛を堪えるような顔つきになった。

至近距離で発せられた心当たりのない言葉にアスナが「どういう意味?」と尋ねると、額を離して自分達の状態を確認する。

 

「アスナってさ、寝起きに目の前の人間に抱きつく癖があるだろ」

「え?」

「ほら、今だって……」

 

そう告げられて、はたと気付いた現状に頬はじわじわと熱を持ち始めるが、そのまま羞恥で俯くかと思われた顔は気丈にもキリッ、と持ち上げられた。

 

「キ、キリトくんだって抱き寄せ癖があるじゃないっ」

「へ?」

「ログハウスでキリトくんが先に寝ちゃってる時、私が後からお布団に入るとすぐ抱き寄せてくるくせにっ」

「そっ…そんなの、寝てるんだから無意識なんだし、一緒の布団に入ってくるのなんてアスナしかいないんだから問題ないだろ」

「それなら私だって、寝起きなんてキリトくんにしか見せないもんっ」

 

当人達は至極真顔で言い合っているのだが、視界を塞がれていても二人の会話だけはしっかり聞き取ってしまったシリカが「あのぅ……」と言いづらそうに口を開く。

 

「これ、聞いてなくちゃダメですか?」

 

シリカが自分の頭の上にいるリズに問いかける。すると……

 

「ログハウスに入ったふりをして観察しよう、って提案したのはシノンなんだから、シノンが決めなさいよ」

 

リズもまた更に上にいるシノンに判断を仰いだ。

そこでシノンはデッキチェアにいる二人……と言うより屈んでいるキリトの背中を見て、その先にちらっ、と見えるアスナの手を見て、それから今のキリトとアスナの会話をもう一度思い返して、見失ったターゲットの逃げた方向を見定めるような鋭い目つきになる。

 

「あの二人、なんであの体勢で言い争ってるわけ?」

「わかってないわねシノン。あれはね、争ってるんじゃなくて、じゃれ合ってるのよ」

 

リズに言わせれば、抱き寄せ癖だろうが抱きつき癖だろうが大した違いは無い。どうせ対象者は特定の一名だけなんだし、強いて言うなら二人共互いに抱きしめ癖があるってだけの話だ。けれど当事者達だけが理解してないようで、未だにキリトはアスナの説得を頑張っている。

 

「いやいや、それは無理だろ。今だってオレが戻ってこなかったらリズ達に寝起きを見られてたぞ」

「えっ、リズ?……」

 

こてん、と頭を傾げた拍子にアスナの視界が開け、キリトの後ろでログハウスの扉の隙間から串団子よろしく縦列して挟まっている友達の顔を見つけて驚きの声が辺りに響き渡る。

 

「きゃぁっ、なっ、なんでそれを先に言ってくれないのよっ、キリトくんっ」

「……だからアスナがオレに抱きついてきたんだってば……」

 

しっかり腰をホールドしているくせに原因の全てをアスナのせいと言わんばかりのキリトの顔が、しがみついている腕をはずす事さえ頭から抜けて恥ずかしさで真っ赤に茹で上がり混乱の果てに泣き出しそうなアスナが腕の中にいる状況に満足げな微笑みを浮かべているだろうとリズは確信していた。

 

「寝起きのアスナが私達に抱きつくかもしれないのが嫌って言うより、自分に抱きついて欲しかっただけじゃないの」

 

あと少し二人のじゃれ合いが続くと予想したリズは「シノン、もういいでしょ?、これ以上は馬鹿馬鹿しくて付き合ってらんないわ」と家主の二人を残して、さっさとログハウスに引っ込んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
「つい」抱きしめちゃったりするおバカップルな二人でした(笑)
「つい」年下二人の面倒をみちゃうリズとか
「つい」アスナを観察したくなっちゃうシリカとか
「つい」二人きりの様子に興味をもっちゃうシノンもあわせて
「だって、つい……」です。


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〈UW〉天の岩屋戸

キリトとアスナがそれぞれ代表剣士と副代表剣士になって間もない頃の
お話です。


キリトの執務室として割り当てられた《セントラル・カセドラル》の一室で部屋の主は椅子に腰掛け、腕組みをしたまま執務机の影になって見えない所で足を小刻みに揺らしてイラつきを放出している。

それとは対照的に部屋の出入り口と執務机のちょうど中間あたりでは華美な着衣の中年男性が揉み手でもしそうに両手を合わせ愛想笑いを崩さないまま厚めの唇を意味も無く震わせていた。

なんでオレが相手をしなくちゃいけないんだよ、と不機嫌さを隠しもせずキリトは男に冷たい声で彼が入室してきた時と同じ問いをもう一度投げかける。

 

「至急の陳情、なのか?」

「ええ、ですから申し上げた通り、代表剣士サマにお仕えする者達は早急に手配せねばいけませんので」

 

他の者に先を越される前に自分がやって来たのだと言いたいのだろう、上級貴族の男にとっては急を要する重要案件なのだ。

少し前に決まった自分の役職である「代表剣士」に付いた「様」が、どうにも下卑た物言いに聞こえてしまったキリトが盛大に眉をしかめる。

 

「オレに仕える、って……」

「そうですともっ、今や人界統一会議はこの世界の秩序。その頂点に立っておられる代表剣士サマのお側に仕える者は厳選せねばなりません」

 

ついでに言うと自分が厳選してきました、ってわけか……と相手の真意を悟りますますげんなりした気分に陥ったキリトは全く興味を覚えていない声で「それで?」と先を促した。

 

「常にお側に侍り、お世話をし、心身を癒やし日々を健やかにお過ごしいただく為、本日、私めが選んだ娘達を何人か連れてきております」

「娘?…女性ばかり?」

「もちろんですともっ。こういった事は若い娘でないとっ」

 

男の眉、目尻、口元が得意気にぐにゃり、と歪んだ。

途端にキリトの漆黒の瞳が氷点下まで熱を下げる。

 

「心身を癒やしてくれる存在というなら、オレには副代表剣士がいる」

「存じております。ですがお側に置いていただければ各々がその妙技で代表剣士サマに誠心誠意尽くすと私がお約束いたします。副代表剣士様も神の降臨と言われているお方。何かとお忙しい身でございましょう。さすれば常に代表剣士サマと共に在られる事は難しいかと」

 

アスナが傍にいられない時に他の娘達をあてがい、そのうちの一人でもキリトが気に入ればと目論んでいるのか、もしかしたら、あわよくば一度でもいいからそれ以上の関係をもぎ取り、後は相手を問わず妊娠させ代表剣士の子として自らの駒にしようと画策しているのか……。

この人界の上位貴族という階級に属している者が持つ特有の思考の一部をキリトが受け入れられないのは常だが、今回はそれがアスナを軽んじる発言であり同時にキリトが持つアスナへの愛情を侮辱する発言でもあった為、当初、陳情はとりあえず聞いておいて後は他の誰かに押し付けよう、と考えていたキリトの考えを一転させた。

 

「なるほど……けど、それは陳情と言うのか?」

「私は危惧しているのです。最高司祭様が休眠状態の今、この世界を統べ導いてくださる方に何かあったらと。ですから万全を期す為に代表剣士サマのお側にはその御身を気遣う多くの者がすぐに必要であると参った次第でして」

 

好意的に、この世界の行く末を案ずる心情を急ぎ述べに来た、と解釈すれば陳情と言えなくもないが、実際は「急ぎの陳情」と申し出れば、人界統一会議が無視できないと踏んでの所行だろう。いつもなら一般の陳情はまず神聖術士かカセドラルの情報局員が窓口となっているが、相手が上級貴族という事で対応に苦慮したらしく、頼みの整合騎士が今日に限って皆出払っている為キリトの元へと直接面会がかなってしまったらしい。

だが、整合騎士達が不在の日というのは滅多になく、だからこそキリトは白亜の塔から出るわけにはいかずともアスナとのんびり過ごそうと考えていた矢先の訪問者に別の意味で溜め息を零したくなる。

これは《セントラル・カセドラル》の内部に陳情者の思惑を知った上で、キリトと直接話が出来る日時を伝えた者がいると考えて間違いない。案外身近な所にも貴族と妙な繋がりを持っている人間がいるとわかったのは収穫だが、色々とやらなくてはならない案件が増えたのも事実だ。キリトにしてみれば、オレの身を気遣ってくれるなら「陳情」とは名ばかりの自分の要求を強引に押し付けにくるな、と言いたいし、ずっとカセドラルの中庭に待たせているアスナの事も気にかかる。

どうやら他にまともな要請がないと判断したキリトが話を切り上げるべく「悪いが……」と口を開いた所で、それを遮って男が畳みかけるように口を動かした。

 

「まあまあ、まずはお目通しください。なに、私とて代表剣士サマのお好みは心得ております。副代表剣士様は色々と秀でたお方と聞き及んでおりますので連れてきた娘達もかのお方に近い程度には料理を得意とする者、剣が扱える者、面差しが似ている者、頭脳明晰な者と取りそろえております」

 

まるで防具か剣を選ぶみたいに特性を並べ立てられ気分を害したキリトが口元を押さえると、その仕草を黙考ととったのか男は更に目を細めて分厚い唇を下品な形にうねらせる。

 

「お望みとあれば副代表剣士様とよく似た声で啼く娘もご用意できますが」

 

直後、ピシピシピシッ、と一瞬で床や壁、天井にまで蜘蛛の巣のようなひび割れが走った。

 

「ひぃッ」

 

突然のあり得ない現象に思考を吹き飛ばして男がすくみ上がる。

一方、我慢の限界にきたキリトはゆっくりと立ち上がり震えている男の目を真っ直ぐに射貫いた。

 

「なら、その娘達全員を束ねても副代表剣士一人には及ばないわけだな」

「そっ、それは……」

「折角の申し出だが側仕えは必要ない。それに、もし登用する場合でもそういった人選はオレと彼女の二人で決めることにしている」

 

ようやくキリトの憤りに気付いたのか、男がまるで見えない手で肩を押されたように、ふらり、と後ろによろめく。だが代表剣士と直接対面できる機会などそうそうないと思い直して両足に力を入れなおした時、背後の扉が無遠慮にもバタンッ、と大きな音を立てて開いた。

 

「失礼いたします。代表剣士さま、至急庭園にお越し下さいっ」

 

人界統一会議が行われる時、カセドラル情報局長であるシャオ・シュカスの後方にいつも控えている男性局員が飛び込んでくる。

「キリト」という名に対して「さま」を付ける事を禁止したのは呼び捨てで構わないという意図だったのだが、その思惑は見事に外れてカセドラルにいる職員の殆どがキリトの呼称を「代表剣士さま」と、更に上位剣士や術士になると「剣士殿」と呼ぶ者も出ていた。

肩で息をしながらそれでも代表剣士の執務室という事で背すじをピンと伸ばそうと必死な男とは言葉を交わした事はなかったが、人界統一会議中の際はずっと直立不動の姿勢を崩さず、会議後にはすぐに局長の元へ参じてやりとりを交わしている姿は実直そのものでキリトは密かに好感を持っていた。その局員の珍しくも慌てた様子とアスナを待たせている場所を告げてきた事でキリトはすぐさま目の前の貴族を意識の外に追いやる。

 

「庭園で何かあったのか?」

「副代表さまが……」

 

その単語だけでキリトが執務室を飛び出す理由は十分だった。

すぐさまキリトに追いついた先程の局員が歩速を合わせて「執務室の客人は?」と後ろから戸惑いを滲ませ問いかけてくる。

スピードを落とさずに質問の意味を考えたキリトはこの男が今回の陳情に関わっていないと判じて目元を緩め、ついでに片方の口角を上げていつもの自分らしい表情を取り戻した。

 

「置き去りにしてきた事なら問題ない。既に話は終えている。悪いけどあの男が連れて来た娘達がどっかにいるはずだから、全員まとめて帰ってもらってくれないか?」

 

するとキリトの言葉に何かを納得したような仕草で局員が「ああ…それで……」と呟くと、それに反応してわずかに振り向いた角度から黒い瞳が疑問を投げてくる。それに応えるように男は歩速と同じくらい早く唇を動かした。

 

「庭園にいた衛兵達の話によりますと最初は人待ち顔だった副代表さまがしばらくした後塔内に入り、すぐにお戻りになったので、どうしたのだろう?、と不思議に思っていたそうなのですが……申し訳ございませんが、その後の成り行きと現状は代表さまが実際にご確認下さい。多分、副代表さまはどこかでその娘達と遭遇してしまったのだと思います」

 

複数の娘達がここに連れて来られた意味さえも推測済みの男の有能さに関心すると同時にアスナの心情を察して一刻も早く彼女の元へと気がはやる。あとはひたすらアスナがいる庭園へ急ぐだけのキリトの背後で、それまで付いて来ていた局員はピタリと足を止めて一礼した。

 

「では、私は客人とそのお連れ様の対応をいたします」

 

代表剣士への説明も終わったので次の自分の役割は招かれざる客達の速やかなる白亜の塔からの退去だと認識した男に信頼の笑みを添えて短く「頼む」と声を飛ばした後、キリトは更に歩速を上げて庭園を目指したのだった。

 

 

 

 

 

人界の中枢《セントラル・カセドラル》の名に恥じない広さを誇る庭園のほぼ中心に幾重もの人垣ができている。

皆一様に同じ方角に向けて声飛ばし身振り手振りで何かを一生懸命訴えていた。その声の中に共通している単語がひとつ……「副代表剣士さま」である。

もはやこの騒動の中心にアスナがいるのは間違いなく、だからこそキリトは少々強引にその人垣に頭を突っ込み、身体をねじ込み、カセドラルの職員達を掻き分けてなんとか一番前に到達したところで「ぷはっ」と息を吐き出し、続けて目の前に見えた物体に驚愕した。

そこにあったのは庭園を形作っていたと思われる垣根や物体周辺の地面を抉って積み重ねたと思われる歪な箱状の塊だ。人一人が優に入れる程の大きさで、一際巨大に切り取られた大地が扉の役目を果たし、誰の侵入も許さんとばかりに出入り口を完全に封鎖している。それでも庭園を彩っている植木や草花に全く損傷を与えていないのはこの塊を造り上げた人物の気遣い故だろう。

理解しがたい塊を前にして唖然としているとキリトの周囲では変わらずに衛士や術士、下位の騎士達が声を飛ばしていた。

 

「副代表さま、どうかお顔をお見せ下さいっ」

「何がお気に召さなかったのでしょうかっ!?」

「理由を教えて頂ければいかようにも対応をっ」

「そうですっ、せめて副代表剣士さまのお声をお聞かせ願えないでしょうかっ」

「副代表剣士さまっ」

「只今、『ホニス菓子店』の新作タルトを買いに行かせておりますからっ」

「何卒、ご機嫌を直していただきたくっ」

 

職種や性別、年齢も関係なく声を上げたり隣同士真剣な顔つきで相談しあっている者たちは天変地異に見舞われたような焦燥や困惑を漂わせている。

 

「他に副代表さまがお好きなものは……」

「歌や踊りはどうでしょうか?」

「我々がこの場で歌うのか?」

「踊りなど、したこともないが……」

「では、どうしたら……」

「ここにいる下位クラスの騎士や術者では外からあの扉を動かす事は絶対に不可能ですよ」

「整合騎士さまや術士団長さまとて難しいのでは」

「やはりこちら側へ副代表さまのお気持ちを向けていただき内側から動かしていただくしか……」

 

なんだか聞いていると古代神話の『天の岩屋戸』みたいなことになってるなぁ、とキリトは顔を引き攣らせた。取り敢えず手近な所で唸っている若い騎士に声を掛ける。

 

「どういう状況なんだ?」

 

声の主が人界統一会議の代表剣士だと気付いた騎士は一瞬ギョッとした表情になった後、思うように身動きが取れないおしくらまんじゅう状態の中、精一杯身体を真っ直ぐに固めた。

 

「申し上げますっ」

「あー、そういうのはいいよ。普通に話してくれ……あの中にアスナ…副代表剣士がいるんだよな?」

 

ちらり、と横目で例の塊に視線を移すと、つられたように青年騎士もそれを見てから「普通に」と言われた言葉に甘え、口調を崩して喧噪の中声が届きやすいように少しばかり背を丸めてキリトに顔を近づける。

 

「はい、我々が見ている前であっと言う間に大地からあのような塊を造り上げられた後、『しばらく一人にしてくださいっ』とおっしゃって中におこもりになってしまい、慌てた我々がずっとお声かけしている次第です」

「なるほどなぁ」

 

妙に納得した声でキリトは頷いた。

このアンダーワールドという世界に閉じ込められて日の浅いアスナは毎日が忙しくてプライベートと呼べる時間も場所もない。忙しいのはキリトも同じだがこの世界で暮らしている経験値の差と言うか、元来のサボり癖のお陰か、その辺は適当に白亜の塔を抜け出して央都で買い食いをしたり、カセドラルの裏手にある工廠をのぞきに行ったりと気分転換をしている。

だがアスナはこの世界でも優等生気質を遺憾なく発揮しており、常に何かしら予定が入っていて、更に突発的に起こる問題の対処も頼られれば断ることもせずに笑顔で応じているのだ。

彼女の持つ柔らかな雰囲気が整合騎士達や上位の神聖術士達よりも話しかけやすいのだろう。更に創世神ステイシアの生まれ変わりと信じられている彼女に話しかけてみたい、というカセドラル職員の欲求がそれを後押ししているようだ。だから文字通り朝から晩まで意見交換をしたり、提言や助言をしたり、神聖術の講義を受けたりと目まぐるしいスケジュールをこなし、全てが終わるのは一日が終わる時で、そこでようやく三十階の私室に戻ってくるのである。しかしその部屋もキリトと共有なので本当の意味で「一人になれる」空間とは呼べない。

特に今回アスナが感情を乱した原因は代表剣士に仕えよ、と連れて来られた娘達の存在だ。キリトの意志でもないのに彼を相手に感情をむき出しにするわけにもいかないと苦渋の決断で《無制限地形操作》により一人になれる空間を作って立てこもったと思われる。

下位騎士が説明している間もアスナへの呼びかけは途絶えることなく、果ては誰かが速攻で買いに行ったらしい新作タルトを餌になんとかしてアスナの気を引こうと扉の前で「タルトが届きましたっ」と叫んでいる職員までいる始末だ。それでも大地を切り取って作られた扉は沈黙を続けている。

 

「こっちの声が聞こえてないとか?」

「いえ、一回だけ副代表さまが中から『放っておいてくださいっ』とお叫びに……」

「…そっかぁ」

 

それだけ叫べるのなら《無制限地形操作》で体調を崩している可能性はなさそうだ、とキリトはそっと息を吐いた。

異界戦争の時にアスナを襲った酷い痛みは大規模な地形操作を短時間で連発したせいらしく、その後はたまに不可避の場合のみその固有能力を使っているが特に不調を窺わせる様子はない。

アスナもわかっているのだ。

《貴族裁決権》……この世界の高等貴族にのみ与えられている権利は時に卑劣で、これを行使すると言われれば私領地の平民は首を横に振る事はできない。キリトの前へ独自解釈の「陳情」に現れた貴族が連れて来た娘達は言わば被害者で、すすんで《カセドラル》に足を踏み入れた者はいないだろう。

だから色々な憤りが混ざって、発露の場所も見つけられず、逆に自ら閉じこもることで冷静さを取り戻そうとしているのた。

貴族制度の改革を急がないとな……キリトは心の内で改めて決意を誓うと足を一歩前へと踏み出した。

するとようやくその場にいた者達がキリトの存在に気付き次々と視線が集まってくる。その視線には一様に安堵と期待が込められていた。

異界戦争が終結した後、人界統一会議発足にあたり長である代表剣士にキリトが、副代表剣士にはアスナが就任したが、実はそれほどすんなり決定したわけではなく、創世神ステイシアの御業を使える彼女をサブに据えるのは不敬ではないのか?、という声があったり、当のキリトがトップという役職に戸惑いを示したりと色々あったらしい事は《カセドラル》の職員なら皆知っていた。結局二人が承諾した理由はアスナが「キリトくんが代表になるなら」と言い、キリトは「アスナが副代表をやってくれるなら」という要望が実現したからだ。

結果としては二代目の騎士団長を務めている整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーの思惑通りとなったわけだが、要するにこの場で…いや、この世界でアスナの事を一番理解しているのはキリトだというのが人界での共通の認識になっている。だからこそ、この場を収束できるのはもう代表剣士さましかいないという結論に至り、次に一体どんな方法で副代表さまをあそこから連れ出してくれるのかと少し興奮した目で興味を注いでいた。

しかしキリトはそんなプレッシャーなど感じる様子もなく、ゆっくりとした足取りでアスナが作り出した垣根と大地の塊の前に立つ。目前にすると厚みがあるせいか、その塊はキリトの背よりもはるかに高く、両手を広げても余りあるサイズ感だ、

中庭にあるオブジェ……と呼べるほどの芸術性も整然性もなく、急ごしらえの造形がアスナの心の乱れを表れている。

いくつかの感慨を込めて「おおぉ…」と呟いてから全体を眺め、それから最後にアスナが封をした土塊の扉にそっと手の平を押しあてる。この場にいるごく一部の者は直接見たことがあるだろうキリトの《心意の腕(かいな)》が発動されると予感して固唾を呑み、それ以外の者達は何か起こるのかと一瞬でも見逃さぬよう開いている目に力を込めた。

場に静寂に包まれる。

けれどそれはすぐにキリトの気の抜けた声でほろほろと崩れ落ちた。

 

「アスナぁ……そろそろお腹空いたよ。夕飯は煮込みハンバーグを作ってくれるんだろ?、朝から楽しみにしてたんだ」

 

いつの間にか午後の陽射しは人々や建物の影をかなり長くしている。

なるほど、そろそろ今夜の食事を気にする時刻になっていたか……と思う者など一人もいるはずなく、キリトの声を耳にした者達は全員見事に固まった。

なぜアスナがこんなことをしたのか理由を尋ねる言葉でも、解決を探る言葉でも、ましてや彼女の気を逸らしたり引いたりする言葉でもない。何事もなかったかのように普通に今の自分の思いを強請るような声で発したキリトの背中にはありえない物を見るような視線がいくつも突き刺さる。

しかし僅かな間を開けて聞こえてきたゴゴゴッという音に皆の視線はキリトが触れている扉に移り、自然と口は半開きになった。

ここにいる全員があれだけ頑張ったにもかかわらず、びくともしなかった分厚く巨大な岩戸がキリトの声に応じて動き、中から女神が顔を出したからだ。それでもまだそこから出てくる気にはなれないのか、少し傾けた顔が岩の隙間から上目遣いでキリトを見上げている。

 

「……ごめん、アスナ。散歩する時間、なくなっちゃったな」

 

申し訳なさげに微笑むキリトにアスナは薄紅色の唇を、むぅ、とすぼめた。

今日の午後はキリトが執務室で所用を片付けている間アスナも大図書室で調べ物をして、おやつの時間頃までに終わる予定だったので、その後一緒に散歩をしようと中庭を待ち合わせに選んでいたのだ。

アスナのことだから、きっとおやつの用意もしていたに違いない。

上位貴族の自分勝手な陳情のせいで時間を潰されたばかりかアスナとののんびりも流れてしまったが、お互いその事は口にせず、まるでかくれんぼ遊びを終わらせるようにキリトは手を差し出した。

 

「ほら、もう出てこいよ。部屋に戻ろう」

 

怒りなのか、悲しみなのか、恥ずかしさなのか、頬に赤みを残したまま細くてしなやかな手が重なると同時にキリトは「捕まえた」と言わんばかりの素早さで握りしめる。今更逃げるつもりもないアスナがその行為を微苦笑で受け入れると岩戸に触れていたキリトの手に力が籠もり、先程と同じくゴゴゴッという音がして彼女が通り抜けられる幅まで空間が広がった。

キリトなら最初から《心意力》で扉を動かす事が可能だったのだ。

けれど一人になりたいというアスナの気持ちを優先させたのである。

握られた手をぐいっ、と引かれてアスナはキリトの胸に手を突き漆黒の瞳を見つめてようやく唇を動かす。

 

「……ハンバーグソースは、デミグラスにする?、それとも和風?」

 

少し掠れた声で聞かれてキリトが笑顔になった。

 

「今日は和風ソースがいいな」

 

こくり、と承諾の意を小さな頷きで示したアスナだったが自分が閉じこもってしまったせいで大勢に心配と迷惑をかけた後悔がいつもの明るさを陰らせる。それを察したキリトが彼女の耳元に囁いた。

 

「たまにはいいんじゃないか?…ほら、アスナはオレと違っていつも真面目だからさ」

「それ、なんか懐かしいね」

 

やっと力の抜けた柔らかな笑みを見られたのはキリトだけで、ようやくお出ましになられた女神さまを気遣う周囲は、ぽふり、と代表剣士の腕の中に収まってしまった彼女にいつまでももどかしい気持ちで拝顔の機会を待ち続けたのであった。




お読みいただき、有り難うございました。
そしてすみませんっ、投稿日を一日遅刻しましたっ
アスナが作った岩屋戸はその後、ちゃんと元に戻したと思われます。
で、ついでにキリトの執務室のヒビも……
「これ、副代表剣士さまになんとかしていただけないかなぁ」と職員が
ぼやいたとか(苦笑)


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姉の存在・前編

和人と明日奈の息子、和真から見たユイのお話です。


和人と明日奈の息子、和真が覚えている一番遠い記憶は映像はなく声だけだ。

それは自分の泣き声と、それを包み込むようなとてもあたたかくて優しくて愛情に満ちた三人の声……

 

『ママっ、ママっ、和真くんが泣いてますっ』

『教えてくれてありがとう、ユイちゃん。はいはい和真くん、泣かないで。お腹が空いたのかな?、それともオムツ?……うん、この感じはオムツね』

『こんなに泣いて和真くんの肺や気管は大丈夫でしょうか?』

『大丈夫さ、ユイ。今の和真は栄養を取ってよく寝てよく泣くのが仕事みたいなもんだからな』

『えっ!?、パパっ、和真くんはまだ生後三ヶ月なのに既に報酬を得るような労働をしているんですか?』

『そ、そうじゃなくて、えっと、今のは……明日奈、笑ってないで助けてくれよ』

 

そんな記憶を抱えた和真はその後も大切に育てられた。

視界がハッキリしてくると、自分を覗き込んでくる顔を認識できるようになる。

 

『和真くん、お風呂に入ろっか』

『いや、それはオレがするよ』

『でも和人くん、夕方出張から帰ってきてすぐにシャワー浴びてたよね?』

『……明日奈がオレ以外のやつと風呂に入るのは、ちょっと……』

『なっ、なに言ってるのよっ!』

『パパ』

『なんだ?、ユイ』

『パパが出張中、和真くんは毎晩ママと一緒にお風呂でした』

『毎晩…………くそっ、だから海外出張なんて行きたくなかったんだっ』

 

一番に覚えたのはいつも笑って『和真くん』と呼びかけてくれる、柔らかな黄土色の目と髪の母の明日奈の顔。

次はちょっと不思議な存在感でいつも自分の心配をしてくれる薄墨色の目と髪の少女のユイの顔。

三番目は何でかいつもじっとりと何か言いたげに自分を見てくる真っ黒な目と髪の父の和人の顔だ。

父親が最後になってしまったのは、和人が圧倒的に他の二人より和真の起きている時間帯に家にいない為、顔を合わせられる時間が少ないのが原因だ。それでも明日奈が和真を抱っこしたままソファでうたた寝をしていれば何気ない顔でついでの様にそっと頭を撫でてくるし、明日奈が家事で手が離せない時は「ふ゛ぅ゛っ」と泣き声になる気配がすれば隣に座ってタブレットから視線を外さないまま、ぽんぽんと片手であやしてくれる。

ただ、空腹を訴えて泣いている時は母である明日奈を求めているのに、わざとらしい笑顔で抱き上げてなかなか離してくれないのは随分狭量だと言わざるを得ない。

でもそんな時はいつも可愛らしい声が助け船を出してくれるから大丈夫だ。

 

『パパっ、和真くんをママに渡してくださいっ』

『えー、粉ミルクでいいだろ。オレが飲ませるよ』

『まずはママのミルクです。それで足りなかったら粉ミルクなのでパパの出番です。私はお湯の温度と量を確認しておきますね』

『ふふっ、ユイちゃんはすっかりしっかり者のお姉さんね』

『はいっ、和真くんは私の弟ですからっ』

 

和真の周りには刺激という名の情報が目映いばかりに溢れていて、それを求めて一生懸命顔を動かし手を動かし足を動かした。

当時住んでいたマンションで自由に動けるのはリビングだけだったが、そこにはいつも相手をしてくれるユイがいて彼女からたくさんの事を教わり、ユイもまたネットを検索した結果ではなく色々な実体験でデータを蓄積して二人はいつも笑い合って過ごした。

けれどつかまり立ちが出来るようになると和人も明日奈も、もちろんユイもとても喜んでくれたが、両親は手を貸してくれるのにユイだけは応援の声をかけてくれるだけで決して和真の手を握ってはくれない。何度も何度もユイに向かって手を伸ばす和真だったがユイは少し哀しそうな顔で微笑んで『頑張って下さい、和真くん』と言いながら見守るだけだった。

歩行がしっかりしてくると、和人曰く『昼寝にもってこい日和』に明日奈は和真をよく外へ連れ出した……けれどいくら探してもそこにユイの姿はなく、どこからか声がするだけで和真は必死にユイの名前を呼ぶ。

 

『ユぅねーっ、ユぅねーっ、ママぁ、ユぅーねーっ』

『あれっ?、和真くん…もしかして、今「ユイ姉」ってユイちゃんを呼んだ?』

『ママぁ……ユぅねーっ』

『はいっ、和真くんっ、私はここにいますよっ、いつも和真くんの近くにいますっ』

 

とても嬉しそうなユイの声とは反対に、いくら呼んでも目の前に現れてくれないユイを求めて和真は大泣きを始めてしまい、慌てて明日奈は自宅へと戻ったのだった。

そして次の日、和真の腕には柔らかな素材で出来た細いブレスレットがはめられた。いくら腕を振ってもズレることはないし長時間そのままでも食い込んで痛くなったりしない。何よりそのブレスレットから『和真くん、聞こえますか?』とユイの声が飛び出して来る。

和真はきゃっ、きゃっ、と声を上げて喜んだ。

 

『ユぅねーっ、ユぅねーっ』

『急ごしらえだから可聴範囲はそれほど広くないけどな。でもこれがあればいつでもユイと話せるぞ、和真』

『有り難う、和人くん。たった一日で作ってくれるなんて思わなかった』

『明日奈さんのお願いデスから……』

 

少し照れたように和人が笑う。

けれどご機嫌の和真は更なる要求を口にした。

 

『ママっ、ママっ』

 

ユイに加えてブレスレットから聞こえて欲しいと期待するのは目の前にいる明日奈の声だ。

 

『おい、和真。明日奈の声は無理だ。ある意味ユイより難しい』

『そうよね』

『それにいつでも明日奈と繋がるデバイスなんて、作れたらオレが使う』

『和人くんっ!』

『あ、あひゅな、いひゃい……』

 

ほっぺたをつねられるのは地味に痛かったようで 赤くなった頬をさすりながら和人はもう一度『和真』と息子の名を呼んだ。

 

『ユイの姿は《現実世界》だとうちのリビングでしか見られないんだ』

『うん、あそこまで鮮明なホログラム映像だって、和人くんがすごく頑張ってくれたお陰だし』

『でも和真、お前は来年の春から保育園に通うんだからオレ達とばかりはいられないぞ』

『そうですっ、和真くん。お友達たくさん出来ますねっ』

 

少し早いかもしれないが両親やユイのいない新しい環境で和真はひとつひとつ学んでいくだろう、と息子の成長を応援する和人と明日奈の間でユイもまた笑顔で頷く。

 

『パパ、ママ、大丈夫です。保育園内の映像はいつでもチェック出来ますからっ』

 

とんっ、と自分の胸に拳を当てて自信満々の笑顔で言い切るユイの言葉に和人と明日奈は同時に『え!?』と発した。けれどそんな二人の驚きを置いてきぼりにしてユイはそれまで以上に和真との会話の時間を増やしたのである。

それから数ヶ月後、年を越して冬が終わり桜が見頃を過ぎる頃、明日奈の職場復帰と同時に和真は保育園に入園した。ここまで常にユイという話し相手がいたせいか歳の割に口達者になったかもしれない…それに保育園に行く期待や不安より母の心配を先にするママ大好きっ子にもなっていた。

 

『ママ、お仕事の場所、一人で行ける?』

『大丈夫。和真くんが産まれる前は毎日通ってた所だし』

『失敗しても、次、頑張ればいいんだからね』

『う……うん。それ、ユイちゃんが和真くんに言ってたアドバイスよね』

『でもずっとおうちにあすながいるのもよかったなぁ』

『……それは和人くんね』

 

これから毎朝保育園までの道のり、こうして大好きな母親を独占できるのなら保育園も悪くないと和真は思っていた。家にいる時もほとんど独占状態なのだが自分だけに意識が向いているわけではないからだ。もう一人、張り合うように己の存在を主張する父親がいるからである。ちなみに主張する相手は息子にではなく妻に対してだ。

それに保育園に通うようになってからユイが言っていたように同年代の友達がたくさん出来たので、そこで知った初めての感情もたくさんあってとにかく毎日が大騒ぎだった。

そうやって和真は保育園に、明日奈は久々の職場にようやく慣れて少し経った雨の日、事務所で帰り支度をしていた明日奈にユイが泣きそうな声で『早く和真くんのお迎えに行ってあげて下さい、ママ』と懇願してきたのだ。

 

『桐ヶ谷ですっ』

 

息を切らして保育園にやって来た明日奈の髪は雨でペタリとしなり、袖口やスカートの裾は濡れて色が変わっていた。パンプスには跳ねた泥水がこびりついている。傘を差していたにもかかわらず普段の清楚な姿にはほど遠い様相で表れた明日奈に保育園の職員達は驚いたものの、すぐにほっとしたような顔で迎え入れてくれた。

保育室の中にいる和真は明日奈の声が聞こえているはずなのに部屋の隅でうずくまっている。その様子を一瞬痛ましそうな目で見た明日奈は先生に断ってから靴を脱いで部屋に入り和真の前に両膝をつくと、自分に似た髪色の頭をそっと撫でて微笑んだ。

 

『お迎えに来たよ、和真くん。でもちょっと待っててね。先生とお話してくるから』

 

両腕で出来た輪の中に埋もれている小さな頭が一回だけ、こくりと動いた。

何の連絡も受けていないはずなのに「何があったのか、聞かせてもらえますか」と明日奈から請われた保育担当者は一瞬意表を突かれたものの、すぐに園長を伴って職員室横の部屋へ案内し簡易椅子を勧めた。

三人が着座したところで担当の保育士が口開く。

要約すると、今日の午後、おやつが終わった後の自由あそびの時間にトラブルが発生した。和真は何人かの園児達と遊んでいたそうだが話題が家族になり、それぞれが兄弟姉妹の有無を口にしたのだ。その中で和真も嬉しそうに姉がいると語ったそうなのだが……。

 

『お名前は、ユイちゃん、とおっしゃるとか……?』

 

確認するような保育士の声に明日奈は無言で頷いた。

 

『和真くんが言うにはいつもリビングで一緒にお喋りをしてくれると』

『はい、そうです』

『でも和真くんはそのユイちゃんの年齢を知らないんですよね?……』

 

その時和真の周りにいた園児達が次々に疑問を浴びせたそうだ。

「小学生なの?」「なんで学校に行ってないの?」「かずまくんが保育園に来ている時はどうしてるの?」……どれも答えられない和真の様子を見かねて保育士が入り、他の遊びを提案してその話題は終わったらしい。

園長先生は落ち着いた笑みで明日奈に話しかけた。

 

『園に提出していただいた書類には和真くんは一人っ子になっていましたが、色々ご事情があるのでしょう』

 

やんわりとたくさんの可能性を含む言葉に明日奈の焦りの声が反応する。

 

『あっ、決して無理に閉じ込めているとかそういうのでは…』

『わかっております。これでも多少は人を見る目はあると自負していますから』

『……失礼な物言いをしました』

『いえいえ……ただ今回の事で和真くんがお友達と距離を置いたり壁を感じるようになって欲しくはありません。どうか和真くんがきちんと納得できるようお家で話してみていただけますか?』

 

その判断に「ありがとうございます」と深々と頭を下げた明日奈は暗い表情のままの和真の手をいつもよりしっかりと握ってマンションに帰ったのだった。

 

『……ってね、園長先生がおっしゃってくださって……』

 

保育園からの二人より一時間ほど遅れて和人が帰宅すると、とりあえずいつも通りに夕食をとってからお茶を用意してリビングに桐ヶ谷家の四人が腰を落ち着ける。和真の様子がいつもと違うのに気付いたいたのか、それとも明日奈同様にユイから連絡が入ったのか、和人は普段の声で『それで何があったんだ?』と説明を求め、それに明日奈が応えたところだ。

 

『そうか……まぁ、オレ達がちゃんと説明してなかったのも悪かったよな』

『うん、なんか私達にとってユイちゃんが娘なのはすっかり当たり前の感覚になってたから……ごめんね和真くん』

 

そこで俯いていた頭を上げた和真は和人を見て、明日奈を見て、最後にホログラム映像のユイを見た。

 

『ママ…「えーあい」ってなに?、ユイ姉は「えーあい」なの?』

 

視線はユイに固定したまま問いかける。

 

『……お友達が「えーあい」って言ったの?』

『うん……「お風呂も一緒に入らないの?」って聞かれたから、ユイ姉は触れないし、リビングでしか姿が見えない、って答えたら、「えーあいみたいだね」って。その子のうちにはお願いすると透け透けの人が出てきて絵本を読んでくれるんだって』

『あー、今、家庭用AIも物によっては人型キャラクターが3D立体視できるやつあるからな』

 

とは言え一般家庭向けに販売されている物でも立体映像付きはまだまだ高額家電の部類だし浮かび上がるホログラムキャラクターの表情や会話の性能は到底ユイに及ばないのだが、幼児が想像できる物となるとそれが一番近いイメージだろう。

幸か不幸か和真の通っている保育園に預けられている子供達は居所が広範囲にわたっているので自宅にまで遊びに行くことはまずない。園の子達がユイを少し高価なAIと思ってくれているのならわざわざ訂正する必要はないが、和真の認識は正しくしておいた方がいいと和人は考えた。

 

『和真、保育園で明日奈の……ママのこと、他の人はなんて言ってる?』

 

突然の話題転換に理解が出来ない明日奈が目をしばたく。

入園してまだ数ヶ月だが生活のペースを作る為に朝はずっと明日奈が出勤前に息子を送り届けていた。だから同じような時間に送迎している保護者とは顔を合わせるし、その子供達の名前も何人かは把握している。和真はその質問に水を得た魚のように父親譲りの真っ黒な瞳を輝かせ声を弾ませた。

 

『えっとね、もなちゃんママとたーくんママは「和真くんママは美人だね」って。みつおくんパパやかえでちゃんパパなんか「マジか、げきヤバ美人だな。で名前教えてくれる?』って聞かれたからパパに言われたとおり「ないしょっ」って答えたよ』

『よく覚えてたな和真、えらいぞ。そのみつおくんパパとかえでちゃんパパについては後でじっくり話そうな』

 

ぐりぐりと力強く和人に頭を撫でられた和真は実に嬉しそうだ。しかしいつの間に夫と息子の間でそんな会話が交わされていたのか、明日奈は首を傾げる。そして、みつおくんパパとかえでちゃんパパについて何を話し合うつもりなのか、ちょっとだけ和人の笑顔が不穏だ。

けれど和人は和真の頭から離した手をそのまま明日奈の頬に移して傾きを戻すように手の平を密着させ、ついでに指先で耳たぶを擦りながら『それで明日奈が綺麗なのは当然として』と前置きする。

 

『和真はどう思ってる?』

 

間髪を入れずに和真は胸を張った。

 

『ママはねっ、美人じゃなくて可愛いんだよっ』

『だよな』

 

男達二人の笑顔の同意に明日奈は一瞬にして頬を赤くし『はっ!?、え?、なっ…なに言って……』と狼狽えた。抗議の声を塞ぐように和人の親指が今度は明日奈の唇をなぞる。それ以上侵入されるわけにはいかないと急いで口を閉じた明日奈にしてやったりの笑みを見せつけてから和人はひとつ頷いて和真に、続けろ、と合図した。

 

『時々おっちょこちょいするし、おばけ苦手だし、シフォンケーキが綺麗に膨らむとすっごく嬉しそうだしっ』

 

息子の評価に何か物申したいのか明日奈は唇を開かずに「んむぅーっ」と発言権を請い眉をハの字にさせる。その声を押し込むように和人は彼女の唇の弾力を指の腹で弄んだ。

 

『そうそう。だけどよく知らない人は「美人だ」って言うだろ?……それと一緒なんだ、和真』

 

ようやく妻の顔から手をはなした和人だったが、その声も表情も穏やかで大きな包容力を含んでいたから明日奈は開こうとした口をそのままに安心した目でこの場を任せる。

 

『ユイは保育園の子達が思っているようなAIじゃないけど、それはユイをちゃんと知ってる人じゃないとわからない。ここに時々遊びに来るスグや他の人達はユイを和真のお姉ちゃんだってわかってるだろ?』

『うん。直葉ちゃんもリズちゃんもクラインも、みーんなユイ姉が僕のお姉ちゃんでいいね、って』

『ちょっと待って……和真くん、なんでクラインさんだけ呼び捨てなのかな?』

『パパがそれでいいって言ったから』

『……和人くん、後でお話があります』

 

桐ヶ谷家ではこの後も個々で話し合いの場が設けられるらしい。

けれど和人との会話でユイの在り方を理解出来たのか和真の顔に愁いのない笑顔が戻った。

 

『じゃあやっぱりユイ姉は僕のお姉ちゃんだねっ』

『そうだよ和真くん。ユイちゃんは「えーあい」だけど、和人くんと私の娘で和真くんのお姉ちゃんだよ』

『ああ、そうだな』

 

三人の言葉にそれまでずっと黙っていたユイがポロポロと涙を流しながら微笑む。

 

『はい、私はこれからもずっとパパとママの娘で和真くんのお姉ちゃんです』

 

光の粒を纏っているような眩しい言葉に和人と明日奈が揃って頷いていると和真だけは何かを思い出したように「あ」と口を開いた。

 

『でもね、僕、ユイ姉とお風呂に入ってみたいなぁ』

 

保育園で聞かれた問いから他の友達が兄弟でお風呂に入っているのだと知って羨ましくなったらしい。

 

『うーん、そうなるとやっぱりログハウスだよなぁ。でも和真じゃ《ALO》の推奨年齢にはほど遠いし……』

『一緒にお風呂に入るとね、ユウジョウが深まるんだって』

『和真くんの保育園のお友達は物知りさんなのね』

 

ちょっと引き攣った笑顔の明日奈の隣で和人が何やら真剣に考え込んでいる。

 

『確かに、最近全然明日奈と風呂に入ってないしな。まあオレ達の場合、深まるのは友情じゃなくて愛情だけど』

『和人くん、真面目に考えてよっ』

『真面目に考えてるさ。そもそもオレ達だってここ最近は一緒に《ALO》にダイブしてないからユイにゆっくり会えてないだろ?』

『うーん、それはそうなんだけど……』

 

明日奈の職場復帰やまだまだ手のかかる和真が保育園に通い出した事で毎日大なり小なりクリアしなければならない課題が発生し、二人がキリトやアスナとして二十二層の森の家を訪れるのは週一回程度でそれぞれが空いている時間にだ。

両親の会話を聞いていた和真が小さく「えーえるおー?」と口にすると、それを聞き取ったユイが彼の前にちょこんと正座をし、目線をあわせてニコリとする。

 

『はい、私は《ALO》という世界でなら会えるんです』

『お手々にぎったり?』

『はい』

『ほっぺたぷにぷにしたり?』

『…はい』

『ギュッ、てしたり?』

『はい?』

『ユイ姉、ママとしてないの!?』

 

リビングでユイの姿を目にして言葉は交わせても触れられないのはわかっていた和真だったが自分の両親も同様とまで考えが及んでいなかったらしく純黒の目を丸くしていた。それに明日奈などは絶妙な距離感でホログラ映像であるにも関わらずユイの頭を撫でる仕草をしたりするので、なんとなく和真は自分だけがユイにさわれないような思い込みをしていたのだ。

 

『ちなみに今のぷにぷに、や、ギュッ、は何なんだ?』

 

和人が不思議そうに尋ねると途端に和真の目に星が宿る。

 

『保育園に行く時ね、ずっとママと手をつないでね、園の入り口で、もっとママと一緒にいたいなっ、って思って止まると、ママがしゃがんで僕のほっぺぶにぶにしてからニコって笑って「さ、行こ、和真くん」って言って、園でママとお別れする時は必ずギュッ、ってしてくれるんだ』

 

毎朝そんなルーティーンをしていたのか、と和人の顔には驚きと羨ましさと恨めしさが混在するが、聞かされたユイは困ったように笑うだけだ。

 

『大丈夫です、和真くん。和真くんが産まれるまでたくさんパパとママに甘えましたから。それにあまり会えなくてもここで姿を見たりお話ししたりできます』

 

小学生くらいの容姿のユイは「これでも結構大人なんですよ」とちくはぐな説明をするが、それを聞いた和真は納得するどころか眉をぎゅぎゅっ、と寄せて「それでもダメっ」と声を張る。

 

『だってパパだって大人だけどお仕事で遠くに行っちゃった時は毎晩ママとテレビ電話でお顔見ながらお話出来るのに「もう無理だ、爆発するっ、あすなに会いたい」って言ってるよ』

 

明日奈が「ひゃぁっっ」と悲鳴を上げた。

 

『かっ、和真くんっ、いつの間に聞いてっ……』

 

耳まで茹で上がっている明日奈の隣で和人はうんうんと頭を上下させながら「一泊までだな、二泊は我慢できない。三泊目には爆発する自信がある」と神妙な声で断言していると和真の前にいるユイが、はぁっ、と息を吐いて「パパ、人間は爆発しません」と間違いを正している。

そんなやり取りを見ていた和真は初めて和人を「お父さん」と呼んだ。

 

『朝もちゃんと起きる…ご飯の後片付けだってママ…お母さんのお手伝いする……夜、おやすみなさいする時間も守るし……あと、えっと…そうだ、誕生日プレゼントもいらないから……だから、僕、ユイ姉とお風呂に入りたい』

 

普通の姉弟なら当たり前の事なのに、ここまで思い詰めなければ口に出来ない願いにしてしまったと明日奈の瞳が潤む。けれど和真は信じていた……自分の父親ならこの願いを絶対叶えてくれると……。

 

『わかったよ、なんとかしてやる』

 

和真が頑張った時に向けてくれる明日奈とはまた違った穏やかな微笑みの和人が頷く。

和人だって妻の願いの次くらいに娘や息子の願いは叶えたいと思っているのだ。妻と過ごせる時間は減ってしまうだろうが、和真の願いを叶えて欲しいと、和人の大好きなはしばみ色の瞳も訴えているのだから。

そして和真はなんだか自分ばかり両親とたくさんスキンシップをとっている気がして、姉は「いいんですよ」と言ってくれたけれど、それから「パパ」「ママ」と呼ぶのをやめて「お父さん」「お母さん」に変えた。何か姉だけの特別をあげたかったからだ。

数ヶ月後、浴室にはバスタオルを身体に巻いて、ちょっぴり恥ずかしそうに頬を染めるユイのホログラム映像が湯気にも負けずに映し出されるようになった。ただ、当然触れる事は出来ないので和真とユイの二人だけの入浴とはならず明日奈が一緒に入っている。

ただ一つ誤算だったのは一番の功労者である和人だけ、ユイが「恥ずかしいからパパとお風呂には入りません」とお年頃の女の子宣言をした為、ひとり蚊帳の外にされた事だ。

結局和真が小学校に入学するタイミングで一戸建てを購入して引っ越した為、保育園の友達がユイに会う機会は訪れず、小学生になった後はほどなくして明日奈の懐妊、出産で新しい家族が増えたので兄弟の話題になった時は小さな妹の話ばかりした。成長するにつれて「姉もいる」と公言するようになったが、口上手で要領の良い和真らしく「遠くで暮らしてるけど殆ど毎日お喋りするよ」と言い添えていたのでそれ以上追求してくる友人はいなかった。

ユイも変わらずにリビングでは自由にホログラムで動き回っていたが、和真が友達を家に連れて来た時はあえて姿を見せずにその様子を微笑ましく眺めるだけに留めていた。

しかし、和真が高校生になって少しした頃、初めて同級生が桐ヶ谷家にやって来た時、アクシデントは起こったのである。




お読みいただき、有り難うございました。
プロローグで前編が終わりました……あれ?
さくさく、って終わるはずだったのに……あれれ?
とりあえず、みつおくんパパとかえでちゃんパパは和真くんに対して
大変丁寧な言葉遣いになると思います。


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姉の存在・後編

高校生になっている和真とその姉のユイを中心とした桐ヶ谷家のお話、後半です。



玄関口から和真の「ただいま」という声に続いて「おじゃましまーす」と少し間延びした声がいくつか響いてくる。今日は放課後の活動も全て禁止で生徒全員一斉下校なので普段なかなか揃って一緒に帰れない友人達とこのままファストフードかカラオケか、という流れになったのだが、うち一人が「和真んとこのお姉様に会いたい」と言い出して断り切れず、短時間なら、という条件付きで渋々連れて来たというわけだ。

ちなみに「和真のお姉様」というのは母の明日奈のことである。

少し前、高校に入学して初めての授業参観日、学校にやって来た明日奈を上級生が姉だと思い込み交際を申し込もうとしたエピソードを知って以来和真と親しい間柄の男子生徒達は巫山戯て「お姉様」という呼び名を使っていた。和真としては「俺、ちゃんと姉さんがいるんだけど」と小さく呟いたのだが、その声を拾った友人は「そこは普通に『和真のお姉さん』って呼ぶさ」と親指を立てたのでいちを呼び分け問題はクリアしたようだ。

そして明日奈や和真が持つ共通の雰囲気から、どうも『和真のかーちゃん』『和真のねーちゃん』のイメージではなかったようでその呼び名に異議を唱える者はいなかった。

最寄り駅から歩くこと十数分の場所に桐ヶ谷家はある。

だいたい同じくらいの、決して広大とは言えない敷地面積を有している戸建て住宅が建ち並んでいて小ぶりの門構えや塀の上から覗く庭木など、街路を歩くだけで住人の好みが伺える。かく言う桐ヶ谷家も和真の小学校入学を機に越してきたのだが、理由の一つは明日奈が「そろそろ地植えにしてあげたいの」と訴えた木があったからだ。

十代の頃に和人から誕生日プレゼントとして明日奈に贈られた楓の一種で、それまで住んでいたマンションでは大きめの鉢植えにしてリビングで存在感を放っていた。ただ街路樹にも使われる樹種なので和人は小声で「これ、地植えにしたらもの凄くおっきくなるんだけど……」と笑顔を固めていたが愛する妻のお願いには逆らえなかったらしい。だから今では玄関横の一番陽当たりの良い場所にその木はあっていつでもこの家とその住人を見守ってくれている。

だからその楓の木にしてみれば今日は珍しく和真一人ではなく数名の高校生を伴っての帰宅に驚いたことだろう。

もちろん母には下校途中で連絡を入れているし、ご機嫌な声で「うんっ、いいよ」と快諾を得ているから玄関を開ける音がすればパタパタと小走りに長い髪を揺らしながら笑顔で出迎えに来ると思っていた和真は、自分の予想に反して何の物音もしてこない現実に「はて?」と内心小首をかしげる。

とりあえず来客用のスリッパを出し友人達を家に上げて廊下を先導した後、階段を指して「先に上がってて」と二階へ誘導した。

 

「上がってすぐ右のドアが俺の部屋だから」

 

向かいの部屋は父である和人の書斎だが、万が一間違えたとしてもあの部屋のドアは父親が不在の時は母親しか反応しないセキュリティになっている。けれど友人達は途中で買ってきた飲み物やお菓子の袋を持ったまま戸惑いの視線を和真に集中させた。

 

「え…いきなり勝手に入っていいの?」

「色々急いで隠さなきゃいけないブツはないのか?」

「むしろ隠さないで一緒に鑑賞する方向か?」

「それはそれでいいけどな」

 

どんなブツが部屋に置いてあると思っているのか、なんとなく想像がついて和真の目が半眼になる。

 

「そーゆーのないから。別にいつ誰が入っても俺の部屋は問題ないし」

「ある意味、和真らしいっちゃ、らしーなー」

「爽やか系好青年キャラは地だったのかー」

「むしろこれから闇落ちルートだったりして」

「それはそれでいいけどな」

「残念ながら俺は闇落ちする予定は全くないから。ほら、上がって上がって」

 

妙なフラグを立てないで欲しい、と和真は友人達を追い立てた。そんな物に落ちたら好奇心の塊のような妹が嬉々として後追いしてくるし、妹が暴走する気配を見せれば頼れる姉もナビ役で同行するだろうし更に後方支援で母が来て、その母を猛烈な勢いで父が追ってくる。要するに桐ヶ谷家は家族全員仲良しで、そして未知の物が大好物なのだ。闇だろうが何だろうが絶対ワクワクしながら落ちると和真は断言できる。そしてワクワクしつつも母を巻き込んだ自分が父から大目玉を食らうのも間違いない。

誰がそんな闇落ちより悲惨な暗黒世界に引きずり込まれたいと思うものか、と和真はぶるり、と肩を震わせた。

とにかく、とりあえず早く二階に上がって欲しいと友人達を睨めば階段に一番近い男子が「でもさ」とまだ反抗の意思を見せる。

 

「俺達まずは『和真のお姉様』を見て目と心に潤いを与えたいんだけどな」

「そうそう。だからわざわざ途中で確認してもらったんだし」

「家にいるんじゃなかったのか?」

 

そうなのだ。帰る途中で家に連絡したのは友人を連れ帰っていいか、という確認もあったが、何より母の明日奈が在宅しているかの確認が最大のポイントだったのだ。

 

「あー……いるはずなんだけどな。クッキー焼いてくれたみたいだし」

 

さっき玄関のドアを開けた瞬間、微かに嗅覚を刺激した甘い香りは妹の芽衣が強請るお手製クッキーの匂いだ。用意周到の明日奈らしく、いつ「食べたいっ」と言い出しても対応できるように、あとは切って焼くだけ状態のクッキー生地が常に冷凍庫にストックされているから和真の友人達の為にそれを作ってくれたのだろう。どうしても手が離せない状態なのか、何があったにせよユイに聞けばわかることである。ただこの場で携帯端末を取り出して会話をするのも不自然だし、友人達と一緒にリビングに入ってしまうとホログラムユイを呼ぶことが出来ない。

 

「もうっ、いいから、先に部屋に行けっ、て。母さんに会わせないぞ」

「おおっ、珍しく和真がグズった」

「しょーがねーな。『お姉様』には会いたいから、言う事きくか」

「だな」

 

なんだろう、家にいるせいか「学校の和真」とは少し雰囲気が違う様子に友人達は面白がりながら階段を上り始める。最初に上り切った先頭の「右のドアなー」と和真に聞こえるように発せられた声と同時にドアの開く音を聞いて和真は「よし」と頷き自分はリビングのドアを開けたのだった。

 

 

 

 

結論から言うと明日奈はどこにも居なかった。

「今日はずっとお家にいるよ」って連絡した時言ってなかったっけ……、という脱力感から眉毛と両肩が情けない角度になり、口も締まりがなくなって小さな楕円を形作っている。和真の心情を正確に読み取ったユイが苦笑いをしてから慰めの言葉をかけた。

 

「和真くんがお友達を連れて来るって知って、ママ、とっても嬉しそうでしたよ」

「でも……今、いないんだよね?」

「オーブンでクッキーを焼いている途中に連絡が入ったので……」

「直葉ちゃんから?、それとも叔父さん?」

「……今日は叔父さんからです」

「あーもーっ、なんであそこの夫婦はっ……いや、俺だって直葉ちゃんも叔父さんも従兄弟のりっちゃんも大好きだけどさ、それにしたって……」

「落ち着いてください和真くん、オーブンの温度調節はママに頼まれましたから、クッキーの焼き色には自信がありますっ、味だって絶対美味しく出来てますよっ」

「……うん、ありがとう、ユイ姉」

 

どうやら和真が友人と一緒だと告げた後、おもてなしのクッキーを焼いている最中に明日奈の義理の妹、直葉の夫から頼み事をされて仕方なくオーブンをユイに任せ家を出てしまったらしいのだ。小さな頃から叔母のことを名前で呼んでいる和真は恨みがましい声で小さく「直葉ちゃん……」と呟く。

 

「えっと、通話記録がありますから抜粋して再生しますね……『ほ、本当にすみませんっ、アスナさんっ。き、今日はリーファちゃんが幼稚園のお迎えに行くはずだったんですけど、いつもより早いのを忘れててっ、それでっ、えっと……』『落ち着いて。それでお迎えの時間は何時?』『二時なんですぅ』『うん、すぐに出れば間に合うわね』『ほ、ほ、本当に、いつも、すみませんぅっ、アスナさん』『直葉ちゃんも向かってるんでしょう?』『はいぃ』『なら帰る途中で会えると思うし。大丈夫、りっちゃんはちゃんと引き取ってくるから心配しないで』『よ、よろしくお願いしますぅぅっ』……こういう会話でした」

 

文字通り、和真は頭を両手で抱えた。叔母夫婦は既に何回か同じような感じで自分達の娘のお迎えを明日奈に任せているのだ。幼稚園側も明日奈が親族であるという認識が浸透していて何の疑問もなく姪にあたる直葉の娘を託してしまう。

わざわざ母親の在宅を確認して友を連れて来たのに帰ってみたら肝心の当人がいないという、なんだかキツネかタヌキに化かされたような気分のままこの情けない状況を階上の友人達にどう説明しようか、と思いあぐねていると背後から随分と浮かれた声が飛び込んで来た。

 

「へぇぇ、『和真のお姉様』、明日奈さん、って言うのかぁ」

 

不意にリビングの入り口から聞こえてきた声に和真はもちろんユイさえも肩を跳ねかせる。バッ、と振り返るとにんまり笑顔の友人が一人、ゆるりと立っていた。

 

「こ……小太郎、お前、いつからそこに……」

「えへっ、お前が『あー、もーっ』ってモダモダしてるあたりからかな」

 

えへっ、などと可愛らしいセリフを吐いて両肩をすくめてみせても所詮はごく普通の一般の男子高校生だ、和真の気分が浮上するはずもなく、逆に膝から崩れ落ちてぺしゃりと座り込む。

 

「かっ、和真くんっ、大丈夫ですかっ!?」

 

つられるようにしてユイもまたリビングに両膝をついた。へなへなと力が抜けてしまった弟に手を貸してやりたいのに触れられないもどかしさからユイは胸の前で手をギュッと重ねて心配そうに見つめている。

そんな姉を安心させようと和真は片手を持ち上げて「大丈夫だから」とだけ告げると自身を落ち着かせるため、すぅっっ、はぁっっ、と深い呼吸を一往復させた。しかしその間にトコトコトコと軽い足取りで和真の隣にやって来た小太郎は同じようにストンと腰を落とす。

 

「で、こっちが和真のお姉さんなんだな。おじゃましてますっ、俺、和真のクラスメイトの柴杜小太郎(しばもりこたろう)って言います」

 

予想もしていなかった丁寧な挨拶にぴっ、とユイの背筋が伸びる。

 

「は、はじめして。ユイ、です……あの、ちゃんと私の姿、見えてますか?」

「見えてますけど?」

 

答えたものの質問の意図がわからずに妙な感じの語調になっているが、そこはスルーした和真が戸惑いと困惑を混ぜた声で「小太郎……」とすぐ真横にいる友の顔を見た。

正面からはポカンとしたユイに、横からは少し緊張気味の和真から見つめられて小太郎は「あれれ?」と動揺するが、すぐに何かを悟った顔になって和真に向けて声を潜める。

 

「正直者にしか見えないお姉さんとか?」

「だったら小太郎には見えないだろ」

 

妙に真剣な顔に拍子抜けして、呆れと冗談を半分ずつ混ぜて返せば小太郎はすぐに「そうだな」と納得する。ある意味とても正直者だ。けれどユイだけは少しの恐れを抱いたままゆっくりと両腕を左右に広げた。

 

「…柴杜くん」

「あ、小太郎でいいです」

「じゃあ、小太郎くん。私のこの姿、ホログラム映像で……」

「ですよね。でもこんなに鮮明な映像見たことないな。どこのメーカーだろ?」

「これはうちの父さんの自作なんだ」

「へぇっ、すごいなっ」

「そっち方面の仕事してるからね」

 

うっかり和人の話題に移ってしまいそうになるのをユイが慌てて引き留める。

 

「それでっ、あのっ、私……この姿、遠隔操作しているわけじゃなくて……」

「はい」

 

様々な事情で生身の姿ではなくホログラム映像で家族とコミュニケーションをとる事例は珍しくはあるが皆無ではない。しかしユイは自分がその事例ではないのだと打ち明けて、俯き加減だった顔を上げ怯えるような目で小太郎の反応を伺うが、目の前の男子高校生は静かにユイの次の言葉を待っていた。

 

「A…I、なんです」

「そうなんですかぁ」

 

一拍の間も置かず、なんだか「実は今日のサラダ、サニーレタスじゃなくてプリーツレタスなんです」みたいな告白を聞いたように手応えのない応答に今度は和真が友の顔を覗きこむ。

 

「お前わかってる?、ユイ姉がAIだって言ってるんだけど?」

「うん。それでも和真のお姉さんなんだろ?」

 

疑問符は付けているが当たり前のように笑う小太郎から瞬時にしてその陽気さが取り払われた。

 

「もしかして、幼くして他界した姉の代わりに、とかいう少々センシティブな事情があったり?!」

「そーゆーのは全然無い」

 

その答えに途端に肩の力を抜き情けない声が漏れ出てくる。

 

「なんだよぉ、脅かすなよぉ」

「別に脅かしてないだろ」

「だって二人ともなんか不思議な物を見る目で見つめてくるからさぁ。うちの弟達だったら絶対また俺が考えなしな発言してんなぁ、って二人だけでわかっちゃってるパターンだし」

「小太郎って弟いるんだ」

「うん。聡二郎と誠二郎。双子だから聡二郎と誠二郎」

「あ、もしかして双生児にかけてるとか?」

「アタリ。ちなみに兄貴はシンプルに柴杜太郎。んーで弟の俺が小太郎。太郎の次だから小太郎。ネーミングセンスの感想はいらない。ちっさい頃からずっとストレートに面白がられるか、気ぃ遣ってもらった感想しか聞いたことないし。以上、柴杜家の四人兄弟、男ばっかり。だから俺は和真ン家がスゴく、スゴく、ものスゴーく羨ましい」

「そうなんだ……」

「あったりまえだろぉ。明日奈さんめっちゃ美人だし。んーでもってお姉さんも可愛くて優しいし。妹までいるって、ここは楽園か?」

「母さんとユイ姉の延長線上に妹の芽衣がいると思わないで欲しい。それから母さんを名前で呼ぶな」

「えー、なんで?、俺は名前で呼びたいっ」

「それは……その……」

 

小太郎がはねのけると思っていなかったのか和真の勢いが急速に萎んでいく。これはもう自分が保育園の頃から母の名前を他の男に教えないよう父から言われていたと打ち明けるべきか悩んでいると、ユイがおずおずと小太郎に話しかけた。

 

「小太郎くんってすごいですね」

「褒められたっ。お姉さん、俺って褒められて伸びるタイプなんで、もっと遠慮無くどんどん褒めてくださいっ」

「小太郎、ユイ姉のことを『お姉さん』って呼ぶな」

 

咄嗟に思ったのは「ユイ姉は俺の姉さんだから」という子供のような感情で、これまで家族と両親の親しい人達しかユイが和真の姉であるという認識がなかったせいでいきなり友人の口から出た呼称に自分でも驚くほど反応してしまい、それが自分の父が妻の名を他の男に呼ばれたくないという今まで理解不能だった感情に類似しているのだと気付いた和真は少々自己嫌悪に陥る。

けれど小太郎の方はすんなりと「そうだな」と同意して、からりと笑った。

 

「明日奈さんが『明日奈さん』なんだから、お姉さんは『ユイさん』って呼ぶべきだよな」

 

小太郎がどんどん桐ヶ谷家に侵食している気はするが母親の名前がバレたのは直葉の夫に『お義姉さん』呼びを禁止した和人のせいなので、和真は渋々ながらに了承する。

 

「それで、どうしてお前だけこっちに下りてきたんだよ。俺の部屋にいろって言っただろ」

「それなんだけどさ、お前の部屋すごいな。なんか『未来部屋』って感じで」

 

その単語にユイが、ぴゅっ、と吹き出した。

『未来部屋』…それはかつて結城家の二階にあった明日奈の私室を指す言葉だ。今の和真の部屋は当時の明日奈の部屋よりも更に進化した状態になっている。

 

「部屋入ったら勝手に電気もエアコンもつくし、クラシックまで流れ始めたからポルターガイストかと思ったわ」

 

しかしその驚きが納まったところで和真の友人達は持参したお菓子やら飲み物を並べ、はた、と気付いたのだ。

 

「コップがなくてさー」

「あーっ」

 

合点がいって和真が立ち上がる。

買って来た飲み物は全てファミリーサイズばかり。さすがに一人一本直飲み、というわけにはいかないだろう。

 

「オマケにほら、新発売の限定モノがあっただろ。それを早く飲んでみたくて、そんで俺がコップ借りにきたんだ。あっ、よかったらユイさんも一緒に……って、ダメか」

 

和真がキッチンへコップを取りにいっている間、ユイと小太郎はそのまま向かい合わせに座っていた。

 

「はい、ホログラム映像はここでしか展開できませんし、私は飲食の必要がないから……」

「そういう些細な問題じゃなくて、男子高校生の羽目を外しまくった話はちょっとお耳汚しになっちゃうかと」

「些細な問題…………大丈夫ですっ、和真くんの端末でなら会話も可能ですし、どんな内容でも情報として興味がありますっ」

 

姿が見えない事も、一緒に食事が摂れない事も「些細な問題」と言ってくれた小太郎に向けユイが和人とよく似た色の瞳を輝かせているとコップを用意してきた和真が笑顔を強張らせている。

 

「ええっ……ユイ姉…………それは、ちょっと……」

「うん、それは和真には拷問になっちゃうな」

 

年頃の男友達とのボーイズトークに自分の姉が混ざるのはかなり色々とよろしくない。

 

「それに、俺達の会話をユイ姉に聞かせたなんて父さんと母さんにバレたら……」

「そうだっ、それで明日奈さんはどこ行っちゃったんだよ、和真」

 

本来の目的を思い出した小太郎が唇を思いっきり突き出したのだった。

 

 

 

 

 

ほどなくして帰宅した明日奈が和真の部屋にいる友人達に挨拶に行けば後ずさりしたくなる程お祭り騒ぎな歓迎を受け、クッキーもリスかハムスターみたいに頬張ってくれたので、つい「いつでも遊びに来てね」などと言ってしまえば「じゃあ次は定期考査終わりに来ますっ」「ご褒美だと思ってテスト頑張れそうです」「『和真のお姉様』は御利益ありそうなんでちょっと拝んでいいですか?』と手を合わせる男子までいて和真をげんなりさせた。それでも夕方の早い時間に友人達を追い返したのは今日、父親が海外出張から帰って来る予定だからだ。

長旅を終えて家に戻って来ても妻が来客の接待で構ってくれなければ和人の機嫌が急降下するし、その来客が息子のクラスメイトとなれば明日奈の気付かないところで呼び出しをくらうのは間違いない。だからもともと今日は短い時間しか家に呼べない前提にしておいたので友人達は名残惜しそうではあったがすんなりと帰ってくれた。それなのに当の和人が予定していた飛行機のエンジントラブルで帰国が叶わなくなってしまったというのだ。

明日奈はちょっと寂しそうな笑顔で和人の帰宅に合わせて作った「いろいろたくさんシチュー」を夕食のお皿によそいながら「でも安全に帰ってきてくれる方がいいものね」と言い聞かせるように呟いていた。

食事を済ませ風呂を済ませ、大晦日にしか夜更かしの出来ない体質の芽衣が寝て、和真も今日は初めて友人を家に連れて来て疲れたのかいつもより早く眠気が訪れたのでラップトップPCを閉じると、そのタイミングでユイが話しかけてくる。それは今夜中に和人が帰って来るという驚きの知らせだった。

 

「え?!、どうやって?」

「直行便は無理だったので北回り航路を使ってアンカレッジで乗り継ぎをしたみたいです」

 

すごい気転だね……と思えれば良かったのだろうが残念ながら産まれた時から両親を見てきた和真は「すごい執念だね」と半笑いをしてから、それでも帰宅は何時になるかわからないし、俺はもう眠いし、邪魔すると怒られるし、と既にぼんやりしている頭で考えてユイに「でももう寝る、おやすみユイ姉」と告げて布団を被ったのである。

それからどれくらい時間が経っただろうか……いつもより早くベッドに入ったせいか、ふと夜中に目が覚めた和真は喉の渇きを覚えて階下に下りた。するとリビングに明かりがついていて姉の楽しそうな声が漏れ聞こえてくる。

 

「それで小太郎くんがちょっとだけ高校での和真くんの様子を教えてくれたんですっ」

「へぇ」

「よかったね、ユイちゃん」

「はいっ。それから……」

 

どうやらユイは昼間家に来た小太郎の話を和人と明日奈にしているらしい。そっと扉を開けるとそれすら気付かないくらい興奮気味に二人の前でお喋りを続けている。その様子をソファに並んで腰掛け、笑顔で聞いている和人と明日奈……だったが、和真は一瞬で、残っていた眠気のせいではなく瞼が半分ほど落ちた。

なぜならソファの前にあるローテーブルの陰でユイから見えないのをいいことに素足の和人が明日奈の足にちょっかいを出しているからだ。帰宅して風呂かシャワーを使ったのだろう、既にパジャマに着替えている和人と同じく明日奈も寝衣姿だからスリッパを履いているとはいえ白くて細い足首より上は少々むき出しになっている。そこに和人の足が悪戯を仕掛けているのだ。

寝ぼけた目でもわかるくらい時折明日奈の両肩がぴくっ、と揺れているのはピタリと隙間なく並んで座っている二人だから、これまたいつものように妻の腰に回している手が足と同様にけしからん動きをしているものと思われる。

だから和人の笑顔も明日奈の笑顔もユイの話をちゃんと聞いているのに純粋な笑顔になっていない。

しかし嫌いな海外出張をやり終え、本来ならもう一日延びてしまうはずだった帰国を体力面も金銭面も気にせず強引に戻って来た父親だ、これ以上は……「爆発する」と確信のある和真は申し訳ないと思いつつも「ユイ姉」と呼びかけながらリビングに入った。

 

「父さんも色々限界だろうから、話の続きは明日にしたら?」

 

「和真くん!?」と驚きの声をユイと明日奈が同時に発する。どうやら和人は気付いていたらしい。

 

「そうですね、パパは疲れているのに、ごめんなさい」

「気にしなくていいよ、ユイ。それだけ嬉しかったんだろ?、また明日聞かせてくれ」

「はい、パパ。それにママも……あれ?、ママの顔すごく赤くなってます。大丈夫ですか?」

「う、うんっ、大丈夫。気にしないで、ユイちゃんっ。明日から和人くんは有休でゆっくり出来るから、またお話しようね」

「はいっ、ではパパ、ママ、和真くん、おやすみなさい」

 

完全にユイのホログラム映像が消えるのを見届けた和人が明日奈の身体を支えるように腰に手を回したまま立ち上がる。真っ赤になった頬のまま明日奈が上目遣いで「もうっ」と睨めば、和人は何も無かったかのようにすました顔で「じゃ、オレ達も上に行こう」と妻を促した。

ダイニングテーブルには和人が使ったらしいシチュー皿が置きっ放しになっていたので、キッチンに向かいながら和真は「お疲れ様、父さん」と労いの言葉をかけ「喉渇いちゃってさ。洗い物はついでにやっとくから」と皿洗いを引き受ける。

 

「ごめんね、和真くん。ありがとう」

「悪いな和真。じゃ、オレ達はゆっくりさせてもらうから。明日の芽衣の面倒はまかせた」

「はいはい、まかされました」

 

どこかで聞いたような覚えのある台詞を聞いて明日奈が「えぇっ!?」と驚きを表す。

 

「いくら土曜日だからってそんなにお寝坊しないよ?」

「大丈夫だよ、母さん。芽衣ものんびり寝てるだろうし」

「そうそう、だいたい明日奈がユイに言ったんだろ?…ゆっくり出来るって」

「それは和人くんの事ですっ」

「いや、多分…と言うか絶対明日奈も起き上がれないと思うから、ここはもう和真に任せてゆっくりしよう」

「ユイ姉もいるから心配しないでいいよ。じゃあおやすみ、父さん、母さん」

「え?、ちょっと…和真くんも何言って……」

 

少々強引にリビングから連れ出されていく母を気にすることなく、和真はユイに引き留められて寝室に行けずにいた父親の笑顔を思い出して「爆発寸前の秒読み段階だったなぁ」と独りごちながら食器戸棚からコップを取り出したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
この少し後の話になるのが「【いつもの二人】歳の差編」でしょう。
和真の友人達、最初は和真の部屋の未来感に期待して
「コップでてこーいっ」とか叫んでみたらしいです。


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〈UW〉真珠色の副代表剣士さま

恒例の発刊記念です。ご本家(原作)さまの「プログレッシブ8巻」
『赤き焦熱のラプソディ(下)』の発売日ですので、短めですが……。


《セントラル・カセドラル》九十階の大浴場で一日の疲れを流しさっぱりしたキリトは三十階の部屋に戻ると、リビングソファに座っているアスナの姿を見つけて、おや?、と首を傾げた。

最近は風呂好きのアスナに感化されたのか、はたまたこの白亜の塔の巨大風呂の居心地が良すぎるのか、アスナと一緒に風呂場へ向かっても帰りは自分の方が遅いのは珍しくないが、それでも先に戻っているアスナだって風呂上がりのホカホカふわふわ状態でいるのが常なのに、今日に限って髪はすっかり乾いており風呂上がりの気の抜けた様子もなく何かを一心に見つめている。

なんとなく抜き足差し足忍び足で近づいてしまったのは彼女の思考の邪魔をしないようにであって、決して驚かせようとか色々な下心があったわけではない……多分……きっと。

 

「アスナ」

 

声をかけると同時に素早く隣に腰を降ろし、顔を寄せてすぅっ、と深く息を吸い込む。

花のような、お日様のような、お菓子のような、アスナのやわらかな匂いで内を満たしたキリトはそれだけで気持ちが安らいで、思わず瞼を閉じてもっとその香りを堪能しようとした所で彼女が手にしてた物に気づき逆に目を見開いた。

 

「何かの提案書か?」

 

人界統一会議が発足するとほぼ同時にキリトがその代表剣士、アスナが副代表剣士に就任したが、まだ日も浅く、やらなければならない事は山積み状態で、それが増える事はあれど減る兆しは一向にない。今までの最高司祭による独任制から整合騎士やカセドラル各部局の長達による合議制へと転換したせいで手を上げやすくなったのか、意見書や陳情書の類いが毎日キリトの目の前に積み重ねられるのだ。

そして当然のように、その羊皮紙や常用紙が混在している山を一枚一枚丁寧に減らしていくのはアスナである。

一読してから対応にふさわしい部局へ回したり、内容によってはかいつまんでキリトに伝え人界統一会議での議題にしたり、と次々に処理をしていく姿を見て、局員達はもう直接副代表さまの所へ書類を届けた方が早いのでは?、と考えるほどだ。

とは言えこうなる事を見越してか、キリトの執務室はアスナと兼用という事になっているので結局はキリトの机に毎日紙の束は届けられるのである。

だからアスナが紙を持っていればそれはだいたい代表剣士宛ての書類なのだが……自分の名前に続いて問われた疑問の言葉と一緒にキリトの息まで頬にあたって、その距離の近さに驚いたアスナが「ひゃっ」と肩を揺らす。それから急いで首を横に振り、キリトにも見やすいように紙の角度を調節した。

 

「私の新しい衣装をね、用意してくれるって」

 

声に躊躇いが含まれているのはアスナ自身が積極的に望んでいないからだろう。

交流のある騎士見習いの少女達はもちろん、下位騎士から整合騎士、術師をはじめとするカセドラルの職員達はみなそれぞれの職種や地位に見合った衣装を着用している。唯一の例外はキリトだろうが、基本、黒で地味めで簡素な服ぱかり選ぶので、自ら進んで代表剣士という最高位を示すような衣装を欲しがるはずもなく、逆に「今のままがいい」発言をかまして周囲を黙らせたくらいだ。

当然、アスナもキリトと同じく「今のままで……」と思ったのだが、ふと自分の装いが創世神ステイシアと同一視される一因だと気付いたためアユハ師団長に相談したところ、ならば新しい騎士服を、という運びになったのである。

アスナとしては既存の服の中から選ぶと思っていたのに、相談した翌日、かの神聖術師団長はなぜか懇願するような目で「お色はこの《カセドラル》と同じ純白でっ」と否を許さない勢いで告げ、ご丁寧にも高価な羊皮紙を用いたデザイン画を押し付けるように渡してきたのだ。

事の次第を聞いたキリトは改めて「どれどれ」と本気で興味があるのかどうか判別しずらい声でアスナの手にある紙を覗き込んだ。そこには基本となるブラウスにスカート、それに上着の型が幾つか描かれており、更に細かく袖や襟の形状、丈の長さが選べるようになっていた。端の方にはブーツや手袋などの他に装飾品等の小物も書き添えられている。

 

「まぁ、アスナの場合、整合騎士みたいなガッチガチの鎧は必要ないし」

 

なつかしくも旧SAOでアスナの装備品について低層で常に相談にのっていた相手はキリトだった。あの時はとにかく耐久値が第一で見た目は二の次だったが、おしゃれなアスナのことだ、衣装を新調するとなれば好みはあるだろうし創世神のステータスと元来の細剣使いとしての腕前に加え、この世界特有の神聖術というシステムも既にもの凄い早さで習得しているので防具としての意味合いはほぼ皆無の騎士服でも問題はない。

 

「やっぱり動きやすい方がいいわよね。いくつか試着させてくれるみたいだし」

 

伝えるともなく呟いたような口調を受けてキリトはステイシア姿のアスナをぽんっ、と思い浮かべた。

血盟騎士団の衣装は事前に相談もなく準備されてしまったらしいが、今回のステイシアもアカウントが用意してあったのだからキャラクターデザインもある程度は出来上がっていたのだろう。薄ぼんやりと覚えている限りだが《太陽神ソルス》のシノンもどこかアスナと共通のイメージを彷彿させる衣装だった気がするから、会う事は叶わなかった《地神テラリア》のリーファと共に三大神は統一感を醸し出しているに違いない。

多分、だが……《ラース》側としても今回のように神話として語り継がれている最高位のアカウントを使用して大戦の戦局を左右させる想定はなかったのではないだろうか。なぜなら、どう考えてもあの衣装は戦場を駆け巡ったり、文字通り一騎当千の働きに適しているデザインではなく、思い返せば今までの《仮想世界》で見たアスナの装いの中で肌の露出度的には一二を争う仕上がりだった、とキリトの眉間に深い皺が刻まれた。

色はいい……白いドレスに赤いライン、まさにアスナの色である。

けれど胸部や腕部のアーマーなんてほとんど形ばかりだし、腰部にいたってはもはや装飾にしか見えない有様で両肩に胸元、それに脇の下や脇腹までも晒し、太ももだってかなり際どいラインだったのだ。

あの衣装で大立ち回りを繰り返していたのかと思うと今更ながら違う意味であの場にいた者達全員に殺意が湧いたキリトは、はぁ、とやるせない息を吐いた後「もう一度《東の大門》に行かなきゃ、だしな」と徐にアスナの細い腰に腕を回す。

 

「シュータさん、元気かしら」

 

デザイン画から一旦意識を外したアスナが少し懐かしそうに微笑んだ。

「無音」の異名を持つ整合騎士シュータ・シンセシス・トゥエルブは人界統一会議の全権大使として今は拳闘士イスカーンの元にいる。今度の和睦交渉の場には同席してくるだろうが、キリトとしては《東の大門》で初顔合わせをした時、無駄な会話は一切せずにすぐさま帝城オブシディアに行ってしまったので表情筋があまり動かない整合騎士という印象しか残っていない。

 

「拳闘士は《東の大門》まで徒歩なんだよな?」

「うん。でもきっと徒歩、って言うより走ってくると思うよ」

 

どっかの運動部の基礎練みたいだな、とちょっとだけキリトの目がどんよりするが、話を聞く限り長であるイスカーンをチャンピオンと呼び、戦い方も拳を武器とする熱いギルドなのだ、間違いなく体育会系の民族だろう。一方、人界統一会議側から交渉に赴くのは当然キリトでアスナも同行する手はずになっている。二人だけなら飛行術で移動すれば早いのだがそうもいかず、必然と馬か馬車を使うはずで……央都セントリアを抜ける時、三女神の一人と周知されているアスナの人気を考えると集まるだろう民衆の視線を予感して彼女の腰に伸ばしていた手に自然と力が籠もった。

アスナは動きやすさを重視したいようだが、そうなると今のステイシアの衣装と五十歩百歩のデザインになることを容易に想像したキリトは次に何か閃いたようにニヤリと片方の口角を上げる。

 

「アスナ、衣装の打ち合わせっていつなんだ?」

「和睦交渉に間に合わせたいから、早速、明日の朝一番にって」

「ふーん」

 

何気なさを装いながらアスナの柳腰にもう一方の腕もくるりと回して引き寄せる。

くいっ、と身体を横に引かれて僅かに顔に傾斜がつき、ついでに「んん?」と疑問の声を上げて更に首を倒してしまったせいで栗色の髪がさらりと流れ、細くて白い首元が露わになった。そこにキリトが自分の唇を、ぎゅっ、と強く押し付ける。

驚きではしばみ色の瞳を大きくしたアスナだったが、すぐにその表情は痛みによって歪められた。

まるで赤子が乳を求めるようにキリトはアスナの肌にきつく吸い付いているのだ。

 

「っつ!……ぅっ……キ、キリトく…ん?」

 

一体何が原因でいきなりこんなキスをされているのか、わけもわからず痛みと混乱で瞳が潤んでくるが名を呼んでもキリトは唇を離してくれない。ただ、背中にある彼の手が宥めるように強請るようにさすってくるので、ただの激情ではないのだと気付けば首に与えられている刺激に記憶が呼び起こされ身体が反応する。

 

「そ…れ、…ダメ………」

 

アスナが思い描いてしまった結果こそキリトが望むもので、ようやく唇を離すと今まで吸い付いていた場所を見て満足そうに目を細めた。

 

「うん、綺麗に赤くなったな」

「う゛ぅ…」

 

情けない声を出してしまったのは未だにキリトにキスされた箇所の痛みが引いてないせいもあるが、それ以上に自分の身に起きた反応が恥ずかしかったからだ。この《アンダーワールド》という世界のイマジネーションの力は皮肉にもこの世界で生きている人達以上にアスナを翻弄させている。今、キリトから受けた刺激も《現実世界》での経験から導き出される結果を知っているからこそ肌が素直に色を変化させてしまうのだ。

そして同様に《現実世界》で明日奈の肌に朱を刻んだ唯一の人がキリトだからこその結果でもある。

 

「ど、して…ンっ」

 

咎める視線は見えないふりで、理由を問いただそうと開いた薄桃色の唇は己のそれで塞いだキリトは、ちゃんと鮮やかな朱花が咲いたことを確認できて嬉しそうにアスナを横抱きにソファから持ち上げた。少しばかり心意を使ったから不安定さはなかったと思うがアスナにしてみればキスをしたまま再び予想外の行動に出られたので咄嗟にキリトの首にしがみつき、山形に跳ねた眉毛はすぐに眉間を谷間にして抗議を示している。

それを内側からほぐすように優しく舌で咥内を愛撫しながら、とりあえず実証はできたことだし後は寝室でトロトロに蕩けさせてからたくさん……と、これからの事を思い描いて、キリトはこれまた心意で寝室のドアを開いたのだった。

 

 

 

 

 

翌日……予定通り新しい衣装のデザインを決めるため神聖術師団長のアユハ・フリアは参考にと何着かの衣装をアスナの前に並べた。前日に宣言した通り、色は真珠色のみ。それでも様々なタイプを揃えている。

 

「アスナ様、お気に召した物があればどうぞご試着を」

「ええ、ありがとう、アユハさん」

 

けれど礼を言うアスナの笑顔はいつもより少しぎこちないように見えて、アユハは理由を問うべきかどうかを迷った。だがそんな葛藤に気付く様子もなくアスナは目の前の服を見て気持ちが少し上向いたのか、ひょいひょいと手に取って吟味していく。

 

「えっと……和睦交渉の場はフォーマルだからブラウスの襟は高めの物を、上着も必要かな……あ、でもちょっと腕が動かしづらいかも……」

「でしたら上着は丈の短い羽織り物にしてはいかがでしょう」

「うん、そうね。あとスカートは昨日用意してもらったデザイン画の中で……これ、このプリーツが多いのにしたいんだけど、騎士服も兼ねているからウエスト部分だけ何か柔らかい素材で剣帯が出来るようにしてもらえるかしら?」

「わかりました。ですがこのスカートだけでは些か心許ないので腰回りも後ろ側だけもう一枚加えましょう」

「ふふっ」

「……どうかされましたか?、アスナさま」

「うん、なんだかこうしてるとアユハさんて私の世話を焼いてくれるしっかり者のお姉さんみたいだなって思って。あっ、ごめんなさい、アユハさんにはちゃんとソネスさんって妹さんがいらっしゃるのに」

 

柔らかく表情を崩した後、へにょりと眉尻を落としたアスナにアユハは一瞬目を見開き、彼女にしては珍しく僅かに言葉をどもらせた。

 

「そ、それは…大変光栄です。ですが、多分…なのですが……あ、いえ…これは私の憶測で……」

「なんですか?」

「その、妹のソネスなのですが……」

「ソネスさんが?」

「はい、きっとソネスの方が無意識にアスナさまの事を妹のように感じているのではないかと」

「え??」

「普段からどの生徒にも厳しい事は厳しいのですが、特にアスナさまの講義には熱心な様子なので……こんな言い方は本来許されないのですが、きっとアスナさまに対してソネスなりに親愛を持っているのでしょう」

「……だったら、やっぱりアユハさんも私にとってお姉さんですね」

 

再び花が咲くような笑顔を取り戻したアスナに今度はアユハもつられて頬を緩める。けれど本来の目的を思い出したのかすぐに表情を引き締めた。

 

「おみ足はどうされますか?」

「タイツにショートブーツを」

「アスナさま?、随分と素肌を覆う物ばかりお選びになっていませんか?」

「ふぇっ?!…え、えっと……そ、そんなことは……」

「整合騎士の方々とは違うのですし、言いたくはないのですが代表剣士さまが随分と質素な物を着用されているのでもう少し華やかでも」

「あの、でも、ちょっと…出来れば…絶対肌は見えない感じのがいいんですっ」

 

今日の試着だけなら何とか乗り切れるかもしれないが、今後、昨晩のような行為をされたら肌を色づかせない自信のないアスナはやや涙目になって必死に訴えたのだった。

数日後、仕上がった衣装を着用したアスナが「どう?」と伺うように首を傾けると、それを見たキリトが「おおっ」と眩しさに目を細めるような仕草の後「うん、似合ってる」と笑顔で告げるが、全身を確認してから「それなら…」と何やら不埒な考えを匂わせる言葉を発した途端、脇腹にめりこんだアスナからのグーパンチによってそれ以上口からまともな声が出ることはなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
神聖術師団長のアユハさんや妹のソネスさんはご本家(原作)さまの
19巻、20巻『ムーン・クレイドル』の登場人物です。
性格的なものは勝手に設定させていただきました(苦笑)
ウラ話は通常投稿にまとめさせていただきます。


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ケンカって……

和人と明日奈が帰還者学校に通っている時のケンカについてのお話です。


放課後、廊下を歩いていると「ちょっと付き合え」と唐突にかけられた低音の声と同時に後ろから制服の襟を掴まれて引っ張り込まれたのはいつも男子生徒が体育の授業で更衣室として使っている一般教室。

 

「は?!、おいっ、ちょっと待てよ。オレはアスナと帰る約束がっ」

 

脱走は許すまじ、と和人にとっては知人というより友人に近い関係のクラスメイトのAが肩に手を回し、Bが腕を抱きかかえ、最後のCが胴体にしがみついてくる。

哀しいかな、全員がそれぞれバレー部かバスケ部かラクビー部あたりの所属だと言っても誰も疑わないだろう体躯の持ち主なので和人がいくら、ふんむっ、と全身に力を入れて抵抗してみても全く効果がない。しかも、とどめとばかりに友人Aが威圧的な眼力で迫ってくる。

 

「桐ヶ谷、お前にとって友情と愛情、どっちが大事だ?」

 

まるで鉄板中の鉄板『私と仕事、どっちが大事なのっ』と恋人に詰め寄られるドラマのような台詞をこんな耳元で聞くことになるとは……しかもクラスの男子から……と、ちょっとどんよりした気分になった和人はシンプルに脳内で友情と愛情を秤に掛けた。そして天秤が傾く前に別の男子の声が飛んでくる。

 

「オレらと姫、どっちをとるんだよっ、カズっ」

「アスナだな」

 

秤は必要なかった。

一瞬の迷いもなく断言した和人の答えを既に予想していたのか、顔を寄せている友人Aは不敵に笑う。

 

「それでも今はオレ達を優先してもらうからな」

 

だったらなんで質問したんだ、と目で訴えてみるがそれを受理してくれる人間はここにはいないらしい。どんどんと教室の中心近くまで連れていかれ、捕縛された時速やかにこの教室のドアを開けた友人Dが隅にあったイスを人数分用意してそこに全員が腰を降ろした。膝を突き合わせるように小さな輪になって座らされた和人は改めてメンバーの顔を見る。

和人と同じクラスの佐々井や久里は課外活動も同じ「ネットワーク研究会」に所属しているが、ここにいるメンバーはクラスメイトという関係でしかない。とは言え他の同クラの男子よりは一緒に昼食を摂ったり特別教室では意図して近くに座る程度に気心は知れている仲だ。

それでも明日奈より優先順位が高いか?、と問われれば当然、否である……そもそも彼女より高位の関係性を持つ人間は和人にはいないのだからその彼女と一緒に帰る約束を反故にするわけにはいかない。

さてどうしたものか、と横目で二箇所ある教室の出入り口を探ってみるが《キリト》のステータスが使えない《現実世界》でこの状況を打破するのはかなり難しく、自然と「こんな時、アスナがいてくれたらなぁ」と思ってしまえば、とその願いが通じたかのように携帯端末から涼やかな着信音が流れてきた。この設定音はアスナからだ、と素早く端末を取り出す。

 

『あ、キリトくん?、今、どこ?』

「悪い、アスナ。ちょっとゴタゴタに巻き込まれてて……」

 

ゴタゴタと評された友人達の顔が一斉にギッ、とこちらを向く。そして端末の向こうの明日奈は「はぁ」と少しだけ呆れたような息を吐いた。きっと和人の事を「巻き込まれ体質」と診断している里香の言葉でも思い出しているのだろう。

けれど端末越しに漂ってくる「仕方ないなぁ」という気配はすぐに消えて「実は私もね」と言いづらそうな雰囲気の声が流れてきた。

 

『隣のクラスの女の子が今すぐ相談に乗って欲しいって……だから……』

 

歯切れの悪さから考えると、優等生の明日奈なら和人を待たせるのは気が引けるので「先に帰って欲しい」と考えそうなものだが、実は「一緒に帰りたいから待っていて欲しい」が本心なのだと察して和人の顔が喜びに転じる。丁度良い事にこちらもすぐには解放されそうにない。

 

「なら、先に問題が解決した方が連絡するってことで」

『うんっ、わかった』

 

わかりやすい程に声が明るさを取り戻す。そして和人は自分の方が先に解放された場合は先に帰ることなく明日奈の相談事が終わるまで待つつもりだ。もしも明日奈の方が早かったら……その時点で隙を突いて脱出を試みよう、と方針を固める。

そんなこっちの決意を知るはずのない明日奈はきっと端末の向こうでまだ和人と一緒に帰れる可能性が残ったことにホッとしているだろう笑顔を想像して、こういうところだよなぁ、と笑いを噛み殺すのに苦労しつつ「後でな」と通話を終えた和人は改めて自分を見つめている友人達がさっきよりも更にヘンテコな顔になっている事に気づいて僅かに首を傾けた。

 

「今の、結城さんから、だよな?」

「ああ」

 

素直に肯定して、でもちょっとだけ驚いた。この帰還者学校では少なくとも高等部の男子の大半は明日奈の事を「姫」と呼ぶからだ。さすがに中等部で面と向かって彼女を「姫」と呼び捨てにしている男子は少ないが、代わりに女生徒などは「姫先輩」と半ば声援のように黄色く呼びかけてくる集団が実は結構いる。

 

「結城さんと一緒に帰る予定だったんだろ?……その、怒ったり、してなかったか?」

「そこを気にするならなんでオレを引き留めるんだよ」

「違う、違う。結城さんの反応が気になるって言うか……約束してたのにダメになったら怒ったり、ケンカになったりしないのかな、と」

「アスナの反応?……別に今回はたまたまだけど向こうも急に用事が出来たみたいだから、帰れる状況になったら連絡することになった」

「なるほど」

 

妙に難しい顔をして黙り込んでしまった友人Bを見て和人の方も態度を改めた。わざわざ椅子で円陣を組んで座っているのだ、何か相談事でもあるのだろう。それにしても和人以外はもろに体育会系の体格なので圧迫感と言うかむさ苦しさが半端ない。

ようやく話を聞く気になったのを見計らったように友人Aが「ほら、話せよ」と口火を切る。催促されたBは「うん」と頷くとこの場にいる男子の顔を順繰りに見てから円の中心に視線を落とした。

 

「実はさ……彼女を怒らせちゃって……」

「彼女?」

「どこの彼女だよ。不特定になっちゃうだろ、ハッキリ名前を言えって」

 

ようやく話し出したと思ったのに曖昧な三人称を使われて困惑の空気が流れる中、和人だけがその意味を察して「えっと」と発言の許可を求めて片手を挙げる。

 

「それは、付き合ってる彼女、ってことか?」

 

うん、と頷きで肯定すると友人A、C、Dが揃って頭からつま先までを一時停止させた。

 

「か、か、か…彼女って……そそそそ、そーゆー彼女……」

 

口が動くようになったCがだ言語機能にバグが発生している。

 

「なるほど、お前が俺達だけじゃ相談できないって言った理由がやっとわかった」

 

一番に動作環境が復活したAが鷹揚に頷いた。逆にその理由がわからないらしい和人の顔を見て、ふっ、と微笑む。

 

「俺は小さい頃から地元の柔道道場に通ってて、やっと全国に行けそうなんだ。はっきり言って恋愛どころじゃない」

「俺はずぅっと彼女欲しいって思ってるぞっ」

「思ってるだけでいないよね?」

「黙れ、片想い中のお前だって『彼女がいない』という立場は俺と同じじゃないかっ」

 

三人の会話を聞いて納得した和人に相談者の友人Bが「そうなんだ」と話し始めた。

 

「こいつらに彼女とケンカした話をしてもさ……」

「って言うかお前に彼女がいるって俺達知らなかったんだけど」

 

和人の捕獲まで手伝ってくれた友達だ、その友情が薄っぺらな物ではないと信じたい思いが不満げな口調に表れている。

 

「……ゴメン。でもなんか言い出しづらくて。それに、そういう関係になったのもつい最近だし」

 

そこで和人はほんの少しだけBの気持ちがわかった気がした。自分も《旧SAO》に囚われていた時、周囲にアスナとの結婚を伝えたのは二十二層の家に落ち着き数日経ってからだ。《現実世界》に伴侶が居るエギルはマリッジシステムなんて興味はなかったようだが、クラインは事あるごとに彼女が欲しいと呟いていたからどう切り出していいのかわからなかったし、自分ですら《仮想世界》で恋愛はもちろん結婚をする日が来るとは思っていなかったから、なんとなく先延ばしにしてしまった自覚がある。

ただエギルに関しては店の二階にキリトが居候していた時、訪ねてくるアスナと向かい入れるキリトの雰囲気でそうなる可能性には至っていたらしい。

 

「まぁ、俺も息するみたいに『彼女欲しい』って言ってたもんな。報告しづらい空気にしてて悪かったよ」

「ならお互い反省したみたいだし、彼女持ちの桐ヶ谷もいるんだからこれで相談できるだろ?」

 

友人Aが取り成すように友人Bと友人Cのギクシャクした空気を和らげると、もともと恋愛に興味のあるCとDは少し揶揄うようにBへ顔を寄せてきた。

 

「最近付き合い始めたって、この学校の子?」

「どんなきっかけで知り合ったんだよ」

 

相談にのってもらうならいきなりケンカの話をするより、もともと仲の良い三人にはちゃんと話すべきだろう、とBは「この学校の、一つ下の学年」と答えた。

それなら彼女も《旧SAO》の囚人だったプレイヤーというわけだ。

 

「たまたまだけど同じギルドだったんだ。でもいちをギルド内恋愛は禁止だったし、俺もベルもあっちの世界では同じギルドの仲間って認識しかなかったんだけど……」

「ベルってゆーんだ」

「それでこの学校で感動の再会かぁ」

「最初は校内で見た時にびっくりして『戻れてよかったな』って笑い合って、後は校内で偶然会えば『他のギルメンはどこにいるんだろう』なんて挨拶程度の軽い話題ばかりだったんだけど、段々顔を見ないと落ち着かなくなってきて、ベルを探すようになって……自分の気持ちに気付いたというか」

「お前さっきからずっとキャラネームで言うから俺達その子の名前わかんないんだけど」

「あ、ごめん。本名は佐藤さん。佐藤すずさんて言うんだ」

「お前、リアルネームでは何て呼んでんの?」

 

一呼吸分の間を開けてBが言いづらそうに素早く口を動かした。

 

「……佐藤さん」

「呼び方にすごい差があるね」

 

『ベル』から一気にザ、日本人という感じになる。

 

「仕方ないだろ。最初はキャラネームだったからいいけどこっちに戻ってきて本名知ったら、なんか呼び捨てってハードル高いんだよ」

「そういうもんか?、桐ヶ谷」

 

いきなり問われて和人は、うんうん、と頭を上下に振った。

もしもアスナが《現実世界》で全く違う名前だったら、と思うときっと自分も最初は「結城さん」と呼ぶだろうし、そもそもアスナの名前が「アスナ」じゃないなんて違和感が強すぎてそれまで通りに接する事が出来るか自信がなくなってくる。改めてアスナが「明日奈」で本当に良かったとしみじみ感じていると「ちがう、ちがう」と手をひらひらされた。

 

「俺が言いたいのは、なんで名字で呼ぶんだ?、って話」

「そっちか」

「すずちゃん、でよくない?」

「『すず』だからキャラネームが『ベル』なんだな」

「その話題は終わりにしてくれよ。俺だっていつまでも名字で呼ぶ気はないから……近々名前呼びにレベルアップする予定だから」

「頑張れ」

 

この中でダントツの頼りがいを見せている友人Aが目を細ませる。

 

「とりあえず今は呼び慣れてるから『ベル』って言うけど……付き合って初めてベルを怒らせたって言うか。とにかくどうしたらいいかわかんないんだ」

「怒らせたって事はお前が何かやらかしたんだろ?。とっとと謝れよ」

「それで解決しないの?」

「俺としては、こっちが謝るのは違う、って思ってて……だから桐ヶ谷に結城さんが怒る時を聞きたいんだ」

「アスナが怒る時?」

 

怖いほど真剣な友人Bとは逆に和人は「うーん」と軽く唸りながら記憶を巻き戻して様々な場面を思い出し、答えた。

 

「俺がちょっとでも痩せると『ちゃんとご飯食べてるのっ?』って眉間に皺を寄せたり、他には『お洗濯物、ためちゃダメだよ!』って頬を膨らませたり……」

 

和人としては「ごもっとも」な案件ばかりなので、いつも「ごめん、ちゃんとするよ」とすぐに非を認めるのだが、友人Bは真剣を通り越して剣呑なオーラを背後に湧き上がらせ低く呻くように「桐ヶ谷ぁ」とお化け屋敷さながらの声を出す。そこを、まあまあと片手で制した友人Dはもう一方の手を和人の肩に置いた。

 

「うん、言い方が悪かったのかなぁ。桐ヶ谷が結城さんに怒られる時、じゃなくて、桐ヶ谷とケンカして結城さんが怒る時、が聞きたいんだと思うよ」

「オレとアスナが……ケンカ?」

 

それはどこか遠い異国でしか栽培されていない野菜か果物の名前か?、と未知との遭遇をしたかのような和人の顔つきにさすがのDも微妙な笑顔になっている。

 

「もしかして僕の日本語がこの国で通じなくなってるの?」

「大丈夫だ。ちゃんと通じてる。通じてないのは桐ヶ谷だけだ」

「おいおい、この相談事の適任者のはずだろ。しっかりしてくれ」

「そうだぞ。彼女すらいない俺達じゃ、存在しない人間とのケンカ経験なんてストレージの一番奥を探しても出てこないんだからな」

 

そこでこの場に和人の同席を願った友人Bがある推測に辿り着く。

 

「もしかして…結城さんとケンカしたことないのか?……デートでミスった時とか、どっちのせいかって揉めたり……」

「そうか、わかったぞっ。彼女を怒らせたって、ケンカの原因は彼女とのデート中の失敗なんだなっ」

 

自爆に近い形で言い当てられたBが開き直って投げ捨てるように「そうだよっ」と少しだけ顔を赤くした。

 

「ベルが気になっていた店に行ってみたら定休日で、気を取り直して移動した次の目的地は建物自体が改装中で他の場所に移転して営業してるって張り紙してあって、それでベルが怒りだしたんだ。なんで事前に調べておかないのって。でも両方ともベルが行きたいって言った所なんだぜ。下調べならベルがやるべきだろ?、そう思わないか?」

「うん、確かに俺達だけじゃまったく手に負えない相談事だな、とは思った」

「それでどうなんだ桐ヶ谷。そういう経験はあるのか?」

 

頼みの綱とばかりに視線が和人に集中する。けれど和人は気負いもせずに「あるよ」と返してから平然と自分と明日奈の場合を口にした。

 

「オレ達も《現実世界》に戻れたら色んな所に行こう、って言ってたし、実際、ちょくちょく出掛けてるしな。だからそういう場面は何回かある。けどアスナだったら興味のある店が休みの時は『今度また来ようね』って言うし、場所が変わっていれば『行きたい場所が増えたね』って笑うな」

「へぇ、ちょっと意外だ……結城さんってかっちりしてるイメージだから予定が狂うのは嫌がるかと思ってた」

「確かに俺に比べればずっと真面目だけど、どう考えても変えられない状況ならすぐに切り替えて次を考える柔軟さも持ってるさ」

 

そうでなければ、あのデスゲームの最前線で司令塔を務められるわけがない。

だいたい和人と明日奈の《現実世界》でのデートは事前に決めておく目的地は一つくらいで、あとはその場所に行くまでやその周辺を行き当たりばったりで楽しむパターンが多いから偶然見つけた店が定休日でもあまり落胆はないのだ。とりあえず目的地にしてる場所の情報さえ押さえておけばそれ以外はオマケでしかなく、何より二人でいられる事が一番嬉しいのだから。

 

「でもあらかじめ行こうって決めてた場所の定休日くらいは調べておくけどな」

 

そこはちゃんと伝えておかねば、と和人は釘を刺した。

 

「うーん、場所まではちゃんとチェックしておいたんだけどなぁ」

「そりゃあそうでしょ。じゃなきゃ待ち合わせとかどうするの」

「俺達が遊ぶ時は……ああ、だいたいコイツが下調べしておいてくれるんだよな」

 

三人の目が和人の予想通り友人Aを見る。見た目に違わず面倒見の良い気質らしい。

どうやら友人Bが自分の落ち度を認める流れに落ち着くかと思いきや「けどさ」と更なるエピソードを追加したきた。

 

「全然関係ない《旧SAO》時代の話まで持ち出してきて怒るんだぜ」

「《旧SAO》の事?」

「ギルメンの女の子と二人で出掛けた時はちゃんと下調べしてたくせに、ってさ」

「……したのか?」

「そりゃあするだろ。素材探しが目的だったんだから」

「そこじゃなくて、女の子と二人で出掛けたのか?」

「プレイスタイルが似てたんだよ。だから武器のレベル上げに同じ素材が必要だっただけで、普通に探しに行って取って帰ってきただけなのに」

「それでも二人きりだったんでしょ」

「ちょっと待てって。だいたいまだベルと付き合う前の話だし」

「逆じゃないかな。付き合う前なのにお前の行動を見て覚えてるなんて、その頃からお前の事が気になってたんだよ。僕だって片想いの子が他の男と二人で笑いながら学校の廊下を歩いてれば、ごおぉっ、てなるから」

「ごおぉっ、って……なるのか」

 

腕を組んで「俺の試合前のような感じか?」と小さく独り言をこぼしている友人AにすかさずDが頷く。

 

「なるなる」

「それでどうするんだ?」

「二人の間に割り込みたいとこだけど、それはハードルが高いからとりあえず隣に並んで話に割り込むっ。だって短時間でもその子の視界に僕以外の男がずっと映ってるなんて面白くない」

「……じゃあベルもあの時、面白くなかったんだ」

 

実はデスゲームの虜囚だった頃から彼女は自分の事を意識していてくれたのだと知った友人Bの雰囲気が一気に甘酸っぱくなる。「そっか、《あの世界》にいた時から実はお互い……」と照れ笑いをしている反対側には顔を蒼白にしている和人が唇を震わせていた。

 

「あ…あの……異性と二人で素材集めって……ダメ、なのか?」

「どうした?、桐ヶ谷。別にお前と結城さんが二人で行くのはダメじゃないだろ」

「いや……その……アスナと、じゃなくて……」

「え!?、他の子と?」

「だってオレが頼んだ素材だったし、かなり危険な場所だったから……」

「そうだなぁ。頭じゃ理解できるだろうけど感情的には微妙だから……姫にはバレてないんだろ?」

「手に入れて戻って来た所で鉢合わせした」

「わぁ。それって絵に描いたような修羅場だね。彼女すらいない僕にはハイレベルすぎてどう対処していいのかわかんないよ」

「だってもともとその子はアスナの友達だし」

「おいおい、桐ヶ谷。男女関係ドロドロ設定のドラマじゃないんだから。お前ら理想の相思相愛カップルかと思ってたけど、まさか桐ヶ谷が目移りしやすいタイプだったとは」

「はっ?!、なに言って……オレはそんな気ないしっ。アスナ一筋だからなっ」

「それさぁ、もし逆の立場でも納得できる?」

 

逆、と言われて頭の中で想像する……例えばアスナが自分の友人……を想定しようとしても身近に同年代で親友と呼べる顔は出てこないので架空の人物を設定して彼女の隣に立たせてみる。そしてあの時のようにモンスターの巣となっていた洞窟で一晩野宿を強いられる光景が見えてきた所で「ダメだっ」と叫んで自らその想像を打ち砕いた。

 

「絶対にダメだ」

「そん時は姫に怒られなかったのか?」

「オレ達もまだ付き合ってなかったし……」

 

言い訳のようになってしまうのは、だったら二十二層の森の家で新婚生活を送る前ならアスナが同じ事をしても気にしないか?、と自問すると、やはり平然としていられる自信が無いからだ。誤解はされていないと思うが例え話でも拒否反応を起こしてしまう自分と比べればやはり明日奈の器の大きさに甘えていた部分があると認識した和人が「はぁぁっ」と深い溜め息をついている頃、その明日奈もまた女子の打ち明け話に耳を傾けていた。

 

「もうっ、頭にきゃって。それでビィ君置いて一人で帰ってきたんです」

「……うちの妹に彼氏くんがいるだけでもお姉ちゃんビックリなのに、デート先で相手を放置って……これ、どうすればいいの?、結城ちゃん」

「うーん、そうねぇ……」

 

明日奈が和人と下校する為に教室を出ようとした所で呼び止めた隣のクラスの女子がほとほと困った顔で明日奈と妹を交互に見ている。

《旧SAO》がそうであったようにこの帰還者学校でも男女比にはかなりの偏りがあるためクラスに関係なく女子生徒の顔はほぼ全員把握している明日奈だ。クラスが隣なら体育などの合同授業で一緒の時間も多く「ちゃん」付けで呼ばれる仲である。

 

「それにしても妹さんもこの学校に通ってたんだね」

 

顔に見覚えはあるがさすがに姉妹関係とは知らなかった明日奈が自分より小柄な下級生に笑いかけると、途端に顔を真っ赤にした少女は両手で両頬を押さえて「やったぁっ」と叫んだ。

 

「こんなに近くで姫先輩を拝めるなんて、ダメもとでお姉ちゃんに頼んでよかったー」

「ダメもとだったの?……なんかゴメンね。私じゃ恋愛相談なんて無理だし、妹が結城ちゃんに相談したいっ、て大騒ぎして」

「だって姫先輩なら恋愛経験豊富そうだもんっ」

「ふぇっ?!……べっ、別にっ…そんなに豊富じゃないけど……」

 

期待に満ちた目を向けられた明日奈はオロオロと手を振って否定するが、謙遜と取られたのか妹の方はムフフと笑う。

 

「だって昼休みの中庭はもちろん、校内のあっちこっちでも目撃されますよ、姫先輩と桐ヶ谷先輩が仲良くしてるところ。言い争ったりしないんですか?」

「そうそう、本題はそれだから。わざわざ引き留めたんだし、ちゃんと相談して」

「はーい。ごめんなさい姫先輩。改めて私、ビィ君ていう彼氏がいて……彼氏になったばっかですけど」

「ビィ君は……えっと、あだ名か何か?、あっ、外国の人?」

「いえいえ《旧SAO》で同じギルドだった人ですっ」

「あっ、キャラネームなのね」

 

未だに「キリト」呼びが普通の明日奈は実感を持って頷いた。

 

「本当は『B.B.B』ってBが三つなんですけど、皆面倒くさがって『ビィ』って呼んで……私は『ビィ君』って呼んでたんです。その人とこの学校で偶然再会して……まぁ、今は付き合ってます」

「えっ、この学校なの?、それすらお姉ちゃん聞いてないよ」

 

ちょっとのんびりした感じの姉が泣きそうな顔になっている。

 

「だってそうなったの最近だもん。そのうち言おうと思ってたよ」

 

どうもこの姉妹はおっとり系の姉にちゃきちゃき系の妹という組み合わせらしい。それでも仲の良さを感じさせる様子を微笑ましく思いながら「それで何があったの?」と明日奈は話の続きを促した。

 

「聞いてくださいっ。この前のデートで行った先がお休みだったんですっ。定休日ですよっ、定休日。お店の前で二人並んでまっ暗な店内を見つめて唖然としちゃいました。それでもまぁ気を取り直して次のお店に行ったら今度はビルごと改装工事中で目当てのお店は他の場所に移ってたんです。さすがにもう我慢出来なくってビィ君に怒ってそのままケンカ別れって言うのかな?……そんな感じになっちゃったんですけど……どうしたらいいと思います?、姫先輩」

「とりあえず折角のデートでそれは残念だったね」

「でしょでしょっ。私、ネットで見てすっごく行きたかったお店だったのにっ」

 

その時のやるせなさが蘇ってきたのか妹は興奮気味に鼻息を荒くして明日奈に迫ってくる。けれど事情を聞いた姉は拍子抜けしたように「どうして?」とのんびり声と表情で妹を見た。

 

「なんでそんなに怒るの?、なら今度、私と一緒に行く?」

 

妹を思いやる気持ちは純粋に真っ直ぐで、だからこそ妹は「うぐっ」と声を詰まらせて勢いをなくし、助けを請うように明日奈に視線を移す。その反応だけで全てを察した明日奈がニコニコと笑顔のまま「楽しみにしてたんでしょう?」と慰めの言葉を書ければ、妹は素直に一回だけ頭を上下させた。しかし姉の方はいつもそうしているのだろう、妹の願いを叶えようと言葉を続ける。

 

「どこにあるお店?、今度の週末ならお姉ちゃん空いてるけど」

「そうじゃないのよ。妹さんは、彼氏さんの『ビィ君』と一緒に行きたかったの……だよね?」

「うん。定休日だったお店も移転してたお店も、どっちもビィ君と行けるって数日前から楽しみにしてたの。それに両方とも前に私が『行ってみたい』って言ったの覚えててくれて、誘われた時、すごく嬉しかったのに、私が行きたいお店なんだからそういう情報は私が調べておくべきだって言われて、なんかもう……」

「いっぱいいっぱいになっちゃったのかな」

「ついイライラして《旧SAO》の時の事まで文句言っちゃった……どうしよう、姫先輩」

 

見つめ合う二人の間で鳩が豆鉄砲を食ったように、きょとんとした姉はゆっくりと首を傾けて「え?」と言った。

 

「なに?、どういうこと?……ケンカしたんじゃなかったの?」

「大丈夫よ、佐藤さん。妹さんが今の気持ちを全部ビィ君に伝えればわかってくれると思うから」

 

ふわふわと優しく、それでも確信を持った明日奈の笑顔に勇気を貰ったのか相談者の佐藤すずも徐々に元気を取り戻していく。

 

「一緒に行けるの、すっごく楽しみにしてたの、って言ったら、仲直りしてくれるかな」

「頑張って」

 

力強く頷く明日奈の隣で姉もならば、と両手をグーにして同意を示していた。

 

「それでも何かブーブー言うなら、お姉ちゃんが叱ってあげるっ」

「もうっ、お姉ちゃんたら。そういうのはやめてって」

「今度から目的地のお店の情報とか、二人で一緒にチェックしたらどうかな?。それとは別に事前に何も決めないで行ってみるのも楽しいよ」

「へえぇ…姫先輩と桐ヶ谷先輩のデートってそんな感じなんだぁ」

「あっ…別にっ、そういうつもりじゃ……うん、でも脇道とか見つけるの得意な人だから……」

 

ふふっ、と何かを思い出して笑う明日奈はとても綺麗で、思わず見惚れていた佐藤姉妹だったが、ハッと我に返ったのは妹だ。

 

「私、ビィ君に電話してみる。もしかしたらまだ学校にいるかもっ」

 

いつもの陽気な妹に戻ったのを見て姉も「ありがとう、結城ちゃん」とほっとした様子になった。

 

「私だったら、定休日調べる人決めておけば?、なんて言ってたよ」

「それだって間違ってないと思うよ。でもまた他の事で言い合いになると思うの……きっと、まだ二人だけで過ごす時間に慣れてなくて、それで色々頑張っちゃうし、思っていたのと違うと二人とも慌てちゃうのね」

「なるほどねぇ。結城ちゃんと桐ヶ谷君は二人でいる時、いつも自然体だもんね」

「そ、そう、かな?」

 

互いに隣に居るのが当たり前の存在だから、逆にふとした瞬間、近くにパートナーがいないと自分の一部が欠損しているような気持ちになる。

 

「ビィ君いましたっ。一緒に帰れるって。お姉ちゃんも来て。紹介するから」

 

携帯端末を鞄にしまいながらの弾んだ声と笑顔から、今の通話だけでも二人の関係が修復に向かおうとしているのは間違いなかった。そんな妹をちょっと嬉しそうに見つつ姉はわざと「えぇー」とやる気のない声で応える。

 

「それって、完全に私、邪魔者ー」

「そんなことないから平気平気。それにビィ君がブーブー言ったら一緒にぶん殴ってくれるんでしょ?」

「……ぶん殴る、は言ってないよ」

「姫先輩っ、ありがとうございました。あのデートの時自分がなんであんなに腹が立ったのか、姫先輩のお陰でちゃんとわかってよかった。あっ、今度姫先輩にもビィ君紹介しますね。桐ヶ谷先輩と同じクラスなんですよ」

「えっ?、そうなの?」

 

和人のクラスには何回か訪れた事があるから男子生徒も顔だけなら覚えている。さすがにキャラネームまではわからないが、和人は知っているかもしれない。

もう一度「ありがとうございました」と言う彼女に向けて明日奈が「気にしないで」と自分の経験を口にする。

 

「好きな人に対してだと怒りたくないのに怒っちゃったり、怒りたいのに怒れなかったり、自分でも戸惑う感情は当たり前だから」

「うわぁ、やっぱり姫先輩って経験豊富っ」

 

なにやら盛大に感動したままの妹は「それじゃ私達は失礼しますっ。ほらっ、お姉ちゃんっ、昇降口でビィ君待ってるって」と気乗りのしていない姉の手をグイグイと引っ張り、その姉は仕方なさそうにしながらも明日奈に向けては「ありがとねぇ」と笑顔を送り、二人は去って行った。

自分も《あの世界》でキリトと行動を共にするようになった最初の頃は恥ずかしさの裏返しで随分プンプンした態度を取っていたと振り返った明日奈は、無性に和人に会いたくなって素早く端末を操作したのだった。

 

 

 

 

 

友人Bの話は既に相談事ではなく《旧SAO》時代からいかにベルが可愛かったか、というのろけ話になっていて、それを真面目に聞いているのは友人Aだけになっている。

 

「隣にいるだけでフワァってテンション上がってドキドキして落ち着かないんだけど全然嫌じゃなくて、同時にワクワクするって言うか気合いが入るみたいな感じでさ」

「大会会場にいる時みたいなんだな」

「思ってる事ははっきりポンポン言ってくるんだけど、時々迷ったり困ったりした時に相談してくる口調がいきなり年下感が出て俺がなんとかしてやらなきゃって思うんだよなぁ」

「ツンデレってやつだね」

「女子の必殺技だな」

「そんなに凄い技なのか?」

「見ればわかるだろ。完全に佐藤すずちゃんの技が決まった状態が今のコイツだ」

「よくわからないが、習得は難しいんだろうな」

「お前が『ツンデレ男子』目指すとは思わなかった。けど諦めろ。これは元来の性格みたいなもんだから」

 

噛み合っていないようで絶妙に噛み合っているらしい三人の会話の外で和人がそろそろ明日奈の方の相談事は終わっただろうか?、と時間を確認する。

結局友人Bが聞きたいのは仲直りの方法なのか、ケンカをしない秘策なのか、自分の正当性を認めさせる説得話術なのか、と思い悩んだ和人だったが、どれに対しても自分は答えを持っていないし、そもそも彼の様子から察するに既に問題は解決しているようだ。

 

「…あのさ、もうオレ……」

 

抜けてもいいか?、と尋ねようとしたタイミングでBの端末から着信メロディーが流れ始め、弾かれたように「ベルからだっ」と喜色をあらわにする。

嬉しそうに会話をしている横では友人A、C、Dが恋愛について語り合っていた。

 

「僕みたいに気になる子がいるとか、こいつみたいにとにかく彼女が欲しいってゆうのは?」

「ないな。今は全国に行きたい、それだけだ」

「そんなら無理に恋愛しなきゃ、って思う必要ないだろ。したい、と思って出来るもんでもないしな」

「あ、いいこと言うね」

「だろ?、あんまり悩まない方がいいぜ。しちゃダメだ、って思ってても、する時はするし」

「そうなのか……おっと、俺も稽古の時間が……まずいっ、遅刻だ」

 

時計を見た友人Aが勢いよく立ち上がる。

ほぼ同時に通話を終えたBがにやけ顔で「ベルと一緒に帰る事になったから、お前ら今日はありがとなー」と続いて立ち上がった。

はっ?!、と一瞬呆けた和人にも顔だけ振り返ったBが「桐ヶ谷も引き留めて悪かったな。結城さんによろしく」と手を振る。

結局なんだったんだ、と眉間に皺を作った和人だったが、自分の端末から明日奈の着信音が聞こえてくれば機嫌はあっと言う間に平常値に戻った。すぐに通話を開始すると、どうやら品行方正な彼女にしては珍しく移動しながら話しているらしい。用件が済んだので和人のいる場所を教えて欲しいと伝えながらも歩みに合わせて少しだけ声が跳ねている。

何をそんなに急いでるんだ?、オレに会うため?、と思えばそれだけで口元が緩んで、視界の端で友人Aが先に教室を出る申し訳なさに縦にした手の形で表している謝罪さえ余裕の笑みで片手を上げて応えられる。

こっちもすぐに帰れる旨と今居る教室を告げた和人だったが、早く合流したくて明日奈の到着を待たずに残っている二人に「オレも帰るよ」と鞄を手に取れば、にこやかに「お疲れっ」「片付けはやっとくから、姫を大事にしろよ」と大きなお世話をほざかれた。

急いで教室を出た和人だったが、さっきまで頭の中をグルグルと回っていた考えがもうすぐ明日奈に会えると思うと再びループを始める。

あのデスゲームから生還できた後、アスナには今度こそ《仮想世界》の純粋な楽しさを味わって欲しいと思っていたのに、自分が次から次へと関わりを持っていくのは殆どが女性で、それなのに明日奈が笑顔で受け入れてくれるから、今《仮想世界》で遊んでいるメンバーはリズ以外、キリトがきっかけで知り合った友達ばかりだ。もしも自分の周りに同世代の男子が複数人いるとして、彼らが全員アスナを介して出会ったとしたら果たして自分は友人と呼べる関係性を築けるだろうか?、と自問する前に、アスナから男性を紹介されるという時点で「無理だな」と結論が出る。

今更自分の身勝手さに少々ヘコんでいると、気付けば足が重くなっていたのか、急ぎ足はいつの間にか普通の足取りになっていた。

しかし廊下の角の向こうから「きゃっ」と澄んだ驚きの声と一緒に「おっと」という低い声が同時に耳に飛び込んでくれば、歩速は一気に最高速へと切り替わる。

角まで全速力で走り、急制動。上履きの底と廊下が擦り合って耳障りな高音が鳴き声のように響く。

そして目に飛び込んできた光景は、下階から階段を駆け上がってきたらしく呼吸と同期して肩が揺れている明日奈を正面から両手で受けとめている友人Aの姿だった。

雷に打たれたような衝撃、とは正にこのことだろう。

全身が痛いくらい痺れて指先を動かすどころか瞬きすら出来ず、目の前の二人の姿には頭が理解を拒絶して、これが他の人間なら容易に何が起きているのか推測できるのに完全なる思考停止の結果まるで現実感がない。それでも耳が捉えてしまった友人Aの無意識にこぼれ落ちたと思われる小さな呟きが和人を瞬時に覚醒させた。

 

「軽い…細いし…けどやわらかい、それに……」

「えっ?」

 

ぶつかってしまった時に咄嗟に両腕を支えてくれた大柄な男子生徒のボソボソ声に、顔を上げて聞き返そうとした明日奈だったが、いきなり違う腕が伸びてきて攫うように抱きしめられ視界を遮られてしまったので、ほんの一瞬見えたのは、和人と同じクラスの男子生徒の呆然とした真っ赤な顔だけだった。

為す術もなく頭まですっぽり包み込まれてしまったが、それでもすぐそばから少し硬い和人の声が聞こえる。

 

「助かった。お前とアスナがぶつかったら、確実にアスナの方が力負けするし」

「う゛、ごめんなさいっ、よく見ずに突進しちゃって」

 

どう考えても悪いのは自分だと和人の胸に顔を押し付けられたまま、くぐもった声で謝る明日奈に友人Aも視線を彼女に固定したまま、ついさっきまでその腕を掴んでいた両手の開閉を繰り返していた。

 

「いや、俺も、電話をして、それで話し終わって、携帯をしまった直後で、だから、前方不注意だった、んで、その……な、なんで……まともに、喋れない、んだ?」

 

自覚させたくなくて和人がうそぶく。

 

「急いでるからだろ?、早く行った方がいいんじゃないか?」

「そうかっ……そうだな。遅れる連絡はしたが……じゃあ桐ヶ谷、また明日。結城さんもケガがなくてよかった」

「あのっ、ありがとうっ」

 

無理矢理首を捻ってお礼を告げた明日奈が見たのは手を振りながら階段を軽快に下りていくAの後ろ姿だった。

 

「どうしたの?、キリトくん。いきなり……」

 

ぶつかってしまったのを助けてくれたのに、ちょっと失礼な態度ではなかっただろうか?、と怪しむ明日奈に和人は平然と「条件反射だった」と全く理由には聞こえない返事をする。

和人だって親しい級友に対する態度ではなかったと思うが、あの時は本当に何も考えられず本能のままに行動した結果なのだから仕方ない。

 

「今の人、同じクラスのお友達よね?…名前は知らないけど」

「エーだよ」

「エー?」

「ああ、友人Aって認識で十分。アスナが名前を覚える必要はないから」

「ビィ…じゃなくて?…《SAO》でのキャラネームから『B』って呼ばれてる人じゃない?」

「キャラネームまでは知らないなぁ」

「そーなんだ。じゃあ違う人なのかな」

 

自分の腕の中にいるのに明日奈が他の男の事を考えているだけで胸の中がモヤモヤして、彼女の腰をホールドしている両手に力が籠もる。

 

「キリトくん?」

「アスナ…オレがオレらしくいられるのはアスナがいてくれるからだ。でも、アスナが一方的に我慢するのは違うのもわかってる……」

「なんの話?」

「だからさ、オレ達、ケンカらしいケンカってしてないだろ?」

「えっ!?、キリトくんもケンカの話なの?」

 

なんだか今日はケンカで悩んでいる人が多い日なのかしら?、とキリトに抱きしめられながらちょっとだけ首を傾げたアスナだったが、確かにキリトとは些細なことで言い合ってもだいたいすぐにどちらかが根負けするか意見を譲るかして解決してしまうので記憶に残るほどの大喧嘩は思い当たらない。

 

「だからアスナはイライラしたりモヤモヤしても我慢してくれてるのかなって思ったんだ」

 

その言葉で何を指しての事なのかがだいたいわかった明日奈の笑顔に微量の苦味が混ざる。

 

「でも困ってる女の子を助けてあげないキリトくんはキリトくんじゃないと思うし」

 

困るのは助けてあげた子のほとんどがキリトに好意を抱いてしまう事と、明日奈自身もその子に好意を持ってしまう事だ。

 

「なにより私もキリトくんに助けてもらった一人だしね」

 

もし他の誰かが自分よりも先にキリトに助けられていたら二人の関係は今とは違っていて、キリトの隣にいるのも自分ではなかったかもしれない、と想像すると、血の気が引いて氷像にでもなったように体が冷たくなる。けれどそれはすぐさま和人の「アスナは違うよ」という否定で温度を取り戻した。

 

「アスナは困ってなんかいなかっただろ。どっちかって言うと声を掛けたオレを邪魔者みたいに睨み付けたじゃないか」

 

けれど結局救われたのだ。そしてキリトに恋をした。他の女の子達と同じように……。

 

「多分アスナじゃなかったらオレはそのまま気付かれないようにあの場を去ったと思う。必要もないのに自ら初対面のプレイヤーに声を掛けるなんて初めてだったんだ。だからアスナは他のプレイヤーとは違うよ」

「キリトくん……」

「それにオレがアスナを守るのはもちろんだけど、守ってもらうなら他の誰でもない……アスナがいい」

 

嬉しさが言葉ではなく、和人の背中に回された細い腕から伝わってくる。

和人にとって目指す自分とは明日奈を守れる力を持つ男であり、明日奈に守られる価値のある男である、という事だ。まだまだ理想にはほど遠い自分だが、それだって明日奈が一緒にいてくれれば一歩ずつ近づいていける気がする。

それに今日は友人A、B、C、Dのお陰で気付いた事があったんだ、と思い出した和人が彼女の耳元に唇を寄せた。

 

「だから《現実世界》でも《仮想世界》でもオレにとって唯一の名前が《アスナ》なんだ」

 

対人スキルは底辺だと自負している和人だ、《旧SAO》でアスナと約束したとおり生還した彼女と再会を果たした時、リアルネームが全く違っていたら気持ちは本物でもどこかに戸惑いや遠慮が出ただろう意図が隠れているとは露ほども思っていない明日奈がゆっくりと瞼を閉じる。《あの世界》で結ばれてからどの世界にいても同じ名を呼び触れてきた和人がそっと静かにその唇を塞いだ。




お読みいただき、有り難うございました。
裏テーマは「芽生えそうになった友人Aの恋心を和人が
なかったことにする(笑)」です。


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名もなき男子高校生の非常識な日常

帰還者学校に通っている一般の生徒が日常の中でうっかりあの二人に関わると……。


「中庭の君」……この学校に通うようになってから、そう呼ばれている一人の女生徒がいる。

ただし非公認だ。

しかも呼んでいるのは僕だけ、それも心の中の小さな声で。

当人に向かって「中庭の君ーっ」と呼びかけるほど僕だって周りが見えていないわけじゃない。

本当に胸の内だけだし……それだけだってイタイ自覚はある……イタイよりアブナイって?

……ほっといて欲しい。

でも彼女に限っては似た感じの呼び名があって、そっちは校内で広く認知されているし、口にするのもあまり抵抗がないからあの呼び名を考えた奴、結構センスいいな、と思う……得意科目、現代文かな?

話がそれたね……「中庭の君」は僕よりいっこ上のクラスの生徒だ。

そして今通っている、いわゆる公立高等学校に類似したこの学校に入学した当初、僕はあまりの男女の人数比の偏りに目眩を覚えた。

予想はしていたさ、それまでいた場所でも圧倒的に男が多かったから、きっとここでも女子は少ないんたろうな、って。

けど、これはない……男子校にうっかり女子が入学してしまったレベルの稀少さで……うっかり、でそんな状況はあり得ないだろうけど、要するにそれ位あり得ない状況に僕は入学式当日、何度も自分の目を擦った。

だけど目を擦ったくらいでは女子は増えなかった。

僕だってわかってる……男女比に文句を言える立場じゃない事を。

政府の監視付きとは言え公の教育機関に無試験で通学できる事に感謝しなくちゃいけない事を。

ただ悲しいかな、男子という生き物の多くは自分のモチベーションの一つに異性という存在が大きく関わっているんだ。

あ、それは女子も同じか……。

だからそんな僕が入学して五日後の昼休み、偶然学校の中庭で彼女を見つけてテンションが爆上がりしたのは当然の結果だよね。

だから「中庭の君」ってなった……ちなみに苦手科目は現代文。

そして僕は今日も中庭のデカイ石の裏に潜みこっそりと彼女を眺めている。

クラスメイト達は同じ境遇にいた者同士のせいか、わりとすぐに気の合いそうな男子数人と仲良くなれて、そいつらからは「不毛だ」とか「アブナイやっちゃなー」とか言われたけど、この世の中には意外と不毛でアブナイやっちゃが多いんだ。

現に今もほら、僕の他にもあっちの柱の陰や校舎の壁の向こうから「中庭の君」を眺めている男子達がいる……あ、違った、壁の向こうにいるのは中等部の女子達だ。それに二階の教室の窓からも、カフェテリアからも視線が降ってきている。

別に隙を覗って襲おう、とか物騒な事を考えているわけじゃない。

声を掛ける勇気もない。

週に二、三回、昼休みの中庭に佇んでいる「中庭の君」を昼食時間を削ってでも見られれば、なんとなく「良いことあった」って気になれるんだ。大げさに言えば人生のちょっとしたお楽しみってやつだ。

憧れの有名人、大好きな芸能人、会いに行けるアイドル……「中庭の君」はそんな存在で、だったらもっと大勢の生徒達が注目しても不思議じゃなって?……確かに学校生活が始まった四月当初はかなりの人数が遠巻きに集まっていた。けれど「中庭の君」を盗み見る生徒達は日を追う毎に少なくなっていったんだ。

理由は明白、僕も自覚してるくらい不毛だから。

だってこの時間はほんの数分間しか続かない。

その数分間の為に授業が終わるやいなや教室を飛び出し、狙っていた場所を確保して空腹を堪えながら「中庭の君」がやって来るのを待つんだ。

「中庭の君」がやって来る日が確実に分かっているわけでもなく、来るはずの日でも、しばらく待ってみてすごすご教室に戻る日もあって、かなり空しい気分になるし、僕がいつもより早く戻ると教室にいる奴らに何とも言えない目で見られる。

それでもこうやって中庭の端っこにやって来てしまう自分が、僕は案外嫌いじゃない。そして同じようにキラキラと輝く視線を「中庭の君」に送っている他の同士達も、なんとなくだけど親近感さえわいてくるのだ。

けど、まぁ、褒められた行為じゃないから、間違っても「ご一緒しませんか?」なんて交流は生まれない。そこは暗黙の了解と言うか、各々極力気配は消してただ静かに彼女を見守る事を第一とするのが信念だ。

少なくとも僕は他者にかかずらってほんの一時しか与えられない至福の時間を削られるなら一匹オオカミの道を選ぶだろう。

だから僕は今日も指定席となりつつある大きな庭石の後ろから、一人でそっと彼女の横顔を窺う。

……よかった、先週は雨続きで中庭が利用出来なかったから実に十日ぶりに見る「中庭の君」だ。

彼女も同じ思いを抱いてくれているのか、細い足を真っ直ぐに伸ばして踵だけを地面に着け、ネコが伸びをするように、うんっ、と背筋も伸ばして中庭からの空を嬉しそうに見上げている。

白い首筋から突き出した顎までの華奢なラインは彼女の清らかさ示し、さらり、と背中に流れ落ちた長い栗色の髪は真上にある太陽からの光を浴びて輝き、神々しささえ感じられるほどだ。

 

「綺麗だなぁ」

 

思わず心の声が口の端から涎みたいに、たらり、と垂れる。

けど漏らす気もなかった独り言に、ふいに後ろから「そうだな」と同意の声がした。

驚きはしない……これまでにも数回、同じように「中庭の君」をこっそり盗眺している同士からこうやって声を掛けられたことがあるからだ。

だがあえてもう一度だけ言おう、僕は一匹オオカミの道を選ぶ者として他者と生ぬるい関わりを持つ気はない。同好の士を求めるのであればファンクラブに入ればいいんだから。

いつもならそんな声に振り返ることなく自分の存在も相手の存在もなかったことにしてしまうんだけど、なぜか「そうだな」って聞こえた声が上っ面だけじゃない、本当に心の底から同意してるんだって言うのが伝わってきて、僕は視線は固定したまま、つい自分が感じた「中庭の君」について声に出して言葉を紡いでいた。

 

「全体の印象は綺麗だけど、ふっくらとした頬や大きな瞳はどっちかって言うと可愛い、って感じなんだ」

「よく観てるな」

 

最高の褒め言葉だね。

だって彼女が一人でいるところなんて滅多にお目にかかれない。この時間だって多分あと数分しかないだろう。

なぜなら彼女がこの場所にいる理由が待ち合わせだから。

彼女はいつも先にこの中庭にやって来て二人分の昼食がはいっているトートバッグを膝の上に乗せたまま、足を交互に動かしたり、近くの花壇を眺めたり、そわそわと指を絡めながら考え事をしたり、のんびりと欠伸を噛み殺した後、しまったっと言うように急いで周囲を見回したり、人待ち顔でさえその日によって表情の違う彼女はとても魅力的でこの時間がずっと続けばいいと願ってしまう。

ハッキリ言ってこんな素敵な「中庭の君」を毎回待たせるなんてどういう事なんだろう?、と苛立ちを感じないわけじゃないけど、そのお陰で僕は彼女を眺める事が出来るんだから複雑と言えば複雑で、でも僕が知っている限り、待ちぼうけになった日はないから……うん、大事にされてるんだろうな。

そんなの「中庭の君」の待ち人が来た時に見せる特別な笑顔たけでもわかりきってて、なのに当たり前ながらそれを正面から見られる待ち合わせの相手には毎回八つ当たり気味に「いつまで待たせるんだよっ」と、やっぱり心の中で文句を言う。

そして待ち人が到着してしまえば、僕はそっと静かにこの場から離れ、自分の教室へ戻って「お勤めご苦労さん」とか「時間ないぞー、早く食えー」と友達に言われながら昼食を口に詰め込むんだ。間違ってもこの場に留まったりはしない。

そんな事をしたら昼食を食べる気力はもちろん、午後の授業を受ける気力まで全て根こそぎ持って行かれるからね。

 

「入学当初に比べれば身体の動きとか滑らかになったし、どんな表情もぎこちなさが取れたから良かった」

 

彼女はリハビリが完了してないのに入学したから、最初は体育の授業も見学だったんだ。そんなもどかしさや己のふがいなさのせいか足元を見つめる瞳には硬質の色があった。それでも待ち人の姿を見つけた時は今と変わらず花が咲いたような笑顔になっていたけど……。

 

「やっぱりあの笑顔…最高」

「ああ」

 

妙に実感の籠もった声。

一度でもあの笑顔を正面で見られたらこんな不毛な行為を終わりにできるのに、そんな奇跡は絶対に起きないとわかっているから今日もこうして庭石にへばりついて盗み見をしているわけなんだよね。もしあの特別な笑顔を……

 

「僕に向けてくれたらなぁ。思い残すことはないんだけどなぁ」

「んな大げさな……でも、もしその願いが叶ったら?」

「心の記憶媒体に永久保存して……それから、それからぁ……」

「こんなふうに物陰から覗くの、やめられるか?」

「……うん、そっか……」

 

もう一度あのデスゲームに閉じ込められる確率以上にそんな奇跡はありえないってわかっているから、僕は冗談を言うみたいに弱々しく笑った

 

「そうだね、こんな馬鹿な真似は卒業するのになぁ」

「その言葉、忘れるなよ」

 

どういう意味?、と振り返る間もなく背後の男子生徒が僕の両肩を掴んで立ち上がらせる。

ちょっと待ってっ、確かにひょっこり顔を出せば「中庭の君」はこっちを見るかもしれないけどさ、僕が見たいのは彼女の笑顔なんだよっ、これじゃあ不審者を見る目で見られるじゃないかっ……僕が不審者認定されるっ

自分の行為を棚に上げてなんとか拘束から逃れようと身体を捩ろうとした時、うっかり見てしまった彼女の顔は……

最上級の笑顔だった。

うそ、え?……うほぉぉぉっっっ!!!

疑問と戸惑いなんて心の奥底から湧き上がってきた噴火みたいなテンションで一瞬にして遙か彼方へ吹きとはされる。

でも僕に顔を向けている彼女はそんなドストレートな感情表現が失態だったとでも言いたげに、ハッと我に返ると唇を尖らせてぷいっと横を向く。今のは違うんだからっ、ってちょっと不機嫌さを装っているのに頬がピンク色なの、なにあれ、僕の心臓を止める気なのかな?

ドキドキとグルグルとバクバクで収拾が付かなくなって大変なのに、いつの間にか自由になっていた僕の後ろから「じゃ、そういう事で」と少し浮かれた声がして、ポンッと肩を叩かれる。横を通り過ぎるそいつを見て僕は目を瞠った。

……桐ヶ谷和人

僕の隣のクラスで僕が勝手に一番苦手といている相手……そして「中庭の君」が待ちわびていた相手、桐ヶ谷和人。

細めの骨格にどちらかと言えば薄い肌の色。決して筋肉自慢が出来るような体型じゃないのに僕を拘束していた握力、腕力は頼れる男のもので、前髪に隠れているから分かりづらいけど実は顔の造作も悪くない。

昼休みにコイツがここに登場してしまうと「中庭の君」は中庭にいる事すら忘れてるんじゃない?、と疑うくらいコイツしか見なくなっちゃうから、僕はすぐに退散するのに、なんで僕に声なんかかけてきたんだよっ、と恨みがましい目で見ていたら、僕を置いてさっさと「中庭の君」の元へ歩き出した桐ヶ谷が、ひょいと振り返った。

 

「これで思い残すこと、ないんだよな?」

 

ニヤリと笑う顔すら憎たらしい。

ああ、そういう事ね。

こんな庭石の影から覗いている臆病な視線すら彼女に届くのは我慢出来ないんだ。彼女の視界にはお前しか映ってないのに。

どうもはめられた気はするけど「中庭の君」の特別な笑顔を正面に受けられたら盗み見をやめると言い出したのは僕だし。

僕はしてやられた悔しさに唇を噛み両手を強く握りしめる。

「中庭の君」の視線は桐ヶ谷が移動したからすっかり僕から外れていて、僕はそれをちらりと確かめてからイーッと歯をむき出してヤツを睨み付け脱兎の如く校内に猛ダッシュしたから、ポカンとしたまま僕の後ろ姿を見送っている桐ヶ谷がその後「中庭の君」とどんな会話をしたのかを知ることはなかった。

 

 

 

 

 

「また君はそうやって……こっそり見ないでよう」

 

中庭で明日奈と一緒に彼女の手作り弁当を食べるようになってから何度言われたかわからないお小言と言うほどのものでもない言葉を和人は今日も苦笑いで「わるい」と受け流す。

 

「虫が気になったから追い払ってたんだ」

「虫?、うん、暖かくなってきたもんね」

「いや、春の入学時期から比べると随分減ったんだけどな。まだしつこいのが少し残っているから」

「……一体どんな虫なの?」

「まあまあ…アスナだって言ってただろ?、夏場に刺されると赤くなってなかなか痕が消えないって」

「そうだけど……」

「あ、ほら、ここ、赤くなってるぞ」

「こっ…ここはキリトくんがっ……わかってて言ってるでしょっ」

 

そんな二人の甘い会話が聞こえる範囲にはもう誰もいなくて、心置きなく明日奈の手に触れたり軽口を言い合える環境に和人が満足げな笑みを浮かべてから約一ヶ月後…………

 

 

 

 

 

僕は保健室のベッドの上で横になったまま額に手の甲を当てて「はぁっ」と溜め息をついた。

完全に《現実世界》を、日本の梅雨をナメてた、って言うか忘れてた……なにこの湿気、蒸し風呂と変わんない。

《仮想世界》に意識を閉じ込められていた間、思い出としては風が強い日も雨の降る日も、ついでに雪が舞う日もあったけど、気象状況が体調に影響を与える事がなかったせいで二年ぶりの高温多湿に心と身体はいとも簡単に白旗を揚げた。

更にこんな日に「天気良いから自然観察すっぞー」とか言って校舎から連れ出す教師の教育理念もどうかしてる。僕達が光合成をするとでも思ってんのかな?

炎天下で見事にぶっ倒れた僕はクラスの男子二人に両脇を抱えられ、地球人に捕まった宇宙人みたいに否応なく保健室に運び込まれた。

養護教諭のおばさん先生は僕の症状を診て「立派な熱中症ね」と言ってベッドに座らせた後、付いて来てくれた生徒を授業に戻してからスポドリやら保冷枕を持って来てくれて「眠れるようなら昼まで休んでいきなさい」とカーテンを閉めた。それから割とスグに寝入ってしまったんだろう。

昨晩、ちょっと夜更かししちゃったし、それで寝坊して朝は牛乳しか飲んでこなかった。おまけに身体はこの気候に慣れてない。熱中症になる要因は十分だ。

夜更かしした分の睡眠を取り戻し、ついでに体調も持ち直した気がする。保健室内は何の物音もしないから、保健医も留守にしているっぽい。時間を確認したらちょうど昼休みに入った頃だから、僕を置いてきぼりにしてお昼ご飯食べに行ったとか?

目も覚めたし、気分もすっきりしたし、ちょうどお腹も空いてきたからカフェテリア行きたいんだよね……勝手に保健室からいなくなったらダメかな?、と起き上がろうか、どうしようか思案していた時、いきなりバンッ、と開いた保健室のドアの勢いに思わず身を縮込ませる。

 

「っ……なんで誰もいないんだっ」

 

ベッドを仕切っているカーテンの向こうから響いためちゃくちゃ苛立ってる低い声……あれ?、聞き覚えがある……気がする。

でもやっぱり今の保健室、誰もいないんだ……正確にはここに僕がいるけど多分居て欲しかったのは養護教諭のおばさん先生だろうし、なんか殺気立ってて「僕がいるよー」なんてカーテンごしに声を飛ばせる雰囲気じゃない。

病人かな?、ケガ人かな?、どっちにしても僕が出て行ったところで役に立つとは思えないけど……それでもすっかり復調しているのに息を潜めているのは躊躇われて、なにか手伝える事があるか確認して、ついでに自分の存在を知らせようと決意した時、保健室に入ってきた男子生徒が口にした名前で僕は固まった。

 

「とりあえずそこのベッドに座って、アスナ」

 

「中庭の君」ーっ!

中庭での覗き見をやめて一ヶ月近く経つけど、未だに僕の中で彼女の呼び名は「中庭の君」のままだ。それと同時にわかった男子生徒の正体……またお前か、桐ヶ谷和人。

どうやら無意識にアイツの声は忘れようとしていたみたいで、だからすぐには気付かなかったけど、わかってしまうともう絶対アイツだと確信できる。

保健室に並んでいる三台のベッドのうち、僕が使っているのは一番窓際のベッド。多分「中庭の君」は一番廊下側のベッドに腰掛けたんだろう、出入り口のドアからも一番近いしね。微かに「ふぅっ」と息を吐くのがわかる。

その吐息だけで拾った僕の耳は熱を持った。

でもその余韻を打ち消すように、いきなり近くから聞こえるアイツの声。

 

「『用事があれば内線119へ』って……養護教諭の端末ナンバーか」

 

おばさん先生の机に留守の際のメッセージボードが置いてあるんだろう。ここに勤務している大人達は全員端末を支給されてて、学校の敷地内なら教室にある固定端末や各々が携帯してる端末へ自由に連絡が付く。さすが養護教諭の持つ携帯端末の番号は119に設定されてるのかぁ、とちょっと感心してるところに小さな声が聞こえた。

 

「……キリト、くん」

 

すぐにアイツが駆け寄る足音にかき消されてしまいそうなか細い声が浮遊してくる。

 

「ここで、休ませて、もらえれば、大丈夫、だから……」

 

途切れ途切れの声から息苦しさと一緒におばちゃん先生への気遣いも伝わってきて、耳だけじゃなく胸の奥もジーンと熱くなった。

 

「でも、ただ座ってるだけじゃ……あ、冷蔵庫あるな。何か入ってるかも……」

 

パタパタと忙しなく保健室内を歩き回る桐ヶ谷は隅に設置されている冷蔵庫を勝手に開けたらしく「あった、あった……お、いいモンみっけ」とゴソゴソ音を立てて何やら取り出し、再び「中庭の君」の元へと戻っていった。

 

「ほら、アスナ、飲めるか?」

 

あ…多分、僕がもらったのと同じスポーツドリンクを冷蔵庫から出してきたんだな。と言うことは「中庭の君」も熱中症か……とここまで当たりを付けた僕は自分が完全にベッドから出て行くタイミングを逃した事に気づいた。

 

「力入らないんだろ……いいから、口開けて」

 

拒絶の声がしない……一体二人はどういう体勢になってるんだろう。今、現場を目撃しても、僕、色々大丈夫かな?

何かがポッキリ折れちゃったり、その場で崩れ落ちて砂になっちゃったりしないだろうか?、とうんうん考えている間に「中庭の君」は補水を終えたらしい。

 

「ついでに保冷枕もあった」

 

冷蔵庫だけじゃなくて冷凍庫まで漁ったのか……図々しさにちょっと呆れるけど、裏を返せばそれだけ「中庭の君」の為に必死だったって事で……そう思えば昼休みの中庭から追い出された件もちょっとだけ許してやってもいいか、って思えてくる。でも本当にちょっとだけ。だってこっちは学校に通う楽しみを一つ減らされたんだしっ。

 

「ゆっくり横になって……首元冷やした方がいいから……こんな感じか?」

 

完全に横たわったらしいがそれでも「中庭の君」の浅く短い息が何回も僕の所まで伝わってくる。

 

「まだ呼吸荒いな……はずすぞ」

 

は?、はずすって何を!?……あっ、リボンタイ?、リボンタイだよねっ……それだって当たり前にはずさないでほしいけど。

 

「あれ?、珍しいな。フロントホック……」

 

リボンタイだけじゃなかったーっ

 

「ありがと……楽になった……」

 

ひーんっ、「中庭の君」が色々はずした桐ヶ谷に怒るどころか感謝してるー。それでもって桐ヶ谷が「中庭の君」の下着事情に詳しいってどういう事なのっ……多感な高校生男子の僕は精神の安定を最優先にそれ以上の推測を放棄する。

 

「午前中ね、プールだったの」

「それでか」

 

その短い会話だけで「中庭の君」の下着のタイプがいつもと違う理由を理解した桐ヶ谷の声が少し真剣味を帯びた。

 

「水着、だけどさ……」

「うん、ちゃんとこの前、一緒に選んでもらった、方にしたよ」

 

なぜかホッとしたような気配の後、ここに入った着た時とはまた違う苛ついた声。

 

「いや、待てよ。だから午前中、渡り廊下の方がザワついてたのか。あそこ、更衣室からプールまでの移動通路、見えるからな」

「みんな、バスタオル、羽織ってたけど……」

「それだって足とかは見えるだろ」

 

思い出した……確かに休み時間、どっかから「足首っ」とか「三つ編みっ」「首筋っ」って単語が大声でたくさん飛び交ってた。多分、プールに入るから「中庭の君」が長い髪の毛を三つ編みにしてたんだろうなぁ……僕も見たかった。

 

「そう言えば隣のクラスで、興奮してぶっ倒れたヤツが出たって」

 

え!?……それって……まさか……もしかして……僕?

違うっ、違うっ、違うっ、なんか色々、すごく色々間違ってるっ

「中庭の君」の水着…の上にバスタオルを羽織った姿さえ見てないのに、そんな理不尽で不名誉な噂、どこまで広がっちゃってるんだっ

 

「でも、ボーダー柄のも、気に入ってる、んだけどな…」

「ああ、あれな。この前見せてくれたビキニタイプの……あれも似合ってたけど、ほらっ、学校の授業で着用するのは、ちょっと……」

「うーん、ダメかなぁ……でも、キリトくんが、選んでくれたのも、気に入ってるよ」

「あれって《旧SAO》でアスナが着てたヤツに似てただろ」

「そうだね。だから?」

「あの時のアスナさんも…すごく綺麗でしたし……」

 

なんでこいつ今更照れ声になってんの?

わかりすくテレを誤魔化すような丁寧語でぎこちない話し方の桐ヶ谷の羞恥ポイントが僕には理解出来ないよっ。それ以上にここで二人の会話を盗み聞きしてる状況になっちゃった僕のメンタルもかなりヤバイ。保健室のおばちゃん先生、お願いっ、戻ってきてっ。

思念波で内線119鳴らせないかな、って意識を集中させている僕にまたもや桐ヶ谷の声が邪魔をする。

 

「いくらプールでもこの陽気に外だもんな。体力持ってかれて調子だって崩すよ。カフェテリアで合流する前に廊下で会えてよかった……まぁ、オレを見た途端、崩れ落ちたのは驚いたけど」

「ごめんね、なんか、キリトくんの顔、見たら安心しちゃって……」

「いいよ……少し落ち着いた?」

「あ、キリトくんの手、冷たくて気持ちいい」

「ん?、そうか?…いつもはアスナの方が体温低いのに……そうだ、熱中症には脇の下とか足の付け根冷やすといいから……」

「ダっ、ダメだってばっ、手、入れないでっ」

 

ドッ、ドッ、ドッ、ドコにっ!?、と叫ぶ僕の疑問と心臓のドッ、ドッ、ドッ、という早鐘が同期して、僕は自分の限界を感じた。

もうダメだ、僕の心臓、そろそろヒビが入ると思う。熱中症の時よりドクドクするしクラクラするしゼエゼエする。「中庭の君」の笑顔を見た時は心臓が止まりそうって思ったけど、桐ヶ谷との会話を聞かされてると心臓が爆発しそうだ。

僕は自分の生存本能に従って生き残る道を模索した結果、石になる事に決めた。

何も聞こえない、何も聞こえない、僕は石なんだから……

 

「息苦しさ、おさまったみたいだな。顔も火照ってたけど……アスナ、前髪あげるぞ」

「…キリトくんも前髪あげないと、触っても分からないでしょ」

「あ、そうか……うん、熱はないな。あと唇も震えてたけど……」

「ンっ!」

「……大丈夫そうだし」

 

なんで聞こえちゃうんだっ……そうだっ、枕だっ、枕を使えばっ

僕は頭の下にある枕の両端を手で掴んで体勢をくるりと横回転させてうつ伏せになり、そのまま後頭部と両耳を枕ですっぽり覆った。

よしっ、これで何も聞こえないっ

ただ自分の事で手一杯だった僕はその時に立ててしまった物音にあの二人が気付かないわけがないなんて考える余裕は全くなかった。

 

「あれっ?……キリトくん、今、なんか、音……したよね?」

「したな。もしかしたら一番奥のベッド、誰かいるのかも」

「えーっ、それじゃあ今までの私達の会話、全部聞こえてたんじゃ……」

 

保健室に入ってきた時の記憶はおぼろげだが、音や声だけとは言え二人きりだと思い込んで気をつけていなかったから恥ずかしいやり取りがあったかもしれない。

 

「寝てるんじゃないのか?、起きてればオレ達に声かけてくるだろ」

「そう、かな?……うるさくしちゃったけど」

「養護教諭がほったらかしにしてるんだから重症ってわけじゃないだろうし」

 

要は気にする必要は無い相手だと、隣の更に隣に寝ているだろう人物の方に向いている明日奈の意識と視線を取り戻す為、彼女の頬に手をあてた和人が自分の方へと引き寄せる。

 

「オレ達は昼休みいっぱいここで休憩して……」

「待って。キリトくんは今からでもカフェテリアでお昼食べて午後の授業にちゃんと出て」

 

自分が原因で授業をサボらせるわけにはいかない、と明日奈が真面目な顔で諭した。多分、養護教諭もそろそろ戻ってくるだろう。体調もかなり回復したからあとは一人でも大丈夫だと自分の頬に添えられている和人の手を剥がそうとすれば、逆にその手を握りしめられた。

 

「アスナを置き去りになんてしないよ」

 

保健室の担当教諭がいるならまだしも、存在のよくわからない、もしかしたらアブナイ人間と彼女が二人きりになってしまう。

 

「それに、もし立場が逆だったらアスナはオレをここに寝かせて教室に戻るのか?」

 

はなから答えはわかっていると言わんばかりの少し意地悪な笑顔で問われて、明日奈は唇をすぼめて「うぅっ」と唸った。

 

「じゃあ…午後の授業、どうするの?」

「幸い午後イチは一緒の選択科目だから誰かに授業内容のコピー頼めば問題ないし。養護教諭が不在だったから付き添ってた、って言えばオレの分まで保健室の利用証明貰えるだろ?」

 

不在対策として内線番号を記したメッセージボードが置いてあったのだろうが、それを見なかったことにして明日奈の傍に居ると譲らない和人に熱中症の症状とはまた違った諦めの息を「ふぅっ」と零す。

 

「それじゃあ少しだけ眠っていい?」

「ああ、おやすみ、アスナ」

 

その頃の僕は、と言えば何も見えず聞こえず、ついでにうつ伏せで段々息苦しさまで感じ始めた中、具合が悪いわけじゃない桐ヶ谷は保健室からとっとと出て行ってくれないかなぁ、そうしたら僕も出て行けるんだけどなぁ、と桐ヶ谷の退室を待ちながら、保健室にいるのに呼吸がままならないとか、かなり本気で空腹が辛いとか、またもや生死の境を彷徨い始めてる自分に涙が止まらなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
あの二人に免疫のない生徒だと「石」になるしかないんです。
ドキドキして、バクバクして、グルグルして、ドクドクして、クラクラして、
ゼエゼエしちゃうので……。


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〈UW〉名を呼ぶ

キリトとアスナが《アンダーワールド》に留まる事になり、代表剣士と
副代表剣士として《セントラル・カセドラル》で生活を始めた頃のお話です。


執務室の扉をコン、コン、と形式的に軽く叩き、返事を気にすることなくカチャリと開けたアスナはとりあえずひょこりと中を覗き込んだ。

 

「キリトくん?、いる?」

 

大きな窓から差し込んでいる陽射しで室内は隅々まで明るく照らされているが、見回してみても人の気配はなく穏やかな空気だけが充満している。

アスナは「いない、みたいね」と確認するように口にしてから、はぁぁっ、と自分でも何の感情かわからない溜め息をついた。

どうやら部屋の主は不在のようだ。

ただこの執務室は代表剣士キリトだけの部屋ではなく副代表剣士のアスナも使っているので、本来ならノックなどせずに入って構わないのだがアスナの中ではまだこの《アンダーワールド》という世界における自分の異物感が拭い切れていない為、つい遠慮がちな態度になってしまうようだ。

異世界戦争の後、結果的にはこの世界に残ったわけだが、アスナは人界の主導者になるつもりも、もちろん統治者になるつもりもない。偶然か必然かはわからないが、この世界を創世した《リアルワールド》の人達と関わった事でこの世界の存在を知った身としては自分の知識や経験を少しでも役立てたいと思っているに過ぎず、それはキリトも同じだと思うのだが、彼は完全に思い出したわけではないものの今回の二年半を含めてこの世界で「生きていた」と言っていい時間を有している。

当然、思い出も知っている場所も知人や友人も多い。

だから修剣学院で一緒だったという先輩や後輩達と話している時、各地の報告を受けて整合騎士達と会話をしている時、工房でサードレ工廠長から二年前に剣を研いでもらった話で未だに文句を言われている時など、ふとキリトが《アンダーワールド》側の人ような錯覚を起こしてしまい、よけいに自分だけがエトランジェ的な気分を味わってしまうのだ。

今だってアスナにはキリトのいる場所が全くわからない。

昼食は一緒に食べたのだが、その後アスナは大図書室でソネスの講義を受ける為に一旦キリトと別れたから、彼が今どこで何をしているのか見当も付かない。

講義を終えた後、次の予定は特になかったしソネスからも「今日はもうゆっくりなさって下さい」と休養を勧められたので三十階の部屋に戻ろうとしていたのだが、途中でキリトを探している局長に遭遇したので取り敢えず執務室に寄ってみたものの結果は空振りだった。

これが《現実世界》の帰還者学校だったら時間割も把握しているし、なんとなく彼の居そうな場所の見当は付く。《旧SAO》でもフレンド登録をしていれば位置情報は入手できた。

けれど《アンダーワールド》はアスナにはまだまだ不慣れな場所でキリト一人見つけ出す事も容易ではない。

キリトに縁のある人達の方が心当たりのある場所を知っていそうだったが局長も急を要する件ではないと言っていたからアスナは捜索を諦めて誰もいない執務室に足を踏み入れた。

 

「どこに行っちゃったのかな……」

 

代表剣士様の執務室だし副代表剣士様と共有なのだから、と用意してくれた陽当たりの良い少し広めの部屋。入ると対面するように大窓を背にしたキリト用の幅広い机があり、少し離れた場所にそれよりは小ぶりのアスナの机がある。

代表剣士になってから毎日この執務室には多種多様な人達がやって来てキリトの机に要望書や申請書、こちらから頼んだ資料や確認書を何枚も重ねていくので、その厚みが一定以上になると「アスナぁ……」と情けない声が書類の向こうからすがるように伸びてくるのだ。

昼食の前にその時あった書類は全て処理して部屋を出たのだが、アスナが来るまで幸いにも新たな書類は持ち込まれなかったらしくキリトの机の上は綺麗に片付いていた……いや、正確には書類ではない物が乗っている。

キリトが『夜空の剣』と同じ位大事にしている『青薔薇の剣』だ。

二年前、この世界でキリトが初めて出会った人であり、一緒にこの世界を旅した友であり、共にアドミニストレータに挑みその戦いの中で散っていった親友である少年の剣が定位置の壁の掛け具から外されている。

きちんと鞘に収まっている状態だが、多分キリトが手入れをしていたのだろう、剣の傍には銀毛鹿の油革が無造作に置きっ放しになっていた。

アスナはその机にゆっくりと近づき回り込んで少々だらしない角度になっているキリトの椅子の背に手をつく。

その時、背後の大きな窓が少しだけ開いていて、さぁっと爽やかな風が忍び込みアスナの長い髪にふわりとネコのようにじゃれついた。

ほんの少しだけ乱れた髪を耳にかけなおし、いつもは座ることのない代表剣士の椅子に緊張しながら腰を降ろしたアスナはそこから見える室内を眺め、それから自分がいつも使っている机を見てキリトはいつもここから弱り切った声で自分の名を呼ぶのだと想像して小さく微笑む。一通り視線を巡らせてから、最後に一番近くにある剣に目を落とした。

永久氷塊が元になっているだけあって綺麗に澄んだ色のそれは持ち主の心の清らかさまで表しているようだ。吸い寄せられるように手が伸びて恐る恐る触れ、ゆっくりと持ち上げる。精緻な氷の彫刻ように繊細で固く冷たい印象の剣だが、胸に抱いてみれば誠実な優しさが感じられた。

目を閉じればまるでこの世界でキリトの相棒として生きた彼がそこにいるように……

 

 

 

 

 

『こんな所で寝ていると、風邪を引くよ……』

 

聞き覚えのない声がすぐ近くから聞こえてくる。けれどその声は心からアスナを案じてくれていて、アスナは警戒もせずにその声を受け入れた。

 

『あのキリトの世話を焼いてるんだから、もっとしっかりした女の子なのかと思ってたな』

 

どうやら声の主は想像と違うアスナに少し呆れているようだ。

 

『でも……ありがとう、キリトを迎えに来てくれて……、ありがとう、キリトと一緒にこの世界を守ってくれて……そして今キリトと一緒にこの世界にいてくれて』

 

泣いているのかと思えるほどの喜びの声にアスナは自然と首を横に振っていた。

 

「でも、私は、この世界の人じゃないから……」

『そんなの関係ないよ』

 

優しい声につい心の片隅にあった気持ちが零れ出る。

 

「ここにいる人達ね、キリトくん以外、みんな私の事《さま》を付けで呼ぶの」

 

「アスナさま」「副代表剣士さま」……いくら違うと言っても「ステイシアさま」と言っている人達も大勢いて、仕方のない事だと頭ではわかっているのに時々こがれるように「アスナ」や「アスナさん」と気安く呼んでくれる友人達や「ママ」と甘えてくる娘の顔を思い出してしまうのだ。

 

『なら……僕は君のことを「アスナ」って、呼んでいいかな?』

 

少し照れたような申し出にアスナは相手が誰かもわからないまま笑顔で了承する。

いや、多分…だがこの声の主が誰なのかは直感的にわかっていた……キリトがこの世界と同じくらい大事に想っている彼だ。

まだ彼について多くを聞かせて貰ったわけではなかったが、話し方や気遣いがアスナの抱くイメージにピタリと重なっている。

「アスナに会わせたかった。話をして、笑い合って、それから……」と震える声で囁いていたキリトが、あの時どんな表情をしていたのか抱きしめられていたアスナは知らない。ただ続きを紡げなくなってしまった彼の背中に両手を回して「私もこの世界でのキリトくんの様子や他にもたくさんたくさん教えて欲しかったよ」と言えば自分より大人びてしまったはずの彼は何度も小さく頷いていた。

だから直接会うことは叶わなかったけれどアスナにとっても彼はとても大切な存在になっている。

それは常にアスナの心の中にいる明るく前向きな少女のように、きっとキリトの中で彼は共に戦う相棒として生き続けるのだろう。

 

「それじゃあ私はキリトくんを精一杯守るね」

 

そう力強く宣言したもののアスナはすぐにしょんぼりとした声で「ごめんなさい」と謝った。

 

「それしか思いつかないの……この世界で一人ぼっちだったキリトくんの傍に居てくれたお礼」

 

キリトの行く所ならどこにだって付いていくと約束したあの夜、明日奈の前から和人の姿は消え、ようやく探し当てたものの魂はこの《アンダーワールド》に閉じ込められていた。《現実世界》の記憶を保持したまま知っている人は誰もいない初めての世界がどんなに心細く寂しく辛いか、《旧SAO》に囚われたばかりの頃の自分がフラッシュバックする。

 

『ありがとう、十分だよアスナ』

 

約束通り呼んでくれた名前にアスナの顔から不甲斐なさが抜けて笑みが戻ると更なる願いが口をついた。

 

「また、お話できる?」

『そうだね、キリトが焼き餅を焼かないか心配だけど……ああ、ほら、来たみたいだよ……』

 

バトンタッチをするように彼の声が小さくなっていき、代わりに自分の名を何度も呼ぶ一番慣れ親しんだ声が大きくなっていく。

 

 

 

 

 

「アスナ…アスナ…アスナ……よかった。こんな所で何してるんだ?」

 

ゆっくりと瞼を押し上げればどこか不安そうなキリトの顔がアスナを覗き込んでいて、寝ぼけ眼の錯覚かもしれないが、キリトの後ろには亜麻色の髪に翡翠色の瞳を持つ少年が同じようにアスナの様子を伺っている姿がぼんやりと見えた。

 

「ちょっとね……お昼寝」

「風邪ひくぞ」

「うん、さっきも言われちゃった」

「誰に?」

「んー、キリトくんが焼き餅を焼くといけないからナイショ」

「なんだよ、それ」

 

途端に拗ねた声になるキリトの背後から苦笑いをしている少年の姿がすうっ、と消えていく。

名残すらゆっくりと笑顔で見送っているアスナの様子に疑問はつきないが、どこか晴れ晴れとしたその表情が久しぶりでキリトはそれ以上の追求を引っ込めた。

言葉や表情、しぐさでその人の考えや感情を推し量るのが得意分野ではないキリトでもわかるほど白亜の塔にいる者達はアスナに対して一線を画する態度で、それをアスナ自身もやるせなく思っているのには気付いていたし、何度か「《さま》はいらないのに」と言っていたのも知っている。

けれどこの世界で彼女を知る者達にとってアスナは一人の少女である前に創世神ステイシアなのだ。

せめてその容姿だけでも彼女本来の姿とは違うデザインに設定出来ていれば……と考えた事もあったが人の姿そのままで神々しいとは彼女が人外レベルで美しいと言っているようなものである。

オレみたいに誰にも気付かれない村はずれの草むらにでもログイン出来ればよかったのになぁ……と考えたキリトはロニエ達が興奮気味に語ってくれたアスナ降臨時を思い出した。

清らかな光を全身に纏い、真珠色の騎士装の裾をはためかせながら漆黒の夜空からゆっくりと舞い降りる途中、固有能力を使って大地を深く切り裂いたと言うのだからアカウント名がバレなくとも神の御業とされるのは当然の結果だ。けれどそこにどれほどの痛みを伴っているか……なのに目の前の彼女はそんな痛みなどに怯むことなく、この世界の為にとその力を使う事を厭わない、まさに女神のごとき慈愛の持ち主である。

それでいて平素は副代表として代表剣士のキリトを立てつつ周囲への気配りも忘れないのだから、皆が敬畏を持って《さま》を付けてしまう気持ちが分からないではないし、やたらと彼女に心酔する者が続出するのも致し方ないだろう。

だからってなんでみんなしてオレに「アスナ様にご無理をさせないで下さい」とか「副代表様、お疲れのご様子です」って言ってくるんだよ、とキリトはまるで自分が原因と思われているような周囲の言い方にちょっと憤慨していたものの、実際こうやって彼女が昼間からうたた寝している姿を発見してしまうと、やっぱりちょっと無理をさせてるのか?、と少し乱れている彼女の前髪を指で梳きながら綺麗なはしばみ色の瞳を覗き込んだ。

噛み殺した欠伸の産物であるじわりと滲んだ涙を瞬きを繰り返すことで散らそうとしている姿はちょっとむずがっている幼子のように無垢で可愛らしい。眦に溜まっている涙を指で拭ってやれば恥ずかしそうに頬を染めつつも「ありがと」と告げてくる彼女に、返事の代わりに笑いかけたキリトはその手元を見て固まった。

アスナの細い両腕が青薔薇の剣をしっかりと抱きかかえている。

 

「アスナ、それ、返してもらっていいか?」

 

キリトはすぐさま彼女から剣を取り上げた。

返事をする暇も渡す余裕もなく奪い返さんばかりの少々焦りの滲むキリトらしくない強引さにアスナは驚き慌てる。

 

「ごっ、ごめんね。キリトくんの剣、勝手に触って」

「そうじゃないんだ」

「え?」

「そうじゃなくて……アスナが青薔薇の剣を抱きしめてるのは……なんだか胸の辺りがモヤモヤするって言うか、面白くないって言うか」

「だってそれはキリトくんの大切な剣だから……」

「いや、きっとティーゼがこの剣を持っても何とも感じないと思う。と言うかいずれはティーゼに託すつもりだし」

「いいの?」

「ああ。この剣を必要とするのはもうオレじゃない。いつまでもオレが頼ってたら笑われるだろ?、アイツに」

 

きっとキリトも彼の親友の魂を宿していたこの剣もこれからはこの世界を守るという同じ志を持ってそれぞれがそれぞれの場所で為すべき事を為すのだろう。

 

「それに、オレにはアスナがいてくれるから」

 

剣を壁掛けに戻したキリトが振り返ってアスナに笑いかける。

けれどキリトの机に座ったままのアスナはその言葉を否定するように少し俯いて首を左右に振った。

 

「でも、私、自分からこの《アンダーワールド》に行きます、って言って《オーシャン・タートル》からダイブさせてもらったのに結局ユイちゃんやリズやシノノンにリーファちゃん、他の皆の力がなかったら……」

 

そこでアスナは顔を上げてキリトの背後にある青薔薇の剣を見る。

 

「それに彼が力を貸してくれたからキリトくんを助けることが出来たの」

「でも一番最初にオレの所まで来てくれたのはアスナだよ」

 

いつの間にかアスナの目の前まで戻って来ていたキリトは椅子に座っている彼女の足元にしゃがんでから両手を広げ包み込むようにその華奢な身体を腕の中に収めた。

 

「馬車の中で車椅子に座ったままのオレにこんな風に触れてくれた時、すぐにアスナだってわかった。オレの魂は深い深い場所に堕ちてしまっていたのにアスナは感じ取れて……だから何度も『アスナ』って言おうとしたんだ……」

「うん、ちゃんと伝わってたよ」

「すごく深くて暗くて重かったのに……アスナが諦めずに手を離さずにいてくれたから他の皆の力も合わさってオレは戻ってこれたんだと思う。最後はアイツのひと押しのおかげだけど……」

 

ちらっ、と壁にある青薔薇の剣を一瞥したキリトはアスナを更に力強く抱きしめる。

 

「やっぱりオレはアスナがいないとダメなんだ」

「これからはずっと一緒だからね。キリトくんを守るって約束したばかりだし」

「?……その約束なら随分前にしただろ?」

「そうだけど…でも、改めて……どんな世界でも一緒にいるよ。キリトくんを守るために」

「ありがとう、アスナ」

「それでね、キリトくん……その机の上にある紙袋からいい匂いがしてるんだけど……」

 

この場の雰囲気を作り直すためアスナはさっきから気になっていた紙袋に視点を合わせてキリトの腕の中から問いかけた。

 

「やっぱり気付いてたか」

 

むしろ気付かない方がおかしいよ、と顔で反論しているアスナを見てニヤリと笑ったキリトが抱擁を解き、執務机の上に置いておいた紙袋に手を伸ばす。

 

「これはだな、北セントリア六区東三番通りにある老舗料理店《跳ね鹿亭》の……」

 

説明しながら紙袋に片手を突っ込んでごそごそしていたキリトがパッと取り出すと同時に自信満々の笑顔でそれをアスナの顔前に差し出した。

 

「名物、蜂蜜パイだ」

「蜂蜜パイ…美味しそう」

「だろ?、修剣学院にいた頃からオレの好物で絶対アスナに食べさせたいと思ってたんだ」

「もしかして買いに行ってくれてたの?」

 

得意気なキリトを見てアスナはチラッ、と視線を外して何かを確認してから意味深に微笑み口調を改める。

 

「そこの窓から出入りしたのかしら?、キリトくん」

「うぇっ!?……」

 

執務室に入ってきた時はほんの少しだった窓の隙間が今は大きく開いていた。

 

「えーっと……、ここから出た方が北セントリアの市場には近くて、ですね……」

「資材管理局の局長さん、キリトくんのこと探してたよ」

「ああ、あの四角眼鏡の……」

「うん、急ぎじゃないって言ってたけど」

「だったら蜂蜜パイ食べてからでもいいよな。アスナがさ、最近元気ないみたいだったから甘い物で喜んでくれればいいなって思ったんだ。オレも食べたかったし」

 

キリトにとって蜂蜜パイは様々な思い出のシーンで何度も登場する甘味だ。

 

「私、元気ないように見えてた?」

「そうだなぁ……少なくともカセドラル内の連中はアスナが疲れてるんじゃないかって心配してたぞ」

 

そう知らされてアスナは大図書室を出る時にソネスからかけられた言葉が実はかなり真剣だったことに気付いて目を見開いた。

 

「みんなさ、どうしてもアスナには《さま》を付けちゃうけど、ちゃんとアスナを受け入れてるし、むしろオレより好意を持たれてると思うんだ」

 

整合騎士や上位騎士達はキリトが囚人としてセントラル・カセドラルの地下牢に投獄されていた事を知っているし、アドミニストレータを屠った事実を受け入れ切れていない者もいる。それに比べればアスナは人界軍の窮地に自ら現れ共に暗黒界軍と戦ってくれた女神だ。彼女に負の感情を抱く者は無いに等しい。

キリトの励ましにアスナの心がポカポカとあたたまっていく。

 

「でもやっぱり《さま》はいらないんだけどな……まぁ、少なくともキリトくん以外にもうひとり、私を『アスナ』って呼んでくれる人はいるし……」

「えっ?、誰だよ」

「それとね、キリトくん……」

 

アスナはキリトの問いかけには答えずにニコリと笑った。

 

「今度《跳ね鹿亭》に行く時は……ううん、セントラル・カセドラルの外に行く時は私も一緒に連れて行ってね。この世界はまだまだ知らないことばかりだから」

 

あの頃とは違って周りには自分を気遣ってくれる人がたくさんいるのだと気持ちが上向きになる。それにどんな世界だってキリトと一緒なら大丈夫、とアスナは渡された蜂蜜パイに瞳を輝かせながらぱくっと齧りついたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
えー、ご本家(原作)様では青薔薇の剣に宿っていた魂はガブリエルとの戦いで
燃え尽きてしまったとありますが……ほんとかなぁ(苦笑)
我が儘し放題がSS(二次創作)の利点なので、スーパーアカウントを持つ
アスナなら睡眠中のリラックス状態だった為、ほんの僅か残っていた魂のかけらと
意思疎通ができた……みたいな感じでよろしくお願いします。
いちを消滅した事になってますので実名は伏せました(微妙な気遣いっ)


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【いつもの二人】許可

『ソードアート・オンライン』26巻《ユナイタル・リングⅤ》の発売を祝しまして
【いつもの二人】シリーズです。
今回は和人視点で。


平日ならば通学や通勤目的の利用者がほとんどだろう都内の某ターミナル駅も週末となればその利用者の服装や目的、混雑時間も一変する。オレの場合は通学路線にもひっかかっていないし、休日にわざわざ出てくるような目的地も近くにない為《旧SAO》に囚われる前まではホームさえ降りたこともない駅だったが、あの世界から解放された後は既に数回訪れた事のある駅となっていた。

そして今日、この駅前で待ち合わせをしたアスナと合流すべくオレは少し急ぎ足で改札を抜け出る。

約束の時間にはまだ五分程あるが、逆を言えば余裕はほとんどない。この時間なら優等生のアスナは絶対先に待ち合わせ場所に着いているだろう。人通りの多い所だから「偶然見かけた女性」を目的としている男もいるわけで、そんな奴が彼女の姿をどんな目で見るか……想像するだけで口元が緩やかな山形になる。

かと言って人の少ない場所を待ち合わせにするとそれはそれで心配になるので、結局は人目が多い方が安全だという結論に落ち着いて、二人で出掛ける時の待ち合わせは意図して賑やかなスポットを選ぶようになった。

改札口から目的地まで、人の流れに乗って連絡通路を移動する。

半ば押し出されるようにして駅から屋外に出たオレはアスナを見つける前に予想もしていなかった人物に出くわし、思わず「うへっ?!」と声を漏らしてしまった。

それが聞こえるような距離ではなかったと思うが、相手もまたほぼ同時にオレを視認して思いっきりしかめっ面になる。

オレだって休日の浮かれ気分が色とりどりの熱気と化して充満しているこの場所で遭遇するなんて思ってなかったさ。

互いに「なぜこのピンポイントで……」と憤りを相手にぶつけたい衝動をどうにかやりすごし、さりとてここまでしっかり目が合っているのに気付かなかったふりをするのも気まずくて、よし、ここは大人の対応だと自分に言い聞かせたオレは先手必勝とばかりに「ようっ、偶然だな」と軽く手を上げて歩み寄った。

 

「休日にわざわざこんな所に出てくるなんて、意外と言うか……」

 

オレの挨拶とは言えない挨拶にエイジこと後沢鋭二は相変わらず「フン」と短く鼻を鳴らして終わらせる。

歳は三つか四つ上のはずだが頻繁に交流があるわけでもなく、過去のやり取りからどう頑張ってみても知り合い程度にしかならない相手だから言葉遣いを改めるつもりはない。向こうもオレと楽しい友好関係を築こうとは思っていないだろうし、反応が返ってきただけでも良しとしよう。

最後に会った時からそれ程時間が経っているわけではないが、それでも見た目の印象は少し落ち着いた感じがする。少なくとも週末にラフな格好で外出をする余裕があるのなら自暴自棄な生活を送っているわけでもなさそうだ。

エイジの方もオレの目的を推測しようとしたのか、ちらっ、とオレが向かおうとしていた先に待っている人物を発見して「ああ」と妙に納得の声を吐いた後、なぜか蔑むような視線を寄越してきた。

なんだよぅ、いかにもな場所でデートの待ち合わせをしたっていいだろ、と求められてもいない言葉を口にしそうになる。

 

「本当にあの人も角が取れたな」

 

エイジの知っている《旧SAO》でのアスナと比べているんだろう。

ゲーム世界に囚われていた二年間のうち、どのくらいの期間《血盟騎士団》に所属していたのかは知らないが、アスナが副団長としてノーチラスという団員の戦闘時における癖を心配していたのは相談を持ちかけられていたから知っている。責任感が強いから他の団員達にも気を配っていたと思うが、わざわざオレに話すほど気に掛けていた男性プレイヤーだったと思い出せばユナの事件関係者云々は別にしても少し面白くない。

そう言えばアスナも割とすぐにエイジの正体には気づいてたみたいだよなぁ。

確かにあの頃のアスナは《攻略の鬼》と呼ばれていた位だから今と雰囲気が違うのは当たり前だが、どんなアスナを思い出して言っているのか……同じギルドに所属していた繋がりみたいなものを見せつけられた気がして、つい顔を反らしてしまう。今日はやっとアスナと予定が合って一緒に出掛ける約束が出来た日なんだ、特に話す事もない相手にこれ以上時間を使う必要もないだろうと早々にこの場を去ろうとしたのにエイジは「おい」とオレを呼び、くいっ、と親指でアスナのいる場所を示した。

 

「あれ、いいのか?」

「あれ?」

 

慌てて視線を向けると二十代くらいのナヨッとした男性が彼女のすぐ目の前に立っている。

一瞬「ナンパか?」と駆け出しそうになったオレは、その男がアスナに名刺を差し出しているのを見て、ほっ、と緊張を解いた。

 

「ああ、大丈夫だ。まぁ見てろって」

 

若者が多く集まる駅の周辺に二人で出掛けた時、あの手の誘いをかけられた経験は何度かあるからオレは余裕の笑みでエイジと並び事の次第を見守ることにする。

男性は何かを必死に説明しているようだがアスナの方はハッキリとした笑顔で首を横に振っていた。それでも何とか頑張って話を続けようとしている男性の背後に複数の男達が寄っていき、中でも体格の良い中年男性がトントンと肩を叩いて振り向かせている。

 

「どこの人間だ?、出版社か?、芸能事務所か?」

 

近くで同じように待ち合わせをしていた人達はチラチラと気にしているし、通行人も足を止めている者が何人か出てアスナの周囲に人が集まり始めていた。オレはエイジを手招きして声が聞こえる場所まで移動する。

 

「このお嬢さんに声を掛けるんだから、見る目はあるよね」

「そうか?、昨日今日スカウトを始めた初心者だってこの子なら目に留まるだろ」

「違いない」

「それもそうですね」

「だからどこの所属かって聞いてるだろうがっ」

 

軽く怒鳴られて、アスナに名刺を見せていたナヨナヨ男性は「ひぃっ」と縮こまった。

 

「まあまあ、気持ちは分かりますけど……ほら、周りの皆さんも驚いてますから」

「だいたいここでスカウトすんなら先輩から引き継ぎとかされてないの?、君」

「俺はね、先輩のも一つ前の先輩の代からこの子を口説いてんの。ここにいるスカウトマンはみーんなそう。それで誰も首を縦に振ってもらってないわけ。だから勝手に声を掛けてもらっちゃ困るんだよね」

 

年齢も装いも雰囲気もバラバラだがここに集まった男達は過去に……いや現在も進行形でアスナをスカウトしたいと望んでいる人達で、この人達の目があるからこそ安心してアスナと待ち合わせが出来る部分もある。今回のように見知らぬ輩に話しかけられても、しつこいと彼らが止めに入ってくれるからだ。

アスナも全員顔見知りのスカウトマン達だからか、にこり、と微笑んで「こんにちは」と挨拶を交わしている。

 

「相変わらずスタイル抜群だな」

「ファッションセンスもいいし」

「声もいい」

「顔は……言うまでもないね」

 

ついさっきまで初心者と思しきスカウトマンに詰め寄っていたとは思えないくらい空気を軟化させ、へらっ、とした笑顔になった男達は次々にアスナに誘い文句を浴びせていった。

 

「とりあえず所属するだけでも……」

「一度でいいから撮影、来てみない?」

「なんなら顔出しNGでもいいし、本名はちゃんと伏せるよ」

 

先程の男性の比ではないくらい熱の籠もった言葉の数々だったが、それらもアスナは涼しい笑顔で「いつもごめんなさい」と一人一人丁寧に躱している。

 

「はぁ、まいったなぁ。いっつもこれだもんなぁ」

「諦めきれずにスカウトし続けてる僕達も大概ですけどね」

「とりあえず親御さんに話だけでもさせてもらえない?」

「すみません、でもうちの両親も承諾しないと思いますよ」

 

本人が躊躇していても逆に親が勧めるというパターンがあるんだろう……オレ的にはアスナの両親が「是非」と喜ぶ顔なんて想像も出来ないが、もしアスナが興味を持ったとしても未成年なんだから親の了承は必須だ。

《旧SAO》でもアイドル級の人気を誇っていた彼女だったが、それは単に年頃の女性プレイヤーが少なかったからではなく、《現実世界》に帰還してもこうして目の肥えたスカウトマン達をしっかりと魅了している。

そういえばアインクラッドでも攻略組プレイヤー人気投票の票稼ぎに写真集の話とか出てたよなぁ、と懐かしい記憶を掘り起こしていたオレは再び隣から聞こえたボソリとした呟きに敏感に反応した。

 

「あんな気軽に言葉を交わされるとは……」

 

確かにあの人気投票の時に「私は宣伝担当じゃないっ」と息巻いていた彼女を知っている身としてはスカウトマン達に笑顔で対応している姿を見ると、うんうん成長したよなぁ、と同調したくもなるが、それ以上に気になる点が一つ。

 

「アスナに関しては丁寧語なんだな」

「えぅっ」

 

エイジは言葉を詰まらせたままバツが悪そうにオレからもアスナからも視線を反らした。どうやら本人は意識していなかったらしいが血盟騎士団に所属していた時の名残なのかもしれない。そりゃあノーチラスが入団した時、アスナは既に副団長だったんだからわからなくもないが、それにしてもオレへの態度とは雲泥の差だ。

だからと言ってオレにも丁寧語を使えとか、アスナに対してもっとフランクでいいんじゃないのか?、と言うつもりはない。ただなんとなくエイジの中でアスナは今でもサブリーダーのイメージが抜けてないんだなと思っただけだ。

珍しく戸惑い続けているエイジを観察しているのも面白かったがそろそろあの場からアスナを救出しないとオレが怒られそうなので「じゃあ、またな」と言い残してその場を去る。

また会うとは限らないが、今日みたいに偶然会わないとも限らない。

それから遅まきながら彼がまだ東都工業大学に学籍がある可能性に思い至った。そうなると言葉遣い問題はオレの方だ。

今の所オレの進路の第一希望は「東都工業大学」になっている。

無事に入学できたとしたらどう考えてもエイジは先輩にあたるわけで……今から引き返して「ちなみに今って学生なのか?」と踏み込んだ質問が出来るわけもなく、オレは持ち前の臨機応変さを発揮し、それはそれとしてその時に考えればいいだろ、と気持ちを切り替え人混みを掻き分けながら目的地へと向かった。

 

「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ。彼女にも最初にちゃんと説明しましたけど、僕はこの先のヘアサロンのスタッフでっ」

 

完全に蚊帳の外にはじき出されていたナヨナヨ男がまるでえん罪を晴らすかのような必死の形相でアスナに見せていた名刺を両手で、べんっ、と突き出している。

 

「なーんだ、美容師さんだったの」

「なるほど、カットモデルのお願いでしたか」

「そんなら早く言えよ」

 

同業者ではないと判明して一気に興味を失ったらしい男達は次に申し合わせたかのようにアスナへと視線を集中させる。

 

「そんで、どーすんの?」

「まさか髪を切るのまで親の許可がいるわけじゃないだろう?」

 

きっちり白黒付けて早くヘアサロンの男を追い払いたいのか、スカウトマン達が返事を急かすとアスナもまたすぐさま頷いた。

 

「はい、初めからお断りしてるんです。やっぱり髪はちょっと……」

「え?、切りたくないの?、イメチェン、いいと思うけど」

 

それは確か彼女に撮影見学の誘いをかけていた男だった。

 

「気分、変わるよ。バッサリ切るのが嫌ならセミロングくらいでさ。ウェーブとかカラーは興味ない?」

 

もはやヘアサロンスタッフより熱心にアスナを口説き始めている。

そんな軽い言葉に流されるようなアスナではないとわかっているけど、それでもオレの足はスピードを上げた。

一緒にいる時、前を歩く彼女がオレの名を呼びながら振り返ると陽の光を浴びて煌めく色は初めて会った時から変わらないのに……オレにすっかり身を任せて無防備な彼女の髪を心ゆくまで楽しめるサラサラとした極上の感触はオレだけの特権なのに。

「そういうんじゃなくて……」と、なんとか諦めてもらう為の言葉を探している彼女の髪に「ここまで長いと手入れも大変でしょ」と伸びそうになった男の手を思いっきりはたき落としたオレはそのままアスナを抱き込んだ。

 

「オレが絶対許可しないっ」




お読みいただき、有り難うございました。
アスナの髪について強請はしないとしないと思います。
「アスナがどうしても、って言うんなら……」と情けない顔で
渋々彼女の意志を尊重するキリトでしょうが、彼が気に入っているのを
知っているのでアスナもずっとこのままだろうな。
(髪型のアレンジはOK)
ウラ話は15日にまとめます。


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限定品

帰還者学校を卒業して大学生活を送っている和人と明日奈のお話です。


店内のワイワイガヤガヤとした雰囲気に同調してしまったのか、身体がポカポカして気持ちがフワフワしてなんだか楽しいっ、と思いながら明日奈は居酒屋の店員が運んできてくれた料理を置くスペースを作るためにテーブルの上をささっ、と片付けた。

今夜は大学で同じ専攻の学生達が集まる親睦会に参加している。

大学に入学した当初、二十二層の森の家でリズから「絶対、飲み会には参加しちゃダメだからね」と言われた時は揺り椅子に座っていたキリトも、その頭の上に座っていたユイもそろってウンウンと頭を振っていたが、リズに禁止されたのは「飲み会」と「コンパ」と「合コン」の三つだ。

どれも中身に大した違いはないのだが、それすらよくわかっていない明日奈は「とにかくその三つのキーワードでなければ大丈夫なのよね?」と判断して……当のリズが聞いたら「そうじゃないっ」と頭を抱えそうだが……キャンパスの最寄り駅にある創作料理が人気の居酒屋に来ている。

あの時のリズ曰く「アスナは地域限定、期間限定、数量限定といった限定品みたいな感じなのっ」と彼女を例えた。

 

「つい欲しくなる、つい手が伸びる、この機会を逃したら手に入らないかもしれないって心理になるのよっ、男どもはっ」

「どんなに欲しがってもやらないし、伸びてきた手は叩き落とすし、アスナを他のヤツの手に触れさせる気はないけどな」

「いちいちうるさいっ、例えれば、の話でしょうがっ」

 

真面目に茶々を入れてくるキリトをひと睨みしたリズは再びアスナに向き直ってズイッと顔を近づける。

 

「だから、いーい、アスナ。当分はそういった集まりに誘われても断ることっ。言いたくないけどアンタを餌にして参加者を増やそうってケースもあると思うし」

 

なるほど、と違う意味でキリトが頷く。

アスナ目当てで男性参加者が増えればそれを目当てに女性参加者も増えるという事だ。

 

「当分、ってどれくらい?」

「大学で付き合いも増えると思うから、その中でアスナを利用目的で近づいてくる子とそうでない子の区別がついてから」

「それでも最初はアルコール抜きにしろよ」

 

アスナがお酒に強いタイプではないと知っているキリトからも制限がかかる。

 

「じゃあ親睦を深める為のお食事会みたいな感じから?」

「そうそう、そんな感じ」

 

少し安心したような顔になったリズだが「本当にわかってるのかしら?」と一抹の不安は隠せない。

この前、何の気なしアスナの大学名でSNSを検索してみたら「今年の新入生に超ド級の美人発見」とか「ロングヘアでスタイル抜群の女子学生5号館前で目撃」など、もしかしたらアスナかも、という書き込みがかなりヒットしたのだ。慌ててキリトに知らせたら、彼は既に把握済みで「隠し撮りとかはユイに削除してもらってるけど、確実にアスナの事だって分からないのはどうしようもない」と悔しそうな口ぶりだった。

社長令嬢の肩書きやそのたぐいまれなる容貌によって昔から耳目を集めてしまう事が当たり前だったアスナは周囲の視線に無頓着なところがある、というのがキリトとリズの共通認識である。ちょっと意地悪をしているような気分にはなるが、これも親友のため、とリズは再度「夜に不特定多数が集まってお酒を飲むのはしばらく我慢ね」と言い渡したのだった。

それから二ヶ月近くが経った今……学内で明日奈の知名度は凄いことになっていた。

学年や学部を越えて「話したことはないけど名前は知ってる」という程度の学生なら三桁に上るだろう。同様に「どんなに誘っても飲み会には参加しない」というスタイルも認知されていた。

その下地があったからこそ今回の専攻親睦会に明日奈が参加の旨を伝えると噂はあっと言う間に広がり、男女とも出席率は一気に跳ね上がった。当初は店内の一角をリザーブする予定だったのが急遽ワンフロアー貸し切りにしなければならなくなったほどだ。

明日奈としては大学に通うようになってある程度月日も経過したし、同じ専攻という括りならほとんど顔見知りなので不特定多数でもない。「親睦会」という名目ならリズの言ったワードにも引っかからず開始時間も十八時からで割と早めの設定だったので二時間ほどで帰ればあまり遅くはならないと思ったから参加を決めたのである。

もちろん和人にも事前に報告済みだ。

ただ参加の返事をしてから伝えたため若干不機嫌になってしまったことは否めない。

 

「二時間でお開きにならなかったら迎えに行くから」

「えっ!?」

「お開きになっても迎えにいく」

「ええーっ!!??」

「金曜なんだからそのままオレんとこに泊まってけばいいだろ」

 

どうせ明日奈以外の参加者達はその後の二次会、三次会を想定しているだろうし、その為の金曜開催だ。居酒屋だけで終わると思っているのは明日奈くらいだろう。

この二ヶ月間、全てが全て下心の絡んだ誘いではなかっただろうが、とにかくリズとキリトとの約束を守って断り続けてきた明日奈だ。これからのキャンパスライフを思えば周りとのコミュニケーションや心象が大事なのはわかっているので和人も最後には「楽しんでこいよ」と送り出したのである。

そして明日奈は今、和人に言われた以上にこれでもかという程の笑顔を振りまいて親睦会を楽しんでいた。

ひとつは居酒屋のメニューに興味を引かれる物がいくつもあるからだ。テーブルに並んでいる料理に使われている素材は手に入りやすい一般的な物がほとんどだが、創作料理の文字を掲げるだけあって味付けや組み合わせにとても工夫が凝らされている。

運ばれてくる度に、そして味わう度に小さな驚きがあって料理好きの明日奈を魅了する品ばかりだ。

それに同じ専攻でも今まで顔しか知らなかった学生達との会話も楽しかった。選択している授業やしていない授業、教員の感想など二ヶ月経ったからこそ交わせる会話に頷いたり驚いたりと忙しい。

そして自分の小ぶりのタンブラーに注がれている「シャンディ・ガフ」という飲み物も初めての体験だった。

入店して席に落ち着いた時、ファーストドリンクのオーダーでつい「ダイシー・カフェ」で頼む癖になっていた「ジンジャーエールを」と言いかけた明日奈は、この店ではよくある甘口のタイプかも、と思い至って変更しようとしたのだが偶然隣になった女子から「ジンジャーエール、好きなの?」と問いかけられたのだ。とりあえず「うん」と肯定した明日奈に彼女は「だったら私と一緒にシャンディ・ガフにしない?」と誘ってきたのである。

 

「シャンディ・ガフ?」

「ビールをジンジャーエールで割ったカクテルのこと」

「お酒じゃないのがいいんだけど」

「オッケー。ならヴァージン・シャンディ・ガフにすればいいよ」

「それだとお酒じゃないの?」

「ノンアルのビールで作ったやつだから」

「のんある?」

「ここ、割とオーダーの融通が利くお店だから大丈夫。料理も美味しいしこの辺では一番気に入ってるんだ」

 

からからと大口を開けて笑う彼女は今日の親睦会の会場がこのお店だから参加したのだと言った。

 

「詳しいのね」

「食べたり飲んだりが好きなだけ。もっとも今夜の男子学生参加者のほとんどは貴方目当てみたいだけど」

 

そう言われて思わず周囲を見回すと、ぱっ、と顔を反らす男子や手を振ってくる男子が何人もいる。

 

「無理もないか。なんかモデルか芸能人みたいに綺麗だもん」

「そ、そう?、ありがとう」

「ってもモデルとか芸能人、直接見たことないけどさ」

 

再びからからと笑う彼女につられて明日奈も「ふふっ」と笑った。それから自分のオーダーもしてくれたのでもう一度「ありがとう」と言うと「真面目だなぁ」と今度はちょっと呆れたように笑う。

こんな風に初対面の人に面倒を見てもらう経験があまりない明日奈は少し照れくさい気分になるが悪い気は全くしない。それはお酒に慣れていない事で侮ったり、自分が知識があるからと偉ぶったり、恩着せがましい態度を取ったりせず、彼女の行為がシンプルだと感じさせてくれるからだ。

それから程なくして参加者全員に飲み物が行き渡り、幹事の挨拶を皮切りに親睦会は始まったのだった。

初めて味わったシャンディ・ガフはさっぱりとした口あたりで意外にも少し物足りなさを感じた明日奈が「こういう物なのかな?」と小首をかしげると、それを察した隣の彼女が「味、薄くない?」と気にかけてくれる。

 

「アルコール入ってないとね、どうしても気の抜けた感じになっちゃうみたい。体質的にアルコールがダメじゃないなら、ちゃんとしたシャンディ・ガフ、飲んでみない?」

 

押しつけがましくはないお誘いに、それでも明日奈は「うーん」と迷いを見せた。

別に不味くはない。一方で折角だから本来の味を知ってみたいという欲もある。けれど今日の集まりを知った和人からは「酒は控えろよ」と言われて来たので、それを無視するわけにはいかない。

答えの出せない明日奈の心情を察したのか、彼女は「だったら」と更なる提案をしてくれた。

 

「ジンジャーエール多めでオーダーできるよ」

「ほんと?」

「基本は一対一だったと思うけどこのお店なら普通に対応してくれるから……頼んでみる?」

「うんっ」

 

それくらいならいいかな?、と楽しさで気も大きくなり、ちょうど他にも二杯目を頼む学生が何人もいたのでそれに乗じて注文した後、二杯目のシャンディ・ガフが運ばれてくる間にテーブルに並んでいる料理をちょんちょんと箸でつまむ。

 

「あ、本当に美味しい」

「でしょ?」

 

自分事のように、にこりと笑うと彼女は「あれと……あ、あれもオススメ」と幾つかの料理を明日奈に勧めた。言われるまま箸をつけて舌鼓を打っていると新しいシャンディ・ガフが到着する。それを恐る恐る口に含んだ明日奈は驚きで目を丸くした。

さっき飲んだヴァージン・シャンディ・ガフとは濃厚さが全く違う。更にジンジャーエールが多いせいでピリッとした辛味が際立ち明日奈としては断然こっちの方が好みでコクコクと素直に喉を通っていった。

 

「口に合ったみたいでよかった」

「!っ……ありがとうっ」

 

隣からの言葉に夢中で飲んでいた自分に気付いて、急いでタンブラーから離れ、色々と気遣ってもらった礼を言ったところで少し遠くから呼び声が飛んでくる。どうやらその声は明日奈の隣にいる彼女の名前を叫んでいるらしかった。

 

「あれ?、なんだろ?、なんかトラブったのかな?…ごめんね、ちょっと離れる。幹事に手が足りなかったら手伝う、って言ってあったんだ」

「いいよ。気にしないで行って」

 

ほぼ初対面の明日奈にも物怖じせず気軽に面倒を見てくれた彼女だ、交友関係は広そうだし頼りにしたくなる気持ちは十分わかる。けれど彼女は明日奈を気にしている男子学生がチャンス到来とばかりに腰を上げきる前に近くにいた女子グループに声をかけて自分の場所に呼び寄せてくれた。きっと明日奈が一人になった瞬間、男子学生に取り囲まれると察してくれたのだろう。親睦会に参加している同じ専攻の学生なのだから下心があったとしても追い払うわけにはいかない。明日奈の立場が悪くならない為の配慮に再度感謝を告げようとする前に彼女は立ち去ってしまい、後を受けた女子学生達も心得たとばかりに親指を立てて笑った後「結城さんと喋ってみたかったんだ」と言って自分達が受講しているおじいちゃん教授の講義内容が全然聞き取れない問題を面白おかしく話し始めたのである。

それから最初に声を掛けてくれた彼女は明日奈の隣に戻ったり呼ばれたりを何回か繰り返し、明日奈も親睦会だからと積極的に他の女子達と会話を交わし、飲み物も何度かおかわりをしつつ楽しく過ごしていた時、近くの一人が「これ、誰かのと間違えてるかも」と持っていたタンブラーの中身の正体を探るように持ち上げた。その意味にいち早く気付いた彼女がほぼ空の状態に近い明日奈のタンブラーを「ごめん、残りちょうだい」と言って止める間もなく飲み干すと途端に困り顔のしかめっ面になる。

 

「結城さん、大丈夫?」

「大丈夫って?」

「これ、ちゃんとしたシャンディ・ガフだよ」

「ちゃんとした?」

「今までのよりビールの割合が多いってこと」

 

多いと言ってもこれが通常の割合なのでまさに正真正銘のシャンディ・ガフである。

 

「へえぇ、そうなんだぁ」

 

驚きの言葉尻がちょっと間延びしているがそれ以外は特に変化は見られない。シャンディ・ガフを勧めた彼女は最初に明日奈がアルコールを躊躇っていた様子からてっきり酒に弱いかもしくは、あまり想像出来ないけれど酒癖が悪いのかと思っていたのに少し拍子抜けなほど通常運転だったから、ほっ、と安心して次に間違えてビール少なめのシャンディ・ガフを飲んでしまった女子学生へのフォローに入る。

ただ、もし明日奈の性格を熟知しているリズや、それこそキリトがこの場にいればすぐに違和感に気付いた事だろう。

宴もたけなわで席の移動は激しいし、既に呂律が回らなくなっている者も少なくない……結果、浮かれまくっているこの場では割合が違うだけで同じ名前のカクテルがそれぞれの注文主に正確に届かなかった状況など誰の非なのか判断は難しい。それでも明日奈は他者のオーダーカクテルをほぼ飲みきってしまっているのだから、平時ならすぐさま謝罪を口にするだろうし、そもそも一口目で味の違いに気付いたに違いない。

要はいくら割合が少ないとはいえ普段全く馴染みのないビールを飲んだ明日奈は既に完全に酔っ払っていたのだ……自分が酔っている自覚がないほどに。とどめが最後の正規割合のシャンディ・ガフである。

そして幸か不幸か、この親睦会会場でそれを見抜けた者はいなかった。

とりあえず明日奈が飲むはずだったアルコール度数の低いシャンディ・ガフを新しい物と取り替えてもらえるよう段取りを付けて賑やかな一角に戻った彼女は改めて密かに噂されている今年の新入生美人ランキングナンバーワンを観察した。

確かにこれは文句なしにナンバーワンだ。

見た目はもちろんだけど椅子の座り方から箸の動かし方まで所作も綺麗だから元々美味しい料理が更に美味しそうに見えるし、彼女が口に運ぶと居酒屋の料理が高級割烹の料理に見えてくる。

しかも今日初めて短時間しか言葉を交わしていない自分でも分かるほど内面ももの凄い美人さんだ。

時々席を外す自分が戻ってくればいち早く気付いて場所を空けてくれるし、会話に入りやすいようその時の話題をさり気なく教えてくれる。単に聞き上手なのかと思えば添えてくる言葉は知識の深さを感じさせるものばかりで、耳に優しい声や話し方でつい聞き入ってしまうほどだ。

そんな彼女が間違えてうっかりカクテルを飲んでしまった時は少々慌てたが、思ったほど影響は出てないように思えてこっそりと安堵の息を吐く。

 

「結城さん、それほどお酒に弱いってわけじゃないんだね」

「そう?、でも飲み会はダメって言われてたんだけど……」

「言われて?、親、とか?」

「親じゃなくて、友達と、あと他にも……」

「じゃあなんで今回は?」

「今回のは飲み会じゃなくて親睦会でしょ?、だからいいよねっ?、って言ったら、いいのかなぁ?、って言われて、いいでしょ?、ダメ?、って聞いたら、いいよ、って」

 

この段階になって彼女は「あれれ?」と思った。明日奈の見た目はほんのり目元が薄紅色になっているくらいだし、今のやり取りだってちゃんと会話として成立している……しているけれど、なんとなく口調がはしゃいでいると言うか全体的に高揚感が漂っているのだ。それでもまあこの位なら、と思い直したのは明日奈の動きが親睦会が始まった時と変わらずきびきびとしていたから。

店員に空のグラスや皿を渡す動作も危うさは欠片もない。

それにしても今の会話で登場した、明日奈の親睦会参加を認めた人物は一体誰なんだろう?、という疑問の方が大きい。

あとこれは親睦会という名目の紛れもない飲み会なのだが、それを理解しているのか、それとも承知の上でとんちを効かせているのか、その辺の感じを判断出来るほど明日奈の人となりが把握できていない彼女はどちらにしてもおねだり顔で「ダメ?」とか言われたら何でも「いいよ」って言っちゃいそうだけどね、と苦笑いになる。

まぁ、実際本当にアスナに上目遣いで「ダメ?」と聞かれたキリトが「うぐっ」と言葉に詰まった後、不承不承の顔で「いいよ」と言ったのは「お酒はなしで」という条件を素直に受け入れたからだが……。

そうこうしているうちに貸し切り時間の終わりが近づき「この後」の相談があちらこちらの少人数単位で持ち上がり始めた。

今まで近くで一緒にお喋りをしていた女子学生のグループから「結城さんはどうする?」と軽く声をかけられた明日奈が「んー」と考え込む。

一方、この親睦会で全く明日奈に近づけなかった男子学生達は目に希望の光を宿した。

即決お断りの直帰コースかと思われていた本年度ナンバーワンの美人新入生がこの後の行動を決めかねている。これはこのままの流れでご一緒しませんかコースも有りなのか?!、と一縷の望みに各々自分達の二次会プランのプレゼンを、とドヤドヤ集まりかけた時、明日奈が難しい顔をしたまま熱っぽい息を「ほぅっ」と吐く。

 

「なんだったかな……んーっとね。開いたら…あれ?、閉じたら、だっけ?」

「どっかのドアの話?」

 

思わず隣に居た世話焼きの彼女が突っ込んだ。

 

「そうじゃなくて、ううっ、どっちだかわかんなくなっちゃった」

 

自分の小さな頭を両手をグーにして押さえ込んでいる明日奈は今にもポカポカと叩き出しそうなほど悩んでいる。その姿に隣の彼女を含めた周囲の学生達は「なんだこれ、可愛いすぎる」と全員が金縛りにあったかのように一斉に動きを止め、うんうんと唸っている明日奈に視線が釘付けだ。

 

「そうだっ、開いても開かなくてもいいの。だからこの後は大丈夫っ」

 

何かが吹っ切れたように、にぱっ、と笑顔となった彼女に全員が「え?!」となった時、停止状態の学生の間を高速で通り抜けた黒い影が明日奈の後ろで静かに止まり、そっと片腕で捕縛した。

 

「ああ。オレが連れて帰るから大丈夫だ」

「キリトくんっ」

 

振り向いて、ふにゃふにゃとろりんっ、と全てを委ねきっている笑みを向けられたキリトは逆にジロリと冷たい視線を突き刺す。

 

「アスナ、オレとの約束、覚えてる?」

「約束?…もちろんっ。今夜はキリトくんの所にお泊まりでしょ?」

「あ……ああ、そっちじゃなくて……」

「お泊まり、久しぶりだから嬉しい。キリトくんも嬉しい?」

「う゛、うん」

「ずっとキリトくん忙しかったもんね。レポートとか公開講座のお手伝いとか、あと、えっと、他にも……」

「わかった、わかったから」

 

和人は痛む頭を片手で押さえて、はあぁっ、と大きな溜め息を落とすが、そんな仕草の意味など酔っている明日奈には理解出来るはずもない。

周囲の学生達も初めは突然現れた見知らぬ男性に驚きはしたものの、彼の腕の中にいる明日奈の無邪気な姿に加え「お泊まり」というパワーワードの出現に表情を凍らせたまま、ぼとりっ、またぼとりっ、と手にしていた荷物やら携帯端末やらを落としていく。

そんな中、明日奈の隣で二人の様子を唖然と見ていた彼女は「ハッ」と何かに気付き恐る恐る「ちょっといい?」と割り込んだ。

真っ黒な前髪の間から意外にも素朴な眼差しが向けられる。

明日奈を抱き込んだ時の周囲の男子学生を威嚇していた刃物のような瞳でない事にほっとしつつもまずは「ごめんっ」と潔く謝罪の言葉を告げた。

 

「結城さんにお酒控えるように言ったの君だよね。最初はちゃんとお酒じゃないの飲んでたんだ。でも私が勧めたの。それだって渋ってたのにアルコール度数低めに作って貰えるって、余計な事言った」

「その低めのを飲んでコレ?」

 

自分の頭から栗色の髪に手を移動させ軽く頭頂部を撫でればそれに合わせていとも簡単に明日奈の頭がグラグラと揺れ、それに合わせて「うふふっ、ふふっ」と何が可笑しいのかご機嫌な明日奈が笑い声を上げている。

 

「最後の一杯は色々手違いがあって普通のカクテルを殆ど飲みきったから……」

「はあぁぁっっ」

 

さっきよりも深く重たい溜め息。

神社仏閣を参拝するみたいに「だから、ごめんっ」と両手を合わせてもう一度勢いよく謝ると、返ってきたのは意外にも怒声ではなく「いいよ」と言う呆れと疲れの混ざった声だった。

 

「それだけ詳しく知ってるなら色々とアスナの面倒見てくれたんだろ」

 

そもそも参加を容認した時点でこうなる可能性もゼロではないと思っていたから迎えに行くと断言したのである。

けれどさっきまでの明日奈は確かに少しふわふわ感はあったものの今ほど危なっかしくはなかったのだ。あの程度ならそうそう判断力も低下しているとは思えなかったのに一体どうしてこんなザ・酔っ払いみたいになってしまったのか……。

その疑問を感じ取ったのか、和人が解説を始めた。

 

「酒が入ると一見それ程違いは出ないんだ。言ってる事も筋が通ってるし口調もあまり変わらない。動きもいつも通りなんだけど賑やかに飲んでると思ったら前触れもなく電池が切れたみたいにパタンっ、と寝ちゃうんだよなぁ」

 

ナルホド、確かにそれは時と場所と一緒にいる人選が重要な酔い方だ。きっと和人が来なければそろそろパタンのタイミングだったのかもしれない。それでも疑問は残る。しかしそれさえも見越したように和人が解説を続けようとすると腕の中の明日奈がもぞもぞと動いてちゃっかり和人に正面から抱きかかえられている位置まで回転し「んーっ」と胸元に頬をすり寄せた。

 

「キリトくんの匂いだぁ」

 

これから嬉し恥ずかしのお泊まりである。当然匂いをスンスンするなど軽めのスキンシップにすぎないが周囲はまたもやピキーンッと硬度を増した。全く動揺していない和人はお返しのつもりなのか、屈んでサラサラの艶髪に鼻頭と唇をくっつけた後無情にも「アスナはアルコール臭い」と顔をしかめる。

臭い、と言われても全く気にせずマーキングのようにキリトにすり寄っている姿は彼にしか懐いていない猫のようだ。

引き攣る頬をそのままに「なんか結城さんのイメージが……」と隣の彼女が呟いてしまうのも致し方ないだろう。結城明日奈を表す言葉なら、頭脳明晰、容姿端麗、才色兼備などの四字熟語がお決まりになっている。加えて性格も優しく穏やかで気配りも完璧。逆に欠点がなさすぎて高嶺の花というか近寄りがたいと思ってしまうほどなのに今の明日奈は「おいで、おいで」をしたくなってしまうほど小動物感が溢れ出ていた。

 

「ああ、アスナのコレはオレ限定だから」

 

さらっ、と言ってのけたが優越感が存分に含まれたセリフにまたもや周囲一同が同時に「は?!」となる。

 

「アルコールが入って近くにオレがいるとこうなるんだ」

 

明日奈を二次会に誘おうと寄ってきていた男子学生達を、ふふんっ、と言いたげな勝者の瞳で見回すだけで撃沈させた和人は「んーじゃオレ達は」と言いながら彼女をしっかりと抱え直して立たせると店の出口へと向かった。けれど明日奈が「あっ」と言って足を止めすぐに振り返って無垢な笑顔を満開にさせる。

 

「今日はありがとっ。またね」

 

ズキューンッ、と心臓に穴の開いた学生達がよろめいた。

和人の「そういう顔は見せなくていいから」の小言と同時に落とされた何度目かの溜め息を何と勘違いしたのか明日奈が首を傾げる。

 

「キリトくん疲れてるの?、早く帰ろ」

「そうだな。なんかすごく疲れた気がする」

「疲れた時はね、お風呂だよ」

「だな。早くその臭いを消して明日奈だけの匂いにしたいし」

 

そんな会話を交わしながら店を出て行く二人を無言で見送った者達は「いやいや疲れたのはこっちだよ」と言えるはずもないツッコミを思念で飛ばしていた。

今日一番明日奈と言葉を交わした彼女が二人の消えたドアを見ながら「なんかもう飲むっきゃないな」と独り言のように呟くとその場にいた全員が申し合わせたように「うん」と頷いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
まずは謝罪をっ。
ご本家(原作)様の設定を極力遵守するつもりでやってきましたが
日本の法律を遵守するのを失念しましたっ。
大学生になったからって飲酒OKじゃないんですよね……。
この時代はOKになってたってことでよろしくお願いします。


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【「お気に入り」800件突破記念大大大大大大大大感謝編】〈UW〉どこへでも

すみません、今月は投稿お休みします宣言したんですけど、やっぱり感謝の
キリ番投稿は早めにしたくて……。
だって800ポチですよっ(単位これでいいのか?)
小学校の新入生だって友達100人でっきるっかなーっ、てくらい難易度高めの
ミッションなのにっ(比較対象これでいいのか?……そして新一年生に100人は
かなりの無茶ぶりだと思う)
PC画面(基本、作業はPCなので)の向こう側にとっても優しいキリアス好きなヒトが
800人以上もいらっしゃるーっ、と思うと幸せいっぱいになります(照れ)
幸せいただいたお礼になれば嬉しいのですが……今回のキリ番感謝投稿は
キリトとアスナがアンダーワールドから生還した後のお話です。


二〇二六年八月初旬、STLのジェルベッドから今は所沢防衛医大病院のベッドへ寝具を替えた和人だったが、明明後日の夜は懐かしくも川越にある自宅のベッドで横になれる予定となっている。

「若いっていいわね」と退院の日を告げにきた安岐はついでのように言っていたが、そんな台詞を笑顔で口に出来る喜びを噛みしめているような笑顔だった。それでもまだ完全復活には一割ほど足りていない、と判断したのは本人以上に和人の事なら「なんだって知っている」明日奈の言だ。

 

「うーん、まだ標準キリトくんの九割くらいかなー」

 

さささっ、と腕や背に触れただけでそんな僅かな違いがわかってしまう発言の理由を苦笑で受け流した和人は内心で「それならオレもアスナの回復度合いを触診してもいいのか?」と思ったもののここが病室なのを考慮して声にはせず、すぐに彼女が持って来てくれた見舞いのバラの色に意識を持って行かれる。その色に刺激された郷愁も隣に座り触れてくれた存在のお陰で痛みを伴うことはなかった。

浮遊城アインクラッドの崩壊を二人で見送った時も、妖精郷の世界樹の上で再会した時も、アンダーワールドで覚醒した時だってこうやってアスナと額同士を触れ合わせると不思議と不安は薄らいで安らぎを覚えるのだ。そんな二人だけの時間もメガネの元役人が強襲してきたせいで終わりを告げたのだが、再び病室に二人きりになると彼女は大胆な提案をしてきた。

なんとこれからALOで開かれる九種族合同会議にこの病室からダイブすると言うのである。「しょーがない」という言葉とは裏腹にトートバッグの中にはアミュスフィア一式がちゃっかり入っていて、それを取り出す手に一切の躊躇はない。けれどそれを指摘すれば「念の為だもん」と少し照れた口調とそれを誤魔化すみたいに尖らせた唇に続き「細かいこと気にしない!」などと生真面目な元KoBの副団長サマと同一人物とは思えない声が勢いよく飛んでくる。

ここまで整ってしまえば明日奈が今すぐ世田谷の自宅まで戻っても会議の開始時間に間に合わないのは確定だし、その内容がアンダーワールドにコンバートしてくれたプレイヤー達への事実報告となればキリト一人だけの参加というわけにもいかない。

彼女の思惑通り、と取れなくもないがこれはもう流れに身を任すしかないだろう、と真っ白なミュールを些か雑に脱いで覆いかぶさるように胸に飛び込んで来た明日奈を和人は当然のように柔らかく受け止めた。

久しぶりだが何の違和感もなく、むしろこれが本来の有り様なのだと思えるほど自然に全ての隙間を埋めて互いの呼気を分け合う。あまり深くなりすぎないようストッパーをかけつつ少しだけ舌で翻弄して明日奈の気を向けさせ、さっきのお返しとばかりにこっそりと肩や背中、腰周りに触れて確かめれば和人も内心で「うーむ」と唸った。

細いな、と思う……誰と比べて、と言うわけではないけれど標準の明日奈なら細いけれどしなやかな筋肉とか弾力のある肌を感じられるのに、今はとにかく細い。

折れない…か?……折れない、よな?……などと冗談としか思えない思考が半ば本気で頭を占拠しそうになる所を「ンっ…っあ」と跳ねた甘声に聴覚が刺激されて一気に己を取り戻した。どうやらうっかりいつものように明日奈の弱い部分を集中的に擦ってしまっていたらしい。すぐさま彼女の舌を解放して「ご、ごめん」と謝罪を口にしたが明日奈の方は上がってしまった息のせいで唇は煽情的に小さく開いたままだし、頬は色づき、潤んだはしばみ色はそれでも和人を見つめていて……その表情は中途半端な触れ合いが不満なのか、はたまたやり過ぎた和人を責めているのか、どちらにしても向けられた方としては理性を総動員するしかない状況になっている。

ここは病室、ここは病室、という呪文で頭をいっぱいにして、とりあえず上に乗っかっている明日奈を抱きかかえたまま、よっこらせ、と一緒に九十度回転し隣に横たわらせた。

そこで、やっぱり軽いな……と思う。

未だ標準に達していない(らしい)和人が楽に受け止めてしまえる明日奈も三日前に退院したとは言え未だ「標準のアスナ」には至っていない。

約二ヶ月前、自分を庇い和人が昏睡状態に陥った時からずっと心配が続き睡眠も食事もまともに取れないまま今度はアンダーワールドにダイブしたのである。そこで自らログアウトを拒みキリトと共に限りなく死に近い状態で三週間が過ぎた後の覚醒……和人と退院のタイミングがずれたのは彼のような外傷がなかったからで明日奈もまた完全に復調したわけではないのだが、ただ、それに気づけるのは通常の明日奈のあれこれを知り尽くしている和人だからで……。

「オレの、せいだよな……」と思ってみても、明日奈がジョニー・ブラックに害されるくらいならやはり何度思い返してみてもあの時はあの行動しかなくて、それでも万が一自分ではなく彼女がオーシャン・タートルに運び込まれアンダーワールドにダイブしたとして、同じようにユージオと出会ったとしたら、と仮定すれば想像でも胸がもやっとし「やっぱりオレでよかった」と確信する。

退院後は全く手つかずの夏休み課題の処理に追われそうだが、それでも一日くらいなら外出する時間はあるだろう、甘い物ならアスナも喜ぶだろうし……と少しでも早く元の彼女に戻って欲しいと考えているとアミュスフィアを持ったままの明日奈が胸元から「キリトくん」と呼びかけてきた。

 

「ん?」

「あのね、出来ればそっち側がいいんだけど……」

 

ベッドに並ぶ位置を入れ替えて欲しいと言われた和人も自分の右側にいる明日奈と何もない左側を交互に見て、そうだな、と納得する。

わざわざ決めたわけではないけれど旧SAOでも森の家の寝室ではキリトの左側がアスナの定位置だったし、それから《現実世界》でも一つのベッドで横になっている時は自然とそうなっていた。

 

「よし、それじゃあっ」

 

言うほどの勢いは必要としなかったが改めて明日奈の腰と肩をしっかり引き寄せた和人が今度はぐるんっ、と半回転して彼女を右側から左側に、まるで太陽が東から西へ移動するように運べば「きゃっ」と一瞬驚きの声が飛び出たもののベッドに着地すると、ふぅっ、と吐いた息が首元を掠める。ただ位置を逆にしただけなのにもうずっとそれが当たり前のように思えて和人は妙な安堵感に戸惑いながらも明日奈と同じように、ふっ、と力を抜いた。

 

「うん、やっぱりしっくりくるな」

「……そうだね」

 

明日奈に回していた腕を解き仰向けになると視界にはそっけない病院の天井しかないのに、いつもの温もりがいつもの位置と思える場所にあるだけでなんだか心が落ち着くと言うか、欠けていた部分が優しく補完されて魂が綺麗な形になった気がした。

それは明日奈も同じで、和人の選んだ移動方法について一言物申したかったらしいが自分の居場所と感じる心地良さに負けたのか、つい笑みを零して、すりっ、と頬を寄せ「きっと……」と目を瞑る。

 

「アンダーワールドでもずっとこうしてたんだよ」

「ああ、あのベッド、やたら大きかったもんな」

 

ベッドに天命と言うべき耐久値があったかどうかは分からないが、それでもまぁ、多分、二百年という気の遠くなるような時間を毎晩こんな風に二人並んで横たわったに違いない……いつも横たわっていただけかどうかはさておき。

旧SAOで虜囚となった時は森の家で二週間という短い期間だったが、アンダーワールドの白亜の塔では二百年というありえない単位で、けれどどちらの時間でも互いの想いがより深く、強くなった事は間違いないだろう。

だからこそ、今こうして当たり前のように明日奈が隣に寄り添ってくれるのは奇跡のようなもので、覚えているだけで何度も彼女を失いそうになったのだから記憶の無い二百年の間だってそうした場面はあったはずだと思い至り、ぶるり、と肩が震える。

しかしちょうどその時、病衣から伸びている和人の裸足の指にちょんっ、ちょんっ、とノックのリズムで触れてくるのは明日奈の右の素足だ。

 

「大丈夫だよ、キリトくん。私はどこへだって付いていくから」

 

一番に明日奈に相談したかった……けど明日奈には一番言い出しにくかった……そんな葛藤すら全てお見通しだといわんばかりに穏やかな声が流れてきて、一瞬呼吸を止めた和人はすぐに降参の溜め息を吐き出し、今度は甘えるような仕草で明日奈の足先に己の足先をこすりつける。

 

「いいの……か?」

「いいも何も、私が一緒じゃないとダメ…でしょ?」

 

キミ、一人の時は泣き虫さんだし……と続く心の声が聞こえた気がしたが、ここで強がりの言葉を返す気もおきなくて和人は再び身体の向きを変えて肯定の代わりに明日奈を思いっきり抱きしめ、「ありがとう」の代わりに微笑んでいる彼女の唇を塞ぎ、肝心の進路変更先の話は後でいいか、と頭の隅に追いやって彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

帰還者学校を卒業した後も明日奈がそばにいなければ自分はダメなんだと情けなく告げたくせに、このぬくもりを感じられないまま二百年間をアンダーワールドで過ごそうなどと一時でも考えた己の浅はかさと、それを何も言わないままで察してくれた彼女の聡明さに、この分だと一生敵わないんだろうなぁ、と嬉しい諦めが内を満たす。

だけど一生一緒にいられるなら、一生敵わないままでいい。

ずっと、どこまでも一緒だと言質を取っているくせに明日奈に触れる時はいつだって余裕なんてなくて、まるで初めてみたいに彼女の全てを欲っしてしまう和人は「いいよ」と受け入れてくれる優しさに甘えてさっきよりも濃厚に舌を絡める。反射的に跳ねる肩、一瞬縮こまる彼女の小さな舌、その両方を逃がさない、と伝える為に押さえつけ、角度を変え、のしかかるようにして閉じ込めた。

きっともう自分から手を離すのは無理だと本能が告げている……彼女がいない世界の自分なんてただ生きているだけの存在になり下がるだろう。それでもアンダーワールドで二年間キリトが自分らしく生きられたのは芯が強く面倒見が良くていつも優しく笑っている、どこかアスナと似通った部分を持っていた親友の存在があったからだ。

和人の手が確かめるように栗色の髪を梳き頬をなでて首筋を辿り肩をつかむ。

引き留めるようにしがみついてくる和人の手に気付いた明日奈は咥内の熱に翻弄されつつも両手を持ち上げてそっと黒髪に指を這わせた。もう何度も「私はキミのものなんだよ」と伝えているのに失う絶望を知ってしまった彼は時折こうして臆病な手ですがるように明日奈を求めてくる。

入院中は毎日のように面会時間に会いに来られるけれど退院後は夏休み中とあってそうそうリアルで様子を見ることは叶わない。今は病院の中という一種の非現実的な空間に身を置いているが、桐ヶ谷家に戻れば否応なくここが《現実世界》なんだと突きつけられるだろう和人を思い明日奈は退院の日の夜は特に彼を見ていて欲しいと直葉へのお願いを心に決める。

今はまだ不安定な瞳を見せる和人の髪にゆっくり手を動かせば触れるかどうか微量の隙間まで一旦口づけを解いた和人の掠れた声が「アスナ」と小さく開いたままの口から内に注がれるが、応えるよりも早く再び唇が重なりがむしゃらに彼女を強請ってきた。

流石にベッドの上とはいえ場所が病室だというのは頭から抜けていないのか、それ以上の触れ合いに発展する気配はないもののだからこそ和人はこの唯一の行為に没頭する。角度を変える為のほんの一瞬に上がる「あっン」と鼻にかかった声に煽られてすぐさま噛みつくように合わせる唇と貪るように動かす舌、もはや愛撫とは呼べない蹂躙に近い接吻にもかかわらず彼女は健気に応え続けてくれた。

それからどのくらい経っただろうか、和人の髪にあった明日奈の両手はいつの間にか病衣の襟を必死に掴んでいて、きつく瞑っている眦からは幾筋もの涙が流れ落ちている。余すことなく夕焼け色に染め上げられた顔には不似合いなギュッと寄せられた眉。胸元の上下運動と連動して閉じる事を忘れてしまった口ではいつもより数段早い速度で呼吸が繰り返されており、極めつけはさっきまでの行為で桜色から薔薇色へとトーンアップしている少々膨らんでしまった唇。

 

「……ごめん、アスナ」

 

何をどう考えても自分の責任だと、やり過ぎた反省が出来るくらいまで自分を取り戻した和人がしおれた表情で謝ると、むぐっ、と口を閉じて首を横に振った明日奈だったがすぐに鼻呼吸では追いつかず「ぷはっ」と息苦しさから口呼吸に戻ってしまった。

罪悪感ましましである。

和人は襟を掴まれた状態のまま彼女の隣に横たわると肩で息をしている姿に思わず手が伸びてその背中をゆっくりと撫で始めた。薄手の白いカットソーごしに手の平に伝わる背骨や甲骨の感触から彼女の細さを再確認させられる。

 

「背中、もっとなでて」

 

整いきらない息継ぎの途中の彼女からのおねだり……もちろん否はない。

襟を握りしめていた手から力が抜け首の後ろでからめ引き寄せるように和人の胸元に明日奈がおでこをくっつける。

 

「頭も」

「うん」

 

行き場がなかったもう片方の手で腕の中にある小さな頭を抱え込むように包んで撫でれば「髪にキスしたい」と衝動が膨らんだその時「時間、平気?」と胸元から籠もった声が耳に届いた。

ハッ、と急いで時計を確認すれば九種族合同会議まであと少しで、和人はベッドの端っこに置き去りにされていた明日奈のアミュスフィアをその頭に装着してやり、それから身体を捻ってベッドサイドにある自分のそれに手を伸ばし同じようにセットすると、ようやく落ち着いてきた彼女をもう一度しっかりと抱き寄せてから「じゃあ行くか」と声をかけ、「リンクスタート」の起動コマンドを唱えるべく二人揃って唇を動かしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
このシーン、アニメ版では結構省略されてまして、ご本家(原作)様では菊岡さんが
帰った後、キリトとアスナは病室からログインして九種族合同会議に参加するんです。
キリト(和人)はそれまでもALOの森の家に一週間ほど前から毎日訪れているので
病室でアミュスフィアの使用はOKなんですね。
更に退院後、進路変更を家族に申し出る際も「まだアスナにしか言っていない」と
書かれてあるので一番最初に伝えていたようですよ。
で、同時にALOにログインした二人が目撃されていたとしたら……
「うっわ、あいつら絶対同じ場所にいんだろ」とか
「同時ダイブって……リアルでどういう状態だよっ」って言われるだろうな。


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誘い、誘われ?

大変お待たせいたしましたっ
そして今年もよろしくお願い申し上げますっ

結婚後、一人息子の和真と過ごしていた時、息子からの要望に
頑張って応えようとしている明日奈さんですが、それは和人の目には……。


「『……を前に勇者は怯えることなく指をパチンッと鳴らしました。すると炎の魔法が発動し、真っ赤な龍の姿となって……』」

 

明日奈の声は抑揚もなく、単純にただ文字を追うばかりに聞こえるが絵本の絵に集中している和真の耳に自然と吸い込まれ紙に描かれた場面に音や熱を感じざせてくれる。今、物語は魔王城に辿り着いた勇者が城の主、魔王を倒すべく戦いが始まったところで、これからが一番のワクワクシーンだ。

 

「『……魔王が大きな手を振り下ろすと幾つもの真っ黒な矢が現れ勇者に向かって飛んできます。光の剣でいくらはじいても魔王が生み出した魔力の矢は雨のように降り注ぎました。それでも勇者は……』」

 

既にもう何回も読んでいる絵本なのだが、緊迫した展開に和真はゴクリと唾を飲み込む。

 

「『……ピューッ、と勇者の吹いた口笛が聞こえたのでしょう。遠くの空から真っ白な大鷲が飛んでくると翼で風を起こして矢を次々と叩き落としていきます』」

 

絶え間なく矢が飛んできている状況で口笛吹けるか?、とか、それなら最初から大鷲も勇者と一緒にいればよかったんじゃ……、などと身も蓋もないことを言う父親と違い母親の明日奈は読み手に徹してくれるので、和真は思う存分物語に入り込み勇者の危機を救った大鷲の登場に安堵の息を吐いた。

 

「『……こうして世界は平和になったのでした』…………おしまい」

 

明日奈が絵本を閉じると今まで魔王城にいた和真の意識が自宅のリビングという一番安全な場所に戻ってくる。それでも未だ興奮で頬を赤くしながらキラキラと瞳を輝かせ、和真は握りしめていた両手をゆっくり広げると「お母さんっ」と顔をあげて明日奈を見た。

 

「ぱちんってできる?」

「パチンッ?……あ、勇者が鳴らした指のこと?」

「そうっ、どうやったらできるの?、僕もやりたいっ」

「えーっと……」

 

珍しく明日奈の眉が困窮を示す。

パチンッ、と指が鳴るのは知識として知っているが実際に自分でやったことがないからだ。今まで鳴らしてみたいとも思った事も、強制されたり必要だった事もない。なんとなくだがアルゴかクラインが鳴らしているのを見た、というか聞いたような気がするけれど、はっきりと覚えてはいなかった。

イメージとしてはこんな感じかな?、と明日奈は絵本をテーブルの上に置いて右手を構え、難しそうな顔で中指の腹を親指の腹で思い切り擦ってみるが、ぺふんっ、と情けない摩擦音がするだけだ。

 

「……ちっちゃくてへんな音だね」

 

年齢の割にはしっかりしている息子だが時には歳相応に無邪気な感想を正面から容赦なく突きつけてくる。

紛れもない事実に、ううっ、と少しヘコんだ明日奈だったがここは母として息子に諦めない姿勢を見せるべきよね、と気を取り直して背筋を伸ばし、えいっ、と勢いよく指同士を滑らせてみるが、やっぱり、ぺしんっ、と残念な音にしかならない。まだまだもう一度、と指を睨み付けたとろで和真の無慈悲な声が「ユイ姉ー」と明日奈の横を通り過ぎた。

 

「はい、和真くん。指の鳴らし方ですね」

 

しゅわんっ、とホログラム映像で現れたユイはどうやら今までの様子をモニターで見ていたらしい。笑顔で現れると「ママのやり方、惜しいです」と言って助言をくれた。

 

「薬指を親指の付け根にくっつけてからやってみて下さい」

「こ、こうかな?」

 

ぺちんっ……うんっ、なんだか少しだけど音らしきものが鳴ったっ、と表情を明るくする明日奈の隣で、パチンッ、と勢いよく弾けた音がする。

 

「ユイ姉っ、できたーっ」

「上手ですっ、和真くんっ」

 

きゃっ、きゃっ、と喜ぶ姉弟を前に明日奈が微妙な笑顔でいると、はた、と気付いた二人がバツの悪そうな顔になり……和真が母親の隣にちょこんっ、と座り直した。

 

「口笛っ、お母さん、口笛は吹ける?」

 

微妙な笑顔のまま口元がぴくっ、と跳ねる。

和真は絵本の勇者の仕草を真似したいのだろうが指を鳴らす行為に続き口笛も明日奈にとっては未経験の領域だ。それでもさっきのパチンッ、よりは音も仕草も記憶にはある。

隣から息子の期待の視線を、正面から気遣うような娘の視線を受けて明日奈は桜色の唇をすぼめゆっくりと息を吐き出してみた。

 

「……深呼吸してるの?、お母さん」

 

息子のあまりにも的確な表現力に泣きそうになる。

どうやら和真は口笛を吹く前の準備運動か何かと思ったらしい。これからいよいよ母親の唇から、あの勇者のように格好いい「ピューッ」という音が出てくるのだと信じて更に瞳を輝かせているが、明日奈の方は過度に寄せられた期待による緊張も重なって、もう絶対音なんか出ないっ、という確信に唇が震えている。お手本を見せたい、口笛を聞かせたいという親心とは反対に「そんなに見ないでっ、耳をすませないでっ」という本心に挟まれて下がった眉尻に押されたのか、じわりとはしばみ色の瞳に涙が滲み出てきそうになった時、明日奈の心情を察したユイが「和真くん、和真くん」と弟の名を呼んだ。

 

「見ててくださいね」

 

そう言うとユイは口をすぼめてピーッ、と澄んだ高音を出してみせる。

 

「すごーいっ!……あれ?……ユイ姉、それってちょっとズルっ子さんだよっ」

 

一瞬満面の笑みになった和真が、すぐに、めっ、とユイを叱るように睨んだのでユイはもちろん明日奈も目を丸くした。

 

「ホログラムじゃユイ姉のお口、息してないもんっ。今の違うでしょ」

「えへへ。バレちゃいましたか。指をパチンッと鳴らすコツはすぐ検索出来たんですけど、口笛はとにかく練習するしかないみたいですよ」

 

ユイを姉として認識しているもののホログラム映像である事も理解しているから実際に口笛を吹いたわけではないと気付いてズルっ子さんと評したらしいが、息子の理解力に明日奈は驚きを隠せなかった。確かにユイは口笛を吹く唇を形作って音声データから口笛の音を再生したのだが、そういったからくりまではわからずとも直感で「違う」と思えるほどホログラムのなんたるかがわかっているということだ。

そういうところは和人くん似かなぁ、と思う明日奈だったが、見方によってはあかたも口笛を吹いたように自分を欺したユイに憤るでもなく姉なりの優しさだとわかって「ちょっとズルっ子」だと巫山戯た怒り顔で応える和真のコミュニケーション力の高さは和人なら絶対に明日奈似だと言うだろう。

それからお手本となる音と形を知ったせいか和真は明日奈の口笛を待たずにユイに言われた通り練習を始めたようで「ユイ姉、見て、これでいいの?」と唇のチェックを頼んでいる。ユイもネットからピックアップした検索画像と見比べる為、視覚倍率を上げて正面から弟の口元をジッと見つめ「もうちょっと唇を突き出して」など色々とアドバイスをしていた。

二人の真剣なやり取りを微笑ましく見ていた明日奈だったが、ほんの少しの疎外感におずおずと申し出る。

 

「ねぇユイちゃん、私にも教えてくれない?」

「お母さんも僕と一緒に練習するのっ?」

 

ユイの「はいっ、もちろんですっ」と答える声よりも数倍大きな和真の声が飛んできた。そこには当然驚きが含まれていたが、それ以上に嬉しさに溢れている。

和真が抱いている母、明日奈の印象は何でも出来るお母さん、だからだ。自分と同じに母が「出来ない」のが新鮮で和真は真面目な顔で明日奈の脇にぴったりくっつくと「頑張ろうね」と励ましてから正面にいるユイに向かって「もう一回、見てて」と練習を再開したのであった。

 

 

 

 

 

職場から帰宅した和人が自宅玄関の扉を開けてちょっと驚いたのは「ぴぅ〜」とこの家では今まで聞いたことのないか細い音がリビングから漏れ聞こえてきたからだ。その音は風に乗って空中を漂っている蜘蛛の糸みたいに頼りなくすぐに途切れてしまったが、和人がリビングに辿り着く前に再び「ぴぅ〜」と漂い始めている。

口笛…?、と疑問符が付いてしまうくらいヨロヨロとした音を気遣って、出来るだけ雑音を混ぜないようゆっくりとドアを開け中を覗けば、ソファに最愛の妻と自分と同じ黒髪の息子が軽く向き合うように座っていて、その前でユイが見守る笑みで二人を見つめている。

明日奈の背に隠れて見えないもののさっきから聞こえている口笛の音源は和真のようだと見当をつけて、それを確かめるために身体を動かすと気配に気付いた明日奈がパッ、と振り返った。

当たり前に「ただいま」と言おうとした和人の口が「た」を発する前に固まる。

なぜなら愛しい妻の唇がいつも出勤時や帰宅時、玄関で自分のと重ね合わされる魅惑の形となっていたからだ。だから「た」を言うはずだった口から「あ?」が漏れる。けれどそんな驚きに気付かない明日奈は途端に焦り顔になって「わわっ」と言うなり立ち上がり和人の元へ走り寄ってきた。

 

「ごめんね、気付かなくて。おかえりない。お疲れ様」

「あ、うん。ただいま」

「今ね、和真くんと口笛の練習をしてて」

 

それでか、と納得しても、つい明日奈の唇に目がいってしまう。

 

「ユイちゃんに手伝ってもらって一緒に頑張ってたんだけど、和真くんの方が先に上達してね」

 

親として子供の成長を喜ぶ声と、元来の負けず嫌いが少しだけ顔を出して悔しげな目元のちくはぐさに思わず、くすっ、と和人の口の中で笑いが弾んだ。

 

「お父さんっ、聞いててっ」

 

妻の後方から息子の自慢げな声がするやいなやサッ、と首だけを向けた明日奈が「先に『お帰りなさい』でしょ。和真くんもユイちゃんも」と母の顔で窘める。

 

「……ごめんなさい。おかえりなさい、お父さん」

「そうでした。おかえりなさい、パパ」

 

揃って情けない表情になった娘と息子に「ただいま、和真、ユイ」と穏やかな声で返してから「それで和真の口笛はどんな感じなんだ?」と練習の成果を望めばすぐに和真の母そっくりなはしばみ色の瞳が輝いた。

 

「ちゃんと音でるようになったんだっ」

 

言うなり小さな唇をひょっとこみたいに前に突き出して真剣な目で慎重に息を吐き出す。姉と両親の視線を一身に受けて力みすぎたのが最初はスューッと空気音だけだったのが次第にピ〜と高音が混じるようになった。息を吸い直してもう一度挑戦すれば今度は最初から口笛……と呼べなくもない音が墜落寸前の紙飛行機みたいな低空飛行で危なっかしく流れてくる。それでも吹き終わった和真の嬉しそうな笑顔を見れば流石の和人も「まだまだだな」とは口が裂けても言えなかった。

 

「確かに、口笛…かもな」

「はいっ。和真くん、とっても練習頑張りましたからっ」

 

和人の微妙な感想には触れず自分の事のように喜んでいるユイを見ながら同意を示す為に頷いていた明日奈がいきなり「きゃあっ」と言って三人を置き去りにし、キッチンに駆け込んでいく。

 

「ご飯っ、晩ご飯の支度しなきゃっ」

 

どうやら今になって和人が帰宅しているという事実がのんびり口笛の練習をしている場合ではないと気付いたらしく、バタバタと鍋の中身を温め始めたりサラダの仕上げにドレッシングの材料をボウルに手早く投入していく様は高速で無駄がない。けれどそれを見た和人が慌てて声をかけた。

 

「大丈夫だよ、アスナ。オレ、今日はいつもより早く帰ってこれたんだ」

「え?、そうなの?」

 

和人が帰ってきた、というだけで時間を確認してなかった明日奈が改めて時計を見て、ふぅっ、と焦りの色を薄くしたのを見て漆黒の目が可笑しそうに細められる。

 

「だからそんなに急がなくていいって」

「よかったぁ」

「何か手伝おうか?」

 

有り難い申し出に、どうしようかな?、と逡巡した隙を突いて和真が「お父さんっ」と和人の腕を引っ張った。

 

「お父さんは口笛吹ける?」

「オレ?!」

 

息子からの突然の問いかけに驚いたものの、そういえば口笛なんて随分吹いてないなぁ、と困惑する。

 

「どうかな……吹いたことはあるけど……」

「やってみてっ」

 

勢いのあるお願いに気圧されそうになるが「ちょっと待てって」と息子を落ち着かせようとしていると「こっちは大丈夫だから和真くんのお相手してあげて」とキッチンから明日奈の笑い声がすればお許しが出たと和真の期待が一層膨らんだ。

 

「唇はね、ストロー使う時みたいに尖らせるんだよ」

「いや、オレ吹いたことあるって言ったよな?」

「ゆっくり息を吹き出すんだって。ユイ姉が教えてくれた」

「だから知ってる」

 

いいから黙って見てろ、と言いたげな和人の前で今までユイから教えてもらったアドバイスが言いたくてたまらない和真の口は止まらない。

 

「ちゅっ、てするみたいにちょっと力を入れてね」

「…おい、和真。お前誰にちゅっ、ってしてるんだ」

「お母さんに決まってるよっ。お父さんがお母さんにしてるの僕いつも見てるもん」

 

どこか得意気な和真の発言にキッチンの明日奈が「ひぇっ!?」と二度目の悲鳴を上げた。

 

「なっ、なっ、和真くんっ、いつも?、いつもって?……いつも見て?…いやぁっ」

 

おたまが床に落ちて派手な音を立てる。

明日奈は知らなかったようだが和人は慌てることなく首を伸ばして「大丈夫かぁ?」と言っているのでとっくに気付いていたのだろう。行ってらっしゃいやお帰りなさいの時のほんの僅かな触れ合いなど息子に見られたところで何とも思っていなかったのだ。

ところが明日奈の方は玄関先で二人きりだと思っていた時のキスをしっかり息子に見られていた恥ずかしさで、わたわたとおたまを拾い上げたものの今度はシンクの蛇口にペンッとぶつけている。

とりあえず大事には至らなかったようだと判断して和真に向き直った和人は真剣な声で「それで……」と続けた。

 

「お前、まさか、ちゅっ、て、アスナの…」

「ほっぺただよ。ユイ姉がね、お母さんの唇にしていいのはお父さんだけだって」

 

それを聞いて「よくやった」と言うようにユイと目を合わせて和人が大きく頷く。

ユイもまた、えっへん、としたり顔で笑った。

 

「じゃ、口笛だったな」

 

話を戻して久々の口笛に緊張しているのか唇を舌で湿らせてから和真が言っていた通り唇をすぼめた所で、至近距離から浴びている息子や娘の視線とは別方向からのどこか異質な感情が混じった視線に気付いて動きを止める。

視界の端に見えている明日奈が未だにおたまを持ったまま心配と期待が入り交じったような表情で和人を見つめているのだ。その視線が意味するところを息子に示すべき父親としての姿だと理解した和人が、ここはひとつ頑張らないと、と一層真剣に口笛を吹くべく気合いを入れる。そして……

 

「ピゥーーーッ」

 

お手本のようなしっかりとした高音がリビングからキッチンまで響き渡った。

 

「すごーいっ。お父さんっ、勇者みたいな口笛っ」

「さすがですっ、パパ」

 

もっと、もっと、と満開の笑顔で喜ぶ和真とユイに気を取られてしまった和人は複雑な笑顔で肩を落とした明日奈に気づけず、そのまま夕食が出来上がるまで息子の口笛練習に付き合うことになったのである。

 

 

 

 

 

夕食を済ませて口笛への関心が薄れたのか、食後のルーティンでリビングのテレビを見ていた和真はそこに映っている犬の様子に「えらいねぇ」と感想を漏らした。画面では飼い主に「待て」を指示された大型犬がエサを目の前にしながらジッと姿勢を崩さずに座っている。

 

「僕、お母さんのご飯だったら我慢できないよ」

「オレもそうだなぁ」

 

和真と並んでソファに座っていた和人もこれまでの経験から明日奈の料理に対する己の忍耐力の無さを認めた後、ふと思いついた質問を口にした。

 

「和真は犬とか欲しくないのか?、ちゃんと面倒を見るなら今度の家で飼ってもいいぞ」

 

今住んでいるマンションだと大きな鳴き声のペットは禁止なのだが和真の小学校入学に合わせて一軒家に引っ越す予定なので、そこなら犬でも猫でも飼うことができる。

明日奈も犬を飼うのが夢だと言っていたし加えて和真も望むなら考えてみるのもアリかと思って聞いた和人の予想に反して息子は違う願いを口にした。

 

「僕は今度のお家でもユイ姉と一緒にお風呂はいりたい」

「それはシステムを移行させるだけだから簡単だな」

「あとね、自分の部屋でユイ姉と普通にお喋りしたいんだ」

「お前が持ってる端末でできるだろ?」

「それだとユイ姉とお喋りしてる時に端末使えないもん」

「あー、なるほど。なら置き型のやつを作ってやるよ」

 

いや、いっそ自分達の寝室やトイレ以外の部屋は全てユイが自由に行き来しているような感覚になるのがいいか?、とプログラムの初期構想に没入しそうになったところで明日奈の声がそれを引き留める。

 

「私は近くにいい感じの公園があると嬉しいな」

 

そうすればお休みの日とかお弁当を持って行けるでしょ?、と言われれば一も二もなく和人と和真がウンウンと頷き物件探しの要望に追加された。実際、諸々の条件を把握して最初に動くのはユイなので「パパの希望は何ですか?」と情報収集に励む。

 

「そうだなぁ。オレは……」

 

少し上を向いて考えていた和人が口にしたのはちょっと意外な内容だった。

 

「やっぱり最寄り駅とか最寄りのバス停から安全に往復できる場所にある家、かな」

「パパ、このマンションを探す時も同じこと言ってましたね」

「そうなの?」

 

結婚して住み始めた我が家だが、明日奈は知らなかったようだ。確か明日奈の方は自分と和人の職場へのアクセスがしやすい事を一番に挙げた記憶がある。

 

「当たり前だろ。家の防犯ならいくらでも対策できるけど路上で変なヤツにアスナが狙われたらどうするんだ」

「大げさだよ和人くん」

「大げさなもんか。昔から待ち合わせで先に到着してると必ず知らないヤツから声かけられてたくせに」

「そうだよお母さん。僕が小学生になったらお仕事に行く時も帰って来る時も一緒じゃないんだから、知らない人に付いてったらダメなんだからね」

 

夫と息子からの真剣な顔に挟まれて困り顔の明日奈は縮こまりながら小さく「はい」と返事をしたのだった。

それから和真と一緒にお風呂を済ませた和人はリビングで今手がけているプロジェクトの参考資料をチェックし終えてから照明を消して寝室へと移動した。ドアを開ければその隙間から切れ切れの高音が混じった空気の吹き出している音が聞こえる。

何の音だ?、と不思議に思いつつそのまま扉を開けて中を覗けば既に和真を寝かしつけ終わった明日奈がベッドに腰掛けて必死の形相で唇を尖らせていた。

ぴしゅーっ、と息を吐き出し切ると眉根を寄せたままもう一度大きく息を吸い込み再び、ぴしゅーっ、を繰り返す姿はもの凄く真剣にゆっくり深呼吸をしている妻……と見えなくもない。

 

「アスナ?」

「ぴゃっ……あ、和人くん」

 

見られていたのが恥ずかしかったのか、直ぐにうっすらと頬が染まり気まずそうに目が泳ぐ。

そんな反応は今まで数え切れないほど見てきたはずなのに、それでも和人はゴクッと唾を飲み込んだ。

そう言えばテレビを見終わった後、風呂場で湯船に浸かりながら和真が思い出したようにずっと口笛を練習していて、湿気が良かったのか随分しっかりした音が出せるようになった上に浴室故の反響効果でキッチンで片付けをしていた明日奈の耳までよく届いていたのだろう。それで我慢出来なくなって一人寝室で口笛の練習をしていた……とか?、と今の状況を分析する。

 

「うぅ…だって、口笛、私だけちゃんと吹けないんだもん」

 

口笛だよな?、とは思っていたが自ら打ち明けてくれたお陰で和人は、やっぱり、と半信半疑だった自分の考えに確信を持つと同時に「なんで深呼吸してるんだ?」って聞かなくてよかった、と胸をなで下ろした。

今の明日奈を知る人間には、出来ない事を猛練習する彼女、なんてなかなか想像がつかないかもしれないが十代半ばに《遊びではないゲーム世界》の中、生き抜く術を懸命に身につけていく姿をすぐ傍で見ていた和人としてはどこか懐かしい気分にさせられる。とは言ってもあの頃と違い既にやり方はユイにレクチャーを受けているし、それで和真は習得しているのだから今更自分が口を出す必要はないだろう、と隣に腰を降ろし無言で練習の続きを促した。

いまだ顔に照れは残っているものの帰宅早々に見事な口笛を披露した和人の存在が心強いのか明日奈は意を決したように頷くと薄桃色の唇の上下を、んー、と強めに押し付け合ってから軽く舌で湿らせて徐に和人の方へ突き出した。

 

……ふぅ〜

 

まるで熱々のコーヒーを飲むため、表面に息を吹きかけて冷ましているそれである。

しかも「ぷっ」と目の前から和人が吹き出した声まで聞こえて明日奈の羞恥は一気に爆上がりだ。

 

「わわっ、笑わないでよぅ」

「…悪い」

「もうっ。さっきはちょっと音が出てたのに」

 

こんな感じだったかなぁ、と顔の熱も引かないままムズムズ動いている唇に引き付けられている和人の目は面白がるような色の中にゆっくりと本能の色が混ざり始めている。

 

「ユイちゃんに教えてもらった通りにやってるつもりなんだけど……和人くん、ちょっと見ててくれる?」

 

行儀良く両手を膝の上に揃えて置き、顔だけを和人の方へ向けた明日奈は何より唇に意識を集中させて細く細く空気を吐いた。すると微かだが吐く息に混じって北風のような音が紡ぎ出される。

 

「あっ、なんとなくわかったかも」

 

コツを掴みかけたのか和人の反応には気が回らず、とにかく今の感じを忘れないうちに、ともう一度唇をすぼめた時だ「アスナ、もうさ、そろそろ……」と少し掠れ気味の声に遮られて、はたと我に返った。気付いてみれば既に深夜と呼べる時刻である。

 

「あ、…そうよね。ごめんなさい。口笛って夜に吹くものじゃ…っ」

 

ないし、と続くはずの声は一瞬にして距離を詰められた和人の唇に塞がれて発せられることはなかった。

驚きであげてしまった「んんっ」という短い声が抗議の意味も含んでいると伝わったのか、すぐに解放してくれたものの吐息が触れ合う程の近さのまま夜空色の瞳はジッと明日奈を見つめておりその奥に浮かぶ熱から少しでも目を逸らしたら最後、ひと思いに食べられてしまいそうな予感がする。

 

「…そろそろ、限界」

 

言ってぺろり、と舌でふっくらとした桜色の唇を味見すれば更に飢えが増したのか黒瞳に欲の灯が揺らめき始めた。

ついさっきまで口笛が吹けるよう自分で湿らせてた舌もそんな風に和人に舐められると全身が期待と戸惑いで落ち着きをなくし明日奈の思考力を鈍らせる。

 

「えっと…和人くん?」

「唇を見てろって?、誘ってるようにしか見えない」

「誘って!?」

「それとも強請られてるのか?……どっちでもいいけど」

「ッン!」

 

今度は隙間なく押し付けられ、そのままクリームを溶かすみたいに執拗に舌が這う。腰から攻め上がってくる急激な痺れに堪らず明日奈が声を上げようとすると、それすらも漏らさず和人に飲み込まれ「んぅ〜っ」と甘く耳の奥で反響するばかりだ。

 

「口笛が吹けるようになってもオレの前だけにして」

 

練習段階でこうやって唇を塞がれてしまうのに習得しても和人くんの前で吹けばやっぱり同じ結果になっちゃうんじゃ?、の考えから「え〜!?」と発してしまえば、自分の願いに反発されたと勘違いしたのかいきなり、くわっ、と大きく口が開き噛みつくように唇全体を含まれてくまなく舌でねぶられる。生温かな感触の気持ちよさに酔ったらしく、力が緩く抜けたのを見計らって、とんっ、と上体をベッドの上に倒された。

 

「ちっ、ちがうのっ。口笛、吹けるようになったらユイちゃんと和真くんに…」

 

ああ、さっきの「え〜!?」はそういう意味だったのか、と和人が理性を取り戻したのは一時で、眼下にある息の上がった唇は己の所行で艶めかしい水気をまとい、熟れた頬に不規則な呼吸で浮かび上がった涙を湛える瞳、全身から立ちのぼる明日奈の香りは和人の欲を際限なく刺激してくる。

 

「どっちにしても練習はもう終わりだ」

 

だからと言ってこの夜が終わるわけじゃないけど、と言いたげに今度は耳をかぷり、とやれば「ふぁっン」と蕩けた高音が散々いじられた唇から熱い息と共に吐き出された。続けて耳から鎖骨へ小刻みにキスを落とすと震える小さな声に「ま、待っ、て…」と懇願されるが彼女の肌に唇を押し付けたまま和人は「無理」と即答した。ほんの少し頭を上げて潤んだはしばみ色に言い聞かせる。

 

「知ってるだろ、アスナに関して犬より我慢がきかないのは料理だけじゃないって」

 

従順に「待て」を聞き入れるような躾の出来たペットじゃないんだ、と牙を覗かせそうに笑った。

すぐに首筋に吸い付き所有の赤を付けると同時に素早く侵入させた手で彼女の柔らかいところを優しく刺激すれば涙声の嬌声が綺麗にあがる。

 

「そうだ、今度の家、オレ達の寝室の防音はしっかりしなきゃだな」

 

この状況で新居の希望を思いつく和人に反応しかけたのか明日奈は物言いたげに眉根を寄せてから「キ、キリトくん」とこちらも理性の薄れた呼び名を口にした。こんな時に何を言うのよっ、とお叱りの言葉を待ち受けていた和人の耳にたっぷりの愛欲に包まれた声が忍び込む。

 

「キス、もっとちゃんとして」

 

一瞬、意表を突かれた顔になった和人の瞳にすぐにぶわり、と仄暗い炎が燃え上がった。




お読みいただき、有り難うございました。
まだ目の調子が完全復活っ、ではないので少しずつ、ゆっくり……って
いつもそんな感じなので亀更新が大亀更新になってしまいました。
すみませんっ。
それなのに「え!?、キスまでならR−15だよねっ」な内容を
今年一発目からいいのだろうか。
体力ならぬ目力が底を突つきかけているので「ウラ話」はお休みさせて
いただきます。


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〈UW〉困惑のふたり

前回かなり投稿が遅くなったので今月こそはっ、と15日UPを
目指したのですが……それでもちょっとずつ縮まってますので
許してくだされっ

原作未読の方にはちょっと見慣れないキャラ名がありますが
軽くスルーで読んでいただけると嬉しいです。
「後書き」でちょっとフォローいれますね。


エアリーは今の状況に困惑していた。

知らない男達に手足を縛られ頭から袋を被せられるのも初めてなら、そのまま馬で運ばれて人気のない廃屋の一室に連れて来られたのも初めてだ。

百年以上生きてきたとは言え、それがセントラル・カセドラル内のごくごく限られた空間内での経験しかない彼女にとってはこの一年ほどの間に自分の身に起こった出来事はどれもが初めての連続だったのだが、今日のこれはとびきりである。

そうは言っても百余年分全ての記憶があるわけではない。

自分の名すら忘れてしまっていたくらいだから、これまでの記憶にどの程度破損があるのか本人もわかっていなかった。

けれど今は……私に似合う名前を、と一生懸命考えてくださった人達がいて、自分の中で無意味だと思いながらも抱いていた小さな願いを真剣に聞いてくださる人達がいて、毎日自分と一緒に同じ目標に向かい頑張ろう、と励ましてくださる人達がいる。

全てに無関心でただ昇降洞の中で風素を生成し続けていた頃の自分とは違うのですから、とエアリーは自分を鼓舞した……ただし無表情で。

ここまで色々と考えているが表情筋は0.001メルも動いていない。

そんな彼女の隣から「ふぅっ」と全く緊張感のない、それどころか澄んだ小川から水が流れ落ちるような涼しげな溜め息がもれた。

 

「アスナさま……」

「一体いつまで待たせる気かしら?」

 

エアリーと同じように頭の麻袋は剥ぎ取られたものの手足を固定されたまま椅子に座る格好で縛られている人界統一会議の副代表剣士アスナには一欠片の戸惑いもない。それどころか自由を奪われているのに、粗末な木製の椅子にスッと背を伸ばして腰掛けている姿は気品に溢れここが埃だらけの小部屋ではなくどこかの高級レストランかと錯覚させられる。

当然先程発したセリフは注文した料理の提供が遅いからではなく、二人をここに運んで来た男達が聞かれたくない相談事でもあるのか彼女達を置き去りにして全員部屋から出て行ってしまったからだ。部屋の扉が完全に閉まっていないのは自分達の様子や会話を見張る為かと今まで黙っていたが、扉のすぐ外で話している男達の声が段々とヒートアップして大きくなってきたところをみると単純にしっかりと閉めるのを忘れただけなのかもしれない。

 

『……央都の工廠には女しかいないんかっ?』

『しかも二人ともえらいべっぴんさんだっ』

『さっすが央都だなぁ』

 

大の男が揃いも揃っておバカさんしかいないのでしょうか?、とエアリーは頭痛を覚えた。

どこの工廠だろうが女しかいないわけはないし、そもそも作業服を着用しているのはエアリーだけでアスナはちゃんと副代表剣士の象徴とも言える真珠色の騎士装で身を固めている。

更に言えば自分とアスナさまを「べっぴん」という枠で一括りされるのにも些か抵抗を覚えていた。他者から見ればエアリーも儚げな美貌の持ち主なのだが、アスナの容姿に関しては言葉通り人外の美しさだと感じている彼女からしてみれば同列に扱われるなどおこがましいにも程があるのだ。

そもそも央都の住人なら創世神ステイシアの生まれ変わりであると信じられているアスナの顔を知らぬ者はいないと言っていいのだから、今さっき聞こえてきた会話から察するに二人を攫った男達は央都以外の出身であると思われる。一体何が目的なのでしょう?、と思って聞き耳を立てていると男達の会話は段々団結の乱れを感じる展開になっていた。

 

『だいたい金属で出来た鳥が空を飛んだなんて嘘だったんだ』

『そうだっ、それっぽい鳥さえいなかった』

『でもよう、もし本当にあったら、坊ちゃん喜ぶぞ』

『よしっ、もう一回探しに行くかっ』

『それよりあの二人はどうするんだ?』

 

聞こえた会話から想像するに以前央都で大々的に行われた《機竜試作一号機》の飛翔実験の話が時間を掛けて周辺に広がっていったのだろう。それを知ったどこかの貴族の子供が鳥を欲しいと言ったのか、それとも彼らの独断行動なのか……どちらにしても渡すわけにはいかないし、だいたい彼らが想像している金属の鳥と本来の機竜は大分色々違う気がする。

どうやら自分達の拉致監禁は予定外の行動だったらしい会話を聞いてエアリーは少し安堵した。彼女はなくし物を探す為にひとりで工廠にいたのだがアスナはたまたまやって来ただけにすぎないから工廠の作業員を狙った犯行だとしたらアスナは完全に予定外の被害者だと申し訳なく思っていたからだ。

 

『今工廠に行けば誰もいないって言ったの誰なんだよ』

『ホントだって。「工廠の皆さん、今日は馬車に乗ってお出かけなのねぇ」って宿のおかみさんが言ってたんだから』

 

アナタ達のお目当ての金属の鳥はその馬車の中です……珍しくもエアリーの目がすんっ、と冷める。

今日の午前中は白亜の塔から少し離れた広い場所で熱素封密缶の実証実験を行う予定なのだ。出掛ける時に工廠にやって来たキリトが同行を申し出て一緒にいざ出発っ、という段階で髪留めの一つがなくなっているのに気付いたエアリーが一人で引き返して探していたのである。無事に髪留めを見つけたところでアスナがキリトを呼びに訪れ、事情を説明しているちょうどその時に見知らぬ男達が数人いきなり飛び込んで来たのだ。

一瞬剣に手を伸ばそうとしたアスナだったが、撃退や捕縛を選ばず目的や黒幕を知るためにあえて捕まったのである。

アスナとしてはエアリーまで巻き込むつもりはなかったので彼女の事は絶対に守ろうと心に決めていたが、どうやらその心配は皆無に等しいと感じてつい先程のような呆れた本音が漏れてしまったわけだ。

だいたい廊下にいる男達は機竜が金属製の鳥だと思っているようでその本来の性能も正確な形すらも把握していない。工廠から勝手に鳥を持ち去ろうと考えた彼らはそれ相応に処罰すべきだが、ひとまず下位騎士か衛兵に引き渡せばいいだろう、とアスナは顔を上げた。

再び「アスナさま」と自分の名を呼ぶ元《昇降係》へ安心させるように、ふわり、と微笑む。それをちょっとキリトに似た口の端を上げる笑みに変えて「そろそろおいとましましょうか?」と誘うとエアリーはこくり、と無言で頷いた。

早くここから出て工廠に戻りたい……確かにエアリーはそう強く願っていたが、その理由は誘拐された恐怖や不安からではない。今日は封密缶の実験だけなので昼前に工廠のみんなが帰ってくるのだ。

当然、同行しているはずのキリトも。

キリトさまがアスナさまの誘拐事件を知ったら……とエアリーの血色の薄い顔がより蒼白になっている……かもしれない。

さすがのアスナもエアリーの顔色の変化までは気づけないまま、ちょっと真剣な顔で呟く。

 

「今ね、お昼ご飯に間に合うよう鶏の燻製に挑戦しているの。出来上がる頃合いを見計らうのが難しいのよね」

 

料理を作らないエアリーには分からないが、鶏の燻製というのはアスナが戦いを挑むほどの心構えを必要とする手強い料理らしい。

 

「美味しく出来たら今度工廠のみんなにも差し入れするから」

 

そう、アスナは時々手料理を工廠まで持って来てくれるのだ。それはいつだって美味しくて、食べる事にさほど興味のないエアリーでさえ渡された分はいつも手を止めることなく食べきってしまうくらい。そしてアスナが料理を運んで来てくれる時はキリトが付いている場合がほとんどで、そうでない時でも遅れてやって来て工廠の皆に視線を巡らせている。

もちろんアスナも美味しそうに食べている皆の姿を嬉しそうに眺めているのだが、キリトは嬉しそうにしているアスナを眺めつつ実は工廠の男達を牽制の目で睨んでいるので視線の種類はちょっと違う。ただエアリーは牽制対象外なので「とても美味しいです、アスナさま」と思いながら周囲の複雑な空気は気にせずいつも無表情で完食しているのだ。

アスナがすっ、と薄汚れている天井を見上げる。

 

「視界が遮られていたせいで外の景色は見えなかったけど馬で運ばれていたのはそんなに長い時間じゃなかったもの。この天井が浮き上がったからきっと誰か気付いてくれるわよね」

 

アスナもさっきの男達の会話を聞いて、ここで剣を抜いて無駄に重傷者を出すほど切迫している状況ではないと判断したようだ。白亜の塔を「よいしょー!」の気合い一言で分断し再び結合させる彼女の神技を実際に目にしているエアリーにとっては自分の頭上にある天井が浮上すると言われても今更疑いも怖れもない。

とにかくここは穏便に事を済ませたいとエアリーはアスナを見た。

表情筋は0.0001メルも動いていないが切実な眼差しと受け取ったのだろう、アスナは「大丈夫よ」と力強く頷く。けれどエアリーは己の身の安全など微塵も心配はしていなかった。どちらかと言えばすぐそこにいる短慮で無知無謀な男達の安否の方が気がかりなくらいだ。

男達は畏れ多くも創世神ステイシアの生まれ変わりと信じられ、この人界統一会議の副代表剣士でもあるアスナを拘束してカセドラルから連れ出した挙げ句に廃屋の一室で椅子に縛り付けたのである。

どんな勘違いと思い込みと先走りがあったかは知りませんが、こんな暴挙を絶対に許さない代表剣士の存在を知らないのでしょうか……知らないのでしょうね、とエアリーは深い溜め息を付いた……心の奥深いところで。

だからどうかキリトさまにこの状態を知られませんように、と強く願うエアリーの隣ではアスナが膝の上で縛られた手首をごそごそと器用に動かし何かを取り出している。

 

「それは?」

「これはね、金属の棒を極限まで細くしてサードレ工廠長に研いでもらった金串。燻製を作るのに網に乗せるか串に刺すかで迷ったのよね」

 

小さく「結局両方試してるんだけど」と言いながらほっそりとした指でクルリと金串を回した。

その燻製用の串がなぜここにあるのでしょうか?、とか、一体どこから出したのですか?、と思わなくもないエアリーだったが、そこは全て「アスナさまだから」で自分を納得させる。

 

「それじゃ、ちょっと埃っぽくなっちゃうけど少しの間だけ我慢してて」

 

すぅっ、と静かに息を吸い込むと真上を見て「えいっ」と軽く声を跳ねかせる。すると地響きのような低い音がゆっくりと始まって部屋中に、いやこの廃屋中に鳴り響いた。

ゴゴゴッと木材同士が擦れ合い、耐えきれなくなってピシッピシッと亀裂が入る。

そこかしこに積もり積もっていた粉塵が巻き上がり、細かい木片がパラパラと上から落ちてくるのを一切の感情を出さずに見上げているエアリーと違い廊下にいた男達は一斉に慌てふためいた。

 

『なっ、なんの音なんだ?』

『どうして揺れてんだ?』

 

何が起こっているのかも理解できず、どうすればいいかもわからないままオロオロと周囲を見回しているだけの男達の頭に無理矢理引き剥がされた梁の一部が割れて降ってくる。太い材木に一瞬でひびが走りバキバキと音が大きくなっていくにつれ彼らの動揺も膨れあがった。

 

『なんでっ、なんだって、こんな事にっ』

『てててて天井っ、天井がぁっ』

『どうすりゃいいんだっ』

『柱っ、とにかく柱につかまれっ』

 

男達はアスナやエアリーの事などすっかり忘れ揺れを押さえるつもりなのか、それとも立っていられなくなったのか、とにかく無我夢中でそれぞれが近くの柱にしがみつく。けれど元々痛みの激しい廃屋だ、屋根を剥がされてまともに立っている柱など一本もありはしない。逆にこのままだと柱の下敷きになりかねないと男達は外へ逃げだそうとしたのだが、その行く手を阻む角度でバタン、バタン、とまるで誰かがわざとそうしているように次々と柱が倒れてきた。

壁も崩れ落ちたお陰で見晴らしの良くなった廃屋内では信じられない光景にその場にへたり込んでしまった男達がアスナとエアリーからよく見える。ちなみに二人は椅子に座ったまま全く動いていないのだが柱や梁はきれいにその場所を避けていた。

 

「アスナさま…天井を浮かせるだけだったのでは?」

「うーん、思ってたより建物の老朽化がひどかったのかなぁ」

 

一貫してエアリーは無表情だが、これは驚きで全身が硬直しているのであって倒壊の音が止んでようやく口が動かせるようになった状態である。当然、自分達にはケガがないよう《無制限地形操作》をしていたアスナだったがここまで見事に瓦礫の山にするつもりはなかったので、かろうじて残っていたらしい廃屋の天命をもぎ取ってしまったステイシアの力に「えへっ」と照れ笑いが零れた。

廃屋は央都セントリアを囲んでいる円形城壁のすぐ近くに位置しており、そびえ立つ石壁が視認できる。幸いにも付近に人家は見当たらなかったので人的被害等は出ていないが、見えるのが壁だけではここが東西南北、どこのセントリアなのかは判別できないし、人気が無いという事は今の騒ぎに気付く人がいない可能性もでてくるわけで……。

益々事が穏便に済まなくなりそうな予感にエアリーが顔を強張らせていると、眺めの良くなった上空に城壁とは反対方向の、つまりセントラル・カセドラルの方角から一粒の黒い点が見え、それが真っ直ぐ、しかも急速にこちらへ向かってくるのがわかって口元がヒクリと痙攣した……気がしただけで、やっぱりどこも動いてはいなかった。

《不朽の壁》の存在が全く無意味なのは一般的に鳥である……エアリーと同様、黒点に気付いた男達が指を指すが、その速度は鳥にあらず……ならば飛竜か、と問えばその大きさはあまりにも小さく、ちょうど飛竜に乗る整合騎士一人分くらいの、そう、まるで人が空を一直線にこちらへ飛んで来るような……ありえない事象に男達全員が「いやいや、そんなはずは」と心の内で手をひらひらさせ自分達の視力と想像力を否定した時だ。

 

「あ、キリトくん」

 

嬉しそうな声が男達の否定を否定した。

えっ?!、と一斉に視線がアスナに集中する中、隣のエアリーはあくまでも無の面持ちで一番最初に到着して欲しくない御仁の登場に内心あわあわとしている。そして男達の意識がアスナと彼女の発した言葉に向いている間に、飛来物は更に加速して黒い弾丸となり元廃屋へと飛び込んで来た。

風素の塊が叩きつけられたような衝撃につぎはぎだらけの床板がバリバリと割れ、陥没する。

《風素飛行術》を解いたキリトは黒いコートに戻った裾を翻しながら勢いを殺しきれず、トッ、トッ、トッ、とそのまま椅子に座っているアスナの元へ駆け寄り抱きついた。

 

「おっとっ」

「わぷっ…キ、キリトくん」

「アスナ、なんでこんなトコにっ、探したんだぞっ」

 

さすがにアスナが椅子ごとひっくり返るほどではなかったが、そのまま小さな頭をお腹あたりに抱きかかえたキリトは大事な宝物のように数回栗色の髪を優しく撫でると、彼女から身を離し隣の少女へと歩み寄る。驚いたのはエアリーだ。

 

「キリトさま」

 

心情とは裏腹にまったくもって沈着冷静な声が出る。

 

「エアリーも大丈夫か?、工廠に戻ったら姿が見えないから老師達がひどく心配してたぞ」

 

実際身体の自由は奪われているもののアスナに従い無抵抗で捕まったので傷ひとつついていない。元より自分達を攫った男達は誰かを傷つけたり、ましてや誘拐をしようという計画ではなかったのだ。無人だと思っていた工廠で居合わせてしまった互いの運の悪さが原因と言えば原因かもしれない。

ですから私は全く何の問題もありません、どうぞ先にアスナさまの心配をっ、と必死の形相で訴えているつもりなのだが、悲しいかな口からは「大丈夫です」という平坦な言葉しか出てこず、その間にキリトはしゃがんでエアリーを縛っていた紐を解いてくれている。それからすっくと立ち上がると倒れた柱の中にいる男達に目を向けた。

 

「アスナとエアリーを誘拐した犯人がこいつらなんだな」

 

結果的には誘拐犯なのだが、最初からそれが目的ではなかったのだと説明しようとエアリーが口を開くよりも早く座り込んでいる男達がギュッとひとつにまとまる。そう、見えない大きな手が彼らをひとまとめに握ったように。

いきなり全員が束ねられ、驚きと息苦しさで「ぐふぇっ」と情けない声がそれぞれから漏れ出た。しかし、とりあえずこれで終わりですね、あとは彼らを衛士庁舎まで連れて行き取り調べを、と気を緩めたエアリーの耳に氷よりも冷たい声が聞こえる。

 

「それで、アスナの手足や身体に触れたのは誰だ?」

 

男達に一瞬の間が空いた。何を問われたのか理解出来なかったのだろう。

 

「キリトくん。私達はわざと捕まったんだから」

「わかってるよ。でも……」

 

名乗りを上げないまま顔を見合わせている男達は本当に誰がアスナを縛ったのか覚えていない様子で、互いに「誰だっけ?」「俺だっけ?」「お前だっけ?」と目で会話を続けている。聞かれた事にはちゃんと答えようという誠実さが伝わったのか、キリトは少し呆れた息を吐いてから徐に女神を前にした信徒のごとくアスナの前に跪き、括られている両手を持ち上げた。

彼女の細い手首に巻きついている紐を忌々しげに睨んでいるが、それを解く手つきはどこまでも優しい。まるで贈り物のリボンを扱うように丁寧に、しゅるり、と紐が落ちた後、丹念に異常を確かめていると「この痕…」とキリトの声が更なる冷気を纏い、同時に男達の口から「きゅえぇっ」と出てはいけない声が更に圧迫された胴体から押し上げられた。

 

「あ、これはさっき力を使う時に」

 

やはり縛られたまま金串を取り出したり《無制限地形操作》をしたので手首に少し紐の痕がついてしまったのだろう、エアリーにも聞こえるくらいギシッとキリトの歯が軋む音がする。しかし当のアスナさえ気付いていなかったくらいの傷とも呼べないようなものだ。

 

「全然痛くないのよ。手袋してたし。すぐにヒールするから」

「オレがする」

 

男達を束ねる力は緩めずにキリトはアスナの白い手袋を僅かにめくったまま直に手首の内側へ唇を押し当てた。痕そのものより雪のような肌に微かに残っている男達の痕跡が気に入らないのか、ゆっくりと上書きをするかのごとく唇を這わせれば術式を唱えずともキリトのよく知るアスナの肌へと戻っていく。

そう、本来ならば肌に触れる必要はなく、必要なのは詠唱である。

けれどそれを指摘する者は誰一人としておらず、アスナはちょっとくすぐったそうに、けど嬉しそうにキリトを見ているし、キュウキュウ締め付けられている男達はそれどころではない。エアリーにいたってはほんの少しだけ、見ようによっては光の加減かな?、と錯覚する程度の微量で目がどんよりとなっている……っぽい。

なぜならキリトが気を荒げた理由は、男達が勝手にアスナの手足や胴体に触れたから、なのだが、それはあくまでも手袋やブーツの上からであり騎士装の上からだ。それもクルクルッと取り敢えず程度に紐をかけられただけでキツく悪意を含んだものではなかったし、現にエアリーは「こんなゆるゆるなら抜けそうです」と思っていたくらい自分にはなんの痕跡も付いていない。

だから強く押さえつけられたり不埒な接触は一切なかったのだが……なんだか段々と男達が不憫に思えてくる。

けれどアスナのヒールを終えたキリトは顔を上げすっかり元通りになった肌を見て満足げに頷き立ち上がると、再び厳しい眼差しで男達に問いかけた。

 

「それと、アスナの髪にこんな物が付いてたけど?」

 

キリトの手にはくたり、とした糸くずが一本。

その糸くずは今までどこにしまってあったんですか?、と思わなくもないエアリーだったが、そこは全て「キリトさまだから」で自分を納得させる。

男達はそんな疑問すら浮かべる余裕はないようで、それならちゃんと答えられますっ、と言わんばかりに苦しい体勢の中すぐさま声を飛ばした。

 

「それは頭に麻袋を被せた時付いたんだな」

「鳥を捕まえたら入れるつもりだったんだ」

「ちょうどいい大きさだった」

 

まさかの鳥用でしたか、とエアリーの目が更にどんよりとなっている……ようないないような。

そしてキリトに問われた意味も考えず正直に申告してしまう男達と、抱き寄せたほんの一瞬でアスナの髪の毛とほぼ同系色の麻の繊維に気付くキリトを交互に見て、またもや頭が痛みだした気がする。

 

「つまりアスナの顔や頭にも触れたんだな」

 

正確には触れたのは麻袋であって男達ではないのだが……何を指摘しても無駄だろう。被せる時や脱がせる時に少しくらい手が触れたかもしれない。更なる身体検査が必要と判断したらしいキリトが屈み込みアスナのおとがいを軽く指で持ち上げて上向きに角度を調整すると右に左に水平移動でくまなくチェックを始めた。されるがまま扇風機よろしく首を振っているアスナが「キ、キリトくん?」と呼びかけるが、顔は終わったとばかりに次は首から肩、腕へと触診は続く。

椅子と一緒に巻かれていた紐をほどき終わり次はどこに触れるつもりなのか、キリトの両手が腰周りから胸元へ上がってくる気配を察したアスナが「えっ」とほんのり甘い抵抗の声を出すと、「アスナさま」と一切の感情をぶったぎったエアリーの声が二人に伸びてきた。

 

「お時間は…その…く、燻製の」

 

《昇降盤》係でいた時は口にしたこともない単語につい言いよどんでしまいましたが、あれほど気になさっていたのだからアスナさまにとっての優先順位はかなり上のはず、と推測したエアリーの渾身の進言により「そうだったわっ」とアスナは足の紐を何もせずにすいっ、すいっ、抜け出すと勢いよく立ち上がった。

 

「キリトくんっ、急いでカセドラルに戻らないとっ」

「ええっ?!、でもちゃんと……それに、こいつらは……」

「キリトさま、どうぞお戻りください。後はあの方達にお任せして」

 

エアリーが見ている空の先に今度こそ二頭の飛竜の姿があり、整合騎士の声が聞こえてくる。

どうやら「キリトせんせーい」と叫んでいるのがエントキア・シンセシス・エイティーンで隣を飛んでいるのは長槍のシルエットから察するにネルギウス・シンセシス・シックスティーンのようだ。

整合騎士が二人もいるならこの場の処理は問題ないが、それでも納得がいかない様子のキリトにぴとっ、とアスナが寄り添い腕を絡ませた。

 

「ハナに手伝ってもらっている鶏肉の燻製が出来上がる頃なの」

「それは……スモークチキン?」

「そう。この前食べたお肉の燻製はベーコンみたいだったから鶏肉でもできないかな、と思って。美味しくできてたらキノコのクリームソースやトマトと豆の煮込みと一緒に食べましょう」

 

キリトがゴクリと唾を飲み込む。

早く抱っこして飛んで欲しいな、の意味を込めて「ね?」と上目遣いでおねだりをされればキリトの中の天秤はすぐに勢いよく傾いた。慣れた仕草で細腰に腕を回せばこれまた有り前のようにキリトの首にアスナの腕が巻き付く。その姿勢で振り返り「ここはお願いしていい?」と問われたエアリーはコクコクと高速で頭を上下させた……い気分でゆっくり一度だけ頷いた。

あの整合騎士達なら《昇降盤》係の頃から面識があるので事の次第を説明すればちゃんと理解してくれるだろう。むしろキリトさまの存在が事態をややこしくしそうです、などという本音はもちろん声に出したりはしない。

「じゃ、戻るか」と言い、音もなくふわっ、と浮かんだ二人に頭を下げたエアリーにはアスナの耳元に寄せたキリトの口から「今夜、隅から隅まで確認する」という意味深な言葉が聞こえることはなかった。

 

 

 

 

 

そしてオマケにもうひとり……ハナは今の状況に困惑していた。

 

《白亜の塔》とも呼ばれているここ、セントラル・カセドラルの九十五階《暁星の望楼》から臨む眺望はまさに鳥の目線だ。けれどこの場にいる少年少女達は周囲の景色などに目を奪われることなくテーブルに並べられた料理しか見ていない。

まぁ、これはいつもの事です、とハナは育ち盛りと言っていい少女の空になったカップへコヒル茶のお代わりを注ぐ。

きちんと口の中の物を飲み込んでから「有り難うございます」と丁寧に礼を述べてくる姿に好感を抱き、「いえ」と短く返してからすぐ隣のカップも残りが少ないのに気付いて同様にポットを傾けた。

 

「んりがとっ」

 

こちらはまだまだ咀嚼真っ最中だがいつもの事なので、やっぱりハナは「いえ」と言って自分の定位置であるアスナの斜め後ろに戻る。

 

「もうっ、キリトくんたら、お行儀わるいわよ……ありがとう、ハナ」

 

窘める言葉なのに声には呆れと甘さが混じっているのもいつもの事だ。うってかわってキリトのそれよりもきちんと告げられた謝意の声にはハナに向けた慈しみが添えられている。

 

「だってさ、この新作のサンドウィッチ、すごくうまいっ」

 

サンドウィッチとは主に調理した肉や魚、野菜をパンで挟んだ食べ物を表す神聖語なのだと、整合騎士見習いの少女達に話していたのを聞いていたハナは疑問も抱かずにこっそりと、そうでしょう、そうでしょうとも、と小さく頷いた。

今日のサンドウィッチには試行錯誤の末に成功した鶏肉の燻製に加えアスナ特製のクリームチーズが挟んであるのだ。アスナ曰くミルクやチーズあるなら近い物が出来ると思うの、とここ数日ハナと一緒に九十四階の厨房で奮闘した成果である。

新作サンドウィッチの試食会と称して昼食に誘われたティーゼとロニエもキリトと同様に初めての味に舌鼓を打っていた。

早々にスモークチキンとクリームチーズのサンドウィッチのお皿が空になる勢いだが、当然これだけでは量が足りないだろうと他のサンドウィッチもちゃんと用意してある。

一般的なチーズと香草のサンドウィッチや揚げた白身魚に生野菜のサンドウィッチ、それにこれもアスナが提案した具材だが焼いた鶏肉に甘辛いタレを絡めたサンドウィッチもあってこれはキリトの大好物だ。だからスモークチキンのサンドウィッチの次に手が伸びるのは甘辛ダレのチキンサンドだと思っていたのに、なぜかキリトはチーズと香草のサンドウィッチを取っている。

まあ、そういう気分の時もあるでしょう、とハナは軽く思った。

しかし次もチーズと香草のサンドウィッチを頬張っている。

立て続けに同じ物となるとさすがにハナは困惑した。

実は今日のサンドウィッチ、スモークチキンとクリームチーズにほぼアスナがかかりっきりになった為、少々手間のかかる白身魚揚げや甘辛チキンは全てハナが作ったのだ。けれど当然甘辛ダレの味付けはアスナにお墨付きをいただいている。

最後の方になって手の空いたアスナがチーズと香草のサンドウィッチを作ったのだが、もちろんそんな事情をキリトは知る由もない。それなのに見事にハナの作ったサンドウィッチはスルーしてアスナが手がけた物ばかりを口に運んでいるのだ。

そんな背後のハナの困惑をよそに三人の食べっぷりを見て安心したのかアスナが一人席を立った。

 

「みんなはそのまま食べていて。私は工廠に差し入れをしてくるから」

「アスナは食べないのか?」

「私は作ってる途中でハナと一緒に結構味見しちゃったの」

 

この《暁星の望楼》で整合騎士見習いの二人も招いて食事をする時はアスナに強請られてハナも同席をさせてもらう事が度々あるが、今日の昼食会でアスナがハナを誘わなかったのも、アスナ自身がコヒル茶しか口を付けていないのも二人の食欲がとうに満たされていたからのようだ。

差し入れのサンドウィッチは既に用意が出来ているらしく部屋の隅のテーブルに置いてあった大きめのカゴを手にすると、アスナは食事の手を止めて見送ってくれている三人と給仕をお願いしているハナに「いってきます」と言って退室していく。アスナが抜けただけで何となく場の華やかさが薄らいでしまったように感じるティーゼとロニエが殊更声を明るくしてサンドウィッチの感想を言い合い始めると、キリトは食べかけのサンドウィッチをごくんっ、と飲み込み、空いた手を素早く動かした。

 

「最後のスモークチキンサンド、もーらいっ」

「あっ、キリト先輩っ」

「私も狙ってたのにっ」

 

後輩二人の叫びも気にせずキリトは大口を開け数回でサンドウィッチを口の中に押し込み何度かもぐもぐすると最後はコヒル茶で飲み下す。カップをテーブルに置いて手を合わせ「ごちそーさま」と元気良く言うなりガタンッと立ち上がって「二人はゆっくり食べててくれ」と席から離れた。

 

「どこに行くんですかっ?、キリト先輩」

「工廠っ。アスナを手伝ってくるっ」

 

サンドウィッチの入ったカゴを渡すだけの何を手伝うと言うのか、とこの場に残された三人は一様に思ったものの問いかけるべき黒い影は既にもうどこにもなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
まずはフォローを……。
《昇降盤》を操作していた少女は異界戦争後、「エアリー」という名をもらって
《白亜の塔》の工廠の所属に。
エントキア・シンセシス・エイティーンとネルギウス・シンセシス・シックスティーンは
異界戦争に参加していなかった整合騎士です。
ハナはアドミニストレータの専属料理人でしたが異界戦争後はアスナの料理の
相談役的な立ち位置(?)に
ウィキとかで検索していただいた方が詳しいですね。
今回は「ウラ話」もちょこっとやりますっ。
そして来月こそは目指せ15日投稿!(苦笑)


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どっち?

《現実世界》で帰還者学校に通っている和人と明日奈、そして直葉を
交えての休日のお話です。


直葉は玄関先で「うーん」と唸った。多分、だけれど今日の外出に普段履きのくたびれたスニーカーや学校用の革靴はやめておいた方がいい気がする。

そうなると時期的にもこもこのあったかブーツやサンダル系を除外して残るは二択だ。

年に数えるくらいしか履かないフラットパンプスか、一目惚れして買ったちょっと厚底のハイカットスニーカーか。

休日のお出かけ。目的地は都内の初めてのお店だからここは自分を後押ししてくれる意味でもやっぱりイチオシの厚底スニーカーにしよう、と足を滑らせて靴紐の仕上げをしていると、背後から「スグ…」ともっそりした兄の声がした。

振り返れば休日仕様と言うか、単純に一番上にあった服を着ました状態の上下共にほぼ黒な和人が立っている。

 

「なに?、お兄ちゃん」

「やっぱりオレも付いて行こうか?」

「いいって。今日はアスナさんと二人で買い物なのっ」

 

だいたいいつもなら「一緒に来てよ」って言っても「宿題がぁ」とか「ALOでユイと約束がぁ」ってごねるのに、明日奈さんがいると随分違うんだね、と伝わるようにジトッとした目で兄を見ると、その視線を躱すようにあらぬ方向を見ながら和人も幾分拗ねた声をだした。

 

「普段なら荷物持ちに来いって言うくせに」

「日用品の買い出しじゃなくて修学旅行の買い物なんだから重い物なんてないし」

「…何買いに行くんだ?」

「なんだっていいでしょっ」

 

頑として目的地や買う物を明かさない妹の態度にちょっと呆れた和人だったが意外に頑固な性分なのでこれ以上追求しても無駄だと引き下がり同行できない代わりに言葉で諭す。

 

「変なヤツに絡まれたりしないよう注意しろよ」

「わかってるよ」

「あとアスナは基本しっかりしてるけど興味を引く物があると周りが見えなくなる事があるから…」

「大丈夫。ALOで何度も一緒に買い物行ってるもん」

 

ポーションやアイテム購入の途中で「わぁっ、かわいいお店」と目新しいショップにふらふらぁ、って寄って行ってしまうのだってリーファとしてもちゃんと知っているからそんなに心配しなくていいのに、とそろそろ兄の存在がうざったくなってきた直葉は「とにかく行ってきますっ」と紐を結び終わるなり勢いよく玄関から飛び出した。

置き去りにされた形の和人だったが、それでも妹の背中に声を掛ける。

 

「どうせ帰りに夕飯の買い物してくるんだろ?、大変だったら連絡しろよ」

 

背中を見せたまま片手を振って了解の合図をする妹を見送りながら和人は「はぁっ」と苦笑とも溜め息ともとれる息を吐き出した。確かに自分の彼女と妹が二人で行動するのは珍しくも何ともないのだが、それはあくまでもアスナとリーファの時だ。その辺の道ばたや街角にポップするナンパなアバター達が相手ならあの二人の身に心配はないのだが《現実世界》となると話は違ってくる。いくら二人共運動神経が良いとは言え直葉も明日奈も大人の男と比べれば普通の十代の女の子でしかない。

和人だって腕っ節に自信があるわけではないが、年頃の女子二人だけよりは多少虫除け効果もあるだろう。そう思って随伴を申し出たわけだったが、その気遣いは直葉の頑なな拒絶にあい粉砕されてしまった。

今回の外出に限っては明日奈もまた申し訳なさそうな笑顔で「ごめんね、キリトくん。二人で行きたいの」とこちらもやんわりお断りをされてしまっていたのである。

修学旅行に必要でオレが一緒じゃ買えない物?……なんだ?……和人は首を捻りながら自室に戻り、手を付けていない宿題でもやるかな、と椅子に腰掛けたのだった。

 

 

 

 

 

一方、直葉は待ち合わせた明日奈に案内されてとあるショップの前に来ていた。

 

「うわぁ、外観からオシャレ」

「私が知ってるお店の中では一番品揃えも豊富だしお値段も幅が広いから、きっと直葉ちゃんの気に入るのがあると思うの」

 

確かに明日奈の言う通り、通りに面している大きめの窓枠の内側は両サイド可愛らしいレースのカーテンで統一されていて、それぞれの窓辺には小物類が品良く並んでおり一見敷居が高そうに見えるが、奥の店内には意外に自分達と同世代と思われる客の姿がチラチラと見える。メインの商品は外から軽く覗いたくらいではあまり目に入らない配置にしてあるのだろう。それでも真っ白な外壁にドアや窓枠も白、入り口に置いてある白い鉢植えの観葉植物なども手入れが行き届いていて思わず中の商品を見てみたくなる店構えになっている。

やっぱり明日奈さんに相談してよかった、と直葉はこっそり安堵の息を吐いた。

二人で出掛けるきっかけとなった経緯はこうだ。

数日前に二十二層のログハウスで何の話の流れだったか、リーファが自分は来月修学旅行なのだと口にした時、周囲の顔は一様に「いいなぁ」と羨ましげだった。それもそのはず、一緒にいたのがキリト、アスナ、リズ、シリカだったので……要はリーファ以外全員が帰還者学校の生徒だったから当然の反応だ。政府が用意した帰還者学校では《現実世界》での生活リズムを取り戻し、ついでに遅れに遅れている学力も取り戻さなければならないのがデスゲームから生還した十代の少年少女達の最重要課題なのだから当然修学旅行なんぞに割いている時間はない。更に言うなら学年があってないようなカリキュラムの為、修学旅行に行く生徒と行かない生徒の振り分けも全員が納得する方法などないだろう。

いくらVRやAR技術が発達したと言っても、やっぱり同年代の友人達と学校以外の場所に行き泊まりがけで色々な体験をするのは魅力的だし、行かれないとなると余計に渇望は高まるらしい。

直葉も普段から剣道の試合や合宿等で部の皆と宿泊施設を利用するのには慣れていたが、それとこれとはやっぱりウキウキ度が雲泥の差で来月を心待ちに準備を進めていたのだが、ここでクラスの女友達から聞き捨てならない話を耳にしたのである。

修学旅行のお楽しみのひとつと言えば夜のお喋りだ。

その場を盛り上げる為にも寝衣だって気合いが入る。

そこまでは直葉もうんうん、と頷いていたのだが更に彼女達は「下着だってうんっと可愛いのにしたよっ」と自信満々の笑顔で言い放ったのだ。

そこで直葉は固まった。

「お風呂の時、見せっこしようねーっ」ときゃぴきゃぴトークが止まらない中、直葉は完全に置いてきぼり状態だったのである。

 

「部の合宿や遠征で泊まりは慣れてるんですけど、入浴時間なんてあまり余裕はないからいつもパパッと着替えられるの重視で見た目とか考えてなくて……」

 

それでも普段の下着はそれなりに可愛いと思える物を何点が持っているのだが、寝衣の方はスウェットやらジャージやらTシャツで代用という、要するに「見て、見て」と言えるようなパジャマがないのだった。そこで母親に相談したところ「どうせなら下着も新しいのにしたら?」と支払いを引き受けてくれたのである。けれど金銭面の心配はなくなっても、どこに買いに行けば良いのかがわからない。今更クラスメイトに「どこで買ったの?」とは聞きづらいし、下着をオンラインショッピングで、というのも直接肌に触れる衣類だけにフィットしなかったらと思うと気が進まなかった直葉はこっそり明日奈に相談したのだ。

「お店を教えて貰えれば」と言っただけなのに明日奈はにこりと笑って「一緒に行く?」と心強い提案をしてくれて、買い物に行く話がまとまったのである。

 

「お兄ちゃんたら私が家を出る時、玄関まで来てついて行きたそうにしたんですよ」

「ふふっ、カップルで来店してる人達もいるけど、今日は直葉ちゃんと二人だけの方がゆっくり選べるものね」

「何買うんだ?、ってしつこくて」

「それじゃあ晩ご飯はひとりお留守番になっちゃったキリトくんの好物にしてあげないと」

 

兄の所行に呆れるかと思いきや、逆にいたわりを持つ明日奈の発言に「アスナさんはお兄ちゃんに甘いなぁ」と思いつつ、今日一日明日奈を独占できるお返しに「帰りにアスナさんと近所で夕飯の食材を買う時はお兄ちゃんを呼んであげよう」と妹なりの気遣いを誓った頃……「それじゃあ入ってみようか」と促され初めてのランジェリーショップに足を踏み入れた直葉は店内を見回して「ふわぁっ」と感嘆の息を吐いた。

扉を開けた時に鳴ったシャランッという細いパイプチャイムの音は流れているBGMと相まって存在感を耳障りに主張せず、その音に反応して「いらっしゃいませ」と声を出したのは一番近くにいたスタッフだけで、他のスタッフは軽い会釈のみ。

店内の外観と同様に白を基調とした空間は落ち着いた雰囲気と清潔感を漂わせていた。

入り口からすぐのスペースはパジャマがたくさん並んでいて一緒にオフタイム用や寝る時用のフットカバーにハンドカバー、アイマスク、ナイトキャップなどもあり、他にも快眠の為のグッズが置いてある。もう少し奥に行くとルームウェアやネグリジェのコーナーになっていた。ただネグリジェと言っても半袖や長袖、襟元だってフリルやレースが幾重にもなっているロング丈の商品はサマーワンピースでも通用しそうなデザインだ。色も白はもちろん全体的に淡い色の商品が多くパステルカラーなどはまさに避暑地のお嬢様気分を味わえそうである。

 

「なんか想像してたのと違うかも……」

「一階は気兼ねなく見て回れる商品ばかりだから」

 

ただデザインはシンプルでも高級シルクを使った商品もあるので一概に求めやすい金額の物ばかりでもない。でもこれだけ種類が豊富なら欲しいパジャマも見つかるだろう、と目を輝かせていた直葉は、明日奈の「一階は」の意味を求めて視線を巡らせた。

するとフロアの中心から少しズレたところに中二階へと続く階段がある。

 

「上がね、下着とかちょっと大人っぽいネグリジェやベビードールが置いてあるの」

 

なるほど、ランジェリーショップと言えば幾分目の遣り場に困るインナーウェアがたくさん置いてあるイメージだったが、そういった物は上の階にまとまっているようだ。パジャマだけなら男性と一緒でも下の階だけで済むし、よく見ればメンズ物もあって男女でお揃いや色違いで購入もできる。

「先に下着を選ぶ?」と聞かれた直葉はその言葉に従い明日奈に続いて階段をあがった。

中二階と言えどかなりの広さがあって、そこは一階と違い様々な色に溢れ煌びやかで悩殺的なデザインの商品が直葉達を出迎えてくれた。

足も止まり、顔も固まっている直葉に明日奈が軽く苦笑して「大丈夫よ」と落ち着いた声をかけてくれる。

 

「奥に行けば可愛らしいのもちゃんとあるし」

 

その言葉を信じて思いっきり原色で布面積の少ないすけすけ商品の脇を通り過ぎれば、今度はフリルやレース、リボン使いが目を引くデザインが多くなって直葉の表情も強張りが溶け、むしろキョロキョロと視線が安定しなくなってきた。ここまで来るとハッキリとした色使いの物でも「可愛い」と思えて、今持っている下着にはない感じでもちょっと冒険心がうずいてくる。

 

「こんなのもあるんだ。あっ、こっちのも素敵」

 

何点か実際に触れてみて肌触りを確かめると同時にプライスタグもチェックして殆どが想定内の金額だと安心していると背後から「気になる商品、ありますか?」と声を掛けられた。

たまにスタッフの接客教育が画一化されすぎてて大人の女性スタッフがお客の女子中高生にもの凄く丁重な言葉遣いをしてくる事がある。明日奈は社長令嬢という立場で生活してきたせいか、あまに気にならないようだが庶民の中の庶民と自負している直葉はそういう態度で接せられるといたたまれなくなるタイプだ。だから声のトーンや姿勢に馴れ馴れしさがないまま丁寧すぎない話し方に店員への緊張が和らぐ。

 

「はい、色々迷っちゃって」

「よろしければフィッティングルームをご利用ください。でも、その前に……」

 

何かを確認するかのようにスタッフが明日奈を伺うと、察した明日奈がニッコリと微笑んだ。

 

「直葉ちゃん、まずはきちんと採寸してもらったら?」

「採寸?」

 

直葉は首を傾げた。

今着用している下着だってきつくもなければ緩くもないから同じサイズを購入すればいいと思っていからだ。

 

「直葉ちゃん、まだ身長も伸びてるんでしょう?、バストはひとりで採寸するの難しいから専門のスタッフさんに手伝ってもらえるいい機会だと思うの」

「はい。サービスひとつですからご遠慮なく。商品のご購入には関係なく正しいサイズは知っておいた方がいいですよ」

 

採寸したんだから買わないと、とは思わなくていいらしい。

 

「なら、お願いしようかな」

「いちを今のサイズで気になってる商品も持って……えっと、何点まで持ち込んでいいんですか?」

 

後半は店員に向けられた明日奈の問いかけにすぐさま「三点まで大丈夫です」と答えが返って来た。それを聞いてちょっと悩んだ末に直葉が選んだ二点の商品は店員が「お預かりしますね」と持ちフィッティングルームへと案内する。

 

「もしサイズが合わなくても店員さんが取り替えてくれるから直葉ちゃんは安心してフィッティングルームにいてね」

「ええ、デザインによっても着用感が違うんです。サイズ違いはすぐに用意できますからルーム内にあるベルを鳴らして下さい」

 

いちいち声を出して呼んだり、何度も服を着たり脱いだりをしなくていいシステムだとわかって、直葉は感心したように小さな声で「へぇ」と漏らしてから「わかりました」と頷いた。けれど採寸をしたり試着をしたりと結構時間がかかってしまいそうな感じで、ここまで面倒を見てくれた明日奈を気にすれば絶対的な安心感を与えてくれる笑顔がそこにある。

 

「私も自分のをゆっくり選んでるから」

「何かありましたら他のスタッフにお声かけください」

「ありがとう」

 

店員も明日奈の方が場慣れしていると見抜いているようで、口調も直葉に対するのとは違って年齢に関係なく完全に店員とお客様になってるのだが、それがまた明日奈にとっては当たり前なのが直葉の目にはとても格好良く見える。

そして店員に促されてフィッティングルームへ向かう直葉を見送った明日奈は伝えた通り自分の下着を選ぶためにフロアを見渡したのだった。

 

 

 

 

 

その頃、和人は家の自室でPC画面から顔を上げ椅子の背に身体を預けて目一杯伸びをした。

自分の妹が自分の恋人と外出を楽しんでいるのに、自分だけが部屋で学校の課題に取り組むというのはいかんせん集中力が持続しないらしく、さっきから時間ばかり気になっている。

もうこれ以上は無理だ、今夜、アスナに手伝ってもらおう、と勝手に決めてさっき確認したばかりの時間表示にまた目がいくが、数字は期待したほど変化してなかった。

どこまで買い物に行くのか教えてもらえなかったけれど明日奈の案内らしいのでまず間違いなく都内だろうと予想してから携帯端末で位置情報を知りたい誘惑をぐっ、と堪える。今回ばかりは事前に明日奈から「私の携帯の位置情報もチェックしちゃ駄目」と申し渡されている。加えて「もしキリトくんがこっそり見たら……ユイちゃん教えてね」と娘まで巻き込んで和人の行動を制限しているのだ。

ユイに嘘をつかない、は二人で決めた絶対だし、どう誤魔化そうとユイ相手に完璧に痕跡を消すのは無理なのも重々承知しているから和人はうずうずしながらも必死に我慢しているのだ。

あそこまで隠されるとものすごく気になる……けれどここで買い物先を探った事がバレたら恋人と娘と妹から白い目で見られるのは確実で、しばらくヘソを曲げられたり、更にそれがクライン達に知れ渡ったら……と想像してうっかり携帯に伸びてしまいそうな手をバッ、と引き戻した。

それなら、と頭の中で推理してみる。

修学旅行の買い物だろ?……と思考してみるが和人本人はSAOに囚われていたので中学の修学旅行には参加しておらず、帰還者学校でもカリキュラムに入っていないから唯一と言える修学旅行は小学校の時の一回きりだ。もはや遠い過去の出来事になりつつあって、行き先くらいは覚えているが何を持って行ったか、何が必要だったか等はさっぱり思い出せない。それに直葉は年頃の女子高生だ、男の自分では考えも及ばない必需品の可能性に思い至り、うーん、と腕組みをして頭を悩ませる。

他の身近な女子と言えば当然明日奈だが、残念ながら旅行と呼べるものはほとんどしたことがなく、良くて二十二層の森の家や桐ヶ谷家でのお泊まり程度で、そもそも《仮想世界》では世に言う「お泊まりセット」も必要ないからあまり参考にはならないだろう。

そう、あの世界の虜囚だった頃、初めてセルムブルグのアスナの部屋に招かれ《ラグー・ラビット》を料理して貰った時、アスナは調理の手順を「簡略化されすぎててつまらない」とぼやいた事があった。あの時は深く同意出来なかったが、今なら手間を掛ける楽しさみたいなものがわかる気がする。

森の家の寝室でアスナの肌に触れたいと思ってもそこは彼女だけが操作できる《下着全解除》ボタンを押してもらわなくてはならないが《現実世界》は違うからだ。あのログハウスで初めての夜、淡く頬を染めながらも「男の子が……脱がせたり、するものなの?」とアスナに聞かれて大いに狼狽えたキリトだったが「ごめん、冗談」と弄ばれた記憶が深く残ってるせいか、《現実世界》では「恥ずかしいから自分で……」と言う彼女をいつもあの手この手で抑え込み自分だけの特権を行使するのである。白磁のような透明感のある素肌がほんのりと色づいていて、和人の手が明日奈の下着を少しずつ剥いでいくにつれ羞恥で全身が火照り、その熱で彼女の香りがより一層匂い立つ様は容赦なく理性を揺さぶってくるのだが、これは残念ながら《仮想世界》では味わえない刺激だ。

その明日奈が桐ヶ谷家に泊まりに来る時の荷物と言えばシンプルなネグリジェと使い慣れたバスアメニティーくらいで、今回の買い物がパジャマや歯ブラシの類いなら普通に教えてくれそうなものだから違うんだろうな……と思いながら和人はまた時計に目をやったのだった。

 

 

 

 

 

直葉が採寸と試着をしている間、明日奈もまた自分の下着を選んでいた。サイズはつい先日測ったばかりだから迷いはない……けれど、すぐ近くで同じように下着を見ている女性二人組の声がつい耳に入ってきてしまい居心地が悪い。

 

「はい、はい、ブラのサイズが変わったと?」

「そーなんだよね。なんか今の、キツいかなって」

「彼氏くんと順調みたいだもんねぇ。そりゃあ胸も大きくなるわな」

「おかげさまでっ、て…ほらっ、笑ってないでちゃんと選んでよっ」

 

えっと……私の場合は……ほら、成長期だし、うん……確かにサイズが合わなくなって買い換えたけど……キ、キリトくんが原因ってわけじゃ……と何やら自分に言い訳をし続けている。

 

「だけど揉むと大きくなるってホントだったんだ。今度彼氏くん紹介してよ」

「ちょっ、何聞くつもりよっ」

 

もっ……心の中で絶句した。

ぽッ、と頬が熱を持つと同時に《現実世界》でふいにネグリジェの襟元から侵入してくる和人の手がそのまま胸の頂まで辿り着く悪戯な感触や、首筋を辿る唇がいつの間にか肩紐を咥えて肩を滑らせ内側の柔らかい所にきつく吸い付かれる痛みなどを思い出してしまいやけに心臓がドキドキする。

《仮想世界》だと痛みは感じないし鬱血痕が付くこともないせいか《現実世界》で二人きりの濃厚な時間になるとより和人に翻弄されている気がして明日奈は何とも言えない小さな息を吐いた。何よりランジェリーを付けたまま色々されるのはかなり恥ずかしい。

やっぱりあれがいけなかったのよね、と旧SAO時代にログハウスを購入した日の夜、自分の緊張と気恥ずかしさを誤魔化すために言った冗談を思い出し、しかもそれを意外にもしっかり和人は覚えていて「アスナのお願いだからな」と言われて「ちがうのっ」と訂正を試みているが今のところそれらの小さな抵抗も塞がれたり絡め取られたりと全て無駄に終わっている。

だから、と言うわけでもないが明日奈は両手に持った下着を交互に見て眉根を寄せた。

片手にはアイボリーホワイトに鮮やかな赤いリボンをあしらった華やかな下着が、もう片方の手には透け感のあるディープグレーに精緻な黒の刺繍が施されているシックな下着がある。今までの自分なら断然アイボリーを選ぶが、黒がキリトの色と思えばその色を身につけてみたいとも思う。

すると明日奈の迷いをうつしたようにさっきの二人組の一人が「どっちがいいかな?」と同伴者に聞く声がした。

 

「私が選んでいいの?」

「自分じゃ決められないんだもん」

「あー…どっちかなぁ……そうだっ、彼氏くんに聞けば?」

「それは恥ずかしいでしょっ」

「全部説明しなくてもいいと思うけど」

 

なるほど、と思ったのは明日奈も一緒で、悩んでいた彼女がフロアの隅に行くのを確認してから、違う方向に移動してこっそりと携帯端末を取り出す。待っていたかのようにすぐ和人が応答してくれたので明日奈は何も聞かずに答えて欲しい、と前置きをしてから問いかけた。

 

「私に似合う色って何色だと思う?」

「うーん……やっぱり白じゃないか?、真っ白とか、純白とか…」

 

和人としては清廉潔白な内面的イメージや自分の黒と対になる色として答えたのだが、明日奈の方はぶつぶつと「真っ白のは持ってるのよね」と、どうやら今の返答に満足していない様子だ。

 

「じゃあアイボリーに赤の差し色か濃いグレーだったら?」

 

今度はいきなり具体的である。

今さっき聞こえた「既に持っている」というヒントから何の色なのかを考えて、考えて、更に明日奈や直葉の女子二人が男の自分に言いたがらない買い物というヒントも加えて考えて……ひとつの結論に思い至った。ならば答えは決まっている、と和人は真剣な声で明日奈に告げた。

 

「えっと……脱がせやすい方で」




お読みいただき、有り難うございました。
多分、すぐに小さく「ばかっ」と明日奈に言われて一方的に
通話は切られると思います(苦笑)
さらに晩ご飯の和人の好物は一品減るでしょうね。


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いつだって

アンダーワールドからキリト、アスナが戻って来た後のお話です。


アンダーワールドからやってきたアリスは、金属の骨格をシリコンの皮膚で覆ったボディで過ごすよりも頭にケモ耳が生えようがアルヴヘイムでの方が居心地が良いらしく、今日はアスナを始めリズやシノン、リーファにシリカ、もちろんユイも…といわゆる女の子集団と一緒にやれ買い物だの観光だのを楽しみ、その合間に軽く腕試しと称して討伐系のクエストに挑戦した後、満足した表情で二十二層のログハウスに帰還した。

 

「とても充実した時間を過ごせました」

 

声にはまだ興奮が残っているからよほど楽しかったのだろう。そこまで喜んで貰えれば誘った側としても嬉しい限りだとアリスと行動を共にした女子達も一様に笑顔で頷き合っている。

 

「よかったな」

 

「こっちはこっちで色々と、まぁ、それなりに楽しくやってたぞ」と言うには多少無理があるような苦笑いのキリトに続き、向かいに座っていたエギルが一言「おうっ」と同意なのか挨拶なのか判別しづらい一言で済ませている間にアスナが急いでキッチンからカップやポットをトレイにのせてやって来た。

「キリトくんたらお茶もださずに……すみません、エギルさん。ミントティーでいいですか?」と言ってまずはエギルの為にカップのふちをタップする。

途端に適温を示す薄白い湯気が立ち、爽やかな香りが漂ってきた。《タップするだけで九十九種類の味のお茶がランダムに湧き出す》魔法のマグカップだ。

ランダムとは言えそこは料理スキルをコンプリしたアスナだから今ではカップの癖を熟知したのか、ほぼ確実にどんなお茶が湧き出すかを言い当てることが出来てしまう。

 

「オレだってお茶くらい出そうと思ったんだけど、エギルがいらない、って」

「お前がタップしたら何を飲まされるかわからないからな」

「キリトくんはコヒル茶にする?」

 

わかりやすくキリトの顔が輝く。それを可笑しそうに見ながらポットの中身をキリト専用のマグカップに注ぎ終わると、アスナは「アリスもどう?」と驚きで青い瞳をまん丸くしている金髪の少女に声を掛けた。

 

「コヒル茶……アスナっ、コヒル茶が飲めるのですか!?」

「まぁ、かなり近い味にはなってると思うけど」

「オレとしてはもう完全にコヒル茶だけどなぁ」

「ふふっ、ありがとう、キリトくん。頑張って再現した甲斐があるよ」

 

アンダーワールドで慣れ親しんだ味として真っ先に浮かんだのがコヒル茶だったアスナはずっと試行錯誤を繰り返していて、最近やっと納得できる風味に仕上がったばかりだ。多分、最初にダイブしたラースのスタッフがアンダーワールドでもコーヒーを飲みたくて作り出した飲み物だと思うのだが三百年をかけてその味はリアルワールドのそれとは微妙に違う進化を遂げていた。

旧SAOで醤油味の再現を果たしたアスナは《現実世界》に戻ると今度は逆にSAOでの味が懐かしかったりするので、アンダーワールド特有のお茶もキリトとの共通の思い出の味のひとつだから絶対に再現しようと頑張ったのである。それに異界戦争終結後の記憶が一ヶ月ほどしか残っていないキリトにとってよく一緒にコヒル茶を飲んだ相手と言えば、それはアスナではなく亜麻色の髪の少年で、それが分かっているからこそ親友を懐かしむ時間を作ってあげたかったのも再現理由のひとつだ。

そしてもうひとつの理由が……。

 

「アリスもALOでなら食べたり飲んだりできるでしょう?、だったらコヒル茶が飲めれば少しは《懐郷症(かいきょうしょう)》も和らぐかなって……」

 

そこまで言ってアスナは周囲からの視線に気付き声を途切らせた。それから遅れて自分でも「あれ?」と僅かに小首をかしげる。

《懐郷症》……確かに今、自分は何の迷いもなくその言葉を口にしたけれど改めて考えるとそんな単語は自分の知識に存在しない。それなのに不思議とその意味がホームシックを指すのだと理解している。

アスナの頭の中の途方もなく遠い所から少し緊張しつつも意を決して発したような思い切りの良い声が僅かに浮かび上がってきた。

 

『あの、《懐郷症》だと思います!』

 

この声は……ロニエさんね、と判じてちょっとだけアスナも懐かしさに微笑む。どんな状況だったかは覚えていないがホームシックを説明するのに困った場面であの少女が助け船を出してくれたのだろう。こうして無事リアルワールドに戻ってきても、ふとした瞬間にアンダーワールドでの知識や思い出をほんの一欠片すくい取れる時がある。それをきっかけに記憶が蘇ったりはしないからキリトにも話していないが、今の《懐郷症》という単語はアリスさえも知らない言葉だったらしく全員が揃って不思議そうな顔でアスナを見ていた。

 

「アスナ、かいき…ナントカって、なに?」

 

代表して声を上げたのは親友であるリズだ。その疑問に「ごめんね、ホームシックって言うつもりだったの」とさらりと流せば今度はアリスが「ホームシックとは何ですか?」と質問してくる。

すぐにユイが模範解答を示し、続いてもっと理解しやすいよう噛み砕いた言い方や例えを皆で出し合ううちに納得したアリスが大きく頷いた。

 

「なるほど。確かにアンダーワールドを懐かしむ気持ちは常にあります。けれどリアルワールドでキリト達と過ごす時間もまた私にとっては大切な物です。ただ大勢のリアルワールド人に囲まれるパーティーはあまり好きになれませんが」

 

アリスの存在に否定的、または懐疑的な団体や個人は数多く、それらの動向を警戒しながらもほぼ毎日のようにレセプションだのパーティーだのに駆り出されている彼女の立場を思いやればアスナが何かしてあげたいと思うのは当然だった。

 

「さあどうぞ、飲んでみて。みんなも飲んでみる?」

 

アリスへとコヒル茶の入ったカップを差し出したアスナが他のメンバーを誘えば、ユイを除く女子達は揃って好奇心一杯の笑顔を縦に振ったのだった。

 

 

 

 

 

結局、最後にはエギルもコヒル茶を味わって「なるほど。確かにコーヒーに近いが別物だな」と感想を述べているとアリスが何かに気付いたのか「すみません」と少々焦った声をだした。

 

「そろそろ戻らないと。凛子博士と約束した時間なのです」

 

アリスは先日自らを宅配荷物にしてラース六本木支部から失踪した前科がある。その暴挙に対して一言の叱責もせず、むしろ自分達が至らなかった、と何度も謝罪の言葉を重ねてくれた神代凛子という女性に今ではかなり心を許していて、こうしてプライベートで行動する時も何時頃戻るかを伝えているのだそうだ。

「キリトくん達と一緒なら心配はしないから」と言われているがその他に関しては少し過保護では?、とくすぐったく思うくらいの接し方で今まで以上にメンタル面のケアが手厚くなっており今日のように頼めばまとまった時間も確保してくれるのだから帰還時間を設定するくらいは当然の礼儀だと認識している。

改めてコヒル茶の礼をアスナに告げてログアウトしたアリスに続き、シノンやシリカ、リーファもほどなくしてログハウスから姿を消した。ユイもデータ処理という眠りにつき最後にリズが「また明日、学校でね」と光の粒子になるとアスナは、ふぅっ、と息を吐いてから静かになった室内に残っている二人に向け「お茶のお代わり持って来るね」と告げてキッチンに移動する。

すぐにリビングに戻って来たアスナはエギルとキリトのカップにコヒル茶を継ぎ足してからポットをテーブルに置いて自分はいつもキリトが愛用している揺り椅子に腰掛けた。

 

「もう少しここにいていい?」

 

珍しく話し込んでいる様子のキリトとエギルの反応を伺う。遠慮がちな態度にエギルが、ふっ、と頼もしい笑顔で返した。

 

「いいも何もここはお前達の家だろう。逆に居座って悪いな、アスナ」

「そんなっ。私達だってエギルさんのお店に営業時間外だってお邪魔してるんだから」

「そーそー。だからアスナが気にする事ないぞ」

「キリト、お前は少し気にしろ」

 

エギルの視線がキリトに移るなりその顔が呆れ一色になる。この黒髪の少年はアスナを伴って来たり、アスナとの待ち合わせに利用する時はまだ良いとして、アスナに構ってもらえない時まで分かりやすく仏頂面で準備中の店にやって来るのだから始末に負えない。

エギルの気遣いにホッと表情を緩ませたアスナは「どうぞごゆっくり」と言ってウインドウを複数展開させ学校の課題に取り組みだした。集中力を高め、又キリト達の会話を拾わないようセパレートタイプのイヤフォンを装着している。

新しいお茶を一口すすって、ちらっとアスナの様子を確認したエギルはそれでも前屈みになってキリトに顔を近づけると少しだけ声を潜めた。

 

「今の所《ザ・シード》に対して何らかの規制がかかる可能性は低いだろうな」

「ああ、すでに全世界規模で拡散してるからアンダーワールドにのみ干渉するのはまず無理だし、そもそも開発元が完全シークレットなんだから」

 

キリトは自分が最初に《世界の種子》を持ち込んだ目の前の相手、エギルに頷く。そして自分の判断が間違っていなかったことに内心でもう一回頷いた。なんだかんだと文句は言ってくるがこの男はいつだって面倒見が良く頼りがいのあるアニキなのだ。だからこそユイに頼んで《ザ・シード》の拡散元は辿れないよういかなる足跡も入念に消し去ってもらっている。

ただアンダーワールドだけに限って言えば制作に《ザ・シード》を使っているとは言えそれは初期の基礎部分で、ユイであってもプログラムへの侵入は不可能だから安心は出来ない。

《現実世界》でのアリスの身辺に関しては一介の高校生でしかないキリト達が何を出来るわけもなく、今日のように精神面での気分転換を提案するくらいしか気遣えないのだからアンダーワールドの存続云々に関してはもはや無力と言っていい。そう考えればアリスの存在を秘匿するのではなく大々的に公表したのは正解だったのだろう。ただトップアイドル並みの知名度となってしまった彼女の負担は増えるばかりで、呑気に学校に通っているキリトとしては少々心苦しさも感じていたからアリスからの要望は可能な限り叶えてやりたいと考えていた。

ただそれ以上にアスナを始めとした女子達があれやこれやと気を回しているのでキリトはそれを眺めているだけの方が多いのだが……。

 

「ところで…お前の調子はどうなんだ?」

 

ふいに話題が自分に向いて反応が遅れたキリトだったがエギルの口調からして刺された傷の具合だけではないと気付き眉が情けなさそうにハの字を描いた。

 

「ああ…まぁ、思い出せば辛くなる事もあるけど……アスナがいてくれるから」

 

そのアスナに視線を移すと、いつの間にかウインドウは全て消えており、キリトの大好きなはしばみ色の瞳も瞼によって隠されている。

イヤフォンは装着したままなので課題の途中で眠ってしまったのだろうか……二人が黙ると小さな寝息が聞こえてきた。

 

「久しぶりに大人数で行動したから疲れたのかもな。ちゃんとログアウトして寝ればいいのに」

 

「仕方ないなぁ」と軽く笑って立ち上がったキリトは彼女の耳から静かにイヤフォンを外すと部屋の隅に置いてあったブランケットを持って来てそっと掛ける。《仮想世界》での行動が原因で風邪を引くことはないのだが「このお家にいる時はキリトくんいつもシャツ一枚だし」とアスナが裁縫スキルを駆使して仕上げた手製のブランケットだ。「これを掛けてうたた寝をするとすっごく気持ち良く眠れるっ」とキリトが太鼓判を押すほど高い安眠効果が付与されているようなアイテムである。

再びエギルの前に戻ってきたキリトは静かに腰掛けてからもう一度アスナの寝顔を見て穏やかに微笑んだ。

 

「何かの拍子にアンダーワールドの記憶は蘇るけどアスナが傍にいてくれると不思議と落ち着いて懐かしめるようにはなったよ。アスナにもそれがバレてるみたいで、最近はなにかとオレの近くにいてくれるし」

「そうか」

「本当に……アスナがいない世界でもう一度二年間を過ごせって言われたら絶対無理だろうな」

 

逆を言えばこの二人は互いがいれば二百年という時間さえも乗り越えられると証明してしまうのだから余計なお世話かもしれないと思いつつもエギルは懸念している事柄の発端を切り出す。

 

「ところでキリト、アリスの会見映像は見たか?」

「ああ、オレとアスナがこっちに戻って来る直前にやってたってやつだろ」

 

アンダーワールドから帰還してすぐは治療を継続しつつ精密検査やカウンセリング、その後はリハビリもあってずっと入院生活だったからキリトがその映像アーカイブを見たのは桐ヶ谷の家に戻ってからだった。

 

「アスナはオレよりもっと前にチェックしたらしいけど」

 

退院時期がずれていたし旧SAOから解放された時もそうだったのだが、アスナは自分が《現実世界》から離れていた間の出来事を新聞やネットニュースでチェックする事を面倒と思う性格でもないのでキリトの入院中に把握し終わったらしく「今回はあんまり長期間じゃなくて助かったよ」と、ほわんっ、とした笑みで告げられた時は「へ、へぇ」と口元が引き攣るのを我慢出来なかったキリトだ。

すると念を押すようにエギルは素早くアスナの眠りを確認してから更に前屈みになって心配げな目で問いかけてくる。

 

「で……その、アスナの様子は…大丈夫だったか?」

「大丈夫って?」

「いや、ま、その…なんだ……ほら、う゛ーむ…」

 

珍しく何と言っていいのか言葉を探しているエギルは綺麗に剃り上げた頭を片手で撫で回しながら最後には「あぁっ」と苛立ちを混ぜて大きく息を吐き出した。

 

「分かっていると思うがアリスを責めてやるなよ、あの言葉でその場の流れが変わったんだからな……まあ、ちょっとばかり大胆発言だった、とは俺も思うが」

 

いきなりアリスの発言に話が飛んで余計に理解が追いつかないキリトは困惑の声で「大胆?」と眉間に皺を寄せる。

 

「だから…メディアを前にして堂々と宣言しただろ……リアルワールド人のひとりを愛してる、って」

「ああぁ……あれか」

「あれか、じゃない」

 

キリトの軽い反応にエギルは渋面を作った。

確かあの時《ダイシー・カフェ》の扉に貸し切り札を下げて店内で生中継を一緒に観ていたALOや元SAOプレイヤー達も多少の驚きはあったもののすぐに「ああ、この子もなのか」といった苦笑いに近い表情に転じていたのを思い出す。

なんでコイツは新しい世界に行く度にこういう面倒事を持って帰ってくるんだ?、とそろそろ本気で一回膝を突き合わせる必要があると思い始めていたエギルが深刻そうな顔を近づけてくるので、ちょっとばかり仰け反りながらキリトは自分の頬をぽりッと掻いて目をうろろッ、と彷徨わせた。

 

「オレもアスナとアリスのそういうのはもう終わったと思ってたんだ」

「……そう思った理由を聞いてもいいか?」

「だって人界守備軍の野営地で明け方近くまで色々話してたし……」

 

その「色々」が全て自分との関係性を主張する為の懐かしいと言うより恥ずかしいが大部分の思い出話であった事は故意に伏せて、キリトは「うーん」と唸った。あの夜の暴露大会で納得したと思い込んでいたのだが、その認識は全くの見当違いだったらしい。

 

「結局その話し合いで決着はついてなかったってことだな」

「いや、決着もなにも……」

 

そこで困り顔になったキリトを見てエギルは真っ直ぐに問いかけた。

 

「キリト、お前にとってアリスはどんな存在だ?」

「それは……アリスにも聞かれたけど」

 

そう前置きをするとキリトもまた居住まいを正してエギルを見返す。

 

「希望だ。オレだけじゃない、アンダーワールドにとっても…もしかしたらリアルワールドを含めた全ての未来への希望になるかもしれない存在だ」

 

随分とスケールの大きな話だったがエギルはキリトの言葉でさっきまで懐かしそうにコヒル茶の味に頬を緩ませていた一人の少女が実は奇跡に近い存在なのだと思い出して大きく同意を示した。そして念の為に続けて問いかける。

 

「ならアスナは?」

「アスナは……オレの」

 

そこから少しの沈黙が落ちて、いつまで経っても続く先の言葉が出てこないキリトにエギルは辛抱できず「オレの?」と促した。するとキリトは一瞬不可思議に真っ黒な瞳をまん丸くして「何を言ってるんだ?」という顔からすぐに自分の意図が伝わっていなかったと理解し、バツが悪そうに口元を片手で覆って弱気な声を紡ぐ。

 

「えーと、だからさ…改めて聞かれても、アスナはオレのだ、って言うのが一番しっくりくるって言うか……」

 

途端に話は世界にキリトとアスナの二人だけという小さなスケールになり、キリトの心の狭さも垣間見えるが「そうきたか」と小声でもらしたエギルが険しい顔で口を開き「お前なぁ」と心底呆れた声を吐き出した途端、それを押し返さんとばかりにキリトはぐいっ、と手の平を突き出した。

 

「わかってるっ、わかってるから。アスナは物じゃないし、アスナにだって自分で進みたいと思う道があるってことは」

 

わかってての発言か……と逆に始末に負えない可哀想な子を見るような目に変わる。

 

「でも…アスナはどこへだってオレと一緒にいてくれるって……」

 

上げたままの手の平はエギルの発言を遮る意味から、自分の頬を赤く染める羞恥エフェクトを見られない為のものに変わっていて、こちらを見ようとしないキリトへ聞こえるようわざと大きな溜め息を落としたエギルは、それでも内心は、それだけの執着が持てれば大丈夫か、と安心の笑みに変わっていた。

鋼鉄の城に囚われたばかりのキリトはとにかくアスナの為で動いていた少年だと知っているのはエギルの他に思いつくのは「にゃはは」と笑う情報屋くらいだろうか。アスナにとって自分が不必要だったり余計な危険を招く存在となったらすぐに傍を離れる覚悟を持っていた程に主体は彼女だった。それが今は自らの意志で彼女の隣に立ち、自分の傍に彼女を引き寄せ離そうとしないのだから大した変化である。

 

「アスナがいれば、お前はどんな世界にいてもちゃんと俺達が知ってる黒の剣士でいてくれそうだな」

 

目元には幾分赤みが残っているもののエギルの言葉の真意を測りかねているのか平常を取り戻した純黒な瞳は、何を今更当たり前のことを……と言いたげに、きょとんと見開かれていた。そんな未だ少年らしさが残る面立ちを可笑しそうに眺めていたエギルだったが、ふぅっ、と軽く息を吐きもう一度アスナの寝顔を確かめてから口を開く。

 

「まぁ、お前がブレてないのはいいんだがな。会見でのあの発言を聞いた世の中の一般人という括りのその他大勢はアリスの気持ちを応援しようって空気になってるのは……気付いてるか?」

「は?、なんでだ?、その他大勢は関係ないだろ?」

 

当事者のキリトとしては余計なお世話である。

軽く肩をすくめたエギルは皮肉な口調で「関係がないからさ」と言うと、突然「『人魚姫』って話は知ってるだろ?」とアンデルセン童話を持ち出した。

 

「詳しいわけじゃないけど、人魚の姫が人間の王子に恋をする話だよな?」

 

恋をした人魚姫は自分の声と引き換えに人間の足を手に入れる。そして王子と再会し一緒にお城で暮らすものの結局王子とは両想いになれず最後は海の泡となってしまう……そんな感じじゃなかったか?、となんとか思い出せる部分を引っ張り出したキリトにエギルは「ああ、大筋は間違ってない」と肯定する。

 

「『姫』が付く海外の童話で王子とめでたしめでたしにならない話って珍しいから覚えてたんだ」

「問題はそこだ。人魚姫を中心に描かれてるから読んでるこっちとしては好きな人に会いたい一心で海から陸へとやって来た人魚姫には王子と幸せになって欲しいって思うだろ」

「普通はそうだろうな」

「だけど王子は人魚姫より他の女を選ぶ。人間の姿になった人魚姫に優しく接して共に楽しい時間を過ごしても王子は人魚姫を愛さないんだ。読み手としては益々人魚姫が可哀想になる。異種族や身分違いがテーマの物語は最終的に互いの間に友情や愛情が成立して完結するとこっちも読後感がいいからな。だけど王子にしてみればその他大勢は黙っててくれって話だ。別に人魚姫に好きだと告白されたわけでもない、まぁ、そこは人魚姫が喋れないからな。それに王子が結婚した相手は元々王子が気になっていた女性だから王子を中心に物語を見れば偶然出会った女性を忘れられずにいたら、なんと結婚相手がその女性だったっていう運命的な物語になるわけだ。ただその途中で声の出せない他の女性を助けたってエピソードが入る程度の、な」

 

そこまで聞かされればキリトもエギルの言いたい事がわかってきた。

アンダーワールドという異世界からたった一人でやってきた美しい少女が世界の垣根を越えてリアルワールド人に好意を抱いている……そんな物語のような出来事が現実に起きていると知ればその恋が成就する方が盛り上がるに決まっている。たとえその相手に恋人がいようと関係ない、当事者達の気持ちなどお構いなしでよりロマンチックな展開を期待するのはその他大勢が無関係という立場だからだ。

 

「アスナもその他大勢が相手じゃどうしようもないだろうしな。ましてやアリスの発言がこんな事態を狙っての事でないのも理解できてるし、お前に何か言うのも違うとわかってる。それに自分の気持ちを抜きにして合理的に考えればアンダーワールドとリアルワールドの架け橋となるにはぴったりだろ、お前ら」

 

そういう所まで感情を制御して考えが及ぶんだから、頭が良いのも考え物だ……と気難しげに眉根を寄せているエギルの耳に歳相応にふて腐れた少年の声が、とんっ、と落とされる。

 

「それじゃあオレの気持ちはどうなるんだよ」

 

必死の思いで海から陸へやって来た人魚姫なんだから、王子は好きにならなきゃいけないのか?、本当に好きな人を諦めても?、そんなのは違うと童話でも語られてるのに……たいそう不機嫌顔になってしまったキリトにエギルは一言「そうじゃない」と険しい表情を解き柔らかく諭した。

 

「お前の気持ちを信じてるから何も言わないんだろうが。それでも何かいつもと違う所とか、気付いてないか?」

 

聡明と言っても十代の少女だ、不安にならないはずはない。キリトは既に終わった物として認識していたようだからそれが答えなのだが、アリスのまっすぐさを知っているだけに完全に切り替えはできないだろう。一方、キリトも最近のアスナの様子を振り返って「もしかして…」と何かに思い至る。

 

『キ、…和人くんっ。ごめんね、教室まで来たりして。午前の授業、早く終わったから……お昼食べに行こ』

『今日は雨だから電車でしょ?。帰り、駅まで一緒していい?』

『キリトくん、コヒル茶を再現してみたの。味見してくれる?』

『今度ね、ALOで限定クエストに付き合って欲しいんだけど……』

『おやすみなさい、キリトくん。今夜はもう遅いんだからログインしないでちゃんと寝てね』

 

確かにアンダーワールドから戻って来てこれまで以上にアスナが寄り添ってくれている自覚はあったが、それがあまりにも心地よくて、あの世界での出来事を思い出したキリトが再び自分のフラクトライトを傷つけないよう「大丈夫だよ」と手を引いてくれている感覚だったのだが、それだけではなかったのかも、と確かめるようにキリトは振り向いた。ブランケットに包まれたアスナの寝顔はキリトの傍にいるせいか、穏やかそうに見えるが心からの安堵はない。

 

「助かった、エギル。話してくれて」

 

カタッ、といきなり椅子から立ち上がったキリトはもうエギルを見ていなかった。アスナの元へ足早に近づくと、その勢いを殺してゆっくりと屈み込みそっと彼女をブランケットごと横抱きに持ち上げる。小さな顔を自分の肩口に寄りかからせて安定を得ると、僅かな震動が届いたのかウンディーネ特有の耳がぴくんっ、と震えた。

 

「寝室に移動する……もう少ししたら起こしてログアウトさせようと思ってたけど、オレも今夜はこっちで寝るよ。なんだか《現実世界》のベッドで寝るよりよく眠れるんだ。きっと向こうで二百年間、いつもアスナと一緒に寝てたからかな」

 

覚えていないくせになぜか自信を持って言い切るキリトの姿にエギルは「ああ、そうしろ」と言うしかない。そうやって何度でもキリトが感情のままに手を伸ばすのはアスナなんだと伝えればいい。

少しあどけない寝顔を守るように慎重に運んでいたキリトだったが、制し切れていない揺れ故かさっきよりもぴこぴことアスナの両耳が反応し始めた。程よい弾力のある柔らかな耳の感触とそこを甘噛みした時のアスナの反応が否応なしに思い出されて、キリトは「あ、やばい」と足を止める。

 

「んぅ…ふうぅ……キリトくん?」

 

予感したとおり長い睫毛が数回軽く瞬いた後、ゆっくりと瞼が持ち上がって澄んだ湖水のように潤んだ瞳が現れた。今の状況を把握しきっていないものの、目の前にいるのがキリトなら自然と笑顔になるのがアスナだ。そんな花が綻ぶような笑みを向けられてキリトもまた素直に目を細める。

 

「寝室に運んでる途中なんだ。そのまま寝てていいよ」

 

「んー」と甘える声と一緒にブランケットの端から細い両腕が伸びてきてキリトの首に巻き付いた。

顔を接近させてまるでマーキングでもするように頬をすり寄せてくる彼女に対し「アスナ」と名を呼ぶキリトの声には存分に愛しさが含まれている。

 

「今日は疲れてるだろ。オレもこっちで寝るから」

「もう、眠くない……」

 

いまだ頭が回っていないぼんやりとした表情のまま何を舌っ足らずで言っているのか、と笑えばアスナはキリトに回している腕にきゅぅっと力を込めた。

 

「今日はキリトくんと一緒にいられなかったし……だからもう少し……」

 

女子集団がログハウスに帰って来てからリズ達と共にキリトとアスナも居たのだが……アスナの中では二人きりに意味があるらしく、そんな可愛らしいおねだりも普段なら口にしなのがわかっているから、キリトはこっそりと「ますます、やばい」と呻く。

「よっ」とアスナを抱え直して更に密着度を高め、息を吹き込むように耳元で囁いた。

 

「オレはいいんだけどさ……アスナ、まだそこにエギルいるぞ」

「え!?」

 

一瞬にして覚醒したらしいアスナの顔は完全に固まったまま色味だけが鮮やかな赤色に染まって、最後に頭頂部からぽわんっ、と湯気が立つ。

あ、そのエフェクト残ってたんだ、と懐かしく思っていると、声も出せずキリトの肩に穴をあける勢いでグリグリとおでこをこすりつけてくるアスナにエギルが「気にするな、アスナ。そうやって素直に甘えてればいいんだ」と朗らかに言葉を掛けた。気にするな、が何を指しているのか、アスナがすぐに理解したかどうかは分からないが今の状況がキリトに甘えているのははっきり自覚してグリグリが高速になる。

すっかり目も覚めたようだし、本人も「もう、眠くない」と言っていたから二人きりにさせてやるにはエギルがログアウトすればいいだけの話なのだが、アスナを寝室へ運び込もうとしているキリトは背中だけでも上機嫌なのが分かって、エギルはやれやれ、と鼻から息を吐いた。アンダーワールドでPoHによる残虐な戦闘行為が繰り返されている中、目覚めたキリトが彼を慕う大勢の仲間達を背にして最初に声に出したのは「ありがとう」という感謝でも「ごめん」という謝罪でもない……「ただいま、アスナ」というたった一人に向けての言葉だった事を思い出して、エギルは笑いながら「じゃあな」とウインドウのログアウトボタンをタップしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
ホームシックをアンダーワールドでは懐郷症と言うくだりは
原作の「ムーン・クレイドル」編からです。
ゲームにはなってるんですよね、アニメ化して欲しいなぁ。


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守護者の願い

キリトとアスナがアンダーワールドからリアルワールドへ生還した後の
お話です。


一般的に見てどう控えめに言っても「快適な居住空間」とは呼べない五反田のアパートの一室で比嘉は座椅子の上にあぐらをかいたまま「えっ!?」と短い音を発した状態で固まっていた。その、ちょっと間の抜けた光景が見えているのか、モニターの両端にあるスピーカーから自分の今の発言を薄い苦笑いで包んだ後悔の声が響く。

 

「いまさら、王妃に……アスナに、会いたい、なんて……」

 

すまない、比嘉さん。困らせたな……とすぐに自嘲めいた声はたった今吐き出したばかりの切望を紙くずのような軽さに変えて無価値のレッテルを貼ろうとしていた。それに慌てた比嘉はぶんっぶんっと大きく首を横に振り「そうじゃないッス」と握りしめた拳に震える程力を込めモニターのカメラ部分に顔を突き出して「僕が驚いたのはっ」と高ぶった気持ちのまま叫ぶように声を出した後、ふぅっ、と一息ついて肩の力を抜き、何か信じられない事項に出くわしたように首が垂れる。

予想していなかった反応に面食らったのかスピーカーから困惑を示す沈黙が続くと、比嘉は無意識にぽそり、と「驚いたのは……」と同じ言葉を繰り返した。

 

「半月ほど前に…彼女から…頼まれたからッス……」

 

向こう側からの困惑という名の沈黙は続く。

 

「……もし、自分に…アスナさんに会いたいと、誰かが僕に頼んできたら……」

 

そこで沈黙は困惑から緊張に変わった。

 

「会いますから、教えて下さいね、って……」

 

今度はスピーカー越しの声が言葉を詰まらせる番だった。

その間に、その時の状況を比嘉は思い浮かべる。あれは六本木支部にキリトとアスナの二人が神代博士を訪ねて来た時だった。軽く挨拶を交わした比嘉はそのまま三人から離れて仕事を続けていたのだが、しばらくして手元に影が差したので顔を上げると、アスナだけがニコリと微笑んで隣に立っていたのである。視線をその背後に伸ばせば神代博士とキリトは何やら熱心に話をしていて、どうしたんすか?、と見上げた比嘉にアスナは笑顔のままちょっと屈んで声を落とし先の言葉を伝えてきたのだ。

当然、その時は意味がわからなかった。

単純に考えて比嘉とアスナの繋がりを知る者はほとんどいない。

そして比嘉とアスナの繋がりを知っている者なら比嘉を通すより神代博士を通す方が自然だとわかっているからだ。

再三の招来にも応じなかった神代凛子が《オーシャン・タートル》までやって来たのはアスナが懇請したからである。そして二つの世界が同時にたくさんの生死を賭けた大混乱の最中、ダイブ中のアスナがログアウトを拒みアンダーワールドに残る決意を伝えた相手もまた神代凛子だった。

だから比嘉は単純にもし凛子さんが不在の時、六本木支部に誰かが訪ねてきた時ッスかね?、くらいにしか受け止めていなかったし、そもそもここにそんな人間は来ないだろう、と軽く考え「わかったッス」と気楽に答えたのだ。

けれど、今、ここに、アスナとの相見を比嘉に願う者が存在する……その事実に比嘉は戦慄した。

だってあの時の彼女はいつものように綺麗な笑顔で何でも無いちょっと思いついただけみたいな明るい声で比嘉に言葉を託してきたからだ。

一体いつから、どうやって、どこまで知っているのか……なぜ比嘉自身に何も聞いてこないのか、それとも額面通りの意味でしかなかったのか、だったら自分に託されたあの言葉も単なるその場の思いつきなのか?……可能性が広すぎてこちらから探りを入れる事さえも躊躇われるほど一介の高校生とは思えない聡明さを持っている相手だからここはもう素直になろう、と心を決める。

別の言い方をすれば、なるようになれ、だ。

比嘉の決心が固まった頃合いを見計らったようにスピーカーからも落ちついた、けれど今まで耳にした中で一番人間らしい感情のこもった声がポツリと落ちてくる。

 

「相変わらずだな」

 

 

 

 

 

 

それからすぐにアスナの端末に連絡をした比嘉は十日ほど経った後、彼女をラース六本木支部に迎えていた。

アスナの都合もあったし、何より凛子博士や殉職報道が流れたメガネの上司の不在時を狙わないといけないから当初は一瞬、自分のアパートに、とも考えたが、あそこにあの冗談みたいな美少女女子高生がやってくる?、を想像してありとあらゆる面から自発的にNGにした。それに彼女からも場所は出来れば六本木支部でと希望があった為、多少彼を待たせてしまった感はあるが……ともかく彼女、結城明日奈はシステムルーム内に自分と比嘉しかいないのを確認した後、己の立ち位置にちょっと戸惑ったのか尋ねるように隣の比嘉を見ている。

 

「えっと……椅子、どうぞッス」

 

華奢な指でさらり、と滑り落ちてくる髪を耳にかけながら「ありがとうございます」と微笑みつつ腰を下ろす仕草には余裕と気品が備わっている。記憶は残っていないはずなのに、彼が「王妃」と呼ぶのが何の違和感もない事に比嘉は一瞬背筋に震えが這い上がった。

一方、アスナの方は待ち人を探すように周囲をキョロキョロと眺めてから再度比嘉を仰ぎ見る。

その視線を受けて降参を示す息を吐き出すとメガネのブリッジを押し上げてから「アスナさん」と覚悟の声を押し出した。

 

「どこまで……知ってるんです?」

「どこまで、とは?」

 

あえてぼやかした問いかけにアスナは間を置かずに問い返す。そこで比嘉は今日の目的に内容を絞った。

 

「今日、アスナさんに会いたいと言ってきた人物については……誰なのか、わかってるんスか?」

 

そう、今日、この六本木支部で会うのが誰なのか、比嘉は一切知らせていなかった。にも関わらず彼女は相見の場にここを希望し、相手については言及しないまま疑問や不安を抱く様子もなくやって来たのである。

核心を突く質問にアスナはちょっとだけ「んー」と迷うような素振りを見せた後、それを打ち消すべく挑むような笑みを向けてきた。

 

「多分、ですけど。場所をこの六本木支部に、とお願いした時、比嘉さんの反応で確信しました」

 

「あと、相手の事をなにも話してくれない事も」と付け足されて、最後のひと押しは僕ッスか!?、と驚きで動けずにいると、上部に設置してあるスピーカーから「くっくっ」と低い笑い声が漏れ出てくる。

 

「完敗だな、比嘉さん」

「僕の話が終わるまで待ってる約束ッスよ」

 

明日奈の澄んだ瞳がぴんっ、と糸で引っぱられたみたいに真っ直ぐスピーカーへ向けられた。

この場で絶対に聞こえるはずのない声だが、同時に決して明日奈が聞き間違えるはずのない声だ。

そしてしばみ色の瞳には驚きも怖れもない……あるのはどこか安心したような慈愛のこもったあたたかさだけで、けれど表情全体はどこか苦しげだった。

 

「……やっぱり…キリトくん」

「ああ……来てくれて、有り難う……アスナ」

 

間違いなく見つめ合っている二人に自分の存在がお邪魔虫だとはわかっているが比嘉は「どうして」と問わずにはいられない。

アンダーワールドから帰還したばかりのキリトのフラクトライトを菊岡の目を盗んでコピーした時、アスナもまたベッドの上で半ば朦朧とした状態だったはずだ。あの時の比嘉の行動に気付く余裕などなかったのは間違いない。

その疑問に答えるべく明日奈は一旦視線を比嘉に向けた。

 

「アリスに送られてきたメールを見せてもらった時、なんか引っかかったんです」

「メール?」

「ええ。アンダーワールドへの座標が記されていたんですが、キリトくん……えっと、こっちのリアルワールドにいる彼は差出人を団長…茅場晶彦だろうと思っているみたいですけど、団長らしくない、というのが私の印象でした。旧SAOでは同じギルドでしたから、私の知ってる団長だったらあんな書き方はしないだろう、と」

 

その後で「でも団長がゲームマスターの茅場晶彦だったとは思いもしませんでしたけど」と微妙な笑顔で付け足した後、表情を戻して「それに」と話を続ける。

 

「もし団長だったらアリスに送るのもちょっと違う気がして……だったらセントラル・カセドラルをよく知っていてアリスとも関わりがある人って言ったら……」

 

そこでアスナはスピーカーに微笑んだ。

 

「もう、キリトくんしかいないでしょう?」

「それだけで彼のフラクトライトがコピーされたと推測したんスか?」

「あとは、まあ、消去法で……もし二人共コピーされてたら、やっぱりあのメールにはならないだろうし、何よりキリトくんや私ではなくアリスに送った理由は通常のネット回線を使うと発信源を探られるのがわかっていたからだと思ったんです」

「それは…誰に?」

「うちの子に」

 

その言い回しに比嘉は洋上のラースで初めて結城明日奈と相対した場面を思い出す。

 

『うちには、防壁破りが得意な子がいるものですから』

 

今までいくら会わせて欲しいとキリトやアスナに頼んでも、まるで年頃の娘を持つ親のように胡散臭い目で比嘉を見ながら「絶対にダメ」と言い続けられている二人の愛娘の存在に思い至って、そうか、と納得する。その子もまたアリスとは違うアプローチでこちらが予測できないレベルまで成長を遂げているAIだ、メールの逆探索などお茶の子さいさいでこなしてしまうのだろう。

アリスは核となるフラクトライトが納められたキューブこそ現実世界にあるとは言え、その存在は電子の海にたやすく溶け込む。例えば限りの無い大海のただ中にいて、目の前に漂ってきた手紙がどこから流れてきたのかを何のヒントもなく探り出すのは不可能に近い、という状況だろうか。逆にそこまでしなくては二人にとって「娘」とはばからないかのAIには痕跡を辿られるという事だ。

そこまでユイを理解している人物、そしてユイにとってもコピーが存在する事実を容易に受け止められない人物と言えば考えられるのはキリトかアスナしかいない。

 

「ユイちゃんの事を気にしてくれたんでしょう?、ありがとう、キリトくん」

「ユイには……たくさん心配をかけただろうし……」

 

父と認識しているキリトに続き母であるアスナまでアンダーワールドにダイブしたまま戻ってこないと知った時のユイの心には相当な負荷がかかったはずで、無事に生還したとは言え今度はキリトのフラクトライトのコピーが……ではさすがのユイもどうなるかわからないし、ユイが気付けば和人にも知られる事になる。

 

「場所をこの六本木支部にしてもらったのは、ここだと簡単にはユイちゃんも入って来られないから」

 

この密会を出来れば知られたくないアスナとしては万が一ユイが自分を探したとしても何度か訪れているここなら不自然には思われないし、侵入できない事も承知済みだ。

それでもアスナほどではないのかもしれないが、決してキリトだって勘が鈍いわけではない。五反田のアパートで初めて星王キリトそのままの魂がすぐに自分をコピーだと認知したのに本人がその可能性に至らないのはなぜなのか?……その疑問が顔に出ていたのかアスナが再び幼子をあやすような柔らかな声で比嘉を諭した。

 

「キリトくんが気付かないのは……記憶を、デリートしたからです」

 

今やアンダーワールドの守護者となった星王キリトとリアルワールドの桐ヶ谷和人、二人の決定的な違いはかの世界で過ごした二百年間の記憶の有無だ。

 

「キリトくんはこの六本木支部でテストダイバーをしていた期間も含めて、実際にフラクトライトをコピーする場面を見たことがありませんよね?」

「そりゃあそうッス。そんな極秘事項、教える必要性はないッスから」

 

そこで比嘉ははたと気付く。

初めてアパートで会話をした星王キリトは最初から全く混乱も動揺もせずに自らをコピーだと言い当てた。これまでのフラクトライト・コピーはまずは自分が複製品であるとは考えない。それを知らされた後、認識に耐えきれず崩壊するのだ。

そんな光景を嫌というほど見てきた比嘉でさえ、散々自分に言い聞かせてSTLに入ってもコピーはコピーだと受け入れられないというのに、星王キリトはなんの葛藤も見せずに自身の存在を正しく理解していた。

比嘉は初めて遭遇した崩壊しないフラクトライト・コピーに圧倒され、それが二百年という魂の寿命さえも越えた存在のなせる技なのだという興奮からすっかり失念していたが、そもそも魂のコピーという知識はどこから得ていたのか……。

 

「アスナさん、ッスね……彼に話したのは」

「多分、そうだと思います」

「多分?」

「二つの世界の人達が入り乱れた大戦の後、キリトくんと一緒にアンダーワールドに残って互いに離れていた間の事を話しました。その時は《オーシャン・タートル》で聞いたあの箱庭と呼ぶべき世界の初まりを簡単に説明しただけだったんです」

「ラースのスタッフが精神原型を育成したのが最初っていう……でもそれだけじゃ」

「ええ、だから改めて話したんでしょう。アンダーワールドで二百年近くを過ごした頃、もしかしたら本当に自分達は現実世界に戻れるかもしれないと思い始めた頃に……」

 

比嘉とアスナの会話を黙って聞いていた星王の記憶を持ったままのキリトが静かに「ああ、そうだ」と推測を肯定した。

リアルワールドに戻れば自分達は再び十代の高校生という身になる。そこにアンダーワールドで過ごした二百年分の、しかもこの世界の頂点というべき星を統べる地位に就いていた記憶は障害となる方が大きいだろう、というのが星王と星王妃の一致した見解だった。

だからアリスの妹であるセルカのディープ・フリーズを伝えたらすぐさま記憶のデリートを申し出ると決めていたのだが、そこでアスナはかつて一度だけ見た比嘉のフラクトライトがコピーされる様を改めてキリトに打ち明けたのである。

現実世界では既にSTLに横たわっているはずの自分達の魂をコピーするのは簡単で、そのオペレーションをこなせる人物は自分達のコピーを欲する可能性が非常に高いという事を。

 

「そうか……こっちにいるキリトくんはアスナさんから聞いたはずの話を思い出せない。フラクトライトのコピーがどれほど簡単に出来てしまうのかも知らない」

「はい、だから思い至らないのも当然なんです」

 

今の桐ヶ谷和人では自分の魂の複製という可能性に辿り着ける経験や知識が足りていないのだ。

アリスに届いたメッセージの文面と実際にコピーの過程を知っているアスナだけが正解に至った理由がそれである。そもそも最初から星王キリトがオリジナルの桐ヶ谷和人にコンタクトを取って正体を明かしていれば、こんなややこしい話にはならなかったのだろうが……。

 

「オレもこれ以上は干渉しない……あとはオリジナルのオレ…《彼》が気付くかどうかだな」

 

どうやら自ら打ち明ける気はなさそうだ。

少し突き放したような言い方にアスナはくすくす、と口元を手で覆った。

 

「その言い方。気付くと思ってないでしょ」

「……道は教えた。だけど今は発信者の特定どころじゃないだろう?」

 

今現在アスナはもちろんキリトも、そして仲間達も一緒にユイですら原因が分からないALOでの異常事態に対応しつつ、それと呼応したように現実世界でも様々な出来事が勃発していて確かにメールの件は有耶無耶になっている。加えてキリトとアスナ、そしてアリスはアンダーワールドでも懐かしい人達との再会や新たな出会いを重ねていた。

だいたい和人が発信者を茅場晶彦だと推定している時点でそれ以上追求する気はないのだろう。そういった状況を把握しているらしい発言から星王キリトがリアルワールドのアスナ達を気に掛けているのはわかったが、同時に傍観者に徹するような言い方にはせつなさを覚えた。

そんなやり取りを眺めているだけの比嘉は疎外感からか知らず苦々しい笑顔になっていて、気付いたアスナは申し訳なさそうな会釈をしてからスピーカーへと少し硬い声を発する。

 

「だったら、会えるのは今回だけだね」

「ああ、元からオレもそのつもりだ…………アスナ…今は、リアルワールドで大事にしてもらってるか?」

 

誰から、と告げなくとも分かってくれると当たり前に思っている言い方。魂の複製でしかない自分には出来ない、それが出来る距離にいる《彼》に羨ましさと嫉妬と悔しさを内包した声に少しばかり彼女の眉が不愉快そうに動く。

 

「それを確認したかったの?」

「オレが……してやれなかったから。王妃は、アスナはいつだってオレを一番に考えてくれていたのに……オレは…」

「そんなことないよ」

 

この否定の言葉は星王キリトには届かないだろう、と比嘉は直感した。

そして自分が二人のうちキリトのフラクトライトしかコピー出来なかった事、そして二人の記憶をデリートした事を悔やむ。しかし星王キリトの気持ちを遮ったアスナの声は静かに染みいるようにもう一度「キミの事ならなんだって知ってるんだから」と断言した。

 

「キリトくんはいつだって一生懸命アンダーワールドの為に頑張ってたもの」

「そうだよ。だから……」

「そのアンダーワールドには私も含まれてたの…私はずっと、二百年間あの世界ごとキリトくんに大事にしてもらってた。記憶がなくてもわかるよ。私がキリトくんを一番にするのはね、キリトくんにとってあの世界は特別だったから」

 

ふいにアスナはここではない世界を懐かしむように目を閉じる。キリトとともに駆け抜けたであろう長い時間を、いくつもの場所を巡りながら自分にとっても単に馴染み深いだけの仮想世界ではないと思い返してから慈愛に満ちたはしばみ色がゆっくりと現れた。

 

「キリトくんが一番にアンダーワールドを思うなら、キリトくんを一番に考えてあげる人が必要でしょ?」

 

世界を守るための王を支える者の言葉が星王キリトへと届く。

そんな風に想われていたのか、と我慢出来ずに小さく小さく愛しい人の名を紡ぐがそれはスピーカーを震動するまでに至らなかった。

そしてアスナは星王キリトとのやり取りからひとつの考えを実行すべく「だから」と比嘉に振り向く。

 

「私もコピーしてください、比嘉さん」

 

比嘉と同時に、呼吸をしていないはずの星王キリトでさえ息を止めた。

 

「なにを言ってるんスか、アスナさんっ」

「もともとそのつもりでこの場所をお願いしたんですけど」

 

どこまでも自分の予想を超えてくる彼女に比嘉は本気で戦慄し、両手を大きく広げる。

 

「アスナさんは実際に見てるッスよねっ。コピーという認識を受け入れられずに崩壊していく様子をっ」

 

取り乱し無様にわめいて最後には吐く声すら言葉でなくなり消滅する惨めな結末を。コピーとは言えアスナのそんな姿を比嘉は絶対に見たくないし、ここにいるキリトにも見せるわけにはいかない。

まさかそんな提案をしてくるとは思ってなかったッス、と何とか説得を試みようと頭をフル回転させるが、アスナの方は既に意志を固めているようで場にそぐわない柔らかな声が「大丈夫ですよ」と一瞬にして空気を和らげた。

 

「だってここにいるキリトくんは崩壊してないですよね?…それに私は彼と一緒にいると決めてるので」

 

何でもない事のように、ほわん、と笑う彼女に重々しい声が待ったをかける。

 

「…駄目だ、アスナ。きみまで…そんな……」

「どうして?」

「だって、ここはまっ暗で何もない」

「そんな場所にキリトくんを一人にはしておけないよ」

「っ…もう、そっちには戻れないし、いつまでこのままか……」

「そうだね、でもキリトくんこそ忘れちゃったの?。私はキミと一緒ならたとえ千年だって長いとは思わないって言ったこと」

 

次第に星王キリトの声が何かを堪えるような途切れをみせ始める。

 

「…ユイや…リズと…だって……触れ合え…なく……なっ……」

「ふふっ、キリトくんの寝癖を直してあげられなくなるのはちょっと寂しいけど、その代わりずっと一緒にいてね」

「アスナ……」

 

それが答えだったのだろう。アスナは自信に満ちた笑顔で比嘉に大きく頷いた。

桐ヶ谷和人の了承も得ず魂を複製しそれを隠していた比嘉はアスナに糾弾され事を公にされても文句は言えない。上にバレれば良くて降格、ヘタをすれば人権問題で表向きは辞職、だが知りすぎている自分はそのまま監禁処分でもおかしくないと覚悟している。それでも自分の抑えきれない衝動が生み出してしまった彼については十分責任を感じているのだ。

だから彼が望むのであれば叶えてあげたい、というのが本心だった。

 

「本当に…いいんスね」

「ええ」

 

もうその覚悟を止める者はいない。

比嘉もまた決意の顔になっていつも自分が腰掛けている椅子に座ると目の前のコンソールを操作し始める。

 

「《オーシャン・タートル》からキリトくんとアスナさんを運び込んでずっとモニタリングしてたッスからね」

 

要するにそれほど時間はかからないという事だ。

アスナはスピーカーに「キリトくん」と呼びかけた。

 

「迎えに来てね。待ってるから」

「ああっ」

 

それだけ言うとスピーカーの向こうの気配が完全に消える。もしも姿があったとしたらこちらの世界に来たばかりのアスナをいち早く見つけ出すために真っ黒なコートの裾をはためかせて全速で走り出したキリトの後ろ姿が見えたただろう。

微笑むアスナの耳に比嘉からの「ロード完了」の後、ほどなくしてさっきまでキリトの声が聞こえていたスピーカーから入れ替わるようにしてよく知った声が響いてきた。

 

『……うーん、ホントにまっ暗なのね』

「アスナさん……」

『比嘉さん?…よね』

「大丈夫ッスか?」

『えっと、とりあえずどこも痛い所とかはないけど……って言うか身体を認識できないし』

 

ここからが勝負だ、と比嘉は唾を飲み込む。

自分のコピーは一分と持たなかった。他者の場合でも平均して三分、五分を超えたコピーは星王キリトしかいない。

今の彼女は星王妃アスナのコピーではなく、二百年分の記憶を消去された、言わば普通の女子高校生の魂の複製体でしかないのだ。

 

「アスナさん、落ち着いて聞いて欲しいッス……」

 

果たして結城明日奈のコピーは受け入れてくれるのか……星王キリトのためにも祈るような気持ちで彼女が複製体であると告げようとした時、それよりも早くスピーカーから安堵の息が漏れ聞こえた。

 

『比嘉さん。コピーは成功したみたい』

「え!?…それじゃあ」

『私はコピーでしょ?。うん、なんだか変な感じだけど、すぐに慣れると思うわ』

 

比嘉のすぐ近くにいるアスナも、ふぅっ、と大きく肩の力を抜いたのがわかる。

 

『こういう事もあるかな、ってずっと思ってたから……それで、ここにいればいいのかしら?』

 

ちょっと不安が混じり始めた声に「大丈夫よ」と同じ声が励ました。

 

「いつだってキリトくんは私を見つけ出してくれたでしょう?」

『そうね。キリトくんと一緒なら私は大丈夫』

 

二人のアスナが共通の記憶に頬を緩めていると『あっ』と喜びで一杯の声が上がる。

 

『迎えに来てくれたみたい。それじゃあ、そっちのキリトくんをよろしくね』

「うん。アナタもキリトくんと仲良くね」

 

そしてスピーカーからは何も聞こえなくなった。

アスナのフラクトライトをコピーしてからゆうに五分が過ぎていた事に気づいた比嘉もまた、ようやく、はぁっ、と深い息を吐き出したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
キリアスか?、と問われれば(星王)キリトとアスナですね。
あまりご本家(原作)さまの今後の展開予想はしないつもりですが……
いえ、絶対こんな展開にはならないだろうし……キリアス推しで
こんな展開になったらいいなぁ、という願望話です(苦笑)


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慕われ、想われ、伝われ

結婚後、明日奈と同じ職場の水嶋や莉々花・リンドグレーンとの
エピを中心としたお話です。
「みっつめの天賜物」をふまえていただくとわかりやすいかも。


結城明日奈の職場の後輩、莉々花(りりか)・リンドグレーンは自分の携帯端末のビデオ通話画面に映し出されている光景に内心「なんでデスか?、どうしてデスか?、これが当たり前なんデスか?」という疑問と疑惑とその他諸々の感情を渦巻かせながら、それでも画面の向こうでちょっと心配そうな視線を送ってくる大好きな先輩に安心して貰えるよう精一杯の笑顔で会話を続けた。

 

「それでここが依頼された駅ビルの前の広場なんデスけど……明日奈先輩、見えますか?」

 

自分を映していたカメラを切り替えて、周辺の様子が伝わるよう端末をゆっくりと水平に回す。

画面は地方中枢都市へのアクセスも悪くない比較的大きな駅前を映しているが、その規模の割りには夕刻を過ぎた今、人の往来は多いとは言えず、いまひとつ賑わいに欠けていた。

送られてくる画像を確認した明日奈もまた同様の感想を抱いたらしく「うーん、数年で結構変わっちゃったのね」と残念そうに呟いている。

今回、莉々花に任された仕事は駅に直結してるビル内の商業施設エリアのリニューアルにおけるコンサルティングだ。そこで実際現地に赴き現状把握をしているのだが、なぜその現場を明日奈に報告しているのかと言えば、数年前に行われた駅前の大規模再開発が産休を終えて職場復帰をしたばかりの彼女も参加した一大プロジェクトだったからである。その時はドーナッツ化現象に乗じて比較的若い夫婦層の移住を狙い就業時間後の充実が得られるような企業のテナント誘致を主体に進め成功を収めたかに見えたのだが、その後、更に郊外へと沿線が延びて大型ショッピングセンターやアミューズメント施設、海外資本の量やサイズが日本とは桁違いのスーパーマーケット等が次々と参入してきて、少し車を走らせれば豊かな自然の中、アウトドアも楽しめるということで莉々花の今いる場所はドーナッツの穴部分になりつつあった。

 

「駅前開発と同時進行でインフラ整備もお願いしておいたのに……」

 

そちらは公共事業となる為、残念ながら当時の明日奈も役所の担当者に指示をする立場にはあらず、プロジェクト終了時に念を押すくらいがやっとだったのだ。結局、移住者からはその点で評価を下げられ通勤用電車の改善とリモートワークの浸透も手伝って定住意識を持つには至らず再び住民の数は減少傾向になっている。そこで今回の駅ビル商業エリア全体の改装が決まったわけだが……。

 

「結局この駅の利用者や近隣住民の買い物客データを見ると二十代、三十代が多いって感じじゃないんデスよね」

 

その年齢層をターゲットにしていたテナントが主体の駅ビル内は当然だが撤退する企業が相次ぎ、それが集客数に影響を及ぼすという悪循環に陥っている。

 

「なので割合としては小売業を減らしてデイタイムの利用者を増やすために会員制のヘルスケア関連のスタジオやカルチャー系にシフトチェンジする方向が有力で……」

 

と説明しながらも莉々花の頭の中は日中の打ち合わせ内容を振り返りつつ心の内では明日奈の現状に混乱し続けていた。

明日奈は既に職場から自宅に帰宅した後で彼女の背後には温かみのある小物や家族写真の入ったフォトフレームが見えるから場所はリビングなのだと推察できる。けれどラップトップPCで後輩からの報告を聞いている明日奈の背とソファの間に存在する物体に莉々花の疑問符は止まらなかった。

それは……ソファに座って自分の足の間に彼女を収め、片腕を彼女のウエストに回し、もう片腕で小さな頭を固定している明日奈の夫、桐ヶ谷和人その人だ。

ひょんな偶然から自分の憧れであり自慢の先輩、結城明日奈の結婚相手が名前だけは広く有名で、けれど実体が全く表に出てこない存在すら不確定とされていた都市伝説級の人物、桐ヶ谷和人だと知った莉々花だが、第一印象が「大好きな先輩に突然抱きついた不審者」だった為に、現在、端末画面に映っている状況に正直「やっぱり不審者デス」としか思えていない。

そんな莉々花の思いが伝わったのか、和人は明日奈と莉々花の会話など聞いていない様子だったが、明日奈の頭を数回撫でながら肩口に顔を押し付けて首筋を、すんっ、と嗅ぐと「まだ終わらないのか?」と言いたげな無愛想な一瞥を送ってくる。

その瞬きほどの短い視線の交差で莉々花の中のゴングが鳴った。

この通信は莉々花が我が儘を言って明日奈の時間を奪っているわけではない。

元々は再開発メンバーだった明日奈に今回の改装企画も、と持ち込まれたのだが、今手がけている仕事が手一杯でとても地方まで足を運ぶ余裕がない事と前回より内容の対象範囲が小さかった事から莉々花を担当にして明日奈をオブザーバーに据える体制で受けた依頼だからだ。とは言え莉々花が単身で請け負う内容としてはこれまでで一番複雑で各方面への同時進行が重要となる為、明日奈への相談を兼ねた報告は逐一する取り決めになっている。

昨日は初日と言う事もあって午後から顔合わせを兼ねた簡単な集まりに終わった。企画の意図と方向性、規模に予算、現状と問題点など大まかな全体像を把握するだけだったから本格的な話し合いは今日からで、だからこそ明日奈からも「何時になっても構わないから連絡してね」と言われていたし、莉々花もそのつもりだった。ここ数年、変化が一番大きかった夕方以降の駅前の実状を生で見てもらった方がいいとわざわざ現地まで来て端末を掲げているのは莉々花がこの依頼に全力で取り組んでいるからだ。「やっぱり結城明日奈に担当してもらいたかった」と思わないよう、それにこの仕事が成功すれば確実に自分の自信にも繋がる。

それなのにっ、だ。こっちは朝からミーティングルームに缶詰で昨日顔と名前を覚えたばかりの担当者や関係者達と意見を交わし、時には衝突し、今日だけでは結論が出ずに保留となった問題点も少なくなく気の休まる暇もないまま一日を終えて宿泊しているホテルに戻る前に現地まで足を伸ばしていると言うのにっ、桐ヶ谷和人は自宅のソファで自分の大好きな先輩を囲い込んで見せつけるようにこちらを煽ってくるのである。

加えて邪魔者を見るようなあの目はなんデスかっ、と莉々花はつい端末を持つ手に力が入り、ミシッと鳴ってはいけない音が鳴った。

自分に向けられたほんのわずか一瞬のあの黒……「腹黒の黒デスっ」と目の色を他の身体の色で例えるという器用さで、明日奈を通り越しスウェーデン人の母譲りである瑠璃色の瞳で和人を睨み付ける。

そんな怨念じみた視線に気付いているのかいないのか、和人は相変わらず明日奈の身体を包み込むように密着させて手と額で彼女の頭を挟んでいた。明日奈にコールしてビデオ通話が繋がった時から既にこの状態だったので今更と言えば今更だし、最初に「ごめんね、莉々花ちゃん。気にしないで」と前置きされているから莉々花からは何も言えないのだが、それでもさすがに居たたまれなくなったのか明日奈の笑顔もどこかぎこちない。

いくらスキンシップ過多の夫婦でも仕事の会話中なんデスからもうちょっと遠慮したらどうなんデスかっ、桐ヶ谷和人っ……とハーフである莉々花が過度なスキンシップを咎め、更に純日本人の和人に遠慮を要求して鬼気迫る目力を発揮しているのだが、当の本人はどこ吹く風だ。

先輩だって恥ずかしさで顔が赤くなってるのに、空気読めないんデスかっ、と威嚇じみた目つきになると小柄な体躯も相まって、まるで……「毛を逆立てている猫だな」と和人は明日奈のPC画面から間違いなく自分を標的にしている妻の後輩を視界の端に収めながらぼんやりと思った。

もちろん明日奈が職場で目を掛けている後輩なのは知っている。

もともと面倒見の良い性格だから男でも女でも慣れない環境に戸惑っている相手へ出来る限りのフォローは当たり前だと思っているし、困っているのを見ればアドバイスだったり、適切な判断で手伝いもする……ただそれが莉々花・リンドグレーンにとっては救いの手を差し伸べてくれた女神のようなタイミングだったのがここまで傾倒された理由だ。

和人は十代の頃から知っている華奢で、それでも柔らかく抱き心地抜群の己だけの存在を、よいしょ、と抱え直して「早く終わらせてくれ」と願いながら栗色の髪に指を潜らせ労るように梳き始める。それを見た莉々花の眉がぴくっ、と痙攣した事など全く意に介さずに……。

 

 

 

 

 

莉々花・リンドグレーンが今の職場の新入所員となって半年の研修を受ける際、指導担当になったのは明日奈、ではなく明日奈と同期の水嶋という身長は成人男性の平均値だが細身で小顔、髪も短めで妙に顔立ちがハッキリしているからラフな服を着せれば十代に見える男、だった。ただ外見に反して常に冷静で物腰は非情に柔らかく丁寧、角のないリームリムのメガネの奥はいつも柔和な弓形を描いている……のはクライアントに対してだけで、そんな二面性を持ちながら明日奈とはまた違ったタイプの優秀さでバリバリと仕事をこなしていた彼が指導に就くと聞いて事務所内の人間達は明日奈も含め一抹の不安と疑問を覚えたものだ。あの仕事量、新人が付いていけるのか?、だいたいなんで水嶋?、と。

実は水嶋からの強い要望による人選なのだが……それは本人と所長以外知る者はいない。

ともかく研修が始まってみれば大方の予想通り、莉々花は「多忙」の二文字では言い表せないほど水嶋に振り回された。出勤してから退勤するまで、昼時さえ事務所内の水嶋の向かい席で食事を口に運びながらPCを操作しているので他の所員と交流を持つ暇さえない。

そして研修が始まってもうすぐ三ヶ月を迎えようとしていたある日、事務所には珍しく水嶋と莉々花、それに明日奈の三人しか居らず、それぞれが自分の仕事に没頭していた時だ、携帯端末で会話を終えた水嶋がいつものように莉々花を「莉々」と呼ぶ。

「勝手に省略形で呼ばないでください」と再三訴えているが水嶋は一向に改める気はなさそうで、取り敢えず少しだけ瑠璃色の目を不機嫌にして「はい」と応じると矢継ぎ早に指示が飛んできた。

 

「今やってるやつ、一旦止めろ。それは明日の昼までに仕上げればいい。先週の打ち合わせで決まったプラン、変更になった。そっちのデータ収集優先だ。今、詳細をそっちに送るから十七時までにまとめて。それとこの申請書、ミスがある。お前、俺より先に見たんだよな?、チェックが甘い。一緒に送るから先方に訂正させろ。昨日の戦略策定は理解したか?、それなら……」

 

研修期間中、これまでの莉々花は誰が見ても「優秀」と言っていい働きぶりだった。

帰国子女やハーフといった自分ではどうしようもない形容詞もハンデとはせずに隠すことなく臆することなく、ただひとこと「そうデス」と明るく笑って肯定する強さを持った新人だった。だから明日奈をはじめ同じ事務所の人間達も必死に水嶋に付いていく彼女を視線で応援していたのだが……莉々花がいっぱいいっぱいの状態だったのは水嶋もわかっていた。ただ、その状態をある程度キープする力がこの事務所に籍を置くなら必要で、それをつけさせるのが指導担当の自分の役目だからと毎日彼女を追い詰めるように仕事を振ってきたのだが……「見誤った」と水嶋は一瞬で悟った。

今までの莉々花は怒ったり、笑ったり、疑問で眉を寄せたり、納得して嬉しそうだったり、悔しがったり、喜んだり、どんな表情でも水嶋がこっそりと目を細めてしまうものばかりだったのに、今の彼女は大きな瞳からぽろっ、と一滴、瑠璃色が滲み出たような涙をこぼして、遅れてそれに気付いたのか驚いた顔で固まっている。

 

「莉々っ、落ち着けっ」

 

水嶋が咄嗟に飛ばした声は鋭くもあったが焦りの為か少々上ずっていた。

メガネの奥はいつだって余裕を示す曲線で、仕事の場においてはどんな場面でも紳士然とした態度を崩したことのない男が珍しくも素の顔で慌てている。

落ち着いて一つ一つ処理していけば莉々なら大丈夫だから、と言いたかったのだろうが指導役からの叱責と捉えたのか、莉々花はビクッと身体を震わせた。そうじゃないっ、と言葉を重ねる前に彼女の肩を背後からそっと細い手が撫でる。

 

「莉々花ちゃん、何も考えなくていいから、身体の中の空気も力も全部吐き出して……」

 

嵐が過ぎ去ったように痛い雨も冷たい風もどこかに消えて、明るい光の中で暖かな空気に包まれた感覚を覚える声に莉々花は自分が息を止めていたのだと気付く。両肩を支えられた安心感に任せて息を吐くと同時に全身の力も抜いた。

 

「全部出せたかな?、今度はゆっくり吸い込んでね」

 

肩にあった柔らかい手はそのまま莉々花のふわふわ髪の上から両耳をゆるく塞いで全ての音から彼女を守り、深く呼吸がしやすいように顔を軽く上向ければ溢れた涙が頬を滑り落ちる。

 

「もう一回、大きく深呼吸しようか」

 

スーハー、と息を整えている莉々花を上から見守っていた明日奈は口を開きかけたままこちらを凝視している同僚の水嶋にもまた慈愛のこもった目で笑いかけた。

 

「全部を処理し切れてないのに更に『落ち着け』のタスクを増やしたら、莉々花ちゃん余計に混乱しちゃうから」

 

さっきの場面、莉々花に指示を連打した後キャパオーバーにうまく対処できず、もうひとつ「落ち着く」を追打した事に気づかない水嶋を見て静観していた明日奈が間に入ってしまったが、研修期間中は関与しないのが基本だから「助かった」と感謝する水嶋に明日奈も緩く頭を振る。同僚だし、明日奈が妊娠、出産、育児休暇中は水嶋が殆ど対応してくれたので研修に入る前も新人が女性と知って「何かあれば相談してね」と伝えていたのだ。

取り敢えず場が収まった事に同期の二人が、ほっ、としていると何回か深呼吸を繰り返して落ち着いたかに思えた莉々花がいきなりくるりと椅子を反転させて明日奈の腰元にしがみついた。

 

「明日奈せんぱーいっ、もうっ、無理デスっ。水嶋さんてバカみたいに仕事するんデスよっ、信じられませんっ」

「バ、バカって……莉々の方がおばかだろ」

 

誰の為にいつもなら断る分野の仕事まで受けてると思ってるんだ、と告げそうになった本音をぐぅっ、と意地で引き留める。それに弱音を吐くなら俺に吐け、結城を抱えるな、それに今までは「結城さん」呼びだっただろ、と莉々花を睨んでいると、ちらっ、とこっちを振り返った指導対象者は目が合った途端、すぐに向きを戻し一層悲壮感が増した声で「明日奈せんぱーいっ」と細腰を抱きしめてグイグイと頭を押し付けている。

本気で泣いてはいないが…全身全霊で莉々花に泣きつかれた明日奈は「え?、なんで?」と腰をホールドされたまま戸惑いにはしばみ色の瞳をぱちぱちと見え隠れさせていて……

 

『その時からです。莉々が結城を大好きになったのは』

 

半年間ほぼ毎日面倒見てた指導役の俺よりもですよ、と全く笑っていない眼鏡越しの微笑みがちょっと怖かった……と和人は水嶋と偶然会った時に聞かされた話を頭の隅で思い返した。

ここぞ、という瞬間を逃さずに的確に突く……それは文字通り生死を賭けた戦いにおける作戦指揮官としても、それに挑む集団のサブリーダーとしても、そしてキリトさえ及ばない剣技を習得した細剣使いとしてもアスナである明日奈には当然のことだ。

なにしろ十代で培った経験の量が違う、背負った責任の重さが違うのだから状況の判断力や養われた視野の広さなど同年代と比べる方が間違っている。

その能力を平然と当たり前に発揮するから明日奈の周りには人が集まる。

『アスナってつくづく人たらしよね』と評していたのは和人がキリトとして「ガンゲイル・オンライン」というゲーム世界で知り合ったスナイパーだが、その彼女もまたキリトを通してアスナと知り合いすぐに愛称で呼ばれお泊まりまでする仲になった、要するに言葉は悪いがたぶらかされた一人である。

 

「オレの奥さん、オレなんかよりずっと格好いいからなぁ」

 

小声でもごもごと顔を栗色の髪にくっつけたまま呟いてみたら、流石に明日奈が「ん?」と視線を流してきたのがわかったので、なんでもない、が伝わるように額を押し付けたままグリグリと左右に動かした。釈然としない空気を出したままそれでも今は、と莉々花との会話に意識を戻して二人の通話が再開する。

 

「その駅がある場所、県境が近かったわよね?」

「そうデス。駅の反対側を十分も歩けば隣の県デス」

「覚えてる?、去年、スウェーデン大使館にお邪魔するのに持って行くお花の相談をした事があったでしょ?」

「あ、はい。やっぱり一番はゼラニウムで、でも国旗にちなんで青い花も人気デスって言いましたね」

 

そのアドバイスを受けて明日奈は青紫色よりのゼラニウムに桔梗や青いガーベラを足して、後は白い花で全体をまとめ上げた花束を用意したのだ。莉々花は大使館と聞いて驚いたが、明日奈は友人宅を訪れるような気安い口調だったのですぐに聞かれた花を答えて終わったのだが、後で水嶋に尋ねると「結城は企業依頼より個人依頼の方が多いから。大使館も多分個人だろう」と教えてくれた。

 

『大使館勤務の人なんデスかね』

『莉々はやっぱりおばかだなぁ。それなら大使館に呼ばないだろ。個人的な客を大使館に招ける人間は?』

『え…まさか……』

『十中八九、大使その人だよ』

 

その頃には莉々花も明日奈の仕事ぶりが他の所員と違う事に気づいていたが、この事務所は個々の所員の方針を重視しているので水嶋も別段気にした様子もなかった……と言うより一国の大使がクライアントでも「結城だから」で全て解決している気がする……から、もう「そうなんデスね」と遠い目をして自分を納得させたのだ。

あの時、出来上がった花束は見られなかったが、もうひとつ明日奈が手土産として用意したお菓子は味見と称して事務所にも持って来てくれたので莉々花は懐かしい味を堪能できた。

 

「あの時の『カネルブッレ』、すごく美味しかったデス」

「ありがとう。また機会があれば作るわね」

 

聞き慣れない単語に和人の漏らした「カネル?」という吐息のような疑問の声は内緒話をする距離状態だけに、簡単に明日奈の耳に吸い込まれる。

 

「和人くんも食べたよ。シナモンロール。覚えてない?」

 

完全に身を任せているので動かせる視線だけで明日奈が問いかけると馴染みのある単語に言い換えられたお陰で「ああ、あれか」と記憶が一致した。

それは仕事が休みの昼間だった……リビングで寛いでいたら良い匂いが漂ってきて、しばらくすると明日奈が「食べてみて」と差し出してくれたのが白磁の皿にのったシナモンロール。偶然にもその前の週に遊びに来た直葉が、近くに新しいベーカリーが出来たからとお土産に持って来てくれたパンの中にもシナモンロールはあったのだが、妻の手製のそれは何だか「異国の味」という表現が真っ先に浮かんだので妙に覚えていた。

まぁ、それもそのはずでシナモンロールはスウェーデン発祥と言われているだけあってかの国では「カネルブッレ」の名で親しまれている。それに味や香りをグレードアップさせる為にカルダモンをパウダーではなく、種をすり潰して生地に混ぜ込むのが主流なのだが香辛料が強めの本場のシナモンロールは日本では簡単に手に入らない。

そうなると、ないなら諦めるんじゃなくて自分で作ればいいんだわ、という発想の明日奈だから休日を利用して自らスウェーデン風のシナモンロールを作ったのだ。

そうして持参した花束とカネルブッレは大変好評だったわけだが……

 

「その時にね、今度新しく郊外にキャンパスを増設する大学があって、ちょっと珍しい北欧学科を作るから北欧四カ国の大使館にも協力依頼が来てるってお話を伺ったんだけど、新しいキャンパスの候補地のひとつが莉々花ちゃんが今いる場所のお隣の県で、確か県境あたりなのよね」

「それ…本当デスかっ、明日奈先輩っ」

 

隣県とは言えもしその場所が今回リニューアルする駅ビルからバス一本の距離なら人の流れや駅の利用者、それに学生向けの不動産なども考慮して多方面から企画を考え直さなければならない。

今日一日の疲れと明日奈にぺったりしている和人に対する剣呑さが浮かんでいた瑠璃色の瞳に純粋な力強さが戻って来る。

 

「ここからは莉々花ちゃんに任せるから、確認作業は丁寧にね」

「はい。これからホテルで出来るとこまでやって、結果次第では明日、必要なら直接隣県まで行くよう要請します」

 

いきなり莉々花の仕事量は倍増するだろう。

 

「大変な時は、一旦止まって深呼吸だよ、莉々花ちゃん」

 

明日奈もまた忘れてはいない研修期間中の思い出を持ち出されて、莉々花は恥ずかしそうに、それでも元気良く「はいっ」と頷くと「また明日報告します」と言い画面の向こうで手を振ってビデオ通話は終わった。

 

「…………アスナ?、大丈夫か?」

 

PC画面から後輩の姿が消えた途端、芯をなくしたように明日奈の身体が弛緩したのがわかる。そうは言ってもそれまでずっと支えるように抱きしめていたので負荷がほんの少し増した程度だ。髪を梳いていた手で軽く彼女の前髪をはらい額にぴたりと手の平をくっつけ、もう一度首筋に、すんっ、と鼻を寄せる。

 

「熱、少し上がったな」

「そう、かも……でも、このくらいなら……」

 

問題は無いと少し荒めの息を吐き出す明日奈に自然と和人の唇が不機嫌を表した。額に触れていた手をそのまま下ろしてはしばみ色を隠す。

 

「目眩は?」

「治まってるよ」

「それは気を張ってたからじゃないのか?」

 

仕事先ではそうでもないらしいが、家に戻ってくると明日奈の足取りは途端に覚束なくなるから最近は和人の過保護が急速に悪化している。微熱のせいでいつもより感じる明日奈の匂いと自分の内ですっかり身を委ねているいじらしさに庇護欲も相まって、和人は彼女の視界を覆ったままもう片方の手を下腹部にあてると頬をすり寄せて「オレが守るから」と今までに何度も誓っている言葉を込めた。

 

「まだ全然わらからないでしょ?」

「まあ、そうなんだけど。なんだか無性にアスナに触れたくなるって言うか、抱きしめたくなるんだよなぁ」

 

なに、それ?、と理解出来ない感覚と同時に、ああ、それでなのね、と納得出来た部分もあって明日奈は「ふふっ」と笑いを漏らす。身体は本調子ではないが莉々花からの報告は逐一受け取っておきたいからビデオ通話中和人に傍に居て欲しいと頼んだら、すぐに抱きかかえられて焦りはしたがやはり自宅のせいか途中から体温が上がって身体を支えるのが辛くなったので結果的には会話に集中できて……向こう側の莉々花は違ったようだが……やっぱり一番頼れる存在だと実感して新しい命の宿っているそこに自分も手を重ね、「ありがとう。心配かけてごめんね」とお返しに頬を揺らす。

 

「今のところ和真の時に比べれば平気そうで、そこはホッとしてる」

「うん、今回は大丈夫そう」

「でも油断は禁物だからな。もう仕事は増やさないでくれよ」

「今進行中のお仕事が完了したらお休みに入るってちゃんと所長さんにも言ってあるし……」

 

多分そのまま事務所は辞めて仕事を再開するならフリーでやるつもりなのだが、休暇中でも連絡を取り合う必要があるので「しばらくは籍を残しておくよ」との所長からの申し出でを有り難く受けるつもりだ。

そもそも現在抱えている仕事を終わらせ、受ける予定だった依頼に対応するだけでも結構時間がかかる。明日奈自身はまだまだ普通に動けると思っているようだが和真を妊娠した時はいきなり入院だったので和人が心配性になるのも無理はない。

 

「少し横になるか?」

 

返事を待たずに腰掛けていたソファへゆっくりと明日奈を横たわらせる。

 

「え!?、そろそろ晩ご飯の支度しなきゃ」

「食事の用意はオレと和真も手伝うから」

 

小学生になった和真はすっかり行動範囲も広がって、今日も「ただいまっ、ユイ姉」と言った後、十分間の間に「おやつ、いただきますっ」「美味しかった、ご馳走様でしたっ」「行ってきますっ」を順に言って出ていったとユイから報告があった。だから和真が帰ってくるまであと少しだけこうしていたい、と明日奈がソファから落ちないよう気をつけながら和人も寝そべってゆるくその肢体を引き寄せる。

重心を支える必要がないから抱き込んで圧迫しないよう明日奈の頭に軽く顎を当てて顔にかかっている髪を指で耳裏までそっと導いてやると、再び和人に包まれる事で絶対的な安心感が沸き起こり全身を満たしたのか、薄く開いたままの桜唇から「ふぁっ」と溢れ出た息が首に当たってこそばゆい。

一瞬肩をすくめて「ふはっ」と笑い、これくらいなら大丈夫か?、と妻の耳を弄りながら「さっきの子に休職の話は?」と問いかけると首元でぼんやりとした声が上がってくる。

 

「んー、まだ…所長さんと…水嶋くんにしか言ってない」

「そっか」

 

勤務先のトップはともかく同期の彼にも伝えてあるのか、と小さく引っかかるが、彼がずいぶん前からずっと一人の女性を狙っているのも知っているので栗色の髪に唇を押し当てて気持ちをならす。

 

「だから…莉々花ちゃん…誤解したかも」

「別に構わないさ」

 

明日奈はあくまで身重の身体を心配して和人があんな行動を取ったと思っているだろうが、和人にしてみれば莉々花は自宅で愛する妻と二人でいる空間に割り込んできたお邪魔虫みたいなものだ。誤解されたところで痛くも痒くもないし、何なら明日奈を「自分の大好きな先輩」と公言している彼女には、明日奈は「自分の大好きな奥さん」だとハッキリ言葉と態度で示しておきたいと前々から思っていたところだ。それでも仕事の話だからと何も言わずに我慢したオレを褒めてくれ、と甘える仕草で額同士をくっつければ僅か火照った肌に気持ちがよかったらしく明日奈の方から、そそっ、と触れあいを求めてくる。

 

「タオル、濡らしてこようか?」

「このままが…いい」

 

それなら、とうなじあたりに手を当てて熱を受け取り、じゃれつくように頬や鼻頭同士を点々と合わせていけば、耐えきれずに明日奈がクスクスと笑い出す。最後にその唇を封じてゆっくりと熱を共有し互いの愛しさを感じる戯れのような行為はいつまでも続いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
そして一日投稿が遅刻しました、ごめんなさい。
さて、妊娠の話がメインではないのですが、まあ既に
オリキャラで娘の「芽衣」を出しているので、お腹の中に
いるのは彼女です。
そしてシナモンロール、私は好きです。


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【いつもの二人】アンリーシュ・ブライディング

珍しくのゲリラ投稿です(苦笑)
『SAOアリブレ』のキービジュ(?)二枚見たらどうしても何か創作したくてっ。
ご存じない方は「アリブレ 新衣装」で検索してください。
【時の代表剣士】キリトの後に【新時代の架け橋】アスナをご覧いただいた後
お読みいただけるとわかりやすいかと。
アスナ視点です。


隣を歩くキリトくんの口から出た「ふぁっ…疲れた」のくたびれた声につい苦笑を漏らしそうになる。戦闘となると自分も含めてメンバーもみんな全力で戦っているんだけど、どうしても【時の代表剣士】であるキリトくんの剣戟がメインになってしまうから……さっきの戦いでも彼は終始前線で攻撃を続けていたので「疲れた」と言いたくなるのも無理はない。

それなら今は二人だけだし、他の人達は後から追いついてくる約束だから急ぐ必要もないし、と周囲を見回して、あっ、と気付く。

前方、道から少しはずれた木々の奥に立派な巨木が一本あって、その幹を囲む地面には柔らかそうな芝草が生い茂っており丁度良く日影になっている。

 

「ちょっと休憩していこっ」

 

私はキリトくんの手を掴んでお目当ての場所までぐいぐいと引っ張った。

先に木の根元にペタリと座り両手を伸ばして「んっ」と伸びをする。枝葉の間を通り抜ける爽やかな風が運んで来た草木の匂いを思いっきり吸い込んだ。《現実世界》だったら草の上に直接座ればチクチクしそうだけど、この世界では逆に芝草の葉がクッションとなって座り心地も悪くない。

 

「キリトくんもっ」

 

早く座って欲しくて誘いをかけると、私の目の前に立っていた彼の顔がニヤッとする。

あ…これはなにかダメな事を思いついた時の、と気付いたものの声を出す暇もなく、キリトくんは「それじゃ」と言いながら素早く身体を横にした。「え!?」と驚いている私の膝の上に柔らかな黒髪の感触。悪戯が成功した時のような得意気な笑みが私を見上げている。

 

「もうっ、キリトくんったら」

「ここが一番疲れがとれるんだ」

 

そう言われると何も言えなくなってしまう。

嬉しさで緩んでしまいそうな唇にちょっと力を入れて「しょうがないなぁ」と声を繕って、染まった頬を見られないように彼の前髪を指で整えて視界を遮る。でもきっと本心はバレてしまっているだろう。その証拠にキリトくんも穏やかな笑顔で私の肩から滑り落ちた髪の一房を手にとって弄っている。

ここはゲームを楽しむための世界なんだからこんな風に二人きりで何でもない時を過ごすのは違うのかもしれないけど、ゲームであっても遊びではない世界で二年間も過ごしてきた私達はそれが《仮想世界》でも《現実世界》でも、その時間そこで生きている事に変わりはない。だからゲームを進める為に必要な事じゃなくて自分がしたい事や相手にしてあげたい事を一番に考える。

今はキリトくんを休ませてあげたいし、私も二人きりでいられるのは嬉しいから……もう少しこのままでいいかな。

そして何が面白いのか、私の髪を指に巻き付けて遊んでいるキリトくんを眺めていたら「そうだっ」と前から考えていた事を思い出した。

 

「この髪の色、変えるとしたらキリトくんは何色がいいと思う?」

 

彼はどんな世界にいても黒、黒、まっ黒だ。それについては「また?」とは思うけど、同時に「キリトくんだもんね」とも思う。

だから「変えればいいのに」なんて思った事はないし、もし本人が「変えようと思う」って言ってきたら……うーん、どうしよう、他の髪色のキリトくん……想像出来ない。

だけど私は新生ALOでは髪も瞳の色も水色になっている。ウンディーネのデフォルト設定によるものだけど、それはそれで悪くない気がしているしアバターの私しか知らないプレイヤーにはこの栗色の髪がカスタマイズだと思われているみたいで、《現実世界》の色そのままだからたまには違う色もいいかな?、と思ってたんだけど……

 

「髪の毛、カスタマイズするのか?」

 

私からの質問が意外だったのか、キリトくんが真っ黒な目をまん丸にして驚いている。

 

「する、って決めたわけじゃないけど……」

 

例えば黒……か黒に近い濃い茶とか……普通の日本人っぽい髪色だったらなぁ、って小さい頃に思った時もあったし、今回のこのゲーム世界ではキリトくんとのお揃いが指ぬきグローブだけだから、これだと他の人とも被っちゃうのよね。そこで髪色を同じにするのもいいかなって思って試しに聞いてみたけど、なんだかキリトくんの反応が……薄い?

何色がいいか、を考えている感じでもなくて何か言うのを躊躇っているような視線に私が「キリトくん?」と問い返すと、彼は困ったように笑ってから「あのさ」と口を開いた。

 

「アスナがどうしても、って言うんじゃないなら……」

 

そう言って私の髪を指で挟み陽にかざすようにして見つめている。

 

「オレはこの色のままがいいな。綺麗だし、オレにとってはアスナの色だしさ」

 

収まっていた頬の熱が再燃して顔全体に広がったのがわかった。

もうっ、どうしてキミはそういう事を平気な顔で言うのっ……まるで宝物のように漆黒の瞳に私の髪が煌めいて映っている。両手で顔を隠したいのに彼が髪に触れているせいで身動きが取れない。

この髪、そんなにいいかなぁ……生まれつきだからよく分からなくて、隠せない顔の代わりに少しでも気を紛らわせる為に自分でも一房を手で摘まむ。自分の髪なのにキリトくんの方がこの色を気に入ってるなんて、なんか不思議…、とくすぐったい気分でいると膝の上の黒髪に目がいって、そっか、と納得できた。

私もキリトくんの髪はやっぱり黒がいいって思うのと一緒なのね。

栗色の髪を手放して愛しさを込めて真っ黒な前髪をさらり、と撫でる……と、その指先を見て「それなら」と自然と声が出ていた。

 

「爪は?、キリトくんは何色が好き?」

「へ!?」

 

キリトくんの持っていた一房がふさり、と落ちた。

《現実世界》だと淡いベビーピンク色しか塗ったことはないけど、アバターならもうちょっと冒険してみたい。

今の衣装に合わせるならストロベリーレッド?、パリスピンク?、はちょっとありきたりかな……差し色のマスタードイエローとか、キリトくんの衣装からダークグレーを持って来るとか……。

色々候補を考えていると今度はキリトくんも「うーん」と思案してくれているみたいで「指、見せて」と積極的な反応。

はい、どうぞ、と片手を彼の顔の前に突き出すとグローブ越しに私の手の平を優しく掴んでしげしげと指先を眺めている。

でも……えっと…爪の染色を考えるのに爪を見る必要ある?、とは思ったけど、まあ、いいかな、ってキリトくんの好きにさせていたら、ちぅっ、と軽く指先に唇が押し付けられた。

 

「ちょっ、キリトくんっ」

「手のサイズは当たり前だけど爪の形まで《現実世界》のアスナの指とほとんど変わらないな」

「それはキリトくんも同じでしょっ」

 

どの世界で手を繋いでも指を絡めても違和感はほとんど存在しない。

 

「爪の色、爪の色ね……」

 

私が諦めて口を噤んだとわかったのか、キリトくんは「爪の色」を呪文のように繰り返し言いながらまるで猫がじゃれつくように私の手に唇を落としたり頬を擦りつけたりしてきて、最後には甘噛みまでされた。

ううっ、くすぐったい……本当に色、考えてくれてる?、と確認しようと口を開きかけた時、さっきまで私達が歩いていた道の方から複数の足跡が聞こえてくる。少し遅れて話し声も聞こえてきたからリズ達だとわかって、休憩はおしまいね、と手を取り戻そうとしたら……うそ、キリトくん、寝ちゃってる…………。

そんな私達に一番に気付いたリズがみんなをその場に待たせて一人こっちまで歩いてきてくれた。

 

「ちょっと、そんなとこでなにやって……」

 

芝草を踏む足音がピタリと止まる。

ごめんね、リズ、もう少しだけキリトくんをこのままにしておいてあげて、の意味を込めて私はキリトくんの頬の下敷きになっていない方の手の人差し指をピッと立てた。




お読みいただき、有り難うございました。
言い訳のように何度も言いますけど、ゲームは全くしないので
「アリブレ」の世界観が全然わからないっ
とりあえず「活動報告」に載せるにはボリュームがありすぎだし
通常投稿にするほどの内容ではないのでゲリラしました(苦笑)
ゲームタイトルの『アンリーシュ・ブレイディング』……意味は?
アンリーシュとは「解放する、または制限がなくなる」だけど
ブレイディングって……なに?、刃物の意のブレイドの変化形?、造語?
知識のなさを晒しますが、よく分からないまま今回のタイトルはもじって
ブライド「新婦・花嫁」をアスナとして「アスナに対して制限がない」キリトって
意味で『アンリーシュ・ブライディング』にしました。
(これがウラ話ってことで)


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キスの味

すみませんっ、遅刻しましたっ。
全て夏の暑さのせいなんですっ(と責任転嫁)
そんな暑い夏休み終盤の和人と明日奈のお話です。


窓から差し込んでいた夏の陽射しがようやく眩しさを潜め始めたものの、まだまだ夕方とは思えない明るさを保っている頃、和人は自室の机に向かい全くヤル気の無い目で夏休みの課題が映っているPCモニターを見ていた。もちろん、見ているだけでは課題は終わらない。それでも全く関係の無い画面に切り替えたり、あまつさえVRの世界に逃げ込んでしまうのはよろしくない、くらいの判断力は残っていたから頑張って椅子に腰掛け、課題のファイルを開いたのだ。

未だ片付いていないのは全体の四分の一くらいだろうか。しかし夏休みは全体の八分の一ほどしか残っていない……。

 

『「夏休みの宿題」なんてモンは提出日に間に合えばいいんだろ?』

 

頭の中でクラインの声がする……気がするが、残念な事に提出日は夏休み明けの初日なのである、全科目。

 

『だからちょっとずつでもやらないとね』

 

今度はアスナの声だ。和人だって全く手を付けてなかったわけではない。それこそ「ちょっとずつ」やってはいたのだ。ただその量が本当にちょっとすぎて終わらなかったのである。しかも後回しにしたのは今の自分の知識だけでは終わらない物ばかりだ。要するに仕上げるには時間がかかる「面倒くさいやつ」ばかり。

ここで一言「ユイ」と呼びかけるのは簡単だが、それではいかにも娘を便利な電子辞書か検索サイト扱いをしているようで、さすがにそれは父親の沽券に関わると頭を振る。だから、と言うわけではないが今日はこれから頼れる恋人がやって来てくれる。

娘に助けを求めるのはNGだが、恋人ならOKだ。何なら「恋人」という関係性が出来上がる前から「うげっ」と思った時には「アスナ」と呼んでいた気がする。

それでもまぁ、折角桐ヶ谷家の自室まで来てくれるのだから課題処理にかける時間は短い方がいいと自らを鼓舞してPC画面を覗いたわけだが……結局本音は「アスナ、早く来ないかな」だった。

この心の呟きはなにも課題の為だけではない、ここ一週間以上彼女とまともに顔も合わせてなければ声も聞いていないからだ。

だから今日は朝から時間ばかり気にしてしまい余計に課題が進まない。

こうなったら男らしく、潔く、明日奈が来てくれるのを待とう、と和人が情けない英断を下した時、隣の部屋から妹の悲痛な声が壁を通り抜けて響いてきた。

 

「おにーちゃーん。助けてぇ……腕が、からまっちゃったー」

 

壁越しのせいか、ありえない言葉に聞こえてしまったが、とにかく直葉からのエマージェンシーコールには違いない、と和人はすぐさま廊下に出て隣の妹の部屋の扉をノックする。

 

「スグ?」

「助けて、お兄ちゃーん」

 

またもや救助を請う声が聞こえたので「入るぞ」と断ってからそっと扉を開いて中を覗き込むと……確かに妹の腕は絡まっていた。

 

「お前……器用だな」

 

いや、不器用なのか……と反する思考を交差させて涙目になっている直葉の格好をしげしげと眺める。

シルフのリーファを彷彿させる新緑色の生地に大柄な花模様が全体に散りばめられていて、彼女らしい華やかで楽しげな雰囲気の浴衣だ。その背中側には巻かれている途中の褐色の帯と直葉の腕がわけがわからなくなった状態でまさにからまっている。机の上にある携帯端末画面では和装美人が笑顔で帯の巻き方を解説しつつ自らも着付けをしていて『〜これで出来上がりです』という優しい声が空しく聞こえていた。

和人からのあからさまな呆れ顔と呆れ声に直葉は「だって!」と反論する。

 

「道衣なら着慣れてるし、あとは帯さえ頑張れば一人で着られると思ったんだもんっ」

 

道衣と浴衣を一緒にするあたりから間違っている気がするけど、それを理路整然と説明できるほど和人も詳しくないので「そっか、そっか」となおざりに答えて、からまっている帯に手を伸ばした。

帯を何とかすればあとは直葉の腕だけだ、自分でほぐせるだろうと思ったのだがこれが思ったほど簡単ではなく胴体に巻き付けるはずの帯が完全に腕に巻き付いている。

 

「一体どうすればこうなるんだ?」

「自分でもよくわかんない」

「……そっか」

 

珍しくしょんぼりとした妹の声に和人は揶揄い気分をひっこめ、改めてこんがらがっている帯と腕を観察した。かなり複雑に絡み合っているが帯の端を見つければそこが糸口になってくれるはず、とあっちこっち引っ張ってみたり動かしてみたり……

 

「おっ、お兄ちゃんっ、腕っ、腕っ、ちょっと痛いっ」

「あ、悪い」

 

直葉の腕を巻き込んで固結びならぬ複雑結びになっている帯に集中しすぎて、腕の可動域を考えずに動かしてしまった和人は慌てて持ち上げていたそれを元に戻し別の場所から解除を試みる。

 

「あ、なんとかなりそうな気がする」

「ほんとっ!?」

「ああ。ここから引っ張り出して、ここに通して……」

「あ、なんか締め付けられてた腕がゆるんできたっ」

「だろ?……だいたい後ろ手で帯を結ぶって着慣れてる人がやるんじゃないのか?、毎年年始に京都で着てるアスナだって浴衣帯でも前で仕上げてから背中に回してるんだから…」

 

そこまで言って、はむっ、と秒速で和人が口を閉じた。

入れ替わるようにして直葉のいつもより低い声がゆっくりと「お兄ちゃん」と和人を呼ぶ。

 

「なんでアスナさんの着付け知ってるの?」

「…違う、間違えた。背中に回してるっ、て言ってたのを覚えてたんだ」

「へえぇ、そうなんだー」

 

全く信じていない声である。けれどこれ以上追求しても藪蛇だと思ったのか「明日奈の浴衣」で思い出した話題を振ってみた。

 

「そう言えば、お兄ちゃん達、先月都内のお祭りに皆で行ったんだよね」

「ああ」

「いいなぁ、私も行きたかった」

「でもお前夏季合宿中だっただろ」

「そうなんだよね。だから今晩は目一杯楽しむっ」

「え?、今日、祭りなんてあるのか?」

「……お兄ちゃん、なんで私がこんな格好してると思ってるの?」

 

兄の沈黙に直葉は特大の溜め息をつく。

 

「隣町で毎年やってる花火大会、今夜なんだよ」

「へ、へぇ。よく知ってるな」

「地元の友達が教えてくれたの、だから今夜は久々に同中の子達と集まるんだ」

 

直葉が今の高校に進学したのは剣道の強豪校だったからなので、同中の子がいない。懐かしい友人達と会える嬉しさにうきうきとした雰囲気の直葉だったが今度は和人が冷めた目になった。

和人にとって「地元の友達」や「同中」は全く縁の無い言葉だ。今現在、交流を持っている同年代の友人は旧SAOや新生ALOで知り合ったプレイヤーか帰還者学校の生徒で当然地元の情報が回ってくるはずもなく、そう考えると自分の妹のコミュ能力の高さは尊敬しかない。

 

「それで浴衣なのか。でも帯結びはどうするんだ?」

 

暗にもう一度チャレンジするのか?、と問いかけたのだが直葉は顔だけを捻って伺うように和人を見た。

 

「さっきの結び方の動画、お兄ちゃんも見てよ」

「うぇっ!?、まさかオレに結び方を習得させる気か?」

「だって私だけじゃ無理だもん」

「浴衣を諦めるって選択は……?」

「やだっ、絶対、浴衣で行くっ」

「あーはいはい。ならオレがこれから習得するよりも……っと、ほらっ、帯、外れたぞ」

「ありがとうっ、助かったー」

 

ようやく自由になった両腕をぐるぐると回して開放感を味わっている直葉の隣で、和人は自分の携帯端末を取り出し慣れた仕草で相手を呼び出す。すぐに応答があったのだろう柔らかな声で相手の名を読んだ。

 

「アスナ?、今どこ?…………スグが浴衣着てこれから出掛けるんだけど帯、頼めるか?…………ん、じゃあ待ってるから」

 

通話が終了したのを待ってから直葉が「お兄ちゃんっ」と驚きつつも期待に瞳を輝かせている。

 

「アスナさん、来てくれるの!?」

「ああ。もともとオレの夏休みの課題を加勢してくれる約束だったんだ。もう駅からこっちに向かってるってさ」

「よかったっ、これで浴衣で行けるっ」

 

それなら、と明日奈が到着するまでに持ち物や下駄の準備を終わらせようとバタバタし始めた直葉を見て、やれやれ、と和人が苦笑いを浮かべた数分後、連絡を受けて急いだらしい明日奈が息を切らせて桐ヶ谷家に到着した。

 

「こんにちは、キリトくん。お邪魔します。直葉ちゃんは二階?…時間、間に合いそう?」

「急かせて悪かったなアスナ。スグなら一階の和室にいる」

 

立て続けに喋ってくる明日奈を苦笑いで和室まで案内した和人が廊下から「スグ、アスナ来たぞ」と声を掛けると中から浴衣姿の直葉が顔を出す。

 

「お待たせ、直葉ちゃん。早速始めよっか」

「宜しくお願いします、アスナさん」

 

帯を締めるだけとは言え女の子の身支度だから、とやんわり明日奈は和人を手の平で制して自分だけ和室に入り「後は任せて」と笑って障子を閉めた。和人も自分が居ても邪魔になるだけ、とわかっているので頷きひとつで妹を託し明日奈に冷たい飲み物でも、とキッチンに向かう。

背後では「可愛い柄ね」などとはしゃぐ二人の声が漏れ聞こえていた。

 

 

 

 

 

数分後、文字通り、あっと言う間に直葉の浴衣姿は完成して「行ってきまーす」と言う笑顔を和人と明日奈は玄関先で見送った。浴衣帯としては一般的な蝶結びに少しアレンジが加わった華やかな蝶が直葉の背中を彩っている。その蝶が見えなり、下駄の音も聞こえなくなると和人は隣にいる明日奈に「助かった。お疲れ様」と労ってから改めて「先に部屋に行っててくれ」と二階を指さした。

言われたとおり明日奈が階段を上がり和人の部屋のドアを開ければそこには既に冷たい麦茶の用意がしてあって、加えて少し遅れてやって来た和人の手にはピッタリと蓋が張り付いた安価なブラスチックカップがふたつ。

 

「なぁに?、それ」

「市販のやつだけど、レモンのかき氷。オレが連絡した後、急いで来てくれたんだろ。水分とか補給せずに直葉の帯やってもらったから、よかったら…これ、直葉のお気に入りで結構美味いんだぜ」

「ありがとう。けど食べちゃっていいの?」

 

お気に入り、と言うなら直葉が楽しみにしている物ではないのだろうか?

 

「その直葉からなんだ。アスナが来るの待ってる間に頼まれた。きっと余裕無くて言うの忘れちゃうから、って。蜂蜜漬けのスライスレモンが乗っかっててオレも好きなんだけど……いつもなら自分の分は絶対くれないのに、浴衣、よっぽど嬉しかったんだな」

「浴衣帯ってそんな大変じゃないのに。返って申し訳ない気が……」

「アスナはそうなんだろうけどさ……」

 

記憶を探る目をした後「先月の祭りの時も手早く直してたもんなぁ」と感心したように呟かれて、咄嗟に「あっ…あの時は本当に簡単な結び方だったし……」と謙遜した明日奈がったが……そもそも着崩れた原因は目の前の和人だ。

先月、リズやシノン達と一緒に行った祭りは人出がもの凄くて、更に明日奈の浴衣姿が妙に色っぽかったせいか和人が隣にいるにも関わらず声を掛けてくる男達が何人もいた。結局、途中でリズ達とははぐれてしまい二人きりになったのだが、それまで散々見知らぬ男達の視線に晒されていた事で色々我慢の限界だったらしく、漆黒の瞳から熱の籠もった独占欲やら所有欲が溢れ出てしまったのである。

和人としてはいちを祭り会場内であったし、明日奈も浴衣だったし、帰りにはリズ達と合流しなければならなかったのでかなり自制はしたつもりだったが……結局、半ば明日奈に怒られる形で抱擁を解いた時には、浴衣はもちろん帯も軽く手直しする程度では済まない状態で、ぷんすか、と頬を膨らませながら結び直す彼女の手際の良さに反省も忘れて「おおっ」と見物したのだ。

ただ、あの時の話で再び明日奈のご機嫌を損ねるのはマズイと和人は少し焦ったように笑顔を取り繕う。

 

「それに今日まで大変だったんだろ?、夏期講習。最終日終わりにそのままウチまで来て貰ったお礼も兼ねて…」

 

直葉からの感謝のかき氷にちゃっかり自分の謝意まで込めてしまった和人の言葉には苦笑いだったが、ここ十日間ほどは本当にキツかったので、乾杯のようにかき氷容器を顔の高さままで持ち上げた彼に倣い自分の分を受け取った明日奈もちょこんっ、とカップ同士をくっつけて「お疲れさん」「ありがとう」と言い合う。

溶けてしまう前にと、早速蓋を開けると綺麗な真円の薄切りレモンが更なる蓋のようにかき氷の上部を覆っていて、スッキリとした中に蜂蜜特有の甘い匂いが混じって鼻腔を刺激すれば忘れていた喉の渇きが強く蘇ってきた。まずは水分が欲しくてレモンをスプーンでぺらんっ、と持ち上げ、その下の氷をひとすくい。

ぱくり、と口に運ぶと氷のキンッとした冷たさに爽やかなレモンの風味が合わさって一気に口内の温度が下がり爽快な酸味が広がる。

 

「んーっ、美味しいっ」

「よかった」

 

美味しさと冷たさを表している、ぎゅっ、と閉じられた目と口元に和人は優しい視線を送った。こんな風に同じ空間に二人で同じ物を味わうのが随分と久しぶりな気がする。

それは明日奈が今日まで都内の有名予備校の夏期講習を受講していたからだ。そこは夏期講習といえど受講生に一定の学力が求められ、更に講習開始前にクラス分けの実力テストまである。講習が始まれば膨大な量の宿題は当たり前で、予習もしなければ授業について行けないし、毎日小論文の提出まで課せられているのだから流石の明日奈も《仮想世界》にダイブする時間はもちろん和人とビデオ電話をする余裕さえなかった。

和人の方も、受講試験合格の話からその後続く講習内容を聞いて唖然としたまま、これは終わるまで無理だな、と悟り一日おき程度に短い文章を端末に送り合う程度で明日奈のいない日々を過ごしていたので今日は待ちに待った明日奈補充の日だ。

とは言え自分の課題が終わっていないのも事実。彼女も今日まで色々無理をして張り詰めていただろうから、あまり欲張るわけにはいかないと思っている。

 

「直葉ちゃんにお礼言わないと。今夜は隣町まで行ってるんでしょ?」

 

和室で帯を締めている時に花火大会の話を聞いたのだが詳しい場所までは知らないし、旧友と積もる話もあるだろう、地元だからそのまま場所を変えて盛り上がるかもしれない。明日奈が桐ヶ谷家にいる間に帰宅してくれれば直接言えるだろうが、こればかりは和人にも予測が付かないから「帰りが遅くなるようだったら、代わりに言っておくよ」と約束する。

 

「隣町って言ってもここから割と近くなんだ。ちょっと大きな川があって毎年そこで打ち上げてるんだけど、オレは今夜が花火の日だって知らなくて……ごめんアスナ、行きたかった?」

 

過酷な夏期講習の終わりに花火大会が待っていると思えばモチベーションも変わったかもしれない、と今更ながらに少し後悔のような気持ちが湧いてくるが、和人には直葉のように地元情報を共有するような友人知人はいないし直葉の花火行きも昨日の夜に急遽まとまった話らしい。しかし明日奈は迷う素振りすら見せずにすぐさま首を横に振った。

 

「花火も好きだけど、今はキリトくんと過ごせる方がいいよ」

 

講習が始まる前から今日まで和人とはゆっくり会話も出来ていないし、それに先月の祭りほどではなかったとしても花火大会だってそこそこ人出は多いだろう、講習中も見知らぬ大勢と一緒に教室に押し込められていたから正直、今は二人だけの空間を心が切望している。

 

「そうか?、ならいいんだけど」

 

気を遣ってないか、と明日奈の顔をジッと見ていた和人だったが、そんな視線に気付く様子もなくかき氷カップにいそいそとスプーンを入れる彼女の笑顔は本物で、つい魅入っているとスライスレモンを持ち上げようとする瞳は真剣さが強くなり、それをパ゜クッと口で咥えた瞬間の溶けるような表情にこちらも自然と頬が緩む。

 

「ほんとだ。このレモン美味しい。もう少し小さく切ってから蜂蜜漬けにして炭酸ゼリーに入れてもいいかも」

 

それは是非食べてみたい、と彼女に向ける目が懇願一色になった時、遠くの方から地鳴りのようなドンッという重低音が聞こえて二人同時にカーテンの閉まっている窓方向に顔が動いた。

 

「今の音、もしかして花火?」

 

既に腰を浮かしかけている明日奈と違って和人は「そうだろうな。ちょうど開始時間だし」と落ち着きを取り戻し自分のかき氷を口に運んでいる。

 

「このお部屋から見えないの?」

「音は聞こえても……」

「ちょっとカーテンから覗いていい?」

「アスナ、やっぱり行きたかったんじゃないのか?」

「そうじゃないけど、音が聞こえたら見えるかどうか確認したくなるじゃないっ」

 

カップをテーブルに置いた明日奈が素早く窓辺に近寄ってカーテンの隙間から覗けば外はいつの間にかすっかり夜の帳が下りていた。そんな後ろ姿を少々呆れ顔で見つつかき氷のスライスレモンの甘酸っぱさに口を尖らせていた和人だったが、彼女が窓に顔を近づけたまま「あっ、光ったかも」と発した興奮気味の声に「ほんとか?」とようやく立ち上がる。

 

「あっちの方角であってる?、ちょっと光った気がするんだけど」

「うーん、この部屋の窓からだとちょっと無理じゃないか?」

「でも……あっ、ほらっ、音が聞こえた後…やっぱり光ったっ」

 

窓から視線を離さずに手招きだけする明日奈の隣へと移動した和人は出来るだけ彼女と同じ状態で見る為にかがんで寄り添い音を待つ。

 

「…………待ってるとなかなか聞こえないな」

「おしまい、って事はないわよね?」

「まさか」

 

いくら地方の花火大会とは言え始まって十分で終わりだなんて、直葉が帯と格闘した時間の方が圧倒的に長い。

すぐ隣で「うーん、まだかな?」「本当に光ったんだから」とはしばみ色の瞳をそわそわと揺らしている恋人の横顔を久しぶりに近距離で眺めていると、ようやくドンッという低音に続いてパチパチパチと弾ける軽音が耳に届く。一拍置いて明日奈が「あっ、見て見てっ、キリトくんっ」と弾んだ声に花火にも負けないほど煌めく瞳はすぐ触れられる距離にあって、引き込まれるように顔を近づけて「アスナ」と囁くように呼べばちょっと得意気な笑顔がこちらを向いて、さらりと流れる髪、ふわりと香る彼女の匂い……目を瞑って閉じ込めるように距離を無くす。

瞳を大きく見開いているだろうな、という予想は多分間違っていない。

唇を重ねた瞬間に細い喉の奥から「んん゛っ」と驚いているのに綺麗な高音が耳に飛び込んできたからだ。

逃がさないと唸る本能で華奢な腰に回した手は更に強く抱き寄せ、反して絹糸のような手触りの髪は受け入れて欲しくて優しく撫でる。

「んっ!?、んぅ〜っ!?」という疑問なのか抗議なのかわからない声も口から出ることは叶わず、美味しく和人に食べられた。

一方、普段から咄嗟の判断力が抜群に良い明日奈は、こと和人に関しては「判断を下す」というプロセスすら省いて自分に求められている役割を瞬時に見極め行動に移すけれど、今回のキスは完全に不意打ちで思考も何もかも止まってしまっている間にしっかりと身体ごと捕縛が完了している。

花火の光かどうかを見て欲しかったのに、と驚きの次にちょっとだけ恨めしい気持ちがやって来るものの、どこか必死さが込められている仕草がなんとなく旧SAOでキリトが血盟騎士団に入団した後、とある凄惨な出来事から責任を感じたアスナがもうキリトとは会わない決意を口にしようとした時に似ている気がして、あの時と同じように次第に力が抜けてく。

そして唐突に中学生の頃、クラスが同じというだけの女子達が休み時間、自分の近くで「ファーストキスの味」について喋っていたのを思い出した。あの時は唇を合わせるだけの行為でなぜ味覚の話になるのか、ちょっと不思議に思ったけれど今ならその答えも、キスから始まるその先も全部目の前の少年が与えてくれて……ただ、その時の彼女達の会話では確か「ファーストキスの味」は……

 

「レモンの味がする」

 

思っていた言葉そのままを和人が吐息に混ぜてちょっと不機嫌に告げた。思わず、くすっ、と笑えば何を勘違いしたのか噛みつくように再び唇を奪われてすぐさま咥内を支配される。

歯列はもちろん頬の裏から上顎も、戸惑う舌先は特に念入りに、それから奥を絡め取るように何度も往復されて更に支配域を広げようと言うのか後頭部を支えている手にぐっ、と力が籠もって唇をぐいぐいと押し付けられた。出口を塞がれたあえぎ声は喉の奥で鳴り響き、そのまま和人の内に吸い込まれて余計に熱情を煽っている。

結局あの世界で交わしたキリトとのファーストキスも、《現実世界》での和人とのファーストキスもレモンの味なんてしなくて中学のクラスメイトの話はすっかり忘れていたのに、今は互いにレモンのかき氷を食べていたからその味が残っているのは当たり前で、それを笑ったわけではないのにまるで全てを舐め取るみたいに隅々まで這わせてくる舌の熱さに、ぞわり、と痺れが背筋を上ってくる。

もう息が……と思った時、唇が解放され同じように余裕のない息づかいのまま和人の目が意地悪く笑った。

 

「やっとアスナの味になってきた」

「わ、私の味って…!?」

 

呼吸の苦しさよりも恥ずかしさで顔が火照る。

 

「いつものアスナの味…オレだけが知ってる…甘くて……アスナだって知ってるだろ?」

「え?」

「オレの……」

「っん、あッ!?」

 

言うよりも早いと考えたのかもう一度繋がった唇からするりと舌が這入ってきてさっきよりも執拗に明日奈の舌ばかりが丹念に愛撫され、徐々に味覚が反応し始めた。翻弄されるばかりで思い至らなかったそれに明日奈もまた納得する。

軽く連絡は取っていたがこんな風に触れ合えるのは久々で互いを夢中で味わっていると和人の手が不埒な動きを見せ始めた。

ハッ、と気付いた明日奈が慌てて力を入れて腕を突っぱねる。

 

「ダメっ…だよ」

 

語尾で勢いが萎んでしまったのは明日奈もうっかり受け入れてしまう方向に心が流されるところだったからだ。

それでも、と目にも力を込めて睨むように返せば、しゅんっ、と垂れた耳が見えるような気がするほど和人の眉がハの字に下がっているけれど漆黒の瞳の奥には未だ仄暗い熱が宿っている。

 

「夏休みの課題、残ってるんでしょう?」

「…………ぁぁ」

 

もの凄く小さな肯定の声。

 

「それを終わらせなきゃ、ね?」

「終わらせたら、いいのか?」

「え?」                                                                                                                                                                                              

 

いい、って何?、と問い返す前に「でもその前にもうちょっとだけ」と距離が無くなった時、窓の外からはドンッという音がして、テーブルの上のカップの氷はレモン水になりかけていた。




お読みいただき、有り難うございました。
夏祭りの話、ありましたっけ?、と思われそうですが
ありませんっ(苦笑)
ただ時系列無視でUPしてもいいな、とは思ってます。


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【いつもの二人】夏宵虫

【いつもの二人】シリーズです。
ひとつ前の『キスの味』で触れていた都内のお祭りに行った時のお話です。
リズ視点からの二人を楽しんでください。



やっぱりねぇ、予想はしてたけどっ……と内心、自分を慰める言葉を溜め息に混ぜ込んで、ふぅっ、と鼻から吐き出した。まだ駅の改札を出たばかりなのに、あまりの多さに思わず足が止まる。

待ち合わせをしているんだろう、行き交う人達や端末画面を確かめながら人待ち顔の若者はあちこちにいて、それとは別に駅から同じ方向に流れて行くグループや家族連れ。自分達の後ろからも改札を出てくる人波は絶える事なく押し出されていて、立ち止まってしまった私はすぐに足を動かした。

隣を歩いていた親友が、私が付いてこないのに気付いて数歩先から不思議そうに「リズ?」と振り返る。

 

「ごめん、ごめん。あんまり人が多いからびっくりしちゃった」

 

そしてこんな大勢の人達の殆どが私の親友を見た瞬間驚いたように目を留めていることにも……そうなるだろうな、とは思ってたけど実際に予想通りすぎて「やっぱりね」と呆れるしかない。

「大丈夫?」と気遣いの声をかけてくれるアスナに私は「大丈夫」と笑顔で返してから、ハッキリ言ってアスナの方が大丈夫?、って感じだけど……と平然としている彼女を改めて眺めた。

普段はハーフアップがお決まりの栗色の髪を今夜はアップヘアにしてリボンを編み込んだゆるやかなお団子状にまとめていて、後れ毛が色っぽいし顔って言うか頭全体のちっちゃさがよけい目立つのに首筋は白く細く肩は薄いし腕や足はすっきりと長いし、そのくせ妙にそそる襟元から二つの丸みへの綺麗な曲線。中身がメリハリの効いたナイスボディなのは知ってるけど妙な圧を受けるようなダイナマイト感はなくて、浴衣ごしに見える身体の柔らかなラインとか小さな歩幅とか涼しげな笑顔とか全部まとめて、これが「たおやかな女性」ってやつなのね、ってあまりの眼福に一人でうっとりとこっそりと頷いた。

剣士の時は颯爽としてるけど浴衣姿になると仕草も歩き方も変わるなんてさすがアスナ。

しかも今着てる浴衣の柄が結構古風で、ここに到着するまでに聞いた話だと宮城の祖父母から受け継いだ品だって言うから納得なんだけど、それなのにレトロモダンと言うかあまり古くさく感じないのを不思議に思っていたら、帯と帯締めは浴衣に合わせて買い足したって言ってたからそのせいかも。

「なかなか着る機会がないから折角だし、どうかな?」って言われた時は正直、自分も浴衣にしなくてよかったぁ、と一番に思ったわ。絶対私の方が、ザ・日本人体型のはずなのにモデル体型は何着ても似合うなんて反則よね。

改札前の柱のとこにいる若者達、目が釘付けになってるけど……ちょ、後ろから付いて来てない?

今夜は私とアスナ、それにキリトとシノンの四人で都内の夏祭りに行く約束で、目当ての神社がこの先だから今この駅前にいる人達の殆どがそこに向かって移動してると言っても過言じゃない。「付いて来ないでっ」って言うのは無理だし、そもそも行く方向が同じだけ、と言われればそれまで。

キリトとシノンは乗って来る路線が違うから降車駅も違うのよね。

神社へと続く通りには保安の為の警備員が等間隔で立っていたり、警察官の姿も見えるから強引な事はしてこないだろうけど、トラブルはごめんだわ。約束の場所で私達……と言うよりアスナに会えないと心配性のキリトが騒ぎ出すし、見知らぬ男達が原因だなんてバレたらシノンの目が獲物をロックオンしたみたいにヤバくなる。

アスナだってしつこくされればぷっちんキレるし、そうなると攻略の鬼様降臨だ。

 

「アスナ、キリト達との待ち合わせ場所、どこだっけ?」

「ここを真っ直ぐ行ったとこ。鳥居の前だよ」

「え?、そんな先なの?」

「キリトくんとシノノンが降りる駅からだとそこがちょうど合流地点なの」

 

確かに合理的ではあるけど、鳥居に辿り着くまで今歩いている通りの両隣だって客商売の店舗が出店みたいに色々やってるし、神社に近づけば屋台の夜店がぎゅうぎゅうに並んでいる。立ち止まってる人だったり左右をキョロキョロしながら歩いている子供達を避けながらだとそんなに早くは歩けないなぁ。

 

「そこの綺麗なお嬢さん達っ、冷たい飲み物でも…」

「結構ですっ」

 

明らかにアスナしか見てない客引きに食い気味で断りを入れる。私はアスナのSP気分で素早く周囲を警戒した。

相変わらず注がれる視線は多いけど、今の所視線だけで手や声が伸びてくる気配はない。どうにかしてこのままキリトとシノンに合流しなければっ、と妙な使命感が私を満たした時、アスナが何かを見つけたのか「あっ」と嬉しそうな声をあげた。

 

「キリトくんっ」

「え?、キリト?」

 

言われて雑踏の中に目を向けると、なるほど確かに私達の進行方向から黒髪を揺らしながらキリトが走ってくる。

なんで?、と同時によくこれだけの人混みの中からあんな黒ベースのヤツを見つけられるわよねぇ、とアスナの索敵スキルにも感心してると結構頑張ったみたいで、ハァッ、ハァッと息を切らせたキリトが目の前に到着した。

 

「こんばんは、キリトくん」

「っはぁ、あぁ…うん、アスナ」

 

おい、こら、私もいるのよ。

視界に入ってないみたいだから不自然にアスナの斜め前に半歩踏み出したら、ようやく「よっ、リズ」と認識してもらえる。なんとなく「おつかれ、キリト」と返すとアスナが私の疑問を聞いてくれた。

 

「どうしたの?、待ち合わせ、鳥居の所だよね?、シノノンに何かあった?」

「シノンにはオレがアスナと入れ違いにならないように鳥居で待っててもらってる…………えっと、浩一郎くんから連絡あって『明日奈は浴衣だから宜しく』って」

「もうっ、兄ったら。それで迎えに来てくれたの?、ありがとう、キリトくん」

「下駄で歩きにくくないか?」

 

気遣いと同時に自然と差し出された手へ「大丈夫だよ」と言いながらもアスナの手が重なる。繋がったぬくもりに緩んだ真っ黒な瞳は次に『リズベット武具店』店主の私が見惚れるほど切れ味の良さそうな鋭さを備え周囲を一線で威嚇した。

サッ、サッ、サッ…パッ、パッ、パッ…視線を反らすSEと顔を背けるSEが全方位から聞こえた気がする。

 

「この浴衣を譲り受けた時、兄に『袖を通したら絶対見せてくれ』って言われてたの。下駄を買ってくれたのも兄だから家を出る時に画像を送ったんだけど……わざわざそんな事キリトくんに…」

「いや、教えて貰ってよかったよ」

 

息を整えおわったキリトの笑顔に私はこっそり「うげ」と舌を出した。

その笑顔、アスナが見ていない時だけちょっと不機嫌という器用な仕様になっている。どうせ待ち合わせ場所で大人しく待っていられずに迎えに来ちゃった一番の理由はアスナの浴衣姿を自分より先にたくさんの男達が見るのが悔しかったからなんだろうけど……まぁ、けどこれでけしからん虫達は寄って来なくなるし、キリトは平常運転になるし私としても大助かりだわ。

「早く行きましょ。シノンが待ちくたびれてるわよ」と先を急かした私はこの時、祭りの空気を甘く見ていた事にまだ気づいていなかった。

 

 

 

 

 

「おっとっ、ゴメンねぇ。どっか痛くしてないかな?、あれぇ、浴衣汚しちゃったかも。ちょっとこっちで……」

「勝手に触ろうとしないでもらえますか」

 

アスナが「大丈夫です」とか「平気です」とか言う前に怒気を孕んだ低い声で、それでもいちを相手は見知らぬ人だからと丁寧な口調で耐えてわざとぶつかってきた男の手を払いのけるキリトの顔はもう限界に近い。

予定通り鳥居の前でシノンと会えたまでは良かったんだけど、神社へお詣りを済ませたあたりからアスナに絡んでくる男共の数がうなぎ登りに増えている。とりあえず声を掛けてみたいだけの軽いノリの人もいれば、強引に腕を掴んできそうになったヤツには本当に腹が立ったけど、最初は微苦笑のアスナも今は米神のあたりがピクピクしてるし、それより先にキリトが今にも噛みつきそうで、アイツの口から尖った牙が見えた気がする。

参道の両脇には夜店がずらりと並んでいるから結構な道幅があるにも関わらず人がごった返してて、ちょっとした接触やよそ見をしてのアクシデントはあっちこっちで勃発してるだけに故意なのかそうじゃないのか一見判断がつきにくいんだけどアスナに関しては明らかに男女比が偏りすぎて、夜とは言え街灯や提灯、裸電球なんかの光量があるんだからキリトの存在、見えないのっ!?、と声を大にして叫びたい。

それとも祭りの夜は隣に彼氏がいようが何だろうが気になる女の子にはガンガン声かけていこうぜー、って感じの迷惑なポジティブヤローばっかりなの?

こうなったら、と私はアスナを挟んで反対側にいるキリトを後ろからちょんちょんと突っついて可愛い帯結びのすぐ上で声をひそめた。

 

「お面でも買ってかぶせとく?」

 

……なによ、その苦虫を噛み潰したような顔はっ……はいはい、この状況を面白くないと思ってるくせに自分がアスナの顔を見られなくなるのは嫌ってわけね。

お面ならアスナからは周囲が見えるし、顔を隠せば魅了されて寄ってくる男は減ると思ったのに。

私達としては普通にお祭りを楽しみたいだけで、こんなにあけすけに男達が近寄ってくるのは想定外だった。せっかく思い入れのある浴衣を着てきたアスナにだって後悔して欲しくないし、こんなお祭りも初めてだという彼女に今夜を嫌な思い出にして欲しくない。

この外出に誘った時、アスナは珍しくも恥ずかしげな笑顔で「あのね、そういうお祭り、行った事ないの」と打ち明けてくれて、私とキリトはポカーンと口を開けたまま目を瞬かせた。

 

『は?』

『え?、ホントに?』

『うん……結城の本家は京都だから「葵祭」や「祇園祭」なら小さい頃見たけど、それも本家がいつも使うホテルの窓から眺めただけだし、宮城の祖父母の方は地元のお祭りって言っても場所が少し遠くてね、帰りが遅くなるから行かれなくて……小中学生の時はうちの門限がもっと厳しかったから無理で……』

 

「だからリズに誘ってもらえて嬉しい。楽しみにしてるね」と満開の笑顔を見た時、間違いなく私とキリトの胸にはズキューンッと穴が開いた。それなのにこの砂糖に群がる蟻のような男共はっ……ああっ、鬱陶しいっ。

もうあんな奴ら無視よっ、無視っ

 

「アスナっ、何か食べましょっ。折角これだけ屋台が出てるんだからっ」

 

たこ焼き、お好み焼き、焼きそばにフランクフルト、焼きトウモロコシにじゃがバター、チョコバナナにベビーカステラもあるし…リンゴ飴とか甘いのもいいわね。

「シノンは何がいい?」と後ろにいるはずの同行者に振り返れば、彼女は彼女でぼーっ、とどこか一点を見つめていた。

なに、なに?、何が気になってるの?、と視線の先を追えば、そこは遊戯系の屋台で……なるほど。

 

「行ってみよう、シノノン」

 

優しい声と同時にキリトと繋いでいた手をシノンの手に移したアスナがそっ、と引っ張る。

 

「そうだな」

 

今までの機嫌の悪さが一瞬で溶けたみたいにキリトも微笑んで……こういう時も二人の連携は見事と言うしかない。

 

「でも……」

 

いつものちょっと強気なシノンらしくない自信の無い声。

偶然だけど《ダイシー・カフェ》でキリトからシノンを紹介された時のメンバーしかここにはいないから、興味を示せるってだけで十分なのよ、後は私達に任せなさいっ。

 

「いいじゃない、シノン。無理そうなら代わりにキリトかアスナがやるわよ」

「そうだな。実は《GGO》でアスナと一緒に結構練習してるし」

「って言っても私達は銃弾を切る練習をしたくて撃ってるんだけどね……」

 

まあまあ、とにかく行きましょ、とシノンの背中を押す私の隣でキリトが妙に胸を張っているけどアスナからの暴露で結局光剣の練習だってバラされて、シノンがいつもの調子を取り戻す。

 

「代わってくれるって言っても《GGO》でキリトが使ってるのハンドガンじゃないっ」

「そこはほら、まぁ、なんとかなるって」

 

軽く言ってるけど、キリトの場合は本当になんとかしちゃうから笑えないのよね。

まだ少しおよび腰のシノンを守るよう三人で取り囲んで屋台のおじさんに声を掛け、一回分のコルク弾三つを受け取る。

 

「ショットガンライフルって…わっ、思ってたより重い……シノノン、どう?」

 

台の上に並んでいたライフル銃のひとつを抱えるようにして持ち上げたアスナが、まだ迷いの残っているシノンにゆっくりと差し出した。自分から手に取るんじゃなくて、アスナが持っている銃に触れる方がハードルは低いだろう。

始めは撫でるように指を滑らせていたシノンだったけどやがてしっかりと掴んで自分の手元に収めてから、うん、と力強く頷く。

 

「大丈夫そう」

「よかった。じゃあ一回撃ってみる?、えっと……」

 

ちょっと安心した顔のアスナだったがそこから先が分からないみたいで、だけど頼る視線の先はひとつ。

 

「ほら、貸してみろよ。コツってわけじゃないけどさ……こうやって先にレバーを引いて、と……」

 

銃は一旦シノンからキリトの手に渡り手際よくコルク弾が詰められていく。

間違いなく夜店の射的初体験の二人が食い入るようにキリトの手元を覗き込んでいて、準備が整ったライフルを「これで撃てるぞ」と差し出された時のシノンにさっきみたいな緊張の色はない。

すっ、と構える姿は一瞬でスナイパーのそれになる。

狙いを定めてから引き金を引くまではあっと言う間だった。

 

ポンッ

 

「……全然飛ばないんだけど」

「景品までの飛距離しか必要ないしな」

「まずは弾道の確認よね」

「アスナ、そんな細かい話じゃないから」

 

ちょっと不満げなシノンに苦笑いのキリト、真面目なアスナの発言に思わず顔が引き攣った私とそれぞれの反応を示してから今度はシノンが自らコルク弾を銃口に押し込む。

ちょい、ちょーいっ、シノンっ、夜店の射的ってそんなに景品を睨み付けてやるもんじゃないわよっ。なんだろう《ALO》での弓といい的を射るとか撃つ事にかける真剣さが尋常じゃないんだけど……。

 

ポンッ

ポンッ

 

「…もう一回やるわ」

 

うわぁ…完全に真剣本気モードに入っちゃってる。

でも、これはこれで楽しんでるみたいだし、シノンが抱えてるトラウマが薄らいでいってるなら私達も嬉しい。

 

「これ、ハマったな」

 

どうやらキリトも同じ意見みたいで、気の済むまでやらせてやろう、と溜め息の後に目配せしてくる。

とは言えずっとここで固まっていても邪魔よね、と思った矢先、「アスナ達は他を見てていいわよ」とシノンが気を利かせてくれた……みたいに聞こえるけど、集中してるから邪魔されたくないって気もするのよね。するとアスナが「ねぇ、あそこに並んでもいいかな?」と指さした先にはかき氷を求めて並んでいる長い行列。

お祭りにやって来た人達の熱気や焼き物系屋台から漂ってくる温かな匂いと調理熱で周囲はむんむんと蒸し暑さが増しているし、ちょうど喉も渇いてきたし、何より他の食べ物だと作り置きを渡せるからそれ程待たずに買えるけど、かき氷はそれが出来ないから客の列もしっかりロープで管理されている。あそこに並んでいれば馴れ馴れしく声を掛けてくる男もいないだろう。それに射的の店からもそう遠くないし。

 

「シノン、私達かき氷のとこにいるから」

 

ちゃんと声は届いたらしく、ライフルを構えたまま軽く手を上げたシノンを残して私達はいそいそと列の最後尾に付いて、まるで安地に辿り着いた時みたいに、ほっ、と息をつく。出来るだけアスナを周囲の目から隠す陣形で立って、そして逆に私達の向こうの様子を覗くように観察しながら興奮気味に喋る彼女をキリトと二人で、うんうんと慈愛の目で眺めていれば待ち時間なんて全然苦にならない。

シノンは景品を獲得できるのか、この後は何をしようか、と話しているうちに列はゆっくりと動いて、そろそろかき氷の味を決めておかないと、と思うくらいに順番が近づいてきた。

 

「アスナはシロップ、何にする?」

「うーん、どうしようかなぁ。キリトくんは何が好き?」

「オレはアスナの半分貰うよ。どうせ一つは食べきれないだろ?」

「だから聞いてるのに」

「アスナが食べたいのでいいけど」

「じゃあ…イチゴ!」

 

……私はメロンにしようと思ってたけど、今の二人の会話でもっとさっぱりした味が食べたくなったからレモンかしらね。

イチゴ、と決めたわりにはカラフルなシロップが入ったバケツ大のガラスボトルを見て決心が揺らいだのかアスナが「ブルーハワイってどんな味?」とキリトを困らせている。純粋に興味と疑問の色をのせたはしばみ色の瞳は使い古された電球の明かりの下でも濁ることなく夜空の星のように煌めいていて、それを向けられたキリトも「ソーダ味、かなぁ」と曖昧な声で答えているけどその表情は彼女が大切で仕方ないって感じでいっぱいだ。

かき氷なんか一瞬で溶けそうな二人の傍にいるのも馬鹿馬鹿しいから「シノンも食べるかどうか聞いてくるわ」と理由を付けて列を離れようとすれば「オレが行くよ」とキリトが代わってくれるって言い出して…なんか珍しいわね。

え、アスナの隣にいなくていいの?、という私の疑問を感じ取ったらしく、捕捉が続いた。

 

「ついでにトイレ行ってくる」

 

なるほど。

 

「早くしてよね。順番きちゃうから」

 

箒で掃くように手を振る私といつもの笑顔のアスナに見送られてキリトが雑踏の中に消えれば、それはそれで親友と二人きりのお喋りに話題は尽きない。旧SAOでも私の店に来たアスナとこんな風に過ごしてたわよね、と懐かしくもあの世界に閉じ込められていた中で嬉しくて楽しいだけが詰まっている数少ない思い出が蘇った。

そうして時間を潰しているうちに先頭まであと数グループと順番が近づいてきた頃、アスナと向かい合う形で顔を見合わせて話をしていた私の目にいきなり見慣れない頭頂部が出現した。

 

「ふぇぇっ!」

 

悲鳴のようなアスナの声。

そりゃあ、そうよね、いきなり後ろから自分の肩に他人の頭が乗っかったんだから。もっと言えば重力に従って前方に倒れ込んだ所にアスナがいたような状態で、ちょうど彼女の肩におでこが当たって止まり、両腕は傾倒が止まった反動なのか浴衣を纏った胴体にふんわりと巻き付いている。

 

「なっ、なに?!、どうなっちゃってるの?」

 

突然背後から緩く囲われて状況の理解が追いつかないアスナが助けを求めるようにこっちを見るが、私だってよくわからないわよ。

無言で首を横に振れば、咄嗟にぎゅっ、と脇を締めて両腕に力が入ったままそれ以上動けずに硬直している親友の瞳にはじんわりと涙が湧き出ていて……あ、これ、キリト以外の男に見せたらダメなヤツね、と判断する。

加えて言うならキリトに見せてもダメなヤツ。

とりあえず完全にアスナに寄りかかってる迷惑な人をどうにかしないと、と手を伸ばした時、あわあわと一人の男性が間に入ってきた。

 

「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ。ほらっ、マコトっ、ダメだって。知らない人に抱きついちゃ」

「うにゃ」

 

うにゃ?、今「うにゃ」って言った?、この人。

顔面が全然見えないけど、私より長身のアスナの肩に上から乗ってるんだから間違いなく背が高いはずの人で、服装はラフなTシャツにジーパン、スニーカー。手には何も持っていないし髪型は……よくわからない。全体的に凹凸のない細身だからてっきり男の人だと思ってたのに今の声と「マコト」って名前……どっちなの?

しきりとアスナに「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」と謝っている腰が低そうで気の弱そうな人は絶対男性よね。

アスナの肩にある「マコト」っいう人の顔を懸命に両手で持ち上げようとしてるけど、全然動く気配ないし、アスナはアスナでその必死さにほだされたのか「えっと、あの、無理しないで下さいね」って逆に心配しちゃってるし。

 

「もしかして、この人、具合が悪いんじゃ…」

「違うんですっ、、そうじゃないんですっ、それなのにごめんなさいっ」

 

じゃあなんでアスナに張り付いてんのよっ、といい加減こっちも変わらない現状にうんざりしていると、僅かに聞こえる穏やかな息。

すぴー……、すぴー……

それは一番近くにいるアスナに一番良く聞こえたみたいで、ちょっと口の端をピクピクさせながら「寝てます?」と目の前の男性に問いかける。

 

「ごめんなさいーっ」

 

いちをまだ「マコト」って人の頭に両手を当てたまま土下座の勢いで謝罪をする彼。

祭り会場のど真ん中でこれだけ周囲に音や声が溢れている中、しかも超至近距離で「ごめんなさいっ」を連発している連れの声さえ届かず、単に前に並んでいただけの見知らぬ女の子にもたれてかかったまま寝てるって、どういうこと?

 

「僕達、この近所に住んでて幼馴染みで大学生なんだけど、マコトの…あっ、貴方にご迷惑をおかけしてるのが、マコトです。ごめんなさいっ…マコトのレポート提出日が今日で、だから全然寝てないのにこのお祭りには絶対行くってきかなくて、本当にごめんなさいっ」

 

所々に「ごめんなさいっ」を挟んでくるから分かりにくいけど、要するにアスナに全力もたれかかってるマコトさんは寝不足で寝ているだけなのね……なんて迷惑な人。

 

「なら体調が悪いとかじゃないんですね。よかった……あ、寝不足は立派な体調不良よね。キリトくんもちょっと目を離すと夜更かししすぎて欠伸ばっかりしてるし」

 

あー、確かに学校でも密かに『愛妻弁当』と呼ばれているアスナの手作りを食べた後とか、割と高確率でもたれかかって寝てるわね。だからって見ず知らずの人に寛大すぎると思うわよ、アスナ。それにこのままじゃ……

 

「全然起きないけど、どうするのアスナ」

「どこかに座れる場所でもあれば……地元の方なんですよね?、どこか休める場所、知らないですか?」

「それならこの先の自販機の所が…あそこなら休憩所でテント出てるしベンチもあるから……でも折角待ったかき氷、もうすぐ順番くるし、そこまでご迷惑をおかけするわけには」

「もう十分迷惑してますけどね」

「リズっ。いいんです。困った時はお互い様ですから…………ちゃんと、最後まで一緒にいますよ」

 

その時だ、周りの賑やかな空気とは正反対の低くて暗くて重たい声がアスナの隣から飛び込んでくる。

 

「それ、どういう意味」

「キリトくんっ。よかった、帰りが遅いからちょっと心配してたの」

「それより、今のアスナの言葉、どういう意味だ?、あと、誰?、この人」

 

絶妙にこれ以上ないくらいマズいタイミング戻って来たキリトは、アスナの気遣いに感謝も謝罪もせず壮絶に機嫌を悪くしていて、アスナはキリトの帰還に安堵と嬉しさでニコニコしてるけど肩にはここを離れる時は付いてなかった知らない頭が乗ってるし、そこからだらんっ、と垂れた両腕は細い浴衣姿にまとわりついているし、そりゃあいつもみたいに溶けそうな笑顔で「ただいま、アスナ」なんて言うはずないわよね。とどめはキリトが聞いてしまったらしいアスナの言葉……最後まで一緒にいます……なんでそこだけ聞いたのよ、勘違いするには十分すぎるでしょ。

 

「あのね、キリト。そうじゃないのよ」

「ケガ人なのか?、それとも病人?」

 

それなら我慢するけど、って譲歩するのかと思いきや、その目っ、ケガ人や病人を見る目じゃないっ。

 

「どっちでもないのにごめんなさいっ」

 

こっちの人もなんだか情けないって言うか頼りないって言うか……面倒くさくなってきた。

 

「あのね、キリトくん。この人、寝不足さんなの」

 

アスナもお行儀良く可愛らしく変な所に「さん」付けないでっ

 

「寝不足……」

 

わかるっ、わかるってるわ、キリト。寝不足だからってアスナにひっついていい理由にはならないわよねっ。

それがわかっていない当のアスナは博愛精神を発揮して、おんぶお化けみたいに背中に密着してるマコトって人が倒れないようにもぞもぞと落ち着きのいい体勢を探してるし……ダメでしょ、アスナ、寝心地良くしちゃ。

でも、やっぱり洋服と違って背中にある帯が当たるのか、アスナの肩口から再び「うぅ…」と小さな声がして、私もアスナも「ごめんなさいっ」の男性も、そしてキリトだって寝ているおんぶお化けが「起きるかも!」と思った時……

 

「うにゅう、いい匂い」

 

そこから先は電光石火だった。

期待違いの言葉に私とアスナが「え?」と言ったか言わないかの間に男性がやっぱり「ごめんなさいーっ」と叫び、キリトは無言でおんぶお化けの肩を掴んで無理矢理ベリッと剥がしたかと思うとアスナを奪い返して、とんっ、とその肩を突き放す。慌てたのは「ごめんなさいっ」男だ。突然目の前に幼馴染みの「マコト」が倒れかかってきたので両手で受け止めるつもりだったみたいだけど、見事に尻餅をついて下敷きになっている。

それでも「マコト」をしっかり抱えてるから二人共ケガはないみたいね……とりあえずよかった。

 

「だっ、大丈夫ですかっ?!」

 

無事を確かめたいらしいアスナだけどその腕はしっかりとキリトが掴んでいるから思うように動けなくて、「キリトくん」と視線の先を変えてみてもキリトは返事すらせずになぜか私を見た。

 

「悪い、リズ。アスナについた匂いとか色々、消してくる」

 

は?!、それって後はよろしく、っていう丸投げよね?

この迷惑な二人、どうするのよっ!

並んでたかき氷とか、結局シノンは食べるの?、食べないの?

それでもって色々消すって……あーっ、もーっ、色々と言いたい事が多すぎて優先順位を決められないうちに攫うようにしてアスナを連れ去ったキリトには結局何も聞けなかった。

 

「なんか、本当に、本当に、ごめんなさいっ」

 

潰れてもまだ謝ってる……多分上に乗っかっている「マコト」は私一人の力じゃどうにもできないだろうし、もうっ、どうしようかしらねぇ、と「ごめんなさいっ」男の近くにしゃがみ込んで、はぁっ、と溜め息をつく。

すると流石に倒れ込んだ衝撃が強かったのか目を瞑ったままの「マコト」がむくり、と顔を上げた。

 

「うぅっ、焼きそばソースのいい匂い……」

 

この二人、なんでかき氷の列に並んだのよーっ

思わず二人まとめてグーで殴りたくなる衝動をなんとか堪えているとやっぱり横からの大音声。

 

「全くもってごめんなさいですーっ」

 

ちょ、ちょっと、こんな所で泣かないでよ?

この構図だと私が二人を腕力で圧倒して謝られてるみたいじゃないのっ。

確かにかき氷って無臭だから列に並んでても香ばしいソースの匂いの方が漂ってきてたけど……なら、さっきの「いい匂い」はアスナの事じゃなくて焼きそばの事だったってわけ?

説明しようのない理不尽さに項垂れれば、「ごめんなさいっ」男がなぜか言いにくそうな雰囲気を発散しながらもじもじとこっちを見ている。

 

「なに?」

「……さっきの男の子にも謝らないと」

「そうね、完全に誤解してたわよ」

「それもなんだけど……マコト、女の子なんだ。きっと間違えてたよね」

 

……そうだったのか。確かに私も、どっちかしら?、って自信なかったものね。

けど言われてみればあんなにアスナがずっと密着を許してたんだから男性のはずないか……私もちょっと考えればわかる事だったな、とそこは反省。

キリトも誤解してたと思うけど、アイツの場合は相手が女性でもあそこまでくっついてると、あからさまに面白くない、って顔になるし、シノンなんてわかっててアスナを抱きしめて反応を楽しんでる節がある。

なら改めて見れば目の前には路上で幼馴染みの男性の上に倒れ込んでいる寝不足の女性……視覚的によろしくないわ。なんとかして眠気も体勢も起こさないとっ、と近づこうとすると顔を上げていた彼女が匂いを辿るように鼻をひくひくさせて辺りを索敵し、両手を突いて起き上がった。

 

「お腹、空いた」

 

顔を向けた先には「焼きそば」の屋台。

 

「マコト、さっきは冷たいかき氷を食べて眠気を散らす、って言ってたくせに」

 

あら?、彼女に対しては強気な物言いなのね、と意外に思っていると「ごめんなさいっ」男は立ち上がったマコトさんにケガの有無を確認してから、どれだけ見知らぬ女の子に迷惑をかけたか、を懇々と説明し、それを寝不足と空腹のマコトさんは終始長身の体を縮込ませて大人しく聞き、最後には二人揃って「ごめんなさいっ」と声を揃えた。

そこにちょうど「なにしてるの?」と心底不思議そうな声と共にシノンが現れる。

えっ?、今度は私がいちから説明するの?

 

「偶然出会ったこのお二人と色々あってね」

「ふーん。それで、アスナと私のかき氷とキリトは?」

 

シノン、アンタの優先順位がおかしな事になってるわよ。

 

「アスナとキリトは……もうしばらくしないと合流できないと思うわ。かき氷は……」

 

当たり前だけど列を外れてしまったから順番はすっかり抜かされている。

私の後ろからバックミュージックみたいに「ごめんなさいっ」が多重で響いてるけど、列自体はさっきより長くないから待ち時間も短くて済みそう。

私は面倒くさい二人をさっさと焼きそばの屋台に追いやって、シノンに笑いかけた。

 

「それで?、射的の成果はどうだったの?、かき氷の順番を待ちながら聞かせなさいよ」

 

 

 

 

 

その後、何とかアスナとキリトの二人と合流を果たした時、アスナは「キリトくんに買ってもらったの」と大きなイチゴが五つも刺してあるフルーツ飴を手にしていた。

何やら謝罪の表れらしいけど、何に対するのかは分かるような分からないような、知りたいような知っちゃいけないような……ただ、シノンと並んで歩くアスナの後ろ姿を見た時、リボンと一緒に編み込まれていたまとめ髪が単純なポニーテールになっているのに気付いて、やっぱり知っちゃダメなやつね、と納得した。




お読みいただき、有り難うございました。
浴衣と帯はしっかり直せたようですが、髪型までは無理でした(苦笑)
編み込んであったリボンはポニーテールの結び目に蝶々結びとなってます。
そしてリズ、お疲れさま。


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別々NG

遅刻しましたっ、ごめんなさいっ
今回は『劇場版SAO -プログレッシブ-冥き夕闇のスケルツォ』公開間近と
言うことでご本家(原作)さまのプログレッシブ4巻のエピを交えたお話です。


ALOの空中都市、イグドラシル・シティにあるNPC経営のレストランの扉に「只今貸し切り中」の札がかかっているにも関わらず、キィッと僅かな音を立てて、そっ、と入って来たウンディーネの少女がいる。

一番近くにいた大柄のレプラコーンの少年が素早く彼女に気付いて手招きした。

 

「こんにちは、アスナさん」

「ケフェウスさん。遅れてゴメンね、話し合いはどこまで進んでる?」

「大丈夫だよ。序盤も序盤。まだメンバー紹介すら終わってないから」

 

それって始まったばかりの状態から進んでないってこと?、と首を傾げるとケフェウスは苦笑いと一緒に肩をすくめる。すると理由を聞こうとしたアスナの耳に少し高めの揶揄うような口調が入って来た。

 

「ブラッキー先生とか呼ばれてるのにそんな事もわからないわけ?」

「言っとくけど、その呼び名、オレを敬ってるわけじゃないから」

 

声の方を見れば店内にいる妖精達全員も同じ向きで、その視線の先にはいつものロングコートを羽織ったままイスに座っているキリトが、彼の前には今回の集まりのリーダー役を務める小柄なケットシーの少女が立っている。

あの場に行った方がいいのか逡巡したアスナだったが、状況を把握していない自分が加わるのは余計に場を乱しそうだと思いとどまって、どうぞ、とすぐそばの空いている席に誘ってくれたケフェウスに礼を言い一旦身を落ち着けた。

 

「どうなってるの?」

 

改めて聞けば彼は薄く笑って「こうなるかな、とは思ってたんだ」とアスナだけに聞こえるよう少し顔を寄せてくる。

 

「今回のクエストに複数のギルドから人数集めて挑む理由は二箇所にいるモンスターをほぼ同時に倒す為だったけど、情報が更新されてね」

「へぇ」

「モンスターの片方はとにかくデカイ、なのに柔らかいらしい」

「柔らかい?」

「そう、どうやらゼリーみたいにブヨブヨなんだ。逆にもう片方は固いけど攻撃に応じて小さく分裂する」

「それぞれやっかいね」

「だからメンバーの装備とか戦闘スタイルを考慮してバランス良く二つのグループに分ける事になってさ。それで始めにデカデカモンスターに挑むチームから自己紹介を、ってなったんだけど、キリトくんがこのメンバー分けに異を唱えてマイマイともめてるのを誰も止められず今に至ってるんだ」

「ちなみに私はどっち?」

「アスナさんはマイマイと一緒でチマチマモンスターの方。で、キリトくんはデカデカモンスター」

 

なるほど、とアスナは納得の頷きをした。

多分、だけれどゼリー状なら矢が刺さっても大したダメージは与えられないだろうし、同様に突き技が得意なアスナも比喩ではなくぬかに釘となりそうだ。それなら弓矢使いのマイマイと細剣使いのアスナが同じチームで分裂したチマチマモンスターを各個攻撃した方が効率は良いだろう。

反対にキリトの剣技ならゼリー状でも少しずつモンスターの体をそぎ落とせるかもしれない。

 

「妥当なチーム分けだと思うけど」

「そうなんだけどね。キリトくんがアスナさんと別々は嫌だって」

「えぇっ?!」

 

思わずキリトの方に顔が向く。

彼の方は無愛想な表情で今回の作戦指揮を執るマイマイと言い合いを続けているけれど、そんな姿でも目に入れば感情エフェクトによって頬がほんのりと色づき、恥ずかしのに嬉しいが隠しきれず口角が徐々に持ち上がる。確かに他のギルドと合同でクエストに臨む時は常に行動を共にしていたが、そこまではっきりと言ってくれた事なんて……と思って、アスナはまだ自分が旧SAOの低層で必至にキリトと対等な関係を築こうと焦っていた頃の記憶が浮かび上がった。

それは本当に他意のない純粋な疑問が発端で……

 

『どうしてキリトさんはギルドに入らないんですか?』

 

当時、最前線で攻略を進めていた二つの主力ギルドリーダー達が向ける《黒いビーター》への感情も思惑も知らない、鋼鉄製プレートアーマーに身を包んでいた少女が発した問いに、彼は面倒な説明を省きに省いた結果、こう答えた。

 

『それは、オレとアスナが別々じゃないとギルドに入れないとか言ってるからだ』

 

あの時はただただ恥ずかしいしかなかったアスナだが、裏を返せば恥ずかしいだけで反発はなにも湧かなかったから、きっと当時からキリトに対する特別な感情が自分の中の気付かないところに小さく宿っていに違いない。それでも結局その後キリトとアスナのコンビは解消されて、少ししてからアスナは《血盟騎士団》に入団しキリトはソロプレイヤーのまま、それでもフロアボス攻略の時には必ず顔を合わせていたけれど二人の仲は以前のような物ではなくなっていて……それが再びパーティーを組む関係になり、果てには夫婦という互いに唯一無二の存在となるのだから虜囚の二年間も振り返れば随分変化に富んでいた。

今は恋人というある意味何の制約もない肩書きだが、それはルール的にそれ以上が望めないだけで二人共これから先ずっと一緒にいるのは当たり前の決定事項になっている。

とは言えそれは互いの人生の有り様の話で、ゲームのクエストにまで及ぶ話ではないと思うのだが……それにアスナでさえ妥当と判断した作戦にキリトが自分の個人的な感情で否を唱えるのも珍しい。

いまひとつ腑に落ちなくてキリトの様子を観察していたアスナが軽く「うーん…」と唸り自らもケフェウスに顔を近づけた。

 

「あの二人、知り合いだった?」

 

マイマイに対するキリトの態度がどうも「はじめまして」の相手にとるような感じではないのだ。

するとケフェウスは苦笑を継続したまま「さすが、アスナさん」と賛辞を口にしてから更に声量を落とした。

 

「実はちょっと前にカフェテリアで険悪ムードになったんだよね」

「カフェテリア?……って…………学校の!?」

 

用心して唇を読まれないよう手で隠し、肩が触れ合いそうな位置まで距離を縮める。

実はマイマイもケフェウスも《現実世界》ではキリトやアスナと同じ帰還者学校の生徒だ。だから今回の大人数でのクエスト攻略もマイマイから学校で声を掛けられ、それをアスナがキリトに相談して参加を決めたわけなのだが思い返せば「キリトくんにも聞いてからお返事するね」と答えた時、マイマイが瞬間フリーズしたような気もする。

しかし剣士であろうがヒーラーとしてであろうが、アスナはキリト抜きで他のギルドとのモンスター攻略には加わらないと決めているので、すぐに「そっか、そうなんですね」と言って「絶対一緒に攻略しましょうねっ」と手を振りながら去っていったのだが……帰還者学校の生徒ならキリトがあえて自らをβテスターとチートの意味を併せ持つ《ビーター》と名乗った真意を知らないまま、彼に良い印象を持っていないのかもしれない、とアスナは考えた。

するとケフェウスもまた口元を誤魔化すようにグラスを持ち上げて「一方的にマイマイが敵視してるんだよね、キリトくんの事」と言うので説明をしようと口を開きかけたのだが「アスナさん大好きっ子だからなぁ」と呟かれて「へ?」と思考が停止する。

 

「実はね、僕とマイマイ、旧SAOでは一時期《DKB》にいたんだ……って言っても本当に短期間だったし、このALOではキャラをリセットしたから…外見も《現実世界》の姿とは全然違うだろ?」

 

「キャラ名も変えたし」と語られた初めて知る事実にアスナが驚きで声も出せずにいるとケフェウスは少し懐かしそうな目をして「あれは第三層に到達した頃だったかな」と言葉を続けた。

 

「アスナさんが《DKB》に入るって噂が流れて……案の定、マイマイが大喜びしたよ」

 

なんだか頭痛を耐えるような仕草をしたケフェウスが痛みを逃すように、ふぅ、と息を吐く。

確かに当時キリトとアスナがもしギルドに、もっと言えば《DKB》か《ALS》に加入するなら云々の話はあったが元々二人共ギルドに入る意思はなかったし、特にアスナが《DKB》に入ると誤解されるような言動に覚えはないのだが、思い当たる節と言えばあの時の一件しかない。

 

「結局、その話は噂でしかなかったし、それからすぐ僕達はギルドの雰囲気が合わなくて抜けたんだけどね、後になってキリトくんがアスナさんとの別々に難色を示したからだって聞いてマイマイが大激怒さ。それからアスナさんは《血盟騎士団》のサブになっただろ。本音を言えば僕もマイマイもあの騎士装にはすっごく憧れたけど流石にレベルが違いすぎて無理だった」

 

かなり誤解と思い込みによる遺恨のような気がしなくもないが、マイマイがキリトに対して悪印象を持つ理由は判明した。ならば次はカフェテリアの話だ。

 

「で、たまたま偶然なんだけど、この前お昼にフェテリアの長テーブルでキリトくんとすぐ近くになって……」

 

と言う事はアスナと昼食を一緒出来なかった日の話なのだろう。混雑時だと窓際のボックス席はすぐ埋まってしまうし、大人数だったり逆に一人や二人なら中央の長テーブルを相席のように利用するのが暗黙のルールになっている。

 

「マイマイが今夢中になってる恋愛ドラマに、主役の恋人同士の二人が彼氏の方は諦めていた海外赴任の話が復活して、彼女の方は仕事で初めてチームリーダーに抜擢されて、さあどうするのか?、っていう選択を迫られてるのがあるんだ。男性が海外赴任を辞退するのか、女性が仕事を辞めて彼氏に付いて行くのか、それとも数年間の遠距離恋愛、もしくは別れを選ぶのか、で……」

「マイマイの予想は?」

「仕事を諦める、は論外だね。互いにスキルアップして見違える姿で再会し、もう一度恋に落ちるのが理想らしいよ。相手の将来を尊重し合って一旦は別れるけど最後にはやっぱり結ばれる、って運命的なやつ?……でも今思うと、僕への喋り方がちょっとわざとらしかったからキリトくんの存在に気付いてたのかも」

「あえて聞かせたかった、とか?」

「多分。それで少しは溜飲が下がったんだろうね。意外だったのはマイマイの言葉にキリトくんが反応した事かな」

 

それはアスナも同意見だった。キリトは面識のない人間に積極的に話しかけるタイプではないからだ。

 

「たった一言だったけど」

「なんて?」

「マイマイが『好きな人の幸福を思えばこそ、それぞれの道を行くべきなんだよっ、絶対にっ』って言った時、キリトくんが後ろを通り過ぎながら『絶対とは限らないだろ』って」

 

あぁ、とアスナまでも微苦笑を浮かべる。

確かに客観的に見て「絶対」は言い過ぎかもしなれないが、そこは本人の主観だしドラマの話なんだからわざわざ否定しなくてもいいだろうに、キリトにしてみればアスナの可能性を自分が奪っているという負い目が未だに残っているのかもしれない。それは和人の進路希望が国内に変わった為二人でサンタクララへ、という未来はなくなったが、それでもつっかえながら明日奈に告げた「俺、やっぱり、アスナがいないとだめだ」という言葉が継続中なのを意味している。

それはそれで嬉しいんだけど…私の気持ちはちゃんと伝えたはずなのに、と妙なところで臆病になる恋人を見れば交わす言葉も尽きたのか、今は無言で互いの顔を見合っていた。

 

「はぁっ、そっちのデカデカモンスターチームにもヒーラーはいるんだから問題ないでしょっ」

 

痺れを切らしたようにマイマイが説得を試みる。

 

「聞いて驚きなさいっ、なんとっ、次期ウンディーネ領主も狙えるくらいハイスペックのヒーラー、さっちゃんがそっちのチームよっ」

 

さっちゃん、って……と場の全員が口を半開きにした。

 

「狙えるけど、本人が全く狙う気ないの知ってるくせに。ああいう言い方するのマイマイの悪い癖だよね」

 

同じウンディーネだからアスナも知っている、さっちゃんことサーテインという水妖精は超が付く高位回復魔法の使い手だ。術式展開の早さもその有効範囲の広さも群を抜いている。ただ本人がいかんせん引っ込み思案な性格なので「後方支援がいいからウンディーネを選んだ」というちょっと残念な動機のヒーラーだから当然領主なんて最前面に出る役職、頼まれても断固拒否を貫くだろう。

だから、と言うべきか、当然見知らぬプレイヤー達との合同クエスト攻略には及び腰になる。今日の攻略会議に遅れてやって来たアスナはサーテインの存在に気付いていなかったらしく嬉しさに目を細めた。

 

「わぁ、今回はサーテインさんも参加なのね」

 

実は以前、一度だけ同じクエストに挑んだことがある。その時はずっと剣を握っていたのでヒールしてもらう立場だったが、確かにサーテインが後方に居てくれると安心感は絶大で、余裕があったら自分もヒーラーとして並び立ち一緒に回復魔法の立体的な多重展開が出来そうだと考えるだけでも楽しかった。

けれど今回、マイマイによるとサーテインはキリトと同じチームらしい。ちょっと残念だけどサーテインがいるならキリトのヒールは安心して任せられる。

一方、いきなり「さっちゃん」と呼ばれて言い争いの渦中に強制登場させられたサーテインは店内の一番隅っこで自分を見る目の多さにおののき、注文したカップで顔を隠したまま小さく手を上げて「が、がんばります」と蚊の鳴くような声を発していた。いちをこれでサーテインの自己紹介はクリア扱いになったのだろう、マイマイがふんぞり返って、どうよっ、と得意気な笑みでキリトを見ている。その仕草に「はっ」と小馬鹿にしたような小さな息を吐き出したキリトがようやく今回のクエスト内容に触れてきた。

 

「ちなみにモンスターを同時に倒さないとどうなるんだ?」

「どちらか一方が倒されても片方が戦闘中だと奥の扉が開かない。場所が離れてるから加勢にも行けないし」

「それなら片方のモンスターだけに戦いを挑んだ場合は?」

「それが今までの敗因ね。最初の頃は入り口が二箇所もあるなんてわからなかったから一体のモンスターに全力で挑んでる途中に別のモンスターが現れて大パニック。多分入り口は同時に開くけど一定時間侵入者がいないと閉まってモンスターは反対側に転移してくるみたい。加えて戦闘時間にもタイムリミットが設定されてるからタイプの違うフロアボスレベルのモンスター二体を相手に時間切れで終わったギルドも少なくないって」

 

だから二グループに分けてそれぞれを倒すのが一番確実なの、と出来の悪い生徒を指導する教師のような口ぶりでマイマイが締めくくる。当然、ここに集まっているプレイヤーの誰もが納得する戦略だ。

しかしキリトはマイマイの説明を聞いてもまだ口をへの字にしままうーん、と考え込んでいる。

 

「けど、確かその作戦で前回、大規模ギルドが失敗してるよな」

 

今度はマイマイが「う゛っ」と苦い顔で口を閉じたがすぐに勢いを取り返した。

 

「あのギルドよりこっちのメンバーの方がレベルは上だからっ、それに全滅にならない作戦を考えてあるしっ 」

「どんな?」

「後半は時間との戦いにもなるからハイレベルのプレイヤーを優先的にヒールするの。アスナさんとか……それにアンタとかねっ、キリトさん」

 

不本意そうだがキリトの実力は認めているのだろう、黒いスプリガンから視線を外しそっぽを向いたままマイマイが「そうすれば絶対倒せるっ」と断言する。

すると呆れた声で「また、絶対か」と小さく言った後、とっくに気付いていたらしく出入り口付近にいるアスナをチラリと見て不敵な笑みを浮かべた。反対にアスナはぞわり、と嫌な予感と同時にキリトからどんな奇想天外が飛び出してくるのかという期待めいた感情が混じり合って妙な高揚感が背筋を這い上がってくる。

けれどキリトはすぐにマイマイへ視線を戻し静かに言い放った。

 

「オレはあえて一箇所のみ全メンバーの投入を提案する」

 

店内が嵐に見舞われた森のごとく一斉にザワザワと低く揺れ動く。当然この提案に青筋を立て全身を震わせたのはマイマイだ。

 

「あのねぇ、私の話、聞いてなかったのっ?!、同時に二体なんて無理っ!、言ったでしょ、タイプが全然違うって。それぞれのモンスターに適したチーム編成にしてるんだから場所を一箇所にしたら混乱してまともに戦えるはずないっ」

「戦闘時、この人数全員へ的確な指示が出せればいいんだろ?」

「そんな事がっ…」

 

マイマイの言葉をキリトが遮る。

 

「できるさ。ここに旧SAOのフロアボス攻略戦で何度も陣頭指揮を執ったプレイヤーがいるんだから」

 

その言葉に場の動揺が一瞬で静まり引き寄せられたように全員の視線が一人のウンディーネへと集中した。

 

「…え?」

 

アスナが出来損ないの笑顔という珍しい表情で固まっている。

多分何かとんでもない事を言い出すんだろうな、と…そんな予感はあったが、まさか自分に丸投げされるとは思っていなかったアスナが硬直から抜けきらない間に再びマイマイから怒声に近い困惑が叩きつけられた。

 

「アスナさんは細分化するモンスターへのメイン戦力なのよっ、さらに全体の指揮なんてっ」

「知らないのか?、アスナが旧SAOのトップギルド《血盟騎士団》のサブリーダーだった事。だからボス戦でも指示を飛ばしながらトッププレイヤーとして戦ってたぞ」

「知ってるわっ、だけどっ」

「考えてもみろよ。あの世界だったら攻略組か《血盟騎士団》にでも入らないとアスナの指揮下では戦えなかったんだぜ」

 

そっと足元から生ぬるい風に煽られたように動揺が伝播していく。

集まっている妖精達の顔に次々と興奮が宿っていくのを眺めていたケフェウスが「なるほどね」とちょっと悔しそうに口の端を上げた。

 

「アスナさんが仕切るモンスター戦、まさに疑似体験ができるってわけだ」

 

旧SAOの元プレイヤーなら〈血盟騎士団のアスナ〉を知らない者はいないし、戦闘職だったらなおのこと〈攻略組〉に羨望を抱いていた者は多い。それに元プレイヤーでなくても新生アインクラッドにおけるフロアボス攻略でのアスナの指示の的確さは有名だ。

 

「でもっ、それじゃあアスナさんの負担がっ」

 

悪あがきともとれるけれどマイマイからは純粋にアスナを気遣う思いが滲み出ていた。

 

「オレがフォローに入る。間違っても作戦指揮者のHPがゼロになるなんて事態にはしない。それこそ絶対に」

 

宣誓とも聞こえる真摯な声を前にそれ以上被せる言葉が見つからないマイマイだったが、それでも何かないかと泣きそうな顔で必死に思案しているのがわかる。

別にアスナに指揮権を取られるのが嫌なわけではない。そもそもこのクエストに誘ったのだって本気でクリアしたいからと旧SAOでは叶わなかった共闘がしたかったからだ。だから一生懸命作戦やチーム分けを考えたのによりによって「黒の剣士」にそれを否定されもっと魅力的な提案をされた事が悔しくてならない。それにこっちから誘っておきながら一番しんどい役割を担わせてしまっていいのだろうか、という躊躇いもある。けれど本心を言えばマイマイもアスナの指揮下で戦ってみたいのだ。

それはここに集まっている妖精達も同じらしく皆小さな声ではあるが耳に入って来るのは喜びに近い戸惑いと興奮の声ばかり。

だからと言って黒いスプリガンに対して素直に肯定はできず眉間に皺を寄せてしぶしぶの態でマイマイが「わかった」と了承すると、キリトはすぐさま「アスナっ」と彼女を呼び寄せようと声を張った。

名を口にされてしまえば応えないわけにはいかず、けれど私が言い出したんじゃないんだからっ、を表すためにゆっくりと立ち上がる。

だが、ここでアスナが一言、否を唱えれば全て振り出しに戻り作戦はそれぞれ二拠点の同時攻略になるだろうし、何よりここまで高まった気運も一気に萎むわけで、少々ご立腹なご様子のウンディーネさまが呆れの溜め息をひとつ吐く間、誰も声を発することができず、ただ、ゴクリ、と唾を飲み込むESだけが店内のどこからか聞こえてきた。

コツッ、とブーツの踵が床をこする。

 

「……片方のモンスターと戦闘を始めた後、もう一体が合流してくるまでの正確な時間は調べられる?」

 

急いでコクコクと頷いたマイマイがすぐにホロウィンドウを出してどこかにメッセージをおくった。

その間も、コツッ、コツッ、と規則正しく音は響き続ける。

 

「それとここに集まっているメンバーの戦闘スタイルや主要武器の詳細なデータも見ていい?」

 

それにもコクコクと頭を振ってウィンドウを操作した。

そしてアスナはキリトの目の前に到着すると片手を腰に当て「あのねぇ」と上から軽く睨み付ける。けれどキリトにしてみればアスナからの今にもお小言が降ってきそうなオーラでさえあの二年間も含めてすっかり慣れたもので、余裕ともとれる笑みを続けているから怒る気も失せてしまうのだろう。

 

「…勝手に、もうっ」

「できるだろ?」

 

躊躇すら可能性に入っていない絶対的な信頼にアスナは改めてマイマイに顔を向けた。

 

「いいの?」

 

コクコクコクっ、今日イチ高速で頭を振っている。目元や頬がうっすらと赤くなっているのは頭のふりすぎではないはず。口元だってうずうずと喜びにうねっていた。

それらを視認してからアスナは黒ずくめのスプリガンへさっきの問いの答えを口にする。

 

「できると思うけど…キリトくんはフルでフォワードだから頑張ってね」

 

綺麗なアトランティコブルーの瞳が全く笑っていない。「それと」と続けたバーサクヒーラーの二つ名を持つウンディーネは店内を見渡して妖精達全員の顔を覚えると唇に緩やかな曲線を描いた。

 

「突入するのはデカデカモンスターの方から。チマチマモンスターが転移してきたタイミングで陣形を素早く切り替えて、二体のウィークポイントや攻撃パターンが判明したり戦闘形態が変化した時点でその都度こちらもフォーメーションを変えます。多分ここにいる全員、HPはほとんど残らないギリギリの戦いになると思うから…」

 

ニコリとまさに花が綻ぶような満面の笑みなのに、それにそぐわない不穏な言葉がくっついてくる。

 

「全員死ぬ気で私の指示に付いて来てね」

 

そう、アスナなら最初からHPがゼロになるプレイヤーが出るかもしれない作戦は立てない。いくらここが普通のゲーム世界でも、HPがゼロになったところで《現実世界》の身体には何の影響が出なくても。

事前に収集した情報から堅実な作戦を練り、それでいて実際の戦いの場では状況に応じて臨機応変な対応をみせる。それが出来るのも広い視野と常に冷静で鋭い観察眼、頭の回転の速さと天性の勘の良さに加えて文字通り命を賭けたボスクラスのモンスターとの戦闘経験が豊富にあるからだ。

だから彼女の指示なら、と全員クリアの期待とやる気が身体の奥底から湧いてくる。

 

「やってやるさ」

「ああ、やるっきゃないって感じだもんな」

「なんか、私、震えてきた」

「攻略組のメンバーってこんな気持ちだったのかもね」

「くぅっ、《血盟騎士団》副団長の指揮で戦えるってスゲー」

 

妖精達の口から次々に奮起の言葉が溢れ出てくる。

それを頼もしく聞きながらアスナは腰を屈めてキリトにだけ聞こえるよう声を潜めた。

 

「こんなやり方、今回だけだからねっ」

「わかってる。だけどアスナだっていくらクエストクリアの為でもヒール対象に順位を付けるのは嫌だろ?」

「それはそうだけど」

「それに、ほら、前に言ってた回復魔法の多重展開だっけ?、あれが出来るんじゃないかと思って」

「……覚えててくれたんだ」

 

「それに…」と一旦口を閉じたキリトはすっ、と温度を下げた目で他の妖精達と笑顔で語り合っているマイマイを一瞬視界に収めてからプイッ、となんでもない方向に顔を背ける。

 

「オレとは別々なのにアイツがアスナと一緒のチームなんて……」

 

続くべき感情表現に戸惑って、結局言葉が定まらないまま再び口を閉じてしまったキリトの尖った耳の先が赤く染まっているのに気付いたアスナはぷっ、と噴き出してから「大丈夫」と慈愛に満ちた声で告げた。

 

「どこまでも、きみと一緒だよ…きみを守るから」

「ああ、オレもアスナを守るよ」

 

互いに守り合う存在なんだから別々になんかならない、と微笑みを交わしながら誓う二人だった。




お読みいただき、有り難うございました。
挿入したエピ、映画で入ってるかな?(苦笑)
あまりストーリーに関係ないからカットされていそう。そもそもキリトとアスナが
別々のギルドに加入するなら云々はその前の3巻のエピなので……うんカットだろうな。
原作未読の方へ…《DKB》と《ALS》と言うのは旧SAOで攻略初期の二大ギルドだった
〈ドラゴンナイツブリゲード〉と〈アインクラッド解放隊〉の略称です。


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【超短編】その1

『SAO27巻 ユナイタル・リングVI』の発売を祝しまして
超……超っ……超ーっ、短いやつを。
「その1」となっているのは、当初もう1本か2本付けて
【短編集】にできるかも……と幻想を抱いていた頃の名残と
あまりにも内容がなくてタイトルが浮かばなかったのと
今後、これくらいのごく微量の投稿をする可能性がある
かも知れない対策です。
(だから今回は「その1」しかありません)
最後になりましたがユナリンVI発売おめでとうございます!
そしてHappy Birthday キリト(和人)!!


《現実世界》に戻ったら……いろんなとこに行って、いろんなこと、しようね……と、あの世界で妖精王を名乗る下劣な男から解放される直前アスナがキリトに望んだとおり、日常生活を支障なく送れるようになると週末や休日、時には学校帰りに和人と明日奈は二人であっちに行ったり、こっちに行ったり、あんな事をしたり、こんな事をしたり、恋人同士の時間を楽しんでいた。

そんな生活が当たり前になったある日、デートの途中で和人はふと気付いたのだ……

 

「なんだか、今日は…アスナが近い?、ような、気がする」

 

自分で言ってても変な言い回しだと思うし、なんでそんな気がするのかもわからない。

けれどそれを聞いた明日奈は悪戯が見つかった子供みたいに「えへっ」と笑ってから、軽く薄桃色のスカートをつまみちょっとだけ膝を曲げてグレージュ色のパンプスを見せた。

 

「今日はね、いつもより少しだけ踵の高い靴なの」

 

なるほど、という納得と、なんで?、という疑問が同居する。

ついでに周囲に人影はないが用心のために他の男の目に触れないよう素早く明日奈の手をスカートからもぎ取った。

それから一番見慣れている帰還者学校の制服姿を思い浮かべる。校則に則って履いている皮のローファーは踵が二、三センチ。だが和人とお出かけの時の明日奈はヒールが四、五センチのパンプスやサンダルを履いてる事が多かった。それなのに今日は七センチ位あるのだ。

明日奈は平然としているが、うっかり捻って細い足首を痛めるのではないかと段々心配になってくる。

そんな風に心の内で色んな感情が入り交じっていると、すいっ、と明日奈の上目遣いが視界の真ん中に飛び込んで来た。

 

「旧SAOの頃ってほとんど身長が変わらなかったでしょ?」

 

突然そう言われて、それでも和人はすぐに、うん、と首肯する。キリトは厚底の靴を履いていたし、アスナはショートブーツを愛用していたが互いにそういった装備を全解除した状態も知っているので自信を持って頷ける。

 

「けど、こっちの世界に戻って来て……うーん、キリトくんの方が数ヶ月早かったせいもあるかも、だけど今は十センチ近く差があるから……」

 

あるから、何なんです?、と首を傾げれば、その先を言おうかどうしようか迷っている様子の明日奈はふいっ、と和人から視線を外してほんのり目元を染め、囁くように小さく「届かないんだもん」と拗ねた声を零した。

何が?、と思ったのは一瞬で再びこちらを向いた明日奈のはしばみ色の瞳の奥にある熱に気付き、ふはっ、と軽く笑ってから顔を近づける。

 

「そんなの、オレがかがめばいいだけだろ」




(あっ、と言う間に)お読みいただき、有り難うございました。
……特に語ることがないのでウラ話も省略させていただきます。


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【超短編】その2

今月は『血の誓約』のみと思っていたのですが、ふと今日UPするしかない
ネタが浮かんでので……。


「これね、ここに来る前にクラスの子から貰ったんだけど」と言うアスナの手にはポッキーの小袋がひとつ。

いつものように《秘密の庭》でアスナ手製のランチを食し終えたところで目の前に現れたそれにキリトは今日が何の日だったのかを思い出す。

 

「貰った時、何か言われたか?」

「うーん…私がお昼ご飯をキリトくんと食べるのを知ってるからかな?、『是非っ、桐ヶ谷くんとっ、食べてねっ、そんでもって勝敗の様子を教えて貰えると嬉しいなっ』って……このお菓子食べると勝敗が別れるの?」

 

と素直に質問をしてくるところを見るとアスナは今日という日にポッキーを食べるイベントの存在を知らないのだろう。当然、今まで誰とも、いわゆる《ポッキーゲーム》をした事がないと判明して思わず安堵の笑みを零した和人は普段なら「やらないぞっ」と突っぱねるだろうこの手のお巫山戯に珍しくもやる気をみせた。

 

「勝敗って言うか…アスナとオレじゃ勝負にならないと思うけど……やってみます?」

 

そう誘われれば「うんっ」と好奇心が返事をする。しかも自分とキリトとでは「勝負にならない」とまで言われたのだ、内容はわからないが元来の負けず嫌いもむくむくと頭をもたげた。

キリトの指示に従い袋を開けて中のポッキーを一本取り出し渡すと、彼はチョコの付いていない方の先端を唇で咥え、反対側をアスナに向ける。

何がしたいのかわからず小首をかしげれば、少し困ったような笑顔のキリトが器用にも反対側のポッキーの端をアスナの唇のあわいに差し込んだ。

キリトがポリッと音を立ててポッキーを囓りながら「こうやって両端からポッキーを落とさないように食べ進めるんだ」とルール説明をしてくれるので、アスナもなるほど、と小ぶりな唇をもぐもぐと動かして小動物のように咀嚼を始める。彼女のペースに合わせているのかキリトは少しずつポッキーを消費しながらその様子を堪能しているが、アスナの方は唇からお菓子を離さずに食べるという初めての行為に全神経を集中させていてポッキーしか目に入っていない。

だから徐々に自分からキリトに近づき、同時にキリトの顔も近づいてきているのだがそれを指摘してくれる第三者はどこにもいなかった。

そうして軽く唇に力を入れたまま、口の中のポッキーを噛み砕き飲み込み、またちょっとだけ唇をうにっ、と動かしてポッキーを招き入れ噛み砕き、を夢中で繰り返していると突然、ふにゅっ、と唇全体に当たる柔らかなよく知る感触。

えっ!?、と思った時には顔をいつもの角度に傾けてアスナの唇にキリトの唇が押し当てられていた。

「ンん゛っ?!」とくぐもった声と同時に残っていたポッキーがキリトの口の中に収められ、代わりに「入れて」とばかりに舌で唇をノックされる。

もう数え切れない程経験した熱を分け合う口づけの合図だ。

けれどアスナは「だめっ」と両腕を突っぱりキリトの肩を押し遠ざけた。

 

「アスナ?」

「まだ口の中にポッキー残ってるの……ちゃんと飲み込んでから、ね」

 

話す時でさえきちんと口の中にある食べ物がなくなってから、のアスナらしいお願い。逆を言えば飲み込んでからならいくらしてもいいんだ、と都合良く解釈したキリトは小さく「な、オレ達だとゲームにならないだろ」とアスナにポッキーを渡したというクラスメイトに呟いたのだった。

 

 

 

 

 

放課後、アスナにポッキーを渡した女子は教室を出ようとしていた彼女の腕を掴んで引き留め耳元に話しかけてきた。

 

「明日奈ちゃん、お昼に桐ヶ谷くんとポッキー食べた?」

「え?、あ、うん。食べたよ、ありがとう」

「ちゃんとゲームしながら食べた?」

 

間近にある彼女の顔が好奇心でウズウズピカピカしている……いや、ギラギラハァーッ、ハァーッと言った方が正しいかもしれない。

 

「食べた……けど」

 

そう言えばポッキーを貰う時、彼女に勝敗の行方を教える約束だったと思い出したアスナだがルールはキリトに教えてもらったもののどうすれば勝ちだったのかは把握していなかった。

キリトからも勝ち負けを示唆する言動はなかったし、実はポッキーを一本食べ終えた後昼休みが終わるギリギリまでキリトに翻弄されていたから息を整えたり乱れた髪や着衣を直すのに必死で勝負の事はすっかり忘れていたのだ。

 

「どう、だった?、か……聞いてもいい?」

 

一旦唾を飲み込んだクラスメイトの顔がちょっとこわい。

これは何か答えないと絶対離してくれないパターンだ。

ゲームして食べて、どうだったか、を答えればいいのよね、とアスナは数時間前の《秘密の庭》での事を思いだして顔全体を薄桃色に染めながらそっと打ち明けた。

 

「キリ…和人くんがね『甘くて美味しい』って……」

 

途端、級友は教室の床に崩れ落ち両手で顔を隠しながら「ご馳走様でした」と悩ましげな吐息と共に吐き出したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
《ポッキーゲーム》はゲームであっても遊びではない……わけない。
まあ、他の方々が既にUPしつくしてるネタですので(苦笑)
そして何を期待してたんだろうね、級友。


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〈UW〉代理講師

ちょっと久しぶりのアンダーワールドでのお話です。


セントラルカセドラルに新設された大図書室ではいつも通り神聖術師団の見習い術師の為の講義が、いつも通りではない状況で行われていた。

いつもなら表情を変える事なく淡々と正しき道のど真ん中を歩き、見習い術師達がその背を必死に追いかけていくような講義を展開する神聖術師ソネス・フリアが今日に限って代理講師を立てたのである。

もちろん今までもソネスが不在の時はあった。

なにしろ彼女の一番の目的は先代司書が管理していた神聖術の術式を解析する事である。毎回毎回見習い術師達の為に時間を割いていたのでは仕事が進まない。

そんな時は山ほどの課題が出されて、ぶっちゃけこの課題に取り組むくらいなら彼女の講義を泣きそうになりながらも受けた方がましだと思わせてくれる量なのだが……だから今日の講義に代理講師がやって来ると知って見習い術師達は身構えた。あの司書が自分の責を任せるほどの人物だ、多分、きっと、絶対、泣かされる……。

だから大図書室で見習い術師達は全員背筋をぴーんっ、と伸ばして代理講師を待った。

一瞬の静寂の中、コツ、コツと響くヒールの音……果たしてそこに現れたのは、白地に褐色の飾りが付いたショートブーツ、そこから伸びるのは白いタイツを履いたすらりと細い脚、どうやらミニスカートも白っぽいから女性であるのは間違いなさそうだが判別できるのはそこまでで、そこから上はすっぽりとこれまた白、と言うか少し光沢のある真珠色のフード付きマントに覆われている。

怪しい、怪しすぎてなんだかもう泣きそうだ。

だが戦々恐々としていた大図書室の空気を鈴を転がすような声が一変させる。

結果、見習い術師達は嬉し涙を流すという泣き顔を晒すことになった。

とにかく代理講師の講義は分かりやすい。展開も応用もまるで自分が組み立てたかのように頭に入ってくる。それなのに代理講師は「ソネスさんがしっかりと皆さんに基礎という土台を徹底させているからですね」と謙遜じみた言葉まで挟んでくる。

確かに『基礎は重要です』『基本です』『要です』と何度も繰り返され、それって同じ意味ですよね、と見習い全員が何度も心の中で突っ込みながら、来る日も来る日も常用紙が破れる一歩手前まで基本の術式を書き、書き、書き、術式を唱え、唱え、唱え、うっかり間違えれば連帯責任と言われて再び書き、書き、書き、唱え、唱え、唱え、そうやって身体にたたき込んできた日々は無駄じゃなかったっ、と彼ら彼女らは心の拳を高々と上げた。

それくらい徹底的にやったお陰だというのは理解しているけれど、それにしても『わかるって楽しい』が溢れた講義に誰もが夢中になった。もし可能ならソネス司書の講義の半分くらい受け持って貰えないかな、と、もしも、もしも可能ならソネス司書と交代してもらっても全くこちらは問題ないし、その方が司書も自分の仕事に没頭できるんじゃないかな…などと勝手な空想を練りながら顔の見えない代理講師の声に頷いていると、そぅっと大図書室の後ろの扉から一人の局員が入って来る。

一番後方の席にいた見習いのイハル・ダーリクが目聡く気付いて様子を伺っていると、バチッ、とその局員と目が合ってしまったお陰で、彼がそそそっ、と近づいて来た。

 

「なにか…」

 

御用ですか?、と尋ね終わる前に局員も声を潜めて「あの…」と切り出してくる。

 

「講義を終わらせて欲しいのですが…」

「えーっ、ダメですよぅ」

 

口を挟んできたのはイハルの隣にいたマシオム・トルゼールだ。

十三歳のイハルよりひとつ年上なのだがこのセントラル・カセドラルへ神聖術師になる為に入塔する前から同じ北セントリア支教会でブラザー見習いをしていた少年は良く言えば人なつこい性格、違う言い方をすれば馴れ馴れしく直感で物を言う性格であるため局員に手をふりふり「ダメ、ダメ」を繰り返した。

 

「まだ講義が終わる時間じゃないし、それにこの代理講師さん、すっごく分かりやすいんだから」

「で、ですが、今日の会議のお茶菓子が…」

「お茶菓子のために講師さんを連れて行くの?、絶対ダメでしょ。そんな事したらここにいる見習い術師達全員が暴れ出すと思うよ」

「ひぇぇっ」

 

そもそも色々と意味不明が多すぎる。

なぜ局員が神聖術師を呼びにくるのか……そこはまぁ誰かに頼まれたとか、局員と術師合同の会議もあるかもしれないので譲歩するとして『今日の会議のお茶菓子』……優雅かっ!!

『今日の』が付いている時点で茶菓子付き会議が珍しくないと予想され『頭のてっぺんから足の爪の先まで真面目が詰まってんの?』とマシオムに評されたイハルすら内心「え゛えー」と思った。

呆れと羨ましさと代理講師さんは渡さないぞっ、という、総じてこの場からの撤退を強く要請する少年達の気迫に負けたのか、気弱そうな局員は項垂れて小さくボソボソ「どうしよう、エントキア様がすごく楽しみされているのに……」と古参の上位整合騎士の名を口にしたような気がしたが、二人共聞き間違いだと思い流す。

 

「講義が終わったら代理講師さんにお伝えしておきますから」

 

そうイハルに微笑まれ、マシオムからは「ゴー、アウェイ!」と言わんばかりに入って来たばかりの大図書室の扉を指し示されてしまえば眉をハの字に垂らした局員はすごすごと退場するしかなかった。

その後、順調に講義は続き件の代理講師がちょっとはにかんだ様子で「私もね、普段は司書さんにたくさん教わっているんだけど、それをこうやって皆さんに伝える立場になるとより理解が深まるっていうか……ソネスさんの代理なんて務まるかな、って不安だったの。でもお互いにすごく勉強になるのね」なんて明るい声で言われたら、もう全員「これからもずっと一緒に勉強しましょうっ」と心の拳を互いに固く握り合っていると次に大図書室の扉を開いたのはレンリ・シンセシス・トゥエニセブンだ。

顔の両脇で小さく結んだ若葉色の髪が、ひょこっ、と揺れて見習い術師達とそう変わらない面立ちが扉の向こうから覗いており「あの…」と発した途端、近くで熱心に講義を受けていたはずのレーノン・シムキが素早く反応する。

 

「レンリ様っ」

 

言ってから慌てて自分の口を自分の手で蓋をした。素早く周囲に目をやって気付かれなかった事を確認し、バレないように静かに席を離れて扉の所まで行くと頬を染めて「どうなさったんですか?」と小声で尋ねる。

レンリは整合騎士の中でもダントツに若く物腰も柔らかい。見習い術師達にも気さくに話しかけてくれるので特に女子の間では人気が高いのだ。普段は率先して人前に出るようなタイプには見えないのに、いざ戦いの場になると全身を使って神器『雙翼刃』を扱う姿が、いわゆるギャップ萌えというやつらしい。加えて整合騎士見習いの少女に一途な想いを抱いているという点でも好感度は抜群である。本来なら番号持ちの上位騎士なのだからもっと堂々としていればいいのに大図書室にいる三十名もの見習い術師達の視線は浴びたくないのかレンリは扉までやって来てくれたレーノンに「頼みがあるんだけど」と切り出した。

 

「今、代理で講師をなさっている方に伝えて欲しいんだ。今日の会議が予定より少し早く始まりますから、って」

 

レーノンは舞い上がった。憧れのレンリからお願いをされたのだから。

レーノンもイハルやマシオムと同じ北セントリア支教会でシスター見習いをしていたがこの白亜の塔に来るまでこれ程近くで整合騎士を見たことはなく、しかも皆が憧れているレンリからの頼まれ事である。当然一も二もなく「わかりましたわっ」と胸を張って引き受けた。だからもちろん気付いていない。整合騎士であるレンリが今日の代理講師に敬語を使っていること……そもそも整合騎士が会議時間の変更伝達などという雑務をしている違和感に……。

 

「ありがとう、じゃあ頼んだよ」

「はいっ、お任せ下さいっ」

 

安心した笑顔で扉を閉めるレンリを見送ってからレーノンはスキップしたい足を必死に堪えて元の席に戻った。両手で口を覆って、むふふっ、と漏れ出そうな嬉しさを閉じ込める。もしも他の誰かに「どうしたの?」と聞かれたら絶対自慢したくて喋ってしまうし、そうなれば「私が伝えてきてあげるっ」と大事なお役目を取られてしまうかもしれないから上下の唇を全力でくっつけた。

私、今日はもう術式しか口から発しないことにしますわ、と誓いを立ててレーノンは沈黙を守り通したのだった。

だから当然の如く代理講師は局員が会議のお茶菓子について訪ねて来た事も、その会議の開始が早まった事も知らずに講義を続けた。

その後、カセドラル五十階《霊光の大回廊》にある円卓に各局長や整合騎士達が集まりつつある頃、そのうちの何人かがそわそわと入り口を見続けても目当ての人物は一向に現れず業を煮やしたかのように黒い髪をくしゃりと掻きむしった少年が飛び出して行ってから一呼吸の後、まるで空でも飛んで移動してきたかのような短時間で大図書室の扉は開かれた。

 

「悪いっ」

 

その第一声に講義を聴いていた後部座席半分ほどの見習い術師達は迷惑そうに「悪いと思うなら静かにして欲しい」という顔で振り向いたが声の主が他ならぬ代表剣士だと気付いて「あれ?」と意外そうな顔に転じた。

ここにいる全員が多少なりともこのセントラル・カセドラルのトップである代表剣士と面識があるのは、この少年がわりとどこにでも出没するからだ。時には工廠で、時には大食堂で、時には中庭で……ただしこの大図書室で見たことがある者はごく少数で、その理由は代表剣士にも容赦なく厳しいソネス司書の存在故なのだが、とにかく振り返ったほぼ全員が「あ、代表剣士様だ、珍しい」と思ったわけだが、次には結局「静かにして下さいよぅ」に戻る。

代表剣士の権威はどこに?、と思わなくもないけれど当の本人がそれを放棄しているので見習い術師のひとりが臆せず声をかけようとして……しかしその前に代表剣士は、キリトは、自分の入室に気付いて「どうしたの?」と講義を止め真珠色のフードが斜めに動く様を一心に見つめている見習い術師達を含めこの場にいる全員に向けて声を張り上げた。

 

「会議が始まるから、うちの副代……じゃなくて、オレのアスナ、返してもらっていいかな?」




お読みいただき、有り難うございました。
見習い術師達三名はご本家(原作)さまに名前(と年齢、出身)だけ登場している
少年少女を使わせていただきました。
性格とか口調は勝手してます。
あとエントキアがアスナ手製の茶菓子を気に入っている(らしい)事もご本家さま参考。
今年最後の投稿が文章量とか砂糖量少なめで申し訳ありませんが、引き続き
来年もよろしくお願い申し上げます。


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ライバル

(かなり遅刻しましたが)今年もよろしくお願い申し上げます。
今回は年末年始にかけて京都の本家に言っていた明日奈が
年明けに東京に戻ってきたお話です。
時間軸的には《マザーズロザリオ》より前ですね。


『ライバル』……競争相手、対抗者、好敵手、宿敵、などなど、キリトにとっては主に《仮想世界》で意識した事のある単語だが、今現在、桐ヶ谷和人は《現実世界》においてその単語を目の前の人物に強く感じていた。

事の起こりは昨年末から京都にある結城家の本家に行っていた明日奈が年が明けてようやく東京に、そして森の家の寝室でキリトの腕の中に戻って来て、明日、リアルでも会おうという約束をした時、アスナから待ち合わせ場所を指定されてからだ。

 

『親戚?』

『うん。本家で久しぶりに会った子でね。普段は海外で暮らしてるんだけど私が東京に戻ってくる時一緒にこっちまで来て、今日、都内をあちこち案内したの。それで明日父親の職場まで送り届ける事になってるから……』

 

『職場、どこ?』と問いかけながら久しぶり触れるアスナの髪を飽きることなく撫でていたキリトは自分の首元あたりから発せられた都心のど真ん中にある外資系のハイブランドホテルの名に内心「へぇ」という驚きと「なるほど」という妙に達観した二種類の感想を同時に味わった。驚きが突出していないのは明日奈の父方の親戚は京都の本家を筆頭に皆エリート志向が高いからだ。会えば比較的柔和に会話をしてくれる明日奈の父、結城彰三も総合電子機器メーカー「レクト」のCE0を務めていた実業家なのだから他の親族も推して知るべしである。ただ外資系と言うのがちょっと意外だっただけで、そういうケースもあるだろうと深く追求せずにそのホテルのロビーラウンジを待ち合わせ場所にして、今……和人と向かい合わせに二人掛けのラウンジチェアに座っている二人はまるで姉弟のように仲良く昨日の観光の思い出話を口にしていた。

最初は明日奈が都内のどこを巡ったのかを和人に報告していたのだが、明日奈の意識や視線が和人に向きっぱなしになるのが『気に入らない』とわかりすぎるほど露骨に話に割って入り、流暢な日本語で彼女を独占しているのは誰が見ても日本人ではないと気付く容貌の少年だ。明日奈の淡褐色より濃い琥珀色の瞳、逆に髪は日本人に近い焦茶色だがオリエンタルな雰囲気を醸し出しているのは骨格が日本人のそれと基本的に違うからだろう。整った顔立ち、スラリと伸びた腕に白い肌。

ちなみに年齢は十二だと明日奈から聞いていたが、日本の公立小学校に通ってたら違和感しかない気がする。

それでも髪色が近いせいだけでなく明日奈と兄弟姉妹のように見えるのは血のつながりのせいか、明日奈の方も彼の我が儘を苦笑いひとつで受け入れるくらいは甘やかしていた。

和人は、と言えば相手は明日奈の親族だし、自分の方が年上なのだから、とオーダーしたコーヒーを啜りながら二人のやり取りを黙って聞いている。

まぁ、たまには明日奈を譲ってやろう、と強がりなのか余裕なのか分からない言い訳を自身にしている理由は、明日奈の方が先にラウンジに到着していたのは打合せ通りだったのだが、予定外だったのは送り届けたはずの少年が同席していて、当然の如く明日奈の隣を占拠していたからだ。

自分と二人きりの時ならいい。二人掛けの席でも四人掛けのボックス席でも向かい合って座るけれど、友人達など一緒にいる人数が二人以上の時はキリトの隣はアスナであり、明日奈の隣は和人であると暗黙の了解みたいになっていて、それなのに和人が明日奈の待つ席に案内された時はすでに彼女と並んで見目麗しい少年が笑っていた。

いや、純度の高い笑顔は明日奈にだけで、紹介された和人に向けられた目はかなり挑戦的だったと言えるだろう。もちろん明日奈からは見えていなかったが……。

和人だって一瞬固まった……聞いてない、聞いてないぞ、と。

明日奈からの『親戚の子』という表現で、勝手に小さい女の子だと思い込んでしまった自分にも落ち度はあるし本当に『親戚の子』一人だけが東京に来たという確認もしなかっが、昨晩は親戚情報を入念に仕入れるより、アスナの身体を入念に色々することしか頭になかったのだ。

結局リアルで会う約束をした後、再び我慢がきかずに深更まで肌を合わせていたから多少寝不足だったのが少年の登場で一気に眠気が吹き飛んだ。少年と引き合わせた時の和人の驚きの意味を悟った明日奈も申し訳なさそうに眉尻を下げて『彼のお父さんが会議中で、終わるまでもう少しだから一緒に待ってて欲しいって』と説明をしてくれたが、いやいや、そのお願い、間違いなく父親側からじゃなくて息子からだよな、と少年を胡乱げな目でみる。

物言いたげな和人からの視線をちょろり、と舌を見せただけでかわした少年は見せつけるように明日奈側へ身体の重心を移し可能な限り距離を縮めて爆弾を投下した。

 

「アスナの家の風呂、朝でも使えるんだな」

「え?!…う、うん。いつでも入れるよ」

「今朝、入ってただろ?」

「あっ、ごめんね、水音響いてた?」

「普通に起きてキッチンにミネラルウォーター取りに行く時、気付いただけ」

 

へぇ、アスナん家、二十四時間風呂なのかぁ……なんて感心するわけもなく、和人はまぬけな顔で「はぁっ?」とすかすかの息を漏らすことしか出来ない。

 

「アスナはいつも朝、風呂に入るのか?」

「そんな事ないけど……今朝は…」

 

そこでチラッと視線を寄越した明日奈のはしばみ色の瞳が責めるような、それなのに目元は僅かに赤みを帯びていて、その意味に気付いた和人もまた少し気まずそうに、でも声には出さず「ごめんなさい」と内省して二人だけの無言の会話が成立する。その内容は分からずとも何らかのやり取りがあった事を看破した少年は強引な声で「アスナっ」と再び彼女の意識を己に引き戻した。

 

「そんな事ないけど、の続きは?」

「えっと…今朝は……そう、今朝はなんだか眠気が取れないな、って思って。だからお風呂につかったの」

「昨日、オレに付き合って都内を巡ったから疲れた?」

「違うよっ、そうじゃなくて…」

 

再び明日奈が和人を見る。

二人共VRの順応性が高いせいで、完全に意識を切り離せないのだ。《仮想世界》で心拍数が跳ね上がるような行為を長時間すれば《現実世界》の身体も疲労を覚えるし、ダイブを続けていれば寝不足にもなる。

 

「あー…、アスナの風呂はさ、趣味みたいなものだから」

 

和人なりに言葉に詰まっている恋人に助け船を出したつもりだったが、今度こそ恨みがましい目で睨まれた。もう大人しくコーヒーを啜っていよう、と残り少なくなってしまったカップに手を伸ばす途中で、そうじゃないだろ、と自分を叱咤する。

 

「あのさ…ウィル、だっけ?、もしかして、昨日アスナん家に泊まったとか?」

 

もしかしなくても会話を聞いていればそれ以外ありえなさそうだが、確認せずにはいられない。その質問を受けて途端に優越感を瞳に宿らせた少年は、ふふんっ、と口元を弓なりにした。だがその問いに勢いよく斜め上から肯定したのは明日奈だ。

 

「うちにだってゲストルームあるもんっ……キ、和人くんのお家みたいな雰囲気のいいお部屋じゃないけど……」

「へ?……アスナが使う客間って普段はただの物置き部屋だぞ」

「けど、ちゃんと床の間もあるし、お庭だって見えるでしょ」

「まぁ、唯一の和室だからな。道着を洗濯した時とかスグがあそこで畳んでるけど、基本、普段使わない物や捨てられない物を突っ込んである押し入れを重宝してるだけで、アスナん家みたいに来客を想定した部屋じゃないよ」

「でもあのお部屋、私は好きだな」

「そうデスか?…なら…いつでも、どうぞ?」

 

なぜか二人してもじもじしている……ハイランクホテルのロビーラウンジで。

そんな二人の様子にイラついたのか少年、ウィルはたまらずに明日奈の肘を掴んだ。

 

「京都の本家も和室だろ…明日奈は和室が好きなのか?」

「んー、そうだね、落ち着くけど和室ならなんでもいいわけじゃなくて……」

 

京都の結城家は京風数寄屋造りの大な屋敷で明日奈達が滞在する時は離れを使わせてもらっているが、そこは良くも悪くも古式ゆかしく通信ネットワークは圏外というのだから万人にとっての快適な生活環境とは言えない。

 

「オレ、今日の夜はここのプレジデンシャルスイートなんだ。和室もある。小さいけど内庭も付いてるし、風呂は…総檜って言うんだろ?、木製のバスタブのやつ、他にジャグジーが使えるのもあるんだ……昨日泊めてもらったから今夜はアスナがこっちに泊まっていいぞ」

 

少々強引な物言いは年齢のせいか、それとも普段、日本語圏で生活をしていないせいか……測りかねていた和人だったが少年が自分を見る目に対抗意識を感じ取って、むむっ、と口を強く引き結んだ。それにいくら父親がこのホテルの関係者でもスイートを押さえるってどれだけの資産家なんだ、という話である。しかも少年の口ぶりではこのホテルのスイートを使うのは初めてではないらしい。

 

「ありがとう、ウィル。でもおば様も今日の夕方にはこっちに合流出来るっておっしゃってから、大丈夫、今晩は寂しくないよ」

「オレは別に寂しくなんかないっ」

 

強い否定がよけいに本心と取られない典型的なパターンだ。明日奈はまるで弟を見るような目で、うんうん、と微笑んでいる。

さすがにちょっと可哀想な気になるがここで敵に塩を送るような余裕も和人にはない。

昨晩の明日奈の話の中で、親戚の子の母親は結城家の分家筋の人間で結婚後、夫と海外で生活をして子供をもうけたという所まではちゃんと聞いたが、更に踏み込んだ内容を聞くよりも目の前の彼女への欲が勝って早々に唇を塞いだのだ。こんなことなら性別と年齢くらいは把握しておくべきだったと本日二度目の反省をし、改めて目の前の二人を見る。

明日奈がたまに口にする京都の結城家の話にはいつも僅かな忌避感が漂っていた。それのなにこのウィルという少年に対してはそういった感情が見えずまるで近所の子を相手にしているような気安さだ。まあ「男」として意識していないせいもあるだろうが、問題はこっちのウィルである。

そういう方面にはとんと疎い和人にもわかる、コイツ、アスナの事…と。感情の機微に敏感な明日奈が気付かないのはそれだけ結城家側親族の同世代との人間関係がギスギスしているからか……。

それにどういった経緯があったのかは知らないが本家のある京都から東京まで、そして一泊してからこのホテルへ送り届けるまでウィルの保護を明日奈に任せたというなら彼の親からの信頼も厚いという事で……妙に外堀が埋まってる感に和人は焦りを覚えた。

 

「おじ様、会議長引いてるみたいね……」

 

時間を確認した明日奈が呟くと「いっつもそうなんだ」と辟易した諦めモード顔のウィルが頭を振る。

 

「仕事で日本に来る時は面倒な会議って決まってるから。今回はこのホテルをどこまで日本人に合わせたサービスにするか、だったかな」

 

日本にあるホテルなのだからある程度は日本人向けにするべきなのだろうが、日本の老舗のホテルには及ばない。かと言って海外資本の強みを生かしたサービス内容にすれば異国にいるような雰囲気が出せ日本人客の満足度は上がるもののリピート率は思ったほど維持できない。いっそインバウンドを主軸にした経営に転換すべきという案も出ていて今後の方針を話し合うべく本社にウィルの父親の来日要請が入った為それに合わせて母も帰国して父は東京に、母はウィルを連れて一旦京都の本家へ挨拶をしてから東京に移動の予定になっていたらしい。

それがなぜ母は京都に滞留で十二歳の息子だけ親戚の女子高生が同伴者となり東京に来ることになったのか……しかもその女子高生の家に宿泊までしてるのか……年齢に見合わない策略家の顔には気付いてない様子の明日奈は父親を仕事に取られている少年に慈しみの目を向けて親愛の籠もった声で「ウィル」と発し話題を変えた。

 

「ハイスクールのお休みはいつまで?」

「えっ!?、ハイスクール?」

「オレ、スキップしてるから」

 

和人の驚きに何でも無い事のように答えたウィルはこれまた平然と「実は今日まで。だから明日帰国するんだ」と簡潔に口にしてから「アスナともしばらく会えない」と少し寂しげな目をする。そんな顔をしてもアスナは譲らないぞ、と和人が半眼の視線を送るとウィルは一転ニコッと笑った。

 

「でもアドレス交換したから帰ったら連絡するっ」

「うん」

 

途端に元気になったウィルを見て喜ぶ明日奈を前に和人は密かに「時差、ちゃんと考えろよ」とつっこんだ。なんだかこの勢いでは二人きりの時を見計らったように連絡をしてきそうな気がする。

そしてこの感覚、どこかで?……と記憶を揺さぶって、そうだっ、と思い出した。

あの世界でキリトとしてしぶしぶ血盟騎士団に入団した後、アスナの執務室で二人きりで寛いでいても次から次へと団員達が扉をノックしてきて……まぁ、あの時は団長とデュエルまでして入団した新人が副団長室にしけ込んでるとかいう噂が流れたせいで半分は黒の剣士見たさに無理矢理用事を作ってやって来た連中だったわけだが、それでもアスナは一人一人丁寧に対応していて、わかってはいたつもりだったが改めて彼女の面倒見の良さに感心する反面ちゃんと休憩や気分転換はしているのか心配になったのだ。

やっぱりアスナだなぁ、と小さく笑って見ていると、その笑顔に気付いた明日奈が不思議そうに小首を傾げてくるので、なんでもない、と和人は首を横に振った。その答えに完全には納得していない表情だがそれ以上の追求はせず、徐に立ち上がって「ちょっとお化粧室に行ってくるね」と言って席を離れる。

明日奈がいなくなってしまえば残ったのはローテーブルを挟んだ和人とウィルだ。

 

「それで?…カズトって言ったけ。いつまでオレとアスナの邪魔をする気?」

「じゃっ、邪魔って……」

 

それはこっちのセリフなんだけどな……と和人は頬をヒクつかせて笑った。

 

「大まかな話はアスナから聞いてる。デスゲームの《仮想世界》に閉じ込められた一人なんだろ。そこでアスナと出会い二年を経て生還後、《現実世界》でも交流が続いてる」

 

間違ってないよね?、と言いたげに見つめてくる琥珀色の温度は低い。

例えばそのデスゲーム中に潜んでいた快楽殺人集団との文字通り生死を賭けたやり取りだとか、ゲームクリアに導いた功績だとか、お前がご執心のアスナと新婚生活を送っていたとか、多分そういった出来事は目の前の少年にとって大した意味は持たないのだと直感したので黙ってひとつ頷く。

 

「《仮想世界》では強かったんだって?」

 

明日奈から聞いたのだろう、確かにレベルの話で言えば強いのだろうが多分彼女の語った「強さ」はそういう事ではない気がするから和人は一言「アスナはオレなんかよりもっと強いよ」とだけ返した。

ウィルはちょっと驚いたように瑠璃色をまん丸くしてから、にっ、と笑い「わかってんじゃん」と変わらず上から目線で話し続ける。

 

「彼女は『結城、明日奈』だから」

 

唐突に宣言されて今度は和人がパチパチ、と瞬きをした。

 

「結城の本家ってさ、地方銀行とは言え京都だけじゃない関西一円でいくつも支店を経営してる。親戚筋は社長や官僚なんて珍しくもなんともない。その家の三男がアスナの父親だよ。更にアスナって兄のコウイチロウと少し歳が離れてるだろ。それもあって本家のじぃちゃんとばぁちゃんのお気に入りなんだ。他の子供達と分け隔てなく接してるつもりでも可愛がってるの、気付く人間は気付くから」

 

よく知ってるな、と感心しつつ、年を取ってからの孫は可愛い…あれ?、子供だっけ?、と適当にうろ覚えのフレーズを思い浮かべる。けどそれなら更に年若いウィルなどもっと可愛がられるのでは?、という疑問が顔に出ていたのか、声にする前に答えが返ってきた。

 

「オレは直系じゃないし同族意識の高い連中にとっては珍獣扱いさ」

 

ハーフと言うだけで煙たがられるのか「父親が経営業だから露骨には蔑視されないけど」と軽い口調で流すウィルの事を明日奈が「久しぶりに会った」と言ったのは彼女が虜囚の身であったからだけではなく、ウィルとその母親も京都の本家を敬遠していたからだろう。

 

「いとこ、はとこ達からすればデスゲーム事件で当主お気に入りの優秀な末孫が自分達の競争者リストから消えたって内心喜んでたみたいだけど……」

 

そこで何を思い出したのかウィルがくすっ、と意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「意識のなかった二年間の日本の政治、経済、スポーツ、刑事や民事の注目を集めた事件事故、果ては世界情勢まで全ての話題に完璧に受け答えしてたからね、アスナ」

「は…さすがだな」

 

どれだけ時間をかけて膨大なネットニュースをチェックし頭に叩き込んだのか、自分には到底できない所行だと肩をすくめた和人にウィルは片眉をあげる。

 

「勘違いするなよ。結城の姓を名乗るなら当たり前なんだ。アスナにとって二年間のブランクなんて何でもないって示しただけ。結局、親戚連中はアスナが通ってる歴史も実績もない学校を哀れむことしか出来なかったみたいだけど、それに対しても別に恥じてる様子はなかったから……確かに前に会った時より強くなったかも」

 

いつの間にか明日奈の話題で年下のウィルと対等に会話をしている事に気づいた和人は確かに自分にとって明日奈は「アスナ」で、「結城」の家の重さなど想像も出来なかった不甲斐なさは認めるものの、そこは《現実世界》において法的に何の関係もない自分では立ち入れない領域であることにもどかしさを感じる。少なくともこの少年は京都の結城家の敷居をまたぐ権利を有しているのだ。

 

『私がキリトくんを守るから、キリトくんは私を守ってね』

 

ボス部屋突入の前にこっそり交わした約束……それはどんな世界でも変わらない。

 

「オレはね、アスナは日本を出るべきだと思う。いつまでもあんな品評会に関わってても彼女の為にならないから」

 

ついでに言えばウィルはもう一つの自分の母国に来ればいいと思っているのだろう。明日奈なら語学力もコミュニケーション能力も問題ないし……とそこまで推察した和人は彼女が自分の傍から離れて行く未来を想像して血の気が引く思いを味わった。

笑顔と共に紡がれるあの声が聞けない、手を伸ばしても触れられない、出会う前なら知らなかった感情が今では失ったら生きていけないと思うくらい自分の中に満ちている。それでも今の自分では「結城明日奈」を守る力がないのも認めざるをえない現実だ。

 

「……でも…、最後は彼女の、アスナの、意思を尊重すべきだろう?」

 

絞り出した和人の声に自信に満ちた笑みを浮かべるウィルが「もちろん」と同意した。

そしてちょうど会話が途切れたのを見計らったように明日奈が戻って来る。

 

「ただいま…あれ?、二人で何の話?」

 

交流はあったようだが互いの間に流れる空気が重いと言うか、まとっている温度差がすごい。困惑している明日奈はラウンジチェアに腰を降ろすのさえ躊躇うように顔を左右に動かして男子達を見比べた。

先に呼び寄せるように「アスナっ」と発したのはウィルだ。

 

「アスナはオレのこと好き?」

 

その質問はずるいだろ、と、こういう時なんと切り出せばいいのか咄嗟に出てこない己の対人能力の低さを恨む和人の唇に、むぐっ、と力が籠もる。明日奈はウィルが親戚の子だから仕方なく付き合っているわけではない。そんなの、このラウンジでの短時間でもわかった。予想通り少し戸惑いはみせたものの「うん、好きだよ」と素直に答える声に気負いはない。

「じゃあオレのことは?」と続いて問えるほど開き直れないし、それでは余りにも子供っぽい行動だろうと和人は視線をさげた。

 

「オレも好き。オレの親だってアスナのことは優しくて賢くてキュートだって言ってるし」

 

明日奈の「ありがとう」という声を耳で聞いている和人の頭上を一瞬彼女の影が横切る。

 

「それに初めて京都の本家に行った時、アスナだけが普通に話しかけてくれたの、オレ今でもよく覚えてるよ」

 

弾んだ声、よほど嬉しかったのだろうし、他の親族がウィルをどう扱ったのかがわかる言葉だ。明日奈の方も懐かしむように「私だって覚えてるよ」と告げ「まだ私よりずっと小さかったよね」と競うように思い出を口にする。

 

「父や兄以外で私のこと『アスナ』って親しく呼んでくれたのウィルが初めてだったもん」

 

海外なら当たり前だが、それでも今の同年代で明日奈を気安く呼び捨てにする異性は和人くらいで、そんな些細な事すらウィルに先を越されていた事実に思った以上にダメージをくらう。

 

「アスナ、オレの所に来ればいいのに。日本の一流大学に通うよりこっちの大学の方が格は上だし自由でいいよ」

 

そうなれば親族達は国内の上位大学の名を自慢げに口に出来ない。ウィルの更にスキップを重ねて明日奈と同じ講義を受ける事すら視野に入れていると思われる発言に和人は膝の上の自分の手をきつく握り込んだ。どこを見ていいのかわからず、ただその握り拳にぼんやりと焦点を当てる。思考に力が入らないのに左右の手だけはなぜか爪が痛くなるほど圧迫されていて、まるで自分の手ではないみたいだ。

 

「それも楽しそうだね」

 

耳に入れたくない、受け入れたくない、明日奈の肯定の言葉に呼吸が止まる。

 

「だったら、楽しそう、って言いながらなんでそっちに座るの?」

 

ウィルの放った声に不可解さと少しの怒りが含まれていたのは気付いたが、その意味が全く理解出来ずにもう一度脳内で咀嚼しようとした和人の手がやわらかくあたたかく包まれた。

 

「それはね、ウィル。ここが私のいたい場所だから」

 

明日奈の声がすぐ傍から聞こえている事にようやく気づいて、その意味を確かめる為にそぅっ、と顔を上げると同時に、離れて行ってしまわぬよう自分の手に被さっていた彼女の指を縋るように絡め取る。そうすれば真っ直ぐ前を向いていた明日奈がちょっとだけ和人を見て微笑んだ。

化粧室から戻ってきてそのまま空いている和人の隣に座ったのに二人の会話を拾うのに精一杯で全く見えていなかった。

ふて腐れた顔のままウィルが身を乗り出す。

 

「オレ、本当にアスナのこと好きだよ。アスナはさ、年下の男と恋愛しないの?」

 

困り笑顔で「そんなことはないけど」と言われれば幾分ウィルの機嫌は上昇したが「でも」と少し間を置いて明日奈がしっかりと声に出した。

 

「いっこ下までかな」

 

絡み合っている手を、きゅっ、と明日奈から握られたので、和人もすぐに同じ加減で握り返した。

流石に年齢差はスキップできないと悔しげに顔をしかめているウィルの元へ女性スタッフが足早に近づいてくる。どうやらウィルの父親が会議から開放されたらしい。それでもまだ完全に身体が空いたわけではないようで、こちらに挨拶に来られない旨を詫びるメッセージを明日奈に届けるとウィルを父親の元へ案内するため彼が立ち上がるのを待っている。

明日奈も立ち上がり「ほら、ウィル」と促した。

遅れて腰を上げた和人も無言で退場を催促する。

三人分の視線を上から落とされて唸りそうな口元のウィルが観念したように勢いよくラウンジチェアから起立して去り際、念を押すように明日奈を見た。

 

「連絡するからっ。オレ、たくさんするっ」

 

続いて和人を睨み捨て台詞のように吐く。

 

「それにまだ諦めないからっ」

 

「またね、ウィル」とにこやかに手を振る明日奈にちょっとイラついた顔をしたものの「はぁっ」と息を吐いて手を振りながらラウンジを出て行くその後ろ姿に「そんなに海外留学させたいのかなぁ」と呟く声を聞いて、諦めないってそっちじゃないんだろうけど、と思いつつ訂正は入れずに和人は再び明日奈の手を握ったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
同時投稿で「血の誓約」も「おまけ」をあげておきましたので
よかったら覗いてみてください。


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バレンタイン・イヴ

《現実世界》でのバレンタインのお話です。
以前「バレンタイン・ギフト」を投稿しましたが、それとは全く関係ありません。


2月13日月曜日……放課後にもかかわらず帰還者学校の調理室からは賑やかな女子達の声と熱気、それに甘い香りが廊下まで漂っていた。窓の外は既に薄暗く気温も下がってきているのにこの一角だけ別世界のようである。

そこに引き寄せられるように足音を忍ばせ、見つからないよう背中を丸めて、まるで泥棒かスパイのようにコソコソと廊下の壁際を移動してくる男子生徒の影複数。彼らは目的地である調理室の扉前に到着すると、先頭が手の平で空気を下に押す仕草に頷いて座り込んだ。

 

「確かに情報は間違ってなかったようだな」

「中等部の女子まで参加してるんだろ?」

「そうらしい。バレンタインってスゴイな」

「講師が姫だからってのもあると思う」

 

その意見に全員が「なるほど」と頷いた。

初めはバレンタインに向けてクラスメイトの女子数名が明日奈に手作りチョコの相談をしただけだった。

短時間で簡単にできる物、逆にちょっと手間のかかった物、トッピングや用意する材料などそれぞれの希望を親身に聞いてアドバイスをしているうちに、ひとりが言った「みんなで一緒に作れないかな?」と。

バレンタイン前日、放課後に明日奈を確保出来るとわかった彼女達の行動は早かった。

場所は学校の調理室……なぜなら帰還者学校にはかなり遠方から通学している生徒も少なくないからだ。誰かの家に集まる方が一苦労なのである。明日奈は調理室の使用許可が下りるかどうかを心配していたようだが、この話を教諭達は逆に喜んだ。

二年間も「自分で料理を作る」という行為から離れていたのがほとんどの生徒達が自発的に動いたのだ。

旧SAOでは衣食住のうち一番頭を悩ませる必要がないのが「食」で、贅沢さえ言わなければ圏内でも手に入る食材アイテムはあるし、ある程度手持ちのコルがあれば食事処に困ることはない。それどころか階層が上がれば上がるほど料理の種類や飲食店の数は多くなるという仕様だったから料理スキルを習得するなんてプレイヤーは自分の店を持ちたい者が殆どで、それでさえスキルのコンプリは至難の業。アスナのように戦闘職であるにも関わらず裁縫や料理まで職人レベルに達しているは異例中の異例だ。

だから教職員達は更なるサポートとしてある程度の量が必要な製菓材料の業者購入を提案した。

渡りに舟とはこの事だろう。この時点でどこから漏れたのかバレンタイン前日に学校の調理室で明日奈と一緒にお菓子が作れるという話は女生徒達の間で瞬く間に拡散されていて希望者が殺到していたからだ。

グラニュー糖にバター、卵、小麦粉、ココア、主役のチョコレートは明日奈の希望で数種類用意してもらえることになった。

作るチョコレート菓子は三種類。

お菓子作り初心者向けで比較的失敗が少ない溶かして固めるだけのトッピングチョコや生チョコを作るAグループ。クッキーやブラウニーといったオーブンを使うBグループ。あとは同じくオーブンが必須で一番作業工程が多いバターケーキの類いのCグループだ。最初に明日奈に相談した女子達を含めて各グループ五〜六人程度と決め合計二十人弱。

通常の授業で取り組む調理実習のほぼ半数に設定した理由は作業を分担して作製できないから。

やっぱりバレンタインに渡すチョコレート菓子は最初から最後まで自分で作った物を渡したいだろう。

そしてバレンタイン前日、調理室は幸運にも明日奈のバレンタインお菓子教室の参加権を得た女子達が気合い十分に和気あいあいとお喋りをしながらチョコを溶かしたり卵を撹拌しており、温めている複数のオーブンの熱も手伝って暖かくキラキラしい空気に満ちている。

逆に壁一枚隔てた向こう側では廊下の寒さに身を寄せ合いながら声を潜ませた男子達が中の様子を覗こうと苦心していた。

 

「みっ、見えんっ」

「匂いと声だけで楽しそうなのは十分伝わってくるけどなっ」

「ってか廊下寒すぎっ」

 

その中で「なんでオレが」と言いたげな冷めた目の男子がひとり…桐ヶ谷和人である。

お菓子作りの話は既に明日奈から聞いて知っていたから今日はどこにも寄らずひとりで自宅に帰ろうと思っていたのに、鞄を持って教室を出ようとしたところで男子達から両腕を拘束されたのだ。

 

『気になるだろ、カズ』

『気になるよなっ、カズ』

『よしっ、見に行こう。俺達が付いて行ってやるから』

 

頼むからオレにも発言させてくれ、と訴える暇もなかった。

 

『女子達が二十人近く集まってキャッ、キャッ、ウフフしてるんだぞ』

『それに全員エプロン装着だ』

『姫のエプロン姿見たいよな、さぁ、行こう』

 

いや、別にアスナのエプロン姿なら森の家でも見てるし、なんなら《現実世界》のオレの家へだって料理しに来てくれてるし、と言いかけて高速で口を閉じる。言ったら余計うるさい事になるのは確定だ。

 

『俺達は見るぞ、姫のエプロン姿。絶対この目に焼き付けてやる』

 

そこまで正々堂々と宣言されると自分が下校した後で明日奈のエプロン姿を他の男子達がデレデレと見るのに平静ではいられず、半ば引きずられるまま調理室前の廊下まで到着してしまったのだが、途中、腕を掴んでいる男子が「よし、これで姫にバレた時の言い訳が立つ」と呟いていたので自分は明日奈達に見つかった時のタンク要員かと察したけれどここまで来てしまっては抜け出すのも不可能だ。他の男子生徒は中の様子を伺いつつ女子達に気付かれないよう、けれど自分達はしっかりと明日奈のエプロン姿を拝もうと必死だが和人は「はぁっ」と小さく息を吐いて壁に背を預け、半分振り返るように頭もくっつける。そうすると意外にも中の音が明確に聞こえてきた。

 

「やっぱりアスナの声、よく通るな……」

 

ちょうど廊下側に近い場所で調理している女子達と話しているせいもあるだろう。相手は初対面の中等部のようで、しかもあまりお菓子作りの経験がないらしい。自信なさげな声に対して「大丈夫、もし分離してもちゃんと出来るから焦らないでね」と安心させるフォローはさすが元血盟騎士団のサブリーダーといったところだ。

今回の参加者の中には意中の相手に渡す為ではなく友人達や家族にあげたくて作っている生徒もいるので、そういう女子はいわゆる本命チョコでない分緊張は少なく、反して口数は随分多くなっている。

 

「要は味だからっ、見た目や形はこの際気にしない方向でっ」

「うーん、でも大きさや厚みはある程度同じにしないと焼き上がり具合が変わっちゃうのよね」

「そっかぁ。それじゃ、これとこれはもう少し手で潰そう」

「えっ?!、ちょっ、ちょっと待ってっ!…あっ!!……」

「平気、平気っ。かえってこっちの方が食べやすいかもっ」

 

とんだポジティブマインドの猛者もいるようで二人のやりとりから明日奈の焦り顔を想像した和人はふっ、と口元を緩ませた。

 

「ここまで付き合わせて言うのも今更だけどさ、結城さんは自分の分作らなくていいの?」

「そうだよ。彼氏……桐ヶ谷君だっけ。甘い物は苦手?」

「…そんな事ないけど」

「あっ、もしかして、もう作ってあるとか?」

「そうじゃなくて……」

 

ほんの一瞬、あれほど楽しげな音や声に溢れていた調理室が静まりかえる。

 

「あれ?…もしかして…聞いちゃいけないヤツ……だった?」

 

自問の声が明らかに強張り、それを合図のように明日奈以外の女子が少人数ずつにパッと集まった。

 

「え、なになに、どーゆーこと?」

「ついに、そーゆーこと?」

「うっそーっ、マジで?」

 

「まさかまさかの展開!」

「ちょっと待って、もしかして、これって大チャンスなんじゃ……」

「ねぇ…勇気、振り絞っちゃう?」

「はいっ、はいっ、絞るしかないでしょっ」

 

自分を置いてきぼりにして各所で一様に盛り上がり始めた女子達に明日奈はキョトキョトと周囲を見回して「えぇぇ…」と笑顔のまま困惑に眉尻を落とす。

 

「私、ゲームに閉じ込められていた時から密かに憧れてたんだよね」

「強いしっ、攻略組だしっ」

「そうそう。なんか一見こわい人なのかなぁ、って思ってたんだけど」

「こっちで同じ学校に通えるようになってさ、あの時とは違う一面が見えたって言うか」

「わかるーっ」

 

いつだってキリトくんは強くて優しくてカッコイイのに…と思いつつあの世界ではビーターと呼ばれて敬遠されていた彼が多くの人から慕われるのは喜ばしい事だが、そこにバレンタインが絡んでくると話は別だ。けれど特にテンションが上がっているのは中等部の女子達で、明日奈もキリトと出会う前は恋愛をするなら年上の人か少なくとも同い年の人とだろう、と漠然と思っていたから「そうよね」と小さく頷く。もし自分が共学に通っていて、上の学年にキリトのような先輩がいたら淡い恋心を抱いていたに違いない。

憧れを持ったり恋する気持ちを止めることは誰にもできないから、と自身を納得させる一方で、でもキリトくんは私のものだもんっ、と心の中で強く反論もして明日奈は「さっ、あとちょっとで完成だからみんながんばろっ」と作業の続きを促したのだった。

 

そして三十分以上かけて気力と忍耐と邪な気持ちに全力を注ぎ調理室のドアを中の女子達に気付かれることなく数センチ動かす事に成功した男子達はたった今耳が拾った会話に驚きで唖然とした後、一斉に和人を見た。

 

「カズ…お前……」

「だから姫のエプロン姿、見たくなかったのか」

「俺達、知らなかったとはいえ、なんてむごい事をお前にっ」

 

中の様子に興味を示さなかった態度もこれで理解出来る、と言いたげな憐れみの視線に和人は、おいおい、とつっこんだ。

誰もアスナのエプロン姿を見たくないなんて言ってないぞ。

そもそも昨日の日曜日だって二人で買い物に出掛けているし、明日は明日奈が和人の家を訪れる予定だ。

バレンタイン前日になっても明日奈が和人へのバレンタインチョコを用意していない理由は、当日、放課後に桐ヶ谷家まで行って作るからである。手作りするのはフォンダン・オ・ショコラと言うフランスの菓子で、焼きたてを食べるのが一番美味しいチョコレートケーキだから昨日一緒に買った材料はそのまま和人が家まで持って帰っていた。

ただそこまで詳しく説明する気も起きないし、バレンタイン当日に明日奈が自分の家に来るというのも秘めておきたい。バレたら無意味に携帯端末が鳴り止まない気がする。

和人としては家でゆっくり明日奈と二人でケーキを食べて、更に言えば明日奈も美味しく味わいたい。嫌がらせとしか思えない邪魔が入るのは絶対に嫌だ。

ただ誤解されたままと言うのも後々面倒な事になりそうだと、さて何と説明すればいいかを考えていた時、ちょっとずつちょっとずつ音も立てず気配も消して苦心の末にようやく隙間を生じさせた調理室のドアが無造作にガラッと内側から動いた……それはもう無慈悲に、簡単に。

両肩を跳ねかせて驚き固まったのは廊下にいた男共だ。

すっかり和人に視線と意識が集中していたので室内からドアに近づいて来る生徒の存在に全く気付けなかったのである。

ただ、開いたドアから人影が出てくる気配はなく……そもそも人が出入り出来るほどの幅も開いておらず、もしかして空気の入れ換えかな?、と楽観的かつ自分達に都合の良い希望を浮かべそうになったが、それは調理室内から流れ出てくる暖気や甘い匂いと共に、ひょいっ、と覗かせた顔によって霧散した。

 

!!!!!?????!!??!?!?ッ

 

人間、心底驚くと声すら出ないものらしい。

ただ、調理室から顔だけを出して廊下の男子生徒を確認するはしばみ色の瞳に驚きは全く存在せず、それどころか一番最初に見た和人にだけちょっと微笑むとすぐに視線を外し、頭を上下に軽く振ってその場の人数を把握した後、何も言わないまま引っ込んでしまったのである。

 

「……え、なに?」

「なんだろう?」

「ゆめ?」

 

廊下の寒さに加えて驚きで頭がほぼ回らなくなった男子達の困惑と混乱は自分の視力を疑う方向に全振りされた。つまりあまりにエプロン姿の明日奈を見たいという欲望が見せた幻覚だったのではないか?……と言うか、それなら全身ちゃんと見せてくれ、顔しか見られなかったじゃないか、などなど……。

願わくばもう一度だけ姫のエプロン姿を、ちゃんとしたやつを、という切なる思いが届いたのか、今さっき動いたドアが再び開いた。しかも今度はかなり広めに。そして鈴を転がすような声付きで。

 

「なにしてるの?」

 

ほんものだーっ、という心の声が一斉に聞こえた…気がした。

少々呆れ顔の明日奈が両手でトレイを持って立っている。

 

「こんな寒い所にいたら風邪ひくでしょ……はい、これどうぞ」

 

憤慨のお小言や侮蔑の視線をくれてやるでもなく中の女子達にはその存在を伝えずに、感激の涙と寒さからの鼻水を垂れ流しそうになっている男子生徒ひとりひとりにしゃがんでコーヒーカップを渡す明日奈はわざと最後にしたらしい和人の前まで来て「ふぅぅむ」とちょっと難しい顔で黒髪に視線を落としていた。

タンクのお役目を全うすべくオレが代表で怒られるのか?、と身構えた後ろでは湯気の立つカップを大事そうに持つ男子達が夢見心地でその明日奈を見上げていて口々に零れ出た感想に和人もまた「むむっ」と眉間に皺を寄せる。

 

「新妻?」

「若奥さん?」

「新婚さん?」

 

念願の明日奈のエプロン姿(全体像)だ、授業の調理実習でも着用しているがその時は他の生徒も当然授業中なので拝めるチャンスがないのは当たり前で、だから当然の反応と言えばそうなのだが……これはオレも見た記憶がないんだけど、とちょっと理不尽に機嫌を降下させた和人は彼らの目から隠すように立ち上がった。

 

「あっ」

「あぁっ」

「見えないっ」

「…お前らはソレ、飲んでろ」

 

普段のどこか無気力を纏っている和人の口から出たとは思えない圧の強い口調に全員が途端に「はい」とよい子で頷く。

なんだかよくわからないけど、取り敢えずザワつきは収まったと判断した明日奈が戸惑いと呆れの混ざった声を出した。

 

「廊下の窓にキ…和人くんの髪がちらっ、と見えたから、まさかとは思ったけど……」

 

ちらっ、と見えた髪だけでわかるのか……とカップに口をつけようとした全員が様々な感情を渦巻かせながら声には出さずに呟く。

 

「こんなに居るとは思わなかったよ」

 

ああ、それでわざわざ人数確認で顔を覗かせたんだ、とわかってほろり、と涙が浮かびそうになる。和人だけでなく全員分を用意してくれた明日奈の気遣いにじんわり温まっていた心がカップの中身を一口飲み込んだことで身も温まった。

 

「あったか甘いな」

「うん。美味い…けど、これって、ココアか?」

「なんか僕の知ってるココアより香ばしい」

 

和人という障壁の向こうから顔を出した明日奈が「それね」と微笑む。

 

「普通はお湯でココアを溶かすけど、黒豆茶で溶かしてあるの」

「黒豆……」

「ココアって原料はカカオ豆でしょ。豆同士で相性も悪くないし、さっきからずっとここで甘い香りを嗅ぎ続けてたら甘ったるいココアは飲みたくないだろうと思って」

 

それに余ったココアも使い切れるしね、としっかり者の一面も覗かせた明日奈に再び視線が集まった。

 

「出来た嫁だ」

「賢妻すぎる」

 

再燃する賛美に和人が「お前達の嫁じゃない」と言いたいのを我慢していると「はい」とトレイを差し出される。

 

「こんな寒い場所に一時間近くいて熱でも出したら明日は私、お菓子作りどころじゃなくなっちゃうよ」

「そしたらアスナが額を冷やして看病してくれるんだろ?」

「それで私に風邪がうつったら今度はキリトくんが氷を取ってきてくれるのよね」

 

二人にしか分からない密やかな会話を交わして同時に「クスッ」と笑えば幾分ほぐれたのか和人は少しだけ視線をスライドさせて「団子」と素直にちょっと拗ねた声を漏らした。

 

「え?、お団子食べたいの?」

「そうじゃなくて……」

 

もう彼女だとか、恋人だとか、なんなら嫁という肩書きですら足りなくて自分という存在の一部にアスナが含まれているほどなのに、後ろにいるその他の男子達に抱く稚拙な感情を吐露していいのかどうかを悩んでいると、察しの良い彼女のほうが「あ、これ?」と視線を後ろに流しつつ顔を傾げる。

今の明日奈の髪は象徴的な栗色をクルクルとひとつにまとめた所謂お団子状になっているのだ。

束ねたり緩い三つ編みにしてあるのは見たことがあるが、今回は複数の調理台を巡ってアドバイスをする役目だからだろう、間違っても髪の毛が落ちてはいけないと普段はしない髪型にしたようで、それがエプロンと相まって新妻の雰囲気を存分に醸し出している。

自分が居ない場所で彼女のエプロン姿を他の男子達が覗くのが嫌で大人しく付いて来たわけだが、逃げ切ったとして後日髪型の話を聞いたら後悔するところだったと、半強制的に連行された事を初めて少しだけ感謝したわけだが……これはこれでどこから見ても吸い付きたくなるようなほっそりとした白い首筋が見放題状態だ。

最後のひとつ、和人に渡す為のカップが乗ったトレイを持ったままの明日奈が「冷めちゃうよ」と受け取りを催促するが、その言葉を耳に入れつつも最優先事項として真っ直ぐ両腕を伸ばし彼女のうなじを包み込む。

 

「もう戻してもいいんだろ?」

 

調理室内の会話の内容はいつの間にか出来上がったチョコレート菓子の感想やラッピングの相談になっていて、明日奈もお役御免になったからこそ和人達の元へと差し入れをしに来たのだし、いつものようにおろした髪型にして欲しいと言われた事に気づいた彼女は両手が使えないまま取り敢えず承諾をした。

 

「え?、あ、うん。いいけど……」

 

なんだかこの体勢は…と至近距離にある真っ直ぐな漆黒の瞳に見つめられ、後頭部に触れている手はあまつさえ引き寄せるような動きで、二人だけの時間を過ごす時の空気に似たものを感じて否応なく頬が染まる。カップを受け取ってくれれば自分でやるのに、と思うものの和人の手が優しげでそれでいて性急に求めてくる仕草にその感触を拾うだけでいっぱいいっぱいになり、つい目を瞑ってしまった。

和人の方もそんな表情を目の前に晒されては、ゴクリと喉が鳴りそうになるが、後方に座り込んでいるはずの連中が妙に息を潜めている理由が……その角度だと…まぁ、そう見えなくもないんだろうな、と推測して、これで妙な誤解は解けたはず、と明日奈の髪をほどく事に集中しようとするが、今度は開け放たれたドアの中から女子達の会話が流れてきて、そちらに耳が反応する。

 

「いつもは遠くに見えるだけの先輩だったから」

「私だってそうだよ」

 

どうやら未だに興奮が収まらない中等部の女生徒の声のようだ。

 

「こんな近くで会話できて、もうそれだけで十分って思ってたけどさ…」

「そうそう。このチョコも思い出として大事に自分で食べようって決めてたけど…」

「姫先輩がフリーなら、これ渡してもいいよねっ」

「うんっ、みんなの姫先輩だもんっ」

 

明日奈の髪を弄る和人の手が止まった。

……何て言った?、姫先輩…ってアスナのことだよな?、アスナにバレンタインのチョコを渡すって意味なのか?、とフリーズしかけたところに「キリトくん、まだ?」と幾分震えた声がかかる。

くすぐったいのか、それ以外の感情に支配されそうになっているのか、それはもう見事に頬を色づかせて、きつく閉じられていたはずの瞼が伺うようにほんの少し持ち上げられ和人的には完全に色々とよろしくない状況だ。

 

「あっ、ああ、ごめんっ」

 

急いで、けれど丁寧に髪からゴムを抜き取り、いつものように時間を掛け手で梳いて乱れを直す。気持ち良さげに再び瞳を細くした明日奈は髪が整うに従って気持ちも落ち着いたのか和人の手が離れる頃にはすっかりいつもの調子に戻っていた。

 

「あのね、キリトくん。やっぱりバレンタインのチョコって特別な気持ちが込もってるから、ちゃんと受け取ってあげなきゃダメだと思うの」

「え!?」

 

明日奈としては女の子達が一大決心をして和人にチョコを渡すのなら、それを自分が「受け取らないで欲しい」と願うのは余りにも傲慢だと思ったのだ。

 

「そりゃあちょっと複雑な気持ちにはなるけど……」

 

パートナーのいる人にチョコを渡してはいけないという決まりはないにしろ、なかなか割り切れるものでもない。

だがその言葉に和人は「複雑、なんだ……」と幾分安堵の息を吐いた。

明日奈は女子校出身だし旧SAOでも男性プレイヤーはもちろん女性プレイヤーからも憧れの目で見られていたのを知っている身としては彼女がバレンタインで女子から気持ちを贈られるという行為を当たり前に受け止めそうだと考えたので、そうではなさそうだとホッとする。

 

「そりゃそうだよ。だって……」

 

ここで明日奈は恥ずかしそうに、けれど幸せそうに声を潜めて微笑んだ。

 

「和人くんは私のものだし、私は和人くんのものでしょ」

 

一瞬、虚を突かれたのか無言になった和人はナチュラルに「オレのなら持って帰ってもいいんだよな」と本能に従う判断を下す。

 

「アスナ、チョコ作りは終わったんだからもう帰れるだろ?」

「作るのは終わったけど、まだ後片付けが完了してないの」

 

調理室の使用許可を取ったのは級友達だが自分だけ先に帰るわけにはいかない。最後の戸締まりまで残るつもりでいた明日奈の責任感の強さを感じる瞳を見て和人は、ふむ、と考えた。

ずっと自分と明日奈の間にあったカップを持ち上げて、程よく冷めたココアを一気に飲み干す。「あ、ほんとだ。美味い。今度ウチでも作ってくれよ」と彼女だけに聞こえる声で言うと空のカップを戻してトレイごと引き受け、くるり、と振り返った。

 

「片付けなら人数いた方が早く終わるし……こいつら手伝ってくれるってさ」

 

とっくに飲み終わっていたカップを大事に持っていた面々は全員が「えっ?」と思ったが、声を上げる前に明日奈から「本当に?、ありがとう」と笑顔で言われてしまってはココアもご馳走になったことだし、真の理由を告げられるわけもなく、首を縦に振るしかない。

こうして女子生徒有志による調理室でのバレンタイン用チョコレート菓子作りは終盤になって加わった男子生徒達と共に片付けや清掃までをきっちりとこなし、お菓子作り途中で囁かれた結城明日奈のフリー説はその複数の男子の中に桐ヶ谷和人が入っていたことで全くの誤解であることが判明。それでも未練が残っていた一部の下級生女子達は万が一の可能性として勝手に桐ヶ谷和人が参加しただけ説を打ち立てていたものの、戸締まりの済んだ調理室を出た時からずっと彼女の隣で彼女の手を握り彼女に笑いかける姿を見せられては推論を打ち消すしかなく、手作りチョコレートは各々の口の中で溶けていった。

ちなみにチョコレート菓子作りに参加した中等部の女子は断念したがそれはほんの一部であり、翌十四日の本番には登校時から下校時まで様々なタイミングでチョコを渡された明日奈が放課後に約束通り桐ヶ谷家を訪れた時、菓子の量は大きな紙袋いっぱいになっており、その約一ヶ月後のホワイトデーでしっかり全員に手作りのお菓子をお返しとして渡すのだが、それはまた別の話である。




お読みいただき、有り難うございました。
そこら辺に転がってる男子生徒より明日奈の方が
よほど男前さんかと(笑)


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ホワイトデー・イヴ

前話の「バレンタイン・イヴ」からの「ホワイトデー・イヴ」です。


3月13日月曜日……放課後、明日奈は桐ヶ谷家のリビングで制服のブレザーを脱ぐと鞄に入れて来たエプロンを取り出し素早く装着。後ろ手で紐をちょうちょう結びに仕上げた所で二階の自室で私服に着替えてきた和人が戻って来たのに気付いて妙に丁寧な言葉遣いで微笑んだ。

 

「それじゃあお台所、お借りします」

「どうぞどうぞ」

 

ブラックジーンズに黒のVネックのカットソーという、一瞬ここが《仮想世界》なのか《現実世界》なのか混同しそうな姿の和人は軽く戯けた仕草で明日奈がキッチンに入るのを勧めてから自分はリビングに置いてあった買い物袋を取って来て彼女に見せる。

 

「これ、昨日預かったやつ」

「ありがとう、そこに全部出してくれる?」

「りょーかい」

 

簡単に髪を結んでから桐ヶ谷家にある調理器具と自ら持参した器具を並べている明日奈の隣に立ち、昨日一緒に出掛けた先で購入したきた物を丁寧に取り出しつつ和人はチラチラと恋人のエプロン姿を盗み見た。

 

「……キリトくん…なぁに?」

 

訂正、全然盗み見れてなかった。

 

「えっと、だな……今日は何を作るんだっけ?」

「もうっ、昨日も言ったでしょ。ギモーヴよ」

「ギ、ギ…ぅ?」

「ギモーヴ」

「…その牛の鳴き声みたいなやつがバレンタインのお返しで……一体いくつ作るんデス?」

「リズやシリカちゃん達の分も含めて二十個ちょとかな」

 

和人は絶句した。

確かに先月の14日、今日のように放課後桐ヶ谷家に来るため待ち合わせ場所の昇降口に現れた彼女の荷物の量に唖然とした記憶はあるし、両手を塞いでいた大きめの紙袋の一つを「持つよ」と受け取った時、中の可愛らしく包装された箱や袋もちらっ、と覗いたが……そんなに入ってたんだ、と改めてあの世界で獲得していたアイドル級並みの人気は《現実世界》でも健在だったのだと思い知る。

日本だと女性から好きな相手にチョコレートを送る、というのがバレンタインの定義のはずだが、なるほど好きな相手イコール恋愛対象とは限らないわけだしな、と改めてバレンタインの奥深さを悟り、まず間違いなく帰還者学校内でのバレンタインチョコ獲得数ナンバーワンであろう自分の恋人に尊敬の念を抱き、こうやってお返しとして全員に菓子を手作りするという真摯な姿勢に敬服しつつ、結局これって女子同士のお菓子交換会になってないか?、と決して口に出してはいけない疑問に首を捻る。

 

「それで、なんで…ギもぅ…ギモー…」

「ギモーヴ」

「そう、それを作ることにしたんだ?」

「逆に聞くけど、キリトくんは今までホワイトデーには何を用意してたの?」

 

今まで…と聞かれて記憶を遡ってみるがバレンタインらしい思い出はどこを探しても見つからず、唯一、そう言えば小学生の頃、母親から「はい、バレンタインデーだから」と言って目の前に現れたのはコンビニやスーパーで売っているアーモンドにチョコレートがコーティングしてあるソレで、しかもひと箱しかなかったから「直葉と仲良く食べてね」と渡されたものの二人で分けてもぴったり同数にならなくてケンカになったんだよなぁ、というあまり楽しくないエピソードしか出てこなかった。

だから当然と言うかそのお返しなんて考えもしなかったし、そもそもあれはバレンタインだからと用意してくれた菓子ではなかっただろう。

ここでへんに見栄を張って「そうだなぁ」と腕を組んでみせても明日奈にはすぐ見破られそうなので正直に「用意したことないデス」と申告すると彼女は一瞬目をまん丸くしてからなぜかふにゃりと笑って「そうなんだ」とご機嫌になった。

 

「なら、昨日のが初めてのホワイトデーのお買い物だね」

「そうなるなぁ」

 

ふふっ、と笑う明日奈の何が嬉しいのかわからないまま和人は「昨日は付き合ってくれて助かったよ、アスナ」と感謝の気持ちを口にすれば「私もお買い物手伝って貰ったし、おあいこだよ」と更なる笑顔が返って来る。

 

「でも本当にお台所使わせてもらってよかったの?」

「ああ、うちで作ればスグの分は置いていけるだろ。今日、アスナを家まで送る途中でシノンのとこにも寄れるし」

「直葉ちゃん、部活大変そうね」

「ああ。大会が近いから……っと、そうだ、今朝スグから頼まれてたんだ」

 

そう言ってダイニングテーブルまで移動してそこにあった紙袋をつまみ上げ「これ、スグから。ここに置いておくから忘れずに持って帰ってくれ」と元の位置に着陸させた。

 

「先週、学校帰りに買ってきたらしい。ちなみにシノンやリズ達の分もオレが預かってる」

 

ホワイトデーまでに会えそうにないから、とバレンタインのお返しを全面的に兄に委託したというわけだ。

 

「そんなに忙しいのに用意してくれて…」

 

うるっ、と感極まっている明日奈に対して身内である和人はあっけらかんとしたもので「まぁ、そうなんだけどさ」と肯定してから再び彼女の隣に戻って来た。

 

「スグも学校の部内でバレンタインチョコが飛び交ったから、先週クラスメイト達と息抜き兼ねて買い物してきた結果なんだ。それ程わざわざじゃないよ。部員同士で渡し合う数の方が圧倒的に多いらしいし」

「それでも、だよ、キリトくん。こういうのは気持ちが大事なんだから、私も美味しいギモーヴ作らないと」

 

気合いを入れなおす明日奈だが和人にしてみれば彼女が作る物で美味しくない物なんてないと思っているので特に気負いもせず「なにか手伝おうか?」といつもの声で聞いてくる

 

「ありがとう。ハンドミキサー使いたいからコンセントいい?」

 

桐ヶ谷家にはお菓子作りをする人がいないのでハンドミキサーがないと知っている明日奈が持参した器具の一つだ。

手渡された差し込みプラグを調理台横の壁にあるコンセントにセットする傍らで明日奈は昨日和人と一緒に買ってきたストロベリーピューレやグラニュー糖を小鍋に入れて加熱を始める。

 

「ホワイトデーってマシュマロを贈るのが一般的になってるけど、実は贈る品によって意味があるのよね」

 

鍋の中身をヘラでかき混ぜながら語られるいつもの博識ぶりに和人はまたも素直に「へぇ」と聞き入った。

 

「実はマシュマロって『あなたが嫌いです』って意味があって…あ、もちろん知らずに贈ったり受け取ったりする分には問題ないお菓子だと思うんだけど…」

「それで昨日オレがマシュマロを手に取った時、他の物も見てみよう、って言ったのか」

「うん。でも実際ホワイトデー向けに売っているわけだからあの場で意味を口にするのも憚れて」

 

なるほど、と和人は頷いた。

知らなければ買っていたかもしれないが、知ってしまえば確かに手は出しづらい。同様に受け取った方も相手は意味を知らずにくれたのか、もしかしたら知ってて選んだのかも、と混乱する実にやっかいなお菓子だ。

 

「やっぱりアスナに一緒に来てもらって正解だったな」

 

昨日の日曜、和人はバレンタインチョコのお返しの品を、明日奈もまたホワイトデー用に手作りするお菓子の材料を、と二人で買い物に行ったのだが、結局明日奈も「何を選んでいいかわからない」と言う和人に頼まれ一緒にホワイトデー用の特設コーナーを見て回り、ついでに欲しい品をおねだりしたのである。

周囲は友チョコのお返しを選ぶ女子達やバレンタインの返事として相手の気持ちに応えようと妙に血走った目で商品を物色する男子がちらほらいる中、仲睦まじくカップルでお菓子を手に取る二人はかなり異色の存在ではあったが「おいおい」という視線の集中砲火には既に慣れっこだ。

明日奈としても和人が誰からバレンタインチョコを貰ったのか気になっていたので、それとなく把握できるチャンスだったわけだが……

 

「昨日も聞いたけど、バレンタインのお返しはあれで全員分だったの?」

「そうだけど?」

 

和人は、はて?、と思いつつ頷いた。

売り場でも何回か問われたのだがもちろん嘘はついていない。当然、と言うべきか、自分にチョコをくれたのは全員明日奈が知っている女子達ばかりだ。だからこそ彼女にアドバイスを請うたわけで、こっそり机の中にチョコが、とか見ず知らずの女子からいきなり、なんて展開は期待もしていないし逆にあったら対応に困るしかないので和人としては心の底から遠慮したいシチュエーションである。

それなのに何度答えても明日奈は納得した様子を見せず「ふーん」とか「本当に?」とか言うばかりで逆に「なんでそんなに信用してくれないんだ!?」と疑問を通り越して半泣きになりそうだ。

 

「アスナこそ、オレからのホワイトデー、結局自分で選んだみたいになっちゃったけどよかったのか?」

「うんっ、キリトくんとお買い物に出掛けたり、こうやってお家にお邪魔して一緒に過ごせるのだってバレンタインのお返しだと思ってるし…」

「そんなの、アスナとならいつだって応じるけど」

「それに買って貰ったアレ、すごく美味しそうだったもん」

「一日早いけどスグのと一緒に持って帰る?」

 

結局、和人はホワイトデーの品選びを明日奈と一緒に考えてもらい、当の明日奈に対しては「欲しいのがあればそれで…」と、怒られるのも覚悟して少々怯え声を出したわけだが、意外にも「いいの?、じゃあ…これっ」と即決に近い返答をいただけたのでそれを購入して和人のホワイトデーの買い物は終了し、あとは渡すだけの状態だ。

今日持ち帰るなら和人のバイクで送って貰えるので改めて自分の荷物になるより楽は楽なのだが……明日奈は「どうしようかな」と数秒悩んだ末、ちょっと申し訳なさそうに眉尻を落として「やっぱりホワイトデー当日にする」と小さく微笑む。

 

「明日のお昼、一緒に食べられるでしょ?、その時がいいな」

 

わざわざ学校まで持って来てと言っているのだ、気が引ける気持ちも分からなくはないから和人はそれを拭うようにぶんぶんっ、と首を横に振った。

 

「そうだよな。ちゃんとホワイトデーに会えるんだし」

 

それにバレンタインに『本命チョコ』という名称があるなら明日奈に渡すのは『本命お返し』だ、厭う手間など欠片も存在しない。

 

「アスナはそのギ…ギモぅぅヴ?、いつみんなに渡すんだ?」

 

よく考えればバレンタインデーと違いホワイトデーはあげる人ともらう人が特定出来ているイベントだ。二十個ほどをその日のうちに配るのだとしたら明日奈を昼休みに独占するのは無理なのでは…、と昨日の買い物と今日の放課後をしっかり独占しているにもかかわらず眉根を寄せると明日奈は「もういいかな」と呟いて小鍋の中身をボウルに移した。ふやかしておいたゼラチンも素早く加えさっき用意しておいたハンドミキサーを手にする。

 

「ボウル、押さえててくれる?」

 

桐ヶ谷家にある一番大きなボウルを作業の邪魔にならないような角度からしっかりと手で支える和人に明日奈はハンドミキサーのスイッチを入れて話の続きを始めた。

 

「下級生の子達には朝のうちに手渡すことになってるの。クラスメイトには教室で渡せるし。あとは放課後でなんとかなると思うんだ」

「なんかもう明日一日アスナはサンタクロースみたいだな」

 

妙な例えがツボにはまったのか細い肩を震わせる彼女が今度は自分の番とばかりに「キリトくんは?」と聞いてくる。

 

「オレはあとリズとシリカだけなんだけど教室まで行くのはハードルが高いから今夜にでもメッセを送って放課後に校内のどこかで渡せるようにするよ」

「…………ほんとーっに、明日学校で渡すのはリズとシリカちゃんだけ?」

 

笑いは納めたもののはしばみ色が悪戯の犯人を探るように真っ直ぐ覗き込んできた。

 

「えっと、昨日からどうしてそんなに疑ってるんだ?」

「……中等部の子から…とか、貰ってない?」

「貰ってない……と思う」

 

なんだかそこまで言われると貰っていないはずなのに自信がなくなってくる。けれど弱気になりかけた自分を和人は、いやいや、と頭を振って払いのけた。

 

「貰ってないって。だいたい見ず知らずの中等部の女子がオレにチョコをくれるはずないだろ」

 

そんなことないもん、と明日奈が小さな声で唇を尖らせる。

帰還者学校の生徒という事は旧SAOで鋼鉄の城に囚われていたプレイヤーなのだから「黒の剣士」の存在を知っていても全くおかしくないのだ。ソロでありながら二刀流の最強剣士、デスゲームをクリアした英雄。それなのに普段はちょっとうっかりさんで食いしん坊で誰にでも優しくて繊細で……と目の前の和人の事を考えていた明日奈の内では一ヶ月前に調理室で聞いた女の子達の声が蘇っていた……憧れてた…強いし…あの時とは違う一面……全くそのとおりだ。けれど……

 

「キリトくんは私のキリトくんなのに」

 

この気持ちだけはシノノンやリズにさえ譲ることは出来ない。だが、それとバレンタインのお返しは別だ。

いただいたのならきちんとお礼はする、それもまた明日奈としては当然の事だからもしも和人が自分を気遣って言わないでくれているのなら、そんな必要はないしキミの事ならなんでも知りたいのだとわかって欲しい。

それなのに昨日の買い物の時から度々聞いているのに和人は平然と否定を繰り返している。

さすがに明日奈もここまでくると自分の勘違いと言うか、結局彼女達はチョコを渡さなかったのでは?、という可能性に傾きかけてきた。

それならそれで……うん、なんとなく心を重くしていた物が溶けた気がする。ただでさえ自分の恋人はあっちこっちの世界で女の子達から追いかけられているのだからこれ以上は勘弁して欲しいのが明日奈の本音だったが、多分それも無理なんだろうなぁ、というのも理解してしまっているのだ。それにそんな彼女達と自分はバレンタインやホワイトデーにお菓子を贈り合う仲にまでなっている。

なんだか素敵で複雑で困った関係に、ふっ、と笑った明日奈はハンドミキサーを止めた。

 

「これくらい泡立てればいいかな」

 

赤みが強かった生地は空気を含んで白っぽくふわふわだけどもっちりになり、それをバッドに流し込んでいるとボウルを押さえる役目を終えた和人がふいに後ろから腰に腕を回してきた。

 

「なら、アスナは…オレのアスナだろ?」

 

《現実世界》では明日奈より背が高いし力もある。包み込まれるように背後から密着された明日奈は自分の肩に顎をのせている和人をそのままにギモーヴの生地から目を離さず「うん、そうだよ」と優しく口元を緩めた。

けれど、ちゃんと肯定したのに、それなのに……泡を潰さないよう丁寧にバッドへ移している明日奈の綺麗な所作を眺めながら和人はボソボソと「ホワイトデーにこの量って…」とかなんとか拗ねた声で呟いている。

 

「それに…あの時は団子の髪だったのに……」

「ん?、ああ、まとめ髪のこと?」

 

明日奈の首に頬をこすりつけるようにして「そう」と認めてから「今日は違うんだな」と反対側の肩に視線を移せば、そこには緩く編まれた栗色の髪が垂れていた。あのお団子状の髪型がちょっと新鮮で、もう一度見てみたいと思っていたと自覚したのはついさっきなのだが既に明日奈にはばればれだったらしく「それでさっき見てたんだ」と図星を指されれば「うっ」と黙り込むしかない。

 

「調理室前の廊下で、キリトくん、すぐにほどいてきたから似合ってなかったと思ってたの」

 

身勝手にも他の男子生徒達に見せたくなかった、とは言えず口を閉ざしたままの和人だったが、何も発しない事で察したのか、生地の表面をヘラで平らにしながら明日奈が、ふふっ、と嬉しげに口角を上げた。

 

「それじゃあ、今度ここでご飯作る時、あの髪型にするね……あっ、それとも今から結び直す?」

 

一旦三つ編みをほどいてまとめ直すのは明日奈にとって大した手間ではないのだろう。けれど和人は「今日はいいよ」と囁いて回している腕に少し力を入れた。

 

「それで、この後はどうするんだ?」

「これをこのまま冷蔵庫で冷やし固めるの」

「どれくらい?」

「一時間はかからないと思うけど」

 

トンッ、トンッ、と空気抜きをしている明日奈からは見えていないだろうが「ふーん」と彼女の首筋に唇を押し付けたまま返事をしている和人の目はすっかり閉じていて、自分のものである声や香りに集中しているのがわかる。

そこまで密着されても特に動揺を見せず慣れた笑顔で明日奈は続けた。

 

「ホワイトデーってマシュマロを贈るのが始まりっていう説もあって…」

「嫌い、って意味なのに?」

「最初はそんな意味なかったんだと思うよ。だからお返しはやっぱり白っぽいお菓子を、って思ったんだけどマシュマロは意味を知ってる人がいたら失礼でしょ」

「だからギぅ……」

「ギモーヴ。真っ白じゃないけど甘くてやわらかくてマシュマロに似てるし」

 

確かに、と和人は無防備に晒されている首筋を軽く唇で啄みながら、片手で細腰を支えたままもう片方の手を不埒に動かす。

 

「オレも白くて甘くてやわらかいのは好きだな」

「アッ…ちょ、キリトくん。ギモーヴ作ってるのに」

「あとは冷やすだけなんだろ?」

「そ……出来上がったら…キリトくんにも、ひとつ…」

 

でも、きっとギモーヴよりももっとやわらかくて甘いと知っているから、そっちがいいと白い肌に吸い付く。途端、明日奈の息と肩が同時に高く跳ねた。

 

「待てない」

「だめ……一回じゃ…足らないの……ンっ……」

「一回じゃ足らないんだ」

 

一回で作れる量では数が足らないと伝えたかったのに、自分の言葉を意味深な笑みで繰り返してくる和人を見て違う解釈にもとれると気付いた明日奈が顔全体を真っ赤にし、「ばか」と目を潤ませば「ごめん」とその涙を吸い取って身体ごと振り向かせしっかりと向かい合って視線を交わす。

 

「……アスナ」

 

強引に堕としてくるのに抱く所有欲にはいつも臆病に足掻いている和人が泣きそうな瞳で切望していて、そんな風に請われてしまえば、飢えた漆黒が向けられるのは自分だけだと困りながらも嬉しくなって明日奈はひとつお願いをした。

 

「明日のお昼、キリトくんから貰うお返し、一緒に食べてね」

「アスナにあげるのに?」

「私からもキミに受け取って欲しいの」

 

そう言って大きなバッドを冷蔵庫に納めた明日奈は自ら細い両腕を和人の首元に伸ばし「本当に、ちょっとだけだよ」と踵を浮かせる。和人は明日奈のためだけに買ったホワイトデーのお返しがマカロンだった事は思いだしたがその意味など知るはずもなく、それより今は自分だけが味わえる彼女を感じたくて触れられた唇を、もっと、と逆に強く押し付けた。明日奈の背が軽くしなるほど引き寄せて、唇で離れることなく頬から瞼へとふくよかな感触を享受する。それでもやはり最後は一番柔らかな場所に戻ってきて中に這入り何度も角度を変えながら彼女に止められるまで甘さを味わったのだった。

 

ホワイトデーのお返しとしての意味 『マカロン』……「あなたは特別な人」




お読みいただき、有り難うございました。
まだもう一回(か二回?)ギモーヴ作りをしなきゃ、なので
ここまでです(苦笑)


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テリトリー

すみません、予告では結婚後の桐ヶ谷家話とお伝えしましたが……
急遽変更となりました(嘘じゃないよ、とか言っておいて嘘になってしまった)
ごめんなさーい。


野良猫キリトはいつもの巡回コースをスタスタと歩いている。

歩道から塀へ、次に植木の枝に飛び移り太い幹を軽々と登って高い屋根にストッと着地。ずっと歩道を行かないのは人間達にあまり遭遇したくないからだ。だいたいはみんな同じ反応をする。

 

「うわっ、黒猫っ」

「縁起わるぅ」

「本当に真っ黒だねぇ」

 

笑顔を向けられたことがない……けどまぁ気にもしていない。彼には特上の笑顔を見せてくれる相手がいるから。

二階建ての大きな家の大きな屋根を危なげなく移動して端から音も立てずに出窓の外側に設置してあるプランターの端に降りる。すると中ではずっと窓の外を眺めていたのか、お日様の光で黄金に輝いて見える毛並みの愛らしいメス猫が嬉しそうにニャアと鳴いた。

 

「こんにちは、キリトくん」

「よ、アスナ」

 

窓ガラスを挟んで真っ黒な野良猫と胡桃色の家猫が挨拶を交わす。何が楽しいのかキリトが訪ねると決まってアスナは零れんばかりの笑みを浮かべてくれるから彼はこれさえあれば十分で自分の中では一等なのだ。

 

「雨、大丈夫だった?」

 

そう、昨日まで雨が降り続いたお陰でキリトがアスナの家を訪れるのは久しぶりで……野良猫だから雨の日だって外を歩くのは全然構わないのだが、前にずぶ濡れで窓辺に立ち寄ったらアスナが今まで聞いたこともないくらい大きく「きゃーっ!!」と悲痛な声を上げたから、それ以来雨と雪の日は来ないことにしている。本当は雨でも雪でも来たいけど。

雨くらい何でもないのにすごく心配そうな声で聞かれたのでキリトは小さく「うん」と答えた。自分一匹くらい雨粒を凌ぐ場所はいくらでもあるし、なんなら濡れてもどうってことないのに、と思いながら。

 

「ほんとに?、ちゃんと乾かしてから毛繕いした?」

 

ギクッ、と身体が跳ねて、それをアスナに目聡く気付かれる。

 

「キ、リ、ト、くん」

 

はしばみ色の瞳がすごく細くなっていて口元がつーん、と前にすぼまって、キリトはあわあわと慌ててほとんど冗談でニャハ、と笑った。

 

「だったらアスナが毛繕いしてくれよ」

「……いいわよ。しょーがないなぁ」

「へ?!」

 

まさかの了承に思考も何もかもが止まってしまったキリトの目の前で「よいしょっ」と言いながらアスナが出窓の一画を器用に動かす。

 

「は?、え?、アスナがオレの毛繕い?…っていうか……窓、開けられるのかっ!?」

 

ひょこり、と顔だけ出したアスナは「いいから、こっちに来て」とキリトを招き、開いた窓で二匹は相対した。

今まではずっとガラス越しで、それでもアスナがもの凄く綺麗な猫なのはわかっていたのに、隔てる物がなくなってみるとそれだけではなかったのだと改めて実感する。風にゆっくりとそよぐ毛並みは軽くて柔らかそうで、直接耳に入って来る「キリトくん」という声はどこまでも甘い。

 

「ほら、こっちに顔むけて」

「う、うん」

 

言われるがままに顔を近づけると耳の後ろをペロリと舐められた。ついでに小さな鼻とかふわふわの頬とか、彼女が舌を動かす度にぐいぐいとキリトの頭に押し付けられて、すっかり気持ちよくなってしまったキリトはゆっくりと目を閉じる。

 

「あ、ここ、絡まっちゃってる。自分だとちょっと届きにくいのよね」

 

毛繕いなんて他の猫にした事もないしされた事もない……けど、アスナにしてもらうのは全然嫌じゃなくて、むしろとっても嬉しい行為なのだと認めてキリトは珍しく「ふっ」と笑った。

 

「アスナ、窓、開けられたんだな」

「うん、ここだけね。そういう造りになってるんだけど、小さいし私が開けられるの誰も知らないからいつも鍵かかってないの」

「だったら外に出てくればいいのに」

 

そうしたら一緒に色んな所へ行かれるかも、と期待するキリトには気付かず、真面目に毛繕いをしながらアスナ「んー」と渋り声を出す。

 

「外は怖いし……それに昼間、勝手に出ると佐田さんが怒られちゃうでしょ」

 

佐田さんと言うのはこの家の通いのお手伝いさんだ。アスナの飼い主はこんな大きな家を持っているのにほとんど帰ってこないから昼間はいつもアスナはひとりぼっちで、彼女の身の回りの事はお手伝いの佐田さんが面倒を見てくれている。このアスナ専用の広い部屋を掃除をして、綺麗な水と美味しい餌の補充をして、最後に彼女を抱き上げて異常がないかを確かめるのが日課だ。ちゃんと部屋に入る時は「失礼します」と言うし、抱き上げる手つきは丁寧だし、いつも「アスナちゃんはいい子ね」と話しかけてくれる優しい人なのでアスナも懐いているが佐田さんはやる事がたくさんあるので必要以上に構ってくれたりはしない。

結局、猫一匹に対しては十分広いけれどアスナはずっとひとりでこの部屋から出られないのである。

 

「本当はお部屋に入れてあげたいけどキリトくんの毛が落ちると困るから、ごめんね」

 

急いでぶんっぶんっ、と顔を横に振ったら「あっ、動かないでってば」としょんぼりした声はすぐにいつもの調子を取り戻した。

アスナの部屋に黒い猫毛なんて落ちていたらこの窓の鍵も厳重に施錠されてしまうだろうし、もしかしたら窓越しにだって会えなくなるかもしれない。

 

「ここで十分だよ、アスナ。オレ、いつも汚いし…」

 

道なき道を行くのが野良猫の醍醐味である。むしろ良い感じの茂みとか藪を見たら後先考えずにとりあえず突っ込んで行くのが信条だ。

 

「そんな事ないよ。キリトくんの毛並み、ちゃんとお手入れすればツヤツヤでとっても綺麗な黒だもん……ほら」

 

見えるように、と脇腹を何度も舐めてくれたアスナがまるで自分の毛並みを自慢するように言う。

アスナが毛繕いをしてくれたから自分の身体から彼女の匂いがして、にっこり笑う彼女の顔が今まで一番近くにあって、何も言えなくなってしまったキリトの様子に首を傾げながら「キリトくん?」という声が耳に届くと全身がピリリっ、と痺れて「うぅっ」という呻き声しか出せなくなる。

そんなキリトを見て、まだ毛繕いが足りないのかな?、と思ったらしいアスナは再び真っ黒な毛並みにふにゅっ、と顔をくっつけたのだった。

 

 

 

「うぅっ」……という妙な呻き声を耳にしてリズは飲もうと思って持ち上げたカップを妙な位置で停止させた。

ここはキリトとアスナが「暮らしている」と言っても過言ではない二十二層の森の中にあるログハウスだ。折角あのデスゲームから解放されたのにそれでもまた浮遊城が実装された時、二人はこの家の存在を確かめる前から購入資金を貯めていて、それだけでキリトとアスナにとってはとても大切な場所だと分かる。

もっとも今ではすっかり仲間達にも居心地の良い場所認定になってしまっているが、今夜はリズだけがお邪魔しておりアスナのオリジナルブレンド茶をご馳走になっているところだ。そしてもう一人の家の主であるキリトはいつもの定位置である揺り椅子でリズが来た時には既にぐーすかぴーすか気持ち良さそうに寝息を立てていた。

そんなキリトはついさっきまで随分とリラックスした様子だったのに、今の声は……うなされてる?、といぶかったリズはその寝顔を見て即座に、違うわね、と判断した。強いて言うなら向こうは全く意識せずに「どうしたんだ?、リズ」とか言いながら気安く肩にぽんっ、と手を置いてくるもんだからこっちはどう対処していいのかわからず適当な返事ができない時のアレの声……と随分具体的な情景が出てきてしまったけれど、とにかく心配するような声ではない。

気にせず美味しいお茶をいただこう、とカップの移動を再開した時、またもや困惑気味のキリトの声。

 

「…アスナ、くすぐったい」

 

はぁ?!、カップは止まり眉間に深い皺が複数発生する。

一体どんな夢を見てるのよっ、と問いただしたいような、けど聞いたら最後聞かなきゃよかったと後悔するようなちくはぐな感情が渦巻いて、まずはそれを宥めようと飲みかけのカップを静かにテーブルに戻し、「はぁーっ」と呼吸をしてないはずのアバターから大きな溜め息を吐き出す。

けれど間の悪い事にキッチンから戻ってきたアスナがそれを見て驚いた顔で駆け寄って来た。

 

「どうしたの、リズ。そのお茶、不味かった?」

「違うのよアスナ。お茶は最高に美味しいわ……ただ、今、ヘンな寝言が聞こえてきてね」

 

キリトを見て口をへの字にする。なんとなく自分の口からは言いたくない。

 

「へぇ、珍しい。いつもはむにゃむにゃ言ってるだけなのに」

 

眉間の皺がググッと深さを増した。

いつも、ってなに?……咄嗟にそう思ったがこのログハウスにいる時のキリトは寝ているか食べているかのほぼ二択だから、そうよね、そういう姿を見る機会が多いのは当然アスナだしね、と荒ぶりそうな感情に自分でフォローを入れる。

旧SAOでも迷宮区に行かずに草むらで昼寝をしているキリトを見つけてアスナが呆れたという話は聞いていたし、ただその真似をしようとしたら主街区のベンチで寝ていたキリトにはすぐ気付かれて全然近寄れなかったのが未だに納得できないのだが、再びスヤスヤと眠っているキリトの寝顔を見て「うぬぬ」と眉間に力が籠もった。

『悪い、リズだったのか』『そりゃ《索敵スキル》で接近警報くらいはセットして寝てるさ』……その時はそう言われて、それもそうね、と納得してしまったけど、今にして思うと、だったらなんでアスナは近づけたのよ、とせっかく穏やかさを取り戻そうとしていた心の中で小さな疑問はむくむくと膨張し続け眉はどんどん中心に寄っていく。

そんなリズのクレーターばりの眉間の皺をキリトの不可解な寝言のせいだと思っているアスナは自分も聞いてみたくて、そっと揺り椅子に近づいた。覗き込んで寝ているのを確認してからウンディーネの長い耳を寄せてみる。

すーぅ、すーぅ、すーぅ……寝息しか聞こえない。

なんだか親友が聞こえたのに自分には聞こえないのが悔しくて、あどけない寝顔を「もうっ」と睨み付けた。

だからもの凄い至近距離である。めっちゃ近い。見方によっては周囲の人は目を背けるべきの、恥ずかしい誤解を生む角度だ。ただ残念な事にリズの場合は見慣れた光景である。

昔はこうじゃなかったわよねぇ……と遠い目をしながら、アスナが急接近しただけで挙動不審に陥っていたキリトや、キリトとの約束時間前のそわそわしてるアスナを懐かしく思い出し、今更「ちょっと、近すぎでしょ」なんて野暮を発せられるはずもなく、やっと落ち着いて飲めるわ、と眉間の皺はそのままにリズはテーブルの上のカップを持ち上げたのだった。

 

 

 

「そう言えば、少し先の原っぱ、とうとうなくなっちゃうんだってね」

 

お返しにアスナの顎下を舐めていたキリトはそれを聞いて「むっ」と口を閉じた。

「キリトくんのテリトリーでしょ?」と少し心配そうな目をしているアスナに「あそこは他のヤツらも来るし」と暗に自分だけの場所ではないと伝えつつも「何で知ってるんだ?」と声が尖る。

アスナはこの部屋からさえ出る事がない。唯一、定期的に通っている動物病院に行く時だけ車の窓から外を眺められるのを知っているキリトとしては、そこそこ新しいその情報源が気になって仕方ないのだ。

 

「アルゴさんが教えてくれたの」

「ああ…なんだ、アルゴか」

 

同じ野良だがメス猫だとわかってホッとする。ちなみにアスナが飼われているこの家は当然丸々キリトのテリトリーだ。

 

「この窓の近くまで来てくれるのはキリトくんとアルゴさんくらいだもん」

 

よしよし、とキリトが頷く。

 

「もっと他の猫さんも遊びに来てくれればいいのに、って言ったらね、アルゴさん、にゃはははっ、て大笑いしたのよ。なんでかしら?」

 

少しの罪悪感からキリトのヒゲの先がぺろんっ、と落ちた。

 

「『そいつは無理だな、アーちゃん』って言うだけで理由は教えて貰えなかったけど」

 

タラタラと汗をかきそうになるが折角アスナが毛繕いをしてくれたんだから汚れるわけにはいかなくて、ぶるるっと身体を震わせる。特にこの家を中心に周辺は念入りにマーキングをしているのだ。間違っても他のオス猫が入ってこないように、絶対アスナと遭遇しないように……という独占欲丸出しがあの情報屋猫にバレているのは……マズい。そもそもメス猫だって普通は侵入してこないくらい完全にテリトリー化してあるのに、あの巫山戯た笑い方をする猫の度胸の良さには舌を巻く。

ネズミ……は最近いないんだよな、トカゲとか最悪バッタでもいいか……今度獲物が捕れたらアルゴに渡しておこう、と袖の下的な企てを考えていた矢先、そうだった、と思い出す。そういうのがいる場所は……「あの原っぱがなくなるのはイタいな」と呟くと、ジッと自分の顔を心配そうに見つめているはしばみ色に気付いた。

 

「私のゴハン、少し食べていく?」

 

どうやら原っぱがなくなる事でキリトの食糧事情が大幅に困窮すると勘違いしたようだ。さっきは部屋に通せないと謝罪したのに、それでもキリトの為ならと色々考えてくれる優しさが嬉しくて「大丈夫」と微笑む。

 

「お腹、空いてない?、私は毎日もらえるから平気よ」

 

そう言われてもアスナの飼い主はきっちりした性格で、栄養バランスと人間が思う理想的な体型の維持を考えた量しか餌を与えないからキリトに分けてしまったら彼女だって空腹を我慢することになるのに、それでも「ここに持って来てあげようか?」と心配をやめない姿に堪らずペロリと頬を舐め上げた。

 

「キリトくん?」

 

不思議そうに小首をかしげるもう片方の頬もペロリ。それから目の周りもペロリペロリ。ああ、もうっ、と、どこもかしこも愛しくてペロペロ舐め回しているとアスナの方も段々心配よりも違う感情がのし上がってきたらしく、小さく「私も」と口元に触れてくるキリトに舌で応える。じゃれ合うようにして互いの身体を摺り合わせていると心も体もポカポカとしてきて自然と「ふふっ」と笑いが零れた。

 

 

 

「ふふっ」……と随分嬉しそうな声にキリトを観察していたアスナは「あっ、笑った」とようやく宝箱が開いたようなスッキリした気分になって、つられて自分まで「ふふっ」と笑う。

 

「どんな夢見てるんだろうね。起きたら教えてくれるかな?」

 

寝顔にくっつきそうな位置にアスナの顔があるのに、小声ではあるが呟いてさえいるのに、当のキリトはまったく変わらず意味不明の寝言を呟いていて熟睡モード継続中だ。

確かにここはキリトにとって自分の家と言ってもおかしくない場所だし、アスナの顔や声がすぐ傍にあるのももはやそれが平常。同じようにアスナも…だから容赦なくキリトのほっぺたをつんつん突いたり、ぷにぷにと指先を押し込んでみたり、そんな事が出来るのは自分だけなんて知るはずもなく、ちょっかいをかけているその姿にリズは嘆息をもらすが今のアスナは目の前の寝顔に夢中だ。

 

「キリトくん…キリトくんの好きなナッツ入りブラウニー焼き上がったよ。起きて一緒に食べよ」

 

キリトの好物があり、そしてアスナと一緒にお茶をする。起きないはずがない絶対条件が揃ったところで「…ぅ、にゃ」と言う謎言語を漏らしながらよろよろと瞼が半分ほど持ち上がった。「……アスナ?」と見間違えるわけない名を口にしつつその存在に心底嬉しそうな笑顔を向けて彼女が返事をする間も与えず両手を伸ばし、むぎゅっ、と抱きかかえる。

慣れた動作で膝の上に横抱きにし、細い腰を引き寄せて、サラサラの髪に顔をうずめ、どこもかしこも密着させて、ついでに深く彼女の匂いを吸い込んで外も中もアスナでいっぱいにしたキリトはもう一度「ふふっ」と笑った。

 

「ふぇ?、キリトくん?、寝ぼけてる?」

 

驚いた顔でキリトの腕の中に収まっているアスナだが、別段焦りも困惑もないので……そこから導き出せる二人の日常に再びリズが大きく脇息する。ただ、くんくんと鼻先を押し付けてアスナの匂いを嗅ぎ、その後ごそごそと彼女の髪を鼻で掻き分けて首元や耳下を唇で撫でる仕草は自分のテリトリー内に隠しているとっておきを大切に愛でている野生動物みたいで大変に目の毒だ。

そこはアスナも気になるのだろう「キリトくん、リズもいるから」と宥める言葉は、ならいなかったらどうなるの?、と親友も妙な方向に想像力を刺激してくれる。なるほど、確かに同じ部屋の中、こんなに近くにいるのにリズの存在を認識していないのならキリトに気を許してもらっているとも取れるけれど……これってアスナしか見えてないだけね、と真理に辿り着いてしまったリズは椅子からガタンッ、と立ち上がった。

警戒されても、されなくてもほとんど違いがなかった事にうんざりしながらこれ以上キリトのテリトリー内にいても忍耐力が削られるだけと英断したリズが「それじゃあまた明日、学校でね」と素っ気なく手を振る。

 

「えっ?!、リズっ、もう帰っちゃうの?」

 

アスナの手作りブラウニーはとても魅力的だが、きっと、多分、今、ここで強引に二人をひっぺがしてそれを出されても噛みつきそうな真っ黒い目に睨まれてたんじゃ味なんて全然わからないに決まってるから。

 

「ブラウニーは今度食べさせて。私はナッツじゃなくてドライフルーツが入ったのが好きだから。よろしくね、アスナ」

 

せめてもの意趣返しに、と自分のリクエストを添えて視線すら寄越さない寝ぼけたままのキリトと自分の退室を惜しんでくれている親友を残してリズはバタンとログハウスの扉を閉めたのだった。

一方、キリトの膝の上で「え、うん、また明日ね、リズ」と戸惑いつつも見送ったアスナは視線を切り替えて唯一見える真っ黒な髪の毛に向け「どうしたの?、キリトくん」と呼びかけた。今日のブラウニーはキリトがとても楽しみにしていたお菓子だ。

 

「お腹、空いてない?」

 

その言葉にピクッと反応したかと思うと、キリトの顔がちょっとだけ離れてとろーんとふやけた瞳がようやくアスナを見る。なんだか旧SAOで短い間だったけれど夫婦として一緒に暮らしていた頃のキリトを思い出して、ぷっ、と笑ったアスナは「楽しい夢、見てたの?」と問いかけた。

 

「んー……いつまでも味わっていたいような、美味しい匂いのする夢だった気がする」

「なぁにそれ。食べ物の夢?」

「よく覚えていないんだ。ただ……」

「ただ?」

 

今までふわふわとした嬉しそうな声が一転してどんよりする。

 

「アルゴにトカゲかバッタを渡さなきゃ、っていうのだけは覚えてる」




お読みいただき、有り難うございました。
なんだか定期的(不定期的)にニャンコネタやりたくなるんですよね。


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恋心声明文

恋心の伝え方は人それぞれ……ってお話(?)


キリトとアスナは当然として、他の仲間達が《新生アインクラッド》で居心地の良さからつい訪れてしまうのが二十二層のログハウスなら、《現実世界》では御徒町のダイシー・カフェがそれと言えるだろう。夜の営業開始時間にはまだ早い夕刻、客がいないはずの店内では四人掛けのテーブル席に帰還者学校の制服姿が三人と、ラフな、と言えば聞こえはいいが幾分くたびれた感じの私服姿の成人男性が一人、卓上中央に置かれた一枚の紙に視線を集中させていた。

営業時間も関係なく店にやって来る連中にすっかり慣れてしまったエギルが仕込み仕事を一段落させてそこに加わる。イスに座ることなく長身を生かして上から覗き込み問題の紙面に書かれている文字を声にした。

 

「『好、き、で、す』……ね」

 

妙にカタコトなのは彼がアフリカ系アメリカ人だからではない。紙にある字の一文字一文字が独立しているからだ。

 

「清々しいほどの直球だな」とクライン

「この文字のどこに清々しさを感じるのよ」とリズ

「情報量が少ないんだか多いんだか……」とキリト

そして最後の一人、アスナは隣にいるキリトの手を握ったままその紙を睨み付けている。

 

「キリの字の下駄箱に入ってたんだろ?」

「下駄箱って……いつの時代の言葉なの」

「今でも使うだろっ、『下駄箱』!、少なくとも俺は使ってるぜ」

「はいはい。そうよ、キリトの『下駄箱』に入ってたのよ」

 

若干投げやりなリズの口調に対してクラインの唇に、ぐうっ、と力が入るのがわかるが現役高校生の意見を覆すのは無理と諦めたのか、大人の対応を自らに課したのか、はたまたこの会話が他の三人から見事にスルーされている意味を悟ったのか、強く引き結ばれている口が開くことはなかった。

一拍置いてエギルが言いづらそうに「それで……」と四人の頭上からバリトンを落とす。

 

「今どき学園ドラマでも観ないようなシチュエーションに推理ドラマでも観ないようなその紙か」

 

そう、紙の方にも無視できない特徴があった。

まず紙という媒体からして珍しい……もちろん全くない、という事はない。何か伝えたい事柄があって相手に繋がる電子アドレスをひとつも知らないのなら直接声を掛けるとか共通の知人に伝言を頼むなどが妥当だと思うが、何らかの事情があって声が届かないなら紙という手段もなくはない。ただそれだとアドレスは知らないが住所は知ってると言う、若干怖い状況が想定されるわけだが今回はまた違う意味で怖い手段が取られていた。

リズが肯定したように今日、帰還者学校でキリト…桐ヶ谷和人が下校しようと昇降口で靴を履き替える際にこの手紙は発見されたのである。

通学靴の上にちょこん、と置かれた何も書かれていない封筒の中身が今五人の視線を釘付けにしている一枚の紙だ。

手紙、と言うにはあまりにも短い文。

しかも印刷文字を一文字ずつ切り取って糊で貼り付けてある、ある意味かなり手間と時間のかかった一品。

昔の推理ドラマなどで犯罪者がチラシや新聞紙の文字を切り貼りして送ってくる犯行声明文や脅迫状のようなアレだ。その形状が取られている点からも色々と波紋を呼んでおり、つい「『好きです』って他に隠語的な意味あったっけ?」とユイに訪ねてしまったキリトはすげなく「ないです、パパ」と娘の若干呆れた声を聞かされて今に至る。

 

「とりあえず、これ、ラブレターなわけよね?」

 

認識を統一したいリズの問いに頷く者はいない。

この四文字を得る為に手紙の制作者はわざわざ新聞だったり雑誌だったりを購入したことになるからだ。そしてこんな切り貼り文にする意味は通常身元を特定されない為である。

徹底的に正体を明かしたくない人間からのラブレター……ちょっと引く。

強制的に受け取らざるを得なかったキリトに嬉しそうな気配など微塵もなく、複雑さを通り越してさっき鞄から取り出した時は親指と人差し指で封筒の角っこをつまみ上げるという劇物扱いだ。

 

「だいたいよぅ、手紙なら宛名くらいは書く……この場合は貼る、か?、とかすんだろ。あとよ、キリトはこれを受け取ってどうすりゃいいんだ?」

「どうすれば、って?」

「そもそもこういう手紙は返事が欲しくて出すもんだろ?」

 

ふむ、と顎に手をあてたエギルも考え込む。

 

「ま、通常はそうだな。『返事を待ってます』とか場所や時間を指定してくるケースもあるだろうし」

 

さっきから一言も発しないアスナは思考などはなから停止しているのか、握っている手に力を込めて難しい顔を僅か左右に揺らしながら不安そうにキリトを見た。手紙をテーブルに広げた時から視界の端で恋人の様子を伺っていたキリトが安心させるように握り返し、はしばみ色をしっかりと見つめて軽く微笑み頷く。

そんな二人の様子を正面から観察していたリズは溜め息と共に「返事なんて決まってるのにね」と独語のように落としてから思考に集中した。

目の前にあるラブレターとおぼしき紙は、朝、キリトが登校した時には存在していない……と言う事は日中、昇降口へ自由に来られる学校の生徒の行為で間違いないだろう。そしてここの生徒なら誰でも目撃しているキリトとアスナの加糖すぎる互いへの愛情表現。

アスナにも共通して言えるがこの二人に恋愛感情を打ち明けても「ごめんなさい」の返事しか貰えないのは周知の事実だ。男子生徒に限ってはそれでも「結城明日奈と二人きりで会話が出来る」という点のみで告白する残念思考の者が後を絶たないが、リズが知る範囲で女子生徒は今のところいないはずである。

叶わないと分かっていても伝えたいほどの恋心を抱いている女子……そして無記名の意味が実はキリトもアスナも知っている人物で今の関係性を壊したくないからだったとしたら……リズの頭によく知る年下でツインテールの女の子の顔が浮かぶ……が、即座に消滅した。この条件だけなら当てはまらない事もないが彼女ならこんな事はしない……と言うより印刷文字を切り貼りする発想なんてないだろうし、もし想いを打ち明けるなら事前に相談に来るはずだ。

今日の放課後、一緒に下校する約束になっていたのに、なかなか昇降口から出て来ないキリトをアスナと二人で急かしに行った時、靴も履き替えないままこの事件の原因である手紙を手に呆然としていた姿が思い起こされる。

……事件?、うん、これはもうラブレター事件よね、とリズは一番納得のいくフレーズだと命名した。

立ち尽くしているキリトに『どうしたの?』とアスナが近づくと、さすがに恋人には見せられないと咄嗟に判断したのか、我に返って封筒に戻そうとしたが、さすが『閃光』、それよりも先に素早く覗き込み、その文言に対してか、それとも形式に対してか、どちらにせよショックを受けてカキンッと固まって以来全く声を発する事無く今の今までただひたすら恋人の手を握り続けている。

キリトはキリトでそんなアスナの反応に戸惑いつつも差出人の心当たりさえないのだから勘違いや手違いの可能性を話しかけていたが、リズが「エギルの所に行って、落ち着いて相談しましょ」と発案してからはこちらも黙って、でも片時も手を離さずに寄り添っている。

手紙一枚、それもたった四文字で二人の関係にひびが入るなんて微塵も思っていないが真意を測りきれないのがちょっとだけ不気味だ。

 

「……ほんと、一体何がしたいのかしらね」

 

これでは単純に手紙を受け取ったキリトが困惑するだけのような気もする。

全員が口を噤んだところでただ文字を睨んでいてもこれ以上の進展は期待出来ないとふんだクラインが小さくキリトに「いいか?」と了解を得てからその紙に手を伸ばした。

クラインはたまたまダイシー・カフェに立ち寄っただけで、そこでキリト達と遭遇しそのまま同席を求められたわけだが、例の紙を元通りに畳むと入っていた封筒にしまい背後のエギルに渡す。

 

「家に持って帰っても置き場所に困んだろ。ここで預かってもらえよ……いいだろ?、エギル」

「そりゃ、構わんが……」

「とにかく相手は同じ学校の生徒なんだろうし。しばらく様子を見ちゃどうだ?、もしかしたら本人が名乗り出てくるかもしれねえし、そうすりゃあ直接話をして一件落着だ」

「そうなればいいんだけどなぁ」

 

疲れたように肩を落とすキリトの手をアスナが「キリトくん」と心配そうにさする。

好意を持ってもらえるのは有り難いが伝達手段に切り貼り文字という手法を選びこっそり潜ませてくるような人物だ、今後が全く読めない。

早く解決するといいな、と慰めにも近い視線を三人が送る一方で、ひとりだけ強い決意を秘めた瞳で「私が頑張らないと」と自らを鼓舞するような声は小さすぎて残念ながら誰の耳にも届くことはなかった。

けれどその言葉通り、翌日からのアスナは「すごかった」の一言につきる。

時間の許す限りキリトの傍に居て周囲を警戒し続けたのだ。同じ授業の時、隣り合わせで座るのはいつもの事だったが、別々の授業でも移動時にわざわざ遠回りをして教室を覗きに行ったり、廊下ですれ違えばキリトの耳元で「大丈夫?」と確認を怠らない。中庭のランチだってキリトの姿が見えれば立ち上がって迎えに行く程の過保護ぶり。

これら全てアスナにしてみれば要人警護のような至極真面目な気持ちからだったが、残念な事に普段のふたりを知っている周囲の目にはそうは映らなかった。

 

「なんかふたりの親密度増してね?」

「姫の独占欲がスゴいな」

「姫先輩が女子を射貫く鋭い視線がカッコイイのっ」

「ちっちゃな子がお気に入りの毛布を取られまいとする感じ?、かーわいー」

 

総じて「私のキリトくんだからっ」をアピールしまくっている結城明日奈、な感じにしか見て貰えず、ある者は生温かく見守り、またある者は羨ましさに歯ぎしりをし、下級生女子などは射貫かれたくてわざと視界に飛び出す始末。

結局周囲の人間達は「何かあったんだろうなぁ」とは思ったがイチャ度が上がっただけなので頑張っている明日奈の隣でまんざらでもない顔の和人を見て「けっ」と短い息を吐き出しただけで終わった。

そして、ある生徒がふと気付く……「あ、でもこの学校に入学したての頃って桐ヶ谷くんがあんな感じだったね」と。

デスゲーム内の知名度で言えば一、二位を争うと言っても過言ではない『血盟騎士団』サブリーダーがアバター姿のまま騎士装を制服に替えて登校していたのだから校内がザワつくのも無理はない。しかも当時はまだ明日奈のリハビリが完全に終わっていなかったので常に和人がフォローに入っていた。純粋なものから不純なものまで多種多様な好奇の眼差しの中、特に男子生徒からの度を超えた粘り気のある視線は殺気を込めて威嚇していた和人である。

その甲斐あって今では比較的平穏に学校生活を送っている明日奈だったが、例のラブレター事件のお陰で、まるでフロアボス戦前のような張り詰めた気持ちを五日ほど維持し続けたせいか神経がくたくたに状態になっていた。

手紙を受け取った日から今日まで差出人からは何の接触もなく事態は膠着状態のまま。そして肝心の和人が特に気にしている様子も見せずに交互に絡ませた指を嬉しそうに握り返してくるのだから一瞬自分は何をやっているのかしら?、と疑問符すらわいてくる。

そんな中、親友のリズから「例のラブレター事件、解決したっぽいからダイシー・カフェに集合ね」とメッセに貰った時は、ちょっと半信半疑だったもののある種の緊張感と期待を持ってキリトとふたり顔を見合わせた。いつもより急いた歩調で「準備中」の扉前まで辿り着き、ふたりで入店してみればリズはもちろんクラインも先に到着していて、これで前回と同じメンバーが揃った事になる。

 

「リズっ、解決したってほんと?」

「まぁ、さしあたってこれ以上何かが起きるって事はないわね。それは保証するわ」

「差出人と会ったのか?」

「本人じゃなくて事情を知ってる子と……だからあの手紙がどうやってキリトの手まで渡ったのかは判明したわよ」

「それはキリの字に惚れた女子生徒が下駄箱に突っ込んだんだろ?」

「事はそう単純じゃなかったの」

 

疲れたような、呆れたような溜め息を吐いたリズは「そもそもあれはキリトに宛てた手紙じゃなかったのよ」という根本を覆す発言から説明を始めた。

今日の休み時間、リズの元に下級生の女子が訪ねてきたのだ。その女子曰く、自分の従兄弟が結城先輩に一目惚れをしてしまった、と。それでラブレターを預かったのだが、それがちゃんと先輩に届いたのか確認したいけれど従兄弟は絶対に自分の存在を知られたくないと言っているので直接本人には聞けず、そこで親友である篠崎先輩なら知っているのでは、と思い相談に来た、と。

 

『もしかしてその手紙ってこの位の真っ白な封筒に入ったやつ?』

 

下級生は安心したように何度も頷いた。

さすがに中の文面までは知らなかったらしい。従兄弟とは言えプライベートな書面だし、何よりラブレターだ。どんな風に書いたのか気にはなるが中身までは見ないのがマナー……だが、リズとしては確認して欲しかったと切に思った。そうすればあの手紙は彼女のところで止まっていただろうから。

 

『自分が誰なのかは知られたくないと言っていたので名前は書いてないはずです。あと結城先輩の名前も知らなかったので宛名も書いてなくて……だからちゃんと届いたのか気になって』

『アスナの名前を知らないの?』

『はい、この学校の生徒じゃないから。従兄弟は通学で使ってる沿線でたまたま結城先輩を見かけたって。でもその一回きりだったので制服が私と同じだったのを思い出して手紙を託されたんですけど……』

 

そこで聞いた沿線名は確かに普段明日奈が利用している線ではなかった。

 

『あなたの従兄弟が見たウチの制服の女子生徒、本当にアスナだったのかしら』

『それは間違いないと思います。すごく綺麗な栗色のロングヘアで手や足も細くて長くて、それに寝顔がとっても可愛かったって言ってましたから』

『寝顔?!』

『はい。従兄弟が見た時、結城先輩、車内で座ったまま寝てたらしくて』

 

リズの眉間に皺が寄り、ちょっとだけ首が傾く。いくら電車の揺れが心地よくてもあのアスナが車内で居眠りをするだろうか?

 

『それで、その寝顔に見とれてたら隣で結城先輩に肩を貸していた同じ制服の男子にもの凄い圧で睨まれたって言ってたので、その男子生徒の特徴を聞いたらやっぱり桐ヶ谷くんでした。それならもうあの二人で間違いないです』

 

自信満々でそう言われてしまうとリズもその二人だとしか思えなくなって、手紙の行方を気にしている後輩に曖昧な笑みで答える。

 

『確かにその手紙ならアスナ、読んだわよ。ただ訳あって手元には保持してないけど』

 

危険物扱いで第三者に保管してもらってるのは言わなくていいだろう。それに初見はキリトの手にあったのを横から盗み読みしたような形だったがその後改めて本人含め数人でじっくり文面を読んでいる。

 

『あ、よかった。だったらいいんです。ちゃんと読んでもらえたんですね』

『そうね、かなりちゃんと何度も読んでいたわ』

 

正確には四文字を長時間睨んでいたと言った方が正確だが、従兄弟の女生徒に罪はない。

 

『でも、アスナからの返事はいらないの?』

『それ、私もいちを従兄弟に聞いてみたんですけど身内の私でもちょっと呆れるくらい気の弱い子で、自分の存在を知ってもらおうなんて思ってないんです。だから手紙を読んで貰えたらそれで満足だって。それに結城先輩の隣にいた男子に怯えてて、もし正体がバレたら消されるかもしないとか訳わかんないこと言ってて。それもあって自分の名前を書かなかったらしいです』

 

その気持ち、分かるような分からないような複雑な心境だ。

なので私が確認に来た事、結城先輩には秘密にしておいて下さいね、と言われたのでリズは深く頷いて彼女がやって来た意味を尋ねた。

 

『それならなんでわざわざ私のとこに?』

『実は私、従兄弟から預かった手紙を結城先輩のシューズロッカーに入れておこうと思ってたんです。だから放課後早めに昇降口に行くつもりだったのに、その日に限って担任から呼び出しくらっちゃって。でも手紙をずっと持ってるのも嫌なので友達に結城先輩に渡す手紙だからシューズロッカーに入れておいて、って頼んだんですよ。それで安心してたんですけど、その友達が昇降口に行く途中で委員会の当番だったのを思い出して他の人に預けたって。昨日その人に確認しに行ったらその人も途中で違う人に預けちゃってて……結局、結城先輩に渡す物なら桐ヶ谷くんに渡しとけばいいみたいな感じになったっぽくて…………大丈夫ですか?、篠崎先輩』

 

もうリズはその場でしゃがみ込んで頭を抱えたい気分だった。要するにあの手紙はうちの学校に従姉妹のいる男子がアスナに一目惚れをしたけれどキリトの存在に恐怖して名も名乗れず、けれど恋心は伝えたいという想いから身元が特定出来ない方法を斜め上からの発想で作成したラブレターで、それをなぜかキリトが受け取ってしまったという悲劇の産物なのである。

そんなHPをレッドゾーンにまで削られたリズの横で後輩の女生徒は『でも確認出来てホッとしました』と安堵の笑みを浮かべ『これで従兄弟にもちゃんと報告できます』と礼を述べてから元気良く手を振って去って行った。

と、まあ、こんなやりとりがあったわけだが「結城先輩には内緒で」と何度も念を押された手前リズはその辺の経緯を省いて「そういう感じで色々行き違いはあったけど、相手は電車内でうたた寝してたアスナに一目惚れしたらしいわ」と若干投げやりな口調で締めくくった。

なんだかもう、うたた寝顔で見ず知らずの人間を恋に落ちさせるハイレベル容姿の親友が一番いけないような気さえしてくる。

ところがいくらアスナにとって告白やラブレターが日常事でもやっぱり面白く思わない男が約一名いるわけで……。

 

「ほらな、だからオレが付いてて正解だったろ?」

「違うのっ、私はキリトくんが隣に居てくれるから安心して寝ちゃうのっ」

 

キリトくんが居なかったら寝たりしないのにっ、と力説しているアスナの膨らんだ薄桃色の頬をキリトが楽しそうに人差し指でつついている。

別にキリトはアスナが居眠りするのを咎めているわけではなく、自分以外の男にアスナの寝顔を見られるのが嫌なのだが、悲しいかなアスナ本人には伝わっていない。それでも恥ずかしそうに拗ねた頬に触れられる特権を満喫できるのは嬉しいらしく真っ黒な瞳が三日月型になっている。

 

「だったらこれからも一緒に行く。あの検査、脳に負荷がかかるから疲れて眠くなるの当然なんだ」

「それは……そうかもしれないけど」

 

どこか別の場所でやってくれないかしら、と思った時、この甘ったるい会話に一刀、切り込んだバンダナ頭の猛者がいた。

 

「一体どういう事なんだ、キリト」

「アスナとオレを電車内で見かけたのって多分アスナの脳神経の定期検診の時なんだ。病院に行く時はその路線使うし」

「お……お前、アスナの検診に付いてってんのか?」

「横浜だから、ちょっと遠いんだよ」

 

エギルもリズも、質問をしたクラインも内心「そうじゃない」とつっこんだ。場所がどうこう言うよりなぜアスナの検診に親族でもないキリトが同行しているのか、という問いかけなのに当の二人はそれが当たり前と言いたげな顔でアスナは「いつも学校帰りだから終わると外、まっ暗なのよね」と言い、キリトは「だからって絶対に一人で行くなよ。あと検査着に着替える時、ドアの鍵はしっかりかけること」とアスナを窘めている。

 

「更衣室の前室にはキリトくんしかいないのに?」

「この前は途中で看護師が来ただろ」

「ドアはちゃんと締めてたし、入って来た看護師さん、女性だったでしょ?」

「いつも女の人とは限らないから」

 

もしも男性看護師が入って来た場合、間違っても更衣室のドアノブは触れさせないし何なら衣擦れの音すら聞かせたくないと言いたい顔で真剣に見つめてくるものだから、アスナも気圧されたように顔を上下させて了承の意を伝えた。

再びふたりの世界に入りそうになっている寸前で今度はエギルが引き留める。

 

「ならこいつは本来アスナが受け取る物だったんだな」

 

預かっていた手紙を片手でヒラリ、と持ち上げるがそれを彼女へと差し出す前に「処分しておいてくれ、エギル」とキリトが低い声で指示めいた申し出をした。

 

「キリトくんっ」

「ちゃんとアスナだって読んだんだし、差出人もそれで満足なんだろ?、だったらわざわざ持ち帰る必要はないさ」

 

エギルとクラインとリズの目が呆れたように半眼になる。それはキリトが決める事ではないが、確かに目的は達成されているし、加えて強く反対できない理由はあの切り貼り文字だ。やはりちょっとだけあの形式で恋文というのは違和感というか不気味感が拭えない。それはアスナも感じていたのか一言「もうっ」と軽くキリトに唇を尖らせた後「すみません、エギルさん、お願い出来ますか?」と眉尻を下げてそのまま委ねる。

 

「そりゃあアスナがいいなら構わないけどな。そもそも……」

 

言いかけて漆黒の視線がまっすぐこちらに伸びているのに気付き口を閉じた。お前が差出人を威嚇した結果じゃないのか?、と言われるのは理解しているようだ。そしてそれを止めるつもりがない事も伝わってくる。

さすがに入学してから数ヶ月が経った今、学校内で結城明日奈の突き出た存在感への過剰反応は落ち着いたらしいが普通の街中ではその限りではないのだろう。彼女の隣にいるという事はそんな周囲への索敵をずっとし続けるという事で、無茶無謀もいいところだがキリトにとってはアスナの手を離す未来の方がよっぽどありえないし、彼女の安全と自らの安心を得られるなら無茶無謀は彼の専売特許だ。

だが、そのお陰で周囲が騒動に巻き込まれるのはもう仕方が無いと諦めるべきなのか?、とエギルは手紙を持っていない方の手で禿頭をカリカリと掻いた。

何とも言えない憐れみに近い空気が漂っている中、キリトが「だから何度も言ったのに」と平然と話し始める。

 

「オレ宛てのラブレターのはずない、って」

 

ぱっ、とアスナが顔を上げた。

 

「そっ……そんな事ないと思うよ。アインクラッドにいた時だって……」

「ラブレターメッセなんて貰ったことないけど」

「そうじゃなくてっ」

 

同じ『血盟騎士団』の団員の子達も最初はソロプレイヤーのキリトを敬遠していたが、何度か共闘をするとただ強いだけじゃない、ちゃんと周囲の状況分析力も高く協調性もある彼に段々と惹かれていたのを知っているアスナとしては「キリトくんに好意を持っていたギルメンの女の子が何人もいたの」とか「主街区でキリトくんの事をチラチラ見ていた子もいたし」と教えたい所だが、そうなると自分もキリトを目で追っていた事がバレそうで続きが告げられない。

 

「アスナは歩くだけで注目の的だったけど、オレを気にしてる女性プレイヤーなんていないって」

「……つまり私のアレコレは全く伝わってなかたってことなのねっ」

 

色々理由を付けて会いに行ったのに……とヘソを曲げてしまったアスナの態度に慌てたキリトが「へっ?」とか「え?」を連発しているが助け船はどこからも来ず、それどころかエギルがニヤニヤと口元を緩めわざとらしく「そう言えば」と切り出した。

 

「キリト、お前も俺の店にレアアイテムを持ち込む時はよくアスナを見かけたって話してたよな?」

「はっ!?……あっ、あれはっ、別にっ、ただの世間話だろっ」

「そうか?、お前がわざわざ他のプレイヤーの話をするなんて珍しかったじゃないか」

「それはっ、たまたまアスナを見かけた後ってレアアイテムがよく出たからっ」

 

それ「たまたま」って言わない、とまたもや三人は心の中でつっこんだ。

自覚がないだけでアスナの姿を見て気分を上げ、それに伴って動きや勘も良くなり、結果モンスターを大量に倒した事でレアアイテムを引き当てる確率が上がったのだ。

 

「アスナを見かけたり、話をした後はなんかラッキーな事は多かったけど……ただの偶然だよ」

「私とお喋りした後って……それ、私と一緒ね」

「アスナも?」

「うんっ、なんかドロップしたアイテムがすごく多かったり、珍しかったり」

 

「会う度に情報交換や意見交換してたせいかな」と幸せそうに笑い合うふたりを置いてエギルは「酒の在庫でもチェックするかな」と席を離れ、リズは「そろそろ帰らなくっちゃ」とイスから立ち上がる。素早く離脱していく二人を頭を左右に忙しなく振り回して「は?、お、おいっ!」と呼び止める言葉も浮かばないクラインは後れを取ってしまった自分に気付き「なんなんだよぉ……」と独りごちた。




お読みいただき、有り難うございました。
表記についてですが、ダイシー・カフェでは「キリト」「アスナ」
学校では「和人」「明日奈」とぼんやり分けてまして、明確じゃないのは
私がしっくりくるという感覚で選んでるからです。
なので統一されてませんけど誤字というわけではありません。


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キスの日

六月に投稿する五月の話(苦笑……すみません)


五月も半ばを過ぎ《現実世界》とはリンクしていないはずなのに、このA.L.O内を吹く風は心なしか爽やかに感じるし二十二層のログハウスから見える木々の葉も新緑色に輝いて見える。

今日は数日遅れてしまったがリズベットの誕生日を祝う為に仲間達が集いアスナが手料理を振る舞っていた。

 

「ありがと、アスナ。こんなに準備してくれて。誕生日当日に家族と外食した時より豪華だわ」

 

キャメル色のツインテールとサフランイエロー色のポニーテールが同意を示すように激しく振り動く。

 

「コース料理作れちゃうなんて、さすがアスナさんです」

「そこでなんでお兄ちゃ…キリトくんがドヤ顔で頷くのっ」

「このメインディッシュの肉、調達してきたのオレだし」

 

仕留めるの結構苦労したんだぞ、と自分の皿の上の最後の一切れとなったS級食材のソテーをフォークで突き刺しパクリと口に放り込んで満足げに咀嚼しつつ、うんうんと味を噛みしめているキリトの隣で嬉しそうにアスナも頷いている。

 

「キリトくん頑張ってくれたのよね」

「ああ、アスナがどうしてもっ、て言うからさ」

 

互いを見て笑い合う二人の姿に肉料理の口直しを装って、リズがゴクッとグラスの水を飲み込んだ。どうやらこのほっぺたが落ちそうなくらい美味しく調理されている肉は誕生日を迎えたリズの為に頑張ったのではなく、リクエストしたアスナの為に頑張って捕まえてきた獲物らしい。アスナは誕生日を祝う料理の食材としてキリトに頼んだのだから最終的にはリズの為、と言えなくもないが、キリトの顔はアスナに頼まれたからが半分、自分も食べたかったからが半分としか思えない表情だ。

 

「あとはデザートにパイがあるの。アイスも添えて持って来るね」

 

イスから立ち上がりながら何気なさを纏ったアスナの発言にリズ、リーファ、シリカの女子達三人が一斉に目をむいた。

 

「アイスッ!?」

「アイスッ!?」

「アイスッ!?」

 

その反応に、期待通り、と軽く小悪魔的にほくそ笑んだアスナは「そのまま食べて待ってて」と四人に食事の続行を促した後、キッチンへと消えていく。そうなると質問できる人物はひとりしか残っていない。

 

「キリトっ、今、アスナが言ったアイスって……作ったの!?」

「まぁ、そうだな」

 

またしてものドヤ顔だが、今は目を瞑ろう。

 

「アイスってA.L.O内には存在してなかったと思うけど……アインクラッドには普通にあったんですか?」

 

A.L.O歴は一番長いリーファだが新実装された浮遊城事情は詳しくないので今日の主役であるリズに聞けば、ブンッブンッと風が起きそうな勢いで頭が横に振られる。

 

「そんなの、情報としても私は知らないわよ」

「私も初めて聞きました」

 

ちょっと呆けたままのシリカが添えた。そこへ少々もったいぶった様子のキリトがゆっくりと口を開く。

 

「材料を揃えるのは難しくなかったんだ。牛乳や卵、砂糖……あと何だっけ?……とにかく問題は冷凍庫がないって事で……」

「この世界には冷凍庫どころか冷蔵庫もないものね」

「だからオレが五十五層にある山の頂上まで行って雪を取ってきてさ」

 

確かあそこには旧SAO時代からモンスターの宝庫と言われていて最終的にはフィールドボスのアイスドラゴンをどうにかしないと氷は持って帰れないはずで……とても「ちょっと雪山まで行って来たんだ」みたいな軽い口調で語られていい場所ではない、とリズはこめかみをグリッ、と指先で揉んだ。しかし今日の主役の懊悩を置き去りにキリトの説明は続く。

 

「それでアイスは出来たんだけど、今度はそれを食べても味覚再生エンジンが冷たいって感覚を十分に伝えきれなくて。そこからアスナ、頑張ってたなぁ」

 

要するに今日はメインからデザートまでキリトとアスナ、二人の協力の下に出来上がった料理というわけだ。どうりでアスナが始めから「キリトくんと私からのお祝いだから」と言っていたはずである。

早くもメインディッシュを綺麗に完食したキリトがその皿を持って立ち上がり「ただ氷が大量に必要だからあまりたくさんは作れないらしい」とその貴重さを告げながらアスナがいるキッチンへと入っていくのを見送った三人は「何か手伝おうか?」と問いかけている声を小さく聞いてから顔を見合わせた。

 

「お醤油が出来たって聞いた時も驚いたけど……さすがアスナね」

「もしかして私達、もの凄く貴重な物を食べてるんじゃ……」

「アスナさん手作りのコース料理ってだけで既にかなり貴重ですよ」

 

三人は申し合わせたように銘々の皿に残っている肉や付け合わせ、そこにかかっているソースに視線を落とす。脳天気に「美味しい、美味しい」とほいほい口に運んではいけなかったのかもしれない。

 

「……もうほとんど残ってないけど、味わって食べるわ」

 

こくり、と頷く三人の脳裏には自分達よりもパクパクと勢いよく美味しい料理を口に放り込んでいるキリトのお日様みたいな笑顔が浮かんでいて……たまに「んまいっ」と同じ言葉ばかりを合いの手のように挟みながらアスナの手料理を当たり前のように食べている姿に「ふぅっ」とやるせない息を吐き出したのだった。

 

 

 

一方、自分の食器をキッチンまで運んだキリトは「手伝おうか?」と申し出たものの、これは手伝わないほうがいいやつだな、と即座に切り替えてまずは持って来た空のメインプレートをシンクに置いた。なぜならアスナは今、まさにこんがり焼き上がったアップルパイを切り分けている最中だったからだ。《現実世界》のアップルパイもホールを切るのは至難の業。力任せにナイフを入れればサクサクのパイ生地が粉々のボロボロという悲惨な状態になるのだから《仮想世界》で料理スキルのないキリトが手を出せるはずがない。

それをアスナはサクッ、サクッ、と手際よく均等に切り分けており、断面も見事なものだった。

一旦手を止めてこちらに微笑み、「お皿、取ってくれる?」と頼まれたので「おう」と応えて既に人数分重ねて置いてあるデザートプレートを彼女の近くまで移動させ一枚ずつ差し出してパイが乗るのを待つ。全ての皿にパイが配られると「あとはアイスね」と言いながらアスナはこのキッチンには不似合いな巨大サイズの箱の蓋を開けた。中にはキリトが取ってきた大量の万年雪が詰まっており、その中心に小さな容器が入っている。

それを丁寧に取り出し大きめのスプーンを慎重に差し込んで、ホッと表情を緩めた。

 

「うん、ちゃんと良い固さになってる。みんな美味しいって言ってくれるといいけど」

 

珍しくも自信がなさそうな発言にキリトは首をかげてアスナを見る。

そもそも料理スキルをコンプリートしたアスナの作る物が不味いわけがないし、それはキリト自身が一番よく知っている事だ。

 

「リズ達も今日の料理のサラダやスープ、もちろんメインディッシュだって全部美味しいって言いながら食べてただろ?」

 

確かにアイスは成功してからまだ日が浅いメニューかもしれないが、それにしてもアスナが自分の料理の仕上がりに弱気なのが意外でキリトはその真意を測りかね、問いかけるように目を合わせる。

 

「私の料理を一番食べてくれてるのがキリトくんでしょ、だからつい、きみ好みの味付けにしちゃうくせがついてるんだもん」

 

困ったような照れ笑いを浮かべたアスナは「だからもしかしたらアイスが甘すぎるかも。でもパイは結構甘味を抑えたから……」と呟きながらアイスをすくってパイに添え始めた。一方、キリトの方はと言えばアスナの発言にジワジワと嬉しさが染み出してくる。今まで彼女の作った物なら何でも「美味いっ」と食べていたが実は知らず自分好み仕様になっていたと明かされれば「へぇ」という単純な相づちさえニヤニヤが止まらない。

そんな顔が近づいてくればアスナも居心地が悪くなり突発的に浮かんだ話題を口にしてしまうのも仕方のない事で……。

 

「そ、そう言えばキリトくん知ってた?、今日は『キスの日』なんだって」

「『キスの日』?」

「うん。その理由が面白くて。実は日本でね…え゛?、んンっ!」

 

まだ説明も序盤の序盤なのに何の前触れもなく両頬をキリトの手の平に包まれ、クイッ、と首が回り唇が塞がれる。いや、塞がれただけでなく、話途中だったせいで中途半端に空いていた隙間からすぐに舌が這入ってきた。色々な意味で押し返そうにも両手はアイスの盛り付け途中で動かせないし、咥内は押し返すどころかまるで自分の舌をアイスと間違えているのかと疑うくらい彼の舌に執拗に舐められている。

突然、理由のわからない行為に驚きで見開いたままのはしばみ色が上機嫌に細まった濃墨色の瞳を捉えた途端、むむっ、と眉間に深いシワが寄れば、仕方ないな、と言わんばかりの仕草で唇が開放された。

 

「はふっ……もぅっ、いきなりどうしたの、キリトくん」

 

今はリズの誕生日を祝う食事会の最中だ。そして最後のデザートのアイスはリズに驚いて欲しくて、喜んで欲しくて、この日に間に合うよう毎日のように試行錯誤していたのはキリトも知っているはずなのに、このタイミングで「なんで?!」という疑問は簡単には消えてくれない。一旦手元の盛り付けられたアイスが崩れていないのを確認して心を落ち着かせる。確かに『キスの日』だとは言ったけれど……自分は別に……俯いていた視線を上げながら眉根は寄せたまま…「キスして…

 

欲しくて言ったんじゃないのにっ」

 

こういう時、いつもはキリトくんのしゅんっ、となった顔にほだされて許してしまいがちだけれど、今回はちゃんと言うわ、とアスナはスプーンを持っていた手に力を込めた。キスは嬉しいけど時と場所を考えてほしい。すぐそこのリビングには友人達だっているんだから。

けれど、ちょっとお怒りモードで口をすぼめたアスナを前にいつもとは違う反応だと気付いたはずなのに、なぜかキリトの余裕の笑みは変わらない。それどころか楽しげな声をひそめてきた。

 

「だってアスナ、キスするの好きだろ?」

「…す、好きって…」

「よく『キスして』って言うし」

 

ふへ?…と一瞬身に覚えのない言葉に反論しそうになったが、キリトの表情から何かを察してカァッと顔が真っ赤に茹だる。

 

「それはっ」

 

二人きりの時の話で、もっと言えば肌を合わせている時の話だ。理性が働かなくて思うままに願いを口にしてしまうからその時はあまりよく覚えてないのに後になってから鮮明に蘇ってきて悶絶するやつ。けれどそれだってちょっと冷静に思い返せばアスナから強請られたくてわざとじらしているだけで、本当はキリトも喰らいつきたい衝動を堪えているのだとわかりそうなものだが……とにかくそれを持ち出されるとアスナに勝ち目はない。

それでもキリトの言い方に、いつでも、どこでも、誰とでも、みたいな女の子だと思われては困ると焦りが羞恥を追い越した。

 

「嬉しいのはただのキスじゃなくて……キリトくんとのキスだからなのっ」

 

持っていたスプーンを置いて両の手をギュッと握りしめ、必死に言葉を重ねれば重ねるほどキリトの機嫌が上昇していくのを不思議に思うが、今はそれよりも説明と説得が優先とばかりに半分泣きそうな声で強く言い切る。

 

「でも今のは違うからっ」

 

きっぱりとキス要請の否定を聞いたにも関わらず、涼しげな顔のまま反省の色もなくキリトは「ふーん」と軽くいなしてから、ずいっ、とアスナに顔を寄せた。

 

「じゃあ、返してもらおうかな」

「え?」

「だから…欲しかったんじゃないなら返してくれよ、キス」

 

「ほら、早く」と言ってどんどん近づいてくるキリトの顔は意地悪くも心底楽しそうで、そしてとってもわくわくしているのが丸わかりで、アスナは軽く混乱する。自分はそういう事が言いたかったわけでも、したかったわけでもない……はずだ。

それなのに、なんで、今、私はキリトくんにキスを迫られているの?……キスって欲しくなかったら返すものだっけ?……キリトくんからのキスをいらないなんて思ったことないのに……でも「欲しかったんじゃない」って言っちゃったし……

と思考は疑問と常識と感情の間をグルグルと回り続け、止まる場所も見つからないまま最後はそれさえも放棄して鼻がくっつきそうな程の距離にあるキリトの低くて甘くて優しい声が「キスして、アスナ」と乞われたのを合図にアスナもまた自らの本能に従って両手を伸ばした。

ほっそりとした白い指が柔らかくキリトの頬に触れる。

引き寄せる力は必要なくて目を瞑っていても磁石のように唇が重なった。

ただ、いつもならすぐにアスナの唇のあわいをノックするようにつついてくるキリトの舌先が一向に出てきてくれない。じれたアスナは自ら唇を小さく開いて餌を求める雛のごとく密着している上唇を緩く食んでみるがそれでも応答はなく、少し寂しくなってしゃくり上げるような声が「んくっ」と漏れる。

それから「返して」と言うのならいつもキリトくんがしてくれる様にすればいいのかな?、と今度は思い切って彼のあわいまで舌を伸ばしてみた。閉ざされたままの場所をそっと舐めてみる。隙間が開かないかと呼びかけるように舌を動かすが少しカサついている唇は頑なで段々とアスナの眉尻が下がるにつれその動きもゆっくりになり……眉がハの字に落ちきる寸前、今気付いたみたいにひょこりとキリトの舌が出てきてアスナのそれを絡め取った。まるでベテランの釣り師が棹を上げるタイミングを計っていたかのような絶妙さでしっかりと捕獲すれば抵抗することなくその愛撫を受け入れてアスナの方も再び愛しさを返す。

そうやって深くて熱い濃厚なキスを交わしていた二人だったがデザートを待たせている事を思い出したアスナがどうにかキリトから離れ、していないはずの乱れた呼吸を整えながら「キスを返す」という目的は十分達成しただろうと思っていたのに、黒い瞳に仄暗い熱を宿したままのキリトが意味深にふっ、と笑って「まだ足りないから残りは三人が帰ってからだな」と告げていた頃……

 

 

 

「リズさん、アスナさん達ちょっと遅くないですか?」

 

アイスクリームの登場を心待ちにしているのは三人一緒なのだがキッチンに籠もってしまったのがアスナとキリトの二人という点で単純にデザートの準備のみをしているのかどうかはアヤシイと推測したリズは「私もお手伝いしてきます」と立ち上がりかけたシリカの服の裾をひっぱった。

 

「やめときなさい。私の索敵スキルがキッチンには近づかない方がいいって警告音を発してるから」

 

そう言われてシリカは「リズさんて索敵スキル、取ってましたっけ?」と今度はツインテールをふわん、と揺らした。




お読みいただき、有り難うございました。
リズ、ハピバの話でもありますっ(多分)
そして「アインクラッドでキリト達、アイス食べてますよ」だったら
ゴメンナサイ。


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超電撃文庫展

お久しぶりでございます。
通常投稿……いつになるかまだ分からないので、とりあえずゲリラ投稿(苦笑)
昨日Twitter(X)で『超電撃文庫展』の書き下ろしを見て、ほぼ一筆書きみたいな
クオリティですがっ、書いてみたくなったので。


都内某所……大手出版社が発行している文庫レーベル30周年の記念企画として縁のある人物達のスタジオ撮影が次々と流れ作業で行われている。

 

「次は高校生のカップルよね?」

「はい。なんでもお付き合い歴はかなり長いらしいですよ」

 

助手からのプチ情報にチーフカメラマンの女性は密かに苦笑いをこぼした。

長い、と言っても相手は高校生同士、ちょっと大げさじゃない?、と思いつつその二人の撮影用として用意された小道具の風船が運び込まれるのを待つ。若々しいカップルなので周囲に色とりどりの風船を散らして一層華やかさを演出する予定だ。

 

「桐ヶ谷和人くん、結城明日奈さん、スタジオ入りまーす」

 

入り口でタイムスケジュールを管理しているスタッフの声が上がるとほぼ同時に「よろしくおねがいします」と落ち着きの中に艶のある低い声と鈴を転がすような澄んだ声がスタジオ内に響く。

若手はもちろんベテランスタッフですら二人の声に引き寄せられその場の全員が一瞬、作業の手を止めた。

 

……なんなの、この二人…………

 

カメラのレンズを通さずともオーラのような神々しさと言うか眩しさが視認できる気がするほど別格の存在感を放っている。かと言って傲慢さや威圧感はなく、男の子の方は見ず知らずのスタッフの多さに少しだけ頬をヒクつかせているし、そんな彼をフォローするかのように女の子の方は繋いでいる彼の手を軽く引っ張って自分に意識を向けさせると、ニコリと笑って……それだけで何かが通じたのだろう今度は二人同時に笑顔を見合わせている。

そんな阿吽の呼吸とでも表現すればいいのか、二人の雰囲気は確かに長い年月を連れ添ったように熟練されいた。

 

「えっと、それじゃあ…結城さんは靴を脱いで中央の椅子に腰掛けてくれる?、桐ヶ谷君はその後ろに立ってもらうから君は脱がなくてもいいわ」

 

夏らしいマリンブルーのキャミソールワンピに、袖にボリュームのある真っ白なオーバーシャツを羽織っている明日奈だがオフショルダーデザインなので色白の華奢な両肩が剥き出しになっており、そこに真っ赤なリボンが手首や足首を彩っているので、さながら贈答品の様相を呈している。撮影時に風を起こし風船と一緒にそのリボンで動きをつける為随分長めになっているのだが、靴に手を伸ばした明日奈がうっかりリボンを踏んでしまいそうだと気付いた和人が素早く腰を屈め自ら彼女の靴を脱がせた。

戸惑う事も恥じらう事もなく「ありがとう」と告げる彼女に、男性が女性の靴を脱がせるという行為の意味を知っているスタッフは頬を赤らめるが、そのまま和人が明日奈を抱き上げたのにはスタジオ全体が固まった。

 

「素足で床を歩かせるわけにはいかないから」

 

スタッフの数に怯んでいた少年がさも当たり前に恋人を腕に収めて中央まで歩いてくる。彼女もまた慣れた様子で彼の首に両手を回し顔を近づける。

と、その時、二人の様子に見とれていた新人スタッフがうっかりブロワーのスイッチを押してしまい……和人と明日奈が中央の椅子に到達する前に周辺に散らばっていた風船が浮き上がり、一緒に明日奈に付いていたリボンも栗色の髪と相まって巻き上がった。そんなハプニングに驚くより幸せそうに微笑む彼女は自分だけへのプレゼントだと和人の口元が得意気に独占欲を滲ませる形になった瞬間、チーフカメラマンは思わずカメラのシャッターをきったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
もっと全体像が見たいっ
キリトの服がほぼ見えないっ
そして……キリト、髪切った?(abecさまだとこんな感じかな?)


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短編・夏、だから海!

すみませんっ、題材が「夏」なので(9月になってしまいましたが)
先に短編を投下させていただきます。
キリト、アスナ、ユージオ、アリスが元気な世界線としてお読み下さい。


「これが…ウミ、なのですね……」

「うっわー、ヒトがいっぱいだね」

 

初めて見るウミ(海)に感動して光る海面に魅入っているアリス、そして彼女の隣には砂浜にいるヒト(海水浴客)の多さに驚きで見入っているアスナ……全く別方向に視線を釘付けにしながらもその表情はどこか似通っている。

その二人の後方で「そりゃそうか」と苦笑にも近い笑みを浮かべたキリトはユージオが広げてくれた大きなビーチマットに腰を下ろした。

一人は幼少期の記憶を封印されて覚えているのは白亜の塔での生活がほとんどの整合騎士アリスともう一人は父親は大企業のトップ、母親は大学教授のまさにザ・お嬢様育ちのアスナ。アスナの方は海自体珍しくも何ともないだろうが何しろここは海外のプライベートビーチでもなければクルーズ船から眺める大海原でもない、ごくごく一般的な海水浴場なので砂浜は大勢の人間でごった返している。

互いに驚きの対象は違うものの「初めて見る」ものには目を奪われてしまうものらしい、立ったまま全く動く気配のない二人にビーチパラソルを立て終えたユージオが呆れを混ぜた声で二人を呼んだ。

 

「アリスもアスナも、ちょっとこっちに来て日影に入りなよ」

 

その呼びかけに同時にくるり、と振り返った二人はこれまた初めて見る砂上の陣地を形成した敷物と巨大パラソルにわかりやすく唇で喜びを表し、すぐさま、さきゅっ、さきゅっ、と砂を鳴らしながら向かってくる。ただその間も人間離れした容姿のうら若き乙女二人が移動すれば歩速に合わせて周囲の男性達の目線も動いているわけで……キリトはもう一度「そりゃそうだよな」と諦めに近い思いで近づいてくる二人を眺めた。

アリスがこの日の為に用意したと言っていたオーシャンブルーのビキニは胸元のリボンが潮風に揺れている。方やアスナは白地に赤のラインで縁取りされたホルターネックのビキニで「これ、なんとなくキズメルと一緒にお風呂に入った時のに似てるね」と言って購入を決めた物だ。どちらも余すところなく着用者の見事なボディラインを引き立てている。

それでも四人で座ってもまだ余裕のある広めのビーチマットとそこに十分な影を落とす巨大パラソルのお陰で傘下に入ってしまえば周りの視界から二人の姿は消えるので自然と「ふぅ」と息が漏れた。

 

「二人とも、いきなり砂浜に出ちゃダメじゃないか」

 

ユージオからのお小言にキリトもまた目を閉じてうんうんと頷く。ビーチにいる飢えた狼達の目の前に兎を二匹を差し出すようなものだ。もうちょっとこう上着を羽織るとか、帽子を被るとか、とにかく色々な部分をギラついた男共の目に触れない対策をして欲しいよな、と思っているとユージオが荷物の中からゴソゴソと何かを取りだした。

 

「ちゃんと日焼け止めを塗らないと後で大変なことになるよ」

 

手にはしっかりとスプレー式のUVケアボトルが握られていて、それを見たキリトがカクッ、と片方の肩を落とす。

 

「おい、ユージオ。そっちなのかよ」

「そっちって?」

「いや、だから、その……」

「あっ、私、乳液タイプの日焼け止め持って来たよ」

 

今度はアスナがバックの中から違うUVケア商品を取り出した。

オレが言いたかった「そっち」は日焼け止めがスプレータイプなのか乳液タイプなのかって問題じゃないんだけどなぁ、と中途半端な笑顔のキリトを置いてきぼりにして、これまた日焼け経験のないアリスが「おおぉ」と感心して二つの商品を見比べている。興味津々に顔を近づけてくる様子にお姉さん心を刺激されたアスナが優しく微笑みパカッ、と蓋を開けた。

 

「さ、アリス、腕をだして。塗ってあげるから」

「ならボクは背中の方をスプレーするよ」

 

しっかり者の世話好きが二人いるとこうなるのか、とされるがままに前後をアスナとユージオに挟まれたアリスが日焼け止めをコーティングされていく様を眺めながら半分感心するもののなんだか優等生同士、息の合う二人に知らずキリトの口がへの字に歪む。だがキリトからの複雑な視線に気付いていないアスナとユージオはせっせとアリスの肌に日焼け止めを塗布していった。

 

「うわぁ、アリスの肌すべすべ。無駄な脂肪はないのに程よくもちもちしてて…」

「なっ、ア、アスナだってそうでしょうっ」

 

その事実をアリスはいつ、どうやって知ったんだ?、とキリトの目がうんざり気に澱み総じて顔全体が「オモシロクナイ」を体現している。

 

「アリス、ムラ無くスプレーしたいから髪の毛を前で持っててくれるかい?」

 

背に垂らしていた黄金色の三つ編みをユージオに言われるがまま両手で祈るように持てば今度はアスナが「そのままちょっと腕をあげててね」と言って新たに手の平に落とした日焼け止め液を彼女の首元に優しく塗り込んだ。

 

「アスナっ、そこは自分で塗りますっ」

「いいじゃない。ついでだし女の子同士なんだから…このへんもちゃんと塗っておかないと」

「ひぅっ、ひゃぁぁっ」

 

かなり際どい胸元の谷間まで手を伸ばしたアスナはどこか楽しげにぺたぺた、ぬりぬり、を繰り返しており身動きが取れないアリスはピンッ、と背筋を伸ばしたまま持ち上げている自分の髪をぎゅぅぅっ、と握りしめて羞恥に堪えている。

その後、全てを諦めたのか借りてきた猫のように大人しくアスナに両足まで入念に日焼け止めを塗られたアリスは「はい、できあがり」と満足げに微笑むはしばみ色を合図のように瞳にキラーンと生気を戻した。

 

「次は私が塗りましょう」

「え?」

「だから、今度は私がアスナの肌に日焼け止めをくまなく塗りますっ」

 

さぁっ、とアスナの持つ日焼け止めを要求する手が真っ直ぐ伸びてきたかと思うと、横からひょいっ、と違う手がその容器を掠め取る。

 

「アスナにはオレが塗る」

 

日焼け止めボトルを巡って睨み合う二人にアスナは「もうっ」と困り笑顔で割って入った。

 

「ふたりとも……私は家を出る時に塗ってきたから軽く重ね塗りすればいいだけなの。背中の方だけ…ユージオくん、お願いできる?」

 

「もちろん」と柔和な笑顔で応じるユージオがスプレーの構えようとする前にキリトが素早く割り込み、アスナの背後から耳元に顔を寄せる。

 

「いいのか?、アリスの時みたいにうなじを見せると昨晩の痕がユージオにバレるけど」

「?、痕って……キっ、キリトくん!?」

 

何の事かと首を傾げそうになったアスナがキリトの言わんとする意味を悟った途端、発火したように頬を赤らめ振り返って興奮気味の口調ではあるものの声は潜めて鼻がくっつきそうな距離で眉を吊り上げた。

 

「っ私、ちゃんと言ったじゃないっ。水着を着るから考えてね、ってっっ」

「だからちゃんと考えたさ。どうすればアスナの水着姿に寄ってくる虫を追い払えるかなーって」

 

その返事を聞いて、くうぅっ、と奥歯を噛みしめ、声にならない息を漏らしているアスナの目に映っているキリトは至極純粋に真面目ぶった顔をしているが確信犯なのは間違いない。それならいっそアリスにスプレーしてもらおうか、とも思ったがアリスだと本当に純朴な気持ちで赤い痕を心配しそうな気がして「これは、どうしたのですか?」と問われればユージオもその声に反応するだろう。正直に答える事も出来ないし結局恥ずかしい思いをするのなら、とアスナは敗北を認めた。

 

「ごめんね、アリス。背中はキリトくんに塗ってもらうから、アリスはユージオくんの背中にスプレーしてあげたら?」

 

少々不満げな碧眼だったがユージオの「じゃあお願いしようかな」という声と共にカラカラと振られるスプレー缶が視界に入り、好奇心が宿る。初めてのオモチャを触る子供のようにワクワクソワソワしながら日焼け止めスプレーを受け取ったアリスは座っているユージオの背後に膝立ちになると「では、いきます」と神妙な声を出し噴射目標である背中を真剣に見つめた。

一方、素直にユージオの元へ移動してくれたアリスに、ホッと息を緩めているアスナの背の上は撫でるようにキリトの手が這っている。まるで昨晩の房事ような手つきに思わずふるり、と肩を震わせれば耳たぶを咥えそうな至近距離でキリトが「水着、前でおさえてて」と囁いてきた。

アリスと似た体勢で髪を前にしていたアスナが意味を問う間もなくうなじと背中で結んであった水着の紐がシュルリと解かれる。

背中全体をキリトの眼前に剥き出しにされたアスナは咄嗟に悲鳴を飲み込んだ。

幸いにもユージオは完全にアスナ達に背を向けた位置に座っているからこちらは見えないし、彼の背中に日焼け止めをスプレーするという任務に邁進しているアリスも気付いた様子はない。

そして白い柔肌に乳液を塗布している手が段々と両脇から前身へ移動をし始めている事に気づいているアスナが「これ以上調子に乗ったら思いっきりつねってやるんだから」と強い決意を抱いているのをキリトが思い知るまであとほんの少しである……。




お読みいただき、有り難うございました。
この世界線でOKなら次もどうぞ。


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短編・夏、だからかき氷!

時間軸的には前作の続きです。


「お待たせ、キリトくん」とギラギラ太陽の下でも涼しさをそよがせる声が耳に届いて、荷物番と称してビーチマットに寝転んでいたキリトは閉じていた瞼と一緒にガバッと起き上がった。

 

「サンキュー、アスナ。結構混んでただろ」

「うん。でも店員さんが手際よく作ってくれてたからそんなに待たなかったよ」

 

アスナの手は両方とも大きめの耐熱カップで塞がっていて、中身はこんもりと盛られたかき氷。それぞれ山頂は赤と緑に分かれており、彼女は緑に色づいている方をすいっ、とキリトに差し出した。

 

「はい。シロップはメロンでよかったのよね?」

「お、美味そう。今日はなんだかメロンの気分なんだ。アスナのは……イチゴか?」

「そうっ」

 

大事そうに自分のかき氷を両手で持ち直しキリトの隣に座ったアスナは真っ赤に染まっている氷部分を見て嬉しそうに微笑む。

 

「私、こういうの初めてなの」

「こういうの、って……かき氷を買ってそのまま外で食べるのが?」

「うん。夏になると話題のお店が紹介されてる動画とか食べた人がアップした画像は見るけど、そういうかき氷ってちゃんとした器に盛られてお店のスタッフさんが運んできてくれるし小さなデコレーションケーキみたいに見た目も豪華でしょ?」

「そうだな。値段も立派だし……贅沢なかき氷って感じだよな」

「あれはあれで食べてみたいけど、こんな風にシンプルに目の前で氷を掻いてもらって好きなシロップをチョイスして出来上がり、っていうのも手軽なファストフードっぽくていいなって」

 

幼等部から私立のお嬢様学校に通っていたアスナらしい感想だ。鋼鉄の城に囚われるまでは街中にあるハンバーガーショップにも数える程しか行ったことがなかったらしく……ただその数回の記憶だけで旧SAOでは自ら開発した醤油を使い和風ハンバーガーをキリトに振る舞ったのだから元来味覚が鋭いのだろう。

 

「あれ?、じゃあ、このいかにも、な人工甘味料のシロップも初めて?」

「出店のテーブルにね、シロップの入ったおっきなガラス瓶が種類別にどんっ、どんっ、って並んでて……どれもすごい色でちょっとびっくりしちゃった」

 

確かに屋台のかき氷シロップは強烈な蛍光色なので初めて見たのなら……と想像してアスナと同様に目を丸くしただろう一緒に買いに行ったはずの二人の存在を思い出す。

 

「で、ユージオとアリスは?」

「それが……ユージオくんはシロップを青色の『ラムネ』にする、ってすぐに決まったんだけどアリスがなかなか決まらなくて……」

 

アスナがちょっとだけ苦笑いをこぼした。

 

「私が一番先にキリトくんと自分の分を買っちゃったからユージオくんが溶ける前に持って行きなよ、って言ってくれたの」

「それでユージオはアリスに付き合って決まるまで待ってるわけか。ちなみにあと何味があったんです?」

 

うーんとね、とおとがいに人差し指を当てたアスナが記憶を掘り起こす。

 

「今挙げた以外にはレモンとブドウと……あとピーチにオレンジやマンゴーもあったかな」

 

それだけ種類があれば迷うのもわからないでもない、とキリトは軽く「へぇ」と呟いてから買ってきてもらった自分のかき氷を見た。とりあえず自分の正直な感情に従って「メロン!、なかったらレモン!」と第二希望までをアスナに伝えておいたのだが昨今は大衆向け海水浴場のかき氷と言えど随分とサービスが充実しているらしい。

 

「どうしたの?、他の味の方がよかった?」

 

緑色に染まっているかき氷の一角を見ていたらアスナが横から覗き込んできた。要望通りにしたのだから気にする必要はないのに少し不安にさせたのだと気付いて慌てて首を横に振る。

 

「そうじゃなくて……混ぜたらどんな味がするのなかぁ、って思ってさ」

 

途端に「え……」と表情が固まったアスナの顔が引くように遠のいていく。

 

「混ぜるって……何と何を?」

「そこは適当に色々と……」

 

味覚が敏感なだけに想像だけで何やらとんでもない味を口にしてしまったらしくアイドル級の顔が「うっ」と言う呻き声と同時にしかめっ面になった。

 

「昔、小さい頃、スグと家でやったんだよ。買ってあったシロップ全部かけてみよう、って言って」

「キリトくんのおうちにはかき氷器があったの?」

「ああ、小さい家庭用のが。夏休みの間はそれでかき氷作って自分達のおやつにしてたからなぁ」

「楽しそうね……それで結果は?」

「……数種類のシロップを次から次にかけたら氷がどんどん溶けて、もの凄い色になって、それでも一口食べたんだけどさ。かき氷に対してシロップの量が多すぎて甘いだけで味なんて全然わからなかった」

 

真面目なトーンで「今なら先に混ぜたシロップを用意するか、かける場所をきっちり分けてから全部の氷をすくって食べればよかったって思うけど」と改善案を告げるキリトにアスナは「はぁっ」と溜め息のような呆れ声を落としてから「溶けちゃうから食べよ、キリトくん」と持っているかき氷にささっていたスプーンを手にする。

まずはてっぺんからが王道だろうと二人揃って山頂をすくって口に運んだ。

 

「んーっ、冷たいっ」

「やっぱり夏はこれだな」

 

一瞬で溶けてしまったが口の中にはシロップの甘さと氷の冷たさが残ってそこだけ太陽の熱が届かない別世界のようだ。一口味わえば止まらなくなり二人はしばらく夢中でかき氷を食べ進めた。

互いに中身が半分ほどになった頃、アスナがちらちら、と自分のかき氷を見ているのに気付いたキリトが不思議に思い首を傾げる。

 

「どうした?」

「へっ!?…えっと…あのね……キリトくんの方、どんな味かな、って……」

 

初めて食べるチープなかき氷だ、アリスほどではなくても他のシロップに興味があったのだろう。ラグーラビットの時みたいに「はんぶん」を主張できる理由がなかったからか「一口ちょうだい」を気軽に言い出せないところが育ちの良いアスナらしい。

彼女の目前に「かなり水になっちゃってるけど……」とかき氷の入ったカップを向ければ「わぁ、ありがとう」と言う嬉しそうな口元が視界に入ってキリトは動きを止めた。

 

「アスナの舌、真っ赤っかだな」

「えぇっ?!」

「多分オレの方は緑色になってる……だろ?」

「うわっ、どうしたの!?、その色!!」

 

んべ、と舌を出して見せれば案の定はしばみ色が大きく見開かれ驚きと気遣いが半々になっている。

 

「この手のシロップは色が舌についちゃうんだ。緑色のシロップがかかったかき氷を食べたから緑に……でも赤は一番違和感ないと思う」

「それじゃあユージオくんがかき氷を食べたら……」

「舌が青色になる」

 

……見てみたい気もするが見たら間違いなく噴き出してしまいそうだ。

 

「でもこの色、どうやったら落ちるの?」

 

いくら舌の色に近い赤色とは言え染まっていると知れば変に意識してしまい口の開き方もぎこちなくなる。それにまだかき氷は残っているのだ、食べれば食べた分色が濃くなってしまうのだろうか?、とアスナはカップの中に視線を落とした。

隣では曖昧な笑顔のキリトが自分の経験を語る。

 

「残りのかき氷を食べても舌に付く色はたいして変わらないよ。口をすすいだ程度じゃ落ちないけど普通に食事とかすればいつの間にか落ちてたなぁ」

 

と言う事は今晩の夕食をとるまで色づいた舌のままらしい。アスナはちょっと考え込んでから「うんっ」と勢いよく頷いた。

 

「これも海水浴の思い出のひとつよね」

 

初めてに戸惑いはしたもののよほど理不尽な事柄でなければアスナは受け入れると知っているキリトが改めて「で、こっちも食べます?」と再度自分のかき氷を彼女の前に差し出す。

 

「……でも、キリトくんのを食べると私の舌は……」

「赤緑色になる、かもな」

 

一口程度ではほとんど色などつかないと思うが、食べてみたい好奇心と舌に違う色が混ざる事への躊躇に挟まれているアスナが面白くてつい意地悪な言い方になってしまったキリトに更なる疑問が投げかけられた。

 

「この舌って色だけ?、味もついちゃったりしてない?」

 

……さすがにそれはないと思うが、…と言うか実はこういう蛍光色のシロップは香料が違うだけで実は全て同じ味らしいし、そもそも味を感知するための器官である舌自体の味を確かめる方法なんて……とそこまで考えて、何を思いついたのかニヤリと微笑んだキリトが今度はずずっ、と自分の顔をアスナに寄せる。

 

「確かめてみる?」

「ふぇ?」

「オレの舌がメロン味になってるかどうか」

「ど、どうやって…」

「アスナがオレの舌を舐めればわかるだろ?…ほら」

 

んべ、と舌を出す所作は先程と同じはずなのに纏う空気は夏空の爽やかさとは正反対で、アスナを見つめる深黒の瞳は陽光以上の熱を帯びている。

 

「え、でも……」

「パラソルで周りからは見えないし、早くしないとユージオ達戻って来るぞ」

 

それに互いの舌を摺り合わせるなんて今までも、なんなら昨晩も散々溺れた行為だし、と胸の内で付け足して、それでも尚こんな状況を利用してまで彼女を求めてしまう自分に軽く自嘲しつつ「ほら」と最後のひと押しをすれば、ゆっくりと距離が縮まり好奇心に負けたアスナの舌先が、ちょんっ、と触れてくる。

くすぐったいようなじれったいような、恐る恐るといった舌の動きに「本当に味見のつもりなんだな」と可笑しくなるが、そこがまたアスナらしくて、結果、余計にキリトを煽っていることに本人は気付かない。

だいたいそんな先っぽが僅かに触れる程度では味など分かるはずもなく、それでも恥ずかしさを我慢している涙目のまま何度かペロペロと試みても納得も出来ずにこれでもかと両方の眉尻が下がってしまえば、キリトの方も段々と物足りなさが募りプツリ、と何かが切れる。

いきなり放り投げる勢いでかき氷のカップをビーチシートの上に、自由になった手をそのままアスナの後頭部に回して「オレも、アスナの味見させて」と剥き出しになっている真っ赤な舌を己の舌で押し戻しながら唇ごと食らいつけば、互いに擦り絡め合って舌の色が元に戻った頃、それぞれのかき氷はすっかり色水となっていた。




お読みいただき、有り難うございました。
「ウラ話」は次回まとめて。


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短編・夏、すぎたけど虫?!

すみませんっ、投稿ペースが乱れに乱れております。
只今立て直し中なので……気長に待っていただけると。
お茶でも飲んで……あ、お茶請けに短編、置いておきますね。


カレンダーの日数的には長かったが、体感的には短かった夏休みも終わり、まだまだ「夏」と称して差し支えない気温でも容赦なく学校に通わなくてはならなくなってから半月ほどが経った頃、その日は朝からなんとなく和人の周辺がザワついていた。

特に身に覚えもない為放置していたが、クラスメイトはもちろん休み時間に教室を出れば廊下でもチラチラと視線が絡んでくる。さすがに顔をどうにか覚えている程度の生徒にまで盗み見るように意識されれば理由が気になってくるが、さりとて挨拶すら交わした事のない生徒に問いかけるほどのコミュ力もない。

だから和人は急いで教室に戻り自分と同じ『ネットワーク研究会』に所属している佐々井を捕まえた。

 

「佐々、オレ、なんか皆から見られてる気がするんだけど」

 

これが誤解だったらとんだ自意識過剰くんである。ところが佐々井は少し目を丸くして「ほぉっ、思ったより早く気付いたな」と逆に感心したような顔で、和人の肩に、ぽんっ、と手の平を置いた。

 

「カズ、お前昨日の日曜、姫と会っただろ」

「うん、まぁ。けどなんで知ってるんだ?」

 

会ったと言っても一緒に出掛けてたわけではなく、和人以外の人間が全員留守にしていた桐ヶ谷家で、いわゆるお家デートというやつだったのだが……それをなぜ佐々井が?、と言うかそれが視線の原因ならクラス中、いや学校中が昨日、アスナが家に来た事を知っているのか?、と若干頬が引きつれる。

 

「まあな、俺はカズがどういうヤツか知ってるから今更驚きも何もないけどさ。そうじゃないヤツからしたら意外なんだろうな」

「さっぱり話が見えない」

「だからカズって一見大人しそうって言うか優しげな雰囲気だろ」

「いや自分じゃそういうのわかんないけど」

「あの鋼鉄の城でソロプレイヤーだったのは結構知られてるから、モンスター相手の戦闘だとスゴいんだろうなとは思われてても……うん、まぁ、これ以上は俺の口からはちょっとな」

「おいっ、最後まで言えって」

「ちなみに今日の昼は姫と食べるのか?」

「ああ」

「ならその時わかるって。でも……ほどほどにしとけよ」

「だから何がだよっ」

 

結局肝心なところは何も分からないまま「あ、先生来たぞ」といつの間にか授業時間に突入していた事に気づかされて渋々席に戻った和人は昼休みに入った途端明日奈との待ち合わせ場所へダッシュしたのだった。

 

「あれ?、キリトくんの方が早いの、珍しいね」

「よ、アスナ。ちょっと相談って言うか気になってる事があってさ」

「ふぅん。ならお昼食べながら聞くから早く行こ」

 

促すようにいつもの昼食場所である秘密の庭へと足を向けた明日奈の後ろ姿を見た和人は「あっ」と何かに気付いたように彼女の肌の一点を見つめた後、納得と脱力を混ぜ合わせた声を「あぁぁ」と落とす。

 

「えっ?!、なに?、どうしたの??」

 

驚いて振り返った明日奈に「謎が解けた」とだけ伝えて二人きりになれる場所へと到着しても腰を落ち着かせていつものように彼女から弁当を受け取れば問題の説明よりも本能的な食欲がそれを上回ってしまう。

とりあえず空腹が収まるまで話は後回しなのね、とその食べっぷりから察した明日奈もクスっ、と笑ってから昼食を口に運び始めた。しばらくすると「ふぅっ」と言う満足げな吐息の後に「ご馳走様でした。今日も美味かった」と幸せそうな笑顔がこぼれている。

 

「よかった。それで、さっきの相談?、て言うか謎?、ってなぁに?」

「そうだった」

 

和人より少し遅れて弁当を食べ終えた明日奈が片付けをしながら問いかければ、そのまま午睡に入ってしまいそうな顔が慌てて引き締まった。

 

「アスナ…左肘の少し上のとこ、赤くなってる」

 

指摘されて急いで腕をひねってみるが制服の半袖からちょっと下の微妙な位置で鏡がないとしっかりと確認できない。ならば、と右手で触ってみればなるほど微かな違和感があった。

 

「虫刺され…かなぁ。全然気付かなかったよ」

 

本人がそう言うのなら明日には消えてしまうくらいの些細なものなのだろう。ただ彼女の肌が薄く透明感のある乳白色なだけに小さな赤も際立ってしまい……

 

「で、だ。今朝からその赤みに気付いた生徒達が、その原因がオレだと思ってるらしい」

「え?…………ええーっ!!」

 

言わんとしている事を理解した明日奈の顔が一気に腕の赤みよりも赤くなる。

 

「こんな理不尽なことってあるか。アスナから散々制服で隠れないところはダメだって言われていつも我慢してるのに」

 

むぅっ、と本気でむくれている和人だが当の明日奈はそれどころではない。

和人の話が本当なら自分は気付かないまま朝から周囲に誤解を生み続けていた事になる。思い返せば教室で「おはよっ」と背後から声を掛けてきたリズの視線もなんだか生温かかった。

なんで教えてくれなかったのよっ、リズぅぅ……と親友をちょっと恨みながら明日奈は「そうだっ、絆創膏っ」とひらめいた後「教室の鞄の中だった……」と項垂れている。

この昼休み中に保健室に貰いに行ってもいいが、それはそれで新たな誤解者を増やしそうで怖い。

 

「それにオレだったらもっとちゃんとやるし」

 

ちゃんと、ってなに?……なんて疑問は口にしちゃダメなやつだ。

赤みの理由における周囲の勘違いについては和人も明日奈と同様、被害者側のはずなのに不機嫌の理由に全く同意出来ない。

そして更に追い打ちを掛けようというのか、どうすればいいの?、と一人で盛大に悩んでいる明日奈の耳に隣からトンデモ発言が飛び込んで来た。

 

「今ならオレの方にアスナが付けた痕があるのにな」

 

そう言って左胸の心臓より気持ち上をシャツ越しにトン、トンと叩けば明日奈の全身がびくッと震え次には一瞬で発火して深紅に染まる。あわあわと目を回しながら「だって」とか「それはっ」とか意味を成さない言葉をぽろぽろ零している姿を眺めつつ和人は昨日の光景を思い出して意地の悪い笑顔になった。

別に昨日はそういう行為が目的で明日奈を自宅に招いたわけではなかったのだが、彼女に助けられながら提出期限間近の課題をやり終えた開放感とその後旧SAOのログハウスで過ごした二週間の濃厚な思い出話を交わした流れで二人の間に流れる空気が徐々に甘くなり自然と唇が重なって……離れた時には呼吸も荒くなっており、そんな息の仕方でさえ和人を煽るには十分で、そのまま己の唇を細い首筋に埋めようとした時だ、明日奈から『ダメ』を言い渡されてしまったのである。

 

『痕…つけちゃ……』

『ここなら大丈夫だろ。アスナ、制服着崩したり…しないから』

『でも…』

 

いつもなら流されてくれるのに服で隠れる場所さえむずがる理由はまだキスをしただけだから十分に理性が残っているのだろう、とは推測できるものの和人のスイッチは入ってしまっている。それでも彼女が本当に嫌がる事はしたくなくて懇願するように『アスナ』と熱っぽく名を呼べば酸欠で潤んだ瞳のすぐ上には細い眉の端が困ったように垂れ下がっていた。

 

『あのね…思い出しちゃうの』

 

出来れば打ち明けたくない話なのか、遠回しな言い方に無言で和人が小首をかしげると、少しずつ明日奈の口から言葉が押し出される。

 

『お家で…着替える時、とか……あの…鏡で…見えちゃうし』

 

ああ、なるほど、と今度は軽く頭を上下させた。要は自分の身体に散っている紅痕で、付けられた時の情景が赤裸々に脳内再生されてしまうと言いたいのか、と気づき嫌がられているわけではないのだと安心して「ふっ」と息が漏れた。

 

『っ、笑わないでっ……ホントに、本当に…恥ずかしいんだから』

 

別に笑ったわけじゃないけど、と弁明するより自分の独占欲を抑えきれないせいで付けてしまう痕が、明日奈が家に帰った後でも思い出して貰えるきっかけになるなら常に傍に存在しているようで嬉しさが勝る。

けれど明日奈としては自分の羞恥心が軽んじられていると受け取ったようで、しばらく俯いていた顔が持ち上がってみるとそこには決意を秘めた瞳がやる気でみなぎっていた。

 

『だったらキリトくんに付けてあげるっ』

『へ?』

『そうすれば恥ずかしい私の気持ちわかるでしょっ』

 

ちょっと待て、アスナがオレの肌にキスマークをつける?……今夜風呂に入る時、鏡に映った痕を見たってニヤけるしかないけど……と妙な方向に狼狽えている和人をキスマークへの戸惑いと勘違いした明日奈の行動は早かった。『ほらね。肌に赤い痕があるって困るのよ』と言いながら和人のシャツのボタンを二つほど外して『この辺なら制服で見えないかな』と素早く唇を押し当てる。

開いたシャツを握りしめながらしばらく、んむっ、んむっ、と一生懸命上唇と下唇を動かしている様子に和人があっちこっちむず痒くなってくるのを必死で我慢していると、息が苦しくなったのか『ぷはっ』と明日奈が顔をあげ、同時に予想していたような痕が付いていない事に再びへにょり、と眉尻が下がった。

 

『……なんで?…』

『アスナ、もっと強く吸い付かないと』

『……そんな事したら、キリトくん、痛くない?』

 

痕を付けられる側の気持ちを分からせるためなのに気遣いをみせる明日奈の言葉に和人は黙って目を閉じ斜め上を向く。

これ以上彼女から何かを聞かされたり見せられたりしたら色々と止まらなくなる自信しかない。

けれど明日奈にしてみれば顔すら合わせてくれなくなった理由は全く不可解で、『キリトくん?』と心配げに呼ばれれば応えないわけにはいかず……和人は観念して視線を下げた。

 

『オレは…その、毎回アスナに痛い思いをさせてるわけなんだけど……』

『…………うん。でも……嫌なわけじゃないの……ただ、やっぱり恥ずかしいの』

 

嫌ではない、と言質を取った和人が内心でガッツポーズを決める。

それに鬱血痕は所有欲の証だ。明日奈から言葉では『私はきみのものだよ』と貰っているが、それが目に映る形で自分の肌に刻まれるなら見て見たい、と和人は囲い込むように彼女の小さな頭を抱きかかえた。

 

『オレもアスナにされるなら嫌じゃないから、もっと思いっきり吸っていいよ』

 

……という経緯で今現在和人の肌にはひとつだけ明日奈が付けたキスマークが赤々と存在するのである。彼女の目論見通り、その痕を見て和人が羞恥心で身悶える……などという事は一切なく、逆に痕を付けた側の明日奈がそれを見て『もう絶対やらないからっ』と羞恥に震えていた。

ご機嫌を損ねてしまったので昨日だけは彼女の肌に朱を散らすのは控えたのだが……オレがやったんじゃないのにオレのせいだと思われるなら、もう我慢しなくていいんじゃないか?…などと不埒な事を和人が考えてるのを明日奈が知るのはもう少し先の話になる。




お読みいただき、有り難うございました。
ちうぅぅっっっ、って一生懸命吸ってる明日奈さん
可愛いかもしれない


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〈UW〉ネーミング・センス

いつもの日より一日遅れの一時間遅れでお届けです。
キリトとアスナがアンダーワールドに残ってそれほど月日が経っていない頃の
お話です。


キンッ!……キンッ!……ッキーンッッ

 

硬質な何かが鋭くぶつかり合う音が広範囲に響き渡る。

その音源に誘われるように白亜の塔にいた神聖術師や騎士達は次々とセントラル・カセドラルの前庭広場に足を向けた。

……と、そこには真っ黒な疾風と真っ白な疾風が間合いを取りつつも時折更に速度を上げ磁石で引き寄せられるように衝突し、その都度彼ら彼女らの耳に届いた高音質な打撃音が打ち鳴らされれば、一拍遅れてもの凄い風圧が襲いかかってくる。

 

「……え?、なに?」

 

爆風に乱れる髪を押さえ、その場に踏ん張るように上体を前傾姿勢にした騎士が目を凝らした。

二つの疾風がザッと急制動をかけて距離を取って向かい合ったまま動きを止めると、ようやくそれらが人の形をしていたのだと認識する。

 

「代表剣士様と副代表剣士様!?」

 

そう、その二人は方や黒を基調とし修剣士のデザインと酷似した黒衣を纏っている人界統一会議の代表キリトともう一人は正反対の色をまるで女神のごとき優麗さで身に包んでいる副代表のアスナだった。

互いに己の剣を構えたまま、静かに相手の出方を覗っている。

 

「あれだけの打ち合いをして全く息が上がらないのはさすがね」

 

少し離れた場所で独り言のように小さくつぶやく声の主は整合騎士団団長のファナティオ・シンセシス・ツーだ。そして彼女の元に二人の少女が駆け寄ってきた。

 

「ファナティオ様っ、これはいったい…」

 

整合騎士を目指し見習いとしてセントラル・カセドラルで生活しているロニエ・アラベルとティーゼ・シュトリーネンである。元々、北セントリア修剣学院で傍付きをしていたからだろう、普段は比較的キリトの周辺にいる彼女達だが今、目の前で行われている事態は知らされていなかったらしい。

 

「よく見ておきなさい。整合騎士と同等かそれ以上の剣士二人の研ぎ澄まされた剣技を」

 

整合騎士が整合騎士たる所以は神器とも呼ばれる唯一無二の武具を使い武装完全支配術を扱えるかどうかだ。そこに到達する為に剣士としての剣術が優れているのは当然だが相手が強ければ強いほど剣技のみで戦うことはまずない。

けれどキリトもアスナもひたすらに剣だけを振るい相手を打ち負かそうとさっきから斬撃と刺突を繰り返している。

 

「互いに技を出そうと思っても出せないのよ」

 

珍しくファナティオの顔に無邪気な笑みが花開いた。

 

「代表殿が技を発動させようとすれば素早く副代表殿が切り込み、逆もまた然りであの重い剣を受け止めた後ではすぐに技の初動に入れず、結局お互い純粋な打ち合いになってしまうのね」

 

多分、だが剣技のみという取り決めを事前に交わしているらしく、それが証拠にキリトは心意で何かしらの攻防をする事はく、アスナの方も固有能力の《無制限地形操作》を試みる様子はない。加えて二人とも術式を唱える素振りすらないのはロニエとティーゼにも察せられた。

黒と白の回旋曲のごとき戦いを眺めながらファナティオは口元に笑みを浮かべたまま懐かしげに目を細める。

 

「代表剣士殿と私が初めて剣を交えた時も連続技の応酬になったけれど……これはこれでまた見応えがあるわね」

「どういう…意味でしょうか?、ファナティオ様」

 

ほんの一瞬だけ二人の剣戟から目を離して騎士団長に問う。

 

「初戦の場合、とにかく相手の動きを封じるために己の剣速を上げるわけだけれど、あの二人の場合は互いの考え方や戦い方の癖、次の動きが予測できてしまうのね。早さよりもタイミングを重視して封じ込めに行ってるから……」

 

可笑しそうに手を口に当て「あれでは決着がつくかどうか」と笑っている隣では騎士見習いの二人があんぐりと口を開けていた。

 

「ウソ、あれで……速度を抑えてるなんて……」

「私、お二人を目で追うのがやっとで剣先なんて全然見えてないのに……」

 

もしも初対面であの二人のどちらかと相対すれば自分達は更なる神速の剣を浴びるというのか……。

ゴクリ、と唾を飲み込み、畏怖とも憧憬ともとれる瞳でこの世界の最高レベルと言って間違いない剣技に釘付けになっている少女達の顔を今度はファナティオがチラリと見遣る。

この二人は己が女だからという理由で剣勢に迷いが出ることはないのでしょうね……と、かつて女である呪縛に囚われていた自分を思い出し、続けてキリトの言葉が脳裏に浮かんだ。

 

『あんたが女だからって手を抜く気はさらさらないぜ、これまで何度も女剣士に負けてるからな!』

 

言い放ったキリトの顔は真剣そのものだったが、声にはどこか切なさが滲んでいたのを覚えている。今まではその負けがよほど悔しかったのかと思っていたが、こことは違う世界からキリトを追ってたった一人でやって来たと言うアスナに再会してからはそんな声を聞く機会もなくなったので……つまりはそういう事なのだろう。

広間に集まった衆人は比翼の舞にも見える息の合った剣戟の行方をただ見つめるしかないが、その剣舞の使い手達の表情を捉える事が出来るファナティオ以下、高位の剣士や術師達には二人の口元が興奮と喜びの形を成していると気付く。

キリトの黒衣の裾が翻り、アスナの髪に結ばれた白いリボンが揺らめく。《夜空の剣》を持つ手を斜め前に伸ばし狙いを定めたキリトが、カッと地を蹴ると同時にアスナもまた体重を乗せた踏みだしで初速を最大限に引き出し《ランディアンドライト》を真っ直ぐに突き出した。

何度目かわからない剣と剣がぶつかり合う高い金属音が二人を遠巻きに囲んでいる全員の耳を痺れさせる。

遅れてやって来るのは剣圧に押し出された空気で、それが分厚い塊となって二人を中心に円を広げた時だ、前庭の手入れの為に置いてあった空の荷車が堪えきれずにガタリッと横倒しになりそのままズズーッと押し流される。

そして運悪くその先にいたのが必死に諸々の圧から身を守ろうとしていた小柄な見習い術師の少女で……彼女は自分に迫ってくる荷車の存在にも気付かずに背を丸め頭を抱え込んでいた。

 

「あぶないっ!」

 

それに気付いたアスナが身体を反転させて流星のごとき早さで駆け出し荷車よりも先に僅差で彼女の元に辿り着く。とは言え勢いを付けた荷車はすぐ目の前だ。見習い術師の少女の身を庇おうと彼女に覆いかぶさった時、バンッ!!、と大きな衝突音が耳の脇で破裂した。

何が起こったのか分からず大きな破壊音に思わず身体を縮こませたが足音と共に飛んで来た「アスナっ」という声にゆっくりと顔を上げてみると、視界いっぱいにキリトの作り出した心意の手が大きく大きく広がっている。

 

「キ…リトくん……」

 

荷車が完全に止まった……と言うより見事に破砕されたのを確認して半透明の巨大な手は消え、代わりに駆け寄ってきたキリトが片膝を突いて心配そうな顔を寄せてきた。

 

「ケガはないか?」

「…うん」

「ったく、いきなりもの凄いスピードで飛び出していくから焦ったよ……《無制限地形操作》が間に合わなくてもオレの心意でなんとでもなるのに」

「……だって、今日の手合わせは剣のみ、って約束だったでしょ。だから、つい……」

 

咄嗟の事で考えるより先に身体が動いてしまったらしい。

落ち着いてみれば少女の身代わりに荷車に衝突される状況だったのだと気づきキリトの焦り顔を見て「ごめんね」と謝罪が自然と声になった。

もしアスナがケガをしても自分で直ぐに元通りに治せるのに、とか、キリトがヒールすればいいのに、なんて考えはこの二人にはない。たとえ一瞬でも相手が傷を負う事はお互い自分の身以上に心が痛くなるのを知っているからだ。

 

「普段はオレより冷静なのに……そういうとこ、変わらないよなぁ」

 

これまでのどの出来事を指しているのか…いくつか身に覚えがあるアスナが「うっ」と唇を凍らせると、それをほぐすように優しくキリトの指が頬を撫でる。

呆れているような、諦めているような、それでいて嬉しそうに目を細めながら触れてくるので、きっと「そういうとこ」は変えなくてもいいのだとアスナもまた口元を緩めた。

飽くことなく柔らかな頬に指を滑らせているキリトとそれを嬉しげに受け入れているアスナの二人の姿に居たたまれなさを覚えた衆人達が徐々にその場から離れて行く。そして最後に残されたのはファナティオから「後はよろしくね」と事後処理当番を任命されたロニエとティーゼだ。

どっちが声をかけるのか、互いに肘で突き合っていると未だアスナの身体の下にいた見習い術師の少女が真っ赤な顔でこちらを見ている。まずはそっちからね、と二人は並んで少女の前に両膝をついた。

 

「大丈夫ですか?」

 

キリトとアスナが守ったのだからケガはしていないと思うが、それにしてはさっきから必死に口をパクパク動かしている。

少女に代わって反応を示したのはアスナだ。

 

「あっ、ごめんなさいっ。ずっと抱きついちゃってて……苦しくなかった?」

 

我に返ったように、パッと少女から離れると、すかさずキリトが手を差し出してくれる。その手を取って立ち上がり振り返れば、少女もロニエとティーゼの手を借りて起き上がったところだった。

 

「ああああ、有り難うございましたっ、副代表剣士様っ」

 

ポッキリと身体を折って頭を下げている姿は元気そのもので、ほっ、と安心したアスナが「こちらこそ、怖い目にあわせちゃって……」と言っている間に少女は脱兎の如くその場から逃げ出していく。

「え?」と戸惑いにその必死な後ろ姿を呆然と見送ってしまえば騎士見習いの少女二人がウンウンと納得の顔を振り動かした。

 

「私達ほどアスナ様に免疫がないんです」

「私達みたいにお二人の親密ぶりへの耐性がないんです」

 

総括するとステイシア神の降臨とも言われているアスナに密着され、その彼女を愛でる代表剣士キリトとの雰囲気にあてられ、とてもではないがこれ以上この場に留まっていられなかったというわけだ。

ただアスナ自身はティーゼとロニエから説明を受けても「そうなの?」と首を傾げている。キリトと違いこの世界にやって来てまだ日も浅く、加えてログイン時に上空から降下しながら創世神の固有能力を使ったせいか、恭しい態度で接してくる人がほとんどで下位騎士や見習い術師からは遠巻きにされがちなのだ。

嫌われてはいないとわかっているが、もっと気軽に話したいのに、とちょっと寂しそうな顔のアスナを見てロニエはそそっ、とキリトに近づいた。

 

「キリト先輩、リアルワールドのアスナ様ってどんなお姿なんですか?」

「どんな、って……まったく同じだけど」

「同じ……」

「創世神ステイシアのスーパーアカウント…って、あー、……えーと、……なんて言えばいいかな。ステイシア神の人形(ひとがた)にアスナの魂を入れた?……そんな感じだから」

「でもお姿はアスナ様なんですよね?」

「ああ。頭のてっぺんから足のつま先までフルトレース……じゃなくて完全再現されてる……髪の毛がちょっと長いかなぁ」

「違いは髪の長さだけ……」

 

念を押すような声にキリトは無言で首肯する。反して予想外の答えを得たロニエと二人の会話を聞いていたティーゼは改めて驚きの目でアスナを見た。絵画から抜け出してきた女神そのものだと噂されている美貌はアスナ本来の姿だと証言されたわけで、先の異界戦争で空から降臨した時のアスナの御業やその剣技を目にしていない者達にまで敬遠されているのはその人間離れした容姿に起因している所が大きいのだが……なるほど、元々の姿なら本人はあまり意識していないのかもしれない。

 

「……もしかしてアスナ様ってご自分の容姿がどれほど相手を緊張させるか気付いてないんですか?」

 

今でも不意打ちでアスナから距離を詰められると思わず心臓が跳ねてしまうキリトが照れ隠しのようにぽりっ、と頬を爪で掻く。

 

「そうかもな。自分に視線が集まる事に慣れきっているというか……」

「うわぁ……」

 

アスナの人となりを知らなければ高慢な人物像を描きそうな発言だが、彼女の場合はその外見の他に上品な所作であったり、慈愛の籠もった笑みだったりが付加されてよりいっそう周りの目を惹きつけてしまい、当然それも本人は意図して行っているわけではないから始末に負えない。

自制して下さい、って言うのもへんだし、そもそも自分達だってアスナに好意はもちろん尊敬や憧れを持っているので二人は互いの顔を見て頷き合い、アスナの前へと移動した。

 

「見習い術師って結構忙しいんです、アスナ様」

「気になるようでしたら、後で私達が様子を見に行って来ますから」

 

私達なら目の前に二人並んで立ってもかの見習い術師の少女が緊張する事はないし、と少しだけ遠い目になる。そんな二人の気遣いに笑みを取り戻したアスナは「ありがとう、でもいいの」と謝絶を口にした。

 

「私がまだ《セントラル・カセドラル》に馴染んでないからなのよね」

 

アスナ様がどれほど馴染まれても、こちらはその可憐さに慣れる気がしませんけど……と思っていたところにキリトが口を挟む。

 

「そうそう、それで剣の方はどうだ?」

「うーん。こっちもまだね。もうちょっとって感じかな」

 

いつの間にか鞘に収まりその細腰に寄り添っている《ランディアンドライト》へと視線を落とすと、キリトもまた剣を見つつ顎に手を当てて「うーん」と唸った。

 

「アスナが今まで使っていた剣よりちょっと大振りだもんな」

「うん。だから今ひとつ感覚が掴みきれなくて……でもかなり使いこなせるようになってきたよ」

「ちょっと削ってみるか?」

「えっ?!……できるのっ?」

 

だってこれ、《創世神ステイシア》の標準装備だよ?、と目で訴えているとキリトの口の端が悪戯っ子の形になる。

 

「北セントリアの第七区に腕の良い金属細工師がいるんだ。オレの剣を一年かけて作成してくれた人で…」

「い、いちねんっ!?」

「だけど剣にするまでに黒煉岩の砥石を六枚もすり減らしたからって、ずっとオレの事《キリ坊》って呼ぶのは勘弁して欲しいけど」

 

実に不本意だと顔をしかめているが、その細工師の心安い意趣返しだとわかっているのか口元は弧を描いたままだ。キリトに対して親しみを込めた呼び名を口にしている自分の知らないアンダーワールド人に興味を抱いたアスナははしばみ色の瞳を輝かせる。

 

「……剣はこのままでいいよ。だいぶ慣れてきたから。でもその細工師さんには会ってみたいな。他にも、北セントリアにはキリトくんがお世話になった人達がいるんでしょ?」

 

北セントリアはもちろんキリトが親友と一緒に巡った場所は全部行ってみたいと前々から思っていた。その工匠のように、多分彼の無茶無謀に振り回されたのは一人や二人ではないだろうから感謝と謝罪を伝えたいし話も聞きたい、とアスナは目の前の少年が本当にこの世界でたくさんの人達と関わりながら二年間を生きていたのだと実感する。

 

「まぁ、アスナがそのままでいいって言うなら……そうだな、今のままでも全然勝てる気がしないし」

 

確かに先程の手合わせでも手を抜いていたとは思えなかったし、結局勝敗もつかずで終わってしまった。

それなのにキリトの言葉にアスナの頬は不満げに膨らむのだ。

 

「そんな事言って…キリトくん、剣一本しか手にしてないしっ。私、デュエルで負け越してるのキリトくんだけなんだよっ」

「だったらオレだって、勝率が一番低いのアスナだぞ。それにアスナの方こそ十一連撃使ってないだろ」

 

妙な言い合いに発展してしまった二人の姿が視界に収まる位置に立っていたロニエとティーゼはこの不毛な口論を止めたくて「あのぅ」「えっと」とおずおず声を発した。このまま黙って聞いていたら結局「私よりキリトくんの方がすごいもん」とか「オレよりアスナの方がすごいって」みたいな犬も食わないヤツになる確信があるからだ。

 

「そうだっ、アスナ様の十一連撃ってどうやって習得されたんですか?」

「あ、それ、すごく聞きたいです」

 

問われて途端に声の勢いをなくしたアスナは代わりにふにゃり、と寂しげに微笑んだ。

 

「その技はね、《マザーズ・ロザリオ》っていう名前で、私の大好きな友達から受け継いだものなの」

「《マザーズ・ロザリオ》……優しい響きの技なんですね」

「ならアスナ様はその方から剣を習ったんですか?」

 

しかし今度もアスナは静かに首を横に振ってから、どこか遠くを眺める。

 

「私に剣の持ち方を教えてくれたのは……学校の友達だったな」

「学校……」

「私達やキリト先輩がいた修剣学院のような所ですか?」

「そういうのとはちょっと違うと思うけど、最初の構え方や振り方は彼女からで、でも剣士じゃなかったから……ちゃんと剣を教えてくれたのは…………うん、キリトくんだよ」

「えっ?!、キリト先輩がアスナ様に剣の指南を?!」

 

その結論を聞いて慌てだしたのはキリトだ。

 

「ちょっと待ってくれ。別にオレが指導したわけじゃ……」

「だったらアスナ様も私達と一緒ですねっ」

 

キリトの否定を照れ隠しか何かと思っているのか、見習い剣士の二人は「わぁっ」と顔を喜び一色に染めるが、その反応にアスナが、はて?、と首を傾げる。

 

「一緒、ってなにが?」

「キリト先輩から剣を習ったならアスナ様の剣術も《アインクラッド流》なんですよねっ」

 

アスナの頭の中で聞き慣れた、それでいて聞き慣れない単語が木霊した。

 

アインクラッド流、アインクラッド流、アインクラッド流……

 

高速で、がばッ、とキリトの襟元を両手で掴むと同時に顔を引き寄せる。ちなみに引き寄せた顔は悪戯がバレたのかバレていないのか判断できず反応に困っているどっちつかずな感じで若干引き攣っていた。

純粋に喜色を放っているロニエとティーゼを気遣い、小声ではあるが鋭い声がまっすぐ突き刺さる。

 

「どういうこと?、キリトくん。アインクラッド流ってなあに?」

 

笑顔が全く笑っていない。

これはあれだ「怒らないから言ってみて」って正直に話したら怒られるやつだ、と本能が告げているが誤魔化す方法も思いつかないので正直に小声で答える。

 

「この世界には剣術に流派の名前が付いてるんだよ。でもオレのは独自だから…」

「それで《アインクラッド流》って名乗ったの?」

 

至近距離なので可動域が狭く、微かに頷くキリトの顔はどことなく自慢げで、本人がかっこいいと思っているのが分かりアスナは言葉を失った。

まぁ、悪くはない。悪くはないけどちょっと直接的すぎやしないだろうか?……何と言うか「私だったら違う名前にしたかも」と思いつつアスナはふぅ、と息を吐いた。それでもSAOにログインする前から他のゲームでも剣士としてプレイしていたキリトが自分の剣術をアインクラッド流だと言うのなら、それに自分と出会った特別な場所の名前ならアスナに否の気持ちは生まれない。

それでも素直に自分も《アインクラッド流》だと認めるのは面白くなくてアスナはキリトから一歩分離れてから意味ありげに「ふーん」と唇を窄ませた。

 

「キリトくんは《アインクラッド流》なんだぁ」

「あれ?、アスナ様は違う流派なんですか?」

 

驚いて問いかけてくるティーゼに「どうしよっかなー」という目で人差し指をおとがいに当てて首を傾げているとキリトの唇がわなわな震え出す。

 

「え?、アスナ?、アスナさん?」

 

この世界では流派が違うと何かと対立が起こりやすいのだが……修剣学院で己の流派に対する誇りと絶対的な自信を持つ者同士のもめごとに何回も巻き込まれていたキリトとしては自分とアスナが違う流派に属するなんて事態は本能的に拒否感が膨れあがる。勝手に流派の名前を決めたのは悪いと思うがあの場にアスナはいなかったし、咄嗟に口から出てしまったのが「アインクラッド」で……とにかく言い訳と言うか説明を聞いてもらわないと、とキリトは離された一歩分の距離を速攻で詰めた。

 

「アスナ、話を聞いてくれ」

 

言うなり抱き上げてふわりと浮上する。いつの間にか黒い上着が羽のようにはためいていた。

 

「ふぇ!?、キリトくん?」

 

ちょっとじらして困らせてみたいと思っただけなのに、存外に真剣なキリトの顔が目の前にあって逆にアスナがあわあわと混乱したが、既に急浮上後で見習い術師の少女二人が自分達の名を呼ぶ声は小さい。

地上に取り残された二人は一瞬で飛び去ってしまった代表剣士と副代表剣士の姿が見えなくなると申し合わせたように揃って「あーあ」と呆れにも似た声を漏らしたのだった。




最後までお読みいただき、有り難うございました。
見習い術師後談
「副代表サマに庇って貰っちゃったっ!、すっごくいい匂いがしたっ」


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年越し

結局遅れましたー。
もう言い訳もありません……
今年ラストの投稿です。


十二月三十一日大晦日……ここALOでは年越しイベントのひとつとして花火が打ち上がる事になっていた。時間は《現実世界》の午前零時より一時間ほど前で、このイベントを楽しんでからログアウトしてもリアルで年越しに間に合うよう配慮されている。

今年のラストイベントのせいか集まった妖精達は予想以上に多く、キリトはゆっくりと周囲を見回して隣にいる妹のリーファにボソリと溜め息のような声を漏らした。

 

「思ってたよりも盛況だな」

「そうだね。明日から…って言うか、もうあと三時間後から?、新春イベが始まるから、大勢で短時間に楽しめる花火だけっていうのが逆に良かったんじゃない?」

「なるほど」

 

妹の分析にキリトは素直に頷く。

すぐ後ろにいるクラインは数日前の仕事納め後、ほぼログインしっぱなしだったらしくこの花火を観たら寝正月を決め込むと宣言していたし、逆に大晦日まで店を営業していたエギルは時間的に参加できるのはこのイベントだけ。明日は初詣客目当てに早めに店を開けるとかであまりのんびりはしていられない。リズとシリカはこの後、《現実世界》で家族と年越しをすると言っているし、シノンは時給が良いからと年末年始にバイトをぎっちり入れていて「行けたら行く」パターンだったが、今現在ログインしていないのでどうやら花火見物は諦めたらしい。

 

「リーファは花火の後、このままALOで過ごすのか?」

「うんっ、でも私も元旦に学校の友達と初詣の約束してるからあまり遅くならないうちにログアウトするつもり。お兄ちゃ、じゃなくてキリトくんは?」

「オレは……」

 

考えるよりも先にリーファとは反対側の隣を見る。

いつも視界に捉えているアトランティコブルーの長い髪が今はない。

視線の探し物に気付いたのか背後からクラインの気遣いの欠片もない声が勢いよく飛んで来た。

 

「アスナも来られればよかったのになっ」

 

悪気がないのはわかっている。もしかしたらクライン流の元気づけだったのかもしれない。しかしそんな声をかけられたキリトは中途半端に開いていた口を静かに閉じた。無自覚だったのか、と彼を囲むように立っている他の仲間達は苦笑いしかでない。

もしもキリトが妖精種族をスプリガンではなくケットシーを選んでいたとしたら確実に黒い尻尾と尖った大きな黒耳が力無く垂れ下がったことだろう。本人は気付いていなかったのかもしれないが、それくらいこの場はおろか《現実世界》でも会える距離にいないアスナの不在はキリトから生気を奪っていた。

 

「そう…だな……。アスナも残念そうだったし……花火、見せたかった」

 

誰に向けているでもない独り言のような声にクライン以外の仲間達の耳は「見せたかった」の真意が「一緒に見たかった」のだと察している。そこで少しでも明るい話題を、と年長者であるエギルが思い出話を口にした。

 

「旧SAOでもやったな、カウントダウン・パーティーで花火……あれは第五層だったか」

 

その話題にすかさずリズがのっかる。

 

「そうそうっ、私も見に行ったわよ。あの時もすごい賑やかだった。確か五層が攻略された日でもあったのよね。それもあって本当にみんなお祭り気分で、あんなに沢山の笑顔久しぶりに見たから花火とあわせてすごく良く覚えてるわ」

「その第五層攻略の一番の功労者がコイツだよ」

 

片目を瞑って口の端を上げ、親指でキリトを指せば一瞬驚きで目を丸くしたリズが、「ふぅーん」とやわらかく笑った。

 

「そうだったの」

 

けれどキリトはぼんやりとした顔まま「あれは……」と小さく口を開く。

 

「アスナがいてくれたから」

 

その一言でまたもや空気が微妙なものに戻る。

キリトの背後にいるリズとエギルはどうせ聞いちゃいないだろうと思いつつも声を潜め顔を寄せ合った。

 

「なーんでこんな感じになっちゃってるのよ。アスナが年末年始に居ないのは去年もだったでしょ?」

「多分アレだ。夏に二年間離ればなれだっただろ。そん時の感覚がぶり返してるんじゃないか?」

「その後二百年ほど一緒だったって聞いたけどぉ?」

 

皮肉めいた口調で語尾も自然にうねると言うものだ、プラマイゼロどころか大幅な加算である。

 

「そうらしいが、その時の記憶はないって話だから……まぁ、どう足掻いても会えないのがこたえてるんだろうな」

 

んな大げさな、と正直リズは思ったが後ろから見ても明らかにしょんぼりオーラを背負っている黒の剣士を見れば彼にとってアスナがどれほど必要不可欠な存在なのかを再確認させられる。それはエギルも同様らしく年長者として、又話を振った責任も感じてなのか再び話題を花火に戻した。

 

「俺は花火の時、古城遺跡の前庭に設置されたパーティー会場で屋台をだしてたんだが、キリト、お前来なかったな。参加しなかったのか?」

「あの時は……その古城の四階にあるテラスから見てたんだ。花火も街の賑わいも……アスナと二人で」

 

ここにいるメンバーで唯一虜囚となっていなかったリーファが一連のやり取りを聞いて、お手上げの意味でおでこに手の平をあてる。

シリカとリズは口元を痙攣させ、エギルに至ってはもう何も言えず匙を投げたように禿頭を左右に振った。

そして花火を待ちわびていたせいで会話も空気も全く感知していなかったクラインの「始まったぞっ」という浮かれ声が響いた後、妖精達の頭上にある夜空には幾つもの大輪の花が咲き誇ったのである。

 

 

 

 

 

結局、花火が打ち上がっている間もキリトの夜色の瞳には、その輝きが反射しているだけでそこに興奮も高揚も混じりはしなかった。あっと言う間に打ち上げは終わり観客達それぞれが次の行動に移ろうとしている時、リーファがキリトのコートの袖を引っ張る。

 

「ねぇ、キリトくん。新春イベが始まるまでログハウスで時間潰していい?」

 

その言葉で何かを思い出した様子のキリトはひとつ頷いてからどうでも良さそうな口調で逆に問いかけた。

 

「そうだ…アスナが…もしログハウスで過ごすなら、って、ミネストローネとキッシュを焼いてったんだけど…食べるか?」

 

その誘いにリーファはもちろん、《現実世界》に戻るはずのリズとシリカの目ですらキラーンッとSEが鳴るほどな輝きをみせる。

 

「もちろん食べるわっ」

「絶対たべますっ」

「……お前達はログアウトして年越しするんだろ?」

「速攻で二十二層に行けば大丈夫よっ」

「花火、意外と早く終わりましたから、まだ時間ありますっ」

 

諦めたように息を吐いたキリトは次に大きな欠伸をしているクラインに「どうする?」と視線で問いかけると、案の定……「アスナの料理は食いたいけど、今はもうダメだ。食い気より眠気が限界だ」と予想通りの返答。そうか、と続いてエギルを見る。

 

「俺は時間あるが……アスナのやつ、そんなに作っていったのか?」

「ああ。ミネストローネは鍋いっぱいあるし、キッシュは二種類。知ってるだろ?、アスナの料理って耐久値が驚くほど長いんだ」

 

料理スキルをコンプリした恩恵だろう。そしてそれらの料理は自分が留守にしている間でもログハウスを訪れる仲間達に振る舞う分と年末年始を一緒に過ごせないキリトへの心遣いに違いない。

年末ギリギリまで都内の有名予備校の冬期講習に通っていたはずだから京都行きの準備時間も取れなかっただろうに相変わらず出来た嫁である。食べなくてもわかるがやっぱりちゃんと「美味かった」の感想を伝えてやりたくてエギルは「そいつは楽しみだな」と目を細めた。

 

 

 

 

 

リズやシリカに「はやくっ、はやくっ」と急かされながら二十二層にある森の家に到着したキリトはこのメンバー内で唯一玄関の扉を開けられる家主としてカチャリとロックを外す。キィッと木製のドアを開け背後にいる女性プレイヤー達からの圧に辟易しながらも足を踏み入れようとして……固まった。

当然後ろからは動きを止めてしまったキリトへの疑問と不満が漂ってくるが、そんな物、今のキリトに感じ取る余裕はない。

ログハウス内にある家財は椅子でもテーブルでも食器でも、壁に掛けられているフォトフレームまで、そのほとんどはアスナが厳選した品なのだが中でも特にお気に入りなのがペチカで、そもそも家の購入以前から希望に上げていたくらいなので思い入れは特に強い。そのペチカが誰も居ないはずの薄暗い家の中、赤々と火を燃やしているのである。

「なぜ?」という思考を妨げたのはキッチンの明かりとそこから漂ってくる匂い、それにカタッ、コトッ、と何かが動いて生み出される音だ。

瞬時にキリトの止まっていた時間が数倍速になって戻ってくる。

ダッ、と瞬間移動じみた早さでキッチンに駆け込んだかと思えばすぐに「きゃぁっ」と高い悲鳴が響いた。

キリトの後ろにいた仲間達は困惑した顔を互いに見合わせた後、代表するようにリズが口を開く。

 

「……今の声…アスナよね?」

 

親友の声を聞き間違えるはずはないと思うがアスナは年末年始《現実世界》の結城家の本家がある京都に滞在中で、古式ゆかしい離れで寝泊まりしている為《仮想世界》へのダイブが出来ない状態のはずなのだ。

けれどもしアスナだったら、今、キッチンにはアスナ欠乏症のキリトと二人きりなわけで、別人だとしたらそれはそれで物騒な展開になっているはずだから、とリズは頼れる存在に状況確認を依頼した。

 

「エギル、お願い、見て来て」

 

まぁ、そうなるよな、と思っていたのだろう、複雑そうに腹をくくった顔のエギルが渋々ログハウスに足を踏み入れる。

先にリビングの明かりをつけてからキッチンに向かい様子が見える位置に立ち止まると顔だけをゆっくりと回しリズ達に手招きした。その表情から危険はないと判断できるが、それ以上の情報は読み取れない。

恐る恐るリズ、シリカ、リーファがひとかたまりになりエギルの後ろからキッチンを覗き込む。

と……そこにはアスナの背中にぴたりとくっついてその細い腰に両腕を絡ませアトランティコブルーの髪に顔を埋めているキリトと、この状況に対する戸惑いと出来れば友人達には見られたくなかったが合算され、結果壮絶に困り顔のアスナがいた。

 

「ホントにアスナ!?」

「……こんばんは、リズ、シリカちゃん、リーファちゃん。それにエギルさんも。花火、もう終わったんだね」

「うん、そう。花火は一斉に打ち上げた感じで、迫力は凄かったわよ。それで新春イベまで時間が余ってるリーファに付き合って、それにアスナお手製のスープとキッシュがあるってキリトから聞いて……って、アスナ、なんでいるの?!」

「そうですよっ、アスナさんっ。もしかして東京に戻ってきてるんですかっ?」

「そうなの?、それなら教えてよねっ」

「花火だって一緒したかったですっ」

 

ぽんぽんと三つの口から言葉が飛び出してくるのを答える暇なく聞いていたアスナは困り顔を益々濃くして「ごめんね」と返す。

 

「違うの。リアルではまだ京都にいるの」

「でもネット環境が整ってないって言ってたわよね」

「うん。京都の結城家に来たのは一年ぶりだからもしかしたらダイブ出来るようになってるかも、って思っていちをアミュスフィアも持って来たんだけど、やっぱり無理で」

「なら、どうやって?」

 

そこまでリズと会話を交わしたものの、どうしても背中に張り付いているキリトが気になるのか、そっと首を回し「キリトくん」と呼びかけるものの反応はない。ふぅっ、と諦めの息を吐いたアスナは視線をリズに戻した。

 

「結城の家は変わってなかったけど、本家の近くにある小さな神社のすぐそばにネットカフェが出来ててね。それにミネストローネの仕上げに用意しておいたスパイスを入れ忘れていたのを思い出して……」

「それじゃあ今はネカフェから?」

「大晦日から元日はオールナイトで営業してるんだって。でも本家から出てくる時、初詣に行って来ますって言ってきちゃったからあまり長くはいられないの。地元の人達しか来ない神社だけどそれなりに人出はあるから参拝前に短時間なら大丈夫だと思ってダイブしてるんんだけど……」

「つまり初詣に近所の神社へ行ったけどちょっと混んでたから時間がかかったってことにしたいのね」

 

ちらりと視線を外して《現実世界》の時刻を確認したらしいリズにアスナは頷く。

 

「だからスパイスを入れたらすぐログアウトするつもりで……けど皆に会えると思ってなかったから驚いちゃった」

「私達もビックリよ。花火の後キリトからアスナの手料理があるって聞いて全速力でここまで飛んできてよかったわ」

「でもせっかく会えたのに私はそろそろ戻らないとなの。リズ達はゆっくりしてってね……あっ、もうすぐ日付変わるねっ」

 

アスナはゆるく振り返りもう一度「キリトくん」と最愛の名を口にしてから優しく目を細めて微笑んだ。

 

「年が明けていちばん最初の挨拶、キリトくんとしたいな」

 

効果はてきめんだった。

今の今まで石のように動かずアスナの背中に張り付いていたキリトがもぞり、と動いて顔を上げる。少しむずがっている顔はまだまだアスナが足りていないと言いたげだが「ねっ」と笑顔で促されば渋々一旦身体を離して彼女の身体をくるりと回し再び腰を抱き寄せて……新しい一年が始まる瞬間、こつりと額を合わせた。

 

「明けましておめでとう、アスナ」

「明けましておめでとう、キリトくん。今年一年も宜しくお願いします」

「うん…オレのほうこそ、今年もまた一緒にいて…ください?」

「ふふっ、もちろんだよ」

 

新年の挨拶を交わしているだけなのに、二人の距離がゼロと言う事もあって直視しずらいのかシリカは両手で顔を覆い、リズはそっぽを向いている。彼女達の反応にエギルは小声で「おいおい、アンダーワールドでもキリトが覚醒した時に見た光景だろう?」と言っているが帰還者学校でもそうだが、何度見ても二人のイチャこらぶりは慣れるものではないらしい。

アンダーワールドで同じ地にいなかったリーファだけが「キリトくんが目覚めた時は大勢のアンダーワールドの人達もいたはずなのにアスナさんの事となると大胆と言うか、周りが見えていないというか……」とぶつぶつ漏らしている。

第三者が口を挟まなければいつまでもそうしていそうな二人に痺れを切らしたリズが肘でエギルを突っついた。

 

「っう゛!………あー…アスナ、そろそろ戻らないとマズいんじゃないのか?」

 

余計な事を言うなとばかりに射殺しそうな闇色の目がエギルに向くが、さすがは大人の頼れる兄貴的存在、苦笑ひとつでそれをかわし、ゴホンとわざとらしく場をしずめる。

 

「今ならその神社も初詣で多少の賑わいはあるだろうが、アスナも言ってただろ?、地元の住民しか来ないって。ならすぐに人の往来はなくなるぞ。キリト、お前はこんな真夜中に人気の無い道をアスナひとりで歩かせる気か?」

 

ハッ、と顔つきを変えたキリトが触れ合っていた額だけを離して緊張感のある声で「ユイっ」と娘を呼び出した。

すぐさま目の前にピクシーサイズのユイが黒髪を揺らして現れる。

 

「はいっ、パパ。明けましておめでとうございますっ」

「ああ、おめでとう。今年もよろしくな。それで早速なんだけど、今《現実世界》にいるアスナの居場所、わかるよな?」

「携帯端末の場所でいいですか?」

 

すぐにアスナと視線を合わせ、こくん、と頷くのを確認してから「そこでいい」と断言すれば「はい。わかります。京都府内のネットカフェですね」と打てば響くような正解が返って来る。

 

「いちをその店内の防カメをハッキングしてスタッフや他の客に妙な動きがないかチェックしてくれ」

「わかりました」

「え?、ちょっ、キリトくん?!」

「それとこれからアスナがそこから近くの神社へ行って結城家へ戻るまで周囲の警戒を頼めるか?」

「了解です、パパ」

「キリトくん…私、子供じゃないんだから」

「子供じゃないから用心するんだろ。いいか、アスナ、家の中に入るまで絶対端末を手放すなよ」

「もうっ……ユイちゃんまで巻き込んで」

 

ユイはすぐにハッキングに取り掛かる為姿を消してキリトとアスナの会話に割り込んでくる気配はない。

アスナへの防犯対策に頭をフル回転させているらしいキリトの表情にさっきまでのぼんやりは跡形もなく消え去っていて、ついでにここまで一緒に飛んで来た仲間の存在もほぼ忘れ去っている。

 

「ユイならハッキングからチェックまで一分もかからないと思うから……」

 

そう前置きした後、途端に草木の葉茎が萎れるようにキリトの眉が力をなくし声に情けなさが滲み出た。

 

「アスナ、いつ頃京都からこっちに戻ってこれる?」

 

もう時間がないから一番知りたい質問が一番最初に出てきたのはわかるが、これまた彼をよく知る者達の耳には「こっち」の真意が「オレの所」であるのは明白だ。アスナもまたその意図に気付いたのか、同じように眉をハの字に下げて「冬期講習の後期が始まる前日なの」と、要するに東京に戻って来ても翌日から予定が入っている事を明かす。

 

「でも戻って来れば夜はA.L.Oにダイブできるよ」

 

明るく告げてみるもののそれでもキリトの眉は持ち上がることなく、ちらりとリズ達を見る目は「どうせこいつらも一緒なんだろ」と言わんばかりだ。そこに対抗心を燃やしたリズがニヤリと不敵に笑う。

 

「アスナっ、私、冬休みの課題で教えてほしい所があるのよね」

「あ、じゃあ戻って来たらここで一緒にやる?」

「ほんと?、助かるわぁ」

 

それなら、とシリカがちいさく挙手をした。

 

「あ、アスナさんっ、私も、冬のコートを買おうと思って迷ってるんですけど、一緒に選んで欲しくて…」

「うん、戻って来たら候補を見せてね」

「はいっ、ありがとうございますっ」

「アスナさんっ、アスナさんっ、剣の扱い方、教えてくれる約束ですよねっ」

「そうだったね。リーファちゃんなら空中戦でスピードをのせた突技、すぐに上達するよ」

 

独り占めなどさせてなるものか、と次々にアスナとの約束を取り付けていく少女達にエギルがボソリと「キリトもキリトだが、お前達も大概だな」と虚無顔になれば今度は渡すものか、とキリトが更にアスナを抱き寄せる。

 

「えっと、キリトくん、ごめんね。本当にそろそろ時間が…」

「あー…あと三分、いや二分、一分でいいから」

 

往生際の悪い焦り顔に少女達三人までも、しらっ、と目を細めたが、当のキリトはくるりと真剣な顔をエギルに向けて「後は頼んだ」と抱擁を解きアスナの手を引いてキッチンから移動を始める。

 

「おいおい、どこ行くつもりだ?」

「アスナは寝室からログアウトさせる。スープでもキッシュでも好きに食べててくれ」

 

《現実世界》で飲食店を営んでいるエギルならアスナほどでなくても上手くやれるだろうと判断されたようだが指名された故買屋は「オレはこっちじゃ料理スキルなんて取ってないんだぞっ」と主張してみるもののキリトの足が止まることはない。

戸惑うアスナを半ば強引に寝室の扉の向こうへと押し込めながら時間が惜しいのか二言三言会話を交わしている様子を見ていると最後に、ポッ、と彼女の頬が淡く染まり、その瞬間リーファが低い唸り声が「え゛えっ?」と飛び出たがすぐに二人が入った寝室の扉は閉まってしまった。

エギルは「まいったな」と言いながらもさっきまでアスナがいた大鍋の前に行き、温め直すために調理器具を操作しながら二人が消えた扉を見る。

どうせキリトもわかっているのだろう、アスナがこっちにいられる時間はもう一分もないはずで、それなら二人きりにしてやってもいいと思うしわざわざ人目を避けた所をみると……「一応はアイツもわきまえてるんだな」とそこだけが声に出た。

アスナを抱き寄せたり額を合わせたりは人前でも気にしないようだが、それ以上の行為は…と言う事だ。

しかしそこで意外な人物から反対意見が飛び出す。

 

「わきまえてないですよっ」

 

リーファがぷんすかと頬を膨らませて目を吊り上げていた。

自分達に一言もなくアスナを連れ去られて唖然としていたリズとシリカが二人の消えた寝室の扉から視線を移しエギルと一緒にリーファを見れば、彼女は唇を尖らせて「寝室に入る直前の会話、聞こえちゃったんです」とこっそり手品のタネを明かすみたいに三人に向かって前屈みになる。

 

『あっ、ねぇキリトくん、冬休み最後の週末は講習会も終わってるから少し遅くなっちゃったけど、どこか初詣に行かない?』

『週末って……アスナ、土日どっちも空いてるのか?』

『うん、両親も兄も不在だからゆっくりできるよ』

『なら、土曜日に初詣へ行ってそのまま泊まってけよ。ウチも母さんは会社の新年会でそのまま泊まりだし、スグもいないから』

『ぇっ?!…あ、そうなんだ……うん、じゃあ……お邪魔しようかな…晩ご飯作るねっ』

 

「って……私っ、その週末は他校との合同冬合宿で、ものすごくハードな練習スケジュールなのにぃぃぃっ」

 

シルフゆえの聴力の良さがあだとなったようで不満を爆発させている彼女を眺めつつリズはその週末、二人が《仮想世界》にやって来ない事を予期して「早めに課題見てもらわなくっちゃ」と算段したのだった。




お読みいただき有り難うございました。
エギルの言っていた第五層の花火は映画『冥き夕闇のスケルツォ』の終盤の
ヤツです。
終盤の展開は原作とちょっとだけ違ったので……でも花火はあったはず。
では今年もお読みいただき有り難うございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。


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まあるくなる

本年も気長によろしくお願い申し上げます。
新年一本目なので短くとも定期投稿を死守してみましたっ
(それってどうなんだろ…)
先週《オーディナル・スケール》がTV放映されたので……
まぁノーカットとはいかなかったので色々思う所はあるでしょうが……
《0S》後の《アリシゼーション》前の二人です。


キリトは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。

《現実世界》ではありえない大きさのキノコのような……正直に初めて見た時の印象に従って言えば巨大エリンギを思わせるような形の植物の、そして地上から二十メートルはあるだろうか、その上部の平面部分は短草が一面生い茂っており昼寝をするにはもってこいの場所だ。

時折、眼下の地上でポップしている食虫植物型モンスターを狩る妖精達や頭上の空を飛び去っていく妖精達の気配を感じるが絶対的な安心感に包まれているキリトは易々と警戒心を手放す。

その理由は自分のステイタスの高さも然る事ながら己の守護者とも言える女神の如き慈愛とかつて「攻略の鬼」とも呼ばれた苛烈な戦闘センスを有する存在がすぐ近くにいるからだ。

自分と彼女がいて不覚を取る事はまずありえない。

その証拠に僅かな身じろぎを敏感に気付いたのだろう、キリトの顔面に影が落ちる。

 

「…キリトくん?、起きた?」

 

どんな世界でも唯一キリトの事を「キリトくん」と呼ぶ少女、アスナのしなやかな髪が頬をくすぐった。たったそれだけの事に多幸感が胸に広がって自然と口元が緩む。

 

「どうしたの?、もしかして、寝ぼけてる?」

 

もう少し案じてくれる声を聞いていたかったが、それよりも悪戯心が芽生えてアスナのはしばみ色の瞳を見上げた。

 

「そうじゃなくて……旧SAOでは外で昼寝してたら副団長さんに怒られたっけ、って思い出してた」

「もうっ」

 

アスナにとっては恥ずかしい思い出なのか、キリトを覗き込んでいる口元が小さくすぼまる様を下から眺めて更に口角が上がる。

思い出は次から次へと浮かんできて……低層では眠っている間に互いの顔が近づきすぎ、アスナが目覚めた途端キリトを「黒鉄宮」に送りそうになった事もあるが……それまで持ち出すと本格的にご機嫌を悪くされそうなので半年ほど前、同じようにここで横になっていた時の事を思い浮かべた。

あの時は寝ていたわけではなく、メガネの役人からの依頼に応えるかどうかを考えて……いや、本当はもう心の中で意思は固まっておりそれをどう彼女に伝えたらいいかを考えていたわけだが……アスナは薄々気付いていてその時をひたすら傍に座って待ってくれてたんだよなぁ、と今になって理解する。

大事な決断をした時は一番にアスナに伝えるキリトだが、その内容はともかく何かに悩んでいると勘の良い彼女にはバレバレで、それでも黙っていつも通りにしてくれているのだから、もう一生隠し事は無理だろうな、というのは自他共に認めている事実だ。きっと頑張って、頑張って精一杯の虚栄を張ってみてもアスナはほわんほわんと笑って「えへへ、気付いてたよ」と言うに違いない。

だから、今現在、何も思い悩むことなくこうやって《仮想世界》に二人でダイブして暖かな陽光を浴び、時折吹いてくる爽やかな風を感じつつ恋人の膝枕で昼寝ができる至福の時をキリトは思う存分満喫していた。

少なくともキリトとアスナにとって《仮想世界》はゲームをするだけの空間ではなく、その時を生きている場所だから周囲の何やら言いたげな生暖かい視線には気付かないふりをし、こんな風にただ二人きりの時間をゆっくりと過ごすのは久しぶりで……。

 

「なぁ、アスナ。今度の休み、どこ行く?」

 

そして二人きりで過ごすのは《仮想世界》だけでではなく……春先には、共に過ごしたした時間は短くともアスナにとってとても大事な存在となった妹のような友が逝くのを見送り、その約一ヶ月後には新たに開発された「ARデヴァイス」《オーグマー》によって大勢の旧SAOプレイヤーを巻き込んだ大事件によりアスナは記憶障害を起こし……などなどで純粋に甘くて楽しいがたくさん詰まった世に言うデートと言うものを随分していなかったから、次の週末は絶対に何があってもアスナと出掛けるっ、を固く誓っていたキリトはちょっと浮かれ気分で相談を持ちかけた。

キリトの顔を上から覗き込んでいたアスナはその問いかけに上体を戻して「うーん」と人差し指でおとがいに触れながら思考をフル回転させる。そしてすぐにパッと弾けるような笑顔になると再び己の膝上へ視線を落とした。

 

「あそこは?、前にキリトくんが見たいって言ってた展示会場。まだ開催期間中だよね?」

 

その提案にキリトの真っ黒な瞳が大きく見開かれる。

確かに言った、その展示を見てみたいと。でもそれは開催前にチラリと見たネットニュースの話で興味を示した自分さえちゃんと展示期間までは覚えていなかったのに、久しぶりのデートの目的地候補にあげられて「ああ、やっぱり敵わないな」とキリトは白旗を揚げるように緩く微笑んだ。

旧SAOの低層で出会った頃は彼女が生き残る為に自分の存在が必要だと思っていたが、今はもしアスナが傍からいなくなったらどう生きていけばいいのかさっぱり見当もつかない。

それでもキリトが興味を引かれる分野はどうしてもフルダイブ関連になってしまうから大学の公開講座や企業イベントなどは一人で行くのだが、あの展示をアスナが見たいとは思えなくて返事を渋っていると、そんな葛藤さえもお見通しと言いたげにクスッと小さな笑い声が降ってくる。

 

「キリトくんが時々参加してるようなレクチャーは流石に専門知識が足りなくて理解が追いつかないけど、展示だったらわからない時は君に聞けるでしょ?」

 

なるほど、と軽く頷いた。小声で会話をするならそれ程周囲の迷惑にはならないだろうし、これまで何度もアスナの鋭い質問に驚かされているキリトである。自分では気付かない視点からの意見もあるだろう。

とは言えやっぱりアスナに付き合わせる形になるのは申し訳ない気がして決断を下せずにいるキリトは展示会場の場所を脳裏に思い浮かべて、突然ガバッと起き上がり「そうだっ」とほぼゼロ距離まで顔を近づけた。

 

「この前アスナが話してたカフェがあの会場の近くだから展示会の後に寄ってみようぜ」

 

これなら自分の見たかった展示とアスナの食べたかったケーキ、両方行けて互いに満足できそうなデートプランになるのでは?、と瞳を輝かせていると、喜んでくれると確信していた彼女の顔が不自然な笑みに変化する。

 

「アスナ?」

「えっと……そうだね。飲み物も色々な種類がありそうだったから……そこでお茶するのもいいね」

 

そこでキリトは「おや?」と首を傾げた。

いつもなら一も二もなく「うんっ」と満面に笑みを浮かべてくれるはずなのに、どうにも歯切れの悪い返事になっているのはナゼだ?……話題に出たカフェはナポレオンパイが評判と紹介されていた店でイチゴがふんだんに使われている商品画像はキリトも思わず唾を飲み込んだほどなのに、アスナの返答だとまるで飲み物しか注文しないように聞こえる。

 

「どうしたんだ?、そこのカフェのナポレオンパイ、食べたかったんじゃないのか?」

「うーん、そうだけど……」

 

口にするのを迷っているそぶりにキリトはアスナの正面の位置へ座り直して揃いの指輪がある左手を取った。

 

「アスナ」

 

真っ直ぐにじっと見つめて話してくれるのを待つ。

自分は彼女と違って察するスキルのレベルは低いから、アスナに限ってだが、何かに思い悩んでいる時はこうやって正面から切り込むと決めているのだ。

短気な者ならじれったさに眉根がよりそうな程の時間が過ぎた頃、真剣なキリトの眼差しに降参するようにアスナが軽く息を吐き出し、少し上目遣いになって「あのね」と思いを打ち明け始める。

 

「《オーディナル・スケール》をプレイし始めた頃、ノーチラスくん…エイジくんって言ったほうがいいのかな…とにかく彼に言われたんだもん。『随分と角がとれたようで』って」

「はっ!?……アスナ、あいつとそんな話したのか?」

「うん。結局UDXの次のイベントで私から声を掛けたの。そしたら『角がとれた』って……ねぇキリトくん、私、旧SAOでそんなにツンツンして嫌な感じだった?」

 

自称コミュ障のキリトでもわかる、これは否定を期待している目だ。

ただここで「全然ツンツンなんてしていなかったぞ」と言ったところでつきなれないウソは簡単に見破られそうで、キリトはこっそりと「エイジのやつ」と知り合いとさえ呼べないわりに激しい関わり方をしたかの人間の名を恨みがましい声で呟く。

もごもごとした声しか聞こえなかったアスナは更に言葉を重ねてきた。

 

「そりゃあ彼とは《血盟騎士団》で一緒だったんだから私はサブリーダーとして多少は厳しく接してたと思うけど、ノーチラスくんは……って、キリトくんも知ってたよね?」

「へ!?」

「ほら、第七十二層主街区《オズモルト》のカフェで会った時言ってたじゃない。加入したばかりの彼のこと、『腕はなかなかよさそうだ』って」

「あー…そっか、そうだったなぁ」

「そうだよ。ボス戦で一緒だったわけでもないのに、キリトくんが知ってるの珍しいなぁ、って思ったし」

「ああぁ、うん、まぁ、KoBの新人は話題になるしなぁ…オレも狩り場でちらっ、と見かけただけだったけどさ」

 

まさか偶然見かけたKoBの新人が同年代の男子だとわかって、ついまじまじと観察してしまった理由なんて今なら分かりすぎるほど分かってしまうのだが当時はなんで気になるのか理解出来ず、しかも彼の事を直接アスナに聞いてしまうほど意識していたのだから……あの頃のオレ、単純で鈍感だったなぁ、と密かに悶えながらもそんなヤツの言葉でアスナの笑顔の純度が下がるのが面白くなくてキリトはもう片方の右手も包み込んだ。

 

「それがなんでケーキを食べないにつながるんだ?」

「角がとれる、って普通は人柄がまるくなるみたいな意味で使うでしょ?…でもこの前…『性格が丸くなると体型も丸みを帯びてくるんですね』って言われてる人がいて……ねぇっ、キリトくん、私、丸くなってきてない?」

 

キリトはアスナの両手を握りしめたまま、パチクリ、と瞬きを二回ほど高速で繰り返した。それからゆっくりと頭を上から下に動かし、くまなく彼女の全体を眺める。それから握っていた左右の手をそれぞれむぎゅむぎゅと揉み、次に手をずいずいと移動させて腕を掴み、もみもみ。そのままグイッと引き寄せて「きゃっ」と倒れ込んできた身体を、ぎゅうぅっ、と抱きしめた。

 

「ちょっとっ、キリトくんっ。アバターの体型は変わらないでしょっ」

 

ジタバタしているアスナには構わずキリトは心地よい弾力に滑らかな肌を腕の中に収めたまま「でもさ」とウンディーネの大きな耳元に唇を近づける。

 

「このアバター。ステイタスは引き継いでても体型はALOを始めた時に作成したんだろ?」

「それは…そうだけど」

「だから今のリアルのアスナとの違いがわかるわけで…」

「うっ…そっか……」

 

とんでもなく恥ずかしい事を言われいる自覚はあるがキリトの返答はもっともで、自分の身体を全方位から知られている理由に顔を茹でながらも「…それで、どう?、キリトくん」と結果を問う。ところが……

 

「うーん、もうちょっと触ってみないと…」

 

そう言ってキリトはアスナの頬に自分の頬をくっつけた。

すりすり、と少し押すように擦り合わせ、続いて手をすすーっ、と這わせてふにゅふにゅ、と…「って、どこ触ってるのよっ!」と怒られる。

けれどキリトにしてみればそんなお叱りも日常茶飯事、なんのそのだ。むしろ「あ、この感じ、ちょっとだけ懐かしいな」とさえ思えてきて「そう言えば、旧SAOではたくさん、それはもうたくさんアスナさんからプリプリ、プンプンされて……」とアスナの『おこモード』表情集が浮かび上がってくるが、あれが『ツンツン』だと言うなら、キリトにとってそれは『かわいい』に分類されるので眉根か寄るどころか眉尻が自然と下がってくる。

だいたい《血盟騎士団》時代のアスナはいつもギルメンの為、攻略の為と頑張っていたのだから、その時より『角がとれた』のならそれは彼女が穏やかに明るく過ごせているという意味で、MMORPGを純粋に楽しんで欲しいと思っているキリトには嬉しい言葉なのだ。

 

「オレはあの鋼鉄の城に囚われていた時でも《トレンブル・ショートケーキ》や《ブルーブルーベリータルト》を美味しそう食べてるアスナを見られるのが嬉しかったよ」

 

それにもっと言えばツンツンしてても丸くなってもアスナはアスナだし、色んな彼女を知った上で抱いているこの気持ちが揺らぐ事はないし、今後見たことのない面を知ったとしてももっと好きになる自信しかないキリトは再び耳たぶに触れそうな距離で言葉を紡ぐ。

 

「今度の休みの日、一緒にナポレオンパイを食べたいけど……どうしても気になるなら…」

 

なんだか妙に悪戯ッ子のような声で囁かれた誘い文句に、つられたようにアスナが「気になるなら?」と繰り返した。

 

「ログハウスに移動して体型が変化しているかいないか、もっと念入りに確認しようか?」

 

それがどういう状況を指すのか察したアスナの頬が桃色に染まるのと同時にキリトの口の端がニヤリと上がったのだった。




お読みいただき有り難うございました。
キリトがノーチラスくんの事を知っていたという設定、映画では
当然知らない事になってましたが、知っていた方を採用しました。
エイジに「貴女も随分と角がとれたようで」と言われて「そうかしら?」と
突っぱねるアスナさん、久々のツンモードでしたね(好)


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【いつもの二人】詐欺?

久々に(?)【いつもの二人】シリーズ
今回はごくごく普通の一般会社員、持武(モブ)さん視点のお話です。


賑やかな大通りから一本入った場所にある隠れ家的カフェバー『ダイシー・カフェ』。

店内は広すぎず狭すぎず、落ち着いた内装に少し照度の低い明かり、それにカウンター内にいる店主のバリトンボイスが居心地のよさを十分に演出していて、俺のお気に入りの店のひとつだ。

今日は学生時代の後輩のお悩み相談を受けるため仕事帰りに待ち合わせてこの店へ案内してきたのだが、一杯目のアルコールを飲み終えないうちに話は予想外の方向へ向かい始めていた。

 

「へぇ、お前の恋人、社長令嬢なのか。すごいな」

「いえ、社長って言っても小さな会社らしいんですけど」

「それでも経営者なんだから、俺みたいな普通の会社員とは違うよ。それで何の会社なんだ?」

「さぁ、そこまでは僕も知らなくて」

「なんだよ。聞いてないのか?」

「聞いても教えてくれないんですよ」

 

困ったように笑う後輩に反して俺の笑顔に僅かなぎこちなさが混じる。

 

「…そ、その恋人って結婚前提で付き合ってるんだろ?」

「もちろんですっ。僕、十代の頃から結婚は早くしたいって思ってて」

「ああ、確か学生の頃もそんな事言ってたよな。でも彼女は学生だっけ?」

「はい。都内の大学四年生です」

「じゃあ来年は社会人か。もう就職は決まったのか?、それとも父親の会社で働くとか?」

「うーん。どうなんでしょうねぇ。なんか忙しいみたいで。まだ就活してるのかなぁ」

「おいおい。自分の彼女の事だろ……大丈夫なのかよ」

「なかなか連絡取れないんです。僕からだと必ず留守電だし。メッセージもすぐには返信来ないし」

 

あんまりデジタル機器が得意な子じゃないんですよ、と素直な笑顔で口にする後輩に俺は少しばかり声のトーンを落として慎重に言葉を選んだ。

 

「間違ってたらごめんな。少し前に他の後輩がお前とその彼女さんと一緒にオンラインゲームで遊んだって聞いた気がするんだが……」

「やりましたっ、やりましたっ…へへっ、実は彼女と出会ったきっかけってオンラインゲームの中なんです」

 

え?、と思うと同時に少し離れたカウンター席に座っているひとり客が「くほっ」と妙な音を生み出したのが耳に入る。視線をやると禿頭のマスターがスマートな仕草で水の入ったグラスを差し出していた。

俺は一瞬逸れた意識を目の前の後輩に戻し改めて彼の様子を観察する。

オーダーした酒を美味そうに飲み干し「先輩もお代わりしますか?、同じものにします?」と気を遣ってくる姿は学生の頃から変わらず可愛い後輩そのままだ。サラリーマンは性に合いそうにない、と学生時代に興味のある資格を取りまくりフリーで色々な職種を転々としているが家庭を持てば少しは落ち着くだろうか?、一人で暮らす分には十分な収入らしいがそれでは相手の親御さんも安心して娘を任せるとは思えない。その辺の事は結婚願望が強いこいつなら色々と考えていそうだが話を聞く限りでは何だか彼女の本心が見えづらくて引っかかる部分がある。

けれどそんな俺を前に後輩は恋人との出会いを嬉々として語り続けていた。

 

「彼女、当時はMMORPGの超初心者で、それで僕がレクチャーすることになって段々と、って感じで……」

 

ごふっ、ごふっ、とまたもやカウンター席から、さっきよりも大きなむせ声が飛んで来る。マスターが小声で「大丈夫か?」と顔を近づけているがまともに声が出せないらしく、コクコクと頭を上下に揺らしていて……あれは返事なのか呼吸困難による発作的な動きなのか……まぁ、マスターに任せておけば問題ないだろう。同じ店内に居合わせただけの見ず知らずの客が駆け寄るほどの大事ではないようだ。

 

「ふーん、なるほどねぇ。でも今はそのゲームだってちゃんと出来るんだろ?」

「そうなんですっ、彼女、すっごくセンス良くてちょっと教えただけでどんどんレベル上がっていくんですよ」

 

我が子を語る親バカのような顔で彼女自慢をする後輩に憂いなど欠片もなくて、それが逆に俺の不安を膨らませる。

そんなに適応能力の高い人間がデジタル機器が得意じゃないって?……、なんでそのちぐはぐさに気付かないんだコイツは。

所謂『恋は盲目』というやつなのか、俺が深く考えすぎなのか。単にゲームは得意でも携帯端末のやり取りに関してはずぼら、という性格なだけなのかもしれない……いや、そうであって欲しいという俺の願望が通じたのか後輩が酒の酔いのせいだけではないほど顔を赤くして頭を掻いた。

 

「実は……この前プロポーズして……」

「本当かよっ、それでっ?、返事はっ??」

「はい。受けてもらえました」

「やったじゃないかっ、良かったなぁっ」

 

なんだなんだ、へんに勘ぐることなかったのか。ちゃんと彼女もコイツの事が好きで…それならこんなにめでたい話はない。

気持ちが一気に浮上して「今夜は俺の奢りだっ」とこっちまで嬉しくなったところで後輩が「有り難うございます」とニコニコ顔のまま「それで相談なんですが」と切り出してくる。

そうだった、今夜は相談事があると聞いてここに連れて来たんだった……が、未だ独身の俺に結婚を控えた男のお悩みアドバイスなんてできるのか?……と首を傾げると「婚約指輪のことなんです」と打ち明けられる。

婚約指輪……恋人すらいない今の俺には全く縁の無い物だ。

いよいよ後輩の相談相手の人選ミスを指摘せざるを得ない状況に、それは既婚者か若しくは女性に相談した方がいい案件だぞ、と告げようとした時だ、それより一拍早く目の前の口からトンデモ発言が飛び出してくる。

 

「彼女が、婚約指輪はいらないからその分をお金で欲しい、って言ってきて……」

「はぁ!?」

「そうですよねっ、やっぱり指輪は贈った方がいいですよねっ」

 

いや、ちょっと待て、俺が驚いてるのはその部分じゃあない。

別に女性の方から婚約指輪は不要だと主張するのは構わないが、だからと言って指輪購入費分を現金で要求するってアリなのか?……ナシだろ。一体全体どういう了見でそんな事を言い出したのか……。

 

「理由は?、聞いたんだろ?」

「それがどうも父親の会社の経営がうまくいってないとかでお金が必要だって」

「いくら小さい会社ったって婚約指輪の代金程度で経営が立て直せるなんて話あるわけないし、あっちこっちからかき集めてるとしても、それなら普通にお前に借り入れの申し込みをすればいいんじゃ……」

「僕もそう言ったんですよ。そしたら指輪のお金とは別にどれくらい用立てて貰えるのかって、なんだかお金の話ばっかりになっちゃって……彼女って家族思いですよね」

 

デレるところじゃないだろ……と呆れつつも後輩には申し訳ないが、俺の中のその彼女の好感度は駄々下がりで、ついでにお祝い気分も急降下だ。

なんなんだ、金、金って…これじゃまるでコイツが金づるみたいじゃ……とその先の思考にハッとなる。

ふと後輩の背後に目をやればカウンター内でグラスを磨きつつこちらを見ているマスターの眉間にも皺が寄っていて、ああ、これは話を聞いていたんだなと察した。

ここのマスターとはそこそこ長い付き合いで信頼を置いているから今の話を聞かれても問題ないし、逆にそんな顔をしてるって事は俺の悪い想像と同義なんだろう。だが結婚に浮かれているコイツは彼女に対する疑いなんてこれっぽっちもなくて、ここでその結婚話に疑念を持てと忠告しても受け入れそうにない。

それに彼女が本当に家族思いでコイツとの結婚も本気で望んでいる可能性だってゼロじゃないし、と自分の今後の立ち回りを考える。

 

「確かに相手の親父さんがそんな状況なら婚約指輪は省略してその金を二人の結婚指輪の購入に充てるって考えもあるんじゃないか?、彼女だってそれほど預貯金がある年齢じゃないだろ」

「ああ、なるほど」

「だから一旦指輪の購入資金はそのままにしとけ。あと俺もその彼女に会ってみたいんだけど……どうかな?」

「はいっ、是非っ」

 

将来結婚する相手の親でも金の貸し借りは慎重にしないと後々相手にも迷惑がかかるとかなんとか、どうにか後輩を思いとどまらせ、それから俺はとにかく彼女の情報を引き出した。後輩はのろけ半分で出会いからをちょっと恥ずかしそうに、でも嬉しげに話してくれてほんの少し心が痛む。

 

「だー、かー、らー、先輩もぉ、早くいい人見つかるといいですねぇ」

 

すっかり酔い潰れた後輩を前に俺は「はいはい、そうだな」とテーブルに頬杖を突いて応え、ぐらりぐらりと揺れているヤツの頭を腕を伸ばして小突いた。

 

「ちょっとだけ寝てろ。タクシー呼んでやるから」

 

平日だがこの時間だとすぐには来ないだろうな……と携帯端末を取り出してタクシーを手配する。案の定二十分から三十分はかかるという表示だ。俺の酔い覚ましの時間としても丁度いい。

テーブルに突っ伏して完全に落ちた後輩の後頭部を見つめ「ふぅっ」と息を吐いてから、やれやれ、と立ち上がり椅子の背もたれにかけてあった上着を被せてやる。後輩にここまで気遣ってやる優しい俺にも気遣ってくれる女性がそろそろ現れてもいいんじゃないのか?、と脳内でボヤきつつ、コイツを送ったタクシーでそのまま俺も帰宅して、今日こそはたまっている洗濯物をなんとかしないとマズいな、と独り身男性の生活感溢れる急務に深い溜め息を落とすとマスターがやって来て空のグラスを回収し、代わりに水の入ったピッチャーと新しいグラスを静かに提供してくれた。

 

「助かります」

 

俺は正直そこまで酒に強くない。でも今夜は祝い酒と称して呑み、後輩から話を聞くために呑ませては自分も呑みを繰り返したせいで許容範囲はとうに超えていた。

「おぅっ」と小さく返して去って行こうとするマスターに独り言のような声量で「どう思います?」と引き留める。

瞬時に意図を理解して足を止めてくれたマスターは口をへの字に曲げた後「うへへっ」と締まりのない顔で寝ている後輩に視線を落とした。

 

「俺は客の話には首を突っ込まない主義なんだ…………が、この後輩くんの婚約者には早めに会ってみたほうがいいだろうな」

「…ですよねぇ」

 

はっきり黒とは断言できないが、話を聞けば聞くほど限りなく黒に近い気がする。

ゲーム初心者を偽って高額課金した装備を纏っているプレイヤーに声を掛けてくる手口を何かで読んだ覚えもあるし、後輩から聞いた話をまとめると……

 

「若くて美人で頭も良くてスタイル抜群で気立てもよく料理が得意で、いちを社長令嬢…って、そんな女性、いると思います?」

 

惚れた欲目だとしても揃いすぎだ。

 

「疑いだしたら切りがないですが通っている上位大学だって本当に在籍してるか怪しいし、料理なんて今どき冷凍食品詰めた弁当でもそれなりに見えますからね」

 

すると今度はマスターが意味ありげに「ごっ、ごほんっ」と咳払いをする。

そう言えばさっきまで度々咳き込んでいた客は?、と見ればなぜかピキーッンと背筋を伸ばして固まっていた。そして改めて店内を見回すともう客はそのカウンターの一人と俺達だけで、これならちょっとくらい俺の胸の内を吐露してもいいじゃないか、とほろ酔い気分が後押しをする。

 

「だいたいその彼女、コイツがどれだけ頑張って貯めた金なのか、わかってるのかっ、て話ですよ」

「そうだな。ほら、水飲め」

「コイツ、ほんとに仲間思いで。普段はわりとドライなんですけどね、いざって時はすごく頑張るヤツで」

「おお、そうなんだな。もっと水飲め」

 

俺のグラスが空になるとすぐに水を注いでくるマスター。グラスの中で揺れている透明な液体に映る自分の顔が歪んで見えるのは水のせいなのか、それとも本当に俺の表情が歪んでいるのか……。

 

「だって悔しいでしょ。こんないいヤツが、嬉しそうに俺に婚約報告してくるヤツが、幸せになれなかったら……。幸せになって欲しいんですよ。コイツだったら絶対奥さん幸せにするしっ、奥さんもコイツを幸せにして欲しいしっ、て……俺、間違ってます?…結婚ってそういうもんですよね?」

「もちろん、俺もそうだと思うぜ。もう少し、水飲むか?」

「ねっ、だったらそんなわけのわかんない女性じゃなくて、もっと、こう…何て言うのかな……」

「わけのわかんない女性……」

「ちゃんと実在する、って言うか……現実味のある?……俺なに言ってんだ?、あれ?……とにかくっ、近くに当たり前に存在してるような普通の女性がいいと思うんですよっ」

 

と興奮気味に言い切ったところで俺の意識はプツリと途切れた。だから向かいの後輩と同じ姿勢でテーブルに頭を乗せた俺にかけられたマスターの声を聞く事は叶わなかったのだ。

 

「お前が言いたい事はわかるけどなぁ。ありえない位揃ってる女性だってこの世には稀に存在するんだぞ……」

 

 

 

 

 

それからどの位経っただろうか、店の扉が勢いよく開いた音と同時に飛び込んで来た男性の声で俺の意識は徐々に覚醒し始めた。

 

「悪いっ、アスナっ、遅くなった!」

「キリトくん」

「キリト、静かにしてくれ。タクシー待ちの客が二人、酔い潰れて寝てるんだ」

「酔い潰れて?……アスナ、大丈夫だったか?、絡まれたりして…」

「おい、うちの常連客に失礼だぞ」

「そうだよキリトくん。それに何だか大変そうなお話してたから周りなんて気にしてなかったと思うよ」

 

嗚呼、やっぱりマスターだけじゃなくてそっちまで俺達の会話聞こえてたんだな、と思った後にカウンター席にいる女性客、すごく綺麗な声だなぁ、とぼんやり思う。

 

「お前達な、もう学生じゃないんだから毎回毎回俺の店で待ち合わせするな」

「そんな事言ってもオレの研修期間は終わってるからもう都内の研修員用マンションには呼べないし、ここならアスナが一人でも安心だろ」

「すみませんエギルさん。アルゲードのお店の頃からお世話になりっぱなしで」

 

そう頼られては嫌と言えないらしくマスターの「あー…」と唸る諦めの声が聞こえてきて、顔に似合わぬお人好し加減につい笑いそうになった時、胸元にある携帯端末から「ピーッ、ピーッ、ピーッ」という鋭い音が鳴った。

呼んでおいたタクシーがあと五分ほどで到着する合図だ。

俺は「ううぅ」と頭を上げて目を擦りながらどうにか画面を確認しているといつの間にかマスターが隣に立っている。

 

「タクシーか?」

「…はい。長居してしまいました。もうすぐ着くみたいなんで会計お願いします」

 

約束通り後輩と俺の二人分を決済している間もカウンター前で向かい合いで立っている二人の男女の会話が自然と耳に入ってきた。

 

「あのね、キリトくん。言いそびれてたんだけど……」

「な、なんです?、アスナさん、改まって…」

 

気安い関係に見えるのになぜか互いに緊張を孕んで丁寧な言葉を交わしている。

 

「この前差し入れしたキッシュ、あれね、実は冷凍のパイシート使ってたのっ」

「…………はぁ、そうなんですか」

 

思い切っての告白に対し拍子抜けしたような声につられて俺まで「はい?」と内心でずっこけた。

よくは知らないが、キッシュッってアレだろ?、ホールケーキみたいな形のボリューム感のある見た目でパイ生地が容器になって中身がホウレン草とか入った卵焼きみたいなヤツ。

 

「ちゃんと言わなくてゴメンね」

「別にいいよ、それくらい。具材はオレの好物ばっかり詰まってたし味付けもベーコンの塩気が効いてて、アレ美味かったなぁ」

「それでね……」

「え、まだあるんです?」

「うん……いちを伝えておこうと思って。今、うちの父って第一線は退いたけどオブバーザー的なポジションでまだ会社に名前は残ってるの」

「ああ、知ってる。今度の創立記念パーティーにはアスナも一緒に出席するんだろ?」

「そうなんだけど……業績は低下してないらしいからっ、大丈夫だからねっ」

「そりゃそうさ。国内の最大手と言ってもいい電気機器メーカーなんだから。レクトが業績不振なんて話、経済界が激震するって」

 

明らかに「なんで今そんな話?」と首を傾げている男性の後ろ姿を視界の端に入れつつ俺は支払いを済ませた端末をカバンにつっこみ上着を羽織って完全に寝落ちしている後輩の両肩を背後から揺さぶった。

 

「ほらっ、起きろっ。タクシーが来た」

「ぐぬぅ」

「置いてくぞっ」

 

本音は置いてけないし、このまま放ってもおけないが……俺もマスターの事笑えないくらいお人好しだよなぁ。

すかさずそのマスターが店の出入り口に向かいながら「帰り支度しとけ。タクシーは店の前まで誘導しておくから」と声を飛ばしてくれる。

すみません、と頭を軽く下げて扉の外へマスターの背中が消えると俺は本腰を入れて後輩を起こしにかかった。

 

「起きろって」

「ういぃぃっす」

 

ようやくゆっくりと上体が起き上がってきたところで頭を片腕でホールドして再び落ちないよう固定し、遠慮無く頬をペシッペシッと叩き覚醒を促す。その間もカウンター近くから男女の会話は流れて来て……

 

「だからねっ、私、ホントーにキリトくんと結婚するからっ」

「はっ?」

 

うっかり振り返ってしまったが、あいにく男性の背中しか見えない。

え?、なに?、修羅場なのか?

それにしても結婚を前に不安になるマリッジブルーは聞くけど、結婚しますって意気込む女性も……何と言うか、逞しい。

さてこの宣言にどう返すのか?、と思ってつい目が釘付けになっていたら男性がいきなり女性をギュッと抱きしめた。

 

「わわっ」

「おわっ」

 

奇しくも抱きしめられた女性と同時に同じような驚きが飛び出る。

 

「…キリトくん?」

「何かあった?、アスナ。オレとの結婚に不安とか……もしかして迷ってる?」

 

すると女性の方も男性の背中に腕を回して力を込めたのがわかった。

 

「キミとの結婚に不安や迷いなんて…そんなの一度もないよ……ただね、今回も私、キリトくんからのプロポーズに『はい』ってお返事しただけだったな、って思って。ちゃんと『私もキリトくんと結婚したいです』って伝えたかったの」

「アスナ……」

 

あーはいはい、なんか俺達完全にお邪魔虫だな。

後輩はやっと目が覚めたのか、それでもまだ眠そうに大きな欠伸をしながらヨロヨロと立ち上がった。

 

「店の前にタクシー付けてもらうから……そこまで歩いてくれ。おいっ、ちゃんと上着着ろって」

「はっあーい」

「カバン持ってっ。忘れ物ないなっ」

 

オレはお母さんかっ、と自らにツッコミつつ肩を貸して後輩の身体を支え出口に近づく。

後ろのカウンター席からはさっきまでの自信なさげな声と同一人物とは思えないほど豹変した低く絡みつくような問いかけが彼女の耳に吹き込まれていた。

 

「それでアスナ、婚約指輪は?」

「ひゅぇ?」

 

小さく悲鳴のような声が聞こえたがその理由を追求するよりも隣でビクリと反応した後輩の早急な対処だ。

今のコイツに「婚約指輪」は禁句だろう。

 

「さっ、帰るぞ、急いで帰るぞ。もう遅いからな。足を動かせっ、無心で足を動かすんだっ」

 

ずりずりと半分引きずるようにして出口に辿り着く頃にはちょっと気まずそうな彼女の「えっと…ここに来るまでの電車が結構混んでて、指輪付けたままだと他の人のバッグとか傷つけちゃいそうだったから……」なんて声は聞こえる距離じゃなかったし、それに対する「仕事中以外は必ずつけるって約束、したよな?」と完全優位に立ったとばかりのあくどそうな顔を見ることもなかった。

だから俺達が店を出た後、左手の薬指に指輪を装着した彼女がしげしげとそれを見つめて……

 

「やっぱり…石、大きすぎたんじゃ……」

「アスナの指が細いんだ。それにそれくらい目立たないと効果ないだろ」

 

効果の意味を問おうと口を開きかけた時、男性から「絶対創立記念パーティーには付けてってくれ」と早口で告げられ、すぐに唇が塞がれたなんて事は当然知るはずも無かった。




お読みいただき有り難うございました。
「先輩」の名字は「持武」です。
投稿準備する時に決めました(だから本文に出てこなかった)
持武先輩……かなり明日奈の近くにいたのに、まったく
意識外だった珍しいモブ。逆に明日奈のほうはグサグサ刺さってましたが(苦笑)


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