UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版) (冬霞@ハーメルン)
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第0話 『漂着者の憂鬱』

※こちらは未改訂版になります。
※『Arcadia』様にて改訂版を連載中です。
※新話連載は改訂の進行度合いによります。


 

 

 

 side Tohko Aozaki

 

 

 

「‥‥所長ー、例の調査の結果が上がりましたよ? 所長ー? 橙子さーん?」

 

 

 浅い海をたゆたっていた心地の良い微睡みから目を覚まし、私は顔に被せていた読みもしない週刊誌を持ち上げると体を起こした。

 欠伸をかみ殺して、眼鏡を探すが見つからない。そういえば一休みしようと思ったときに机の上に置いたのだったか。

 頭の後ろに手を回して確認すれば、無造作に括った髪の毛は乱れていない。多少癖がついているようだが、手櫛で整えたらすぐに元に戻った。 

 ソファで眠っていたからか体中がギシギシと軋み、短い吐息。さほど長い時間ではなかったはずなんだが、な。

 

 

「あれ、寝てたんですか? 珍しいですね、所長が居眠りなんて」

 

「私だって人間さ。たまには疲れが溜まって休息が欲しくなることもある。まぁ、無様には違いない。滅多にやりたくないというのは隠すことない本音だがね」

 

「はぁ、まぁ確かに」

 

 

 外はそろそろ夕焼けが差し込み、辺りは昼と夜との境目へと侵入しつつある。

 最後に時計を見た時は丁度三時だったから、大体二時間弱は寝ていた計算になるか。実に私らしくない。

 古びた廃ビルの中にある事務所は色々と細工をしているから暑くも寒くもなく、居眠りには絶好の場所である。

 そういえば鮮花もたまに机にかけながら船をこいでいることもあったな。まぁ、アイツは全寮制の学校からわざわざ私のところに通っている。疲れも溜まれば睡眠時間も削れるとあれば、仕方がない部分もあろう。

 もっとも私の講義の最中に少しでも眠そうな素振りを見せない辺りは、しっかりとわきまえているはずだ。

 というのも私がそれなりに物騒な人間として見られているという証明であるのだが‥‥まぁ魔術師ならば本望だ。

 

 

「すいません、居眠りしてるところを見られるのって気恥ずかしいですよね。そういえば式が居眠りしてるってところも想像でき‥‥ない‥‥」

 

「ほぅ、まさか今お前、式が居眠りしているところを想像して少し可愛いなとでも思ったか? クク、中々に良い生活を送っていると見える」

 

「べ、別にそんなことはありませんよ! ‥‥そりゃ、少しはそう思わなくもないですけど」

 

「隠すな隠すな、お前と式に関しては今更だろう。今年になって漸く婚約の約束も二人で取り付けたらしいじゃないか。おめでとう、後は親御さんを説得するだけだな」

 

 

 この工房、『伽藍の洞』の唯一正式な従業員である黒桐が照れたように頬をかき、私はそれを肴に盛大に笑った。

 黒桐幹也と両儀式の関係は最早一年二年という程のものでもなし、それでいながらここまで新鮮な反応を返されるというのも楽しいものだ。

 熟年夫婦とでも言うべき安定感を持ちながら、まるで成り立てのカップルのように初々しい。

 鮮花はこれでまだ自分にチャンスがあると思っているのだから、アイツも勘が鈍いのか、それとも分かっていながら強がっているのか、もしくは本当に強いのか‥‥。

 どちらにしても勝ち目はなさそうだが、ここで諦めるようなら私が弟子にとることもなかったのだろうな。

 そう考えれば黒桐と式の婚約が間近に迫っている今でも、当分はこの状況が続いていくという確信が不思議と胸の内にあった。

 

 

「色々と事情を知っているだろう式の家はともかくとして、何も知らない君のご両親に話は通したのか?」

 

「えぇ、正式に決まったわけじゃないから心配させたくなくて、鮮花にはまだ言ってないんですけどね。電話越しですけど、喜んでくれましたよ。式の方が上手くいったら二人揃って挨拶に行かないと」

 

「勘当もようやくこれで終わり、か。長男があんな美人の嫁を連れて帰ってきたら、そりゃ喜ぶだろうよ」

 

 

 両親、か。実のところ私はあまり両親のことを思い出せない。

 物心ついた時から祖父の元で魔術の修行に没頭していたし、青子が跡を継ぐと知って師である祖父をブチ殺して出奔してからは一度たりとも会っていないのだ。

 それを考えるとあれから会っている肉親というのは青子しかいないというわけなんだが‥‥それにしても殺し合いが殆どであった。

 “アイツ”がいなければ今でも会うたびに殺し合いをしていたことだろうから、家族を持つことになった点に関しても、やはりアイツは私達の中で大きな比重を占めていたのかもしれない。

 

 

「‥‥で、調査の結果が出たと言っていたが?」

 

「あ、はい。冬木の私立高校、穂群原学園とその関係者に当たっていたところ、お望みの情報は見つかりましたよ。所長の考えズバリ的中です。僕も驚きました」

 

 

 調査を頼んだ内容に比して遥かに分厚い書類の束を鞄から取り出した黒桐が、ズシンという音が聞こえるのではないかという錯覚と共にそれをこちらに渡した。

 表紙には『遠坂凜、衛宮士郎に関する調査書』とあり、延々数十頁なんてものではない程の量の調査結果が続く。

 ‥‥呆れた。頼んだのは本当に僅かな事柄だけだったのに、どうしてYesかNoで答えられるような簡単な調査にこれほどまでの結果が出てくるのやら。

 

 

「そんなこといったって、所長からの依頼は大概ろくでもないものだって相場が決まってるじゃないですか。流石に僕だって何度も何度も同じ調査をするのは手間ですから、予め調べられそうなものは全部調べておいたんですよ」

 

「調べておいたって‥‥おい黒桐、お前には個人情報保護法なんてものに対する理解はあるのか? これはもう身ぐるみ剥いだっていうレベルですらないぞ?」

 

 

 表紙をめくった一頁目には身体情報。二頁目には家系図。三頁目には履歴書に書き込んだら余裕で数枚は消費してしまいそうな略歴‥‥というか、これは略歴ではないな。

 常々から異常だとは思っていたが、ハッカーでもないくせにどうしてここまで詳細な情報を持ってくることができるのだろうか。

 

 

「いや、別に大したことじゃないですよ。市役所で聞いたり、知人伝てに聞いたり、調べる手段なんて星の数ほどあるじゃないですか」

 

「それで調べられてしまう君が異常なんだがな。‥‥で、まさか私にこの分厚い資料を全部読めとでも?」

 

「‥‥やっぱり、僕が説明した方がいいんですかね?」

 

「当然だろう。私にはそんな暇も興味もない。調べて欲しかったことだけ言ってくれれば構わん」

 

 

 資料を持って自分の仕事机へと戻り、書類の山の一つへと放り投げた。

 こんなものを読んでいてはそれだけで丸一日潰れてしまう。そこまでする価値があるとも思えないし、意味もない。

 今重要なのは私が黒桐に依頼した僅かな情報のみ。ある意味では些細なことだが、その情報があるのとないのとではアイツの心構えも変わるというもの。

 既にアイツは独り立ちしている以上、ある程度の手助け以上はしてやるつもりはないが、せめてもの援護射撃だ。

 

 

「はぁ、結構それなりに苦労したんですけどね。何故かこの子達は調べるのが難しかったし、知人らしい知人も少なかったんですよ?」

 

「仮にも魔術師だ。一般人を調べるのとはワケが違うのは当然だろう」

 

「そうですね、橙子さんについて調べたときよりは簡単でしたけど。まぁ色々とその間にもあったんですけど、割愛します」

 

 

 溜息混じりに冷蔵庫へと向かい、中から予め買い置きしていたと思しき缶を取り出して煽った。

 外は中々暑かったのだろう。なにせ九月だ、まだ残暑が厳しい。

 それでいて黒尽くめな恰好のままなのはポリシーなのだろうか。いや、おそらくは惰性だろう。

 何時からそんな恰好をしているかは知らないが、少なくとも初めて会ったときには既に黒尽くめであった。

 そして今は長い前髪で覆っているが、片目に傷をもつその風貌は甘い顔立ちが無ければ間違いなく“そのスジ”の者と誤解されてしまう程に“らしい”。

 これで子どもに泣かれたことがないのだから驚きだ。調査も順調に進むらしい。

 

 

「で、この遠坂凜ちゃんと衛宮士郎君ですけど、所長が言っていたように英国の大学に推薦で入学する扱いになってましたね。学校の書類でもそうなっているらしいですし、市役所に転出届も出されてました」

 

「大学とは例の‥‥アレか?」

 

「そうですね。僕もかなり時間をかけて探してみたんですけど、こんな大学は英国のどこにも存在しませんでしたよ」

 

 

 黒桐が資料を十数頁めくったところの項目を私に示す。そこにはそれらしい大学の名前と所在地が書いてあったが、どれも正しいものではない。

 このような大学は存在しないし、所在地にしても同様だ。

 それも当然。なにせこの大学とは乃ち魔術協会の総本山、時計塔と呼ばれる学院を意味する。

 各国からこの学院に進学する者達は、この仮の書類を使って表の顔とする。

 表ではこの大学に入ると言っておいて、実際に通うのは時計塔ということだ。 

 

 ‥‥しかし私が知っていたからいいのだが、よくぞまぁこの大学が存在しないことを突き止められたものだ。

 そも認識阻害が厳重にかかっているから普通の手段では探し当てることすら出来ないのだが、どうやって調べたのだろうか。

 書類上の不備は一切ないはずなのだが、まさか現地まで行ったということはあるまい。

 本当に、コイツの交友関係は一体どうなっているのやら。

 

 

「ドイツの知人に聞いた話なんですけど、どうも彼の友人がこの大学に通っているらしいです。それでイギリスの知人に彼の友人のことを聞いてみると、その彼を大英博物館の近くで見かけたことがあるそうです。他にもいろんな証言を集めた結果、どうにも不自然に空白が生まれます。橙子さんの言ったとおり、これが時計塔ってヤツで間違いないと思います」

 

「‥‥本当に大した物だ。昔お前に探偵を開いた方がいいと言ったことがあるが、撤回だ。文字通り何でも見つけられるんだから、厄介だと思われて裏の人間に始末されかねんぞ」

 

 

 わざわざ火を点けた煙草を灰皿に放ったまま呆然としてしまう。本当に、コイツのこの部分だけは右に出る者はいないだろう。

 コレは下手したら探査系の魔術の一種なのではないのか? コイツの行動原理というか、システムというか、そういうものをまとめるだけで一つの魔術が完成してしまいそうだ。

 一考の価値があるかもしれん。そういったシステム系については門外漢だが、興味が湧いたら何にでも手を付けてしまうのも私の性分だからな。

 

 

「しかしまぁ、これで遠坂凜と衛宮士郎が新年度に時計塔へやってくることだけは分かった、か。ふん、予想していた最悪のシナリオだな」

 

「‥‥どういうことですか? そりゃ魔術師相手なら警戒するのは分かりますけど、そもそも時計塔っていうのは化け物みたいな魔術師の巣窟だって所長が言ってたじゃないですか。言い方は悪いけど、たかだが高卒ぐらいの二人相手にそこまで警戒するっていうのも―――」

 

「コイツらは別なんだよ、コイツらは、な」

 

 

 火を点けてすぐに置いてしまった煙草を灰皿から取り出し、口にくわえて紫煙を吸い込む。

 ちらりと視線をやった外は見事に真っ赤に染まっていて、それは恐らく、今この瞬間だけ見られる景色に違いない。

 毎日というわけではないにせよそれなりに頻繁にお目にかかれる光景ではあるが、意外に視線を向けることは多くなかった。

 故にそれから目を外すというのもどうかと思い、視線はそのまま黒桐に問いかける。

 

 

「―――なぁ黒桐、英雄という人種をどう思う?」

 

「英雄‥‥ですか? それはもしかしてアーサー王とかヘラクレスとか関羽、張飛とかのことですか?」

 

「そこで日本人の名前を持ってこないのはお前らしいが、まぁそういう連中のことだ」

 

「ふむ、英雄ですか‥‥。そういう人達がいたら、僕は是非会ってみたいですけどね。やっぱりこんな歳になっても英雄譚とかには憧れます」

 

「成る程、確かにそれが普通の反応だろうな。‥‥お前の言う英雄と言うヤツが、全て過去の人間だから言えることだ」

 

 

 もう一口煙を吸い込んで煙草を指に挟む。小さな換気扇に吸い込まれた煙が空に上っていくのが窓を挟んで見えた。

 私の意味深な言葉に首を傾げる黒桐は本人が言うような年相応の顔には見えず、どこはかとなく子犬のようだ。

 全く凡庸に見えながら、凡庸とはかけ離れた連中ばかりがコイツの周りに集まる。

 式然り、鮮花然り、浅上藤乃然り。昔の話で言えば巫浄霧絵もそうか。他は‥‥語るに値しないな。

 ともすればコイツならば気づくかと思ったのだが、どうにもね。こういうヤツだからこそ連中も惹かれているのかもしれん。

 

 

「種類によるが、英雄の間には極めて普遍的な共通点がある」

 

「共通点?」

 

「そう、共通点だ。いいか黒桐、大なり小なり『英雄は世が乱れている時に現れる』。かみ砕いて言えば、『英雄の周りには厄介事ばかり転がっている』ということさ」

 

「はぁ、まぁ確かに。英雄って戦乱とか怪物退治とかで名を馳せたりしてるって印象がありますけど‥‥。突然どうしたんですか? 今は別にそんな話してなかったでしょうに」

 

 

 怪訝な顔のまま黒桐は近くのテーブルへと歩いていき、積もり積もっている書類の束を整理し始める。

 コイツめ、私の話が長くなると思って適当にあしらうつもりだな。

 別に一向に構わないが、最初の時のように直立不動で私の前で話を聞く、殊勝な態度が見れなくなったのは残念だ。

 

 

「なに、つまり私が言いたいことというのはな」

 

 

 もう一度大きく煙を吸い込んでから言葉を続ける。

 意味はないが、私は話の途中のこういう間が好きだった。

 

 

「英雄は偉業を成し遂げるだろう。その果てに数多の先人達のように悲惨な最期を遂げたとしても、それは自己責任というもの。だがな、英雄の周りにいる者はどうなる? 英雄のように危機を乗り越える力もなく、振りまわされる傍の人間は?」

 

「‥‥まさか橙子さん」

 

「そう断言したわけじゃあ‥‥いや、結局はそうなってしまうのか。私が望まずとも、アイツが望まずともな」

 

 

 手元にある一枚の手紙に視線を落とす。先日、筆無精のアイツがわざわざ手紙で近況を報告して寄越したものだ。

 最初こそ時計塔で上手くやっていけるかどうか心配になったものだが、まぁ何とかそれなりにやれているらしい。

 友人関係が多少気になるところだが、まぁそもそも魔術師なのだから分かっているだろう。

 私達のような者達の方が、よく考えてみれば異常だったのだ。

 

 

「さてさて、忠告はしてやるつもりだが、どれだけ効果があることやら」

 

 

 不幸体質とまではいかないが、アイツも中々厄介事に首を突っ込む性格をしている。

 この十年ほどで魔術師としての思考はしっかりと叩きこんだつもりだが、ふん、私に似たのなら私自身がお人好しということになるのだろうか。

 

 私は手の届くところにあったペンをとり、さっと黒桐から渡された資料の表紙に書き込んだ。

 はっきりと大きく、それでいて事情を知らぬ者には何のことやらさっぱりだろう。

 そこに記された三つのアルファベット、『- UBW -』の意味は、な。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥ミスタ。ミスタ・アオザキ」

 

 

 

 靄がかかった頭の中に響く。誰かが誰かを呼ぶ声がする。

 それはすごく近くで、まるで自分に語りかけているかのように聞こえていたのに、なぜだろうか、その人が呼んでいる名前に聞き覚えが全くない。

 そもそも聞こえてくるのは日本語ではなく英語。綺麗なクイーンズイングリッシュはウチの高校の英語教師、それもティーチングアシスタントのアメリカ人にも使えまい。

 

 

『あぁ、お前が何をしようが私は興味がない。だがな、とりあえず今の内は私の指示に従ってもらうぞ。どこぞでのたれ死んでも良いのなら、その限りではないな。もっとも出て行ったところで私に首根っこひっつかまれて連れ戻されることぐらい、しっかりと分かっているはずだろう?』

 

 

 記憶がやけに混雑している。まるで反響するかのように、様々な事柄が俺の頭の中を駆けめぐっていた。

 現実と、記憶の境目が曖昧だ。どちらも反響して互いの領分を侵している。

 だって今の今まで知らない名前を聞いていたはずなのに、頭の片隅ではそれを何度も、日常的に聞いていたと判断しているのだ。

 

 

「‥‥起きて下さいな、ミスタ・アオザキ」

 

 

 はて、本当にそうだっただろうか? 自分は、この名前に聞き覚えがなかったか?

 どうにも頭の中がまるで靄でもかかっているかのようにハッキリとしない。

 というよりまず俺は本場のクイーンズイングリッシュなんて聞いたことがないはずなのに、どうして今聞こえた英語の種類を判別できたんだろうか。

 俺は眠ってしまう前まで一体何をしていたのだったろうか、全くと言って良い程に思い出せない。

 やたらと寝てしまう前の記憶に霞がかかっていて、まるで十年以上も前の要に定かでなくてもどかしい。

 思い出せ。確か、勉強の合間にPS2をつけ、忙しさからかなり長い間のんびりと攻略していたゲームを‥‥

 

 

『アンタっていつもね、考え過ぎなのよ。というよりも背負い込み過ぎっていうのかしら。私や姉貴に頼ることは知ってるのに、頼り方が不自然というか、慣れてないのよね。遠慮を隠すのも苦手だし、そもそも隠し事が全面的にダメだってのにそろそろ気づいたらどう?』

 

 

 違う、違う、違う。これは今の記憶じゃない。どれが今の記憶じゃない?

 二種類の色の違う記憶と現在の思考。混ざり合って滅茶苦茶だ。

 まるで分割思考を実体験しているかのように並列していながら統一されている。つまるところ滅茶苦茶なことには変わらない。

 今まで何度かあった体験だ。ようやくそこまで思い出す。

 でも解決策は見つからない。何だって現実感が欠片もないんだから、現実的な対策をとりようがないのである。

 ついでにこういう思考をしていても論理的に繋がりがない。本当に滅茶苦茶だ、嫌になる。

 

 

「‥‥仕方がない方ですわね。こうなったら‥‥」

 

 

 まぁ待て、落ち着くんだ俺。KOOLになれ。

 こういう時は素数を数えれば落ち着くと偉大な先人が言っていた気がする。

 1,2,3‥‥と、ダメだ思考すらもバラバラで順序だって考えられない。

 

 

「‥‥これで起きなければ本当に次の授業は置いていきますわよ‥‥!」

 

 

 やたらと遠回りな思考で時間を浪費してしまったけど、そういえば今は一体何時だろうか。

 少しうとうとしてしまった程度ならいいが、朝までぐっすり寝てしまったなんてことになれば目もあてられない。

 明日‥‥今日かもしれないが、とにかく提出しなきゃならない課題がある。

 中間考査の出来がよかったからといって普段の提出物がアレではとても良い内申点はとれはしまい。

 いや、違う、これも今の俺の記憶じゃない。とうの昔に放棄した―――

 

 

「‥‥いい加減に起きなさい、ミスタ・アオザキ!!」

 

 

「ぐぁぁああっ?!」

 

 

 突然側頭部に鈍器か何かで殴られたかのような衝撃を受け、俺はもんどりうって椅子から転げ落ちると目を覚ました。

 気付けばそこはかつての日本にあった自宅の居間のテレビの前でもなく、自室の約半分を占拠するロフトベッドの上でもない。

 少し湿気た空気が半開きの窓から流れ込む大学の講義室のような教室と、顔を上げた目の前には僅かな日の光に照らされて綺麗に輝く鮮やかなオレンジ色の髪。

 それをこれまた昔の少女漫画か何かのような風化した縦ロールにセットした、万人が万人、美少女と称えるであろう完全無欠のお嬢様。

 俺は寝ぼけているからか一瞬彼女の名前を思い出せずにいたけれど、覚醒の遅い頭を無理矢理に振るって意識を鮮明にさせる。

 そうすると苦労していかにも何でもなさそうな顔を作り、腕を組んでこちらを見下ろす彼女に笑いかけた。

 

 

「やぁ、今日も元気だねルヴィアゼリッタ。起こしてくれてありがとう」

 

「ショウ、そこは普通『綺麗だね』と言うところではございませんこと?」

 

「君が優しく起こしてくれたのだったらそう言っただろうね。でも君は乱暴に過ぎるよ。流石にガンドはないんじゃないかな‥‥?」

 

「何度も優しく起こしましたわよ。肩を揺すって、枕にしているノートを動かして、耳元で少し大きく叫んでみたりもしましたわ。それでも起きない貴方が悪いです。まったく、講義中に寝てしまうなんて一体昨夜は何をしていましたの?」

 

 

 意識が鮮明になり、ようやく今ここにいる自分を認識する。

 俺の名前は蒼崎紫遙。

 封印指定の人形師である蒼崎橙子と第五の魔法使いである蒼崎青子の義弟であり、魔術協会の総本山で最高学府であるココ、時計塔の鉱石学科に所属する魔術師だ。

 

 

「さて何をしていたんだっけな。新しく教授から借りてきた魔術書を読み耽っていたのかもしれないし、新しく羊皮紙に魔術式を書き込んでいたかもしれない。いや、確か先日発表された論文の粗捜しをしていたかもな。君はどれだと思う?」

 

「どうせ貴方のことですから、それらの全部といったところでしょう? まったく、いくら夜こそが魔道の探究に最適な時間といっても少しは自重なさらないと体を壊しますわよ?」

 

「魔術師が睡眠時間がたらないぐらいで壊れるわけがないだろう? 君だって魔術回路に魔力を通して三日三晩工房に籠もりきったことがあるじゃないか」

 

 

 時計塔に来て二年弱。決して長い時間ではないけど、それでも俺は完全に倫敦の街に、学院の空気に馴染んでいた。

 何しろ二年とはいっても、かなりの基礎を子供の頃から封印指定である義姉に仕込まれたおかげで基礎錬成過程を飛ばして専門課程へと進むことができた。

 通常俺のような初代の魔術師は基礎錬成講座なる初心者向けの退屈な授業を経験しなければいけないことを考えれば、破格の対応とも言えるだろう。

 やはり『青』の称号を持つ魔法使いを輩出した家系の持つネームバリューは凄まじい。ついでに俺が義弟ということも殆どの人が知らない。

 何はなしに立場チートという言葉が脳裏をよぎったけど、なに気にすることはないさ。

 俺から言わせて貰えば他の連中の方がよっぽどチートだよ。それなりの好待遇を受けて毎日をのんびりと魔術の探究に費やすなんてぐらいじゃ、チートのチの字にも掠りゃしない。

 

 

「私の場合はその翌日に論文の発表が迫っていたからです。貴方のように分別がないわけではありませんわ」

 

「いや、別に俺だって毎日毎日こんな調子じゃないことぐらい君は知っているだろう? 昨日はちょっと、本当にちょっと研究の興がのっただけでね。ついつい寝るのを忘れてしまった、そういうことさ。大したことじゃない」

 

「生活や学問をする上でのアルゴリズムというものは人それぞれですし、魔術師として共感出来るところは多分にありますけど、それで授業中を惰眠に費やしていては本末転倒ではございませんこと?」

 

 

 物理衝撃すら伴う強烈なガンドをくらった側頭部をさすりながら、俺はすっかり生徒のいなくなってしまった講義室を見回した。

 よくある理科実験室のように壁には鉱物標本がずらりと棚に入って並んでいたり‥‥しない。

 魔術に使う鉱物や宝石は貴重だからこんなところに晒していたら危なくってしかたがないのだ。

 基本的に材料は個人調達。もしくは教授に頼んで手配してもらう。

 教授が講義につかう物は全部隣の、魔術的な施錠が幾重にもなされた準備室に保管してあるからどうあがいても盗難の被害はない。

 この辺りはやっぱり普通の学校じゃないな。まぁ当然といえば当然だし、俺の育った環境というのも中々に特殊と言えるから、一般的な魔術師と言われても首は半端にしか触れないからね。

 

 

「君も知ってるだろう? 俺の本分は鉱石魔術《コッチ》じゃない。そりゃ真面目に授業を受ける気ぐらいはあるけど、やっぱり自分の本分の方に傾倒してしまうのは魔術師として当然のことだよ」

 

「貴方は魔術師魔術師とまるで免罪符のように使いますけど、それでも学生として授業に出るのは当然のことでしょう? いくら鉱石魔術が専門でないとはいえ、クラスに所属している以上はあまり不真面目だと単位を落としますわよ?」

 

 

 腰に手を当てて呆れ顔ながらも真剣に俺を諭すルヴィアに軽く手を振り、大きく伸びをした。

 講義の途中、丁度半分ぐらいから記憶がないからかなりの時間同じ姿勢を保持していたらしい。

 背筋のみならず肩や足、体中がバキバキと悲鳴をあげる。まったく、本当にどうかしている。

 こんなことだから摩耗して思い出すこともできず、するつもりもない昔の記憶を思い出してしまったに違いないのだ。

 

 

『‥‥捨て子、か? ふん、それにしては随分と図体がデカいな。それに酷い怪我だ。‥‥おいお前、この平和な街で一体どういうことだ?』

 

 

 ある日、俺はとある事故に巻き込まれた。

 詳しいことは諸事情で思い出せないけど、何の罪もない人間を沢山巻き込んだ大事故で、巻き込まれた瞬間に「あ、死んだな」と悟ってしまうぐらいのものだった。

 死にたくない、と思ったかどうかは定かではない。今の俺に残っているのは恐怖よりも達観で、それがやけにリアルだからこそ、後述の事実も相まってアノ事故の存在を信じているのだ。

 熱くて、痛くて、巻き起こった熱波から眼球を守るためか思わず目を閉じたがために周りは何も見えなくて。

 それでも俺は気づいたら事故がおきた状況とは一変、体中に怪我を負った状態で何の変哲もない街角に、降りしきる雨に打たれて濡れ鼠になって転がっていた。

 熱くて、冷たくて、痛みと血の喪失で霞む視界に認めた、俺を見下ろす一つの人影。

 そして、そこで声をかけられた時、俺の人生もまた一変したのだった。

 

 そう、俺は厳密に言えば『この世界』の人間じゃない。

 俺が生まれ育った日本じゃ魔術のマの字もなかったし、そもそも俺は蒼崎紫遙なんてけったいな名前じゃなかった。

 あの雨の夜に拾い上げられて、気づいた時には知らない天井を見つめていて、頭は割れるように痛かった。

 ギシギシと軋む首を動かして横を向くと、そこには何よりも冷たい目をした現在の上の義姉の姿。

 その顔だけでは分からなかっただろうけど、何より俺を見つめる目が、咄嗟に浮かんだ夢見がちなバカみたいな考えを肯定していた。

 あぁそうさ、俺は、今まで暮らしていた世界と似て非なる、神秘が社会の裏で跋扈するこの世界へとやって来たのである。

 

 

「しかし起こしてくれて助かったよ。心情としてはいつまででも寝れる内に寝ておきたい気分だったけど、流石に次の講義にまで遅れるわけにはいかないからね」

 

「別にショウが気になさる必要はありませんわよ。いえ、居眠りについては十分に気にして欲しいところですけれど、私としても貴方がいないと退屈なんですもの」

 

「おっと、友人し甲斐のある嬉しいことを、さらりと恥ずかしげもなく言ってくれるね。だとしたら我が親友殿を怒らせないためにも、さっさと次の講義室へ向かうことにしますか」

 

 

 自分が何かを口にする際には、どんな恥ずかしい台詞や気障な台詞でも負うことなく言い切ってしまえる彼女は、俺の中では太陽のように輝く存在だった。

 普通に考えたら近くにいるのが恥ずかしくなってしまうぐらいの服装や髪型が不思議と似合ってしまう彼女に今更かもしれないけれど、やっぱり凄い友人だよ、ルヴィアは。

 

 

『どうしてお前がこちらの世界に飛ばされたか? おいおい、私は彼の宝石翁でも何でもないのだぞ。そういう魔法じみた事柄に関しては門外漢だ』

 

 

 先程の夢のような記憶との邂逅が原因か、随分と昔、それこそ五、六年も前に一度か二度交わした話が脳裏をよぎる。

 それなりに魔術について修行をし、ようやく見習いの域に足を踏み入れたかそうでないかぐらいの頃だったか。

 漸く俺も魔術に関して知識も増え、橙子姉―――自然とそう呼ぶようになった。経緯は省く―――と魔術関連の話を交わすことができるようになり、そこでやっと俺がこの世界に来た理由というものについての議論が成立した。

 要するにそれまでは俺があまりに未熟だったがために話が出来なかったというわけで、まったく歯痒いところではある。

 

 

『そもそも考えなければならない要素というのはまだ沢山残っているだろう。大勢いた被害者の中で何故お前だけが世界を飛び越えたのか。もしくは他の連中も飛び越えたのかいないのか。

 何が原因なのかもさっぱりだし、それに付随する状況についてもさっぱりだ。はっきりいって議論の余地すらないよ。宝石翁と巡り会うのを辛抱強く待ったほうがよっぽど効果的だ』

 

 

 並行世界を渡る第二魔法を扱う宝石翁。しかし彼は気まぐれで、生きている内に噂を聞くことが適うかも分からない。

 つまるところ封印指定である義姉を以てしても不明というのだから、魔術特性としてそちらに向かない俺としても不明。

 まぁそもそも今となっては帰るつもりもないし、例えそれが魔法への手がかりであったとしても一考する手がかりすらもないのでは意味がないだろう。

 

 

『しかしまぁ、お前の体が小さくなってしまったという点に関しては多少心当たりがないこともない。おそらくは魂に欠損が生まれたか、歪みが出たか、そのあたりだろう。これについても門外漢だからよくは分からんが、世界を渡るという反動によって、といったところだろうな』

 

  

 そう、橙子姉が見つけたずぶ濡れの怪我人は年端もいかぬ子供であった。俺はこの世界に来た反動で、子供の体になってしまっていたのだ。

 明らかに不審な子供を警察に届けずに拾ってくれた理由は今の今になっても教えてくれない。

 とはいえ複雑でありながら単純明快な経緯を得て橙子姉の義弟として生きていくことを決断し、以後を家族兼弟子として厳しい教えを受けた。

 魔術師として生きていくことを決意するまでにはまた色々なことがあったんだけど、それはまたの機会に回す。

 橙子姉も最初は渋っていたみたいだけどね。結局魔術師としての技術の大半は橙子姉から教わったよ。

 ついでに『私も行ったんだからお前も行け』という かなり理不尽かつ偽・螺旋剣(カラドボルグ)もかくやという程に歪んで切っ先が明後日の方向を向いた愛情で、魔術師の最高学府である時計塔《ココ》へ単身放り込まれたのだった。

 

 

「さ、いつまでも喋っていると本当に遅れてしまいますわよ? 次の講義は実技演習ですから地下の実習室ですし。私、ミイラ取りがミイラなんて無様は晒したくありませんの」

 

 

 ルヴィアは頭の左右でしっかりと地面に切っ先を向けた縦ロールをふわりと――本当は“ぶるん”という形容詞を使いたいのだけれど、考えただけでガンドの豪雨が飛んできそうだから自粛する――翻してあくまでも優雅に踵を返して教室を出ていく。

 俺はそんな友人の後ろ姿に僅かに苦笑を浮かべると、机の上に広げてあったよだれの痕のついてしまった大学ノートをまとめた。

 脇に置いてあった古式ゆかしく紐で縛り上げて、いつも変わらない優雅な青いドレスを風にはためかせて歩くルヴィアの後を追う。

 

 

「やれやれ、魔術師として機械の類を嫌うのは十分に理解できるんだけど、せめてエレベーターぐらいは導入してほしいよ。毎回毎回あの地下深い工房からここまで上がってきて、実習の度にまた上下移動してたんじゃ堪らない」

 

「魔術師たる者、自らの体も鍛えてこそですわよ。泣き言を仰る暇があるなら足を動かした方が遙かに有意義だと思いますわ」

 

「時間は有限だって言いたいんだよ。疲れる疲れないの問題じゃなくて、もっと効率の良い移動手段があるんじゃないかってことさ。これじゃ歩き回るだけで日が暮れてしまう」

 

 

 昼も間近な廊下に見える人影は少なくないけど、一人としてルヴィアに好意的な視線を向ける人物はいない。

 フィンランドの魔術の名門であるエーデルフェルト家の出身にして今年度の時計塔の首席候補とされる彼女を、妬む奴はいても友達付き合いをしようなんて酔狂な奴はいないのだ。

 近寄って来る奴は揚げ足取りか米つきバッタのどちらかで、俺みたいにこうして親しい仲にあるなんて方が異常だろう。

 大体魔術師の癖に他人ばかり気にする貧小な輩が多すぎるのだ、ここは。

 なまじっか家系に歴史だけはある奴ばかりなだけに自尊心が強すぎる。

 

 

「今の状況では言い訳にしか聞こえませんわよ。大体文句があるならお偉方に上申すれば良い話ではありませんの。私に愚痴を仰るよりはマシですわよ」

 

「聞くわけないじゃないか連中が。俺だって工房には機械の類を置いてないし、魔術師としての常識というか、そういうものは理解してるさ。でもあの連中は異常だよ。まるで錆びて壊れた城門をアンティークだってありがたがって、博物館にでも飾ればいいのにそのまま侵入者を阻むために使ってるような奴らだからね」

 

「貴方の例えはいつもわかりにくいですけど、なんとなくニュアンスは伝わったので同意しておきますわ。‥‥まぁ一歩間違えれば危ない会話は置いておいて、そういえばショウ、聞きまして?」

 

「なんだい?」

 

「今年度は日本から特待生が来るらしいですわよ。それも私達の鉱石学科に」

 

「らしい、ね」

 

 

 俺はルヴィアの言葉に反応し、ぴくりとポケットに突っ込んだ腕と連結している肩を動かせた。

 時計塔に来る特待生なんて普通は話題に上らない。大低は家名を背負ってやって来る愚にもつかない俗物だったり、そういったイイトコ出身の教授が推薦したこれまた実力も覚悟も誇りもないくせに矜持だけはエベレストよりも高いどうしようもない奴らばかりだ。

 しかし果たして今回の特待生は少々毛色が異なっていて、入学前から教授学生を問わずあちらこちらで話題に昇っているのだった。

 日く―――

 

 

「第五次聖杯戦争の勝利者とその弟子‥‥だったかしら? 極東の魔術貧乏な国の儀式で勝ち残ったからって、調子にのって時計塔まで凱旋する気ですのよ。まったく、これだから島国の人間というのは―――いえ、今のは失言でしたわね。許して下さい、ショウ」

 

「気にすることはない。別段愛国心に溢れているわけじゃないよ。‥‥まぁ、食事は別だけどね」

 

「それについては同意いたしますわね。まぁ倫敦にも美味しい店はありますわよ。私はそういう店で食事をとりますから問題はありませんわ」

 

「と言うより、君の家の食事が美味しすぎるんだと思うよ」

 

 

 ロンドンの街のレストランに出る数々の、外国人からしてみればとても料理と呼ぶのもおこがましい作品の数々を思い出して、砂を吐くような顔をした俺はぼそりと呟いた。

 勿論美味い店は美味いのだけれど、そういう食事が堂々とまかり通っている国なのだ、ここは。

 ちなみにイギリスも島国じゃないのなんてことは考えても口にしない。触らぬ神とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに祟りなし、だ。

 彼女の場合確実にガンドと言う名の祟りが飛んでくるし。

 

 

「まぁなんにせよ楽しみですわね。調べによりますと属性も私と同じ五大元素統合(アベレージ・ワン)だそうですし、専攻も宝石魔術だとか‥‥」

 

「最近は宝石魔術を専攻にしている魔術師が少ないからね。まぁ俺に言わせればコストパフォーマンスが割に合わなすぎるよ」

 

「何を仰いますの。第二魔法の使い手たる大師父が宝石魔術を扱う以上は、最も魔法に近い魔術の一つですわよ? 大体そのような泣き言を言っていては根源を目指す意思も希薄というもの。魔術に使う費用を捻出するのも魔術師の甲斐性です」

 

「貴族だからこそ言える台詞だな。それ、くれぐれも新しく来る特待生に言っちゃだめだよ?」

 

 

 隣できんのけものがフフフと底冷えするような笑い声を漏らしている。良い友達なんだけど、金銭感覚に関してだけは頭痛が止まらない。

 それでも自信げな顔は変わらずに歩くルヴィアの横顔を見ながら、俺は先日橙子姉から入ってきた、たったアルファベット三文字の簡素なメールの内容について思い出していた。

 

 俺がコチラとは似て非なる並行世界とでも言うべき場所からやって来たことは、先程既に話したと思う。だがここで、俺はもう一つ、心に溜まっていた澱のようなものを打ち明けたい。

 

《Fate/stay night》

 

 俺の世界にあったビジュアルノベルゲームの名前だ。

 TYPE-MOONが作成した人気作品。エロゲ、ギャルゲとは思えない程の深い世界観とストーリーで構成されたこの作品に、当然俺も他の型月作品共々魅力にとりつかれた一人だった。

 型月の作品群はある一つの共通した世界の元で描かれていると言われている。

 あの土砂降りの夜に《空の境界》の登場人物に会った時に、俺は自分がそのゲームの中の世界に来てしまったという信じ難い出来事を確信した。

 そして何より、俺を拾った際に記憶を調べたらしい橙子姉と、その後すったもんだあってやって来た青子姉にもバッチリ知られてしまっている。

 

 

『私達が空想の存在? ハッ、だからなんだと言うのだ馬鹿馬鹿しい。ならば聞くぞ紫遙、お前の記憶にあるサーヴァントとかいう存在はどうなるのだ? 少々前提が違いこそすれ、自分が神話やお伽噺、英雄譚の登場人物であると知って絶望でもしたか?

 英雄だろうと人は人。私に言わせれば神様も人だ。そしてな、自分が誰にどのように認識されているかなんてものは、魔術師であれば大して気にすることでもないのさ』

 

『うーん、私も別にだからどうってわけじゃないわね。ホラ、良くも悪くも私も外れちゃった存在だしさ、今更そういうの気にしてもしょうがないのよ。私としてはまだ人間のつもりなんだけどね。

 まぁその格ゲーは是非やってみたかったけど‥‥それで私が負けたりしたらそれはそれで屈辱かな。だって実際に戦ったら絶対に負けたりしないもの。つまりはそういうことよ』

 

 

 《Fate/stay night》《月姫》《MeltyBlood》《空の境界》。

 おそらく自分が別の世界ではゲームの中の存在だと知って狂わなかったのは、橙子姉が橙子姉であるゆえんなのだと思う。

 一緒にそれを見た青子姉は‥‥まぁ、ほら、魔法使いだし、なんでもありなのかもしれない。

 

 

(『UBW』、か。俺は、何もできなかった‥‥)

 

 

 聖杯戦争の孕む数多の悲劇的な可能性を知った橙子姉がとった行動は、『傍観』だった。

 魔術師は私利私欲とせいぜい身内のためにしか動かない。

 それは比較的甘い部類に属する上の姉にしても例外ではなく、俺が手出しを許されたのは直死の魔眼を持った両儀式や遠野志貴の件を含めて一つもない。

 そして結局、聖杯戦争が始まる前に問答無用で時計塔に隔離――この言い方で間違ってないと思う――されてしまった。

 

 ‥‥俺は橙子姉の判断が間違っているとは思わない。

 そもそも俺が橙子姉の判断を疑ったこともないわけだけど、俺としたって原作とやらに大した価値を見いだせなかったからだ。

 この世界で生きていくことを決めて随分と長い時間が経っている。俺は、もう一人の魔術師として生きていくことを決めてしまっている。

 俺のコチラに来てからの目標は、橙子姉と同じく魔術の探究だ。そこに衛宮士郎や遠坂凜との接触をする意味はない。

 もし元の世界に帰りたいと思っているのなら別かもしれないけど、そういうわけでもないしね。

 第二魔法とか第三魔法とかを目指してたんならそれはそれでまた別かもしれないけど、やっぱりそういうわけじゃないからなぁ。

 

 完全に魔術師として生きていくことを決め、そう教育された俺に余計なことに首を突っ込む力も暇もないのは百も承知。

 俺自身としても痛い思いや死ぬような思いはコチラに来るきっかけとなったあの事故だけで十分だ。

 それでもこうして複雑な感情を抱いているのは、偏に知っていながら何もしなかった自分自身から湧いて出て来た彼らに対する負い目だろう。

 割り切れる程に成熟していない。これが橙子姉ならさっくりと割り切れただろうから、本当に俺は未熟者なのだ。

 要するにアレだ、もしかしたら手を伸ばせたかもしれないところで人が苦しんでいるのを、見て見ぬふりをしたがための罪悪感といったところ。

 実に女々しい上から目線。自己嫌悪に陥って仕方がない。

 だけどこれを表に出すわけにはいかない。衛宮のアレと同様、これは俺と二人の義姉の間だけで秘密にしておくべき封印指定だ。

 

 

「まぁ田舎魔術師風情といっても、時計塔への推薦を認められたことだけは確か。そこは認めてもいいでしょう。しかし、だからといって図に乗られても不愉快ですわ。まずはこの私自身の目でその実力を見定めて‥‥ショウ!」

 

「ん?」

 

「まったく、何を呆けてありますの。いいですか、まず私があのトオサカとやらと接触いたします。それまでは貴方は会わないように。同じ日本人で、なおかつアオザキと言えばどんな風に取り入ってくるかわかりませんからね」

 

「あ、えー、と‥‥」

 

 

 繰り返しになるけど、俺が蒼崎の血を次いでいない義弟ということを知っている者は多くない。

 その方が色々と有利だし、逆に厄介を招きかねないというところもあっても、義姉達に関する迷惑なら俺は大歓迎とは言わずとも喜んで背負い込む了見だった。

 魔法使いの家系である蒼崎は決して位階自体は高くないけど、接触を図ってくる者はまぁまぁいる。

 とはいえ最近は色々とあったがためにめっきり少なくなったわけで、それでも初めて俺に会うものならば可能性はあるだろう。

 そういうところを心配してくれる友人を持って幸せではあるんだけど‥‥。

 キッと振り向いて先程も人を椅子から撃ち落とした物騒な人差し指を突き付けてきたルヴィアに俺はどもってしまい、咄嗟に虚言を口にすることができなかった。

 

 

「あら、どこか含みのある様子ですわね。何か問題でもありまして?」

 

「いや、それがさぁ‥‥」

 

 

 言葉を濁す俺に、金髪のお嬢様は更に顔を近づける。

 急な接近に俺は思わず心臓がバクバク言うのを感じたが、逃げることを許さない真っ直ぐな瞳に無言で命令されて、仕方が無しに口を開いた。

 

 

「俺としても本意ではなかったんだけどね、実は先日学長に言われてさ。彼女達を迎えに行くの、俺なんだよね‥‥」

 

「な、なんですって?!」

 

「だ、だから本意じゃないって言ってるだろ?! 頼むから首を絞めないで‥‥チョーク、チョーク!」

 

 

 気づいていなかったのだ、そのときの俺は。

 現代の英雄たる衛宮士郎。彼が英雄であるのは間違いないことだ。

 英雄の周りには騒動が付きまとう。これもまた間違いないことだ。

 しかしまた、これも覚えておくべきことだった。英雄は騒動のある場所に惹き付けられるだけではなく、英雄自身もまた、他者を惹き付ける存在なのだということを。

 

 さて、とりあえず聖杯戦争はなんとか終わったらしい。

 しかし、だ。

 あかいあくまときんのけもの、この二人がかちあう鉱石学科に所属してしまった俺のこれからは、ひょっとして聖杯戦争中の衛宮士郎よりも不運なんじゃないか?

 ルヴィアに首根っこを掴まれて激しく頭を前後にシェイクさせられながら、窓の外を死んだ魚のような目でぼんやりと眺めた俺は考えたのだった。

 

 

 

 

 1st act Fin.

 

 



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第一話 『漂着者の歓迎』

※『Arcadia』様にて改訂版を連載中です。そちらも併せてどうぞ!
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 side Rin Tosaka

 

 

 

「ホラ二人とも、何を呆けてるのよ。あんまりボンヤリしてると田舎者だって思われるわよ?」

 

 

 ヒースロー空港という名前は聞いたことがある人も多いだろう。イギリスの首都、ロンドンにほど近い巨大なハブ空港だ。

 そしてイギリスという国もまた非常に巨大な先進国家であり、それに比して当然ながら空港の利用客も多くなる。

 大英帝国。決して現代においては経済大国と呼ばれる日本やアメリカと正面切って戦う―――直接的な意味でなくとも―――ことはできずとも、今まで背負ってきた歴史そのものが巨大なのだ。

 最初の産業革命を成し遂げ、植民地政策をとり、列強の筆頭に上り詰めた歴史。それは世界という舞台の経済という演目において他の役者に一歩譲っていても、確たる堅固さをもってイギリスという国を支える。

 歴史はそのまま周辺諸国との繋がりの深さをも意味するのだ。欧州からひょっこり飛び出した島国でありながら、今も欧州においての中心の座は揺るがない。

 

 

「そんなこと言っても遠坂、ここ東京よりも人が多いぞ? 冬木なんか比べものにならないし、俺こんな人が多いところに来たのは初めてでさ‥‥」

 

「私も祖国がここまで進んでいるとは思いませんでした。昔と比べれば雲泥の差だ。私が駆け抜けた草原や丘も、おそらくは残っていないのでしょうね‥‥」

 

「そんな寂しそうな顔するのはよしなさいな。貴方が活躍していたログレスはロンドンからは外れているわよ、セイバー。郊外の方に行けばまだ昔の名残が残ってるかもしれないわ」

 

 

 私は生まれ故郷である冬木から数える程しか出たことがない。

 何故なら冬木は日本でも指折りの霊地であり、第一級の魔術儀式である聖杯戦争の開催地。

 そして遠坂家はそこの管理者(セカンドオーナー)なのだ。いくら管理しなければならない魔術師が少ないからといって、管理者が度々自分の管理地を離れるわけにはいかないだろう。

 だから私も海外まで来たのは魔術刻印を移植された時以来で、それだけ見れば条件は他の二人ともそう変わらないはずであった。

 

 

「修学旅行で東京に行った時は本当に人が多くて驚いたけど、ロンドンも勝るとも劣らない‥‥ていうか、やっぱりこっちの方が多いよな。しかも見る人見る人外国人だし」

 

「そりゃ外国なんだから当然でしょう? それに修学旅行で行った浅草とかにだって外国の人は沢山いたじゃない。第一、あんたの髪の色だって日本人の中では相当に珍しい方よ?」

 

「そんなこと言われてもなぁ‥‥。ホラ、やっぱり纏う空気が違うっていうのかな、こう、今まで同じ言葉を話して同じ文化を共有していたところから、いきなり別のところに放り出される気分っていうのかな」

 

「それ、そのまんまよ士郎。まぁ言いたいことは分かるけど、ちゃんと英語も勉強したんだからあんまり物怖じしてると暮らしていけなくなるわよ。しゃきっと立ちなさい、しゃきっと」

 

 

 そんな私が何故管理地である冬木を離れて遠い異国まで来ているのかといえば、それはやはり魔術に関係することに他ならない。

 魔術師達が集まっている組織は世界に大きく分けて三つある。

 一つは北欧を中心とした『彷徨海』。もう一つはエジプトにある錬金術師達の根城である排他的な研究施設の『巨人の穴蔵(アトラス)』。そして一番代表的と言って良いのがココ、ロンドンに本部を構える『魔術協会』だ。

 そして私が目指すのは魔術協会の本部である“時計塔”の中にある魔術師達の最高学府。そう、いわば英国に来た目的とはズバリそのもの進学である。

 

 

「こういうこと言うのもなんだけどさ、今まで正義の味方になりたいってずっと考えてたけど、いざ冬木を出ると本当に世界は広いって実感するな。なんていうかこう、ひどく狭い見解で色々言い合ってたみたいで‥‥俺、まだまだアイツには追いつけないみたいだ」

 

「彼のことをそう気にする必要はありませんよ、シロウ。シロウはシロウで、彼は彼です。第一英雄である彼とシロウとでは経験値に絶対的な差がある。これからどうしていくかが問題になるでしょう」

 

 

 聖杯戦争の勝利者という肩書きと、弟子一人(士郎)使い魔(セイバー)を引っ提げて、ついでに何故か時計塔の大物講師の一人の推薦を貰い、私はロンドンへとやって来た。

 入学するのは鉱石学科。それも選り抜きのトップクラスである専門課程、研究過程の生徒として。

 本来なら魔術貧乏な極東の出身者である私がエリートの集まりの中へと入るのは非常に難しい。

 お父様や綺礼から色々と話を聞いた覚えがあるけど、魔術協会っていうのは血統主義とか家柄とか、そういう面倒なしがらみでドロドロな場所なんだとか。

 第二の魔法使いである大師父の弟子の家系と聖杯戦争の勝利者という看板でも正直ギリギリで、本当に何故かは知らないけど、ロードなる人物の推薦を受けることができたのは僥倖だ。

 

 

「しかし本当に、その推薦を貰ったロードという人物はどういう意図で凜の援助をしたのでしょうか。その辺りは先方から伺っていないのですか?」

 

「そうね、私としても知らない内に話が進んでいたみたいな感じで、正直よくわからないわ。ほとんど書類の上の作業だったみたいでね、気づいたら推薦人の欄にその人の名前が入っていたのよ」

 

「なんか不気味だな。他に何かなかったのか?」

 

「一応、入学してから暇ができたら呼びに行くとは書面で送られてきたんだけど‥‥なんていうか、それだけよ。送られてきた手紙っていうのも簡潔に必要事項だけ書いてあってね。私なんかに取り入ったところで何にもならないだろうから不安ではないんだけど」

 

 

 これが十何代も続く魔術の大家の子女とかなら取り入ろうとする意図も分からない訳ではナインだけど、こと私に関してはわざわざ後ろ盾になってやるメリットがない。

 先物投資なんて言えば説明は簡単かもしれないけど、実際あまりにも博打が過ぎるだろう。

 だからこれはどちらかというと私達が関係する思惑ではなく、向こうさんのことが関係している事柄であるように思える。

 

 

「まぁ関係ないわ。正当な手続に則って私達に利益が出るように行われているんだから、私達が気にすることじゃないわよ。こういう判断材料が足りないことは気にする必要が出てから気にすることにしましょう」

 

「まぁそうだな。それに何かあったら俺が遠坂を守ってやるんだから、そう気にすることでもないさ」

 

「‥‥ッバ、バカ何言ってるのよ!」

 

「なんでさ。何か俺おかしなことでも言ったか?」

 

「言ってないけど‥‥あーもう、何でもないわよっ!」

 

 

 さらりとこちらが赤面してしまうようなことを言った士郎に何か言い返すこともできず、私は大きく頭を振って反対側に荷物を持って立っていたセイバーの方に顔を向けた。

 こちらはこちらで生暖かい、というか微笑ましいものを見る目で私の方を見ている。‥‥ちょっと何よ、何か文句でもあるっていうの?

 

 

「いえ別に。ただ、どこにいっても凜とシロウは変わりませんね」

 

「褒めているのか貶している‥‥ってことはないでしょうけど、なんとなく釈然としないわね」

 

「当然褒めているに決まっているではないですか。貴方達といると安心します。先程まで祖国を前にざわついていたのですが、すっかり落ち着きました」

 

 

 釈然としないけど今は公共の場、いつものように騒ぐわけにはいかないし、私としてもそんな無様波晒したくない。

 この子も最初は堅物で生真面目な可愛い少女騎士だったっていうのに、この一年ぐらいですっかり成長というか、融通が利くようになったわね。

 一体誰の影響なのかしら。やっぱり藤村先生? それとも気があったのか頻繁に一緒に遊んでいた綾子?

 それとも三年生に上がったときにこれまた一緒のクラスになったからか、たまに会うこともあった三人娘のせいかしら?

 

 

「さて、私としてはしかとは言えませんが、おそらく一番身近にいた人達の影響でしょう」

 

「しれっと言ってくれるわね‥‥。まぁいいわ、とにかく今は目の前のことをなんとかするのが先決でしょ」

 

 

 とりあえずマスターとしての威厳とかそういうものは論外だけど、それでもこの子に主導権を握られてしまっているというか、立場的に私が弱い状況はどうにもいけないような気がする。

 でも今はその問題は棚上げしておこう。とにかくイギリスへとやって来た目的を果たさなければ。 

 だだっ広いヒースロー空港のエントランスホールを歩きながら、私は憮然とした表情を作って士郎に預けた手提げバッグを漁り、中から数枚の書類を取りだした。

 

 

「さて、時計塔からの手紙によると、私達の到着に会わせて案内人が来てくれるはずなんだけど‥‥」

 

 

 出した書類は時計塔入学にあたっての注意事項を記したものの一部。

 内容はおおむねイギリスに入国した直後にとるべき行動について。

 魔術協会のお膝元とはいえ、そこに新しく魔術師がやってくるとなると多少はその動向というものを把握しておく必要があるからか、割と詳しく指定されている。

 どうやらまずはホテルへ、というわけではなく、いきなり私達がロンドンで暮らすために宛がわれた宿舎へと向かわなければいけないらしい。

 確かに大きなものは先に送ってしまっているとはいえ、この大荷物じゃ身動きだってままならない。 私達としても一先ず体を落ち着けるというのは願ってもない。なにしろ空の旅は窮屈で疲れるのだ。

 

 

「遠坂、その写真が案内してくれるって人か?」

 

「えぇそうよ。時計塔に一人しかいない日本人の学生らしいんだけど‥‥。何の手違いか写真しかないのよね」

 

 

 資料の最初のページには、履歴書に使う3×4㎝のものではない普通の写真が半分になって貼り付けられていた。

 片方の肩のあたりから腕の方が不自然に切られているのはおそらく、元々はスナップ写真か何かだったからだろう。黒いペンで『He is your Gide』と書き込んである。

 写っているのは黒髪の標準的な顔をした日本人の青年。清潔というよりは無地という表現がパッとくる真っ白なシャツを着ていて、硬そうな髪はうざったくない適度な長さで揃えていた。

 それだけ見れば本当にどこにでもいそうな地味で凡庸極まる日本人だけど、一つだけ、額に巻いた紫色のバンダナだけがそれなりに激しく自己主張をしている。

 色合いとしては悪くない。白いシャツに紫のタイなんかは上品な着こなしだと思う。

 でもバンダナってのはどうなのかしら。ファッションとしてこれを愛用しているのなら退いちゃうわね。

 

 

「やっぱり出入口の近くは人が多いなぁ。こんな人込みの中で案内人見つけられるのか?」

 

「まぁこのバンダナを巻いていてくれたら分かりやすいんだけど‥‥」

 

 

 周りを見回せば一杯に歩き回る人人人。確かにシロウの言うとおり、この中から案内人を見つけるのは至難の業だろう。

 ともすれば時計塔に連絡することも考えなければならないかもしれないけど‥‥どう接触していいのかわからない。

 時計塔っていうのは勿論俗称で、ロンドンの観光名所として有名なビッグベンのことではないのだ。

 その表の顔は世界で有数のミュージアムである大英博物館。だからそこに行けば時計塔に入ることができると思うんだけど、新入生とはいえ部外者がひょんと行って入れるような場所だとは思えない。

 

 

「宿舎についても聞いてないしね。まぁまずは暫く案内人を待って―――」

 

 

 待つ必要はなかった。ソレは間違えようもないほど分かりやすく、エントランスを出た先に立っていたのだ。

 周りを行く僅かな日本人が怪訝な視線を向けるぐらい分かりやすく、それでいて他人のフリをして通り過ぎたいぐらいには頭が痛い。

 なんていうか、あまりにもあからさますぎる。もしかしてアレが時計塔のデフォルトなの?

 だとしたら、ロンドンに来たことを少し後悔せずにはいられない‥‥。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

《川´_ゝ`)ノ ようこそロンドンへ! 遠坂師弟御一行様☆》

 

 

 平日のヒースロー空港はビジネスマンを中心に非常に混んでいる。

 道行く人は当然ながら様々な人種だけど欧米人が多く、それでもところどころに東洋人の姿を認めることができた。

 観光客というかんじではない。スーツを着込んだビジネスマンは、まず間違いなく仕事で観光を楽しむ間もなくやって来て、帰って行くのだろう。

 空港から出た次の瞬間には忙しく懐から携帯電話を取り出して何処ぞへ電話をかけ、ぺこぺこと頭を下げているのはこれ以上ないほどに日本人らしい。

 

 さて、そんな忙しないハブ空港の中で学長から出迎え云々について一切を任された俺は、こんな分かりやすい看板を持って出入口にあたる場所に突っ立っていた。

 先ほど言及した日本人らしいビジネスマンは俺をじろじろと不審なものに向ける視線で見て、それでも自分の用事が優先なのか足早に去って行く。

 外国に来るということは少なからず覚悟がいる。慣れ親しんだ日本語を一時的にせよ手放す覚悟、聞き慣れない英語に身を浸す覚悟だ。

 そんな覚悟を決めて勇ましく空港を出た矢先に目の前に日本語が飛び込んできては、思わず肩の力も抜けるというか、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてしまうのは仕方が無いことだろう。

 

 そんな一般人を楽しげに観察している同じ日本人であるところの俺の格好は普段と全く同じ。

 軍の払い下げのものを改造したミリタリージャケットと黒いTシャツにジーンズ。かなりラフな姿はあまりイギリス! というカンジはしない。

 もしかしたらスリーピースにステッキでも持っていればよかったのかもしれないけど、生憎と俺は生粋の日本人だ。

 ああいう姿というのはしかるべき人が着こなしてこそ格好が良いというもので、純粋培養の短足寸胴の日本人たる俺には精々が孫にも衣装のリクルートスーツといったところか。

 実際その服装自体ならともかく、俺には非常に目立つ額のバンダナがある。

 すっかり擦り切れてしまった紫色の布切れは完全に最近の流行の斜め上を行っている。ご同輩諸兄も何というか、奇妙なものを見るような気分だろう。

 

 

「母国のより一層の発展に貢献するジャパニーズビジネスマンの皆様、ご苦労様です。しかしまぁこれだけ人がいるとお目当てのお客様を見つけることなんて出来るのかなぁ? まぁ向こうから見つけてもらえるようにわざわざ目立つ日本語の看板なんか持って来てるわけだけど‥‥っと、もしかしてあれ、か‥‥?」

 

 

 ガラス張りの入口から中の方を見遣ると、ジブリ作品の如くひしめく人波の中でさえ一際目立つ三人組があった。

 

 一人はそれこそ『ぬばたまの』という枕詞がよく似合いそうな黒髪をツインテールにした東洋系の少女。

 真っ赤な服はともすれば下品に見られがちだが、彼女に関して言うならばそれは一切当て嵌まらない。

 まるで彼女という名の一つの宝石を飾る細工のように、それこそが自然であるのだという主張を辺りに放っていた。

 

 もう一人の少女はケルト系の金髪を後頭部で編み上げ、品の良い白いブラウスを青いリボンで締めていた。

 これだけならばごく普通の美少女であったのだが、彼女を一介の美少女に留めぬものが、全身から発せられる王気とでも言うべき絶対の存在感であった。

 カリスマ性、なんて言葉を体現したとも言える。あれこそが人の上に立つべくして立つ人間に違いない。

 逃亡中の凶悪犯でさえ、彼女を眼前にすれば逃げることを諦めて平伏すであろう。

 

 そしてその中でなお俺が注意深く視線を落としたのが最後の一人。

 トランクやらリュックやらを沢山抱えてひぃひぃ言っている小柄で特徴的な赤銅色の髪の毛の少年は、素性を知っている俺ですら、どこにでもいそうな平凡な学生にしか見えない。

 恐らく道行く人が彼を見る理由の大半は『コノヤロー美少女二人も連れやがって』と言う嫉妬の念だろう。

 この辺英国紳士とか関係なく男の性だ。

 

 

「失礼、もし間違ってたりしたら申し訳ないんですけど、貴方が時計塔からの出迎えですか?」

 

 

 と、存外ぼんやりとしてしまっていたらしく、こちらに気づいたらしい黒髪の少女から俺に話しかけてきた。

 秀麗な顔はこれ以上ない程に社交的な笑みで彩られていて、近づいてくるその何気ない仕草ですら上品だ。

 それでいて俺を真っ直ぐに見つめる瞳がちっとも笑っていないように見えるのはなぜだろうか。 

 ちらりと俺が手に持った看板に視線が行ったような気がするけど、よかった、これのおかげで俺に気づくことができたのだろう。

 ‥‥しかしまぁ、字面じゃ知ってはいたがこれまたすごい美少女だな。学園のアイドルだったなんてものも文句なしに頷ける。

 もし俺が何も知らないで穂群原にいたなら間違いなく毒牙にかかったことだろう。

 

 

「こんにちわ、貴女が遠坂さんですね? ようこそ時計塔のお膝元たる霧の都、倫敦へ。魔術協会は貴女達を歓迎しますよ」

 

「どうもありがとうございます、確かに私が遠坂凜です。最初は案内して下さる方を見つけられるか不安でしたけど、派手な目印を持っていてくれて助かりました。‥‥ところで不躾ですけど、貴方も日本から時計塔へ?」

 

「あ、はい、自己紹介が遅れて申し訳ありませんでしたね。俺は貴方が進学する時計塔の鉱石学科に所属している、蒼崎紫遙と申します」

 

 

 あまり機嫌が良い様子ではないらしい遠坂凜と外国式の握手と日本式のお辞儀を同時に交わし、当然の社交辞令として自己紹介をする。

 と、何を勘違いしたのか、もしくは判断したのか、やや細めにしていた目を大きく見開き、突然素っ頓狂な声を上げられてしまった。

 

 

「あ、蒼崎ですって?!」

 

「ん? どうしたんだ遠坂そんなに驚いて」

 

「ばか! 蒼崎っていったら現存する魔法使いの家系じゃない!」

 

 

 それなりに信じられないものに出会ったとでも言いたげな叫び声に、俺は苦笑して頬を人差し指でかいてみせた。

 魔法。それは昔に比べてともすれば魔術を凌駕しかねない程に発展した科学を持ってしても再現が不可能な至高の神秘。

 どれだけ時間をかけようと、どれだけ資金を注ぎ込もうと、既に常識を逸脱しているのだから再現できようはずもない。

 魔術師達が目指す目標の一つ、根源への入り口の一つでもあり、現在、その魔法は五つ確認されているそうだ。

 俺が原作知識なる不確かなものを動員しても、知っているのはその中の二つだけ。

 第二魔法である並行世界の運営と、第三魔法である魂の物質化だ。ついでにいうと例えば名称を知っていたとしても、その魔法の実態は全くつかめていない。

 色々とFate本編でも関わりがあったにもかかわらず、じゃあ具体的にどういうことなのかと言われれば頭を捻るしかないのだ。

 

 そして、俺の苗字であるところの蒼崎とは、乃ち第五魔法を受け継ぐ家系であると世間一般では認知されている。

 何代か前の当主が魔法に開眼したらしいんだけど、“道を開いた”とかいう表現をされているのに注意してほしい。

 これはどうも『蒼崎直系の者は魔法使いになりやすい』という意味らしく、本来なら世襲とかではないはずの魔法が継承されるという意味で、非常に注目されている家系なのだ。

 そして今代の青と呼ばれる魔法は巷で『ミス・ブルー』と呼ばれている俺の下の義姉、蒼崎青子が会得しており、更に言うなれば最も近い位置にいる俺も第五魔法について全く知らない。

 どんな魔法であるかも知らないのだから、どう言及するわけにもいかないわけだけど‥‥。

 青子姉の“あの”性格から察するに、きっとかなり物騒な代物なんじゃないかな。少なくとも平和的なものであるはずはない。

 

 

「ま、魔法使い?!」

 

「確か、他の色んな家と違って蒼崎には傍流がいなかったはず。もしかして貴方‥‥魔法使い(ミス・ブルー)の弟《おとうと》だったりする?」

 

 

 流石に本編ではへっぽこ一直線だった衛宮士郎も流石に魔法については聞いていたらしい。

 ‥‥俺の名前、というか苗字を聞いたヤツの大半は、俺に大して普通じゃない接し方をしようとする。

 例えばゴマを摺ろうとしたり、例えば無意味にやっかんだり、例えば研究成果を盗もうと機会を虎視眈眈と狙ったり。

 全く意味がない。何せ俺は魔法について何も知らないのだ。黙ってるけど、血も繋がってない。

 悲劇のヒーローぶるのは虫酸が走るくらいに嫌だけど、収まらない頭痛に頭を抱えるぐらいは仕方がないことだろう。

 なんというか、やっぱりイライラするものなのだ。自分で実際に同じ境遇に陥ってみれば分かると思う。

 もちろん拾ってくれた橙子姉とか、橙子姉との諍いを冷戦状態にまで持ち込んで面倒を見てくれた青子姉にはそんなことおくびにも出すつもりはない。

 まったくもって愚痴みたいで情け無いけど、つまりはそういうことなのだ。

 

 

「‥‥確かに蒼崎青子(ミス・ブルー)は俺の義姉(あね)だけど、俺自身は大した魔術師じゃないよ。義姉(あね)達にみっちりしごかれたけど、残念ながら凡才でね。正直、個人的にはあんまり気負ってくれない方が嬉しいな」

 

「流石は時計塔、といったところかしら。唯一の日本人の学生だとかいうのでどんな人かと思ってたけど、トンデモないわね、蒼崎君。まさか私に対する牽制とか、そういう心づもりがあるんじゃないでしょうね?」

 

「それこそトンデモない。俺はただ学長から君たちの出迎えを頼まれただけで、俺としてはそこに何の含みもないよ。まぁお偉方がどう思ってるかは知ったことじゃないけど、少なくとも俺はそのつもりさ」

 

 

 俺は半ば諦観気味にも誤解を訂正しようと言葉を紡いだけど、どうやら『あね』が悪かったようだ。

 魔法使いの弟と認識されたらしい俺はかなりの警戒の眼差しを三人から向けられてしまった。

 本当に勘弁してほしい。君達に目を付けられてしまうのはかなりマズイんだよ、個人的にも、境遇的にも。

 学生の中でも数少ない、俺の苗字に惑わされず友人付き合いをしてくれたルヴィアは遠坂凜と敵対することが運命つけられているし、そうでなくとも明らかにトラブルメイカーである彼女達に目を付けられるということは、乃ち不愉快な立場で厄介事に引きずり込まれることを意味する。

 もっとも既に聖杯戦争も終わってしまったことであるし、別に今の俺に原作知識なるものでどうこうってつもりはない。

 だからこそ、これからも同じ学院に通う学友となるだろう彼女達とは普通の関係を構築しておきたかったし、正直、蒼崎の名前に物怖じしない知り合いも欲しかった。

 

 

「はぁ、頼むからホントに気にしないでほしい。時計塔にいる魔術師は数多いけれど、同郷は君達が初めてなんだ。実は結構日本語が恋しくてね。ホントに俺はそういう人間じゃないから、普通に接してくれないかい?」

 

「‥‥そういう卑屈な出方すると逆に疑われるとか、考えたことはなかったのかしら、蒼崎君?」

 

 

 多分その時の俺は色々参ってしまっていて、心底困ったような表情を浮かべていたのだと思う。

 遠坂凜は俺が改めて差し出した手を眺めた後、ひどく呆れたような視線をこちらに向けた。

 

 

「確かにまぁ本人の言葉っていうのが何だけど、そういう人にも見えないわね。長い付き合いになるかもしれないんだし、堅苦しいのは無しにしましょう。改めて、私が遠坂凛よ。同じクラスに通うわけだから、末永くよろしくね」

 

「あぁ。宜しく頼むよ、遠坂嬢」

 

 

 先程までの少し猫を被ったようなものとは違う、本当に自然な笑顔を浮かべて遠坂嬢は俺の手を握り返した。

 そういえば何時の間にか互いに言葉遣いは自然なものになっていた気がする。やっぱり久しぶりの母国語は気持ちが良い。

 なにしろ実際問題として、今まで時計塔にいた日本人は俺だけなのだ。

 俺目当てなのか青子姉が度々出没するから日本語を話せる人間はそこそこいるけど、自分のテリトリーでわざわざ他国語を使う奴なんていないからそろそろ日本語を喋らなくなって随分経つし。

 加えて言葉に限らず思考回路というのも国毎に特色がある。同じ人間なんだから大まかな部分では変わらなくとも、細かい差異はたまに気になってしまう時があった。

 

 

「えっと、俺は遠坂の弟子の衛宮士郎だ。基礎課程に入ることになってるけど、遠坂関係で色々と世話になることもあると思う。俺の方もこれから宜しく頼む」

 

「私は凜の使い魔(サーヴァント)のセイバーです。同じく凜の関係で貴方にはお世話になることもあるでしょう。どうぞ宜しくお願いします」

 

「衛宮に、セイバーだね。よく承ったよ。三人ともよろしく頼む」

 

 

 遠坂嬢に続いて右手を差し出してきた二人とも、しっかりと握手を交わした。

 衛宮は作中では一人称が多かったけど、予想を上回るぐらいさっぱりとした良いヤツだ。主人公というよりは脇にいそうなタイプである。

 セイバーも絶世の美少女であることを除けば一見普通の女の子だ。そういえば肉体年齢としては俺より五歳以上も年下なのか‥‥。外国の人は大人に見えるらしいけど、セイバーは随分と童顔だな。

 

 

「さて、早速で悪いけどキャブを用意してあるよ。色々と手続とか面倒なことはあると思うけど、まずは君達が生活することになる場所に案内しようか。ついてきてくれ」

 

 

 そのまま歓談に移りそうな雰囲気だったけど、俺は『さて』と場の空気を切り替えてから、踵を返して待たせてあったタクシーのところへと歩き出した。

 出迎えに関しては好きにしていいと言われたけど、それと同時に予算も大して渡されなかった。

 これで遠坂嬢のことを知らなければしらばっくれて彼女に運賃を出させたかもしれないが、事前にゲームで情報を収集してあった俺はそんな危険を犯しはしない。

 というわけで有名なブラックキャブではなく、安価なミニキャブで勘弁してもらおう。

 

 

「ロンドンは東京と同じように地下鉄も充実してるんだけどね。流石に荷物が多すぎるからバスも使えないし」

 

「そうね。長い間こっちで過ごすことになるんだから交通網はチェックしておかないと不便だわ。士郎、よろしく」

 

「俺が?! いや、まぁ別にいいけどさ‥‥」

 

 

 小さな後部座席になんとか三人押し込み、俺は助手席に座って運転手に地図を渡した。

 言っちゃなんだけどコッチに来てからはひたすら研究三昧の毎日で、ろくに外出もしてないから案内出来る程土地勘がない。

 ぶっちゃけこの地図の番地がどこを指しているのかすらわからないし。

 キャブに乗り込んでからずっと後ろで御三方はわいわいとお喋りをしているけど、俺は適当に相槌を打ちながら、気付けばぐっすりと眠り込んでしまっていた。

 昨夜はあれからずっとルヴィアの話―――素性の知れないトオサカとか言う魔術師と接する際の注意事項―――を聞かされていたから、とてもとても‥‥‥zzz‥‥

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「さぁ着いた。ここが時計塔が選んで、君達に用意された寄宿舎だよ」

 

「‥‥でかいな。本当にここが俺達の家になるのか?」

 

 

 目的地に到着した俺達は、荷台に積んであったトランクやら鞄やらを苦労して降ろすと、目の前の屋敷を日本では考えられないことに“見上げる”はめになった。

 両側を昔ながらのアパートに挟まれながらも、なお古びた洋館がそこに建っている。

 電気はおろか水道やガスが通っているのかすら不安になってしまうそれは、周りの建物と格段に違う年代を保ちながらもロンドンの街に溶け込んでいる。

 煉瓦は半ば黒くなりかけで、全体的に重厚な造りだ。小さいながらもちゃんとした庭もあるし、周りは高い柵で覆われているから結界を張るにも都合がいい。

 

 

「なんでも昔ここには魔術師が住んでいたそうだよ。とある事情でその人が引き払ってしまったから、時計塔が管理していてね。君達のために多少整備をしておいたっていう話さ」

 

「時計塔っていうのは、新入生全員にこんな家を用意してるのか? とてもじゃないけど学生が暮らすような建物じゃないぞ」

 

「エミヤの家の敷地よりは狭いですが、確かに大きな家ですね。これなら一緒に暮らしていた全員が余裕で入りきるのではないでしょうか」

 

 

 衛宮はキャブのおっちゃんから始終両手に花だとからかわれていたらしくげんなりとした様子で行った。

 一方続けて家を評価したセイバーはさっきからずっとロンドン観光ガイドの食事処の頁を開けたまま、まるで軍議に臨むかのような真剣な眼差しを落としている。

 なんていうか、あんまりにもらしくて笑いをこらえるのが難しくって仕方がない。やっぱりセイバーはセイバーなんだな。

 

 

「一般の学生は自分でアパートを用意したり、後はノーリッジにある学生寮に入ってたりするよ。まぁ大概は一人なわけだけど、君達は魔術師二人に人間大の使い魔一人だろう? 特待生なんだし、これくらいが当然さ」

 

 

 あんぐりと口を開けてこれから暮らすことになる家を見上げていた衛宮に、俺はざっと時計塔の生徒達の住宅事情について説明した。

 

 魔術師なんてのは普通それなりの大きさの工房を持つし、一般人に対するカモフラージュを考えれば魔術関連の部屋は居住エリアとは別々にする必要がある。

 とはいっても流石にロンドンの住宅事情も東京に比べて芳しいものではない。むしろ保存しなければいけない建物やら何やらが多いせいかスペースに余裕がないのは東京以上だろう。

 そういうわけで時計塔の学生にはロンドンから少々離れたノーリッジという街に、かなりの大きさの学生寮が用意されていた。

 生活空間だけではなく使いやすくカスタマイズできる工房スペースまでついた、衛宮の言葉を借りるならば学生の身には過ぎた寮だと言える。

 もっとも、魔術師は総じて資産家であるからあまり狭苦しい学生寮は好かないんだよね。なにしろホラ、衛宮や俺みたいな初代の魔術師っていうのは実はそこまで多くないんだ。

 基本的に魔術師は大抵それなりの歴史というものを持っていて、そういう家は基本的にそれなりの資産を保有している。

 だから狭い学生寮が嫌いな学生はロンドンの郊外に家を借りたりしているらしい。例えばルヴィアも同じで、郊外のエーデルフェルト別邸はもはや豪邸と称するに相応しい。

 

  

「それに自分たちが色々と危険物だっていう自覚はあるだろう? 学生寮に入れたりしたらトラブルの元だからね。言うなれば穏便な隔離ってわけだよ」

 

「‥‥確かに騒動の種には事欠かなさそうではあるわね。まぁこの家も遠坂邸よりは小さいけど雰囲気があって気に入ったわ。出来る限り文句は抑えておきましょう」

 

 

 既に遠坂嬢達の噂はかなり広まってしまっている。こともあろうか、聖杯戦争の勝者で英霊を使い魔(サーヴァント)にしているということまでだ。

 降霊科の連中は今から目の色変えているし、他の学生にしても少なからずざわついていた。聖杯戦争の噂なんて、一体どこから広まったのやら‥‥。

 

 

「一応除霊の類は済ませてあるはずだけど、どこに誰の目が光ってるかわからないから一通りチェックすることをオススメするね。

 あと荷解きが済んだら今日じゃなくても構わないから、出来るだけ早く学長のところに挨拶に来いってさ。遠坂嬢一人で構わないそうだから」

 

 

 時計塔から用意された宿舎とはいえ、油断は出来ない。

 確かに時計塔は魔術協会の本部で、魔術師達の総本山といえる。だからといって、協会は決して清廉潔白な組織ではないのだ。

 お偉方にしても聖杯戦争について把握していない者が多いだろうし、何より本人が一番理解しているだろうけど、現界した英霊なんて恰好の研究材料である。

 まさか直接調達に来るなんてバカみたいなことをするとは思えないけど、家の中に予め使い魔やら何やらを忍ばせておいて、情報を採取するなんてことは十分に考えられるだろう。

 わざわざ俺に言われなくてもしっかりやってたとは思う。それでも後で文句を言われてしまうのは不歩にだし、俺としても多少心配しないこともないのだ。

 

 

「わかったわ。まず荷物を運び込んで、それから隅々まで調べておくつもりよ。忠告と出迎えありがとうね、蒼崎君」

 

「どういたしまして。君達の助けになれたなら幸いだよ。あぁ、一応これが鍵だから。これも取り替えておくことをお勧めするけどね」

 

「重ね重ねありがとう。士郎、私の分のトランクも居間があったらそこに運んでおいてくれる? 細かい部屋割りは後で決めましょう」

 

「おう、任せとけ」

 

 

 横では既にセイバーと衛宮が家の中に荷物を運び込んでいる。

 手伝ってやりたいのはやまやまなんだけど、これから見ず知らずの別の魔術師の本拠地になろうかという場所に入るのは気が引けるし、後々予想もしなかった危険に巻き込まれる可能性もある。

 そうでなくとも引っ越し直前で何もないとはいえ、他人様の家にずけずけと上がり込むのは失礼だ。

 衛宮とセイバーには悪いけど、ここで失礼させてもらおう。

 

 

「すまないけど俺はこの後ちょっと野暮用があって出発しなきゃいけないんだ。ロンドンの街を案内できればよかったんだけど‥‥」

 

「気にしないで。今日すぐに時計塔の方に行こうかと思ったんだけど、流石に家がこれじゃあ、一心地つけるにも時間がかかりそうだしね。それくらいは自分達でなんとかするから」

 

「悪いね、本当に空港から家までの案内だけで。これは大英博物館から時計塔に入るための手順を書いたものだから、読んで覚えた後は焼却して処分してくれ。俺も君と同じ鉱石魔術学科に所属しているから、また会うこともあるだろう。その時に、また」

 

「ええ。今日はホントにありがと」

 

 

 久しぶりの同郷人は、本当に気持ちの良い顔で笑ってみせる。

 彼女達には他の学生とは違う色々な懸念材料があったんだけど、うん、まぁこの調子なら良い友人になれそうだ。

 なんだかんだで時計塔は狭いしね。あからさまに忌避してたりしたら目立つし、そうじゃなくても必要以上に意味もなく警戒するのは宜しくない。

 学長から渡された書類一式を手渡して再度握手を交わすと、俺はふと思い付いて懐から携帯電話を取り出した。

 

 

「あぁ、もしよかったらアドレスを交換してくれないか? 下の姉がなかなか破天荒でね。拉致されてしょっちゅう時計塔を空けてしまうんだ」

 

「え、携帯‥‥?!」

 

「うん。何か簡単なことで良かったらメールでも質問に乗るよ。そういうことには詳しくないんだけど、一応傍受されたりするのが怖いから差し障りの無い範囲に限られるけどね」

 

 

 こればかりは現代の学生らしく携帯の赤外線部分を向けると、遠坂嬢は途端にさっきまでの自信満々な態度を一変させる。

 突然に慌てた、というか狼狽した、というか焦った様子で、おろおろと肩から下げたセカンドバッグの中を漁り始めた。

 そしてたっぷり5分程もかけて紅い携帯を取り出すと、今度はまたしばらく頭の上に疑問符をいくつも浮かべながらありとあらゆるボタンを手当たり次第に操作し始める。

 指の動きからして数字ボタンを押しているのならまぁ良いんだけど、間違えてデータフォルダを開けてしまって突然効果音が鳴ったり、カメラを起動させてシャッター音がしたり、最後には電源ボタンを押して応答しなくなってしまった。

 

 

「あー、えーっと遠坂嬢?」

 

「‥‥! ‥‥!」

 

「もしかして何か不具合でもあったのかい? もし気に障らないのなら手伝うけど‥‥?」

 

「いや別にそういうわけじゃないのよ。そういうわけじゃ、ないんだけど‥‥。あああぁぁぁ士郎ぉー!」

 

 

 暫くそのまま真っ暗な画面と悪戦苦闘していた遠坂嬢に怖ず怖ずと声をかける。が、しかしどうやら俺ではダメなようだ。

 更に暫く宛てのない戦いを続けていたけど、諦めたのか一度俯き、この地区一帯に響き渡るような声で玄関の方へと叫び声を上げた。

 

 

「どうした遠坂――って、なんだ携帯か」

 

「なんだじゃないわよ! ナニよコレ壊れてるんじゃないの?! いきなり真っ暗になってウンともスンとも言わないのよ!」

 

「あーもう、ただ電源を切っちゃっただけじゃないか。何をしたいんだよ一体‥‥」

 

 

 ‥‥そうだった。

 今になって思い出したけど、遠坂嬢は破滅的に機械オンチなんだったっけ。

 そういえば確かに時計塔の魔術師の中でも機械の類を嫌っている人は少なくない。俺も自宅には最低限の機械類しかおいていないしね。

 ルヴィアもそうだし、教授もそうだ。それでも携帯ぐらいは連絡に便利だからみんなしっかりと使いこなせていたもんだけど‥‥。

 

 

「遠坂嬢とアドレスの交換をしようと思ってね」

 

「あぁそうか。じゃあ赤外通信だな。こっちから送信するんで構わないか?」

 

「大丈夫だよ」

 

 

 見れば衛宮が恋人にあれこれ文句を言われながら、携帯を赤外線通信モードに切り替えていた。

 少しの間を置いて贈られてきたアドレスを見れば、電話番号とメールアドレスしか記載されていない。

 写真もなければ、住所もない。住所はロンドンでの家が決まってなかったみたいだから良いとして、せめて名前ぐらいは自分で淹れておいて欲しいものだ。

 ‥‥とりあえず思った。

 しかる後にちゃんと衛宮ともアドレスの交換をしておこうと。

 今のやり取りから察するに、遠坂嬢は携帯が鳴っても狼狽してとることも出来なさそうだから。

 

 

「うん、まぁ俺もその方が安全だとは思う。悪いな紫遙、遠坂のことで結構迷惑かけちまいそうだ」

 

「ちょっと士郎! それって一体どういう意味よ!」

 

「そりゃ言葉通りに決まってるだろ―――って、いくら敷地の中で外から見えないとはいえガンドはやめろよ遠坂?!」

 

「うるさーい! アンタが気配りきかないのがいけないんでしょうが、この木訥っ!」

 

 

 何か失言でもしたのか今だ遠坂嬢から謂れのない折檻を受けている衛宮―――あれはじゃれあっていると解釈しても何ら不思議はない―――から綺麗に視線を外す。

 もう少し歓談していても良かったぐらいなんだけど、荷ほどきで忙しい彼女達にも迷惑だし、用事も迫っていた

 

 

「すみません、案内してもらったというのにお礼も出来ず。二人に代わって再度礼を言います」

 

「気にしないでくれ。なんていうか、こういうのは意外と慣れてるんだ‥‥不本意ながらね。

 それじゃ何かあったら衛宮の方にも連絡しておく。今日はこれで失礼するよ。荷ほどきと二人の世話、頑張ってくれ、セイバー」

 

「はい。またお会いしましょう、魔術師殿(メイガス)

 

 

 礼儀正しくお辞儀をしてくれたセイバーの肩をぽんぽんと叩いて彼女のこれからの労苦を労い、ちょうど近くを通りかかったミニキャブを拾う。

 さぁ約束の時間がもうすぐだ。衛宮達には悪いけど、不足だった分に関しては学長に報告して気をつけてもらっておこう。

 まだ後ろから響く騒ぎ声を背中に受けて、俺は時計塔へと去って行ったのだった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「‥‥では失礼します」

 

 

 ギィ、という古びた音を立てて俺は時計塔の学長室の扉を閉める。

 まず自分の部屋に戻って書類を整理し、他の雑多な色々とまとめて報告にやって来たのだ。

 幸いにして多忙極まる学長が俺へのお使いを忘れて留守にしているなんてことはなく、来客もなかったのですんなりと報告を終えることができた。

 

 ちなみに学長室にたどり着く間にかのロード・エルメロイⅡ世に捕獲され、

『ニホンから来た特待生はゲームを嗜んでいそうか? お前は期待外れだった。アキバもニホンバシも知らなければスガモもわからない、まったく弟子にとった甲斐がなかった』

 などと小一時間はアドミラブル大戦略と征服王イスカンダルの偉大さについて語られ、俺はなんだかもう報告に行く体力まで搾り取られてしまったかのようだった。

 大体プロフェッサとは守備範囲が違うだけで俺はちゃんとした―――と言うと何か語弊があるような気がしてならないけど―――ゲーマーだし、スガモはおばあちゃんの原宿であって秋葉原は全く関係ない。

 あの人も決して悪い人じゃないんだけど、ゲームの趣味が致命的に合わないんだよな。俺はRPG派だし。

 

 

「ハーイ、紫遙。お仕事お疲れ様。大変だったでしょ、学長のお使いは」

 

「青子姉? いつものところにいないと思ったらこんなところで待ってたのか」

 

「暇だからね。どうせ学長のところに報告に行くだろうとは思ってたから、わざわざ二度手間させるのも何でしょ。で、どうだった?」

 

「どうだったって、何が?」

 

 俺を呼び止めたのは下の義姉、『青』の称号を持つ魔法使いである蒼崎青子であった。

 まだまだ蒸し暑いからか上は無地の白いTシャツで、下は清潔感のある真っ青でダメージ加工なんて無粋なものがしていないスラッとしてジーンズ姿。

 光の加減と錯覚によっては真っ赤に見えることもある茶色がかった黒髪を無造作に間に挟んで壁によりかかり、意味ありげにニヤニヤ笑っている。

 

 

「何って、遠坂のお嬢さんと『正義の味方』にアーサー王でしょ? あなた、昔は随分と気にかけてたじゃないの。私もちょっと気になってたところだし、折角会ってきたんだから感想でも聞かせてくれないかなーって思ったんだけど」

 

 

 この活動的な魔法使いは俺がロンドンにやって来てからは度々時計塔に出没し、その度協会やら教会やらから何がしかの依頼を貰ってきては強制的に俺を突き合わせる。

 それは死都の浄化だったり外道に堕ちた魔術師の処分だったりショッピングだったりと多紀に渡ったけど、大概ろくな目に遭っていない。

 死都の浄化の時は足りない魔力で無理矢理背中を守らされたし、魔術師の処分の時は手を抜いて隙を突かれて、俺が矢面に立つ羽目になった。

 ショッピングは他に比べれば平和に見えるけど、その行動は大概が周りに迷惑をかける方向へベクトルが向いているので、気が休まる時がない。

 あと人を着せ替え人形にするんだよ、この人は。子供の頃ならともかく今は立派な大人だっていうのにさ。

 ついでに自分に似合う服を聞いてくるのもやめてほしい。青子姉に似合わない服なんて基本的にそんざいしないのだから意見の言いようがないのだ。

 

 

「予想してたのとは随分違ったよ。普通の気の良い、思わず友人になりたくなるような連中だった。というよりも既に友人になっちゃったかな、あの感じだと。

 なんにせよ色々と気を張ってたのが馬鹿馬鹿しくなっちゃったぐらいさ。まぁそれも初見だからかもしれないし、これからどうなるかはわからないけど‥‥」

 

「楽しくなりそう?」

 

「‥‥だったらいいなとは思ってる。ただ青子姉が言う“楽しそう”っていうのはいつも物騒な方向に楽しいから、出来れば平和な日常を期待したいところではあるけどね」

 

 

 俺は青子姉の言葉に頷き返し、返事を聞く前にくるりと背を向けて歩き出してしまった彼女の後を追う。

 ここまでは原作を知っていればよかった部分。しかしこれからは切れ切れに起こる小ネタみたいな逸話以外は何もアドバンテージを持たない生活だ。

 もしかしたら橙子姉の思惑とかもその辺にあったんじゃないかと、歩きながらふと考えた。

 未来を知ってるってのは、歪んでいる。それは介入していないにも関わらず俺の心の中に澱のように溜まってしまっていた重しだったから。

 

 

「だから言ったでしょ。紫遙は物事を深刻に考え過ぎなのよ。自分の手の届かないことにまで心配してなくとも世界は勝手に回っていくものよ。後はこれから考えればいいことだしね」

 

「確かに」

 

「それでもやっぱり心配しちゃうのが紫遙なのよね。知ってた? 去年に私が頻繁に時計塔にキテタのって、姉貴から言われたことなのよ? あなたを考えさせ過ぎないように、下手に動かれないようにって」

 

 

 そこまで心配されていたとは、と思わず頭を抱えてしまう。本当に、二人には心配と迷惑をかけてばっかりだ。

 実際二人からはためになる忠告を毎日のように貰っていたもんだけど、それの意味に気づけるのは実際に教訓が必要な場面に直面したその時になってから。

 まったくもって自分のバカさ加減にはうんざりだ。それが二人へ心配をかける要因になってしまうんだから、なおさらに。

 

 

「なんにしても問題はこれから、か。さてさてどうなることやら‥‥」

 

「これから? アフリカの死都の浄化よ。ちょっと大仕事になるかもね」

 

「‥‥えっと、もしかしてそれって今回の仕事の内容?」

 

 

 返事を必要としない独り言に律儀に返された、これまた口から魂の抜けそうな青子姉の言葉に俺は顔面を蒼白にして聞き直す。

 読者諸兄も覚えておいて欲しいことなんだけど、俺は戦う者でもなければ創る者ですらない。研究者だ。

 決して戦うことができないわけじゃない。でも弱いし、キツイ。というより在り方として間違っている。

 言うなればハサミや工作カッターを戦場に持っていって武器に使うようなもので、完全に専門分野が違う。

 

 

「おっと失礼、ちょっと用事を思いついた。今日は工房(へや)に戻らせてもら―――」

 

「やらせないわよー? なんだかんだで何ヶ月かぶりなんだから、少しはお姉ちゃんの暇つ‥‥もとい、お仕事に付き合いなさいな」

 

「暇つぶしって言った! 今確かに暇つぶしって言った! 勘弁してよ青子姉、俺ホントにそういうのダメなんだからさぁ!」

 

 

 今度こそ命の危険を感じて即座に踵を返し自室へと帰ろうとしたけど、次の瞬間首根っこをひっつかまれてしまった。

 だめだ。俺が青子姉から逃げられるはずがなかったのだ。

 逃走及び闘争に必要な全ての要素、乃ち情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さ、そして何より速さが足りない!

 そんなバカなことを考えながらも辺りの空間はまるで内側から無理矢理押し開こうとしているかのようにたわみ始める。

 どういう理屈なのか全く分からないけど、この理不尽な空間転移は青子姉の十八番だ。世界が縮まっていく‥‥。

 

 

「はーい、それじゃあ転移するからじっとしててねー」

 

「やめて! マジで! 帰る、俺家に帰る! 伽藍の洞に帰るぅぅぅううう!!!」

 

 

 もういい。再構成とか逆行とか原作アフターとかクロスオーバーとかどうでもいい。

 どうでもいいから誰か今すぐ俺を助けてくれ。

 

 俺が魔力すら込めて放った必死の叫びは、通路の曲がり角に確かに見えた鉱石学科の教授にすらそれが世界の法則であるかのような自然さでスルーされてしまったのだった。 

 

 

 

 2nd act Fin.

 



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第二話 『漂着者の災難』

※『Arcadia』様にて改訂版を連載中です。そちらも併せてどうぞ!
Twitterにて執筆状況やssのレビューなど掲載しています。
ユーザIDは“@42908”です。


 

 

「いやー、このピッツァってばすっごく美味しいわねー! アメリカにも似たようなモノはあるけど、あっちはピッツァっていうよりもピザなのよね。なんていうか、すっごくチープなの」

 

 

 私は基本的に何処に定住するということもなく世界中をぐるぐると好き勝手に漫遊している。行き先はそれこそ気分任せで規則性はない。

 食べたいものを思い付いたらすぐさま本場まで飛んでいくし、観たいものを思い付いても同じ。一応きちんと無駄なく世界を一周するようには気をつけてるけど、それでもやっぱりインスピレーションとかそういうのが優先されるのだ。

 ちなみに飛行機とかの交通機関を使う時の料金は協会が勝手に出してくれる。魔法使いの特権というよりは、私が何時何処にいるのか把握しておきたいのだろう。

 もっとも、辛抱堪んない時とかは空間の繋がりをを“壊して”移動すればいいから監視されているというわけじゃない。どちらかといえば居場所の確認じゃなくて存在証明なのかもね。

 

 

「あの手の大量生産とココの手作りを比べたりしたら店の人は怒っちゃうよ? こっちは伝統料理? みたいなものなんだし、吉○家の定食と老舗のランチを比べるようなもんだって」

 

「あら、それぐらい美味しいって言ってるわけだから逆に喜ぶわよ。それが客商売、職人魂ってもんでしょ。紫遙は本当に細かくてどうでもいいことばっかり気にするわねー?」

 

「青子姉のやたらめったら前向きな思考には負けるよ‥‥」

 

 

 とはいえそれも大体十年ぐらい前までの話。とある雨の夜に姉貴が男の子を拾って来てから私を取り巻くごくごく僅かな状況は一変してしまった。

 結構頻繁に日本に帰って来たり、らしくもない裏工作をしたり協会の仕事を引き受けるようになったりと色々あったけど、一番はやっぱり姉貴と少しばかりでも仲直りしたこと、そして義弟を可愛がるようになったことかしら。

 この店だって去年、何かあった時はすぐさま時計塔に戻れるように欧州を中心に旅をしていた時に見つけた店で、死都を討滅した帰りに急にピザが食べたくなったから、わざわざ諦め顔で溜息をつく紫遙を引きずってやってきたのだ。

 

 

「私が過剰にプラス思考だって言うなら紫遙は異常にマイナス思考よ。悪い方に悪い方に考えちゃうんだから、いっつも溜息ばかりついちゃって‥‥。知ってる? 溜息つくと幸せが砕け散っちゃうのよ?」

 

「逃げちゃう、の間違いなんじゃないの?」

 

「何言ってんの。逃げるだけなら追い掛けていって首根っこ引っ掴んで無理矢理捕まえればいいじゃない。それなら簡単だし、世間は甘くないって訓話にはならないわ」

 

「そう思えるのは青子姉か橙子姉だけだってば」

 

「あ、ほらまたマイナス思考! 教育的指導よ!」

 

 

 目の前でちびちびと男らしくない食べ方でピッツァをかじる義弟の前でくるくると腕を回し、勢いよく人差し指を突き付ける。

 案の定面白そうだからという理由で食事のマナーらしいマナーは全て教え込んだ紫遙は渋い顔をしていた。多分突き付けられた右手でフォークを握っていたからだろう。この店はパスタも美味い。

 

 

「はぁー、どうして私と姉貴が育ててこんな神経質な性格になっちゃったのかしらね? 別にそんな教育施したつもりなんて全然なかったんだけど」

 

「いや、どっちかっていうと俺を育てたの橙子姉だから。青子姉はたま〜に来て好き放題ちょっかい出したり遊びに連れて行ったり拉致したりしただけじゃないか。少なくとも教育らしい教育受けたことはないよ」

 

「ほ〜う、そんな生意気なこと言うのはこの口か、この口かー?」

 

「ひはいひはいひはい」

 

 

 両頬を摘んで引っ張ってやれば怨みがましげな顔でこっちを見るけど、決して力ずくに振り払ったりはしない。

 というよりも、この子は基本的に私達の言いつけに逆らったことがないのだ。不平不満を零すことは程々にあるけど、最後には必ずお願いを聞いてくれる。

 それはとても嬉しいことだけど、同時に少しばかり寂しくもある。だって紫遙は私達のお願いは聞いてくれても、自分からのお願い事は中々してくれないからだ。

 これは不満だ。楽しくないし無下に扱われている気がする。この世はどんな些細なことでもギブアンドテイクで成立っているわけだし、テイクだけじゃなくてギブにもそれなりのメリットがあるのだから。

 

 

「‥‥はぁ、貴方が動揺してるの、私が気づいてないとでも思っていたの?」

 

「ッ!」

 

「ホラ、その顔。遠坂さん達に会った後の貴方、努めて意識してないときはいつもその顔してるわよ」

 

 

 私の言葉に紫遙はびくりと肩を震わせて、手にしていたピッツァを皿の上に取り落とした。

 とはいっても純粋に予期せぬ奇襲に驚いただけでダメージがあったわけではないらしく、すぐさま気を取り直して形の崩れてしまったピッツァを取り上げる。

 

 

「‥‥動揺してるわね。予想外だった?」

 

「青子姉に言い当てられたことが?」

 

「馬鹿ね、それこそ当たり前のことに決まってるじゃない。紫遙のことは紫遙以上に理解してあげてるつもりなんだからね。‥‥だから私が言いたいのはそっちじゃなくて、“遠坂さん達に会って自分が動揺した”のが予想外だったでしょってことよ」

 

 

 そう私が言うと義弟は不満そうに眉をひそめる‥‥が、どこか嬉しそうな空気も纏っているのが何とも健気で可愛らしい。

 私、というより姉貴がこの子を拾った時は大体小学校1、2年生といったところ。大小様々な傷だらけで姉貴の治療を受ける姿はこれ以上ないぐらいに痛ましく、私の琴線を直撃した。

 もちろんそれだけで義弟にするくらい惚れ込んだわけじゃないし、どちらかといえば庇護欲に近くて遠いような奇妙な感情だったから形容しがたいわね。

 もちろん紫遙が持っていた記憶には激しく興味を惹かれた。色々と考えるところがなかったわけじゃない。でも紫遙を義弟にしようと最初に言い出したのは姉貴の方だった。

 気まぐれな性分がある姉貴にしてもそんなことをするなんて全然思い付かなかったから、あの時は私らしくもなく随分と動揺したものだけど‥‥。

 

 

「‥‥結構きっぱり、決別できてたつもりだったんだけどね」

 

「思い違いなんてよくある話よ。本能が発達してる動物だって失敗するのよ? 余計なモン付きまくってる人間なんだから見誤っちゃうのも仕方がないじゃない」

 

 

 ちまちまとピッツァを食べる手を止めて、紫遙が深刻な色を主に皺の寄った眉間に滲ませてぽつりと呟く。毎度のように悲観主義な考えに囚われてしまっているらしい。

 

 

「どんなに忘れようとしたって、過去は絶対に消えてくれないわ。だって記憶は魂に刻まれるものなんだから、忘れたつもりでも必ず魂に残っている」

 

 

 記憶という分野については、社会の表裏を問わず様々な研究が為されている。表の社会では主に脳の働きに注目して、裏の社会―――つまり魔術師達―――は魂や精神に注目して。

 そして表の社会では一部の研究者によって、既に“記憶を完全に失くしてしまうことはない”という論文が発表されている。勿論これは一般的な考えとは言えないかもしれないけど、私達魔術師に極めて近い考え方だ。

 記憶は魂に刻まれる。そして魂は輪廻し、相応の手段以外で失われることはない。しかるに魂に干渉する手段を編み出したアカシャの蛇に比する力を持ったモノでなければ、精神を介した僅かな干渉以上は許されない。

 俗に言う暗示の魔術だって、記憶を上から塗り潰したり埋めたりしてるだけなのだ。魂の輪廻に確立した自己(ロア)というを載せる術式を編み出した彼の蛇は正しく天才ってヤツよね。

 

 

「それにね、所詮人間なんて世界に比べればちっぽけな存在に過ぎないんだから、人間一人の認識なんて頼りないものよ。

 ましてや貴方はまだ二十年ちょっとしか生きてないんだから、いくら完璧に見切りをつけたって思っても、十中八九勘違いって思った方がいいわ」

 

「‥‥それじゃ結局どうしようもないんじゃないか。俺が何を考えたって思い違いだなんて言うなら、正解なんてありゃしない」

 

「あら、別にそんなことないわよ」

 

 

 何が不満か膨れっ面をしてみせる紫遙に、グラスに注がれた炭酸水を一息に飲み干して身を乗り出した。

 この国で食事する時には水の代わりに無糖の炭酸水を飲む場合が多い。別にれっきとした大人なんだからビールでも良いのかもしれないけど、なんとなく義弟を連れて真っ昼間から酒を飲む気にはならなかったのだ。

 もちろん紫遙もいつの間にか二十歳になってしまったことだし、別に一緒に飲みに行かないってことはないんだけどねー。まぁそれも暇があったら、気分がノッたらだし。

 

 

「結論をね、自分勝手に無理矢理決めようってするから間違えちゃうのよ。

 難しい話になるかもしれないけど、コレ!っていう機会はいつか必ずやってくるわ。その時まで問題としっかり向き合って、いざって時にしっかりと殴り合えるように心構えをしっかりしておきなさい」

 

「漠然としてるなぁ‥‥」

 

「そんなものよ。あとはまぁ、その時になったら自分をしっかり信用してあげることぐらいね。矛盾してるみたいだけど、それが正しいかどうかはおいといて、最後に後悔したくないなら自分でしっかり決めなきゃならないんだもの」

 

 

 言葉遊びにも似たいい加減な答―――と思われてることだろう―――に、それでも生真面目な義弟は律儀に難しい顔をして考えこむ。

 こういうところが年をとっても可愛いところではある。最初から高校生ぐらいだったんだと言われてしまえば確かにその通りなんだけど、それでも年下ってのは変わりないしね。だいたい精神ってのは肉体に引きずられがちな要素なんだし、紫遙もしばらく小学校に通ってたら精神年齢下がったもの。

 

 

「まぁアレね、結局のところ貴方は決してその記憶からは逃げられない。だから―――」

 

 

 テーブルに乗り出して私よりも背が伸びて、十分に大人の男に成長した義弟の頭を撫でてやる。紫遙は驚いた後に眉をしかめてみせたけど、それでも私の手を振り払ったりはしない。

 ん~、ホントにこういうところは昔から変わらないわね。多少依存度が強すぎるようなところは危惧してるけど、まぁ分別のつく大人なのは確かだから大丈夫でしょう。

 もちろん子供みたいな可愛らしさじゃないんだけどね。こういうのってやっぱり母性愛に近いものがあるのかしら? ‥‥うん、なんか負けた気がするから姉心ってことにしておこう。

 

 

「―――強くなりなさい、紫遙。誰かを倒すための強さでもなく、誰かを守るための強さでもなく、自分を守る強さこそが貴方に必要なんだから。貴方の場合、それが結局は周りを守ることにも繋がるのよ。

 だから技よりも体よりも力よりも、なにより心を磨いて強くなりなさい。何にも心揺らがない強さを、何にも心乱されない強さを、何にも心挫けない強さを身につけなさい」

 

 

 この子の秘めているモノは何よりも危険なものだ。この子だけではなく私や姉貴や伽藍の洞の連中、のみならず下手すればこの世界そのものを滅びに導きかねない厄介な代物だ。もしかしたら紫遙の存在そのものが第六法なんじゃないかって思ってしまうぐらいに。

 この子が望んで背負ったわけじゃない、なんてわけじゃない。そもそもそんな議論は意味がないし、強いて言うなら本当に神様の気まぐれなのかも、としか言いようがないわね。

 だって運が良いとか悪いとか、そういうことじゃないんだもの。そういうのは紫遙自身も含めて、誰にだって判断できることじゃないと思うのよ。

 紫遙がこの世界に来なかったら、そもそも私達とは出会わなかった。紫遙にこの記憶が無かったら、そもそも姉貴や私も義弟にしようとは思わなかった。

 

 ‥‥うん、やっぱり運が良いとか悪いとか、そういう話じゃないわね。

 多分、きっと、ただ単純に、あまり好きな言葉ではないつもりなんだけど、

 これも多分きっと、運命(Fate)の一頁に記された物語の欠片だったに違いないんだ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「あぁ、今日も平和だなぁ‥‥。死者もいないし死徒もいない。ましてや人を切り刻んで実験材料に使おうなんて封印指定の魔術師もいないし。やっぱり平和が一番だよ、落ち着いて研究と勉学に励むことが出来るのはすばらしいことだってば」

 

 

 青子姉に拉致されてアフリカに発生した死都の浄化に旅立ってから早二週間。

 分刻みで命の危険とランデヴーという貴重で素晴らしい体験をしたけれど、なんとか親玉を青子姉が探し出し、それこそ流星雨のように降り注ぐ魔力弾によって殲滅することで倒して生還できた。

 え? 親玉の始末はお前じゃなかったのかって? あはは、寝言は寝ながら言ってほしいもんだよ 。

 何度も言ったけど、俺はもともと戦闘向きの魔術師じゃない。誰かさん達の様にガンドを連射できるわけでもなければ、二十七の剣を射出したりできるわけでもない。

 敵さんの攻撃を凌ぐだけならともかく、倒せなんて無理難題も良いところだ。

 だから俺は始終死者の駆逐と防衛戦闘、それに精々横からちまちまと支援に努めていたし、青子姉もそこまで俺に要求してはいないだろう。

 

 ‥‥多分、青子姉がやりたいのは、戦闘の雰囲気とかを俺に味合わせるためなんじゃないかなと俺は考えている。

 橙子姉と二人して俺が型月作品の舞台に介入しないように縛り付けはしたけれど、いつ俺が厄介毎に首をつっこむ、もしくは巻き込まれるかはわからない。だからこうして特訓の意味合いも兼ねて連れ回してるんじゃないかな。

 まぁ、一人で只々死者に向かってスターマインをぶっ放しているのがつまらないから、遊び相手として連れて行ったという可能性もかなり高いんだけど。

 

 

「さて‥‥久しぶりの授業だけど、どこまで進んでるかな? 別に他人の評価なんて気にした覚えなんかないけど、俺がサボると蒼崎の名前に傷が付くしなぁ‥‥」

 

 

 別段鉱石学科で大成しようとか思っちゃいないけど、知識は蓄えておくに越したことはない。そして何より言葉にしたとおり、俺の行動如何では義姉達にも色々と迷惑をかけかねない。

 

 現在魔術協会をとりまく“蒼崎”という名前には、目立たないながらもそれなりに面倒で複雑な事情がついて回っている。

 まず筆頭は第五の魔法使いであるミス・ブルーこと蒼崎青子。最初に問題が起こったのは、この破天荒な魔法使いが協会を脱けると一悶着起こしたことにあった。

 そして次にミス・ブルーが心変わりをして脱退を取り下げる条件に持ちだしたのが、一人の魔術師の時計塔への推薦と、同じく蒼崎の名字を持つ封印指定の人形師への執行凍結である。

 しかも同時にその封印指定の方から協会へと電話越しながらも接触があって、更に第五の魔法使いと同じ人物を時計塔に推薦したというのだから問題は更に混乱の一途を辿ることになった。

 

 まぁつまりはその推薦された魔術師というのが俺、蒼崎紫遙であり、立て続いた蒼崎関連のゴタゴタに時計塔はそれからしばらく大荒れの様相を呈することになる。

 あまりにもいろんな厄介事が一度に起こりすぎたのだ。あるいは義姉達もそれを狙っていたのかもしれないけど、結局は第五の魔法使いを協会に繋ぎ止めておくという只それだけのために殆ど全ての要求が受理されることとなった。

 なにしろ協会に魔法使いが在籍しているというのはそれだけで他にいくつかある魔術関連の組織に対する箔のようなものになる。現存する魔法使いの残り二人のうち片方が行方知れずで、もう片方も好き勝手で所在が全く知れないとなれば当然のことでもあったのだ。

 結果として青の魔法使いと封印指定の人形師が目論んでいた最大の謀―――これはまた後々に気がついたことではあるんだけど―――である俺の時計塔入学は様々な波乱を巻き起こしながらも何とか完了して、今の俺はここにいる。

 

 

「ホント、橙子姉にも青子姉にも迷惑とか心配とか、そういうのかけてばっかだなぁ‥‥。早く義姉孝行出来るようにならないと借りてばっかりの借金まみれになっちゃうぞ」

 

 

 壁と天井の隙間から、地下浅いとは言えども全く分からない理屈で仄かに差し込んでくる陽の光に手を翳しながら、俺はこっそりと独り言と一緒に溜息を漏らした。

 それでも義姉達の気遣いが嬉しいことには違いないし、複雑な心境であるというのが本音なわけで、全くもって自分はどうやってこれから二人に恩を返せばいいのだろうか?

 そんな毎日毎日考えるようなことを頭の片隅で重いながら、俺は二週間ぶりの教室のドアに手をかけ、やや控えめに音を立てないように開けようとして―――

 

 

「ぶべらぁっ?!」

 

 

 突然飛んできた幾条ものガンドに直撃し、廊下の反対側まで吹き飛ばされて意識を失った。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「―――ョウ、ショウ‥‥!」

 

「―――っと蒼崎君、大丈夫‥‥?」

 

 

 受け身をとることすら叶わず仰向けに倒れ込んだ俺の体の両側から、まるで天使が来たかのような美声で囁きかけてくれる誰かがいる。

 あれおかしいな、時計塔にいたはずだったのに目の前にお花畑が見える。日本人だから三途の川が見えるのかと思ったけど、どうやら人種ではなく土地で管轄が変わるらしい。

 嗚呼そうか、ここが俺の『全て遠き理想郷(アヴァロン)』だったんだな‥‥。

 まだ姿見えぬ天使達よ、今そちらに―――

 

 

「しっかりなさいなショウ!」

 

「ぶるぁぁああっ?!」

 

 

 柔道の試合でよくやるようなスマートな形ではなく、本当に一秒の猶予もない場合にしか許可されないような強烈な下段突きを鳩尾に喰らった俺は奇天烈な悲鳴と共に意識を覚醒させた。

 鈍い痛みを腹を押さえることで堪えながら追撃に気をつけて体を起こすと、目の前には見慣れた金色と青の人影と、見慣れないながらも違う形で記憶の中に存在する黒と赤の人影。

 双方確かに心配そうにこちらを見下ろしているけど、そのうち見慣れている方の人物は胸の前でしっかりと握り拳を作っている。

 うん、気付けという点では間違っていないこともないけど、明らかに問題があると思うよ、その起こし方は。ていうかついに打撃技まで習得(マスター)したんだ、ルヴィア。

 

 

「あぁ、ルヴィア、お早う、今日も過激だね‥‥」

 

「‥‥今回ばかりは弁解の言葉もありませんわ」

 

「ごめんなさいね、蒼崎君。巻き込んでしまって申し開きの言葉もないわ‥‥」

 

 

 話を聞けば、どうやら俺はあかいあくまときんのけものの喧嘩の真っ最中に講義室へと現れ、運悪く流れ弾(ガンド)に当たったそうな。

 なんでも入り口近くで争っていたため室内にいた生徒達は逃げ出そうにも逃げ出せず、教授は教壇の蔭でガタガタと震えていたんだそうで。

 本来なら教室の責任者たる教授が止めるべきなんだろうけど、残念なことに鉱石学科担当のこの教授、鉱石魔術に関する造詣は深いんだけどいかんせん実力行使が苦手な魔術師なのだ。溢れる資質に任せてガンドと宝石の魔弾を撃ち合うこの二人に対抗するのはちと無理があるだろう。

 ‥‥ていうか、会ってからたった二週間で鉱石学科半壊なのか、この二人は。そりゃ最高に相性悪いってのは知ってたけどさ‥‥。

 

 

「それというのもこのいけすかない女が私に突っ掛かってくるから‥‥! ミス・トオサカ、よくも私の友人に手を出しましたわね!」

 

「あら、それにはちょっと異論を呈せざるを得ませんわね。私の方ばかり悪し様に仰いますけど、貴女のガンドがあたったんじゃありませんこと? ミス・エーデルフェルト‥‥!」

 

 

 気がつけば二人は被害者であるところ俺――被害者で合ってるよね? 合ってるよね?――を放っぽり出して魔術刻印を輝かせ始めている。

 あまり家系の積み重ねた歴史の深くない遠坂嬢は左手のみなのに対して、ルヴィアの方は両腕にしっかりとエーデルフェルトが長い歴史の中で積み重ねてきた成果である魔術刻印がしっかりと刻まれて光を放っていた。

 最高級の魔術書である魔術刻印は確かに大事ではあるけれど、それ自体が魔術師の力量を決定するわけではない。あれはあくまで外部容量に過ぎず、それを活用する実力自体は魔術師個人に左右されるというわけ。

 当然のことながら遠坂嬢とルヴィアの力量は拮抗しており、量が少ないがために光の強さでは負けていても、遠坂嬢の放つ殺気というか威圧感というかは全くルヴィアに劣っていない。

 ちなみにさして対魔力の高くない俺は豪雨のようなガンドを無効化できず、今だに体を動かすことができないわけで、問題はそのガンド合戦がまたもや俺を挟んで行われようとしているということだ。

 

 

「ちょっと二人共落ち着き―――」

 

「「覚悟っ!!」」

 

「―――なよってウボァァアアアアアーーーー?!!」

 

 

 本日二度目の魔弾の嵐に巻き込まれ、俺は再び意識を闇の底へと沈めるはめになった。

 とりあえず一言。

 頼むから被害者を放っておかないで。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「‥‥あの、その、だ、大丈夫ですか? ショウ」

 

「‥‥今回は流石に死に目を見たよ」

 

 

 気がつくと、俺は時計塔の医務室のベッドの中にいて、思わず『知らない天井だ』なんて名台詞を吐く暇もなく心底反省したかのようなルヴィアの声に出迎えられた。

 結局あの後再燃した二人の喧嘩に巻き込まれ、鉱石学科の講義室は半壊してしまったらしい。‥‥もっとも、八割方使用不可の状況は決して半壊などとは言わないのだけど。

 

 申し訳なさそうに頭を下げるルヴィアに気にしないように言うと、俺は節々がまるで軋んでいるかのような鈍い痛みを放つ体を無理矢理起こし、彼女が購買で買ってきた紅茶を貰うと一口啜る。

 残念なことに元々からして研究者志望だった俺は別段義姉達に体罰じみた理不尽な修行を強要されはしなかったので、ギャグ補正や無敵肉体といったものには終ぞご縁がない。

 故に決して体も人並み程度にしか頑丈ではないわけで、当然ながら紅茶を口から喉へ飲み下すという簡単な動作を行うだけで体の節々がひどく痛んだ。

 もっとも二人の放ったガンドは呪いというよりは物理的な威力の方を重視して放たれていたらしく、しかもなんだかんだで手加減していたらしいからこの痛みもすぐに和らぐだろう。これが魔術回路にダメージを追ってたりしたら無駄に頑丈な衛宮と違って大問題だったところだけどね。

 

 ちなみにさっきは医務室と言いはしたけど、ここの正式名称は生物学科の実験――実習ではない――室だ。

あまり長居すれば怪我人に飢えている生徒達によって適当な診断をでっちあげられ、恰好の被験者(モルモット)にされてしまうことだろう。

 なにしろこの生物学科、人体のみならず捕獲できる生き物という生き物を研究対象にしているわけなんだけど、その研究風景は魔術師であろうと心の弱い者なら卒倒してしまうという程のものである。

 もし研究対象にする隙があったら相手が魔法使いだろうと神様だろうと容赦はしないに違いない。‥‥早く出なきゃな。

 

 

「はぁ、それにしても一体どうしたんだい? 講義中に喧嘩なんて君らしくもない」

 

「‥‥ちょっとした意見の食い違いですわ。新しい魔具に使う宝石の種類について見解が分かれまして」

 

 

 俺が立ち上がって寝ていたベッドを綺麗に直し、髪の毛やらをうっかり残してしまったりしていないか念入りに調べる中、ルヴィアは何か不快なことでも思い出したのか、ぎしりと骨の音まで響かせて拳を握りこむ。

 その様子はそれなりに長い付き合いの俺ですら今だかつて見たことがない程の強烈な感情に満ちていて、多分俺じゃなかったら全力でこの場から逃げ出していることだろう。てか俺も逃げたい。

 

 

「あの女、『やたらと高い宝石ばかり使えばいいというものではありませんのよ? ミス・エーデルフェルト。まぁお金持ちなんてのは有り余るお金に物を言わせる魔術しか知らないのでしょうけど』なんてふざけた台詞を‥‥! あんなもの適切な宝石があるのに貧乏で使えないミス・トオサカのひがみですわ!」

 

「残念ながら宝石魔術は専門外だから、コメントは控えさせてもらうよ‥‥」

 

「そういう中庸というよりは無難な態度は日本人(ジャパニーズ)の悪い癖だと思うのですが、いかがかしら?」

 

「余計に事を荒立てたくないんだよ。誰だって平和が一番さ、そうだろ?」

 

 

 ミシミシと音をたてて手の中のスチール缶が軋む。またストレス解消のトレーニング量増やしたな、この肉体言語使いは。

 今にも全身から闘気を吹き出しそうな程の怒気を振り撒くルヴィアを宥め、俺はぶちまけられた中身がドレスを汚す前に彼女からコーヒーをとりあげると、ベッドから起き上って手近なゴミ箱の中に放り捨てた。もちろんしっかりと唾液は拭ってある。

 どうも存外長い時間気絶していたらしく、脇の机に畳んで置かれていたジャケットの中の懐中時計を確認すると、針は既にティータイムを指していた。

 

 

「まぁ旧知の仲としてはどちらかといえば是非にも君の方を応援したいところではあるけれど‥‥それにしても大したコだな、遠坂嬢は」

 

「‥‥なにがですの?」

 

 

 ジャケットを羽織ってルヴィアと共に医務室を後にした俺は、常のように俺の一歩前を堂々と歩く友人に声をかけた。

 昼をとうに過ぎた学舎では既に他の授業が始まっている。俺達二人はカリキュラムのかねあいから今日のこの時間帯はフリーだけど、もともとあまり人が来ることのないこのフロアに俺達以外の人影はいない。

 というか時計塔はあまり特徴のない一般的な講義室以外は学科毎に細かくテリトリーが設定してあり、他学科の者は滅多に他所の学科のテリトリーに侵入したりしないのだ。うっかり侵入したが最後、何をされるか分かったもんじゃないし。

 特に教授連の研究室がある深部のフロアに生徒が侵入することは殆どない。それこそ正にその場所に居を構えている俺とか、そこに出入りすることの多いルヴィアを除いて。

 

 

「いやなに、初めて会ってからたった二週間で、君の被った猫を見事に剥がしてしまったことについてだよ」

 

「なっ―――?!」

 

 

 ルヴィアは図星だったのか突然タイルの隙間に足を引っかけ、真っ赤な顔で振り向いて俺を睨み付ける。

 はは、そういう顔すると君も年相応だなってうわなにをするやめ―――

 

 

「貴方はそういうデリカシーに欠けることばかり言うから、ご婦人にモテないんですのよ? ショウ」

 

「いや今のは明らかに君の照れ隠し‥‥イエ、ナンデモアリマセン」

 

 

 再び笑顔で人差し指を銃口に見立てて構えるきんのけものに、俺は冷や汗をだらだらと流しながら首をちぎれんばかりに左右に振った。

 どうも今までに比べて沸点が低くなっているようだ。その分さっきからずっと表情が柔らかいんだけど、もしかしたら今まで溜め込んでいたストレスを毎日一気に吐き出しているからかもしれない。

 

 ‥‥それもそうか。彼女は時計塔に来てからコッチ、ずっと猫を被り続け、自分を鎧で覆い、外敵から身を守ってきたのだ。

 初めて会った時の彼女はそれこそ数多いる魔術師の中でも一際輝いていたが、同時に鋭い刺を幾本も回りに張り巡らせているかのようだったから。

 

 

「時間もちょうどいいことですし、お茶にしませんこと? 私もお昼はとっていませんの」

 

「そうだったのか? 悪いな、付き合わせてしまって。‥‥あれ? そういえば遠坂嬢は?」

 

 

 義姉達に遠野や聖杯戦争に関わらないよう強く言い含められていた俺は、たった一人放り込まれた時計塔で今更ながら孤独感を覚えた。

 伽藍の洞での生活は色んな意味で孤独とは無縁で、小説のキャラクター達と一緒にいるという感覚はアノあらゆる観念から企画外の義姉達の調教(きょういく)で完全に払拭されてしまっていたから問題はなかったけど、たった一人になってしまえば言葉では言い表すことのできない拒絶感があちらこちらから俺のことを潰しにかかってくる。

 

 そんな状態で、俺は例えその人物がアノ世界のキーパーソンであったとしても、『少しでも知っている人といたい』という切迫した感情からルヴィアに声をかけることを選択した。

 ‥‥結果的にこうして親しく友達付き合いができたことはまさに僥倖と言うより他ない。付録として様々な厄介を背負い込むことになったとしてもだ。

 

 

「ミス・トオサカはどうしても外せない用事があるとかで帰ってしまいましたわ。まぁ、しきりに貴方へ謝っておいてほしいと私にすら頭を下げていましたから、よしとしますけど」

 

「それ、他ならぬ君が言うか‥‥?」

 

 

 俺がまた歩みを再開すると、ルヴィアもまたいつもの位置へと早足で戻っていく。

 ああ、念のために言っておくけど俺と彼女の間に色っぽい話は一切ない。毛ほどもない。

 重ねて、これは決しては前振りとか伏線とかでもないことも明言しておく。

 もちろん俺はどっかの殺人貴や英霊予備軍のように鈍感及び朴念仁のスキルは所持していないから、これは間違いないことだ。

 ていうか想像できない。俺とルヴィアが恋仲になっているところなんて。

 あくまで俺達の関係は友人。それ以上でも、以下でもない。

 

 

「さてと、よかったらお勧めのカフェがあるんだけど、お茶はそこでどうかな?ミス・エーデルフェルト」

 

「ふふ、レディに対するお誘いとしては三十点といったところかしら。まぁ、いいでしょう。行きましょうか、ミスタ・アオザキ」

 

 

 幸い夕方まで授業はない。ていうか教室があの様では、もしかしたらこの先暫く講義はないかもしれない。

とりあえず怒られるのは俺ではないし、彼女が怒られるにしても街に繰り出してしまえば帰ってくるまで連絡はないであろう。

 昔っから厄介事に遭うことがやけに多い俺は、それに対抗する手段を終ぞ見出せなかった代わりに、面倒がすぐ眼前に待ちかまえていても、それとの遭遇に抵抗することを諦めたり、先延ばしにしたり、許容することができるスキルを身につけることに成功している。

 だから今回もまた同じで、避けられない面倒ならせめて先送りにしてしまいたいのも人情だろう。結局そうやって、まるで目の前の厄介事から目を逸らすように俺とルヴィアは足速に時計塔を後にしたのだった。

 

 

 

 

 3rd act Fin.

 

 



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第三話 『贋作者の溜息』

 

 side EMIYA 

 

 

 倫敦に越して来てからまず第一番に俺達がやったのは、徹底的なまでの屋敷の掃除だった。

 俺達が魔術教会から貸し出して貰った宿舎はかなり年代物の正統派の洋館。煙に煤けたかのように黒ずんだ外観と、歴史ある大国の首都にしてはそれなりに広い部類に入る庭と、俺達3人がそれぞれ好きなように部屋を使ってもなお余るという大きなスペースが魅力的だ。

 

 家の中に入るとまず出迎えてくれるのが屋敷の中を縦断する広くて長い廊下。玄関から向かって右側にすぐ二階へと昇る階段があって、その裏側には地下の食料庫や遠坂の工房へと続く階段がある。

 左側の大きな扉を開ければすぐにリビングだ。暖炉も据えてあるんだけど、今が夏だってのをさっ引いても多分使うことはないだろう。セイバーなんかはここで何か焼いたりできたらいいなんて言ってるんだけどな。

 リビングに向かって右隣、つまりは玄関を正面として屋敷の奥側にあるのはダイニング。既に大きな机が据えられていて、近くにある食器棚も随分と立派で最初からある程度の食器が入っていた。

 ただ、どうやら前に住んでいた人は一人暮らしだったみたいで、そこまで数は多くない上に埃を被ってしまっていた。遠坂の話によると呪いの類はかかってなかったみたいだから安心して使ってるけど、結局デザインが似たものを来客用にいくつか買ってしまっている。

 その奥にはキッチンがあるんだけど、これは屋敷の大きさに比べてかなり小さめに設計されていて使いづらい。

 幸いにして調理器具の類はちゃんとしたコンロになっていたんだけど、それにしても前の住人が一人暮らしだったのはこれで間違いないだろう。特に洗い場が狭いのは致命的だな。工夫しなきゃ住みやすさが格段に変わってくる。

 

 工房は地下に設置したから、俺達の私室は二階部分に決定した。階段を上がって振り返って順番に、セイバー、俺、遠坂の寝室だ。他にも倍ぐらいの部屋があるんだけど、階段に近いところから三つだけを使うことにしたのは決して貧乏性だからとかじゃない。掃除が面倒だからだ。

 もっとも最近、少し暇が出来てからは他の部屋も軽めだけど掃除するようにしている。やっぱり家ってのは綺麗にしてやるのが一番だ。衛宮の屋敷も使ってない部屋は結構多かったけど、それでも週一で掃除はしてたしな。

 ちなみにこの私室にしても相当に広い。封印された開かずの間みたいな一室以外は生活臭が全然しなかったんだけど家具は一応そろっていたし、多分絶対に使わないだろうけど念のために客間としておいたような部屋なんだろう。

 慣れないベッドは最初こそ寝るのが難しかったけど、次第にそれにも慣れて今ではぐっすりと眠れるようになっている。もっとも、やっぱり布団が恋しいっていうのは変わらないけど。こればっかりは日本人なんだから仕方がない。

 

 まぁそんなわけで外国での新しい生活は様々な不安を抱えながらも割合と順調にスタートしたように思える。買い物する店もだいたい分かってきたし、ゴミ出しの日もきちんと覚えた。狭いキッチンやユニットバスの使い方も完璧とはいわないまでも慣れてきた。

 なにせこれからそれなりに長い年月を過ごす事になる場所だ。最初にそれなりの手間をかけておくかおかないかで、後の過ごしやすさというのも格段に変わってくるのだから。

 

 

「お金が、ないわ」

 

「「はぁ?!」」

 

 

 さて、それは俺達がそんなわけでだいぶ今の生活に慣れて来たある日の夕食後の話である。

 いつものように旺盛なセイバーの食欲を満たすために腕を振るった料理の数々は既に食卓から姿を消し、今は紅茶と軽いお茶請けが並んでいた。

 ロンドンの料理はアレだが、紅茶関連に関しては流石に豊富な種類がそろっていて、俺はどちらかと言えば緑茶党だけど、遠坂は基本的に紅茶ばかり飲んでいる。倫敦に来てからはまるで水を得た魚とばかりに紅茶三昧だ。

 セイバーは‥‥まぁ、アイツはお茶請けと合ってさえいれば何でもOKな奴だしな。どっちにしてお美味しく飲んで食べてくれるのには違いないから嬉しいんだけどさ。どうも気になるのは料理のランクとバリエーションだけらしく、今はそこに気を遣って頭をひねる毎日である。

 

 そして全員がほぅと一息をついたその時だった。遠坂の口からとんでもない言葉が飛び出たのは。

 元々他人に弱みを見せることを嫌い、立てて加えて一端の見栄っ張りである遠坂は何か困ったことがあっても、本当に窮した時以外は自分だけで何とかしてしまうのが常だった。

 だから今日、遠坂が真剣な顔で俺達に財政の苦難を訴えたということは、本当の本当にどうしようもない状態だということを指している。

 

 

「‥‥あー、遠坂。金がないっていうのはどういうことだ?」

 

「言葉の通りよ。今月、ちょっと危ないわ」

 

 

 言葉は物騒なのに、何でも無さげな顔で紅茶を啜る遠坂に、俺は思わず机を強く両手で叩いて問いただした。それと同時に皿の上のクッキーが跳ね、セイバーが今にも宝具を使いそうな目でコチラをにらむ。

 食事のマナーは最近どうにも軽視されてきている兆候らしいけど、俺はそうは思わないし、食自体に敬意と情熱を払うセイバーにしてもそれは同じ。俺の家で藤ねぇが少しでもお行儀の悪い行動をとると、たちまちセイバーか桜の厳しい檄が飛んだものだ。

 ちなみに不思議なのは、がっつくことに関してだけは誰も窘めたりしないこと。やっぱりセイバーも自分を省みるのは嫌らしく、ご飯粒やおかずの汁とかが飛んだりしない限りは黙っている。

 そんなわけだから食後のお茶の時間とはいえテーブルを叩くなんて不作法を俺がするのは非常に珍しく、その珍しさに比例するかのように、また食後の落ち着いた一時をかなり楽しんでいたのかセイバーの視線もいつにも増して厳しい。

 

 ‥‥とはいえ、不本意ながら俺もそう易々とここで退くわけにいかなかった。なによりセイバーにかまけていたら遠坂に事態をごちゃごちゃにしたあげくにうやむやにされてしまうかもしれないし、たてて加えて言うなれば、遠坂のこめかみを冷や汗が伝っているのを発見してしまったから。

 

 

「‥‥ちょっとじゃないだろ。その手に持ってるもの見せてみろよ」

 

「あっ、ちょっと士郎!」

 

 

 遠坂が不自然に体をのけぞらせて、背中と椅子の背もたれの間に片手を挟んでソワソワしているのを不審に思ってそちらに視線をよこす。

 ‥‥隠しておけばいいものを律儀に食卓へ持ってきていたものを遠坂から奪い取った。

 それは飾りっ気のない茶封筒に入れられた一枚の紙。封筒の表紙には流暢な筆記体で遠坂の名前と、やたらと0の多い数字が書き並べられている。

 

 

「こ、これは‥‥?!」

 

「なんと‥‥!!」

 

 

 そしてその金額を見た俺とセイバーの口から、ロンドンに来て以来の切迫した吐息が漏れてしまったのも無理はないことだと思う。

 なにせソコに書かれていたのは、俺達の二ヶ月分の生活費を優に超える、トンデモない金額だったからだ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「あれ、衛宮? そんなところで何してるんだ?」

 

 

 鉱石学科は先日のけものとあくまの喧嘩で半壊し、講義室は修復中で代わりの教室も手配できず、とりあえず今日は休講という形をとっている。

 机は粉々、壁は穴だらけ。教材は隣の準備室の倉庫にしまってあったから無事だったが、そもそも生徒が授業を受けられる状況ではない。

 なにより他の生徒達の精神的外傷、というか教授が寝込んでしまっているのも原因の一つだ。そもそも鉱石魔術は全体的に攻性の魔術じゃないから戦闘能力が高い学生も多くはないのである。

 そんな連中が目の前で戦争にも匹敵する恐ろしげな撃ち合いを目にしてしまえば、トラウマの一つや二つ生成されるのも無理はない話なのだ。なにせ連中、戦闘どころか些細な小競り合いだって経験したことがないはずなのだから。

 

 そういえば時計塔の授業と聞いて高校や大学の講義を想像した人も多いと思うけど、それは違うとこの場で注意しておきたい。

 そも特待生とはいえど遠坂嬢レベルの魔術師が、鉱石魔術の基礎はうんたら歴史はうんたら、宝石の種類と特性がうんたら等という授業を受けるためにわざわざロンドンくんだりまでしてやってくるだろうか?

 答えは否。

 そういった授業は新興魔術師の為の基礎錬成講座で行われるのであり、ここ、俺達の在籍する鉱石学科では主にクラス全体の共同研究という形で進められる。

 

 すなわち、ある一つの議題について各々意見を出し合い、魔術具ならば試作品を、術式ならば構成式と実際の行使の仕方を持ち寄って発表し、それを他の全員でこてんぱんに叩くのだ。

 基本的に科学者は自らの研究成果をあらゆる角度から否定することによって検証する。魔術もそれと同じだ。模索、発見、否定を繰り返すことで新たな方法が生まれ、研鑽される。

 

 まだ俺は遠坂嬢とルヴィアと一緒になって授業を受けたことがないからその様子は想像する以外ないんだけど、おそらくその空間に存在するだけで胃が軋み、心臓が踊るようなトンデモない討論だったに違いない。

 嬉々として火花を散らし合う二人の魔術師と、それに怯えて講義室の隅っこに固まっている生徒と教授の姿が目に浮かぶようだ。

 

 

「ああ、誰かと思えば‥‥紫遙、だっけか。久しぶりだな。この前は世話になったよ」

 

 

 さて、そんなこんなで嬉々として自分の工房に閉じこもって研究に耽っていた俺なわけなんだけど、当然ながら人間である以上は研究のみにて生きるにあらず、飯を食ったり排泄してり、その他様々雑多な業務とでも言うべきことをしなければ生きてはいかれない。

 それでも朝昼は調子が良かったので空腹も意識せずに研究に没頭できたんだけど、流石に正午を回って暫くすると腹も減る。いい加減外に出て軽い食事でもとろうかと思って時計塔の玄関部とでもいう場所まで出てきたんだけど‥‥。

 

 

「世話したって程じゃないから気にしないでくれ。あれは学長から命じられた仕事みたいなものだからね。‥‥そんなことより、遠坂嬢も連れずにこんなところで何してるんだ? 新米魔術師は一人で時計塔を歩いたりしない方がいいぞ?」

 

「あぁ、まぁ分かっちゃいるんだけどな。ちょっと色々あってさ‥‥」

 

 

 一度きりしか会ったことのない赤錆びた髪の少年、衛宮が立っていたのは時計塔の玄関部とでも言うべき場所。

 表側の玄関としては大英博物館が挙げられるわけだけど、これはどちらかといえば裏側の玄関。大英博物館からSTAFF ONLYの出入り口を使って入り、更に地下へと潜ったところだ。

 魔術協会とはいえども組織としての体裁は当然のことながらしっかりと整えられており、実は意外と中身も常識に則ったものである。特に玄関部であるここは事務室や購買など共有スペースが集中しているところで、魔術協会としての部分と重なる箇所も多い。

 そんな人通りの多い場所で赤毛の少年はいつもとまったく同じ、変わりばえのしないシンプルな服装で、比較的物騒な部類に入る掲示板を眺めていた。

 

 

「おいおい、お前どうしてこんな掲示板(モノ)なんて眺めてるんだ? 俺の知る限りじゃこんなモノ見てるのは、よほど攻撃的な魔術を修行していて、実験台に不足してるような身の程知らずばかりだぞ?」

 

「あぁ、ホントなら俺もこういう手段は執りたくないんだけどさ。なんかこう、真っ当な手段じゃどうにもなりそうになくてな‥‥」

 

「‥‥はぁ、どうやらワケありみたいだな。ここで会ったのも何かの縁だし、何も力になれないかも知れないけど、俺でよければ相談に乗るぞ?」

 

 

 ちらりと視線を衛宮が眺めていた先へと走らせる。未だ魔術師としては成り立てで時計塔の授業にだって全然ついて行けていない新米の魔術使いが眺めていたのは、協会としての時計塔が出す依頼が掲示してあるスペースだった。

 

 魔術協会は独自に様々な組織を内包している。学生の学舎である世界最高の魔術学院である時計塔は最たるものであるけれど、他にも色んな目的を達成するためにそれこそ数え切れないぐらいの部門があるのだ。

 例えば代表的なものであれば、これ以来出ることがないであろう特殊で貴重な魔術などを会得した魔術師に対して言い渡される封印指定の執行部隊。もしくは何か魔術的な事件が起こり、その場の管理者(セカンドオーナー)に依頼された場合に調査に向かう調査部隊。

 とはいえいくら部隊が多くても基本的には世界中をカバーしている魔術協会。細かい事件には対応しきれずに、民間‥‥つまりは魔術協会本部である時計塔に所属している魔術師達に依頼を出す場合もある。

 大体は外道に墜ちた魔術師の粛正や妖獣の捕獲や駆除、貴重な魔術資源の採集に実験の被験者の依頼などだ。

 まぁ魔術師的常識から言えば安全なものから死の危険を伴うものまで、千差万別である。戦闘向きで実戦経験があるとはいえ、半人前の魔術師が難しい顔で仰ぎ見るようなモノではない。

 

 

「そうか、頼む。できれば河岸を変えないか? ここはちょっと‥‥」

 

「ん、確かにそうだな。さっきからじろじろと視線も感じるし、ゆっくり話と人払いが出来るところにでも行こうか」

 

「おう。来たばっかだから何処に何があるのかさっぱりでさ。お前に任せるよ」

 

 

 人が多く行き来するエントランスは、例え防音結界を張っていたとしても内緒話には向かない。ていうかそもそも防音結界なんて張った時点で内緒話してるって丸わかりだし。

 物騒な掲示板の前に魔術師が二人。しかもそのうち一人は蒼崎の名前を持つ鉱石学科の名物の付属物で、もう片方は最近になって聖杯戦争を勝ち抜いた特待生としてかなり派手な入学をした人物の弟子ときた。

 ただでさえ魔術師としての矜恃はさておいて若者らしく好奇心の多い学生が多いエントランスで、俺達はかなりの注目を集めていた。

 俺が目線をやると全員が全員ひょいと目を逸らして足早に立ち去るけれど、やはり長居はあまり好ましくない。俺は衛宮の言葉に頷くと、裏庭に面している時計塔のカフェテラスへと誘ったのであった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「―――はぁ? 金が欲しい?」

 

「‥‥恥ずかしい話なんだけどな」

 

 

 残暑もまだその面影を残す小さめの裏庭に広がるカフェテリアで、俺は頼んだアイスコーヒーのグラスにさして咥えていたストローを思わず口から離して呆れた声を出してしまった。

 本来ならあまり褒められた姿じゃないとは思うけれど、なにせあからさまに化学薬品臭い匂いのすることで有名なカフェテリアのコーラを一口啜った衛宮が深刻な顔で打ち明けたのは、コチラの世界の魔術師としては実に呆れた相談だったのだ。

 

 前々回に話したとは思うけど、魔術師ってのは基本的には資産家だ。

 歴史のある家が殆どだし、新興の奴にしたって元手に余裕がなければ時計塔(ココ)にはやって来ない。

 俺も青子姉が頻繁に協会の依頼を受けている恩恵に授かってるし、俺自身も青子姉に強制連行された際の報酬はしっかりと貰っているから、幾分かは橙子姉に送ってはいるけどそれなりに潤沢な懐具合と相成っている。

 

 

「はぁ、なるほどね。金遣いの荒い魔術師を師匠に持つと大変だな。特に遠坂嬢なら‥‥なおさらか」

 

 

 駄菓子菓子、俺は幸いにしてなのか不幸にしてなのかは分からないが、このへっぽこ魔術使いとその師匠の金銭状況に関してはある程度判断の材料がある。

 遠坂のお家芸は宝石魔術。当然のことながら宝石は高い。ついでに言えばとくに儀式と戦闘に関して、この魔術は特に財布に痛い。

 戦闘に関しては言わずもがな、儀式にしたって同様だ。 魔法陣を書く際には宝石を自分の血と一緒に溶かして使うから再利用はできないし、魔弾として使えばそれっきり灰になってしまう。

 礼装なんかに使うならばまだしも、彼女のように豪快にばらまいていてはたびたび補充をしても追っつかないだろう。

 

 

「いや、昔はそれほどじゃなかったんだよ。確かに聖杯戦争で大分今まで貯めてた宝石を使っちゃったのは事実ではあるんだけどさ、やっぱりどっちかっていうと時計塔に留学する準備でのんびりしてたし。

 でも時計塔に来てからは、さ。色々と授業でも大変だし、他にも‥‥」

 

「う、うん、心中お察しするよ衛宮‥‥」

 

「生き生きしてる、とは思うんだけどな。それでもこういうことにまでなるとそれなりに思うところもあるわけでさ」

 

 

 しかも、遠坂嬢にとって一番問題なのはルヴィアの存在だ。

 彼女はエーデルフェルト家の財力にモノを言わせて、高価な宝石を幾つも所有し、それを授業でも惜しみなく使っている。

 聖杯戦争で貴重な宝石を幾つも使ってしまっているだろうけど、自他ともにルヴィアのライバルを自負する遠坂嬢からしてみれば、かの金ぴかに対抗するためには同じレベルの宝石、最低限一ランク下の宝石を複数用意する必要があるだろう。

 

 

「しかし君達は三人暮らしだろう? いくら遠坂嬢でも家族の生活費まで手を付けたりしないんじゃないか?」

 

「もちろんだ。遠坂はそんな奴じゃない。‥‥ただ、これに関しては、まるっきりアイツの自業自得だから愚痴も言えないんだけどさ‥‥」

 

 

 衛宮はまるで肚の中に出来てしまった重りを吐き出すかのような深い溜息をつくと、俺に一枚の紙切れを差し出す。

 俺は誰かが握り締めたのか皺が寄ってしまっているその紙を丁寧に開けると、書かれた文字に目を落として合点の笑い声を漏らした。

 

 

「成る程、この前の‥‥」

 

「ああ。鉱石科の講義室の修繕費だ」

 

 

 遠坂嬢が鉱石科の教授から渡されたものらしいけど、放っておくと癇癪を起こして引き裂いてしまいそうだったから泣く泣く衛宮が管理しているんだとか。こんなモノ持ってたくないというオーラが全身から染み出ている。

 俺はそこに書いてある金額に目を見開くと、そういえばルヴィアと折半なんだから実際の金額は‥‥とそこまで考えてやめた。

 いくらなんでもこれはないだろう。少なくとも授業の延長線上でちょっとお茶目をして壊してしまったようなものを弁償するために払う金額としては膨大過ぎる。

 

 

「セイバーもアルバイトを初めてくれたし、遠坂も金を工面するためにあっちこっち駆けずり回ってくれちゃいるんだけどさ、やっぱりどうにも間に合いそうにないんだ。‥‥それで紫遙、何かワリのいい仕事とか知らないか? 多少危険でもいいからさ」

 

「何言ってるんだ。これ納金期限が今月末になってるじゃないか。ワリの良い魔獣退治とかになったら二、三日なんかじゃ終わらないぞ? それに報酬は依頼完了の手続きとか事後処理とか考えれば‥‥まぁ今月中には絶対に無理だな」

 

 

 身を乗り出して真剣な顔で寝言を言う衛宮の額を脇に置いてあった伝票ではたく。

 確かに魔術協会が、封印指定とまではいかずとも外道の魔術師によって生み出されたあげくに魔術師が死んでしまったり研究成果自身に殺されてしまったりして制御できなくなった魔獣の類の討伐を、先程の掲示板に依頼に出す場合はそこまで少ないわけじゃない。

 とはいっても、いくら生み出した魔術師自身に驕りや油断があったと考えても連中は腐ってもエキスパートなのだ。プロフェッショナルの手に負えない魔獣を討伐するとなると、それなり以上の腕前が必要となってくるのは当然と言えるだろう。

 

 ‥‥大体コイツは魔獣退治をゲームか何かのモンスターと混同しているフシがある。こういう依頼に出て来る奴らってのは、まず姿を見つけるのが難しい。明るい内は山奥とかに隠れていて、夜になってから人里で暴れるようなのが大半だ。

 これが昼でも辺り構わず暴れ回るような相手だったら悠長に学生まで依頼が回って来たりしない。そうなったら魔術協会の実力行使部隊が派遣される。

 

 

「ていうかお前みたいなへなちょこが一人で退治できると本気で思ってるのか? 聖杯戦争がどうだったかなんて知らないけど、基礎講座の学生レベルじゃ行ってもおいしく頂かれるのがオチだ。そもそも信用できないから、いくら俺の推薦でも受け付けてくれないよ」

 

「ぐ、そりゃそうかもしれないけど‥‥」

 

「そういう場合は殺されるだろうっていう前提で依頼を請けさせてくれるんだから、旅費とかもコッチ持ちだ。万が一討伐に成功すればいいだろうけど、失敗して逃げ帰って来たら大損だぞ?」

 

 

 言っておくけど、人間なんかより遥かに素早く動く魔獣の類を一人で仕留めるなんてまず不可能だ。ああいう連中はそれこそ中世にやっていた、もしくは今でも一部の趣味人が楽しんでいる狩りのように大勢で追い立てる必要がある。

 追い立てた後だって並大抵の方法じゃ討伐まで至らない。そもそも魔獣っていうのは基本的に戦闘用に作られたものであることが多いし、そういう手合いは純粋な戦闘能力で言えば魔術師を大きく上回る場合が殆どだ。

 獣なんだから理性が伴っていないはずだ、などと楽観視することもおすすめしない。獣を魔獣と新たに定義するために必要なものが、狡猾な戦闘理性であるのだから。

 そうだな、もし本当に一人で討伐したいのなら青子姉みたいに広域殲滅魔術を使うか、橙子姉みたいに十重二十重に悪質極まりない罠を張り巡らせたり、斬っても突いても燃やしても効果のない強力な使い魔を使役したりするしかない。

 

 ちなみに俺はあの出迎えの日以来衛宮とは会ってないから、彼がどんな魔術を行使するかは知らないことになっている。

 投影したものが現実に残り続ける異常な魔術。宝具すら投影できる能力と、魔術の極みの一つとして認識されている見習いには分不相応な固有結界(リアリティ・マーブル)

 だけど、例えコイツの非常識な投影魔術(グラデーション・エア)を考慮に入れたとしても、実際問題として俺が言ったことはまさに正論そのものだ。きっと時計塔の魔術師百人に聞けば九十九人から同じ言葉が返ってくることだろう。残りの一人は衛宮自身だ。

 

 

「はぁ〜、やっぱりそうか‥‥。どうしよう、後はもう身売りか贋作の売買ぐらいしか‥‥」

 

「まぁ待てって」

 

 

 深刻な顔をして不穏な台詞を口走り始めた衛宮を間髪入れずに止める。

 おそらくは討伐関係以外の掲示。一般の学生や教授陣、研究チームなどから実験に協力してくれる人を探しているような依頼の方に考えが飛んだのかもしれないけれど、本当に互いにギブギブの関係が発生する保証がない以上は、アノ手の依頼に迂闊に手を出すのは命取りだ。

 時計塔は魔窟である。表の社会の道徳観念や倫理観なんてものは一切役に立たない。依頼を受けたが最後、誓約によってしっかりと互いに約束をとりつけたとしても、それをかいくぐるようにして不利な状況に直面させられかねない。

 ああいう実験に協力するときは被験者としてではなく、互いに協力実験という風にしないといけない。相手に主導権を委ねてはいけないのだ。これは時計塔での常識だから覚えておくと今後役に立つ。

 

 ああ、流石に俺も知り合い――って会うのはまだ二度目だけど――がそんなことをするのを黙って見ていられる程鬼畜じゃない。

 いざとなれば低利子無期限で金を貸してやるのも吝かでは―――

 

 

「あ」

 

「どうしたんだ? 紫遙」

 

「いや、今いいことを思いつい――もとい思い出した。知り合いがな、若い手を欲しがってるんだ」

 

 

 ぴこーんと頭の上に電球が灯るというかなり古典的なイメージが浮かんだ俺は、手鼓みを打つと衛宮同様体を乗り出してニヤリと笑みを浮かべた。

 狭っ苦しいテーブルの上で男二人が顔を突き合わせているというかなり暑苦しい絵面だけど、なに気にすることはない。狭い作業机の上で図面や術式を眺めながら教授と額が触れ合うぐらいの距離で口角泡を飛ばすよりは遥かにマシだ。

 

 

「命の危険はないし魔術も殆ど関わってない。別段肉体労働でもなければ頭脳労働でもなく、採用されれば間違いなく文句なしの高給。雇い主も融通が効く人だし、俺が口添えすれば給料の前借りもできると思うぞ?」

 

「それ、ホントか?!」

 

「あぁ。とはいっても別に大々的に求人を出してるわけじゃなくて、個人的に愚痴とか相談みたいな形で話を聞いただけだから、絶対に話を聞いてもらえるっていう保証はないぞ。それでもいいか?」

 

「大丈夫だ。とにかく今は話があるっていうだけでも僥倖だよ! なにしろ何処に行っても英語が下手だからか中々雇ってもらえる場所がなくてさ。普通の手段じゃ無理だって諦めかけていたところなんだよ‥‥」

 

 

 渡に船と衛宮が額をぶつけんばかりの勢いで俺の胸倉を掴む。

 その様子は正に借金に困り果てた頭の足りない会社員がサラ金に声をかけられた時のようで‥‥って、まんまそんな状況なんだっけ。

 なんていうか、お前絶対じきに詐欺商法とか不適当契約とかの被害に遭うぞ?

 

 俺はシャツに皺が出来る程強く握り絞めている手首をとり、わざわざ関節を極めつつ引きはがした。

 そして先程見せられた請求書から衛宮に聞いた遠坂嬢とセイバーの出稼ぎ予定分を差っ引くと懐から携帯を取り出し、メモ帳に記録する。

 給料に関して融通できないか後で彼女に相談してやるためだ。おそらくは大丈夫だとは思うけれど、下手すれば衛宮の境遇に彼女なりに僅かな同情をして、世間一般以上の給金をポンと与えかねない。それはちょっと常識にもとるだろう。

 

 

「いや一時はどうなることかと思ったけど、紫遙に相談して正解だったな。‥‥あ、そういえばそのワリの良い仕事って何なんだ?」

 

 

 安心して吐息をつきながら、自分が頼んだコーラを氷をやかましく鳴らしながら飲み干す衛宮が、今更ながら一番重要なことを聞いてきた。どうもコイツ、目的と合致する手段があったら過程がお馬鹿になってしまうタイプのようだ。

 ‥‥まぁ、ゲームの中のコイツもそんなカンジだったっけ。あまりにも過程の中に存在する、自分の損を考えてなさすぎる。

 まだ会って二回目という初対面にも近い、顔見知りにもまだ遠いような関係ではあるけれど、ゲームの中の予備知識と目の前の本人を合わせると確かにそんな人間であると判断せざるを得ない。

 先入観とか偏見とかじゃなく、あれは真実本当の前情報だったようだ。メリットらしいメリットは無かったけれど、それでもこうしてルヴィアや衛宮、遠坂嬢などとより早く親しくなれるようになるための材料の一つだったと考えると悪いものでもなかったのかもね。

 

 

「なに、本当に驚く程たわいもない仕事だよ」

 

「む、勿体つけないで教えろよ」

 

「まぁまぁそう急かすなって。別におかしな仕事じゃないって言っただろ? 多分お前の得意分野みたいなもんさ。そう気負わなくても真面目に教わればすぐに慣れて仕事出来るようになるって」

 

 

 にやにやと楽しそうな俺の様子が気になったのか、衛宮は眉間に皺を寄せて尋ねる。

 だから俺は本当に何でもないことかのように、こうとだけ言ってやった。

 

 

「執事、さ」

 

 

 

 

 4th act Fin.

 

 



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第四話 『騎士王の午後』

ここら編から三年以上前の文章になるわけですが、あぁ頭が痛い‥‥orz


 

 〜side Saber〜

 

 

 

「‥‥ふぅ、これで今日の買い物は終わりですね」

 

 

シロウから頼まれた買い物を済ませ、私はロンドンの街をのんびりと歩いていた。

メモはきちんと塗りつぶしたから買い零しもありはしないし、人の良い店主が買った物は家まで届けてくれるというので今の私は手ぶらで整備された石畳の上歩いている。

バスを使って帰るという選択肢もありはしたが、今の我が家の帳簿はまさしく火の車。

私も暇な午前中にはびっちりと賃仕事が入っていたし、リンも時計塔の教授陣の手伝いをして手間賃を貰っているというだ。

そうそう、先日はシロウもひどくワリのいいアルバイトを紹介してもらったとか。

毎日しっかりと通っているようですし、雇い主にも随分と気に入られていると話してくれた。

これでなんとか月末までにアノ金額を用意できればいいのけれど‥‥。

 

 

「しかし、まさか私がこのような生活を送るようになるとは‥‥」

 

 

王として生きていた頃も、英霊として召喚に応えていた時も、私の身は戦場の中にあった。

それを後悔しているわけではない。

全ては私が選び、自ら望んで進んだ道。

そして聖杯を破壊し、英霊としての望みがなくなった今、私はこのような生活に甘んじていることを幸せだとすら思っている。

だから、今の私の言葉に他意はないのだ。只、今の生活が新鮮で、楽しい。

騎士であるこの身の成すべきことや、これからのことなど考えることは多い。

しかし今、とりあえずはその思いだけで十分なのではないだろうか。

 

 

「さて、今日はリンも時計塔に泊まりこみということですし‥‥」

 

 

今日やることは既に終わってしまっている。

幸いシロウからは少しだけ余分にお金を渡されているし、気の良い店主が僅かながらマケてくれたから懐にはまだ余裕がある。

いつも頑張っているのだ。ちょっとした買い食いぐらいしても、シロウだって怒りはすまい―――

 

 

「っと、なんですか一体、忙しない‥‥」

 

「誰か! ひったくりだよ! 捕まえて!」

 

 

突然男が私の横を掠めるように走り去って行き、憤然と腕を組んで文句を漏らした時だった。

後方から聞こえた老婆の声が自分の耳に届くや否や、瞬時に状況を理解した私は強く大地を蹴って走りだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「誰か! ひったくりだよ! 捕まえて!」

 

 

後方で切羽詰まった老婆の叫び声が聞こえ、俺の隣を一人の人相の悪い男が走り抜けていった。

 

俺は先日、衛宮を新しく執事見習いとして雇ってはどうかとルヴィアにもちかけた。

『家事万能で勤勉実直。護身術の心得も多少はあるし、性格は超がつく程のお人よし』という間違ってはいないが甚だ誤解を招きやすい宣伝文句は、どうやら最近相次いで使用人が寿退職してしまった彼女にとっては予想以上に魅力的なものだったようだ

面接もそこそこに見事採用の運びと相成り、衛宮は心底ホッとした顔だった。

 

 

「ちっ! 待て!」

 

 

ルヴィアに聞くところによれば、まだぎこちない部分はあるものの、衛宮は実によくやっているらしい。

衛宮は女性相手には驚く程気が利くし、同時に信じられない程気が利かない。

今の所は上手くやっているみたいだけど、いったいこの先どうなることやら‥‥。

 

なにより彼女はアイツが遠坂嬢の弟子だなんて全く知らないからかなり心を許しているが、これがバレてしまった暁にはどんな修羅場が展開されることだろうか。

考えただけでも心が躍―――痛む。

‥‥巻き込まれなきゃいいんだけどなぁ。

 

 

「こら! 止まれ!」

 

 

そして上機嫌のルヴィアからランチに誘われ、エーデルフェルト御用達のレストランの料理に舌鼓を打った帰りというのが、現在の俺の状況だ。

 

今眼前にはバッグを抱えて通行人の間を縫うようにして走っている男の姿がある。

別段正義漢を気取るわけじゃあないけど、流石に目の前で行われた引ったくりを見過ごす程まだ腐っちゃいない。

そういうわけで引っ捕らえるべく走り出したわけなんだけど‥‥

 

 

「‥‥くそ、速いなオイ!」

 

 

もしかしてかっぱらいが稼業なのだろうか、それなりに鍛えている俺をもってしても中々距離が縮まらない。

いっそのこと足に移動(エイワズ)のルーンでも刻んでしまおうかと思ったけど、刻んでる間に入り組んだ路地裏にでも逃げ込まれてしまったら追い付くことはできないだろう。

 

「だから待てって言ってるだ――

「ぎゃあはぁっ?!」――ろってうわぁ?!」

 

 

四辻を曲がった引ったくりを逃がすまいと人力アクセルターンをキメたその時、突然前を走っていた男が背中をこちらに向けて吹っ飛んで来て、俺はもろに肺を強打して噎せこんだ。

ちなみに両手はしっかりと男の首と腕をホールドしている。やるときはやる、男ですとも。

 

 

「一体何だ‥‥って、セイバー?」

 

「おや、シヨウ‥‥でしたか? お久しぶりです」

 

 

引ったくりの背中越しに前を見遣ると、そこには今さっき振り上げたのであろう足を降ろし、スカートの裾を直しているセイバーさんの姿があったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほぅ、ではシロウの言っていたワリのいいアルバイトとはショーが紹介したものだったのですか」

 

「まぁね。困ってそうな人を見ると楽し―――もとい手助けせずにはいられないんだ」

 

 

うっかり口を滑らせるところだったけど、なんとか笑顔でごまかせたようだ。

セイバーは訝し気な顔をしたけど、俺のポテトを5本ばかりまとめて差し出すと途端に黙った。ホント見てて飽きないなこのコも。

 

 

「それにしてもシロウのアルバイトとは一体何なのですか? 何度問い質しても『秘密だ』の一点張りで‥‥」

 

「うーん、衛宮が言いたくないって言ってる以上、俺がこっそり教えるわけにはいかないなぁ。あ、でも安心してくれよ。決して危険なことではないから」

 

 

あの後ロンドン市警(スコットランド・ヤード)に引ったくりを引き渡した俺達は、近くの売店でおやつ代わりの軽食を買うと、公園へとやって来ていた。

何故俺の前にいたセイバーが咄嗟に男に蹴りを入れられたのか質問すると、

 

 

「もともと私は貴方より後ろにいたのです。公衆の面前で魔力放出を披露するわけにもいきませんでしたから、一旦路地裏に入って建物を飛び越えました」

 

 

と、中々人外感に溢れた答が返ってきた。

ただでさえ最上級の使い魔(ゴーストライナー)であるセイバーが時計塔のお膝元で神秘の漏洩なんてやらかした暁には、これでもかと難癖つけられ、降霊科の連中に寄ってたかって実験体(オモチャ)にされてしまうことだろう。

まぁその前に遠坂嬢が契約解除して送り返すと思うけど。

 

 

「ところでどうだい? ロンドンに着てからの生活は」

 

「ええ、とても充実しています。毎日大変ではありますが、自分がこのような日常を過ごせるようになるとは思わなかった‥‥」

 

「そうか、セイバーは英霊だったな‥‥」

 

 

穏やかに微笑む剣の騎士に、俺は今更ながら彼女の素性を思い出した。

そう、彼女は英霊。過去に偉業を成した英雄が、死語人々の信仰によって精霊の域にまで高められた至高の存在。

しかも彼女の正体は英霊の中でも最上級とも言うべきアーサー王―――

 

 

「おや、あれは移動販売車でしょうか。どうでしょう、気になりませんか? ショー」

 

 

全 然 見 え な い な 。

いやまぁ普通の女の子にも見えないんだけどさ。

一度彼女と肩を並べて戦ってみたりすれば違うのかもしれないけど‥‥。

個人的には、そんな機会が未来永劫来ないことを祈らせてもらいたい。彼女と相対するよりはマシだけど。

 

なんていうか、今の俺の立ち位置って『某カレー狂の相棒としてアインナッシュに入ったはいいけど、無能扱いされて自称ピーターパンに食べられちゃった名前しか出てこない埋葬機関の人』みたいなカンジだしなぁ‥‥。

 

 

「どうしましたか? ショー。死相が出ていますよ」

 

「物騒な忠告ありがとう、セイバー。あと君は何がなんでも俺に死亡フラグを発生させたいのかい?」

 

 

大体『ショー』ってなんですか。

いくら『シロウ』と発音が似てるからっていくらなんでもそれはないでしょ。

なんか合ってるはずなのに濁点足りなくて頭の奥がむず痒いよ。

 

 

「そういう貴方の方はどうなのですか? 先日はリンが怪我をさせてしまったと聞きましたが‥‥」

 

「ああ、それについては気にしないでほしい。怪我という程たいしたものじゃなかったからね。よかったら遠坂嬢にもそう伝えてくれないか?」

 

「わかりました」

 

 

鉱石学科は代わりの教室が手配できなかった為、未だ休講状態が続いている。

仕方がないから俺はその間は昔世話になったルーン学科とかに出向いてたりしていた。

ルーンは橙子姉の専攻だったから、俺も結構得意とする魔術の一つだ。

とはいっても戦う者でも造る者でもない俺の本来の研究には殆ど役に立たなかったけど。

まぁ荒事の時には需要があるし、今でもルーン魔術をやっている人は少ないから割と重宝されている。

 

 

「それにしても、本当にリンには困ったものです! 好敵手が存在するのはいいことです。競い合い、時には決闘するのもまた騎士の誉れでしょう」

 

「遠坂嬢は騎士じゃないけど‥‥」

 

「しかしやるにしても場所柄というものがあるでしょう! 他人にならまだしも、このように家族にまで迷惑をかけるとは‥‥!」

 

「他人ならいいんだ」

 

 

さらりと真っ黒な台詞をぶちまけるセイバーを横目に、被害者筆頭の俺は予め家でペットボトルに詰めておいた緑茶を啜った。

ちなみに一度も描写しなかったけど、今食べているのはかの有名なフィッシュ&チップスだ。

ロンドンの食べ物はアレな物が多いけど、これは文句なしに美味い。

やはりその土地の食べ物はその土地で食べるべきだな。常食はしたくないけど。

 

 

「そういえば‥‥」

 

 

油でコーティングされた口の中を緑茶で洗い流していると、セイバーがふと気付いた様子で口を開いた。

 

 

「その鉱石学科でリンと争っている女性というのは、どんな人物なのですか?」

 

「遠坂嬢から聞いてないのかい?」

 

「リンはその方の話になると途端に感情的になるため、正確な判断ができないのです」

 

 

ああ、成る程ね‥‥。

食事時に話題を持ち出したセイバーに対して、ローストビーフをルヴィアに見立ててグサグサとフォークで突き刺しながら鬱憤を吐き出している遠坂嬢の姿が目に浮かぶかのようだ。

なまじ色々とベクトルが似通っているとうっとうしく感じるんだろうな、きっと。

 

 

「あの二人はねぇ‥‥。同族嫌悪みたいなものなんじゃないかなぁ。ロンドンに来たときの遠坂嬢と話した印象から考えると」

 

「ああ、なんとなくわかる気がします。リンが二人‥‥ですか」

 

 

俺の言葉を聞いたセイバーが遠い目をする。

どうやら毎日本当に苦労しているらしく、俺の台詞が引き金になったのかいつの間にやら騎士王陛下の愚痴披露大会と化していた。

曰く、シロウはリンと毎日私の前でいちゃいちゃいちゃいちゃ‥‥。いえ構わないのです、私はあくまでもシロウの剣。シロウの恋人はリンなのですから私に何ら気兼ねする必要はないのです。

しかしあそこまであからさまに見せつけられてしまうとこう、何かぐぐっとこみ上げてくるモノが‥‥。ああそもそもカタチが悪いのかも知れませんね。優劣を競うなら恋敵の一人や二人聖剣(エクスカリバー)の錆にする必要がって何を言っているのだ私は。

 

 

「あれ、おかしいですね。目から心の汗が‥‥」

 

「――こんなところで何をやっているのかしら? セイバー」

 

 

走馬燈のようにライブで脳内を横切る最近の日々がよほどつらかったのか、セイバーがぐいっとブラウスの袖で目元を拭ったその時だった。

ふっと暗くなる視界。それとこんな大衆の中だというのに薄ら寒い程に身を刺す魔力。

 

ぎぎぎと歯車が軋むような音を出してゆっくりと首を後ろへと回した俺達の視界に入ったのは、向日葵もかくやと言うほど眩しい笑顔を満面に浮かべた『あかいあくま』の姿だった。

 

 

「リ、リン‥‥」

 

「や、やぁ遠坂嬢、ご機嫌麗しゅう‥‥」

 

「ごきげんよう、蒼崎君。私の使い魔(サーヴァント)がお世話になったみたいね?」

 

 

隣でセイバーがぷるぷると震えながら俺に助けを求めてくるが、スマン、無理。

まだこれで実質会うのは二回目に過ぎないけど、俺の本能、むしろ「 」から『この悪魔に逆らっちゃならねえ』と至上命令が下されてきている。

さらば騎士王。倫敦の街に、散れ。骨は拾ってやる程に。

 

 

「少し前から聞いていれば、人のことを言いように‥‥! ちょっと、教育が必要みたいね?」

 

「ご、誤解ですリン! 私はただショーを相手に世間話を‥‥」

 

「へぇ、私の悪口はセイバーにとって世間話なのね。いいこと聞いたわ。家に帰ったら、分かってるわよね?」

 

「‥‥はぃ」

 

 

頭の上のアホ毛も力なく垂れ下がり、セイバーは真っ青になって縮こまっている。

なんていうか、予想以上に遠坂嬢の権力が大きいらしい。じきに破産するんじゃないかアノ家。

 

 

「蒼崎君」

 

「あ、ああ」

 

「セイバーの相手をしてくれてありがとうね。次は講義で会いましょう? それじゃ」

 

「またな‥‥」

 

 

うなだれる使い魔(サーヴァント)とその主人(マスター)は、呆然と立ちつくす俺に手を振ると優雅に去っていった。

‥‥なんていうか、強く生きろ、セイバー。

 

 

 

 

 

 5th act Fin.

 

 

 

 

 



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第五話 『鉱石科の災難』

ルヴィアの詠唱が勝手な勘違いで英語になっている点に注目。
なお、改訂版ではしっかりドイツ語に戻っています。


 

 

 

 side Rin

 

 

  

 

 聖杯戦争の勝利者として、士郎とセイバーを伴って時計塔へやってきてから早数週間。

 特待生として魔術師の最高学府への入学を許された私は、正直に言ってしまえば柄にもなく舞い上がっていたのかもしれない。

 最上級の使い魔と言うべき英霊と、固有結界の保持者にして剣製の魔術使いを弟子に持つ。

 なおかつ宝石翁の系譜である私みたいな魔術師は、時計塔広しと言えどもそうそうはいないという自負があった。事実としてその通りだったし。

 

 なにより‥‥その、恋人との時間に邪魔が入らない生活なんてものにかなり色々と桃色の補正が入っていたというのも、またどうしようもない程事実なのだろう。

 え? セイバー? いや、その、彼女は私の使い魔であって、あくまで士郎の剣なんだし。

 私はあのコも好きだから何なら二人で共有してもって何言ってるのよ私は。

 

 

「失礼ながらミス・エーデルフェルト。貴女と私の間には大きな見解の相違があるようですわね。そもそも一種類の宝石で構成された魔具では、効果範囲の応用性が期待できないのではありませんこと?

 多数の宝石を組合せれることによって多様な魔術効果を生みだすことこそ、宝石魔術師の腕前といったものだと」

 

 

 私が時計塔に来た目的は、優良な実験環境とスポンサーや伝手の確保、本分である最新の魔術知識の習得など沢山ある。

 だが、正直時計塔の学生や魔術師達を見下していたと言われても反論できない。

 あの聖杯戦争を勝ち抜いたからと驕っていたと言われても仕方がない。

 確かに時計塔は旧態依然とした保守思想の魔術師達の温床と言っても過言ではなく、実際にそんな連中が自分の利権を守るべく権力闘争を繰り広げている場所でもある。

 そういうのは本来ならば孤高の賢者たるべき魔術師のすることじゃない。そう思っていた。

 

 

「お言葉ですがミス・トオサカ。このように小型の魔具では不用意に応用性を持たせると、その分効果が薄く、器用貧乏になってしまいがちですわ。

 それならばいっそのこと機能特化型の魔具を多数用意する方が実際の理に適っているのではなくて?」

 

 

 それでもここ、時計塔は世界中に数多散らばる魔術師達の最高学府。

 こればかりは自惚れでも慢心でもなく、一流の魔術師たらんとする私に匹敵する人材というのもたしかにいた。

 

 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。

私の天敵である。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

「あら、今はこの魔具に対する考察だったのではなくって? 論旨がズレていましてよ? ミス・エーデルフェルト」

 

「魔具が単一の効果しか持ってはいけないという法律はございませんわ。歴史を紐解いてみても、少なくとも二種類か三種類の効果を持たせる魔具は当然のように存在致しますもの」

 

「私は”この”魔術具についての話をしているんですよ、ミス・エーデルフェルト?

 いいですか、今回私たちが設計している魔術具には容量(キャパシティ)というものが存在します。基本中の基本ですから当然ご存知でしょうが、原則としてこの容量を大きく逸脱した効果を付与(エンチャント)することは出来ません」

 

「そんなことは基礎講座の学生でも知っております。(ワタクシ)を馬鹿にしているのですか、ミス・トオサカ?

 ここでこそ先ほど私が提唱した理論を用いるのです。容量限界の微少な魔力周波を見極め、宝石の固有魔力振動数を共鳴させれば限界を超えた出力を得ることが可能ですことよ」

 

「もちろん存じ上げていますが、それは宝石の耐用年数、いえ、耐用日数を大きく削ります」

 

「メンテナンスを欠かさなければ、それも

十分に伸ばす事が可能ですわ」

 

「今回の実験で目的とする魔術効果を発揮するには、メンテナンスフリーな持続的使用を目的とした魔術具が適しています。それはナンセンスな回答ですよ、ミス・エーデルフェルト」

 

「貴女こそ目的に縛られて柔軟な発想が出来なくなっておりますわ、ミス・トオサカ」

 

 

 ‥‥さて、現存する第二魔法の実現者が得意としたことから、それなりに受講者の多い鉱石魔術学科だけど、前回の講義で初めてかち合った二人の学生の喧嘩により、決して狭くない講義室は跡形もなく、まんべんなく真っ黒焦げになってしまっていた。

 

 片や六代を重ねる極東の魔術の家、遠坂家の現当主。

 そして七体の英霊を召喚して戦わせるという前代未聞の大儀式である聖杯戦争の勝利者。

 五大元素(アベレージ・ワン)を属性に持つ天才、遠坂凜。

 

 片や北欧の大貴族、地上で最も美しきハイエナの異名を持つ天秤の家系、エーデルフェルトの現当主。

 現在の時計塔の主席であり、歩く姿は白鳥、立つ姿は白薔薇、魔力の煌めきはルビーにも例えられる完全無欠のお嬢様。

 極東からの鳴り物入りの転入生と同じく五大元素(アベレージ・ワン)を属性に持つ才女、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。

 

 まだまだ未熟とはいえ、狭き門をくぐり抜け、日々研鑽に励む時計塔の学生達の中でさえ、彼女達二人の実力は際立っていた。それこそ並の講師ならば尻尾を巻いて逃げてしまうくらいに。

 だけど、何より不幸だったのは、二人の天才の相性が、この上なく悪かったことだろう。

 

 

「大体なんですか、この小粒な宝石は! 無礼を承知で言わせて頂きますがミス・トオサカ。このように小粒の宝石ばかりを複数個使用することこそ、魔術具の容量(キャパシティ)を圧迫しているとは思いませんか!」

 

 

 まぁそれでもなんとかめでたく代わりの講義室を手配することに成功し、鉱石学科は今日から通常講義を再開した。

 あの凄まじい惨状を見れば察してあまりある、喧嘩と称するのも生易しい戦争に遭遇してしまった教授は一時期本気で職務放棄を考えたそうだけど、そこは他の教授陣と俺が必死に励ますことでこと無きを得た。

 ‥‥他の教授達は生贄(スケープ・ゴート)を立てたかっただけかもしれないけど。

 

 一方俺はルーン科の教授から『あんなトコロにいることはない』と散々引き留められたんだけど、流石にそういうわけにもいかないから追い縋る教授を振り切ってやって来た。

なにせ俺がいなくなってはルヴィアが一人になってしまう。

まぁ今は衛宮や遠坂嬢がいるからそうでもないかもしれないけど、ちょっと前の彼女は本当に俺以外の知り合いがいなかったからな。

 

 

「そもそも容量の大きい貴石に魔力を詰め込むことができれば問題はないのでしけれどね。ああ失礼、ミス・トオサカではそのような高価な宝石は用意できませんでしたわね?」

 

「‥‥っ! あ、あら、ミス・エーデルフェルトこそ、宝石は高価ければいいというものではございませんのよ? 高価い宝石にがむしゃらに魔力を込めるだけでしたら、基礎講座の学生にでもできることですしね」

 

「な、なんですって‥‥!」

 

 

ちなみに俺が今何をしているのかと言うと、鉱石学科の残り全員で自分達の周りにせっせと全周防御結界を書いているところ。

先日の教室の惨状から鑑みるに、これだけ強固なモノでも足りるかどうか‥‥。

 

そして辛くも鉱石学科一同が最後の陣を書き終えたその時、遂に戦いの火ぶたは切って落とされた。

 

 

「‥‥そうですの、そうですのね。やはり一度しっかりと白黒つける必要があるようですわね」

 

「魔術師ってこう言う時便利よね。しのごの言わなくても、戦ってみれば分かるんだもの‥‥!」

 

 

互いに指の間に宝石を挟み、片方の指を銃口と見立てて突き付ける。

誰がゴングを鳴らしたわけでもなく、同時に魔弾が火を吹いた。

 

 

「Anfang(セット) Fixierung《狙え》, EileSalve《一斉射撃》―――!」

 

「Target Lock《標的捕捉》, Let's Fire《撃ち方始め》―――!」

 

 

戦地もかくやといった密度で飛び交う砲火に晒され、鉱石学科の講義室にいた者達は例外なく悲鳴をあげた。

総力をあげて張った結界も狙いもせずに飛んで来た宝石によって難無く破られ、今は誰がが強化した机に、更に俺が防御(エイワズ)のルーンを刻んだものを盾にしてなんとか凌いでいる。

 

 

「うわぁぁぁああ?! な、なんとかしたまえミスタ・アオザキ!」

 

「そうだ! ミス・エーデルフェルトは君の友人だろう?!」

 

「無茶言うな! あくまとけものが暴れてるんだぞ?! 止めたかったら降霊科の連中に頼んで抑止の守護者でも喚んで来い!」

 

 

とりあえずエーデルフェルト関連に関してはアオザキに一任という姿勢を今までとっていた教授が必死の悲鳴をあげる。

いやね、ルヴィア一人なら俺もなんとかなだめられる可能性はあるさ。でもあそこには今二人いるんだぞ?

それこそ抑止の守護者(エミヤシロウ)衛宮士郎(せいぎのみかた)でも連れてきてくれなきゃあの嵐は鎮圧できない。

 

さて、どうする?

衛宮は却下。今あの三人が鉢合わせするのはあまりにも危険すぎる。

ともすれば全て衛宮に押しつけることで俺達は窮地を脱することも可能かもしれないけど、その時の彼に向けられた色々なモノの余波は、下手をすれば大英博物館(おもてのかお)までぶちこわしかねない。

セイバーは確か午前中はびっちりと賃仕事が入っているとこの前聞いた覚えがある。

間違いなくブリテンの危機だって言うのに、嘗ての、そして未来の王は一体何故現れないのか。

脳裏に美味しそうに職場の先輩にもらったスコーンをほおばる騎士王の姿が浮かんだが、続けて飛んできたカーマインの爆弾によってすぐさまかき消された。

 

 

「Ein KÖrper《灰は灰に》 ist ein KÖrper《塵は塵に》―――!」

 

「Powerful !《力強く》 Brow and Drain the water《水を斬り裂く風よ》―――!」

 

 

二人の魔術は更に激しくなっていく。

本当にこのままでは抑止の守護者でも現れかねない程の嵐に、俺達は頭を付き合わせて全力で解決する方法を相談し始めた。

そういえば前回はどうやって収まったんだっけ?

誰かがそんなことを言って、みんなが一斉に俺の方を向く。

 

 

「ちょ、ちょっと待て! まさかお前達俺を生贄にするつもりじゃ――?!」

 

「尊い犠牲だ。君のことは忘れないよ、ミスタ・アオザキ」

 

「ファイトだ、サー・シヨウ。君は勇者だ。英雄だ。男なら、誰かのために強くなれ」

 

 

教授を含めた全員が俺の肩を万感の思いをこめてポンと叩く。正直涙が止まらないよ、俺。

かなり強固な防御(エイワズ)を刻んだはずの机も、端の方からもの凄い勢いで削れつつあった。

そもそもココは性格から戦闘向きじゃない奴ばっかり集まっているところだから、仕方がないことではあるけど‥‥。

 

周りの戦友達が同様の涙目で俺を見る。

それはまるで明日アメリカの空母に決死の思いで爆弾を抱えて特攻する同期の桜を見送る海軍軍人のようであり、そういえば英国って海軍のメッカだったっけなんてどうでもいいことを考えた。

 

 

「‥‥ええい、なるようになれだ! Drehen《回せ》 und Starken《強化》 Mit Waffen wahrt sich der Mann《男子は武器でこそ身を守るものぞ》―――!」

 

 

不慣れな全身強化の呪文を唱えると、俺は机の陰から飛び出して的になるタイミングを伺う。

できれば双方の弾丸を同じだけ、ちょうど真ん中になる位置で喰らった方がいいだろう。

二人の動きを見極め、いざ! と肚をくくって足に力をこめたその時だった。

 

 

「あー、失礼。ここにミス・トオサカはいるかね?」

 

「ロード・エルメロイ?! どうしてこんなところに?!」

 

 

突然扉を開けて講義室に入って来た男がいた。

その名をロード・エルメロイⅡ世。

プロフェッサー・カリスマ、マスター・V、グレートビッグベン☆ロンドンスター、アーチボルトの救世主、新なるエルメロイ、女生徒が選ぶ時計塔で一番抱かれたい男など、数々の異名を持つ有名人である。

その実態は征服王マニアのゲームヲタクであるわけだが、こと他人を教えるということについては彼の右に出る者はいない。

生来の努力家であるが故の豊富な知識に、各方面へと散って行った教え子達の伝手の豊富さなど。

彼に教われば間違いなく大成すると言われる超大物なのだ。

俺も一時期彼から師事を受けていたことから結構知らない仲ではないが、最近は独り立ちしてしまったのであまり会っていない。

 

 

「ロード! 危険です、下がってください!」

 

 

生徒の一人が半ば悲鳴混じりの忠告の声をあげる。

自分達のまさに目と鼻の先で繰り広げられているのは、この狭い空間に局所的に発生した大嵐。

俺達が束になっても太刀打ちできない、もはや天災レベルのそれに、魔術師としては非才な彼ではとても抗う術はない。

 

 

「なっ?! これは一体何が起こったんがるがふぅっ?!」

 

「ロードォォォオオオ?!!」

 

 

言わんこっちゃない。

例の如く見当外れの方向へと飛んだ魔弾《ガンド》がカリスマ教授の額に直撃し、ロード・エルメロイⅡ世は不可思議な悲鳴をあげると後頭部を床へと一直線にダイヴさせた。

理不尽な状況に零した涙がキラキラと美しいシュプールを描く。彼にはきっとランクAのギャグ補正がかかってるに違いない。

 

 

「え?! ロード・エルメロイ?!」

 

「ロードですって?! まさかこの人教授?!」

 

 

流石にヤバイ人を撃ち倒してしまったことに気づいたらしいルヴィアが冷や汗を垂らしながらロードに近寄る。

遠坂嬢はまだ彼と面識がないらしいが、途端に慌てたルヴィアの様子にかなり上の地位にいる人物だと勘づいたらしい。同様に泡を食って走り寄った。

 

 

「ロード! ロードしっかりして下さい! うわぁぁどうしてくれるんだエーデルフェルトにトオサカ! ロードに何かあったとしれたら彼の弟子達が大挙して鉱石科に攻め寄せてくるぞ?!」

 

「誰か! 衛生兵! 衛生兵を呼べ! 気をしっかり持って下さいロード! 大丈夫、傷は浅いですよ!」

 

 

時計塔一の有名人が倒れるのを見た生徒達がわらわらと机の陰から這い出して来た。

教授は治癒術と解呪術が使える生徒にロードの治癒を命じると、急いで救護室へと駆けていく。さっき生徒の一人が言ったことは冗談や何かではない。彼になにかあったら、鉱石学科は時計塔の実力者達を全員敵に回すことになるだろう。

 

 

「えーと、蒼崎君? もしかして私、ヤバイ人のしちゃったかしら?」

 

「遠坂嬢、とりあえず私財をまとめる準備はしておいた方がいいかもしれないよ」

 

 

俺はいかにも不憫といった風を装うと、遠坂嬢の肩にポンと手を置いた。

まぁ多分日本(のゲーム)贔屓でくだらない争い事を嫌うロードのことだから大丈夫だとは思うけど、万が一ってこともあるし。

簡単にロードの経歴と人柄とその人望を俺から聞いた遠坂嬢は顔を真っ青にすると、急いで手元の宝石を使って治癒に参加し始めた。

しかも彼、第四次聖杯戦争にも参加してるしな。ついでに言えば彼のサーヴァントであり王であるライダーは遠坂時臣のサーヴァントであるアーチャーこと英雄王ギルガメッシュの手にかかっている。

その遠坂の者によってこの世を去ったと知れば死後も幽霊になって祟りかねない。

なにより来月はアドミラブル大戦略の新作の発売日だし。

 

 

「ロード?! ロード?! 一体何があったのですかプロフェッサー・V! おのれ、コレはロードの人気を妬むどこぞの誰かの陰謀か‥‥!」

 

「待ってぇぇぇ! お願いですからどうか早まらないでください先輩ぃぃぃ!」

 

 

結局治癒学科から駆けつけた教え子によって彼はなんとか意識を取り戻し、ついでに前後数分の記憶を失っていたため、ルヴィアも遠坂嬢もお咎めを受けずに済んだ。

これによって鉱石学科の中では『トオサカとエーデルフェルトがかち合う授業には出席するな』という不文律が自ずと暗黙の了解のうちにまかり通るようになる。

彼女達が重なる授業に関しては後で教授がこっそり補習をするそうだ。

それにしても出なきゃならない生徒達はいるようで、結局彼女達の戦争を終わらせるには誰かしら生贄が必要なのではないかと、今の内から対策会議が開かれているらしい。

俺は、今さらながらルーン学科に残っていればよかったかなぁと、少しだけ後悔したのだった。

 

 

 

 

 6th act Fin.

 

 

 

 

 

 



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第六話 『金の獣の爆発』

金の獣っていうタイトルはFate in倫敦のリスペクトであります。
まだスタイルに迷いが見えますね。特に一桁話では紫遙の語り口も不安定だったり


 

 

 〜side Luviagelita〜

 

 

 

 

「お茶をいれて下さらない? シェロ」

 

「かしこまりましたお嬢様」

 

 

 シヨウの薦めで新しく採用した執事見習いは技術こそまだ未熟ですが、細やかな気配りの得意な掘り出し物でした。

 ホントは彼以外の日本人なんて胸やけがするほど大嫌いなはずなのに、不思議とこの赤毛の少年―――日本人が童顔であることを差っ引いても、同年代ということには驚きました―――には嫌悪感を抱くことはなく、逆に好意すら感じるくらいですわ。

 ショウの話によればロンドンまで歴史の勉強をしにきた苦学生ということでしたけど、一体どうやって知り合ったのかしら。やはり同郷ということで気が合ったのかもしれませんわね。

 

 まぁ何にしても、本当にこのアルバイター、シェロを紹介してくれたショウには感謝してもし足りませんわね。

 

 

「ところでお嬢様、俺‥‥じゃなくて私の名前は士郎なんだと何回か申し上げた筈ですが‥‥」

 

「あら、いいじゃありませんの。私が貴方をどう呼ぼうが。それよりも、二人きりの時は友人として接してくださらない?」

 

「それは無理ですよ。私は使用人で、お嬢様は雇い主なんですから」

 

 

 こういう律儀なところも気に入ってはいますけど、少し融通の利かないきらいがあるのはいただけませんわね。

 雇い主である私が良いと言っているのですから、素直に従えばよろしいのに‥‥。

 

 

「他の使用人達に私を名前で呼ぶことはできないんですのよ? 主人の寂しさを紛らせることも立派な執事の務めではなくって?」

 

「そりゃ詭弁だと思うけど‥‥。まぁいいや、わかったよルヴィアゼリッタ」

 

「ルヴィア、ですわ」

 

 

 途端にさっきまでモップの柄か電柱のようにピンと張っていたシェロの背筋が、他人では全く気付けない程僅かに緩む。

 これは私に気を許してくれたという証拠。歳に似合わぬ頑固なこの執事見習いがこうして私が頼めば親しく接してくれるようになったのも、つい最近のことでしたわね。

 ‥‥もっとも、その度に渋るのも変わらないんですけど。

 

 

「貴方もお座りなさいな。私一人でお茶をさせるつもりですの?」

 

「いや、それは流石に‥‥」

 

「お・す・わ・り・な・さ・い」

 

「はい‥‥」

 

 

 

 

 さて、宝石魔術というのは比較的ポピュラーであるが故に、また同様に奥の深い魔術でもあります。

 基本的には宝石に自らの魔力を込め、それを儀式に使うなり礼装や魔具に使うなり、もし魔力が切れてしまったときのバックアップに使うというのが基本的な宝石魔術の在り方です。

 戦闘に際しては宝石に込めた魔力を一気に炸裂させることで、一瞬で大魔術に匹敵する魔弾とすることもできます。

 

 そして私が今研究していることの一つが、宝石に込める魔力の方向付けです。

 通常宝石に魔力を貯めるという行為の際には、純粋に取り出した自分の魔力を流し込むというのが普通です。

 しかし私は、この魔力を込めるという簡易な儀式をやや複雑化させることで、指向性を持たせて威力を増すという試みをしてみました。

 宝石の能力の汎用性が失われてしまうのはなかなかのデメリットでありますけど、いざというときの奥の手の魔弾や、あらかじめ予定のしっかりしている儀式用ならそれなりの有効性があるのではないかと試行錯誤しているのです。

 まぁ、こういう贅沢なことはミス・トオサカなどには出来ないでしょうけどね。ふふふ‥‥。

 

 

「Ready《開始》, behind the shadow《影に寄り添い》, show your hands《汝が手札を晒し》, bind it to his cage《彼の者の構えし檻へと投げ入れよ》」

 

 

 注射針から滴る自分の血液が、宝石へと達する僅かの間に呪を紡ぐ。

 滴り落ちる時間が長ければ長いほど血の中の魔力は霧散してしまいから、この短い間で精密で簡潔な呪文を唱えなければなりません。

 粒子の一つ一つに染み渡るように、霧散する魔力を一滴でも逃さぬように、私は集中して詠唱に没頭していました。

 

 だからなのでしょう。

 本来はしっかりと魔術で施錠しておくべき扉を閉め忘れたのも。

 彼が私のために冷たいお茶を持って、部屋へと中に入って来たことに気付けなかったのも。

 

 

「ルヴィア‥‥何、やってるんだ‥‥?」

 

「シェロ‥‥?!」

 

 

 私は激しく動揺しました。

 彼の目の前で私が行っていることは、どこからどう見ても異常だと認識され得るものでした。

 持っている宝石に血をたらして喜ぶ趣味のある女なんて、誤解をされてしまったらどうしようかと。

 しかし、そんな思いも彼の目を見てすぐに吹き飛びました。

 その瞳に浮かんでいたものが示すのは、彼が、シェロが“こちらの人間”であることを確かに、一欠けらの疑いもなく示していたからです。

 

 その時に私の胸を満たした感情が、あなた方にはお分かりかしら?

 信頼を裏切られた絶望? 友人を失うかもしれないという恐怖?

 いえ、私の内から湧いて出て来たのは決してそのようなものではありません。

 

 それは唯、言うべきことをわざわざ勿体つけて伝えることを渋り、おめおめとこのような事態を引き起こしたどこぞの誰かへの‥‥‥‥燃え立つかのような怒りでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、科学的に説明されてはいないことではあるけれど、生物には押しなべて同様に危機感知能力というものが備わっている。

 すなわち、沈没船から鼠が逃げ出すという迷信じみたものから、時には戦場で兵士達が己の命を預ける極めて現実的なものまで程度は千差万別だ。

 

 この“直感”というものは魔術の世界に於いては比較的ポピュラーな存在で、セイバーの固有スキルに『直感A』なんてのがあるくらいだからソレは良く分かってくれると思う。

 つまりは魔術師という生き物は自分が所持する直感の信用度をある程度把握しておいて、危機に際しては有効に判断することが大事だということだ。

 もっとも大体の魔術師にはそんなたいした直感は備わっていないんだけどね。

 

 まぁアレだ。

 結局俺が何を言いたいのかっていうと‥‥

 

 

「なんなんだよ、この妖気は‥‥?」

 

 

 突然ルヴィアにお茶に誘われて、俺はロンドン郊外にあるエーデルフェルト別邸へとやって来ていた。

 このでっかいお屋敷は、狭苦しい学生寮を使うことを嫌ったルヴィアがわざわざ買い取ったものだということだ。

 学生寮があるノーリッジはロンドンからだとやたらと遠いし気持ちはわからないこともないんだけど、まぁ金持ちってのは羨ましいもんだよね。

 最初は特に神秘なんて関わりない只の大邸宅だったはずなのに、今では籠城戦でも出来そうなくらい堅牢な魔術師の工房と化している。

 エーデルフェルトは遠坂や蒼崎とは比べようもないくらい歴史の古い魔術師の家系で、分家や弟子の家系も多いし必然的に表の顔も凄い。

 遠坂嬢が金ぴかなんて呼んで目の敵にするのもわかるくらい、俺達とは懐のレベルが違うのだろう。

 

 

「嫌だなぁ‥‥。帰りたいなぁ‥‥」

 

 

 たいした直感なんてない筈の俺でも、流石にこの視認すらできそうな程におどろおどろと湧き上がっている妖気のような空気には悪寒を感じて仕方がない。

 この屋敷に来たのも一度や二度じゃないのに、なぜか初めて来る魔窟のようだ。

 見知った門から玄関までの道も、そこかしこに刺客が潜んでいて俺の首を狙っているかのような意思に溢れて居るぞオイ。

 

 

「帰っちゃおうかなぁ‥‥」

 

 

 俺の片側の悪魔がそう甘い言葉を囁きかける。

 それは正直かなり魅力的な提案だったけど、ここで帰ったら後々さらにトンデモない目に遭わされることは明白だ。

 ちなみにもう片方にいるはずの天使はだんまりを決め込んでるみたいだ。そりゃ言うことなんてないよなぁ。

 

 

「ルヴィア? 来たぞ?」

 

 

 既に顔見知りの執事に案内され、俺はこの館の主の部屋の前に立っていた。

 ちなみに執事さんもちょっと怯えている様子だった。この館の住人達は全員が少なからず神秘と関わっているものだから、自ずとルヴィアが放つ妖気を感じてしまっているのだろう。

 さて、目の前の扉は無駄にきらきらしい装飾を嫌う彼女らしく扉は重厚ではあるが、艶々した表面とわずかに主張する装飾が施された見事なものだ。

 同時に実用的でもあるのだろう。強化して盾にすれば機関銃の一斉射すら防いでしまうかもしれない。

 

 

「どうぞ。お入りになって」

 

 

 迎える声の調子は普段と全く変わらない。

 だが誤るなかれ。先程からこの部屋を中心に渦巻いていた妖気を忘れたか?

 ここにはその原因が牙を研ぎ、てぐすね引いて待ち構えているに違いないのだ。

 俺はごくんと苦労して水分の抜けた鍔を飲み込むと、意を決して扉の取っ手を掴み、ゆっっっくりと開いて笑顔で挨拶した。

 

 

「やぁルヴィア、今日はお招きありがとう」

 

「お気になさらないで、ミスタ・アオザキ。わざわざ呼び付けてしまったのは私ですもの」

 

 

 ほら、俺の呼び方が『ショウ』から『ミスタ・アオザキ』に変わっている。

 これは言うなれば遠坂嬢の『衛宮君』と同義だ。死刑宣告十秒前の超危険な状態なのだ。

 そこそこ長い付き合いになるけど、今までこの状態のルヴィアに遭ってしまったことはそれこそ片手の指で余る程しかない。

 が、その時の恐怖は魂レベルで俺の、主に体に刻み込まれている。

 まぁ鉄のお嬢様仮面を被ったルヴィアをそこまで怒らせれば十分なんだろうけど。

 

 

「今日は貴方に、ちょっとお尋ねしたいことがあってお呼びいたしましたの」

 

「へ、へぇ、俺に聞きたいこと? そりゃなんだい?」

 

 

 穏やかな午後のお日様を背負ったルヴィアが綺麗に笑う。

 それはひどく美しい光景のはずなのに、今までみたどんなものよりも俺の危機感知能力をびんびんに刺激していた。

 乃ち、これこそが君の死亡フラグである、と。

 

 

「ええ。コレについて、貴方は何かご存知かしら?」

 

「コレって‥‥な?! 衛宮?!」

 

 

 彼女があくまでも優美な仕草で指差した先にあったのは完全にフルコースをお見舞いされ、もはやボロ雑巾と形容することが相応しい程にぼこぼこにされた執事服姿の贋作者であった。

 ここに来て俺は事態を完全に把握するに至る。

 つまりこの純朴であらゆる場面において恋愛も死亡もまとめて様々なフラグを数多抱え持つエロゲ主人公は、どうやらヘマをやらかしたらしいということだ。しかも俺を巻き込んで。

 

 

「さて、この方を私に紹介したのは貴方でしたわね‥‥。このような真似をした、弁解はなにかありまして?」

 

「る、ルヴィアさん?」

 

 

 目の前のきんのけものに、最早問答するような姿勢は皆無だった。

両腕に刻まれた魔術刻印は煌々と輝き、こちらにむけた人差し指には黒く黒く黒くふくらんでいく魔弾が主の命を今か今かと待ちわびている。

 瞬間的に理解した。殺る気だ。

 

 

「お手洗いは済ませまして? 神様にお祈りは? 部屋の隅でガタガタ震えて命請いする準備はOK?」

 

 

 ルヴィアの台詞に本能的な恐怖を感じた俺は、恥も外聞もなく生存のための行動を選択した。

 乃ち、戦略的撤退である。俺自身の名誉のためにあえて言うが、これは逃走ではない。断じて、ない。

 

 

「な?! 開かない?!」

 

 

 しかし果たして、俺が手をかけた扉の取っ手は満身の力を込めてもウンともスンとも言わなかった。

 青子姉に死都へ放り込まれたとき以上の集中力を発揮して扉を詳細に走査すると、成る程、装飾に隠れるようにしてさりげなく魔力の込もった宝石が配置してある。

 どうやらこれがルヴィアの命に従って部屋の内側に結界を展開しているらしい。

 

 

「出口などない。ここが貴様の終焉だ」

 

「ちょ、ルヴィア口調! キャラどころじゃなくて口調もおかしいって!」

 

 

 ごり、と俺の後頭部に銃口が押し当てられた音と感触がする。

 底冷えのする声は俺の臓腑を縮こまらせ、吹き上がる魔力と妖気は五肢を絡め取って一切の抵抗を許さない。

 これは狩りですらない。一方的な制裁であると金色の魔王が宣言していた。

 ならば儚い弱者であるところの俺は、一体どうすればいいのだろうか?

 

 んなもん決まっている。ただただひたすら、これからの時間(ごうもん)が一刻も早く過ぎることを――できれば現実時間でも、精神的にも――神様にお祈りするより他はない。

 視界の隅でぼろぼろになっていたはずの衛宮が確かにこちらに向かって親指を突き出し、力のこもったサムズアップをするのが見えた。

 貴様、意外と余裕あるんだな。あとで覚えてろ。

 

 

「お逝きなさいっっ!!」

 

「ぎゃぁぁぁあああ?!」

 

 

 麗らかな昼下がりのエーデルフェルト邸に俺の悲鳴が響き渡ったが、当然ながら誰も助けに来なかった。

 なぜならここでも鉱石学科同様に『生贄を差し出せば怒りは鎮まる』という経験則が、しっかりと浸透していたからだろう。

 

 さらば、俺の夏‥‥

 

 

 

 

 

 

 

 7th act Fin.

 

 

 

 

 



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第七話 『幸運Eの受難』

安易なドタバタ劇に頼るあたりに若さを感じる冬霞です。



 

 

 

 〜side Emiya〜

 

 

一体自分の身に何が起こってしまったのか、俺には全く理解できていなかった。

ことの発端はあくまでも平和的で穏やか‥‥と言うには少々切羽詰まったものではあったけど、とにかく今こうしてボロ雑巾のような状況で正座を強要されなきゃいけなくなるような兆候は微塵もなかったと断言できる。

それがどこをどう巡り巡ってこうなってしまったのか、さっきからずっと考えてはいるんだが‥‥。

なんていうか、いくら普段から遠坂とかセイバーとか桜とかに『鈍感』って言われまくってる俺でも、ここまで女関連で不幸に遭い続けてれば流石にわかる。

俺には、女難の相があるに違いない。幸運Eは伊達じゃないな、アーチャー。

 

ていうか今回は本当に理不尽だ。

俺は唯、紫遙に紹介してもらった職場で極めて真面目に仕事をしていただけなのに‥‥。

まさかその雇い主が魔術師だなんて思ってもみなかった、なんて言ったらルヴィアにまたえらい剣幕で怒られた。

なんでもエーデルフェルトってのはかなりの名門らしい。屋敷の同僚達にしたってなんらかの知識や心得があるんだとか。

わーお、全然気付かなかったよ。そういえばココに来てる間は一切魔術使ってなかったっけ。

 

そんなこんなで今、俺は隣で同様にズタボロにされてギザギザした石の上に正座させられ、更に地蔵まで抱かされている紫遙と一緒にきんのけものの説教を受けているというわけだ。

ちなみにこいつは俺の数倍は酷いお仕置きを受けたらしい。今だ口から黒い煙を吐き出し続けている。俺はその時ちょうど涙で視界が霞んでいたから様子はよく見えなかったけど‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

「さて、説明して頂けるんでしょうね?」

 

「はひ‥‥」

 

 

ルヴィアのお仕置きフルコースを喰らい、更に拷問紛いの反省までさせられて俺はひーひー言いながらぺこぺこと頭を下げていた。

一通り人をぶちのめすことである程度気は収まったようだが、こちらの被害は甚大だ。俺、そこまで対魔力高くないのに‥‥。

 

 

「なにか仰っしゃいまして?」

 

「イエナンデモ」

 

 

またも綺麗な笑顔を見せるルヴィアに即座に首を横に振る俺。男の尊厳ってなんだっけ?

まぁ伽藍の洞でも女性優位だったからもう慣れたけどさ。ていうか型月は基本そうなのか。女性が強すぎる。

 

 

「さて、まずお聞きしますけど、この方‥‥シェロは貴方の弟子なんですの?」

 

「いや、彼はれっきとした時計塔の学生だよ」

 

「‥‥見た覚えがありませんわ」

 

「基礎錬成講座の学生だからね。君、歯牙にもかけないだろ?」

 

「う、それはそうですわね‥‥」

 

 

別段見下しているとか言うわけではないけれど、ルヴィアは基礎科の人間などには注意を払わない傾向がある。

まぁ身近に最大級の注意を払う相手がいるんだから当然と言えば当然なんだけどね。

なにしろ数瞬でも気を抜けば危ういという強敵だ。

そのとばっちりをライブで喰らいまくっている俺からは苦笑いしか出てこないけど。

 

 

「こいつは新興の魔術師なんだよ。それでその土地の管理者(セカンドオーナー)の紹介で時計塔に基礎を固めに来たそうだ。後はまぁ、ルヴィアにも説明した通り、同郷なんで気が合ってね。金に困ってたそうだから働き口を紹介してやったというわけだ」

 

「なるほど。納得はできませんけど理解はしましたわ」

 

 

フン! と優雅とは程遠い仕草でルヴィアはそっぽを向いて拗ねてしまう。

俺はツンデレか? と小声で聞いてくる衛宮に、あぁツンデレだと同じく小声で返す。

古今東西縦ロールがツンデレキャラじゃなかった試しはない。あったら連絡下さい。謝罪します。

あと意外にいい性格してるな、衛宮。

 

 

「ではもう一つ問わせていただきます」

 

 

眉を潜めたルヴィアの様子をじーっと見ていた俺達に気付き、けふんけふんと可愛らしい咳ばらいをしてごまかした彼女はふと俺が後生大事に抱えている地蔵に手をかけた。

‥‥どうでもいいけど、このやたらと年期の入った地蔵は一体どこから持ってきたんだ?

 

 

「なんで貴方は、シェロが魔術師だと私に教えなかったのですかっっ!!!」

 

「ぶるぁぁぁあああ?!」

 

 

抱かされていた地蔵をどかしてくれたからもう許してくれるのかと思いきや、ルヴィアは俺を縛り上げた縄をそのままにつかつかと背後へ回ると、がっしと力強く腰をホールドし、そのまま見事なバックドロップを決めやがった。

当然のことながら両手を束縛されている俺は見事に後頭部を床とコンニチワさせ、口からエクトプラズムを吐き出すハメに。

隣で衛宮が目を丸くしている様子が目に浮かぶようだ。“淑女のフォークリフト”は伊達じゃない。

 

 

「貴方はいっつもそうでしたわね! 面白そうだからといって私の昼食のサンドイッチに梅干しを入れたり、面白そうだからといって私の飲んでいたショウチュウに梅干しを入れたり‥‥!」

 

「梅干しばっかかよ! ていうかルヴィアって焼酎呑むんだ?!」

 

 

今だ頭を床に半分めりこませたままピクピクと痙攣している俺に向かってルヴィアがたまに俺が彼女をからかってみた時の鬱憤を吐き出し、それに対してまるで自身の義務であるかのように律儀に衛宮がツッコミを入れる。

大体このお嬢様は日本嫌いと明言しているわりに日本について知らなさすぎる。

過去に聖杯戦争で遠坂に不覚をとったから一族ぐるみで嫌っているらしいけど、こんなに無知なんじゃ二度目もありそうだ。

その割に焼酎やら地蔵やら常備してるんだから、中々にエーデルフェルトってのは理解できないな。

ま、アインツベルンの例の如く長く続いた魔術師の家系ってのはどっかしらぶっ飛んでるのが大概だと思う。実際問題、俺が苗字に据えている蒼崎にしたってそこまで歴史がないくせにイカレてる。

 

 

「全く、これに懲りたら二度と私をからかおうなんて思わないことです!」

 

「いやはや、なんだかんだでひっかかる君も君かと思うけどね」

 

 

目の前の美しい拷問吏はまだ色々と言いたいことがありそうだったけど、ぶつくさ文句を言いながらも俺の縄を解いてくれた。

どうも最近これだという加減が分かってきたらしい。ギリギリまで追い込まれるけど後遺症がある程の逸脱したお仕置きはなくなった。

なんていうか、逆にギリギリ壊れないぐらいまでは痛めつけられるってことでゾッとしないな‥‥。

俺は半ば呆れた様子ながらも気遣ってくれる衛宮に軽く手を挙げて礼をすると、本格的なお仕置きが始まる前に部屋の隅へと退避させてもらった軽く煤けてしまっているミリタリージャケットを羽織った。

ちなみにコレ、軍からの横流しではあるけどそれなりに改造してあって魔術防御力は高い。

それがわかってて事前に脱がせたルヴィアも相当な鬼畜だと思うよ、ウン。

 

 

「基礎学科の学生と言うことは、まだ見習いですの? 使える魔術は?」

 

 

と、お調子者に対する気が済んだのかルヴィアはくるりと怯えきっている衛宮に向き直って嬉々として質問を始めた。

ぶっちゃけ魔術師が他の魔術師にする質問じゃないけど、共通の話題を持つ友人が増えて嬉しくてたまらないのだろう。

俺はそっとお湯で暖めたタオルを持ってきてくれたメイドさんにお礼をすると、一緒に持ってきてくれた洗面桶で切れてしまった口の中をゆすぎ、

傷に滲みて痛まないように丁度良い温度まで冷まされた紅茶を啜った。

 

 

「いや、実は強化と投影くらいしか使えないんだ‥‥」

 

「あらあら、本当に見習いですのね」

 

「そりゃそうだろ。聞く話によればコイツ、護符(タリズマン)にパスも通せないらしいからね」

 

 

この前の一件以来セイバーには会ってないけど、衛宮は時計塔の廊下でほどほど見かけている。

最も俺は基本的に地下深くにある、建前としては青子姉に与えられている工房を私物化して篭もっていることが多いから本当に稀にしか会ってない。

忙しくないときはそのままお茶に付き合ったりしてるんだけど、そういうときにぽつぽつと漏らされる魔術関連の相談事から組み立てた衛宮の魔術の腕前は、実際問題としてへっぽこ以上の何者でもない。

今のルヴィアの言葉はかなり気を遣った方だろう。強化なんて基礎の基礎と投影なんてマイナー極まりない魔術しか使えない魔術師を、時計塔では半人前とは呼ばない。見習いでもまだ良い方だ。

 

 

「そういえばシェロ、貴方誰かに個人的に師事なさってますの? もし誰も師と仰ぐ人がいないと言うのでしたら私が―――」

 

 

しばらく魔術関連の談笑―――というには話題が話題なだけに多少血なまぐさくはあったけど―――に興じ、何やらルヴィアが意を決したように熱っぽい顔で衛宮に近寄り、口を開いたその時だった。

 

突然部屋の端に目立たないように据えてあった机の上に、これまたよく注意しなければ気づけない程さりげなく置かれた古風な電話機がけたたましく、それでいて不快感を抱かせない程に鳴り始めた。

なんのことかと顔を見合わせる俺達に失礼しますと断ると、ルヴィアは机に近寄って、その映画に出てくるような古いレストランでボーイがトレイに載せてもってくるような小さく、優美な受話器をとると応答を始める。

が、すぐに顔が驚きの表情へと変化した。

 

 

「なんですって?! 屋敷に侵入‥‥いえ、突入者?!」

 

「「はぁ?!」」

 

 

俺と衛宮は同時に驚愕の声をあげた。

一見どこにでもありそうな豪邸、まぁ豪邸はどこにでもあるわけじゃないんだけど、とりあえず普通の屋敷に見えるかもしれないが、このエーデルフェルト邸は幾重にも魔術的なトラップを張り巡らされた一つの工房だ。

それも、ルヴィアゼリッタという一魔術師の工房ではなく、エーデルフェルトという巨大な家系の工房。魔術師の工房の原則である『来る者拒んで去る者逃がさず』をしっかりと踏襲した、侵入者に対する絶対の攻撃フィールドである。

学生は時計塔に居住地を報告する義務がある。というか、魔術師はすべからくその土地の管理者(セカンドオーナー)に所在を伝え、管理費を支払うのが決まり事だ。もちろん衛宮切嗣や橙子姉みたいなモグリは別なんだけど。

 

で、つまりは時計塔でルヴィアに敵意を持っているような奴らはみんな、調べれば彼女の家がココにあることは簡単に発見できる。

しかし、しかしだよ? だからといって他の魔術師の本拠地においそれと突撃かましてくるような馬鹿なんているはずがない。

それがルヴィアみたいな一流の魔術師相手だったら尚更だ。

例え誰かから依頼されたり何かしたりで彼女を始末する必要があったとしても、わざわざ守りが堅固なところで襲撃する必要はない。

 

 

「ふ、ふふふ、ふふふふふふ‥‥。そうですの、このルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに喧嘩を売ろうという馬鹿者がまだこの欧州にいたんですのね」

 

 

そして魔術師にとって、自身の工房に侵入されるというのは最大級の侮辱の一つだ。

だから思わず身をすくめる程の怒気を放ちながらのルヴィアの笑い声に、俺と衛宮は逃げだしたいと激しく主張する足を叱咤激励してその場に踏みとどまった。

今逃げたらあかん。外に出た瞬間に、今侵入者に向けて牙をむいている悪質なトラップ達の矛先はこの家の郎党でない俺達へと向かうことだろう。

この家の懐であるココにいた方が安全だし、いざというときにはルヴィアを守ることもできる。

 

 

執事(バトラー)、その愚か者を完膚無きまでに叩き潰して私の目の前に持ってきなさい。八割殺しまでは許しますわ」

 

『いえ、お嬢様! 侵入者は全てのトラップを斬り捨ててそちらへ向かっております!!』

 

 

俺達がむしろ侵入者の安否を気遣ってしまったその時だった。

自信満々に狼藉者の始末を命じたルヴィアに返ってきたのは、彼女の予想とは大きく異なる悲鳴混じりの執事の声だった。

かなり動転しているらしく、受話器を通してこちらまで声が届く。あの冷静沈着な執事さんがここまで取り乱すなんて、よっぽどのことだ。

 

 

「罠を斬り捨てて?! ここは別邸と言えどもエーデルフェルトですのよ!」

 

『分かりません! 魔術的なものは全て無効化され、物理的なものは全て斬り払われています!』

 

「なんてこと‥‥! 一体何名の部隊なんですの、その狼藉者は!」

 

『二名です! 銀色の鎧を纏った金髪の少女と、赤い服を着た黒髪の少女です!』

 

「まさか‥‥な」

 

 

こちらまで聞こえた執事さんの侵入者についての報告に、俺と衛宮はそろってある二人の知り合いを思い浮かべた。

まさか、いやまさか、ああでもまさか。

しかし相手は猪突猛進を地で征く騎士王と、固有スキルうっかりランクEXのあかいあくまである。何かをすごく致命的なまでに曲大解釈したと考えれば決して有り得ない展開ではない。

現に隣で衛宮も恋人とかつての従者の名前を呟いてるし。

 

 

『お嬢様お気をつけ下さい! 敵はもうすぐそこまで‥‥ぐぁあ?!』

 

「バトラー? バトラー?! ‥‥く、なんということを!」

 

 

一際大きな悲鳴と何か重い物がぶつかる音を最後に、執事さんからの通信は断絶した。

戦争モノ映画もかくやという悲壮な顔をしたルヴィアは受話器を置いてキッと顔を上げると、散って行った使用人達への黙祷を捧げる。

そして俺達へ事態の解決の協力を求めようとしたその時だった。

俺は猛烈な殺気が扉の向こうから発せられているのを感じると、同様に察したらしい衛宮と同時にルヴィアへ向かって駆け出した。

 

 

「ルヴィア! 避けろっ!!」

 

「え?!

 

「「頼もぉぉおおーっっ!!!」」

 

 

突然自分の方に突進されて驚いたルヴィアを俺達が突き飛ばしたのと、侵入者を感知すると同時に自動で魔術防御が施された堅牢な扉を力付くで破った二人組が部屋の中へと躍り込んできたのは殆ど同時だった。

 

 

「「なんでさぁぁあああ?!!」」

 

 

そしてその二ツの人影に俺達が豪快に轢かれてしまったのも、一瞬後の出来事だった。

加害者の姿は咄嗟のことで見えなかったけど、銀と赤の小柄な人影だけは朧げに確認できた。

まったくどんな経緯でここまでやって来たのやら‥‥。

 

幸運ランクEコンビ、祖国から遥か遠く、霧の街倫郭郊外にて、没す―――――

 

 

 

 

 

 

 

 8th act Fin.

 

 

 

 

 



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第八話 『宝石嬢の憤慨』

言い忘れてましたが、士郎とルヴィアの話のくだりは『Arcadia』様にて完全新規書き下ろし話を掲載しています。
にじファン時代でもご指摘がありましたが、やはり安直な流れだと思ったモノで‥‥。
こういうところがあるから、何とか間桐臓硯編まではしっかりと改訂を進めていきたいと考えています。改訂版のほうもどうぞよろしく!


 

 〜side Rin〜

 

 

 

さて、突然だけど私と士郎の間には魔術的な繋がり(レイライン)が張られている。

聖杯戦争中に士郎の足りない魔力を補うために作り上げたそれは、当然ながら今も存在していて、あまり距離が遠くなければこれを使って念話などもできる便利なものだ。

別に強制召喚ができたりアーティファクトが出せたりするわけじゃないささやかな繋がりではあるけど、ただ私と士郎がしっかりと結びついているという確たる実感こそが、私を安心させる大事なラインである。

ま、たまにセイバーとのラインと混線することがあるのが難点なんだけどね。あの二人、どうも元主従だけじゃ説明つかない絆があるらしい。

べ、別に嫉妬してるわけじゃないんだからねって何言ってるのよ私は。

 

それで、今大事なのはそのラインが士郎の置かれている状況も伝えてくれるってこと。

繋ぎ方がアレだったせいか、こっちに来てからもアレがナニでソレな感じだったからますます深くなっていて――って何言わせるのよ!

とにかくそんなわけで最近はとくに繋がりが乱れることはなかったんだけど、今日に来て、つい今さっき突然、士郎とのラインが不安定になったのだ。

 

 

「セイバー!」

 

「はい、お昼ですか?」

 

「違うわよ!」

 

 

丁度休日なのもあって居間でテレビを見ながら紅茶とショートブレッドに舌鼓を打っていた使い魔(サーヴァント)にツッコミを入れる。

最近この娘とみに俗世にまみれてるわね。まぁ以前の融通効かない彼女からしてみれば良い兆候ではあると思うけど、とりあえずこっちが真面目に呼んでるんだから間の抜けた返事は止めて欲しい。

 

私は隠し棚から急いで魔力の篭もった宝石のストックを幾つか取り出すと、見た目からは想像できない程容量の大きいスカートのポケットへと突っ込み、頭の中から張られたケーブルを探るようにして士郎との繋がりに集中する。

 

 

「士郎がピンチよ! レイラインが乱れたわ。場所は今私が探ってるから、貴女も準備しなさい!」

 

「?! わかりました!」

 

 

と、私のせっぱ詰まった声をきくなり武装し始めようとするセイバーを止める。いくらなんでも倫敦の街中をそれで疾走するわけにはいかない。

何を悠長なことをと唾を飛ばして抗議するセイバーに残りのショートブレッドを押しつけてレイラインの探索に集中する。ていうかまさかこの娘、あわよくば士郎の二号さんとか狙ってないでしょうね‥‥? なんかここのところ士郎への態度が妙だから気になるわ。

さて、向こうが意識して繋げているわけではないからひどく曖昧な感触だけど、絶対なんとかしてみせる!

 

 

「‥‥見つけた!」

 

「リン! 外にキャブを呼んでおきました。すぐに乗り込みましょう!」

 

 

口にくわえたショートブレッドをもぐもぐさせながらセイバーが窓から外を確認していた頭を家の中へ戻して叫ぶ。

手際の良さは見事だけど、その姿はとても騎士王には見えないわね。この現実を知ったイギリス国民がどう思うことか‥‥。

ま、私はこんなセイバーの方が好きだけどね。

 

 

「ごめんなさいね、私の言う通りの方向に走らせて下さる?」

 

「合点だ!」

 

 

セイバーが呼んだキャブの運転手はやたらと気風の良いおじさんで、私がおおまかな方向と距離を伝えるだけで場所を割り出し、交通法規ぎりぎりのスピードで車を走らせてくれた。

その運転テクが凄いのなんのって、アクセル踏みっぱなしでカーブ曲がるわ、信号ついてなかったら横断歩道に通行人がいてもガン無視だわ‥‥。

まぁ、すぐ横を猛スピードでキャブが通り過ぎても眉一つ動かさないロンドンっ子も凄いわね。

しかもなんでパトカーに捕まんないのかと思ったら、どうもこの親父ロンドン中の警察の巡回ルートと時間を完全に把握しているらしい。プロね。

 

 

「嬢ちゃん方! 着いたぜぇ!」

 

 

ギリギリで急ブレーキをかけた黄色い車体が横滑りしながら巨大な屋敷の前へと到着する。

倫敦から結構離れた郊外だというのに、所要時間は普段私が自宅から大英博物館(きょうかい)へと向かうぐらいの時間しかかかっていない。‥‥これからもご贔屓にさせてもらおうかしら。

私は気っ風のいい運転手にちょっと多めにチップを渡すと、これから起こるであろう“戦争”を考えて、出来るだけ早くこの場所から離れるように忠告する。

そんな東洋人の小娘の様子に何かを察したのか、オヤジはニッとダンディに笑うと何も聞かずにさっきと寸分違わぬすさまじい速度で土煙だけ残して鮮やかに去っていった。しかも自分直通の電話番号まで残して。

やっぱり今後も贔屓にさせてもらおう。

 

 

「ここですか? リン」

 

「ええ。微弱だけど士郎のラインはここに繋がってるわ」

 

 

さて、と呟いた私の横でセイバーが普段着から銀色の甲冑姿へと武装する。

目の前にそびえ立つ大邸宅は一軒普通の、私の神経を逆撫でするぐらいお金の匂いがプンプンする豪邸でありながら、注意深く観察すればこれでもかと言う程の魔術的な防御が張り巡らされた工房であった。

ここまでの邸宅を工房として維持できるのは、時計塔でも教授クラス、そうでなくても魔術師の家系としては数百年では利かない程の歴史ある存在だろう。

とてもじゃないけど生半可にいきそうにない相手だ。士郎の固有結界のこともあるし、油断ならない‥‥。

 

 

「どうしますか? リン。裏手に回ればあるいは使用人用の裏口でもあるかもしれませんが―――」

 

「そんなの必要ないわ」

 

 

真剣な顔で私の判断を窺うセイバーに、私は耳にかかった髪の毛を後ろへ払いのけるとにやりと笑みを浮かべて一歩踏み出した。

私の士郎を奪った相手に、こそこそと忍び込むなんて優しい真似してやる必要はない。

セイバーを前衛にして、完膚無きまでにたたきつぶす! この私を敵に回したこと、後悔させてやるわ!

安価でありながらも比較的魔力を貯めた宝石をポケットから取りだして、呪を紡ぎ、目の前に立ちふさがる不可視の結界に向けてたたき付ける!

 

 

「―――Acht《八番》‥‥!」」

 

 

結界に接触した瞬間、宝石は眩い閃光を放って様々な対敵排除の施された結界に穴を穿つ。

その効果を確認し、私はセイバーに前進と告げると彼女の後に続いてゆっくりと歩を進めた。

襲いかかってくる罠は全てセイバーに無力化される。どうやら動く石像(ゴーレム)守護像(ガーゴイル)合成獣(キメラ)自動人形(オート・マタ)などの自律防御機構は存在しないようだ。おそらくどこぞで屋敷の全体を管制しているであろう人物が発動する魔術的な罠や物理的な罠ばかりが私たちを襲う。

 

しかし、普通の魔術師が相手なら最初の幾つかだけで撃退できたであろう強力でえげつない罠も、こと私達、特にセイバーの前には全く役に立たない。

魔術的なものはセイバーの持つ反則的なまでに高い対魔力によって無効化され、迫り来る丸太の杭や鉄球などは尽くその手の不可視の聖剣によって斬り捨てられる。

私はそんな動く鉄壁の後ろから彼女が討ち漏らしたものをガンドで叩き落とすだけでいい。

ありとあらゆる罠を尽く凌駕して、私たちは通路を悠々と進み、目的の部屋の前へとたどり着いた。

 

 

「ここよ、セイバー。士郎がいるのは。ラインが復活してきてるから間違いないわ」

 

「ではリン」

 

「ええ。いくわよ‥‥っ!!」

 

 

重厚な扉が行く手を阻む一際いい場所に位置する部屋の前で、私とセイバーは互いに

頷きあって助走のために一歩下がる。

何をされてるかは分からないけど、ラインがこんな風に不安定になるなんてよっぽどのことだ。待ってなさいよ士郎! 今私が助けに行くわ!

 

 

「「頼もおぉぉぉおおおお!!!」」

 

 

そして次の瞬間、二人して蹴破った扉の向こうで、一人の少女が目を丸くして立ちつくしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥まったく、何考えてんだよ遠坂! こんな騒ぎ起こして‥‥ルヴィアに謝れ!」

 

「なによ! 元はと言えば士郎が不甲斐ないのがいけないんでしょ! 大体バイト先がコイツのところだなんて聞いてないわよ!!」

 

「まったくです! 私たちに心配をかけるシロウが悪い! ‥‥失礼、よろしければこのクランペットをもう一つ頂けますか?」

 

「かしこまりました」

 

 

呆然と、否、かなりの諦観を含んで紅茶を啜る俺とルヴィアの前で、遠坂家の皆さんはまるでここが自分たちの家であるかのごとく好き勝手にやりたい放題している。

豪快にルヴィアの部屋へ飛び込んで来た遠坂嬢とセイバーに踏みつぶされた俺と衛宮は、ここまで来てやっと事態を把握するに至った彼女達に救助され、かなり長い時間をかけてお互いの誤解を解き合うと、なんとか和解(?)して今は全員でひとまずお茶の時間と相成っていた。

 

一通り説明と謝罪を終えた後は今ご覧になっている通りである。

本来の当事者であるはずのルヴィアは完全に無視され、当事者ですらない俺は存在すら脳内から抹消された様子で延々恋人達の痴話喧嘩を聞かされているのだ。

正直、今にも口から砂でも吐いてしまいたい気分だ。パッと見たカンジは喧嘩だけど、まき散らしている雰囲気が甘い。チョコラテよりも甘い。

セイバーはセイバーで安心したのか、復活した執事さんから紅茶と英国菓子の接待をうけている。もともと王様だったからなのか、接待を受ける様子も随分と様になっていた。

 

 

「いやぁ、ここまで綺麗に無視されてしまうといっそ清々しいねぇ」

 

「私は全く納得できませんわ。シェロがミス・トオサカの弟子だということも今初めて聞きましたし。‥‥ショウ、貴方はご存じだったのではなくて?」

 

「‥‥まぁ、ね」

 

「後で覚えていらしてよ」

 

 

ぎろりと殺気すら篭もった目で見られ、俺はハハハと乾いた笑いを漏らす。

ぶっちゃけ今日何度も思ったことだけれど、俺は果たして無事にこの屋敷から無事に帰ることができるのだろうか‥‥?

とりあえず今の今まで五体満足であることを神様に感謝するべきなのかもしれないけど。

 

 

「えー、おほん。ミス・トオサカ?」

 

「なにかしら? ミス・エーデルフェルト」

 

 

大きく咳払いをして今だ痴話喧嘩を繰り返す遠坂嬢と衛宮の注意を促したルヴィアは、幾分か調子を取り戻して優雅に、それでいて肉食獣のように綺麗に微笑みながら目の前の仇敵に話しかける。

遠坂嬢もその雰囲気に気づいたのか、こちらも素早く愛用の猫を被って微笑みかけた。‥‥女ってコエーな、オイ。

 

 

「シェロをこちらに送ったのは、もしや貴女の指示だったのかしら? ミスタ・アオザキを利用して」

 

「あら、それは下衆の勘ぐりというものでしてよ? ミス・エーデルフェルト。私は弟子がこちらで働いていることはおろか、蒼崎君と懇意にしていたことも聞いてませんもの」

 

 

と、ルヴィアの言葉に難なく返事を返した遠坂嬢がギロリとこちらをにらむ。

っていや、俺、別に君に恨まれるようなことはしてないぞ? むしろ衛宮を出稼ぎに走らざるを得ない状況に陥らせた君の方に責任はあると思うんだけどさ。

ま、当然こんなこと言っても効果はないと分かってるけど。

 

 

「あら、つまり貴女は弟子の行動も把握できていないと?」

 

「っ! 私は弟子の自主性に任せておりますの。一々お守りをしなければならないような弟子はかかえておりませんので」

 

「‥‥何を仰いたいのかしら? 私に弟子はおりませんわよ。ミス・トオサカ」

 

「あらあら、どうしたのかしら? そんなことは当然存じておりますわ、ミス・エーデルフェルト」

 

 

笑顔という仮面を被ったけものとあくまの応酬は辺りに絶対零度の凍気をまき散らしながら続いている。

俺は正直、今だホクホクとクランペットに舌鼓を打っているセイバーの仲間入りをしたい気持ちでいっぱいだったけど、この状況は俺と、ついでに衛宮にも逃走を許しそうにない。

なんて理不尽なんだ。このお嬢様達は。

ちなみにもう一人部屋の中にいる執事さんはというと、ちゃっかりセイバーを挟んで向こう側へと退避している。なにかあったら彼女の対魔力を盾にしてやり過ごす気だろう。なんて人だ。

 

 

「まぁどこぞの効果のない罠ばかり設置してある家では、さぞや郎党にお困りなんでしょうね?」

 

「‥‥ミス・トオサカ。貴女、私に喧嘩を売っておりますの? 買いますわよ。買いますわよ?」

 

「あら、私はどこぞの誰かと言っただけですけど」

 

 

一度鎮火した空気は、再度その温度を高めつつあった。

そろそろ火種が無くても自然発火するぐらいの温度だろう。先ほどまでの凍り付くような空気とは一変、今は近くにいると汗がだらだらと流れ出してくる。‥‥冷や汗だが。

そして今にも第六次聖杯戦争が起ころうかとしたその時、予想もつかない方向から助け船が入った。

 

 

「二人共止めろ! 遠坂、これ以上他人様の家を壊す気か! ルヴィア、もう使用人さん達に迷惑をかけるのは止めろ!」

 

「士郎‥‥」

 

「シェロ‥‥」

 

 

やるときはやる、男です衛宮士郎。

突然割って入った恋人に友人の一喝に、遠坂嬢もルヴィアもびくりと身を震わせて臨戦態勢となっていた殺気を霧散させた。

いやはや凄いな。俺ではこうはいかないよ。流石は衛宮といったところかな。

 

 

「そうですよ二人共。これ以上暴れられてはお茶に埃が入ってしまう」

 

 

次いで部屋の隅でのんびりティータイムを楽しんでいたセイバーが立ち上がる。

先ほどからお茶を不味くする空気を放出しまくっていた二人に苛立っているのか、すでに武装まで済ませていて喧嘩両成敗のやる気満々だ。

静かに怒る騎士王に、二人はさらに萎縮して『ごめんなさい』と呟くとゆっくりと椅子に座った。

 

 

「まったくもう、ホラ握手でもして、仲直りしろよ」

 

「握手ですって! こんな奴と!」

 

「同感ですわ!」

 

「ふ・た・り・と・も?」

 

「‥‥はい」

 

 

衛宮の言葉に渋々手を伸ばして握手するあくまとけもの。

俺は今、歴史的な瞬間を目撃してしまった! 俺でなくとも鉱石学科の人間がコレを目撃したなら、ラグナロクは近いと時計塔中を叫びながら巡り歩くだろう。

 

 

「やっぱりアレか。恋する乙女は意中の人には逆らえないのか」

 

「おや? なにか言いましたか? ショー」

 

「いや、なんでも」

 

 

独り言のようなつぶやきを高い身体能力で聞きつけたセイバーに適当に返事して、俺はやっとの思いで執事さんが淹れ直してくれたダージリンを啜った。

なんだかんだあったけど、まともに事態が収拾してよかったよ。

 

 

(‥‥あれ? もしかして今回ワリ喰ったの俺だけ?)

 

 

目の前でいちゃつく衛宮と遠坂嬢、それに対抗して雇い主権限を発動して衛宮に紅茶を淹れさせようとするルヴィア。

それに最初と全く変わらぬペースでお茶菓子をほおばり続けるセイバーを見て、今幸せじゃないのは俺だけかという疑問は、久しぶりに晴れた初秋の空へと消えていったのだった。

 

 

 

 

 9th act Fin.

 

 

 

 



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第九話 『贋作者の依頼』

改訂版の執筆は鋭意努力中です。
ハーメルンでは他にもSAOの連載や、超電磁砲の再掲載などもしておりますので、どうぞよろしくお願いします!


 

 

 

 

 side Saber

 

 

 

前々からシロウが女性に優しくし、あまつさえ好意を得てしまうことに関しては私もリンもある程度の諦めと共に認知していました。

なにしろ行きずりの横断歩道が怖くて渡れない少女に、言葉が通じず困り果てた女性観光客。行きつけのパン屋の看板娘からその母親、場合によっては祖母までもが某かな形でシロウに好意を抱いてしまうのですから、ほとほと困ったものです。

 

勿論シロウにそんな気が毛程とないのは百も承知ですし、彼がリンを裏切ることなどないとも信じてはいます。

しかし、ここまで女性から好かれてしまうという世の男性が知れば血の涙を流しながら手に手に武器を持って襲撃に来るようなスキルを持つ彼氏など、たとえ絶対の信頼を預けているとしても気が気では無いのは仕方が無いことだとは思うのです。

‥‥リンに言わせれば、主に乙女的な意味で。

 

とはいえシロウの持つ魅力と言うのは前回戦ったランサーのような呪いの類ではなく、彼自身の持つ誠実さや、日頃から進んで他人の手助けをするという昨今の若者には珍しい非常に好感の持てる態度からであって、それらを止めることはたとえリンにもできません。‥‥いえ、前回のランサーも好感の持てる誠実で立派な騎士ではありましたが。

 

とにかく、私とリンはシロウの雇い主‥‥ルヴィアゼリッタの屋敷から帰った後、溢れ出る鬱憤に任せて目の前に正座させた同居人に、

『無闇やたらといらん好意を振り撒くな。さもなかったらせめて誤解されるような発言は慎むこと』

と延々一時間もかけ、懇切丁寧にお説教したのでした。

‥‥納得したかどうかはわかりませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「WAWAWA忘れもの〜」

 

 

エーデルフェルト邸にて『この世全てのとばっちり《アンリ・マユ?》』を喰らってからまた数日。俺は昨日の午後の講義が終わってから今の今まで時計塔地下の蒼崎青子名義の工房に篭って研究をしていた。

いつかも話したかもしれないが、一応義姉の研究室ということになっているこの工房は、名実共に俺の自宅と化している。

まがりなりにも魔法使いに用意されるものだけあってかなり広く、キッチンやトイレにバス付きと生活環境がこれでもかと言う程に整っている為、最初ロンドンの下町に借りておいた安アパートには殆ど帰っていない。

あちらは一応中高時代に仲良くなった友人とかがアポ無しで襲撃してきたりした時のための隠れみのみたいなものだ。ま、ないと思うけど。

 

「いやはや、まさか研究用の魔術書を講義室に置き去りにしちゃうとは」

 

 

そんな絶賛快適引きこもり空間でひたすら研究に没頭していた俺だったが、ふと必要な本が手元にないことに気がついた。

別段貴重な魔術書というわけではなく、どちらかと言えば参考資料程度のものではあったけど、やはり研究資料を置き去りというのは少々問題だろう。

そんなわけで重い腰をなんとか上げ、えっちらおっちらと大英博物館の地下深くから這い出して目的の物を回収した帰りだった。

 

 

「あれ? 衛宮?」

 

「おう紫遙」

 

 

何の用事があったのか、基礎過程の学生ならとても怖くて近寄れないような場所を、正義の味方見習いがこれでもかというくらい無防備に歩いていた。

正直、こんなところを歩いてたら行きずりの教授や上級生に捕まって実験台にされても何ら不思議はない。

自己に埋没する生き物ではあるが、他者を喰い物にすることにもあまり抵抗を感じないのもまた魔術師であるのだから。

 

 

「なにをしているんだ? こんなところで‥‥。ってまさか、また金がなくなったんで教授に身売りを―――?!」

 

「んなわけあるか!」

 

 

あながちないとも言い切れない可能性は、衛宮本人によって慌てて否定される。ま、正義の味方は体が資本だよな。

 

もっとも魔術の世界で体を売るということは、表の世界の裏‥‥分かりづらいけど、そういったところで臓器を売ったりするのとはワケが違う。

単純に体の一部を失くすぐらいならまだいいが、下手すれば別のナニかを代わりとして移植されかねない。

確か生体学科の方とか行くと研究に精魂注ぐあまり、勢い余って片腕を合成獣(キメラ)にしてしまった奴とかいる筈だ。

そういえば風の噂に聞いた話によれば、片腕片足が機械鎧(オートメイル)なんてネタとしか思えない奴もいるとか。なんでもニッポンのアニメを見て踏ん切りがついたそうだけど‥‥。

 

 

「あー、マジで金がないなら俺が工面してやるぞ? 今なら、そうだな、お前の目ん玉ちょこっとばかし弄らせてもらえたら‥‥」

 

「何怖いこと言ってんだよ! 別に金に困ってなんかないって!」

 

 

ぶっちゃけ固有結界とか大いに興味があるのでものは試しと提案してみたけど、三歩ぐらい退かれてから思いっきり拒絶された。

実際に型月の世界で暮らし、魔術師として研究をしてみるとようやくあの作品の非常識加減を理解することができる。

最上級のゴーストライナーである英霊を多数召喚? ありえん。生身でそんな連中と殴り合いして、あまつさえ勝っちゃう奴はいるし、現存する宝具持ってる奴(もう知り合いだけど)や半人前以下のくせに固有結界なんて身の程知らずの禁呪を持ってる目の前の馬鹿はいるし‥‥。もうコッチは商売あがったりだぜ。

宝具にしたってどれもこれも非常識全開だろ。因果逆転に万能の魔術解呪、十一回の自動蘇生にその剣の腕だけで多重次元屈折現象《キシュア・ゼルレッチ》なんて、もう時計塔でちまちま真面目に勉強しているのが嫌になっちゃうよな。

 

大体SSの世界ではよくオリ主がぽんぽん固有結界使ったりサーヴァントと生身で斬り合いしたりするけど、この世界でこうやって魔術師をやっている身として言わせてもらえば、正直言って有り得ない。

なにしろ元々固有結界ってのは妖精や悪魔、死徒の固有能力だ。人間がそう簡単に自分の心象世界で現実をめくり返すなんてことは出来はしない。

そもそも自分の心象世界を確立している人間なんてのも早々居はしないというのに。

いや別に最強オリ主は嫌いじゃないんだけどって何言ってるんだ俺は。

 

ま、うちの家族(伽藍の洞の方々)も揃いも揃って非常識な面子だからもう慣れたと言えば慣れてしまったけどな。今さらみたいなもんだ。

何しろ神様が一人に封印指定が一人、燃やすことに関してだけなら俺以上の魔術師見習いと退魔一族の超能力者に、義姉の施した結界すら踏み越えてしまう自称一般人が一人だ。

 

 

「今日は遠坂に届け物をした帰りなんだよ」

 

「なんだそうだったのか。俺はまたてっきり遠坂嬢が宝石を買い込んだのかと‥‥」

 

「‥‥それは否定しないけどな」

 

 

俺の言葉に衛宮は煤けた笑いを零し、明後日の方向へと虚無めいた視線を向ける。よほど毎日苦労しているらしい。主に金銭面において。

そのままとぼとぼと歩き出す衛宮の後に付いて、俺も何とはなしに歩き出した。

ちょうど研究も一段落ついたことだし、休息だって必要だ。‥‥なんかコイツの近くにいるとよからぬ目に遭いそうな匂いがプンプンしはするんだけど。

 

 

「そうだ紫遙、実は今探してるものがあるんだけど‥‥」

 

「ん、なんだ? ホレ薬か? それとも媚薬か?」

 

「なんでさ! 俺がそんなもの使うように見えるのか?!」

 

「あぁ悪いな、そういえばお前はそんなモノ使う必要なかったっけ。どんな人外相手でも指先一つでダウンだもんな」

 

「世紀末の匂いがぷんぷんするぞオイ」

 

 

たわいもない冗談を言い合いながらひたすら階段と廊下を上る。

時計塔は表の顔である大英博物館の裏側と地下に存在し、講義室などの比較的安全―――最近は遠坂嬢とルヴィアのせいでそこまで安全じゃなくかってるけど―――な施設ほど上の階層や地上に設置してあり、上級学生や教授、時計塔所属の魔術師の工房などは核シェルターかという程深い階層に埋もれている。

有り得ない程深い階層の階段は遙か昔の魔術師か魔法使いか誰かが空間を歪曲させることでそこまで大変なものではなくなってるけど、上の方になってくるとそんなことはないからこうしてえっちらおっちらと上がっていかなければならない。

基本的に魔術師という人種は、俺も含めて近代機器を好かない。よってエレベーターなんて便利な代物はないし、通路の灯りは今だに蝋燭のままだ。

地上部分とかになると流石にいざというときの対外的な面も考えて、近代的に作ってあるんだけどな。

 

 

「実はさ、鍛錬できる場所を探してるんだ」

 

「鍛錬? ああ、お前剣術やるんだっけ。考えてみれば、セイバーも剣の英霊か」

 

 

この階段というのがくせ者で、昔のお城とかそういうものの考え方に則して建っているために一直線の螺旋階段というわけではない。

乃ち、階段をひとつ上ると延々廊下を歩き、反対側の階段をつかって一階層分上る。上ったらまた延々廊下を歩いて反対側の‥‥といった風に、一々面倒くさい仕組みになっているのだ。

これのおかげで時計塔の連中はみんな健脚だ。最近の魔術師は神代のそれらとは違い、肉体的にも優れてなきゃな。

 

 

「公園とかじゃダメなのか? 近くに飽きる程あるだろうに」

 

「いや、別に木刀とか使えばそれでもいいかもしれないんだけどさ。ホラ、やっぱ公衆の面前でセイバーにボコボコにされるのは‥‥」

 

「分かる。分かるぞ友よ」

 

 

ロンドンの下町に用意された遠坂師弟の寄宿舎は、確かに比較的大きめの屋敷ではある。

しかしこのご時世のロンドンの住宅事情は決して明るくなく、庭も小さければ地下の工房スペースも剣を振り回すことが出来るほど大きくはない。

また公園で女の子にぼこぼこにされる姿を衆目に晒したくないという衛宮の気持ちもよく分かる。男として。

 

 

「そういえばあの家、やたらと魔術臭かったけど前はどんな人が住んでたんだ?」

 

「ああ。確か封印指定の魔術師だよ。夜な夜な女子供を掠ってきて、別に捕らえてきた動物と継ぎ合わせては合成獣(キメラ)人造生命(ホムンクルスもどき)を作ってたらしい。ま、時計塔のお膝元でそんなおおっぴらなことやってて捕まらないはずはなく、あっという間に粛正されてハイそれまでよ、と。今は学院の最地下にある保存庫に脳と脊髄と作品(ひがいしゃ)だけ保管されてるらしいな」

 

「‥‥そんなとこに住んでんのか、俺達は」

 

 

衛宮が気味悪げに両肩を抱えてぶるりと身を振るわせたが、言っちゃなんだが魔術の世界はこんなもんじゃない。

果てしなく言い方は悪いけど、見つかるような奴は三流。賢くて倫理やら何やらを顧みない連中はもっと外道なことをバレないようにしているに違いないのだ。

実際問題として俺の今進めている研究だって、どこぞから人間をかっ攫って来て人体実験の材料とした方が効率が良いのは目に見えている。もちろんそんな真似するほど腐っちゃいないが。

 

 

「で、鍛錬の場所だっけ?」

 

「ああ。できればあまり他人が来ない場所で、強化とかの魔術ができるところがいいんだけどな。そんな都合の良い場所、このロンドンにそうそうあるわけが―――」

 

「あるぞ」

 

「―――ないってえぇ?!」

 

 

素っ頓狂な声をあげた衛宮を小突いて黙らせ、黙々と階段を上がって地上に出る。

おお、今日はこんなに綺麗な青空だったのか。もう三日は外に出てないから知らなかったぜ。

俺は久しぶりの新鮮な空気を胸一杯に吸い込み、大きく伸びをして体中に染みついてしまった地下の陰湿な空気を追い出した。

 

 

「知り合いの家がな、ロンドンで剣道場開いてるんだ。こっちに来たときに一度挨拶に行ったきりだけど、頼めば稽古の時間以外なら道場を貸してくれると思う」

 

「本当か?!」

 

「ちっちっち、お忘れかな衛宮君? 魔術師の基本は等価交換だぜ?」

 

 

喜色も露わに俺へ詰め寄る衛宮を押しのけ、俺は気取って人差し指を突き出すと左右へ振り、ありもしないテンガロンハットの鍔を持ち上げる動作をする。

言うなれば、お前さん日本じゃあ二番目だと。何が二番目だって? そりゃ女殺しの腕前だろ。一番はあの殺人貴。

 

 

「なにが欲しいんだ? 俺に出来ることなら何でもするぞ?」

 

「その大盤振る舞い、俺とかルヴィア相手ならいいけど他の奴には止めとけよ? 何要求されるか分かったもんじゃない」

 

 

大英博物館の裏口を装っている時計塔の出入り口から外へ出る。

ちなみに時計塔から出入りする際には大英博物館の学芸員(キュレーター)の名札をつけることになっている。カモフラージュということだな。

魔術師ってのは過去に向かって疾走する人種だから、おのずと歴史の遺物には詳しくなる。

博物館の方にも歴史的にどうしても価値が高すぎて飾るしかなかった魔術品なんてのもあるから、うってつけってわけだ。

 

 

「勿体つけるなよ」

 

「わかってるって。‥‥そうだな、たまにでいいからメシを差し入れしてくれないか?」

 

「‥‥そんなんでいいのか?」

 

 

俺の要求に衛宮は目を丸くして応える。

なんだ、まさかもっと無体な要求されるとでも思ってたのか? さすがに俺も相手の持ってないもの要求するほど傲慢じゃないぞ。

 

 

「実は料理が下手でな。ここのところろくなもの喰ってない」

 

「そうだったのか。別にいいぞ、日本にいたときもそんな感じだったからな」

 

 

衛宮は俺にぐりぐりとこめかみをえぐられながらも快諾する。

いやーよかった! 伽藍の洞にいるときは式や藤乃君がいたからよかったけど、こっちに来てからは炒飯とかラーメンとか、そんなもんしか食べてないしな。

何しろロンドンの街は物価が高い。とくに外食なんてしようものならあっという間に懐は軽くなってしまう。

俺は衛宮に重ね重ね感謝すると、どうせ暇だからといって一路知り合いの道場へと向かったのであった。

 

 

「ところで紫遙、俺が料理得意だって誰から聞いたんだ?」

 

「あ」

 

 

セイバーさんだと誤魔化した。

 

 

 

 

 10th act Fin.

 

 

 

 

 

 

 



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第十話 『贋作者の鍛錬』

手合わせの様子などを綺麗さっぱり省いてしまっているのがよく分かりますね。
この辺りの雑な部分の補完は改訂版でしっかりやっていくつもりです。どうぞよろしくお願いします。


 

 

  side EMIYA

 

 

 

 最近どうも遠坂とセイバーからの視線が痛い。

 結局あの後の両国首脳会談では、そのまま俺がエーデルフェルト邸で執事として勤めることに関しては両者異存はなかったみたいだけど、その間中遠坂は俺の横、というより腕にべったり引っ付いて離れようとはしなかったし、ルヴィアはルヴィアで紅茶を普段より些か早いペースで飲み干しては俺にお代わりを催促するものだから本当に疲れた。

 

 しかも家に帰ったら帰ったで床に正座させられた上で全然意図の読めない説教を延々とされるし‥‥。

 大体困ってる人がいれば助けてやるのは当然だし、親切にしてもらったら御礼を言うのもまた当然のことだろ?

 俺は至極当たり前のことをしているだけだってのに、なんで二人共揃ってあんなに目くじら立てるんだか‥‥。

 

 なぁ紫遙、お前わかるか?

 え? いい加減にしろ? この鈍感? 朴念仁? ‥‥‥なんでさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「着いたぞ。ここだ」

 

「まさかロンドンにこんな場所があるなんて‥‥」

 

 

 衛宮の頼みを聞き入れた俺達は、一路知り合いの家がロンドンに開いている剣術の道場へとやって来ていた。

 目の前にあるのは場違いなまでに和風な建物、すなわちプチ武家屋敷とでも言ったものであろうか。

 両脇に建つ年月を感じさせる洋風のアパートメントに挟まれたそれは、ロンドンの下町にあって一際異彩を放っている。

 

 

「りょう、ぎ‥‥? 両儀?」

 

「ああ。上の義姉の会社の従業員がココの当主でね。ロンドンに来る時にちょっとした届け物を頼まれてさ。それ以来たまに世話になってるんだ」

 

 

 門にかかっている表札を読んで振り返った衛宮に、俺は軽く事情を説明する。

 ここは日本でも有数の武道の名家、両儀がロンドンで開いている道場なのだ。

 彼の家は日本が誇る退魔四家の一つだが、表の顔として両儀流という古武術の道場をあちらこちらに持っている。

 その一つがココ、両儀流古武術ロンドン支部。とはいってもここの師範は退魔や魔術については何も知らない。腕は立つんだけどな。

 

 

「へぇ〜。日本も捨てたもんじゃないんだな」

 

「まぁ、な‥‥」

 

 

 感心の声を漏らす衛宮に、最近の両儀流のはりきりの理由を知っている俺は思わず言葉を濁す。

 なにせ当主の式は波瀾万丈の末に結ばれた幹也さんとの結婚が間近。にも関わらず橙子姉は相変わらず給料の払いが悪い。

 結婚にはお互いに纏まった金が必要だ。しかも片方がお金持ちならいいという訳ではない。

 俺もコッチで稼いだ金の一部を橙子姉に送る分とは別に給料代わりとして幹也さんに送ってるんだけど‥‥。

 

 

「ほら、今は日本ブームだし‥‥」

 

 

 さもありなん。何をどう勘違いしたのか、式は幹也さんのためにと張り切って両儀を世界規模の武術団体にしようと画策してるみたいだ。

 おかげで最近、元々闇に紛れてた退魔一族だったとは思えない程の盛況ぶりを見せている。

 今俺が言った日本ブームというのも、世界中で両儀の家が率先して煽ってるらしいし。

 

 

「さ、こんなところで突っ立ってても仕方がない。入るぞ」

 

「お、おう」

 

 

 開けっ放しの門をくぐって敷地へと足を踏み入れる。

 さすがに両儀も遠坂邸同様、満足な土地を手に入れることができなかったらしい。普通は平屋のはずが、一階を殆ど道場に割いた二階建ての日本家屋になっている。

 ただし前回来た時に聞いたことだが、何故か茶室はしっかりと備えているということだ。わけがわからん。

 

 

「師範! 師範はいらっしゃいませんか!」

 

 

 今時分は稽古をやっている時間帯ではないらしく、この前お邪魔した時にはいた門下生達の姿はない。

 受付にあたる場所にも人影はなく、仕方なしに俺は共有スペースである一階部分へと入り込んだ。

 ちなみに二階は師範一家の住居であるから立入禁止だ。

 

 

「おお、蒼崎君じゃないか。久しぶりだね」

 

「ご無沙汰しています、師範」

 

 

 俺の呼び声に答えてのっそりと姿を現したのは、とても齢四十過ぎとは思えない程若々しい男だった。

 以前おもわず歳を聞いた際には心底仰天して苦笑されてしまった覚えがある。なんでも、ロンドンと言えども門下生には一癖も二癖もある連中がいるらしく、実践力がなければ道場主なんてできないんだとか。

 

 

「それで、今日は一体何の用だい? もしかして、やっとウチに入門する気になってくれたのかな?」

 

「それは勘弁して下さいって何回も言ったでしょうに‥‥」

 

「ははは。君は一応お嬢様の直弟子という扱いだからね」

 

 

 隣で衛宮が師範の言葉に大袈裟に驚いていたが、一つ言っておこう、誤解だ。

 確かに俺は伽藍の堂に式が来てからは散々彼女にしごかれたけど、その腕前はといえば剣道に例えて初段か二段と言ったところだ。おそらく実戦形式だとしても彼の藤村先生にも勝てはしまい。

 ついでに言えば習ったのは短刀術であって、護身用以外の何物でもない。

 なにやら俺は式や師範日く、どうも『スジがいい』らしく、特にこの人は初めて会った時から性懲りもなく正式な入門を奨めてくる。

 ちなみに式はというと、

『早く強くなってオレと斬り合いしようぜ』

 だそうだ。断固断る。

 

 

「今日はこいつの頼みで来たんですよ」

 

「どうも、衛宮士郎です。宜しくお願いします」

 

「ああ、よろしく。‥‥う〜ん、君もなかなかいい目をしているね。どうだい、ウチで一緒に修行でも―――ああ冗談だよ蒼崎君。で、君の頼みとは?」

 

 

 またも話が逸れた師範を少し睨んでたしなめる。息子さんが跡を継いでくれないからってやたらめったら誘うというのは些か頂けない。

 まだ勧誘し足りなさそうな師範を制し、俺は衛宮と二人で軽い事情を説明した。

 

 

「なるほどね。いやいや、今時感心な若者達だな。そうだな、稽古が無いときなら好きに使ってくれて構わないよ」

 

「いいんですか?」

 

「もちろん。道場も使ってくれた方が喜ぶしね。後で詳しいスケジュールをあげよう」

 

「ありがとうございます、師範」

 

 

 真剣に頼み込む衛宮の誠実な様子に、師範は快く道場を貸すことを承諾してくれた。

 どうも最近の門下生はドライで物足りなかったようだ。自分の中で勝手なバックストーリーをでっち上げているらしく、うんうんとしきりに顎をさすりながら頷いている。

 俺はこのままでは先が長いなと悟ると、ぺこりと一礼して何だ何だと首をかしげる衛宮を引きずって勝手に道場へと向かうことにした。

 

 

「終わったら掃除だけはしておいてくれよー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おお、これなら気兼ねなく鍛錬ができるな!」

 

「お気に召してもらえたならよかったよ。ま、俺のじゃないけどね」

 

 

 衛宮は久しぶりの日本の空気を感じたのか、目を輝かせてあちらこちらをうろうろうろうろと確かめるように歩き回る。

 俺は道場の正面にある神棚に一礼すると、その後はフリーダムに適当な場所へ腰を下ろした。

 先の師範の話からわかると思うが、勝手知ったると言う程出入りをしているわけではない。さりとて気兼ねするほど他所というわけでもない。居心地のいい場所だ。

 ちょっと前まではたまにメシをたかりにきていた場所でもあるしな。最近は忙しくなったから全然だけど。

 

 

「おーい紫遙、竹刀はどれ使うんだ?」

 

「いや、俺が習ったのは短刀術だから竹刀じゃなくて―――って、ちょい待て衛宮。そのいかにもワクワクしてマスって顔はどういうことだ?」

 

 

 ふと連れてきた見習い魔術師の方を見ると、嬉々として道場の隅っこにある竹刀置き場から気に入ったものを物色している。

 そして俺の言葉にOKと返すと、どっから見つけたのか柔道の型の稽古とかで使われる小さな短刀サイズの木刀を取りだし、ぽいと無造作に俺の方へと放って投げた。

 ああくそ理解ってるさ。つまりアレだろ、稽古の相手が欲しいんだろ?

 

 

「ここ最近セイバーにボコボコにされてばかりだからな。同じぐらいの力量の相手と戦りたかったんだよ」

 

「おーい待て衛宮。漢字が、漢字変換がおかしいぞー」

 

 

 しまった。まさかこの野郎バトルジャンキーか。御神か。ていうかお前そういう性格だったか?

 いや、むしろ日頃の鬱憤という線が正しいのか。確かにぶちのめされるだけじゃストレスたまるよな。わかります。

 でもな、それを何の罪もない他人に向けるのだけはどうかと思うぞ‥‥?

 

 

「さぁ行くぞ紫遙。覚悟の準備は十分か?」

 

「‥‥‥」

 

 

 だらりと両腕をたらした一見無防備な姿勢をとる衛宮が不敵に笑う。

 そのあまりにも様になった姿に、俺は赤い外套と剣の丘を背後に幻視した。

 正直に言えば肉弾戦なんて好みじゃないし得意でもないけど、どうもこのバトル野郎はある程度相手しないと収まってくれそうもない。

 

 

「くそったれが。後悔するなよ‥‥!」

 

 

 スッと左手を前に出し、右手に短刀サイズの木刀を逆手に構える。

 身体はやや半身に、足は大きく開かず、ほんの少しだけ前屈みになった独特のスタイル。着物、特に着流しなどで戦うことの多い式が得意とする構えだ。‥‥いや、あいつの着物は特注製だからハイキックもできるんだけどな。

 両儀流短刀術はこの構えからの機敏な体重移動と細かい足捌きが特徴だ。

 武芸百般を自称し、世間からも認められる両儀流だが、短刀術の使い手はひどく少ない。

 式にしたって刀が本来のエモノだしな。短刀を使った暗殺紛いの武術はどちらかといえば七夜の専売特許だ。

 

 

「いくぞ、衛宮。教えてやる、これが、期待を外すっていうことだ‥‥!」

 

 

 構えだけは一人前の俺に何を感じたのか、本気で斬りかかってきた衛宮の姿を最後に、俺の意識はいつぞやと同じように闇へと墜ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

「―――遙、紫遙!」

 

「う、ぐ、体はネコで出来ている‥‥」

 

「なにワケのわかんないこと言ってんだよ! 起きろって!」

 

「ぐはぁっ?!」

 

 

 容赦なくバケツになみなみと注がれた水を顔にぶちまけられ、半ば溺れながらも俺はなんとか意識を取り戻した。

 あぁ、これからカッコイイ戦闘シーンが拝めるとか思った人、残念だったな。何回も言ってるけど俺は戦うのは苦手なんだよ。

 一応短刀術は習ってるけど、訓練ならともかく実戦で使ったことは一度もない。

 どこぞの鉄拳魔術師とかは例外として、大体の魔術師は中〜遠距離戦が得意なのだ。かくいう俺も中距離戦が主であって、接近されたらそれでおしまい。こんにゃろの未来みたいに接近戦もできるなんて万能なスペックはない。

 狙撃兵なら明日のために、

 その1『すごく見晴らしのいい所でうんと離れる』

 その2『近づかれたら死を覚悟』。

 魔術師も一緒よ。特に俺なんて死徒とかが相手だからな。身体能力が違いすぎる。

 

 

「悪い! まさか一発で倒れるとは‥‥」

 

「‥‥当たり所が良すぎたんだな。ていうか元々戦うの苦手だし」

 

「そうだったのか?! 色々詳しいもんだからてっきり強いものだとばかり思ってたよ」

 

 

 そりゃ大いなる誤解だ。何べんだって言うけど、魔術師の本質ってのは探求者なんだぞ?

 魔術を戦いに使ったりするのは、本来外道みたいなもんなんだよ。

 俺達がやるべきことっていうのは、ただただ根源へとたどり着こうと日々切磋琢磨することだけだ。

 衛宮はそう言い訳じみた説教をたれる俺の言葉に、ほーほーとまるで初めて知ったかのごとく何度も頷いた。

 

 

「‥‥おい、まさかこの程度のことも知らなかったんじゃないだろうな?」

 

「いや、俺は魔術使いだし」

 

「‥‥はぁ。それ、他の魔術師の前で言うなよ? 殺されるぞ」

 

 

 特に歴史のある家に生まれた誇り高い魔術師相手にはね。

 限りある神秘を分け与えられた特別な人種であるにもかかわらず、それを私利私欲のために利用するなんざ、許し難いことに他ならない。

 俺なんて原作知ってるからまだ許容できるけど、多分遠坂嬢も最初は腸煮えくりかえってたんじゃないかな。

 

 

「俺は別に私利私欲のためなんかじゃないぞ!」

 

「関係ない。根源を探求するということ以外は全て俗な使い方だ」

 

 

 今だに何か言いたげな衛宮を放って、いつの間にやら水分補給用に脇に置いてあったヤカンの中の麦茶を一気に喉へ流し込む。

 多分師範か誰かが気絶してる間に持ってきてくれたんだろう。昔ながらの、焦げ臭い匂いが心地良い。

 

 

「お前が何しようと勝手だけどな。せめて手にしている力が、遙か神代の時代から脈々と受け継がれてきた至高の神秘であることぐらいは自覚しておけよ。魔術に関わる者ならみんなその神秘を出来る限り磨耗させずに後世に残す義務がある」

 

「‥‥‥」

 

 

 先ほどまでの勢いは何処に行ったのか、衛宮は深刻な顔でうつむくと黙り込む。

 こいつもこいつなりに色々と考えてロンドンに来たのだろう。

 正義の味方になるという確固たる目標があるとしても、そこにたどり着くまでの道筋は千差万別だ。

 また、どうやってたどり着けばいいのかもまた数多の手段があるだろう。

 こいつは、それを見つけるためにここへ来たのかも知れないね。

 

 

「まぁあまり悩むなって。お互い若いんだから、時間は十分にある。答えなんて予想もつかないところに転がってるもんさ。時には、周りの人間を頼るのだっていい」

 

「‥‥そうだな。うん、きっとそうなんだろうな」

 

 

 救いを求めるかのように呟いた衛宮の心境はわからない。俺は、こいつの理想をまだ知らないことになっているから、どうやってそれとなく助言してやればいいかもわからない。

 

 だから一人の、友人に理解のある魔術師としての助言を送った。

 このまだ未熟な正義の味方見習いには、色んなことを知る必要があるはずだから。

 謀らずもこの世界にとって絶対に重要な人物と関わりをもってしまったお人よしの俺は、何とは無しにそう思ったのだった。

 

 

「さぁ、紫遙の目もさめたことだし二本目行くぞ!」

 

「‥‥何度もそう簡単にやられると思うなよ‥‥!」

 

 

 なんだかんだで俺もオトコノコだったらしい。

 その日は夕日が道場を照らし始めるまで延々稽古を続けた俺達は、遅れてやって来た門下生達によって二人して道場のど真ん中に、大の字になってのびているのを発見されたのだった。

 

 

 

 

 

 11th act Fin.

 

 

 

 

 



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第十一話 『金の獣の憂鬱』


 
 
 


 

 

  

 side Luviagelita

 

 

 

 魔術師はもともと群れる生き物ではありません。

 孤独の中にこそ神秘の探求を見出だし、自らが内包する起源を追い求める者。脈々と血をもって受け継がれた一族の秘奥を更に高みへと押し上げる者。それこそが魔術師。

 私達は限りある神秘を分け与えられた身分として、誇りをもって魔道を究めていかなければなりません。それ以外の全てが邪道。それ以外は全てが不用です。

 

 そんな私の毎日も、最近は随分と様変わりしたものですわね。

 周りの俗物達を有象無象と見下していた私に近寄ってきた唯一の存在、ショウ・アオザキ。

 彼は私に孤独の寒さを教え、他人の温かさを教えてくれた最初の友人でした。私を孤独から救い上げてくれた恩人にして、魔術においては分野の違いもありながら、互いに切磋琢磨し合う仲でもあります。彼は散々謙遜しますけど、他人も認める一流の魔術師ですわ。‥‥まぁ、戦闘に向いてないのは確かなんですけど。

 そして、最近時計塔へとやって来た三人組もまた、私のいままでを一変させた存在です。

 

 特にその中の一人、ミス・トオサカとのおよそ小一時間にも及ぶ“平和的な”交渉のかいあって、今までと同様に我が屋敷で働いてくれることになった私の執事。シェロ・エミヤ‥‥。

 まだまだ仕事は半人前ですけど、不思議と私はシェロがいてくれるというそれだけで安心するような、また逆にそわそわするような、今まで一度も味わったことのない理解できない感情を覚えるのです。

 

 シェロのいれてくれる紅茶は、普段の茶葉を切らしてしまって安いものしか用意できなかったときでも、驚くほど私の口に合いました。

 シェロがアイロンをかけてくれたブラウスを着れば、その日はいつになく調子のいい一日になりました。

 

 私は、この感情がわかりません。

 まがりなりにも友人と認めるショウにも抱いたことがないこの胸の高鳴り‥‥。

 まさか、もしかすると、この想いこそが‥‥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全員集まれ! 前回よりも強固な障壁を張るんだ!」

 

「教材を退避させろ! あれは代えがないぞ!」

 

「誰か! 基礎講座に行って遠坂嬢の弟子の衛宮士郎を連れて来てくれ!」

 

 

 さて、相も変わらずてんてこまいの鉱石学科。

 前回の騒ぎからまったく反省した様子のないあかいあくまときんのけものは、またもや些細な―――彼女達にとっては1nmも譲れない―――主張の違いから全面戦争を繰り広げようとしていた。

 大体噴火のペースは三週に二回ぐらいになるのだろうか。毎度毎度ご苦労様なことである。‥‥俺達が。

 

 早くも予兆を嗅ぎ付けた教授と残りの生徒達は、またも隅っこに固まって防御結界の構築に励んでいる。

 今日は前回の反省を踏まえて魔具作製を専攻している学生から守護の効果があるお守り(アミュレット)護符(タリズマン)を借り受けている。実地試験になるからと喜んで貸してくれたらしいけど、 果たしてどれほどの効果があることやら‥‥。

 

 

「急げ! 鉱石学科の壊滅の危機だとでも言えば教授も許可してくれるはずだ!」

 

 

 俺は手近にいた身体強化の得意な奴をひっ捕まえると、手短に衛宮を呼ぶように指示する。

 あの三人が出会ってしまっている以上何ら気兼ねすることもない。この状況はしっかりと保護者に責任もって片付けてもらう。

 正義の味方の本領発揮だぞ、衛宮。

 

 

「もう一度仰っしゃって頂けませんこと? 私が、なんですって‥‥?」

 

「なんでも力技で解決なさる方なのねと率直な感想を申し上げただけですわ、ミス・エーデルフェルト」

 

「あら、聞き間違いかしら、その前に『成金』なんて失礼な単語が入っていたはずですけど?」

 

「あら、聞き間違いなんかじゃなくってよ? 自覚なさってたなんて驚きですわ」

 

「‥‥極東の貧乏魔術師が、言わせておけば‥‥!」

 

 

 既に二人のボルテージはヒートアップ寸前だ。

 それぞれの魔術刻印は爛々と光り輝き、敵を倒せと煌めき叫ぶ。互いに眼前の敵へと狙いを定めた両手の人差し指という名の銃口は、その実全く狙えていないためにあちらこちらへと破壊の魔弾をまき散らすだろう。

 最早絶体絶命とその場にいた全員が十字を切ったその時だった。

 

 

「二人とも何してるんだ!!」

 

「「士郎?!/ シェロ?!」」

 

 

 ドアを蹴破るようにして入ってきたのは、二人の保護者こと正義の味方(えみやしろう)

 待ち望んだ救世主の登場に俺達はわっと歓声をあげ‥‥すぐに黙った。あくまとけものにメドゥーサもかくやという程の凄まじい目線を叩きつけられたからだ。

 自覚症状あるならいい加減にやめてくれ。

 

 

「また喧嘩でもしようとしてたのか! 遠坂! また講義室壊して借金でも作るつもりか?」

 

「で、でも‥‥」

 

「でもじゃない! ルヴィアも! こんなことに魔術を使って良いと思ってるのか? 大体魔術ってのは―――」

 

 

 先日の俺の話が効いたのか、いまだにらみ合う二人を一喝してお説教タイムに突入する衛宮。

 基礎講座の学生に叱られてしょんぼりとしている時計塔の首席候補二人の姿を見て、鉱石学科の生徒及び教授は呆然と信じられないものを目の前にしてしまったという顔をしていた。

 う〜ん。流石に普段がアレだから、俺も釈明できないな。ウン。

 さて、こっから先は部外者お断りの時間かな。

 暫く続くであろう衛宮のお説教に後を任せ、俺は他の連中を促してさしたる被害のなかった講義室を後にした。

 

 

 

 

 

 

「‥‥ショウ。貴方がシェロを連れてきたんですのね」

 

「何のことかな?」

 

 

 俺はしばらく二人一緒にお説教をくらってきたルヴィアと、大英博物館内のカフェテリアで軽食をとっている。

 遠坂嬢は個別に衛宮に叱られているらしい。ルヴィアは少し前に開放されたということで、かなり青ざめた顔でふらふらとここへやってきていた。

 とりあえず特別学芸員(エクストラ・キュレーター)の名札は忘れるなよ。叱られるぞ。

 

 

「まったく、貴方も薄情な人ですのね。友人だったら少しは助け船を出してくれてもいいのではなくって?」

 

「胸に手を当てて考えてみるといいよ。君達が今まで何をやらかしていたのかをね」

 

 

 機械で淹れているせいか、ココの紅茶はあまりおいしくない。これならまだコーヒーの方がマシだということで、俺は安物のコーヒーとBLTサンドをつまんでいた。

 一方ルヴィアはカフェオレとハンバーガーを頼んだけど、さっきから珍しいことに頬を机につけて脱力していて、一向に進んでいない。

 ま、あの衛宮がお説教するくらいだからな。こってり絞られたんだろうさ。

 

 

「私だってそれなりに反省しておりますのよ? なのにあんなに怒らなくても‥‥。まさかシェロ、これで私のことを嫌ったり‥‥」

 

「まぁまぁ。次からは注意すればいい話だろ? 衛宮だって一度の失敗で人の評価を決めるような奴じゃないって」

 

 

 むしろ俺達のためにこそ注意してほしい。一応彼女たちが鉢合わせする講義に出なくても教授が便宜をはかってはくれるけど、それでもその時間帯に出なくてはならない生徒もいるし、いざというときの処理係である俺も無理矢理出席させられているわけだし。

 健気な乙女のように表情を秒単位で一喜一憂させているルヴィアに溜息をつき、俺は結局またすっかり冷めてしまったブラックのコーヒーを啜った。どうも最近暖かい飲み物と縁がないような気がするんだけど、気のせいだろうか。

 

 

「ルヴィア! 紫遙!」

 

「‥‥シェロ?」

 

「おう衛宮。遠坂嬢への説教は終わったのか?」

 

 

 と、カフェテリアの入り口から衛宮が姿を見せ、俺は隣の椅子においていた荷物をどけて場所をつくる。

 ルヴィアは衛宮の姿が見えた瞬間にびくりと起き上がって、ごほんごほんとわざとらしい咳払いをすると姿勢を正した。よっぽど衛宮に嫌われたくないらしい。いくら仕事時間外はプライベートな関係だとはいっても、従者にみっともないところは見せたくない、か?

 ‥‥いや、違うか。あのルヴィアの様子は、まるで―――

 

 

「シェロ‥‥。さっきは本当にすいませんでしたわ‥‥」

 

「もういいよ。ルヴィアも反省してるだろ?」

 

 

 席へついた衛宮はメニューに目も通さずにコーラを注文すると、鞄から取りだしたサンドイッチを机の上に置いた。

 相当金に困っているか、もしくは味にうるさいのかもしれない。この前一度衛宮家のサンドイッチを食べさせて貰ったけれど、ファーストフードとは思えないほど美味しかった。

 なにやらソースが秘訣なんだとか。俺、今まで市販品しか使ったことなかったよ‥‥。

 

 

「でも、ホントにもう喧嘩はやめてくれよな。周りにも迷惑がかかるし、なによりルヴィアの綺麗な顔に傷でもついたら困る」

 

「えぇっ?!」

 

「ぶふぉおっ?!」

 

 

 上はルヴィアが頭から煙を吹き出しながら顔を真っ赤にさせた声。下は俺が丁度口に含んでいたコーヒーを思いっきり吹き出してしまった音。

 もちろん目の前に座っているルヴィアにかからないように咄嗟にナプキンで口を押さえたけど、ちょっと鼻から出てしまった。幸い彼女は今の衛宮の爆弾発言に気を取られていて気づいてはいなかったけど。

 

 

「シ、シェロ、今なんて仰いましたの?」

 

「え? だからルヴィアは綺麗だなって」

 

 

 聞き間違いではなかろうかと問い返すルヴィアに、真顔で答える衛宮。

 ああ、砂でも吐きそうだ。なんだこの男は。まさかこんな歯の根が浮くようなストレートな口説き文句をタイムラグなしで繰り出せるとは‥‥。

 恐るべし、女殺し。さすがはエロゲの主人公だ。

 

 

「‥‥‥ぷしゅう」

 

「お、おいルヴィア?! どうしたんだ?!」

 

 

 女たらしの連続攻撃に処理過多になってしまったのか、ルヴィアはぼふんと一際大きな湯気を顔面から噴出させると、恥ずかしさのあまりたまらず口にハンバーガーをくわえて、器用なことに不可思議な効果音を出しながら椅子の上で縮こまってしまった。

 なんていうか、びっくりだよオイ。

 今まで俺が彼女をからかったときには、いつも真っ赤になりはしても直後に手痛いしっぺ返しをくらうことになっていたのだ。それはガンドだったり、宝石だったり、ラリアットだったりと色々だけど、とにかく攻性な彼女がここまで消極的な反応を見せたと言うことは、曲がりなりにも友人を自称する俺にとっても青天の霹靂と形容し得るに足る仰天動地の出来事だった。

 

 

「士郎〜! 士郎どこにいるの!」

 

「いけね、遠坂が呼んでる。悪いな二人とも、今日はこれで」

 

「あ、ああ。またな‥‥」

 

 

 目の前で茹でダコのようになっているルヴィアに、衛宮は何も疑問を感じないらしい。まったく信じられない鈍感加減だ。

 そしてその朴念仁は遠くから自分の恋人の呼び声を聞きつけると、心底申し訳なさそうに俺達に頭を下げると、頼んだ品が届くのを待たずに去っていった。

 入り口ちかくでぷんぷんと、それでも先ほど叱られていたせいか少し照れくさそうに衛宮の腕にしがみつく遠坂嬢の姿が見えた。ちょっと前に説教を垂れ、垂れられていたとは思えない程、その姿は仲良さげな空気を辺りに振りまいている。

 ‥‥しかし良いのか? 大英博物館の学芸員(キュレーター)が仕事中にいちゃついてるなんて噂が立っても。

 

 

「‥‥なにか、許せませんわね」

 

「うわぁ?! いつの間に復活してたんだ?」

 

 

 後ろへよじっていた体を前へと戻せば、そこには嫉妬の炎を隠そうともせずに去っていった二人の背中、特に全身で恋人に甘えていた遠坂嬢の方を睨むきんのけものがいた。

 手に持った食べかけのハンバーガーは見事に握りつぶされ、ケチャップの赤が目に悪い。なんていうか、怖い。

 俺はそんなおどろおどろとした負のオーラを振りまくルヴィアにひとまず紙ナプキンを渡し、自分も思わずこめかみを伝った冷や汗を拭う。

 と、ケチャップだから紙ナプキンじゃだめか。店員さんを呼んで手ぬぐいを持ってきて貰おう。

 

 

「‥‥ショウ。実は相談したいことがあるんですの」

 

「え?」

 

 

 どうも近くで一部始終を眺めていたらしい店員さんがひきつり笑いを浮かべながら持ってきてくれた手ぬぐいで手を拭ったルヴィアは、しばらく無言でカフェオレをすすっていたが、突然深刻な顔をすると俺にそう言った。

 ルヴィアは自信に溢れた魔術師だ。出来ないことが在れば努力でおぎなうし、成功確率の低い実験や儀式だって万全の準備と緻密な計画をもって行い、不安要素を絶対に残さない。

 だからここまで自信がなく、不安にまみれた彼女の顔は初めて見たと言っても過言ではない。

 

 

「‥‥それは、俺に解決できることなのかい?」

 

「わかりません。私ではわからないのです」

 

 

 目の前に座った友人は、いまだかつてお目にかかったことがない程深い溜息をつくと、心底不安そうに俺を上目遣いに見やる。

 ‥‥俺の理性ピンチ。確かにルヴィアはいい友人だ。でも君のお父上が―――じゃなくて、俺も男である以上何気ない仕草にどきりとしてしまうことぐらいある。

 なにしろルヴィアは百人が二百人認める美人なのだ。日本語がおかしいけど気にしない気にしない。

 

 

「‥‥わかった。なんでも聞いてくれ」

 

 

 だから、こういった場合のいつもの返答は『内容による』であるにも関わらず、俺は思わずそう口走ってしまった。

 安請け合いは禁物だと衛宮に散々注意したはずだったのに、な‥‥‥。

 

 

 

 

 

 12th act Fin.

 

 

 

 



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第十二話 『金の獣の爆発』

安直なドタバタ。実に哀しくなる‥‥orz


 

  

 side Saber

 

 

 

 

 午前中にびっちりと入っている賃仕事を済ませ、私はしばらく特に用もないのでのんびりと倫敦の街中を散歩していました。

 気温は暑くもなく寒くもなく、にも関わらず太陽はさんさんと気持ちのいい光を届け、久しぶりの過ごしやすい一日ですね。

 

 

「さて、今日はどうしますかね‥‥」

 

 

 リンの使い魔(サーヴァント)としてこの街にやって来た私ではありますが、毎日やっていることと言えば家事や賃仕事、いいところでシロウの鍛練の相手です。

 別にそれらに不満があるのかと言えばそうではありませんが、紛りなりにも剣の騎士(セイバー)として召喚されたこの身、そこはかとない虚無感を抱いてしまうのは仕方が無いことではないでしょうか。

 

 

「ローウェル達のところでチェスでもしましょうか‥‥。それともガブローシュ達とクリケットに行きましょうか‥‥。あぁ、ジョージと暫く会っていませんね。久しぶりに様子を見に行くのもいいかもしれません」

 

 

 某かの用事を抱えて道行く人々に混じり、こちらに来てから知り合った友人未満顔見知り以上の名前をあげていく。

 彼らの年齢グラフが盃を描いている気もしますが、なに気にすることはありません。

 なにしろ私が暇になる時間帯というのが、通常世間では業務中と呼ばれているのですからこれもまた仕方がないことでしょう。

 い、いいのですよ! 私はちゃんと働いているのですから!

 

 

「まぁなんにしても、まずは家に帰ってから―――おや?」

 

 

 近くのバス停へ向かおうとして、ふと私は気になるものを見つけて足を止めました。

 通行人の多い倫敦の街ですが、この私があの横顔を見間違えるはずがない‥‥。

 目の前の十字路を曲がったその、“赤い髪の知人”の後を追い、私はさっと身を曲がり角の建物に隠す と、その陰から注意深く顔を出し、覗いてみます。

 

 

「な‥‥あの人は‥‥?!」

 

 

 私が思わず驚いてしまったのもしかたがないことだと思います。

 なぜなら私のかつての主は、隣の青いドレスを着た女性に腕を組ませて、楽しげに語らいながら大通りを歩いていたのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いや、すまないね遠坂嬢。わざわざ呼び付けてしまって」

 

「気にしないでちょうだい、蒼崎君。今日は特に用事も入ってなかったから。‥‥‥士郎も出かけちゃったし」

 

「ん? 何か言ったかい?」

 

「な、なんでもないわ!」

 

 

 何やらぶつぶつと呟いた遠坂嬢に聞き返したけど、真っ赤になって首をぶんぶんと左右に振ったのでそれ以上の追求は避ける。

 寂しいなら寂しいと素直に言えばいいのになぁ、という率直な感想も一緒に飲み込んだ。

 他人をおちょくるのは大好きだけど、今回はちょっと費用対効果が高すぎる。

 

 

「それで、わざわざよびつけて一体何の用事なの? 士郎じゃなくて私ってことは‥‥魔術関連ね」

 

「あはは、衛宮も酷い言われようだなぁ‥‥。まぁ、ご名答。実は降霊学科の連中から術式の構成を頼まれたんだけど、ちょっと安請け合いだったみたいでね‥‥」

 

 

 半分嘘で半分ホント。解らない術式があるというのはホントだけど、降霊学科から頼まれたというのは嘘っぱちだ。

 真実は、遠坂嬢に助けを求めるためにわざわざ俺が持ち掛けたということ。

 そう、昨日俺がルヴィアに頼まれたことというのは、彼女が衛宮とデートを楽しんでいる間の、遠坂嬢の足止めだった。

 

 

「聖杯戦争で英霊の召喚とかしていた君なら、こういうのに詳しいと思ってね。よかったら力を貸してくれないか?」

 

「別にいいわよ。どれどれ‥‥」

 

 

 講義が休みで空いている講義室の机に無造作に広げられた紙面には大小様々な円と五旁星で構成された魔法陣が書き込まれている。

 降霊科の連中がセイバーを一目見て、『自分達も英霊を召喚するぞ!』と意気込んで書き上げたものだ。

 

 

「そうね、術式としてはしっかりしてるわね。英霊の座への接続(アクセス)回廊(パス)の固定―――」

 

 

 興味深そうにしげしげと紙面に視線を落とす遠坂嬢。

 プライベートだからか、いつもはしっかりと二つに結んである髪の毛をおろしているその姿はドキッとするほど大人びていて、普段とは違った色気を感じさせる。

 

 

「随分と遠坂の術式に似てるわね‥‥? まぁ、いいかな。大体は合ってると思うけど、最初の起動の部分がちょっと怪しいわね。あと付け加えるなら召喚陣の維持かしら」

 

 

 またまたご名答。

 その術式のデザインは前にゲームで遠坂嬢が召喚にしようしたものに似せてある。やっぱりあるものをお手本にした方が成功の確率は上がるだろうしな。

 ついでに言えば最後の固定の部分がザルというのも正解。連中、喚び出すことにばっかり気が回って、その後どうするのかまで考えていない。おそらくこんな雑な構成では数秒だって英霊を現界できないだろう。

 

 

「ま、それ以前の問題って言ってしまえばそうかも。この術式を起動させる魔力は一体何処から持って来るのかしら?」

 

「それは俺達には関係ないよ。頼まれたのは術式の構成だけだからね。後は失敗しようが大失敗しようが知ったことじゃないなあ」

 

「‥‥貴方、わりとイイ性格してるのね」

 

 

 遠坂嬢がジト目でこっちを睨んでくるけど、なに気にすることはない。

 こちらの事情もあったとはいえ格安で引き受けたんだから、アフターケアまでやってられないというのが本音だ。

 連中にしてみれば渡りに船だったのかもしれないけど、専門じゃない人間に過度の期待をかけられても困る。

 

 

「ま、それもそうね。私達も暇じゃないんだしあんまり気を入れても―――?!」

 

「? どうしたんだい遠坂嬢」

 

 

 どちらかと言うと術式の構成より色々とキてしまっている降霊科の連中への悪態が比重を増やしていったその時、突然遠坂嬢が額を押さえて目をつむった。

 一瞬頭痛にでも襲われたのかと思ったけど、なにやらぶつぶつと呟いている。これは‥‥念話?

 

 

「‥‥蒼崎君」

 

「は、はい?」

 

 

 十秒ちょっとばかり話していただろうか、遠坂嬢は念話を終えると実に綺麗な笑顔を浮かべて俺を見る。

 彼女よりも俺の方が背が高いために見上げられている恰好なわけだが、どうして見下ろされているかのような感覚を覚えるのだろうか。

 いや、今はそんなどうでもいいことを考えている場合ではない。現実逃避を大概にしろ、この笑顔には、過去に何回かお目にかかったことがあるだろう?

 そう、乃ち俺のBAD ENDの象徴である。

 

 

「もしかして貴方、ミス・エーデルフェルトと衛宮君が今何処にいるかご存知なんじゃありません?」

 

「ぎくぅっ?!」

 

 

 今日の俺は黒のスラックスに白いワイシャツ、ズボンと同じ色のネクタイというシンプルなものだ。

遠坂嬢はにこにこ笑いながら俺のネクタイをぎりぎりと力の限り締め付け、魔術刻印を輝かせる。

 ああ、俺が一体何やったって―――はい、色々やりました‥‥。

 

 

「悪いんだけど、ちょっと付き合ってくれるかしら?」

 

「拒否権は―――」

 

「ないわ」

 

「‥‥はい」

 

 

 なんかもう、伽藍の洞に帰っちゃおうかな、俺‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

「ふ、二人とも、少し落ち着こうな? な?」

 

 

 現在俺達がいるのは、大英博物館にほど近い、とは行っても電車でソーホーというエリア。

 その中でもレストランやカフェ、アンティークや工芸品などの常設マーケットがあるコヴェント・ガーデンという広場だ。港などの倉庫を彷彿とさせる赤煉瓦の建物の間に吹き抜けがあり、昔の青果市場の名残を感じさせる。

 そしてガラス屋根のホールの下、アクセサリーを扱っている出店で、俺のよく知った二人の人影が談笑していた。

 言わずと知れた衛宮士郎と、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトである。

 

 

「士郎の奴、あんなに鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって‥‥!」

 

「ショー、このポテトフライはなかなか素朴でおいしいですね」

 

「あー、セイバー? 君一体何しにココに来たんだい?」

 

 

 事情を知らない人が見れば羨むような状況かもしれない。なにしろ俺は、両脇に誰もが認める美少女を二人侍らせているのだから。

 しかしそれも客観的に見たらの話である。片やそれだけで凍り付いてしまいそうな殺気を加減なしに噴出し、片や俺の奢りで今この瞬間も黙々と出店で買ったポテトを食べ続けている。代わって欲しい人がいるなら今すぐ来い。

 

 

「ちょ、ルヴィアゼリッタってば! なに腕なんか絡めてるのよあの泥棒猫! ああ士郎も顔赤くしてるし‥‥!」

 

「‥‥すごいな、あんなに積極的に男と接触してるルヴィアなんて初めて見るぞ」

 

「ああ凜、あそこにケバブの屋台があるのですが‥‥」

 

 

 まるで恋人のように仲良さげに語らい合うルヴィアと士郎に対し、俺達は建物の陰に隠れて出歯亀中。なにが哀しゅうてこんなことしなきゃならないのか。俺を研究室に帰せ。

 るーるーと虚しい涙を流す俺の右隣の遠坂嬢は、ぎりぎりと歯を鳴らしながら煉瓦造りの壁面をあらん限りの力で握りしめていた。嗚呼、歴史が崩れていく‥‥。

 

 

「何を話しているのかしら‥‥。ちょっと蒼崎君、なんとかならないの?」

 

「無茶苦茶言うなぁ。君がやったらどうなんだい? ま、いいけどさ‥‥。 Drehen (回せ) und Einholen (遠聴) Der Schwur erschallt, die Fahnen flattern hoch im Wind 《宣誓は響きわたり、軍旗は風の中で大きく翻る》―――」

 

 

 術式を起動させ、俺達のところに衛宮達の話し声をたぐり寄せる。

 ていうか時計塔のお膝元でこんなおおっぴらに魔術行使してもいいのかな? まぁこの程度なら殆ど目立ちはしないけどさ。

 パッと見て効果のわからない魔術なら、人払いや意識を逸らす結界を張る必要もないし。

 

 

「‥‥随分と長い詠唱なのね」

 

「ほっといてくれ」

 

 

 詠唱がやたらと長くなってしまうのは、俺の魔術全般に通じる欠点だ。橙子姉の詰め込み教育のおかげで大体の魔術はしっかりと会得してはいるけど、その分こうやって起動に時間がかかる。

 これが俺をして戦闘向きではないと言わしめる最大の原因である。まぁ、この欠点を補う方法はいろいろとあるんだけどな。

 

 

『どうかしら。 似合っていますか?』

 

『ああ、ぴったりだよルヴィア』

 

 

 風の魔術の応用で届けられた声に耳を傾け、遠坂嬢がさらにぎしりと壁を握る手に力を込めた。

 もしかして無意識に魔力込めたりしてないか? なんかこう、赤茶けた粉末が宙を舞ってるんですけど。

 左隣のセイバーもさすがに食事をやめ、注意深く衛宮とルヴィアの会話を聴いている。こちらは遠坂嬢に比べて幾分余裕があるみたいだけど、彼女の食事が止まっているというそれだけで多少の動揺は察せられるな。

 

 

『ではこのネックレスを買うことにいたしましょう。‥‥あぁ、このブレスレットも頂こうかしら。意匠が同じですものね、これはシェロに差し上げますわ』

 

『む、気にしなくていいんだぞ? 女の子にお金を出させるわけにはいかない』

 

『もう、そういうところだけ律儀ですのね、シェロ。ではこれは今日付き合っていただいたお礼ということでいかがですか?』

 

『‥‥そこまでいうなら、貰うよ』

 

『クス、ありがとうございますわ』

 

 

 ガコリと致命的な音が横からしたので慌てて視線を戻すと、遠坂嬢が壁面の一部を一握り分だけ見事に削りとっていた。懸念は的中したらしい。

 彼女は自分がやらかしたことにすら気づかない程怒りに震えているらしい。無意識の内に強化された手の中で煉瓦はたちまち粉と化した。

 

 

「これは‥‥いい雰囲気ですね‥‥」

 

 

 セイバーの口調はまったく普段と変わらないが、頭の上のアホ毛がぴくりぴくりと動いている。

 注意深く見てみれば右腕が何かを握り締めるように力に込もっている。まさか‥‥風王結界(インビジブル・エア)かそれは?! こんなところで宝具の解放なんてしちゃダメですよセイバーさん!

 

 

『そうですわね、ここでつけていきましょうか。‥‥シェロ、よかったらつけて下さらない?』

 

『あ、あぁ。‥‥ここか?』

 

 

 今にも風の鞘を解放しようとするセイバーを羽交い締めにしてなんとかなだめているうちに、向こうの方では更に事態がどんどん加速していく。

 とりあえずセイバーにはなぜかポケットの中にあったス●ッカーズを咥えさせて落ち着かせたが、ものすごい勢いで咀嚼しているので長くは保つまい。

 

 

『ああ、これでは外れてしまいますわね。しっかりとつけてくださらない? ほら、もっと近づいて―――』

 

「だぁぁああああ!!」

 

 

 と、ここで遠坂嬢の堪忍袋の結がブチ切れた。

 

 

「士郎ぉぉぉおおお!!」

 

「なっ! 遠坂?!」

 

 

 げっとうめいた俺が腕を掴んで阻止しようとしたときには既に遅かった。

 最早身体強化は半自動の域に達しているらしく、はっと手を伸ばしたときにはそこにあかいあくまの姿はない。

 そして一秒を経たずに巡らせた視線の先には、プロレスラー顔負けの素晴らしいドロップキックを浮気した恋人に放っている怒れる一人の少女の姿があった。

 

 

「ミ、ミス・トオサカ?! 貴女ずっとご覧になっていましたの?!」

 

「しっかり見させてもらったわよ! さぁ士郎、今ここで遺言を聞かせてもらおうかしら? 今なら私セイバーの宝具にだって勝てそうよ?」

 

「と、誤解だ遠坂! 俺はただルヴィアに頼まれて買い物の荷物持ちに―――」

 

 

 吹き飛ばされ、背中を踏みつけられてなお、衛宮は必死に弁解しようと首を上に向けようとする。

が、そこは流石遠坂嬢と行ったところか、その度に見事に背中の痛点を強く踏みつけ、決して自分の絶対領域を拝ませようとしない。

 一方ルヴィアは傍目に見ていてかわいそう、というか面白いぐらいに顔を真っ赤にして動揺し、既に衛宮を助けようとかいうことまで気が回らないようだ。

 哀れ衛宮。まぁ関ヶ原の戦いぐらいから、優柔不断は罪だって決まってるし。

 

 

「それを世間一般ではデートっていうのよ! この朴念仁! ‥‥ルヴィアゼリッタ! あんたにもしっかりと言い訳してもらうわよ。人の彼氏に手を出して―――」

 

「あ、あらミス・トオサカ、そんなに激昂なさるなんて、心にやましいことでもあるのかしら?」

 

「なんですって?!」

 

 

 気を取り直したルヴィアも参戦し、事態はどんどんカオスな方向へと急速に落下していく。

 途中で止めることができそうにないからこそ、落下という表現が正しいだろう。俺は色々と諦めて簡単な人払いの結界を張ったが、こんな衆目の真ん中ではさして効果は望めないだろう。

 願わくば、せめて最低限の魔術師としての義務を心に留めた二人が魔術を使わない肉弾戦で勝負を決めることだけ、か。

 

 

「もう今日という今日は我慢ならないわ! 人の物を盗るってことがどれほど悪いことか後悔させてやるわ! このハイエナ!」

 

「同感ですわね! ちょうど私の従者を良いようにこき使う女狐を懲らしめてやろうと思っていましたのよ!」

 

 

 俺の願いが通じたのか、二人はさすがにこんな街中で魔術を使う気にはならなかったようだ。むしろ目の前の奴を拳でぶちのめす! という感情が勝ったからかもしれないけど。

 ルヴィアは腰を落としたレスリングスタイル、遠坂嬢は左半身の八極拳のスタイルで対峙する。

 すでに周りには何事かとロンドンっ子が押しかけて円を作っていた。ま、やっぱ無理だよなぁ‥‥。

 

 

「「 覚悟! 」」

 

 

 不幸中の幸いは、これを見物している一般人達がロンドンの街でよくある見せ物の一種だと思っていることか。二人の発する闘気に押されて警察官も口を挟めない。

 俺はやれやれと呟くと一歩下がって群衆の中に一早く避難していたセイバーの隣に立った。どうも遠坂嬢が一番に怒ってしまったからか、怒るタイミングを逸したようだ。

 

 

「いいのですか?」

 

「なんだい?」

 

「二人を好きにさせておいて、です」

 

 

 セイバーの足下にはすっかりダウンしてしまった衛宮が転がっている。流石の彼女もここまで不義理をしてしまった衛宮を介抱してやる気にはならなかったらしい。

 ハハハと乾いた笑いを漏らすと、俺はボロ雑巾と化した衛宮を軽く腹いせに蹴飛ばし、今度は深い溜息を漏らす。

 

 

「時には決闘するのも騎士の誉れとか、前に言ってなかったかい?」

 

「いえ、そうなのですが‥‥。随分と寂しそうな顔をしていましたので」

 

 

 予想もしなかったセイバーの言葉に、俺は思わず顔を撫でる。うん、いつも通りのはずなんだけどな‥‥。

 

 とりあえず衛宮にはもう一つ蹴りを入れておこうか。

 セイバーの言葉の意味はよくわからなかったけど、俺は何故かそう思った。

 

 

 

 

 13 act Fin.

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十三話 『漂着者の葛藤』

この辺りも展開に不足があるところ。しっかり書き直していきたいですね!


 

 

 

 

 side Blue

 

 

 

ふと、吹いた風に持って行かれそうになった長い髪を押さえて、不埒な気まぐれ者が通り過ぎて行った方を見る。

もちろんそこには何もない。風が去った後に残るのは只、何かが行ってしまったという感覚だけ。

自分の名前のように青い空を被った草原には私の他に人っ子一人いなくて、それをあまり寂しいと思わない自分は、確かに人から外れてしまったのかもしれない。

 

 

「そういえばあの子、今どうしてるかな‥‥?

 

 

この前散々嫌がっているところを無理矢理死都殲滅に連れていった義弟をふと思い出した。

跋扈する死者を片っ端から私が消滅させていき、撃ち漏らしたものは抜群のチームワークであの子が始末する。

あの死都の主はなかなか強力な吸血鬼だった。なまじっか若かったために自分の力を過信していて、それ故に私が呼ばれて滅ぼされることとなったが、あと100年も力を蓄えていれば、更に強力な死徒になっていたかもしれない。

 

 

「そうね。また様子でも見に行こうかしら」

 

 

あの戦闘で壊れてしまったあの子の礼装は姉貴に預けたから、今頃はしっかりと修理が済んでいて、なおかつ改造までされているかもしれない。

一回ロンドンまで顔を出して、その後姉貴の所に寄って回収してきてあげよう。

 

 

「我ながら、あの子には甘いわね‥‥」

 

 

あの律儀で生真面目で、それでいてお調子者な義弟を姉貴が拾ったのを聞いたときには、お月様が落ちてくるかと思った程だ。

しかもその子供が持っていた記憶の内容も信じられないもので、正直言って暫くアイデンティティが崩壊しかけたわ。‥‥姉貴に言ったら鼻で笑われたけどね。

 

 

「ま、それもまたよし、か」

 

 

でもそれで一番苦しんだのは、誰よりも外ならぬあの子だろう。

主に姉貴が魂にまで刻み込むかの勢いで、『自分がこちらの人間である』と刷り込まなかったら本当に自我を崩壊させてしまったかもしれない。

一時期のあの子の苦しみ様は、目も当てられない程酷かった。

気が狂ってしまいそうな世界からの拒絶の中、本当によく持ちこたえたっていくらでも褒めてあげたい。って、実際にやって煙たがられたんだっけ。

 

 

「さ、それじゃあ馬鹿義弟の顔を拝みに行きますか」

 

 

無造作に目の前の、何もないはずの空間を腕で一凪ぎする。するとそこはまるで水面であるかのように揺らぎ、ぶれて不鮮明ながらも違う場所の風景を映し出した。

私は既に慣れてしまったその門へと一歩踏み出す。

一瞬後には、確かに一人の魔法使いが立っていた草原に、人影はいなくなっていた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「く、あ―――」

 

 

今が何時かもわからないが、燭台の明かりだけが頼りの地下深くにある工房の中、つい居眠りをしてしまっていた俺は目を覚ました。

目の前の大きな机には寝る前に書き散らしたと思しき様々な魔法陣やら術式やらが散逸していて、とてもではないが部屋の主に整頓能力は見いだせない。

魔術師の工房と言えばこれほどそれらしいものはあるまい。部屋の壁はびっしりと魔術書が埋め尽くしていて、隅の棚には多種多様な実験道具が鈍い銀光を放っている。

隣の部屋に入れば、更におどろおどろしい器具が平然と自らの居場所を主張していて、下手すればお化け屋敷をそのままくり抜いてきたかのようにも見えてしまうだろう。

 

 

「次の実験は失敗したくないからな。十分に下準備をしないと‥‥」

 

 

前回の失敗の時は文字通り本当に酷い目にあった。

制御に失敗した術式が暴れ回り、体中の穴という穴から血を噴出させ、自力では指一本動かせないという有様だったからな。

実際すぐ後に青子姉が偶然訪れてくれなければ、うっかりあのまま死んでしまっていたかもしれない。

‥‥あそこまで怒った青子姉は初めて見た。連絡を貰ったらしい橙子姉にもわざわざ国際電話で叱られたし、やっぱり体は大事にするもんだよな。

 

 

「‥‥とりあえず一休みしようか」

 

 

長いこと座っていた椅子から身を離し、ばきばきと悲鳴をあげる間接に喝を入れて立ち上がる。

この工房は一般人の立ち入りを想定していないので、生活スペースと研究スペースがごっちゃになっている。

一応来客用の応接スペースもあることにはあるのだけど、そっちは一度も使ったことがないから、この一年の間でさながら書庫のようになってしまった。

ルヴィアはそういうのを気にしないから居住区画まで平気な顔して入ってくるし、まぁ衛宮達とも知り合ったことだから、あの空間も少しは綺麗にしようと思う。‥‥いたるところに堆く積まれた本の山をどこに移動させるかは問題だけど。

 

 

「なんか冷蔵庫にあったかなぁ‥‥? 買い出しに行ったの結構前なんだけど‥‥」

 

 

幸いにして凍ったトーストとハムにチーズを発見し、オーブンで焼いて皿に盛り、コーヒーも持ってソファーに腰掛けた。

ついでに時代外れ(アンティーク)の蓄音機も動かす。流れ出したドイツオペラに、俺は軽く目を閉じて思案した。

 

 

「『嗚呼、太陽の昇り行くことこそ我は恐ろし』、か‥‥」

 

 

昔の自分に置き換えれば、さしずめ太陽はFate本編である第五次聖杯戦争といったところか。

式や藤乃君のことなど伽藍の堂関連でも色々あったし、すぐ近くの三咲町では真祖や死徒二十七祖が暴れ回ってはいたけれど、冬木の聖杯戦争はそれこそ下手すれば誰も知らない内に世界が滅びかけるなんてことも有り得る最悪最凶の代物だ。

 

結局こうして始まる前にロンドンへと飛ばされてしまったわけだけど、それまではどうにかして自分に何か出来ないかと悩み、その度に以前封印したはずの“あちらの記憶”が蘇って俺を痛みつけた。ロンドンに着てからもまた一悶着あったけど、今はすっかり安定して、昔の記憶が俺の精神を苛むことはない。ただの情報として扱うことができる。

 

 

「でも、なぁ‥‥」

 

 

前にも言ったけど、聖杯戦争に関わらせなかった橙子姉達の判断は間違ってないと思う。

サーヴァントも持たない俺なんかが参加したところでBAD ENDの仲間入りするのが目に見えているし、なにより魔術師としてメリットがない戦いに参加するなんて論外だ。

でも、今こうして全てが終わったように見える日常の中でも、今だに解決されていない問題があることを俺は知っている。一人で苦しんでいる少女がいることを、俺は知っている。

自分に何か出来ることがあるのかもしれない。否、あるのだ

関わり合いになるべきではないと否定し続ける意識の片隅に追いやられたもう一人の俺が、手段はあるぞとがなり立てている。

 

 

「俺は、どうすれば―――」

 

「なーに、いっちょ前に悩んでるのよ馬鹿義弟」

 

 

と、かっこよく苦悩に沈んでいる俺の頭を、部屋の雰囲気にそぐわないやたらと元気のいい声と一緒にトランクの角が襲った。

幸いにして中身は空っぽに近い状態であったからさしたる衝撃はないが、いかんせん角、しかもそのトランクは古くさくて使いにくい非常に思いものであったから、俺は目を白黒させて頭を押さえて体を曲げた。

とりあえず朝食(?)を死守したことだけは評価してくれ。

 

 

「あ、青子姉―――?!」

 

「ハイ、紫遙。私がいない間元気にしてた?」

 

 

涙目でキッと振り返ると、そこにいたのは長い髪を無造作に下ろし、染みの一つもない輝くような白いTシャツとジーンズをはいた、下の義姉にして五人目の魔法使いの姿であった。

相変わらず意味もなく毎日楽しそうだ。理不尽にもほどがあるとは思うんだけど、俺は色々とこの二人の義姉には逆らえない。

 

 

「突然なにしに来たんだよ。来るなら前もって連絡の一つでもいれてほしいんだけどさ。‥‥できれば協会経由で」

 

「なーに言ってるのよ。ここは私の部屋よ? 自分の部屋に帰ってくるのに一々連絡いれる必要なんてどこにあるの?」

 

 

全然帰ってきてないくせに勝手知ったるといった様子で冷蔵庫へ向かい、俺と同じメニューを選ぶとオーブントースターに放り込む。

ていうか本当にこの放蕩義姉は連絡の一つもよこさずに人を死都に放り込んだりするから質が悪い。この前はちゃんと事前にあったからよかったけど、いつかは試験の前だってのに問答無用でどっかの地方都市のお祭りに連れて行かれたことがある。

 

 

「大体私が協会に気を遣う必要なんて、姉貴が私に気を遣う必要ぐらいありえないわよ」

 

「‥‥俺が色々言われるんだよ。魔法使いの関係者としては一番掴まえやすいんだから」

 

 

俺の手が空くとやれミス・ブルーはどこだ、やれ青の魔法使いを呼べだのお偉方が色々とうるさい。

時計塔には化け物みたいな魔術師がうようよいるんだけど、こうして口やかましく偉そうに人に命令してくるのは大抵が家名だけが一人歩きしてるような俗な爺様方ばかりだ。ていうか俺でも居場所わかんないんだから、連れてこいなんて言われても困る。

まぁ、なんだかんだで俺がいるおかげで時計塔は青子姉とツナギがとりやすく、その駄賃代わりに封印指定の橙子姉を見て見ぬふりしてもらっているという面もあるから、あんまり悪し様に言うのもどうかとは思うんだけど。

 

 

「喧しい爺様方なんて言わせておけばいいのよ。他にやることあるんだもの、構ってなんかいられないわ」

 

「参考までに聞こう。一体旅先でなにやってんの?」

 

「そりゃーおいしいもの食べたり、お祭りに参加したり、可愛い男の子ひっかけたり―――」

 

「はいストップ。最後の項目について異議あり」

 

 

青子姉は焼き上がったトーストとコーヒーを持って俺の真向かいのソファに座る。

どこに埋もれていたのか、トマトとタマネギのスライスまで載せてあった。実は俺よりもこの部屋を知り尽くしているのかも知れない。

俺は目の前の食卓にすら散乱している書類を適当にどけると、不安定な膝の上に置いていた皿を移し、落ち着いて安物のコーヒーを啜る。残念ながら一々豆を挽いている暇なんてないからインスタントだ。

 

 

「で、どうしたのよ」

 

「は?」

 

「さっき何か悩んでたでしょ? お姉さんに話してみなさいな」

 

「最初に思いっきり笑い飛ばしたような記憶があるんだけど」

 

 

そういう細かいことは気にしないのとまたもや笑い飛ばし、下の義姉は自分も皿を机において、コーヒーカップを口に運ぶ。別に意識しているわけではないんだけど、俺の仕草は一々この義姉達に似ているらしい。血は繋がってないのに、環境ってのは恐ろしいものだ。

 

 

「また『Fate/stay night』について考えてたんでしょ。もう終わったんだからあんまり気に病まない方が良いわよ?」

 

「‥‥‥」

 

「そりゃ一方的にロンドンに放り込んだのは悪かったと思ってるわよ。でもそうでもしないとあの頃のあなた、変な正義感とか発揮してつっこんでいきかねなかったでしょ? 姉貴なんて一時的に人形に魂移してしまおうかとか物騒なこと言ってたんだからね」

 

「‥‥命があってよかった‥‥」

 

 

知らないうちにトンデモないことになりかけていたことを知り、思わず背筋を冷や汗が伝う。

そりゃぁ橙子姉の腕は知ってるけど、とてもじゃないけどまともな人間なら人形になんてなりたくない。この場合の人形って多分事務所の棚の上とかにおいてあるマトリョーシカとか、そういったものだろうし。

 

 

「‥‥青子姉」

 

「ん?」

 

「あのとき覗いた俺の記憶、どのぐらい覚えてる?」

 

 

暫く無言で食事を済ませ、青子姉の分もコーヒーのお代わりを淹れてソファに座り直し、俺はおもむろに口を開いた。

視線は俯いたままで、眉間には皺がよっている。俺にとって真に何かを相談できる相手はこの二人の義姉以外にいない。ここで打ち明けておかなければ、次に相談できるのはいつになることかわからない。

 

 

「そうね‥‥。あれは私もかなり衝撃的だったから、結構覚えてると思うわよ?」

 

「‥‥じゃあ、登場キャラクターの中に間桐桜って子がいたのは覚えてる?」

 

「えーと、あ、あれでしょ。Heavens Feelルートの子」

 

 

青子姉はしばらく考え込むかのように頭を横に傾けていたが、あっと叫ぶと手鼓を打ったので俺も頷く。

かなり昔の話ではある。俺がこの世界に来たときの身体年齢は、大体小学校一年生ぐらいであったから、もう軽く十年以上経っている。俺自身かなり磨耗していて、主要キャラクターのプロフィールぐらいしか覚えていないんだけど、どうやらあの膨大な記憶を吸収し、なおかつ覚えている魔法使いや封印指定の頭は規格外らしい。

 

 

「あの娘って確か、体に蟲が巣くってるんだっけ」

 

「あぁ。間桐臓硯‥‥マキリの蛆蟲の本体が心臓に寄生してる」

 

 

あからさまに胸くそ悪そうな顔をした青子姉に、俺もおそらく同じ顔をして言葉を返す。

外道と呼ばれる魔術師は何人か見てきたけど、あの爺の醜悪さはその中でも折り紙付きだ。

なにしろ養子とはいえ自分の孫に本体を埋め込み、あまつさえ人を喰らって何百年も生き続ける妖怪。犠牲者だけなら他にもたくさん奪った奴は知っているが、こと在り方の醜悪さならあの翁に勝る者はいまい。

 

 

「ねえ青子姉。今さら俺が、『正義の味方』の真似事がしたいなんていったら、怒る?」

 

 

俺はぼそりとそう呟いた。

知っているのに、助けられるのに、それでも動かないでもし後で後悔することになってしまったら、俺はどんなに苦しむことだろうか。

これはある種の自己満足(エゴ)かもしれない。だとしても俺は、このままでは苦しみ続ける一人の女の子を黙って見過ごすなんてことはできないのだ。

物語は確かに一つのハッピーエンドを迎えたかもしれない。でも、そうしたら物語の陰で誰にも知られず涙を流し続けている脇役は誰が救ってやれるというのか。

正義の味方は目に映る者しか救えない。では目に映っていない者は、知っている奴が救ってやるより他はないだろう。

 

 

「いいんじゃない?」

 

「え?」

 

「いいんじゃない? って言ったのよ」

 

 

こっぴどく怒られ、説教されることを覚悟して口にした俺の言葉は、予想外に軽い調子で肯定された。

それは今まで散々俺を舞台から遠ざけようとしていた監督とは思えない返事だった。俺が思わず素っ頓狂な声をあげてしまったのも無理はないことだと思う。

 

 

「いいんじゃない? って青子姉、本当にいいのか?」

 

「いいわよ。昔と違って、随分と精神も安定してきたみたいだしね」

 

 

確かに、さっきも言ったが今は殆ど昔の記憶が俺を直接責めさいなむことはない。

今こうして俺が抱いている葛藤も、この世界に存在する蒼崎紫遙としての俺が間桐桜という少女の境遇に同情して抱いているものにすぎない。

言うなれば、偽善をためらっている状態にすぎないのだ。

 

 

「あなたはその間桐桜っていう娘を救いたいんでしょ? 正義を行いたいから、その娘を助けるわけじゃないんでしょ? なら私が言うことはなにもないわ。 あなたは昔っから物事を難しく考えすぎなのよ」

 

 

きっとその時の俺はひどく間の抜けた顔をしていたことだろう。

そりゃ研究の方が大事ではあったけど、その合間の時間はわりとこの件で悩んでいたのだ。なんかもう拍子抜けってかんじなんですけど。

 

 

「ただこれだけはしっかりと約束して。決して無理はしないこと。無茶もしないこと。危なくなったら一も二もなく逃げ出すこと。‥‥必ず無事で、帰ってくること。いいわね?」

 

 

立ち上がってポンと俺の頭に手を置く青子姉に、少し涙が出そうになった。

元の自分との手がかりなんて一つもない世界に放り出され、精神が体に引っ張られて不安定になり、毎晩寂しくて泣いていたあの夜を思い出す。

まだ架空の世界の登場人物だと、義姉達と微妙な距離を置いていたあの頃を思い出す。

そんな俺を散々しかりつけ、最後には笑顔で抱きしめてくれた二人の家族にまた涙したことを思い出す。

なにも心配することはなかった。俺がどんなに不安定でも、俺がどんなに悩んでいても、たとえ俺が道を踏み外したとしても、家族が首根っこ掴んで引き戻してくれるに違いない。

義姉達のおかげで、俺は、俺としてここにいられる。

 

 

「‥‥わかった。約束するよ」

 

 

だから俯いたままで、少し震えていても声だけはいつも通りに、そう言った。

そう、これからすることは俺の自己満足(エゴ)だ。でもいいじゃないか。俺が、苦しんでる女の子を放っておくことができない。それでいいんだ。

 

また一つ俺の心に溜まっていた澱が、義姉の手によってすくい取られたある一日だった。

 

 

 

 

 14th act Fin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十四話 『漂着者の出発』

 

 

 

 side Toko

 

 

 

 

「‥‥ああ、そうか。わかった。到着したら黒桐を迎えにいかせる。‥‥余計な気を遣うな。とっとと帰ってこい」

 

 

受話器を置き、灰皿に避難させておいた吸いかけの煙草を口に捩込んだ。

どこぞの誰かが戯れに作ったこの銘柄は世間一般では不評だが、不思議と私の口に合う。

ロンドンにいる義弟から来た突然の電話の内容について思考しながら、一筋の紫煙を吐き出した。

 

 

「橙子さん、今の電話は紫遙君から‥‥?」

 

 

デスクについて次の展覧会の会場設営の下準備をしていた黒桐が顔をあげ、尋ねてくる。

私は適当に曖昧な返事だけを返したが、それだけで大体を察したらしい。休憩を決め込んだのか、二人分のコーヒーをいれるとこちらに寄越し、自分はソファーに移動して感慨深げに息をついた。

この従業員、最近とみに仕草が渋くなっていっている。まだ若いくせに、雰囲気はさながら隠居した爺様だ。

 

 

「そうかぁ。彼がロンドンに行っちゃってから、もう一年ぐらいになるんですね。久しぶりだけど、元気かなぁ‥‥」

 

「元気も元気、相当有り余ってるようだ。厄介事まで持って帰ってくるつもりだぞ、あの義姉不孝者が」

 

 

せいぜい苦虫をかみつぶしたような顔になるように眉間に皺を寄せて吐き捨てたが、黒桐はなにやら微笑ましい顔をしている。

目線の先の自分の顔を撫でて気がついた。‥‥なるほど、どうやら知らず知らないの内に口元が笑っていたらしい。

口では散々言っているわりに本当は帰ってくるのが嬉しくてたまらないくせにとでも思われているのだろうか。‥‥程度の差こそあれ事実を含んでいるから言い返すことはできない、か。

しかしどうにも部下に心境を把握されているというのはあまりよろしくないな。上司として下の者には威厳を示しておく必要があるだろう。

‥‥とりあえず新しく購入した物品の伝票の整理でもやらせるか。

 

 

「‥‥ゴホン! じゃあ黒桐、あとで鮮花に倉庫へ行って例のモノを持ってくるように伝えろ。どうも兄弟子が一揉め二揉めするようだからな」

 

「ちょ、どこ行くんですか橙子さん! 仕事は?!」

 

「いつかやる」

 

「いつかってちょっと! 所長ぉぉおおお!!!」

 

 

背後で何やら叫んでいる気がするが、無視だ無視。

今日はもう仕事なんぞやる気にならん。行きつけのバーにでも行って、戻ってきたらあいつの礼装の調整でもしてやることにしよう。

ああ式、いいところにいたな。今日はちょっと黒桐に甘えてやれ。なに気にするな、最近少々疲れ気味らしいのでな。だからそのナイフを下げろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「里帰り?」

 

「ああ。もうこっちに来て一年になるからね。ここら辺で一度顔を出しておかないと、何言われるかわかったもんじゃない」

 

 

エーデルフェルト邸の一室。来客者を迎える部屋ではなく、この屋敷の主人であるルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト嬢の居室に案内された俺は、午後のティータイムを過ごしながら一時帰国する旨を友人に伝えていた。

彼女とは互いの研究の内容すら知っている程の付き合いだけど、俺が別の世界からやってきたことを知っているのは二人の義姉だけだ。

だから今回の帰国の詳しい事情は全く話していない。言っても理解できないだろうし、どこから情報が漏れるかわからないからな。

 

 

「それにしても随分とまた突然なんですのね。貴方、この前研究が一段階前に進んだばかりだって仰ってたじゃありませんの?」

 

「下の義姉が突撃かけてきてね。こりゃ上の方も近いなってことで」

 

「‥‥そう、でしたの」

 

 

あながち嘘でもないけど、本当でもないことで話を濁す。

そこまで長い付き合いではないにしろ気心の知れた彼女には、それだけで含むものがあると察することができたらしい。

何か言いたげにしていたけど、すぐに言葉を飲み込んでくれた。やっぱり持つべき者は良き友よな。

 

 

「そんなわけで、俺がいない間は工房の管理を頼めないか? 別に危ないモノ置いてるわけじゃないんだけど、あんまり長いこと放っておくとまたぞろ封印破ろうとかする輩が出るからさ」

 

「ええ、お任せになって。何日かおきに封印をかけ直せばよろしいのよね?」

 

「迷惑かけて悪いな。宜しく頼む」

 

 

魔術師の世界は厳しい。血で血を洗うなんて序の口、他人の工房に忍び込もうなんて下衆な三下は時計塔にだって掃いて捨てるほどいる。

魔術師にとって研究成果は真っ先に秘匿すべき対象だ。他人に公開するのはもとより、盗まれちまうなんてもってのほか。これをやられたら怒るより先に首をくくったほうがいい。自身の工房に侵入され、あまつさえ生かして帰すどころか秘中の秘たる研究成果まで盗まれたとあっては、もうその日から魔術師の看板を下ろせとまで言われているからだ。

 

そんな背景もあって、俺の工房にはかなり橙子姉譲りの強力で陰険な封印と、それに輪をかけて悪辣で意地の悪い罠を二重三重四重五重にしかけてあるから、侵入されて研究成果を盗まれるなんてことはないと思うけど‥‥。

どちらかというと、万が一にも封印を突破されたら罠にかかってる奴が木乃伊になる前を保護ないし処分する必要があるのが面倒だ。

あんまり長い間留守にするつもりではないけれど、何かあったときのために後顧の憂いはなくしておくべきだろう。

 

 

「でも出来る限り早く帰ってきて下さいな。さすがに私もミス・ブルーと遭遇するのは‥‥」

 

「その節は誠にご迷惑をおかけしました」

 

 

嫌なことを思い出したのか、冷や汗を浮かべつつ苦笑いをしたルヴィアに一直線に頭を下げる。

いつでも自身満々なこの金のお嬢様がここまで動揺するのには理由がある。

実は以前工房に遊びに――研究会に――来ていたルヴィアは、運悪くも襲撃してきた青子姉に散々おもちゃにされたという、一般人が聞いたら微笑ましい表情を浮かべ、こちらの世界の人間が聞いたらだくだくと滝のような涙を流しながら同情するような目に遭ったのだ。

その内容はあえてここでは言及しまい。なんというか、あれは彼女だからこそダメージが大きかったというか‥‥。

とにかく、それ以来彼女は俺の工房に来る前には必ず青子姉の所在を協会に問い合わせる。もっとも大抵まともな返事は返ってこないので、泣く泣く一か八かで訪れるのだけど。さながら度胸試しみたいなもんだ。

 

 

「まぁ本当に顔を出すぐらいにしておくつもりだからね。研究のこともあるし、すぐに戻ってくるよ」

 

「ええ。それじゃあ里帰りを楽しんでらっしゃいな」

 

 

さて、これで当面の問題は全て片付いた。

用件も世間話も終わったのでルヴィアに退出の許可を貰い、俺はのんびりと時計塔へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

「あら蒼崎君、ご機嫌よう。この前はお世話になったわね」

 

「や、やあ遠坂嬢‥‥。その節は、どうも‥‥」

 

 

大英博物館の裏口を学芸員の名札を見せて通過し、時計塔の教室棟の廊下を歩いていると、ふと見知った顔とぶち当たった。

少々とげのある言葉遣いから察するに、どうやら前回、もとい前々話のアレをまだ引きずっているらしい。

あの後完全な泥仕合と化した遠坂嬢とルヴィアの喧嘩と呼ぶには些か生ぬるい戦争は、魔術無しという状況ではあれどしっかりと引き分けであることを観衆が判定した。これは近くにいた何人かのロンドンっ子から聞いたから間違いない。

 

 

「そんなに縮こまらなくてもいいわよ。別に気にしてないわ。一番悪いのは女とみれば鼻の下伸ばしてひょいひょいくっついていっちゃう士郎なんだから」

 

「そういうわけでもないと思うけどなぁ‥‥。いや、だからこそ悪いのか‥‥?」

 

 

教授と話すことがあるからという遠坂嬢と一緒に、俺は延々と続く階段と廊下の繰り返しを進んでいく。ちょうど講義の狭間だからか人影も殆どなく、遠坂嬢は一応こちらでも普段被っている猫を思いっきりはがし、苛々と恋人の愚痴を吐き出し続けている。

けどさ、つまりはそれ、ノロケだろ? モテない男の前でそういうこと言うの止めような?

 

 

「そりゃ士郎は昨今まれに見るほど生真面目だし、鈍感だけど気は利くし、こっちが真っ赤になっちゃうくらい恥ずかしい台詞を臆面なく言っちゃうし‥‥」

 

「ははは。納豆喰わすぞ」

 

 

ライブで砂でも吐けそうな気分です。ハイ。

この娘、さっきから延々悪口ばっかり言ってる気らしいんだけど、段々と顔がにやけていっているのが自分では分からないらしいです。ハイ。

よく見なさいな皆の衆、彼女の右手を。ホラ、なんかぶらぶらさせてるでしょう?

これは普段右手を誰かの左手に預けている証拠です。下手したらコートの中でとかいうベタなことをやっている可能性も高いな。なんていうか、甘々ですね。

 

 

「ああ、そういえば蒼崎君」

 

「なんだい?」

 

「ちょっと頼みたいことがあるのよ。新しく教授から出された課題なんだけど、共同でやらない? 今回は鉱石素材の方に偏ってるからちょっとね‥‥」

 

「あー、悪いな遠坂嬢。それはちょっと無理だ。明日から里帰りの予定なんでね」

 

 

肩に提げたセカンドバッグから図面をとりだそうとする遠坂嬢を制する。

もう荷造りも完全に済んでるし、飛行機のチケットもとってしまっている。なにより事前に伝えておいた日時に帰らなかったら橙子姉になにされるかわからない。

 

 

「里帰りって‥‥日本に? それはまた随分急ね。まだ講義も残ってるでしょ?」

 

「ちょっと色々あってね。顔を見せるだけにするつもりだから、すぐに戻るよ」

 

 

時計塔の地下部分は、大体四〜五層に別れている。

一つが地上部分と合わせての講義室が集まっている場所。その下に教授達の講義室や、魔術協会としての通常業務を行うゾーン。そして俺は例外としてかなり上級の、時計塔に出向している魔術師達の工房があり、封印指定などのかなり危険なものを保管しているゾーンが最下層に位置している。

もちろん純粋に地下五階まで、なんて生やさしいものではない。簡潔に分けてみただけで、実際は地下何十階、下手すれば百階を越える超大規模な施設が時計塔である。

俺だってどこまでこの縦穴が続いているのか知らないのだ。おそらく学長ですら全容を理解してはいまい。

 

 

「と、私はここに用事があるから。失礼するわね」

 

「ああ。俺がいない間に鉱石学科を壊してくれるなよ?」

 

「‥‥貴方が私のことをどう思ってるか今はっきりと理解したわ」

 

 

鉱石学科の教授の部屋の前でばちばちと視線を散らす二人の学生。

かなりシュールな光景だろう。もっとも俺にはそんな気なんて欠片もありはしないのだが。

ひとしきり俺のことを睨みつけた遠坂嬢は、ふん! と鼻を鳴らすと礼儀正しくノックをし、返事を待ってから部屋へと入っていった。

今度会ったとき、何されるのかな、俺‥‥。

 

 

「さて、そんなことより準備しちゃわないとな」

 

 

更に深くへと階段を下りていく。既に周りには人っ子一人居はしない。ここは俗に言う、選ばれた魔術師達の住処であるのだ。

俺の根城としている場所だって、本来は魔法使いである青子姉の持ち物だ。他にも封印指定一歩手前やら、封印指定の実行者やら、協会の幹部クラスやらの工房がぎっしりと軒を連ねている。本来は各々の管理地やら自領やらに自前の工房があるにはあるのだけど、出張先とはいえ研究に使うものなれば、その形成に手抜きはない。

完璧な防音および対魔措置によって隣の部屋とは空間的に隔絶してあるから問題はないが、それでもあまりにも実力の在りすぎる魔術師達の住処が密集したこの階層は、ある種の固有結界じみた異界を形成している。

 

 

「着替えよし。パスポート(偽造)よし。冷蔵庫の中身の処分よし」

 

 

とんとん拍子に話が進みさえすれば二週間程度で片が付きそうだが、それでも相手が相手なだけに万が一ということもある。ま、長期戦になったらきっぱり諦めて逃げ帰るつもりではあるが。

俺は一応部屋中に散らかっている図面やら書類やら資料やらをひとまとめに整理して奥の部屋へと持っていくと、扉に厳重な封印をかけた。

今この部屋は俺がやってきたとき以来の整然とした姿をさらしている。おお、この部屋ってこんなに広かったのか。

 

 

「礼装は‥‥橙子姉が持っててくれてるのか。あれを回収して、あとは式に協力して貰えば準備は完了かな」

 

 

ソファに座ってグラスの中の液体を煽る。安いウィスキーだが、まあ戦勝祈願ならこのぐらいがちょうどいいかもしれない。

相手は数百年を生きた妖怪爺。はっきり言って相性は最悪だ。

 

 

「ま、なんとかなるさ」

 

 

くだらない正義感ではあるかもしれない。どうしようもない自己満足であるかもしれない。

まぁあれだ。ぶっちゃけて言ってしまえばこれも自分のためなのだ。

なにしろ、こういう憂いってのを残しておくのは精神的によくない。特に俺みたいにその記憶と情報のせいで半ば精神分裂を起こしかけてるような奴ならなおさらだ。

理論武装っていえばそうかもしれないけど、真実である。でも

 

 

「正義の味方の真似事ってのも、悪くないよな。男なら、誰もが一度は憧れるだろ」

 

 

そのぐらいで良いと思う。青子姉の言うとおり、あんまり深く考えることはない。

とりあえず今日はもう寝てしまおうと思った俺は、寝酒代わりにもう一杯安酒を煽ったのだった。

 

 

 

 

 15th act Fin.

 

 

 

  

 



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第十五話 『伽藍洞の人々』

だんだん文体が安定してきましたね。改訂も頑張っていきたいです。
今はSAOの次話を更新出来るように頑張っていますので、そちらもどうぞyろそいく!


 

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

「え? 紫遙いなくなっちゃったのか?」

 

「そう。なんか里帰りとかで、日本に」

 

 

ある日の夕食の時間。昨日からずっと煮込んでおいた大鍋にいっぱいに満たされた特製のハッシュドビーフを掻き交ぜながら、俺は遠坂の報告にそう返した。

なんでも今回教授から出された課題があまり得意じゃない分野だったとかで、どちらかといえば鉱石の方に詳しい紫遙に協力を頼もうと思ってたんだとか。

俺もセイバーもそういうのについて助けてやることができないから、あの人の良い(悪い?)友人には少しばかりの嫉妬に似た感情を覚えてしまう。

ちなみに以前このことを遠坂に打ち明けたら、『そんなこと言ってる余裕があるなら、新しく魔術の一つでも覚えなさい』と正論をお説教された後、すごく嬉しそうな顔で抱き着いてきた。なんでさ。

 

 

「じゃあ例の課題はどうするんだ?」

 

「ちょっと癪だけど、ルヴィアゼリッタに共同研究を申し込むわ。あいつもそこまで得意ってわけじゃないけど、二人寄ればなんとかなるでしょ」

 

 

不愉快そうに眉間に皺を寄せながら遠坂はシンクに腰を預けて紅茶を飲む。

会う度に程度の差こそあれ某かの口論や、時には実力行使の“お話し”をする二人だけど、はたから見てると実は結構相性がいいんじゃないかと思ってしまう。

普段家でこぼしているルヴィアへの悪口もちょっと捻って解釈すれば、互いの実力を認めているような節もあるし。

 

 

「それにしても今頃里帰りか‥‥。随分とまた急なんだな」

 

「あいつは私達とは違って、もう一年もココにいるらしいから。そんなものなんじゃないかしら?」

 

「そっか」

 

 

さらりとどうでもよさげに流した遠坂に、俺も適当に返事をして鍋の中身に集中する。

両儀の道場はもう顔見知りだから紫遙がいなくても出入りできるし、遠坂とは違って別になにか頼み事をしようとしてたわけでもない。

時計塔で普通に喋れる男はあいつしかいないから少し淋しくはなるけど‥‥

 

 

「あぁ、でも‥‥」

 

「どうかしましたか? シロウ」

 

 

いつの間にか俺の隣に立ち、スプーンでシチューを掬って味見と言う名の前食を楽しんでいたセイバーが顔を上げる。

両脇に美少女を二人侍らせているという他人が見れば実に羨ましいのかもしれない光景ではあるが、実際はそういうわけでもないのは今更言うまでもないだろう。

最近ご近所様で『二人の美少女を囲う罪な少年』として話題に上っているのを知っている以上、この現状には苦笑ぐらいしか出てこない。

なぁ紫遙、お前にならわかるだろ―――って、そうか、この苦しみを分かち合う奴はいないんだっけ。

 

 

「いやさ、今作ってるこれを紫遙に差し入れしてやろうって思ってたからな。少し多く作りすぎたか‥‥」

 

「侮らないでほしい、シロウ。この程度の量を飲み干せなくてなにが英雄か。私の目の黒い内は料理が余るなどということはない。安心して下さい」

 

「そ、そうか。ははは‥‥」

 

 

とりあえず食事の量の多少で英霊の価値は決まらないと思う。ま、ランサーとかなら結構食べそうだけどさ。

ていうか食べるんじゃなくて飲むのか。表現方法の違いがやけに気になる。

でも多分セイバーなら、全く相違なく水のように、この大量のハッシュドビーフを飲み込んでいくんだろうなぁ‥‥。

ぶつぶつと何かを呟き続ける恋人と、間断なくシチューの味見を続ける元従者に挟まれながら、俺はなんとなくやるせない気分になって溜息を零したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああいたいた! 紫遙君! こっちこっち!」

 

「‥‥幹也さん?」

 

 

空港を出て電車に乗るか、豪勢にタクシーを使うか思案していた俺の前に現れたのは、いつもと寸分違わぬ恰好をしたいくらか年上の同僚だった。

上着も黒、ズボンも黒、そしておそらく下着も‥‥かどうかはわからないが。

とにかく残暑もまだきついと言うのに、上から下まで肌を除けば完全な黒づくめなその風体は、当人のいかにも人のよさそうな優しげな顔がなければ、不審者として通報されたっておかしくない程の違和感をあたりに振り撒いている。

 

 

「迎えに来てくれたんですか? わざわざすいません」

 

「気にしないでよ。今日は所長も気が散っちゃってるみたいだし、仕事になりそうもないからね」

 

「橙子姉が、ですか‥‥?」

 

 

黒づくめの青年の後について駐車場へと向かう。

居並ぶ車の中にあって一際古めかしい軽自動車、橙子姉の愛車の一つ、モーリス・マイナー1000の助手席のドアを開けて潜り込んだ。

ヘビースモーカーの橙子姉の車だけあってかなり煙草臭く、幹也さんは乗り込んですぐに窓を全開にして空気を入れ換えた。

 

 

「事務所だと平気なんだけどね。こういう狭い空間だとちょっとさ‥‥」

 

「いや、橙子姉が吸ってる銘柄が特別臭うんですよ。あれは俺も無理です」

 

 

一時期義姉達の真似をやたらと試みた時期があり、いろんなものに手を出した。車と二輪の免許もとったし、ふらっと旅に出てみたこともある。

その中でも最たるものが橙子姉の煙草だが、あれだけはどんなに頑張っても無理だった。普通の煙草は平気だけど、あの銘柄だけはどうにも不味くて吸えたものじゃない。

今でも月に一回は戯れに譲ってもらった分から試してみるけど、今の所の戦績は0勝全敗0引き分け。先は長そうだ。

 

 

「まぁ、あれだよね。なんだかんだで橙子さんも一年も音沙汰なしで心配してるんだよ。ちょっと前には実験か何かで大怪我しちゃったこともあったんだって? 僕もあんまり他人のことは言えないけど、家族には心配とかかけないようにしないと」

 

「分かっては、いるんですけどね‥‥」

 

 

橙子姉が原作とかからじゃ想像も出来ないほど俺のことを気にかけてくれているのはよく理解しているし、感謝もしている。

、以前日常的に受けたガチでスパルタンな魔術指導とか、一つ単語を間違えるだけで軽いルーンを刻んだ小石が飛んでくる学校の宿題とか、そういうかなりの恐怖をともなった体験ばかりがフラッシュバックするので素直にその愛情(?)を受け取れないという、なかなかに困った性分になってしまったのだ。

お互いにそれを理解しているから関係は円滑だから問題はないんだけどさ。

 

 

「それで、今日はどうして帰ってきたんだい? 橙子さんは随分とまた物騒なことを口にしてたけど‥‥」

 

「あぁ、大丈夫ですよ。そりゃちょこっとばかり危ないとは思いますが、勝算はありますし」

 

「‥‥あんまり無理はしないでね。僕達だってそりゃあ心配してるんだから」

 

 

海外旅行ラッシュとは少々ずれた時期に帰ってきたために、高速道路はすかすかで渋滞もしていない。古くさくはあるがこまめに(俺が)整備していたクラシカルな英国車は快調なエンジン音を響かせながらすいすいと道路を進んでいく。

高速では窓を開けられないため車内のエアコンを外気に変えてガンガンに効かせているからさほど煙草の匂いは気にならない。

車外を流れていく、前の世界にいたときと寸分違わぬ東京の景色が妙に懐かしく感じた。

 

 

「そういえば幹也さん。頼んでおいたもの、できてますか?」

 

「うん、ちゃんと調べておいたよ。曜日別の時間帯までばっちりさ」

 

 

運転していた幹也さんへ尋ねると、ダッシュボードから一束の書類を取りだした。

一日を表す二十四個の項目の中に、なにやらその日その時間帯にとると思しき行動がびっしりと記入してある。

頼んでから二週間ぐらいしか経っていないというのに、相変わらずトンデモない調査力だ。

 

 

「これはまた‥‥。予想以上ですよ、幹也さん。これなら作戦も更に細かく立てられます」

 

「役に立てたなら良かったよ。君には橙子さんの代わりにお給料も貰ってるし、ね。これからも何かあったら承るよ」

 

 

インターチェンジが目の前に近づいている。

伽藍の洞があるのは都心からは少々離れた、それでいて一部の二十三区よりも便がいいという中々微妙な場所だ。

妙なところでこだわりがあるのか今だにETCを導入していないモーリスは一旦料金所で止まり、都会の喧噪の中へと潜り込んでいったのだった。

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 

工房・伽藍の洞。

渋谷からもいくつか電車を乗り換えれば着くというこの街の、既に建築計画が放棄されて久しい廃ビルにその個人経営の会社は存在する。

四方を塀で囲まれたこの空間に、用事のない者が入ることは適わない。希代の魔術師、封印指定の人形師である蒼崎橙子謹製の強力な結界が廃ビルの敷地を覆っているからだ。

ともすれば時計塔の教授レベルだって、うっかりすれば見過ごしてしまう可能性があるだろう。

そんな殺風景で温度を感じない建物の階段を上り、俺は四階のドアをあけると帰還の旨を伝えるべく口を開いた。

 

 

「よく帰ったな、紫遙。厄介事をついでに持ってきたのは感心しないがな」

 

「帰って早々の第一声がそれ? 橙子姉」

 

「当たり前だ。私は面倒くさいことが一番嫌いなんだ」

 

 

嘘だ、と俺は自分の席に腰掛けて煙草の煙を吐き出した橙色の髪の義姉に内心大いに毒づいた。

この暇をもてあました魔術師は面倒でややこしい事件を見つけては某かの形で首を突っ込む癖がある。

式のこともそうだし、藤乃君のときだってそうだ。鮮花の弟子入り嘆願だって、拒否しようと思えばいくらでも拒否できたんだし。

なんだかんだ言って甘くて優しい。他人に見せる魔術師としての冷徹な顔も真実橙子姉の一面ではあるのだけれど、それでも俺はこの人が身内にはなんだかんだで甘いことを知っている。

否、どうも最近幹也さんとかも察しているらしい。

あの人も大概一般人じゃないよな。

 

 

「あらお帰りなさい。久しぶりね、紫遙」

 

「ああ、鮮花か。魔術の勉強は進んでるかい?」

 

 

給湯室の方から俺の妹弟子にあたる黒桐鮮花が姿を現した。

到着の時間を予期していた師匠の支持か、手には茶を淹れた湯飲みを載せた盆を持っている。

ちなみに片方にはお茶菓子までついている。おそらく幹也さんの分だろう。相変わらず実の兄への恋愛感情は衰えるところを知らなそうだ。ていうか少しは兄弟子を敬おうとか思わないのか?

 

 

(そんなことより貴方、早く式を落としちゃってよ。あいつったらいっつもいっつも幹也とべたべたべたべた‥‥! あいつがいなくならないと私が幹也と一緒にいる時間が減っちゃうじゃない!)

 

(そんなの俺の知ったことじゃないだろ。ていうか俺に死ねというのか、非情な妹弟子よ)

 

 

近寄って湯飲みを渡してくれた鮮花がごにょごにょと小声で俺を地獄へ行進しろとせっつく。

どう考えても無理だ。まず式は幹也さん一筋だし、俺は式の相手なんて怖くてしていられない。

とりあえず対抗相手を他力本願で除けてしまおうという後ろ向きな考えから矯正して出直しなさい。

 

 

「まぁ飛行機の旅は疲れただろう。座れ」

 

 

立ったまま湯飲みの緑茶をすすっていると、橙子姉が手に持ったペンで俺を椅子へと促した。

来客と式用のソファーじゃない。俺が前に橙子姉の補佐をするために使っていた仕事机だ。

昔使っていたものは全てそのままに残してある。俺もなんとなくこちらの方が落ち着く気がしたので、特に文句もなく席に着いた。

 

 

「黒桐、お前は式を呼んできて、一旦下がれ。ここから先は裏の話だ」

 

「わかりました。‥‥紫遙君、頑張ってね」

 

 

あんまりといえばあんまりな程につっけんどんな橙子姉の言葉に頷き、幹也さんはすらりと部屋から出て行った。

式が今どこにいるのかは知らないけど、きっとあの人なら二十四時間彼女がどこにいるのか把握しているのだろう。

なにしろ調べることに関しては最上位の魔術師にだって適わない程の、正直怖い程の腕前なのだ。彼が本気になったらゴルゴのスケジュールだって把握できてもおかしくない。

 

 

「さて、まずは持ち込んだ厄介事について話して貰おうか」

 

「ちょ、橙子師。私はいて大丈夫なんですか?」

 

「ああ。お前にも関係のある話だ」

 

 

今だに立ったままの鮮花がうろうろと困惑を含んだ声をあげる。橙子姉はそれを容赦なく叩っ斬ると、彼女の定位置の椅子を指さして座るように指示した。

伽藍の洞自体の運営には関わっていないが、用意されている机の上には数々の魔術書などが並んでいる。

本来魔術師の家系ではない鮮花には魔術の知識を詰め込めるだけ詰め込む必要があるからだ。

俺は全員が定位置についたのを確認すると、おもむろに今回の帰国の要点のみを話し出した。

 

 

 

 

 

 

「‥‥成る程。それでお前は正義の味方の真似事がしたいというわけか」

 

「ダメか?」

 

「今さら何を言う必要がある。もしダメならロンドンにいる段階で青子が四肢を砕いてでも止めたはずだ。私からは何もない」

 

 

鮮花がいる手前ゲームのことなどは省いたが、大体の事情はそのまま説明した。

橙子姉は既にほとんどのことを理解しているらしく全く表情は動かなかったが、見習い魔術師の鮮花は垣間見た魔術師の闇の部分に些か以上のショックを受け、呆然と目を見開いている。

まだ一般人に片足突っ込んだままの彼女からしてみれば、自分の家族を胎盤にするなどという異常な在り方がとても信じられなかったようだ。

 

 

「それで、勝算はあるのか? 相手は数百年を生きた妖怪だ。生半可な相手ではないぞ」

 

「大丈夫。式に協力を頼んであるから」

 

 

間桐桜の心臓に潜んだ臓硯の本体をころす為には、橙子姉の人形に体を移してしまうか、式のもつ直死の魔眼が必要だ。

橙子姉の人形はやたら値が張るから善意という名の自己満足の押しつけに使うには気がひけるし、心臓に潜んだ爺に気づかれないようにやるのはまず不可能だろう。

よって俺は、日本に帰ってくる前に式に手紙を出し、手を貸してくれるように依頼し、快く承諾をもらっている。

本人曰く、最近平和過ぎて退屈だったから一暴れしたかったところだとのこと。ちなみに交換条件というか、対価のようなものもあったんだけど‥‥今は割愛。

 

 

「まあいい。では私から二つばかり手土産を持たせてやろう」

 

 

興味なさそうに鼻を鳴らすと、橙子姉は鮮花に倉庫から何かをもってくるように指示した。

戻ってきた鮮花が手にしていたのは、ちょうど野球のバットをしまうためのものによく似た円筒。野球のそれに比べてやや太めで、真っ黒で頑丈な作りをしている。

 

 

「いつぞや壊れて修理を頼まれたお前の礼装だ。多少出力を上げてあるから、精々大事に使え」

 

「ありがとう、橙子姉。‥‥あれ? もう一つは?」

 

「なにを言っている。目の前にいるだろうが」

 

 

礼装の入った筒を受けとってふと首をかしげた俺に、上の義姉は口にくわえた煙草を器用に動かして俺の目の前を指す。

当然ながらそこには何もない。‥‥正確にいえば、“いる”。俺の妹弟子で、稀代の炎の使い手である、黒桐鮮花が。

っておいおい、もしかして‥‥?

 

 

「と、橙子師?! まさか私にも行けって言うんですか?!」

 

「当たり前だ。お前以外に誰がいる?」

 

 

自分は関係ないと高見の見物をしていた鮮花が悲鳴にちかい声をあげる。

その前にしていた物騒な会話にまさか自分まで巻き込まれるとは考えもしなかったのだろう。安心してくれ、俺もだ。

一体なんでまた自分がと怖い者知らずなことにつかみかかってまで師匠に抗議する鮮花だが、次の橙子姉の言葉で沈黙した。

 

 

「上手くいったら時計塔への推薦状を書いてやろう」

 

「‥‥‥‥わかり、ました‥‥」

 

 

魔術師なら誰でも彼でも時計塔で勉強できるというわけではない。

当然のことながら席には限りがあるし、入るためには誰かしら権威のある魔術師から推薦状を貰っておく必要がある。

橙子姉は今封印指定の執行が一時とりやめの状態になっているから、この人形師の推薦状があれば一発で上位のクラスに編入ないし入学できるだろう。封印指定とは一種のパラメータでもあるからだ。

魔術師としてやっていくつもりなら、遅かれ早かれ協会とはつなぎをとっておく必要がある。鮮花が渋々ながらも協力を受諾したのもこのような背景があるわけだ。

 

 

「じゃあ私ちょっと幹也に断ってきます。どうせ式と一緒だろうから、あの人も引っ張って来ますね」

 

 

ひとしきりぶつぶつと愚痴と文句を垂れた後、鮮花はスカートを翻してドアを開けると、一応お嬢様らしく足音も静かに去っていった。

おそらく式のマンションで用事も忘れてだべっているだろう馬鹿ップルの妨害が主たる目的だろう。ほんとに諦める気とか微塵もないな。

 

 

「‥‥いいの? 橙子姉。そりゃ炎が得意な鮮花がいれば百人力だけどさ」

 

「構うな。そろそろ仮免の試験でも必要だと思っていたところだったんだ。ちょうどいい話でもある」

 

 

すぱー、とこちらも相変わらず不味そうな煙を吐き出し、俺がいる時にはあまりかけない眼鏡を右手でもてあそぶ。

やっぱり心配してくれているのだろうか。そんな気はするけど、ここは正直にお礼を言うような空気でもないと思うんだよな。

なんていうか、ホント姉弟して難儀な性分をしている。

 

 

「とりあえずこれだけは言っておく。無理はするな。無茶もするな。自分の手に余ると感じたら一も二もなくとっとと逃げろ。‥‥必ず無事で帰ってこい。鮮花もな。妹弟子はしっかりと守ってやれよ」

 

「‥‥うん」

 

 

なんだかんだで青子姉とも姉妹なんだなぁと思ったけど、怖いので口には出さずに肯定の返事を返す。

随分と遅くなってしまったようだ。窓から見える空は、昔ここからよく見た綺麗な夕焼けの空だった。

 

 

「‥‥ところで、ホントに推薦状書くつもり?」

 

「あいつの両親が許したらな」

 

 

 

 

 

 

 16th act Fin.

 

 

 

 

 



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第十六話 『三匹狼の出陣』

 

 

 

 side Mikiya Kokuto

 

 

 

「はぁ‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

 

溜息一つ。人口密度の少ない部屋にやけに響く。

僕は手に取ったペンをまるで学生のようにくるくると回してみて‥‥失敗した。

昔っからこれの原理がどうにも理解できない。まぁアレをやっている間は脳味噌の思考が停止しているっていう調べもあるし、できなくたって問題はないだろう。

 

 

「ふぅ‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

 

溜息二つ。いつもより幾分冷えたような印象を受ける部屋に響く。

目の前には次の展覧会を開くために必要な書類が何枚か束になっているけど、さっきからほとんど筆は進んでいない。

 

 

「う〜ん‥‥」

 

「‥‥おい黒桐」

 

 

従業員の如く入り浸っていた二人が外出している伽藍の洞は、さっきも言ったとおり、まだ残暑と呼ばれる季節であるにも関わらずいつもよりも数段空気が冷たく感じて、僕は作業をしながらそわそわと足を動かして暖を取っていた。

もともと内装なんてほとんど有りはしない剥き出しのコンクリートがそのまま壁になっているこの廃ビルは、殺風景で温度を感じさせない印象をもっている。

それでもここに住む人間以外の人たちが僕を含めて何人も出入りしていたこともあって、居心地が悪いかと言われればそういうこともなくて、どちらかといえば結構落ち着く場所だと僕は思うようになっている。

 

 

「なんですか? 橙子さん」

 

「式達が心配なのはわかるが、そのこちらまで気が滅入りそうな溜息はやめろ。仕事に集中できないだろう」

 

 

いかにもなことを言ってはいるけど、そういう橙子さんだってさっきから全然図面の上に置いた鉛筆が動いていない。

三人が出掛けてからまだ半日も経ってないくせに、やっぱり義弟が心配でしょうがないみたいだ。

 

 

「あまり気にすることもないぞ。お前は一般人だからあながちピンと来ないかもしれないが、式はもとより、鮮花もこと火に関しては他の追随を許さん。将来はどこぞの赤いのも越える天性の才を持っている。兄弟子もついていることだし、早々ヘマはやらかさんだろう」

 

「それはわかっているつもりですけど‥‥」

 

 

そう言い切った橙子さんは、また吸い終わった煙草の火を灰皿に押し付けて消し、新しいものを取り出して火を点ける。

僕は常日頃から流石に吸い過ぎだってそれとなく忠告してるんだけど、いつもいつも空返事ばかりで一向に聞き入れた様子がない。

もしかしたらその辺りも魔術でどうにかしているのかもしれない。魔術ってのがどのくらいの万能性があるのかイマイチ理解できてないから判断はつかないけど、今度鮮花にでも聞いてみよう。

 

 

「それにしても橙子さん、よく紫遙君をそんな危険なところに行かせましたね」

 

「ん? 不思議か?」

 

「不思議も何も、普通なら止めますよ。ていうか止めると思いましたよ、僕は」

 

 

既に仕事をする雰囲気ではなく、もはや毎度の如く僕は給湯室で二人分のコーヒーを淹れて、ついでに紫遙君がロンドン土産にと買ってきてくれたスコーンと一緒に机に置く。

ホントはこれには紅茶を合わせた方がいいのかもしれないけど、残念なことにバターもジャムもないし、うちはどちらかと言えばコーヒー党の人が多いから紅茶はティーバックすら常備していない。

軽い塩味しかついていないスコーンに合わせて少し濃いめに淹れた黒い液体を味わい、僕はふと疑問に思ったことを橙子さんに聞いた。

 

 

「まぁ‥‥あいつには少々事情があるからな」

 

「事情、ですか‥‥?」

 

 

味気のない―――元々そういうお菓子なんだけど―――スコーンを囓ってしかめっ面を作った橙子さんが、一度は灰皿においた吸いさしの煙草を再び手に取る。

あれだけ吸っていてちゃんと料理の味がわかるというのは凄いものだと思う。やっぱり魔術なんだろうか。

話をよく聞くために僕は椅子から立ち上がり、まるで上司から説教をうける部下のように橙子さんの机の前に立った。

 

 

「あいつはな、世界から常に拒絶されているのさ」

 

「世界から、拒絶?」

 

「この世界にはな、自分に害する存在、異分子、根源へと到達しようという身の程をわきまえない人間や生物を排除する『抑止力』という意思がある。あいつはその『抑止力』からたびたび圧力をくらっているのさ。おそらくこの世界にたった一人の、真なる意味での異分子であるが故に」

 

 

そう言って一息ついた橙子さんは、おそらく今頃紫遙君や式達がいるであろう冬木の方角にぼんやりと視線を巡らせた。

『抑止力』云々はまだしも、紫遙君が異分子であるなんてことは僕には全く理解できない。

優しくて人が良く、他人にも気が利いてちょっとおどけたところもある普通の人間である彼が、なぜ世界から拒絶をうけなければならないのだろうか。

そんなこといったら、伽藍の洞の面子は全員が全員異端と言ってもおかしくはないと思うのだけど。

もしかしたら彼が養子だということに何か秘密があるのだろうか。

 

 

「そう、詳しくは話せないが、あいつはこの世界にたったひとりぼっちなんだ。私とあの馬鹿妹で散々『自分はこの世界の人間だ』とすり込んだつもりだが、ひょんなことで世界から精神的な圧力をくらうときがある。意味もなく不安になったり、意味もなく何かに怯えたり‥‥。あれでは夜も眠れまい。中々えげつない奴だよ、世界というのはな。だからそれを解消するためにも、多少はあいつの好き勝手にやらせる必要があるんだよ」

 

「そう、なんですか‥‥。よくわかりませんけど、今回の件は紫遙君にとって必要なことなんですね?」

 

「そういうことだ。あいつは自分の我が儘に過ぎないと、私たちに気を遣っているようだがな。全く、不器用な奴だよ」

 

 

それは自分もか、手先が器用になると生き方が不器用になっていけない、と呟いてまた吐き出した一筋の紫煙が、器用に○を描いてふわふわと流れて空気に溶け込んでいく。

僕より幾分年下の友人が抱えるという問題。それは僕にはよくわからないし、どうにかできるものでもなさそうだ。

だからせめて、せめて無事に彼が帰ってこられるように、彼を苦しめる世界という名の神様に祈るわけにもいかないから、ただただちゃんと帰ってくることを外ならぬ彼へと願ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥ここが、冬木‥‥」

 

「ああ。そして日本で一、二を争う大規模な儀式、聖杯戦争が開催される地でもある」

 

「いいね。ところどころ良いカンジに空気が歪んでる」

 

 

周りのなんてことない普通の景色に、想像していたものと少々違っていたのが拍子抜けだったらしい鮮花が呟く。

隣の式は中々に物騒なコトを言っていて、どうやらよほど血に飢えているらしい。

最近は殺人衝動も割と治まっているのかと思ってたけど、どうやら幹也さんの前だから自重していたようだ。

それはどちらも式で、どちらも本当なのだろう。あまり精神に負担がかかっているようにはみえないから。

 

 

「さ、まずはホテルをとって、作戦会議だね」

 

「そうね。電車に乗りっぱなしでちょっと腰が痛いわ‥‥」

 

 

 

冬木は観布子からは電車で何時間かかかる。当然特急なんて大層なものは通ってないから、のんびりゆっくり鈍行列車での旅となり、なかなかに疲れてしまったようだ。

式は席につくと同時に居眠りを始め、俺は幹也さんが調査してくれた間桐桜のレポートを読んでいたからよかったけど、何も暇つぶしを持ってこなかった鮮花はかなり苛々している。

俺はそんな妹弟子を適当に宥め、予め確保していた駅近くのホテルへと爪先を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥で、一体私達は何をすればいいの?」

 

「蟲退治」

 

「もっと詳しく頼む。オレは話聞く前に鮮花に拉致されたからな」

 

 

ホテルに着いた俺達は男と女で部屋分けし、一旦各々自由行動で街を回ったり必要なものを手配したりして、今はエチケット面に気を遣って俺の部屋で作戦会議の体制に入っている。

見事に中の中といったランクのホテルの一室は手狭だが、まぁ長逗留というわけではないから問題はあるまい。

 

 

「あなたがずっと幹也といちゃいちゃしてたからでしょうが! 二人でいれば際限なく絡み合ってるんだから‥‥! 独占禁止法違反よ! 少しは私にも分けなさい!」

 

「よーし鮮花、わかったから少し落ち着こうな。ていうかその発言は色々とまずいから」

 

 

三人で囲んだ机の上には、冬木のご当地観光マップのようなものが広げられている。

何故か深山町の住宅街とか明らかに観光とは関係ない場所まで細かく記載されているが、この際便利なのでツッコミはなしの方向で。

どうもこの街の住人達は少々頭が温いらしい。こういう面白不思議なことをやらかしてくれる辺り。

 

 

「標的の所在地はここ、深山町の間桐邸だ」

 

 

地図の中、ちょうど住宅地になっている場所の一点を指差す。どこまで欲張るつもりなのか、堂々と『間桐邸』と記載してある。

まさかと思うが、地元では有名な洋館だなんて観光名所にする気ではなかろうか。

 

 

「そして戦いの舞台はココ、新都の中央公園だ」

 

「あら、間桐邸に乗り込むんじゃないの?」

 

「君は馬鹿か。ただでさえトンデモない相手なのにわざわざ懐まで飛び込んで行ったら、俺達全員蟲の餌だぞ」

 

 

男らしい方針を堂々と口にする鮮花にでこぴんし、魔術師にとっての工房というものがどれだけ危険なのか再度講義する。

ただでさえ何百年もの歴史を持つ名家であるのに、してや初代の当主が今だ存命とあってはどのような悪辣な罠が仕掛けられているかわかったもんじゃない。

陰湿なマキリの蛆蟲があちらこちらからわらわらとインディ・ジョーンズよろしく襲い掛かってくる様子を想像し、俺は傍らに置いてあったミネラルウォーターを勢いよく煽って気分を変える。

人間には根本的な本能に働きかけてくる、生理的な嫌悪感というものが存在するのだ。

 

 

「しかしどうやっておびき出すつもりなんだ? オレだったらわざわざ自分の要塞から出てこないけどな」

 

 

先程から黙って腕を組みながら地図を眺めていた式が口を開く。恰好はいつもと同じ着物姿で、暑いからかジャケットは羽織っていない。

最初はあからさまにヘンテコな着こなしが街中でも目についたものだけど、最近はもうあれが彼女の普通のスタイルだって自然と思ってるから、むしろこういう恰好の方が違和感があったりする。

もちろん中性的な顔立ちとスラリとした均整のとれたスタイルに、シンプルな柄の着物は抜群に似合ってはいたけれど。

 

 

「それについては心配いらないと思うよ。‥‥ホラ」

 

 

言い終わるや否や、半開きにした窓から銀色の小鳥が入り込んで来た。

細長いワイヤーのような金属を束ねて作られたソレは、俺の手の平の上にとまると、途端に力を失って崩れ去り、砂と化す。

 

 

「それは?」

 

「即席の使い魔‥‥の真似事未満ってところかな。コイツに間桐邸まで手紙を届けさせた。かの蟲の翁なら決して放置はできないような内容の、ね」

 

 

式も鮮花もいまいち要領の掴めない顔をしていたけど、詳しい言及は避ける。

手紙に書いた内容は簡潔。今日、深夜に新都の公園に来られたしという旨と、『ユスティーツァとナガトに会いたくはないか?』という一文のみ。

何百年も昔の三者のしがらみを正確に把握しているのは、もはやマキリの当主たる間桐臓硯とアインツベルンくらいしかいない。

今更あの聖杯の偏執狂共が臓硯を呼び出す用事もないとくれば、自分達のことを知っている不審な差出人に会わないわけにはいくまい。だから俺はご丁寧にも、アインツベルンの御家芸である貴金属の加工を模したこの出来損ないで揺さぶりをかけまでしたのだ。

何百年も生きた魔術師としての自負はもとより、自身の本体は孫娘の心臓に潜ませているという保険を用意している以上、あの妖怪爺は油断と慢心を伴って現れるだろう。

 

 

「じゃあ戦術の確認だ。式は陽動、俺は援護、鮮花が手当たり次第に燃やし尽くす。これでいいね?」

 

 

俺の言葉に二人は無言で頷き返す。戦いに慣れている‥‥というかバトルジャンキーな式は全く普段通りの様子だが、荒事の経験が少ない鮮花は多少緊張しているのか肩に力がこもっている。

本来は俺と式の二人だけで挑むはずだったこの作戦も、急遽鮮花が参入したことでかなり楽になっていた。

敵の間桐臓硯の属性は水。しかし自然魔術に秀でているわけではなく、主に使い魔であり、己の分身でもある蟲の使役と吸収の魔術を得意としている。

乃ち、短い詠唱で馬鹿みたいなトンデモない火力の焔を生み出す鮮花は奴の天敵と言っても過言ではない存在だ。

攻撃の要が加わったことで、俺の持ち味も生かすことができる。

負けるつもりなんて最初からさらさらないが、随分と戦い易くなったことには違いない。

 

 

「いいかい二人共。何度も言ったけど、臓硯は数多の蟲の集合体だ。本体は間桐桜嬢の心臓に寄生しているから、これから俺達が相手する奴には急所なんて存在しない以上、式の魔眼も効果は薄い。だから倒すには―――」

 

「体を構成している蟲を、一匹残らず消し炭にする。でしょ?」

 

「正解。今回は鮮花、君にかかってるぞ」

 

 

式には直死の魔眼の使用を控えるように伝えてある。万が一に臓硯にその存在を知られてしまった場合、どのような対抗策をとられるか予想できないからだ。

つまり、実質式はたいした戦力にはならない。俺の魔術礼装も、その特性上臓硯との相性は最悪と言ってもいい。

 

 

「冬木に俺たちが侵入したことは既に臓硯の知るところとなっているはず。幹也さんの調べによれば、もう一人の標的である間桐桜嬢は今夜衛宮邸に泊まり込んで敬愛する先輩の留守を守っているそうだ」

 

「けなげだな」

 

「つまりチャンスは今夜のみ。この一戦で、しっかりとしとめるぞ!」

 

 

地図を丸えてゴミ箱に放り込んだ俺に、目の前の相棒たちが力強く頷いた。

こんな俺の自己満足(エゴ)にすぎない危険な仕事に同行してくれた彼女たちには感謝してもし足りないな。

俺はそんな二人に無言で深く頭を下げ、今夜の荒事に備えるために各々準備や休息をとるべく部屋へと戻っていったのだった。

 

 

 

 17th act Fin.

 



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第十七話 『蟲の翁の登場』

 

 

 

 side Sakura

 

 

 

 

「やっほー桜ちゃーん! ご飯食べに来たよー!」

 

「おかえりなさい藤村先生。今日はちょっと豪勢ですよ?」

 

 

夕暮れ時を通りすぎ、既に辺りは真っ暗になった衛宮邸。

この家の主である先輩はねえ‥‥遠坂先輩と一緒にロンドンに行ってしまったけど、その間の管理は藤村先生と私に任されている。毎日こちらにいるわけにはいかないけど、週に四度は来て、なおかつ泊まって藤村先生に夕食を作る。

『家は使わなかったら傷んでしまうから』と快く鍵を預けたままにしてくれた先輩のためにも、隅から隅まで掃除をして、留守の間はこの短いながらも大事な想い出のつまった屋敷を守っていきたい。

 

 

「やっほー! おぉぉぉぉ?! 今日はハンバーグね!」

 

「ちょっと凝って和風にしてみました。冷めないうちにどうぞ」

 

 

席にすわるや否や箸をとって、いただきまーす! と大きく元気のいい声をあげた藤村先生は勢いよくご飯とおかずを口の中へと投入していく。

私はおひつを自分のすぐ横におくと、控えめにいただきますを言ってご飯を口に運んでいった。料理の評価をしてくれる先輩はいないけど、うん、まぁこれならきっと『美味しいよ桜』と言ってくれるに違いない。

セイバーさんのようにコクコクと頷くと、間を置かずに突き出された藤村先生の茶碗を受けとってお代わりをよそった。

 

 

「それにしても桜ちゃん、本当にこっちに来てていいの? えーと、お爺様がいらっしゃるんじゃなかったかしら。その方は?」

 

「お爺様はそういうことにあまり頓着しない方なので。兄さんも県外に行ってしまいましたし、家でも一人みたいなものですから」

 

 

ご飯を間断なく咀嚼する傍ら、器用に言葉を紡いだ藤村先生の質問に答える。

お爺様は太陽の光が苦手だから、分厚い遮光カーテンで覆われた居間にもあまり出てこない。だから先生に言ったとおり、家にいたって一人となんら変わらない。

‥‥そういえば今日のお爺様はいつもと様子がおかしかったような。

『今日はできれば衛宮の家に泊まっていけ』なんて普段なら絶対言わないようなことをわざわざ居間に出てきてまで私に伝えてきた。

 

 

「成る程ねー。桜ちゃんも色々と大変なんだ。‥‥よぉし! 今夜は久々に女の子同士、日ごろの鬱憤不満をぶちまけるパジャマパーティーに決定!」

 

「ふ、藤村先生、明日は部活あるんですよ?」

 

「だーいじょぶだいじょぶ! 私達まだ若いんだから! 元気なんて有り余って今にもこう、熱いパトスがほとばしっちゃうカンジでしょ?」

 

 

どちらかというと藤村先生が発するそれは、熱いではなく暑いと誤字変換されそうだ。

口に出したら間違いなく妖刀虎竹刀が唸りをあげそうなことを考えながら、私はまた突き出された藤村先生のお茶碗と自分のそれに、お代わりのご飯をよそったのだった。

 

 

(でも先生、とりあえず若さを自称するのは無理があると思います‥‥)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残暑も厳しい季節だというのに、三匹の狼達が佇んでいる冬木の中央公園には不思議な、否、不気味な寒気が立ち込めていた。

そもそもこの土地は冬が長いから冬木と名付けられこそしたが、別段夏は涼しくて過ごしやすいといったミラクルな反証効果はない。日本海側の地方都市なんて大体そんなもんだ。

にも関わらずここまで背筋に鳥肌が立つ程の悪寒を感じるのは、おそらくこの場特有の雰囲気、乃ち霊障によるものであろう。

 

 

「ここ‥‥随分と気味が悪いのね。なにか、怨念みたいなものが漂ってる」

 

「無念、苦痛、負の想念のごった煮だな。何の耐性もないヤツが長時間留まってたら発狂してもおかしくないぜ」

 

 

魔術師としての感覚をもった鮮花と、優れた感受性の式が辺りの空気をそう評する。

十一年程過去のことになるのだろうか、ここで大火災が起き、殆ど全ての人間が焼け死んだのは。

もはや生き物と形容するより他ない速度で這うように地を駆けた呪いの炎は、ほとんど一瞬でこの周辺を悪夢で覆ったと昼間に話を聞いた酒屋の看板娘は語っていた。

一体どう思ったのだろう。当時、たった一人で地上に降って湧いた悪夢の顕現の中に取り越された●●士郎は。

きっと何が起こったのか予想もつかずに死んだのだろう。偶然に助けられなかった他の人々は。

 

 

「もはやある種の固有結界、か‥‥。数多の想念が寸分違わぬ光景を思い浮かべたと考えれば‥‥確かに今この瞬間に地獄が再現されるに足る環境が整っていると言えるね。全くもって、トンデモない」

 

 

もし噂に聞く彼の死都二十七祖が十三位がこの街に目を付けたとしたら、三咲町以上の悪夢が顕現したに違いない。

昔訪れたことのあるイタリアの古代都市、ポンペイでも似たような戦慄を味わった記憶があった。

あまりにも大規模な惨事は時代を乗り越えて犠牲者達のその瞬間の記憶を後世に残す。犠牲者達とその場所に、共通した強烈な感情が焼き付くからである。

確か昔、その場に焼き付いたその濃度の濃い情景を利用して固有結界を形成するなんて研究を完成させて、封印指定をくらった魔術師がいたそうだ。

なんでも効果範囲がべらぼうに広いのと、内部で発生した事象が現実を侵食するという有り得ない結果が起こったと言うが‥‥。

 

 

「‥‥来たぞ!」

 

 

予め公園に張り巡らせておいた結界が侵入者を告げる。

何の小細工もなしに堂々と正門から入って来たソレは、一般的な老人が歩く速度でのろのろとこちらへ進んでくる。

 

 

「‥‥カッカッカ。貴様らか、ひ弱な老人をこんな時間に呼び出したのは」

 

 

木々の作る影の合間から、一人の老怪が音もなく姿を表した。

この場にいる誰よりも小柄で、この場にいる誰よりも弱そうで、この場にいる誰よりも醜悪。

姿ではない、在り方が醜悪なのだ。普段は微塵の隙もなく隠し通しているその嫌な空気が、この場の負の想念に引きづられて姿を表してしまっている。

小柄な体駆と侮るなかれ。その身は既に人にあらず。

どちらかといえば吸血鬼に近い、自身を構成する全てを蟲へと変えて五百年もの時を生きながらえた妖怪だ。

 

 

「まずは名前と、あの戯けた文の意図を聞かせてもらおうかのう」

 

「なに、たいしたことではありませんよ御老体。あれは貴方をおびき寄せる餌にすぎない」

 

 

また一歩近づいた間桐臓硯が、キチキチと嫌な音を鳴らしながら口を開く。

自己紹介はない。相手が自分のことを知っていることは既に把握しているのだから、無用な問いは必要ないと考えたのか。

アインツベルンのお家芸を模した稚拙な使い魔によって届けた手紙には差出人の名前をのせていない。最初の挨拶としては適切なものだろう。

 

 

「カ、カ、カ。最近の若い者は年寄りに対する礼儀も知らぬと見える」

 

「はぁ。蟲に挨拶する理由がありますかな? マキリ・ゾォルケンよ」

 

「ユスティーツァやナガトの名前を出したことといい‥‥。冬木の者ではなさそうじゃが、お主、アインツベルンの手の者か?」

 

 

皺くちゃの顔が俺の言葉にぴくりと歪む。

前話でも述べたが、間桐の隠し名を知っているのはもはや御三家でも僅か。当主か、それに類する存在だけだ。

しかし遠坂の家は先代の遠坂時臣が次代当主である遠坂嬢に詳しい資料を渡す前に、第四次聖杯戦争に破れて死去してしまった。それは英霊召喚の触媒を用意できなかったことからも明白であろう。

そもそもあそこには現在他に系類がいないとなれば、俺をアインツベルンの手の者かと勘繰るのは当然の思考手順だ。

俺はわざわざ普段なら絶対にやらない勿体つけたような笑みを浮かべると、ミュージカル俳優のように両腕を大きく広げ、顎をあげると見下すようにニヤリと口を開いた。

 

 

「そんなことはどうでもいいでしょう。大事なのは、これから貴方が死ぬというその事実だけだ」

 

「儂を‥‥殺す、とな? カ、カ、カ、カカカ、カカカカカ!! おもしろいことを言うな? 小童が!」

 

「‥‥紫遙ったら、楽しんでるわね」

 

「ああ。楽しんでるな」

 

 

後ろで外野が何やら言ってる気がするけど無視だ無視。楽しむ時に楽しまなきゃ人生損するぞ?

ま、あんまりはっちゃけると失敗するってのは十分承知してるけどさ。

臓硯は俺の言葉に弾けたように耳障りな笑い声を上げ、ギロリと白目と黒目の区別がつかない宝石のような瞳でこちらを睨む。

 

 

「いやしかし、はてはて、儂は見ず知らずの小僧に殺されるようなことをした覚えは無いんじゃがのう? この老体が一体お主の気に障る何をしたというのじゃ?」

 

「よくぞそこまで飄々と口が回るものだな、妖怪。簡単なことだ。アンタの存在は俺の精神衛生に悪い。それだけのことだよ」

 

 

互いにこれから為すべきことの区切りが付いた。

そう、本来この闘争に対する理由付けなど必要ない。俺は語るべき言葉をもたないし、奴はそも目の前の若者達が自分に敵対しようとしている事実さえ分かればそれでよかったのだろう。

戦いの気配を纏った臓硯の体からは、屍臭を彷彿とさせる思わず鼻をつまみたくなるような気色の悪い魔力が病風のように涌き出し、こちらへ押し寄せてくる。

互いの目的を完全に理解し合ったからこその戦闘態勢だ。

両脇で同行の二人もそれぞれのエモノを構える。鮮花は火蜥蜴の革の手袋を、式は腰に差したごつい造りの片刃のナイフを。

俺も肩に下げた円筒形の入れ物の蓋を開け、中に収納された魔術礼装を地面へとぶちまける。

野球ボールより大きく、バレーボールよりも小さいという中途半端な大きさの球体が七つ。

鈍い金属光を放つそれは幾種類もの異なる特性をもつ金属を組み合わせたもので、術者の意思に従って自在に宙を舞うというものだ。

 

 

「カカカ‥‥。尻の青い小僧っ子共、覚悟せいよ。男は骨の髄まで貪り尽くし、女子は蟲の胎盤として地下で飼い殺してくれよう!」

 

 

カツン! と手に持ったステッキで大地を叩く。たったそれだけの動作で、臓硯の足下に出来た影がゆらりと波打った。

続けて影から何かが這い出してくる。闇に紛れて見えづらいが、それは蟲の幼虫であった。

幼虫達はその一歩(?)ごとに脱皮や羽化を繰り返し、見る間に人の拳よりも大きな異形の姿へと変態する。

甲虫、多足類、蜂や蛾の類など、種類は様々なれど皆共通して攻撃的な面相へと改良、否、改悪されていた。

あれこそがマキリの得意とする蟲の使い魔達だ。たちまちのウチにそれらは数を増し、もはや軍勢と呼ぶに足るほどの数でぞわりぞわりと隊伍を組む。

 

 

Samiel (ザミエル)―――!」

 

 

両脇の同行者達に一拍遅れて、俺は両手を楽団(オーケストラ)の指揮者のように振り上げると起動キーを口にする。

所有者たる俺の意思に従い、先ほどまで何の変哲もないオブジェのように大地に転がっていた球体達は命を吹き込まれ、ふわりふわりとまちまちな高さへと浮かび上がった。

 

 

Ich nennt mich Samiel (我が名はザミエル)―――!」

 

 

最後の呪文を唱え終えると、俺が全幅の信頼を置く上の義姉との共同研究で作り上げた魔術礼装達は、途端に活力を注がれてひゅんひゅんと風を切る音も高らかに主の周囲を旋回し始める。

これこそが俺の武器、俺の剣、俺の盾。

魔術礼装、『魔弾の射手』。1〜6番の遠隔操作するカスパールと、7番の半自律戦闘するザミエルからなる七つの空を斬って疾る球体だ。

物理衝撃を伴うが故に対魔力に影響されにくく、操作半径が広いがために相手に接近する必要もない。

かのケイネス・エルメロイ・アーチボルト卿の誇った無敵の礼装、『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』ほどの汎用性や威力はないが、これはまだ試験段階にすぎない。

俺が鉱石学科に所属しているのもこの礼装の開発に他ならないのだ。

 

 

「燃やし尽くして上げるわよ‥‥!」

 

「精々楽しませてくれよ、蛆蟲共」

 

 

鮮花が両手にはめた火蜥蜴の革の手袋を握りしめる。彼女の類稀なる才を示すかのように、たったそれだけの動作で手袋からは火の粉が散った。

式がナイフを逆手に構えて左手を前に突き出す。彼女の尋常ではない力を畏怖するかのように、たったそれだけの動作で周りの空気がゆらめいた。

蟲達は今も益々その数を増やし、臓硯を中心に二メートル程が黒い絨毯と化している。

うぞりうぞり、ぎちぎち、ぎゅらぎゅらと耳障りな音を発し続けるその絨毯は、統率者である翁の命令を今か今かと待っているようだ。

 

  

「さぁ、行くぞマキリ・ゾォルケン。蟲の貯蔵は十分か?」

 

 

いつぞや戯れに衛宮に放ったものとは異なる、本物の殺意をこめた俺の言葉が、争乱を前にして静寂に包まれた冬木の中央公園に不思議なほど鮮やかに響きわたった。

 

 

 

 

 

 18th act Fin.

 

 

 

 



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第十八話 『三匹狼の死闘』

このあたりからちゃんと行頭に一字下げをするようになってきています。やっとしっかり小説の体を為し始めてきたというわけですね。
改訂は間桐臓硯編までを一区切りとして投稿していきたいと思っております。おそらくこの辺りからまともな文章になってくるので。
どうぞ応援よろしくお願いします!


 

 

 

 

 

 side Luviagelita

 

 

 

「おや? ミス・エーデルフェルトではないか。こんなところで何をやっているのかね?」

 

 

 友人であるショウからの頼みで彼の工房の封印を確認した帰り、私は廊下を歩いていると背後から声をかけられました。

 振り返ると、そこに立っていたのは時計塔なら知らぬ者のいない超有名人。プロフェッサー・カリスマ、マスター・V、グレートビッグベン☆ロンドンスター、新なるエルメロイ、アーチボルトの救世主、女生徒が選ぶ時計塔で一番抱かれたい男、自称征服王イスカンダルの第一の臣下、秋葉原をこよなく愛するゲームヲタクなど、数々の異名を持つ名物講師、ロード・エルメロイⅡ世。

 すらりとした華奢な体格を膝まで覆う長衣で隠し‥‥きれてはいませんけど、手には幾冊かの魔術書を持ってこちらを不思議そうに見ています。

 

 

「ミスタ・アオザキが留守の間、工房の管理を頼まれましたの。ロードこそどうしてこちらに? 貴方の研究室はもっと上の階層にあったと思いますが」

 

「いやなに、新しい資料が手に入ったと馴染みの魔術師から連絡が入ったのでな。待ちきれず、わざわざ足を運んできてしまったのだ」

 

 

 普段からある特定の時を除いて絶対に崩さないしかめっ面のまま、ロードは手に持っていた本を掲げて私に表紙が見えるように持ち直しました。

 ‥‥驚きましたわね。これは名門の家系だって所有していないような一級の魔術書ですわ。

 流石はロード・エルメロイII世、勤勉の名に偽り無しといったところでしょうか。

 私もショウとの付き合いの関係上ロードとはそれなりに親しくさせて頂いていますが、この名教授の己に対する厳しさには心底感服致しますわ。

 

 

「しかし蒼崎は工房をほったらかして一体どこへ行ったのだ? いつものようにミス・ブルーに拉致されたという噂は聞かないが‥‥」

 

「私も詳しい話は聞いていないのですが‥‥。彼が言うには、里帰りらしいですわ」

 

「里帰り‥‥? こんな中途半端な時期にか? まったく、ミス・ブルーのことは差っ引いても毎度毎度行動が読めん奴だな」

 

 

 英語しか喋れないくせにやたらと日本人の名前の発音がいいロードが怪訝な顔で首を傾げる。

 その動作はまだ二十代でありながらも他を圧倒する名声を獲得した名教授を、いつもより少しだけ幼くみせていました。

 

 

「まったく、奴にはこの前の英雄史大戦のリベンジを申し込んでいたというのに‥‥。 これでは対戦相手がいないではないか」

 

 

 階段を息も切らさずに上り続けているロードが苛ただしげにぶつぶつと今はこの場にいない昔の教え子への愚痴をこぼし、あまりにも魔術師らしくないその内容に私は思わず、それでいて隣のロードには気付かれないように深い溜息をつきました。

 どうも最近私もショウやシェロに毒されているのかもしれませんね。魔術師には本来このような戯れは必要ないはずですのに‥‥。

 

 

「おおそうだ、エーデルフェルト。どうかな? よかったらこれから私の研究室で‥‥」

 

「お断りいたしますわ」

 

 

 いかにも閃いたと言った様子で勢いよく振り返って私に空いた手を差し出したロードにつれなく返事を返し、私はすたすたとひたすら続く廊下と階段をのぼっていったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「先手必勝! AzoLto!」

 

 

 誰が試合開始のゴングを鳴らしたわけでもなく、戦闘は突然始まった。

 まず手を出したのは予想通りというか、色々と血気盛んな黒桐鮮花。手にはめた火蜥蜴の革の手袋の上にバスケットボール程の大きさの火球が燃え上がり、メジャーリーガー顔負けの見事なオーバースローで 赤々と燃えさかるそれを間桐臓硯へと投げつける。

 温度にすれば大体ガスコンロの最大火力ぐらいはあるだろうか。生半可な水なら蒸発させてしまう威力をもった火球も、臓硯は難なく自分の影から出した蟲の壁で受け止めた。

 表面でまともに火球を喰らった蟲達は炭になって崩れ落ちたが、肝心の臓硯とその周りで待機している攻勢用の使い魔達は無傷のままだ。

 どうもこちらへ傷を与える為に改造された蟲達の生成にはそれなりの時間がかかるようだ。

 無尽蔵に出せるというわけでもないから、今のように有象無象の虫を使って盾としているのだろう。

 

 

「固まってるなら、蹴散らしてやる」

 

 

 と、決定的な攻撃手段を持っていないはずの式が一足で五、六メートルは空いていた間合いを詰める。

 それは最早武道の奥義の一つである“縮地”に片足突っ込んだような神業。相手が人外である虫の群体なれば拍子を外すという効果は無いが、彼女の一足刀の間合いは並の武道家のそれを遙かに上回る。

 足下の蟲達もそのあまりの素早さに彼女を這い上ることすらできずに踏みつぶされ、あるいははじき飛ばされ、式が振るった流麗ながら強烈なナイフの一撃によって蟲の盾はたまらずばらばらになって地面へと転がっていった。

 

 

「今だ! 鮮花!」

 

「AzoLto!」

 

 

 盾を散らした式が叫び、間髪入れずに鮮花が呪文を叫んだ。

 再度作り出された火球は、一小節の詠唱から生まれたとはとても思えない。先ほどと大きさはさして変わらないにしろ、今度は秘めている焔の密度が違う。

 ガスコンロを大きく上回るだろうそれは、今度は理科の実験に使うガスバーナーほどにもなろうか。赤々とその内に秘めた灼熱の暴力を悠々とたたずむ老怪に向かって一欠片の躊躇もなく解放した。

 

 

「カ、カ、カ。まだまだ青いのう」

 

 

 が、かの蟲の翁は更に老獪であった。

 迫り来る驚異を前にして、自らを中心として半径二、三メートル程に展開していた蟲の絨毯の中へと一息の内に身を躍らせる。

 とぷん、とまるでそこが池か何かであるかのように静かに沈み込んだ老人の上を、虚しく火球は素通りして公園の木々へとむしゃくしゃをまき散らした。

 成る程、亀の甲より年の功とはよく言ったものだが、さすがに百年単位で生きている人間もどきの化石はものが違う。

 これなら下手な死徒の方が扱いやすいかもしれないな。

 俺は思わず頬を伝った冷や汗を拭い、七つの礼装達から二つずつを式と鮮花の援護へ回す。

 中〜遠距離攻撃を得意とする鮮花にはまとわりつくように、接近戦しかやりようのない式にはやや距離をとって邪魔にならないように旋回させる。

 俺は基本的に一対一の戦いは得意ではない。誰かの援護という形において、その能力を発揮できるのがこの礼装だ。ま、一対一でもやりようはあるのだが。

 

 

「ではこちらの番かのう。ほれ、ゆかんか、蟲共よ」

 

 

 臓硯が手に持ったステッキで再度カツンと大地を突く。

 途端に先ほどまでぞわぞわと蠢くだけだった蟲の絨毯から一部がまるで槍のように飛び出して、一番近くにいた式へとその切っ先を向けて飛びかかった!

 

 

「させるか! Drehen (回せ) und Abfungen (迎撃)Herunterschieben (撃ち落とせ)!」

 

 

 すかさず俺は式の直衛に回した5番と6番のカスパールへ命令を下す。

 主の意を読み取った二つの球体は、その姿が霞む程の速さで式の目の前を複雑な軌道を描いて旋回し、迫り来る槍の穂先を横っ腹を叩くことで粉々に打ち砕いた。

 重力偏向の術式を施された魔弾の威力は、鋼鉄の扉にも皹を入れる。‥‥とはいえあちらは固体ではなく蟲の群体、期待した程の効果は望めなかったようだ。

 二つの鉄球によって砕かれた蟲は僅か。残りの蟲は何事もなかったかのように絨毯の中へと戻っていく。

 

 

「ほう、なかなかやるようじゃの。吠えるだけあるわい。‥‥じゃが、これならどうかの?」

 

 

 続けて大地につけていたステッキを掲げ、タクトに見立てて一回大きく振る。

 その動作に合わせて下に広がった絨毯の中から、凶々しい姿をした翅持つ蟲達がさながら雷撃機が編隊を組むかのように多数飛び上がった。

 その数、おそらく三十にも届くまい。が、人の拳以上もある異形達に貪りつかれて痛いで済むと考えるのは、些か楽観視に過ぎるだろう。

 ましてやわざわざ蟲を使役している以上、何らかの毒など厄介なのを持っていてもおかしくはない。

 つまり、あの醜悪極まりない編隊には掠るわけにもいかないと言うことだ。

 

 

「カカカカ‥‥。我が翅刃蟲の恐ろしさを思い知れい!」

 

 

 顔の横で石突を上にして構えていた杖を臓硯が勢いよく振り下ろし、それを合図に蟲達は一斉にこちらへ飛び掛かってくる。

 点でも面でも線でもない、面に広がる二十余の凶悪な点による攻撃だ。

 これは非常にまずい。迎撃機能が追い付かん!

 

 

「式! いけるか?!」

 

「おまえ、誰にもの言ってるんだ? 自分達のことだけ気遣ってろよ!」

 

 

 どうやら彼女は大丈夫らしい。俺は式につけていた5番と6番の片方を鮮花の護衛に回し、もう片方を俺の直衛に戻す。

 礼装より小さな羽蟲を叩き落とすには、七つぽっちでは少々役者不足だ。

 俺は式の超人的な動体視力と腕を信じて、自分と鮮花の守りに力を裂く。

 

 

Drehen (回せ) und Tanzen (乱舞せよ) |Fest steht und treu die Wacht, die Wacht am Rhein 《ラインの守りは強固で揺るがぬ確たるものである》―――!」

 

 

 指示に従って二人の周りを旋回していた礼装達が、先ほどより更に姿も霞む程の速さをもって、突撃してくる蟲の編隊を次々と撃ち落としていく。

 俺よりもやや少ない鮮花の方では、撃ち漏らしたものを彼女が自らの焔で始末していく。あえて正面の守りを薄めにしていたのは、あまり狙いがよくない彼女のためでもある。

 一方式の方へと視線を巡らせば、既に自分へ向かってきた蟲達は全てはたき落としてしまった後であった。

 足下にはどの蟲も平等に真っ二つにされて転がっている。寸分違わず胴体を羽ごと斬り裂かれ、式の皮膚には一擦りもできなかったようだ。

 これで運動能力はあくまで一般人の範疇だなんて自称するのだから、韜晦もほどほどにしておけと言うものだ。

 

  

「カ、カ、カ、カ、カ! いやいや驚いたぞ小童共。まさかその歳でそこまでの技を身につけておるとはのう。しかし、どうじゃ、まだ始まったばかりじゃぞ? これならさすがに難しかろうて」

 

 

 なんとか全ての蟲をはたき落として息を切らせながら(式以外)臓硯の方を見やると、先ほどの襲撃の更に倍、ほとんど五十に近い蟲達の編隊が俺達へその切っ先を向けていた。

 すでに臓硯の足下の絨毯の面積は僅かに自らの影の分ほどしかない。よくよく周囲に注意を向けてみれば、羽を持たない様々な甲虫類や多足類が俺達をぐるりと取り囲んで隊伍を組み、ギチギチと笑い声をあげていた。

 空戦部隊に気を取られている隙にまた脱皮でもしたのか、さっきよりも一回りほど大きく、凶悪な姿をしている。

 

 

「ちょ、ちょっと紫遙、さすがにこれはやばいんじゃないの?」

 

「ハハ、おもしろくなってきたじゃんか」

 

 

 周りの蟲達は主の命令を今か今かと待ちわびているかのようだ。空戦部隊も第一陣の無念を晴らそうかというように、しきりに羽を鳴らしている。

 これらに一度に襲いかかられては、たった三人ぽっちの俺達ではひとたまりもあるまい。危機的状況を危機と受けとらない式は楽しげにしてるが、こちらとしてはあまり笑える状況ではんかろう。

 俺は臓硯が今すぐにでも蟲達に号令を下そうとしているのを見てとると、急いで鮮花に指示を出した。

 

 

「鮮花! 空戦隊を叩け! 式! 囲みを突っ切って離脱しろ!」

 

「わかったわ! Con fuoCo!」

 

「ち、後はまかせたぜ」

 

 

 意図を読み取った妹弟子は大きく手を広げると前方に向かって広範囲に焔を放つ。

 たまらず臓硯は蟲達を展開させて己の身を防いだが、それによって攻撃の為に待機していた空戦部隊は尽く凄まじい鮮花の焔によって灰と化した。

 途端に式が疾風のように駆け出す。地面を摺るように、それでいて足下が見えない程の速度で地面をびっしりと覆っていた蟲達はその華麗な足裁きによって、潰されることもなく、這い上がることも飛びかかることもできずに先ほどと同様にはじき飛ばされていった。

 

 

「なんと小癪な! ええいかかれいっ!」

 

Drehen (回せ) und Schweben (浮遊せよ)―――!」

 

 

 自慢の空軍(アエリア)を潰されて激昂する臓硯が大地に蠢く蟲の連隊に号令を下すが、其れより早く俺が自分の配下に命令を出した。

 鮮花と俺の周りを旋回していた『魔弾の射手』のうちそれぞれ二つずつが仄かに光り、挟み込むかのように浮き上がるとそれに釣られて俺達の体も浮き上がる。

 『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』は単なる物理攻撃のための礼装ではない。内部に仕込んだ各種のルーンや魔術式、それらを媒介として精密な魔術制御を可能とするのだ。

 

 

水流(ラゲズ)凍結(イーサ)是乃ち雹と暴風(ハガラズ)! Es braust ein Ruf wie Donnerhall 《雷鳴は叫びの如く哮り狂う》―――!」

 

 

 と、式が離脱したのを確認し、俺は鮮花を抱き寄せて接近させ、二人合わせて二つのカスパールを浮遊の為にとっておき、残りの五つの球体で眼下に広がる蟲達をかき集めるように雹の嵐を発生させる。

 吹き荒れた凄まじい暴風は俺達を包囲するために展開した全ての蟲を中央の臓硯の元へと手繰り寄せ、凍り付かせることは不可能でも一時的にその動きを束縛する。

 そして隣の鮮花にアイコンタクトを送る。

 俺の礼装の弱点とは、決定力が無いことに他ならない。特に臓硯の様な蟲の群体が相手では、いくらぶん殴っても効果はないに等しい。出力が低くて凍り付かせることも焼き尽くすこともできないしな。

 

 

「いくわよ―――! TempeStoSo―――!!」

 

 

 臓硯を中心に渦巻く竜巻の中へ、鮮花が放った焔が舞い降りる。たちまちの内に俺のチンケな氷を吹き飛ばし、風の渦は旧約聖書にその姿を認めることができる、かの神の遣わせし火の柱の如く荒れ狂った!

 

 

「ぎぃやぁぁぁあああああ?!!!!」

 

 

 既に人が発するものとは欠片も思えない醜悪な叫び声をあげた臓硯は、こちらまで熱気が伝わってくるほどの高温の渦の中でも今だ体を保っていた。

 信じがたい程の生への妄執。それは人間としては当然の本能であるかもしれない。人間なら、誰もが抱いて当然のものでもあるかもしれない。

 だが、臓硯(コレ)はもう人間ではない。他人を喰らって生き延びる化け物だ。

ならばとっとと引導を渡してやろう。醜悪な劇にはもう幕だ。

 

 

「鮮花、やっちまえ」

 

「わかったわ。Fortissimo―――!!」

 

 

 一際大きく、まるで太陽のように眩しく輝く火球が渦の中へと投げ込まれた。

 火柱は遂に天をも焦がすかという程の高さへと昇り詰め、光はどのような灯よりも強烈に輝く。

 やがて炎が消え、辺りに立ちこめていた屍臭も消え去ったとき。

 渦が巻いていたその場所には一握りの灰すら残されていなかった。

 

 

 

 

 

 19th act Fin.

 

 

 

 

 



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第十九話 『蟲の翁の消滅』

 

 

 

 

 side Sakura

 

 

 

「あら、お客様? ‥‥こんな時間に?」

 

 

 早くから始まる弓道部の朝練に備えて、もしくは昨夜の藤村先生の異様なテンションの影響で、私は今まさに朝日が昇ろうかという程に早い時間に目を覚ましてしまった。

 脱衣室で顔を洗い、手早く制服に着替えて朝食の仕度を始める。美綴先輩から託された主将は引退したけれど、まだ後輩達が少し心配なのと、その彼らから猛烈な勢いで引退を止められたからまだ練習には出ることにしていた。

 進路もあまりはっきりと決まっているわけではないから勉強にもあまり身が入らないし、どうせ家に帰ったところでやることもないからそれはそれで別に問題はない。

 

 藤村先生はまだ客間で幸せそうに寝息をたてている。たった二人だけのパジャマパーティーだったというのに、どうしてあそこまで騒ぐことができたのかというのは全くもって不思議でしょうがないのだけれど、そんな藤村先生の太陽みたいな明るさに救われているのも事実だ。

 先輩達がいなくなってしまって一時期は落ち込みはしてたけど、この、もはや家族の一員とあせ思っている教師は私に落ち込むことさえ許さなかった。

 それがどんなに救われたことか、藤村先生は全く気づいていないだろう。否、例え気づいていたとしても気にはしまい。そういう人だから、どの生徒も彼女を慕っている。

 先輩もねえ‥‥遠坂先輩もいなくなってひとりぼっちになってしまうはずだった私が、今だにこうして笑顔を保っていられるのもあの人のおかげだから。週に数日のこの時間が私にはとてもかけがえのないものだ。

 

  

「はい、何の御用ですか?」

 

 

 普通人が訪ねてこないような時間帯に突然鳴ったチャイムに答えて、念のため軽く髪をすいて整えてから玄関を開ける。

 早起きしてしまったおかげで少し豪華にしようと決めた朝食の準備はほとんど終わっているし、味噌汁が沸いてしまうのもまだ先だろう。

 ふとエプロンをつけたままだったのに気づいて、玄関の脇の靴箱の上に置いた。あまり見た目にはよくないけど、私がつけたままよりはマシだと思う。

 

 

「ああ、どうも朝早くにすまない。ここは衛宮の家で合っているかな?」

 

「はぁ‥‥。確かにここは衛宮ですけど、すいません、家主は少し留守にしていまして‥‥。私はここの管理を任されているだけの後輩なんです」

 

 

 ガラガラと玄関を開けた目の前に立っていたのは、冬木では見た憶えのない三人組だった。

 私に挨拶したのは、私よりもおそらく一つか二つほど年上の男性。くたびれたミリタリージャケットとすり切れた紫色のバンダナ、ダメージ加工とか色落ちとかとは無縁な着古したボロボロのジーンズという中々に前衛的な服装をしていて、ともすれば反社会的な恰好に似合わぬ穏やかで優しそうな顔をしている。

 その左隣に立っていたのは、私と同じくらいの歳で同じくらいの長さの綺麗な黒髪の女の子。白いブラウスとベストを着て、しっかりとネクタイを締めたブリーツスカートという隣とは正反対と言っても良いほどに真面目そうな服装だ。

 意思の強そうなはっきりとした目で、こんな時間から制服を着込んでいる私を不思議に思っているのか、じろじろとこちらを見ていて、少し怖くて一歩退いてしまった。

 そして最後の一人は歳のはっきりしない、多分二十は越えていないというくらいの女性。落ち着いた青色の着物は時代錯誤な印象を全く残さない。彼女にぴったりと似合っているからだ。

 思わず息を飲んでしまうぐらい綺麗な顔は美綴先輩に似ているような気がしたけど、美綴先輩が気さくで親しみやすいのに対して、この人はどこまでも鋭利な一振りの日本刀みたいだ。

 おそらく恰好によっては男にも女にも見えるだろう。どちらにしても美人であることには違いないけれど。

 

 

「ああ、それは知っているのでいいんだ。ところで、もしかすると君が間桐桜嬢かな?」

 

「は、はい、確かに私が間桐桜ですが‥‥。失礼ですけど、どこかでお会いしたことがありましたか?」

 

「いやいや、間違いなく初対面だからご心配なく。まぁ知り合いから君の話を聞いていてね」

 

 

 戸惑うようにやや上目遣いになってしまいながらの私のつぶやきに、バンダナの人はアハハと慌てたように笑うと両手を振って否定する。

 自慢になりはしないけど、私の交友関係はあまり広くない。学校でも人とはそこまで喋る方じゃないし、それ以外になるとたまに買い物にいく馴染みの八百屋さんや肉屋さんや魚屋さんぐらいだ。

 遠征で他校の弓道部とかと合同で練習することはあったけど、いわゆる一種の人見知りであることを自覚している私は積極的にその人たちと話をしようとは思わなかった。

 だから目の前の、とりあえず日本人ではある三人組が私のことを一方的に知っているというのは、ひどく不思議なことだった。

 冬木に住んでいる人達ではないだろう。こんなに目立つ人たちを見かけたことがないなんてはずはない。大体この辺りにある高校は穂群原だけだ。

 

 

「成る程、まだ乗っ取られたりはしてないみたいだな。何とか間に合ったか‥‥。よし、式、頼む」

 

「はい?」

 

 

 バンダナの人は顎に手を添えて何やらつぶやき、着物の女性に向かって頷いて何かを指示する。

 ふと私の後ろで物音が聞こえた。多分藤村先生が起きて、こんな時間の来客に気づいて不審に思ったのだろう。

 まさかあの目立つ虎柄のパジャマのままで出てきはしていないかと少し不安になったけど、その着物の人、バンダナの人の言葉から察するに式さんという名前の女性が次にとった動作によって、振り返ろうとする動作は遮られた。

 

 

「ああ、任せな。生きてるんなら神様だって殺してみせるさ」

 

 

 と、彼女が口を開いた途端、ゆっくりに見えてその実目にもとまらぬ速さで腰から抜き放たれたナイフが、一瞬で私の左胸へと吸い込まれていった。

 声を漏らすことも適わない。刃は寸分違わず私の心臓を貫いている。

 不思議と痛みはない。それでもナイフの冷たさが中から伝わってくるのがわかって、『これで死ぬんだな』なんてことが『どうして私が』という疑問よりも先に実感としてわき上がってきた。

 背後で藤村先生が悲鳴のように私の名前を呼ぶのが聞こえる。その様子を首を回して確かめることすら億劫な程、急速に体から力が抜けていく。

 

 

(せん、ぱい‥‥。ねえさ、ん‥‥)

 

 

 私と藤村先生を置いてロンドンへ言ってしまった三人の姿が瞼の裏に浮かぶ。

 ああ、できることなら私も連れて行ってほしかった。私をおいていってほしくなかった。

 ‥‥いや、そんなことはもうどうでもいいこと。ただ、ただ‥‥

 

 

(もう一回、会いたかった、な‥‥)

 

 

 ドタドタと血相変えて突進してきているのだろう藤村先生の足音を真っ暗になってしまった視界の両脇で聞きながら、私は静かにどこか懐かしい思いを抱く、深い深淵へと墜ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥あれ、私‥‥?」

 

「お、目を覚ましたみたいだな」

 

 

 衛宮邸の居間、その端の方に布団を敷いて寝かせていた間桐桜嬢が小さなうめき声と共に上半身を起こした。

 ちゃっかり他人様の家に上がり込んで、あまつさえ勝手にお茶まで拝借していた俺と鮮花は、とりあえず事態をしっかりと説明する必要のある人物が目を覚ましたことを見て取ると、手に持っていた湯飲みを置いて患者の周りに集まる。

 青みがかったすみれ色の髪と瞳をした少女はしばらく不思議そうに目をぱちくりとさせていたが、ハッと気づくと真っ青な顔で自分の左胸に手を当てた。

 

 

「私! 刺されて‥‥?! あ、あれ?」

 

「安心しろ。体にはかすり傷だってついちゃいない」

 

 

 一人さっきまでの位置から寸分たりとも動かずに平然とお茶をすすっている式が、顔も動かさずにそう言い放つ。

 桜嬢は呆然と自分を刺したはずの、まるでここは自分の家だと言わんばかりに落ち着いている式を見ると、「はぁ‥‥」と小さく呟いて今度は怪訝そうに俺達の顔を順番に見る。

 無理もあるまい、突然訪ねてきて突然心臓を刺されて、さらには平然と家にまで上がり込まれては、例え目の前の人間達に悪意が見てとれないとしても何が何やらさっぱりだろう。

 というよりこの状況でまだ冷静さを保てているあたりが大物になる器を感じさせる。さすがはあの遠坂嬢の実妹だ。

 

 

「本当に突然すまなかったね。ああ、自己紹介が遅れてしまったな。俺の名前は蒼崎紫遙。遠坂嬢と同じ、ロンドンの時計塔で鉱石学科に所属している。こっちは妹弟子の黒桐鮮花。向こうでお茶啜ってるのは友人の両儀式だ」

 

「黒桐鮮花よ。よろしくね」

 

「‥‥‥」

 

 

 鮮花は完璧な笑顔で右手を差し出して握手したが、式は全くの無反応。相変わらず他人に感心のないスタイルは全く変わっていないらしい。

 実際俺は式が伽藍の洞の面々と、執事らしい秋隆さん以外と喋っているところを見たことがない。

 何度か一緒に(当然ながら幹也さんも一緒だった)に出かけたこともあったけど、お店でも注文は幹也さん経由で頼んでいたから、店員さんとは話してなかったように思える。

 差し出された手を拍子を外されてしまったかのように見ながら、桜嬢はおどおどと鮮花と握手して、はたと何かに気づくと勢いよく布団から這い出そうとする。

 

 

「先生は! 藤村先生はどうしましたか?!」

 

「安心しなよ。あの元気な人は暗示をかけて眠らせた。さっきの前後のことは全く憶えてないはずさ」

 

「そう、ですか? よかった‥‥」

 

 

 タイガーは式が桜嬢の胸を刺すのを見た途端、どこから取りだしたのか虎のストラップがついた虎柄の竹刀をもってこちらに突貫してきた。

 もし暗示が効かなかったら俺達がぼこぼこにのされるか、彼女が式に殺されるかしていただろう。なんていうか、あの人に関してはスキル対魔力ランクAとかついていても全然不思議じゃないからな。まぁ本編ではキャスターに眠らされてたから問題ないとは思うけど。

 

 

「って、あれ? えっと、私さっき確かに刺されて‥‥? いえ、むしろ貴方達はいったい?」

 

「説明するより自分で感じてもらった方が早いと思う。心臓の辺り、どうだい? いつもと違う感じはしないかい?」

 

 

 俺の言葉を効いた桜嬢は、不思議そうに自分の左胸に手を置くと目を瞑ってしばらく何かを探っているように眉をひそめる。

 そして二、三秒ほどだったろうか、心底驚いたように目を見開くと、今度は恐怖すら含んだ顔でこちらを見た。

 

 

「お爺様が‥‥いない‥‥?」

 

「間桐臓硯は俺達が殺した。本体も、そこの式が直死の魔眼で死の点を突いて殺したから、もう君の心臓にはいないはずなんだけど‥‥。どうやら成功したみたいだね」

 

 

 隣で鮮花がやったぁ! と普段のキャラに似合わない歓声をあげ、幹也さんには決して見せない普段のキャラそのままに雄々しくガッツポーズをとる。

 相変わらず無反応の式に対し、桜嬢は最早何が何やら完全に見失っているようで、不安げに、そして次の瞬間には見ていて可哀相なぐらい激しく動揺した。

 

 

「あの、どうして、こんな‥‥。っまさか先輩に私が魔術師だって知られて?!」

 

「落ち着いて。大丈夫だ‥‥って言うのもおかしいかもしれないけど、衛宮は君のことは何も知らないよ。遠坂嬢からもセイバーからも、一切君に関することは聞いてない。これは別のルートで俺が独自に手に入れた情報でね。‥‥ま、気まぐれみたいなものだから君が気にすることはないよ」

 

「そうよ。全部このお節介焼きが勝手にしたことなんだから、貴女が気にすることなんてないわ。礼もいらないわよ。私も孫の心臓に自分の本体寄生させるなんて外道は許せないもの」

 

「‥‥鮮花。君さ、少しで良いから兄弟子に‥‥ていうか年上に敬意を払ったりしないか?」

 

 

 愛しの先輩に自分のことが知られたと思ったのか、体を激しく震えさせて怯える桜嬢を鮮花と二人で宥めて落ち着かせる。

 どちらかというと同じ女性である鮮花の言葉に安心したのか、桜嬢は「そう、ですか‥‥」とほっと安堵の息をつくとまた布団へと座り込んだ。

 ちなみにこの布団、適当に近くの部屋から勝手にもってきたものなんだけど‥‥。まぁあまり気にしないことにしよう。もしかして衛宮の部屋だったかもしれないとか気にしないことにしよう。

 桜嬢が冷静に話が出来るまでに落ち着いたのを見て取ると、俺は式の持つ直死の魔眼に関する簡単な説明と、昨夜の間桐臓硯戦の顛末について語った。

 ちなみにどうして俺が臓硯を殺したのか、とか難しくて喋るわけにはいかないところは全て「気まぐれ」で誤魔化した。すっごく気になってそうだったけど、とりあえずは納得してくれたようだ。

 礼は要らないって何回も言ったけど、桜嬢はそれでも何度も俺達に頭を下げてきた。ま、俺は衛宮じゃないから礼を言われて悪い気はしないけどな。動機が純粋な善意じゃない分気が引けるけど。

 

 

「おい」

 

 

 説明が終わってまた桜嬢が頭を下げたとき、さっきから何の関心を示した様子もなくお茶をすすり続けていた式がふと口を開いた。

 いつの間にか急須の他に電気ポットとお茶っ葉と、どっからとりだしたのか煎餅まで拝借している。まさにココが自分の家だと言わんばかりのくつろぎ加減だ。

 ていうか家主が不在のくせにしっかりとお茶菓子は常備してあるのかこの家は。まぁ誰が常食してるかは大体検討がつくけど‥‥と、確か桜嬢もなかなかの健啖家だったんだっけ? だとしたらちょっと分からんなぁ。

 

 

「殺したのは間桐臓硯とやらの本体だけだ。他にも体のあちこちに刻印虫なんてモノがいるらしいが、それは放っておいたからな。アレを殺すとさすがにお前にも影響が出る」

 

 

 式の話によれば、本体を殺すのには別に問題なかったそうだ。が、間桐の魔術の結晶、どちらかといえば魔術刻印の一種に近い刻印虫はほぼ完全に桜嬢の体と結びついてしまっていたということらしい。

 別に殺せないこともないけど、そこまで自身と癒着してしまっているものを殺すと本人にも少なからず影響が出る可能性も否めない。医者でも魔術師でもないのに直感的にそこまで理解したのか。相変わらずトンデモない出鱈目加減だなこの死神は。

 

 

「それは‥‥いえ、それで結構です。この蟲も、もう私の人生の中の一部みたいなものですから‥‥」

 

 

 暫く、別段数えていたわけではないがおそらくかなり長い時間黙って俯き、やがて呟いた桜嬢の胸中はわからない。

 本来適合しないはずの魔術刻印の一種を無理矢理体に埋め込み、馴染ませるために、彼女が受けてきたであろう訓練という名の陵辱の惨さは俺では到底理解も共感も、ましてや安い同情だってできないからだ。

 でも今まさに間桐(マキリ)の軛から解放された彼女が、これからどう生きていくかをほんの少しだけ手助けしてやることはできるかもしれない。

 ちょっと同意をもらおうと思って隣の鮮花を見ると、なにやら感極まった様子でうんうんと頷いていた。なんていうか、なんだかんだでまだまだ魔術師じゃないな。‥‥いや、それは俺もか。

 

 

「その刻印は間違いなく君のものだ。君が今まで頑張って身につけてきたものさ。それをどう思うかは君次第だけど、もしこれからも魔術を研鑽するつもりなら師になる人を紹介するよ。ま、アフターケアってやつかな。俺にも今の状況の責任はあるわけだし」

 

 

 手元のメモ帳に伽藍の洞の住所と電話番号を書き込んで手渡した。

 帰ったら橙子姉に彼女の面倒を頼むつもりだ。もし彼女が電話してきたらの話だけどね。

 これで俺の胸の中に溜まっていた澱は消えた。あの眠れない夜を過ごすこともないだろう。

 世界から拒絶されるあの何ともいえない不安な感覚に怯えることもない。もしかしたらまたこれからもひょんなことで圧力をくらうこともあるかもしれないけど、とりあえず当面の、俺自身の問題が片付いたわけだ。

 

 

「あぁ、それとできれば今回のことは一切秘密にしておいてくれないか? 式の能力のことだけじゃなくて、今回起こったこと全て、俺達がここに来たことも」

 

「先輩達には、本当に何も言っても聞いてもないんですか?」

 

「ないよ。言っただろう? これはあくまでも俺の気まぐれだって」

 

 

 あくまで自己中心的な思考からの行動。自己満足の結果による偽善。衛宮ならこれをどう評価するだろうか。

 まぁそんなことでも、目の前の桜嬢はかすかな微笑を浮かべてくれている。

 それは随分と気持ちが良くて、俺もつられて少しだけ唇の箸を持ち上げて笑った。

いいことをすれば気持ちが良い。別にお礼をいわれようと思ってやったことじゃなくても、それは変わらない。

 等価交換の代価がこの笑顔だったなら、まぁ衛宮の気持ちもわからないでもないかな。

 

 暫く色々とロンドンの様子などの雑談で時間を潰した俺はその他色々なことを桜嬢に言い含めると、疲れたと愚図る鮮花と、もう少しのんびりとお茶を楽しんでいたいらしい式を連れて、藤村先生が目を覚ます前に、少しばかりの達成感を抱きながら新都のホテルへと去っていったのだった。

 ‥‥ちなみに、夕食はホテルの近くのレストランで、なおかつ俺の奢りだった。

 ま、しょうがない、か‥‥。トホホ。

 

 

 

 20th act Fin.

 

 

 

 

 

 

 



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第二十話 『伽藍堂の嘆息』

実は伽藍の洞メンバーにはふじのんもいるのですが、今回は諸事情により未出演。
彼女の出演は最終章までお待ちください。‥‥確かそうだったはず(汗


 

 

 

 

 side Makiri Zorken

 

 

 

「カ、カカ、カカカ、カカ、カ‥‥」

 

 

 既に太陽が地平線から完全に顔を出し、辺りが明るく昼の陽気に染まりつつある公園の、部分的に木々が密集して日の光を遮っている僅かな暗闇に、這いずる一匹の蟲の姿があった。

 あったといっても誰かが観測して、「あった」と言ったのではない。それは手が触れる程近くに寄らなければ視認できないようなちっぽけな蟲けらだ。

 ひどく醜悪で、そして小さく、弱々しかった。おそらく今の自分の体を保つことすら精一杯で、もしくは今すぐにでものたれ死んでしまうかもしれない。それほどまでに貧小な存在だった。

 そしてそれは、そんな状況でもなお生にしがみついて必死にあがいていた。

 死にたくない、死にたくないとその言葉だけを心の中で繰り返し繰り返し唱え、生きる為の術の当てなどありはしないのに、ひたすら前へと這いずり進んでいる。

 

 

「死なヌ、死ぬワけニはイかヌ‥‥。儂ハ、死ヌワけにハ、いカヌのダ‥‥」

 

「ほう、そこまでしても生きたいものか? マキリ・ゾォルケン」

 

 

 微かな声で、それでも明らかに人語を操ってみせたその蛆蟲の目の前に、一人の影が立ちはだかった。

 痛んだ赤色、否、橙色の長い髪を頭上で適当にひとくくりにし、赤いコートを羽織っている。右手に提げた昨今ではほとんど見ることのできない大きくて古風なトランクがやけに目立つ。

 そしてその人影は、あまりにも昼間の光に似合わぬ雰囲気を発していた。そう、彼女は目の前に這いつくばる蟲けらと同じ夜の闇に生きる人種。‥‥乃ち、魔術師である。

 

 

「ふん、式に本体を殺される直前に別の蟲に転移したか。成功率は極端に低いうえに、長い年月で身につけた力は殆ど失い、魂は摩耗どころか激しく欠損すらしているだろうに‥‥。まったく、たいした執念だな」

 

「カ、カ、貴様、何奴‥‥?」

 

 

 既に蟲の体にほとんど視力は残されていない。余分な機能全てを生命維持に回し、僅かに捻り出した力を暗闇へと逃げ延びるために使っている。

 今は少しでも太陽の届かないところへと移動し、せめて猫か野犬、もしくは野鼠などの小動物が通りかかるのを待つ。この体では人間に潜り込むことすら適わない。まずは小さく意思力が低い生物から肉を調達しなければならないのだ。

 げに憎たらしきはあの小童共。体が戻りし曉には、思い付く限りの酷たらしい手管をもって痛め付け、凌辱してくれようぞ。

 そう魂に誓った矢先の不意の人影。臓硯は目の前の驚異を測るために力を絞って声を出した。

 

  

「蒼崎橙子、しがない人形師だよ。どうせ不出来の愚弟が詰めを失敗すると思ってたんでね。後始末に来たというわけさ」

 

「カ、カ、成ル程、アの小童、アオザキの者でアったカ‥‥!」

 

「血は繋がってないがな。どうだ? 妹弟子の方も合わせて中々よく仕込んであっただろう?」

 

 

 煙草の火をくゆらせて、橙色の魔術師はにやりと不敵に笑う。

 それは眼下で無様に這い蹲っている蟲の翁を嘲るものではなく、まるで不出来と称した義弟を誇るかのような笑顔だった。

 臓硯は思い返す。実際あの三人、特に炎使いの娘とバンダナの少年の組み合わせは厄介極まりなかったと。

 圧倒的な火力を持つが戦闘経験が浅く未熟な主力を、後方から援護に長け、実戦経験の豊富な後衛が支える。前衛にしても卓越した戦闘技術と素速さで広範囲に展開した蟲の動きを攪乱して二人への狙いを見事に逸らしていた。

 そしてなにより、あの忌まわしき『直死の魔眼』‥‥! 孫の心臓に潜ませた本体を寸分違わず殺してみせる神話級の規格外(デタラメ)の恐ろしさは、一度相対したからこそよくわかった。

 

 

「キ、キキキ‥‥! 義弟の後始末、とナ? 一体何の益がアってコのヨウな‥‥!」

 

「黙れ、蟲けら。これ以上その不愉快で耳障りな声を聞いていたくないのでな。‥‥出ろ」

 

 

 にべもない。橙子は手に提げていたトランクをドンと地面に置き、無造作に鍵を解除して開き放つ。

 ぱっくりと九十度に口を開けたトランクの中には、ただ暗闇だけが渦巻いていた。

 否、そこには赤い二つの目がある。そしてずらりと並んだぎざぎざの牙も。

 臓硯がそれが猫の形をしているのだと気づいたときには、トランクから飛び出した影の使い魔がその貧小な体を一呑みにしていた。

 はて、自分は何のためにこうまでして無様な生を望んだのか。はて、遙か昔、二百年も前に自分が同士達と望んでいたのは一体何だったのか。

 答えは与えられなかった。なぜならそれは随分と昔に磨耗して消え失せ、どう頑張っても掘り起こすことなどできはしないからだ。

 

 

「望みに望んだ暗闇だ。五百年ぶりの休息、ゆっくりと味わうがいいよ、マキリ・ゾォルケン」

 

 

 やがて太陽は完全に昇り、街は動き始める。

 日曜日の朝の陽気の中を、橙色の魔術師は一人歩き出した。あの不出来の愚弟達が帰ってくる前に、自分も伽藍の洞へと戻らなくてはならないのだ。

 最後に彼女は、かつてはこの世全ての悪の根絶を願った老人への手向ける線香の代わりに、手に持っていた半分以上残っている煙草を冷たい土の上に投げ捨てたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「戻ったか。首尾はどうだった?」

 

 

 俺達三人が一日の休息をとってから戻ってきた伽藍の洞。

 蟲退治を見事に成し遂げた義弟と弟子と従業員にかけられたのはねぎらいの言葉ではなく、あくまで簡潔で事務的な事件の報告の要求だけだった。

 いやさ、そりゃ今回は完全に俺の我が儘で利益も何もなかったことは分かってるんだけど‥‥もう少し、その、ねぎらいの言葉とか‥‥はぁ、やめよ。これじゃガキみたいだ。

 

 

「予定通り、臓硯の手足は俺と鮮花で燃やして、桜嬢の心臓に潜んでた本体は式が殺したよ。乃ち世はなべてこともなし、俺も悪夢から解放されたってことで」

 

「へぇ、そりゃあ良かったね!」

 

 

 挨拶とか何もなしに定位置のソファーに腰掛けた式に、幹也さんがお茶を淹れて持ってくる。

 流れるようにお盆に乗せた他の紅茶やらコーヒーやらを俺と鮮花も貰って、最後に自分もコーヒーカップを持って机に座った。‥‥なぜか橙子姉の分はない。留守中に何かやらかしたんか?

 俺は席に座るついでに近くの棚からお茶菓子をとって配ると、自分の机に腰を下ろした。

 ちなみに冬木でお土産は買わなかった。帰りは大きな駅からの特急を予約してたんだけど、案の定というか式が寝坊して時間がなかったからだ。

 鮮花曰く、『怒鳴ってもひっぱたいても起きなくて、最後に幹也の声を録音したのを聞かせたら起きた』とのこと。‥‥なんていうか、ごちそうさまです。ていうかどんな台詞を録音し、聞かせたのだろうか。

 

 

「間桐桜嬢にはここの電話番号を渡しておいたよ。彼女以外には見えないように差し替えの術式を何重にもかけておいたから大丈夫だとは思う」

 

「ふん、頼って来たら力を貸してやれと? 全くもって大した疫病神だな、おまえは」

 

 

 橙子姉がそっぽを向きながら紫煙を吐き出して言う。

鮮花は強くではないにしろ止められているにも関わらず、幹也さんに自分の活躍を――やや誇張して――語っていた。隙を見ては他の二人の分まで巧みな話術で自分の手柄に見せようとする彼女に、いかにも興味なさげなフリをした式が一々訂正を入れている。

 あの三人、結構上手いこと噛み合ってるよな。いつもはこれに藤乃君も入れた四人なんだけど。

 

 

「まずかった、かな‥‥?」

 

「‥‥まぁ、私も擬似聖杯となる筈だった肉体には興味がある。もし来たら適当に仕込んでおいてやるさ」

 

 

 またスパーと煙を吐き出した橙子姉に、俺は「ありがとう」と簡潔な礼を言う。

 なんだかんだでこの義姉には昔から迷惑ばかり―――というか、迷惑だけしかかけていない気がする。助けられてばっかりで、俺からは何もしてあげることができない。

 いつか義姉孝行の材料を見つけたらすかさず実行に移さなきゃな。

 

 

「それよりさっさと礼装を渡せ。デリケートに作ってあるからな。頻繁にメンテナンスが必要だ」

 

「いや、これのメンテは時計塔に戻ってから自分でやるよ。いつまでも橙子姉に頼りっきりじゃ身につかないからさ」

 

 

 一応この礼装の研究と改造改良が、俺の鉱石学科での最終課題となっている。

補助礼装ならともかくこのような魔力を注いで定められた概念や魔術を実行する限定礼装というのは、存外に研究開発が難しいものだ。

 かのケイネス・エルメロイ・アーチボルト卿が持っていた『月霊髄液(ウォールメン・ハイドラグラム)』などはその典型と言えよう。

 アレは金属操作と流体操作の総結集、風と水の二重属性と魔力の通りやすく比重が重いために扱いやすさに反比例して圧倒的な物理攻撃力を誇る水銀との融合。先代ロード・エルメロイの魔術のある一部分の全てがそこに集約している。

 つまり、一級の魔術礼装の作製は魔術師にとっては一つの研究成果だ。故にこの『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を俺が想定するレベルまで持っていくことができれば、鉱石学科の教授も文句なしに卒業を認めてくれるに違いない。

 これは突き詰めれば物体浮游及び重力操作、加えて属性魔術にルーン魔術などの様々な魔術と鉱石魔術の融合というかなり豪華な魔術礼装だからだ。

 とは言っても、卒業したから何をするってことを考えているわけではない。多分今まで通り時計塔にいることになるだろう。

 なにしろあそこの蒼崎の工房は完全に俺の自宅になってしまっているし、何より研究環境がとてもよく、なおかつ色々なサービスが完備されているので居心地がよくてしかたがない。

 資金調達に臨時講師や協会からの仕事を青子姉と一緒にたまに受けて、年に数回コッチに帰ってくるなんて自堕落な生活になりそうな予感がする。

 ‥‥主に橙子姉が許せばの話だけど。

 

  

「まぁお前の礼装だ、好きにしろ。‥‥で、向こうにはいつ戻るつもりなんだ?」

 

「そうだな、講義もあるし出来るだけ早く戻ろうかと思ってる。飛行機のチケットをとらなきゃいけないから明日すぐってワケにはいかないけど」

 

「そうか。‥‥ああ、チケットは黒桐に用意させよう。早ければ明後日には調達出来るだろう」

 

 

 幹也さんは何を調べるにしても、それが『調べる』という形態をとってさえいればズバ抜けた成果を拾ってくる。

 それは仕事関連以外でも例外はなく、おいしいレストランや常連さんしか知らない裏メニュー、一番安くて快適な旅行プランや安くて質の良い中古車新車の販売までもう完璧だ。

 将来は下手に探偵の看板を出すよりも、観光ガイドとか不動産とかの方が天職かもしれない。裏で探偵とかやれば二重でボロ儲けだ。

 ‥‥あと、怖い想像なんだけど、もしパパラッチとかになったら有名人には最恐災厄の存在になるに違いない。どこに逃げても必ずしつこくついてくるヤブ蚊とは悪質極まりないだろう。

 

 

「そんなことより、お前は間桐臓硯戦の言い訳でも考えておけ。暫くは知らんぷりでも構わんだろうが、どう頑張っても直にばれる」

 

「遠坂嬢、怒るだろうなぁ‥‥」

 

 

 橙子姉の容赦のない指摘によって意図的に目を背けていた事柄を直視させられた俺は、どこか遠いところを眺めながら深い深い溜息をついた。

 自分の土地で歴史のある魔術師の名家を潰すなんて好き勝手されて怒らない管理者(セカンドオーナー)はいない。ことが知れれば烈火の如く猛り狂い、ガンドの豪雨を降らせるだろうことは想像に難くないというものだ。

 俺としては桜嬢が間桐の家で受けていた凌辱は、出来ることなら遠坂嬢には話したくない。

 それを知った遠坂嬢がどんなに苦しみ、知られた桜嬢がどんなに苦しむかと思うと。

 なによりひょんなことで衛宮の耳に入りでもすれば、思い余って首を括ることすら考えられる。

 

 

「‥‥うん。ばれるまでは黙っておいて、ばれたら逃げよう」

 

「ヘタレめ」

 

「いやあ無理でしょ。ことなかれ主義って大事ダヨ?」

 

 

 自覚症状はともかくとして、勇敢に遠坂嬢への弁解を行うような気概は持ち合わせていない。

 橙子姉みたいにいくつも体のストックがあるわけじゃないし、どっかの天才工兵(バカスパナ)みたいに宝具を体に仕込んでたりしないんだからな、俺は。

 君子危うきに近寄らず、凡人ならなおさらだ。

主人公補正もないのに嬉々として危険に飛び込んでたまるかってんだ。

 

 

「ふん、まぁいい。‥‥部屋は元のままに残してある。荷物を置いたらとっとと仕事を手伝え」

 

「手伝えって、俺は仕事するために帰ってきたんじゃ―――」

 

「いや、是非頼むよ紫遙君」

 

 

 と、俺の文句を遮って幹也さんががっしと両肩を掴んできた。

 よくよく眼鏡の奥の前髪で隠されていない方の瞳を覗き見れば、既に半泣きの状態になっている。その僅かに潤んだ隻眼は、『手伝ってくれなきゃチケットの手配しないゾ♪』と形容するのがふさわしい剣呑な光を湛えていた。どんだけ仕事溜めたんだよ橙子姉‥‥。

 

 

「‥‥はぁ、わかりました。今回は散々迷惑かけましたしね‥‥」

 

「ありがとう紫遙君! じゃあこの書類の誤字脱字の訂正から―――」

 

「日本語も満足に書けんのか橙子姉ぇぇえええええ!!」

 

 

 久々に自制が効かない程の怒りの声をあげる。

 誰もが視線も向けずに素通りする不思議な廃ビルから若い青年の叫び声が響き渡ったと、観布子では暫く怪談として人々の噂に上ったのだった。

 

 

「ところで橙子師、推薦状の約束は果たしていただけるんでしょうね?」

 

「ああ、あれか。お前の両親に連絡をとったぞ。『許可しない』だそうだ」

 

「ムキィィィイイイーーーッ!!」

 

 

 

 21th act Fin.

 

 

 

 



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第二十一話 『漂着者の帰還』

映画レミゼ、好評ですね! にじファン時代から読んでくださっている読者様、お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、実は倫敦には複数名レミゼからの登場人物が混ざっております。
ていうかフランス人多過(ry


 

 

 

 

 side Azaka

 

 

 

「行っちゃいましたね」

 

「ああ、行ったな」

 

 

 あまり人の多くない成田空港、私と橙子師と幹也と式、伽藍の洞の総メンバー―――1人忘れてる気がするけど―――で兄弟子の乗った飛行機を見送り、私たちは踵を返して橙子師の持っている大きい方の車に乗り込んだ。

 式や幹也はもとよりかなり目立つ一行だったはずだけど、不思議と空港で私達が人目を引くことはなかった。

 橙子師日く、認識阻害の呪いを弱めにかけていたからだそうだ。‥‥魔術はおいそれと使うものじゃないなんて言ってたくせに。

 

 

「それにしても、今回はくたびれ損の骨折りもうけでしたね、橙子師」

 

「骨折り損のくたびれ儲けだ。費用対効果がおかしすぎるだろう、それでは」

 

 

 行きよりも一人減った車内は広い。癪だけど私と式が後部座席に座り、橙子師が助手席で火の点いてない煙草をくわえ、幹也が運転席でハンドルを握っていた。

 私は断固として助手席に座ることを要求、同様に無言で、しかもさもそれが当然であるかのようにその席に乗り込もうとした式と舌戦を繰り広げたのだけど、私達ではナビが出来ないというわけで橙子師が収まった。

 ちなみに行きは紫遙が座っていた。流石の彼も女所帯な後ろに座るのは嫌だったらしい。

 

 

「まったくもう、蟲の相手はさせられるし電車は別にグリーン車でもなんでもなかったし時計塔の推薦状は書いてもらえなかったし‥‥」

 

「誤解を招くようなことを言うな。推薦状はきっちりと書いたさ。嘘だと思うなら事務所に帰ったら見せてやる。あとはお前が頑張って両親を説得するだけだ」

 

 

 ぎしり、と歯の軋むような音すらさせて目の前の師匠の後頭部を睨み付けるけど、当然ながら効果は一切ない。

 詭弁も詭弁だと言うのに反論の言葉すら湧いてこないとは‥‥なんだか格の違いを見せ付けられたようで釈然としない。

 一皮向けば単なるブラコンのくせに! なんてことも考えはしたけど、流石にまだ命が惜しいからこれはやめておこう。

 

 

「大丈夫だよ鮮花、今度は僕も一緒に行って説得してあげるから」

 

「ほ、本当ですか兄さん?!」

 

 

 と、睨み付ける視線の先の隣で運転席に集中していた幹也から援護射撃を貰った。

 そりゃあロンドンに留学してしまえば幹也とは長い間会えなくなる。でも今みたいな中途半端な私では彼の心を掴むことはできない‥‥!

 幸い火の魔術に関しては橙子師にも兄弟子の紫遙にもお墨付きを貰っているから、化け物揃いだという時計塔でもやっていく自信は十分にあった。

 幹也と式の関係が以前にも増して更に親密なこの状況で傍から離れるのはちょっと、ううんすっごく不安だけど‥‥。

 なんとしてでも魔術師の本拠地であるロンドンでびっくりするくらいの実力をつけ、その力と外国で身につけた魅力で式を排除し、幹也をオトス!

 

 

「実は僕もそろそろ一度帰らなきゃいけないと思ってたんだ。ホラ―――」

 

 

 幹也の左手がハンドルを離して照れ臭そうに頬をかく。

 そろそろ? 帰らなきゃいけない? 勝手に大学中退して勘当同然だった兄さんが?

 待って、落ち着くのよ鮮花、KOOLになれ。素数を数えなさい。わざわざ兄さんが家に帰らなきゃいけない理由を有りもしない分割思考を想像して考えなさい。

 ‥‥そ、そうよ! きっとそうに違いないわ! 兄さんったら遂に式を諦めて私と一緒に実家に‥‥!

 

 

「兄さん! やっとわかってくれ―――」

 

「式を紹介しなきゃいけないからね」

 

「―――って、え?」

 

 

 車内の雰囲気が一瞬止ま‥‥否、凍り付く。

 今、幹也は一体何て言ったのかしら。誰に誰を紹介するって?

 

『シキヲショウカイシナキャイケナイカラネ』

 

 ああそう式を父さんと母さんにねそうよね前に式がウチに来たのは随分昔のことだものね幹也が女を連れてきたなんてあの時は凄く驚いたものだものああでもあの時は式じゃなくて織だったんじゃなかったかしらっておかしいわね思考が乱れて―――カット、カットカットカットカットカット!

 

 

「って兄さぁぁぁぁあああーーん?!! そんなの聞いてませんよ! 一体何なんですかそれは!」

 

「ああ、そういえばお前、遂に両儀の家を説得して婚約にとりつけたんだっけな。祝いが遅れてすまなかったな、黒桐。おめでとう。心から祝福するよ」

 

「ちょっと式どういうことかきっちりきちきち説明―――って寝てるゥゥ?! この娘寝てる! この状況で寝れるとは‥‥式、恐ろしいコ‥‥!」

 

 

 真偽を問いただそうとしてバッと振り向いた横の式は、いつのまにやらドアに体をもたれてすやすやと寝息をたてていた。

 その寝顔がまた絵画か写真みたいに絵になっているのだから憎たらしい。女の私でもドキッとするくらい綺麗なのだ。あまりにその姿が美しくて怒りに頭が湯立った私でも触れることを躊躇ってしまう。

 

 

「僕だけじゃないですよ。秋隆さんとかも手伝ってくれまして‥‥。お決まりなのか、お義父さんには一発殴られちゃいましたけどね」

 

 そういえばある日幹也が顔を腫らしてやってきたことがあった。本人は『階段で転んだ』なんてベタな言い訳をしてたけど、まさか幹也が嘘をつくとも思わなかったからみすみす見逃したのか私‥‥!

 視線を巡らせて見れば幹也はしっかりと前を見ながら運転していても、顔が少し嬉しそうだ。長い前髪に隠れて見えにくいけど、口元が明らかにゆるんでいる。

 

 

「おのれ式‥‥やっぱり今ココで無防備な内に葬っておくか―――ってちょっと貴女! 実は起きてるでしょ! 隠しても無駄よ!」

 

 

 ちらりと僅かに窓の外を向いた顔を確認してみると、僅かに朱が差していた。許すまじ!

結局隠しきれないと思って怠そうに起き上がった式と私との激しい(やや一方的に、しかも橙子師の茶々が入る)舌戦は、その後車が伽藍の洞に着くまで延々続いたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ‥‥これはまた、よう釣れたもんだなぁ」

 

「これでも三日に一度は手入れしたんですのよ? それにしても二日でこれとは‥‥。また増えてますわね」

 

 

 俺とルヴィアがあきれ顔で立ちつくしているのは他ならぬ蒼崎の工房の前。目の前には多種多様な生き物や生き物を模した使い魔、もしくはそれらを使役している魔術師本人など、もはや混沌としか呼べないような有様が広がっている。

 暫くぶりにロンドンに帰ってきた俺は、まず迷惑をかけたルヴィアに挨拶してから二人連れだって時計塔の地下にある俺の工房兼自室へと向かった。一週間以上放置していた工房は、定期的にルヴィアが封印をかけ直しておいてくれはしたが何されているかわからない。

突破されているなんてことは万が一にもないとは思う。中が荒らされているなんてのは億が一にもないとは思う。

 ただ、問題はこの工房の扉の仕掛けにある。

 

 

「あー、コイツらは鉱石学科の下位クラスのジャン・プリュベールとモンパルナスか。流石に自分自身で突撃かけてくるとは思わなかったわ、ウン」

 

「幸い息はあるようですわね。ひん剥いてから簀巻きにしてテムズ河に放り込んでしまいましょう」

 

 

 俺は倒れていた二人の学生の懐から身分証を取り出して確認し、ルヴィアがさりげなく恐ろしいことを口にしながら、白目を剥いて気絶している二人を廊下へと蹴り出す。普通は使い魔とかを潜入させるのに、どうも幾つか放った使い魔が戻ってこなかったので思いあまって自分達で突破を謀ったらしい。まぁ見事に失敗したわけだが。

 ‥‥そう、何の変哲もないこの扉、実は侵入者を内部へ取り込んでしまうというかなり趣味の悪い防壁の一種なのだ。

 今のところ防御率はこの一年で99%。一人だけ中に取り込ませた使い魔を爆発させりなんて強引かつはた迷惑な方法で突破した奴もいるんだけど、そいつは入り口付近にこれでもかと仕掛けた各種の魔術、非魔術ごった混ぜの罠全てに引っかかって三途の川辺を彷徨うことになった。

 この二人はおそらくこの一日二日ぐらいに引っかかったのだろう。さすがに三日以上この中に取り込まれていては命の保証が出来ない。

 

 

「おーおーイイもの使ってるじゃないか。翡翠にルビーに純銀に‥‥。これは君と折半ということでいいかな?」

 

「結構ですわ。一度でも他人の魔力が通ったものなんて使い道ありませんもの」

 

「そうかい? 売れば結構な金になる‥‥って、君はそんなの興味なかったか」

 

 

 完全に魔力と支配権を剥奪されて転がっている様々な使い魔達は、貴金属や宝石などの貴重な素材を使って造られているものが多い。なかなかの臨時収入だな。

 俺が時計塔にいる間にはそうでもないんだけど、こうやって長い間―――という程でもないとは思うんだけどさ―――留守にしていると山のように侵入を試みるヤツらが現れるのだ。迷惑なことに。

 他人の研究成果を奪うことにばっかり精魂傾けるなんて、奪われる方も奪われる方なのは分かるが、それでも貴様ら魔術師か?

 やり方は多々あれども、自分の力で根源に辿りつくことこそ俺達が目指すものではないのか。ん? そうでもない? 楽して根源行きたい? そうか、君ちょっと職員室まで来なさい。

 

 

「毎度毎度必ず失敗するって分かってるのに、なんで懲りずに来るかねぇ‥‥っと、よし開いた。何もないけど入りなよ」

 

 

 ルヴィアがかけ直しておいてくれた封印を解除して扉を開けると、廊下に散らばっていた貴金属や宝石で出来ている各種使い魔を厳選して一抱えにすると、足を器用に使って部屋に入る。

 

 

「ただいまー‥‥って、誰もいないんだけどねー」

 

 

 日本へ帰る時に床や机に散らばっていた書類は全てまとめて自室の方へ片付けて封印しておいたし、資料の魔術書の類も綺麗に仕舞っておいたから部屋はとても綺麗なはずだ。

 ルヴィアもあまりこの工房に来ることはないんだけど、何らかの用事があって訪問してくる度にやれ片付けろやれ綺麗にしろと口やかましい。不潔じゃなくて雑多なだけなんだからいいじゃないか別に。

 それと断っておくが、俺は別に整理整頓が苦手なわけじゃない。ただ、やらないだけだ。面倒なだけなのだ。決して片付けしようと思ってあちらをこちらにこちらをあちらにと色々四苦八苦していたら、気づけば始める前よりも酷くなっていたなんてことはない。ないったらないってば!

 

 

「あら、おかえりー。遅かったわねぇ」

 

「あぁただいま‥‥って、青子姉?!」

 

「ミ、ミス・ブルー?!」

 

 

 と、返事があるはずのない居間から聞き慣れた女性の声がし、思わず普通に返事をしてしまった後俺とルヴィアは吃驚仰天して一歩後ずさった。ついでに抱えていた収入源も派手に床へとまき散らしてしまった。壊れていないかどうか後でチェックしなきゃな。

 ちなみに問題の下の義姉は居間に置かれたソファーの一つを完全に占拠して、我が物顔でコーヒーを啜っている。まぁココは元々青子姉の工房なわけだけど、それにしても管理人の留守中に入り浸っているってのはなかなかいただけないぞ? ‥‥ていうか、封印のチェックをしていたルヴィアにも気づかせないなんてどうやったんだ?

 

 

「女は少しくらい秘密があった方がミステリアスでいいでしょ?」

 

「面倒くさいだけだろ青子姉。ていうか入り浸るのはいいけど片付けてよ。流石に俺も食べたものは片付けてたよ」

 

 

 一体何日ここでのんびり自堕落に暮らしていたのか、ソファの前に据えられた食卓の周囲には食べた後そのままに放置していたと思しき皿やカップ麺などが転がっていて、読み散らかしたのだろう本や漫画類まで山を作っている。いつの間に、どうやって持ち込んだのだろうか?

 ‥‥誓って言うが、元々この部屋には漫画などの大衆娯楽雑誌は置いていなかった。この部屋にある娯楽用途の品々と言えば、わずかにドイツオペラのレコードとそれを聞くための蓄音機、毎日使い魔によって届けられる新聞などだけである。テレビもパソコンもありはしない。

 

 

「ってあら、ルヴィアゼリッタじゃない。久しぶりね~」

 

「ひぃっ?! シ、ショウ! 私コレで今日は失礼いたしますわ! 相談事はまた後ほど!」

 

「ちょっと来てすぐだってのにそれはあんまりじゃない? お茶ぐらい出すわよ~ホラホラ」

 

 

 俺の後ろで固まっていたルヴィアに青子姉が気づいてにんまりと笑った。

 おそらくルヴィアにステータス表示があれば、【天敵:蒼崎青子】の欄がしっかりと追加されているだろう。俺がコッチに来なければ巡り会わないで済んだかも知れないのにな。ホント色々とスマン。

 なおもかっこうの玩具を逃がすまいと立ち上がる青の魔法使いに対し、怯えに怯えきった金の獣は見事なバックステップで距離をとる。体はしっかりと臨戦態勢を崩していないが、非常に珍しいことに瞳が揺れている。一体前回の接敵でどれほどの精神的外傷(トラウマ)を植え付けられたのやら。

 

 

「結構ですわ! それではお二人ともごきげんよう!」

 

「‥‥あら、行っちゃった。残念ね~色々と用意しておいたのに」

 

「‥‥‥」

 

 

 一体何を用意していたのかは聞かないでおいてやるのが友情というものだろう。

 俺は冷めてしまったコーヒーの淹れ直しをねだる青子姉からマグをひったくると、食器棚から自分の分のティーカップを出してそちらには紅茶を用意する。

 幸いにして青子姉は繊細な紅茶の淹れ方など知らなかったようで、こちらは荒らされてはいない。‥‥秘蔵のショートブレッドはしっかりと食い散らかされていたけどな。

 

 

「で、どうだったの?」

 

「どうだったって、何が?」

 

 

 仕方が無しに冷蔵庫の中でなんとか腐敗を免れていたビスケットを取りだし、コーヒーと紅茶を淹れて俺も向かい側のソファーに座って一口啜る。

 我が義姉殿は笑顔で自分の横をバンバンと、クッションが裂けてしまうかと思うぐらい強く何度も叩いて一緒に座るように要求してきたけど、流石にこの歳になってまで横に座る様なことは勘弁してほしい。忘れてるかもしれないし俺自身も結構自覚はないんだけど、もうこちらの方が背が高いのだ。

 

 

「なーに惚けてんのよアンタは。間桐桜ちゃんに決まってるでしょ? どう? 可愛い娘だった?」

 

「あ、青子姉!」

 

「冗談よ。まぁその様子からして成功したみたいね」

 

 

 思わず真っ赤になって身を乗り出した義弟の様子がさぞやおもしろかったのか、目の前のいつも通りのラフな格好をした義姉はケラケラと笑ってカップを置く。

 俺はひとしきり仏頂面でそっぽを向いて抗議の態度を示した後、事態の推移と結果を簡潔に報告した。間桐臓兼との戦い、式の魔眼による本体の消滅、桜嬢のアフターケアなど。

 全て話し終わる頃には時計の長針は二回も回転していて、遅くに帰ってきたせいもあるとは思うけど、いつの間にか深夜と呼べる時間帯になっていた。

 

 

「姉貴に弟子入りねぇ‥‥。また真っ黒になっちゃうんじゃないの? あの娘」

 

「あれだけの魔術基盤をもった見習い魔術師を放置しておく方が問題でしょ。異能は異能を引きつけるっていつか言ったの、青子姉だったと思うけど?」

 

「それはそうだけど‥‥ふぅ、まぁいいわ。約束通り無事に帰ってきたんだしね」

 

 

 食卓の上の皿に乗せられていたビスケットを一つ囓ると、青子姉は脇に置いておいたトランクを持って立ち上がった。

 ふわりと揺れた髪の毛から良い匂いがする。義姉達は仲こそ非常に悪い―――原作に比べればこれでもまだ良くなった方だとは思うけど―――が、使っているシャンプーは同じみたいで二人とも一緒の匂いがする。

 

 

「それじゃあ私はもう行くわ。また何かおもしろそうなこと見つけたら来るから、ちゃんとココにいるのよ?」

 

「俺がどっか行ってるのはいつも、青子姉に連れ出されてる時だよ」

 

 

 左腕を顔の横に持ってきて、めっ、とでも言いたげに人差し指を立てた青子姉に冗談交じりに返す。 ていうかそれはどこぞのカレー狂代行者とマジカルでアンバーな家政婦の専売特許だ。今度教え子に会う時には出来るだけ神秘的な先生でいてやってくれ。

 俺の言葉に満足したのか、青子姉は大きく笑顔で頷くと背後の何もないはずの空間をその腕で一薙ぎした。空間が歪み、向こう側に爽やかな風の吹く草原が見える。

 昔、いつのことだったか、一緒にこない? なんて誘われたことがあったっけ。あの時は研究とか、いろんなことがあったから断ったけど、本当にいつかは一緒にあそこへ行ってもいいかもしれない。

 

 

「それじゃあまたね、紫遙。次会うときまで元気でいないと承知しないんだから」

 

 

 長い髪が翻り、次の瞬間にはまるで幻のように青の魔法使いは消え去っていた。

 俺は来るのも去るのも唐突な義姉に軽い溜息を漏らすと、散らかった食卓に今度は深く溜息をつき、ひとまず現実逃避も兼ねて遠坂家へと買ってきたお土産を鞄から取りだすと整理を始めるのだった。

 

 

 

 

 22th act Fin.

 

 

 



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第二十二話 『騎士王の憂鬱』

冬霞はミュージカル大好きです。ここも改訂で少し濃くしていきたいと思っていますが‥‥応援よろしくお願いします!


 

 

 

 side Saber

 

 

 

 午前中にびっちりと入っている賃仕事を済ませ、私はしばらく特に用もないのでのんびりと倫敦の街中を散歩していました。

 気温は暑くもなく寒くもなく、にも関わらず太陽はさんさんと気持ちのいい光を届け、これまた中々に過ごしやすい一日ですね。

 

 

「さて、今日もどうしましょうかね‥‥」

 

 

 結局こちらに来てからの私に、本分であるはずの使い魔(サーヴァント)としての仕事は全くと言っていい程にさっぱりでした。

 本来一介の魔術師に英霊を現界させておくなど不可能に近く、凜ほどの魔力容量(キャパシティ)を以ってしても非常に困難です。

 こうして人となんら変わらぬ生活をしている分には問題ないようですが、武装をしたり、あまつさえ戦闘に及びなどすれば彼女の負担はぐんと増え、最悪共倒れの危険すらあるでしょう。

 

 

「ふむ‥‥ガブローシュはシュウガクリョコウなるものに行ってしまいましたし、ジョージも仕事の真っ最中でしょうね。あまり不用意にうろついたりしないように凜からも言い含められていますし‥‥」

 

 

 勿論サーヴァントである私が戦いを避けているわけにはいかない。戦闘になった場合の魔力のやりくり等に関しては既に凜と相談し、効率良く戦えるように決めてある。

 とはいえ学生の身分である彼女が基本的に平時に身を置いているのは至極当たり前のことで、つまるところマスターのサーヴァントとして私が今やっていることは、むしろ彼女の家族の一員、特に家計を預かる身として生活費を稼ぎ出すことに外ならない。

 

 

「些か以上に釈然としないのですがね‥‥。まぁ、これはこれで悪いことではありません、か」

 

 

 よく晴れた青空を見上げて吐息を零す。断じて溜息ではない。確かに憂鬱であるのは認めますが、私としてもこの生活が気に入ってはいるのですから。

 そう、戦いがないこと以外にただひとつだけ(本当は他にも色々と言いたいことはあるのですが。‥‥主に金銭面や風紀に関して)不満な点を挙げるとすれば、それは―――

 

 

「どうしようもない程暇、ということでしょうか‥‥」

 

 

 

 

 甚だ不愉快なことではあるのですが、私はその、実際の年齢より非常に幼‥‥若く見られてしまうようなのです。

 仕方がないことなのです! 私は王となることを決めてあの選定の剣(カリバーン)を抜いた時から体の成長は止まっていますし、あの頃に老魔術師(マーリン)にかけられた性別誤認の魔術のせいか、少年の要素が目立つので‥‥。

 と、とにかくそういった理由から倫理的に問題があるらしく、私はあまり長時間雇ってもらえないのです。

 その分お給料はやや多めに貰っているので家計を支える面では大助かりなのですが、まさかこうして暇を持て余すはめになるとは‥‥!

 冬木にいたときはライガやレイカンやネコといった知人のところへ行くこともできたのですが、いかんせんこの倫敦の街ではこのような時間帯に用事のない人と知り合えていない。聞く人が聞けば贅沢な悩みと評するかもしれませんが、まったくもって困ったものです。

 

 

「おや、あそこにいるのは‥‥?」

 

 

 ふと目の前の交差点を渡っている人影を認め、私は思い立って彼に声をかけてみることにしました。

 なにか以前も似たような出来事があったような気もするのですが、まぁ気のせいでしょう。

 その一件でひどく不愉快な思いをしたような気もするのですが。

 

 

 

 

 

 

 

「ふー、随分と遅れてしまったな。次の公演に間に合うかな‥‥?」

 

 

 研究が一段落したところで、俺は倫敦の街へ繰り出していた。

 いかに工房に篭もっているのが楽しいとは言っても、同じことに長時間取り組んでいては作業効率は落ちる。息抜きとは言わなくても適度に別の作業に切り替えて気分転換を図るのは大事なことだ。

 鉱石学科の講義はちょうど課題作成の時期に入っていて授業はない。出された課題は提出してしまったから、とりあえず俺はあそこに束縛される理由もないというわけで。

 眼精疲労気味の目頭を揉んで、俺は大通りの横断歩道を渡る。信号がない横断歩道でも歩行者優先が徹底しているこの街では比較的交通事故は少なめだ。左車線で日本とも共通点が多いからか、日本人にも親しみやすい。

 

 

「あれだよな、やっぱりミュージカルは喜劇に限る」

 

 

 息抜きに俺が選んだのは、簡単な演劇鑑賞だ。もともとオペラを好んで聞く俺だが、ミュージカルにも造詣は深い。

 そもそもオペラは長すぎる。下手なものになるととても一日では終わらないなんてものもあるし、そうでなくても二時間三時間ではきかないものだって数多いのだ。

 レ・ミゼラブルのような歌だけで構成されているフランスミュージカルやオペラ座の怪人のようなロイド・ウェーバーの名作も捨てがたいが、やはり芸術であるオペラと異なりミュージカルはエンターテイメントであるべきだろう。涙そそる悲劇というのも嫌いではないが、娯楽として観に来ているのだから思いっきり笑わせてくれるものを楽しみたい。

 

 

「さあて、それではチケットを―――」

 

「ショー!」

 

「‥‥セイバー?」

 

 

 ミュージカルホールのチケット売り場へと向かおうとした俺を呼び止めた声に振り返ると、そこにいたのは砂金のような金髪を一つに編み上げた剣の騎士、遠坂凜の使い魔(サーヴァント)であるセイバーだった。その様子と時間帯から鑑みるにどうやら仕事の帰りらしい。騎士王様も浪費癖のある主人(マスター)を持つと大変だな。

 俺達は横断歩道を渡りきると歩道の端っこに寄る。平日の午後という忙しい時間帯とはいえ、道を歩くサラリーマン達は多いし、老後の暇をもてあましているらしい元気そうなお爺ちゃんやお婆ちゃん、旦那が仕事してるだろうというのに優雅な午後を楽しんでいると思しき奥様方など人通りは多い。

 十人いたら十人振り返るような美少女と何ら変哲のない凡庸な顔をした、しかもすり切れた紫色のバンダナを巻いた日本人という組み合わせは目立つのか、道行く人たちの内の結構な割合が俺達の方をチラ見していた。

 

 

「久しぶりだねセイバー。どうしてこんなところに?」

 

「私は賃仕事の帰りです。暇なのでこの辺りをぶらぶらしてから帰ろうかと。貴方こそどうしてここに?」

 

 

 そういえば賃仕事をやっているとは聞いたが、一体何をやっているのだろうか? 彼女の能力を鑑みるに力仕事が得意そうだが、今の服装は普段と全く同じものだ。そういうことはないだろう。今度そういう雰囲気の時に聞いてみようと思う。

 

 

「ああ、息抜きに観劇でもしようかと思ってね。かねてから観たいと思っていた劇が上演するらしいんでさ」

 

「ほう、観劇、ですか‥‥」

 

 

 俺が指さした先にあるミュージカルホールを見たセイバーがぽつりと呟いた。

 演劇を観たことがないのだろうか? 随分と関心があるようだ。う~んう~んと何やら考え込みながら。後ろのポケットをまさぐっている。

 

 

「‥‥ショー。一つお願いがあるのですが」

 

「‥‥な、なんだいセイバー?」

 

 

 暫く考え込み、キッと俺の方を見上げたセイバーが口を開いた。

 ‥‥最近一つ判明したことがある。俺は女の子の上目遣いに弱い。特別背が高いというわけではない俺だけど、それでも大概の女性よりは目線は上だ。

 なんていうか、今まで強すぎる女性―――主に義姉ズ―――とばっかり接していて、しかも自分が子どもの頃のその女性達の印象が焼き付いているせいか、この庇護欲をそそる目線への抵抗力は中々少ないようだ。特に義姉達と話すときにはどこかしらに腰掛けたりして注意してるし。

 

 

「出来ればその観劇、ご一緒しても構いませんか?」

 

「いっ‥‥!」

 

 

 そんな俺だからこそこんな頼み方をされては断りづらいのは道理。だが、今回ばかりはどうしてもセイバーを同行させるわけにはいかない。ルヴィアならいい。遠坂嬢でもいい。しかしセイバーだけは絶対にダメだ。

 何も意地悪をしているわけではないし、決していかがわしい作品を観に行くつもりでもない。だが、今から観に行こうとしている作品だけはまずいのだ。彼女にだけは絶対に観せてはいけないのだ。

 

 

「セ、セイバー、君お金は持っているのかい? た、無料で観れるわけじゃないんだよ?」

 

「大丈夫です。凜達に送る分とは別にお小遣いとして稼いだものをとってあります。芝居というのは私の時代になかった概念だ。是非とも見聞を広めておきたい」

 

「うぅぅぅ‥‥」

 

 

 何度でも言うが、セイバーは美少女だ。そして俺は健全な青少年だ。別段むやみやたらと好意をばらまくなんてことをするつもりはないし惚れっぽいなんてこともないと思うけど、知り合いと言えども可愛い女の子に頼まれ事をされて悪い気はしない。

 ピンチだ。大ピンチだ。思わず縦に振りたくなる首を必死で堪える‥‥が、次の瞬間その我慢も硝子の如く砕け散った。

 

 

「お願いします‥‥」

 

「‥‥‥!」

 

 

 多分何も考えてはいないのだろう。セイバーが俺の手を取って胸の前で握るとまたもや必殺の上目遣いで頼み込む。

 あぁ、こりゃ衛宮ばっかりを鈍感だの朴念仁だの責めてはいられないな。おそらく男にこれをやられたら激しく取り乱すであろうセイバーも、自分がやる分にはまったく自分が相手に与えるダメージを考慮していないみたいだから。

 

 

「‥‥わかった。だけど一つだけ約束してくれ。絶対に途中で暴れ出さないでくれよ」

 

「‥‥? 当然ではないですか」

 

 

 連れだってチケットを買って入ったミュージカルホールの看板には、《SPAMALOT》と書かれていた‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥」

 

「いい加減に機嫌をなおしてくれよセイバー。ホラ、日差しがあるからあんまり暑くないっていってもアイスが溶けちゃうぞ」

 

 

 ミュージカルホールから出てきてからこっち、今こうしてオープンカフェの形式をとったアイスクリームショップの席に座っている間も、セイバーは始終無言で眉をひそめることによって不機嫌をアピールし続けていた。

 ああ、手間をかけさせて悪いけど、《MONTY PYTHON`S SPAMALOT》の内容については各自適当にググって欲しい。今ココで説明するのはあまりにも面倒臭いって何を言ってるんだ俺は。

 とにかく始終不機嫌を表すセイバーをなんとか宥めすかして引きづるようにこの人気のアイスクリームショップに連れてきて、当然のように俺の奢りで特大サイズのお勧めブレンドを注文して席につかせ、こうして向かい合わせに座ってスプーンを握っているというわけだ。

 

 

「‥‥あのような屈辱を‥‥私は王として‥‥」

 

「気にしない方がいいって。あんなの後世の創作さ」

 

 

 今だ機嫌は悪そうだがスプーンを手にとってアイスを口に運ぶ連れに安堵の息を零し、俺も自分のカップに手をつけた。もちろんサイズは普通だ。魔術師だって胃袋は一般人だもの。

 ぶつぶつぶつぶつと漏れ聞こえてくる呟きはなかなか物騒だ。あのミュージカルホールを聖剣(エクスカリバー)で薙ぎ払うとか言い出さないだろうな、オイ。

 

 

「‥‥ところでショー」

 

「ん? なんだい?」

 

「貴方は私の真名を知っていたのですか」

 

「ぶふぅっ?!」

 

 

 さっきまでの殺気が篭もっていながらも暗鬱なものとは一転、真剣な目で睨まれた俺は思わず口に含んでいたアイスを吹き出しかけてなんとか自制した。

 確かに思い返せばかなりスレスレ、というか直球ストレートど真ん中ストライクなことばっかり言ってしまっていた気がする。ここぞという時に詰めが甘いなんて、橙子姉にも青子姉にもよく言われていたことだったのにな‥‥。

 

 

「あー、その、すまなかった、セイバー」

 

「いえ構いません。貴方は協会に属する身。どこぞで凜が提出した資料に載っていた私の真名を見る機会もあったでしょう。別段謝られるようなことではありません。先ほどの劇も、その、なかなかに刺激的ではありましたが、後世の創作だとは理解していますし‥‥」

 

「ハハ‥‥」

 

「それに貴方の人柄もわかっています。私の真名を知っているからといって、それを悪用したりする人ではないでしょう?」

 

 

 平静だと口では言いながらも絶対に心中穏やかではないのは明らかだ。なにしろその手の中の金属製のスプーンはすっかりと拉げてしまっていて、流石にそれを取り替えてもらうわけにもいかないからそのまま苦労して使っている。

 当然のように俺が自分の真名を知っている理由を魔術協会の上層部伝いだと思ったらしいセイバーはあまりこの件について言及しないでくれた。大感謝だ。あんまりツッコまれると色々とヤバイ。

 

 

「‥‥私の素性を知っていると分かった上で、一つ愚痴を聞いてくれませんか?」

 

「?」

 

 

 と、俺が半分食べ終わる間に何倍もの大きさのアイスを三分の二は消してみせたセイバーがためらいがちに口を開く。

 俺は思い悩んだ様子の彼女は珍しいと思いながらも、女の子には優しくしなければならないという、衛宮とは正反対のアプローチ―――主に義姉ズによる―――によって植え付けられたポリシーにのっとってスプーンを置き、顔の下で両手を組んで耳を傾けた。

 

 

「私は今、自分の存在意義が分からなくなってきています。聖杯を求めて召喚に応じ、その聖杯が紛いものであることを知ってなお、どうやって進めばいいのかわからない‥‥」

 

「‥‥‥」

 

「士郎は強い。抽象的な話で申し訳ないのですが、過去に意味がないと誰よりも身近な人に告げられ、さらには未来にも否定されてなお、彼は彼自身で有り続けることを宣言した‥‥。そんな士郎の傍に居ると誓った凜もまた強い‥‥。では私は、生者でない私は、これから先をどう過ごしていけばいいのか‥‥」

 

 

 喋っている合間にも確実に、それでいて相談の内容が含む深刻さを些かたりとも損なわないようにセイバーの手元のアイスは消えていくけど、俺も彼女の悩みについて真剣に考えていたのでそんなことは頭の片隅にしかのぼらなかった。

 ていうか俺のアイスも着々と溶けてるんだけど、俺には彼女みたいに相談事にのりながら食べるなんて器用な真似は出来ないから全面的に放置だ。哀れチョコミント。

 

 

「‥‥すいません、事情を知らない貴方ではさっぱりでしたね」

 

「そんなことないさ。悩みは誰かに吐き出すだけでも十分楽になる」

 

 

 恥ずかしげに頬を朱に染めたセイバーが、残りの僅かなアイスをどういう不思議か一口で食べきる。俺はそんな彼女がおかしくて手元に残った自分の分のアイスもすっと差し出した。

 それを侮辱ととったのか少し憤ったセイバーだけど、そこは腹が冷えたとか何とかで宥めて誤魔化した。それでも食べる表情は幸せそうなのはおもしろいな。

 

 

「まぁあれだ、俺に出来るアドバイスは一つだけだよ」

 

「?」

 

「俺には君の話を聞いてやることしかできないけど、衛宮達ならその先も見つけられると思う。もっと身近に居る人たちを頼ってみな。きっと力になってくれるはずさ」

 

 

 それは例えば俺が義姉達を頼りにしているように、おそらく桜嬢が最後に頼るのが遠坂嬢であるように。セイバーにとっての最も身近な人たちは衛宮達だ。

 偉い学者先生とか専門の勉強をしたカウンセラーとか、もっともらしい解答を用意してくれる人は沢山いるだろう。

 でも本当に自分について不安になっている人にとって最良の答えを見つける手助けができるのは、その人を一番知ってくれている人たちだけなんだ。

 

 俺は感謝の言葉を述べるセイバーに礼は要らないなどとテンプレ的な対応をすると、二人連れだって―――セイバーが捻じ凶げたスプーンが見つからないうちにこっそりと―――店を後にしたのだった。

 

 

 

 23th act Fin.

 

 

 



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第二十三話 『名教授の追憶』

 

 

 

 side Luviagelita

 

 

 

 エーデルフェルト家の当主として、私は常に様々な雑事を抱えております。

 学生という身分であればあまりややこしくて重要度の低い決済などは代理の者に任せておりますが、それでも当主自身が判断して印可をする必要のある書類は数多く、私は自分の研究の時間以外にもこのような雑事に時間を割かれてしまい不愉快の極みですわ。

 もちろん当主としての自身に誇りはあります。長い歴史を持つ魔術師の家は、ただ魔術の研鑽に集中していればそれでいいというものでないのです。特にエーデルフェルトの一族は魔術が一子相伝とは限らないので分家の類も多く、家情も千差万別なそれらをとりまとめるのも本家の当主として重要な仕事でしょう。

 しかし、やはり魔術を志すものとしては自身の研究に集中したいのもまた事実。大事な仕事とはいえこのような雑事は本来魔術師には不要、否、蔑まれてもおかしくないものなのです。

 

 

「貴方はどう思われまして? ロード・エルメロイⅡ世」

 

「うぉぉぉおおお! アレキサンダー大王の固有能力発動! 集中突破(マケドニア・ファランクス)! 自軍を強制的に1スクウェア分前へ!」

 

 

 甚だ不本意ではありますが、これらも仕方がないことではあるのです。魔術の存在を知らない一般人が一人では生きられずに共同体(コミュニティ)を形成し、その中で権力闘争が起きるのと同様、魔術師達も魔術協会という共同体を形成している以上その中で権力闘争や利権争いが起きるのもまた必然というもの。古い家柄であるエーデルフェルトもその上層部の争いに少なからず介入していますし、私自身がいくら自慰的自傷行為を行ったところでこの大きなエーデルフェルトという一族全体を保つことを考えれば、あのような政治的なこともしっかりと行っていかなければなりません。

 

 

「甘いですよプロフェッサー! 武蔵坊弁慶の固有能力発動! 侠客立ち(スタンディング・ダイ)! 敵軍の前面進行を阻止!」

 

「ガッデェェエエエム! ファック! 期待させておいて裏切るとは‥‥蒼崎、お前は最低の日本人の代表だ!」

 

「ははは。プロフェサー、よもや私がこの手のゲームが苦手だという弱点を克服しないとでもお思いか。工房にゲーム機はありませんが、倫敦のゲームセンターで秘密の特訓に励んだり励まなかったりしたのですよ! 後学のためにこの言葉を覚えておくといい。故人日く“兵は斯道なり”」

 

 

 世の中は清廉潔白だけでは生きてはいけないと知ったのは、私が時計塔に来てから暫く経ってからのことでした。不思議に思ったのは廊下に掲示される成績の順位。明らかに実力でも座学でも劣っているはずの者が上位に入っているのを見て、その単元の教授を問いただしたものですわ。

 その時はいくら聞いてもはぐらかすばかりで教えてくれませんでしたが、後にロード・エルメロイⅡ世と知り合い、彼にその不思議を尋ねてみたところ、当時の私にとって驚くべき答えが帰ってきました。

 曰く、賄賂、利権、便宜、様々な俗世のような政治的取引。

 根源を目指すという只崇高な目的を目指して日々研鑽を続けることのみが、私たち魔術師にとっての使命であり義務であり、日常であるのだと思っていた私は愕然としました。

 

 

「故人は古い人ではなく旧友のことを指すのだぞ蒼崎‥‥! えぇい、ならば右翼を前進! パルメニオンの固有能力発動! 迂回包囲!」

 

「ぬ?! さすがは噂に名高いマスター・Vのマケドニア軍団‥‥侮れない!」

 

 

 学業に集中するために当主の業務を代行に丸投げしていた私は、急いで屋敷に帰るとその者に問い合わせ、エーデルフェルトという家の持つ闇について教わりました。

 ‥‥私は、自分でも悔しくなるほどに箱入りだったのです。確かに魔術の腕は一流であると自負していましたし、事実でもありました。しかし、自分が治める家の内情も知らずして他人を見下していた私に、他人の汚さを非難する資格がはたしてあったでしょうか。

 それから私は変わりました。どうしても忙しくて処理できない業務以外の当主としての仕事を積極的にこなし、エーデルフェルトという家の運営に取り組んでいきました。

 私は魔道とは別に、目指していることがあります。それは家柄に関係なく全ての魔術師が平等に学び、それを生かす機会を得ること。正当な評価こそが、名門、非名門関わらず魔術の研鑽に必要なものであると信じて。

 

 

「はははははは! ザコとは違うのだよザコとは!」

 

「くっ、エルメロイのマケドニア軍団は化け物か‥‥って、なんでそんな台詞知ってるんですか? プロフェッサー。いや、俺もなんですけど」

 

 

 図らずもそれは今私がこうして資料を読んでいる研究室の持ち主である、ロード・エルメロイと同じ志でした。友人であるショウが彼にかつて師事していたこともありまして、私はこの名教授ともそれなりの親交を結ぶようになりました。特別な才能を見いだした―――というより自分が気に入った―――生徒以外を教えない彼も、ごくごくたまにですが私に指導をしてくれ、魔術においても私はこの教授と知り合ってよかったと思わせる程に成長したのですわ。

 彼は私が尊敬できる数少ない目上の人間です。我が儘ではありますが公正で、気まぐれではありますが生真面目で―――

 

 

「貴方たち!!!」

 

「「 は? 」」

 

「は? ではありません! なぜ私はロードの研究室くんだりまでして、ゲームをやっている友人達の姿を眺めていなければならないのですかーーーーー!!」

 

 

 やっぱり耐えられませんでしたわ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

  

 

 

 

 ロード・エルメロイと二人で家庭用ゲーム機『英雄史大戦vol2』をプレイしていた俺と元師匠は、突然聞こえてきた怒鳴り声に反応して揃ってくるりと顔を後ろに向けた。

 椅子から立ち上がって先ほどまで手に持っていた分厚い魔術書で机を叩き、心底苛々としているらしい目でこちらを睨みつける友人、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの姿があった。辺り構わず怒気を振りまく怒髪天の様子に、とりあえずプロフェッサーが手元のコントローラーでPAUSEにするのを確認し、体ごとルヴィアの方に向き直ってみる。

 

 

「突然どうしたというのだエーデルフェルト。何か魔術書に問題でもあったか?」

 

「そういうことではありません! そのようなものよりもっと魔術師らしいことをいたしませんかと申しあげているのです!」

 

 

 魔術師とは、総じて電気製品などを嫌う。特に歴史のある家柄の本家では屋敷の中に最低限の電化製品しか置かれていないという。ちょっと前までの遠坂邸のようだな。

 前々回ぐらいに言ったと思うけど、俺の工房にも電化製品はあまりない。キッチン周りは電子レンジとかポットとかがあるし水道も通っているんだけど、娯楽用品にもなるとテレビもパソコンもCDプレーヤーすらないのだ。

 

 これらはただ単純に感情的な問題で電気機器を嫌っているというわけではない。意外に思うかもしれないが、魔術においては雰囲気(ムード)という要素がそれなりの比重を占めているのだ。

 これはイメージを自己の中から引き出すことを手助けするだけでなく、その場に存在する大源(マナ)にすら影響する。大源にも感情に似たものがあるのかどうかは分からないが、近代的な要素に囲まれた場所では、抽象的な話にはなるがどうにも儀式のノリが悪い。

 

 

「何を言っているのだエーデルフェルト。長い人生、たまには合間に息抜きも必要だぞ?」

 

「‥‥貴方は息抜きの合間に片手間で人生やっているのではなくって?」

 

「おお、これはまた一本とられたな蒼崎?」

 

「一緒にしないで下さいプロフェッサー。俺は真面目に人生やってます」

 

 

 まぁもちろんこの人もこの人で色々と大変なんだろうけどね。‥‥ただ、息抜きの時に見せる所作があまりにも楽しそうというか普段の様子とギャップがあるというか。

 自分で宣言してる割にはやっぱり魔術師らしからぬ人だと思うよ、ウン。

 

 

「大体貴方は講義の方はどうなさったのですか?」

 

「今は弟子をとっていないのでな。暇で暇で仕方がない」

 

 

憤然やる方ないといった様子のルヴィアに、一度怒鳴られて興がそがれたらしくコントローラーを床に置いたプロフェッサーが偉そうに胸を張って答える。

ちなみにこの研究室はテレビ周りのみ土足厳禁になっている。床にはフカフカしたカーペットやクッションがひかれ、万難を排してゲームを楽しめるようにしてあるのだ。

 部屋の他の場所にはいたるところに魔術書やら実験器具やらがぎっしりと並べられているからか、そこはもはや許容できるぎりぎりのラインまで違和感を発しまくっていた。

 希代の名教授にある種の幻想にも似た憧れを抱いている新入生がこの現状を知ることによってカリスマ講師の偶像を粉微塵に砕かれるのは、もはや新年度の時計塔での慣わしのようなものである。

 

 

「ロードは確かミス・トオサカの後見ではありませんでしたこと? 彼女に指導はなさらないのですか?」

 

「後見ではあるが、それだけだ。私はあの手合いの天才が大嫌いでな。聖杯戦争の勝利者というならなおさらだ。‥‥アキハバラも詳しくなかったしな」

 

 

 おそらく最後にボソリと付け加えられた理由が最大の要因だろう。日本のゲーム市場に詳しくないルヴィアは首を傾げただけであったが、もし彼女がそれについての適切な知識を得ていたならば日頃の遠坂嬢への鬱憤も無視してプロフェッサーに呆れ果てたに違いない。

 もっとも例え知らなくてもそのあまりにもやる気のない態度に彼女は呆れ、やれやれと額を手で覆って頭を振った。親交度によって多少の差こそあれ、大部分の生徒はこの自堕落な内面を知らないのだからこうしてここにいる自分が情けなくなってくる。

 

 

「それにしても聖杯戦争、ですか‥‥」

 

「七人の魔術師が七騎のサーヴァントを呼び出して、万能の願望器である聖杯を求めて殺し合う‥‥。まさに第一級の魔術儀式だ」

 

 

 ほぅ、と溜息のように口から転がり出たルヴィアの呟きに、プロフェッサーがわかりきっていることを補足する。一見無駄なこのやりとりも脳味噌が半ば死んでいる彼にはあまり気にならないようだ。

 さもありなん、なんとこのダメ人間は昨日の夜から延々ゲームをやり続けているらしい。俺とルヴィアがココを訪れたのはこの一時間程度なのだから、心底その集中力には恐れ入る。

 俺はやっと続けることを諦めてくれたゲームを片付け、三人分のコーヒーと紅茶を淹れるべく、すぐ脇に設置してある簡易キッチンへと向かった。

 

 

「聞けば聞くほどにとんでもない儀式ですわね。‥‥残念ですわ、出来ることなら私もそれに参加し、ミス・トオサカに魔術師としての力量を見せつけてさしあげたのですけど」

 

「ふん。エーデルフェルト、君は一つ勘違いをしているな」

 

 

 と、不敵な笑みをおそらく脳内に思い描いた遠坂嬢へと投げかけたルヴィアに向かって、プロフェッサーはコーヒーカップ片手に心底不機嫌そうな―――別に矛先はルヴィアへ向いているわけではなさそうだが―――しかめっ面で口を開いた。

 ちなみに彼はコーヒーをブラックで飲む。かっこよく見えるかも知れないが、普段から日常的にこれをやると言わずもがなのことだが胃が荒れる。紅茶をストレートで飲む俺が言う事じゃ無いかも知れないけど。

 

 

「魔術の腕の競い合い? 魔術師としての栄光? 英霊を使役? くだらん。あの戦争で魔術師一人ができることなどたかが知れている。私はそうやって奢って敗れた者をよく知っているぞ」

 

「‥‥そういえばロードは第四次聖杯戦争に参加なさっていたんでしたわね。お話、お聞かせいただけませんか?」

 

 

 さほど年の離れていない教授の挑発的な言葉に反応し、同じくミルクと砂糖を上品な量だけ入れたルヴィアが先ほどまでのギャグ調とは一転、真面目な顔で椅子に座り直して聞く。永遠の宿敵(しんゆう)が参加し、あまつさえ勝利した大規模な魔術儀式に関する話を実体験として聞ける機会はそうそうない。

 プロフェッサーは失言だとでも思ったのか少々躊躇ったが、やれやれと一言二言自らの迂闊さを呪うとソファに腰を下ろした。

 

 

「お前達は勘違いをしている。まず、英霊というものがどんな存在であるのか理解できていない」

 

「英霊‥‥生前偉大な功績をあげ、死後においてなお信仰の対象となった英雄がなるモノ。輪廻の輪を外れて一段階上に昇華したモノ‥‥でしたわね」

 

「そう、その存在はどちらかといえば精霊に近い。いくら聖杯の術式が高度で複雑だろうと、そもそも人間に御しきれるものではなかったのだ」

 

 

 ふぅ、とコーヒーで暖まった息を吐き出し、プロフェッサー‥‥かつてウェイバー・ベルベットと呼ばれていた名教授は遠いところを見るかのように視線を宙へと彷徨わせた。

 彼が一体何を思って喋っているのか、俺にもルヴィアにも正確には分からない。だが、彼の趣味嗜好などからは用意に想像できることがある。

 今まで実力が伴わないくせに自尊心だけは人一倍だった小生意気な少年が、聖杯戦争から帰ってきてからは他人のプロデュースをするなど彼の自尊心が許すはずのないことを―――不満たらたらではあるが―――それなりにこなすようになったこと。彼が肌身離さず持ち歩いているイーリアス、崇拝してやまないアレクサンドロス大王。

 それなりに親しい人物なら、彼がどのサーヴァントを召喚したのか、彼がほとんど語らずとも悟っている。そしてその偉大な王が彼にどれだけ大きな影響を与えたかということも。

 

 

「詳しくは話せん。あれの参加者には守秘義務のようなものが課せられるからな。ただ一つ言えるのは天才と呼ばれた先代のエルメロイですら無惨に敗退した、そんなとんでもない化け物達の戦いで真に必要なのは魔術の腕前などではないということか」

 

「‥‥では、一体?」

 

「‥‥それがわかれば、私と王は敗れなかったろうさ。ただ私は今になってこう思う。あの戦争において実際に重要なのは過程ではなく、もしかすると結果でもないのかもしれないとな」

 

 

 結局プロフェッサーは詳しいことは何も語ってくれず、ルヴィアは憤懣とした様子で研究室から出て行ってしまった。なんだかんだではぐらかされてしまったのだから当然の反応かもしれない。

 俺はまだ湯気を放っている紅茶に口をつけ、扉が閉まってからずっと目を瞑って何か考えているプロフェッサーに問うた。

 

 

「プロフェッサー、随分と口ごもっていたようですが、何か気になったことでもあるんですか?」

 

「‥‥聖杯戦争、よく考えればじつにくだらないゲームだと思わんか?」

 

 

 真っ正面から問答していたルヴィアには気づけなかったのかも知れないが、傍から見ているとこのカリスマ講師が口を使っているのとは別に何かに気を取られているというのを察することができた。

 ルヴィアへの答にやる気がなかったのも、何か考え事をしていたせいだろう。確かにちゃらんぽらんな部分の多いかつての師匠だが、魔術の実践が苦手なわりに頭はやたらとよく回る。実際過去に言い負かされたこともしばしばだ。

 

 

「どのような賭け事やゲームでも、一番得をするのは胴元だ。聖杯戦争は教会が介入してこそいるが、実際に商品として供される聖杯はキリストの血を受けたものではなく、各地の神話に元型を見ることが出来る万能の願望機。そしてソレは魔術儀式によって作られたものであり、わざわざああやって聖杯に与る機会を他所の魔術師にくれてやることもないように術式を組み立てる事も出来ただろうに。 私には御三家の考えが読めんな」

 

「御三家。マキリ、遠坂、アインツベルン‥‥」

 

「聖杯が欲しければ彼らだけで儀式をやればいい。何かが必要だったのだ。何か理由があるのだ。わざわざ自分たち以外の魔術師を集める必要があったのだ。‥‥いや、もう考えていても詮無いことか」

 

 

 プロフェッサーはひとしきり悩み、ばかばかしいことだとそれらの思考を放棄するとカップの中のコーヒーを飲み干した。この教授も四六始終大好きなゲームばかりをやっているわけにもいかない。

 彼自身魔術師として研究を続けているし、講師としてもあちらこちらでひっぱりだこだ。講師としての仕事は気にくわないらしいが、魔術師である以上研究の方にウェイトが寄るのは当然のこと。

 俺にも研究はある。あまりここでくつろいでいるわけにもいかないな。

 

 

「そういえば遠坂は聖杯戦争で召喚した英霊を使い魔にしているのだったな‥‥。一度会ってみるのも一興か」

 

「いい奴ですよ。何回か会ったことがありますけど」

 

 

 そういえばあの二人が会ったらどうなるのだろうか? 自然と頭の中に疑問が沸いて出てきた。

 だが明日の予定に思考を裂いていた俺は、そんなどうでもいい疑問をすぐに意識の片隅へと追いやった。

 この疑問が解消されるのはまだまだ当分先、ちょうど偶然にも衛宮がロード・エルメロイⅡ世の目にとまったときのことであったのだった。

 

 

 

 24th act Fin.

 

 

 

 

 

 



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第二十四話 『宝石嬢の依頼』

安直なネタ仕込みは若い証拠か‥‥!(悶)


 

 

 

 side Rin

 

 

「ただいまー‥‥ってセイバー、貴方何食べてるの?」

 

「おや、おかえりなさい凜。これはショーからのお土産ですよ。ほら、この前日本に帰ったときのです。このチョコレートが中々に味わい深い」

 

「東京バ●ナ‥‥って、あいつ帰りの片手間に駅で選んできたんじゃないでしょうね」

 

 

 ルヴィアとの共同研究の成果の発表を終えて帰ってくると、居間でセイバーがもぐもぐとテーブルの上の箱へ手を伸ばして何やらお菓子をつまんでいた。

 セイバーの手の動きはあくまで上品な動きままなのに、もの凄い勢いで箱の中のお菓子は減っていく。もしかしたらあの限定された空間だけ色々と歪んでいるのかもしれない。あの子も修行で多次元屈折現象(キシュア・ゼルレッチ)を体得したのだろうか。

 

 

「‥‥ってちょっと、私たちの分は?」

 

「ご安心を。これは私用だそうで、凜達の分は別に用意してあります」

 

 

 と、脇からもう一つまるきり同じ箱を取りだしたセイバーに思わず溜息がこぼれる。いい加減自重しない子よね、なんていうか、微笑ましくて一緒に笑いもこぼれそうだわ。

 私はやれやれと肩をすくめるとキッチンへと向かって紅茶を持ってきた。この街はやっぱり本場だけあって日本にはない色々な紅茶が揃っている。もちろんピンからキリまで様々なわけだけど、紅茶を選ぶ楽しみなんて贅沢なことは日本じゃできなかったしね。

 

 

「あれ? 士郎はまだ帰ってきてないの?」

 

「ええ。少々遅いですが、まだルヴィアゼリッタのところで働いているのではありませんか?」

 

「‥‥あの泥棒猫(ハイエナ)、しょうこりもなく士郎に粉かけてるんじゃないでしょうね‥‥!」

 

 

 ぎりぎりと手の中のカップが軋んで悲鳴をあげる。士郎が強化の練習をかねて魔術を施しているから割れはしないだろうけど、魔力がこもっていたりすれば問題だから力を緩めてカップを置いた。

 わかっている。自分のうっかりで士郎にも迷惑をかけていることぐらい。毎日あの金ぴか二号のところで執事見習いとして私の散財をフォローするために働いていることぐらい。そして密かに上達しつつある紅茶の腕前もこっそり楽しみだったり‥‥カットカットカット! 余計なことは考えないに限るわ。

 

 

「そういえばセイバー、貴女にも苦労かけちゃってるわね。使い魔(サーヴァント)の貴女に賃仕事や家事なんてさせて‥‥」

 

「凜、どうか気にしないで欲しい。私も貴女達の手助けができて嬉しいです」

 

 

 セイバーは賃仕事だけでなく、私と士郎がいない間の家事まで担当してくれている。いくら家事スキルA+の士郎だって、家を空ける時間が長ければ必然的にそちらまで手が届きにくくなる。

 そこで白羽の矢が立ったのが我らがセイバー。この娘は献身的に賃仕事をやってくれているけど、いかんせん外見年齢が低いせいかあまり長時間の仕事をさせてもらえない。

 仕方が無く家で過ごす時間が長いせいか、こうして家事を引き受けてくれたのだった。

 とはいえ最初は当然ながら酷かった。料理は士郎がやるから良いとして、洗濯機の使い方も知れなければ食器を洗うのも一苦労。魔力の供給が低めなせいか勢い余って皿を握り砕くなんてありがちなことはなかったけど、つるりと滑った皿が手から離れてタイル張りの床へと戦略的飛行を敢行したことは数回じゃ済まないくらいだ。

 もちろん始めたてなんだからそれは仕方がないことで、何度も何度も体に手順を覚え込ませることによって、今ではそんじょそこらの主婦顔負けの家事スキルを手に入れている。

 ‥‥騎士王が家計簿とにらめっこしたり洗濯物を中庭で干してるってのを知った暁には、アーサー王研究会とかの人たちみんな揃って心神喪失ね。

 

 

「もちろん自重はしてもらいたいものですが。以前のような乱闘騒ぎはもう起こさないで下さいよ」

 

「は、はは‥‥。善処するわ‥‥」

 

 

 セイバーはあれから私が教室をぶっ壊した請求書とかを持って帰ってこないから大人になって喧嘩をやめたのだと思ってるみたいだけど、実際はその度に士郎が止めにくるだけで、乱闘自体は控えていない。

 ‥‥それは私だって色々と思うところもあるし、大人になって口論は控えるべきだってわかってるわよ。でもやっぱりむかつくものはむかつくのよ! 思い返すも腹立だしいあの金ぴか!

 魔術で意見が合わないのはまぁお互い一角の魔術師なんだから仕方がないことよ。正直アイツとの口論も割と良い勉強になるからそれ自体はやめるつもりないし、流石はエーデルフェルトの当主様だけあって魔術の腕もかなりのものね。それは認めるわ。

 でも士郎のことは別! 大体最初から不安だったのよ、勤め先の主人がお嬢様だって聞いたときから!

 あのときは相手がルヴィアゼリッタだって知らなかったからそこまで危機感を持ってたわけじゃないけど、やっぱり士郎はところ構わず好意を振りまきすぎよ。

 

 

「ただいまー。ふぅ、今日も疲れたよ」

 

「おかえりなさい、シロウ。仕事はどうでしたか?」

 

 

 と、考え事に没頭していたせいか最初におかえりを言い損ねた。なんていうか、一番最初におかえりを言うのはやっぱり恋人である私の役目だと思うのよ。なんていうか、その、新婚さんみたいで‥‥カットカットカット!

 とにかく問題はセイバーが士郎からジャケットを受けとる様子がやけに絵になっているというか、いやね、もちろん士郎が他所に浮気するなんてないって信じてはいるんだけど、それとこれとは話が別というか。

 

 

「悪いなセイバー、待たせちゃって。すぐに夕飯作るから」

 

「シロウ! それではまるで私がいつもお腹を空かせているかのようではありませんか!」

 

 

 ‥‥もしかしなくてもこれって嫉妬よね。なんていうか、すごく醜いわ私。うん、でもしょうがないわよ、どっちが惚れたのかなんて明らかだけど、私とくっついた士郎が悪い。

 そうよ全部士郎が悪いのよ。私がこんなに士郎のことで悩まなきゃいけないのも、ルヴィアゼリッタに言い争いで負けたのもセイバーの食費が嵩むのも預金通帳の額がちょっと不安なのも小浜がノーベルなんちゃらとったのも全部全部士郎が悪い!

 ‥‥そうよ、もう勘弁ならないわ。私がこんなに悩んでるのに全然気にもしてない士郎なんて―――後悔させてやるんだから!

 

 

 

  

 

 

 

「‥‥で、俺のところに来て何を頼むつもりなんだい? 遠坂嬢」

 

「それはもちろん色々よ、蒼崎君」

 

 

 最早定番となりつつある大英博物館のカフェテリアでの会合。とりあえず何かあればここでお茶をするというのは、俺やルヴィアも含めたFateメンバーズ(仮)のテクニカルタームである。

 そんな座り慣れた席であまり二人きりにならない面子。俺は相変わらず美味くも不美味くもない適当な味のコーヒーに口をつけ、目の前で優雅に紅茶―――と言っても食器はさほど優雅ではない―――を飲む遠坂嬢に今回の会合の趣旨を尋ねる。

 先程Fateメンバーズと言いはしたが、当然のことながら五人揃うなんてことは有り得ない。ルヴィアがいれば遠坂嬢は来ないし、遠坂嬢がいればルヴィアは来ない。

 そしてルヴィアと俺の二人というのはよくあるが、遠坂嬢と俺だけというのは初めての状況。なまじっか欧風の顔立ちで彫刻みたいに綺麗なルヴィアと違って、何代か前に外国の血が混じっているらしく多少欧風でありながら日本美人の遠坂嬢と一緒だと調子が狂って仕方がないな。

 

 

「その、相談っていうのはね、士郎のことなんだけど‥‥」

 

「なんだい。衛宮が何かやらかしたのか? 騒動起こすのはどっちかっていうと君やルヴィアの専売特許うぼあぁっ?!」

 

 

 また余計なことを口走った俺に机の下からつま先による制裁が下る。ヒールじゃなかったのは幸いだ。あれはまごう事なき凶器の一種だし。

 蹴られた臑を押さえて呻いている俺の様子を意図的に無視し、あかいあくまは音も立てずにカップをソーサーに置くと「話を続けるわよ」と前置きして口を開いた。

 

 

「別に難しい頼みじゃないのよ。魔術も関係ないし、お金を貸して欲しいわけでもないわ」

 

「そうなのかい? 俺はまたてっきり家計が火の車通り越して煉獄にでもレベルアップしたのかと―――いや、わかった、わかったから机の下の人差し指を下げてくれないか」

 

 

 一般人には見えないように黒々とした魔力を溜めつつある銃口に気がついて途中まで出かけていた言葉を飲み込む。いやぁいい加減にやめようよその、困った時は実力行使っていうスタイル。

 

 

「あのね」

 

「うん」

 

「私とデートしてくれない?」

 

「‥‥‥はい?」

 

「だから私と、その、デートしてくれない? って言ってるのよ」

 

 

 ちょっと顔を紅く染めながら視線を外して呟いた遠坂嬢に俺の頭は完全にフリーズする。デート? 俺と遠坂嬢が? いつ? どこで? 誰と‥‥って、デートっつったら俺と二人ってことで合ってるんだよな?

 いやいやいやいやいやいやいや! ちょぉおおおっっと待ってくれ。落ち着くんだ蒼崎紫遙、KOOLになれ。素数を数えろ。1,2,3,5,7,11,13,17,19‥‥‥。

 

 

「ちょっと聞いてるの? 蒼崎君」

 

「いやいやいやいや、聞いちゃいるけどちょっと待ってくれ。ダメだ、ダメだよ、君には衛宮がいるじゃないか。いくら朴念仁の旦那に嫌気がさしたからって浮気だけは絶対にいけな―――」

 

「ちょっと黙りなさい!」

 

「ぷえらぁっ?!」

 

 

 錯乱して目があちらこちらを泳ぎながらも遠坂嬢の肩に手を置いて、そのまま一気呵成の勢いで意味不明の説得を始めた俺の顔面に見事なベアが直撃する。‥‥ありがとうございます、目が覚めました。

 たっぷり五秒はかけて意識を取り戻すと、俺は半ば床へと突撃しかけていた上半身をゆっくりと起こし、奇跡的にもこぼれなかったコーヒーをちょっと血の味がする口へと運んで気を落ち着かせた。

 落ち着いて見れば遠坂嬢も恥ずかしさからか真っ赤になっていた。多分俺の頬ほど赤くはないと思うけど。‥‥後で鏡見とかなきゃな。

 

 

「まったく、何を勘違いしてるのよ! 私が士郎と別れるわけなんてないでしょ!」

 

「うん、よかった。『貴方となんか死んでも付き合うわけないでしょ』なんて言われたら心が折れてたよ」

 

 

 ルヴィアと喧嘩してる時以外は完璧な猫を被っている遠坂嬢が、衛宮と付き合っていることを知っている人は意外と少ない。時計塔での衛宮のポジションは遠坂嬢の弟子で基礎錬成講座の学生ということになっている。当然ながら、弟子と恋愛関係にあるなんて考える奴はいないってことだ。

 この辺は時計塔の選民主義が顕著に出ている部分ではある。もちろん良い奴だっていっぱいいるけど、人柄としては問題ない奴の中にもごく自然に、あたかもそれが当然とばかりに歴史の浅い家を見下す風潮があるし。

 ちなみに遠坂の家だってそこまで歴史が長いわけではない。数少ない魔法使いの弟子の家系だから時計塔では優遇されているだけで、嫌味な連中は成り上がりだと馬鹿にしている。まぁその辺りは蒼崎も同じかんじだ。ていうか日本及び極東圏は時計塔の力が及びにくいだけあって色々と風当たりがつらい。

 

 

「士郎ったら、最近ルヴィアのところにばっかりいるのよ。帰ってくるのも遅いし、よくよく思い返せば会話の量も減ってるわ」

 

「仕事があるんじゃ仕方がないとは思うけどね。‥‥推薦した奴が言う台詞じゃないかもしれないけどさ」

 

 

 確かに魔術の本場は欧州だ。魔術の三大組織と言われる時計塔や彷徨海、巨人の穴蔵もギリギリ欧州の力が及ぶ範囲にある。

 一方魔術師にとって鬼門とすら言われているのが日本と中国だ。

 日本は古来から独特の神秘形態を築いていて、それらの組織は魔術協会の干渉をひどく嫌っている。

 今の日本は無宗教国家なんて言われてるけど、実は大間違い。昔っから八百万の神様なんて言われている通り、いたるところに神秘の息吹が息づいているのだ。そうでなくても陰陽師や山伏をはじめとする退魔組織は健在だ。

 一方の中国は道術師や仙人のなり損ないなどがあちらこちらに潜んでいる。仙人なんてのが本当にいるかどうかは未確認らしいけど、噂によればちゃんと修行を積んだ連中は蓬莱やら崑崙やらに隠れ住んで俗世との接触を断っているとか。とは言ってもいくら相互不干渉が原則とは言え時計塔のお偉方やここ1000年ぐらいは吸血鬼も会ったことがないので、実存を疑われているらしい。

 もっともしっかりと組織だって管理されている欧州や日本と違ってあちらはやりたい放題だ。似非道士や易者なんてのも随分とはびこっているので注意が必要だそうだ。

 

 

「私ばっかりこうやってやきもきしてるのって不公平だと思わない?! 本来なら彼女の周りに男がいっぱい来て、それを彼氏が嫉妬するってのが学園ドラマの王道でしょ?! それがなんでこうやって私があの朴念仁のために悩まなきゃいけないのよーーーーっ!!」

 

「わかった、わかったから少し落ち着いて」

 

 

 綺麗な黒髪を細い指でかき混ぜて苛々を露わにする遠坂嬢から視線を外し、傍を通りかかったウェイトレスさんにコーヒーと紅茶のお代わりを頼む。なんていうか、とりあえずのろけの方向に話が持っていきそうだから長期戦は覚悟した方がよさそうだ。

 ていうか遠坂嬢、確かにここは“学院”ではあるけど桜色の恋愛模様が展開されるような場所じゃないぞ。むしろそれは君が一番わかっていてほしい‥‥いや、言っても無駄か。恋は盲目って全方位に放射される理だしなぁ。

 

 

「‥‥ふぅ、ごめんなさいね蒼崎君。ちょっと取り乱したわ」

 

「ちょっとじゃ済まないぐらいの光景だったけど、まぁ気にしないで。で、それで偽装デートってわけかい?」

 

「そうよ。私が蒼崎君とデートしてるの見たら、いくら士郎だって少しは動揺してくれるでしょ」

 

 

 いやね、俺を巻き込むつもりなのはこの際許容するさ。別に意図していなかったこととはいえこうやって友人付き合いをすることになったんだから、多少の迷惑なら喜んで被る。

 ただそうやって衛宮にツンを見せてる間に彼氏をルヴィアに盗られちゃうとか思わなかったんだろうか?

 すっごく気になったけどやたらと無駄に燃えている遠坂嬢を見ると、その言葉も引っ込んでしまった。

 

 

「そういうわけでお願いできるかしら? 蒼崎君。報酬は用意するわよ」

 

「ほう、報酬と申したか」

 

 

 きらーんという擬音すら聞こえてくるかのごとき企み事を秘めた視線に、俺もその気になってずいと身を乗り出した。

 さて、報酬と言ったが一体何であろうか。お金はなかろう。万年金欠病の遠坂家にこのようなことに裂くお金なんぞないはずだ。

 

 

「士郎の料理、一週間分」

 

「乗った」

 

 

 誰もが一度は疑うことかもしれないが、衛宮の料理はお世辞抜きで料亭のそれに匹敵する。魔術なんぞ習わなくても料理で世界を救えそうなぐらい美味い。

 例の如くここ最近ろくなものを喰ってなかった俺は、目の前に差し出された手作りの食券を間髪入れずに左手で受けとって右手で握手したのだった。

 

 

 

 25th act Fin.

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十五話 『贋作者の心配』

SAO原作再構成、【お待たせしました!『鋼鉄戦士アイアンソウル』】連載中です。
冬霞の他作品もどうぞ宜しくお願いします。


 

 

 

 side EMIYA only

 

 

 

「あれ? 遠坂、午後は出かけるのか?」

 

「ええ、ちょっと人と逢う用事があってね」

 

 

 休日は俺と一緒に出かけることをせがむか工房や自室に篭もるかしている遠坂が今日は珍しく出かけるという。セイバーと一緒に手分けして昼食の片付けをしていた俺はちょっと驚いてリビングの方に振り返った。

 この家では遠坂はあまり家事をしない。なにしろあいつの忙しさときたら尋常じゃないし、もっと暇な奴がここに二人もいるんだから当然のことだと思う。色々と律儀な遠坂は何度も申し訳なさそうに頭を下げたけど、そもそも俺は遠坂の弟子兼おまけ兼お手伝いさんとして時計塔に入学してきた身。精一杯彼女のフォローをするのは至極当たり前のことに他ならない。

 

 

「もしかしたら今日は帰らないかもしれないから。夕飯はとっておかなくていいわ」

 

「そうか? じゃあ軽く夜食につまめるもの用意しとくよ」

 

 

 振り返った先に立っていた遠坂は、いつもよりちょっとおめかししていて驚いた。俺と出かけるときは大抵日本に居たときと同じ格好だったし、遠坂は素が美人だから学院にいるときはいつも簡単な最低限の化粧で済ませているらしい。

 今日の遠坂はいつもの赤いコートではなく、落ち着いた茶色のジャケットとロングスカートを着ている。日本ではツインテールにしていた髪は大人っぽく下ろしていて、薄く口紅までつけて完全によそ行きの格好だ。

 

 

「‥‥ちょっと、何も言うことないわけ?」

 

「ん? ‥‥ああ、随分とおめかししたんだな。今日は何かの研究の発表会か?」

 

「‥‥もういいわよ! じゃあ行ってきます!」

 

 

 一体何がまずかったのか、遠坂は眉間に皺を寄せて俺の方を睨むと、ぶんと髪を翻してどかどかと足音高く出かけていった。何が悪かったんだ? 学会とかならああやって外行きの格好しなきゃまずいってのはわかってるつもりなんだけどな‥‥。

 と、後片付けの残りをやってしまおうと思って台所の方へと向くと、そこには目をまん丸にして手から皿を取り落としたセイバーの姿があった。幸いにして床にはカーペットを敷いていたので皿は無事。いやぁよかった、あれはお気に入りの皿だから割れたら困る。

 

 

「どうしたのさセイバー。そんなに驚いた顔して」

 

「‥‥シロウ、貴方は本当に気づいていないのですか?」

 

 

 セイバーが落としてしまった皿を取り上げて、流しへ持っていって洗い直す。セイバーは今度は両手でぎりぎりと音が聞こえる程に布巾を絞り上げていて怖い。

 あれには強化をかけてないから耐久力が心配だ‥‥って、思ったはしからちぎれたぞオイ。なんで怒ってるのか全然わかんないけど、とりあえず落ち着けセイバー。

 

 

「‥‥はぁ、本当にシロウはシロウですね。今、凜が出かけていったということが何を示しているのか分からないのですか?」

 

「出かけていった理由って‥‥そりゃ用事があれば出かけるだろ?」

 

「そうではありません! 何の用事で外出したのかと言っているのです!」

 

 

 心底呆れたように腰に両手をあてて俺を睨みつけるセイバーに、こちらもわけがわからず疑問符で返す。いくら一緒に住んでるからっていって個人の行動まで規制する道理はないだろう。遠坂がどこに出かけるのも遠坂の自由じゃないか。

 食器を全て洗って拭いてしまってしまうと、俺はよくわからないけど興奮してるセイバーのために紅茶とお茶菓子を取りだして机に置いた。

 

 

「用事ねぇ‥‥。やっぱり何かの学会とかじゃないのか?」

 

「シロウを愚鈍です! 年頃の女性がおめかしをして出かけたなら、それは男性と逢い引きするために決まってるじゃないですか!」

 

 

 ‥‥‥‥は?

 戦闘の時に放っていた以上の殺気を放出するセイバーの言葉に数瞬意識を飛ばして停止する。誰が、誰に逢うためにでかけたって?

 遠坂が、男と逢い引きするためにでかけたって? トオサカガオトコト―――

 

 

「ってえええぇぇぇえええ?!!!」

 

「‥‥今頃気づいたのですか、まったく」

 

 

 

 

 たっぶり四拍は凍り付いてから近所迷惑な叫び声をあげた俺に、セイバーは呆れ顔で額を手で覆った。

 いやだってまさか遠坂が男と出かけるなんて‥‥。いやでも否定はしきれない。なにしろアイツが講義を受けている間のことは一切知らないし、鉱石学科でどんな交遊関係を築いているかも俺の知るところではない。

 俺が受けているのは初代とかポット出とかの駆け出し魔術師に常識や基礎を叩き込む講座だから講義の内容はあらゆる分野へと及び、必然的に授業の時間も長くなる。

 遠坂はどちらかといえばこの家での研究が多いし、俺はルヴィアのところでのバイトもあるから、実質時計塔で俺達が顔を合わせているのはそう多くない。

 だからその間に遠坂が誰とどんな人付合いをしてるかなんて全然わからないわけで、つまりは―――

 

 

「‥‥セイバー、すぐに追いかけよう!」

 

「シロウ、わかってくれたのですね!」

 

「ああ、相手の人がどんな目に遭うか心配だ!」

 

「‥‥シロウを愚鈍です」

 

 

 諦めたように俯いてジト目でこっちを睨んでくるけど、なんかよくわかんないから無視だ無視。なにしろこっちは忙しいのだ。遠坂が何を考えてるかは知らないが、アイツが男と二人なんて何をやらかすつもりなのかまったく保証できないぞ。

 前例もあるしな。具体的には海藻類がごにょごにょ‥‥。

 

 

「待って下さいシロウ、どうやって凜を見つけ出すのですか? もうとっくの昔にキャブを呼んで行ってしまったようですよ」

 

 

 焦ってジャケットを急いで羽織りながら飛び出した俺の後ろから、冷静に玄関の鍵をしっかりとかけたセイバーが話しかけてきた。

 ‥‥確かに、遠坂が外出してから暫く喋っていた分、もうアイツを老いかけるには些か時間が経ちすぎているな。困った、正義の味方としてはこれから巻き起こるであろう悲劇をみすみす見逃すわけにはいかないぞ。

 

 

「じゃあどうするんだ?」

 

「助っ人を呼びます」

 

 

 大通りの歩道で頭を抱えた俺に対して、セイバーは冷静そのものだ。ロンドンに来てからそれぞれ新しく購入した携帯電話を懐から取り出し、何やら打ち込むとやおら頭上に掲げてこう叫んだ。

 

 

「緊急指令だ! 10-4 10-10!」

 

「っておいセイバー?! それどこで、ていうか誰から習った?!」

 

 

 思わず肩を掴んで揺さぶってしまう。誰からと問はしたが決まってる、現存する宝貝である軍扇を持った某恋愛探偵に違いない。聖杯戦争が終わって俺達が三年生に上がってからはたびたび会うこともあったから、どうも何やら吹き込まれたのだろう。

 以前にも『バチカンでローマ法王を決めるコンクラーベというのはな、日本語の“根比べ”から来ているのだぞ。今は昔天成少年使節団がローマに行ったときにだな‥‥』と愉快極まるいー加減を信じ込ませたという実績があるから間違いない。

 

 

「どうしたんだよセイバー、一体何やって―――」

 

 ―――ギャギャギャギャギャギャギャ―――!!

 

 

 と、横で携帯を懐にしまい直したセイバーに突然の奇行の説明を貰おうと声をかけた瞬間、俺の鼻先数センチほどを掠めて、一台のイエローキャブが道路にタイヤによるブレーキ跡を黒々とつけて滑り込んできた。

 

 

「ようセイバーちゃん、久しぶり」

 

「ご無沙汰しています、ジョージ。突然お呼び立てして申し訳ありません」

 

 

 窓から顔を出したのは薄い色のサングラスをかけたナイスミドルの男性。白いセーターと濃紺のジャケットは落ち着いた中年の渋みをアピールし、口にくわえた火の点いていない煙草は客への思いやりを表している。

 そこまで確認した途端にさっきまで忘れていた冷や汗がどっと俺の背筋を伝った。あれ下手すりゃ俺轢かれてたよな? 挽かれてたよな? ていうか周りの人たちが毛ほども驚いてないのってなんでさ? もしかしてあれってもう日常茶飯事の出来事なのか? だとしたらここで取り乱すのもなんか恥ずかしいような。

 

 

「セ、セイバー、その人は―――ってのわぁ?!」

 

 

 咳払いを一つ、心を落ち着かせてセイバーと親しげに談笑する謎のキャブのおっちゃんを紹介してもらおうと一歩踏み出したその時、踏み出した足の先にあったマンホールがゴトリと動いて横にずれた。

 いくら聖杯戦争関連で荒事への耐性があるとはいえ、それは有事においての話。こんな突然予想もつかないことに襲われれば驚きもする。

 

 

「よぉ、セイバーの姉ちゃん! なんか用かい?」

 

「ああ、貴方も久しぶりですねガブローシュ。シュウガクリョコウはいかがでしたか?」

 

 

 持ち上げられたマンホールの蓋を横にどけて這い出てきたのは一人の少年だった。よれよれの帽子とチョッキにジャケットはやや薄汚れてはいたが、やんちゃな年頃の男の子ならさほど珍しい汚れ方ではない。

 こちらも親しげにセイバーに挨拶するとマンホールの蓋を戻して立ち上がり、服についてしまった埃やら何やらを叩いて落として帽子を被り直す。

 多分どちらもセイバーの知り合いなんだろうけど、おかしいな、どうしてこんなに交友半径が広いんだろうか。全然接点が読めないぞ。

 

 

「ああ、紹介しますね。こちらはジョージ・アラカワ、私のお茶飲み友達です。そしてそちらの少年はガブローシュ、私の遊び仲間です」

 

「よろしくな、坊主」

 

「はじめまして、おいらガブローシュってんだ。よろしくな!」

 

「お、おう、よろしく」

 

 

 キャブから降りずに窓から顔だけ出して笑うジョージさんと、またわざわざ帽子を被り直してから握手を求めてくるガブローシュに思わず日本式でお辞儀する。もちろんガブローシュとは握手もした。下水から出てきたわりにはきれいな手をしている。どうも話を聞くと、倫敦の悪ガキ共のリーダーで下水も自分たちで通りやすいように掃除してしまったらしい。倫敦の衛生事情が悪ガキに支えられているとは知らなかった。

 

 

「二人とも、実は今日は一つ折り入って頼みがあるのですが‥‥」

 

 

 一通り互いに自己紹介を交わすと、セイバーが二人に事情を説明する。曰く茶色いジャケットとロングスカートの黒髪の大和撫子を探せと。セイバーの説明だけでポケットから取りだしたメモ帳にモンタージュを作成していくガブローシュには驚いた。しかもそっくり。どんだけハイスペックなら気が済むんだこの少年は。

 

 

「OK、事情は大体飲み込めたぜ。任せなセイバーちゃん」

 

「おいらなら10分もかからないぜ? すぐ戻るから待ってなよ!」

 

 

 頼もしい言葉を放った二人はそれぞれの方法で遠坂の捜索にかかった。ジョージさんはキャブに備え付けの無線機を操作し始め、ガブローシュは出て来た時と同じようにマンホールの中へとあっという間に潜り込む。

 やっぱり何か人を集める魅力があるんだろうか。カリスマBは伊達じゃないのか?

 

 

「「見つかったぜ!」」

 

「早っ?!」

 

 

 具にもつかないことをどれだけの間考えていたのだろうか、おそらく五分もぼんやりとしていたワケではあるまいが、とにかく驚愕すべき程の短時間で二人は同時にキャブの窓とマンホールから顔を出した。

 ガブローシュの描いたモンタージュにも驚かされたけど、一体全体倫敦の人たちの能力はどうなっているのだろうか。まさか時計塔のお膝元だからといってこんなんなわけではあるまいが。

 とにかく二人はこの広大ではないが無数の人が存在し闊歩する倫敦の中から遠坂を見つけたのだという。キャブ仲間と悪ガキ共のネットワークは洒落にならないらしい。

 

 

「シロウ、見つかったのなら話は早い。すぐに追いかけましょう!」

 

「お、おう!」

 

 

 見れば既にセイバーはキャブの助手席に乗り込んでいる。俺は「先に子分に連絡して追跡させておく」というガブローシュの携帯の番号を教えて貰い、すぐさま先ほど同様地下へと潜り込んだガブローシュを見送ってからキャブへと乗り込んだ。

 古臭くはあるが清潔な車内の丁度良い反発力の座席に腰掛けてドアを閉めた途端、アクセル音を咆哮のように響かせた黄色い車体は僅かに前輪を浮かせて次の瞬間には風のように疾り出した。

 路地を飛び出し、大通りを爆走する。不思議なことにパトカーにも赤信号にも出逢わず、通常の速度でのんびり走る車の間を縫うようにして目的地へとひたすらに前進。注意深く運転席を見れば、ほとんどブレーキを踏んでいないのがわかる。尋常じゃないぞこの人。

 

 

「それにしても、一体何のつもりで遠坂は‥‥」

 

 

 前でまたセイバーが深い溜息をつき、ジョージさんがガハハと景気の良い笑い声をあげた。

 ‥‥さっきから一体全体、なんでさ?

 

 

 

 

 26th act Fin?

 

 

 

 

 



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第二十六話 『宝石嬢の嘆息』

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

「あれです、シロウ。あそこのオープンカフェに凜がいます」

 

 

 いかなる不思議か、俺達は遠坂が相手と合流する前に待ち合わせ場所と思しきところへ先行して待ち伏せすることが出来た。これも送迎最速理論を会得していると思しきジョージさんと、倫敦全てに悪ガキ共による情報伝達ネットワークを形成しているガブローシュのおかげだ。

 ちなみに件の二人とは既に別れている。後日お礼に和食をごちそうするということで俺の知らないうちに話がついたようで、なんか最近頼み事の代価は物々交換が主流になってきているような不安をぬぐえない。まぁ俺も俺の作った料理を楽しんで食べてくれる人たちの顔を見るのは好きだから、別に文句はないけどな。

 

 

「まだ相手と合流していないとは好都合。シロウ、しっかりと周りに気を配ってくださいね。偵察任務では僅かな機微さえも逃がしてはいけないのです」

 

「そ、そうか、ハハハ‥‥」

 

 

 どちらかといえば俺よりも熱心なセイバーの様子に思わず乾いた笑いが漏れる。

 しかし本当に誰と会うんだろうか? 鉱石学科の友人? 鉱石学科の教授? いや、だったら時計塔で

会えばいいわけだしなぁ‥‥。

 もしかしたらパトロンになってくれる人を見つけたのかもしれないな。でもそんな人だったらこんな街中で会うか? でっかいお屋敷とかあって、そういうところで話するだろ、普通。

 

 

「あっ! シロウ、見て下さい!」

 

「‥‥あ、あれは‥‥?!」

 

 

 そして満を辞して遠坂のテーブルに現れたのは、当然予想してしかるべきなのに俺達が全く想定していなかった人物だった。

 使い古しのミリタリージャケット。すり切れた紫色のバンダナ。ダメージ加工とかのファッショナブルな単語とは全く無関係のボロボロのジーンズ。

 俺が倫敦で出来た最初の友人であり、時計塔鉱石学科に所属する蒼崎紫遙の姿がそこにはあった。いつも通りの格好でいつも通りの歩き方、そしていつも通りのちょっと斜に構えながらも優しげな微笑を浮かべて遠坂の座っているテーブルへと片手をあげて挨拶しながら近づいていく。

 対する遠坂も上品に応えて近くのウェイターを紫遙のために呼んだ。

 

 

「まさか、ショー‥‥ですか‥‥。いえ、確かにありえない話ではないですね‥‥」

 

「どういうことだセイバー?」

 

「彼はああ見えて時計塔での憶えもよく、人好きもするいい人です。何より現存する魔法使いの家系であるアオザキの出身ですし、彼自身も優れた魔術師です‥‥」

 

 

 深刻な顔でぶつぶつと顎に手を添えながらセイバーが何やら呟く。言ってることは確かに理が通っている。紫遙は一見すごく地味だけど、その実魔術師としての腕前はそれなりのものだし、性格も親しみやすい。顔は別にハンサムというわけではないけど、相対する人間に悪感情を持たせない日本人独特の柔らかい雰囲気を纏っているから話していて安心するヤツだ。

 ‥‥でもそれがパトロンとどう関係するんだ? そりゃあっちこっちで任務を受けてるとかいう紫遙ならそこまで金に困っちゃいないかもしれないけど、そこまで金持ちってわけじゃないのは前に本人から聞いたことがあるしなぁ‥‥。

 

 

「シロウ、本当にあなたを愚鈍ですね‥‥」

 

「‥‥なんでさ?」

 

「先ほどからあなたがぶつぶつと考えているとおり、凜がパトロンと会うのだったらこんな場所には来ませんよ。だとしたら答えは一つではないですか?」

 

「答え‥‥?」

 

 

 先程までよりも一層真剣な顔でこっちの顔をのぞき込むセイバーに、ちょっとドキリとして一歩退いて視線を余所へと向ける。あいつは気づいてないかも知れないけど、俺達の顔はもう鼻先がくっついてもおかしくないぐらい近寄っていた。

 まさか普段からこんなことしてるんじゃないだろうな? セイバーは美少女なんだから、こんなことされたら男なんて簡単に誤解しちまうぞ?

 

 

「シロウ、貴方という人は‥‥。とにかく、私のことなどいいのです! つまりはですね―――」

 

「あっ、移動し始めたぞ!」

 

 

 紅茶を一杯だけ飲んだらしい二人は、勘定を済ませると席を立って歩き出した。しっかりと紫遙の方がお代を持っているあたり流石に如才ないと言えるが、とにかく今はセイバーの話を途中で遮ってでも見失うわけにはいかないだろう。

 紫遙が何を考えて遠坂と一緒にいるかは分からないけど、なんかあの二人の組み合わせはマズイ。紫遙が心配というか、普段ならいいんだけど今は二人まとめてどこかしらに迷惑かけそうな予感がする。

 なまじっか能力が高いだけに歯止めがきかない。魔術師は総じて常識人未満であり、人と人との関係は足し算ではなくかけ算できまる。0,1×0,1は0,01なのだ。

 

 

「‥‥後でじっくりとお説教することにしましょう。ですが今は」

 

「ああ、二人を追いかけよう」

 

 

 俺達はひとまず当面の問題を棚上げすると、連れ添って倫敦の街中へと歩き出した二人の後を見つからないようにこっそりと尾行していったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふふ、やっぱり来てるわね」

 

「いやはや、ホントに君は性格悪いなぁ。衛宮も流石に君のそんな様子を見たら追ってこざるをえないってカンジかね。同情するよ、心底」

 

 

 遠坂嬢が密かに放っていた使い魔でターゲットを確認すると、俺達はやおら席を立って偽装デートの開始としゃれ込むことにした。予想外にもお節介なのかセイバーがついてきたことは想定してなかったけど、とりあえず暴走したりしない限り実害はないだろう。

 

 

 

「で、これからどうするんだい、遠坂嬢?」

 

「‥‥どうするか、ですって?」

 

 

 ひとまず最初の目標である、衛宮に俺達を追っかけさせることには成功した。さすがに衛宮も恋人が他の男と出かけるなどということは許容できなかったのか、遠坂嬢のものと一緒に飛ばせておいた簡易の使い魔の視界からは、物陰に隠れてこちらの様子を伺う剣の主従の姿が丸見えだ。

 まぁでもセイバーと一緒ってのはちょっと減点対象かな。彼女が心配で追っかけてきてるってのに、女の子脇に侍らせてるのはどうかと思うよ、うん。

 

 

「‥‥どうしよう?」

 

「はぁ?」

 

「士郎が追っかけてきてくれるかどうかしか頭になくて‥‥」

 

「‥‥はぁ」

 

 

 応答がないのでひょいと横の遠坂嬢を見ると、顔を真っ赤にして微妙な表情で悩んでいる。なんだコレ、もしかして俺、今日一日こんな恋する乙女な遠坂嬢を見てなきゃいけないのか?

 ていうか衛宮が嫉妬してくれてるってわかったらそれでいいのか。この程度のことをうっかりっていうのもなんだけど、どうもこのお嬢さん見切り発車が多いような気がしてきたなぁ‥‥。

 

 

「ど、どどどどうしよう、何も考えてないわ」

 

「落ち着いて遠坂嬢。ホラ大きく息を吸ってー吸ってー吸って―――」

 

「―――って、吸ってばかりじゃ窒息するわよ!」

 

 

 ごす、と嫌な音と一緒にあかいあくまの拳が俺の腹にめり込む。な、なんたる功夫か。史上最強の弟子もびっくりな寸勁‥‥!

 男の矜恃を最大動員してうずくまることだけは回避したけど、脂汗がとまらない。

 魔術で強化してなかっただけ不幸中の幸いか。傍目には微笑ましいカップルにしか見えないだろう辺りがそこはかとなくもの悲しくてしかたがない。

 

 

「仕方がないな。それじゃあ第二シフトへ移行といこうか」

 

「‥‥もしかしてそれ、洒落?」

 

「‥‥言うなよ。俺も今気づいたんだから‥‥」

 

 

 やや微妙な温度となった空気を強引に振り払うと、俺は英国紳士らしく―――純モンゴロイドだけど―――上品に遠坂嬢の手をとり、ひとまず定番のデートスポットへと歩き出した。

 流石は古い街と言うべきか、ロンドンは近代的に整備されていながらも東京とは異なり、あちらこちらに大英帝国の深い歴史が息づいている。

 教会や議会堂の類は言わずもがな、そこら辺のアパートだって下手すれば百年以上という代物だろう。現に俺が隠れ蓑用に調達してある安アパートだってちょっとしたアンティークだ。

 ぼーっと歩くだけでもデートの種には事欠かないが、やはり後ろの二人を焦らすためにはそれなりの行動をとる必要があるな。日頃振り回されている分、今日はこっちが振り回す側に回ってやるとするか。フフフフフ‥‥。

 

 

「ちょっと蒼崎君、あくまでこれは偽装デートなんだからね。下手なことしたら‥‥捻じ切るわよ」

 

「‥‥キモニメイジマス」

 

 

 と言っても俺に何ができるということもない。時計塔に来てからは食事や仕事ぐらいでしか外に出ていないわけだから、ロンドンの街の見所なんて地方の図書館にある何年も昔の観光ガイド以下だろう。

 故に知ってる限りの情報で衛宮を揺さぶるのに効果的な方策をとるべきだ。原作の知識に加えてこの二ヶ月ほどで知り得た様々な情報を加味すれば‥‥うん、おのずと取るべき手段は見えてくる。

 

 

「それにしても驚いたな」

 

「何がよ?」

 

「君にそんな恋する乙女のカオができたってことだよ。時計塔じゃ優等生のカオか、ルヴィアと乱闘してるときのカオぐらいしか見たことがないからね」

 

 

 実際こうして歩いていても遠坂嬢の東洋独特の美しさと西洋にも通じる彫りの深さを兼ね備えた美貌は、道行く人の何人かが振り返るほどだ。

 それは無論、普段の彼女であっても変わりはしない。だがいつも―――ルヴィアとの喧嘩で見せる顔ではなく―――の偶像(アイドル)的なものではない、自然な喜びの感情がにじみ出ている今の遠坂嬢の相貌といったら、それなりに美人を見慣れている俺でもドキリとするくらいだった。

 もちろんそれは俺が美人‥‥というより女性全般に弱いということもあるのかもしれないけど、やっぱり恋する乙女は無敵というのが古今東西の理なのだろう。色々と自制心のピンチだな、今日は。

 

 

「‥‥士郎ったら、いっつもいっつも他の女の子にばっかりデレデレしちゃって! 私がどんなに不安なのか分かっちゃいないのよ!」

 

「う~ん、実際問題として遠坂嬢はそういうコには見えないからなぁ‥‥。衛宮の思考を推測するに、に、よもや遠坂嬢が妬いてくれているなんて思いもしてないんじゃないかな」

 

 

 歩きながらもぶつぶつと恋人への不満を呪詛のように零し続けていた遠坂嬢が、苛々を抑え切れないかのようにがーっ! となかば咆哮のように叫び声を上げた。

 言っちゃなんだが、この二人はじつに不釣り合いな組み合わせだ。無論衛宮のあまりにも危うい内面やエロゲの主人公気質を完璧に兼ね備えたタラシっぷりとかを考えるとそうでもないのかもしれないけど、単純に外見だけを比較すれば十人に九人は『勿体ない!』と恨みのこもった怨嗟の声をあげるだろう。ちなみに残りの一人は自分もいずれとシンデレラストーリーを夢見ている阿呆だ。

 

 

「‥‥私だって分かってるのよ、士郎にそんな、女の子に粉かけてるつもりなんてないことぐらい。でもそういうのって理性じゃ納得できないところでしょ?」

 

「恋する乙女って複雑だねぇ」

 

 

 俺達はコペントハーゲンの露店が並ぶショッピングモールのような場所を歩いている。奇しくもここは以前ルヴィアと衛宮がデートしていた場所。視線を巡らせればあの時怒りに我を忘れた遠坂嬢がうっかり握り削ってしまった跡の残った赤煉瓦も見える。‥‥ばれなくてよかった。

 まぁ奇しくもとは言ったけどこれは俺のちょっとした小細工だ。衛宮が気づくかどうかはわからないけど、その隣にいるだろうセイバーは間違いなく気づくだろう。もしかしたらこっちの意図も察してくれるかもしれない。

 

 

「俺が思うに、君はもう少し普段から衛宮に甘えてみたらどうかな? 君たちの日常生活がどんなものなのかはわからないけど、衛宮だって男なんだから甘えられて悪い気はしないと思うよ」

 

「‥‥それが出来れば苦労しないのよ。私だってそれとなくアピールはしてるもの‥‥」

 

 

 苦虫をかみつぶしたかのように眉間に皺を寄せて呟いた遠坂嬢に、やれやれと俺は毎度のように溜息を零す以外ない。とりあえず思うのは、ツンデレって大変だねってことぐらいか。あと衛宮はもう救いようがないとか。

 

 さてさて、どちらにしても正直な話こちらとしてもそろそろ限界ぎりぎりめいっぱいというところ。なにしろ遠坂嬢は最初からノープランだし、俺としてはあんまり積極的な行動に出ると自分の理性が保たないのだから困ったもんだ。

 大体そもそも衛宮にこういうアプローチを仕掛けたところから間違いだったような気もするんだけど‥‥。うん、まぁ今さら言っても詮無いことか。

 

 

「で、実際問題これからどうするよ? 正直言ってもう限界よ?」

 

「うぅ、士郎の馬鹿、なんで乱入したりしてくれないのよ‥‥」

 

 

 そりゃムチャだ。衛宮はスキル朴念仁ランクAの所持者だし、前提条件として俺達は事情を知ってる人から見れば“デート未満のおでかけ”の域を脱していない。そりゃ道行く一般人の方々にはカップルに見えなくもないけど、衛宮だったら「ああ、なんか用事があって出かけてるんだな」くらいにしか思わないぞ、きっと。

 実際さっきからリアルタイムで確認してる二人の追跡者の様子から察するに、何か余程のことでもない限り乱入して来そうにない。まぁこうやってわざわざ追いかけてきたんだから、嫉妬ぐらいはしてるだろうけどね。

 つまりあの朴念仁にこれ以上の行動を起こさせるには、こっちも一歩踏み込んだモーションが必要になるわけで。手を繋いだぐらいじゃ反応しないんだからそれなりに覚悟決める必要があるわけで。

 

 

「う、しょうがないわね‥‥。じゃあ、その、キ、キスのフリぐらいならやっても良いわよ‥‥」

 

「君は俺に死ねと申すか」

 

 

 んなことしたら確実に憤死する。互いにドライな以上どこをどう間違っても勘違いなどするわけがないけど、俺にはとても耐えられそうにない。

 ‥‥と言っても、確かにそんぐらいする以外になさそうだなぁ。はぁ、なんで俺こんなこと引き受けちまったんだろうか。

 

 

「仕方ないな‥‥。いいかい、遠坂嬢。これはあくまでも、君の目にゴミが入ってないかどうかを確認するだけだからね」

 

「わかってるわよ! 少しでも不審なことしたらレバーにガンドぶち込むわよ!」

 

 

 

 

 まだ死にたくないから絶対にやりません。いやね、遠坂嬢も恐いには恐いんだけどなんかこう各方面から色々なとばっちり喰らいそうな気がするし。

 例えばさっきから使い魔の視界を介して見える光景。真剣な顔の衛宮の隣で殺気すら滲ませてるセイバーとか。

 どうも俺の方に向いてるわけじゃなさそうなんだけど、下手なことしたら間違いなく首と胴体がさやうならするというのは想像に難くない。

 

 

「よ、よし、それじゃあ‥‥」

 

「いいわよ―――」

 

 

 俺は許可を貰うとゆっくりと遠坂嬢の顔へと手を伸ばしていく。ちょうど辺りからは衛宮達がいるところを除いて死角になっているおあつらえむきの場所だ。

 俺も遠坂嬢も互いに互いと見つめ合っているようで、その実その瞳には有り得ないことに全く別の風景が写っている。使い魔と視界を共有しているからだ。

 最初は大きな定規一つ分もあった距離も徐々に近づいてきた。視界の中ではさすがに焦り始めてきたらしい衛宮が―――飛び出そうとするセイバーを必死に抑えていた。駄目だありゃ。

 

 

「遠坂嬢、作戦は失敗だ。今日はもう大人しく帰って―――」

 

 

 と、これ以上は色々危険と判断した俺が諦めて始めた動作を中断しようとした時だった。

 

 

「なっ、何?!」

 

「これは‥‥爆発音か!」

 

 

 突如賑やかだが穏やかに日常の時間が流れていた倫敦の街に爆音が鳴り響き、俺は咄嗟に遠坂嬢を庇って周囲の様子をさっと見回して確認する。

 そんな中、ほとんどの人が突然の出来事を把握できずパニックに陥っている状況で、何を嗅ぎ付けたのか力の限り引き絞られた弓から放たれる矢の如く、物陰から飛び出した一つの影が見えた。

 

 

「士郎?!」

 

 

 まだ英霊の域には遥かに及ばないにせよ常人よりは遥かに良い目が何を捉えたのか、赤銅色の髪をした少年はまるで何かに追い立てられた猫のように、人込みの間を華麗に縫って進んでいく。

 何を捉えたかだって? 決まってる。あの衛宮があんなに必死になることなんて決まってる。

 

 

「蒼崎君、士郎を追い掛けるわよ!」

 

「合点承知!」

 

 

 既にかつての主人を追って駆け出した剣の騎士に続き、俺も遠坂嬢の叫び声に引っ張られるようにして足を動かした。

 俺も、俺の二、三歩先を進み遠坂嬢も、衛宮が救いに行ってる人達が心配なんじゃあない。

 ではなぜこうまでして駆け出すのか? そんなの、こんな時の衛宮は当たり前のようにトンデモない無茶するからに決まってるからだろうが!

 

 

「セイバー! 士郎は?!」

 

「凜?! ‥‥今日何をしていたかは後できっちりと言い訳してもらいますが、とにかくシロウはあの中です!」

 

 

 少し走った先に一軒のアパートがあった。倫敦じゃどうってことない古びたアバートだ。当然ながらエレベーターはなく、そのくせ狭くて高いときた。

 ただ問題があるとすれば―――

 

 

「嬢ちゃんら! 危ねぇから下がってるんだ!」

 

「待って! 士郎は、士郎はあの中にいるの?!」

 

 

 夕飯の支度をしていたガスが爆発事故でも起こしたのか、アパートは上半分から景気よく真っ赤な炎を吹き出し、爆発の余波で芯骨でもやられたのかミシミシと悲鳴まであげていた。

 もともと古いアパートだ。ここまで派手に燃えては下手すれば倒壊の危険も十分にありえる。

 舞い散る火の粉は洒落じゃないくらいに熱く、やや離れているこちらにまでその牙を伸ばして吠えている。

 

 

「嬢ちゃんあの坊主の知り合いか?! あいつ、中に赤ん坊が取り残されてるって聞いた途端、こっちが止めるの聞かずに突っ込んぢまったんだ!」

 

「なんですって‥‥」

 

「あの馬鹿野郎が、こんな魔術要素のない猛火じゃ、一流の魔術師だってローストになるぞ!」

 

 

 魔術は決して万能ではない。例え身体強化を何重に施したとしても、これほどまでの火勢では熱と炎に耐えられても酸素がなくなって窒息死するというものだ。

 漫画や小説で主人公が火事の中から子供を助けるなんてのはありふれた話ではあるが、そもそもプロの消防士が手を出せないところに素人が行ったところで何になるというのか。

 言っちゃなんだが人間一人分薪をくべるだけだ。いくらなんでも無茶が過ぎるぞ衛宮!

 

 

(どうしよう‥‥氷結の宝石を―――)

 

(落ち着け遠坂嬢! こんなところで堂々と神秘を漏洩させるつもりか!)

 

(でも、このままじゃ士郎が!)

 

 

 普段冷静な彼女も久しぶりの魔術の関わらない窮地にすっかり動揺してしまっている。時計塔のお膝元たるロンドンでアパート一軒氷漬けにしたりすれば、俺達全員まとめて首括ることになる。

 さらに悪いことに、俺達がこうして喋っている間にも一向に火勢が衰える気配はない。消防隊も必死に放水してはいるが、まさに焼石に水。時間さえあれば鎮火も可能であろうが、衛宮が間に合うかどうか‥‥。

 ああ、既に突き出した構造のベランダも焼けて崩れ落ちて―――

 

 

「! 凜! あそこを!」

 

 

 今まさに崩れ落ちたばかりのベランダの奥、燃え盛る炎の奥にゆらりと人影が見えた。

 四六時中変わらない白のシャツに赤銅の髪の毛、あれは‥‥。

 

 

「坊主だ! さっきの坊主がいるぞ!」

 

「放水回せーっ! あそこを狙うんだ!」

 

 

 俺の隣で衛宮の無事に喜んだ遠坂嬢とセイバーも歓声をあげる。‥‥だが、まだだ。

 ベランダの箇所の火勢が強すぎる。あれでは外に出られまい。おおかた燃えやすいもの、ゴミか何かを置いといたんだろうけど‥‥ちくしょうが!

 

 

「ショー、あそこの炎がなくなればいいのですね?」

 

「え? あ、あぁ、まぁそうすれば衛宮の強化の魔術なら飛び降りられると思うけど‥‥」

 

「わかりました。凜、宝具の使用許可を」

 

「セイバー?!」

 

 

 俺の言葉に頷いた小柄な少女は、どこから見つけてきたのか錆びた鉄パイプを構えて遠坂嬢に振り向いた。

 宝具だって? まさかこんなところで聖剣(エクスカリバー)を使うつもりなのか?!

 

 

「私の風の鞘を解放し、あの炎を一時的に吹き飛ばします。多少制御は難しいですが‥‥やらずにシロウが焼け死ぬよりはマシなはず!」

 

 

 ‥‥確かに、セイバーの『風王結界(インビジブル・エア)』ならそれも可能だろう。あれならそこまで派手じゃないから一般人への秘匿も楽だし、なにより今は一刻を争う。

 

 

「それでいいわ。頼むわよセイバー!」

 

「今、弱くはあるけど人払いの結界を張った。思いきりやれ!

 

 

 拾った小石を四方に弾くと、即席で刻んだルーンが光って一時的に簡易の結界を形成する。

 なにぶん咄嗟のことだからそう長くは保たないけど、突風と同時に鉄パイプを振るうセイバーの姿は人々の視界から外れるはずだ。

 

 

「行きます! 風よ‥‥荒れ狂え!」

 

 

 脇の方から振り上げた鉄パイプに絡み付いていた風が、狙い違わず消防隊の放水を嘲笑うかのように燃え盛っていた炎へと食らいつき、圧倒的な威力で一瞬の内にそれを吹き飛ばした。

 もちろんアパート一軒を燃料にしているそれらは、すぐに欠けた部分を補うかのようにあたりから押し寄せてくるだろう。

 だが今はこれで十分。あの馬鹿野郎が通れるだけの時間を稼いでやればいい。

 

 

「うぉぉぉおおーーーっ!!」

 

 

 一瞬の隙を狙ってダイヴ、叫び声を上げながら飛び降りてくる。そして着地、消防隊が急いでマットを持ってこようとしていたが、しっかりと魔力で足腰を強化していたらしく怪我はないようだ。肉体派なだけはある。

 映画みたいな活躍に、周りの野次馬達もやや遅れて盛大な歓声をあげた。遠坂嬢とセイバーも俺をおしのけて衛宮に駆け寄り、二人の美少女に抱きつかれた罪な男を消防隊の賞賛半分お仕置き半分の折檻が襲う。ついでに助けた赤ん坊の意外にも若い母親からも熱烈な接吻をうけていたのはまさに役得と言うべきか。‥‥遠坂嬢とセイバーがやけによい笑顔をしていたのが気になるけど。

 

 

「やれやれ、さっきまでの苦労は一体何だったのやら‥‥」

 

 

 その日の夜は消防隊員達に招かれての盛大な宴会となった。

 身を挺して赤ん坊を救った身の程知らずの正義の味方への説教と、次いでどこに行っても必ず女の影がつきまとうこれでもかと言う程に面倒な恋人を持ってしまった遠坂嬢による折檻が大半ではあったが‥‥。

 

 

 

 27th act Fin.

 

 

 



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第二十七話 『伝承者の鉄拳』

あの泣き黒子の麗人、男装の乙女、鉄拳の魔術師が満を辞して登場!
時計塔のカリスマ教授の元でも、ひそかに事態は加速する‥‥!



 side Lord El-Melloi Ⅱ

 

 

 

 自室の奥、魔術的なものと物理的なものの二重のロックをかけた戸棚の前に私は立ち、その中に納められたものをただ突っ立って眺めていた。

 特殊な保管ケースに収められた、一枚の布地。博物館級の年代物であるそのボロボロの切れ端は、分かる人が見たのでなければ只の骨董品以下の代物にしか見えないだろう。

 だがそれは魔術師に‥‥否、私にとってはこの上なく大事なものであり、今の私が存在するためのきっかけとなったことへの数少ない縁でもある。

 そのボロ切れこそ、かつてマケドニアからひたすら西へと各国を征服しながら突き進んだ一人の男。アレキサンダー大王の名前で知られる英雄、征服王イスカンダルのマントの切れ端だ。

 

 

「ライダー、今年、時計塔に聖杯戦争の勝者が来たぞ」

 

 

 あの別れからどれだけの回数、このマントの切れ端を眺めたであろうか。くじけそうになる度、諦めたくなる度、これを見てあの日の王の姿を思い出す。

 1000の近衛兵団の先頭を切って、傲慢に挑戦者を待ち受ける金色の英雄王へと突撃していった我が王の英姿を思い出す。

 彼とその臣下達が寸分違わずその心に思い描いた熱い砂の平野を斬り裂いた乖離剣の一撃。

 名馬ブケファラスに跨り万を超すかという宝剣、名剣、神槍の軍勢へと立ち向かっていく巨漢。かつての従者、今の主君を。

 共に散ることを許されず、彼の姿を語り継ぐことを託された自分を思い返してまた立ち直るのだ。

 

 

「遠坂、だとさ。あの英雄王を召喚した遠坂時臣の娘だよ。しかも、この僕に後見人になれときた」

 

 

 極東の辺境で行われるとはいえ、聖杯戦争は超一級の魔術儀式だ。その割りにはあの戦争のことを知っている魔術師はそう多くない。

 魔術貧乏な日本の地で開催されるということもあるが、あの戦争に参加したものが尽く帰らぬ者となったのもあるが、それ以上に出場者に暗黙の了解として課された黙秘の義務がある。

 なれば自分が王の姿を語り継ぐことはできない。私とあの征服王との関係を知っている者は弟子の中でもごく僅か。私が王に寄せる忠誠を汲み取った者など片手の指にも満たぬだろう。

 大抵の連中は私がただのミーハーなのだとろくでもない勘違いをしていやがる。

 では自分は何ができるのだろうか? 決まっている。あの姿を忘れず、イスカンダルの臣下として恥じぬ生を歩むのみだ。

 

 

「なぁ、ライダー。いつか僕も連れてってくれるのか? お前が夢見た、あのオケアノスへと‥‥」

 

 

 死した時にこそ彼の王に見えることが叶うのだろうか。いや、私は自分があの『王の軍勢(ヘタイロイ)』にふさわしい人間だなどという自惚れをもつことはできない。私はよくも悪くも大人になってしまったのだ。

 

 

「あれから背も伸びたぞ。お前には全然届かないけど‥‥もう、『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』に乗るときだってお前にしがみつく必要なんかないんだ」

 

 

 願うことなら、自分がまた会う時に、胸をはって彼の臣下であると告げられるように。自分の人生を誇り、堂々と頭を垂れることができるように。

 

 

「ハ、私もとうとう中二病とやらに感染したらしいな。‥‥昨夜はネットをやりすぎたか」

 

 

 感傷に浸るのは個人の持つ特権の一つだが、エルメロイの名前を継いでしまったこの身にはあまり時間の余裕がない。もちろん愛すべきゲームのためならば骨身を削って捻出してみせるが、今は仕事の方を先にこなしてしまうべきだろう。

 私はケースを閉じてまた元通りに布を仕舞い、二重の鍵を再度念入りにかけ直した。思えばこれを厳重に保管するために、封印や結界関連の魔術は他に比して特に勉強したものだ。

 自分で言うのも癪だが、認めざるを得ない。私は凡才だ。どうしようもないほど非才で、魔術師としての力量は二流でしかない。

 普段は虚勢をはっていても、こうして一人でいると現実として認めるしかない。だが諦めはしない。私は、凡人にこそたどり着ける境地を発見してみせるのだ。

 

 

「失礼、ロード・エルメロイはいらっしゃいますか?」

 

「‥‥いるぞ。入れ」

 

 

 ふと部屋の入り口から少女の声がした。どうもうっかり失念して研究室の扉を開けっ放しにしてしまっていたらしい。私室の入り口は閉めていたから問題あるまいが、いやはや私も少々疲れているのかもしれないな。

 入り口の方から聞こえた、やたらとラテン語に近い古くさい訛りの英語は、声から察するにまだ年若いであろう少女が使うには些か不釣り合いのような気がした。あれは言語学やら神秘学やらの教授(かせき)共がもったいぶって使うものだ。一体何処で憶えたのかはしらないが、関心せんな。

 

 

「聞こえなかったのか? 開いているぞ、入れ」

 

「申し訳ありませんでしました、では失礼して」

 

 

 その時の私は本当に疲れていたのかも知れない。我が王と同様に記憶に刻み込まれていてしかるべきその声を、すっかり忘却の彼方へと追いやってしまっていたのだから。

 言い訳をさせてもらうと、あの頃の彼らは召喚された土地、乃ち日本の言葉を使っていた。だからこうして英語を聞いたときにピンと来なかったのも仕方がない話だとは思うのだ。

 

 

「さて、一体何の用だ―――」

 

「すいません、リン・トオサカから資料の返却を頼まれまして‥‥」

 

 

 だから私は、突然目の前に現れたその存在を見て、思わず思考を遙か彼方、十年以上昔の冬木の地へと飛ばしてしまったのだ。

 古きアインツベルンの城の庭で開かれた酒宴に集った三人の王。金色の甲冑の英雄王、一際目立つ巨漢の我が征服王。そして―――

 

 

「お前は‥‥騎士王―――!」

 

「‥‥! 魔術師殿(メイガス)、なぜ私の真名を知っている‥‥?」

 

 

 瞬間、私の研究室に凍りついた突風が巻き起こったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥ルヴィア、二番の鉗子をとってくれないか」

 

「よろしくてよ」

 

 

 時計塔の地下にある蒼崎の工房は、おおむね四部屋に別れている。今は物置と化している来客用の部屋、居間兼食卓、寝室、そして工房。二階建てという豪華な作りは当然ながらスペースも広く、だがその大半を工房に割かれているためにそこまで居住スペースは広くない。

 そしてその部屋も各々キッチンやら風呂やらお手洗いやらと色々に細かく別れてはいるのだが、とりあえず今俺達がいるのは工房の一つ手前にある作業場のような場所だ。伽藍の洞にある橙子姉の工房を小さくしたようなもので、真ん中に作業台があって辺りには様々な道具やら資料やら材料やらが転がっている。

 作業台は手術台にも使えるなかなかに高性能なもので、すぐ上には照明やら何やらまで完備されていて作業がしやすくなっていた。

 

 

「まったく、いくら橙子姉の作品だからって、こんな乱暴に扱ったら傷むのは当然だぞ‥‥」

 

「そういう仕事なのですから、仕方がないでしょう」

 

「そういうことじゃなくて‥‥はぁ、もういいよ‥‥」

 

 

 その人一人が寝そべることができるぐらいの作業台の上で、俺は肘まで覆う手袋にエプロンという中々にシュールな恰好で作業をしていた。手元で鉗子やらドライバーやらを突っ込まれているのは人の腕。否、本物のような精度まで完成された、蒼崎橙子謹製の義手であった。

 魔術とは、労力や採算を度外視すれば現在の科学力でも再現できるものを言う。一般的な―――と言っても時計塔の教授レベルの―――魔術師が作る義手は、最先端の生物化学や遺伝子工学を駆使すれば似たようなものを作ることができる。人工皮膚や内蔵されたからくり、筋肉や神経系の信号を読み取って動く仕組みなどは研究が進んでいるそうだ。

 だが蒼崎橙子という封印指定の魔術師の作る義手は、凡百のそれとは一線を画する。

 

 

「正直キツイんだよね、いくら簡単な整備だけだって言っても、橙子姉の作った義手は俺の手に余るのよ」

 

「報酬は十分に払っていますよ。それにこちらでアフターケアを請け負ってくれるという契約でした。しっかり等価交換は成立しているはずですが」

 

「いやね、やりますけどね? できれば壊すこと前提で使うのヤメテ」

 

 

 作業台の上で沈黙したままのこの義手、外見はまるきり人形と同じだ。肌はセラミックか合成樹脂に似た質感、間接はスムーズな動きを可能とする球体間接になっていて、一般人が単体で見てもかなり良い出来だと評価するだろう。

 だがコイツの真価は装着した時にこそ発揮される。魔力を通せばまるで生きているかのように血が通い、元の腕と寸分違わぬ見かけになるのだ。間接部が見えなくなるなど序の口、質感や血管の脈動までそっくりそのまま反対側の腕と比べても大差ない。

 それだけではない。触覚や痛覚は言わずもがな、動かす際の神経系の伝達齟齬やタイムラグは殆どなく、頼めば各種ギミックの取り付けも可能。まさに人体に通じた最高位の魔術師である蒼崎橙子にしか作れない一品である。

 

 そして、それに比して整備も難しい。もちろん本来ならアフターケアも不要なほど頑丈に作ってあるのだが、そこは精密機械の常、あまりに乱暴な扱われ方をすればこうして頻繁にメンテが必要になってしまう。

 もちろん彼女がそういう荒事専門の仕事をしているのは百も承知。‥‥だけどね、マジで疲れるのよ、橙子姉の義手を整備するのわ。

 何べんだって言うが、仮にも封印指定謹製の作品をいじくるなど、いくら直々に教えをうけた俺にだって簡単に出来ることじゃない。今だって必死で繋げる部分を捜しあてミリ以下の精度で繋ぎ合わせているのだ。モノは大事に扱おう。MOTTAINAIじゃないか。

 

 

「前々から思っていましたけど、貴女はもう少しものの扱いを丁寧になさったらいかがですの?」

 

「そう言われましても、こういう仕事に使うと事前にミス・アオザキには申し上げているのですが‥‥」

 

 

 そんな俺の苦労を察したのか、作業場の隅に無造作に置かれたソファーに腰掛けていた男装の麗人は、心底申し訳なさそうに俯いた。

 化粧っ気のない顔だが、強い意思の宿った瞳の下の泣き黒子が気丈な仕事用の表情を崩した時のチャームポイントとなり、両耳に下がった大きめなルーン石のピアスは不思議とスーツに似合っていた。

 彼女が俺が今ひーこら言いながら整備している義手の持ち主。封印指定の実行者にして世界唯一の伝菌保持者(ゴッズホルダー)、バゼット・フラガ・マクレミッツだ。

 

 

「しかし本当に助かっていますよ、蒼崎製の義手には。まさか以前と変わらず仕事ができるようになるとは思いませんでした」

 

「その分こうして頻繁に整備することになるから、半々といったところかとは思いますけどね。一々呼ばれるのですから、私からもご注進申し上げますわよ、ミス・マクレミッツ」

 

「毎度すまないね、ルヴィア。なにしろ一人じゃ効率が悪くて仕方がないもんで‥‥」

 

 

 一々自分で器具を取り替えたりとかめんどくさくてしょうがない。機密みたいな部分もあるから作業自体を見せてやることはできないんだけど、神経使うから他のことに意識割いてる余裕ないんだよね。

 そんなわけでなんだかんだこの一年、バゼットに長期の仕事が入っていない時は月に一度はこうして俺の作業場に集まって義手の整備とお茶会をしている。あんなこと言ってはいるけど大概ルヴィアも付き合いがいいしね。

 

 

「そういえば、今期は日本から特待生が来たとか?」

 

「ええ、日本から」

 

 

 ひととおり作業が終わったので義手の外装を戻し、飛び散った人工血液を丁寧に拭って開かないように封印を施す。

 この橙子姉が作った義手、外見はまるきり人工物だが、中身はチューブやら軽合金やらの骨組みの間に人工筋肉と血液がある。ここまで来ると現代科学も真っ青で、正直な話、俺も5、6年かかってやっといじくることが出来るようになったのだ。しかも今だに原理がわからない。

 この中身こそが蒼崎橙子の英知の粋を凝らしたところで、技術を盗まれないようにココを開けるのは俺と橙子姉しかいない。

 

 

「遠坂嬢達のことかい? ああ、バゼット、上着は脱いで袖まくってくれないか? ‥‥いやいや、シャツは脱がなくていいから。それ下着だから」

 

 

 メンテの終わった義手を持ってソファーで高価い紅茶を水みたいにぐいぐい煽っている依頼主へと、ルヴィアが用意してくれた各種工具を受け取って近付く。

 薄いシャツの袖を無理矢理肩までまくらせ、切断面に俺の魔力を通わせて状態をチェック。‥‥よし、綺麗だ。阻害要素はないな。

 

 

「‥‥その者達が、第五次聖杯戦争の勝利者というのは」

 

「本当ですわよ。生意気に英霊まで連れて来ましたわ。希少なのは認めますけど、私達宝石魔術師には無用の長物のような気もいたしますけど‥‥」

 

 

 神経の状態を確認。限定範囲に結界を展開。魔力同調開始。‥‥接合準備完了。

 神経や魔術回路まで補う超高性能な義手の接合には存外手間がかかる。橙子姉ならこんなの一瞬で終わらせるんだろうけど、生憎なことに非才の俺では慎重に慎重を重ねて時間をかけて準備しないと失敗してしまう。

 飾りじゃないんだから適当に繋げると怪我や病気の元にもなりかねないし、結構気を使うんだよね。

 

 

「まぁ彼女達は主人(マスター)使い魔(サーヴァント)って言うより、家族か友達みたいなものだからね。そういう意味ではやっぱり離れ難かったんだと思うよ。‥‥よし、それじゃあ付けるから、リラックスしたら大きく息を吸ってー吸ってー吸って―――」

 

「吸ってばかりでは窒息するじゃないですか―――ぐぅ?!」

 

 

「よし付いた。お疲れ様」

 

 

 幾重にも張った術式でサポートし、付け根のカラクリを起動させて神経を繋げる。痛みはないが、その分言葉では表現できない気持ち悪さがあるのだといつぞやバゼットが言ってたけど、だとしたら顔色一つ変えないでコレを取り付ける式はやっぱり只者じゃないな。

 

 

「‥‥ふぅ、こればっかりはいつになっても慣れませんね。戦闘で負う痛みとはまた別の感覚です」

 

 

 念のため外れないかどうか確認するために引っ張ったり捩ったり抓ったりしてから、バゼットは義手に魔力を通して右腕と何ら代わりはないことを確認して上着に袖を通した。

 ふふん、橙子姉の作品に万が一にも誤動作なんてあるものか。まぁこの鉄拳魔術師みたいに雑な使い方したら話しは別だけど。

 

 

「お茶が入りましたわよ」

 

「ありがとうございます、ルヴィアゼリッタ」

 

「悪いな」

 

 

 作業台の片付けを終えると、ルヴィアが盆に紅茶の準備をして持って来た。お嬢様と侮るなかれ、『貴族は有事に備えて自分のことは全て自分で出来るようにしておくべし』というポリシーから、ルヴィアは紅茶の腕も一流なのだ。

 バゼットはルヴィアに礼を言うと居間へと向かい、俺は手を綺麗に拭ってから棚に仕舞っていたお茶菓子を取り出してテーブルに並べ、遅れて座ると温かい紅茶を一口啜って思わずほぅと吐息を零した。

 

 

「ミス・マクレミッツ、それは上等のダージリンなのですけど‥‥いぇ、貴女に言っても仕方がありませんでしたわね」

 

「何のことかは分かりませんが‥‥なんとなくすいません」

 

 

 渡された熱い液体を一息で飲み干したバゼットと、それを冷ややかな目で見るルヴィア。さしずめこの食生活貧乏がとでも言いたいんですねわかります。

 この鉄の女、本気で昼飯缶詰いくつかとかで済ますから並じゃない。最近ロンドンの街にも吉牛が出来たから今までよりは幾分魔ともになったけど、それでもジャンクフードや栄養補助食品にどっぷりと漬かりきってるあたり心配でしょうがないな。

 

 

「第五次聖杯戦争、ですか‥‥」

 

「貴女は確か、参加していたのでしたわね‥‥」

 

 

 ちょっと反省したのか二杯目の紅茶はゆっくりと口に流し込んで―――味わっているかどうかは定かではない―――いたバゼットが少しばかりいつもより暗い声で呟いた。

 彼女は先の聖杯戦争にランサーのマスターとして参加していた。否、もはや“参加しようとしていた”と表現した方が正しいだろう。

 時計塔屈指の近接戦闘のスペシャリスト、あまつさえ現存する宝具の担い手である彼女と、日本での知名度はさておき世界に名高いアイルランドの光の御子、クー・フーリンの組み合わせは最強とまではいかなくとも間違いなく最優と称すべき優勝候補であった。

 それが彼女、とんでもない世間知らずのお人よしであったため、旧知の仲であった言峰綺礼の騙し討ちにあってあえなく脱落してしまったと。

 そして半死半生、つまりは仮死状態でエーデルフェルトの双子館に倒れていた彼女は、危ういところで魔術協会から派遣されてきた調査隊に発見救出された。令呪があった左腕は半ばから切断されて多くの血を失った危険な体だったが、なんとか持ち直してこうやって復帰しているというわけだ。

 

 

「まだ、引きずってるのかい? 参加しなかった俺が言うのも何だが今回の聖杯戦争はとんでもないカオスだったと聞く。命があっただけでも儲けもんと思った方がいいんじゃないかな?」

 

「そうやって納得できるものでもないということは、紫遙君にもわかるでしょう‥‥?」

 

 

 とはいえ切断されてしまった左腕は戻らない。あまりツブシの効かない性格をしていた彼女にとって、封印指定の実行者という職を失うのはあまりにも痛手であった。いかに戦闘技能が高かろうと片腕一本失うのは相当の深手であり、戦力低下は否めない。

 そこでお金持ちの彼女が義手の作成を依頼したのが橙子姉であり、現地でのメンテを依頼されたのが俺というわけだ。使いっ走りみたいなもんだけど、まぁしょうがないか。

 

 

「しかしミス・マクレミッツ、魔術師にとって儀式や実験に失敗するのは日常茶飯事。自分の犯してしまった失敗を悔いる気持ちは大事ですけど、あまり思い詰めては反省を将来に活かすことも出来なくなってしまうのではなくって?」

 

「ルヴィアゼリッタ‥‥。えぇ、確かに貴女の言うとおりかもしれませんね」

 

 

 なんだかんだでこの一年ほどのつきあいになるからか、相変わらずの言い方ながらもバゼットを気遣って彼女なりに励ますルヴィア。やり方は雑だけど心はしっかりと通じたようだ。

 世間知らずでお人好しで、冗談が通じない堅物なところがあるバゼットにもルヴィアの気遣いが伝わったらしく、さっきよりも幾分表情を穏やかにして紅茶をすすり、頭を下げる。最近は口癖のように『一流の魔術師は身内に甘い余裕がありますのよ』と繰り返してきたのを知ってるから、礼を言われてちょっと照れくさそうにそっぽを向いたルヴィアの様子がおかしくて笑いがこぼれた。

 本来の孤高然とすべき魔術師のあり方からは外れているのかもしれないけど、俺たちもまだ若い。こういった友人同士の語らいってのは魔術師云々以前に青少年として必須なんじゃないかな。言い訳にしてはちょっとぬるいかもしれないけど。

 

 

「どうだい? このあたりで心機一転、何か挑戦してみたらどうかな? 今までやらなかったこととか、いろんな事情で敬遠してたこととか‥‥」

 

「挑戦‥‥ですか‥‥」

 

 

 場の潤滑剤とすべく投下した俺の言葉に、バゼットは顎に大木も難なく打ち抜く鉄の拳を当てて考え込んだ。気分転換ってのはどんなことにも、それこそ自分が大好きで大好きでしょうがなくてのめり込んでいることにも必要だ。

 体を動かすことが好きなバゼットならスポーツに取り組んでみてもいいし、全く逆に女の子らしい趣味をもつってのもいいかもしれない。時計塔の内外で鉄の女として通っている彼女だけど、内面は噂からは意外に思うだろう程に乙女チックなのを俺たちは知っている。

 何せここは華のロンドン、たいていのものはそろっているから問題はあるまい。

 

 

「‥‥では紫遙君、一つ頼み事を聞いてはくれませんか?」

 

「あぁ、俺に出来る範囲のことでよかったら」

 

 

 だからキッと顔をあげたバゼットに、俺はにこやかに協力する旨を伝えた。

 そりゃ彼女よりは私用でうろうろしてるとは言え、俺もあまりロンドンの街に通じているというわけではない。でもバゼットやルヴィアよりはマシだ。いざとなれば意外にもフットワークの軽いセイバーに相談してもいいかもしれない。

 

 

「その、第五次聖杯戦争の勝利者たちと会う段取りをつけてはもらえないでしょうか」

 

「「‥‥‥‥は?」」

 

 

 あまりにも予想外の言葉に、俺とルヴィアは同時に凍結(フリーズ)してぽかんと目の前に座るバゼットを見る。

 一体どういう思考手順を踏んでその結論へと達したのかはわからないが、ジョークや冗談を微塵も滲ませないその瞳から察するに、もちろんバゼット・フラガ・マクレミッツは本気であった。

 

 

 

 

 28th act Fin.

 

 

 

 



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第二十八話 『伝承者の憂鬱』

  

 

 side Lord El-Melloi Ⅱ

 

 

 

「‥‥なるほど、あなたがあの征服王のマスターだったのですか」

 

「本当に覚えていなかったのか‥‥なんというか、私は今言いようのない怒りと寂しさに駆られているぞ」

 

 

 エルメロイの名を継ぐ私の研究室は当然ながらそれなりに広い。寝泊まりしている屋敷は郊外にあるので居室は必要ないが、とりあえず仮眠はできる大きめのソファーにキッチンなどは整備されている。

 通常時計塔の魔術師の研究室というものは授業や講義に必要なものしかおいていない。自分の研究は自宅にある工房でするのが基本であるし、そもそも自分のものであったとしても元々は共有スペースであったココに最大の機密である研究資料などを置いておくわけにはいかないのだ。

 その面私の研究は主に書物から読み解く部分が多いために、この研究室でも自宅の工房とさほど変わらぬ作業効率を維持することができる。さすがに世界に数冊しかないというような貴重な写本になると防犯面から自宅の工房においてあるが、それ以外の本はかなりの数がこの部屋へと移されていた。

 

 

「すいません、ずいぶんとあの頃から見違えていたもので、気づかなかったのです。‥‥主に背とか」

 

「わかっている。わかっているのだがやるせないものを感じるのだ。‥‥封印したい黒歴史というやつか、これも」

 

「いえいえ、当時の貴方も見所のある少年でし、た‥‥?」

 

「疑問形じゃないかっ!」

 

 

 五体のサーヴァントの邂逅や、アインツベルンの城で行われた聖杯問答の時を思い出して思わず口調もあの頃に戻る。今の口調も別段強く意識しているわけではないが、教授という肩書きに箔を持たせるために作っていると言えばそうなる。

 気を張っている‥‥ということになるのだろうか。あれからもはや十年以上の年月が過ぎ、戦いの記憶は鮮烈ながらも段々と過去の出来事へと変わっていく。それは仕方がないことで、時を巻き戻すのは魔術の真理に逆らうし私自身望みもしないことだ。

 しかし、カリスマ教授という私自身は果てしなく本意ではない二つ名が一人歩きし、しかもそれがアーチボルトを立て直したことと一緒に相乗効果として私の時計等での地位を確立しているのだから困ったもので、私としてもそのような風評を積極的に広める気にはならないにせよ相応の態度をとらなければならない。

 

 

「それにしても本当に貴方も立派になったものですね。失礼ですが、あの頃は征服王の隣で彼に振り回されている姿ばかりが記憶に残っていますから」

 

「‥‥否定はしないさ。否定はしないが‥‥はぁ‥‥やはり当時の私は敵にもそう思われていたのか」

 

 

 確かに私は鼻持ちならない生意気な新米魔術師だったかもしれないが、それでも強大なサーヴァントを従えた優勝候補の一角であったはずなのだ。(実際には師であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトがイスカンダルを召喚する予定だったのであり、それを横からかすめ取ったからこそあの時の私と今の私があるのだが、まぁ今更愚痴っても詮無いことだろう)

 だが実際問題として、昔の自分は本当に一部を除いて黒歴史として削除抹消してしまいたい思い出である。なんというか、少しでも思い出すだけで頭に指をつっこんで直接脳みそをかき回したい衝動に駆られる。

 認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちと‥‥いや、なんでもない。なんでもないぞ!

 

 

「あー、ところで騎士王。クッキーと紅茶のおかわりはいるかね?」

 

「いただきます」

 

 

 半ば惰性で机の上に出したお茶菓子は既に食べ尽くされていた。めんどくさくてかなりの量を箱からわしづかみにして皿へ放ったのだが、話し始めてさほど経っていないにも関わらず影も形もなくなっている。

 私の言葉に間髪入れずに勢いよくうなずいた騎士王の頭の上にぴょこんと凛々しく屹立した一本のアホ毛が動作に合わせて揺れ、瞳は期待の色に染まり、心なしか全体的にすごくうれしそうだ。なんというか、子犬とか小動物を彷彿とさせる。本当に騎士王かコイツは。

 

 

「むしゃむしゃ‥‥すいませんが、出来ればこのことは凜やシロウには内密に願います。‥‥余計な心配をかけたくない」

 

「衛宮に遠坂か‥‥。いやまて、確か衛宮というのはあの聖杯戦争でのお前のマスターではなかったか? いや、それ以前に何故おまえには前回の記憶が残っている?」

 

 

 ふと気がついて目の前で上品な仕草にもかかわらず驚くべき速度でお菓子を咀嚼し続ける騎士王に問いかける。

 普通、聖杯戦争において召喚されるサーヴァントは英霊の座にいる本体の分身、戦争が終われば座の本体へと回収されて記憶ではなく記録となる。すなわち、同じ英霊が次の聖杯戦争で召喚されたとしても厳密に言えばそれは前回召喚された英霊とは別人だ。

 そもそも英霊とは人々の進行によってその存在を精霊と同格のものにまで昇華させた存在。その有り方は人々の勝手な幻想によって左右され、本来の彼らの仕事である抑止の守護者としての活動の際に意志や人格が宿ることはなく‥‥いや、これは蛇足であったか。

 とにかく第五次聖杯戦争に召喚された目の前の騎士王が、第四次聖杯戦争の記憶をもっているはずがないのだ。

 

 

 

「‥‥私は、少々特別な理由があるのです。その辺りは察して頂きたい」

 

「ふん、確かに聞いたところでたいした意味もないか。‥‥だが一つだけ教えてくれ。現世で過ごした記憶は、あの一度きりで消え去ってしまうのか? 同じ英霊を再度召喚しても、それは姿が同じで、以前の記憶は持っていないのか‥‥?」

 

 

 先ほど己の心の内で確認したように、英霊は座に戻ってしまえば本体と一体化し、記憶は記録へと変わり、主観的観念を失う。次に同じ英霊を召喚したところで、それは『前回召喚された分体』とは別の、『新しく創り出された分体』である。たとえ座から記録を読み取ることができたとしても、その中に込められた記憶まで呼び出すことはできないだろう。

 ならば、自分は本当に彼の王に二度と会うことは叶わないのだろうか。否、死後でも良い。僕は貴方の下命を果たしたと、貴方への忠誠を生涯かけて果たしたと頭を垂れて報告することができるのだろうか。

 

 

「申し訳ない。厳密に言えば私は座についたことがないのです。今もおそらく座に私の本体はいるのかもしれないが、今ここにいる私には座についたという記憶も記録もない。貴方の疑問に明確な答えを出すことはできません」

 

「‥‥そう、か」

 

「―――ですが、貴方がもう一度会いたいと望むのならば、きっとその願いは叶うと私は思います。あの戦いで貴方と征服王の間には確かな絆が生まれた。人と人との仲とは綻びやすいものですが、生まれた縁というものは早々消えはしません。ましてや相手が世界に属する英霊なのですがら、その縁の太さは言うまでもない」

 

 

 その言葉を、人は一欠片の信憑性もないと笑うだろうか。あまりにも確証のなさすぎる希望的観測。楽観的なそれを人は愚者に与える気休めだと笑うだろうか。

 だが、それを私に与えたのは、ブリテンに名高い騎士王アーサー。彼女の言葉は百の人が口々に曰う真実にすら匹敵する。

 だから私は、不思議な安堵とこれからの人生に対する希望すら胸に沸いて出てきたのを感じた。

 

 

「‥‥そうか。そうだな。要は僕の気の持ちようだということか」

 

「仮にも魔術を探求する身、機会は人より多いのではないでしょうか」

 

 

 目をつむって俯いてしまった私に、騎士王は用事があるからと退出の礼をとって席を立った。机の上に追加で出した茶菓子は悉く跡形も無くなっており、それでいて飲み干したカップはまるで最初から何も注いでなかったかのように綺麗で、クッキーの包み紙は見苦しくないように箱へと入れて蓋をとじてあった。

 ドアノブに手をかける僅かな音に、私はそちらへ顔も向けずに言った。

 

 

「‥‥また来い。新しい茶菓子は用意しておく。それと‥‥ありがとう」

 

「次は凜に頼んで酒でも持ってきましょう」

 

 

 姿は見えなかったが、そのとき彼の騎士王が優しく微笑んだであろうことが私には何となくわかったのだった。

 

 

 

 

 

 

  

「うぉぉぉぉおおおお!!!」

 

「遅いですよ」

 

「うわぁぁぁああああ?!!」

 

 

 気合い一閃、横凪ぎに振るった双剣は虚しく空を斬り裂き、次いで破城槌のように一直線に放たれた鉄拳がもろに胸の中心に突き刺さる。踏ん張りすら効かない程の圧倒的な威力をもったそれに、たまらず赤い髪の少年は道場の端へと吹き飛ばされた。

 

 

「‥‥噂には聞いてたけど、士郎が全く相手になってないわね」

 

「私としてはシェロがあれほどに戦えるということがそもそも驚きですわ。てっきり只の、貴女の小間使い兼見習い魔術師かと‥‥」

 

 

 俺の隣で口々に勝手なことを言うお嬢様方を他所目に視線を道場の真ん中で烈しく戦う二人へと移す。

 片方は特注の短い竹刀を二本持ち、片方は革の手袋をつけただけの徒手空拳。一体何がどうなってこうなったのか良く覚えていないのだが、隠してはいるが固有結界持ちの封印指定級の見習い魔術使いと、下手な死徒なら軽々と殴殺してのける凄腕の封印指定の実行者が模擬戦をやっている。

 ちなみに場所は例のごとく両儀の道場。てんでばらばらな格好や人種の一行にも師範は気を悪くした様子もなく快く道場を貸し出してくれ、現在進行形でこのようなよくわからない事態になっているというわけだ。

 既に師範は家族サービスだの何だのと出掛けてしまい、道場には今まさに戦っている二人と、野次馬‥‥もとい応援をしている遠坂嬢とルヴィア、バゼットから紹介を頼まれたが故に来ざるをえなかった俺しかいない。

 そね一方、不思議なことに当然ならいてしかるべきはずのセイバーの姿はなかった。遠坂嬢の話によればどこかに出掛けていて連絡がつかず、無理に呼ぶこともないと思って放っておいたということだ。

 

 

「くそ‥‥っ、もう一本!」

 

「いい根性です。来なさいっ!」

 

 

 バゼットのことは『第一線級の封印指定の実行者』としか紹介していない。第五次聖杯戦争に参加していなかった俺がそっち関連のことを紹介するのはどうにも道理に合わないようなことに感じたし、そもそもバゼットの方から自分が言い出すまで内緒にしてほしいと頼んできた。

 最初遠坂嬢の家へと事前に連絡の上に訪れた当初は俺の付き添いというスタンスを崩さなかったのに、一体どのような経緯でこうやって衛宮と殴り合いをしているのか、正直理解に苦しむ。これだから肉体言語使いとは相容れないよなぁ、俺って‥‥。

 というよりまず遠坂邸でのルヴィアと遠坂嬢とのメンチの切り合いの段階で既に俺の胃はキリキリと悲鳴を訴え始めていたから、今の状態はむしろ良いのかもしれない。俺の胃の健康的な意味で。

 

 

 

 

「‥‥ふぅ、参った。全然相手にならないや」

 

「こちらこそお見それしました。まだ荒削りではありますが中々良い腕をしていますね。その歳でそれほどとは‥‥流石は聖杯戦争の勝利者の弟子といったところでしょうか」

 

 

 気がつけば衛宮とバゼットは試合を終え、それぞれ遠坂嬢とルヴィアが差し出したタオルで汗をぬぐって冷たい麦茶を飲み干している。バゼットはあまり汗をかいていないようだが、こちらも普段着だがラフなTシャツの衛宮と違って彼女はきっちりとした一つ覚えのスーツ姿だ。いくら上等な仕立て物で動きやすいとはいえ、尋常じゃないなホントに。

 それでもさすがに喉は渇いたのかたちまち薬缶に湛えられた麦茶を飲み干した二人に、俺は本館の方にある台所から追加の麦茶とついでに簡単な冷菓子を持ってきて、一同車座になって一息つく。

 横でさっきまで竹刀と拳を交わしていた二人は互いの、と言っても主に衛宮の至らなかった点などについて意見を交換しており、よほど暇なのかルヴィアと遠坂嬢は相変わらずバチバチと嫌味と愛想笑と言う名の社交辞令をキャッチボールしていた。

 クッション役のセイバーがいないから、けものとあくまのやりとりにも歯止めがきかずにどんどんヒートアップしていく。え? 俺? 無理無理無理。いい加減、胃に穴があきますよ。

 

 

「そういえばバゼット、貴女は封印指定の実行者なんですってね? どう? 仕事の方は」

 

「ええ。去年に少々手傷を負ってしまったので暫く休んではいましたが‥‥。最近は紫遙君の姉君に義手を作ってもらったのでしっかりと復帰しましたよ」

 

「義手‥‥? 失礼だけど、腕を?」

 

 

 こちらもいつの間にうち解けたのか、遠坂嬢はバゼット相手にほとんど猫をかぶっていない。対するバゼットも比較的人見知り‥‥というか初見の相手には距離を置いて様子を見るタイプだから、気さくに接しているところを見ると随分と気を許しているようだ。

 と言っても彼女の場合は一度気を許すと普段の仕事ぶりからは想像できないくらい無防備になるのだから困ったもんなのだけどな。他人の傷を切開するつもりなんとさらさらないけど、麻婆神父しかり。

 ちなみに舌戦はかなりの接戦だったらしく、ルヴィアは半ば息切れしながら麦茶を煽っている。表情から察するに引き分けみたいだけど、ホントこういう彼女の顔見るのは遠坂嬢たちが倫敦に来て初めてだよな。知っていたとはいえ友人として驚きだ。

 

 

「ええ‥‥。先の聖杯戦争で、私はランサーのマスターでしたから」

 

「えぇっ?! バゼット、あんたランサーの‥‥?!」

 

 

 唐突に何気なく場に放り込まれたバゼットの呟きに、衛宮が素っ頓狂な叫び声をあげて驚きを表現した。バゼットを回収したのは魔術協会の事後処理部隊であり、その調査の内容は遠坂嬢達に報告されていないから、当然ながらバゼットがマスターであったことなど二人が知る由はなかったわけだ。

 ランサー。青い槍の騎士。UBWルートでの死に様から兄貴とファンからも慕われている好感のもてる気さくな青年。

 実際英霊という存在は完全に人間の上位にあたり、魔術師であるならばその存在規模から目の当たりにするだけで自らの手の届かない存在であると悟ることができる。それは先日俺の目の前でおいしそうにアイスクリームをほおばっていたセイバーであろうと同じであり、あまりにも霊格が違いすぎるが故に英霊(サーヴァント)としての気配を消すことはアサシンのクラススキルがなくては適わない。

 ゲームなどでは他のキャラクター達とさほどの違いなく描かれるが、実際にこうして魔術の世界に関わる身として言わせてもらえば、英霊とは人間とは違うモノだ。

 

 

「そう‥‥、蒼崎君が突然知り合いを連れてくるなんて変だと思ったら、そういうことだったわけね」

 

 

 もちろん俺はセイバーを一人の友人として扱ってるし、特別な畏怖を持って接するつもりなんてない。最初に会った時こそ初めて目の当たりにする英霊という存在に対する気後れだってあったけど、一度友達付き合いをした以上、人間じゃないからといってどうこうなんてことはない。

 だから例えゲームで色々と知り得るはずのないことを知っていたとしても、彼の槍兵がどんな人物であったかなんてしっかりと知ることができるはずがない。

 

 

「‥‥紫遙君、ルヴィアゼリッタ、申し訳ないが席を外してくれませんか?」

 

「わかりましたわ」

 

「ああ」

 

 

 真剣な、という程には怖い顔をしていないバゼットが衛宮と遠坂嬢に視線を固定したまま俺たちに退席を促し、ルヴィアと目配せしては空になってしまったヤカンと冷菓子をのせていた盆を持って道場を出る支度をする。

 友人とは言えども聖杯戦争に何の関わりもない俺達はこの三人にとって部外者だ。それは交わした友情とはまた別の問題であり、既にバゼットの中ではかなり深い精神的外傷(トラウマ)として残ってしまっている問題についてのことだ。

 

 

「じゃあ終わったらロビーの方に来てくれ。いこうか、ルヴィア」

 

「ええ。また後ほど」

 

 

 当事者達だけで話し合うべきことについて、俺達に出来ることは何もない。幸いというのかむしろ不気味とでもいうのか、バゼットも冷静な様子に見えるから余計な心配もなさそうだ。

 突然の暴露に動揺と緊張を隠せないらしい衛宮と遠坂嬢を横目に俺達は道場の入口の引き戸を閉め、ひとまずコトが治まるまでと本館のロビーに備え付けてあるソファーへと向かったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 29th act Fin.

 

 

 

 

 



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第二十九話 『学生達の享楽』

 

 

 side Rin

 

 

 

「え? ハロウィンの行進‥‥ですか?」

 

「はい。ミス・トオサカ達にも是非ご参加いただければと思いまして」

 

 

 いくら時計塔に通う魔術師と言えども、暮らしているのは表の世界。生活もあるし四六時中引きこもっているわけにもいかない。

 学生である以上町内会の会合とかに参加するのは勘弁してもらっているけど、それでも回覧板の類は回ってくるし、そうでなくともウチはご近所の噂話に上りやすい家族構成をしている。なにせ男一人に女二人だ。ゴシップなんていくらでも湧いて出てくることだろう。

 それもこれも士郎がいくらでも私以外の女の子をひっかけてくるから‥‥いえ、今はこんなこと言ってもしょうがないわね。

 

 

「最近はホラ、こういう行事に参加できる子も減ってきているでしょう? それでも行事は伝統みたいなものだからしっかりとやりたいし‥‥。それでミス・トオサカ達にもお手伝いしてもらって、盛り上げていこうと思ったんです」

 

「はぁ‥‥」

 

 

 休日の午後、士郎とセイバーが朝早くから賃仕事に行ってしまって自宅で暇をつぶしていた私のところへ訪れたのは、このあたりのご町内の婦人会を取り仕切っているハドソン夫人。犬耳犬鼻犬尻尾が似合いそうな麗しい未亡人で、それでいて士郎の魅了(チャーム)に引っかからないという稀少な人材だ。

 料理の腕は倫敦基準で上手、士郎基準でファミレス未満といったところだけど、天才的な裁縫スキルを持っていて人好きもいい。強いて欠点をあげるならお節介に過ぎるところか。

 で、どうやら今回はそのお節介が最大限に効力を発揮したらしい。昨今の子供達の地域離れと情操教育の関係、地域の連帯による伝統的な犯罪抑止力や治安の向上など話はあちらこちらへ節操なく飛び、あらゆる方面からハロウィンの仮装行進を盛り上げる必要性を説いている。

 その勢いはのんびりとした口調からは想像することができない程の疾風怒濤。どうも理詰めというより物量で相手を無理矢理納得させる方が得意らしく、息継ぎの間がわからないほどに言葉を紡ぐ。

 

 

「で、どうしても今年はハロウィンの行進を成功させたいの。‥‥手伝って、くださらない?」

 

 

 人間、よほどのことがなければ誰しも天敵のいうものが存在する。それは私にとっての似非神父しかり、アーチャーしかり、とにかく先天的に苦手とする人物は必ずいるものだ。

 それは大体の場合において肉体的に、精神的に相手の方が上位に立っている状態を指すのが基本だが、たまに、稀に、『敵がいない』が故に誰の上位に立つこともなく、また同様に誰も上位に立つことができないという逸材も存在する。

 例えば高校でクラスメイトだった三枝由紀香などがそれに属するだろう。あの子犬みたいな少女を前に自分の優位を声高に主張できる奴がいたらいらっしゃい。私なりのやり方で断罪してあげるから。

 

 

「お願い‥‥できませんか‥‥?」

 

「う‥‥」

 

 

 そして今、私の目の前で悲しげに瞳を潤ませるハドソン夫人もまた、そんな子犬属性の持ち主だった。私より一回り弱も年上だってのに、いったいどういうことだろうか、この庇護欲を掻き立てる眼差しは。

 いまさらみたい気もするけど、本来私達魔術師にとってこのような馴れ合いは不要。別に強制されているわけでもなし、気が乗らないならはっきりと『ごめんなさい私ちょっと用事がありますのホホホ(意訳)』とでも言って断ればいいだけの話だ。

 なのにそれができない。完全に情に流されているわけじゃないんだけど、あくまで魔術師的に頭が妥協案を探り出していて、全体的に同意の方向へと天秤は傾きつつある。

 

 

「ただいまー‥‥ってあれ、お客さんか?」

 

 

 そして事態は正義の味方見習いがやってきたことでさらに加速する。細かい裏事情はどうあれ、目の前で困っている人―――しかも女の人―――を士郎が見過ごせるわけがない。そういうところもまとめて好きだってわかっていても、時折その無償の好意に頭を抱えたくなってしまうこともあるくらいだ。

 義父がどうだったとか知らないけど、基本的に女性には優しくがモットーのフェミニストなのだから始末におえないのよね。しかもキザってわけじゃなくて、それをごく自然にやってみせる。これで女好きで鈍感じゃなかったらトンデモない女殺しになってただろうからホッとするわ。

 

 

「ハロウィンの行進? いいですよ、俺達にできることなら是非手伝わせてください。なぁ遠坂、いいだろ?」

 

「あんたねぇ‥‥、はぁ、別にいいわよ」

 

 

 もっとも私だってそういうところが好きで、士郎を恋人に選んだんだからあんまり他人のことは言えない。鈍感ということはつまり純粋と好意的に言い換えてもいいわけで、ホントにこっちが丁度ドキッとするタイミングで恥ずかしいことを言ってくれるから、良いのか悪いのかはわからないけど恋人としてはそういう部分に及第点をあげてもいいかな。

 尤もいつでもどこでもホイホイ女の子の頼みを聞いているのは許せないけどね。

 

 

「でもそれっていつやるんですか? さすがにこちらにも用事があった時は‥‥」

 

「あぁ心配いりませんよ。今日ですから」

 

「‥‥今日?」

 

「今日」

 

 

 さっきまでの潤んだ瞳とは一転にこにこと笑いながら告げられた言葉に、思わず色々なものが凍結(フリーズ)する。つまり何よ、このお方はそんな余裕ないタイミングでこの話もちかけてきたってこと? いくらなんでもそれはちょっと―――

 

 

「そうなんですか。それじゃあ急いで準備しないといけませんね」

 

「士郎、あんたまたそうやっていくらでも安請け合いして‥‥!」

 

 

 さすがにどうかと思って断りの言葉を発しようとしたところを、士郎のやる気に満ちた声が遮り、言い出すに言い出せなくなってしまった。なんていうか、ホント士郎は士郎よね。

 魔術師にとって不要な馴れ合いだけど、一般人に紛れて生活する以上しかたがないこと、か。なんか言い訳じみてるけどしょうがないわよね。どうせ暇だし、気分転換も必要かと思っていたところだし。

 

 

「じゃあお二人とも家に来て頂戴! もう用意はしてあるのよ?」

 

「してあるって‥‥なんでさ?」

 

「二人に何が似合うかしらと思ってたら手が止まらなくて‥‥。うっかり返事を聞く前に作ってしまったのよ。ほんとに私ってばおっちょこちょいで」

 

 

 返事を聞く以前に申し出る前に作ってるわよ、なんてツッコミはおそらく意味を成さないだろう。ハドソン夫人はもう完全に自分のペースで、士郎の手を引いて‥‥ちょっと士郎! 何いつの間に手なんか繋いじゃってるのよ!

 もう、なんかもう、ホントに他意の無い人なのかわからなくなってきたわ‥‥。

 

 

 

 

 

「‥‥そうか。気は晴れたのかい」

 

「ええ。彼の最期を、聞けましたから‥‥。後は私が彼のマスターだったことを恥じないように生きていかねば」

 

 

 バゼットがロンドンにいる間に寝床として使っているアパートに俺はやってきていた。ルヴィアは忙しいとかで来なかったけど、バゼットが現金の持ち合わせがこちらにしかなく、もうすぐにロンドンを仕事で発ってしまうからということでこちらから足を運ぶことになったのだ。

 俺は別に義手の整備の代金なんて後で良いと言ったんだけど、こういうことはしっかりするべきだと譲らなかった。それがかえって手間かけさせることになるんじゃないかなぁと思ったけど、まぁ別に用事があるわけでもなし、暇なのだからつきあおう思ってこうして比較的新しい部類にはいる小さめのアパートへとやって来た。

 

 

「たった数日のマスターですが、確かに私は彼の相棒でしたからね」

 

「その意気その意気。まぁ元気になれたようで何よりだよ。意気消沈してる君なんて君らしくないからね」

 

 

 どちらかというと無表情か高笑いで敵を片っ端から殴殺してく方がバゼットらしいというか。まぁふだんの彼女としてもあまり落ち込んでいる姿は見たくない。人生笑顔が大事とか言うつもりは毛頭ないけど、仕事が殺伐としてるんだから私生活ぐらいは朗らかでも良いと思うわけで。

 といっても私生活も殺伐としてると言えなくもない。この部屋の惨状はそんな気持ちを俺に抱かせるほどに殺風景であった。

 なにしろどこをどう頭の中で削除抹消したのか知らないがベッドすらないのだ。もともと1Kという収入に比してかなり慎ましい住居なのもあるが、そこに家具の類が殆ど見あたらないのだ。

 あるのは部屋の中央に置かれた大きなソファーにテーブル。あとは大きめのクローゼットがでんと部屋の隅に鎮座坐しており、おそらく衣服の類はあの中に全て入っているのであろう。しかもたぶん、全部同じスーツが。

 あのスーツも相当に良い仕立てなんだけど、いかんせん同じ物ばっかりってのは女性としてどうなのだろうか。寝るときはパジャマの替わりにワイシャツを羽織るだけだし、私服なんてものもついぞ見たことがない。ここまで物事に対して無頓着な人種がゲームや漫画の世界以外にいるとは‥‥って、そういえばここはそういう世界だったか。あぁ頭が痛い。

 

 

「私のことはそれより、そういえば紫遙君は将来どうするつもりなんですか?」

 

「将、来‥‥?」

 

「ええ。やはり姉君の跡目を継がれるのですか?」

 

 

 辛気臭い空気を拭おうとしたのか、唐突にバゼットから振られた話題に俺は一瞬思考を縺れさせる。将来、だと‥‥?

 

 

「い、いや、橙子姉の跡は継がないよ。俺に人形作りの才は無いし、そもそもアレは橙子姉のための事務所だからさ」

 

「ほぅ、ではミス・ブルーの跡を継ぐのですか?」

 

 

 魔術師の将来、と言われていまいちピンと来ない人も多いだろう。社会の裏側に潜む俺達魔術師という人種が一体何で生計を立てているのか。それにはいくつかの手段がある。

 

 まずエーデルフェルトを始めとする中世ぐらいからの非常に長い歴史を持つ名家。これらは表の世界でも爵位持ちだったりすることが多いから、先祖伝来の財産をやり繰りすることで十分生活することができる。

 次に遠坂の家の様に魔術協会から管理地を任されているところ。こういう家は管理地に住む魔術師達からの税金みたいなもので生計を立てている場合が多い。これは俺の苗字である蒼崎も同様だ。

 そして他の有象無象で構成されているのが、初代で何にも伝手がない魔術師や、没落してしまったがために神秘の世界での資金繰りに苦しんでいる魔術師だ。つまりはまぁ、俺や衛宮もこれらに属している。

 こういう魔術師達は仕方がなく表の世界で職を持つか、協会での仕事をこなすことで研究や生活に必要な資金を調達している。例えばそれは時計塔での講師や事務仕事であったり、封印指定の実行者だったりと実に様々だ。

 もちろん神秘の世界でも更に“裏”と呼ばれる闇の底で生きていく連中や、橙子姉みたいに自分の腕を頼りに仕事を請け負っている魔術師もいるから一概に括ることは不可能だ。

 

 

「ああ、そういえば君には言ってなかったか。俺は確かに蒼崎を名乗ってはいるけど、実は養子、といえか義弟なんだ。だから本家を継ぐことはできないよ」

 

「そうだったのですか‥‥?! すいません、失礼なことを言ってしまって―――」

 

「あー、気にすることはないよ。何しろ義父ってことになってる人にも会ったことないからさ」

 

 

 見ていて可哀相、というか罪悪感を感じるぐらいに取り乱し始めたバゼットを前に、俺も慌てて弁解する。なにしろ本当に今言った通り、俺は蒼崎の家には行ったことはおろか認知すらされていないだろうからだ。

 まぁ多分こうして時計塔に来ている以上、存在ぐらいは知られているとは思うんだけど、最初から気にしちゃいない。血の繋がっていない俺では万が一の際の魔術刻印の保存用にもならないから向こうも積極的に関わってきはしないだろう。

 むしろまぁまぁ腕の良い魔術師だと噂されているからか下手に口出ししてこないことを安堵すべきか。どこの馬の骨とも知れない奴が、勝手に蒼崎を名乗るんじゃない! なんて言われやしないかと余計な心配していた時期もあったことだし。

 

 

「では今は完全に未定ということですか」

 

「そうなるかな。もう暫くは学院で研究を続けてるつもりだけど、それが終わったらどうするかなぁ‥‥」

 

 

 いわゆる今この時期に未曾有の就職難に窮している世間一般の大学生達と違って幸いなのは、引く手数多とまではいかなくとも、とりあえず面倒を見てくれそうな場所に関する心配はないということか。

 一応次席に準ずるぐらいの成績は上げているからこのまま研究を続けていても幾らかの助成金の類は出るだろうし、そもそも俺の研究はそこまで資金が必要なものではない。

 散々青子姉にしごかれたおかげか低級の死徒の討伐ぐらいなら一人前衛型の相棒をつけてくれればさほど無理をしなくてもこなせるだろうし、ふと思い返せばルーン学科の教授からも講師に来ないかと誘いを受けている。

 ‥‥今こうして考えてみると、俺って相当恵まれてるな。下手すりゃ衛宮や遠坂嬢よりも先行き安心かもしれないぞ。

 

 

「もし何でしたら、私と一緒に封印指定の執行者でもやってみますか? 貴方は支援型と割り切れば中々の使い手だ。私としても貴方と組めれば仕事がやり易くなって良いのですが‥‥」

 

「勘弁してくれ。何度だって言うけど俺は研究者だ。殴り合いはたまになら良いけど基本的に性に合わない」

 

「でしょうね。まぁ今のは試しに言ってみただけです」

 

 

 バゼット自身、本来はわざわざ物騒な仕事についている必要はない。『伝承保菌者《ゴッズホルダー》』であるフラガの家はエーデルフェルトに匹敵する名門なのだから、当然働かなくても収入はあるのだ。それでもなお彼女が戦場に身を置くのには、彼女自身の扱う魔術、というか宝具の特性にある。

 ルーン魔術を得意とするバゼットだが、本来ルーンは積極的に主力として戦闘で使う魔術ではない。勘違いされがちだが、アレは本来は魔術具や武具を製作する際に力を込める目的で刻んだり、家や工房に魔除けや呪いのために刻んだり、せいぜい儀式の補助に使ったりするものだ。

 そういう認識であるためにルーンを極めたという程に習得している魔術師は存外少ない。非常に歴史のある神秘文字であるにも関わらず即時的な効果が顕れにくいために、さほど力を割いて研究するメリットが少ないというのが共通認識なのだ。

 つまりルーンを講師が出来る程の高いレベルで会得して、あまつさえそれらを戦闘に於いても使用できるバゼットは実はすごい魔術師なのだ。まかり間違っても鉄拳と宝具《フラガラック》だけが能じゃない。

 

 そして何より彼女が戦場で魔術を行使する理由の一番大きなものが、今も部屋の片隅にケースに入れられて転がっている現存する宝具、逆光剣フラガラッハこと『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』である。

 両者相打ちの運命をひっくり返すこの必殺の短剣は、当然のことながら戦闘でしか使えない。それもできれば相手は自分以上の実力の持ち主が好ましいという何とも我が儘な武器であり、バゼットは伝承保菌者として、宝具の担い手として、これを比較的定期的に運用しなくてはいけないのだ。

 ある意味戦闘こそが彼女の魔術師としての研究であると言える。その割りに肉弾戦への嗜好が強すぎる気もするけど‥‥まぁそこはご愛嬌と言う奴か。

 

 

「いずれにしてもまだまだ先の話さ。当分はのんびり研究を続けていくことになりそうだ」

 

「まるで巷の大学生(ニート)みたいな台詞ですね。後で痛い目を見ても知りませんよ‥‥おや、誰でしょうか?」

 

 

 話はここまでと近くのスーパーマーケットで買った牛乳―――予想の範疇ではあったけど、当然のように冷蔵庫の中にはミネラルウォーターと缶詰しか入っていなかった―――を煽った俺にバゼットが呆れたように笑ったその直後。唐突に玄関に飾りとばかりにぞんざいにとりつけてあったチャイムが来客を知らせた。

 

 

「郵便屋か電気代の請求じゃないのかい?」

 

「いえ、私への郵便物は全て時計塔の事務所に届くことになっていますし、電気水道の料金は自動振込みにしてあるのですが‥‥」

 

 

 首を捻りながらもバゼットはシャツの胸元を締めてドアへと向かっていく。つまり俺といる時に無防備なのは仕様なんですかそうですか。

 

 

「はい、どちらさまで―――」

 

「「「Trick or Treat !!」」」

 

「‥‥は?」

 

 

 覗き穴のついていない防犯上どうかと思いつつも実際にも毛ほども不安のないドアを開ける音と共に飛び込んできた元気の良い声に驚いて、俺も座っていた椅子から立ち上がると玄関へと向かった。

 そこに居たのは突然の静から動への事態の推移についていけずに棒立ちになるバゼットと、その前でドアいっぱいから首を出す子供達。顔にはメイクをして様々な仮装をし、にこにこと手に持った帽子やら籠やらをこちらに向かって差し出している。

 

 

「‥‥ああ、そういえば今日はハロウィンか」

 

「そう、でしたね。いや、ちょっと驚きました」

 

 

 もともとはケルトのお祭りなのにどうして君、覚えてないんだ? そんなたわいもないことを思いながら俺はバゼットを横目で見て、次に目の前で楽しそうに笑う子供達へと視線を移す。魔女の扮装をしてとんがり帽子をかぶった女の子。犬の鼻と毛皮をかぶって狼男に扮した男の子。他にも髪の毛から蛇やら蜘蛛やらを垂らした子もいれば、ダイレクトにカボチャをくりぬいた物をかぶってジャック・オー・ランタンへと変わっている背の高めな上級生もいる。

 ちなみにこのジャック・オー・ランタンをハロウィン限定の創作だと思う人も多いが、これもれっきとした妖精種だ。とはいっても、妖精種という括りの中には妖魔やら悪霊やらも含まれるから一概に可愛らしいものを想像されては困る。コイツもそんなものの一つであるし、ぶっちゃけた話ゴブリンやらなにやらも妖精なわけだし。

 

 

「ん? 随分と大きな人影が‥‥」

 

 

 ふと十何人かの子供達の群れの中にひときわ目立つ、というか大きな二つの影があった。ちょっと向こうの方にいるらしくドア枠が邪魔をして顔が見えず、ちょっと気になったので俺は少し首を伸ばしてその顔を確認しようとして―――

 

 

「え、衛宮に遠坂嬢?!」

 

「蒼崎君?! それにバゼットも?!」

 

 

 まっ先に反応したのは遠坂嬢。尋常じゃないくらい顔を真っ赤にしてあたふたと頬に手を当てて隠れられる場所を探しているが、当然ながら通りに面した集合住宅なのでどこにもそんな場所などない。

 意図せぬ邂逅に言葉を無くしてしまっていた俺たちの後ろでは、バゼットがお菓子をねだる子供達に缶詰を渡していた。‥‥それは、どうよ?

 

 

「と、とりあえずみんな先に行っていてくれ。お兄さん達はこの人達に挨拶しなきゃいけないからさ」

 

「えー、シロウ行っちゃうのー?」

 

「シロウひどーい。私たちをおいていくのねー」

 

 

 何というか、随分とまた子供に好かれるやつだなオイ。子供達はひとしきり衛宮に不満を漏らした後、年長らしい背の高い男の子に連れられて次の家へと移動していった。

 とりあえず俺はようやく落ち着きを取り戻したらしい遠坂嬢と衛宮を連れてバゼットに断ってから部屋へと入り、しょうがないので部屋主であるバゼットが2Lのミネラルウォーターのペットボトルを一本ずつ皆の前に置いた。ちなみに椅子も足りないので全員床に座っている。

 

 

「へぇ、町内会のハロウィンの行進ね」

 

「そうよ。また士郎が安請け合いしてこんなことに‥‥。なんか知らない内に衣装までしっかり用意されてるし」

 

「そんなこと言ったって、遠坂だって結構楽しそうだったじゃないか。なんかほら、歩いてるときもわざわざマント翻してみたりして」

 

「ううううるさいわね! あれは、そう、ゴミがついてないかどうか確認してただけよ!」

 

 

 真っ赤になって恋人に抗議する遠坂嬢は、完璧な吸血鬼(ドラキュリーナ)の扮装だ。艶やかなナイトドレスに漆黒のマントを羽織り、ついでに魔女のとんがり帽子と口には作り物の牙。どう見ても楽しんでるようにしか見えません。ていうかノリがないと着れない格好だ。おそらくオーダーメイドなのか、遠坂嬢以外には似合わないだろう。

 一方の衛宮はなんとも不思議な出で立ち。肌は浅黒く塗りたくられ、その上に意味不明の紋様が体中に描かれている。頭には赤いはちまき、腰にも同じ色の腰巻きをつけ、ぶっちゃけて言えばアベンジャー。一体どこの誰がこんなジャストミートな扮装を考えたのだろうか。まさか俺以外にもトリッパーの類がいるんじゃないだろうかと邪推してしまう。

 

 

「なぁ衛宮、もうちょっとその、チンピラみたいに、やる気なさげにしゃべってみないか?」

 

「え? 何言ってるんだ紫遙?」

 

「いやぁ何でも」

 

 

 ちなみにhollowを経験していないにも関わらずその格好が存外胸にドキュンと来たらしく、バゼットはちょっと頬を朱く染めて復讐者のサーヴァントの扮装をした衛宮を見つめていた。ワイルドなのが好みなのか? まぁランサーの例もあるからわからなくもないけど‥‥。え? 言峰? 誰ソレ。

 

 

「それにしてもよかったな」

 

「何がよ」

 

「そりゃもちろんココにルヴィ―――」

 

「―――失礼、バゼットはいらっしゃいまして?」

 

 

 汚れるからと口紅をぬぐって、あくまでも上品にミネラルウォーターを煽った遠坂嬢に向かって俺が口を開いたその時、うっかり鍵をかけ忘れていた玄関を開く音と共に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

 

 

「げ、ルヴィアゼリッタ‥‥?!」

 

「‥‥‥‥ホ」

 

「ホ?」

 

「ホホホホホホホホホホホホホホホ!! どういたしましたのミス・トオサカその格好は? 実によく似合ってますわよホホホホホ!!」

 

「な‥‥ッ、あんた一体何しに来たのよルヴィアゼリッタァァアアア!!!」

 

 

 何の用事でやってきたのか、部屋に入ってきたのはきんのけもの。手に提げた包みからして届け物にきたのかもしれないが、今はそれを床に放り出して全力で遠坂嬢を指さして笑っている。

 ここで会ったが百年目、お嬢様らしい優雅さも忘れて腹を抱えて床を転げ回らんばかりだ。おそらく今世紀最大の見せ物なのだろう。その笑いは一向に止まることがない。

 ‥‥と、ついにしびれをきらしたらしい遠坂嬢のガンドが火を吹いた。フィンの一撃とまで言われる物理衝撃を伴ったそれはまるガトリング砲のように床へ穴を穿っていく。が、当然遠坂嬢を笑うことに必死なルヴィアはそれ故に迫る魔弾を華麗に躱していくから被害は広がるばかりだ。

 

 もはや止める気すら湧かない俺は自室を壊されて怒り心頭のバゼットがグローブをはめるのを横目で見ながら、そういえば衛宮はこの先どうするのかなぁと、意外に重要で、それでもそのときはさほど気にもとめていなかったことをのんびりと考えていたのだった。

 

 

 

 30th act Fin.

 

 

 



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第三十話 『伽藍堂の新人』

 

 

 side Sakura Matou only

 

 

 

「‥‥よし、そこまでだ」

 

 

 師匠である橙子さんの言葉に、私は足下から伸ばしていた影の中に出していた人間大の使い魔を沈め、元の大きさへと戻した。自分の感情の負の面を使って構成される拒絶の意志、相手を害するという意志の現れ。陰性の魔術であるこれが今の私に使える一番の魔術。

 魔力をかなり消費したために全身を気怠さがおそうけれど、以前、間桐の家に居たときの修練に比べれば遙かにマシ。もちろん橙子さんの修行は厳しく容赦がないけれど、自分の意志で魔術を習っているという今の状況が私に力を与えているような気がしてならない。

 お爺様によって体中に埋め込まれた刻印蟲は、長い間常時私の魔力を吸い取っていた。それらはまだ私の体の中にいるけれど、それを操るお爺様が消えてしまった以上、必然的に間桐の後継者として教育を受けていた私へと支配権は移り、魔力の収奪は行われていない。

 橙子さん曰く、もともと一流の魔術師並みにあった私の魔力は、刻印蟲に吸われ続けた結果抵抗してさらにその量を増やし、魔力だけなら時計塔の一部門の長にも勝っているということだ。

 もちろん間桐の後継者としての教育を中心に修行を受けていた私が使える魔術は極めて偏っていて、まずはそれを矯正して基本的な魔術を身につけるために毎日自主練習と橙子さんの厳しい指導に、私は夜は夢もみないぐらいぐっすりと眠る毎日を過ごしていた。

 

「ふん、影の操作は大分マシになったな。これならじきに次のステップに進めるだろう」

 

「次のステップ、ですか?」

 

「ああ。マキリお得意の、蟲の操作さ。おまえにとっては嫌な記憶かもしれんが、これは習得しておくに越したことはないぞ。なにしろ便利で、類がない」

 

 

 私がバンダナの人‥‥蒼崎紫遙さんの残したメモを元にここ、工房・伽藍の洞を訪れたのはあれから一週間ほど経ってからのことだった。

 あの後あの人たちが帰ってしまってから、私は目を覚ました藤村先生が彼らが来る前後の記憶をしっかりと失くしているのを確認すると、家に帰ってまずは家の中を隅から隅までお爺様が居ないかどうか探し回った。」

 心臓にお爺様がいないことはしっかりとわかっていたけれど、あの蟲の翁がそう簡単に消えてしまうとはとても思えなくて、休日なのをいいことに一日中家中をかけずり回って大嫌いだったはずの祖父の姿を探し求めたのだ。

 そして本当に、一匹の蟲の気配も確認できないことを悟ったとき、思わず私はそのまま床にへたりこんで暫く涙をこぼしているのを、ようやく涙が止まってからわかった

 。とても長い間私を苦しめていた存在が消え失せて、今までずっと体のあちらこちらに絡みつくように私を縛っていたお爺様の気配が本当に失くなっていて、もう具体的な感情が何も浮かばなくなっていて‥‥。

 

 

「次来るときは間桐の家から何か魔術書の類を持ってこい。やはりその家の資料がないことには効率的な指導ができないからな」

 

「わかりました。書庫を探してみます」

 

 

 落ち着いた私がまずしたことは、県外の大学に進学していた兄さんに連絡をとること。休日だから下宿にいるかどうかはわからなかったけど、幸い携帯電話を持っていたので連絡は簡単についた。兄さんもまさか私から電話してくるとは思ってなかったのだろう、わずかに1コールの間に受話器をとったみたいだった。

 体調や勉強の様子を気遣うおきまりの挨拶の後、私がゆっくりと、静かに、「お爺様が死にました」と伝えると、兄さんはたっぷり一分ぐらいは絶句した後、震える声で「それは本当か?」と聞いてきた。それはまるで肉親が死んだことを警察から告げられて、それでもそれを信じられずに半ば笑いながら問い返す家族のような声だったけど、その中に込められていた感情はおそらく同様にほとんど無色。

 兄さんにとってもお爺様は恐怖の権化だった。あれは何百年も生きるマキリの蛆蟲、表面上は好々爺を装っては居たけれど、魔術回路を持って生まれることができなかった兄さんを度々無能とののしっていたからだ。

 

 そして翌日、目を覚ました私の前にはものすごい形相の兄さんがいた。

 「桜、爺さんが死んだってのは本当か?」「心臓の本体はどうした?」「一体何があったのか最初から全部教えろ」と手に持った荷物を床に捨てて早口で捲し立てる兄さんをひとまず居間へと連れて行って、私は寝間着も着替えないままで事の顛末を説明した。

 完全にお爺様が消滅してしまったのを何度も何度も互いに可能性をつぶし合って確認すると、出来うる限り急いで帰ってきた疲労からか、兄さんは何も言わずに自室へと戻っていき、そのまま夜まで篭り続け、出てきた時には何か憑き物がとれたような、まるで私が間桐の家に来た当時の、ううん、そのとき以上に狂気の失せた顔をしていて、真剣な調子で私に言った。

 

『桜、これでもう間桐の当主は僕かお前かどちらかだ。魔術回路のない僕ではマキリの魔術は継げない。お前は、どうするつもりなんだ?』

 

 そう、兄さんには魔術師になることができない。魔術師に必須の魔術回路がなく、魔術に代用できる超能力も備えていない兄さんでは間桐を継ぐことができないのは、感情論以前の問題として事実明快。

 だからこそ私が遠坂から養子として呼ばれ、その私に嫉妬して自分の状況に絶望した兄さんは‥‥。兄さんにとってもお爺様は魂を締め上げる幾本もの荒縄だったのだ。

 そんな兄さんがあの時に冷静にこれからについて話を出来たということに私はまず驚いたけど、後から考えれば当然だったのかもしれない。お爺様がいなくなった以上、魔術師になれなかったとしても間桐の家に誇りを持っている兄さんには、家が潰れてしまうということが許せなかったんだろう。

 だから今までの色んなしがらみを捨て、私に問うた。家を継ぐつもりがあるのかどうか。

 冷静であったにしても、それがどんなに屈辱的な思いだったのか、それは兄さんが自室にこもってしまっていた時間からも察することができる。

 ‥‥私は、「暫く時間をください」と言って今度は自分が部屋へとこもってしまった。

 

 思い返すのはバンダナの人の言葉。私があれだけ苦痛を我慢して身につけた業を、つらい思い出として捨て去ってしまう機会が目の前に転がっている。

 思い出したくもない苦痛と陵辱の日々。何度も死にたいと思って、でも臆病な私は死ぬことができずに我慢するという安易な道を選んだ。

 人に褒められるようなことじゃない。私にとってはその方が楽で簡単なことだったというだけ。それでも長い間の我慢は実を結び、私は今、魔術師として自立できる機会もまた平等に与えられている。

 ‥‥先輩なら、なんてい言うだろうか。つらい思いをしてきたんだから、もう楽になってもいいよと言ってくれるのかもしれない。

 ‥‥そこまで考えた私の脳裏をよぎったのは、いつでも自信満々な輝く姉さんの姿。先輩を連れて言ってしまった、たった一人の肉親の影。

 私はいつでも姉さんを追いかけて、同時に顔を背け続けていた。きっと私たちは一番近いから一番遠くて、いわばそれはコインの表と裏、陽と陰の関係みたいなもの。姉さんの光はまぶしすぎて、私はずっとそちらを向けずにいたのだ。

 魔術を学び続けて間桐を継ぐというのは、目の前を歩いていってしまった姉さんの後を追っていくことに他ならない。私の受けた修行は極端だったから、今の私は正当な修練を積んだ姉さんの足下に及ばない。でも、ふと気づいた。前を歩く姉さんのすぐ隣を、先輩も歩いていることに。

 我慢、と言ったけれど、それは逃げていたと同義。全てを後ろ向きに受け止め、受動的に過ごしていた毎日。そんなことで、これから私はどうするのか?

 

『兄さん‥‥。私は、間桐を継ぎます』

 

 だからその日の夕飯の後、私はおそらく人世で最大の決断をして、兄さんにその旨を伝えた。逃げてばかりじゃ追っかけることだってままならない。

 姉さんと一緒にどんどん先へ行ってしまう先輩を、追いかけるためにはまずは最初に同じハイウェイに乗ることが必須条件。

 私の今まで、私のこれから。あれほど嫌った蟲に塗れた過去を、これからも繰り返していくことになるかもしれない。蟲で蟲を洗うような日々になるかもしれない。でも私はもう、逃げたくない。先輩や姉さんが進んでいくのを日陰で見ているのは嫌だ。私も、あの人達に追いすがりたい。

 そんな私に何を思ったのだろうか、兄さんはしばらく黙った後、ふっと、私が兄さんを怒らせたあのとき以来一度も見たことがない微笑を浮かべて言った。

 

『‥‥そうか、そうだよな。お前はもともとそのために遠坂から貰われてきたんだから、間桐を継ぐのは当然なんだよ』

 

 色々な感情が混ざり合って中和して、そして結局いろんなものが晴れた、そんな顔だった。

 兄さんは私が淹れた紅茶を飲むと「それで、これからどうするつもりなんだ?」と前置きもなしにこの先の方針を尋ねてきた。何しろ戸籍上は祖父となっている人が死んでしまい、つまるところ遺産相続やらなにやら非情に面倒な手続きをこなさなければならないのだ。いくら魔術師だからってそういうことについては俗世間の決まりを守らなければならない部分もある。

 もう何年ぶりかになるくらい二人で長い間話し合いをした結果、とりあえず遺産相続やお爺様については捜索願を出しておいて後回し。後は魔術関係に通じている嘱託の弁護士に依頼するという形で、私は紫遙さんがおいていってくれたメモを元に師匠となる人物を訪ねることにする。

 兄さんは大学があるから忙しいけど、週に一度はわざわざこっちに戻って手助けしてやると言っていた。その態度はいつも通りの斜に構えた嫌味なものだったけど、積極的に私と関わろうとしているというのは今までの兄さんでは考えられないこと‥‥ううん、きっと昔に戻ったんだ。昔の兄さんは優しかった。私がマキリの魔術を継いでいることを知る前の兄さんは優しかったから。

 

『お前は魔術の修行だけに集中してろよ。トロいんだから、あっちこっち手を出したら全部まとめて失敗するに決まってるんだからな。そういうのは長男の僕の仕事なんだから、愚図のお前になんか任せられるか』

 

 大約するとこんなカンジだった。そういうところばかり兄さんらしくて思わず口だけで笑ってしまい、当然だけどまた怒られて、まるで普通の兄妹みたいなやりとりがおかしくてまた笑う。一緒に涙も零れそうになったけど、なんとか堪えて席を立った。まずはメモにあった番号に電話して、連絡をとるために。

 

 

「あら桜、今日の修行は終わったの?」

 

「はい。次はまた来週ですね」

 

 

 地下の修行場に使っているスペースからあがってくると、姉弟子である黒桐鮮花さんがコーヒーを飲みながら魔術書を読んでいた。この人は本来魔術回路が無いから魔術師にはなれないけど、先天的に発火だけは素質があったらしく、他の魔術の知識を習得して擬似的に魔術に近いことができるという異能者だ。以前橙子さんに言われて模擬戦のようなものをしてみたときには、出す影出す影一つ残らず燃やし尽くされて吃驚してしまったことがある。

 本来魔術要素は尽く飲み込める私の影も、圧倒的な火力を前に力負けしてしまったらしい。戦いも始めてなら理屈上はおかしいはずの事象を目の前に突きつけられるのも初めてで、私がどれだけ偏った修行をさせられていたのか思い知らされてしまった。

 

 

「貴女も頑張るわねぇ‥‥。愛しの先輩に追いつくためとはいえ、毎週毎週こっちまでわざわざ通いに来るなんて、頭が下がるわ」

 

「そ、そんなわけじゃ‥‥」

 

「嘘言っちゃ駄目よ。姉弟子に虚言を吐くなんてもってのほか!」

 

 

 思わず朱くなってしまった顔を隠すために簡易キッチンへと行って自分と、続いてあがってくるはずの橙子さんの分のコーヒーを用意する。確かに先輩や姉さんに追いつこうと思ってはいるけど‥‥そう面と向かって言われると恥ずかしい。それにきっと、先輩は気づいてくれないし‥‥。

 

 

「何て言うんだったかしら、そういうどうしようもない男の人のこと」

 

「確か‥‥愚鈍、ではなかったかと」

 

 

 魔術書をめくる手を止めて考え込んだ鮮花さんの言葉に答えたのは、休日だというのにわざわざ学校から来ているためにカソックみたいな制服姿の長い黒髪の少女。こちらも同様に超能力者で、退魔四家の一つである浅神の人間である浅上藤乃さん。二人とも同じ歳なんだけど何となく敬語を使ってしまうのは、あまり友人付き合いというものをしたことがない私の習い性のようなもので、さんざん訂正するように言われていても未だに馴染めない。

 藤乃さんの超能力は『歪曲』というものらしい。まだお目にかかったことはないのだけれど、視界に入ったもの全てを凶げてしまうことができる能力だとか。以前同じ事務所に入り浸っている式さん―――名字で呼ばれるのは嫌いだとのことで、名前で呼ぶように言われた―――と一悶着あった際に『千里眼』まで会得したらしく、相手にもよるけどこの事務所の戦闘能力が高すぎる件の一端を担っている。

 

 

「でも、そういうの私は良いと思いますよ。旅だってしまった想い人を追うために頑張る後輩‥‥ロマンチックですよね」

 

「藤乃‥‥幹也は渡さないわよ?」

 

「‥‥なんのことかしら、鮮花?」

 

 

 見えない花火が二人の間でバチバチと鳴る。話題に上っている黒桐幹也という人は先輩みたいに何人も女性を惚れさせているとかいう人で、先輩をさらに優しくして角を丸めたような接しやすい男性だった。

 ‥‥でも確か幹也さんは式さんと婚約していたはずで、そもそも鮮花さんは幹也さんとは実の兄妹‥‥。ああ、ちょっと私もドキドキしてきちゃいました。

 ちなみにあの二人は知らないことだけど、幹也さんと式さんは今日は二人っきりで遊園地にデートに行っているはず。千葉デスティニーランドだとか。ばれたら間違いなく血を‥‥いえ、灰とか、凶がっちゃったナニカとかを見そうだから黙っておくけど。

 

 

「あの二人は放っておいていいわよ、桜さん。私にもコーヒーを頂けるかしら?」

 

「あ、はい。どうぞ橙子さん」

 

 

 と、私の後ろからさっきまで修行を受けていたときとは一転、優しいお姉さんといった風の橙子さんの声がした。この人は眼鏡の有る無しで意図的に人格をスイッチできるというトンデモな特技(?)を持っていて、魔術関係以外では眼鏡をかけているためにとても優しい。‥‥でもその微笑みの中にも一抹の黒さを感じ取れるのは、私が曲がっているからなのかしら?

 

 

「似たもの同士だからかもしれないわね。とにかく今日はお疲れ様。疲れてるだろうし、もう少し休んでから帰りなさい?」

 

「はい。ありがとうございました」

 

 

 私が|伽藍の洞(ココ)に来ているのは毎週末。三年生になって部活を引退したとはいえ、平日には学校に通わなければいけないからそれが限界だった。そもそも毎週東京に新幹線と在来線を乗り継いで通ってきているというのもすごいと鮮花さん達にも言われたけど、本来魔術を学ぼうとするのだから彼女みたいに毎日入り浸ってというのが好ましい状態。それを考えれば今の頻度でもまだ少ないと言える。

 でも私はこうしてゆっくりと進んでいくしかない。まるで芋蟲のようにゆっくりと、それでも着実に進んでいこう。

 来客用というより片方はもう私用になりつつあるソファに座ってカップを傾けてそんなことを考えながら、私は机の向こうで静かに火花を散らし続けている同僚兼友人のやりとりを眺める。よくよく考えればこうして喧噪のような日常の中に身を置くのも随分と久しぶりのような気がした。

 学校でも引っ込み思案が災いして友人らしい友人を作れなかった私が、マキリのしがらみからのがれて自分の意志で魔術を学んでいることを含めて、変ろうと想えばいくらでも人生なんてものは変わるものだと、歳に似合わないと言えば似合わないため息を感慨と共にはき出した。

 

 先輩、先輩は今、何をしていますか?

 私はこうして、ゆっくりだけど確実に歩いています。回り道をしてしまったけど、歩いたという事実だけは変わらないから、こうして歩き続けています。

 いつか貴方の前に、胸を張って会いに行くことができるように‥‥。

 

 

 

 31th act Fin.

 

 

 



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第三十一話 『漂着者の代講』

 

 

 side Luviagelita

 

 

 

「あら、今日は勉強会はお休みですの? ショウの姿が見あたりませんけれど」

 

「蒼崎なら頼まれて代理講師に駆り出されているぞ。どうも講師が風邪だとかでな、人手が足りていないそうだ」

 

 

 たまにロード・エルメロイの研究室で行う勉強会‥‥という名のゲーム大会の日。延々テレビに向かい続ける二人にはかまっていられない私が羊皮紙やらペンやらを持って研究室を訪れると、そこにいつも通りいるはずのショウの姿がありませんでした。

 代理講師‥‥ですか、なるほど。確かに学院の生徒でも成績優良な者になると、基礎錬成講座の代理講師やらなにやらを頼まれることもありますし、よくあることでしょう。私も何回か頼まれたことがありますけど、自分の研究に時間を費やしたかったが為に断った記憶があります。

 その点彼は少々お人好しが過ぎる気がしますわね。恐らくは教授の方から何らかの対価があったのでしょうけど、それにしても自分の研究時間を割いてまで手伝うことではないでしょうに‥‥。

 

 

「‥‥あら、でも教授は今日は暇だからとパブへ行ってしまいましたわよ?」

 

 

 鉱石学科(ウチ)の教授は先程二時限前の講義で空いた時間にそのようなことを遠い目をしながら語り、時間が来ると逃げるように講義室から去って行ってしまいました。

 なんでも最近はストレスで胃弱なんだとか。それならわざわざお酒を飲んで胃を荒らす必要もないと思うのですけど、まぁ溜まってしまったストレスを解消するにはお酒というのはあながち間違った手段ではないとは思いますわね。

 

 

「ああ、頼まれたと言ってもルーン学科の教授に頼まれたらしいな。アイツはあそこの教授にたいそう気に入れられていたからな」

 

 

 元々ショウはルーン学科に所属していた学生でした。今でこそ鉱石学科で勉学に励んでいますが、彼の義姉であるトウコ・アオザキは時計塔時代にルーン学科の看板魔術師であった方で、封印指定の実力をもつ彼女から直々に教えを受けたショウのルーン魔術の腕前は中々のものと聞きます。

 そもそもルーン魔術とはポピュラーであるわりに専門で研究する人間が少なく、ルーン学科も毎年毎年定員を割っているという完全な人員不足の状態。

 それに付随して専門で教えられる講師の数も少ないと言うのが現状です。とかく他人に物を教えるということに不向きである魔術師という人種の中でも講師となれる人は一流の魔術師の中でも少なく、時計塔は講師の調達に苦心しています。

 ショウは自我の強い傾向のある時計塔の魔術師の中では珍しく、比較的に他人と協調の姿勢をとれるという得難い性格をしています。決して教師に向いているというわけではないでしょうけど、少なくとも他の同レベルの魔術師達よりは遙かにマシと言えましょう。

 というより、元々伝手の少ないルーン学科にとって彼ぐらいしか適任がいなかったというのもあるかもしれませんわね。

 

 

「それでは今日の勉強会は中止ですわね。折角わざわざ来たのに帰ってしまうのも何ですし、机と資料だけお借りしますわ」

 

「いやいやエーデルフェルト、実はここに新しく買った世界文化大戦とインターネットに繋いだパソコンが―――」

 

「や・り・ま・せ・ん! というよりどうやって時計塔(ココ)でネットに繋いだんですの?!」

 

 

 結局ショウが来ても来なくてもこのような展開になってしまうんでしょうか‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

「―――このように、ルーン魔術には大別して8つの要素があり、これらを使用途や目的に合わせて効果的に選択していくことで―――」

 

 

 黴びた臭いのこもった講義室。以前に橙子姉やミスタ・アルバらが一時盛り上げたとはいえ、未だにルーン学科の時計塔における地位、というか格付けのようなものは低い。

 直接的に時計塔の上層部へと幹部になり得る人材を派遣することが少ないというのも大きな理由を占めているが、やっぱり殆どの魔術師が積極的に学ぶ意欲を持たないというところが大きいだろう。

 

 

「―――これらは主に装飾品や魔力を秘めた武具に刻まれて効果を発揮することが多いが、術者の実力が高ければ戦闘時にも応急措置のようにして―――」

 

 

 ルーン魔術はあらゆる局面でメインとして扱われることが少ない。たいてい何らかの術式の補助であったりして、よく見るがこれ一つが何かを構成するということがないのだ。

 遡れば北欧神話の主神、オーディーンまでたどり着くというのに、殆どの者はあまり重視しない。というより“強化”と同様に極めることが困難であるというのもあるかもしれないけど、とにかく色々と割を喰っている魔術であることは間違いない。

 俺は他の魔術師達に比べてしっかりとルーンを会得したつもりだが、それでもバゼットや橙子姉には適わない。橙子姉だって人形制作の方で封印指定を喰らっているけど、ルーン魔術にしたって別段興味が無いとはいえ、ココで講師どころか教授だって出来るのだ。

 バゼットも戦闘で好んで使用しているあたりからその実力が尋常でないことは察することができるしな。自らの非才が恨めしくなる。

 

 

「―――歴史的にも有名であるこの神秘文字が、一般社会にも広く浸透しているということで神秘の希釈を懸念する者もいるかもしれないが、そもそも前提としてそれは間違っている。なぜなら神秘とはそれを理解、把握した上で行使してこその魔術であり、故に一般人が知るルーン文字というものはこの場合のルーン魔術とは共通点こそあれ、まったく別の代物であると理解するべきだ」

 

 

 教室を見回せば、それなりの生徒が真剣に、あるいは怠そうにノートをとったり資料と俺の板書を見比べたりしている。その態度からこの授業をさほど重要視していないということを推察するには難くない。

 わざわざ恩ある教授の頼みで代理講師を引き受けたってのに、こんなんじゃ全くやる気がそそられないな、ホント参っちゃうよ。

 確かに俺は魔術師としては及第点ぎりぎりのお人好しだ。でも自分自身の研究がある以上、当然そちらを優先したい気持ちはあり、今回こうやって臨時に講師を引き受けたのも心底参った顔で頭を下げてきた教授のためだ。

 まかり間違っても目の前でまるで体育の後の国語の授業をうけるかのようにやる気を感じさせない態度の駆け出し共のための慈善事業のつもりじゃない。

 本当ならさっさと授業を切り上げて新しく昨日思いついた術式を組み立て直したいのだ。こうやってまるで朗読するみたいに講義をしてたいわけじゃない。

 

 

「ルーンは継続的に効力を発揮させることもできれば、瞬間的に効果を発揮させることもできる。ただし即席に結界などに使う場合には、使用した後のルーンを安全な方法で破棄、処分することも忘れてはならない。神秘の隠匿のためもあるが、不用意に効果を残したままのルーンは術者に害を及ぼす場合もあるからだ」

 

 

 ちなみに俺は今ひたすら教本を朗読してはいるが、ところどころに注釈を挟んだりしているから教本まるまるそのままというわけではない。

 ちゃんとノートを取らなければ失敗するぞという半ば嫌がらせに近いことであるけど、ふん、真面目に魔術を学ぶ気がない奴に温情を施してやる気なんて一切ない。

 魔術とは己の意志で積み上げていくもの。魔術回路を起動させるだけでも痛みを伴う場合があるし、死ぬ危険だって当然ある。

 特に俺の研究なんて体へのフィードバックが激しいから死にかけたのなんてしょっちゅうだ。

 そういう危険を出来得る限り排除するためにも、基礎は必ず学ぶべきだ。だというのにコイツらは‥‥。もちろん真面目な奴も多いんだけど、その中に幾分存在している奴らの視線がやたらと気になる。

 

 

「昨今の傾向として戦闘系の魔術を好んで習得しようとしたがるが、魔術とは本来学問であり、殴り合いなど聖堂教会の連中にでも任せておくのが―――」

 

 

 教壇に立っている身からすれば、生徒の状態なんぞつつ抜けだ。どんなに後ろの方に座っている奴でもやる気が感じられなければすぐに気付くし、不審な動きをすればはっきりと分かる。

 えてして生徒は自分が上手く隠し通せていると勘違いしがちだが、大人ってのは存外子供が思っているよりもずっと賢い。

 

 

「―――など、ルーン魔術と併用されることが多い魔術には‥‥なんだ? 質問だったら講義後に講師室まで来るように」

 

 

 と、一人の生徒が手を上げているのが視界の端っこに移り、俺は教本を朗読する手を止めてそちらを向く。そこには一人の生徒を中心とした五、六人の集団がまとめて座っていて、その中の中心人物と思しきヨーロッパ系の金髪の男子生徒がにやにやしながら手を上げていた。

 限られている授業時間を妨害する気が簡単に読み取れるけど、一応は質問という形をとっている以上は俺も応対しなければならないとふんだのか。忙しいから後にしろとだけ言ってまた黒板へと振り返った俺の背中へと典型的な、馬鹿にしたような嘲笑を含んだ声が聞こえてくる。

 

 

「先生、俺たちはそんな初歩がやりたくてココに来たわけじゃないんスよ。もっと専門的なこと教えてくれませんかね?」

 

「それは君達がこの基礎錬成講座を卒業してから専門課程で行うことだ。まずは目の前のことに集中しなさい」

 

 

 もちろん俺とその生徒の間で交わされている会話に使っているのはばっちり英語なのだが、大体を日本語に意訳するとこんなカンジになるだろう。欧米風のやけに顔の整ったそいつはわかってないなぁという風に肩をすくめ、またあざけるような視線でこちらを見やる。

 そういえば授業の前にざっと名簿を確認してみたんだが、このクラスにはどうも名家の分家出身のお坊ちゃんが多いみたいだ。血が薄まっている分だけ魔術の素養を持った者が生まれにくく、おそらくコイツも久しぶりに時計塔に入学できるだけの素質があるだとかで天才児と実家でもてはやされた口だろう。

 分家であってもぽつぽつと魔術師を排出していれば本家の方と繋ぎもとれ、それなりに自分の家系に対する自負心も湧いて出てくるというもの。そういった中には実力も伴わないくせに自尊心だけはやたらと高い、俗に間桐慎二タイプと便宜上仮称される存在も多く混ざっている。

 ‥‥いや、それは間桐慎二に失礼かもしれないな。彼はまぁ、それなりに必死に魔術を追い求めていたわけだし。

 

 

「正直、俺たち色々と考えるところもあるんですよね。先生、例のミス・ブルーの弟なんですって? 最近はホラ、親の七光りとか、汚職とか酷いっスからねぇ」

 

「‥‥何が言いたい?」

 

 

 ミシリ、とチョークを持つ手に力が入る。オチツケ俺、安い挑発に乗るな。ていうか今時こんなあからさまで化石みたいな挑発する奴がいたという事実の方にオドロキだぞ俺。ていうか七光りを切望してるのはむしろ君だろうが。

 というか、そもそも時計塔での我が義姉の悪行(こうせき)を知っていれば俺が青子姉のゴリ押しで代理講師なんてできるわけがない。ていうか代理講師っていうのは別にその人物が素晴らしいから講師を頼まれたとかじゃなくて、真剣に人手が足らなかったというだけの事。

 ついでに言わせてもらえば二、三歳しか違わないとは言え年上は敬え。

 

 

「ホラ、出来の悪い先生に教わってると、生徒まで出来が悪くなると思いません? まぁつまりは、先生の実力っていうものを見せて欲しいんスよ」

 

「‥‥出来の悪い生徒を持っていると、講師は胃痛で衰弱死するかもな。ま、言ってることは正しい」

 

「じゃあ―――」

 

「だが断る」

 

 

 にやにやと自分に酔ったかのように演説する生徒の周囲で、取り巻きもそうだそうだと言いたげに同様の笑いを顔に浮かべる。再三言うが、これだけあからさまな嘲りを受けたのは一年ぶりぐらいだ。

 実力と言ったが、一体何をどういう風に見せればこの馬鹿共は納得するのだろうか。大体、魔術っていうものは他人にひけらかすために学ぶ訳じゃないってところから教え込まなきゃいけないのか。

 事前に教授から連絡を受けていた内容を鑑みれば、おそらく普段は真面目を装ってきちんと授業を受けているのだろう。しかもおそらく高校ぐらいまでは普通の、一般社会の学校に通っていたに違いない。下手すればおおっぴらにではなくとも一般人相手に魔術を行使していた可能性もある。

 あんまり調子に乗っているようだと矯正が必要だけど、別にわざわざ俺がやってやる必要もない。後で教授に告げ口してやる。

 

 

「魔術とは学問だ。他人に成果を見せびらかすなんてのは三流のやることだ。覚えておくように」

 

「‥‥チッ、なんだアンタ、もしかして自信がないんスか? 実力がないからそうやって隠そうとするんだ。そうでしょ?」

 

「だから何度言ったらわかるんだ? 魔術はひけらかすものじゃない。それさえわからないならココに来る資格すらないぞ。取り巻き連れて実家に帰って、一人でお山の大将してろ」

 

 

 いい加減面倒くささも限界に達しつつあったので、後ろを振り向くことすらやめて黒板に向かいながらしっしっと手を振って議論を打ち切る。非常に不愉快だ。今日はもうとっとと終わらせて行きつけのパグで飯でも食って寝てしまおう。

 重要なところは既に言い終えたから、後は適当に茶を濁して止めてしまおうと思ったそのときだった。

 

 

「は、アンタがそんなんじゃあ、噂に聞くアオザキ姉妹ってのもたいしたことないんだなぁ!」

 

「‥‥‥んだと、コラ」

 

 

 今度こそ手にしたチョークを粉々に握り砕き、ゆっくりとクソ生意気な生徒の方へと振り返る。

 そいつはようやく挑発に乗った俺に喜び、これから俺が行使するであろう魔術をこき下ろしてやろうと自信満々で待ちかまえていた。

 その自信、義姉達にあって俺には足りないものだ。その傲慢さ、義姉達にあって俺にはないものだ。間桐慎二は実力に伴わぬその二つを備えていたがために破滅した。それらは、実力者が持つからこそ意味をなすものであり、決して実力のない者が手にして良いものではない。

 俺は非才だ。努力しても遠坂嬢やルヴィア達には及ばず、衛宮のように刃を振るうこともできない。根源を目指す手段をこれと決めてはいるが、おそらく俺一代でたどり着くことはできず、遠坂嬢達の家計の方が早く辿り着くに違いない。

 だから俺を嘲るのはまだいい。実力の足りない者に嘲られるのは非常に不愉快だが屈辱ではない。だが貴様は、一つだけやってはいけない間違いを犯した。それは当然―――

 

 

「‥‥では実践してやろう。これがルーン魔術の初歩だ。棘よ(スリサズ)

 

「う、うわぁぁあああ?!」

 

 

 俺がスッと指を宙に滑らせて言葉を紡いだ次の瞬間、鼻持ちならない生意気で身の程を知らない馬鹿な生徒の座っていた椅子からソイツを覆うように、鋭く尖った氷の柱が生えてきて完全に動きを止めた。幸い顔までは覆っていないから呼吸については問題なかろう。

 ルーンとは、遠隔的にせよ直接的にせよ“描く”という行為が必要だ。それも単体では条件を整えなければ中々大きな効果が出せず、だからこそ戦闘などでそれをメインに使えるバゼットが超一流の魔術師であるのだ。

 今回俺は宙を指でなぞっただけ。それだけでは本来比較的離れた場所を凍り付かせるのは不可能だが、そこは一つタネがあった。ソイツが座っていた場所、そこは一年ぐらい前に俺が授業の一環としてルーンをいくつか刻んだ場所なのだ。ついでに言うと、うまく刻めたのもあってうっかり消去するのを忘れてしまって今に至る。

 ぶっちゃけ後始末を含めれば失敗もいいところだったのだが、今回はそれが上手いこと幸いした。もはや一工程(シングルアクション)にも匹敵するぐらいの速さで突然現れた氷に文字通り手も足も出せない状況の生意気だった生徒は、一体何が起こったのかわからずにあたふたと周りを見回していた。

 

 

「氷を表す尤もポピュラーなルーンは凍結(イーサ)だが、今使った氷れる棘(スリサズ)、もしくは氷の巨人(スリサズ)は『相手を妨害する』という意味をもっている。今回は“相手が都合良く未熟”だったために成功したが、本来は他のルーンや束縛系の魔術と組み合わせて使用することが望ましい」

 

 

 カツカツと靴音を響かせて凍りづけになった生徒のところへと歩いていく。氷の切片は尖っているが、それも外側に向かっているので別段怪我などはないだろう。

 もっとも、あれだけの質量の氷に包まれれば間違いなく重度の凍傷にかかるだろうけど、まぁ授業料みたいなものだと思えということで。

 そもそも俺は挑発に乗ったんじゃない。ただ純粋に怒っているだけだ。

 

 

解呪(ディスペル)しろ。解呪(ディスペル)だ、できないのか? ったく、‥‥おい、クソガキ。覚えとけよ」

 

 

 首から上だけが無事な生徒の髪の毛をつかんで怯える瞳をまっすぐに睨みつける。案の定、実戦どころか自分が魔術を受けたこともないらしい。

 等価交換とはよく言うことだが、この場合は因果応報の方がお似合いか。とにかく相手を傷つける場合には自分も傷つけられる覚悟が必要ということ。それさえできないなら戦いに挑む資格はない。

 

 

「俺の前ならともかく、本人の前でそれ言ってみろよ。どっちかにもよるけど、いっそ殺してくれってぐらいの地獄見ることになるからな」

 

 

 恐怖のあまり頷くこともできない阿呆の首をがくんがくんと揺らしてから、教卓の上に置いてあった教本を片付け、「後は自習」と黒板に書くと教室から出て行った。一応、去り際に解呪してやることも忘れない。さっきも言ったけど、ルーンは使ったらちゃんと棄却すること。これ大事な。

 

 果てしなく不愉快な思いをした後には酒に限る。嫌なことを忘れるなら行きつけのパブで一杯やるのが一番だ。

 俺は偶然にも行きつけが同じ鉱石学科の教授の携帯へと連絡をとり、今日は飲みましょうや、色々お互い愚痴もあるますし、すいませんけど準備しといてくれますか? と頼み事をしたのだった。

 

 まったく、最近の若いもんと来たら―――

 

 

 

 32th act Fin.

 

 

 

 



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第三十二話 『金の獣の酒宴』

 

 

  side EMIYA

 

 

 朝から晩まで、見習い魔術使いである俺は休む暇もなく過ごしている。

 俺の一日の始まりは朝日が昇ってからすぐ、巡回ルートの中程にあるからか多少早めの新聞配達から朝刊を受け取るところから。

 まず誰よりも早く起きた俺は配達員の学生と一言二言挨拶を交わし、続いて寝室以外の家中を掃除する。時間は有限だ。家事は出来る限り効率よくこなしていくことが大事になってくるのは言うまでもない。

 そうやって必要最低限の掃除を終わらせてしまえば、次は朝の鍛練の時間だ。さすがにあまり広くない中庭に出て、干将莫耶を投影、あの森の奥のアインツベルンの城で見たいけ好かない弓兵の動きをトレースする。

 

 衛宮士郎(おれたち)には剣の才が無い。否、剣に限らず俺に出来るのは本来は只一つしか有り得ない。そんな俺が戦うことを選択し、負けないために編み出した戦い方を模倣する。

 投影の練習も兼ねて何回か双剣を棄却し、投影し直して振り回す。干将を右に薙ぎ、空いた死角を莫耶で守る。後は順番を入れ替えてその繰り返し。

 まるで機械みたいに淡々としたその“作業”は、“剣舞”などとはとても評せない無感動な代物で、だから俺はこの自主練をセイバーには見せないようにしていた。いくら行き着く先がわかっていたとしても、俺の剣の師はこの作業を認めることができないらしいから。

 

 

「‥‥ふぅ、鍛練終了、と。そろそろ朝飯の用意をしなくちゃな」

 

 

 一通り型のようなものをこなして汗をかいたところで、俺は投影を棄却して家へと戻った。そろそろセイバーが起きてくる。早くシャワーを浴びて食事の支度をしちゃわなくちゃならない。

 そういえば遠坂が衛宮邸に住み着くようになってからはめっきり洋食が多くなった。前は殆どが和食だったけど、特にロンドンに来てからは和食の材料が手に入り難いことも手伝って基本的にはパンが主食だ。日本人としてはやっぱり米を食べたいところだけど、軍資金が足りない以上高い米を買うわけにもいかないしな。

 

 

「おはようございます、シロウ」

 

「おはよう、セイバー。すぐに飯出来るからな」

 

 

 自分の部屋で全ての身支度を終えると、起きたばかりだとは思わせない程にしっかりとした様子のセイバーに挨拶して、すぐにまた台所へと向かう。今日は昨日グレープフルーツを見つけたからデザートにはソレを出そう。野菜はレタスと、珍しく水菜を手に入れることができたから苦心惨憺して和風の味付けに成功したドレッシングと和えてトマトを添える。

 あとはベーコンを数枚と、不足しがちな野菜分をさらに補給するためにほうれん草のスープ。ここまでドレッシングやコンソメなどを含めて市販の調味料は一切使っていない。あのようなものに頼るなど邪道、邪道なんだよ。英国の主婦にはそれがわからんのです。

 

 

「シロウ、そろそろ凜を起こしに行かなくてはならないのでは? 食事の支度は私がやっておきましょう」

 

「そうだな。じゃあ頼むよ、セイバー。あとはもう皿によそって食卓に持って行くだけだからさ」

 

 

 時計を見ればもう七時にほど近い。俺が起きるのが早いと言っても朝食はそんなに早くない一因を担っているのが、あまりにも悪い遠坂の寝起きだ。学校で優等生として通っている頃の遠坂だけ知っていれば全く予想もつかないどころか、目の前の現実を否定したくなるほどの超ド級の寝起きの悪さは、俺を含めて数人しか知らない。

 毎度毎度起こすのにはすごく苦労するんだけど、そこは遠坂も俺にしか甘えられないってことなんだろう。アイツは他人に弱みを見せるところをひどく嫌う分、一度弱みを見せても良いと思った相手にはとことん甘える癖があるからな。

 

 

「おーい、遠坂。朝だぞ」

 

 

 おざなりなノックをしてから二階にある遠坂の私室へと入る。最初は勝手に入ることをどういうわけだか嫌がっていた遠坂も、ここ最近はもう随分と馴れたのか、これも自然の習いとなっていた。

 日本にある遠坂邸に比べれば幾分質素な作りで、全体的に機能重視な印象をうける。とは言っても彼女のモットーは、『常に余裕をもって優雅たれ』。ゆとりをもってスペースをとられた家具の配置、真ん中に据えられた上品なテーブル、厳選された趣味の良いカーペットなどは流石遠坂だなと思わずにはいられない。何せこれらは全てこちらに越してきたその日に彼女がマーケットで自ら妥協せずに選んできたものなのだ。‥‥練習をかねて投影させられた俺による贋作が半分を占めているのは内緒だ。

 

 そして部屋の隅というには中央に寄っている、四方にゆとりをもって据えられた大きめのベッドの中に我らが眠り姫がいた。起きてきた直後の幽鬼のような有様が不思議な程にその寝顔は整ってて、綺麗と可愛いというあまり同時には抱かないであろう感情を覚える。

 とりあえず無理矢理起こすというのも常套手段ではあるのだけど、ソレにもちゃんとした手順というものがあるのだ。まずは最初にカーテンを開け、朝の光を取り込む。あまりカラッと晴れないロンドンでも朝はそれなりに眩しい。少しだけ覚醒の兆しを見せた遠坂が小さな声でうめき、いくら付き合いが長いといっても、その色っぽい声にちょっとだけドキッとした。

 次にトレイに乗せて持ってきた牛乳をテーブルの上に置き、暫く遠坂を日の光に晒したところでやっと実力行使に写る。言い返せば実力行使に移らずに起きたことはないんだけど、前はちゃんと一人で起きたところを見ると、どうもやっぱり俺に甘えているらしい。嫌じゃないけど、俺がいないところで起きられるのか?

 

 

「遠坂、朝だぞ。今日は朝から講義だろ? 早く起きないと遅れるぞ」

 

「う‥‥ん、あと五分‥‥」

 

 

 昨日は用事があったらしく夜遅くに帰ってきて、夕飯も食べずに寝付いてしまうぐらい疲れていた遠坂の言うことを聞いて、頷いてやりたい気持ちもあるけど、ここで起こさなかったら授業に遅れて逆に一日中不機嫌で過ごすことになる。元々は弟子兼従者として付いて来た身、師匠が滞りなく勉学に励むことができるようにしてやるのもまた俺の役目だ。

 正直な話、このまま遠坂の寝顔を眺めていたいって気分ではあるけど―――

 

 

「遠坂! いい加減に起きろって!」

 

「むー‥‥、しろぉ〜、起こして〜」

 

「‥‥遠坂、しっかりしてくれよホントに」

 

 

 焦点がしっかりと合っていない目のままこちらに向けて手を伸ばす遠坂に、仕方が無く俺はその両手をとって無理矢理にベッドから持ち上げた。

 

 

「っきゃあ?!」

 

「うわぁあ?!」

 

 

 ‥‥と、やっぱり寝ぼけていて体に殆ど力の入っていない遠坂がふらりと体重を預けてきて、突然のそれに支えきれずに床へと倒れてしまった。幸い俺が下になったから遠坂に怪我はない。床もしっかりカーペットが敷いてあったからさほど痛くはないし、頭を打つということもなかった。

 にしてもちょっと悪ふざけが過ぎるぞ、遠坂。

 

 

「う‥‥ん、おはよう、士郎」

 

「やっと起きたか、ホント、寝起きが悪いのはいいけどあんまりふざけるのはやめてくれよな」

 

「悪かったわね、本当に頭が回ってなかったの、よ‥‥?」

 

 

 そこまで言ったところでぴたりと遠坂の口が止まる。次いで真っ赤になったので、俺は目の前、というより顔のすぐ上で横を向いている遠坂の視線の先を追って―――

 

 

「‥‥いえ、どうぞお気になさらず、続けてください」

 

「せ、せせせセイバー?! わ、悪い、今すぐに飯の準備するから‥‥」

 

「落ち着いてください、シロウ。朝食の支度は出来ています。ゆっくりと準備をしてから降りて来てください」

 

「あ、アハハ‥‥。悪いわね、セイバー」

 

「いえ、お気になさらず」

 

 

 こちらもまた真っ赤になったセイバーが扉のところに立ちつくしていて、俺達は慌てて抱き合っていた状況から離れ、遠坂はしどろもどろに少し緩めていた寝間着のボタンを締め直した。‥‥すぐに着替えるのに、律儀だな。まぁその方が俺としても、その、助かるんだけどさ。

 セイバーはゴホン、と咳をしてから俺の方を軽く睨んで去っていった。かと言ってこれから着替える遠坂の部屋にいるわけにもいかず追い出されて、なんか、もう、なんでさ‥‥。

 

 

 

「‥‥あ、そういえばルヴィアから渡されているものがあるんだった」

 

 

「ルヴィアゼリッタから? 一体何よ?」

 

 

 昨日の夕飯を食べ損ねた遠坂が二枚目のトーストにマーマレードを塗るのを紅茶を飲みながら眺め、俺はふと雇い主から言付けられていたことを思い出した。英国のトーストは非常に薄く、耳の部分をカットしてかりかりに焼くのが主流だ。日本のふかふかした六枚切りのパンも懐かしいけど、これもこれで味わい深いものがある。

 四角のテーブルの三辺に座った俺の隣のセイバーは、もう三枚目のトーストを自分でトースターから取り出してバターを塗りたくっていた。目の前にはマーマレードに加えてブルーベリーとイチゴの三種類のジャムが置いてあるけど、セイバーは甘いものを食事中に摂るのは好みじゃないみたいだ。

 ちなみにこのジャム類もお手製。近くに住んでるトルコ人に嫁いだ日本人の奥さんから教えてもらったんだけど、レシピ通りに作ると明らかに砂糖が多かったので少なめにしている。なんでもトルコのジャムってのは果物の元型が残るほどに砂糖を入れるんだとか。泰山の麻婆並に信じられないな。

 

 

「なんでも、パーティーがあるから来ないかって話なんだけど‥‥」

 

「「パーティー?」」

 

 

 天敵と評してもおかしくない人物からの突然の誘いに、遠坂と、ついでにセイバーも目を丸くして俺の方を見たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「まいどー、三河屋でーす」

 

「そのミカワヤと言うのが何者かは存じませんけど、ご苦労様ですわ、ショウ」

 

 

 ロンドン郊外にあるエーデルフェルト邸。俺は贔屓にしているキャブの荷台に詰め込んだ日本酒やら焼酎やらを使用人の人たちと協力して下ろし、迎えに出てきたルヴィアに帽子をとるフリをしながら挨拶した。

 今日は時計塔の講義も休み。本来は工房に籠もって研究でもするところなのだけれど、今日に限っては前もってルヴィアから誘いと頼みを受け、ロンドンの両儀流道場に依頼して取り寄せて貰った日本の酒を土産に、ここエーデルフェルト邸を訪れたというわけだ。

 量はたいしたことない。もとより一つの道場に用意出来る分だけだから、大体ケースにして三、四つといったところか。とは言っても、もとよりさほど大人数が集まるわけでもないし、他のお酒も潤沢に揃えてあるから問題はない。これはあくまで、物珍しい酒を供してみようと言うだけの話。普段はエールやらワインやらばかり飲んでいる欧米人に日本酒はよほど神秘の飲み物に見えるらしいな。

 

 

「わざわざすいませんわね、こんな下働きみたいなことをさせて」

 

「いやいや、俺も折角なら旨い酒が呑みたいからね。日本の酒はロンドンじゃ、こんな機会でもなかったら手に入りにくいし。今日は楽しませてもらうつもりだよ」

 

 

 では今日は一体何があるのか? いくら珍しいからと言っても、さすがに社交パーティーで日本酒や、ましてや焼酎など出すことはない。今夜俺が呼ばれているのはエーデルフェルト邸で働く十数人の使用人達の日頃の苦労を労い、ついでに友人も招いて堅苦しいのは抜きで酒を楽しもうと言う趣向のものだ。

 イギリスという国は未だに階級制度というのが根付いているからルヴィアはあまり使用人達とは交流したりしないけど、たまに主人の側から大盤振る舞いするのは別に悪いことじゃない。雇い主である彼女はフィンランド人だけど、雇っているのは執事長や使用人頭などを除いてイギリス人だからこの場合は多少ならずイギリスの仕様を踏襲している。

 パーティーは中庭で行う立食形式のもので、ほとんど無礼講のそれの陰に隠れるようにして、友人(シェロ)を呼んでちびりちびりとやるんだそうだ。とりあえず俺もそこに呼んでもらえただけ良かったのだろうか。

 

 

「では中に入ってくださいな。もう支度も出来てますから、そろそろ始めますわよ」

 

 

 使用人の方々が既に雇い主の前であることも意識から薄れて和気あいあいと中庭へ酒の入ったケースを持っていくのを横目に、俺はルヴィアの先導で中庭から少しはずれた、ちょっとしたコテージなんかが据えてある場所へと歩いていく。

 使用人さん達はみんな自分達の分の準備で出払っているのかと思ったけど、そこにはしっからと執事のオーギュスト氏―――とは言っても俺は彼を本名で呼んだことはなく、それはおそらく屋敷の方々も同じだろう―――がしっかりと酒盛りの準備を調え、いつも通りの仕草で近づいてくる俺達へと会釈した。

 凛々しく上を向いた立派な髭が今日もバロメーターとして絶好調を主張している。尤も俺は彼が平静を崩したところを一度たりとも目撃したことはない。声だけならある。某あかいあくまと銀の騎士王が突撃かけてきたとき。

 

 

執事(バトラー)さん、向こうの方に出なくていいんですか?」

 

「いえ、最低限の支度はさせていただきませんと。アオザキ様方がご宴会を始められましたら戻りますので、お構いなく」

 

 

 謙虚なのに何故かある種の威厳を感じる。相変わらずスマートな人だ。生粋のフィンランド人で代々エーデルフェルト家に仕えているらしいけど、本物のジョンブル以上に英国紳士らしいな。いつでも背筋はピンと張っており、髭の毛先に至るまで一切の手抜きなく屹然としているその姿には同姓ながら憧れを抱いてやまない。

 ひとまず俺はオーギュスト氏の好意に甘え、コテージ横に据えられた簡易テーブルに自分たちの分にと持ってきた日本酒や焼酎、泡盛などを置き、後は手持ちぶさたに周りを見回す。毎日専属の庭師が一分の隙もなく手入れを行き届かせている中庭の木々は当然ながらこの前どころか初めて来たときから寸分違わずにその調和を保ち、さわさわと木擦れの音が心地良い。

 

 

「あら、どうやらゲストが来たようですわね。シェロ! こちらですわよ―――」

 

 

 見れば庭木の影から一人の赤毛の少年―――と形容していい歳なのかは判断つきかねるが、とりあえず低い身長と童顔を兼ね備えた姿からはそう称しても構うまい。本人は嫌がるかもしれないが―――が姿を見せ、ルヴィアは嬉しそうにそちらへ駆け寄っていく。去年はホテルへと一日だけ引き払ってしまったルヴィアが自分もささやかな酒宴を催そうと思ったのも、おそらくは衛宮を呼ぶためだろう。

 もともとは単なる使用人として雇ったはずが、純情さにつけこんでからかう内に普段使用人達から受けるものとは全く違う接し方をされて、段々とルヴィアは衛宮を気にかけるようになった。そしてアイツが魔術に携わる者であるとしれ、その傾向はさらに増し、ついには恋慕の情に似たものすら抱くようになったと。

 いやはや、二年近く友人としてつきあってきたけれど、本当に最近のルヴィアは生き生きとしてるよな。わかっていたことではあるけど、やっぱり些か以上に驚いた。友人が楽しそうなのは別に悪いことではないんだけど、さ。

 

 

「な、なんで貴女がいるんですのミス・トオサカ?!」

 

「‥‥どういうことよ、士郎」

 

 

 と、ふいに聞こえてきた大声に、俺は考え事に費やしていた意識をルヴィアが出迎えに行った方向へと戻す。するとそこには全く普段通りの格好をした衛宮に、見栄があったのか少しだけ身綺麗にした遠坂嬢と、既に普段の格好が上品であるセイバーがそろって真ん中に立っている衛宮の方を睨み、ついでに三人の目の前で腰に手を当てて仁王立ちとなったルヴィアもまなじりをつり上げている。

 ‥‥なんだ、これは。ルヴィアが招待したのは衛宮だけのはず。英霊として、人として尊敬しているセイバーならともかく犬猿の仲である遠坂嬢を呼ぶなんて想像もできない。ていうか何を意図して呼んだのかって鳥肌が立ちすらするさ。

 

 

「どういうことって‥‥なんでさ?」

 

「なんでさ、ではありませんわよシェロ。私はミス・トオサカをご招待した覚えはないのですけど‥‥」

 

「え? そうだったのか?! 悪い、ルヴィア、俺達みんな呼んだものだとばっかり‥‥」

 

 

 もはや呆れて言葉も出ない。つまりなにか、本当は衛宮一人が呼ばれたはずが、何を勘違いしたのか家族である遠坂嬢とセイバーまで一緒に連れてきてしまったというわけか。とりあえず有り得ないくらいに中の悪い遠坂嬢をエーデルフェルト邸に連れてくると言う発想からしてまずおかしいと言うことに気づかなかったのかこの朴念仁。

 ならばルヴィアが仇敵を目の前にして一気にボルテージを上げたのも当然のこと。俺は心底このいくらでも面倒を呼び込む主人公気質の男に呆れてため息と同時に額を覆って天を仰ぎ見た。

 

 

「‥‥く、仕方がありませんわね。シェロだけに来て頂きたいと特別に告げなかった私の不始末、気に入らない相手とはいえ、たまには酒杯を傾け合うのも一興でしょう」

 

「あら、それはこちらも同じ意見ですわよミス・エーデルフェルト。お招き感謝いたしますわ」

 

「いえいえどうぞお気になさらず。それではこちらへどうぞ」

 

 

 ミシミシと二人の間で空気が軋む音すら聞こえたような気がしたけど、一端臨戦態勢を解いてテーブルが据えてあるこちらの方へと向かってくる。遠坂嬢達は上着をオーギュスト氏に預け、それを預かったオーギュスト氏は一言二言ルヴィアに耳打ちすると、深く会釈して去っていった。おそらく向こうの宴に混ざるのだろう。お互い水入らずの時間が始まるというわけだ。

 

 

「それにしても衛宮、カジュアルな格好でと言われて本当にいつも通りの服で来る奴がいるか?」

 

「む、紫遙だって普段通りの格好じゃないか。俺ばっかり責めるのは道理に合わないぞ」

 

「ばかたれ。俺はジャケットだろうが。シャツ一枚のお前と一緒にするな」

 

 

 自分の格好を不思議そうに眺める衛宮に、俺はやれやれと肩をすくめると用意してあったカクテルを渡す。ルヴィアと遠坂嬢は表面上は和やかながらも絶対に腹の奥では色々と考えながら、嫌味も少なめ(当社比)で社交辞令を交わしていた。セイバーは早くも用意してある肴の数々に興味津々だ。

 そして二人のお嬢様の和やかながらも緊張感の奔る社交辞令が終わり、全員がそれぞれ酒杯を手に取った。日本酒など珍しい酒を取りそろえはしたけど最初の乾杯はエーデルフェルト家特製のカクテル。原料から何まで自家製だというソレはたいそう綺麗な輝きをグラスの中で放っていて、酒飲みでなくともレシピを聞かずにはいられない。

 

 

「では不肖このルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが乾杯の音頭をとらせていただきますわ。本日は当家の酒宴にお越しくださり、あ・り・が・と・う、ございました。ささやかながらも幾ばくかのお酒を取りそろえさせていただきましたので、本日はお楽しみくださいませ。それでは‥‥乾杯!」

 

「「「「乾杯!」」」」

 

 

 挨拶の端々で遠坂嬢を睨んだりと色々あったが、大体日本語に意訳すればこんなかんじだろうというルヴィアの音頭に従って、俺達はグラスを軽く打ち合わせ、杯を煽ったのだった。

 エーデルフェルト邸の酒宴は、まだまだこれからだ。

 

 

 

 33th act Fin.

 

 

 



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第三十三話 『贋作者の理想』

 

  

 

 side Luviagelita

 

 

 

「シェロ、大丈夫ですの?」

 

「あ、ああ。久しぶりにちょっと飲み過ぎただけだ。たいしたことはないよ」

 

 

 先ほどまで五人で酒宴にふけっていたテーブルの周りから少し外れた、庭木によってそこからは視覚的にだけ遮断された小さな広場のようなところで、私は枯山水に影響されて据えられていた大きな岩に腰掛けたシェロの背中をさすって介抱していました。

 鋭い意思を宿した瞳を持ちながらも日本人のご多分に漏れず童顔なシェロは、やはりお酒を飲み慣れていないようで、暫く杯を重ねると真っ青な顔になってしまいました。

 ミス・トオサカはショウはセイバーと一緒に利き酒に興じていてまったく頼りにならず、仕方なしに私はシェロが酔いを覚ますことができるように風のよく通るこちらへと連れてきたのです。‥‥べ、別にプライベートで二人きりになれるのが稀だからというわけではありませんわよ?

 

 

「‥‥シェロ、実はあちらの方が気楽だったのではありません?」

 

「なんでさ? わざわざルヴィアが誘ってくれたのに、無下にするような人間じゃないつもりだぞ、俺は」

 

「そ、そうですの? ありがとうございます」

 

 

 向こう側からは使用人達の楽しそうな歓声が聞こえます。シェロも本来は使用人なのですから、同僚達とあちらで騒ぐ事も出来たはず。私はそういう所謂乱痴気騒ぎなるものに興じたことはありませんからそういった気持ちはよくわかりませんが、私が友人という立場を無理矢理使ってシェロをこちらに呼んでしまったことには、いくらかの引け目を感じていました。

 そもそも私はあまり多人数でアルコールを嗜むことがありません。ショウやロード・エルメロイと時々夜の会話の共に酌み交わしたこともありますけど、それらはどちらかといえば会話、というより半ば魔術討論と化しつつあったソレがメインであり、アルコールは喉を潤し会話の潤滑剤とするぐらいのもの。正直、多量に摂取したことはありませんでしたわね。

 ともあれ初めての宴で無様を晒さずにすんだことは僥倖でしたわね。いえ、ここは体調を悪くしてシェロに介抱してもらうという手も‥‥。

 

 

「ふぅ‥‥。少し落ち着いたよ。手間かけさせて悪かったな、ルヴィア」

 

「え? え、えぇ、どうぞ気になさらないで。‥‥本当に大丈夫ですの? まだどことなく顔色が悪いような」

 

「そうか? うーん、やっぱり後もう少し休んでいこうか。‥‥あっちに戻るのも、怖いし」

 

「‥‥それは、同意せざるを得ませんわね。私も今のミス・トオサカに立ち向かうには勇気がいりますわ」

 

 

 シェロの言葉にふと枝の隙間から宴をしているミス・トオサカ達の方を見てみれば、そこにはまさに混沌(カオス)な光景が広がっておりましたわ。

 三人。たった三人。その三人だけであそこまで近寄りたくないという空気を発せられるものなのでしょうか。ミス・トオサカとセイバーはコテージの真ん中に置いてあるテーブルを挟んで、まるで解散を突きつけられた某バンドグループのように目の前に並べられたグラスを互いに入れ替え入れ替え利き酒をしており、その足下には完全に潰れてしまったショウが口から魂を吐きながらピクピクと痙攣しています。

 どういう経緯でそうなったのかはわかりませんが、まるでそこが戦場であるかのような空気を発する二人はともかく、倒れている犠牲者(ショウ)の姿がその戦場の危険性を訴えており、おそらく近寄れば有無を言わさずに死の行進(デスマーチ)の仲間入りをさせられてしまうに違い有りません。

 ‥‥とりあえずあの二人が潰れてしまうか前後不覚になるか、もしくは希望的観測にすぎますけど正気を取り戻すまではあちらに帰れませんわね。

 

 

「日本人は毎晩毎晩バンシャクなるものに興じると文献で読んだことがありますけど、ミス・トオサカはまた随分とお酒に強いんですのね。セイバーはまぁ、英霊ですから分からないこともないのですけれど」

 

「二人とも藤ねえ―――俺の保護者につきあってたまに呑んでたらしいからな。俺は一応二十歳未満だからって断ったんだけどさ。意外に遠坂、優等生のくせにそういうところはルーズだし」

 

 

 昔は酒屋でバイトをしていたというシェロが言うことではないと思いますけれど、乾いた笑いを漏らす彼の表情から察するにその保護者という方も相当な酒豪だったんでしょうね。無理して視界の中に入れないようにしている二人の様子から簡単に察することができますわ。

 

 

「‥‥そういえばシェロ、貴方はこの先どうするおつもりですの?」

 

「この先? どうしたんだ突然?」

 

「いえ、この前ちょっとそういうお話がありましたの。それでシェロは時計塔を卒業したらどうするつもりなのかしらと思って。専科に進むにしても、色々と先の事を考える必要もあるでしょう?」

 

 

 ふとハロウィンの日にバゼットのアパートを訪ねた日のことを思い出し、私は石の上に座って珍しく晴れたロンドンの夜空を眺めていたシェロに尋ねました。

 ミス・トオサカの素晴らしい姿を拝見した後、彼女とシェロが子供達の後をついて出て行ってしまってから、私はバゼットから頼まれていた魔術具を渡すために彼女の部屋に残りました。件の扮装に関しては後で町内会のご婦人から写真を頂くことに決めましたけど、小癪なことにミス・トオサカが事前に根回ししていたらしく、手に入れることは出来ませんでしたわ。

 そのときに彼女達が来るまでショウが話していたことというのが、自分の将来について、だそうです。エーデルフェルト家を継ぐことが決まっている私や、私同様家を継ぎ、第二魔法へと至ろうとしているミス・トオサカはともかくとして、シェロやショウには明確な指針というものがないように感じたのです。

 ショウは根源へと至るための研究を既に進めているそうですけど、そういえばシェロは何をするために時計塔にいるのかしら。曲がりなりにも―――かなり手加減をしていたとはいえ―――バゼットと打ち合える程の戦闘技能を持っているのでしたら封印指定の執行者ということも考えられますけれど、彼にはそういう仕事は向かないような気がいたしますわね。

 

 

「俺、か‥‥。そういえば何も考えてないな、明確な手段とか、この先具体的にどうするかとか」

 

「何か目指しているものや、得意なことはありませんの? 例えば魔法に至るとか、何か根源を目指すための方法を知っているとか‥‥」

 

 

 根源に至る方法は大別して二通り。まずは既存、未知にかかわらず魔法を会得すること。魔法使いは皆、至ったからこその魔法使い。魔術師としてはアレなミス・ブルーも魔法使いである以上根源に至っていることには違いなく、既存のものであったとしても魔法を研究することは根源を目指す足がかりの一つですわね。

 もう一つは自身の得意とする分野を追求していくことで根源に至る方法。例えばショウの義姉であるマイスター・アオザキは、人体を通じて根源を目指した魔術師であると聞きます。あぁ、何故知っているのか言われれば、協会を通じてと答えさせていただきますわね。何しろ封印指定ですし、時計塔ではそれなりに有名人ですから。

 ちなみにショウもこのやり方で根源へのアプローチを試みているとのことです。彼の場合は“とあるモノの原典”を追求することで―――いえ、これは蛇足ですわね。

 

 

「俺がなりたいもの‥‥か」

 

「なりたいもの‥‥なにかありまして?」

 

「あるよ。笑わないで聞いてくれるか? 俺はさ―――」

 

 

 そしてその次に彼が遠くを見るような目をしながら呟くようにして口にした理想に、私は、そのあまりの愚かさと気高さと、見え隠れする歪さを確かに垣間見てしまったのです。

 そう、彼は魔術師ではなく、魔術使い。魔術を目的ではなく手段とする、忌まわしい人たちと同類だったのです。ですがその夢は彼らとは一線を画し、誰もが理想と褒め称え、誰もが理想と嘲り笑う。そんな、現実には存在しない夢絵空事。

 過去、大勢の人がそれに定義を求め、その内の誰もが定義することを放棄したナニカ。子供の頃に夢見ても、大人になれば明らかな無意味さに気づき、その夢を放棄する。

 貴方には想像できまして? お伽噺や英雄譚や、巷に溢れる薄っぺらい雑誌上に掲載されているという娯楽媒体にしか描かれていない霞のようなものを、真剣に目指している人物が現実に存在しているという滑稽さを。

 ですが、たとえ間違いなく滑稽であるはずなのに、友人で有る無いを抜きにしても、笑い飛ばせない真剣さが、その鋼のような瞳の奥にあったのです。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥ん、どうしたんだい? そんなに哀しそうな顔をして」

 

 

 一旦こちらの様子を見に来たらしいオーギュスト氏に水を持ってきて貰い、俺はガンガンと頭蓋の中を暴れ回る脳みそがとりあえず落ち着いたらしいことを感じて一息つくと、いつの間にやらベンチの隣に座っていたルヴィアに声をかけた。

 俺が別の世界に旅立ってしまっている間に彼女とどこかへ行っていたらしい衛宮は、今は遠坂嬢とセイバーに挟まれてまた地獄を経験している。遠坂嬢はともかくとして、セイバーは一向に潰れる様子がない。酔っているのに潰れないとはタチの悪いうわばみだ。宴会で近寄っちゃいけない奴ナンバーワンだな。

 遠坂嬢は結構どころじゃなく酔っていて、呂律はおろか足下までおぼつかない。あれでは倒れてしまうまでにさほどの時間はかかるまいが、それまでに一度ダウンしている衛宮が耐えられるかというのは不安だ。なにしろ遠坂嬢だけならともかく、反対側ではセイバーまでもが笑顔で強引に酌をしているのだ。

 その様子はまさに『王の酒が飲めないと申すか下郎』といったソレで、正直、円卓の騎士団の酒宴で何が起こっていたのやらと思うとゾッとしない。毎晩毎晩倒れるまで飲み続ける騎士達とか、想像を絶する。

 

 

「俺は気づけなかったけど、いつの間にか衛宮と一緒にいなくなっていたよね? ‥‥まさか何かされた―――わけないか。衛宮だもんな」

 

「その発言はシェロにとても失礼だと思いますけど‥‥事実ですから否定できませんわね。あまりにも鈍すぎますわ、彼」

 

「おいおい、そんなのとっくの昔に気づいてたことだろ? じゃなかったら君や遠坂嬢があんなに苦労したりしないわけだし」

 

 

 まさかこんな状況でアプローチかけたのか? 酒に酔って苦しんでる相手にそれはちょっとまずいんじゃないだろうかとか思ったけど、奴ならどれだけ酔っても女性の好意に気づいたりすることはあるまい。こればっかりはアインナッシュがある日突然消滅するなんてことがあっても変わらない世界の法則だ。

 俺はベンチに座っていつも通りに背筋だけはピンと伸ばしながらも、どことなく意気消沈とした様子の友人を慰めようとポンポンと肩を叩いて励ました。大丈夫、衛宮(てき)は強大だけど、あきらめたら落とせる城も落とせないぞ。多分第三勢力はおろか第四勢力ぐらいまで出現しての、かなりの長期戦になると思うけど。

 

 

「何を勘違いしているのかは大体想像できますけれど、下手な邪推はおよしになってくださいな。別に私もシェロもそのようなことはいたしておりませんわ」

 

「あれ? そうだったのかい? じゃあ、どうしてまたそんなに落ち込んでいるんだ?」

 

「‥‥酔ってしまったシェロを介抱している間、ちょっと彼とお話をしましたのよ」

 

 

 掌を返すようにして俺の手を軽く払ったルヴィアは、フンとそっぽを向いてから、おもむろに俺が戦線離脱している間に衛宮と交わした会話の内容を語り出した。

 

 

「彼‥‥夢があるんだそうですわ」

 

「夢‥‥?」

 

「ええ。‥‥“正義の味方”に、なりたいんですって」

 

 

 ルヴィアがぼつりと呟いた一言。そして俺も彼女も無言になった。

 “正義の味方”。詳しく語るのは蛇足も極まるために控えるが、それはあまりにも衛宮士郎の目指す道と、歩んできた道を表現するに相応しすぎる言葉だった。

 UBWルート。それは衛宮士郎が自身の未来と遭遇し、自分自身に否定されてなお、“正義の味方”をあきらめないというお話だ。彼が理想をあきらめるのは第三のルートであるHF以外に―――BADENDを除けば―――なく、それ故に衛宮は紅い外套の騎士と同じ道行きを歩む可能性が非常に高い。

 例えば、アーチャーはFateルートの衛宮士郎であるという主張があちらこちらで声高にされており、それには俺も頷いていた。今の衛宮と違い、セイバーを失ってしまった衛宮には無茶を止める奴がいなかったのだろう。結局、彼は世界と契約して、死後、全てに絶望して八つ当たりに走ってしまったわけだ。

 そして実は、遠坂嬢が「アンタを止める」宣言をしたであろう今にあっても、衛宮が世界と契約してしまうであろう可能性は非常に高いと俺は思っている。なぜならあの馬鹿は、きっと身近にいる遠坂嬢やセイバーやルヴィアや俺達を捨てて、名前も知らない誰かの助けを求める声の元へと行ってしまうに違いないからだ。自分を心配する何人もの声を無視して、誰かを助けに行ってしまうに違いないからだ。

 

 なぜ俺がここまで断言できるのかと言えば、もちろんゲームの知識もあるけれど、時計塔で知り合って数ヶ月間という短い期間にもかかわらず衛宮の持つ異常性を垣間見たからに他ならない。

 ゲームやアニメでは『コイツは悪い奴じゃない』とか『俺は自分の人を見る目を信じている』とか言った台詞を良く聞くが、現実ではそうそう簡単に一人の人間を測れるものじゃない。巧妙に外面を擬態している奴らなんてごまんと居るし、そもそも初見とか、知り合っていくらかで他人のことを理解するなんてどう考えても不可能なのは言うまでもないことだろう。

 それでもなお、他人にソイツの人間性をダイレクトに理解させてしまう人間というのはいる。それが衛宮士郎。“正義の味方”なんて途方もない理想を追い求め続ける愚者(The Fool)を象徴する人物だ。

 その最たるモノが、いつぞやの火事の現場に遭遇したときの出来事か。

 

 自らの身を顧みず、火災現場に入って助けを求める人を救う。それは漫画や小説ではよくみるパターンだし、実際現実でもそういう勇敢な人物はたくさんいるだろう。

 だけど、人間に限らず生き物ならばどうでもいい他人のために命をベットに賭けたりしない。ましてやあの酷い火事だ。現場のプロである消防隊員ですら『突入は不可能』と判断する猛火の中に、一切の躊躇を見せずに飛び込んだ衛宮の在り方は薄ら寒いものすら感じる。

 『消防隊員のくせに、中にいる人たちを見捨てるのか?!』と彼らを弾劾するのは簡単だろう。だがあまりにも酷い災害の中で人間は非情にも無力。自分一人ならまだしも、他人を助けて脱出なんて博打をするには些か以上に分が悪すぎる。勇敢と蛮勇は違うし、ましてや犬死になんて誰のためにもならない。

 確かにあのときの衛宮には強化の魔術という他人にはない切り札があっただろう。だとしても、あそこまで躊躇しないでつっこんでいけるというのは、もはや精神操作を受けた特攻隊にすらない思い切り。あれは、異常だ。衛宮士郎は間違いなくどこか狂っている。

 

 

「すごく、遠い目をしていましたわ。私、わかってしまいましたの。いつかシェロは、私たちを置いてどこか遠くへ行ってしまうって‥‥」

 

「‥‥‥」

 

「あんなに寂しい瞳で夢を語る人、初めて見ましたわ。きっと自分のことなんてどうでもいいんでしょうね、シェロは」

 

 

 火事云々には遭遇していないルヴィアにも、衛宮が理想について語っている間中遠いところを見ていたということはわかったらしい。アイツは足下が見えていない。遠くに、手の届かない程に遠くにいる、今から助けに走ったところで間に合うかどうかも分からないほど遠くにいる連中しか見えていないのだ。ハ、お笑いぐさだ。まさしく愚者(The Fool)に他ならないじゃないか。

 

 

「魔術師じゃなくて魔術使いだったとか、そういったことは正直どうでもいいんですの。今までの私では考えられないのですけれど、この頃は本当に、そういう気分。でも‥‥あのような寂しい目をするシェロだけは許せませんわ。哀しすぎますわ」

 

「‥‥そうだな。友人としては、やっぱりつらいところではある」

 

 

 例えば想像して欲しい。学校でも、職場でもいいが、隣で毎日仲良く馬鹿笑いしていた奴が、明日戦争に行くと言う。例えば中東で苦しんでいる人たちがいるから、助けに行くんだと言う。

 もっと程度は酷いが、衛宮はつまりそういうことだ。剣林弾雨の中で、いつ死ぬかもわからないようなところへ行くと言うのだ。読者諸兄なら、どうする? そんな友達捕まえて、『馬鹿なこと考えるのはやめろ』と諭すに違いない。

 つまりは俺達もそういうことだ。まだまだ短い付き合いだけれど、友達がそんなところに行くと聞いて黙ってはいられない。

 

 

「なに、その時になったら手足の一本二本叩っ斬ってでも止めればいいんだよ」

 

「恐ろしいことを言いますのね‥‥。まぁ、確かに貴方の言う通りかしら」

 

「そうさ。どっちにしたってアイツは、俺達に何も言わずに出て行くなんてことはないと思うよ。そのときに考えればいい」

 

 

 間違った道を歩くなら、引っぱたいてでも止めるのが本当の友人。道徳の授業みたいな台詞ではあるけど、意外に昔はくだらないと思ってたことが真実だったりするのかもしれない。‥‥いまいち自信はないけれど。

 あの馬鹿が正義の見方を目指すのは、聖杯戦争の時にその選択に絶望した自分自身と斬り合ってまで選んだ決定事項。一朝一夕の付き合いである俺達では矯正するには力不足だ。そこら辺は、遠坂嬢やセイバーの役回りだろう。

 

 

「あー、とりあえず、そろそろ止めた方がいいのか? アレ」

 

「‥‥お任せしても構わないかしら?」

 

「‥‥嫌なことは分け合おうよ。友達だろ?」

 

 

 ふと元に戻した視線の先には、未だに残っていた一升瓶を二人の美少女によって強制的にラッパ飲みさせられている衛宮の姿。さっきまで深刻な話題に上っていた友人は、ほぼ完全に目の焦点があっておらず、両隣の少女達の良いようになっていて、完全に玩具と化していた。ちなみに手は瓶を持っていない。瓶を持っているのは両隣の酔っぱらい二人で、酒を呑まされている衛宮本人は既に完全なグロッキー。あれでは急性アルコール中毒も夢じゃな―――というか、ヤバくないか?

 

 

「‥‥止めましょう」

 

「‥‥ああ」

 

 

 ひとまず議論は棚上げし、俺達はそれぞれ完全な酔っぱらい共を落ち着けるために、腕まくりをすると多大な苦労を費やして足を前へと踏み出したのであった。

 しばらくはこんな感じ‥‥なのか?

 

 

 

 

 34th act Fin.

 

 

 



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第三十四話 『代行者の来訪』

 

 

 side Rin

 

 

 

「士郎、セイバー、ちょっとこれから大英博物館(きょうかい)まで行くわよ」

 

「‥‥突然どうしたのですか? 凜」

 

「とりあえず座って落ち着けよ遠坂」

 

 

 昼間はまるまる講義が入っているはずの私がどうして帰ってきたのかと、テーブルについて仲良く食後の紅茶を啜っていた士郎とセイバーが目を丸くしてこちらを見た。基礎錬成講座は今日は午後からの授業らしく、玄関の横には行儀良く授業に持って行く鞄がまとめてあるところから士郎の几帳面さが伺える。

 私は今さっきポットから注いだらしい湯気の出ている士郎のカップをひったくって火傷に注意しながら一息に飲み干すと、急ぐ用事ではあるけれどまずは一心地つけようとテーブルに座った。

 昼食を食べたばかりだろうに、セイバーの前にはいくつかのマフィンが置いてあって、空になった包み紙から察するに既に最低一つは食べ終えているのだろう。相変わらず健啖家を通り越して大食いと言われても文句を返せない子だ。

 

 

「で、一体どうしたんだ? いきなり帰ってくるなり時計塔へ行くなんて。俺は授業あるからすぐに行くけどさ」

 

「うん、私も突然のことなんで驚いてるんだけどね、上の方から私たちに依頼があったのよ。それも私たち三人まとめて来いって」

 

「‥‥私たち、三人ですか? 凜だけ、士郎だけならともかく私も入れて三人とは、なにやら不穏な臭いがしますね」

 

 

 セイバーの言うとおりだった。

 今までも私だけで依頼されたものというのはあったけど、三人まとめてなんて話は無かった。私だけって依頼だと術式の研究とか、儀式のサポートとかが大半だった。士郎にはそういうことは出来ないし、セイバーもなんだかんだでツブシの効かない性格してるから向いていないものね。

 それが突然さっき院長補佐から呼び出されて『二人を連れて応接室まで来い。急げよ』とあの氷みたいな目で見られながら告げられ、本当に急いで帰ってきたのだ。Mr,ジョージは本当に困ったときには助けになるわ。

 

 

「うーん、私も院長補佐から直接依頼されたってのは初めてだから、正直どうとも言えないわね。今までは良いところ各学部の長ぐらいだったもの」

 

「とりあえず、なにがしかの覚悟はしといたほうがいいってことか?」

 

「かもね。というよりそもそもあのいけ好かない魔導元帥が食わせ物だし‥‥」

 

 

 あからさまに人を見下したあの目つきは心底気に入らない。貴族趣味もほどほどにしろってのよ、極東の田舎一族だからって馬鹿にして‥‥! 一応ね、私だって魔法使いの家系なのよ? 別に驕るつもりなんてないけど、あそこまで分かりやすく見下されたら苛っとくるものよ!

 なによ、あの『ハ、五大元素統合(アベレージ・ワン)? その程度で天才児扱いとは、日本という国の底が知れるな。私の属性は108まであるぞHAHAHA』みたいな他人を見下した視線は! 興味ないだけならまだしも馬鹿にされるのだけは我慢ならないわ。何度ポケットの宝石を撃ち込んでやろうと思ったことか‥‥!

 

 

「とりあえず急ぐように言われているからすぐに出るわよ。いくらなんでも呼び出されてすぐに戦場に放り込まれるなんてことはないでしょ。‥‥ま、遅れても色々嫌味言われるかもしれないし、二人ともさっさと腹休めしちゃって」

 

「おう。俺はすぐにでも出れるぞ」

 

「私も大丈夫ですが‥‥今食べているマフィンを食べ終わるまで待っていただけますか? 急いで食べると消化によくない」

 

「‥‥いいけど貴方、本当に英霊?」

 

 

 消化を気にする英霊ってのもおかしいけど、まぁセイバーだものね。降霊科の連中の扱い方とか見てるとたまに殺意湧くときあるし‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥は? すいませんプロフェッサー、今なんて仰いましたか?」

 

 

 未だに続いているルーン学科の代理講師としての授業が終わった後、講義室から出ると突然目の前に立っていたロード・エルメロイⅡ世に声をかけられた。それなりに親しくしているとはいえ相手は今の時計塔で尤も有名なロードの一人。今までさしたる用もなかったのか向こうから呼び出されたこともなかったし、ただでさえ個人指導を中心に受け持っているこの人は自分の研究室から出たがらない。

 それ故にこうして廊下で呼び止められるというのは今までにない経験だった上に、彼の口から飛び出た用事とやらが全く予想外の代物であったのだから、俺が思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのも仕方がないことではなかろうか。

 

 

「だから、院長補佐が呼んでいるから応接室まで行けと言ったのだ。‥‥全く、いくら位階が低いからと言って私を使いっ走りにさせるとは、何を考えているんだあの女怪は!」

 

「院長補佐って‥‥バルトメロイ・ローレライ女史のことですよね? 一度も会ったことないんですけど、俺に一体何の用なんですか? 最初に言っておきますけど青子姉捉まえろとか言われても無理ですからね」

 

「私に聞くな。ただ使用人に申しつけるように言付けを命令されただけなのだからな!」

 

 

 扉のすぐ横でファックファックと時計塔の雰囲気にそぐわない、聞くに堪えないスラングを吐き捨てるロード・エルメロイは普段より三割り増しで不機嫌そうだ。何しろこの人未だにコンプレックスの固まり。年齢を経て幾分大人になったとは言え、どんなに相手の実力が高かろうと他人に見下されることが大の嫌いなのだ。

 いつもなら嫌味の一つや二つや十や百を言い捨ててきたところだろうけど、今回は如何せん相手が悪かったのか、こうして俺の前で鬱憤をはき出すより他はないのだろう。

 

 院長補佐。ロード・エルメロイが役職で呼んだこの人物の名前は“バルトメロイ・ローレライ”。時計塔に於いて最古の血筋に君臨し、ありとあらゆる性能がハイスペックのみならず、それぞれが時計塔の一部門の長が出来る最上位の魔術師五十人で構成された『クロンの大隊』を率いる最凶の吸血鬼殺し(ドラクル・マーダー)にして現代の魔導元帥だ。つまり、名実共に時計塔最高位の大魔術師なのである。

 そんな彼女に逆らうことが出来る人間なんぞ、魔法使いを除けば片手の指で数える程しか存在しない。血筋だけが貴くても鼻で笑われ、能力がお粗末なら見向きもしない。ロード・エルメロイだってその教師としての際だった才能を買われてか一目置かれてはいるけれど、それ以外の面に関しては以前面と向かって『無能』と断言されたという悲惨きわまりない逸話付きだ。立場的な意味でも物理的な意味でも、迂闊に近くに寄れば治癒不可能の傷を負う可能性の高い、時計塔五大アンタッチャブルな人物として長い間君臨している。

 ちなみに残りの四人はというと、言わずと知れたミス・ブルーこと俺の義姉。触るというか来ないでくれと祈るしかない宝石翁(はっちゃけ爺さん)こと死徒二十七祖第四位。ついでに歩く人間凶器かつ伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)である封印指定の執行者に加えて、最近生徒達は“あかいあくまときんのけもの”のコンビを二人で一セットとして追加するべきだと声高に主張している。つまり俺は生ける鬼門の半分以上と日常的に接しているわけだ。‥‥なんか最近友達できないなーとか思った理由の大半がここにあったとわ。

 

 

「とにかく、この後は大した用事は入っていないのだろう? とっとと応接室まで逝ってこい」

 

「そんな殺生な‥‥って、プロフェッサーに言ったって仕方がないですよね。はぁ、わかりました。不肖ロード・エルメロイの元弟子、蒼崎紫遙。はりきって逝って参ります」

 

「おう、逝け逝け。そしてできればあの鉄面皮と一緒にテムズ川に沈んでこい」

 

 

 めっきり見せなくなった笑みを―――かなり嫌味なものではあったが―――僅かに浮かべると、ロード・エルメロイは紅い上着を翻して早足で廊下を去っていった。どうも俺に背を向けた直後に不機嫌な顔に戻ったらしく、すれ違った生徒達がおっかなびっくり挨拶をしている。いつも不機嫌な眉間に三割り増しで皺が刻まれてたらそりゃ怖いわ。

 とにかく何事も自分の思い通りに進まないと途端に機嫌を悪くすると噂される院長補佐を怒らせるのはもっと怖い。仕方がなしに、俺は手に持った教本もそのままに普段は足も運ばない一角にある応接室へとちんたらちんたら向かったのだった。

 

  

 

 

 

 

「失礼します、ロード・バルトメロイ。お呼び預かり参上しました、鉱石学科所属の蒼崎紫遙です」

 

「入れ」

 

 

 只の扉に見えてその実いざというときには何重もの魔術防御が展開される防壁を少し開けて、聞こえてきた冷たく平坦な声から入室の許可を得ると、俺は時代外れながらも入念に整備されたストーブによって快適に室温が保たれた応接室へと入った。

 主に時計塔外部からの来賓を迎えるために作られたこの部屋は、来賓を歓待するためだけのものでは決してない。いざとなれば中にいる外敵(らいきゃく)を閉じこめ、始末できるようにするための檻でもあるのだ。外見上は全く気づかせることがないけれど、部屋の壁のあちらこちらに言うも憚る程に物騒な仕掛けが何十と潜ませてあるに違いない。

 もっともココがその用途で使われたことは過去一度もないということのがもっぱらの噂だ。そりゃ罠だと分かっててわざわざ不審な動きする奴もいないわな。

 

 

「まずはかけろ。話はそれからだ」

 

「‥‥はぁ。では失礼しまして」

 

 

 部屋に入った俺の視界にまず入ったのはちょうど四角形に配置された豪勢なソファー。そしてその一角の一人がけのそれに腰掛けた若い女性、噂にのみ聞くが、彼女こそが悪名高いバルトロメロイ・ローレライ女史だろう。想像に違わぬ合理的な女性らしく、こちらへと命令する言葉も必要最低限のものだ。なんというか、目の前にすると有無を言わさず従わなければならないような王気(オーラ)が漂っている。

 だが会釈して俺が空いている席に座ろうとすると、ふとよく見知った顔が対面に座っているのを発見した。三人掛けのそれに腰掛けているのは例のごとくの遠坂主従。師匠であり時計塔の次期主席候補である遠坂嬢と弟子の衛宮士郎、そして使い魔という扱いになっているセイバーだ。

 こちらの騎士王陛下もいつも通り静かながらも清涼な王気をまとっている。その自然とにじみ出る存在感は現魔導元帥にも勝るが、彼女の前にはどこから情報を入手したのかしっかりとお茶菓子が用意されていた。対策は万全だ。

 しかしいくら華奢な女の子が二人いるとはいえ、三人でソファーに座るのはちょっと難しくないか? 辺はあと二つも余ってるだろうに‥‥と愚にもつかないことを考えながら俺もその対辺に腰を下ろす。おお、ルヴィアの屋敷のソファーにも匹敵する座り心地よ。

 

 

「突然呼び出したことについては悪かった。だが事は一刻を争う上に未曾有の人手不足。ちょうど手が空いている者が学生にしかいないと聞いたものでな。非常に心苦しくはあるのだが、卿らに出向いて貰ったというわけだ」

 

「‥‥呼び出されたことについては別に問題はありません。前置きは結構ですから、どのような用向きで招集されたのかお聞かせ頂けませんか?」

 

「卿の言うことも尤も。では今回の依頼の内容を話そう」

 

 

 事前に前哨戦は済ませたらしい遠坂嬢が黙っているので俺が用件を尋ねる。ていうか『悪かった』とか言っておきながら全く心が籠もっていない。僅かにその言動を垣間見ることができた生徒達が“氷のようだ”と形容するのがよくわかる。淡々と、あくまでも最低限交渉が円滑に進むために思ってもいないことを社交辞令として口にしたといった感じだ。

 目の前で狭いソファーに座る三人も先に来ていたのに説明はうけていないらしい。黙々とお茶菓子を朽ちに運んでいたセイバーも一転真面目にバルトロメロイ女史の方へと振り返った。

 

 

「先日、聖堂教会から依頼があった。ドイツの片田舎に死徒が現れたらしい」

 

「死徒? 失礼ですけれど、聖堂教会が魔術協会(わたしたち)を頼るなんてどういうことですか?」

 

「ちょうど優秀な代行者が不在で戦力が不安だったということだ。我々も神秘漏洩の阻止の観点からこの依頼を受けることにした‥‥が、こちらもあまり手が空いている人物がいるというわけではない」

 

 

 先ほど入室を促した時と全く同じ調子で紡がれた内容に、遠坂嬢が不審の声を上げる。なにしろ魔術協会と聖堂教会は犬猿の仲と呼ぶのも生ぬるい、表では一時休戦と握手しておいて裏では未だに殺し合いをしているような間柄だ。加えて連中は基本的に神秘(神の御力)は自分たちだけのものであると考えている上に、死徒殲滅は神から与えられた崇高な任務、いわば苦行だと思っているのだ。

 

 そんな彼らが非公式とはいえ死徒殲滅の依頼を俺達にするということがそもそも不思議。だけどまぁ、確かに英霊がカフェでお茶をしている時代なのだからそういうこともあるのかもしれないと思わずにはいられないなぁ。

 

 

「標的は既に街の住人の多くを死者へと変えている。このままでは吸血鬼という存在はおろか、芋づる式に我々神秘に関わる情報についても表の社会へ流出する恐れがある」

 

「街の人たちを‥‥?!」

 

「士郎落ち着きなさい。それで、どうして私たちを?」

 

 

 女史の発言の一部に激しく反応した衛宮が腰を浮かせかけ、隣にいた遠坂嬢がその腕をひっぱってソファーへと引きずり下ろした。あまりにも分かりやすい反応に俺は額を抑えて呻く。今のはしっかりとバルトメロイ女史に見られただろう。

 魔術師相手にあのような分かりやすい弱点を見せれば、下手すれば先々体のいいお題目を餌に便利屋として良いように使われてもおかしくない。後で遠坂嬢と相談して手を打たないとな。

 

 

「生徒達の中で、特に優秀で戦闘経験のある者が卿らだった。トオサカ学生は聖杯戦争の勝利者で、エミヤ学生はその弟子だ。ついでセイバーは英霊であり、アオザキ学生も対死徒戦の経験がある。よって卿らにこの依頼について委託したいというわけだ」

 

「些か以上に釈然としませんけど‥‥」

 

「もちろん報酬は用意する。相場に二割上乗せしよう」

 

「‥‥‥」

 

「遠坂‥‥」

 

「凜‥‥」

 

 

 殆ど動かさなかった仮面のような口元をにやりと歪めたバルトロメロイ女史が報酬について口にすると、どうにも家計が芳しくないらしい遠坂嬢はぎしりと歯が軋る程に噛みしめ、一緒に座っているエミヤとセイバーは呆れたように彼女の名前を呼んだ。

 強いて言うなら貧乏が悪い。相も変わらず浪費癖の治まりやらぬらしき遠坂家の経済事情は推して察するにあまりある。きっと毎日毎日家計簿を見ながら溜息をついているのだろう衛宮やセイバーの苦労は心底可哀想に思う。ただ、こっちに関しては迂闊に首をつっこむつもりはない。下手に関わるとこちらの財布もやばそうだ。

 

 

「安心しろ、君たちだけで行けと言っているわけではない。聖堂教会からもこの件に関して一人、力強い助っ人を手配してもらっている。‥‥入ってくれ」

 

 

 と、ちょうど俺の右横に位置していた扉が、魔術的なものと物理的なものとで二重の防音処置が施してあるはずの扉が、まるで今の言葉が聞こえていたかのようにタイミング良く開いて一人の若い女性がは行ってきた。

 日本人の色とは少し違う短めの黒髪に、空のような青い瞳。シンプルなカソックを着込んで編み上げブーツの足音も高く、入り口に面しているバルトメロイ女史が座っているソファーの対面、つまり扉から一直線に歩いて突き当たったソファーの背に手をかけて、にこりと微笑んだその女性はちょうど両隣に座る形になっていた俺達に向かって自己紹介をする。

 

 

「はじめまして。聖堂教会埋葬機関第七位、《弓の》シエルと申します」

 

 

 世界最強たる者達だけが載ることを許される番付に、その名前を認めることが出来るカレー狂いの代行者がそこにはいたのだった。

 

 

 

 

 35th act Fin.

 

 

 

 



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第三十五話 『復讐曲の序曲』

 

 

 side Ms.Blue

 

 

 

「いくわよ‥‥薙ぎ払え!」

 

 

 宙に浮かんだ数多の光球から、雨のように青白い魔力光が降り注ぐ。ノタリコンを使って圧縮された詠唱に妨害する隙などなく、破壊の力は私の眼前に展開していた死者の群れを次々と砕き、焼き尽くしていった。

 田舎とはいえ一つの集落をまるまる死都へと変えてしまったからか、死者達の量は半端じゃないわね。とはいえ、そもそもある程度戦闘に慣れた魔術師ならばろくな自律思考もできない死者風情に遅れをとることなどない。ましてや私ならこの通り、いくら数を揃えたって無駄よ無駄。

 そうね、私を倒したかったらこの三十倍は持って来いってものよ。

 

 

Samiel (ザーミエル)―――ッ!」

 

「あら?」

 

 

 ふふんと胸を張った私の背後でいくつかの高速で飛来する物体が空を斬り、続いて聞こえた何か柔らかいものと固いものが砕かれる音に振り返る。

 いつの間にやら死角に回っていたらしい死者を尽く砕いた七ツの球体が私の周りを護衛するかのように旋回し、そして砂埃を立てて滑り込んで来た義弟が肩で息をしながら背中を合わせた。

 魔力で脚力を強化しながら礼装を操るなんて容量以上のことをしたせいかキツそうだ。この子に危ないところをフォローされるなんて、ちょっと私も注意が抜けてたみたいね。

 

 

「頼、む、から、最低限の警戒だけは、して‥‥」

 

「あはは、ごめんごめん。ついついぶちかますのが楽しくってさあー。次からはちゃんと注意するから、心配しなくても大丈夫よん?」

 

「わかってるよね? 俺の魔力そろそろ限界だってわかってるよね? 頼むから、少しでいいから真面目にヤッテ」

 

 

 半泣きの声に再度アハハと笑い、義姉思いの義弟に免じて追加で魔力弾を雨霰と降らせた。まるで視界に小さく写る流星群をそのまま地上に持って来たかのような猛攻撃は、大地も、木も草も、果てはそこに存在する空気すらも平等に削り取って盛大に砂煙を巻き上げていく。

 咄嗟に不器用ながらも風を操って障壁を張った私に対して魔力の底が見えかけていた義弟はもろに砂塵を吸い込んでしまったらしい。後ろでゲフンゲフンと激しく咳込んでいるのが聞こえて、それがまたどことなく面白くて私はまた笑い声をあげた。

 

 

「ゴホ‥‥どう? ちゃんと殲滅できた?」

 

「ちょっとちょっと、そこは『俺の分はちゃんと残しておいただろうな?』とか恰好つけて聞くところじゃないの?」

 

「寝言はせめて横になってから言ってくれよ。さっきガス欠だって申告したじゃないか」

 

「だらしないわねー。それでも時計塔の次席候補でしょうに」

 

 

 声から察するにそこまでヤバくはなさそうね。重畳重畳。

 元々この子が戦いに向いてないのはもとより承知。わざわざこうして依頼に連れて来てるのはもっぱら私の暇つぶ―――もとい、いざという時の実戦でこの子が困らないようにするため。多少以上にキツイ修業をさせないと身にならないっていうものよ。

 ‥‥異能は異能を引き付ける。類友なんて言葉が示す通り、“外れてしまった”者達は互いに引き寄せ合うのが世界の常。

 そして向こうから言い寄ってくる連中は大概が余計な厄介事を手土産に持ってくるのだ。そういった手合いに対抗するには実力がなくては仕方がない。得るためでもなく、守るためにも力が要るのもまた世の理ならば、先達である私や姉貴がある程度まではしっかりと導いてやる必要があるだろう。

 姉貴との仲は相変わらず、とは言っても以前に比べれば格段にマシな冷戦状態だけど、二人とも可愛い義弟を守ってやりたいという点に関しては同意を得て、それなりに交流している。一昔からすれば考えられない事態ね、ホント。

 

 

「だーいじょうぶよ、あんたに言われたから念入りに砲撃したし。これなら跡形も残って―――」

 

「ぐ、お‥‥ぉ‥‥」

 

 

 と、かろうじて瓦礫として残った家の残骸の中から一人の男が姿を現した。身の丈190cmに届こうかという巨体に、瞳は赤く血走りもはや宝石のように光っている。着ていた上品な仕立てのグレーのスーツはぼろぼろに汚れ、日本人のものとは違う黒髪は埃や塵で半ば白髪と化していた。

 その男は魔力弾のあおりを喰らったらしい身体をぎこちなく動かすと、鋭く尖った犬歯を剥き出しにしてこちらを睨む。明確な怒りという意志の灯ったその瞳、明かに死者ではありえない。その身から発する魔力も並ではなく、人を喰らって生き延びた年月を感じさせる。

 ならば、この吸血鬼こそが―――

 

 

「貴方が、この死都の主ね。まったく面倒かけさせてくれるわよ」

 

「主に‥‥俺が‥‥」

 

 

 後ろで義弟が何か言ってる気がするけど、無視よ無視。

 私は息も絶え絶えに文句らしきことを言っている義弟を華麗に無視し、目の前でようやくなんとか身体を起こした死徒に向かって髪を後ろになびかせながら尋ねた。

 

 

「なぜだ‥‥なぜ貴様がこのようなところへやって来たのだ?! ミス・ブルー?!」

 

「依頼があったからに決まってるじゃないの。アンタ、ちょっと派手にやりすぎ」

 

 

 通常死徒の討伐は聖堂教会の代行者が行い、魔術協会まで依頼が回ってくることは稀だ。私はあっちこっちに首つっこんでストレス発散もかねて喧嘩を売りまくってるけど、本来魔術師と死徒が敵対するのは互いの利害が一致しないどころか完全に反目した場合のみ。

 もともと死徒ってのは魔術師あがりの連中が多いうえに、長い年月を生きた吸血鬼とは魔術協会も色々と便利なコネクションとして交流していることも少なくない。ごくたまにではあるけど、時計塔の廊下を元協会所属の魔術師だった死徒がうろついてるなんて光景は、驚きこそすれ別段不思議なことじゃないのだ。

 

 にも関わらず今回わざわざ私の方まで依頼が回ってきたのは他でもない、このお馬鹿な死徒は少々遊びすぎたから。街や村があちらこちらに点々と存在して互いの人や物資の流通がそこまで密でなかった時代ならともかく、現代においてココまで完璧に死都を作ってしまうというのは死徒の中においてもあまり好まれない娯楽である。

 答えは簡単、そんな目立つことをすれば忽ち教会と協会の双方からなりふり構わずに死都ごと殲滅されてしまうから。このように辺鄙なところであろうとも、昔よりは遥かに他の地域との交流がある以上不審なことがあればすぐに周囲へと伝わってしまう。

 一度住人全てが死者と化してしまえば教会は生存者に配慮する必要はないし、ここまで目立つことをされては神秘の漏洩の観点からも協会は迅速に動かざるをえない。二つの巨大な組織が普段なら信じられないほど円滑に迅速に手を組み、多人数からなる精鋭部隊か、私みたいな歩く大量破壊兵器―――自分で言うのもなんなんだけど―――を投入して一気に殲滅にかかるというのが常套手段。そんなことされたらどんなに力のある死徒だってたちまちのうちに滅ぼされてしまうだろう。

 

 最近で言うなら私の故郷である三咲町に現れた三人の死徒。死徒二十七祖番外位ミハイル・ロア・バルダムヨォン、同じく第十位ネロ・カオス、同じく第十三位ワラキアの夜ことタタリ。

 ネロの方はホテル一つ丸ごとなんて随分と派手な食事をしたけど彼は例外。なにしろ真っ正面から戦ったら私でも滅ぼしきれるかどうかなんて化け物なんだから、相当に自分の力に自信があったとしても納得してしまう。で、私が言いたかったのは他の死徒達。彼らも単体で英霊と渡り合えるような人外でありながら、教会に勘づかれず、本体である自身を捜されにくいように巧妙に立ち回っていたのだってこと。

 今そこでコッチを睨んでるあの死徒もかなり強力ではあるけれど、アレよりもさらに強大な二十七祖ですら慎重に補食しているってのにこんな派手なことをして目をつけられないわけがないのよ。

 

 

「何考えてやったのか知らないけど、お遊びが過ぎたわね。ステレオな正義を振りかざすつもりはないんだけど、裏の住人なら最低限は表の社会への配慮を忘れないってのは暗黙の了解でしょ? ‥‥お仕置きは痛いじゃすまないわよ」

 

 

 腕を中心に術式が編まれ、魔力が回路を疾る。再び数えるのも億劫な程の数の光球が宙に浮き、青白い光を放って敵へと襲いかかる時を今か今かと待っている。それはまさしく圧倒的な物量による戦力差。たいていの特殊能力など力押しに吹き飛ばしてしまうのが細かいことが嫌いな私の戦法。

 ありったけの憎悪をこめてこちらを睨むその死徒にたっぷりの自信を込めて笑いかけてあげると、万が一にも無防備に近い義弟が襲われないように背中へ庇い、振り上げた腕で光球達へと号令を下したのだった。

 

 

  

 

 

 

 

「‥‥では状況を説明しますね」

 

 

 ロンドンからは飛行機と電車を乗り継いだところにあるという現地へ向かう鈍行列車の中、簡単な防音処置を施したコンパートメントで俺達は昼食を摂りながらシエルの話を聞いていた。

 衛宮が急遽準備してくれた弁当はサンドイッチ。近所のパン屋で購入した食パンの耳を落としてスライスし、自家製のマヨネーズやソースで味付けされた新鮮な野菜の味は最早コレを喰ったらファーストフードなど食べれるかという程に美味で、キャラに似合わないことは分かっているけれど思わず「う・ま・い・ぞー!!」と叫び出したいぐらいの衝撃である。聞くところによるとハムまで手作りだそうで、今度分けてもらえないか頼んでみることにしよう。

 

 一方、ちょうど俺の隣に座っているシエルは嬉々としてカレーパンを鞄から取り出すと、一口咀嚼して実に幸せそうな顔をしてから状況の説明を始めた。袋に『めしあん』と書いてあるところからして、どうやらわざわざ日本から持ってきたようである。賞味期限が気になるところではあるけれど、そこは代行者。万が一にも食中毒で戦線離脱なんて無様は晒すまい。

 ‥‥しかしまぁ、聞きしにまさるカレー狂いよな。当然ながら初対面であるからして衛宮達はキャラ設定には気づいてないけれど、隣に座れば本当にほのかにではあるがカソックからも香ばしいスパイスの香りがする。この程度なら香水と同等のアクセントに過ぎないとは思うけれど、原作(?)でのカレーに対する執着を思い返すとなんとなく笑いが零れそうになるのを止められない。

 

 

「ではまずこの地図を見てください。‥‥向かう先はここ、オストローデという街です」

 

「オストローデ、ね‥‥。別段気になるようなところはないけれど‥‥」

 

 

 地図を見れば悪名高き魔窟、ブロッケン山にほど近い。比較的に便が良いらしく鉄道も通っていて、ちょうど冬木を住宅地のみに限定して縮小すればこのようになるかという小さいながらも賑やかな街のようだ。

 遠坂嬢が縮尺の小さい地図と大きい地図の二通りを見て周囲の様子と街の見取り図を照らし合わしてそう発言する。衛宮は吸血鬼退治という未だ経験したことのない仕事に既に緊張気味で、手を握ったり開いたり、眉間に皺を寄せたりしていた。

 言い忘れていたけれど今コンパートメントに居るのは定員ぎりぎりいっぱいの四人。セイバーは隣のコンパートメントにいて、遠坂嬢と視覚と聴覚を共有することで会議に参加しているということだ。ないとは思うが電車が襲撃されたときに備えて警戒もしているとか。サーヴァントの鏡だね。

 

 

「別に特筆すべきところもないアメリカ西部様式の住宅街です。なんでも昔に人外同士でどんぱちやらかして、長い間人が寄りつかず、最近になってようやく住宅地として移住が始まったということですが‥‥まぁ今回の件には関係ないでしょう」

 

 

 またもやカレーパンと一緒に鞄から取り出した報告書を一瞥したシエルが書類の束をこちらに寄越す。報告書はドイツ語で書かれているけれど幸いなことに守備範囲だ。‥‥なになに、近くの森の樹齢何百年かの大樹に異様に大きな爪痕? いったい昔に何があったんだ?

 

 

「我々の任務は簡潔です。街の住人の二割以上を占めるに至った死者を駆逐し、おびき寄せられて出てきた大本の死徒を叩く。いわば囮任務も兼ねているわけですが‥‥蒼崎君については聞いているのですけれど、失礼ですが、そちらのお二人は死徒についての知識は?」

 

「まぁ、常識程度には」

 

「‥‥う、すいません、全然です」

 

 

 すまして答えた遠坂嬢に対し、衛宮はばつの悪そうな顔で頬をかきながら頭を下げる。そういえばこの野郎、以前『ワイバーンってまだ生きてるのかな?』とか真面目に質問しやがったことがあったか。ワイバーンってのは紋章学による空想の産物で、決して幻想種ではないなんて初歩の初歩から説明せにゃならんかったときのこめかみに走った頭痛と言ったら‥‥。原作の登場人物の方が俺より無知とはこれいかに。

 

 

「吸血鬼って太陽の光を浴びたら灰になったり、にんにくや十字架に弱かったり、噛まれたら同じ吸血鬼になったりする奴のことですか?」

 

「おおむねその認識で間違っていませんよ。まぁニンニクと十字架はそれ単体ではあまり効果がありませんが。まず吸血鬼というのはですね―――」

 

 

 麗らかな昼下がりの鈍行列車で行われる血なまぐさい吸血鬼についての講義。衛宮はともかく遠坂嬢も吸血鬼退治のプロの話を聞くのは初めてらしく、後学のためにと真剣に耳を傾けている。

 シエルとはいえ教師が聖堂教会の人間であるがゆえにかなり偏った教え方ではあったけれど、その内容は俺が原作及びこちらに来てからの橙子姉によるスパルタ学習によって覚えた内容と大差ない。衛宮はその内容が段々と物騒なものになるにつれて表情を険呑なものへと変えていったが、彼と違って生粋の魔術師である遠坂嬢はいたって冷静だ。

 もとより彼女については大師父である宝石翁が二十七祖だとかはさておいても、彼女自身が吸血鬼の血筋であるという疑惑もある。傷を負ったら庭に埋めておけば云々といったくだりとか、あと朝が弱いのも考えてみればそれが関係しているという可能性もあるような気がするな。

 

 ちなみに、隣のコンパートメントにいるセイバーからは乗車してから今の今まで何の音沙汰もない。遠坂嬢を通じてシエルの説明も聞いているはずだし彼女もあまり吸血鬼には馴染みがないと思うんだけど、もしかしたら食事に集中してないか? 確か向こうに入るときにやたらと大きな折りたためる便利なバスケットを抱えていたような気がするんだけど‥‥。

 

 

「ところでシエルさん。埋葬機関の第七位である貴女がいるというのに、どうして今回私たちに依頼が回ってきたのでしょうか? 詳しいことを聞いていないので少々気になりまして‥‥」

 

「ああ、なるほど。実は今回の討伐は少々事情が込み入っているものでして‥‥」

 

 

 一通り吸血鬼に関する講義―――真祖の件で些か以上に私情が入っているような気がしたけれど―――を聞き終えた遠坂嬢が、ふと居住まいを正してシエルに質問した。

 本人を前にしてこう言うのも何だけれど、埋葬機関の連中というのはすべからく化け物だ。低位であれば二十七祖とも一対一で渡り合え、特にこの“弓”を冠する第七位に関しては防衛戦に限れば英霊とも殴り合いができるなんて尋常じゃない戦闘者。その身に秘めた魔力は並の魔術師の百倍。不死者としての特性は失われこそしたが、たとえソレをさっ引いたとしても鉄鋼作用をはじめとする黒鍵の投擲技術や無限転生者ミハイル・ロア・バルダムヨォンから受け継いだ魔術の知識、そして代行者となってからの苛烈な任務によって手に入れた戦闘技能は彼女の異端審問官としての地位を揺るぎないものとしている。

 つまるところ死徒二十七祖とも渡り合える彼女がいれば、ぶっちゃけ足手まといである俺達は必要ないはずなのだ。

 

 

「まず、このオストローデで最初に死者が観測されたのが一週間前。派遣された諜報員によると加速度的に被害者は増えており、今は市議会に根回しして夜間の外出を控えるように住民達へ通達を出している状態です。多数の行方不明者に警察やマスコミも動き始めており、あまり時間をかけていてはそれらも押さえきれません。

 たとえ我々聖堂教会が世界の各地へ浸透しているとは言っても、あまり事態が進行してしまえば出来ることにも限界があります。ここまで死者が増えてしまった以上、一度に短時間で殲滅しなければならなりません。よって私一人では手が足りず、加えて現在戦闘を行える代行者の数が少なかったので仕方なく魔術協会へ依頼をしたというわけです」

 

「なるほど‥‥確かに神秘の漏洩が懸念される事態とくれば、魔術協会(わたしたち)が動く理由には十分ね。それにしても死徒って連中はそんなおおっぴらに食事に励んだりするものなの?」

 

「いえ、通常は街に潜伏し、出来る限り本体である自分を探し出されないように注意して慎重に捕食を行うのが常識のようなものです。ここまであからさまな方法になるとむしろ殺してくれと宣伝しているようなものなのですが‥‥」

 

「まぁ死徒の考えることなんてわからないよ。研究もあることだし、とっとと行ってとっとと終わらせたいものだね」

 

 

 そろって顎に手を添えて考え込んでしまった二人にそう言うと、俺は啜っていた紙パックを空にしてごみ箱へと放り捨てた。難しい話についていけずに黙っていた衛宮も決意の表情で首肯する。セイバーからも同意の声があったらしく、遠坂嬢も「そうね」と呟くと話に集中するあまり進んでいなかったサンドウィッチを囓った。

 一方シエルは四個目のカレーパンを鞄から取り出して咀嚼し、既にコンパートメントの中に充満し始めたカレー臭がさらに増す。ココにいたってようやく真向かいに座った二人もこの代行者の異常なキャラに気がついたらしい。普通の人間ならたとえ好物はカレーと自称していたとしても四個も続けてカレーパンなど食べられるものではない。いや、大食い選手権とかに出ている人物ならともかく、目の前の女性はどちらかと言えば出るところは出ていながらもスマートで華奢な部類に入る。

 ‥‥なんとなく今、焼き肉大帝都の大食い記録を更新した青子姉と橙子姉のそれぞれやり遂げた笑顔を思い出した。どちらも無理矢理引きずりこまれて付き合わされたのも良い思い出か。

 

 

「さて、オストローデには直接赴かず、まずは一番近い街に宿をとります。そこで彼の街に先行していた諜報員と接触、工作の後に死者殲滅へと向かうというのが今後のスケジュールです。ホテルについたら後は自由行動にしますので、今日は明日の夜に備えて英気を養って下さい」

 

 

 そう言うとシエルは食事に専念したいのか、鞄の中から更に追加で二つのカレーパンを取り出して膝の上に乗せると窓枠に置いておいたペットボトルの紅茶を煽る。前の衛宮はまだ緊張気味だがそのマイペースな様子に少し落ち着いたのか、隣のコンパートメントに控えているセイバーにサンドウィッチのおかわり(?!)を持って行くために席を立った。

 

 窓の外には相変わらず長閑な田園風景が広がっていて、これから向かう先に凶悪な吸血鬼が潜んでいるなどとは毛ほども感じさせない。家族旅行に来たのか通路で楽しげに騒ぐ子供達の声もそれを助長させるけれど、実際問題としてこの先では今も死徒によって死者にさせられた者達が行方不明として家族達に伝えられているのだろう。

 ステレオな正義を振りかざすような人間ではないつもりだ。けれど、やはり強者によって弱者が嬲られているのは虫酸が走る。

 俺は足下に置いてあった信頼する魔術礼装に手をやり、そこにきちんとそれを収めた筒があるのを確認した。戦いはいつもギリギリで、余裕だったものは一つたりともない。心強い味方もいる。しかし人間など簡単に引き裂くことのできる吸血鬼を相手に油断などしていては簡単に命を落としてしまうだろう。

 少し乾いてしまった口をミネラルウォーターで潤しながら、俺は今まで何度も確認した魔術礼装の操作要領を繰り返し繰り返し反復したのだった。

 

 

 

 

 36th act Fin.

 

 

 



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第三十六話 『復讐鬼の哄笑』

 

 

 

 

 side Ciel

 

 

 

「‥‥なるほど、配置はこれで大丈夫でしょう。では予定通りに」

 

「了解しました」

 

 

 オストローデにほど近い小さな街で、私は先行して彼の街に潜伏していた諜報員と接触し、死徒討伐の手はずの確認をしていました。

 上から下まで黒いスーツを着込んだその年配の教会員から受け取った書類をザッと確認すると、私はこの街を中心として待機している他の教会員にも予定通りに作戦を進めるように伝えることを命じると、周囲に張っていた簡単な人払いの結界を解除して目立たないように解散しました。

 あの街に潜んでいる死徒が作り上げた死者や使い魔が近いとはいえ離れた街まで来るというのはあまり考えられないことではありましたが、念には念を入れるべきですし、あまり不審な行動をしていては地元の警察から職務質問をされてしまうかもしれないからです。

 もちろん聖堂教会埋葬機関所属という裏の肩書き以外にも、正式にバチカンから認可発行された司祭としての身分証も所持してはいますが、如何せん私の外見で司祭というのは些か無理がある。只のコスプレ、身分詐称と判断されて交番まで連れて行かれかけたのも一度や二度ではありません。まぁそういうときは暗示でごまかすわけですが。

 

 

「やぁ、連絡は終わったみたいだね。どうだった?」

 

「―――ッ! ‥‥と、蒼崎君でしたか。よく私がここにいると分かりましたね」

 

「暇になったもんで何気なく街を散策していたら、あからさまに怪しい黒服が歩いていたんでさ。後を尾けてみたら、ね。悪気はなかったんだ。すまない」

 

「いえ、他人に気どられるような行動をしていた彼が未熟だっただけのことです。気にしないで下さい」

 

 

 先んじて姿を消した諜報員からしっかりと時間をとって路地裏から出た私は突然背後からかけられた声に素早く振り返りましたが、そこにいたのは誠実そうな人の良い微笑を浮かべた蒼崎君でした。ホテルで一旦は解散したはずですが、あまり広くない部屋にいるのに飽きて外出したのでしょう。

 着古した軍用の横流しと見て取れるジャケットのポケットに手を入れた彼はおもむろによれよれになってしまった煙草の箱を取り出すと一本くわえ、人の目がないのをいいことに指を弾いて魔術で火を点けました。

 ‥‥なるほど、街一つ分離れているとはいえこの辺りまで噂は届いているのですね。陽が沈み始めた裏通りには通行人の影が見当たりません。これなら諜報員(かれ)が悪目立ちしてしまったのも仕方がないことでしょう。

 ‥‥しかし中々にキツイ香りですね、彼が吸っている煙草は。

 

 

「行きの電車では吸っていませんでしたよね?」

 

「これはゲン担ぎみたいなもんだよ。面倒な仕事の前にはコレを一服するのが癖っていうか習慣でさ。‥‥まぁ結構クルものがあるんだけど」

 

 

 そう言った彼は次の瞬間盛大に咳込み、まだ半分も減っていない煙草の火を消すと携帯灰皿にしまい込みます。なんでも上の姉の真似だそうで、普段は殆ど嗜まないのだとか。

 ‥‥そういえば彼の姉は封印指定の人形師である蒼崎橙子と、言わずと知れたミス・ブルーでしたね。遠野君のことを聞いてみるべきでしょうか? いえ、それは想像と現実のギャップを思い知ってしまうだけですね。なにしろ“あの”ミス・ブルーですし。

 きっと幼い頃に遠野君が会った彼女は、少年の日が見た幻想とか妄想とか悪夢とか、そういうもので出来ていたに違いありません。わざわざ夢を汚すこともないでしょう。

 

 

「そういえば他の三人は何をなさっているのですか?」

 

「遠坂嬢は部屋で宝石の用意、衛宮も部屋で瞑想、セイバーはお小遣い貰って燃料補給(たべあるき)に行ってるみたいだね。人通りも少ないし彼女は探そうと思えばすぐ探せると思うけど?」

 

「いえ、別に用事があるわけではありませんから。‥‥それにしても電車の中でも思いましたが、彼女は本当に英霊ですか? いえ、魔力や保有している神秘から分かってはいるのですが」

 

 

 私は彼女に会って初めて英霊という存在と相対したわけですが、どうも、その、想像していたのとはずいぶんと違いましたね。

 代行者という現実的で冷静な判断力の求められる仕事についてはいるわけですが、私だって英雄と呼ばれる偉人達に関しては些か以上の憧憬のようなものを感じていました。日本ではあまりないようですが、幼い頃に寝物語として両親から様々な英雄譚や童話を読み聞かされ、その冒険や恋物語に心躍らせたものです。

 もちろん神秘の側へと入り込んで血生臭い任務に就いている以上余計な偶像や幻想を彼らに当て嵌める気は毛頭ありませんが、実際に目の前にして会話を交わしてみると彼女達も普通の人間と大差ないことがわかりました。セイバーさんがどのような英雄かは知りませんから一概に定義として当て嵌めてしまうには憚られますが、少々予想外だったところは否めませんね。

 

 

「ところで蒼崎君は対死徒戦の経験がありましたね? 連携などの関係があるので簡単に戦闘スタイルを教えてくれるとありがたいのですが」

 

 

 衛宮君と遠坂さんについてはホテルの部屋を案内したときに聞いたのですが、そこで諜報員からの連絡が入ってしまったので彼については聞かず終いでした。もっともあちらも大まかに衛宮君とセイバーさんが近距離戦で、遠坂さんが中距離戦ということぐらいしか伺っていないのですが。

 個人的にはやはり接近戦要員が少ないのが気になるところですか。特に遠坂さんはほぼ完全な砲台だということですから。

 

 

「ああ俺か。俺は遠隔操作型の魔術礼装を使った中距離〜遠距離戦闘が得意‥‥というか、それしか出来ないよ。あとは簡単なルーンかな」

 

「なるほど、ではやはり二手に別れるのが限界ですね。前衛の数が足りません」

 

「そうだね。俺も壁になってくれる人がいた方が安心できるかな。苦労かけてすまない」

 

 

 ふむ。ではまだ見習いで少々不安要素の多い衛宮君の方に多めに戦力を振り分けておくべきでしょうか。聖杯戦争で生き残ったということですから死者の掃討程度ならば問題はないでしょうが、その途中で大元の死徒に出会ってしまった時が心配ですからね。

 今回の任務ではとにかく短時間で効率よく死者を消していくことが重要です。もし一方が死徒と遭遇してしまった時でも私が到着するまでの時間稼ぎが出来れば良いわけですから、英霊(サーヴァント)同士の戦闘の経験がある彼らならばその程度は持ちこたえられると信じます。

 

 

「そうそう、出発は明日の昼ですので宜しくお願いします。明晩は徹夜になりますから、今夜の就寝は明日に備えて調整しておいて下さいね」

 

「わかった。じゃあ俺は宿に戻るけど‥‥君はどうするんだい?」

 

「私は仕事と準備があるので宿には戻りません。三人にもそのようにお伝え下さい」

 

「間違いなく伝えるよ。釈迦に説法かもしれないけど、気をつけてな」

 

「代行者に言う台詞ではありませんが‥‥お気遣いありがたく受け取っておきます。ではおやすみなさい」

 

  

 私が必要事項を伝えると、ひらひらと手を振ってから彼はこちらに背を向けて表通りへと去っていきました。

 さぁ、まだやらなければいけないことは沢山残っています。今日はもう一頑張りですね。建物の間から覗く、もうすっかり暗闇に染まってしまった夜空を見上げながら背筋を伸ばし、私は他の教会員達と連絡をとるために歩き出しました。

 夜食には温かいカレーが食べたいところですね。おいしいカレーさえあれば勇気百倍お腹一杯です。さてさて、この街においしい洋食屋さんがあるといいのですが―――

 

 

 

 

 

 

 

「ここが‥‥」

 

「そう、この街が現在死徒が巣くっているオストローデです」

 

 

 ロンドンを出発してから二日目の深夜。隣の街で十分に休憩して鋭気を養った俺達は一路目的地であるオストローデまでやって来ていた。

 地図によれば殆どが住宅地であり、役所や消防署や警察署などの官庁の部類は東の端に、スーパーマーケットをはじめとするライフライン―――と言うのは少し意味が違うような気がするけれど―――は西の端にそれぞれ位置している。夜遅い時間なのでそこにいる人達は僅か。大多数は明らかに都市設計の段階で意図的に据えられたと思しき中心部の住宅地へと帰っているはずだ。

 

 そして俺達は直接の街の外縁ではなく、そこを取り囲むようにして途切れ途切れに残っている中世の名残である城壁の残骸で待機していた。任務の開始直前まで出来得る限り死徒を刺激しないための策であり、また、聖堂教会の非戦闘員達がせっせと励んでいるのであろう工作が完成するのを待ってもいるのだ。

 

 

「皆さん、結界が作動しました! これで街の中にいる魔術回路を持たない人達は全員眠ってしまっているはずです。一般人を気にせず戦えますよ」

 

 

 街を囲んで作業をしていた教会員と電話で連絡をとっていたシエルがこちらを振り返って言う。夜間の外出は半ば禁止にされているから外を出歩いている奴もいないだろう。それに見つけたら保護すればいいだけだ。これで仕事が格段にやり易くなった。

 一般人の犠牲者は出来る限り控える。これは正義感とかそういうものではなく、裏と表をしっかりと分けるための境界線でありルールのようなものだ。例えばスポーツにおける禁止事項が決してスポーツマンシップに劣るというだけではなくゲーム進行を円滑に進めるためのものであるように、一般人に犠牲者を出さないほうが神秘の隠匿その他の面で好都合というわけ。

 もちろん俺だって何の罪もない人を巻き込んだりするのが楽しいわけはないし、いくら魔術師が利己主義の固まりだって言っても精神衛生ってのはあるわけで。別段全員が冷酷非道というわけじゃないよ。

 

  

「では聞いてください。今回の任務に限っては地道に死徒を探し出している暇はありません。今夜だけで全ての死者を滅し、いぶり出されて来た死徒を叩きます」

 

「分担は?」

 

「私、衛宮君、蒼崎君が街の東側を。遠坂さんとセイバーさんが西側を担当します。途中中央で一旦合流して、その後今度は担当地区を交代して穴を補完します。死徒に遭遇した際には‥‥」

 

「私と士郎にはレイラインが繋がってるわ。士郎を介して連絡をとりましょう」

 

「ではそのように」

 

 

 結界が作動したのを再度確認し、ちょうど中央を分断するように走っている大通りの端にある街の入口まで歩きながらブリーフィングを行う。

 どうも馬が合ったらしい遠坂嬢はいつの間にやらシエルへ敬語を使っていないけれど、まぁお互い気にしてないみたいだから問題ないんだろう。

 ‥‥しかしまぁ、完全装備のセイバーとカソック姿のシエル、こちらも防御礼装の一種である赤いコートを着た遠坂嬢と『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を収めたラックを肩に提げた俺に比べて、シャツ一枚であまつさえ手ぶらの衛宮の目立つこと目立つこと。シエルも控え目ながらも大丈夫なのかコイツって視線で見てるし。

 

 

「オホン、では二手に別れて始めましょう。お二人についてはあまり心配していませんが、一応初めての死者討伐なので十分に気をつけて下さいね」

 

「ヘマはしないわよ、任せてちょうだい」

 

「ではシロウ、ショー、シエル。また後ほど」

 

 

 街の入口とは言っても別に特別なものがあるわけではない。ただ道路標識の横に“オストローデ”と表記してあるだけだ。まぁ住宅地なんだからこんなもんだなのだろう。一応近くに数多点在している謎の廃墟を観光スポットにしてみようと言う企画を役所が進めているみたいだけれど、そもそもの都市設計と違うので上手く形になってはいないようだ。まぁこの仕事が終わったらブロッケン山の麓にあるという同じく正体不明のミステリースポットとして紹介されている古戦場でも訪ねてみようかと思う。

 

 さて、遠坂嬢とセイバーから別れた俺達は一先ずそこでそれぞれ東と西へ別れて死者の探索を始めた。こちらの手勢は俺と衛宮にシエル。未熟な前衛を二人でフォローする形だ。接近戦は形ぐらいにしか出来ない俺にとっては不安極まりないパーティーだけれども、下手に衛宮と遠坂嬢とか組ませて共倒れにさせるのもよくないもんな。

 あまり大きくない街ではあるけれど住宅地であるからして住人は多い。全体の割合で見れば少ないかもしれないけれど行方不明者は多い。死者になるにも適正というものがあるから全員が死者と化しているわけはあるまいが、それでも尋常ではない数を相手にしなければいけないだろう。

 死者は基本的に自立思考を行えず、判断もかなり曖昧で大雑把なものに過ぎない。動作は俊敏だが機敏ではなく、簡単に言えばロボットが速く動いているだけのようなもの。明確な戦闘意志をもって身体を動かしているわけではないからある程度の実力者ならば一般人でも対処するのは容易だ。

 そして防御や受け身といった行動を選択できないが故に脆いが、反面多少身体に欠損が生じても気にせず向かってくる。このあたりはゾンビ漫画やゲームとかと同じだ。つまり出来る限り一撃で行動不可能になるようなダメージを与え、なおかつ一歩たりとも止まらずに戦闘を続ける必要がある。一度始まってしまえばたちまちの内に囲まれて逃げることもできない。斃すか、斃されるかだ。

 

 

「衛宮君、昨日は接近戦が得意と聞きましたが手ぶらで大丈夫なのですか?」

 

「ああ、俺は投影魔術を使うんです。武器は自分で作ります」

 

「投影魔術‥‥? またマイナーな魔術の使い手なんですね―――! ‥‥二人とも、どうやらお出ましのようですよ」

 

 

 警戒しながらも世間話をしながら裏通りにあたるところを歩いていると、ふと先頭のシエルが足を止めて懐から両手にそれぞれ三本ずつ黒鍵を取り出して身構えた。取り出してから構えるまでにいつ刃が編まれたのかも分からない早業だ。ゲームや原作ではわからなかった何気ない仕草から実力の程が読み取れる。

 そして猛禽類の爪のように広がった黒鍵の間から見える路地の隙間から、ぞろぞろとこの街の住民達が姿を現した。細かいところまで制御しきれないのかゆらゆらと左右に身体を揺らし、半開きになった口からは腐臭が漏れ、こちらを見る瞳からは生気の欠片も感じられない。その人数およそ十数名。老若男女様々だが皆そろって生気を失っている。

 

 

「‥‥衛宮、躊躇するなよ。あれは既に死人、肉の塊に過ぎない。お前が仕損じれば後衛の俺達まで危険に晒されるんだからな」

 

「分かってる‥‥! 投影開始(トレース・オン)―――!」

 

 

 シエルの隣やや後方に進んだ衛宮が両手を横に突き出し、呪文を唱えると黒と白の二振りの双剣が姿を現した。突如現れたその夫婦剣に黒鍵を構えていたシエルが僅かに目を見張る。

 干将莫耶。並ではない神秘を秘めたそれは古代中国において希代の名工が妻の命を犠牲にして生み出された夫婦剣。宝具と呼ばれる幻想の集合であるそれを衛宮はいとも容易く自分のイメージだけで現代へと蘇らせたのだ。

 そして投影魔術、それが衛宮の使った魔術の名前だ。自分のイメージを元にして物体の鏡像を顕現させる魔術。しかし投影魔術という魔術自体が等価交換を逸脱しているために世界からの修正を受ける。通常それらは創り出された瞬間からまるで深海で物体が受ける水圧のように世界の圧力で拉げ、潰されて数分も保たない。労力に比して旨味が少なく非常にマイナーな魔術であり、時計塔でも基礎錬成講座で一時間程さらりと教わるというのが常だった。

 俺も橙子姉に教わって数度試したことがあるけれど、まるで穴の空いたバケツに水を溜めるかのような感触だった。イメージと魔力だけで物体を顕現させるという等価交換から片足はみ出たその魔術はあまりにもコストパフォーマンスが悪すぎる。しかも投影した安いマグカップを机から手に取った瞬間に脆くも崩れ去った。都合数秒も保たなかったのだ。ついでに言えば以前見たことのある魔術具を投影しようとしたけど形にすらならなかった。自分のイメージだけで投影を行うなんてどう考えても無理がある。

 

 しかし衛宮はいとも簡単にそれをやってみせた。通常の投影を知っている人間から見ればそれは尋常ではなく、少なくともソレに特化した魔術師なのだと判断するには十分に足る材料だ。

 確かに、何かに特化した魔術回路を持って生まれてきた魔術師というのはごく稀にだが存在する。例えば魔術回路は持っていないけれどウチの鮮花も燃やすことに関しては天性の才能をもっているし。異常ではあるけれど今のままならまだ特異で片付けられることだと思ったのか、戦闘中でもあることだ、シエルは気を取り直して前に視線を向けた。

 

 

「よし、突っ込め衛宮! 後ろは任された!」

 

「わかった! 行くぞ―――!」

 

「聖なるかな、我が代行は主の御心なり―――!」

 

 

 双剣を構えて衛宮が突撃し、その後ろから追うようにして放たれた都合六条の光がすぐに彼を追い抜いて手近な死者を串刺しにした。

 前衛を衛宮に任せて一歩退き、俺の隣に立ったシエルは間髪入れずに抜く手も見せぬ早業で再度六本の黒鍵を取り出すと一瞬の内に投擲、またも六体の死者を屠る。それは下手な拳銃よりも速く、下手な大砲よりも強い。拳銃の弾丸より遥かに大きな投擲物であるにも関わらず軌跡だけが目で追うことが出来る程の速さだ。投擲用の長剣は扱いが難しいはずなのにまるでダーツか何かのように次々と死者の頭や胴体へと命中、あまつさえ大きな風穴を空けて再び立ち上がることを許さない。

 一方眼前で黒と白の刃を振るう衛宮も負けてはいない。一年前までは殆ど素人だったとは思えない程の剣捌きで次々に触れる端から死者を斬り捨てていく。干将で防御、莫耶で攻撃。莫耶で防御、干将で攻撃。決して途切れる事なき剣の舞は段々と数を増しつつある亡者の群れを片端から大地へと還し、俺達のところへ一体たりとも寄らせない。

 そして良く見れば合間合間に両手に持った双剣を投擲し、わざわざ投影をし直している。おそらくはその特性を知られないようにするための遠坂嬢の入れ知恵なのではないかと思う。意外に色々考えているようだ。しかしまぁ面倒なことご苦労様だわな。

 

 

「さて、こりゃ俺も負けてはいられないな‥‥」

 

 

 家と家の間にちょうど人が一人寝そべることができる程度の広さで設けられた裏路地は狭く、肩に提げた自慢の礼装を使うことは出来ない。『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』は特性上、ある程度の旋回半径か加速距離を与えられないと威力を発揮できないどころか、満足に操作することも適わなくなってしまうのだ。

 

 

「紫遙! 一匹行ったぞ!」

 

 

 しかるに今の俺は別の手段で戦闘を行うより他にない。ここになって漸く衛宮という壁を乗り越えた死者が一匹こちらへ駆けてくるのを見やる。

 向かってくるスーツを着た男に対して俺は腰に提げていた袋から一つ小石を取り出し、親指で弾くとそれが宙にある内に掴み取って、文字に秘められた神秘を爆発させる言葉と共に死者へ向かって投げつけた。

 

 

焔よ(アンサズ)―――!」

 

 

 あらかじめ呪と共にルーンを刻んでおいた小石。それは死者に当たると同時に弾けて焔を巻き上げ、たちまちの内に男を包むと燃やし尽くして灰と帰した。いつぞや小説の中で橙子姉が使っていた時には死人を燃やしきれなかった火のルーンも、事前にしっかり念入りに刻んでおいたものを使えばこの通りだ。というか即席であれだけの威力を出せた橙子姉がすごい。

 ダメージを受けて存在概念を保てなくなった死者は灰になってしまうから前衛として奮闘している衛宮が足下を気にする必要はない。強いて言うならシエルが投げつけた黒鍵の方が心配なのだけれど、鉄甲作用を付加してないにしてもあまりにも強力すぎるそれは建物の壁に突き刺さって刃を消滅させるので問題はないだろう。‥‥本当に中の人達寝てるんだろうな? 起きてきたりしたら洒落にならないぞ。

 

 

「衛宮君、蒼崎君、大丈夫ですか?」

 

「問題ありません、シエルさんこそ平気ですか?」

 

 

 新たに湧いて出てきた援軍を含めて三十数体を還した。シエルは久々の実戦で剣を振りっぱなしだったのが存外キツかったらしい衛宮を気遣うけれど、鍛え方が半端じゃないらしく当の本人はけろりとした顔だ。俺も後ろから討ち漏らした奴に小石をぶつけていただけだから大して消耗してないし、前哨戦としては中々のスコアじゃないかと思う。

 それにしても一体どこから連中は現れたのか。そう思ってふと辺りを見回すと、道の脇にあるマンホールの蓋が開いているのを発見した。なるほど、死者とて弱いながらも浄化の概念が籠もった太陽の光が苦手なのは同じ、昼間は下水道の中に隠れていたということか。おそらく地下は恐ろしい惨状と化していることだろう。この仕事が終わったら聖堂教会に清掃を依頼した方がよさそうだ。

 

 

「休んでいる暇はなさそうだぞ、衛宮、シエル。見ろ、団体さんのご到着だ」

 

 

 俺が指さした前方、そこにはまたもわらわらと湧いて出てきた数多の死者の姿があった。事前に調査していた内容からしてこの程度の筈はあるまいとは思ったけれど、ここまで際限なく用意されているとなると些か面倒に過ぎる。ルーン石の数にも限りがあるし、シエルの黒鍵も消耗品だ。後で回収できるとはいえ戦闘中にそれをやっている暇はないだろうし。

 

 

「そうですね、できれば広いところへと誘導して殲滅してしまいたいところです。‥‥確かもう少し進んだ先に東中央広場なる場所があったはずです。あの群れを突っ切り、そちらへ移動しましょう」

 

「了解した。よし、衛宮ファイトだ。この面子の中で突破力があるのはお前しかいない」

 

「‥‥なんか、いいように言われてるみたいで釈然としないぞ紫遙」

 

 

 憮然とした表情ながらも衛宮は頷くと一度は下ろした干将莫耶を顔の前で十字に構え、脚力を魔術で強化して突撃していく。俺とシエルも頷き合うと衛宮の背後をそれぞれ二分割するようにして守りながら後に付いていった。衛宮が斬り開き、シエルが穿つ。空いた穴を俺がルーンを爆発させて広げていき、俺達は次々と路地裏から湧いて出てくる死者達の軍勢を引きずるようにして東なのに中央という矛盾した名前を持つ広場へと駆けて行った。

 最初こそ死者の群れとは相対する形をとっていたから衛宮を壁にしていればよかったけれど、進むにつれて押し寄せるようにして瞬く間に囲まれてしまう。そうなってしまえば今度はシエルも本来は投擲用である黒鍵をまるで爪のように使って接近戦をこなす必要が出てくる。

 円を描くようにして先端に重心が寄った黒鍵を器用に使って死者を斬り裂いていく。その合間に俺も出し惜しみせずに―――遠坂嬢と違って元手がかからないし、広いところに出れば礼装が使えるから―――ルーン石を投げつけて援護した。どちらかといえば今足手まといになっているのは間違いなく俺で、早いこと広場へと出ないとジリ貧だ。

 そして群がる死者を尽く駆逐して何とか広場に辿りついた時だった。

 

 

「人影‥‥死者か?」

 

「いえ、違います。あの魔力は‥‥」

 

 

 さっきまで雲霞のごとく死者がひしめいていた路地とは一転、広場には中央に一人の男が立っているだけだった。

 否、シエルの言うとおり只の男ではない。その身長は二メートルに届こうかという巨躯で、体をすっぽりと黒いマントで覆い隠している。そして広場へと駆け込んできた俺達に気づいてこちらに向けた顔には、死徒の証である真っ赤に染まった二つの瞳が爛々と輝いていた。

 間違いない。奴こそが、この街で傍若無人に人間を喰らった死徒。この死者達の主。

 

 

「‥‥どうやら待ち伏せられていたようですね。我々の襲撃は知られていたわけですか」

 

「如何にも」

 

 

 俺達が広場に足を踏み入れた途端に追いすがっていた死者達は急にその歩みを止め、広場には入ってこない。つまり誘き寄せられた、こちらから攻めているようでその実向こうの掌で踊っていたとは。

 ざっと周囲を警戒する。俺達が入ってきた道に蠢く死者達以外に何者の気配もしない。隣の衛宮に目をやったが彼の解析能力をもってしても広場に罠の類を確認できないようだ。別に聞いているわけではないけれど、何かあったら言ってくるだろう。

 そこまで確認して俺は再度広場の中央に立つ男に視線を向けた。体はマントで覆われているために何かを隠し持っている可能性は高い。つばの広い帽子に隠れてよく顔が見えないけれど、白目まで真っ赤に染まった瞳の異様さが際だっている。身に帯びた魔力の量もあるところから決して若い死徒でもなさそうだ。

 

 

「貴様らの考えることなどお見通し‥‥と言いたいところだが、今回ばかりはちと違う。舞台はこちらで用意させてもらったぞ」

 

「用意‥‥? まさか、最初から俺達を誘き寄せるつもりだったって言うのか?!」

 

 

 横で衛宮が憤って怒声をあげる。男はクククとカンに触る笑い声をあげ、口元を歪めて首肯した。

 そこでふと気がついた。今まで何人かの死徒の討伐に同行したことがある俺だけれども、思い返せばその中でも今回と実によく似た依頼があったことに。

 教会や協会を憚らぬ大胆不敵な行動、呆れるほどに大量に作り上げた死者、そして白目までもが赤く染まった特徴的な瞳。‥‥ああ、いた。少々昔の話になるが一人、思えば声もそっくり同じ。

 

 

「まずは初見の者もいることだ。自己紹介をさせてもらおう。我が名はルードヴィヒ。ルードヴィヒ・フォン・デム・オストローデ。この地方一帯を治める吸血鬼だ」

 

 

 僅かな街灯の灯りも届かぬ広場の中央で、そう名乗りをあげた吸血鬼は更に口元を歪めるとこちらに向かって哄笑を放ったのだった―――。

 

 

 

 

 37th act Fin.

 

 

 

 




士郎がシエルの前で投影魔術を使っていますが、これに関しては少々以下のようにこじつけをしたいと思います。

まず士郎の投影の異常さの中で最たるものは『投影したものが世界の圧力に負けずに存在している』ということであるとします。
つまりシエルは『戦闘のためにわざわざ効率のよくない投影を使って一時的に武器を作り出している』と解釈したわけです。
宝具を投影できることも等価交換を無視した異常なことではあるのですが、干将莫耶は保有する神秘が少ないために一目で看破できなかったとさせて頂きます。
本来それが宝具なら一発でわかってしまうはずなのですが、『投影魔術で作り出した』ということが先入観になりました。

些か以上に無理があるのは承知していますが、円滑な進行のためにある程度つじつま合わせをさせていただきましたことをご了承下さい。


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第三十七話 『討伐隊の奮戦』

 side Rin

 

 

 

Anfang(セット), Fixierung(狙え), EileSalve(一斉射撃)―――!」

 

 

 迫り来る死者の壁に向かって私の指先から魔弾(ガンド)が飛ぶ。魔力さえ込めれば一工程(シングルアクション)で発動するコレは遠坂の魔術刻印に刻まれた魔術で、『フィンの一撃』とまで言われる物理衝撃を伴う黒い弾丸だ。

 詠唱も要らず威力もお手軽とくれば死者の相手なんてこれで十分だ。宝石を使うのは勿体ないし、何より今は最優の前衛が私を守ってくれている。

 

 

「はぁぁああ!!」

 

 

 私の目の前で不可視の剣を振るった西洋鎧の少女。この娘が私の使い魔(サーヴァント)、セイバー。英霊である彼女なら死者はおろか大本である死徒の相手だって楽勝だ。相手が何か特別な能力を所有してないなんて保証はないけれど、並の相手なら問答無用の力押しで倒せてしまうのがこの娘の強み。そもそも英霊っていう存在は格が違う。

 普段から温存していれば魔力炉心を使って少しずつ魔力を生産できるし、こういった戦闘でも私への負担は少なくなる。もちろん普通にやるのと比べたらって話であって、聖杯が無い今無理矢理に英霊を現界させているんだから結構な負担ではあるわね。でもこの程度のハンデなら有って無いようなものよ! 何より優秀な前衛を手に入れるってのは魔術師にとって大きいメリットよね。

 

 

「凜、どうやらこの地区の死者は殲滅できたようです。次の地区へ向かいましょう」

 

「OK。‥‥それにしても、何なのよこの死者の数は? そりゃキャスターの竜牙兵に比べたらまだマシだけど、いくらなんでも多すぎるんじゃないの?」

 

「だからこそシエルが言っていたように私達が呼ばれたのでしょう。理由ならふん縛るか半殺しにするかした後に張本人に聞けばいいことです」

 

 

 顔に似合わない物騒なことを言いながらセイバーは一度は地面に突き立てて休ませた剣を抜く。いくら少しずつ魔力を生産できるとはいえ尋常じゃない燃費の悪さはコレにもあるのだ。あまりにも有名にすぎる宝具の正体を隠すための風の鞘は当然維持するだけでも魔力を消耗するのだから。

 ‥‥よく考えればわざわざこの剣を使う必要もないのよね? セイバーの魔力放出に耐えられるだけの魔剣を調達するか、士郎に鍛えさせるかすれば魔力の消費も楽になるし‥‥。まぁ前者は懐に厳しいし後者はまだ士郎にそこまでの技量が宿っていないから無理でしょうね。士郎が投影した剣がセイバーに使えるかどうかわからないから、剣はちゃんと鍛えなければいけないだろうし。

 いずれにしてもあんまり頻繁にこういう依頼があるようだと魔力の効率運用に関しては一度じっくりとセイバーや士郎も含めて相談しておく必要があるわね。あとは報酬と応相談ってところかしら。

 

 

「‥‥凜、呆けてないでしっかりしてください。一応辺りに動いている者の気配はありませんが用心に越したことはない」

 

「っと、ごめんねセイバー。じゃあ次の地区へ行きましょう」

 

「はい。早く済ませてシロウのご飯が食べたいものです」

 

「‥‥」

 

 

 自分で自分の言葉に気合いを入れ直したセイバーが鼻息も高く歩き出す。その威風堂々とした姿とは別に年相応な様子がおかしくて、私はやれやれと軽い吐息をついてから警戒を怠らずにその後ろをついていった。

 まだ私はガンドしか使っていないし、セイバーも派手な魔力放出をしていないから十分に余裕がある。この分ならいざ死徒と遭遇しても二十七祖クラスじゃなかったら問題なくまともに戦えそうね。

 シエルが来るまで保たせるなんて言わなくてもセイバーと二人なら―――

 

 

「ッ! セイバー!!」

 

「凜?」

 

 

 次の瞬間強烈な憤りや焦躁の感情が流れ込んで来て、私は即座に事態を判断するとレイラインに注意しながらも前を歩くセイバーへと叫ぶ。この街に入ってから士郎とのラインは常に少しだけ開いておいたから先程までもざわざわと戦闘を行っているらしい気配は感じてたけど、ここまで感情が動いたのはこれが初めて。

 例えるならアイツがあの金ぴか慢心王と相対していたときに似た、そんな揺れ方から分かることは只一つ。

 

 

「士郎達がぶち当たったわ! 急いで東側に向かうわよ!」

 

「了解しました―――凜!」

 

「‥‥へぇ、足止めがしたいってわけね」

 

 

 続けて短く状況を念話で説明してきた士郎の声に振り返ると、今さっき私達が散々蹴散らした死者達が灰に帰した路上に新たな群れの姿があった。

 あちらの手勢は士郎に蒼崎君、そしてシエル。埋葬機関の第七位である彼女は単身で死徒と渡り合えるだけの力をもっているわけだけど、そこに私達、特にセイバーが加わったら例え二十七祖であっても敗色が濃くなることだろう。

 普段アルバイトしたりご飯食べたりと全く普通の人間と同じにしか見えないセイバーだって一級の英霊。その力は魔力供給が多少不十分とは言ってもシエルとですらかけ離れている。当然地力が違っても戦い方や小細工でどうともなるわけだけど間違いなく今の世界では最強クラスだ。

 そして、足止めをするってことは言いかえれば向こうのパーティが相手なら勝つ自信があるということを表す。最初シエルから話を聞いたときにははこんな単細胞としか思えない愚行をする死徒なんてたいしたことないと思ってたけど‥‥。これは急いで加勢に行く必要がありそうだわ。

 

 

「セイバー、後の本命に備えて適宜余力は残しておきなさい。行くわよ!」

 

「イエス、マスター!」

 

 

 目の前に雲霞の如く犇めく死者の軍勢。私はポケットから安い宝石を取り出すと呪を紡ぎ、勢いよく敵の中央へと放り投げた。

 待ってなさいよ士郎! 私達が行くまで何とか持ちこたえなさいっ!

 

 

 

 

 

 

 

「まさか、貴方は《死なずのルードヴィヒ》―――?!」

 

「知ってるんですか、シエルさん?」

 

 

 目の前でようやく不愉快な笑い声を収めた男を前に、シエルが手にした黒鍵を握りしめる手に力を入れながら呟いた。

 首から下の殆どを覆う黒いマント、短く刈り揃えられた髭と短めの髪は日本人とは少々毛色の異なる黒で、白目まで真っ赤に染まった宝石のような瞳に加えて顔面をびしりびしりと音を立てているかのような錯覚を覚える程に張り巡った血管が形作る凶相が相対する者に人外故の恐怖を感じさせる。

 そして誰もいないかのように見えた広場の男の背後に、目をこらせば分厚い黒い布で覆われた大きな四角い物体が見えた。トイレの個室の床よりも大きな正方形の箱のような物体は、一体何に使うものなのかさっぱり予想がつかない。

 

 

「‥‥二十七祖は言わずもがな、死徒の中にも有名無名は存在します。奴は二十七祖でこそありませんが死徒の中でも古参の一人。教会の中でも有名人です」

 

「クク、無知だな小僧。死徒を相手にしようと言うのならば儂の名前ぐらいは知っておくべきであろうよ。‥‥まぁ、それも意味無い忠告となりそうだがな。ク、クハハ、クハハハハハ!」

 

 

 退屈は不死者の天敵。それを紛らわせるためか死徒の中ではそれぞれ領地を作ってそれを奪い合うという遊技が楽しまれている。奴の言葉から察するにこの一体は奴の領土として死徒の間ではまかり通っているのであろう。もちろん表の人間は知らぬことだし、税金やら何やらなどというつまらないものは取り立ててはいない。

 何故ならそれはあくまで遊技。人間達には全く関わりなく死徒が臣下を従えて彼らの内だけで殺し合いをする退屈した不死者達の暇つぶしにすぎないのだから。

 

 

「ルードヴィヒ・フォン・デム・オストローデ。貴方程の死徒が何故このような暴挙に走ったのですか? 自らの領地に死都を作り、我々代行者を誘き寄せようとするなど分別ある者の行動ではない。

 他の死徒達と同じように静かに貴方達夜の住人(ミディアン)の間だけで小競り合いを楽しんでいれば、我々からもそうおいそれと狙われはしなかったというのに‥‥」

 

 

 シエルの言葉が指す通り、異端と化け物、特に吸血鬼を忌み嫌う教会とは言えどもそう手当たり次第に喧嘩をふっかけてもいられない。

 なにしろこのご時世で人が足りない。更に言えばある程度以上の有名で古参な死徒にもなれば代行者の中でも相手できる者が限られてくる。死徒二十七祖やそれに準ずる格の死徒が相手だと埋葬機関か各聖堂教会騎士団の団長クラスにならないと善戦もままならないのだ。いくら法力や聖典を携えたとしても敵は人外、まともに戦っていては簡単にこちらが参ってしまう。

 それ故に基本的に教会が討伐に動くのはあからさまな動きを見せた死徒のみだ。というか通常死徒の捕食は教会にばれないように行われるから必然的にそうなってしまう。『それは信仰が足りないのではないか!』と怒鳴るような奴は真っ先に最前線に送り込んでしまえばいい。

 

 

「貴様らを? いやいや、さすがに儂とて埋葬機関の代行者を呼び寄せるつもりはなかったのだ」

 

「戯れ言を。では一体誰を呼び寄せたというのですか?」

 

 

 クククと含み笑いを隠さずにルードヴィヒが言い、シエルはあくまで余裕のある態度を崩さずに問い返す。

 俺の隣の衛宮はいつでも投影をできるように油断なく眼前の死徒へと注意を向けていた。足は肩幅ほどに開かれ、全身の力はほどよく抜いて弛緩させる。こと接近戦に限って言うならば衛宮は時計塔の学生の中では既にトップクラスに位置していることだろう。もちろんバゼットとか、戦闘向きの魔術師達には遥かに及ばないのではあるけれど。

 

 

「儂が誘き寄せたのは貴様‥‥貴様だ! シヨウ・アオザキ!」

 

「な?!」

 

「ど、どういうことなんだ‥‥?」

 

 

 咆えるように叫んだ男の言葉にシエルが僅かに驚いて目を見開き、衛宮はこちらに振り向いて疑問の声をあげた。

 まっすぐに注がれる憎悪の視線はまるで針で刺されるかのように鋭く力がこもっている。奴の怒りに呼応するかのように空気と足下の石畳からピシリと罅でも入ったかのような音がした。

 

 

「以前お前と姉の二人に味合わされた屈辱‥‥晴らす機会をまだかまだかと待ち望み、長い準備を経てようやく今かなった! 思惑通りにこうして貴様を八つ裂きに出来ること、神とやらに感謝してもいい気分だぞ」

 

「‥‥まるでもう首でも獲ったかのような言い方だな。捕ってもいない鶏の数でも数えたつもりか?」

 

 

 ぎしりと軋む音すらするほどに歯を噛みしめたルードヴィヒから飛び出した怨嗟の言葉を受け流し、俺はハッと笑って肩をすくめる。なにしろとんだ逆恨みだ。誇り有る悪なら云々とはどこぞのロリッ娘吸血鬼の言葉だけど、やったことの責任をとれとは言わないが何をやったら何が返ってくるのかぐらいはしっかりと把握してから行動して欲しいもんだぜ。

 ていうか主にアイツをぶちのめしたのは青子姉であって、正直俺は見てるだけだったっての。文句があるなら直接青子姉の方に言ってくれないか? 行ってくれないか? 逝ってくれないか?

 

 

「クハハ、奴を直接痛めつけるよりも貴様を八つ裂きにして送りつけてやった方が効果がある。五体をばらばらにして、小さな箱に詰めてくれよう!」

 

「‥‥端から見ていて情けない程に、負け惜しみもいいところだと思いますが」

 

「紫遙、なんだかんだでお前も結構なトラブルメーカーなんじゃないか?」

 

「だからアレは奴の自業自得だって言ってるだろ?!」

 

 

 一番の主人公補正(トラブルジャンキー)が何を抜かすか。今でも暇が有ればあっちこっちぶらついて誰でも何でも頼み事とか聞き出して勝手に請け負うくせに。

 俺はやや前方で油断なく構えていたはずの衛宮にジト目を寄越し、シエルは目の前のどうしようもない逆恨み野郎にジト目を寄越す。ついさっきまで襲い来る死者の群れを片っ端から斬り捨てて穿って燃やし尽くしてシリアスでバトルでバイオハザードな戦いを繰り広げていたというのにナニコノ状況。

 

 

「ガァァァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッ!!!

 

 

 と、どうしようもなくギャグ補正のかかってしまった場を打ち壊すためにルードヴィヒはあらん限りの叫び声を上げて辺りの空気を震わせる。怒りに加えて魔力すら籠もったそれに打ち据えられ、近くの街路樹から何羽かのカラスが羽を力の限り羽ばたかせると逃げていった。

 その怒気と殺気に先程まで弛緩させていた空気を引き締め、衛宮とシエルも戦闘態勢に入る。俺もいつでも起動できるように肩に提げたラックのジッパーを緩めて蓋を開け、即座に中の礼装達が飛び出せるように準備する。

 

 

「儂は幾人もの代行者、幾人もの死徒を屠り、全ての戦いに打ち勝って生きてきた。初めて親である死徒を殺したときの歓喜、人間達を引き裂いていく快感、神の名と正義を叫んで挑みかかってくる愚者共を打ち砕く悦楽。その全てを味わい、全てを飲み込み、しかし! 貴様ら姉弟が儂の矜恃に決して消えることなき傷をつけたのだ!

 超越種であるこの儂が、魔法使いとは言えたかが人間に‥‥! この屈辱、同様のものを貴様らに味合わせねば晴れることはない」

 

 

 戦いの始まりはいつだって理不尽。動機はどうしようもない理由であったとしても、奴の体から吹き出す禍々しい魔力は到底無視できるものではない。

 もはや強さのインフラ、『フッ、戦闘力5か。ゴミだな』みたいな原作では一介の死徒などたいしたことないという認識になるかもしれないけれど、実際問題としてどんなに若い死徒でも超越種、人間を遥かに超えた存在であることには変わりない。俺や衛宮が一対一では成り立ての死徒―――例えば弓塚さつき嬢―――にも適わないだろう。

 固有結界持ちの衛宮とはいえ、一人では調達してくる魔力はさておいても詠唱が長くて発動ができない。アーチャーは切れ切れに詠唱しても発動できるみたいだけれど、集中して唱えなければ今の衛宮では発動できないと思う。とりあえず原作ではそうだった。

 そして接近戦はかなり上手いとは言え死徒のパワーとスピードが相手では到底対処しきれるものではない。剣弾を飛ばすなんてアーチャーみたいなことができるかどうかは知らないけれど、急場に陥った時の主人候補正はさておいてまだまだ発展途上というのが未熟ながらも俺の見立てだ。

 ‥‥え? 俺? フフ、言っちゃ何だけど俺の礼装は強力だ。八割異常を橙子姉が手がけているのもあるけれど、対魔力では躱せない物理ダメージを主眼に置いた攻撃は死徒どころか英霊にだって通用する。‥‥理論上は。実際には無理だよ嫌だよ俺弱いもん。ていうか基本的に一対一で使える武装じゃない。誰かの援護をすることで攻撃力を発揮するのよ。

 多分実際に英霊相手に使ってもみても難なく打ち落とされてバッサリだろう。きっと数秒と保たないに違いない。

 

 

「やかましい小童共が! もういい、我が汚点、ここで断ち切ってくれるわぁ!!」

 

「‥‥ッ?!」

 

「あれは‥‥!」

 

 

 叫び声をあげると奴はやおら羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。

 マントの上からでも分かった隆々たる体格は予想に違わぬ分厚い筋肉の鎧に包まれ、首と肩の区別がつかないほどのそれからは尋常ではない膂力を誇ることが見受けられる。上半身は裸だけれど、おそらく生半可な攻撃ではあの肉の鎧を通るまい。

 だがしかし問題はその肩から両腕にかけてにあった。

 

 

「剣‥‥だって?!」

 

「‥‥気をつけろ、奴の特殊能力は融合。外物に対する肉体の抵抗力が低く、ああやって武器を体に埋め込むコトが出来るんだ」

 

 

 剣や槍や斧や鎌が、まるで生えるようにして体から突き出している。肩のあたりから腕に向かうにつれて段々と増えていく。二の腕辺りでは針鼠もかくやと言う程に刃が鎧か鱗であるかのようになっていた。

 HFでの衛宮のように体の中から生えているわけではない。よくよく見れば腕を通した剣の反対側には無理矢理切断して詰めたらしい柄が見える。つまり奴は剣や槍や斧や鎌を持ってきて自分の腕に埋め込み、それらを武器として使っているのだ。抵抗力の低い肉はしっかりと刃を掴み、最早肉体の一部と化している。

 確かに死徒の中には特殊な能力を持つ者が多い。だがそれらは大抵が魔術師あがりであり、俺達の常識の延長線上だ。死徒の持つ真の驚異はその類稀なる膂力と再生能力である復元呪詛。やっかいなことに目の前の死徒はその二つに秀でていたが故に長いときを生きながらえてきた。

 

 

「おい衛宮、間合いに注意しろ。受け止めても周りの刃で傷つけられるぞ」

 

「というか、出来れば打ち合うのはやめておいたほうがいいですね。あれだけの体格、魔力で強化されていること考えればとても衛宮君では打ち勝てません。この際後衛である私達への気遣いは必要ありませんから、いなして防ぐことに集中してください」

 

 

 秋も終わりに近づいた気温は低く、誰もが寝静まった山の間の街では吐く息が白く曇る程だ。

 シエルと士郎がそれぞれ黒鍵と夫婦剣を翼のように構えて緊張と共に戦意を高めていく。相手の両腕は刃にして鎧。接近戦に特化した奴を衛宮が攪乱し、俺とシエルが間合いの外からダメージを与えていくのがベストだろう。誰が言うでもなく全員の意志が一致し、それぞれ有利な場所へと位置取った。

 

「Samiel 《ザミエル》―――」

 

 

 起動キーを唱えると、肩に提げたラックから勢いよく七つの魔弾が飛び出した。それらは所有者の意志に従って俺達の周りに陣取ると、あらかじめ最適であると定められたパターンに従って旋回を始める。

 再三言うけれど、この『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』は欠点も非常に多いがそれをさっ引いても俺には過ぎた礼装だ。衛宮と同じく“つくるもの”の最上位である蒼崎橙子によって作られ、俺が実戦を通して調整した空を斬って飛ぶ七つの球体は戦闘用としてはかなり上等な部類に入る。

 しかし使う者がダメなら宝の持ち腐れ。俺にはこれを半分も使いこなすことができない。そもそも戦闘ができる者というのは在り方としてそう成っているからこそ戦闘をこなせるのだ。それはある種“属性”というよりは“起源”に近い人がそうあるべきという姿であり、つまりは“つくるもの”である衛宮が決して戦いにおいて一流になれないように“しらべ、かんがえ、きわめるもの”である俺も決して戦闘で活躍することはできない。

 もちろん彼の紅い弓兵のようにそれでも技術を磨いて一流に比肩するほどの力を得る者もいる。だが俺が選んだのは研究者としての道だ。“あちら”に居たときには存在すら知れなかった根源へと辿り着くことこそ俺の願い。どうやら俺は知らないものを確かめたいという衝動が強いらしい。

 

 

「Ich nennt mich Samiel 《我が名はザミエル》―――!」

 

 

 これにて此方の準備は完了。奴から順に衛宮、シエル、俺と各々の得意な分野を生かせる位置に陣取った。

 死徒というのは総じて頑丈だから大低戦いは一撃で決めるか長時間我慢比べをするかのどちらかになる。俺だって対死徒戦闘の経験があるとは言ってもアイツを含めて数体だし、そもそも特殊な能力を保持している奴が多いから一概に言えはしないのだけれど大体そんなもんだ。

 しかし今回に関しては心強い味方がついている。埋葬機関第七位であるシエルは単独で奴を相手にできるだけの強者だ。俺達の役割は彼女の支援、彼女が攻撃に専念できるように守り、援護する。

 欲張る必要はないぞ、衛宮。

 

 

「うおおぉぉぉーッ!」

 

 

 まず駆けていったのは前衛である衛宮。片方の手に持った陽剣干将で上段から勢いよく斬り付け、それを防がれるや否や反対の手に持った陰剣莫耶を横薙ぎにし、追撃が来る前に体を入れ替えて死角に回る。

 ウェイトの差もあるんだろうけど小揺るぎもしなかったことに危機感を感じたのかヒットアンドアウェイを繰り返して決してまともに攻撃を受けないように上手く立ち回っていた。本来宝具である干将莫耶なら只の業物ぐらいの剣は軽く斬り裂けるだろう。しかし敵もさるもの、死徒の膨大な魔力のほぼ全てを身体強化に回しているようだ。

 しかもどうやら能力の恩恵を受けて刃も身体の一部として扱われているらしい。衛宮が振るう双剣とぶつかり合う度に絡み取ろうとギチギチ動いていやがる。

 

 

「串刺しにしてあげます! はぁぁあああっ!」

 

 

 横に回った衛宮を追いかけるようにしてそちらに身体を向けたルドルフ―――いや、ホラ長いしさ―――の背後、こちらも衛宮より更に速く移動したシエルが両腕の黒鍵を投げ付けた。野球選手の投球も越える速度と重さをもったそれらは過たずに背中から頭と心臓を串刺しにしようと迫る。

 

 

Drehen(ムーブ)!」

 

 

 続けて俺が礼装に号令を下す。ちょうど衛宮とシエルを結んだ線分にたいして垂直になるように両側から二つ、何の術式も付与してはいないけれど只の死者なら文句なく打ち砕ける速度で放った。

 散々援護はマカセロとか言ってたけどね、実際問題としてろくに連携の練習とかしてない初見で即席の仲間相手に絶妙な援護なんて望めるはずがない。あんまりギリギリの機動なんてさせたらアッという間に同士討ちだ。まぁシエルはそんなヘマはしないだろうし衛宮に当たっても俺は痛くも何ともないんだけどさ。

 更に情けないことを言うなら、ぶっちゃけ俺では七個同時に操れないのよ。分割思考もマルチタスクも持ってないんだからせいぜいが三、四個といったところか。後はあらかじめ最適化しておいたプログラムに従ったパターンで旋回させるのが関の山だ。

 

 

「舐めるな小童共ぉぉおおお!」

 

 

 これで終われば楽で良いのだけれど、そうは問屋が卸さない。衛宮を大振りに吹き飛ばすと返す刀で黒鍵を弾き、体の向きを入れ替えた時に俺の礼装を見事に躱した。あの図体であまつさえ両腕に重い武器類を大量に咥えているというのにこの速さ‥‥。やはり死徒は尋常ではない相手だ。

 後衛にあたる俺の役目は戦況を把握することでもある。吹き飛ばされた衛宮はすぐさま体勢を立て直したし、シエルはもとより様子見と動揺もしていない。まだ戦闘は始まったばかりだ。俺は出来る限り隙のないように礼装に周囲を旋回させ、その中から今度は重力偏向の術式を施して死徒の周囲へと向かわせた。

 

 

同調開始(トレース・オン)―――!」

 

 

 再度衛宮が突進する。弾かれた際に幻想がずれてしまった干将莫耶を投影しなおして今度は飛び上がると上から叩き付けるようにして振り下ろした。精度が上がった宝具はその威力を遺憾なく発揮して一部の刃を削り取り、しかし胴体まで届くには至らずその場で数歩踏鞴を踏む。

 

 

「まずは貴様だ小僧!」

 

「させませんっ!」

 

「ぐぉおお?!」

 

  

 振り下ろした勢いで無防備な背中を晒した衛宮に笑みをこぼし、ルドルフが片腕を大きく振り上げて獲物めがけて躊躇無く襲いかかる。‥‥しかし、実はそれこそが衛宮の罠。彼自身に策はなくとも目立つ行動をとれば歴戦の代行者が勝手に隙を突く。

 がら空きになった脇から胴体にかけて鉄板も凹ませる程の鋭い蹴りが死徒をおそった。

 

 

「Ich kam ans stromendem Gewitter 《吾は激しき雷雨の中より生まれ出る》―――!」

 

 

 ウェイトの差をものともしない蹴りはまるでパイルバンカーの如き衝撃をもって標的をよろめかせ、そこに四方八方から鉛色の魔弾が襲いかかった。

 間接部や骨に守られていない内蔵目掛けて次々にその重量にかかった重力全てと速度をもってめり込んでいく。如何に筋肉の鎧に包まれていようが衝撃は受ける。表面にダメージがなくともそれらはしっかりと中身に及ぶのだ。

 とはいえ奴も数百年を生きた化け物。これだけで終わる程生やさしい相手ではない。であるからして―――

 

 

「まずはその厄介な鱗を剥がさせて頂きましょうか。‥‥土は土に、還るがいいっ!」

 

 

 シエルの放った幾条もの銀光が咄嗟に体を庇うように突き出された左腕へと突き刺さり、一瞬の後に刺さった場所を中心として二の腕の四分の一ほどの刃が土と化して崩れ落ちた。

 土葬式典。黒鍵に石化の魔術を付与させて刺さった場所を石にする代行者としての黒鍵投擲技術とロアから受け継いだ魔術の知識を融合させたシエルの奥の手の一つ。

 圧倒的な魔力量によってサポートされたそれは生半可な相手では解呪(レジスト)できない。むしろ石化が全身に及ばなかった奴は死徒としてかなり優れた対魔力を保有しているということだろう。

 

 

「これで終わりです! 蜂の巣になりなさい!」

 

 

 そして予想もしなかった自分の腕に驚愕の表情を浮かべた奴の胸へと、数多の黒鍵が柄ぎりぎりまで突き刺さった。シエルは土葬式典を付与した黒鍵を投擲すると同時に上空へ跳び上がり、ガードが空いた瞬間に追加で銀光を射出したのだ。

 ‥‥ゲームの中では埋葬という名を冠していた技術。空中にあるというのに鉄甲作用まで付与されたソレの威力は一次元戦闘から準三次元戦闘においても生半可ではない。心臓はおろかありとあらゆる臓腑を聖別と祝福儀礼が施された黒鍵に串刺しにされた奴は、間違いなく死んだと俺達は確信した。

 だが―――

 

 

「クク、ククク、クハハハハハハハハ! いやはや驚いたぞ。よもや儂が、ここまで早く一度死ぬことになるとはな‥‥」

 

「なっ?! 確かに祝福儀礼付きの黒鍵で心臓を貫いた筈‥‥?!」

 

「いやいや小娘、確かに貴様の黒鍵は儂を殺したよ。一度、な」

 

「‥‥まさか、バーサーカーと同じ命のストック‥‥?!」

 

 

 シエルの攻撃と共に一旦下がっていた衛宮が驚きの声を漏らす。

 さもありなん、死徒にとって天敵である聖別された武器に心臓を貫かれておきながら、ソレはさも何もなかったかのように笑い出したのだから。いくら再生能力が高い死徒とは言えども黒鍵で心臓を貫かれては死なないはずがないのだ。

 もちろん例外は存在する。その最たるものは彼の混沌を冠するネロ・カオスであり、しかし今の奴の言葉から察するに、まさかと思うがあのギリシャの大英雄と同様に命のストックをもっているというのか‥‥?!

 

 

「ククク、折角の“弾除け”が一人ダメになってしまったわい‥‥」

 

「‥‥貴様、それはまさか‥‥!!」

 

 

 次の瞬間、ずるりと奴の胸のあたりから一人の人間が剥がれ落ちた。奴の代わりに黒鍵を心臓に受けて事切れている。その人間が完全に剥がれ落ちてしまえば、先程まで戦っていたのと寸分違わぬルドルフの姿があった。

 

 

「成る程‥‥それが《死なずのルードヴィヒ》の正体ですか」

 

「然り。儂の能力の『融合』、それによって他者を取り込んで弾除け(命のストック)とすることができるのだ。どのような攻撃であろうとも一度限りなら此奴らが肩代わりしてくれるというわけよ。‥‥もっとも、魂の要領の関係上あまり多数はとりこめんがな。今はそう、あと二人分といったところか」

 

 

 地に落ちた死者は灰となって崩れ落ちる。つまり奴は、後三回殺さなければ斃すことができないということか‥‥。先の聖杯戦争における狂戦士のように一定以上の攻撃を無効化なんて反則じみた能力は持っていないようだけれど、それは十分に厄介すぎる能力だ。

 

 

「‥‥そんなの関係あるか。何回も殺さなきゃいけないってんなら、何回だって殺してやるだけだ! 他人を食い物にしやがって‥‥許さねえぞ!」

 

 

 隣の衛宮が咆えるようにして叫び、双剣を奴に向かって突きつけた。‥‥そうだな、確かに衛宮の言う通りだ。苦労はしたけれど一回は殺せた。戦力も十分だ、あと三回ぐらいなら問題ない。

 少々面倒は増えたけれど勝ち目は十分にある。シエルも衛宮も俺も問題ない。全員が視線のみでそれを確かめ合い、再度武器を構えて戦闘を続行しようとした時、にやりと更に嫌な笑みを浮かべたルドルフが、先程まで全く触れようともしていなかっった背後の黒い布をかぶせた立方体へと手をかけた。

 

 

「だが‥‥これならどうかな?」

 

「‥‥っ!!」

 

「これは、とんだ外道ですね‥‥!」

 

「‥‥やってくれるな。そこまでして俺を殺したいか!」

 

 

 奴が布をどけたその中に、あろうことか、気絶して横たわっている、つまりは生きた何人もの子供を入れた檻の姿があったのだった。

 

 

 

 

 38th act Fin.

 

 

 



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第三十八話 『贋作者の秘奥』

 

 

 

 side Ciel

 

 

 

 冗談ではない。

 子供達を入れた檻を前に嗤う吸血鬼の姿を目にした私が思ったのは、そんな簡潔な一言でした。

 理不尽に対する台詞ではありません。そのあまりにも人道を外れた行いにたいする怒りの発露。吸血鬼は人外ではありますが、普段あのあーぱー吸血鬼(アルクェイド)薄幸吸血鬼(弓塚さん)と接していたせいでしょうか、私も随分と温ま湯に浸かってしまっていたようですね。

 顔は奴に向けたまま横の方に視線を巡らせれば、あまりの怒りに衛宮君は凶相とすら言えるほどの表情を浮かべ、手に持った―――あろうことか投影したという―――見事な作りの双剣を割れんばかりに握りしめています。その横にいる蒼崎君も唇から血が出る程に強く歯を噛みしめ、あらん限りの憤りを視線に乗せて奴に向けて叩き付けていました。

 ‥‥魔術師というのは須く利己主義の塊であると思っていましたが、遠坂さんも含めて彼らは中々に好意のもてる性格をしていますね。今度また会う機会がありましたら特製のカレーでもご馳走したいものです。

 

 

「さて、どうする? 儂は今持っているストックを使い切ってしまえば此奴らを取り込むより他ないのう?」

 

「外道め‥‥」

 

「外道で結構。儂は何より貴様を殺したいのだよ、シヨウ・アオザキィ!」

 

 

 そこまで言うと奴は先程までは遊んでいたとでも言いたげな凄まじい速度で蒼崎君に向かって突進します。いけない! 彼は直接的な防御手段を持っていない―――っと、ふぅ、よかった。衛宮君が割り込んでくれましたか。

 とはいえ油断はできない状況ですね。私がぴくりと僅かに足を動かしただけでも奴はこちらに視線を向けますし、十メートルも離れていない間合いは死徒にとって無いも同じ。奴は一瞬でこちらに移動することができるでしょう。何よりあのままではいくら何でも衛宮君が保ちません。

 

 

「ちぃっ! よくもここまで小細工を弄してくれたものです!」

 

 

 言うや否や私は法衣から六本の黒鍵を取り出して片方の手に持った三本を投擲、続けてちょうど九十度程角度を変えて移動し、間髪入れずに今度はもう片方の手に持った三本を投擲します。‥‥いえ、防がない?! 奴は私の黒鍵をあろうことかそのまま受け、新たに一人の男性を胸からはき出しました。

 

 

「シエルさん待ってくれ!」

 

「わかっています! ‥‥これは予想以上に厄介ですね」

 

 

 その隙に転がるようにして脱出した衛宮君と蒼崎君と合流して体勢と作戦を立て直します。

 今一人吐きだしましたから残りは一人。その一人分の命を奪ってしまえば奴は背後にいる子供達を取り込むと先程宣言しました。今の様子から奴がその一人分の命を何の容赦もなく使い切ってしまうであろうことは明らか‥‥全くもって何たる外道か。許せませんね。

 

 

「見捨てるっていう選択肢は―――」

 

「んなことさせるか!」

 

「‥‥だよな。シエル、どうする?」

 

 

 蒼崎君の言葉に衛宮君が激しく反論し、私も含めて三人で歯軋りをしながら頭を回転させます。

 奴と檻との距離は数メートル。こちらの人数が多いとは言っても救出は困難を極めます。何しろ唯一の前衛である衛宮君では奴を足止めするまでは適わず、私達のいずれかが救出を試みている間にこちらへ来てしまうでしょう。

 では私が奴の相手をすればどうか? 答えはやはりNONですね。そもそも二人以上で挟み撃ちにしないと相手をしている方を放って檻の方へ行ってしまうでしょうし、直接的な防御手段がない蒼崎君では奴と相対できません。瞬く間に距離を詰められ、潰されてしまうでしょう。私と衛宮君の二人でもやはり衛宮君を突破して辿り着いてしまう。‥‥これでは完全な詰みの状態です。

 

 

「いけませんね、やはりあの子達を見殺しにするより他に―――」

 

「だから! そんなことはさせないって言ってるだろ?! ここは俺が時間を稼ぐ、その間に―――」

 

「無理だ、実力を考えろ。それならまだアイツと檻の間にお前が割り込んで盾になった方が幾分マシだ」

 

「じゃあそれで!」

 

「落ち着け馬鹿野郎! そんなことして誰が何の得をするってんだ。言っとくけど俺もむざむざ殺されてやるつもりはないぞ?」

 

 

 奴はにやにやと笑いながらこちらを見ています。出方を伺って楽しんでいるのでしょう、趣味の悪い!

 異端を殲滅するために手段を選ばないというのが埋葬機関のお題目ではありますが、子供達を見捨てるつもりがないのは私も同じです。ここはドイツ。プロテスタントの可能性が高いとはいえクリスチャンであろう彼らを犠牲にしたくない。あまつさえこの街では既に大勢が奴の犠牲になっています。出来る限りこれ以上の被害者を増やしたくないのです。

 ですが状況は熾烈を極めています。私とて自分の命は惜しい。悔しいところではありますが、これ以上いい策が思いつかなければ撤退して援軍を待つというのも考慮に入れる必要があるかもしれませんね。

 

 

「いいな、その表情。もっと絶望してくれたまえ! 力有る者が力無き者を蹂躙する‥‥この悦楽を味わいたくて儂は死徒になったのだからな!」

 

「てめえ‥‥何様のつもりだ! 子供の命を弄びやがって‥‥絶対許さねえぞ!」

 

「強者だよ、小僧。強者が法を敷き、弱者は蹂躙される。何かを主張したいなら強くなることだ。何かを守りたかったら強くなることだ。弱ければ蹂躙されるだけだぞ、今の貴様らのようにな」

 

 

 クハハハハと再度嗤い声をあげるルードヴィヒに衛宮君は思うところがあるのか先程よりも更に険しい顔をして睨みつけます。

 しかしどちらにしてもこのままではどうしようもありません。殺すわけにもいかず、退くわけにもいかない。本当にこのままではこの街を見捨てて撤退するより他に方法がないと判断する以外にありませんよ。

 

 

「せめて、奴とあの檻の間を何かで遮断できればいいのですが‥‥」

 

「遮断―――、そうか、その手があったか!」

 

「‥‥衛宮?」

 

 

 私の呟きに何かを見いだしたのか、突然衛宮君が叫び声を上げました。

 遮断。そう、奴を足止めすることが出来ないなら奴が檻へたどり着けないようにしてしまおうという逆の発想です。例えばアトラシアならエーテライトを使って網のようにしたかもしれませんし、秋葉さんも檻髪で同じようにしたでしょう。あーぱー吸血鬼も空想具現化を使って鎖を出現させることができますし、そもそも遠野君ならこのような事態になってしまう前に一刀両断できたに違い有りません。

 しかしこの面子の中では物理的にも魔術的にも奴と檻の間の空間を遮断ないし隔離することができる技能を所持している人はいないと思っていたのですが‥‥衛宮君にはそれができるというのでしょうか?

 

 

「‥‥二人とも、悪いけど三十秒‥‥いや、二十秒だけ時間を稼いでくれ。それと、ここで見たことは他言無用にすると約束して欲しい」

 

「‥‥非常に気になりますが、この状況を打開できるというのでしたら是非はありません。二十秒ですね? 承知しました。埋葬機関第七位の名にかけて、きっちり二十秒稼いで見せましょう」

 

「俺もとにかくコレをどうにかできるなら問題ない。衛宮、任せたぞ」

 

 

 真剣な顔で衛宮君がそう言ってこちらを見ます。その深刻な表情を察して私は頷くと黒鍵を構え、蒼崎君も同様に礼装を操るために両手を掲げました。

 正直な話、今の状況は完全に詰み。それを打開できる術を彼が持っているというのなら私としても了承以外の選択肢をとるつもりはありませんよ。幸いにして私は魔術師ではありませんからね、たとえ彼が封印指定級の何かをするのだとしてもさほど興味はないですし。

 どちらかと言えば、そんな衛宮君を気にするかと思った蒼崎君が一呼吸の内に頷いたことの方が意外でしたか。まぁ彼も随分と魔術師らしからぬお人好しのようですし、やはり今度カレーをご馳走したいですね。

 

 

「――― I am the bone of my sword 《体は剣で出来ている》」

 

「では行きますよっ!」

 

「Herauf, wabernde Lohe umlodre mir feuig den Fels 《揺らぐ焔よ燃え上がれ、この岩の周りに燃え上がれ》―――!」

 

 

 もう何度目かも分からぬ黒鍵の投擲に続いて、蒼崎君の操る礼装達が地面を削り、焔に包まれながら次々に奴へと襲いかかります。焔に込められた魔力はあまり多くはありませんが体に纏わりつくらしく、ヒュンヒュンと風斬り音も高らかに奴の周りを間断なく飛び回って動きを制限しています。

 

 

「Steel is my body and Fire is my blood 《血潮は鉄で心は硝子》」

 

 

 私の黒鍵を弾いた奴が咆哮をあげながらこちらへ突進していますが、そこを蒼崎君の礼装が足を掬って転がし、私は地面に伏した奴の頭を踏み砕く勢いで足蹴にすると飛び上がって、再度黒鍵による洗礼を受けさせました。

 そして一旦間合いをとった私達がちょうど両側に位置していることに気づいた奴は迷わず蒼崎君の方へと駆けていき、いつの間にか彼がばら捲いていたルーン石の爆発に見事に巻き込まれて踏鞴を踏みます。完全に無防備になった背中へと手に持った黒鍵で十字に斬り付け、今度は膝の裏に蹴りを入れて再び動きを制限しました。

 ‥‥順調に足止めを出来ているように見えますが、この間に衛宮君が檻へと救出に移行ものならすぐさま形振り構わず私たちを振り切って衛宮君を始末したことでしょう。これは私達が一見攻めているようでその実守勢に回っているからこそ成り立っている綱渡りに近い状況なのです。

 

 

焔よ(アンサズ)焔よ(ソウェル)! 来たれ神代の炎嵐(ハガラズ)! Wer meines Speeres Spitze furdhtet, durchschreite das Feuer nie 《我が槍の穂先を恐れるものは、この焔を超ゆることなかれ》―――!」

 

「I have created over athousand blades, Unware of loss Nor aware of gain 《幾たびの戦場を越えて不敗。ただ一度の敗走もなく、ただ一度の勝利もなし》」

 

 

 紫遙君は腰に括り付けた袋からルーン石を取り出すと放り投げ、激しく旋回する七つの魔弾の回転へと巻き込ませました。次いで魔弾の内部から同様のルーンの輝きが見え、それが天をも焦がすかという高い高い火柱になって奴を中へと閉じこめました。

 ですがこれもおそらく保って数秒未満、火の壁をかき分けるようにしてすぐさま見えた奴の腕目掛けて、私は全身を捻って鉄甲作用を付与した渾身の黒鍵を打ち込みます。

 

 

「Withstood pain to create many weapons, waiting for one`s arrival 《担い手はここに独り、剣の丘で鉄を鍛つ》」

 

 

 全ての黒鍵は急所を外してあります。奴が残った一つの命を使い切らないように注意しているのは蒼崎君も同様です。攻めきれず、守りに徹するような戦い方を知っているわけでもない。元々不死の体を持っていた私は守りの技術をあまり重視して会得しませんでしたし、蒼崎君の礼装も妨害ならともかく防御には向いていません。彼は身体強化も不得手のようですから奴の振り回す豪腕が当たれば一発で戦闘不能になるでしょう。

 もはや私は前衛に近い位置取りで戦っており、蒼崎君も中衛ぐらいの距離で手に持ったルーン石も織り交ぜて礼装を操っていました。奴の腕に埋め込まれた刃は既に何度か私達を掠り、無理に動いているために蒼崎君はあちらこちらに傷を負っています。戦い方を制限された状況での戦闘はキツく、私も彼も汗を流し、荒い息を零していました。中々に長いものですね、二十秒というのも‥‥!

 

 

「I have no regrets, this is the only path 《ならば、我が生涯に意味は不要ず》」

 

 

 そのとき急に後ろで何らかの詠唱、それも瞬間契約(テンカウント)に近い長大な呪文を唱えていた衛宮君の声がふと大きくなった気がしました。

 いえ、これは間違っていますね。それまで全然聞こえていなかった彼の声量が大きくなったわけではありません。ただ彼の言葉が、スッと突然響き渡るようになったのです。

 何にしてもこれだけは理解できました。彼の奥の手の完成、約束の二十秒はもうすぐなのだと。

 

 

「My whole life was 《この体は》―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「――― "unlimited blade works" 《無限の剣で出来ていた》―――!」

 

 

 衛宮が最後の一節を唱え終わった直後、世界が塗り替えられた。

 衛宮の足下から奔った二条の炎が円を描き、まるで紙を焦がすかのように空を、大地を浸食していく。決して熱くはないはずなのに舞い上がった火の粉に俺もシエルもルドルフも思わず目をつむり、次の瞬間突然明るくなった視界に目を開けると‥‥。

 

 

「こ、これはまさか‥‥衛宮君が?!」

 

「何だ‥‥何なんだこれは?! ありえん、何故貴様のような小僧がこのような‥‥ッ!」

 

 

 剣。剣。剣。剣、剣、剣、剣、剣。

 ありとあらゆるところに、地平線の果てまで延々突き立っている数多の剣。西洋剣もある、中華剣もある、ねじ曲がった出自不明の剣や、絢爛豪華な意匠の施された長剣、只々斬ることを追求された無骨な日本刀もある。ところどころに槍や斧も突き立っていた。そして驚くべきことには、その中には確かに宝具だと断言できる武器達が数多存在していたのだ。そして、この世界には剣以外何も存在していない。

 見回せば三百六十度に広がる邪魔なものは何ひとつない赤茶けた大地。空は突き抜けるような蒼穹で、吹いてくる風はどこか寂しい香りを孕んでいる。さっきまで街灯もまばらな暗い広場に立っていたはずなのに、今の俺達はそことは全く別の違う世界に存在していた。

 

 

「無限の‥‥剣製‥‥」

 

 

 俺は思わず自分にだけ聞こえるぐらいの小さな声で呟いた。

 『固有結界(リアリティ・マーブル)』。本来は悪魔や妖精にのみ許された自らの心象世界によって現実をめくり返す異能。魔法に最も近い大魔術。世界にそれ一つきりしかない極み。

 知識には知っていたさ。固有結界という存在だけではなく、衛宮がそれを持っていることも知っていた。アチラに居たときにはその格好良さに憧れもしたし、友人はオリジナルの固有結界を考えることに夢中になっているなんて黒歴史に近い笑い話もあったさ。

 でもこうして実際に目の前にしてしまえば、その異様さに言葉もない。ましてや今の俺は魔術師だ。たとえ知っていたとしても納得もできない異常さがこの世界には溢れていた。

 ただ圧倒される。一人の人間が心の内に抱え込んでいた世界に取り囲まれている異様な感覚に。目の前に広がる圧倒的な神秘の顕現に魔術師として畏怖と嫉妬を隠し切れない。なにしろこれは『 』へと至ることができる手掛かりかもしれないのだ。

 この光景に羨望を抱かない魔術師などいない。自分では実現不可能な神秘を見せ付けられて嫉妬しない魔術師などいない。俺は自然と手足が震え、目を見開く。

 これが知られたら只じゃ済まないと衛宮に忠告した遠坂嬢の言葉も道理だ。知っていたはずの俺ですら、今すぐにでも衛宮の頭をかち割ってやりたいような気持ちに駆られているのだから。

 

 

「ご覧の通り、ここは俺の心象世界だ。たいしたことはない。ここにあるのは全てが贋作、とるにたらない偽物だ。けど‥‥これでお前はもう子供達には手を出せない!」

 

「ッ?! ‥‥おのれぇ、おのれおのれおのれぇぇええ!」

 

 

 堂々と屹立する剣の王国の統治者が静かに呟いた言葉にハッと奴の背後へと視線を移せば、そこには周りと同様にひたすら続く剣の地平線しか存在しなかった。衛宮の固有結界はちょうど奴を取り込むような形で展開され、奴の背後にあった檻は今現実世界へ取り残されているのだ。

 俺と同様目の前の異なる世界に呆然と立ちつくしていたシエルも、衛宮のその言葉に正気へ戻ると黒鍵を構え直す。いつまでもこの世界を見ていたい、というより是非とも色んな機器を持ち込んで様々な実験をしたいと思っていた俺も一つ残らず取り込まれていたらしい礼装が地に転がっているのを見て取ると、衛宮が創り出した世界に呆けていたがために一度コントロールを失ってしまっていたそれらを再度起動させた。

 おそらく今の衛宮は遠坂嬢と繋がったレイラインから魔力を汲み上げて固有結界を発動している。いくら彼女の魔力量が並の魔術師に比べて非常に大きいとは言え、サーヴァント一体に加えて固有結界の維持までやらされていては流石にその豊富な魔力もすぐに尽きることだろう。完全に俺の憶測になりはするけれど、おそらく保って一分、下手すればもっと早く遠坂嬢の魔力が尽きてしまうかもしれない。

 

 

「Ein dunkler Spiegelzeig ich daz Gesetz der Toten 《吾は暗き銃の中に死者の掟を示す》―――!」

 

「主よ、この不浄を浄めたまえ―――!」

 

 

 遠坂嬢の魔力を使っているのだろうけど衛宮の魔力回路に負担はかかっているらしい。固有結界を維持するだけで精一杯らしい衛宮は攻撃に参加できず、咆えたルドルフにシエルの黒鍵と『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』が襲いかかった。

 七つの球体が定められたパターンで標的に襲いかかり、次いで刺さったシエルの黒鍵が燃え上がると奴が中に蓄えたもう一つの命のストックと共に奴を一度に燃やし尽くす。

 

 

「ぐぁぁああ‥‥まさか、まさかこのような‥‥! シヨウ・アオザキィィイイ!!」

 

「恨み言なら衛宮に言いな。ウチの鬼札(ジョーカー)はアイツだったんだからな」

 

 

 シエルの火葬式典により燃え上がった炎はたとえ水をかけたとしても消えることはない。彼女の膨大な魔力を注がれた黒鍵は骨にまで突き刺さり、一欠片も残さずルードヴィヒ・フォン・デム・オストローデは灰となって剣の葬列の果てへと吹いた風に流されていった。

 そして次の瞬間、魔力の供給が切れた固有結界は端からひび割れ崩れていく。その有様にまた一瞬目をつむった俺達の視界が戻った辺りには、剣の世界へ飲み込まれる前の暗く静かな広場だけが広がっていた。

 見れば奴が立っていた位置のちょうど後ろには子供達が傷一つ無く檻の中で眠っている。

 

 

「‥‥ふぅ、よかった。これなら簡単な記憶処理だけで済むでしょう」

 

「そうか‥‥」

 

 

 衛宮がフラフラになりながらもシエルの言葉に安堵の吐息を零す。幼い子供達に吸血鬼に掠われたことが精神的外傷(トラウマ)にならずに済んでよかった。シエルが出来ると言うのだから記憶が蘇ることもないだろう。

 そこで俺はふと周りを見回すと死者の姿が見えないことに気がついた。大本である死徒が死んでも死者は消えてなくなることはない。死者の役割とは彼らが吸血した生気の類を親の死徒へと送ることだけれど、死徒が死んだらそのラインが途切れるだけで彼らは本能のままに人を襲い続ける。実は死徒討伐において一番面倒なのが最初に死徒を見つけることと、死徒を斃した後の死者の掃討なのだ。何しろ連中も日の光が差している間は出てこないし。

 

 

「士郎ーッ!」

 

「シロウ! シロウ、無事でしたか?!」

 

 

 と、視線を向けた広場の入り口から遠坂嬢とセイバーが現れた。セイバーはともかく遠坂嬢はかなり疲労しているようで足下がおぼつかない。固有結界に相当魔力を吸われたに違いない。彼女はそれでも足を動かして衛宮の近くへと走って来ると、おもむろに腕を大きく後ろに振りかぶって見事なアッパーカットを衛宮に見舞った。

 

 

「こんの‥‥大馬鹿ぁぁああーーーッ!!」

 

「と、遠坂さん?!」

 

「衛宮、衛宮大丈夫か?! 傷は深いぞがっかりしろーッ!」

 

 

 遠坂嬢が既に満身創痍の状態でガックンガックンと彼女に首を振られるままに振っている衛宮に向かって固有結界を使ったことに関して文句とお説教を垂れている。セイバーはそんな二人に苦笑するとシエルに付近の死者を遠坂嬢と二人で掃討したことを報告した。

 シエルはそれを聞いて頷くと子供達の記憶を操作するためにそちらへ歩いていく。俺は最早完全に意識が飛びつつある衛宮とそれに気づかずまくしたてている遠坂嬢をいつものように眺めながら、自分の礼装にまたヒビが入って壊れかけてしまっているのを発見して密かに泣いた。

 

 シエルが携帯を使って事後処理班を呼ぶ。遠坂嬢はまだ衛宮の襟を握りしめて説教しているし、衛宮は衛宮で完全にアチラの世界へと旅立ってしまっている。セイバーはお腹が空きましたと口には出さずとも体全体で主張しており、もちろん誰も非常食なんて持ち合わせていないから見るまに不機嫌となる。

 だけどまぁ、とりあえずは何とかなった。俺はポケットからグシャグシャになってしまった煙草の箱を取り出して、魔力が尽きてしまったから今度はちゃんとライターで火を点けて深い深い溜息と一緒に煙を吐き出したのであった。

 

 

 

 39th act Fin.

 

 

 



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第三十九話 『贋作者の苦悩』

 

 

 side Rin

 

 

 

 死徒討伐にオストローデへ向かった後、士郎は随分と何か考え込んでいるようだった。

 私は士郎が死徒相手に固有結界まで勝手に展開して戦っている間、セイバーと二人で怒濤のように押し寄せて来る死者達相手の立ち回りで忙しかったから間に合わなかったのは本当に無念としか言いようがない。

 幸いにシエルも蒼崎君も士郎の固有結界については口外しないと、ごくごく簡単なものではあるけれど強制契約(ギアス)までかけて約束してくれたから心配はない。教会側も街に監視を派遣したりしてなかったからあの二人以外には見られていないし、事前に使い魔とかがいないことは調べてある。でも戦いの内容について聞いても士郎がふさぎ込んでいる理由はさっぱりだった。ホントに何考えているのやら‥‥。

 

 死徒を士郎達が斃した後、私達は後始末を教会の部隊に任せて前日泊まった街に戻ると一日のんびりと休み、一足先に帰ってしまうというシエルを見送ると蒼崎君の「少し羽を伸ばしてみないか」という言葉に誘われてブロッケン山へと観光に訪れた。日本ではめっきり少なくなってしまった蒸気機関車があったり、なんかよくわからないけど明らかに幻想種同士の争ったと思しき謎の古戦場が普通にガイドツアーに載せられていたりして、私もセイバーも結構楽しめたわね。

 士郎もその時は一見楽しげに振る舞っていたように思う。セイバーが地元のレストランで―――どういう経緯でそうなったのかは思い出せないけど―――大食い対決に臨んでいた時には脇で財布の心配をしていたし、蒼崎君がうっかりロストロギア級の魔剣の破片を見つけたときには夢中になって食い入るようにして解析していた。あんなもんが転がってるって、一体協会は何してたのよ‥‥?

 

 まぁそれはともかく、私達の内の誰もが士郎が変だったなんて気づけなかったのだ。

 だから最初に気づいたのは私。家に帰ってきてからいつも通りに振る舞っていた士郎が、私達の目の届かないところで深刻な顔をして考え事をしていたのを発見して、問い詰めてみたのに何も言わない。次にセイバーが料理の味が少し違うことに気づいて、そこから私達は顔をつきあわせて士郎に起こった異変について考えた。

 私達の前では普段通りに振る舞っているつもりなのかもしれないけれど、私もセイバーも付き合いは決して長くはないとはいえ士郎のことは誰よりも理解してやるつもりだ。只でさえ嘘とかお世辞とか苦手な士郎が私達に隠し通せるわけがない。

 

 

「‥‥で、貴方は何か覚えがない?」

 

「しっかりと、偽証せずに、思いつくことは全て、余すところなく答えていただきたい」

 

「‥‥ナニこの状況?」

 

 

 でも士郎は一度私達に話さないと決めたなら梃子でも話そうとはしないだろう。そんな私達にとれる方法はただ一つ。私達以外の人間に話している可能性を頼りに周りの友人を尋問することだけ。

 ルヴィアゼリッタは却下。士郎の性格からして私達に話していないのにアイツに話すとは思えない。この前知り合ったバゼットはあれから仕事で留守にしているから相談しているはずもなし、魔術関係で悩んでいるに違いないんだから近所のミセス・ハドソンという線もないだろう。

 そして私達は散々頭を捻って結論を出すと、ある人物を大英博物館のいつものカフェテリアに呼び出したのだった。

 

 

「えー、遠坂嬢にセイバー? 俺が一体ナニかしましたか?」

 

「安心しなさい。貴方は何もしてないし私達も何かするつもりなんてないから、そんなに怯えなくてもいいわよ蒼崎君」

 

 

 私とセイバーが並んで腰掛けたテーブルの真向かいには、まるで訳も分からずいきなり被告席に立たされた冤罪の殺人犯のようにビクビクと震える同級生、蒼崎紫遙の姿があった。

 まぁ考えてみれば私達の方から呼び出したのってこれが初めてだったかしらね。なんだかんだで時計塔の中ではルヴィアゼリッタと並んで一番付き合いがあるのに、会うたび会うたびに何らかの騒動ばっかり起こってるような。

 ‥‥これじゃまたナニかあるって思われても仕方ない、か。

 

 

「そ、そうかい。‥‥で、そうだとしたら一体何の用事で俺を呼び出したんだい? 別に特別な用事があったわけでもないから時間は大丈夫なんだけどさ」

 

「それは有り難いわね。実は蒼崎君には一つ相談‥‥というか、尋ねたいことがあったのよ」

 

「俺に、尋ねたいこと?」

 

 

 蒼崎君はひとまず落ち着いて頼んだコーヒーに口をつけると不思議そうな顔でこちらを見た。なんだかんだで私が彼に頼み事をしたことは、以前授業の課題でちょっと不得意な分野が出されたときに共同研究を頼んだときのものしかない。しかもあの時は何故か急に帰省することになったからとかで断られたし、それ以外で彼に頼むようなことはなかった。

 どちらかというと彼と親しく付き合ってるのは士郎の方。自主鍛錬に使う道場を探してもらったり、お金に困ったときには雇い先まで‥‥ちっ、もしかしたらあの時に手を打ってれば今頃ブツブツブツ‥‥。と、とにかく、アイツと蒼崎君の仲がいいから私やセイバーとも友人付き合いを始めたわけで、それで言うなら私も彼のことを良く知らないってわけよ。

 

 蒼崎紫遙。時計塔の鉱石学科に所属していて、歳は二十歳過ぎだってこの前聞いた。

 得意な魔術はルーン魔術、次いで魔術具の作成。魔術回路も少ないし才能もあまり芳しいものじゃないけど成績はよくて、今期は次席候補の一人に数えられている。魔術師らしからぬお人好しかと思えば割とドライでギブアンドテイクをモットーにしていて、でも本当に困っている時には進んで手を貸してくれる良い友人。

 決して沢山いる魔術師の中でひときわ輝いているってわけじゃないけれど十分以上に優秀な魔術師であることはもとより、彼は“蒼崎”だ。それはもちろんアノ蒼崎、現存する魔法使いの家系である蒼崎の長男だ。元は取れている。以前ルヴィアゼリッタから漏れ聞いた話によると、五番目の魔法使いであるミス・ブルーを姉と呼んでいたそうだから間違いない。

 優秀な魔術師としての力量、日本でも有数の家系と血筋、そして封印指定の執行者や時計塔のカリスマ教授を始めとする豊富な人脈。正直に言ってしまえば時計塔では私よりも遥かに融通の利く存在なのよね。

 

 

「貴方、士郎の様子が最近おかしいの知ってるわよね?」

 

「あ、あぁ、そうだね。どうもこの頃の衛宮は何か思い詰めてるみたいだけど‥‥」

 

「単刀直入に言うけど、蒼崎君、士郎から何かそれについて聞いてないかしら? 相談とか受けてないかしらって言い換えてもいいんだけど」

 

 

 大英博物館は世界でも最大規模の博物館の割には入場無料なんて観光客はおろか地元の学生にも嬉しい仕様になっている。ソレだからって訳でもないだろうけど、今日もカフェテリアに人は多い。時計塔の中にもそういった休憩施設はある。でも基本的に殆どの施設が地下にあるから何となく雰囲気がお茶をしようってものじゃなくて、だから教授や講師はともかく学生はコチラのカフェテリアを利用することが多い。

 ただ、大英博物館に上がってくる際には基本的に学芸員(キュレーター)の名札をつけることになっている。この名札は普通の学芸員の名札とは少々作りが違っていて、魔術師同士が互いを判別できるようになっているのだ。

 もっとも学芸員を名乗っている以上博物館にいれば観光客から案内や説明を頼まれることも多い。魔術師の大半は歴史的な遺物にも詳しい場合が多いからあまり問題はないんだけど、そうもいかない士郎はいつもガイドブックと付き合わせてしどろもどろらしい。もちろん殆どの学生はそんなことに自分の時間を使うのはまっぴらご免だから「休憩中なので申し訳ありません」とか言って断ってるんだけど、士郎がそんなことできるはずもなく、毎回毎回気づけば案内をしているなんてことになっていた。‥‥しかも何故か女の人が多いのよね。

 

 

「うーん‥‥。そういうのって本人から話してくれるまで待っててあげる方がいいんじゃないか?」

 

「馬鹿ね。相手は士郎よ、絶対に話しっこないって分かりきってるわよ。いい? あいつはね、コッチがしっかりと手綱握って、変な方向に走ってかないように力づくで矯正してやらなきゃいけないの」

 

 

 一度士郎が私達に話さないと決めた以上、アイツから相談してくれることは絶対にない。自分で決断したことを覆さない頑固者だから、誰かにひっ叩かれない限り進路の修正が出来ないなんて面倒極まる性格をしているのだ。良く言えば信念を曲げない男、悪く言えば融通の利かない頑固者だ。今回に関して言えば明らかに後者で、アイツが一人で悩んだって何も解決しないのなんて目に見えてる。

 一人だったから士郎はアーチャーになってしまった。もしアイツの側に私がいたのなら絶対に摩耗なんてさせなかった。アイツの世界の遠坂凜(わたし)が不甲斐なかったのかもしれないけど、少なくとも私は違うわ。士郎が自分を犠牲にして誰かを救おうなんて馬鹿なこと考えた瞬間にガンドたたき込んだらそのまま引きずって帰る! そのぐらいじゃなかったら、士郎はあっという間に世界と契約して英霊になってしまうに違いない。

 

 

「だから早く答えなさい。言っておくけど、無理矢理聞き出すっていう優雅じゃない方法だってとれるんだからね? さぁ、早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)!」

 

「しっかりしろ遠坂嬢、キャラが完全に崩れてるぞ。‥‥まぁ、確かに衛宮に関してのことなら君達に言っておいた方がいいかもしれないね」

 

 

 私の催促に呆れたように肩をすくめた蒼崎君が一転真面目な顔をするとこちらを見る。

 簡単にテーブルの周りに人除けと認識阻害の結界をはったところから察するに、やっぱり私達が考えた通り士郎はかなり深刻に悩んでいたようね。甘い、甘いわよ士郎。私達に黙っていたところで蒼崎君に聞き出せばいい、ましてや彼が私達を相手に沈黙を保てると思っていたこと、チョコラテより甘いわ。

 

 

「まぁ簡単に言うと、というより実に簡単な話ではあるんだけどね‥‥衛宮は、強くなりたいんだとさ」

 

「‥‥は? 強くなりたいって‥‥また体痛めつけてるんじゃないでしょうね士郎‥‥」

 

「それがどうも、この前の死徒討伐で色々考えるところがあったみたいでさ。最近あいつ随分と家に帰ってくる時間が遅いんじゃないか? 実は衛宮、両儀の道場でずっと稽古を受けているらしいんだよ」

 

 

 蒼崎君の言葉は私達にとって頭が痛いものだった。士郎が強さを求めて鍛錬にのめり込みがちなのはいつものことだ。でも字面だけ聞けば良いことかもしれないけど、アイツの場合は平気で夜中遅くまで魔術回路を痛めつけたりと常軌を逸している。

 確かに限界ぎりぎりまで鍛錬するというのは決して悪いことではない。それは表の社会でもスポーツ科学やら何やらで実証されていることだし、裏の世界では随分と昔から肉体的にも精神的にも追い込むことが魔術の習得に有効であると言われてきた。

 しかしもともと才能のない士郎がやる鍛錬が劇的な効果を生むかと言われればNO。才能のない人間が思い立ってがむしゃらに努力して、それが効果的な方法であるとは限らない。ましてや士郎ならなおさらと言える。結局上手く成長が実感できず、焦る。焦ったらもっと無茶な方法に手を出して以下その繰り返し。つまりは最終的には百害あって一理なしなのよね。

 

 つまり士郎は今、焦っているのだ。多分蒼崎君に相談したのも心底せっぱ詰まったからに違いない。自分ではどうしたらいいかわからず努力だけしてみても効果を実感できなくて他人に相談した。その相手が私達じゃないっていうのは不満たらたらだけど少し安心したわ。

 冬木にいたときにはいっつも一緒にいたみたいなものだったから士郎が無茶したら止めに入れたけど、今は互いに色々と忙しいから見過ごしがちになっていた。倫敦で士郎も少しは他人に頼ることを身につけたみたいで本当によかったわね。

 

 

「で、蒼崎君はどう思うの? もう気づいてるんでしょ、士郎がおかしいってことぐらい」

 

「‥‥以前ルヴィアの屋敷で宴会をやった時に小耳に挟んだよ。“正義の味方”だってね。しかも、在りえない、馬鹿げているって笑い飛ばせない真剣さがある」

 

「悪いわね、正直に言えば私だってどうかと思うわよ。でもアイツがそう決めたんだったら私は何も言うつもりないわ。出来る限りサポートして、道を踏み外しそうになったらぶん殴って矯正する。それだけ」

 

 

 士郎にとって“正義の味方”ってのは一生使って追い求め続ける夢。むしろ存在意義と言った方がいいかもしれない。それを止めることは私にはできない。それを諦めることは“衛宮士郎”が“衛宮士郎”でなくなってしまうことなのだから。私はそういう部分も全部含めて士郎と一緒に歩いていくって決めた。一人で走り抜いて、一人で傷ついて、一人で摩耗してしまった紅い騎士。士郎をアイツみたいにさせやしない。

 目の前でコーヒーカップを弄んでいる蒼崎君も、あの寂しい世界を見た。士郎の歪な在り方と夢と照らし合わせれば、大体行き着く先はアーチャーのことを抜きにしても容易に想像できる。なら私の質問にも答えられるはずだ。

 言っちゃ何だけど私は時計塔の中であまり友人付き合いをしている人、というよりまともに会話している人が少ない。蒼崎君以外には癪だけどルヴィアゼリッタぐらいしか言葉を交わしてないのよね。同じクラスの学生とは意見交換こそすれ世間話だってしたことないし、教授も私に怯えてるのよね‥‥。授業に関係した話ならいいんだけど、その間もちょっと距離を置かれてるし。

 そんなわけで私は彼をかなり信用している。何せ士郎のアレを見て何も手出ししなかったほどだ。だから彼には士郎の友人として、何を考えているのか聞きたかった。

 

 

「‥‥そうだな、今の衛宮は自分一人で出来ることは全てしている。これ以上やってもゆっくりとした成長で、それは確かに成果が出る鍛錬ではあるけれど今すぐに目に見えた変化が起こるわけじゃない。そうだろ?」

 

「蒼崎君の言うとおりね。というより、そもそも鍛錬ってのはそういうものだからね。全く士郎も悪い時期にスランプになってくれたものよね」

 

「シロウはあまり頭が回る方ではありませんが、聡い。だからこそショーに意見を求めたのでしょう。ショー、友人に相談された貴方が何も行動を起こさないはずがない。貴方はシロウに相談されて、何と答えを返したのですか?」

 

 

 唸りながら優雅とはほど遠い動作で頭を抱えて私の隣、ちゃっかり頼んだハンバーガーをもっきゅもっきゅと食べていたセイバーがその様子からはあまりにもギャップのある真面目な顔と声で蒼崎君に問いかけた。そういえばこの娘、割と頻繁に蒼崎君と会ってるらしいわね。意図してってわけじゃないんだそうだけど。

 

 

「つまり、ここは俺達が人肌脱いで助けてやるってのはどうかと思ってね。‥‥俺は衛宮に、《千里眼》の施術を行おうと思う」

 

「「 は? 」」

 

 

 

 

 

 

「遠坂嬢も知っているだろう? 俺はあまり鉱石魔術に秀でているわけじゃないことを」

 

「そういえばそうよね。貴方、鉱石学科にいる割にはあんまり鉱石関係の魔術が得意じゃないのよね」

 

 

 遠坂嬢とセイバーが俺の言葉に疑問符で返し、俺はまたもや世界の理だとでも言いたいかのように冷めてしまったコーヒーを啜ると説明を始めた。

 確かに俺は鉱石学科に所属する魔術師ではある。だけど実際にはそこまで鉱石の勉強がしたいというわけじゃないし、俺の本分は全く別の分野であって、鉱石学科に所属しているのはひとえに礼装の研究のためにすぎないのだ。あの礼装は俺自身のスペックを大きく上回っているために使いこなすことができず、それ故にあれの研究はダミーとして非常に有効だ。

 そう、魔術師は己の研究とその成果を秘匿する。だから俺の研究の内容を知っているのはごくごく僅かな、例をあげればルヴィアやロード・エルメロイⅡ世などの親しい人間や上司や教授にあたる人間のみ。

 

 

「俺には表向きに公表している礼装の研究とは別に、本来の研究がある。遠坂嬢が宝石翁の家系であり、第二魔法を追い求めているのと同様に、ね」

 

 

 遠坂嬢とてその本来の研究を秘匿したいのは同じ。しかし彼女は彼の魔導元帥の弟子の家系として非常に有名だ。それ故に彼女の研究がどの程度進んでいるかということまでは分からずとも彼女が並行世界の運用について研究しているということは周知の事実である。

 俺は衛宮の秘密を知ってしまった。遠坂嬢も本来なら力づくで自己強制証文(セルフギアス・スクロール)でもかけさせたいところだろう。それほどまでに衛宮の固有結界は異端であり、下手しなくても知られた瞬間に即封印指定をうけてもおかしくないのだ。

 封印指定とは再現不可能な神秘を会得、ないしは内包した魔術師に対してその神秘を保存する目的で宣告される名誉でもあり面倒でもある。固有結界は須く本人以外には再現不能。ならば衛宮はすぐさまに時計塔の地下奥深くへと監禁されることになるだろう。そうなれば魔術師としても、人間としてもおしまいだ。身動きはとれず研究もできないどころか、脳髄だけ取り出してホルマリン漬けにするなんて可能性もある。

 

 

「それで俺の本来の研究ってのが‥‥これさ。『Verdrehen (凶れ)』―――!」

 

 

 俺は額に捲いた、薄汚れて色が褪せてしまった紫色のバンダナをとると机の上に空になったコーヒーカップへと視線を向ける。そして次の瞬間、額に描かれていた紋様が光り、俺の瞳が真っ赤に輝くと本来捻れ凶るはずのないコーヒーカップが不自然に歪むと四散した。

 

 

「‥‥まさかそれ、魔眼―――?!」

 

「そう、俺の研究ってのは魔眼の研究さ。本来は特例(ノウブルカラー)や超能力者のみが持ち得る魔眼を魔術によって再現すること、これこそが長い間俺が研究し続けている神秘だ」

 

 

 魔眼と一口に言っても様々なものがある。今使って見せた『歪曲』や式が保有している『直死』。見るだけで物体を炎に包むことができる『炎上』や、言わずと知れたメドゥーサの『石化』など多岐にわたる。だけどそれら貴重な魔眼に共通して言えるのが、“本来は魔術によって再現できない”ということだ。

 だけど俺はそれを成功させることができた。そしてそれは衛宮ほど特殊じゃないにしても魔術師としての俺の方向性を決定するには十分に過ぎる。橙子姉によればどうも起源に関係しているのかもしれないらしいけれど詳しいことはよくわからない。

 まぁとにかくそういうワケで俺は今、格の低いものばかりではあるけれど八種類を超える魔眼を習得しているし、さらに数を増やそうと日夜研究に励んでいるってわけ。

 

 ‥‥念のために言っておくと、あくまで研究の結果所有できるようになったというだけだ。戦闘に使える魔眼は一つか二つぐらいしかないし、それにしたって高位の魔術師や死徒が相手だと簡単に抵抗(レジスト)できる程度の威力しか出せない。たとえると運転免許を持っているだけ、みたいなものになるのか。あくまでコレは所有しているだけであり、衛宮よりも勝手が悪い。‥‥まぁ戦闘に使うわけじゃないから良いんだけどさ。

 

 

「‥‥で、蒼崎君の本当の研究ってのはわかったわけだけど、士郎に《千里眼》の施術をするってのは一体どういうことよ?」

 

「俺が衛宮にしてやれることで一番に思いついたのがそれでね。‥‥まぁ、有り体に言って被験者が欲しかったってのもあるんだけど」

 

 

 俺が普段額に巻いている薄汚れたバンダナにも意味がある。と言っても別に邪気眼がやりたいわけではない。俺は額に魔術刻印を刻んでいるのだ。

 魔術刻印とはその家系が後世に自らの研究成果を遺したものだ。例えば遠坂嬢の左手に刻まれている幾何学模様のようなものもそうだし、彼の先代ロード・エルメロイは両肩に刻印が刻まれていたという。それは次代に遺す一種の呪い。魔術師として家が追求した命題を背負うことを宿命付けられる重荷だ。

 さて、では青子姉とも橙子姉とも血の繋がっていない俺に何故魔術刻印が存在するのか。答えは簡単、コレは“蒼崎紫遙”の魔術刻印だからとなる。親が魔術師でないのに突然変異や先祖返りのように魔術回路を持って生まれ、魔術を修めた者は自らを初代として新たな家系を興す。俺の額に刻んだ蛇を模した紋様は俺を初代とする“蒼崎”の魔術刻印である。

 一人の人間が持つのは二つの瞳のみ。であればどうして俺はいくつもの魔眼を所有できているのだろうか? それはすなわち、額の魔術回路を外部メモリーにしているからに他ならない。むしろだからこそ俺は額に刻印を刻んだのだ。何しろうっかり事故で損失してしまったりしたら悔やんでも悔やみきれないしね。まぁ、代を重ねるごとに増えるわけだから収まりきらなくなったらどうしようかなーとかいう問題はあるけど、何とかするだろ‥‥俺の子孫が。

 

 

「ふと思いついたんだ。魔眼は第二の魔術回路であり、目は体内に張り巡らされた疑似神経と違って露出している。だったら外部から他人の手で弄ることができるんじゃないかって、ね」

 

「‥‥理屈は分かるけど、随分と無茶な考えよ、それ。士郎で試して成功する保証はあるんでしょうね? 最悪失明じゃすまないでしょう?」

 

「それは事前に入念に調べてみないとわからない。だから君にこうして打ち明けたんだよ。弟子の体を隅々まで弄るわけだから師匠の許可をとっておかないとね」

 

 

 もちろん俺が衛宮に《千里眼》の施術をしようと思ったのも純粋な善意からではない。むしろ多分に俺自身の思惑が入ってきている。今まで自分が習得することにばかり目を向けてきたけれど、他人に対する魔眼の施術は可能か、という実験の被験者が欲しかったというわけだ。俺自身の直接的な利益にはならないかもしれないけれど、やれそうなことは全てやってみる、そうすればそこから新しい発見があるかもしれないから。

 ついでに言えば多分衛宮には《千里眼》が適用するとは思う。とは言ってもこの場合の《千里眼》とは《透視》とは違って《遠視》、むしろ只単純に視力が良くなるといったものに過ぎない。Fateでのアーチャーのステータスにあった千里眼は恐らく強化の魔術の延長か、もしくはやはり衛宮自身に資質があったのだろう。《透視》まで施術してしまうとアイツのキャパシティが耐えられないかもしれないけど、只単純に遠くまで見えるようにするならそこまで問題はないと思う。

 まぁこればっかりはやっぱり事前にしっかりと隅々まで検査して、適正を判断しないことには始まらない。実際問題として遠坂嬢の言った通り、深刻なダメージを体に与えることになりかねない。

 

 

「そういうわけで俺はこんな形で衛宮に協力してやろうと思ってるんだけど‥‥。遠坂嬢達はどうするつもりだい?」

 

「‥‥そうね、私達じゃ蒼崎君みたいな直接的な方法はとれないわ」

 

「では凜、何かプレゼントをするというのはどうでしょうか? 例えば御守り(アミュレット)や護符《タリズマン》を―――」

 

「そのお話、私も一枚噛ませていただきますわッ!!」

 

 

 と、セイバーが遠坂嬢に具申しかけたその時だった。突然人払いをしていた俺達の隣のテーブルから聞き慣れた声が聞こえ、次いで遠坂嬢が叫び声を上げた。

 

 

「って、ルヴィアゼリッタ?! あんた一体こんなところで何してんのよ!」

 

「あら、お言葉ですわねミス・トオサカ。最近どうにも私の従者(シェロ)の様子がおかしいのでショウに様子を聞きに来たら、わざわざ人払いの結界まで張って内緒話をしているではありませんか。優雅ではありませんけど、これは好機とお話を拝聴させていただいた次第ですわ」

 

「盗み聞きなんて立派な貴族があることじゃないと思うけど‥‥。ていうかルヴィア、君どうやって俺の結界に侵入したんだい?」

 

「こんな即席の結界なんて一般人ならともかく私には効きませんわよ。ちょっと結界の端を摘んで隣まで広げさせていただきましたわ」

 

 

 実際言うのとやるのとでは大違いなのだけれど、そういうことが出来るルヴィアはやっぱり俺とは才能の桁が違うなぁ。いくら即席で適当だったって言ってもルーンを使った結界にはちょっと自信があったんだけど‥‥。

 ルヴィアは俺が少し落ち込んでいるのを気にせずに隣の椅子に座る。遠坂嬢とセイバーと相対して俺達二人が座っている形だ。一瞬で臨戦態勢に入った遠坂嬢とは異なり、ルヴィアはいつものようにくってかかったり皮肉の応酬という名の社交辞令を交わしたりしない。今日は珍しく遠坂嬢の前でも真面目な話をする気になっているらしい。

 

 

「今申し上げた通り、私の屋敷でもシェロはいつもと様子がおかしかったんですの。些細なことを失敗したり、時折仕事の手を止めて考え込んでいると執事(バトラー)が言っておりましたわ」

 

「やっぱりアンタのところでもそうだったのね‥‥。っとに一人で悩んだってしょうがないってことにどうして気がつかないのかしら」

 

 

 隣のテーブルで予め頼んでおいたらしいカフェラテを一口啜ったルヴィアの言葉に、遠坂嬢とセイバーは再び今日会ってからもう何度目かもわからない溜息を盛大に漏らした。認識阻害の結界はまだ生きてるけど、もし周りの客が俺達の様子を見たらまるで四人まとめてクビになったんじゃないかと心配したに違いない。

 

 

「ですが溜息や愚痴を漏らしているだけでは友人として立つ瀬がありませんわ。‥‥ミス・トオサカ、貴女はどうするおつもりですの?」

 

「‥‥さっきも言ったけど、私達は蒼崎君みたいに直接士郎に力を与えてやることはできないわ。それなら―――」

 

「魔術具《マジック・アイテム》などを贈ってさしあげる、というわけですわね?」

 

 

 自分達が話そうとしていたことの続きを口にしたルヴィアに遠坂嬢とセイバーが頷く。普段は水と油みたいな二人なのに不思議と歯車が噛み合っている時もあるのだから本当に人と人の関係というものは分からない。

 衛宮が自分の成長に自信を持てないのは一種のスランプであり、学者でもスポーツマンでも受験生にでも等しく舞い降りる壁であり試練である。これを乗り越えるのに劇的な手段は本来なく、ただひたすらに今までの鍛練を信じて続けていくより他に切り抜ける方法はない。

 だけど衛宮は我慢が出来ない奴だ。前に進めていない自分の状況に我慢できず焦って、結局無茶な行動をとってしまうからいけないのだ。

 だから俺が言った魔眼の施術や遠坂嬢達が言った魔術具の調達などで一時的にでも状況が変われば、少しは気も紛れるんじゃないだろうか。

 

 

「決まりですわね! シェロには私の従者として相応しい装備を用意させて頂きますわ!」

 

「あ、あんたに士郎の何がわかるって言うのよ! とんちんかんなモノ用意されたって困るだけなんだからね!」

 

「‥‥二人とも協力して、シロウに一番適切な装備を用意すればいいのではないでしょうか」

 

 

 我が意を得たりとばかりに調子付くルヴィアとそれに噛み付く遠坂嬢。そしてセイバーはおそらくおやつという扱いなのだろう二つ目のハンバーガーにとりかかりながらも冷静に自分の意見を発言している。

 まぁとにもかくにも師匠の許可はとれたというわけで、これでめでたく衛宮を弄り放題というわけだフフフ‥‥。早速帰って手術できる環境を整えなきゃな。

 俺は去り際にまだまだ口喧嘩を続けるらしい遠坂嬢とルヴィアとセイバーの分の伝票をさりげなく机からとってそれに気付いたらしいセイバーがお辞儀するのを肩越しに見ながら、男の甲斐性だから気にするなと手を振るとレジへと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 40th act Fin.

 

 

 

 



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第四十話 『人形師の商談』

理想郷が一時重くなるなどの事態もありましたが、ss界隈は今日も平和です。


 

 

 

 

 

 side Toko

 

 

 

 

「‥‥ほう、衛宮士郎がな」

 

『全く、他人に迷惑ばっかりかけてくれるから困るよ、我が友人殿は』

 

 

 お前が言うかという言葉を飲み込んで、私は代わりに深い溜息を受話器越しに義弟への投げかけた。

 普段は全く連絡を寄越さない不精者が突然電話をよこしたから一体何かと思ったら、こともあろうに特上の疫病神(トラブルメイカー)についての相談だと来た。関われば間違いなく厄介事が降り懸かってくることぐらい理解していただろうに、どうして自分から釣り針に引っ掛かりに行こうとするのか理解に苦しむ。

 

 

『それで、衛宮には《千里眼》を施してやることにしたんだけど‥‥いいかな、橙子姉?』

 

『私に断る必要はないだろう? よかったじゃないか、協力的な実験相手が確保できて。生かさず殺さず使ってやればいい』

 

 

 返事を返しながら紫煙を吐き出すが、途端に嫌がらせのように顔の周りを飛び交い始めた蜂に顔をしかめ、仕方なしに灰皿へと預けた。

 見ればあちらこちらに蜂やら蝶やら蜘蛛やらがいるのがわかる。蟲使いの修業を始めた間桐桜によって事務所は一時的に蟲倉のようになっていた。普段は隠れているのだがたまにこうして外に這い出して来る。忌ま忌ましいが仕方がない。

 幸いなのは私の事務所に出入りする人間の中に蟲を怖がる奴などいないということか。あれだけの能力を持った連中が蟲を怖がってココで暴れ出したりしたら‥‥考えるだに気が滅入る。おそらくこの廃ビルは今度こそ瓦礫の山と還るだろう。

 ‥‥今度間桐が来た時にはよくよく注意しておく必要があるかな。

 

 

『ところで橙子姉』

 

「‥‥ん、何だ?」

 

 

 壁の隅に張られた特大の蜘蛛の巣に再び溜息を漏らしていると、しばらくぼんやりとしてしまっていたらしく受話器から私の名前を呼ぶ声がした。

 

 

『衛宮にやる武装についてだけど、何か良いアイディアとかあったりする?』

 

「そんなもの私に聞くな。遠坂とエーデルフェルトの小娘が考えることだろう」

 

 

 精神的に危ういところがあった幼い義弟に施した調k‥‥教育の弊害がこんなところに顕れたかと、私は咥えてはいないにも関わらず普段紫煙を吐き出すようにして溜息を零す。

 あの馬鹿は、何か心配事があればすぐに私か青子に相談するという癖がある。それは昔からずっと言い聞かせてきたことではあるのだが、それでも倫敦に行ってからは暫く連絡もなかった。しかし一度あいつが実験に失敗して死にかけた際に少し叱り過ぎたのか‥‥。まぁ頼られるのは悪いことではないのだがな。

 

 

「———と、言いたいところなのだが。実は一つ掘り出し物がある。格安で譲ってやってもいいぞ?」

 

 

 向こうに届くはずもないがニヤリと口元を歪め、私は外を飛び回ることに満足したらしい蟲共が巣へと帰って行くのを確認すると煙草を咥えて再び火を点けた。

 私の趣味の一つに骨董品、特に魔術的な意味のある収集物を買い漁ることがある。例えば中世以前の呪術師が拵えた呪殺用の人形、例えば魔術に何ら関わりがない鍛冶屋が鍛ったにも関わらず、魂すら注ぎ込んだがために魔力に似た性質が宿った剣や盾、鎧。それら貴重な魔術品を手元に置きたいという願望は“つくるもの”である私にとっては趣味というよりも仕事のようなものだ。にも関わらず黒桐の奴はいつもいつも文句ばかり言う。まったく、現代社会では測れないあれらの価値が理解できていないのだ。

 

 

「そら、今お前の携帯に画像を送ったぞ。見てみろ」

 

『‥‥って橙子姉、これは干将莫耶じゃないか?! しかも、オリジナル‥‥』

 

 

 それは近年稀に見る極上の掘り出し物である黒と白の双剣。乃ち現存する宝具の一つである干将莫耶である。

 かねてからソチラの骨董商と付き合いのあった私は優先的に品物を回してくれるように手配してあった。オークションなどで購入することもあるが、封印指定の執行を一時凍結されたとはいえ顔が売れるのは非常にまずい。であるからして個人における伝手をもっておくというのは大事なことで、ソイツも日本で隠遁生活を始めて以来の長い付き合いである。

 そんな奴が持ちかけてきた商談に、私は一も二もなく飛びついた。なにしろ繰り返しにはなるが現存する宝具である。宝具というのは須くそれなりの年月を重ねて神秘を蓄えてきたものであり、今の時代になって残されているのは発見されているものだけを勘定してもごく僅か。

 例えば文明開化が遅く武芸者などの活躍する時代が長かった日本においても宝具に準ずる武器の類は殆どが失われており、マスコミュニケーションをはじめとする情報伝達手段が発達していないアフリカやオセアニア地方のものは伝承としての効果が薄いうえに部族に伝わる宝として保管している場合が多く、あまり表には出てこない。

 紆余曲折あって私の手元に転がり込んできたこの干将莫耶も、古い時代に消失してしまったと伝えられているためにソイツも真偽がはっきりしないがねと前置きしてから私に話を持ちかけてきた。

 特にコレが偽物なのではないかと———当然干将莫耶という銘などついておらず、ソイツも『神秘が濃いから干将莫耶を模して昔に作られた名刀の類ではないか』と言っていた———疑われた理由の一端にはその特徴的な形状にある。

 一般的に青竜刀などの愛称で知られる反った分厚い刃、これが歴史上に現れたのは宋の時代と意外にも新しい。干将莫耶の伝説が登場したのは春愁時代《紀元前500》頃であり、その頃に作られた宝剣と言うのであれば真っ直ぐな剣であると考えるのが妥当な判断であろう。もちろん片刃の刀は剣と同じ年代から多用されてはいたが、仮にも皇帝に献上するものにそのような形をとらせただろうか。

 

 

「まぁしかし私はこれは本物だと断言できるがな。なにせお前の記憶の中のものと瓜二つだ」

 

『よく手に入れられたね、こんなもの‥‥。わかった、言い値で買うよ』

 

 

 殊勝な弟の態度に気分を良くして少し安い値段をふっかけた。それでも私が骨董商から買い取った値段よりは幾分高いので利益も出る。いくら身内とは言えどもそれなりに利害関係を結んでおかなければいけないのは魔術師として当然の付き合い方だ。

 荷物はソッチに通じている業者に委託して時計塔まで届けさせることにしよう。この私を欺いた場合どのような末路が待ち受けているかは容易に想像できるだろうから途中で紛失してしまうこともないだろう。

 

 

「しかしまぁ今になって思えば、あの紅い弓兵がこの双剣を使っていた理由も納得できるものではあるな」

 

『‥‥? どういうことだい、橙子姉』

 

「考えても見ろ、アイツは無限の剣を複製、投影することができるが、決してそれらの“担い手”にはなりえない。当然だな、アイツは“つくるもの”であって決して“ふるうもの”ではない。幾多の武器をつかう選択肢を持っている以上たった一つの武器を相棒として選ぶことは適わないわけだ」

 

『まぁ、それは衛宮の本質なんだから仕方がないことなんじゃないか?』

 

「クク、まぁ話は最後まで聞け。それでは何故アイツがこの干将莫耶を相棒にしていたのか説明がつかんぞ。エミヤシロウというスタイルを決めるに足る理由が、この双剣にあったということだ」

 

 

 電話の向こうで怪訝な顔をしているのであろう義弟の記憶を介して覗き見た衛宮士郎の在り方を思い出す。

 本来武芸者などではない衛宮士郎の戦い方は一つの型にはまらない。一つの流派を修めることもできず、一つの武器を究めることもできない。何故なら衛宮士郎はあくまで鍛冶師、戦うことを起源の段階から運命付けられた英雄達と同じように振る舞えはしないのだから。

 ではそんな衛宮士郎が戦いに勝利するためにとれる戦闘方法とは何か。それは乃ち、あらゆる手段に精通し、それらを適宜適切な状況で使い分ける選択肢の多さに他ならない。例えば相手が間合いの短い剣を持っていれば槍を持ち、巧みに懐に入られれば今度は短刀を持ち出せばいい。離れればこれだけは英雄と並ぶ天性の才である弓による長距離速射が襲う。常に相手に対して有利な間合いで有利な武器を使えることこそ無限の武器を扱う衛宮士郎が取り得る戦闘手段だ。

 

 

『いや、でも橙子姉、衛宮はアーチャーの戦い方を見て、自分に干将莫耶が合っているって確信したんじゃないか。それだったらアイツには二刀流こそが一番似合っているってことにならないか?』

 

「‥‥まったく、お前は本当にアチラについて語るときは魔術師ではなくなるな。考えても見ろ、干将莫耶の保有する神秘などたかが知れている。他にも有名な双剣はたくさん存在するだろうが」

 

 

 例えば彼の名高いフィオナ騎士団の雄、輝く貌のディルムッド・オディナが持っていた『大なる激情(モラルタ)』と『少なる激情(ベガルタ)』など、歴史上に輝く伝説や伝承を持った対の剣は数多存在するのだ。

 衛宮士郎はアーチャーの戦い方を見て、何を学んだのか。自分の未来に引き擦られていたのは勿論、姿だけではなく奴がどうやって干将莫耶を選んだのかということを魂のレベルで理解したのだろう。

 

 

「いいか、干将莫耶の伝説をよく思い出してみろ」

 

『え、えーと、確か春愁時代に当時の呉王から命じられて作った宝剣だよね。妻の莫耶が炉に身を投げることで完成したとかいう‥‥』

 

「そうだ。そして夫の干将が血の涙を流して時の呉王闔閭へと献上した。ではな、紫遙、ここで一つ疑問が生じるだろう?」

 

『疑問‥‥?』

 

「そう、“では干将莫耶の担い手とは一体誰だったのか?”ということだ」

 

 

 宝具には須く担い手が存在する。英雄あっての宝具であり、宝具あっての英雄である。英雄が使った武具の中で優れたもの、高名なものが宝具となって人々の伝承に遺り、逆に宝具をもって英雄は英雄たるとも言える。

 干将莫耶は間違いなく宝具だ。では宝具に必ず対のようにして存在する担い手は一体誰なのか?

 双剣を鍛った干将か? Non. では身を投げた莫耶か? Non. では献上された闔閭か? これもNon.

 闔閭は確かに優れた皇帝ではあったが、英雄と呼ばれる程の者ではない。呉を一大強国へと成長させはしたがその過程で伝承に成る程のめざましい活躍をあげたのかと言われれば疑問だ。更に言えば、その生涯において果たして干将莫耶を振るう機会があったのかということすら疑わしい。

 見れば分かる通り、干将莫耶は皇帝に献上するための宝剣としては非常に無骨で実用的な作りになっている。それは妻を犠牲にして鍛ち上げた干将の意地だったのか、そんなことまではわからないがとにかく皇帝が振るうような武器でないのは確実だろう。

 

 

「‥‥そう、干将莫耶には担い手がいない。コイツらには対になる英雄がいないのだよ」

 

『そうか、だからこそ‥‥』

 

「だからこそエミヤシロウはこの双剣を相棒に選んだ。そういうことだ」

 

 

 数多の武器を使うが故にどの宝具の担い手にもなれない錬鉄の英雄。そして宝具としての格を備えて、血の涙によって鍛えられた干将莫耶。相棒のいない英雄と振るわれる機会を与えられなかった宝具、それらが結びつくのは必然だったのかもしれない。

 ならば衛宮士郎に相応しい武器は間違いなくこの双剣だろう。私としてはこのような貴重なものを手放すには惜しいのだが、宝具とは担い手と共にあるべきだ。それは私からの衛宮士郎への感傷というわけではなく、これを作り上げた干将と同様の“つくるもの”としての信念に近い感情だ。

 あるべきものはあるべき場所へ。使わない武器に価値はなく、研究をやめた魔術師もまた同じ。もはや魔術師としての在り方を放棄した私が意固地になって若い連中の邪魔をすることはないだろう。

 また吐き出した紫煙はゆっくりと漂い、少し開けた窓から段々と寒さを増してきた秋の終わりの空へと上っていく。その光景はどこか自分が置いて行かれてしまうのではないかという自分らしくもない感情を発信源である私へともたらしたが、それもすぐに軽く頭を振るうことで煙を散らして追い払ったのだった。

 

 

「では送っておくから金をよろしく頼むぞ」

 

『‥‥半額は幹也さんに送っておくからね』

 

 

 なん‥‥だと‥‥?

 

 

 

 ◆

 

 

 

「‥‥よし、検査は終わりだ。おい起きろ衛宮」

 

「う‥‥あ、あぁ。終わったのか? 、紫遙? ‥‥あーくそ、なんか体中がこわばってる感じがする」

 

「俺の魔力を通したからな。多少の異物感は我慢してくれ。暫く動いて自分の魔力を回路に流していればそれも消える」

 

 

 以前バゼットの義手を整備していた作業台に今度は衛宮を乗せ、俺は千里眼の施術に必要な衛宮の情報をくまなく魔術によって収集していた。魔術回路の状態、属性や起源の一部、魔術耐性や体の頑丈さに咥えて魔眼に対する適正など様々な情報を集めて念入りに下準備と判断を行う必要がある。うっかり失明などしようものなら俺が遠坂嬢とルヴィアに物理的にも魔術的にも殺される。

 

 

「しかしまぁ‥‥これは非常に特異な素体だな。実に研究のしがいがあるぞフフフ‥‥」

 

「た、頼むから必要以上に弄るなよ? ていうか患者じゃなくて素体なのか?」

 

 

 衛宮の体を様々な術式を使って検査した結果を紙に記し、半ば走り書きのようになっているそれらを隣の机に座ってカルテに清書しながら俺は思わずこみあげてくる笑いを抑えられずに衛宮に一歩退かれてしまう。

 なにしろ衛宮の魔術回路、これは昨今稀に見る不思議なものであった。通常の魔術回路が疑似神経であるのに対して衛宮の場合は完全に肉体に備わった神経と癒着融合しており、知識としては知っていても改めて正確なデータとしてこうして目の当たりにすれば研究意欲がわくわくと湧き上がってくるのを感じてしまう。考えるに奴が昔やっていたという一歩間違えれば即死亡という危険な修行が影響しているのかもしれないが、おそらく衛宮が聖杯戦争中に色々な無茶をしたり自分の許容量を超える投影を無理矢理やれてしまうのもこの特異な魔術回路が関係しているのではないだろうか。

 魔術回路の総数は27本。俺はおろか橙子姉より多く、一般的な魔術師の平均から鑑みても多いそれは初代の魔術師としては破格の数と前述した強靱さを備えている。橙子姉の魔術回路が芸術的なまでの精密さを持っているのに対して衛宮の魔術回路はあくまで無骨。あちらをコンピューターと喩えるならばこちらは頑丈な機械と言ったところか。

 

 

「いいか衛宮、お前は勘違いしそうだから予め言っておくけど、これは決して善意からの行為じゃない。あくまで俺の目的は実験であり、お前に施しをしてやることじゃないんだからな。ギブアンドテイクだ、しっかりとそれを覚えておけ」

 

「いや、そうだとしてもやっぱり礼は言っておくよ。俺に力をくれるっていうんだから、願ってもないことだ」

 

「それが間違ってるって言ってるんだけど‥‥まぁそれもお前らしさ、か。でも頼むから他の魔術師が俺やルヴィアや遠坂嬢みたいに優しい連中だなんて思うなよ? その瞬間に‥‥死ぬぞ?」

 

 

 比喩や誇張ではなくあり得ることだ。魔術師なんてものは自分が一番で身内が二番、それ以外の他人なんて有象無象だ。ソッチ系の魔術師だったらいつでも実験材料に飢えているし、そうでなくとも他人の研究成果を奪ってあろうと虎視眈々なんて奴らも多い。魔術耐性が低い今の衛宮ではまさに狼の群れに放り込まれた羊に等しい存在だ。

 ちなみに俺の身内の中には衛宮達も存在する。であるからこそこうして忠告をしているわけで、本当だったらこんな疫病神なんぞどこぞへポイして関わり合いになりたくなんてないわけで。‥‥まぁ、あれだ、これも一度関わってしまったんだからしょうがないってことなのか。いつの間にか友人付き合いしていたんだから力を貸してやるにもやぶさかではない‥‥って、もしかして俺、死亡フラグ立ってる?

 

 

「‥‥だとしたら色々と考える必要があるか」

 

「何か言ったか?」

 

「いや、なんでも。じゃあ俺はこのデータを元に作業するからお前は帰れ。ここからは俺の研究にも関わってくるから部外者立ち入り禁止」

 

「俺、そんなの見たって何が何だかわからないぞ?」

 

「お前が平気でもお前の頭ん中ほじくる奴がいるかもしれないだろうが! とっとと出てけ!」

 

 

 脳天気な回答を返す衛宮の背中を蹴るようにして部屋から追い出した。衛宮に言った通りにここから先が秘匿しておきたい研究に関わる機密事項だというのもあるが、これからこの部屋で会う約束をしている人物達と鉢合わせさせたくないということもある。

 改めて衛宮のカルテを見直す。肉体と密接に結びついた魔術回路、剣製に特化した魔術特性、長年にわたって痛めつけたがために頑丈な体。‥‥そして、体内に魔術的に埋め込まれた一つの宝具。

 

 

「『全て遠き理想郷(アヴァロン)』か‥‥」

 

 

 遠坂嬢も衛宮の体を検査したはずである。しかし専用の施設を使って行った、肉体方面に造詣の深い俺による検査は彼女が発見できなかった一つの事実を導き出した。決して原作によって得た知識によるものではなく、魔力を使った術式を介して導き出された解析の結果。

 体内に埋め込まれているのは千年では効かない程の神秘を内蔵した魔術具、乃ちそれは宝具。衛宮切嗣の手によって死にかけの士郎少年に埋め込まれたそれは今の今まで気づかれることもなく、聖杯戦争でセイバーの魔力を通すことで一度は覚醒したがその後も衛宮の体内で眠り続け、今ここにいたるというわけだ。

 現存する宝具は数少ない。例えば俺が手に入れた干将莫耶、例えばバゼットが持っている『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』。フラガの家の技術で創り出される消費型の宝具である『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』はともかくとして宝具を体に埋め込んだ人間の礼などどこにもありはしない。

 

 

「今のところセイバーも衛宮自身も気づいておらず、セイバーとのパスが切れた今になっては治癒と不死の効果も働いていないようだな。‥‥これ、遠坂嬢達に話さなきゃいけないんだよなぁ。面倒くさ」

 

 

 検査で得た結果は全て彼の師匠である遠坂嬢へと開示することが施術の条件になっている。衛宮自身には公開しないというのがクセモノであるが、まぁこんなものが見つかってしまった以上それが好手だとは思う。これを見た次の瞬間には『じゃあセイバーに返さないと』とか言い出すに決まっているのだから。

 確かにセイバーとのパスが繋がっていない以上、かつてのバーサーカー戦のような不死性は発揮されないだろうが、体内に埋め込まれている以上ある程度の治癒力の向上などが見込めているのは間違いない。憶測になるが恐らく外的要因の怪我などだけでなく、デフォルトの状態に維持するという不死の効果から察するに病気や鍛錬による超回復にも作用しているのではないだろうか。

 それらがいくら微小な効果であるとは言っても、もしもこれを取り出してしまえば今まで通りの戦闘や鍛錬は出来ないだろう。選択肢が多い以上、冷静に思考できる人間である遠坂嬢に判断をゆだねた方が無難かもしれない。

 

 

「‥‥来たか。開いてるから入って構わないよ」

 

「では失礼しますわ」

 

「お邪魔するわね」

 

「あがらせていただきます」

 

 

 玄関の方から聞こえてきた声に返事を返し、俺もカルテをまとめてリビングの方へと行く。

 そこに立っていたのは希代の美少女三人。言わずと知れた時計塔五大アンタッチャブルな人物ことルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに遠坂凜、英霊であるセイバーである。

 俺は適当に書物で埋もれていないソファを指さして座ることを勧めると、自分はキッチンへと向かって四人分のお茶を用意する。この前青子姉に漁られた茶菓子は補充してあるからセイバーが相手でも何とか保つだろう。それに今回はアレのこともあるし少々真面目な話し合いになるはずだ。

 

 

「‥‥で、検査の結果はどうだったの? 蒼崎君」

 

「早速いくね。まぁ大体は俺の予測と同じところといったところかな。衛宮に適正のある魔眼はやはり単純な視力強化という意味での《千里眼》。自分で魔力を使って視力を強化するよりも効率よく、遠くまで見えるようになる。アイツ自身言ってたことだけど、弓を使うんだって? 力量にもよるけどライフルも真っ青な射程を提供できるぞ」

 

「そういえばア‥‥いえ何でもありません。紅茶のお代わりを頂けますか?」

 

「では私が」

 

 

 恐らく『アーチャーが‥‥』と続けようとしたセイバーが失言に気づいて紅茶を飲み干し、お代わりを頼むと、カルテをテーブルの上に広げて説明する俺の手間を煩わせるのを考慮したのかルヴィアがキッチンへと行ってポットに代わりの紅茶を注ぐ。本来ならお嬢様がやる仕事ではないけれどことセイバーが相手ならどうにも話が違うようだ。なんて言うか、セイバー相手だと否応無くこっちが目下のような感情を覚えてしまう。

 俺はわかっているのかそうでないのかはともかくカルテをめくる遠坂嬢に一通りの説明をしていく。魔術回路の本数や性質などは互いに確認のようになってしまったが、ともかくとして互いの認識に誤差を生じさせないという意味でそれらの情報確認は役に立った。

 

 

「で、これは多分遠坂嬢達もわからないことだとは思うんだけど‥‥」

 

「何かあったのですか?」

 

「ああ。衛宮の体の中に‥‥効果はわからないけど何らかの魔術具が埋め込まれている」

 

「‥‥え? そ、それはどういうことですの?」

 

 

 クッキーの滓を口元につけたままキリリと質問してくるセイバーに、俺は今回の調査で一番に重要であろうことについて報告する。宝具を体の中に埋め込んでいるなんてことに仰天したルヴィアはカチャリとらしくもなくカップと受け皿をぶつけて鳴らし、遠坂嬢も目を丸くしてしまっている。

 

 

「それもあって入念な調査をしたから時間ギリギリだったんだよ。あらゆる魔術的な方向から解析の術式を通してその宝具の姿は大体つかめた。‥‥これがそれさ」

 

 

 俺は遠坂嬢に渡したカルテとは別に作っておいたスケッチを彼女に渡す。解析によって浮かび上がって来た結果は俺の頭の中にのみ現れるから、それを他者に伝えようとすると別の手段が必要になる。パスを結んでいればそれを介してイメージを伝えることもできるけど、さすがに俺は他人とパスなんてものは‥‥橙子姉と青子姉を除いて、繋いでない。公式文書に載せるのなら転写の術式などが必要だけど今回はそこまでする必要がなく、よって俺は一番簡単なスケッチという手段をとった。

 X線のようなものではなく視覚的なイメージが入ってくるからシルエットだけということではない。凹凸や紋様の類までばっちりだ。

 

 

「これは‥‥鞘、ですの? 美しい意匠ですわね‥‥」

 

「鞘‥‥まさか‥‥?!」

 

 

 幸いにして絵心があった上にイメージと照らし合わせて描いた俺のスケッチは本物と寸分違うことはなく、その意匠の美しさに感嘆を漏らしたルヴィアの隣にいた遠坂嬢はハッと何かに気づくとその更に横のセイバーへと視線を移した。

 

 

「『全て遠き理想郷(アヴァロン)』‥‥」

 

「セイバー、やっぱり‥‥」

 

 

 セイバーの呟きに遠坂嬢が合点の表情を浮かべ、ルヴィアはぴくりと耳を動かしたが黙ったまま口を挟もうとしなかった。

 セイバーはゆっくりと俺のスケッチへと手を伸ばし、それを胸にかい抱く。秀麗な顔は俯いているために表情を読み取ることができないが、おそらく思わず顔を赤らめてしまう程に美しい笑顔と涙を浮かべているに違いない。その光景はもはや一つの絵画とたとえても不遜はないものであった。

 

 

「ああ、そうか。シロウが、私の鞘だったのですね‥‥」

 

 

 無粋ではあるが、衛宮の恋人はあくまで遠坂嬢だ。セイバーがどのような気持ちで遠坂嬢達について倫敦へとやってきたのかは俺にはわからない。サーヴァントとしての本分を彼女が逸脱するとは思わないが、英霊である彼女とて人間であることには変わりない。

 ルートによっては衛宮と恋仲になる可能性もある彼女。今の一言には一体どのような思いが込められていたのだろうか。

 一筋だけ涙を落としたセイバーをじっと無言で見ていた遠坂嬢にはわかっていたのかもしれないが、四六時中共にいるわけではない俺やセイバーの真名に思い至って色々と考えるところのあるらしいルヴィアには気づけなかったのだった。

 

 

 

 41th act Fin.

 

 

 



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第四十一話 『名教授の邂逅』

 

 

 

 

 side Rin

 

 

 

 

 

「‥‥聖剣(エクスカリバー)の鞘、か。成る程ね、聖杯戦争中の死徒も真っ青ってぐらいの士郎の再生能力ってのは『全て遠き理想郷(アヴァロン)』のおかげだったってこと」

 

「‥‥おそらく、キリツグが昔シロウに埋め込んだのでしょう。どうやって彼がこれを手に入れたのかは分かりませんが、多分、第四次聖杯戦争の際に私を召喚するための触媒として使われたのではないかと」

 

「士郎がセイバーを召喚できたはずだわ。こんな一級の触媒を持ってたんなら、貴女以外喚べるわけないじゃないのよ」

 

 

 しばらく感極まったように俯いていたセイバーが落ち着くのを待ってから、再び紅茶を入れ直して私達は当初の目的である士郎へ渡すプレゼントの相談へと移った。

 セイバーは今だ大事そうに鞘が描かれたスケッチを胸に抱いており、何やら思うところがあるらしいルヴィアは黙ってティーカップに口をつけている。 蒼崎君も何も言わずにこちらを見ていて、どうやら二人とも私達の間で話が一段落するのを待ってくれているようだ。

 ‥‥そうね、よく考えれば士郎がこの後ルヴィアゼリッタの家でバイトしている間に話は終わらせなければいけないわけだし、あんまりのんびりしている時間があるわけじゃあないわね。

 

 

「取り乱しちゃって悪かったわね。お詫びって言ったら何だけど、聞きたいことがあったら答えるわよ?」

 

「‥‥結構ですわ。私もブリテンに名高い彼の騎士王が女性だったというのは驚きでしたけど、さして大袈裟に取り扱うことではありませんし。このことは貸し一つにしておいてさしあげますわ」

 

「くっ、高価くつきそうね、ミス・エーデルフェルト‥‥」

 

「正当な返済を期待しますわ、ミス・トオサカ」

 

 

 ふふんと澄ました顔は相変わらず気に食わないものではあるけれど、不思議と不快感はない。この女も上流階級としてしっかりとした誇りをもっているらしいわね。まったく、性格の不一致さえなければここまで対立も‥‥いや、無理ね。それがこの上ない程に致命的だわ。

 少し沸いてしまった頭を冷やすのと新しいものが来たのもあって冷めてしまった方の紅茶を啜ると、私は気を取り直してカルテをまとめると蒼崎君へと返した。

 

 

「ん、まぁそういうわけで、俺の方は予定通り魔眼の施術を行うつもりだよ。それと‥‥もう一つ贈り物だ」

 

「‥‥?! これってまさか宝具、干将莫耶‥‥!」

 

「カンショウバクヤ? それはもしや、中国(チャイナ)に伝わるという宝剣のことですの?」

 

 

 蒼崎君はニヤリと笑うと予め用意してあったと思しき箱をテーブルの下から取り出した。頑丈な木箱は内外問わずあらゆる魔術干渉をシャットダウンする術式の施された布で何重にも包まれており、ところどころには正しい手順で解呪しなければしっぺ返しを喰らう性質の悪い呪符がとりつけてある。

 そしてその手順で解呪された木箱の蓋をあけると、そこには黒と白の二振りの陰陽剣が納められていたのだ。かつての聖杯戦争で私のアーチャーが使っていたものと瓜二つ‥‥いえ、刀身に刻まれていた護りの文句以外はそっくり同じ。確か干将と莫耶のオリジナルは随分と昔に失われていたとあるけれど‥‥まさか蒼崎君が入手していたとはね。

 

 

「それは誤解だよ遠坂嬢、これは義姉に頼んで取り寄せてもらったものさ。衛宮がどこで見たのかは知らないけど、やっぱりオリジナルがあった方が何かと都合が良いんじゃないかと思ってね」

 

「‥‥詮索はしないでくれると助かるわ、お互いにね。でもありがとう、これはすごい掘り出し物よ」

 

 

 確かに士郎は一度見た剣を投影で自由に造り出すことが出来る。一度解析してしまえばその剣はアイツの剣の丘へと刺さり、後はそこから現実世界へと持ってくるだけ。これだけ聞けばオリジナルなんて持っていても正しく宝の持ち腐れと思うかもしれないが、それも士郎が完全に投影を使いこなせていればの話だ。

 いくら剣に特化しているとは言っても、士郎はまだまだ未熟な魔術使い見習いに過ぎない。確かに解析と投影に関しては他の魔術師達の中でも群を抜いている。しかしそれも周りと比べればの話で、未だアーチャーには遥かに及ばないのが現状だ。

 ソレは乃ち、士郎の解析能力も不完全ということである。聖杯戦争中幾度も目にした干将莫耶は士郎の投影できる剣の中でも一番の精度を持ってはいるけど、オリジナルが無い以上これより精度が上がることはない。ならばオリジナルを手元に置いて何度でも目にすることができるというのは士郎の投影の精度を上げる上でこれ以上にない練習材料であり、最高の贈り物だ。

 

 

「うんうん、喜んでもらえそうで俺も嬉しいよ。で、支払いはどうしようか?」

 

「‥‥は?」

 

「いやね、俺から衛宮への贈り物はホラ、魔眼の施術だし。それは遠坂嬢達にあげようかなぁと思ってるんだよね」

 

「‥‥まさか、蒼崎君」

 

「専門外とはいえ現存する宝具だしね、手元に置いておくのに吝かではないなぁ。どうしようかなぁ、やっぱり自分で持っとこうかなぁ?」

 

「ぐぅ‥‥、ロ、ローンで頼むわ‥‥!」

 

 

 ぎしり、と骨が軋む程に力を入れた拳を机に叩き付けて、ありったけの怒りを込めた瞳で睨んでやる。あら、今の私って《凶運》の魔眼でも持ってるんじゃないかしら? どうしたのよ蒼崎君そんなに怯えて、いやねぇお金はちゃんと払うわよ? ローンで。だからガタガタ震えるのはよしなさいってば。

 

 

「お二人ともおふざけになるのはおよしになって頂戴。カンショウバクヤについてはミス・トオサカが買い取るということでよろしいのよね?」

 

「そうよ‥‥」

 

「では次ですわ。ショウ、私からは防具を贈ることにいたしましたの。シェロはホラ、対魔力が低いでしょう? ですからその辺りをカバーできるものをと思いまして」

 

「私も同じよ。今のところはアイツ、完璧に前衛型だから胸甲でも贈ろうと思ってるわ。ルヴィアゼリッタはどうするのよ?」

 

 

 士郎は投影で魔力の続く限りはいくらでも武器を創り出すことができる。最近ふと気づいたんだけど、士郎の魔力量は普通の魔術師に比べて決して劣っているわけではない。切り札の固有結界の展開が出来るほどじゃないけど、一人でも十分に戦えるだけの魔力は保有しているのだ。

 であれば武器の心配はいらず、今度は防御力の問題がある。何しろあの馬鹿、魔術師のくせして一般人並に対魔力が低い。私の魅了の術にも簡単に引っかかってしまうし、どんなに簡単な魔術も抵抗(レジスト)することができないのだ。結界などの空間や世界の異常には敏感なくせに、全くもって面倒くさいことこの上ない。

 

 

「実は少し伝手がありまして、聖骸布を入手することができましたの」

 

「聖骸布?! それって外界に対する護りじゃない‥‥!」

 

「ほーっほっほっほ! ミス・トオサカではこのようなものを用意できるはずがございませんわね?」

 

「ぐぅう‥‥!」

 

 

 高笑いするルヴィアゼリッタを歯軋りしながら睨みつける。聖骸布とは言わずと知れた聖者の亡骸を包んだ布のことで、主に外界に対する絶対の守護の概念をもっていたり、包んだものを完全に封印してしまったりと多岐にわたって高い効力を発揮する。当然だけど聖者の数なんてたかが知れてるわけで、それを取り寄せるとなると下手すれば今蒼崎君から貰った干将莫耶よりも高価になるかもしれない。

 ‥‥くっ、流石はエーデルフェルト家の次期当主というわけね。金に任せてえらいことしてくれるわ。

 

 

「ルヴィアゼリッタ、その伝手というのは‥‥」

 

「ええ、貴女もご存じの方よ、セイバー。そういえばあの方が貴女を呼んでいらしてよ? ミス・トオサカ」

 

「は? 話が読めないんだけど‥‥誰のことなの?」

 

 

 なにやら全く接点がないと思われた二人の間だけで話が成立していて気にくわない。一体どこで面識をもったのだろか、共通の話題があるようである。

 大体あの方とは一体誰のことだろうか? エーデルフェルト家の次期当主であるルヴィアゼリッタが敬語を使う相手など限られており、そうなると相手はおそらく、少なくともロードクラスの人物や陽樹ということになるのではないだろうか。

 

 

「貴女も本来ならよくご存じでなければならない方ですわ」

 

「もったいつけるのやめてくれないかしら?」

 

 

 ルヴィアゼリッタは話はこれでおしまいとばかりにティーカップの中を空にしてから立ち上がると、おもむろにコチラに振り向いてこういった。

 

 

「貴女の時計塔での後見人‥‥ロード・エルメロイⅡ世ですわ」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「お前が、遠坂凜だな? 遠坂時臣の娘の‥‥」

 

「はい、確かに私が現遠坂家当主の遠坂凜で相違ありません、ロード・エルメロイ」

 

 

 今、俺達はかなり特異な状況におかれていると言っても何ら語弊はないだろう。まずあのそこまで広くないロード・エルメロイの執務室にこれだけの人数が集まっているというのが驚きだが、何より配置がおかしすぎる。

 重厚なマホガニィの机に腰掛けているプロフェッサがいて、その机の前の両端に俺とルヴィアが立っている。そして俺達の目の前にはやや緊張した面持ちの遠坂師弟と、空気を読んで控え目に一歩下がったセイバーが直立不動の姿勢をとっているのだ。

 それは新しく上司から任命を受けた下士官のようであり、その反対にこっぴどく叱られている部下のようでもある。さもありなん、ロード・エルメロイと言えば今の時計塔で最も有名な講師の一人であり、ロードの位階を許された数少ない生粋の貴族でもあるのだから‥‥対外的には。

 その実アレキサンダー大王マニアのゲームヲタクであり、今だ四冠位に過ぎない、魔術師としては哀しい程に非才な秀才でもあるのだが、今のところ遠坂嬢の認識にはそれらの情報はインストールされていないらしい。

 

 

「私は一応お前の後見人といいことになっている‥‥が、お前を師事させるつもりはない。今回呼び出したのは後見人としての最低限の責任を全うするために過ぎず、“例の件”については元弟子と顔見知りと騎士王の頼みだったからに過ぎない。そのことをゆめゆめ忘れないことだ」

 

 

 かつては低い身長と童顔に悩まされたウェイバー少年も、今ではスラリと伸びた痩躯と不機嫌な皺の刻まれた年齢と肩書相応の大人へと成長を遂げている。それは十分な威圧感を目の前に立つ遠坂嬢へと与えるものではあったが、彼女は怯むことなく真っ直ぐにプロフェッサの顔に視線をやると言い放った。

 

 

「失礼ですがロード、私の使い魔が随分とお世話になっているようですけれど、彼女の真名はどこでご存知になられたのですか?」

 

「そう殺気立つな遠坂凜。間違っても彼女から無理矢理、何らかの脅迫などの手段を用いて聞き出したりはしていない」

 

 

 ざわり、と空気が騒ぎ出す程の不穏な気配を放ち始めた遠坂嬢にプロフェッサが全く変わらぬ仏頂面で弁解し、振り返った先のセイバーが頷くのを確認してようやく彼女も僅かに吊り上げた秀麗な眉を元へ戻す。

 自らが従える英霊の真名を知られているというのは———通常、英霊を使い魔として従えていること自体が前代未聞であることは置いておいて———非常に不利な状況をもたらすということは今更説明の余地もないことである。何よりセイバーを家族として扱っている遠坂嬢にしてみれば、自分を引き合いに出されて脅迫などされようものなら脳みそ沸騰モノであろう。

 身内にはとことん甘い魔術師の中でもとりわけ甘い彼女の在り方は非常に好ましいものであるけれど‥‥とりあえず怒らせないように注意しておこう、ウン。

 

 

「凜、彼は前の第四次聖杯戦争の際にマスターの一人だったのです。彼が私の真名を知ったのはその時ですよ」

 

「第四次聖杯戦争の‥‥?!」

 

「いかにも。そのときの私はライダーのマスターとして聖杯戦争に参加していた」

 

 

 これ以上ない程に濃いコーヒーを飲みながらそう呟いたプロフェッサーに、遠坂嬢はかなり複雑な表情を作って振り向いた。さもありなん、彼女の父親である遠坂時臣は先の第四次聖杯戦争で死亡し、帰らぬ者となっているのだ。もしかすれば父の仇かもしれない相手を前にして平静を保っていられる彼女をこそ称賛するべきであろうか。

 両者暫く無言で互いに視線を交わす。俺もルヴィアも何も言い出すことができずに事態の推移を見守っており、衛宮とセイバーも遠坂嬢にこの場を委ねているようだ。

 

 

「安心しろ。遠坂時臣を殺したのは私ではない。‥‥むしろ私のサーヴァントは、奴に敗れたのだからな」

 

「お父様の、サーヴァント‥‥?」

 

「そうだ。あの忌ま忌ましい黄金の英雄王にな」

 

「———?!」

 

「ま、待ってくれ! ギルガメッシュは言峰の‥‥言峰綺礼のサーヴァントじゃなかったのか?!」

 

 

 突然の大暴露に遠坂嬢は目を見開いて絶句し、実際に慢心王ことギルガメッシュと対峙して、あまつさえ撃破までせしめた衛宮が驚愕のあまり普段はそれなりに使いこなせている敬語を完全に忘れて一歩踏み出した。

 ロード・エルメロイⅡ世は他人に侮られることを大変嫌うが、同時に些細なことを気にしない———と言う割には非常に細かく俺達がどうでもいいだろソレと思うようなことでも気に障る面倒臭い講師でもあるのだけれど———人物でもある。従って彼は激した衛宮の目上の人物に対する礼儀を欠いた言葉遣いにも一瞬眉を潜めただけで、ちょうど遠坂嬢の後ろに立っていたセイバーへと目線をやった。

 

 

「凜、シロウ、貴方達に黙って彼とこの件について話し合っていたことについての咎は後ほど甘んじて追求を受けます。しかし、これは先の聖杯戦争の顛末まで含む非常に難しい問題なのです」

 

「騎士王の言う通りだ。一言二言で説明できる程に簡単なものではない。なにしろ私も、第四次聖杯聖杯が終わってかなり経ってから真実を知ることができたのだ」

 

 

 ごく近しい生徒や知り合いを除いた時計塔の内外で知られている冷静沈着で厳格だという評判に反して興奮しやすい彼には珍しく終始声の調子を変化させず、プロフェッサは席を立つと執務室の奥、普段俺がゲームに興じたり、ルヴィアが貴重な魔術書を読み漁ったり、最古参の弟子であるフラット・エスカルドス———にわか魔術師で初代の俺から見ても致命的なまでに魔術師としての在り方に欠けている気さくな青年だ。なまじっか自覚がないだけに衛宮よりよっぽど質が悪く、何人かの学生からは抹殺リストに載せられていると聞く———が管を巻いたりしているスペースへと足を向けた。

 

 

「真実が知りたければ、来るが良い。長い話になるぞ」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 一番にかみつくかと思われた衛宮は黙って遠坂嬢を見ている。どうやら弟子として彼女の判断に任せるようだ。セイバーもまた同じ‥‥というか、彼女は既にプロフェッサと色々相談を済ませてある。サーヴァントとしての越権行為に思わなくもないが、そこは彼女達の関係が主人(マスター)従者(サーヴァント)というよりは家族か友人だということが関係しているのだろう。

 確かに遠坂嬢がセイバーのマスターであり、二人の間でもその辺りはしっかりとわきまえているように思える。だけど普段の生活ではそんなことは全く感じさせられない程に仲が良い。人と人との仲というのは他人では推し量ることができないものであり、何にせよ彼女達は彼女達にとって一番適した関係を結んでいるのだろう。

 

 

「‥‥わかりました。遠坂家を継いだ者として、先代の当主の死に様は聞いておかなければなりません。その話、お伺いします」

 

 

 ちらりと衛宮の方を見て頷いた遠坂嬢がキッと視線をプロフェッサへと向けて言い放つ。それはまるで宣言のようであり、まるで歳に似合わない貫禄を感じさせた。

 プロフェッサは何を思ったのか口元を僅かに歪め、これまた分厚い扉の魔術的にかけられた鍵を開けて手招きする。その目からは『お前達は来るんじゃない』という意志がハッキリと示されていて、隣で聖骸布のことを盾に是非にも極東の島国で行われる第一級の魔術儀式である聖杯戦争の話を聞いてみせようと意気込んでいたルヴィアですら、普段はもうカリスマ講師とは思えない程にどうしようもない教授の発する威圧感に声を出そうとしていた口を閉じた。

 

 

「はは、これはハッキングするのも無理そうだね。遠坂嬢が張ったのかな? 破ることができたとしても術者には気づかれてしまうだろうし」

 

「くぅ‥‥このルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトとあろう者が蚊帳の外にされるとは‥‥。やはり次の聖杯戦争では私自ら参戦するより他ないようですわね」

 

「次‥‥か。その頃には君も俺も遠坂嬢も老人になっちゃってると思うけど?」

 

「それでもです! エーデルフェルトがトオサカに勝ち逃げされるなんて許されないことですわ!」

 

 

 とりあえず勝ち逃げ以前の問題として同じ舞台にも上がれていないと思うのだけれど、ルヴィアは貴重な体験を逃したとしてプンスカ怒っている。エーデルフェルトは第三次の聖杯戦争から遠坂の家と因縁があるそうで、第四次と第五次は一族が揉めていた関係で出場できなかったんだとか。

 そういえばバゼットが根城に用意したのもエーデルフェルトの双子館と呼ばれるもので、出られなくとも魔術協会に恩を売ることを忘れないあたり流石は古い家だと言うところか。これならバゼットも魔術協会からの刺客でありながらエーデルフェルトとも関係があるということになり、実際に聖杯を手にした場合の交渉に有利となる。

 そういう汚いとまでは言わないけれど比較的粘着質な部類に入る腹芸をルヴィアが出来るわけないから、きっと分家とかの古狸が色々と根回ししたんじゃないだろうか。ルヴィアも家の事情なんて大事なことはいくら親友である俺にも漏らさないので、その辺りは噂とかで推測するしかないのだけれど。

 

 

「フン、仕方がありませんわね。では私は早速ロードから頂いたこの聖骸布をコートにでも仕立てることにいたしますわ」

 

「俺もカルテの見直しとオペの手順を確認しないとな。やれやれ、本当に厄介な友人だよ」

 

「そう仰らないで。‥‥魔術師である私達が、このように談笑できる知人を持つということ自体が希有で貴重なことですのよ?」

 

「‥‥まぁ、ね」

 

 

 本来は自己に埋没する生きものである魔術師は、友人などという関係を結ぶことが少ない。遠坂嬢やルヴィアや俺の在り方はそもそも異常であり、橙子姉だって友人と呼べる存在を持っていないのだ。一般人が思っている程、魔術師というのは甘くない。学徒はそこまででもないけれど、それぞれ魔術師として独り立ちすれば他者との関わりは利害関係を一番においたものとなる。

 そんな中で、おそらく生涯の友人とも呼べる存在を俺達は得た。魔術師となるときに橙子姉からも言われて覚悟していたことだ、一人で生きていくということは。それでもなおこのように友人と談笑できるというのはまさに僥倖と言うべくより他ない。

 

 

「どうかな、魔術師として間違ってると思うかい?」

 

「どうでしょう、それは私達が後世に残す成果で判断されることではありませんこと?」

 

「成る程、確かに」

 

 

 もし俺達が何も成果を残せないで死んだら、未来の魔術師達はそれを馴れ合いの結果と、魔術師として不完全であったからだと言うだろう。しかし俺達がしっかりと研究成果を残せば、それは俺達の魔術師としての能力を示すのみならず、俺達という集団の成功をすら意味するだろう。

 まぁ後世の人々にどう評価されるかっていうのはあくまで付録みたいなもので、本来はそんなもの関係なく研究にいそしむコトが正しいわけで。それでもそうやって喋らずにはいられなかったのは多分衛宮を中心として不安に似た感情が伝染していたからなのかもしれない。

 

 地下に位置するロード・エルメロイⅡ世の執務室から階段を上りながら、とりとめのない世間話や雑談を交わして俺達は地上へと出て行く。

 まだ太陽は高いままで、お茶の時間は過ぎてしまったけれど決して遅すぎるというわけではない。昨日の夜からずっと衛宮のために色々な支度をして検査まで行った俺は疲れが濃く、ルヴィアの提案に乗ってひとまず休憩と贔屓にしているカフェテリアへと足を運ぶのだった。

 

 

 

 42th act Fin.

 

 



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番外話 『漂着者の恋空』

シ ス コ ン 回


 

 

 

 side Toko

 

 

 

 

 

「やっぱり、結婚式は和式がいいよね、お義父さんも暗にそっちの方がいいって匂わせてたし‥‥。あ、でも式はウェディングドレスとか着たかったりする?」

 

「オレには似合わない。そんなことより幹也、雑事は秋隆がやるって言ってたんだから、お前があれこれ考えなくてもいいんだぞ?」

 

「そう? でもホラ、こういうのってやっぱり考えるのも楽しみの内だしさ。まぁ式がやりたくないって言うなら別に———」

 

「そんなコト言ってないだろ。‥‥あぁ、披露宴‥‥っていうのか? そういうのは両儀の家でやるらしいから、他のことを考えようぜ」

 

 

 ‥‥作業がまったく進まない。今日の昼間から数えても都合十云本目になろうかという煙草の灰を灰皿に落としながら、私はわざと聞こえよがしに溜息をつく。

 まぁ、聞こえちゃいないだろうがね。

 街中に蔓延っているカップルが発する空気とやらとは違い、まるで浮ついてなどいないが、それでも幸せだという雰囲気は自ずとコチラの私的領域を領空侵犯しつつある。

 

 そもそも仕事場で自分達の私的な相談をするなど、いくら当面の仕事が片付いたのだとしても社員としてなっちゃいない。

 あろうことか片割れは社員ですらないというのにだ。

 まぁ身内に勘定されているし、まず最初の前提からしてココが厳格な職場ではないのだから違和感があるというわけではないが、間違いなくいちゃついていると形容してもいいだろうバカップルの、それも結婚式の相談など見ているだけでヤニが足りなくなってしまう。

 ‥‥まったく、出来た義弟から一日の本数を減らすように注意されているというのに、また今日の目安をオーバーしてしまうではないか。

 貴様らのせいなんだからな。私自身が吸いたくて吸うわけではないのだからな。

 

 

「‥‥おい」

 

「僕は、式にも似合うと思うけどな、真っ白のウェディングドレス。どうせ両儀の家では和服なんだから、着てみるってのも悪くないんじゃない?」

 

「‥‥お前が、見たいって言うなら、着てやらないこともない」

 

「‥‥おーい、聞こえてるのか?」

 

 

 間違いなく聞こえちゃいないだろうが、それでも一応声をかけることはやめられない。

 例えば完成したドミノを目の前にお預けを喰らっている状況が精神衛生上非常によくないように、この、一見そっけないようで、その実これ以上ないくらいに幸せオーラを撒き散らしている二人を只受動的に見ているだけというのは、例え私にそのようなものに対するやっかみといったものがないにせよ、非常にキツイものがあるのだ。

 これで鮮花がいたならば、間違いなく師である私の前であることも構わず大爆発したであろうことは疑問を挟む余地がない。

 只でさえ想いを寄せている実の兄を横から掠っていった———鮮花が先に唾をつけていたというわけでもあるまいし、甚だ理不尽な難癖ではあるな。武者修業と称してアプローチなど一切やっていなかったのだから油揚げをひっ掠われるのも当然だと言える。大体あの二人に関して言えば、もはや運命という存在を証明したかのような必然の出会いだったとしか思えん———式を相手に、リミッターを外して挑むことだろう。

 

 

「コラ、いい加減に職場でいちゃつくのはやめろ。風紀が乱れる」

 

 

 カツン、と僅かに持ち上げた重厚な作りをしたアンティークの灰皿が音を立て、人の声よりも幾分よく通る無機質な音に二人はようやくこちらに振り返った。

 黒桐は私の言葉を額面通りに受け取ったのか少し申し訳なさそうな顔をしてはいるが自然体で、一方の婚約者はと言えば、てっきり真っ赤になってナイフを抜くかとでも思っていたのに、かなり不機嫌な顔でこちらを睨みつけるのみであった。

 ‥‥おいおい、まさかと思うが二人の時間を邪魔されて怒っているとでも言いたいのか?

 周りに無頓着な奴だということは知ってはいたが、まさかそんな反応を返すとは夢にも思わなかったぞ。

 ‥‥ふむ、程度の差こそあれ、やはり式でも色ボケという病にはかかってしまっていたのだと言うことか。

 

 

「なんだ橙子、オレ達は忙しいんだが。用事があるなら早く言ってくれ。今すぐ殺しに行ってやる」

 

「おやおや物騒なことだ。私はただ、私用なら君達の家でやってはどうかと奨めるつもりだっただけなんだがね」

 

 

 今度こそ腰に差したナイフを抜こうとする式を適当にかわし、黒桐が宥めたのを横目で確認するとコーヒーを要求する。

 今日の仕事は止めだ、もう一切やる気が起こらん。

 そんな私に黒桐も特に言いたいことはないのか素直に指示に従ってシンクへと向かい、やかんに水を注いで湯を沸かし始めた。

 黒桐を取られた式は静かに不機嫌をアピールしているわけだが、実際問題としてストッパーである黒桐が有能なので、式一人だけが不機嫌ならばさほど問題は発生しない。

 これに浅上藤乃と鮮花が混じって三竦みとなると流石の黒桐も力負けするわけだが‥‥。

 最近は間桐がいるからか、そこまで深刻な状況へと発展したことはないな。

 あれでいてかなり暗いものを抱え込んだ娘なわけだが、普段は温厚で気配りの効く良妻賢母タイプと評しても構うまいよ。

 まぁ、一度スイッチが入ると藤乃と二人で負のオーラを振り撒くから始末に負えんが。

 

 

「うーん、それにしても鮮花と桜ちゃん、無事に倫敦に着いたかなぁ‥‥」

 

「別に誰かに狙われるようなことはしていない。そう心配しなくても大丈夫だろう。魔術師といっても普段からそこまで物騒なわけではないぞ」

 

 

 さして美味くもないコーヒーを受け取って一口啜り、私の弟子二人の安否を気遣う従業員を安心させるわけでもなく只事実だけを口にする。

 どちらかといえば魔術よりかは超能力に関連した事件ばかりに関わっていた黒桐だが、それでも魔術というものを些か過剰に危険視しているらしい。

 妹である鮮花が私に弟子入りした時も最後の最後まで反対していたし、今だって時折渋い顔をする。

 まったく、小学生ではないのだから少しは妹の好きにさせてやればいいものを、存外に頭の古い男だな、コイツも。

 

 ‥‥まぁ黒桐の考えていることも、あながち的外れというわけではないな。魔術師は須らく物騒な人種であるべきだし、実際殆どの魔術師———勿論だが私も含める。身内には甘いが、それもまた魔術師という連中の習い性みたいなものでね。孤独であろうとするからこそ、意外なまでに淋しがり屋なんだよ、私達はな———はそうやって自らを魔術師たらしめていると言えよう。

 そういったささやかな矜持を保っていないと自信が薄れてしまうというものもあるが、まぁ臆病であることもまた魔術師であることなのかもしれん。

 

 

「確か、時計塔‥‥でしたっけ?」

 

「あぁ。魔術師達の最高学府の一つにして、立派な人外魔境さ。あそこで日々を過ごす術を会得できれば、一人前の魔術師だな」

 

「ちょ、所長それってやっぱり危険ってことじゃないですか!」

 

 

 なに、嘘は言ってないさ。少なくとも倫敦に到着するまでに二人に何かあるとは思えないからな。というより手を出すメリットがない。

 私の封印指定の執行は義弟(おとうと)その他のおかげで凍結されているし、誰かの怨みを買うような下手な立ち回りなどはした覚えがない。

 外道にしたって面倒を避けられないようでは二流だよ。一流なら誰からも面倒を貰わないように、上手く立ち回るものだ。私は外道などではないがね。

 

 だいたい今回の渡英はあくまで事前の視察のようなものであって、すぐに帰ってくるのだから、そこまで心配することもないだろうに。鮮花にしたってまだ両親から留学の許可を貰っていないわけだから、本格的に時計塔へ入学するにはまだまだ時間がかかるだろう。

 あれは兄を振り向かせる小細工の一環として必要以上に病弱を装ったのが完全に裏目に出たな。あの頑固さは流石は黒桐の両親といったところか。魔術について隠しながらでは、どれだけ説得に手間取ることやら。

 

 

「まぁ奴が熱心なのも当然だよ。どんなに真面目でも、鮮花は魔術師のなり損ないに過ぎん。積み上げた歴史もなく、次代に成果を遺せるわけでもない異能者が成功するには、時計塔を卒業したという箔付けが必要不可欠だ」

 

 

 その目的というのが兄に自分を認めさせるということなのだから、生粋の魔術師が聞いたら噴飯するか発憤するか‥‥。

 まぁ厳密に言えば魔術を行使する者ではない鮮花を構ってやる魔術師が時計塔にいるかと言われれば、甚だ疑問ではあるがね。あそこは俗物とそれ以外の境界がはっきりしているわりに、どいつもこいつも人を見下すことに関してだけは一流ときている。

 そんな連中が、厳密に言えば魔術師とは言えないという鮮花のステータスを見てなお、彼女に関わろうとする可能性は少ないだろう。

 何故なら自分たちより劣る人間———という風に彼らが決めつけた人間———と関わることは、それだけで彼らの品位を貶めることになるのだと、傲慢にも考えているからだ。いや、魔術師という人種の特性を考えると、当然ではあるのか。

 まったく、確かに鮮花は魔術師としては大成できないだろうが、異能の関係上、戦闘に関して言えば間違いなく一流に成長するだろうにな。

 なにせ運動神経も良いし、今の段階でもかなりの火力を保有している。身内で炎の使い手と言われて真っ先に思い浮かぶコルネリウスに比べればまだ練度が足りないが、将来的には奴を越えるであろうことは疑問を挟む余地がない。

 コルネリウスもコルネリウスで確かに優れた魔術師ではあったのだが、如何せん本人の性格に問題が大ありだったからな‥‥。

 過ぎたことをどうこう言う性分ではないが、今になって思えばあの二人だって時計塔の中では幾分マシな部類であったか。俗物であったコルネリウスにしたって、まぁ友人付き合いができていただけ他よりは遥かに優る。

 

 

「鮮花もなぁ、魔術にばかり夢中になってないで、早く恋人でも見つければいいのに‥‥。うーん、でもそれはそれでやっぱり寂しいなぁ‥‥」

 

「兄心、というやつか? 私には理解しかねるが、世の長男長女というのはそういうものなのかもしれんな」

 

 

 自分で言うのも何だが、私はつい最近まで家族愛というものに関して全くと言って良い程に興味を持てなかった。

 なにしろ妹からしてアレだし、祖父だって私自身の手で殺してしまったからな。両親とも完全に勘当状態だから随分と会っていないし、会いたいとも思わん。

 実際どうして自分があの酷い雨の日に今の義弟となった子供を拾おうと思ったのか、正直理解に苦しむ。あのときは余程どうかしていたのだろう、まさか前日に戯れに観た、映画の影響を受けたとは思いたくないが。

 

 

「そういえば‥‥紫遙君って、誰か好きな人とかいないのかな?」

 

「紫遙か‥‥。ふむ、考えてみれば聞いたことがないな」

 

 

 今は倫敦でトラブルメイカー共に囲まれているのであろう義弟を思い返す。

 小学校の自分から成長を眺めていたが、アイツの記憶が確かならば、既にその段階で高校生程度の情緒を獲得していた義弟(おとうと)が小学生相手に恋慕の情を抱くわけもなし、中学校に上がっても大してハンサムでもなく、積極的に異性との関わりを持とうという姿勢もない紫遙に浮いた話など殆どなかった。

 というよりは、基本的にアイツの生活というものは私との魔術の修練に費やされていたわけで、そういえば何度か学校の方から授業態度が悪いと連絡が来ていたな。

 アイツの記憶と話から垣間見た遠坂とやらの完璧ぶりをトレースするのは無理だったようで、なんでも居眠りばかりしていたのだとか。個人差はあれど基本的に魔術の修練とは夜中に行うものであるし、昼間に動きが鈍くなるのは仕方がないことではある。

 

 これが基礎的な修練を終え、自分自身の研究に腐心するようになると、また話は別なのだが‥‥。もとより魔術師の家系ではない初代の魔術師である紫遙に魔術を教え込ませるのは非常に手間をくった。

 スポーツにおいても試合に出ることができるようになるには時間がかかるように、魔術も一人前に育て上げるにはそれなりの時間というものがかかる。仕方がないことではあるが、Fateとやらを始めとしたゲームの中の現実を知っていながら、どうして魔術師という道を選んだのやら‥‥。

 

 ‥‥私は確かに選択肢の一つとして魔術師になることを幼い——―魂は別として、外見は———紫遙に提示はしたが、別に魔術師になって欲しいなどと言ったことは一度もない。

 紫遙が私達と暮らし始めてから数年経ってから答えを貰ったということで、もしかしたらその数年間の間に私達では気づけなかった何かが、アイツの心中で起こったのかもしれないが‥‥。はてはて、一体何を思ったのやら。

 アイツの前で頻繁に魔術を使った覚えもないし、工房の中を覗かせたこともないのだがな。‥‥いや、折に触れてそういう話はしていたか。

 まさかと思うが、私に憧れて‥‥なんて殊勝なことではないだろうな。だとすればまぁ、多少は嬉しく思わないこともないわけだが。

 

 

「‥‥いや待て、確か一度だけ、そう、まるで白昼夢でも見たような、(ほう)けた顔で帰ってきたことがあったな」

 

「そうなんですか?」

 

「あれは確か高校を卒業した日のことだったか。お前達はちょうど留守にしていたが‥‥」

 

 

 私達の前ではくるくる表情を変える紫遙だが、私があのような表情を見たのは後にも先にもあれ一回きりだった。

 あれは一体どう形容するべきか。まるで狐狸妖怪に化かされたかのような、目の前で何やら不思議なことでも見てしまったかのような、また、何かに心を奪われたかのような‥‥。

 あぁ、そうだ、あれは確かに、何かに心奪われた表情、乃ち恋でもしてしまったかのような表情だった。

 

 私とて今でこそこのような生活をしているが、普通の娘であった時期がなかったわけではない。

 こら、黒桐、何を不思議そうな顔をしている。まさか私がこのままの姿でこの世に誕生したとでも思っているわけではあるまい。私にだって、少女時代などと呼称される時代はあったのだよ。まぁ比較的短く、裏側に魔術師としての色々があったわけだがね。

 とにかくだ、それにしたってそういう経験値というのが普通の女性に比べて少ない私にしても、それ以上に義姉(あね)として、紫遙のあの時の不可思議な態度はピンと来るものがあったのは確かだよ。

 とは言ってもあれっきりのことではあったし、翌日には元通りになっていたから追求もせず、すぐに記憶の底の方へと埋もれてしまったがね。

 

 何よりそういう下世話な欲求というものはね、歳の離れた義弟に向けるようなものではないと思うのだよ。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「‥‥はぁ、やってられないな、まったく」

 

 

 誰もいない公園のベンチ。夕焼けがそこかしこを綺麗な茜色へと染めつつあり、俺はその中で独りぼっち、何をするわけでもなく呆然と古くさい木が軋むのも構わず体から力を抜いて溜息をついた。

 高校から少しだけ離れたココは通学路からも少々と言わず外れているけど、どうにもそのまま一直線に歩いて帰る気も起こらず、ちょうど目の前に止まったバスに乗り込んだ結果がこれだった。

 とは言っても流石にどこまでも乱暴なタイヤの揺れに身を任せるほど責任感がないわけでもなく、のっぴきならないほど遠いところへ行ってしまう前に降りたから精々が隣町といったところだろう。

 けど、どうにも自分がこんなに衝動的な部分を持っていたということが不思議でならない。人生とは、発見の連続である。

 

 

「ここ、どこかな‥‥。大通りに行けば分かるんだろうけど、面倒臭い‥‥」

 

 

 戸籍の住所登録がどうなっているかなんてのは知らないが、少なくとも俺の居住地は観布子(みふね)という雑多な街のはずで、頭の中で簡単な地図を広げてバスが辿ったであろう道を———途中で明らかに住宅地である界隈へと潜り込んでしまったがためにトレースするのが難しくなってはいるけど———当てはめると、正直な話、あまり居てはいけないような場所に自分がいるような気がして身震いしてしまう。

 観布子から駅幾つかだけ離れた場所にある、日本でも有数の霊地の一つ、“三咲”。

 俺の名前の上に君臨している、まぁつまるところ苗字である“蒼崎”が根城にしている場所であり、ついでに言うと俺の保護者である蒼崎橙子はそこの長女で、しかも半ば以上の勘当状態。

 なにしろ義姉は祖父をブチ殺して家を出て行ってしまったので、三咲の地に踏み入ることを禁止されている。そしてそんな義姉に拾われた俺の存在が本家にバレているかどうかなんてことは、慮外の内ではあるのだけど‥‥。それにしても立場上ココが三咲ならば速やかに立ち去るのがベスト。

 というより何かあったら殺されてしまうかもしれないのだから、一も二もなく逃げ出した方が絶対に良い。

 

 

「でもなー、動きたくないんだよなー。しかもなんか、腹減ったな‥‥」

 

 

 自分の感情を処理できない奴はゴミだそうだけど、それにしたって感情が肉体を動かすことの方が多いのだから俺が今動きたくないというのも仕方がない話。

 とにもかくにも空腹を覚えたので、貰った紅白まんじゅうを取り出して一口囓る。

 ‥‥甘ったるい。当然なのだが、どうにもこれは単体で食べるのは難しいなぁ。

 別段甘いものが苦手というわけではないけれど、それにしたってこういったものは“お茶受け”と呼ばれているのだからペアとなる飲み物を調達しなければ美味しく頂けないのも道理。面倒くさいが十数メートルならと体を起こし、視界の端っこに見えた自動販売機で暖かい緑茶を購入。ベンチに戻って黙々と二つの饅頭を平らげた。

 

 今日は俺の高校の卒業式。そして俺は卒業生だった。

 かねてより魔術師としての色々で付き合いが非常に悪かった俺はクラスの集まりからも自然とあぶれてしまい、こうして一人で暇をもてあましているというわけだ。

 別に友人がいなかったというわけでもないし、特別社交的でなかったというわけでもないのだけれど‥‥。やはり魔術師という人種である以上は周りと隔絶してしまう宿命だということか。

 なんとなく、というレベルではあった。しかし、それでも現実に俺はこうして一人でいる。

 

 

「来週には、倫敦か‥‥。まったく橙子姉も強引で困る。別に行きたくないわけじゃないのに、勝手に決めちゃうんだもなぁ」

 

 

 人としても魔術師としても一番に尊敬する上の義姉から、大学受験について考えている時に一方的に押しつけられた選択肢。

 魔術師として、それは当然選ぶべきものではあったのだけど、どうにも他人の言いなりになっているような気がして愉快ではない。それが誰よりも尊敬している義姉の指示であっても、結局自分が誰に言われなくてもそちらを選んだであろうことがわかっていても、だ。

 

 それは時期遅れの反抗期に近いものだったのかもしれないけど、そういう程には強烈なものではなかったし、長く続くというものでもなかったように思える。

 ただ時期が悪かった。何かのアルゴリズムときっちり噛み合って、俺を不機嫌にさせているだけの話なのだ。

 そういうのは後になって思えば穏やかで冷静な気持ちで考察することができるのだろうけれど、当事者として直面してみれば往々にしてこの上ない大問題であるかのように感じてしまう。

 

 つまるところ早く帰って橙子姉や幹也さん、式、鮮花、藤乃君、ともすれば青子姉達が開いてくれるであろう卒業祝いのパーティーに期待せずにこうしているのは、体に魂が引きずられてもなお幼くあることを拒絶したいつぞやの反動であるようにも思える。

 まぁそこまで深刻な問題ではなく、ようやく魂の記憶と体が結合したがために色々と吹きだしているというだけの話なのかもしれないけど。

 ‥‥あれ、どっちが複雑なんだ? どうにも頭の調子まで良くないらしい。

 

 

「‥‥まぁ、あれだ。煙草でも吸ったら帰るかね」

 

 

 だがこうしてぼんやりとしているのにも限界がある。実際には何時までもここで何をするともなしに延々座っていられそうなのだけれど、前述の話もあるし、遅い帰りになってしまうと皆に心配をかけてしまう。

 橙子姉とか式とか鮮花はそうでもないかもしれないけど、幹也さんや藤乃君は間違いなく心配するだろうし、青子姉なんてところ構わず探しに来たりしかねない。

 ‥‥幹也さんなら人伝てに聞き込みして三十分とかからずに俺の居場所を見つけ出しそうだし。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 さらに言うならば、天気もかなり不安気だ。

 さっきまでは夕焼けが差していたはずの公園は、いつの間にか真っ暗になってしまっていた。存外、自分は長い間ぼんやりとしていたらしい。

 昨日降った雨のせいか何処からか霧まで立ちこめて来ていて、まるで倫敦はこんな場所なんだよと俺に教えてくれているかのようだ。

 まったく、温暖化と騒がれている割には、最近は本当に寒い。卒業式に合わせて咲いてくれた桜並木には、根性あるなと労いの言葉をかけてやるべきだろう。

 

 

「心許ない、残りは一箱」

 

 

 そう考えると俺は一向にやる気を見せない上半身と首を無理矢理に動かし、学ランの内ポケットから愛用している煙草を取り出した。

 早々頻繁に吸うわけではないのだけど、いつ頃からか橙子姉の真似をして吸い始めたもので、こういうあたりを叱らない橙子姉とは普通に目の前で吸ったりしている。

 本当は銘柄まで合わせたかったのだけれど、アレは俺にはキツ過ぎる。普通にコンビニなどで売っているものが限界だ。少し(ひしゃ)げてしまった箱の側面をやや強く叩いて一本取り出し、口に咥えた。

 次いであちらこちらのポケットをまさぐってみるけど、どうにもライターが見つからない。まさに片手落ちとはこのことであろうか、俺は仕方がないと咥えた煙草の先へと指を持っていき、弾いて魔術を使って火を点けようとして———

 

 

「コラ、高校生が煙草なんて吸っちゃダメでしょ」

 

「‥‥は?」

 

 

 後ろから伸びてきた腕にヒョイと煙草を取り上げられて、間の抜けた声を出す羽目になった。

 全く気配を悟らせずに———と恰好よく言ってはみたけれど、よくよく考えれば俺に他人の気配を読むなんてできるわけがない———すぐ後ろにまで他人がやって来たというのにも驚いたけど、なにより自然で何気ないその動作と透き通るようでいて快活で、力強い、どこぞで聞いたような響きに胸を揺さぶられた。

 

 

「ハイ、貴方、こんなところで何やってるの?」

 

「何って‥‥今まさに吸おうとしていた煙草を、君にひったくられたばかりだけど?」

 

 

 振り返れば、ベンチの背に腰掛けるようにしてコチラを見ていたのは俺とそう歳の変わらないであろう少女。

 黄土色の素っ気ない仕立ての制服の上から裾の短いコートを羽織り、腰まで届くかという茶色がかった髪の毛が小首を傾げると同時にサラリと揺れる。

 街灯の明かりはまるでスポットライトのように彼女に降り注ぎ、少し俺よりも高いところに目線があるためか、まるで舞台女優でも見ているような気分だ。

 茶色のスカートはミニに近く、俺からの視点ですれば非常に際どいところに座っているはずなのに中身は見えない。もちろん見たいとか思っているわけではない———それでも視線が僅かに、一瞬だけ行ってしまったのは男なのだから仕方がないと思う———のだけど、そこから伸びる真っ白な足にドキリとしてしまう自分がいるのは否めない。

 なにしろ一切の世辞を含まず、綺麗なのだ。

 

 その子は不機嫌を装った俺の意図に気づいているのか、ぶっきらぼうな言葉にもニコリと笑ってひらりとベンチから飛び降り、スタスタと俺の目の前まで回り込む。

 座っているから相対的な身長差が曖昧でよくわからないのだけれど、そこまで背が高いわけではない。しかし全身から発散されている雰囲気というものが彼女の快活な気質を主張していて、おそらく立って見下ろしても見下ろしている気がしないだろう。

 

 

「この辺りでは見ない顔だけど‥‥どうかしたの?」

 

「見ないって、君はこの街の男子高校生の顔を全て覚えているのかい?」

 

「うーん、大概の不良だったら一度は蹴り飛ばしてるからね。煙草吸ってるぐらいだからワルだと思ったんだけど、図星?」

 

「‥‥別に不良やってるわけじゃない。煙草吸ってる奴がみんな不良ってわけじゃないだろ」

 

 

 大人ぶっているつもりか斜に構えたつもりか、自分でもよくわからないままにそう返しはしたけど、確かに学ラン姿の若い男がベンチで煙草など吹かしていれば、間違いなく不良に見られてしまうだろう。

 どちらにしても通報されるか注意されるか、もしくは遠巻きに迂回されてしまうか。喧嘩などとは無縁の生活をしているし授業だって真面目に出ているのに、そういう風に判断されてしまうってのはやっぱり見た目が大事だという証明なのか。

 もっとも授業は寝てばかりだし、喧嘩なんかよりも遥かに物騒なものに関わっているわけだけど。

 

 

(しかしまぁ、大概の不良は蹴り飛ばしてるなんてこの子の方がよっぽど不良みたいな生活してるんじゃないか)

 

 

 それでも何となく説得力があるのは、やっぱりこの子から受ける印象のせいだろうか。生憎と初対面の相手の人間性を見抜く程の眼力は会得していない。けど、この子に関してはむしろ彼女からコチラへと主張してきているのだから自ずと理解させられてしまうというものである。

 良くも悪くも普通の生活をしていた前世では全く分からなかったことだ。でも、こちらの世界に来てからは、絶対的な存在感のある人物というのが確かに居るのだと実感させられた。

 例えばその傾向が顕著なのは式。たとえ混雑度200%超の街中であろうと、式がいれば何十メートル先からでも発見できる。それほどの存在感を常に辺りにまき散らしているのだ。

 ちなみにこれが幹也さんなら百メートル先からでも視認できるだろうけど‥‥割愛。あの人は最近とみにストーキングの達人なんじゃないかって疑惑が芽生えてきているから。

 

 

「うーん、でも私は今まで煙草吸ってるような連中はみんな蹴り飛ばしてきたからね。貴方も蹴り飛ばされておく?」

 

「遠慮するよ。煙草は君に取られちゃったし、それじゃ蹴られ損だ」

 

「あら、可愛い女の子と知り合えたんだから、損なんかじゃないんじゃない?」

 

 

 自分で言うか、と毒づく気にもならない。なぜなら確かに彼女は美人だからだ。

 それでもなお親しみやすさの値がMAXなのは彼女の性格なのだろうけど、まったく嫌味に聞こえないのには下心がない完全な冗談だからだろう。

 一瞬「確かにその通りだね」と返してしまおうかという、嫌味で打算の含まれた衝動がわき起こった。まぁ残念ながら俺はそこまで度胸のある人間でも、ナルシストでもない。

 そういう気障な台詞はフラクラスキル保持者か、本当にその台詞が似合う奴しか口にしてはいけないのだ。

 

 

「で、貴方一体どこの人? そんな野暮ったい学ラン、この辺りの高校じゃないもの」

 

「‥‥多分、駅二つか三つぐらい先だよ。ぼんやりバスに乗ってたら乗り過ごしちゃってね。しばらくここでのんびりしてから、帰ろうと思ってたところさ」

 

 

 その学ラン姿の奴を蹴り飛ばした覚えがないしね、と続けた彼女の問いに答えた俺に、ふーんと興味なさげに返して、その子は乱暴に頭の後ろを掻く。

 色気の欠片もない仕草だけど、むしろそういう方が彼女には似合っているのだろう。

 実際知らない男と二人きりという状況なのに、全く気負いを感じない辺りから容易に想像がつく。こちらとしても意識されるより楽で良い。

 

 しかしまぁ、考えてみればおかしな状況だ。

 そもそも煙草を吹かそうとしていた学生なんて近寄りたくないだろう存在に近寄ろうとしたこの子も不思議。でも、それ以上に知らない女の子相手に普通に話をしている俺とて普段のノリではない。

 自分で言うのも何だが、俺は結構な人見知りである。

 原作とかで人物像を把握しているならともかく、知らない人相手にこうして気楽に話すことができる性分ではない。

 

 

「ふーん、随分とまた暇してるのね。卒業式の後なのに一人ってことは‥‥もしかして虐められてたりした?」

 

「ぶぅっ?! な、なんでそうなるんだよ!」

 

「あら図星? もしかして煙草吸ってるのも強がりだったりする?」

 

「そんなことがあるか!」

 

 

 まるで白のオセロをひっくり返したら当然それは黒であるとでも言うかのような調子で手鼓(てつづみ)を売った彼女に、俺は思わず立ち上がって抗議してしまった。

 むしろそれでは逆効果なわけで、コロコロというよりはカラカラと元気に笑う女の子は更に意地の悪い笑みを深くすると、少し体を前屈みにさせて下から見上げるようにこちらへと視線を寄越す。

 

 

(‥‥なんだよ、この子)

 

 

 思った通り身長は俺よりも幾分低く、それでいて小柄というわけではない。

 前述した通り彼女自身が発する雰囲気と相俟って、むしろ長身であるという印象すら受けるだろう。

 明らかに日本人であるくせに大きくてクリクリと動く瞳の色は、透き通った海か空のような、少し碧が混ざった美しい青。

 空の色は海の色が反射しているから青いのだという嘘っぱち。そんなものはとうの昔に了承していたけど、彼女の瞳の中にはまるで一つの世界がそのまま入っているかのようだった。

 当然俺の気のせいだろうけれど、どこからか草原を吹き抜ける風を感じたような気までした。

 

 

「大体、どうして俺が卒業式の帰りだって気付いたんだい? 別に花束も持ってなけりゃ、胸に造花を差してるわけでも、第二ボタンが毟られてるわけでもない」

 

「何言ってるのよ。そこにホラ、食べたばかりの紅白饅頭があるじゃない。兄姉の式に参列したなら、一人でボケーッとしてるわけないしね」

 

 

 言われて振り返ってみれば確かに、俺が今しがた立ち上がったばかりのベンチには乱雑に解いた紅白の包装が無造作に放置してある。成る程、これじゃ言い当てられてしまっても仕方がない。

 面倒くさい連中の目についたら良いカモにされてしまいそうなぐらいに、卒業という儀式を経て学校の枷から逃れ、解放感からいい気になっている少年そのものだ。

 

 そういえば今まで他人よりは無駄に、人生を過ごした経験値が多いだけに周りの同年代を子供に見がちだったけれど、よくよく考えてみれば俺はもう前世の時の年齢を追い抜いてしまった。

 こうして思い起こしてみれば、魔術云々の違いこそあれ、さほど変わらない生活をしていたようにも感じる。一回目よりは周りに大人が多かったにも関わらず、やはり魂は体に引きずられるということか、それとも俺自身がそもそも子供っぽいということか‥‥。

 

 

「―――まぁアレよね、魔術師が虐められるってのも中々想像できない姿かしら」

 

「ッ! ‥‥君、一体何者だい?」

 

 

 何気なく目の前の少女の口から飛び出した言葉に、咄嗟に距離を‥‥いや、ベンチが邪魔で動けないから、せめてもの警戒としてポケットに手を突っ込み、中に数個だけ忍ばせていたルーン石を掴む。

 ‥‥それなりに修業を積んだ魔術師なら、相手がよほど強力な隠蔽を施していない限り互いを認識することができる。まだまだ修業中の粋を出ていない俺では上手く見破ることはできないけど、それが出来た彼女は見た目通りの年齢ではないか、何百年と続く血脈に支えられたサラブレッドか‥‥。

 どちらにしたって、ろくに実戦経験もない俺で敵う相手ではないだろう。まさかここまで俗世の香りに(まみ)れた女の子が魔術師だとは思わなかったけど‥‥。

 よくよく考えてみれば俺が相対したことのある魔術師は義姉(あね)二人だけ。

 見るからに魔術師である橙子姉と、親しみやすそうに見えてどこか“超えてしまった”という印象のある青子姉だけで、魔術師というものを判断していいわけがなかったのだ。

 

 

「一応決まり文句として聞いておくけど、なんで俺が魔術師だなんて思ったんだい?」

 

「だって貴方、煙草はくわえてたけどライターもマッチも持ってなかったもの。知り合いにそうやって煙草点ける奴がいたから、ピンと来たのよね。カマかけてみたんだけど、今の貴方の態度で確信したわ」

 

「‥‥こりゃあ一本とられたな。俺もまだまだ半人前ってことか」

 

 

 無手で、しかも魔術回路を励起(れいき)させる素振りすらない彼女に戦闘を行う意思はないようだが、こと魔術師相手に油断は禁物だ。

 残念なことにまだ、というよりは当分未完成ではあるけれど、俺は研究している魔術の特性から精神干渉などの攻撃に対する耐性は高めだ。もとより彼の衛宮士郎や遠野志貴以上に重大な秘密を抱え込む身、様々な手段でプロテクトをかけている。

 彼女がたとえ魔眼持ち(ノウブルカラー)であったとしても早々安々と暗示になどかかりはしない。

 

 

「そう身構えないで頂戴。そっちから仕掛けてくるならともかく、今はそんな気分じゃないもの、やり合う気はないわよ」

 

「‥‥信用できるとでも? 幸い師匠が厳しくてね、隙は見せないようにしっかりと躾られてるんだ」

 

「今更じゃない? まぁ気が済まないなら何時でも私を吹っ飛ばせるように用意しておけばいいわ。ホラ、ずっと馬鹿みたいに立ってるのもなんだし、座りましょう?」

 

 

 こちらも言葉だけは強がっているが、その実向こうに戦意がないと知って安心してしまっている自分がいる。なにしろ今の台詞の中にも、『たとえ襲いかかってこられても返り討ちにできる』という自信が溢れているように感じたのだ。

 自分と相手の戦力差を感じ取ることができるような武芸者ではないが、そのニュアンスだけはしっかりと理解できた。

 

 

(‥‥甘く見られたもんだ)

 

 

 しかし何の気負いもなしにごくごく自然な仕種で彼女は俺のすぐ横を通り過ぎると、今しがた俺が腰掛けていたベンチに座って自分の隣をバンバンと叩いてアピールする。

 未だ警戒を緩めるつもりはなかったけど、その仕草がやけに親しみやすくて、俺は念のために片手はポケットに入れたままで溜息をつくと、ベンチの上に放置してあった饅頭の包装をすぐ近くの屑籠へと放る。そして、素直に誘いに乗って腰を下ろしたのであった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「それで彼の妹さんが怒っちゃってね。そこにいた恋人も巻き込んで大乱闘ってわけさ」

 

「アハハ、愉快な人達ばっかりなのね!」

 

 

 交わされる会話は実にたわいもないものだ。互いに魔術関連の話はせず、只、日常生活で起こった面白可笑しなことばかり話している。

 もっとも申し合わせたわけでもないのに固有名詞は一切出さず、自己紹介すらしていない。

 どうせ一期一会、だとすればそちらの方が風情があると彼女が主張したのだけれど、単純に機会というものを逸したがために、俺は口に出せなかったというのもあるかもしれない。

 そういう時にこちらからアプローチをかけるというのは、非常に恥ずかしいものだった。

 

 

(‥‥不思議な子だな)

 

 

 俺の話す内容は伽藍の洞———勿論これも名前を出してはいない。ただ自分の家がやっている事務所のような場所とだけ言っている———の異常に濃い面々が繰り広げるドタバタが中心であり、彼女は反対に学校などで起こった、些細でありながらどこか笑いのツボをしっかりと抑えたものである。

 断じて俺は学校で友達がいなかったわけではないけれど、良くも悪くも目立たなかったので、おそらく目立つ部類だろう彼女の話はとても面白かった。

 日もすっかり暮れて、相変わらず何故か立ち込めている珍しい霧は空気を冷やし、コートを羽織っているとはいえミニのスカートを履いている彼女には些か寒いらしい。

 いつの間にやらベンチに座った二人の間の距離は狭まっていて、もう少しで互いの足が触れ合ってしまいそうだ。実際肩は掠っており、俺はやや俯きがちに猫背になることで余計な接触を回避していた。

 

 義姉達や他人の恋人、妹弟子とその同級生などを除けば殆ど女子と接することがなかったからか、思いも寄らず近くなった距離感にドキドキしてしまう。

 いや、正直に言おう。親しみやすい割にはどこか不思議な雰囲気を持つ彼女に、初めて会ったのだというのに俺は間違いなく惹かれてしまっていたのだ。

 なんとまぁ、自分はこれほどまでに惚れっぽい人間だったのかと呆れてしまう程に。

 

 

「ふわぁ〜、随分と話しこんじやったわね。‥‥やだ、あの時計壊れちゃってるじゃない」

 

「本当だ。‥‥参ったな、今日は腕時計を忘れてしまったんだ。これじゃ時間が分からない」

 

 

 ふと気がついて公園の街灯の上に取り付けられている時計を見遣れば、短針が数字の2を指している。まさか深夜というわけでもあるまいし、おそらくは彼女の言う通り、随分前に壊れてしまっているのだろう。

 他者への能動的なアクションを嫌う風潮のある現代において、こういう些細でありながら不便なことは往々にして放置されがちだ。まぁ最近は誰もが、あまつさえ小学生であっても携帯を持っているような時代だし、あまりああいうものも注意されないのかもしれない。

 

 

「仕方がないわね、あんまり遅くなるのもなんだし、私はそろそろ失礼するわ」

 

 

 実際さほど時間が経っているとも思えないけれど、とても東京とは思えない程に立ち込めた深い霧のせいで時間感覚が曖昧だった。どれくらいの間、話していたのかは分からない。

 いくら魔術師とはいえ、年頃の女の子をあまり遅い時間に帰らせてはいけないだろう。立ち上がってスカートの埃を払った彼女に続いて、俺もベンチから腰を上げると、長い間猫背でいたがために固まってしまっていた背骨をほぐそうと大きく伸びをした。

 

 気がつけば先程までの倦怠感、理由の分からない反抗感、不機嫌な気持ちもいつの間にやら無くなっていて、不思議と晴れやかな気分になっていた。

 さっきまでの自分がどうして反抗的な感情を抱いていたのかも理解できない。 ぶっちゃけた話、思春期の青少年というのはそういうものなのかもしれないけれど‥‥。とにかく『帰りたくない』と無意味にも感じていた思いは完全に消え失せている。

 

 つまるところ、やはり何となく波長が噛み合って不機嫌になっていただけなのだ。そこに大した理由もなく、単純に時間経過によって解決される問題であったのだ。今になって思えば実にお笑いぐさな話ではあるが、そういうものなのだから仕方がない。

 なんにせよコレも目の前で俺同様無防備に伸びをする———なにせ体を反らすと、意外にも豊かな胸が強調されるのだ。再三繰り返すけれど、俺だって年頃の男なのだからしょうがない———彼女との会話がそのきっかけになったことは間違いなく、たった一夜‥‥というには些か早い時間帯で、ついでに言えば色気もないけれど、一期一会の関係に過ぎない彼女にも感謝の念が湧いてくる。

 

 

「ありがとうね」

 

「え?」

 

「ううん、ちょっと身内でゴタゴタがあってね。これでも結構むしゃくしゃというか、色々悩んでたのよ。貴方のおかげで気が晴れたわ」

 

「そうかい? まぁ俺も同じさ。色々と考え事してたけど、君のおかげで気が晴れた」

 

「あら、じゃあお互い様ね」

 

「あぁ、お互い様だね」

 

 

 どちらが先とも無しに歩き出す。

 公園には相変わらず人気がなくて、いくら住宅街の真ん中だとは言っても夕暮れ時から一切の人の、子供達の影すらないというのは少々不思議なことではあった。まぁ最近の子供というのは家の中で遊んでいるのかもしれない。

 友人曰く、マンションのロビーで車座になって携帯ゲーム機をいじくっているというのも日常茶飯事らしく、どうにも俺が子供の頃とは随分変わってしまったものなのだなぁと、年寄り臭いことを考えた。

 

 さて、彼女によれば俺が目指すべきバス停は彼女が帰る方向とは別の出口から出なければいけないらしい。やっぱり随分と遅くなってしまったに違いない、橙子姉達も心配しているだろう。

 ―――ともすれば折檻されかねないだろうけど‥‥まぁ自業自得だ。俺のここ最近の反抗的な態度に対する答えを自分自身で得ることができた以上、甘んじて受けるべき罰だろう。

 

 

「それにしても、アレよね」

 

「ん、なんだい?」

 

「折角の卒業式だってのに、お祝いが私みたいな美少女と会話しただけってのも、どうにも勿体ないと思わない? それに貴方はそれでいいかもしれないけど、付き合ってあげた私にはご褒美ないのよ?」

 

「うーん、そうは言っても、俺から君に贈ってあげられるものなんてないなぁ‥‥」

 

 

 ちょうど公園の真ん中、互いに反対の出口へと立ち去るところで立ち止まった彼女の言葉に、俺は困って頭を掻いた。

 なにしろ学校の帰りだからお金の持ち合わせはないし、そもそも俺はバイトもしていなければ、橙子姉からのお小遣いはかなり少ない。というより、こういう場合はお金でお礼するというのも激しく無粋である気がする。

 

 だけど俺は来週には倫敦へと旅立ってしまう身。食事を奢るなんてことも約束できないし、大体そちらの方が風情があるからと互いに名乗らなかったのに、二度目のデート‥‥みたいな、会う約束を取り付けるなんておかしいだろう。

 さて、この場合どういう風なのが気の利いた贈り物なのだろうか。生憎とロマンチストを地でいく橙子姉でもあるまいし、サッと粋な返答なんぞできないぞ俺は。

 

 

「そうね‥‥じゃあ、コレを貰うわ」

 

「えっ?! ちょ、ちょっと!」

 

「どうせ誰にあげる予定もなかったんでしょう? 折角だから、私に頂戴」

 

 

 首を捻って悩んでしまった俺に対し、彼女は暫し考える素振りを見せると、あたかもこの上なく良いことを思いついたかのような顔で笑い、近寄ってくるとサッと俺の胸元へと右手を一振りさせた。

 

 油断していたとはいえ致命的な隙を突いた彼女の右手に握られていたのは、金色の丸い物体。

 

 ちょうど半球形を更に拉げさせたようなそれの平らな面には丸い輪がついていて、それは今もまだ俺の胸元に引っ掛かっている黒い部品とペアで、二枚の布を重ね合わせて留める働きをする。

 要するにそれは学生服のボタンであり、ついでに言うならばそのボタンは丁度上から二番目の、所謂第二ボタンと呼ばれる、特定の意味を持った幻想のボタンであるわけだ。

 卒業してしまう憧れの先輩からソレを貰うというのは後輩———ただし当然だけど女子に限る。勿論男子の先輩から貰うという意味であり、少なくとも女子の先輩から第二ボタンを貰ったという話を俺は聞いたごとがない———にとって一種のパラメータであり、人気のある男子だと部活の後輩に限らず大勢が殺到するのだと言う。

 そして学校でも目立たない部類であり、ついでに部活にも所属せずに帰宅部状態であった俺の第二ボタンをほしがる後輩などいるわけもなく、それは俺以外の誰の指紋をつけることもなく箪笥の肥やしになる予定であったのだ。

 

 

「それじゃ、縁が合ったらまた逢いましょう、通りすがりの不良さん」

 

「ちょっと、君!」

 

「じゃあね〜!」

 

 

 そんなこんなで一瞬の早業に呆気にとられてしまった俺にも構わず、彼女はコートを翻すと一目散に去っていった。

 走りながらこちらへ手を振った姿は、まるでまた明日学校で会いましょうとでも言うかのようで、それでいて瞬く間に濃い霧の中へと消えてしまう。

 長い髪は早々見失ってしまう程に目立たないわけではないはずが、次の瞬間には完全に姿を見失ってしまっていた。

 

 まるでベンチで休んでいたら一陣の風が吹いて、去ってしまったかのようで、俺は思わず目をこすって頬をつねり、自分の状態を確認する。

 気づけばあんなに立ちこめていた霧も瞬きいくつかの間にすっかりと晴れていて、辺りにはちょうど夕日が沈んだばかりの時間帯だとでも言うかのように、下校途中か遊びの帰りなのか、家路を急ぐ小学生達が大通りを歩いているのが見えた。

 すっかり取り出すのを忘れていた携帯電話を確認すると、俺がバスから降りてから三十分と経っていない。今から帰れば、多少寄り道したという言い訳でも通じるだろう。

 今までは霧のせいで実際のそれ以上に時間を遅く見積もってしまっていたのか、とにかく予想以上に時間が経っていないというのは僥倖である。

 やっぱり橙子姉の折檻は怖いのだ。

 

 

「なんだったのかな、一体‥‥」

 

 

 胸元に手をやれば第二ボタンは確かに消えていて、鞄を提げた肩の先の手が持つ緑茶の缶は、半分まで飲んだ後に彼女に奪われてしまったがために、空っぽで、水の音もしない。

 まるでそれは白昼夢。俺がぼんやりとしていた間に見た幻のようで、それでいて確かに存在したことを主張する証拠がある。

 なにより、彼女が俺の横を通り過ぎた何回かで嗅いだ心地よい長い髪の香りが、しっかりと記憶に焼き付いている。間違いなく彼女と俺とのやり取りはあったのだ。

 

 

「‥‥いけない、それはそうとして早く帰らないと!」

 

 

 あれが夢でないことを確かめるにはもう少しこの場で気持ちの整理をつける必要がありそうだけど、やはり予定よりは遅くなってしまっているのは確かで、家路を急ぐに越したことはない。

 俺はすぐ目の前をちょうど通りかかったバスが十何メートルか向こうのバス停に停まったのを見てとると、それを捕まえるべく鞄を担ぎ直し、全力で脚に力を込めて走り出したのであった。

 

 

 

 

 Another act Fin.

 

 

 




ssクラスタ朗読会などというトンデモないイベントを経て少し改訂。
じんましんが出る程の羞恥心‥‥!


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第四十二話 『名教授の訓話』

 

 

 

 side Lord El-Melloi Ⅱ only

 

 

 

 

「これが、私の知る第四次聖杯戦争のほぼ全てだ。伏せるべきところは伏せたが、お前達に必要な部分は今の話に含まれているはずだ」

 

 

 自分で淹れたコーヒーを一口啜り、私は物語を語り終えて一息ついた。我が王と駆け抜けた十年以上前の聖杯戦争。

 短いながらも私の人生の中で最も密度の濃かったあの出来事を語り尽くすには些か以上に時間は少なかったが、もとより全てを話すつもりはない。

 彼女達に必要であろう部分は喋ったのだ、問題はあるまいよ。

 

 いつも大体私の部屋でくだを巻いている人数と同じ———正確に言えば一人分だけ少ない‥‥が、正直言ってあの馬鹿弟子はあまりの頭の痛さ故に記憶から現在進行形で抹消削除してしまいたい思いなのだ———だったがために、目の前の三人分の椅子は用意できている。

 その三人はというとそれぞれに異なる様子で大人しく椅子に座っており、私の話した内容について色々と思うところがあるらしく思い思いの態度で思考の海の渕へと足をかけているようだった。

 ‥‥いや、騎士王だけは違うか。

 またも私の用意したお茶菓子を静かに、優雅に、‥‥それでいて初対面の人間ならば間違いなく目を見張る程の速度で食べ続けているのだからな。

 

 

「‥‥お話は大変ためになりましたわ、ロード・エルメロイ。私のような一介の生徒にお話下さり、どうもありがとうございました」

 

「気にすることはない。私は一応お前の後見人という扱いになっているのだ。直接面倒を見てやる気は一切無いのだから、このようなところで後見人としての最低限の義務を果たしたつもりになるぐらいはしてやるさ」

 

 

 ともあれ収穫があったのは何も彼女達ばかりではない。

 主人の話をするわけにはいかないと堅く口をつぐんでいた騎士王から聞き出せなかった第五次聖杯戦争の顛末について、書類で見る以上に詳しく当事者の口から聞くことができたのも、また私にとって最大の収穫であったと言っても過言ではない。

 参加する魔術師達が尽く死亡する場合の多い聖杯戦争において、先の第四次の儀式においては生き残りが非常に多かったらしい。

 ライダーのマスターであった私、アサシンのマスターであった言峰綺礼、セイバーのマスターであった———私は最後の最後まで一緒にいた銀髪の女性、アイリスフィール・フォン・アインツベルンこそが彼の騎士王のマスターであると信じて疑わなかったものであるが———衛宮切嗣など。

 もちろん凄惨な末路を遂げたかつての我が師のような者もいるわけであるが、それでもなおあの戦争のことを語り継ぐ人間はいると私は思っていた。

 

 しかしそれがどうした、衛宮切嗣は病魔に蝕まれて死に、言峰綺礼は師であった遠坂時臣のサーヴァント、アーチャーを奪って受肉させ、今代の儀式に参加した。

 実にお笑い草であろうよ、まさかあの中で一番出来の悪かったと思わずにはいられなかった私こそが、あの戦争での唯一の生存者になろうとは。

 やはり実に、英雄を駆って戦うということの難しきことだ。

 

 師にしても魔術師としては最高級の腕前をもっていたというのに、早々に策略にかかって死んでしまった。

 無論それには魔術師云々をさておきとした狭量極まりないあの方の人間性というものがあったことは間違いないのであろうが。

 我が王と彼の二槍の艶男との問答から察する事の出来た人間性など、私が今まで抱いていたコンプレックスの大半を根こそぎ持って行くに十分過ぎる程であった。

 成る程、やはり私と王は出会うべくして出会ったに違いないと思わせる程に。どのような優秀なサーヴァントよりも、それ故に私はライダーを慕ったのかもしれないと。

 

 

「まさか英雄王が現界を果たしていたとはな‥‥。騎士王、問答の答えは出たのか?」

 

「貴方には話していませんでしたね。‥‥いえ、まだ答えは出ていません。だからこそ私は凜やシロウと共にいるのです」

 

「ふむ、彼の王を斬り捨てたというからには傲慢なあの男を論破し尽くしてからと思ったのだが、存外君も我慢が効かない性分のようだな」

 

 

 少女達の語り口はどこかぎこちなく、それ故に私には話す内容を所々改ざんしていることが容易にわかった。

 確かにこの遠坂という学生は十年に一度の天才かもしれんが、私とて狐狸妖怪の類が跋扈するこの時計塔で十年以上を過ごしてきた身、二十も生きていない小娘相手に遅れをとることなどありえない。

 このような腹芸も昔は忌み嫌っていたはずなのだがな‥‥。月日というのは、時に最良の教師である。

 

 だが彼女達が何やら隠し事をしているからといって、それをむやみやたらに掘り返すつもりはない。そもそも意味がないし、逆にそれこそが意味のある行為なのだという話も時にはある。

 実際その情報自体がそれを手に入れた者に対して及ぼす損得などとは無関係に、絶対に聞いてはならないこと、聞くというだけで某かの災いを招くこと、そういうもの確かには存在するのだ。

 

 更に言えば彼女達は上手いこと隠し通しているつもりなのかもしれないが、大体何が起こったのかということは想像がつく。

 いや、確かに彼女達は上手に自分達にとって公開すべきではない情報を隠してはいた。

 だがあまりにもその隠し方が直接的で、むしろその辺りから何を隠したかったのかということが推測できてしまうのだ。このあたりは正しく年の功と言うより他ない。

 騎士王とて生前は政治を執り行う者であったのだからそういった腹芸は会得していてしかるべきであるはずなのだが、どうやらどちらかと言えば剣を振るう方が多かったのか、遠坂よりは———衛宮は論外だな。とても“魔術師殺し”と恐れられたエミヤの後継者とは思えん純朴で直情そうな少年だ。

 ‥‥今まで私の周りにはいなかったタイプだ。

 どいつもこいつも一癖どころか二癖も三癖もある連中ばかり集まりよって‥‥———マシなようだが、あれではとても時計塔の老害共とは打ち合えん。

 

 

「‥‥まぁいい。とにかく聖杯戦争についての話はこれでおしまいだ。異論はあるまいな?」

 

「えぇ。有意義なお話ができて大変ありがたく存じますわ、ロード・エルメロイ」

 

 

 明け透けな社交辞令じみた台詞ではあるが、そこには本物の謝意を感じることができた為に私は鷹揚に頷いてみせた。

 壁に飾られたやたらと大きく自己の存在を主張する柱時計を見れば、既に話し始めてからかなりの時間が経過してしまっている。

 この時間ならまだ外は明るいのだろうが、残念なことに地下に存在する私の執務室では今の太陽の位置などわからない。

 同じく地下にあるはずの講堂などでは地上の太陽の光を屈折、投影させることによって窓のように設えられたステンドグラスへと明かりを持ってきているのだが、元来魔術師の工房、のみならず生活の場というものは暗く陰湿な地下室であるべきだ。

 したがって私の執務室には窓に類するものがない。

 

 もっとも私の部屋には電気水道ガスのみならずインターネット回線まで繋がっており、なんともなれば快適なゲームライフを満喫できるように万全の環境を整えているわけだがな。

 やはりアナログでアナクロなテレビゲームも外せないが、昨今のインターネット事情はすばらしい!

 まさか時計塔にいながらにして、執務をするフリをしながら世界中の同朋達と戦いに興じることができるとは‥‥!

 

 

「あぁ、少し退出するのは待て、衛宮士郎。お前には最後に聞いておくことがある」

 

「は? 俺に‥‥ですか?」

 

 

 呼び止められた東洋人の少年は、まるで自分が声をかけられることを想像していなかったかのような拍子抜けの顔をして、出口へと向かいかけていた足をこちらへと向け直した。

 身長は低く、顔も童顔。それでいて強い意志の力を宿した瞳はまるで鷹のような眼光を放っており、私が今まで見てきた生徒達にも見劣りしない。

 蒼崎やエーデルフェルトの話によれば魔術師としては果てしなく非才だそうだが‥‥これで中々、成長する余地のある少年に違いない。

 服は素っ気ないが、鍛えられているのが背筋の伸ばし方と足運びでわかる。

 私は武術など一切やっていないが、人を見る目に関してだけは腹正しいことに一流である自負はあり、幾人もの戦闘系の魔術師を見てきたがためにそれは一目瞭然だ。

 おそらく身長もじきに大きく伸びることだろう。

 私とて聖杯戦争に参加した十代の頃は小柄で童顔だったのだ。

 日本人というのは須く小柄であるなどというのも一昔以上前の幻想に過ぎないのだから、鍛え上げられた衛宮にもその可能性は大いにある。

 

 

「エーデルフェルト達から、少々聞いた。私は大して興味はないが‥‥故に一つだけ問おう。その身につけた魔道を、この先何のために行使する?」

 

「‥‥俺の手の届く限りにある、全ての人を救うために」

 

 

 いくらそれなりに親しく付き合っているからとて、私は蒼崎やエーデルフェルトの保護者ではない。

 故に彼女達が私に話す義務のあることなど早々なく、自らに都合の悪い事柄を喋ってしまう道理などない。

 だがそれでいて、彼女達がふとした瞬間に気が緩んだのか漏らした話。知り合いの、とても愚かな一人の友人の話を私は聞き、だからこそ今目の前に立っている少年に問おうと思った。

 重要な情報ではなかった、どうでもいいことだった。

 コイツが何をしようが、何をするつもりだろうが、それが直接自分に影響することでなければ興味を払わないのが魔術師という人種で、もちろん私とて多少の融通は利くとはいえその原則からは外れない。

 

 だからこそ問いに大した意味はなく、どう返されたとしても、それについて私が一々含蓄ある言葉を垂れてやる必要もない。

 労力の無駄だ、時間の無駄だ。しかしそれでも問おうと思ったのは、一人の教授として、私自身は甚だ不本意なことではあるが、時計塔の名物講師と言われる身として、興味深くはある一人の学生に対して命題を振って見たかったからかもしれない。

 つまるところ、単に興が乗っただけか、気が向いたからというだけの話であるのだ。

 

 

「俺は、正義の味方になりたいんです」

 

「‥‥‥‥フン」

 

 

 その在り方そのものは、一般社会の尺度で測れば好ましいものなのかもしれん。

 その先にどうなるかはさておいて、普通の人間から見れば貴い夢であり、それを追い求める姿は正悪をして語る方が間違っている。

 勿論何を絵空事をと笑う者もいるだろうが、そんなものはな、自分がいつか諦めた夢を未だに追い続けている者に対する嫉妬に過ぎん。

 それは確かに、誰もが一度は夢見て、現実との乖離に妥協する、そういうものなのだから。

 

 では現実的に考えて、何をすれば『正義の味方』なのだろうか。

 悪者をやっつける? ハ、おい貴様、まさか本気で言っているのではあるまいな?

 では問おう、貴様の言う悪者などという存在をどう定義するというのだ?

 よしんば定義できたとして、貴様の生涯を賭けて悪者を倒し続けたとして、それで救える人間なんぞたかが知れている。

 いいか、そういうことのプロである警察組織ですら、犯罪の撲滅は成し遂げられていないのだ。

 どう足掻いても素人である人間に悪の撲滅なぞ出来るはずがない。

 

 そうだな、医者などはどうだ?

 NGOでも何でも良いが、紛争地帯に赴き、ろくに病気や怪我の治療を受けられない人たちを癒す。

 危険もそれなりだが、間違いなく『正義の味方』の一環であろうな。

 警察官や消防士になるというのもまた選択肢の一つだろう。

 組織の歯車の一つとして大勢に埋没してしまうことになるが、やっていることは違わない。

 ふむ、もし自分一人の力で、などというエゴイズムを抱えているのであれば、政治家という手もある。

 紛争の撲滅、悪の弾劾、やることは盛りだくさんだ。

 

 ‥‥成る程、大したものだ。

 衛宮、お前はこれが自分のエゴイズムであることを理解しているのだな。

 そうだよ、組織に埋没したって社会への貢献度なんぞ比べられるものではなかろうに、悪い言い方をするならば、自分が目立つような行動が出来るやり方を望むか。

 なに、私は別に否定はせんぞ。

 出世欲、自己顕示欲、そういったものを悪しき衝動だとする風潮はあるが、結局は結果がものを言う。

 それで成功できるのであれば大いに結構。そうは思わんか?

 

 

「おい衛宮」

 

「‥‥なんですか?」

 

 

 私の皮肉めいた話にも、衛宮は多少瞳を揺らしこそしたが、それでも根幹は揺らいでいない。

 まるで鋼のような意志と決意。これほどまでの頑固者、私は未だかつて見たことがない。

 ‥‥いや、自分の意見を曲げないという奴なら見たことがあるのだが、あれは極限にまで肥大した強大な自我によるものであり、まぁこの場合のそれとは異なるだろう。

 

 私は目の前で直立不動、まるで嵐に立ち向かっているかのような東洋人の少年を見る。

 先程揺らいでいないと称した瞳は、まるで仇を見るかのように私を睨みつけ、拳は握りしめられていた。

 隣では少しだけ離れた遠坂が同じように私を見ており、騎士王は只泰然と構えている。ふん、やはり何だかんだで年季の差は歴然だな。

 こういうときに落ち着いた態度をとれるのは流石というべきか。

 

 

「悪いことは言わん。貴様、魔術師を辞めろ」

 

「は、はぁ?!」

 

「ちょっとロード・エルメロイ! 私の弟子に一体何を言うのですか?!」

 

「貴様は黙っていろ、遠坂。これは個人の問題ではなく、魔術を修める人間全てを巻き込みかねん問題だ。気づけなかった貴様の失態なのだぞ」

 

 

 流石に動揺したらしい遠坂が一歩踏み出して憤りを露わにするが、私はギロリと睨みつけて黙らせた。

 久々の天才魔術師であると聞くが‥‥フン、まるで只の小娘だな。魔術に対する覚悟が足りているのか?

 まったく、才能のある者に限って甘いのだから世界は厳しいものだ。エーデルフェルトも、蒼崎もそうだろう。

 非才であると他言して憚らぬ蒼崎にしたって、私に比べれば遥かに才能というものに溢れている。

 自らを卑下するのは勝手だが、その過程で自分よりも格下の者を踏みにじっているということに気づけないのは大いなる偽善の一種だな。虫酸が走る。

 

 偽善も善の内だと主張している者もいるが、私に言わせれば、そんなものは言葉遊びに過ぎん。

 偽善にも二種類あって、唾棄すべきは自覚しないままにところ構わず振りまく偽善だ。

 偽善を行うならば、自覚せよ。

 結局それはエゴイズムの一端に過ぎず、全てと言わずとも、その殆どは利己主義から派生した行動に過ぎないのだと。

 

 

「衛宮、お前は何故、私が提示したような行動をとらんのだ? どれも間違ってなどいない、どれも正しく、堅実に見えてその通りだぞ。堅実であることに嫌悪感を覚えるのはガキの頃だけで十分だ。いや、そうではないな。‥‥衛宮、お前は何故、魔術を学ぶのだ?」

 

 

 私が提示したものも、再三言うが断じて間違ってなどいない。

 人間一人に出来ることなど所詮限られている。

 組織に貢献することの方が、最終的には多くの命を救うことになるだろう。

 紛争地帯にNGOとして赴く者達とて、組織の庇護の元で行動している。

 自分たちの身の安全を守るためという意味合いもあるが、その実一番の理由は、その方が効率的に活動できるからに他ならない。

 

 

「俺は、俺にしか救えない人たちを助けにいきたいんです。警察官になるのも、消防士になるのも、政治家になるのも一つの答えだとは思う。でも、俺の力でなければ助けられない人たちだっているはずだ‥‥です。それに、そういう人たちが助けを求めていることを知ってなお、俺はじっとしてなんていられない‥‥!」

 

「フン、たいそうな自意識過剰だな‥‥。まぁいい、それで、ならば何故魔術を学んだのだ? 貴様がそうしたいというならば今すぐにでもNGOか何かに飛び込めばいい。そこに魔術など必要ないぞ?」

 

「魔術でなければ、助けられない人だって———」

 

「たわけ。衛宮、貴様は何か大きな勘違いをしているな。いいか、“魔術で助けられる者など存在しない”」

 

「?!」

 

 

 大きく目を見開いた衛宮の隣で遠坂もやや顔をしかめたが、それでも見せた動揺はそれだけだった。おそらく自分でも理解していたのだろう。ふむ、そこまで阿呆ではなかったか。

 私は自分の椅子に深く座り直し、手の指を交叉させて机に肘をつく。信じられないことを聞いたという風な衛宮の様子は自然と溜息が零れてしまうほどのもので、成る程、やはりコイツはまかり間違っても魔術師ではない。

 

 

「まず一番基本的なことを聞こう、衛宮。魔術師の目的とは何だ?」

 

「え、えっと‥‥。魔術の探究によって“根源”に辿り着くこと、ですか?」

 

「その通りだ」

 

 

 視界の中、遠坂がきちんと正解を答えることができた弟子に安堵の溜息をつくのが見えた。そこまで心配してしまう程に出来が悪いのか、この男は。

 時計塔には様々な学部学科コースがあり、所属している学生も玉石混合である。しかし押しなべて言えるのは、たとえ基礎錬成講座の学生であったとしても時計塔に所属しているのは非常な名誉だということだ。

 それがこの調子とはな。ココに来れるのは魔術師の中でも限られた者だけだというのに‥‥。コイツを見たら選考に漏れた奴が怒りのあまり押しかけてくるに違いない。

 

 

「そう、お前の言う通り魔術とは根源を目指す“学問”だ。そして、学問では人を救えない」

 

「!」

 

 

 学問で人は救えない。人を救うのは技術だ。

 それが衛宮の犯したいくつかの勘違いの一つ。魔術は技術ではなく、学問なのだ。他人のために練磨する技術ではなく、自己の知識欲など利己的な欲望を叶える学問なのだ。

 私の言葉が不服か? 学問だって人を助けることができると思うか? それはまだお前が浅い視野しか持ち合わせていないからそう思うのだ。

 

 そもそも一番最初にソレが持っている在り方というモノのベクトルが自分しか向いていない。人間が、個人が、世界のあらゆる万象をその意識で把握したいと望んだ、利己的な願望から始まったのが学問だ。

 面倒だから瑣事は省くが、結局のところソレによって得られた答は自身や同類のみに還元される。一抹の利益こそ生まれるかもしれんが、そんなものは『折った小枝が薪になった』という程の意味すら持たん。

 利己的な目的で学んだものが、都合よく他人の助けになると思うなよ?

 

 

「それを差っ引いたところで、魔術で人を救えんことに変わりはない。武器に出来ることは誰かを傷つけることだけだ」

 

「で、でも魔術にだって傷を癒したりするものがあるじゃないか‥‥ですか」

 

「お前はそういう魔術を学びたいのか? だとしても私の言うことは変わらんぞ」

 

 

 魔術とは決して万能なものではない。それこそ王冠に相当する高位の術者以上ならともかく、一般的な魔術師の行使できる治癒術などたかがしれているのだぞ。

 いつぞやも似たようなことに憤ったものだが、巷のコンビニエンスストアで硬貨いくらかを払えば購入できる栄養ドリンクを作るのに、我々が魔術を使えば尋常ではない手間をかけなければならない。

 病気になったのなら医者に行け。怪我をしたなら病院へ行け。魔術はそのようなことに費やす技術ではない。

 治癒魔術を得意としている者なら切れてしまった腕をも治すことができるが、今時の医療ならそこまではいかずとも似たような治療をすることができる。 死者蘇生は魔法であるし、今の治癒魔術の場合だって消費する魔力や媒介、薬品などは膨大なものになる。基本的にコストパフォーマンスが悪いのだから当然だな。

 だからこそ、私は魔術を使って人助けなどできないと言ったのだ。出来たとしても、それは本分から外れているがために効果的ではない。それなら医者にでもなった方が遥かにマシだ。

 

 

「そしてな、魔術が持つ側面は、決して他の人間の益になりはしない。それらを御しきれる人間、魔術師のみが扱うもので、それ以外の人間が触れれば忽ち牙を剥く。‥‥悲惨な結末へ一直線だ」

 

 

 そしてそれ以上に言えることは、魔術とは須く物騒であり、一般人が魔術と触れあえば多かれ少なかれ不幸を呼ぶということである。

 思い返すのは私が参戦した第四次聖杯戦争におけるキャスターのマスター。

 姿自体は一度も目にすることはなかったが、奴の根城にライダーを伴って突撃———正確には半ばライダーに引きずられる形であったわけだが———した先で見たモノは、正にこの世の地獄の一端を体現したと言っても問題ない光景であった。

 無理矢理に異形へと変形させられた数多の被害者達。まるでインテリアのように、無邪気な子供が遊んだ後のような状態の彼らは、それでも全て生きていた。

 おそらくはキャスターの魔術であろうが、悪魔の所行に他ならん。

 さらに残りの全てのマスターが一時的に結託する原因となった巨大な海魔。あれによってどれだけの被害が出たのかは知らないが、少なくとも一人も犠牲者が出なかったということはあるまい。

 あれは、魔術と一般人が触れあったがために起こった悲劇。

 今まで漠然と神秘の漏洩、希釈を懸念していた私とて、互いの住み分けが不完全になった場合、双方に害悪しかもたらさないと理解した瞬間であった。

 

 

「わかっているのだろう、お前も。あの件についても後々時計塔へ調査と報告が上がっている。‥‥十余前の、あの冬木の大火災についてはな」

 

「‥‥‥‥」

 

「お前がどういう道を選ぼうと、師匠ですらない私には関係ないことだ。さして興味もない。だがな衛宮、もしお前がそのまま思考を放棄して走り続けようとするならば———」

 

 

 半ば激昂に近い表情は、あまり目にしていたくない。私はクルリと椅子を回転させると衛宮達に背を向け、そのまま話し続けた。

 

 

「必ず魔術協会に害を為す。‥‥そうなれば、我々のとる対応というのが決まっていることは、承知しておくことだ」

 

「ロード・エルメロイ、私は‥‥」

 

「お前に話しているのではないぞ、遠坂。まぁコレの手綱をしっかりと握っておくことだ。その時になれば、真っ先に責任をとらなければならないのはお前なのだからな」

 

 

 部屋の隅で沈黙を保っていた騎士王が、目を伏せたような気配を感じた。

 私の言っていることは、決して正解でも間違いでもないが、正論には違いない。ある意味では事実も多分に含んでいる。

 少なくとも私はこれを事実であると確信しているし、経験に基づく思考推論から導き出された答えの一つだ。時計塔の魔術師達が将来的にとるであろう対応の辺りは、間違いなくそうなるという未来推論であり、限りなく可能性は100%に近い。

 

 遠坂に言ったことだってそうだ。もし衛宮が魔術協会から疎まれることになれば、魔術協会が動かざるをえないようなことになれば、間違いなく彼女に討伐の任が下される。

 自分の尻は自分で拭く。俗な言い方になるが、これも魔術師の掟の一つ。酷なようではあるが、そもそも魔術師同士にそういう感情は存在しない。

 

 

「話はこれで終わりだ。この話を聞いて、どう思うかは衛宮、お前次第だ。‥‥私としては、将来我々に余計な手間をかけさせないように成長してくれることを望む」

 

「‥‥失礼します」

 

「失礼、します。いくわよセイバー」

 

 

 ギィ、と鈍い音を立てて扉が開き、閉じられた。

 地下にしてはそれなりに広い執務室に残るのは私一人で、それでいて私の頭の中は一向に静かにならん。

 思い出してしまった様々なことが、まるで濁流のように脳の内側を荒れ狂っている。そして殆ど向こうからは話しかけられていないというのに、衛宮と会話することで生まれた感情の揺らぎも同様に。

 

 あれは、一種の魔性だ。

 例えば我が王や騎士王、英雄王が持っていた様なカリスマとは別に、関わる人々を自らの流れに引き込んでしまう魔性。つまるところ、世界の中心の一つである。

 表の社会では誰もが、『一人一人が主人公』などという生ぬるいスローガンやら何やらを掲げて自己のアイデンティティを保つことになっているが、あんまものは逃避行動の一種に過ぎん。

 人には、優劣がある。それは単純な能力や階級の比較だけでなく、立場、人徳、魅力、存在意義、様々なスキルが周りの人間に対して及ぼす効果の大きさをも差す。

 そういう連中はさして多くはないが、歴史上を見れば一々挙げてやる必要もあるまい。とにかくその時代において大勢の人間の方向性、乃ち歴史を左右する可能性をもった者なのだ。

 

 

「これは、荒れるな。遠からず、遅からず、奴の周りは荒れに荒れる‥‥」

 

 

 さほど多くはないが、それこそ英雄を含めて様々な人間を見てきた私が言う。衛宮士郎は、世界の中心に立つ一人だ。奴は我が王や騎士王のように、英雄となる素質を持っている。

 否応なく周りを巻き込むその人間性は、確実に奴を波乱の中へと引きずり込むだろう。世界が、いや、運命(Fate)がそうさせる。

 

 ここらが気の引き締め時だ。私は謀らずとも、歴史の担い手の側へと立つ機会を得た。

 

 

「これも、お前と出会えたからなのか、ライダー‥‥?」

 

 

 返事など当然ながら期待していなかった呟きだが、それでも返されるであろう答えは容易に想像がつく。

 様々な懸念をとりあえず頭の隅へと丁重に仕舞いこみ、私は久しぶりに倫敦へと帰ってきた宝石翁から頼まれていた案件についての書類をまとめるべく、机に向き直ったのであった。

 

 

 

 43th act Fin.

 

 

 

 

 



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第四十三話 『友人達の助力』

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

 

「ふむ‥‥」

 

「なぁ紫遙、本当にコレだけで大丈夫なのか? 手術台とか麻酔とかは?」

 

 

 ロンドンに来てから知り合った初めての友人である蒼崎紫遙が施術の前の最後の診断結果をカルテのような書類に書き込みながら唸るのを見て、俺は自分でも若干不安が混ざっているのが分かってしまうような声を出した。

 俺が今いるのは時計塔、魔術協会の本部の地下にある紫遙の工房の中だ。さして広いスペースが取られているわけではないからか生活空間も兼ねているみたいだけど、俺がいるのは作業部屋みたいなところで、まさしく魔術師の工房と称するに相応しい。

 一角の壁一面を覆ってしまうような大きな棚にはわけのわからない器具がたくさん仕舞ってあるし、隅の方に幾冊もの魔術書が乱雑に積み上げてある部屋の真ん中には、人が一人寝そべることができるくらいの作業机が据えられていた。

 作業台の上には手元が明るくなるように照明が取り付けられていて、手術台に見えないこともない。もちろん俺は今まで盲腸にだってかかったことがないから実物を見たことはないんだけど、なんとなくそう思う。

 

 そんな中、紫遙は部屋の一角に置かれた事務机で書き物をしていて、俺はその前の椅子に縛り付けられている。

 この頑丈なロープ? みたいな拘束具がなければ丸っきり病院にやって来た患者と医者って構図だけど、周りを見回せば明らかにマッドな方向へと感想は傾いていく。

 難しい顔をしながら書類に視線を落としている友人の口には煙草が咥えられているけど、火は点いていない。

 なんでも作業部屋では危険だから煙草は吸わない主義だということで、じゃぁ何でわざわざ火も点けてないヤツを咥えているかというと、上のお姉さんの真似なんだとか。

 少し照れながらそういう様子からは、紫遙がお姉さんを本当に慕っているということがよくわかった。

 でもさ、とりあえずこれだけは言わせてくれ。施術中に暴れたりしたら危ないのは分かるけどさ、何も手術台みたいなのがあるのに椅子に縛り付けるのはないんじゃないか?

 

 

「ばかたれ、魔術師がやる手術に麻酔なんぞあるか。それにアレは魔術具を弄ったりするのに使う作業台だから、麻酔がかかってるならともかく、暴れる人間を押さえ付けておく強度なんてないんだよ」

 

「え、ちょっ、目を弄くるのに麻酔無いのか?!」

 

「瞬きしたら危ないだろ。お前には根性で瞼を開けておいてもらう」

 

 

 どうにも理屈がおかしいような気もするぞ。だって俺がいくら自力で目を開けてようと思ってだって、やっぱり反射ってものがあるし、そうでなくとも目の手術をするんだから、どれほど怖いかなんて想像できない。

 ‥‥まぁ、紫遙がそう言うなら仕方がないよな。

 なにより紫遙は否定してるけど、この施術は俺のためなんだしな。無理させてるんなら、文句なんて言ってられないよ。

 俺がそういうニュアンスのことを言うと、拍子抜けだったのか知らないが、紫遙は普段よりも幼く見える———実は俺達より少しばかり年上だったらしい。もっともソレを知ったのは友人付き合いをするようになってから随分経ってのことで、今更気にするようなことでもない———ぐらい目を見開いてパチクリさせると、呆れたように深い溜息をついた。

 

 

「ホントにお前はいつぞや俺が言ったことを理解ってるのか? ‥‥まぁ、こんなことを何回注意してやったところで、衛宮相手じゃ馬の耳になんとやら、か」

 

「む、なんだよその言い方は。馬鹿にしてるのか?」

 

「馬鹿にしてるんじゃなくって、心底呆れただけだよ。コッチに来て随分と経ったっていうのに、未だに学習してないんだってね」

 

 

 そりゃ魔術師って生き物がどうこうってのは、知り合った当初こそ遠坂とかにも散々言われたことだけど、やっぱり自分の性と合わないのだから仕方がない。

 もしアイツがこの場所に居たら俺の言葉を鼻で笑って、それに反論しようものなら百倍の厭味と皮肉が返ってくるに違いないんだが‥‥。

 ホントに、一体どういう経緯であんな捩れ凶った性格になったのやら、我がことながら未だに全く理解できない。摩耗した理由はまだしもなぁ。俺も下手すればあぁなる可能性があるってことなんだよ、な?

 とりあえず今は摩耗云々よりも、アイツがああいう性格にならざるをえなかった過程の方が気にかかる。ともすればこれからの———もしくは今までの———ロンドン生活に関わってくることなのだろうから、余計に。

 

 

「ったく、改めて見てみれば、なんだかんだで言う程悪くないじゃないか‥‥」

 

「ん、なにがさ?」

 

「魔術師としての、お前のスペックだよ。ホラ見てみろ、俺なんかよりよっぽど才能がある」

 

 

 心底憎たらしいとでも言いたげなジト目をこちらに寄越した紫遙から、今までの診断結果が記入されたカルテを受け取る。

 一枚の紙は病院で垣間見たようなきちんとした書式ではなく、只のA4用紙にある程度の———それでいて嗜好は本人に合わせているからか読みづらい———統一性を持たせて様々な書き込みがしてあるもので、まるでメモみたいだ。

 俺の体なのだろう輪郭だけの人体には無数の矢印が乱雑に書き込んであり、それは神経か何かのように見えた。その横には注釈なのだろうか、たいそう細かい字の羅列が続いていて、定規で線を引いたみたいに真っすぐなのは紫遙が妙なところで几帳面だからだろう。

 ただ、一つだけ問題があるとすれば———

 

 

「なぁ紫遙、これドイツ語か? 俺じゃ読めないぞ?」

 

「は? ‥‥お前まさか、遠坂嬢の弟子のくせにドイツ語が読めないのか?」

 

 

 別に威張るでも何でもなく只の事実を口にして「おう」と言うと、手術をするというのに白衣も着ていないバンダナの友人は、今までにないぐらい大きな溜息をつくと額を手で覆った。

 自慢じゃないが、学校での俺の成績はそれほど良かったわけじゃない。というよりは、むしろ悪かったと言えるだろう。いっつも平均点のやや下を低空飛行だ。

 赤点こそ無かったし授業も真面目に受けてたから目立って注意されることもなかった———どちらかといえば注意された方がまだ良かったかもしれない。勉強を急かされなければ誰だってやりたがらないだろう———けど、まかり間違っても頭の出来は良くなかった。

 強いて言うならば物理と数学、聖杯戦争が終わってからは少しだけ歴史の成績も良くなった。俺は解析の魔術を使ってしょっちゅう機械弄りをしていたからかもしれないし、後者はおそらく宝具について調べ物をしていた副産物だろう。

 

 で、まぁ俺としては別に勉強は程々にしておけばいいと思ってたんだけど、俺達が三年生に進級した時に問題‥‥というより、勉強する必要性が生まれたのだ。

 聖杯戦争が終わって暫くの間ぐらいは、その、俺も遠坂もちょっと浮かれていたんだと思う。聖杯戦争中はドタバタしていたけど、ゆっくりと二人の時間を持てるようになって、結構のんびり過ごしていた。

 問題が出て来たというか、改めて色々話し合うことになったのは多分、何故か知らないけどセイバーがあの状況にブチ切れたからじゃないかと思うんだけど‥‥うん、割愛しよう。

 

 ま、そこで改めて俺が遠坂にくっついてロンドンへ留学することが決まって、それからは地獄の勉強会の毎日の始まりだった。

 まず最重要課題は英語。向こうで生活するというのに、英検三級程度の語学力ではお話にならない。一日の四分の一は英語の勉強に費やしたといっても過言じゃないぞ。

 これに関しては家に常駐している某英語教師がいたがためにあまり問題はなかったと言える。どちらかといえば俺の留学について納得させる方が大変で、危うく冬木という街が恐怖で染まりかけた。

 

 

『だめぇぇええーッ!! 恋人と二人っきりで外国に留学なんて、そんなエロゲのハッピーエンドみたいなベタな展開お姉ちゃんは許しませーんッ!!』

 

『あの、藤村先生、私だけじゃなくってセイバーも一緒ですから‥‥』

 

『な、ななななんと!』

 

『?』

 

『幻の許されざれしハーレムルートに突入していたとわ、遠坂さんにセイバーちゃん、なんて恐ろしい子‥‥! これは私と桜ちゃんも交えて前代未聞の5———』

 

『なに口走ろうとしてんだ! この馬鹿トラッ!』

 

『私をトラと呼ぶなぁぁあああ! それにコレだけで何言おうとしたか分かっちゃう子に、お姉ちゃんは育てた覚えはありませぇぇええーんッ!!!』

 

 

 重要な部分を抜き出すと大体こんなカンジだったと思う。本当に藤ねぇの相手だけで聖杯戦争の時よりも神経とか他にも色んなものを擦り切らせてしまった気がする。

 あの時は桜も何だか通常の三倍ぐらい怖かったし、セイバーまで藤ねぇの言葉に調子を悪くしていた。頼むから年頃の女の子の前で変なことを言わないで欲しい。あの後の鍛練で軽くオヤジと綺礼な‥‥いや綺麗な川で再会するところだったぞ。

 それに加えて、なんとか許可をもぎ取った後も自称保護者は散々愚痴を漏らし続け、不機嫌を沈めるためにかなりの金額が通帳から食費へと消えていった。

 セイバーまで不機嫌だったので事態は急遽衛宮家重役会議———俺と桜。あと何故か遠坂———が開かれるまでに深刻なものに発展し、一先ず藤村組に食費の一部を工面してもらうことで鎮静化したものだ。

 もちろん借りたお金であるわけで、藤ねぇの分を除いて全部しっかりと返済しつつある。遠坂がすぐにお金を宝石に使ってしまうから、これは裏帳簿から出しているのだ。こういうことをしなきゃならないウチの状況ってのもなぁ‥‥。

 

 もちろん問題は他にも山積みで、例えば今は紆余曲折あって結局は桜に任せた衛宮邸の管理とか、一成に卒業後の進路を聞かれてうっかり遠坂と留学すると答えてしまい、それに驚いた一成が大声で叫んでしまったがために学校中に知られてしまったり。

 何がなんだかは分からないんだけど遠坂に無理矢理腕を引っ張られて屋上へ連れて行かれ、これまた何故そこにいたのかは分からないけど美綴と対面し、アイツの前で遠坂に抱きつかれるという公開処刑を執行されてしまったり‥‥。

 今までお世話になってたバイト先に挨拶したり、それこそ建前上は推薦ということになっているから、それ相応の成績をとるためにまた地獄の猛勉強をしたり、何の因果かバレてしまった遠坂との交際をきっかけに一時期は毎日のように襲いかかってきた男子生徒を撃退したり。

 ホントに、外国に留学するっていうのがあれほど大変なんだとは夢にも思わなかったぞ。

 

 

「魔術回路は俺より十本以上多いし、魔力量も並の魔術師ぐらいはある。こんだけあってまともに使える魔術が固有結界絡みしかないなんて‥‥。ほんとに一点特化型の魔術師なんだな、お前は」

 

「そ、そうなのか? いっつも遠坂にはヘッポコヘッポコ言われてるのになぁ‥‥」

 

 

 紫遙に睨まれるのは本意じゃないんだけど、そういえば俺の知ってるまとも魔術師って遠坂と慎二とオヤジぐらいだ。いや、あと一人だけいたか。‥‥守れなかった、雪の妖精みたいな女の子が。

 魔術回路がないっていう慎二はともかく、考えてみれば三人共やたらと優秀だったっけか。遠坂は言わずもがなだし、実際あの当時は全然知らなかった魔術師としてのオヤジも、言峰や、この前に会ったロード・エルメロイによれば優秀だったらしい。

 それでも俺からすれば紫遙だって凄い魔術師に見えるけどな。色んなことできるし、戦い方も上手いし、うっかりはないし、湯水のように金を宝石に費やしたりしないし‥‥。

 

 

「遠坂嬢‥‥。恋人にここまで言われるって、一体どんな生活してるんだ‥‥?」

 

 

 一度でいいから見せてやりたい。朝から晩まで一通りビデオにでも撮って送ってやればいいんだろうか。

 ‥‥あー、でもやっぱりダメだな。あんな無防備な遠坂は俺とセイバーと、あとは桜ぐらいにしか見せちゃいけない。

 紫遙は良い奴だけど、それでも名は体を表すと言わんばかりに凜とした普段の遠坂とのギャップは、あまりに破壊力が大きすぎる。

 なんというか、不真面目に見えて実はかなり几帳面な友人の精神の安定のためにも、なにより遠坂の矜持のためにもってところか。十年以上も被ってた猫が剥がれてしまうのは遠坂だって嫌だろう。

 

 

「さて、それじゃ施術を始めるか。助手がいないけど‥‥まぁ 何とかなるだろ」

 

「え? もしかして何か不安要素でもあるのか?」

 

「うーん、お前の特殊な魔術回路がどう事前の考察に影響するか分からないから、モニターしてもらってる方が安心なんだけどな。まぁ大丈夫、イケるイケる」

 

 

 紫遙が研究してる魔眼っていうのは、要するに外付けの魔術回路なんだそうだ。

 基本的に魔術師の魔術回路の数は生涯変わらない。何らかの事故とかで欠損してしまうことはあっても、増えることってのは無いんだそうだ。

 例えば俺の魔術回路の数は、さっき紫遙が言ってた二十七本。聖杯戦争の最初の頃には二本ぐらいしか開いてなかったけど、これは開いてなかったってだけで増えたわけじゃないらしい。

 尤も遠坂に言わせれば、俺が勘違いから正しい方法だと信じてやっていた“一々魔術回路を作る”っていう鍛練の方法が関係してるかもしれないから、断言はできないんだと。

 もしこれを鍛練の方法として確立できたら一気に四冠位だとかいう話らしいけど、それでも進んで実用する魔術師はいないんじゃないかって紫遙と遠坂は二人で話していた。

 

 

「当然だろ。普通の魔術師なら魔術回路を生成するのは一生で一回。そういうモノだってのもあるけど、ありゃ何回もできるもんじゃない」

 

「そうか? 我慢の仕方だと思うけどな。慣れれば意外と大丈夫だぞ?」

 

「それはお前が異常なだけだ。ったく、普通に魔術回路を起動するだけだって痛みを伴うんだからな?

 俺が魔術回路を作ったのは物心ついてかなり経ってからぐらいだけど、本当に“死ぬのと同じくらい”キツかったんだぞ‥‥。

 それが慣れれば平気とか、マゾかお前は」

 

 

 どこか含むところがありそうな言葉遣いで呆れた視線をこちらへ寄越しながら、ドクターはまるっきりの私服で、素手を何らかの薬液を満たした盆に浸けている。

 一応室内だからいつもの無骨なミリタリージャケットは脱いで、某ファストフードのハンバーガーチェーンの店員よろしく服の袖は肘の上まで捲くり上げているわけだが、それにしても素手というのには変わりがない。

 確かに魔術師の行う施術というのが世間一般における手術のイメージで括られることがないってのは分かるんだけど、それにしても一々所作に緊張感というか、『これから手術をするんだぞー』って姿勢を感じないっていうか‥‥。

 そりゃこうして腕の先までギッチリと魔力すら感じる拘束具で縛りつけられているし、紫遙だって最初からカルテやら魔術書やら論文めいたメモやらを何度も見直してるんだけどさ。

 

 

「資料はともかく、重要な手順は全部、俺の頭の中に入ってるからな。

 それに術式は指で直接眼球に書き込むから、実は道具なんて必要ないんだよ」

 

「指で直接———って、あぁそうか、むしろそっちの方が怖くないかな‥‥?」

 

「おいおい、だからって気は抜いてくれるなよ? もし万が一にも魔眼と相性が悪くて施術中に暴れ回る魔術回路の制御に失敗したら、体中から血を噴き出すはめになるんだからな」

 

 

 こともなげに言うけど、 流石に俺だって人体炸裂なんてゴメンだ。

 そりゃ痛みとかそういうのには強いって自信はあるけど、我慢してるってのは決して痛くないわけじゃない。必要なことならちゃんと耐えるけど、俺は別に変態でもなんでもないんだからな。

 

 

「どうだかね。まぁ擬似神経じゃなくて、体の神経と一体化してるお前の魔術回路は普通に比べて頑丈だから、大丈夫だとは思うけどな」

 

「つまり、覚悟だけはしとけってことか?」

 

「だからそう言ってるだろ。ほら、魔術回路を起動しろ」

 

 

 消毒だか何だかは知らないが、しばらくチャプチャプと浸けていた両手を薬液から上げた紫遙の言葉に従って魔術回路を起動する。

 二十七個、ずらりと並んだ撃鉄を下ろすイメージ。人によって違う起動させる時のイメージは、例えば遠坂なら心臓にナイフを刺すなんて物騒なものらしいし、紫遙は錆び付いた鉄の車輪を勢いよく回転させるのだという。

 そういえば剣っていう属性を持つ俺が撃鉄なんてものをイメージするのも、どこか妙である気がしないでもない。

 思い返すと‥‥そういえば切嗣が夜中にモデルガンを弄ってるのを、すごい昔に見た覚えがあったような。ロード・エルメロイによればオヤジは銃器とかの近代兵装を使う魔術師殺しだったらしいから、多分あれって本物だったんだな。

 

 

「目を大きく開けて、動かすな。視線は真っ直ぐ、出来るだけ遠くを見ているようなカンジで」

 

「お、おう」

 

 

 がっし、と頭を両サイドから掴まれる。親指だけが、俺の前に来ていて、別に尖端恐怖症とかじゃないんだけど、本能的に恐怖を抱いてしまうのは仕方がない。

 紫遙はいつも着けている擦り切れた紫色のバンダナを外していて、あらわになった額には薄く入れ墨のようなものが見える。複雑な模様は幾何学的のようでいて、全体を見ればどこか蛇のようだ。

 まるで蛇がタマゴを抱いているかのようにとぐろを巻いている。紫遙の話によれば魔術刻印の一種だそうだけど、遠坂のは普段はちゃんと隠れてたような‥‥?

 

 

「まだ不完全だからな、仕方がない。じゃあ始めよう。目の辺りに意識を集中して、介入される魔術を感じるんだ。

 ‥‥いくぞ。Drehen(ムーブ)———」

 

 

 ゆっくりと二つの親指が視界を占領していく。指の腹には複雑な紋様が光っていて、おそらくコレが魔眼を施す術式なんだろう。

 そして意外にゆっくりと紫遙の指が俺の両眼に触れた途端、まるで針が突き込まれ、後頭部まで貫通してしまったかというくらいの激痛が俺を襲った。

 魔術回路を一々作り直していた時のものには及ばなくても、普通の人間なら意識を飛ばすのに十分過ぎるぐらいの痛み。だけど俺は紫遙に余計な心配をかけるわけにもいかないから、声を漏らさないように奥歯を噛み締めて‥‥。

 

 結局その手術は数十分も続き、終わったときの俺の眼は、アイツに少しだけ近づいたかのような鋼色を帯びていたのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「なぁルヴィア、こりゃ‥‥なんだい?」

 

「先日手に入れた聖骸布を、魔術礼装として外套に仕立てさせたものですわ。エーデルフェルト出入りの職人の作ですから、出来は私が保証致しますわよ?」

 

 

 唖然と立ち尽くす俺の前で、我が親友にして相棒とすら言ってもいいだろう金色のお嬢様は、同様に隣で言葉を失くしている遠坂嬢よりはかなり大きめな胸を反らすと誇らしげにそう言った。

 俺達が今いるのは言わずと知れたエーデルフェルト別邸。ロンドンからは幾分離れた郊外にあるのに彼女が時計塔に通えているのは、当然ながら専属の運転手がいるからである。

 律儀にも迎えを寄越してくれたがために俺達も今回はその恩恵に授かることができたのだけど、これが凄い凄い。意外に近いとはいっても郊外なればロンドンの街中程は道も舗装されてないのだけど、それでも乗っていて全く揺れを感じないのだ。

 おそらくボンネットに八割がた水を満たしたワイングラスを乗せても、一滴たりとも中身は零れないに違いない。送迎最速理論というものを現在進行形で証明されてしまった気分だった。

 

 

「糸も魔力を帯びたものを使っておりますし、袖の細工の中には私が力を込めた護りの宝石が埋め込んでありますわ。

 飾りにしてもよかったのですけど、素朴なシェロには華美な装飾は似合わないでしょうからね」

 

「いや、そうじゃなくてさ‥‥」

 

「ちょっとルヴィアゼリッタ。なんなのよ、このデザインは?」

 

 

 いつの間にか呼び方が『ミス・エーデルフェルト』から『ルヴィアゼリッタ』に変わっている遠坂嬢が、俺の言いたかったことを代弁する。

 一息入れるためのお茶に使う小さめの上品なテーブルの上に置かれている外套は、成る程、確かに上等な品だろう。材料だけでも一級の概念武装であるのに、それを更に一級の魔術具として仕立てているのだ。

 これほどのものになると、この時代に望める防具としては最上級であることに違いない。それをポンとプレゼントにしてしまえるルヴィアには今更ながら驚かされてしまう。衛宮には勿体ないとすら言える。

 勿論これからの衛宮を思えば聖骸布の外套をもってしてもまだまだ足りるかどうかと言ったところなわけだけど、それにしたってこれほどのものを貰える人徳というか、人を惹きつける力を持った衛宮には嫉妬すら浮かばないな。

 

 思うに、やはり主人公というのはやはり何処か常人とは違うのだろう。存在感というか、そういったものだ。例えば伽藍の洞の皆にも言えることだけど、そこにいるだけで輝いて見えたものだ。

 まぁ意識しなきゃ普通だけどね。こういうことばっかりは、やっぱり前いた世界の記憶が影響してるのかもしれない。

 ‥‥『前いた世界の記憶』か。驚いた。生まれ変わったわけでも、一度死んだわけでもないのに、昔の自分と今の自分は違うと俺は認識している。

 思い返せば世界からの修正(いやがらせ)も随分長いこと受けてない気がする。多分、最後に感じたのは遠坂嬢達が時計塔にやって来た時だから‥‥。もう数ヶ月以上前か。

 これも橙子姉と青子姉が色々と世話を焼いてくれたからだろう。本当に義姉達には一生頭が上がらないに違いない。只でさえ独り立ちした今になっても迷惑をかけ続けているんだから、どれだけ孝行したって貸し借りが0になることはないだろう。

 

 

「このような防御型の礼装ならば、全身を覆うのがベストなんですけど‥‥。残念ながら尺が、もとい面積が足りませんでしたの。

 シェロの背丈がこの先伸びた時のために腕周りは余裕を持って作らせましたけど、下はどうにも‥‥」

 

 

 テーブルの上の外套は二つに別れて構成されていた。脇から手首までを覆う、胴体部分がないジャケットのようなものと、腰巻きのような一枚の布だ。

 ルヴィアの言う通り、こういう礼装ならば全身を覆った方が一番好ましい。理由は言わずもがな、しかし今回は少々布地が足りず、こうなってしまったということか。

 全身を覆えないなら、分散させるしかない。もとより遠坂嬢が軽鎧を用意するという話だったから、胴体部分をオミットしたのだろう。確かに見た目はまるでコスプレのようだけど、理にかなっている。

 で、問題というのはルヴィアが用意したこの外套が、遠坂嬢や衛宮にとっては重要なとある人物が着ていたものにそっくりであるという点だ。まさしく彼の紅い弓兵の恰好。そういえば彼の外套も聖骸布であったらしいが‥‥。

 

 

「‥‥そう、やっぱりそうなっちゃうか」

 

「ミス・トオサカ?」

 

「なんでもないわ、ルヴィアゼリッタ。ちょっと昔のことを思い出しただけ」

 

 

 皮肉なことに、むしろ驚愕すべきことに、遠坂嬢が入手してきた軽鎧もまた紅い弓兵のものとそっくりであった。世界の何とかなんて便利な言葉を言い訳にしたくはないけれど、それでも運命(Fate)というか、大きな流れのようなものを感じてしまう。

 いつか衛宮はルヴィアと遠坂嬢が贈った防具を纏って戦場へ赴き、俺が授けてやった鷹の眼で敵を探し、セイバーに鍛えられた剣の腕で殺すのだろうか。それはどれほどまでに‥‥淋しいことか。

 

 未来は無数に存在して、俺達がその間を通り抜けるか、その内の一つを選んでしまうかは分からない。

 だけど無数に存在しているにも関わらず未来のバリエーションはそこまで多くないはず———あんまり違うようなら、それは既に並行世界になってしまっているからね———だし、それでいて未来の可能性には必ず引きずられるものだ。

 あのエミヤがどんな道行きを辿ったのかは分からない。そこに俺が、いや、ルヴィアや遠坂嬢がいたのかってことだって分からない。

 でも、もしアイツの側に俺達がいて、それでも止められなかったのだとしたら———?

 

 

「まぁ、いいわ。これから遠坂凜(わたし)が頑張ればいいことだもの」

 

 

 やっぱり遠坂嬢は強い。こういう時にそういう考えが出来るっていうのは、正しく彼女であるからと言うより他ないね。少し考え込んでいた俺も少し気が晴れた。

 しかし冷静に考えてみれば、いくら友人とはいえ、赤の他人のことでこうも思い悩む俺というのも今までにないことだ。元々は一般人とはいえ、あくまで俺は魔術師だ。魔術師として生き、魔術師として死ぬことを決めた神秘の行使手である。

 かなり濃い毎日ではあったけど、よくよく思えば衛宮達と知り合ってから数ヶ月、半年も経ってない。それだというのに十年来の親友であるかのように心配してしまっているのは何故だろうか。

 ‥‥まぁ、衛宮だからかな。説明になってないかもしれないけど、そうとしか言いようがない。アイツは人の中心に立つべくして立つ、いや、アイツを中心として自然と人が集まってくるような人間なんじゃないかな。

 

 

「どうかいたしまして?」

 

「な、なんでもないわ。それより蒼崎君、士郎の方は大丈夫なの?」

 

「あ、あぁ。術を施して三日になるのかな。さっき確認してきたけど、状態は安定している。一応は成功って言っても大丈夫と思うよ」

 

 

 話を逸らすべく俺の方へと水を向けた遠坂嬢に、同じく考えこんでしまっていた俺も慌てて答えを返す。

 そりゃ遠坂嬢だってルヴィアが紅い弓兵について知ってるわけはないから油断していたのかもしれないけど、それよりもむしろ俺の方が問題だ。なにしろ知っているはずがない情報について遠坂嬢と同じように考え込んでしまっていたのだからね。

 正直、むしろ知らない方が良かったのかもしれないとすら思うよ。ふとした拍子にバレてしまわないかといつもピリピリしている。俺の魔術の容量(キャパシティ)は常に少しだけではあるけど精神干渉を防ぐための意識障壁に費やされているし、結局ピリピリしてしまうことは否めない。

 今のところコレについて知っているのは俺の他に二人の義姉しかいないからいいけど‥‥。万が一バレてしまったら、ことは俺だけではなく、神秘の世界全体への悪影響となるだろう。

 思いの外、こいつは大きい爆弾だ。しかもメリットらしいメリットが全くない。当然こういう記憶がなくても魔術の行使には問題ないし、こういう記憶があってもなくても、今まで出会った人達との関係は変わりなどしないだろうからね。

 

 

「まだ施術からあんまり時間が経ってないから遠見の魔眼は試してないけど、もう少しして完全に安定したら郊外にでも出かけて試してみるといいよ。術式はしっかり定着してるし、副作用らしい副作用もない。俺も研究の役に立って満足だよ」

 

 

 衛宮に施した手術は結構な荒行事だったから、この三日はいつぞやの式よろしく両目に包帯を巻いて暮らしてもらっていた。その分授業にも出られなかったわけだけど、こちらが持ちかけた手術であるのだから俺がしっかりとフォローしておくことになっている。

 魔眼とは、一工程(シングルアクション)で発動できる魔術だ。今まで衛宮は『魔力を流す』→『強化の魔術を発動させる』→『視力が強化される』という手順を踏んでいたけど、これからは魔力を通すだけで視力が強化されることになる。

 今は『遠視(千里眼・偽)』だけしか使えないけど、この調子なら霊視や透視も会得できるかもしれないな。

 まぁその分そちらにキャパシティを割くことになってしまうから衛宮にはお勧めできないけど。

 

 

「そう、ありがとうね、蒼崎君」

 

「等価交換は成立しているよ、遠坂嬢。礼はいらない」

 

「では後はこのプレゼントを何時どうやってシェロに渡すか、ですわね‥‥」

 

 

 綺麗に笑う遠坂嬢にも普段通りに応対することができるようになっていた。人間は成長する生き物です。美人も見慣れれば‥‥まぁそれはないけどね。

 一方のルヴィアは執事のオーギュスト氏に聖骸布の外套を一旦仕舞わせると、一緒に入って来たメイドさんが持ってきてくれた紅茶を口にして呟いた。

 確かにプレゼントっていうのは渡すタイミングが非常に大事になってくる。もちろんそういうことは俺じゃなくて彼女達と衛宮との間の話なわけだけど、何かの記念日でも何でもないこの時期に唐突に渡すには、少々価値が高すぎるものであることには違いない。

 

 さて、一体どういう風に渡せばいいのかね。俺は今回お役ご免みたいだから彼女達の好きなようにすればいいと思うけど、黙って投げてしまうわけにもいかないから受け取った紅茶を啜りながら考えてみた。

 例えば以前のように酒宴を開いてみる。例えば何かのお祝いに無理矢理かこつけてみる。

 ‥‥うーん、どれもいまいちだなぁ。酒の勢いでってのは悪くない案だと思うけど、渡す前に衛宮が———ついでに俺も———潰れてしまいそうだ。前回のことを思い出すと‥‥ガタガタ。

 

 

「‥‥それについてなんだけどね、ちょっと今回は私に任せてもらえないかしら?」

 

「え?」

 

「ちょっとミス・トオサカ。まさか私達をないがしろにするつもりですの?」

 

 

 真剣な顔をしてそう切り出した遠坂嬢に、それでもルヴィアは食ってかかる。ちなみにこの場合の“ないがしろ”とは“友達である自分をないがしろに”とかいう意味ではない。もとより今は衛宮のこともあって冷戦状態だけど、そもそもこの二人の仲は未だに悪いままだ。

 そんなルヴィアにいつものように反撃するでもなく、真剣に頼み込んでいる様子の遠坂嬢に何かを感じて、俺はまるでアームレスリングの審判のように机の上に身を乗り出して友人を止めた。

 

 

「まぁまぁルヴィア、少し落ち着いて。‥‥遠坂嬢、君がわざわざこういうことを言い出すってことは、何か事情でもあるんだろう?」

 

「‥‥えぇ。でもごめんなさい、これは貴方達には話せないことなの」

 

 

 ライバル相手なら絶対に見せないだろう申し訳なさそうな表情に何かを感じ取ったのか、ルヴィアも一瞬、僅かにだけ上げた血圧を下げて華奢な椅子へと腰を下ろした。

 ‥‥俺達には話せないこと? ルヴィアはともかく俺は奴の異常な投影魔術どころか、固有結界のことについてまで知ってしまっている。

 となると‥‥成る程、必然的に答えは紅い弓兵のところへと行き着く。さっきの呟きから察するに、この礼装をダシにしてお説教か、泣き落としでもするつもりなんだろう。

 

 

「そのような答えで私に納得しろとでも?」

 

「悪いわね、ルヴィアゼリッタ。でもこればっかりは譲れないのよ」

 

「‥‥‥」

 

「ルヴィア‥‥?」

 

 

 一旦は退いたが、それでもルヴィアは釈然としない顔で腕組みをしたままだ。

 彼女ははっきりしないことや理不尽なことを嫌う。元来からして清廉潔癖、巨大な自尊心は自らを自らたらしめんと一分の隙もなく己を縛り律するもので、他人にも厳しいが自分には更に厳しいという完全無欠のお嬢様である。

 しかしそれも出会った当初の彼女の話。嫌な言い方になるが、彼女だけでなく俺ですらも、ココに来るまでは箱庭の中で育てられていたのだと実感させられてしまう程に、時計塔の現実は厳しかった。

 そんな中で潔癖症のルヴィアと世間知らずの俺は様々なことを実地で学び、この人外魔境に順応していった。時には痛い目にめ遭ったが、今では彼女も人間関係における機微などを察することができるし、俺も持っていた甘さを拭うに至る。

 だからこそルヴィアにも、遠坂嬢の言わんとしたいことを理解したのだろう。かなり不機嫌に眉間に皺を寄せはしたが、大きな溜息をついてから頷いた。

 

 

「‥‥はぁ。そういえば私も今は少々多忙でしたわね、貴女と違って。いいでしょう、シェロにコレをお渡しするのは貴女にお任せいたしますわ」

 

「一々刺があるわね‥‥。まぁ礼は言っておくわ、ありがとう。埋め合わせはいつか必ずするから」

 

「セイバーの件も含めて、借りっぱなしだというのをお忘れなく、ミス・トオサカ」

 

 

 決して頭こそ下げはしなかったが、遠坂嬢は明らかな謝意を言葉に含ませてルヴィアと睨み合う。‥‥あれはスキンシップの一種だな。彼女達も俺と同様会って一年も経ってないわけだが、完璧に歯車が噛み合っている。

 仲が悪いのは確かなんだけど、結局は似た者同士だから気は合うんだと思うよ。今でこそ磁石の同極みたいに反発してるけど、これが一度触れ合えば無二の親友になるんじゃないかな。

 まぁ特に危惧してるのは、同調するにしても反発するにしても気が合ってることには違いない———本人達は決して認めようとはしないだろうけど———から、その分この二人が本気で暴れ出したら、加速度的に周りの被害が大きくなっていくだろうってことだけど‥‥。

 まぁ、いざとなったら頑丈な衛宮に生贄になってもらえばいいか。残念ながら俺じゃ二人を止められない。ルヴィア単品ならどうにかなるんだけどね。

 

 

「じゃあ本格的に予定が決まったら連絡するわ。家に持ち帰るわけにもいかないから、それまでコッチで預かってて頂戴」

 

「不本意ですけど、仕方ありませんわね。あんな貧相な家ではコレを仕舞っておくスペースもないでしょうし」

 

「士郎に見つかるからに決まってるでしょ! 大体なんでアンタが私の家を知ってるのよ!」

 

「あら、貴女が私の屋敷を知っているのに、私が貴女の家を知らないなんて不公平ではありませんこと? 先日シェロを迎えに行った時に、少しだけ中でお茶をご馳走して頂きましたの」

 

「わざわざ使用人を迎えに行ったのかい、君は‥‥」

 

 

 遠坂嬢には気の毒なことだけど、おそらく倫敦遠坂邸はご近所の噂話の中心になってしまっていることだろう。

 ただでさえ東西それぞれの美少女二人に、パッと見では何の取り柄も見当たらない日本人の少年が一人の三人暮らし。俺が近所に住んでいたら間違いなく噂する。顔立ちはおろか人種も髪の色も違うから血縁関係は見られないし、正直ありえない組み合わせだ。

 そこにこれまた欧州風の、しかも明らかに貴族にしか見えないお嬢様が加わったら‥‥奥様方の歯止めが効かなくなるだろうことは予想に難くない。

 

 

「士郎の奴、私に断ってルヴィアゼリッタを家に上げるなんて‥‥。ていうか魔術師を家に上げるなんて、また一から常識を叩き込んでやらなきゃ‥‥!」

 

「誓って、何もしてませんわよ?」

 

「そういう問題じゃないだろう‥‥」

 

 

 衛宮の雰囲気に当てられて“うっかり”他所の魔術師の家に足を踏み入れてしまったルヴィアも大問題だけど、やっぱり衛宮はどうにかしなきゃいけないなぁ。

 これで彼女だって俺の部屋に無断で入って来たことはない———かなり厳重だとはいえ、彼女ぐらいの実力があれば俺が施した日常的な施錠なんて破るのは簡単なのだ———のだから、衛宮が周りに及ぼす影響ってのは凄まじい。

 魔術師ってのは死んでも“そう在る”ことを決めた人種だから大丈夫だとは思うけど‥‥。これもある意味では良い兆候と言えなくもないのだろうか。

 それ以前の問題として、俺に衛宮をどうこう言う資格もないのだけれど。

 

 また口論を始めた二人を横目に、付き合っていられないと戸棚に並べられた簡単な小説を手にとって、俺は部屋の隅っこへと避難する。

 偶然なのか必然なのか、一頁目を何気なく開いて目を落とした題名は、友人が持っているには何とも似つかわしくない、著名な日本人作家が書いた、友人達との複雑な恋模様を描いた作品であった。

 

 

 

 

 

 44th act Fin.

 

 

 



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第四十四話 『宝石嬢の心配』

第四十四話『宝石嬢の心配』

 

 

 

 side Rin

 

 

 

「‥‥なぁ遠坂、ホントに大丈夫か? なんか顔色悪いぞ?」

 

「大丈夫よ。たった二晩ぐらい徹夜しただけじゃない。このぐらいだったら魔術回路に少しだけ魔力を通すだけでいつも通りよ」

 

 

 隣を歩く士郎の気遣いは嬉しいけど、今日わざわざ出かけたのは一体誰のためだと思ってるんだか。そりゃ士郎が知ってるわけはないから私の理不尽な八つ当たりに近いものがあるんだけど、それでもココ最近の忙しさの一因を担っている本人がコッチの気もしらないで毎日毎日体を痛めつけてるのを知ってて、おちおち一人だけ寝てられないわよ。

 もちろん私だって本当に必要な時は自分だけで寝てしまうけど、それでも気になってしまうことには変わりがない。私にはバレてないつもりなんだろうけど、夜な夜な自分の部屋の隅で密かに鍛錬をしていることはセイバーですら気づいてしまっていることだ。

 

 

「ホラ、最近ウチの近所でひったくりとかが増えてるでしょ? 夜回りしなきゃってんで駆り出されてるのよね」

 

「そうだったのか。‥‥あれ、俺には全然そんな話なかったぞ?」

 

「士郎は先週は目に包帯してたし、ここのところ蒼崎君に連れられて魔眼の実験してるでしょ? 家にいないことが多いんだから、仕方ないじゃない。私は自宅研究の課題を出されてるから最近は家にいるしね」

 

 

 魔術師だって世の中を擬態しながら生きている以上、ご近所付き合いは蔑ろにするわけにはいかない。もちろん普通の人間にだってそういう交流を無視する人も多いとは思うけど、こういうのって家の評判にも関わるから、私の性格上どうにも無碍には出来ないのよね。

 そうでなくとも町内会の取り仕切り役であるミセス・ハドソンがやたらと構ってくるし‥‥。あの人、きっと女子供ばかりの三人暮らしだからって世話を焼きたくって仕方ないのね。そりゃ士郎も私も日本人で、本来の年齢よりは幾分幼めに見えてしまうんだろうし、セイバーは十五歳ぐらいから成長が止まっているらしいから分からないわけでもないけど。

 

 でも私の隣を歩く士郎は一年前の聖杯戦争の時よりは幾分身長も高くなってるし、顔立ちもキリリと引き締まってきている。童顔なのは相変わらずだけど、これは直に化けるわね。アイツだってそうだったんだから、間違いない。

 本当に、確か男の子の成長期って中学高校ぐらいがピークなんじゃなかったかしら? 多分これから二十センチは高くなるはずなのよね。髪の毛とかは置いておいて、瞳の色は魔眼の影響だろうけど、声の調子も違うし本当に同一人物なのか疑いたくなるわ。もちろん、外見だけならの話だけど。

 

 

「疲れてるなら家で休んでた方がいいんじゃないか? 普段だって魔術の研究ばっかりだし、休む時は休んだ方がいいと思うぞ?」

 

「士郎、アンタ馬鹿? ‥‥ロンドンに来てから、二人で過ごしたことないじゃない。こういう機会なんだから、少しは私のわがままにも付き合ってよね」

 

 

 心配してくれているのはありがたいけど、今日の外出は殆ど最初から最後まで士郎のためであって、同時に私の我が儘でもある。どちらかというとこの場合、士郎に対する我が儘っていうよりはルヴィアゼリッタと蒼崎君に対する我が儘だけどね。

 私が士郎にプレゼントを渡すっていうのは、用意してくれたルヴィアゼリッタを蔑ろにしているということに他ならない。正直もっと激しく反発されると思ったんだけど、アイツってば予想外に大人しかったわね‥‥?

 普段ならもっと食ってかかってきてもおかしくないんだけど。特にあの女、何を考えてるのかしれないけどしょっちゅう士郎にちょっかい出してるし‥‥!

 

 

「わっ、と、遠坂?! 突然どうしたんだよ?」

 

「なんでもないの。いいから士郎はさっさと歩く!」

 

「歩くって言われてもなぁ‥‥」

 

 

 少しイラッときて隣の士郎に腕を絡める。今更なのに気恥ずかしいのか、士郎は素っ頓狂な声をあげたけど無視よ無視。

 一応は恋人っていう関係のはずなのに、私の彼氏は殆どそれらしいアプローチをかけてきてくれない。そりゃパスを強化する意味もあって頻繁にではなくても(自主規制)けど、普通に過ごしているとそういう話には凄く淡泊なのよね。

 

 確かに今日の一番の目的は私とルヴィアゼリッタで用意した礼装一式を士郎に渡して、ついでにお説教もすることだけど、その過程の内にデートが入っているのもまた事実。

 倫敦に来てから何やかんやで慌ただしかったがために頻繁にはとることができなかった二人きりの時間を、存分に楽しみたいと思うのはいけないことだろうか。いやそんなことはないわよね!

 最近ルヴィアゼリッタから士郎へのちょっかいが下火になって来てるのも、おそらくは最近の士郎の態度が原因に違いない。

 ならばココで差をつけておかないと、またぞろ手を出し始めるに決まってるわ。

 

 

「いい加減にデートでも私をリードできるぐらいにはなってほしいわよね‥‥」

 

「何か言ったか?」

 

「だから、なんでもないって言ってるでしょ!」

 

 

 更に絡めた腕の力を強くすれば、まだ当惑しているらしいけど、それでも一応恋人は口をつぐむ。

 もう二年近い付き合いになるけど、未だに私は士郎に振り回されてばっかりだ。他人は、例えば綾子なんかは『振り回してんのはアンタの方だろ?』とか呆れ顔で言うかもしれないけど、それは大きな間違いよ。

 確かにリードしてるのは私の方かもしれないけどね、その実コイツは自分が決めたことに関しては一切誰にも譲らないぐらいの、それこそ死んで、もう一回ぐらい殺されなきゃ分からないぐらいの頑固者なんだから。

 だから普段は私が先頭を歩いていても、ふとした拍子に士郎が方向転換したら慌てて追い掛けなければならないのだ。

 もっとも普通の人なら後を追い縋って終わりかもしれないけど、私には前しか見ないその頭をひっぱたいて進む方向を微調整してやるって仕事がある。

 これが心底厄介なところで、私が惚れちゃってるのは士郎のそういう馬鹿な部分も含めてなのよね‥‥。ホント、数年前と言わず、聖杯戦争が始まったばかりの頃の私が今の私を見たら、一体どういう反応することやら。

 

 

「絶対アンタを、アイツみたいになんかさせないんだからね‥‥」

 

「さっきからブツブツ何言ってるんだ?」

 

「だから何でもないって言ってるでしょ!」

 

 

 さて、話は変わるけど、言わずと知れた倫敦の街は、大英帝国の歴史そのものであると言っても過言ではない。

 その内包する歴史はかつて江戸、あるいは近世においては帝都と呼ばれた東京の街とはまるで比較にならず、何気なく裏通りを歩いていても古い時代の息吹を感じることができる。

 つまるところ何が言いたいのかといえば、デートの種というものが全く浮かばないってことなのよね。

 

 そりゃロンドンだって若者がいないわけじゃない。というか仮にも首都なんだから、いないはずがないわよ。大学だっていくつもあるし、当然ながら小中高も揃っている。

 若者がいれば、自然と遊ぶところだって存在するだろう。需要と供給の原則ね。観光地すら兼ねた首都なんだから集まってくる人間も尋常な数じゃないし、お金儲けを考えれば当然のことだわ。

 私はそういうものとは関わりのない生活をしていたけれど、士郎と付き合うようになった聖杯戦争の後からは人付き合いも格段に増えて、冬木でも新都へ出掛けたりもした。

 ただでさえロンドンに来てから時計塔で過ごしてばかりいた私がデートコースなんてなんて思い付けるわけもなく、蒼崎君に頼んで過ごした偽装デートと同じところに行くわけにもいかないから、今日もそういうところを見つけて無難に過ごすつもりだったのよ。

 そのつもりだったんだけどね‥‥。見つからないのよ、そういうところがっ!

 

 例えば日本における京都の町を思い返してくれると分かりやすいと思う。

 ロンドンは京都と違って、殆ど町全体が歴史的な遺産と言ってもいいだろう。中国みたいに日本なら国家遺産になるようなものをゴロゴロ転がしておく国ならともかく、こういった歴史のある建造物なんかは優先的に保護するのは当然のことよね。

 普通にあるデパートからして文化遺産。もう嫌になっちゃうけど、とにかく周りを見回してもそんなものばっかりなのよ。

 京都の町が景観を保護するために建物の高さを制限してるとか、コンビニエンスストアやファストフード店の外装を工夫するように指導しているとかは有名な話だとは思うけど、ロンドンもそういった目立つ店は何処にあるのか、ポッと出の私達じゃ見つけられない。

 昔から住んでいる学生とか、そういう人達ならネットワークが発達してるから知っているのかもしれないけど、生憎と時計塔の学生の中でも大して知り合いのいない私達じゃそれは無理だ。

 蒼崎君からして、研究熱心だからか大してロンドンの町については知らないって言ってたしね。だったら私が知るわけないじゃない!

 

 

「まぁそう言うなよ遠坂。俺はこうして一緒に歩いているだけでも楽しいぞ?」

 

「え、ちょ、何言ってんのよ士郎!」

 

「遠坂は俺といて楽しくないのか?」

 

「‥‥そりゃ、別にそんなわけじゃないけど‥‥」

 

 

 臆面もなく、そんな恥ずかしい言葉を自然に口にした士郎に私は思わず石畳につま先を引っかけて転びかけ、士郎の腕に強くしがみついて転倒してしまうのを堪えた。

 少しだけ見上げると、一体何がおかしいのかとキョトンとした顔をしている。一方の私はきっと茹で上がったタコのように真っ赤な顔をしているに違いない。

 これだから私の恋人は困る。どうしようもない初心な男の子みたいに取り乱すかと思ったら、変なところで妙に落ち着いているのだ。

 これじゃ一々相手の顔色を伺うつもりなんてなかったとしても、私が振り回されてしまうのは道理ってものかもしれない。

 本当に、だからこそ士郎のことを好きになったのかもしれないけどね。

 

 結局どうすることも出来ず、私は何処へ行こうということもなく士郎と歩き出した。段々と寒さが引いていったロンドンの町だけど、少し曇っているからか今日はひどく寒い。

 しっかりと着込んだコートはロンドンに来てから買ったから、この街の気候に合っていて凍えたりはしなかった。もとより隣の士郎の体温が暖かかったしね。

 やったことは本当に大したことじゃない。観光客やサラリーマンでごった返す大通りを歩き、店の軒先を覗いては世間話をする。時にはアンティークの陶磁器を見つけて品定めをしたりもした。

 以前に蒼崎君から教えて貰ったカフェは料理も美味しかったけど、出てきたのはイギリス料理じゃなくて、そういえばセイバーが見ていたガイドブックに載っていたオススメの店も外国料理ばかりだったわね。

 魔術の勉強と研究ばかりに没頭していた日常に、久しぶりに紛れ込ませるコトが出来た普通の恋人としての何気ない時間を、私は士郎と二人で満喫したのだ。

 

 

「あー、楽しかった。今日は随分と遊んじゃったわね」

 

「そうか? ただ歩いただけだったと思うけど‥‥。まぁ遠坂が楽しかったならそれでいいか」

 

「士郎は本当に女の子の気持ちが分からないわね。こういうのがね、時には大切だったりするのよ」

 

 

 決して長くはないしディナーもとれなかったけど、夕日が沈み始めたぐらいの時間に私達は家へと帰ってきた。

 途中に帰り道でミセス・ハドソンに会って散々からかわれた———本人にそのつもりは一切ないに違いない。あの人はおよそ他人に悪感情を抱く人じゃないみたいだから———けど‥‥。アレは明日にはご町内に出回るわね。

 これで士郎や私や、何よりもセイバーが出かける時に色々と噂されるんだわ。私と士郎が恋人なら、セイバーの方はどうなんだってね。あぁ頭が痛い‥‥。

 なんていうか、本当に私がご町内のおつきあいっていうのを無視できるぐらい完璧な魔術師だったら良かったんだけど‥‥。どうにもそういうわけにもいかないのは、以前の私からしてみれば考えられないこと———って、これはさっきも言ったわね。

 

 

「あぁ、おかえりなさい、凜、シロウ。例のものがルヴィアゼリッタから届いていますよ」

 

「ただいま、セイバー。留守番ご苦労様」

 

「ただいま。早速だけど居間まで運んで来てくれるかしら?」

 

「わかりました。しかしまずはコートをお預かりしましょう」

 

 

 士郎がしっかりとお昼ご飯に加えておやつまで用意していたのと、私達がちゃんと夜ご飯の時間帯までに帰ってきたのとで機嫌は悪くなっていないセイバーが出迎えてくれて、ついでにコートまで預かってくれる。

 どうもルヴィアゼリッタの屋敷で変な影響を受けてきたらしい。最近どうにもサーヴァントというよりはハウスメイドのようになってきている気がしてならないわね。

 元々不器用だったのはあるとは思うけど、それでもこの半年ぐらい随分と練習したのか家事もかなり上手になってきてるし、気配りは最初からよく効いた。どうにも釈然としないけど、本人が良いならそれで良いのかしら。

 

 私は居間に据えてあるソファーへ腰掛け、士郎は冷えてしまった体を温めるために紅茶を淹れに台所へ向かった。

 その間にセイバーが玄関から少し入ったところに置いておいたルヴィアゼリッタからの荷物をとってきて、私の前のテーブルに置く。

 かなり大きな包みは重そうだけど、いくら私からの魔力がかなり制限されているからといっても、英霊としての彼女は人間よりも遥かに力持ちだ。ギシリ、と机が軋んだけど気にしない気にしない。

 

 

「ホラ遠坂、この前ルヴィアから貰った紅茶だよ。蜂蜜を入れてみた」

 

「ありがと。士郎もそこに座って。ちょっと大事な話があるから」

 

「‥‥?」

 

 

 怪訝な顔をする士郎を促して私の対面に据えられたソファーへと座らせる。セイバーは自然と私達の間、机を真ん中に三角形になるような位置に立っていて、まるで仲介人の様だ。

 机の上に置かれた包みに視線をやったのを見て、紅茶を一口啜ってから私はおもむろに話を切り出した。

 

 

「まず、これは士郎、ルヴィアゼリッタと私と、それから蒼崎君から貴方へのプレゼントよ」

 

「‥‥開けてもいいのか?」

 

「えぇ」

 

 

 突然の贈り物に士郎は大きな目を丸くさせて驚いたけど、一応はプレゼントという形になっているものが嬉しかったのか、少しだけ口の端を持ち上げてから包みに手をかけた。

 何重にも包まれた包み紙は何時ぞや蒼崎君が干将莫耶を持ってきた時のものを流用してはいるけれど、少なくとも魔術的な秘匿については問題はない。

 セイバーの話によれば別に郵便で届けられたわけではなく、エーデルフェルト邸の使用人が直にやって来たということだから、あくまで隠匿の術式だけで、開けることについては封印はかかっていなかった。

 

 

「‥‥これって‥‥!」

 

「アンタを心配してね、二人が揃えてくれたのよ。外套はルヴィアゼリッタが、胸甲は私が、干将莫耶は蒼崎君がね」

 

 

 取り出されたのは三つの武具。アイツを彷彿とさせる深紅の外套。同じく黒く、白い模様の入った胸甲。そして干将莫耶のオリジナル。

 干将莫耶にはアイツが使っていたものと違って文字みたいなものは掘られてないけど、それでも紛れもない現存する宝具だ。

 利便さで言えば、むしろ紅い外套の方に軍配が上がる。アレは現代で用意できる中で最も軽装で、最も強力な防具。アレ以上のものは現代では望めない。

 胸甲にしたって私が鉱石学科の教授に頼み込んで取り寄せた一級品。幾重にも物理防御の術式を張り巡らせたそれは外套までは及ばなくとも、一流の武具屋に鍛えて貰ったものだ。

 

 

「‥‥ここ最近のアンタの無茶な鍛錬、蒼崎君から聞いたわ。ほんと、馬鹿よね」

 

「馬鹿って遠坂、俺はそんなこと‥‥!」

 

「だから馬鹿って言ってるのよ。士郎、アンタまた周りが見えてないわよ」

 

 

 数瞬だけ外套をみて呆然となっていた士郎が私の言葉に反応するけど、立ち上がったその鼻先に人差し指を突きつけて睨みつける。

 この馬鹿は、本当に何も分かっちゃいない。

 

 

「それで周りよりも何よりも、自分が一番見えてないわ」

 

「自分って‥‥」

 

「アンタは自分がどれだけ無茶しても大丈夫だって、平気だって思ってるかもしれないけどね、そんなの嘘よ。アンタが無茶したら、それだけ周りの人間が哀しむのよ?」

 

 

 士郎は全然分かっちゃいない。

 コイツは自分がどれだけ無茶しても、自分がどれだけ自分の体を傷つけても、それは自分のことだからと頑固にもそう考えているのだ。

 それはある意味では正しい。自分のことは自分のことで、どれだけ近くに寄っても所詮他人は他人でしかない。

 本当ならそういうところを埋められるのは、家族だ。それも出来れば肉親が良い。

 

 これは魔術の世界でも表の世界でも一般的ではないにせよある程度証明されていることなんだけど、やはり血の繋がった家族っていうのは特別なのだ。

 『血は繋がってなくても家族は家族だ』なんて反論する人は多いかもしれないけど、それでも血が繋がっているという事実は間違いなく特別なものなのよね。

 もちろん私はそれでも退くつもりはないけれど、今まで誰も士郎の内面まで深く踏み込むコトが出来なかった———あの藤村先生ですら———ことがそれを証明してしまっている。

 

 結局そういうわけで士郎はここまで突っ走ってきて、結局そういうことで頑固な勘違いを正すこともなかったわけだけど、あらためて言おう、本当に分かっちゃいない。

 士郎は自分のことが抜けているから、必然的に周りの士郎を気遣う気持ちも抜けてしまう。それだけ自分が周りに影響を及ぼしているってことだって分からないのよ。

 きっとアイツは今の士郎が、そのまま自分が一人だと、周りに目を向けないで歩き続けてしまった最果てなのだ。言うなれば、ココが士郎の分岐点の一つであるとも言える。

 だから今は容赦しないわ。

 

 

「アイツの防具も、アイツの側の私達が用意したのかなんてことは分からない。でもね、コレは私達が、士郎のために、士郎のことを思って用意してあげたものよ」

 

「遠坂‥‥」

 

「気づいて。これを見るたびに、士郎のことを心配してる人達がいるんだってこと。もう士郎は周りに、これだけの影響を与えてるのよ。士郎が無茶したら、私達だって苦しいの」

 

「私だってそうなんですよ、シロウ。貴方が無茶をしていると、哀しい。貴方が傷つけば、私も苦しい。それはルヴィアゼリッタも、ショーも同じです」

 

「セイバー‥‥」

 

 

 机を跨いで防具の上に士郎の手と手を重ね、私とセイバーもその上に手を重ねた。無骨な手はコッチに来てからだけでも随分と骨張ってしまったように思える。それほどまでに、私達の知っているところでも知らないところでも鍛錬を続けていたんだろう。

 士郎は半ば当惑を含んだ目でこっちを見つめている。多分、本当はよく分かってないんだと思う。そういう人間だってことは百も承知だ。

 どこか士郎が壊れてしまっている部分があるっていうのは承知していた。本人は気づいてないかもしれないけれど、多分そういうところがないとアイツみたいにはならないはず。

 でも諦めることは出来ないから、強く、強く、セイバーと二人で重ねた手に力を込めた。

 

 

「士郎が誰かを助けに行っちゃうのはもう、仕方がないわよね。そういうところも含めて、士郎なんだし。そういうところも好きよ」

 

「と、遠坂っ?!」

 

「うん、でもね、それでも私は士郎を一人では行かせないわ。ルヴィアも、セイバーも、蒼崎君も、アンタを心配してるの。だからね、『分かった』なんて言わなくていいから、覚悟だけはしておきなさい」

 

 

 今度はしっかりとした意志を込めて、揺らがないように力を込めて、士郎の瞳を真っ直ぐに見る。

 蒼崎君が施した魔眼の手術のせいか、アイツの瞳に近くなった鋼色は少し困惑に揺らいでいたけど、私の視線を真っ直ぐに受け止めてくれていた。

 

 そう、絶対に士郎は一人になんてさせない。

 例え私と、セイバーが着いていった先に破滅が待っていようとも、絶対に何があっても一人になんてさせない。

 文字通り、地獄の果てまでだって着いていってやるんだからねッ!

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥よかったのかい?」

 

「なにがですの?」

 

 

 夕日が差し込み茜色に染まったエーデルフェルト邸の主人の私室。そこで俺は午後の、と言うには少々遅い、食前の腹休めとでも言うべきお茶を啜っていた。

 本来なら私室に親友とはいえ男を入れるなんてトンデモないという意見が過半数を占めるとは思うが、ことルヴィアの屋敷に関してはその原則は適用されない。

 ルヴィアがそういったことにかんしておおらかだというわけではなく、単純に屋敷の中の私室というスペースが、既に三室にも及ぶマンションクラスのスペースだということだ。

 乃ち応接室、書斎、寝室と最低でも三つ。これ以上もあるかもしれないけれど、流石に俺でもそこまでは分からない。もとより女の子の秘密を暴くような趣味は持ち合わせていないしね。

 

 俺が入ったことがあるのは今いる応接室だけで、その中央に据えられた小さめで品の良い机と椅子に腰掛けたルヴィアが俺の問いに返事を返す。

 斜陽が眩しいから俺は窓から一歩脇にずれたところから外を眺めていて、扉の方へと向いているために彼女の背中しか見ることはできない。

 二年近い時間を友人として過ごしはしたけれど、いくらなんでも兄妹でもないんだから背中だけではルヴィアの心情を読み取ることはできなかった。

 

 

「遠坂嬢と衛宮だよ。二人だけでデートなんて行かせて良かったのかい? 言っちゃ何だが、君が正攻法でアピールする良い機会じゃないか」

 

 

 ルヴィアは先日、遠坂嬢の真剣な様子に折れて衛宮へプレゼントを渡す役目を彼女に譲った。しかしエーデルフェルトという家の家風に漏れず相当な負けず嫌いである彼女ならば、本来そこで大人しく退いてしまうような性格はしていないはずなのだ。

 もちろん理知的で道理をわきまえた部分が多分にあることは知っているけれど、それでも何と無くだけど、釈然といかない。

 決して互いに深いところまで理解し合っているわけではないけれど、それでも俺には不思議で仕方がない部分があった。

 

 

「‥‥正直に申し上げますと、私にもよく分かりませんわ」

 

「はぁ?」

 

「最初こそシェロのことばかり気にしてたんですけど、ここのところは少し気持ちも落ち着いてきて、以前ほどに熱心にシェロの傍にいようとは思わないんですの」

 

 

 ふぅ、と吐息をついてカップを口に運んだルヴィアが、珍しくも困惑や当惑の色を交えた物憂げな声を漏らす。

 それはまるで自分の中にある何かを探っているようで、しかもそれがそこにあることは分かっているのに、上手く正体がつかめない、そんな感じの声色だった。

 恐らくクルリとテーブルを回り込んでその美麗な顔を観察してみれば、怪訝に眉をひそめて自分の内面を覗いているかのような表情を拝見できたに違いない。

 

 

「本当に不思議なんですけど‥‥。まぁ、今回はミス・トオサカにお譲り致しますわ。‥‥それよりもショウ、最近何か面白いニュースでもありませんこと?」

 

 

 話はこれでおしまいと言いたいのか、普段よりも少し大きめな音を立ててカップを置いたルヴィアに促されて、俺はここ最近の時計塔で何が話題に上っているのかを思い返す。

 本来なら別に世間一般に出回っている噂でも良いのかもしれないけれど、残念ながら俺もルヴィアも英国人じゃない。英国王室がいくらスキャンダルを起こそうが興味はないし、世界レベルの事件なら今更話題に上げる必要もないだろう。

 というよりも、魔術師は慣例的にそういった“俗な”話題は口に出さないことになっている。勿論しっかりとチェックはしていても、だ。

 

 

「そういえば‥‥。君も知ってるとは思うけど、ホラ、宝石翁の話‥‥」

 

「‥‥大師父が弟子をとるという話ですか?」

 

 

 魔導元帥。宝石翁。万華鏡(カレイドスコープ)などの様々な異名を持つ死徒二十七祖第四位は、言わずとしれた第二魔法の使い手である。

 現在確認されている魔法使いの数は四人。彼はその内の積極的に現世に関わろうとする傍迷惑な魔法使いの一人であり、さほど頻繁ではないにせよ、それなりの頻度で時計塔にも顔を出す。

 青子姉は色々とアレなので割愛するけど、彼、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグは魔法使いには珍しく、あちらこちらで弟子をとっては潰しているという奇特な人物だ。

 時計塔の方でも漠然と概要を把握している魔法であるというのもあるけれど、それにしても多数に広まれば自然と神秘が希釈されてしまう原則を鑑みて、異常と形容するに足り得る性格だと言えるだろう。

 

 あぁ、魔法っていうのは時計塔の上層部ですら把握してない部分が多いんだ。やっぱり現代の、魔術師の常識をもってすら測れない部分ばっかりだからね。

 今のところ俺の原作知識なる、最近はめっきり摩耗して不確かになった情報を動員しても分かっているのはたったの三つ。

 『並行世界の運営』『無の否定』『魂の物質化』、それだけだ。

 特に後ろの二つに関しては、全くの専門外であることもあって全く概要が分からない。高次の生命体となる第三魔法に関してなら推測を立てられないこともないけど‥‥。ウン、やっぱり無理だな。

 そもそも漠然とだって推測を立てられる様じゃ魔法だなんて言われないわけでね。

 何せ俺ですら、否、おそらくは橙子姉ですら青子姉の使う第五の魔法なる代物の正体を知らないのだ。

 そういうことを鑑みると、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグとは本当に何を考えているのか分からない人物である。

 

 

「俺が時計塔に来てから帰ってくるのは初めてだけど‥‥一体なんでまた突然、弟子をとるなんて言い出したのかね?」

 

「条件は『今期で最も優秀な学生』でしたかしら? まぁ当然ですわね。下手な生徒では魔法の魔の字も

拝めぬ内に廃人でしょうし」

 

 

 時計塔では常識になっているのだが、彼の魔導元帥は弟子の扱いが非常に荒い。

 魔術協会に名高い名家の才子が尽く再起不能なまでに潰されてしまったというのは有名な話で、しかも全くそれを悪びれず、ついでに言えば誰だって責めることはできないのだ。

 普段はあちらこちらをフラフラしながら行く先々で気まぐれに弟子をとるらしいが、今回は少々話が違う。あちらから、魔術協会へと通達を出してきたのである。

 つまりこれは協会側に弟子(イケニエ)に差し出す駒を選ぶ権利が与えられたということ。いくら魔導元帥を名乗っているからといって、魔術師同士であるのだから魔法についての知識を得たいと思うのは当然のことだ。

 故に魔術協会としては出来る限り優秀な人材を送り込んで魔法についての知識を得たいが、逆を言えば優秀な才子を潰されてしまう可能性も高い。

 

 

「99%失敗するギャンブルに貴重な生徒を送り込む‥‥。悩みどころでしょうね、ロード達も」

 

「‥‥まぁ今回はむしろ、向こうからご指名されてるようなものなんじゃないかい?」

 

 

 つかつかと歩み寄ってルヴィアの座っている椅子の背もたれに手をかけて顔を覗いてみると、恐らく先ほどまで浮かべていたものとは真反対の、不敵で自信に満ちた笑みを浮かべていた。

 彼女は分かっているのだ。時計塔で最も優秀な生徒と言われれば、該当者は———おそらくルヴィアにとっては認めるのが心底不愉快だとは思うけど———二人しかいない。

 言わずと知れた、ルヴィア自身と遠坂嬢だ。

 

 

「運が良ければ第二魔法への手がかりが。運が悪ければ廃人どころか命を落としかねない。さぁ、どうするんだい?」

 

「言われるまでもないことですわ。我がエーデルフェルトの家が追い求めた第二への直接的な手がかりを前にして、二の足を踏むなどという選択肢はございません」

 

 

 もとより彼女達は共に彼の宝石翁の弟子の家系。これほどのチャンスをふいにしてはご先祖様に申し訳が立たないことだろう。

 なによりも彼女達自身の強烈な自負心と欲求が、立ち止まることを許さない。俺だって躊躇しかねない危険な道を前に一拍たりとも足踏みしない在り方は眩しいぐらいだ。

 

 

「それにね、ショウ。“運が良くとも悪くとも”、それを掴むのは私達自身の力ですわよ」

 

「‥‥成る程、いやはや君は流石だね」

 

「私は“私達”と申し上げましたけど?」

 

「はは、期待に応えられるよう、精進させてもらうよ」

 

 

 こちらを見上げながらでも、決して見下ろしている気分がしない。こういうところが輝いて見えるのは原作の登場人物とかそういうことじゃなくって、やっぱり彼女が、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトという魔術師が輝いているからだろう。

 だけど引け目を感じてばかりもいられない。確かに家柄では遥かに劣る初代の俺だけど、与えられた環境自体は優るとも劣らないわけだしね。

 これもまた、誰にも引け目を覚えることのない、蒼崎紫遙としての魔術師の自負心だ。俺だって彼女達に負けちゃいられないし、絶対に負けるつもりはない。

 

 窓際に置いておいたがために口に運んだ紅茶は例の如くすっかり冷めてしまっていたけれど、それでもなお一抹の暖かさが心に去来していたのは、きっと、多分、そんな簡単なことに改めて気づかせてくれた親友の暖かい気遣いのせいだと思ったのだった。

 

 

 

 45th act Fin.

 

 

 

 



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第四十五話 『蟲の娘の襲来』

 

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

「すいませんね、ミスタ・エミヤ。こんな夜遅くに巡回なんてお願いしてしまって‥‥」

 

「気にしないで下さい、ハドソンさん。俺だって近所が危険なんて言われて放っておけませんから」

 

 

 ロンドンの夜はとても寒い。そもそも地図を見て初めて気づいたことなんだけど、ここの緯度は日本を据えてみてもかなり北の方にある。風の関係とかもあるらしいんだけど、時期によってはもの凄く凍える。

 特に歴史的な趣のあるこの古い街では夜になると寝てしまう人が多いらしく、中心部はともかく住宅街では灯りも消えてひどく寂しい。

 街灯だってちゃんとあるけど、それにしても灯りが随分と絞られているし、結構感覚は広くて道は暗かった。こうして歩いている俺とハドソンさんも手にカンテラみたいな電灯を持っていて、そうでなければ路地の向こう側も見えないかもしれないだろう。

 

 

「本当に、最近は物騒になって困りますわ。昔はこうじゃなかったなんて言うつもりはありませんけど、この街に住まうものとして不本意ですね」

 

「そうですね、日本だとそういうことは少ないんですけど、やっぱり大きい街になると色んな奴がいると思います。警察の手も回らないんじゃないですかね」

 

 

 そんな中で俺は町内会を取り仕切るハドソンさんと二人、暗い路地をカンテラで照らしながら歩いていた。とは言っても逢い引きとか、そういうことじゃない。これは町内会の見回りなのだ。

 最近この辺りで噂になっている通り魔、ひったくりの類を警戒して、ハドソンさんから見回りに加わらないかというお誘いがあったのが昨日のこと。

 もちろん俺としてはそういうことがあって、更に人から頼まれたりしたら放ってはおけない。一も二もなく頷いて、渋い顔をする遠坂を説得して外出した。

 今はハドソンさんと二人きりだけど、元々は十人ぐらいの集団であり、そこからそれぞれ別れて巡回している。

 ハドソンさん以外は一人ずつで広い地域を回ってるんだけど、他の人達は屈強な男ばかりだったのに対してハドソンさんだけ女の人だったから、俺が一緒に回るようにその場にいたおじさんから言われたのだ。

 

 ちなみに遠坂は明日、朝早くに講義があるというので家で寝ている。俺を一人で出してしまうことにはかなり渋っていたんだけど‥‥。そこはやるべきことはちゃんとやらなきゃだめだと言い聞かせた。

 セイバーを付けると言われたけど、むしろ遠坂の側にいないといざというときに困ってしまうだろう。

 遠坂も言っていたことだけど、やっぱり倫敦は魔術的な事情も含めて危ない街だ。協会のお膝元で堂々と魔術師の工房を襲撃するなんて無いとは思うけど、万が一ということもある。

 

 

「ミスタ・エミヤが一緒なら安心ですね。鍛えてらっしゃるのが、よくわかりますもの」

 

「いやぁ、そんなことはないですよ。ほんの少しなんで、危ないと思ったら俺を放って逃げちゃって下さい」

 

「あらあら、そこまで薄情じゃありません‥‥と言いたいところですけど、お言葉に甘えさせていただきますね。けど、そのときはちゃんとミスタ・エミヤも一緒に逃げて下さいよ?」

 

 

 ハドソンさんにはそう言ったけど、勿論通り魔なんかに遅れをとるつもりはない。とは言っても当然ながら油断は禁物だし、彼女の前では魔術を使うわけにもいかないからそれなりに緊張してはいる。

 服の強化ぐらいなら大丈夫だろうけど、流石に投影までは出来ないだろうな。遠坂が怒り狂うだろうし、俺は記憶処理の魔術なんて使えない。

 助ける必要がある時に魔術の秘匿とか考えて間に合わなくなってしまうのは本意じゃないけど、やっぱり魔術協会のお膝元なんだからそれなりに注意はする。何より遠坂からは耳が痛くなる程に苦言を弄されているんだから、なおさらだ。

 

 それにしてもこの人も不思議な人だな、やけに落ち着いていて、側にいると安心する。

 外国だと当たり前のことなのかもしれないけど、この年で未亡人っていうんだから人生は不条理だ。

 顔立ちとかから察するに、多分三十にも届いていないのだろう。少し癖のある金色の髪はセイバーみたいに結い上げていて、昔、同じくラスの後藤が持ってきていた本に載っていたメイドさんみたいなエプロンドレスを着ている。

 何がすごいって、それが自然と似合っているってことだ。しかも普段着として。それも、メイドとしての普段着とかじゃなくて、ハドソンさんの普段着としてだ。

 うーん、落ち着きように反して全体的に若いよな。もちろん女性に年齢を聞くなんてマナー違反だから聞いたことはないけど、下手すれば藤ねぇと同じくらいかもしれない。

 

 ‥‥藤ねぇが聞いたら怒り狂うな。多分、まだ結婚願望とかは無いと思うんだけど、何時だったか、そいういう情報誌を見ながら『憧れるわね〜ウェディングドレス〜』とか恐ろしいコトを口走ってたし。

 あのトラを貰ってくれる人なら、きっと菩薩のように懐の深い人に違いない。個人的には料理の腕もそれなりな、出来れば板前とかコックとかなら言うことなしだ。

 藤ねぇが料理するところなんて想像できないから、きっと結婚した後も家に来て食事をねだるつもりに違いない。ヘタすれば旦那さんの分まで増えることになる。

 まぁ悪いってわけじゃないんだけど、なんとなく心配になってしまうのはどうしてだろうか。

 

 

「ミスタ・エミヤ?」

 

「あ、は、はい?!」

 

「この建物を左右に分かれて、一回りしましょう。ちょっと大きめですからね。向こう側で合流です」

 

 

 気がつけば目の前にはやたらと大きく、それでいて恐らくは明治時代級に古いマンションみたいな建物が建っていて、少し物思いに耽っている間に随分と歩いていたらしい。

 いけないな、これじゃ見回りにならないじゃないか。隣のハドソンさんは優しく楽しそうに微笑んでいたけど、思わず顔が僅かに朱を帯びてしまっていたのを感じた。

 

 

「大丈夫ですか、危ないですよ?」

 

「心配なさらないでください。いざとなったら大声をあげますから、そうしたら助けに来てくれるんでしょう?」

 

「も、勿論ですけど‥‥」

 

 

 フフ、と花のように笑う様子は、今まで接したことがある女の人の中にいなかった仕草だ。まるで気にも留めていない様子のハドソンさんは、やっぱり有り得ないぐらいに大人に見える。

 結婚するって、やっぱり人を成長させるのだろうか。セイバーもあれで随分と大人な部分があるけど、ハドソンさんに感じるのは遥か昔に感じた様な気がする、包容力みたいなものだった。

 

 

「じゃあ安心ですね。では向こう側で会いましょう」

 

 

 そう言うとハドソンさんはエプロンスカートを翻して建物の向こうに消えていった。

 街灯の灯りが薄暗いからその後ろ姿はすぐに見えなくなってしまい、カンテラの光も角を曲がると視界から外れる。

 俺は一応辺りに注意して万が一にもハドソンさんの後ろを尾けていくような不審な奴がいないかを確認してから、彼女が消えていったのとは反対側を通る道へと進む。

 ハドソンさんが心配だから早めに歩きたい気持ちもあるんだけど、一応は見回りだからそういうわけにもいかないのがもどかしい。

 

 この辺りは住宅街の中にあってもなお寂れている地区に隣接しているからか、建物の中にも人の気配が全くしない。

 勿論そんなことはないはずだから、住人はみんな家の中で寝静まっているに違いない。

 それにしてもしっかりと窓やカーテン、それどころか雨戸すらしっかりと閉じているのだろう。

 確かに主都ということもあって治安は地方に比べれば‥‥いや、むしろ地方の方がちあんが良いのかな?

 遠坂から冬木にいる内に軽くレクチャーを受けた覚えがあるんだけど、さして重要だとも思わなかったからか、すっかり頭から抜けてしまっている。

 

 

「———ひったくりよ! そっちに行ったわ!」

 

「何?!」

 

 

 と、半ば本来の仕事を疎かにして思考を巡らせていると、俺の背後から突然女の子の声がした。

 声の調子は遠坂に似ている。気の強く、本当ならひったくりだろうが通り魔だろうが蹴り飛ばしてしまいそうな元気というか、力強さに満ちていた。

 そんなことを一瞬の内に考えながら素早く振り返ると、ちょうど同時に俺の横をひったくりと思しき男が通り過ぎていく。

 ここまで接近されても気づかないなんて、どれほどまでに俺は気を緩ませていたのか。それともひったくりの足が異常に速いのか。

 助けを求めているような語調ではなかったかもしれないけれど、目の前で行われる犯罪を見逃すわけにはいかない。

 半ば条件反射のように俺は少しの間だけ驚きで停止してしまった脳みそをフル回転させると、再度振り返ってかなり前を走っていく男を追いかけた。

 

 

「おいっ、待てッ!」

 

「止まれと言われて止まる奴がいるかよっ!」

 

 

 背中越しに聞こえてきた声は、歳をくったダミ声だ。おそらくは中年なのだろうが、それにしても足が速い!

 如何に魔力で脚力を強化していないといっても、カンテラを放り出して全力で走っている俺よりも速いというのに、答を返す余裕があるとは恐れ入る。

 

 俺達が走っている脇の建物は先ほどハドソンさんと別れた建物で、古いマンションだからかとても大きい。

 しかしこのまま走ればいずれは合流する予定であったハドソンさんと鉢合わせてしまう。

 いくら相手の足が速いと言っても、俺だってこっそりばれないように魔力で無理矢理ながらも脚力を強化すれば追いつくことはできる。

 そうなれば、いや、そうでなかったとしても、目の前に手頃なカモがいては人質にして逃げるなんてことも考えるかもしれない。

 ダメだ、そんなことさせるわけにはいかない!

 俺は歯を食いしばって足に力を込め、同時に魔力を流して今の俺に出来る限りの強化を施そうとして———

 

 

「ぎぃやぁぁあああーッ?!!!」

 

「?!」

 

 

 とんでもないものを、目にすることになった。

 

 

「な、なんだよコレはっ?! 誰か、誰か助け———」

 

 

 目の前で、ちょうど建物の角を曲がろうとした男が突然何かに躓いたかのようにつんのめった。

 当然ながら倒れるわけにはいかないから手を伸ばして地面を支えようとするけど、その手が、まるでそこが泥の沼であるかのようにズブズブと沈んでいったのだ。

 次いで暗闇の中であるにもかかわらず、そこが街灯の下であったからか、続けて起こった出来事の一部始終を俺は目撃する。

 

 その足は、何かに躓いたのではない。一泊遅れて地面へ突き出した手と同じように、足下に飲み込まれていたのだ。

 ズブズブズブと、それでいて音も立てずに足は膝まで埋まっていく。

 手は既に手首まで地面に沈んでしまっていて、全く身動きが取れない状態だ。

 街灯の光に照らされた石畳を見れば、そこには泥沼などではなく、真っ黒な、まるで絵の具を大量にぶちまけたかのような底の見えない闇が広がっている。

 男は足下に広がった闇に飲み込まれているのだ。

 普通の人間では遭遇し得ない異常な現実に、中年の男性の、無精髭を生やした顔は未だかつて無い程の恐怖に染まっていた。

 

 だが、それでも闇は許さない。

 俺が駆け寄る暇もなく、最初のゆっくりとした嚥下の様子が嘘のように、水に沈んで行くかのように男の体は瞬く間に影へと消えていく。

 まだ俺との間に数メートルは距離がある内に、完全に男は見えなくなってしまっていた。

 

 

「な‥‥今のは‥‥?!」

 

「———あら、見られちゃいました?」

 

 

 影が俺からは見えない建物の角の向こう側へと波のように引いていき、驚きのあまり漏らした俺の声に、予想も付かない返事が返ってきた。

 それは若い女の声。優しく慈愛に溢れた声色の中に、一抹の怖れを感じてしまうのは何故だろうか。

 まるで見えない触手に体中を探られているような、紛れもない悪寒が背中を這っていく。

 アレは、普通じゃない。俺達の側を知らなければ、妖怪でもいたのかと思って普通の人間であれば一目散に逃げ帰ることであろう。

 

 魔術師。何がどうなっているかはさっぱり分からないが、これは明らかに魔術師の仕業だ。

 そして未だに俺からは見えないが、あの建物の影に隠れているのは俺よりも実力のある魔術師に違いない。

 

 

「悪いわね、人払いをし忘れたわ」

 

「ッ、誰だ!」

 

 

 後ろから聞こえた声に振り返ると、先ほど聞こえたものと同じ声の持ち主がそこに立っていた。

 背中の中程までは伸びた黒い髪。膝ぐらいの丈のブリーツスカートとブラウスを品良く着こなし、きっちりとネクタイを締めて、膝までもない落ち着いた仕立ての黒いコートを羽織っている。

 年の頃は俺と同じくらいだろう。腕にはめている、その上品で真面目そうな姿には不釣り合いの無骨な手袋からは僅かに魔力を感じた。

 元々魔術師としては未熟以前の問題だった俺だが、遠坂のシゴキで大分底上げはされていると自覚している。

 だからこそ、どのような魔術師であるのかは分からずとも、少なくとも目の前にした相手がこちら側に属している人間だと判断するのに不足はなかった。

 

 

「いえ、大丈夫ですよ。私も最近ちゃんと記憶処理の魔術を習得したところですし」

 

「そう、じゃあ実地演習も兼ねて丁度いいわね。‥‥悪いけど、記憶を弄らせてもらうわよ」

 

 

 後ろから聞こえた声と、前の女の子の声。どちらに対して反応して良いか迷ったけど、どちらにしたって記憶を弄られるなんてまっぴらご免だ。

 俺は魔術回路を起動させながら、まずは後ろの脅威を認識しようと振り返って———

 

 

「‥‥え、先輩‥‥?」

 

「さ、くら‥‥?」

 

 

 呆然とした表情でたたずむ、少し厚着をした冬木での家族の一員の顔をみて思考を停止させてしまったのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥突然遠坂嬢の家を急襲するなんて、大丈夫なのかい?」

 

「大丈夫ですわよ。ミス・トオサカは教授に朝から呼ばれていますし、シェロも講義があるそうですわ。今日セイバーはアルバイトが休みということですから、先日の顛末は彼女から聞き出すことにしましたの」

 

「君、いつの間にセイバーのスケジュールを把握してたんだい‥‥?」

 

 

 エーデルフェルト家の運転手(ショーファー)氏に礼を言って車から降り、俺はフフンと胸を張って目の前の倫敦遠坂邸を睨みつけるルヴィアの隣で溜息をついた。

 遠坂嬢が先日ルヴィアに、衛宮へのプレゼントを彼女が渡すと通達してから数日。遠坂嬢が告知するところによれば昨日にそれは決行されたはずだから、今日はその結果報告を貰いに来たというわけだ。

 とはいっても遠坂嬢から聞くのは諍いの元になりかねない。そう判断したルヴィアはセイバーから聞き出すことにしたらしい。

 彼女の性格からしてみれば正々堂々と正面から遠坂嬢にアタックしそうなものだけど、どうにも婉曲的な手法を使ったのは単に遠坂邸にお邪魔したかっただけなのかもしれないなぁ‥‥。

 

 これは多分だけど、遠坂嬢はルヴィアが尋ねて来ても正直に屋敷に上げはしないだろう。

 ルヴィアが自分の屋敷に平然と遠坂嬢を上げているのに対してソレはどうなのかという話になるかもしれないけれど、魔術師の工房として完璧に魔術防御、及び攻撃の準備が整っているエーデルフェルト別邸に対し、倫敦遠坂邸の方は越して来たばかりということもあって満足に準備が整っていない。

 勿論ソレであったとしても並の魔術師に比べれば遥かに堅牢な工房だろうけど、別邸とはいえ長い歴史を誇るエーデルフェルトの工房に比べれば見劣りしてしまうのは仕方がない。

 

 今、俺の隣で周囲のご近所様の視線も気にせずに仁王立ちする親友殿が遠坂嬢の工房で何か悪戯するとは思わないけど、こういう子供っぽい応酬を互いに好んでする辺り、本当にルヴィアと遠坂嬢は噛み合っているんだなぁとは思うよ。

 これでベクトルが互いの方向を向いている内は良いんだけど、力を合わせて別の方向に向かったりしたら流石にどうするべきか真剣に衛宮と考える必要があるかもしれないなぁ。

 なにしろホラ、あれだ、二人揃ってドS気味だから、大問題だ。

 

 

「まぁセイバー用の懐柔策も用意して来たし、邪険にされないとは思うけどねぇ‥‥」

 

「大丈夫ですわよ。オーギュストに頼んで取り寄せた一級品ですもの」

 

「そういう問題じゃないと思うんだけどなぁ‥‥」

  

 

 とりあえず貢ぎ物さえ持っていけば騎士王がどうにかなるっていう考えは、世界アーサー王協会とかアーサリアン達のためにも止めて欲しい。

 うっかりそういう人達の前で何気なく発言したりしたら大問題だ。意外と、むしろ当然ながら倫敦にはそういう人達が多い。

 何が厄介って、彼らが怒り心頭で反論するであろう部分が全て紛れも無い真実なんだってことなんだけど‥‥。ま、ナンセンスな思考は脇に置いておくことにしよう。

 

 

「ミス・トオサカがシェロにどういうアプローチをしたのか、しっかりと確かめませんと‥‥。ともすれば彼女のアノ不可思議な態度の説明もつくかもしれませんし」

 

「君、あれに関してはちゃんと了解したんじゃなかったのかい? あの後も一切追求しなかったじゃないか。

 俺はてっきり納得して潔く身を引いたものだとばっかり‥‥」

 

「確かにミス・トオサカを追求するのは野暮、いえ、一度退いた身としてはやっていけないことですわね」

 

 

 古い屋敷ではあるけれど、遠坂嬢達が入居するにあたって現代生活に欠かせない様々な必要最低限の設備が整えられた、つまるところインターフォンのついた門の前に立つ。

 決して馬鹿でかくはないが、それにしたって一般的な日本の住宅事情を鑑みれば十分に大きな邸宅だ。これで冬木の遠坂邸に比べて数段小さいというのだから恐れ入る。

 もっともココは元々からして魔術師の住家。さらに言うならば、指折りの腕を持ったイカレタ封印指定(マッドマジカリスト)が根城としていた屋敷だったのだ。

 主が捕縛されると同時に屋敷の中はあらゆる意味でキレイサッパリ掃除されたが、周りの住民達からは長らく恐ろしげな洋館———英国には洋館ばっかりなわけだが———として噂されていたとかいなかったとか。

 そこに突然引っ越して来たのが不可思議な三人組なのだから、おそらく一ヶ月はご町内の噂を独占したであろうことは想像に難くない。

 

 

「ですが周りの近しい友人から話を聞くのならば、全く問題ありませんわっ!」

 

「詭弁だよソレ?!」

 

「故人日く『私がルールブックだ!』と」

 

「それ故人違う! ソースは何処?!」

 

「‥‥何をしているのですか、お二人共」

 

 

 ハッと気付けば何時の間にやら開いた門の向こう側で、まったく普段と変わらぬ清楚で真面目そうな衣服で小柄な身を固めたセイバーが、呆れたように両手を腰に当てて立っていた。

 どうにもインターフォンが押されたので応答したのに返事が無く、不審に思って出て来たらこの状況ということらしい。

 いくら既知の仲とはいえ他人様の家の前で漫才じみたやり取りをしてしまっていたとは‥‥。いやはやお恥ずかしい。

 

 

「あ、あら申し訳ありませんわね、セイバー!」

 

「恥ずかしいところを見せちゃったかな? いやいや、申し訳ない」

 

「いえ、別にどうということではありません、ルヴィアゼリッタ、ショー。今日は先日の件についてですか?」

 

 

 ちょっと頬を朱に染めながらセイバーに案内されて、古びた洋館の玄関に入る。

 整理整頓が苦手な遠坂嬢ではなく、おそらくは衛宮の手によるものだろうが、ちらりと視線を投げかけた先の廊下の隅っこにも埃の一欠片もない。

 このサイズの家になると一人で管理するには大きすぎるだろうに、一分の隙もなく全ての家具が綺麗に磨き上げられている。いったい何時、どうやって暇を見つけて掃除したのか。

 アイツだって基礎錬成講座とはいえ、むしろ基礎講座だからこそ遠坂嬢や俺やルヴィアの所属している専門課程よりも忙しいはずだ。

 何しろ基礎が完全に出来ているものとして講義が進む俺達と違い、衛宮はあらゆることを時計塔で詰め込まれる。

 

 あの辺りは時計塔が組織として存在しているがために編成する必要があったという背景を含んでいるとはいえ、かなり厳しい講義らしい。

 もちろん橙子姉の講義とどちらが厳しいかと言われれば、シークタイムゼロセコンドで橙子姉の方が厳しいと言わせてもらうけどね‥‥。

 

 

「しかし申し訳ない、二人共。折角来て頂いたのですが、今日は余りおもてなしできそうにもありません」

 

「いや、別にもてなして貰いたいわけじゃないから気にすることじゃないけど‥‥。今日は何かあったのかい?」

 

「シェロもミス・トオサカも留守の予定だとお聞きしましたけど?」

 

「その予定だったのですが‥‥」

 

 

 言い淀むセイバーが居間と思しき———そういえば俺が遠坂邸にお邪魔するのは今日が初めてだ———扉のドアノブに手をかけ、申し訳なさそうにこちらを見る。

 ルヴィアから聞いていたことなんだけど、この家はまず居間を経由しないとどの部屋にもいけないようになっているらしい。

 そういえば昔、前世の話だけど、母親がやけに熱弁していたことがあったっけ。

 確か『家に帰ってきて、まずは居間にいる家族に顔を出すべきだ。帰ってきて顔も見ないで自室に戻るなんて許せない』だったかな?

 よくよく考えれば橙子姉と暮らしていた『伽藍の洞』のビルも一度四階の事務所を通らないと自分の部屋には戻れなかったっけ。

 学校から帰るたびにほぼ必ず幹也さんと式———彼女も学校あったはずなんだけど、一体何やってたんだろうね———と橙子姉に『おかえり』と言って貰えるのは、一人暮らしをするようになった今に考えてみれば、とても良いことだったんだなぁと思わずにはいられない。

 

 いやいや、こういうのが分からない人もいるかもしれないけどね、実際に一人暮らしってのは随分と心細いものなんだよ。

 最初の数日こそ珍しい生活に興奮し、満喫していてもだよ? じきにたまらなく寂しくなってきてしまうんだ。

 そうしたら夜に涙するようになるまでさほど時間はかからない。あれは、本当に心細いものだ。

 初めて青子姉が突撃してきたときには、顔には出さなかったけど随分とまた嬉しかったなぁ‥‥。まぁ、バレてるとは思うけど。

 

 

「実は日本に居たときの知り合いと、その友人がつい先ほど訪ねて来まして‥‥。少々たてこんでいます。彼女達の相手は凜とシロウに任せるつもりですが、すいません、私もさほどお二人に時間を割けるかどうか‥‥」

 

「いや、元々こちらの我が儘みたいなものだし、構わないよ。衛宮達の知り合いがいるってんなら、こっそり静かに居間を通り抜けてしまおう」

 

「‥‥まるで私がヘマをしたかのような言い方は気にくいませんけど、まぁ事実ですからね。ショウの意見に賛成ですわ。

 突然お邪魔したのは私達の方なんですし、迷惑をかけるわけにはいきませんわね」

 

 

 俺の言い方が不満だったのか少しムスッとした顔をしたけれど、ルヴィアも賛成する。なにしろ衛宮達の知り合いが来ているというのなら、俺達は邪魔ものにしかならないからね。

 そりゃ一応俺達は事前にセイバーの方とではあるけど約束はしてた。それでもこの家の主は遠坂嬢と、次いで衛宮だから彼女達の事情が優先させるだろう。

 これも他人の家を訪問する時のマナーかな。マナーというよりは、最低限の心遣いって言い換えた方がいいかもしれないけれど。

 

 

「では‥‥失礼します、凜、シロウ。ルヴィアゼリッタとショーを私の部屋に連れて行きますね」

 

 

 こっそりと扉を開き、セイバーが目立たない程度に小声で遠坂嬢に用件を伝えて素早く歩き出す。

 俺とルヴィアも———ルヴィアはコソコソという姿勢が甚だ不満な様子ではあったけど———騎士王とは思えない程見事に生活じみたセイバーの背中に従ってコッソリ、それでいて失礼ではないように多少は背筋を伸ばしてついていった。

 

 

「あら、紫遙じゃない?」

 

「‥‥へ、鮮花?」

 

「ちょっと蒼崎君、知り合いなの?」

 

 

 が、本来なら訪問した先の家族の事情として流すのが礼儀であろうところを呼びつけられ、俺はその聞き慣れた声に立ち止まって来訪者の方を向いた。

 それなりに広いリビングの中央を占領している二つのソファーの片方には遠坂嬢と衛宮が中々に深刻な顔で鎮座坐しており、その反対側には二人の女性が座っている。

 一人は言わずと知れた俺の妹弟子、黒桐鮮花。

 おそらくは寒い倫敦の街中を歩くためにコートやマフラーを着込んでいたと思われるが、暖かい家の中にはいったからか居間は全く普段と変わらぬ恰好である。

 もう一方は薄い紫色の、鮮花と同じくらいの長さの髪の毛で、落ち着いた服装をした女の子。

 優しげな、ともすれば気の弱い印象を受ける顔は驚きに彩られており、丸く見開かれた目は真っ直ぐに俺の方を見つめていた。

 

 

「ああ、俺の妹弟子だよ。あと君は‥‥桜嬢か? どうして衛宮の家に‥‥」

 

「おい紫遙、桜とも知り合いだったのか?!」

 

 

 衛宮までもが驚いて立ち上がり俺の元へとやって来て、後ろではルヴィアとセイバーも怪訝な顔をこちらに向けている。

 なんて、カオス。今はそんな感想しか湧いて出てこない。

 だってホラ、遠坂嬢ってば半ば事態の概要を把握しつつあるのか左腕を輝かせながら袖をまくり上げてるし、衛宮は衛宮で桜嬢が倫敦に来ていることにこれ異常ない程に動揺してるのか俺の肩をつかんで揺さぶってるし‥‥。

 

 とりあえずさ、みんな俺の方ばっかり注目しないで、自分から注意が逸れたがためにどうしていいのかわからず目を白黒させてる桜嬢にでも構ってやってくれないか?

 頼むよ、もうすぐプレッシャーで意識が、飛び、そう‥‥。

 

 

 

 46th act Fin.

 

 

 

 

 



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第四十六話 『焔の妹の画策』

 

 

 side Azaka Kokuto

 

 

 

「‥‥ふぅ、とりあえず暫くはココで待機かしらね」

 

「エコノミークラスって、本当に貨物なんだ‥‥」

 

 

 大英帝国の主都、倫敦の一角にある安ホテル。私ともう一人の同行者はその中でも出来る限り上等の部屋を確保して、十時間以上に及ぶ長い空の旅の疲れを癒している。

 安いホテルといっても、その中では一等の部屋だからか設備はほどほどに充実していて、どこにでもあるらしいセルフの紅茶セットで紅茶を淹れた私は一息でそれを飲み干した。

 ‥‥うん、悪くない。やっぱりティーバックなんて無粋なものがないのがイギリスらしいわね。

 礼園にいたときには度々同級生からお茶会に誘われたけど、伽藍の洞では基本的にコーヒーが殆どだ。

 特に最近は時計塔に進学するための準備やら何やらで忙しかったから同級生や下級生との付き合いも一時的に疎遠になってたし、本当に久しぶりの紅茶だった。

 

 

「私が思うに、橙子師は絶対それなりにお金を持っていてしかるべきだと思うのよね。幹也だって頑張って仕事をとってきてるわけだし、もうちょっとぐらい羽振りが‥‥いえ、まずは幹也に給料を支払うべきなんじゃないかしら」

 

「幹也さん、頑張ってますものね」

 

「この前もまた給料出なかったからって、日の丸弁当を事務所に持ってきてたのよ?! しかもソレを口実に式はまた食事を作るからって幹也のアパートに入り浸るし‥‥! どうしてくれようかしら、あの女」

 

「もう婚約者なんだから自然なことじゃないかな。‥‥それに鮮花だってお金をケチってたんだから、橙子先生のことは言えないと思うけど‥‥?」

 

 

 それは言われると耳が痛いところではあるけれど、仕方がないことではあったのだ。

 だって私の倫敦留学を頑固に止めさせようとする両親を何とか説得できたのはいいけれど、それで渡航費まで貰おうなんてのは些か虫が良すぎるというものだろう。

 叔父に強請るという手もあったけれど、なんというか、どうにもそれは私の矜恃に反する。

 今まで散々一方的に、ついでに言えば私の個人的な都合と我が儘で世話になっておいてなんだけど、やっぱりそういうところは今更ながらも筋を通しておきたいところだ。

 そういうわけでイギリスへの空の旅にはエコノミークラスの飛行機を用意したんだけど‥‥やっぱりアレはダメね、同行人の言う通り、正しく貨物って形容が正しいわ。

 

 

「座ってるのに疲れるって、普通に考えればおかしなことよね。なんだか体中の骨がゴキゴキって言ってるわ」

 

「機内食が美味しかったのが唯一の慰め、かな。あぁ、久しぶりに先輩の料理が食べたい‥‥」

 

 

 よくよく考えれば私って、自覚はなかったけどお嬢様って言われてもおかしくない育ち方していたのかしら。

 ‥‥確かに礼園に通っているっていうだけで資格はあるわね。

 でも普段の物腰———自分が極大の猫を被っているという自覚はある。なかったら惨めなだけだろう———だけでいうならば、少々庶民的で素朴で親しみやすい雰囲気があるとはいえ、今もベッドに腰掛けて窓の外の曇った空を眺めている同行人の方が遙かにそれらしいとは思う。

 なにせ物腰は優しく、口調は穏やかで、その姿勢は慈愛に満ちあふれているのだ。

 言ったら可愛く怒られるとは思うけど、お母さんという雰囲気が正しいのか。一昔以上前の言い方になるけれど、将来は間違いなく良いお嫁さんになりそうだ。

 決して憧れてるわけじゃないけど、そういうのは私に無い部分だから純粋に羨ましいという気分では———ってアレ、これも憧れてるっていうのかしら?

 まぁそういう風になろうとは思ってないから良いわよね。いや、この子は本当に良い子なんだけど。

 

 

「それにしても腹立つのは紫遙よ! 今日コッチに着くって手紙に書いておいたのに、全く何の迎えも寄越さないなんて‥‥!」

 

「まぁまぁ、紫遙さんもきっと何か用事があったんですよ。家の留守番電話に伝言は入れておいたんでしょう?」

 

「そりゃね。でも不精者のアイツのことだから、何時それに気づくかわかったもんじゃないわ!」

 

 

 今回私が一人の同行人を連れて倫敦までやって来た理由とは、ずばり来年度からめでたく入学が決まった時計塔の下見という点にある。

 確かに橙子師は超一流の魔術師ではあるけど、やはり専門機関で学ぶのとは話が違う。

 特に私のように歴史のある家系の出身でないどころか、魔術回路を持たず、どちらかといえば異能者と言った方が良いエセ魔術使いなら尚更だ。

 そういった人間が裏の世界で生計を立てていくつもりなら、早い段階からソチラの世界の有力者と渡りをつけておくことが必須条件であると言ってもいいかもしれない。

 『自分の腕一つで成り上がる』という言葉の響きはひどく恰好いいけど、実際にそうやっていける人間というのはごく僅か。

 あの橙子師ですら、最初は時計塔で修業していたのだ。つまるところは、いわんや私をや、といったところだろうか。

 

 

「きっと橙子師の妹さんに連れ回されてるか、研究室に篭りっきりになってるんじゃないかしら。一度何かを手に付けると周りが目に入らなくなるものね、アイツは」

 

「それって魔術師としては悪いことじゃないと思うけど?」

 

「周りが迷惑するのよ! 周りが! そういうところまで橙子師に似なくても良いじゃない?!」

 

 

 執行を凍結されている封印指定の魔術師が推薦人とはいえ入学に関して言えば真っ当な正攻法だったから、本来なら普通に時計塔の窓口に問い合わせて見学とかを申し込んでも良かったんだけど、それには一つだけ問題があった。

 私と同じく来年度からの入学を予定している同行人、間桐桜の存在だ。

 

 元々かなり歪とはいえ一角の名家によって魔術の教育を施された彼女は、橙子師によれば魔術師としてはかなり大成できる器の持ち主らしい。

 数だけを比べるならば魔術回路は橙子師の倍近いし、保有する属性も希少な虚数属性。魔力量も並の魔術師とは比べものにならないんだとか。

 私もある程度は知っている色々な諸事情でかなり偏った魔術の習得の仕方だけど、その辺りを中心に橙子師に指導されたこともあって、今では時計塔に入学するコトに不足はない。

 もとより虚数属性なんて稀少な属性を指導するには橙子師でも専門分野ではないために役者不足で、どちらにしても時計塔に入学する必要はあったそうだ。

 

 

「困ったわね‥‥。紫遙がいないと迂闊に時計塔まで行けないわ」

 

「すいません、私が迷惑をかけちゃって‥‥」

 

「何度も言ってるけど、気にすることなんてないわよ。折角できた妹弟子の世話ぐらい焼かせてちょうだい」

 

 

 問題は彼女に先だって倫敦にやってきているという先輩———私は心の中で愚鈍と呼んでいる———なる人物、衛宮士郎の存在にあった。

 桜が言うには先輩という人物は、彼女にとって何よりも、あろうことか直接的に助けたことになるだろう私や式や紫遙よりも、自分にとって大恩ある人物なのだとか。

 その先輩について話を向ければ嬉々として先輩の良いところを延々と語り出し、止まらない。藤乃も幹也が藤乃を助けた時のことを長々と話し続ける癖があるから、あの二人ってば本当に気が合うわね。

 とにかく神様みたいに信望しているといったら‥‥流石に過言だろうけど、そのぐらい桜にとって大事名人物なのだ。

 

 

「時計塔も随分と広いらしいし、あまり神経質になる必要はないと思うけど‥‥」

 

「本当にすいません‥‥」

 

「だから謝る必要はないって言ってるでしょ? 貴女はまずその自分を卑下する癖から直さないと、一流の魔術師にはなれないわよ?」

 

 

 だけど桜にとって不運なのか必然なのか、その先輩は桜が魔術師であることを知らないらしい。

 話によれば彼は魔術師としては半人前で当時の桜にも劣るというヘッポコぶり。最初こそ衛宮の家の監視という命を外道の祖父から受けて入りこんだ桜からしてみれば、負い目のようなものもあったのだろう。

 とにかく桜としては敬愛し、あまつさせ恋慕の情すら抱いている先輩を長年にわたって騙し続けていたということは変わらない。

 先輩というのが桜のことを家族扱いしていたということもあり、出来れば今回の訪英では———あくまで下見であり、すぐに帰ってしまうということもあることだし———先輩と鉢合わせしたくないというのが彼女の主張だった。

 

 従って前々から倫敦に居て、先輩という人物とも知り合いであるという紫遙に連絡をとったのだ。

 事前に手紙を出し、訪英する日時を知らせ、到着した次の瞬間には電話で連絡をとった。

 生憎と携帯の番号を知らなかったから家の電話にかけたんだけど、生憎とこれが繋がったのは留守電で、仕方が無しに応答を待って私達はホテルにたたずんでいる。

 本来なら先輩‥‥面倒だしややこしいので衛宮さんと言うけど、この衛宮さんと鉢合わせしないように兄弟子に手はずを整えてもらってから時計塔の見学をして、適当に倫敦を観光してから長居せずに帰る予定だったのだ。

 何しろ倫敦の、どこに衛宮さん達が住んでいるかも分からないから街も迂闊に出歩けない。

 まぁ桜は私に迷惑をかけていると思って落ち込んでるみたいだけど、この程度だったら姉弟子の甲斐性だから気にすることなんてないのにね。

 

 

「それよりも問題は‥‥」

 

「えぇ、盗られてしまった鞄ですね‥‥」

 

 

 もう一つ、私達が倫敦に到着してから抱え込むことになってしまった問題があった。

 飛行機の時間の調整を完全にうっかり間違えてしまった私達がヒースロー空港に到着したのは日が沈んで随分経ってから。

 生憎とタクシーも捕まらず、魔術師であることもあって多少は増長していたのだろう、私達は途中までバスを使い、そこからは徒歩でホテルに向かうことにした。

 そこまで距離があったわけじゃないし、何か不埒な輩が絡んできたら消し炭に‥‥まぁ、そういうわけにもいかないから大火傷ぐらいで済ますつもりだったけど、とにかく平気だろうと高をくくったわけだ。

 

 不幸なことに、むしろツケが回ったというべきか、私達は痴漢や変質者の類には襲われなかったけど、その代わりに疾風のように背後から走り寄ってきたひったくりに桜の手提げ鞄を盗られてしまった。

 魔術を使う暇もなく、すぐに路地裏に逃げ込んでしまったがために追うことは不可能。

 別段貴重品を入れていたわけではなかったけど、大事な鞄だ。アレを取り戻すことも、私達にとって急務だった。

 

 

「どうしようかしらね‥‥。警察に届け出てもいいんだけど、そこまで長く滞在してるわけじゃないから面倒だわ‥‥」

 

「伽藍の洞の住所を教えるわけにもいきませんし、手続きも厄介ですよね‥‥」

 

 

 私達が日常の比重の大半を傾けている師匠の住居、伽藍の洞。

 封印指定の凄腕魔術師である蒼崎橙子によって手がけられた結界は其処に用事がある者以外の注意を建物から逸らす。

 例を挙げれば、近所の悪ガキが幽霊マンションの探検をしようとか思っても、実際にそれを実行しようとは思わないというわけだ。

 勿論水道やガスの料金などの徴収には来るんだけどね。この辺りの線引きの巧みさは流石は橙子師だといったところかもしれないけど、とにかく魔術師の住居の所在をバラすというのは中々にマズイことだと思う。

 

 

「しょうがないわね、こうなったら答えは一つだわ」

 

「一つ‥‥?」

 

「えぇ。私達でひっ捕まえて、盗まれたものを取り戻すっ!」

 

「えぇーっ?!」

 

 

 私が握りしめた拳を天へと突き出すと、向かいのベッドに座っていた桜が大袈裟に驚いた。

 その可愛らしい庇護欲をそそる姿からは、彼女が一度スイッチが入れば側に居るのが怖くなってしまう程の真っ黒な存在と化してしまうことなんか想像できない。

 

 

「だって仕方がないじゃない、いくら大事なものが入ってなかったっていっても、魔術師の所有物をこそ泥なんかに奪われたのよ? これは矜恃の問題だわ」

 

「確かにそうかもしれないけど‥‥。危なくないですか? ホラ、ここは魔術協会のお膝元ですし」

 

 

 桜の言いたいことは分かる。魔術協会の息がくまなくかかっているだろう倫敦の街で魔術なんぞ使っては、最悪目を付けられて処分されてしまう怖れもある。

 たしかに協会は魔術師にとっては公的機関と言っても良いところかもしれないけれど、その実態は魔術師の本質と何ら変わらない。

 懲罰機関という表現が適切かどうかは分からないけど、裏の世界の調和を乱すものには一切の容赦がないのだ。

 

 そもそもからして千年以上の名家においても個人主義のものが多い裏の世界では絶対的な権力を持っているとは言い難いけど、それでも一番に巨大な組織であることは間違いない。

 私達みたいな弱小魔術使いなら、顔色を伺っておくに越したことはないだろう。

 

 

「そうね、やるしてもまずはコッソリ時計塔まで行って、私達っていう魔術師が到着したことを知らせる必要があるかしら」

 

「やるってことは、決定事項なんですね‥‥」

 

「あたりまえよ。魔術師が普通の人間に手玉に取られて黙ってるわけにはいかないわ」

 

 

 事前に連絡さえしておけば、私達が魔術を行使したのが見つかっても説明がつく。神秘の秘匿さえ守っていれば問答無用で拘束なんてことはないだろう。

 何せ魔術師という生き物が第一に考えるのは神秘の漏洩を防ぐこと。秩序を守ることを旨とする魔術協会であっても、神秘の秘匿さえしっかりと守られていれば、魔術師がいくら一般人を実験やら何やらのために犠牲にしようと問題ないというスタンスらしい。

 

 私としてはそういう外道な行いは断固として拒否するつもりだけど、まぁそういう連中がいるっていうことだけはしっかりと頭に入れておく必要があるかしらね。

 ‥‥最近は日常になってたから忘れつつあったけど、この子の家もそういう魔術師だったらしいし。

 

 

「私の魔術は穏便に済ませることができるような器用なものじゃないから、私が囮になって、貴女が捕まえる。これでいいわね?」

 

「いいけど‥‥。はぁ、こうなった鮮花に何を言っても無駄かな‥‥」

 

 

 何を失礼な。

 確かに私は『ガンガンいこうぜ!』っていう部分が多いのは認めるけど、何より桜の後ろ向きで自嘲的な姿勢の方が問題でしょうが。

 きっと今だって私が何か言い出さなかったら、どうせ私のバッグですし、とでも言って無かったことにしちゃうに決まってるわ。

 本当に、そういうところさえ直してもっと積極的になれば、衛宮さんだって放ってはおかないと思うけど‥‥。

 どうかしら、幹也は決して愚鈍な男じゃないけど、それでも幹也以上っていうなら不十分かしら。

 

 何を落ち込んだ顔してるのよ! いい、桜、女は度胸、そして押せ押せよ!

 ウジウジしたってね、事態は停滞こそすれ絶対に前進はしないんだから!

 

 

 

 

 

 ◆

  

 

 

 

 

「もうまったくワケが解らない。解る奴がいたらここに来い。そして俺に説明してくれないか?」

 

「だから今から説明してもらうんでしょ、蒼崎君?」

 

「説明するのは俺なのかい?!」

 

「当然でしょ。私達こそワケが解らなくて困ってるんだから」

 

 

 ビクリ、と遠坂嬢達が退いて無理矢理詰めたソファーに腰掛けながら、俺は体を驚いた子犬のようにびくつかせた。

 目の前に座った妹弟子ズからは遠坂嬢達とは別の怪訝な視線を向けられているし、言わずもがなの衛宮は眉間にマリアナ海溝ぐらいの皺を刻んで腕を組んでいる。

 コイツに関して言えば、怒っているというわけではなさそうだ。どちらかというと、俺と同様にワケが分からず半ばパニックになり、それを表現する姿勢がアレだということだろう。

 自分の信念について以外はダメダメと言い切られてしまうぐらいのヘタレのくせに、今の姿勢には妙な迫力さえ感じる‥‥気がしたり、しなかったり。

 

 

「ていうか、俺達が来る前までに何を話していたのか聞きたいんだけど?」

 

「まだ何も話してないわよ。昨日の夜に士郎が二人に会って、もう夜も遅いから詳しい話はまた後日って、ついさっき来たばかりなのよ」

 

「それじゃあまだ詳しい自己紹介も済んでない段階って考えてもいいのかい?」

 

「まぁそれで問題ないと思うわ」

 

 

 何故この燃える妹はこんなに偉そうなのかと頭の片隅で思いつつも、衛宮がいれた紅茶を啜る。

 少し癖のあるアールグレイは香りが強く、日本で一般的なセイロンに慣れた舌と鼻には心地よい。

 その一方で事態を全く理解できていないらしいルヴィアも含めて全員の視線は俺へと集中しており、正直に言えば痛いぐらいだ。

 いや、別に説明することについて吝かではないんだけどさ、どうにも状況的に口を開きにくいっていうか‥‥。

 しかし俺自身としても事態を把握していない部分が多い。 

 とにかく今は少しでも進展させて何が起こっているのか確かめようと、仕方なく俺は言葉を紡いだ。

 

 

「まず、簡単に紹介させてもらうよ。こちらは俺の義姉である蒼崎橙子の弟子、つまるところ俺の妹弟子にあたる魔術師で、黒桐鮮花だ」

 

「初めまして、黒桐鮮花よ。貴方達のことはザッとだけど紫遙から聞いてるわ」

 

「それで‥‥って、桜嬢については紹介する必要ないよね? ていうか俺も何で二人がココにいるのか分からないんだけど、その辺りから説明してくれないか?」

 

 

 実際の話、こと桜嬢に関して言えば俺はアレから殆どノータッチだ。

 橙子姉の連絡先を渡して、後に入った連絡によれば無事に何事もなく弟子に収まったらしいけど‥‥。

 どのような修業をしていたかは言うに及ばず、どういう付き合い方をしていたかだって知りはしない。

 橙子姉とはあれから頻繁に連絡をとって遠坂嬢への言い訳の打ち合わせをしてたから、その辺りはちゃんと鮮花に伝わっていたと信じたい。

 なにより、そうじゃなかったら俺が遠坂嬢に殴っ血killれてしまうことになるもんなぁ‥‥。

 

 

「まぁ簡単に用件だけ言うとね、来年度から私も時計塔に入学することになったから下見に来たってだけなのよ」

 

「なんだ、遂にご両親からOK貰えたんだ」

 

「くれなかったら幹也みたいに家出するって説得したわ」

 

「それじゃ脅しだよ‥‥」

 

 

 ご存知の通り、幹也さんは大学を中退して橙子姉のところに押しかけて来ちゃったから、ご両親からは半ば勘当扱いになっているらしい。

 今時普通の家で勘当っていうのも尋常じゃないけど、実際は殆ど喧嘩別れで幹也さんが飛び出して来たそうで、それを聞く度に『この人がそんなことするんだなぁ‥‥』と驚いたものだ。

 まぁ実際には式との件があるわけだから想像できないことでもないはずなんだけど、それでもやっぱり驚いてしまうぐらい、俺にとっての普段の幹也さんは穏やかで、それでいながら頼もしい年上のお兄さんだった。 それでも最近やっと、式との結婚を決めたこともあって実家の方にも挨拶に行ったらしい。

 長い間連絡先をとっていなかった息子が隻眼になり、走るのが難しい体になり、あまつさえ嫁まで連れて来た時のご両親の心労は察するに余りある。

 加えて年頃の娘まで兄の真似をするかのように家を出て行ってしまってはたまらない、そう考えたのではないだろうか。

 実際やられる方の身になってみれば卒倒してもおかしくないぐらいの衝撃だ。

 どちらにしたって日本からいなくなってしまうだろうことが明白な以上、泣き寝入りしてしまいたいぐらい苦渋の決断だったのではないかと推察される。

 

 

「それで、桜も同じ年度に入学する予定だからって一緒にね。紫遙にはコッチに来る日を手紙で報せてたでしょ?」

 

「ん? そんなの全然届いてないぞ?」

 

「嘘よ、ちゃんと住所も間違いなく書いたもの。昨日だって到着してから家に電話したわ」

 

「家に‥‥、あぁ、成る程、ダミーのアパートの方に届いたんだな」

 

 

 俺は基本的に時計塔の地下にある蒼崎の工房で生活しているわけだけど、当然ながら別にアパートを契約している。

 戸籍は橙子姉が擬装してくれたから学校に行くこともできたけど、引っ越すとなるとまた色々と別の問題が発生するのだ。

 その最たるものが役所に届ける引越し先の住所。馬鹿正直に時計塔の住所を記入するわけにはいかない。何せ時計塔の住所には、世界に冠たる大英博物館が陣取っているのだから。

 

 こちらにいる間、俺がまだ———外見上は———非就業年齢の間は橙子姉が手続きをやってくれていたけど、多少なりとも大人になってしまえば義姉の世話ばかりになっているわけにもいかない。

 もちろん魔法使いと封印指定を義姉に持つとはいえ一介の学生に魔術協会がそこまで丁寧に便宜をはかってくれるはずもない。

 仕方がないので下見の際に適当なアパートを見つけて、ダミーの住所として借り受けておいたのだ。

 もちろん生活自体は工房で過ごしているわけだから、ここ暫く‥‥半年ぐらいは放ったらかしになっている。

 つまるところアパートの方に手紙を送ったって電話をかけたって、誰も受け取りはしないのだ。

 

 

「そういうのは時計塔の方を経由してもらわなきゃなぁ‥‥。悪名高い蒼崎の手紙なら誰も盗み読んだりしないわけだし」

 

「普通はそこまで考えたりしないわよ! ていうか橙子師、知ってたんなら教えてくれたっていいじゃない‥‥?!」

 

 

 面倒臭かったんだろうな、多分。

 普段あんなに他人に蘊蓄垂れたり解説したりするのが好きなくせに、瑣末なことは当然互いに知っているはずだって思ってるような性格だから。

 幹也さんも請け負った仕事の期日をその日に告げられて、しかも作品は出来てないとかの状況を何回か経験して懲りたらしいし。

 もっとも橙子姉に言わせれば、そうやって溜息をつく俺の方にも同じようなところがあるらしいけど、やっばり水は血よりも濃いってことなんだろうか。

 

 

「ホント、いらないところばっかりそっくりよね、アンタ達」

 

「余計なお世話だよ。君こそ頑固なところは幹也さんそっくりだ」

 

「‥‥まぁそっちの事情は大体わかったけど、こっちの問題は———」

 

 

 と、そこまで聞いて呆れたのかどうなのか頭を振った遠坂嬢が視線を鮮花の隣に座る桜嬢へと移す。

 視線を向けられた菫色の髪を持つ少女はビクリと身を震わせたが、気丈にも俯かずに、顔はしっかりと前に向けた。

 部屋中の六人から注視されているのは彼女にはきつかろうに、瞳は揺らぎながらも前に会った時よりも頼もしげだ。

 

 

「‥‥隠していてすいません、先輩。私も‥‥魔術師でした」

 

「そ、そうだったのか‥‥。昨日はすぐに帰っちゃったから、今更かもしれないけど、やっぱり少し驚いたよ‥‥」

 

 

 流石に衛宮と正対してはいられないのか、少しだけ俯きがちに口を開いた桜嬢に、衛宮は決まりの悪そうな顔で、それでいて何故か落ち込んだ様子の桜嬢が気にしないようにするためか、照れたように頭の後ろを掻いた。

 遠坂嬢は衛宮と桜嬢が話しているからか恋人の隣で腕組みをして二人を見つめていて、その様子は威圧的でありながら、どこか包容力を感じさせる。

 そういえば俺も今更ながら思い出したけど、遠坂嬢と桜嬢は実の姉妹だったっけ。

 きっと遠坂嬢も桜嬢が魔術師をやっているってことは理解してたと思うけど、こうして目の前に出てきたっていうのは胸中複雑な思いなのかもしれない。

 確か遠坂の家と間桐の家は互いに不干渉を約束していたんだったかな? それがあるなら、恐らくは魔術師としてのリングに桜嬢が上がってくるのは初めてなんだろう。

 

 ぶっちゃけた話、俺の周りの兄妹姉妹ってのはどいつもこいつもクセモノ揃いだ。

 筆頭からして橙子姉と青子姉だし、幹也さんと鮮花にしても大概に濃い関係だよね。まぁアレは一方的なものなんだけど。

 だからこそ義姉からはおそらく愛されていると断言できる俺としては、姉としての遠坂嬢が桜嬢にどいう感情を持っているかについて、希望的観測しかすることができない。

 HFルートとかアニメとかを思い返せばウチの二人みたいに冷戦状態にあってなお俺の見えないところでは殺伐としているような関係ではないと思うけど‥‥。

 

 

「もしかして、俺が魔術師だってのも‥‥?」

 

「‥‥はい。前に土蔵で鍛練しているところを‥‥」

 

「あ、ぁ、あの間違ってたヤツか」

 

「すいません、もしかしたら先輩が死ぬかもしれなかったのに、止めなくて‥‥」

 

 

 桜嬢と衛宮以外の全員が黙って二人の行方を見守っている。この状況に、口を出せないのだ。

 遠坂嬢とセイバーは桜嬢と衛宮の関係というものを知っているからそれなりに複雑な表情で、俺とルヴィアは正直な話、わけがわからないのでそういう顔で。

 一方の鮮花は桜嬢が橙子姉に弟子入りしてからどれくらい桜嬢と親しくなっているのかはわからないけど、大概の事情を———ともすれば遠坂嬢よりも———把握しているらしく、妹弟子を励ましているかのようだ。

 

 いやね、確かに俺には原作の知識っていう大きなものがあるけれど、正直言ってもう大分摩耗しつつあるんだ。

 そうでなくとも世界の一員として混ざるために出来る限り思い出さないように努めていたから、おそらく橙子姉と青子姉の方がよく覚えているだろう。

 まぁ実際問題として、目の前で現実として行われている日常とゲームの中とが全く噛み合わないということもある。

 例えば、全く意味は違うんだけど、近いところでアニメを実写化したドラマなんかを思い出してみてほしい。

 全然似てないだろ? つまりはそういうこと。

 ただでさえ“ゲームの中の登場人物”としてではなくて“現実に当たり前のように存在する友人”として付き合っているんだから当然だ。

 

 

「先輩、実は———」

 

「まぁ落ち着きなさいよ桜。倫敦にはそのために来たわけじゃないでしょ?」

 

「黒桐さん」

 

「こんな人が大勢いる場でやる話でもないわ。後にしなさい」

 

 

 と、顔を思い切りよく上げて何かを言おうとした桜嬢を鮮花が制した。

 思わず黙って聞いていてしまっていたけど、確かに部外者が何人もいるところでする話じゃない。

 いくら原作というパーソナルデータを知っている俺とて細かいところまでは何がなんだかさっぱりだし、ルヴィアなんかは居心地が悪いだろう。

 

 

「そういえば桜は何時どこで紫遙と知り合ったんだ? 確か紫遙って、もう二年近く倫敦にいるんだよな?」

 

「紫遙さんとは、修学旅行で東京に行った時にお会いしました。それから連絡はあまりとってなかったんですけど、実は先日、私の師であった祖父が逝去しまして、代わりの師として橙子先生を紹介してもらったんです」

 

「あ、あぁそうだよ。衛宮と知り合いだったなんて気づかなくてね、びっくりしたさ」

 

 

 衛宮の疑問に桜嬢が答え、俺も適当に相づちを打つ。成る程、そういうことにしたのか。

 そういえば前に衛宮から聞いたけど、確か穂群原学園の修学旅行の行き先は東京だって話だったな。

 二年生の時に修学旅行があると考えても、去年の夏前。確かにその頃に一回帰国していた覚えもある。

 

 

「その節は本当にお世話になりました」

 

「そ、その節? あ、あぁいや、別に気にすることじゃないよ。ハハ・・・」

 

 

 まぁ随分と綱渡りではあるけど、無い話ではない、か。

 本来なら時計塔とかの魔術師が集まる場所以外で魔術師同士が出会うってのはあんまり無いシチュエーションだから疑問ではあるけど、そこは偶然と解釈してもらうより他ない。

 もちろん魔術師は互いに互いを認識出来るけど、それでも尚魔術師の数は少ないからね。

 冬木みたいな一等の霊地ならともかく、例え東京でも早々魔術師に会うなんてことはない。

 実際俺もココに来るまで会ったことのある魔術師は身内だけ‥‥いや、あと一人だけか。

 

 

「‥‥まったく、そういうことなら管理者である私に一言あっても良かったんじゃない?」

 

「すいません遠坂先輩。一応メールで連絡はしたんですけど‥‥」

 

「え? そうなの?」

 

 

 今の今まで黙って腕組みをし、二人の会話を見守っていた遠坂嬢が呆れたように口を開いた。

 魔術協会によって定められた管理地に住まう魔術師は、その土地の管理者(セカンドオーナー)に対して幾つかの義務を有している。

 例えば管理地内に工房を作る際には管理者の許可が必要だし、住んでいるだけでも税金のようなものを納めなければならない。

 他にも色々と面倒な規約があり、基本的に魔術協会に登録している魔術師はその決まりを守りながら研究を続けている。

 

 とはいっても全ての魔術師が魔術協会に所属しているわけではない———むしろ所属していない魔術師、もしくは管理者等の次元を超越した名家が多い———し、その決まり自体もかなり緩い。

 魔術師とは基本的に利己的な生き物であるし、研究成果のみならず自身がどのような生活をしているかということまで他人には秘匿するのが信条だ。

 だから自分の研究に影響が出るような決まりであれば、どんなにバックの魔術協会が怖くても従うはずが無い。

 よって決まりというのも、互いにある程度の一線を越えないように設定されている。

 

 もちろん魔術協会に所属するのみならず、時計塔で勉学をするという学生ならば管理地の管理者の推薦を受けることも多く、だからこそ遠坂嬢の意見はもっともだ。

 管理者が管理地の魔術師の動向を把握していないというのは大問題である。

 例えば管理地の魔術師が神秘の秘匿を冒したとすれば、それは管理者の責任であるからだ。

 下手をすれば協会の介入→管理地の権限の剥奪ということすら考えられる。

 それ故に遠坂嬢は身内であっても、桜嬢の動向に注意せざるをえないのだ。

 

 

「もしかして凜、携帯電話にサクラのアドレスを登録していなかったのでは?」

 

「ぐぅ!」

 

「それにサクラ、凜の携帯は通話しか出来ません。というより凜では通話以外の機能を使いこなすことができない」

 

「え? そ、そうなんですか?」

 

「‥‥悪かったわね、機械音痴で」

 

 

 セイバーの説明を聞いて吃驚して、学園のアイドルとまで言われた先輩の方を見る桜嬢の視線に耐えかねたのか、苦虫を噛み潰したかのような顔で遠坂嬢がそっぽを向いた。

 俺も今まで橙子姉だってそれなりに機械を扱えていたから、機械音痴というのを見るのは遠坂嬢が初めてだったわけだけど‥‥。

 いるもんだなぁ、本当に機械が使えない人種っていうのは。説明書の通りに操作することもできないなんて驚きだよ。

 

 

「アドレスが分からないメールは全部まとめて消去してるのよ。そういうのって、一々チェックするの面倒でしょう?」

 

「というより出来る限り携帯に触りたくないという感じでしたが。あぁ、アドレス帳の登録は私の仕事ですので、後で私の携帯の方に送っておいて下さい」

 

「あ、はい。わかりましたセイバーさん」

 

「ちょっとセイバー、マスターである私をないがしろにして———」

 

「では自分でやりますか、凜?」

 

「‥‥お願いするわ」

 

 

 いつの間にかセイバーの遠坂家での発言力がとても強くなっている件について。

 そういえば彼女も携帯持ってたな。どうもロード・エルメロイとはよく連絡を取り合っているらしい。

 俺とルヴィアがロードの執務室を訪ねたら、平然とセイバーがロードと二人でお茶をしながら、対戦ゲームで盛り上がっていたなんてこともある。

 どうも俺達の知らない内にコンタクトを取っていたらしく、おそらくは第四次聖杯戦争がらみの案件なんだろう。

 ムキになってコントローラーを振りまわす騎士王と、大人げなく初心者を凹にするイイ笑顔のカリスマ教授‥‥。俺達は無言で部屋を後にしたものだ。

 

 

「あらミス・トオサカ、その程度の簡単な機械も満足に扱えませんの?」

 

「なによルヴィアゼリッタ、そういうアンタは使いこなせてるんでしょうね‥‥?」

 

「私へのアポイントメントは直接か、オーギュストを通して受けていますから。そのような無粋な道具は必要ありませんわ」

 

 

 携帯電話が普及されてから、人間は何時でも誰かに縛り付けられているとも言える。

 何時でも何処でも、用事があれば携帯電話に連絡がかかってくる。おちおち休んでもいられない。

 もっとも利便さは言うまでもなく、現代機器を嫌う魔術師の中にも仕方なしに所持している者は多かった。

 彼女ほどになると、違うんだろうけどね。もちろん俺も持っている。

 

 

「‥‥そうね、皆さん明日はお暇?」

 

「私は暇よ。士郎は?」

 

「俺も講義はないな。セイバーは?」

 

「私は賃仕事がありますので‥‥。ショーはどうですか?」

 

「特に用事はないよ。研究もまぁ、息抜きぐらいは必要だし。ルヴィア、君はどうだい?」

 

「私は少々エーデルフェルトの方で仕事がありますの。お力になれそうにありませんわね」

 

 

 鮮花の問いかけに、倫敦組が次々に隣へ隣へとピタゴラスイッチの如く首を動かして予定を確認していく。

 鉱石学科の講義自体は最近教授の体調不良とカリキュラムの影響で途切れがちになっていたし、衛宮も明日は講義がないらしい。

 それを聞いた鮮花は大層お気に召したらしく、上機嫌の笑顔でこう言った。

 

 

「じゃあ決まりね。衛宮さん、だったかしら? 実は桜、倫敦の街を観光するのを凄く楽しみにしていたんですよ。良かったら彼女を連れて観光の案内を頼めませんか?」

 

「そうなのか、桜?」

 

「え? 私は別に———ひぃあっ?!」

 

 

 振り向いた衛宮に訪ねられて何か答えようとした桜嬢だけど、グッと鮮花に手を握られて言葉を途切れさせた。

 なんだろう、何時ぞや酒盛りをしたときの俺に罰ゲームを強要した時みたいな笑顔を浮かべてるんだけど‥‥。なんか、嫌な予感しかしないぞ。

 

 

「それで遠坂さんは、悪いんですけど私の方に付き合って頂けませんか?」

 

「は?」

 

「時計塔の見学に来たんですけど、やっぱり紫遙だけだと不安ですから‥‥」

 

「おい鮮花、そりゃ一体どういうことだい」

 

「黙って頷きなさい服飾センスゼロ」

 

「な‥‥ッ?!」

 

 

 ビシリ、と俺の中に罅が入る音が聞こえたような気がした。

 そりゃ自分でもバンダナは痛いと思ってるけど、これは魔術刻印を隠すために絶対に必要なものなんだよ?!

 おいコラ衛宮、あとルヴィアも、なんでそんな目でコッチを見る。特に衛宮、お前にだけは言われたくないぞ。

 

 

「橙子師から学長に渡す手紙も頼まれてまして、取り次ぎもお願いしたいんです。紫遙だけだと不足かもしれないので」

 

「最初からそう言えばいいじゃないか‥‥」

 

 

 説明されたトサカ嬢は暫し視線を衛宮と桜嬢の間を行ったり来たりさせながら、眉間に深い皺を刻んで考え込んでいた。

 そりゃそうだろう。自分の恋人と後輩で実妹とはいえ要注意人物を二人きりにさせなければいけないのだ。普通なら即決で却下である。

 だけど問題はおそらく、ここには弱みを見せたくない天敵が一人と、何を考えてるかはわからないけど弱みを見せるわけにはいかない部外者が一人いるということだ。

 特に鮮花の申し出は、不審な点こそあれ真っ当なもの。後輩の前では出来る限り良い面を見せておきたいということもあるだろうし、中々面倒な案件だ。

 

 

「‥‥わかったわ、学長に面会するのに付き合えば良いのね。後で時計塔に行って、手続きとかしておいてあげるわ」

 

「ありがとうございます、遠坂さん」

 

「鮮花、君は後で話があるからお茶でも行こうか」

 

 

 つまるところ。桜嬢と衛宮のデートを首尾良く取り付けたということで、やっぱり鮮花は存外桜嬢のことを気に入っているらしい。

 横では事態を把握して顔を仄かに朱に染めている桜嬢と、何もわかっていない衛宮とが不思議な雰囲気を醸し出していて、遠坂嬢はやっぱり何となく不機嫌だ。

 ルヴィアは既にたわいのないことだと興味を失ったらしく、鮮花と適当な世間話に興じている。

 

 とりあえず俺はルヴィアに耳打ちして、ひとまず本来の目的を果たそうとセイバーに声をかけたのであったが‥‥いやはや、明日は一体どうなることやら。

 

 

 

 47th act Fin.

 

 

 

 



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第四十七話 『蟲の娘の告白』

 

 

 

 side Sakura Matou

 

 

 

「‥‥なぁ桜、本当にこんなので楽しかったのか? 観光地になるところはどこにも行ってないし。美術館とか、博物館とか‥‥」

 

「はい、私はこれで十分です。先輩達が暮らしている倫敦の街をたくさん見ることができましたから」

 

「そうか?」

 

「そうです。観光名所が見たかったらツアーにでも申し込めば良い話ですし、何より来年からは私もこの街で暮らすんですから、必要なものを見ておきたかったんです」

 

 

 東京の街も冬木とは比べものにならないぐらい賑やかだったけど、倫敦の街も更に人が多い。

 行き交う人達は見慣れない外国の人ばかりなのは当然だけど、それでもさほど違和感を感じないのは、もしかしたら私の中に少しだけ流れる異国の血のせいなのかもしれない。

 それにしても、最近出来た私の真っ当な師匠である蒼崎橙子さんの事務所がある東京は乱雑という感じだけど、倫敦は本当に人が多いという印象がある。

 

 それに比べて東京は汚い、というか雑多。こちらはやっぱり島国といっても欧州だけあって沢山の人種が溢れていて、雑多なものも何もかも飲み込んでしまっているみたいだ。

 街自体が凄く古くて、観光地になっているということもあるのかもしれない。

 私が通ったのは表通りばかりだけど、鮮花に連れられて脚を運んだ渋谷の街とかに比べれば綺麗だ。

 

 

「凄く活気があるんですね。料理も不味いっていう話でしたけど、食材は凄く沢山種類があって驚きました」

 

「あぁ、最近はそこまでひどくないみたいだな。俺もここに来てから何度か外食したことがあるけど、不味くなかったよ。‥‥まぁ、全部外国料理のレストランだったけどな」

 

「やっぱりイギリス料理っていうのだと、そうなんですか?」

 

「うーん、不味くはない、かな。おいしくもないけど。多分、ああいうのを許容範囲ていうんじゃないかと思う」

 

「許容範囲‥‥。藤村先生が倫敦に来たりしたら爆発しちゃいそうですね」

 

「そうなったら被害を被るのは結局俺達だと思うけどな。ホント、早くどうにかしないとあのトラ‥‥」

 

 

 さっきまで一通り歩き回ってから、今いるのは先輩の家の近くにある喫茶店。オープンテラスになっていて、紅茶とお菓子がとても美味しい。

 私はそこまで紅茶に詳しいわけではないけど、多分これは日本で馴染みのあるセロンじゃなさそうだ。

 さして注意して注文しなかったから思い出せないんだけど、日本に帰るまえに何種類か買い込んで伽藍の洞にお土産に持っていこうかと思う。

 あそこの人達はコーヒー党が多いけど、いくらミルクを入れても私には少し胃に重いから。

 

 

「そうなんだよな、菓子類は美味しいんだよな。俺も近所の人に習ったんだけど、お菓子作りだけは適わないんだ」

 

「近所の人?」

 

「あぁ。ハドソンさんっていうんだけどさ、料理も上手なんだけどお菓子作りは同じレシピで作ってもあの人の方が美味しいんだよ。何かコツがあるんじゃないかとは思ってるんだけど‥‥」

 

 

 紅茶を啜ってから薄く焼き上げられたショートブレッドをかじり、先輩は眉を顰めた。

 多分これは自家製ではなくて市販品だと思うんだけど、確かに眉を顰めたくなる気持ちが分かるぐらいに美味しい。

 私も先輩も常々自家製に勝るものはないと思っていたから、正に目から鱗が落ちる思いだ。やっぱり本場の物になると違う。

 

 

「日本に帰ったら、イギリスのお菓子の本を買って研究してみます」

 

「そうか。洋食はもう桜の方が上手いしな、師匠としては寂しいものがあるけど、期待してるよ」

 

「そ、そんなことないですよ。それに私、先輩の和食も‥‥その、大好きです」

 

「そういってくれると嬉しいな。今日も折角桜が来てくれたことだし、出来る限り腕を奮うよ」

 

 

 机の下に置かれたスーパーマーケットの袋に視線を落とせば、中には様々な生鮮食品その他が詰め込まれている。

 先輩としては私に気を遣って所謂観光名所とかを巡った方がいいと思ったみたいだけど、私はそこまで気を張ってもらいたくなかった。

 だから本当に今日は倫敦の街を歩いて、ウィンドウショッピングと本当の買い物をしただけ。それでも私には十分だ。

 冬木にいた時は度々先輩と買い物をすることもあったけど、先輩が倫敦に行ってしまってからは当然ながらご無沙汰で、一人の買い物は少し寂しい。

 だから今日は先輩の料理が食べたいと言った私に戸惑いながらも頷いてくれた時は本当に嬉しかったし、張りきってしまった。今になって思えば少しはしゃぎすぎたかもしれないと恥ずかしくなる。

 

 

「そういえば桜、魔術師って———」

 

「あ、待って下さい。人払いの結界を張りますから」

 

 

 宙に指を躍らせて私達のテーブルの周りに簡単な結界を張る。魔術師には全く効かないし、ちょっと近くに寄ればバレてしまうぐらいのものだけど、別に重要な話ではないから問題はないだろう。

 効果は音の遮断と意識を逸らすだけ。これなら店員さんだって気づかない。使いどころによっては色々と良識を試される魔術ではあると思う。

 

 

「それで先輩、何ですか?」

 

「‥‥俺より凄いじゃないか。あぁいや、確か魔術って一子相伝で、他に子供がいても教えないって慎二から聞いたんだけどさ‥‥」

 

「あぁ、そういうこと‥‥ですか」

 

 

 決まりの悪そうな先輩の顔に、私の顔が暗くなっていないかどうか心配になる。

 私が魔術師であるということは、聖杯戦争にも少なからず関わっていた、もしくは知識があるということだ。

 だから兄さんについて色々と知っているであろうことを案じて、先輩は気を病んでいるのだろう。

 そうでなくとも昨日、いや一昨日から私達に関しては殆ど説明不足の状態。気になってしまうのも仕方がない。

 

 

「聖杯戦争には兄さんが出ていましたが、もう先輩も知っていることでしょうけど、兄さんには魔術回路がありません。だからサーヴァントを召喚したのも、間桐の後継者も私です」

 

「慎二は桜の代わりに聖杯戦争に出てたってことか?」

 

「そうですね。私は、そういうことに向きませんから‥‥」

 

「確かに桜に戦いは向いてないな。まぁ俺もセイバーから散々向いてないって言われたもんだけど。でもそれならどうして時計塔に来たんだ?」

 

 

 兄さんは今だ県外の大学の近くにアパートを借りているから、間桐の屋敷には私しかいない。

 その私も平日は殆ど衛宮の家にいるし、週末は橙子先生のところに行くから空き家みたいになってしまっている。

 少し前まではお爺様もいたけど、式さんに殺されてしまった。あれから地下の修練場には行っていないから、もしかすると皆死んでしまっているかもしれない。

 私が操ることができそうな虫は全て持ち出しているから問題はないけれど、それでもやっぱりあそこに立ち入る気にはなれなかった。

 もう少し強くなれれば、もしかしたら克服できて、あそこへと入ることができるのかもしれない。でも今はまだ無理だ。

 

 

「昨日も少し話しましたが、私の指導はお爺様が行っていました。聖杯戦争に出たのも、御三家としての義務とお爺様の命令です。‥‥そのお爺様も亡くなられたので、専門的な勉強をすることができなくなってしまったんです」

 

「紫遙のお姉さんが先生をしていてくれてるっていう話だけど、それじゃだめなのか?」

 

「基礎に関しては問題ないんですけど、私の使う魔術と橙子先生の使う魔術は少し毛色が違いまして。似ているところもあるんですけど、時計塔の方がより高度な勉強が出来ますから」

 

 

 それに先輩達もいますから、と言う本音はしっかりと胸の内に仕舞っておいた。

 例えうっかり口を滑らせてしまったとしても先輩なら気づかずに嬉しいと笑ってくれるかもしれないけれど、そうなったら私の方のダメージが大きくなる。

 先輩のそういうところも大好きだけれど、やっぱり気づいて欲しいと思ってしまうぐらいにはもどかしい。複雑な気持ちだ。

 

 

「それに時計塔なら将来のための繋ぎもとれますから、推薦が受けられるのでしたら行くに越したことはありません」

 

「‥‥実は意外と難関だったりするのか? 俺、結構すんなり通ってるけど‥‥」

 

「はい、凄く難関ですよ。世界中でも選ばれた魔術師しか通うことを許されない最高学府ですから」

 

「基礎錬成講座でもか?」

 

「はい。初代の魔術師の場合は土地の管理人の推薦が大半らしいですけど、そういうのを許可する管理人が少ない上に、管理人自体の位階が低ければ推薦があっても時計塔には入学できないみたいです」

 

 

 魔術師が世界にどれぐらいいるかはちゃんとした数が把握できているわけでもないし、時計塔以外にも『巨人の穴蔵(アトラス)』や『彷徨海』などの組織もある。

 でも数多くの魔術師の中で、最高学府といえば日本の表社会における東大以上の格付けだ。

 日本で一番が東大だとすれば、世界でも五指に、それも限りなく一番に近い場所にあるのが時計塔。そう考えると分かりやすいんじゃないかと思う。

 

 

「てことは、そういうところに俺っていう付録まで連れて入学できる遠坂ってすごかったんだな‥‥」

 

「冬木の霊地としての価値自体はそこまで高くないんですけど、聖杯戦争の舞台ということで位階が高いそうです。それに遠坂先輩は聖杯戦争の勝利者ですから、推薦も折り紙付きになります。遠坂先輩自体、百年に一人の天才と言われているらしいですし」

 

「桜は紫遙のお姉さんに推薦状を貰ったんだっけ。どんな人なんだ?」

 

「私なんかと比べるのも烏滸がましいくらい、凄い腕の魔術師ですよ。執行が凍結されてますが封印指定を受けていますし、教え方も凄く上手です。私は結構偏った魔術を教わっていたんですけど、短い間ですっかり矯正されてしまいました」

 

 

 お爺様との一対一の魔術訓練しか知らなかった私だけど、橙子先生からは魔術だけではなく神秘の社会の常識も教わった。

 その中には当然ながら封印指定のこともある。正直、魔術師としての私がどれだけ歪んでいたのか実感したものだ。

 

 封印指定。本人以外に再現不可能な神秘を習得したり顕現したりした魔術師に送られる、最高の名誉にして面倒である称号だ。

 例えば有名なもので言うと固有結界の使い手。これは本人以外には絶対に再現が不可能なため、確認されたら間違いなく封印指定に認定される。

 一番最近の話で似たようなものだと、土地に染みついた負の情念や他人の記憶や意識を元に固有結界のような領域を作ることに成功した魔術師が封印指定を受けたそうだけど、詳しくは知らない。

 さっきも言ったように私の境遇はさておき殆ど箱入り娘のようなもので、これも橙子先生が世間話のように漏らした些細な話の一部だったのだから。

 

 

「封印指定、か‥‥」

 

「私もよく知らないんですけど、橙子先生は人形関連で封印指定を受けたって言ってました。‥‥まぁ魔術師ですから他人に自分のことを漏らすなんて無いんですけど、橙子先生だったら何でも封印指定級のものを作れそうですね」

 

「桜がそこまで言うんだから、凄い魔術師なんだろうな。紫遙の器用さも当然だったのか。下手したら遠坂より器用なんじゃないか、アイツ?」

 

「どうでしょう。実は私、紫遙さんがどんな魔術師なのか前々知らないんです。橙子先生のことを紹介してもらっただけで、紫遙さん本人とは前々お付き合いがないので‥‥」

 

 

 封印指定の件で先輩は少し暗い顔をしたけど、すぐにいつものキリリとした顔に戻ったので、私はその疑念をすぐに頭の隅へと追いやった。

 そういえば伽藍の洞では紫遙さんの人柄についての話は聞いたけど、実際どういう魔術師なのかという話は全然聞かなかったっけ。

 考えてみればあの廃ビルには結構な人数が出入りしていて、しかもその全員が全員、私の常識というものをさっくりと打ち砕いてくれるぐらいに濃い人達ばかりだ。

 でもそれでいて、あそこにいる魔術師は私と鮮花と橙子先生の三人だけ。私の疑問に答えてくれる人がすくなくても当然と言える。

 幹也さんは一応一般人だし、式さんも神話級の魔眼を持っているくせに魔術師じゃない。一番親しくしているかもしれない藤乃は超能力者で、どういう理屈で力を行使しているのか見当も付かない。

 

 

「一緒に来た鮮花っていう子は、姉弟子なんだって?」

 

「はい。元々橙子先生に教わっていた人で、私と同い年ですよ」

 

「同い年? ってことは俺の一つ下か。なんか、そんなかんじには見えないなぁ‥‥」

 

「私もいつも面倒を見てもらってます。一芸特化っていうらしいですけど、得意な分野に関しては逸材だって橙子先生も褒めてました。詳しいことは言えませんけど」

 

「いや、それが当然だよ。俺もこっちに来てから遠坂とかオヤジとか以外の魔術師と会って、すごく閉鎖的なのが分かったしな」

 

 

 実際、伽藍の洞の住人だけあって鮮花は凄い魔術師だ。正確には魔術師じゃないけど、私以上の知識と私以上の機転を持っている。

 先天的な異能者でありながら、それは超能力というよりは魔術に近い。世界の基盤にアクセスするというやり方は魔術と同様。藤乃のような超能力とは毛色が違う。

 とても形容しづらいのだけれど、『魔術のコツを使って違う手順を踏み、同じ結果を出している』らしい。魔術師じゃない鮮花に橙子先生が興味を持ったのも、そういう部分があったからじゃないかって本人が言っていた。

 その力の運用方法が魔術に極めて似ているために、時計塔でも勉強できるんだとか。そうでなくても魔術師として暮らしていくつもりだから、間違った選択肢ではないそうだ。

 

 この辺りは結構不思議なことなんだけど、今まで超能力者というのがそれなりに観測されているわりに、表に出てきたことはない。

 例えば藤乃の能力なんかは魔術師にひけをとらないどころか凌駕しかねない。発現されるまで殆ど兆候がないから、避けるのが困難なのだ。

 式さんみたいなトンデモ能力があれば別だけど、あれは怖い。私だって一般的な魔術師について詳しいわけではないけれど、少なくとも並のそれよりは上だと思う。

 でも橙子先生に言わせると、今まで超能力者というものが表に出てきていないのは、それらの大半が自滅してしまったからだそうだ。

 つまり、自分自身に耐えられない。開いたチャンネルが他人と噛み合わず、精神が壊れてしまう場合が多いのだ。

 さらに魔術によって再現するのが不可能に近いという点もあり、魔術協会は全くと言って良い程に超能力について把握していない。

 というよりも、超能力というのは千差万別で、括ることができないと橙子先生は言っていた。

 

 だからこそ、異能者として活動していくつもりならば魔術師の皮を被るのが一番の方法なんだそうだ。そして将来そういう仕事につくなら時計塔で人脈を作る必要がある。

 言葉にすると簡単だけど、紛れも無い苦難の道だ。とりあえず今は普通に暮らしていくつもりらしい藤乃よりも積極的な鮮花の姿勢には、私も見習うことが多い。

 

 

「私も橙子先生からは色々と聞かされていましたけど、先輩のお話を聞くと甘かったんだなって思い知らされます‥‥」

 

「そうだな。遠坂とか紫遙とか桜みたいなのが例外なんだよな。だとすれば、俺は本当に良い知り合いを持てたってことか」

 

「私もそう思います。いい先生を紹介してもらえましたし、いい友人を持つことができましたから」

 

 

 先輩も、遠坂先輩も、鮮花も、橙子先生も、紫遙さんも、こと魔術師という括りのなかでは限りなく異端児と呼べる資格を持っているはずだ。

 誰よりも魔術師然とした橙子先生だって、私にここまでよくしてくれている。それも大した見返りもなしに。

 それを考えると私は、ううん、多分私達の内の誰もが恵まれている。

 一度とならず絶望した今までの日々だって、今この時に貰えたご褒美のおかげで、帳消しといわないまでも少なからず救われた気がしてしまう。

 

 

「‥‥先輩、コレも昨日も言ったことですけど、もう一度だけ聞いてもらえますか?」

 

「ん?」

 

 

 このまま穏やかに家に帰ってしまってもいいけれど、意図していなかったにしても偶然に先輩と出会ってしまった以上は、今までやろうやろうと思って出来なかったことをやってしまうチャンスだ。

 人生の出来事には須く某かの意味がある。どんな些細なことにでも、そこでそうなってしまった、ならざるをえなかった、なるべきであった意味がある。

 そう思わなければ私は救われなくて、だからこそずっと私の今まで全てに意味があったんだと思い続けてきた。

 ならば今、会うつもりのなかった先輩と会ったことにも意味があるはずだ。

 

 

「‥‥私が、衛宮の家に最初に来たときのことを覚えていますか?」

 

「あぁ覚えてるさ。俺が腕を怪我して、そのときのことに責任を感じてわざわざ家事を手伝いに来てくれたんだよな。ホント、最初の頃の桜の料理といったら‥‥」

 

「そ、それはいいんですっ! 今はちゃんと作れてるじゃないですかっ!」

 

「はは、悪い悪い。‥‥で?」

 

 

 半ば黒歴史となっている出来事を持ち出そうとするのを慌てて制止すると、冗談だったのか楽しそうに笑って続きを促してくる。

 ふざけているようでいて、真剣。先輩のこういう顔はあまり見たことがない。普通に暮らしていたのだから当然なんだけど、新しい発見に驚いてしまう。

 それと同時に、多分ね‥‥遠坂先輩が、こういう先輩の色んな顔を私よりもずっとずっと知っているんだっていう確信に近い感情が湧いてきて、少しだけ、落ち込んだ。

 この感情は私の悪い部分でもあり、武器でもある。私の使う虚数の魔術は私の負の面をさらけだす魔術だから。

 だからこの黒い感情を制御するための術もしっかりと教わっているし、練習もしている。コレも私の一部だと、認めなければ魔術は行使できない。

 

 

「実は‥‥あれはお爺様の命令だったんです」

 

「え?」

 

「第四次聖杯戦争の勝利者である衛宮の家の偵察に、私を向かわせたんです。その後も先輩が危険な鍛錬をしているのを見て、それでも止めなくて‥‥先輩が死んじゃうかもしれなかったのに‥‥」

 

「桜‥‥」

 

 

 止められない涙がこぼれ落ちてくるのが、突然に歪んだ景色で分かった。頬を伝った涙がテーブルクロスに染みを作る。

 ある日、衛宮の家に忘れ物をして夜遅くにこっそり勇気を出して戻った時、通りかかった土蔵で見た光景。

 月の光だけが差し込む、どこか神秘的な土蔵の中心で座禅を組んだ先輩が、信じられないことに魔術回路を生成し直していた。

 一歩間違えれば死にかねないその荒行、ううん、自殺未遂に近い意味のない行為を見ても、私は先輩を止めることができなかったのだ。

 

 お爺様から言い含められていた。お爺様に逆らうのが怖かった。何より私が汚れていることが、先輩に少しでも知られてしまう可能性が怖かった。

 今こうして先輩は元気でいるけれど、もしかしたら死んでしまっていたかもしれない。あれはそれほどまでに危険なことだ。

 だから私があの時に怖がっていたがために先輩が死んでしまっていた可能性もある。それは結果論では許されない。

 

 

「聖杯戦争だってそうです。先輩が、私の召喚したサーヴァントに殺されてしまうかもしれなかったのに、私は戦うのが怖くて家の中で震えていたんです。兄さんに全て投げ出して、兄さんだって先輩だって大けがをしたのに‥‥」

 

「桜」

 

「本当に、ごめんなさい‥‥!」

 

 

 俯いたまま、先輩の顔を見ることができない。私の罪を告白するだけでも勇気がいったのだ。先輩の顔を直視するだけの勇気は残っていなかった。

 でも来年このまま倫敦に来て、心に負い目を持ったまま先輩にもう一度会うことができるかと聞かれたら、多分無理だ。

 そうなったらきっと今までの私と同じ。遠坂先輩と仲良くする先輩を見て、黒い思いを必死で殺して生きていくしかない。

 お爺様に縛られていた私と同じ、そんな惨めな生活はしたくないから魔術師として生きていくと決めたのに、今更怖じ気づいていては嘘だろう。

 もしこれで先輩から軽蔑されてしまったら、きっと私は未だかつてないぐらいの絶望に襲われる。

 それでいいはずはない。そんなのは嫌だ。でも、それは仕方がないことだ。

 だから私は怖くて怖くて、先輩がどんな顔をしているか確かめることができなかった。

 

 

「桜‥‥」

 

 

 テーブルの上で組み合わせた手に何かが触れる感触がして、私は思わず堅くつむっていた目を開けた。

 真っ白になるぐらいに握りしめていた私の手に触っていたのは、男らしく無骨で、それでいて暖かくて優しい誰かの手。

 おそるおそる顔を上げてみれば、それは今まで何度かひょんな拍子に触れあうこともあった先輩の手で、その手の先の先輩の顔は優しげな微笑みを浮かべていた。

 

 

「なんでさ」

 

「え?」

 

「なんで桜が俺に謝らなきゃいけないんだ? 桜が俺に何かしたわけじゃないだろ?」

 

「だって先輩、死んじゃったかもしれないんですよ?! 今は大丈夫ですけど、もしかしたら死んじゃってたかもしれないんですよ?! 私が、私が黙っていたせいで‥‥」

 

「もし桜が俺に謝らなきゃいけないんだったら、俺こそ桜に土下座しなきゃならないさ。今まで散々迷惑もかけたし、慎二をああいう目に遭わせたのだって俺に責任がある。桜が辛い思いをしていたのだって、家族だっていうのに気づいてやれなかった俺のせいだ」

 

「家族‥‥」

 

「ああ。桜は俺の家族だ。家族が家族に遠慮することなんかないんだぞ」

 

 

 涙が零れた。次から次へと零れてきて、止まらない。

 さっきよりも激しく目の前の先輩の顔が歪んでしまって、私はそれでも俯かずに涙を零し続けた。

 許すとか、許さないとかそういう問題ではないという先輩の言葉が嬉しかった。救われた気がした。

 

 

「ありがとう‥‥ございます‥‥!」

 

 

 これから頑張ろう。先輩達に追いつけるように頑張ろう。

 私の今までが無駄じゃなかったと、先輩にいつか打ち明けることが出来るようになるぐらい自信がつくまで、まだ長い時間がかかりそうだけど。

 それでも先輩のその言葉だけで、私はこれからずっと頑張っていける力が湧いてきたような、そんな気がした日だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥ふぅー、やっと終わったわね。ホント面倒な作業ばっかりで疲れるわ」

 

「働いたのは君じゃなくて遠坂嬢と俺だろう? 君はニコニコ愛想笑い浮かべて頭下げただけじゃないか」

 

「適材適所よ。だって私がやることなんて無いんだから仕方ないじゃない。あぁ、遠坂さん本当にありがとうございました。これで来年からつつがなく時計塔に通うことができそうです」

 

「気にしないで下さい黒桐さん。同郷のよしみというやつですから」

 

「‥‥今更ネコ被っても手遅れだと思うけどねぇ」

 

 

 全ての手続きが済み、俺と鮮花と遠坂嬢の三人は時計塔の廊下を出口に向かって歩いていた。

 ちょうど午後の講義は殆ど入っていなかったらしく、生徒が帰ってしまった廊下に人気は少ない。

 とはいっても普段から大して大勢が時計塔の中を闊歩しているわけではないのだけれど、今日は特に、ちょうど内緒話を立ち聞きする輩がいないぐらいには、ということだ。

 

 

「学長じゃなくて、学長補佐に渡したのはちょっと心配だけどね」

 

「大丈夫だよ。バルトメロイ女史は下手したら学長より権力があるから、彼女に渡ったのなら問題ないさ。まぁ彼女ならたかが新入生に何かするっていうこともないだろうし‥‥」

 

 

 基本的に能力がない人間に関して一切の興味を持たないのが、時計塔五大アンタッチャブルな人物、バルトメロイ・ローレライ女史である。

 ちゃんとした手続きに則って受理した書類を適当にすることはないだろうというぐらいの信頼はあるから、遠坂嬢の心配は杞憂というものだろう。

 逆に言えば全く相手にされないというのは、自分の実力にそれなりの矜恃を持っている遠坂嬢としては中々に屈辱的なものではあるんだろうけど‥‥。

 

 

「まぁ前回の死徒討伐の時に呼び出されたのも、学生の中では実戦経験があったっていうだけの理由だしね。彼女の率いる『クロンの大隊』は一人一人が学部長レベルの実力だっていう話だし、いくら才能があっても現時点では学生レベルの俺達に興味はないんだろうさ」

 

「別にいいのよ、その件に関しては。ちゃんと相応以上の報酬はもらったしね‥‥」

 

「俺もあの後、時計塔に帰って報告してからボソリと『卿は正に器用貧乏という言葉を体現しているな』なんて暴言吐かれたしなぁ‥‥。近寄ったら心を砕かれるっていう噂もあながち間違いじゃないかも」

 

「そんな失礼なこと言われたの?!」

 

「まぁ他人の評価を気にしてるようじゃ一端の魔術師とは言えないけど、流石にちょっと凹んだなぁ‥‥」

 

 

 当人にとっては心底どうでもいいことだったのかもしれないけれど、少なからず気にしていた俺としてはちょっとばかりショックであった。

 まぁバルトメロイ女史が俺の魔眼の研究をしっているはずがないから、鉱石魔術の方では優秀の枠には入っていても、結果として研究自体は可もなく不可もなくという学生を気にするはずもないわけだけど。

 バルトロメロイの家って確か相当な完璧主義者で、あそこの家から出てきたのは須く一流以上だっていう話だっけ?

 だとしたらそういう人の心の機微っていうやつに慣れていなくても仕方がないとは思うよ。美人なのに、勿体ない。

 

 

「まぁ彼女でも魔術師としては比較的良心的な部類に入るんじゃないかな。ある程度の矜恃を持って生きているっていう点では。鮮花もそういうところは知っておいた方がいいよ」

 

「なんていうか、橙子先生に似た人だったわね。あの人を無自覚に下に見ているところとか」

 

「そうかい? 俺は似ても似つかないと思うけどね。‥‥まぁ橙子姉から可愛げと茶目っ気と親しみやすいところと世間慣れしたところと優しげとか思いやりとかを全部さっ引いたら少しは似たような人になるかもしれないけど」

 

「‥‥シスコンのアンタに聞いたのが間違いだったわね。私が悪かったから、機嫌直して頂戴」

 

 

 一応は地上部分にある学長室及び学長補佐の執務室から廊下を歩き、大英博物館の裏口の一つに偽装してある出入り口へと向かう。

 とはいっても学長室も他の主要な部屋も、基本的には地上部分と地下深くとに一つずつ存在する。用事によって使い分けているのだ。

 以前に俺達が呼び出された応接室は地下深くにあったものだが、あれはおそらくシエルという教会の人を迎えたがために要塞のような設備を整えてあるところへ案内したのだろう。

 地上部分にある物の方がゆったりと落ち着いた調度に設えてあるが、シエルの場合は万が一ということもあり、防備の堅固な地下へと案内したのではないか。

 逆に言えば協会の心臓部に近いところに部外者を招き入れたということでもあるが、魔術協会も通常の魔術師の工房と同じようなセオリーで作られている。

 乃ち、来る者拒んで去る者逃がさず。防備というよりは、中にいる者を確実に処刑できる陣地のようなものだ。

 いかに埋葬機関第七位と言えども、不穏な動きをするようであれば生きては外に出られまい。

 

 

「あら、蒼崎君ってシスコンだったの? 確かにいっつも口を開けば『姉が姉が』って感じではあったけど‥‥」

 

「誤解を招くような発言はやめてくれ! 俺はただ、魔術師としても人間としても一番尊敬できるのがが橙子姉と青子姉だってだけの話だよ」

 

「それをシスコンって言うんだと思うんだけど。まぁあの二人もいい加減ブラコン気味だし、ちょうど釣り合ってるのかもしれないけどね。‥‥本人の前では絶対に言わないけど」

 

「言ったが最後、人形にされるか消し炭にされるかの二択だぞ。それが賢明だろうけど‥‥だからって俺の前なら大丈夫と判断した是非を問いたい」

 

 

 ギロリと妹弟子の方を睨むがどこ吹く風。ついでに遠坂嬢は俺を弄るという、両者の関係からしてみれば非常に珍しい出来事を味わえて楽しそうだ。今まで意識しなかったけど、この二人が揃うと二乗になるのか。

 

 

「蒼崎君ってお姉さんの名前はよく出すけど、どんな人かってのはあまり話さないのよね。黒桐さん、よかったら少しでいいから教えて下さる?」

 

「教える‥‥か。実は上手く説明するのが難しい人なんですよね。魔術師としては凄い腕前だとしか言えないんだけど‥‥」

 

「俺が小器用だとしたら超絶器用かな。とりあえず専門分野以外でもある程度までならイケるって人でね。魔術師としては間違いなく最高峰だな」

 

 

 橙子姉の専門は人形作りとそれに関連した技術全般。あとは学院時代に専攻していたルーン魔術だ。

 これは間違いなく事実なんだけど、同時に建前でもある。ぶっちゃけ橙子姉は何でも出来る。どんな手段でも出来るわけじゃなくて、どんな結果でも出せるのだ。

 そりゃ橙子姉だって万能じゃないから、出来ることには限りがあるさ。その限りってのが量れないぐらいには何でも器用にこなすけど、それでも出来ないことはある。

 

 

「‥‥でも実際に何でも出来るんだよね」

 

「そうなのよね。なんだかんだで色々捏ねくり回して。とりあえず『こうこうこういうことを頼みたい』って言ったら結構無茶苦茶なことでもやっちゃいそう」

 

「それはまた‥‥凄い人なのね」

 

「三回ぐらい人生繰り返しても追い越せる気がしないね。身内贔屓って言ったらそうかもしれないけどさ、やっぱり封印指定は伊達じゃないよ」

 

 

 結果を出すだけならたいていのことはこなしてしまうのだ。確かに荒事とかには向いてないかもしれないけど、もともとそれは魔術師に要求される技能じゃないし。

 なにより橙子姉は『つくるもの』だ。本来なら戦闘なんて出来やしないはずの俺が支援戦闘とはいえ戦場に立っていられるのも橙子姉謹製の『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』のおかげだし。

 

 まぁそんな実際の評価よりも何よりも俺の心を占めているのは、苦痛と絶望に彩られた“あの”雨の夜に見た、路傍に這いつくばる俺を見下ろす一人の魔術師の姿なのかもしれないのだけれど。

 思うにあの時を“俺がこの世界に生まれ落ちた”瞬間と仮定すれば、刷り込みのようなことだったんだろうなぁ。その後にもまた色々あって、あの時の光景が余計に強く焼き付いたのかもしれない。

 

 

「俺の永遠の目標だよ。青子姉も、ね」

 

「‥‥ノーコメントの方向で」

 

「うん、まぁそうだろうとは思うけどさ」

 

 

 姉妹の仲が俺を挟んで一時休戦状態なので鮮花も何回か青子姉に会ったことがあり、多少ならず人物を知っているために明後日の方向を向いて同意できないことを表したが仕方がない。

 

 

「なんていうか、俺も含めて他人には迷惑しかかけないもんなぁ、青子姉は。あれで困った時にはものすごく頼りになるんだけど」

 

「そりゃ魔法使いだもの。無理を通せば道理引っ込むを地でいってるわよね、あの人。別に悪い人じゃないんだけど極力近くにいたくないわ」

 

「魔法使いって、魔法使いって‥‥?」

 

 

 人知を越えた存在に多少の憧れがあったのか、隣を歩く遠坂嬢が呆然と呟いた。彼女の大師父である宝石翁も第二の使い手であるし、仕方がないといえばそうなんだけど‥‥。

 こと魔法使いに関して言えば、所在の知れない残りの二人も含めてろくでもない性格をしているに違いないのだ。これだけは断言できる。

 まだキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグについて詳しくはしらないけれど、少なくとも某割烹着の悪魔そっくりの人工精霊(AI)を魔術礼装に取り付けるあたり、常人とは一線を画しているのは確実だろう。

 

 

「そういえば遠坂嬢、一昨日辺りから随分とお疲れみたいだけど、何かあったのかい?」

 

 

 顔は知らないが教授か講師らしき年配の魔術師と擦れ違ったので会釈し、その時の顔の角度から妙に気になったので俺は遠坂嬢に問い掛けた。

 桜嬢のこともあるだろうけれど、少し精彩を欠いているような気がするのだ。衛宮が心配でしょうがなかった時ともまた違う。

 

 

「‥‥まぁことさら必死に隠すことでもないんだけどね、ちょっと冬木の方でゴタゴタがあったみたいなのよ」

 

「ゴタゴタ?」

 

「えぇ。オフレコにしておいてほしいんだけど、冬木の管理を頼んでいた神父様から提出された報告書の魔力の流れに関する記述に、ちょっと気になるところがあるって大師父がね」

 

「大師父‥‥宝石翁が?!」

 

「向こうの様子を見るからって、調査団を派遣する許可を私に求めて来たのよ。それの関係で色々と折衝することがあってね、最近ちょっと過労気味よ」

 

 

 はぁ、と重い溜息をついた遠坂嬢がトントンと自分の肩を叩く。どうやら大分苦労しているらしい。

 管理地に協会の調査団とはいえ他の魔術師を入れるというのならば色々と面倒な手続が必要になる。

 口約束や書類での決まり事だけではなくて、例えばギアスの類や使い魔による監視など。やらなきゃいけないことは沢山だ。

 

 

「どうも緊急だからってね。本来なら私も一緒について行きたいぐらいなんだけど、流石に学院にいる身分じゃそういうわけにもいかないから‥‥」

 

「聖杯戦争にも使われてる一級の霊地の管理者(セカンドオーナー)ともなると、倫敦にいても大変なんだな」

 

「何言ってるのよ、蒼崎の家だって東京の近くの霊地の管理者じゃない。ましてや魔法使いの家系でしょ? 遠坂に比べたら尋常じゃないはずよ」

 

「うーん、義姉二人は今、本家とは殆ど勘当同然の扱いだからなぁ。一応は当主っていうことになってる青子姉にしても殆ど実家に帰ってないらしいし、俺も全然そういうのは分からないよ」

 

「そ、そうなの? ごめんなさい、話しづらいことを聞いてしまったわね」

 

「気にしないでくれ。たいしたことじゃないよ」

 

 

 大英博物館の裏口の一つで鮮花が胸につけていた来客用の認識札を返す。

 周囲を見ればすぐ近くを大英博物館の一般の職員が歩いているが、こちらを気にした様子はない。弱いながらも認識阻害の結界が張ってあるからだ。

 もちろん、例え発見されたとしても門番に止められる。ここに入れるのは魔術師だけだからね。

 

 

「もっと厳重なのかと思ったけど、拍子抜けね。てっきり魔術を封じられるとか、そういう措置をとられるんだとばかり思ってたわ」

 

「空港とかじゃないんだから‥‥。まぁ魔術師っていうのはそういうのが嫌いな連中ばかりだからね。それに魔術の行使を禁止するぐらい強力な術具になると、早々簡単に手配もできないんだよ」

 

「一定以下の実力の魔術師しか封じられないんですよ。それぐらいの術者だったら魔術を封じなくても問題はありませんからね」

 

 

 俺相手にはいつものように、鮮花相手だと器用にネコを被って遠坂嬢が説明を補足する。

 自分が発する魔力を気づかれないようにする魔力封じの術具っていうのはまぁそれなりにあるんだけど、そもそも魂にまで刻む技術である魔術まで封印する術具は貴重だ。

 あるにはある。けど効果が薄い。ある程度以上の実力者なら無意味に終わる。ついでに言うとかさばるので持ち運びが出来ない。

 それにわざわざそうやって制限しなくても、何か不穏なことがあったら確実に処刑できるのが魔術協会の総本山である時計塔である。

 

 

「‥‥ところで桜のことなんだけど」

 

「なんだい?」

 

「蒼崎君に言ってるんじゃないの。ねぇ黒桐さん、もうネコ被るのもやめるけど、一体どういうつもりだったのか聞いてもいいかしら?」

 

「どういうことですか、遠坂さん」

 

 

 流石にそう頻繁にキャブを使っているわけにもいかないので、遠坂邸へは地下鉄を使って帰る。地下鉄網が発達しているのは倫敦と東京の共通点だ。

 今回は俺と鮮花も遠坂邸へと向かう。デート中であった衛宮と桜嬢から夕食会を行うと連絡があったからである。

 最近はまた食生活が貧困になってきた俺としては渡りに船といったものだけど、遠坂嬢は結構考える所がある模様であった。

 現に今も、魔術に関係する話でないのを良いことに、乗客も疎らな地下鉄のドアに背をもたれて鮮花に詰問している。

 ネコを被るのをやめた遠坂嬢と鮮花が相対すると、さしずめ竜虎相まみえるといったカンジ。

 彼女は倫敦に来てから特徴であったツインテールを解いていることが多いので大人に見えるけど、鮮花も負けていないというのが恐ろしいところだなぁ‥‥。

 

 

「桜と士郎を、その、デートさせたことよ。わざわざ私と蒼崎君を遠ざけてまで二人っきりにさせて、一体どんな思惑があるのかしら」

 

「わざわざ?」

 

「そうよ。あの言い回しだと明かにそうとしか考えられないわ。今まで桜の姉弟子としてあの子と付き合ってくれていたのは感謝するけど、貴方は私達の関係に関しては部外者でしょう? どうにも解せないのよね」

 

 

 ザワリ、と空気が揺れた気がした。なんというか、この場を一刻も早く抜け出してしまいたい。

 現に近くにいた若い男性はそそくさと別の車両まで退散してしまい、俺達が立っているドアの付近の席には既に誰もいなかった。

 遠坂嬢は不機嫌というわけではないにしても不穏な気配を湛えており、鮮花も迎え撃つかのように不敵な笑いを浮かべている。

 

 

「‥‥友人の恋路を応援してあげたいって思うことが、そんなにおかしいことですか?」

 

「恋路‥‥ですって」

 

「そうですよ。遠坂さんも気づいているでしょうけど、桜は衛宮さんのことが好きです」

 

「こら鮮花」

 

「紫遙は黙ってなさい。これは女の問題なんだからね」

 

「‥‥うぇい」

 

 

 たまらず口を挟んだがギロリと睨まれてすごすごと撤退する。なんというか、こういうときに迫力の出せない自分が憎い。

 

 

「桜から色々聞いたんです。そしたらホラ、なんていうか見過ごせなくなっちゃいまして。あの子には是が非でも幸せになってもらいたいんです。今まで散々苦しんできた分も」

 

「苦労してきた分‥‥?」

 

「鮮花っ!」

 

 

 今度こそ失言を許せず車内にくまなく響くぐらいの声で警告すると、自分自身でも気づいたのかビクリと肩を奮わせて黙り込んだ。

 すると当然ながら遠坂嬢の手は事情を知っていると思しき俺の方へと向かう。

 キッとこちらへ視線を向けると魔術刻印が仄かに光るが、すぐに押さえ込む。おそらく感情が暴走したのだろう。

  

 

「蒼崎君、貴方一体桜の何を知っているの?」

 

 

 怒り、だろうか、声ににじみ出しているのは。だが俺に対する怒りではない。おそらくは、自分に対する怒り‥‥?

 それとも憤りというべきであろうか、桜嬢の身に自分が知らない内に何があったか知りたくて、知らなかったことが不甲斐ないというのか。

 おそらくは鮮花と俺のやりとりでソレがあまり良くない出来事であると勘づいたんだろうけど‥

‥やれやれ、えらく湾曲した愛情だこと。

 

 

「‥‥俺が桜嬢に何が遭ったか知ってたとして、じゃあ君はどうするんだい?」

 

「教えて。桜に何が遭ったの?」

 

 

 しくじった。失言した鮮花も悪いが、万全を期すならば俺だって声を荒げてはいけなかったのだ。

 電車はガタガタと揺れ、俺達が降りる駅も近づいてくる。途中で何回か駅に止まったかもしれないけれど、不思議事なことに俺達が乗っている車両には誰もやって来なかった。

 

「教えられない。桜嬢自身がいつか自分で判断して、自分話すさ」

 

「‥‥そう、か。そうよね。ごめんなさい、蒼崎君、黒桐さん、どうかしていたわ」

 

 

 プシューッと音を立ててドアが開き、お目当ての駅についたためにドアにもたれていた遠坂嬢はそういって地下鉄を降りた。

 俺と鮮花は顔を見合わせ、鮮花がバツの悪そうな顔をする。どうにも桜嬢に感情移入し過ぎているようだけど、別にそれ自体は悪いことじゃないぞ。

 

 

「ちょっと先走っちゃったわ、失敗」

 

「応援しどころを間違えたな、鮮花。衛宮と桜嬢とだけならともかく、遠坂嬢と桜嬢の関係にまで口を出しちゃダメだよ」

 

「売り言葉に買い言葉っていうか、向こうから言ってきたから反発しちゃったわ。悪い癖よね」

 

「まぁ君と遠坂嬢とならあぁいうやりとりになるのも想像できたけどね。例え一年でも、年長者相手には敬意を払いなさいよ。ていうかどうして普段は出来てることが出来ないんだか」

 

 

 頭を冷やしているのか、遠坂嬢は俺達より少しだけ前を歩いている。俺達の話し声が聞こえることはないだろう。

 鮮花も多分、遠坂嬢と自我が衝突してしまっただけだ。なんというかキャラが被ってるんだよな。普通ならあそこまで濃い二人がかち合うことなんてないんだけれど。

 とにかく鮮花が桜嬢を応援したいっていうことはわかったから、出来れば今回の訪英では大人しくしておいてほしい。

 なにしろ君は知らないだろうけど、今は衛宮の関係でちょっとゴタゴタしているんだから。

 

 

「桜嬢と遠坂嬢に関しては、君は知らないだろうけどちょっと複雑でね。桜嬢自身が解決するしかない問題なんだよ」

 

「‥‥そういうことなら仕方ないわね。私だって別に、喧嘩腰になるつもりじゃなかったんだけど」

 

「やれやれ、そんなんだから式にも軽くあしらわれるんだよ。仮にも魔術師なんだから、もう少し冷静にならないとな」

 

「式は関係ないでしょ!」

 

 

 目の前を歩く遠坂嬢は一見普段と変わらない様子だけれど、なんとなく不機嫌、というか焦燥しているように感じる。

 どうにも面倒だけれど、こればかりは鮮花に言ったように桜嬢と遠坂嬢が解決すべき問題で、本当に俺達が首をつっこんでいいことではない。

 というか、一体なにがどうなってこんな面倒な事態になったのか理解に苦しむ‥‥って、よくよく考えれば俺のせいなのか?

 

 

「ままならんなぁ、世の中は‥‥」

 

「情けは人のためならず、ってやつかしら」

 

「それはちょっと用法が違うだろう」

 

 

 巡り巡って返ってくるのは恩ばかりではないと、俺は遠坂嬢にはバレないぐらいにこっそりと重い溜息をついたのだった。

 

 

 

 48th act Fin.

 

 

 

 



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第四十八話 『蟲の娘の帰還』

第四十八話『蟲の娘の帰還』

 

 

 

 side Sakura Matou

 

 

 

 

「———美味い! 衛宮のメシは弁当でも美味いけど、やっぱり温かいのは違うな!」

 

「うわ、こんなにはしゃいでる紫遙見るの久しぶりよ。普段どれだけ悲惨な食生活送ってるんだか‥‥」

 

「工房に篭ってると必然的に有り合わせやレトルト食品が多くなってね。最近は日本の製品が倫敦でも流通してるし、人が作った料理は久しぶりだよ」

 

 

 先輩が作ったシチューを嬉しそうに食べている紫遙さんに、鮮花が呆れたような顔をして感想を述べた。

 実際に私が紫遙さんに抱いていたイメージ、『落ち着いていて優しくて頼れる魔術師』とも今の光景は全く違う。

 紫遙さん自身が語る普段の食生活を鑑みれば十分納得はいくけれど、今の様子は初めて会った時の物腰と違って、まるで藤村先生の劣化版みたいだ。

 

 

「そのシチュー、前に紫遙に持って行ってやろうとしたヤツなんだ。あの時は紫遙が突然里帰りしたから渡せなかったけど、喜んでくれてよかったよ」

 

「いやぁ流石は衛宮だな。桜嬢の作ったグラタンも美味いし、本当に今の俺は幸せだよ」

 

「まだまだお代わりはありますから、よかったらどんどん食べて下さいね」

 

 

 その紫遙さんの隣ではセイバーさんがいつもの見慣れた仕種で間断なく料理を口へと運んでは、コクコクと頷きながら咀嚼している。

 すごいペースなのに何故か上品なその食べ方は見ていていつも不思議になるんだけど、まぁセイバーさんだからと納得できてしまうのもまた彼女の魅力なんだろう。

 そう考えこんでいる最中にもまたシチューを平らげて先輩にお代わりを所望するセイバーさんの頭の上の毛(チャームポイント)がぴこぴこと揺れているのを幻視してしまい、私は軽く頭を振って妄想を振り払った。

 

 

「本当は和食にしたかったんですけど‥‥」

 

「ロンドンじゃ和食に必要な食材が手に入り難いからな。米とかは高いし、流石に俺もインディカ米とかは使う気になれなあし。でも桜は洋食の方が得意なんだから問題ないんじゃないか?」

 

「私は久しぶりに先輩の料理が食べたかったんですけど‥‥」

 

「いやでも桜、初めて食べたけど貴女の料理ってば本当にすごく美味しいわよ? これ、礼園(ウチ)の寮の食堂に匹敵するわよ。ウチのシェフは二ツ星レストランから引き抜いた本物のフレンチの料理人なのに」

 

 

 この場で一、二を争うぐらいにナイフとフォークの扱いが上手な鮮花が、グラタンと同じく私の作ったカレイのフライを食べてそう言った。お世辞でも嬉しい。

 とりあえず箸でも綺麗に食べるのが難しい魚を見事な手つきで解体していく様子は感動すら覚える。今まで箸こそが万能の食器だと信じていたけど認識を改めなきゃ。

 

 

「要は使う人の腕よ、腕。礼園では食事のマナーの授業もあるしね。それに桜だって十分上手じゃない」

 

「鮮花には負けちゃうわ。流石に小骨の間までは無理だもの」

 

「散々シスターに扱かれたからね。‥‥まぁ一番上手なのは遠坂さんだと思うけど」

 

 

 鮮花の感心の視線の先を辿れば、微細な小骨までしっかりと細かく綺麗にされた皿。まさに魚を食べるお手本というべきで、丁寧に並べ替えたら復元できそうだ。

 焼き魚ならともかく、フライでここまで綺麗に魚を食べられる人はそうそういない。これなら食材になった魚も本望だろう。

 

 

「遠坂さん、一体どこでそんなに綺麗な食べ方を習ったんですか?」

 

「別に誰かに教えてもらったわけじゃないわよ? ただ注意して食べていたら自然とこうなっただけ」

 

 

 さも当たり前のように返す遠坂先輩だけど、実は食事が始まってから喋ったのはこれが初めてだ。

 冬木の衛宮邸での食卓では藤村先生がとめどなく口を動かす———食べるためにも、話すためにも。それでいて口の中が見えないのは流石だ———から目立たないけど、別に遠坂先輩は口数が少ないわけじゃない。

 それなりによく喋るのは普段通りで、もしかしたら私よりも口数は多いはずだ。学校での清楚で落ち着いたたたずまいとは別物で、それでもむしろ快活なこちらの方が魅力的だと私は思う。

 だから多分、私の知らない内に何かあったんじゃないだろうか。不機嫌というわけではなさそうだから、眉間に僅かに皺が寄っているのは考え事のせいだろう。

 

 

「小骨の間まで綺麗さっぱり。なんというか、君の性格を表しているみたいだね」

 

「‥‥何が言いたいのかしら、蒼崎君。まさか私がガメついとでも?」

 

「いや、清廉潔癖って言いたかったんだけど‥‥。だからホラ、左手を机の下にやるのは止めてくれないかい?」

 

 

 ガメつい、という表現が可笑しくて思わず吹き出しそうになり、キッと睨まれたので慌てて堪えた。

 失言の主である紫遙さんは両手を挙げて降参の意を表しており、遠坂先輩は机の下にやった魔術刻印がある左手を持ち上げて、わざわざ銃のように一差し指を伸ばしてみせる。その綺麗な笑顔がどこはかとなく怖い。

 

 

「そういう蒼崎君こそ、どうして小骨が失くなってるのかしら」

 

「よく揚げてるから小骨ぐらいなら食べてしまえるんだよ。それでいて揚げすぎてないんだから、桜嬢は素晴らしいシェフだな。こういうところにも性格が出るのかな?」

 

「アンタの場合は性格というより食生活でしょ。海老天の尻尾までしっかり食べるタイプよね。ほんと、いくら忙しいからってレトルトばっかり食べてたら、魔術師でも体壊すわよ?」

 

「橙子姉には秘密にしといてくれ。あぁ見えて栄養関係には意外なくらい細かいんでさ」

 

 

 苦笑混じりの紫遙さんの言葉に、私と鮮花は揃って顔を見合わせてから首を傾げた。とてもそんな人には見えなかったからだ。

 私が伽藍の洞に行くのは決まって週末———本当は週末というべきではないのかもしれないけど、少なくとも学生としてはそう形容してしまうのは仕方がないだろう———の日曜日。

 朝早く新幹線に飛び乗って、うつらうつらしながら東京へと向かう。修学旅行の時は年甲斐もなくドキドキしてしまった旅路も、この数カ月ですっかり慣れたものだ。

 そんな私は伽藍の洞で半日以上を過ごし、お昼ご飯は当然ながら一緒にとることが多いわけだけど、大概はお弁当で済ませていた。

 これはあまり大声で言えないことなんだけど、橙子先生は有り得ないぐらいに手先が器用なくせに、全くと言っていい程に料理が出来ないのだ。

 実際にやったらどんな失敗料理が出来るのかなんてのは知らない。だって橙子先生、やらないもの。果敢に挑戦しては失敗し、味見の段階で悶絶している藤乃とは違う。

 そんな橙子先生の昼食は殆どファストフードかコンビニ弁当。とても栄養に気を使っているようには見えなかった。

 

 

「いや、実はこっそりビタミン剤とか飲んでるんだよね。一応多少はバランスも意識してるみたいだし」

 

「それはいけませんね。いくら錠剤で成文を補給できたとしても、人類が編み出した最高の文化の一つである食に対する姿勢がよくない。私はそのような姿勢は断固として許せません」

 

 

 キリリと眉を引き締めたセイバーさんが真剣に主張するけれど、その口の端にパン屑が付いてしまっているので表情に反してコミカルだ。

 案の定すぐに先輩に指摘されて、慌てて凄い速度で摘み取ると顔を赤らめた。英霊の身体能力って、こういうことのためにあるのか、な?

 

 

「そのくせ昔から俺には煩いんだ。やれ野菜を食え、これは魔女狩りの時代にはウィッチクラフトに使われていただの、やれ付け合わせも食え、これは別の薬草と合わせて軟膏にすることもあるだの‥‥」

 

「「「「「‥‥‥‥」」」」」

 

 

 とても食卓で弟、百歩譲って弟子にだってする会話じゃない。日常的に食事に毒を盛られていて、先輩と料理をするまでは食事という行為に苦痛と覚悟以外を抱いたことがない私でも言葉を失うぐらいに。

 でも紫遙さんは心底呆れたようにやれやれと首を振っているけど、多分それは———

 

 

「心配されてたんじゃないの。よかったわね、蒼崎君」

 

「へ?」

 

「普通は自分がそうなら他人には構わないわよ。愛されてたのね、お姉さんに」

 

 

 楽しそうにグラスに注いだ水を飲みながら言った遠坂先輩の言葉に、紫遙さんはパチクリとさほど大きくもない目を瞬きさせると、急に押し黙って俯いてしまった。

 ‥‥もしかして、照れてるのかな? なんかそういうカンジの人じゃないんだけど、そういえば橙子先生も一日に数回は紫遙さんの名前を出していたし。

 

 

「‥‥まぁ、そうかも、しれないね。でもそういうのはホラ、こう改まって口に出すことでもないというか」

 

「あら珍しい。別にそこまで長くはない付き合いだけど、貴方が照れてるの見るなんて初めてよ、蒼崎君」

 

「遠坂さん、そのぐらいで止めてやって下さい。なんか身の危険を感じるので」

 

「まぁ黒桐さんがそう言うならいいけど。それより士郎、シチューのお代わり貰える?」

 

「おう。まだまだあるから皆もいっぱい食べてくれ」

 

「ではシロウ、恐縮ですがお代わりをお願いします」

 

「‥‥おう」

 

 

 巡り巡って橙子先生に話が渡ったりしたらどうなるかなんて火を見るよりも明らかで、鮮花はちょうどよい所で止めに入る。あまり図に乗ってからかいすぎてはいけない。

 一気にテンションが下がった‥‥というよりは考え込んでしまった紫遙さんは無言。代わりに調子が戻ったのか今度は遠坂先輩が喋り出す。

 先輩にセイバーさんがこれで四杯目になるお代わりを頼み、私もついでにこっそりと先輩にお代わりをお願いした。

 私に負けるなんて言うけれど、やっぱり先輩の料理は和食でなくても美味しい。まだまだ私も精進する必要がありそうだ。

 

 

「‥‥帰ったら体重計が怖いわね」

 

「同感‥‥」

 

 

 あの目盛、もしくは電子表示は何時の世も常に女性の敵だ。私も鮮花も最近食生活が不安定だから毎晩怯えながらも確認する羽目になる。

 特に先輩の料理の中でもヘルシーな和食ではなく、油やバターや肉類をふんだんにつかった洋食になると‥‥嗚呼恐ろしい。

 そういえば考えてみると昼間にお茶をした時のお菓子、ショートブレッドとかいったけど、あれもレシピを聞いてみるとバターと砂糖と小麦粉の集合体だった。

 女の子としてお菓子作りはとても魅力的なライフワークではあるけど、あまり調子に乗るとまたしても体重計殺人事件———実際に過去一度衛宮邸で巻き起こった———が再発しかねない。

 

 

「‥‥それでも食べちゃう私って、どうしよう」

 

「ん、どうかしたのか桜?」

 

「あ、いえ何でもありません。ごちそうさまでした、先輩」

 

「お粗末様でした。でも桜の料理も美味しかったよ、ごちそうさま」

 

「こちらこそ、お粗末様でした」

 

 

 パンでシチュー皿を綺麗に拭って、両手の平を合わせて食事を終える。お互いに料理を作り合って、私としては先輩の料理が食べられたので大満足だ。

 

 

「あぁ上手かったよ二人とも。こんなに充実した食事は久しぶりだ」

 

「桜、よかったら今度私にも料理を教えてくれない? 式は和食だけならプロ並だし、ここはやっぱり外国仕込みの洋食で勝負するべきよね」

 

「いや、倫敦で仕込んで来たって言っても信用されないと思うけどなぁ」

 

「いいのよ! そこはホラ、色々と言いようがあるでしょうが!」

 

 

 食器をがちゃがちゃと音をさせないように各々流しへと運ぶ。衛宮邸に比べて少し小さく、使い勝手が悪そうなシンクはそれでも試行錯誤の後が見える。

 多分先輩が矜恃にかけて整備したんだろう。あちらこちらに衛宮邸でも見られる食器や器具の配置があった。

 

 

「あれ、セイバーさんが洗うんですか?」

 

「えぇ。倫敦に来てからは凜もシロウも忙しく、こういう細かい家事は私の担当になっているんですよ」

 

 

 一足先に首尾良く待機していたセイバーさんが運ばれてきた食器を手際よく洗っていく。

 冬木にいた時は専ら私か先輩が流しを担当していたから、セイバーさんには悪いけど正直言って驚いた。特に英霊が家事というのが‥‥あぁ、今更なのか、な?

 そういえば衛宮邸で家事をしていたのは私と先輩だけで、セイバーさんもこまめに手伝ってはいたけれど基本的には食客扱いだったような気がする。

 藤村先生が家事をしないのは今更として、セイバーさんが家事をしているのはひどく不自然な光景に見えてしまうのは、やっぱり英霊だからというよりは彼女自身のカリスマ性とでも言うべきなのかもしれない。

 なんというか、見た目だけなら私よりも年下なのに、どうしても敬語をやめられないのだ。鮮花とは普通に話せるんだけど‥‥。あぁ、そういえば鮮花もセイバーさん相手だと少し腰が低いかも。

 

 

「こういうのは初めてだなぁ」

 

「そうなんですか?」

 

「うん。伽藍の洞では基本的に食事は橙子姉と二人だったし。青子姉はろくに帰って来なかったからね」

 

 

 セイバーさんが洗った食器を私が拭き、場所を分かっている先輩が仕舞う。

 食卓を拭いて汚れてしまった布巾を流しに持って来た紫遙さんの言葉に、それでこそ橙子先生らしいと私は相槌を打った。

 

 

「自分のことは自分でやる、ついでに手を伸ばして義姉の分もやるってのが教育方針だったのさ。こうやって家事を分担して、とかは初めてなんだよ」

 

「俺の家じゃしよっちゅう、というか日常風景だったぞ。なにしろ出入りしてるのが多かったからな」

 

「士郎のところは私も含めて、藤村先生と桜とセイバーと‥‥五人ってところだったかしら」

 

「しかもシロウ以外は全て女性でしたが、家事を手伝おうとしない」

 

「ちょっとセイバー、私はたまにちゃんとやってたわよ。ていうか貴女にだけは言われたくない」

 

「私は積極的に手伝う姿勢を見せました。ですがシロウとサクラがどうしても座って寛いでいてほしい、というものですから遠慮していたのです」

 

 

 それはセイバーさんが勢い余って食器を壊したりぶちまけたりするからです、とは当然ながら言えなかった。きっと自分に落胆してしまうだろうし、私も先輩もそんなセイバーさんは見たくなかったのだ。

 だからこそセイバーさんが一人前以上にしっかりと家事をこなしているのを見て驚いたんだけど‥‥。やっぱり必要は成長を早くさせるんだろうか。

 

 

「‥‥桜、ちょっと」

 

「遠坂先輩‥‥?」

 

 

 皿を拭き終えて紅茶でもいれさせてもらおうかと棚を探しに行こうとした時、小さな声で遠坂先輩から呼ばれ、私はこっそりとリビングを抜け出した。

 春は近いけど、流石に廊下は寒い。そうでなくともこの屋敷からは間桐邸にも似た嫌な印象を感じる。

 多分だけど、前の持ち主に関係するんだと思う。住んでいる人が住んでいる人だからあまり気になるわけじゃないけど、後で先輩に注意してあげた方がいいかもしれない。

 

 

「悪いわね、落ち着いたところで。一応こっちとしても冬木の管理者(セカンドオーナー)として色々と聞いておかなきゃいけないことがあってね。部外者に聞かせるのもなんだから」

 

「‥‥お爺様のこと、ですか?」

 

「うーん、それについてはお悔やみ申し上げるけど‥‥、悪い言い方だけど死者に興味はないわ。何時頃亡くなられたのかは知らないけど、お葬式をやるなら教会に赴任して来た神父様を頼りなさい。その時は連絡でも来れればコッチでも色々しとくから」

 

「あ、はい、わかりました。それじゃあ問題というのは‥‥?」

 

 

 壁に背を預けながらも、視線は真っ直ぐにこちらへ向けられている。

 そこにいるのは同年代な若者ではなく、一人の魔術師。それも希代の天才で、若くして一つの土地を背負う立派な管理者だ。

 強く、気高く、そして眩しい。その光を受けた私は照らされるのではなく、影に飲み込まれてしまいそう。

 

 

「じゃあ聞くわ。‥‥間桐の次代の当主は、慎二じゃなくて貴女で良いのね?」

 

「!」

 

「管理地に根を下ろす家が代替わりしたとなると、私の方でも手続きをしなきゃいけないしね。時計塔に入学するならなおさら、神父様に頼むことも増えちゃうし」

 

 

 ううん、違う。それは違う。それじゃあダメだ、今までと変わらない。

 確かに遠坂先輩は眩しくて、私は‥‥自分が姉さんに比べてどれだけ惨めなのかと思ってきた。

 だって姉さんはいつでも輝いていて、完璧で、素敵で、何処まで行っても地味な私とは大違い。

 姉妹として生まれたのにどうして境遇にここまで差があるのかと何回だって考えた。

 こんなに辛い思いで毎日を日陰の中で暮らしている私なのに、どうして姉さんは光の中を堂々と前に進めるのかって。

 嫉妬、ではなかったと思う。でも決して憧れだけではなかったとも思う。

 それはひどく鬱屈した感情で、上手く形容できはしない。ただ私が姉さんに激しく引け目に似たものを感じていたことだけは確かだ。

 

 

『あぁ桜、お前は重大な勘違いをしているぞ』

 

『勘違い、ですか‥‥?』

 

 

 そんな私の思いを見抜いていたのか、いつの間にか私の境遇を知っていたらしい橙子先生が修行の最中にそんな調子で話を始めたのを思い出す。

 私が自分の魔術を上手に制御できなくて、負の感情が露わになってしまっていたときのことだ。

 言うなれば暴走してしまった状態。既に橙子先生の結界で封じ込められていたけれど、まるで常に息切れしてしまうかのように消耗し続けているのは、力を吐き出し続けている危険な状態だったからだろう。

 

 

『お前が自分の魔術を制御できないのは、お前が未熟だからではない。お前が自分の魔術を怖れているからだ』

 

『怖れている‥‥?』

 

『負の感情を晒け出すということはな、ある種の思い切りを必要とする。細やかな制御は一度晒け出してしまってからだ。然るに今のお前は自分の魔術に覚えて中途半端に術を行使しようとしている。まるでカップからカップに中身を移すときのように、おっかなびっくりやっていては失敗して零れてしまうのも道理というものだろう』

 

 

 橙子先生は伽藍の洞の三階部分、橙子先生の工房ではない修練用のスペースの窓枠に腰掛けて紫煙を吐き出していた。

 その様子は気怠げとでも言うのだろうけれど、それでもとても頼りがいがあるように見えて。

 嗚呼、これなら紫遙さんがあそこまで頼りにしているのも当然だなと今更ながらに気がついた。

 

 

『そもそもな、光だの闇だので善悪を区別して、必要以上に引け目を感じているようだからいけないんだ。そんなものは魔術の世界では何の役にも立たん。数学で正負に感情的な優劣を付けるか? 神秘を知らぬ一般人達の極端な二元論に縛られているから、お前は魔術師として半人前未満なんだよ』

 

 

 普段の眼鏡をかけている橙子先生は優しくて茶目っ気のある年上の女性。まるで私にできたもう一人の姉のよう。

 ここで母親みたいだと言ったら容赦なく性格をスイッチしてお仕置きされてしまうに決まってるのだけれど、なんとなくそういう印象も受けてしまうのは橙子先生の人柄というものだから、私は悪くないはずだ。

 一方魔術の鍛錬をするときの橙子先生は、眼鏡を外して完璧に魔術師としての自分に切り替わる。

 皮肉気で厳しく、それでいてロマンチスト。独特の比喩を用いた解説は不思議と分かりやすく、心にしみいる。

 

 

『水は我々に命をもたらすが、同時に水害をも発生させるだろう。海は生命の誕生の地だが、飲み込まれれば人間などひとたまりもない。暑いところでは冷たいものが、寒いところでは熱いものが珍重されるだろう。光は我々に活力と喜びを与えるが、闇は我々に安堵と休息を与える。そら見ろ、魔術の世界だけではないぞ。お前の考える善悪というのはな、人間の脆弱な精神が生み出した虚像に過ぎん』

 

 

 それは例えば先輩みたいに優しく私を諭し、許してくれるのではない。

 どう言うべきかよくわからないのだけれど、つまるところ力でねじ伏せられたようなもの。でも間違いなく正しい答は、私を真っ直ぐな道へと導いた。

 それで憂いが完璧に消え失せるわけではない。自分で言うのも何だけど、そこまで簡単に拭い去ることができるものでもないのだから。

 でも少なくとも、あれから私の魔術は格段に上達した。まずは自分自身としっかり向き合うということから始め、今では単純に発動させるだけならまず暴走しない。

 だから多分これが第一歩。ここを乗り越えなきゃ、先輩や姉さんと同じ土俵に立つこともできないのだから。

 

 

「‥‥はい。私が、間桐の後継者で間違いありません」

 

 

 今まで恐れ、拒絶していたことは口にするだけで震えが走る。

 でも、もう見ているだけは嫌だ。諦めたくない。置いてけぼりなんて耐えられない。私も、先輩や姉さんと同じ場所にいたいの。

 だから私も怯えん押さえ込んでしっかりと立ち、姉さんを真っ直ぐに見ながらそう言った。

 

 

「そう、か。わかったわ。時計塔への推薦は蒼崎君のお姉さんから貰ったみたいだけど、私からも推薦を出しておくわ。ささやかでも時計塔に今いる人間の後ろ盾があった方がいいでしょ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「いいのよ。管理地から優秀な魔術師が推薦されれば、管理者の手柄みたいなものだしね」

 

 

 そう、と呟いた姉さんは背を壁から離し、私の肩に軽く手を置く。

 冬木にいた時には朝か夜の少しの時間しか見られなかったように髪を下ろしていて、どこはかとなく年上の雰囲気が強くなっていたからドキリとした。

 

 

「じゃあ戻って食後のお茶でもしましょうか。んまり皆を待たせるのもよくないからね」

 

「はい、遠坂先輩」

 

 

 スッと私の横を通り過ぎた遠坂先輩が綺麗に笑う。同性でも思わず惚れ惚れとしてしまうぐらいなそれに、私はまた少し顔を俯かせてしまう。

 と言っても感じたのは純粋な引け目。前みたいな黒い感情じゃない。この辺りは間違いなく以前の私よりも成長できたところだ。

 

 

「‥‥ねぇ、桜」

 

「はい、なんですか?」

 

「‥‥あのさ、ホラ、何か辛いことがあったら相談しなさいよ。来年からは同じ学院に通うんだし、それまでもね、遠慮することはないんだから」

 

「え‥‥」

 

 

 扉に手をかけたまま開かずに振り向いた遠坂先輩の言葉に、私はまるで不意打ちをくらってしまったかのように硬直し、返事をすることができない。

 確かに理由は分からないけど、遠坂先輩は冬木でも普段からそれとなく私を気にかけていてくれたような気がする。学校の廊下で会ったら挨拶とか世間話をしたし、去年は何度か夕飯の買い出しも一緒したこともある。

 でもそれはあくまで日常生活での話。藤村先生とかと一緒に普通の毎日を送っている間の話だ。先輩達が夜にやっていたのだろう鍛練とはまた別の話だ。

 

 

「‥‥はい、その時はお世話になります、遠坂先輩」

 

「うん。それじゃあ行きましょうか」

 

 

 だからもしかして今のは、魔術師としての私を認めてくれたということなんだろうか。

 何故か知らないけど私にはそれがたまらなく嬉しくて、昼に先輩に言われたことは別に、たまらなく幸福で‥‥。

 多分、今まで遠坂先輩に向けたことがないぐらいの笑顔だったんだろう。

 私の顔を見て少し目を丸くした実の姉は、次の瞬間、これまた私が見たことがないくらいに嬉しそうな顔で笑ってみせたのだから。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「いいのか? 土産らしいものを買ったようには見えなかったけど。幹也さんや式はともかく、橙子姉は厭味ったらしく小言ぐらい言ってみせるかもしれないぞ? なにせホラ、機会があったら他人をおちょくる種を探しているような人だから」

 

「大丈夫よ。昨日、桜が衛宮さんとデートしてた時にそれっぽいモノを見つけて、私達が泊まってたホテルに送っておいてくれたから」

 

「ちょ、ちょっと鮮花、その、デートなんて‥‥!」

 

「デートみたいなもんじゃない。二人で倫敦の街を散策したんでしょ? 男女二人が外出したら是乃ち全部デートよ、デート。じゃあ何、私が幹也と買い物にでかけたりするのもデートじゃないって言うの?」

 

「そ、そういうわけじゃないけど‥‥」

 

 

 平日の昼間でもヒースロー空港には人が多い。英国の首都に近いハブ空港だというのもあるけど、基本的に飛行機は観光に使うものだという俺の認識がそもそも間違いだ。

 どちらかといえば飛行機はビジネスにこそ重要な役割を果たす。平日だからこそ西へ東へと忙しく飛び回るビジネスマンが増えるのは当然である。

 もちろん観光シーズンとかに比べれば圧倒的に空いていることには違いなく、海外旅行とは思えないぐらいに軽装で荷物の少ない二人と向かい合い、俺達倫敦組は送別のためにやって来ていた。

 

 

「黒桐さん、あまり桜をからかわないでやってくれ。俺の前でそういうことやられたら桜が困るだろ」

 

「え、衛宮さん?」

 

「桜は優しいから俺の前じゃ否定できないしな。それにもし他に気になる人がいたりしたら可哀相だ」

 

「そ、そんな人いません! 誤解しないで下さい先輩!」

 

「はは、悪い悪い」

 

 

 一瞬まさか衛宮が桜嬢の想いに気付いたのか?! と思って全員が身構えてしまったけれど、当然ながら直接アプローチでもされなければそんなことはなく、桜嬢は傍目にも可哀相なぐらい取り乱した。

 発破をかけてみた鮮花ですら気まずそうな顔をするぐらいに一片もなく言い切られてしまった桜嬢には同情する。あれじゃ脈があるわけがない。

 

 

「あ、あぁ桜嬢、帰ったら橙子姉に俺は息災だって伝えてくれないかい? あまり頻繁に連絡をとらなくなると次に会った時に厭味がひどいからね、あの人は」

 

「は、はい、わかりました」

 

「そのとばっちりの被害を被る私達の身にもなって欲しいわよ。いつぞやなんて幹也がいくら発破かけても仕事が手につかないったらありゃしない」

 

「それは、ホラ、俺のせいじゃないだろ」

 

「アンタのせいよ。っとに互いに無自覚なシスコンブラコンって質が悪いわね」

 

 

 実は薄々互いに気付いてはいるのだけれど‥‥黙っておこう。この場合は俺が橙子姉に依存していて、橙子姉が本来なら厄介とか面倒に過ぎないそれを分かっていながら許容してくれているのだから。

 なんていうかな、本当に橙子姉は身内に優しいと思う。とりあえずそれだけは間違いない。まぁそれが如何なる感情によって齎されたものであるかまでは分からないんだけど、それだけは間違いない。

 この辺りはすごく難しいところで、恥ずかしい言い方をするけど、橙子姉が俺をどれくらい愛してくれているかは分からない。でもぶっちゃけた話、そんなものは俺には関係ないのだ。

 俺は多分、そういうのとは無関係に義姉達に依存している。だから意味のない話なのだ。なにせ結局はそこに全てが帰結する。

 

 

「とにかく今回はありがとうね。来年の心配はいらなさそうよ。遠坂さんも、わざわざ取り次いでくれてありがとうございます。この礼は必ず」

 

「期待して待ってるわね、黒桐さん」

 

「来年に貴女達と会えるのを楽しみにしていますよ、サクラ、アザカ。その折には是非一緒にお茶でも」

 

「はい。セイバーさんも紫遙を宜しくお願いします」

 

 

君に心配されることなんてないぞ、と言ったら社交辞令よと返された。悔しい話だけど、こと基本的な教養においては一応お嬢様という体面を取り繕い続けている鮮花には敵わない。

 ついでに言うと体面を取り繕った慇懃無礼な口論でも勝てない。そんなのは滅多にないし、普段の口喧嘩なら年の功で負けはしないのだけれど。

 でもホラ、あれだ。上司に娘を紹介したら『お父さんを宜しくお願いします』とか言われちゃった父親の心境と似て‥‥はいないか。

 

 

「まぁ来年の詳しいことは橙子姉に聞けばいいさ。あれでも学院にいたことあるし、昔とさほど変わってもいないはずだからね。というより時計塔の勢力図が十年前後で一変したりしたらそっちの方が問題だ」

 

「そうするわ。私は半ばモグリの魔術師みたいになってるから桜よりは面倒も少ないしね」

 

「あ、遠坂先輩、私はどうすれば‥‥?」

 

「こっちでやっとくわ。貴女は何も心配しないで無事に来年まで過ごせばいいわよ」

 

「そうですか。ありがとうございます、遠坂先輩」

 

 

 心和むワンシーンではあるけど、出発ロビーの前でたむろしているのも迷惑だ。飛行機の離陸時間が近づいているからか、人が増えて来ている。

 時間ぎりぎり目一杯まで別れを惜しんでいたい者も多い。反面、俺達は数ヶ月後には問題なく再会することが決まっている。このスペースは他の人に譲ってやるべきだろう。

 

 

「じゃあそういうことで。私達が来るまで騒ぎを起こしたりしないでね」

 

「‥‥それは俺が騒動を起こすってことかい? 衛宮じゃあるまいし早々そんなことは‥‥って、衛宮と一緒にいたら確定か」

 

「先輩‥‥?」

 

「‥‥否定できないな、すまん」

 

 

 俺と衛宮が出会ってから早半年を越える。その間に巻き起こった大小様々な事件はどちらかといえば遠坂嬢とルヴィアが中心だったけど、大きなものには必ず衛宮が関わっていた。

 まぁ当然ながら衛宮が悪いというわけじゃない。例えば例のルドルフ君のときなんかは青子姉への私怨だったわけだし。

 それでも多少は考えるところがあるのか、衛宮は眉を顰めて溜息をつく。なんというか、ちょっと申し訳なかった。

 

 

「大丈夫だとは思うけど、二人とも気をつけて帰れよ」

 

「はい、先輩」

 

「大丈夫よ、そうそう事件とか事故なんて起こりはしないんだから」

 

 

 出発の時間が近づいてくる。辺りは急に騒がしさを増し、もう少しでも増えれば混雑と呼ぶに相応しい賑わいになるだろう。

 しかし、では行こうかという段になり、ふと桜嬢が遠坂嬢の前に立つ。

 唐突な行動の中には決意に似たものが見え、俺も衛宮もセイバーも、鮮花も、思わず次に喋ろうかとしていた言葉を飲み込んだ。

 

 

「あの、遠坂先輩」

 

「‥‥何、桜?」

 

「私、まだ諦めてませんから。負けたつもりも、負けるつもりもありませんから」

 

「‥‥ッ!?」

 

 

 遠坂嬢の他にその言葉の意味を理解できたのは俺と鮮花、あとおそらくはセイバーもだろうか。衛宮は何が何だか分からなくて目を白黒させている。

 

 

「ふ‥‥」

 

 

 いきなりの挑戦的な言葉に遠坂嬢は驚いたようだけど、次の瞬間、ニヤリと綺麗でありながらも不敵な笑みを浮かべて桜嬢に向かって胸を張る。

 ‥‥すごく下世話な印象だけど、それは悪手じゃないだろうか? ここで桜嬢が胸を張り返したりしたら間違いなく修羅場を見るだろうけど、彼女にそこまで挑戦的な気概が無くて安堵した。

 

 

「受けて立つわよ。でも、アイツは私のだから」

 

「負けません。絶対負けませんから」

 

「え、ちょっと桜! あーもう、とにかくまたね紫遙!」

 

 

 そこまで言うと桜嬢は踵を返して出発ロビーの中へと去っていき、慌てて鮮花も後を追いかけた。

 遠坂嬢はその後ろ姿をずっと眺めていて、挑戦されたはずなのに、どこはかとなく嬉しそうだ。

 多分俺が倫敦で彼女に会ってから、一番嬉しそうな表情ではなかろうか。なんとなく理解できないこともないけど、やれやれ、本当に複雑な性格してるよ。

 

 

「なぁ遠坂、今のは一体どういうことなんだ?」

 

「士郎は知らなくていいのよ。これは私と桜の勝負なんだから。アンタはじっと構えて、私を信じてなさい」

 

「それでは勝負というわけではないような気もしますが‥‥」

 

「まぁ遠坂嬢の方にアドバンテージがあるのは当然だよ、セイバー。それぐらいのハンデを乗り越えないことには、桜嬢にも勝機はないさ」

 

 

 出発ロビーに背を向けて空港を後にする。飛行機を見送るという人も多いだろうけど、そこまでする必要もない。第一、彼女達から見えるかどうかも定かじゃないしね。

 と、空港のエントランスにさしかかるけど、やたらと騒がしい。なんというか、老若男女外人英国人を問わず、やたらとざわめいている。

 不思議に思うけど構わずに大きな自動ドアをくぐり、空港の多国籍な雑多な空気から既に吸い慣れたイギリスの空気の中へと足を踏み入れ———

 

 

「‥‥なんだ、こりゃ?」

 

 

 呆然と前を歩いていた衛宮が呟き、それにつられて前の方をのぞき込んだ俺も続いて絶句する。

 空港の前のロータリー、普段ならキャブやら何やらの普通の車が駐まっていたりいなかったりするロータリーに、今は明らかに普通じゃない代物がデンと陣取っていた。

 それは黒塗りの見事なリムジン。日本では、いや、英国でだって早々お目にかかることはない。

 高級でいながら重厚、そして実用主義でもある。その外板は特殊な加工がされ、拳銃弾どころかマシンガンの一斉射でも耐えられそうだ。

 座席のクッションは紛う事なき高級品。沈み過ぎることもなく、それでいて反発力は最小限。あらゆる職人がこのリムジンのためだけに仕立て上げた逸品である。

 さて、何故俺がここまで詳しくこのリムジンのことを知っているのか、不思議に思うだろうか?

 

 

「これは‥‥ルヴィアのところのリムジンじゃないか」

 

「え?」

 

「———随分とのんびりなさっていましたのね、ミス・トオサカ、シェロ、ショウ、セイバー」

 

「ルヴィアゼリッタ‥‥何の用事よ?」

 

 

 ウィーンと窓が開き、中から金色のお嬢様が顔を覗かせる。眉間には深い皺が刻まれ、おそらくはそれなりの時間ここで待っていたのだろう。

 それだけ周りから注目の視線に晒されたことも意味するわけだけど、まぁそういうものを気にする性格はしていないから純粋に退屈にくたびれただけだと思う。

 不機嫌を隠そうともしないルヴィアの言葉に遠坂嬢がこめかみをひくつかせながら質問し、ルヴィアは一気に表情を真剣なものへと変えてこう言った。

 

 

任務(しごと)ですわよ、私も含めて五人に。‥‥我らが大師父、宝石翁、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグから」

 

「「「「!」」」

 

 

 主人公達に日常は許されない。そして周りの者もまた同じ。

 滅多に時計塔に戻ってこない第二の魔法使いからの呼び出しは否応なく波乱を予感させる。

 広々としたリムジンの車内で揺られながら大英博物館へと向かう中、俺はまた面倒、ともすれば危機的な状況であることに間違いはないと、未だかつてない程に真剣に事態を予測するのであった。

 

 

 

 49th act Fin.

 

 

 



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第四十九話 『宝石翁の任務』

 

 

 

 side Bazett Fraga Mcremitz

 

 

「‥‥はぁ、はぁ、はぁ、はぁ‥‥ッ!」

 

 

 息が荒い。心臓は限度を超えた負荷に耐えかねてドラムのように打ち鳴らされ、持ち主である私に限界を主張している。

 否、本来なら心臓こそが私を動かしているのだから、これが機械だったりすればとうの昔にプツンと電源が切れていてもおかしくはない。

 それでも私がこうして活動状態を維持できているのは、ひとえに普段から鍛えぬいた精神によって手綱をとっているからに他ならないのだろう。

 もとよりこの程度の負荷ならば日常茶飯事だ。現在おかれている状況が一、二を争う程に危機的であるということを除けば、決して特異な状態ではない。

 

 

「はぁ、はぁ‥‥ん、ふぅ‥‥」

 

 

 数秒、いや、一秒未満で最低限の息を整えてファイティングポーズをとる。それだけでも本来なら致命的な隙になるのだが、今は一対一ではない。

 

 

「大丈夫か、バゼット」

 

「えぇ、まだ十分に戦えます。そういう貴女こそ、魔力は十分ですか? フォルテ」

 

「私は後衛だからな。前衛でヤツと相対している君ほどではない。傷も少ないし、魔力も残っている。ヤツを屠るには十分に過ぎるさ」

 

「そうですか、安心しました。貴女の援護がなければヤツと戦うことはできませんからね。‥‥わかっていたことですが、やはりこの戦力差は覆しがたい」

 

 

 やや後方に立っている同僚から声がかかり、私は顔の向きは変えずに応えを返した。

 単独での任務が多い私だが、当然ながら魔術協会において封印指定の執行部隊という組織に属している以上は誰かと組むということもある。 

 なにしろ私は単騎でもそれなりの人数と戦うことができると自惚れではなく自負しているが、それでもそれは魔術師や、低級の死徒に限られる。

 封印指定級の魔術師には戦闘に不向きな者が多いが、逆を言えば戦闘向きの能力で封印指定をくらい、あまつさえ自身を研究のために死徒と化した者などもいるのだ。

 そういう連中相手だと流石に私一人では万全というわけにはいかない。その際にコンビを組まされることが多かったのが、私の援護をしてくれているフォルテだ。

 

 

「しかし信用してくれているのはいいが、あまり頼られても困る。アレは対魔力が低そうだが、それでも脅威には違いないからな。私の“空気打ち”とて渾身の一打でなければ通用しない」

 

「いえ、牽制になるだけでも今は十分です。なにより貴女の魔術は一工程で発動しますからね」

 

「‥‥ここだけの話、私もここまでコレをこき使ったのは初めてだ。少々不安要素が多すぎる。できれば、短期決戦といきたいところではあるな」

 

「そうですね。アレは顕在魔力量はさほどではないようですが、潜在魔力量はかなりのもの、というよりも底が見えません。持久戦になれば私達が不利でしょう」

 

 

 風使いフォルテ。彼女の使う魔術は“空気打ち”と呼ばれ、音や大気の共鳴を利用して相手に不可視の打撃を与えるものだ。

 彼女が持っている魔術礼装である真っ直ぐな剣には三つの穴が空いており、これを用いて魔術を行使する。剣を一振りするだけで何百メートルと離れた場所へ不可視の打撃が襲う。

 基本的に一工程の魔術で攻勢のものはそう多くない。卓越した風使いである彼女だからこそ可能な技であり、それは凡百の魔術師であれば何が起こったかも分からない内に仕留められ、封印指定レベルであったとしても圧倒されて封殺されてしまうことだろう。

 だが、今の相手は不可視のはずであるそれを弾き、躱し、モノによっては躱すことすらせずに消滅させる。

 さもありなん、アレには対魔力という、こと魔術のくくりに属する攻撃の尽くを消滅させてしまう能力が備わっているのだ。

 

 

「対魔力は数値に換算して‥‥Cというところだな。こちらもそれなりの魔力をこめた打撃でなければ効かないどころか、牽制にもなりはしない、か」

 

「これがBを越える対魔力でしたら手も足も出ないところでしたから、僥倖と言うべきでしょう。まぁ、今の状況が楽かと言われれば一秒足らずで否と返すところですが」

 

「そうだな。これはボーナスに加えて有給休暇でも貰わないことには割に合わん。これが終わったら馴染みの店にいって豪遊させてもらうとしよう」

 

「賛成です。温い黒ビールで思う存分に酔っぱらいましょう。それぐらいは許されて然るべきだ」

 

 

 ギリ、と音がするぐらいに力強く拳を握る。本来なら多少力を抜いておくのがベストだが、今の状況では叶わない。

 常に張り詰めていないと負けてしまう。実力だけではなく、心すらも。それほどまでに目の前の存在は圧倒的であった。

 

 

「‥‥他は?」

 

「全滅だ。十人いた部隊がたった一人相手にな‥‥」

 

 

 一瞬、ちらりと視線を辺りに巡らせる。

 いたるところに人が倒れていた。一、二、三‥‥八人。私とフォルテ以外の、今回宝石翁の命で冬木にやって来た執行部隊全員が倒れていた。

 ある者は心臓を穿たれ、ある者は体を真ん中から上下真っ二つにされ、ある者は姿は変わらずとも、全身の骨を砕かれている。

 確認する暇はないが、おそらくは生きていまい。最初に全員でアレと相対した時から覚悟していたことではあるが、あまりにも圧倒的な戦果に思わず逃げ出してしまいそうになる。

 フォルテにとっては、悪夢だろう。なにしろ部隊の一人一人が一流の戦闘向きの魔術師だったのだから。

 

 

「ここは一旦退却するという手もあるが‥‥」

 

「無理でしょう。そもそもどうやったら出られるのかも定かではありません」

 

「確かにな。それに、単純に増援を送ったところで何とかなる相手とも思えん」

 

 

 最初に調査団が冬木を訪れ、後日全員が死体で発見されたのが二日前のこと。遺体の状況から鑑みて戦闘が行われたことは明らかであり、今日の昼間に私達、協会の中でも指折りの武闘集団である執行部隊が派遣された。

 掛け値なしの強者揃いであったのだが、異常のあった場所へと調査に赴くと突然光に包まれ、気づけば全く別の世界。

 風景そのものは変わらない。だが空は曇天と形容するにはあまりある黒い闇。彼方へと視線をやれば、まるで空間を区切るかのような格子の檻に囲まれている。

 そして冷静に議論を交わそうとした次の瞬間、表れた槍兵との戦闘に突入したのだ。

 

 

「なにより私達以上の戦力は現状の魔術協会に存在しない。増援が来たところで、それこそ魔法使いか封印指定か、英霊そのものでもなければ犬死にだ。ここは私達だけで仕留めてしまうより他ないだろう」

 

「全く、因果な職業に就いてしまったものです。この仕事が終わって一息ついたら、何処ぞに旅にでも出ましょうか」

 

 

 怖い。とても怖い。この戦いは命が削られていく感触がする。

 今まで何度も感じた死の恐怖。そのどれにも勝る程の恐怖が今の私を包んでいた。

 

 

「‥‥でも逃げられない。逃げない。貴様だけは‥‥許さない!」

 

 

 怯えと恐怖と生存本能を、心の底から燃え立つ怒りが凌駕した。

 全身に戦闘意欲をみなぎらせて目の前で得物を構える敵を睨みつける。コイツだけは、許せないのだ。

 

 眼前の敵は、まさしく異形と表現せざるをえない代物であった。

 まず全身は青黒い軽装。真っ赤な線が血管のように走った青黒い装束の装甲は僅かに肩の周りの、これまたどす黒い鎧だけだ。

 その筋肉は均整のとれた絞り込まれたものでありながら、醜悪。ミチミチとこちらまで音が聞こえそうなぐらいに脈打ち、私達を殺そうとする意思に支配されている。

 男の口元をみれば、それは耳まで裂け、任務で仕留めた吸血鬼か、図鑑で見ることのできる恐竜か鮫のようにギザギザの牙がズラリと並んでいた。

 口の中は鮮血よりも鮮やかな深紅。舌は長く、蛇のようにちろちろと踊っているのだ。

 目も特徴的だった。片方の目は眼窩の奥まで引っ込み、見えない。しかしもう片方の目はギリギリまで飛び出てギロリとこちらを睨みつける。

 それは顔中に裂け目のような線が走った凶相で、青い髪の毛は全体がまるで焔のように燃えさかっていた。

 

 

「貴様なんかに負けるものか。“彼”を侮辱した、貴様なんかに負けるものか!」

 

 

 なんということか、それは私が僅かな間を共にした相棒の姿を模している。

 相棒の姿を模しているのだ。それでいながら、これ以上ない程に醜悪に改悪されていた。

 清々しい笑顔を浮かべていた顔は歪み、宝石のような目は見るも無惨に変わっている。子供にでもするかのように私の頭をくしゃくしゃにした手は、今や猛禽類の鈎爪のよう。

 頼もしい言葉を私に贈ってくれた口から出てくるのは、聞くに堪えない叫び声ばかりだ。

 まるで蛮族。猛獣。見る者に害を与える魔物。

 あの蒼い槍兵に対する侮辱に他ならない。それは彼を繋ぎ止めることができなかった不甲斐ないマスターである私にすら、どれほどまでの怒りを巻き起こしたことか。

 

 

「うおおおぉぉぉぉおおお!!!」

 

 

 自らを鼓舞する雄叫びを上げながら突進する。彼のことなら短い間ではあったが良く知っているのだ。

 悔しい話だが、姿は見る影もない程に変わっていても、その身に宿した技は英雄と呼ばれるに相応しいものだ。

 身体に裂くことのできる魔力が少なく、理性を奪われているために鋭さや速さ、力強さは失われている。それでも尚、彼を模した魔物は人間が立ち向かうには強大に過ぎた。

 

 

「■■ー■■ー■ーーーッ!!!」

 

 

 黒板を引っ掻いたような金切り声と、大太鼓を打ち鳴らしたかのような野太い雄叫びと共に紅い槍が振るわれる。

 皮肉なことに、否、不思議なことに、その手に持たれた紅い魔槍だけは寸分違わず記憶と一致していた。

 

 

「ふぅっ!」

 

 

 向かって右から左へと横薙ぎに放たれた槍をスウェーバックで辛うじて躱す。

 やはり、違う。彼じゃない。

 確かにその薙ぎは私でも精神を極限まで集中させて辛うじて躱せる程のものではあったが、彼が振るったものならば天地がひっくり返ったとしても私に躱せるはずがない。

 

 

「だから貴様を許せないのだっ! 彼を侮辱して、私の彼を侮辱してぇ‥‥! 死ねぇっ!」

 

「■■ッ?!」

 

 

 槍が返ってくることに備えて左手を縦にしながら、怒りに任せて右手を打ち込む。

 手応えがあったので続けて右膝も。すぐに足を組み替えて、左手を槍を持った手に沿えると渾身のアッパーを腹に叩き込んだ。

 

 

「下がれっ! バゼット!」

 

 

 まるでトラックに衝突したかのような衝撃音と共にヤツが横に吹き飛んだ。フォルテの渾身の空気打ちのようだが、衝撃だけのようで、次の瞬間にはクルリと宙で回って着地した。

 どうにも殴り合いでは効果が薄い。私とフォルテでは間合いの問題もあって、二対一でも尚相性が悪いのだ。

 

 

「‥‥っ、これは」

 

「危ないところだったぞ、気を抜くな」

 

 

 鋭い痛みが首に走り、手を当ててみるとべっとりと紅い血が付着する。

 ‥‥これはまさか、そうか、牙か。フォルテの援護がなければ私の首は食いちぎられていたところだったというのか。

 間合いが狭まれば槍は振るえまいと判断したが、それでも私の命を奪うには十分すぎるようだ。まったく油断が出来ない。

 幸いにして掠っただけらしく、出血はともかく怪我自体はそこまで深くない。まだやれる。もとよりヤツが沈黙するまでは止める気はないのだから。

 

 

「まるで獣ですね。以前相手にした合成獣(キメラ)を思い出し———ッ、来ます!」

 

 

 ニヤリと怖気が走るような笑みを浮かべた一瞬後、ヤツが私へと目にもとまらぬ速度で槍を突き出してくる。

 ヤツの身体能力自体は聖杯戦争中でのランサーに劣る。理性を失っているために、槍の技術も何もあったものではない。

 だがそれでも不思議なことに、宝具だけはそのままだ。この戦闘中であの槍で傷つけられた傷は、どんな掠り傷であっても治っていない。

 さもありなん、あれこそは世界でも有数の呪いの魔槍。あれでつけられた傷は決して癒えることはなく、その突きは必ず心臓を穿ち、渾身の投擲は軍をも吹き飛ばす。

 

 

「だが、甘いっ! そこです、沈みなさいっ!」

 

「■ー■■ー■ー■ーーーっ!!!」

 

 

 ギイン、と金属音を立ててルーンで硬化させた私の拳が槍を弾く。

 続けて先程と同様に左右の拳と脚でラッシュをかけるが、くるりと器用に反転させた槍の柄でその尽くが防がれ、最後の蹴りと後衛のフォルテからの空気打ちは、大きく後方へと飛ぶことで避けられてしまった。

 ‥‥おかしい、最初の頃の、まるで獣のような一方的な攻めに比べて勢いがない。

 

 

「ならば仕留める! いやぁぁあ———がぁっ?!」

 

 

 まだヤツが宙にいる内に一気に間合いを詰めてしまおうと駆けたが、あろうことか槍を地面に突き刺し、それを支点に脚を回して強烈な蹴りを放ってくる。

 ヤツの持った魔槍、ゲイボルクの長さは約二メートル。自分の身長よりも高い位置からの蹴りに対処できず、私は無様に数メートルも吹っ飛んで倒れ伏した。

 

 

「‥‥くぅ、やはり腐っても英霊、といったところですか。しかし一体誰がこのような」

 

「バゼット!」

 

「大丈夫、まだ戦えます! ‥‥理性や人間性を剥ぎ取り、能力を制限されているとしても、英霊を召喚するなんて第一級の魔術儀式のはず。一体何を目的として———いえ、今はそのようなことを考えている場合ではありませんでしたね」

 

 

 そう、今は目の前の敵を倒すことが役目だ。あまり余分な思考に意識を割いていては一瞬で殺されてしまう。

 私はぎしぎしと悲鳴をあげる骨を無理矢理動かして、再度ファイティングポーズをとる。

 『Stand and Fight』。私の好きな言葉の一つだ。何にしても今は試合ではないのだから、私の準備が整っているかいないかにも関わらず敵は襲ってくる。

 案の定、私が戦闘状態を取り繕った次の瞬間には紅い槍の穂先が目の前へと迫ってきていた。

 

 

「馬鹿な、速———くぅっ、がぁっ?!」

 

「バゼット?! おのれ、貴様ぁっ!」

 

 

 左肩と右の太股。弾き切れずに二カ所に槍が突き刺さった。

 次の瞬間に普段なら有り得ない汚い罵りを吐き出したフォルテの空気打ちが炸裂したためにヤツは一端距離をとったが、それでも怪我をしてしまった以上は不利は更に酷くなって動かない。

 脂汗を流しながらも嗚咽を飲み込み、ファイティングポーズはそのままに感覚だけで傷の具合を検分する。

 少しでも動かすと激痛が走るが、動かせない程ではない。が、少なくともこれで長期戦は無理だ。

 ゲイボルクで傷つけられた怪我は治らない。普段なら治癒を促進するルーンを刻むところだが、その程度では役に立たないだろう。

 今までは掠り傷だから何とかなったが、これほどまでに大きな傷をつけられてしまったからには出血による戦闘力の低下も考慮にいれなければならない。

 とりあえず痛みを無視すれば動かせる。多少辛いが、我慢して勝負をつけなければ。

 

 

「バゼット、無事か?」

 

「‥‥無事に見えるなら眼医者に行くことをお勧めします。痛みは酷いですが、戦闘は可能です。‥‥しかしあの槍でつけられた傷は治らない。あまり長引かせると出血多量で自滅してしまうでしょうね」

 

「成る程。‥‥実はそろそろ私の魔力も尽きる。確かにここは勝負に出なければ、いずれ遠くない内に負けてしまうな」

 

 

 フォルテが私の隣に出てくる。戦いが始まってからおよそ数十分。間断なく戦い続けた顔には私同様一面に脂汗が浮かんでいた。

 彼女自身の魔力の総量はさほど多い方ではない。私もそうなのだが、とにかく圧倒的な力でねじ伏せるのが本来の戦い方なのだ。

 

 

「ですが見て下さい、こちらを警戒しています。おそらくヤツもダメージは蓄積されているはずです。私達の今までの戦闘は無駄ではありませんでした」

 

「殺るなら一気に、ということか。確かに最初に比べて幾分弱っているようには感じる。‥‥しかしどうする? 少なくとも私の空気打ちでは決定打になりえないことは間違いないだろう」

 

「そうですね。私とて死徒ならともかく、ヤツを殴り殺すのは無理そうです」

 

 

 見ればヤツはギリギリの間合い、約三、四メートルを維持しながらこちらの様子をうかがっている。

 こちらが喋っていても襲いかかってこない。これはもしや、自身の回復を待っているのだろうか。

 だとすれば攻めるには絶好の機会ではあるが、それでも私達が動けないのは、やはりこの先の方針というものを決めておかなければならないからだ。

 闇雲に攻めるのはリスクが高すぎる。相手もそうなのかもしれないが、私達が望むのは短期決戦だ。

 如何にコレを商売にしているとはいえ、流石に私だって差し違える気はない。これはビジネスだ。私の命は量に乗せるには重すぎる。

 

 

「‥‥バゼット、私が隙を作ってやる。その隙に例のモノをお見舞いしてやるというのは、どうだ?」

 

「危険です、フォルテ。確かに仕込みは十分ですが、貴女の空気打ちではヤツに隙を作るまでには至らない。それになにより———?!」

 

 

 ぞくり、と今までにない怖気が私の背筋を走った。おそらくはフォルテも同じなのだろう。ヤツへと視線を移すと、恐ろしい光景が広がっていた。

 

 槍が、大気中の大源を飲み込んでいる。まるで川の、否、海の水を飲み干すかとでもいうように大量に。

 あれは宝具だ。英霊の持つ究極の一。そしてヤツの持つ紅い魔槍の力とは因果逆転。『放てば必ず心臓を穿つ』呪い。

 

 

「問答している暇はなさそうだな。いくぞ、合わせろっ!」

 

「フォルテ! ‥‥くっ、いつもいつも強引な人ですね、貴女は!」

 

 

 剣を手にフォルテが突っ込む。アレを発動させてはいけない。

 だが彼女は接近戦が出来ないはず。あの三つの穴が空いた剣は打ち合いに耐えうるような作りをしていないのだ。

 何か秘策があるのか、それとも自身をこそ囮にする気なのか、だが最早事態は動き出している。

 彼女が突っ込んでしまった以上、私は彼女がヤツに隙を作ることを信じて準備するしかない。

 上手くやることを信じて、無傷の右腕に力を込めて集中した。

 

 

「うおぉぉぉおお!!!」

 

 

 フォルテが突っ込む。上段から右手でお飾り程度にしか刃をつけていない剣を振り上げ、ヤツの頭上へと振り下ろす。

 まさに宝具を発動しようとしていたヤツは無防備。そこを狙えば問題はないとそう思った。それは私も一瞬そう思った。

 だが考えてもみるがいい。まさか宝具を発動しようとしていたヤツが、自身への攻撃を許す程の隙を、ますその段階で作るだろうか。

 

 

「フォルテェェエエエ!!!」

 

 

 宝具を放つべく構えていた槍が大源を吸い込むのを止め、くるりと反転したソレがフォルテを斜めに斬り放った。

 それこそが囮だったのだ。宝具を放つフリをして、我々を誘い込む。理性を奪われているはずが何と狡猾なことか。

 ヤツもそうだったのだ。私達との戦いが長引いていることに、決定打がないことに焦れていたのだ。

 『突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)』は助走距離が必要で、『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』には溜めが必要だ。

 そして私達は今までの戦いで、不用意に宝具を使わせないように行動していた。それを逆手に取られた。

 

 

「ぐ‥‥甘い、んだよ、この‥‥木偶の坊!」

 

「■ー■■ー■ーッ?!!」

 

 

 が、フォルテは私の予想も、ヤツの予想も超えていた。

 腹を裂かれて尚戦闘意思を持っていた彼女は右手の剣を放り出し、あまりの苦痛に顔を歪ませ、歯を食いしばりながらも左手をヤツへと伸ばし、パチリ、とフィンガースナップを一閃。

 すると、どうだろうか、フォルテの左手の先から真空刃が飛び出し、ヤツの突き出された右腕を半ばまで切断したではないか。

 

 フォルテは何代も続く魔術の家の出身だ。その家のお家芸は風の魔術であったらしい。

 そしてフォルテの魔術刻印は左手にある。どのようなものかまでは聞いていなかったが、成る程、どうやら一工程で真空刃を発生させる魔導書であったらしい。

 対魔力をも突破する程の魔力を込められた真空刃はフォルテが宣言した通り、見事にヤツに隙を作ってみせた。

 

 

「今だ! バゼット!」

 

 

 血を吐きながらフォルテが叫ぶ。右腕を傷つけられたヤツは、左腕だけでは咄嗟に槍を扱えない。

 魔術回路が唸りをあげる。最初から全力稼働させていた疑似神経は私の指令にあらん限りの悲鳴をあげるが、そのようなことは知ったことか。

 友が命を賭けて作ってくれた僅かに一瞬の隙を、無駄にするわけにはいかない。ビシリ、と血管が破裂した感触がしたが、気にも留めない。

 最大回転で仕留める。私の右手が神秘の色に輝いた。

 

 

「『斬り抉る(テュール)———』」

 

 

 戦場の隅に転がっている私の背負っていた円筒。その中に入っていた四つのラックが、今は一つに減っている。

 残りのラックは戦闘中に、あちらこちらへ設置しておいたのだ。このようなことを想定して、こっそりと。

 本来ならカウンターとして使うことでしか能力を発揮できない私の宝具、『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』。

 それを無理矢理、数を揃えることで相乗的に威力を発揮させる。

 本来なら作成するのに多大な労力と時間を伴うラックを複数消費するために滅多に使わない奥の手だが、今はこれより他に手はない!

 

 

「『———戦神の大剣(フラガラック)』!!!」

 

 

 一気にヤツへと近寄り、渾身のアッパーで叩き上げた。そこからは最初に込めた魔力によって、フラガラックが役目を全うする。

 全ての力を使い果たして俯せに地面に倒れ伏し、背中でヤツの断末魔を聞いた。

 彼を侮辱した報いを、しっかりと冥府で味わうがいい。

 

 薄れゆく意識の中で最後に感じたのは、はらりと私の手の中に落ちてきた、一枚の何かの感触だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥入れ」

 

 

 年老いた男の声に従い、俺達五人は重厚な扉を開けて部屋の中へと入った。

 長らく使われていなかったという魔導元帥の書斎は、本の匂いに溢れていて心地よい。

 埃の香りまではしないということは頻繁に誰かが掃除していたということだろうか。だとしたら是非に俺も一緒したいものだ。

 何せホラ、部屋に入った俺の目の前に飛び込んできたのは壁という壁を埋め尽くす大量の本。しかもその全てが一見して貴重な魔術書だったのだから。

 魔術師としては宝の山だけど、流石に魔法使いの持ち物。多分生半可なものじゃない。不用意に手を出したら噛み付かれるかもしれないとかいう意味で。

 

 

「来たか、遅いぞ」

 

「プロフェッサ? どうして宝石翁の部屋に?」

 

 

 部屋の中に入って次に目に入ったのは見慣れた赤い長衣姿。黄色い布を肩にかけ、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた我らがグレートビックベン☆ロンドンスターこと、ロード・エルメロイⅡ世である。

 論理思考や系統分類の権威であり、そういう授業や個人的に見出だした学生の指導を担当しているはずの教授の姿に、俺は思わず疑問の声を発してしまった。

 

 

「どうしたもこうしたもない。突然今回の事件の対策要員に指名されてな。時計塔を西へ東へ大忙しだ。まったく、新しく購入したアンティークが届いたところだったのに、忙しすぎて開封すらできんとはな!」

 

「あー、そりゃお気の毒でしたね、プロフェッサ」

 

 

 この場合の『アンティーク』とは乃ち『古くて珍しく、入手困難なゲーム』のことを指す。

 とはいえココは魔導元帥の部屋。のみならず今だロード・エルメロイの本性というものを知らない衛宮と遠坂嬢もいる。

 わざわざ口に出してカリスマ教授の隠された素顔を露呈させることもあるまい。隣のルヴィアを見れば同感なのか、苦笑いで顔馴染みの教授を眺めていた。

 

 

「なんというか、一応は業務に差し障りのない範囲で嗜む辺りは責任感があると評価してさしあげても構わないんですけど‥‥」

 

「いやいやルヴィア、あれは君がまだプロフェッサと知り合ってなかった頃の話だけど、以前待ちに待っていたものが届いた時には一週間引きこもって、執務室から出てこなかったもんだよ」

 

「‥‥呆れましたわ。そこまで傾倒なさってたとは」

 

「あの時はプロフェッサが受け持っていた学生全員で散々出て来るように説得したんだよね。結局当時すでに一番の古参だったエスカルドスが扉をぶち破って引きずり出したんだけど」

 

「あらまぁ」

 

「えぇい、その話はもういいだろう! ここに来た最初の目的を忘れたのか!」

 

 

 焦れたように怒鳴るプロフェッサの声に、揃って背筋を伸ばして気をつけの姿勢をとる。忘れてたけど、ここは魔法使いの部屋なのだ。

 

 

「ハッハッハ! 相変わらずお前は面白い弟子をかっておるな、ウェイバー坊主」

 

「今はロード・エルメロイとお呼び下さい、宝石翁。それと二人は弟子ではありません。特に片方、彼女がルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトです」

 

「おぉそうか。ならばそっちの黒髪が遠坂凜じゃな。ふむふむ成る程、どちらも良い面構えをしとる」

 

 

 ひょんなことでプロフェッサの本名が飛び出した。彼があの名前を名乗り始めたのは俺が時計塔に来るよりずっと前だから、もしかしてかなり昔から知り合いだったのだろうか。

 知ってのとおり死徒二十七祖の第四位であり、平行世界を自由に行き来することができる第二の魔法使いは滅多に時計塔へは顔を出さない。

 とはいっても別に百年に一度とか、一世代に一度というわけではない。青子姉はここ最近月単位で顔を出しているけど、宝石翁は大体十年単位らしい。

 それならばロード・エルメロイと顔見知りというのも納得である。仮にも魔導元帥の名前を背負っているし、時計塔に部屋があるぐらいなのだから。

 ‥‥とはいっても俺が陣取っている蒼崎の工房は言わずもがな、他の二人の魔法使いの分にしても一応は用意されているらしいのだけれど。

 

 

「ふむ、初対面であることじゃし、まずは自己紹介が礼儀であろうな。ワシは死徒二十七祖第四位、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。今回お主らを呼び出したのは儂の用事じゃな」

 

 

 老人だ。間違いなく老人だ。しかし背筋はしゃんと伸び、眼には未だ力が宿っている。

 こうして立っているだけでも、セイバーと同様に俺達では適う相手ではないと分かってしまうのだ。

 というかデカくないか? もしかしてこの人ってば俺よりも大きくないか? 体格もがっしりしてるし、力も強そうだ。

 なによりも、全盛期から衰えたとはとても思えないぐらいの魔力が満ち溢れている。この場の誰よりも勝っている。セイバーは魔力供給が不十分だしね。

 青子姉はあまりにも近すぎて分からなかったけど、やっぱり魔法使いってのは格が違う。そういうのが感じ取れるのも俺が魔術師として成長した証なのだろうか?

 

 

「お初にお目にかかります、大師父。遠坂家第六代当主、遠坂凜にございます」

 

「ふむ、お前が永人の末裔か。‥‥あまり似とらんのう。あ奴は純朴そうな典型的な日本人じゃったが」

 

「祖父の代で外国の血が入りました故」

 

「極東で戯れに弟子にとったが、あ奴は才能の欠片もないような魔術師であったな。しかしまぁ、六代でここまで伸びたとはな。案外に眼がある血筋じゃったか、僥倖じゃな」

 

「勿体ないお言葉にございます」

 

 

 恐縮しきった遠坂嬢が九十°に近い位置まで頭を下げ、まるで孫にするかのように宝石翁が遠坂嬢の頭をポンポンと優しく叩く。

 予想通り手はゴツゴツとしていて、遠坂嬢はびっくりしたように眼を見開いたがされるがままにしていた。

 

 

「お初にお目にかかりますわ、大師父。エーデルフェルト家次代当主、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと申します。此度はお声をかけていただきありがとうございました」

 

「フィンランドの家か。かなり昔に目をかけた覚えがあるが、ふむふむ、順調に才を伸ばしたようじゃな。よいことだ」

 

「父からもお話は伺っております。お目にかかれて光栄ですわ」

 

 

 続いてルヴィアも頭を下げるが、どちらかといえば慣れているのか下げ方は遠坂嬢に比べて落ち着いている。

 貴族の娘としての矜恃を感じたのか、宝石翁も遠坂嬢と同じように頭を叩きはしなかった。

 この辺りは遠坂嬢が何だかんだで親しみやすい性格をしているというのもあるのかもしれない。というよりも、残念ながら日本人は童顔であるということなのかもしれない。

 そうだとしたら色々なところで損してるとしか思えないわけだけど‥‥。そういえば俺もルヴィアに同い年だと思われてた時期があったっけ。

 

 

「そちらは?」

 

「衛宮士郎です。遠坂の‥‥遠坂凜の弟子をしています」

 

「凜のサーヴァントのセイバーです。以後お見知りおきを」

 

「その年で弟子を持ち、英霊までも使い魔として従えるか。これは将来が楽しみな逸材だな。ハッハッハ!」

 

 

 楽しそうにかんらかんらと笑う宝石翁に対し、ルヴィアは遠坂嬢の方が贔屓されたと感じてどこはかとなく不満げだ。

 流石に分かりやすく表情に出すということはないけども、それなりな付き合いであるために簡単な感情の機微ぐらいは分かる。かなーり機嫌が悪い。

 さもありなん、宝石翁と言えば遠坂の家と同じくエーデルフェルトの大師父だ。長い歴史を持つエーデルフェルトの家の方が贔屓されていると考えるのは当たり前で、そこは最近めっきり遠坂嬢との付き合いが増えているルヴィアでも考えずにはいられないところなのだろう。

 

 

「ところでお主は?」

 

「鉱石学科所属の蒼崎紫遙です。‥‥あの、もしかして俺は呼ばれてなかったり、とか?」

 

「んなわけがあるか。‥‥ふむ、お主がブルーの義弟(おとうと)か。確かに聞いてはおったが、中々に聡明そうな顔立ちをしておるのう」

 

「え、青子姉を知ってるんですか?」

 

「当然じゃろう、魔法使い仲間だぞ。お主のことはブルーから色々と話を聞いておる。他に比べると目立ちはしないが、成る程、誰かの補佐をすることに長けているようだな。まぁ今の調子で精進せい」

 

 

 遠坂嬢と同じくポンポンと頭を叩かれる。節くれ立った手は確かに男のものだけど、長く生きているからか包容力のようなものを感じた。

 それは今まで感じることがなかった父性のようなもので、一瞬俺も遠坂嬢と同じように呆けてしまう。

 あぁそうか、遠坂嬢も早くに父親を亡くしているんだったか。これは宝石翁がどう考えているかとは別に、長いときを生きたがために自然と生じている父性なのかもしれない。

 なんというか、厳格な大魔法使いとしての印象と同時に、おじいちゃんみたいな、親しみやすい雰囲気も感じてしまう。

 

 

「ん? どうかしたかね?」

 

「あ、いえ何でもありません! それで、どうして俺達が呼ばれたのかをお聞きしたいのですが‥‥」

 

「確かに。だが今回は別にお主を呼んだわけではなくてな、どちらかといえばワシの孫弟子共に用事がある。お主らはその補佐といったところか」

 

「はぁ‥‥?」

 

 

 宝石翁の言葉に瞬間、遠坂嬢とルヴィアが緊張する。何せ大師父からの任務だ。どんなものかは知らないが、これの正否が今後を左右するかもしれない。

 基本的に時計塔で重要になるのは血縁とか、そういう権威ある人物からの推薦とかだ。まかり間違っても実力主義ではないのである。

 この辺りは過去にウェイバー・ベルベット少年が口惜しく感じ、今もロード・エルメロイが度々愚痴を漏らすところであるのだけれど、そもそも昔は普通の社会でも縁故というのが重要であったのだ。

 

 民主化その他に伴い一般社会では実力主義が採用されつつある流れであるが、時計塔は過去に向かって疾走する人種達の巣窟であり、なおかつ魔術も同様に血筋というものが重要な技術。

 そうなれば縁故や血筋が重要になるのも自然な流れというものである。そも革命なんてものがまかり通る世界ではない。

 もちろん文句なしの実力を見せつければ別らしいけどね。例えば蒼崎なんてのは魔法使いの家系ではあっても、その家系自体は決して古いわけではないし。

 橙子姉が時計塔に来たときも随分と苦労したらしい。それでもそういう有象無象を実力で押しのけてしまうのが橙子姉であるのだけれど。

 

 

「さて、何から話そうかの‥‥」

 

「閣下、宜しければ私から説明しましょうか?」

 

「そうじゃな、ではお主に頼むとしようか」

 

「はっ。では今回の事件について話そうか」

 

 

 キリリ、と不機嫌ではなく真剣な顔でこちらに向き直ったプロフェッサーが手元に持った書類に視線を落とす。

 何綴りもの分厚い書類は報告書であろうか。ちらりと見た表紙には『EYES ONLY』と書いてあったように見えるから、尋常ではないほどに重要な事件なのだろう。

 というか、いくら学生であったとしても俺達五人を緊急に集めるのならば尋常でないのは当然だ。

 自惚れではないけれど、少なくとも学生の中では戦力、学力共に群を抜いているのが遠坂嬢とルヴィアで、真実俺もそれに次ぐ。衛宮も戦闘は大得意だし、セイバーは言わずもがな。

 前回の死徒討伐の折に改めて自覚したことだけど、彼女達三人揃うだけで魔術協会の執行者一人か二人には間違いなく匹敵する。

 

 

「今回の事件はトオサカの管理地、冬木にて起こった。先日観測された霊脈の異常と特殊な魔力波長については既に連絡が行っているな?」

 

「はい。私の権限で立ち入り調査の許可と、禁止事項その他をまとめて誓約(ギアス)の儀式を行いました」

 

「では話は早いと思うが‥‥実は先日、その調査団全員が遺体で発見された」

 

「なん‥‥ですって」

 

「調査団全員は遺体で発見された。幸いにも目撃者はおらず、事後処理も完璧にしてある。神秘の秘匿に問題はない」

 

 

パラリ、と書類をめくる無味乾燥な音だけが部屋に響く。冬木の管理者である遠坂嬢だけではなく、衛宮もが言葉も無く立ち尽くしていた。

 魔術協会が派遣した調査団が全滅。言葉にすればやけに簡単な響きだけど、ことは確かに尋常ではなく深刻極まりない。

 なにしろこれは乃ち、冬木の地に協会と敵対する何者か、何物かが存在するという証である。つまるところは管理者の責任と言えよう。

 

 

「ちょ、ちょっと待って下さい! 確かに冬木は聖杯戦争の兼ね合い上、何かと物騒な土地ではありますが、あそこに住んでいる魔術師は三人、その誰もが当時冬木を留守にしていました!」

 

 

 衛宮は知らないことだろうけど、桜嬢もきちんと魔術師として登録を協会の方で受理しているはずだ。

 先日遠坂嬢から聞いた話によれば調査団が冬木に入ったのはせいぜい数日から一週間未満前のこと。桜嬢はその時期渡英のために東京は伽藍の洞にいたそうだから、理屈上冬木に魔術師は存在しない。

 ついでに言えば日本の都市部で魔獣の類が自然発生した例は、ここ数年はめっきり途絶えて久しい。もっとも魔術協会の目が行き届き難い土地なわけだけど、それにしたって不審な話だ。

 

 

「ふむ、そうなると外部からの侵入、というのが妥当な線でしょうが‥‥」

 

「十人規模の魔術師の集団など、魔術協会の調査団以外にありえませんわ。例え何らかの思惑を持って冬木の地に侵入したのだとしても、普通は協会の人間に攻撃を加えたりはしないでしょう」

 

「突発的な遭遇で口封じのためやむなく‥‥というのも間抜けな話だしね。他人の管理地に侵入しようって輩が、そんな馬鹿みたいな失態を侵すはずがない」

 

「なにより調査団とはいえ、まがりなりにも協会所属の魔術師ですわよ? それが十人、これを殺し尽くすような魔術師が間抜けであるはずもありません」

 

 

 俺の言葉にルヴィアが返す。互いに可能性を提示して否定し合うというのは二人で問題について議論する際のパターンのようなものだ。

 二人会議の結果は一部肯定一部否定といったもの。彼女のテリトリーである冬木に遠坂嬢以上の魔術師が潜伏していたというのは考え辛いし、外部からの侵入にしては対処というか、行動があまりにもお粗末だ。

 つまり一般的な事例とは掛け離れている異常事態(イレギュラー)。あまつさえ人死にが出ているとすれば本格的に覚悟を決めて調査に赴くのは当然の流れだ。

 

 

「つまり私達に調査に赴け、と? しかしロード・エルメロイ、私達だけならともかく、私の管理地に部外者である蒼崎君やルヴィアゼリッタを連れていくには些か問題が———」

 

「話は最後まで聞け、遠坂。我々はこの報告を受け、特殊な事態として憲章にも記されている協会の権限を使い、管理者である君に無断で十名からなる執行者の部隊を派遣した」

 

「まさか、強制執行?! そんなの今世紀でも数えるぐらいしか発動されていない強権ではありませんの!」

 

 

 立場もあって魔術協会の組織について詳しいルヴィアが驚愕の声を上げた。

 通常なら極めて重大な神秘の漏洩や、魔術社会全体に悪益を齎しかねない事件に際して執り行われる“管理者の存在する霊地への強制執行”。

 魔術協会と管理者の間で執り行われた契約を一方的に破って発動される強権は、管理者の矜持や尊厳を真っ向から踏みにじるに等しい危険な行為だ。

 公正かつ厳格であることを要求される魔術協会の立場をも脅かしかねないそれは、管理者のいない普通の土地ならともかく、冬木のような一級の霊地に対して執り行われるものでは決してない。

 事実、遠坂嬢は怒りのあまり顔面を蒼白にさせ、今にも暴れ出しそうな左手を片方の手で力の限り握り絞めることで抑えている。

 

 

「この件に関しては閣下からの下命でもある。理由は追って説明するから少し抑えろ、トオサカ」

 

「‥‥はい。それで、執行部隊を派遣してまで私達を呼び出した理由は何ですか?」

 

「その執行部隊までもが見事に全滅したからじゃよ」

 

 

 地上部分に存在する魔法使いの部屋には窓がある。その窓に面した机と椅子にかけていた宝石翁が先程までの好々爺然とした様子とは一転、真剣な顔で口を開いた。

 

 

「全員が全員、実績も厚い腕利きの執行者だったんじゃが、二人を残して全滅じゃ」

 

「そんな、封印指定の執行者が八人も‥‥?!」

 

 

 時計塔に長い俺とルヴィアだけではなく、俺達の知り合いであり、不思議な縁でその強さを知っているバゼットを思い出して衛宮達も絶句した。

 普通に生活している分には全く関わることがないから分かりにくいかもしれないけど、バゼットに限らず封印指定の執行者とは掛け値なしの戦闘集団だ。

 普通の執行者なら束になってもセイバーには敵わない、なんていうと幻滅するかもしれないけど、逆を言えば束になればセイバーと戦闘らしい戦闘が出来るということなのだ。

 その中でも上級の者といえば、俺や遠坂嬢やルヴィアはもとより、比較的戦闘技術が高い衛宮だって歯牙にもかからない程に強い。

 それが十人。もはや束と形容しても構わないような数だけ集まって、それでも全滅してしまうような相手など、それこそ世界最強の一角に名を連ねる存在以外有り得ないだろう。

 

 

「生き残った二名の調査によって敵の正体が判明した。昨日今日という程に短い期間であるから明確な結論ではないが、おそらくは黒化した英霊ではないかということだ」

 

「黒化した、英霊ですって‥‥?!」

 

「存在が捩じ凶げられている、と報告にはある。それでいながら英霊と称するに相応しいだけの戦闘能力を保有していたともな」

 

 

 言い方が難しいんだけど英霊の影だけを呼び出すなら、困難だけど降霊魔術に関係する大魔術の範疇に属する。

 しかし戦闘能力まで再現して実体化させるとなると、それはもはや個人で行使できる魔術としては魔法ギリギリの奇跡だ。そうなると、そもそも可能な魔術師が限られてくるだろう。

 いま隣に正真正銘の英霊であるセイバーがいるからさほど困難なことではないように聞こえるかもしれないけど、それこそ本当に尋常ではない事態だ。

 しかも恐ろしいことに、あろうことか他者に牙を剥くともなると緊急を越えて超危険事態。こうなると即座に時計塔総出で対策に乗り出しても妥当の範疇である。

 

 

「黒化した英霊に理性はなく、バーサーカーのような存在じゃ。おそらく魔力を一度に放出できる量が少ないためにスペックは落ちているようじゃが、それでもあのザマだ。並大抵の術者では相手にもなるまいよ。しかも、新たな問題が浮上して来ておる」

 

「新たな問題、ですか?」

 

「そうだ。これを見るがいい。生き残った執行者が戦闘後に回収した物品の写真だそうだが」

 

 

 宝石翁の言葉を途中で引き取ったプロフェッサが携帯の画面を差し出してくる。

 写真機能を使うのが下手なのだろう。通常モードで被写体にレンズを近づけているためか多少ぼやけてはいるけど、そこには一枚のカードが写っていた。

 全体的に古ぼけたそれは、古い城の廊下に飾ってある肖像画のよう。目一杯に槍を構えた中世の軽装姿の男が描かれており、その下にはシンプルなアルファベットで何か書いてある。

 

 

「L・A・N・C・E・R、『Lancer(ランサー)』? ‥‥ちょっと待って、まさか!」

 

「気付いたようじゃな」

 

「大師父、まさかこれって‥‥?!」

 

 

 机に肘をついていた宝石翁が、引き出しから何らかの書類を取り出した。

 プロフェッサが手に持っているものと同じく表紙には『EYES ONLY』とあり、非常に秘匿性の高い重要なものであることが伺える。

 

 

「ワシも冬木の聖杯戦争についてはいくばくかの知識がある。七人の魔術師が七騎のサーヴァントを喚び出して、万能の願望器である聖杯を求めて殺し合いをする第一級の魔術儀式じゃな。喚び出されるサーヴァントは‥‥」

 

剣の騎士(セイバー、)槍の騎士(ランサー)弓の騎士(アーチャー)騎兵(ライダー)魔術師(キャスター)暗殺者(アサシン)狂戦士(バーサーカー)の七騎。つまり執行者が戦った黒化した英霊は、あと六体いる可能性が高い、ということですね」

 

 

 それを口にした遠坂嬢も含めて全員が、あまりの驚愕から言葉を失った。

 選り抜きの執行者が十人いて、過半数を犠牲にして漸く仕留めることが出来るほどの敵があと六体。

 如何ほどの悪夢か、想像できるようで全く想像できない。それほどまでに執行者とは戦闘特化の集団であったし、俺達はそこまで戦闘をこなしたことがないのだから。

 

 

「あと六体ものサーヴァントを放置しておくわけにはいかん。かといって大事にしたくないのはお主とて同じじゃろう?」

 

「‥‥そうですね。今までは内密にやって下さったようですが、もしこれ以上の手出しとなると大々的な調査、討伐になるのは間違いありませんし。そうなったら管理者である私の顔は丸つぶれです」

 

「然り。ワシとしても弟子が治める地をむやみやたらと荒らすのは気が引ける。出来ることなら便宜を図ってやりたいが、流石にワシやブルーが出張ると否応なく大事になる。かといって現状の時計塔に、ワシが内密に送ってやれる戦力はない。つまり、言いたいことはわかるな?」

 

「私達自身で討伐しろ、ということですか?」

 

「理解が早いようでなによりじゃ。お主には同じ英霊であるセイバーがおるからな。他の連中も援護として連れていけば、戦力としてはギリギリなんとかなる、といったところじゃろう」

 

 

 遠坂嬢が真剣に宝石翁の言葉に応え、彼の翁は満足そうに笑った。

 言葉にすると自己責任なんて如何にも当たり前のような言葉で片付けられてしまうかもしれないけど、実際これはちょっと度が過ぎている。というより無理だ。

 そりゃ確かにセイバーは英霊で、最優のサーヴァントである。だけど相手が六体もいるならば、決して万全の戦力とは言えないだろう。

 というより俺達の存在意義がない。俺やルヴィアや遠坂嬢ならともかく、衛宮なんて間違いなく犬死にするぞ。アイツ、絶対突っ込むし。

 

 

「お言葉ですが大師父、私がミス・トオサカに同行する理由がわかりません。英霊同士の戦闘に私やショウが介入できるとも思えませんし、嫌な言い方ではありますけど、私達は部外者ですわよ?」

 

「それについても考えてあるわい」

 

 

 ルヴィアの、今まさに俺が言おうとしていた台詞に宝石翁は再度笑うと、ステッキを手に立ち上がった。

 何しろ魔術師というのは利己的な生き物で、いくら宝石翁からの命令といってもこのような無茶苦茶な任務に従事する義務はない。というより理由がない。

 それなりのメリットというか、報酬というモノがなければ動きたくないし、多分ルヴィアもそういうことを要求したくて婉曲に申し出たのだろう。

 

 

「アオザキについては今までの実績に加え、つい先日フラリと立ち寄ってワシらの会議に乱入して来たブルーの推薦があったのじゃが‥‥」

 

「い、異議あり! どうして青子姉が?!」

 

「勝手に会議に入ってきて話を聞いての、トオサカを派遣すると決めたら『じゃあ紫遙も連れていってよ。あれで結構役に立つわよ』じゃと言いおってな。まぁブルーがそこまで薦めるならと」

 

「くそぉ、後で覚えてろよ青子姉‥‥!」

 

「そうでなくともお主らは一緒にいることが多いようじゃしな。仲間はずれもどうかと思ったわけじゃ」

 

 

 お節介な下の義姉に頭痛が止まらない。やっぱり青子姉は面倒ばかり持ってくる。

 思い返せば青子姉が持ってきた数多の厄介事が脳裏を駆ける。死徒討伐、外道に墜ちた魔術師の拿捕、欧州の田舎の町のお祭り‥‥滅茶苦茶だ。

 

 

「そしてエーデルフェルト、お主についてじゃが‥‥。最近、時計塔の中で流布している噂についてはお主も聞き覚えがあるのではないか?」

 

「?!」

 

「ワシが今期で最も優秀な学生を弟子にとるとな。紛れもない真実じゃ」

 

 

 ルヴィアと遠坂嬢の目の色が変わる。そうだろう、何せ最近色々とゴタゴタが続きはしたけど、内心二人は常にこの噂を気にかけていたのだ。

 現存する魔法使いと付き合いができる者は少ない。魔法使いは俗世に関わることが少ないし、何故かは知らないけど基本的に交友関係というものが浅い。

 宝石翁にしたってちょくちょく時計塔に顔は出すけど、親しく付き合っている者など両手の指で数えられるぐらいの数だろう。

 青子姉だって俺とか、伽藍の洞とかに限定される。というか俺こそが時計塔で異常な人物なのだ。

 ‥‥あれ、今まで意識してなかったけど、もしかして俺の人脈って異常じゃないか?

 

 

「しかし調べてみたところ、今期の首席候補は二人いて、どちらもワシの系譜。そして成績も甲乙

つけ難いときておる。これは色々と難しい話じゃの。どちらを弟子にとればいいのかサッパリじゃ」

 

 

 魔法使いの弟子になるということは、今までの研究が一挙に進むメリットを秘めている。

 なにせ二人友が宝石翁の扱う第二魔法の習得をこそ悲願に掲げている。魔法使い本人に師事する機会があれば一も二もなく飛びつきたい気分だろう。

 たとえソレが廃人になるのと紙一重の危険を秘めていたとしても、それだけの価値がある。そして二人はメリットとデメリットを量りにかけてなお、勝率にかかわらず怖れずに足を踏み出す勇気を持っていた。

 

 

「そこでワシは考えたんじゃ。『どちらかに決められないのなら、二人とも弟子にとればいいじゃない』とな。しかしこれにも一応無条件というわけにはいかん。一人ならともあく、二人では周りに示しがつかんからな。そこでじゃ!」

 

 

 カツン、とステッキが床を叩く大きな音が部屋に響き、その場にいた全員が一気に背筋を伸ばした。

 宝石翁はまるで悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべながらも、厳格な魔法使いの雰囲気は崩さずにこちらに向き直る。

 あぁ、やっぱりそうか。魔法使いっていう連中は一切合切が面倒窮まる人種であった。

 今も見ろよ、今羽でのメインは遠坂嬢とルヴィアの二人のはずなのに、周りにいる俺や衛宮やセイバーまでも厄介事を背負い込む羽目になっている。

 

 

「お主ら二人に命じる。冬木へ赴き、残る六体のサーヴァントを撃退し、おそらくは魔術式の要である先程のカードを持ち帰れ! それが成功した暁には、二人ともをワシの直弟子として迎え入れよう」

 

「「かしこまりました!」」

 

「手段は問わん。セイバーの援護に徹するもよし、自らが前面に出るもよし。エミヤとアオザキの力も借りるがよい。二人には別に報酬を与えよう。セイバー、小奴らを頼んだぞ」

 

「はい、剣にかけて」

 

 

 後ろの方に使い魔という立場をわきまえて控えていたセイバーへと視線を移し、セイバーは見えない剣を構えるような仕草でそれに応じた。

 俺と衛宮もそれと同時に頭を下げて同意を示す。衛宮はどうか知らないけど、俺としては報酬が貰え、援護に徹して構わないのならば問題はない。というかいつもそうだったし。

 

 

「とはいえ流石にこれだけでは戦力に問題もあろう。トオサカ、エーデルフェルトの両名にはワシ特製の強力な魔術礼装を授ける。これは冬木へ既に送っておいたから、現地で待っている執行者から受け取るがよい」

 

「お前達、一応は言っておくが無理はするな。確かに宝石翁への弟子入りという報酬は魅力的だろうが、命あっての物種ともいう。正直お前達では荷が重過ぎる仕事だ。撤退しても恥ではない」

 

 

 プロフェッサが続けて珍しくも俺達を気遣う言葉を口にし、心遣いに感謝して再度頭を下げた。

 実質的に重大な任務だけど、何の勝算もなしに彼らが俺達を派遣するはずはない。難しいだろうけど、青子姉に連れ回されているときだってこんなものだったしね。

 今回は事前に色々と準備が出来る上に仲間が多い。もちろん気を抜けば簡単に死ぬし、そういう楽な任務ではないけれど、決して死にに行くわけでもないのだから。

 

 ‥‥俺はこのとき、ある意味で重大な勘違いをしていたのだ。

 まず宝石翁、魔法使いが関わっていることに大して楽とか辛いとか、そういう単純な尺度で測ることがまず間違いだということ。

 そして俺の周りにいる連中というのが尽く第一級のトラブルメイカーで、ついでに主人公という括りに属する人種だということ。

 結局このときのことを後に俺は文字通り死ぬほど後悔する。当時を思い返しての誇張表現などではなく、真実文字通りの意味で。

 俺の人生でも五指に入るぐらい、重大な事件が俺に迫っていることを、それでもこのときの俺は全く想定していなかったのだった。

 

 

 

 50th act Fin.

 

 

 



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第五十話 『宝石杖の悪夢』

 

 

 

 side Toko Aozaki

 

 

 

「‥‥ふぅ、今日は少し呑み過ぎたな」

 

 

 魔術師たるもの、酒は呑んでも飲まれるな。例え酔っぱらっていても思考は正常に回るし、足がよろめくこともない。

 ただ少しばかり意識に靄がかかったようになって考え事が面倒になったり、注意していないと道を間違えてしまったりするぐらいだ。

 十分酔っぱらっているって? 馬鹿言え、これが普通の人間だったら今頃そこら辺でマグロになっている酔っぱらい共と同じように無様にへたり込んでいるさ。

 ある程度な、自分の肉体を制御出来ないようでは魔術師とは言えん。もちろん魔術回路に魔力を流して、なんて反則を使うという意味ではないぞ?

 

 

「しかしまぁ、久しぶりに外に出たのだから少しぐらい羽目を外したところで罰はあたるまい。いかに研究者といえども日がな日中篭りっきりでは体に障る」

 

 

 人形弄りに夢中になるあまり、暫くは保存食ばかり摂っていた。これはよくない、よくないが‥‥一度こうなるとどうしようもないのだから仕方がないのだ。

 それに別段食通を気取るわけでもないが、普段の生活からあのようなゲテモノで済ませるつもりもない。

 篭るのが終われば無理をさせた体‥‥主に胃袋へ餌を与えてらねばならんだろうし、私自身としても些か舌に違和感を覚える。

 先程も言ったが、私は食通を気取るつもりはない。だが同時に、食事を適当にばかり済ませてもいられないのでな。

 

 

「‥‥それにしても鬱陶しい雨だな。昨日の予報では晴れだったというのに‥‥。まぁ傘は持っていたから問題はないのだが、どうにも気に障るな」

 

 

 先程までは霧のような、それはそれで鬱陶しい雨だったが、今は傘に重みを感じる程の豪雨だ。

 傘は十分に大きいが、それでも道路で跳ね返った水しぶきが足下を濡らす。

 アルコールを摂取したがためにやや浮いているような独特の感覚があるが、現実は現実。明日になる前にしっかりと処理しておかなければ痛んでしまうだろう。

 

 まったく最近はいいことがない。先日の青子との目出度い百回目の姉妹喧嘩は痛み分けに終わり、私の使い魔は潰されてしまった。

 青子の方が私より怪我が酷いだろうが、それでもアイツの人外じみた回復力なら数週間もしない内に元どおりだろう。

 それにひきかえ私は軽い怪我で済んだが、使い魔は二度と使い物にならん。

 あの取って置きに匹敵するぐらいの使い魔を新しく作り直すには数ヶ月以上はかかるに違いない。

 作るだけなら面倒はない。既にシステム自体は完成している。

 問題は材料の調達で、あれを用意して使えるようにするまでだけでかなりの時間が消費されてしまう。

 

 ‥‥あぁ忌々しい!

 魔術師たるもの自分が最強である必要はない。

 自分で足りなければ他所から持ってくるのが魔術師のやり方である以上、最強な何かを用意するだけの話だ。

 だがな、やはり青子と殴り合い———私がしているわけではないが———をしていると、アイツのような戦い方が羨ましくなる時もたまには、ある。

 本当にたまにだ。一時の気の迷いに、と言い換えてもいいかもしれん。

 私とアイツとは重なる部分が何もない。魔術にしても、魔法にしてもな。

 アイツが魔法で、私が魔術。アイツは自分自身で戦うならば、私は使い魔に戦いを任せる。

 一般的な姉妹というものが全く分からないために一般的でないのかどうかは分からないのだが‥‥いや、度々殺し合いをするような姉妹が一般的であるはずもない、か。

 

 

「ふん、いったい何処から間違えてしまったのかな。あいつが蒼崎を継いで魔法使いに成った時か、いや、あいつが魔法使いに成ったのが先だったか? 私が祖父をブチ殺したから‥‥なんてことはあるまいが。‥‥何にせよ忌々しいことだ」

 

 

 既に記憶も確かではないし、今では想像も出来ないことではあるがが、昔は仲が良かったはずである。

 仲が悪ければ互いの性格上、最初から殺し合いをしていたはずなのだ。そんな記憶はないから間違いなく某かの契機やきっかけが存在したはずだ。

 

 

「とはいっても仲良く遊んだ記憶というのも無いわけだがな。‥‥あぁダメだ、今はそんなこと考えるだけで虫ずが走る」

 

 

 仕方がないことではある。

 そもそも私はあまり過去のことを頭の中に残しておかない性分だから昔、学院時代よりも更に昔の記憶の棚なんぞ錆び付いて開かなくなってしまっている。

 加えて私は———今になって思えばこれまた忌ま忌ましいことであるのだが———祖父達の期待に応えるべく魔術の修業に思春期以前の殆ど全てを費やしていたといっても過言ではない。

 

 が、今になってよく考えてみれば、魔法という奇跡は必死になって習得しようとするくらいで手にすることができるようなものではなかったのだ。

 運命などという陳腐な言葉は私も好かない。だが思うに、おそらく最初から選ばれた者のみが魔法を手にすることができるのだろう。

 もちろんコレは才能とやらに胡座をかいていいという話ではない。努力すれば成功するなんてのは都合の良い幻想だが、成功した者は須らく努力しているなんてのは誰の言葉だったか。

 クク、既に根源の探究を諦めてしまった私にお似合いの、負け犬同然の台詞じゃないか。

 

 

「‥‥いかんな、私らしくもない。他虐嗜好ならともかく自虐趣味はなかったはずなんだが。まぁ、自嘲ならば似合わんこともないだろうが、フン、どちらにしてもこんな無様な考えが湧いてくるあたり思ったより酔いが回っているらしい」

 

 

 久方ぶりだった姉妹喧嘩と強い酒が、とうの昔に置き去りにしてきたはずの記憶や感傷を呼び起こしたのか。まったく、酒は呑んでも飲まれるなとはよく言ったものだ。

 シュボ、と小気味良い音を立てたライターで咥えた煙草に火を点けて、アルコールで火照った脳をすこしだけ冷まして自嘲気味に笑う。

 

 

「たいした量は呑んでないのだが‥‥ふ、私も歳をとったのかもしれん。まだまだ若いつもりではあるのだが、青子のヤツはちっとも昔と変わらんしなぁ‥‥」

 

 

 魔法使いについて詳しいことは、おそらくは全ての魔法使いとその関係者の中でも最も近い位置にいる私ですら殆ど分かっていない。

 あいつが使う魔法の概要すら掴めていないのだから、つまるところ私が魔法に辿り着けなかったのも当然のことなのだろう。

 そもそも学ぶ対象を理解せずに学んだところで辿り着ける道理があるだろうか。後々になって見返してみれば如何にも滑稽である。

 

 

「本当にどうしてこんなことをしているのやら。惰性というやつなのか? だとしたら惰性なんぞで殺し合いを続けている私達は相当な物好き、というよりは物ぐさということになるが」

 

 

 確かに青子が魔法使いになり蒼崎を継ぐのだと聞かされた時、私は未だかつてない程の怒りに駆られて祖父を殺した。

 しかし良くも悪くもあのときの私は若かったのだ。それこそ激情に簡単に行動を左右されてしまうほどの、な。

 確かにあの当時の私は自分が蒼崎を継ぐのだとばかり思っていて、だからこそ全てが許せなくなり家を飛び出したさ。

 しかし今になって思えば、少なくともあの当時の修練の日々こそが今の私の下地を作っていることは間違いない。

 そして昔よりも遥かに冷静に動くことができるようになった私の頭は、決して魔法使いになれなかったことを、魔法使いになった、なってしまった青子を、そこまで憎んでいるわけではないのである。

 この辺りは非常に難しくてややこしい話で、決して割り切れているわけではない。ただ冷静に考えることができるようになったというだけだ。

 青子に対する蟠りは紛れもないものであるし、相変わらずあいつのことを考えると無性に苛々する。

 だが冷静になって考えてみれば、その感情が生じる所以であるところの確たる理由が分からない。そうなれば自然と落ち着いていくのもまた道理。

 もちろん相対すればまた理由もなく再燃して殺し合いを演じることになるのだろうが、まったくもって不思議なことだ。

 

 

「‥‥そういえば嫌がらせにあいつの名前で協会から金を引き出していたが———」

 

 

 普通なら、できない。いくら私が自他共に認める封印指定の魔術師であったとしても、言うなれば銀行に行って名前を騙るだけで、身分証明もなしに他人の口座から金を引き出すということで、まぁまともに考えてまかり通るはずがない。

 だというのに私が容易に金を引き出せているという事態は、一体何を表しているというのだろうか。

 私は封印指定の魔術師としては比較的新顔で、魔術貧乏である極東の島国出身の日本人ということでそれなりに名前を知られている。

 つまり青子の口座から金を引き出すということは、そのまま私の居所が知れるという可能性を孕んでいるのだ。

 

 

「‥‥まさか、あれが青子なりの甘え方だとでもいうのか?」

 

 

 青子が時計塔で騒げば調査がなされ、自ずと何処で誰がどのように金を引き出したのかが判明するだろう。

 にも関わらず今の今になっても私の住み処に封印指定の執行者が現れていないということは、乃ち青子が自分の口座から金が消えていく事態を黙秘しているということを指す。

 だとすれば、これは、ひどく、そう、あまりにも荒唐無稽な考えではあるのだが、もしかしたらそれこそが青子が示す態度の一環なのてはないか。

 

 

「あぁダメだ怖気が走る。‥‥つくづくいかんな、今日はどうにも調子が悪い。酒が変な具合に回ってしまっているらしい。これはとっとと帰って水でも飲んで、さっさと寝てしまうに限る」

 

 

 あまりにも恐ろしい考えに及び、身震いしてしまう。よほどキてしまっているに違いない。

 そんなことを考えながら大股に歩いていると、パシャリ、と足下で存外に大きな水たまりが音を立てた。

 注意力が散漫になって普段なら絶対にやらないような無様を晒している。これで周りに人がいないからいいものを‥‥まぁ別に視線を気にするような性格もしていないのだが。

 やれやれ、靴の中に水が入ってきているぞ。これは帰ったら乾かす手間がかかってしまうな。

 一応靴の調子を見ておこうと真っ直ぐに前を見ていた視線を足下へと移し———そこで私は今後を左右するトンデモないものに出会ってしまった。

 

 

「‥‥なんだ、これ、いや、こいつは」

 

 

 私が足を止めたのは丁度ビルとビルの間を横に見る歩道で、夜遅くだから通行人は少ないにしても、車道では盛んに車が行き来している。

 そして私が視線を足下へと移すその間に視界に入ったビルとビルの隙間の、僅かに人一人が歩くことができるであろう空間に、何か黒っぽい物体が這い蹲っていた。

 

 気になって近くに寄ってみると、這い蹲って、という表現を咄嗟にしたことからわかるように、それは物体ではなく生き物のようだった。

 暗いために真っ黒い布の塊にしか見えないが、それは僅かに体を上下させて呼吸をしている。

 路地裏はろくに掃除をされていない。その汚れた地面に横たわって、しかも礫のような雨に打たれているためにひどく汚らしい。

 

 

「人間‥‥それも子供だな。‥‥捨て子、か? ふん、それにしては随分と図体がデカイな。それに酷い怪我だ」

 

 

 子供がボロボロの布を纏って俯せに倒れている。ザッと見聞した私はそう判断した。

 泥にまみれた布は衣服なのだろう。もっとも、まるで走っている車から投げ出され、ついでに炎にでも炙られたかのように痛んでしまっている。

 これではボロ布と形容するより他ない。しかもどうやらサイズが大きすぎる大人モノのようで、更に惨め差を強調していた。

 咥えた煙草の火を魔術で大きくさせた灯り代わりにしてみると、ボロ布の間から見える手足は酷い火傷や裂傷を負い、地面には決して少なくはない血が流れ出ている。

 ‥‥おいおい、こりゃ一体どういうことだ? この辺りは比較的に治安が良くて暴力団の類の話は聞かないし、とりあえず普通の生活を営んでいたらこのような酷い状態になるよなことはないだろう。

 まるで火事と交通事故とカツアゲやリンチに同時に遭ったかのような姿だ。あまりにも状況が不自然すぎる。

 

 

「‥‥あ、あぁ」

 

「ふん、なんとか生きているようだな、‥‥おいお前、この平和な街で一体どういうことだ?」

 

 

 私の独り言に反応したのか、その子供はひどく緩慢な動きでノロノロと首を上げた。

 黒い髪の毛は泥に塗れ、顔も傷や火傷だらけで痛々しい。とはいえ全ての傷はつい先程出来た物のようで、恒常的に虐待を受けているという感じではない。

 私を見上げる普通の日本人である証の茶色がかった黒い瞳が濡れているのは雨のせいばかりではなかろう。まるで捨てられた子犬、いや、それ以上に助けを求める瞳だ。

 いつぞや気まぐれに点けたテレビ番組に出ていた難民の少年のような、そのときは無関心に流した助けを乞う瞳。私が何者であろうと関係ないのだろう。

 口だけが僅かに「タスケテ」と動き、それでも声は出ない。そこまで力が残っていないのか、それで最後の力を使い果たしてしまったのか、子供はガクリと地面に突っ伏して意識を失った。

 

 

「これは警察に連絡するのが順当だろうが‥‥ん?」

 

 

 路地に入るために傘を動かした時にレンズについてしまった水滴を拭おうと眼鏡をとり、そこで私は異常に気がついた。

 これと確かに言えるわけではない。どのようなものだと明確に言えるわけではない。

 それでも私が低下してしまった視力で、それでも保持していた魔眼と感性が確かに世界の異常を捉えた。

 

 

「世界が‥‥歪んでいる? いや、撓んでいるのか?」

 

 

 上手く形容できないが、この少年の周辺だけ世界が歪んでいる。

 強いて表現するならば、例えばズラリと隙間なくビー玉が詰められた箱の中に、もう一つ無理矢理ビー玉を押し込んだような‥‥。

 

 

「ほう、これは中々おもしろそうじゃないか」

 

 

 恒常的なものではあるまい。この少年が発している、というわけでもない。

 世界の歪みは少年からではなく、その周辺から観測できる。そして徐々にそれは修正されつつある。 だが一度生じた歪みは微妙に痕が残る。これは間違いなく魔術師の領分だ。一般人にコイツを手渡してしまうのは勿体ない。

 

 

「やれやれ、私は非力なほうなんだがねっと。‥‥ふむ、案外軽いな」

 

 

 血や泥でコートが汚れるのにも構わず、私は少年を抱き上げて器用に傘を体の間に挟み、軽い認識阻害の魔術を使った。

 これで明らかに不審な私の姿は一般人に見られることはない。安心して寝床までコイツを運ぶことができる。

 

 そのとき、私は間違いなく道を踏み外した。悪い意味でもなく、良い意味でもなく。

 だがそれはあくまで他者からの主観。私としては、あのときの私の選択は決して間違いではなかったと信じている。

 例えば知らない方が幸福な事柄があったとしても、魔術師がそれを知らない決断を選ぶことは許されないのだ。

 なにより、かけがえのない一人の義弟を得て、それをきっかけに実の妹との関係を僅かながらも回復させることができたというのは、誰に聞いても良かったと曰うだろうからな。

 まぁ一部の、そう、それこそ私達を“観測”する人々の中にはおもしろくないと思うヤツも出ることだろう。

 しかし考えてもみるがいい。そうだ。そうなんだよ。

 そういうことは正しく、私達には“関係ない”のである。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「やれやれ、半年ちょっとぶりの帰国が任務とはね。ロンドンで会ってすぐまた日本で会ったりしたら、桜はどんな顔するかしら」

 

「そりゃ驚くんじゃないかな。もしくは呆れるとか。どっちにしても藤ねぇが騒ぐだろうから大変だぞ。終わったら直ぐに帰らなきゃいけないだろうけど、後片付けを任せるのが心苦しいよ」

 

 

 ギシリ、と体が軋む音を聞きながらこの街出身の二人の会話を背中越しに聞く。

 辺りを見回せば真っ昼間だからか通行人も多く、かなり目立つ五人組をどこか奇異な物を見る目で眺めていた。

 東京生まれ東京育ちの俺にとってみれば、そこまで大きくない地方都市だとばかり思ってたけど、意外と人は多い。新都と呼ばれている駅の周辺もかなり賑わっている。

 ゆとりを持ってスペースを取れている分、もしかしたら東京よりも便利ですごしやすいかもしれないなぁ。

 実際に東京で生まれ育った俺だって特別な用事がなければ滅多に観布子の周辺から出なかったわけだし、本屋とか電気屋とか商店街とか、必要なものが揃っていれば全く問題ないだろう。

 

 

任務(しごと)とはいえ、こうして帰って来たのですから顔を出さなければタイガは怒ることでしょう。それに私としても体を休めるならばホテルよりも衛宮の屋敷の方が好ましい。そうは思いませんか、シロウ、凜?」

 

「そうだな。どっちにしても流石に終わった直後にとんぼ返りってわけにもいかないし。ルヴィアも紫遙も、宿は俺の家でいいか? 結構広くて部屋も余ってるし、なんなら二人だけホテルでも構わないけど‥‥」

 

「いえ、是非シェロの屋敷にお邪魔させて頂きますわ。私、前々からシェロに聞かされた日本の武家屋敷というものに泊まってみたかったんですの」

 

「やれやれ、衛宮が来るまでの君は大の日本人嫌いで通ってたんだけどね———って痛?!」

 

 

 呆れたように呟いた次の瞬間、突如ヒールによる急襲を足に受けて俺は激しく、それでいて意図を悟って出来る限り静かに悶絶した。

 頑丈さだけが取り柄の安いスニーカーは安全靴なんかじゃないから鉄板なんて入っていないし、ルヴィアのヒールはとても痛い。

 多少手加減してくれてはいるから骨にまで支障は出ていないだろうけど、逆にいうとだからこそ非常に痛いとも言える。

 この絶妙な手加減具合っていうのは何時ごろから身についたんだろうか。別にしょっちゅうお仕置きくらっているわけでもないんだけどなぁ‥‥。

 

 

「ていうか君、最近とみに俺への遠慮ってのがなくなってきてるよね? なんでかな? なんでなのかな?」

 

「貴方は最近とみに失言の類が増えてきていますわよ。お気を付けになった方がよろしいのではないでしょうか?」

 

 

 はて、と口を覆ってわざとらしく考え込んでみる。確かに俺とルヴィアはそれなりに長い付き合いだけど、二人でいるときにお喋りが多かったというわけじゃない。

 そりゃ何か話題があれば話すけど、そうでないときは互いに自分の研究とかに没頭していたような気がする。

 となるとやっぱり、衛宮達が時計塔にやって来たのが一つの転機だったのだろう。

 気むずかしいように見えて意外に口数の多い上の義姉といると自然と聞く側、質問する側に回ることになり、そういう意味で俺はそこまでお喋りじゃなかったし。

 ルヴィアに至っては沈黙は金。猫っかぶりの巧みさにかけては他の追随を許さず、周りからは完全無欠のお嬢様と思われていた身である。

 衛宮達と付き合うことで俺達にも、いや、おそらくは時計塔にも変化が現れつつあるのかもしれない。

 

 

「紫遙もそれでいいのか?」

 

「そうだな、衛宮も女の子ばかりの家じゃ気も休まらないだろうし、お邪魔させてもらうことにするよ。とはいえ、どっちにしてもまずはホテルに寄らないとな」

 

 

 ロード・エルメロイから渡された書類を見ると、そこには見慣れた名前と見慣れない名前が載っている。

 生憎とろくに調査も行えないままに、というよりも調査が出来たか出来ないか以前の問題で、調査結果をこちらに送る前に調査団は全滅してしまった。

 続いて派遣された執行者の部隊もまた然り。十人の腕利きの戦闘者達が二人を残した全滅だ。

 そして残った二人についても、詳しい報告書を送れる程に回復していなかったらしい。

 結果、時計塔に待機していたプロフェッサのところへ送られてきたのは最低限の簡素な報告とランサーのクラスカードの写真のみ。

 だから俺達はまず、新都のホテルで休息をとっている執行者と接触して情報を入手しなければならないのだ。

 

 

「しかし歴代最強の執行者との誉れ高いバゼットともあろうものが満身創痍の状態にならないと仕留められないとは‥‥生半可な相手ではありませんわね」

 

「そうね、私もあれからバゼットの噂は聞いたことがあるわ。あまりにも唐突に紹介されたから気づかなかったけど、彼女、フラガの『伝承保菌者(ゴッズホルダー)』だったのね。英霊に掠ってるようなものじゃない。それで勝てないとか、尋常じゃないわ」

 

 

 俺の隣で調査書を見て、飛行機の中で言ったのと同じ台詞をルヴィアが呟き、遠坂嬢が同意を示す。

 普段のバゼットは生真面目出方ブツで、まるでセイバーにそっくりでありながらおっちょこちょいなところもある気の良い友人だ。

 基本的にガサツで自分のことに無頓着なところがありながら、それでいてルヴィアとショッピングに出かけたりもする。

 どうもそういう趣味の範疇に属する小物の類とかは好きらしいんだけど、反面食事とかインテリアとかファッションとかに気を遣わないのだ。

 このあたりまったくもって矛盾していると思う一方で、彼女やルヴィアに言わせればそういうものらしい。

 なんていうか、本当になんだかんだでルヴィアと仲が良いんだよね、バゼットは。似たようなところなんてないように思えるのに、不思議だ。

 

 

「なぁ遠坂、『伝承保菌者(ゴッズホルダー)』って何のことだ?」

 

 

 と、遠坂嬢の言葉に先頭を歩いて道案内をしていた衛宮が振り返って質問した。

 新都はビルが多数立ち並んでいて、その中にお目当てのホテルが建っている。

 昔ながらの商店街に似つかわしくないチェーン店とか、そういうものは全部が新都に集められているらしい。

 二つの町が殆ど完全に機能を分割されているのは不便かと思うんだけど、この辺りの人達は基本的に健脚で、町一つ分ぐらいなら余裕で歩いてしまうんだとか。

 知ってはいたけど、衛宮から聞いた龍洞一成なる生徒会長の健脚ぶりには吃驚だ。幹也さんに匹敵するんじゃないだろうか。

 あの人も聞き込みは足だ! を地でいく人だからなぁ‥‥。あれで意外とスタミナあるし、足もそれなりに速い。

 というか、そうでもなかったら式と一緒になれないっていうのもあるんだとは思うんだけど。

 

 

「‥‥コレ、言っちゃっていいのかしら?」

 

「いいんじゃないかな? 協会では結構有名なことだし、別に深く知ってるわけじゃないだろう?」

 

「まぁそれもそうね。‥‥いい、士郎? 『伝承保菌者(ゴッズホルダー)』っていうのはね、要するに宝具を持った人間よ」

 

「宝具って‥‥サーヴァントが持ってるアレのことか?」

 

「そう。人の身でありながら神代の昔から脈々と血を受け継ぎ、その血で宝具を行使する者。それがフラガの『伝承保菌者(ゴッズホルダー)』であるバゼット・フラガ・マクレミッツよ。世界を見回しても彼女たった一人しか確認できていない、トンデモ人間ね」

 

 

 どうだろう、バゼット以外に宝具を持った人間がいないと断言されているわけではない。それこそ衛宮だって宝具を持っているっていうことに関しては同じだしね。

 問題はどちらかといえば“真名解放”の方にある。

 俺が橙子姉から貰って衛宮に贈った干将莫耶のように現存する宝具は幾つか確認されているけど、それらの担い手たる人間はついぞ現れてはいないのだ。

 つまるところ、人間では宝具の真価を発揮できない。干将莫耶はともかく、現存する宝具の担い手はとうの昔に死んでしまった英雄達だからね。

 だから真名まで解放できる宝具使いは、今のところバゼットの出身であるフラガの家の者しか知られていない。

 協会でも他には確認できていないから、そういうのが名のある旧家であろうことを考えると殆ど実質彼女一人だと言ってしまってもいいだろう。

 

 

「確か、『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』だったかしら? 流石にどういう効果があるかまでは知らないけれど」

 

「そこまで調べられたら上等だよ。というより、俺としては有名であるにしてもそれなりに秘匿がされているはずのバゼットの情報をそこまで調べられたのが驚きだけど」

 

「私達って結構あっちこっちから狙われる可能性があるしね、色々と用心深くなっておく必要はあるでしょ?

 とにかく、格下のサーヴァントでも一発逆転を狙える宝具と同じものを持っておいて苦戦、いえ敗北ギリギリまで追い詰められるぐらいの敵だってことは、しっかりと頭に置いておいた方がいいわ」

 

 

 実際バゼットとセイバーが闘えば、ほぼ間違いなくセイバーが勝つだろう。

 バゼットの宝具である『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』はカウンター系の宝具で、基本的に相手に切り札を使わせなければ発動しない。

 そしていくらバゼットが接近戦に優れているとはいっても、流石にサーヴァントに切り札を使わせるぐらい追い詰めるなんてことは無理だ。

 セイバーにしてみれば宝具を使う必要すらない。地力で押しつぶしてしまえばいいのである。

 そういう意味で彼女がランサー相手に宝具を使ったとは思えないんだけど‥‥。まぁそれも相手による、か。

 『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』は『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』と並んで、遠坂嬢の言った一発逆転を正に体現しているかのような宝具であることだし、彼女が通常戦闘でサーヴァントを倒せたと考えるのは早計だ。

 英雄の使う宝具にも、窮地に陥った時に使うものから、有利な時に使ってこそ効果が顕れるものなど色々なものがあるだろう。

 というより、黒化したサーヴァントに宝具が使えるのかってのも俺としては疑問なんだけど。

 まぁその辺りはバゼットからしっかりと話を聞いておく必要がある。

 

 

「こっちにはセイバーもいるしね。私の魔力が少し心配だけど、残り全員で援護に回れば早々負けはないと思うわ」

 

「ミス・トオサカの魔力が不足した時の備えについては既に話し合っておりますし、おそらくセイバーを主軸に援護ということになるでしょうね。もしかすれば私達は英霊の戦闘を見学、なんて暢気なことになるかもしれませんわよ」

 

「おいおい、セイバーが強いのは俺だってわかってるけど、そこまで楽観してると足下を掬われかねないぞ? 油断は禁物だ、絶対に。その辺りは聖杯戦争の教訓だしな」

 

 

 冷静に過ぎるがために少々楽観な考えを示す遠坂嬢とルヴィアに、珍しく衛宮が意見を述べた。

 どちらかといえば猪突猛進して遠坂嬢やセイバーから止められる方だと思ってたんだけど‥‥。

 あぁ、でもよくよく考えてみればコイツの将来ってあの紅い弓兵だったっけか。

 だとすれば冷静な思考も出来なきゃ嘘だよな。なにせ『心眼・真』のスキル持ちだ。

 

 

「シロウの言うとおりです。私は相手がどのようなサーヴァントだろうと勝利を掴んでみせるという自信こそありますが、やはり戦闘というものは一口に括れないものだ。油断は勝機を逃がす最大の原因です。

 それこそ聖杯戦争においても、危ない場面は幾つもありました。聖杯を介する儀式以外で彼らほどの霊格のサーヴァントが召喚されるなど早々ありえないでしょうが‥‥」

 

「そうね、予定なんて何のアテにもならないなんてのは聖杯戦争でも思い知ったことだし、十分に注意するわ」

 

 

 キリッと顔を引き締めて告げたセイバーに、遠坂嬢も憮然とした表情を改めた。

 あまりにも現実味が薄いけど、敵はそれこそ正に腐っても英霊である。用心してもし過ぎということはあるまい。

 

 

「まぁまぁ、とにかくどう戦うにしてもまずは情報を集めなければ始まらないさ。何をどうするかはおいておいて、最初にバゼットともう一人の執行者に会いに行って色々と話を聞こう。ほら、このホテルで合ってるんだろう?」

 

 

 まだまだ不安ばかりが先行しているのは分かるけど、とにかく往来でこのように物騒な話を続けているわけにもいかない。

 俺は話し続ける四人を一旦宥めて、目の前にそびえ立つ比較的大きめのホテルを仰ぎ見た。

 観光客やビジネスマンが大量に訪れるような土地でもないだろうに、やけに豪華な作りをしている。

 外見はそれこそ大きなビルだし、エントランスへと入れば内装もとても綺麗であった。

 しかしやはり目に付くところに宿泊客はいない。一体どうやって営業が成り立っているのだろうか。

 

 

「失礼、こちらにバゼット・フラガ・マクレミッツという人が泊まってはいないかな?」

 

「伺っております。遠坂様ご一行様ですね? どうぞこちらへ」

 

 

 一人のスタッフがやって来て俺達を先導する。

 バゼット達が泊まっているのは最上階。スイートと称される一番立派な部屋のようだ。

 エレベーターに乗って無駄に多い階層を上り、一階層に数部屋しかない内の一つの部屋のドアをスタッフがノックし、中から遠隔操作か何かで鍵が開けられたのを確認すると一礼して去っていった。

 

 

「お邪魔するよ、バゼット。怪我の調子はどうだい?」

 

「ごきげんよう。お久しぶりですわね」

 

「紫遙君、それにルヴィアゼリッタも?! 貴方達も今回の任務に参加していたのですか?」

 

 

 豪奢な作りの部屋に備えてある二つのベッドの片方に、見慣れた小豆色の髪の女性が身を休めていた。

 恰好は全く普段通り。下着の上にシャツを羽織ったラフな‥‥を数段階ぐらい吹っ飛ばした、健全な青少年には多分に目に毒なスタイルだ。

 現に最初に部屋に入った俺の後ろにいた衛宮は素っ頓狂な叫び声をあげ、ついでに遠坂嬢とセイバーの二人に叩き出されていた。

 すっかり見慣れてしまった———それはそれで大問題なんだけど———ことに加えて昔から義姉達に育てられた俺には全く問題ないんだけど。

 

 

「‥‥とりあえず、衛宮が入って来られないから最低限ズボンだけでも履いてくれないかい?」

 

「はぁ、そうですか。よくは分かりませんが紫遙君がそう言うならば。今は療養中ですから楽な恰好の方がいいんですけどね」

 

 

 俺の言葉の意図は分かっていないみたいだけど、素直にベッドの下におおざっぱに脱ぎ捨てられていたスラックスに足を通すバゼット。

 気付けば彼女はズタボロだ。あちらこちら、それこそ傷ついていない場所を探すのが手間なくらいに怪我をしている。

 真っ白な包帯は少し巻かれているくらいなら有名過ぎる無口な少女同様にファッションとなるかもしれないけど、ここまで隙間なく巻かれていては見ていて痛々しい。

 いくら慣れているとはいっても年頃の女性の体を無躾に眺める趣味はないから全部を確認したわけじゃないけど、とりあえず今は血が滲んだりはしていないようだ。

 どうやら命や今後に関わる重傷というわけでもなさそうで、少しばかり安心した。

 

 

「君がそれほどまでにボロボロになっているのを見るのは初めてだな。こりゃ、よほど手強い相手だったみたいだね」

 

「だから黒化した英霊だと報告したではないですか。セイバーさんと親しく付き合っている貴方達なら、あまつさえ聖杯戦争に参加した凜さん達なら、彼らが我々とは比べることができない程に規格外な存在だと承知しているはずでしょう?」

 

「貴女のその様子を見て一気に現実味が増しましたわ。どうやらセイバーがいるからと楽観できる相手ではなさそうですわね」

 

 

 何の誇張もなく、事実バゼットは歴代最強の封印指定の執行者だ。

 おそらく一対一の近接戦闘に限定すれば、数多の位階の高い魔術師を抑えて時計塔でも最強クラスだろう。

 名にしおうクロンの大隊にしても接近戦においては彼女に一歩譲らざるをえない。凡百の魔術師ならば魔術無しの彼女にも敵わないのではないだろうか。

 もちろん格闘だけが強いのではない。宝具は言うまでもなく、ルーン魔術においても彼女は橙子姉に次ぐ術者である。

 

 本来ならルーンは戦闘中に行使できるような魔術ではない。あれはどちらかといえば悠長な魔術で、戦闘で効果を発揮するためには色々と前提条件が必要だ。

 例えば事前に時間をかけて武器に刻み込んだり、結界の補助に使ったり。

 昔はともかく現代においては基本的には単体ではなく、他の魔術と組み合わせて使用する場合が多い。

 肉体強化などを行うにはそれなり以上の実力が必要で、ついでに戦闘でそれを瞬時に行うなんてのは上位の術者でも難しい。

 実際、傲慢なワケでも何でもなく今ルーン学科に所属している生徒も含め、時計塔の学生で一番ルーンに精通しているのは橙子姉の教えを受けた俺だと思う。

 それでもそれなりの相手との戦闘でルーン単体を主軸に戦うことはできない。アレは、本当に何にでも使えるわりに使いどころが難しい魔術なのだ。

 

 

「とにかく士郎君達も含めて久しぶりですね、五人共。私はこの有様ですが、一緒に仕事が出来て嬉しいですよ」

 

「そうね、まだ数回ぐらいしか会ってないけど、貴女と仕事が出来るのは私も嬉しいわ。よろしくバゼット」

 

「宜しくお願いします」

 

 

 バゼットがゆっくりと差し出した手と遠坂嬢、次いでセイバーが握手する。衛宮は後ろの方で先程のダメージが残っているのか悶絶していた。

 

 

「実はもう一人、今回の任務を共にした相棒がいるのですが‥‥。彼女は真実重傷で、今は協会が手配した病院で療養しています。申し訳ないが、状況の説明は私だけで行いたいと思います」

 

「構わないわよ。私としても出来る限り早く終わらせちゃいたいから、余計な手間は省きたいしね。病み上がり同然のところ悪いけど、早速説明をお願いするわ」

 

 

 俺達は一転真面目な表情になると、バゼットに促されて窓際に据えてあるソファーや椅子に腰掛けた。

 これまた素材がいいというか作りがいいというか、ロード・エルメロイの執務室にあるものには劣るけど、中々の座り心地だ。

 日差しが眩しいからカーテンが閉めてあるので外の景色は見ることができないけど、これが夜になったら冬木の街を素晴らしい夜景として一望できるに違いない。

 

 

「それでは私達が受けた任務について説明しましょう。まず私は十名からなる執行者の部隊の一員として、先日この冬木へとやって来ました。既に聞いているとは思いますが、目的はさらに数日前に派遣された調査団が全滅した件についての調査です」

 

「その調査団はどうしたの?」

 

「彼らが遠坂さんに土地の管理を任された聖堂教会の神父に遺体で発見されたのは港の工業地帯のような場所で、幸いにして一般人の目撃者はありません。彼がすぐに日本に駐在していた処理部隊に連絡したので、その後の処理も滞りなく終了しました」

 

 

 管理者(セカンドオーナー)が一番注意すべきことは、究極的には神秘の秘匿という唯一点に集約される。

 何かと一般社会の常識の範疇に収まらない事態が起きやすい霊地において一般人に神秘が漏れたりしないようにするというわけ。

 また、土地に住まう魔術師が一般人を犠牲にしようとも、神秘の秘匿が為されていれば口を出さない管理者は多いと聞く。というよりも魔術社会全体において共通する風潮だ。

 もちろん他にも仕事は多い。霊脈の管理や、外敵の排除。一般の魔術師と協会を繋ぐ窓口としての役割もある。

 遠坂嬢ぐらい潔癖な人なら一般人に被害が出た段階で神秘の秘匿云々とは無関係に処罰してしまうとは思うけどね。

 なにせそういう権限も管理者には与えられているのだ。実行できる力は別として。

 

 

「彼らの遺体を簡単に検分したところ、魔術による殺傷ではないとの報告があがりました。よって私達は戦闘を先ず考慮にいれて現場へとやって来たのですが‥‥」

 

「やって来たけど?」

 

「‥‥うまく表現できないのですが、気がついたら次の瞬間には全く別の空間に転移させられていたのです」

 

「「「「はぁ?」」」」

 

 

 歯切れの悪いバゼットの言葉に、冷静なセイバーを除いた全員が疑問符を発した。

 魔術関係の事柄についてはハキハキと自身の考察を述べるバゼットにしては珍しく、説明の要領を得ない。

 

 

「まさか空間転移ってこと? 何の術式も魔力の気配もなかったのかい?」

 

「いえ、何らかの術が行使される兆候だけは把握していました。ですが実際の転移の経緯というか、プロセスを把握できなかったのです。術式が起動したと感じた次の瞬間には転移が完了していました」

 

「それはおかしいですわね。いくら空間転移、瞬間転移の類であっても、まがりなりにも魔術師ならば転移のプロセスを感じ取れるはず。たとえ理解不能なぐらいに高度な術式だったとしても、解析はともかく知覚もできないのは不可思議ですわ」

 

「先程話した同僚のフォルテは少し感じ取っていたらしいのですが、戦闘が終了した痕すぐに病院へ連れて行かれてしまったがために情報交換ができませんでした。ただ一言、『反転』と呟いたのは聞こえたのですが‥‥」

 

 

 純粋な空間転移は魔法の域に近い。だから世間一般で空間転移と呼ばれているのは、まず間違いなく何らかを媒介とした擬似的な転移だ。

 例えば水、例えば影。そういうものを使った転移ならば非常に難易度は高いけどギリギリ大魔術の範疇に収まっている。

 そして何らかを媒介にしている以上は、実際には瞬間的な転移であっても意識的なタイムラグが生じる。

 一般人なら感じ取ることができないその誤差も、魔術師ならば知覚することができるのだ。

 いくらバゼットがそのような方面の魔術に明るくないといっても、全く知覚できなかったというのは少々不思議。

 決定的に、異常なまでにおかしいというわけではないけど、少しだけ気になった。

 

 

「おそらく時間としては本当に一瞬だったので術式を高度に隠蔽していたのだと思います。とにかくそうして私達が連れてこられた空間は‥‥そうですね、フォルテの言葉を借りるならば、まるで鏡で反転したかのような奇妙な場所でした」

 

「鏡で反転?」

 

「えぇ。建物や景色は全く変わっていなかったのですが、空は曇ったように淀んでいて、遠くの方へと視線をやれば、まるで檻の中にでもいるかのように格子で囲まれていました。おそらくですが、現実空間を反転させた擬似的な別空間だったのでしょう」

 

「ちょ、ちょっとバゼット、それって殆ど固有結界よ! そうじゃなかったとしても第二魔法に掠ってるじゃない?!」

 

「だからこそ宝石翁がこの件に関して指揮を執っているのでしょう。広さは四方数キロもありましたので現実空間を切り取ったというわけではなさそうでしたから」

 

「数キロっていうと、新都の一部を飲み込んでるな。確かに一般人が存在している現実空間を切り取って異界にしたりしてたら神秘の秘匿もへったくれもない、か」

 

 

 遠坂嬢が素っ頓狂な声をあげ、ルヴィアも見る間に目の色を変えて眉間に皺を寄せ始めた。

 これは間違いなく第二魔法に関連する封印指定か、それに準ずる魔術師の仕業だろう。

 英霊を召喚したという事実で予想はしていたけど、どうやら厄介なヤツを相手にすることになりそうだ。

 

 

「あとは大体予想できると思います。蜃気楼か何かのように現れたランサーと戦闘を開始し、部隊の過半数を犠牲にして漸く仕留めたというわけです」

 

「その空間からはどうやって脱出したんだい?」

 

「‥‥すいません、気がついたら港に横たわっていたので、どうやって離脱したかまでは分かっていないのです。ですが転移させられた直前の術式の感触からして、おそらくトラップのように発動するタイプでしょう。サーヴァントが消滅すれば自動的に戻るのだと思います」

 

 

 領域内に魔術師に類する者が入って来た時に発動するのかな? そして一度取り込まれてしまえば抜け出すにはサーヴァントを倒すしかない、と。

 霊脈の乱れを観測すれば術式が仕掛けられている場所は自ずと分かるだろう。でも出たとこ任せの一発勝負じゃあんまりにもリスクが大きい。

 こちらにはサーヴァントの中でも最優の誉れ高いセイバーがいて、なおかつ彼女は英霊の中でも最高ランクの知名度を持つアーサー王その人だ。

 しかし子供向けのカードゲームでだって基本的な性能だけで勝負は決まらないというのに、実際の戦闘、殺し合いがそれより甘いなんてことがあろうか、いやない。

 特にサーヴァントなんてのは多少の差こそあれ皆が皆、過去にそれぞれの国、それぞれの時代で名を馳せた英雄豪傑。簡単な話になろうはずもなし、油断はおろか少しの楽観も禁物である。

 なによりも厄介なのは一つの可能性。俗に言う必殺技。英雄と一心同体として崇められる魔法の域にある神秘。乃ち———

 

 

「‥‥なぁバゼット、あんたが戦ったサーヴァントの真名って分かってるのか?」

 

「!」

 

 

 かなりキツ目に為された遠坂嬢の折檻から漸く回復したらしい衛宮の言葉に、バゼットはベッドの上でビクリと体を震わせた。

 

 

「あらシェロ、既に倒したサーヴァントのことなど知ってどうするというのですか?」

 

「いやほら、どんな英霊が召還されたかとかで俺達も色々と判断できるかもしれないだろ? もしかしたらこれから召還される英霊にも共通点があるかもしれないし、情報は多いに越したことがない」

 

 

 英雄と一口に言っても、その数は一人の人間が想像できるものを優に越える。

 アキレウス、ジークフリート、聖ゲオルギウス、チンギスハーン、関羽、張飛、ヤマトタケル。とにかく英雄は多すぎる。各国に一人ずつ挙げたところで百や二百ではきかない。

 倒してしまったサーヴァントの真名を知ることに大して意味はないかもしれないけど、もしかしたら何らかの統一性というものを見いだせるかもしれない。

 倒していくうちに、例えば欧州の英雄だとか、例えば日本の英雄だとか、そういった大まかな括りであってもクラスというものに当て嵌めていけばそれなりに絞ることができるかもしれないのだ。

 

 

「まぁ確かにそうだね。ただでさえ選択肢が多すぎるんだ。多少なりとも判断材料が増えるのは喜ばしいことだと思うな」

 

 

 俺達の視線を受けてバゼットは顔を俯かせ、決意するように大きく深呼吸をすると、それでも顔を上げることはできないまま、床を見つめて小さな、ぎりぎり聞き取ることができるぐらいの小さな声で呟いた。

 

 

「‥‥ランサーは、クーフーリンでした」

 

「な、なんだって?!」

 

「第五次聖杯戦争で召喚されたランサーで間違いありません。姿形こそ醜く改悪されていましたが、私が彼を見間違えるはずがない」

 

「‥‥なんてことかしら。クーフーリン程の英霊が召喚されるっていうなら気は抜けないわね」

 

 

 クーフーリン。

 アイルランドの光の御子、クランの猛犬、アルスターの番人、赤枝の騎士。

 ク・ホリンという呼び方でも知られている彼は光の神ルーの息子であり、日本での知名度こそ低くとも掛値なしの大英雄だ。

 さっきは格下の英雄でも十分に格上を打倒し得るとか何とか言ったけど、やっぱり有名な英雄の方が基本的なスペックで勝る場合が多い。

 成し遂げた偉業が困難であればある程に有名なわけで、知名度補正なんてものがあると考えたらさらに恐ろしいことになる。

 つまり俺が言いたいのはさ、基本的に有名なら有名なだけサーヴァントは強いってことなんだよ。さっきからコロコロ話が変わって面倒だけど。

 

 

「‥‥戦闘能力まで持った英霊を何の前準備もなく喚び出すなど不可能です。これはあくまで私見なのですが、もしかすると第五次聖杯戦争絡みの何かを触媒にしてサーヴァントを召喚しているのかもしれません」

 

「つまり君は、他のサーヴァントも第五次聖杯戦争の面子と被ってるかもしれないって言いたいのかい?」

 

「あくまで推測です。証拠などありませんし、根拠も漠然とした勘に近いものですが‥‥」

 

「しかし理にかなった推測ですわ。私達エーデルフェルトとて召還の触媒を手にすることはできなかったがために、今回の聖杯戦争は見送ったのです。

 ポッと出の魔術師に英霊七人分の触媒が用意できるわけもありませんし、有益な情報が少な過ぎる今とあっては一考の価値がありますわね」

 

 

 サーヴァントに限らず、この世ならざる存在の召喚には概ね何らかの触媒が必要になることは一般的に知られている。

 例えばクーフーリンを召喚したバゼットのピアス。セイバーを召喚した衛宮の体内に埋め込まれていた『全て遠き理想郷(アヴァロン)』。アーチャーを召喚した遠坂嬢のネックレス。

 正確にはサーヴァントを召喚するのは魔術師じゃなくて聖杯らしいけど、とにかく英霊を召喚する最適の環境である聖杯戦争ですら、触媒が無ければ一流の英霊を喚び出すことなどできないのだ。

 それを考えると何の情報もない今であっても、今回の事件について何らかの触媒か何かが存在するであろうことは簡単に予想できる。

 それこそ下手人が聖遺物に匹敵する触媒を手に入れているとは考えにくい。

 確実にお目当ての、それもクーフーリンのような大英雄を召還するための触媒など、魔術協会やアインツベルンのような古い家でなければ入手できまい。

 

 

「六分の一、っていうのは結構アバウトな確率だよねぇ。サイコロ振ってお目当ての数が出るのと同じぐらいの確可能性だ」

 

「まぁ流石に次に出現するサーヴァントのクラスすらわかってない以上は推測するにも限りはあるけど、もしこれ以上そういうことが続くようなら念頭に置いて行く必要がありそうね。

 でも聖杯戦争がらみで細工をしてあったとしても、いったい何をどうやったのかしら? 聖杯は私たちが破壊したっていうのに‥‥」

 

 

 最後の方の呟くような遠坂嬢の言葉の意味を理解できたのは、関係者以外では俺ぐらいだっただろう。

 確か、聖杯戦争は小聖杯と大聖杯とから成っていると記憶にはある。遠坂嬢達が破壊したのが小聖杯だったとすれば、もしかしたら大聖杯に細工をされていたのかもしれない。

 でもそうすると色々と合点がいかない部分も多い。何もわざわざ異空間を作り出したりしないで、直接大聖杯の方に干渉すればいいのだから。

 聖杯戦争が始まって数百年。そのシステムを把握しているのは御三家の中でも千年程も妄執を維持し続けているとかいう化け物じみたアインツベルンぐらいだろう。

 魔術協会とてシステムを解析しようと試みなかったはずがない。それでも第五次の段階で殆ど理解できていなかったのだ。

 

 

「早々に敗退したライダーとか直接攻撃しかしてこないアサシンとかならともかく、バーサーカーなんかが出てきたらちょっと手に負えないわよ。どうにもこれは、簡単な仕事じゃなさそうね」

 

「そうだな。セイバーの宝具だって毎回毎回使うわけにはいかないし、俺たちで出来る限り援護しないと」

 

 

 だとすればいくら天才が相手だったとしても、聖杯戦争のシステムを把握するなんてことは不可能。それは言うなれば遺跡の発掘作業を一人でやるようなものである。

 バゼットが言っていたように、サーヴァントの召還に聖杯戦争絡みの何かを触媒にしているという可能性は高いだろうけど、どうにも今は判断がつかないな。

 そして遠坂嬢が言っていたように、たとえ第五次聖杯戦争のサーヴァントが召還されると仮定しても、次に召還されるサーヴァントが誰なのかまではわからない。

 なにより決めつけてしまうのは非常に危険な行為である。とにかく次のサーヴァントに関しては慎重にぶち当たっていくしかなさそうだ。

 

 

「本当は時間をかけて作戦会議でもしたいところなんだけど、流石にそういうわけにもいかないわね。ちょっと不安はあるけど早速今夜にでも調査を始めるとしましょう」

 

「そうですわね。別にミス・トオサカのためを思っているわけではありませんが、ここまで発展した霊地ではいつ何時一般人が巻き込まれてしまうかもわかりませんし、早めに片付けてしまうに越したことはありませんわ。

 ‥‥ところでバゼット、大師父から貴女に魔術礼装を預けたと聞いたのですが、受け取っておりませんの?」

 

「あ、はい、受け取っていますよ。確か‥‥アレです」

 

 

 バゼットはルヴィアの言葉に頷くと、部屋の隅に置かれた箱を指さした。

 それはまるでアニメや漫画にでも出てきそうな宝箱。重厚な木製で非常に重そうだ。

 大きさは大体抱えることが出来るか出来ないか微妙という、曖昧な形容のしかたができる程度で、所々黒ずんでいて古びている。

 これは運ぶ時に相当不審がられたのではないだろうか。まかり間違ってもホテルのスイートに運び込むような代物ではない。

 

 

「‥‥なんというか、その、すごく不吉な宝箱ね。私の家に似たようなものがあるわよ」

 

「エーデルフェルトの屋敷の宝物庫でも同じようなものを見かけた覚えがありますわ。大師父の趣味なのかもしれませんわね」

 

「必死に仕舞い込んだ記憶まで蘇って来そうで触りたくないんだけど‥‥そういうわけにもいかない、か」

 

 

 二人は箱に近づくと、片方は溜息混じりで、片方は魔法使い謹製の魔術礼装への期待を隠せずに、全くベクトルの違う表情を浮かべて蓋を開けた。

 鍵は予め開けてあったらしい。もしかすると最初からかかってなんかなくて、シュバインオーグの家系の者にしか開けられないような仕様になってたのかもしれない。

 

 

「うわ、やっぱりコレってアレだわ、ウチにあるヤツ。ホントにアレばっかりは大師父の趣味を疑うわね」

 

「なんですのコレ、空間が歪んでいる‥‥?」

 

「見た目の容量以上に中身を詰め込めるようになってるのよ。私も家にあるのを解析しようとしたことがあるんだけど、ちんぷんかんぷんだったわ」

 

 

 流石にやや後ろ、ベッドに座っているバゼットの傍で待っている俺達には会話の内容だけでさっぱりだ。

 そんな俺と衛宮とセイバーに構わず、魔法使いの直弟子の座を狙う二人はそ良く分からない話をしながら同時に宝箱の中へと腕を突っ込んだ。

 

 

「「痛っ?!」」

 

「遠坂、大丈夫か?!」

 

「平気よ士郎、中に何か尖ったものでもあって、指から血が出ただけだから。ほんとにもう、危険物でも入ってるんじゃないでしょうね‥‥? っと、あれ、何か掴んだけど、もしかしてこれかしら?」

 

 

 多少のトラブルがあったみたいだけど、二人は構わず中を探り続ける。

 そして遠坂嬢が何やら見つけたらしい嬉しそうな声を発した次の瞬間、宝箱の中からまるでスピーカーを通したかのような現実味の無い声が響き渡った。

 

 

『ふ、ふふ、ふふふふふ‥‥』

 

「な、なんですの?!」

 

「‥‥げ、この声は?!」

 

『血液によるマスター認証、接触による使用の契約完了しました。起動のキーは宝石翁からパスして構わないとのワイルドカードを頂戴しております。姉さん、出番です』

 

 

 まるで悪戯でも思いついたかのような明るい声と、どこまでも冷製沈着な落ち着いた声。

 全く持って方向性の違う二つの声は似通った少女のもので、それでいながら可愛らしかった。特に前者。

 そしてその二種類の声にルヴィアは疑問符を発し、遠坂嬢は瞬時に顔を青ざめさせる。

 

 

「ちょ、ちょっとそこの男二人、今すぐにこの部屋から出て———」

 

『コンパクトフルオープン! 鏡界回廊最大展開! さぁ久しぶりのお披露目ですよ凜さーん!!』

 

「と、遠坂っ!!」

 

 

 宝箱から旋風と閃光が迸る。

 圧倒的な魔力の奔流。その量は俺や衛宮はおろか、遠坂嬢本人や、ともすればセイバーを構成しているものすら上回る。

 そして部屋中を真っ白に塗りつぶす光が収まり、俺達がゆっくりと目を開けたそこには———

 

 

『凜さんが幼少の頃の一度きりの放送ではありましたが、ご好評につき第二シーズン! 魔法少女カレイドルビー、ここに再・誕! ですよー! イヤッフー!』

 

『同じくカレイドサファイヤ、爆・誕! です。不束者ですが、よろしくお願いします、ルヴィア様』

 

「「「「‥‥‥‥」」」」

 

 

 そこには赤と青の衣装を身に纏った、どこからどう見ても魔法少女な二人の友人の姿。

 半ば呆然と自分の姿を見下ろすルヴィアと異なり、遠坂嬢は耳どころか衣装から覗く三の腕や太股まで真っ赤になって、主に衛宮を睨みつけている。

 

 

「そ、その、遠坂。俺はそれ、似合うと思うぞ‥‥?」

 

 

 空気を読めない衛宮の言葉に、遂に衣装も含めて全身真っ赤になった遠坂嬢の頭の上からボフンと煙が飛び出した。

 そして世の女性達のようにそのまま恥ずかしさで気絶するのではなく、生憎と完璧に使い方をマスターしてしまっているのだろうステッキを振り上げ———

 

 

「‥‥とりあえず今すぐに出て行け、このバカ共ーーーーーっっ!!!!」

 

「「ぎぃやぁぁああーーー?!!!」」

 

 

 真っ直ぐに振り下ろした杖が特大の魔力弾を放ち、俺と衛宮はあえなくそれに衝突して扉をブチ破ると廊下まで吹っ飛んで行った。

 ちなみにセイバーはバゼットを庇って避難したがために被害は俺と衛宮のみ。

 俺達全員が一緒に受けることになった初めての重要な任務はというと、予想とは真逆に、こんなギャグみたいなノリで幕を開けたのであった。

 

 

 

 51th act Fin.

 

 

 



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第五十一話 『黒き弓の邂逅』

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 side Blue 

 

 

 

 

 私は雨が嫌いだ。

 こう断言はしたけれど、別に何か過去に軽々しく話すのも憚るぐらい暗い事件やトラウマがあったりしたわけじゃない。

 単純に憂鬱な曇天が嫌いなだけ。だってホラ、普通に暮らしていて良いことなんてないと思わない?

 そりゃ農家の人とかなら雨が大事とか、日照りが酷いところなら雨が大事とか、そういうことは理解してるわよ。

 でも実際の話、そういうのって私には関係ないしね。悪ぶるつもりもないけど、結局人間っていうのは自分本位な生き物だってこと。

 

 

「いつの間にか魔法使いなんかになっちゃって、それでも世界ってのは広いわよねぇ。ま、私自身の世界はこれ以上ないってほどに狭いんだけど」

 

 

 当主になったのに家を飛び出して、洋の東西を問わず自由気ままに色んな場所を旅してきた。

 おいしいものを食べて、おもしろいものを見て、時には強いヤツと殴り合ってみたり、可愛い男の子にちょっかい出してみたり。

 それは本当に楽しくて、浮き草みたいな生活は思ってもみなかったことに私の性分と合致していたらしい。

 誰にも縛られず、誰への責任も負うことなく、ただ自分の体一つと身につけた稚拙な魔術、そして極みである魔法だけを持って。

 

 

「意外と一人でも何とでもなるものよね。それこそ昔は全然そんなこと思わなかったわ。あの二人には悪いけど、多分もう会わないんじゃないかしらね」

 

 

 中国の山々で深呼吸。モンゴルの草原で馬に乗る。

 ぐるっとインドまで行ってモスクを見て、オーストラリアの海で思う存分泳いだ。

 ギリシャで魔術関係のごたごたに巻き込まれて、そのままソイツと一緒にトルコを越えてイタリアの方まで逃げ回った。

 ドイツの酒場で乱痴気騒ぎ。イギリスは面倒だから通り過ぎて、カリフォルニアの町でバーベキューを。ついでにハワイではフラを踊ってみたり。

 姉貴と最後に喧嘩してから一ヶ月ぐらいも経ってないのに、気づけばいつものように私は地球を一周してしまっていたのだ。

 

 

「‥‥よく考えたら別に、戻って来なきゃいけない用事なんてないのよね。蒼崎の家からは戻ってこい戻ってこいって喧しく言われてるけど、そんなの知ったこっちゃないし。別に会いたい友達とか昔馴染みとかもいないしなぁ〜」

 

 

 それでも私は世界を一回りすると必ず日本へと足を運ぶ。

 本当に用事なんかないのに、不思議なことにただ通り過ぎるというそれだけが出来ない。

 空港を降りて、そこで漸く何をしようとしていたのか全く考えていなかったことに気がつくのだ。

 行きたい場所があるわけでも、会いたい人がいるわけでもないのにどうして来てしまったんだろうかって。

 

 

「女々しい、のかな、私も。郷愁っていう気持ちは理解できないつもりだったんだけど、そういうのってやっぱり自分の身になってみないと分からないものよね」

 

 

 一番若いということもあって、魔術協会はやたらと私に構う。

 並行世界へ旅立ってしまうために本当に居所の知れない第二の魔法使いである宝石の小父様と違って捕まえやすいと思われているのかもしれない。

 事実今まで数度か協会からの使者とやらに会ったけど、あれは本当に煩かった。

 やれ任務があるだの、やれ任務がなくても時計塔にいろだの‥‥。何を考えているのか私みたいな若輩でも簡単に予想がつく。

 要は魔法が欲しいのよね、あの連中も。しかもその動機が根源の探究とかではなく自身への俗物的な利益なんだから不愉快極まるってもんよ。

 

 で、私の故郷である日本なら捕まえやすいだろうと見張りが厳しくなっているのに違いない。

 事実今まで捕まった———拘束されたって意味じゃないわよ?———のはイギリスを除くと全部が日本だ。魔術貧乏なこの国にわざわざご苦労様なことだけどさ。

 だから本当なら日本に帰ってくることは煩わしい協会からの戻って来い攻撃に晒される可能性もあるわけで、普通に考えれば帰って来ない方が良いに決まってる。

 ただでさえ会いたい人も行きたい場所もないんだから道理に適っているのだ。不愉快なことにわざわざ直面するために戻る意味がない。

 

 

「‥‥でも帰って来ちゃうのよねー。ホント、人の心ってのは不思議なもんだわ」

 

 

 さて、それでも来てしまった以上はそのまますぐさま外国行きの飛行機に乗り込むというわけにもいかない。

 いやね、本当なら別にそれでもいいのよ、でもやっぱり何ていうか癪じゃない? そういうのって。

 なんか負けたような気がするのよね。誰と戦ってるわけでもないんだけど、ただ何となく。

 

 

「‥‥で、暇した挙げ句にこんなところまで来ちゃうっていうのは私としてもどうなのかしらねぇ。

 なんていうか、もしかしたらMっ気でもあるのかしら? そんなはずはないと思うんだけど」

 

 

 いつからか空は真っ黒に染まり、叩き付けるような豪雨が降り続いている。

 長い髪の毛はしっとりと濡れて重い。乾かすのが手間だけど、私は野暮ったくて傘が嫌いだから仕方がないことだと諦めよう。

 さっきまで暑い国にいたから春も間近とはいえ寒い中で薄着だけど、不幸中の幸いか素材がしっかりしているので透けてしまったりすることはない。

 それでも寒いことには変わらないから、あんまり長いこと外で雨に打たれていると風邪をひいてしまいそうだ。

 

 にも関わらずぼんやりと突っ立った私の目の前には、古びてはいないけど建設途中の廃ビルが建っていた。

 四階建てのそれは最初の予定では五階建てにするつもりだったのだろう。どういう経緯で建設がストップしたのかしらないけど、四階の屋上には剣のように柱がそびえ立っている。

 全体的にセンスの良い外装は間違いなく廃ビルであるのにそのような印象を与えない。

 そもそも建設がストップされたのが最近なんだろうから、廃ビルとは言っても新しいのだ。

 

 

「最後に会ったのも一月ぐらい前だし、顔出したら怒り狂うだろうからサッサと逃げちゃいましょ。どんな顔するか楽しみだわー」

 

 

 そう、この建物は現在姉貴が根城にしているもので、言うなれば悪の親玉の本拠地とでも言ったところ。

 未だに会えば殺し合いを始めるという私達の関係上、一ヶ月という短期間で顔を合わせるのはあまりよろしいことじゃない。

 だというのにココへのこのこやって来たのは、多分本当に気まぐれだったんだろう。別に私は慎重っていうわけでもないけど、わざわざ藪を突っつくなんてことは早々しないしね。

 まぁ、いいわ。どうせ気紛れなんだし。突然顔を見せて、すぐに逃げよう。それだけでも随分と退屈が紛れるに違いない。

 

 

「お、もしかしてアレかしら?」

 

 

 降りしきる雨で霞む視界の中、通りの向こうから真っ赤な傘とオレンジ色のコートを着た女性のシルエットが見えてきた。

 しっかりとは分からないけど、多分あれが姉貴で間違いないだろう。他の人間なら間違えてもおかしくないけど、やっぱり姉妹だからだろうか、はっきりと判別できてしまう。

 

 

「んー、どうしようかな、こっちから声かけちゃおうかしら? まぁ先手を打った方が逃げやすいし‥‥おーい姉貴ー! 元気ー?」

 

 

 雨の中で大きく手を振って挨拶する。こんな元気の良い挨拶は数年ぶり、いや下手したら初めてかもしれない。

 もちろん姉貴が遠目にでも何らかのアクションを起こしたのが確認できたら、すぐさま愉快げに笑い声を上げてやりながら一目散に逃げ去るつもりだった。

 いくら私が気まぐれに普段なら絶対やらないことを試したといっても、流石にそのくらいの分別はある。

 姉貴の使い魔はブチ殺したから早々ヤバイ事態になんてならないと思うけど、なんだかんだで姉貴は並の魔術師じゃない。隠し玉の一つや二つや十や百ぐらい仕込んでいたって不思議じゃないもの。

 

 

「ふん、青子か。わざわざ私をからかうためだけに姿を現すとは良い度胸だな。お望み通りブチ殺してやる———と言いたいところだが、生憎と今はそんな気分じゃない。とっとと失せろ」

 

 

 ところが何時でも逃げられるように準備をしていた私は、ようやく傘に隠れた顔までしっかりと見えるぐらいの距離に近づいてきた姉貴のらしくない言葉と、何より抱えた代物に仰天してうっかり立ち尽くしてしまった。

 

  

「ちょ、ちょ、ちょっと姉貴、その子どこで拾って来たのよ?! 傷だらけだし、すごく衰弱してる!」

 

「路地裏に転がっててな。どうも面白そうだし興味が湧いたから連れて来た」

 

「興味が湧いたって‥‥あーもー、確かに姉貴ってばそういう性格してるわよね」

 

 

 最初は人形かと思った真っ黒な物体は、近くに寄って見てみれば年端もいかぬ男の子だった。

 姉貴が抱えることができるくらいだからあんまり大きくない。多分小学校低学年、二年生から三年生ってところだろう。

 真っ黒なのは着ている、というよりは着られているブカブカのコートの色もあるけど、よく見たら雨と泥と、ついでに固まりかけた血の色が混ざっているのだ。

 気絶しているのかだらりと力無く垂れ下がっている手に視線をやれば酷い火傷をしているのがわかる。姉貴の胸に埋めた顔を見れば、切り傷やら打ち身やらも確認できた。

 

 

「ちょっと姉貴、いくら男日照りだからって年端もいかない子供を火事場泥棒してまで掠って来るなんてやり過ぎじゃない?」

 

「貴様は何を聞いていた? 路地裏に転がっていたのを連れて来たと言っただろうが。人を勝手に変質者に仕立てあげるんじゃない」

 

 

 ギロリ、と先程までと温度の違う目が私を睨む。これでこそいつも通りの姉貴だと、そう思った次の瞬間にはまたもや冷静の色を取り戻している。

 魔術回路も起動させないで、互いに殺意を発さないで、これほどまでに会話を続けたのは姉貴が家を飛び出す前を含めても初めてだ。

 

 

「大体こんな重度の火傷は相当に大規模な火災か、もしくはガスバーナーで執拗に長時間焼き続けたりしないことには負ったりしない。そんな火事はついぞこの辺りで見かけんし、虐待というなら路上に放置しておく理由がなかろうよ」

 

「ふーん。ならなんでこの子はこんな大怪我してるのよ? ガス爆発にでも巻き込まれて吹っ飛ばされたとか?」

 

「地面に落ちた時に死ぬに決まっているだろうが。大体それが分からんからコイツを運んで来たんだ。‥‥ちょうどいい、私だけで持って上がるのは手間だ。青子、お前も手を貸せ」

 

 

 確かに研究者肌の姉貴よりは活動的な私の方が体力は上だ。

 一方的な命令は百歩譲っても頼み事なんかではないけど、それでも姉貴が私に何かを任せるというのは初めてのことで、拍子の抜けてしまった私は文句も言わずに男の子を受け取った。

 ‥‥軽い。怪我をして、多分かなり衰弱もしてるんだと思ってたけど、この軽さはそれだけじゃない。

 男の子に負担がかからないように小さな体を抱え直してから姉貴の方へ視線を向けると、オレンジ色のコートの下の白いTシャツが真っ赤に染まっていた。

 あぁ、そうか、この子は血が流れてしまっているから軽いんだ。

 

 

「姉貴、早くしないと‥‥!」

 

「分かっている。‥‥ちっ、普段ならお前が入ってきたら全ての仕掛けを起動してブチ殺すんだがな。結界は解除したから着いてこい」

 

 

 物騒な台詞を吐きながら階段を上る姉貴の後を着いていく。

 気がつけば私の胸元にもべっとりと血が付いてしまっていて、少年の体は雨に打たれたことをさっ引いても冷たく、そして更に冷たくなっていくのが分かった。

 これは実際の話だけど、大きな怪我をした場合の死因はその傷自体が原因ではなく、出血多量によるものが多い。

 魔術においても血は命の通貨だ。吸血鬼は言わずもがな、魔術師だって血を重用視するし、コレがなければ人間は生きていけない。

 

 

「そこに寝かせて、服を剥げ。ついでに暴れないとは思うが念のため台の四隅に抑制帯があるから四肢を縛っておけ」

 

「っとに、こき使ってくれるわね全く!」

 

「目の前で子供に死なれるのは夢見が悪かろう? 私とてわざわざ拾ってきたのは死なせるためではない。貴様は治癒魔術が使えないのだから大人しく指示に従え」

 

 

 外の階段で四階に上がってから中の階段で三階へ。

 四階は事務所みたいなところで、多分あそこで書類仕事とか、表側の仕事をするんだろう。

 いくら魔術師だって封印指定を受けて隠遁している以上は金が必要で、それはおそらく表の生活で手に入れているに違いない。

 姉貴が大人しく社会の中で仕事をしているのは想像つかないから、きっと何か面倒でややこしくておもしろそうな案件ばっかり扱っているに決まっているのだ。

 

 

「ていうかいいの? 姉貴ぐらいの一端の封印指定の魔術師が、身内とはいえ他の魔術師を工房に入れたりして」

 

「では聞こうか、青子。ここにあるものが何に使うものなのか、お前に分かるのか?」

 

 

 三階は姉貴の工房のようだ。魔術書の類が見あたらないから秘中の秘たる研究室はまた別にあるんだと思うけど、そんなところに私を入れるなんて、この人本当に私の姉?

 もちろん自然と口から出てきた質問に返された言葉は非常に理に適ったものであり、それでも私はこめかみがピシリと音を立てるのを必死で抑えたのだから褒めて欲しい。

 

 

「そこのタオルをとって、口に詰め込め。うっかり暴れて舌を噛み切る怖れがある。‥‥よし、作業を始めるぞ」

 

 

 “治療”ではなく“作業”と形容したのは姉貴らしい。というよりも、治療風景は正しく作業と称するに相応しいものだった。

 治すのではなく、直す。医者というよりは姉貴の呼び名の通りの人形師で、壊れた人形を修理するかのような不気味な手際の良さだ。

 実際やっていることは医者と大して変わりはないのだと思う。ただ、見た目がそう形容されてしまうぐらい不気味なのよね。

 

 

「‥‥よし、これで終わりだ」

 

「大丈夫なの?」

 

「私の腕を嘗めているのか? 確かに怪我は酷かったが、この程度の手術なら十分でお釣りがくるさ」

 

 

 暫くしてから姉貴が腕をとめ、血だらけになった服を無造作に私の前で着替え始める。

 ちらりと作業台の方を覗くと、確かに男の子はいつの間にか綺麗に包帯を巻かれて、ついさっきまでの何かに魘された様子とは異なり安らかな寝息を立てていた。

 四肢を拘束していた帯も口に詰められていたタオルも外されているけど、顔にも手にも足にも体中に包帯が巻き付いていて痛々しい。

 窓がない地下室みたいな作業部屋は灯りも暗いから、まるで捕らえてきた何の罪もない一般人に改造手術を施す悪の組織みたいだ。

 もちろんむやみに事を荒立てたいわけじゃないからそんなことは考えても口に出さない。そのくらいの手間を惜しまないくらい、今の私は姉貴と喧嘩をする気を失くしていた。

 

 

「さて、残った問題はコイツが何者かということ、か」

 

「姉貴はこの辺りに住んでるんでしょ? 何か心当たりとか無いの?」

 

「私とて此処にはつい最近越してきたばかりだ。それに近所付き合いをしているわけでもないから、そういうことは全く知らんよ。

 ‥‥しかしまぁ、さっきも言ったがこの辺りで児童虐待の噂も聞かん。事故が起こったわけでもないし、火事が起これば流石に騒ぎになっているだろう。とんと見当がつかんな」

 

 

 昔暇つぶしに見たワイドショーか何かで聞いた話だけど、虐待なんかは結構周りで兆候を観測できるらしい。

 例えば学校で生徒を見ると日に日に生傷が増えていたり、隣の家で不審な物音、叫び声とか物が壊れる音がしたりとか。

 最終的に虐待とかで子供が死んじゃって親が逮捕される話なんてのは不愉快なことに最近は多いけど、そういうのも後になって調査してみれば『あぁ言われてみれば‥‥』というのが大半なんだって。

 そして姉貴が言うには、この辺りでそういう噂話は耳に挟んだことがないそうだ。

 近所付き合いをしないくせにどうしてそういうことがわかるのかとも思ったけど、きっと使い魔だか何だかで情報を収集しているんだろう。

 

 

「そういえば姉貴、何でまたこの子を拾ったのよ? 気まぐれにも何か理由があるはずでしょ。姉貴が本当に気紛れだけでそういうことする人間だとは思ってないし」

 

「大した言われようだな。まぁ、確かにその通りなわけだが」

 

 

 懐から煙草の箱を取り出し、一本咥えて火を点ける。換気扇が点いているから室内でも煙が籠もることはないと思うけど、病人の傍で煙草を吸うのはどうだろうか。

 え、私? 私は煙草なんて吸わないわよ。ご飯が美味しくなくなっちゃうでしょうが。

 

 

「‥‥コイツの周り、あとコイツが倒れていた場所がな、少々気になった」

 

「気になったって‥‥何がどうなってたの?」

 

「世界が歪んでいたのさ。何か無理矢理、きっちり整列して物を詰めている箱の中に予定にない物を詰め込んだときのように、世界が撓んでいたんだよ。

 お前も知っているとは思うが、私はこういうことに敏感でな。まぁ具体的にどうして歪んでいるのか、となると流石にそこまでは判断できんが、とにかく早々あることではないから気になってな‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 姉貴は理屈をこねるのが大好きなところがある。それは殺し合いばっかりしている私にでも理解できていた。

 そんな姉貴だけど、それでいながら非常に感性が豊かで、敏感だ。それは時に理屈すら凌駕して観察の結果を姉貴にもたらす。

 私も魔法使いとしてそれなりの感性を備えているつもりなんだけど、それでもこういう細かいことになると姉貴に一歩譲らざるをえない。

 だからこそ“世界が歪んでいる”なんて物騒で突拍子もない話を信じることが出来た。

 うーん、やっぱり無条件で信じることが前提になるあたり、私達って姉妹なんだなぁって実感するわ。腹立だしいことだけど。

 

 

「‥‥まぁいい。普段なら退屈が紛れる無駄な思考推論は望むところだが、今回ばかりはダイレクトに結果を知っておきたいからな。少し強引だが、分かりやすい方法をとらせてもらうとしよう」

 

 

 そう呟くと姉貴は手近なテーブルで適当に煙草の火をもみ消し、おもむろに作業台で寝息を立てる男の子へと近づいていった。

 魔術回路を起動させている。治療自体は終わってるからそんな必要はないし、今さっきまでの話の流れから察するに———

 

 

「ちょっと待って姉貴! まさか記憶を吸い出そうっていうつもりなの?!」

 

 

 何をしようとしているのか瞬時に察して、慌てて姉貴と作業台の間に滑り込んだ。

 

 

「ほう、力任せにブチ壊すしか能の無いお前がよく私のやろうとしていることがわかったな」

 

「わかったな、じゃないわよ。こんな小さな男の子にそんなことして、精神に隙間が出来ちゃったらどうするの!」

 

 

 比較的扱いが簡単な精神を介して魂に接触し、記憶の断片を引き出して観察する魔術は意外に難しくない基本的なものだ。

 とはいえそれは術自体の難易度の話で、実際に行使するとなると様々な問題を伴う。最たるものは魔術師相手には極めてかかりにくいということだろう。

 もちろん魔力の欠片も感じないこの子が相手なら簡単にかかると思う。問題はその後なのよ。

 

 記憶を読むのは暗示とは違う。いうならば暗示が上からモノをかけて埋め尽くすのだとしたら、記憶を読むのは中身をグチャグチャと弄くり回すことに等しい。

 これはあくまでイメージだ。実際には記憶は魂から読み取るし、魂にはおいそれと干渉できない。でも間に挟んだ精神はどうかしら?

 下手に弄れば簡単に壊れて廃人になってしまうし、そうでなくとも精神干渉系の魔術にかかりやすくなってしまうなどの後遺症が残る場合も多々ある。

 弄くったから隙間が出来ちゃうのよ。普通に暮らしている分にはあんまり問題なくても、もし魔術師とかと会っちゃったら体のイイ傀儡にされちゃうかもしれない。

 

 

「‥‥おい青子、お前はどれだけ私を過小評価すれば気が済むんだ? まさか私がそのような凡ミスを犯すわけがなかろう。

 精神というのもな、複雑に構成されている。その構成の隙間を広げないようにすり抜けていけば、全く気づかれないまま、影響が無いままに記憶を読み取ることができるんだよ」

 

「そりゃ姉貴の腕は嫌って程わかってるけど、それでもやっぱり万が一ってことはあるでしょ? 姉貴がうっかりやりすぎないとも限らないし‥‥」

 

 

 姉貴は確かに凄腕の魔術師だ。それは頻繁に殺し合ってる私だからこそ、私自身の魔術師としての腕前が下手くそでも一番よーく分かっている。

 でも同時に姉貴は生来の研究者肌で、一度没頭してしまえば周りを顧みない可能性があるものまた事実。

 記憶を覗いている途中でおもしろいものを見つけたら加減が効かなくなってしまうかもしれない。

 ‥‥いやね、私だって自分で自分にビックリよ。こんな会ったばかりで、言葉も交わしてない男の子を心配してるなんてのは。

 まぁ怪我だらけで顔の美醜とかはよく分からないけど、やっぱり子供に危害が加えられるのは看過できない。

 どうやら私は、思ったよりも家庭的で、思ったよりも母性が強い女だったらしい。

 

 

「ならお前も一緒に見るか?」

 

「へ?」

 

「そんなにコイツが心配なら、お目付役にでもなればいい。私がやり過ぎたと思ったら止めろ。それなら問題なかろう?」

 

「‥‥そりゃ、そうだけど」

 

 

 男の子の額に手を被せて振り返った姉貴の言葉に逡巡する。

 確かにプライバシーの侵害は心苦しい。いくら現状を把握するためで、もしかして酷い境遇にあるかもしれない男の子を救うためのものになるかもしれなくても、それは同じだ。

 でも姉貴はやるといったらやるだろう。私が止めても、私が関わらないと言っても、やると決めたら必ずやる。

 正直な話、多分姉貴だってそこまでおかしなことにはならないと思う。確かに色々と不思議なことはあるけど、この子自体には魔力の欠片も感じない一般人だ。

 おそらくは一般的な境遇として珍妙な事柄が出てきたとしても、姉貴が心を奪われるような魔術的に特殊な事態は起きないはず。

 

 

「‥‥はぁ。まぁ確かに文句ばっかり言ってるってのも無責任な話だしね。いいわ、私も一緒に見ることにする」

 

「ほう、偽善者ぶっているいつもの様子からしてみれば珍しいな、青子」

 

「けしかけたのは姉貴でしょ。それに私のは偽善とかじゃなくって、純粋に私の気にくわないことを蹴散らしてっただけよ。ホラ、ちょっと場所空けてよ、手が届かないじゃない」

 

「反対側から手を伸ばせばいいだろうに‥‥ったく。ホラ、しっかり魔術回路を起動させろ」

 

 

 少しだけ詰めてもらって姉貴の横に立ち、男の子の額に手を添えて魔術回路を起動させる。

 肩と言わず腕と言わず、完全に姉貴と体が触れあっている。ここまで近くに寄ったのはついぞ記憶がない。

 

 

「‥‥よしいくぞ。気をしっかりともてよ」

 

「姉貴こそ、失敗なんてしたら承知しないからね」

 

「誰がどう承知しないというのだ」

 

 

 軽口を叩きながらも意識の海へとダイブする準備をとった。姉貴の口が僅かに動き、呪文を詠唱する。

 姉貴の手と重なった私の手に術式が浸透し、私の意識が姉貴の意識に引きずられ、男の子の中へと飛び込んだ。

 さて、姉貴が気になったっていうぐらいだから、多少なりともおもしろいものが見れるには違いない。

 それが楽しいものじゃなくてツライものだってことぐらいは想像できたけど、所詮それだけだ。

 だって私はそういうもの、世界を回っていてもう沢山見てきてしまったのだから。今更動じるようなことでもないわ。

 

 ‥‥今になって思えば、あのときの軽い気持ちは完全に間違いだった。

 不謹慎だったとか後悔したとかじゃなくて、ただ単純に事実として私の推測は誤りだったということ。

 いや、あの時どんな推測をしたってそれは外れていたことだろう。

 なにせ私が将来の義弟となる男の子の記憶から受けた衝撃ってのは今まで生きてきた中でも一、二を争うものだったし、何よりその後に義弟に迎え、一緒に過ごした歳月もまた、今までの私からしてみれば想像もつかないものだったのだから。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

『はいほー、はいほー、少女が好きー、出来れば小学生がサイコー、サイコー』

 

「不気味な歌はやめなさい奇天烈ステッキ! ていうかそれは私への当てつけかぁーっ!!」

 

「落ちつけ遠坂、さっきから何かヘンだぞ?」

 

「落ち着いてなんかいられますかっての! 何で現在進行形で黒歴史生産してなきゃならないのよ私はっ?! もうすぐ二十歳なのよ、二十歳!」

 

 

 まだまだ深夜という時間帯ではないけれど、それでも殆どの人が自宅へと帰ってしまった冬木の街を、やたらと賑やかな六人組+αが歩いていた。

 一番喧しいのはそのうちの一組。トレードマークの赤いコートを着た遠坂嬢と、その周囲をクルクルと飛び回る謎の怪物体。

 その怪物体は先程から遠坂嬢の沸点をドンドン下降させる言動を矢継ぎ早に繰り出していて、普段はそれなりに分別のある遠坂嬢も流石にそろそろオーバーリミットしてしまいそうだ。

 

 

『私としてもですねー、やっぱりマスターたりえる魔法少女は十二歳以下がベストマッチだと思うわけですよ〜。確かに凜さんは私という魔術礼装を使うにはこれ以上ない逸材ですけど、私という魔術礼装に使われるには少々狡いというか、萌えないというか‥‥』

 

「勝手言ってるんじゃないわよ変態ステッキ! なんで私がアンタに使われなくちゃならないのよ! 私だって本当ならアンタとかなんか一生会いたくなかったわ!」

 

「‥‥なんというか、結局は上手く噛み合ってるような気がしないでもないんだけどね。どう思う、ルヴィア?」

 

 

 +αは約二名(?)。遠坂嬢とルヴィアの周りをフラフラと飛び回る謎の物体だ。

 宝石翁から渡されたステッキ型の魔術礼装、言わずとしれたマジカルルビーとサファイヤで、どちらも今はステッキの柄の部分を省略した待機モードだとのこと。

 姉の方は五芒星で、妹の方は六芒星の安っぽい装飾が顔の部分で、横についているデフォルメされた羽が手の部分らしく賑やかに動き回っている。

 本人達———特にルビーの方———はマスコットのつもりなのかもしれないけど、どう贔屓目に見てもRPGとかのラストダンジョンに出てくる不気味モンスターだ。

 マスコットを主張したいのならもっと愛らしくて不気味じゃない形になるべきだろう。フェレットとか、オコジョとか、関西弁のぬいぐるみとか。

 

 

「ふむ、無限に広がる並行世界の自分から、状況に応じて必要なスキルをダウンロードする機能がある、と? どちらかといえばそれが本来の機能なのですわね?」

 

『はい。今回の任務では並行世界へ微小な穴を空けて無限に魔力を供給できること、現代魔術に括られない純粋な魔力による攻撃を運用できることでルヴィア様と凜様の手助けになると採用されましたが、本来は戦闘に向いているわけではありません』

 

「使用者に施される魔術障壁、物理障壁、自動治癒(リジェネレーション)や身体強化についてはどういう理屈で備わっているんですの?」

 

『魔法少女は安全でなければならない、というのが我らが造物主である宝石翁の持論なのですが‥‥。

 その辺りは姉さんの方が上手く説明できると思います。私は能動的にプログラムされていないので、基本的には姉さんとセットで運用されますから』

 

 

 一歩後ろを見ると前の二人とは対照的に、ルヴィアが真面目に自分の周りをふわふわと漂うサファイヤと話をしていた。

 確かに姉の方の性格こそアレだけど、このカレイドステッキは第二の魔法使いによって造られた現代の魔術界においても破格の性能を持った場違いな魔術品(オーパーツ)だ。

 宝石翁の操る第二魔法の一端を再現する高度な魔術礼装に、自分の機能を説明できる人工精霊が付随しているのだから知的好奇心が刺激されるのも頷ける。

 なにしろ下手すれば第二魔法への手がかりだ。出来る限り情報を引き出しておくに越したことはない。

 

 

「‥‥あちらと違って随分と仲が良いね、君達は」

 

「愚問ですわね。魔術師たるもの魔法へ至る手がかりがあるなら何をおいてでも究明するものです。それというのに、ミス・トオサカはどうしてああやって反目しているんですの? ここまで重要な手がかりを前に何もしないとは、魔術師失格ですわ」

 

「どうも昔に色々あったみたいでね‥‥。それにあの人工精霊相手に素直に教えを請うなんて無理だと思うな。君はどうだい?」

 

「‥‥確かに、平静を保てそうにはありませんわね。サファイヤがパートナーで本当に良かったですわ」

 

『恐縮です、ルヴィア様』

 

 

 俺達が目指しているのは霊脈の歪みが観測された新都の冬木中央公園。

 ただでさえ前々回の聖杯戦争の影響か霊場が歪んでいたのだ。それを利用して設置したのかどうかは分からないけど、ある意味では十分に予想できた場所だと言える。

 主戦力であるセイバーと遠坂嬢とルヴィアに加え、同行するのは俺と衛宮とバゼットの三人。

 正直な話で言えば俺は殆どオマケか付録みたいなもので、セイバーがいて一対一が想定される以上は衛宮もさほど意味がない。

 

 

「傷は大丈夫なのか、バゼット? 俺と紫遙も保険代わりにいるし、何よりセイバーがいるからアンタはついてこなくても平気なんだぞ?」

 

「ご心配ありがとうございます、士郎君。しかし私とてこの任務を命じられた一員です。せめて最後まで見届けなければ、封印指定の執行者の名が廃るというもの。

 それに傷も大体は癒えています。傷つけられたのがゲイボルクだったので流石に大きな怪我は完治していませんが、立っているだけなら問題はありませんよ」

 

「そうか、でも無理はするなよ? 俺達の後ろにいて、出来ればジッとしていてくれ。なぁ紫遙?」

 

「まぁね。というより俺としても出来れば衛宮の後ろで安全に援護していたいところさ。英霊とガチで殴り合いなんてぞっとしないよ」

 

 

 肩に担いだ魔術礼装、『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』。今回もいざという時にはコイツに活躍してもらうことになる。

 こいつは物理ダメージを主眼においている質量兵器みたいなものだから、対魔力でも早々ダメージは軽減できない。

 もちろん相手は英霊だから普通に飛んでくる鉄球を撃墜、回避するくらいなら容易いだろうけど、あくまでも援護として運用するなら十分に存在価値がある。

 ただ懸念しているのは、宝具なんかで迎撃されたら、いくら橙子姉謹製の魔術礼装とはいえ呆気なく破壊されてしまうんじゃないかってこと。

 一〜六番のカスパールはそこまで複雑な造りをしていないからリカバリーも楽だけど、いわばこの魔術礼装の頭脳である七番のザミエルを破壊されたらロンドンには帰れなくなる。

 あれは複雑過ぎて俺では手が出せないのだ。橙子姉に修理を依頼することになるし、そうなったら早々に戦線を離脱して東京に戻らなきゃいけない。

 

 

「俺に投影できればいいんだけどな‥‥。属性の関係もあるし、ちょっと難しそうだ」

 

「というより、衛宮が投影した礼装を俺が使えるのかって問題もあるしね。衛宮の魔力で編まれた幻想が俺の指示を聞くかって話で、多分それは無理なんじゃないかな。

 それに俺がコイツを使ってるのは便利だからってだけじゃないし‥‥」

 

 

 バゼットやルヴィアには聞こえないようにささやかれた衛宮の言葉に、感謝しながらも冷静に辞退した。

 言葉にした通りの問題もあるけど、何より俺は橙子姉の造ったものだからこそコイツを愛用しているということもある。

 多分自分で造れるようになったとしても、なんだかんだでコイツを使い続けているんじゃないかな。そもそも戦闘は出来る限りやりたくない。

 

 

「こらそこ、何をごちゃごちゃ話してるの?!」

 

『この辺りが目的地ですねー。歪みが最大値です、これは酷いですよ〜!』

 

 

 気がつけば俺達は何時の間にやらお目当ての公園へと辿り着いていた。

 辺りは前に来たときと同じく不穏な空気に満ちていて、本当に一種の固有結界のようにも感じる。

 これなら人が滅多に寄りつかないというのにも納得だ。ここまで濃い怨念が溜まっていては一般人でも調子を悪くするに違いない。

 

 

「さて、それじゃあまずは作戦のおさらいよ。まず相手が何であろうとセイバーが接近戦を挑んで、私とルヴィアゼリッタが遠距離から魔力砲で攻撃する。これが基本よ」

 

『対魔力を持ったサーヴァントが相手だと現代の魔術は通用しませんからねー。かといって英霊相手の接近戦は無謀ですし、盾役は期待してますよセイバーさん』

 

「必ず期待に沿ってみせます‥‥が、誤射には気をつけてくださいね凜。私に備わった対魔力は未だ聖杯戦争当時のままですが、純粋な魔力砲を無効化できないのは敵と同じですから」

 

 

 遠坂嬢の魔術の狙いが甘いことを理解しているらしいセイバーが場違いなくらい真剣な目でマスターの方を見る。

 盾ごと撃つなんて軍隊じゃあるまいし、うっかりで死んでしまっては冗談で済ませられない。

 

 

「うっ、わ、わかってるわよ! ‥‥で、蒼崎君と士郎は隙を見て礼装と弓で援護をお願い。二人共、前は一緒に戦ったんだから互いの呼吸は分かってるわね? あと士郎は絶対に前に出てきちゃダメよ」

 

「な、なんでさ」

 

「なんでさ、じゃないわよ。アンタまさか英霊と斬り合おうなんて馬鹿なこと考えてないでしょうね? 前回は本当にまぐれみたいなものなんだし、今回はセイバーも私達もいるんだから、大人しく援護に徹していなさい」

 

 

 厳しく遠坂嬢に言い含められ、それでも衛宮は不満げだったけど何とか了承したようだった。

 ぶっちゃけた話、俺達は現状の時計塔が出せる戦力としては申し分ない。英霊であるセイバーとカレイド補正を差っ引いても、もしかしたら一流の執行部隊とも多少なら戦り合えるかもしれない。

 だから一番の懸念材料はなんだかんだで即席に近い連携について。そして連携を確実にするためにもはっきりしておきたいのが衛宮の立ち位置だった。

 なにしろこの正義の味方見習いは、現状のパーティでルビーに次いで暴走の危険性が高い。そんなことされたら衛宮が危険だとかそれ以前の問題で、周りのフォローが大変だ。

 

 

「そう不満そうな顔をするなよ衛宮。気持ちは理解できないこともないけど、今は役割分担をしっかりしておく方が大事だ」

 

「シロウ、聖杯戦争の時も言いましたが、サーヴァントの相手はサーヴァントである私がします。凜やルヴィアゼリッタにしても今回に限って言えば私に匹敵する能力を備えている」

 

『衛宮様、我々カレイドステッキのマスターには、つねに最高ランクの魔術障壁、物理障壁、身体強化、自動治癒(リジェネレーション)がかかっています。

 お言葉ですが、今のマスター達と衛宮様ではあまりにも力に差がある状態です。衛宮様が前に出るメリットはないかと』

 

『そうですよ〜。物理保護を最大にすればセイバーさんの剣だってそう簡単には通りませんし、重傷だって数秒も要らずに完全復活! 身体強化に魔力を回せば吸血鬼にだって力負けしません! 言うなれば英霊に等しき存在である凜さん達を心配する必要なんかオールナッシングですよ〜!』

 

 

 セイバーやサファイヤは真面目だけど、ルビーはどちらかというと今の状況を心の底から楽しんでいるように見受ける。

 言っていることは紛れもない事実ばかりなんだけど、それでも語尾の調子が妙に良く、全体的にテンションが高めだ。

 実際、最初にカレイドの魔法少女のスペックを聞かされた時には心底びっくりしたものだ。なにせとてもじゃないけど魔法少女なる範疇には属さないだろう。

 本気で戦えば正しく英霊に匹敵する。ルビーが語るところの、『恋や魔法に大忙し!』なるキャッチフレーズにはそぐわないこと甚だしい。

 いくら魔法少女は安全というのがモットーだとしても些か過剰防衛じゃないだろうか?

 

 

「わかった、士郎? それに一人を相手に前衛が沢山いても逆に動きづらくなって迷惑よ。昔ならともかく今は弓も使えるようになってるんだから、そっちの方がよっぽど効果的よ」

 

「‥‥わかった。でも遠坂達が危なそうだったら止めても助けに行くからな。それくらいはやらせてくれ」

 

「ま、そこまで止めたら本当に士郎は無茶しそうだしね。そのくらいならいいけど、撤退を第一に考えるのよ?」

 

 

 羽織っていたコートを脱いで小脇に抱えた衛宮に、心底呆れながらも分かっていたと言いたげに遠坂嬢は溜息をついた。

 今日の衛宮は裾の長いコートの下に、遠坂嬢達から贈られた赤い外套と軽鎧を着込んでいる。

 俺が橙子姉から預かって渡した干将莫耶は持ってきていない。あれは貴重なものだし持ち運びに不便なので、もっぱら投影の練習に使っているからロンドンに置いてきたのだ。

 先程遠坂嬢が言及した弓というのもまた同じもので、彼女が軽鎧を調達してくる際に一緒に頼んでおいたものらしい。

 未来っぽいステキ素材とか———多分遠坂嬢では分からなかったんだと思う———で造られた艶消しの黒塗りの弓は干将莫耶同様、ロンドンでお留守番している。

 あれから衛宮は干将莫耶と弓と矢の投影をかなり練習していたらしくて、なんとか形になったから持ってくる必要が無かったのだ。

 

 

「さて、あとはあちらの方からお呼びがかかるだけですわね———ッ、これは?!」

 

『空間に干渉する大規模な魔術式です! ルヴィア様、皆様、お気を付け下さい!』

 

 

 ルヴィアが用心深く周りを見回した次の瞬間、サファイヤの声が鋭く響き渡った。

 即座に全員が戦闘態勢を整え、そして気がつけば足下には大きな魔法陣が発生し、淡い‥‥いや、既にかなりの光を発している。

 

 

「馬鹿な、こんな魔術式は協会の教授の実践形式の講義でだって見たことがないぞ‥‥?!」

 

「これは私が飲み込まれた時と同じ‥‥みなさん、気をしっかり持って下さい!」

 

 

 無色の光が辺りを覆う。

 まるで意識を塗りつぶされるぐらい強烈な光に思わず目をつむり———

 

 

「‥‥う、ここは?」

 

『空間転移‥‥それも高度に術式が隠蔽されていましたねー。カレイドステッキ(わたし)の演算能力を以てしても完全な解析は不可能でした。半端じゃない大魔術ですよ、コレ』

 

 

 感心したような、同時にどこか楽しそうなルビーの声が響く。気がつけばそこは俺達がさっきまでいた場所と似て非なる空間であった。

 真っ暗だった空は確かに暗いままだけど、星は見えない。曇天‥‥というわけでもないけど、濁っている。

 雲があるべきところには格子模様が広がっていて、バゼットが言っていたように籠にすっぽり入ってしまっているようだ。

 遠くへと視線をやれば地面から空にかけても格子模様で覆われており、その先は真っ暗になっていて何も見えない。多分区切られていて何もないんだろう。

 

 

『‥‥一部の解析が完了しました。これは現実空間の要素を反転させて生み出している、いわば鏡のような異空間です』

 

『無限に連なる並行世界に類する場所ですね〜。仮に鏡面界と呼称しますけど、これ、下手すれば魔法ギリギリの大魔術ですよー!』

 

「次元干渉と異空間の創造‥‥。私達と同じ、大師父の系譜と考えても封印指定確実だわ。みんな、気を引き締めなさい。英霊ばかりに気を取られてたら不覚をとりかねないわ」

 

 

 門外漢だから分からないけど、結界として考えるなら隔離以外のメリットが見あたらない空間ではある。場に敵愾要素を感じないから、よほど上手に隠蔽しているのでもない限り中の人間に何か作用するなんてことはないだろう。

 どちらかといえば英霊を閉じこめる籠、とでも形容するのがいいのだろうか。おそらく術者はこの空間自体は大して重用視していない。

 現実を反転‥‥。もしかして英霊を運用するための空間と考えることもできるかもしれない。普通に英霊を喚び出すなんてのは大魔術でありながら大魔術ですらないから。

 この空間自体に幾重も魔術式を張り巡らせ、ありとあらゆる条件付けを行って魔術式に汎用性を無くし、英霊を召喚および保持することに特化させているのか?

 そう考えれば確かに不可能ではないかもしれないけど、どちらにしたって今の俺達ではプロトタイプを試作することだって出来やしない。

 

 

「あれ、おい衛宮、大丈夫か?」

 

「だ、大丈夫だ。ちょっと酔ったっていうか、気持ちが悪いっていうか‥‥」

 

「空間移動、それも位相が変わる様な移動の仕方だから酔っちゃったのね。どうでもいいところで繊細に出来てるんだからアンタは———って、ちょっとみんな、セイバーは?!」

 

「?! そういえば見あたりませんわね‥‥!」

 

 

 フラリと立ち眩みを起こした衛宮を気遣い、次の瞬間に放たれた遠坂嬢の言葉にハッと人数を確認すると一人足りない。

 彼女の言葉の通り、通行人がいないのを良いことに予め銀色の甲冑を纏っていた金髪の少女の姿がなかった。

 おかしい。確かに公園にやってくるまでは一緒にいて、色々と雑談をしていたはずだ。だとすればいなくなったのは‥‥?

 

 

「ど、どういうことだ一体‥‥うっぷ」

 

『うーん、もしかしなくても転移の際に弾かれてしまったみたいですねー。トラップタイプなのかと思ったんですけど、これはもしかしたら予想以上に細かく仕掛けがしてあるか、もしくは予め私達が来ることを予想していたとしか思えませんよ〜』

 

「なんてこと‥‥! ちっ、仕方ないわね、こうなったら作戦変更よ。ルビー、物理保護と身体強化を最大にして私が足止め役になるわ。後衛が減っちゃうから士郎と蒼崎君も援護よろしく頼むわね」

 

 

 緊張感の欠片もないルビーの言葉に一転、俺達の緊張感は最大になった。

 なにせ絶対無敵に近い前衛がいなくなってしまったのだ。セイバーがいたからこそ俺達にこの任務が回ってきたともいえるのだから、状況は最悪に近くなったと言ってもいい。

 不幸中の幸いは、遠坂嬢とルヴィアにカレイドステッキが渡されていること。英霊に匹敵する戦闘能力をもったカレイドの魔法少女が二人いれば、戦力としては不安ながらも十分対抗できる。

 援護役の俺と衛宮は前回バゼットと共に送られた執行部隊に比べて格段に戦力として劣るけど、二人はそれを補って余りある。

 

 

「‥‥どうもなぁ、この面子ですんなりと任務が上手くいくなんてことはないって、わかってたはずなんだけどなぁ‥‥」

 

「泣き言はおよしになって、ショウ。私も至近距離に近い中距離に陣取りますから、援護は宜しくお願いしますわよ」

 

「わかってるよ。ただ意味が無くても愚痴を零さずにはいられない、そんなときもあるってだけの話さ」

 

『はいはい雑談はその辺にしましょうねお二方ー? 時間がなくて残念ですが、プリズム☆トランス演出省略でいきますよー!』

 

 

 遠坂嬢は中国拳法をかなりのレベルで習得していると聞く。ルヴィアも格闘技については一家言もっているけど、どちらかといえば対人戦闘向きで実戦経験も少ない。

 辛うじて恥ずかしくないくらいに華麗に素早く魔法少女に変身した二人が油断なく周囲を窺う。英霊という規格外な存在が召喚されるのだから何らかの兆候はあると思うけど、奇襲はいつでも警戒すべきものだ。

 衛宮も注意深く魔術回路を起動させ、俺も魔術礼装を円筒の中で待機状態にした。これなら敵が出たら瞬時に展開することができる。

 バゼットも硬化のルーンが刻まれた手袋を嵌めているけど、おそらくまともに戦闘を行うのは無理だろう。ちなみにこちらも念のために肩からラックを提げている。もちらん無理はしないで欲しいし、だからこそ期待もしていない。

 

 

『む、空間に揺らぎが発生‥‥? 皆さん、どうやらターゲットのお出ましですよッ!』

 

 

 今は変身した遠坂嬢の手の中にあるステッキとなったルビーが羽で指した方向に、俺達は即座に意識を集中させた。

 何かが、来る。歩いて来る。

 遠くから歩いて来るわけじゃない。それでもそう形容してしまったのは多分、最初は輪郭も定かではなかったソレが段々と姿を明らかにしていったからか。

 そしてまるで濁った水の中から浮かび上がってくるようにしてソレが完全に姿を現すと、ちょうど俺の前と後ろから、喉の奥から絞り出すような声が聞こえた。

 

 

「アー‥‥チャー‥‥ッ!」

 

 

 そこに立っていたのは非常に背の高い、もしかしたら二メートルに届こうかというがっしりした体格の男だった。

 真っ白な髪の毛、褐色の肌。特徴的なそれらは中東の辺りの出身なのかと判断されることも多いだろう。

 しかし顔立ちは分からない。何故なら本来なら精悍で皮肉げな表情を浮かべているのだろうそこには、まるで起伏のないのっぺらぼうのような銀色の仮面が額から顎まで被さっているからだ。

 纏っているのは血が乾いたかのようなどす黒い外套とひび割れた胸甲。そのあちらこちらから剣や刃が飛び出して傷だらけになってしまっている。

 それは前回の任務で見えた不死身のルドルフのようで、あちらが埋め込んだものであればこちらは自分自身の内側から生えてきたかのようで決定的に違う。

 それでも傷、それも酷く重いものであることには違いなく、その男は血だらけで、今にも死んでしまいそうなくらいで、しかし力強く戦う意思を持っていた。

 

 

「ア、アーチャー‥‥」

 

「何を呆けているのですかミス・トオサカ! 構えなさいな!」

 

「凜さん、何があったかは知りませんが、あれはバーサーカーと同じ、いえ、それ以下の存在です! 理性も記憶も記録すらも宿していない兵器のようなもの。迷っていては殺られますよ!」

 

「ッ! えぇ、確かにそうね。わかってるわよ、“アレ”が倒さなきゃいけない敵だってのも、あの“アイツ”じゃないってことも‥‥。‥‥そうよね、士郎」

 

「衛宮‥‥?」

 

 

 激しく動揺しているらしき遠坂嬢にルヴィアとバゼットが喝を入れて、俺は呟くようなか細い彼女の言葉に後ろを振り向いた。

 そこには無表情でありながら、今まで見たことがないくらいの激情を瞳に宿した衛宮が立っていた。手を見れば真っ白になるくらいに双剣を握りしめているし、口からは歯軋りの男が聞こえる。

 怒っている、のとは少しばかり違うように見えた。言葉にすれば殆ど同じではあるけど、憤っていると言うべきか。ダイレクトに感情をぶつけるかんじとは違う。

 

 

「悪い、遠坂、でも俺は‥‥」

 

「‥‥こればっかりは仕方ないわね。“アレ”が相手なら士郎が一番上手く立ち回れるだろうし」

 

 

 衛宮が俺を追い越して一番前に出る。ルヴィアが何か言いたげにしていたけど、ただならぬ衛宮の様子に伸ばしかけた手を引っ込めた。

 鬼気迫る、という風ではないのが逆にただならぬ様子を明確にしている。 

 

 

『ちょっとちょっとちょっと凜さーん、何を任せちゃってるんですかー?! そりゃ確かに泥臭い戦闘なんて魔法少女の本分じゃありませんけど、それでも華麗に可愛く愉快に演出する準備は万全だったんですよ〜?!』

 

「アンタは私に何させる気だったのよ愉快犯ステッキ! ‥‥ルヴィアゼリッタ、悪いけどそういうことだから私達は後衛に回るわよ!」

 

「シェ、シェロがそう言うつもりなのでしたら仕方ありませんが‥‥。本当に大丈夫なんですの、ミス・トオサカ?」

 

「大丈夫よ。アレ相手ならの話だけどね」

 

 

 見えるのは衛宮の背中だけ。その表情までは確認することができないからか、ルヴィアはとても不安そうだった。

 それはバゼットもそうだし、俺だってそうだ。世界に確実なんてことはないから、いくら作中で衛宮があの赤い弓兵に勝っていたとしても絶対勝つとは限らない。

 なにより一見して相手は理性を失くしてしまっている。色々と思うところもあっただろう作中での戦いとは話は別だ。手加減していた可能性だってあるし、少なくとも言葉とか信念とかで動揺していたのは間違いないのだから。

 

 

「士郎君‥‥」

 

「衛宮‥‥」

 

「悪い、みんな。でもコイツだけは俺が倒さなきゃいけないんだ。コイツだけは、俺が、俺自身が始末をつけなきゃならない。誰にだって譲るわけにはいかない」

 

 

 相対する二人は睨み合ったまま動かない。両者共に無手で、まるで腰に拳銃を提げて決闘に望む西部劇のガンマンのようだ。

 殆ど自我というものを宿していないように見える黒い弓兵も同じで、静かに、それでいながら相手を打倒するという戦意だけはしっかりと漲らせて直立している。

 いや、打倒するなんてもんじゃない。この空気は俺も幾度か経験した掛け値なしの殺し合いのそれ。

 だというのに二人の纏う雰囲気だけはとても静かで、どこか不気味でありながら調和しているかのように二人の姿はぴったりと重なり合っていた。

 

 

「‥‥援護だけは、させてくれ。流石に英霊とタイマンなんて無謀な行為を見過ごすことはできない。それぐらいはいいだろう?」

 

「あぁ。‥‥ありがとう、すまない紫遙」

 

「謝るくらいなら始めからするなってんだ。まったく、このトラブルメイカーめ‥‥」

 

 

 少しだけ顔をこちらへ向けた衛宮が再度勢いよく前を向く。だらりと下げられていた掌だけが、何かを求めるようにパッと外へ開かれた。

 呼吸の音すら聞こえないぐらいのピリピリとした静寂の中で、衛宮は俺達にすら聞こえるようにはっきりと、黒い弓兵は只の吐息にしか聞こえない判別不可能なくぐもった声で、それでもその言葉だけはしっかりと聞き取ることができた。

 

 

 ただ一言、『投影、開始(トレース・オン)』と———

 

 

 

 52th act Fin.

 

 

 

 



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第五十二話 『赤い背の残影』

ISの短編を投稿しました! 作者アカウントページから、よろしければどうぞ!


 

 

 side EMIYA

 

 

 

投影、開始(トレース・オン)

 

 

 俺とアイツが同時に双剣を投影する。

 銘は干将莫耶。中国の伝承に残る夫婦剣で、どちらかが失われても必ず片方の元へ戻ってくるという特性を持っている現存する宝具の一つだ。

 あの聖杯戦争の中で遠坂のサーヴァントが好んで使っていた双剣を、俺も倫敦に来るまでずっと鍛錬に使っていた。

 剣の師匠でもあるセイバーはあまりいい顔をしていなかったけど、それでも俺にこのスタイルが合っているのは間違いなくて、不機嫌になりながらも文句を言わずに鍛錬に付き合ってくれたものだ。

 

 俺がこの夫婦剣を使うようになったのはアーチャーが使っていたからに過ぎない。じゃあアイツがどうしてこれを使っていたのかって考えると、そればかりはアイツが俺であったとしても、結局は違う道筋を辿っているんだから全く分からなかった。

 でも今は何となく分かる。衛宮士郎(おれ)が最初なのかエミヤシロウ(アーチャー)が最初なのかは分からないけど、友達から貰ったものを無碍に扱うはずがない。

 多分どっちが先とかは考えても仕方がないことだろう。鶏が先か卵が先かってのと同じ理屈だ。

 

 

「アーチャー、なんでお前がこの場所に出てきたのか、俺は知らない。別に知ろうとも思わない」

 

 

 後ろでルヴィアが息を呑む気配がした。多分、俺の投影魔術に驚いているのと、アイツが干将莫耶を同じように投影したのに更に驚いているんだろう。

 なにせこれは掛け値なしの現存する宝具で、そんなものを俺なんかが投影したんだ。というより、投影っていう魔術自体がそこまで出来る魔術じゃないのだ。

 だから本来、俺の“コレ”は投影ですらないのかもしれない。名前はそうだけど、きっと全くの別物なのかもしれない。

 剣を見て、その生まれてからの全てを理解し、自らの心の内に収め、必要な時に取り出す。故に俺の魔術は全て『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)』という固有結界からこぼれ落ちたものであり、全てはそこに集約される。

 

 

「でも、お前が俺の前に出てきた以上、互いにやることは一つだ。‥‥そうだろ」

 

 

 他の魔術はエミヤシロウにとって不純物でしかない。体を強化する魔術も、物を修理する魔術も、剣以外の投影も、友人から貰った遠見の魔眼すらも。

 勿論そうだからといって切り捨てるようなものでもない。それでも一振りの剣であることが、無限の剣であることがエミヤシロウの在り方だ。

 本来なら日常生活だって戦場だって、どこにあってもそれは変わらない。俺の心象風景である固有結界がそれを証明している。

 特に目の前に立っている真っ黒になってしまったアノ男と相対すれば、俺達の間を結ぶ全てが互いに互いとの間だけを行き来して、そこには誰も入って来られやしない。

 

 

「———そうだ、おまえには負けない。誰かに負けるのはいい。けど、自分にだけは負けられない。だからお前だけは、俺が倒さなきゃいけないんだ———!!」

 

「—————ッ!!!」

 

 

 俺とアイツは同時に互いに向かって走り出す。だらりと両手を下げた姿勢から大振りに干将を振りかぶり、剣の軌跡と刃は完全に噛み合った。

 鍔ぜり合いは無い。俺もアイツも得物は双剣。すかさず莫耶を下から振り上げ、しっかりと噛み合った干将ごと互いに互いを振り払う。

 

 

「雄ォォォオオーッ!!」

 

 

 振り上げた左手の動きを利用して素早く回転し、左側から両手を揃えて大きく薙ぎにいく。が、それは当然あっさりと受け流されて戦いは地味な斬り合いへと移行していった。

 右で斬り掛かれば左で止められ、右で斬り掛かって来られたら同じく左で止める。止めたら手首を痛めないように注意しながら受け流して、その流れを利用して体を入れ替えてまた斬り掛かる。

 基本的には延々この流れの繰り返しだ。今の俺達には只愚直に相手目掛けて剣を振り回すことしか出来ないのだから。

 

 火花が、散る。刃は光が眩しいくらいに冷え切っているのに、俺達の周りだけ真っ赤に燃えていた。

 剣戟は絶え間なく続き、宙に散った火花が消える前に次の火花が現れる。

 まるで暴発した花火工場のように、それは地上を這いずり回るように俺達の動きに合わせて辺りへ散っていくのだ。

 踏み出した足の先、弧を通り越して円を描く切っ先の果て、がっちりと噛み合って滑っていく刃の向こう。

 決して綺麗なんかじゃない泥臭いぶつかり合いを少しでも彩ろうとするかのように、激しく生まれて消えていく。

 

  

「—————ッ!!」

 

「別に、お前と戦うこと、なんて、どうってこと、ないっ! 俺は、お前が、気にくわないから、なっ!」

 

 

 一つ、気付いたことがある。事前にバゼットからも聞いていたことだが、コイツは機械みたいな存在だ。まるで剣に意思が込もっていない。

 理性はあるみたいだ。“あの時”には遥かに及ばないにしても剣筋は的確で、重い。それでも一挙一投足に知性は全く感じることができなかった。

 そこには何もない。あの教会で告げられた感情も、森の奥の城でぶつけ合った信念も。真っ直ぐに俺を睨みつけて来た鋼色の瞳は銀の仮面に遮られていて、本当にまるで機械か人形とでも戦っている気分だ。

 アイツの方がガタイがいいから剣は重く、それでいながら重さが感じられず、的確な剣捌きは表面だけなら変わりはしないが、その実で振るう主が伽藍洞の人形だからか、未熟な俺でも戦り合える。

 

 

「でもっ、なんだよ、それっ! なんなんだよ、それはっ! テメエのそれは、見かけだけじゃ、ねぇかっ!」

 

 

 的確に打ち込んでくる斬撃は、的確に過ぎるために対処が容易になっている。技術だけで中身が入っていないからだ。

 心技体、この三つが上手に揃っていなけりゃ、どれか一つでも欠けていれば不十分だってセイバーが言っていたのを思い出した。そうだ、コイツには決定的に心が欠けている。

 あの城で戦ったアイツの剣は怖かった。いや、今まで全ての敵に恐怖を感じた。でもコイツの剣は全然怖くない。

 ただ振るっているだけだ。確かに英霊なんだから重いし、速いし、鋭い。既に俺もあちらこちらにかすり傷を負っているし、何度も剣戟を受け止めた手は痺れ始めている。

 でも違うんだ。戦いで感じる恐怖とか、そういうのは状況だけが影響するんじゃない。あれはお互いの相手を倒すっていう意思がぶつかり合うからこそ生まれるものだ。

 

 

「お前はっ! そんな無様な姿で俺の前に出てくるなっ!!」

 

「——————ッ!!!」

 

 

 体ごと突っ込んできた黒い弓兵の一撃を、干将莫耶を交叉させて受け止める。互いの吐息が顔にかかるぐらいに接近するが、アイツの表情は仮面に隠されて伺えない。

 こうやっていると、上手く言葉にできない憤りが湧いてくる。

 見るも無惨なこの姿は、アイツを侮辱したものだとは思う。でもそれは別にどうでもいい。アイツは俺だし、俺がアイツなんだから。

 怒り、ではない。憤り、とも違うのかもしれない。‥‥どちらかといえば、そう、ただ単純に不愉快なんだ。

 コイツと刃を合わせているのが不愉快だ。コイツと戦っていることが不愉快だ。

 あの時と何もかもが似てる。アイツが使った技、アイツが振るった刃、アイツと似た姿で同じ技を使い、それでいて決定的に違う。

 

 アイツは俺の中で大きい存在だ。でもそれは遠坂にとってのアイツとかとは意味が違う。アイツは俺なんだから、俺の中に俺がいるのは当然のことなんだ。

 それでもあのアインツベルンの城での戦いは、おそらく初めて固有結界を使ったギルガメッシュとの戦いよりもしっかりと記憶に残っている。多分、これから一生褪せることなく焼き付いたままだろう。

 だからこそ、今この瞬間が腹正しくて仕方がない。不愉快だ。俺とオレの、オレと俺の“あの”戦いと同じようでいて違うこの戦いが許せなかった。

 俺とアイツが戦う時は、こんな情け無い戦いなんかじゃだめだ。こんな思いの込もっていない戦いなんかじゃだめだ。

 

 

「お前はっ! そんな情け無い姿で俺の前に出てくるなぁぁぁああーッ!」

 

 

 足の裏から剣まで、一直線にして持ちこたえていた体にあらん限りの力を込めて黒い弓兵の剣を弾く。

 相手もその動きに途中から合わせて一旦距離をとり、互いの間は数メートルも離れた。

 

 

「———In seinem Blute netzt des Schwert 《奴の鮮血を以て剣を濡らさん》!」

 

「———ッ?!!」

 

「紫遙か!」

 

 

 すぐさま体勢を立て直したヤツが俺に向かって再度突進しようとした次の瞬間、上空からいくつもの鉄球が降ってきて地面に衝突し、大きな砂埃を上げて黒い外套を覆い隠した。

 後方で援護の機会を窺っていた紫遙の礼装、『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』。すごく複雑に出来たそれは特性が違うからか俺が解析しても理解出来なかった程のものだ。

 何でも封印指定である上のお姉さんの謹製だそうで、成る程、俺もまだまだ『創る者』としては半人前なのだと考えさせられてしまう。

 

 

「まだだ! Zum Hollenpfuhl zuruck gesandt, sei er gefemt, sei er gebauut 《地獄の沼へ送り還せ、名誉を奪い、追放の処分を課して》———!」

 

 

 これ以上ない程に緊迫した叫び声と詠唱と共に、更に前後左右から複雑な螺旋の軌道を描いて魔王と狩人の名を冠した礼装が襲いかかる。

 それは地面をも穿つかという程の速度と畏るべき質量を持っていて、先程の砂煙より更に大きな土を巻き上げて黒い外套の視認すら困難にした。

 上空から降り注いだ魔弾が三つ、更に逃げ場を無くすかのように前後左右から四つの魔弾。こうやって言葉にしてみると少ないように思うかもしれないけど、例えばドッジボールを思い返して欲しい。

 一つであっても複数の面を経由して向かって来られれば補足は困難だし、三つも四つも同時に襲って来たら果たして避けられるだろうか?

 それが更に速く、更に重く、更に複雑な軌道を描いて来たら? 行動の起こりの隙を突いてタイミングも完璧。ともすればこれでやられてしまったのではないかと思うぐらいに。

 

 

「‥‥やったか?」

 

「いや、まだだ、紫遙」

 

 

 ‥‥ああ、でもこれぐらいでヤツがくたばるはずがない。

 非常に腹立だしくてイライラするし不愉快なことではあるけれど、それでもアレはあのいけ好かない弓兵なのだ。

 予想通り土煙が腫れたそこには、傷一つ負うことなく無手で立ちつくしている黒い外套の姿があった。

 後ろで紫遙の息を飲む声が聞こえる。そうだ。まだ、戦いはもう少し続くに違いない———

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥やったか?」

 

「いや、まだだ、紫遙」

 

 

 遠慮容赦一切無しでブッ放した『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』が大地を削って巻き起こした土煙が晴れていく。標的から数メートル離れた衛宮のところまでも包みこもうかという砂埃は黒い弓兵を完全に覆い隠してしまっていた。

 『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』はとても強力な礼装だけど、威力だけに限って言えばたいしたことはない。たとえ全力でぶつけても遠坂嬢が安い宝石一つを灰にすれば十分に防ぐことが出来る。

 というよりも、在り方として戦いに向かない俺ではあんまりに威力のある礼装は扱いきれないのだ。橙子姉ぐらいにそもそもの容量《キャパシティ》が大きければ話は別だけど、俺単騎では致命的なまでに相手を倒すということは困難だ。

 

 この橙子姉謹製の魔術礼装の利点は大まかに分けて四つ。遠隔操作と物理ダメージ、触媒に使うことで魔術行使の手助けになること。そして予めプログラミングしておくことで複雑な軌道を簡単に命令できることだ。

 今のはその機能を最大限まで活かした攻撃で、初弾が当たったところからはほぼ完全にアイハブコントロールユーハブコントロールの状態である。

 そもそも七ツの別々に動く球体を俺が完璧に制御できるわけがない。本来なら適切な使い手が扱えば、こんなオプション必要無い。‥‥情けない話なんだけどね。

 

 

「‥‥馬鹿な! 今のを喰らって無傷だって?!」

 

 

 上空からの牽制で動きを限定したところに前後左右から微妙にタイミングをずらして魔弾が襲い来る。必勝とまではいかずとも、礼装の特性とアーチャーの対魔力が低いことを鑑みれば多少なりともダメージがあってしかるべきだ。

 しかして砂煙が晴れた先に黒い外套は、いくつかのかすり傷のみを負って悠然とその場に立ち尽くしていた。しかも無手で、干将莫耶で弾いた様子もない。

 己が身を呈しての突撃を敢行した魔弾は三つが大地に埋まり、四つが虚しく大きな弧を描いて俺の周り、周回軌道に戻って来る。

 

 

「おいおい、そりゃ確かに同士討ちなんてことにならないために少しばかり隙間があることはあるけど、いくらなんでも初見で見破られるなんて‥‥」

 

 

 そう、今の攻撃コースには僅かではあるけど隙間が存在する。魔弾同士が衝突して壊れてしまうなんてお笑いぐさだから、本当に一瞬ではあるけど隙間が出来るのだ。

 確かにそこに入り込めば体に掠るぐらいで済むかもしれない。普通の人間ならそれだけでズタボロになるところだけど、強靱な体を持つ英霊ならば殆ど無傷で済むだろう。

 だけど、それは本当に一瞬だけ生じる僅かな隙だ。例え直感スキルを持った英霊だって見つけることなんかは出来ないはずである。もちろん断言は出来ないけど、可能性はすごく低い。

 対魔力が作用しているということはサーヴァントのスキル全般が働いているということだろうけど、多分エミヤの持つ固有スキルの心眼(真)は機能していないと思う。

 そういう心技体全てが関係しているスキルが発動するには、第四次聖杯戦争の時のバーサーカーのような特殊なスキルが必要じゃないだろうか。

 だから心眼が発動していないということを考えると、直感なんてものが存在しないだろうエミヤが俺の礼装の攻撃を避けられた理由はただ一つしかない。

 

 

「‥‥やっぱり腐っても衛宮はエミヤ、ってことか‥‥」

 

 

 アイツは、エミヤは魔弾が放たれた最初からどんな攻撃が来るか分かっていた、知っていたのだ。だからこそ正しい場所に逃げ込むことができたのだ。

 エミヤがどういう道筋を辿って英霊になったのかまでは知らないけれど、きっと近くには俺もいて、それまでに何回も一緒に戦闘をこなしたに違いない。

 そしてその戦闘の中で、俺はこのプログラムを用いた戦闘軌道を何度か使ったことがあるんだろう。そしてエミヤの知識にはそれが入っていた‥‥。

 もしかしたら今この戦闘がエミヤの知識なのかもしれない。そうなるとほんとうにイタチごっこの思考になるから面倒だけど、とにかくアレがエミヤで衛宮であることだけは確認できたと言えよう。

 全く、英霊になってまで苦労をかけるとは、ある意味ではこれ以上なく友達甲斐のあるヤツだ。本当に迷惑ばかりかけてくれる。

 

 

「なにをボサッとしているのですかショウ! 私とミス・トオサカで砲撃しますから援護を!」

 

「ッ了解した! Ich lass`dich nicht, Du darfst nicht von mir zieh`n 《私はお前を放しはしない、何処へ行くことも許しはしない》———!」

 

 

 地面に埋まった三つの礼装に急いで竜巻のように突っ込ませるけど、今度は単純に数瞬間に合わずに弓兵は回避に成功する。

 

 

「逃がしませんわ! 速射《シュート》!」

 

「砲射《フォイヤ》———!」

 

 

 しかし、そこは戦闘経験は皆無に等しくても一番俺との付き合いが長いルヴィアと、なんだかんだで似たもの同士だからか同じくぴったりと息があった遠坂嬢の砲撃が炸裂した。

 先程と同じように巻き上がった竜巻の両側に適当な狙いで放たれた魔力砲の片方が、間一髪で礼装の回避に成功した弓兵を見事に捉える。威力を多少犠牲にして大きくした砲撃は二段目の回避を許さない。

 供給される魔力の量は無制限だけど、一度に放てる魔力量、乃ち魔力砲の威力自体はマスターの魔術回路の性能に影響される。ちなみに魔術回路は開いていようといまいと構わないそうだ。理論だけ考えるなら一般人でも扱える。

 そしてルヴィアと遠坂嬢は現代の魔術師としては最高レベルの魔術回路を保持していた。数は時計塔でも上位に名前が並び、質こそ橙子姉には劣るとしても優秀なのは間違いないのだ。

 

 

「———まだです、防いでいます! 追撃用意!」

 

 

 後方で臨機応変に遠坂嬢とルヴィアの二人と交互に指揮をとっていたバゼットが叫ぶ。再度巻き起こった小さな砂埃の向こうに目をやれば、弓兵が両手に再度夫婦剣を構えて砲撃を防御しきっていた。

 今の二人の攻撃は大雑把だったし、威力より範囲を優先させたからランクに換算すればD〜C-ぐらいか。それなら干将莫耶で防げてしまう。

 もちろん無傷というわけにはいかない。幅広とはいえ干将莫耶は短いから、足などを見れば少しばかり焦げ付いている。しかし、それでも少しばかりだ。戦闘に支障はなさそうだ。

 

 

「士郎、デカイのいくから突っ込んで隙を作りなさい! 蒼崎君は援護!」

 

「さっきからやってるんだけどなぁ、っとに! 水流(ラゲズ)、凍結《イーサ》、是乃ち雹と暴風(ハガラズ)!」

 

強化、開始(トレース・オン)———!」

 

「速射《シュート》———!」

 

 

 四つの魔弾を這うように地面を滑らせ、内部に刻まれたルーンを使って弓兵の足を僅かに凍結させる。

 当然ながらそんなものは直ぐに砕かれてしまうわけだけど、その一瞬の隙を突いて身体を強化した衛宮が突っ込んだ。とにかくひたすら速く、ひたすら強く、弓兵の注意を自分自身に集中させる。

 衛宮とエミヤは同じ人間だけど、今この瞬間だけはいくつかの際がある。エミヤの方が衛宮よりも体格がいいし技量もあるけど、逆に衛宮には俺達がバックについているのだ。

 

 

「ぐっ?!」

 

「————ッ!!」

 

「シェロ! そのまま立っていなさい! ———速射《シュート》!!」

 

 

 火花の散らし合いに競り負けた衛宮の白い剣、莫耶が激しく回転しながら弾き飛ばされ、その隙を突いて弓兵の干将が衛宮の脳天を唐竹割にしようと振り下ろされる。

 しかし前衛が後衛のために壁となるなら、逆に後衛も前衛がピンチの時はサポートするのが役目なのだ。すかさずルヴィアの鋭く速い魔力砲が遠坂嬢とは反対側から弓兵を襲った。

 速さのみに重点を置いた魔力砲は威力こそ無いから英霊を倒すまではいかないけど、それでも衛宮へと振り下ろしかけた干将を防御に回したがために衛宮は転がって退避する。

 この間、僅かに一秒前後。実戦経験が無くてもルヴィアは的確に判断を下すことが出来るということが証明された。流石というべきだろうか。

 というよりも、そもそも遠坂嬢と素質が変わらないのであるから、事前の情報があれば聖杯戦争当時の遠坂嬢よりも上手く立ち回れるのも道理なのだろう。

 

 

「ルヴィアゼリッタはやらせませんよ! ハァッ、フゥッ!」

 

 

 標的に逃げられたことを理解し、弓兵は瞬時に目標を変更してルヴィアの方へと体を向ける。

 一瞬焦ってしまったけれど、しかしこちらも生半可に行きはしない。俺の近くで指揮をとっていたはずのバゼットがその体を滑りこませると、双剣を手にした弓兵の手の甲あたり目掛けて鋭く数発のパンチを放つ。

 鉄腕魔術師バゼット・フラガ・マクレミッツのストレートは並のプロボクサーの倍の速さがある。以前無理に誘って連れて行ってみたゲームセンターでパンチングマシーンを一撃で破壊せしめた程だ。

 当然ながら英霊相手に決定打になるには少々威力に欠けはするけれど、今の弓兵を怯ませるには十分だった。たまらず干将莫耶を取り落として再度投影しようとするけど、すぐさまバゼットの後方にいたルヴィアが魔力砲を放って牽制したがために大きく距離をとった。

 

 

「‥‥いらっしゃい、歓迎の準備はできているわよ?」

 

「-————ッ?!!」

 

「消し飛びなさい! 全力砲射(フォイヤ)ァァッ!!」

 

 

 黒い外套が誘い込まれたのは丁度遠坂嬢の目の前。しかもその場にいた全員と距離が離れていた。

 振り返ればそこには自分の身長程もある直径の魔法陣を砲口のように目前に構えた赤い魔法少女‥‥というより魔法少女(笑)。可憐というよりは正しく魔王と喚ぶに相応しい笑顔を湛え、ステッキを弓兵に突きつける。

 注意を逸らし、機を窺い、十分な準備を以て蓄えられた魔力が一気に放たれる。それはランクに換算すれば少なくともB-、下手すればBには匹敵するだろう。

 余談にはなるけど、Aランクの攻撃なんてのは例えカレイドステッキを以てしても早々放てるものじゃない。遠坂嬢の魔力回路の性能を越えているからだ。

 確かに遠坂嬢はAランク程度の、それこそバーサーカー(ヘラクレス)をも一回殺してみせるぐらいの攻撃を放つことができる。しかしそれはあくまで宝石に蓄えた魔力を解放しているからに過ぎない。

 それ専用に作られた短命のホムンクルスでもあるまいし、人間が宝具に匹敵する攻撃を放てるというのがどだい無理な話なのだ。もちろん今の遠坂嬢達は別だけど。

 

 

「———『熾天覆う七つの円冠(ロー・アイアス)』!」

 

「な‥‥ッ、あれは宝具?!」

 

 

 決まった、と誰もが思った次の瞬間、戦場に似つかわしくない桜色の花が咲いた。七つの花弁を持つ光で出来た美しい花が、ちょうど弓兵を砲撃から守るように花開いたのだ。

 それは投擲攻撃に対する最強の守り。遥か昔、トロイア戦争において天下無双のヘクトールの投げ槍を防いだというわれる六枚重ねの牛皮の盾が神秘を纏って昇華した存在。

 具現した七枚の花弁は投擲にカテゴライズする全ての攻撃を防ぎきる。それは担い手ではないエミヤが使っても宝具ではない魔力砲に対しては十分過ぎる程に効果を発揮した。

 宝具を打ち破るには相応以上の神秘が必要だ。それは例えば彼のアイルランドの光の御子が放った死翔の槍のように。故にいくら魔力砲にこめられた魔力が多かろうと、アイアスそのものが持つ神秘の密度がその量をも凌駕すれば傷一つ付けることなどできやしない。

 英雄の持った武装である宝具は、おおまかなカテゴリで言えば魔法に近い。いくら第二魔法の応用でカレイドステッキが運用されていたとしても、宝具には到底敵いはしないのだ。

 よって遠坂嬢が十分な威力を期待して放った魔力砲は、開いた花弁のただ一枚をも破壊することなく押し負けて霧散してしまったのだった。

 

 

「中華刀を使うアイアスですって‥‥? 一体あの英霊は何者だと言うのですか‥‥?」

 

「アイアスまで持ってこられたら遠距離攻撃はおろか中距離攻撃も効かない‥‥! ちまちま撃ってもラチがあかないし、仕方がないわね。ルヴィアゼリッタ! こうなったら身体強化と物理保護に魔力を回して接近戦よ! あのヤロー‥‥殴っ血kill!!」

 

 

 遠坂嬢がキレた。状況判断と戦術選択こそ的確だったけど、そう表現するより他ないくらいに見事にキレた。

 渾身の魔力砲を防がれたから、あの黒い外套が彼女のかつてのサーヴァントと似て非なる存在だからというわけでもなさそうだ。そうだとしたらとっくの昔に、それこそこれ以上ないくらいにシリアスに爆発してたことだろうし。

 

 

「私だって普段は絶対に出来ない撃ち合いしてみたかったわよ! だってのに『ク、相変わらず無駄なことをするな、凜。例え君が高価な宝石を使っても全く同じ結果だったろうよ』とでも言いたいのかアンタはァ! ざっけんじゃないわよコンチクショウ!」

 

『完ッ全に言い掛かりですねー。私としてはもっと魔法少女らしいプリティでキュアキュアな言葉遣いを期待したいところなんですが』

 

「黙りなさいルビー! 身体強化7、物理保護3! いくわよ、目にもの見せてやるんだから!」

 

 

 先程も少し言及したけど、カレイドの魔法少女は決して誰にでもなれるわけではない。魔力供給は無制限だけど一度に放出できる量には限りがあるし、魔力の運用方法が雑なら効率の良い戦いができず、結果として戦闘力は大きく低下してしまうだろう。

 的確に状況を判断し、攻撃・防御・支援のどれにどのくらい魔力を振り分けるかをマスターがルビーに指示しなければならないのだ。ある程度はルビーの方でサポートしてくれるけど、それではとてもベストとは言えない。

 ルビーは十二歳以下のマスターが好ましいなんて言ってるけどトンデモない。そんな子供、幼い頃から戦闘訓練を受けてきた外道の存在か、万に一つもないだろうけど卓越した天性の才能を持った逸材ぐらいだろう。

 

 

「判断は間違っていませんが熱し過ぎですわよミス・トオサカ! ‥‥はぁ、仕方がありませんわね。私達も行きますわよ、サファイア」

 

『かしこまりました。身体強化7、物理保護3ですね。魔力を纏ったステッキでの殴打による格闘戦を具申致します』

 

 

 遠坂嬢に続いて文句混じりながらもルヴィアが突っ込む。

 ちなみにサファイヤの意見を要約すると杖で撲殺しろということなわけなんだけど、それじゃあ魔法少女もへったくれもないと思ってしまうのは俺だけだろうか。

 魔力の配分は遠坂嬢と同じもので、前衛姿勢なのは習得している武術‥‥というか格闘技の特徴によるものだと思う。魔法少女なら飛ぶとか滑走するとかやり方は色々あると思うんだけど‥‥。

 

 

「月まで吹っ飛べぇーッ!!」

 

「覚悟なさい」

 

「————」

 

「くっ、まさか‥‥いかん二人とも、離れろ!」

 

 

 物理障壁を展開しながら突っ込んで来る、英霊に匹敵する力をもった少女二人を前に黒い外套は手にした干将莫耶の投影を再度破棄してみせる。

 あまりにも不自然なその動作の直後、大きく振りかぶられたステッキに両手を沿えて大きく回転し、合気を使って二人の攻撃を完全に後方へと逸らす。

 そして夫婦剣に加えて新たな短剣を両手に投影し、逸らされた反動を何とか堪えて振り向いた二人の胸に目掛けて振りかぶり、ぼそりと一言、全く聞こえないながらも判別できる短い言葉を呟いた。

 

 

「———『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』」

 

「な‥‥これは?!」

 

『宝具、それも魔術による契約を強制破棄する効果のものです! 凜さん、ルヴィアさん、再契約しますから一旦その場から離脱して下さい!』

 

 

 傷は無かった。しかし只一つきりの真名を解放された宝具の効果を以て、二人は煌々しい豪華な衣装から普段の落ち着いた上品な服へと変化する。

 カレイドステッキとの間の契約を強制的に破棄されてしまったのだ。身体強化も、物理保護も、魔力供給も全てが一瞬にして効果を失くす。

 秀才とはいえ一人の魔術師へと戻ってしまった二人は英霊の前であまりにも無力だ。姿は変わらずとも契約対象を無くした只の魔術礼装(ステッキ)へと戻ってしまったルビーの珍しくも緊迫した声に、遠坂嬢とルヴィアはすぐさま一も二もなくその場から転がって離脱した。

 

 

Verdrehen(凶がれ)ッ!!」

 

 

 ギロリと———実際には仮面で見えないわけだけど———二人へ視線を向けた弓兵を妨害すべく、俺は額のバンダナをひっつかんで解くと、魔術回路が悲鳴を上げるのにも構わず魔力を集中させて魔眼を発動した。

 とはいえアーチャーに備わった対魔力は数値に換算してD。一工程《シングルアクション》である魔眼は無効化される。

 それでも対魔力が劣化していたのかどうかは知らないけど、ほんの一瞬だけ黒い弓兵の腕の動きを止める効果はあったらしい。その隙に、体勢を立て直した衛宮が次の手を放つ。

 

 

「やらせるかよ‥‥喰らいつけッ!」

 

「—————!!」

 

 

 大地を踏みしめて衛宮が干将莫耶を投擲する。

 幅広で重厚な刃を持つ夫婦剣は本来なら非常に投擲しづらい。というより不可能に近いだろう。

 しかし衛宮は将来アーチャーのサーヴァントとして喚ばれることも可能性として存在する現代の英霊候補である。こと投擲、射撃に関してだけは天才と称するに相応しい。

 以前に一度だけ両儀流の道場の細長い裏庭で衛宮が射を披露したことがあるんだけど、全く武道に明るくない俺から見ても鋭く、武芸百般を自称してやまない師範をして『怖いな』と言わしめた程だ。

 故に渾身の力を込めた夫婦剣は明後日の方向へ飛んでいくこともなく真っ直ぐに最短距離を通り、二人の窮地を救うべく黒い外套の背中へ牙を剥いて襲い掛かった。

 

 

「—————ッ!」

 

 

 しかし黒化で人間らしい知性を全く感じ取れないとは言っても、エミヤとて伊達に英霊をやってはいない。即座に気配を察すると魔力で身体強化を行い、大きく十数メートルほど横の方向へ飛び退いた。

 その両手に一本ずつ握られていた虹色の短剣はいつの間にか投影を破棄されていて、今は艶消しが施された黒塗りの弓を手にしている。これも干将莫耶同様に、衛宮が持っている武装に極めて酷似している。

 投擲した夫婦剣を弾かれることを予想して間合いを詰めていた衛宮を加えた俺達は全員がまとまってしまっており、俺達全員を視界に納めた弓兵は右手の指を弓の弦にかけると、くぐもった息切れのような聞き取りにくい声で呟いた。

 

 

「——— I am the bone of my sword 《我が骨子は捻れ狂う》」

 

「ッまた宝具を使う気よ! みんな私のところに来て! ルヴィアゼリッタ、今の全力で障壁を張るわよ!」

 

「宝具を三つも所持しているというのですか、あの英霊は?! ‥‥くっ、魔術礼装(サファイア)がいたから手持ちの宝石が少ないですわ。ショウ、ルーンの補助を———」

 

「いえ、必要ありません。皆さん、私の後ろに下がって下さい!」

 

 

 弓に矢を番えるように右手の中に現れた捩れ凶がった奇妙な剣。それが秘める魔力を感じた遠坂嬢とルヴィアが数個の宝石を指に挟んだのに続いて俺が補助のためにルーン石を取り出した時、すぐ後ろから凜と澄んだよく通る声が聞こえた。

 条件反射で怪訝な顔をする衛宮の外套の襟を引っ張りながら大きく斜め後ろにバックステップすれば、そこには先程の位置から更に一歩か二歩前に踏み出したバゼットの意外に華奢な背中。

 どういう理屈だか右手に嵌めた革手袋の先に黒光りする鉄球を浮かべ、ゆっくりと大きく息を吐くとしっかり一言一句を意識しながら呪文を紡ぐ。

 

 

「『偽・(カラド)———」

 

「『後より出でて先に断つもの《アンサラー》』」

 

 

 紫電が奔った。バゼットが槍投げの様に掲げた右腕と、その上に浮いている鉛色の球体との間にバチバチと凄まじい音を発しながら電気に似た魔力流が奔走っている。

 込められている魔力も弓兵の番える捻れた矢に比べて遜色ない程に十分なものではあるけれど、その身に秘めた神秘の濃度が桁違いだ。初めて見るけど、あれは正しく神代の神秘‥‥。

 

 

「『———螺旋剣(ボルク)』!」

 

「『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』!!」

 

 

 勝負は一瞬で決まった。弓兵が真名と共に矢を放ったかと思った次の瞬間、何故か無手で、胸に拳大の穴を穿たれて立ち尽くしていたのだ。

 顔を覆う仮面の下、顎の辺りから鮮血が伝って零れる。穿たれた穴はちょうど心臓の位置にあって、先程までの英霊特有の溢れるような魔力は段々と揮発し、失われていく。

 

 

「‥‥い、一体なにが起こったの? 相殺したわけでも撃ち抜いたわけでもないのに敵の宝具が消失したわよ‥‥」

 

「あれが私の宝具、『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』。またの名を逆光剣フラガラックと言い、時を逆行して既に定まってしまった事象の順序を入れ替える光の神の短剣です」

 

 

 信じられないものを見たような遠坂嬢の言葉に、息を荒くしながら本当に重要な部分を省いてバゼットが説明する。 “敵の切り札に反応して発動する”カウンター型の宝具であるフラガラックは、『両者相打ちの運命を覆す逆光の剣』。つまり最初に自分と相手の攻撃の順序を逆転させてから心臓を穿つことで、『死人に攻撃は出来ない』という理屈を成立させるのだ。

 『死人に攻撃は出来ない』のが当たり前の法則である以上、本来なら最初に放たれていた敵の攻撃は心臓を穿たれた後に放たれたことになり、必然的にキャンセルされてなかったことに書き換えられる。

 

 

「まぁ要するに、私は後だしジャンケンでも勝てるということです」

 

「なによソレ、反則じゃない‥‥」

 

「他の英霊の宝具に比べれば格段に見劣りしてしまいますよ。純粋な破壊力で言うならばたいしたことはありませんからね」

 

 

 もちろん弱点は多々ある。『後より出でて先に断つもの《アンサラー》』の準備が必要な以上は他の宝具に比べて手間が余計にかかるわけだし、少なくとも相手が切り札を出してくれて、しかもそれのタイミングを見切らなければ発動できない。

 今回は何とか撃破できたけど、決して反則なんかじゃないのだ。現にバゼットは宝具のバックファイヤーで手袋を犠牲にしてなお、反動で体中をがたがたにしてしまっている。

 右腕の火傷はまだ軽いものみたいだけど、左の肩を押さえ、脂汗を垂らして眉をひそめている。どうやら外見上だけでも塞がりかけていた傷が開いてしまったらしい。

 

 

「———ク、何者かの走狗と成り果てた無様な身とはいえ、二度も貴様に敗北を拮するとはな‥‥」

 

「何‥‥?」

 

 

 風が、吹いた。何もかもが静止した不自然で異常な空間であるはずの鏡面界に、一陣の風が吹いた。

 熱気を孕み、赤錆のような血にも似た鉄の臭いをした埃混じりのそれに思わず全員が目をつむる。

 

 

「これは‥‥衛宮の‥‥」

 

『大気中に含まれる大源の波長が数瞬前と全く重なりません。ここは完全な別空間、ないしは鏡面界から更に隔離された異界であると推測します』

 

「まさか、固有結界‥‥ですの‥‥?」

 

 

 埃が目に入らないように慎重に目を開けると、そこには一瞬前とはまるで違う光景が広がっていた。

 世界を囲む格子模様は消え、地平線の果てまで見渡すことができる。大地には数を数えることが億劫になる程に様々な剣が乱立していて、どれもが一級の魔剣、妖剣、宝具の類だ。

 それはいつかの死徒討伐の際に見た衛宮の固有結界そっくりでいながら、どこかが違う。あちらが兵士の立ち並ぶ剣の王国ならば、こちらはさしずめ剣の墓標といったところか。

 大地は赤錆び、空は燃えている。黒く血の匂いがする煙で視界が霞む様子は、空にいくつも浮かんだ重苦しい歯車と相俟って正しく錬鉄場と称するに相応しい。

 

 

「しかし、それも他人の力あってのこと。今回もまた不覚をとりはしたが、貴様自身の力は、投影は子供騙しの域を出ていない。その程度では今だオレに届きはしないのも当然のことだ」

 

「アーチャー、おまえ、自我が戻っているのか‥‥?」

 

 

 林立する墓標の中に、満身創痍の体で墓守りが立っている。身体から霧散していく魔力は急激にその量を増し、おそらくは存在を保っているのが精一杯といったところだろう。

 胸に穿たれた穴はサーヴァントと同等の神秘を秘めた宝具によるものであり、いかに英霊とはいえ人間であったことがあるのだから、首をはねられたり心臓を破壊されたりしてしまっては致命傷だ。

 そんな状態を表すかのように、ピシリと音を立てて皹割れた銀色の仮面が剥がれ、静観でありながら血だらけで疲弊した青年の顔が現れた。

 

 

「‥‥ついさっきまでは無かったんだがな。今の状態は乃ち、死ぬ直前に狂化が解けているとも言える。あと一分も保つまいよ。まぁそもそもからして使い捨ての強引な召喚だったから仕方がないのだがな」

 

「アーチャー、あんたは本当にそれでいいの?」

 

「ク、君はおかしなことを言うな、凜。人が死ぬ時は当たり前のように死ぬのと同じだ。サーヴァントも死の運命、原因によって確定された未来からは逃れられん。今回は魔力切れでも何でもないから、君にできることなどないぞ」

 

 

 外套が血に染まり、全身を自らの内側から突き出た剣に貫かれていることを除けば、自我を取り戻した弓兵は俺の記憶に残る映像の中の姿と全く同じであった。

 満身創痍の死に体でありながらも英雄の名に恥じぬその姿。まるで怪我など負っていないかのように屹然と仁王立ちする真っ直ぐに伸びた背筋が、今まで己が辿って来た道筋への誇りを伺わせる。

 

 

「‥‥って、ちょっと待ちなさいアーチャー。それは“記録”? それとも“記憶”?」

 

「さて、どうにも今回の召喚は色々と特殊な事例らしい。私の感覚としては聖杯戦争から記憶が連続している」

 

「‥‥やはり触媒が関係しているのか? 第五次聖杯戦争の何かが関係してるっていう遠坂嬢の推測が信憑性を帯びて来たね」

 

 

 事情、というより事態を全く掴めていないがために静観しているルヴィアとバゼットに代わって俺が呟いた。

 おそらく今回の儀式では座にいる“英霊エミヤ”ではなく、“第五次聖杯戦争に参加したアーチャー”が喚ばれたのだ。聖杯戦争に関係する触媒を召喚に用いたのであれば考えられないことじゃない。

 もちろん俺はそんな召喚が本当に可能なのかなんて聞いたことはない。こればかりは降霊科の連中か、大聖杯の設置に同席したとかいう宝石翁に聞くしかないな。

 

 

「お前にも迷惑をかけてしまったな、紫遙。世話になりっぱなしで頭が上がらん」

 

「‥‥エミヤにそういう言葉遣いで話し掛けられると寒気がするな。将来の俺がどういう反応していたのかなんて知ったこっちゃないけど、なんとかならないか?」

 

「いやすまない、こればっかりは長年を過ごして身についてしまったものでね。まぁどうしても気になるのなら“アーチャー”が話していると思えば、そこまで不自然に感じることもあるまい?」

 

「!」

 

 

 ぞわり、と背筋に一瞬だけ鳥肌が立ってすぐに治まった。慎重に、最新の注意を払いながら口を開く。

 

 

「知って、いるのか‥‥エミヤ‥‥?」

 

「おそらく君の言いたいところで間違いはあるまい。君はどうかは知らんが、私と“蒼崎紫遙“はそれなりに長い付き合いだからな」

 

「おい、二人とも何を言ってるんだ?」

 

「貴様は黙っていろ。私は紫遙と話をしているのだ」

 

 

 それは殆ど直感に近いものだったけど、俺はエミヤとの間に間違いなく共通の認識が生じていることを確信した。

 俺が知るはずのない“アーチャー”についての言及がそれを物語っている。何より目がそう語っているのだ。昔は目で語るなんてありえんとか思ってたけど、語れる奴は背中でも語れる。

 

 

「そう身構えるな。確かに珍しい話ではあったが、別にたいしたことでもあるまい?」

 

「たいしたことに決まってるだろ! お前は何をそんなにのんびりしている?!」

 

「なに、本当にたいしたことではないからに決まっている。まぁ深く語る時間もないから割愛するが、私にとっての蒼崎紫遙は遠坂凜とセイバーに次ぐ存在だったというだけだ」

 

 

 キザッたらしい皮肉げな笑みを浮かべたエミヤに、今まさに俺達と三角形を作るような位置取りで怪訝な表情をしている衛宮が重なる。ああ、表情や仕種は似ても似つかないけど、やっぱりコイツはエミヤシロウなんだな。

 本当に様変わりしていて外見以外でも似たところを見つけるのが難しいけど、他人への感情の向け方だけが変わらない。

 

 

「‥‥蒼崎君には色々と内緒話しておいて、私には一言もないのかしら?」

 

「君に伝えるべきことは全て伝えてしまったからな。私の知る遠坂凜が約束を違えるはずもなし、まさか同じことを二度聞きたいのかね?」

 

「遠慮しとくわ。借りはきっちり返して、作れるものならついでに貸しも作っておくのが心情だし」

 

「ク、それでこそ君らしい。ああ、安心‥‥とまではいかないが、君になら任せられると告げた言葉に偽りはなかったようだな」

 

 

 急激にアーチャーの体が足下から順番に薄れていく。体を構成している魔力が失われれば、乃ちそれこそがサーヴァントにとっての死であると言える。

 もはや幾ばくも猶予はあるまい。既に足首から始まった消滅は膝の辺りにまで広がっていて、彼が自我を取り戻したと同時に現れた剣の墓標も段々と端から崩れ、消え去りつつあった。

 

 

「‥‥最後に問おう、衛宮士郎」

 

「なんだよ‥‥?」

 

「お前の前に広がるオレの姿、オレの世界。これこそが以前お前に告げた俺達(エミヤシロウ)の行き着く果て、死の瞬間、全ての成果だ。尽きぬ悪と自分自身が犯す望みもしない殺戮を延々と見せつけられた挙げ句の果てがこの世界だ。それでもなお、お前は正義の味方を目指して進むというのか?」

 

 

 傷つき果てた黒い外套を羽織った弓兵が、薄れ始めた手を振って周りを示す。どこまでも荒涼とした地平線には一切の救いがなく、同時に絶望すら感じさせる。

 これこそが、正義の味方を志して走り続けたエミヤシロウが辿り着いた世界。心が荒れたからこそ、心に秘めた世界も荒れた。世界の荒れようは、心の荒れようをも表しているのだ。

 自分がこれから進む道が地雷原であると、受ける試験にどうやっても不合格にされると勧告されたも同じ。普通なら、確実に危険が、心砕かれる現実が待ちかまえているのに進みはしない。それは勇者ではなく愚者と言えよう。

 

 

「———あぁ、俺は俺の夢を追い続ける。

 確かに俺の夢はオヤジの、誰かの借り物なのかもしれない。でもこの世に正義の味方なんてものはいないってお前が言うんなら、『正義の味方』って夢自体は誰からの借り物でもないんだ。

 いや、そんなの関係ない。俺は俺の、俺が綺麗だって思った夢を、絶対に追い続けてみせる。もしそれが絶対に有り得ない幻だったとしても、それを追うこと自体が、俺の目指した在り方なんだ」

 

 

 だから衛宮は愚者であることを選んだのかもしれない。勇者、なんて言葉はコイツに似合わない。

 僅かばかりも揺らがずに言い切ってみせた衛宮に、アーチャーはまるでその答えを予測していたと言わんばかりにニヤリと不敵に笑う。

 負けたのが悔しくもなく、かといって決して嬉しいわけでもない。アイツは、自分が未だ衛宮の更に高みにいることを理解しているからこそ、不敵に笑ってみせたのだ。

 

 

「‥‥フン、貴様に本当に出来るのかどうかは知らん。だが覚えておけ、貴様が失敗してオレと同じ末路を辿った暁には、必ず絶望することになる。オレとて死の瞬間を越えて尚、その道を後悔しなかったのだ。‥‥凜、コイツをしっかりと見張っておいてやるのだぞ」

 

 

 最後に顔の半ばまでもを消失しながらも、最後まで弓兵は言い切ってみせた。

 俺の記憶通りの清々しいまでも偉そうな顔は、それでいて俺が昔カッコイイと感じたのとは違う、親しみやすさを湛えていた。

 未練もなく、後悔もなく、俺達へ残す感情全てを捨て去って、自負のみをその既に見えない五体に宿して。

 

 言いたいことを言い終わると白い髪と褐色の肌をもった弓兵は顔が完全に消え失せて前に体を翻し、そしてまるで向こうへと歩き去っていくかのようにエミヤは姿を消す。

 消えたはずなのに、それでも俺は広くて頼もしい赤い背中を幻視したような錯覚を覚えてしまっていた。

 そう、その後ろ姿はまるで俺達に、衛宮に向かって、『ついてこれるか?』とでも言いたげだったのだ———

 

 

 

 53th act Fin.

 

 

 

 

 



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第五十三話 『宝石杖の暴走』

 

 

 

 

 

 

 side Rin

 

 

 

 

「‥‥さて、今回の件についての説明はしっかりとして下さるんでしょうね、三人共? いくら私が我慢できる淑女でも、今回ばかりはきっちりと説明して下さらなければ納得できませんわ」

 

「アンタが我慢できる淑女って‥‥ないわ、それはないわよルヴィアゼリッタ。もしかして自覚なかったの?」

 

「そ、それは一番重要なことに関係ないでしょう!? とにかく私は断固として詳細な説明を求めると言っているのです!」

 

 

 全員が疲労困憊してベンチの周囲で休息を取る中、あの激しい戦闘を経て尚まったく乱れた様子のないドリルのような縦ロールを震わせてルヴィアゼリッタが声を上げた。

 いくらルビー達から無制限に魔力を供給されているとはいってもハードは私達なわけで、当然ながら魔力を運用すれば疲れてしまう。

 私はそういうわけで全身を脱力感と疲労感が襲っているし、バゼットは元々の怪我に加えて宝具を解放したがために一番消耗が激しく、かなり辛そうだ。

 何より私と士郎は精神的な疲労感も大きい。あれは戦闘というよりも意地とか気合いとか精神のぶつかり合いだった。普通に戦うのに加えて感情まで剥き出しにしなきゃならないんだから。

 

 

「‥‥ミス・トオサカのサーヴァントはセイバーだとばかり思っていましたが、そこは純粋に面倒な事情があるようですので構いませんわ。‥‥シェロの投影魔術も、その、とても驚きましたがそれだけです」

 

 

 アイツが消え去ってしまった後、私達が引きずりこまれた鏡面界(仮)は途端に空間自体が崩壊を始めてしまった。

 空はひび割れ、大地は割れ、空間は歪む。そのまま留まっていれば私達も崩壊に巻き込まれて虚数空間を彷徨うはめになったと思う。

 そんな窮地を救ったのは意外にもルビーの機転だった。空間の構成の一部を瞬間的に反転することで、まるで磁石の同極同士を接触させたかのように私達を鏡面界からはじき出すことに成功したのだ。

 とはいえ『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』によって完全に繋がりが絶たれてしまったところを無理矢理再契約したがために割と反動もキツく、通常空間に戻ってきた途端に私は変身を解除して半ばダウンしてしまっていた。

 ちなみに当のルビーは先程から微妙に私達から離れてサファイヤと二人で何やら内緒話をしている。‥‥気になるわね、嫌な予感がするわ。

 

 

「‥‥すまん、ルヴィア。でも俺だってアレはそう簡単にバラすわけにもいかなかったんだ。なにせホラ、封印指定とかになったら困るしな」

 

「わかっておりますわ。私とてシェロをそのような目に遭わせることは本意ではありません。‥‥打ち明けて下さらなかったことは少なからず残念に思っておりましたけど。付け加えるならば、私に抜け駆けしてショウが先に知っていたということも、ですけどね」

 

 

 もちろん目一杯に魔術礼装を使って援護していた蒼崎君も結構キツそうで、何より最後にアイツと交わしていた意味深な会話のせいか、ずっと深刻な顔で眉間に皺を寄せ、一人で誰とも喋らずに考え込んでいる。

 ここまで深刻な、近寄りがたいぐらいに緊張した雰囲気を辺りに撒き散らす蒼崎君を見るのは初めてで、私もたくさん聞きたいことがあったはずなのに、どうしても声をかけることができなかった。

 

 

「‥‥はぁ。とにかく、そういうわけですから説明はしっかりとお願いしますわ。今回ばかりは、以前のような曖昧な言い逃れを許すわけにはいきませんもの」

 

「‥‥どうしても、ダメなのね。その調子だと話し合いの余地もなさそうだし」

 

「だから先程からそう言っているではありませんか。あの黒い外套の弓兵とシェロの間柄、大体は想像できますが、貴女達の口からしっかりと話して下さらないことには納得できませんわ」

 

 

 そんな蒼崎君の様子をちらりと横目で見て小さく溜息をついた後、ルヴィアゼリッタはキッとこちらに視線を戻して厳しい追求を続けてくる。

 私達の間柄も既にあと数ヶ月で一年に届くものだし、性格的にソリが合わなくても、なんだかんだで彼女は蒼崎君と並んで時計塔の中で一番親しく付き合って来た人間だ。

 故に彼女が抱いているだろう感情が、どちらかと言えば魔術師としての知識欲に似たものではなく、かなり複雑で似て非なるものではあるけれど、近い表現としては知人や友人に向けるようなものであることも分かった。

 

 

「ミス・トオサカ。貴女には確か“いつぞやの件”で私からの貸しが一つ残っていたような気がしますけど。‥‥忘れたとは言わせませんわよ?」

 

「ぐ、アンタ今頃そんなこと持ち出す? いや、別に踏み倒すつもりなんかなかったけど、そういうのってコッチからさりげなく返すのが風流ってもんじゃないの?」

 

「必要な時に必要なカードを切れないようでは、勝機を逃してしまうのはゲームでも現実の駆け引きでも同じですわ。手痛いところをつかれた言い逃れか負け惜しみにしか聴こえませんわよ、ミス・トオサカ?」

 

 

 更にルヴィアが追い討ちをかけてくる。おそらくは以前の、士郎にセイバーの鞘が埋め込まれていた件について言っているのだろう。本当にばらすつもりなんて無いのは分かってるけど、交渉のカードならば十分だ。

 ‥‥うーん、ここまで来たら仕方がないわね。士郎とアーチャーの関係はとても異常で珍しいことではあるけれど、その秘密を知られてしまうこと自体の危険度は固有結界がばれてしまうことには及ばない。

 ルヴィアは低ランクとはいえ宝具まで作り出してしまう士郎の投影魔術をばっちり見ちゃったし、この分じゃ固有結界はおろかアーチャーとの関係にも薄々気付いているだろう。

 投影魔術だけなら生き別れの兄とかご先祖様とか色々とごまかし方もあったんだけどね。流石にそっくり同じ干将莫耶まで持ち出してこられちゃったら秘密にしておくのも限界だわ。

 

 

「‥‥仕方がないわね、どうにもこれ以上は無理そうだし。士郎、ルヴィアゼリッタと、ついでに蒼崎君にもアーチャーのこと話しちゃって平気?」

 

「そうだな、ルヴィアと紫遙なら俺も信頼できる。誰にも話したりしないだろうし、俺みたいに誰かに頭ん中を覗かれるなんてこともなさそうだ」

 

「そうね、士郎は前科持ちだものね」

 

「ぐ、あれは確かに俺が未熟だったってのもあるけど‥‥そこまで言わなくてもいいんじゃないか?」

 

 

 聖杯戦争以来、士郎には散々精神干渉系の魔術に注意するように言い含めてきたけど、それでもやっぱり何故か士郎の対魔力は低い。

 色々と方法はあるけれどクラスのスキルとして聖杯から能力を与えられているサーヴァントと違って、魔術師の対魔力っていうのは自分自身が保有する魔力の量に左右されるというのが通例だろう。

 もちろんそういう魔術を防御する術式を張り巡らせたりするってことも出来るけど、基本的に不意打ちでかけられる精神干渉系の魔術にそういう方法をとるのは下策だ。

 確実性はあるけれど、常に精神干渉を警戒して精神に障壁(シールド)を張っておかなきゃいけないのだ。それではあまりにも効率が悪すぎる。

 私だって障壁を張って防御するのはあんまりにも億劫だ。というより普段から気を張っているのも同義だから、そんなことをするのあ相当の臆病者か、何をおいても守らなきゃならない秘密を背負い込んでしまっている者だけだろう。

 

 つまり私が何を言いたいのかっていえば、士郎の対魔力の無さは単純にへっぽこって言葉だけでは片付けられないっていうことだ。なにせなんだかんだで士郎の魔力量は並の魔術師よりは多めなんだから。

 多分あれは、本当に衛宮士郎が固有結界の使い手として特化した魔術師だという証明なんじゃないだろうか。他の魔術を完全に犠牲にして、固有結界のみに全てのスペックを割り振っている。

 自分の強化とかは何とか出来るんだけど、多分あれは自分自身を剣と考えて、誤魔化して、剣に強化をかける要領で成功させているんだろう。他の魔術は初歩の初歩を含めてもてんでからっきしのままなわけだし。

 そして更に要約すると、結局ルヴィアゼリッタと蒼崎君の人柄が信用できるのならば、二人から秘密が漏れるということは考えなくてもいいということだ。

 なにせ二人とも士郎よりも遥かに腕の良い魔術師なのだから。蒼崎君は少し魔力量が少なめだけど、そんな不覚なんてとりはしないわよね。

 

 

「あの‥‥正直まったく話が読めないのですが、もしかして私は席を外した方がいいのですか?」

 

「あぁバゼット、気にしないで。これからサーヴァント五体分も一緒に戦わなきゃいけないんだし、貴女も一蓮托生よ。まぁそういうことだから、いいわ。出来る限り、本当にマズイ部分以外は話してあげる」

 

「洗いざらい‥‥と言いたいところですが、そこまで望むのは等価交換ではありませんわね。いいでしょう、私が納得できるぐらいにはお願いしますわ」

 

「会って数度という私をそこまで信頼してくれているとは、恐縮です。秘密は堅く守ることを誓います」

 

 

 恨みがましい目でこちらを見てくる士郎の視線をさらりと流すと、私は大きな溜息と共に腰に両手を当てて胸を張っているルヴィアゼリッタとバゼットの方へと向き直った。

 ‥‥ホントにデカイわね。何がとは言わないけど、その、ホラ、あれよ。私との戦力差というか、核拡散防止条例というか、独占禁止法違反というか。

 それでも桜よりはまだ絶望的に戦力が開いているわけじゃないのが救いよね。そりゃ大きいには違いないけど日本人基準で考えた話だし、欧米人の基準なら小さい方‥‥って、いやだ、もうやめよう。なんか情け無くなってきたわ。

 

 

「‥‥簡単に言うとね、アイツは士郎の未来の姿よ。士郎がいつか英霊になったのが、あのサーヴァント、アーチャーなの」

 

「シェロが将来は英霊に‥‥? それは、また、凄いというか、素晴らしい話ですわね」

 

「全然、素晴らしくなんかないわよ‥‥」

 

「ミス・トオサカ?」

 

「なんでもないわ、本当にどうでもいい独り言よ。話を続けるわね」

 

 

 困ったように、どうやって反応したらいいか分からずに無難な答を選んだルヴィアに私は一瞬殺意を覚え、それでもすぐに馬鹿な考えをかき消した。

 ルヴィアゼリッタは悪くない。何も情報がないんだから字面だけで判断すれば必然的にそうなってしまう。

 それでも喜びという感情ではなく当惑を表していたのは、多分私達が見た荒涼として無惨な剣の墓場と、どす黒い血に染まった傷だらけのアーチャーの姿が気になったからだろう。

 英霊、英雄という華やかな印象とはかけ離れた光景は即座に賛辞を送るには躊躇われる。ルヴィアゼリッタもそれはしっかりと感じ取っていたらしい。

 

 

「結局はそういうことっていうわけで終わるんだけどね、聖杯戦争中に色々と士郎との間に因縁があったわけよ。まぁ同じ人間が二人いるっていうのがそもそも異常だったんだけど、士郎からしてコレでしょ?

 コレが大人になったらどんな厄介事を背負い込んでるかなんて‥‥よくよく考えれば容易に想像つくことだったかしらね」

 

「そうですわね。余計な好意や親切を所構わず振りまいて、良悪問わずありとあらゆる厄介事の類を呼び込むことだけは間違いありませんわ。

 私が思うに、シェロは人が良すぎるのですわ。他人と積極的に関わるくせに好意や親切が一方通行ですのよ。相手から返されるのは同じ好意ばかりではありませんのに」

 

 

 途中から愚痴になってしまったけど、私の言葉に共感したのかルヴィアゼリッタも同じタイミングで再度大きな溜息をつく。

 士郎は困っている人間を見たら放ってはおけない。たとえ被害者加害者共に関わらない方がよさそうな人間だった時にも、形振り構わず突っ込んで行ってしまうのだ。

 もちろん士郎だって聖人君子じゃない。嫌なことをされれば腹は立つし、不愉快なことは出来る限り遠ざかろうとする。

 

 

「む、俺は別にお礼を言って欲しいから誰かを助けてるわけじゃないぞ。俺が助けたいから助けてるんだ。そこに助けた人がどうとかは関係ないだろ」

 

「関係ないとは‥‥それはちょっと無責任ではありませんこと? 助けたいから助けるだなんて、相手の思いを考えていないではありませんか」

 

「だから、そういうわけじゃないんだ。ただ俺が人を助けるっていうのは俺がそう思っているからで、誰かに頼まれたことじゃない。だから誰にも責任を押しつけることはしないし、俺がどうとかも気にして欲しくないんだ。助けたから重荷になるなんてのは本意じゃないし、そういうのは、その、困る」

 

「‥‥はぁ、もう士郎には何を言っても無駄よ、ルヴィアゼリッタ。これでも私の教育が効いたのか、前に比べたら随分とマシになってるんだから。やるならじっくりと、腰を据えて教え込んでいかないとね。言うなれば長期戦ってヤツよ」

 

 

 でもそれは普通に暮らしている場合の話だ。周りで何か事件や困り事を見かければ、自分の存在意義にかけて必ず手を伸ばす。

 そして手を差し伸べられた人間が、必ずその手に縋って感謝するばかりではないことを理解しながらも、手を伸ばすことだけはやめられない。

 だから余計な厄介毎を背負い込む羽目になってしまうのだ。今の士郎はそれをしっかりと理解して———納得はしてないらしいけど———いながらも、それでも尚自分の在り方を顧みようとしないから、だから私達の心配が増えていくのだ。

 

 

「まぁとにかく色々とあって、アイツとは一口には言えない関係だったわけ。詳しいことは流石に話せないんだけど、これが精一杯よ、納得してくれたかしら?」

 

「‥‥納得、は出来ませんわね。どういう経緯であのような問答をすることになったのかはさっぱりですし、あの光景についても問い詰めたい気分です。しかしまぁ、納得は出来ませんが我慢はしてさしあげます。これもまた、じっくりと貴女方から聞き出す、長期戦を覚悟しなくてはならないようですからね」

 

「悪いわね。いつか話すわよ、きっと」

 

「確証のない約束などなさらないで下さいな。今は必要ではない、それだけですわ」

 

 

 本当ならもっと聞き出したいことはあっただろう。私達の説明は言うなれば年表を追うよりも簡潔なものに過ぎなかったわけだし、それだけでは士郎のあの態度の説明はつかない。

 それでもルヴィアゼリッタはそこで一旦は引き下がってくれた。相変わらず私と彼女の仲はそこまで良いと明言できるものじゃないけれど、それでも何だかんだで付き合いは深いのだ。

 未だに会えば嫌味や皮肉をまず交わさずにはいられない。それでもそういうやりとりが定例化してしまうぐらいには顔を合わせている。それも授業だけとかじゃなくて、その後も。

 多分、本当にコイツとは長い付き合いになるのだろう。士郎のことだけじゃなくて、多分だけど私とも。まぁ勘に過ぎないけどね。

 言うなれば悪友、というよりはライバルかしらね。私と綾子も友人ではあったけど、その実で互いに鎬を削り合う仲でもあったんだから。

 

 

「じゃあこの話はお終いね。それじゃあ今後の身の振り方だけど———」

 

「なぁ遠坂」

 

「何よ士郎、突然真剣な顔してどうしたの?」

 

 

 これでバゼットを含めた私達が倒したサーヴァントは二体。まだ残り五体も英霊を倒さなきゃいけないのだ。

 今回も前回も何とかサーヴァントを倒すことに成功したけど、あくまで辛勝に過ぎない。まだ怪しい内緒話を続けている不気味ステッキの力があるとはいえ、私達もボロボロ、この任務は生半可ではない。

 士郎も一番最前線で戦っていたから疲労が溜まっているし、蒼崎君も何やら調子が悪そうだ。なによりバゼットは宝具の反動が激しく戦闘力を大幅に低下させている。

 これからは更に厳しくなる。私が次の敵へと意識を向けようと気を取り直した時、士郎が深刻な顔と声で口を開いた。

 

 

「‥‥セイバー、どこ行ったんだ? 確かあの鏡面界とかいう空間に飲まれる時にはぐれたんだよな?」

 

「っ、そういえば確かに‥‥!」

 

 

 あまりにも動転を誘う出来事が続き過ぎてついうっかり注意を払うのを忘れてたけど、確かに辺りを見回してみれば銀色の甲冑を纏った少女騎士の姿は見えない。

 私達が姿を消していたのはせいぜいが30分ぐらいで、おそらく一時間にも届いていないはず。不測の事態かもしれないけど、何かあったとしても何の形跡がないのは考えにくい。

 

 

「‥‥おかしいわね、パスが途切れてるわ。魔力の受け渡しに使うヤツは何とか機能してるけど、位置も状態も分からない‥‥」

 

 

 セイバーとの間に繋いである、使い魔(サーヴァント)と主《マスター》としてのレイライン。それを辿ることで彼女の現在位置を探ろうとしてみたけど、上手く成功しなかった。

 なんというか、上手く形容できないんだけど、すごくラインが歪んでいる。捻れて、曲がって、明後日の方向をトンデモなく複雑に経由していて把握できないのだ。

 幸にして魔力の流れは途切れてはいない。これも同様に捩れ曲がっているから行く先が全くわからないけど、セイバーが魔力不足で消滅してしまうなんてことにはならなさそうで安心した。

 

 

「‥‥ふむ、私は自己意思を持った使い魔(ファミリア)を作ったことがありませんから確とは申し上げられませんけど、もしかしたら空間を移動した影響が出ているのかもしれませんわね」

 

「ああ、確かにそういうことも考えられるわね。だとしたら糸が縺れちゃったようなものだから、時間をかけて根気よく解していくしかない、か」

 

 

 純粋な空間転移は魔法の範疇に属するけど、色々と制限や制約をつけて効果を限定すればやってやれないものでもない。要するに既存の魔術体系を捏ねくり回して何とかすればいい。

 例えば時間をかけて術式を練り上げて媒介となるようにした魔術品を用意してもいいし、特定の局面や範囲に効果を絞るのも現実的だし、今回みたいに現実空間に隣り合う異空間を作るのも理に適っている。

 ルヴィアゼリッタの説が正しいと仮定すれば、多分だけど移動の際にもつれてしまったと見るのが妥当だろう。高次元か低次元かを経由した擬似的な転移だと考えれば理屈も合う。

 つまり同じ次元を通っているから空間の隔たりが問題になるわけで、別次元を通れば問題はない。もちろん別次元に渡ることがそもそも大変だし、別次元から元いた三次元に干渉するのもまた大変なんだけど。

 

 

「もしかしたら異常事態だと判断してホテルか衛宮の家に戻っているのかもしれないしね。セイバーだったらそのくらいの判断はするだろうし、とりあえず一旦私達も態勢を整えましょう」

 

「そうですわね。魔力の供給が安定しているなら、同じサーヴァントでも出てこない限りは安心でしょう。‥‥さて、私はショウと二人で周囲を見回り、この町で活動するための準備をしようと思うのですが、ミス・トオサカはいかがなさいますの?」

 

「‥‥そうね、私は士郎を連れて久しぶりに遠坂の屋敷にでも行ってこようかしら。あそこからなら乱れているとかいう霊脈の観測も出来るかもしれないし、流石に一年ちょっと放っておいたから埃も心配だし」

 

 

 またチラリとさっきから深刻な顔をして考え込んでいる蒼崎君の方を一瞥してから、ルヴィアゼリッタは今日の夜で何度目かの溜息をつくと同時に私へ問いかけた。

 確かに今夜は流石に消耗し過ぎた。まだまだ話し合わなきゃいけないことは沢山あるけれど、それでも消耗した頭で物を考えても良い案件なんて生まれはしない。

 何者が相手かは知らないけど、相手も神秘の秘匿を考慮に入れている以上は次のサーヴァントが現れるのも今回と同じ夜のはず。ならば一先ず明日の昼間の分ぐらいは時間がある。

 それならそれで構わない。疲弊しきった体と頭を無理矢理動かして作戦を練っても大した効果があがらない以上は、まず体を休めることは怠惰と言わないだろう。

 

 

「早く藤村先生と桜に会って安心させてやりたいとも思うけど、私はともかく士郎はぼろぼろだし、こんなんじゃ桜はいいとしても藤村先生には会えないわね。今夜は遠坂の屋敷で身綺麗にして、明日の朝にでも会いに行きましょう」

 

「‥‥そうだな、帰ってきたのに傷だらけじゃ桜も藤ねぇも心配するだろうし、っていうかこんな外套(かっこう)じゃ明らかに不審人物か。なぁ遠坂、荷物はホテルに置いてきちゃったから閉まっちゃってるだろうし、遠坂の屋敷に何か俺が着られる服ってあるか?」

 

「お父様のがあるわよ。ちょっと士郎には肩のあたりが窮屈かもしれないけど、まぁその格好よりはマシだし」

 

 

 やらなきゃいけないことは沢山ある。大師父からの任務についてもそうだけど、この冬木の地の管理者(セカンドオーナー)としての業務は滞りに滞っているのだ。

 殆ど土着の魔術師がいないから実際やらなきゃいけない仕事は少ないとはいえ、その大部分を新しく冬木教会に赴任してきたディーロ神父に任せっきりになってしまっている。今まで代理に決済した様々な書類を再度私が見直さなきゃいけない。

 結構ロンドンの方で頑張って仕事こなしてたんだけどなぁ‥‥。やっぱり限界があるわよね。

 

 

「それじゃあ私達はもう行くわ。明日の予定は改めて私の方から———」

 

「俺が紫遙の携帯に連絡する。それでいいよな?」

 

「ちょっと士郎———、まぁ、いいわ‥‥」

 

 

 士郎が私の言葉に割り込んで蒼崎君に問いかける。どうやら私が電話もかけられないと思っているらしい。

 何よ馬鹿にして、私だって電話ぐらいなら簡単に使うことができるんだから! ‥‥そりゃ、よく考えたら、蒼崎君の携帯電話の番号なんか知らないけど。

 

 

「‥‥ん? あ、あぁそうだな。何かあったら俺に連絡しておいてくれ。コッチでも携帯は使えるようにしてあるからさ」

 

「ちょっと蒼崎君、本当に大丈夫なの?」

 

「大丈夫だよ、遠坂嬢。ちょっと考え事をしてしまってただけでね、気にしないでくれ」

 

「蒼崎君がそう言うなら別にいいけど‥‥」

 

 

 暫く続いた沈黙に漸く自分が質問されたことに気づいたらしい蒼崎君のいつになく慌てた様子に私はささやかならぬ不安を感じた。なんというか、そこまで深く知っているわけじゃないけど、彼らしくない。

 私にとっての蒼崎君っていうのは、正直に言ってしまえばそこまで大きな印象ではなかった。結構それなりに避難に会ってはいるけど、まだまだ綾子にも届かないぐらいの重要度だろう。

 どちらかといえば蒼崎君は士郎とルヴィアゼリッタの友人で、私は個人的に彼と深く親交を交わしているわけじゃないのだ。なんというか、多分本当にきっかけというか、そういう機会がなかったんだと思う。

 それでも毎日のように顔を会わせるクラスメートであることは確かだし、そんな蒼崎君の普段の様子から今の蒼崎君の様子は全く想像ができないものだったのだ。

 

 

「なにか悩み事があるなら相談にのるくらいやぶさかではないってことは、覚えておいてほしいわ。それじゃ私達はもう行くわね。ルビー! いつまでも喋ってると置いていくわよ!」

 

『はいはいはーい! 大丈夫ですよ凛さん、こっちの用事はきっちりきちきち終わりましたからー!』

 

「用事ってなんだったのよ‥‥? また(アンタ的に)愉快なこと考えてるんじゃないでしょうね?」

 

『あらあらあら、凛さんが私のことをどう思っているのかがよ〜くわかりました! ひどいですねー、今回は割と結構かなり真面目なお話してたっていうのに‥‥クスン』

 

 

 脇の方でサファイヤと話していたルビーが私の言葉に反応すると滑るように近づいてくる。不気味なくらい滑らかで、羽は全く意味をなしていない。同様に空力学的に意味のない動きをやっているから正しく手のようなものなんだろう。

 とりあえず真面目な話をしていたという主張は一切信用しない。百万が一本当に真面目な話なのだとしたら、甚だ不本意ではあるけどまずはマスターである私達に相談するのが筋だろう。

 

 ルビーに続いて姉に比べて真面目な雰囲気をもったサファイヤもルヴィアゼリッタの方に戻っていき、魔術礼装を含めた三人の背中は夜の闇へと消えて行った。

 ‥‥私も叶うものならサファイヤの方が良かったんだけどなぁ。

 

 

『なにを言ってるんですか! 世界に一級の魔術礼装は、まぁそんなに数はありませんが、何処の何時を見回したって凜さんのお相手(パートナー)を務め上げることができるのは、この私をおいて他にありませんッ!』

 

「その根拠のない自信は一体どこから湧いて出て来るのか、ちょっと解体して調べさせてもらってもいいかしら‥‥?」

 

『おぉっと、その手は桑田の変化球! ですよー。私という人工精霊がこの礼装(カレイドステッキ)に組み込まれているのはマスターへ助言するためでもありますが、心ない者による悪用を防ぐ目的もあるんです。もちろん自己防衛手段の一つや二つや十や百、まぁ大体二十と七つぐらいは備えてありますから、いかに凜さんでも私を解体するのは不可能ですねー。あはー』

 

 

 周りに人気がないのをいいことにクルクルと元気よく飛び回るルビーの声を聞きながら、ルヴィア達とは違う道を通って深山町を進む。

 最近———と言ってもこの一年は随分と平和なものだけど———何かと物騒だから普通の住民はツッパリを含めて皆、日が落ちてからはむやみやたらと出歩かないようになっているのだ。新都よりは特に深山町でその傾向は顕著になっている。

 二年前に起きた一連の奇怪な事件は、それから更に十年前の大火災と相俟って冬木の住人達に暗い影を落としているのだ。

 

 

「‥‥それにしても、蒼崎君は本当にどうしたのかしらね」

 

「紫遙とアーチャーが話してたことか?」

 

「えぇ。あのやり取りから察するに蒼崎君は何かすごく重大な秘密を隠し持っていて、アーチャーはそれを知っているっていうところだとは思うけど‥‥」

 

 

 何とはなしに発した私の呟きに士郎が機敏に反応して、私は大きく頷くと足を進めながらも先程から気になっていたもう一つの件について思考を巡らせた。

 黒い弓兵が自我を取り戻したことで現れた剣の丘で、全く面識がないはずの二人が交わした意味深なやりとりを思い起こす。

 

 

「蒼崎君がアーチャーを未来の士郎だって気付いたのは仕方がないことよ。彼は士郎の固有結界について知ってしまってるし、干将莫耶をくれたのも彼だしね」

 

 

 自分の知識や経験に照らし合わせて可能な限り素早く把握と判断を行うのが私やルヴィアゼリッタ。未来予知などではない感情から生じた直感で己にとって正しい答を選ぶのが士郎。そして蒼崎君はじっくりと時間をかけて考察と分析を繰り返すタイプだ。

 それでも今回ばかりは判断材料が多過ぎた。手札を、場に出されたカードを数え、どんなに慎重にババ抜きをする人でも、流石に表にされたババをわざわざ引くなんてことはしないように。

 同じ宝具ならまだしも万に一つだって同じ風景なんてない固有結界まで見せられてしまっては即断即決するのに何の躊躇もいらない。流石に士郎の固有結界を見ていないルヴィアゼリッタは漠然としか判断できなかったみたいだけど。

 

 

「でも当人同士に面識なんてないはずだし‥‥。いえ、確かにアーチャーの方は蒼崎君を知っていて当然なんだけど、なんとなく合点がいかないというか、すっきりしないというか‥‥」

 

 

 理屈の上では矛盾はない。蒼崎君は私達に何か秘密を隠していて、士郎の未来の可能性の一つであるアーチャーが知っていて、それについて言葉を交わしたのだろう。

 その秘密について蒼崎君が私達に打ち明ける必要も義務もないし、私だってそれなりに気になりはしても問い詰める気はない。本当に深刻そうだったからとても気になりはするけど。

 

 

「‥‥あぁ、確かになんていうか、もう面識あるみたいな雰囲気だったよな、二人とも」

 

「そう! それなのよ! あの二人って絶対何処かで会ったことあるわ」

 

「ありえない、とは思うんだけどな‥‥。どっちかっていうとアイツの方から面識があったみたいだし」

 

 

 士郎の言葉が私の靄々に明確な形を与えた。そう、きっと蒼崎君はアーチャーと面識がある。士郎の未来の可能性としてのアーチャーではなく、アーチャー個人との面識が。

 本当に漠然とした印象に過ぎないんだけど、私が抱いた感想は正しくそれだった。しかもアーチャーが蒼崎君を、もしくは蒼崎君がアーチャーというように片一方から片一方へ面識があるのではなく、互いに互いを知っているような‥‥。

 ううん、やっぱりそれとも少し違う。多分直接会うのは初めてだ。一番合ってそうなのは互いに伝聞情報だけっていうのだろう。

 

 

『そうですねー、英霊の座は時間の流れから隔絶された場所ですから、可能性としてはゼロではありませんねー。とはいっても今回の件から分かるように、そもそも自我を持った英霊の召喚も珍しいですし』

 

「守護者‥‥だったかしら。英霊の現象って言い換えてもいいかしらね。確かにアレは見ていて気持ちの良いものじゃなかったわ」

 

『人々の信仰によって祭り上げられた精霊の一種である普通の英霊と違って、守護者と呼ばれる霊格の低い英霊は正しく世界の奴隷だと宝石翁が漏らしていましたね〜。言わば道具みたいなもので、道具に意思はいりませんからー』

 

「‥‥なんかアンタ、自分の存在を全否定してない?」

 

 

 アーチャーが生前に親しくしていた蒼崎君のことを思い出すのはまだいい。だけどアーチャーが意思を持って召喚される可能性が低い以上、いったい蒼崎君は何処でアーチャーのことを知ったのだろうか。

 思えば私達は蒼崎君やルヴィアゼリッタについて把握している情報が少な過ぎる。色々と話を聞きはしたけれど、まだまだ私達が結果的に漏らすことになってしまった情報に比べて遥かに少ないのだ。

 彼やルヴィアゼリッタから聞き出したのは全てが伝聞情報に近い。魔眼にしても士郎の固有結界と比べてみれば珍しさで劣るし、彼には———仕方ないことではあるけど———私の目指すところも知られている。

 一方のルヴィアゼリッタにしてみてもエーデルフェルトのことは何も分からないし、個人的な範疇でしか把握できていない。まあこちらは蒼崎君みたいに重大な秘密があるってわけじゃないみたいだけど、なんとなく釈然としないことには違いない。

 別に無理を通しても聞き出したいわけじゃないにしても、正直な話、私達ばっかり丸裸に近い状況っていうのは愉快じゃないわ。

 

 

「どっちにしても紫遙に聞くしかない問題だろ。いずれ知ることになるなら俺は今は無理に聞き出す気はないし、必要な時になったら紫遙の方から言ってくると思うぞ」

 

「‥‥まぁ、結局はそうなるのよね。気になるには違いないけど、まぁ私達に害があるようなことなら蒼崎君も黙っちゃいないだろうし」

 

『いやー熱い友情ですねー! やっぱり魔法少女には恋する相手と信頼できるトモダチと、切磋琢磨するライバルがいるのがベストですよー! 凜さんと士郎君は完熟気味で多少味気ないところもありますし、ルヴィアさんとはもう少しギスギスしてくれても面白いんですが』

 

「マスターの交友関係にまで勝手に口出しするんじゃないわよ愉快型魔術礼装! あんまりナマ言ってると☆の隙間に指突っ込んで広げてやるんだからね!」

 

『凜さんはツン分が高すぎますねー。もう少しデレをアピールしていかないと逃げられてしまいますよー?』

 

「余計なお世話よ!」

 

『あはー』

 

 

 ふらふらヒラヒラと私達の周りをうざったい軌道で飛び回るルビーを捕まえてぎりぎりと音がするまで握り締め付けてやる。

 このイカレステッキ、どういう材質で出来ているのか、程よい弾力を持っているから私がいくら力を込めても上手いこと変形して一向に壊れる様子がない。

 自己防衛ってまさかこういう手段じゃないでしょうね? ホントに一から十を飛び越えて百まで人を不愉快にさせる礼装だわ。

 

 

「アンタね、確かに私の方も嫌々ではあるけど、仮にもマスターに対してそんな態度とるっていうのは随分と問題なんじゃないの?」

 

『誰がマスターでも私は私の好きなように行動します。誰からの指図も受け付けませんッ! ‥‥とと、そういえば実はその件について凜さんに重大な話があるんでした』

 

 

 突然ステッキの柄の部分を生やしたルビーが反動を使って私の手から逃れ、羽でコホンと咳ばらいをするような動作をするとピタリと宙で静止する。

 大きなスイングに危うく顔を抉られそうになって思わず後ずさってしまった私とは少し距離が開いた。具体的には咄嗟に手を伸ばしても一息には届かないぐらいに。

 

 

『さっきも言いましたが、私のように完全に独立した自律意思を持った礼装というのは非常に珍しいものです。多分ですが、世界広しと言えど私とサファイヤちゃんぐらいしかいないでしょうねー』

 

「何を自慢したいのか知らないけど、確かにそれについては同意するわ。大師父も一体なにを考えてこんな人工精霊をくっつけたんだか‥‥」

 

 

 完全に人工の人格を作りあげるのは意外と難しくて、それでも比較的ポピュラーだ。例えば使い魔や動く石像(ゴーレム)などに意思を込めることもある。魔術礼装にしたって漠然とした自我を持ったものだって皆無ではない。

 それでもほとんど完全に人間と同じような感情や自己主張を持ったものとなったら、目の前でパタパタと無意味に羽を羽ばたかせている愉快型魔術礼装ぐらいだろう。なにせ、意味がない。

 

 

『そこで凜さんは私のような礼装に生じるメリットとデメリットについて、どんなものがあると思いますかー?』

 

「メリットと、デメリット‥‥?」

 

『はいー。あ、さっき私が話した二つについてはナシですよー?』

 

 

 ‥‥このよく喋ってお調子者で、完全にマスターのことを自分の玩具としか考えていないイラつく礼装のメリットなんて、さっきルビーが自分から話していた二つぐらいしか思いつかない。

 デメリットなら山程思い付くんだけど‥‥いや、それは全部このおちゃらけた人工精霊の性格に起因する。“そういう礼装”全般に共通するデメリットじゃない。

 

 

『それはメリットでもありデメリットでもあります。‥‥いいですかー凜さん、つまり私達みたいな道具というのはですねー、使い手(マスター)と礼装《サーヴァント》が心を通わせることができれば、基本のスペックの何倍もの力を発揮することができるんですよー!』

 

「‥‥はぁ?!」

 

「おぉ!」

 

『ふっふーん、士郎さんには分かって頂けたみたいですけど、凜さんはまだまだ世界の真実に気付けてませんね〜』

 

「そんな真実こっちから願い下げよッ! 士郎も何となく納得してんじゃない!」

 

 

 まるで本当に一昔前の魔法少女モノのような台詞を吐いたルビーと、今もなお正義の味方という子供っぽい夢を追い続けているがために同調してしまった士郎を怒鳴り付けた。

 もういやだ。任務とはいっても久しぶりに故郷である冬木に帰って来たっていうのに、このステッキのせいで四六時中優雅とは程遠い叫び声をあげてる気がする。

 私だって態度には出さなくても、今回の帰郷をそれなりに楽しみにしていたのだ。まかり間違っても無機物と漫才がしたかったわけじゃない。

 

 

「‥‥ハァ、それでアンタは私に何を期待してるの? まさかと思いけどアンタと心を通わせて立派な魔法少女になれとでも言うんじゃないでしょうね?」

 

『うーん、私としてはそっちの方が面白‥‥本望なんですけど、凜さんにはそこまで望めそうにありませんからねー。嫌ですねー大人は、歳をとると守りに入っちゃって』

 

「まだ二十歳にもなってないわよ!! 大人云々以前にアンタに振り回されるのはゴメンなんだからね!?」

 

『いえいえ、しっかりと理解っていますよ凜さん。流石にもう凜さんには酷ですし、私も堂々巡りはマンネリ化してきたのでつまんないですからねー」

 

 

 クルクルとその場で回ってみせるけど、柄がついているからか通常モードよりもウザッたい上に見苦しい。

 なんていうか、上はクルクル回っているのに下の変化があんまりないっていうのが勘に障るのだ。

 

 

『‥‥そう、だから私、閃いたんです。“今のマスターがダメなら新しい人を捜しに行けばいいじゃない”って!!!』

 

「あっ、こらルビー?!」

 

 

 そう言い放ったステッキは何故か私達が思わず顔を庇うぐらいに大きな風を羽ばたきで巻き起こすと、次の瞬間には私の手が届かない空高くへと舞い上がる。

 くいっくいっと柄を曲げたり伸ばしたりして楽しいのだと表現してみせる。体全体で私達を嘲笑っているかのようなその様子に、それでも爆弾発言の衝撃で私の沸点は上がらなかった。

 

 

「どういうつもりよルビー! 新しいマスターを捜すってアンタ、まさかフラフラどっかに出かけるつもりじゃないでしょうね?!」

 

『凜さんでは私の性能を百パーセントしか使いこなすことができません! 私の力を百二十パーセント、いえ二百パーセント引き出すことが出来るマスターでなければ今回の任務をこなすことはできないんです!

いわばこれは任務達成のために私身を投げ打つ、ひっじょ〜に献身的な行為なわけですよ、あはー』

 

「寝言は死んでからいいなさいこの面白ステッキ!! そんなことマスターである私が許すと思っているの?!!」

 

『ふっふーん、わかっていませんね凜さーん。先程の宝具で切れてしまった契約は、時間が無かったがために仮の契約という形でしか復旧していません。いわば、今の私を縛るのは水に濡れたトイレットペーパーよりも脆い契約のみ! 私を束縛するならこの三倍は持ってこいというものでうしょ、フゥハハァー!』

 

 

 漸く湧き上がってきた怒りとか焦りとかに任せて雨あられと上空に向かってガンドを放つけど、くねくねと不気味に身体を動かして全て躱してしまう。

 ああもう士郎! なにを黙って見てんのよアンタは! さっさとあのイカレ魔術礼装を射ち落としなさい!

 

 

『それでは凜さん、次のマスターが見つかるまでオサラバです! だ〜いじょうぶですよ、キュートで可愛くて十二歳以下の新しいマスターが決まったらちゃんと連絡はいたします。

 私の目的は面白おかしく遊ぶことですが、宝石翁から下された任務を達成するのもまた同じぐらい重要なことですからねー。まぁ、その過程で凜さんがどれだけ苦労しようが関係ありませんが。ではアデゥー!』

 

「こらぁぁあああ!!! もう一回完璧にシメるから降りてきなさいドグサレステッキィィィイイ!!!!」

 

「遠坂落ち着けって! まずは追いかけるぞ!」

 

 

 ルビーは最後にププっと笑ってみせると林立する住宅の屋根を飛び越えて明後日の方向へと去っていき、実はそれなりに冷静だったらしい士郎が完全に沸騰していた私の手を引いて走り出した。

 

 

「あの馬鹿阿呆ステッキ、捕まえたら徹底的に折檻して二度と私に逆らう気が起きないようにしてやるわ‥‥!」

 

「なんていうか、四つに組み合っちゃダメな相手だと思うけどな。俺にとっての遠坂みたいにさ‥‥」

 

「なによ?!」

 

「‥‥ナンデモアリマセン」

 

 

 一端以上の魔術師なら魔力を放つ物体を補足できる。ルビーは隠れるつもりがないらしく飛行に使った魔力がシュプールのように残っているから、距離を離されてしまっても問題はない。

 行く先はしっかりとこちらで追跡できる。空と陸というハンデがあっても、ある程度は脚力を魔力で強化できる私達なら絶望的なまでに引き離されてしまうことはないだろう。

 それでも追跡は大変だから、前を歩く士郎に指示を出して前を注意してもらって私は目を閉じた状態で手を引かれながら魔力の補足に集中する。

 あっちの方、と大雑把に指示すれば何の説明もなくとも士郎が私の意を汲み取って的確に道を選ぶ。こういう細かいところで息が合うという些細なことが何となく嬉しかった。

 

 

「しかし本当にどうするつもりなんだ? 冬木をいくら探したって俺達以外の魔術師なんて桜ぐらいしかいないだろ?」

 

「馬鹿ね、桜はルビーの望むようなマスターじゃないわよ。それにこの方向は微妙に衛宮の屋敷から外れてるわ。それに考えたくないことだけど、あの愉快犯なら素質さえあれば一般人だって———待って、魔力源が動くのを止めたわ!」

 

 

 意識を集中させれば今の今までどういう理屈か魔力を撒き散らしながら一直線に何処かを目指していたルビーの気配が一つ所に静止している。

 何かトラブルに遭遇したのか、はたまたお目当ての場所に辿り着いたのか。前者なら周りに撒き散らす被害が私の精神力の堪え得る範疇に収まりそうだからまだいいけど、万が一後者だったら‥‥。

 

 

「最悪よ———って、ちょっとまさかこの魔力のカンジはッ?!」

 

 

 さっきまではマスター不在のために小出しにしていた魔力が、いきなり無制限に、爆発したかのように噴出されている。

 これには一度、いや二度ほど覚えがあった。黒歴史として抹消した幼少の頃のアレと、つい昨夜に悪魔のように愉しげな笑い声と共に経験した———ッ!

 

 

「ヤバイまさか、あいつマスターを見つけて契約した?! まずいわ士郎、急ぐわよっ!」

 

「お、おう!」

 

 

 もはや一刻の猶予もない。私は目をしっかりと見開くと魔力を体に回して脚力を強化し、僅かに先行していた士郎を追い越して疾走した。

 塀を跳び越え、庭を突っ切り、出来る限り音を立てないようにしながら、それでいて万が一の時は気になっても目に留めることができないぐらいの速度でひたすら走る。

 今ならまだ、間に合うかもしれない。今ならまだ、あのバカステッキを捕まえて、唐突にマスターにされた可哀想な子供に記憶処理を施してやるだけで済むかもしれないのだ。

 どちらかといえば人道に基ってと言うわけではなく、これ以上私の管理地でゴタゴタを起こしてもらいたくないからだけどね。アイツならメガトン級の騒動をマシンガンみたいに乱発させるに違いない。

 ただでさえクラスカードに関連した超ド級の厄介毎を背負い込んでいるのだから、これ以上の迷惑はゴメン被る。

 

 

「‥‥見つけたっ! もうお遊びはここまでよ、この不愉快型魔術礼装———」

 

 

 管理者としての義務感も手伝って、魔力反応が手に取るようにはっきりとわかる路地裏に、私は士郎に先んじて全速力で突っ込んだ。

 目指す標的はただ一つ、あのパステルカラーの愛と魔法と迷惑を所構わず己の好奇心と気紛れでばらまきまくる迷惑ステッキ。

 私の右手が真っ赤に燃える。あの馬鹿(ルビー)を倒せと轟き叫ぶ!

 と、速攻で厄介毎の元凶をひっつかんで被害者に処理を施し、一連の騒動を全て無かったことにしてしまおうと私が視線を向けて状況を確認しようとしたその瞬間。

 まるで心臓と頭を同時にハンマーで叩かれてしまったかのような衝撃に襲われて、私の頭の中は真っ白になってしまった。

 

 

『おやおや流石にお早いですね凜さん、そんなにこの魔法少女ルックが名残惜しかったんですか〜?』

 

「え、あの、お姉さん誰‥‥?」

 

 

 そこには一刻前の私と同じような、ピンク色の奇天烈な衣服を着込んだ年端もいかない新米魔法少女。

 本当に魔法少女と形容するより他にないくらい、それでいながら悔しくも何ともないけど私と違って完璧なまでに似合った可愛らしい女の子。

 少女を飾る装飾品のような綺麗な銀色の髪の毛と、宝石よりも透き通った赤い瞳。欧州風の顔立ちはどちらかと言えば日本人に親しみやすいタイプのもので、文句なしに美少女と称する権利がある。

 なんで即座にこんな形容詞が出てきたかって? そんなの簡単よ、だって私は、前にこの子に会ったことがあるんだもの。

 でもそんなことはありえない。この子が今ここにいていいはずがない。

 そうだ。何故勝手この子は、この子は‥‥。

 

 

「嘘、まさかアンタ、イリヤスフィール‥‥?!」

 

 

 私は金色の英雄王に心臓を奪われた雪の少女の名前を呟き、そして確かに目の前で力なく座り込む少女は、その名を聞いて怖ず怖ずとながら確かに頷いたのであった———。

 

 

 

 

 54th act Fin.

 

 

 

 

 

 

 




新生カレイドルビー、魔法少女プリズマ☆イリヤ、爆・誕ッ!!
さぁさぁきな臭くなってきましたプリズマ☆イリヤ編です。イリヤと題名につくわけですから彼女が出ないわけがないっ!
今後の展開もお楽しみに!


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第五十四話 『雪の精の邂逅』

 

 

 side Illyasviel Von Einzbern

 

 

 

 

「嘘、まさかアンタ、イリヤスフィール‥‥?!」

 

 

 突然窓の向こうの住宅街の更に向こうで立ち上った光の柱。

 それは普通の光とはなにもかもが違った。柱の太さが示す光量も、立ち上った場所も、強さも、何より神秘的と形容してしまうような異常な雰囲気を湛えていた。

 綺麗、ってわけじゃなかったと思う。ただ毎日過ごしている普通の日常とは完全に異なったその光に、私はどうしようもなく目を奪われてしまったんだろう。

 

 もちろんいつもと違う光景といつもと違う行動は、当然のようにいつもと違う結果を生む。

 もう一度見ることができないかと風呂場の明かりを消せばお兄ちゃんが入って来て、そのお兄ちゃんの顔に大リーガーの投球みたいな速さで突っ込んで来た謎のステッキ。

 その後は本当にマシンガンみたいに次々と状況は私の手を離れて進んでいった。なにせ気がついたら何時の間にか薄いピンク色の、まるっきり魔法少女みたいなコスチュームに身を包んでいたんだから。

 

 

『私が知っている魔術師はそんなに数がいませんが、流石に自他共に認める天才なだけはありますね、凜さん。まさか私の速さについてこられるとは思いませんでしたよ、あはー』

 

「あのー、すいません、お姉さんは一体誰なんですか‥‥?」

 

 

 そして魔法少女ルックになってしまった自分の姿にびっくりして、何より裸のお兄ちゃんとお風呂場にいるのが恥ずかしくて一先ず窓から飛び出し、私はこの奇妙な状況に直面していた。

 あまりの目茶苦茶に脱力して座り込んでしまった私の前に現れたのは、鮮やかな赤と黒のコントラストが眩しい一人の女の人。

 歳は多分お兄ちゃんと同じくらい、もしかすればもう少しぐらい年上かもしれない。私より長い黒髪を頭の両側でツインテールにしていて、際どい長さのミニスカートは何故かこの人に限っては上品に見える。

 そして少し日本人にしては彫りが深い綺麗な顔を驚きの表情で彩りながら、その女の人はまるで信じられないものを見るように、それこそ目一杯まで瞼を見開いて私の方を見つめていた。

 

 

「‥‥っ、一つ聞かせて。貴女、まさかと思うけど、“イリヤスフィール・フォン・アインツベルン”?」

 

「え‥‥あ、うん。確かに私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンで間違いないけど‥‥。あの、私ってお姉さんに会ったことありますか?」

 

 

 その女の人を私は思い出せない。何故かって、答は簡単だ。少なくとも物心がついてからの私はこの人に会ったことがない。

 でも私はこの人の顔も声も名前も知らないのに、この人は名乗ってもいなければ、クラスメートや担任の先生だってしょっちゅう間違える私のフルネームを、初めて会ったはずなのに正確に口に出してみせた。

 私の長い名前の一文字一文字を口にするたびに、私と同じように化粧をしてないらしい唇が震える。まるでお化けでも見てしまったかのように。

 それでも震えているのは唇だけで、手足はおろか山奥の湖みたいに深い色を湛えた瞳も微動だにしていない。この人が感じている色んな感情を想像すれば、私ならきっとガクガクと震えて立ってなんかいられなくなってしまうだろう。

 

 

「待って、落ち着け、落ち着きなさい私。この状況はあきらかに変よ。しっかりと現状を把握しないと‥‥」

 

「あの、お姉さん?」

 

『一体どうしたんですか、凜さんー?』

 

元凶(アンタ)は黙ってなさい、ルビー。私は考え事をしているのよ」

 

 

 お姉さんは額に手をやり、目をつむって何事かを呟きながら数拍だけ考え込む。次いで大きな溜息と深呼吸を同時にすると、キッとこちらに向き直った。

 

 

「ルビー、貴女この子のことを知ってる?」

 

『えぇ存じておりますよー。彼女は私の新しいマスター、イリヤさんで―――』

 

「そうじゃないわ。貴女はこの子のことを初めから知っていて、マスターに選んだのかって聞いてるのよ」

 

『‥‥んっんー、おかしなことを言いますねー? 私は私自身の直感とかインスピレーションとかを信じてひた走り、遂にはイリヤさんとドラマスティクな出逢いを果たしたわけですが?』

 

「‥‥なるほどね、つまりアンタが関わっているってことじゃないわけか」

 

 

 苦々しげに私の手の中でクネクネと踊るマジカルルビーを睨み付け、あまつさえ舌打ちまでしてみせたお姉さんは次に視線をやや上、私の顔へと向ける。

 伸ばせば手同士が触れ合うぐらい近くに来て、改めて目の前の女の人がとても美人だってことに気付かされた。方向性が違うけど、多分ママとも張り合えると思う。

 

 

「ねぇイリヤスフィール。くだらないことを聞いてもいいかしら? 何を言ってるのかわからないかもしれないけれど‥‥貴女は魔術とか、錬金術とかについて聞いたことはある? どんな些細なことでも構わないわ」

 

「ま、じゅつ‥‥? うーん、アニメとかゲームとかに出て来てたのなら聞き覚えがあるんだけど‥‥」

 

「‥‥嘘、っていうわけではないわね」

 

「嘘なんてついてどうするんですか」

 

「確かに。つまりはまるで普通の女の子ってことね。少なくとも自分自身の意識においては。‥‥見た限り魔術師ってわけでもないし。そもそも“あの”イリヤスフィールだったら嘘なんかつかない、か。

 ‥‥まさかアインツベルンが用意したホムンクルスはおろか、まるっきりの一般人とはね。何か私の知らないところで色々と巻き起こってるのかと思ったけど、そんなはずもないし‥‥」

 

 

 全くと言っていいぐらいに聞いたことのない言葉が次々とお姉さんの口から出て来て、私は自分が置かれた状況が理解できなくて目を白黒させた。

 突然お兄ちゃんの顔面目掛けて飛び込んで来たマジカルステッキからして私から冷静にものを考えることを奪うのには十分過ぎたけど、このお姉さんの登場は更に私のパニックを加速させたんだ。

 もしかしてこのステッキの関係者なのかな? だとしたらどうして私の名前を知っているの? そもそもお姉さんって一体だれ?

 

 

「‥‥これはどうもヤバイわ、参ったわね。‥‥イリヤスフィール、貴女ちょっと厄介事に巻き込まれたわよ」

 

「厄介事‥‥?」

 

「そう。今の私が置かれた状況もそうなんだけど、貴女が今その手に持っている不愉快型魔術礼装がね、貴女を否応なく騒動とか迷惑とかに巻き込むってこと。悪いわね、こんな奇天烈な目に遭わせちゃって。

 ‥‥本当なら重しを幾つも括り付けて新都の港に沈めたいところなんだけど、一応それ、私としても大事なものってことになってるのよ。こっちの勝手で悪いんだけど、そのステッキ返してくれない?」

 

 

 眉と眉の間に深い皺を刻んで、腰を屈めたお姉さんが右手をこちらに伸ばしてくる。‥‥どうも私が持っているステッキは元々お姉さんのものだったらしい。

 ‥‥うん、返そう。これは確かに胡散臭い。もしかしてこのお姉さんの持ち物じゃなかったとしても、お姉さんが必要だっていうなら私はいらないや。

 私は確かに魔法少女とかは大好きだけど、このステッキからは私が憧れたような魔法少女の空気がしない。ましてや実際にそういう話になってパニックがひどいし、何よりあの出遭い方はドラマスティックとは程遠かった。

 

 

「‥‥なにしてるの? 返してくれるつもりなら手を離してくれなきゃ」

 

「あれ、おかしいな‥‥? なんか、手が離れない‥‥?!」

 

「はぁ?!」

 

 

 ごくごく自然に躊躇なく差し出した、さっきまでとは打って変わって静かに大人しくしているステッキをお姉さんが掴む。

 そして当然の流れとして私はステッキを掴んだ手を離そうとして‥‥出来なかった。私は離そうとしているのに、手はまるで別の生き物になってしまったかのように全く私の命令を聞かないのだ。

 

 

『ふふふふーん、甘いですね凜さーん?』

 

「ルビー?!」

 

『確かに私はマスター無しでは自分にだけ影響するような簡単な魔力運用しかできませんが、契約自体は私の主導で行われます。

 つまり! いくらマスターになりたくてもなりたくなくても、私の意志でなければ契約することも解除することも出来ませんっ! せっかく手に入れたロリッ子はそう簡単に手放しませんよ〜!』

 

「な‥‥ッ、なんてことしてくれんのよバカステッキィィイイ!!」

 

 

 え、何、つまり私はルビーって自己紹介したこのマジカルステッキの気が変わるまではこの恰好でいなきゃいけないってこと?! あーいや、魔法少女っていうなら普段はいつも通りで必要な時だけ変身するのがセオリーだけど‥‥。

 なんていうか、お姉さんの視線がすっごく怖い。例えるなら手持ちの金品だけ素直に置いていったらそれだけで許してくれたはずなのに、抵抗されたから隠し金庫の位置まで身ぐるみ剥がして聞き出されようとしているような‥‥。

 

 そこまで考え事が進んで思わず冷や汗を垂らしてしまった時のことだ。

 今のお姉さんの叫び声を聞き付けたのか、それとも普通に喋っていてもやたらと響くルビーの声を聞き付けたのか、やけに慌てたような焦ったような足音がこちらに向かってくるのを聞き付けた。

 ‥‥まさか、誰か来る? ちょっとマズイよソレ! 私が言うのも何だけどウチは色々と目立つから近所じゃちょっとした有名人で、そんな目立つ私がこんなカッコしてるところを見られたら大変だ!

 

 

「ど、どどどどうしようお姉さん?! 私こんなところ見られたらもうこの町から出てくしかないよぉ!」

 

「ちょ、落ち着きなさいイリヤスフィール! そんなの後で記憶を操作すればどうとでも―――」

 

「何があったんだ遠坂!」

 

 

 さっきから物凄い勢いで近付いて来ていた足音の主が、家と家の間に微妙な空間を作っている路地へと入って来た。

 入口にあたる塀の隙間で無理矢理方向転換して、少し進むと強引にブレーキをかける。足跡がしっかりとアスファルトを削って刻みこまれるぐらいにはっきりと残るぐらいの速さだ。

 さっきから異常なことばっかり起こってるから感覚が麻痺しかけてるけど、今のスピードも十分過ぎるくらい人間離れしている。ルビーの同類だろうか。

 

 

「他人様の庭とか突っ切るなんて一体なに考えて、るん、だ‥‥」

 

 

 声から分かるように、駆け込んで来たのは高校生から大学生ぐらいの男の人だった。背はそんなに高くないけど、全体的にがっしりとした力強い体つきをしている。

 着ているのは丈の長い、もしかしたら足首にも届くかってぐらいの真っ黒なコート。ボタンを留めてないから前が開いていて、中にはコスプレみたいな真っ赤な外套と、黒い鎧みたいなものが見えた。

 靴は普通に暮らす分にはあんまりにもゴツゴツとしたブーツで、動きやすくするためなのか足にはベルトが何本が巻き付けてあって、コスプレっぽさは益々拭えない。

 特徴的なのは服装だけじゃなくて、首から上もそうだった。間違いなく日本人だと断言される東洋風の顔立ちに、何故か髪の毛は赤錆たような不思議な色。

 いつもなら頑固で生真面目そうでありながら優しい表情を浮かべている顔は先程のお姉さんと同じ様に信じられないものを見たとでも言いたげで、それでも今度ばかりは私だって驚き具合なら負けちゃいない。

 

 

「‥‥イリヤ?」

 

 

 呆然と呟く、その青年。

 けれど私の驚きも、その人に比べて少しだって小さくなんてない。

 

 

「そ、そんな、まさかイリヤ‥‥?!」

 

「お、お兄ちゃん?! う、嘘なんで、だって今さっきはそこに‥‥ッ?!」

 

 

 思わず背中の後ろ、私が転げ落ちてしまった窓からお風呂場を覗きこめば、確かにそこにはルビーの体当たりを顔に受けて気絶してしまったお兄ちゃんが倒れたままだ。

 でも勢いよく前を振り返れば、そこでもお兄ちゃんが目を丸くさせて、さっきのお姉さんと同じような顔で私の方を見ている。

 ‥‥あれ、一体どういう事なの? だってホラ、お兄ちゃん二人いるよ、ホラ!

 

 

「な、なんでイリヤがこんなところに‥‥?! だってイリヤは、イリヤはあの時アインツベルンの城で‥‥!」

 

「ちょっと落ち着きなさい士郎! ‥‥うわ、ホントにもう一人士郎がいるわ。しかもちょっと幼いし、もしかして聖杯戦争ぐらいの時かしら? なんていうか、同じ顔が二つってのは慣れてるつもりだったんだけどねぇ‥‥」

 

「‥‥あの、どこのどちら様か知らないけど、出来ればジロジロお兄ちゃん見ないでくれます? その、お兄ちゃん裸だし」

 

「あぁ悪いわね。でも気にしないで、どうせ見慣―――じゃなくて、貴女のお兄ちゃん? にはそういう気はないから」

 

 

 もう一人のお兄ちゃんが顔を真っ青にさせて何か呟いている間に、お姉さんは私の横を通り過ぎて窓からお風呂場の中を覗く。

 そして殆ど裸に近いお兄ちゃんの姿を見ても恥ずかしがる様子もなく、気絶したお兄ちゃんと私の目の前で難しい顔をしているお兄ちゃんを交互に見つめて、ようやく合点がいったとでも言いたげにフムフムと頷いた。

 もちろん私には何が何だかさっぱり分からない。お兄ちゃんが二人現れた時点でパニックは最高潮に達してしまい、もう色々考える余裕すらなくなってしまってる。

 だってもう無理だ。

 不思議な光を見て、お兄ちゃんには裸を見られて、そのお兄ちゃんは何か突然突っ込んできたステッキに倒されちゃって、そのステッキに今度は私が魔法少女なんかにされちゃって‥‥。

 トドメは何故か私の名前を知っている謎のお姉さんと、少しばかり年上に見えるもう一人のお兄ちゃんだ。もう私の許容範囲(キャパシティ)を超えちゃってるよ。

 

 

「‥‥さん? イリヤさん?」

 

「大変、セラの声だ! 今の物音が聞こえてたんだ、どうしよう‥‥ッ!」

 

「‥‥はぁ。士郎もそうだけど、貴女も落ち着きなさいイリヤスフィール。だいたい状況は分かったから、これから先は私がちゃんと説明するわ。貴女にも関係あることだし、ね」

 

 

 お風呂場の扉の向こう、脱衣所の方から聞こえてきた声に今度は私の顔が真っ青になった。

 あれはセラの声だ。セラは色々と過保護だから、風呂場から聞こえたトンデモない騒々しい物音を不審がって様子を見に来ちゃったんだろう。

 まずい、まずいよ。ご近所の人に見られるのも大変だけど、セラに見られるのはもっと大変だ。私の恰好もそうだし、もう一人のお兄ちゃんなんてオカルティックな光景はもっともっと大変だ。

 何故か知らないけど、私は不思議と正体を知られちゃいけないという強迫観念に囚われていた。多分これ、魔法少女モノのお約束だからなんじゃないかな。

 

 

「ルビー、アンタ今の状況一番よく理解できてるんでしょ? さっさと変身を解いてやって、家族の人に言い訳させてやりなさい。士郎は今のうちに落ち着く!」

 

「あ、あぁ、そうだな遠坂。イリヤも悪い、取り乱しちまって‥‥」

 

「う、ううん、平気だよお兄ちゃん。その、ホラ、このステッキが一番うるさいし」

 

『あらあらあら、パートナーに大してなんたる扱い! さらりと凛さん以上に毒舌ですねイリヤさん! そこに痺れる憧れるー!』

 

 

 慌てふためいて冷静に行動できない状態の私を見て溜息をついたお姉さんがルビーを促して、私は頭を下げるとおそるおそる窓からお風呂場の中へと侵入する。

 すると右手に握っていたステッキが輝いて、私は変身する前の姿、つまりは裸に戻ってしまったので、慌てて湯船の中へと体を沈めた。気絶してるとは言ってもお兄ちゃんが目の前だし、後ろにはもう一人のお兄ちゃんがいるんだから。

 

 

「イリヤさん? 何か大きな物音がしましたけど、なにかあったんですか?」

 

(適当に誤魔化しなさい。お風呂から上がったら貴女の部屋の窓から呼べばいいから)

 

「あ、はい分かりました。‥‥なんか悪戯で石が投げ込まれたみたいなのー! 窓が割れて、お兄ちゃんにぶつかっちゃったから助けに来てー!」

 

「なんですって?! わ、わかりました今すぐ入ります!」

 

 

 ボソボソと小さな呟き声で指示された後に窓の外から人の気配が消え、私は脱衣所にいるらしいセラに聞こえるように大きく声を張り上げた。

 素っ頓狂な叫びとドタバタという物音がするから、タオルとか何かを用意しているらしい。時々「なんでシロウが一緒に入っているんですか‥‥!」とかいう言葉も聞こえるから、お兄ちゃんが半殺しにされないように後でフォローしておかなくちゃ。

 

 

『ふっふっふー、これはまた私好みの愉快な展開になりそうな予感ですよー、あはー』

 

(静かにしててよルビー! ていうか何時の間に私の髪の毛の中に潜り込んだの?!)

 

 

 とりあえず脇の棚にかけてあった背中を洗うブラシで、お兄ちゃんの腰に巻かれたタオルはこっそりと位置を直しておいた、ウン。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「‥‥ふー、悪いわね手間かけさせちゃって。お母さん? 彼女宥めるの大変だったでしょ?」

 

「セラはお母さんじゃなくてハウスキーパーだよ。家族みたいなものだけど‥‥って、お姉さんとお兄ちゃん、どうして二階までジャンプできるの‥‥?」

 

「魔力で体を強化してちょちょいとね。まぁ途中で高さが足りなくなって隣の家に蹴り入れちゃったけど」

 

 

 一通りセラと、あと騒ぎを聞き付けて野次馬に来たリズお姉ちゃんに出任せを説明して、お兄ちゃんを介抱したり窓の片付けをしたりと事後処理を済ませた私は、少し湯冷めした体で部屋に帰って来た。

 部屋に入って一番最初に目に入ったのは、私のベッドに腰を下ろして涼しげな顔でこの部屋の持ち主である私を出迎えたさっきのお姉さん。

 そしてその隣に立って腕組みをしながら眉間に深い深い皺を刻みながらも、私が入って来たのに気付くと急いで見慣れた―――ちょっとぎこちなかったけど―――笑顔を浮かべたもう一人のお兄ちゃんだ。

 さっき下で文句たらたらなセラの治療を受けていたお兄ちゃんと殆ど変わらない。‥‥うーん、ウチのお兄ちゃんより少し年上なのかな? 体もがっしりしてるし、背も高くなってる。

 だから注意して見れば、二人のお兄ちゃんを並べてみれば違いは歴然。絶対に同じ人間じゃないことは明らかだ。

 それでも私の目の前のお兄ちゃんを錯覚してしまうのは多分、やっぱり感じる雰囲気が全然変わらないからじゃないかな。やっぱりどっちも優しくて不器用な私のお兄ちゃんだ。

 

 

『いやーヒステリックな家政婦さんでしたねー。犯人を見つけたらグラム98円で出荷してやるって怒り狂ってましたよー』

 

「そもそもの元凶がへらへら笑ってるんじゃないわよルビー! とにかく、イリヤスフィールも落ち着いたなら一旦どこかに座りなさい。私の頭の中で整理はしたけと、ちょっとややこしい話になりそうだからね」

 

 

 まるで自分の部屋であるかのように寛いでいるお姉さんに促されて椅子に腰を下ろす。その間も視線はずっとお兄ちゃんに固定されたままで、動かすことはできなかった。

 傍目に見たらおかしな光景だったかもしれない。微妙な距離感を保ちながらも、お互いに顔はぎこちない笑顔なんだから。

 

 

「それじゃあ自己紹介させてもらうわね。まず私の名前は遠坂凜。倫敦の時計塔に所属している魔術師で、この冬木の地の管理者(セカンドオーナー)よ」

 

「とけいとう? せかんどおーなー?」

 

「そうね、時計塔は魔術を学ぶ大学みたいな場所で、セカンドオーナーは魔術的な管理人、地主みたいなものかしら。もっとも、今ここではその肩書も大して意味がなさそうだけど‥‥」

 

 

 また大きな溜息をついたお姉さん‥‥遠坂凜さんがチラリと私とお兄ちゃんを交互に見て、また難しい顔で眉をひそめた。

 その仕種がやけに人を不安にさせる。まるでドッジボールで目の前を横切ったボールを捕ろうとして、それでも手が出せないようなもどかしさがある。

 何が何だかサッパリっていうのは、その大きさというか、度合いは比べものにならなくても今まで経験したことがないわけじゃない。でも今の私はそれとは別な不安感を抱えていた。

 

 

「それでコイツは私の弟子の衛宮士郎なんだけど‥‥。色々と話すその前に、貴女のことも聞かせてもらえるかしら?」

 

「あ、うん。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。なんていうか、まぁ、普通の小学生です‥‥」

 

「なのよねぇ‥‥。まぁ百歩譲って貴女の方はそれでいいとして―――お風呂場で倒れてた方の士郎とはどういう関係?」

 

「十年くらい前に切嗣(おとーさん)が連れて来たの。孤児だったみたいなんだけど私はよく知らないや」

 

 

 一瞬、空気が固まった。二人が一斉に息を飲んだからってのもあるけど、凍りついたっていうよりは固まったっていう感じが正しいんじゃないかと思う。

 今度の驚きは私じゃなくて、お兄ちゃんと凜さんの方。特にお兄ちゃんは今まで見たことがないぐらいに目を見開いて、私というよりは私の後ろにいる誰かを見ているようだった。

 

 

「イリヤは、ハーフなのか‥‥?」

 

「うん。おとーさんが日本人で、ママはドイツ人。でも二人とも今は外国でお仕事してるからあんまり家には帰って来ないよ」

 

 

 するとお兄ちゃんは一瞬だけ泣き出す寸前のような顔をして暫く目をつむり、目を開けた時にはさっきと変わらないようだったけど、やっぱり泣いているように見えた。

 そこまで感じ取って、私は改めて今の状況の不思議さ、不気味さを実感する。これは一体どういうことになってるんだろう?

 冷静になって考えてみれば、どんなに似ていてもお兄ちゃんが二人いるなんてことがあるわけない。そんなのはドッペルゲンガーだし、目の前のお兄ちゃんは私のお兄ちゃんとは微妙に違ってる。

 この人達は誰で、何処から来たのかな? そんな私の特大の疑問符を察したのか、お姉さんは少しだけ考え込んだ後に思い切るように口を開いた。

 

 

「‥‥これはまだ確定してない仮設に過ぎないんだけどね、多分私達は並行世界から紛れ込んじゃったみたいね」

 

「‥‥へ?」

 

「並行世界よ。いろんな可能性で分岐した、自分が今いる世界と並列して存在する似て非なる全く別の場所。どうも空間転位の時にトラブルが起こったみたいだわ‥‥」

 

 

 難しいながらも噛み砕かれた言葉を私が理解するには、その言葉の後に凜さんが色々これまた私には全く理解できないことを一通り呟くまでかかった。

 並行世界、パラレルワールド。アニメや漫画の中で何回か見たことがある言葉だ。『もしココでこうじゃなかったら』っていうIFの世界についての知識は確かにある。

 

 

「だからこの士郎は貴女の知る士郎とは別人ね。そもそも世界からして別なんだから当然なんだけど。もちろん私がもう一人この世界にいたとしても、この私とは別人だからね」

 

「うぅ、頭がこんがらがってきた‥‥」

 

「そう? 本人が目の前にいるんだから話は早いと思うけど」

 

 

 しれっと凜さんが言うけど無茶苦茶にも程がある。むしろ逆だ。同じ顔が二つ、それも血は繋がってなくともお兄ちゃんの顔なんだから。

 あれ、そういえば私のことを見てお兄ちゃんも凜さんも尋常じゃないくらい驚いてたけど、あれってどういうことなのかな?

 

 

「あの、お兄ちゃん達は私とは別の世界にいたんだよね? そこの世界の私ってどういう子だったの?」

 

「それは―――」

 

「悪いけど、私達は向こうの貴女とはそんなに親しくなかったのよ。会ったのも数回だけだったし、その後すぐに外国の方に帰っちゃったわ。だから貴女が冬木にいるとは思わなくて随分とびっくりしちゃったのよ」

 

「‥‥そう、なの? じゃあ私はお兄ちゃんと兄妹じゃなかったんだ‥‥」

 

「あー、いや、どうかな、イリヤは一方的に俺のこと“お兄ちゃん”って呼んでたから、俺は知らなかったけど切嗣(オヤジ)と色々あったのかもしれないな。‥‥まぁ、そうだな、イリヤには悪いことしちまった‥‥」

 

 

 苦々しげに顔を歪めたお兄ちゃんと、眉間の皺がいっそう深くなった凛さんの様子はすごく気になったけど、私は続けて深く質問することはしなかった。というよりも出来なかった。

 多分、ううん間違いなく私はお兄ちゃんと、あと凜さんとも何かがあった。私がお兄ちゃんと一緒じゃなかったこととか、切嗣(おとーさん)やママはどうしているのかとか、そういう疑問はたくさんある。

 お兄ちゃんの苗字が衛宮ってことは切嗣(おとーさん)

の養子になったのは変わらなかったんだけど‥‥。もしかして離婚しちゃってたりしたら、イヤだな。

 

 

「‥‥引きずるなって言う方が無理な話かもしれないけど、一先ず今だけ二人共しっかりと気持ちを切り替えなさい。まだ色々と話さなきゃいけないことはあるんだからね」

 

「あ、そういえば並行世界と凜さんとお兄ちゃんについての話は聞いたけど、ルビーについてがまだだったね」

 

『空気が読めると定評のあるルビーちゃんですけど、あんまりにも読み過ぎてずーっと黙ってたから存在感が薄くなっちゃってましたねー』

 

 

 確かに本人の言葉の通り、初対面で受けた強烈なインパクトに比べて、柄を収納した携帯モードのルビーは不自然なくらいに静かだった。いっそのこと不気味なくらいに。

 パタパタと羽を動かせて私と凜さんの間をくるくると飛び回って、たまにお兄ちゃんのところにも行くけどちょっかいは出さない。‥‥多分、女の子じゃないからだ。

 

 

「ホントむかつく礼装ね、アンタは。どうせ鏡面界から出た時には並行世界だって気がついてたんでしょ。まさか、これもアンタ達の仕業だったりしたら今度こそ私は解体を躊躇わないわよ?」

 

『んっんー、そうですねー、第二法の行使手である宝石翁に生み出された限定礼装である私達なら、並行世界移動を観測出来ないこともないという推論は正解です。

 けど、流石のルビーちゃんでも完全な並行世界への移動はできませんねー。言わばこれは偶然に偶然が重なって起こったハプニングですよ』

 

「‥‥偶然にも程があるわよ。そんな運とかのレベルで魔法の範疇にある現象に遭遇するなんてありえないわ。何か、必ず理由があるはずよ」

 

『今回は割とイレギュラーな要素が多かったですからね。まぁ少しお時間が要りますが、分析の方はお任せ下さいねー。

 ‥‥とまぁ、当面の問題はまた別にあるんですけど』

 

「「「別の問題?」」」

 

 

 少し声を低くして呟かれたルビーの言葉に、難しい顔で黙ってしまっていたお兄ちゃんを含めた三人共が疑問符を頭の上に浮かべて尋ねた。

 その言葉の調子は声が低いとかとは無関係に不穏で、間違いなく当事者のはずなのに全くと言っていいぐらい事情を把握していない私でも嫌な予感が止まらない。

 あー、いや、そういうのも今更かな。だって私がどうこうしたからって問題じゃないもんね。

 きっとさ、最初から決まっちゃってたんだよ。私がルビーを手にとったその時からじゃなくて、私がルビーに目を付けられちゃったその時から。

 だから多分、きっと、間違いなく、

 私のこれからは今までとは一転、

 波瀾万丈愉快痛快の毎日になってしまうに違いない。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「さて、凜さん達から別れたのは良いのですが、一体これからどうするのですか、ルヴィアゼリッタ?」

 

「そうですわね、今回の任務に際して冬木に仮宿を用意するつもりですから、まずはその予定地を検分するつもりですわ。あとはまぁ軽く見回りですわね。サーヴァントは撃退しましたけど、他の場所に異常や兆候がないかどうか調べなくてはなりません」

 

 

 草木も眠る丑三つ時‥‥には少しばかり早い深夜。それでも全く人気のない冬木は深山町を三人の人影と一つの怪物体が進んでいた。

 あまりにもちぐはぐな組み合わせだ。三人の内の二人までもが冬木では珍しい外国人で、しかも紛れも無い美少女と来ている。一緒に歩く男の地味な顔立ちが逆に目立って仕方がない。

 もっともその目立たない男というのが俺なんだから、自虐的にも程があるってものだろうけどね。

 

 

私達(カレイドステッキ)には事前に用意した霊脈の歪みを感知するプログラムが入っています。もしサーヴァントが現れる兆候を確認できたらすぐにルヴィア様にお知らせ致しますが‥‥』

 

「それでも見回りは必要ですわよ、サファイア。貴女の能力は信頼していますが、取りこぼしが絶対にないとは限りません。それにどちらにしても下見にはいかないといけませんから」

 

「ふむ、そういえば私も前回の聖杯戦争の折にこちらへ立ち寄ることはしませんでしたね。確かに自分の足で戦場を把握するのは大切なことです」

 

 

 どんな糸よりも細く美しい金色の髪を縦に巻いた特徴的な少女、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが背筋を伸ばして悠然と闇深い通りを歩く。その言葉や態度だけではなく、意識などしなくても体中から自信が滲み出ている。

 隣をややゆっくりと、少々ぎこちなく歩く長身のバゼット・フラガ・マクレミッツも同様だ。傷ついて消耗しているはずなのに、その女性としての丸みを帯びた体は男の俺に比べても力強い。

 そんな二人が今後について様々に議論を交わしている中、俺は一人だけ数歩後ろを遅れ気味についていっていた。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

『‥‥‥‥』

 

 

 会話が途切れ、不自然な沈黙が元々木擦れの音も聞こえない住宅街を支配する。俯いてしまっている俺にはわからないけど、おそらくはチラリとこちらに目を向けたのだろう。

 しかし俺はその何か問いたげな視線を俯いた額の辺りに受けても答えない。いや、そもそも答える余裕なんてなかったんだ。

 どれだけ注意を辺りに払おうとしても、そうしようという意思が頭の中から出てこない。捕えられてしまっている。別に戦いに慣れてるとか言うつもりはないけど、無用心には違いないな。

 

 

(エミヤ、か‥‥)

 

 

 本来ならば戦闘能力において著しく劣る分だけ、頭脳労働役として精一杯働かなくてはならないはずの俺の頭の中にあったのは今回の任務についての腹案なんかじゃ勿論ない。

 頭の中を占めていたのは十年以上前の記憶。今もなお、全く意味も価値もないくせに俺の足を引っ張り続ける厄介者だ。

 

 持っていても聖杯戦争が終わってしまった以上は利益がない。利用して他人との交渉事での切り札(ジョーカー)に出来るかもしれないけど、幸か不幸かそういったものにはついぞ縁がなかった。

 ついでに言えば記憶そのもの自体がトンデモない危険物。いわばスペードの3を相手にくれてやり、なおかつジョーカーを切ろうとするかのような愚行に外ならない。

 全くもって、今までこんなものが積極的に役に立ったことなんてない。強いて言うなら橙子姉や青子姉に拾ってもらったこと、ルヴィアに話しかけるきっかけになったことぐらいか。

 

 

(久しぶりに、深く思い出したな。一番最後にここまで深く考えたのが桜嬢を助けに冬木に行く前だから‥‥半年とちょっとぐらいってところかな。はぁ、ホントにあるだけで鬱にさせてくれるよ‥‥)

 

 

 願うことならば捨ててしまいたい。こんなものはいらなかった。

 今の俺は確かに、この世界に来て間違いじゃなかったと思っている。この世界の住人で構わない、むしろ本望だと思っている。

 でもそれは決して、《Fate/stay night》や《月姫》、《空の境界》というカタチでこの世界のことを、この世界で出会った人達のことを知っていたからじゃない。キャラクターとして好きだったからじゃない。

 それじゃ所謂ミーハーってやつだ。会ったこともない芸能人を実際に好きになれるかと聞かれれば、当然ながら一人の人間としてその人のことを知らなければ頷けないのと同じこと。

 頷けるようになった頃には、芸能人だという要素はその人の付加価値の一つに過ぎなくなっているだろう。俺もそうだ。

 

 二次元の登場人物だから橙子姉達の義弟になったわけじゃない。なにせ、拾われてすぐに名前を貰ったワケじゃないんだから。義弟にしてくれるまでに、また色々とあった。

 だからこそ言える。こんな記憶、あったところで何の役にも立ちはしない。多少のメリットがあったとしても膨大なデメリットがすぐに打ち消してしまう。

 

 

(―――なんでエミヤは、衛宮は、俺の秘密を知ってあんなに自然に笑えるんだ‥‥?)

 

 

 例えばクラスメートに、『ずっと昔からお前のことは知っていた。お前のことを書いている小説があって、お前のことをソレで知っていた』なんて言われたらどうだろうか。

 あまつさえ『お前はゲームの登場人物だ。俺の世界の誰かがお前というキャラクターを考えて、これまでの人生全てを作ったんだ』と言われてしまえば、しかもそれが事実だったら、アイデンティティの崩壊だ。

 俺だったらどうするだろう。最初こそ一笑に付して、それで本当だと分かったらどうするだろう?

 ‥‥間違いなく、自暴自棄になる。下手したらコワレテしまうかもしれない。俺はそんなに強い人間じゃないんだから。

 衛宮のことを許容できたのだって、事前知識として衛宮のことを知っていたからだ。それでもなお実際に目にして俺の中の魔術師としての部分が激しく動揺しているのは、俺が弱い人間である証明みたいなものだろう。

 遠坂嬢やルヴィアみたいに、自信たっぷりに許容してやるなんてのは無理だ。俺にはそんなことは出来ない。

 

 なのに何故、エミヤは不敵に笑ってみせることができたんだ? 『なんでもない』と一笑に付すことができたんだ?

 自分が誰かに作られた存在であると知って、どうして普通に俺と話すことができた? ありえない、俺には無理だ。理解できない。

 エミヤは俺に何を思った? 俺はエミヤに何と思われた? そういうことがグルグルと俺の頭の中を回り続けていて、思考はその輪の中に完全に捕らわれてしまっている。

 他に考えなければならないことがあったような気もするけど、“俺の記憶が誰かに知られてしまった”ことよりも“俺の記憶を知ったエミヤが何でもないように笑ってみせた”ことの方が、俺に与えたショックは大きかった。

 

 

「‥‥いいかげんになさって下さい! いつまでそうやって鬱ぎ込んでいるつもりですか、貴方は!!」

 

「ルヴィア‥‥?」

 

「友人の前で鬱ぎ込んで、悩みを抱えて、ならばどうして相談しないのですか?! 相談するつもりがないならそのような態度を見せないのが礼儀というものでしょう!」

 

 

 前を歩いていた金髪が翻り、次の瞬間には聞き慣れた、それでいて一度も聞いたこともないぐらいに荒げられた怒声が俺を打った。

 ハッと、先程から更に下へと俯いてしまっていた顔を上げてみれば、そこにはいつの間にか振り向いて仁王立ちしている二年来の友人の姿。

 街灯の明かりも疎らな闇の中にあって尚、眩しい。決して引け目を感じているわけではなく、只単純に存在が眩しい友人の姿。

 顔を怒りと、少しばかりの悲しさで彩ってこちらを睨みつけてくる。彼女にこんな視線を向けられたのは初めてだ。

 張り手こそされてないけど、俺はその声と顔の衝撃に呆然とその場に立ちつくした。

 

 

「何を悩んでいるかは知りません。それが私達では助けにならないような悩みなのかもしれません。もしかしたら静かに触れずにいてあげることが一番の思いやりなのかもしれません」

 

「‥‥‥」

 

「しかしそれでも口を出し、慰め、心配し、助言せんとするのが友人です! ‥‥友人が悩み苦しんでいるというのに、何もしてやれない苦しさも分かっていただけませんの?」

 

「ルヴィア、でも俺は‥‥」

 

 

 気持ちは、分かる。いや、ついさっきまでその気持ちが分からずに一人で鬱屈としていた俺が言うことじゃないかもしれないけど、その気持ちはよく分かるし、嬉しい。

 でもこればっかりは仕方がない。どうしようもない。気持ちは嬉しい、けれど相談できるようなものでもないし、共有できる悩みでもないのだ。

 話して、この恐怖を分かち合うことができたらどれ程までに楽なことだろうか。衛宮の将来を受け止めることができたルヴィアならば、きっと俺の秘密に押し潰されることもないだろうという期待もあった。

 

 いや、これは期待なんかじゃない。これは、誘惑だ。俺が楽になりたくて他人に爆弾が入った重荷を半分押し付ける、友人を危険に晒すろくでもない逃避行動だ。

 

 ルヴィアの言い分もよく分かる。こういう重荷を共に背負ってやりたいと思うのが友人なんだろうし、もしルヴィアが似たような悩みを抱えていたら、俺だって一もニもなく力になりたいと詰め寄ったことだろう。

 それでもこればかりは打ち明けるわけにはいかない。友達だからこそ、一時の感傷で話して危険に晒すことだけはできないのだ。

 

 

「頑固‥‥ですわね。貴方らしいというか、らしくないというか。どうやらこれ以上聞き出そうとしても無駄に終わりそうですし」

 

「すまない、本当に心配をかけてしまって‥‥」

 

「‥‥そう思っているのなら紫遙君、せめて何でもないように振る舞って下さい。ルヴィアゼリッタもそうですが、私も君の友人であるつもりです。そのような態度をとられると、つらい」

 

「そうですわね。いつものようにしていて下さるのなら、これ以上の追求は致しませんわ」

 

 

 気を、遣われた。遣わせてしまった。あまりにも自分が情けなくて涙が出そうで、何とか一端の男として押し堪えた。

 二人の強さが羨ましい。本当に、それでも俺は自分のことだけで精一杯だ。思いやりを持とうとしたって、ここぞという時には自分の荷物だけで両手が塞がってしまう。

 きっとみんなは俺が手を伸ばさなくても、なんだかんだで自分だけでピンチも乗り越えられる。だから俺は誰かのために何かをすることなんかない。だから俺はみんなの強さに甘えてしまうのだ。

 

 情けなくて、不甲斐なくて、そして嬉しい。いくつもの感情がないまぜになって、見切りをつけられなくて、俺は暫く俯いてから勢いよく顔を上げ、なんとかぎこちないながらもいつものような表情を作り上げた。

 

 

「‥‥本当にすまない。ありがとう。今はどうしても無理だけど、いつかきっと話すよ、必ず」

 

「それはきっと話そうと思ったからではなく、話す必要が出来たからなんでしょうけどね」

 

「ルヴィアゼリッタに同意します。まぁ紫遙君はなんだかんだでかなりの秘密主義ですし、そのくらいがちょうどいいのかもしれませんね」

 

「‥‥二人共、全然信用してくれてないじゃないか?」

 

「「そんなことはありません」」

 

 

 まだ少し調子がおかしいけれど、なんとかその場が普段の空気に戻る。もっともこれは解決ではなく問題の先送りに過ぎない。

 ‥‥無性に二人の義姉に会いたくなった。どれだけ間接的な周りの支えがあったとしても、一人ではこの記憶と秘密の重さに押し潰されてしまう。

 俺以外に唯一秘密を共有して、なおかつそれを丸ごと飲み込んでいながら全く変わりなく日々を過ごしている二人。実を言えば、あの二人から離れている状態の俺は基本的に情緒不安定だ。

 ああそうだ、この任務が終わったら一度“伽藍の洞”に寄らせてもらおう。例え遠坂嬢達がすぐに倫敦に戻るのだとしても、我が儘みたいだけど俺には絶対に必要なことだから。

 

 

「あー、ところで、これから一体なにをどうするんだっけ?」

 

「はぁ、やっぱり全然聞いておりませんでしたのね? ‥‥そうですわね、色々と地形を把握する必要もあるでしょうけど、まずは私達が陣地とする場所の下見に赴きましょう」

 

「陣地‥‥ですか?」

 

「えぇ。先程も言いましたが、今回の任務は七騎のサーヴァント‥‥まぁそのうち二騎は打ち倒したわけですが、残り五騎の英霊を打倒しなければなりません。それなりの長期戦になるでしょうから、行動の拠点となる場所を予め確保しておいたのですわ」

 

 

 喋りながらルヴィアは街灯の真下に来ると、胸元から小さく折りたたまれたメモ用紙にしてはやけに上品な紙を広げて道を確認する。どうやら最初から特定の場所を目指していたらしい。

 確かに今回の任務は前回オストローデまで出た時のように、短期決戦を想定されたものではない。もちろん早く終わらせるに越したことはないけど、多分無理だろう。

 なにしろ相手は個人差があるにせよ一人一人が世界最強の一角に名を刻む資格のある英霊達。いくら魔法に類する一級の魔術礼装の手助けがあったとしても、生半可に済むはずがない。

 

 だとするなら陣地を作成してしまうのは別に悪くない手だ。むしろ当然の流れとも言える。

 どちらかといえば気になったのは“拠点となる場所”という些細な言い回し。“拠点”ではなく“場所”とはどういうことだろうか。なんとなく、危機感を伴ったものではないけど不安になってしまう。

 

 

「エーデルフェルトが冬木に足を踏み入れるのは、屈辱を味わった第三次聖杯戦争以来の、およそ百年ぶりですわ。エーデルフェルトここにありと、この街にこそこそ潜んでいる魔術師に知らしめてさしあげます!」

 

「‥‥それはちょっと、目立ちすぎなんじゃないかな? ホラ、各個撃破されちゃうかもしれないし、挑発は程々にしておかないと―――」

 

『お待ち下さいお二人とも、人の気配を感知しました』

 

 

 と、努めて普段の調子を取り戻そうと、いつものように何気ない会話を繰り広げんとした時だった。

 フワフワと俺達の周りを目立たないように浮遊していたサファイヤが俺達の言葉を遮り、その言葉に瞬時に全員が緊張する。

 緊張するとはいっても、敵に注意するというわけじゃない。俺やバゼットはもとより、ルヴィアだって自分が目立つ存在であることは理解しているから、出来るだけ目立たないように備えているのだ。

 

 

「静かに。しくじったな、不自然なくらいに人気がないから油断してたよ」

 

「シェロ達が無事に屋敷に辿り着けたか心配ですわね。ミス・トオサカはともかくシェロは‥‥」

 

「あぁ、そういえばボロボロでしたね。あれでは職務質問されたら色々と面倒でしょうに」

 

「‥‥バゼット、貴女もしかして経験が?」

 

「えぇ、まぁ、聖杯戦争中に街を歩きながら霊体になっている状態のランサーと会話をしていたらちょっと‥‥」

 

 

 一旦その場で停止し、極力一般人に見えるように身を取り繕う。もちろん無理だ。

 髪型とドレスはさておき絶世の美少女であるルヴィアはもとより、方向は違うけどバゼットだって紛れも無い美人である。高い身長を気にしてはいるけれど、どちらかといえばモデルのようにスラッとしていてカッコイイ。

 この場では一番地味な俺だって正直それなりに目立つ。他の二人との組み合わせもそうなんだけど、服装が結構ちぐはぐなんだよね。倫敦だと目立たないんだけど、バンダナとかも。

 

 

『‥‥熱反応、生命反応感知しました。前方十字路曲がって右を微速で向こうへ歩いています』

 

「どうやらやり過ごせそうですわね。‥‥まぁ念のため、確認だけはしておきますか」

 

 

 前方の十字路ぎりぎりの塀に身を隠し、三人共が怖ず怖ずと顔だけを出して右の道路を確認する。

 おかしな光景に見えるかもしれないけど、総じて魔術師っていうのは臆病な生き物だから仕方がない。これが普通の魔術師だったら万に一つの可能性を恐れて始末してしまったりするかもしれないのだ。

 予め結界とかを張って不確定要素を完全に近いまでに排除した状態なら驚くぐらいに大胆だけど、それ以外では雀よりも臆病で慎重。魔術師はそれくらいでちょうどいい。

 

 

「‥‥あれは、子供ではないですか。どうしてこんな時間にこんな場所に?」

 

「しかもパジャマのままだ。一体何があったんだ?」

 

 

 思わず呟いてしまったバゼットの言葉通り、相手に悟られないように顔を覗かせた俺達の視界に確認できたのは、いいとこ小学校低学年といった年頃の小さな少女だった。

 黒い髪を季節にそぐわない強い風に靡かせ、行く宛てがあるのかないのかフラフラと歩いている。まるで夢遊病者であるかのように。

 まぁまぁ遠目ではあるけど裸足であることはわかる。着ているのは白地に薄い青の花が散らしてあるシンプルながら少女によく似合ったパジャマだけど、当然ながら寝間着である以上は薄い。

 とてもじゃないけど外を出歩くような恰好ではなかった。

 

 

「迷子‥‥にしては様子が、というよりも服装がおかしいですわね。まぁ様子も変ではありますけど」

 

「家出、かな? にしては用意も何もしてないっていうのが妙だけど‥‥」

 

 

 フラフラと歩く様には目的が感じられない。行き先も帰る場所もなく、さりとてその場に突っ立っているわけにもいかずという様子に見えた。

 さて、どうするべきか。本来とるべきやり方としては即座に踵を返して元来た道を引き返すというのもあるけど、流石に相手が子供である以上は深夜に放置するのはどうだろうか。

 確かに魔術師は利己的であるべきだろうけど、やっぱり見過ごすのは精神衛生上よくない。善とか偽善を論じることは面倒だ。

 

 

「見つけてしまったものは仕方ないな。このまま放っておくのも気になる。二人はそこで待っていてくれ。俺は一先ずあの子に話を聞いて来るから―――」

 

「いけませんショウ! お下がりなさい!」

 

「何ッ?!」

 

 

 二人をその場に残し、俺だけが十字路を曲がって行く宛てもなく流浪する少女に声をかけようとした時だった。

 突然、俺の前方数メートルが轟音を立てて吹き飛んだ。何か大きなものに衝突されて、そこに建っていた家の塀が破壊されたのだ。

 咄嗟に魔力を体に流す言葉で緊急回避を行った俺の目で確認できたのは中型のトラック。ライトが壊れていたのか光もなく、運転手が酔っ払っていたのか尋常ではない速度である。

 

 

「なんだこれは、酔っ払い運転か‥‥?! こんな静かな夜に平穏な町で何てこった‥‥って、おいコラ待て貴様ッ!!」

 

 

 運転席の半ば近くまでを塀へと埋めていたトラックが鳴動し、次の瞬間にはこれまた恐ろしい勢いで突如弾かれたように後退した。

 背後にあった電柱を掠り、ガードレールに衝突して互いをやや凹ませる。それでも一切勢いを緩めずにハンドルを切って方向を変えると、腹に響く重低音を残して瞬く間に去っていった。

 

 

「‥‥のヤロウ、一もニもなく逃げやがった!」

 

「ショウ、大丈夫ですか―――ッ?!」

 

 

 たいした距離ではないけれど息せき切って駆け付けてくれたルヴィアが瞬間息を飲む。その視線は俺の目の前、ちょうど今さっき酔いどれトラック(仮)が突っ込んだ道路に注がれている。

 事故によって目が醒め、それでも回っていた酔いによって正常な判断力を失っていた運転手が遮二無二逃げ出したのも仕方がない、と思わせる光景がそこには広がっていた。

 

 ―――視界に広がる、赤。普通の生活を送ってきた一般人ならば今まで見たことがない程に鮮烈な赤が、地面をパレットにして広がっている。

 その中心に這いつくばっていたのは正しく破けた絵の具のチューブのような一人の少女。圧倒的な速度と質量によって生じた衝撃に打ちのめされ、体が破けてしまっているのだ。

 決して絶望的なまでの大きさではなかったとはいえ、あのトラックが持っていた速さと重さ、そして何より予期せぬ襲撃はか弱い少女を打ち砕くには十分に過ぎた。

 

 

「退いて‥‥いえ、手伝って下さい紫遙君! ルーンによる治癒を試みます」

 

「あ、あぁ分かった! Drehen(ムーヴ)―――!」

 

 

 最初に再起動したのは三人の中で最も血を見る機会の多いバゼット。すぐさま真っ赤なボロ雑巾と化した少女に走り寄り、ルーンを刻んで治癒の魔術をかけ始める。

 彼女に叱責されるようにして助力を請われた俺も続いて少女の頭の近くへと駆け寄り、ポケットに忍ばせてあったルーン石の中から数少ない治療に使える物を取り出して、少女の口の中へと押し込んだ。

 

 

「くっ、駄目だ飲み込んでくれない‥‥ッ! ルヴィア! 君の宝石で何とかならないのか?!」

 

「‥‥無理ですわ。そもそも私は治癒魔術に長けているわけではありませんし、魔力を使って強引に治療をするとしても、損傷している箇所が多過ぎて手が回りませんわ」

 

 

 飲み込めないのも当然のことだった。今も刻一刻と失われ続ける血液と衝突のショックによって、少女はもはや完全に虫の息の体であったのだ。

 そも、それぞれが風変わりであるにせよ魔術師である俺達は基本的に打算によって動く。もちろん完全にというわけではないけど、見ず知らずの少女を助けるために大魔術を行使するわけにはいかない。

 もっとも多分、手段があったのなら俺達は迷わずそれを行使したことだろう。昨今稀に見るお人よしというのは、魔術師という括りの中なら、俺達とて衛宮だけに限らないことである。

 

 

「‥‥こちらもダメですね。ルヴィアゼリッタ同様、私も治癒に優れているわけではありませんから」

 

「そうか‥‥残念、だな‥‥」

 

 

 魔術は万能ではない。日々劣化し、退化し、良くて停滞し続ける神秘は色んな分野で科学に劣る。特に今の状況はその構図を端的に表していると言っても過言ではない。

 そしてそんな状況を十分以上に理解していてなお、俺達魔術師にとれる手段は魔術以外になかったのだ。故に、もはや万事休す。

 死に逝く少女に己の許容する範囲でしてやれることが何もないと理解した魔術師達は、か細い呼吸を、もうじきに途切れてしまうだろう末期の吐息を懸命に繰り返している少女を悲痛な面持ちで看取ってやることしかできなかった。

 

 

『‥‥お待ち下さい、皆様』

 

「サファイア?」

 

 

 意識もないだろうに必死に生にしがみつく少女の無残な姿を、それでも目を背けずに見開いて見ていようとしていた俺達に落ち着いた声が聞こえた。

 振り向けばそこには、先程まで俺達の焦躁に混ざらず黙っていた宝石翁謹製の魔術礼装の片割れ。人間でも獣でもない姿はもとより、声からも感情は読み取れない。

 ただただぴたりと宙に留まり、人間ならば頭に相当するであろう六角の星をこちらに向けていた。

 

 

『私に考えがあります。少々リスクを伴うものではありますが、少なくともこの方をお助けするには問題ないでしょう』

 

「‥‥まずは話を聞かせない。そうでなければとても許可はできませんわ」

 

「そうですね。彼女を救うことができるのならば喜ばしいことですが、コストパフォーマンスが見合うものでなければ動けません」

 

 

 サファイアの言葉に、二人は慎重に反応した。魔術師は勝算が無ければ賭はしない。ましてや賭に勝っても利益と損失が釣り合わないとなれば尚更だ。

 それでもなお少女を助けることができるのならば、と見捨てる選択肢を一時保留して耳を傾ける俺達は、本当に衛宮のことをとやかく言えないぐらいにはお人善しなんだろう。

 

 

『‥‥申し訳ありませんが悠長に説明している時間はありません。私と姉さんが人工精霊としてカレイドステッキに組み込まれているのも、このような局面に独断である程度までの行動を採れるようにするため‥‥。ルヴィア様、もしこの方をお助けしたいのならば、私を信頼して判断を委ねて頂けませんか?』

 

「‥‥‥‥」

 

「ルヴィア、どうするんだい?」

 

「確かにこれ以上の出血は、いえ、既にいつ死んでもおかしくはない。決断は早急に行う必要がありますよ、ルヴィアゼリッタ」

 

 

 暫く、実際に数字にすれば数秒に満たない時間だけ辺りを沈黙が支配する。少女の吐息は既に殆ど聞こえないぐらいまでにか細い。

 心情としてはこれほどまでに長く感じた沈黙も実際には短かったように、二人と一つの決断を求める視線に晒されたルヴィアの思考もまた状況に即した雷光のように素早く的確なものだった。

 

 

「‥‥許します。貴女の考えている通りになさい、サファイア」

 

『Ja,meine Meisterin! コンパクトフルオープン! 鏡界回廊最大展開!』

 

 

 辺りに光が満ちる。光源はルヴィアの返答を聞くや否や横たわっている少女の下へ疾風のように近寄って身を寄せたサファイアだ。

 比較的体格の良い男なら一握りにすることもできよう小さな体から溢れだしてくる光の量は既に暴力。その場にいた三人が三人とも、手を翳して自分の目を光から守る。

 

 

「そうか、カレイドの魔法少女には―――!」

 

『はい。私という個体が能動的に治癒魔術を行うことは適いませんが、私達(カレイドステッキ)には基本的な機能として非常に高度な自動治癒(リジェネーション)が備わっています。また契約は私達(カレイドステッキ)

の方から主導で行われますから、契約者に反応する意思が無くとも契約は可能。つまり‥‥』

 

 

 冷静なサファイアの言葉と共に、徐々に光の暴力は威力を緩めて収まっていく。腕と瞼を使って保護してもなお強烈な光は俺の目を焼いたけど、そこは魔眼を専門に研究する身、常人よりは早く回復する。

 塞がれてしまった視界が僅かな時間をかけて回復したその先には‥‥

 

 

『‥‥ワイルドカードをありがとうございます、ルヴィア様。新生カレイドサファイヤ、爆・誕! です』

 

「あ、あれ、私は今‥‥?」

 

 

 サファイアの頭? の両側についた飾りのような蝶を彷彿とさせる深い青色の衣装に身を包んだ、黒髪の少女が呆然と全快したその身を起こしていたのであった。

 

 

 

 55th act Fin.

 

 

 

 




魔法少女二人との邂逅でした!
特に美遊の方は完全なオリジナル設定。これからも勝手にやっていきますが、本誌の方で色々あったら適宜修正します。
あとルーン石の下りで少しでも口移しとか考えた人は、HRが終わったら生活指導室まで来るように。


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第五十五話 『稀人達の思案』

 

 

 side EMIYA

 

 

 

「‥‥なぁ遠坂、イリヤとルビーを置いて出てきちまったけど、これから俺達はどうするんだ?」

 

 

 既に深夜と呼んでも良いだろう深山町は、恐ろしいぐらいの静寂によって隙間無く覆い尽くされていた。

 本来ならここまで遅い時間に外に出ている予定ではなかった。俺達がボロボロになってまで黒化したアーチャーを倒した時にはまだ晩飯時を少しばかり過ぎたぐらいの時間だったし、真っ直ぐに目的地へと向かうつもりでもあった。

 そこでいきなり騒動を起こしたのが、今回の事件に役立つようにと宝石翁から送られた魔術礼装の片割れ。突然ワケのわからない持論を振りかざして飛び去ったステッキの心底愉しそうな笑い声はまだ耳に残っている。

 それから疲れた体を酷使してルビーを追い掛け、その追い掛けた先でもまた色々と精神をパンチドランカーになるくらいに驚愕で打ちのめされて、俺達はゆっくりと当初の目的地へと向かってるってわけだ。

 

 

「とりあえず、この先の方針は保留よ。手に入れた情報はあるけど、まずはルヴィアゼリッタ達と作戦会議しないことには迂闊に行動できないわ」

 

「あー、ただでさえルビーが勝手しちまったしなぁ‥‥」

 

「あ、あれは不可抗力よ! まさかアイツがあんな行動するだなんて予想外にも程があるじゃない!」

 

 

 やや前を歩いていた遠坂が勢いよく振り返る。近頃はルヴィアと口喧嘩した後とかにしか見ない、しかもそれを更にマイナス方向に倍にしたような顔だ。

 とはいってもドロドロと鬱屈したものではなく、怒ってはいてもどこはかとなく清々しい。時計塔で感じる不愉快さっていうのは総じて陰湿なものなのだろう。

 

 

「‥‥まぁ確かにそうね。教授とか講師とかは流石に格の違う魔術師揃いなんだけど、学生は殆どたいしたことない連中ばっかりだし。なんていうか、私への嫌~な視線も随分と増えたわね」

 

「遠坂が前からそう言ってるのは知ってるけど、本当にそうなのか?」

 

「士郎はへっぽこだから分からないと思うけど、本当よ。多分それなりの実力がある家の子女とかは自分の家で修業してるんでしょうね。時計塔に入学するメリットも昔ほどじゃないし、わざわざ魔窟に潜り込む必要はないって判断する魔術師も増えたんでしょ」

 

 

 確かに、魔術師は絶対に魔術協会に所属しなきゃいけないわけじゃない。切嗣(オヤジ)だってフリーランスで活動していたし、『魔術協会とは関わるな』なんて遺言じみた言葉も遺している。

 そもそも魔術協会が世界中の魔術に関する色々を取り仕切っているわけでもないのだ。他にも北欧の雄である『彷徨海』や、噂に聞く錬金術師達の巣窟である『巨人の穴蔵(アトラス)』なんてものもあるのだから。

 ただ他の二つの組織は割合と閉鎖的な性質をしているらしくて、結果的に魔術協会の勢力が増大したんだとか。『彷徨海』なんてのは実態すらはっきりしていない。俺が無知なだけかもしれないけど。

 

 

「イリヤの生家のアインツベルンも、殆ど外部とは関わらないで純血を保ち抜いてる珍しい一族だしね。あそこまでの歴史を持てば魔術協会に媚びる必要もないのかもしれないけど‥‥」

 

「けど?」

 

 

 まるで俺の背後に仇でもいるかのように険しい顔をコチラに向けていた遠坂は、眉をわずかに顰めて視線を地面へと落とした。

 

 

「‥‥イリヤは、魔術師じゃなかったわ」

 

「あぁ‥‥」

 

 

 パートナーの言葉に、俺も思わず眉に力が入る。先程あの傍迷惑な不愉快型魔術礼装(by遠坂)と共に残して来た雪の少女について。それが今、俺達の中で著しく重要度が上がっている項目だった。

 

 俺が聖杯戦争で出会った人物は、サーヴァントを除いても数人いる。そして、新たな出会いをした人も含めて、その殆どを俺は救うことが出来なかった。

 それは例えばキャスターのマスターだった葛木先生であり、そして出会ってないにしても早々に片腕を失って聖杯戦争から脱落したバゼットであり、何より俺のことを兄と呼んだ不思議な雪の少女だ。

 今でも聖杯戦争で遭遇した光景の全ては俺の頭の中にしっかりと焼き付いている。キャスターによって連れ去られたセイバー、人質にされた藤ねぇ、アーチャーの放った剣弾によって貫かれたキャスターと葛木先生、聖杯と化した慎二。

 中でもとりわけ鮮明に、耐え難い程の後悔の念と共に焼き付いているのが、銀の髪をもったバーサーカーのマスター、イリヤが金色の英雄王によって殺される光景。

 俺の目の前で、助けることも出来ず、苦しみながら傷つき、心臓を抜きとられて殺された少女の姿。飛び散る血の一滴(ひとしずく)、それに合わせて踊る銀糸のような髪の毛の一本、宝石のような赤い瞳の端に浮かんだ僅かばかりの涙に至るまで、全てを明細に覚えている。

 

 

「魔術に関する言葉を知らない様子だったからってわけじゃないわよ。確かにルビーとの契約の影響で魔術回路は開いてたけど、それでも魔術を行使するために形成されたようなものではなかったから、私は彼女が魔術師ではないと断言できるの」

 

「‥‥あー、すまん遠坂、俺にはちょっと難し過ぎる。よかったらもっとかみ砕いて説明してくれないか?」

 

 

 真剣な顔で告げられた言葉は難解で、遠坂の下で二年余りの修行を積んでなお見習い魔術使いの域を抜け出すことのできない俺が理解するには難しい。

 一応しっかりと知識を詰め込まれた記憶はある。でも俺はどうやら、身体を使って自分に思いこませるという方法じゃないと上手く記憶が定着しない性格みたいなんだよな。

 最低限の勉強とか、英語とかなら藤ねぇとの実地訓練でなんとかなったんだけど、自分が行使できない投影とか強化とか以外の魔術になるとすぐに頭がこんがらがっちまう。

 真面目にやるつもりはあるんだよ。でも、な? やっぱり無理なもんは無理ってわけで、とりあえず現状としては話が難しくて分からない。

 

 

「‥‥魔術回路っていうのはね、素質があるだけの一般人にも存在するわ。それを魔術師として、魔術を行使するために構築することを『魔術回路を生成する』といって、その通過儀礼をこなした者を最初に魔術師と呼ぶのよ。

 で、イリヤの魔術回路にはそういう洗練された印象がないの。量はすごいし単純な質を含めても私や桜を遥かに凌ぐと思うけど、やっぱりつい最近、ルビーとの契約で開いたように見えるのよね‥‥」

 

 

 はぁ、と大きな溜息と一緒に再び歩きだす。落ち着いて話をしたい気持ちもあるだろうけど、確かにこんな時間に俺達みたいな若い男女が外で立ち話をしているのは不審だ。

 

 

「並行世界、って話だったよな? それは間違いないっていうのはイリヤとか‥‥この世界の俺とか見たから納得してるんだけど‥‥」

 

「あのね、士郎。並行世界って言っても別に他の世界とかけ離れてるってわけじゃないのよ? 要は可能性の分岐なわけだし、あまりに要素がかけ離れていたら、それは並行世界じゃなくて別世界だからね」

 

「そういうもんなのか?」

 

「そういうものよ。これに関して私は専門家って言っても過言じゃないんだから、少しは師匠を信用しなさい」

 

 

 確かに並行世界の運営を行う第二魔法を目指して研究をしている遠坂は間違いなく専門家だ。もとより俺みたいな未熟者以前の半人前に師匠の言葉を疑う余地なんてない。

 でも、それでも今の状況が中々に信じがたいことだって真実だ。というか俺が聞きたいのはそういうことじゃないんだが。

 

 

「イリヤは俺達の世界では魔術師だった。それで、こっちのイリヤが魔術師じゃないっていうのは、遠坂の言っている可能性の範疇に属してるのか?」

 

「微妙なところね‥‥。とりあえず魔術回路が元々存在していたのは間違いないわ。そもそもルビーがいくら大師父の作ったトンデモ級の魔術礼装だとは言っても、礼装を使うことが出来るのは基本的には魔術師、もしくは魔術礼装を持った人間だけだからね」

 

 

 魔術礼装の定義は、乃ち“魔術師の魔術行使をサポートする道具”である。つまり前提からして魔術師以外が使うことを想定されていない。

 これが御守り(アミュレット)とか護符(タリズマン)とか、一部の魔力を秘めた武器防具の類とかになるとまた別だ。それらは限定礼装に近いものがあるけど、それでも礼装とは区別されて扱われる。

 例を挙げると、俺の外套は魔術礼装でありながら一般人にも加護がある特殊な礼装。遠坂が目指している第二魔法の足がかりである宝石剣っていうのは魔術師にしか使えない第一級の礼装らしい。宝石の方も一種の礼装だな。

 種類があまりにもありすぎて明確な線引きが出来ているわけじゃないんだけど、漠然となら“使用者が意識して魔術を発動するか否か”という点で区切られてるんじゃないかと思う。このあたりは俺の固有結界がらみで重要なところだから、他に比べてしっかりと勉強した。

 それに照らし合わせると、カレイドステッキは結構微妙な区分に属する。なんでも使用者が魔術師じゃなくても問題ないらしいけど、結局は魔力を運用するためには魔術回路が必要だ。こればっかりは超能力者であっても変わらない。

 

 

「一見ですら分かる、あれだけ完成された魔術回路を只の一般人が持っているなんてありえないわ。‥‥こっちの世界の士郎のお父さんがどんな人かは分からないけど、母親は間違いなくきな臭いわね」

 

「イリヤの母親ってことは、切嗣の‥‥奥、さん、ってことなんだよな?」

 

「何どもってるのよ」

 

「いや、なんか、そういうのって初めてだから、かな‥‥」

 

 

 おかしなことじゃない。切嗣の歳をはっきりと覚えてるわけじゃないけど、下手したら四十いってないかもしれないし、逆に晩年の老け込み具合は五十に達すると言われても納得してしまうだろう。

 それでも奥さんがいて何ら不思議じゃない年齢だってことは変わらないから、イリヤの話を疑う要素なんて確信するぐらいには存在しないのだ。

 むしろ、だからこそ今の俺は動揺していると言える。女の影―――普段の言動はさておき―――の欠片も見えなかったオヤジに奥さんがいたなんて考えると、どうにもむず痒い。

 

 

「ん、まぁ私達の世界の切嗣さん(お父さん)に奥さんがいたかどうかってのは調べてみないとわからないことなんだけど―――」

 

「いや、多分いた。そう考えるとイリヤについて全てに合点がいく」

 

「士郎‥‥」

 

 

 歩みは止めないながらも心配そうに遠坂が俺を見てくる。正直まだ頭の中が落ち着いたとは言い難いけど、俺は出来るかぎり普通の様子を装って頷いてみせた。

 

 ‥‥イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。俺を兄と呼び、執拗に狙って来た狂戦士のマスター。

 昼は無邪気な少女でありながら、マスターとして、魔術師として振る舞う時は容赦なく。それでも俺は最後までイリヤを敵として見ることが出来なかった。

 いや、そう言うなら俺があの聖杯戦争で明確に敵と定めた人間はそう多くない。おそらくギルガメッシュや言峰ぐらいだろう。

 そういう経緯を踏まえても尚、やっぱりイリヤらは特別な存在だった。無邪気な笑顔。体全体で抱き着いてくる様子。

 あれは初めて出会った時の氷のような眼差しとは段違いで驚いたもんだ。‥‥うん、多分俺は結局最後まで彼女のことを、敵どころか他人だと思えなかったんだろう。だからアインツベルンの城で、あれほどまでに尋常ではない衝撃に襲われたんだと思う。

 

 

「遠坂には言ってなかったかもしれないけど、実は俺、聖杯戦争に巻き込まれる前に一度イリヤに会ってるんだよ。‥‥だから多分、切嗣(オヤジ)がアインツベルンの客分だったってことを考えても、そっちの方が自然だと思うんだ」

 

 

 あの日の俺は聖杯戦争どころかアインツベルンのことも他の魔術師のことも知らなくて、魔術回路は作る度に廃棄していたようなものだから魔術師にも見えはしない。

 衛宮の名前を持つ俺に興味を持ったというには意味深過ぎる言葉と態度。そして何より、もしかしたらありえたかもしれない可能性の一つに過ぎないとは言え、この世界でのイリヤの立場は解答として十分に過ぎる。

 

 

「きっと、さ、イリヤは俺の義妹だったんだ。切嗣(オヤジ)の実の娘で、アインツベルンに一人で残されて、聖杯戦争で冬木にやって来た。

 それなら俺のことを狙ってたのも納得できる。‥‥俺がいたから、俺が切嗣(オヤジ)を奪っちまったようなもんなんだからさ」

 

「‥‥士郎、それでもアンタの義妹だったイリヤと、“この世界のイリヤ”は別人よ」

 

「わかってる。わかってるけど‥‥やっぱりすぐに、いや、多分どれだけ考えてもしっかりと切り離すのは無理だ。悪い、遠坂、この大変な時に苦労増やして‥‥」

 

 

 歩く速さは流石に段々と遅く、それでも着々と進み続けている。こうして真夜中の冬木の街を歩いていると否応なく彼女と初めて会った時のことを思い出して、どうしようもないくらいに胸が苦しくなる。

 そういえば『厄介事っていうのは一つ見かけたら十はいると思え‥‥って、衛宮に言っても無駄か。お前は進む場所進み場所の全部が厄介事って名前の地雷で埋め尽くされていて、しかも足元がお留守だもんな』とか紫遙が言ってたっけ。

 どうにも上手く意味が飲み込めなかったけど、何となく褒められていないことは分かった。もう諦めたとか言ってたけど、あの時の紫遙は今までで一番疲れて見えたもんだ。

 いや、正直に言えば薄々気づいてはいる。俺達は紫遙に迷惑ばっかりかけていて、何もしてやれていない。本当にアイツには世話になりっぱなしで、頭が上がらないな。

 

 

「‥‥はぁ、別にいいわ。士郎に振りまわされるのはもう慣れちゃってるからね。とりあえず今回の件については今いくら考えたって憶測の域は出ないんだから、後回しにしましょう」

 

「あぁ、そうだな。‥‥ところで遠坂、今更かもしれないけど俺達って一体どこに向かって歩いてるんだ?」

 

 

 俺達二人が歩く時は、いつも微妙に遠坂が前を行く。たまに遠坂の方から俺に腕を絡めて来たりすることもあるんだけど、その時も歩く行き先は遠坂の方が先導しているような気がする。基本的に、普段の生活での俺は遠坂の付属品って言っても過言じゃない。

 だから今日もイリヤのいた衛宮家から歩き出した遠坂のほんの少し後ろを俺は何の疑問もなく歩いていたし、付け加えるならイリヤのことで頭がいっぱいだったからか尋ねる気も起きなかった。あまりの迂闊さに今頃危機感が湧いてくる。

 まぁそんなわけで無口になってしまった俺と遠坂は行き先を互いに告げたり尋ねたりすることもなくここまで歩いて来てしまったというわけだ。勿論それでも一先ず気持ちを落ち着けると、流石に気になっちまう。

 

 

「何言ってるの、遠坂邸《ウチ》に決まってるじゃない」

 

「‥‥は?」

 

遠坂邸(ウチ)よ、遠坂邸(ウチ)。イリヤが切嗣さんと一緒にあの家に住んでた以上、私達が出入りしていた衛宮邸は存在してないって考えるのが自然でしょ? そしたら私の屋敷に行くしかないじゃないの。こっちの藤村先生とか、桜とかと知り合いだとは限らないしね」

 

 

 なんでもないように遠坂は言うと再び歩くスピードを上げる。あまりにも自然でそれが当然だとでも言いたげな様子に俺は一瞬『ああそうか』と納得してしまいそうになったけど、慌てて意識を取り戻すと急いで遠坂を追いかけて隣に並んだ。

 

 

「ちょ、ちょっと待てよ遠坂! そりゃ理屈としては合ってるかも‥‥って全然合ってない! いくら行く所がそこしかないって言ったって、それはちょっとマズイだろ?!」

 

「あら、なんで? 私が私の家に行くのにどんな不都合があるっていうの?」

 

「大ありだ!」

 

 

 歩みを全く緩めずに横目でコチラを見てくる遠坂に、俺は呆れたような、慌てたような、混乱したかのような動揺した声色で半ば叫び声じみた応えを返した。

 不都合があるかって? そりゃあるに決まってるだろ! それこそ俺がイリヤについて悩んでいたのがばからしくなってしまうぐらいに不都合の正体は明白だ。遠坂自身、わかっていなけりゃいけないことのはずだ。

 

 

「だって遠坂、こっちの世界にだってお前はいるはずだろ?! 遠坂の屋敷に行ってもう一人の遠坂に会っちまったらどうやって状況を説明するつもりなんだよ!」

 

 

 そう、ここは俺達の住んでいた冬木じゃない。似て非なる冬木、並行世界なのだ。だからこそイリヤは深山町にこの世界の俺と一緒に住んでいたわけだし、当然ながら藤村組の近くにあった衛宮邸、少なくとも俺の家じゃない。

 そしてこの世界の俺が住んでる場所は違ってもちゃんと存在したように、この世界の遠坂だってきちんと存在しているはずなんだ。そんなところにぬけぬけと顔を出せば一体どうなることやら‥‥。

 

 

「っていうか、衛宮の屋敷がないなら遠坂の屋敷があるかどうかもわからないだろ? もし行って無かったらどうするんだ?」

 

「馬鹿ね、自分の本拠地たる工房がある場所ぐらいとっくに確認できてるわよ。本当なら魔力を隠して隠蔽するのが工房の在り方なんだけど、私の場合は管理地ってこともあって少しだけ目立つようにしてあるからね」

 

 

 魔術師は隠遁する人種だ。出来るかぎり人目を避け、忍び、接触を絶つ。ただ自己の内に埋没し、同時に自己を棄却する。そこには他人を介在させる余地も余裕もない。

 そしてそれ以上に魔術は秘匿されなければいけないという原則がある。その原則は一般人に対しての秘匿ということだけではなく、魔術師同士においても適用されるのだ。

 いくら自身に埋没し、他人との係わり合いを避けていたとしても人の間には優劣がある。他の魔術師が自分よりも優れた研究成果を持っていたら手に入れたくなってしまうのも魔術師という生き物だ。

 ちなみに『自分が努力しなきゃ意味がない』とかいう殊勝な考えは個人の性格だ。そもそも魔術師は結果が全てであって、究極的に言えば結果に行き着くまでの手段の貴賎は問わないんだとか。

 そういう物騒窮まりない業界だからこそ魔術師は何よりも他の魔術師、特に封印指定を執行しようとする魔術協会を警戒する。これは時計塔の学生である俺や遠坂も変わらない。

 聖杯戦争の開催地を管理してる遠坂はある程度関わりがあっても仕方がないことだけどな。俺は固有結界がバレたりしたら一発で封印指定確実だし、注意しないと。

 

 

「いや遠坂、つまりそれってこっちの世界の遠坂がちゃんといるって話だろ? じゃあこっちの遠坂はどうするつもりなんだ?」

 

「話し合い‥‥は無理そうだから、実力行使で説得(オハナシ)するしかないわね。まぁ大丈夫よ、こっちの士郎は高校生ぐらいみたいだし、それくらいの遠坂凛(わたし)なら何とでもなるわ」

 

「なんとでもなるって‥‥まがりなりにも自分だぞ?」

 

 

 慌てた俺の様子に呆れたのか、少しだけ足を止めていた遠坂が再び歩き出す。今度は少し早歩きで、歩幅は俺よりも短いだろうに、歩く速さは俺を優に上回る。

 何というか、遠坂っていうヤツは本当に極端な人間なのだ。それは猫を被っているってことだけじゃなくて、遠坂凜っていう人間が極端な属性を持っているっていうことだ。

 例えば今の猫を被っていない時の歩き方からも分かる通り、遠坂はあちらこちらでやけに男前だ。少し親しく付き合った人なら、頼れる、頼もしいという印象を受けるのが大半だろう。

 その一方で趣味はかなり年頃の女の子っぽい。桜も大概だと思ってたけど、遠坂の私室だってかなり女の子女の子してる。ルヴィアとのやりとりもそうだけど、本当に遠坂ってヤツは極端な人間だ。

 それは今の行動にも表れている。どうして並行世界とはいえ自分自身をボコボコにする算段をつけなきゃいけないんだ?

 

 

「自分の弱点を一番よく分かってるのは自分自身よ、士郎。遠坂凛《わたし》が他人に悟られないように取り繕っている弱点だって遠坂凛(わたし)にならつけるし、ましてや数年前の私が相手なら楽勝よ。驚いてる間に片付くわ」

 

 

 そういう問題じゃない、という言葉が喉のすぐそこにまで出かかったけど何とか飲み込んだ。理屈だけで言うなら遠坂の言ってることは正しくないわけじゃないし、何より今更うだうだ言っても仕方がなさそうだ。

 今だ付き合い初めて二年にも満たない間柄に過ぎないけど、俺と遠坂の力関係は完璧に確立されてしまっていた。もちろんココ一番という重要な場面では別だけど、普段は、な。

 

 

「‥‥ふーん、ウチは元の世界と変わらないのね。まぁ遠坂の家って元は冬木一帯の地主だったわけだし、早々簡単に消滅されても困っちゃうけど」

 

「じゃあ藤村組も残ってるのかもな。こっちの世界でも俺と藤ねぇは知り合いなのか‥‥?」

 

「藤村先生ならどんな境遇でも変わらなさそうよね」

 

 

 気付けば暫く深山町を歩いた俺達の前に、あの聖杯戦争から一年ぐらいの間にすっかり見慣れてしまった古い洋館が建っていた。

 近くには独特の空気が広がっている。確かにそこに存在するのに、存在感が希薄だ。あるのに見えず、見えないのにある。それは遠坂がこの家に張った人払いの結界が効果を発揮しているのだ。

 これが中々のくせ者で、先ほど遠坂が言ったように、普通の工房とは違って完全に隠蔽されているわけじゃない。ただ、しっかりとした目的というものがなければ意識して注目することができないようになっている。

 残念ながら今の俺は簡単な結界の類ですら満足に張ることが出来ないから実感は不確かなものだけど、学んだ知識に照らし合わせれば、その術式がこれ以上ない程に精密で繊細で洗練されたものであることは明らか。

 ロード・エルメロイと一緒に会った第二の魔法使いっていう爺さんは遠坂の家のことを“芽がない”とか言ってたけど、もしこの結界が先祖代々のものだったりしたら、とてもそんなものではないだろう。

 だいたいそんな遠坂の家が芽の無い凡庸な家系だったりしたら俺はどうなるんだ? ‥‥あ、そうか論外か。

 

 

「どうやら中には誰もいないみたいね。こんな時間に私は何やってるんだか‥‥」

 

「そりゃ何か用事があったんだろ。テストに備えて何処かに泊まり込みでもしてるのかもしれないし」

 

「そんなことした記憶はないんだけど‥‥。まぁ、並行世界だしね。私と少しぐらい毛色が違っても仕方ない、か」

 

 

 自分が住んでいた屋敷と寸分違わぬ洋館を見上げた遠坂の言葉の通り、確かに敷地の中には人の気配がない。それどころか暫くは誰も訪れたことがないかのようで、荒れてはいないけど何処か淋しげな雰囲気を漂わせている。

 まるで初めて訪れた時の遠坂の家とそっくりだ。家は持ち主の心を写す。淋しげな家に住んでいる人間の心もまた、家と同様な淋しいのだと言っても過言ではない。

 

 

「うん、大丈夫、解号は高校の時と変わってないみたい。怠慢‥‥って言いたいところだけど、流石に無理よね」

 

「そりゃそうだろ。誰だってまさか自分とそっくり同じ人間がいて、こともあろうにソイツが泥棒するなんて思わないささ」

 

「‥‥なんか含む言い方だけど、いいわ。――― Entriegelung(解錠), Verfahren(コード), Drei()

 

 

 遠坂の魔術回路と魔術刻印が幾重にも張られた様々な結界を解除する指令を出し、俺でも知覚するのが難しいぐらい僅かな変化が屋敷を包む。

 いくら解除するのが僅かな間だからと言っても、その間に少しだって無防備になってしまうんじゃお話にならない。だからこそカーテンを重ねるようにして張られた結界に、ほんの僅か、術者にしか分からないぐらいに狭い隙間を開けるのだ。

 

 

「‥‥さ、とりあえずは中に入って休みましょう。イリヤのこととかセイバーのこととか、話さなきゃいけないことはまだまだ沢山あるんだしね」

 

 

 ギシリギシリ錆びたような音を上げながら城門もかくやという程に重厚な門が開き始める。まるで修学旅行で行ったテーマパークのアトラクションみたいだけど、れっきとした魔女の家である。

 人気の全くない静寂からは、時間も時間だからこの家の持ち主がすぐに帰ってくるとは思えない。可能性はゼロじゃないけど、十分警戒していさえすれば一息つく時間ぐらいありそうだ。

 

 

「なんていうか、覚悟はしてたつもりだけど、随分と妙なことになっちまったもんだな‥‥」

 

「うん? 何か言った?」

 

「いや、なんでもない。いつまでも突っ立ってたら邪魔だから、とりあえず中に入ろうか」

 

 

 とりあえず、中に入ったら先ずは掃除でもしよう。玄関への道を見ればどうやら暫く誰も入って来てないみたいだし、きれいなところじゃなかったら寛げないからな。

 多分、この世界の本人以外誰もそれを証明できないけど、これって間違いなく不法侵入だよな、ウン。

 まぁこういう時は遠坂に従っていればいい。丸投げとかじゃなくて、ホントに遠坂を信用してるからな、こういうときは。

 ‥‥まぁ、とはいえストッパーは必要だよ、な。はぁ、いつもならセイバーがいるんだけど‥‥不幸だ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥さて、まずは自己紹介というのが妥当なところでしょうね。それで構いませんわね、ショウ、バゼット?」

 

 

 新都の駅前の広場。そこから微妙に外れた通りの裏側に一軒のビジネスホテルがひっそりと建っていた。

建っている場所は表から外れているけれど、外見は清潔でまぁまぁ程ほどに繁盛しているようには見える。この冬木には並ぐらいにはビジネスマン達が集まるけど、正直に言えば彼らのために設えたにしては駅前のホテルは些か立派に過ぎる。

 宿泊費用は高めだし、全般的に設備が豪華なのだ。もちろん高めとはいってもあの設備と照らし合わせてみれば十分以上にサービスは旺盛だし、決して高級だというわけでもないんだろうけど‥‥。

 基本的にビジネスマンが出張した際の諸経費っていうのは当然ながら会社から出されるわけだけど、これまた当然のことに経費は安ければ安い程に喜ばれる。

 で、まぁ他にも豪華なところに泊まると他の同僚や上司に悪い、目を付けられてしまう等の極めて日本人的な考えからコチラのリーズナブルなホテルを選ぶことが多いんだとか。

 

 

「うん、俺は構わないよ。というか自己紹介もしないで説明とか無いしね。バゼットはどうだい?」

 

「私も問題ありません。彼女も漸く落ち着いたようですし、円滑な状況判断のためにも最初は自己紹介から始めるべきだと思います」

 

 

 そんなビジネスホテルの一室に、男女合わせて四人から成る不思議な集団が集まっていた。

 一人は少しだけ茶色の混じった金髪の少女。二十歳に届くかというぐらいの年頃の彼女は欧風な顔立ちをしており、純粋な色ではないにせよ髪の毛はまるで砂金のように美しい。普通なら場違いなぐらいの青いドレスも、彼女とセットにされればこの上なく気品に満ちている。

 次に小豆色の髪を無造作にショートにした長身の女性。身長は百七十ほどもあろうか、スラリとした体躯は一流モデルにも劣らぬスレンダーなものだけど、どちらかといえば鍛え上げられたアスリートを彷彿とさせる。目の下の泣黒子がチャームポイントだ。

 そしてついでと言わんばかりの最後の一人。長身の女性よりは幾分背が高くはあるけど、彼女ほどの貫禄がないためにどこか風采があがらず、外が寒いからとしっかり締め切った窓の傍で火の点いていない煙草を未練がましく弄くっているバンダナの男。

 ‥‥まぁつまるところ、俺なわけなんだけど。

 

 

「ショウ、煙草を吸いたいのでしたら別に窓を開けても構いませんのよ?」

 

「そういうわけにもいかないだろ。なんていうか、こういう状況で吸わないっていうのが落ち着かないだけなんだ。それにその子の恰好で外の風を入れたりしたら身体を壊してしまうよ。流石にまだ、夜は寒い」

 

 

 いつもの面子の前には、一人の少女が椅子に座って不安げに目をあちらこちらへと彷徨わせていた。

 ボロボロで、あろうことか血塗れになったパジャマの残骸の上から俺の煤汚れたミリタリージャケットを羽織っている。

 年頃は小学校の低学年といったところか。艶のある黒髪は背中の中程ぐらいまではあるけど、今は俺のジャケット同様に埃を被ってしまっている。払おうと努力はしたんだけど、一度血が付いてしまったからか、風呂にでも入らないと難しそうだ。

 顔立ちはどちらかといえば無表情に近いながらも紛う事なき美少女。今は流石に瞳が不安げに揺れているけど、それでも表情に変化はあまり見られない。

 多分、笑えば凄く可愛いと思う。そっちのケはないけど残念だ。

 

 

「変な所で頑固なんですから‥‥。まぁ、いいですわ。私はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。フィンランド出身で、時計塔の鉱石学科に所属しております」

 

「私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。アイルランドの出身です」

 

「俺は蒼崎紫遙。日本人‥‥なのは見れば分かるとおもうけど、普段はルヴィア達と一緒に倫敦の方にいるんだ。まぁよろしく」

 

 

 俺達三人が順番に自己紹介して手を差し出すけど、少女はうろたえたまま反応できなかった。そういえば俺もつい癖で握手を求めてしまったけど、日本で挨拶といえばお辞儀が基本だ。

 中高生ならともかく小学校低学年なら反応できないのも仕方が無いというめの。なんとなく気恥ずかしかったので不思議がる二人に軽く説明して手を引っ込めた。

 

 

「それでは貴女のお名前も聞かせて頂けませんこと?」

 

「‥‥美遊、と言います。苗字は‥‥ありません」

 

 

 鈴の音のような、という表現がぴったりと当て嵌まる声で少女、美遊嬢は答える。可愛らしい声色に反して口調は重く、やや気持ちが落ち着いたのか瞳に宿っていた狼狽の色も消えうせていた。

 

 

「ふむ、苗字がない‥‥とは、どういうことですか?」

 

「‥‥私は孤児ですから。この町にある孤児院に預けられていたので、強いてつけるなら、その孤児院の名前をとって苗字を名乗ることになります」

 

「うわぁ、こりゃまたヘビーな話だな‥‥」

 

 

 孤児、というのは存外に珍しい話ではない。確かに日本で普通に暮らしている分にはあまり聞かないかもしれないけど、それだけ普通の人間には目の届かないところで孤児は発生している。

 とくに外国、倫敦にだっていないわけじゃないのだ。現にセイバーとたまに遊んでいるのを見かけるガブローシュ少年とかいう彼が取り仕切っている悪ガキ達の中にも、孤児や、孤児一歩手前の子供はいる。

 いつだって力のない子供は社会的弱者だ。守られるべき存在というのは、守られなくなると途端に生活すら危うくなってしまう。

 特に冬木は十数年前に起きた大火災の影響で孤児も多く出ただろう。この子はそんな歳には見えないけど、もしかしたら別のところから預けられたのかもしれない。

 

 

「美遊、といいましたか。貴女はどうしてこんな時間にあんな恰好で出歩いていたのですか? いくら冬木が温暖な地域とはいえ、薄着で夜歩きをしては流石に風邪をひいてしまいます」

 

 

 椅子に座った美遊嬢なる少女の前で腕を組んだバゼットが言う。彼女、思いやりのある性格してるんだけど、残念ながら細かい気遣いとか苦手なので自分が威圧感を与えているのに気付いてない。

 もっとも美遊嬢の方でもバゼットを怖がっている様子はないので問題ないんだけど‥‥。うーん、なんか最初の動揺してた時に比べると表情が平坦な子だなぁ。

 上手く表現出来ないけど、すごく能動性に乏しい。こちらのことを警戒しているならまだ分かるんだけど、それすらない。怖がっているわけでもなければ無関心というほど人間味に欠けているわけでもないし、本当に不思議な子だ。

 

 

「‥‥孤児院には、いづらくて」

 

「?」

 

「端的に言えば、いじめられていた、ということになるのでしょうか」

 

「「「!?」」」

 

 

 ぼつぼつと、初対面の不審者同然であるはずの俺達に彼女は自分の事情をかいつまんで説明し始めた。

 曰く、孤児院の中には自分と同年代の者達が沢山いて、近くの小学校に通っていたこと。曰く、自分は成績が非常によくて先生の覚えも目出度く、院長先生からも目をかけられていたということ。

 そして一緒に暮らしていた他の孤児達は、彼女を妬み、怨んだ。つまるところそれらは非常に稚拙な嫉妬であり、それでいながら文字通り毎日毎時間の如く繰り返される、些細な悪戯から一歩間違えれば深刻な暴力まで。

 遂に特に感慨も浮かばなかったそれらも日常生活を侵犯するほどにまでなり、美遊嬢は仕方が無く孤児院を抜け出した。

 

 

「別によかったんです。私をいじめることであの人達の気が晴れるんだったら。でもそれがあまりにもエスカレートしたら、孤児院全体の空気が悪くなるし、普通に生活していくのにも支障が出る。

 院長先生にも迷惑がかかるし、私にも彼女達にもプラスはない。それに、あのまま残っていたらもっと状況が悪くなることは分かりきっていたので‥‥」

 

「行く当てもないのにフラフラ夜の町を徘徊していた、というわけですのね。まったく、孤児だからこそ助け合いの精神というものが必要になるでしょうに、なんたることですの!」

 

「‥‥子供心には、そういうわけにいかなかったんだろう。ただでさえ競争社会で、同じ孤児院に済んでる以上は比べられてしまうんだ。意外と子供のいじめの基準なんて低いもんだよ、ルヴィア」

 

 

 二度も小学校から高校までを経験した俺でも、いじめというものにはあまり縁はなかった。前はともかく今世は魔術師としての修行が忙しくなったから周りとも適当な付き合いしかしていなかったので、俺の知らないところではいじめが行われていたのかもしれない。

 ただ最近のニュースとかを見るに、やっぱり現代においていじめというものは、もはや社会風潮の一つと言って良いまでにも頻発しているらしい。子供のそれが、自殺などの深刻極まりない事態へと発展する程に。

 ルヴィアの言うとおりに弱い立場の人間は助け合って生きていかなければならないんだろうけど、基本的な生活が保障されている現代の孤児達はちょっと彼女の基準とは状況が異なるみたいだ。ありていな言葉だけど、世知辛い世の中だねぇ‥‥。

 

 

「私の事情はこれでいいでしょう。‥‥それよりも、今度は貴方達のことをお聞きしたいのですが?」

 

 

 美遊嬢の問いかけに俺達は居住まいを正して互いに顔を見合わせると頷いた。

 基本的に、一般人に対して神秘は秘匿されなければならない。存在はともかくとして、その概念というものを理解されては神秘が薄まってしまう。それこそが最大の懸念であった。

 魔術師の正体が知られることで研究について不利になる。社会の裏に吸血鬼や混血や、非道を行う魔術師達が存在しているということを知られてしまう。そんなことは些細なことだ。

 俺達、魔術を修める者達は皆、限られた神秘を共有して生きているのだ。その神秘は重さに反して実は誰にでも分け与えることのできる可能性を秘めたもので、しかもひどく脆い。“存在している”ということを知られてしまうだけでも致命傷になりうる。

 故に俺達も彼女に記憶処理を施したり、暗示をかけたり、もしくはもっと直接的な方法で口封じを行う必要があった。

 

 

「まだ一人、自己紹介をしていない人がいるから、まずは彼女にも自己紹介をしてもらおうか。サファイア、大丈夫かい?」

 

『問題ありません、蒼崎様』

 

 

 ひょっこりと、美遊嬢が座っていた椅子の影から不思議な物体が飛び出した。

 丸い円形の枠の中に、六芒星がすっぽりと入っている。その円形の枠の外側には蝶々かリボンを彷彿とさせる飾りがついており、フワフワと飛ぶ様子からまるで羽のような印象を受ける。

 本来なら六芒星の真下についているはずのステッキの柄の部分を省略したその姿は、彼女が携帯モードと自称したもので、持ち運びに便利でありながら自律行動も出来る優れた状態だ。

 俺がサファイアと呼んだ明らかに無機物のそれはぐるりと椅子の片側を旋回すると、美遊嬢の前に浮かんでペコリとお辞儀でもするかのように体の上半分を歪ませた。

 

 

『ご挨拶が遅れて申し訳ございません、美遊様(マスター)。私はマジカルサファイア。並行世界から無限に魔力を調達して貴女に供給する限定魔術礼装で、カレイドルビーたる貴女の僕です』

 

「ます、たー?」

 

『はい。同意を得ない状況で契約してしまい、謝罪の言葉もありません。が、貴女はれっきとした私のマスターです。貴女と契約した瞬間に理解しました、貴女が、私が仕えるべき、私を使うべきマスターであるのだと』

 

 

 フワフワと近寄ってきたサファイアを両手の平の上にちょこんと乗せ、流石に美遊嬢もわずかに目を見開いて再び当惑を露わにする。

 ボロボロの、あまつさえ血塗れのパジャマ姿でありながら、ついでに片方は正体不明の得体の知れない無機物でありながらも、その二人の様子は正しく“絵になっている”と表現するに相応しい。さしずめ“運命の出会い”とでも題をつけるべきだろうか。

 

 

「‥‥さっきからどうしちゃったんだ? サファイアは」

 

「さて、私にもよく分かりませんわね。ミユの傷を治すために契約した時からずっとこの調子ですし‥‥」

 

 

 そう、問題はサファイアのこの態度だったのだ。契約した理由である彼女の治療は終わっているのだから、契約を解除して記憶処理をすればいい話だったわけなんだけど、それをサファイアが拒んだのだ。

 理由は先程から言っての通り、“理想の主人に出会った”とのこと。さっぱりワケがわからない。

 (ルビー)と違ってサファイアはこの上なく魔術礼装としての特性に相応しい人格設定をされている。主人に従順で助言は的確、細かい気も利くし控えめで大人しい。

 その彼女が、本来の主人であるルヴィアを放ってこのような態度をとる理由は全く理解できなかった。

 

 

『ルヴィア様は確かに素晴らしい魔術師です。私が今まで少ないながらも見かけたあらゆる魔術師と比較しても欠片も劣らない才能と、克己心をお持ちです。しかし、私のマスターであるべき者というのは単純に魔術師としての才能が必要とされるわけではありません』

 

「それが彼女、というわけですのね?」

 

『こればかりは言葉で説明できるものでもないのです。申し訳ありませんが、私は所詮道具です。私を最善の状態で使いこなすことができるマスターを前に、他の選択肢をとることはできません』

 

「‥‥はぁ、やっぱりこの調子では仕方がありませんか。当初の予定通りにやるしかありませんわね」

 

 

 ルヴィアは大きく溜息をつくと頬にかかったロールした髪の毛を後ろへと払ってベッドに腰掛ける。あくまで優雅に、だ。

 

 

「まずは私達の立場について話をしましょうか。‥‥おそらく貴女ならば嘘か誠か判断できると思いますが、私達は皆、魔術師と呼ばれる人種ですわ」

 

「まじゅつし‥‥? 魔術師ですか?」

 

「そうです。私もルヴィアゼリッタも、蒼崎君も、魔術と呼ばれる神秘の業の行使手。歴史の闇の中、社会の影に隠遁し、一般の人間には存在すら知られていない者達です」

 

 

 ルヴィアに続いてバゼットも言葉を紡ぐ。驚くべきことに、常人の理解能力を遥かに超える事実を次々に打ち明けられていきながらも、美遊嬢は何とかそれらを理解しようと努めているようだった。

 流石に全てを理解はできていないみたいだけど、少なくとも端からそれを否定しようとはしていない。子供故の素直さか、それとも彼女自身の資質なのか。どちらにしても都合はいい。

 

 

「具体的にどんなことができるか、ってのは今は置いておこうか。とにかく俺達が一般には知られていない連中で、そういう連中が組織している機関、魔術協会っていう組織もあるってことぐらいまでは頭に入れて欲しい」

 

「‥‥はい、流石にちょっと驚きましたけど、とりあえずそこまでは間違いない事実なんですね」

 

 

 まぁ目の前でフワフワと浮かんでいるサファイアとかを見れば流石に首肯せざるをえないだろう。なにより瀕死の重傷を負っていたはずの自分が全快しているのだから疑いようはない。

 もっとも俺達だってそこまで詳しく説明するつもりはなかった。必要最低限の認識だけを教える。あまり詳しい知識を与えてしまうのはお互いにとって良いことではないのだから。

 元々から魔術師の家系ではない俺には選民思想なんてものはないつもりなんだけど、それでも魔術を学ぶことができる人間というのは厳選されてしかるべきだ。不要な力は不要な災いを生む。元々それを知らずに生きてきたということは、実はこれから先もそれを知らずに生きていくことが可能だということなんだ。

 ま、例外はあるけどね。俺とか衛宮とか、鮮花とかもそうなるのかな。幹也さんもそうだし、美遊嬢も結局はそうなるのかもしれない。でも今はまだ、そういう判断をするべき時じゃないだろう。

 

 

「私達は大師父‥‥魔法使いと呼ばれる五人しか確認されていない上位の魔術師のような方から命を受け、冬木の地にやって来ました。この地に現れた危険な魔術品を回収するためにですわ」

 

「魔術品‥‥?」

 

「そうです。‥‥バゼット」

 

 

 ルヴィアに水を向けられ、バゼットが椅子にかけてあったスーツの内ポケットから一枚のカードを取り出して美遊嬢に見せる。焦げ付いたような茶色や渋くて暗い色ばかりで彩色されたカードは巷に出回っているようなものには見えなかった。

 たいした装飾のされていないカードの中央には一人の男の姿が描かれていた。軽装で品のいい羽飾りのついた帽子を被り、細く長い槍を携えた歩兵の姿だ。

 絵の下にはアルファベットでLancerと書かれており、カードと言われて想像するようなトレーディングカードの類ではなく、ともすれば美術品のようにも見える。

 

 

「これが冬木に現れた謎の魔術品です。これといった名称はないので仮に“クラスカード”としますが、私達の任務はこの危険な代物を回収することです。

 これは鏡のような異空間を作りだし、そこに英霊と呼ばれる過去の偉人達を喚び出すという性質があり、回収を普通の手段で行うことは不可能です」

 

「中に喚び出された英霊を倒さなきゃいけないんだよ。でも英霊っていうのは精霊の一種みたいなもので、たとえ魔術師であっても簡単には倒せない‥‥いや、ほとんど不可能だね」

 

「そこでその英霊を打倒するために大師父より貸し出されたのが、貴女の隣のカレイドステッキという魔術礼装ですわ」

 

 

 順番に要領よく、最低限の情報だけをまだ幼い少女に説明していく。度重なる新たな情報に美遊嬢は流石に目を白黒させてはいるけど、理解しようとする姿勢はそのままだ。

 サファイアと契約することで傷が癒えた美遊嬢を半ば拉致するようにしてホテルに運ぶ道中で、サファイアが彼女の気を引いている隙に三人で話し合った内容の通りなわけだけど、これで中々、結構スレスレな話で冷や冷やしている。

 加減が難しいのだ。必要最低限な情報でありながらも他の聞かせたくない情報と密接に絡み付いているから、美遊嬢に疑問符を抱かせるような喋り方をしてはいけない。

 

 

「本当はこういうことは一般人に話してはいけないんだ。色々と実利を伴った決まり事、慣習があってね。それでもなお、君に打ち明けた理由は分かるかい?」

 

「‥‥私が否応なく関係するから。つまり、私にそのカードの回収を任せたい、というわけですか?」

 

 

 一拍二拍の沈黙の後に呟かれた美遊嬢の言葉に、聞き分けが良いという意味では期待していた展開でありながらも俺達は僅かに瞠目してしまった。

 正直、真剣に接していながらも子供と思って油断していたことは隠せない。そんなつもりは欠片もなかったつもりだけど、当然に生じる些細な大人の驕りに気付かされてしまう程に目の前の少女は優秀だったのだ。

 

 

「―――驚きましたわ。微塵もそんなつもりはありませんでしたけど、確かに子供と思って侮っていたかもしれませんわね」

 

「嫌な言い方かもしれないけど、こりゃ虐められてしまうのも納得だな。美遊嬢の人柄がどうあれ、ここまで子供離れしてるっ‥‥」

 

「たいしたことではないでしょう。ただ事実から推測される確定的な可能性をお話しただけです。‥‥それで、私は具体的に一体なにをすればいいんですか?」

 

 

 さらり。さもそれが当然であるかのような自然さで飛び出して来た言葉に、敢然とした魔術師としてあろうと考えていた俺は思わず態度を崩して身を乗り出してしまう。

 

 

「ちょ、ちょっと待った! いきなり君は何を言い出すんだ!?」

 

「何って‥‥貴方達は私に仕事を手伝ってもらいたいんじゃないんですか?」

 

「いや、それはそうなんだけどさ‥‥」

 

 

 俺自身も困りきって横を見れば、相棒たる二人も少なからず動揺しているように見受けられる。少なくとも今の状況を当然のこととして受け入れている様子はない。

 それは美遊嬢があっさりと俺達が望んでいることを理解していたからではなくて、何の躊躇も思惑もなく行動を選択したことについてだ。

 即断即決なんてそう簡単に出来るもんじゃない。もちろん例えば軍人などに限定すれば話は違うだろうけれど、それも特別な訓練を受けていなければ不可能に近いものである。

 より重大な決断、より慎重な年齢になればなるほど、即断即決は難しくなるものであり、そして彼女は年齢に相応しからぬ知性の持ち主。

 このような重要な案件について慎重にならないというのは予想外にも程があった。

 

 

「ミユ、私達の方からお願いする形になるというのにおかしな話かもしれませんが、私達の受けた任務というのは決して安全なものではありませんわ。いえ、どちらかといえば、かなり危ない、命の危険すら常に伴う程の過酷なものでしょう」

 

「実際ランサーを仕留める際には死に目を見ましたからね、私も。虫のいいことを言うようですが、正直オススメは出来ません」

 

 

 それこそルヴィアの言う通りのおかしな話で、あまりにも聞き分けが良すぎる美遊嬢の言葉に俺たちは動揺のあまり真逆の説得を試みたりしてしまっている。

 いくらスペックが高くとも相手は小学生。そして彼女を利用し尽くそうと考えるには俺達は度胸が無さ過ぎた。

 ていうかおかしいよ。正直な話。

 

 

「‥‥別に、他にやることもありませんから。ここで断っても、私はどこに行くというわけにもいきません」

 

 

 悲しみなどを含んでいそうには見えない表情で俯いた美遊嬢に場の空気が再び止まる。

 あまりにも淡々としているくせに、口にした事実のみが圧倒的に口を挟むことのできない深刻さを内包していた。

 そして同時に気づく。すでに偽善的なことを考える以前の問題として、俺達が彼女を助けた既にその段階で、彼女のとるべき道というものに選択肢は存在していなかったのであるのだと。

 今更、彼女の危険がどうこうと言える状況でも立場でもなかったのだ。俺達が美遊嬢を助けた瞬間に、俺達の思惑がどうあれ、美遊嬢の思惑がどうあれ、既にこれからというものは決定してしまっている。

 彼女が警察に保護を申し出ても、孤児院の出身である以上は元の場所に戻されてしまう。さりとて戻ればいじめは残っているし、このまま放浪しているわけにもいかない。

 日本の警察組織は存外に優秀だ。子供一人がそこら辺をふらふらしていたら、狭い町であること、すぐに補導のご厄介になってしまうだろうことは疑問の余地がないだろう。

 

 

「世話になった院長先生にご迷惑をおかけするには忍びない。行く場所がない以上、助けていただいたご恩を返すことに何ら躊躇はありません。どうぞ、私に力を貸させてください」

 

「そう、ですか‥‥。では私達も責任をとるのに躊躇する必要はありませんわ。美遊、これからよろしくお願いいたしますわね」

 

 

 ルヴィアが再度その手を差し出し、美遊嬢も今度は意図をしっかりと理解してその手を取る。二人の周りを若干普段よりもテンション高めにサファイアが飛び回っており、俺とバゼットは視線を合わせると互いにうなずきあった。

 俺達がどう思っていたのかは重要なことではない。重要なのは、俺達の行動によって美遊嬢という女の子を一人、こちら側に引きずり込んでしまったことだ。

 もっとも俺もルヴィアもバゼットも、サファイアだってあのときの選択を悔やんでなんかいないだろう。だってああしなければ美遊嬢は死んでしまっていたのだから、それこそそれによって彼女を神秘の世界に引きずり込んでしまったのも致し方ない。

 だから俺達がするべきなのは、過去を悔やむことではなく、これから美遊嬢について責任を持ってやること。

 いかに子供らしからぬ頭脳を持っていたとしても俺達が大人であり、彼女は本来は庇護対象であるべき子供にすぎないのだという事実は変わらない。ならば、大人の責任とはただ一つ。

 

 

『私も、よろしくお願いします美遊様(マスター)

 

「うん、よろしくサファイア」

 

 

 ただ、彼女のこれからに責任を持つ。つまり端的に言えば保護者代わりになってやるということだ。

 目の前にフワフワと近寄って来た声を発して人語を解する謎の珍物体と挨拶を交わす、ぶかぶかのジャケットを被った儚げな体つきの少女。

 きっと彼女を見ながら密かに決意したのは、俺だけじゃない。

 

 

「‥‥さぁ三人共、そうと決まれば今夜は早く寝てしまうことにしましょう。明日やらなければならないことは山積みですよ!」

 

「そうですわね。ミユの身請けの手続きをしなくてはいけませんし、オーギュストに言ってこちらに拠点を作る手配もしなければ‥‥」

 

 

 空気を変えるかのように小気味良い音をたてて両掌を合わせたバゼットに、ルヴィアも意図に従って気持ちを切り替え、明日―――つまるところ今日になってしまっているわけだけど―――やるべきことへと思惑を走らせる。

 なんか最近この台詞が増えて来たような気がするけど、とりあえず明日やることはさておき、今晩はバゼットの言葉に従ってゆっくり休むとしよう。

 今夜の戦闘は言わずもがな、よくよく考えてみればロンドンから飛んで来てから全く休みをとっていないのだ。明日からまた騒がしく忙しく、果てしなく物騒な日々が始まるのだから。

 

 冬木の夜はひどく静かで、小さな窓から眺めた裏路地の隙間から見える空には、日本にしてはやけに大きな月が見える。

 まるで一定の周期で夜の闇に紛れて行われる、理不尽きわまりない虐殺と蹂躙の宴を覆い隠すように、静寂は冬木の街を包む。それは鏡に写された別の世界で行われる、俺達の戦いだって例外なんかじゃない。

 明くる日、そしてさらにその次、これからしばらくは繰り広げられることになる、一介の学生の身にはひどく手に余る任務へと思いを巡らせて、

 俺は自分のために割り当てられた一際小さな隣の部屋へと移動するために女衆の部屋を後にしたのであった。

 

 

 

 56th act Fin.

 

 



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第五十六話『魔女達の困惑』

 

 

 

 

 side Rin Tosaka?

 

 

 

 

「‥‥けほ、酷い目にあったわね。ちょっとルヴィアゼリッタ、アンタ無事?」

 

 

 雲一つだって無い真っ黒な星空に白く輝く月が君臨し、私達を見下ろしている。見下すわけでも見守るわけでもなく、ただただ静かに見下ろす月は逆に無慈悲だと言えるのだろうか。

 古来、神代の時代から月は神秘的なものとして扱われて来た。それは例えば火山とか海とかと同様に神なる存在と同列視され、それでもなお対として扱われることの多い太陽と同じく別格に見られることが殆どだ。

 毎晩のようにそこにあるのに、これ以上ないぐらいに神々しい輝きを放っているのに、どれだけ手を伸ばしても決して届くことはない。そんな不可侵を約束された存在だったから、昔の人はみんな月を神秘の最上級に位置づけたのだろう。

 それは人類にとって月が十分に手を伸ばせる範囲に入った現代においても変わらない。月は相変わらず神秘的な輝きを以て夜空を照らすし、触れがたい神々しさだって相変わらずに違いない。

 ならば私達が月に抱いていた畏れは観念的なものから発生したわけではなく、やはり月自身神秘が存在しているからなのだ。そも人の信仰が宇宙にまで及ぶかと言えば疑問ではある。

 

 

「‥‥無事、といえば無事ですわね。もっとも言葉にすれば二文字に過ぎませんけど、その二文字を搾り出すのにどれだけ労力が必要なことか‥‥」

 

 

 そんな果てしなく意味のないことを考えながら、半ば現実逃避気味に夜空を見上げながらも呟いた言葉に対して返って来た答。私はギシギシと軋むかのようにゆっくりとぎこちなく首を横へと向けた。

 まず目に入るのは鮮やかな金とブルーのコントラスト。髪の色はさておき服の色まで私と真反対な自他共に認めるお嬢様が、私と同じく疲れきった表情で地べたに座り込んでいる。

 コイツはルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。私が留学という名目で通っている魔術師達の最高学府、時計塔の鉱石学科で一緒に学んでいるいけ好かない成金お嬢様で、不本意ながらも今回の任務(しごと)のパートナーだ。

 

 

「不本意だけど、それについては私も全面的に同意するわ。こんな任務、大師父の命令でもなかったら今すぐボイコットしてやるところよ」

 

「報酬である“第二の魔法使いへの弟子入り”はこれ以上ない程には魅力的なんですけどね‥‥、正直、費用対効果(コストパフォーマンス)が割に合いませんわ」

 

 

 へたりこんだ状態から体を起こし、お尻についてしまった砂を勢いよく払い落とす。全身を酷い虚脱感が襲っていて、今だかつてないぐらいに何をするにも億劫だ。

 ともあれ本音はさておき、それでも無様に座り尽くしているわけにもいかない。私自身が座右の銘にしている家訓もそうだけど、何より私の隣で同じように優雅に立ち上がって埃を掃うクラスメートには微塵も隙を見せたくないのである。

 

 

「ホントよくよく考えたらどんなに優秀だって、一介の学生に命じる任務じゃないわよね。―――英霊と戦え、なんて」

 

 

 遠坂の家系の祖たる第二の魔法使い、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。魔導元帥、万華鏡、宝石翁などの様々な異名を持つ魔法使いから私達に下された任務のために、私は冬木の街へと出戻って来ていた。

 本当ならしばらくはロンドンは時計塔で魔術の勉学に励む予定だったのだ。いくら私が優秀とはいって何も簡単に魔術師にとっての最高学府たる時計塔に入学できるわけではない。

 余計なことに意識を割く暇なんて欠片もなかったし、事実その通りに忙しい毎日を送っていたのである。

 ただ私にとっての最大の不幸は、おそらく向こうに渡る前には全く想像もしていなかった天敵(ライバル)に遭遇してしまったことか。

 どうしても何かと互いに突っかかってしまう私達が、大師父が一人だけ今期で最も優秀な学生から弟子をとるという話を聞いて問題を起こさないわけがなかった。今になって思えば、の話だけど。

 結局ちょっと言葉にしたくないぐらいの大騒動を起こしてしまった私達は大きなチャンスとしてこの任務を与えられたわけだけど‥‥。

 

 

「あら、怖じ気づいたのですか遠坂凛(トオサカリン)? やはり貴女には大師父の任務は手に余るようですわね。私に任せてさっさとロンドンへ逃げ帰ってはいかがですか?」

 

「っざけんじゃないわよ! 今のは純然たる感想で、別に任務が嫌だなんて言ってるわけじゃないんだからね! そういうアンタこそ、足手まといになるようだったら管理者(セカンドオーナー)権限で管理地から放り出してやるから覚悟してなさい!」

 

 

 正直、コイツと一緒の任務ってだけで成功率がガクンと下がったような気がする。別にコイツの実力を認めていないわけじゃないんだけど、とてもじゃないけどコンビネーションなんてものは成立しない。

 もちろんそれが証明されたわけじゃないわよ。さっきの黒い外套をまとった弓兵との戦いだって、ギリギリではあったけどまぁ何とか勝利することはできたしね。

 ‥‥まぁ、その間にコンビネーションらしいコンビネーションがあったかと言えば、それはそれで疑問なんだけど。

 

 

「はぁ、もう今夜持ってきた宝石全部なくなっちゃったわよ‥‥。これじゃ屋敷に帰らないとロクな魔術も使えやしないわ」

 

「まさかサファイアの魔力供給だけでは足りず、宝石を使ってブーストまでしなければならないとは‥‥。本当に、英霊という存在は生半可ではありませんでしたわね」

 

 

 スカートのポケットを探ると、そこにしっかりと収めていたはずの幾つもの宝石は跡形もなく消え去っていた。先の弓兵との戦闘で魔力砲をブーストしたがために、その中に秘めた魔力を解放させて塵になってしまったのだ。

 見たところ対魔力の低そうな英霊(サーヴァント)だったんだけど、いくつも剣を出現させて矢というよりは弾丸のように射出してくる正体不明の英霊は、やっぱり第一級の魔術礼装を持った私達でも簡単に倒すことのできる相手ではなかった。

 全力全開で放った魔力砲も七つの花弁を持つ盾の宝具に防がれ、そこに手持ちの宝石をいくつかつぎ込んで威力を底上げすることで、なんとか破ることに成功したのである。たぶん、あの砲撃の威力はランクに換算したらA++に達していたことだろう。

 

 

「アンタはいいでしょ、懐が豊かでいくらでも宝石買えるんだから」

 

 

 ルヴィアゼリッタを見れば、スカートの隙間に手を差し込んでいくつか宝石の所在を確認している。あの様子から察するに、まだまだストックは残っているのだろう。

 私だって屋敷に帰ればまだまだ宝石は残っているけど、それでもルヴィアゼリッタに比べれば数は微々たるものだ。質こそ劣っているつもりは欠片もないんだけどね。やっぱり、物量じゃ全然かなわないわ。

 認めたくないけど、ウチってば本当に宝石魔術をやるには貧乏に過ぎるのよ。お父様は上手いこと回してたみたいなんだけど、遺してくれた財産もいつの間にか目減りしてたような気がするし‥‥。やっぱりアレかしら、相続税とかなのかしら。

 

 

「何を言っていますの、重要なのは宝石ではなく、宝石に込めた魔力の方でしょう? 宝石はお金で買えますが、毎日少しずつ魔力を貯めた宝石はお金では買えませんのよ。

 いわば、時間が買えないのと同じことですわね。そのようなこともわからないんですか、貴女は」

 

「わかってないわけないでしょーが! それでもやっぱり小さな宝石でも好き放題ばらまいてる成金が気にくわないって言ってんのよ!」

 

「あらあら、魔術の探求のために私財を繕うのも魔術師としての甲斐性でしょうに、本当にこの国に似てみすぼらしい方なのですね、貴女は」

 

 

 

 ピキリ、と私のこめかみがイイ感じに音を立ててはじけた気がする。人の気持ちも知らないでこのお貴族様は‥‥!

 

 

「‥‥そうね、魔術の探求自体にはさして意味のない小粒の宝石をいくら持っていても意味がないものね」

 

「そうですわね。どこぞの極貧魔術師さんはその小粒の宝石すら調達できないらしいですけれど」

 

「ぐぐぐ、自重しろ私、我慢しろ私‥‥!!!」

 

 

 金銭的な余裕の違いからくる形成の差が憎い。私にだって十分な財力さえあれば好きなだけ研究が出来るというものなのに、どうして遠坂の家はこんなどうしようもない宿命を背負ってしまったことやら。

 愚痴ばっかりって言われてしまうかもしれないけどだって私とルヴィアゼリッタの実力自体は真実伯仲しているのだ。要するに足りないのは実験器具とか、材料‥‥つまるところ宝石、つまるところお金ってわけ。

 そればっかりは私がいくら努力したって早々反転することはない立場の違い。根本的なところで財力が違う。遠坂の家だって決して古くないわけじゃないけど、さすがにエーデルフェルトという家に比べれば見劣りするし。

 もちろん私としても家系を頼みに相手を見下すつもりは毛頭ないし、逆に引け目を感じるということもない。要するに、それに付随する結果というものだけが不満なのだ。なにしろ時計塔は実力主義ではあるけど、それも血統主義を土台に成り立っている。

 

 

『お二人とも、喧嘩はお止め下さい』

 

『そうですよー。私達は凜さんとルヴィアさんの私闘に使われるために渡されたわけじゃないんですからねー』

 

 

 と、必死で押さえつけていた堪忍袋の緒がブチリと激しい音を立てて弾け飛んでしまおうとした瞬間、私達の背後それぞれからひょっこりと飛び出した二つの奇っ怪な物体が私とルヴィアゼリッタの間へと割り込んだ。

 五芒星と六芒星に丸い枠がついて、そこから可愛らしくデフォルメされた天使の羽が飛び出し、それにステッキの柄がついたような謎の物体。それはまるで、巷の子供向け番組に出てくる魔法少女が持つようなものにも見える。

 というか、まんまなのだ。スペック自体は物騒極まりないのに、この魔法のステッキの形をした魔術礼装に搭載された人工精霊がそう自身を呼称しているのだから。

 

 

「‥‥なによルビー、マスターの邪魔するっていうの? そこ退きなさいよ。今からちょっと目の前のムカつく縦ロールを凹にしてやんなきゃいけないんだから」

 

「貴女もですわ、サファイヤ。私もこんな極東の島国出身の、ちょっと魔術の腕がいいからと調子に乗っているオサルさんに身の程というものを教えてさしあげなければなりませんの」

 

 

 互いにこめかみをひくひくとさせながら敵意を露わに戦闘態勢をとる。頭を低く、前傾姿勢をとったルヴィアゼリッタは、お嬢様然としたいつもの様子に反してイングランド古来の捕縛術、ランカシャースタイル‥‥有り体にいえばレスリングの使い手なのだ。

 腰を落としてどっしりと構えた、私の中国拳法とは全くコンセプトが異なる。今までも何度となく殴り合ってきた仲だけど、このあたりでしっかりとシロクロつけておきたい。

 

 

『ルビーデュアルチョップ!!』

 

「ぷげらっ?!」

 

「ひでぶっ?!」

 

 

 と、一歩踏み出したところで私の頭に衝撃が走るったそれこそ☆でも目から飛び出したかのように視界はチカチカするし、頭は中で鐘でも鳴らされたかのようにぐわんぐわんと揺れている。

 痛む頭を押さえて前を見れば私と同じようにルヴィアが前頭部を押さえて呻いていて、その真ん中にはエッヘンと胸でも張りそうな様子のルビーが浮遊していた。

 ‥‥もしかしてコイツが叩いたの? なんか、コイツの体重というか質量というか、下手したら拳に収まるぐらいの大きさの体から放たれたとは思えない打撃だったんだけど。

 

 

『ホントにもうしょうがないですね、魔術師のくせに肉体言語使いのお二人は! 私達が下された任務はそのように浮ついた気持ちで果たせるものではないんですよっ!』

 

「一番浮ついてそうなアンタに言われたくないわよルビー。ていうかよくもマスターを殴ってくれたわね、殴り返させてくれないかしら? むしろ殴らせろ」

 

 

 前頭部に感じた痛みは即座に頭頂部へと上って怒りとして発散され、私は一応は僕ということになっている不愉快型魔術礼装に折檻を加えようと手を伸ばす‥‥が、ひょいっと空中へと逃げられて敢えなく宙を泳ぐ羽目になった。

 むっ、コイツやっぱりマスターに逆らう気ね。良い度胸じゃないのルビー、いくら大師父の作った魔術礼装とはいえ手加減はしないわよ!

 

 

『落ち着いてください凜様、ルヴィア様。普段なら賛同しかねますが、さすがに今回は姉さんの言う通りです。私達は宝石翁から授かった任務を果たすためにココに存在しています。任務を達成することこそが、全員にとって有益なことであると具申いたします』

 

『んー、私としては凜さんとかルヴィアさんとかでおもしろおかしく遊べればそれでいいんですけどね、あはー』

 

 

 不穏なことを言うルビーはさておき、姉とは違っていたく冷静なサファイアの言葉には一考の価値がある。というかまぁ、これが本当なら論外なやりとりであることは先刻承知なわけだけど。

 

 とりあえず一度ヒートアップしてしまった頭を再度クールダウンして周りを眺めてみる。ルビーの先導であのおかしな空間に突入する前と寸分違わぬ、冬木は新都の中央公園の風景がそこには広がっていた。

 無駄に広々とした公園には全く人気がない。晩ご飯時をちょうど過ぎたぐらいの微妙な時間帯だというのもあるけど、どちらかといえば冬木の住人にとってこの場所が鬼門に近いところだからだろう。

 

 

「‥‥とりあえず、反省とかはいらないわよね? こんなところでする話でもないし」

 

「そうですわね。強いてあげるとすれば、ランサーを打倒した例の執行者にはもう一度ご足労いただきたかったところです。彼女がいれば、またずいぶんと戦闘が楽になったことには違いませんから」

 

 

 大師父の命を受けて私達が冬木へとやってきたのはつい今日の昼のこと。そこから出現したランサーのサーヴァントを打倒したという封印指定の執行者に状況の説明を受け、次にルビーが出現を感知したクラスカードの元へと向かったのがつい一時間ほど前のことだ。

 反転した世界に現れた謎の黒い外套のサーヴァント、アーチャーとの戦いは熾烈を極めた。それこそ先ほど言ったとおり、無限に魔力を供給するカレイドステッキたるルビーのアシスタントを受けて、なお。

 まぁ結局は何とか倒すことができて、こうして現実空間に帰ってこれたわけなんだけど。

 

 

「こんな戦闘があと何回も続くようでしたら、真剣にこれからを考えなければなりませんわよ?」

 

「それについては後にしましょうって言ったでしょ? ちょっと今日は真剣に疲れ切ってるわ。家に帰ってじっくり休んで、話し合いはその後にしない?」

 

 

 正直自分でも珍しいことだとは思うけど、私は目の前で細い顎に拳を添えたパートナーの思案を半ば弱音同然の言葉で遮った。比喩でも何でもなく、私もルヴィアゼリッタも疲れ切ってしまっていたのだ。

 魔力自体はさして消費してはいない。今夜の戦闘で消費した魔力はルビーによって供給されたものだし、宝石だって外部タンクみたいなものだしね。

 どっちかっていうと普段なら有り得ないぐらいに大量に、無尽蔵に魔力を流した魔術回路の酷使が肉体的な疲労という形で顕れている。倦怠感と、筋肉痛みたいな鈍い痛みが全身に走っている。

 

 

「‥‥負けたようで悔しいですけど、仕方がありませんわね。暫くはこの辺鄙な街で過ごさなくて歯いけないみたいですから、住む場所の調達もしなければなりませんし」

 

「‥‥ちゃんと管理者(セカンドオーナー)に上納金を納めなさいよね」

 

「そんな基本的なことはとうに承知しておりますわ。貴女に言われるまでもありません。一銭たりとも欠けずに納めてさしあげますから、しっかりとその貧相なム‥‥もとい淋しい懐を温めればよろしいですわ」

 

 

 文字通りの懐に視線を向けられても、当然ながらそこには財布はおろかポケットだってついちゃいない。だから多分、今の言葉には何らかの含みがあったわけで。

 圧倒的な戦力差はひどく即物的な要素でありながら、またその戦力を行使する相手がいないながらも敗北感として私にのしかかってくる。これもまた圧倒的な財力と同じく生半可な努力ではどうにもならない要素であるから苛立だしさもひとしおというもの。

 

 

『はいはい二人ともスーパー野菜人よろしく闘気を放出するのは止めて下さいねー? とりあえず人目に触れると厄介なので、さっさとトンズラしちゃいましょうか』

 

「‥‥っと、確かにアンタの言う通りね。‥‥さっき売られた喧嘩はまた明日きっちり買い取らせてもらうからね、ルヴィアゼリッタ!」

 

「挑戦はいつでも心踊るものですわ。お待ちしておりましてよ、遠坂凛(トオサカリン)

 

 

 まともな時は普段のバカが想像もできないぐらいに真面目なルビーの言葉に、私もルヴィアもしっかりと戦闘体勢のファイティングポーズを解いて互いにそっぽを向く。

 既にあの自殺モンの恥ずかしい変身は解いていつもの赤い簡素な私服に戻ってはいるけれど、ただでさえ普段から全然人の訪れない中央公園

ココ

に年頃の娘が二人もいれば否応なく人目を惹いてしまう。

 

 

「それじゃ私は家に帰らせて貰うわね。ルヴィアゼリッタにはルビーからサファイアを通じて連絡を―――」

 

「―――無事でしたか、凜っ!!」

 

「‥‥へ?」

 

 

 とにかくこのままではいくらルビーやサファイアが止めても遠からず雌雄を決する展開になる。これ以上コイツと一緒の空間にはいたくない。そう結論をつけた私が踵を返した時だった。

 

 

「突然いなくなってしまったので心配しました。どうやら私だけが弾き出されてしまったようです。仮にもAクラスの対魔力を持っている私を弾く結界とは一体いかなるものか‥‥」

 

 

 一人の少女が、閑散とした公園に現れた。

 歳は私やルヴィアゼリッタよりも幾らか下に見える。金細工のような髪から外国人であることは歴然だけど、それでもなお幼く見える顔立ちだからもしかしたら本当はもう少し年上かもしれない。

 冬木では外国人はさほど多くない。外国人墓地や立派な教会があったりするけれど、移民が多かったのも昔の話で、今はそのほとんどが死んでしまったり帰国したりで残っていないのだ。

 そんな冬木にこんな欧州風の美少女がいるというだけでルヴィア並に目立つことは請け合いなんだけど、それよりも何よりも彼女を目立たせているものは、その服装‥‥否、格好だった。

 

 その小柄な体躯に、纏っているのは重厚な鎧。銀色のそれは無骨でありながら可憐な少女を彩るに相応し過ぎるほどの神秘を帯びて彼女を守護している。

 その銀色の鎧の下に見えるのは豪奢で古風な青いドレス。本来なら融和しえない、方向性の全く違う二つの衣装が不思議と彼女には似合っていた。いや、むしろ彼女ならばそれも当然かと思ってしまう。

 あまりにも異質なその姿。それ自体は完全に調和されていても、この場に調和していない。不自然で、異様。当然として日常を享受している人間とは違う、非日常に慣れた魔術師である私でも、そのギャップに思わずあらゆる行動を停止してしまった。

 

 

「‥‥どうしたのですか、凜? シロウやショー、バゼットはどうしたのですか?」

 

 

 少女の言葉に私はハッと意識を取り戻した。隣でも同じように息をのむ音が聞こえたから、多分ルヴィアゼリッタも私と同様に言葉を失っていたんだろう。

 

 

「ッ、下がりなさいルヴィアゼリッタ! この子サーヴァントよ!」

 

「なんですって?!」

 

 

 そして次に致命的なことに気づいて、私はルヴィアゼリッタを怒鳴りつけると先ずは自分が魔力で身体を強化して大きく後ろへと飛び退いた。

 奇抜極まりない風体よりも、この少女の異常性をはっきりと表すとある要素に気がついたのだ。

 ‥‥彼女の周囲を、いや、周囲どころか彼女自身も高密度の魔力で構成されている。何らかの魔術を行使しているわけでもなく、魔術回路を起動させた様子もないのに彼女は魔力を大量に内包しているのだ。

 それは知識だけで実践が不十分な私にでもわかる一つの事実を提示していた。つまり、彼女が人外の存在であるということ。それも精練な魔力の印象から察するに、死徒や魔物ではなく、精霊に準ずる存在。すなわち英霊、サーヴァントであると。

 

 

「‥‥凜? 一体何をふざけているのですか貴女は―――!?」

 

 

 ぴたり、とコチラに手を伸ばしてきた少女も動きを止めた。ポケットから最後に残った小さな宝石を取り出して構える私に向ける視線に含まれる色が変わる。

 親しげだった視線は怪訝なものに、そしてあからさまに敵を見る目つきへと。伸ばされた手は一度握られ、そして今度はわずかに隙間を空けて拳が作られる。まるで、見えない何かを掴んでいるかのように。

 

 

「‥‥貴女は、凜ではありませんね。マスターとのレイラインが感じ取れない‥‥!」

 

「何が言いたいのかしら? 私は間違いなく遠坂凜その人よ」

 

「戯れ言を抜かすな! 姿形こそまるきり同じであったから騙されはしたが、この期に及んでそのような小芝居が通じると思ったか!」

 

 

 少女は軽く握った右手をこちらに突きつけてくる。同時に叩きつけられる圧倒的なプレッシャーに私は思わず足が竦んでしまうのを感じた。

 それは私が今まで感じたどんなプレッシャーよりも清廉でありながら危機的なもの。即座に死を覚悟してしまうぐらいに覚えさせられた強烈な戦力差と存在の格の違い。

 だけど、それでも私はここで退いてしまうわけにはいかなかった。悲しくなるほど戦力が離れている相手でも絶対に無様な真似はさらさない。何より、彼女の話には不審な点が多すぎた。

 

 

「‥‥だいたい、いきなり出てきて誰だか知らないけど、私には貴女が何を言ってるのかさっぱりよ。確か私達、初対面だったわよね?」

 

 

 そう、全くの初対面のはずのこの少女は何故か私の名前、いや、私という人物のことまで知っている様子であったのだ。

 心底理解できない。こんな美少女と会ったことがあればまず間違いなく私の記憶にも残っている。しかも、最初に話しかけてきた時の様子から察するに顔見知り以上の関係ではありそうだ。

 

 

「というよりも、いったい貴女どちら様ですの? 一応このあたりは事前に宝石で結界を張ってあったんですけれどね?」

 

 

 隣で私に一拍遅れて出会いの衝撃から意識を覚醒させたルヴィアゼリッタが宝石を構えるかすかな音がした。声にも僅かに普段の高音気味のテンションよりも緊張の色が認められる。

 ルヴィアゼリッタもわかっているのだ。目の前の存在の異常性を。何よりも先ほど、コイツのご同輩と戦ってボロボロになったばかりなのだから緊張も当然といえる。

 しかも特筆すべきことは、彼女が私達と戦った英霊、すなわち便宜的に黒化と呼称される劣化した存在ではなく、しっかりと英霊としての特性、善性をしっかりと持った、いわば万全の状態の英霊であると考えられることだ。

 英霊を喚び出す。言葉にすれば簡単かもしれないけど、実際にやることを考えると途方もない。

 精霊に近い存在となって、時間の流れとは隔絶しているにせよ現存する存在であるが、英霊を現世に喚び出すと言うそれは死者の蘇生と如何程の違いがあるだろうか。

 あの鏡面界に出現した黒化英霊にしてもどういった原理で喚び出されているのか、はばかりながらも時計塔で一番の成績を誇る私やルヴィアゼリッタを以てしても解析は不可能だったのだ。

 そしてそんな高度な術式を用いても、あのような劣化した無様な姿でしか、現実空間と隔離された鏡面界という異世界でなければ英霊を喚び出すことはできなかった。

 ならば私達の目の前で静謐な魔力を放出するこの正英霊は、いったいどうやって現界しているのだろうか?

 

 

「何を当たり前のことを。私は結界が張られる時に既に中にいたのだから、結界に反応しないのも当然ではないか。逆に問おう、貴様らこそ凜とルヴィアゼリッタが張った結界の中にどうやって‥‥いえ、そもそも彼女たちが消えた別の空間にどうやって侵入―――まさか凜やシロウ達に何かしたというのか!?」

 

 

 銀色の甲冑を纏った少女から放たれる威圧感(プレッシャー)が殺気へと変化し、私達へツンドラの吹雪のように襲いかかる。

 先ほどの威圧感がまるで太陽のような神々しささえ湛えたものだとすれば、この殺気は今、形容したとおり、まるで凍土にでもさまよい込んだかのような恐ろしいものだ。

 目の前の少女から放たれているとは思えない程に死の実感を持ったそれに、私はぶわっと背中に嫌な汗が流れるのを感じた。顔からは、あまりの恐怖に汗なんて湧いてこない。

 

 

「凜とシロウ、ルヴィアゼリッタとショー、バゼットに何をしたっ!? ‥‥事と次第によっては貴様らの命、無いものと思え―――」

 

『はいはいはーい! ちょっと待ってくださいお嬢さん!』

 

「「ルビー?!」」

 

 

 ガシャリ、と鎧の擦れ合う恐ろしげな音と共に少女騎士は私達の方へと一歩大きく踏み出し、大地をも割るかという程の魔力を全身に帯びたその様子に私達がいろいろと覚悟を決めたそのとき。

 私の懐から飛び出したルビーがくるりと私達と金髪の少女の前で一回転してみせ、場の空気が一瞬だけ固まった。

 

 

「貴女は‥‥ルビー?!」

 

「「知ってるの?!」」

 

 

 五芒星をあしらった謎の物体に驚きの声を上げた少女に、思わず私達も同様に声を上げてしまう。

 いったいこの奇天烈不愉快型ステッキとこのサーヴァントの間に何があったというのだろうか。顔見知りになる機会など一切あるとは思えないのに‥‥?

 

 

「貴女がここにいるということは、凜は一体どうしたというのですか?! シロウは、ショーは、ルヴィアゼリッタは‥‥いえ、そもそもこの者らは一体だれなのですか!」

 

『まぁまぁ落ち着いてくださいサーヴァントさん。まずはお互いに状況を整理しませんか?』

 

 

 フワフワと浮かぶルビーが場違いなほど明るい声で私達両方へと視線(?)を移してしゃべり出す。

 もっともルビーの真剣な声色というのも想像できないと言えば想像できないわけなんだけど、今はその普段と変わらぬペースが―――信じがたいことに―――ありがたかった。

 

 

『どうやら互いに情報と認識が錯綜しているようです。このままだと意味もロマンも萌えもなくバトったりする羽目になりますからね。魔法少女のバトルはしっかりとした前フリがないと萌えませんから、あはー』

 

「「「‥‥‥‥」」」

 

 

 前言撤回。やっぱりコイツはロクなこと考えてないに違いない。既に散々それを思い知らされたはずだったっていうのに何を血迷っていたのか私は。

 そのあまりの空気の読めなさ具合に目の前のサーヴァントも思わず嘆息する中、ルビーは相も変わらず楽しそうにクルクルと狭い円を描いて旋回し続ける。

 実際に助かったのは事実ではあるんだけど、それでも何となく釈然としない、それどころか色んな意味でさっきまでのムードとは完全に別の、非常に厄介な展開になだれ込みそうな予感すらする。

 それは上手く言葉で表現出来ない奇妙極まりない感覚ではあったけど、これだけはきっぱりはっきり断言することができる。

 きっと今回の事件が終わるまでの間に、私は幾度となく『さっき目の前のサーヴァントに斬り殺されていた方がなんぼかマシだったかも』なんてナンセンスなことを考えてしまうだろう、と―――。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「ただいま戻りましたわ、ショウ」

 

「あぁお帰りルヴィア、美遊嬢。首尾の方はどうだった?」

 

 

 現在、冬木の街は長閑な昼下がり。夜と違って春が近い昼間はポカポカと暖かく、雲の切れ間から差し込む太陽の光も穏やかでとても心地よい。

 なんでも天気予報によればこの陽気は暫くは続くらしく、きっと週末には冬木の街を縦に二分する未遠川の岸辺でピクニックに興じる人達の姿も見られることだろう。

 

 そんな明るい陽射しが降り注ぐ中、俺はといえば昨夜にチェックインしたビジネスホテルから一歩も外に出ていなかった。

 もちろん、いくら前いた世界を含めて始終インドア派だった俺としても、わざわざバゼットに買いに行ってもらった鰯の缶詰と食パンなんていうカオスな朝食を甘んじて受け入れてまで狭いホテルにい続けるのは本意ではない。

 やるべきことがあったのだ。俺達にはしなきゃいけないことが山積みになっていて、しかもとてもじゃないけど手が足りているわけじゃない。

 

 

「とりあえず孤児院の方にはミユと一緒に顔を出しました。院長先生も怪訝にはなさっていたようですが、快く養子縁組を許して下さいましたわ」

 

「‥‥大丈夫かなぁ、心配だなぁ。美遊嬢、ルヴィアは何かおかしなことしてなかったかい?」

 

「特に問題はなかったかと思います。‥‥私の常識の範疇では」

 

 

 突然にこちらのホテルに泊まることが決まったがために着替えがなく、いつも通りの恰好をしたルヴィアの隣に立つ年端もいかない少女に声をかける。

 昨夜はボロボロで血まみれのパジャマ姿だった彼女も、今は白いブラウスに碧いタイ、下はキュロットという年齢相応の非常に可愛らしい恰好だ。おそらくはルヴィアが見立てたのだろう。

 とはいえ流石にあの格好の美遊嬢を入店させるためには店員を札束で叩いたりとか色々あったんだろうけど。常に現金をある程度までは携帯しているのがルヴィアらしい。カード使おうよ。

 

 

「倫敦の方で待機しているオーギュストにも先ほど連絡を入れました。こちらへ拠点を築く手はずも整いましたし、こちらは一先ず落着いたしましたわね」

 

「そうか。結局、美遊嬢はエーデルフェルトの方で預かるってことにしたのかい?」

 

「えぇ、私が養母になるわけにもいきませんから、エーデルフェルト本家で預かりになりますわね。待遇はハウスメイドということになるでしょうが、学校にもきちんと行かせるつもりです。私が預かることになったのですから、生半可な真似は許しませんことよ?」

 

「励ませていただきます、ルヴィアさん」

 

 

 そう、朝早くから俺とサファイア以外は全員が慌ただしくホテルから出発していたのだ。特にルヴィアは美遊嬢を孤児院から引き取るのと、オーギュスト氏に連絡を入れるのと、彼女の服を手に入れるのとで大忙しだった。

 実はお嬢様の当然の嗜みというか、意外でも何でもなく世間知らずなところがあるルヴィアが問題を起こさないかと先ほどの質問通りの心配をしていたんだけど、何とかなって安心だ。

 存外やっぱりルヴィアもしっかりとわきまえるところはわきまえていたらしい。考えてみれば漫画や小説じゃあるまいし、俺よりも遙かに高い教養を持っている彼女がところかまわず自分のペースで行動するはずもないか。

 もっとも微妙に俺から視線を逸らす美遊嬢の様子からして、万事安心とまではいかなかったらしいけど‥‥まぁそのあたりは許容範囲だとは思う。

 

 

「じゃあ後はバゼットが帰ってくるだけかな―――」

 

「戻りましたよ皆さん!」

 

 

 と、椅子から腰を上げた俺の言葉に被せるようにして大きな音―――今にもブチ壊れてしまいそうなぐらいに―――をあげて扉が開かれた。

 凛々しい声音とは正反対の粗暴な所作で乱暴に開かれた入り口の方を見れば、そこに立っていたのは小豆色のスーツを纏った長身の美女。昨夜からの疲れを全く感じさせない真っ直ぐな背筋が頼もしい。

 ズカズカと革靴のまま入室した美女―――バゼットは、春も間近の陽気に汗でもかいたのか、勢いよくジャケットを脱ぎ捨てるとベッドへと座り込んで手近なペットボトルのミネラルウォーターを煽った。

 

 

「どうだった? 何かわかったことはあるかい?」

 

「えぇ、ホテルの方に行ってきました‥‥が、残念ながら私達の荷物は見つかりませんでした」

 

「‥‥それはどういうことですの?」

 

 

 一気にペットボトルの半分程までを飲み干したバゼットの言葉に、ルヴィアが怪訝な声で問い返した。

 今回ルヴィアが美遊嬢やアジトの件を担当していたのに対し、バゼットが受け持っていたのは彼女が宿泊していたホテルへ行って俺達の荷物も纏めて取って来ること。

 そのまま遠坂邸の方に帰るからと公園に荷物を置いていた遠坂嬢達と違って、俺とルヴィアはバゼットの部屋に荷物を置いたままだったのだ。

 

 

「そもそも私が宿泊したことが記録に残っていない様子でした。チェックアウトどころかチェックインした記録もないと‥‥。当然ながら部屋の中を改めてもシャツ一枚見つかりませんでしたよ」

 

「そいつは‥‥妙だね」

 

「はい。私がチェックインした時のクロークは休みだったので、明日もう一度行って確認をとってみるつもりですが」

 

 

 言葉の通り、やけに妙な事態だった。普通に考えて宿泊した記録すら残っていないというのは不審に過ぎる。

 一流の戦闘者であり魔術師でもあるバゼットがいつの間にかチェックアウトしていたなんて思い違いはないだろうし、考えられるとすれば向こう側のミス、もしくは伝達不十分。

 一晩戻って来なかったということも鑑みれば絶対に無いとは言い切れないけど、まぁとりあえず昨夜に勤務をしていたスタッフを待つしかないだろう。

 

 

「大したモノは入れてなかったから問題ないっちゃあ問題ないけどね」

 

「そうですわね。パスポートなどの貴重品は携帯しておりましたし、宝石も内ポケットに入っていましたから。

 着替えがありませんけど‥‥それは倫敦の方で調達させてオーギュストに持って来てもらいましょう」

 

 

 幸いにして荷物はなくとも当面の問題はない。特にルヴィア日く明日にはこちらに拠点が完成するらしいから、今日一日ぐらいは昨日と同じ服装だって我慢できる。女の子はキツイだろうけど、男だからね。

 というか大きな荷物の大半は後から郵送される予定になっているわけだし。

 

 

「それよりも‥‥そちらの首尾はいかがなんですの?」

 

「こっちか。うん、まぁある程度ぐらいまでは何とか解析できた、かな? 解析というよりは漸く使い方の一部が判明したってところだけど」

 

 

 状況に一区切りをつけるルヴィアの言葉に、俺は部屋に備え付けの小さな机一面に散らばっている計算用紙の中から一枚のカードを掬い上げた。

 そのランサーのクラスカードは質問主のルヴィアではなく、美遊嬢の方に手渡す。既に先程まで机の上辺りをフワフワしていたサファイアは美遊嬢のところへと飛んでいって言葉少なにお喋りをしている。

 

 さて、ルヴィアと美遊嬢、バゼットがそれぞれ忙しく出歩いている間、俺はサファイアと一緒に部屋に篭りっきりで今回の任務においての役割をこなしていた。

 乃ち、頭脳労働。乃ち、今回の事件の最有力な手懸かりであるクラスカードの分析である。

 宝石翁から十分過ぎる程の知識を与えられたサファイアをアドバイザーにして、カードに魔力を通してみたり、探査の術式にかけてみたり、物理的、魔術的な攻撃をしてみたりと半日近くかけて当面の手段として考えられる限りの方法を試行した。

 魔力は衛宮が物の構造を把握する様を真似て詳細に通したし、探査の術式はそれこそ俺が知っている限りのものを試した。攻撃もかなり慎重ではあったけど、あらゆる方法を採ったと思う。

 

 

「で、そこまで調査してもコレ自体に関しては殆ど何もわからなかった。魔力はザルみたいに流しちゃうし、探査の魔術も全部弾いちゃう。攻撃はそれこそ神秘銀(セライア)で出来てるんじゃないかってぐらい完璧に通らなかったよ」

 

「それはまた‥‥尋常ではありませんわね。ただの紙切れにしか見えないのに、不思議‥‥というよりは不気味な魔術具ですこと」

 

「言い得て妙だね。ここまで正体不明だと俺も薄ら寒いものを感じざるをえないな」

 

 

 そう、どんなものにだって中身がある。それが透明であろうと不透明だろうと、例えば伽藍洞なら伽藍洞だという“中身”が存在している。

 “中身が見えない”という結果が認識できるのだ。ところがこのカードにはそれがない。ただひたすらに正体が不明で、不気味。恐ろしい程に為体が知れない。

 目の前にあるものだというのに、いくら手を伸ばしても、いくら目を凝らしても何もわからないというのは、真理とも呼ばれる何かを探求する魔術師だからこそ、恐ろしくて仕方がなかったのだ。

 

 

「‥‥“使い方の一部”と仰ってましたわね? もしかして何か分かったこともあるんですの?」

 

「うん、これは俺じゃなくてサファイアに直接調べてもらって分かったことなんだけどね、本当に使い方だけが分かったっていうことなんだ。

 まぁ百聞は一見にしかずっていうし、ちょっと実際にやってもらおうか。美遊嬢、ちょっと変身してもらえるかな?」

 

『変身ではなく転身です、蒼崎様。‥‥プリズム☆トランス、昼間なので演出省略で参ります』

 

 

 控えめな光に包まれ、美遊嬢の衣装が替わる。

 白いブラウスと黒いキュロットは身体にぴったりとフィットしたレオタードのような服装へ。羽のようなフワリとしたマントは魔法少女のオプション装備らしいけど、全体的に魔法少女と断言するにはどうかと思ってしまうのは‥‥うーん。

 

 

「それで、私は何をしたらいいんですか、蒼崎さん?」

 

「君みたいな子に名字で呼ばれると何かむず痒いなぁ‥‥紫遙でいいよ」

 

 

 名前で呼ばれるのが好きな人と、名字で呼ばれる方が好きな人と二種類いると思うけど、実は俺はどちらでもかまわない人だ。

 前にいた世界でもちゃんと親からもらった名前があったわけなんだけど、勿論こちらで生きていくと決めた段階でその名前は脳みその片隅へと強制的に退去してもらっている。親には申し訳ない気持ちもあるけど、色々と理由もあるから仕方がない。

 今の“蒼崎紫遙”という名前は、橙子姉と青子姉から貰ったものだ。“蒼崎”は当然ながら二人の名字で、“紫遙”は二人の名前の色を合わせたものと‥‥後はゴロなんだとか。

 まぁ一応、『遙か遠い場所から来て、私と青子のところに転がりこんだお前には似合いの名前だろう』なんて激しく後付け臭のするお言葉を頂戴したけど、それはそれ、この名前は俺の誇りでもある。

 だから蒼崎と呼ばれても、紫遙と呼ばれても俺としてはどちらも好きな名字で名前。慣れ慣れしいのも嫌いじゃないし問題はない。

 もっとも美遊嬢みたいないたいけな少女に他人行儀に名字で呼ばれるのはむず痒いというのもまた事実なわけで、やっぱり名前で呼ばれた方が親しげで気さくな感じはするよね。

 

 

「あぁ、それじゃあ今渡したランサーのクラスカードをサファイアに翳して、“クラスカード『ランサー』限定展開(インクルード)”って唱えてくれるかな?」

 

「はい。‥‥クラスカード『ランサー』、限定展開(インクルード)!」

 

 

 カードを重ねられたサファイアが輝く。局所的に、それでいて輪郭すら完全に霞んでしまうほどに激しくはっきりと。

 そして空気が抜けるような“パシュ”という小気味よい音と共に、光に包まれた輪郭を突き破るようにしてサファイアは姿を変える。

 

 

「こ、これは‥‥?!」

 

 

 美遊嬢の手に握られていたのはファンシーなステッキではなく真紅の槍。蔦のような飾りが全体に絡み付き、穂先の根本には銛のようなギザギザの返しが付いている。

 先程まで纏っていた無色の魔力ではなく禍々しい雰囲気を撒き散らし、一、二メートルは離れているというのに背筋を嫌な汗が流れる程の悪寒を感じた。

 

 

「まさかそれは‥‥ゲイボルク?!」

 

 

 其は因果を捻じ凶げる呪いの朱槍。戦の女神スカサハより光の御子に授けられた魔槍。

 突けば三十の刺と咲いて敵を蝕み、投げれば三十の鏃と裂いて隊伍を組んだ軍勢を吹き飛ばす、魔槍の代名詞とも謳われる究極の一。乃ち英霊たる豪傑の武装、神秘の結晶、宝具。

 当然ながら現代の世にあってはならない神代の存在が、今か弱い一人の少女の手の中にある。

 

 

「そう、第五次聖杯戦争でランサーのサーヴァントだったクー・フーリンの宝具、ゲイボルク。これがサファイアのおかげで発見できたこのカードの使い方の一部だよ」

 

 

 流石に呆気にとられたらしい美遊嬢の手の中で、光を伴わずに先程のプロセスを逆回しにしてサファイアがステッキに戻る。理論的にはあくまで瞬間的な発現だから長続きしないのだろう。

 サファイアは自身のみで術式の解析や探査などが出来るけど、実際に魔力を能動的に発散する形で運用しようとしたら必ずマスターに使われていることが必要になる。だから試すのはコレが初めてだったんだけど‥‥成功してよかった。

 

 

『‥‥どうやらこのカードを介して英霊の座へとアクセスし、カードに記録されている英霊の宝具を限定的ながらも使用することが出来るようなのです。もちろん使いどころは非常に難しいですし、おそらく連続使用は不可能でしょうが、必殺技にはなり得ます』

 

「これからも英霊との戦闘が確実に待ちかまえている以上、戦力が補強できるに越したことはないからね。他に安全な隠し場所があるわけでもないし、どうせだからそのカードは美遊嬢が持っていなよ」

 

 

 サファイアの顔(?)から弾き出されたカードをキャッチして、美遊嬢へと手渡す。巷で出回っている安物のトレーディングカードとは全く違った感触に少々戸惑っていたみたいだけど、表情を変えないまま無造作にキュロットのポケットへとしまい込んだ。

 ‥‥多分、大丈夫だろう。一応大事なものを簡単に失くしてしまうような子には見えないし、サファイアもついてる。いざとなったら探査の魔術を使って取り戻せばいい話だし。

 

 

「なるほど、『突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)』はともかく、『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』が使えるようになったら確かにこれからの戦いにおいて有利になることは間違いありませんね」

 

「‥‥アイルランドの光の御子というと、クー・フーリンですわね。彼の名高きクランの猛犬の振るったという呪いの朱槍、期待できそうですわ」

 

 

 やや誇らしげにバゼットがそう言って更にミネラルウォーターを煽る。どうやら先程ゲイボルクを見た時にかなり動揺していたらしい。ルヴィアの言葉に更に蒼い槍兵の擁護をするところまでは気が回らないようだ。

 

 気がつけばそろそろ昼食の時間も近い。幸いにして美遊嬢も服を手に入れたことであるし、俺も当面はやることがない。次に動くのは、サファイアがクラスカードの出現を感知してからだ。おそらく遠坂嬢ともそこで合流できるだろう。

 とりあえず今日やることは全て終わってしまったことだし、それならば昼間は完全にフリー。朝飯がカオスだった分、昼飯はしっかりとしたものを食べたいものだ。

 うん、それならこの前に桜嬢関連で冬木を訪れた時に見つけた、少し郊外にあるイタリア料理店にでもみんなを連れて食事にでも行こうか。あそこの食事はとても美味しかったから、みんなにも是非食べてもらいたい。

 特に美遊嬢は―――もし偏見だったりしたら悪いけど―――孤児院の出身であることだし、あまり奮発した食事というものに縁がなかったかもしれないから、ここはルヴィアの養女となった記念にお祝いでもするべきだろう。

 

 

「どうかな、そろそろ良い時間だし、みんなで食事にでも行かないかい? あー、実は桜嬢からオススメの店を聞いていてね」

 

「そうですの? 確かに美遊の歓迎会のようなものも開きたいことですが‥‥本当はオーギュスト達が来てから使用人達も含めて、と思ったんですけど。まぁ、前祝いも悪くはありませんわね」

 

「あの‥‥そこまで気を遣っていただかなくとも―――」

 

「お黙りなさい。貴女のような子供に気を遣われることこそ大人として恥ずかしいことなんですのよ? 私達に恥をかかせたくないのなら、おとなしく申し出を受けておきなさい」

 

 

 自分以外のことについては淡々と事態を処理できるくせに、そこに自分が絡むと途端に狼狽える美遊嬢の遠慮を、即座にルヴィアが切って捨てた。このようなことを自分の義務と思っている節があるらしいから、彼女にとっては当然のことなんだろう。

 狼狽えるあまりに美遊嬢は幼い瞳を俺とバゼットの方にも向けるけど、当然ながら彼女を手助けしてやるわけにはいかない。俺達もルヴィアと同じ気持ちだからね。

 

 

「さぁ、そうと決まれば善は急げだ。早速用意をして出かけようか!」

 

 

 この一日程度でいろんなことがありすぎて、正直少しばかり疲れ気味になってしまっていたのは否めない。

 受けた任務はとても俺達でこなせるようなレベルのものじゃないかもしれないし、エミヤのことや、美遊嬢のことに関してだって本当ならこうやって和やかにしていられるような問題じゃない。

 それでもやっぱり息抜きってのは必要だし、要所要所でうれしいことがあったなら、それはシリアスなムードの中でだってお祝いしなきゃいけないことでもあるのだと思う。

 これからの冬木での短い生活がどうなっていくのかは全く分からないけれど、とりあえず今は心機一転、明日から頑張れるための鋭気を養おうじゃないか。

 

 自分の中で色々と蟠っていたものをそうやって無理矢理にでもしまい込んで、俺はジャケットを羽織るとドアノブに手をかける。

 後ろでワタワタと帰ってきたばかりなのに自分の身の回りをチェックする美遊嬢に呆れるルヴィアや、何故かどことなく楽しそうなバゼット。

 順風満帆とはとても行かないだろうけど、それでも彼女たちがいる分、一人きりよりは頼りになる。そんな自分でも情けなくなってしまうような、それでいて嬉しいような、そんな不思議な気持ちを抱きながら、俺は三人と共に小さなホテルから出発したのであった。

 

 

 

 57th act Fin.

 

 

 




まさかのダブルトリップでした。
基本的に二つの世界は似通っていると仮定しているので、倫敦組の年齢など以外の状況は紫遙や士郎、セイバーやバゼットとの親交度を除いてそっくりなんです。
つまりルヴィアがオーギュスト氏に電話しても、こちらの世界のルヴィアと行動がシンクロしているので殆ど差異も不都合もないわけです。
これはまた後々説明します。
彼女達が転移してしまったことに気付くのは何時なのか‥‥! どうぞ次話をお待ち下さい。皆さん応援よろしくお願いします!


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第五十七話 『雪の精の初陣』

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 side Illyasviel von Einzbern

 

 

 

「お、ちゃんと来たわね」

 

 

 夜‥‥というよりは深夜と言うべき午前0時。

 守衛さんなんて高級な人がいないド田舎のローカルな私立学園である穂群原学園の校庭に、二人の人影が立っていた。

 

 

「来なかったらどうしようかと思って、誓約《ギアス》の一つでもかけておけば良かったかと思ったんだけどね」

 

「ぎあす‥‥なんか良くわかんないけど、危険な響きの言葉使うのやめてほしいなー、なんて‥‥」

 

 

 一人は黒のミニスカートに白いトレーナーを来たツインテールの女の人。全体的にキリリとした印象を受けながらも女の子らしいけど、男の人みたいに腕時計を手の甲側につけている。

 もう一人は私のよく知っていて、それでも全然知らない人。上は胸と腰の間ぐらいまでの中途半端な長さの上着を着て、腰には踝ぐらいまである、どっちも真っ赤な外套を羽織った男の人。

 髪の毛は赤錆びたみたいな独特の色で、私の銀髪よりは地味だけど純粋の日本人だから逆に目立つ。大きな瞳の色は鋼か刃みたいな不思議な色で、ここは身長とか体格を除いて私の知っている人とは違う部分だ。

 

 ‥‥まぁ、つまりはお兄ちゃんそっくりの同一人物なわけで。なんでも二人とも平行世界からやって来たんだって。

 そのあたりは今日の自主練でルビーから結構細かいところまで教えてもらったんだけど、結局よく分からないところが多かった。

 ルビーもそこまで専門的な話とかを他人とするのは好きじゃないらしいから簡単な言葉にまとめてはくれたけど、それでもなお私には分からなかったわけである。やっぱり難しいことに巻き込まれてしまっているらしい。

 

 

「まぁ約束っていうよりは強制って感じね。契約って言い換えてもいいけど‥‥ってか、なんでもう転身してるのよ?」

 

『イリヤさんが思ったより熱心でしてねー、さっきまでいろいろと練習してたんですよー。まぁ付け焼き刃でもないよりはマシです』

 

 

 私の手の中にあるステッキが声を発する。曰く、“愉快型限定魔術礼装マジカルルビー”。

 なんでも平行世界の壁に小さな穴を開けて、その穴から無制限に魔力を私に供給してくれるすっごいアイテムなんだって。

 とはいっても昨日から今日一日付き合ってみて、とてもじゃないけどそんな凄いアイテムだとは思えなかったのもまた事実。なんていうか、ゆるいというかお気楽というか。

 もちろん自主練の時の感触からは、確かに凄いアイテムだってことは分かる。まさかバンバンと魔力弾?を撃つようなことが実際に出来るとは思わなかった。

 あれは本当に凄い。いま私、魔法少女してるって思ったぐらいに。

 

 

『とりあえず基本的な魔力弾射出ぐらいは問題なくいけます。あとはまぁ‥‥タイミングとハートとかでどーにかするしか』

 

「なんとも頼もしい言葉ね‥‥」

 

「まぁそういうなよ遠坂、そのあたりは俺達でフォローしていけばいいじゃないか」

 

 

 呆れたような凜さんの言葉に、お兄ちゃ‥‥士郎さんが笑いながらそう答えた。位置としては凜さんのすぐ後ろに控えているから、二人はまるで一枚の絵のようにぴったりとはまっている。

 笑い合う二人は本当に仲がよさそうで、具体的には私とお兄ちゃんとよりも仲が良さそうで、少しだけ嫉妬してしまう。

 私のお兄ちゃんと士郎さんは違う人間なんだって理屈では納得できていても、それは変わらない。やっぱり、同じ顔してるってのがいけないんだ。どうしてこんなややこしいことになっちゃったんだろうか。

 

 

「そうは言ってもね、今回からはそう簡単にいく相手ばっかりじゃないのよ? ライダーとかアサシンならともかく、バーサーカーだったりしたら詰んだも同然だわ」

 

「まぁ‥‥な‥‥」

 

『士郎さんが盾になって下さるのならそれなりに勝率は上がりそうですけどねー。純粋な魔力攻撃は対魔力では打ち消せませんし』

 

 

 凜さんとルビーの話によると、この街に現れたクラスカードは七枚。剣の騎士(セイバー)槍の騎士(ランサー)弓の騎士(アーチャー)騎兵(ライダー)魔術師(キャスター)暗殺者(アサシン)狂戦士(バーサーカー)の七枚だ。

 その内の槍の騎士(ランサー)弓の騎士(アーチャー)は凜さん達がもう回収してしまったから、私が相手をするのは残りの五枚のどれかになる。

 そして凜さん達の話だと、そのどれもが昔に死んで、今も英雄として語り継がれている精霊一歩手前という規格外の人達らしい。例えば宮本武蔵とか、アーサー王とか、ヘラクレスとか。

 それが間違いなく凄い敵なんだってことまでは分かるんだけど、具体的にどれくらい強いのか、私で勝てるのかってことはさっぱり分からない。

 

 

「‥‥はぁ。イリヤスフィール、士郎はこう言ってるけど、正直ただの人間が英霊(サーヴァント)をあいてにするなんて無茶よ。貴女が戦闘の要になるのは間違いないんだからね。覚悟は、いい?」

 

「う‥‥うん!」

 

 

 誰もいない、明かりも点いていない校庭に一際大きな突風が吹いた。昨日に比べて今日は雲が多くて、ふと空を見上げれば遙か高いところの影が凄い速さで横から横へと流れている。

 私達の息づかいすら聞こえないぐらいの風の音は否応なくこれからの戦いへの不安を助長させるけど、それでも私は凜さんの言葉に勢いよく頷いた。

 今までどんなお化け屋敷でも鳴らなかったぐらいに心臓はドキドキ言ってるし、足も気を抜いたらすぐにガクガクとふるえてしまいそうだ。

 それでも心臓に従って戦慄きそうになる肩を、主人の命令を聞かずにへたり込みそうになる足を、押さえつける何かが私の胸の奥、心臓の更に奥から湧き出してくるのを感じる。

 もしかしてこれが責任感とか、使命感とかいうものなのかもしれない。

 

 

「カードの位置は屋敷から持ち出した魔術具による探査で特定しているわ。校庭のほぼ中央‥‥歪みはそこを中心に観測されてる」

 

「中心‥‥って、なにもないんだけど?」

 

「ここにはないわ。カードがあるのはこっちの世界じゃない。‥‥前回と同じだったらそろそろ“お迎え”がくると思うんだけどねぇ」

 

 

 凜さんは言葉を切ると、困ったように校庭の中心に立って辺りを見回したり地面を爪先や踵で突いてみたりする。次いで視線を士郎さんの方に向けたけど、士郎さんも同じく困り顔で首を横に振っただけだった。

 仕方が無しに今度は地べたに膝をついてグラウンドをなにやら両手で探り出す。叩いてみたり、少し掘ってみたり、何か絵みたいな‥‥魔法陣?を書いてみたり、終いには耳をつけて大地の声を聞く真似をしたり、軽くキスまでやってみせた。

 それら全部合わせて都合だいたい十分ぐらい。色々試して結局どうしようもなくなって凜さんは私の、正確には私の手の中のルビーの方へと視線を向けた。

 

 

「‥‥ルビー」

 

『はい何でしょう?』

 

「アンタどうすればいいか何か分からない?」

 

『鏡面界に入る方法ならありますけど?』

 

「そうよねアンタに聞いた私が馬鹿だった———って、はぁっ?! ちょっとアンタあるなら早く教えなさいよっ!!」

 

 

 と、別段なんでもないことかのように呟いたルビーを、一瞬で私のところまで走り寄って来た凜さんがつかみ取ると勢いよく校庭へと叩きつける。よほど腹に据えかねていたらしく、何度も、力強く。

 息すら切らせている凜さんに対して、一方のルビーはといえば心底嬉しそうな笑い声を上げていて、どちらが虐められているのか分かったものじゃない。なんていうか、もう、ダメだこの人達‥‥。

 今更ながら私は本当に協力することを選んで良かったのかと後悔を始めてしまうのを感じた。

 

 

『前回の転移の際に術式の一部を複写(コピー)しました。流石に解析までは無理でしたけど、これを使って波長を合わせた魔力を叩き込んで共鳴させるんですよー!』

 

「呼び水にして無理矢理お迎えを寄越させるってわけね‥‥。まぁ出来るかどうかはやってみなきゃ分からない、か」

 

 

 私には分からない難しい話を終えると、凜さんは再び校庭の真ん中まで歩いて行って手招きをする。

 ちょうど凜さんと入れ代わりに私の後ろに立った士郎さんに促されて、私も恐る恐るながらも凜さんに近付いていった。

 

 

『それでは魔法少女プリズマ☆イリヤの初陣と行きましょうか! 反射路形成、半径二メートル! 鏡界回廊一部反転しますっ!』

 

 

 足元に部分的に複雑な奇妙な魔法陣が現れる。それは私と凜さん、士郎さんをしっかりと覆うぐらいの広さを持っていて、次の瞬間には強すぎない、それでいて思わず目を閉じてしまう不思議な光を発した。

 普通に考えれば、これだけの光をこんな近い距離で受ければ目が潰れちゃうだろう。そうでなくても痛くなるぐらいは当然だって思うのに、不思議とこの光は私の目を傷付けない。

 そういえば初めてルビーに会った時の転身の光もこんなだったっけ。やっぱり、魔法とか魔術とかは不思議な力だ。なんでこんなに自然に受け入れられるのか分からないぐらいに。

 

 

「いいかしら、イリヤスフィール? どんなに高位の魔術師だろうと、何の準備もなしに単独で英霊なんて規格外の存在を普通に召還することなんて適わない。だからかどうかは知らないけど、私達の狙うクラスカードは別の世界に存在している」

 

 

 ぐるん、とまるで空中で無理矢理上下逆さまに回されたかのような気持ちの悪い感覚が私を襲う。車酔いなんてとんと縁がないけど、多分それに似たような感覚なんだろう。

 体は全く動いていないはずなのに、頭の中身だけが今もぐらんぐらんと揺れているかのよう。思わず私は目を見開くことで吐き気にも似た感覚を無理矢理に押さえ込んだ。

 

 

「そうね‥‥無限に連なる合わせ鏡。この世界をその贈のひとつとした場合———それは鏡面そのものの世界。

 鏡面界。そう呼ばれるこの世界にカードはあるの」

 

 

 目を開ければ、目の前の世界は瞬きしたその一瞬で一変してしまっていた。

 風景は変わらない。私の後ろに建っている校舎も、学校を覆うように立っているフェンスも、グラウンドの砂の一粒も。それでも何か、そう、雰囲気みたいなものが変わってしまっていた。

 空は曇りとも形容しがたい不気味な泥みたいな色をしていて、校舎を覆うフェンスの更に向こう側にはかすかに格子模様のようなものが見える。

 それはまるでゲームに出てくる電脳空間の中に色あせた学園がすっぽりと填ってしまっているみたいだ。日常が非日常に彩られているのは、私にはひどく恐ろしく思えた。

 

 

「‥‥少し前よりも小さくなってるわね。士郎、そっちの調子はどう?」

 

「———く、前よりはマシだけど、やっぱり気持ち悪いな。なんか一瞬だけ視界も真っ白になったし、やっぱりこういうのはダメみたいだな」

 

「またか‥‥。やっぱり自分の世界が確立してる分だけ、こういう異空間の拒絶反応があるのかもしれないわね。たしか慎二の奴が張った結界でも気分悪くしてたわよね、士郎は」

 

「かもしれない。まぁ目眩もすぐに収まったし、戦闘には問題ないから気にしないでくれ」

 

 

 

 軽く額を押さえて何かを振り払うように頭を左右に振った士郎さんが、大きく深呼吸をして真剣な顔となる。

 結構長い時間お兄ちゃんと暮らして来たつもりだけど、それはお兄ちゃんと瓜二つってぐらい似ている顔なのに私が今まで一度も見たことがない顔で、やっぱり士郎さんとお兄ちゃんは別人なんだと納得させられた。

 

 

『むっ、どうやら敵のお出ましみたいですよ皆さん! 校庭の真ん中にご注目下さい!』

 

「こ、校庭の真ん中?!」

 

「莫迦ね、さっき言ったでしょ! サーヴァントだわ‥‥来るわよ!」

 

 

 ルビーの言葉が指す広いグラウンドの中央に視線を移すと、突然なにもないはずの空中にそこがガラスだとでもいうかのように亀裂が走った。

 最初は只の黒い線だったそれは時間にすれば瞬き何回かの内に見る間に大きな亀裂へと広がっていって、遂には耐え切れなくなった中央部分に穴が開く。

 穴の向こうは真っ暗だ。それも純粋な黒っていうよりは、数えるのも億劫になるぐらい沢山の様々な色が混ざり合って黒く見えているようにも思う。

 

 

「イリヤは俺の後ろに! 前衛後衛に分かれて戦うぞ!」

 

「う、うん、分かったお兄‥‥士郎さん!」

 

 

 その空間の裂け目から、一人の女性———のカタチをしたナニカ———が這い出して来た。

 背中をすっぽりと隠してしまうぐらい長いくすんだピンク色の髪の毛の、顔には不気味なマスクをつけた女の人の姿をしたナニカ。水着みたいな、それでいて涼しげな感じは全然しない淀んだ色の黒い服を着て、手には鎖がついた杭のような武器を持っている。

 犬みたいに牙を剥いた口は背筋に怖気が走るぐらいの敵意を私の方に向けていて———って、牙?!

 

 

「り、りりり凜さん! サーヴァントって昔活躍した英雄達だって話じゃないの?! アレどー見たって悪の組織の怪人なんですけどっ?!」

 

「英霊にも真っ当な英雄と反英雄があってね! しかも今回冬木に出て来た英霊はのきなみああやって黒化‥‥改悪されてるのよ!」

 

「喋ってる暇はないぞ二人共! ‥‥来る!」

 

「■ァ■■ァ■ァ———ッ!!!」

 

 

 鏡や窓を“引きちぎる”かのような耳障りな叫び声を上げ、サーヴァントは助走も見せずに私達の方へと駆けてくる。

 突然の戦闘開始に思わず硬直してしまった私を押し退けて、凜さんと士郎さんが前に出た。士郎さんは黒白の短剣をその手の中に出現させて、凜さんはポケットから丸くて光る何かを取り出した。

 

 

「まずは一発行くわよ———Anfang(セット), Drei(三番), Flammst(燃えろ)ッ!」

 

 

 凜さんが手に握った三つぐらいの何かを力いっぱいサーヴァントに向かって投げ付けた。その何かはこちらへと駆けてくるサーヴァントの眼前で凜さんの呪文に応え、その中から勢いよく炎と爆風を撒き散らす。

 ‥‥宝石魔術、というらしい。難しい部分は分からなかったから聞き流しちゃったけど、宝石に魔力を貯めて云々なんだって。とりあえず爆弾みたいに使うって考えてればいいみたい。

 

 

「凄い‥‥って、全然効いてないよ凜さん?!」

 

「対魔力は‥‥BかAってところね。これじゃ十年モノでも通用しない! 悪いけどイリヤスフィール、やっぱりアンタに頼ることになりそうよ。構えなさい!」

 

『さぁさぁ高い対魔力を持ったサーヴァントには私達の魔力弾しか効きませんよー! 出番ですイリヤさん、派手にぶっ放しちゃいましょうヒーハァー!』

 

「なんでそんなにハイテンションなのか分からないけど———わわっ?!」

 

 

 爆風が止み、傷一つ付いていないサーヴァントの姿が現れる。まるで避けるかのように吹く風に靡く髪の毛にも焦げ跡一つ見あたらない。

 と、私の真横から強肩でもって宝石を投げつけた凜さんが一歩下がり、それと同時にサーヴァントが私の方へと大きく一歩、そして手に持った鎖を弧を描くようにして投げつけて来た。

 私は凜さんと反対側へ弾かれたように飛び退き、二人の間を分断するかのように杭みたいな短剣と鎖がジャラリと音を立てて打ち付けられる。鎖の部分ですら、掠ったらズタズタにされてしまいそうなぐらいの重さと速さを持っているみたいに見える。

 

 

「いくぞイリヤ、無理はするなよっ!」

 

「無理するなって、なにをどーすればいいのかもさっぱり———おひゃあッ?!」

 

『身体能力と戦闘経験に優れた英霊相手に接近戦は危険です! まずは距離を取ってください!』

 

 

 凜さんはそのまま素早く私達から数十メートル以上も距離をとり、代わりに士郎さんが前に出て両手に中華風の短剣を構える。とはいっても両腕はだらりと下げたままで、ひどく不思議な構えに見える。

 私は戦闘どころか喧嘩もしたことがないってのにどうしろというんだろうか。そうやって余計なところに思考を回したのがいけなかったのか、士郎さん達の方を向いていた私の隙をついて杭が投げ槍のように放たれて、私の背中を僅かに掠った。

 

 

「キョリね! そうね取りましょうキョリ! キョリーッ!!!」

 

 

 思わず悲鳴を上げて一も二もなく、力の限り、とりあえず士郎さん達の反対という以外は方向も定めず走り出す。身体強化っていうのがされているらしくて、それなりに自信があった普段の五十メートル走よりも更に速いスピードで、一瞬の内に鎖付きの杭が届かない距離まで駆け抜けた。

 

 

「■■ィ■ィ———ッ!!」

 

「こっちだライダー! いくぞっ!」

 

「お兄‥‥士郎さん!?」

 

 

 そこでふと気づく。私が自分の攻撃範囲から離れたのを見たサーヴァントの攻撃の矛先は、必然的に自分に一番近い敵———士郎さんの方へと向かうということを。

 

 

「おおおおおぉぉぉッ!!!」

 

「■ァ■■ァ■ァ———ッッ?!!」

 

「す、すごい‥‥! お兄ちゃん凄いよ‥‥ッ!」

 

 

 振り返った先には、今の数秒にも満たない時間でサーヴァントと接触して、今は剣の先っぽが霞むぐらい激しく斬り合いをしている士郎さんの姿。

 戦うお兄ちゃんの顔は今まで見たことがない。歯を食いしばり、眉間に皺を寄せ、たった数秒だけで雨に濡れたかのように汗を散らして必死で打ち合っている。

 サーヴァントも士郎さんも、どっちも人間に思えないぐらい凄い動きをしていて、私は助けに入らなきゃと思っていたはずだったのに思わず呆然と立ちつくしてしまった。

 

 

『あらあら、何を突っ立っちゃってるんですかイリヤさん? 流石に士郎さんとはいえ英霊とガチで殴り合いは長く続きません、こちらも早く援護に入らなければ士郎さん倒されちゃいますよ!』

 

「た、戦うってホントに戦うことだったんだね、ファンタジーすぎるよアハハハハ‥‥!」

 

『落ち着いていきましょうイリヤさん! とにかく距離をとって魔力弾を打ち込むのが基本戦術です! 魔力弾はさきほど練習した通り! 攻撃のイメージを込めてステッキ(わたし)を振ってください!」

 

「う、うん! 士郎さん伏せて! ‥‥いっけぇーッ!」

 

 

 ちょうど士郎さんが、勢いよく振るわれたサーヴァントの杭を受け止めて蹌踉めいたところにルビーの助言が入り、私は力強くルビーを握りしめると体全体を使ってただ適当に横に振り払った。

 

 

「‥‥スッ、スゴッ?! なにコレ滅殺ビーム?!」

 

『いきなり大斬撃とはやりますねー!』

 

 

 まるで筆でなぞるかのように、私が振り払ったルビーから光の帯が飛び出て目の前を薙ぎ払った。横に十数メートルぐらいの幅の光の帯は咄嗟に伏せた士郎さんを掠めてサーヴァントを直撃する。

 そのあまりの派手さに吃驚仰天してしまった私に、ルビーは一人楽しげに体をくねらせた。

 

 

「助かったイリヤ! すまん!」

 

『さぁイリヤさん間髪入れずに追撃です! 相手は人じゃありません! 遠慮は無用ですよー!」

 

「‥‥ちょっと殺伐としすぎてる気もするけど、なんか魔法少女っぽくなってきたかも! たーッ!」

 

 

 光の帯、大斬撃が直撃したライダーのサーヴァントは咄嗟に庇ったらしい左腕から血を流してよろめいている。確かにルビーの言う通り、一気に畳み掛けるなら今がチャンス!

 私は大きく左から右へとルビーを振ると、さっき練習したように幾つも魔力弾を放っていくけど‥‥ライダーはその全てを低い姿勢のまま目にも留まらぬ速度で避けていく。

 そう、確かに私は練習で魔力弾を撃てるようにはなったけど、動く目標に当てる訓練まではしていない。そして何より、ライダーの走るスピードは速過ぎた。

 

 

「うえっ、すばしっこい!」

 

『あちゃー、これは砲撃タイプでは追い切れませんねー。流石はランサーと並んで最速のサーヴァントと称されるだけはあります。人間の動体視力ギリギリの動きですよ、あれは』

 

「ちょっとルビー当たらないよ? コレどうすればいいの?」

 

「‥‥一先ず今のまま撃ち続けてくれ、イリヤ。少し時間を稼いでくれたら、俺がなんとかする。———投影開始(トレース・オン)

 

 

 とりあえず続けて次々とルビーを振って魔力弾を絶え間なく撃ち続け、躱され続けている私の背後に士郎さんが立ってそう言った。

 その左手にはどこから出したのか何時の間に真っ黒な弓が握られていて、右手には同じく黒く、銛か棘のように鋭い切り返しがたくさんついた恐ろしげな矢を持っている。

 まるで獲物を狙う鷹みたいに鋭い目をしながら、士郎さんは弓に矢を番えてライダーを狙う。そういえばお兄ちゃんも弓をやってたっけ。不思議なところで共通点があるみたいだ。

 

 

「‥‥よくわかんないけど、とりあえず撃ちまくればいいんだね!?」

 

『いやっふー撃ち放題ですよイリヤさーん! さぁ思う存分リリカルマジカルジェノサイドしてしまいましょー!』

 

 

 士郎さんの言葉に従って、私はひたすらルビーを振って単純な魔力砲を放っていく。ルビーから吐き出された魔力弾はやや弓なりの軌道を描いてライダーに向かって降り注ぐけれど、当然ながらそれらは全て圧倒的なスピードを前に軽々と躱されてしまう。

 それでも私は只ひたすらに魔力砲を撃ち続けた。私達に声をかけてからずっと弓に矢を番えて何かを待ち続けている士郎さんに、一瞬でもいいから隙を作ってあげるために、そうでなくとも出来る限り時間を稼いであげられるように。

 

 

『さぁさぁ当たらないんですからとにかく数を撃って下さい! 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるかもしれませんし、弾幕張れば向こうは攻撃範囲まで近付いて来られませんからね、あはー』

 

「楽しそうだねルビー。こっちは、結構、大変なんだけどっ!」

 

『凜さんの戦い方はなんだかんだで良くも悪くも泥臭かったですからねー。やっぱり魔法少女としては、こうやって難しいこと考えずに撃ちまくった方がらしいですし気持ちいいですよ、いやっふー!』

 

 

 私の考えるところでは多分MPにあたるところの魔力はルビーによって無制限に供給される。だからといってRPGじゃないんだから延々と好き勝手に魔法を撃ってられるってわけでもないみたいだ。

 つまるところ機械にいくら電気を注ぎ込んだところで、いつまでも同じ機能を維持出来るわけじゃない。長い期間使い続けてれば摩耗するし、長い時間連続して使ってれば過熱する。

 そしてそれと同じことをしているのが、私の“魔術回路”とかいうものらしい。魔力が電気で魔術回路が機械みたいなものらしい。当然ながら魔力が万全でも魔術を使い続けていれば魔術回路は疲れてしまうらしい。

 なんか“らしい”がすごく多いけど、つまりMPが常にMAXでも現実にはゲームみたいに簡単ってわけじゃないし、ひどく疲れるっていうこと。それでも私は士郎さんを信じて砲撃を放ち続けた。

 

 

「ちょっと、キツイ、かも‥‥」

 

『うーん、流石に体力の限界が近いですか。しっかりして下さいイリヤさん、士郎さんの溜め(チャージ)が終わるまであと少しですよ!』

 

「そう、言っても、もう腕が疲れちゃって‥‥」

 

『って問題はそっちなんですか?! うーん、どうもイリヤさんは魔力運用の方に問題があるみたいですねー。まぁ初心者だから仕方がないといったら仕方がないんですけど』

 

 

 長い付き合いじゃないけど珍しいと思ってしまうルビーのツッコミも、身体強化とか自動治癒とかっていうものがかかってる私に対してなら案外的を射ているのかもしれない。

 でも結局のところ慣れてない分だけ普段の感覚で腕を振ってしまっているから、結果的に力の配分は変わらないみたいで身体強化はたいして役に立っていなかった。慣れれば別なのかもしれないけど、緊張してるし。

 

 

『っイリヤさん弾幕薄いですよ!』

 

「えッ?! う、うわぁ来てるッ?!」

 

 

 下げた腕が思う通りに上がらず、一瞬だけ弾幕が薄くなる。もちろん私も気づいてすぐさま腕を振り上げて魔力弾を放ったけど、その一瞬の隙をついてライダーが一気に私のところへ肉薄してきた。

 瞬き一回ぐらいの間に、私とライダーの間にあった数十メートルの間合いは三分の一にまで狭まる。そしてそこは既にライダーの手に持った杭のような、鎖がついた短剣の射程内だ。

 

 

『物理保護最大! 耐えて下さいイリヤさ———』

 

「‥‥いや、大丈夫だルビー。待たせたなイリヤ」

 

 

 まるで動画を遅回しにしたかのように色んなことが一度に押し寄せて来て、目の前に迫るライダーの杭を両目でしっかりと認識する中、片耳でルビーの叫び声を、もう片耳で背後から響く士郎さんの落ち着いた声を拾った。

 その頼もしい声に反して、後ろから感じるのは目の前に迫るライダーよりも圧倒的な恐ろしさ。身の毛もよだつ、まるで自分よりも遙かに巨大で強大な為体の知れない化け物に睨み付けられてしまったかのような絶望感。

 心臓からも血の気が引いてしまうぐらいの恐怖の正体を確かめようとしても振り返る暇なんて今の数瞬の間には当然なく、疑問に思うのと確かめなきゃと焦燥感に駆られたのとほぼ同時に。

 私が少しの息を吸うか吸わないかという一瞬だけ静まりかえった鏡面界に、士郎さんの言葉が響き、ソレが私の視界へと正体を現した。

 

 

「———『赤原猟犬《フルンディング》』」

 

 

 私の顔の横を掠めるようにして、赤いとも黒いともいえない軌跡を描いて一筋の光がライダーへと疾る。

 その恐ろしさを感じ取ったのか、ライダーも私に反応どころか視認も出来ない速さで大きく一歩後ずさり、見る間に背中を向けて同じく疾走を開始した。

 一直線ではなく、ジグザグに。さっき私の砲撃から逃げていたのよりも更に早いスピードで逃げる逃げる逃げる。

 

 

『‥‥あれはまさか、イングランドの雄、ベオウルフが持っていた魔剣フルンティング?! しかも剣としてではなく矢として“変化”させるなんて‥‥どういう人なんですか、士郎さん‥‥!』

 

 

 走るライダー、疾る魔剣。どんなに激しくライダーが方向転換しても、その都度大きな弧を描きながらではあるけど、魔剣もしっかりと喰らいついて離れない。まるで獲物を追い続ける猟犬のように、決してライダーを放さない。

 ‥‥ルビーの助けを借りて転身している間はそれなりに魔力の量とかそういうのを感じ取ることができるんだけど、あの魔剣には空恐ろしくなるぐらいたくさんの魔力が込められている。それも、確実に士郎さん自身を上回る不可解な量が。

 つまり魔力が尽きるまで決して矢は止まらない。ひたすら、ひたすら、只主人の命のままに敵を追いかけ続ける。その喉元に喰らいつくまで。

 

 

「‥‥■ィ———■ァ———■■ァァ■ァ———ッッッッ!!!!」

 

 

 ———しかし、それも最上級の神秘の結晶の前には霧散する。これは後で知ったことなんだけど、士郎さんの取り出す武器は全部偽物なんだって。だから本物の純度には及ばないし、本物に競り勝てるというわけじゃない。

 だから、突然振り返ったライダーの、大気を振るわせ、劈くような悲鳴じみた叫び声と同時に放出された魔力に、士郎さんの赤原猟犬(フルンディング)は敢えなく競り負けて砕け散ってしまった。

 

 

「アレは‥‥宝具を使う気よ! 黒化した英霊がまさか‥‥逃げて!!」

 

 

 魔剣を弾いた魔力の奔流は、腕をだらりと下げた前屈みの姿勢になったライダーの前へと収束して一つの大きな魔法陣を作り出した。

 蜘蛛や蠍、蛇をあわせた鳥のようにも見える不気味な紋様に、さっき士郎さんが放った魔剣よりも更に数段上の怖気が走る。本能が逃げろと叫び、それでも私は咄嗟の事態に思考が完全に停止してしまう。

 

 

『くっ、宝具相手だと分が悪い‥‥イリヤさん退避です! 至近距離だと即死です、とにかく敵から離れてください!』

 

「早くこっちへ! 士郎イケる?!」

 

「何とか‥‥投影開始(トレース・オン)———!」

 

 

 全員が士郎さんの周りに集まって僅かな間に防御姿勢を整える。ルビーが物理保護と魔術障壁を全開に、凜さんが宝石を使って障壁を、士郎さんが何かの魔術の準備を始めた。

 それでも既に準備を終えたライダーの方が早い。見る間に赤く渦を巻くかのような魔力が魔法陣へと集まっていき、辺りの気温も急激に暖かさを吸い取られていくかのように凍りつく。

  

 

「くっ、間に合わないか?! 『熾天覆う(ロー・)———」

 

「『騎英の(ベルレ)———」

 

 

 ギョロリ、と一つ目に睨まれたような錯覚と共に、悪寒は最高潮へと達する。もはや私の背筋は破裂しそうなぐらいに怖気立っていて、手足はガクガクと震えるのを絶頂を越えた恐怖によって一回り越えてしまったぐらいだ。

 士郎さんの魔術も、わずか一瞬間に合いそうにない。もしかしてココで死ぬのかもしれないなんて、やけに現実味のない感想を自然に感じたそのときだった。

 

 

「———クラスカード『ランサー』限定展開(インクルード)

 

 

 突然、さっきの士郎さんの言葉みたいに唐突に、辺りに一人の女の子の声が響いた。

 

 

「『刺し穿つ《ゲイ》———』」

 

「■ィッ?!」

 

「『死棘の槍《ボルク》』!!」

 

 

 ヂリ、と大地をこする音と共に現れた一人の深い青色の女の子。

 手に持ったのは衣装とは正反対の深紅の槍。その槍が、まるで大地をこするようにしてライダーのサーヴァントの心臓へと突き刺さった。

 

 

「■ァ、■ァ■ァ———ッ?!!」

 

 

 さしものサーヴァントも心臓を貫かれては生きられないらしい。ライダーは掠れるような悲鳴を上げると、ガラスが割れるような澄んだ音を立てて眩い光を発し、一枚のカードへと姿を変えた。

 女の子は槍を一降りのステッキへと変えると、私が凜さんに見せられたランサーのカードにも似たそのカードを空中でしっかりと挟み取る。

 

 

「‥‥『ランサー』接続解除(アンインストール)。対象撃破、クラスカード『ライダー』回収完了」

 

 

 その女の子は、私によく似たデザインの衣装を身に纏い、ルビーによく似たステッキを持っていて、そして私の知り合いには誰もいないような、人形みたいな綺麗な顔に仮面みたいな無表情を貼り付けてただ立っていた。

 黒い髪に黒い瞳。どちらかというと地毛の黒髪に茶色とか金色とかが混ざっているクラスメート達や、日本人らしからぬ赤錆びた髪の色をした士郎さんとは違う純粋な黒。

 闇夜みたいな、っていう表現がよく似合う子だと思った。それは悪い意味じゃない。どちらかというと、そう、落ち着くっていうことだと思う。

 不思議と私はその子と見つめ合い、そしてその子から視線を外す。‥‥なにか、嫌われるようなことでもしちゃったんだろうか。

 

 

「‥‥ふぅ、冷や冷やさせてくれますわね、ミス・トオサカ。私達がいなければ貴女、死んでいましたわよ?」

 

「君というか、美遊嬢だろう遠坂嬢達を助けたのは。というより今回のは美遊嬢が咄嗟に機転を利かせただけで指示すら出してないし、いいとこなしだね俺達は痛い痛い痛い?!」

 

「だ・か・ら、なんだというのですかっ! 貴方は余計なところで一言多いんですわよ!」

 

「落ち着いてください二人とも。ほら、目を丸くしてますよ凜さん達も」

 

 

 続けて聞こえて来た声に女の子の後ろの方を見ると、そこにはまちまちな姿格好をした3人の大人の人がこちらに向かって歩いて来ていた。

 そうそう冬木では見ることのない鮮やかな金髪で青いドレスを着た女の人。小豆色の髪の毛で士郎さんよりも身長の高い女の人。赤茶けたジャケットと色あせたジーンズを着て、頭にすり切れた紫色のバンダナを巻いた男の人。

 男の人は金髪の女の人に耳を引っ張られて悲鳴を上げている。突然の急展開というか空気読めない展開というか、私は思わずぽかーんと驚きで馬鹿みたいに口を開けて立ちつくしてしまった。

 

 

「誰かと思えばルヴィアゼリッタじゃない。‥‥助力は素直に感謝するけど、誰よその子?」

 

「え、知り合いなの凜さん?」

 

「知り合いっちゃあ知り合いだけど、腐れ縁みたいなもんよ。‥‥まぁ言葉にするなら時計塔のクラスメイトってことになるんでしょうけど‥‥説明を求めるわよ、ルヴィアゼリッタ」

 

 

 私の後ろから歩いてきた凜さんが苦虫をかみつぶしたような、少し安心したかのような複雑な表情で新しく来た女の人‥‥ルヴィアゼリッタさんに話しかける。

 ルヴィアゼリッタさんは男の人の耳を引っ張るのに飽きたのか、漫画やアニメ以外では初めて見る縦ロールを横にかきあげると体を半分こちらに向けて、今度は私の方をじろりと見る。

 

 

「‥‥こちらとしても聞いておきたいことは多いようですわね。事態の説明は望むところですが‥‥とりあえず話し合いはこの陰気な場所を抜け出してからにいたしませんか?」

 

 

 周りを見ると、格子状の壁みたいな囲いにぴしりぴしりと激しい勢いでひび割れができつつある。気のせいか地面も地割れのように罅が入っているし、地鳴りみたいな恐ろしげな音も聞こえてきている気がする。

 

 

『あらー、原因(カード)を取り除いたので境界面が閉じようとしているみたいですね』

 

「‥‥サファイア」

 

『はい、マスター。半径6メートルで反射路形成。通常界へ戻ります』

 

「!」

 

 

 女の子の持ったステッキから落ち着いた女の人の声がして、私達が鏡面界に入って来た時と同じような魔法陣が足下に広がる。大太鼓を叩いた時みたいな重低音と共に光があふれて、次の瞬間、私の視界はさっきみたいにぐるりと大きく反転した———

 

 どうやら、面倒事は、まだたくさん残ってるみたいだ‥‥。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 時刻は午前0時をまぁまぁ過ぎたぐらいといったところ。昨夜と同じく夜に吹く風は寒い。

 辺りは真っ暗で人気は無く、小鳥もカラスもコウモリも眠ってしまっているらしく生き物の息づかいすら聞こえなかった。

 まぁそれも深夜の学校という立地を考えれば当然のことで、そんな人気のない校庭のド真ん中で俺達は互いに睨み合うようにして真っ二つに分かれて立ちつくしていた。

 もちろんどちらの派閥にも相手と敵対する意志はない。ルヴィアも遠坂嬢も確かに中が悪いっちゃあ中が悪いけど、それでも大事な任務の間に無闇やたらと喧嘩をする程分別がないわけじゃないのだ。

 と、順序が逆になってしまったけど、校庭に確認できる人影は総勢七人。それなりに大きな影が三つと、少し小さな影が二つ。それらよりも小さな影が二つとなかなかにおもしろい組み合わせである。

 近づいて見れば人影の身長だけではなく、実際の姿からも異様な組み合わせであることが分かるだろう。冬木どころか日本でも滅多にみない様々な国籍の外国人3人に加えて日本人が4人。しかもそれぞれ一人ずつ、奇抜な衣装を身に纏った年端もいかない少女が混ざっているのだ。

 

 

「‥‥えーと、なにがどうなってるのかさっぱりなわけなんだけど‥‥?」

 

『あらあらあら、まぁまぁまぁ。とりあえず私に言えることは、どうやらサファイアちゃんの方もステキなマスターを手に入れることができたみたいだってことですねぇ』

 

 

 そのうちの一人、ピンクを基調にした可愛らしさを全面に押し出した衣装を身に纏った銀髪赤目のアルビノの少女が口を開いた。怖ず怖ずと手を挙げるその様子からは容姿に反してあまりにも普通の少女という印象が感じられる。

 もちろん俺は知らない子だ。こちらも美遊嬢を伴って来ている以上は他のことを言えた義理ではないわけだけど、なんというか、予定調和にも似た流れというものを感じてしまう。

 

 

「‥‥とりあえずは互いに自己紹介ってところかしらね」

 

「って、この状況で悠長にそういうこと言える君はすごいね遠坂嬢‥‥」

 

「まぁそう仰らないでショウ。ミス・トオサカに迎合するわけではありませんが、私も私もと主張し合っていては埒があきませんし‥‥。———ゴホン、私はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。ミス・トオサカとは時計塔の方で一緒の学科に通っておりますわ」

 

 

 まず最初に、遠坂嬢の視線を受けたルヴィアが促されたわけでもなく自分から銀髪の少女に向かって自己紹介を始めた。ハーフにも見えないぐらい完璧に外国人のように見える女の子は不思議と外国式の握手が慣れないのか少々慌てながらルヴィアの手をとった。

 もう片方の手には当然のように自称マジカルステッキであるルビーが収まっていて、左右に前後に揺れ動いて不愉快さを増加させている。彼女はそこまで嫌いなわけじゃないんだけど、流石にこれは空気嫁と言わざるを得ない。

 

 

「私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。魔術教会で封印指定の執行者をしています」

 

「蒼崎紫遙だ。遠坂嬢達の同級生だよ。よろしく」

 

 

 今まで気づけば、俺は同年代か年上かとしか接したことがない。伽藍の洞で知り合った鮮花や藤乃君は確かに年下ではあるけれど、それでも同年代と数えてかまわないだろう。

 今まで倫敦に来たこともあってか、誰かと握手をする機会はそれなりに多かった。それでもやっぱりこんなに小さな女の子の手を握ることは無くて、やけに小さい手に微妙にドギマギしてしまうのを抑えられない。

 

 

「あ、どうも丁寧に初めまして‥‥。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンっていいます。どうぞよろしく」

 

 

 それは何の変哲もない自己紹介である、はずだった。少し怖ず怖ずとしながらも、それでもその少女は礼を尽くした年相応の態度で初対面の年上を相手に自己紹介をしただけであったはずなのだ。

 ただし、彼女の口から飛び出たルヴィアにも匹敵する少々長めの名字に———俺を含んだ若干三名の初対面の年上達は、完全に凍り付いてしまった。

 

 

「アインツベルン‥‥ですって‥‥?!」

 

「?」

 

 

 最初に再起動を果たしたのは彼女の口から出た名字と同じくらいの名門出身であるルヴィア。その足は一歩下がり、油断なく身構えながらポケットの中の宝石に手を伸ばしている。

 

 アインツベルン。

 欧州に限らず魔術教会においても、神代の時代から連綿と魔術を伝えている名家と呼ばれる圧倒的な著名をもって知られる家はいくつか存在する。

 例えば現在の魔導元帥であり、時計塔の学長補佐を務めるバルトメロイ・ローレライ。彼女の生家であるバルトメロイ家は、魔術教会の重鎮でありながら内情が殆ど分かっていない。それでいながら、バルトメロイの家の名を持つ者が出てくれば、最上級の魔術師として既に完成されているのだ。

 エーデルフェルトも魔術の家としてはかなり有名な方に入る。‥‥どちらかといえば悪名に近い部分はあるんだけど、それでもその能力が疑われたことは一度たりともない。ついでにいえば第二の魔法使いである宝石翁の家系でもある。

 『伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)』であるバゼットのフラガの家は、魔術教会にこそ所属していないけど間違いなく神代の時代から連綿と続く最古の家だ。当然ながらバゼットが執行者として魔術教会にやってきてからの情報しかないから詳しいことは分かっていないけど、その存在だけは昔からしっかりと語り継がれていたらしい。

 

 そして、アインツベルンだ。

 その歴史は他の名家達にも勝るとも劣らない。ラインの黄金関連の魔術に長ける独特の錬金術や人工生命《ホムンクルス》の研究で知られる彼の家は、実に先年以上の歴史を持っている。

 更に純血を保ち続け、外部との接触も殆どを禁じ、過去に手が届きかけた第三法をひたすらに追い求め続けるその執念は先年の間にもはや他の魔術師をして異常と言わしめる程に完熟した。分家も持たず。これは魔術が時を経るにつれて必然的に薄くなってしまう常識から鑑みれば、実際かなり異常なことであるのだ。

 そんな押しも押されぬ、それどころか何処からどうやって押したらいいかも分からない旧家の名字を持った少女の唐突な出現。

 さらには嫁にも出さず婿も取らず、分家を持たずに純血を保ち続ける一族なれば、かなりの高確率で直系かそれに限りなく近い血縁の者。

 ましてやアインツベルンは過去に一度魔法に手が届きかけた、それこそエーデルフェルトよりも一歩先を行く一族である。ルヴィアの警戒度は一気にMAX近くまで跳ね上がった。

 

 

「イリヤ‥‥スフィール‥‥?!」

 

 

 ルヴィアもバゼットも驚いている。いきなり目の前に外国の皇族がひょっこり現れたみたいなもので、特に魔術師としての世界にどっぷり浸かっていた彼女達だからこそ仰天動地とまではいかずとも一瞬フリーズするには十分過ぎる。

 しかし魔術について全くと言って良い程に知識のない美遊嬢はさておいて、この三人の中で最も驚愕していたのは他ならぬ俺だった。

 思わず呟いたのが家名ではなく名前の方だったのから分かる通り、決してアインツベルンだから驚いたというわけではない。さもありなん、俺にしてみれば彼女は異国の皇族なんてものではなく、正しく会うはずのない死人だったのだ。

 

 

「ん、どうかしたの蒼崎君? どこはかとなく様子がおかしいように見えるけど」

 

「え、あぁいや、うん、別に何でもないよ遠坂嬢。ほら、まさか魔術の名家の中でも指折りの引きこもりで知られるアインツベルンの血族に日本でお目にかかるとは思いもしなかったんでね。ちょっと驚いちゃっただけさ」

 

「‥‥確かにそうですわね。しかしエーデルフェルトの調べによれば、確かアインツベルンはミス・マトウやミス・トオサカと並んで冬木《フユキ》の聖杯戦争を創り上げた御三家の一つだったはず。他の地で見かけるよりは自然と言えますわ。‥‥というよりミス・トオサカ、彼女は貴女のどういった知り合いですの?」

 

 

 怯えすら含んだかのような驚愕を不審に思った遠坂嬢に焦りながらも言い訳した俺に続いて疑問の声を発したルヴィアの言葉に、遠坂嬢は一気に渋面を作る。

 かなり深刻な空気を漂わせながらちらり、とイリヤスフィールの方を見る遠坂嬢の様子に、あまりの衝撃に完全にフリーズしていた俺も何とか再起動を果たし、深刻な視線の先を見た。

 俺達が受けた衝撃を見て心底から動揺し、あまつさえ俺達にも似た怯えの色を顔に滲ませる少女の姿は、少々罪悪感というか、気を使えなかった俺達の余裕の無さを指摘しているかのようで恥ずかしい。

 

 

「‥‥一日経っちゃったことだし、一先ずお互いに状況を整理しない? 正直、こっちとしても色々と聞きたいことはあるのよ。‥‥その青い衣装の女の子のこととかね」

 

 

 遠坂嬢の視線が俺達のちょうど背後にて無言で立ちつくしている少女へと向かう。先程サファイアの指示に従い的確に反射路を形成して俺達を鏡面界から現実空間へと連れてきた美遊嬢だ。

 一日程度を彼女と過ごして分かったのは、やっぱり年齢不相応の落ち着いた物腰と、それに反して自分の予想していなかった———と思われる———事態に遭遇した時の、可愛らしい慌てぶり。このギャップは彼女の無愛想とも言えるぐらいの普段の様子すら魅力的にすら思わせる程にほほえましい。

 そして何より魔術師として彼女の能力を純粋に評価すれば、そういった慌てふためいている時にさえ彼女は戦場を共にするには十分に過ぎるという高いものになる。子供ってことをさっ引いても、ね。もちろん色々と不安要素はあるわけだけど、こっちで十分フォローできるし。

 

 

「‥‥美遊嬢?」

 

 

 そして非常に短い顔見知り程度の仲ではありながらも、俺がそんな評価を下した美遊嬢の今の様子はといえば、全く持って俺が期待していたような冷静沈着な態度ではなかった。

 目を見開き、足は震え、そのくせ手はサファイアを取り落としてしまいそうでありながら力強く握りしめている。さっきの俺とは違って恐怖は混ざっていないながらも、驚愕の度合いで言うなれば匹敵、いや、ともすれば凌駕すらしているだろう。

 あまりにも彼女らしくない。というか誰であっても彼女の異常を見抜けるに違いない。

 俺はそんな彼女がいったい何に驚いているのかと視線の先を追おうとして———先んじて俺の視線に気づいたらしい美遊嬢が顔をすぐさま下へと向けてしまったがためにその正体を知ることは出来なかった。

 

 

「ミユのこと、ですの?」

 

「そうね。どうやら彼女が貴女に代わってサファイアのマスターになったみたいだけど‥‥まさかサファイアの暴走なんてことはないだろうし、そっちでは一体何があったのよ?」

 

「‥‥どうやらそちらでは一悶着あったみたいですけど、こちらもまぁ中々に複雑な事情がありましてね、凜さん。少々込み入った、長い話になってしまいそうですよ」

 

 

 イリヤスフィールの件に続いて新たな思案の種を抱えてしまった俺の疑念は、遠坂嬢の露骨に不可解とでもいいたげに眉をひそめた様子に対してのバゼットの言葉に中断されてしまった。

 苦笑いしながらも目だけは真剣に遠坂嬢へ言ったバゼット。美遊嬢とサファイア、ひいては俺達との出会いは結果的に良い方向に転がったとはいえ、彼女自身の色んな事情も含めてそう軽々しいノリで話せるようなことではない。

 ついでに言うなれば、どうやら遠坂嬢の様子から察するにあちらの方もアインツベルンとか、イリヤスフィールとかをさっ引いて中々に複雑な事情が絡んでいるらしい。彼女のスタンスとして必要もないお家事情を俺達に話すことはないと思うから、多分、俺達にも関係する話なんだろう。

 

 

「そうね、じゃあとりあえずそっちの子も含めて、お子様組は二人ともいったん家の方に帰してしまいましょうか。あんまり子供達に聞かせるような話じゃなくなりそうだし」

 

 

 ちらりと俯いて表情を隠してしまった美遊嬢の方を見た遠坂嬢の言葉に、俺達も互いに顔を見合わせる。イリヤスフィールは知らないけど、美遊嬢は予備知識無しの状態で俺達の話についてこれるだろう。‥‥そうルヴィアの目は言っていたんだけど、俺は美遊嬢の怪訝な様子を見てしまったから首を横に振った。

 

 

「‥‥わかりましたわ。美遊、サファイア、ホテルへの戻り方はわかりますわね?」

 

「はい。しかし私がいなくても大丈夫ですか? 戦闘に必要な打ち合わせならば———」

 

「あぁ、気にしないでくれ。これはちょっとした、そうだな、魔術関係のことでね。君の耳に入れておく必要がある情報が出たらまた後で連絡するから。今日は練習無しで初めて宝具を使ったことだし、万が一を考えて君には休息を取っておいて欲しいな」

 

「‥‥そうですか、了解しました。では先にホテルへ戻っておきます」

 

 

 俺の言葉に食い下がるかと思った美遊嬢は、しかして頑固さを見せずにぺこりとお辞儀をすると踵を帰して正門から学校を出て行った。転身は解いて、今日の昼間に買ったシンプルながらも清潔で品の良い服へと戻っている。

 どこはかとなく不満げな色を背中に湛えているような気もしたんだけど、意外に歩幅が広いのかすぐに遠ざかってしまったがためにしかと確認することはできなかった。‥‥ちょっと、不安に思わないでもない。初めての庇護対象だからかな?

 

 

「それじゃあこっちは俺が送ってくか。いくぞイリヤ」

 

「え、いいの士郎さん?」

 

「おう。まぁ色々と問題あるから近くまでだけどな。なんなら窓まで持ち上げて跳んでやろうか?」

 

「い、いいよ別に! 勝手口の鍵持ってきてるから、途中までで大丈夫!」

 

「そうか?」

 

「うん! それにほら、セラとかリズとかにうっかり遭っちゃったら大変だしね」

 

 

 こちらもまた転身を解いて落ち着いたものながらも年相応の可愛らしい格好をしたイリヤスフィールに衛宮が声をかけ、送っていくと申し出る。

 それを聞いたイリヤスフィールはやにわに慌てだすと、それでも衛宮が頑固であると分かっているかのように諦めて今度は嬉しそうに頷いた。

 

 

『んー、私としてはそちらでも面白そうなので大いに結構なんですがねー。深夜に兄妹で逢い引きなんて、魔法少女的に心踊る展開だと思いませんか? あはー』

 

「アンタは黙ってなさいこの不愉快型魔術礼装! 心躍るのは魔法少女じゃなくてアンタの基準でしょうが! ていうか私達の堪忍袋が怒り狂って踊りまくるわよ!」

 

 

 これまたサファイアと動揺に柄を格納して携帯状態になったルビーが相変わらずのテンションでくるくると周りながら嬉しそうに笑い、それに遠坂嬢が噛み付いて左手の指先から盛大にガンドを撒き散らした。

 やっぱり遠坂嬢は衛宮やセイバーやルヴィアとかの、気の置けない友人達と一緒にいる時が一番生き生きしてる。そしてルビー相手にキレてる時は何気にもっと生き生きしている。

 

 

「‥‥羨ましいですね」

 

「何か言ったかい、バゼット?」

 

「いえ、私にもあのようにランサーと話す機会がもっとあれば良かったと思いまして‥‥。いえ、望んでも、望む資格すらないのは分かっています。マスターの義務として彼を守りきれなかった私が、そのようなことを望んでも自業自得というものでしょうから」

 

「‥‥そう自嘲的になることはないと思うけどね。確かに失敗を悔やむのは悪いことじゃないけど、自制と自嘲は違うよ。きっと自虐も、さ」

 

「‥‥紫遙君にそう言ってもらえると、少しは気が晴れた気がします。やはり、冬木に来て色々と動揺の種が増えすぎたみたいですね」

 

 

 ルヴィアがなおもガンドを去りゆくルビーと、ついでに衛宮へもぶっ放している遠坂嬢を宥めているという珍しい構図を見ながら、俺は隣で自嘲気味な笑みを漏らすバゼットの横顔へと視線を巡らせる。

 人間、もはや精神的外傷(トラウマ)にも近い衝撃的な出来事は早々忘れることはできない。いや、そもそも人間には忘れるという機能は備わっていないのだ。なにせ、記憶は魂に刻み込まれるものなのだから。

 だから要するに俺達に求められているのは、その記憶とどうやって折り合いをつけていくか。もしくは、その記憶をどうやって自分の生き方に反映していくかだ。付け加えるならばそれには良いも悪いもない。

 だけどやっぱり自分は、ましてや友人には悩みながらも真っ直ぐに後悔しない生き方をして欲しいから、俺は浅い見識ながらも自分が思ったことを口にした。世辞かどうかは分からないけれど、しっかりと前を向いたバゼットの言葉もまた、俺を喜ばせてくれる彼女らしい答えであった。

 

 

「そうはっきりと言われると照れるなぁ‥‥。まぁ、今は自分の悩みは脇に置いておこうよ。どうも悠長に思案に耽ってる時間はないみたいだしさ」

 

「ですね。最初からわかりきっていたことではありますが、やはり今回の任務は一癖どころではなさそうだ。今日までで一日一回以上はそう思い直してきましたが、そのたびにしなくてはならない覚悟の量が増えていくというのもそうそう無い経験ですからね」

 

 

 バゼットの呆れたような口調ながらも、露骨に今回の一件を自分の経験に照らし合わせても困難だとする台詞に、俺も苦笑混じりの溜息で返してみせる。なんというか、もうこうやって笑うぐらいしか返しようがないのだ、お互いに。

 見ればイリヤスフィールは既に学校から完全に離れてしまったようで、憤然やるかたなしといった様子の遠坂嬢が未だルヴィアに宥められている。うん、本当に珍しい構図である。

 

 突然現れた、死んだはずのイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。未だ俺の不安の種となって頭の中に残っているエミヤの言葉。そして偶然にも知り合った美遊嬢の不審な態度。

 全てに答えが出ないまま、事態はそれでも無情に進み続ける。しかも俺達には考える時間がそれなりに与えられていて、それが逆に苦痛であるのもまた事実だ。なにせ、それでもこの問題の解を得るためには時間が少な過ぎるのだから。

 それでも進み続ける事態は俺達の管轄である。俺達がなんとかしなければ、下手すれば世界を巻き込んだ大惨事になりかねないのである。‥‥フゥ、困ったもんだ。

 溜息をつくと幸せが砕け散る‥‥半年ぐらい前に青子姉からそう言われた気がするけど、だとしたら今の俺の状況はやっぱり今までの溜息の分のツケなんだろうか?

 そんな魔術師らしからぬ馬鹿げた考えを抱きながら、俺は彼女自身としても珍しい状況だからか遠坂嬢を扱いかねているルヴィアに助太刀するために、自然と重くなる足を引きずって穂群原学園の正門の近くへと歩き出したのであった。

 

 

 

 58th act Fin.

 

 

 




とりあえず気がついたら紫遙君は順調に美遊によって攻略されつつあります。一体どうしてこうなった?
予定では彼女は士郎と絡むはずだったんだけど‥‥あるぇー?(゜Д゜)


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第五十八話 『並行論の発覚』

side表記はぶっちゃけ使う必要ないのですが(sideなくても人物が分かるぐらいの描写なら問題ないです)、拙作においては様式美の一種として採用しています。


 

 

 

 side Toko Aozaki

 

 

 

 工房『伽藍の洞』。表の社会でもその界隈ではまぁまぁ名前の知られている人形師である私、蒼崎橙子が便宜的に開いている会社とオフィスの名前だ。

 二十三区といった中央部からは外れているがそれなりに交通の便の良い観布子という場所にあるこの工房は、一見して工房(アトリエ)どころか人が住んでいるような建物にだって見えはしない。なにせ外見上はまるっきりの廃屋、工事が中断したビルそのものなのだから。

 当初は五階建ての予定だったのだろうが、途中で計画そのものが頓挫したために四階までで建築はストップし、四階の上、つまるところ結果的に屋上となってしまった最上階からは支えるものがない巨人(アトラス)のように寂しく鉄骨が幾本も突き出ている。

この四階建ての三階がオフィス部分になっていて、四階が私の私室。そして二階と一階が魔術師としての部分も兼ねた工房や作品置き場だ。基本的に三階が玄関代わりになっているのが特徴で、このあたりは設計の段階から私の好みだな。

 

 

「‥‥‥」

 

「‥‥‥」

 

「———、———」

 

 

 その伽藍の洞の二階、工房にあたる幾つかの部屋の内の一つ。普段ならあり得ない三人という大人数が居ながらも、そこは沈黙と静かな寝息に支配されていた。

 沈黙の主は私と、不肖の愚妹である蒼崎青子。コイツはマジックガンナー、ミス・ブルーという仇名を持つ第五の魔法使いであり、私とは会えば姉妹喧嘩という皮を被った正真正銘の殺し合いをする仲である。

 仲である‥‥はずなのだが、今は何故か互いに至近距離にありながら魔術回路すら起動させていない。これは、長年とは言わずとも最近の自分たちの付き合い方を鑑みるに非常に珍しいことだ。

 光の反射によっては赤く光って見えることもある茶色がかった黒髪を壁と背中に挟んで、今まで一度たりとも目にしたことのない深刻な顔で腕を組んでいる。悩み事なんてついぞ見あたらないような女に見えたのだが、意外だな。

 

 

「‥‥姉貴に言えた義理じゃないでしょ。さっきから窓もないのに煙草ばかり吸って、寝てるからってこの子の体に悪いじゃないのよ」

 

「いや、なんというか私もお前の子煩悩さに心底驚いているところなんだがな‥‥。お前、そこまで子供が好きな奴だったか?」

 

 

 私達からしてみれば挨拶程度の毒を含んだ青子の言葉に、癪だから私は火を点けたばかりの煙草を手元の灰皿で揉み消した。別に目の前で横たわる子供の健康を気にしたわけではなく、ただ青子に注意されるという形そのものが気にくわなかったのだ。

 火を消して、眼鏡を正常な位置からは少々ずらして耳と鼻に引っかけて、私は部屋の中央に据えられている作業台の上で眠りこけている少年へと近づいて見下ろした。近づいてきた青子もわざわざ反対側ではなく私の後ろ、肩越しに覗き込んでくる。

 

 

「いやー実は私、けっこう可愛い男の子って好きなのよねー。まぁこの子はそこまで美少年ってわけじゃないけど、やっぱり目の前でこうやって傷ついてるの見ると情も湧くってもんよね」

 

「そんなものか?」

 

「そんなものよ。‥‥特に、ああいうもの見ちゃった後だと、ね」

 

 

 その子供は、顔を除いたほぼ全身に包帯を巻いた状態で布団も敷いていない作業台でひたすら眠り続けていた。当然ながら顔にも湿布やら何やらが付いてはいるが、何が起こったのかはさておき咄嗟に腕で庇ったのか傷は体に比べて多くない。

 改めて子供の外見を見直してみる。髪は黒く、直す時に傷がついていないかどうか確認したら瞳もしっかりと黒かった。紛れもなく、まぁアジア系とのハーフという可能性もあるにはあるが、人体を研究してきた私の目から見ればとりあえずは生粋の日本人である可能性が高いな。

 体つきは平々凡々、さして特筆する点もない。外見から判断できる歳‥‥小学校低学年ぐらいの平均的な子供と何ら変わりはなかった。強いて挙げるとすれば全身に負った火傷やら打ち身やらだが、これは事故で負ったものだろう。

 体を軽く魔術で調べると魔術回路がそれなりの本数見つかったが、これはさして特別なことではない。魔術師によって魔術は独占されてしかるべきではあるが、当然ながら時代を経るにつれて神秘が拡散する以上は覚醒していない形成未満の魔術回路を有する一般人も決して少なくはないからだ。

 

 

「‥‥私は、これまでの人生それなりに驚くべきものに遭遇して、それに驚いたり、時には驚かなかったりした。今まで一番驚いたことは憎らしいことに貴様が蒼崎を継ぐと分かった時なわけだが———」

 

「今回のはそれを上回ったって? ‥‥私もそうよ。流石に世界は、いえ、こういう言い方が正しいのかは知らないけど次元は広いわね。まさか本当に正真正銘、人知の及ばぬ事象っていうのが存在するなんて思いもしなかったわ」

 

「あらゆる真理を探究する魔術師としては業腹だが、確かに認めざるをえないところではある。私達がどうやっても、それこそ今回のような奇蹟でも起こらぬ限り遭遇どころか知覚も出来ん事象は存在するようだ」

 

 

 どんなに優れたコンピューターにも処理能力の限界があるように、コンピューターより遥かに優れた能力を持っている人間の脳にも許容範囲というものが存在する。

 例をあげるならば、単純に情報量が多い場合。与えられた命題が自分の処理能力を越える複雑で難解な問いであった場合。‥‥そもそも命題が我々人間では理解できない、根本的に概念が異なる事象の場合。

 今回の一件についても最後の項に似た事態であった。理解できないことはないが、それは平然とした表情を保ちながらも私の処理能力限界ぎりぎり目一杯である。今こうしている内にも頭の中は目まぐるしく働いているのだ。

 

 

「このような現象に生きている間に遭遇できるとは‥‥。現実は小説より奇なり、という言葉は魔術に携わる者としてこれ以上なく理解していたつもりだったが、あれは間違いだな。小説というよりも、人間の想像力なんぞ現実が追いつくことの出来る範囲を優に越えている。今回の一件でよく分かった」

 

「うーん、なんだかんだで魔法っていうのもんに人間の想像力から生まれたものってことになるのかしら? 私としてはそういうこと考えるのはナンセンスだって思ってるし、今だってそれは変わらないつもりなんだけど‥‥」

 

「考えを変えることはないとしても、やはりここまで歴然と“異質な”存在を目の当たりにしてしまえば、今までの考え方に微妙にいろがつくのも当然、か。まったく、とんだ拾い物だったな、この小僧は」

 

  

 私はこの観布子に越してきてそう長くない。そして慣れない街で最初に見つけた趣味の良い酒場でそれなりに酔った帰り道に拾った一人の少年。

 まったく原因の不明な数多の火傷や擦り傷、打ち身を負い、そしてその身の周囲の空間を歪ませるという甚だ珍妙な現象を起こしていた一人の少年。

 あまりにも不審に過ぎるその姿に興味を覚えて工房へと連れ帰り、道中に偶然にも遭遇した青子をも———これまた普段の私としては考えられないことに———助っ人として強引に引きずり、必要ではあるが最低限の手当をした後、私は当然の権利として横たわる少年の記憶を青子と共に吸い出した。

 

 

「‥‥まさか、私達が、いや、“この世界そのもの”がゲームや小説やアニメになっているような世界が、次元世界や平行世界とは別の概念として存在するとは、な‥‥」

 

 

 吸い出した記憶は、それなりに奇異な魔術的な現象に関する体験を期待して吸い上げた記憶は、私の予想や期待や願望を遙かに上回るトンデモない代物であった。

 テレビの画面。人形という創作分野に関わっている私も知るようになった、最近一般にも浸透してきたというアニメーションの動画。

 銀色の甲冑と青いドレスを纏った金髪の少女。赤い外套と黒白の双剣を持った青年。青い軽鎧を身につけて呪いの朱槍を放つ豹の如き騎士。愚かで尊い理想を秘めた少年と、信念を持って自らの道を定める凜とした少女。そして暗き衝動と数多の虫をその身に宿す悲しげな後輩。

 それは冬木の聖杯戦争という、私も時計塔在学時代に一度だけ聞いたことのある第一級の魔術儀式についての知識。それをあろうことか、大衆向けのテレビゲームという媒体で伝えたものであった。

 

 

「‥‥アレについては情報が規制されているから、私も噂ぐらいしか耳にせんからな。実際にこの目で確かめんことには眉唾物だと思っていたのだが‥‥」

 

「見事に本物だったってわけね。しかも最初はどうあれ今はトンデモないわよ。まったく、あんな代物をこの世に喚び出すなんて、アインツベルンも随分と腐っちゃったもんよ」

 

「そう言うな。どれだけ質の良い葡萄酒とて与えられた環境が悪く、ましてや百年単位で時を重ねれば腐敗するのも道理。家が受け継ぐ神秘を摩耗させなかっただけでも十分に称賛に値する」

 

「‥‥周りの迷惑ってもんがあるでしょ? ただでさえ日本は裏で何かと物騒なところなんだから、厄介事の種は出来る限り減らして欲しいところってわけよ。これ、下手したら私に後始末が回ってくるじゃない。‥‥ま、逃げれば良い話だけどさ」

 

 

 伸ばした手から収集した情報は映像と、映像に映った文字と、本に印刷された文字と、パソコンのディスプレイに踊る画像や動画や文字。関連する全てが私と青子の頭の中へと入ってきて、それを全て整理していき、それが進むたびに私達の驚愕はますます大きなものへとなっていった。

 ちなみに記憶を吸い取る魔術自体の難度はさほど高いものではない。魔術師が初歩として学ぶものであり、単純に成功率を考えるなら、一般人を相手にすればほぼ百パーセント成功する魔術だと言って構わない。

 

 ‥‥問題は、実際に魔術を行使する際の話である。

 超高性能のコンピューターは、昨今の情報社会において次々と息つく間もなくバージョンアップされた新機体が売り出されている。音楽が何百曲入るだの、処理速度がどうのだの、画質がどうの、音質がどうの、セキュリティがどうのだの。

 しかし単純な記憶容量ならともかく、処理速度や実際に使用していく際の便利性などを考えると、どんなに高性能なコンピューターでも人間の脳には及ばない。

 正確に大量の情報を記録するならコンピューターにでも出来るかもしれない。一度に覚えられる量はと比較すれば、確かに人間の物覚えの悪さにはたくさんの学生や社会人が頭を抱えてしまうことであろう。

 だが考えてもみるがいい、人間の一生は適当に勘定して八十年ほどである。そして、八十年分の情報を思い出すことが難しくても、人間は決して忘れることはないのだ。記憶というものは頭の中に収納するのではなく、魂に刻まれるものだからだ。

 

 自分自身が思い出すことができなくても、記憶は必ず魂に残っている。これはどうやら魂の表層部分に刻まれているらしく、何かの、それこそ百年二百年では済まない年月の経過による摩耗や魔術的、神秘的な事故や攻撃による欠損などの理由以外では失われることはない。

 故に魔術師が他人の記憶を吸い取る際には、術者自身が被術者の生きてきた年月だけ刻まれた全ての情報に、まるで押し寄せる雪崩を前にするかのように晒されてしまう可能性がある。

 自分の記憶だけで手一杯なのに、それほど大量の情報に一度に晒されてしまった人間の辿る道は一つ。‥‥すなわち、容量をオーバーした水風船の末路に同じ。頭がパンと破裂してお終いだ。

 これを避けるために、というよりも御することができるのは高位の魔術師かソレに精通した者のみ。故にただ自分に都合の良い情報で記憶の溝を埋めてしまう記憶処理の魔術と異なり、記憶を吸い出す魔術というのはあまり多用されることはない。

 

 私が目の前の子供の記憶を吸い出すにあたり取った策は、この少年が置かれた現状、すなわち魂に刻み込まれた一番新しい光景であるはずの私と遭遇した時の記憶をまず探り、その光景自体をキーワードにして魂の中の記憶が刻まれている全域に検索をかけるというものだ。

 映像は人間が受動する最も膨大な情報量である。通常の人間は視覚という分野でコレを様々な方法で解析するわけだが、当然ながらリアルタイムで解析するよりも時間をかけてじっくりと解析する方が詳細な情報を得られるというのは道理であろう。

 視野に広がる光景から、魔術師である私の目を通して大気の揺らぎや大源《マナ》の分布を確認。視界の乱れから視覚に受けた影響を分析。これを整理して簡潔なサブジェクトにまとめる。

 視覚だけではない。触感や痛みなどから傷がどういう原因によって生じたのかも把握できれば、それを先程と同様に概念的なキーワードにして検索の材料へとすることもできるのだ。

 これらから現状を形作った原因たる記憶を、たとえそれがどんなに古くても掘り出すことができる。これが使用する機会は少ないとはいえ、私が他人の記憶を吸い出す際のプロセスとして確立したものであった。

 

 ‥‥そして、ソレを使って記憶に検索をかけた結果が、先の私と青子のセリフと相成るわけだ。

 記憶とは情報ではあるが、そこには多分に本人の主観的な感情というものが入る。例えば一つの景色を例にとっても、人によっては受け取る印象というものが変わる。そういう印象の違いの積み重ねだからこそ、記憶の価値というものが生まれるのである。

 簡潔に言えば、最初に私が検索をかけるための概念(キーワード)として指定したアノ光景の中でこの少年の記憶と一番関わりが強かったのは、傷を負った原因でも世界が撓んでいた原因でもなく、あろうことか目の前に他って自分を見下ろしていた私であったというわけで。

 

 最初に浮かんでくる『蒼崎橙子』の文章化されたパーソナルデータ。そして次に浮かんできた『空の境界』。

 関連して次々と現れる様々な情報。その全てが先の私の言葉を証明していた。物理的な証拠なんて必要か? 状況証拠だけでも、事実を確定するには十分だ。論理的な思考の手順を辿って現れた答が真理だと、そして自分の目でそれの存在を確認し、それだけで魔術師が確信を持つには十分過ぎる証拠なのだ。

 

 

「ふん、退屈を紛らわせる良い暇つぶしが見つかったものだと思ったのだが、まったくトンデモない拾い物をしてしまったものだ」

 

「それさっきも言ったわよ。もしかしてボケてきてるんじゃないの姉貴?」

 

「よし、今すぐにその無駄によく回る口を繕ってやろう。なに心配するな、人形作りの延長さ。糸が見えないように綺麗にしっかり縫ってやる」

 

 

 机の下の引き出しに仕舞い込んでいたソーイングセットを取り出して青子に向けて針と糸を構える。‥‥意外そうな顔をしているな。この程度は女の嗜みだ。そうだろう?

 

 

「いや、いまさら姉貴に女の嗜みーとか言われてもネタとしてか思えないわよ。常識的に考えて」

 

「ほぅ、お前が私のことをどう思っているかは把握しているつもりだったが、ここは一度しっかりと互いに理解を深めておく必要があるようだな。直接的な、方法(OHANASHI)で」

 

 

 ‥‥互いに大きく吐息をついて、再び視線を作業台に横たわる少年へと向ける。実際この問題は、もしかしたら私が、ともすれば青子すらも、今まで遭遇してきた全ての事象の中で最も厄介な部類に属するのではないか。

 

 

「考えてみれば順調な人生だったからな。あまり刺激的なものではなかったからか、ふぅ、まったくもって厄介きわまる拾い物と相成ったわけだが」

 

「あら、私に魔法を奪われたことは大したことじゃなかったのかしら?」

 

「そう思うなら今すぐ私に返せ。あれは私のものだという認識は今の今になっても変わらんぞ」

 

 

 自分たちが創作された存在、か‥‥いや、そんなことはありえん。

 仮に物語の登場人物として自分が作成されたと考えても、いくら人間の想像力が人間自身の想像力を越えて豊かなものだとしても、人間を構成する全ての要素がたった数人の想像力によって出来たとは考えられない。

 ならばアノ存在をどう説明する? 私達が作られた存在でないと———当然のこととして———考えるならば、そう、順序を入れ替えて考えればどうだろうか。

 向こうが先にいて、私達が後にいるのではない。私達が先にいて、向こうでの私達が後に出来たのだとすれば? つまり私達が観測されていたのだとしたら?

 ‥‥考えられない話ではない。平行世界の存在は宝石翁と第二魔法の存在によって確定的に証明されている。彼の宝石翁は平行世界の壁に穴を穿ち、自在に移動し観測しているのだとされているのだ。

 

 

「いや、無理でしょ。だってこれって平行世界って枠からは絶対に外れるし、だとしたら間違いなく新しい魔法、第六魔法になっちゃうわよ?」

 

「第六法、か。向こう側に神秘が存在しているかどうかはまだ決めつけてしまうには早計だろうが、仮に体系の違う神秘が存在するのだとしても、それを利用してこのような物語を作る意図がさっぱり分からんからなぁ‥‥」

 

 

 どこにでも変人というのはいるものだろうが、どうにも仮定の状況として腑に落ちない点があるので一先ず却下としておこうか。何より観測だけで手を出さないという理由が説明できないのだから。

 

 

「手を出さないんじゃなくて、手を出せないっていう可能性もあると思うけどねー」

 

「手を出す気なら、今度はわざわざこのように物語に仕立て上げる理由が分からなくなるだろう? 結局どうどう巡りなんだから、連立するどちらの方程式も解無しという結果が出たようなものだ」

 

 

 ‥‥ならば解は二つのうちどちら、という単純なものでなく、ここで第三の解答へと導かれる。すなわち偶然。何の意図も働かない偶然の産物による両者の関係である。そもそも方程式そのものに何の意味もないというわけだ。

 シンクロシニティとでも言うべきか。何かが共鳴し、それを受け取ったのが向こう側で言うならば菌糸類と呼称される原作者というわけだ。まったく、これだけの情報を整理しなければならなかった私の苦労を考えてもみてくれはしまいか。

 

 

「で、結局この子がコッチに来た理由までは分からなかったわけだけど」

 

「無理を言うな。事故の衝撃で魂に欠損が生じていて記憶も途切れ途切れになっている。おそらく記憶の中のコイツの姿と今の姿が食い違うのもソレが原因だろう。‥‥欠けた魂の分だけ小さくなった、か。ありえんことではないだろうが、珍しさに拍車をかけているのは間違いないな」

 

 

 人間を構成する三つの要素の内の一つである魂は、決して不変の存在ではない。摩耗もすれば腐敗もするし、挙げ句の果てには変形や浸食、劣化もする。魂もまた生きているのだ。

 例えば吸血鬼と化した人間の身体を人形に移す。これによって血を欲する理由である肉体の劣化が止められたことによって吸血鬼化が治ると考えるおめでたい輩がいるかもしれないが、吸血鬼化は魂にも作用し、魂から浸食する。

 結果、魂が吸血鬼のままであるために、肉体は魂に引きずられて再び吸血鬼と化す。不思議なことに、逆に男を女の身体に入れたりした場合には肉体の性別に魂が引きずられたりするのだから、これによって魂の不変性は否定できるのだ。

 

 

「ふーん。難しいことはよくわかんないわねー」

 

「お前も魔法使いならこの程度はしっかりと覚えておけ。あらゆる魔術師の目指す到達点の一つである魔法使いがこのザマだと知れたら、世の魔術師共はそろって首を括りかねんぞ」

 

「仕方がないじゃない。私の魔法に関することなら、勉強しなくても何となく分かっちゃうんだもの。その場で分かんないことはつまり私に必要ないことってワケ」

 

「‥‥ふん、これだから私はお前が嫌いなんだ。姉妹だというのに、正反対じゃないか」

 

 

 どうしても口寂しくて咥えた火の点いてないままの煙草が半分、噛み切られてボロリと床に落ちた。コイツは昔からそうなのだ。私と青子はお互いにぴったりと噛み合うぐらい得意の分野と不得意の分野が異なっていて、だからこそ逆に摩擦が大きくなる。

 私はコイツの脳天気さが羨ましかった。私も何物に縛られることもなく、好き勝手に暮らしてみたかった。祖父の期待に応えて魔法使いとなるために勉強することにも存在意義と充実した義務感を感じてはいたが、それでも心の隅では青子が羨ましかった。

 もちろん、それは今だからこそ思うことなのかもしれない。当時はこのように冷静にそれを感じ取ることは出来なかったし、もしかしたら当時の状況を今の私が客観的に分析した結果として導き出された解なのかもしれない。こればかりは過去の私でも持ってきて問答してみるしかないな。

 

 

「‥‥まぁ雑談はこれぐらいにしましょう。———姉貴、この子どうするつもりなの?」

 

 

 青子が壁から背中を引きはがして真っ直ぐと立ち、横たわる子供の側へと立った私へ視線を寄越す。睨むわけでもなく、小馬鹿にするわけでもなく、ここ最近はついぞ目にしたことがない真剣な色を湛えた瞳で。

 私は口の中に残ってしまった半分の煙草を工房の隅に向かって吐き出すと、中途半端に鼻にかけた眼鏡をとってクルクルと手元で回しながら俯いた。

 

 

「———では逆に問おう、青子。お前はこの小僧、どう見る?」

 

 

 意地の悪い質問‥‥とは青子は受け取らなかったようだ。眉間に皺を寄せると一瞬だけ瞑目し、大きく吐息を吐き出した。

 見下ろす先の小さな体は、当然ながらコイツの実際の年齢とは異なる。子供ではない。そして青子はともかく私は相手が子供であろうと余計な感情を持ちはしない。

 

 

「殺すか、洗脳するか、とにかく某かの口封じが必要ね」

 

「‥‥ほぅ、てっきり子供贔屓だと思っていたが、お前がそんなことを言い出すとはな。意外だぞ」

 

 

 感情の揺らぎを一切見せない冷たい瞳で、青子は何の躊躇もなしに言い切った。壊すこと以外の魔術師としての腕前は並以下のくせに、魔術師としての心構えだけはしっかりとしている。

 

 

「この子はトンデモない爆弾よ。私達や、情報として知られている衛宮士郎や遠野志貴のみならず、ことは世界全体に及びかねない。聖杯、真祖の姫、直死の魔眼‥‥どれか一つだけでも他人に知られちゃいけないわ。芋づる方式でありとあらゆる災厄、それこそ第六法をも巻き起こしかねないもの」

 

 

 そう、この小僧自身に降り懸かる危険など今は別に気にすることではない。問題は小僧が自身の存在によって周りに振り撒く災厄についてなのだ。

 魔術師とは須く真理を探究する生き物である。そしてその過程において基本的に手段は問わないものであるし、結果として得た情報、真理は当然ながら自分のためにしか使わない。

 そしてコイツの頭の中に眠っている情報は、もはや真理そのもの、いや、真理すらも通り越していると言ってもおかしくはない。まさしく、真理とはまた別次元で存在するものだと言っても良いだろう。

 なにせ私達の世界とは完全に別の、平行世界ともまた別の概念の新たな世界の存在を証明した記憶だ。それは新たな魔法の、魔術の在り方を巻き起こすに違いないのである。

 

 

「魔術師は皆、自分の分を越えて欲張りなものだからな。こんな宝の山を見つけたら何もかもに手を出したくて仕方が無くなってしまうことだろうよ。‥‥そのような行いが何を呼ぶか、考えもせずにな」

 

「間違いなく大騒動‥‥いえ、世界全体を巻き込んだ大戦になるわね。手を出された真祖の姫が、聖杯を持った魔術師が、直死の魔眼を宿した『 』そのものたる少女が、どう出るかなんて私達にも分からないわ。ただ言えるのは、それは間違いなく厄介なものになるだろうってことだけよ」

 

 

 魔法使いが非常に特殊な存在であることは言うまでもないことだろう。だがそれは魔法を習得したからというだけではない。魔法を習得したからというのは事実ではあるのだが、そこに単純に魔法という言葉だけでは語れない別の要素が介在する。

 すなわち、世界の掟を破った存在でありながら、それでもなお、逆に世界に認められている異端でもあるという話である。魔法使いは自らの魔法に照らして世界の秩序を監視する役割があるのではないかと私は睨んでいる。

 その青子がここまで言うのだ。確かに似たようなことを考えていた私の意見に裏付けが取られたと言ってしまっても構わないだろう。‥‥腹立だしいことではあるが。

 

 

「私としては姉貴が即座に始末しなかったことの方がよっぽど不思議よ。姉貴ならこんな厄介事なんて、すぐにアレに喰わせるなり解体して人形の材料にするなりしてもおかしくないって思ってたんだけど」

 

「だから貴様は私を何だと思っている‥‥? だいたい私は生き物を人形の素材にしたことは一度たりともない。そんな悪趣味な真似は時計塔の人外魔境共にでもやらせておけばいいのだ」

 

 

 神秘が秘められた裏の社会では、生き物の命は非常に軽視される傾向にある。それは魔術師によって被害を受ける一般人だけではなく、我々魔術師にも共通して適用されることなのだ。

 しっかりと警察組織などによって統制された表の社会に比べて、神秘を一般に漏洩させないという原則さえ守られていれば誰も関与などしない裏の社会では、弱い者は淘汰されるのみである。

 利己主義がメーターを完全に振り切ってしまっている者達が人間で有る無しを問わず数多く存在する我々の社会では、魔術師とて弱ければ死ぬ。そうでなければ道理が通らないというものであろうが、とにかく命が軽視される傾向にあることだけは間違いない。

 

 

「それでも私は、殺人というものに対して慎重な姿勢をとらざるをえないのだよ。命とは、基本的に失われたら戻らないものだ。そして殺されるとはな、非常に苦しくつらいものだ。お前も一度でいいから殺されてみれば分かる。あれは何回も体験したい経験ではないぞ」

 

「‥‥それでいて私とは殺し合いするんだから、大いに矛盾をはらんだセリフよね。まぁ、いいわ。‥‥それで、結局この子どうするつもりなの?」

 

「‥‥難しい質問だな。記憶をいじるにも、目の前に私達がいるのではいつ何時封印が解けるかもわからんし、さりとて記憶だけ処理をして放り出すというのも中々に危なっかしい。ふむ、どうしたものやら」

 

 

 いくら魔術の探求をも捨てかけた私とはいえ、このような危険物を拾ってしまった以上は無責任のまま適当に処理しておくというわけにもいかん。なにより青子にも言った通り、私は人殺しは好かんしな。簡単な手段をとることもできない。

 できない、というよりはやりたくない。私は自分自身をも作れる人形師として、自分が自分であるというアイデンティティをしっかりと保っておかなければならないのだ。

 

 

「‥‥どっちにしてもまぁまずは———」

 

「あぁ。まずはこの小僧が目を覚ましてから、だな」

 

 

 ひたすら傷を癒すために眠り続ける子供。傷や体力および血液の消耗だけではなく肉体と魂のアンバランスに加え、世界を渡った衝撃は早々リカバリーできるものではなかろう。目覚めるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 

 

「ふむ、ではコーヒーでもいれてくるとするか」

 

「あ、私のも頼むわ。なんだか疲れちゃったからミルクと砂糖たっぷり入れてね」

 

「‥‥だからここは私の家、というか工房なんだと何回言えば———いや、遠慮しろなど貴様に言ったところで聞くはずもない、か」

 

「わかってるじゃないの」

 

「やかましい」

 

 

 暇潰しの種から厄介事へとランクアップした子供。責任感、というものもあるだろうが、それとはどこはかとなく違うような感じを受ける。

 それはおそらく私の性分。周囲に与えられた環境や状況を受け入れてしまうという、ある意味では主体性のない私の姿勢によるものだろう。

 祖父に師事して魔法を目指して勉学に励んだところから始まり、あのクソジジイをブチ殺してからはかつて顔を合わせて何言か交わした程度の魔術師の誘いで時計塔に入学した。

 その関係で何度も不愉快な体験もしたし、嫌なことにだって関わった。それでも全て文句たらたらながらもこなした———いつの間にか借りと向こうが勝手に考えていた分は精算してしまっていた———さ。

 それも、いわば私が受動的に物事をこなしていたからであり、結局のところ主体性に欠けるのは私のスタンスなのである。今更になって気づいたというわけではないが、まったく、我ながら情けなくはあるか。

 

 しかし、とにかく今はこの小僧が目を覚ますまではアクションを起こせない。無理矢理起こしてしまってもいいのだが、やはり記憶を吸い出すために多少頭の中をかき回したこともあってか無理をさせると今度こそ致命的な障害を負ってしまうかもしれん。

 ここまで体力を消耗していては早々起きたりはしないだろう。まずはそうだな、ふん、癪ではあるが私と青子のためにも、コーヒーでも淹れてきてやるとするか。‥‥安物ではあるが、な。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 冬木市、新都。

 駅にほど近い新都のビル群の一角にある、この静かな街にしては非常に珍しい二十四時間営業のファミリーレストラン、『Jonafull(ジョナフル)』に、これまた非常に珍しい、というか普通に日本の片田舎で平和な生活を過ごすつもりならば一生に一度だって目にすれば十分というくらい奇抜な組み合わせの男女が集まっていた。

 そのちぐはぐ加減はもはや描写する必要はないと思う。四人中の半分は日本人ではあるんだけど、その組み合わせというか、日本人というカテゴリの中でも異質な外見と格好をしているのがよろしくない。

 鮮花に言わせれば服装センスが最悪であるところの俺、蒼崎紫遙と、欧米風の顔立ちを持つ誰もが美少女と認める遠坂嬢である。

 ‥‥何が悪いって、俺以外の三人が国籍は別々だけど文句なしの美女、美少女だっていうのがね。店内に客は少ないけど、視線が集まっているのは嫌でも分かってしまう。

 

 

「どうかしまして? ショウ」

 

「いや、別になんでもないよルヴィア。ちょっと視線が集まってて、居心地が悪いだけなんだ‥‥」

 

「そういえば先程からこちらを見ている人が多いですね。‥‥何か不審な動きでもしたでしょうか? 一般人と変わらないように気を遣っているつもりなんですが‥‥」

 

「そういう意味じゃないわよバゼット。‥‥まぁ貴女に言ってもしょうがないとは思うけどさ」

 

 

 俺の反対側に座った遠坂嬢が珍しく俺と同時に溜息をつき、バゼットとルヴィアは不可思議そうに、怪訝そうに首を傾げた。この二人よりは遠坂嬢の方が幾分世間慣れしているらしい。隣で衛宮も苦笑いしている。

 目の前には全員そろってしっかりと夕食をとっていたがために、各自で好みに合わせて頼んだ飲み物と、テーブルが寂しいのを嫌がるルヴィアがメニューの名前だけを見て頼んだケーキが運ばれている。

 ‥‥けど、当然ながら彼女の口にファミレスレベルのお菓子が合うわけがなく、全員が一口ずつ口をつけた後は続けて食べられる兆候もなく寂しく放置されていた。

 俺もクッキーとかならともかくこんなコッテリしたケーキみたいな甘いものは早々食べないしね。仕方がないことではあると思うわけです、ウン。

 

 

「この程度のケーキを出して本場の味などを語るとは、この国ではそのような似非な口上が平然とまかり通っているんですの? これが英国風、なんて題目でしたからまだいいですけど、フィンランド風などと称して同じようなゲテ物を出された暁には平常心を保てる気がしませんわね」

 

「だから、これはあくまで君みたいに舌が肥えている人に向けた口上じゃなくて、もっと値段相応な、庶民層を対象にしたものなんだよ。値段相応、さ。君が求めるレベルのものだと簡単に食べられるものじゃなくなっちゃうだろう?」

 

 

 残念ながら口直しにと唇をつけた紅茶にしても、ルヴィアの求めるレベルには到底届いていないようだ。まぁこれもまた前述したケーキについてと理屈は同じであり、紅茶だけはそれなりのレベルのものを調達している俺としても少し残念なのは同じである。

 もちろん前世も今世も庶民としての生活から一歩たりとも逸脱していない俺としては十分に許容できる範囲なわけだけど、やっぱりルヴィアは少し許容範囲ってやつを広くする必要があるんじゃないかな?

 いや、貴族って正直よく分からないんだけどね。彼女とも二年ぐらいの付き合いになるわけだけど、そういうところに踏み込んだことは互いに一度もないし。

 

 

「ふむ、皆さん召し上がらないのでしたら私が頂いても構いませんか? ちょうど小腹が空いていたところでして」

 

「あぁ、構わないわよバゼット。よかったら、ていうか出来るなら全部食べちゃって」

 

「ありがとうございます、凜さん。では失礼して‥‥」

 

 

 遠坂嬢に許可をとったバゼットがフォークを片手にもりもりとケーキを頬張り始める。セイバーと同じく決して下品ではないけど、食べるペースが速いことに加えて、食事というよりは処理というイメージを受ける食べ方だからか何となく辟易としてしまうような感情を覚えるのは彼女に悪いだろうか?

 バゼット自身、何でも美味しいと———除く雑な料理———言ってみせるセイバーと違って全く味というものに興味がない性分だから仕方がないとは言えるんだけど。

 

 

「‥‥まぁ雑談はこれぐらいにしようか。そろそろ本題に入りたいと思うんだけど、いいかい?」

 

「構わないわよ。こっちも質問したいことでいっぱいだし、ルヴィアゼリッタにしても同じみたいだしね」

 

「当然ですわ。互いに情報を交換して共有しないことには効率の良い任務達成というわけにはいきませんもの」

 

 

 ごほん、と周りの視線をしばらく逸らさせるために大きく咳ばらいをした俺は、注文した紅茶とは別に置いてある水の入ったグラスを持って席から立ち上がる。

 そのまま指をグラスの中へと指し込んで水に浸し、四人が座るテーブルの四隅に指を使って文字を書き込んでいく。器用貧乏———というか超貧乏———と称されることの多い俺の得意とする数少ない魔術であるルーンを使った結界だ。

 種別としては単純な認識阻害。まるでそこが川の中の岩であるかのように、周りの人々の視線は滑らかに俺達を避けていく。

 ついでに喋っている内容も外には漏れないし、逆に外の物音はしっかりと中まで通る。これは比較的単純なベクトル操作の一種で、概念的にはそこまで難しいものではない。操る対象が空気の振動に過ぎないからね。

 

 

「では最初に私達の方から状況を説明しましょうか。とはいってもさほど複雑なものではありませんわ。当初の予定通りに、少々エッセンスが加わっただけですからね」

 

「あれを少々と言い切ることのできる君の姿勢には心底感服するね、ルヴィア。俺としては中々衝撃的な出来事だったって思い出に刻み込んでもいいぐらいだと思うけど」

 

「お黙りなさいショウ。‥‥まず私達と一緒にいた娘、ミユですわね。今、サファイアのマスターは私に変わって彼女が務めています」

 

 

 俺の結界が確実に機能していることを———寂しいことに———全員が各自で確かめた後、ルヴィアが顔をしかめながら紅茶を一口すすり、ゆっくりと話を始めた。

 

 

「‥‥私達が深山町を歩いていた時でした。彼女が一人で外を出歩いてたのを目撃したのですが、次の瞬間にはトラックに轢かれてしまって‥‥」

 

「‥‥手遅れ、かと思ったよ、俺も、あの時は」

 

「なん‥‥ですって‥‥?!」

 

 

 ぼそり、と呟くようなバゼットと俺の発言に遠坂嬢が目を見開いて驚きを露わにする。ルヴィアまでも悲痛な表情をしたことから状況の深刻さを一瞬で理解したらしい。

 もちろん全ては終わったことである。美遊嬢の怪我は無事に治ったし、なにより孤児院で虐められていたという彼女がルヴィアの元で引き取られたのは悪いコトじゃないと思う。

 それでも、今まで死徒などとの戦闘ぐらいしかこなしていなかった俺は、あの光景を決して忘れることはできない。

 自分の血なら死ぬほど見たから平気だとは思っていたんだけど、やっぱりか弱い少女の命の灯火が今にも消えそうになっているという光景は心臓に悪いなんてもんじゃない。あれは、衝撃的とかいう言葉を越えて恐ろしかった。

 

 

「既に私達の治癒魔術では間に合わないぐらいの重傷でしたわ。‥‥それで、彼女をサファイアと契約させることで何とか一命を取り留めたんですの」

 

「成る程、そういえばカレイドの魔法少女には一級の自動治癒《リジェネーション》がかかってたっけ。それなら助かるのも当然ね」

 

「まぁその後はセオリィに則って記憶処理をしてから家に帰そうと思ったのですが‥‥」

 

「サファイアが妙に美遊嬢のことを気に入っちゃってね。他にもまぁ色々と複雑な事情があって今に至る、ってワケさ」

 

 

 俺とルヴィアは互いに顔を見合わせて小さく溜息をつく。転がってしまった事態《モノ》は仕方がないけど、随分とまたおかしな状況に巻き込まれてしまったもんだ。

 美遊嬢についてだって、ルヴィアに拾われたからって必ずしも今までよりも幸せになるとは限らない。なにせ彼女はサファイアや俺達と出会うことによって、吸血鬼や外道の魔術師や魔獣が跋扈する裏の世界へと足を踏み入れてしまったのだから。

 

 ‥‥ただ、ある種では彼女に似た状況にあって橙子姉に拾われた俺の意見としては、決して拾われたことを後悔なんてしていない。

 確かにさ、結構つらいことも痛いことも、死にかけたことだって多々ある。なにより四六時中心の何処かで怯えてるってのはあんまり愉快な状況じゃないかもしれない。

 それでも、縋ることのできる、そう、心の軸を持つことができたのは俺にとってかけがえのないことだったのだ。あのまま放り出されていたらと思うと恐ろしくて肩を抱えてしまいたくなる。

 

 もちろん美遊嬢と俺とじゃ全く状況が違うわけだけどさ。それでも俺は、行く宛もなくフラフラと深夜に外を徘徊するような羽目になった孤児院よりは、ルヴィアに引き取られた方が良いと思う。

 というか結局のところサファイアが完全に彼女から離れるつもりがない以上、どうしようもないことなんだけどね。言うなれば偽善的な自己弁護なのかもしれないけど。

 

 

 

「彼女は孤児という話ですわ。この街の孤児院に預けられていたそうですが、今回の一件に際して私が養女として引き取りました。こうなった以上は弟子として育てていくつもりですから、そう不安げな顔をしなくてもご心配なく」

 

「べ、別に心配してるわけじゃないわよ! アンタが責任持つっていうなら私がどうこう言う話じゃないわ。‥‥こっちの件についても色々あることだしね」

 

 

 遠坂嬢の言葉に俺達三人が即座に眉を引き締める。素性不明という一点のみが不確定要素だった美遊嬢と異なり、遠坂嬢が連れていた少女は問題過ぎる要素を持っていた。

 

 

「‥‥アインツベルン、でしたか。まさかと思いますが、アインツベルンとは“あの”アインツベルンで間違いありませんね?」

 

「何が言いたいのかしら?」

 

「それを聞きたいのはコチラです、ミス・トオサカ! あの引きこもりで有名な錬金術の家系がどうしてこんな極東の国で、しかも貴女の従者になっているのですか?!」

 

 

 当然ながら言葉を濁した遠坂嬢に、ルヴィアが思いっきり爆発した。もちろん認識阻害と防音の結界を張ってあるから声が周りに漏れることはないし、突然立ち上がったからって周りの視線がこちらに向くことはない。

 でもやっぱり目立ってしまうんじゃないかと慌ててしまう俺は小心者なのだろうか、小市民なのだろうか‥‥。もしくはそのどちらかとも言えるわけだけど、遠坂嬢とかは結界を信用して全く様子が変わらないのが何ともね‥‥。

 まぁ俺の結界を信用してくれているって思えば嬉しいとは言えなくもないんだけどさ。

 

 

「まず、例のごとく最初にルビーが暴走したのよ。私と一緒にはいられない〜って」

 

「‥‥うわ、容易に想像つくな、その様子。どうせまた『もっと面白いマスターと〜』とか言ったんじゃないかい?」

 

「似たようなものよ。ホント、困っちゃうわあの不愉快型魔術礼装には。まぁそういうわけで逃げ出したルビーを追いかけて、追いついた時にはあの子と契約していたってわけよ」

 

 

 珍しく炭酸にチャレンジしたらしい遠坂嬢がジンジャーエールをストローで一口すすり、先程のルヴィア同様に顔をしかめて唇を放した。やっぱり彼女には炭酸の刺激がキツすぎるらしい。

 ‥‥うーん、それにしてもやっぱりルビーは暴走したか。当然と言えば当然の顛末ではあるんだけど、そこまでして楽しいことを追い求めたいのかあのステッキは‥‥。

 

 

「分かりやすいようで全然分からない。そもそもどうして彼女とルビーが契約することになったんだい?」

 

「そんなのはルビーに聞いてちょうだい! きっと顔が可愛かったとか反応が可愛かったとかその辺でしょ。あいつの思考回路なんて私には理解できないわ」

 

「言い訳はともかく、みすみす魔術礼装の命令無視を見逃すとは‥‥これは重大な失態ですわよ、ミス・トオサカ」

 

「うっ、わかってるわよそのくらい! なんていうか、どうにも私の隙を突くのが上手いのよねルビーは‥‥」

 

 

 ノリと勢いのまま有耶無耶なムードに入りつつある遠坂嬢をルヴィアが真剣な目で窘め、一気に冷静に戻った遠坂嬢が意気消沈とばかりにうなだれる。

 ちなみに普段は殆ど気にしてないんだけど、俺の見立てでは遠坂嬢よりもルヴィアの方が若干精神年齢が高い。彼女はかなり早い段階からエーデルフェルト家の次期当主として活動していたから、悪い言い方にはなるけど日本の片田舎で完璧に過ごしながらも温ま湯の中にいた遠坂嬢よりは修羅場をくぐった経験が多い。

 まぁ倫敦に来てから遠坂嬢も加速度的に修羅場くぐってるから今ではあまり変わらないみたいだけどね。特に実戦経験が殆ど無いルヴィアに比べて、遠坂嬢は倫敦に来てからもルドルフと戦ったりしていたわけだし。

 

 

「‥‥それでは事態の顛末としてはそれでいいとして、彼女の正体について話してはくれないのですか?」

 

 

 バゼットに続いて、俺とルヴィアも一旦気持ちを落ち着かせて遠坂嬢の方を見る。

 全員の視線を集めた遠坂嬢も今度は大きく息を吐くと、またいつものように名前を体現したかのような凜とした瞳でこちらの視線に返した。

 そう、事態の顛末自体はそこまで予想を外れたものではない。俺達にして全く別のベクトルではあるけど似たような状況を経て美遊嬢とサファイアの契約という現状に至ったわけであるのだから。

 だからどちらかといえば問題になっているのは、あの雪の少女、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが何故に冬木にいて、しかも遠坂嬢と一緒に脳天気にカード集めなんてものをやっているのかということだ。

 

 再三になるけど、アインツベルンは殆どといって良い程に巷に情報が流れていない引きこもりの一族だ。

 千年を越える長きに渡って家名を保ち続けているからこそ多少の噂などが出回っていないこともないけれど、それでも殆ど一切の外部との接触を断って自領に引きこもり、第三魔法へと至るべく関係あるものから関係ないものまで様々な研究を続けているらしい。

 この外部と一切接触しないというのがアインツベルンを神秘の跋扈する裏の社会に於いてなお神秘的な存在として位置づけられている所以である。なにしろ家名と大まかな研究内容ぐらいしか伝わっていないのだから当然とも言える。

 そしてそんなアインツベルンの名前を持った少女が以下略。とにかくルヴィアやバゼットにしてみれば仰天動地もいいところといった事態だろう。

 

 

「‥‥結論から言えば、イリヤスフィールは“あの”アインツベルンであって“あの”アインツベルンではないわ」

 

「‥‥んっんー? 君の言ってることがよく分からないんだけど、もう少し分かりやすく説明してくれないかい?」

 

「抽象的だけどこれが一番簡単な説明なのよ。あの子の育ったアインツベルンが魔術師の家なのかと言われれば、頷きもできるし、出来ないわ。まぁちゃんと詳しい説明はするから私の話をしっかり聞いててちょうだい」

 

 

 再び俺達三人は顔を見合わせる。簡潔で筋道のしっかりとした話し方をする遠坂嬢には珍しい言い回しだ。最初に意味が分からないぐらい抽象的な結論を持って来て、その後から回りくどく説明していくのは、どちらかといえば橙子姉の専売特許である。

 橙子姉はああ見えてかなり世話焼きで蘊蓄好きで、ついでに説明屋でもあるのだ。とはいってもその説明というヤツが常人とは少々ズレた所を基準に話されるため、読み解くには聖書と同じくらいの労力を要するんだけど。

 ちなみにその影響を受けたのか生来のものなのか、ルヴィアなんかは俺の説明は随分と分かりにくい、説明になってない、自己完結しているなどと言っている。なんとも情けない話で申し訳ない。

 

 

「そうね、見たところ彼女に魔術の知識はないわ。魔術回路も元から持っていたみたいだけど、ルビーと契約して開いたみたいだったし‥‥。ただ、その量と質が、とても一般人とは思えないんだけど」

 

「つまり本人に自覚があるかどうかはさておき、魔術師の‥‥魔術師たるアインツベルンの家系の出身である可能性は高い、ということですのね?」

 

「あとはまぁ記憶が封印されてるとか、私や契約を行ったルビーにも分からない巧妙な擬装を施していたってことも考えられるわね」

 

 

 記憶の封印‥‥確かにありえない話じゃない。記憶は魂に刻み込まれるものなわけだけど、外部から精神を経由して間接的に接触して、別の記憶を捏造して、その溝を埋めてしまうかのようにして記憶を暫定的にせよ改竄してしまう手法は確かに存在する。

 もっともそれでも記憶自体が変異してしまったわけではないから、面倒ではあるけど手間をかければ埋められてしまった記憶も掘り返すことができる。

 その場合には表層とはいえ魂を強引に穿り返すわけだから相当な後遺症、ないしは反動が見受けられることが多々あるわけだけど‥‥。

 

 

「でもね、本当の問題はそんな些細なもんじゃないのよ」

 

「本当の、問題‥‥? かのアインツベルンの血族が極東の片田舎で確認されたことよりも、重要な問題があるというんですの?」

 

 

 ‥‥そうだ。言わば世界的に有名な他の国の皇族がひょっこり目の前に現れたに等しいアインツベルンの血族の登場より、遥かに重要な問題が此処には存在する。

 重要なのは決してアインツベルンという家名でなければ、当然ながらドイツでは貴族であることを表すフォンなんて付属物でもなく。

 ただ一個人を表す、イリヤスフィールという名前だったのである。

 

 

「あるわ。‥‥あの娘、イリヤスフィールはね、本当なら此処に居ていい存在じゃないわ。アインツベルンだからとかじゃないのよ。‥‥だってあの娘は、イリヤスフィールは第五次聖杯戦争の時に死んでいるはずなんだもの」

 

「「———?!」」

 

 

 ルヴィアとバゼットが絶句し、俺は三人に悟られないように微かに肩を強ばらせた。

 遠坂嬢は真剣な顔を欠片も崩さずにまた無理をして炭酸を一口すすって一息つく。この際にまた飲み慣れない炭酸のせいで文字通り一息つくという醜態を晒しそうになったみたいだけど、なんとか我慢して飲み込んだのは流石の遠坂嬢と言うより他ない。

 

 

「イリヤスフィールは私達が戦った第五次聖杯戦争でバーサーカーのマスターだった子よ。バーサーカーはヘラクレス。イリヤスフィールは魔術回路も魔術刻印も桁違いで、それでもイレギュラーだった第八のサーヴァントに‥‥殺されたわ。私達の、目の前で」

 

「‥‥‥」

 

「だから本当なら彼女がココにいるはずがないのよ。死者蘇生は魔法が幾つも必要だし、あの子は心臓も奪われてしまったから別の方法で復活させるにも問題がある。あの子にそっくりなホムンクルスをアインツベルンが作ったっていう可能性もあるけど‥‥」

 

「この局面で持ってくるっていうのは中々に不可解だね。魔術協会と全面戦争でもする気があるんじゃなかったら、聖杯戦争が終わってまだ間もない冬木に手を出すなんてナンセンスだ。ましてや魔術協会の調査部隊が来ていたんなら、たとえ下手人がアインツベルンじゃなかったとしても静かにしてるのが得策だろうし」

 

 

 遠坂嬢の考察に補足する形で口を挟む。

 アインツベルンはその閉鎖的な家風から魔術協会に所属していない。それどころかまともに交流のある家も一切ないだろう。

 それにしたって魔術協会が聖堂協会に次いで世界において巨大な組織であることは変わらず、たとえ魔術の家に共通して見られる特徴として魔術協会や他の家を軽視していたとしても、多少なりとも頭の良い家や魔術師なら決して魔術協会を心底から軽く見たりはしないものだ。

 巨大な組織だからこそ下手に逆らったりしたらどんなに大きな家だって痛い目に遭う。出来る限り穏便に、互いに不干渉を貫くことが最善の策なのである。

 だからこそクラスカードと呼ばれる謎の魔術具が出現し、魔術協会からの調査団までもが殺害され、学生とはいえ冬木の管理者(セカンドオーナー)やエーデルフェルトの当主、封印指定の執行者にして伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)までもがいる中で面倒を起こすとは考えられない。

 

 

「‥‥この件をルビーに問い詰めたら、一つの仮説が生まれたわ」

 

「仮説‥‥ですか?」

 

「えぇ。‥‥私達が、平行世界に迷い込んだっていう可能性が、ね」

 

 

 絶句と驚愕、を通り越してルヴィアとバゼット、のみならず俺の頭まで真っ白に凍結《フリーズ》する。遠坂嬢が真剣な表情と声音ながらも唐突に吐き出した台詞は、それほどまでに俺達の意識を揺さぶるに十分なものであった。

 

 平行世界。

 漫画やアニメ、小説などでは比較的にポピュラーな概念だから親しみのある人も多いかとは思う。つまるところ、俺達がとるはずだった、とらなかった行動を集めた“if”の世界という解釈で構わない。

 例えば俺が橙子姉に拾われなかったら、例えば衛宮が衛宮切嗣氏に拾われなかったら、例えば桜嬢が間桐の家に養子に貰われなかったら、例えば———。

 もちろんそれは“もしも”の話であり、俺達が取った道筋っていうのはたった一つ、現在のものしか有り得ない。ならば別の世界なんてものが実際に存在するだろうか。

 ‥‥そう、存在するのだ。その存在そのものを示すのが、遠坂嬢やルヴィアが研究している第二魔法、“平行世界の運用”である。

 

 魔法。平行世界の存在そのものが魔法の一つ、一種であるのだ。その魔法の一端に触れるためですら格の違う魔術の名家ですら何世代もかける必要があるというのに、こんなところでひょんに触れてしまった驚愕はいかほどのものであろうか。

 バゼットや、あまつさえ異世界という場所からこの世界へとやって来た俺はさておき、ルヴィアの受けた衝撃は尋常ではなかったのだろう。いち早く茫然自失状態から覚めた俺達が顔を覗き込んでも、微動だにせずに遠坂嬢の方を見つめている。

 

 

「‥‥信じられませんわ。此処が、私達が今いる此処が、エーデルフェルトの家系が気の遠くなる程の年月を費やして追い求めた第二魔法の実証であるとでも言うのですか?」

 

「確証はないわ。でも仮にも第二法の行使手である宝石翁によって生み出されたルビーの言うことだから、それなりに信頼性はあると思うのよ。‥‥アイツの性格は置いといて」

 

 

 吸うつもりはないけれど、考え事をする時の癖として胸ポケットから煙草の箱を取り出し、中から一本を摘んで指先で弄ぶ。平行世界‥‥こう言葉にしてみても全く実感が湧かないな。

 思わず今ここにいる俺の立ち位置さえ不安になってしまう恐怖感。自分はしっかりとこの両足で立っているのだろうか? それでも得体の知れない状況に置かれていることだけはしっかりと把握できた。

 俺の専門は橙子姉と同じく人体に関することで、平行世界とかいう概念的な魔術、魔法とは全くと言って良い程に縁がない。自分の出身地たる異世界の存在、六つ目‥‥いや、本来なら存在したであろう第六法を含めれば七つ目の魔法にすら成り得る考察についても放棄した程に。

 故に専門家たるルヴィアや遠坂嬢に比べれば受けた衝撃は微々たるものだったのかもしれないけど、やぱり衝撃は衝撃だ。思わず押し黙ってしまうぐらいには、ね。

 

 

「‥‥とりあえず事態の真偽は置いておいて、ここが平行世界だと考えましょう。原因は‥‥何だと思う?」

 

「———愚問ですわね。仮に此処が平行世界だと考えれば、間違いなく鏡面界への侵入、あるいは脱出が原因でしょう。論理的に考えれば私達が冬木に来るまでは私達の共通概念としての固有世界に存在していたでしょうから」

 

「そうね。だとすれば、私達が次にするべきことは———」

 

 

 遠坂嬢の溜めた間に、一拍、全員が全員を違いに見回す。

 全員が全員、俺自身に関しては憚りながらも、それなりの頭脳と教養、知識を兼ね備えた存在だ。ついでにいえば決して短い付き合いでもなく、相手の瞳の色を見ることで全員が遠坂嬢の放つ次の言葉に賛同していることを把握し、遠坂嬢へと向き直ると小さく続きを促した。

 

 

「——そう、鏡面界へ赴いて、情報を採取することよ」

 

 

 しっかりと確信を持って口にされた遠坂嬢の言葉に、もう一度俺達は頷いた。

 クラスカードは非常に短いスパンで現れている。早ければ明日、ランサーとアーチャーとの感覚を鑑みれば遅くとも二、三日ほどまでには再びいずれかのカードが現れるだろう。

 ならば俺達がとるべき行動の最初の指針を躊躇う意味も時間もない。やるべきことは幾つかあるけど、俺達が基本原理とするべき行動はただ一つなのだ。

 

 時間は既に深夜を大きく周り、時計の針は一般的な日常を過ごしている人達なら日の差す時間でしか目にしないような時刻を指している。

 俺もルヴィアもバゼットも、明日‥‥もとい今日は冬木に拠点を築く作業をこなさなければならない。ましてやルヴィアは美遊嬢をしっかりと学校に通わせるために手続きその他を行う気マンマンだし、忙しくなりそうだ、間違いなく。

 冬木で過ごす日々はまだまだ先が長い。任務の終わりもまだまだ、回収すべきカードは半分以上も残っている。

 腰を据える必要がある。焦っても事態は停滞こそすれ進展はしない。

 俺は詳しく話をするために明日の集合場所、集合時間を話し合う遠坂嬢とルヴィアを横目に、一先ず外に出たらこの妙な気分を晴らすために煙草を一本吸わせてもらおうと、密かに心の内で決めたのであった。

 

 

 

 59th act Fin.

 

 

 

 




大事なことは繰り返して言ってます。今回は特に同じような言い回しが続いたので一応。


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第五十九話 『並行論の解析』

 

 

 

 

 

 side Rin Tosaka?

 

 

 

 

「‥‥成る程ね、話は大体分かったわ」

 

「何が分かったと言うんですの、遠坂凜(トオサカリン)? 正直今の説明では何が何やらさっぱりですわ」

 

「う、うるさいわね! とりあえず話がすっごくややこしいもんだってことは分かったでしょ?!」

 

 

 目の前に立つ銀色の甲冑と青いドレスを纏った少女から、ことのあらましの大体を聞いた私は小さく、それでいながら非常に深い溜息をついて眉間を揉みほぐした。

 無駄に広い新都の公園に街灯は少なく、私達は数少ないソレの下で立っている。くるくると相変わらず意味もなく楽しげに飛び回るルビーは気にしてないんだろうけど、今夜はやけに寒く、吐き出す息は白い。

 

 

「あらまぁ、確証どころか事態の一端すら掴めていないというのに“分かった”などと言うとは‥‥貴女は随分とおめでたい頭をしていらっしゃるようですわね」

 

「‥‥ワケが分かんなくなって思考停止しちゃってる何処ぞのドリル頭には言われたくないわね」

 

「な‥‥ッ?! 誰がドリル頭ですか遠坂凜《トオサカリン》!」

 

「何よ喧嘩売ってんの?!」

 

「受けて立ちますわよ!」

 

 

 がっしと額同士をかち合わせて互いに睨み合う。腰の位置にまで引いて握りしめた拳は互いに何か動きがあれば即座に目の前の金髪縦ロールの腹にたたき込んでやるつもりマンマンだ。

 ルヴィアゼリッタも両手を腰に当てているけど、これも無防備に見えて私が動きを見せればすぐにでも私の肩を狙って飛び上がってくることだろう。

 

 

『はいはいお二人とも、いちゃつくのはそこまでにして下さいねー。セイバーさんがびっくりして目を丸くなさってますよー?』

 

 

 普段に比べて不気味なくらい落ち着いているルビーの言葉にハッと互いに近づけていた顔を話して横を向くと、そこには確かに目を丸くしてこちらを伺う少女‥‥セイバーの姿がある。

 信じられない‥‥とまではいかなそうだが、それなりに奇妙なものを目にしてしまったとでも言いたげな表情だ。間が抜けたようで、最初の凜とした態度とのギャップからかどこはかとなく可愛いらしい。

 

 

「い、いえ、別に驚いたというわけではないのですが‥‥。私の知る凜とルヴィアゼリッタはこれほどまでに険悪ではありませんでしたもので」

 

 

 銀色の少女‥‥セイバーの言葉に私とルヴィアゼリッタは思わず互いに互いの顔を見合わせた。

 私とコイツが今の状況よりも険悪じゃないですって? 冗談、今だってかなりセーブしてこれだっていうのに!

 

 だいたい私とコイツの仲が悪いのは時計塔の鉱石学科の授業で出会ったその時からで、それから一度たりとも互いに歩み寄ったことはない。今回一緒の任務を受けたのが初めてのことだろう。

 まぁそうなるための経緯は経緯だったわけだし、つまるところは自業自得って言えなくもないわけなんだけど‥‥。とにかく、一緒の任務だからって最大限まで自重してる今の状況より険悪じゃない仲なんて信じられないわね。

 

 

「‥‥ふむ、やはりルビーの話は本当のようですね。にわかには信じられませんが、まさか並行世界とは‥‥」

 

『私もマスターをごにょごにょっていうのは機能として持っていますが、実際に並行世界に来ちゃったのは初めてですよー。まさか宝石翁の御技以外でこのような魔法クラスの出来事に遭遇するなんて、まったく驚きですね、あはー』

 

 

 真面目なようでいて欠片も緊張感を覚えさせない脳天気な声に、セイバーの言葉をきっかけに再び睨み合いを始めてしまった視線を元に戻す。

 私の魔術礼装、つまるところ従者であるはずのルビーは今は銀色の甲冑を纏った少女騎士の隣に浮いていて、先程までは激昂していた彼女に硬直してしまっていた私達に代わって事態を説明していたのだ。

 

 

「‥‥ホント、冗談じゃないわよ。まさか遠坂の悲願である第二魔法にこんな笑い話みたいなシチュエーションで遭遇しちゃうとか、御先祖様が聞いたら憤死しかねないわ」

 

「エーデルフェルトとて同じですわよ。しかも実験の結果ではなく事故のようなものでとは‥‥。まともな器具もないこんな状況では正確なデータがとれませんわ!」

 

 

 今度も腹立だしいことに、絶対に気が合わないはずのルヴィアゼリッタと二人揃って先程とはまた種別の違ったしかめっ面を作って唸り声のような溜息を漏らした。

 感じたのは激しい理不尽。誰が悪いってわけでもないし、もしかしたら、ううん本当は小躍りして喜ばなきゃいけないような素晴らしい偶然なのかもしれないけど、やっぱり複雑な気分にならざるをえない。

 

 なにしろ私達の置かれている状況は、遠坂とエーデルフェルト、のみならず世界中に散らばる宝石翁の家系全てが追い求める究極の一そのものとも言えるのだ。唐突に眼前に突き付けられるなんてあまりにも勿体無さ過ぎる。

 こういうのはやっぱりそれなりの下準備とか保険とか、充実した実験器具とかを揃えて観測されるべきだ。というかそうじゃなかったらまともな結果なんて出てこないし、これからの研究にも生かせない。

 魔術師ってのは直感的に何でも出来る生き物だと思われたら大迷惑だ。魔術ってのは直感的な技術とか天性の才能とかじゃなくて、本来なら純粋な学問なんだからね! しかも個人じゃなくて家系が積み上げてきたものなの!

 天才がひょいひょーいって出来るようなものじゃないのよ。私もルヴィアゼリッタも天才とは呼ばれてるけど、人の何十倍勉強したと思ってるんだか‥‥。それが分からない俗な連中ほどちょっかい出してくるんだから困ったもんよ。

 ま、そういう連中は一人残らず殴ッ血killて来たから問題はないんだけど。

 

 

「‥‥ふむ、つまり私のマスターであるこちらの世界の凜や、シロウやルヴィアゼリッタ、ショーやバゼットは貴女達と入れ替わりで貴女達の世界の方へ行っているということなのですか?」

 

「全然別の他の世界へ行ったっていう可能性もあるけど‥‥。平行世界は次元を順番に移動していかないと行けないっていう説があるから、多分それで間違いないと思うわ。

 ホラ、三次元の断面って二次元でしょ? お互いに鏡面界の下位次元である二次元世界を経由して入れ替わったっていうのが推論としては妥当なところよね」

 

 

 平行世界論と次元論っていうのは切っても切り離せない関係にある。噂によると第五魔法っていうのも次元論に関係することらしいから、魔法って実は全て繋がっているのかもしれないわね。

 ‥‥あれ、今の仮説を当てはめるなら、この私も平行世界の私も同じ鏡面界にいなきゃいけないってことになるわね? 当然ながら私はもう一人の私なんて奇天烈極まりない存在に遭遇しなかったんだから、この仮説は成り立たないわ。

 空間が重複していた? あの鏡面界の発生の原因がクラスカードにあるんなら、英霊の座に接続《アクセス》する際に誤作動が起こったのかもしれない。

 

 例えば、これはさっきと同じく完全に仮定の話になるけれど、別々に並列している二つの平行世界から英霊の座に同時にアクセスしたらどうかしら?

 次元論と平行世界論において、英霊の座っていうのはどの世界からも、どの時間軸からも切り離されて存在していると考えられている。故に英霊っていうのも千差万別で、同じ名前、同じ伝承を持つような英霊でも細かい違いがあるんだとか。

 だとすれば英霊の座が二つの世界からの接続《アクセス》に同時に答えようとして、クラスカードが鏡面界を生成する際にそれぞれ別々の鏡面界を作ってしまった可能性があるわね。

 今の仮定に則って考えるならば、それはまるで螺旋を描くように違いに接触せず、それでいながら同じタイミングで英霊の座に接続《アクセス》したがために下位次元である二次元において接触してしまっている。

 ‥‥うーん、だとすればマズイんじゃないかしら。私達、どうやって帰ればいいんだろうか?

 

 

「ところで少々お待ちになってミス・セイバー。今、私と遠坂凜《トオサカリン》の他にもいくつか聞き慣れない名前が混じっていたように思えるのですが‥‥」

 

 

 と、深く思案に埋没し始めた私の思考を、ルヴィアゼリッタの一言が遮った。

 まさか私がこうやって考えていることをコイツが考えていないわけはないと思う———悲しいことにコイツは気にくわないけど能力だけは認めざるをえない———けど、直接セイバーと話していた私よりは言葉に耳を配れていたらしい。

  確かに思い返してみれば三つ程、覚えの無い名前が混ざっていたように思える。いや、確かその内の一つは———

 

 

「‥‥バゼット・フラガ・マクレミッツなる封印指定の執行者ならば、先のランサー戦で負った傷を癒すために病院におりますわ。しかし‥‥ショーとシロウというのは一体どなたですの?」

 

「ご存知、ないのですか? 凜の弟子であったシロウ・エミヤと、貴女の友人のシヨウ・アオザキですよ?!」

 

「アオザキって‥‥あの蒼崎よね? ルヴィアゼリッタ、アンタそんなトンデモない知り合いなんか持ってたの?」

 

「存じませんわ。どうやらこちらの世界の私達は少々大所帯だったようですわね」

 

 

 セイバーが口にした二つの名前はどちらも聞き覚えがないものだったけど、その内の片方の苗字と思しきものには魔術の世界の一般常識として知識があった。

 蒼崎。第五魔法を後継に伝えるという稀有な家系であり、魔術協会では厄介事の代名詞として忌み嫌われている一族だ。

 今代の当主はマジックガンナー・ミスブルーと巷では呼ばれている若い東洋人。これが人間ロケットランチャーとか呼ばれてもいて、頼んでもいないのに破壊と厄介を撒き散らすらしい。

 ついでにミスブルーの姉は封印指定の人形師で、彼女が在籍していた時代の知り合いが噂するところによれば、これまたやっぱりかなり凶悪な性格をしていたりしていなかったり(?)するんだとか。

 つまるところ蒼崎はそんな一族なわけで、まぁ他にも細かい逸話———しかもどれも最近———には事欠かない色々と有名な苗字なわけだ。

 ちなみに一方もう一つのエミヤなる苗字には全く心辺りがない。私の弟子? いや、私まだ弟子なんてとれる状態じゃないわよ? ‥‥まさかコッチの私って、この私よりも優秀だとでも言うのかしら。

 

 

「そう、ですか。貴女達の世界にはショーも‥‥シロウもいないのですね‥‥」

 

「どうかした?」

 

「いえ、なんでもありません。とにかく今は当面の打開策を考えることにしましょう

 

 

 淋しげなセイバーの、私の方を見る視線がやけに意味ありげだった。自分の知り合いがいないという淋しさだけではなく、まるで私を気遣っているようにも見える。

 どうにもその瞳に湛えた色が気になった。私は何か、もうコッチの私が手に入れたかけがえのないような何かを手に入れていないのかしら?

 ‥‥いけない、今は瑣事に心囚われている暇はないわ。私達には宝石翁から命じられたクラスカードを回収するという重大な任務と、何より自分達の世界に戻るっていう使命があるんだから!

 

 

「私達がコッチに来ちゃった原因は十中八九クラスカードが作り出した鏡面界にあるわ。っていうことは、一先ず次のクラスカードが現れるまで直接的なアクションは起こせないわね」

 

「新たな鏡面界が現れた時に、なんとか情報を収集するしかありませんわね。サファイア、貴女には観測や情報の整理などの機能がついておりますの?」

 

『問題ありません。鏡面界が生成、維持、崩壊されている時のデータを集め、下位次元への接続《アクセス》を可能にする準備を致します』

 

『もともと並行世界の検索や限定的な接続《アクセス》なら私達単体でも行えますからねー。十分なデータさえ集まっていれば鏡面界の下位次元を経由してジャンプも出来ると思いますよ、あはー』

 

 

 本来ならしっかりとした観測機器が必要なところなんだろうけど、今回はルビーとサファイアがその代わりになってくれるらしい。

 考えてみれば性格はさておきチート性能な魔術礼装だ。人工精霊に魂まできちんと備わっているかはわからないけど、仮にも私達と同じ様にしているってことは記憶から考察まで勝手に出来るってことなんだろうし。

 

 

「やっぱり一朝一夕では無理かしら?」

 

『流石にデータがないことには不可能ですねー。最初からこういうことが起こると分かっていたらデータも取れたとは思うんですが、凜さん、ちゃ〜んと覚えてますか? 私達は黒化した英霊ともバトらなきゃいけないんですよー?』

 

「あ、そういえば‥‥」

 

 

 あまりにも衝撃的な出来事が連発し続けていたのですっかり頭の片隅に追いやられてしまっていたけど、私達が任務を達成するには鏡面界に出現した英霊を打倒しなければならないのだ。

 つまり私達が鏡面界に侵入してから英霊と戦闘を開始するまでの僅かな間、戦闘を終えてから鏡面界が崩壊するまでの僅かな間にデータの収集は行われなければならない。

 

 

『じっくり時間をかければ一回の調査でデータが取れるんですけどねー。流石に予想される短時間ではちょっと数回かけないと無理そうです』

 

「残されたカードは残り五枚‥‥。平行世界とはいえ私達もカードを集めなければ大師父からの指令を果たしたことには出来ませんし、戦闘が苛烈になるほどデータの採取も難しくなるでしょうし、これは大変な仕事になりそうですわね」

 

 

 大師父の下した任務も、私達が元の世界に戻るのも、どちらも両立してこなさなければならない大事な仕事だ。ベストは大師父の任務をこなして彼の弟子となること。それも、私達の世界においての話である。

 如何に大師父からもたらされた一級の魔術礼装を所持していようと、任務の過酷さは変わらない。特にこれから私達が相手しなきゃいけない相手には剣の騎士(セイバー)狂戦士(バーサーカー)などの強力なサーヴァントが控えているのだ。

 戦闘が始まる前にデータの採取に集中していては不意打ちを食らう恐れもあるし、戦闘が終わった後にデータ採取に割く余力が残っているかと問われれば、今回の戦いを鑑みると中々に頷き難いものがある。

 

 

「しかし、どう出るにしてもまずはクラスカードの出現を待たなくてはならないでしょう。‥‥安心して下さいお二人共。元はといえば私とてこの任務を授かった身の一人、出来る限りの助力は惜しみません」

 

「え、本当に?!」

 

「はい。剣の騎士(セイバー)たるこの身に誓って」

 

 

 胸を張ってえっへんと微笑んでみせた少女はどちらかといえば背伸びをしているかのようで可愛いらしかったが、それでいながらこれ以上ない程に頼もしい。

 なにせ一見———身に纏った甲冑はさておき———何の変哲もない絶世の美少女にしか見えない彼女も、これから私達が相手しなきゃならない英霊に等しき存在であるのだ。

 静謐ながらもひしひしと感じる威圧感《プレッシャー》はさっき私達が何とか倒した黒い外套の弓兵にも劣らな———ううん、あんな紛い物の英霊なんかより遥かに格上だ。その彼女が手伝ってくれるなら万の援軍にも匹敵する。

 

 

「そういえば二人共、カードを回収して貴女達の世界に戻るまでの宿はどうするつもりなのですか?」

 

「は? いや、宿って言っても私は自分の屋敷が‥‥って、あ‥‥」

 

 

 その無害ながらも自然と溢れ出る威圧感を緩め、先程までのきりりと引き締まった眉を緩めてセイバーが問い掛けてくる。

 外国人で他所者のルヴィアゼリッタじゃあるまいし、とその問いに自分としては至極当たり前の返事を返そうとして、私はまた大変なことに気付くと思わず声を上げてしまった。

 そうだ、ここは、私の世界じゃない。

 

 

「始めに言っておきますが、凜の家は使わせませんよ? いくら並行世界の同一人物とはいっても、主の城に無断で他人を入れるわけにはいかない」

 

「そ、そのぐらい良いじゃないセイバーのケチ! ふん、いいわよそんなこと言うなら! 同じ家なんだし私で勝手に———」

 

「もう一つ言っておきますが、当然ながら結界の解号も数回変えているはずですよ? 見たところ貴女はこちらの凜より数年若い。貴女の屋敷と解号が同じだとは思わないことです」

 

「ぐ、ぐぅ‥‥!」

 

 

 実は入れ代わりになっちゃったんだし同一人物だし、こっそり屋敷を借りちゃってもいいかなーなんて私の目論みは主に忠実な使い魔(セイバー)によって見事に断ち切られた。

 ホント、どういう経緯でこんな超一級のゴーストライナーを使い魔(サーヴァント)に出来たもんかしらね! 主人に忠実で強くて可愛いなんて正直ありえないわ!

 ‥‥決めた。私もいつか絶対にセイバーみたいな強くて可愛い従者を手に入れてみせる。そうじゃなかったら同じ人物だっていうのに不公平ってもんでしょ。

 

 

「‥‥しかし困りましたわね。流石に私も現金はホテルに数泊出来る程度しか持ち合わせておりませんし、荷物は殆ど向こうの世界に置いてきてしまいましたし‥‥」

 

「セイバー、貴女お金は———」

 

「当然、持っておりませんが」

 

「そうよね‥‥。はぁ、どうしたもんか‥‥」

 

 

 荷物は全て向こうの世界の遠坂邸に置いてきてしまっていた。今、私の手元にあるのは幾つかの宝石と財布とルビーだけだ。戦闘に行くつもりだったから当然ではあるんだけど、今となっては合理的な自分の行動が悔やまれる。

 さっきルヴィアゼリッタも言っていたけど、残るカードは五枚。つまり最低あと五日はこちらの世界で過ごさなければいけないわけだ。しかもカードの出現状況によっては更に伸びるだろう。

 流石に勝手の知れた街でそれだけの間野宿をするというのは中々に堪える。士気とか体力の問題もあるし、できることならば野宿は勘弁してもらいたいものね。

 

 

「‥‥仕方がありませんね。私としても円滑にカードの収集が進まないのは困ります。ここは、エミヤの屋敷に間借りさせてもらうことにしましょう」

 

 

 あまりにも考えなきゃいけないことが多くて脳みそがオーバーヒートし、思わず頭を抱えてしまった私とルヴィアゼリッタの様子を見てセイバーが溜息をつく。

 そして困ったように頭を振ると、しばらく悩んでみせた後にこんなことを言い出した。

 

 

「エミヤの屋敷って‥‥こっちの私の弟子だっていう?」

 

「はい。シロウは魔術師としてはかなり特殊で、工房らしい工房を持っていません。あの屋敷なら貴女方を泊めても問題ないでしょう。‥‥私も一人では食事が確保できませんし」

 

「何か仰いまして?」

 

「な、なんでもありません! とにかく、それで問題ありませんね?」

 

 

 最後に少しだけ口ごもったセイバーにルヴィアゼリッタが疑問符を投げかけると、何かマズイことでも呟いていたのか顔を真っ赤にさせて激しく両手を振って否定する。

 恰好に目をつむってその様子だけを見るなら可愛いらしい普通の女の子だ。あ、ホラついに鎧も消しちゃった。青いスカートと白いブラウスはシンブルながらも彼女によく似合うわね。

 

 

「注意して欲しいのは、あの屋敷には既に貴女達と面識のある人間が数人寝泊まりしている可能性があるということです。調子が悪いとか誤魔化して頂いた方が賢明だとは思いますが、出来る限り状況に合わせて振るまってもらいたい」

 

「‥‥ちょっとそれって致命傷じゃない? なんでわざわざそんな鬼門もかくやってところに私達を泊めようとするのよ?」

 

「それ以外に貴女達を泊める場所がないからですよ。凜の屋敷に入れるわけにはいきませんし、私はお金を持っていませんからホテルも無理でしょう。ですから仕方がないことなのです。えぇ、決してシロウの料理が食べられないならせめてサクラの料理に舌鼓を打とうと思っているわけではありません」

 

「‥‥なんとなく、貴女の性格が読めてきたように思えますわ」

 

 

 ルヴィアゼリッタのジトーっとした目が堪えたのか、セイバーは大きく踵を返すと公園を出ようと歩き出す。

 どこまでも真っ暗な冬木の空には、今日は星が見えない。まるで神秘のぶつかり合いの余波を嫌ってどこかへと逃げ去ってしまったかのようだ。

 ‥‥そういえば、久しぶりに故郷へと帰ってきたくせに今の今まで一度も空を眺めたり、数年ぶりの景色を眺めたりすることもなかったように思える。

 透き通るような空は倫敦よりも綺麗だけど、やっぱり普段の冬木とは違う。これがクラスカードのせいだとは論理的に考えられないけれど、それでも私はどこはかとなく今回の一件について不愉快な感情を覚えた。

 

 昔に見た空。ずっと見続けた空。平行世界とはいえ私の土地の空。別段綺麗だと感じたことも大切に思ったこともなかったけれど、いつもと違うように思える空を、私は許せない。

 故郷に対する愛って程でもなかったかもしれないけど、私はこの事件を解決しなければ、本当に冬木に帰って来たと思えないに違いない。

 だから私は私自身の精神衛生のために、何よりこの冬木を治める管理者(セカンドオーナー)の矜恃にかけて、必ずクラスカードを集めきって、自分の世界にも帰ってみせる。

 そして必ず、本当の自分の土地の空を眺めて、やっとそこで帰ってきたのだと実感するのだろう。

 ああ、やってみせる。必ずやりとげてみせるとも。

 

 

「どうしたのですか遠坂凜(トオサカリン)? ぼさーっと馬鹿のように突っ立っていてはセイバーに置いていかれましてよ?」

 

「すぐいくわ! あと馬鹿みたいにってのは余計よ!」

 

 

 隣のルビーが珍しく静かに、それでいて私にもしっかり聞こえるように大きな溜息をついたのが聞こえる。

 きっと『また喧嘩して、しょうがない人たちですねー』とでも思っているんだろう。腹は立つけど、今はどうでもいいことだ。

 ルビーをひっつかんで私は少し早歩きで公園の外へと歩き出した。ルヴィアゼリッタはちゃきちゃきと正場についていってしまっている。流石に私だって初めて行くエミヤの屋敷なんて場所は分からないし、置いて行かれたら確かに大変だ。

 また見上げた冬木の空はやっぱりいつもと違う色。それでも私は、なんとはなしに自分のテリトリーでの勝負に決して負けてはならないと、また決意を新たにしたのであった。

  

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥なるほど、やっぱり鏡面界の特異性が平行世界への転移の原因になっているわけかな?」

 

「昨晩も言いましたが、やはりそう考えるのが一番妥当だと思いますわ。私達の侵入と脱出の方法もイレギュラーなものでしたから、その点でも不具合が生じたのかもしれませんわね」

 

「本来術者が想定していた状況じゃなかったってことかい?」

 

「そうでしょう。そもそもこのような方法で第二法への足がかりが得られるのであれば自分で試しているはずですわ。私達が対象でなければ意味がなかった、と考えることもできますが、手段としてあまりに限定的というものでしょう。魔法へと至る手がかりとしては不十分と言わざるを得ません」

 

 

 品の良い調度品に囲まれた暖かな室内。俺はもはや相棒と称しても構わないだろう関係である親友のルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと共に机の上に散らばった書類を手にとって盛んに議論を交わしていた。

 時刻は既に昼を大きく回り、もう少しすれば夕暮れが夜の帳を引き連れてやって来るだろう。観布子程じゃあないにしても、冬木の夕焼けはとても美しい。

 

 

「しかしどちらにしても不可解ではありますわね。まだ説明しきれていない部分が多々ありますし」

 

「そうだね。俺は専門外もいいところだから漠然とした違和感しか感じないんだけど‥‥君はどう思う?」

 

 

 執事であるオーギュスト氏がいれてくれた一級品の紅茶を啜る俺達の前には、様々な線や数式、図などが数種類の色をつかってびっしりと書き込まれたホワイトボードが据えられている。

 重厚なアンティークに囲まれたこの屋敷には甚だ似つかわしくない代物だけど、こればかりは合理的に考えて仕方がない。なにせ黒板はチョークの粉が紅茶に入ってしまうのだ。

 

 

「‥‥私達がいた世界をA、この世界をBと考えると、鏡面界を含めた三つの世界は間にあの異空間を挟んで積み上がった状態と言えますわ」

 

 

 赤いホワイトボードマーカーを持ったルヴィアの細くて長い手が、ボードの真ん中に書いてあるショートケーキの断面みたいな図を大きく丸で囲った。

 彼女の言葉通り、これが並行世界論によって仮定された三つの世界の相関図であるらしい。本来は隣接しているはずの二つの世界の間に鏡面界が挟まった状態だ。

 門外漢の俺にはよく分からないけど、これは随分と特異な構図なんだとか。そもそも鏡面界なんて代物がトンデモ魔術だとは思うんだこど、当然ながら第二魔法の前にはそれも霞む。

 こう言っちゃなんだけど、英霊を召喚するだけなら聖杯戦争という儀式の方が完成度は高いし、異空間の創造なら固有結界の方が異端だ。既に実在する別物がある以上、それ自体の重要度はさほど高くない。

 もちろん十分過ぎるくらい異常な魔術であることには違わないんだけどね。今はもっと重要な案件が控えているってだけで。

 

 

「並行世界への転移は既に第二魔法の範疇ですわ。これを行うのは容易なことでは‥‥いえ、正直なところ今の私やミス・トオサカの実力では不可能です。

 ‥‥しかし、ルビーやサファイアの力を借りた鏡面界への侵入、脱出なら?」

 

 

 AからBへと一気に引いた矢印に×印をつけ、今度はAから鏡面界へと向かう矢印、そして鏡面界からBへと向かう矢印の計二つをルヴィアが図に書き込んだ。

 一つの図に書き込まれた二つの経路。それはベクトルの計算にも似て、過程は違えど結果は同じ。一方で費やされる仕事の量は異なっている。

 

 

「しかし先に申し上げた通り、不可解な点もございます。順当に考えれば私達は最初に侵入した時の経路を逆に辿って鏡面界を脱出するべきですわ。一体どのような理屈でもう片方の並行世界に道が開いてしまったのか‥‥」

 

「ルビー達が強引に作った道とはいえ、そればかりが原因でも無さそうだからね。だとしたら次の転移で都合よく帰れる、なんてことも無さそうだし」

 

「それは少々期待し過ぎているというものでしょう。まぁ今は鏡面界の次元データを採取、解析して地道に努力していくしかありませんが‥‥」

 

 

 そう、専門家ではない俺の目から見てもこの仮設にはいくつか不審な点がある。

 その最たるものがAという世界とBという世界が“どうして鏡面界を通じて繋がったか”だ。なにせ並行世界は無数に存在する。その中でどうしてこの世界が俺達の世界と繋がったのだろうか。

 イリヤスフィールがいたから? いや、そんなことはない。その程度の可能性なら他にも星の数程あるに違いない。

 

 

「クラスカード‥‥でしょうね。この世界にもクラスカードがあったから、それが私達の世界と繋がった原因でしょう」

 

「はぁ、だとしたら結局は最初の予定通りにやっていくしかないみたいだね。面倒なのか面倒じゃないのか‥‥」

 

 

 話し始めたのが昼頃。既に夕焼けは住宅街の空の半分ぐらいまで侵食していて、もうすぐ夕飯の準備が調ったとメイドから連絡が入ることだろう。

 エーデルフェルト邸の食事の時間はおしなべて早めだ。‥‥それが日本であろうと。

 

 

「‥‥それにしても、拠点を作る拠点を作るって言うから何のことかと思ったら、まさか本当に“作る”‥‥屋敷を建てちゃうとはね」

 

 

 そう、ここは決して倫敦の郊外にあるエーデルフェルト別邸でもなければ、当然ながらフィンランドにあるエーデルフェルト本邸でもない。極東の島国の西日本という地域の、日本海に面した冬木という田舎町だ。

 だというのに俺は倫敦のソレとほとんど変わらないエーデルフェルトの屋敷でこうして紅茶を飲んでいる。たまにルヴィアのところへ研究の助言を受けに行ったり助言をしに行ったりした時と同じように。

 ‥‥あぁそうなんだ。信じられないと思うけど、彼女、倫敦のエーデルフェルト別邸とそっくり同じような屋敷を冬木に新しく建てちゃったんだよ、これが。

 ミソは、これが決して移築ではないことかな。家具から屋敷から何までしっかりと材料は現地調達しているところが凄い。というか有り得ない。

 流石にメイドや執事やコックは連れて来たらしいけどね。倫敦の別邸の方には管理をする数人しか残されていないそうだ。ちなみに彼らを連れて来るときにも飛行機を一機チャーターしたらしいから、本当に彼女の金銭感覚には未だに驚かされてしまう。

 

 

「何を仰っているのですか? 魔術師の拠点を適当に調達するわけにはいきませんし、それなら新しく建ててしまった方が都合が良いではありませんか」

 

「いや、そもそも俺達みたいな庶民にはそういう発想が出来なくてね。慣れてるつもりではあったけど、正直今回ばかりは意表を突かれてしまったのは否めないな。‥‥うん、いや、別に悪いことじゃないんだけどね」

 

「‥‥相変わらず歯切れが悪い喋り方をいたしますのね。問題が無いならそれで良いではありませんか?」

 

 

 もちろん問題なんかない。むしろこういう風に新しく作ってしまった方が、確かに魔術師である俺達にとってみれば都合が良いことには変わらない。なによりこちらの世界にいる間はこの屋敷を間借りしている身、快適な環境は大歓迎だ。

 もっとも任務が完了した暁にコイツをどうするのかなー、とかいう疑問は恐ろしくて口には出せない。驚くべきことにこちらの世界のルヴィアがどうしているのかは知らないけど、なんと俺達が平行世界云々に気づいた時には普通にこの屋敷が準備されていたのである。

 どうも二つの世界の同一人物の行動はかなりシンクロしているらしい。多分こっちの世界のルヴィアも宝石翁か時計塔から似たような依頼を受けて、同じように行動したんだろう。やってきたオーギュスト氏らいつもの面子も全く違和感なくルヴィアと接していた。

 仮に、仮にの話だけど、もしこちらの世界のルヴィアが俺達と入れ違いで俺達の世界にやって来ていたとしたら‥‥?

 だとしたら‥‥きっと向こうは相当なカオスになっていることだろう。ちょっと想像するのも嫌になってきてしまうぐらいには。

 

 

「こちらはそれでいいとはいえ、遠坂嬢と衛宮は大丈夫だったのかな? こっちの世界の藤村教諭や桜嬢をごまかすことができたなら良かったんだけど‥‥」

 

「フジムラ? ‥‥それが誰かは知りませんが、シェロ達ならばミス・トオサカの屋敷に逗留しているはずですわよ。先程そう連絡がありましたもの」

 

「そうなのかい? ‥‥うん、まぁこちらの世界の遠坂嬢が君と同じように所在不明だっていうならその方が安心かもしれないけど‥‥」

 

 

 そういうばよくよく考えてみると衛宮の屋敷がこちらにあるという保証もない。

 確か衛宮の義父である切嗣氏はアインツベルンと悶着を起こしていたから、こちらでも実の娘である可能性が高いイリヤスフィール、つまりアインツベルンが暮らしている街に堂々と居を構えているってのは不自然だろう。

 そうやって思考を巡らせてみれば、表の社会の創作物では比較的ポピュラーな題材とも言える並行世界論のいかに難しいことか。いつ、どこで、だれが、どのように分岐したのかを仮定すればそれこそ無限のシチュエーションが考えられる。

 それでもこれが要素として別の並行世界と掛け離れ過ぎていたら、それはもう並行世界ではなく異世界なのだという。ホントにもう専門外の人間じゃ何が何やらさっぱりだな。

 

 

「この世界の私達‥‥ですか。成る程、私達と入れ代わりで転移が発生したとみなすと、また一考の価値がありますわね」

 

「おいおい、研究の肥やしになるのは分かるけど、あんまり熱中して本来の目的を忘れないでくれよ? 俺達が元の世界に戻れるかは君達に懸かってるんだからね?」

 

「わかっておりますわよ、そのくらい。今回は鏡面界という異空間を通じて並行世界への移動を成すという概念を発見できただけでも十分な収穫ですわ。時計塔に戻ったら早速これを元にした新たな論文に着手することにいたしましょう」

 

 

 それがたとえ他の魔術師によってもたらされたアイディアであろうと、自分にとって有益なものであれば躊躇なく利用する。自分の研究に取り入れる。

 人並み外れた自尊心(プライド)を持った完全無欠の時計塔首席候補であるルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト嬢は、自分の研究、第二魔法に対する意欲も並ではないがゆえに普通なら屈辱とも言えることを平然とやってのけるのだ。

 まぁ魔術師っていうのはそういう人種って言えばそういう人種なんだけどね。他人の研究成果なんて奪って当然。そういう表社会では保護されているモラルっていうのも保護されてるわけじゃないし。

 これはもう何回か言ったと思うんだけど、別に時計塔は表の社会でいう政府みたいに魔術の最高権力っていうわけじゃない。そりゃまあ管理地としての認定とか冠位を贈ったりとかはしてるけどね。

 だから魔術師を守るのは魔術師自身しかいないのだ。もしくは身内、かな。だから魔術師は身内に驚くぐらい甘い、なんて橙子姉が言ったりするわけで。

 

 

「‥‥おや、帰ってきたようですわね。どうぞお入りなさい」

 

「失礼します、ただいま帰りました」

 

「お疲れ様、美遊嬢。初めての学校はどうだった?」

 

「いえ、特に何も。いつも通りに授業をこなして来ました」

 

 

 ふと、重厚な扉から響くノックの音。ルヴィアがそれに気がついて声をかけると、扉を開けて椅子に座った俺達と同じくらいの身長しかない少女が静かに入ってきた。

 そこまで長くないにせよ鴉の濡れ羽と称すに相応しい黒い髪に、琥珀のような茶色がかった黒い瞳。昨夜までのシンプルな私服とは違って、落ち着いたブラウンの可愛らしい制服を着た美遊嬢だ。

 

 彼女はこの近くにある小中高一貫の穂群原学園という私立学校に通うことになった。ルヴィアが普段の金銭感覚で全く自重をしなかったこともあるけど、彼女が今まで通っていた小学校以外の学校はそこしかなかったのである。

 もちろん孤児院出身ということもあって通常の金銭感覚を持ち合わせていた美遊嬢当人は私立の学校に通うということを激しく遠慮したんだけど、何がどう悪いのかさっぱり分からなかったルヴィアを説得することはできなかった。

 この辺り、完全に貴族と平民との間の意思疎通が困難であることの証明だ。彼女は本当に良い友人なんだけど、まぁ時にこういう大チョンボをかますから困る。

 

 

「あぁ、君も送迎お疲れ様、バゼット」

 

「礼を言われる程のことではありませんよ。私は怪我のせいで戦闘力が低下していますしね。彼女の護衛ぐらい務められなければミユやイリヤスフィールに申し訳ありません」

 

 

 続けて扉を開けて、髪と同じ小豆色のスーツを纏った長身の女性が中に入ってきた。泣き黒子がトレードマークの鉄拳魔術師、バゼット・フラガ・マクレミッツである。

 彼女の言葉通り、バゼットはアーチャーとの戦闘で活躍した際にランサー戦で負った傷が開いてしまったらしい。あの後かなり無理をしていたらしいけど、ここに来てルヴィアが拠点を築いたことで安心したのか一気に体調を悪くしてしまった。

 突然倒れてしまった時には尋常じゃないぐらい俺もルヴィアも美遊嬢もパニックに陥ったんだけど、今は何とかこうして立ち直って元気に美遊嬢の送り迎えに同行してくれている。

 いくらサファイアを手に入れて英霊に等しき力を持つに至った美遊嬢といえど、クラスカードという謎の大魔術を作り上げた魔術師が冬木に潜伏している可能性を持つ以上、安心は出来ない。

 なにしろ彼女が戦闘を行うには一度転身を行う必要がある。鏡面界に侵入してサーヴァントを打倒するならばそれでも構わないけれど、突然の襲撃に対するにはいささか以上に問題がある。出来ることなら護衛は必要だ。

 

 

「今日は歩いて下校してみましたが、今度からは念のため車による送迎を考えてもいいかもしれませんね。まぁ下校路には特に問題が見あたるようには見えませんでした、が‥‥」

 

 

 バゼットが美遊の方をちらりと見て言い淀む。彼女としては珍しい態度だけど、美遊嬢は口ごもったバゼットをチラリと横目で見ると、さして特別な感慨を感じさせない普段と全く同じ口調で続きを引き取った。

 

 

「この屋敷の前の家がイリヤスフィールの住んでいる家でした。それだけです」

 

「ミユ、それだけでは‥‥」

 

「特に、問題はありません。そうでしょう?」

 

「‥‥‥」

 

 

 美遊嬢とバゼットが二人しか分からない不思議なやりとりをするのを、俺とルヴィアは顔を見合わせて不思議に思いながら見ていた。

 どうも下校の最中、イリヤスフィールの家とか彼女とかに関係した何かが起こったらしい。それもバゼットが言い淀んだことから察するに、中々に気まずい事態であったようだ。

 

 

「‥‥ふむ、貴女がそう言うならば問題はないのかもしれませんわね。ですが何か貴女自身が問題と思うようなことがありましたら、必ず報告なさいね?」

 

「はい、わかりました」

 

「ところでサファイア、次のクラスカードの出現について何か情報は得られましたの?」

 

 

 少し俯き気味に視線を落として頷いた美遊嬢を気にした様子もなく、ルヴィアがその隣にフワフワと浮くサファイアへと問いかけた。

 最初にランサーが出現してからアーチャーが出現するまでに要したのは三日ほど。そしてアーチャーからライダーまではたったの一晩だ。

 次のクラスカードが出現するまでにどれだけ時間がいるかを考えたら、最短で一晩の内に現れることになる。つまり、今夜。

 前回はランサーのクラスカードを限定展開(インストール)することで一瞬だけ効果を発揮することのできた刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)のおかげで勝利を得たけれど、あれはまともに正面からやりあっても勝てたかどうか‥‥。

 今回の相手に刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)が通じるかどうかはまだ分からない。例えば第五次聖杯戦争におけるバーサーカー(ヘラクレス)や、言わずもがなのセイバー(アーサー王)が出現したりすれば、バゼットには悪いけどアノ宝具は使えない。

 残念ながらライダーの宝具と予想される騎英の手綱(ベルレフォーン)が使えるかどうかはまだ解析していないから、もし今夜クラスカードが出現したとしたら使うには不確定要素が多すぎる。

 

 

『クラスカードの出現は今夜と予想されます。場所は座標223.24.58‥‥冬木大橋の下です』

 

「先程探知魔術を使った結果と同じですわね。‥‥やはりクラスカードの種類までは特定できませんの?」

 

『申し訳ありません、流石にそこまでは‥‥』

 

 

 残るクラスは四つ。剣の騎士(セイバー)魔術師(キャスター)、暗殺者《アサシン》、狂戦士《バーサーカー》だ。

 単純な砲撃戦なら魔力の差で勝てると思われる魔術師(メディア)や遠距離からバカスカ撃っていけばいい暗殺者(佐々木小次郎)ならともかく、剣の騎士(アーサー王)狂戦士(ヘラクレス)が相手なら入念に対策を立てていかないと全滅しかねない。

 となると事前にクラスを特定できるなら非常に利点が大きいわけなんだけど‥‥。流石にそこまで話はうまくいかない、か。

 

 

「‥‥冬木に来てから不思議だったのですが、どうして貴方は第五次聖杯戦争に登場したサーヴァントの真名を全て知っているのですか?」

 

「え、あ、あぁ、そりゃロード・エルメロイにお願いして遠坂嬢が時計塔に提出した資料を閲覧させてもらったからね。と言っても覚えてるのは名前ぐらいで、大した情報はないよ?」

 

「そうでしょうか‥‥? まぁ、既に第五次聖杯戦争のサーヴァントが登場すると特定なさっているようですが、早合点は禁物ですわよ。もっと始末の悪い英霊が出現する可能性も頭に入れておくに越したことはありませんわ」

 

 

 まるで教師が生徒にするかのように人指し指を立てて———もちろん反対の手は腰に当てて———注意を促したルヴィアの言葉に、俺は眉を寄せて考えこんだ。

 英霊を召喚するには某かの触媒が必要だ。それは英霊自身の遺物であったり、英霊に関係する何かであったりする。神殿の柱や山門、ともすれば血筋そのものでも構わない。

 特に個人が行う不安定な儀式ではなく、土地の霊脈を使って長きにわたり組み立てられた聖杯戦争の召喚儀式ならば希薄な繋がりであろうとも触媒と成り得る。例えば人格や性格などでも構わないわけだ。

 ちなみにこれは実のところ起源や運命といった根源的なものなんだけど、とにかくそれでも今回の召喚は極めて特殊に過ぎると俺は思う。

 英霊七人分の触媒の用意が可能だったかどうか、というのも疑念の一つではある。しかし一番気にかかっていたのはアーチャー‥‥エミヤが消える際に残した言葉だ。

 

 “第五次聖杯戦争から記憶が連続している”とエミヤは言った。それは乃ち、喚び出されたのは単なる英霊エミヤではなく、“第五次聖杯戦争に参加したアーチャー”であることを指す。

 つまり用意された触媒はクー・フーリンや英霊エミヤ、メドゥーサを喚ぶためのものではなく、第五次聖杯戦争のランサーやアーチャー、ライダーを喚ぶためのものであった、喚べるものであったということだ。

 そんなもの、早々用意できたりするはずがない。というよりも何を用意すればいいのか見当もつかない。

 理屈として成り立っていても、実際に可能かと言われれば激しく疑問なのだ。やはり今回の一件はあまりにも情報が少ない上に、理解しがたい。

 

 

「まぁどちらにしても今は大して情報が集まっていないことには変わらないよ。たとえ第五次聖杯戦争のサーヴァントが召喚されるって仮定したとしても、次に出てくるサーヴァントの候補は四体。とてもじゃないけど今夜までに四体分の英霊の対策を立てるのは困難だ」

 

「ですわね。ですが一先ず備えられるだけの備えは立ててしまうことにいたしましょう。ミユ、貴女は荷物を部屋に片付けてオーギュストのところへお行きなさい。そこで仕事を教えてもらって、夕食を終えたら仮眠をとってから鏡面界へ赴くことにいたしましょう」

 

「はい、わかりましたルヴィアさん」

 

「頑張って来て下さいね、ミユ」

 

 

 ルヴィアの指示に簡潔に返事をして頭を下げると、美遊嬢は仕事だからとサファイアを置いて扉を静かに開け、出て行った。どうしても無償で世話になるのは嫌だと譲らなかった彼女はハウスメイド待遇でルヴィアの屋敷に収まっているのだ。

 屋敷の主の部屋に残ったのは俺とルヴィアとバゼットだけ。先ほどまでも真剣ではあったけど、空気は一気に魔術師たちのソレへと変わる。

 美遊嬢も非常に優秀ではあるんだけど、それでも彼女はまだ子供だ。結局は彼女を拾って———ルヴィアだけではなく、俺達にも責任はある———サファイアのマスターとして英霊と戦わせている俺達の言うことではないかもしれないけど、やっぱり子供には殺伐とした話に混じってほしくない。

 

 

「それで、実際に共に戦ってみてどうですか、ミユは?」

 

『まだ手に取るのは二度目であるにも関わらず咄嗟に宝具の使用を選択できる判断力。御年に似合わぬ高い知性と教養に加え、基本的な身体能力も一般的な同年代の水準を大きく上回っています。私のマスターとして申し分ありません』

 

「‥‥初めて会った時にも思ったけど、本当に子供離れしてるな美遊嬢は」

 

『同じように歳に似合わず多少融通の利かないところはありますし、ルヴィア様に比べれば魔術回路の質も劣ります。しかし総合的な戦闘能力であればルヴィア様やトオサカ様にもひけはとらないと判断いたします』

 

 

 今日一日べったり美遊嬢と一緒にいたサファイアは自慢とすら思えるぐらいの声色で、普段の様子からはかけ離れているとすら言える興奮度合いを見せた。

 やっぱり美遊嬢と最初に契約した際に“最高のマスター”と称したのは決して間違いではなかったらしい。実際に昨夜の戦闘も一瞬だったとはいえ素晴らしい判断力だったから納得できる。

 穂群原への編入試験も一部の国語の問題を除いて満点であったことだし、ルヴィアも養い親として少し嬉しそうだ。まだ会って数日という関係とはいえ、養い子という初めての存在に色々と考えるところもあるらしい。

 

 

「ところでバゼット、さっき何か口ごもっていたみたいだけど、何かあったのかい?」

 

「大したことではないと思うのですが‥‥。実は帰りの道で一緒になったイリヤスフィールと、少々、その、口喧嘩というか何というか‥‥」

 

 

 心底困ったように呟いたバゼットに、俺は驚きのあまり思わず「へぇ」と感心したような声を漏らしてしまった。

 これまたルヴィア同様短い付き合いに過ぎないけれど、基本的に彼女は礼を失しない非常に謙虚で控えめで、それでいながら他人とはかなりの距離をとっているような子に見える。

 だから些細なことだとはいえ口喧嘩という積極的なコミュニケーションを図ったのがとても面白いように思えたのだ。

 

 

「いえ、口喧嘩という程に相互的なものではなかったのですが。なんというか、一方的に言いたいことだけ言って別れたような感じでしたよ」

 

「それでは言い逃げではありませんか、ミユ‥‥。仕方がありませんわね、いくらミス・トオサカの従者とはいえ共に任務をこなす同僚とそのような態度ではいけません。ここは人生経験豊かな私がしっかりと諭して———」

 

「ま、まぁちょっと待ちなよルヴィア」

 

「ちょ、何をするんですのショウ?! 急に引っ張るとバランスが———あぁ?!」

 

 

 急に席を立ってやる気満々で扉に手をかけようとした養い親の手袋に覆われた手を何とか掴んで引き戻す。

 どうやらちょうど反対側の手がドアノブに手をかけようとしていたところだったらしく、俺に掴まれることで空ぶった手が腕ごとバランスを崩し、ルヴィアは見事に転倒した。‥‥俺を巻き込んで、後ろに。

 

 

「痛痛痛‥‥。なぁルヴィア、俺達大人が子供の諍いに口を挟んじゃダメだろう? 子供同士の喧嘩や仲違いは子供同士で解決しないと」

 

「しかしショウ、確かに普通の友人という関係ならそうかもしれませんが、ことはサーヴァントとの戦闘でのチームワークにも影響するかもしれませんのよ? 今はまだ少しささくれだっているぐらいの間かもしれませんが、これが悪化する前にミユに注進しておかなければ‥‥」

 

「いやいや、美遊嬢はそういうことはしっかりと分かっている子だよ。下手に口を出した方が変に意識してしまうかもしれないじゃないか。ここは大人らしく、気にしないで見守ってあげよう」

 

 

 しばらく不満げにしていたルヴィアも、俺の説得でようやく納得して席に戻ってくれた。脇に置かれた小さな机に乗っていた紅茶を彼女らしからぬ豪快な飲み方で口に注いで、今度は溜息ではなく吐息をつく。

 

 

「まったく参りましたわね。ただでさえ他にやることが多いんですもの。ミユの成績が非常に優秀だったとはいっても穂群原学園にはかなり強引な編入をしましたから、これから彼女の入学に関する書類も揃えなければいけませんし‥‥」

 

 

 はぁと一息短く、それでもかなり深刻な様子で溜息をついたルヴィアに苦笑してみせる。本当に、何の後ろ盾も責務もないはずの並行世界にやってきたというのに俺達にはやらなければいけないことが多すぎる。

 いや、どうにも今回はそういうことばかりじゃないな。実際問題としてイリヤスフィール関連のことを除けば俺達自身は並行世界だという事実以外に影響されることはない。

 何せこちらのルヴィア達の行動っていうのは俺達の世界のルヴィア達の行動とほとんどまったくシンクロしているんだから、これがロンドンとかならまだしも殆ど初めてでまったくしがらみとかが存在しない冬木の町に来ているとこうなるわけだ。

 もっとも、俺としてはとてもじゃないけど怖くて伽藍の洞に電話してみたりはできない。これで原作通りに伽藍の洞から橙子姉がいなくなってしまっていたり、いたとしても俺のことをまったく知らなくて攻撃されたりしたら、誇張表現でも何でもなく心が壊れてしまいかねないから‥‥。

 

 

「まぁ地道にこなしていくしかないね。何だかんだいって相手しなきゃいけないサーヴァントは残り四対しかいないんだ。それぞれ一週間ぐらいかかると考えても一月で済むよ。最後のサーヴァントを相手した後に自分達の世界に帰って、そうしたらゆっくりと休息なり研究なり———」

 

 

 俺の言葉を先程と同じく、重厚な扉を通して響くノックの音が遮った。どこか躊躇いを含んだ美遊嬢のノックに比べて、今度の音は俺も聞き慣れたリズムと大きさを持っている。

 

 

「どうかしたのですか、オーギュスト?」

 

「はい、お嬢様。穂群原学園からお電話でございます」

 

 

 扉を開けて足音も聞こえない見事な歩き方で室内へ入ってきたのは見事なカイゼル髭をたたえた執事長のオーギュスト氏。手には古風な電話を乗せたトレイを持っているけど、電話機にコードはついていない。

 実はこれが一体どういう仕組みになっているのか一度聞いてみたことがあるんだけど、ものごっつい良い笑顔で『エーデルフェルト家の秘密にございます、アオザキ様』と返されてそれ以上質問することができなかった覚えがある。

 ああいうのが超一流の執事っていうんだろうね。普段はまったくと言っていいほどに存在感がないにも関わらず、時には思わず首を縦に振ってしまうような迫力を持っているのだから。

 

 

「ミユの入学に関してですか? さすがに昨日の今日で書類を準備するのは不可能ですわよ?」

 

「いえ、初等部ではなく高等部からでございます。お嬢様は今日転入のご予定でしたが、何故いらっしゃらなかったのかと」

 

「‥‥は?」

 

 

 一瞬、俺やバゼットも含めて空気が凍りついた。

 ルヴィアの年齢は俺も詳しくはしらないけれど、ハイスクールは普通に出ているはずで、正直そろそろ二十歳に近いはずだ。その程度の教育はすでに済ませてしまっているし、何より少なくとも日本の高等学校に通うような歳ではない。

 ‥‥うん、やっぱりまだまだ俺達はやることがたくさんあるみたいだ。それこそイリヤスフィールの存在とか美遊嬢の色々とかクラスカードとかの非常に重要な案件だけじゃなくて、本当なら普段の生活の流れで処分できるような、瑣末事まで実に多彩に、色々と。

 中途半端に真っ白になってしまった頭でオーギュスト氏を追い出してから受話器をとるルヴィアを横目にそんなことを思いながら、俺は心底困惑した目線を同じように困惑した顔で立ち尽くすバゼットへと送ったのであった。

 

 

 

 

 60th act Fin.

 

 

 

 

 

 



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第六十話 『旅人達の憂鬱』

繰り返しになりますが、拙作におけるside表記には様式美以上の意味はありません。
そして二点リーダーは趣味です。変えるつもりはなかとです!


 

 

 

 

 side Miyu Edelfelt

 

 

「‥‥うん、だから第一に魔術師を魔術師たらしめているのは魔術回路の存在なんだよ。これがなければ魔術は使えないし、超能力(ESP)は神秘に類するものではあるけど決して魔術じゃないからね」

 

 

 それなりにクッションの効いた座席に座り、まるで教師と生徒のように目の前の青年の話を聞く。話の内容は非常に一般的とは思えない裏の社会の話ではあるけれど、それでも今の私には何よりも必要なことだった。

 話をしてくれているのは額に擦り切れた紫色のバンダナを巻いて、くすんだ地味な色のミリタリージャケットを羽織った二十歳そこそこといった男の人で、名前は蒼崎紫遥という。

 夜中の深山町でトラックに轢かれてしまった私を助けてくれた三人の魔術師の一人で、紆余曲折の末に私を養い子として引き取ってくれたルヴィアさんの、時計塔という魔術師にとっての最高学府の一つでの同僚なんだとか。

 

 

「あぁ、その意味では君は一応魔術師の資格は持っているよ。サファイアと契約したことで君の魔術回路が開いているのも確認したからね。初代の魔術師だから家が受け継いでいる魔術刻印は持ってないけど、それでも初代にしては破格の魔術回路だから安心していいよ。これならルヴィアの弟子としても立派にやっていけるさ」

 

 

 そんな紫遙さんは、今はルヴィアさんの養い子、兼従者、兼弟子である私に魔術についての基礎知識を教えてくれている。なんでも時計塔では臨時講師もやっているということで、ルヴィアさんが彼に教わるようにと勧めてくれたのだ。

 私が魔術の世界に入ってまだ数日。しかも様々な雑務や戦闘に追われて、まともにこうして基本から魔術について教わるのは今日が初めてかもしれない。

 魔術師が神秘を学び、妖精や吸血鬼が実在し、あろうことか私自身が今こうして魔法少女をやりながら大昔に伝説になったような英雄達と戦っている。

 それは昔、実感がこもらないぐらいには昔に本で読んだ物語やお伽話に似ていて、それでいながら決定的に違う。私が今、現実に存在しているこの世界は決してお伽話みたいな優しい世界なんかじゃないのだ。

 

 

「‥‥うん、そうだね。自分で気付いたのはいいことだけど、それでもよくよく注意して欲しい。君が今いる神秘の世界は、君がこれ以上ないってぐらいに設定した認識を更に越えて無慈悲なところなんだよ」

 

 

 今までの戦闘の様子を思い出して、わずかに俯き身震いした私の考えていたことを察したのか、紫遙さんが眉間に皺を寄せて少し悲しそうに呟いた。

 私も甘かったのだ。実際に魔術を見たことがあるわけでも戦ったことがあるわけでもないのに、そんな自分の基準で出来得る限り深刻なものに想定して、覚悟を決めたつもりになっていたのだ。

 最初に出会った神秘であるサファイアの姿恰好にも問題があったといえばその通りかもしれないけど、それでも私は甘かった。ライダーとの戦闘で、それをしっかりと思い知った。

 

 それは戦闘と呼ぶのもおこがましい一瞬の交錯ではあったけれど、私が体験した初めての戦闘であることに疑問の余地はない。

 私の手にした呪いの朱槍が、仮の命とはいえ、しっかりと心臓を貫いたアノ感触。消えていくサーヴァントの断末魔の叫び。全てがあの瞬間に脳裏に焼き付いた。

 命を奪うから、戦闘。喧嘩でも力試しでもなく、互いに殺意を持って攻撃を交わすアノ感触。今まで一度たりとも経験したことのない戦闘というものが、私が足を踏み入れた世界の特徴というものを如実に表している。

 あれが、普通にまかり通る世界。戦闘の規模はともかく、あのような事態が通常のことだと認識される世界。それが私がこれから生きていくことになる世界なのだ。

 

 

「誰も守ってくれない。自分で自分を守らなきゃ、ね。本来はそれが魔術師さ。他人におもねらず、ひたすら孤独に“根源”を目指して探求を続ける。だからこそ魔術師と魔術使い‥‥魔術を手段として活用する連中とは分けられているんだけどね」

 

「‥‥ルヴィアさんや紫遙さんは、魔術師なんですか?」

 

「うん。‥‥まぁ、衛宮はどちらかというと魔術使いかな。アイツは別に悪いことに使おうって考えてるわけじゃないんだけど、それでも魔術師としては魔術を探求以外に使うことは良い気分じゃないな」

 

 

 本当は許せないのに怒ることもできない。そんな複雑な表情をした紫遙さんは場の雰囲気を崩さないようにと小さいながらも苦笑する。

 魔術とは学問。それは実践を伴うものではあるけど決して実用するものではなく、それは不謹慎なこと。紫遙さんの話を私なりに解釈するとこうだ。

 それは十分に理解できる概念ではあったけど、共感できるかと言われれば微妙。個人的な好き嫌いの感情じゃなくて、多分実感が湧かないんだと思う。

 だって学問にするにはあんまりにも規模が大きすぎる。英霊を喚び出したり、魔力砲を撃ったり、個人の研究の範囲を越えてはいまいか。

 

 

「いやいや美遊嬢、ああいうのが平均的な魔術って思われたら迷惑だよ。あれはね、魔術の中でも“魔法”に近い、極めて非常識なものだと考えてほしいな」

 

「魔法‥‥?」

 

「うん、“魔法”だよ。法の下で術を編む魔術と異なり、法そのもの。魔術師の目指す極みの一つ。百の魔術を以てしても一の魔法とは比べ物にならない。言わば次元の違う代物だね」

 

 

 何か思うところがあるのか、紫遙さんは遠い目をして明後日の方向へと視線を巡らせた。今のは表現が悪かったかもしれないけど、諦観とかを含んでいるわけではなく、どちらかといえば淋しげな色を湛えている。

 そういえばサファイアも魔法使いに作られたと言っていた。宝石翁というその人は第二魔法の使い手だということらしいけど‥‥。

 

 

「魔法は全部で五つ、ないしは六つあると言われているんだ。はっきりしているのは第二魔法である“並行世界の運用”と、第三魔法である“魂の物質化”。あと第一魔法が“無の否定”で、第五魔法が次元論に関係する何かって言われてるんだけど———」

 

「ショウ、いくら私の弟子とはいえ喋り過ぎですわよ。今はまだ魔法についてまで講義する時期ではありませんわ」

 

 

 と、だんだん本当に私に向かって喋っているのか不安な調子になってきた紫遙さんの話を、今の今まで私の斜め前‥‥つまり紫遙さんの隣に座っていたルヴィアさんが制止した。

 秀麗な眉間には深い皺が刻みこまれ、片方の手は不機嫌そうに組んだ二の腕をトントントントンと叩いている。貧乏揺すりをしていないところは流石というべきだろうか。

 

 

「‥‥悪かった、ちょっと気が緩んでいたみたいだ。考えなきゃいけないことが多すぎてね、疲れてるのかな?」

 

「それを言うならこちらもですわよ。昨夜の戦闘は‥‥あぁ思い出すだけでも腹立だしい!」

 

 

 こめかみに手をやって苛々と発せられたルヴィアさんの言葉は、私の眉間にも深い皺を生んだ。

 昨夜の戦闘。すなわちそれはイリヤと少し喧嘩のようなやりとりをした後の夜に赴いた、深夜の冬木大橋での戦闘を指す。

 ライダー戦の時と同じように、ただ違うのは凜の従者であるイリヤスフィールとの二人で鏡面界へと侵入し、そこに待ち受けていたのは鏡面界の空一面に広がる大量の魔法陣。

 神代の時代の技術を使って放たれた神言という魔術は私達の魔力障壁を貫通する。もちろん込められた魔力の量に従って多少の軽減はされるんだけど、それでも練習では紫遙さんやルヴィアさんの魔術もしっかりと受け止めた障壁は、あの砲撃相手には効果を発揮できなかった。

 

 

『落ち着いて下さいルヴィア様。流石にミユ様といえど初見の敵を相手に有利に戦える程には戦闘経験が多くありません。ましてや私達(カレイドステッキ)彼女(キャスター)の相性は———」

 

「いいえサファイア、確かに相性というものはありますけど、打倒できない相手ではありませんでしたわ。次の戦闘では必ず仕留めてみせますわよ、ミユ! いかに相手が神代の魔術師であろうと、コケにされっ放しではプライドが許しませんわ! 現代の魔術師の力を見せて差し上げましょう!」

 

「はい、ルヴィアさん」

 

 

 一通り紫遙さんの襟を掴んで激しく前後に振り回した後、キッとこちらを向いて勢いよく叫んだルヴィアさんに、一も二もなく冷静さを保ちながらも頷き返す。私も確証が持てないからと、こんな状況で生真面目に返せる程に空気が読めないわけじゃない。

 なにより解決策は既に明快だ。鏡面界の上空に配置された魔力制御平面は私達が上空に攻撃することを妨害しているけど、あれは魔力攻撃を逸らす働きしかもっていないのだ。

 つまり私達が某かの方法で魔力制御平面の上空へと出ることができれば、上空に位置しているキャスターへの攻撃を阻むものはなくなる。

 ‥‥問題はどうやって上空へ上がるか、なんだけど。

 

 

「だから、イリヤスフィールに出来て貴女に出来ないはずはないのですわ、ミユ!」

 

「‥‥ルヴィアさん、人は、飛べません」

 

「あぁだからその夢のない考え方をなんとかしなさいと何回申し上げれば———」

 

『あまりミユ様を責めないで下さいルヴィア様。他の能力の高さで十分に帳消しになっていると存じます。今回ばかりは先程申し上げました通り、上手く噛み合わなかっただけなのです』

 

「どちらにしてもあの英霊を倒せないなら意味がないのですわよ!」

 

 

 ‥‥サファイアが擁護してくれてはいるけれど、言い訳は出来ない。私がルヴィアさんの期待に応えられなかったのは事実なんだ。

 実際あの魔力制御平面を越えるためにイリヤスフィールは空を飛んでみせたけれど、私はどうしても空を飛ぶイメージを作ることができなかった。カレイドの魔法少女が魔術を行使するのに必要なイメージが、私にはどうしても作れなかった。

 理由もなくひたすら勉強に打ち込んできた私には小手先ばかりが身についていて、イリヤスフィールのように本当にカレイドの魔法少女として戦っていくための素質が欠けている。そう実感させられた。

 

 

「まぁそう落ち込むことはないよミユ嬢。ルヴィアや遠坂嬢の話によれば、件のキャスターはコルキスの王女メディア。彼女はギリシャ神話の住人で、俺達が使う魔術とは神秘の桁が違う。下手すれば魔法にも匹敵する大魔術なんだから、いくらサファイアが宝石翁の作った一級の魔術礼装だったとしても無理はあるさ」

 

 

 昨日は参戦しなかった紫遙さんが私の肩をポンポンと叩いて慰めてくれる。紫遙さんと‥‥士郎さんは、私達に戦闘を任せて念のために鏡面界の外で待機してくれていたのだ。

 本当なら戦力は多いに越したことはないのかもしれないけれど、それは私達と相手の戦力の差が同じ次元に留まっている場合。それが英霊と私達みたいに完全にかけ離れている場合、言い方は悪いかもしれないけれど普通の魔術師では足手まといになってしまう。

 特に紫遙さんは戦闘向きの魔術師ではなくて学者タイプらしいし‥‥士郎さんは完璧に前衛で、戦闘能力は高いらしいけどそれも普通の人間の範疇に留まってしまうんだとか。下手に前衛だと、負傷する可能性が高い。

 でも結局あの戦いの様子を振り返れば、たとえいても本当に足手まとい以外の何物にもならなかったと思う。私達でさえ手も足も足も出なくて、障壁を最小限まで絞り込むことで何とか防御することができたんだから。

 

 

「‥‥ショウ、以前から薄々思っていたことではありますが、貴方は知っていてはならないはずのことまで知りすぎてはいませんか?」

 

「え?」

 

「聖杯戦争についてもそうですし、先程の魔法に関連することもそうですわ。エーデルフェルトにも第三魔法や第一魔法のことについては伝わっておりませんのよ? 封印指定の執行部隊などの特殊な環境ならともかく、いくら貴方が第五法の使い手たるミス・ブルーの弟といえど、些か知識の出所が不審ですわ。そうでしょう?」

 

「ッ、それは‥‥!」

 

 

 珍しく、と言える程に長い付き合いをしているわけではないけれど、それでも私には珍しいと思えるぐらい鋭い視線をルヴィアさんが紫遙さんに向け、私は思わず隣のサファイアと二人で息を飲んだ。

 私の見る限り、ルヴィアさんと紫遙さんは本当に仲が良い相棒同士、という解釈だった。たまに喧嘩みたいに見えるじゃれ合いはするけど、それでも議論以上の言い争いを見たことはない。

 それが今は、ルヴィアさんは本気で紫遙さんに問い詰めているし、紫遙さんはと言えば明確な敵意すらその目に込めてルヴィアさんを睨み付けている。

 

 

「それは‥‥それは‥‥」

 

 

 睨み付けていたのは一瞬。紫遙さんの視線はすぐに困惑や焦り、悔しさ、悲しさ、その他にも色んな解釈ができる複雑な色を湛え始めた。

 座席に座りながらも手は強く握りしめられ、手に持った冊子はぐしゃりと握り潰されてしまっている。体は小刻みに震えて、紫遙さんのどうしようもない気持ちを表しているかのようだ。

 

 

「‥‥ショウ、私とて貴方を困らせたくてこう言っているわけではありませんのよ。それでも私は、今回の一見が始まってから貴方が不審な態度を見せ過ぎていることを‥‥その、つまり心配しているのですわ」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 少し照れたように、ルヴィアさんは頬を僅かに朱く染めてそっぽを向きながらそう言った。なんとはなしに安心する。会って間もない二人だけど、喧嘩をしている姿は見たくない。

 そんなルヴィアさんの視線に何か思うところがあったのか、紫遙さんは深く深く息を吐くと、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

 

「‥‥確かに俺は、本来なら知っていちゃいけないことを知り過ぎてると思う。魔法についてもそうだし、聖杯戦争についてプロフェッサから資料を貸してもらったっていうのも嘘だ。‥‥でも何故、どこでそんなことを知ったのかを言うことはできない。もうこういうのは何回も言ってることだけどね」

 

「‥‥貴方がそこまで言い淀むということは、もしや貴方がお義姉様方に拾って頂く前のことに関係するんですの?」

 

「‥‥え?」

 

 

 紫遙さんと同様に、慎重に言葉を選んだルヴィアさんの発言に、私は何故か思わず拍子の抜けてしまったような声を上げた。

 そんな私に気付いたのかルヴィアさんの口撃をかわすためなのか、紫遙さんはこちらに視線を移すとわずかにはにかんだような笑顔を浮かべて口を開く。

 

 

「あぁ、これはルヴィアやバゼットぐらいしか知らないことなんだけど、実は俺も拾われっ子なんだ。義姉が二人いるんだけどね、行く宛てのなかった俺を上の義姉が拾ってくれたんだよ」

 

「そう、だったんですか‥‥」

 

「うん。まぁ最初こそ戸惑ったけど、今では感謝してもしたりないな。早く孝行できればって思ってるんだけど、この歳になっても迷惑かけっ放しでね」

 

 

 そう言う紫遥さんは本人が気づいているかは分からないけど少し照れくさそうに、嬉しそうに笑っていて、本当にお義姉さん達が好きなんだと思わせるには十分すぎた。

 隣で呆れたような笑いを顔に浮かべているルヴィアさんと合わせて、私はその表情にドキリと胸の奥に何かを覚える。

 

 孤児、というのは私にとってそう珍しいフレーズではないし属性でもない。私が暮らしていた孤児院の児童は全員が孤児であったわけだし、世間一般でどうかは知らないけれど私にとってはそれが普通の状態であった。

 けど、今のこの状況は決して孤児として孤児院の院長先生に育てられた私の感性を以てしても普通じゃない。魔術なんてものに触れているのもそうだけど、当然のことながら誰かの養子になるというのも初めての体験だ。

 自分自身ではほとんど実感していなかったけど、存外それは私に緊張を強いていたらしい。なぜなら紫遥さんの簡単な身の上話を聞いて、確かに私は自分が安心したのを感じている。

 

 

「これは遠坂嬢や衛宮には秘密だよ? 俺が蒼崎の直系だって思わせているのにもそれなりに意味があるし、さっきも言ったけど、これを知ってるのは君で三人目ぐらいなんだから」

 

「‥‥じゃあ、どうして私にそんな大事な話を?」

 

 

 たっぷりというわけではないにせよ、円滑に話を進めていくには少々多すぎるぐらいの沈黙を挟んで私は問いかける。紫遥さんあけではなく、ルヴィアさんにもだ。

 なにせ詳しく話すことを決めたのは紫遥さんかもしれないけれど、最初に拾われっ子云々の話を切り出したのはルヴィアさんである。他人の秘密を勝手に喋るという意味ではほめられた行為じゃないかもしれないけど、それをルヴィアさんが知っていないわけはない。

 つまりルヴィアさんがこの場でこの話を———いままでの話の流れとして適当でなかったとは言えないにせよ———切り出したのは、紫遥さんがルヴィアさんが話を切り出した意味を汲み取ったというわけで、つまるところルヴィアさんは何か意味があってこの話を始めたのだ。

 

 

「あら、聡明な貴女が気づけないというのですか?」

 

「はい、わかりませんが」

 

「そ、そうですの。ではわからないままで構いませんわ。別に、その、さして特別なことでもありませんから」

 

 

 何が悪かったのか、ルヴィアさんは私の質問に動揺した様子を見せると窓の外へと視線を移してしまう。横顔をみると、またもや仄かに頬が赤い。

 どうしたのだろうか、何かプライベートな話に入ってしまったのか。もしくは私の勘違いで、本当は紫遥さんの件はただの失言だったのかもしれない。

 

 

「彼女は照れてるだけだよ、美遊嬢。ルヴィアは君が新しい環境になれてないと思って、同じような境遇にいた俺に助けになるようにって———」

 

「余計なことは仰らないで下さいなショウ! ほら、もうすぐ目的の場所に着きますわよ?!」

 

「痛い痛い、不安定な場所なんだから暴れないでくれよルヴィア!」

 

 

 しっかりと伸ばされた手刀で何度か紫遙さんの頭や肩にチョップを喰らわせてみせた後、ルヴィアさんはぶつぶつと聞き取れないぐらいの音量で前の方に行ってしまった。

 気がつけば窓の外に広がるには白いものが混じり始めていて、心なしか私の体も地に足を付けて生きる人間としての根源的な恐怖感からか小刻みに振動している。

 

 今まで触れずにいたけれど、ここは冬木市上空数千メートル。私達はルヴィアさんがチャーターした飛行機に乗り込んで優雅というよりは過酷な空の旅に興じている。

 目的はスカイダイビング。どうしても空を飛ぶイメージを掴めなかった私に、まずは落ちる、滑空するというイメージを掴ませるのが狙いだそうだ。

 ‥‥まさか私もここでスカイダイビングを持ってくるとは思わなかった。てっきり精神論から入るのかと思っていたけれど、孤児院育ちで裕福というものに縁がなかった私ではルヴィアさんの金銭感覚を量れないらしい。

 

 

「はぁ、結局ルヴィアが騒いだから教習本を読み込めなかったじゃないか。いくらぶっつけ本番だからって‥‥こりゃ後は運任せだなぁ」

 

 

 さっき握り締めた冊子を破らないように慎重に苦労して開いた紫遙さんが、どこはかとなく楽しげな溜息まじりに恐ろしいことを口にする。

 今日の予定としては、紫遙さんが私の後ろについてスカイダイビング。私がサファイアのサポートで安全に降りられる高度で分離、ということになっていたはずだ。

 そして当然のことながら私はスカイダイビングなんてやったことがない———そもそも小学生にやらせていいのかという疑問もあるけど———から、てっきり紫遙さんがスカイダイビングの教習のライセンスを持っているのかと思ったんだけど‥‥。

 

 

「いやいや、俺だって空中遊泳なんてやるのは初めてだよ。こんな無茶振り提案したルヴィアもルヴィアだけど‥‥どうして美遊嬢も頷いちゃうかなぁ」

 

「すいません‥‥」

 

「あぁ、別に責めてるわけじゃないよ? なんていうか、ホラ、こういうのは慣れてるっていったら慣れてるからね。‥‥残念なことに」

 

 

 既に機内に乗り込んでから何回目になるのか、紫遙さんの溜息は留まるところを知らない。とはいえ一切表情を動かしていないのだろう私も思わず溜息をつきたくなるぐらい、ルヴィアさんの行動は私達の予想の斜め上を超アクロバット飛行しているから仕方がない。

 それよりも問題は私と紫遙さんがこれから乗り越えなきゃいけない試練の方。私はサファイアに物理保護のサポートをかけてもらえればいいけど、もし生身の紫遙さんが万が一開傘や着陸に失敗したら———

 

 

「あぁ、心配してくれるのは嬉しいけど大丈夫だよ。これでも時計塔の学生の中では成績優秀な方だからね。予め落ちるっていうのが分かってさえいれば重力軽減なり慣性制御なり方法は色々あるさ」

 

 

 全く安心できないながらも所定の高度に達したのか、今まで感じていた上昇感がぴたりと止まり、前部の座席で打ち合わせをしていたらしいルヴィアさんがこちらへと戻って来た。

 手には操縦士と打ち合わせていたのだろう飛行計画書(フライトプラン)を持っているけど、私達にはあまり関係ない。なにせこれから私達はヘリから飛び降りて地上に戻るのだから。

 

 

「二人共、所定高度に到着しましたわよ。準備はよろしくて?」

 

「‥‥お世辞にも十分とは言えないけど、まぁ何とかなるとは思うよ。美遊嬢、サファイア、君達も準備が出来たら転身を」

 

『かしこまりました、蒼崎様。プリズム☆トランス、狭いので演出省略で参ります』

 

 

 控え目な光がヘリの中を満たし、私の姿が一変する。大きなマントを羽織ったレオタードのような衣装は英霊と戦うには些か不安になるぐらい露出が多いけど、サファイアによる物理保護が働けば生半可な鎧なんかよりよっぽど頑丈だ。

 ガラリと機体側面の扉が横滑りに開けば、目の前には地上まで遮るものは一切ない。何の抵抗もなしに突き抜けてしまうだろう雲の隙間から住み慣れた冬木の街が遠く見えた。

 ‥‥ここから飛び降りなければならない? しかもパラシュート無しで? 堰を切ったように不安が恐怖となって私の胸の奥から全身へと押し寄せて来る。

 

 

「大丈夫、美遊嬢。サファイアの物理保護を全開にすれば絶対に安全に地上へ降りられる。怖がるのは仕方がないかもしれないけど、しっかり目を見開いて、体で空を斬る感覚を確かめるんだ」

 

 

 後ろに回って、自分と私の体をスイッチ一つで切り離せるベルトの一種で固定していた紫遙さんが私のに手をやりながらそう言った。まるで遠い昔‥‥今となっては遠い昔に兄がしてくれたように。

 安心、という程ではない。それでも私は自分の中に恐怖が残っていたにもかかわらず、不思議なことに体の震えが収まっていくのを感じた。

 自分以外の体温が心地良い。もう十年近くも感じたことのなかった感触だ。院長先生は優しい人ではあったが、このような人間味を持った優しさではなかったから夜中に無く子供がいても添い寝をしてくれたりはしなかったから。

 

 

「‥‥ミユ、空想が魔法少女の力であることは事実であるかもしれませんが、それはつまりイメージの具現化ですわ。物理法則に縛られた貴女の考えは決して間違いではありません。魔術とは物理法則という法の下に、また新しい方法で別の手順を敷くものです。

 故に、貴女はまず“飛ぶ”というイメージを会得なさい。貴女に不足しているのは魔術によって物理現象を再現するためのイメージです。魔術師は魔術を起動する機械ですが、イメージが無ければ魔術を起動させることは出来ないのですからね」

 

「既に鏡面界が発生している以上、次の戦闘は今夜が予想される。時間はない。チャンスはこれ一回きりだ。‥‥だから怖いのは分かるけど、頑張ってくれ。君が飛べるようにならないと、キャスターは倒せない」

 

 

 左横から紫遙さんが、右横からルヴィアさんがそれぞれ私を激励し、諭す。多分、これは勇気だ。怖いのは変わらないけれど、私は二人から勇気を貰っている。だからきっと飛べる。飛べるに違いない。

 ‥‥実際に飛べるかどうかは別問題だ。今は“どうやったら飛べるか”ではなく、“飛べる”という言葉を信じればいい。飛べるかどうかではなく、今は飛ぶというイメージを掴むことに集中すればいいのだ。

 

 

「そうだよ、美遊嬢。今から地上に降りるまでに飛べるようになる必要はない。今はイメージを取得することに専念するんだ」

 

 

 紫遙さんの手がハッチの上部に徒点けられているバーを力強く掴み、重心が前へと移る。これは飛び出す合図だ。ついに私の視界からヘリコプターを示すものが何もかも見えなくなった。

 実際にはまだ空を飛んではいない。私の足はヘリの床に着いているし、ヘリのプロペラが回る爆音も聞こえてくる。私は口の中に溜まった唾を飲み込んで、サファイアを強く握りしめた。

 

 

「‥‥よし、それじゃあルヴィア、行ってくるよ」

 

「今更かもしれませんけど、くれぐれも怪我などなさいませんようにね」

 

「大丈夫さ、これでもそう、“空の上での事故には慣れてるんだ”‥‥」

 

 

 紫遙さんの不思議な言い回しを疑問に思ったけど、それを問いただす暇はなかった。さっきまではしっかりとついていた足が、背中にぴったりとくっついた紫遙さんが屈めていた背を伸ばしたがために宙に浮く。

 そして次の瞬間には正真正銘の浮遊感。風が大きく私の顔を打ち、ヘリのプロペラの爆音の代わりに風がながれていく轟音が耳を支配した。

 一向に近づかない地表にも、顔を打つ風だけが私達二人が落下しているのだと教えてくれる。

 ‥‥いや、これは落下なんかじゃない。これは滑空だ。私は落ちているんじゃなくて、空を飛んでいるんだ。背中の温もりにそう教えられた気がして、私は恐怖に落ちかける瞼を必死で見開き、全身で風と空を感じた。

 

 きっと、飛べるようになってみせる。私に寄せてくれた二人の信頼を裏切らないためにも、絶対に、飛べるようになってみせる。

 速度が上がっているからか段々と近づいてきたように思える地表を前に紫遙さんがベルトのスイッチに手をかける感触を覚えながら、それでも私は全身で空を感じ続けたのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥どうやらミユはイリヤスフィールに呼び出されて行ってしまったようですわね。まぁ今日の仕事は休み半分のようなものですし、彼女の用事の方を優先するように言いつけてありますから問題はありませんが‥‥」

 

 

 締め切ったカーテンの隙間から屋敷の正面、門から出て行く美遊嬢を確認したルヴィアが呟く。その声色は真剣でありながらもどこはかとなく安心を含んだもので、わずかにほころんでいる口元を彼女自身は気づいていないだろう。

 そんな俺の視線を感じたのかハッとルヴィアは僅かに開けていたカーテンを締め切り、こちらへと振り返る。部屋の中にいた残りの四人を見回すも、当然ながら俺ほどまでにルヴィアと付き合いの長い者はいないので生暖かい視線を向けていたのも俺だけであった。

 

 

「何か面白くないことを考えていらっしゃるのではなくて、ショウ?」

 

「いやいや、そんなことはないよ? それより早く話を始めないと美遊嬢が帰ってきちゃうんじゃないかな? こういう話はあまり彼女達に聞かせたくないんだろう?」

 

「‥‥その通りですわ。では始めましょうか」

 

 

 部屋の中にいたのは先程言及したように五人。俺とルヴィアにバゼット、そして遠坂嬢と衛宮だ。このうち遠坂嬢とルヴィアは穂群原学園高等部の制服を着ている。どうやらこちらの世界での二人は高校生であったらしく、編入手続きまで冬木に来るまえにしていたのか学園の方から電話がかかってきてしまったのだ。

 当然ながらガン無視することもできるには出来た。それでも何事かと詮索されるのは愉快なことじゃないし、何よりルヴィアと遠坂嬢としては学校に通っていた方が連絡はつきやすい。

 そういうわけで手続きやら心の準備やらを済ませて今日の朝から通い始めたわけなんだけど‥‥。今となっては二人とも二十歳に近い良い大人。特に遠坂嬢なんかは高校時代に比べて大人びているらしく、見事に制服が似合っていなかった。

 いや、単純に似合っているかといえば遠坂嬢やルヴィアに似合わない服など品格云々はさておき早々存在しないだろう。だからどちらかというと、身に纏う雰囲気と制服自体の雰囲気というものが一致していないのだ。さしずめコスプレである。

 

 

「というかですね、私としてはハイスクールに通うことよりも、学園でシェロに遭ってしまったことが一番の驚きでしたわ。つい声をかけてしまって‥‥まさか“こちらの世界のシェロ”だったとは‥‥!」

 

「悪かったわね、言っとかなくて。ちょっと、そう、つい“うっかり”忘れちゃってたのよ」

 

『悪意が見え隠れする発言ですねー、凜さん。表の家に住んでいることが分かっていながら何の臆面もなくそう言ってのける辺りタダ者じゃあないですよ、あはー』

 

「アンタは黙ってなさいこの不愉快型魔術礼装!」

 

 

 どこからか聞こえてきた声に遠坂嬢が過敏に反応して左手の人差し指を向ける。どうも彼女はこの愉快犯ステッキが相手になると簡単に激昂する悪い癖があるなぁ。

 

 

「おやめなさいミス・トオサカ! 他人の屋敷の魔術具を破壊するおつもりですの?!」

 

「ぐっ、別に本当に撃とうだなんて思ってないわよ?! ただ、その、やっぱりポーズぐらいはしとかないと嘗められちゃうじゃない?」

 

「それを言うならもう今更というか、手遅れのような気がするけどねぇ‥‥?」

 

 

 基本的に遠坂嬢とルヴィアの間の戦況は拮抗している。衛宮が絡むと遠坂嬢が、お金が絡むとルヴィアがやや優性となるんだけと、この一件ではここにルビーが絡んでくるから始末が悪い。

 なにせルビーが絡むと途端に感情的になる遠坂嬢は冷静なルヴィアに対して常にアドバンテージを与えてしまっているのだ。反面ルヴィアが大人らしく窘めるという構図が出来上がって安定はしてるんだけど。

 だから心配なのは遠坂嬢のストレスがメーターを振り切らないかってことなんだけど‥‥。まぁ俺より遥かに頭の良い彼女のことだ、何とか処理してみせることだろう。

 

 ちなみにルビーの声はしたけれど、彼女はこの場にいない。遠坂嬢が人差し指という名の銃口を向けたのは蓄音機のような形をした魔術具だ。

 本来ならレコードの凹凸を感知して音やリズムを判断する針の先には、レコードではなくて小振りの宝石が据えられている。この宝石と魔力の波長を合わせることでルビーは俺達と通信しているのである。

 ‥‥電話使った方が早いだろとか言うのは無しである。ぶっちゃけ魔術師相手なら普通に電話の方が盗聴の可能性も低いんだけど、こうやって魔術にこだわるのも魔術師の魔術師たる所以なのかもしれない。

 

 

「これも今更かもしれないけど、みんな無事で帰って来てくれて安心したよ。二人なんか血まみれで帰って来て、本当に心配したんだからね?」

 

「う‥‥それはその、申し訳なく思っておりますわ‥‥」

 

「別に怒ってるわけじゃないよ。まさかサーヴァントが同時に二体も出現するなんて思いもしなかったわけだし」

 

 

 昨夜、その前の晩に不覚をとったキャスターを打ち負かさんと意気も揚々と鏡面界へ侵入するルヴィア達を見送った俺と衛宮は、戻って来た四人を見て心臓も止まるかという程に驚愕した。

 なにせルヴィアと遠坂嬢は腹部を中心にその洋服を血で染め上げ、イリヤスフィールは気絶した状態で美遊嬢に抱えられていたのだ。半ばパニックに陥ったとしても非難はできまい。

 正直な話、しっかりと対策を講じることができた以上は彼女達があそこまで苦戦するとは俺も衛宮も思っていなかった。だからこそ自動治癒が働いていたとはいえ満身創痍の姿には非常に動揺させられたのだ。

 ちなみに自分では覚えてないんだけど衛宮や遠坂嬢に言わせると、その時の俺の取り乱し様は尋常ではなかったらしい。‥‥別にいいんだけど、それが話題になる度に生暖かい視線を向けてくるのは勘弁してくれないか?

 

 

「‥‥仕方がないじゃない、あそこまで手酷くやられたって。だって相手は———セイバー(アーサー王)だったのよ?」

 

 

 静かに呟かれた遠坂嬢の言葉に一同そろってだんまりとなる。‥‥そう、なんと———というよりはやはり———出現した剣の騎士のサーヴァントは、俺達のよく知る腹ぺこ王ことアルトリア・ペンドラゴンであったのだ。

 

 

「姿が似てる別人‥‥別モノだって一切容赦せずに私達がフルボッコにしてこのザマよ? ホント、改めて一流の英霊よね、あの娘(セイバー)は」

 

「のろけてる場合じゃないだろ、遠坂。今の問題はセイバーがどれだけ強いかってことじゃない。‥‥サーヴァント七体中五体までもが、第五次聖杯戦争に出て来たサーヴァントだったってことだろ?」

 

 

 珍しくも衛宮が戦略レベルでの話し合いに口を出し、一同またまた揃って沈黙する。

 そう、先程の遠坂嬢に応えての沈黙は知り合いと似た存在を打倒したことによる罪悪感などでは決してない。衛宮の言ったように、この事件と聖杯戦争との関連性について考え込んだがための沈黙だ。

 もはやこの場においては言及する必要もあるまい。英霊を喚び出す触媒云々が何だったにせよ、五体ものサーヴァントが第五次聖杯戦争と共通しているというのは異常事態と称するに些かの躊躇いも要さない。

 

 

「‥‥これで私達の命じられた任務についてはっきりと言及できることがあるわ。このクラスカードは、間違いなく聖杯戦争に関係する何かであるはずよ」

 

 

 英霊召還の儀式に関して最も進んでいるのが、アインツベルン、遠坂、マキリの御三家であることは疑いようはない。そして聖杯の補助もなしに行っているこの術式が、全く別の家や魔術師からぽんと発生したものだとは到底考えられない。

 いや、もしかしたら俺達が気付いていないだけで、このクラスカードこそが聖杯戦争の代行なのだという可能性も有り得る。考えてみれば第五次聖杯戦争の時と主観時間が一致するのだ。

 並行世界同士での時間軸は一致するという話をいつぞやルヴィアだか誰だかに聞いたような覚えがあるんだけど、それでも今回はとてもじゃないけどおれたちの世界とこの世界との時間軸が一致しているとは思えない。

 となると今回の並行世界への転移が通常の転移とはまた違っているということの証明になるわけだけど‥‥。うん、まぁそれは今の状況でそこまで重要なことじゃないかな。

 

 

「遠坂嬢は何か思い当たることはないのかい? 君の家は聖杯戦争を始めた御三家の内の一つだろう?」

 

「無理ね。遠坂の家は究極的にいえば聖杯戦争をするための土地を提供しただけみたいなものよ。細かいところとかで関わってはいるけれど、聖杯戦争の大本に関わる聖杯部分はアインツベルンが、令呪はマキリがそれぞれ担当していたの。遠坂の書庫を漁ってはみたけど、それらしい記述はどこにもなかったわ」

 

 

 苦虫をかみつぶしたかのような複雑な表情をした遠坂嬢が悔しそうに言う。確かに遠坂の家は歴史が浅い割に優秀な魔術師を排出してはいるけれど、どちらかといえば聖杯が関係する第三魔法関連は門外漢と言ってもいい。

 それを証拠に聖杯戦争では第二魔法の技術や宝石魔術を用いた儀式などが一切と言っていいほどに見当たらないのだ。遠坂嬢はアーチャー召喚の際の触媒に血を溶かした宝石を使っていたみたいだけど、それはあくまで補助的なものでしかないし。

 だから彼女が言った通り、遠坂の家が聖杯戦争において担った役割とは土地の提供。自分達が治めていた第一級の霊地である冬木を聖杯戦争の舞台として提供したのが遠坂嬢の先祖の功績である。

 

 

「私達の世界でイリヤスフィールが宿に使っていたアインツベルンの城とかの書庫を漁れば何か情報があるかもしれないけれど、少なくとも向こうに戻るまでは無理ね。こっちの世界でイリヤスフィールがココの目の前で普通の人間として暮らしている以上、あの森にも城がないって考えるのが自然だもの」

 

「なるほどね。マキリ‥‥桜嬢ならまだ何か知ってるかもしれないけれど、どっちみちそれも向こうの世界に戻らなければ無理か。参ったな、重要な手掛かりの糸口が見つけられたかと思ったんだけど、これじゃ八方手詰まりだ」

 

「仕方がありませんわ。情報が少なすぎるのですもの。正直もう私達は十分に頭を働かせました。これ以上は新たな情報が手に入らなければ推論すら進めようがありません。情報がないままに推測を続ければ、それは推論ではなく憶測になってしまいますもの」

 

 

 全員一息ついて紅茶を啜る。こいつを淹れてくれたオーギュスト氏は既に重要な話の空気を察して退室してしまったけれど、絶妙の加減で淹れられた紅茶は不思議と冷めず、おいしい。

 ルヴィアの言葉通り、確かに決して自慢ではなにせよ俺達はずいぶんと頑張った方だと思う。実際問題として俺達が手に入れることができた情報は事件の重大性に反して以上に少なく、それでいながら頭を働かせることでその情報の重要度は何倍にも増幅される。

 とはいってもやっぱり彼女の言葉通り、限界というのも存在する。現に今がその状況で、正直完全に手詰まりといっても決して弱音や何かじゃないだろう。

 

 

「まぁいいわ、士郎も言ってたけど今はクラスカードがどういう存在かって議論をしてる場合じゃない。重要なのは、ほぼ確定的に残りのサーヴァントも第五次聖杯戦争に出てきた英霊の可能性が高いってことよ」

 

 

 遠坂嬢の言葉が追い打ちのように眉をひそめていた俺達へとのしかかる。特に言葉には出さないにしても、俺から第五次聖杯戦争のサーヴァントの真名を全員分聞いてきたルヴィアやバゼットも、遠坂嬢の言葉の意味をほぼ的確に読み取っていた。

 美遊嬢とイリヤスフィールの頑張りで、七体いたサーヴァントも残すところあと二体。‥‥そして同時に、その残る二体が問題なのだ。

 

 

「もし残りのサーヴァントも第五次聖杯戦争と同じ面子だと仮定するなら、あとは佐々木小次郎とヘラクレスよ」

 

「失礼ですが、私この国の伝承には詳しくありませんの。察するところ日本の英霊なのでしょうが、コジロー・ササキとは?」

 

「刃長五尺‥‥自分の身長ぐらいの長い刀を使う侍よ。まぁ美遊とイリヤスフィールならコイツはそこまで面倒な相手じゃないわ。接近戦さえしないで遠距離から攻めていけば勝てないことはない。問題は‥‥ヘラクレスの方よ」

 

 

 ギリシャ神話の大英雄、ヘラクレス。十二の試練を成し遂げ神々の座へと上った彼は、世界で最も有名な英雄の一人であろうことは間違いない。

 そして狂戦士(バーサーカー)のサーヴァントは基本能力を“狂化”によって大幅にステータスアップさせる。元々は霊格の低いサーヴァントを強化する目的で据えられたクラスなのだ。

 ただでさえ知名度が低く成し遂げた偉業も少ない英霊を他の有名な英霊に匹敵する程に強化するクラス。そこにヘラクレスが据えられたら‥‥想像するだに恐ろしい。

 今までの戦闘を鑑みるに、鏡面界に喚び出された英霊は軒並み黒化している。これは能力自体は第五次聖杯戦争の時のサーヴァントより幾分劣化した程度だけど、理性や感情といった個性が失われている状態を指す。

 つまり狂化によるデメリットは他のサーヴァントと同じ。むしろ理性が無い分だけ戦闘能力が落ちている他のサーヴァントに比べてマイナス要素は存在しないと考えてもいいだろう。まったくもって、やっかい極まりない相手なわけだ。

 

 

「もちろんまだ確定できたわけじゃないけどね。それでも想定しておくにこしたことはないわ。アレより最悪な英霊なんてそうそういないだろうし」

 

「確かに、狂ったヘラクレス以上の化け物となるとそれこそ神話級の神々でも持ち出してこないといけませんわね。まったく、本当にこの聖杯戦争という奴はトンデモない代物ですわね」

 

 

 実際問題として今までの英霊との戦闘———俺はその内の二回しか経験してないけれど———から俺達は情けなくも一つの事実を認めざるを得なかった。

 それは即ち、いくら魔術師とはいってもあくまで普通の人間に過ぎない俺達では、とてもじゃないけど英霊を、サーヴァントを打倒することなど出来はしないということだ。

 ‥‥本当なら俺達だって、美遊嬢やイリヤスフィールみたいな年端もいかない子供を戦闘に駆り出すことなんてしたくはない。魔術師は合理主義で利己主義ではあるけれど、個人差はともかく決して生まれながらの冷血漢じゃないからね。

 ましてや相手が狂化したヘラクレスとなれば、先の三戦よりもさらに危険な戦いになることは明白だ。なにせ相性が悪かったキャスター戦と異なり、今回は単純に能力で相手の方が勝っている可能性がある。

 アサシン戦はともかくとして、バーサーカー戦は彼女たちばかりには任せておけない。俺や衛宮、バゼットも参加しての総力戦となることだろう。

 

 

「‥‥ところで蒼崎君、あなたの方では何か結論が出たかしら? サファイアと一緒に鏡面界の下位次元データを解析していたのは貴方とルヴィアゼリッタでしょう?」

 

 

 それぞれが様々に思案へと意識を落とし始めていた空気を一新すべく、勢いよくうつむいていた頭を上げて遠坂嬢が俺の方へと振り返った。

 

 

「うん、脱出に必要な術式は編み終ったよ。あと数回データを採取して穴が空いている個所を補填したら元の世界に帰れるはずだ」

  

 

 彼女の言うとおり、サファイアとルビーが集めた鏡面界の下位次元のデータをまとめ、研究していたのは主に俺とルヴィアである。といっても何故か門外漢である俺がほとんどの研究を担当していた。

 仕方がないのだ。遠坂嬢は諸事情という名の仲違いでルビーと接触できないし、ルヴィアはといえば冬木に来た関係で諸々の手続きその他が山積みで、それに加えて慣れない学校にまで通っている。

 どうも彼女、やっぱりというか何というか学校では遠坂嬢や衛宮と一緒にいろいろとギャル、エロゲ的な騒動を巻き起こしているらしい。いくら価値観とかそういう共通概念に乏しいとはいえ全くもって困ったものだ。

 ちなみに同じく同一人物が高校の方に通っているがために遠坂嬢達と一緒にはいられない衛宮も暇なわけだけど、こちらは魔術師としての基礎能力に欠けているので全く役に立たなかったりする。本当に剣製以外には能がない奴だな。

 

 

『術式自体は非常にシンプルです。私達の本来の機能である、“並行世界の自分からのスキルのダウンロード”を利用し、私達が元いた世界の鏡面界との共通下位次元、即ち二次元空間に接続します。そこから間髪入れずに今度は私達の世界へと穴を開けるのです』

 

『大事なのは私達の元の世界を探し当てられるか、という一点のみに絞られますからねー。これは鏡面界で地道にデータを集めることで解消できますから、データさえ集まれば問題はありませんよ、あはー』

 

 

 蓄音機もどきの通信機から双子ステッキの声がする。一人はいつも通りの静かな声色で、もう一人はどこまでも楽しそうに。

 それはいつも通りの調子ではあったけれど、本当は違う。いや、本当の本当は本当にいつも通りなのかもしれないけれど、俺は主観的にそこへ普段とは違う何かを感じ取った。

 

 

「‥‥ただ、この方法は一番確実で、それでいて一つ大きな問題があるんだよ」

 

「問題? 失敗すると私達が次元の狭間を遊泳する羽目になるとか?」

 

「いや、それは基本的なリスクの内に入ってるんだけどね。‥‥うーん、実はこの方法で元の世界に帰るには、ルビーとサファイアを置き去りにしなきゃいけないんだよ」

 

「‥‥なん、ですって?」

 

 

 ゆっくりと零すように告げた俺の言葉に、最初から結論を知っていたバゼットとルヴィア以外の遠坂嬢と衛宮が蓄音機の方へと勢いよく顔を向ける。

 しかして宝石の共鳴を利用した魔術具から聞こえてきたのは暫しの沈黙。二人が作る珍しい間に今度は全員が怪訝な顔を作った。

 

 

『‥‥ここで重要なのはですねー、凜さん達は二回の転移を行わなければいけないということなんですよ。しかも、その転移をリードする術者、つまり私達はですねー、客観的な立ち位置にいなければいけないんです。私達は先に立って凜さん達を誘導するのではなく、後ろから方向を定めて背中を押してやる役目なわけですよー』

 

『二次元にいられるのは一瞬。そこでもたつけば遠坂様が仰ったように次元の狭間を遊泳する羽目になってしまいます。それを解消するには、私達が二人でほぼ同時に術式を行使しなければなりません』

 

 

 一拍の沈黙の後、先程と同じようにやかましいルビーの声と静かで落ち着いたサファイアの声が部屋に流れる。

 どこはかとなく普段と違うと感じたのは間違いではなかった。特にお調子者としか思えないルビーだって、空気ぐらいはしっかりと読めるらしい。

 

 

「‥‥実際に術を行うのは美遊嬢とイリヤスフィールだよ。それでも彼女達はいわば予め設定されたプログラムのスイッチを押すようなものでね。重要なのはステッキである二人なんだ。‥‥だから、彼女たちにはこちらに残ってもらうことになる」

 

 

 俺も二人の意を汲んで———あるいは出来る限り汲んだつもりになって———真剣な顔で遠坂嬢に話しかける。これは俺達、この並行世界からの脱出を企画したメンバーにとっては規定事項であるのだ。

 これ以外に方法はない。あるとしても確実性に欠ける上に、いつ帰れるかの目処は一切立たないものばかりだ。とすれば、正直な話として一刻も早く自分の世界に戻りたい俺としてはコレ以外の手段をとるつもりはなかった。

 

 

「‥‥はぁ、大師父にはどうやって説明するつもりなのよ? 大事な礼装を並行世界で失くしましたー、なんて、クラスカードを持ち帰れたとしてもプラスマイナス0以下かもしれないわよ?」

 

「仕方がありませんわ。そのときの責任はこの計画の決行を承諾した私が負います。これ以外の手段はないのですから、どうしようもないのですわよ」

 

 

 屹然と胸を張ってルヴィアが遠坂嬢にそう宣言した。まさしく貴族らしい、というよりは男らしい宣言と言えよう。これはいわば一国の国宝を勝手に何処ぞに捨てて来たと言うようなもので、とてもじゃないけど並の神経では口にすることすらできまい。

 

 

「‥‥ルビー、サファイア、貴女たちはそれでいいの?」

 

『私は美遊様をマスターと決めた身です。これ以上主人を替えるつもりはありません』

 

『むふーん、私もイリヤさんと一緒にいた方が何かと面白そうですしねー。なによりサファイアちゃんがこっちに残るって言い張ってますし、私もそっちで構いませんよー。宝石翁にはよろしく言っておいて下さいね、凜さん。あはー』

 

「はぁ、本当に仕方がないわね。‥‥よっしゃ、そういうことなら何とかしましょう! どっちみち元の世界に戻らないことには何も始まらないしね」

 

 

 どこまでも彼女達らしいやりとりを経て、遠坂嬢も深い深い溜息と同時に口の端を上げて頷いた。色々と腹を括ったらしい。

 もしかしたら他の手段があったのかもしれない。いくら魔術回路が開いてしまったとはいえイリヤスフィールは一応は元一般人だし、何より美遊嬢を置いていくという決断をするのに俺とルヴィアとで半日は机を挟んで悩み続けた。

 ‥‥ちなみにこれはまだ美遊嬢には言っていない。俺も、ルヴィアも、拾って一週間も経たない内に彼女と別れることになるとは想像していなかったし、何より不甲斐ない選択をどうしようもなくもどかしく思っている。

 それでもルヴィアはともかく、俺は自分の世界に帰りたいという気持ちをどうしても抑えきれなかったのだ。これ以上、俺と世界とのつながりがない場所にはいられない。そんな切実な悩みがあったのだ。

 ‥‥これも仕方がないことだと弁護する声が俺の内からする一方で、やっぱり明確な裏切りであるこの行為を咎める自責の念も激しく俺を苛んでいる。正直、俺もルヴィアもまだ悩み、迷っているのだ。

 

 

「‥‥とにかく、次回の鏡面界には俺も同行するよ。戦闘は君達に任せて、観測に専念させてもらう。この辺りで時間をかけて詳細なデータを取っておきたいからね」

 

 

 美遊嬢をどうするんだ、と言っていそうな遠坂嬢の視線を躱し、俺はあからさまに明後日の方向を向きながらそう言って紅茶を勢いよく啜った。

 どうしようもない思いが、胸の中でうずまいている。一体俺はどうしたらいいというのだろうか? 一体どの選択肢が正しいのだろうか? そもそも正しい選択肢なんて存在するのだろうか?

 今までの人生は比較的波瀾万丈ではあったけれど、やっぱりこういう思いってのは比較する対象が存在しないな。それこそ悩みっぱなしだった俺だって、悩むこと自体に慣れはしないように。

 

 いつの間にかオーギュスト氏の淹れてくれた紅茶はすっかり冷めてしまっていた。

 ‥‥けれど、それがあんまり美味しくないように感じたのは、きっと俺の心の問題なんだろう。またもや部屋の中を支配した重苦しい沈黙の中で、俺はそう独りごちたのであった。

 

 

 

 62th act Fin.

 

 

 

 

 



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第六十一話 『漂着者の驚愕』

やっと、やっと紫遙が拙作の主人公である証たる話に辿り着いた‥‥!
地味な主人公、空気なオリ主と呼ばれ続けて約一年、ここに辿り着くことが出来た!
何故にわざわざプリズマ編を敢行したのか、その答えまではあともう少しです‥‥!


 

side Luviagelita

 

「‥‥なぁ、本当に良かったのかい? 美遊嬢をこちらの世界に置いて行ったりして」

 

「何を仰いますの。元はと言えば貴方の提案したことではありませんか」

 

「ま、まぁ確かにそれはそうだけど‥‥」

 

「‥‥それとも、貴方はこの期に及んで決断を迷っているとでもいうのですか?」

 

「———ッ、そんなの‥‥迷ってるに決まってるじゃないか‥‥!」

 時刻は既に馴染みとなった深夜。私達はサファイアが探知したクラスカードの出現に対処するべく、冬木市街から離れた郊外の森にやって来ています。

 鬱蒼と茂った木々はただでさえ薄い月明かり一切通さず、それでいて市街地からもかなり離れているためにの人工的な灯りも届かない森の中は、ショウが掲げたルーン石が発する光によって辛うじて周囲が把握できるといった暗闇に支配されておりました。

 途中に崩れかけの廃墟のような建造物を見つけはしましたが、他に人の住んでいた痕跡は皆無。あの廃墟も荒れ具合から考えて最低でも十数年以上は経っているだろうことは間違いありません。

 というよりもそもそも廃墟があったことすら驚きではありますわね。周囲徒歩二十分圏内に民家はなく、まともに生活を営むために必須といえる市街地はといえば車でも三十分以上を費やさなければたどり着けない場所にあります。

 そういえばこの冬木の町には昔、かなり大勢の外国人逗留者がいたという風に聞きますが‥‥。もしかしたらその名残なのかもしれませんわね。

 

 

「‥‥考えてもみてくれ、ルヴィア。確かにあの時、美遊嬢を助けるにはサファイアの力を借りる以外に方法はなかっただろう。その結果としてサファイアが美遊嬢をマスターにすると我儘を言って聞かなかったのも仕方がないことなのかもしれない。でもさ———」

 

「十分にわかっておりますわ、ショウ。確かにサファイアがごねたのは事実でありますが、あそこは元マスターたる私、宝石翁からサファイアを託された私が断固として一般人への神秘の漏洩を懸念して拒否すればサファイアとて我慢したかもしれないということぐらいは、私も分かっているのです」

 

 

 一般人への神秘の漏洩。本来ならば私達はミユがサファイアによって治療された段階で、サファイアに契約を解除するように命じ、記憶処理を行っておかなければならなかったはずなのです。

 いえ、本来ならそれ以外の手段は存在しなかったはずなのですわ。それこそ最初にミユを見捨てる決断をするか、全く意味のないことではありますが治療の後に口封じとして殺すなどという手段以外には。

 仮に一般人がこの話を聞いたときは断固として抗議するか、もしくはイマイチ重要性を掴めないかもしれませんが、神秘の漏洩を防ぐというのはそれほどまでに重要なことなのです。魔術師が何よりも、それこそ自己の利益よりも優先させるべき原則といっても過言ではありません。

 神秘は大勢に分け与えられれば希釈されてしまうものですからね。まぁこれはもう何度も口にしていることですから今さらではありますか。

 

 

「もしそうしていれば、たとえ彼女の言葉通り孤児院で悪質な虐めをうけていたとしても、それでも彼女は平凡で幸せな人生を送ることができたかもしれませんわ。こういうのはなんですが、一般人が魔術の世界に足を踏み入れて幸せになれた試しはありません」

 

「‥‥それは、うん、そうかもしれないな。でも彼女を魔術の世界に引き込んだ責任は、君だけにあるわけじゃないよ。俺達だって止めなかったんだから同じさ」

 

 

 ショウの持つ松明(ケン)のルーンは決して眩い光を放つものではありませんが、それでも十分すぎるぐらいの明るさがあるはずなのに、その灯りは不思議と真っ暗でどこまでも続くかのような錯覚を覚えるほどに広い森の中へと吸い込まれてしまっているかのようでした。

 本当に不思議な森。クラスカードが放つ歪み以外の神秘はまったく感じることができないのに、何故か不気味な悪寒が背筋を這っていきます。まったくもって科学的、ないしは魔術的ではありませんが、これが空間の持つ雰囲気というものなのでしょうか。

 

 

「‥‥今になって思えば、あの血みどろの光景に動揺していたからかもしれませんわね。なんだかんだで、私は今の今まで全く実戦というものを経験したことがありませんでしたもの。本当に、口先だけでは何とも言えるものですわね‥‥」

 

 

 大師父からこの任務を受けて、それが実戦を、それも英霊という最上級の存在との実戦を含んだものだと告げられても、私は全く恐れはしませんでした。

 まがりなりにも私は時計塔では首席と目される身。自分の魔術の腕前には確固とした自信を持っておりましたし、そうでなくとも他人の評価に関係なく私は私の魔術はそれなり以上のものであると自覚していたのです。

 結果としてそれは間違ってはおりませんでしたわ。私の魔術は実際に時計塔の学生の中では一、二を———ミス・トオサカと———争うものでしたし、サファイアを使った最初の戦闘も圧倒され気味の辛勝ではありましたが、勝利を収めることができました。

 

 ‥‥だから私が間違えていたのは別のもの。実戦を、いえ、血を流すことを、命を失うということを自覚していなかったことなのですわ。

 あの時トラックに跳ね飛ばされたミユ。体は破裂してしまったかのように血を撒き散らし、手足は常とは違う方向を向き、顔を自らが流した血の海の中へと浸けた少女の小さな体躯。

 その姿を見た時、私は何をしたでしょうか? すぐさま治療に駆け寄ったバゼットと、彼女に促されて血まみれのミユを抱き締めて治療の手助けをしていたショウ達に比べて、いったい何ができていたでしょうか?

 そう、私は何も出来てはいませんでした。ただ最初の位置に突っ立って、何も出来ず、気を抜けばパニック状態になってしまいそうな自分をなけなしの矜持によって普段と同じように屹然と振舞おうと制御するだけで精一杯でした。

 

 ‥‥ミス・トオサカいかなるものぞと自信満々でいながら結局はこの有様。周りの方々は、それこそショウも気付いてはいなかったかもしれませんが、私自身が気付いていればそれで十分。自分の情けなさに涙も出る思いですわ。

 勿論まだ、というよりは今後も絶対にミス・トオサカにたいして私が引け目を感じるようなことはないでしょうけどね。これは私自身の不甲斐なさを嘆いているだけですもの。

 

「———貴方にそういって下さるのは非常に嬉しいことですが、それでも美遊は私の養い子ですわ。彼女について責任を負うのはあくまでも私でなければいけません」

 

 確かに私はあの時、魔術師として本来なら選ぶべきではなかった選択肢を選んでしまったのかもしれません。それでも私がミユから話を聞き、その上で責任もって彼女を養うと決めたのもまた事実なのです。

 もし勘違いされていたとしたら憤懣ではありますが、私は決して財力が有り余っていたからと戯れにミユを拾ったわけではありません。彼女をあのままにしていくことが不憫だったから、というわけでもありません。

 彼女は確かに、初代でありながら魔術師として大成できる、そうでなくとも私の弟子として相応しい能力を備えている。そう感じ取ったからこそ私は彼女を養子にすると決断したのですわ。

 

 しかるに私は彼女を自分の弟子として恥ずかしくないように全力で育てあげるつもりでした。また同じように、身寄りのない彼女の家族になってさしあげようと、決して軽々しくはない決断をしたのです。

 その時の私は当然ながら自分達が今いるココが並行世界であるなどとは夢にも思いませんでしたから、これまた当然のこととしてクラスカードを全て回収し終わった暁にはミユを連れて倫敦に戻る予定でしたわ。

 

 

「‥‥そのつもりではありましたが。はぁ、現実は中々にままならないものですわね。私とて本当は彼女を置いていきたくはないのです。それでも、それ以上に私はエーデルフェルトの当主として家に帰らなければなりません。あの家を継ぐのは、私しかいないのですから」

 

「名家の当主ともなると大変だね。俺はそういうのないから気ままでいいけど‥‥それでも、帰りたいって気持ちはこれ以上ない程に大きいよ」

 

「‥‥ショウ?」

 

 

 私の独白じみた言葉に、ショウは今にも泣きそうな顔を作って地面へと顔を俯けました。その横顔は未だかつてない程に切迫して見え、どこはかとなく脆そうな印象すら受けます。

 ‥‥それは今までに一度も見たことがない表情で、思わずそれにつられて私も不安気な声を漏らしてしまいました。

 

 

「‥‥俺はね、もうこれ以上この世界にはいたくないんだ。“俺と世界との繋がり”が希薄なんだよ、ココは。俺がココに在るっていう確信が持てないんだ」

 

 

 ショウの歩みが少しだけ、それこそ一緒に歩調を合わせているからこそ分かるぐらいに少しだけ遅くなり、身を切るような声でぼそぼそと喋りだしました。

 前を歩くミス・トオサカとシェロ、それにイリヤスフィールの声もしますが、それ以上に森の木々の木擦れの音と夜更かしな鳥の鳴き声が大きく聞こえます。

 目的地である空間の歪みが最大値で計測される場所までは目測であと徒歩五分もかかりませんが、それでもそれは普段の歩き方で計った場合です。足下が不安定なこの状況と、ましてやショウの歩みが遅くなってしまっている現状ではもう暫くかかることでしょう。

 

 

「世界から貰うあの圧力が煩わしくて、死にたくなるぐらいキツかったこともあったけれど、今になって思えばアレも俺がソコに在るっていう証明でもあったんだな。‥‥今はまるで、命綱もなしに宇宙遊泳してるみたいな気分だ」

 

「‥‥ショウ、本当に大丈夫ですの? 何か、その、普段と違いますわよ?」

 

「うん、もしかしたらおかしいのかもしれない、俺は。もう、さ、どんなに目を凝らしても瞳に写る景色がリアルじゃないんだよ。どうにか我慢してたんだけど、正直そろそろ限界かもしれない‥‥」

 

 

 眉間に刻まれた皺は私達が騒動に巻き込まれたり、講義で分からないところがあった時などに度々目にするものではありますが、今日に限ってはやや種類が違うように思えます。

 それは悩みというよりは、苦悩。そして言葉に直すならば、焦燥や不安、それに加えて恐怖すら宿した瞳の色。自信満々とはいかずとも、常に自分というものをしっかりと保って笑っているはずのショウが、今日はこんなにも頼りなさ気に歩いているのですわ。

 それは私にとって、確かに衝撃でありました。私が歩く道の横を常に、私に一歩遅れながらも負けない速さで着実に歩き続けていたはずの友人のこのような姿は、見たくなかったと言うしかありません。

 

 

「早く、帰りたいよ、伽藍の洞に‥‥」

 

「ショウ、しっかりなさって下さいませ。今は目の前のことに集中するべきです。どのみち私達はクラスカードを全て集めなければ元の世界に帰還することも適わないのですよ? ましてや今回行う貴方の調査がしっかりと行われなければ、クラスカードを全て集めても転移に失敗するかもしれないですわ」

 

「分かってるよ、ルヴィア。わかってるけど、弱音を吐かずにはいられないときもあるんだ‥‥。ま、大丈夫だよ。観測機器はしっかりと持ってきてるし、なにより帰るためだからね。しっかりやらせてもらうつもりさ」

 

「‥‥そうならいいのですが。とにかく、ちゃんとこなしてくださいませ!」

 

 

 あまり意味はなかったかもしれませんでしたが、それでも何とか前を向いて皺はそのままながらも眉を引き締めたショウに、私は少し安堵の吐息をつきました。

 決して安心できるものではないでしょう。前を向いたショウの瞳には相変わらず私すらも不安にさせる色が浮かんでおりますが、それでもしっかりと先程よりもやや速い歩調で、ちゃんと前を向いて歩く様子はまだなんとか安心の欠片を手に入れることができるものですわ。

 

 

「‥‥言い訳になるようですが、どのみちこちらの世界の人間であるミユを私達の世界に連れていくことでどのような弊害が出るかも分かりませんわ。今の貴方と同じような状態になるかもしれませんわね」

 

 

 ショウが何故、このような不安定な状態になったのかは私にはさっぱり分かりません。何故なら私もシェロもミス・トオサカも普段と全く同じように暮らしているのですから。

 こういう言い方はあまり良くないかもしれませんが、長年とは言わずとも二年ほどの付き合いから鑑みるに、ショウは魔術師的な感性に恵まれているとはいえません。どちらかといえば理詰めで術式を組み上げることを得意としています。

 故にこのように並行世界への移動によって、“世界と自分との繋がりが希薄だ”などという感覚的なことを言い始めたのは正直に言って驚きではありました。本当にショウには申し訳ありませんけどね。

 ‥‥ふむ、今になって思えば、ショウとミユは意外に似た者同士なのかもしれませんわね。流石にミユ程に頑固ではありませんが、ショウも十分に頭が固い部分がありますし。

 

 

「まぁそれもそうだね。‥‥ところで今更かもしれないけど、前回と前々回はどうだった? 実際に鏡面界に入った君達の感覚で、何か奇妙なところはあったかい?」

 

「私は特には。‥‥ですが、そうですわね、確かミス・トオサカが鏡面界への転移の際に一瞬だけ意識が空白になったとか、おかしなことを口走っていましたわね」

 

「意識が‥‥空白に?」

 

「えぇ、ほんの一瞬だけですけど、頭の中が真っ白になったかのような感覚があったそうですわ」

 

 

 何気なく呟いた私の言葉に何を感じたのか、ショウは先程までの不安そうな顔とは一転、いつもの真面目な、学者を彷彿とさせる理知的な色を瞳に湛えて、珍しくも彼より一歩後ろを歩く私の顔を覗き込みました。

 えぇ、やはりこれでこそショウですわね。彼も私も同じ魔術師、興味を持つ対象もまた同じですわ。魔術師にとって知的好奇心を刺激される事柄こそが大好物。無駄に思い悩まずに最初からこの話題を振っておけばよかったですわ。

 

 

「それは妙だな。‥‥君は否定するかもしれないけど、遠坂嬢の魔術師としての感性や能力は君とほぼ同等だ。それでいながら遠坂嬢にだけ影響が出るっていうのはおかしな話だと思わないかい?」

 

「‥‥釈然としませんけど、確かにそれは認めざるを得ませんわね。というか、そうでなければ私の好敵手たりえないわけですし」

 

「あのね、話がずれてるよ? 今はそういう話してるわけじゃないんだからさ」

 

 

 軽口のような言い合いになってしまいましたが、確かにショウの言う通り、これは妙な話ですわね。鏡面界への侵入の影響が出たというなら全員に影響が出てしかるべきですし、カレイドステッキの所有者であるミユとイリヤスフィールが除外されたとしても、ミス・トオサカにだけというのは道理に適いません。

 ‥‥何か条件があるのでしょうか? 私に無くて、ミス・トオサカにあるものが‥‥? 人種? 国籍? 魔術特性は同じですし‥‥。まさか、聖杯戦争に参加しているか否か? 考えてみれば、シェロも鏡面界に侵入するときに目眩を起こしていましたわね。

 だとしたら一体どのような術式で条件付けを行っているというのでしょうか。そのような限定的な効果のある術式を作り上げるのは精密な下準備が必要となるはずですわ。魔術はコンピュータとは違うんですもの。

 ましてや仮にそれが可能だったとしても‥‥。クラスカードを発端とする一連の事件は、確定的にミス・トオサカやシェロやバゼット、第五次聖杯戦争ないしは第四次聖杯戦争以前の聖杯戦争に参加していた者達を対象とした、非常に計画的な犯行であったということになります。

 だとすれば、もしや私達がこのままクラスカードの収集を続けることは、ともすればクラスカードを作り上げ、それをフユキの街に配置した何者かの都合通りとなるのでは?

 

 

「‥‥誰かに計画されていた? 遠坂嬢達がココにやってくることさえ、宝石翁が遠坂嬢や俺達に事件の調査を依頼することさえソイツの掌の内だったってことかい? ‥‥ぞっとしないな、それは」

 

「このクラスカードをばらまいた何者か。既に実感していたことではありますが、出来れば相対することは避けたいものですわね。悔しいですが、おそらく私達よりも遙かに格上の魔術師の仕業に違いませんもの」

 

 

 自分の力量を認めるのは、非常に難しくて大切なことです。しかし私達の置かれた状況から判断するに、しっかりと私達の敵対している相手が格上の存在だと認めるべきなのは疑問の余地がありません。

 一般的な魔術師は如何に封印指定級の者であろうと戦闘が得意とはいえないのが通例ではありますが、それは私達とて同じです。ましてや英霊召還の術式を組み上げることが出来る程に召還術に秀でた術者が相手だと考えると、全く油断はできませんわね。

 

 

「‥‥はぁ、とにかく今は情報が少なすぎるよ。とりあえずは目の前のことに集中することにする。君にも、そう言われたことだしね」

 

「それが得策でしょう。先を予測することができない以上、場当たり的でも一つずつ対処していくしか方策がありませんわ。先のことを思い悩むあまり、今の課題を失敗していては本末転倒ですもの」

 

「‥‥えーと、ルヴィアさん? 目的地につきましたよ? これから反射路を形成しますけど‥‥」

 

「あら、もう着いたんですの?」

 

 

 気づけば私達はほんの少し空が開けた森の中の広場とも言うべき場所までやってきていて、前では腕を組んだミス・トオサカと胸の前で両手でルビーを握りしめたイリヤスフィール、赤い外套を着込んだシェロ、そして僅かに心配そうにこちらを見るミユが立っていました。

 どうやらこの辺りが空間の歪みが最大値を記録している場所のようですわね。手首に下げた宝石の飾りを見れば、歪みを感知して細かく震えています。

 

 

「次の敵がアサシンかバーサーカーかは分からないけれど、やることは一つよ。二人とも、わかってるわね?」

 

「うん。距離を保って魔力砲で細かくダメージを与えていく。だよね、凜さん?」

 

「その通りよイリヤスフィール。どちらのサーヴァントも遠距離攻撃手段は持ってないはずだから、距離さえ取っておけば怖くはないわ。いざとなったら空中まで退避しなさい。そしたら絶対に追ってはこれないから」

 

 

 空を飛ぶ、というのは簡単に見えて実はかなり高度な魔力行使ですわ。時計塔で助教クラスの魔術師でも箒などの発動媒体や魔術礼装を使わなければ浮遊さえ適わないですからね。

 そもそも魔術であろうと物理法則に縛られているのは同じ。溢れんばかりの魔力によってイリヤスフィールなどは飛行を可能にしていますが、滑空などに比べて単純に飛行に制限が多いのは当然のことです。

 もちろんサーヴァントとてそれは同じですから、翼を持たない相手ならば空は格好の避難場所というわけですわね。もっとも当然ながら跳躍などの奇襲には注意する必要がありますが。

 

 

「今回、士郎は蒼崎君の護衛ね。蒼崎君は調査に集中できるように、鏡面界の端っこで戦闘に巻き込まれないようにしていて頂戴」

 

「了解。わざわざ戦場に突っ込んでいくような趣味はないからね、安全な場所で自分の職分を全うさせてもらうよ」

 

「間違っても弓で援護したりしちゃだめよ、士郎? そんなことしてサーヴァントが蒼崎君とアンタの場所に気づいたりしたら元も子もないんだからね」

 

「わかってるって。そんな念を押さなくてもいいだろ‥‥?」

 

 

 もはや毎度お馴染となりつつある注意事項を述べるミス・トオサカにシェロが不満げな声を洩らしますが、こればかりは私も彼女に同意せざるを得ませんわね。シェロは少々後先を考えずに突っ込んでしまう癖があります。

 シェロと共闘するのは今回の事件が初めてですけれど、それでも今までのシェロの様子からかんがみるに十分に彼らしい戦い方をすると結論を出さずにはいられませんでしたわね。まったくもって、堅実に見えながらも危なっかしいのですわ。

 それでも私達の中で近接戦闘に限れば最も重要な戦力と言えるのですが‥‥。どちらにしても、今回は遠距離からの攻撃のみに絞って戦闘を想定していますから、あまり危ない真似はしてもらいたくないものです。

 

 

『それでは皆様、準備はよろしいですかー? 反射路形成半径三メートル! 鏡面界に侵入しますよー!』

 

 

 ルビーの声が静かな森に響き、真っ暗闇の中に光が迸ります。ルビーを持ったイリヤスフィールの足元を中心として広がった魔法陣が私達の意識をぐるりと反転させ、次の瞬間には、つい今まで、一瞬前までいた場所と同じ景色、それでいながらまったく違う景色が広がっていました。

 ここが今回のバトルフィールド。空を不気味な闇と格子模様に覆われた異空間、鏡面界。

 

 

「‥‥おかしいわね、場所柄を考えても随分と静かだわ」

 

「敵はいないしカードもない‥‥。もぬけのカラというやつですわね」

 

「場所を間違えたとか‥‥?」

 

 

 通常、鏡面界に侵入してからさほど時を置かずに黒化したサーヴァントは現れるものです。これは経験則でもあるのですが、空間の歪みがクラスカードを原因として生じている以上は当然のことでもあります。

 クラスカードあるところに黒化したサーヴァントあり。鏡面界が発生した際にはすでに中に英霊が内包されていると考えるのが妥当でしょう。もちろん断言はできませんがね。もしかしたら鏡面界に何者かが侵入した段階で召喚がなされているのかもしれませんし。

 ですが私達が数分以上、おそらく五分前後も待っても尚、一向にサーヴァントの姿は現れませんでした。サーヴァントが現れず、空間だけが発生している。これは十分におかしな事態でしょう。

 

 

「‥‥これはおかしいですわよ。嫌な予感がいたしますわ。ショウ、調査は一旦中止です。サーヴァントが現れるまでは私達のそばに———」

 

 

 サーヴァントがいないということはありえません。となると考えられるのは、既に召喚されていてなお、潜伏しているということだけ。

 となるとおそらく相手はアサシン。ショウとシェロには鏡面界侵入直後に戦場を離れて頂く予定ではありましたが、そうなるとパーティを分割してしまうのは逆に各個撃破の危険性があります。

 今回でしっかりとしたデータを取っておきたかったのですが、命を失ってはそれこそ本末転倒でしょう。残念ですがともすれば調査はあきらめ、当初の予定通りに英霊を打倒することに専念したほうが得策。

 そう考えた私は背後に控えているはずの友人に指示を出そうとして振り返り———

 

 

「‥‥ショウ? いったいどうしたんですの?」

 

 

 そこにいたショウは私の予測通りに観測機器の支度をしているわけでも、戦闘に備えているわけでもありませんでした。

 服が土に汚れること構わず大地に膝をつき、あろうことか片腕の肘までつき、もう片方の手で頭を抱えてガクガクと激しく震えています。腕には血管が浮き上がって、さらには真っ白になるくらいに力が込められ、その様子はあからさまに異常。

 

 

「ショウ?! なにかあったのですか、ショウ?!」

 

「ちょ、ちょっと蒼崎君大丈夫?!」

 

「おい紫遙、どうしたんだ?!」

 

「紫遙さん?!」

 

 

 あからさまにおかしなショウの様子に、私を含めた全員が大慌てで蹲って頭を抱えている友人の元へと走り寄りました。近くに寄ってみれば顔には玉の様な脂汗が浮かび、その目は全く焦点を結んでいないのが見て取れます。

 力の限り食いしばっているらしい歯軋りの音。今にも髪の間から血が流れて来るのではないかというくらいにあらん限りの力を込めている指先。そして普段の様子を知らぬ者でも異常と断ずるに躊躇わぬであろう震え具合。

 一先ず辺りの警戒の優先順位を下げ、私とミユを筆頭に全員が近寄って肩を揺すったりしてみますが、こちらのアクションに対しての反応は一向に見られません。

 

 

「———た」

 

「はい?」

 

「———た、俺の———憶を———盗まれ———?! そんな、馬鹿な———だっ———れは———他人———れたら———!!」

 

「ショウ? しっかりして下さいませショウ!」

 

「———覗かれ———俺の———子姉———界が———」

 

 

 私達の声ではなく、まるで独白のように呟かれたショウの言葉は支離滅裂で、とても理解しがたいものでした。

 呟きが始まった彼の瞳から読み取れた僅かな色は、恐怖。それも私では想像すら出来ないぐらいの何者か、ないしは何物かに苛まれる恐怖に見受けられます。

 しかしコレだけはしっかりと分かります。私達には理解できないことでも、少なくとも彼にとっては尋常ではない事態が起こっているのだということだけは。

 

 

「ちょ、ちょっとルビー、蒼崎さんどうしたのかな‥‥?」

 

『ふむ、どうも転移の際に何か異常事態が起こったようですねー。あの取り乱し様は尋常じゃありませんよ。今までの転移ではなかったことですし‥‥。参りましたね、まだサーヴァントを見つけられてもいないというのに‥‥』

 

「困ったなぁ———ん、気のせいかな? 今、何かが動いたよう、な———」

 

 

 突然、少しだけ離れて私達の方を見ていたイリヤスフィールとルビーのやりとりに鈍い音が混じりました。

 

 

「イリヤスフィール?!」

 

「ミユ!」

 

砲射(シュート)!」

 

 

 私達がショウの周りに近づいている隙を狙ってか、イリヤの首を目がけて一条の黒い閃光が走り、瞬時に私達は蹲っているショウを囲むようにして陣取り、即座にミユが閃光の発された場所目がけて魔力弾を放ちました。

 地面に転がった、イリヤスフィールの首を狙って飛んできたものを見れば、それは黒塗りの短剣、ダークと呼ばれるもの。あくまで暗殺を主眼においたそれは間違いなくアサシンによって放たれたものでしょう。

 

 

「あうッ‥‥!」

 

『大丈夫、物理保護が効きました! 薄皮一枚です!』

 

 

 幸いにして瞬時にルビーが物理保護をかけてくれたらしく、イリヤスフィールは首筋から少しばかりの血を流しただけで済みましたわ。

 しかし気配も感じさせずに完全な急所狙い‥‥。一発でこちらを一人、削るつもりの攻撃でしたわね。正直言えば、今も防御が間に合ったことが奇蹟と言えましょう。

 瞬時に反応したミユの魔力弾も居場所を悟らせることなく避けた手際といい、見事なまでの暗殺者の手管。一瞬の油断すらも死に繋がりかねない危険な相手ですわ。アサシンとはいえ‥‥正直、甘く見ていましたわね。

 

 

「ショウ! 敵が出ましたわよ、気を取り直して下さいませショウ!!」

 

「———しよう、知られ———った、俺———を知られ———」

 

「ショウ! 敵が来ていると申し上げましたでしょう! 立って下さいませ!」

 

「お願いです、しっかりして下さい紫遙さん!」

 

 

 これほどの事態であるというのに、ミス・トオサカとイリヤスフィールとシェロに警戒を任せて呼びかけた私達の声にも反応せず、ショウは地面に四肢をつけてぶつぶつと何事かを呟き続けています。

 ‥‥異常などという簡単な言葉では片付けられません。学生レベルとはいえ私達の中では一、二を争う程に実戦経験のあるショウがこのような状態になってしまうなど、尋常なことではないですわ。

 ルビーが先程漏らしていたように、鏡面界に侵入する際に何かあった‥‥? それもショウにだけ、ショウにだけ何かの攻撃らしき干渉があったというのでしょうか?

 

 

『敵を視認! 総数‥‥50以上!』

 

「馬鹿な‥‥英霊が五十体だって?!」

 

「完全に包囲されてる?! なんてインチキ‥‥! 第五次聖杯戦争の英霊じゃないのはともかく、軍勢の英霊なんて聞いてないわよ?!」

 

 

 普段からは想像も出来ない程に緊迫したサファイアとシェロの声に気がつけば、私達の周りはいつの間にか一目には数え切れない程の髑髏の面を被った黒い影に囲まれておりました。

 ざっと見渡した印象では、どれもが同一の個体というわけではなさそうですわ。長身の者、筋肉質の者、手足の長い者と様々なサーヴァントが私達を上下左右から取り囲んでおります。

 ミス・トオサカの言う通り、ここに来て何故か第五次聖杯戦争に登場した英霊ではありませんでしたが、しかしそれは今は大した問題ではありません。

 一体一体がミユとイリヤスフィール二人がかりで倒さなければならない英霊が五十体以上。単純計算で一人につき十体の英霊。しかも数で劣っているのに囲まれているという最悪な状況です。

 

 

「くっ、まさか蒼崎君までこうなるとは‥‥! このままだと的にされるわよ、包囲を突破するわ! 火力を一点集中! イリヤ、ミユ、士郎、ルヴィアゼリッタ!」

 

 

 ポケットから宝石を取り出すと思しき音と共に聞こえてきたミス・トオサカの声に、不本意ながらも私もドレスの胸元から大振りの宝石を取り出し、蹲ったままのショウの腕を無理矢理取りました。

 体重で遙かに負けている私ではありますが、魔力で僅かに体を強化すれば男一人引っ張るぐらいは訳ありません。心配げにしている隣のミユにショウを任せるように目で合図すると、腕に力を込めて何とか友人の意外に広い肩を自分の肩へと担ぎます。

 

 

「ショウ、行きますわよ! なんとか歩いて下さいませ!」

 

「——————」

 

 

 ‥‥こちらの方が身長が小さい分、背負いやすいですわね。っと、今はそんなことを欠片でも考えている場合ではありませんわ。

 前方やや左と右でミス・トオサカとシェロが走り出すのを横目に見ながら、私は足にも魔力を回して力強く大地を蹴ったのでした。

 ‥‥相も変わらず焦点のはっきりしない瞳のまま、急かされるように、脅迫されているかのように何事かを呟き続けるショウの顔を私のすぐ横に感じながら。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「———つ———ぁ———」

 

 

 ‥‥意識が、混濁している。まるで泥の中に使っているかのように体が重い。伸ばした手も泥の中で、いくら藻掻いても掴めるものを何一つ見つけることができなくて、ただひたすらに溺れていく感触。

 底もなく、水面もなく、そんな場所で一人助かろうと藻掻き続けている。そんな苦しい感覚からゆっくりと浮上して、オレは自分が自分を認識出来ていることを確かめた。

 

 

「‥‥ゴホッ! ゴホッ! ゴホッゴホッゴホッ!!」

 

 

 次の瞬間、今まで一度だって経験したことのない咳き込みに襲われて、肺の中に残っていた少しの空気———もちろんこれはオレの気のせいだったとは思うけど———をあらん限りの勢いで吐き出してしまった。

 

 全く心構えとか覚悟とか無しに咳き込んだせいで胸が熱い。胸が痛い。いや、それだけじゃないぞ、体中が余すところ無く激痛に苛まれている。

 思考どころか、正常な判断力すら回らなかった。とてもじゃないけどそんな余裕は体の外にも中にも、どこにだって存在しない。

 ただ覚醒直後の頭に雪崩か津波か土石流かという凄まじい量を以て押し寄せてくる痛みや苦しみ、その他様々な出来れば一生でも遠慮したい感覚を必死で処理していくことに全ての余地を割いてしまっているのだ。

 しっかりと目を開けているはずなのに、瞳に写る景色は真っ白か真っ黒かの二択。激しく明滅してスパークして、まるでオレの眼球の目の前でパシャパシャとフラッシュを焚かれているか、いっそのこと剣山でも突き刺しているんじゃないかってくらいに物理的に痛い。

 学校の身体検査で全く異常を感知しなかったはずの耳だって、ガンガンと頭痛を表現していると思しき大太鼓の音だけを伝えてくる。ここが仮に渋谷や新宿や池袋のスクランブル交差点のど真ん中だったとしても、何も聞こえないだろうことは間違いないぐらいに。

 

 ‥‥体の感覚は、殆ど激痛しかない。それしかオレの脳には伝わってこない。暫く、少なく見積もっても三十分以上は唸り声ともつかないだろう唸り声を漏らしていると、なんとか痛み以外にも気を配る余裕が生まれてきた。

 とはいっても余裕が生まれてきただけで相も変わらず目には明滅する白黒しか写ってくれないし、耳はトンネルに電車が入った時のようなゴーッという音が聞こえるだけ。どうやらオレの体はいつの間にか気がついたらポンコツ以下の以下になってしまっていたらしい。

 とりあえず分かったのは、オレは自分の体を全く制御できないということだけ。動かせば今の状況を更に越える激痛に苛まれるだろうことは明確なんだけど、まず動かすという選択肢がない。動かしたくない、じゃなくて動かせないのだ。

 まるで体の中に五つの股がある人型みたいな鉄の棒が指し込まれているかの様。それで固定されているから手足はおろか頭すら動かせないんだなんて言われても、今の状況なら納得してしまうんじゃないか?

 いや、むしろこれならセメントで固められているって言われた方が納得できるかもしれない。本当に、最初に目と口を思いっきり開けた以外には一切体を動かすことができないんだから。

 

 ちなみに“動かせば”って言ったけど、もちろん激痛は全く和らいでいない。微妙に痛みに慣れたから生まれた余裕であって、痛み自体は最初に絶叫を上げ———ようとし———た時から殆ど変わっちゃいないのだ。

 上手く伝えられるか分からないんだけど、全身を鋸引かれて、バーナーで炙られて、隈無く針で刺されて、あげく俎板の上に置かれて包丁の背かハンマーでタタキにするみたいに容赦なく叩かれているって言ったら想像できるかな? ‥‥うん、まぁ無理だろうね。

 実際こうやって必死に耐えてるオレとしても、多分こりゃ痛みが酷すぎておかしなこと考えてるだろうなーって思うんだから。なまじっか微妙に余裕が出てきたからこそ精神の均衡を保つためにおかしな電波を自分自身で発しているんだろう。

 

 

「—————?」

 

「———ぇ?」

 

 

 と、しばらくのたうち回ることすら出来ずにひたすら激痛や衝撃に耐えていると、ふと何か、そう、空気の震えのようなものを体に感じた気がした。

 脳に届けられるこの酷い激痛から鑑みるに、おそらくオレの体は全身傷だらけで見るも無惨な姿と化しているのだろう。きっとその分だけ微妙に肌の感覚が鋭くなっているのだ。

 まるでスピーカーの表面を触ったかのような感触に思わず疑問の声———であったと声を発したオレ自身は思うんだけど———を発するけど、自分の声ですら聞こえたかどうかはっきりしないぐらいに不確かだった。

 

 

「や———起き———、———で眠り———いるつもり———ったぞ」

 

「‥‥あ、う‥‥っあ‥‥」

 

 

 何位とか激痛を脇に置いて意識の数分の一かを体の外側に集中させてみれば、オレの体を震わせたそれは人の声を発端とする空気の振動だった。

 続けて何か、先程の声を発した誰かが何かを言っているみたいなんだけど、残念かつ申し訳ないことに俺も内容まで詳しくヒアリングが出来るほどには回復していない。何かを喋っていても、何を喋っているかまではさっぱりわからないのだ。

 動かない首を必死に曲げて声のする方向を向こうと努力してみたけれど、すぐに激痛が物理的にオレの動きに制約を加えていることに気がついて諦め、何とか声を発して言葉に割り込むことで意志を伝えようと頑張ってみる。

 それでも最初の数回の試行では全く声どころか音にもなってなかったらしく声の持ち主は喋るのをやめてくれなかったけど、多少の激痛を我慢して無理矢理に叫ぶぐらいのつもりで声を発すると、ようやく気づいて近寄ってきてくれたようだ。

 

 

「———んだ、声が出せないのか? ‥‥まぁ当然だな、あれほどの怪我ならばそんな状態でも仕方があるまい。というか私が治療してやるまで保ったことすら奇跡と言っても過言ではないな。お前、随分と運が良いぞ」

 

 

 おそらくオレは台のようなものに寝かされているのだろう。ベッドにしてはクッションが効いてないし、ソファにしては凹凸が無さ過ぎる。自分の惨状と照らし合わせて、真っ先に思い浮かんだのは病院の手術台だった。

 声の主はオレの必死———もう何回使ったか分からないけど、これ以上にオレの頑張りを上手く形容する言葉が見あたらない———の懇願に気づいてくれたらしく、ゆっくりながらもこちらのすぐ横、下手すればオレの腕と触れ合うだろう距離まで近づいてくれる。

 ‥‥どちらかといえばキツめな印象を受けるけど、老成した雰囲気を漂わせながらも若いという矛盾した声色は女性のものだ。看護婦というよりは、女医さんかな?

 

 

「———せん、貴———けて———んですか?」

 

「あぁ無理はするな。自分でも気づいてるんだろうが、今のお前は声を出せるような状態じゃないぞ? 無理をして死ぬのはお前の勝手だがな、わざわざ助けてやったんだから私の暇つ———用事には付き合ってもらいたいものだ」

 

 

 ギシリ、と何かが擦れるような音がした。多分、オレの隣で声の主たる女医さんが椅子にでも座ったんだろう。生憎とまだ首を動かすことができないからしっかりと確かめることはできないけど、多分近くに机でもあるんだろう。書類をめくるような音も聞こえてきた。

 ‥‥それにしても不思議な病院だ。普通こういう患者っていうのはクッションの効いたベッドにでも寝かせるものじゃないかな? あまりクッションのない作業台は背中が痛いような気がするけど、うん、そもそも背中も傷だらけに違いない。

 

 

「‥‥ふむ、意識が覚醒しただけでまともに会話を交わすまでには程遠い、か。コミュニケーションが可能になるまでもう少し時間がかかりそうだな。私はコーヒーでも飲んでくることにしよう」

 

 

 ギシリ、とまたもや安物と思しき椅子の軋む音がして、女医さんが椅子から立ち上がった気配がする。その途端、もういい年とまでは言わずとも自立した精神を持っているはずのオレは、例えようもないほどに強烈な“寂しい”という感情に襲われた。

 まるで随分と昔、それこそ小学生だった頃に風邪をひいて、看病を中断して家事に戻ろうとする母親を引きとめたように、寂しさに急かされるままに手を伸ばそうとして‥‥当然ながら体がまるで主の言うことを聞きはしないことを思い出す。

 ああ、なんて無様。結果としてはいい年をした男子高校生が子供のように見ず知らずの他人に縋るなんて無様を見せずには済んだけど、それでも情けないことには違いない。

 

 

「ほう‥‥。いやいや、そうしてやりたい気分ではないのでな。我慢しろ、いい大人だろう」

 

「———ぁ———ぅ———」

 

「‥‥ふっ、心配せずとも暫くしたら戻って来てやる。それまでに精々話せるぐらいまでには回復しておくことだな」

 

 

 間違いなく、女医さんは意地悪な笑顔を浮かべたに違いない。椅子を立ってからわずかに数歩だけこちらに近寄ってオレの様子を見たような気配がした後は、その気配はまっすぐに向こうの方に歩いてドアを開けると部屋から出て行ってしまった。

 残念なことにオレの欲求はしっかりと見透かされてしまっていたようだ。多分、結構若い人だったように思えるんだけど、随分と落ち着いた声の人だったように思える。

 

 ‥‥それにしても、やっぱり人気のない室内は気持ちが落ち着いて来た分やけに寒々しくて寂しい。やっと自分の体の外にも意識を向けられるようになったからか、シンと静まりかえった部屋の中は一つの世界のように感じられた。

 そしてオレは、その一つの世界の中に一人だけで寝っ転がっているのだ。眼球を裏側から押し出されるような、体と意識が拡散していく不思議な感覚。そしてオレ自身が拡散していくその感覚は、結局拡散したところで誰にも遭遇出来ないが故に、孤独感を増していく。

 体を動かせないからこそ、意識ばかりが強調される。あまりの孤独感にひとりでに涙が流れるのを感じてしまった。

 

 気がつけば、真っ白と真っ黒を繰り返していた視界も段々と元の能力を取り戻してきていた。端っこから順番にぼやけて見えるようになった視界が、徐々に明確なものへと変わっていく。

 はじめに目に入ったのは、当然ながらもはや言及する必要すら感じない程に知らない天井。何の色気も装飾もないコンクリートの天井に、古くさい蛍光灯が幾つか下がって頼りない光を放っている。

 流石に首を回すぐらいまでに回復はしてないから部屋を隈無く眺めることはできないけど、少しだけ鼻に注意してみればどこはかとなく埃っぽい。おそらく古い病院なのだろう。衛生管理が心配だ。

 ていうか病院ってもっとこう、清潔な匂いがするものじゃないのかな? なんていうか、消毒液っぽい匂いは確かにするんだけど、それに混じってニスとかそういう塗料系の匂いもあるんだよ。

 

 

「———ぁ———うぅ———いぇあー‥‥うん、なんとか、声も、出せるようになった‥‥かな‥‥?」

 

 

 頑張るたびに律儀にも喉や胸や顔に痛みが走るけど、これまた痛みを我慢して唾を飲み込み続けたおかげか漸く声が出せるようになってきた。

 それにしても酷い。掠れてるのはまだしも、喉を完全に痛めてしまったのか普段の声よりも数段高い。それも声の感じがナチュラルで、まるで声変わりする前の子供みたいな声だ。

 というか声を出してはっきりしてきたんだけど、体全体の違和感がハンパじゃない。怪我のせいか、すごく強ばっているのか、とにかく動かしづらいという意識があるのだ。‥‥動かせないけど。

 

 

「‥‥ふぅ、一体何がどうなってるんだ? ていうか、ココ何処? さっきから不思議だったけど、冷静になってみれば病院なんかじゃないよなぁ‥‥?」

 

 

 ちらりと目だけを動かして周囲を確認してみる。当然ながら台の上に寝かせられている俺では限られた範囲しか目に入らないんだけど、それでもこの部屋が病院でないことは暫く観察すれば気がついた。

 狭いわけではないんだけど、少なくとも決して病室ではない。壁には本棚の他に工作に使うような道具を並べてある棚もあるし、何より全体的に微妙に汚らしい。

 オレは基本的に健康体だから病院のお世話になったことは数える程しかないんだけど、それでもココが病院でないだろうことは分かる。だとすれば‥‥何処だ?

 

 

「何にせよ先ずはさっきのお姉さんに言われた通り、体を休めるのが———」

 

「姉貴ー! あの子起きたってーっ?!」

 

「———ってうわぁ?! なんだなん‥‥ゴホゴホゴホッ?!」

 

 

 と、自分の心を落ち着けるためにも静かに独り言を呟いていた俺の声を遮るかのように、壊れるどころか粉砕されてしまうんじゃないかという程に大きな音と共に扉が開かれ、驚きのあまり体を起こしてしまったオレは猛烈な激痛と咳き込みに襲われることになった。

 

 

「って、うわぁーーー?!」

 

「‥‥あら、大丈夫?」

 

「———ッ———ッッッ!!!」

 

 

 ‥‥襲われることになった、なんてレベルじゃない。痛みで制御が出来ない体で無理矢理起き上がったらどうなるか‥‥答は簡単だ。

 見事にバランスを崩したオレは意外にも狭かったらしい台から見事に転がり落ちて床へとダイヴ。結果として先程を遙かに超える激痛に苛まれることとなる。

 悶絶なんてもんじゃない。声にならない叫びを通り越して、今度こそ肺の中の空気を全て吐き出してしまった。空気の次は魂だ。力の限り痛みを処理するために口から固形物でも液体でもないものを色々と吐き出した。

 

 

「うーん、びっくりさせちゃったかな、君?」

 

「‥‥い、いえ、大丈夫、です‥‥!」

 

「全然大丈夫って顔してないわよー? 強がっても痛いもんは痛いでしょ。ましてやそんな酷い傷なんだもの。どんなに怪我に慣れた人だって涙が出るのは仕方ないわ。まぁ個人的には、強がってる男の子って嫌いじゃないけどね」

 

 

 落ちた時の反動か、不思議と体は激痛を我慢すれば何とか動くようになってきた。

 床に足を投げ出した状態で声のする方を見上げてみれば、そこには蛍光灯の明かりを反射して赤みがかってみえる茶色の髪を長く伸ばし、それを無造作に背中の方へと下ろした一人の女の人。

 ‥‥すっごい美人だ。気が強そうなんだけど、どっちかっていえば清冽な印象を受ける。多分、すっごく性格が悪くてすっごく気持ちの良い人だ。矛盾してるけど、きっとそうだという印象を受けた。

 あ、あとすっごく背が高い。そこまで背が高い方だとは思ってはいないけど、それでも百七十センチには届くというオレが座り込んでいて、首を———通常の状態に換算して———痛いぐらいに曲げなきゃ顔を合わせることができないぐらい。

 

 

「ホラ、今はそこでじっと休んでなさい。寝っ転がってるのが辛いんなら大人しく座っていても体は休息を取れるんだから」

 

「え? えぇ?!」

 

 

 そして次の瞬間、その女の人は驚くべきことにひょいっとオレの両脇に手を指し込むと、如何にも軽々と標準的な男子高校生の体を持ち上げて先程までオレが寝ていた台の上へと持ち上げたではないか。

 ‥‥いやね、別に痩せても太ってもいないけど、それでもさっきから何度も繰り返しているように俺は平均的な男子高校生だ。とてもじゃないけど、一見して華奢な体つきをした女性に軽々と持ち上げられるはずがない。

 この人、どれだけ力持ちなら気が済むんだ? すっごくスレンダーなモデル体型にしか見えないんだけど、もしかして実はウェイトリフティングの女子オリンピック代表だったりするんだろうか?

 

 

「ちょっと、今すっごく失礼なこと考えなかった?」

 

「い、いえそんなことはありません! あの‥‥ところで突然すみませんが、オレはどうしてこんなのところに?」

 

 

 ぐりぐりと頭をわしづかみにされて前後左右に揺すられる。また発見なんだけど、この女の人ってば手もすっごく大きい。

 ていうか首が痛いから止めて欲しいです、ホントに。

 

 

「あぁ、君はココの近くに傷だらけで倒れてたのよ。だから私が君をこの部屋まで運んで———」

 

「———おいこら、治療してやったのは私だし、見つけたのも私だろうが。本人がいないのを良いことに何を吹き込もうとしている? というか何時の間にこっちに来てたんだお前は?」

 

 

 ニコニコしながら自己紹介しようとした女の人を遮るように扉が開き、そこから先程の、オレが目を覚ました時に一緒にいてくれた女医さん(仮)が入ってきた。

 こちらも想像に違わぬ美人。そして声から受けた印象と同じく、全体的に鋭利な印象をこちらに植え付ける容姿をしている。

 細められた目は鋭く、オレンジ色というよりは橙色の髪の毛は後頭部の上の方でポニーテールにまとめられている。若々しい髪型だというのに、この人に関しては妖艶なぐらいに似合っていた。

 そういえば二人とも来ているのは非常にシンプルな服装だ。片や真っ白のTシャツで、片や同じく白いYシャツ。かといって素材というか、この人達自身が今までテレビや雑誌も含めて見たこともないぐらいの美人だから余計な装飾は必要ないのかもしれない。

 

 

「あら、嘘は言ってないわよ嘘は。だって玄関のところからこの部屋までこの子を運んで来たのって私じゃない?」

 

「本当のことを言っていれば何でも許されるわけがないだろうが戯け。というかだな、こんなどうでもいいことでこっそり手柄を取ろうとするんじゃない。思わず文句を言った私が情けなくなってしまうじゃないか」

 

 

 仮にも病人、怪我人の前だというのに、女医さん(仮)は事前に宣言していたコーヒーカップではなく火の点いた煙草を片手に持って立っていた。そういえばこの部屋も何処はかとなく煙草臭い。どうやら相当なチェーンスモーカーなんだろう。

 不機嫌そうな顔も、正直に言えば見惚れるぐらいに綺麗だ。美人が二人。思わずぽかーんと口を開けてしまっても仕方がない。そうだろ?

 

 

「‥‥さて、先程の話の続きだが———まずはお前自身に問おうか。自分に何が起こったのか、覚えているか?」

 

「え‥‥オレは、確か‥‥」

 

 

 女医さんの言葉に痛む頭を抱えて考え込む。そういえば何故、オレはこんな傷だらけで見知らぬ場所で寝っ転がっていたんだ?

 ‥‥そう、確かオレはあの日、クラ———んなと———ンに行———して———に乗———

 

 

「———っあ———?!」

 

 

 意識上ではほんの数時間前のことを思い出そうとした途端に、突如、オレの頭を猛烈な痛みが襲った。それこそ先程までの体の痛みなんてものじゃない程の激痛。頭が割れる、なんてもんでもない。破鐘が鳴るとかいう表現もあるけど、とてもじゃないけど形容するには桁が二つ以上は足りない。

 まるで頭の中で岩を削り出す時に使う発破を連続で何発もぶっ飛ばされてるみたいだ。まともに立ってもいられない。オレは今までの学習すら役に立たない激痛をバネみたいに体を伸ばして衝撃を少しでも和らげようとして———

 

 

「‥‥ふぅ、やはりか。どうやら何かのショックで記憶に混濁が見られるな。落ち着け、無理に思い出すと頭がおかしくなるかもしれんぞ」

 

 

 もう一度台から転がり落ちようとするところを、今度はすっと近づいてきた女医さんの方にしっかり受け止められた。

 煙草の匂いに紛れて、どこか落ち着く上品な匂いがしてくる。包まれるような感覚と命令のような口調に反して語りかけてくるような優しい声に、オレは即座に数時間前のことを思い出すのを止めて、ただ目を閉じて温もりに身をゆだねた。

 

 

「そうだ、思い出すな。今のお前には負担が強すぎる。焦るな、直に思い出せるようにもなるさ。まだ必要のない記憶だ、気にすることはない」

 

「う‥‥あ‥‥!」

 

「あらあら、姉貴ってば興味無さげに見えてやるわねー。しっかり餌付けしちゃってるじゃない、やらしーこと」

 

「よし、さっきは諦めたが今すぐにそのよく回る口を縫いつけてやる。顔を出せ」

 

 

 頭の上の方で物騒な会話がする。そういえばこの女医さん改め橙色のお姉さんも中々に体が大きい。オレをすっぽりと抱きしめられているんだから間違いなく二メートルは超えてるぞ。

 そんなともすれば失礼な考えがバレてしまったのか、橙色のお姉さんはフンと鼻で息をつくとオレを引きはがして再度作業台のようなベッドへと俺を座らせた。

 ‥‥あれ、やっぱりおかしいぞ。どうにも視界が普段と違う。例えるならばそう、誰かの悪戯で部屋の中の何もかもがいつもよりも1、5倍の大きさに設えられたような感じだ。

 

 

「さて、落ち着いたところで自己紹介をさせてもらおうか。‥‥一度しか言わないからよく聞いておけ」

 

 

 ニヤリ、と意地悪な笑みを浮かべた橙色のお姉さんがいかにも楽しげに口を開く。オレの背筋を何故か、とてつもない悪寒が隈無く駆けめぐった。

 それは今からオレの身に何かが起きる、とかいう悪寒じゃなかったと思う。不思議な話ではあるけれど、その時の俺は悪寒の種類というものをしっかりと判別していたのだ。

 どちらかといえば、そう、今の自分の状況を、正に“知らぬが仏”状態であった自分の状況を無理矢理に外部から自覚させられてしまうような悪寒。そんなものだったと思う。

 そしてまるで予定調和の如く、次に二人の女性から放たれた言葉もまた、オレの悪寒を証明するかのようなトンデモないものであった。

 

 

「私の名前は蒼崎橙子。封印指定の、人形師さ」

 

「んで私が一応その妹で、蒼崎青子。第五の魔法使いって、言わなくても君なら気づくかしら?」

 

 

 ‥‥嗚呼、この時のオレの心境をどう表現すればいいのだろうか。

 例えば現実的な非日常から覚醒した次の瞬間にどうして名前と容姿と仕草だけで非現実を自覚することが出来たのか、なんて実際にそういった状況を体験したことのない人は言うかもしれない。

 でも後になって考えてみれば、それも当然のことなんだ。なにせその時のオレは後に姉と呼ぶことになる二人によって記憶を穿り返された後で、“そういった”記憶が魂において記憶が記録される領域の表層に出てきていた状況だったのだから。

 

 あれが俺の新しい人生の第一歩。本当に第一歩だって言える出来事は皆も分かってるとは思うけど———面倒だから公言してしまえば、俺が二人の義弟として迎えられた時かな———また別にある。

 それでも俺がこの世界で暮らすようになった発端ではあるんだ。こちらに来る原因となったアノ事故もまた発端なのかもしれないけどね。俺としてはやっぱり、この世界での俺を象徴する義姉二人との出会いをこそ発端と言っておきたいのかもしれない。

 だって多分、今の俺を構成している大部分はあの二人によってもたらされた、いや、もたらしてくれたものだ。二人がいなきゃ俺はいないし、それは多分、俺というパーソナリティの崩壊だ。ありえん、想像できん。

 

 ‥‥はぁ、うん、まぁ認めるしかないんだろう———って今更かもしれないけど、これは確かなことなんだ。

 俺にとって義姉達は絶対の存在で、義姉達の言いつけともなるとソレはもはや神からの託宣に近い。絶対、なんてもんじゃない。それは俺にとっての行動原理だ。

 だからこそ、俺は絶対に二人の言いつけを破っちゃいけない。何があっても守らなきゃいけない。

 

 

 

 

『あぁ紫遙、これはお前も分かっていることだとは思うが、何度言いつけておいても足らないということはないからもう一度言っておく。

 

 ‥‥お前の記憶、絶対に誰にも知られるなよ。

 

 お前の為でもある。それが知られたら、お前はこの世界以上の神秘を宿す身として生け捕りにした真祖なんてものを越える絶好の研究対象だからな。

 

 だがな、言い方は悪いが、そんなことは大したことではない。実際問題として、そうなってしまったら私達が全力でお前を守ってやる。———おい、何を嬉しそうに笑ってるんだお前は? 真面目な話をしているんだぞ、分かっているのか?

 

 ‥‥いいか、その記憶、他の世界の実在を証明するその記憶はな。

 

 一度お前の外へと流れてしまえば、もはや世界を蝕む毒素となる。冗談抜きに世界が滅ぶ。第六法の発現だ。

 

 そうなれば、もはやお前はまともに生きること適わん。今までお目こぼしをくらっていたが、世界の敵と判断されて問答無用で排除されかねんぞ。

 

 ———だから守れ。絶対に、必ず記憶を守り通せ。いいか、わかったな紫遙?』

 

 

 

 

 62th act Fin.

 

 

 

 




まだまだ何が何やら、詳しい説明も出来ていませんが、それは次話にて言及していきたいと思います。
とりあえず冬霞はここまで辿り着けたことで感無量です。今までの六十余話が、ついに終着に向けて動き出す‥‥!
この調子で執筆頑張っていきたいと思います。どうぞ今少し、簡潔まで、応援宜しくおねがいします!!


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第六十二話 『漂着者の異常』

 

 

 

 

 side Rin

 

 

 

「‥‥ルヴィアゼリッタ」

 

「ミス・トオサカ‥‥。イリヤスフィールの様子はどうですの?」

 

「学校には行ってるみたいね。家にはいなかったわ。そっちこそ、美遊から報告はあったのかしら?」

 

 

 昨夜のアサシン戦を終えて翌日。私とルヴィアゼリッタは嫌々ながらも通っていた穂群原学園高等部の授業を休み、ルヴィアゼリッタが一夜で冬木に作り上げた屋敷へと来ていた。

 残念ながら並行世界の同一人物が目の前の家に住んでいる士郎は休み。遠坂の屋敷で大人しくしてもらっている。下手に動き回って士郎が二人いるとか妙な噂が湧いて出たら困るものね。

 ‥‥これは不思議なことではある。この世界の私とルヴィアゼリッタは倫敦にいるのか蒸発してしまったのかは知らないけど姿が見えない。にも関わらずルヴィアゼリッタが並行世界にいるということに気づかずに呼び寄せた執事やメイドは変わった様子もなく彼女に仕えているのだ。

 つまり、おそらくこの世界の彼女はルヴィアゼリッタがやろうとしていた行動を同じように、彼女と同じようにやろうとしていたということを指すと思う。つまり、おそらくは私を含めたこの世界の二人は、私達と入れ違いで私達の世界、ないしは別の世界へと迷い込んでしまったのではないか?

 

 

「‥‥定時連絡も事務的なものでしたわ。動揺していないはずはないのですが、少なくともパニックに陥っているということではないようですわね」

 

「そう‥‥。はぁ、参ったわね。なんでこう面倒なことが一度に集中して起きるのかしら? イリヤスフィールのこともそうだし———蒼崎君も、ね‥‥」

 

 

 ‥‥昨夜のアサシン戦。万全の準備をしてから臨んだはずのソレは、生半可ではない確実な予想もひっくり返す尋常ではない展開になった。

 侵入した鏡面界に、一向に現れないサーヴァントの姿。次の瞬間、崩れ落ちる蒼崎君。イリヤスフィールが受けた奇襲と、第五次聖杯戦争のサーヴァントではないどころか、軍勢で現れたアサシン。そして‥‥イリヤスフィールの暴走。

 

 昨日、蒼崎君が原因不明の異常を来した後、私達は完全に包囲されてしまった状況を打開しようと一点集中突破を試みた。

 惜しげもなく魔力を込めた宝石を手にし、私とルヴィアゼリッタを戦闘に士郎と美遊とイリヤスフィールが後に続く。宝石魔術は発動が速いから、私達の爆撃を切り口に包囲を切り開くつもりだったのだ。

 ‥‥だけど、そこでもう一つの異常の糸口が現れる。最初にイリヤスフィールの首を襲っていた短剣。当然予想してしかるべきことだったはずだけど、その短剣には毒が塗られていた。

 仕込まれていた毒は致死性のものではなく、ただ体を痺れさせるだけのもの。ただし効果は強力で、影響は体だけじゃなく魔術回路にも現れる。

 魔力の運用を阻害されてしまったイリヤは魔力循環に淀みが生じ、物理保護の維持が不可能に。それこそがアサシン達の狙いだったのだ。‥‥無数の短剣が、無防備になったイリヤ目がけて放たれた。

 

 

「‥‥あれは、いったいどういうことだったのかしらね」

 

「魔力循環がストップしてしまっていた以上、ルビーからイリヤスフィールへの魔力の供給は行われていなかったと考えるのが自然ですわ。となると、あの爆発はイリヤスフィール自身が持っていた魔力で発現されたと見なすのが妥当でしょう」

 

 

 その直後、絶体絶命、王手をかけられた王将の如く詰みの状態だったイリヤスフィールから迸った光の奔流。アーチャーの“壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)”をも遥かに超える圧倒的な破壊力を持った爆発。

 森の一角を完全に焦土と化したその爆発は私達をも巻き込んで、一体一体がまがりなりにもサーヴァントであった五十体を超えるアサシンの軍勢を、一瞬で吹き飛ばしてしまった。

 繰り返すけど、アレはまがりなりにも一体一体が掛け値なしの英霊だ。そりゃ軍勢なんてワケのわかんないものだった以上は他のサーヴァントに比べて能力が劣るかもしれないけど、それでも普通の人間や魔術師では太刀打ちできない存在であることには違いない。

 ‥‥その英霊を五十体以上。一度に倒してしまったのだ、イリヤスフィールは。

 あの爆発は間違いなく宝具クラスの破壊力を持っていた。しかも神秘抜きで。つまり、あれは純粋な魔力の放出。魔力量だけで宝具に匹敵する攻撃を成し遂げたということになる。

 

 十年間魔力を貯め続けた私の宝石で神秘を有さない威力に換算してAクラス。それでも家を一軒吹き飛ばすのが精一杯だ。

 一方、昨夜イリヤスフィールが起こした爆発は半径にして三、四十メートル。ランクに換算すればA+、下手したらA++に達するんじゃないだろうか。もちろん純粋な魔力攻撃だから実際の威力はといえばどうとも言えないのだけれど。

 

 

「ミス・トオサカ、この並行世界の彼女の家は魔術師ではないと仰ったのは貴女でしょう? あれは一体どういうことですの?」

 

「私だってさっぱり分からないわよ。‥‥でも“あの”アインツベルンの家名を持っていて、“あの”イリヤスフィールの名前だったんだから、何かあるっていうことぐらいは予想していたわ。これは別に驚く程のことじゃないわよ」

 

 

 そうだ。いくら並行世界であるといっても、遠坂とエーデルフェルトが魔術師の家だったというのにアインツベルンだけがそうじゃないなんてわけがない。魔術とは連綿と受け継がれていくものなのだ。アインツベルン千年の歴史が蒸発してしまうわけがない。

 あの家の住人を全員調査したけれど、魔術師だったのは一人もいない。だけど魔術師が魔術師を調べられるということが常識であるならば、自らの存在を知られたくないものが対抗策を講じるのもまた常識。

 何かマジックアイテムをつかったり、私でも探知できないような結界を張ってカモフラージュしているという可能性もある。とにかくアノ家に何かあるのは間違いないのだ。

 

 

「しかし当人に自覚がないのもまた同じ、ですわね。昨日の様子だと隠していたということもなさそうですし」

 

「‥‥使い魔に偵察させてみたんだけど、随分と参ってるみたいね。授業中も上の空よ、あの子。しかも後ろの席の美遊からプレッシャーがかかってるし‥‥まったく、子供は悩んでばかりいないで大人に相談すればいいのに」

 

 

 あの爆発の後、すぐに鏡面界から離脱してしまったイリヤスフィールは今に至るまで私達とは顔を合わせていない。学校には普通に行ってるから簡単な使い魔に監視させてはいるけれど、かなり鬱ぎ込んでるところ以外は普段と同じ生活だ。

 ルヴィアゼリッタの言う通り、昨日逃げ帰ったイリヤスフィールの様子から察するに彼女が以前から自分の力、自分の身に秘められた魔力に気づいていたという線は薄い。

 となると彼女について色々と思うところがあるのは私達やイリヤスフィール自身ではなくて、この屋敷の目の前の家に済む、アインツベルンの人々だろう。

 何かしら、イリヤスフィールにも隠している事実があるに違いない。今はここにいない父親、母親が一番怪しいだろうけど、少なくともメイド二人は色々と知っているはずだ。

 とはいえ———

 

 

「‥‥今はたいした問題じゃないわ。いえ、問題といえば確かに問題なんだけど、少なくとも私達が関与することじゃないわね」

 

「そうですわね。今は残り一枚となったクラスカードを回収し、私達の世界へと戻ることが最重要課題ですわ。そのためにも何とかしてイリヤスフィールを説得し、バーサーカー戦に、せめて倒す直前ぐらいには鏡面界にいてもらわないと‥‥」

 

 

 私達が元の世界に戻るためには、二本のカレイドステッキと、それを所持するマスターが必要となる。ゆえにイリヤスフィールには最低限でも私達が鏡面界から元の世界へと戻る時にはそこにいてもらわなくちゃならない。そうじゃなかったら私達は帰れないのだ。

 ‥‥でもまぁ、これも後回しにしましょう。早ければ今夜にでも最後のサーヴァント、バーサーカーが現れる可能性が高いけど、それでも今は他に解決しなきゃならない問題があるわ。

 

 

「‥‥で、ルヴィアゼリッタ。“そっち”の方の様子はどうなの?」

 

「‥‥全く、どうしようもありませんわね。昨日屋敷に帰って来るまでずっとあの調子で私や美遊の呼びかけにも殆ど反応してくれませんでしたし、帰ってきてからは自分の部屋にこもりきりですわ。朝食もとっておりませんの」

 

 

 おおまかに三秒ぐらいは続いた長い長い溜息をついて、ルヴィアゼリッタは私の問いかけに頭を振る。それを聞いた私も、そっくり同じように溜息をついて返してみせた。

 ‥‥そう、これが私達に与えられた目下の大問題。昨日、鏡面界に侵入した直後に異常を来した蒼崎君に、何がどうなったかを問い詰める、ないしは説明してもらうことだ。

 あの時の彼の様子は、一年にも満たない短い付き合いの私達にでも明らかにおかしく見えた。あの焦り方、怯え方は尋常なものじゃなかったもの。

 

 

「ルヴィアゼリッタ、貴女は何かあれの様子について心当たりがある? 蒼崎君じゃなくても、あんな怯え方をするなんてとても普通じゃないもの」

 

「残念ながら、全く心当たりがありませんわ。そもそもショウはああ見えて弱みを他人に知れないように振る舞う人ですし、今までだってあんな風になることはありませんでした。精神が不安定、なんてことも記憶にはありませんわ」

 

「そうなのよ、私から見てもそうなのよね‥‥。いったいどういうことかしら、外的には何か体に攻撃を受けたようには見えなかったから———考えられるとすれば、鏡面界に侵入するときに何か精神に異常があった、ってところかしら?」

 

 

 見た感じ、蒼崎君が鏡面界への侵入によって何かを感じたことは間違いない。そうでなければあのタイミングであの反応をすることに説明がつかないのだ。

 ‥‥そういえば私や士郎も鏡面界に侵入する時には何かしら異常を来したことがあったわね。もっとも士郎が目眩を起こした時は私は何ともなかったし、私の意識が一瞬、ほんの一瞬だけとんだ時にはルヴィアゼリッタは何もなかったって行ってるんだけど。

 もしかしたらソレが何かの糸口になっている? でもそうしたら妙よね。だって最初にアーチャーと戦った時も、ライダーと戦った時も、蒼崎君は異常を訴えたりしなかったわ。どうしてアサシン線の時だけああいう反応をしたのかしら?

 

 

「‥‥一つだけ、心当たりがないこともありませんわ」

 

「本当?!」

 

「えぇ。もっともこれは貴女に話していいことがどうかは分かりませんが‥‥」

 

 

 ぼそりと呟かれた言葉に私が飛びつき、ルヴィアゼリッタは珍しく、というよりはコイツらしくもなく、かなり心苦しそうに言葉を濁らせた。

 なんでもはっきりと口にするコイツにしては本当に珍しい。かなりの逡巡を経て、ルヴィアゼリッタは漸く決心したかのように顔を上げると話を始める。

 

 

「ショウにお姉様が二人、いらっしゃることはご存じですか?」

 

「当然よ。だって蒼崎君は“アノ”蒼崎よ? 封印指定の人形師、蒼崎橙子については時計塔にいれば嫌でも耳に入ってくるし、第五の魔法使いたるマジックガンナー・ミスブルーについては言わずもがな。有名すぎる姉二人じゃない」

 

 

 まるで私やルヴィアゼリッタの腕に刻まれている魔術刻印のように、魔法を自分の家の血脈に伝える特殊な一族である蒼崎家。魔術刻印のように血縁ならば必ず伝えられるというわけではないらしいけど、それでも魔法という規格外の代物を、こともあろうに“伝承”させるというのは極めて珍しい。

 そして今代の蒼崎家の当主が私の言及したマジックガンナー・ミスブルー。何故かフルネームで呼ばれることがない第五の魔法使いには姉がいて、それが封印指定の人形師である蒼崎橙子。

 この二人は色々と魔術協会でやらかしたことがある———というか妹の方は今でも度々やらかしているらしい———らしく、アオザキの名前は時計塔のなかでは忌み名にも等しき扱いを受けている。

 なにより魔法使いってのは世界に四人しかいないからね。そのうちで名前が表に出てきているのが私達の大師父であるシュバインオーグと蒼崎しかない以上、自ずと有名になるのは仕方がないことだ。

 

 

「‥‥実は、ショウは蒼崎の直系ではありません。いえ、蒼崎には傍流も存在しませんからそういう言い方はおかしいですわね。正確に言えば、彼は蒼崎とは何の関係もありませんわ」

 

「は? ちょっとルヴィアゼリッタ、ソレって一体どういうことよ?」

 

 

 秀麗な眉間に皺をつくったルヴィアゼリッタの言葉に、私は自分でも間の抜けたと分かる疑問の声を発した。

 これは結構度々話題に出るんだけど、私達の中では蒼崎君のシスコンぶりは非常に有名だ。何かにつけて『姉が姉が』と口に出す彼は紛れもなくお姉ちゃんっ子なんだろうと私も士郎もセイバーも話している。

 なにしろお姉さん達について口に出す蒼崎君は本当に誇らしげで、嬉しそうで、実際に妹を持っている私からしてみれば思わず嫉妬しちゃうぐらいにお姉さんのことが好きなんだと伝わってくる。あの照れくさそうな笑顔が偽物なんてはずはない。

 

 

「彼は‥‥養子なのです。蒼崎姉妹の義弟なのですわ」

 

「養‥‥子‥‥?」

 

「えぇ。十年余り前に上のお姉様に拾われて、それ以来彼女の義弟として育てられたと話してくれました。‥‥これを知っているのは私と貴女の他に、バゼットやロード・エルメロイ、後は諸事情からミユぐらいですわ。くれぐれも他に漏らしたりなさらないで下さい。理由は、おわかりですわね?」

 

 

 これまた珍しく私に対して真摯な口調で言いつけるルヴィアゼリッタに、私も真剣な顔を作って頷いた。一瞬驚いてフリーズしてしまったけれど、確かにこれは絶対に口外したりしてはならないだろう。

 こういうことを言うと失礼かもしれないけれど、蒼崎君は優秀な魔術師である一方で決して一流の魔術師ではない。天性の才能というものに欠けるのだ。

 魔術の構成は丁寧で精密だけど、逆に言えば丁寧過ぎる。詠唱も長く、効果が発揮するのにも時間がかかる。普通の魔術師ならすっ飛ばしてしまえるところも丁寧に実行しているといえば分かりやすいかもしれない。

 ‥‥その理由が今になって分かった。彼は初代の魔術師だから、家が積み上げたノウハウとか神秘とかを受け継いでいないのだ。

 

 魔術師の家が受け継ぐ神秘の中で最上級のものは———『伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)』であるバゼットは規格外だから除くけど———魔術刻印だ。先祖の研究成果を蓄えたそれは生きた魔導書と呼ばれることもある。

 知ってるとは思うけれど、基本的に魔術とは一子相伝が基本だ。神秘が拡散するから当然のことではあるんだけど、これは決して絶対の法則ではない。

 例えば不慮の事故で魔術刻印を受け継いだ跡継ぎが死んでしまったら? 魔術刻印は持ち主が死んでも別の人間に移植することが出来るけれど、他に魔術師のいない家はそこで終わってしまうのか? とんでもない話だ。そんなことを考えて、結構多くの家は予めバックアップを用意しておく。

 それが例えば第二子であったり、傍流の家からの養子だったりする。彼ら、彼女らは確かに魔術刻印を持ってはいないけれど、それでも家が連綿と受け継いだ特性を魔術回路に秘めている。

 言うならば魔術刻印もそうだけれど、親から、先祖から受け継いだ血もまた第二の魔術刻印といえる。魔術刻印を持っていない純血の魔術師と初代の魔術師にそれでも明確な違いが出る理由がこれだ。

 

 

「なんだかんだで蒼崎君は蒼崎の名前に守られてるものね」

 

「実際に私はミス・ブルーにお会いしたこともありますが、彼女はショウが義弟であろうと実の弟であろうと、彼に害なす者がいれば確実に報復に出るでしょう。ですが———」

 

「そういうことに気がつかないで、調子にのって蒼崎君に手を出す奴もいるってのが残念なところよね。知られないに越したことはないわ。わかってるわよ、これは私一人の胸の中にしまっておくわ」

 

 

 これは士郎にも言わない方が良いわね。アイツ、そういうところはしっかりと黙ってられる人間ではあるんだけど、いかんせん対魔力も低いし結構抜けてるところあるし。ましてや今みたいにそれなりの理由がないならば、こういうのは本人から聞いた方がいい。

 ‥‥うん、私も後で蒼崎君には謝っておこう。

 

 

「ですから、彼があれほどまでに取り乱すとなればそのことが関係しているに違いないのです。おそらく、お姉様方との間に何かの秘密があって、それにまつわる何かを揺さぶられたのかもしれませんわ」

 

「なるほどね。‥‥本当ならこういうのって本人が立ち直るのを待つしかないんだけど、今回ばかりはそううわけにもいかないわ。鏡面界に侵入したことで影響が出たっていうんなら、それは私達にも関係あることだもの。

 蒼崎君には悪いけど、ここは無理にでも説明してもらいましょう。そうじゃなかったらバーサーカー戦で何か起こるかも知れないし。‥‥ルヴィアゼリッタ、蒼崎君の部屋に案内して頂戴」

 

 

 本当なら私も行ったとおり、個人のプライバシーに関係するような出来事には不干渉を貫きたい。たとえば私だって■との関係について悩んでる時に周りからあれこれ言われたら腹が立つもの。

 でもルヴィアゼリッタにも言ったけど、今回の蒼崎君のあの異常は鏡面界への侵入が原因で発生したと考えるのが妥当だ。となると、次の侵入では私達にも影響が出るかもしれないし、それを解析していけばクラスカードや鏡面界に関する重要な情報を得られるかもしれない。

 となれば今は目前の重大な問題について対処するしかないんだから、蒼崎君には多少我慢をしてもらわなければいけないところだろう。たとえこれが原因で彼から嫌われるようにあったとしても、それでも私は自分の世界に戻るために彼から情報を聞き出さなければならないだろう。

 

 

「‥‥ふぅ、いいでしょう。貴女が来るのがもう少し遅ければ私から行かなければと思っていたところですわ。ですが勘違いしないで下さいませ。貴女にだけ泥をかぶせるわけにはまいりませんわ。今回の件については私も彼に対して責任を負わせていただきます」

 

「勝手にしなさいよ。要は蒼崎君からしっかりとした説明をもらえればそれでいいんだから」

 

「だから分かっておりますわ。‥‥彼に与えた部屋はこちらです。ついてきて下さいませ」

 

 

 一夜で建築したとは思えないほどにしっかりした作りの屋敷の中を、この屋敷の主であるルヴィアゼリッタの後について歩いて行く。

 壁も床も調度品も何もかもが超一流のものであることは、遠坂邸とて決して安い造りではないからこそ私にもわかる。まるでロンドンからエーデルフェルト別邸を持ってきたみたいだけど、当然ながらそんなことはないだろう。

 ‥‥今横切った時に会釈されたメイドには心当たりがあるわね。あれ、ロンドンのルヴィアゼリッタの屋敷にもいたメイドだわ。まさかと思うけど屋敷はともかく、使用人は全員連れて来たんじゃないでしょうね?

 

 

「‥‥ここですわ。昨日帰ってきてからショウはこの部屋から一歩たりとも出ておりませんの」

 

「はぁ、なんともまぁ部屋のドアからも陰気な雰囲気撒き散らしちゃって蒼崎君らしくもない。こんな暗いムード漂わせてたら士郎だって気づくわよ」

 

「残念ながら、一般人のはずのメイドも気づいておりますわ。皆、今日はこの部屋を避けて通りたがりますもの」

 

 

 屋敷の二階の長い廊下。その隅っこにある部屋の扉からは、まるで寄らば祟ると言わんばかりに陰鬱な雰囲気が触手を辺りへと伸ばしていた。

 魔術師だからこそこういう雰囲気に敏感だってことはあるんだけど、それでもここまでに鬱屈した感情を辺りに振り撒くなんて並大抵の落ち込み具合じゃないわ。っていうかコレもう落ち込んでるってレベルじゃない。下手したら自殺するぐらいの暗さよ?

 

 

「扉の鍵は‥‥開いてるわね」

 

「‥‥珍しいですわね。彼は鍵周りを疎かにしない几帳面な性格なのですが」

 

「それぐらい余裕がないってことでしょ。こりゃ一刻の猶予もならないわ。———蒼崎君、私よ。悪いけど入るわね!」

 

 

 ドアノブに手をかけ、機械的な鍵も魔術的な施錠もされていないことを確認し、ルヴィアゼリッタと共に蒼崎君の精神状況がもはや尋常ではないほどに余裕がない緊迫したものであると確認すると、私は有無を言わせずドアノブを握った手に力を込めると一気にドアを開け放った。

 

 

「———ってうわ?! なによコレは?!」

 

「煙‥‥ッ?! ちょっとショウ、これは一体どういうことですの! 窓! 窓をお開けなさい!」

 

 

 部屋に入った私達を最初に出迎えたのはプライベートに入りこまれたことを怒る蒼崎君の声でも目でもなく、一面に質量を持つかという程に立ち込めたタバコの煙だった。

 あまりの濃さに、目をつむっても顔にかかる煙を感じることが出来る。とっさに鼻と口で息を止めたけど、それでも嗅ぎ取れた匂いはとても形容しがたいぐらいに色々なものが混ざったカオスなものだ。

 幸運なのか不幸なのか私は今まで数える程しか煙に触れたことがなかったから、目をつむって口をつぐんでも尚、盛大に咽せ込んで涙を流してしまった。

 

 

「‥‥ん? あぁゴメン二人共、煙草吸わない人にはちょっとキツイかな?」

 

「ちょっとじゃないわよ! こんなの十人で同時に煙草吹かしたってなる状況じゃないわよ?!」

 

 

 ゲホンゲホンと恥も外聞もなく咳き込みながら怒鳴りつけると、いつもと同じような苦笑を浮かべた蒼崎君は部屋の窓を開け放つ。

 窓を開けた瞬間、部屋の中を真っ白に、どちらかといえば灰色に染めていた質量を持った煙は、まるで蒼崎君の発していた陰鬱な雰囲気から逃げるかのように、一目散に部屋から外へと出て行った。

 ‥‥そう、一見していつも通りに見える蒼崎君だけど、その実、放つ雰囲気は先程扉の外で感じたものとまるっきり同じ。笑顔でいながらズッシリとこちらにまで重みが感じられるような暗いオーラを放ち、撒き散らしている。

 ここまで来ると逆に悲愴感すら滲み出ている。とてもじゃないけど見ていられない。私はルヴィアゼリッタと軽く目配せして、事態の深刻さを再確認した。

 

 

「蒼崎君、大丈夫なの?」

 

「大丈夫だよ、遠坂嬢。昨日は随分と取り乱してしまったけど、今は大分落ち着いた。ルヴィアも、心配かけて悪かった」

 

「貴女の調子が戻るならいくらでも心配してさしあげますわ。‥‥とにかく、一先ず落ち着いたようで何よりですわ。朝食を摂っていませんからお腹もお空きでしょう? オーギュストに言って紅茶と軽食を持って来させますわね」

 

 

 一体どうやって仕舞っていたのか、胸元からベルを取り出したルヴィアがそれを鳴らして執事のオーギュストさんを呼ぶ。

 これまたどうやって聞きつけたのか、ベルが鳴ってから十秒と経たない内にやってきた彼はルヴィアゼリッタの言いつけを聞くと、考えられないことに数分で紅茶とサンドイッチの用意をして戻ってきた。

 ‥‥あまり現実味のないことは言いたくないけど、ホントに手品みたいなのよねこの人達ってば。多分、普通に考えたら予め言いつけを予想して準備しておいたんだろうけど。

 

 

「あぁ美味しい。やっぱりオーギュスト氏の淹れる紅茶は五臓六腑に染み渡るなぁ」

 

「あれだけ煙草を吹かしてらっしゃったんですから内臓がくまなく荒れてしまうのも当然でしょう。自分の体なんですから、きちんと自愛なさって下さいな。いつの間にか肺ガンで死んでいたなんて洒落になりませんわよ?」

 

「ハハ、分かってるよルヴィア。そもそも俺だって普段からこんなに吸ってるわけじゃないからね。‥‥今日は特別さ」

 

 

 少なくとも私の知る限りでは、それがトレードマークになってしまうほどに蒼崎君は煙草を吸っているっていうわけじゃない。

 私が見たことあるのはドイツに死徒退治に行った時とか、教授から難しい課題を出された時に三人で意見を交換している最中に一人だけ気分転換に窓辺へ行った時とかだけだ。

 そもそも煙草の煙っていうのは慣れていない人にとっては害悪以外の何物でもないから、気配りの上手な蒼崎君が私達の前で吸うなんてデリカシーのない真似をすることはそうそうない。

 だからこそルヴィアゼリッタが書類などを整理する勉強机のような台の上に灰皿に山盛りにされた吸い殻を見て顔をしかめてみせたように、今の蒼崎君の状態は周囲の状況から見ても普通ではなかった。

 

 

「‥‥歓談するのもいいけど、時間がないから本題に入らせて貰うわ。蒼崎君、貴方のことなんだから私達がわざわざ貴方の部屋にまで来た理由、分かってるわよね?」

 

「あぁ、そろそろ来る頃だろうとは思ってたよ。大丈夫、気持ちは静めたし考えもまとめてある。君達にはしっかりと説明しなきゃいけないだろうからね」

 

 

 小さな二人がけのソファに腰掛けた私達二人を見て、蒼崎君は隈の浮いた疲れ果てた顔を何とか気力で引き締めてみせる。幸い、そのぐらいの気力は残っているらしい。

 それでも椅子に座るような落ち着きまでは残すことができなかったらしく窓際の周辺をフラフラと頼りなげに彷徨っているけど、今度は火の点いていない煙草を咥えると、わざわざ吹かすような真似までしてみせた後にゆっくりと口を開いた。

 

 

「まず最初に謝らせて欲しい。大事な局面だったっていうのに、昨夜はあんなに取り乱してすまなかった」

 

「いいですわよそんなこと。結果的に何とかサーヴァントは撃退できて、こちらの被害も少なかったのですからね。それよりも今は———」

 

「うん、分かってる。あの時俺に何があったのか、だろう? ‥‥ちょっと事情があって詳しく話せない部分もあるんだけど、これは魔術師としてしっかりと考察した結果だから君達も落ち着いて聞いて欲しい」

 

 

 よくよく注意して見てみれば、作業机の上には灰皿の他にも一夜の内に書き上げたと思しき大量の書類が撒き散らされていた。

 どれもびっしりと文字や図形が書き込んであるけど、混乱した精神状況で執筆したものだからか乱雑で、一見では内容まで把握することはできない。

 どちらかといえば究極的には魔術師としての感性を信用して術式を組み立てる私達と異なり、蒼崎君は微に入り細を穿ち理論的に術式を順序立てて組み上げて行く魔術師だ。正直、ああいう細かくて気の長い考察っていうのは私には無理だ。

 思うにあれこそが魔術師の本来あるべき形の一つよね。神秘を扱う者である以上は感性で神秘を捉えることが最も大事なのは言うに及ばないけど、それでも学者である以上は地道に理論で感性を補完していかなきゃいけないもの。

 その分だけ相応の局面での咄嗟の実践性は劣ってしまうかもしれないけれど、本来なら魔術師が実践を行うのは成果を確かめる実験でだけだ。戦闘なんて論外。そう考えると実践性が低いのは別に間違いじゃない。要は失敗しなきゃいいのよ、失敗しなきゃ。

 

 

「‥‥あの時、いや、多分今までも誰も気がついていなかったんだと思うんだけど、俺は鏡面界に侵入するときに一つの事実に気がついたんだ」

 

「事実?」

 

「一度も不思議に思わなかったのかい、遠坂嬢? 冬木で行われる第一級の儀式である聖杯戦争にも英霊を召還するために触媒が必要なのに、クラスカードから発生した鏡面界に喚び出されたサーヴァント達は、何を触媒にしてるんだろうって」

 

 

 英霊の召還には触媒が必要だ。これは英霊にも限らず、死者の霊を呼び覚ますとかのウィッチクラフトにだって共通して存在する概念だ。

 例えば英霊が使っていた武器や装飾品、もしくは密接に関係する場所そのもの。触媒の関連性によって英霊を喚び出せる確率は大いに変動する。

 

 ‥‥不思議に思わなかっただなんてトンデモない。私だって、今回の一件について生じた疑問はそれこそ両手の指を使っても数え切れないぐらいなのだ。

 触媒は何を使っているのか? 鏡面界はどうやって次元の狭間なんてところに発生しているのか? そもそもクラスカードなんて代物は一体どこから湧いて出て来たのか?

 この事件については情報があまりにも少なすぎる。それが対処療法しかとることが出来ない私達の行動の遅さに繋がって、結果的にセイバーやキャスター、アサシン相手の不覚を呼んだりしたのである。

 

 しかし、それにしても触媒ねぇ。アーチャーを召還する時にも触媒を用意しなかった私が言うのも何だけど、全くもって検討もつかないわ。

 そもそも英霊が召還されるのってクラスカードが作り上げた鏡面界の中でしょう? それが私達による侵入の前なのか後なのかっていうのは結構まちまちだと思うんだけど、どっちにしても鏡面界の中に触媒にんるものがなきゃいけないってことよね?

 私達は当然ながらそんなものを見つけることが出来なかったから、そういった物品が転がっているわけはない。‥‥だとしたら、考えられるのは———場所? 聖杯戦争が行われた場所そのものっていうこと?

 

 

「それは違うよ遠坂嬢。だとしたらあのアインツベルンの森にはバーサーカー(ヘラクレス)が召還されていなければおかしい。そうでなければ完全にランダムで英霊が召還されることになるからね。クラスカードで制限するとしても、ちょっとした博打だよ、それは」

 

「ちょ、ちょっと待って蒼崎君! 貴方どうして第五次聖杯戦争について、そんなに詳しいの‥‥?!」

 

 

 何でもないことのように言い放たれた言葉だけど、それは私にとってみれば大きな問題だった。

 確かに第五次聖杯戦争においてアインツベルンがバーサーカーのサーヴァントを召還したっていうのは協会に提出した書類にも書かれている事務事項だ。けど、今の蒼崎君の言葉の調子からはそんな簡単なニュアンスだけが含まれているようには感じられない。

 何か、知っているんだ。だってそもそも私は、あそこが私達の世界では“アインツベルンの居城がある森だ”なんて言ったことはないんだもの。

 

 

「そんなの今は大した問題じゃない。話を進めるよ」

 

「ちょっと蒼崎君?!」

 

「———いいかい二人とも、英霊を召還するための触媒は確かにあったんだ。物品でもなく、場所でもない。当然ながら血脈なんて不確かなものでもない」

 

 

 気配りの利く好青年であるはずの蒼崎君は、私の問いかけを本当にどうでもいいことであるかのように冷たくあしらうと話を続けた。

 確かにそれは間違っていない。蒼崎君の言いたいこともわかるわよ。彼の言ってることが間違いじゃない以上は私も当面の問題に集中する必要がある。私だってそう結論を出して彼から昨夜の件について話を聞くことを決めたんだしね。

 ‥‥だとしても、あそこまで冷たく返されるとは思わなかった。結構、ショックだわ。

 不満げな顔を作ってみせながらも気持ちを切り替えて蒼崎君の話に耳を傾けながら、私は心の隅でそう思った。

 

 

「触媒があったのはココ‥‥俺達の、頭の中だ」

 

「頭の中、ですの‥‥? ———まさか?!」

 

 

 驚きの言葉を発したのはルヴィアゼリッタだったけれど、同時に私も、おそらくは同じ結論へと辿り着いた。

 まさか、そんな、という信じられない思いが蒼崎君の指す自分の頭の中を駆けめぐる。その一方で、この理屈が決して絵空事なんかじゃないことも魔術師として納得できる。

 まだ口に出していない私の驚きを代弁するかのように、蒼崎君はゆっくりと口を開いた。

 

 

「そう。クラスカードによる召還の触媒になっていたのは‥‥俺達の、記憶なんだ」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥蒼崎とう———?!」

 

「おっとそこまでー。君なら分かってると思うけど、私達ってフルネームで名前呼ばれるの好きじゃないのよー。痛いのが嫌いだったらその先は口にしないこと」

 

 

 ムグ、と俺の口から逃げ損なった空気が暴れる音がして、気がついたら俺は茶色い長髪の女の人に口を手でふさがれていた。

 ニコニコと笑っているようで目は真剣。俺が今まさに口にしようとしていた言葉を発していたら間違いなく言葉にするに憚られるアレコレがなされていたことだろう。

 そのちょっと後ろで腕を組んでコーヒーカップを片手に持っている、赤に近い橙色の髪をポニーテールにした女性についても同様で、ニヤニヤしていても目はマジだ。気がつかない内に随分と危険な橋を渡ろうとしていたらしい。

 

 

「こら、いくら私でも初対面の人間をいきなりブチ殺すようなことはしないぞ。人を物騒な人間に仕立て上げるんじゃない」

 

「えー、姉貴ならやりかねないと思ったんだけどなー」

 

「だから私を誰だと、というより何だと思ってるんだ? いつまでも巫山戯ていると本当にその良く回る口をジッパーに替えてやるぞ?」

 

「ちょっと、そんなことしたら『お口にチャック』を実践する羽目になっちゃうじゃない」

 

「別に構わんだろう。子供好きなお前のことだ、子供を懐かせる良い小道具になるだろう」

 

 

 笑い合い、続いて皮肉を言い合う二人の前で、俺は相も変わらず台の上に乗せられたまま。ちょうど視点は二人の胸ぐらいの高さにあって、足は地面に着いていない。

 二人の身長だけが大きいのかと思ったけど、どうやら台までもが通常サイズじゃないらしい。まだ動かしづらい体に鞭打って少し足を揺らしてみたら空気を蹴ってしまい、どうにも怪我の影響なのか体のバランスが悪く、またもや台から転がり落ちかけた。

 

 さっきは言葉に出すことが出来なかったし今も明確に思い出すことはできないけど、俺は自分がどんな状況に置かれていたのかを大体感じ取ることは出来るようになってきている。

 何が原因かまでは記憶が云々以前の問題として分からないけれど、それでもアノ事故は俺がここまでの大怪我を負うぐらいの大事故へと結果的に発展していたらしい。

 まぁ記憶の表層に浮かんでいる感情から受ける事故の印象を鑑みるに、あれぐらいの事故で死ななかった方がおかしいだろう。今も言ったけど、事故とかの明確な記憶は思い出せないのに恐怖とか動揺とかの感情は残っているから、そういう印象だけは理解できるのだ。

 

 

「さて、そういうわけで君」

 

「は、はい!」

 

 

 二人の内、どちらかといえば人当たりの良さそうな長髪の方のお姉さんが一通り口論が終わって気が済んだのか、俺の方に振り返って近づいてきた。

 微妙に腰を屈めないと俺と視線を合わすことが出来ないのは男として情けない話なんだけど、鼻と鼻が触れ合うかってぐらい近くに美女の顔を拝めるのは悪い気はしない。

 まるで空と海を合わせたかのような青い瞳は好奇心で彩られてキラキラ輝いている。細められた瞳にまるで射貫かれたように、俺は喉が痛むのも構わず反射的に返事を返していた。

 

 

「自分の置かれた状況、理解出来る?」

 

「‥‥‥」

 

 

 蒼崎橙子と蒼崎青子。

 二人が名乗った名前であり、俺も初めて聞く名前じゃない。蒼崎なんて名字は非常に珍しいものだとは思うんだけど、幸いなのか不幸なのか、俺は以前にこの名字に触れたことがあった。

 とある小説とゲームの登場人物にそっくりそのまま同じ名前のキャラクターがいるのだ。片や封印指定という称号のようなものを授かった人形師(まじゅつし)で、片や世界に五人しかいないとされている青の魔法使い。

 一人の人間———とは限らないけれど———が作り出した創作物の中の、現実には存在しないキャラクター。確かに二人の姿はそのキャラクターが三次元に飛び出してきたらこんな人なんだろうなぁと思うぐらいに似ていたけど、それでも創作物と現実の人間を結びつける程に俺はおかしくないつもりだ。

 だというのに、何故か俺は自然と二人と二人を結びつけてしまっていた。まるで自分がお伽噺‥‥その小説やゲームの世界へと入り込んでしまったかのように。

 

 

「‥‥あの、俺を助けてくれたのはお二人ですか? ありがとうございます、手当までして下さって、助かりました」

 

「あぁ気にしないで、どうせ治療したのは姉貴だから———って違う違う! そういうことじゃなくて、今まさに君が置かれている状況についての話よ」

 

「え? だから、何故かは知らないけど怪我していた俺をお二人が助けてくれたっていうことじゃないんですか?」

 

 

 あぁ、馬鹿馬鹿しい。俺は頭の片隅に浮かんだ、中学生が寝る前の暇つぶしとして妄想するような恥ずかしい仮定をすぐさま否定して、現実的に青子さんの質問に答えた。

 ■■からの■■■に■っ■■■はずの俺がどうしてこんなところで転がっているのかは分からないけれど、とにかくアノ事故に巻き込まれた俺は当然の結果として大怪我を負い、これまたどういう経緯でそうなったのかは分からないけれど目の前の二人に助けて貰ったらしい。

 だとしたらお礼を言うのは当然だと思うんだけど、一体どうして青子さんと、ついでに橙子さんまで苦笑しているのだろうか?

 

 

「えーとね、君、私と姉貴の名前聞いた?」

 

「あ、はい。蒼崎と‥‥っと、そうじゃなくて、とにかく橙子さんと青子さんで構わないんですよね?」

 

「そうよ。で、その名前聞いて何も思わないわけ?」

 

「何もって‥‥変わった名前ですね、とか‥‥?」

 

 

 さっきまでのやりとりのせいかどこはかとなくビクビクとしてしまっている俺の返事に、二人は顔を見合わせて今度は困ったように眉を顰めてみせる。

 どうやら先程と同様、俺の答えは二人が予想していたものと違うらしい。ごく一般的なものだとは思っていたんだけど、もしかしたらかなり高度なやりとりを期待されているのだろうか。

 ‥‥あ、それとも、もしかすると二人ともアノ小説やゲームを知っていたりするのかな? もしかして俺って、からかわれてる? だとしたら二人ともすっごく性格が悪いぞ。

 

 

「‥‥姉貴どうしよう、意外とこの子まともな性格してるわ」

 

「お前が勿体つけるのがいけないんだろうが。こういうのはな、ストレートに伝えたいことを事実として伝えればいいんだ。お前はひねりすぎだよ、青子」

 

「えー。だってこういうのってそれこそ漫画とか小説とか映画みたいでカッコイイじゃない? ちょっとは遊んでみたくなったっていいじゃないのよ!」

 

 

 目の前でまたも行われる口論、というよりは姉妹によるじゃれ合い? とにかくこの二人にとってはこのやりとりがデフォなんだろうか。正直、そろそろ慣れてきた。

 怪我人で、しかも質問されている当人であるはずの俺が完全に無視されてしまっているのもデフォなのか。どちらにしてもあまり長い間喋っていると傷に響くので好都合といえば好都合である。

 さっきから色々と大変で忘れがちではあるけど、傷の痛みは最初に目覚めたときから全く変わらず俺を苦しめている。こればっかりは早々なくなるものじゃないから仕方がない。

 というか今まで首を動かすのが辛くて自分の体の状態を確認できてないんだけど、一体どれくらいの怪我をしているんだろうか?

 全身くまなく、ホントに痛いところなんかない。おそらく動かしづらいことの一助を担っているのは全身に巻かれているだろう包帯なんだろうけど、だとしたら今の俺ってまるきりミイラ男になっているんだろう。

 相当にシュールな光景なんじゃないだろうか、今の状態を外から見たら。大の男がミイラ男で、その前で二人の美人姉妹が口げんかしてるんだから。

 

 

「‥‥おいお前、本当は分かってるんじゃないのか? 今の状況が、異常だってことぐらいは」

 

「異常って‥‥そりゃ、なんで俺がこんなところにいるのか、とか?」

 

「そうだ。そしてなにより、実際に同じ名前を持ち、ここまでに、“声までそっくり”似通っている人間が現実に存在すると思うのか? 一流のコスプレイヤーじゃあるまいし、行きずりの人間がお前一人のためにこんな悪趣味な悪戯をしかけたりすると思うのか?」

 

 

 ‥‥何が常識的なのか、何が普通なのか。そんな概念があやふやになってきた。

 確かに橙子を名乗るお姉さんの言うこともまた真実だ。確かにからかわれてる、と思いはしたけれど、常識的に考えれば俺をからかうっていうのはかなり不自然なことだろう。というか怪我人つかまえてこんなことする奴は神経を疑う。

 では何が真実なんだろうか? 確かに気づいてみれば二人の声は、ゲームや映画で耳にしたことがある“アノ”声にそっくりだ。服装や容姿も、最初の印象に違わずそっくり同じ。

 ‥‥まるで二次元の中の登場人物が三次元へと出てきたような違和感。いや、違和感といっても二人から生じている違和感じゃない。俺の認識と“現実”が食い違っている。

 

 “現実”‥‥? 嘘だ、まさか、でも有り得ないことだ! しかし俺は今、それを“現実”だと認識してしまった。目の前の橙子さんの瞳は本人の言動に反して悪戯っぽい光を湛えているけれど、それでもコレが現実だと俺に断言しているようだった。

 言葉を尽くしても伝わらない思いはあるのに、どうして言葉も無しに他人へ思いを伝えることができようか?

 アニメやゲームの中で『背中で語る』『目で語る』と言われるような描写が大好きだった俺は、それでも言葉無しでは何も伝わらないというのが持論だった。

 でもそれは、今この瞬間にはっきりと明確な形で裏切られることになる。橙子さんの瞳は、本当に俺へ語りかけていた、いや、言い聞かせていたのだ。‥‥これが、現実であると。

 

 

「そうだ、お前が最初に思い浮かべたであろう絵空事、それこそが今この場所、この時間での真実に他ならん。

 だいたいな、現実は小説より奇なりという言葉もあるだろう? 私は今さっき自分自身でその言葉を否定したばかりだが、お前程度の想像力で夢想できる要素なぞ容易に現実を浸食する。‥‥自覚しろ、これは現実だよ。

 まぁ良かったじゃないか。お前もこういう妄想が具現したかのような出来事には興味があったろう?」

 

 

 誓っていうけど、そんなことはない。

 俺は確かにアニメとかゲームが好きではあるけれど、それでもごくごく一般的な男子高校生だ。友達はかなりディープにソッチの世界にはまってはいるけれど、幸いにして俺にまで感染してはいない。俺は日常生活の延長線上の趣味の一つとしてゲームを嗜むだけだ。

 

 でも、結局のところ橙子さんの言葉の真実性は変わらない。変わらず、俺を追い詰めていく。

 頭の中に広がる夢想が現実を浸食する。いや、最初から現実はそこにあって、俺の妄想した絵空事が現実と一致しただけなのだ。

 

 

「改めて自己紹介させてもらおうか。私は蒼崎橙子。“封印指定の人形師”さ」

 

「私は蒼崎青子。“マジックガンナー・ミスブルー”って呼ばれてるわね。まぁよろしく」

 

 

 現実とは、非情なまでに現実だ。究極的に言えば、目の前にあるものは全て現実である。

 だからこそ、小説やアニメやゲーム、決して現実を浸食しないはずの二次元の創作物の登場人物であった二人であろうと、目の前に確かに存在するからこそ現実なのだ。

 ニヤリと笑う橙子さんとニコニコ楽しげな青子さん。二人の笑顔にクラリと頭が傾きかけるのを感じた。決してヤラレてしまったわけではなく、俺の現実感こそが傾き欠けたのである。

 

 

「おいこら、しっかりしろ。現実を直視するのは辛いだろうが、ここで倒れられてはせっかく助けてやった意味がなくなる。せめて恩返しぐらいはしてもらいたいものだ」

 

「ちょっと姉貴、少しぐらい休ませてあげなさいよ。一通り治療はしたっていっても起きたばっかよ? まだ体力が戻ってないわ。ましてやこんな子供に———」

 

 

 辛辣で“いかにもらしい”橙子さんに反論する青子さんの言葉に、俺は特大の疑問符を浮かると無理をして首をひねった。

 子供‥‥。確かに俺は二人よりは———実年齢は知らないし、とてもじゃないけど恐ろしくて聞けないけれど———多少若いかも知れないけれど、いくら何でも子供ってぐらい年下じゃないと思うわけですよ。

 まぁこの二人からしてみれば子供かもしれない。何の修羅場を超えたこともなく、ただただ平穏に過ごしてきた平々凡々な一般人の男子高校生。魔術師と魔法使いからしてみればそんじょそこらにいるパンピーだ。

 

 

「ハッ、こいつは傑作だ! おい青子、どうやらコイツは自分の状態に気づいていないらしいぞ?」

 

「‥‥マジ?」

 

「マジもマジ、大マジだ。まったく、確かに事故の衝撃と怪我の酷さで混乱してはいるんだろうが、先程のやりとりも含めて笑いぐさ以外の何物でもないな。

 なるほど、一般常識に縛られた人間はあくまで一般常識の範囲内でしか自分の周囲の事象を認識できないというわけか。これは良い勉強になった、礼を言わせてもらおう」

 

 

 皮肉げな橙子さんの言葉に少しムッとする。確かに俺は二人に比べて若輩者で、戦闘とかもしたことがない弱い存在かもしれない。それでも別に途中で不良の道に走ったりせず、多少アニメとかが好きにしても勉強をしっかりとこなして人生をまっとうに歩んできた一人の男だ。

 いくら稀代の人形師である蒼崎橙子にしたって、初対面の立派な成熟した精神を持つ人間を相手にのっけから馬鹿にしてかかるというのはいかなるものだろうか。

 

 

「‥‥馬鹿にしてるんですか? 助けてもらった人にこういうこと言うのは礼を逸することだってのは分かってますけど、そういう言われ方は不愉快です」

 

「ハハ、いやすまんすまん。別に馬鹿にしてるわけではないのだが、しかし今の自分の状況を理解できていない者にそういうことを言われてもなぁ‥‥?」

 

「だから、どういうことですかっ!」

 

「まぁ今更勿体ぶっても仕方がない、か。‥‥なぁおい、よーく注意して自分の体を見てみたらどうだ?」

 

 

 苛々が高まって堪えきれず、出来る限り失礼にならないように丁寧な言い方で抗議しても橙子さんは面白そうに喉を鳴らして笑うだけ。

 その仕草に苛々が更に高まり、ついには痛む体を無視して少しばかり大きな声を出してみた。橙子さんはそれを見てまたもや意地悪そうなニヤリとした笑いを浮かべると、さっきの青子さんと同じぐらい顔を近づけてそう言った。

 ‥‥青子さんに負けず劣らず、どちらかといえば大人の色気をたたえた美顔を近づけられると、煙草の香りの中にも女の人の気持ちの良い匂いが漂っている。怒っていたはずなのに自然と顔が赤く鳴ったのも仕方がないことだろう。

 そんな自分の無様な赤面を知られたくなくて、俺は渋々ながらも橙子さんの言葉の通りに痛む首に無理をさせて自分の体を見回し———

 

 

「———って、なんじゃこりゃぁぁああ?!!」

 

 

 一回り、いや、三回りは小さくなってしまっただろう自分の短い手足と胴を発見し、激痛が体中に走るぐらい反動が出るぐらいの大声が、雑多にガラクタが散らばった部屋の中に響いたのであった。

 

 

 

 63th act Fin.

 

 

 

 




本当なら最後まで説明できる予定だったんですが、予想以上に文字数が多くなってしまったので泣く泣く一旦区切ることにしました。申し訳ない‥‥!
次話でしっかりと説明をしていきたいと思います。
ちなみに急遽導入が決まったために過去話は中々に大変だったそうです当時の私は。上手く仕上がっていればいいのですが‥‥。


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第六十三話 『鏡面界の真実』

 

 

 

 

 side Rin

 

 

 

「‥‥記憶、ですって?」

 

「そう、記憶だ。クラスカードによって形成された鏡面界に英霊を召還するための触媒には、俺達の記憶が使われているんだ」

 

 

 窓を開けて暫く経ったにも関わらず、部屋の中は薄く煙が立ち込めている。流石に灰皿におかれたたばこはすべて火が消されているけれど、そも存在しているだけであたりが煙臭くなってしまうぐらいの量が小さな灰皿の中に溜まっている。

 そんな煙をバックに薄く隈が浮いた顔を苦々しげに歪めて、蒼崎君は一晩中考えていたのだろう結論から私達へと話しかけた。

 どちらかといえばもって回った言い方、抽象的で回りくどい例から持ってきて最後に勿体つけて結論を告げるような傾向のある蒼崎君にしては珍しく、非常に直球な話し方だ。

 しかし今回ばかりは逆効果。結論だけでは何が何やらさっぱり分からない。やっぱりどうにも、彼は普段では考えられないぐらいに動揺しているらしい。 

 私の隣にいるルヴィアゼリッタも、その蒼崎君の態度に難しい顔をしている。‥‥いえ、あれはおそらく、蒼崎君の話の内容にも反応してるわね。

 

 

「アーチャーが消える寸前に言っていただろう? 『第五次聖杯戦争から記憶が連続している』って。あれは、英霊の座にいる“英霊エミヤ”を召還したのなら考えられない話だ。

 英霊の座に残っているのは記憶じゃなくて記録だ。そして、英霊の座では時間軸なんてものはないから、そもそも記憶や記録に、連続も不連続もないんだよ。

 だから未来の英霊であるアーチャーを俺達が召喚できるんだし、英霊の座にいるエミヤ自身は不可変だ。英霊の座自体が並行世界からも独立しているから、俺達の世界の衛宮がどんな死に方をしたとしても英霊の座にいるエミヤ自身が救われることもない‥‥」

 

「‥‥今、ちょっと聞き過ごせない単語が出てきたような気がしますが」

 

「頼むから聞き逃してちょうだいルヴィアゼリッタ。私だってさっきから色々と質問したくて仕方がないのに我慢しているのよ?」

 

「ですがミス・トオサカ‥‥!」

 

「黙っててちょうだい! 貴女だって分かってるでしょう、今の蒼崎君をむやみやたらに刺激しちゃダメ。当然だけど、今は私だって話すつもりはないからね?」

 

 

 こともあろうにアーチャーの死に様に関わるようなセリフまでさらりと口にした蒼崎君にルヴィアゼリッタがおそるおそる反応しかけるけど、今の状態の蒼崎君に話しかけるまでにはいたらなかったのか私の方に同意を求めてくる。

 ‥‥もう、多分ルヴィアゼリッタにもわかっちゃってるんじゃないだろうか。士郎のアノ性格から察するに、これからアイツがどうやって生きていくことぐらい。それでも今、私の口から明言してやるわけにはいかない。

 というかね、彼女にも言ったんだけど私だって蒼崎君を散々問い詰めたい気分で一杯なのよ。どうしてその私がわざわざルヴィアゼリッタに懇切丁寧説明してやらなきゃいけない理由があるわけ?

 

 

「つまり鏡面界に召還されたのは“英霊エミヤ”じゃない。“第五次聖杯戦争に出場したアーチャーのサーヴァント”が召還されたんだ」

 

「‥‥だから、貴方がどうしてアーチャーについて詳しすぎるのかはさておいて、発言には注意して欲しいんだけど。ま、いいわ」

 

 

 蒼崎君の話は理解できる。英霊の召還に必要な触媒によって召還されたのが、英霊の座にいる英霊ではなかったという話だろう。

 いや、こういう言い方では正確性に欠けるか。正確に言えば、英霊の座の中でも第五次聖杯戦争に参加した英霊エミヤの分体を召還したと言うべきだ。

 

 英霊が召還された時に、英霊の座にいる英霊本体が直接召還者のところへと来ているわけではないのは、聖杯戦争や召喚術について知識のある者ならば当然知っていることだと思う。

 私達が召喚するのは本体ではなく、召喚に答えて英霊が作り上げたコピー、分身だ。サーヴァントが召喚されている間にも英霊の座には変わらず英霊がいて、例えば同じ英霊を各地で同時に召喚したりすることもできる。

 もっとも、それらの英霊に同期性はない。あくまで英霊の座にいる本体が作り出したコピーに過ぎないんだから、各々は独立して存在しているのだ。

 そして召喚が終わったサーヴァント———召喚された英霊のことを便宜上こう呼ぶけど———は英霊の座へと戻り、本体へと吸収される。召喚されている間の記憶は記録となり、また召喚された際には新しくコピーが作られる。

 ‥‥つまり、厳密に言えば同じ英霊を二度喚び出すことは出来ないのだ。例えば私がもう一度アーチャーを召喚しようとしても、そのアーチャーは私達との記憶を持っていない。持っているのは、主観性のない記録だけだ。

 だからこそ、あのアーチャーが第五次聖杯戦争の記憶を持っていたのが不思議なことであったのだ。

 

 

「つまり蒼崎君は、何かしらの手段を持って“第五次聖杯戦争に参加した私達の記憶”がサーヴァント召喚の触媒になってるって言いたいのね?」

 

「あぁ。完全な召還ならともかく、黒化《れっか》した英霊を召喚するなら記憶っていう不確かなものでも十分だ。アーチャーの時とライダーの時と、衛宮が二回も立ち眩みを起こしていただろう? おそらくキャスターの時に待ち伏せされていたのは、あの二回で英霊もう一体分の情報を読み取っていたからだと思う」

 

 

 鏡面界に侵入した後に士郎が目眩を起こしていたのは、それが原因だったってワケね。おそらく、侵入する際に何かしらの方法で記憶を奪われていたんだわ。

 ‥‥そういえば私も二回目のキャスター戦の時に一瞬だけ意識が真っ白になってしまったことがある。もしかして、あの時に頭の中を覗かれていたっていうのかしら?

 

 

「お待ち下さい、ショウ。確かにその理屈ならばミス・トオサカやシェロから第五次聖杯戦争に出ていたサーヴァント召還のための触媒を採取できた理由はつきますが‥‥では、アサシンは一体どういうことですの?

 二人の話によればあの英霊は第五次聖杯戦争に出場していた英霊ではないという話ではありませんか? 理屈に合いませんわ」

 

 

 蒼崎君が一息ついた隙間を縫って、ルヴィアゼリッタが几帳面にもわざわざ挙手してから質問する。

 確かに、あのアインツベルンの森で出現したアサシンのサーヴァントに見覚えはない。私達が経験した第五次聖杯戦争でのアサシンは無名の剣士、佐々木小次郎ただ一人だ。

 あのような軍勢の英霊なんて全く記憶にない。‥‥いや、そもそも佐々木小次郎なんて英霊未満の亡霊がアサシンの座に就くこともおかしかったんだけど。

 アサシンのサーヴァントには必ず山の翁(ハサン・ザッバーハ)が就くことになっている。正確なことを言えばアサシンという言葉は語源であるところの山の翁(ハサン・ザッバーハ)ただ一人を指しているのだから。

 ‥‥軍勢という異常な点はあるけれど、そもそもサーヴァントとは千差万別。彼らが持つ宝具には私達の理解を遥かに上回る、それこそ魔法に近い代物もあるし、あれもあの英霊の宝具だったということも考えられる。

 その点以外においては暗殺者と称されるに相応し過ぎる戦い方とスタイル。だとしたら、アレはもしかして本来なら第五次聖杯戦争に喚び出されるはずだったアサシンのサーヴァントだったっていうのかしら?

 

 

「違うよ遠坂嬢。アレは確かにハサン・ザッバーハーではあるけれど、遠坂嬢が言うような不確かな存在じゃない。‥‥アレは第四次聖杯戦争で召喚されたアサシンのサーヴァント、『百の貌のハサン』だ」

 

「第四次聖杯戦争‥‥?! ちょっと待ちなさい蒼崎君、私達の誰も第四次聖杯戦争の時のアサシンに会った記憶なんてないわよ?!」

 

 

 第四次聖杯戦争。それは十数年前に起こった、私のお父様や士郎の家族が命を落とした苛烈な聖杯戦争だったはずだ。

 十数年前といえば私だって小学校に入ったばかり。ルヴィアゼリッタが属するエーデルフェルトの家は第三次聖杯戦争から冬木の地については音沙汰ないし、士郎だってアノ火災以前の記憶を失っている。

 ‥‥いや、おかしい。あの時は私も士郎もルヴィアゼリッタも意識に異常は認められなかった。あの時に異常があったのは蒼崎君———

 

 

「———まさか蒼崎君、あのアサシンは貴方の記憶から召還されたの‥‥?」

 

「‥‥あぁ。詳しくは語れないけど、俺は文書の形で第四次聖杯戦争についての知識を持っている。多分、それを触媒にして召還したんじゃないかと思う」

 

 

 またも、私は絶句してしまった。第五次聖杯戦争についての詳しすぎる知識に加えて、私達の誰もが記憶にない第四次聖杯戦争についても蒼崎君は知識を持っているというのだろうか。

 聖杯戦争は世界でも稀に見る第一級の降霊儀式であるが故に、詳しい部分はおろか概要すらも厳重な秘匿が敷かれている。ある程度の名家ならば存在ぐらいは知っているだろうが、ほとんど情報は出回っていない。

 もちろん極東の片田舎とはいえあまりにも大規模な儀式であるがために決して完璧に秘匿されているわけじゃないけどね。それでも何も関係のない人間が詳しい情報を得るのは、それが例え時計塔の教授クラスでも難しいはずだ。

 私の知る中でそのようなことができるのは、おそらく学長補佐であるロード・バルトメロイや私達と同じく第四次聖杯戦争に参加したロード・エルメロイぐらい。そしてどちらも責任ある人物であるが故に、いくら蒼崎君が相手だろうと簡単に情報を明かすとは思えない。

 だからこそ、蒼崎君がここまで詳しいのは異常だった。たとえば彼のお姉さん達が詳しかったのだとしても、それでも、それでも私はそれを不思議に思うことを止められなかったのだ。

 

 

「文書? それは少しおかしいのではなくて? 文書などというものを触媒にして召喚が可能なら、究極的には誰にでも召喚が可能ですわ。聖杯戦争の報告書を読んだ者や、そも巷に転がっている英雄譚や伝説を記した書物すら触媒になってしまうではありませんか?

 召喚の触媒というからには文書などではなく、もっと明確な関連性を持ったものであるべきです。でなければ我がエーデルフェルトや御三家、魔術協会などの大御所ばかりではなく、もっと凡百の魔術師達とて聖杯戦争についての知識さえあれば、是非とも参加しようと冬木に集まってくるはずですわ」

 

 

 微かに戦慄する私の横で、ルヴィアゼリッタが冷静に蒼崎君の話に異を唱える。呆けていた私は鈴というよりは弦楽器のように優雅に響いた彼女の声に、思考の海へと沈みかけていた意識を現実へと引っ張り上げる。

 ‥‥確かに、彼女の疑問も当然のことだ。実際に英霊と相対したことのある私や士郎の記憶ならともかく、文書なんてものは直接英霊の情報と成り得ない、というよりは常識的にも論理的にも成ってはいけない。

 彼女の言った通り、第五次聖杯戦争に出場した英霊は全て真名まで時計塔に報告してある。蒼崎君の話が本当なら、あの報告資料を読んだ者にだって英霊の召喚が可能になってしまうのだ。

 というか極論を言えば英雄の名前と適当な姿や逸話を知ってさえいれば誰にだって召喚出来てしまう。それこそ今回に関してなら召喚主が別なのだから魔術師でなくとも問題はない。

 

 

「ただの文書なら、そうかもしれない。でも俺の読んだ資料は第四次聖杯戦争に召還された英霊の特徴を、極めて正確に、あろうことか挿絵までつけて載せていたんでね。

 どんな文書、古い英雄譚や伝説だって現代に伝わっているものでは正確に英霊の姿、特徴、人物を記しているわけじゃない。それに対して俺の読んだ資料は、詳しくどんなものだって話すことはできないけど、完全に正確に英霊について述べていたんだよ。

 おそらくは俺の記憶の中にあった文章や情報を概念(キーワード)化して、英霊の座に検索をかけたんだと思う。こちらに喚び寄せるんじゃなくて、こちらから探りを入れたわけだ。これなら劣化した状態での召喚は何とかなるんじゃないと思う。

 あの文書は、後世になるにつれて劣化していく英霊の姿を正確に記述していたという一点において触媒と成り得たんだ」

 

「‥‥頷くわけには、いかないわね。あまりにも憶測の部分が多すぎるから。でも結果として英霊が召還されている以上はソレが正しいのかもしれないわ。断言はできないけど、とりあえずはその方向で考えてみましょう」

 

 

 これは不思議なことではない。例えばランサーのサーヴァント、クー・フーリンの姿を歴史学者に見せれば、とても当時にそんな格好をしていたはずはないと断言してくるはずだ。

 でも現実として、クー・フーリンはあの姿で召喚された。これは歴史学者や伝承が伝えている姿格好が誤りであったことを指す。まぁそれも当然で、千年単位で昔のことなんぞが正確な形で伝わっているはずはない。

 そして蒼崎君の記憶にあった文書では、どういうわけか知らないけれど英霊の座にいる英霊の姿、人物などを正確に記していた。だからこそ、正しい英霊の在り様を使って検索し、召還することができたんだろう。

 ‥‥だとすれば、第四次聖杯戦争について詳しく述べられたその文書はいったいどこから出てきたのだろうか? 遠坂に伝わっていないなら、間桐? それともアインツベルン?

 いや、それよりも問題は、どうして蒼崎君はそれが正確な文書であったとあそこまでに自信を持って明言することができるのだろうかということだ。

 もしかしたら蒼崎君の異常な知識についても関係しているのかもしれない。‥‥この事件が終わったら色々と問い詰める必要がありそうだ。ていうか、絶対吐かせる。

 

 

「‥‥それにしても、記憶を奪われるっていうのは問題よ。士郎はさておき、いくら専門家じゃないって言っても私やルヴィアの対魔力は並じゃないって自負があるわ。

 記憶を奪われたこと自体はさておき、どうして魔術が行使された事実すら気づけなかったのかしら‥‥?」

 

 

 精神干渉系の魔術は魔術師にとって基礎の魔術と言える。例えば一番習得が簡単な魔眼として“魅了の魔眼”があるように、術の行使自体はそこまで難しいものじゃない。

 問題は、この精神干渉系の魔術は基本的に魔術回路を持った相手には効きが悪いということだ。ある程度の実力を持った魔術師相手にかけるには、相当なレベルの差がなければいけないだろう。

 理由は単純だ。魔力に乗せて暗示や催眠を叩きつけるモノが大半である以上は、相手にそれを魔力でガードされては意味がない。魔術回路を起動させていれば常に魔術師は魔力を体に回していることになるんだから、自然と防ぐことが出来るというわけだ。

 そうでなくとも私達なら、一瞬でも精神へと接触されるのに気づけたら後は自分たちで対抗できる。とかく効きが悪い精神干渉系の魔術に屈するどころか、気づくことも出来ないなんて現実的に考えてありえない。

 

 

「‥‥遠坂嬢、鏡面界に侵入するときにどんな手順をとっているのか、分かるかい?」

 

「何よ、こちとら専門家よ、馬鹿にしてるの? まず三次元の下位次元である二次元を経由して———ッ?!」

 

 

 カチリ、と自分の頭の中の空白に答えが指し込まれる感触がした。

 

 そうだ、鏡面界に侵入するためには先ず、三次元空間の下位次元である二次元空間を経由する必要がある。例えば擬似的な転移魔術、影を使った転移なんかも影という二次元を経由しているのと同じように、このような空間移動は下位次元を介することが非常に多い。

 上位次元に到達するのは不可能と言っても問題ない。並行世界への転移にも二次元平面を利用しているのでは、と私は思っているが、下位次元への接触と上位次元への接触では格段に難度が変わる。むしろ上位次元への干渉は魔法に属するのではないだろうか。

 ちなみに蛇足になるけど、五次元や六次元の存在は昔から議論されている。実際に到達したり証明したりした魔術師がいるかどうかは定かじゃないけど、存在するだろうとは結論づけられているのだ。

 

 さて、下位次元を経由する。つまりそれは鏡面界へと侵入するその直前。そこで私達は記憶に干渉する魔術を仕掛けられた。

 次元論は専門じゃないけれど、空間論に接するところがあるから理解はしている。ここで重要になってくるのは上位次元と下位次元との関係だ。

 

 例えば、蟻が二次元に生息している生物であると仮定する。二次元とは即ち、点と線と面だけで構成される世界のことだ。

 ここに三次元に生息している生物である人間が足を踏み入れたとしよう。すると蟻たちからは、まるで目の前にいきなり人間の大きな足のようなナニカが出現したかのように見えるのではないだろうか。

 そして人間が彼らの上で何をしていようと、蟻達にはそれを知覚することができない。何が起こっていようと、何か起こっているということすら自覚できないのだ。彼らには、二次元しか自覚できないのだから。

 これが上位次元と下位次元との関係だ。上位次元からの干渉に、下位次元のモノは抵抗することが出来ない。いや、知覚すらできないのだ。そもそも干渉されても、例えば蟻が人間に摘まれたとしても、三次元の存在である人間に摘まれていることを理解できない。

 もちろん二次元の存在を三次元の存在が掴めるかという話もあるけれど、この辺りは共通概念ならば問題ない。というより、私達の場合に当てはめれば解消されるのだ。

 

 

「じゃあつまり何、私達が三次元空間から鏡面界へと転移するその間、二次元空間にいるときに干渉を仕掛けられたってこと?!」

 

「あぁ。どこからかは分からないけれど、まず間違いなく俺達のいた現実空間か鏡面界のどちらかに術者がいて、そこから俺達に魔術をかけたんだ。次元の狭間にあるとはいえ鏡面界自体は三次元空間だからね。そう考えるのが一番理屈に適っている。

 これと同じ手段を使って衛宮からはライダーとアーチャーとキャスターの、遠坂嬢からはセイバーの、バゼットからはランサーの、俺からはアサシンの触媒を奪ったんだ」

 

「‥‥なんて、こと。どちらにしてもクラスカードという大魔術に次元干渉という高度な魔術が加わっただけではありませんか。一体どれほどの腕前だというのですか、私達が相手にしている魔術師は‥‥!」

 

 

 次元の歪みすら引き起こすクラスカードという聖杯戦争にも準ずる一級の魔術具を作り上げる能力。鏡面界を作り出す空間関連の大魔術。そして下位次元とはいえ他次元に干渉し、私達魔術師から記憶を奪ってみせる精神干渉の魔術。

 どれをとってもその分野で一流以上と称してもいい高レベルの術式だ。それら全てを一人が操っていると決まったわけではないにせよ、少なくともどの分野でも私達のレベルを優に超えている。

 ‥‥魔術師として、完成されているのだ。私達が相手しなければならないのは封印指定すら通り越して、魔法に手が届きかけている存在かもしれない。

 いくら魔術の腕が高かったとしても、それが戦闘能力に直結するとは限らない。しかし今回、相手が精神干渉や召喚術に長けていることを忘れてはいけない。直接戦闘力はともかく、再度サーヴァントを召喚して嗾けられたりしたら冗談じゃないのだ。

 『魔術師が最強である必要はなく、最強である何かを用意すればいい』。確か昔、お酒を飲んでいたら蒼崎君が『例のごとく義姉の受け売りだけどね』と楽しそうに笑いながらそう言ったことがある。

 まさしくその通りだ。私達、聖杯戦争に出場していたマスターとサーヴァントの関係にもそれが言えるのだから。‥‥しかも何が問題って、今回の私達にはサーヴァントがいないってことよね。

 

 

「‥‥俺は諸事情あって常に精神干渉系の魔術を防ぐために、心に障壁を張っている。今回それに気づけたのは、鏡面界に侵入した直後に障壁が破られているのが発覚したからさ」

 

「それってつまり、結局のところ障壁は破られてしまったってことよね。だとしたら相手に記憶を読まれるのは防げないってことじゃないの」

 

「高次元からの干渉だからね。二次元に存在している間は干渉を知覚することもできない。あれに対抗するためにはそれこそ絶対の理を覆す魔法に類する物‥‥宝具かソレに匹敵する魔術具を持ってこないといけないと思う」

 

 

 通常は考えられない高次元からの干渉。たとえば先程も例に出した影を使った転移の最中に誰も干渉することが出来ないように、理論としては確立していても手段として皆無などが次元論の大部分を占める。

 しかし今回は私達もわざわざ敵の土俵で転移を行なっている。自前の転移で二次元空間を経由しているならともかく、最初から敵が用意してくれた場所で無防備に頭の中を晒しているのだから馬鹿も馬鹿、大馬鹿だ。

 鏡面界への侵入方法を編み出したのはルビーとサファイアじゃないのかっていう疑問があるかもしれないけれど、それは間違い。あの二人も相手が用意したステージの中で、相手の決めたルールに従って攻略方法を探し当てただけ。

 それでは所詮ゲームマスターの掌の中だ。そもそもゲームマスターの存在を仮定していたわけじゃないのだから仕方がないと言えるんだけど‥‥あぁ、今更そんなことを言っても仕方がない。

 

 

「‥‥どっちみち、私達がクラスカードを手に入れるためには鏡面界の中に出現したサーヴァントを撃破する以外に方法はないわ。だとしたら、記憶を奪われるのに抵抗して触媒が無くなってしまうのもナンセンスよ」

 

「確かにミス・トオサカの仰る通りですわね。この際、それに関しては敵方のアプローチを享受するしかありません、か‥‥。腹立だしいですが、仕方がないということですわ」

 

 

 魔術師がおめおめ他人に自分の頭の中を覗かせることを許すなんて冗談じゃない。魔術師個人だけではなく、その家系が積み上げた歴史を他人の好きにさせるということなのだ。そんなこと死んだってごめんだ。

 ‥‥その一方で、今回の件に関してはどうにも八方ふさがりな状態であるのもまた事実である。私達の目指す目的と現状との間で、どうにも妥協点を探さなければいけない状況なのである。

 今、口にしたばかりではあるけれど、私達の目的とはすなわち鏡面界に出現したサーヴァントを打倒して七枚のクラスカード全てを入手し、鏡面界の中から侵入した時とはまた別の下位次元を経由して私達の元いた世界へと戻ることだ。

 

 つまり『鏡面界に侵入』しなければならないし、『召喚されたサーヴァントを倒さなければ』ならない。これら二つは私達の計画に即するならば不可欠の要素である。

 私達が鏡面界に召喚されたサーヴァントを倒す以外の方法でクラスカードを手に入れることができるのならば何ら問題はない。私達の記憶が読み取られないように策を講じることは難しくはあるけど、決して不可能なことじゃないからね。

 ‥‥でも、仮定形で話したことからわかると思う。私達にはサーヴァントを倒す以外の方法がないのだ。仮にあったとしても、まだそれを探し当てることができていない。

 結果として、私達は自分の記憶の中の「触媒」を敵対している魔術師、ないしはソレに類する存在に苦渋を飲んで明け渡すより他に方法がないわけである。本当に不愉快で屈辱的なことではあるけれど、それ以外に方法がないなら仕方がないのだ。

 

 

「大丈夫よ。いくら精神干渉系の魔術が絶対時間じゃなくて主観時間に左右される魔術だって言っても、さすがに現実空間から鏡面界へと移るわずかな間にだけ二次元空間に存在している私達から、根こそぎ記憶をコピーするなんて不可能だわ。

 きっと、英霊に関係する記憶だけを独自の術式をつかって私達の頭の中から検索しているんだと思う。そうじゃなかったらそれこそ膨大な情報を一度に受け取って、その中から根気よく探していくなんて現実味のない術になるものね」

 

 

 ほとんどの魔術師が習得しているポピュラーな術である“暗示”に比べて、“記憶を読み取る”魔術というのは術式自体が簡単なのに対して実際に行使するとなると難易度はぐんと跳ね上がる。

 人間が持つ膨大な記憶を瞬時に自分で整理しなければならないのだ。単純に全ての記憶を掘り出すつもりなら術者自身にスパコンも真っ青な処理能力が必要になるし、そうでなかったとしたら相手の記憶の海から必要な情報だけを選りすぐって抜き出す検索の能力が必要になる。

 特に時計塔の魔術師で、精神干渉系の魔術を得意としている者が少ないのがこの理由だ。実際の行使が面倒な上に魔術師に対して効きにくいとなると好んで研究する者が少ないのは当然の理だろう。

 この分野に関してはどちらかといえば巨人の穴倉(アトラス)の錬金術師達の方が一歩も二歩も先を行っているらしい。特に今代のアトラシアは霊子ハッカーと呼ばれる程に記憶を読み取る能力に優れていると聞く。

 

 

「———だから蒼崎君、何を気にしているのか、秘密にしているかは知らないけれど少し落ち着きなさいな。確かに貴方が持っていた第四次聖杯戦争についての知識は盗み見られてしまったかもしれないけれど、本当に隠したかった記憶まで知られてしまったとは限らないでしょう?」

 

 

 話が始まってから段々と自制心が崩れてきたらしい。最初の笑顔は何処に行ってしまったのか、ここに来て蒼崎君は今までに見たことがないくらい眉間に皺を寄せていた。

 口に咥えられた火の点いていない煙草は不機嫌そうに、あるいは落ち着き無さげにユラユラ上下に動いていて、窓枠に添えられた手の人差し指はトントンと木を叩いて音を出している。非常に切迫している様子だ。

 不安、焦燥、恐怖、悔恨、自責。普段の彼から一切感じたことがない感情のオンパレードが地味ながらもそれなりに整った———失礼な言い方ではあるけどね———顔の上で目まぐるしく繰り広げられている。

 それは昨夜みたいに取り乱していないからこそ、逆に私を不安にさせた。彼が一晩しっかりと気持ちを落ち着かせて、ここまで深くクラスカードを取り巻く状況について考察していたにも関わらず、これまで余裕を生じさせることが出来なかったのだから。

 

 

「‥‥いや、それは希望的観測に過ぎないよ遠坂嬢。俺が知られたくない秘密はね、第四次聖杯戦争について記された例の書物と密接に関係している。相手にもよるけれど‥‥もしそれを探し当てられてしまっていたら身の破滅だ」

 

「ショウ、どうぞ落ち着いて下さいませ。‥‥秘密、と仰いましたが、それは私達にも話せないような内容なのですか?」

 

「あぁ、絶対に話すわけにはいかない。こればっかりは、信用しているとか信頼しているとか、そういう生温い理由で打ち明けてやるわけにはいかないことなんだ。そんな理由で話せるならとっくの昔に話してる。ただでさえ、君には俺が蒼崎の直系じゃないって打ち明けてるんだからね」

 

「‥‥それは、まぁ、その、嬉しいことですわね。あ、ありがとうございますわ‥‥」

 

 

 自分のことを考えるのに必死な蒼崎君は気付かなかったのかもしれないけれど、さりげなくかなりの信頼を表明した台詞に、珍しくルヴィアゼリッタがはっきりと赤面して口ごもった。

 巷では直系として通っているであろう彼のこと。それが養子であることを明かすというのは信頼の証としては十分なんじゃないかと思う。一年もしない付き合いの私達ならともかく、ルヴィアゼリッタなら悔しいけれど納得だ。

 ‥‥研究内容を話すぐらい信頼し合っていてなお、話せないような秘密。つまり、魔術師が最大の労力をもって秘匿すべき自らの研究内容をも凌ぐ大きな秘密。それは一体、いかなるものか。

 下世話な考えかもしれないけれど、もしかしたら彼のお姉さんが至ったという第五魔法についてだろうか? 確かにあれは概要すら知られていない完全不明な代物だと聞く。それについての情報を持っているとすれば、確かに死守するに相応しい。

 

 

「とにかく、君達には悪いけど俺はこれ以上俺の記憶に深入りさせてやるわけにはいかない。次回の鏡面界侵入までには何かしらの対策を取らせてもらうよ」

 

「‥‥はぁ、仕方がないわね。蒼崎君の記憶が触媒にならないとするとバーサーカーはヘラクレス一択だから戦闘はかなりキツクなるけど‥‥。そこまで言うなら、無理強いさせるわけにはいかないものね」

 

 

 咥えた煙草を歯軋りで噛み千切って振り返った蒼崎君の顔は、まさしく鬼気迫ると表現するより他ない悲壮なものであった。

 全く余裕のないその表情はこれ以上の議論はしない、出来ないと如実に物語っている。彼からの宣言ではなく、本当に無意識であるのだろう。私達をしてそう思わせる程に限界ギリギリであることがありありと分かる。

 私達に分からせまいとしているんだとしても、残念ながらその努力は全く実を結んでいない。あまりの鬼気迫る様子に、私もルヴィアゼリッタも否応なく頷くより他なかった。

 

 

「‥‥というよりね、どっちにしても結構キツイ戦いになったことには違わないよ。第四次聖杯戦争で召還されたバーサーカーは、『湖の騎士ランスロット』だったんだからさ」

 

「は‥‥。なんていうか、聖杯戦争ってどの代でも尋常じゃないくらい規格外みたいね」

 

 

 暫し、部屋の中を沈黙が支配する。深刻な表情以外は何を考えているのかさっぱり分からない様子で窓の外を眺めている蒼崎君に対して、私達二人はどうにも手と口が出せない状態で固まっていた。

 蒼崎君の悩みは、私達では理解できない。それは私達の悩みを蒼崎君では理解できないことにも似ているけれど、それでいながら少し違う。私達とは悩みの原因の次元が違うように思えるのだ。

 それは蒼崎君の悩みの方が高尚っていうわけじゃない。ただ、悩んでいる様子から、私達では理解できないような方向性を感じるっていうこと。‥‥正直、今の彼の悩み方は不思議な印象を受けるもの。

 

 

「‥‥ごめん、ちょっと疲れたみたいだ。少し散歩に行ってくるよ‥‥」

 

「え、どうしたのよ蒼崎君?!」

 

「ちょっとショウ?! 昼食後にはミーティングを行いますからきちんと戻って来て下さいませ!」

 

「‥‥あぁ、わかったよ」

 

 

 突如、蒼崎君がまるで苦虫でもダースで噛み潰したかのような表情を作ると、もう一本口に咥えていた煙草を火も点いていないのに灰皿にてんこ盛りにされた吸い殻の山へと突っ込み、部屋のドアノブへと手をかけた。

 今は一人で考え事がしたかったのだろうか。私の声を無視したくせにルヴィアの声は聞こえていたらしく、一拍だけ立ち止まると返事を返して出て行ってしまう。

 

 

「‥‥まったく、ホントにどうしたのかしらね、蒼崎君は」

 

「最初は無理に聞き出すつもりでしたが‥‥。どうやらそれこそ無理のようですわね。ショウがあのような態度をとるのは初めてですわ」

 

「アレ、もう何回も言ってるけど本当に尋常な様子じゃないわよ? それこそ聖杯戦争中でのサーヴァントの真名とか、とにかく知られたら即座に命の危険に発展するような‥‥」

 

 

 二人して考え込むけど、答えは出ない。そもそも彼の悩みが私達とは違うようなものだって結論づけたばかりなのだから、答えなんて出ようがないんだけど。

 イリヤスフィールについても問題で、蒼崎君についても問題で、次のバーサーカー戦についても問題で‥‥。

 本当にこの並行世界に来てから問題が山積みだ。このままじゃ帰った時には体重が数キロ痩せてるんじゃないだろうか? もう暫くしたら桜も来るっていうのに‥‥プロポーションにまで影響が出てなきゃいいんだけど。

 

 

「そもそも気を遣うようなプロポーションでしたか、ミス・トオサカ?」

 

「‥‥そう、最近はずっと静かにしてるから安心しちゃってたけど‥‥。つまり貴女、死にたいわけね?」

 

 

 ピキリ、と自分のこめかみで何かが弾けるような音が聞こえた。さっきまでの雰囲気は一転、私の左手が真っ赤に燃える!

 

 ‥‥その暫く後、昼食の時間になっても一向に部屋から出てこない私達を呼びにきた執事のオーギュストさんに、ものすっごく妙ちきりんな顔をされてしまったのは、また別の話。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥何をやってるんだ、俺は」

 

 

 冬木中央公園。昼間っから人気のない公園の端っこにポツンと据えられているベンチに、一人の青年が座っていた。

 頑丈さだけが取り柄の古ぼけたミリタリージャケットと、ダメージ加工なんて洒落た言葉には縁がないすり切れたジーンズ。そして俯いた顔にかかる堅めの前髪から覗く紫色のバンダナ。

 額を支えるように膝を支点に手を組んで、まるで苦悩するか、もしくは居眠りするかのような彼に声をかける者はいない。前述の通り、街の中央に位置する大きな公園のはずなのに、この場所には不気味なぐらいに人気がなかった。

 それも当然、この公園には感受性の豊かな者であれば『絶対に近寄りたくない』と思わせるようなナニカが立ち込めている。それは怨念とか、妄執とか、そういう陳腐な単語でくくれるものではない。

 勘の鈍い者であろうと、長い時間ここに留まっていれば何かしらの不調を訴えるだろう。自覚できなくとも、確かにそれはこの公園に漂っているのだから。

 

 

「‥‥だめだな、これ以上この公園にいたら俺まで同化しちまいそう———じゃなくて、どうかしちまいそうだ」

 

 

 字面も意味も実際のところはさほど間違っていない独り言を呟いて体を起こし、背をベンチへと預けた青年の名前は蒼崎紫遙。‥‥つまるところ、この俺である。

 冬木でも住宅が集中して建っている深山町のエーデルフェルト別邸から散歩と称して出かけて三、四時間ぐらいが経つのだろうか。その全てをこの陰鬱な場所で過ごしていたわけではないにせよ、かなりな時間座っていたらしく微妙に肌寒い。

 気がつけば空は橙色に染まりつつあり、もうそろそろ暗闇に包まれてしまうことだろう。ルヴィアからは昼食までには帰ってこいと言われていたような気がするけど‥‥すっかり忘れてこのざまだ。

 きっと今頃、遠坂嬢と二人して怒り狂っていることだろう。俺がこんな状態なのを知った上で、それでも配慮するところは配慮しておきながら普段通りに振る舞える彼女たちの強さが羨ましい。

 

 

「クラスカードと鏡面界、か‥‥」

 

 

 非常に高度な召喚器の一種。次元の狭間に鏡面界という空間を作るのみならず、高位の武装・礼装(ルビーとサファイア)を媒介にして英霊の力の一端たる宝具を具現化させる能力を持つ。

 サファイアと俺とで解析し尽くしたにも関わらず、俺達に分かったのはたったそれだけ。それにしたってとても一つの魔術具で出来ていい範囲を優に超えているのだ。

 宝石翁の作ったカレイドステッキにしたって今更ながらも通常の魔術礼装とは思えないぐらい融通が利くけれど、それは第二の魔法使いであるキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ謹製の礼装だからである。

 魔術師の位階としてはおそらく時計塔の学長や部門の長を優に超える封印指定の魔術師であろうと、魔法使いの足下にも及ばない。だからこそ、この魔術具は異常に過ぎた。‥‥まるで、俺みたいに。

 

 

『いい、紫遙? 貴方は十分に分かっているつもりかもしれないけれど重ねて言っておくわ。‥‥異端は異端を惹き付ける。それは互いに互いを知っていようといまいと変わらないわ。“世界”がそれを知っているなら、そこには当事者達以外の力が働くの』

 

 

 青子姉が再三の如く、耳にたこができるぐらい繰り返し繰り返し俺に言い聞かせた言葉が脳裏を何度も何度も通り過ぎる。あの時は分かったつもりで神妙に頷いてみせていたけど、やっぱりそんなの“つもり”に過ぎなかったみたいだ。

 例えばテレビで災害を受けた村の様子を映したりされたとして、俺達がテレビ越しにそれを見て可哀想だと口にしたとしても、それは実際にソレを体感したことがないから現実味を持った言葉になりはしない。

 結局、全てにおいてそれは同じだ。人間は自分で実際に経験した情報でなければ現実としてそれを捉えることができないのだ。学生でも、教師でも、サラリーマンでも総理大臣でも、それこそ魔術師だとしても。

 

 

「‥‥自覚していなくとも惹き付けられるってことは、自覚していても惹き付けられるってことか。思えば俺がルヴィアに話しかけたのも、遠坂嬢達を迎えに行くことになったのも‥‥そもそも橙子姉と青子姉に出逢ったのも、全部が全部、運命づけられていたことなのかな」

 

 

 運命(Fate)、なんて言葉は大嫌いだ。俺に限らず、殆どの魔術師はこの言葉を嫌っていることだろう。

 それが存在していることは誰もが知っている。神、なんて過去に実在した連中とは違う、何か大きなものが俺達が今いるこの世界を司っていることは、既に実証された真実だ。

 でも魔術師は存在が確定しているそれを絶対に認めようとしない。俺達は過去に存在したモノを目指して歩き続ける生き物だけど、それでも自分という存在が歩んできた、歩んでいく道を誰かに弄くられているなんて思うのは業腹以外の何物でもないから。

 

 

「あぁ、でも、それでも、やっぱり思わずにはいられないかな。‥‥俺は、どうしてこの世界にやってきたのかって———」

 

 

 橙子姉と何度も話した。

 何故、俺がこの世界にやって来たのか。あの時、俺以外は“選ばれなかった”のか? それとも俺以外にも誰かがこの世界にやってきているのだろうか? ‥‥どうして、俺がこの世界に“選ばれた”んだろうか?

 実際に橙子姉に話した時にはもっと穏便な言い方をしている。橙子姉と話している時、俺が魔術師として“いる”時には蒼崎紫遙だからだ。

 ‥‥でもごくたまに、そう、こうやって考え込んだ時に、俺は俺じゃなくなる。オレは蒼崎紫遙じゃなくて、■■■■■に戻る。それは‥‥すごくつらいことなんだ。俺が俺じゃなくなるんだからね。

 

 

「‥‥あぁそうだ。俺は蒼崎紫遙だ。俺はもうオレじゃない。オレは俺だ! 蒼崎紫遙だ!」

 

 

 ガァン! と金属同士がぶつかり合うような音が鳴るぐらい強く強くベンチの手すりを殴りつけた。骨に罅でも入ってしまったかって痛みが腕を痺れさせるけど、それぐらいじゃなきゃ俺の頭は考えることをやめてくれそうにない。

 歯を食いしばって痛みに耐えて、それこそ涙が出そうになるくらいの痛みに耐えて、ようやくそこで俺の頭は“それ”についての考えを脳みその片隅へと叩き込んでくれた。

 ‥‥まぁ、結局は痛いっていう感情が残りを占めてしまっているわけだから意味がそんなにあったとは思えないんだけど。

 

 

「‥‥紫遙さん?」

 

「ッ———って、なんだ美遊嬢か‥‥」

 

 

 痛みに俯いていた頭の上の方から聞こえてきた声にハッと素早く体勢を戻すと、そこに立っていたのは穂群原学園初等部の制服を着たままの美遊嬢。

 セーラーとブレザーの襟を足して割ったかのような独特なデザインは制服だけではなく、ランドセルにも及んでいる‥‥はずなんだけど、何故か彼女の背中には上品な焦げ茶の鞄が提げられていない。

 そればかりか日本人らしい黄色の混じった血色のよい綺麗な肌は僅かに上気し、仄かに汗も浮かんでいる。もしかしてココまで走ってきたのだろうか? 穂群原学園がある深山町と新都はかなりの距離があるというのに、どうしたのだろうか。

 

 

「ルヴィアさんが探してましたよ、紫遙さん。『昼食までに帰ってくるように申しましたのに、一体どういうつもりなんですのーっ!!』って‥‥」

 

「ハハ、確かにそうやって怒ってそうだね。‥‥うん、ごめん、迷惑かけちゃったかな。わざわざ探しに来てくれたのかい?」

 

 

 物静かな普段の様子に反して、彼女の主のセリフ部分はまるでルヴィアそっくりだった。背後霊のようにルヴィアの影が浮かんでいる姿を幻視してしまうような迫真の演技に、思わず笑いが溢れてしまう。

 なるほど、ランドセルを持っていないのは一度屋敷に帰ったからだろう。ルヴィアに命じられてか彼女自身で来たのかは知らないけれど、わざわざここまで走って探しに来てくれたんだろうか?

 ‥‥どちらにしてもこうして無様を晒している俺なんかのために疲れてくれたのならこれほど嬉しいことはない。俺は多少の照れも混じって冗談のような問いかけをしたけれど、それでも美遊嬢は恥ずかしがったりとかの期待した反応を返してはくれなかった。

 

 

「‥‥紫遙さん、本当に大丈夫なんですか? 昨夜は、その、とても大変そうな様子でしたから‥‥」

 

「心配、かけちゃったみたいだね。‥‥本当に申し訳ない、どうも君にまで余計な負担をかけてしまったみたいだ。保護者失格だな、こんなんじゃ」

 

「そ、そんなことはありません! まだ短い間ですけど、紫遙さんは十分私の力になってくれてます!」

 

「‥‥ありがとう、そう言ってくれるとすごく嬉しいよ」

 

「紫遙さん‥‥」

 

 

 あぁダメだ、自分でも声に力が入っていないのがよく分かる。なにせ美遊嬢の瞳から心配の色が消えていないのだ。どうやら俺は自分では何とかなっていたつもりでも、彼女を前に大人らしく振る舞うだけの余裕もないらしい。

 昔から風邪ひいても気のせいだって学校行ったり、実験の時も限界が分からないで血を吐いたりしてたけど、やっぱり俺はどうにも自分の状態を把握するのが苦手みたいだ。それこそ橙子姉とか青子姉とかに散々説教されたはずなんだけどなぁ。

 

 

「‥‥美遊嬢?」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 そんなたわいもないことを考えて苦笑したのが何か勘違いの引き金になったのか、美遊嬢は先程から作っていた渋面を更に渋いものへと変えると、無言で俺の隣に座ってきた。

 ‥‥前屈みになっている俺と背もたれにしっかり背中をつけて真っ直ぐに座ってる美優嬢の肩は触れ合わない。それでもなお、隣の彼女は湛えている雰囲気の違いはよく分かる。

 隣を見ること適わずに、さっきまでと同じように只ひたすら前方の地面を見続ける俺の後頭部辺りに注がれているだろう美遊嬢の視線。怒っているわけでも、哀れんでいるわけでもない。ただ俺を見て、何か言いたげにしているのだろう。

 暫し、というよりもかなりの沈黙が静かに静かに公園を端から端へと横切っていく。風の音も、周囲を囲むビル街からの人声もしない公園で、ただひたすらに時間が過ぎていった。

 まぁさっきからずっとこの姿勢でいる俺の主観時間は狂いに狂いまくっているから、実際にはほんの数分だったのかもしれない。それでも俺には十分に長いと思える時間が過ぎて、ようやく美遊嬢が口を開いた。

 

 

「‥‥イリヤが」

 

「?」

 

「イリヤが、もうサーヴァントと戦うのをやめるって、遠坂さんに言ってました。‥‥もう、戦うのはイヤなんだって‥‥」

 

「そう、か‥‥」

 

 

 ぽつりぽつりと一言一言零すように呟かれたのは俺のことではなくて、昨夜は気がついたらいなくなっていたイリヤスフィールのこと。いつの間にかいなくなっていた彼女は、どうやら戦うことから手を引いてしまったらしい。

 驚いた一方で、やっぱりという気分もある。もともと異常なまでにスペックが高かった美遊嬢に比べて、俺達の世界では非常に特殊なアインツベルンの性を持ちながらも、イリヤスフィール自身は普通の女の子だ。

 そもそも彼女や美遊嬢ぐらいの年頃の女の子が、こうして礼装を持って英霊と戦うなんてことがあっちゃいけないのだ。たとえ魔術師の世界であろうと、子供に武器を持たせるなんてことは早々ない。

 たとえどんなに才能があったとしても、それを操る精神は成熟したものじゃない。才能ある子供でも戦場に出すべきじゃないのはこういうことだ。年月とは伊達に積み重ねられているものじゃないからね。

 

 

「‥‥最初は、甘い子だと思ってました。私は紫遙さんやルヴィアさんから散々説明を受けて英霊についての恐ろしさをしっかりと自覚していたのに、なんでお遊び気分で英霊と戦おうとしている子が同僚なのかって」

 

「‥‥‥‥」

 

「でも、違った。私に説明した時の言葉こそお遊びだったかもしれないけれど、彼女はいつでも一生懸命で、全力で‥‥。それで、私にも全力で接してくれた。“友達”って‥‥呼んでくれた‥‥」

 

 

 ぽつりぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく独白のように言葉は紡がれていく。隣に座った美遊嬢の顔を振り返って見ようとは思わなかったけれど、“友達”と口にした時には何だか声が嬉しそうに踊っていた気がする。

 相も変わらず静止画のように動かない目の前の景色の中に吸い込まれていくのかと思いそうな声だったのに、ふと気がつけば、いつの間にか俺の耳にはしっかりと美遊嬢の声が入ってくるようになっていた。

 あぁ、そうか、やっぱり彼女は俺に向かって喋っているんだ。何でそうしてるのかは分からないけど、俺に向かって喋っているのか。

 

 

「友達っていう言葉は知っていたけど、私に友達はいなかった。学校では一人で、孤児院でも一人で、だから多分、ずっとこうやって一人でいたから友達って言葉を知っていてもどんなものかは知らなかった」

 

「‥‥うん」

 

「言葉は知ってるだけじゃダメなんだ。本当にどんなものかって知るためには、手に入れる必要がある。でも私には友達がいなかったから、ずっと平気なフリをしていても何処か足りないって思ってた」

 

 

 面白いことに、さっきまで俺が考えていたことと同じような言葉を美遊嬢が口にする。独白のようだった声は自覚した途端に俺の耳までダイレクトに届いて来て、まるで対面に座って問答をしているかのようだ。

 

 友達。たった二文字のその言葉に、どれだけの意味が込められていることだろうか。どれだけの思いが込められたことだろうか。

 美遊嬢の思いだけじゃない。言葉自体に重さがある。今までその言葉に込められてきた人々の思いが言葉に宿っているのだ。さしずめ言霊とはこのことである。

 だからこそ、一人でも平気だと思っていた美遊嬢が友達という言葉、友達そのものに惹かれたのも当然のことなのかもしれない。彼女は分かっていないかもしれないけど、まぁ俺も伊達に長生きしてるわけじゃない。

 

 

「だから、イリヤに友達って呼んでもらえた時、今まで足りなかった、わからなかったことを埋めてもらった気がした。私は、イリヤに会ってようやく友達が何かってことに気づけたんだ」

 

 

 “そのイリヤ”が結果的に美遊嬢を裏切って一人で戦線離脱をしたというのに、不思議と美遊嬢の声は朗らかだった。まるで、そんなことは関係ないとでも言いたげに。

 それはあまりにも不思議で、あまりにも当然。そんなことなんてどうでもいいってぐらい、美遊嬢にとってイリヤスフィールの存在は大きくなっているのだろう。

 

 

「うん、だから私、イリヤが自分から戦いを諦めてくれて‥‥嬉しいと思ってる。だってそうすればイリヤはもう傷つかない。イリヤに‥‥もう、嫌なことはしてもらいたくないんだ」

 

 

 一体、美遊嬢は何が言いたいのか。今まで散々保護者ぶって、大人ぶって、自分よりも遥かに能力に優れた美遊嬢を相手に上からモノを言っていた俺に、今こんな無様を晒しているこの俺に。

 ざり、という靴が砂を擦る音がやけに大きく耳に響いて、俺はいつの間にか目を閉じてしまっていたことに気がついた。

 ハッと顔を上げると、そこには今日、最初に会ったときのように俺の前に立っている美遊嬢の姿。俺が想像したような嬉しそうな顔じゃなく、無表情ながらも真摯な瞳で俺を真っ直ぐに見つめている。

 

 

「‥‥でも紫遙さんも、ルヴィアさんも同じくらい私にとって大切な人です。私を助けてくれて、道を指し示してくれた人。‥‥だから、イリヤと同じくらい二人にも無理はして欲しくない」

 

「美遊嬢‥‥」

 

「紫遙さんがつらいなら、次の鏡面界には来なくて大丈夫です。ルヴィアさんに言いづらいなら私から言っておきます。あとは、私に任せてくれれば大丈夫です」

 

 

 真摯な瞳は俺に訴えていた。自分は出来ると、自分に任せろと。

 それは傲慢でも何でもなくて、ただ単純に俺を気遣ってくれているのだ。さっきイリヤスフィールについて語ったのと同じように、俺やルヴィアにも———まぁ今の状況においては俺について———同じように信頼と献身、いうなれば愛情を向けてくれている。

 どれほどに嬉しく、どれほどに悔しいことか! 気がつかない間に俺はこんな小さな女の子に、大人が背負うような荷物まで背負わせようとしていたのか! 自分のことばかり考えて、こんな小さな女の子に気を遣わせてしまったのか!

 

 

「‥‥ハ、なんて、無様———」

 

「紫遙さん‥‥?」

 

 

 ぐっと足に力を入れて立ち上がる。長い間座っていたからか強ばった足の筋肉が持ち主に助けを求めて悲鳴を上げるけど、そんなこと気にせずに強引に体を起こした。

 ‥‥立ち眩みに、ふらつきそうになる体を叱咤激励して意地を張る。俺は、俺は蒼崎紫遙だ。蒼崎紫遙だった時に決めたことを、美遊嬢を守ってやるって決めたことを、蒼崎紫遙が破っちゃいけない。

 

 

「‥‥申し出はありがたいけど、遠慮しておこう。これ以上君達に迷惑かけるわけにはいかないし‥‥何より、本当に怒ったルヴィアはとても君の手には負えないよ?」

 

 

 あぁ、そうだ、まだ俺は倒れてやるわけにはいかない。何もかも放棄するにはまだ早い。

 せめて、そう、せめてこの世界を抜け出すその時までは。“蒼崎紫遙”の背中を彼女に見せたままで去らなきゃいけない。そうでなけりゃ、“蒼崎紫遙”が無様すぎる。無様なのは俺じゃなくてオレで十分だ。

 

 すっかり傾いて月に居場所を交代してしまった太陽。もう、これからは魔術師の時間だ。

 引きこもっていちゃ仕方がない。勇気を出して、前に進まなきゃいけないんだ。歯を食いしばった俺は、恐怖を押さえ込んでゆっくり歩き出す。

 

 まだ夜は始まったばかりで———戦いは、それでも未だ遠くにあった。

 

 

 

 

 64th act Fin.

 

 

 




なんとか、ここまで‥‥!
でっち上げみたいな説明でしたが、とりあえずこれが拙作における召喚についての真実です。
冬霞による捏造設定ですので、くれぐれも誤解なさいませんようご注意をお願いします。


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第六十四話 『双つ界の星空』

 

 

 

 side Rin Tosaka?

 

 

 

「こっの、とっとと倒れなさいよ木偶の坊———!!」

 

「■■ォ■ォ■■ォ———!!」

 

 

 全力で放たれた魔力砲を喰らい、敵はその巨体を大きく自らの後方へ押しやられた。その身の丈をも超える直径の魔力砲は、私が瞬間に放出できる魔力量限界ギリギリの魔力をつぎ込まれた正真正銘全力の砲撃で、酷使した魔術回路が鈍く痛む。

 いくらルビーによって無制限に魔力を供給してもらえるからといっても、実際それを通すのは私の———それなりに自信があるとはいえ———、普通の魔術師の一般的な魔術回路だ。

 量と質こそ並じゃないといえども、ちょっと性能の良い家電に四六時中膨大な量の電気を流していたらどうなるだろうか。‥‥当然、想定された以上の負荷をかけられた製品は傷んでしまう。

 魔術師は魔術を行使する機械。一つの回路。だからこそ理論的には全く家電と変わらない。必要以上に負荷をかければ痛んで、いずれは壊れてしまうものだ。

 筋肉痛とも息切れとも、普通に過ごしている人間が感じるどんな痛みとも違う独特の吐き気。魔術回路が訴えている不調を、私は気合いと根性だけで無視して手の中のルビーを強く強く握りしめた。

 

 

「‥‥あっきれた、全然効いて無いじゃないの。どんな化け物よ、アレ」

 

『バーサーカーっていうのはスペック的に身体能力に優れたものですけど、あれはちょっと異常ですねぇ。協会側の資料によれば対魔力も備えてないらしいですし、流石に凜さんの全力砲撃で怪我一つないっていうのは‥‥』

 

 

 しかし私の全力の砲撃を喰らっても、目の前十数メートルまで遠ざけることに成功した影は無傷。その黒鉄のような体から湯気を迸らせながら、地面に着いていた片膝をゆっくりと起こして立ち上がる。

 本当に生物なのかと疑いたくなる隆々とした筋肉は黒く、堅い。全身が余すところ無くまるで岩か鉄のようで、ちょっとした拳銃弾や刃物なら簡単に弾いてしまうことだろう。

 体長は二メートルを優に越え、下手すれば三メートルにも届くかもしれない。鬣のように靡く髪もゴワゴワで、これもまた下手な刃物ぐらいなら絡め取ってしまいそうだ。

 声とも音ともつかない方向といい、肘から突き出た鰭のような突起といい、戦いの舞台であるビルの壁を簡単にぶち壊す腕力といい、とても人間とは思えない。

 ‥‥そうだ、これは人間じゃない。人の姿をしていても、その実態は獣。知能もなく、理性もなく、ただひたすらに目の前の敵と認識したモノに対して攻撃を仕掛けるだけの獣なのだ。

 

 

「どきなさいリンッ! はぁぁああ———!!!」

 

 

 その黒い獣の眼前に、鮮やかな青と銀が舞い込んだ。振りかざすは不可視の聖剣、私達には遠間がために空気の揺らぎすら見えないそれを渾身の力を持って獣に打ち込み、大地を踏みしめて再度大きく吹き飛ばす。

 砂金のような髪を持った小柄な少女に何故それまでの力が備わっているのか、とにかく彼女は今まで眼前の黒いサーヴァント、バーサーカーと、驚くべきことに互角以上に渡り合っているのだ。

 大きく吹き飛ばされたバーサーカーはビルの屋上の階段へと突っ込んでいくけれど、セイバーの剣には血糊が認められない。どうやらまた、聖剣による剣戟はヤツの皮膚で防がれてしまったらしい。悔しげに歯を食いしばったセイバーがこちらへと向き直った。

 

 

「アレの真名はギリシャの大英雄、ヘラクレス。その宝具は常時発動する肉体、『十二の試練(ゴッドハンド)』です! Bランク以下の攻撃は問答無用で無効化される上に、一度喰らった攻撃は例えAランクを超えていようと二度と通じない!」

 

「ヘラクレス?! ちょっと待って、そんなものが狂化されたりしたら‥‥!」

 

『この有様っていうことですねー。流石に霊格の高い英霊相手だと辛い戦いになりますね、あはー』

 

「無駄話をしていないで援護なさいなルビー! サファイア、魔力弾の密度を高めてもう一度ですわ!」

 

『了解しました、ルヴィア様』

 

 

 セイバーと私から見てちょうど三角形になるような位置に陣取っていたルヴィアが私の手元で楽しそうに身をくねらせているルビーを叱咤し、自分はサファイアに命じて魔力を収束させる。

 Aランク未満の攻撃は無効。ならば無理に砲撃自体を大きくしても無駄以外の何物でもない。魔力の密度を高め、範囲を犠牲にして攻撃の威力を高めないと先ずはあの宝具を抜くことが出来ないのだ。

 

 

「———速射《シュート》!!」

 

 

 収束された魔力弾がルヴィアの目の前に現れた魔法陣から放たれる。圧縮された魔力弾は見た目こそ小さく地味だけど、その分だけ速度と貫通力が上がっている。

 一瞬、視認も難しいぐらいのあっという間にバーサーカーへと達した弾は先程とは違い皮膚を穿ち、真っ黒な液体を吹き上げさせた。

 

 

「■ォ■ォ———?!」

 

『くっ、通りはしましたが効果が薄い!』

 

『純粋にスペックが違うんです! 宝具自体を抜いても、攻撃の規模が小さいからバーサーカー自体に効かないんですよ!』

 

「冗談じゃないわよ、こちとら普通に砲撃しただけじゃどんなに魔力を込めてもAランクには届かないわよ!」

 

 

 単純にAランクを超えるだけの砲撃なら、既に何回か放っている。それでも効果を発揮したのは最初の一回だけで、それでもバーサーカーを殺しきることはできず、しかも二度目からは一切ダメージを与えられていない。

 ‥‥つまり、私達の基本的な攻撃方法である魔力砲は一種類の攻撃と判断されたというわけだ。確かに性質を多少変えることも出来るとはいえアレは純粋な魔力攻撃だ。同じ種類といえば、どれも同じ種類と言えないこともないだろう。

 さっきAランクの砲撃を放ったのは私。そしてルヴィアも今の射撃でバーサーカーの宝具に攻撃を覚えられてしまったことだろう。私とルヴィアで一回ずつ攻撃が通ったのは魔力の波長が違ったからかもしれないけど、つまり私達は実質これ以上バーサーカーを攻撃する手段がないわけだ。

 もちろん、まだまだ工夫すれば何とか攻撃が通らないこともない。例えば黒いセイバーと戦った時みたいに接近戦仕様にしてもいいし、他にも色々やりようはある。

 ‥‥ただ、それも相手がもう少しばかり普通の敵だったらの話だ。この最悪最凶の狂戦士を相手に、そこまで試す隙があるだろうか。

 

 

「参りましたね‥‥。リンの砲撃と私の聖剣による斬撃で何とか四回殺すことが出来ましたが、命のストックはまだ八回分も残っていますし‥‥」

 

「っとに、自動蘇生(オートレイズ)なんて冗談じゃないわよ‥‥! もう私達の砲撃は効かないのに、あと八回もどうやって殺せっていうの?!」

 

 

 セイバーから聞いた『十二の試練(ゴッドハンド)』のもう一つの効果。合計十一回の自動蘇生(オートレイズ)。しかも、その全ては別の手段でもって殺さなければいけない。

 最初にセイバーが聖剣で首筋を切り裂いたので一回。その後の私とルヴィアゼリッタの、魔術回路も壊れよとばかりに全力で放った砲撃で三回。威力があれば同じ手段でも数回殺せるらしいけど、それでもまだ八回も命のストックが残っている。

 しかも、これを突破するにはAランク以上の攻撃でなければいけないのだ。‥‥なんて無理ゲー、そんなどうしようもない感想が浮かび上がってくるのも仕方がないといったものだろう。

 

 

「セイバー、貴女のアノ宝具じゃ殺しきれないの?」

 

「‥‥自信はありますが、確実ではないですね。失敗した時に後がないというのを考えると今やっていい賭ではないように思います」

 

 

 鏡面界に喚び出されたサーヴァントは軒並み黒化という、理性をはぎ取られて“英霊の現象”と化した姿になっているが、それでも戦闘能力は多少の劣化に抑えられている上に宝具までしっかりと使用することができる。

 宝具とは英霊と不可分、唯一の武装。英霊の真名が分かれば宝具がわかり、宝具の真名が分かれば英霊の真名も分かる。つまり宝具を使用した瞬間に、サーヴァントの正体はバレてしまうと言っても過言ではない。

 あの日、一度は完膚無きまでに封殺されてしまったキャスターへのリベンジを果たした私達は、続いて黒く染まった鎧を纏ったセイバーとの戦闘へと突入した。‥‥そう、並行世界に迷い込んでしまった私達に協力してくれた、銀と青の剣の騎士(セイバー)とそっくり同じ姿をした黒い騎士と。

 

 まるで白黒反転して、ついでに真っ黒な絵の具をかけたような敵の姿。あまりにも禍々しく、それでいながら清冽な気を放つ姿は今まで相手した英霊達とは全く違っていた。

 体に纏うは漆黒の魔力。あまりにも量と密度が濃いために実体化した魔力は通常の魔力弾による攻撃を遮断し、なおかつ剣を振るえば剣圧にまとわりついて斬撃をまるで飛び道具のように飛ばすこともできる。

 理性を失っていると言いはしたけれど、その戦闘本能自体は健在だ。あまりにも冷徹な判断力がそのままであるがゆえに戦闘という局面に限れば理性があろうと無かろうとそれは大した差ではない。

 最初に接敵した私とルヴィアゼリッタは軽くねじ伏せられ、キャスターに止めを刺していたセイバーが戻ってきた時にはあと一歩で逆に私達が止めを刺されてしまうところだった。

 

 ‥‥そして、間に合ったセイバーと黒いセイバーとの戦いは、私達二人して張り合おうと考えたのがアホらしかったぐらいに現実味に欠けた、それこそ正真正銘次元の違う戦いだった。

 今までセイバーには二人の英霊を倒すために手伝いをしてもらった。ライダーとキャスターとの戦いは、片や獣のように戦うしか術がなかったためにいとも容易く不可視の剣に斬り伏せられ、片や最初こそ空中というコチラの手が届かない場所に陣取られての戦いだったために一方的に退却するしかなかった。

 しかし次の戦闘では私とルヴィアゼリッタが飛行術を会得。空に上って何とかキャスターを叩き落とし、セイバーに止めを刺してもらったのだ。

 どちらにしても肝心なのは、セイバーは全く本気というものを出しておらず、黒化した英霊も英霊というには不十分すぎる劣化した存在だったということである。

 私達は英霊同士の戦闘がどんなものか、本当に理解してはいなかったのである。ライダー、キャスターともに劣化した存在ではセイバーの本気を引き出すまでには至らなかった。あの時の目の前の黒く劣化した同一存在でやっと、青と銀の少女騎士の本気を引き出すことに成功したのだ。

 まさに一挙一刀足の間合いで繰り広げられる凄絶な剣舞。繰り出す一刀一刀が必殺の威力を秘めた斬撃で、それを互いに避けては弾き、今度は自分が必殺の斬撃を繰り出していく。

 目に見えない、という程に早いわけじゃなかった。どちらかといえば剣の騎士(セイバー)は速さを重視したクラスじゃない。どっしりと地に構え、悠然と眼前の敵を屠る存在だ。

 それでも互いに交わす刃の軌跡は、傍から見ているからこそ目視できる速さ。実際に正対してみたならば、一筋目を見切る間もなく斬り伏せられてしまうことだろう。

 それほどまでに圧倒的な威力と速さを秘めた斬撃による剣舞は果てしなく続くかと思われたが、どうやら二人ともこのままではけりが付かないと判断したらしく、互いに大きく相手と距離をとると、必殺の言霊を秘めた真名を口にした。

 

 

約束された勝利の剣(エクスカリバー)

 

 

 日本ではイギリスの名で親しまれる大ブリテン王国。西暦九百年ぐらいにその地でログレスという王国を治めていた若き騎士王が持っていた剣は、今も最上級の聖剣の代名詞として語り継がれている。

 それは人類のユメに応えて星が作り出した最上級の神秘。戦場で斃れ往く兵士たちが今際に夢見た勝利の幻想。

 人間の手でも、英雄の手でも、神の手でもない。私達が存在しているこの星によって生み出された最上級の幻想は、担い手に絶対の勝利を約束する最強の剣。まさしく英雄の中の英雄と呼ばれしアーサー王の宝具の解放に、私達二人は網膜が焼き付いてしまうことを覚悟で目を見開いた。

 黒い光と、黄金の光。黒く化してしまった暗黒の剣も、不思議なことに眩く輝く黄金の剣と同じく清冽で美しい光を湛えて冬木大橋の橋桁の下に作られた小さな公園を焼き尽くす。

 破壊をまき散らした二つの聖剣の激突はしかし、最終的には私とルヴィアゼリッタが与えた宝石を呑み込んでいた銀と青の騎士王の勝利で幕を閉じた

 

 

「何より、正直な話ですが二日続けて宝具を放つというのは私にもかなりの負担です。リンと一時的にパスを繋いでいる以上は魔力に不足はないのですが、どちらにしても一度放てば二発目からは『十二の試練(ゴッドハンド)』に無効化されてしまうことでしょうし‥‥」

 

「どうしたものかしらね。ここのままじゃ間違いなくジリ貧よ」

 

「四回までは、一度に減らす自信があります。リンにも負担をかけますが、全力で魔力を供給すれば六回までは何とか削れることでしょう。ですから‥‥」

 

「あと二回、何とかして削らなければならないということですわね。まったく、無茶な注文ですがやらないことには仕方がありませんわ」

 

 

 セイバーの発言を受けてルヴィアゼリッタが大きく嘆息する。

 本来のマスターであるこちらの世界の遠坂凛との契約のラインが何らかの理由で捻じれてしまっているらしいセイバーは、魔力の供給が普段に比べてか細いらしい。だから共闘する前に、私はセイバーと一時的にラインを繋げていた。

 そして戦闘中である今、私がルビーから供給される魔力の一部は常にセイバーに流れ続けている。霊格の高さからそれなりに予想はしていたんだけど、セイバーってばものすっごく燃費が悪い。私の魔術回路が生み出せる魔力の半分ぐらいが常に持っていかれている。

 だから私は残った半分の魔力を上手いこと運営しなければならないのだ。供給自体が無制限でも一度に動かせる魔力には限界があるからね。

 だからこそ攻撃の要自体はセイバーと、支援にルヴィアゼリッタ。私はさらにその支援とかなり非効率的な戦いになってしまっている。それでもコレ以外に方法がないのだから仕方がない。

 

 ‥‥あと二回。十二回の中のたった二回ではあるけれど、それがどんなに大変なことか。Aランクを超える攻撃なんて、本来なら普通の魔術師がやっていい魔術じゃない。死を覚悟して、それで漸く放つことができる大魔術だ。

 ルビーとサファイアの支援がある私達二人であろうと、魔力供給があろうと魔術回路を著しく傷つける。そして私達の魔力砲撃は、もうバーサーカーには通用しない。

 となると残り選択肢はごく僅か。私達がルビーとサファイアに頼らないAランクの攻撃をするか、セイバーが聖剣の真名解放以外の手段でバーサーカーを倒すか。もしくは———

 

 

「‥‥リン先輩、一回だけなら私にも策が無いこともありません。もし、お手伝いして頂けるならですけど———」

 

「桜‥‥?」

 

「ちょ、ちょっと桜! 青子さんじゃあるまいし、私達があんなところに突っ込んでいってどうするっていうのよ?!」

 

 

 私達の後ろに控えていた、青に近い髪の毛をした女の子が口を開いた。桃色の落ち着いた服を着て、髪とよく似た色の瞳をした私より少しだけ年上ぐらいの年頃の女の子。

 元の世界の私もよく知る容姿。私の学校の後輩だった、間桐桜という名前の———魔術師だ。

 

 あの日、私とルヴィアゼリッタがこの世界へと迷い込んでしまったあの日。私達二人は新都の中央公園で出会ったセイバーの案内で、この世界で私の弟子をしているというエミヤシロウの屋敷を訪れた。

 冬木でも住宅地が密集している深山町にポツンと立っている大きな武家屋敷。隣には冬木では有名な藤村組の屋敷がある、私が住んでいる遠坂邸よりも大きな家だ。

 そこで出会ったのは私達の世界では穂群原学園初等部の教師をしていた記憶のある藤村先生と、今私のすぐ後ろまで近寄ってきた間桐桜。そして彼女の隣で無謀な発言を考え直すように必死で叫んでいる彼女の姉妹弟子であるという黒桐鮮花さんだ。

 何でも桜と藤村先生は日常的にエミヤの屋敷に出入りして、今はこの世界の私と一緒にロンドンは時計塔に留学しているエミヤシロウの代わりに保守管理をやっているらしい。

 桜は先日、来年度から入学する時計塔へ手続きをしに行ってきた帰りなんだとか。鮮花さんは桜と一緒にロンドンに留学することになっているので、ついでだからと冬木まで遊びに来たということだ。

 ちなみに二人は同い年。桜は来年から時計塔に入るってことだから‥‥ちょうど高校三年生ね。ってことは何、今の私ってば桜の一つ年下ってこと? ‥‥なんか複雑ね。微妙に彼女の方が余裕ありそうな感じするし。

 

 

「かいつまんで話してくれるかしら———っと!」

 

 

 桜を突き飛ばしながら、突進を仕掛けてきたバーサーカーを回避する。すかさずルヴィアゼリッタとセイバーが相手をして、話し合いを始めようとしていた私達からバーサーカーの注意を逸らしてくれた。

 フィールドが狭いからライダー戦の時のように悠長に作戦会議をしているわけにはいかない。行動は迅速に。そのスタンスの下、私はいざとなったら壁になれるように物理障壁に回す魔力を最大にして素早く桜と鮮花さんに近づいていく。

 

 

「‥‥で、何か策があるの?」

 

「あ、はい。一回だけなら何とかAランクぎりぎりの攻撃が出来るかもしれません。でも溜めが必要なのと狙いが甘いので、どうにか動きを止めて欲しいんですけど‥‥」

 

「って、ちょっと桜、もしかしてアレをやる気? やめなさいよ! 橙子師にもまだ止められてるでしょ?!」

 

「でも鮮花、ここを何とかしないと先輩たちが帰ってこないし‥‥」

 

 

 この二人、私達の不審な様子をすぐに見破って問い詰めてきたので洗いざらい話してしまったら、すぐさま手伝うと言い出した。桜にしてみれば私じゃなくて本来の遠坂凛の方が好いのは当然で、目の前で言われたにも関わらず私は少し嬉しかった。

 私の世界の桜がどうかは知らないけれど、どうやらこの世界の桜は間桐の家を継いで魔術師として立派に修行を続けているらしい。最近は何でも元々は鮮花さんの師匠であった封印指定の魔術師に師事しているらしく、鮮花さんの話によると随分と腕を上げているらしい。

 まぁ時計塔に留学できるってだけで十分過ぎるほどに優秀であることの証明になっているわよね。こういうこと言うと自画自賛みたいになるかもしれないけれど、事実だから仕方がないわね。

 

 

「それ以前の問題で、私達がバーサーカーを倒さなかったら逆に殺されちゃうでしょう?」

 

「う、確かに‥‥。こんなに狭いと隙を突いて逃げ出すのも無理があるわよね‥‥」

 

「ちょっとそこ、友情を確かめ合うのは良いけど結論は早く出して頂戴な。あそこで戦ってる二人も、そう長くは保たないんだからね」

 

 

 セイバーは容赦なく私から大量の魔力を吸い取って自分の五体を強化し、ロケット噴射のようにして巨大なバーサーカ−の攻撃を受け止めている。けど、当然ながら魔力が無限でも体力は有限で、ついでにいうと常時大量の魔力を供給されている私の魔術回路にも限界はあるのだ。

 その後ろでセイバーの隙を援護しているルヴィアゼリッタの攻撃にしても『十二の試練(ゴッドハンド)』の前には大した効果を上げることは出来ない。対魔力と違って掻き消すというわけじゃないから衝撃が牽制にはなっているけれど、戦闘本能がしっかりとある分、じきに慣れてしまうことだろう。

 

 

「‥‥本当にやれるの? 貴女、前にも一度失敗して酷い目にあったじゃない」

 

「大丈夫、出来る。だって出来なきゃ死ぬのは私達だもの。リン先輩も、ルヴィアゼリッタさんも、鮮花だって死んじゃうもの」

 

「背水の陣ってわけね。まったく、本当に桜ってば肝が据わるとトンデモないことばっかりやるんだから‥‥」

 

 

 鮮花さんが困ったように、それでも何処となく嬉しげに溜息を漏らした。私が思うに、この子ってば私によく似ている。一か八かの博打は、それなりに勝算があるなら私だって望むところだ。

 がっしと鮮花さんと桜が手を組む。桜が鮮花さんの師匠に弟子入りしてからそう長いこと経ってないはずなんだけど、それでも二人の間にはそれこそ歴戦の友人同士のような信頼が透けて見えた。

 

 

「Es erzahlt 《声は遠くに》 Mein Sc hatten nimmt Sie 《私の足は緑を覆う》———!」

 

 

 慣れ親しんだドイツ語の詠唱と共に、桜の影が大地を離れて主の体を這い上がっていく。それは途中で幾筋もの切れ目をつくり、そこに桜の魔力が入り込んで赤いラインを作り上げた。

 まるで魔女か悪魔。私達が相手してきた黒化した英霊のように禍々しく、美しい。迸る魔力と共に銀へと色を変えた髪と頬に浮き出た文様もまた、妖しげな雰囲気を助長している。

 今まで傍で簡単な魔術で援護するだけしかなかったけれど、これが初めて見る「魔術師・間桐桜」の本気の姿。体から溢れる魔力は普段の私が生成出来る量をさらに越え、姿同様に恐ろしげな雰囲気を辺りへと撒き散らす。

 ‥‥感じる属性は、まさか虚数? 闇、なんてものじゃない虚ろな感触は、私の属性である五大元素(アベレージ・ワン)よりも更に希少で扱いが難しいものだ。

 

 

「いきます、リン先輩」

 

「‥‥そう。じゃあ足止めは私達に任せなさい。大風呂敷広げたんだから、せめて一回は殺してみせなさいよね———!」

 

 

 ルビーからの魔力供給を受け、魔術回路が最大限に回転する。足止めの要であるセイバーが要求するだけの大量の魔力を供給し、彼女の邪魔にならない位置でひたすら弾幕を張るために、魔力弾を作り上げる魔力を用意する。

 クラスカードの収集が始まってから連日連夜無理をさせていた魔術回路は悲鳴を上げるけど、自分の体なんだからと無視。大丈夫、たかが一週間かそこら無理したぐらいじゃあ私の体は壊れない。

 何よりも今は目の前の、私達が元の世界に帰るために為すべきことをしっかりと成し遂げることが大事! 向こうでもきっと、こっちの私が頑張っているはずなのだ。何より向こうが成功してこっちは成功しないなんてことはプライドに障る。

 いくらこっちの私が今の私よりも数年ぐらい年上だったとしても、それでも自分に負けるなんてのは真っ平御免だ。ましてやたかだか数年歳上っていうのに弟子なんてとってるようなヤツに負けたくはない。

 

 

「では行きますよ! 隙を見て合図をして下さいね———ッ!!」

 

「Azolt———!」

 

速射(シュート)ッ!!」

 

 

 セイバーが私からの魔力供給を受けて強く一歩踏み出し、咆吼を上げるバーサーカーに斬りかかっていく。続けて鮮花さんとルヴィアゼリッタが援護のためにそれぞれ全力で攻撃を始めた。

 ルヴィアゼリッタの放つ無数の魔力弾が足場を削り、セイバーが攻撃されようとすれば鮮花さんが放った特大の炎がバーサーカーの視界を塞ぐ。

 私は一時的に自動治癒(リジェネーション)を解除すると、親指の皮を歯で噛み千切って血を出させる。それを同じように傷をつけて血を流した桜の指と重ね合わせて魔力を交わすためのパスを作り上げた。

 こんな簡単な血のやりとりで出来るのはそれこそ一回の戦闘の余波だけで解れてしまうようなか細い繋がりだけど、今はこれが私達の命運を左右する。パスを通じて、Aランク魔術に匹敵する量の魔力が流れていく。

 

 セイバーへの魔力の供給と、桜への魔力の供給とで私の魔術回路は完全に手一杯。少しぐらいなら魔力弾ぐらい放てるかと思ったけど、絶え間なく入ってくる魔力と出て行く魔力で頭がクラクラするからそれどころじゃない。

 

 突如、背後で恐ろしげな魔力が上がる。虚数、だからという怖気じゃない。これは負の感情だ。どういう魔術かは分からないけど、桜が負の感情を解放している。

 背中を奔る怖気が増すと共に、桜から迸る魔力もまた量を増す。背後に、Aランクを越える魔力が私達を屠ろうと待ちかまえているのだ。あぁ、なんてこと、桜ってばこんなに凄い魔術師だったのか。

 悲鳴をあげる魔術回路に顔中から汗が流れ落ちる中、私は確かに背後の怖ましい魔力に頼もしさを感じて思わず口の端を歪めたのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥寒い。なぁ紫遙、さっきからずっとこうして突っ立ってるけど、俺達これからどうすればいいんだ?」

 

「だから、それを今こうやって考えてるんだろ? 正直俺だって途方に暮れてるんだから、勘弁してくれよ‥‥」

 

 

 冬木。冬という字が地名に入っている日本海沿いの地方都市は、冬が長いから冬木って言うだけで実際はそこまで寒い場所じゃない。どちらかといえば夏はとても暑く、冬は程々に寒い温暖な地域だ。

 それでもこんな夜中、しかも街路樹が見事に頭を下げてしまっているぐらいに風の強い夜中に外に立っていれば、どんなに防寒対策をしていても凍えてしまうのは当然。

 しかも今の俺達は来るバーサーカー戦に備えて戦闘装備。衛宮が着ている真っ赤な外套は魔術礼装としての防御力こそ高いけど防寒具としては殆ど効果を発揮しないし、俺が着ているジャケットだって袖をまくれば一年中でも着られるぐらいの適度な薄さだ。

 ‥‥今になって思ったんだけど、橙子姉が何処からか拾って来てくれたコレ、本当に軍用なのかな? それにしちゃどうにも薄い気がするんだけど。

 

 

「どう考えても無茶ぶりだろ、コレ。遠坂嬢もルヴィアも忙しいとはいえ俺達に丸投げだもんなぁ‥‥。そもそも始まる前に対策練っておくべきだろって話なわけで」

 

「気持ちは分かるけど愚痴るなよ紫遙。誰かが何とかしなきゃ、俺達は元の世界に帰れないんだからさ」

 

「分かってるって。いや、分かっててもさ、どうしろっていうんだよ、年端もいかない女の子の口説き方なんて知らないぞ?」

 

「そういうこと言ってるわけじゃないだろ‥‥」

 

 

 目の前に建っているのは比較的大きめの普通の一軒家。そして背後にはとても普通とはいえない大きさとグレードの大邸宅。

 俺達が前にしているのがこの世界でのアインツベルン邸で、後ろに建っているのがエーデルフェルト別邸だ。どちらも主が不在にしているためか、仄かな明かりだけを残してシンと静まりかえっている。

 片方の屋敷の主、つまるところイリヤスフィールの両親は仕事で海外出張中らしいし、もう片方の屋敷の主であるルヴィアは遠坂嬢と美遊嬢と一緒にさっき発生した鏡面界に行ってしまっていた。

 鏡面界に召喚される最後のサーヴァントは、侵入の段階で俺がいない以上は間違いなくヘラクレスになるだろう。ランスロットと比べてどちらが強敵か、なんて比べるまでもない。本来なら霊格の低い湖の騎士が召喚された方がよかったんだけど‥‥俺は、もう頭の中を覗かれたくなかったのだ。

 

 

「今、美遊は一人であのバーサーカーと戦ってくれてるんだ。俺達が頑張らなくてどうするんだよ?」

 

「‥‥あぁ、確かにそうだな。美遊嬢にばかり迷惑をかけるわけにはいかない」

 

 

 鏡面界に侵入したのは美遊嬢と遠坂嬢とルヴィアゼリッタ、それにバゼットの四人。そしてバゼットは何とか傷が治りはしたけれど、残念なことに彼女の宝具は特性上バーサーカーに対して殆ど効果を発揮しない。

 『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』はカウンター系の宝具であるが故に、遣う局面が非常に限られる。また、事実上相手に出来ない宝具や必殺技というのもまた多いのだ。

 その代表格が同じく因果を操る宝具である『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』であるわけだけど、同じくらい、いや、もっと相性が最悪な宝具として常時発動型の宝具がある。

 反面、一見相手が難しいように見える常に発動しているタイプの宝具は、実は『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』でカウンターを取ることが出来る。しかも任意で発動できるらしく、それだけ普通の宝具よりも御しやすいと言えるだろう。

 しかし、その唯一と言って良いほどに例外なのが、バーサーカーの持つ『十二の試練(ゴッドハンド)』。フラガラックは通常の宝具とは違って消費型であり、数が限られる。

 しかもバーサーカーには一度使った攻撃が二度通じないという特性があるが故に、たった一度きりの必殺技であるフラガラックは非常に相性が悪いのだ。

 

 故に、鏡面界でバーサーカーに対抗できるのは美遊嬢のみ。遠坂嬢とルヴィアも気合い入れれば『十二の試練(ゴッドハンド)』を抜けるAランクの攻撃を出来ないこともないと思うけど、今は並行世界に移動してしまったことで宝石が不足しているはずだ。

 何より、言っちゃ何だけど二人とも基本的に戦闘が得意じゃない。ある程度以上に戦えるのは二人の基本スペックが異常に高いからで、本来は戦闘に向いている魔術師じゃないのである。

 狙いの甘い二人がバーサーカーにAランクに相当する攻撃を当てることが出来るかと言われれば‥‥実際に流れ弾にも当たったことがある身としては非常に不安だ。いや、絶対に無理だと思う。

 仮に本気で当てるとすれば、それこそFateルートのアインツベルンの森でやったように、バーサーカーの間合いの中に侵入しなければならない。一度で殺せるならともかく、十二の命を持つ相手に対して捨て身の特攻を仕掛けるのはあまりにも無謀だ。

 

 

「考えてみればトンデモないな、『十二の試練(ゴッドハンド)』ってのは。概念武装っていうのはあんな化け物も含めちまっていいのか?」

 

「そもそもアレは概念武装というよりは祝福や呪いの類に近いよ。自動蘇生っていう概念から考えるに、ヘラクレスの逸話を差っ引いても呪いの方が正しいかもしれないな。

 それに、先ず最初の前提として“概念武装”っていうのは限られた局面においてのみ効力を発揮する武装だからな。衛宮には釈迦に何とやらかもしれないけど、宝具にしても礼装にしても、概念っていうのは決して無敵の神秘じゃない」

 

 

 正確に言えば宝具は概念武装じゃないかもしれないけれど、そうした一面も持っている。そして限られた一つの事象を引き起こすことに特化しているがために、決して最強とはいえないのだ。

 

 特に駆け出しの魔術師、もしくは生粋の魔術師にも言えることだけど、彼らは魔術や概念、神秘といったものを最上級のものであると捉えがちで危うい。

 俺にしたって魔術の担い手であることを非常に誇りだと思っているし、自分が神秘に選ばれた特別な人間であるという自覚もある。不用意に現代機器に頼りたくないと思っているのも、一般的な魔術師と同じだ。

 けど、だからといって魔術こそが至高のものであると疑いもなく信じているわけではない。むしろ逆だ。現代の発展した科学は多くの分野において魔術を既に追い越してしまっている。

 

 

「例えばさ、サーヴァントには神秘が含まれない攻撃は通用しないってのが一般論になってるけど、アレ嘘だから」

 

「え、じゃあ前に遠坂から聞いた説明は間違いだったってことか?」

 

「決して間違いじゃないけどな。誤解を生じやすいんだけど、サーヴァントにだって物理攻撃は効くよ。セイバーもタンスの角に足ぶつけて悶絶したり、熱すぎるスープ飲んで舌に火傷したりするだろう?」

 

「あ‥‥」

 

 

 例えば完全な幽体ならば、確かに物理攻撃、というよりも物理的な干渉は殆ど効かないといっても間違いじゃない。一般的な幽霊のイメージと同じように、どんな干渉も理が違う彼らをすり抜けてしまうのだ。

 対してサーヴァントは一時的ながらも物理的な干渉が出来るように実体を伴って現世に存在している。ましてや彼らは元は人間、生きていた時代の普遍的な常識に縛られている存在でもある。つまり、結論としては物理攻撃も効く存在なのである。

 

 

「ただ、物理攻撃じゃ彼らの霊核にダメージを与えることが出来ないんだ。そういう意味で、サーヴァントは例え核ミサイルを撃ち込まれても消滅してしまうことはないっていうことなんだよ。当然ながら相応の衝撃とか物理的なダメージは受けるだろうけど」

 

「そうか‥‥。まぁセイバーにそういう攻撃を当てられるヤツってのはそんなに多くないとは思うけど、注意しとくべきなのかな」

 

「あぁ。そして魔術師だって同じさ。魔術師が使える攻性魔術で、Aランクのものだって家一軒吹き飛ばすのが精一杯だ。それなら旧式の大砲一つで事足りる。ウィッチクラフトで作る栄養剤だって、コンビニに行けばガキの小遣いで買えるんだからね。手間暇とコストが段違いだ。魔術は、決して万能じゃない」

 

 

 魔術は結果で語られる。でも、究極的に結果のみで語るならば魔術よりも科学の方が遥かに便利だ。

 遠い場所に行きたいなら飛行機に乗ればいい。傷を治したいなら包帯を巻けば十分に魔術以上の応急処置になる。遠くの様子を知りたいならば、監視カメラなんて便利な代物もある。

 だから魔術で全てを語るのは、本当なら間違いなのだ。魔術とは結果を論ずるものであるけれど、技術ではなくて学問なのだから。結果自体を論じていては始まらない。

 魔術師は、ただ自分が魔術師であることに誇りを持てばいい。他を見下す必要も、他と比べる必要もなく、魔術を行使するというそれだけで俺達は魔術師なのだから。魔術師は孤高の賢人。そう言われる理由の一端はここにある。

 

 

「———って、何を暇持て余して喋くってるんだ俺達は。‥‥こんなことしてる場合じゃない。美遊嬢一人じゃ、いくらクラスカードがあるからっていっても十二回もバーサーカーを殺すのは無理だ。どうしても、イリヤスフィールの手助けがいる。俺達は何とかして、彼女を説得しなきゃならないな」

 

 

 衛宮と二人で明かりの点いた暖かな家を仰ぎ見る。ごくごく一般的な外観と雰囲気は、とても俺達の世界では千年を超える歴史を持つ名家であるアインツベルンの一族が住んでいる家だとは思えない。

 ‥‥こんな寒い中で野郎二人っきりで立ちつくしているのが寂しくなってしまうぐらいに、家の中は暖かそうだった。時折居間の方から聞こえる笑い声などは、本当に自分たちは何をやっているのかと思わされる。

 

 そもそも何故、俺達は美遊嬢達だけを鏡面界へと赴かせて、こんなところで暇を潰しているのか。いや、決して暇じゃないんだけど、それにしたって意味が分からない行動かもしれない。

 前述した通り、美遊嬢一人ではルヴィア達の手助けがあったとしても絶対にバーサーカーに勝つことは出来ない。彼女の実力を過小評価しているわけでも侮っているわけでも何でもなく、これは冷静な判断によって結論づけられた紛れもない事実だ。

 そして本来ならば彼女と対になって存在するだろうカレイドの魔法少女、イリヤスフィール。彼女は昨夜、俺が異常を来したアサシン戦において同じく異常を来して引きこもってしまっているらしい。いや、余裕なかったから詳しい話は正直さっぱりなんだけど。

 

 彼女自身に、戦わなきゃいけない理由も責任もない。遠坂嬢や俺達が勝手に戦いに引きずり込んだのは紛れもない事実だ。彼女にはわざわざ危険を冒して戦いに赴く義務はなく、俺達の行動は理不尽なものだろう。

 それでも俺達はどうしてもクラスカードを回収する必要があって、そして美遊嬢一人では絶対にバーサーカーに勝てないから、俺達は俺達のエゴで彼女を迎えにやって来た。

 俺達には彼女を戦場へ赴かせる何の権利もない。だけど、理由はある。だからこそエゴと言ったのだ。イリヤスフィールの事情に関係なく、俺達は俺達の理由によって彼女を鏡面界へと赴かせなければならない。

 

 

「‥‥でもさ、流石に俺も風呂に入ってる女の子のところに突撃する勇気もないぞ? いくら時間が無いって言ってもさ」

 

 

 夕食をとったイリヤスフィールが自室に戻るところを見計らって接触するつもりだったのに、なんと彼女はそのままダイニングで寛ぎ、あろうことかそのまま風呂に入ってしまったのだ。

 これではイリヤスフィールが風呂から上がるまではどうしても接触するわけにはいかない。これが遠坂嬢なら彼女が風呂に入っていようがトイレを使っていようが突撃したのかもしれないけれど、男である俺達では変態の汚名を被ってしまう。

 

 

「お前なら行ける———っと、流石に無理か。まったく、こういう待ちの姿勢もキツイな‥‥」

 

 

 エロゲ主人公たる衛宮なら‥‥と思ったところで現実味がないことに気がつく。ゲームでは確かにヒロイン三人+αから好意を寄せられていたかもしれないけれど、実際衛宮はそこまでモテるわけじゃない。

 確かに女の子に対して非常に気が利き、優しい。それに今時の若者とは思えない程に芯がしっかりしてるからか、見目は普通なのにどこはかとなく頼りがいのある男に見える。

 女の子に優しくしまくるからか遠坂嬢は心配してるけれど、実際たまにご近所とかで話を聞いてもそこまで危機感を煽られるような噂は聞かない。たいていが奥様方の『婿に来て欲しい』という世間話だけだ。

 とりあえず何処ぞのエロゲ主人公のような特殊時空が発生するようなことはないだろう。というよりも俺はこの、今俺が暮らしている世界で補正的なものは魔術や神秘が絡んだ現実的なもの以外は見たことがない。

 

 

「‥‥なぁ衛宮。お前がもし、さ、衛宮切嗣氏に拾われてなかったら、どうなってたと思う?」

 

 

 あまりに暇を持て余して生じた沈黙。俺はジャケットのポケットからすっかり皺が寄ってぐしゃぐしゃになってしまった、冬木に来てから購入した安物の煙草を取り出した。

 これまた油の残量が危険なライターで火を点け、大きく吸い込んだ煙を真っ暗な夜空へと吐き出す。青子姉が倫敦の露天で買ってくれた銀色のライターは、この二年ぐらいで傷だらけになってしまっている。

 とはいってもそこまで頻繁に煙草を吸っていたという意味じゃない。ことあるごとに、意味も用もなくカチンカチンと暇つぶしに遊んでいた俺が悪いのだ。

 

 

「‥‥そうだな、やっぱり普通の家庭で、普通の暮らしをして、普通に死んでたんじゃないかと思うぞ。きっと魔術師なんかにはならなくて、もしかしたら本当に普通に穂群原学園に入って普通に近場に就職して‥‥」

 

 

 俺の突拍子もない質問、それでも衛宮はじっくりと考えてから口を開く。まだまだ短い人生ながらもあまりにも普通じゃない生き方をしてきた男が口にしたのは、あまりにも当然でありながら、あまりにも今とはかけ離れた想像だった。

 感慨深げでありながら、その横顔は果てしなくどうでもいいことについて語っているかのようだ。あくまで事実を語っているようで、感慨といったものが感じられない。

 

 

「‥‥あぁそうだ、それでも結局どうなったかもしれないかなんて、今の俺達じゃ分からない。想像も出来ないよ、切嗣(オヤジ)に拾われなかったらどうなってたかなんてさ」

 

「似たような結果が‥‥目の前にあるのに、か?」

 

 

 時を遡ることが出来ない以上は俺達が“もしかしたらあったかもしれない”選択肢を観測することは出来ない。それは第二魔法の管轄で、少なくとも俺や衛宮では到達できない領域だ。

 しかし、俺達の前にはその第二魔法の一端が広がっている。かつて、もしかしたら採ったかもしれない選択肢の果て。あり得たかもしれない未来が俺達の目の前に広がっている。

 

 

「なぁ紫遙、俺はオヤジに拾われる前の記憶がない。だから、本当に俺は切嗣に拾われて二度目の人生が始まったって言っても嘘じゃないんだよ。それ以前のことは、今の俺には関係ない。あり得たかもしれない未来も、さ」

 

「それは嘘だぞ衛宮。たとえ本人が意識できていなくても、今までに過ごした年月は絶対に無くなることはない。お前を構成する要素の中に、無意識の内に入り込んでる。今のお前を作り上げてる基礎の一つだ。無くなった、なんてのは嘘だぞ衛宮」

 

 

 遠い瞳でアインツベルン邸を眺める衛宮に、半ば八つ当たり気味に口を開く。

 意識できない、自覚していない事柄はその当人にとっての事実ではない。しかしそれと同時に、自覚していない事柄が自分に影響を及ぼしているのもまた事実だ。言い換えれば、影響を受けていればそれは自覚しているという状況だと言える。

 意識する、っていうのはすごく難しい概念なのだ。魔術においても表の社会においてもイメージというものが非常に大事な要素であるのと同じように、意識、自覚という要素は下手すればそれだけで重要な事柄を左右しかねない。

 ‥‥なんてのは、正直全く意味がない話だ。というよりもこじつけに近い。俺は美遊嬢のおかげで何いとか踏ん切りが付いていないこともなかったんだけど、それでも心の平静を未だ取り戻せていなかった俺は、珍しくも泰然自若とした様子の衛宮にイライラとしてしまったのだ。

 あぁなんて情けない。自分の方が腕のある魔術師であるのをいいことにこんな論説とも着かない難癖をつけるなんて、とても普段の俺とは思えない行動だろう。‥‥なんて、情けない。

 

 

「だとしてもさ、関係ないよ。大事なのは“今の俺”だから」

 

「‥‥衛宮?」

 

 

 自己嫌悪に陥りかけて一人電信柱に頭を打ち付けて反省しようか悩んでいると、いつもは何処はかとなく困ったようにしている眉毛をきりりと引き締めた衛宮が月光をバックに俺の方を向く。

 赤い外套———赤原礼装を纏った衛宮の姿が目が慣れる一瞬の間だけ黒いシルエットとなり、唐突に吹いた強い風に巻き上げられた髪がオールバックのようになる。

 まるでその姿は、つい先日に俺の前に一時だけ現れた赤い弓兵のようで、俺は思わず目を瞬かせて言葉を失った。

 

 

「今まで俺がどれだけ後悔したとしても、これからどれだけ後悔するとしても、今の俺が揺らいでなければそれでいい。つまり、そういうことだよ。関係ないって切り捨てたわけじゃなくて、さ」

 

「‥‥‥」

 

「大事なのは、今の俺だ。今の俺が揺らいでいなけりゃ、これから先どれだけ迷ったとしても、とにかく今は一歩踏み出すことが出来る。立ち止まって悩み続けることもない。‥‥聖杯戦争とか倫敦の生活で、俺はそう学んだよ」

 

 

 目はすぐに薄い逆光に慣れて、俺の視界に入るのは赤い外套の弓兵ではなく、同じながらも一回りは大きく見える外套を纏ったよく知った友人の姿。

 俺より幾つか年下の友人は今までずっと未熟で、俺はずっと世話を焼いてやらなきゃと思っていた。しっかり者の遠坂嬢と違い、ひたすらに甘くて世間知らずな魔術使い。でも、手のかかる友人はいつの間にか一年ぐらいの間に急成長を遂げていたのだ。

 思わず一歩、後ずさる。それと同時に小さくなるはずの衛宮の姿は、相変わらず俺には大きく見える。本当に、何時の間にこれほど頼れる顔をするようになったのか。なんとなく、コイツが主人公である理由をもう一度思い知らされた感じがした。

 

 

「‥‥はぁ、まさか衛宮に説教されるような時が来るとは、ね」

 

「俺にって‥‥なんかその言い方気になるぞ?」

 

「気のせいだよ、ソレこそ文字通りな。まぁ礼ぐらいは言ってやる。ちょっと、気合い入ったし」

 

 

 また、衛宮はいつも通りの衛宮に戻る。外套に着られているかのようで、頼りがいがあるのはそうなのかもしれないけど、それでもいつも通りの衛宮だ。

 不思議そう、不満そうに首を傾げる友人から視線を逸らして苦笑する。俺は、いつも通りに笑えているだろうか?

 

 

「‥‥さて、そろそろイリヤスフィールも風呂から上がる頃だろ。何とかして彼女を説得する方法を考えないといけないな」

 

「どうしたらいいもんかなぁ‥‥。俺も、この世界のイリヤとは最初に会った時からあんまり喋ってないんだよ。遠坂がさ、こっちの世界の俺と鉢合わせしたり噂になったりしたらマズイからって家から出してくれないんだ」

 

「‥‥それ、軽く監禁だよな? ていうか確実に監禁だよな? 遠坂嬢も、やるなぁ‥‥」

 

 

 何気なく呟かれた衛宮の言葉に思わず背筋がぞわりとなる。当然ながら遠坂嬢にはそんなつもりはないんだろうけど、それでもそのシチュエーション自体はあまり外聞がよろしくないんではなかろうか。

 というか衛宮もよく了承するよなぁ、一歩間違えれば完全に人権無視なその待遇。いくら家政夫(ブラウニー)が性に合ってるからって、少しも家から出ないってのは中々にストレスが溜まるだろう。

 ‥‥まぁ遠坂嬢の言い分もよく分かる。彼女やルヴィアと違い、衛宮はよりによって冬木エーデルフェルト別邸の目の前に並行世界の当人が居を構えているのだ。下手に遠坂邸から出てくるところを見られてしまっただけでも、狭い冬木のこと、一両日以内にはご町内の噂の的だ。

 ただでさえ衛宮の住んでるアインツベルン邸って、衛宮以外の住人は全員女だもんなぁ。1:3の恐怖の同居生活。絶対にご近所様からは毎日珍獣を見るような視線を向けられているに違いな———

 

 

「あら士郎、こんな時間に家の前で何やってるの?」

 

「「———ッ?!!!」」

 

 

 風が止んで木擦れの音すらしなくなった静かな深山町に、突如美しい女性の声が響き渡った。

 音量としては大したものではないだろう。そも絶叫とかそういうものじゃなかった以上は、その音の大きさもたかが知れている。それでもなおここまで大きく聞こえたのは、その声の主の持つ存在感のせいだろうか。

 ちょうど並んだ衛宮と俺との一関係的には俺の側から聞こえた見知らぬ声に、俺も衛宮も緊張を滲ませながら、それでも相手が一般人だった時に備えて違和感がない程度の速さで振り向いた。

 

 ‥‥一瞬、俺も衛宮もハッと息をのんだ。

 そこに立っていたのは一人の女性。高貴な色とされる紫色の上品な衣服を纏い、最上質の銀糸のような細い髪の毛を風に靡かせた、それこそ絵画に填め込んでも違和感のない美女。

 まるで、女神だ。あまりにも美しく、人間離れした美貌は現実味すら失くさせる。まるで雪の女神が地上に舞い降りて来て、何の因果か儚く消えて無くなることなく現世を謳歌しているかのよう。

 いや、もし目の前の彼女が容貌相応の儚げな微笑とか無表情とかだったなら神秘的な雰囲気だってあったかもしれないんだけど‥‥。残念なことに、というよりかむしろ安心したぐらいなんだけど、彼女が浮かべた表情とは普通の女性———よりもかなり豊かなものだったのだ。

 

 

「もう夕ご飯は終わったのかしら? 隣にいるのはお友達? そういえばそのヘンテコな服はどうしたの?」

 

 

 ニコニコと満面に笑みを浮かべ、楽しげに体を揺らしながらスキップするかのような足運びでこちらに近づいてくる。二十歳過ぎを越えた成熟した女性のような外見を持ちながら、その言動はまるで子供みたいだ。

 全く警戒心を持たず、こちらが呆然としている間にいつの間にやら本当の目の前にまで近づいて来た彼女は、正真正銘衛宮の目と鼻の先にやって来て上から下まで体中を眺め回す。

 首を傾げるとさっき銀糸のようだと形容した長い髪がゆらりと揺れて、しゃらりと鈴が擦れるような音が奏でられたような気がした。

 

 

「んー、どんな用事か知らないけれど、いつまでも外に居たら風邪ひいちゃうわよ? お友達にも悪いし、家に入ったら?」

 

「え、あ、いや、俺は‥‥」

 

 

 自分に親しげに話しかける見知らぬ女性に、衛宮は対応を図りかねてしどろもどろになってしまう。そりゃいくら美人を見慣れた衛宮といえども、彼女の美しさはまさに破格。ついでに見た目と言動のギャップが更に動揺を加速している。

 ‥‥銀色の髪の毛に赤い瞳。そして何処かで見たことがあるような上品な紫色の服。今にも、下手すれば五歳も離れていないだろう衛宮相手に抱きつきそうな雰囲気。どれも、記憶の端に引っかかる。

 決して見たことがある、というわけじゃない。ただ、何となく引っかかるものがある。いつか見たようなものを忘れてしまっているような———

 

 

「あ‥‥アイリスフィール・フォン・アインツベルン———?!!」

 

 

 はた、と思わず口走り、俺は即座に自分が犯した過ちに気づいて意味がないことを知っていながらも急いで口を両手で塞いだ。

 もちろん既に時は遅し。口から出てしまった言葉は二度と口の中には戻ってくれないし、誰かに聞かれてしまった言葉を忘れてもらうわけにもいかない。衛宮が俺の言葉に驚愕して目の前の女性へと視線を動かし、反対に彼女は先程までの雰囲気を一転、眉をつり上げ真剣な瞳へと変えた。

 

 

「‥‥私のことを知ってる只の一般人、っていうわけじゃなさそうね。魔術師、かしら。それもアインツベルンの魔術師としての顔を知ってるとなると、生半可な魔術師でもないのかしら。腕前か、それとも属している組織か、どちらが物騒なのかしら‥‥?」

 

 

 まるでお花畑を背後に咲かせたような雰囲気から一転、魔術師の証である魔術回路を起動させたのか、彼女‥‥アイリスフィールの体から魔力が迸る。

 その魔力、尋常な量ではない。流石に全開時のセイバーとまではいかないだろうけど、遠坂嬢やルヴィアを遥かに上回る。単純に量だけを比べるならば、青子姉にも勝るだろう。

 そうだ、彼女こそがアインツベルンの家が生み出した聖杯戦争に供するためのホムンクルス。完全に小聖杯として機能することを求められて作られたイリヤスフィールには劣るとはいえ、その体は魔術師として十全以上の性能を発揮する。

 

 ‥‥だけど、それは俺達の世界での話だ。それも、俺が前の世界で手に入れていた確かでありながらひどくあやふやな知識によるものでしかない。

 この並行世界で聖杯戦争が行われているかは定かではないけれど、少なくともイリヤスフィール自身野意識として、彼女は間違いなく一般人だった。だから一般人じゃなかったのは彼女の知らない彼女の家、つまりアインツベルン本家。

 アイリスフィール・フォン・アインツベルン。俺達の世界とは異なり、衛宮切嗣と共に生存していた彼女こそが今回の事件に関わる大きなキーパーソンなのだ。俺は、今まさにそう確信した。

 

 

「それに、よくよく見たら士郎の着てるのって聖骸布? ‥‥切嗣が私の知らない間に何か教えてたってことがないなら———貴方、“私の知ってる士郎”じゃないわね?」

 

「———ッ?!」

 

 

 鋭い瞳が、今度は俺から衛宮へと向く。ほんわかとした最初の印象に反して、スイッチを切り替えた彼女は紛れもなく純粋な魔術師だった。

 衛宮共々、冷や汗が走る。回数は少ないながらも誰よりも濃い修羅場をくぐってきた衛宮と、生まれてこのかたとはいかずとも魔術師として一級の英才教育を、最上級の教師二人によって施されてきた俺が気圧されている。

 

 

「それにしても僅かな魔力、生命力の波長もウチの士郎と同じ。わざわざホムンクルスなんか作る手間があるとも思えないし‥‥。だとしたら、信じられないけど、貴方とウチの士郎は同一人物ってことになるわね。ふーむ、つまるところ一番可能性が高いのは‥‥もしかして貴方達、第二魔法の実証者だったりするのかしら?」

 

「———ハ、驚いた。まさかこの人がここまで頭の回る人だとは‥‥」

 

「どんな印象を持っていたかは知らないけれど、魔術師を一面から判断するのは愚の骨頂よ? ましてや女なんて普通の人間ですらいくつも顔を持っているものなんだから」

 

「‥‥おい紫遙どうするんだよ、マズイだろこれ」

 

「わかってる! あぁもう、慎重にやって来たつもりなのにここにきてこんなへまをするとは‥‥!」

 

 

 目の前の小柄な女性から発せられるプレッシャーは尋常ではない。アインツベルンの魔術、錬金術は戦闘には向いていないと聞くけれど、そんなことを頭の端に思い浮かべることすら出来ないぐらいの実力差を感じた。

 ‥‥並行世界の存在と接触する。特に、こちらが並行世界の存在だとバレてしまうことは一番に忌避すべきことだと俺達は最初に決めていたのだ。

 慎重に行動さえしていれば、避けられることであった。とはいえ避けられずにこうなってしまったことは仕方がない。

 考えろ蒼崎紫遙、今一番に考えるべきなのは一体何か。俺達がなすべき行動とは一体何か。

 

 

「‥‥事情を説明した方が、いいですか?」

 

「当然‥‥と言いたいところだけど。貴方、本当は説明したくないんじゃない?」

 

「そりゃ、そうですけど‥‥」

 

「ふふん、実はこっちでも大体の状況は掴めてるのよね。イリヤと、この街が大変なんでしょう? 任せときなさいな、子供の世話は親の仕事よ。実は私ってば、そのために帰ってきたのよねー」

 

 

 ‥‥うん、まぁ、ちょっとビックリ。並行世界の存在なんてトンデモな代物を目の前にして、説明がいらないなんてのもまたトンデモな人だ。あまりにも予想外の返答に、俺の頭は停止してしまった。

 もちろん決して悪いことじゃない。こちらとしては情報を出来る限り漏らすべきではないのだし、今は時間がないこともまた事実なのだ。

 お互いに利害が一致している、というべきなのか。それでいながら不利なのは俺達には変わりなく、冷や汗をこっそりと拭いながらも俺は隣の衛宮と一緒にこれから先どうするのか、心底動きあぐねていた。

 

 

「まさか俺達は監視されていた‥‥?」

 

「そんなことないわよー? そうね、これはいわゆる“母親(ママ)の勘”かしら。魔術師的に言えば、血の繋がってる私とイリヤの間には精神感応が働いてるってことなんだけど」

 

「‥‥血の繋がってる、ね。それだけとは思えないけど‥‥今はどうでもいい、か」

 

「えぇ、どうでもいいわ。私はね、貴方達に私達に必要以上に干渉するつもりがないならそれでいいのよ。今日は何か迷ってるとか、困ってるらしい娘の背中を押しに来てあげただけ。事情はよくわからないけど、それでも今背中を押してあげなきゃってことだけは分かるのよ」

 

 

 寒空の下、雪の女神が楽しげに笑う。魔術師としての姿と普通の母親としての姿が重なり、俺も衛宮も思わず顔を見合わせて困った風な表情を作ってしまった。

 あまりにも調子が狂う。なんだかんだで行動が予想しやすい青子姉とも違う、完全なまでにアンノウンな人物は初めてだ。

 多分、衛宮も初めてなんだろう。俺にはさっぱり分からないけれど、きっと衛宮も藤村先生の行動ってのを大概予想できてるんだろうし。

 

 

「じゃ、私はもう家に入っちゃうわね。イリヤの背中は押してあげるから、後のことはよろしく頼むわよ? ‥‥くれぐれも、怪我させたりしないこと。それぐらい約束してもらえるわよね?」

 

「‥‥正直、どうして貴方がそこまで俺達を信用してくれるのかさっぱりだから約束はしかねるんですけどね?」

 

 

 ぴったりと衛宮にはりついていたレディ・アイリスフィールがアインツベルン邸の玄関へと足を向ける。振り向き様にまるで教師が生徒にするかのように言い放たれたお約束に、俺は何故か毒気を抜かれて呆れたような声を漏らした。

 何が起こっているかも大して把握してないくせに、初めて会った見知らぬ魔術師に娘を預けられるものなのか? そも魔術師ならば、今冬木で起こっている事象について多少なりとも情報を引き出そうとしないものなのか?

 そのトンデモな姿勢は魔術師としても一般人としても、普通の母親としても異常なことなのではないか。最近予想外の事柄が起きすぎて摩耗しつつあるらしい頭が、疑問符ばかりで埋められてしまったような気がする。

 

 

「なーにを今更言ってるんだか。だって今までイリヤが貴方達のことを信用してついてたんでしょう? だったら私は貴方達を信頼している、私の娘を信じるわ。そして何より———」

 

 

 もう一度、彼女はこちらへ歩いて来て衛宮の目の前で立ち止まる。

 そしてその白魚のような細い細い人差し指を、今度はまるで起き上がりこぼしにするかのように衛宮の額に押し当ててツンと突いた。

 悪戯っ子のような目つきに、衛宮はぱちくりと目を見開いて驚いてみせる。どうやら相当に接近されていたのが何かの琴線に触ったらしく、突かれた額を抑える手まで真っ赤になっているようだ。

 

 

「世界は違っても、私の息子が一緒にいるんだもの。これ以上信用できる人間はいないわ」

 

「———俺が、ですか‥‥?」

 

「もう、敬語なんてやめてちょうだい。貴方がどういうつもりか知らないけれど、私にとっての貴方は間違いなく息子以外の何者でもないわ。迷惑かもしれないけれど、しょうがないじゃない。私としては頷いてくれると嬉しいわねー」

 

 

 クスクスと笑う彼女は、本当に悪戯好きの妖精のよう。神秘的な仕草よりも彼女の美しさを際だたせているかのようで、この世で一番の美人を義姉に持っていると公言して憚らない俺ですら、不意打ちのようなその仕草に衛宮と同じく顔を朱に染めてしまった。

 

 

「じゃあ私は行くから、後はよろしくね。間違ってもウチの士郎とか、セラやリズには見つからないようにねー!」

 

 

 一通り俺達をからかって気が済んだのか、レディ・アイリスフィールは今度は振り返りもせずに玄関の鍵を開けて中に入っていく。

 残されたのは俺と衛宮、先程までと同じく寒風吹きすさぶ中に野郎が二人っきり、寂しく突っ立っている。

 俺はまるで突風のように去っていった彼女との温度差に思わず溜息をついて、隣に立って無言のままの衛宮へと視線を移した。

 

 

「やれやれ、とにかく今は彼女がイリヤを何とかしてくれることに期待した方がいいのか‥‥。なぁ衛宮?」

 

「あ‥‥うん、そうだな‥‥」

 

 

 いつも通りの同意の返事を求めたはずが、衛宮は呆然と何かを考え込んでいるかのように目の前を向いてぼんやりとしたままだ。

 どこはかとなく不審な様子に俺が怪訝な目で顔を覗き込むと、ハッと今意識が戻ったかのように体をビクンと震わせ、照れ隠しのように頭の後ろをガシガシとかいた。

 

 

「なんか、さ、もし俺にもか———いや、なんでもないや」

 

「‥‥? 変なヤツだな、もしかして並行世界への移動の影響がこんなところで現れたか?」

 

「んなわけないだろ! そんなんならとっくに影響出てるに決まってるだろうが!」

 

「こら大声出すなって。中の人たちにバレたらどうするんだよ?!」

 

 

 寒々しい風は相変わらず、俺達はさっきまでの陰鬱とした雰囲気はどこへやら、まるでガキのようなやりとりを繰り広げる。

 気がつけば風呂場の方からは姦しい声が上がっていて、おそらくはレディ・アイリスフィールがイリヤの入っている風呂に問答無用で突入したのだろう。背中を押してやると言ったのは、間違いじゃないみたいだ。

 きっと今も遠坂嬢やルヴィアや美遊嬢は、鏡面界で戦っている。こうやってじゃれ合うのも結構だけれど、何とかして早いところ合流してやらなきゃな。

 

 この街で起こっている非常識で物騒極まりない事件のことなんか嘘のように美しく瞬いている澄んだ星空を眺めながら衛宮の愚痴を横耳に流し、俺はそう思ったのであった。

 

 

 

 65th act Fin.

 

 



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番外話 『一周年記念前夜祭』

当時の一周年記念の番外編の前夜祭として執筆したお話です。
つまり六十話程度を一年で書いていたわけで、今のペースは‥‥あはは、大変失礼しました!
なお冬霞が滅多にやらないキャラ対談形式です。苦手な方はご注意くださいませ。


 

 

 

 ぴんぽんぱんぽーん♪

 

 このお話はフィクションです。実在する人物、団体、創作物などとは何ら関係はございません。

 

 また、ネタ時空であるためココでの内容が実在する二次創作に影響することもございません。

 

 あくまでネタであるので、どうぞ気兼ねなくお楽しみ下さい。

 

 

 

 

【倫敦一周年記念前夜祭企画:紫遙とルヴィアのなぜなに倫敦】

 

 

 

 

紫遙「いつも【UBW〜倫敦魔術綺譚】を読んでくれてありがとう! こんにちは、もしくはこんばんは、もしかしたらおはよう! 魔術協会の総本山、時計塔で鉱石学科に所属している蒼崎紫遙だ」

 

ルヴィア「同じく鉱石学科に所属している、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトですわ。今日はいらしてくれて本当にありがとうございました」

 

紫「作者がFateという素晴らしい作品に一目惚れをしてから約半年。今までに書いていた連載をほっぽりだして始めた無責任な連載も、いつの間にか一周年です。

 この一年の間にも他に色々浮気をしたりもしましたが、ここまで来られたのは読者の皆様のおかげです。本当に、俺達だって感謝してもし足りない気分だよ」

 

ル「キャラ対談なんて一番嫌いな鬼門に手を出したのも読者サービスの一環ですわね。本来なら死んでもやりたくないと公言して憚らないそうですが、本当に、こんなトチ狂ったことをしてしまうぐらい皆様には感謝しておりますのよ?」

 

紫「ルヴィア。言葉、言葉。一応さ、ココ公の場所だから、危ない発言は自重してくれないかい?」

 

ル「あら、私としたことが失礼を‥‥。とにかく、まずは最初にこの企画の説明をさせてもらおうかしら。

 この企画は八月三十一日をもって一周年を迎えるこの作品について、一周年を祝うだけではつまらないと考えた欲張りな作者が前夜祭として催したモノですわ

 皆様が作者のメッセージボックスに寄せてくれた質問に、私とショウがこのような対談形式でお答えする、という趣向になっておりますの」

 

紫「というか、普通に一周年企画をやっただけだと空気過ぎてスルーされちゃう危険があるからね。告知としての意味も込めてるってことかな。寂しいけど、これ空気作なのよね‥‥」

 

ル「まぁメタな話はこれぐらいにしておきましょう。私としても自分の許容範囲を超えた台本を読み上げるのは好みではありませんし。ここからは業務連絡以外は私達の好きにして構わないそうですから、いつも通りにやらせていただきましょう」

 

紫「そうだね。作者の分身扱いも不本意だし」

 

ル「ですわね。さて、それではショウ、あまり皆様をお待たせするのも何ですし、早速最初の質問にお答えしていくといたしましょうか」

 

紫「あれ、もしかして司会って俺じゃないのかい‥‥?」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

『主人公が本気で武術に打ち込んだらどれぐらい強くなりますか?』

 

 

ル「ショウが武術に‥‥ですか‥‥」

 

紫「一応、伽藍の洞で式に散々仕込まれた両儀流短刀術を会得してるっちゃあ会得してるんだけどね」

 

ル「そういえば私、貴方がリョウギリュウの修行をしているところを見たことがありませんわね。確か倫敦にも道場があったように思えますけれど‥‥。実際の話、魔術抜きの戦闘ならばどのくらい強いんですの?」

 

紫「うーん、実際魔術アリの戦闘でも全然強くないから難しい質問だね。そもそも魔術師っていうのは基本的に研究者だからさ。表の社会でも研究者はあんまり体鍛えてないっていうイメージがあるだろう? 裏でもそれは同じでね。

 そりゃ戦闘が出来ないことはないけれど、それって物理学者が科学的に武術の研究をしてるのと同じような状況でさ———」

 

ル「話がずれてますわよ、ショウ。多少思うところがあるのは認めますけれど、ちゃんと質問に答えていただきませんか?」

 

紫「あぁ、うん、そうだね。一応今の俺でも一般人よりは格段に強いって式が保証してくれたよ。多分、喧嘩慣れしたチンピラぐらいなら簡単にノせる‥‥と思いたい、かな?

 多分初めて会った人は分からないかもしれないけれど、こう見えても一応、青子姉に連れられて何回か修羅場は経験してるんだよね。命のやりとりをしたことがある以上は、生半可な相手に負けるつもりはないよ。

 倫敦の師範が言うには、現代剣道で三段ぐらいだってさ。四段‥‥はちょっと無理かな。実際に剣道三段を相手にしたらどうかってのは、ちょっとわかんないけどね」

 

ル「私、ニホンの武術についてあまり詳しくないのですが、それはつまりどのくらい強いんですの?」

 

紫「‥‥実は、剣道三段って結構ザラにいるんだよね。ぶっちゃけ、そんな強くないかも‥‥」

 

ル「お、落ち込まないで下さいませ! やはり魔術師は魔術で勝負するべきですわ!」

 

紫「うん、まぁ励ましてくれてありがとう‥‥。まぁ仮に俺が魔術を学ばないで武術を修行したとしても‥‥多分、大して強くならないと思うよ。俺が今こうしてまがりなりにも魔術師として成り立っているのも、言っちゃなんだけど僅かな才能があったからでさ」

 

ル「努力も重要な要素ではありますが、魔術に何が一番必要かと言えば、やはり才能ということになりますものね。受け継がれていく血と才能が、神秘を追い求める一助となるのは現実ですわ」

 

紫「才能がない俺が武術を修練しても、大した結果にはならなかったと思うってことだね。‥‥言ってて悲しくなってくるけど、これが現実。仕方がないね」

 

 

 

『紫遙って知識はあるんだから誰かの魔術や武術を使おうとしたりしないの?』

 

 

紫「うーん、この質問も答えはさっきと同じかな。使おうとしないんじゃなくて、使えないんだよ。俺は戦うことについて才能が悲しくなるぐらい足りないからね。見よう見まねじゃ何も習得できたりなんかしない」

 

ル「そもそも勘違いされてる方が多いかもしれませんが、武術も魔術も聞きかじりの知識で習得出来るほどに生やさしいものではありませんわ。教本を見ただけで、結果や概要を知っているだけで習得出来るようなものならば世界に達人や魔法使いが溢れかえっておりますし。

 仮に似たようなものが出来上がったとしても、それには理解という結果が抜けております。これではとても実を伴った技になるわけがございません」

 

紫「例えば質問してくれた人が想定している技術の一つに七夜の体術があると思うんだけど、これがどんなものか知っているからって俺に再現できるか、と言われれば無理だね。

 頭が膝より低くなる、とか、常に相手の死角をつく、とか、蜘蛛みたいな動き、とか、そういう断片的なものしか知っていないのに全部を再現できるわけがないんだよ。

 一つの技とか、動きの一つぐらいならって思うかもしれないけれど、それも地道な基礎の修行に基づいて作られているわけで、基本的に俺が前に得た知識ではその基礎の知識が抜けてるんだ。土台の作り方も知らずに家を建てても、犬が体当たりしただけで壊れちゃうってことかな」

 

ル「ショウが仰っていることはよく分かりませんが、プロレスでも同じことが言えますわね。よく試合で見ただけの技を子供が真似ているところを目撃いたしますが、基礎の修行もしていない人間では見かけだけの技になってしまいますもの」

 

紫「魔術についても同じなんだ。そもそも魔術っていうのは一つ一つが魔術師個人によって違うものでね。厳密に言えば同じ魔術なんて存在しない。そんなものを真似ようと思っても無理な話さ」

 

ル「例えば詠唱というものは自己暗示。百人魔術師がいれば同じ詠唱など一つとしてございません。同じ大師父の系譜でありながら、私とミス・トオサカの詠唱が違うのは例として分かりやすいと思いますわ。

 仮に、仮にですが、ミス・トオサカが宝石剣を作り上げることに成功したとしますが、仮にですよ? その場合に出来上がった宝石剣も厳密に言えば宝石翁が所持しているものとは別のものなのです」

 

紫「結局は自分自身で積み上げたものが一番信用できるってことかな。なにより橙子姉とか青子姉とか式とかのちゃんとした師匠から指導を受けてるしね。無い才能を自分で勝手に捻って何かやろうとするよりも、師匠の言うことをしっかりと聞いてた方がいいんだよ。

 そういうわけで、俺は不確かな知識には頼らないし、頼れないんだ。納得してくれればいいんだけど‥‥どうかな?」

 

 

 

『ルヴィア的に紫遥の服装はどう? また、いつもと違う格好をするならどんなのが似合うと思う?』

 

 

ル「‥‥‥‥」

 

紫「ちょ、ちょっと黙らないでくれよルヴィア! 俺の格好ってそんなにおかしいかい?!」

 

ル「正直に申し上げて、あまりよろしくありませんわね。事情は存じ上げているつもりではありますが、それでも紫色のバンダナにミリタリージャケット、安物のジーンズなんて手抜きのファッションをして“おかしくない”なんて仰るのはどうかと思いますの」

 

紫「そ、そんなこと言ったってバンダナは魔眼の封印とか魔術回路を隠す役割とかあるし、ジャケットは魔術礼装だし‥‥」

 

ル「ですから、事情は存じ上げていると申しましたでしょう? それにしてもバンダナは他のもので代用できないこともございませんし、ジャケットだって流石に毎日いつでも着用することはないと思うのですわ。ミス・トオサカとて礼装のコートをいつも着ているわけではないではありませんか」

 

紫「うーん、このバンダナ、位階は低いかも知れないけど一応聖骸布なんだけどさ‥‥。ジャケットだって橙子姉から貰ったものだから礼装としては申し分ないし‥‥」

 

ル「思うに、貴方はお義姉様からの贈り物だからと言い訳にして努力を怠っているフシがありますわね。確かにお義姉様からのプレゼントを大事にする気持ちはよろしいと思いますが、それでも自分で努力してファッションセンスを磨かないことには一向に進歩いたしませんわよ?

 あのバゼットとて普段から同じスーツばかり着ていますが、あれも一流の職人に仕立ててもらい、自分で魔術を施して礼装にしたものなのですわ。それに比べて、努力をしない貴方は只の怠慢ですのよ」

 

紫「ぐ、いや、わかってはいるんだけどさ‥‥」

 

ル「分かっているだけではダメなのですわ! その気持ちだけではいつまで経っても行動に起こせません! ふむ、そうですわね、早速この収録が終わったら私と一緒にサヴィル・ロウに参りましょう。カジュアルでも使えるスーツを何着か仕立てていただくというのはいかがでしょうか?」

 

紫「え、いや俺はこれが終わったらちょっと工房でやることが———」

 

ル「文句は言わせませんのよ。最近は互いに忙しくて息抜きの暇がございませんでしたからね。この辺りで少々ゆっくりすることも必要ですわ。いつまでも気を張ってばかりでは直に切れてしまいますわよ?」

 

紫「‥‥はぁ、やっぱり俺が君に逆らうのは無理そうだな。わかった、付き合うよ」

 

 

 

『時計塔には様々な学部があるそうですが、西洋魔術だけじゃなくて東洋魔術(陰陽道や仙道)について学ぶ学部もあるのでしょうか?』

 

 

紫「お、これはいい質問だね」

 

ル「ですわね。時計塔というのは非常に複雑な組織体制をしているところですから、この辺りはいずれ説明をしなくてはならないと思っていたところですし」

 

紫「あぁ、質問に答える前に注意して欲しいんだけど、これから話すことはこの作品の中だけの設定だからね。何か公式で言及されていたりするわけじゃないから、捏造のものだってことをしっかりと覚えておいて欲しい」

 

ル「まず時計塔の組織図なのですが、実はこれは殆ど知られていません。外部に、というのは当然のことかとは思いますが、問題は内部の人間でも時計塔内にある組織というものを完全に把握していない、ということですの。

 ‥‥いえ、言葉を間違えましたわね。正確に言えば、殆ど把握していないと申し上げた方が正しいでしょう。あまりにもたくさんの学部や学科があり、あまりにもたくさんの組織がある。これらを全て把握しているのは学長や各部門の長ぐらいではないでしょうか?」

 

紫「まず最初にあるのは俺やルヴィアや遠坂嬢が所属している鉱石学科だね。これは現存する第二の魔法使いであるキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグが名目上のトップだから、時計塔の中でも一二を争うぐらい有名で、勢力も強いんだ」

 

ル「研究しているのは私達が使っている宝石魔術や、鉱石の加工についてですわね。これはつまるところ魔術具の作製ですわ。例えばお守り(アミュレット)護符(タリズマン)、あるいは剣や槍、盾などの防具の作製にも通じますの。

 他にも動く石像(ゴーレム)守護像(ガーゴイル)などについても鉱石学科の範疇に属します。とはいえこれらは魔術具作製と同様に些か特殊な部類に入りますので、私達とはクラスが別になっております」

 

紫「宝石だけじゃなくて、鉄とかの鉱石や銀、金などの貴金属の加工もやってるんだ。すごく多様性のある学科だね。

 あとは錬金術なんかも扱ってるんだけど‥‥。これは巨人の穴蔵(アトラス)に一歩も二歩も先を行かれてるから廃れちゃってる。ほとんどの錬金術師は巨人の穴蔵(アトラス)とか彷徨海とかに流れちゃったみたいだよ」

 

ル「次に有名なのは降霊学科でしょうか。先代ロード・エルメロイであったケイネス・エルメロイ・アーチボルト卿を筆頭として非常に優秀な講師や学生に恵まれた有名な学科ですわ。こちらは基本的に降霊術などの儀式魔術や、使い魔の作製・運用などについて研究しております。

 動く石像(ゴーレム)などの作製を行う鉱石学科と共通した部分もありますが、あちらが輪廻しない人工魂を埋め込んだものであるのに対して、こちらは輪廻する魂である幽霊や動物の魂魄などについて扱っているのが特徴ですわね。

 言うなれば、魂などの非物質的で精神的(スピリチュアル)なものについて扱う学科と言えましょう」

 

紫「聖杯戦争も実は降霊学科の研究の範疇に属するんだ。この関係上、遠坂嬢は度々向こうに赴いて臨時講師をしているらしいよ。自分の専門外についても講義できるなんて、流石は遠坂嬢だな。

 ちなみにこの臨時講師の制度なんだけど、実は適用されている人は少ない。俺や遠坂嬢を入れても十人に満たないんじゃないかな。基本的に魔術師ってのは利己的な人間だから、それなりのメリットがなければわざわざ他人に講義なんてしてやる理由はないからね」

 

ル「ミス・トオサカは何かしらの取引をしたようですわね。それ自体は全く問題がないのですが‥‥それで本来の研究が怠らないようにして頂きたいものですわ」

 

紫「ルヴィアは自分のライバルが本来の実力を発揮できないのが嫌なんだよ。全く、照れるぐらいなら最初から言わなければいいのに———って、わかった、わかったからその人差し指を俺の方に向けるのは止めてくれないかい?!」

 

ル「さて、次に挙げるのはルーン学科ですわ。非常に古くからある学科ですが、近世に入ってからは単体での効果が低いためにめっきり所属する学生が減ってしまっておりますの」

 

紫「俺はもともとコッチの学科に所属していたんだよ。橙子姉の推薦でね、それ以来ルーン学科の教授には世話になっているから、ここでの臨時講師も引き受けたんだ。

 ここの卒業生として有名なのは言わずもがなの橙子姉とか、あとは前にシュボンハイム修道院の次期院長と目されていた赤ザ———もとい、ミスタ・コルネリウス・アルバとかがいるね。彼は紛れもない大魔術師アグリッパの子孫で、本当に優秀な魔術師だったんだよ?」

 

ル「少し前に不慮の事故で亡くなったそうですが、エーデルフェルトにも大きな情報は入ってきておりませんの。確か彼は時計塔在学時代にマイスター・アオザキと懇意にしていたと聞きますが‥‥ショウ、貴方は何か聞いてはいませんか?」

 

紫「え? あぁいや、俺自身は顔見知りですらないから特に聞いてはいないなぁ。あはは‥‥」

 

ル「ふむ、まぁ構いませんわ。あとは治癒術や人体改造術、合成獣(キメラ)などの研究をしている生物学科。ウィッチクラフトを研究している廃れた薬草学科。座学が基本で同じくあまり人気があるとはいえない神秘史学科。五大元素の扱いを学ぶ自然学科などがありますわ。

 これらは時計塔でも代表的な学部でして、おそらくは私達が把握していない学部や学科がもっともっとたくさんあるはずです。なにしろ時計塔の敷地は縦に膨大な上にところどころ空間が歪んでいる場所もあるので、私達も限られた部分しか行ったことがないのです」

 

紫「そういうわけで、もしかしたら時計塔にも東洋系の神秘を研究する学科があるかもしれないね。

 でも多分、その可能性は低いと思う。なにせ東洋の神秘はすごく閉鎖性が高いんだ。特に日本の神道系については国が裏で管理している部分もあるみたいだし、大陸系の神秘である道術や仙術については崑崙とかの組織が統括してるみたいだしね。

 それにああいうのは学問というよりは宗教や修行に近くて、西洋魔術師の思想とは相反する部分も多いんだ。共通するところも多いけどさ」

 

ル「もともと日本などは時計塔でも鬼門とされていた場所ですの。閉鎖性が強いところの神秘を学ぶという非効率なことをする魔術師がいるとは、私は思えませんけれどね」

 

 

 

『紫遙に奥義や必殺技は使う場面は出ますか?』

 

 

ル「おう、ぎ‥‥?」

 

紫「うーん、これもまた難しい質問だなぁ。そもそも奥義とか必殺技の定義が不明だし。

 そもそも魔術師は戦闘に向いている人種とは言えないってのは何回も話してることだけど、とにかく奥義みたいなものって言われてもパッと来ないっていうのが本音かな」

 

ル「強いて言うならば、Aランク程度の魔術のことを指していると解釈するべきなのでしょうか?」

 

紫「外国でもそうかは分からないんだけど、日本では昔から奥義とか必殺技とか、とにかくその人物を象徴する攻撃手段みたいなモノに対する信仰にも近い美意識があってね。俺達の間で例に出すならば、例えばサーヴァントの真名解放とか、衛宮の固有結界とかが近いのかな?

 

ル「なるほど、プロレスで言うところの決め技のことですわね。確かにフィニッシュブローは心躍るものがありますわね。日本にも私が共感できる文化があるではありませんか」

 

紫「とりあえず、俺にそういうものはないかな。強いて言うなら魔眼を解放することがそれに当てはまる野かも知れないけれど、単純に殺傷能力とか出力とかを比べると魔弾の射手(デア・フライシュツ)にも劣るからなぁ‥‥。

 期待させておいて、ごめんね」

 

 

 

『紫遙は魔眼使わないんですか?(魅了とか)』

 

 

紫「これは最初に活動報告コメントの方に寄せてくれた質問かな。確か最初は『魅了の魔眼を使ってハーレム云々』みたいなことが書いてあった気がするけど———」

 

ル「‥‥‥‥」

 

紫「あの、その怖い視線ヤメテね? 実際やったことはないし、やろうと思ったこともないんだからさ」

 

ル「‥‥はぁ、分かっておりますわよ、ショウにそのような甲斐性がないことぐらいは。実は知られていないことかもしれませんが、一時期のショウはとても女性にモテたんですのよ?

 ちょうど私がショウと一緒にいるようになって丁度ぐらいですから、あれはショウと私が時計塔に入学してから一ヶ月ぐらいの時でしたわね。

 教室に居ても廊下にいても新入生から上級生まで様々な女性がショウに取り入ってきて‥‥まったく、勉強や会話もろくに出来ない状況でしたのよ」

 

紫「誤解がないように言っておくけど、あれは蒼崎っていう俺の名字に惹かれて取り入ろうとしてきた連中なんだ。それもエーデルフェルトっていう名門中の名門出身であるルヴィアが近くにいてくれたおかげで次第に治まっていったけどね」

 

ル「身の程を知らずに喧嘩をふっかけてくる輩が反対に増えたのは、問題でしたが」

 

紫「まぁそれはともかく、俺は今までもこれからもそんなことはしないよ。そもそも魔術をそういうことに使うのは魔術師本来の在り方じゃないからね。軽蔑されてしかるべきだし、何よりそんなことやったって橙子姉とか青子姉とかにばれたら‥‥!!」

 

ル「ま、まぁそこまで震えることはないではありませんか? ショウ? ショウ‥‥?」

 

 

 

『プリズマイリヤ編も佳境のようですが、教授は今なにしているの? ゲーム?』

 

 

紫「ゲームだね」

 

ル「ゲームですわね」

 

紫「彼は本当に、暇さえあれば必ずゲームやってるからね。これはもう時計塔でプロフェッサとある程度以上親しい人なら必ず知ってる共通認識だよ。ていうか事実だし」

 

ル「ロード・エルメロイは基本的に個人講義を受け持っているのですが、新しいゲームを手に入れた日などは即刻当分授業が無くなってしまいますの。あの執務室に保存食料を持ち込み、ひたすらゲームに興じているのですわ。

 一度我慢がならずに私とショウで乗り込んだコトがありますけれど‥‥。正直言って、あの背中はトラウマでしたわ‥‥!」

 

紫「あの時までは君もプロフェッサを尊敬してやまなかったのにね。外面だけは完璧なのに、どうしてあの人はあそこまで中身が残念なのかな‥‥?」

 

ル「時計塔の内外に、最も名が広まっている教授の一人ですからね。名実ともに最高の名教授。彼の元で指導を受けた学生で王冠に達しない者は一人もいないと噂のカリスマ。私とて最初はどれほどまでに素晴らしい方かと思っていたのですが‥‥。

 実際、最初の頃は外見から気難しいながらも論理的で分かりやすい授業をなさる方だと感じておりましたわ。確かにそれは間違いではなかったのですが、ですが‥‥」

 

紫「俺はまぁ、多少予想していた部分が無かったわけじゃないんだけどね。流石に、あそこまで不気味だとは思わなかったよ。ああいうのをクツクツ虫っていうのかな? とてもじゃないけど、他の学生に見せられる光景じゃなかったからなぁ」

 

ル「もっとも、決してゲームばかりしているわけではないんですのよ? しっかりと研究もなさっております。もっとも、やっぱりゲームとの比率は良いところ半々のようですが‥‥」

 

紫「彼の研究は実践よりも論文の方に偏っているからね。魔術理論、とでも言うのかな? 頭の固い古くさいタイプの魔術師には馬鹿にされてるけど、あれは理論自体が一つの魔術になっているね。

 ああいう論理的な考え方は感覚的、直感的に魔術を組み立てるタイプにこそ助けになると思うんだけどなぁ‥‥。プロフェッサがエルメロイの直系っていうわけじゃないってことも、格下に見られてしまう原因の一つなのかな」

 

ル「彼や貴方を見ていると、本当に大事なのは血脈ではないのかもと思ってしまいますわね。実際に成果を上げられるか、ということではなく、本来の魔術師としての在り方について」

 

紫「そういうこと言われると背筋がむず痒くなるから、その、やめてほしいな‥‥」

 

 

 

『ロード・エルメロイ二世は他にどんなゲームを持っているのでしょうか? 案外、ガンダムVSガンダムとか持ってたりは……』

 

 

紫「あぁ、プロフェッサが持ってるゲームか‥‥」

 

ル「私は日本に限らずゲームというものについて理解が足りないので何とも申し上げられないのですが‥‥。確か、あの大きな執務室の奥の部屋の壁が一つ埋まってしまうぐらいにはゲームが集められていたはずですわよ」

 

紫「あれは殆どが日本産のゲームだね。倫敦じゃ手に入りにくいはずなのに、色々な手段使ってかき集めてくるんだよ。ここじゃ宅配便も届かないことがあるっていうのに、すさまじい執念だよなぁ‥‥」

 

ル「実際ショウは度々ロード・エルメロイと一緒にゲームに興じている姿を見ますが、どのようなゲームを好まれるんでしょうか?」

 

紫「基本はシュミレーション系かな。世界文化大戦とかはバイブルみたいだし。ただ全体的に歴史物を好む傾向はあるみたいだね。英雄史大戦とかもかなりハマッてるし、他にも三国夢想とかのアクションゲームにも手を出してるらしい。

 ただRPGとかパズルとかは苦手みたい。特にRPGは他人に道筋を決められているってあたりが気にくわないみたいだよ」

 

ル「まるで子供ではありませんか」

 

紫「その辺りは間違いなくいい大人なんだから、趣味の一環と思うけどね。まぁそんなかんじで、俺はいつも対戦ゲームの相手をさせられてるってわけさ」

 

 

 

『紫遙くんへ ロリコンですか?(※下手な答えをすると、美遊が悲しむのでご注意を)』

 

 

ル「‥‥‥!」

 

紫「だからその目はやめてくれないかい?! っていうか今度は人差し指まで付いてきてるし?!」

 

ル「ロリコン‥‥というのは、ロリータ・コンプレックスの略称ですわね。つまり幼児性愛者ということでしょうか。‥‥どちらにしてもショウ、幻滅いたしましたわ」

 

紫「誰もロリコンだなんて自称してないじゃないか! ああいうのは幼少期にトラウマがあったりして、特殊な環境や精神状態にあった人がかかる精神疾患だろう? 俺は多少普通じゃない人生だったとは思うけれど、それでも成長の過程は普通だったって断言できるからね?!

 ‥‥はぁ、多分最近は美遊嬢との絡みが多いからそういう話になったのかもしれないけど、どこをどう間違ったってそんなことはないから安心してくれ。俺は被保護者に欲情するような変態じゃないよ」

 

 

 

『シスコンですか?(※下手な答えをするとry)』

 

 

ル「シスコンですわね」

 

紫「‥‥‥‥」

 

ル「シスコンとは、先程同様シスター・コンプレックスの略称を指すのですわね。本来なら異性への恋愛感情を向けるべきでない血の繋がった関係である姉妹に恋愛感情を抱いてしまう人種を指す言葉なのですが‥‥」

 

紫「恋愛感情は‥‥ないよ、うん。ただまぁ、多少義姉達に依存し過ぎてるのは否めない、かな」

 

ル「ショウは本当にお義姉様方が大好きですものね。口を開けば義姉が義姉がと、耳にたこができる程に聞き飽きて普通になってしまいましたわ。今では逆にショウがお義姉様方について話していないと、何かあったのかと不安になってしまうぐらいですわ」

 

紫「まぁ、俺にとって橙子姉と青子姉は神様みたいな人だからね。二人なしに今の俺はいないし、以前の俺だって、今の俺になれたのは二人のおかげさ。

 今の俺を構成する大部分なんだから、俺の中で橙子姉と青子姉が大きな部分を占めてるのは当然のことなんだよ」

 

ル「‥‥はぁ、もう今更どうだこうだと申し上げるようなことではありませんわね。

 シスコンだの何だのという言葉以前の問題として、ショウにとってお義姉様方は絶対の存在だと、そういうことですわ」

 

 

 

『紫遙に質問——

 凛、ルヴィア、桜、セイバー、バゼット、シエル、鮮花、式、橙子、青子、美遊、イリヤ、(他多数)

 付き合うとしたら誰? また、その各々の理由を答えてください』

 

 

紫「‥‥こ、これはまた、難しい質問が来たなぁ‥‥!」

 

ル「まず選択肢にミユとイリヤスフィールが入っていることについて疑問を呈したいところですわね。お義姉様方は今更として」

 

紫「今更って‥‥。まぁ、確かに今更かもしれないけどさ」

 

ル「とりあえず今回ばかりは聞かないようにした方がよさそうですわね。質問主様がどのような展開を期待しているかは存知ませんが、私は一旦この場の席を外させて頂きますわ。

 どうぞ、私がいない間にごゆっくり語ってらっしゃって下さいませ」

 

紫「う、なんか刺々しいなぁ‥‥?

 まぁルヴィアが席を外してくれたのはありがたいね。やっぱり、こういうのって全員が知人っていう状態で女の子と話すものじゃないし。

 

 さて、そうだな。正直今の俺は誰と付き合うっていう気もないよ。って、これじゃルヴィアが席を外してくれた意味がないなぁ。

 先ず遠坂嬢なんだけど、俺には他人の彼女を奪うような趣味はないよ。ましてや彼女は俺には眩しすぎるしね。なにより衛宮にぞっこんだし‥‥。

 ルヴィアは俺にとって親友とか、相棒とかの存在かな。本当に彼女には世話になってるけど、恋愛感情って言われると首を傾げてしまうな。一応最近では一番接してるはずなんだけど、不思議だね。

 桜嬢は‥‥正直、そんなに付き合いがあるわけじゃなから論外かな。俺自身は彼女とは二回会ったきりだからね。付き合うとか、そういう話にはならないんだよ。

 セイバーは、遠坂嬢と同じで眩しすぎるかな。確かに彼女は英霊である前に一人の女の子なのかもしれないけれど、それでもやっぱり逆説的に女の子である前に一柱の英霊なんだよ。あまりにも眩しくて、そういう話にはならないかな。

 バゼット‥‥か。多分、客観的に見れば彼女が一番近いのかな? せっかくだからココで話しちゃうけど、多分俺って少しぐらい年上の、それも活発的な女性が好みみたいなんだよね。とはいえ彼女は粗忽な割に落ち着いてるから、多分そういうことにはならないと思うよ。

 シエルについては桜嬢と同じで面識が無くて、式については遠坂嬢と同じで幹也さんの婚約者。

 鮮花‥‥か。確かに同年代では一番長く一緒にいるけど、彼女はどっちかっていうと悪友みたいな感じで、恋愛感情が湧いてくる相手じゃない、かな。どっちかっていうと口喧嘩じみたやりとりの方が多いしね。

 美遊嬢とイリヤスフィールは論外として‥‥橙子姉と青子姉も、恋愛とかそういう存在じゃない。二人は俺にとって絶対の存在で、恋愛とかの感情を向ける相手じゃないんだよ。

 

 だからつまらない解答で申し訳ないけれど、今のところお相手はいないよ。各々理由を答えて欲しいっていうからこんなに長くなっちゃったけど、納得できたかな?」

 

ル「おや、終わったんですの? 意外に早かったですわね」

 

紫「うん、あまり長く語るようなこともなかったからね。気を遣わせて悪かった」

 

ル「いいえ、別にどうということはありませんから、お気になさらず。まぁ、私としては多少気にならないこともありませんが———まぁ、次の質問の方に参りましょうか?」

 

 

 

『紫遙とルヴィアは恋仲じゃないンですか? ただの友人にしては二人の間が近いような』

 

 

ル「た、ただの友人ですわよ! 全く、邪推もほどほどにして頂きたいものですわ!」

 

紫「これはさっきも話したけれど、本当に俺とルヴィアの間にはそんな関係はないよ。まぁ時計塔自体がそういう雰囲気を作らない場所っていうこともあるんだけど、そもそもこの二年ぐらいは研究漬けでそんな余裕もなかったし、そういうのは面倒臭いしね」

 

ル「‥‥そうですわね、私にとって一番親しい異性がショウというところは否定しませんわ。もしかしたら、そう、もしこれから何か今の私達では予想できない何かがあったりしたら、この関係がどうなるかは分かりませんわね」

 

紫「まぁ今は気の置けない良い友人だよ。いや、相棒って言い換えてもいいかな。それぐらい互いに信頼出来てるとは思う」

 

ル「もちろんその通りですわ。これからもよろしくお願い致しますわね、ミスタ・アオザキ」

 

紫「こちらこそ、レディ・ルヴィアゼリッタ」

 

 

 

『番外編のあの女の子、本編で出ることはないの?』

 

 

ル「番外編の‥‥女の子‥‥?」

 

紫「あぁ、君には昔話したかもしれないけれど、俺がハイスクールを卒業する時に不思議なことがあってね」

 

ル「思い出しましたわ。確か、一度だけ、霧の中で会ったとかいう女性のことでしたか‥‥。

 そういえばこの前は久しぶりに里帰りなさったそうですが、その方にお会い出来たりはしませんでしたの?」

 

紫「それがさっぱりなんだ。そもそも不思議なことに、あの公園の周辺にあった学校ではあんな制服を採用してなくてね。高校だけじゃなくて、中学まで調べたんだけど全然分からなかったんだ。

 ‥‥まぁ俺としては、別にもう一度会いたいとかは思ってないんだけどね」

 

ル「あら、だってその方はショウの初恋なのかもしれないと仰っていたではありませんか。でしたらもう一度会いたいと思うのが自然なことではありませんの?」

 

紫「‥‥うーん、確かにそれが自然かもしれないけれど、不思議とそうは思わないんだよ。

 こういう言い方ってもしかしたら変というか自分勝手なものかもしれないけれど、あれはあれ一回きりの出会いだったから印象に残ってるのかも、とか、そう思うんだよ。不思議なことだけどね」

 

ル「いえ、そんなことはございませんわ。確かニホンにはイチゴイチエという諺がございましたわね。もちろん我がヨーロッパでも、一回きりの出会いを大切にする風習はございますわ。

 一度きりの逢瀬だったからこそ心に残る‥‥。ロマンチックですわね」

 

紫「君にそういう風に言われると、何故か照れるなぁ‥‥」

 

 

 

『以前に士郎を工房へ招いましたが(招いてましたよね? 確か彼の身体をチェックしたり手術?したりするときに)工房をみた士郎はなにかいいませんでしたか。汚いとか、掃除させろとか……(笑)』

 

 

紫「これは衛宮に魔眼を施してやった時の話かな? うん、まぁ確かに整理しろとは言われたね」

 

ル「あの工房は私も何度か足を踏み入れたことがありますが‥‥。乱雑としておりますわよね。不思議と不潔ではありませんが」

 

紫「あそこではバゼットの義手の整備をしたりするからさ。あまり不潔だと義手に埃が入っちゃったりして、大変だろ? そうじゃなくても俺は別に掃除しないわけじゃないんだよ。整理しないだけで」

 

ル「それでは結局意味がないではありませんか‥‥。あれだけ散らかっていて、どこに何があるのかちゃんとわかっているんですの?」

 

紫「なんとなくはね。整理って掃除に比べて時間とか手間がかかるしさ。ついつい後回しにしちゃうし、整理に回す時間があったら別のことをやっていたいっていう気分もあるかな。

 あればっかりは誰かに手伝ってもらうわけにもいかないから、自分でやらなきゃいけないって分かってるんだけどなぁ‥‥。まぁ、そんな感じだよ」

 

 

 

『現在の時系列は西暦何年なのでしょうか?』

 

 

紫「俺達が鏡面界に入ったところで、西暦2009年の冬かな。俺の記憶よりも若干遅いみたいだね。

 よくよく考えてみると、月姫の時間軸と空の境界の時間軸と、結構食い違ってるところがあるんだよね。多分、俺の記憶通りに進んでるわけじゃないんだと思う。

 まとめると、俺が衛宮と遠坂嬢の三つぐらい上で、ルヴィアは遠坂嬢達の一つ上。桜嬢と鮮花が同い年で、幹也さんは俺より少し年上。式は殆ど俺と同い年扱いだね。橙子姉と青子姉の歳は‥‥聞いたことがないや。

 月姫側とはシエルぐらいとしか接触が無かったからよく分からないけど、確か俺が二人に拾われてから、青子姉は遠野志貴と接触したらしいよ。だから、彼も俺と同い年か幾分年下なんじゃないかなる

 あぁ、『月姫の登場人物とは誰と知り合いなんですか、紫遙わ』っていう質問があったんだけど、この場を借りて答えさせて貰うと、ルドルフ討伐の際にシエルと会ったぐらいだよ」

 

 

 

『紫遥の嫁は誰?(二次元的な意味で。Fateとか知っているくらいだし、一人くらいは居よう)』

 

 

紫「嫁‥‥? うーん、何のことか分からないなぁ‥‥?」

 

ル「二次元、と仰っていますが、一体何の暗喩なのでしょうか?」

 

ロード・エルメロイⅡ「失礼、アオザキはここにいるのか? 少々お前に頼みたいことが‥‥」

 

紫「プロフェッサ? すいません、今ここはちょっと立て込んでまして、用事があるんでしたら申し訳無いんでけどまた後でいらして頂けませんか?」

 

ロ「ほう、中々におもしろい趣向の企画をやっているじゃないか。なになに、『紫遙の嫁は誰?』だと? 確かに興味あるな。おいアオザキ、一体お前の嫁は誰なんだ?」

 

ル「‥‥あの、ロード・エルメロイ? 先程から二人で話していたんですけれども、“嫁”というのは一体どういう意味なのですか? 生憎と私達では不勉強でよく分からなかったのですが‥‥」

 

ロ「あぁ、確かに一般人にはわかりづらいかもしれんな。

 嫁というのはジャパニメーション発祥の地、ニホンで生まれた言葉でな。二次元作品の登場人物に対する愛を表現するために用いられる。いわば、その人物にとってのお気に入りのキャラクターを表す言葉だな」

 

紫「なるほど、そういえば向こうに居たときに友人がそんなことを言っていた気がするなぁ‥‥」

 

ル「ジャパニメーションも、奥が深いんですのね‥‥」

 

紫「結構勘違いしてる人が多いかもしれないけれど、俺は別にヲタクじゃないよ? ただアニメとかゲームとかが人並みに好きなだけでさ。

 Fateも友達に勧められて初めて手を出したノベライズゲームで、あれを期に型月の作品をプレイしていた途中でこっちに飛ばされたんだ。だから、そういうヲタク用語はちょっと分からない。悪いね。

 ただ、そうだな‥‥。お気に入りのキャラは、ダントツで赤い弓兵かな。衛宮と知り合いの今は気まずいものがあるけどさ。言うなれば、アーチャーは俺の兄貴ってことになるのかな?」

 

ロ「よくは分からんが、今は忙しいようなので収録が終わったら私の執務室に来るように。いいな?」

 

紫「あ、はい。わざわざすいませんでした、プロフェッサ」

 

 

 

『ルヴィアさんへ 日本嫌いだったと思いますが、今回の来日について何か一言』

 

 

ル「そうですわね、最初に降り立った東京という街は随分とごみごみとしていて不愉快でしたわ。倫敦もそれなりに人が多い街ですが、あの街とはまた違った混雑具合は、思わず目眩を催す程でした」

 

紫「やっぱり印象としては倫敦の方が優雅なイメージがあるよね。東京はやっぱり雑多で過ごしづらいイメージがある。物価も高いし」

 

ル「そのようなことについては分かりませんが、冬木の街は田舎だからかそこまで悪くはありませんでしたわね。流石にビジネスホテルの狭さには辟易と致しましたが、全体的に過ごしやすい印象を受けた気がします。

 特に和食は何度かシェロに出張して頂いて食しましたが、あれは予想以上に素晴らしいものですわね。確かにニホンは気に入らない部分がいくつもありますが、決して全てを否定するような愚行を犯してはいけないと再確認致しました」

 

紫「なんだかんだで母国だからね。俺もルヴィアが日本を嫌ってくれなくてよかったよ」

 

 

 

『もしもう一度聖杯戦争があるとしたら、参戦しますか?』

 

 

ル「勿論ですわ! 第三次聖杯戦争でエーデルフェルトが受けた屈辱を、今度こそ正々堂々と正面から返上させて頂きます!」

 

紫「とはいえ次に聖杯戦争があるとしたら何年先か‥‥。下手すれば俺達が現役の間には順番が回ってこないかもしれないけどね」

 

ル「第三次聖杯戦争以来、エーデルフェルトは日本を鬼門として近づかないように一族に厳命しておりました。しかし、汚名を雪ぐためには敢えてそのタブーを打ち破り、我が家の実力を示す必要があります。

 聖杯戦争の兆候が現れた暁には、必ず私の子孫にも参加するように伝えておきたいものですわね。今度こそ、トオサカの家に実力を示して差し上げますわ」

 

紫「確か第三次の時は遠坂家の策にかかって失敗したんだっけ?」

 

ル「卑劣な策略に、ですわ! 確かに策略というのも実力に含まれますが、正面から魔術の腕を競うならば負けるはずがありません! それはミス・トオサカとて同じなのです!」

 

紫「あぁ、最近は和睦状態だったのに、もしかしなくてもぶり返しちゃったかな‥‥? はぁ、恨むよ質問主‥‥」

 

 

 

『参戦するとしたら、どんなサーヴァントを召喚したいですか?』

 

 

紫「あぁ、言った先からこんな質問が‥‥」

 

ル「当然、最善を求めるならばセイバーがベストでしょうね。しかし私はどのサーヴァントがパートナーでも優雅に勝ってみせる自信がありますわよ。

 ‥‥あぁ、しかし出来れば、アサシンやキャスター、バーサーカーは遠慮したいところですわね」

 

紫「それって、残ってるのは三騎士とライダーだけじゃないか」

 

ル「だって、私に合わないではありませんか」

 

紫「うん、まぁ確かにそうなんだけどさ‥‥」

 

 

 

『紫遙の起源はなんですか?』

 

 

紫「俺の起源、か‥‥。橙子姉は分かってるみたいなんだけど、俺は自分で自覚したことはないかなぁ」

 

ル「そもそも起源を自覚するというのは、魔術師にとって諸刃の剣ですわよ。起源を自覚することで自分の方向性を定めることもできますが、逆に起源に引き摺られて自分というものを見失ってしまう場合もございますの。

 実際起源覚醒者というのは大半が自分の起源に引き摺られ、悲惨な最期を遂げられているそうですわ。起源を自覚しながらも自分を保てるのは、それこそ大魔術師と呼ばれるような実力者でしょう」

 

紫「まぁ起源は自覚しなかったとしても、無意識の内に方向性を決められているようなものだからね。自分に自信が持てるようになったら、橙子姉にでも聞いてみようかな。

 うーん、でも多分、俺の起源は俺がこの世界に来ることになったきっかけと密接に絡んでるんじゃないかと思う。そうじゃなかったら当時魔術師でも何でもなかった俺が、どうしてこの世界に来るようになったのかってことが説明できないからね」

 

 

 

『青子繋がりで久遠寺とは面識はあるのですか』

 

 

紫「久遠寺‥‥?」

 

ル「どうも日本の家のようですわね。何か心当たりはありませんの?」

 

紫「うーん、確か日本にはそういう名前の魔女の一族があったような‥‥。ちょっと記憶が薄いな。とりあえず青子姉から久遠寺について聞いたことはないよ。昔に何かあったのかな?」

 

 

 

『式と幹也はいつ結婚するんでしょう? 未那とかも』

 

 

紫「幹也さん達の結婚式かぁ‥‥。予定は出来てるらしいけれど、結構延び延びになってるらしいよ。

 式はあの調子だから、表面上はどうでも良さげでも早く幹也さんと結婚したいみたいなんだけど、幹也さんの方がもうちょっとお金を稼いでからにしたいって言ってるんだよね。

 もっとも橙子姉にしてもあの調子だし、お金が貯まるのはもうちょっと先になりそう。ホント、幹也さんも式もゴメン‥‥!」

 

 

 

『最後にしょうもない質問を一つ……ぶっちゃけ紫遙って童○ですか?』

 

 

紫「‥‥‥‥」

 

ル「‥‥‥‥」

 

紫「なぁ、これにも答えなきゃいけないのかい‥‥?」

 

ル「覚えておりませんの? この収録を始める前に、“質問には嘘偽りなく答える”と誓約(ギアス)をかけたではありませんか。

 私としても、えぇ、このような質問に答えさせるのは非常に気が引けるのですが、誓約(ギアス)がある以上は仕方がありませんわね。えぇ、本当に申し訳ないのですが、仕方がありませんわね」

 

紫「嘘だよね。あからさまに視線逸らしてるよね。実は聞く気マンマンだよね。ていうか今回俺にだけキツイ質問ばっかり来てるよね」

 

ル「それは‥‥ほら、一応は主人公という扱いになっているのですから仕方がありませんわよ。えぇ、本当に」

 

紫「くっ、本当に答えなきゃいけないのかい‥‥?

 あー、魔術において性行為っていうのが非常に重要な要素を占めているのはもう説明するまでもないことだとは思う。例えばパスを繋げる際に最も基本的な手段は体液の交換だね。例えば唾液とか、血を交換するのが一番簡単だろう。

 でもそれらはあくまで簡易的な儀式に過ぎないんだ。唾液の交換ぐらいだったら本当に少しの間、それこそ一つの儀式の間ぐらいしか持たないし、血の交換で確立したラインを結ぼうと思ったらそれこそ互いに失血するぐらいの量を交換しなきゃならない。

 だから唾液の交換ぐらいなら簡易的な用途に使うし、血の交換は吸血鬼の間の契約によく用いられるね。他にも色々とやり方はあるけど、これらが一番基本的なものだ」

 

ル「ショウにばかり重荷を背負わせるのも何ですから私が続きを引き取りますが、その中でも最も確実に深いラインを繋ぐことが出来るのが、性行為による体液の交換です。これは一回でかなり長期的に深い繋がりを得ることができる上に簡単なので、非常にポピュラーなものとなっておりますわ。

 もちろん倫理観における問題はありますが‥‥もとより一般社会の倫理など魔術師にとっては全く問題になりません。ですから、重要な魔術儀式を行う際の手はずとしてコレによってパスを繋げる魔術師も少なくはありませんの」

 

紫「あー、柄にもなく取り乱してしまったけれど、魔術っていうのはそういう世界でね。多少の倫理観は研究の前に駆逐される運命にある。例えば衛宮達が住んでいる倫敦遠坂邸の前の住人なんかも、一般人をさらって合成獣(キメラ)やホムンクルスにしていたりしたしね」

 

ル「‥‥で、結局のところどうですの?」

 

紫「‥‥どうって」

 

ル「ですから、前置きが長くなりましたが質問に答えて差し上げてはいかがでしょうか、と申し上げているのですわ」

 

紫「‥‥‥‥‥」

 

ル「ショウ」

 

紫「‥‥はぁ、わかったよ。

 俺は衛宮と違って結構長いこと魔術師をやっているし、遠坂嬢と違って一人で修行していたわけじゃない。封印指定の魔術師と青の魔法使いっていうこれ以上ない師匠が付いていてくれたおかげで、すごく深くて多岐にわたる修行をさせてもらったんだ。

 だから、その中にはそれなりに魔力を要する儀式や、一人じゃできない儀式とかも含まれてた。早くに師である父親を亡くしてしまった遠坂嬢はそういうことを出来なかったかもしれないけど、俺は幸いにして師匠がいた。

 ‥‥まぁつまり、その、俺だけの魔力じゃ足りないからさ‥‥そういうわけで———」

 

ル「よくわかりました、そのあたりで結構ですわよショウ。これ以上は貴方の精神衛生上よろしくありませんし、質問主の方に想像で補完して頂くことにいたしましょう」

 

紫「そうしてもらうと‥‥ありがたい‥‥」

 

ル「まぁ世間体としてもあまりよろしくありませんし、普段の貴方の様子からしてもこうやって暴露するというのは望ましくないというのも分かりますけれどね。

 ‥‥そこまで、頭を抱えてしまうぐらい落ち込まなくてもいいではありませんか。女としては相手がそうやって落ち込んでいるというのはあまり良い気分がしないものですわよ? まぁ流石に私は経験がありませんが」

 

紫「なんていうかさ、そういうわけじゃなくて、うん、うまく言葉にできないんだけど‥‥。いや、いいよ、なんか自己嫌悪に陥りそうだから」

 

ル「‥‥深くは尋ねないことにいたしますわ。なんといいますか、はぁ、ご愁傷様です‥‥」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

紫「さて、そういうわけでこれで質問はお終い。皆さん、一周年記念前夜祭企画は楽しめたでしょうか?

 答えられなかった質問もありましたが、それらの答えについてはこれからの俺達の物語で示していきたいと思っていますので、どうぞこれからの展開をお待ち下さい」

 

ル「色々な質問が出て私達も楽しかったですわ。これから【UBW〜倫敦魔術綺譚】を読み進めていく一助になれたのなら、私達としても光栄です。

 まだまだ物語は佳境を迎えるにも早く、私達も頑張って日々を過ごしていきたいと思っておりますの。一話が長く読みづらい私達の物語ではありますが、お気に召して頂けたのならどうぞこれからもよろしくお願い致しますわ。

 今日はおつきあい頂き本当にありがとうございました」

 

紫「え、ちょっと待ってよソレって普通は俺のセリフ———」

 

ル「それでは最後に、作者の方へ寄せられた質問をまとめてみたいと思います。ここからは私達ではどうしてもお答えできなかった、作品自体への質問となりますわ。もし興味がおありでしたら、どうぞご覧になって下さいませ」

 

紫「‥‥なんだろう、もうゴールしてもいいよね‥‥?」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

『都古ちゃん出ますか?

 ネコアルクとネコアルク・カオスは出ますか?

 志貴に会う事はありますか?

 七夜様の出番ください

 メカヒスイも出来れば…』

 

 お便りありがとうございます。しかし、流石にこれからどのキャラクターを出すか、などの質問にはお答えしかねます。どうぞ期待してこれからの展開をお待ち下さい」

 

 

『この作品を書こうと思ったきっかけのようなものはありますか?』

 

 きっかけ‥‥というと中々に難しいものがありますね。

 どこかで申し上げたことがあるかもしれませんが、元々私は携帯サイトの方で女性向けの夢小説をテイルズなどで書いていまして、Fateに出逢ってからも暫くはそちらを更新しておりました。

 ですが何を何処でトチ狂ったのか、パソコンでssを発見。それから暫く、半年ぐらいはssをひたすらに読みあさる毎日でした。

 しかし物書きの性分か、ある日突然自分もssを書き始めることを決意しまして、後はその日の内にザッとプロットを書き上げて見切り発車。自分でも何とも恐ろしいことをしたと思いますww

 直接的なきっかけは‥‥やはり他のss作家の方々の素晴らしい作品達、ということになるのでしょうか。

 

 

『青崎姉妹からは魔法使いの夜で起きたことは詳しく聞かされているのですか?

 

 紫遙にもちょこっと話させましたが、青子から魔法使いの夜については全く聞かされていない状況です。というより作者もアレはさっぱり分かりませんので、彼にも分からないという風にさせて頂きました。

 

 

『ズバリ今の気持ちは?』

 

 皆様からのたくさんのお便りに、感涙です! また執筆の意欲もグングンと上がっています。これからも頑張っていきたいです!

 

 

『ハドソン婦人は俺の嫁ですよね?』

 

 いいんじゃないですかね?www

 もともとサブキャラとして登場したハドソン婦人ですが、まさか人気があるとは思いませんでした。

 ちなみに容姿は本文でも描写していますが、詳しくはアニメ名探偵ホームズの方でご確認下さいww

 犬耳犬鼻犬尻尾が似合いそうな子犬系美人、です。

 

 

『冬霞さんはどこ在住?』

 

 東京の片田舎です。大学まで二時間かかります‥‥orz

 

 

『冬霞さんの酒の趣味、飲む頻度と量は?』

 

 基本はビールか発泡酒ですね。後は辛口の酒が好みです。ホッピーとかハイボールとか、あとワインとか日本酒もやってます。

 頻度は‥‥基本的には毎日で、週に二日くらい休肝日がありますww 量はそんなに多くないですよ? 大体平均して発泡酒を二本、ワインをグラスに二杯ぐらいですかね。たまにホッピーかハイボールが付きますが。

 

 

『基督教徒らしいですが、結構敬虔な信者なのですか? クリスマスは教会で過ごす系?』

 

 過ごしますね。というか基本的に毎週日曜日は教会で何かしら仕事やってます。

 お金は貰っていませんが、やっぱり受けた恩は返したいという思いがありまして。今は子供達の世話をしたり、後は色んな書類を発送する準備をしたりしてます。

 ちなみに宗派はカトリックで、幼児洗礼ですので生まれた時からキリスト教徒です。

 

 

『貴方が一番好きなシーンは?』

 

 全て‥‥と言いたいところですが、あえて言うなら橙子姉がバグ爺を始末するところでしょうか。

 

 

『次回予告やってみてください』

 

 それでは【UBW〜倫敦魔術綺譚2wei!】の予告を、お終いの挨拶に代えさせて頂きます。

 皆様二万文字の長きに渡り、このお祭り企画に参加頂きありがとうございました!

 これからも執筆、頑張っていきたいと思います!

 

 

 

【UBW〜倫敦魔術綺譚2wei!】

 

 

 霧の街、倫敦。世界に冠たる大英帝国の首都に、同じく世界で最も大きな裏の組織である、魔術教会の総本山はあった。

 その名を時計塔。数多くの魔術師達が、今日もその研究に精を出す魔窟に、少年少女達の姿がある。

 

 

 

「なんだって、真祖の姫が倫敦に———?!」

 

「そうよ、何が何だかさっぱりだけど、普通に飛行機に乗って普通に現れたらしいわ。あまりにも普通過ぎる手段なんで対応が遅れたけど、もう倫敦の街中に潜入している可能性があるの」

 

「私達に何とかしろ、との命令ですか。全く、厄介払いもいいところですわね」

 

 

 

 突如、倫敦に現れた真祖の姫。

 時計塔の上層部からの命を受けた紫遙達は倫敦の街を真祖の吸血姫を捜して走り回る。

 

 

 

「‥‥ふう、今日も暇ですね。しかし私が暇なのはいいとして、貴方は学生に見えますが、倫敦にはどのような用事でいらしたのですか?」

 

「なんてことはない観光だよ。俺の連れがどうしても一緒に外国旅行がしたいって言ってたからさ、ちょうど先輩が倫敦に用事があるっていうんで、一緒についてきたんだ」

 

「なるほど。しかしそういう割には今の貴方は一人でいるようですが‥‥。連れの方はどうしたのですか?」

 

「‥‥実は、さっきまでちゃんと一緒にいたのにいつの間にかはぐれちまったんだ。まったく、絶対に俺の目の届くところからいなくなるなって言ってたのに、あのドランクヴァンプ‥‥!」

 

 

 

 探すは真祖の姫なれど、その側に必ず侍るは魔眼の騎士。退魔の血族の生き残り。現代に甦りしバロールの化身。

 そして存在しないはずの蒼崎の名をもつ魔術師の側にいるのは、赤い外套を羽織った現代の英雄。

 決して交わるはずのなかった二人の主人公。共に、世界を動かす、世界の中心に立つ人間である。彼らは、ただ一つのイレギュラーを介して交わった。

 

 

 

「えっ?! お見合い?」

 

「えぇ。流石にエーデルフェルトの当主とあろうものが婿の一人もいないままでは問題ですからね。便宜上でも、とにかく主人となり得る相手を据えなければと上の者が決めまして」

 

「‥‥君が当主なのに、当主に命令を下せるような連中がいるのかい?」

 

「エーデルフェルトは決して一つの家だけで組織されているわけではありませんわ。歴史が伸びれば、それに従って分家も増えます。そういった全ての家をまとめてエーデルフェルトという家が出来上がっているのです。

 ならばそれらをまとめる組織があるのも必定。それらは時に当主に対しても命令が出来る立場を持っております」

 

「‥‥そう、か。それで、君は納得しているのかい?」

 

「納得、というような問題ではありませんわ。魔術師は自分の血脈を後世に残さなければなりません。それは、一つの家を継いだ魔術師としての義務であり使命です。ならば、私は義務を果たさなければなりません」

 

「‥‥‥‥」

 

「‥‥もし———いえ、なんでもありませんわ。私は用事がありますから、これで失礼いたします。見合いは明日ですので、支度をしなければ」

 

「‥‥あぁ、気をつけてね、ルヴィア」

 

「‥‥はい」

 

 

 

 非日常は突然やってくる。しかしその先触れは、日常の裏に潜んで着実にその枝葉を伸ばしつつあるのだ。

 日常の中に紛れ込んだ非日常に気づけずに、僅かな非日常に動揺して、それでも彼らは日常を謳歌していく。

 それが不変であるとは欠片も信じていなかった。誰もが、日常が簡単に非日常になり変わるということを知っていた。決して楽観視などしてはいなかった。

 しかし、それでも非日常は予期せぬ時に訪れる。悲しいことに、彼らにゆっくりと思い悩む時間など無かった。たとえどれだけそれが必要だったとしても。

 

 

 

「どうして俺はこの世界に来たんだろう。まだ、答えは見えていない。俺は、どんな意味を持ってこの世界に生きているんだ? 向こうの世界じゃなきゃいけない理由があったのか? 俺は———」

 

「あれ、もしかして■■君?」

 

「え———?!」

 

「もしかしなくても■■君じゃん! いやーよかったよかった、全然知らないところにいきなり迷いこんでどうしようか途方に暮れてたんだよねー!」

 

「き、君は‥‥ッ!!」

 

 

 

 全ては必然だった。この世界に、偶然によって生じたものなど一つたりとも有り得ない。

 そもそも偶然とは何なのか。確率論などというものでは括ることはできない。

 なぜなら、我々人間がソレを理解することが出来ないからこそ、我々はそれに偶然というラベルを貼り付けたのだ。

 それは一方的で、実は全く意味のないこと。理解できないものを理解する努力なしに、ただただ偶然という無知のラベルを貼り付けたとしても、それは確実に存在しているのだから。

 

 偶然。それはおそらく、人間には理解出来ない存在によって采配を振られた事象。もしくは、ただ偶然を目撃した人物が知覚できなかっただけで、“何者かによって企てられたモノ”だったのかもしれない。

 ならば、賽子を振ったのは誰だ? その答えは日常と非日常によって作られた螺旋の終着点にこそ存在する。

 

 

 

「‥‥この選択、結末を悔いているか?」

 

「後悔は‥‥しない‥‥。俺は、あの時、自分の過去を突きつけられたあの時に‥‥そう決断した‥‥」

 

「そうか‥‥。私は、お前が後悔していないなら、それでいいさ‥‥」

 

「ゴメン、橙子姉。強いて何か後悔しているかっていえば、橙子姉よりも先に———」

 

「それ以上は言うな。もう、いいだろう。ゆっくりと休め。お前はよく頑張った。最後まで、自分一人で耐え抜いたんだ。最後の最後で立ち止まって休んだとしても、誰も文句など言わんさ‥‥」

 

 

 

 世界の終末が近づいてくる。破滅の角笛と共に、終末は着実にその足を日常に踏み入れる。

 それは非日常をも、非日常を超えた存在へと昇華させる。否、それは昇華ではなく堕落か墜落か。とにかく決して後戻りすることの出来ない終末には違いない。

 

 破滅を打開する手段は、終末の先にこそ存在している。だからこそ、皆が足並みを揃えて終末の先、破滅へと進軍していった。それはまるで、死の行進(マーチ)

 終末の中で、それでもその先にあるはずの終着を目指して、誰もががむしゃらに進んでいった。

 ならば、それが彼らの意志によって進められた劇であったとするならば、その終着が何であったとしても後悔などあるはずがない。

 それは、彼らが自ら選んで手にした終着(フィナーレ)だ。

 

 

 

「———紫遙、何を求める?」

 

 

 

 遠い日に、何を夢見たろうか?

 日常に、何を夢見たろうか?

 安穏とした日々の中で夢見たものは、非日常を超えた終末の中で手に入れられることはない。

 そんなことは分かっていた。だからこそ、彼らは終末の中でも藻掻き続けていたのだ。

 

 

 

「———紫遙、何処に求める?」

 

 

 

 自分は、何故ここにいるのだろうか? 自分の存在に意味があったのだろうか?

 あの日常と非日常の中、ひたすらにそれを悩み続けた。そしてその答えは、終末の先、破滅の先、そこにあった終着にこそ見出される。

 

 

 

「———紫遙、何処を目指す?」

 

 

 

 それでも、今ここが自分の終着である。各々の終着が、ここにある。

 志半ばに果てた者もいるだろう。未だ、破滅の先を目指して必死に歩み続けている者もいるだろう。

 それでも、今ここが自分の終着である。自分の物語の終着(フィナーレ)である。

 幕はもう閉じた。俳優は既に舞台を降り、楽屋で一時の眠りにつく。

 その一時がどれだけの時間になるか‥‥。それを答えることが出来るものは、もういない。

 なぜなら、俳優は既に眠りについているからだ。

 

 

 

「‥‥フン、もう答えられないか」

 

 

 

 一人の魔術師が、確かにそこにいた。

 彼は魔術師だった。どこまでも魔術師でありたがった。

 そして、それでもなお、彼は友を見捨てられなかったのだ。

 彼と共に歩いて来た、全ての者がそうだった。だからこそこの結末があり、だからこそ彼は後悔などしていない。

 

 

 

「‥‥全く、姉の質問に答えないとはな。あぁ、全く、たいした姉不孝者だよ、お前は———」

 

 

 

 日常と非日常によって作られた螺旋の果ては、この終着をもって幕を閉じる。

 では始めようか、彼らの物語を。

 終末の果て、破滅の先にあるはずの終着と、自分の意味を求め続けた彼らの物語を‥‥。

 

 

 【UBW〜倫敦魔術綺譚2wei!】

 

 

 

  

 

 

 Another act Fin.

 

 

 

 



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第六十五話 『旅人達の帰還』

 

 

 

 

 side Miyu

 

 

 

「ハ‥‥ハッ‥‥ハッ‥‥ハッ‥‥!」

 

 

 一気に失った体力を何とか正常な状態に戻そうと酸素を欲しがる体が、私に過度の呼吸を要求する。普段なら絶対にやらないような荒い呼吸のせいで喉が痛い。

 普通の人間が経験するような、どんな過酷な運動をも超える激しい消耗。それはおそらく単純に運動量を比較したわけじゃなくて、多分緊張感とかそういうものも影響しているんだろう。

 緊張は、この場合決して悪いことではない。試合前の、試合中の緊張なんてものと違い、むしろソレが無ければ一瞬で命が飛んでしまう、そんな緊張だ。

 でもその緊張は、必然的に体力を削る。だからこそ戦闘というのは普通のスポーツよりも消耗するものなんだろう。

 

 

「ハァ‥‥ハァ‥‥んうッ‥‥!」

 

 

 バキンッ、と金属のパーツが外れるような音がして、不可思議なことに私の胸から一枚のカードが弾き出された。

 それは焦げ茶色の、まるで額縁に入れられた絵画のようなカード。銀色のフルプレートに身を包んだ一人の騎士が剣を構えた絵が描かれていて、裏には複雑な魔法陣のような図柄がある。

 当然ながら、パラメータ表示も何もされていないこのカードは、子供がゲームに使うものじゃない。これは正真正銘の魔術品。しかも、これ一枚で英霊という規格外の存在の召喚から異空間の創造、さらには英霊の力を自身に上書きする能力すら持っているのだ。

 

 冬木の地に突然現れた、クラスカードと呼ばれる魔術品。

 一見非凡ながらも、あくまで日常の括りの中で過ごしていた私に訪れた非日常。それは私を無味乾燥な日々から拾い上げて、全く別の世界へと放り込んでくれた。

 ただ毎日を過ごすだけの日々から、私の日常は大きく姿を変えた。昼は学校に通う傍ら拾ってくれた姉のような、上司のような養い親から魔術の講義を受け、夜は魔法のステッキをふるって黒化した、理性のない英霊達と戦う。

 明確な目的をもって過ごす日々は、確かに今までより充実していた。私に欠けていた生きる動機、使命感、責任感をもたらしてくれたのだ。

 

 ‥‥そして何より、新たな家族と共に手に入れたのは初めての友達。

 私にとって初めて自分のことを友達と呼んでくれた存在が、私にとってどれほどにまで大切なものになったのか、私以外の誰も、それこそ常に一緒にいるサファイアだって分かっていない。

 今まで一度も手にすることのなかった“友達”という言葉を、本当に手にすることが出来た時、イリヤスフィールという私の友達は、私の中でこれ以上ないぐらいに大切な存在になった。

 

 だからこそ、私はイリヤのために剣を執る。

 もう戦うのは嫌だと怯えるように零したイリヤを、戦場へ連れて行きたくない。イリヤが嫌いなことを、もう彼女にやらせたくないのだ。

 思えば初めて会った次の日には、辛辣な言葉を吐いてしまった。それからも暫くはずっと冷たい態度をとり続けてしまった。

 今になって思えば、イリヤのような普通の女の子がこんな世界に突然入り込むことになったとして、そこで覚悟が出来るかと言われればそうとは限らない。いや、ほぼ間違いなく無理だろう。

 それでもイリヤは頑張って戦い続けて‥‥そして、今前の戦いで遂に戦線を離脱した。もう、彼女はよく頑張った。後は私に任せて欲しい。

 

 

「魔力切れによる強制送還‥‥! 私の魔力量じゃ宝具は一回が限度か‥‥!」

 

 

 今まで纏っていた銀と青の甲冑が解け、私は普段から着ている青い水着かレオタードのような衣装へと戻る。英霊の上書き状態が解けた衝撃で、サファイアは私の手が届かない向こうの方へと転がっていってしまった。

 

 イリヤスフィールがセイバー戦の時にやっていた、クラスカードを通じての英霊の力の自身への上書き(インストール)

 今までのように宝具だけを具現化するだけじゃなくて、英霊そのものを自分に降ろす。これはいわば超一級の降霊術だ。おそらくはサファイアによる無限の魔力供給があって初めて成り立つ荒技。それでも、これがこのカードの本来の使い道に違いない。

 黒化した英霊達が既に劣化した存在で、英霊を自分の身に降ろした私も多分それと同じくらい本来の英霊の実力を発揮出来ていない。それでも、それでも英霊と生身で打ち合えるだけアドバンテージはある。

 なによりこのセイバーは、イングランドの大英雄たる騎士王アーサー。その聖剣はバーサーカーの命を完全に削って消滅させることすら可能だと踏んでいたのだ。

 

 体中が痛い。常に自動治癒(リジェネーション)が働いているカレイドの魔法少女と言えども、そちらに回す魔力の余裕が無くなってしまえば治癒はおざなりになってしまう。何より傷が回復しても失われた体力までは回復しない。

 只の戦闘でも緊張から体力は想像され続けるというのに、相手がバーサーカーならば消耗も限界ぎりぎりになる。既に私の手足は震え、何より急激な魔力の消費が魔術回路を通して全身にダメージを与えていた。

 頭からの出血も自動治癒(リジェネーション)される前にサファイアとのリンクが途絶えてしまった。腕はもう震えが最大限まできていて、一度セイバーへの転身が解けてしまったせいで緊張感が途切れ、次にもう一度剣を握れるかどうかは不安。

 それでも、私は戦わなければならない。

 

 

『変身が解けた‥‥? 美遊様?!』

 

 

 バーサーカーは、強い。ただのサーヴァントではなく、その正体はギリシャ神話における世界でも有数の大英雄、ヘラクレス。

 神々から与えられた、一つ一つが並の英雄の偉業を超える試練を成し遂げた神の子。その肉体は鋼をも超え、その腕力は獅子をも制する。サーヴァントとして人に使役されることが信じられないくらいに破格の霊格を持ち、その実力も並大抵のものではない。

 そんな無敵に近いサーヴァントを相手にするのは、カレイドの魔法少女として並の魔術師を遥かに超える戦闘能力を持つとしても、それでも普通の人間である私。

 戦闘に負ければ、待っているのは死のみ。黒化して理性を失くした、ただでさえ狂戦士(バーサーカー)のサーヴァントとして顕現している英霊に、手加減などという選択肢はない

 ルヴィアさんも遠坂さんも鏡面界の外という手出し無用の場所にいる以上、助けはなく、負ければ確実に私は死ぬ。

 今なら、今ならサファイアと一緒にバーサーカーを攪乱して鏡面界から離脱するという選択肢もある。狭い屋内だ。壁の間を縫うようにしてあの巨体では侵入できない場所へと逃げこんで、ルヴィアさん達がそうしようとしたように鏡面界から逃げればいい。

 死ぬ、なんていう可能性を前に、本当なら私がここで踏ん張る必要なんてないはずだ。後日また再チャレンジするという選択肢だって本当ならある。

 

 それでも、私には退けない理由があった。どうしても退きたくない理由があった。

 ルヴィアさんや紫遙さんや、遠坂さんがそういうことをするとは考えたくないけれど、それでもきっと私が負けたら次はイリヤが呼ばれる。戦うことを嫌がっている、イリヤが呼ばれる。

 皆さんはとても優しくて思いやりがある人達だけど、それとは別に魔術師だ。冷徹に目的を遂行するために必要なことを判断できる魔術師だ。

 だからこそ、私一人では勝てないという結論が出た以上は他から助力を請うに違いない。“足りないものがあれば他所から持ってくる”のは魔術師として当然の判断だから。

 あの人達の最終的な目的は、“クラスカードを集めて冬木の地の霊脈の乱れを修正すること”。そして“自分たちの元いた並行世界へと帰還すること”。そのためならば、悪く言えば“自分たちとは別の世界の住人”であるイリヤスフィールを無理矢理にでも引き摺ってくることだろう。

 それは間違いなく悪いことでありながら、決して間違ったことじゃない。人間誰しも優先順位というものがあって、大事なものと大事じゃないものを天秤にかけて、選択して生きて行かなきゃいけないのだ。

 

 なによりもう一つ言えるのは、そんなことをしたら必ずあの人達は後悔して、自分を責めるだろうということ。

 私は何よりも誰よりもイリヤが大切だって公言できる。それでも私の命を拾い、居場所を作ってくれたルヴィアさんや力になってくれた紫遙さん。一緒に戦ってくれた遠坂さんやバゼットさん‥‥士郎さん達も同じくらい大切に思っている。

 だからこそ、私が負けてしまうことであの人達が後悔するような選択をしてしまうこともまた、同じくらい嫌だった。大切なイリヤや、大事な人達のためにも‥‥私は負けられない。

 

 

「戻ってサファイア! すぐに魔力供給を‥‥!」

 

 

 再度セイバーへの転身を行うために魔力供給をしなければとサファイアを呼ぶ。カレイドの魔法少女への転身自体はサファイアとの距離が遠くても解けないけど、魔力の供給だけはサファイアを握っていないと行われない。

 遠坂さん達から聞いた『十二の試練(ゴッドハンド)』の効果。Bランク以下の攻撃の無効化と、一度喰らった攻撃への体勢付与。私が放った『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』がもう一度通じる可能性は低いけれど、それでもセイバーの身体能力が無ければ勝利は確実に遠ざかる。

 最悪、一度『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』を使ってしまいはしたけれど、ランサーやライダーへの転身という手段もある。どちらにしてもサファイアが手元になければ始まらない。

 

 

『は‥‥はい———ッ?!』

 

「———ッ?!!」

 

 

 自立したサファイアが私のところへと飛んで来ようとした瞬間、見事に階下と繋がってしまった大穴から真っ黒な腕が現れ、その細い柄を握り折ってしまわんとばかりにサファイアをがっしと握りしめた。

 続いて現れたのは、その巨体を更に黒く、更に堅く、更に凶悪にした狂った巨人。今もまるで氷が割れるような音を立てながら体中がピキピキと自らの改造を続けていて、先程感じた妙な手応えにも納得できる。

 あれは『十二の試練(ゴッドハンド)』の効果をより視覚的にしたものだ。私の放った『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を受けて命を散らしながらも甦り、一つの試練に打ち勝った証としてそれに対する耐性が発生するわけだ。

 それは理不尽でありながらも、あくまでも道理に適ったモノ。生前の功績をもって彼の大英雄に与えられた褒賞にして呪いである。

 

 

「くっ、サファイア‥‥!!」

 

『お逃げ下さい美遊様! 私が手元になければ物理保護も自動治癒(リジェネーション)も働きません!!』

 

 

 狂戦士に捕まったサファイアが悲痛な叫びを上げる。彼女の言う通り、私がサーヴァント達と戦うための最低条件である物理保護や身体強化、自動治癒(リジェネーション)も働かない。

 もしかしたら、サファイアの言う通りに逃げれば機会が掴めるかもしれなかった。でも私に攻撃の手段なしと踏んでかゆっくりと近づいてくるバーサーカーを目の前にして、私は完全に腰が抜けてしまって身動きがとれなかった。

 

 私に覆い被さってくる死の具現。圧倒的な破壊力を秘め、圧倒的な絶望を感じさせる。

 顔も体中も鱗のような、剣のような棘に包まれた異形の姿。その巨大な手はサファイアどころか私を一掴みにして握りつぶすことすら簡単だろう。

 今、ここにきて初めてはっきりしたことがある。いくら覚悟を決めたつもりだったとしても、やっぱり私は現実にそれを体験してみないと実感できないということを。

 私は、守られていた。覚悟を決めたつもりでも、それでも私はサファイアやルヴィアさんや紫遙さんや、他の色んな人に守られていた。

 こうして誰からの手助けもない状況で、死というものを間近にして、私は初めて自分がどれだけ無力なのかに気づかされる。今、これまで守られていた死という脅威を目の前にして、私はみっともないぐらい震えている。

 

 死ぬのが怖い。こんなところで一人で死ぬのが怖い。

 死ぬという、未知の事象に脅かされている状況が怖い。自分が死ぬ、無くなるということが怖い。

 これからどうすればいいのか、これからどうなってしまうのか分からないのが怖い。ただ確実なのは死んでしまえばそれでお終いということで、それがどうしようもなく怖い。

 

 私はこんなところで死んでしまうのか。私はこんなところで、一人で死んでしまうのか。

 死ぬという何も分からないことで、これで自分は終わってしまうのか。無くなってしまうのか。

 これで全てが終わってしまうのか。

 そんな色んな思考が頭の中をまるで紐が千切れてしまった暴れん坊の子犬のように、あるいは捕食者から逃げ回る小動物のように駆け回っていて、結局は全てが“怖い”“嫌だ”という感情に塗りつぶされる。

 

 

「■■ォ■ォ■■ォォ■ォ———ッ!!!」

 

「————ッ!!!」

 

 

 死ぬ。

 私はここで死ぬ。

 はっきりと、そう理解した。

 

 そのときだった。

 

 

「■■ァ■ァ■ァァ■ァ———ッ?!!」

 

「‥‥ッ?!」

 

 

 目の前に広がる、薄いピンク色。

 はためいたソレは真っ白な光を以て空間を縦に割き、私の前へと降り立った。

 

 

「イリ‥‥」

 

「リンさん! 効いたよ!!」

 

「了解! 二人とも行くわよ、続きなさい! Anfang(セット)———!」

 

Zeichen(サイン)———!」

 

Drehen(ムーヴ)———!」

 

 

 縦に走った閃光は私の目の前に迫っていたバーサーカーを斬り裂き、私の言葉を遮って叫ぶ。

 振り降ろした、私の相棒であるサファイアとよく似通ったデザインの杖の先から出ていた光刃から宝石が一つ飛び出して、それと同時に天井から三人の人影が降ってきた。

 三人の人影はそれぞれ手にした媒体へ魔力を通し、最初の攻撃で怯んだ狂戦士へと投げつける。

 

 

「「「『獣縛の六枷(グレイプニル)』———!!」」」

 

「■ォ■■ォ———?!」

 

 

 宝石とルーン石。渾身の魔力を注ぎ込まれた六つの媒介によって作られた結界は、六本の帯を作って獣と化した大英雄(ヘラクレス)を縛り付ける。

 注ぎ込まれた魔力の量は、全部合わせればAランクを優に超えるだろう。威力だけを比べるならば神代の時代に狼の王たるフェンリルを拘束せしめた魔縄にも匹敵する、まさしくそれを現代に蘇らせた大魔術。

 六つの媒介は縄だけではなく結界をも形作り、限定された短時間とはいえど完全に狂戦士を拘束せしめる。

 

 

「通った‥‥! ショウとミス・トオサカの言う通り、瞬間契約(テンカウント)レベルの大魔術なら通用しますわ!」

 

「代わりに魔力をごっそり持ってかれて、これ以上何も出来ないけどね。まったく、こういう荒事は苦手なんだけどなぁ‥‥!」

 

「何を仰っているのですか。この魔術は貴方が発掘してきたものでしょう、まったく‥‥?」

 

「だぁもう二人とも文句言わないの! 私だって聖杯戦争からずっと魔力貯めてた宝石二つも持ってかれたのよ?! ‥‥イリヤスフィール! 美遊! 長くは保たないけど今の内に体勢を整えなさい!」

 

 

 獣縛の六枷を張ったのは私のよく知る三人の魔術師。遠坂さんとルヴィアさん、それに調子を取り戻したらしい紫遙さん。

 常日頃から微妙に宝石を渋る癖のある遠坂さんも宝石を出し惜しまずに、現代魔術としては宝具の再現にも迫る破格の大魔術を、私のために行使してくれた。

 完全に拘束されたバーサーカーは獣縛の紐を引き千切ろうと足掻くけれど、流石に時計塔の鉱石学科でも五本の指に入るという魔術師三人の本気の大魔術はそう簡単には外れない。今もミシミシと悲鳴を上げてはいるけれど、立派に大英雄の抵抗に耐えている。

 

 

「イ‥‥イリヤ‥‥どうしてここに‥‥」

 

 

 私の手を離れていたサファイアが、投げられて戻ってくる。投げて寄越してくれたのはイリヤ。さっき私の絶体絶命のピンチにやって来て、バーサーカーから助けてくれた私の‥‥友達。

 少しだけ離れたところに立って、私から少しだけ目を背けて視線を逸らしている。

 

 あれだけ戦うのが嫌だと心の底から漏らしていたのに、どうしてまた戦場にやって来たのか。私がさっき二人だけ外に出してしまった遠坂さんとルヴィアさんに連れて来られたのか。

 そんな理不尽な怒りにも似た気持ちも湧いてくるけれど、それでも私を助けに来てくれたことが嬉しかった。それでも疑問は止まらなくて、私はバーサーカーの叫び声にかき消されてしまうぐらいか細い超えで問いかけた。

 

 

「ごめんなさい」

 

「え‥‥?」

 

「わたし———バカだった。

 何の覚悟もないまま、ただ言われるままに戦ってた。戦ってても‥‥どこか他人事だったんだ。こんな嘘みたいな戦いは現実じゃないって‥‥。なのに‥‥その『ウソみたいな力』が自分にもあるってわかって‥‥急に全部が怖くなって‥‥!」

 

「イリヤ‥‥」

 

 

 相変わらず私に背中を向けたまま、それでもその小さな背中が細かく震えているのが分かる。

 まるで、無理矢理に絞り出すような声。かといって無理をしているわけではなく、それはどちらかといえば自分を虐めているかのような、自分が情けないような、まるでさっきの私みたいな声。

 

 

「‥‥くっ、やっぱり長くは保たないか!」

 

「解れてるの蒼崎君の担当の箇所じゃないのよ! しっかりしなさいってば!」

 

「無茶言うなって! こちとら只のルーン石で、一端とはいえAランク魔術なんて無茶やってるんだぞ?! そういう遠坂嬢こそ宝石ケチったんじゃないのかい?!」

 

「んなわけないでしょ! なんなら蒼崎君の方に請求書回したっていいんだからね!」

 

「‥‥それは、勘弁」

 

 

 瓦礫が崩れる音も、バーサーカーが暴れて建物が悲鳴を上げる音も、そして遠坂さんやルヴィアさん達の話声さえも。

 全てが遠いところでBGMのように流れていて、不思議と私の意識はイリヤの言葉だけに集中していた。掠れるように、それでも精一杯声を出して私に何かを伝えようとするイリヤの言葉だけに集中していた。

 私の友達。初めての友達。イリヤは確かに涙を流しながら、それでもしっかりと口を開いて私に喋りかける。私がイリヤのためにと思って一人で戦っていたのに、それを無視して、私のピンチにやって来てくれた友達。

 そのイリヤが何を言おうとしているのか、まだ彼女の口から聞いていないはずなのに、私は何故だろうか、胸が熱く、鳴ってきたのを感じ取った。

 

 

「でも、本当に馬鹿だったのは、逃げ出したことだ! 美遊に全部なすりつけて、それで自分だけ安全なところで安心できるわけがない!

 どんなに自分のことが、何もかもが怖くても‥‥“友達”を見捨てたままじゃ前へは進めないから‥‥ッ!」

 

 

 カレイドの魔法少女は二人で一つ。

 それは決して二人で連携して戦うとかそういう意味じゃない。結果としてそうなるかもしれないけれど、それは結果であって目的でも真実でもない。

 私達は、お互いに理解し合って、助け合って、一緒にいて、それで二人で一つなんだ。上手く言葉に出来ないけれど、今この瞬間、私は以前に聞いたこの言葉の意味を本当に理解したような気がした。

 まるで私の思いを感じ取ったかのように、この手に握ったサファイアがイリヤの持ったルビーに引っ張られる。まるで濡れた指でワイングラスの縁をなぞった時のような澄んだ音が二本のステッキから響いて、同時に激しく震え出す。

 これは、ステッキの共振だ。私とイリヤの心が重なったのを感じ取って、イリヤがステッキの能力を導いている。サファイアと少しだけ話したイリヤの能力だ。『過程を無視して望む結果が導き出される』。

 

 

「くっ、『獣縛の六枷(グレイプニル)』が解けますわよ!」

 

「だあぁぁ! やっぱり俺の魔力じゃ不十分かぁっ! ‥‥こりゃ研究見直さないとなぁオイ」

 

 

 ビシリ、ミシリと紫遙さん主導による遠坂さんとルヴィアさんの大魔術は悲鳴を上げて千切れていく。どんなによく出来た術式であろうとも、そも人間の身で英霊を縛るということ自体に無理があったのだ。

 英霊とは過去に人間であったとしても、座に上った時点で人間を超える。その在り方自体はもはや精霊や神霊に近く、完全に人間の上位種族であるのだ。いや、もはや種族という概念すら間違いかもしれない。

 

 

「遠坂、ルヴィア、紫遙、そこどけっ! 一つ減らすっ!」

 

「許可する! 無茶しなさい士郎っ!」

 

 

 士郎さんが黒塗りの弓と捻れた剣を構えて遠坂さんに尋ね、許可を出した。弓に番えられた矢の名前は硬き雷(カラドボルグ)。Aランクに匹敵するだろう宝具の真名解放はバーサーカーの『十二の試練(ゴッドハンド)』を抜くには充分だ。

 しかし、今はそれも不要。既に私の聖剣で二回、呪いの朱槍で一回、バゼットさんの逆光剣で一回。都合四つの命を削り取っている。それでも残った三つの命を、この場で削り取って消滅させるだけの攻撃手段が私達の手の中に顕現しつつあった。

 

 

万華鏡(カレイドスコープ)

 

 

 ———そう、それは獣を縛る縄が千切られ、敵が拘束を破ると同時のこと。

 鏡面界に現れた太陽。

 燦爛と輝くその黄金の光は、私とイリヤによって喚び出された稀代の聖剣‥‥九本によって作られた神秘の結晶。

 

 同じ攻撃は二度と通じないはずのバーサーカー。ではその守りを、神々の存在をも超えるかもしれぬ偉業の数々によって手に入れたその宝具を抜くには何をどうすればいいのか。

 簡単だ。神秘は、より濃い神秘に打ち消される。逆を言えば、それ以外によって神秘を打ち砕くことなど出来はしない。

 星が生んだ至高の神秘たる『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』。それが一本ならば、単純な威力以外の効果を持つ『十二の試練(ゴッドハンド)』自体を抜くことは出来ないだろう。

 しかし、それが九本。万華鏡(カレイドスコープ)の煌めきによって生み出された寸分違わぬ九本の聖剣の持つ神秘の量は、『十二の試練(ゴッドハンド)』を優に圧倒する。

 

 太陽の輝きは、ギリシャが世界に誇る大英雄を鏡面界ごと飲み込み‥‥そしてその後には、何も残っていなかった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

「‥‥『弓の騎士(アーチャー)』、『騎乗兵(ライダー)』、『槍の騎士(ランサー)』、『魔術師(キャスター)』、『剣の騎士(セイバー)』、『暗殺者《アサシン》』‥‥そして『狂戦士(バーサーカー)』」

 

 

 冬木は新都にあるビルの屋上。

 地べたにズラリと並べたカードを、全体的に付かれた雰囲気を滲ませた遠坂嬢が数え上げる。

 空はまるで黒い画板にビーズでも落としたかのようなぐらいにキラキラした星空のはずなんだけど、格子模様に覆われた狭い空には曇ったように真っ黒な霧がかかっていた。

 おそらくビルの下を見下ろしても、まるで空の上に建物が浮いているかのように真っ黒な空間と格子模様が広がっていることだろう。そう、ここはまだ鏡面界の中なのだ。

 本来なら歪みの原因であるカードと黒化した英霊、サーヴァントを除去すればすぐさま鏡面界は崩壊してしまうはずだけど、今回は歪みを意図的に増幅させていることでカードを失った鏡面界を保持している。

 そうする必要があるのだ、今回ばかりは。最後のカードを集め終わった俺達には、最後の大仕事が待っていた。

 

 

「すべてのカードを回収完了。これで‥‥コンプリートよ」

 

「やれやれですわね。冬木にやってきて一週間程度だというのが信じられないぐらいに疲れてしまいましたわ」

 

「大丈夫か遠坂? ホラ、へたりこむとかっこわるいぞ」

 

 

 バーサーカーとの激闘を終えて鏡面界から脱出した俺達は、それでも遠坂嬢の溜息に便乗したくなるぐらい尋常じゃなく疲れてしまっていた。

 衛宮はまだいい。カラドボルグの投影をしたとはいえ真名解放までは至ってないし、俺と一緒で最初の戦闘には参加していないから大して魔力は使っていないはずだ。

 それに対してAランクの大魔術を行使した俺やルヴィアや遠坂嬢は、それこそ今すぐに布団にぶっ倒れてまいたくなっているぐらいに疲労の色を隠すことが出来ない。Aランクの魔術は本当に人間が扱う限界ギリギリの魔術なのだ。そう簡単に、というか滅多に使うものじゃない。

 

 『獣縛の六枷(グレイプニル)』は、Aランク魔術の中でも結構特殊な方で、厳密にカテゴライズするならば魔術というよりは宝具に近い。宝具を魔術で再現した魔術なのだ。

 六つの宝石やルーン石などの魔力を大量に込めた媒体を用意して、それを用いて結界を張る。媒体と地面に描かれた魔法陣を繋ぐ六本の帯だけではなく、十二面の結界を張ることで外部への一切の干渉を防ぐ、かなり高度な結界術である。

 ‥‥自画自賛になってるな。うん、実はこの魔術を考案したのは他ならぬ俺なんだよ。俺の本来の研究の途中に試作品のようにして考案したもので、形にした当初は実際に使う羽目になるとは欠片も思わなかった。

 だってさ、なにしろコレって前提条件からして俺が使うように出来てない。理論は完璧だけど大量に魔力を必要とするから、そもそも俺では発動できないのだ。

 

 

「‥‥ショウ、大丈夫ですの? あまり良い言い方ではないかもしれませんが、貴方の魔力でアノ術式は難しかったでしょう?」

 

「まぁ二人に大分負担してもらったから何とか大丈夫だよ。それよりも、どっちかっていうと精神を小刻みにした影響がキツイな。いくら記憶をガードするためとはいえ‥‥ここまで連続で荒行事に及ぶと障害が心配だな‥‥」

 

 

 記憶は魂に刻み込まれている。そして決して忘れることはない。

 魂について扱う魔術とは、言わずとしれた第三魔法や死徒二十七祖の番外位であるアカシャの蛇の術式を代表としていずれも大魔術と称される非常に困難な技術である。

 では何故に魂に刻まれるはずの記憶に干渉する暗示などの魔術が初歩的と称されるのか? 答えは簡単。つまるところ魂には触れていないからである。

 

 一般的な記憶に干渉する魔術は、魂ではなく精神に干渉する。人間の第一要素である肉体に先ず干渉し、第一要素である肉体と第二要素である魂を繋ぐ精神から、間接的に魂の表層に刻まれている記憶に干渉するのだ。

 そして鏡面界へと侵入する際に俺達の記憶を奪う魔術の恐ろしいところは、俺達が鏡面界へと侵入する際に瞬間的に二次元世界へ存在していることを利用して、おそらくは術者のいる三次元空間からの、つまりは高次元から低次元への干渉を行うことだ。

 高次元からの干渉に低次元に存在している者は逆らえない。否、干渉を知覚することすら出来ない。ならば俺はどうやってこの精神干渉の魔術に対抗すればいいのだろうか。

 

 

「‥‥まったく、精神を分解して意図的に混濁させて魂への影響を防ぐとは、無茶なことを考えつくものですわね。失敗すれば即座に廃人ですわよ?」

 

「ルヴィアゼリッタの言う通りよ。どれだけ切羽詰まってるかは知らないけど、一歩間違えればギャンブルじみた自殺じゃないの」

 

「そうでもしなけりゃ記憶を読まれちゃうんだから仕方がないだろう? これ以上、この事件の黒幕に情報を与えてやるわけにはいかないんだからさ」

 

 

 精神を介して魂から記憶を探るのならば、介している精神に干渉できないようにすればいい。

 そして俺程度の防壁が破られてしまうのならば、今度は根本から方法を変える。即ち、精神を細切れにして攪乱し、それによって精神を足がかりに出来ないようにしてしまうのだ。

 元々、好んで使うものが非常に少ないとはいえ、精神を細切れにして洗浄することにより短時間で効果的にストレスや疲労をリフレッシュする手法は存在する。“Fate/Zero”で衛宮切嗣が使用していた例もあるのは覚えている人も多いだろう。

 ただしあの手法では肉体も精神も完全に無防備になってしまう。整理、洗浄するのでは意味がないわけだから、今回の俺がとった商法はかなり乱暴なものとなった。

 即ち、何の規則性も順序もなく適当に乱雑に精神を切り刻み、それを意図的に攪拌、攪乱する。これによって先ず精神を把握するという手順が不可能になり、結果として魂の表層へのアクセスが出来なくなるのだ。

 

 

「まぁ危険を冒した甲斐はあって、何とか成功したみたいだよ。防壁は案の定しっかり破られてるけど、記憶まで覗かれた感触はない。その代わり、復旧してからすぐにAランク魔術なんか使ったせいで頭痛と吐き気が酷いけど‥‥」

 

 

 当然ながら、このやり方は遠坂嬢が否定した通り結構な危険をはらんでいる。それこそ一歩でも間違えれば廃人一直線だし、そうでなくとも記憶障害や精神障害などの某かのデメリットが後々生じる可能性だってあるだろう。

 問題は、それでも俺の記憶をこれ以上相手に渡してやるわけにはいかないということ。最初にアサシンの触媒を盗んだ時にどれだけ覗いたのかは知らないけれど、それでも詳しい情報までは入手していないと信じたい。

 だとすれば、少なくともアサシンの触媒の出所が気になるのは当然のことで、相手が真っ当な魔術師ならば次は必ず俺を集中的に探ってくる。だからこそ今回はイリヤスフィールの説得ということで時間をずらして鏡面界に侵入したわけだ。

 もちろんヘラクレスが召喚された後でも、鏡面界に侵入する以上は俺の記憶を奪う機会だって存在する。何にせよ危険を冒した甲斐はあって何とか記憶は守れたわけだけど。

 

 

「いいじゃないか、何にせよ無事に任務は完了したわけだしさ。遠坂もホラ、そんな難しい顔するのは止せよ」

 

「士郎、アンタはちょっと楽観視が過ぎるわよ。確かにカード自体は全部回収したけれど、それだからって何もかも万々歳ってわけじゃ、ないんだからね」

 

「‥‥わかっちゃいるつもりだけど、な。どっちにしたって少しぐらい休憩した方がいいと思うぞ。紫遙もあの調子だし、バゼットだって———」

 

 

 ちらり、と自分のことで手一杯だった頭に余裕を作って辺りを見回す。最初に鏡面界に侵入した俺達と美遊嬢やイリヤスフィールを含めて、この事件に関わった全ての人がこの場所に集合していた。

 俺やルヴィア、遠坂嬢や衛宮は当然として、目立たないようだけど当然ながらバゼットだって一緒にいる。最初に宝具を放ってバーサーカーを一度殺した時にまたもや傷が開いたらしく、眉間に深い皺を寄せて脂汗を額に浮かべているけれど。

 

 

「私は大丈夫ですよ。宝具を撃っただけですし、確かに消耗はしていますが動き回ることに問題はありません」

 

「本当に平気なのか、バゼット?」

 

「心配しないで下さい士郎君。自分で言うのも何ですが貴方達とは鍛え方が違いますよ」

 

 

 他の連中に比べて彼女の傷が深いのは、たった二人同然という状況ながら完全に生身で英霊、それもクー・フーリンを打倒したからに他ならない。

 なにせ彼の光の御子の持つ呪いの朱槍によって付けられた傷は異常に治りが遅くなる。何とかルーンやら何やらで当面の行動を阻害しないぐらいには繕っていても、戦闘、あろうことか宝具まで使った激戦を行えば傷が開くのも当然と言えよう。

 この事件の間中かなり影が薄かったけれど、それも自分の部屋で療養に励んでいたから。本来ならセイバーを欠いたこの面子の中で、カレイドの魔法少女であるイリヤスフィールや美遊嬢を含めても最強に近い位置にいる彼女が戦いに参加しないはずはないのだ。

 療養に集中する余りアドバイザーとしても活躍出来なかったことをさぞや悔いているに違いない‥‥とは思うけど、実際は有意義な生活を満喫していたことだろう。horrowではあんなだったけど、実際に付き合ってみると意外に怠惰なところがあるよ、彼女。

 

 

「私は大丈夫ですよ。宝具を撃っただけですから、傷が開いて消耗したぐらいです。実際に動き回るのに問題はありません」

 

「あぁ頭がガンガンする。余裕が出来たら、しっかり精神の整理をしておかないとなぁ‥‥。正直微妙に混濁してるよ」

 

「キツかったら休んでいましょうか? 別に今すぐに“行かなきゃ”いけないってわけでもないし‥‥」

 

 

 口では平気と言いながらも顔に浮かんだ脂汗が痛々しいバゼットと、同じく嫌な汗をこめかみに浮かべている俺に遠坂嬢が心配そうに話しかけて来た。

 確かに体調は未だかつてないぐらいの最悪に近い。頭はガンガンと破鐘のように鳴り響いているし、目眩が酷くて、自分では分からないけど本当に俺の頭は揺れ動いているのかもしれない。

 精神は細切れの状態からしっかりと復活させたはずだけど、それでもまだ解れてるところがあるのか油断すると意識が混濁しそうになる。この辺り、やっぱり荒行事があからさまに影響している。こんな博打じみた真似をする魔術師、魔術師としてどうなんだろうか。

 

 

「‥‥いや、すぐにやってしまおう。あんまり長引かせても、お互いにツライだけだしね」

 

「そう‥‥。ルヴィアゼリッタも問題ないわね?」

 

「仕方がありませんわね。いずれにしても、遠からず訪れる別れですわ。ならば早ければ早い程に傷も浅いと信じたいものですし」

 

 

 体と頭は休息を求めている。それでも、俺は遠坂嬢の言葉に含められた意味深なニュアンスを感じ取り、すぐにでもへたり込みそうになる足に無理矢理力を入れて立ち上がった。

 多分いつも通りのスーツの下では真っ赤な汗をかいているに違いないバゼットも、同じように普段の癖でネクタイを締め直す。彼女は何か疚しいような事態に直面すると、いつもこのように咳払いと一緒にネクタイを弄り回すのが常なのだ。

 

 冬木の地にばらまかれた正体不明の七枚のクラスカード。それらをつつがなく回収し終えたことで宝石翁から受けた任務については完了なわけだけど、俺達にはまだやらなければいけないことが残っている。

 事後処理? 後始末? いやいやそんなもんじゃない。そんなことをする前に、やらなきゃいけない大前提ってものが残っているのだ。

 ‥‥そう、何せ俺達が今いるこの場所は、俺達が本来いるべきところじゃないのだから。

 俺達は、自分たちのいるべき場所に帰らなければいけないのだ。

 

 

「‥‥イリヤスフィール、美遊。取り込み中悪いんだけど、ちょっといいかしら?」

 

「はい?」

 

「どうかしましたか、遠坂さん?」

 

 

 俺達とは少しだけ離れたところで互いに友情を確かめ合っていたイリヤスフィールと美遊嬢が、遠坂嬢に呼ばれてこちらへやって来た。

 ‥‥微妙にルビーが機嫌良さ気に体をくねらせてるところから察するに、どうやら友情を確かめ合っていただけではないらしい。もしかしたらまたルビーが何かやらかしたのかもしれない。

 ここのところ始終シリアスな雰囲気で事件が進行していたからめっきり大人しくなっていたみたいだけど、このステッキの本質は書いて字の如し、“愉快型魔術礼装”である。久しぶりに好き勝手できそうな空気を放っておくはずはない。

 世界には自分と同じ顔をした人間がもう二人いるという話はよく聞くけれど、もしかしたら性格までそっくりな人間だってもう二人いるんじゃあるまいか。

 まぁ、そうなるとルビーが世界には少なくともあと一人は隠れているということになるから不安にはなるんだけど、まぁ気にしない方向でいこう。そうそう遭遇することなんてあるまいよ。

 

 

「勝手に巻き込んでおいてなんだけど、貴女達がいてくれてよかった。私達だけじゃ多分勝てなかったと思う。最後まで戦ってくれて、ありがとうね」

 

「今更かもしれませんが私からもお礼を言わせて下さいませ。二人とも本当によくやってくれましたわ。特に美遊、私も養い親として鼻が高いですわよ」

 

「‥‥そんなことは、ありません。皆さんがサポートしてくれたから‥‥イリヤがいてくれたから、勝てたんです。私の方からも、お礼を言わせて下さい」

 

「おいおい、義理堅いにも程があるぞ。そこまで恐縮することないって。ホント、美遊とイリヤには助かった。俺は殆ど何もしてないけど、本当にありがとう」

 

 

 ルヴィアの養い子であり、魔術の弟子でもある美遊嬢が珍しくも照れた様子で口を開く。すこしだけ目を細めて頬を染めた様子はまるで素直になれない子猫のようで実に可愛らしい。

 続けられた衛宮のお礼に更に顔を真っ赤にしてイリヤスフィールの後ろに隠れたのは、何故なのか不思議だったけど。

 

 ‥‥自分勝手に行動した結果としてのイリヤスフィールとルビーの契約はともかくとして、美遊嬢に関して言えば俺達が彼女を巻き込む必然性は、ルヴィアと何度も話し合ったことだけど、実は殆ど無かったと言える。

 だからこそ、彼女の思惑としてどうであれ、今まで俺達の言うことを聞いて戦い、学び、共に過ごしてくれた美遊嬢には感謝してもし足りない思いであるのだ。

 多分、それはルヴィアが一番感じているところだと思う。まだ俺達が来たこの世界が並行世界であると知らなかった時、彼女を自分の弟子として立派な魔術師に育て上げると“契約”までしていたのだから。

 

 魔術師にとっての契約とは、誓約(ギアス)のように破った場合某かのペナルティが発生するような代物じゃない。別に契約するときに面倒な儀式やマジックアイテムなんて必要ないし、その場の口一つで行える、いわば口約束のようなものだ。

 だとしたら、何故それが口約束でなくて契約と呼ばれるのか。魔術師にとっての契約とは何か。

 契約とは、俺達魔術師が必ず達成すると自分自身に宣言する行為である。心の中で決心するのではなく実際に口に出すことで、仮初めながらも心理的な拘束力を自らにもたらす。

 そしてそれと同時に、拘束力は自らの力と成り得るのだ。これは全て、実際に現実的な効果が出るものでないにせよ、魔術を行使する上で幾分の足しになることもまた事実。

 だけど何より、契約とは魔術師の矜恃に大きく関わる行為なのだ。魔術師がわざわざ契約と口に出した異常、魔術師としての矜恃と在り方に賭けて達成する必要が生じる。

 故に、魔術師が一度口に出した契約を達成出来ないというのは例え他人に知られていなくとも非常に不名誉であり、恥ずべきことであるのだ。

 

 

「ところでルヴィアさん、クラスカードは全て集め終わりましたが、これからどうするんですか? クラスカードが原因で地脈が歪んでいるという話もお聞きしましたし、何よりクラスカードが自然と発生したものでない以上は原因の究明も‥‥」

 

「あぁ、その辺りはひとまず放置ですわ。私達が命じられたのはクラスカードの回収ですもの。地脈云々や召喚術に関しては、残念ながら門外漢も良いところです。それについては戦闘が終わった冬木に、専門の調査団が派遣されることになるでしょうね」

 

「えぇっ、そんな適当な姿勢でいいの?!」

 

「‥‥あのね、いくら私達だって何でも完璧に出来るわけじゃないのよ? 何よりまだ学生やってるわけだし、向こうの講義もあるんだから長居してるわけにもいかないのよ」

 

「二人とも万能型の魔術師だからね。魔術教会の総本山から派遣される専門の調査団の方が、手早く詳細な調査が出来るのは当たり前のことだよ、イリヤスフィール、美遊嬢」

 

 

 確かに遠坂嬢もルヴィアも天才と称されるに相応しい優秀な魔術師だけど、時計塔もアレで伊達に世界に冠たる魔術教会の総本山じゃない。バルトメロイ女史を筆頭に化け物クラスの魔術師はソレこそ掃いて捨てるぐらい存在するし、なにより万能型は専門家には適わない。

 遠坂嬢の言うとおり、別に冬季休業中というわけでもないから講義自体は普通にやっているし、いくら俺達が宝石翁によって特別に授業免除の許可を貰っているとしても、帰ったら進んでしまった講義に追いつかなければならないのだ。

 何よりこのクラスカード、正直言って素で持ち歩きたい代物じゃない。早いとこ帰って適切な方法で処分ないしは保管してもらうのが一番だろう。

 まぁ、それより何より———

 

 

「向こうにはセイバーも待たせてるしね。早いとこ帰らないと色々と不安だわ。二人とも、本当に世話になったわね」

 

「え‥‥?」

 

「どういう‥‥ことですか‥‥?」

 

 

 深く息を吐き出すかのように呟かれた遠坂嬢の言葉に、美遊嬢とイリヤスフィールは一瞬凍り付くと怖ず怖ずと口を開いた。

 微妙に笑顔を作った二人に対して、衛宮やバゼットも含めた残る五人は渋い顔。いや、どちらかといえば神妙と称するべき難しい顔をして思い思いの方向を見つめている。流石に今、美遊嬢とイリヤスフィールと視線を合わせることができる猛者は遠坂嬢とルヴィアの二人だけだ。

 二人とも気づいたのだろう。“世話になった”という単純な言葉が含む意味は、普通に考えれば今までの礼というものだ。しかし残念なことにこの言葉は、それと同時に別れの定型句としても使われる。

 

 

「私達が冬木(こっち)でやらなきゃいけないことはもう何もないわ。だったら冬木(あっち)に、居るべき場所に戻らなきゃね」

 

「‥‥冬木(あっち)?」

 

「そう、あっち。覚えてないのかしらイリヤスフィール? 私達は、この世界の住人じゃないのよ?」

 

「———あっ!!」

 

 

 魔術師という括りの違いこそあれ、本来なら全く違うところのない同じ人間のはず。しかし、それでいながら俺達とイリヤスフィール達の間では明確な違いが存在する。

 違う世界。並行世界の住人である俺達は、それこそ本来ならばこの場所に存在していいはずのない人間なのだ。ただその一点だけで、彼女達と俺達の間には明確な線引きがされていた。

 

 並行世界の運用は、第二魔法と呼ばれる最上級の神秘によってのみ為されると定義されている。コレは即ち、並行世界に関することが人間の、たとえそれが魔術師であっても手に余るものだということを示しているのだ。

 魔法とは魔術師がたどり着く究極の一の一つ。第二魔法は使い手が度々現世に出没して戯れに弟子をとったりしていることから最も概要が掴めている魔法の一つだけど、それでも概要は概要に過ぎない。

 つまり、並行世界に関する事柄で俺達の理解が及ぶ範囲というのは非常に狭く、その殆どが全く未知の存在であるということだ。

 故に並行世界の人間が別の世界に入り込んだことで、どのような影響があるのか全く分からないのだ。今は影響らしい影響が全くないけれど、もしかしたら何時ぞやの俺のように精神的な悪影響が出ないとも限らない。

 だからこそ、手段があるなら急いで自分達が本来いるべき世界へと戻らなければならない。元々からしてハプニングのような来訪であったのだから、準備も出来ていない状況でこのように暇を持て余しているべきではないのだ。

 

 

「この世界にも私達がいること自体は確認できているの。そしてその私達が、この私達と同じように倫敦を出発して冬木へやって来たことも、ね。なのに一週間の間、同じ街にいるはずの彼女たちに会えない‥‥」

 

「事故や事件など、この世界の存在の範疇で想定できることはたくさんありますわ。しかし一番考えられるのは、この世界の私達も、私達と同じように並行世界に紛れ込んだということ。

 だとしたら、これは希望的観測に過ぎないのかもしれませんが、もしかしたら別の並行世界へと紛れ込んだこの世界の私達も、今の私達と同じように脱出への準備を整えているかもしれませんの。そうでしょう?」

 

 

 無限に存在する並行世界。だからといって大きく異なった可能性世界が大量に存在するというわけじゃない。

 例えばあの時あの道を右じゃなくて左に曲がったら? もしくはそもそも途中で引き返したら? そんな些細な選択肢からでも大きな違いが生まれることは決して難しいことじゃないだろう。

 それでも途中で川に支流が生まれたとしても最終的には本流に戻ってきたり、同じように海へと辿り付くように、並行世界の在り方は決して大きく異なるものじゃない。

 あまりにも変わり果ててしまったならば、それは並行世界ではなくて異世界の在り方だ。そもそも偶然というものは非常に限られた局面でしか発現しないものだという理論もあるしね。

 

 故にこの世界の彼女たちも俺達と同じような道筋を辿っていた以上は、飛ばされた向こうの世界でも俺達と同じような手順を辿って脱出への道に辿りついたかもしれない。

 そして俺達がいまいるこの世界と、元いた世界を繋げる遠坂嬢とセイバーとのレイライン。これを辿っていたとすれば、この世界の彼女達の飛ばされた世界は俺達が元いた世界である可能性も高いのだ。

 この世界の彼女達も、基本的には俺の知っているルヴィアや遠坂嬢と同じのはず。立場が微妙に違った衛宮士郎も人間的な変化は特に見られなかったように。ならば別の並行世界に飛ばされた彼女達が取る行動も、また俺達と同じようなもののはずである。

 

 

「シェロはまだ何ともなっておりませんが、もし彼女達が一足早くこちらの世界への帰還に成功したりすれば、一つの世界に同じ人物が何人もいるという状況を世界がどう判断するか分かりませんわ」

 

「なんだかんだで士郎って色々と特別だからお目こぼししてもらってるのかもしれないしね。いくら第二魔法の系譜にいるからって、さして特別な存在じゃない私達じゃどうなるか分かったもんじゃないってことよ。

 それなら、おそらくは向こうの世界でこっちの世界の私達も同じような結論に達しているだろうって考れば同時に近いタイミングで互いに入れ替わることができるはずだわ」

 

 

 世界は矛盾を許さない。

 俺達の属する全ての基盤が世界そのものである以上、世界の命令は絶対だ。世界が全ての基盤になっているのだから、絶対支配者である世界の支配の目を逃れるようにして異能を行使するのが魔術師である。

 例えば固有結界。これは術者の心象風景で現実をめくり返すという、一番明確な矛盾の在り方だ。故に固有結界や、他にも投影魔術などは世界からの修正を受け続けるために長続きしない魔術とされている。

 過去、アーチャーが自分殺しという最大の矛盾を成し遂げることで自身の消滅を願ったように、世界の修正力は英霊をも消滅させる可能性を秘めているのだ。

 ‥‥実際そうなるかはさておいて、期待できる力は持っているということである。

 

 根源への探求も世界がはっきりと敵視する矛盾に含まれている以上、ある意味では魔術師の最大の敵が世界であると言っても過言ではなく。魔術の探求において最も困難なのは、魔術自体の習得よりも世界を如何にして騙すかという点にあるのかもしれない。

 だからこそ、今回の帰還についても慎重にタイミングを決定する必要があった。もしかしたら帰還に失敗するかもしれないし、下手すれば向こう側の遠坂嬢やルヴィアも巻き込んで全員が消滅してしまうかもしれないのだから。

 

 

「‥‥こんな、こんな突然お別れするなら最初に言っといてくれてもいいんじゃないかな?」

 

「悪いわね。ちょっとドタバタしてたし‥‥私としても、言うタイミングが掴めなかったのよ。だから言ったでしょう? 本当にありがとうって。あんなこと、これっきりのお別れでもなかったら言わないわ」

 

 

 イリヤスフィールの不満に、困ったような、寂しいような表情をした遠坂嬢が答える。

 彼女にとってイリヤスフィールの顔は、つい二年ちょっと前に殺し合いをした仲である。色々と複雑な感情もあるだろうに、一週間の共闘ですっかり情が移ったらしい。

 名実ともに時計塔の学生では最高の腕を持ちながら、心根はどちらかといえば普通の人間に近い不思議な遠坂嬢。そういう優しい姿勢は魔術師としてはよろしくないかもしれないけれど、遠坂嬢がそんなじゃなかったらこうして友達付き合いもしていなかったことだろう。

 まぁ魔術師が友達っていうのが、そもそもおかしいのかもしれないけどね。もともと俺達四人‥‥セイバーも入れて五人は時計塔でもかなり浮いていることだし。

 

 

「ええっ?! それじゃあこれでもう会えないんですか?!」

 

「当然でしょ? 並行世界への移動は第二魔法の管轄。今回は完全にイレギュラーな形だから可能だとは思うけど、本来なら魔法使いにしか行使できない最上級の神秘なんだから。

 ‥‥そうね、私か貴女が第二魔法を習得したりしたら話は別かもしれないけれど、今度は無数ある並行世界から的確にお互いの世界を選ぶっていう難行が待ってるからね。可能性は低いと思った方がいいわ」

 

「魔法‥‥かぁ」

 

「いくら貴女に才能があっても、流石に魔法まで達するのは無理でしょ? あれは一代で成し遂げられるようなものじゃないわ。ましてや、アインツベルンは確か第三魔法の系譜だって聞いたこともあるし」

 

 

 当たり前といえば当たり前の遠坂嬢の言葉に、イリヤスフィールがしょぼんと小柄な肩を落とす。最後の一言はぼそりと呟かれただけなので聞こえなかったみたいだけど、今までにない程に濃い一週間を過ごした相方のような存在との離別は子供にとって非常に寂しいものであるようだ。

 

 

「‥‥あ、そしたらルビーともお別れなのかな? リンさん達に付いていくんでしょ?」

 

『いいえー、せっかく巡り会えた理想の玩具(オモチャ)と離れる気なんてありませんよー? 私はイリヤさん達と一緒にこの世界に残らせて頂きます、あはー』

 

「ええっ?! だってルビーって向こうの世界の偉い人に貸して貰ったってリンさん言ってたよ? それなら返さないと大変なんじゃないの?」

 

「‥‥色々と事情があるのよ。ルビーが了承しないっていうのもあるんだけど、一番の理由はルビー達を置いて行かないと私達が帰れないってことね」

 

「え‥‥?」

 

 

 溜息と一緒に吐き出された遠坂嬢の深刻なセリフに反応したのは、目の前で話していたイリヤスフィールではなく、俺とルヴィアとバゼットに囲まれるようにして、まるで自分はこちら側の人間であると言わんばかりに黙って立っていた美遊嬢だった。

 遠坂嬢の短いセリフから何を読み取ったのか、まるで信じられないような、怯えるような視線を俺とルヴィアの方に向けてくる。

 一歩後ずさりかけて‥‥すぐにまた一歩踏み出した。俺とルヴィアも肩が触れ合うぐらい近くに立っていたけど、あまりの接近に二人ともが美遊嬢と胸板が接するぐらいまで近づいてしまった。

 

 

『‥‥今回、ルヴィア様達の帰還に使う術式では、術式の行使手である私達(カレイドステッキ)が鏡面界に残る必要があるんです。ですから、私と姉さん、しいては私達のマスターであるイリヤスフィール様と美遊様も必然的にこちらに残るという形に‥‥』

 

 

 遠坂嬢から説明を引き取ったサファイアの発言に、辺りが沈黙に支配される。沈黙の発生源は、俺達を見上げてくる美遊嬢だ。

 すがるような視線が表す意図は明確。即ち、自分がどうして置いて行かれるのか、どうして自分をおいていくのかと俺達に問いかけているに違いない。

 

 

「‥‥どうして」

 

「先程、私達が今すぐに帰還しなければならない理由は説明しましたでしょう? 貴女についても同じです。別の並行世界の住人を連れて行くことで、どのような影響が出るか分からないのですわ」

 

「転移自体に失敗するかもしれないし、転移した後に影響が出るかもしれない。世界の修正力は陰湿だよ? ‥‥向こうで人格崩壊なんてしてしまったら、後悔するのは全員だ。だから悪いけど、君を向こうに連れて行くことは出来ない」

 

 

 沈黙を切り裂くように、ルヴィアと俺の感情の揺らぎがない冷たい声がビルの上に響き渡る。

 やるべきことはやるべきことだとして割り切れる人種が魔術師。であるならば、魔術師として接することでしかこの件について美遊嬢に言い渡せなかった、“普通の人間”としての俺達は相当に弱い人間であったらしい。

 おそらく、美遊嬢を見つめる俺達の目は揺らいでないとは思うけど、それでもそれは魔術師として目的を達しようとしている俺達だからで、本当の俺達は顔が歪んでしまうぐらい苦悩しているのだ。

 

 

「そんな‥‥どうしても、連れて行ってくれないんですか? だって、ルヴィアさん私を弟子にするって、エーデルフェルトの傍流の系譜として魔術を教えるって言ってくれたじゃないですか?」

 

「申し訳ありませんわね、美遊。契約を違えることは本意ではありませんが、こればかりは仕方がないことです。貴女のためでもあるんですから———」

 

「私はまた、見捨てられるんですか?! 拾って‥‥そして捨てるんですか?! 私は犬猫じゃありませんっ! 拾ってもらったご恩は忘れていませんが———それでもあんまりですっ!」

 

 

 すがりつくように、というよりは半ば胸ぐらを掴み挙げるようにして美遊嬢が悲痛な叫び声を上げる。つり上げた眉は深い皺を作り、目は見開かれながらも鋭く俺達を真っ直ぐに睨み付けている。

 その視線は、ぶつかるなんて生やさしいものではない。ぐさり、と俺達の目を通じて心を貫くような鋭い眼光だった。

 多感な時期であるはずなのに、大人っぽい子供であった美遊嬢。異常と言えるぐらいに聞き分けがよく、知識も機転も大人に並ぶ。そんな彼女だからこそ、このような歳相応に激する姿を見るのは初めてだ。

 まるでラッパか何かのように高く響き渡る美遊嬢の叫び声に何かしら言い返すべきなのかもしれなかったけれど、俺もルヴィアも、一言だって返すことはできなかった。

 分かっているのだ、俺達だって。美遊嬢を勝手に魔術の世界へと引き摺りこんで、今度は勝手に突き放す。保護者としての責任を全て放棄し、このように彼女の手が届かない世界へと逃げ込むなんて許されることではない。

 

 

「‥‥本当に、本当に行ってしまうんですか? ルヴィアさん達がいなくなって、私はどうすればいいんですか? もう孤児院に帰ることは出来ません。私、またひとりぼっちですか‥‥?」

 

「心配なさらなくても結構ですわ。おそらくはコチラへと帰還するだろうこの世界の私宛に置き手紙をオーギュストに渡しておきました。仮に私が戻らなかったとしても、貴女のことはエーデルフェルトの名に恥じぬ淑女に育て上げるよう、彼にも厳命しておきましたわ。

 ‥‥魔術については、この世界の私に教わりなさいな。世界が違うとはいえ同じ家なのですから、今までの教え方と大差はないはずです。こちらの世界でもエーデルフェルトの系譜であるとするなら、私に教わるのと全く遜色ない修練ができるに違いありません」

 

「そ、そんなの詭弁です! 結局、“私を拾ってくれた”ルヴィアさん達とお別れすることには違いないじゃないですか! ‥‥紫遙さん、本当に私はここに残るしかないんですか?」

 

「‥‥あぁ。何より君達がこちらに残らなければ、俺達も自分の世界に帰れない。君が新しくサファイアのマスターを連れてくるっていうなら話は少し変わってくるけど、そういうわけにもいかないだろう。

 それにね、美遊嬢。今の君は俺達のことばっかりで頭がいっぱいかもしれないけれど、せっかくできた友達の‥‥イリヤスフィールはどうするんだい?」

 

「———ッ!」

 

「せっかく出来た友達を置いて、俺達と一緒に来るのかい? どっちにしても連れて行くわけにはいかないけれど‥‥君は俺達よりも、イリヤスフィールと一緒にいた方がいいんじゃないかな?」

 

「美遊‥‥」

 

「イリヤ‥‥」

 

 

 遠坂嬢達と一緒に立っていたイリヤスフィールの呟き声に、美遊嬢が振り返ってきょろきょろと俺達とイリヤスフィールを見比べる。

 彼女と一緒に鏡面界へ向かうときに聞いた、イリヤスフィールの決意表明。イリヤスフィールからあれだけの友愛を受けている美遊嬢は、同じく彼女以上の友愛をイリヤスフィールに寄せていた。

 俺が精神的に錯乱して新都の公園で蹲っていた時に聞いた美遊嬢のイリヤスフィールへの思い。先入観が存在し、保護者という立場もある大人と違って忌憚の一切ない同年代の友人。

 美遊嬢にとって初めての友人を放って本当にこの世界を離れていいのだろうか? 俺が言うのも何かもしれないけど、あれほどの友達なら諸事情あればすぐに関係が不安定になってしまうだろう俺達とは異なり、間違いなく一生モノである。

 

 

「‥‥美遊、あのね、ルヴィアさんとか蒼崎さんには悪いけど、私は美遊に残って欲しい。だってせっかく友達になれたから、一緒にいれたから、これからも美遊と一緒にいたいよ」

 

「イリヤ‥‥でも私‥‥」

 

「大丈夫! もしルヴィアさんの家から追い出されるようなことがあったら、私がママとかセラとかに頼んでウチに居させてもらえるようにするから! ‥‥だからお願い、美遊も一緒に残ろう‥‥?」

 

 

 不安げに怖ず怖ずと手を取ったイリヤスフィールに、美遊嬢は俺達とイリヤスフィールの間とでくるくる動かしていた頭をぴたりと止めた。

 彼女が、自分一人で強大極まる狂戦士(バーサーカー)に立ち向かうことを決意させたまでの友愛を抱いている相手からのラブコール。そして俺やルヴィアが口にした、どうしようもない現実。

 全ては揺るがしようがないくらい現実で、事実で、決定事項だったのだ。それに気づいていながら見ないふりをしていたけれど、もう、しっかりと現実を直視しなければならない。

 いつの間にか涙は止まり、グンと上がっていた感情のゲージもゆっくりと冷えて下がっていく。気がつけばもう、鏡面界が限界を迎えるのもすぐそこ。別れもすぐそこに迫っていた。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「美遊嬢?」

 

「‥‥わかりました。サファイア、指示を」

 

『いいのですか、美遊様?』

 

「平気。だってそうじゃなかったら、ルヴィアさんも紫遙さんも元の世界に戻れないもの。‥‥一度くらい、しっかりとした形でお礼がしたい」

 

『‥‥かしこまりました。ではイリヤスフィール様も、こちらへ。お二人でルヴィア様達を挟んで立って下さい。後は私と姉さんが術式を発動させます』

 

 

 翳されたステッキ二つから、二条の光が走って魔法陣を形作る。複雑な魔法陣は鏡面界へと侵入する形式に非常に似てはいるけれど、別の並行世界へと移動するために多少弄くってある。

 状況が限定されているとはいえ、完全に第二魔法の真似事だ。いくら宝石翁が作製した、限定的な並行世界運用の機能を持っている礼装がサポートしているとは言っても、初めて行う魔法の再現が知らず知らずのうちに心臓の鼓動を加速しているのが止められない。

 隣に立つルヴィアが緊張感を隠しきれずに、ぎゅっと手を握りしめる音が微かに聞こえ、さらに緊張は加速する。いつもは意外に落ち着いている上にコトの重大さをあまり理解していないはずの衛宮も、百戦錬磨に加えて自らもまた伝承保菌者(ゴッズホルダー)であるバゼットも同様に、緊張して冷や汗を浮かべていた。

 

 

「紫遙さん、ルヴィアさん‥‥」

 

「ん?」

 

「どうかしましたか、ミユ?」

 

 

 ぐらり、と視界が微妙に揺らぎ、転移が始まる兆候を見せた時、少しだけ離れた場所でサファイアを構えていた美遊嬢が口を開く。

 魔法陣の上の空間自体が揺らいでいるから残念なことに表情までは上手く見えないけれど、その声にはしっかりとした決意のような色が聞き分けられた。

 

 

「契約します! 私、この世界のルヴィアさんに師事して、必ず第二魔法にたどり着きます! そして‥‥お二人の世界まで必ず会いに行きますから! だから‥‥絶対に待ってて下さい!」

 

 

 初代の魔術師が、魔法にたどり着くことなんて有り得ない。それは短いながらもみっちりとルヴィアと俺から授業を受けた美遊嬢も、魔術師の常識として間違いなく理解しているはずだ。

 それでもなお、冷静で現実的な思考をする美遊嬢がそう宣言した。それは今この場の雰囲気とかじゃなく、間違いなくやり遂げて見せると決意したに等しい。いや、彼女の言葉通り、これは魔術師としての契約だった。

 

 

「‥‥ふっ、頼もしいですわね」

 

「あぁ、これは油断してるとすぐに抜かされかねないな」

 

 

 光が魔法陣を包み込む。まるで弓を引く時の、並行世界へと向かう為の反動のように視界の歪みが酷くなり、体の感覚が一瞬無重力に陥ったかのように消え失せる。

 鏡面界へと侵入するときの感覚を更に何倍にしたかのような奇妙な体験。すぐさま移動が始まってしまうだろう次の瞬間に、何とか間に合うように俺とルヴィアは口を開いた。

 

 

「言ったからには、私が第二魔法に辿り着く前に至ってご覧なさい! 魔術師として、尋常に勝負ですわ!」

 

「待ってるよ美遊嬢! いつか会える日を、心の底から!」

 

「はい! 絶対に待っていて下さいね!」

 

 

 光はいっそう眩しくなり、俺達が目を開けることが出来る限界量を超える。そして視界の歪みが最高潮に達して真っ白になり、体の感覚が完全に消え失せ、次の瞬間にはこれでもかという程の負荷がかかる。

 脳みそが全速力で吹っ飛ばされるような感覚と同時に、俺は前述の通り精神をばらばらに分解させた。俺達主導の術式とはいえ、形式が以前の鏡面界に侵入するものと同じである以上は記憶を覗き見られてしまう危険性も高い。

 

 あぁ、それにしても楽しみだ。きっと美遊嬢は何時の日か必ず第二魔法に辿り着いて、俺達に会いに来てくれるだろう。

 ルヴィアも言っていたように、ルヴィアや遠坂嬢が第二魔法に辿りつくのとどちらが先かは分からないけれど‥‥きっと絆は消えないだろう。

 魔術的にも縁というものは重要な要素ではあるけれど、きっとそんなことは関係ない。

 魔術も神秘も関係なく、きっと存在するだろう運命という存在が、俺達の間を結んでいる。そうに違いないと確信するには充分過ぎる、一週間の出会いであったとそう思うのだ。

 ばらばらになる精神の最後の一欠片でそんなことを考えながら、俺は色んな思いを美遊嬢へと霞む目線で送り、意識を暗闇と真っ白な光の中へとゆだねたのであった。

 

 

 

 66th act Fin.

 

 

 

 



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第六十六話 『魔術師の思惑』

 

 

 

 

 

 side ???

 

 

 

 ———ふむ。完全、という言葉など世界には存在しない。そんな戯れ言を訳知り顔で言い出す愚妹な輩など数え切れないほどに存在することだろう。

 

 誰かが失敗した時や、自分が失敗した時の言い訳としてよく登場する言葉は、その実諦めを端的に表す非常に有用な言葉ではなかろうか。

 

 このように因果な商売、因果な人種をしているとそれなりに世界の真理について近い位置にいるというものだが、それにしたって蒙昧な自我に振り回されることで世界の全てが自分に収束しているなどという真理にほど遠い結論を至高のものと位置づける連中は多い。

 

 完全、というものが無いなどと、一体誰が最初に考えたのだろうか? おそらくは表の世界で世界の真実の一欠片にも満たない常識とやらの上で安穏とした生活をし、その上で狭い常識の中で奴らの表す真理とやらを探求しようとした哲学者とかいう蒙な連中だろう。

 

 ふむ、呆れたことだ。結局それは、妥協に過ぎないというのに。

 

 

 人間は、自分に理解できない事象を何か別の言葉で新たに定義したがる生き物だ。新たに定義してしまうことで“それはそういう事象なのだ”と結論づけてしまい、そこで理解する努力を停止させてしまうのだ。

 

 これは妥協、否、怠慢である。理解する努力、解析する努力、新たな領域を探る努力の全てを放棄して自分の定義した自分達の常識の中に閉じこもって満足する。そして、自ら達こそがこの世界の支配者である。この世の真理を探究し、知り尽くす者であると愚かにも自惚れるのだ。

 

 理解の努力を放棄した者が、探求者であるはずなどない。結局それは極東の国にある、『井の中の蛙』なる諺に表される無知で蒙昧で自尊心だけがブロッケン山よりも高いという容赦しがたい存在であろう。

 

 

 完璧は、存在する。永遠は、存在する。全てという言葉は、確かに存在する。究極もまた同じで、無というものもまた確かに何処かに存在するのだ。

 

 我々にはまだ、分からないかもしれない。我々はまだ、見つけられていない。それでもそれは必ず何処かに存在するのだ。何処かで我々の発見を待っているのだ。

 

 例えば偶然という、人間が理解の努力を放棄した場所に聖堂教会の連中が呼ぶ神という存在がいるかもしれないように。

 

 

 ‥‥私は魔術師として、非常に高い位階にいるだろう。

 歴史の長い名門に生まれ、死徒二十七祖の一つの血をもその身に宿している。もっともこれは別に私が吸血鬼であることを指しているわけではないのだがな。

 

 アインツベルンやバルトメロイ、エーデルフェルトといった名門中の名門には及ばないにせよ、私の家の歴史もあの連中に決して劣るものではない。むしろ目立つ部類に入る連中と異なり、静かにひっそりと歴史を重ねてきた家と言える。

 

 それは決して、目立たないぐらいに実力が無かったというわけではない。そもそも魔術とは隠匿されるのが基本であり、その隠匿を向ける対象は決して一般人だけではない。同じ魔術師相手だったとしても、自らの研究は秘匿されるべきなのだ。

 

 例えばエジプトにある錬金術師達の巣窟の巨人の穴蔵(アトラス)。ここでは自らの研究成果は自らにのみ明かされるのが原則であるという。これには心の底から同意する。

 

 

 私の魔術回路は、質、量ともに今までの家系の者とは一線を画していた。どうやら隔世遺伝‥‥というよりは私の代でとうとう血が覚醒したらしい。なにより私には、魔術師にとって必要不可欠な好奇心や探求心や克己心が必要以上に備わっていた。

 

 たゆまず続ける修行と勉学。あらゆる書物を調べ、あらゆる術式を試し、あらゆる分野に手を出した。禁忌? そんなものは魔術師にとって如何ばかりも躊躇する理由になどなりはしない。

 

 ひたすらに、ただひたすらに根源と極みを求めて修行と勉学を続けた。私に出来ないことなど何もないと信じて、時には寝食すら投げ出して魔術の修行に集中した。

 

 

 ‥‥いつの間にか、私は家をも飛び出して一人で研究に集中できる場所へと籠もってしまっていた。家が受け継ぐ魔術刻印すら、私にはもう意味が無くなってしまっていたのだ。私は、既に家系の積み上げた歴史をも一人で追い越してしまっていたのだ。

 

 家を出る時には家族になにやら言われたような気もするが、覚えていない。ふむ、私にとって必要なものは魔術の探求のみであり、今となっては家族の顔どころか名前すらも思い出せないのである。おそらくは遥か昔に死んでしまっていることだろう。

 

 魔術師としての義務の一つである、自らの研究成果を次代へ残すこともまた、私の頭の中には既に残っていなかった。私は自分一人だけで根源に辿りつけると信じていたし、万が一私が辿り着けなかったのならば、おそらく誰にも辿り着けないだろうと確信もしていた。

 

 もはや私という個人を示すものは、延々と続けられる研究以外に無くなってしまっていただろう。それほどまでに春夏秋冬四六時中、私はひたすら研究にのめり込んでいたのである。

 

 

 だが、ある日気づいたのだ。ひたすら研究を続け、数多の術式を生み出し、歴史に埋もれてしまった山のような術式を再現して。

 私は、根源への足がかりを全く掴めていなかった。

 

 

 私は、間違いなく魔術師として非常に高い位階にいる。生まれ持った才能に加え、傲慢でも自惚れでもなく並の人間を遥かに超える努力を重ねてきた自負がある。時計塔の各部門の長であろうと私には適わないだろうし、私の倍生きて魔術の探求をしている死徒であろうと敵うまい。

 

 私は、間違いなく魔術師として最高峰にいるはずなのだ。魔術一つ一つのレベル、その種類、そして稀少度。全てが最高峰のものであるはずなのだ。そしてそれは紛れもない事実であるはずなのだ。

 ‥‥だが、がむしゃらに研究を進めるウチに、そんな最高峰の魔術師であるはずの私が、全く根源への足がかりを掴めていないことに気がついた。

 

 どれだけ魔術の研究を進めても、根源には足がかりさえ掴めない。どれだけ書物を探り、自らの頭で工夫をして努力して切磋琢磨して思考して思案して思念して‥‥。

 

 

 考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えた。

 

 

 ふむ、私はどうして根源への道筋すら得られないのか。私のやり方が間違っていたのか? 今まで手をつけていなかった、それこそ無駄と思えるようなものから遠回りとしか思えないようなものまでありとあらゆる方法を試してみた。

 

 発想が違うのかと頭を捻って考えた。発想の転換のために人里に降りて様々なことを体験したりしてみた。カウンセリングや占いなどにも戯れに通い、体を動かせばいいのかとジムにも行き、この世で最も理解しがたいと有名なジャパニメーションという魔窟にも挑戦してみた。

 

 考えられるありとあらゆる方法は全て試した。何故私に根源が見えないのか夜も眠らずひたすらひたすらひたすら考え続け、思案し続け、思考し続け、それでも根源への足がかりは見えなかった。

 

 気も狂うような毎日だった。いや、ほとんど狂ったと言っても過言ではあるまい。根源を目指した研究の全てと自分自身が無意味であったと突きつけられたような気がして、私は結局のところ自分の全てを否定されたに違いないと思い、いっそ死んでしまいたいとすら思った。

 

 ひたすら叫び、怒り、狂い、哭き、暴れ、自分自身の不甲斐なさを呪い、恥じ、とにかくどうしようもない気持ちと感情をひたすら発散して自分の崩壊を防いだ。

 

 

 

 そして、理性の崩壊と感情の限界を乗り越え、私は気づいたのだ。本当に根源が全てであるのか? と。

 

 私は間違いなく、“完全”という確かに存在するにしても誰も辿り着いていない領域を侵犯するために生まれた存在だった。天性の才能と克己心、そしてたゆまぬ努力を行って来たのだ。

 

 驕らず、自惚れず、慢心せず、ただひたすらに純粋に魔術を探求してきた。そんな私が、“完全”に辿りつけないはずはない。

 

 だが現実として、私は根源への足がかりすら至っていない。これはおかしい。私が“完全”に到達する存在であるならば、“完全”を表す存在である根源が未だ欠片も見えないというのは明らかにおかしい。矛盾している。道理に適っていない。

 

 ならば一体何が間違っているのだろうか? 私が“完全”へと至ることが確実ならば‥‥そう、答えは簡単だ。

 

 私が“完全”な存在へと至ることが確定している以上は、つまり目指す方向、“根源”が“完全”ではないのである。

 

 

 それからの私は、更に精力的に根源以外の何かに“完全”を求めて探求を続けてきた。根源ではなく世界を調べ、人の精神を調べ、魂を調べ、肉体を調べ、人間以外の精霊や妖精、幻獣について調べた。

 

 何か不確定なもの、確定されたもの、とにかく何でも根源以外に“完全”へと至れる手段があるはずなのだ。私は狂ったように、憑かれたようにありとあらゆる万物を調べ上げていった。狂ったように、憑かれたように私の魔術は多岐へと渡っていく。

 

 

 ふむ、おそらく、いや、私は証明したかったのだ。この世の中に完璧という言葉が、完全な一という存在があることを。それを証明するのは私だと、これもまた証明したかったのだ。

 

 魔術師は、皆が一と0の間に生きる存在である。一でもなく、0ではある。0.9の後ろに幾つ9を足したところで一には成らず、一には及ばない。私は‥‥一になりたかったのだ。

 

 それはきっと魔法でも根源でもない。ふむ、しかしどのようにすれば到達できるのかも分からない。全ての魔術師が目指すところでありながら、誰も辿り着いていない遙かなる一。

 

 私にしてみれば魔法使いなど、それに辿り着いた気になっている愚妹蒙昧に過ぎん。全ては我々の手の届かないところにあり、私はそれを追い求めている賢人なのだ。

 

 

 ‥‥長い長い年月を探求に費やした。いつの間にか私の家系の最後の一人が私自身になってしまっていることにも気づいたが、それも意味のないことだとすぐに頭の隅からも削除抹消した。

 

 ひたすら、ひたすらあらゆる方法を試して、あらゆる方法が失敗した。それでも私は探求を止められず、既に私の体は思考と試行を続ける機械と化していたのかもしれない。

 

 気の遠くなるような試行の果てに、半ば気力も失い、それでも私は試行を止めない。惰性とも違う、自分の中に残る一つの信念、願望、気が狂う程に望んだ究極の一、“完全”であることを求めてひたすらに試行を繰り返した。

 

 思いは、長い時を重ねれば擦り切れる。それでも私はひたすらに試行を続け、試行を続け、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し——————

 

 

 

『———ミツケタ』

 

 

 

 ミツケタ。

 

 ミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタ!!!!!!!

 

 

『ミツケタ!!!!!』

 

 

 もはや全てが擦り切れようとしたその時。いつもと同じように、今度は英霊の座に根源以上のものを見出そうと試行を繰り返そうとした時のことだった。

 

 私はミツケタ。根源を超える存在を。

  

 根源が世界を基盤とするなら、世界が根源を基盤とするなら。

 

 ふむ、それは間違いなく根源を超えている。根源を超えた上位存在。我々全ての上位存在。

 

 あらゆるものが、全てのものがソコから生まれ出た。根源という概念すらも内包した完全なる上位存在。それは、私の追い求めたものだったのだ。

 

 

『ハ、ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!』

 

 

 見つけたぞ! 遂に私は見つけたぞ! あれこそが私の目指す究極の存在だ! 私を見捨てた、私を見限った根源を超える存在だ!

 

 あぁ、そのときの狂気と狂喜が誰に理解出来ようか。私は目指すものを遂にミツケタのだ!

 

 全てがそこにあるに違いない。私が目指したものも、目指さなかったものも、全て。

 

 ククククククククク‥‥。嗚呼待っていろ、私の目指した完全なる者よ。お前を必ず手に入れてやる。お前を手に入れ、私は必ず完全へと到達してみせる。

 

 

 私は全てを手に入れ、そして———

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「———っ‥‥あ‥‥!」

 

 

 頭が割れるように痛い。吐き気が酷く、目眩のおかげで視界は完全に歪んでしまっている。

 手を額にやろうとしたけど、その手が頭の横をあっさりと通り過ぎて思わず地面とキスをするはめになり、慌ててもう片方の手を支えにして大惨事を免れる。

 細切れにした精神を何とか元に戻したはいいけれど、やっぱり後遺症というか、反動が出てきてしまったらしい。自分の内面の何もかもが激しくかき乱されるような感覚に、ありとあらゆる吐き気や気持ち悪さ、目眩が止まらない。

 この短時間に二回も精神を分解攪拌すれば当然といえば当然だとは思うけど、それでもこれはツライ。普段なら周りに心配をかけないぐらいの余裕と配慮はあるんだけど、今回ばかりは流石に無理だ。

 

 

「ショウ、大丈夫ですの?」

 

「う、うん、ちょっと目眩が酷いけど大丈夫だよ。まぁこれは自業自得みたいなものだし‥‥」

 

 

 しゃがんで腕をとってくれるルヴィアに何とか笑顔を作って心配させまいとしてはみたけれど、当然ながらこんな最悪の体調で笑顔を作ったって強がり以上の何物でもない。

 一際不安そうな顔をさせたあげくに溜息までつかれ、ぐいっと腕ごと体を引っ張り上げられてしまった。‥‥どうやらこの肉体言語使いはまたトレーニングの量を増やしたらしい。

 

 

「無理をなさってはいけませんわ。ただでさえ先日から精神状況が思わしくないのでしょう? 私達が逆に気遣われてしまったりしたら本末転倒ですわよ。調子が悪いなら調子が悪いとちゃんと仰って下さいな」

 

「‥‥いや、本当に目眩と吐き気だけだから大丈夫だよ。ばらばらにした精神を結合した時の反動だから、少し休んでいれば何とかなる。別に怪我したわけでも病気したわけでもないんだから、気を遣って貰わなくても平気だってば」

 

「目眩と吐き気は立派な体調不良ですわよ! まったくもう、いつも私の見ていないところで無茶をするんですから貴方は‥‥!」

 

 

 誰が見ているところでも気づかれていないと思って無茶をするのが衛宮なんだけど、どうやら俺が自分では隠しきれているはずだと思った自分の無茶は、しっかりと皆にばれていたらしい。遠坂嬢やバゼットもうんうんと頷いている。

 もちろん俺だって無理はそんなにする方じゃないんだけど、無茶ばっかりは好きでやることなんだから結構頻繁にやってしまったりしているのだ。というよりも無茶を無茶と気づくのは無茶した後なのが情けないし、面白い。

 こればっかりは俺も衛宮のことをとやかく言えないところと言える。当然のことながら、自分の力量を分かっていながら勝てない相手に突っ込んでいくようなところは流石に俺にもないけどね。

 

 

「ところで、なにか変わったようには見えないけど世界の転移はちゃんと成功したのかい? 美遊嬢達の姿は何処にも見あたらないけれど‥‥」

 

「そうですわね。サファイアがいれば太源《マナ》の波長を調べることで差異の有無を確認出来たのですが‥‥」

 

 

 痛む頭と揺らぐ視界を何とか気合いで押さえ込んで、辺りを見回す。美遊嬢とイリヤスフィールによって術式が起動される前と寸分違わぬ冬木の空と新都のビルは、ただ二人の少女の姿が消えただけといった様子で静かに俺達の視界に存在していた。

 鏡面界を抜け出したことは間違いない。バーサーカーとの熾烈な戦闘の跡が残されていないし、何より空は不気味な格子模様に覆われていないからだ。ある種独特な雰囲気も消えているし、おそらくは先程までいた並行世界にはいないと思うけど‥‥。

 

 

「そういえばちゃんと全員いるな? 紫遙に遠坂にルヴィアに‥‥あれ、バゼットは?」

 

「ちゃんといますよ士郎君‥‥。なんか最近、私の扱いが悪いような気がするんですがどうなんでしょうか‥‥?」

 

「え、いや別に忘れてたとかそういうわけじゃないぞ! そんな恨みがましい目するなよ本当だってば!」

 

 

 最近とみに影の薄くなっているバゼットが恨みがましく衛宮にくってかかり、衛宮は慌てて弁解した。

 特にユーモアについて造詣が深いわけではないバゼットだけど、基本的に戦闘以外では抜けたところがあって、それが上手く場に噛み合ってユーモラスな空気を生み出すことはたまにある。

 彼女なりの気遣い、とは思えないけど、どこはかとなく雰囲気は軽くなった。

 

 

「ほらほら二人とも騒ぐのはやめなさい。とにかく私達が元々いた世界かどうかは、実際に確認してみないと分からないわね。まぁここにいてもしょうがないわ、とりあえずは確認がてら最初に行ったホテルまで———」

 

「遠坂先輩?! ルヴィアさん?! 先輩に‥‥紫遙さんと、バゼットさんも?!」

 

「———って、え?」

 

 

 全員がちゃんとそろっているのを確認して今後の行き先を決めようと遠坂嬢が口を開いた時、突然階段を挟んで反対側から聞こえてきた声に俺達は全員が全員、まったく同じタイミングでくるりと振り返った。

 ちなみに付け足しのように最後に名前を呼ばれたバゼットは先程の衛宮の言葉からの連続攻撃で地味に凹んでいるけど無視である。

 

 

「‥‥桜、嬢? それに鮮花とセイバーも」

 

「あ、はい! お久しぶり‥‥ではないですけど、こんばんわ紫遙さん」

 

「やっと会えましたか。心配しましたよ、五人とも。あの空間‥‥鏡面界に入ってから一向に帰ってこないので心配しました。凜とのラインは途切れてしまうし‥‥」

 

 

 セイバーは英霊だからか、鏡面界に侵入できずに一人弾かれ、結果として俺達だけが世界移動してしまったがために元の世界に取り残されてしまっていた。

 その後の遠坂嬢の発言によると、セイバーとのラインは途切れる寸前ぐらいまでに難しくこんがらがってしまっていたらしい。世界移動の影響だとは思うけど、逆にラインが完全に途切れなかったことの方が驚きだ。

 もしかしたらそれが鏡面界の世界移動とかで色々と影響していたかもしれないわけだけど、とにもかくにもセイバーが魔力不足で消滅みたいなことにならなくて本当に良かった。

 

 

「いや、こんばんわじゃなくて、三人とも‥‥特に鮮花、どうしてこんな時間にこんなところにいるんだい?」

 

 

 振り返った先に立っていたのは見知った三人の友人。片や冬木の地に住む数少ない魔術の家の一つである間桐の当主、間桐桜嬢。片や俺の妹弟子であり稀代の炎の使い手である黒桐鮮花。そして俺の隣に立っている遠坂嬢の使い魔(サーヴァント)であるセイバーだ。

 桜嬢とセイバーがここにいるのは、まぁ時間帯が時間帯だからアレだけど不思議なことじゃない。とはいえ鮮花は普通に考えれば東京にいるはずで‥‥ていうか学校はどうしたお前。

 

 

「桜が冬木に直接戻るっていうから、せっかくだし桜の家も見せてもらおうと思って付いてきたのよ。学校はもうみんな受験とかで忙しいから自主登校だし、私はもう時計塔に進学が決まってるしね」

 

「‥‥他所の家の管理地に入るなら事前に通達が必要って知ってる? 黒桐さん」

 

「‥‥え、だって橙子先生そんなこと言ってなかったわよ?」

 

「あまりにも常識的過ぎて言わなかったんじゃないかい?」

 

 

 いくら鮮花が性格には魔術師じゃない超能力者とはいえ、魔術師を名乗っている以上は魔術師としての常識をしっかりと把握しておかなければ今後の進退に関わる重要問題である。常識は決して決まりじゃないんだけど、破れば当然色々とアレだしね。

 ちなみに橙子姉のことだから教えるのを忘れたっていうことは有り得ない。おそらく面倒臭がって教えなかったか、もしくはこういう何かしらの思惑とか期待とかがあってのわざとだろう。

 普通ならやらないような面白半分とかお巫山戯とか、時たまスイッチが入ると簡単にやるところがあるんだ、橙子姉は。特に眼鏡を外した魔術師モードの時じゃなくて、俺の前じゃ滅多に見せない眼鏡付きの外行きモードだと。

 どっちの顔も知ってるっていう人はあっちの方がいいって言うかもしれないけど、個人的には本音なんて欠片も見せない眼鏡付きモードの方が色々と不安だと思うけどね。付き合うって意味では。

 

 

「えっと、先輩達が一緒にいるってことは、お二人はこの世界の遠坂先輩とルヴィアさんで‥‥合ってますか?」

 

「‥‥その言い方だと、もしかして桜、貴方“この世界の私達じゃない”私達に会ったの?」

 

「はい。私よりも年下の遠坂先輩っていうのも新鮮でした」

 

 

 ‥‥どうやら桜嬢の話を聞くに、こちらの世界に俺達と入れ違いにやって来たのは別の世界の遠坂嬢とルヴィアだけだったようだ。俺や衛宮やバゼットがいなかったということは、完全に確定なわけじゃないけど俺達がいた並行世界の二人である可能性も高い。

 無限に存在する並行世界では、おそらく鏡面界が発生した世界も同じく無限にあるに違いない。とはいえ完全にランダムに互いに行き来しているというのも中々に無秩序な状態だろうから、可能性的に近しい世界同士で繋がりのようなものがあるはずだ。

 偶然、という言葉が適応されるのは全ての要素が働き終わってから。奇跡は努力しないと起きない、とか誰かが言ってた気がするけど、それと同じかもしれない。偶然なんて言葉に頼るのは思考の放棄に等しいって橙子姉もよく口にしていたっけ。

 

 

「実は今まで別の世界の遠坂先輩とルヴィアさんに協力してクラスカードを回収していたんですよ」

 

「まったく、流石に数年前の凜とルヴィアゼリッタなだけはありますね。仲違いが激しくて収拾を付けるのが大変でした。私などは魔力供給が不安な状態で五戦もしたというのに‥‥」

 

「まぁまぁセイバー、普段なら見れないだろう二人の姿が見れただけでも儲けたって思わないといけないわよ? ま、流石に戦闘が終わる度に拳と拳で語り合うのはどうかと思うけどね‥‥」

 

「いったい何をやってたんだコッチの遠坂とルヴィアは‥‥」

 

「あはははは‥‥」

 

 

 ‥‥確実じゃないけど、かなり近い位置の並行世界の二人が呼ばれたようだ。イリヤスフィール達のいた世界の遠坂嬢とルヴィアも若干俺達よりも若い設定だったし。だとしたら、大人げなく喧嘩するのも仕方が無いこと‥‥なのかな?

 相当にセイバーの呆れ具合から察するに色々と子供な二人だったみたいだけど。逆に大人な二人しか知らない俺としては、是非とも本編準拠ぐらいの年齢であろう遠坂嬢とかは見てみたかったな。

 

 

「この世界のクラスカードは、結局最後まで行方の知れなかった二枚を除いて全て回収し終わりました。先程、お二人を元の並行世界へと送り返したところなんですよ」

 

「別の世界から持ってきた二枚は二人が持ってたんだけどね。もしかしたらアーチャーとランサーのカードって、紫遙達が持ってたりする?」

 

「なるほど。確かにその二枚は遠坂嬢とルヴィアが持ってるよ。安心して大丈夫だね」

 

 

 向こうの世界に渡ってからは、元々俺達が持っていた二つのカードは戦闘時に使用するためにイリヤスフィールと美遊嬢に渡していたけれど、世界移動の際に当然ながら当初の目的として全てのカードを持って帰って来ている。

 おそらくはこちらの世界で活動していた遠坂嬢とルヴィアも、この世界で回収したカードを俺達と同じように持ち帰ったのだろう。結果として互いに七枚のカードを保有しているのだから問題はそこまでないとは思う。

 強いて言うなら別の並行世界の物をこちらに持って帰ってきて何か異常が発生しないかってところだけど、これも渡す相手が第二法の行使手である宝石翁であるなら大事になることはないだろう。何かあってもあの人なら何とかしてしまいそうだ。

 

 

「‥‥ところで二人とも、今まであえて突っ込まなかったんだけど‥‥その格好はどうしたんだい?」

 

「「なッ?!」」

 

 

 そう、今の今まで言及こそしなかったけど、俺の目の前に立つ魔術師二人の姿は普段の二人の様子を鑑みるに非常に奇抜で愉快なものであった。

 

 まず桜嬢。

 青というよりは蒼い、フワフワとフリルとレースの大量についたお姫様(プリンセス)のような衣装を身に纏っている。何よりそれでいながらスカートの丈はこれでもかと言うほどに短く、清楚なイメージと快活な雰囲気とが互いに主張しているのだ。

 もちろん肘より長い手袋とニーソックスは当然のように装備。ついでに頭には蒼い花弁をした桜の意匠が施された髪飾りが着けられ、大きな胸を強調するかのようにハートの形をした襟がへその上あたりから———既に襟として機能していない———伸びている。

 髪飾りは桜嬢の長い後ろ髪を覆うかのようにヴェールを垂らしており、何故かステッキを握る右の手に標準装備された真っ白な花束(ブーケ)と相まって花嫁衣装のように見えないこともない。

 ちなみにヴェールで見えないけれど実は背中が大きく開いており、これまた何故か素肌のままの肩などと合わせて全体的に露出は多めだ。

 

 次に‥‥俺もよく知った、だからこそ桜嬢の姿を見るよりもダメージの大きな黒桐鮮花。

 真っ赤な、それこそ彼女の操る炎のように真っ赤な衣装を纏っている。とはいってもベクトルは桜嬢とは全く異なり、どちらかといえば攻撃的な印象を見る者に与える衣装だ。

 桜嬢と同じく、長い手袋とニーソックスは標準装備だ。しかし問題は、それが真っ赤だからこそ素材がレザーでないにしても中々にアブノーマルな雰囲気を漂わせているということだろう。

 手袋の、肘の方の先っぽは赤からオレンジへと色が変わり、裂けて風に靡いてまるで本当の炎のようだ。手袋やニーソックスに入っている銀色のラインは布ではなく金属か何かで出来ているらしく、独特の光沢がそれを只のアクセントではなくしている。

 うん、全体的に遠坂嬢やルヴィアとかのアノ衣装に比べて、金属を多用しているのが特徴的なのかな。肩や胸にもまるでプロテクターのように、それでいながら可憐さや可愛さといったものを意識したデザインで金属のプレートがあしらわれていた。

 桜嬢と同じくミニのスカートの両脇に、赤い弓兵のように腰布がついているのも戦闘を意識した意匠なのかもしれないけれど、全体的に露出はそれほど多くないように思える。

 

 

「こ、これはしょうがないのよっ! 別の世界の遠坂さん達が、自分たちが元の世界に戻るには私達二人が転身する必要があるからって———」

 

『素材としては凜さんより見栄えがしないと思っていたんですが‥‥思いも寄らない逸材でしたねっ! 鮮花さんの恥じらう姿はしっかりと堪能させていただきましたよ、あはー』

 

「アンタは黙ってなさいよ馬鹿ステッキ!」

 

 

 ひょいっと柄を曲げたり戻したりして自分の存在を主張する愉快型魔術礼装を、鮮花嬢がびったんびったんと真っ赤な顔のまま地面に何度も叩きつける。

 桜嬢の方も自分の格好が奇抜なものであることに思い至ったのか、なにより衛宮とか遠坂嬢とかが目の前にいて、しかも自分の格好を見られているという事態に気づいたのか、真っ赤になってその場に蹲ってしまった。

 どうやら話の流れを見るに、桜嬢がサファイアと、鮮花がルビーと契約して俺達と同じように並行世界移動の術式を行使したらしい。あれは被術者を並行世界に送るために、術者は必ず元の世界に残る必要がある。

 

 

「はぁ、今の状態を写真に撮って幹也さんとか橙子姉とかに送ってあげたい気分だなぁ‥‥」

 

「そんなことしたら殺すわよ?! 骨の一欠片だって炭に変えてやるんだからねっ!」

 

『過激ですねー。ヤンデレとまではいきませんが、ここまで猛烈なツンは退かれる原因になりますよー?』

 

「だからうっさいって言ってんでしょルビー!!」

 

「まるで遠坂嬢とルビーのやりとりそのまんまだな‥‥。ていうか二人とも、いくらビルの上だからって別に防音結界張ってるわけじゃないんだから少し落ち着きなよ」

 

 

 いくら真っ赤になってルビーを地面に叩きつけても、実は鮮花に転身を解く権利はない。アレは事故とか不慮の出来事以外ではルビーの意思でなければ解けないのだ。

 ‥‥つまりルビーの気が治まるまで鮮花はずっとあのまま。どうにも何事についてもルビーに追従する姿勢のあるサファイアによって転身させられた遠坂嬢も、おそらくは巻き添えでずっと蹲ったままになるだろう。

 もっとも桜嬢は怪我でもしたんじゃないかと心配して近寄り、気遣う言葉をかけながら至近距離まで接近した衛宮から離れようとするので精一杯で、そっちまで気が回っている余裕なんてないだろうけど。

 

 

「ていうか、よくよく考えたらアンタって私の知ってるルビーとは別物なのよね?」

 

『そうですねー。私はこの世界とは別の並行世界から、その世界の凜さんとルヴィアさんと一緒にやって来た別世界のカレイドステッキですよ。もっとも、カレイドステッキには互いに情報を同期する機能がありますので、その気になれば全並行世界のルビーちゃんから情報を集めることが出来るんですがー』

 

「うわ、何その無駄に怖い機能。それって全並行世界の私とかルヴィアゼリッタとかの情報も同時に集められるってことじゃないの‥‥」

 

 

 既にルビーと自分がセットになっていることについては違和感がない模様である遠坂嬢の溜息に、俺は諦め混じりの笑い声を漏らすより他なかった。どうにも彼女、そろそろ自分の周りで起こる色んな騒動に耐性が付いてきたらしい。

 もちろん耐性のない鮮花と桜嬢は羞恥心で死にそうだろうけど、その程度なら遠坂嬢にとっては既に超えた道。もとよりルヴィアは、普段は上品で貴族らしい服装を好むのに時たまセンスが斜め上で自分の格好も気にならないしなぁ。

 生暖かい視線を送るしかない俺と、ついでに何がどう恥ずかしいのか、そもそも恥ずかしいという感情がよく分からずに首を傾げているバゼットの反応は中々に孤独感を煽るだろう。まぁ、あれだ、ご愁傷様。

 

 

「いいじゃないか黒桐さん、そこまで恥ずかしがらなくても。似合ってると思うぞ俺は」

 

「士郎さん、私なんかより桜のことを気にしてあげて下さい‥‥」

 

「いやいや、俺も似合ってると思うよ鮮花。だから幹也さん達に写真を———」

 

「アンタも黙ってなさい紫遙ぉぉ!!!」

 

「うわぁっ?! こんなところで魔力弾を撃つなってば!」

 

「こら止めなさい二人ともっ!」

 

 

 おそらくは初めてに近い転身だろうに器用にルビーを操って魔力弾を放つ鮮花と、まるで遠坂嬢のガンドのように連続で襲い来るそれらから必死で逃げる俺。

 あまりにも喧しい俺達に痺れを切らした遠坂嬢の叫び声で、恥じらうあまり次第に階段の方へとじりじり退避していた桜嬢も漸く平常心を取り戻し、何とか全員が一息ついて輪になった。

 

 

「さて、とにかくコレで七枚のクラスカードも全部集め終わったし、元の世界にも帰ってこれた。後は‥‥倫敦に帰ってこのクラスカードを大師父に渡せば任務完了ね。‥‥ルビー、アンタ達はどうすんの?」

 

『さてさて、私としては面白おかしく楽しめたらそれでいいですからねぇ。別にこの世界でも元の世界でも変わりませんし、大師父に会ってから身の振り方を決めさせてもらいます。あはー』

 

「あっそ‥‥」

 

 

 イリヤスフィールと美遊嬢という存在がいない以上、特に頓着の少ない彼女達にとっては現状維持に近いものがあったらしい。持ち主(マスター)どころか元いた世界とも離ればなれになるという中々に不安な状況だろうに、全く気にした様子がない。

 元々並行世界の運用を司る宝石翁が作った礼装ということもあるのだろうか。それとも彼女達自身に限定的ながらも並行世界との繋がりを操る能力があるからだろうか。まぁ俺も最悪、宝石翁に何とかしてもらえばいいんじゃないかとか思ってたりはするけどさ。

 

 ちなみに五つある魔法の中で最も解析が進んでおり、メジャーなのが第二魔法だ。宝石翁自身が頻繁に時計塔に姿を現すということもあるけれど、やっぱりあの爺さんがあちらこちらで趣味もかくやというぐらい戯れに弟子をとりまくるからだろう。

 当然、宝石翁の直弟子になるようなヤツは大概が廃人コースまっしぐらということらしいから、片手間に取った弟子の中では魔法に達するような家系はまだ誕生していない。とはいえ遠坂嬢やルヴィアの例もあるし、第二魔法の行使手が増えるのも遠い未来の話ではないかもしれない。

 基本としては宝石魔術から宝石剣という最上級の礼装を目指すという形になるんだろうけど、とにかく宝石翁は守備範囲が広い魔術師らしいから他にも色々と手段はあるだろうしなぁ‥‥。

 

 

「ミユにはああ言いましたが、実際この冬木の霊脈の乱れはどうするんですの? 私が言うのも何ですが、このような異常事態は管理者(セカンドオーナー)として看過していいものではないでしょう?」

 

「‥‥あれについては美遊にも言った通りよ。確かに本心としては自分自身で調査しなければ収まりが付かないけど、流石に私達講義サボりすぎよ。ルヴィアゼリッタはいいとして、私なんて前にドイツに行った時の分を合わせると‥‥単位取れないんじゃないの?」

 

「げ、そういえば俺も基礎修練講座なのにサボり過ぎだ‥‥。とてもじゃないけどこのままだと着いていけないぞ‥‥!」

 

「大丈夫よ。アンタには今回の遅れの分、私がみっちりと授業してあげるから。ついてこれなかったら‥‥わかってるわよね?」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 遠坂嬢に続き、衛宮が声にならない悲鳴を上げる。特待生として、ついでに時計塔公認の任務ということである程度以上の融通が利く遠坂嬢と異なり、基礎修練講座の学生である衛宮にとって講義を休むことは公休であろうとなかろうと大ダメージだ。

 俺達が講義を受けている専門課程は基礎とかを完璧に理解していることを前提に組み立てられている。ぶっちゃけ極端なことを言えば講義に出なくても分かるならばそれでいい。自分の研究と、講義に提出する研究が出来ていれば問題はないのである。

 それとは逆に、衛宮が通っている基礎錬成講座になると、基本的に講義でしっかりと魔術を教えていくという形になる。何を言ってるか分からないかもしれないけれど、つまるところ講義に出ていないと何が何だか分からなくなってしまうのだ。

 

 ちなみに橙子姉の授業も、本人は蜂蜜なんとかなんて言ってたけど実際は復習を欠かすと即座に何が何やらさっぱりとなる悪魔の講義であった。

 ‥‥しかも、自分の怠慢で分からなくなってしまったところに関しては全く説明しないで次の授業に進む。そして理解できていないところを利用した講義についていけなかった場合には、前回の分もまとめて一気に折檻となるのである。

 基本的に優しいながらも、魔術に関することならば一切の容赦がない生粋の魔術師。当然ながらそれは身内にも向けられるわけで、俺も何度か痛い目を見て勤勉な姿勢を身につけた。

 ちなみに青子姉もどうしようもなかったんだけど‥‥これは今更ってものかもしれない。今の今になってもあちらこちらに迷惑を振りまき続けているんだから。

 

 

「とにかく、急いで帰りたいのは山々だけど今日はゆっくりと休みましょう。ひとまず‥‥衛宮の屋敷でいいわよね? 出発は明日の昼ぐらいでも、きっと大師父だってお目こぼししてくれるわよ」

 

「ですわね。只でさえバーサーカーとの戦いの直後ですし、休息を取らなければ流石に倒れてしまいますわ。今夜はせめてゆっくり休ませて頂きましょう。

 さて、私はおそらくこちらでも建設されているだろうエーデルフェルト別邸へと赴くつもりですが、ショウとバゼットはどういたしますか?」

 

「私はルヴィアゼリッタと一緒に行かせて貰いますよ。ホテルに置いた荷物は明日にならなければ回収できないことでしょうしね。紫遙君はどうしますか?」

 

「そうだな、俺も今夜はルヴィアの屋敷でゆっくりさせてもらおうかな。色々と懸念事項はあるけど、これで事件も解決したことだし———」

 

 

 全員が一息つき、行き先を決めて分かれようとした時のことだった。

 普段なら埋没してしまいがちの俺の声が妙に通ったことで、そもそもおかしいと気づくべきだったのかもしれない。いくら冬木が地方都市であろうと、それなりに巨大な街である。無音、なんてことは———特にビルの屋上という風が強い場所なら———有り得ないはずなのだ。

 

 そんな異様な雰囲気が辺りを包み、まるで沈黙の中に俺の声が途中から吸い込まれてしまったかのように途切れた次の瞬間。

 一瞬。ほんの一瞬だけ本当の沈黙に包まれた新都のとあるビルの屋上に、今まで聞いたことも心当たりもない一人の男の声が響き渡った。

 

 

『———ほう、本当に解決したと思っているのかな? ふむ、流石に若いな。この程度で事件が終わって万々歳と、そう考えているというのかね?』

 

「ッ?!」

 

 

 それはルビー達と同じく、しっかりと感情を宿していながらも何処はかとなく現実味に欠ける、ルビー達とは明らかに異なる不気味な声。

 どこから響いているとも言えない。それは俺達の輪の中心かもしれないし、空の上からかもしれない。もしくは同じ声で同じタイミングで、ありとあらゆるところから話しかけられたのかもしれない。

 だけどそれは間違いなく俺達の属するコミュニティのような、言うなれば連帯空間から外れた場所から呼びかけており、一部の疑いなく俺達に敵対する存在であると全員が確信していた。

 

 

「くっ、なんだ今の声は?!」

 

「何者ですの?! 姿を見せなさいっ!」

 

 

 即座に全員が、内側を向いていた輪を外側へと向けて警戒する。

 視界に映るのは一面の星空と新都の街灯り。ビルの屋上には俺の後ろに位置する階段へと入るための出入り口以外に遮蔽物はなく、その背後からの出現ならば目の前に陣取ったバゼットに瞬時に対応されることだろう。

 怪我をしているとはいえ彼女は一流の戦闘者。サーヴァントクラスでも時間稼ぎに殴り合いすることも出来る程の腕前は、多少の体調不良など物ともしない。

 

 

『‥‥ふむ、あぁ失礼、魔術師同士の会合で姿を見せないというのは礼儀を逸しているな。私としたことが、失態であったようだ』

 

 

 ス、とまるで水に一滴の絵の具を垂らした時のように、空間に大の大人一人分ぐらいの染みが現れた。

 黒の中に浮かび上がる、白。眩しすぎるくらいに清潔で個性を感じさせない真っ白いスーツを身に纏い、これまた白いつばのついた帽子を被った男が俺達の前へと現れる。

 元は輝くようだったろうくすんだ色の金髪。おそらくは三十を超えていないと思われるのに、異常な程の年月を感じさせる不思議な、というよりは不気味な容貌。

 スラリと伸びた背筋は紳士的で自信に溢れた様子を感じさせるが、それと同時にどこか草臥れたような印象も受けた。とにかく全体的に雰囲気が不気味な男だ。そこにいるのにいないというあやふやな印象が、やけに掴めずこちらを身構えさせる。

 何の予兆もなく現れた謎の魔術師。得体の知れない存在を前にして、即座に全員がアーチャーを相手にした時のように陣形をとって戦闘態勢に入った。

 

 

「‥‥アンタ、何者? 私はこの地の管理者(セカンドオーナー)だけど、今回は魔術協会から派遣された調査団と執行部隊以外の魔術師が冬木に入るなんて連絡は受けてないわよ?」

 

「魔術師が他人の管理地に入る際には管理者(セカンドオーナー)へと連絡を取るのが最低限の礼儀であり、常識であるはず。ミス・コクトーのように知り合いというわけでもなければ、即座に排除されても文句は言えませんのよ?」

 

 

 接近戦、もしくは超長距離戦を得意とする衛宮から半歩だけ下がった位置で、遠坂嬢とルヴィアが宝石を指の間に挟んで構える。基本的には衛宮とバゼットを先頭に宝石の射程が短い遠坂嬢とルヴィアが陣取り、その更に後ろに広範囲をカバーできる俺が位置するのが俺達の陣形だ。

 戦闘経験豊富であり怪我もそれなりに酷いバゼットは今回俺より少し前ぐらいまで下がって来ているけど、相手が一人であるなら衛宮でも充分に足止めぐらいならば出来る。魔術自体の腕前は相変わらずのへっぽこでありながら、衛宮の戦闘能力は既に並の魔術師を軽く凌駕していた。

 

 

「ふむ、私とて由緒ある家系に生まれた一端の魔術師だ。その程度の常識ぐらいはしっかりと記憶しているとも。なによりこの私も一つの地を預かる管理者(セカンドオーナー)の一人故な」

 

「ならどうして他の管理者(セカンドオーナー)に真っ向から喧嘩を売るような真似をするのかしらね? ‥‥家名と所属を名乗りなさい。魔術協会を通じて然るべき訓告をして貰うか、もしくは今すぐに力づくで出て行ってもらうわ」

 

 

 かなり不機嫌な様子で、相手は初対面であるというのに普段の調子とは正反対のギスギスとした喋り方で高圧的に遠坂嬢が一歩間合いを詰める。

 管理者(セカンドオーナー)とは基本的に魔術協会から認定されるものではあるけれど、その後は可能な限り魔術協会からの干渉は最低限に抑えられる。管理地の魔術師達から集めた上納金の一部を収め、後は神秘の隠匿を徹底するぐらいが管理者(セカンドオーナー)の義務だろう。

 例えば管理地の魔術師が神秘の隠匿の原則に反するようなことをした場合には、管理者(セカンドオーナー)が自分で始末しなければならない ‥‥自分の管理地にいる魔術師達を把握し、責任を持つこと。それもまた管理者(セカンドオーナー)の義務の一つ。

 ならば自分の管理地に、自分が把握していない魔術師が侵入することは管理者(セカンドオーナー)として許し難いことなのだ。

 

 まず最初に魔術協会からの調査団。これはしっかり誓約(ギアス)を交わしたから良しとするかもしれない。しかし次に魔術協会による強制執行によって派遣された執行部隊。

 本来ならば自分の責任で解消すべき問題に、魔術協会によって問答無用に介入された。これによって遠坂嬢の管理者(セカンドオーナー)としてのプライドはズタズタにされたと言っても過言ではない。

 そこに来て目の前の正体不明の謎の魔術師の出現。あまり顔に出してはいないけれど、遠坂嬢の怒りのボルテージはマックスだ。腸煮えくりかえっているに違いないのである。

 魔力でも何でもなく、ただ質量を持っているかのように噴き上がる破壊的な怒気。俺は目の前の男に注意するのは止めずに、それでも何より遠坂嬢に怯えを抱いて思わず一歩後ずさった。

 

 

「ふむ、答えは既に君自身が口にしたようだがね。分かっているのではないかな、君達の知らない私という存在がどうしてここにこうして立っているのかを」

 

「‥‥なるほど、つまり」

 

「ふむ、その通りだ。私はね、“君達に真っ向から喧嘩を売っている”のだよ」

 

 

 緊張が、最大限に跳ね上がった。秀麗な顔に鮮やかに皮肉めいた笑みを浮かべてみせた男に、全員がそれぞれの武器を取り出して今すぐにでも飛びかかれるように準備をする。

 衛宮は二振りの中華刀を投影し、遠坂嬢とルヴィアは魔術回路のみならず魔術刻印までも起動させて完全な戦闘態勢となった。俺は狭い空間だからこそ魔弾の射手(デア・フライシュツ)を用いることは出来ないので、ポケットに入れてあったルーン石へと手を伸ばした。

 

 

「どういうことよ。確かに今の今までちょっと別のところに居たけれど、それにしたって戻ってすぐに街を区切ってる管理地の結界の情報は私の頭に入ってきてるわ。

 私が冬木に戻って来てから、ここに誰かが入り込んだ形跡はない。‥‥アンタ、どうやって管理地の結界をくぐり抜けたの?」

 

 

 おそらく全員の頭がフル回転し、目の前の男の正体へと思考を伸ばしていたことだろう。

 他家の者が他人の管理地へと入れば、それが魔術師であれば相当に高度な隠匿をしなければ管理者(セカンドオーナー)の知るところとなる。管理地にいるならば、管理者(セカンドオーナー)は他の魔術師に対して相当なアドバンテージを持っているのだ。

 流石に街全体の様子を把握するかのような高度な能力を保有するには魔術師自身の能力が高くなければいけないので、聖杯戦争での様子を鑑みるにおそらく遠坂嬢はそこまで可能ではないだろう。

 それにしたって管理地に誰か魔術sいが入り込めばそれだけで彼女の知るところとなるのは変わらない。管理地と他の土地とを区切る結界は、六代も続く家系ならば十分過ぎる程に強力な物を作製できる。

 

 

「‥‥いや、待つんだ遠坂嬢。結界とは自分の定めた場所と、別の場所とを区切る境界線だ。つまり、結界に異物が入ってくれば感知できても、元から結界の中に異物があれば感知することは出来ない!」

 

「ッ?! ってことはアンタまさか———?!」

 

 

 物にもよるけど、基本的に魔術師の扱う結界とは境界線である。ライダーが聖杯戦争で用いたような神殿のような異常に強力なものならば別だけど、魔術師ならば結界は境界線に使うのが一番効果的であると知っている。

 ならば遠坂嬢が冬木に入ってくる前に、結界の中に異物が入っていてしまえば彼女の感知するところではない。境界線を既に越えてしまっているのだから、境界線に触れない限りは存在を感知することは出来ないのだ。

 

 ほぼ同時に俺と一緒の結論に辿り着いた遠坂嬢が、目を見開いて男を見た。

 遠坂嬢と俺達が冬木にやってくる前に既に居た魔術師。それは魔術教会が派遣した調査団でも執行部隊でもない。

 つまり答えは、順当に考えれば唯一つ。調査団や執行部隊が冬木にやってくる原因を作った、正体不明の魔術具。そしてそれを操った、もしくは冬木へと持ち込んだ謎の魔術師の存在。

 

 

「ふむ、その通りだ。君達の手元にあるソレは、私が作り上げてこの土地にばらまいたものさ‥‥」

 

「あっ?!」

 

 

 ス、と男が伸ばした手の中に、まるで自分の意思があったかのように遠坂嬢の手元にあったカードが全て飛んでいって収まった。

 都合七枚のカード。鏡面界という異空間を作り上げ、他人の記憶を触媒にして不完全ながらも戦闘能力すら備えた英霊を召喚せしめる、封印指定もかくやという上級の魔術具。クラスカード。

 条件が非常に限定されるものではあろうけど、間違いなくそれ一枚で降霊科の部門の長になれるだろうという人間が作り上げた神秘の結晶は、男の手の中に収まると同時に激しく炎を上げて燃えだし、僅かな灰を残して完全に燃え尽きてしまった。

 

 

「ちょ、ちょっとアンタ何すんのよ?!」

 

「ふむ、何をするのかと言われてもな。元々が私のものであるならば私の手の中にあるのが自然であるし、私が私のものをどう扱おうが私の勝手というものだろう」

 

「そうじゃなくて、それが無いと私達が大師父から受けた任務が完遂できないでしょうがっ!」

 

「‥‥ふむ、それは悪いことをしたな。が、そんなことは私の知ったことではないだろう。ありのままを伝えれば、彼の宝石翁とて酌量してくれる余地はあると思うがね。それも私の知ったことではないな」

 

 

 財宝にも例えられる最上級の魔術具を燃やしたとは思えない程に、男の顔は無表情。

 まるで自分が作り上げた、明らかに自分の魔術の結集であろう魔術具に対して全く興味がないかのようだった。まるでそれが戯れに作った砂の城であるかのように、一切の感慨もなく崩してみせたのだ。

 ‥‥有り得ない。魔術師にとって、研究の成果である魔術具や魔術刻印は何にもまして大事にすべき宝とでも言うべき存在である。俺にとっての魔眼と同じように、何を於いても守るべき神秘の結集と定義されている。

 それがあんな簡単に、あんな高度な魔術具を灰にするなんて、一人の魔術師として信じられなかった。あれは理論だけではなく、作り上げるだけでも間違いなく尋常ではない労力と知識を要する。設計図だけ渡されても家は建てられないように。

 設計した知識。作り上げるための技術。その全てが俺は勿論、ルヴィアや遠坂嬢をも軽く凌いでいる。はるか高みにいる魔術師。俺達が調査の途中に畏れた存在が、現実にこうして俺達の前に敵として立っていた。

 

 

「ふむ、これは英霊の座へのアクセスについてデータをとるための魔術具でね。私の専門である精神干渉を基盤に作り上げたのだが‥‥。英霊の座についての試行は初めてだったのだが、まぁそれなりに成功したようで僥倖だ」

 

「初めて?! しかも専門外ですって?!」

 

「あぁ。それなりに手こずることを予想していたのだが、存外に簡単で興冷めだったな。やはり世界から隔離されていたと思った英霊の座も、所詮はこの世界の一部というつまらない存在に過ぎなかったということか‥‥。いや、まぁそれはそれでいいのだ」

 

 

 遠坂嬢の驚愕の裏で、俺は心臓に氷水でもぶちまけられたような感覚を覚えていた。

 思い出すのはあの恐怖。五十を超える暗殺者の軍勢、ハサン・ザッバーハに囲まれていた時の、否、あの鏡面界に侵入した時に覚えたアノ恐怖。

 ぐるりと回転した視界と意識。それと同時に破られた俺の精神障壁。俺の少ない魔術師としての容量(キャパシティ)を割いて張った、かなりの強度を持つと自負していた精神障壁が破られたと知った時のあの恐怖。

 精神障壁が破られたことは、即ち精神障壁に期待していた最大の要素。記憶を奪われることの防止に失敗したことを指す。つまり、俺の記憶が奪われたのだと即座に感じ取った。

 

 俺の記憶。絶対に、これ以上誰にも知られてはいけないと決めた俺の記憶。絶対に他人に知られてはならないと、義姉達から言い含まれた俺の記憶。

 一度漏れれば、それだけで世界の毒と成り得る異端。誰かに知られれば、自らの破滅を招きかねない俺の記憶。世界から外れた存在を実証する俺の記憶。

 目の前が、真っ暗になった。何を於いても守るべき記憶を奪われ、体が芯から震え上がるような恐怖が足下、爪先から髪の毛の先端にまで広がった。

 恐怖と絶望。今まで、どの人生でも感じたことのなかった衝動に支配され。俺はあっさりと自分の中だけに意識を向けて、外部への注意を完全に放棄した。そうでもしなければ自分自身を処理することが出来なかったのだ。

 結果としてルヴィアや美遊嬢に励まされて何とか仮初めの平衡を取り戻すことが出来はしたけれど、あの時の恐怖は今も時間が経っていないが故にしっかりと俺の中に残っている。なにより、問題は一向に解決されていなかったのだから。

 

 

「‥‥結果として、今回の試行は失敗に終わった。この魔術具を作るには少しばかり苦労したのだが、まぁそれはそれでいい。———他に、素晴らしいものを見つけることが出来たからな」

 

「ヒ———?!」

 

 

 まるで自分のものではないような、息を飲む甲高い音が俺の喉から漏れた。細い目を喜びの形に見開いた男の視線が目の前に立ちはだかっていた衛宮や遠坂嬢、ルヴィアの間を縫って俺を射貫き、一歩と言わず、二歩も三歩も後ずさる。

 

 見られていた。

 

 見られている。

 

 あの時、俺の全ての記憶を奪うことはまさか出来ないだろうと一縷の望みにすがったけれど、やはり物事は俺の都合良く進むはずがない。俺の記憶は、絶対に奪われてはいけない俺の記憶は奴の知るところとなっていた。

 三日月というよりは、半月を更にふくらませた形に開かれた男の瞳。耳まで裂けるかと思うぐらいにやりと歪められた口が醜悪で、なによりその視線に間違いない狂喜を、狂気を感じ取って怯えた。

 

 知っている。あの男は、垣間見た俺の記憶から正しく俺の正体を理解した。

 それはどれほどまでの力量の違いだろうか。一人の人間の、十年以上前の記憶の全容を読み取って自分で分析、理解する。少なくとも俺には理解出来ないし、出来るとも思わない。力量の違い故に奴は俺の重要性に気づいてしまったのだ。

 橙子姉も青子姉も、義弟ということを差っ引いても無視した、意味がないものと決めつけた俺の記憶。彼女達には必要なかった、この世界に新たに生を受けた俺の前世。

 奴はそれを見出した。俺の記憶は、奴にとってこれ以上ない程に有益なものだった。そう思わざるを得ないほどに、その視線には歓喜が含まれていた。

 

 

「ハハ、見つけたぞ。ついに見つけたぞ。見つけたぞ見つけたぞ見つけたぞ! ミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾミツケタゾ!!!!!!」

 

「ちょ、ちょっと紫遙これどういうことなの?! なんかコイツ‥‥おかしい」

 

 

 よく整った美貌を醜悪なまでに歪ませ、男は笑い、嗤い、叫んだ。

 狂おしい程の喜びが、その様子を見ている俺達にも伝わってくる。あふれ出る歓喜はもはや魔力を伴った暴風のように俺を打ち付け、ダメージを与えていた。今にも折れ崩れてしまいそうな足を叱咤して何とか立っていようとは思うけれど、あまりの恐怖に自然と膝をついてしまった。

 鮮花の心配げな、不安げな声も聞こえたようでいて全く耳に入ってこない。俺はただ打ち付けられる圧倒的な恐怖に、がたがたと震えるコトしかできない。

 目を見開き、がくがくと震える肩に繋がる両手で頭を抱え、それでも視線は奴から離せない。どうにかしなければいけないとは思う。それでも何も出来ないくらい、恐怖に打ちのめされていた。

 

 

「そうか、知っているんだな! お前も分かっているんだな!! ハハハハハハハ! 素晴らしい、これは最高だ! 完璧だよお前! やはりお前こそ私が望んでいた存在だ! 根源をも超える、上位世界の存在証明だ! 素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしい!!」

 

 

 誰も声を出せない。男の様子は常軌を逸していた。そして何より、男が向ける視線と歓喜の先にいる俺の様子も常軌を逸していたのかもしれない。

 ダメだ、このままでは俺はコイツの言いようにさせられてしまう。どうにかしてこの男を殺さなければ、殺さなければ、殺さなければならない!

 そう考えても、俺の体は怯えるばかりでちっとも動いてくれず、震えるだけ。怯えと、何より絶望。自分を守れるだけの力を持たないことを、既に俺は理解していたのだ。

 

 

「ふむ、なるほど、つまりお前は私と出会うために現れたのだな! ハハハハ! 初めての感覚だ、奮える程に愛しいこの感覚! 話に聞く恋のようだな!

 ———さぁ、さぁ、私と来るのだ! お前は私のものだ! 私はお前を手に入れてさらなる高みへと‥‥」

 

「ッ、させるかこの野郎!!」

 

「———?!」

 

 

 一歩、男が踏み出した。他の何も見えていないかのように俺に向かって、手を差し出しながら一歩踏み出す。

 その一歩に呼応するかのように俺が大きくびくりと震え、同時に正気に戻った衛宮の干将莫耶が男を縦に三つに切り裂いた。

 

 

「紫遙、大丈夫か! しっかりしろ!」

 

「ショウ、私達の後ろに隠れなさい! 何かよく分かりませんが、あの方の狙いは貴方のようですわよ!」

 

「え、衛宮、ルヴィア、遠坂嬢‥‥」

 

「気をしっかり持ってください紫遙君。状況はよく分かりませんが、戦闘において相手に呑まれてしまえばお終いですよ!」

 

「バゼット‥‥」

 

 

 衛宮に続き、遠坂嬢達も呆然としていた意識を取り戻して再び俺を庇うように戦闘態勢を取る。座り込んでしまっていた俺には確実に俺よりも背の低い遠坂嬢とルヴィアの背中も頼もしく、隣に膝をついて肩に力強く手をおいてくれたバゼットから、力が流れ込んでくるかのようだ。

 久々に味わう、守られているという感覚。力になったり、なってもらったりという友人達。魔術師として不要であるはずの友人達に、今、俺は守られている。

 

 

「ちょっとちょっと、どういうことよコレ‥‥!」

 

「一体、何がどうなっているんですか‥‥?」

 

 

 未だルビーとサファイアによって着替えさせられた奇天烈な衣装のまま、鮮花と桜嬢が驚愕の叫び声を漏らした。

 敵対している男は衛宮によって三つに斬り裂かれたはずなのに、全員が戦闘態勢を解いたりしない。それも当然。なぜなら男は三つに割かれた状態のまま、血も流さずにその場でゆらゆらと水にたゆたう海藻のように揺れているのだ。

 

 

「‥‥ふむ、いきなり斬りかかるとは無礼極まる。名乗りあってすらいないというのに、尋常な決闘に際する礼儀というものを知らないのかね、君は」

 

「ざけんな馬鹿野郎! いきなり友達に手を出そうとしやがって、そんな野郎に躊躇するわけないだろうが!」

 

 

 衛宮が叫び、俺の前に立ちはだかる遠坂嬢とルヴィアも力強く宝石を握りしめた。

 おそらくアレは男の本体ではない。魔術によって作り上げられた影か、この場に投影している疑似本体。ちなみにこの際の投影とは投影魔術とは異なり、空間系の魔術の一種であろう。聖杯戦争でキャスターが使っていた影の魔術に類似している。

 まるでスクリーンに映し出す映像のように、空間に自分自身を映し出す。とはいえ映し出された映像に過ぎないそれは本体でありながら本体ではなく、本体と同じように魔術の行使が出来ながらも殺されたところで自分自身が死ぬことはない。

 色々と欠点が多いにしてもまるで反則みたいな魔術だ。これを行使できるとなると‥‥相当に高位の、しかも空間などを専門とする魔術師に限られる。専門外でありながらこのような真似ができるならば、もはやソイツは化け物だ。

 故に、目の前のコイツは化け物に違いない。俺は‥‥化け物に狙われたというのか‥‥?

 

 

「ふむ、君の言っていることは道理だが、今回ばかりはスジが通らないぞ。私は私の所有物を手に入れようとしただけなのだからな」

 

「言ってることがおかしいのは貴方でしょう。ショウは貴方の所有物などではありませんわ。冗談はその巫山戯た体だけにしてもらいたいものですわね」

 

「何を言っている、巫山戯ているのは君達だろう。いいかね、彼は私のところへと来るべきなのだ。私には彼が必要なのだ。彼は、私が手に入れることで最大限にその存在を活用させることが出来る。繰り返すが、彼は私のところに来るべきなのだよ」

 

 

 支離滅裂な言い分に、呆れよりも逆に恐怖が募る。自分の言っていることが間違っていないと確信しているが故に、この男は必ず俺を手に入れようとするだろう。

 明らかに狂っている。狂人だ。魔術師で狂った人間はそこまで少ないわけではないけれど、それにしたってこの男のように実力を伴った狂人となると数が限られる。

 安心を通り越して、恐怖が再度こみ上げてきた。俺は、このままでは必ずこの男の手の内に落ちる。そう確信させる何かが男から狂気という形でこちらへと押し寄せてきていた。

 

 

「‥‥どうやら議論が成立しないようね。仕方ないわ、今のところは実力で退散していただくとしましょうか」

 

「同意しますわ。この男、他人の友人に対して不快な行いをするなんて言語道断ですもの。無礼な殿方には舞踏会から退出していただきませんと」

 

 

 一歩下がっていた二人が衛宮と並ぶ。手にした宝石に魔力を通して宝石に込められた魔力を励起するための触媒とし、魔術式を構築する。

 両肩から腰の近くまでを二条に切り裂かれた男はゆらゆらと揺れながらその様子を眺めると、大きく溜息をついて頼りなげにぶらぶらしていた手を額に当てた。それでも視線は俺から一切外れず、まるで常に俺に向かって話しかけているかのようだ。

 

 

「‥‥ふむ、どうしても彼を手に入れる邪魔をするというのかね?」

 

「当然だ!」

 

「当然でしょう!」

 

「当然ですわ!」

 

「ふむ、なるほど、仕方がないな。私は戦闘はそこまで得意ではないのでね。このままでは彼を確実に手に入れることが出来なさそうだ。ふむ、なるほど、本当に仕方がない」

 

 

 三つに裂けた体が、ゆらゆらと揺れながら薄らいでいく。存在を定義する力が薄まり、投影していた自分自身を維持できなくなったらしい。高度な魔術ほど色々と条件が厳しく、維持するのに労力がいるのも道理である。

 足から順番に、まるでサーヴァントが消えていく時のようにゆっくりと薄らいでいく男の影。遂に胸の辺りまで消え、顎まで消えた時。男が、俺から視線をずっと外さなかった男が、確かに俺へと聞こえるように口を開いた。

 

 

「‥‥ふむ、覚えておくがいい。私はお前を必ず手に入れるぞ、シヨウ・アオザキ。第五法の使い手の庇護者にして、この世界にたった一人の迷い子よ。お前は‥‥決して逃れられぬ。その記憶を、否、その存在自体が消え失せぬ限りな‥‥」

 

「‥‥‥‥!!」

 

「覚悟しておけ。お前は、私が必ず手に入れる」

 

「てめえっ!」

 

「クク、ハハ、ハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ———!!!!!」

 

 

 笑い声だけが、消え失せた男の名残として残っていた。

 まるで声を呪詛の代わりに残したかのように、あるいは契約の宣言としてか、異常な程に長く笑い声だけがビルの上へと響く。

 狂気が支配する笑い声が響く、寒風混じりのビルの上。星空すらも不気味な輝きを放っているかのように、男の狂気はこの空間の雰囲気を支配していたのだ。

 

 漸く笑い声が消えてからも数分。ビルの上では誰一人として———それこそ空気が読めないことで定評のあるルビーすらも———声を発することなく、ただ立ちこめた狂気が晴れるのを怯え混じりで待っていた。

 そして立ちこめた狂気の残音が消え失せて、誰かがほっと吐息をついた次の瞬間。俺はまるでエレベーターに乗った時のような浮遊感と共に、張り詰めていた意識を手放した。

 隣でずっと肩に手を乗せてくれていたバゼットに抱き留められ、最後まで周囲を警戒してくれていた衛宮達の動転した呼びかけを微かに聞きながら———

 

 

 

 67th act Fin.

 

 

 




遂に黒幕登場! これにてプリズマ編は終了です!
思えば間桐臓硯編にフラグを立てて幾星霜‥‥。プリヤ編はまるまる彼のために存在しました。期待のホモこと変態紳士登場でした!
次回からは最終章へと突入していきます。一気にシリアス一辺倒となりますが、皆様どうぞ完結まで応援よろしくお願いします!


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番外話 『一周年記念企画』

当時の一周年記念企画です。どうぞお楽しみください。


 

 

 

 

 side Sakura Matou

 

 

 

「‥‥鮮花、そろそろ冬木よ。どうしたの?」

 

「え? あ、いいえ何でもないわ。ちょっとぼーっとしちゃってね。ホラ、倫敦から帰ってきて直接じゃない? 疲れが出たのかもね」

 

 

 西日本。日本海に面した地方都市である冬木。その中でもビルなどが建ち並ぶ繁華街である新都の駅を目指して、私達は快速電車に揺られていた。

 窓から見える景色は東京と違って段々と山や川、谷、そんな長閑なものに変わってから久しい。というよりも関東圏を抜けると大都市以外では基本的にこんな風景ばっかりで、東京の電車から見える風景の方がおかしいのだ。

 毎週末に東京へと向かう私には、この最近で親しんだ光景。普通ならそうそう頻繁にはないだろう、というよりも修学旅行や遠足以外で冬木を出たことがない私が、まさかこんなに電車に乗ることになるとは思わなかった。

 

 魔術師、とは基本的にそこまであちらこちらに移動するような生き物じゃない。究極的に言えば家から一歩も出ないことが好ましいのは研究者として当然のことだけど、そうでなくとも自分の家がそれまで歴史を積み重ねてきた土地が一番の研究場所なのだ。

 間桐の家や遠坂の家はそれなり以下とはいえ、大体が資産家である魔術師の家系。無理をして家から出なくても大体何とかなったりするらしい。というよりもそれ自体が魔術師としての甲斐性だと、橙子先生も皮肉げな顔をしながら言っていた。

 家を出て一人で研究をしていたという橙子先生にとっても、色々と考えるところがあるのだろう。勿論これから一人で家系を盛り上げていかなければならない私にとっても決して他人事じゃない。

 

 

「倫敦、楽しかったわね。すごく活気があったし、初めて時計塔にも入れたし」

 

「そうね。先輩達にも会えたし‥‥。私達、来年からあそこで修行することになるのよね。頑張らなきゃ‥‥」

 

「今から気負ってどうするのよ桜? まずは準備でしょ。色々と思い悩むのは向こうで勉強始めてからでも遅くないわ。焦ったって時間が早まるわけじゃないし、さ」

 

 

 隣の席に座った鮮花が足元に置いた鞄の中からペットボトルのお茶を取り出し、優雅で洗練された仕草で煽る。“優雅”と“煽る”っていう言葉は両立しないような気もするんだけど、本当にそう飲んでるのだから仕方がない。

 東京でも指折りのお嬢様学校出身、というより現在も在学中である鮮花は基本的に仕草全般が優雅だ。食事のマナーから簡単な所作や歩き方、全てに上流階級で通用するぐらいの気品が漂っている。

 反面、普段の彼女は全体的に意外と乱暴。気が抜けた時にはよくお嬢様らしからぬ、例えば大きくベッドに向かってダイヴしたり足を投げ出したりすることもあったりするのだ。

 これが鮮花のお兄さんであるところの幹也さんがやって来たりしたら次の瞬間にお嬢様然とした仕草を取り繕ったりするんだけど、とにかく鮮花は基本的にはフランクな暮らし方を好みとしているらしい。

 

 

「いいじゃない。元々私も幹也も庶民なのよ? 確かに世話になってた叔父が資産家だったからこういう進路になったけど、染みついた性分ってのは中々取れないんだから仕方がないってもんよ」

 

「そういうもの、かしら? 女子校っていうのも大変なのね」

 

 

 そう言いながらペットボトルのお茶と一緒に五百円玉サイズの小さな煎餅をバリバリと豪快に囓る様子は確かに彼女自ら語るところの庶民そっくり。もっともやっぱり礼園の躾は厳しいらしく、そこかしこで気品が溢れてきている。

 少なくとも、間違いなく彼女の所作は対面している人物に対して不快感を与えない程度には洗練されたものであることは事実だろう。この辺りは並の人物とは違い、ね‥‥遠坂先輩とかとも共通している。あれは半端な練習で身につくような仕草じゃない。

 

 

「そうよ大変なのよ! 上級生と下級生の関係もそうだし、シスターだって煩いし先生には最上級の敬意を払ってるって、実際に払うかどうかは置いといて精一杯に態度で示さなきゃいけないし、門限とか寮則だって‥‥」

 

「ちょ、ちょっと落ち着いてよ鮮花!」

 

「これが落ち着いていられますかっての! ただでさえ出資者の叔父が画家やってるからって橙子先生のところに弟子入りしてるのも、芸術方面だからっていうこじつけで許して貰ってる状況なのに‥‥! これで門限とか寮則とか破ったりしたら大変だからって人一倍気を遣ってるんだから!」

 

 

 本来なら完全寮制の礼園では、休日の外出にだって厳密に行き先を提出する必要がある。その中で平日から特別に外出許可をとても言葉に出来ないような悪辣に見えて実は真っ当極まりない手段を用いてもぎ取っている鮮花の苦労は、察するに余りある。

 屋敷と歴史だけがイメージに先行していて、自分自身は全く庶民の枠から逸脱しない私だってそれなりのマナーを身につけるために苦労したのだ。もともと環境が整えられていたわけじゃない鮮花が礼園に入って、かなりの苦労をしたに違いない。

 

 

「肉親ですら簡単に面会許可とれないんだから! そうでもしなかったら折角コッチに帰ってきたのに幹也に会える時間が減っちゃうじゃないのよ!」

 

「それ、橙子先生の前では言わないようにね? ‥‥いや、もしかして橙子先生なら分かってるのか、な‥‥?」

 

 

 憤然やるかたないといった様子で、手前勝手な理論を掲げて鼻息を荒くする鮮花。そもそも橙子先生のところに来ている目的が色々と大変なことになってしまっているけど、確かに彼女はそれ程までに真剣に自分の実兄に対して恋心を抱いている。

 本人は『私って禁忌とされているものに強く惹かれるみたい』と言っていた。橙子先生は『あぁ、おそらく鮮花の起源は“禁忌”だろうな。だからこそ奴は、実兄へ恋い焦がれるのかもしれん』と言っていた。

 確かに起源というものの在り方を考えれば、それは理由の一端かもしれない。本人も何となくそうなんじゃないかと言っている。けれど、そんなのロマンがない。きっと鮮花は、幹也さんに対してもっと別の感情を抱いているはずだ。

 

 恋っていうのは、例えそれがどんな人がするものであってもロマンがあるものだと思う。無味乾燥な人も決して無味乾燥な恋はしない。ソレが私の持論だと以前鮮花に話したら笑われた。

 随分な話だ。こんな私がロマンチックなこととかを語るのは変なのかもしれないけれど、いや、多分私だからこそなのかもしれない。

 

「別にそんなことは言ってないわよ。たださ、他人の恋にここまで熱心なのって普通に考えたらおかしいじゃない? そういうのって、逆に桜らしいなって思うのよ」

 

 

「‥‥もう、そんな調子のいいことばかり言って」

 

「調子良くなんてないわよ? ホントにそう思ってるから、かしらね。なんだかんだで桜と私も半年ぐらいの付き合いになるんだし、それなりに分かり合ってるつもりなんだけど。‥‥ま、さすがに全部とまではいかないでしょうけどね」

 

 

 名前の通り、鮮やかに花のような笑顔を見せる鮮花に、思わず自分の頬が朱に染まる。今まで忌避していた自己分析を段々とするようになった私は、自分がこういうダイレクトな感情表現を苦手としていることに気がついていた。

 ‥‥昔から受けていた魔術の修練。私はその中で自分の心を閉ざし、嫌なものを忌避するための術を身につけていた。嫌なものは、じっと我慢していればいい。我慢していれば、耐えていればいつかはそれも終わる。

 だからこそ、私から能動的に何かをするということは、別に無いってわけじゃないけれど、あまり得意としているわけじゃない。

 何よりこうやって面と向かって感情のぶつけ合いをするっていうことは、特にあまり経験がなかったのだ。例えば先輩とかに、たまにお礼を言われるだけでも照れくさくなって赤くなる。

 

 

「‥‥はぁ、成る程ね。私のことしっかり分かってるってのはウソじゃないわけ、か。ホント、鮮花には何でも敵わないね」

 

「そんなことないじゃない。桜の魔術の腕も凄いもんよ。私だって別に長く修行してたわけじゃないにしても、それなりに自信あったのに‥‥」

 

「え、自信って‥‥。だって鮮花、私の影人形簡単に燃やし尽くすよね? あれで自信がないとか言われるとコッチこそ落ち込んじゃうんだけど‥‥?」

 

 

 橙子先生から私が教わっているのは座学が中心だけど、他にも色んな技術を体で教えられている。

 特に私に欠けている魔術の制御技術。これは実地でなければ学ぶことは出来ない。橙子先生によって暴走限界ぎりぎりまで追い込まれる制御の修行は、時々間桐の修練よりも容赦が無いんじゃないかと思ってしまう。

 ‥‥うん、実際容赦が無いのは事実だろう。方法が間桐に比べれば人道的で穏便なだけで。橙子先生は基本的に容赦とか手加減とかに注意するような性格してないし。

 

 で、鮮花との話に出てきたのは修練の一つ。魔術師としては基本的に必要ない技能でありながら、鮮花の魔術の方向性が偏っているがために私とたまに行われる戦闘訓練だ。

 それまでの鮮花は式さんと一緒に練習していたらしいんだけど、あの二人が戦うと、例えそれが喧嘩とか修練とかの括りに属するものであると最初に決めていても、結局最後は本気の殺し合いに近いものになってしまう。

 それに将来的には先輩の側にいくと決めている私としても戦闘訓練はするに越したことはない。聖杯戦争然り、とにかく先輩は騒動に巻き込まれる才能があるに違いないと、橙子先生も言っていた。

 週に1回の私の鍛錬。その中で付きに一度以上は鮮花との戦闘訓練が盛り込まれている。特に学校に通う必要が段々と無くなってきた最近は更に伽藍の洞に行くのが増えていて、必然的に鮮花との模擬戦闘も増えているのだ。

 

 

「鮮花は本当に凄いよね。魔術師の勉強始めて数年とはとても思えないわ」

 

「そんなことないって言ってるでしょ? 正確には私の使ってるのは魔術じゃないし、それに使えるのも焔に限定されてるもの。まぁそれなりに汎用性が高いのは悪くないけど、それでも焔封じの魔術とか使われたら一発で終わりなんだから」

 

 

 鮮花の属性は焔。いや、魔術という表記もおかしいだろう。なにしろ鮮花は彼女の言葉通り、厳密に言えば魔術師じゃない。

 

 その力は魔術ではなく、超能力。

 超能力とは理を以て術を編む魔術とは異なり、ある意味では理不尽とすら思われる理を介さない異能。

 人間が普遍的無意識である阿頼耶識から生み出された霊長の抑止力であり、それは一代限りで継承される力じゃない。鮮花のように一代限りで発症する、次に続かない能力だ。

 本来なら理を以て紡がれる魔術に比べれば遥かに劣る力でありながらも、鮮花や藤乃のソレは魔術にも匹敵する力を持った、超能力の中でも逸脱した力を持った異能である。特に鮮花の力は理を以て紡ぐことすら出来る自然干渉の力。

 通常であるならば理不尽なだけの力に、魔術の形式を使った理を上乗せすることで尋常じゃない破壊力を生み出す。その力、単純な力勝負なら下手すれば遠坂先輩にも匹敵するかもしれない。

 ‥‥うん、逆に言えば超能力であるからこそあそこまで強い力を操れるのかもしれないけれど。とにかく鮮花は凄いのだ。私だって、紛りなりにも幼少の頃からずっと魔術の修行を受けていたのに。

 

 

「だから、最初は簡単に燃やせた桜の影人形も最近は凄く燃やしづらいのよ。この半年ぐらいでそれだけ成長したっていうのが、そもそも桜も凄いっていうことを表してるって言いたいわけ」

 

「そ、そうかなぁ‥‥?」

 

「そうなの! 仮にも姉弟子である私を信用しなさいよ。倫敦の時も思ったけど、桜は私のこと何だと思ってるの?」

 

「‥‥えと、友達?」

 

「ソレはそうなんだけど‥‥。はぁ、もういいわ」

 

「いいわって、それ私のセリフなんだけど‥‥」

 

 

 小さな煎餅の最後の一枚までも———確か私と折半で買ったはずなのに———口に放り込み、鮮花は大きく狭い座席の上で伸びをした。

 田舎を走るには不釣り合いなぐらいの四つの座席が向かい合わせになったボックス席は、ただでさえ閉鎖的な冬木の街に向かう路線だからか私達の他に人はいない。というか、下手すればこの車両にも他には数人ぐらいしか人がいない。

 何となく鮮花にはぐらかされたような形になってしまったけど、ひとまず議論は脇に置いて鮮花と一緒に食べ散らかした———もちろん私と、なにより鮮花であるから常識の範囲内より更に狭い範囲で———菓子類のゴミを片付ける。

 冬木まではあと数駅。とはいっても田舎である冬木の周辺は、一駅ごとに山を幾つも超える必要があるからもう暫く、それなりに長い時間かかるけれど。多分、鮮花も少し勘違いして準備を早めてしまったんだろう。別に訂正する気はないけれど。

 

 

「そういえば士郎さん達、鮮花の話を聞いてると少し心配だったけど倫敦でもちゃんと生活できてたじゃない。士郎さんはともかく、遠坂さんとかセイバーさんとかはアレだと思ったんだけど」

 

「それは‥‥初対面の人にはどうなの‥‥?」

 

「いいじゃない、本人を前に言ってるわけじゃないんだから。言論の自由よ、言論の自由」

 

「その知り合いが目の前にいるんだけど‥‥?」

 

 

 他の人が言ったなら少しは気に障ったかもしれないセリフも、あっけらかんと一切の邪気を含まずに言ってのける鮮花が相手なら全然気にならないのが不思議だ。

 確かに生活能力でいうなら先輩は一流だけど、遠坂先輩は浪費癖がある上におっちょこちょいで、セイバーさんも冬木で随分と現世に馴染んだとはいえ、英霊であって現世に適応しきれているとは言えない。

 サーヴァントは聖杯によって召喚された時に現世の知識を得るけど、それは知識であって実際に自分が順応できるかといえば、辞書の知識と同じ扱いになるだろうし。実際セイバーさんもそうだったし。

 まぁ、私としてもセイバーさんに最低限以上の家事が出来ていたのは驚きだったから、鮮花のことは言えないけどね。本当に、手伝ってくれる時は毎日のように皿を割っていたセイバーさんとは思えないわ‥‥。

 

 

「遠坂さんも予想してたより面白い人だったわ。ああいう人がいるなら、倫敦での生活も楽しくなりそうね」

 

「あ、あはははは‥‥」

 

 

 遠坂先輩と鮮花を二人ならべると、色が混ざって見える。あの二人は似通っているわけじゃないんだけど、一緒にすると個性がぶつかり合うから色々と見ていてハラハラするのだ。

 多分、ああいうタイプって一つのコミュニティに一人しかいちゃいけないタイプだ。冬木での遠坂先輩然り、伽藍の洞での鮮花然り。倫敦だと只でさえ遠坂先輩とルヴィアゼリッタさんっていう二人がいるから大変なのに、来年からそこに鮮花も加わるのよね‥‥。

 考えてみると、来年からの生活が危ぶまれる。つい先日、というか昨日の遠坂先輩と鮮花の組み合わせも傍から長いこと見ていたくないカンジだったっていうのに‥‥。

 

 

「紫遙さんも、夏に一度会ったっきりだったけど変わってなかったわね。なんだか‥‥すごく自然な人」

 

 

 夏に会った、紫遙さん。私をお爺様から救ってくれた三人の内の一人。

 橙子先生と、もう一人のお姉さんからの貰い物だという色あせた紫のバンダナを額に巻き、草臥れながらも頑丈そうなミリタリージャケットを羽織った幾分年上の男の人。

 初めて会った時の印象‥‥と言っても、それは凄く薄い。倫敦で会った時の印象で塗り潰されてしまったけれど、優しげで、穏やかで、それでいながら鮮花と軽口を叩けるぐらいに気さくで。

 ‥‥そして、空気のように自然な人。それは決して悪いことじゃなくて、私達が仲間内の色に発する空気の中に自然と入り込める人だということだ。まるで‥‥穏やかに吹いて留まる、それでいながらふとした瞬間にしか気づけない暖かな春風のように。

 

 

「空気よね。居ても居なくても気づけないってカンジの」

 

「ええと私、今ちょっと良いこと考えてたんだけど、な‥‥?」

 

 思わず冷や汗を垂らしてしまうけど、確信したように言う鮮花に言葉が出ない。まったくもって、前々から思ってたけど鮮花は紫遙さんに対して必要以上にキツイ気がする‥‥というか、だからこその鮮花なのかもしれないけど。

 空気、か。仮に鮮花の言う通りだとしても、私みたいな陰鬱な空気じゃないだけ十分だと思うのに‥‥。

 

 

「はぁ、あれだけ矯正されたのにまだネガティブなところは変わらないのね。まぁ人の性格って早々変わるわけじゃないから仕方がないんだけどさ‥‥」

 

「前よりは、少しは進歩してるはずだと信じたい‥‥かな? うん、そうでなかったら先輩達と一緒にいることもできないし‥‥」

 

「‥‥全然進歩してないじゃないの。ネガティブなままよ、それじゃ」

 

 

 負の感情は、私の虚数魔術を行う上で非常に大切な要素の一つである。

 私が使う虚数魔術とは、私が持っている負の感情を基にして構成される。虚数、という不確かなモノの存在を肯定するのが同じく不確かなモノである人間の感情であり、その中で攻性の感情とは負の属性であるからとされているからだ。

 だからこそ、本当を言うと鮮花の言葉は間違っている。私の持っている負の側面は決して捨て去って良いものではない。あれは私の武器であり一部。橙子先生に教えられた通り、否定してはいけない私そのもの。

 もっとも今否定したばかりの鮮花の言葉も、やっぱり本当は間違っているわけでもない。大事なのは、否定するのではなく制御すること。自覚し、理解し、受け入れる。その上で私の思うが儘に制御するのだ。

 他の魔術とは、それこそ異端である鮮花の焔とも一線を画する私の魔術。専門的な勉強をするためには時計塔への進学は欠かせない。ある意味では鮮花よりも深刻な理由を持っている。

 

 

「そういえば鮮花と紫遙さんって仲良いけど、どのくらいの付き合いになるの? 鮮花が橙子先生のところで勉強を始めたのってここ最近でしょう? その時からってことは‥‥2,3年ぐらい?」

 

「ま、そのくらいね。橙子師に弟子入りしてからはアイツずっと一緒にいるようなもんだし、もしかしたら魔術師になってからは幹也よりも一緒にいるかも‥‥」

 

 

 蒼崎紫遙さん。

 私と鮮花のお師匠さんである蒼崎橙子さんの弟だけど、あまり似ていない。けど魔術は橙子先生の弟だって納得出来るぐらいの腕前で、倫敦に行った時の印象だと面倒見も良さそうだった。

 冬木で会った時と服装も姿も印象も殆ど変わらない不思議な人。とはいっても結局会ったのは二回きりで、やっぱり私は紫遙さんのことはよく知らない。まぁ当然のことではあるんだけど。

 

 

「アイツ? いや、そんな大した人間じゃないわよ。そりゃ魔術師としては確かに私より上かもしれないけど、単純な戦闘能力だったら大したことないし、普段の生活だって結構自堕落だもの。アレで面倒見良いとか、笑っちゃうわね」

 

「‥‥うわぁ、ホント身内にキツイわね、鮮花は」

 

「キツイとかじゃなくて正当な評価だってば。ホントにそうなんだから仕方ないじゃない」

 

 

 どこまでもこき下ろすつもりなのか、鮮花は紫遙さんの弁護を絶対にしない。もっともコレはきっと紫遙さんに対して限ったことじゃないのは私も分かっていて、きっと幹也さんとか、怒らせたくない橙子さんとかを除けば誰にだってこんな感じだろう。

 あ、藤乃にはそうでもないかも。私のことを外でどう言ってるかは分からないけど、そんな印象も受けない。‥‥もしかして、やっぱり紫遙さんだけなのかな?

 

 

「そういえば鮮花、紫遙さんと初めて会ったときどうだった?」

 

「どうだったって‥‥どういうこと?」

 

「どういうことも何もホラ、印象とか雰囲気とか‥‥」

 

「そんなの今と同じよ。昔っから大して変わってないわアイツは」

 

 

 窓の外、さっきから大して変わっていない景色を眺める。

 流石にこの辺りでは一番大きな都市‥‥というより街に近づいているからか、民家もちらほらと見えるようにはなったけどやっぱり森と山ばっかりなのは同じ。

 見慣れた山。見慣れた谷。さっきまでもうちょっとかかると思っていたはずなのに、冬木まではもうすぐだ。そんなに離れていなかったとはいえ倫敦まではやっぱり遠かった。

 時間は長くなくても距離だけで随分と長い間冬木から離れていたような気がする。特に海外だと、例え一拍だったとしても旅行気分からか故郷が懐かしい。

 

 

『まもなく、冬木。冬木に到着します』

 

「あ、もうすぐよ。ホラ鮮花、荷物持って」

 

「わかってるわよ。桜も網棚の上の鞄忘れないようにね」

 

 

 遂に山と森ばかりだった景色が住宅部、続いて都市部へと姿を変える。西日本でも田舎に位置するこのあたりでは一番の大都市である見慣れた冬木の町並みへと電車は入っていく。

 私達が目指している衛宮の屋敷は駅がある新都じゃなくて、冬木の街でも閑静な住宅街である深山町にある。バスもあるけど、今日は荷物も多いしタクシーかな。

 

 

「紫遙ねぇ。確かにそろそろ長い付き合いになる、か‥‥」

 

 

 時間帯も早いからか、他の都市で働いている会社員達の降りる姿は見えない。これが夕方も過ぎるぐらいだと結構それなりの人影があるんだけど、特に今日は平日の昼間ということもあって駅は伽藍としていた。

 大きなトランクと手荷物を引っ提げた私達にとって、人が少ないのはいいことだけど‥‥。こういう寂しい駅っていうのもつまらないものね。この駅を使う時って大抵が学校のイベントだったり忙しい時間だったりしたし。

 

 隣でぼんやりと歩く鮮花に、あんまりボーッとし過ぎて足をトランクに引っかけたりしないように注意しながらホームを歩く。

 多分、最近補修した新都の駅はホームにも改札へ繋がるエレベーターがあったはずだ。それに乗って改札まで行って、下まで降りたら広場でタクシーを拾おう。

 おそらくは人通りも少ないだろう冬木の街をホームの窓から眺めながら、私も気を取り直して、場所も分からないだろうに先に歩いていってしまった鮮花を追いかけて、女の子の常として重くなってしまったトランクを引き摺り家路についたのであった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 ‥‥私が最初にアイツに会ったのは、当然だけど橙子師に弟子入りをすることが決まって初めて伽藍の洞に行った時。

 廃棄されてそこまで長くないからか汚れは酷くないとはいえ、見た目としては完全に廃ビル。まだ魔術師として殆ど修行をしていなかったから全く分からなかったけど、高度な隠蔽処理が施された魔術師の住処。

 工房と書いてアトリエと読むのだ、私は芸術家でもあるからなと言っていた橙子師に呆れて白い目を向けたのを覚えている。普通のビル、とまでは言わないけど外見は別に芸術的でも何でもなかったし。

 むしろ工房でもアトリエでもなく、アレはどっちかっていうと悪の組織のアジトだ。アレの地下に何か秘密の格納庫とか研究室とかって何か恐ろしい改造手術でもやってるって言われても納得してしまう。‥‥ていうか実際に似たようなことはやってる。

 とにかく色々とあって決心したはずの弟子入りが、ものすごく不安になってしまうぐらいには怪しい外見をしていた。

 

 

「‥‥どうした、怖じ気づいたか? 私の前であれだけ見事な啖呵を切って見せたというのに、お前を見初めた私の目に狂いがあったということかな?」

 

「そ、そんなことありませんよっ! ホラ、行くなら早く行きましょう。こんなところでボーッと突っ立ってても仕方ありませんしっ!」

 

 

 意地悪そうに眼鏡を外してニヤリと笑ってみせる橙子師に、私はムキになって入り口もよく分からないのに先に歩き出した。

 伽藍の洞は四階建て。本来なら五階建てのビルだったらしいんだけど、途中で建設がストップしたらしく、結果的に屋上となっている部分からは鉄骨が幾本も突き出ている。まるで天に向かって剣を構えているかのようだ。

 

 

「コラコラ、一階に入り口はないぞ。何処へ行くつもりだったんだ?」

 

「っ、なんでまたそんな面倒臭い作りになってるんですか?!」

 

「そんなものを私に聞かれても困る。設計者の意図なのだから、買った私には関係のないことだ。

 まぁこれはこれで重宝しているのだぞ? 居住に使えるような部屋が四階にしかなかったから工房を下の階層に設置するしかなかったし、来客に工房を通ってオフィスまで来てもらうわけにもいかんしな」

 

「はぁ、それはまぁ確かにそうだとは思うけど‥‥」

 

 

 真っ直ぐに道を進んでビルの一階へ入り口を探そうとしていたら、建物の側面へと回り込んでいた橙子師から声がかかる。どうやらこのビル、使えるドアは四階にしかなくて非常階段で出入りする作りになっているらしい。

 一階は物置で、二階と三階が橙子師の仕事場。そして四階に橙子師の部屋とオフィスがあるとのこと。当然ながら仕事場への出入りは許されないだろうから、私が入るのは四階だけってことかな。

 錆び止めが施されているとはいえ野ざらしの非常階段はあちらこちらが不安にさせるぐらいには汚れているけれど、幸いにして嫌な音を立てたりはしていない。そこまで古い建物じゃないとは思うんだけど、全くもってこれからを不安にさせてくれる。

 

 

「いずれお前も工房を持つことになるだろうが、覚えておけ。魔術師にとって工房とは自らにとっての最後の砦。軽々しく他人を入れるようなところではないし、入れたが最後、生かして出さん」

 

「‥‥‥‥」

 

「まだ、魔術についての知識も、魔術師としての心得も殆ど持たないのは分かっている。だが、心構えについてはそれなりに教えたろう? お前も生半可ではない覚悟を決めてコチラの世界に踏み込んだのなら、躊躇はするな」

 

「‥‥はい」

 

 

 ギシリ、と音を立てて扉が開く。中は埃っぽく、無味乾燥な匂いが立ちこめていた。

 それなりに拾い室内だ。書類仕事をするための大きめな机が二つと、応接用なのだろうテーブルとソファーが一組置かれている。

 窓にはカーテンが下がっていないが、時間が微妙に夕方にさしかかっているために日差しはそんなにきつくない。逆に照明が消されているからか薄暗く、全体的に不気味な印象が拭えない。

 幾つも据えられた大きな本棚。何の意味があるのか分からないけど積み上げられているひどく旧型のテレビ。机には乱雑に書類がちりばめられており、不気味なのに加えて得体が知れない。現代風の、魔女の館。そんなトンデモない場所だった。

 

 

「ココが‥‥?」

 

「あぁ、そうだ。ここが工房・伽藍の洞。一応私は表の社会で人形師として活動してもいるのでな。このように表の人間を迎えるオフィスも必要なわけだ」

 

「いや、コレ絶対普通の人が見たら引きますよ? アプローチの方向とか、配慮する方向間違えてますって、絶対」

 

 

 とりあえず表の人間に対するカモフラージュとして用いるならば、明らかに間違った方向にインテリアを整えてしまっている。こんなオフィス、普通の人間ならば例え芸術家であっても作りはしない。

 まず普通の人間ならいくらインテリアでも用途不明のモノを置いたりはしない。特にガラクタ紛いのテレビはさっぱり意味が分からない。映るわけでもないだろうに、どうしてあんな大量に置いてあるんだろうか?

 

 ‥‥人形師・蒼崎橙子の名前は芸術の方面では適度に名前が知れている。作品を発表する頻度があまりにも少ないために決して有名ではないが、まるで生きているのではと見まごうその人形には根強いファンも多い。

 私も、一度だけ橙子師の人形を見たことがある。アレは本当に生きてるかのようだった。流石に間接は人形みたいな球体だったけれど、ハイネックのセーターとか長袖の服を着てしまえば、町中でベンチに座っていても自然に通り過ぎてしまうことだろう。

 

 

「ふむ、私としてはそれなりに気に入っているのだがな」

 

「ま、まぁ趣味って人それぞれですし‥‥」

 

「そこはかとなく侮辱されているような気もせんではないが‥‥。まぁお前もこれからココで修練を積むことになる。今すぐにとは言わんが、慣れろ」

 

 

 慣れろ、と言われれば慣れるとは思うけど、それでも最初のインパクトは拭えないものだろう。そういうこと考えると逆に、魔術師という異常な世界へと入るための心構えに必要なインパクトは十分だったと言えるかも知れない。

 それがどういう形であっても、今までとは全く違う環境に入る時にはそれなりの心構えがいる。それは例えばゆっくりと自分を慣らしていくという方法もあるけど、こと魔術という物騒な世界が相手だと一気に環境が変わるということを実感できたのは悪いコトじゃないわよね。

 

 

「基本的に魔術の講義はこのオフィスか、三階の作業場で行う。先程も言ったかもしれないが、二階の工房への出入りは禁じる。作業場には道具ぐらいしか置いていないが、工房には色々と見られてはマズイものが置いてあるので名。

 ‥‥如何に弟子とはいえ、魔術師として見られてはマズイものを見られては始末しなければならん。わかるだろう?」

 

「‥‥う、はい‥‥」

 

 

 意地悪く細められた視線に射貫かれ、ゾクリと強烈な悪寒が背筋を虫のように這っていく。普段は大人っぽいけれど、伊達に魔術師を名乗ってはいないらしい。

 圧倒的な威圧感。重苦しくのし掛かるものではなく、貫かれるような、氷のように冷たい視線。情を交えず利己的に、自分の利益と不利益を考慮に冷徹に決断する。それが魔術師。橙子師が行きずりに語っていたことが思い出された。

 

 

「‥‥橙子姉? 来客かい?」

 

「あぁ、居たのか紫遙」

 

 

 オフィスに置いてある機材の説明を受けていると、オフィスの奥、ちょうどさっき橙子師から橙子師の住居になっていると説明を受けたところから一人の青年が現れた。

 顔には大して特徴はない。おそらくクラスメートとして過ごしていて、漸く印象に残るぐらい普通の青年だ。黒い髪に黒い瞳。同年代の馬鹿やってる男には見られない知性の輝きが瞳にあって、多分私が普段付き合いたくないと思ってる男達よりは幾分マシだろう。

 着ているのは凡庸な学ラン。色は黒で、ボタンは金。全くもって普通極まりない姿で片手にはコーヒーポットを、片手にはコーヒーカップを持っている。おそらくはこれからお茶にでもしようとしていたのではないだろうか。

 

 

 

「お前は知っていると思うが‥‥紹介しよう。これから私の弟子として、お前の妹弟子として伽藍の洞に通うことになる黒桐鮮花だ」

 

「あ、黒桐鮮花です。よろしく‥‥お願いします」

 

 

 橙子師の紹介で、一応礼儀として頭を下げることは下げる。

 妹弟子‥‥ということは、この人は私より前に橙子師の弟子をしていた人? 中学生‥‥とは思えないから高校生だろうけど、私よりは年上とも限らない。童顔ってわけでもないから同年代なのは間違いないだろう。

 橙子師みたいに、魔術師だっていう先入観を持って見てもとても魔術師には見えない。まぁ橙子師は先入観なしでも魔術師、ないしは悪の組織の大幹部に見えないこともないのが不思議なところだけど。

 

 

「黒桐、鮮花‥‥」

 

「はい?」

 

「あ、いや、なんでもない。俺は蒼崎紫遙。そこにいる君の師匠の義弟(おとうと)だよ。こちらこそ、これからよろしく頼む」

 

「弟っ?! 橙子師の?!」

 

「うん。‥‥まぁ、うん」

 

 

 微妙に表情を陰らせて———とはいってもその時の私では紫遙の微妙な表情の変化なんて気づけなかったんだけど———曖昧に頷く青年‥‥蒼崎紫遙は、やっぱり凡庸で魔術師なんかにはとても見えない普通の人間に見えた。

 橙子師から自然にコートを受け取る姿は、どっちかっていうと召使いとか執事とか。とにかく弟子とは‥‥っていうか、私の認識がおかしいだけどもしかしたら弟子ってそういうものなの?

 

 

「え? あぁいや、そんなことはないよ? まぁこれは、ホラ、なんていうか癖というか‥‥」

 

「よく訓練された弟子なら自然と師匠の身の回りの世話まで行うようになるのだ。お前もじきにそうなる」

 

「嘘言わないでよ橙子姉?! 鮮花嬢も本気にしちゃダメだからね?!」

 

「本気にするわけないでしょそんなこと! ‥‥まぁ、ちょっとはその、本気にしかけたけど‥‥」

 

 

 私に向かって言いながらも、紫遙はコートをハンガーにかけて橙子師の分のコーヒーを入れる。橙子師が自分の椅子へと向かうと、コーヒーを持って来ながらも椅子を引いてやることまで忘れない。

 確かに橙子師の言う通り、よく訓練された弟子‥‥というか弟は師匠に、姉に尽くすことに全く疑問を持たないらしい。一応頑張るつもりではあるけれど、私もあんな状態にならないように気をつけよう。

 

 

「ハハ、君も知ってた通りの子だね。これから楽しくなりそうだ」

 

「知ってた‥‥?」

 

「え? あぁ、うん、橙子姉から事前に色々聞いてたからさ。ハ、ハハハ‥‥。ほら座って、君もコーヒー飲むかい?」

 

「あ、うん。砂糖は要らないから、ミルクだけお願いね」

 

「了解」

 

 

 ちょっと年代物ではあるけど座り心地は悪くないソファーに腰掛け、紫遙が淹れてくれたコーヒーにミルクを入れて飲む。そこまで美味しいものでもなければ礼園で飲むような高級品でも決して無い。多分、暫く飲んでなかったけど普通の家のコーヒーってこんなもんだ。

 カップも来客用のものらしく、他の二人のゴツイものに比べれば幾分華奢で繊細な作りをしている。おそらくこの二人、あのゴツいマグカップじゃないと足りないくらいカフェインに飢えた生活をしているんだろう。

 魔術師、というより卒論に必死な理系大学生とか言った方がいいのかもしれない、この二人のカフェイン摂取量は。実際弟子入りして暫く経ってから、一度研究に没頭した時の二人の尋常じゃないぐらいの集中力は嫌と言う程に思い知らされることになった。

 ちょっとでも研究に興が乗ると一日二日の徹夜なんて当たり前。それどころか橙子師に至っては一週間弱も徹夜して平然な顔をしていたこともある。流石に最終日には三日間眠りっぱなしだったけど。

 紫遙だってああ見えて結構なトンデモ人間だ。橙子師と違って当時は高校にもちゃんと通っていたから尚更大変だ。授業中は居眠りばっかりだけど、あまり成績を落とすと橙子師からのキツ〜いお仕置きと特別レッスンが待ってるらしいし。

 あの橙子師と機嫌を損ねた上でのレッスンとか絶対に死ねる。私なら尻尾巻いて東京から逃げ出して叔父のところへと避難するレベルだ。

 

 まぁそんなわけで、私と紫遙の初対面はこんな感じ。とにかく印象が薄くて、最初会ったときもただ「へー」って感じだったってワケ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「Azolt‥‥ッ!」

 

「よし、火が出たぞ。そのまま意識を集中させて、その小さな火を炎へ、そして焔へと変えるんだ。イメージしろ、それが魔術の、そして超能力の根本だ。

 イメージしろ、何もかもを包み込むぐらい大きな業火を。矮小な人間の身体から発しようと思うな。それは、この世にいる全ての人間達から生み出された力だ。そしてこの世に、人間は君一人だけだ」

 

 

 アレは‥‥何時のことだっただろうか。

 私は橙子師から魔術の、というよりは私が扱うことのできる異能の基礎を教えてもらって、それなりに私の術が体系づけられてきた時のことだったか。

 その頃になると基本的なことを一通り出来るようになって、さらには魔術という存在の在り方についてもそれなりの知識を得ていた私。教えられることを必死で頭に叩き込む段階を超えて、やっと実践に、そして自分自身の工夫を試せる段階へと入っていた。

 自分だけの異能である発火能力(パイロキネシス)。それの在り方を最初に理解して、それを今まで勉強した魔術のやり方で制御、発現する。いわば魔術という器、回路を想像して其処に私の異能を流し込むことで、形を整えているのだ。

 

 本来なら自分の思うままに使える力を技術で制御する。超能力というあまりにも異質な力を扱う私にとっては逆に悪いことなのかもしれないけれど、それはまた別の話。

 超能力とは、普通の人間とは違うチャンネルが開いてしまった人間にしか本来なら使えない力だ。私や、あるいは最近の藤乃みたいに普通の人と同じチャンネルと、超能力という別のチャンネルが同時に開いている人の方が例外らしい。

 そういう人は普通の人と感性や感覚、観念が全く違う。‥‥あまり良くない言い方をするならば、完全な社会不適合者。むしろ人類不適合者と言う方が正解かもしれないけれど。とにかく異常なメンタリティを以て超能力を操る。

 異常なメンタリティによって生み出された異常な超能力は、それこそ異常な力を発揮する。もちろんコレは魔術に及ばないというのが通説だけど、とにかく普通じゃないにしても只の人間が発する力としては異常極まりないものだ。

 ‥‥だけど異常な精神を持たない私には、それだけの異常を生み出すことが出来ない。元々異常な精神の一端を持ち合わせ、式と戦うことで色々と覚醒したらしい藤乃はともかく、普通の人間の枠から今一歩踏み出すことの出来ない私では強力な異能を奮えない。

 だからこそ、私は技術を以て異能を行使するのが良いと橙子先生から言われたのだ。だからどちらかというと、私は異能者というよりは魔術師なのかもしれない。根源を目指すことはしないけど、ね。

 

 

「Foltte!」

 

「おぉ! こりゃ‥‥凄い」

 

 

 呪文を唱え、掌に生み出した私の力を大きく膨れ上がらせる。最初こそ蝋燭より少し大きいぐらいだった小さな火が、今度は天井近くまで制限無しに大きく燃え上がった。

 普通の建物なら大げさに火災報知器が鳴ったことだろうけど、色々と違法なこの伽藍の洞には当然ながら火災報知器なんてものはない。そしてついでに、ただのビルに見えて橙子師が色々と細工をしてるから駆け出しの私の焔ぐらいじゃ焦げ跡だって付きはしない。

 

 

「よし、止めていいよ鮮花嬢」

 

「はぁ、はぁはぁ‥‥」

 

「‥‥ふむ、威力の上限自体はまだまだ上があるみたいだね。とはいえ際限なしに力を出してばかりでもしょうがないから、力の感覚は掴んだろうし、まずは制御の練習かな」

 

「制御、ですか」

 

「うん。鮮花嬢はすごいよ。こと焔の魔術に関してなら今の時点でも十分に、それこそ俺以上に威力がある。だから地道に制御を上手にしていけば、超一流の魔術師になれるに違いないさ」

 

「そ、そうですか」

 

 

 本棚の奥の方から無地の分厚い一冊を取り出した紫遙が頁をめくる。どうやらカモフラージュしてあったみたいだけど魔術書らしい。初級の教本なのか、ぺらぺらとめくってお目当ての頁を見つけ、こちらに構わず読みふける。

 誰かにモノを教わる、ということに関しては自分より遥かに年配の教師しかいなかった。だからこそ同い年に近い年齢の人に何かを教わるという体験はとても不思議なものだ。

 もちろんだからといって教わる立場と教える立場の間に、納得していないはずがない。でも、僅かながらも蟠りに近いものが生じていなかったと言えば、それは嘘になることだろう。

 

 

「‥‥あー、別に敬語じゃなくて構わないぞ? こうやって狭いところで修行してるわけだし、今は橙子姉が忙しいから代行してるけど別に師匠でも何でもないんだからさ」

 

「そう‥‥かしら?」

 

「さっきからそればっかりだなぁ君は。俺が良いって言ってるんだから良いんだよ。学校と違うんだから、そこまでかしこまる必要もないさ」

 

「‥‥成る程ね。それじゃあ、好意に甘えて普通に喋らせてもらうわね。よろしく紫遙さん」

 

「よろしく鮮花嬢」

 

 

 私と大して歳が変わらない兄弟子。風采が上がらず、どちらかといえば地味な青年。私の兄であるところの幹也のような魅力も感じない、それこそ通りすがっても一切注意を向けないだろう普通の人間。

 

 ‥‥今になって思うと、当時の私はささやかながらも優越感を覚えていたのかもしれない。それは自分でも自覚できないぐらいにはささやかで、それでも今までの私からしてみれば間違いなく看過しえない傲慢だったろう。

 手に入れた新しい力。それはもしかしたら普通の人間から見れば、むしろ魔術師から見ても“禁忌”とされるような異能だったからこそ、私は少なからずそれに酔ってしまっていたのかもしれない。

 魔術師に限らず、例えばスポーツとか習い事でもいい。ある程度まで上達すると克己心の強い人間でも、もっと強く、もっと上手くという意識が働くようになる。もっともっと先を、そう思うと今がおろそかになってしまうのだ。

 私が、というわけじゃなく、それは全ての人に共通すること。そして魔術というあまりにも異端な存在に触れた私は、私自身の持つ禁忌への憧れの影響もあって簡単に酔った。

 

 

「ねぇ紫遙さん、もうそろそろ魔術を習って数ヶ月になるけど‥‥」

 

「あぁ、そういえばもうそろそろそんなになるんだったね。たった数ヶ月で、鮮花嬢もとても成長したと思うよ。普通の人間なら異能者だってことを差っ引いてもココまでめざましい成長は遂げられない」

 

「え、あ、いや、別にそういうこと言って欲しいわけじゃなかったんだけど‥‥。私としては橙子師の言うこと聞いてるだけだし」

 

 

 伽藍の洞へ部活代わりに通うようになってから数ヶ月。もはや半年にも近いというぐらいになった頃。毎日のように、とはいかなくても授業が微妙に早く終わる曜日などは必ず外出許可を———かなり強引に———もぎ取って、私は伽藍の洞に通い詰めた。

 手に入れた異能の力。それを何より早く極めたくて、何より早く自分のモノにしたくて、私はまるで甲子園目指して勉強そっちのけで練習に没頭する野球部員のように、それでいながら勉強もしっかりとやって魔術師としての修行を積んでいたのだ。

 

 

「それに制御の練習と座学ばっかりじゃない? なんていうか、もっとこう魔術ー! って修行がやりたいんだけど‥‥」

 

「鮮花嬢の場合はちょっと違うかもしれないけど、やっぱり魔術は学問だからね。座学が中心になるのは仕方ない。座学でしっかり知識をつけておかないと、実践も上手くいかないのは当然だよ」

 

「理屈は分かってるんだけどね‥‥。やっぱりさ、性分としては派手にぶっ放す方が好みなのよね。こういうのが大事ってのはちゃんと理解してても、もどかしいっていうか‥‥」

 

 

 例の如く、紫遙から指導されているときは大体が橙子師が不在の時だ。珍しく営業に行く気になったらしい伽藍の洞の主は、これまた珍しくきっちりとしたスーツ姿で昼前ぐらいに出て行ったらしい。

 当然のことながら学校が終わってからやって来た私に対して、橙子師が家を出るのを見ていた紫遙はどうしていたのかと言えば、どうやら彼も学校をサボタージュ‥‥ではなく、振り替え休日か何かだったとのこと。

 そういえば季節外れの体育祭とか、この前やってたような気もする。まぁ私には関係ないことだから気にすることでもないとは思うけど。ていうか気にする理由なんて何処にもないけど。

 

 

「そうは言っても、そういうものだとしか返せないなぁ‥‥。そもそもね鮮花嬢、それでも君の学習速度はちょっと速過ぎるぐらいだよ? 俺も橙子姉もちょっと詰め込みすぎたって思ってるぐらいだし、これから暫くは今やってることを繰り返して地力固めをするっていう方法も———」

 

「なんで?! もうこんな制御ぐらいだったら十分に出来るわよ! もっと地道にやっていかなきゃいけないっていうんなら、並行して新しいことを練習しながらでも問題ないでしょ?!」

 

「そんなこと言われてもなぁ‥‥」

 

 

 分かる。紫遙の言っていることも、よく分かる。

 通常、魔術師は幼少時から家系を背負って修行を始めるのが常らしい。私、というか普通の人間が突然目覚めたりする初代の魔術師なんてそれこそ本当に数えるぐらいしかいないらしいから、それが魔術師にとっての常識だ。

 小さな頃からゆっくりと、それこそ何年もかけて魔術の勉強をしていくんだろう。今の私みたいな状況は決してノーマルなものじゃないだろう。それでも‥‥それは当人じゃないから言えることだ。今みたいな状況は、もどかしくてしょうがない。

 成果が見えないのだ。普通に勉強なんかでも確かにそれは同じかもしれないけど、残念ながら、今になって思うと、私はそれなり以上に無難にそれらをこなしてしまえるぐらいには基本的なスペックが高かった。

 学校の勉強に比べて、遥かに成果が出ない。最初こそ焔という分かりやすい異能を手に入れた喜びに勝ったけど、それが終われば後は地道な制御訓練だけだ。

 何か、新しいことが出来るようになったりはしない。ただ地道に制御を続けて、地道に焔を操れるようにするだけ。しかも操れるとはいっても自在にではなく、自由にといった感じ。

 単純に、制御。自在に、思うが儘に操るのではなく制御する。押さえ込む。私は、せっかく手に入れたこの力を思うが儘に使ってみたかったのに。

 

 

「それに私もあと数年したら高校卒業しちゃうわ。早い内から色んなことが出来るようになっておかないと、将来どうするのかとか不安になっちゃうじゃないの」

 

「うーん、逆に基礎が不安定でも相当に不安だと思うんだけどさ」

 

「紫遙は将来、何か計画とか予定とかあるの?」

 

「さらっと無視したね鮮花嬢? ‥‥はぁ、俺は魔術協会の総本山である時計塔に留学するだろうことが決まってるみたいだよ。橙子姉とか青子姉が色々考えてるみたいだから、俺はよくわかんないけど」

 

「‥‥本人がそんな受け身でいいの?」

 

「しょうがないじゃないか。あの二人が決めたことには逆らえないんだ、俺は」

 

 

 さっきから黙々とコーヒーを飲みながら魔術書を捲っていた紫遙が何処か諦めを含んだ、それでいて全く異論がないと見えるぐらい潔く、何処はかとなく楽しげにすらしながら私の質問に返した。

 ‥‥この数ヶ月で間違いなく断定できることがある。私より幾分年上のこの兄弟子、完璧なまでにシスコンだ。

 

 

「‥‥で、結局ずっと暫くはコレやってなきゃいけないの?」

 

 

 手の上にボーリングのピンぐらいの焔を出して、それをずっと維持している私。今日伽藍の洞に来てからずっと続けている制御の訓練。

 焔を大きくするわけでも小さくするわけでも、ましてや形を変えたり性質を変えたりするわけでもなく、ただ延々と同じ大きさで出し続ける地味で辛い訓練。

 意味がない、とは言わないし思わない。それは十分に分かってる。でも、それでも、それでもと思ってしまう。こんな調子で本当に成長できているのか? 間に合わないんじゃないのか? 以前‥‥幹也が連れてきた女の影が、やけに私を急かす。

 勿論そればかりが理由じゃないけれど、それでも、と私は考えた。それでも、こんな悠長に修行していていいものなのだろうかと。

 

 

「基礎をおろそかには出来ない。当然だろう?」

 

「‥‥またそればっかり。ふん、良いわよ別に。どうせ橙子師が帰ってくるまでは‥‥ていうかアノ人が帰ってくるまでは紫遙さんに教わんなきゃいけないんだし」

 

 

 上に掌を向けて開いていた拳を握り、私は鼻息みたいに苛立だしげな息を吹きかけて焔を消す。確かに最初は間違えて自分も火傷を負ってしまった術の消去だけど、地道な修行のせいか今では怪我をすることなんてない。

 分かっている。それが一番の近道だって分かってはいるのだ。それでもこうして苛立っているのは‥‥やっぱり私も人並みの人間の範疇には入っていたということだろうか。

 

 

「なんだい、もう帰るのかい? もし仕事が取れなかったんなら橙子姉もそろそろ‥‥いや、どっちにしても飲みつぶれて帰ってくるか。

 仕事が取れたら祝勝会で、仕事が取れなかったら残念会で‥‥。昔は最近ほど飲まなかったような気がするんだけどなぁ‥‥」

 

「よくわかんないけど、私明日は朝から特別にミサがあるのよ。宗教学の教師に来てた神学生の人の叙階式があるのよね」

 

「叙階式‥‥。あぁ、神父になるとかいう、アレかい?」

 

「まぁそんな感じ。ちょっと早いから、今日はもう上がらせてもらうわ。お疲れ様」

 

 

 礼園の制服は目立つから、少し季節には早いけど薄手のコートを纏って鞄を持つ。

 ココから礼園の寮まではそんなに距離はないけれど、バスとかは路線の違いで通ってないから徒歩で帰るしかない。途中何かあるとは思えないけど、只でさえ神秘的なお嬢様学校というイメージがある以上は制服を隠すに越したことはない。

 

 

「それじゃあ次に来れる日はまた連絡するわね。ごきげんよう」

 

「あぁ待って、鮮花嬢」

 

「ん?」

 

  

 ギシリ、と不気味な軋みを上げる扉に手をかけると、さっきは魔術書に目を落としたまま適当に手を振ったはずの紫遙に呼び止められる。

 呼び止めたのはあちらだろうに橙子師のものよりは一回り小さな自分の仕事机に腰掛けながら、こちらも向かずにそのまま話し続ける。こういう無精なところは本当に橙子師そっくりだ。

 

 

「最近、この辺りで通り魔とかひったくりとか、そういう物騒な話がすごく多いんだ。君のことだから大丈夫だとは思うけど、うっかり出遭ったり“しちゃったら”十分に気をつけるんだよ?」

 

「はぁ? 出遭“わないように”じゃなくて?」

 

「うん。これ以上は蛇足だと思うから言わないけど、君もそろそろしっかりと自覚を持った方がいい」

 

「ちょっと全然わかんないわよ。ちゃんと説明しなさいよ紫遙さん」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 何か思うところがあるのか、紫遙は私の問いにも返事を返さない。普通は問いかけた方なんだから説明の義務が生じると思うだけど、一体何を考えているのやら。

 どっちみちこうやって何かに集中してしまったような様子の紫遙さんには何を話しても意味がない。無駄だ。完全に自分の世界に籠もってしまうから周りのことが聞こえなくなってしまうのだ。

 

 

「‥‥ホントに、よくわかんないけどお疲れ様ー」

 

 

 仕方がない。紫遙の言葉に何処はかとなく、いや、明確な引っかかりを感じはしたけれど、そう考えた私は寮の門限に間に合うように足早に伽藍の洞から立ち去ったのであった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「‥‥ホント、紫遙さんってば何が言いたかったのかしら?」

 

 

 季節を追うにつれて段々と暗くなる時間が早くなり、人気も心なしか少なくなって来た路地を歩く。制服だけなら肌寒いだろう気温も、ちょっと季節を先取りしたコートのおかげで暖かい。というより少し暖かくてポカポカ顔が上気している。

 路地裏、と言っても近いぐらいに奥まったところを近道して通っているからか足下も少しばかり汚い。この辺りになると掃除も随分と雑、というかやっていないと言われても納得してしまう。

 こういうところになると誰が掃除しているんだろうか? お店とかがあればそこの人が店の前もついでに掃除する、みたいなのが常道なんだろうけど、こんな人通りもそうそうないようなところだとよく分からない。

 

 

「普通ああやって注意する時って、夜に出歩かないとか人通りの少ないところは通らないとか、そういうことを言うものじゃない? 遭遇しないように注意するならともかく、遭遇してから注意しろってどういうことよ‥‥」

 

 

 昨日降った雨が水たまりを作っていて、それなり以上には高級で良い素材を使っているローファーが踏みしめたところからパシャンと音がする。

 高級な素材を使っているということは、即ち丈夫だということだ。特別な防水処理とかが施されているとは思えないのに、不思議と華奢な靴は浅い水たまりを踏んでも水漏れはしない。もちろん素材による違いもあるんだろうけど。

 そういえば思い返すと、礼園のものって制服に限らず何でもかんでも高級だけじゃなくて丈夫な気がする。何かが壊れたとかそうそう聞いたことがないし、制服も糸が解れたこともない。

 礼園もそれなり以上に歴史を重ねた学校だ。世間では高嶺の花と持て囃されているのを自分ではあまり仰々しく捉えたことはないけれど、こうして改めて今まで気づかなかったことを意識すると名門の名に恥じず、細かいところまで気を使っているようだ。

 

 

「‥‥ほら、遭っちゃってからじゃどうしようもないじゃない‥‥」

 

「おっと、どうしたのかなお姉さん? こんな時間にこんなところを一人で通っていたら危ないですよー?」

 

「そうそう、最近は日が暮れるのも早くなったし、そうじゃなくてもこんな時間に出歩くなんて正気の沙汰とは思えねぇなぁ」

 

 

 ぼんやりと歩いていたのが災いしたのか、それともこんなところを歩いていたが故の必然なのか、いつの間にか私の前には二人の若い男が立っていた。

 背格好は大して特筆すべき点もない。私よりもほんの少し、それこそ私がヒールを履いたら同じぐらいの身長になってしまうぐらいの背の高さ。もしかしたら高校生、それとも中学生なのだろうか。上は派手派手しいトレーナーを着ているが、下はそろって黒いスラックスだ。

 チェーンやらバッチやらがたくさんついたスラックスはとてもじゃないけど真面目な学生に見えはしない。ついでに雨でも昼間でもないのに被ったこれまた仰々しい帽子とあいまって、おそらくこれは不良と呼ばれる連中なんだろうと見当付ける。

 叔父のところで療養———名目に過ぎないわけだけど———していた時も、そして当然ながら礼園での生活でも見たことがない未知の人種。とにかく柄が悪く、私に対してよからぬことを企んでいるだろうことは用意に想像がついた。

 おそらく学生の域を出ないとはいえ大の男二人が女相手に抱く下衆な考えなど容易に想像がつく。そりゃ私だって庶民の家の出とはいえ扱い自体は箱入りのお嬢様だけど、この年頃の女は耳年増と相場が決まっている。

 いくら穢れを知らぬ箱庭だろうと、女の耳と口ばかりは止められないのだ。ただでさえ最近は礼園でもいろいろときな臭い噂も聞くし‥‥。

 

 

「んー、本当に綺麗なお姉さんだなぁ。最近の女ってのは軽薄な連中ばっかだって思ってたけど、世の中捨てたもんじゃねぇなぁ?」

 

「違いねぇ。近頃の女ってのはダメだ、どいつもこいつもチャラチャラしゃがって、つまんないったらありゃしねぇ」

 

「その点お姉さんは清楚で綺麗だねぇ? なんていうのかなぁ、箱入り娘っていうか何ていうか。オレお姉さんみたいな人と遊ぶのって初めてなんだよねぇ」

 

 

 ジャラジャラとアクセサリーの音を響かせながら二人が近づいてくる。橙子師と同じ煙草の匂いが仄かにする。まさか成年してるとは思えないから当然違法なんだけど、そんなことよりも橙子先生の落ち着いた香りに比べて神経を逆撫でする方が気にくわない。

 橙子師には言ってないけど、ホントはあの煙草の匂いもあんまり好きじゃないのよね。ていうか若い人で煙草の煙が大好きな奴っているのかしら。どうかしら。

 

 

「どうかな、こんなところ来たってことは、ちょっとは期待してるって思ってもいいのかな?」

 

「だよなぁ。フツー注意してる子だったらこんな時間にこんなところに来ないよなぁ? はは、大人しそうな格好してながら好奇心旺盛なところあるじゃねーの。でもよかったのか? ホイホイこんなところまで来ちまって」

 

 

 一歩一歩、いやらしい笑いを上げながら二人の男‥‥もとい少年が近づいてくる。両手を腰の後ろで組んでいるのが、もしかしたらわざわざ紳士的で手を出さないって態度で表してるのかもしれないけど、逆に嫌らしさを増していた。

 狭い路地裏。私も後ろに下がって逃げようと思ったら逃げられたかもしれないけど、今は逆に背中を向ける方が危ない。少しばかり護身術を嗜んでいたから分かるんだけど、相手を視界から外すってのは逃げるのが目的でも意外に危険だ。

 体育とか、運動関係はとにかく自信があっても所詮男と女。体力の違いは歴然。こういう相手は‥‥油断してる内にボコす!

 

 

「それじゃあ、期待に応えてとことん悦ばせてやるから‥‥アッー?!!」

 

「タ、タカぁッ?!」

 

 

 多分、傍目に見れば破滅的な音がしたと思う。ちょうど間合いに入った男に向かって、私は以前に教わったとおりに左の膝をしっかりと落とし、腹筋に力を込めて身体が伸び上がらないように、右足の前足底を真っ直ぐに伸ばす。

 大事なのは膝をしっかりと抱え込むように持ち上げること。そして体重を乗せるために僅かに腰を突き出す。両腕は相手の攻撃を警戒してしっかりと脇を締める。なんか先生から足癖悪いって言われたからか、これが一番性に合ったのだ。

 先生の教え通りに力を込めて伸ばした足は、狙い違わず男の弱点、二本の足の付け根へと吸い込まれていった。効果は抜群、最初に私に近づいてきた長い金髪の男は私には想像できない痛みに襲われて悶絶、蹲る。

 

「て、てめぇ、こんなことして‥‥ふぃぎゅあぁっ?!」

 

「タカ?! タカぁ?! このアマ、タカになんてことしやがるっ!」

 

 

 股間に手をやって膝はおろか頬まで地面について悶えていた男の後頭部を思いっきり踏みつける。ダメ押しの攻撃に男は悲鳴を上げて完全に沈黙し、連れのもう一人が顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。

 なんか踏みつけた時に嫌な音がしたような気がするけど、大丈夫よね。空手とかでやる試し割りの原理を実際に人の頭でやってみた、みたいなことになってるけど大丈夫よね。

 

 

「なんてことしやがる、じゃないわよ。うら若き乙女に手を出そうとしといて、タダで済むなんてアンタも思ってないでしょ?」

 

「思ってないでしょ、じゃねぇ! このヤロウ、大人しくしてりゃあ付け上がりやがって!!」

 

「女なんだからヤロウじゃないでしょうがっ! ふんっ!」

 

 

 前髪ばかりが長い茶髪を頭に被ったニット帽からはみ出させた男が拳を握り締めて一歩踏み出す。喧嘩をしたことはあるのだろうか、少なくとも振り上げた拳に躊躇はない。

だが、甘い。激昂した人間の道理として私の顔を狙うのならば、そもそも拳を大袈裟に振り上げるのはナンセンスだ。ほら、自分の顔面がガラ空きになるじゃないの。

 

 

「ぶるぁぁああっ?!!」

 

 

 足と同じように真っ直ぐに突き出した左腕が、狙い違わず相手の右頬、三日月と呼ばれる急所を抉る。まともに決まって完全に脳みそを揺さぶられたらしい茶髪の男は、それでもなお根性か偶然か知らないが、何とかその場に留まってみせた。

 人体急所は基本的に、どこを殴られてもソレが適切な角度と速度を持っていたのなら致命傷にならずとも戦闘続行不可能なぐらいのダメージを与える、と私は先生から教わった。正直護身術の範囲を超えている気がしなくもないけど‥‥これでまともに戦える状態ではなくなっただろう。

 というか本当にここまでする必要はあったんだろうか? なんとなく弱い者虐めをしたような気に駆られる。

 

 

「テ、テメェ‥‥よく、も‥‥!」

 

「はぁ、意識を飛ばさない根性は認めてあげるけど、ぶっちゃけそこまでする意味ないでしょ? こんな“女の子”にしてやられるなんて醜態をこれ以上晒したくないなら、そこのソレ回収してとっとと失せてくれない?」

 

「る、るせぇっ! テメエの言うとおり、こんな目に遭わされてタダで引き下がれるかってんだ!!」

 

 

 呆れたように言い放つと、男はくらくらとしているらしい頭を押さえると右手を懐へと持って行き、そこから銀色に輝く一振りのナイフを取り出した。

 なんてことはないポケットナイフ。しかも柄と刃が一体になっている頑丈なもんどえはなく、折りたたみ式で携帯に便利な刃物とは名ばかりのスコーピオンナイフ。銀色なのは柄も含めてだったらしいけど、どっちにしても人を殺すには十分でも戦うには不十分な代物だ。

 あんなものを、私に向けようというのか。今し方、簡単な護身術に過ぎないとはいえ力の差を見せつけたはずだろうに、それでもチンケなプライドで私を傷つけようというのか。

 

 

「‥‥何それ、ソレでどうしようっていうの?」

 

「うるせぇ! へ、へへへ、お前、もう今頃許してって泣いてもしらねぇぞ? 本気でオレを怒らせたんだからなぁ!」

 

「‥‥はぁ、参ったわね」

 

 

 ナイフなんてちっとも怖くない。あれがもっと刃渡りの大きな刃物だったら話は別だろうけど、あの程度の刃物だったら拳の延長線上として十分に処理が出来る。要するに触らなければいいんだから。

 だってのに目の前のコイツは自分の持ったものが最強の武器であるかのように、ナイフを抜いた瞬間に自信に溢れ、私を卑下する笑いを顔に浮かべている。なんて滑稽なことだろうか。

 

 

「今までソレで脅せばみんな震え上がって許しを請うていたの? 成る程、そんなちっぽけな武器で、貧弱な武器で脅せるような相手としか対峙してなかったっていうわけね」

 

「はぁ? 何言ってんだお前。この状況わかってんのかよ?」

 

「わかってないのはアンタでしょ。全く、自分が格下だと思って相手にしたものが何だか分かってないんだから‥‥」

 

 

 苛つく。コイツ、本当に自分が優位だと信じて疑わない。今確信したけど、コイツはきっと自分が今持ってる刃で誰かを傷つけたことが無いに違いない。私も誰かと“戦闘”をしたことがあるわけじゃないけど、それでもコイツはとんでもない下衆だ。

 気にくわない。本当に気にくわない。自分が優位だと信じて疑わない下衆に‥‥思い知らせてやろう。

 私の力を、思い知らせてやろう。

 

 

「は? おいおいオレが持ってるものが見えないのか? コレ、ぶっ刺さったら死んじまうんだぜ?」

 

「見えてないのはアンタでしょ? 私が何を持っているのか‥‥本当に分からないの?」

 

「な‥‥に‥‥ッ?!」

 

 

 ちょうど左肩を前に出すようにしていた私が、相手から見えづらい死角になっている右手でこっそりとポケットから取り出して嵌めた火蜥蜴の手袋を翳し、自分の棟の前へと翳す。

 掌へと集めるのは、魔術師と違って魔術じゃない。そもそも私は魔術師とは違って魔術(異能)を行使する時に魔術回路を起動する必要もないのだ。ただ自分自身の力を、ごくごく自然に掌へと集めるだけでいい。

 制御するのはそこから。自分の中から溢れ出した力を顕現してそこから制御を始める。最初に力を出すときに思いきり出すか、少し自重して出すかの違いぐらいだ。

 ‥‥私の意思に応え、火の力を増幅する火蜥蜴の手袋に覆われた私の掌から一柱の焔が湧き上がった。

 

 

「ひ、ひぃっ?!」

 

「あら、アンタも分かったみたいね? ‥‥自分がどんな存在を、相手にしていたのか」

 

 

 言葉は要らない。茶髪の男は私の出した異常な焔を目にした途端、あからさまに恐怖を覚えて一歩後ずさった。

 私が出したのは只の焔じゃない。人を害する意思を込めた攻撃的な焔。火ではなく、焔だ。自然には存在しない、人が、魔術師が、異能者が作り上げた焔だ。

 それは説明なんて無くても、目にすれば自然と理解出来る。それが普通の人間である自分には太刀打ちできないものであり、その焔の使い手が、自分が相手にしちゃいけない異能者であったということまで。

 

 

「今まで散々、自分より弱い人を食い物にしてきたんでしょう? ホント、救いようがないぐらいの下衆よね。‥‥ちょっと、頭冷やしてもらおうかしら? まぁ私の焔じゃ炭になってからじゃないと冷えないんだけど」

 

「や、やめろ、助けてくれ、お願いだ‥‥!」

 

「そう言った女の人を、さっきの私を相手にするみたいに玩具にしたんじゃないの? ‥‥少し、痛い目に遭ってもらおうかしらね」

 

「ひぃぃぃいいぃ?!!!」

 

 

 ナイフを放り捨て、男が後ずさる。そして勢いよく逃げ出した。

 あぁ、そういえば私のコレを見られてしまって、口封じをしないで逃がすのはマズイわね。なんとか捕まえて、記憶処理だか何かをしないと。

 そう思った私は右手に更に力を注ぎ、まるでやり投げの選手のように右手を前へと突き出して男の後ろ髪でも焦がしてやろうと———

 

 

「はい、そこまでだよ鮮花嬢」

 

「‥‥ッ?!」

 

 

 が、突き出そうとした右手は私の顔の横ぐらいでがっしりと誰かに掴まれる。

 力強い握力に肩越しに振り替えれば、そこに見えたのは時間に見合わぬ地味で目立たない黒い学ランを着込んだ知り合いの兄弟子。黒い髪の毛を突然舞い込んだビル風に靡かせ、普段とは違う頼もしさを感じさせる雰囲気を放っていた。

 

 

「ちょっと、何すんのよ紫遙さん」

 

「それはコッチのセリフだよ鮮花嬢。君は‥‥今、何をしようとしていた?」

 

 

 右手に出していた焔が消える。紫遙さんも器用に魔術を使って打ち消していたみたいだけど、それでも兄弟子に火傷をさせる可能性があるのは頂けない。

 さっき別れるまで会っていた時の雰囲気とは全く違う、真面目で厳しい顔。コイツのこんな顔を見たのはコレが初めてかもしれない。あまりに異様な、というより見慣れぬ知り合いの姿に、私は思わず手に込めていた力を緩めてしまった。

 

 

「コラ! 放っといたらアイツ逃げちゃうじゃないのよ!」

 

「大丈夫だ。さっきの男がこっちを振り向いた時に暗示をかけて認識と平衡感覚を操作して、この周囲の路地裏から出られないようにした。俺の魔力が残留している間は延々と数メートルぐらいを行ったり来たりしているよ」

 

「はぁ‥‥意外に器用なのね、紫遙さんって」

 

「器用じゃなきゃ魔術師はつとまらないよ、鮮花嬢。‥‥それよりさっきの質問だ。君は、一体何をしようとしていたんだい?」

 

 

 いつもの、真面目に見えて合間合間に軽口を叩く紫遙とは様子が違う。普段なら落ち着いていながらも楽しげな色を浮かべている瞳はどこまでも真剣に私を見つめていて、遊びの余裕がない。

 掴まれた手は私が後ずさる時に離してくれたけど、心なしか手首を見ると微妙に痣、とまではいわずとも痕がついているような気がする。

 

 

「‥‥何って、そりゃさっきの男にちょっかい出されそうになったから、怖がらせてやろうかと‥‥」

 

「魔術、いや、異能を使おうとした‥‥というか使ったね?」

 

「まぁ‥‥ウン‥‥」

 

 

 眉を顰め、声音は厳しい。まるで粗相をした生徒を叱りつける教師のような、粗相をした子供を叱りつける親のような、粗相をした部下を叱りつける上司のような態度だ。

 ‥‥何だかんだで長い付き合いというわけではないにせよ、それでも温厚な人柄であることだけはしっかりと分かっていた紫遙が私にこうやって詰問する。

 ここに来て、私は自分が何かマズイことをしてしまったのだと気がついた。魔術師の先輩後輩の間柄として、この局面で私は紫遙が自分よりも上の位階にいることをしっかりと理解した。

 

 

「‥‥鮮花嬢、もしかして勘違いしてないかい? 俺は別に、一般人に対して魔術を使ったことを怒りたいわけじゃない」

 

「は?」

 

「やっぱり分かっていないみたいだね。‥‥鮮花嬢、今君が放とうとしていた焔を、さっき放とうとしていた位置‥‥丁度あの辺り目がけて放ってみてくれないかい?」

 

「‥‥うん、まぁ、いいけど」

 

 

 紫遙の言葉に従って、再度右手に力を湧き上がらせる。

 掌から迸った焔は橙。まるで橙子さんの髪の毛みたいな色の焔は決して威力が高いわけじゃないということを示す。焔は橙から赤、そして青、最後に白へと色を変えるにしたがって温度を高くしていくのだ。

 それにしても私がまだ未熟なのは仕方がない。今はこれで十分だ。そう考えて右手を振りかぶり、紫遙が指示した通りに、さっき私が狙っていた、ちょうど男がいたところ目がけて焔を放つ。

 

 

「Azolt———って、え?!」

 

 

 ゴウ、と空気を吹き飛ばすような音を立てて、焔は狙い違わず私の掌から解き放たれて目の前へ横に火柱を上げて飛んでいく。

 ‥‥狙いは確かに違っていなかった。問題は、狙いではなく焔の威力。

 私の掌から解き放たれた焔はさっき男が逃げだそうとしていた場所を遥かに超えて、路地の見渡す限りを焼き尽くすかのように先の先まで伸びていった。

 

 

「‥‥ウソ」

 

「ウソ、じゃないよ鮮花嬢。散々言ったじゃないか、制御の訓練は大事だって」

 

 

 黒焦げになった路地を呆然と見つめる私の後ろから、冷徹にも聞こえるぐらい平坦な紫遙の声がした。

 今の焔を、さっき私が放っていたらアノ男はどうなった? こんな火力、いくら魔術師としては威力が低めとはいえ、普通の人間が喰らったら冗談では済まない。‥‥おそらく、全身火傷で死、死んでしまったことだろう。

 

 

「‥‥神秘の秘匿がなされていれば、一般人なんて餌にしようが材料にしようが、魔術師が気にすることじゃないよ。それは俺も、橙子姉も同じさ。

 でもね、鮮花嬢。たとえ人殺しが肯定されるような世界にいたとしても、君は‥‥今の結果を予想して術を行使しようとしたのかい?」

 

「‥‥ッ!」

 

 

 魔術師の常識。それは確かに散々橙子師達から教えられたことではあるけれど、私はそれを自分の中で昇華するまでには至っていなかった。

 もちろん私はアノ男を殺そうとしたわけじゃない。ちょっと髪の毛を焦がして脅かして、私が橙子師から習った火を使った催眠術で記憶を操作しようとしただけだ。

 ‥‥それがまさか、こんなことになる可能性をはらんでいたなんて。

 

 

「分かったろう?」

 

「‥‥‥‥」

 

「魔術師はどこまでも利己主義でいるべきだ。他人なんて顧みず、自分の利益のみを優先する生き物であるべきだ。

 でもね、だからこそ自分には自分で責任を持たなければならない。それは今の君の、制御能力のこともそうなんだよ。たとえ結果として人を殺してしまうことが別に構わないとされていたとしても‥‥君はその結果を許容できたかい?」

 

「‥‥それは」

 

「覚えておいてほしい。使う力は違えど魔術師として生きていくことを決めたんなら、決して後悔するような生き方をしちゃいけない。後悔しないように、最善の対策をとる。

 たとえば根源に挑む魔術師みたいに、ね。そのぐらい臆病じゃないと魔術師はつとまらないよ、鮮花嬢」

 

 

 魔術師。

 それは普通の人間であることを止め、歴史の奥深くへと埋没することを選んだ人種。歴史に、自己に埋没することは即ち孤独を指す。

 孤独、自由、そういったものは自分自身を縛るものだ。集団、規則、そういったものに縛られることによって自由を得るのではなく、自分で自分自身を縛り上げて律する生き方だ。

 

 

「‥‥私には、覚悟が足りなかったってこと?」

 

「土壇場で誰かを殺す覚悟をするんじゃないんだ。土壇場の前に、俺達が普通に過ごしている日常で覚悟をしていくこと。それが魔術師にとって、意外に思うかもしれないけど大事なことなんだよ」

 

「成る程、ね。‥‥悪かったわね、基礎が嫌なんて子供っぽいこと言っちゃって」

 

「気にしてないさ。俺も昔はそう言って橙子姉に迷惑かけたものだし、ね。‥‥まぁ橙子姉には一蹴されたし、青子姉には散々笑われたあげくに酒の肴にされたけど」

 

 

 ハハ、と乾いた笑いが漏れる。こんなところで、説教喰らった後に不謹慎かもしれないけど、それでも最後にはこうやって笑って元の空気に戻せるのも紫遙の言いところなのかもしれない。

 今まで練習を繰り返していながら、今の今になって実感した自分の力。人を殺せるには十分な力、危険な力。それでもまだまだ未熟な力。私は‥‥まだまだ魔術師として成長しなければならない。

 

 

「あぁ、それじゃあさっきの奴に暗示をかけてから帰るとしようか。今みたいなことがあったらマズイし、途中まで送っていこう」

 

「ちょっと、そこは普通、私のことが心配だからとかじゃないの? ていうか途中までで良いわよ。男と帰って来るところとか寮監に見られでもしたら‥‥死に目を見るもの」

 

「ハハ、確かに」

 

 

 路地の奥、まだ焦げてない方へと歩いていく紫遙の後を追いかける。まだ習い立てで不安のある私の暗示よりも精神干渉には一家言あるという紫遙の暗示の方が安心だ。

 そういえばコイツ、魔眼とか研究してるらしいしね。橙子師の弟ってんだからてっきり跡継ぎという意味で人形作りでもしているのかと思ったけど、そんなことはないらしい。

 

 あぁ、今になって思えばあの時のあのやりとりが、私が紫遙のことをしっかりと認めた瞬間だったのかもしれない。

 私は私にとって価値のある人間しか、私の人付き合いのラインを超えることを許さない性質がある。だからこそ今まで紫遙とも、兄妹弟子とはいえども表面的な付き合いしかしていなかったのだろうか。

 魔術師であること。それは私が、即物的な理由に近いながらも自分自身で選んだ生き方。世の中の枠からはみ出して一人で生きていく孤独の旅路。

 最終的にどこに行くのか、どこに行きたいのか‥‥。それでも私は歩き続けていくことだろう。

 ただ私が今ここで私でいること。そして今ここの私に私自身が責任を持つこと。私自身が、私自身の足で立つこと。あぁなんだ、よくよく考えたら黒桐鮮花っていう人間は、確かに昔からそういう生き方をしてきたつもりじゃなかったか。

 

 だとしたら、ウン、きっとそうだ。

 きっと黒桐鮮花が魔術師になったのは、偶然でも奇縁でも何でもなく、それこそ必然という名の運命に記された事実そのものであったのかもしれない。

 

 

 

 Another act Fin.

 

 

 




分かりにくいかもしれませんが、後半は鮮花の視点です。
それにしても気がついたら三万文字。どうしてこうなった……?


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第六十七話 『友人達の焦燥』

本日、Arcadia様にて連載中の改訂版にて第十話を更新しました!
両儀流の道場での一幕でカットされていた、士郎と紫遙君の手合わせの様子を細やかに描写しております。よろしければごらんになってください!


 

 

 

 

 side Rin Tosaka

 

 

 

 世界に冠たる魔術協会。そしてその総本山である倫敦の時計塔。

 とはいえこの時計塔は巷で有名な国会議事堂の方ではなく、表の顔である大英博物館の地下に下へ下へと伸びていく逆向きの尖塔のような構造をした学舎を指す。

 一般人に対して秘匿されるべき魔術という神秘を研究する場所であるため、秘匿性を加味して殆どの構造物は地下にあるんだけど、いくつかの部屋や講義室などは大英博物館の裏にある建物の中に入っている。

 ここでは表だった研究とか実験は当然出来ないけど、その代わりに地下に比べて書類仕事とか、神秘の秘匿とかを気にしない仕事ならばはかどりやすい。やっぱり人間、いくら魔術師が穴蔵に籠もることを好む生き物だとしても太陽の光無しには生きられない。

 表向きはそこまで綺麗じゃない目立たない建物も、中に入ってみれば世界で最も勢力を広げている一大組織として相応しい内装や調度品が完備されている。特に王冠以上の位階を持った魔術師達の執務室が据えられたフロアは‥‥これ、額縁の一つでも持って帰ってもいいわよね?

 高級な内装に目を奪われてしまっても仕方がないというものだろうけど‥‥多分、某かの魔術的な罠でも何でも仕掛けられていても不思議じゃない。迂闊に手を出して痛い目にあっても、自業自得というものだろう。

 

 

「‥‥成る程、謎の魔術師か」

 

 

 そんな中でもおそらくは最上級に位置する立地と内装のこの部屋。時計塔の地上部の中でも一番に良い景色が拝める部屋に、蒼崎君を除いた冬木に派遣されたメンバーがそろっている。

 メンバーの他には二人。たった今口を開いた、赤い外套と黄色い帯を垂らした長髪の男、時計塔のカリスマ教授ことロード・エルメロイⅡ世。そして豪快に顎髭を蓄えた長身の老人。この部屋の主である死徒二十七祖の第四位。宝石翁。魔導元帥ことキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグだ。

 私とルヴィアゼリッタの家系の祖———と言っても教えを受けたというわけで、別に血が繋がっているわけではない———である大師父は、死徒、つまるところ吸血鬼でありながら窓から差し込む光を受けてびくともしていない。

 本来なら吸血鬼にとって日の光は大敵であるわけだが、死徒の中でも頂点に立つ二十七人の吸血鬼の中でも高位に位置している彼にとっては大した脅威ではないらしい。いや、本当はどうだか分からないんだけど。もしかしたら我慢してるのかもしれないし。

 

 

「冬木に現れた謎の魔術具であるクラスカード。いったい何処が出所かと思っていたが、まさかばらまいてくれた張本人が出てくるとはな‥‥。

 本人の口から聞いたこと、そしてクラスカードの機能から考えて照合してみれば‥‥。やれやれ、本当にあのクラスカードを自身で作り出したとしたら、学部の長にも匹敵する実力の持ち主だぞ」

 

「名前も所属も名乗っていませんでしたから、フリーの魔術師なんでしょうか? だとしても、あそこまでの腕前を持った魔術師が今までノーマークだったとは、ね。

 仮にも管理人(セカンドオーナー)だっていうのに、自分の管理地を留守にしている最中の危機管理も行えないなんて、不甲斐ない限りです」

 

 

 ロード・エルメロイの言葉に続けて、私も拳を顎へと持っていきながら思案する。ロードのお言葉通り、今回の事件では尋常ではないぐらいに不確定要素の連続だった。

 もっとも今回の事件そのものが不確定要素の固まりだったと言えばそれまでの話。それ以前の問題としてあまりおちょくることができるような事件ではない。

 

 管理地への、管理人(セカンドオーナー)への敵対的な魔術師の侵入。私が口に出した通り、如何に管理人(セカンドオーナー)が不在の状態とはいえ、如何に相手が私はおろか時計塔の一部門の長に匹敵する位階の魔術師とはいえ、ここまで簡単に侵入を許すのは不甲斐ない以上のものではない。

 例えば張った結界を某かの方法で管理人以外にもチェックできるようにして、桜に監視しておいてもらえるというのも悪くないし、代理で管理をお願いしている神父様にお願いしておいてもいいだろう。

 決しておろそかにしていあわけではないと思いたいが、それでも倫敦に来るということが思考の中で先行していて対策が万全ではなかったのも確かである。

 今回の一件については悔やんでも悔やみきれないけど、これからしっかりと新たに対策を練っておく必要があるだろう。

 

 

「‥‥やれやれ、あまり気に病むな遠坂の。件の魔術師、お主達が思っておるとおり、話を聞く限り並の魔術師じゃないなどという表現では量りきれん。戦闘が得意な術者というわけではあるまいが、それにしても執行者の部隊で太刀打ちできたかどうかも、な」

 

「大師父‥‥」

 

「もちろん管理者(セカンドオーナー)として今以上にしっかりやっていこうと思うこと自体は悪いことではないぞ? その心がけは立派じゃ。精進せい、遠坂の」

 

 

 こちらを気遣うとか宥めるとか、もしくは嘲るとかそういう他人に関係する感情を顔に出さず、大師父はニヤリと豪快に笑ってみせた。どこまでも頼もしい、というよりは自然に傲慢不遜と言うべき態度は人間より遥かに年月を積み重ねてきた大師父だからこそ、というべきか。

 今代の魔導元帥は時計塔の学長補佐であるバルトメロイ・ローレライであるが、実働するのは彼女でも実質的に内外に魔導元帥として知られているのは目の前の死徒二十七祖の内の一。流石に時計塔の顔の一つが相手では、教会も何も言えないらしい。

 まぁそもそも死徒二十七祖の中でも高位、というか有名な連中だと実際居場所が既にはっきりしてる奴だって何人かいる。そいつらを教会が即討伐といかないのは、実力云々もあるけど政治的判断とか色々絡んでいる。

 特に高位というわけではないにしても死徒のまとめ役みたいな奴だと簡単に討伐したら死徒の間での秩序がアレしてしまうし。

 

 

「しかし、今回の犯人は遠坂の報告ではっきりした。如何にノーマークの魔術師であろうと、時計塔のデータベースならば時間はかかるだろうが正体も見つかることだろう。それに、幸いにして冬木が再度襲われるようなこともなさそうだな」

 

「はい。あの魔術師の口から聞いた思惑から鑑みると、その可能性は低いと思われます。‥‥問題は、その思惑の方なんですが」

 

「あのヤロウの思惑、か。一体何だったんだよアイツ‥‥」

 

 

 ロード・エルメロイの言葉に、非常に細かい部分を除いて説明していたがために事情がよくわかっていない二人の上司以外の一同が、またも揃って難しい顔をして唸る。

 最初は私の管理地である冬木に関する、そして私とルヴィアゼリッタが大師父の直弟子になるためという目的の任務であったはずなのに、いつの間にやらおかしなことになってしまった。

 

 突如、冬木に現れた謎の魔術具クラスカード。

 鏡面界という異空間を現実世界とは別の場所に生み出し、そこに黒化(れっか)した英霊(サーヴァント)を召喚する。

 あまりにも高度で、強力な魔術具はどうやら冬木という一級の霊地の霊脈から力を吸い取っていたらしく、冬木全体に聖杯戦争の頃に匹敵する歪みを作り出していた。

 魔術協会から派遣された調査団、あまつさえダメ押しの執行部隊すらも全滅という異常な経緯を経て訪れた冬木の街。そこで普通に事件が終わるなんて考えていたわけはない。

 ただでさえ六体もの英霊の打倒。そして事件の調査。クラスカード自体に対する詳細な解明までは要求されていないにしても、それでも字面だけ並べても簡単な任務ではないのは容易に想像出来る。

 それでも‥‥あれほどの衝撃的な、それでいながら意味の分からない結末を迎えるとは思っていなかったのだ。

 

 

「‥‥あの、大師父、実は———」

 

「———やっほー! みんな無事だったーッ?」

 

「蒼崎‥‥って、え?!」

 

 

 まるで、一個小隊が小銃を斉射したかのような、まるで戦車が大砲を撃ち放ったかのような、それでいながら微妙に軽い轟音がそれなりに広い執務室の中に響き渡った。

 音源は重厚で魔術処理が幾重にも施してある執務室の扉。とりあえず常識の範囲内としてやってはいけない速度と乱暴さで開け放たれた扉は、おそらく製造者———これも魔術師と思われる———が想定していなかっただろう音を立ててすぐ隣の壁へと衝突したのである。

 ‥‥一応アレ、魔導元帥の執務室に相応しい対魔術防御、対物理防御を施した一級品だったはずなんだけど、今の衝撃を見るにもしかしたら罅ぐらいなら入っているかもしれない。

 

 

「‥‥あら、若いのと年くったのが雁首揃えて何難しい顔してんの?」

 

「ていうか、誰ですか?」

 

 

 扉に深刻なダメージを与えたのは一人の女性。

 窓からの光を反射して微妙に赤く光っているように見える腰まで届く長い茶髪と、大人びていながらも年齢不詳と言えるぐらいには若い、それでいながら成熟したようなしていないような精神を持ち合わせた風貌。

 入ってきた時のテンションとは真逆の、落ち着いた赤色のコートと白いブラウス、そして黒いロングスカートという上品な格好をしている。最初に扉を壊しかけた人間とはとても思えない。

 というか場所が公に知られている執務室とはいえ、仮にも宝石翁と呼ばれる魔法使いの執務室にこんな調子で入って来られる人間って‥‥どうなのよ? まさか鍵かけ忘れたとかあるまいし、ここってこんな簡単に入ってこれるとこじゃないはずなんだけど。

 

 

「‥‥誰って、もしかして私のこと知らないの? アンタ達」

 

「知らないのって‥‥普通ソレ、初対面の人に聞くような台詞ですか? ていうかいくら年上でも慣れ慣れし過ぎやしませんか?」

 

 

 謎の女の人は、身体を左右に揺らしながら近寄ってきて、私達の顔を順番に下から覗いてくる。少しだけ細めた目がまるで猫、というよりは某かの猫科動物みたいで思わず一歩後ずさってしまう。

 うん、間違いなく私達よりは年上のはずなのに、不思議と顔立ちは同い年ぐらいに見える。それでいながら大人っぽい雰囲気も併せ持っているのだから、本当に不思議な人だ。私の口調が砕けて仕舞うのも仕方がない。

 というか完全に初対面のはずの私達を相手に自分のことを知ってないはずがないなんて、どれだけ自意識過剰な人なんだろうか。私の周りにこんな自信満々の人間なんて‥‥約一名、私の隣にいたような。

 

 

「———って、ちょっとルヴィアゼリッタどうしたの?」

 

「‥‥な、なんで貴女が‥‥」

 

「?」

 

 

 順繰りに顔を覗き込まれて、位置的に最後の場所にいたルヴィアゼリッタが短い悲鳴を上げたのが注意を引く。

 気になってちらりと見てみれば、目の前で楽しそうに目を細める女の人と睨めっこ‥‥というには些かルヴィアゼリッタが怯えたように後ずさっているけど、とにかく怯え方が普段のルヴィアゼリッタとは大違いだ。

 

 

「‥‥もしかして知り合い?」

 

「し、知り合いも何も、超有名人ですわよ‥‥。いったい何故貴女がここにいるのですか、ミス・ブルー?!」

 

「「「ええっ?!」」」

 

 

 ルヴィアゼリッタの言葉に、私とセイバーと士郎が素っ頓狂な声を上げた。

 

 

「あらー、久しぶりに会ったっていうのにつれないわねぇルヴィア? あんなに一緒だったのに〜」

 

「あれは貴女がおもしろがって私をダシに遊んでいただけでしょう?! というかいくら親族の友人とはいえ一人前の魔術師相手にそれなりの敬意といいますか、とにかくアレだけ好き放題というのはどうかと思うのですが?!」

 

「えー、だって貴女があんまりにも面白い反応するからー、ついつい可愛がってあげたくなっちゃうのよー」

 

「ひぃぃぃいい?! だから私の髪の毛を引っ張るのはお止めになって下さいとあれほど申し上げましたでしょうっ?!」

 

 

 怯えるルヴィアゼリッタに近づくなり、その女性は彼女の頭を囲むようにして垂れ下がっている不可思議なドリル、つまるところ縦ロールをおもむろに引っ張り出す。びょいんびょいんと力の加減に反応して弾むのは確かに面白そうだ。

 あまりにも傍若無人なその振る舞い。そしてルヴィアゼリッタの口から出てきた人名。

 彼女が私達に、自分のことを知らないのかと問うて来たのも納得出来る。確かに時計塔に在籍している魔術師ならば、そりゃ初対面ならともかく特徴ぐらいは知っていないとおかしい人物だ。

 

 

「‥‥第五法の行使手、ミス・ブルー」

 

 

 青の魔法使い、第五法の使い手、マジックガンナー、人間ミサイルランチャー、ミス・ブルー。

 様々な異名を持つ現代の、最も若き魔法使い。時計塔においては厄介事の代名詞として恐れ‥‥もとい畏れられている人物で、なおかつ魔法の正体が知れない割に協会からの任務は頻繁に請け負っているらしく戦闘能力は随一と聞く。

 一応は時計塔には所属しているけど、基本的には世界中を旅して回っているらしい。もっとも蒼崎君曰く結構頻繁に時計塔に帰ってきて彼にだけ顔を見せているらしいから、どうにも移動手段に説明つかないところがあるんだけど。

 そうそう、言い忘れてたけど言わずと知れた蒼崎君のすぐ上の姉だ。

 

 

「うわ、確かに噂の通りだわ。まさかルヴィアゼリッタが玩具にされてるのが見れるなんて‥‥」

 

「こ、この方は以前にショウの工房で会って以来、何が楽しいのか私にちょっかい出してくるのですわ! まったく勘弁していただきたいものですわ!」

 

「だからー、ルヴィアの反応が一々面白すぎるからいけないんだってばー。アハ、貴女の縦ロールっていくら引っ張っても元に戻るのね? コレちゃんとセットとかしてるの?」

 

「ですから、止めて下さいませー!!」

 

 

 相変わらずルヴィアの縦ロールを引っ張って遊んでいる青子さん‥‥もといミス・ブルーに思わず溜息をつく。確かこの人、名前で呼ばれるのが死ぬほど、というか殺すほど嫌だって蒼崎君に聞いてたから注意しないとね。

 大師父に比べて、この人は魔法使いとは思えない程に飄々として普通のメンドくさいお姉さんみたいだ。まぁルヴィアゼリッタが本当に嫌がるラインは見極めてるみたいで、そこまで酷いことはしてないみたいだけど。

 どっちにしても‥‥ウン、この人には触らない方がいいかもしれない。なんていうか、うっかりすると私の方まで被害が及びそうな気がする。

 

 

「で、ウチの馬鹿息子はどうしたの?」

 

「は?」

 

「ウチの紫遙よ。貴女達と一緒に冬木まで任務に行って来たんでしょ? 折角だから会っておこうと思ったんだけど、いないの?」

 

 

 ルヴィアゼリッタをからかっている内に前の方へと下がってきてしまった髪の毛を後ろの方に無造作に払って、片眉を上げてこちらを見るミス・ブルー。あらためて見てみるとスタイルが抜群にいいから立ち姿もスラリと一直線で綺麗だ。

 こんな人が姉なら蒼崎君にシスコン疑惑———もはや疑惑ではないが———が生じたり、浮いた噂の一つもないのも頷けるというものである。美人っていうだけじゃなくて、すごくカッコイイ。

 

 

「‥‥蒼崎君は、その」

 

「?」

 

「ふむ、ブルーよ。実は少々面倒なことになっておるようでなぁ‥‥。遠坂の、ワシらにも蒼崎のとこの坊主について、話してくれぬか?」

 

 

 一斉に俯いた私達に疑問の声を発するミス・ブルーに、何も言えない私たちに代わって大師父が口を開いた。

 私達が大師父とロード・エルメロイに報告した内容は、簡単な事件の経過と最終的に出現した黒幕たる魔術師の存在について。最後に繭津市がフェイドアウトしたことについては報告したけれど、それでも詳細については何も話していない。

 まだ上司たる二人には報告していない、任務の一員であったはずなのにこの場にはいない蒼崎君のこと。最後に魔術師が思わせぶりに、というより間違いなく何かの思惑をはらんだあの言葉。

 蒼崎君が、アサシンとの戦いで見せた狼狽。彼の記憶から奪われた触媒によって召還された、第四次聖杯戦争のハサン・ザッバーハ。百の貌のハサン。

 “正確な正体が記述された書物を見ていたから”という蒼崎君の説明も納得できない部分がある。仮にそれが本当であったとしても、彼はいったいどこでその書物を目にしたのであろうか。

 すべての答えが、あの魔術師との関係にあるような気がした。

 

 

「実は‥‥」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「———なんて、こと‥‥」

 

「何か心当たりがあるんですの、ミス・ブルー?」

 

 

 一通り、私自身の主観や思惑を一切交えない客観的な事実だけを抽出した事件の顛末を話すと、ミス・ブルーは先ほどまでのお気楽極楽な様子から一転、青ざめこそしないが尋常じゃないぐらいに深刻な表情をして目を見開いた。

 あまりにも衝撃を受けたらしいその様子。衝撃の度合いが激しすぎて、逆にいったいどれほどの衝撃であったのかまったく予想がつかない。

 ただ間違いなく言えるのは、おそらくミス・ブルーは蒼崎君が衝撃を受けた内容が、蒼崎君に対してあの謎の魔術師が放った言葉の意味が分かっているということだ。

 

 

「‥‥心当たりは、あるわ。なるほど、そういうことになったんなら、紫遙がここにいないのも納得できる。たぶん、工房にでも引きこもってるか当てもなくフラフラ彷徨ってるってとこでしょう」

 

「いくら探しても何処にもいないと思ったら、工房に引きこもってたの蒼崎君‥‥」

 

「いくら扉を叩いても反応がないと思ったら‥‥居留守でしたのね」

 

「もしくは外がどれだけ騒がしくても耳に入ってこないぐらい深刻な精神状況ってところでしょうね。あの子、昔から思い詰める時はとことん思い詰めるところあるし、今回はそれこそ問題が問題だからね‥‥」

 

 

 あの後、件の黒幕である魔術師がいなくなってから。私達は意識を失ってしまった蒼崎君をつれて泡を食ったようにこちらの世界でも無事に建造されていたエーデルフェルト別邸へと彼を運び込んだ。

 まるで糸が切れるかのように、完全に意識が落ちていた。幸いにしてすぐ後ろに控えていたバゼットがフォローしてくれたから頭を打つなんてことはなかったけど、下手したらそのぐらいやってしまったぐらい危険な倒れ方だった。

 幸いにしてエーデルフェルト別邸に運び込んだ翌日の夜には目を覚ましたけれど、あろうことか彼はアサシン戦の時の状態が軽く思えるぐらいに青ざめた顔をしていて、私達からの質問どころか気遣いの言葉にも一切の反応を返さない。

 しまいには例の如くルヴィアゼリッタがキレて胸ぐらを乱暴に掴み上げて怒鳴るぐらいまでいったのに、それでも彼はぶつぶつと何事かを呟くだけで瞳は虚ろにどこか遠く、もしくは彼自身の内側、思考の奥深くを覗き込んでいる。

 

 ‥‥結局その後はどうしようもなくて対応をルヴィアゼリッタに任せて私達は衛宮の屋敷へ、バゼットはホテルへ荷物を取りに行った。予定では暫く、数日ぐらいは冬木に滞在するつもりだったんだけど、蒼崎君の状態もそうだし謎の魔術師のこともあり、次の日の朝には私達は倫敦へ向けて飛び立った。

 ルヴィアゼリッタの話によると私達がいない間も蒼崎君は予想通り全く応答がなく、食事も水もとっていないらしい。数日ぐらいの絶食、断水なら魔術回路がある魔術師にとって問題ではないとはいえ、かなり気になる。

 意識を失うぐらいに衝撃的な出来事に自分の中に埋没してしまったのか、私達が促せば機械的に作業をして飛行機に乗ったり車に乗ったりはしてくれたけど、それでも一切口を開かずに黙々と従う様子には怖気すら覚えた。

 ‥‥そして倫敦、ヒースロー空港から出たとき、迎えのリムジンに乗ってみれば蒼崎君は忽然と姿を消していたのだ。

 

 

「‥‥まぁ問題は問題だけど、今の紫遙に何かあってココにいないってわけじゃないのね。少し安心したわ」

 

「本当に大丈夫なんですの? 確かに貴女の言う可能性が一番高いとは思いますが、それでもあの状態で倫敦の街を歩いている可能性があると考えると‥‥心配ですわ」

 

「大丈夫よ大丈夫。あぁ見えて茫然自失状態でも一般人相手だったら秒殺できるぐらいには鍛えてあるし、多分きっと本当に工房にいるわよ? 紫遙の精神状況を把握するんなら私と姉貴に並ぶ奴はいないもの」

 

「ですがミス・ブルー!」

 

「‥‥あのね、たかだか一年か二年ぐらいの付き合いの人間に弟の件で糾弾される程に落ちぶれてるつもりはないわ。口を慎みなさい、お嬢様方」

 

 

 噛み付く、という表現が正しいぐらいの剣幕で食って掛かったルヴィアゼリッタに、正体はさっぱり分からないが圧倒的な威圧感と共に青の魔法使いは返事をする。

 間違いなくルヴィアゼリッタは蒼崎君のことを思いやって言っているのは間違いない。なにせコイツは私達が倫敦にやって来るよりずっと前から蒼崎君と知り合いで、しかも互いに相棒とすら公言出来るぐらいに信頼し合っている間柄だ。

 だけど彼女が、そして当然のことながらあまり口を挟んでいない私達も、目の前の少しばかり不可解で深刻で、異常な事態に気を取られるあまり失念していたことがあった。

 目の前の魔法使いもまた、人間から外れた存在でありながら、やはり彼女は間違いなく蒼崎君の姉なのだ。

 

 

「貴女達の言いたいことは分かるわ。‥‥紫遙について、知りたいんでしょう?」

 

「何を言っているのですか! 確かにそれもありますが、私は純粋にショウを心配して———」

 

「いえ、ミス・ブルーの言う通りよ」

 

「ミス・トオサカ!」

 

「いいえルヴィアゼリッタ、そろそろはっきりすべきよ、私達は。もうそろそろ彼の秘密主義、というよりも隠している秘密そのものが許容できる範囲を超えているわ。

 何故か知っていた、第四次聖杯戦争の知識。アサシンの触媒に、アーチャーとの関係。今になって思えば最初から彼は不審な点が多かったもの。‥‥もちろん、友人であることには違いなくとも、ね」

 

 

 限界、とまでは言わないが、それでも以前から感じていた蒼崎君への色々な疑問を解消する、これはとてもいいチャンスだった。友人に対して過度に干渉することが良いことだとは思えないけれど、それでも友人だからこそはっきりさせておきたいこともある。

 隠し事が悪いことだなんて、よりによってあのアーチャーのマスターであった私が言うような台詞ではないし、私自身もそんなことは思っていない。ただ思うに、やっぱり付き合っていて秘密があることがはっきりしているともどかしいものがあるのだ。

 

 そして何より、その秘密が原因で生まれたらしい今回の騒動。

 大師父やロード・エルメロイの言葉通り、確かに今後、あの魔術師が冬木に出現して私達を脅かす可能性は低いだろう。でもそれは‥‥奴が蒼崎君に目を付けたからに他ならない。

 間違いなく、蒼崎君が私達に隠していた秘密が奴の目に留まった。だからこそ、私達は蒼崎君の秘密が知りたい。

 

 

「ミス・ブルー、私達は一応蒼崎君の友人だと思っているわ。だからこそ、こういうのは魔術師としてどうかと思うけれど彼の力になってあげたい。

 だから‥‥彼の秘密を知っておかなければ、彼の力になってやれないのよ。だって彼がどうして狙われているのか、狙われている理由を知らなきゃ対処しようがないじゃない?」

 

 

 目の前に立つ、普通のお姉さんに見えながらも紛れもない魔法使いに対して言った言葉と同じ。

 こういうことを私達、魔術師が言うのもおかしな話かもしれない。でも本当に心の底から、私達は蒼崎君のために何かしてあげたいのだ。

 そう頻繁ではないにせよ重要な局面ではいつも蒼崎君が某かの形で私達の手助けになってくれた。それは彼がそう考えてやったわけではないのかもしれない。それでも私達は大小様々な恩義を彼から受けたkとは間違いない。

 だからこれは、等価交換だ。貰いっぱなし、やられっぱなしは性分じゃないし主義に反する。それが何であれ互いにやりとりしなければ世界は停滞してしまうのだから。

 

 

「ふーん、じゃあ私が教えてあげなかったら、どうするのかしら? まさか私相手に力づくで聞き出すなんて言うつもり?」

 

「‥‥ッ!」

 

「士郎、大丈夫よ待ちなさい」

  

 

 物騒なセリフを口にしながら、青の魔法使いは威圧感を一気に高める。まるで戦闘一歩手前みたいなプレッシャーに、士郎が敏感に反応して投影の準備をするために魔術回路を起動させながら一歩前に出た。

 その意外にも広い肩に手を置いて制止しながら後ろを見ると、私のサーヴァントであるセイバーは士郎と違って直立したまま微動だにしない。ただ、私からセイバーへの魔力のラインが普段のものに比べて微妙に拡張されたことから、おそらく戦闘態勢に入る準備はしているのだろう。

 その更に後ろのバゼットはセイバーより更に動く気配を見せないことから、こちらはどうやらミス・ブルーとは既知の仲らしい。ロード・エルメロイと大師父も全く動揺した様子を見せてないってことは‥‥やっぱりこの女、普段からこの調子なんだろうか。

 

 

「‥‥もし、私がそう言ったなら、どうするつもりなんですか?」

 

「勿論、叩き潰すわよ。いくら紫遙の友達でも私に敵対する人間に容赦してやる神経なんて持ち合わせてないもの」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 何でもないことのように言ったけど、明らかに本気なのが彼女というものなのだろう。おそらく万が一私達が彼女に敵対することがあるのなら、それがどんな理由であれ彼女自身が言った通り、たたきつぶされるに違いない。

 だとしても私が躊躇する理由なんて、欠片もないんだけどね。

 

 

「ま、そんなことだろうとは思ったけど‥‥安心して、っていうのもちょっと違うかもしれないけど大丈夫よ。まさか魔法使いに逆らうような愚かな真似をするつもりはないわ」

 

「ふーん」

 

「貴女が教えてくれないなら仕方がないわね。知らないままで、蒼崎君の手伝いをするしかないわ。事情を教えてくれないからって見捨てるような真似はできないもの」

 

「ふ〜ん‥‥」

 

 

 口を歪ませながら言った私の言葉に、ミス・ブルーは何処か満足そうにニヤニヤと笑った。

 なんともこの状況で人の神経を逆撫でしてくれるけど、悔しくも実力の差がはっきりしているから手を出すことが出来ない。もちろん意味もなく手を出す気はないけれど、何とはなしに腹がたつ。

 

 

「成る程ねぇ。そうまで言ってくれる友達が出来たってことは、紫遙を時計塔に放り込んだのも悪くなかったてことかしらね」

 

「はい?」

 

「ああ見えてね、紫遙ってば倫敦に来るまでは殆ど親しく付き合ってた友達なんていなかったのよ。ほら、あの子ってば自分の中に籠もっちゃうタチじゃない?」

 

「まぁ確かに、そうですわねショウは。そこまで人付き合いが得意というわけではございませんし」

 

「‥‥そうかしら?」

 

 

 イメージとして、蒼崎君は非常に世話好きで交友関係も広いように見える。

 例えば私や士郎もそうだし、ルヴィアゼリッタだって。あとはバゼットとかロード・エルメロイとか‥‥って、あれ?

 

 

「そういえば、蒼崎君って実は交友関係そこまで広くないのかしら?」

 

「私も気づいたのは最近なのですが、親しく付き合っている方のジャンルが激しくばらついているだけですのよ。放っておいたら一人で延々静かに過ごしていますわよ」

 

「なのよねー。まぁ伽藍の洞に居た時には私が構ったり姉貴と勉強したり私が玩具にしたり私が連れ回したりしてたから忙しかったんだけど」

 

「いや、殆どアンタのせいじゃないか」

 

 

 さっきまでの戦闘態勢は何処へ行ったのか、士郎が呆れたように呟いた。

 蒼崎君のシスコン具合は甚だ呆れたもんだったけど、こうやってお姉さんに会ってみると蒼崎君のシスコンって彼だけのせいじゃないでしょ、絶対。

 

 

「これなら安心だわ。貴女達、これからもウチの馬鹿息子をよろしくね」

 

「ちょ、ちょっと待って下さいませミス・ブルー! ショウが秘密にしている事情というものは教えて下さらないんですの?!」

 

 

 そのままニコニコと、さっきまでのニヤニヤとした楽しそうな笑みとは違う嬉しそうな笑顔を浮かべてラフに退出しようとした青の魔法使いに喰ってかかる。

 あまりにも自然に大師父にまでひらひらと手を振って挨拶してたから見過ごしそうになったけど、もしかしてこの人って他の魔法使いにも同じような態度とってるのかしら。

 

 

「あら、誰が教えてあげるなんて言ったの? 遠坂さんが言った通りにすればいいじゃない」

 

「‥‥丸投げですか」

 

「紫遙のためにしてることだから詮索ぐらいは許すけど、本来なら今すぐに塵にされてもおかしくないぐらいの秘密だって、分かってるの? 自分たちで頑張りなさい」

 

 

 にべもない。散々私達と問答しておいて最初から教える気がなかったなんて、どこまで正確が悪ければ気が済むのだろうかこの人は。

 今まで色々と性格に問題のある人には出会って来たつもりだ。兄弟子であるところの似非神父然り、無理難題を命じておきながら飄々と笑う目の前の大師父然り、時計塔の学長長であるところの現魔導元帥然り。

 それでも、まるで温厚なあの蒼崎君の———義理とはいえ———姉とは思えないぐらいの強烈な人物。思わず私は目の前がクラリと傾くかのように思えた。

 

 

「‥‥紫遙が考えることよ、貴女達にあの子が自分の秘密を話すかどうかはね。でもね、正直な話、私も姉貴も待ってたんだわ」

 

「何を‥‥ですか‥‥?」

 

「紫遙の秘密を、私達以外に共有してくれる誰か、かしらね。‥‥私達もまさかソレが貴女達に、というよりも、紫遙が貴女達と関わりを持つようになるとすら思わなかったんだけど。‥‥というより、願わなかったって言った方が正しいかしらね」

 

 

 私達に構わず、ミス・ブルーはルヴィアゼリッタの問いかけに意味深な応えを返すと扉に手をかけてギシリと音を立てて開けた。繰り返すけど、外からでも中からでも簡単に開けられるような作りになっているはずなんだけど、あそこまで軽くされると気にもならない。

 

 

 

「あ、言い忘れてたけど」

 

「はい?」

 

「‥‥期待はしてるんだけど、もし紫遙を傷つけたりしたら、今度こそ塵にするからね」

 

 

 最後にもう一度だけ今までの中で一番の迫力で私達を睨み付けると、ミス・ブルーは今度こそ扉を閉めて出て行った。

 なんとなく理由が情けなくなってしまうけれど、その威圧感に私達は背筋どころか脊髄まで震え上がってしまったのであった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 自分の身に何が起こっているのか、ということを正確に把握するのは実は非常に難しいことだったりする。まず主観的にそれが正しいか、という疑問があり、それに加えて主観的な認識が客観的な認識と一致しているかということも重要になってくる。

 何を以て世界を知覚するか。何が真実なのか、何が現実なのか。普通の人間なら普段はそういう認識をしないと思うけれど、そういう曖昧な認識のままでは世界と自己との違いを明確に区別することはできない。

 普通の人間ならば、それでもいいかもしれない。与えられているものを享受するだけでも、普通の人間なら普通に過ごしていくことができる。というよりも、そこに与えられたものへの疑問か何かを意識してしまえば、それは平穏な生活を意図して崩壊させるきっかけとなりかねないのだから。

 ああ、しかしそれでは“蒼崎紫遙”にとっては不十分だ。俺が望んだのは平穏な一般人としての生活なんかじゃない。‥‥魔術師にとって自己を明確に自分自身で定義しないことは魔術の運用どころか、理論の段階で躓く要因となる。

 

 自分を正しく認識すること。世界を正しく認識すること。普通なら、それは難しいという表現の中でも比較的簡易な部類に入ると思う。魔術師が先ず何よりも先に、それこそ魔術回路を形成するよりも先にやることだ。

 魔術師といえど、普通の人間と同じように、究極的にはまったく同じ大地、同じ世界に立っていることには一切の違いがない。そこに生じる違いとは認識だけであるのだから、普通の人間としての視点から大きく一歩下がり、より広い視界を手に入れれば事はそれで済む。

 ‥‥そう、普通の魔術師なら常識以前の問題。これをこなしておかなければ、魔術回路以前の問題として魔術師として成っていない。だというのに‥‥俺という、蒼崎紫遙という魔術師にはソレが一番難しかった。

 

 魔術は世界を、『 』を基盤として運用される技術、学問である。自己と世界との違いを明確にするのも、結局は“世界の中にいる自分”を意識するためなのだ。

 自己と世界を、区別しながらも一体になる。自分が立っている大地から、自分が存在している世界から力を使うための手助けとなる道筋を引き出す。イメージは魔術師によって個人個人それぞれだけどね。

 魔術を使うために必要な小源(オド)は魔術師自身が魔術回路を使って生成している。術式も形態も魔術師によってそれぞれだけど、使うための基盤はどんな魔術だろうと共通して世界そのものだ。

 術式とか、形態とかの小細工以外の、魔術そのものは世界から引き出しているのだ。世界は他人に力を貸してはくれない。

 そして俺は、“世界にとっての他人”であった。

 

 

「‥‥そんな、馬鹿な。ハハ、一体どうなってやがるんだコレは‥‥」

 

「ふむ、まぁ気持ちも分かるが少し落ち着け。というよりも正気に戻れ。私達はまだ話さなければならないことがたくさんある。そうだろう?」

 

 

 本棚に所狭しと乱雑に置かれている日本語以外の、謎の言語で表題が記してある大量の書物や、何故か大量に積まれている用途不明の、しかも絶対に映らないであろうブラウン管テレビの山以外にはまったく調度品が無い室内。

 殺風景を通り越して不気味ですらあるコンクリート剥き出しの部屋の中に、これまた奇妙な取り合わせの三人の男女の姿があった。

 

 三人の内の二人は若い女性。しかも十人が十人、百人に九十八人は美女と断言するだろう類稀な美貌と完璧なスタイルを兼ね備えた女性だ。ちなみに余った二人はおそらく特殊な性癖の持ち主だろうことは言及するまでもない。

 片や橙色、というよりはくすんだ赤色の髪の毛を頭の上の方で一つに括り、白いシャツと黒いスラックスという非常にシンプルな格好をしているが、鋭利な顔つきだからかシンプルな格好がよく似合っている。

  

 

「姉貴、こりゃ無理よ。ちょっとばかし放っとかないと振り切れた針が戻ってこないわ」

 

「少々買いかぶっていたか? そういえばコイツ、子供になったという先入観が働いていたが只の男子高校生だったっけなぁ」

 

「ま、私もまともな男子高校生と付き合ったことなんて数えるぐらいしかないから分からないけど、男子高校生以前の問題として一般人なら通常の反応じゃないの? ていうか私だって自分がちっちゃくなってたら少しぐらい呆然とするわよ」

 

「お前にそんな可愛げなんぞあったか?」

 

「‥‥姉貴にもね」

 

 

 もう一人は窓から差し込む僅かな陽の光を反射して真っ赤に見える茶髪を無造作に背中へと下ろした、同じくらいの年頃と見えるこれまた尋常じゃないぐらいの美人。

 意地悪そうなもう一人の方の視線とは異なり、何処までも前向きで清冽。きっと目の前の人を見ているようでも、その視線の指し示すその先は遥か彼方、前の方を射貫いているに違いない。

 これまた鋭い目つきの女性の方と同じく、白いTシャツに洗いざらしの青いジーンズというシンプルを通り越した適当な格好で、それが何故かありえないぐらい似合っている。

 

 

「というか実際、コイツの骨格とかはどうなってるんだ? 質量保存の法則は魔術の世界においても覆すに難い大問題だぞ」

 

「幼児化のための術式に使うエネルギーに還元されたとか?」

 

「誰かが意図的にやらかしたのならそうだろう。しかしコイツの記憶を見る限り、“向こう側”の世界に魔術師に類する連中がいるような印象は受けなかったな。流石に記憶の向こう側の太源(マナ)を見るなんて私の魔眼でも出来ん」

 

「‥‥まぁ、いくら神秘の秘匿の原則が守られていると仮定しても、ちょっとねぇ。そりゃコッチの世界にだってファンタジー小説とかゲームの類は大量にあるけど、あんなに精巧に正確に魔術について描写した作品はないし」

 

「向こう側に仮に神秘に属するような集団がいたとしても、おそらくは我々とは全く違った体系と技術を築いていることだろう。でなければ、あのような作品は許容できるものではないからな」

 

 

 しかし、今の俺が問題にしてるのはそんな外部から与えられる情報じゃない。俺自身の、生まれてからずっと付き合ってきて完璧に把握しているはずの俺の体から与えられる情報に深刻なエラーが発生している。

 

 まず、右手を自分の顔の前に差し出してみる。

 生命線とか頭脳戦? とか環状線? とか結婚線とか、とにかく色んな手相が判断不能なぐらいに寸断されたり交錯したり消失したりしてしまっているオレの右手。あろうことか微妙に左手と左右対称じゃないのも特徴だ。

 それほど華奢じゃない、男らしいゴツゴツした手。身近の、手を互いに確かめ合うぐらいの仲にある知人が母親ぐらいしかいないために比べたことはそうそう無いけれど、肌の荒れぐらいも手入れをしていないからか十分に男らしい。

 

 その手が、その男らしい大きめでゴツゴツした手が、同級生が同じく同級生である女子に細くて白くて綺麗な手だと褒められる度に拗ねていた手が、大きさだけ見るならば優に二回り、下手すれば三周りぐらい縮小をかけられてしまっていた。

 

 

「そう? でも例えばそういう媒体が偶然そういう組織の実態を映してしまったとしても、無視してればいいようなものじゃない? だって過剰反応してたらそれこそ不自然に見られちゃうかもしれないじゃないの」

 

「ふん、それも一つの手段かもしれないが、決して正解というわけではない。何故なら“知っている”ということはソレ単体で“識っている”ということへと昇華しかねんからな。偶然にでも、我々‥‥のような存在に辿り着かれては、面倒だろう?」

 

 

 よく見れば縮んだってだけじゃない。握ったり開いたりしてみれば骨が軋むようなギクシャクとした感触はなく、強く拳に力を入れても柔らかな感触が自分で分かる。

 その右手で左手を触ってみれば、ほとんど日焼けをしていない真っ白で血色のよい健康的な小さな手は、ふにょんとささやかながらも確かな柔らかい感触を返す。‥‥まるで子供の手みたいだ。

 

 

「まぁ一般人の間でも魔術研究は進んでいるがな。いくら歴史を紐解き理屈を捻ったところで、真実を識らなければ魔術は、神秘は行使出来ない」

 

「というか先ずは魔術回路を構築できないとねぇ‥‥?」

 

「一抹の真実を含んでいることは間違いないがな。もしかしたら、ああいうアマチュアの活動こそが学問としての魔術の正しい在り方の一つなのかもしれん」

 

 

 次に足を上げてみる。上げてみるとは言ったけど、元々作業台らしき物の上に座っている俺は何故か足の底が床に届いてないから、足を持ち上げると体が後ろに傾いでバランスを失うからあまり大木上げることは出来ない。

 視線を下ろしてみれば手と同じように、まるで当然の予定調和のように足も心なしか短くなっている。心なしか、とは言ったけど元々の自分の足が短いワケじゃない。決して、ウン、断じて。

 視線から受ける体のバランスが全体的におかしいのだ。足から視線を上げて腰の方まで見てみるとこれまた全体的に二回り以上は小さくなっているのが分かる。

 ‥‥一体、どうなってるんだ。もはや疑問を挟む余地もなく、俺の体が縮んでしまっているという事実だけは圧倒的な存在感を持って現実としてオレを真上から叩きつけていた。

 これはまだ分からないことだけど、おそらく鏡を見れば俺の顔は、これもおそらくではあるけど小学生ぐらいまで幼くなっていることだろう。もし体がここまで子供っぽく縮んでいる仲で、顔だけが高校生のままだったら軽く恐怖だ。

 

 

「さて、これだけ放置していればそろそろ自分の状況は理解できたところか? なぁ少年?」

 

 

 と、自分の心の整理を付ける暇もなく新たな現実を再認識することで、再度打ちのめされている俺の呆然と見開いた瞳の前に、まるで射貫かれてしまったかのような錯覚を覚える氷のように冷たい目が現れた。

 あまりにも近くに出現した美貌に思わず後ろへと後ずさろうとして失敗。今の自分の体が本来のものと違ってバランス感覚を失っていたのをすっかり忘れていた。あえなく頭の重さに後ろへと倒れこもうとして、目の前に現れた当人に腕を捉まれて難を逃れる。

 ただ、その際に接地していた尻と作業台との摩擦係数が足りなかったせいか盛大にずれて、ますます女性の方へ近寄ってしまったのであるけれど。

 

 

「えっと、すいません、取り乱してしまって‥‥。突然自分の体が縮んでしまったんで流石に驚いてしまったみたいです」

 

「仕方あるまい。青子の奴も言っていたが、何の予備知識もない一般人がこのような自体に直面して平静を保っていられるほうが異常というものだろう。むしろ取り乱してくれた方がこちらとしても、主導権を握りやすくてありがたい‥‥」

 

「は、はは、そうですか‥‥」

 

 

 恐ろしげなことを言いながら女性は笑う。普通ならそういう裏事情とでも言うべきことは当人を前にして黙っておくのがマナーというか、そもそも常識とでも言うべきことだろうに、わざわざ口に出すとは相当に性格が悪いのだろう。

 もちろん意地悪げに笑ってみせた意図は間違いなく成功しているのだろうとは思うのだけれど、このように異常極まる状況に放り込まれて右も左もわからないオレに主導権なんてものが許されているとは最初から思っていない。

 それを考えると決して女性の意図が成功したとも言えないのかもしれないけれど、とにもかくにも彼女の言葉通り、この場の主導権を二人が握っていることには間違いが無いのだ。

 

 

「うわ、姉貴ってば相変わらずドSねー? そりゃ昔は可愛げのない何処にでもいる男子高校生だったかもしれないけれど、今はこんなに可愛らしい男の子じゃない? そう苛めるのは可哀想よ」

 

「心の底から思ってもいないことを口にするなよ。大体お前、私にとっては大きかろうが小さかろうがどれも同じ人間だ。等しく差別はしない」

 

「偉そうなこと言ってるけど全然偉くない! まったく、姉貴にとってはそうでも拾った責任なんてもんは等しく誰にだって発生するんだからね? まぁ責任を享受するかどうかは人それぞれだけど」

 

 

 責任が等しく発生しようとしなかろうと、結局その責任をしっかりと履行するかどうかは個人の裁量次第。人によって責任を履行しなければならないという、いわば責任に対する重要度は違うと言いたいのだろうか。

 どちらにしてもこの局面で議論していいようなものだとは思えないんだけど‥‥。もちろんオレが意見するようなものでもない。ていうか怖くて口を出せない。

 

 

「ふむ、多少動揺しているのは当然として、精神状況に際だった異常は見られないな。身体は‥‥まぁこの通りというわけだが」

 

「‥‥一体何がどうなってるんですか、これは。どこをどう見ても自分自身なのに、十年ぐらい若返ってるなんて‥‥」

 

 

 小さな手、(元々)短めの足、体に対してやや大きめの頭。鏡を見て確かめたわけではないけど既に遠い日のものとなった自分自身の感覚と照らし合わせれば、これは間違いなく幼い頃の自分の体の感覚だ。

 ただ体が小さくなった、という感覚だけじゃない。体の中に溢れている、意味もなくがむしゃらに大きな力。きっと体力が尽きてぶっ倒れてしまうまでいつまでも走り続けていられそうだ。

 何か、体の奥がザワザワとしているようでじっと座ってなんていられない。もちろん中身の精神は成熟した大人だからこうして制御することも出来てるけど、思えば子供の頃にあそこまでやんちゃだったのはこの衝動みたいな感覚のせいなんだろう。

 

 

「私とて一人の人間だ。持っている知識はたかが知れている。‥‥そして私の知識では、流石に情報が少なすぎるこの状況でお前が若返ってしまった理由など想像は出来ない、な」

 

「うーん、私もいくら年くっても外見が変化しない化け物みたいな奴は何人か知ってるけど、どいつも老化が停滞してるだけで若返ったりしてるわけじゃないしねぇ‥‥」

 

「純粋に身体変化、というだけならば前例は腐る程ある。だが同じように、“純粋に若返っている”のならば不可能でないにせよ早々あることでもない。中々に興味深いな」

 

 

 間違いなく、オレが話の中心にいるはずなのにさっぱり意味が分からない。使っている言葉自体は普通のもの、専門用語ではないはずなのに、会話自体は紛れもない専門的なもので俺の小賢しい知識と知恵では全く歯が立たなかった。

 ていうか結論そのものが目の前にいる状態で、どうして当事者を放って過程の議論が出来るのか、この人達は。相当に神経が太くないと無理だよ、目の前の人間を空気みたいに無視するのって。

 

 

「だが理由はともかく原因はおそらくはっきりしている。お前にも‥‥心当たりがあるのではないかね? お前が何故、誰も通らず泥と埃だらけだった路地裏、いや、路地裏とも言えないビルとビルの隙間に倒れていたのか、とかな‥‥」

 

「‥‥‥」

 

 

 意味深な溜めと楽しげに細められた目つきに思わず押し黙る。あの爆発らしき轟音と閃光の後、今ここで起きるまでの記憶が完全に抜け落ちているオレには、この人に発見された時に俺が何処に居たのかなんてさっぱり分からない。

 分かるのは、あの日、あの場所でオレ‥‥いや、オレ達が遭遇した何かは、少なくとも何か、今のように異常な状況が生じるには十分過ぎるとでも言えるシチュエーションだったということ。

 もちろん決してアレが非凡極まるものだったと思っているわけではない。ああいうシチュエーションはそれこそ今まで世界中で何百回も繰り返されて来ただろうことは間違いないから。

 でもオレ達、平々凡々な高校生にとっては間違いなく異常、というよりも非日常的な出来事であったのだ。だとすれば、そこに神秘的な何かを瞬間的に連想してしまったオレは決して非常識などではないだろう。そもそも、アレこそが非常識の象徴であったと言えるのだ。

 

 

「悪いが、私達はお前の記憶を覗かせてもらったからな。色々と事情は知っているつもりだ。それを鑑みても‥‥私達の目から見ても、だ。お前が遭遇したアレには魔術的な要素を感じ取ることが出来なかった」

 

「もちろん私達の目が全てってわけじゃないわよ。何より君の主観視点しか確認出来なかったから、君が見ていないところで何かあったっていう可能性も大いにあるわ。でもまぁ、結局それしか原因が分からないのよねぇ‥‥」

 

 

 またもや二人は二人だけにしか分からないような難しい、というよりも回りくどい言葉を使って会話を始めようとするけど、ここに来てオレがちんぷんかんぷんな顔をしていることに気がついたらしい。

 髪を下ろしている方の人がオレの頭を撫でて、鋭い目をした方の人はフンと鼻を鳴らして煙草を口に咥える。オレは一応怪我人っていう風にカテゴライズされるはずなんだけど‥‥きっと気にもしていないんだろう。

 

 

「‥‥はぁ、とにかく自分が今トンデモないことになってるってことは十分に理解しました。少なくとも、ドッキリとか改造手術とかで何とかなるレベルじゃないですね、コレ」

 

「当然だ。そのような無駄に手間のかかることをしなくても、お前みたいな絵に描いたように普通の男子高校生で楽しむならほかに簡単な手段は色々ある。なにより意味が無い」

 

 

 どこまでも辛辣に、それでいながら一切の曇りもない言葉は理不尽かつ非道なものでありながらオレを怒らせるようなものではなかった。きっとこれがこの人のあり方なんだろうと、オレは今日もう何度目になるかわからない感慨を抱いた。

 

 

「ていうか普通、本人を目の前に“楽しむ”なんて発言する? ホント性格悪いわねこの女」

 

「どうとでもいえ。自分の性格が通常の人間と同じようなものなどと、他人の基準で勝手に定義されることの方がよっぽど不愉快だ。人間誰しも唯一無二の異形、とは誰の言葉だったかな‥‥」

 

 

 この二人に付き合っていると、俺が今まで付き合っていた友人達、知人達というのが、いや、それ以前に俺という人間すらもどこまでも“普通”の範疇に属していたのだろうかと思い知らされるようだ。

 人間誰しも唯一無二の異形、という言葉がある一方で、均一に定義されることのない個性という要素の中にも度合いというものが存在するように思えるのだ。いわば個人の“輝き”の違いとでも言おうか。要するに、オレの知るどの友人、家族、他人の中にも、この二人よりも輝いている人なんていなかった。

 

 

「ほう、それはそれは過大な評価をもらったものだ。私としては普通を特別に忌避するわけではないにせよ、異形であるという自覚はあったものだからね。ふむ、確かに個性を埋没させてしまうのは魔術師としての在り方ではなかろうよ。ひけらかすものでもないが、な」

 

「‥‥まぁオレとしても平々凡々が好き、ってわけでもありませんからね。若者らしい自己顕示欲ぐらい人並みに備えているつもりだし。どっちにしても、だからってこうなりたかったわけじゃありませんが‥‥」

 

 

 大きく溜息をついて漸く気づく。ついさっきまで体中を苛んでいた、それこそ用心深く慎重に呼吸をするだけで体中が軋んでいたというのに、その痛みが随分と楽になっていた。

 というよりもあの事故から正確にどのくらい経ったのだろうか。自分のこの身に何か尋常ならざる事態が発生したことだけは認めなければならないだろう。もしかしたら超常現象に類する、それこそ科学的ではなくて誰も認めてくれない何かに巻き込まれているのかもしれない。

 子供に戻ってしまうなんて、どこをどう探しても実際に見つけることができない異常な出来事。今こうして少しばかり落ち着いたからこそ、これからを感じるゆとりが生じてきた。

 

 

「‥‥そうだ、命を取り留められたんだ、家に連絡しないと」

 

 

 こんな身体になってしまったことを説明できるつもりはない。そもそも事故の調査をしている警察とか会社とかに自分が自分であることを、あの事故に巻き込まれる立場にいたということを証明できる手立てがあるわけでもない。

 名簿には高校生男子であるところの俺の名前や情報が記載されているだろうし、だとしたら俺への手当てとか賠償とかそういうのは出ないだろう。それ以前にオレが子供に戻ってしまったことが認知されたとしても、いろんな検査とかで人生めちゃくちゃにされる可能性だって十分にある。

 でも、それでも家族なら、昔からの付き合いの親族や友人なら、今のオレを見たってオレがオレであることをわかってくれる。

 

 

「家に?」

 

「はい。家族だけじゃなくて、オレと一緒にいた連中の知人にも。みんなきっと、すごく心配している」

 

 

 あれからどれぐらいの時間が経っているのかもわからない。でも少なくともオレの怪我の度合いとかを考えると、間違いなく一日ぐらいは経過してしまっていることだろう。

 あの事故のニュースが日本に———もちろん、オレが事故に遭遇した場所が日本じゃないと確信しているわけでもないんだけど。もしかしたら既に日本だったかもしれないし———届くまでのタイムラグだって一日もないはずだ。

 だとしたら、オレの、オレ達の安否すらわからないで心配しているだろう家族や知人を何とか安心させてやらなければならない。こんな調子になってしまった、それでもそれはオレの果たすべき役割だろう。‥‥他の連中がどうなっているかもわからないなら。

 

 

「フ、フフ」

 

「は?」

 

「フハハハハハハ!! おい青子、こいつは傑作だ。こいつ実は全く事態を把握していなかったらしいぞ?! お笑い種だよ、ホントに。あれほど懇切丁寧に自分が今おかれている状況というものを説明してやったというのに、完全にフリーズしていて説明なんて聞き飛ばしていたらしいな!」

 

 

 オレが切実な要望を、この状況に置かれた人間としてはひどく真っ当な、当然ともいえる要求を口にした次の瞬間。

 その次の瞬間、一瞬だけポカンとひどく呆気にとられたような間抜けにも近い表情をつくった目の前の鋭利な瞳をした女性は、まるで爆発でもしたかのように大きな声で笑い始めた。

 

 

「なっ‥‥?! なにを笑ってるんですか! 何がおかしいんですか!」

 

「おかしいに決まっているだろう?! 私は今きちんと自分で口にしただろうが、お前が今おかれている状況はしっかりと説明しているはずだ、と。それなのにお前はまるで私と青子の説明を全く聞いていなかったように振舞っているのだからな!」

 

 

 人の頼みを笑う。しかも、家族に連絡をして安心させてやりたいという真っ当で当然極まりない願いを笑う。しかも、それこそが当然であるかのように。

 自慢じゃないけどそれなりに温厚であるところを自称するオレにしたって、それなりに深刻な願いであるそれを笑われるのはひどく腹が立った。この人の意地悪な性格とか、そういうのとは別の次元で。

 

 

「どういう、ことですか‥‥?」

 

「いや、まぁいい。それでは望み通り家族とやらに連絡させてやろう。‥‥クク、そこにおいてある、ホラ、その黒い電話を使って連絡するがいい。まさか自宅の電話番号ぐらいは覚えているだろう?」

 

 

 オレの抗議に言い返すでも諌めるでもなく、その人は少し離れた部屋の隅においてある古臭い黒電話を指差してなおも笑い続けた。

 クールビューティーな外見のくせに、あまりにも無邪気に聞こえる、見える、笑う様子。意地悪な言葉とは裏腹に邪気を全く含んでいないその様子に、オレは眉間に盛大に皺を寄せながらも指さされた黒電話の方へと向かう。

 この人の言う通り、携帯電話という連絡手段が普遍的なものとして世間を席捲しつつある昨今でも、流石に自宅と自分の携帯の番号ぐらいはしっかりと暗記している。

 ジーコジーコと果てしなく懐かしい、というよりも実際に目の前でこうして聞くのは初めてな音を立てながら、オレは苦労して自分の生家の電話番号を入力? して受話器を耳に当てると応答を待った。

 

 

『———おかけになった電話番号は、現在使われておりません———』

 

「‥‥何?」

 

 

 聞こえて来たのは母さんのちょっとしゃがれた声でもなく、何をトチ狂ったのか自分自身で録音したくぐもった留守番電話の声でもなく、ゆっくりとした優しい、どこはかとなく人工的にも聞こえる不思議でありふれた声。

 かけられた電話番号が使われていないか、間違っていた場合。電話会社の定めた音声が流れる。当然ながらオレのかけた番号はオレの家のものであることには間違いなく、何かの間違いと笑い飛ばし、オレはもう一度しっかりと一つ一つの数字を確認しながらダイヤルを回した。

 

 

『———おかけになった電話番号は、現在使われておりません———』

 

「‥‥おいおい、なんで二回も間違えてるんだよオレは? まったく、慣れない‥‥っていうか初めての黒電話とはいえ、バカみたいじゃないかもう‥‥」

 

 

 どうやらまた番号をかけ間違えてしまったらしい。オレは再度、じっくりと先程の倍の時間をかけてダイヤルを回し‥‥

 

 

『——おかけになった電話番号は、現在使われておりません———』

 

「どうなってるんだよコレは!!」

 

 

 がしゃん、と軽い物同士が叩きつけられた音がそれなりに広い、窓が一つもない室内に響く。これで壊れなかった辺り、流石に昔の機械は頑丈だ。

 これが携帯電話だったりしたら今頃粉々に砕け散っているところだろうし。そういえば、オレの携帯ってどこいったのかな?

 

 

「くっ、なんで繋がらないんだ! この電話壊れてるんじゃないんですか?!」

 

「だから教えたはずだろう、私達の名前を。それが現実であると意識さえすれば、自分が今どこにいるかも予想がついただろうにな。まぁ疑うなら別の場所にもかけてみたらどうだ?」

 

「言われなくてもそうさせてもらいます! 電話帳はどこですか?!」

 

「ハイ、どうぞ」

 

 

 長い髪の方の女性に渡された電話帳を勢いよくめくる。幸いにして日本のもので、見知った企業や見知らぬ企業の名前が羅列された黄色く分厚い本はオレもよく知っている普通のものであった。

 流石にオレの知り合いが全員ちゃんと電話帳に名前を登録しているとは思えない。探すのは公共の施設やそれに類する組織。即ち‥‥オレの通っていた高校が妥当なところだろう。

 

 

「‥‥ホントにどうなってんだ、オレの高校の名前がないじゃないか!」

 

「登録していなかったのではないか?」

 

「私立とはいえ、まがりなりにも文部科学省が認めた高等学校ですよ? そんなこと‥‥あるはずがない‥‥!」

 

 

 ならば公立の中学校はどうだ、小学校だって公立だったぞ。

 ‥‥あった、大丈夫だ。オレが卒業してから三年弱が経つけれど、まだ在籍している先生の中にも知っている人がいたはずだ。

 

 

『———うーん、申し訳ないが先生は出張中だったよ。それで君の言った通り、君の名前を卒業生名簿から探してみたんだけどね。悪いけど、君の名前は載ってなかった。何かの間違いなんじゃないかね?』

 

「そんな馬鹿な!」

 

『君、大丈夫かい? 電話越しでも混乱してる様子が浮かぶようだよ。少し落ち着いて、自分の周りを整理してからもう一度電話をかけてみなさい』

 

 

 電話に出たのはオレが卒業した後に転入して来たらしい初老に聞こえる声を持った教師で、オレと関わりのあった先生は全員が転出したり出張したりしてしまっているらしく、代わりに卒業生の名簿を探してくれた。

 ‥‥しかし、ともすればオレの予想した通り、オレの名前は名簿の中に見あたらなかったそうだ。いくら転入してきた教師とはいえ、丁寧に探してくれたのは言葉使いからも見受けられたから間違いない。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「名簿にまで無い、というなら決定的だな? お前という存在と、お前に関係する存在が公共の場にない。おそらくお前の担任の教師の出張を待って連絡したところで、お前のことを知っていないだろうよ」

 

「姉貴、ちょっと」

 

「そろそろこのやりとりにも飽きたんだよ、青子。分かりやすい悲劇と喜劇は嫌いなんだ。王道というものは除くが、な」

 

 

 足下が、ぐらつき始めた。オレという要素を構成しているものを自分を支える鎖や命綱と例えるならば、オレの命を、存在を支え繋ぎ止めているそれらが順番に一本一本切り離されていく気分だ。

 支えが無くなれば、宙ぶらりんのオレはどうなってしまう? ニュートンが唱えた万有引力の法則にも似た自明の理。底の無い暗闇へと、真っ逆さま。

 

 

「なぁ、もう一度私達の名前を口にしてみてはどうだ? お前が、自分の体の状況を処理するために手一杯で、さらりと思考の片隅に追いやった事実を、口にしてみては‥‥どうだ?」

 

 

 ああ、元からオレは、この世界で、ココで目を覚ましてから、地に足なんてついていなかった。数多の鎖と命綱に掴まって宙ぶらりん。じたばたと足を動かして鎖を、命綱を引っ張って、その先にあるはずの確かな自分という存在を確かめようとして。

 次々と切れていくそれらに、もがいても切れるのが早まるだけ。落ちた先に何があるのだろうか? オレの存在を否定する、真っ暗闇の中に何も蠢いていやしないのに。

 

 どれだけ恐ろしいことか、その何もないはずの真っ暗闇が。

 

 まるで本当の子どもの頃、自分が死んだら何処に行くのか、どうなってしまうのかを賢しく考えて眠れなくなってしまったアノ夜のように。

 死んでしまったら、それだけだ。死んでしまったら、まるで眠るように意識を無くして二度と目覚めることなく、夢を見ることもない暗闇の中にいくんだろう。

 そう賢しい結論を見つけて、その結論自体がどうしようもないぐらいに怖くなった、幼い日のアノ夜。

 

 

「さぁ、言ってみろ。私の名前は‥‥私達の名前は?」

 

「貴女の名前は‥‥貴女達の名前は‥‥」

 

 

 天国があるなら、地獄があるなら、どれだけ幸せなことだろうか。どれほどに地獄が辛いところだと思ったとしても、それは自己の保存である。どれだけ辛い責め苦を負わされることになったとしても、それは自己の消滅から逃れる、ある意味では安穏な逃げ道だ。

 大人になれば笑い話で済ませてしまうことができる、どうでもいい暇つぶしの思考ゲームだと割り切ってしまえるそれも、子どもの心には重くのしかかって思考の海へと溺死を誘う。

 あの時の恐怖を思い出した。

 涙が止まらず、瞼を閉じることも、目の前の夜の闇を見続けることも出来ず、かといって灯りをつけて暗闇の正体を知ることも怖くて何もできなかったあの時。

 助けてくれた母は、いない。今、自分自身が母の、自分自身の存在の消失を、いや、存在すらしていなかったというありのままの事実を証明してしまった。

 

 

「TYPE‥‥MOON———ッ?!!!」

 

 

 現実的な思考とか、そういうものを遥かに凌駕する直感が存在した。全ての思考過程を通りこして、結論に辿り着く時もある。

 意地悪そうに、どこか楽しみに、ワクワクとした色を瞳に湛えた“痛んだ赤色(スカー・レッド)の髪を持った女性の、間近に迫った顔を前に、オレは声にならない悲鳴を上げた。

 何かの引き金が引かれ、撃鉄がオレの頭の中、脳と称することも出来ない重要な何かを激しく打ちつける。揺さぶられる、なんてものじゃないぐらいの衝撃がオレを襲う。

 

 まるで脳みそを直接シェイクされるかのような破滅的なまでの目眩。痛みはなく、そこにあるのは圧倒的な衝撃と虚無感、浮遊感、孤独感、絶望感だけ。

 体中の骨が消え失せてしまったかのような、世界中の重力が消えてしまったかのような、世界中の人がいなくなってしまったかのような、全てが終わってしまったかのような様々な感情。

 濁流に全てが流されるように、オレの中にいるオレ自身が全て流されてしまった。

 意識を保つ、なんて努力すら出来るわけがない。残響も余韻もなく、機械の電源をOFFにするかのように、オレの意識は真っ逆さまに音速を超える速さで暗闇の中へと吸い込まれていく。

 

 何もない、オレには何も残っていない。

 存在を定義するのは自分自身だけじゃない。今までの人生で自分が世界に及ぼしてきた様々な影響こそが、自分という人間を定義してくれるのだ。

 だからこそ、オレが存在を見失ってしまったのも道理。何故ならオレとの関わりが、この世界には一切ないのだから。

 圧倒的な意思の力。オレ以外の、圧倒的強者による力によって強制的に電源をオフにされたオレの意識。

 

 そのオレが意識を取り戻すのは、これから大体一ヶ月ほど後。

 後に俺の義姉となる二人の女性。封印指定の人形師と青の魔法使いがオレの存在を保ち、俺という人間を新たに作り上げるために、尽力してくれた後のこととなる。

 

 

 

 68th act Fin.

 

 

 



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第六十八話『漂着者の絶望』

新年度の多忙さで随分と空いてしまいました、申し訳ありません!
型月エイプリルフール企画、楽しかったですね!実は倫敦も一応こっそりとTwitterを使って企画をしていたりしました。
ちなみに今は改訂版の執筆と共に、驚きの番外編をご用意しております。執筆完了しましたら、すぐに投稿いたしますので、どうぞ今しばらくお待ちくださいませ!


 

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

「‥‥なぁ遠坂、色々と気になるのは分かるけど落ち着けって。そんなことしても何もならないぞ?」

 

「分かってるわよそんなこと。‥‥ただ、じっと思考をまとめるのって苦手なのよ。何か作業をしてたほうが考え事が捗ることってない?」

 

「いや、確かにそれは分かるけどさ」

 

 

 たとえば俺で言うなら土蔵でのガラクタいじりとか、何かで悩んだり行き詰ったりしている時には別の何かでカラダだけでも紛らわせた方が気分転換になったり、発想の違いが生まれたりすることは多々ある。

 確か同じクラスだった後藤君が昔言っていたな、『逃避エネルギー』だっけ? 何かやらなきゃいけないことから逃避して別の作業をしたとき、その作業を普通にする時よりもはるかに捗ったりすることがあって、そこに生じているエネルギーをそう称するんだと熱弁していた。

 ちょっと言わんとしていることが違うような気がするけど、何と無く納得できる気がする。物理学みたいに例える必要は無いと思うんだけど、確かに何かが生まれていることだけは間違いない。

 

 

「色々と考えることが多すぎるのよ。一つぐらいならそ知らぬ振りして考えることだって出来るのに、可及的速やかに対処しなきゃいけない懸案事項がいくつも平行してあるっていうんだから、もう私のオーエスはヒートアップ寸前だわ!」

 

「遠坂、それを言うならOSじゃなくてCPUだ」

 

「わ、分かってるわよ! ちょっと冗談言ってみたかっただけじゃない!」

 

 

 パソコンなんて全然出来ないくせに小難しい例えを使って自爆した遠坂は、さっきからずっと延々コツコツと硬質な音を立てながら指先の綺麗に整えられた爪でプラスチックに似た人口素材で作られたテーブルの表面を小刻みに叩いている。

 いらいらしている、というわけでもない。遠坂自身が言ったように、ただ思考に集中するために規則的にカラダを動かすことでリズムを作っているのだ。

 単調な作業、完全な静止なんてものは昔から思考の集中に利用されてきた。日本で言うなら座禅とか、延々とお経を唱えたりすることもそれに含まれる。

 もちろん最初からそういうことを考えて始めたわけじゃないだろう。きっと俺の言葉に反論するために咄嗟にとってつけた言い訳だ。まぁ、気にするところじゃないけど。こういう扱い方もそろそろ慣れたもんだしな。

 

  

「でも遠坂、気持ちは確かに分かるけど目立ってるぞ」

 

「え?」

 

 

 他人には分かりづらい遠坂の真意。学校の連中然り、一成然りと良くも悪くも誤解を生みやすい遠坂の態度の奥に隠された、遠坂が本当に言いたいことに気づけるようになった俺はいい。

 けどさ、当然ながら初対面とか、あまり深い付き合いをしていない人たちにとっては別。

 そして今、俺たちがいる大英博物館のカフェテリアには、それまた至極当然のように互いに互いのことを知らない、というよりも気にするつもりすらない赤の他人が大量に徘徊しているのだ。

 

 

「‥‥そう、ね」

 

「だろ?」

 

 

 大英博物館は世界に名高い大英帝国‥‥つまりイギリス、もしくはグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国なんて長ったらしい正式名称で呼ばれることのある国の、代表的な観光場所だ。

 世界でも一番‥‥っていうわけではないらしいんだけど、五本の指に入るぐらいには有名な博物館だから、とにかく外国人がたくさん歩いている。‥‥まぁ、欧米人の国籍なんて見ただけじゃわからないけどな。

 その中にも数多く紛れ込んでいる東洋人。おそらくはそのうちの半分以上が日本人だろうけど、その中においても堂々と、まるで大英博物館の主です、というような顔をしてカフェテリアの華奢な椅子に座っている遠坂はそれだけで目立つ。

 国籍によって美醜の基準って違うと思うんだけど、その中でもセイバーやルヴィアや遠坂は間違いなく誰に聞いたって、どこの国の人に聞いたって美人だという返答が返ってくることだろう。

 その百人が百人頷くだろう東洋系の美少女が、同じく誰でも分かるだろう不機嫌でイライラとテーブルをコツコツ叩いているのだ。嫌がおうにも周りの注目を集めていた。

 

 

「はしたない真似はやめてくださいな、ミス・トオサカ。一緒にいる私やセイバーの品性まで疑われてしまうではありませんか、みっともない」

 

「‥‥そういうアンタだってさっきから紅茶にティースプーン突っ込んでぐるぐる回してるじゃないの。ちょっとクロスに飛んでるわよ。それこそアンタの言うはしたない真似そのものじゃない」

 

「こ、これはちょっと紅茶が冷えてしまったから砂糖の溶け方がよろしくないせいですのよ! 別に貴女と同じように動揺したりなんかしておりませんわ。えぇ、絶対に!」

 

「相っ変わらず分かりやすい奴よね、ルヴィアゼリッタも‥‥。そんなんだからミス・ブルーに散々いじられて玩具にされたりするのよ」

 

「‥‥他人事だと思っていると、後で痛い目に遭いますわよ、ミス・トオサカ?」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 それなりに広い、四人掛けの四角いテーブルに座っているのは定員ぎりぎりいっぱいの四人。俺とトオサカ、ルヴィアとセイバーの、冬木へと調査に赴いたメンバーだ。

 ただしバゼットは報告を兼ねた仕事があるといってさっき俺達にしきりに頭を下げてから何処かへ行ってしまったし、最後の一人の紫遙は以前として行方が知れない。お姉さんの言った通り、無事ならいいんだけどな‥‥。

 

 冬木に突如として現れた謎の魔術具、クラスカード。それらの回収と事態の大雑把な調査を依頼された俺達は、現実的に予想した最悪の展開こそ免れたとはいえ、まったくもって予想の範疇から外れた事態に遭遇して倫敦、時計塔へと戻ってきた。

 七枚のクラスカードは、バゼットが最初に取っておいてくれた分も含めて全て回収出来た。誰かが怪我したり、誰かが死んでしまったりしたわけでもない。

 でも‥‥今ここにいない二人の仲間の内の一人、俺達の友人である蒼崎紫遙は、この事件で心の大きな傷を負ってしまったらしい。ふらりと俺達の前から消えてしまった紫遙は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。

 

 

「‥‥はぁ、ホント考えることが多すぎて困るわ。いくら冬木で起きた事件自体は収束したっていっても犯人には逃げられちゃったわけだし、クラスカードも奪われちゃったから調査も出来なかったし、蒼崎君はあんな調子だし‥‥」

 

「確かに、あの魔術具を回収できなかったのは痛かったですわね。協会の方へ証拠物品として提出する前に私達でいくらか調べることが出来たかもしれませんでしたのに‥‥。

 これではいくらミス・トオサカに自分の管理地で起こった事件を解決するという義務があったとはいえ、まるで骨折り損のくたびれ儲けですわ。それはまぁ、大師父への弟子入りという約定は果たして頂けるようですが、やはり私としてはどうにも納得できません。ましてやショウがあの調子では‥‥」

 

 

 俺たちが冬木の調査を命令された主要な理由は、おおまかに分けて二つある。

 一つは現地に派遣した、時計塔が保有する武装集団としては一級のものである執行者の部隊が壊滅してしまったことにより、魔術協会総本山の中で即応できる最大戦力が、聖杯戦争の勝利者であり英霊をサーヴァントとして従えている遠坂であったこと。

 そしてもう一つはこじつけの、依頼に正当性を持たせるためだろうとは思うけど、事件が起こったのが遠坂が管理者(セカンドオーナー)として治めている管理地であったということだ。

 もっとも本来ならいくら管理者(セカンドオーナー)とはいえ学生である遠坂にこのような危険極まりない任務が与えられるのもおかしいというのがルヴィアの話なんだけど、その辺りは事件を耳にした宝石翁‥‥遠坂とルヴィアの魔術の祖である魔法使いの思惑があったらしい。

 

 ルヴィアが口にしたように、とても学生に命ずるとは思えないこの危険な任務に対する報酬も、大体二つくらい。

 まずこの任務を受けさせるための‥‥悪くいえばエサとして用意されたのが魔法使いへの弟子入りという大きすぎる報酬。いうなれば高校の運動部で練習していた生徒が、いきなりオリンピック選手のコーチをするかのような一流の講師につくことが出来るようなものなのだろうか。

 俺はそういうのよくわからないから漠然とした例えしか出来ないんだけど、とにかく遠坂たちにとって宝石翁、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグへの弟子入りというのは願ってもいない、それこそ一生に一度の大チャンスだったようだ。

 なにせ生粋の魔術師たる二人が目指すのは全ての魔術師の目標地点である“根源”。そして根源へといたる最も代表的な方法である、魔法の習得。第二魔法の使い手である宝石翁に師事できるならと、一も二も無くとびついた。

 

 

「シェロやセイバー‥‥今はここにいませんがショウなどは、いくばくかの謝礼を受け取っただけではありませんか。あれだけ危険な任務から無事に生還してあれだけの端金とは‥‥まったく協会の懐度胸もたかが知れていますわね」

 

「あれだけって‥‥ルヴィア、あれ結構すごい金額だったと思うぞ。少なくとも遠坂の浪費癖を考えても一ヶ月は無収入で生活できるし」

 

「リスクに対してリターンが少なすぎると、私は言っているのですわ。‥‥まさかミス・トオサカ、二人の分の謝礼を巻き上げて研究費用にしていたりはしていませんこと?」

 

「そ、そんなことしてるわけないでしょ?! ‥‥えぇ、ホントのホントに!」

 

 

 ルヴィアの鋭い突っ込み遠坂は狼狽しながらも何とか否定の言葉を口にするけど、実際のところ、俺たちが稼いだ金の大部分は生活費へと計上されているからルヴィアの指摘もあながち間違いではない。

 確かに遠坂も臨時講師を度々引き受けているし、セイバーのアルバイトもここ半年以上ずっと続いている。俺がルヴィアの屋敷で執事として働いている給料もそれなり以上、というよりは紛りなりにも専門職に数えられる執事という仕事に俺のような若輩者がいながら、あの給料は異常だ。

 

 

「まぁ実際、凛の扱っている宝石魔術には尋常じゃない資金が必要になるものですからね。私もこちらに来て家計簿を担当し始めましたが、こうして家計のやりくりをしていると頭を悩ませるものがあります。

 王として国を率いていた時にも戦の際の資金繰りには苦労したものですが、ただでさえ収入と支出の割合がつりあっていない今はあの頃以上ですよ」

 

「まぁそういうなよセイバー、ルヴィアも。遠坂の研究が評価されれば助成金も出るらしいし」

 

 

 若い三人が、まぁ偽造パスポートがあるとはいえ外見年齢が非常に低いセイバーは好意で雇ってもらっているがためにさほど高い給料をもらっているわけではないけど、それでも俺たち全員が頑張って働いていても、我が家の経済状況はそこまで好転していない。

 もちろん食うのに困っているとかいうわけではなくて、単純に遠坂が十分に研究をするための資金が足りていないだけだ。それなら問題ないとか言う奴もいるかもしれないけれど、やはり魔術の勉学のためにロンドンへと来ている以上は優先してしかるべきである。

 客観的に見れば被害を蒙っているともいえる俺もセイバーも、遠坂の研究が滞るのはよろしくないと考えている。ただでさえ俺は遠坂のオマケみたいなもんだし、セイバーは形式的には使い魔(サーヴァント)だしな。

 

 

「やれやれ、ここまで師匠を思いやってくれる弟子と使い魔(サーヴァント)を持てるとは、ミス・トオサカは幸せ者ですわね。私も一度しっかりと弟子を取らなければ‥‥」

 

 

 魔術師は必ず弟子をとるわけじゃない。というよりも基本的に魔術とは一子相伝の技術であり学問。個人個人、家系によって千差万別。というよりも魔術を行使するための魔術回路自体が形成する際に大きく個人差が出る代物だから、自分の技術をそのまま伝えるというわけにはいかない。

 時計塔の中で教授が学生に対して個人講義を行うなどは師匠と弟子の関係とはまた別で、あれは決して教授が学生に対して自分の持っている技術を教えるような関係ではないのだ。

 本来ならば魔術師にとっての弟子とは血の繋がった我が子。もしくは少なくとも血のつながりがある跡継ぎである。遠坂と俺との関係も、正直に言えば時計塔でもそこまでメジャーなものじゃない。

 

 とはいえ遠坂やルヴィアはまだ二十歳前後。生まれてくるだろう子供に魔術を教えるのは随分と後の話だろうし、それまでに身の回りの世話をしてくれる従者を兼ねた弟子をとるというのは悪い話じゃないだろう。

 ルヴィアにしたって身の回りの世話自体はあの屋敷のメイドや執事さんがやってくれるけど、彼らは神秘の存在を理解はしていても魔術師じゃない。助手としては不適格だ。

 そういうことを考えたのか考えていないのか、ルヴィアは少し寂しげな貌をして唇の端を緩めた。

 

 

「‥‥ねぇルヴィアゼリッタ、もしかして貴女、美遊を置いてきたこと今でも悔やんだりしているの‥‥?」

 

「遠坂」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 怖ず怖ずと切り出した遠坂の言葉に、ルヴィアは少しだけ眉の端を下げると目線を落とす。

 あからさまに話題に出すのは明らかに憚られる切り出しに遠坂も不安そうにしていて、俺も諌めようと思った端から言葉に勢いが無くなった。

 

 

「‥‥仮に私が悔やんでいたとして、それでどうしろというのですか? あれは仕方のないことでした。他に手段が、なかったのですから」

 

 

 ほんの数日前に俺たちを襲った不思議な出来事。

 被接触者の記憶を触媒にして、鏡面界という次元の狭間に作られた空間へと英霊を召還する規格外の魔術具、クラスカード。

 そのクラスカードが想定外の反応を示したのか、俺たちは侵入した鏡面界から脱出するときに自分達が元いた世界ではなく、全く別の平行世界へと迷い込んでしまった。

 もしあそこで誰かが何かをしたら、しなかったら。単純な話にするとそういうことの積み重なりで生まれる全く別の因子が支配する世界の中で俺たちが出会ったのは、俺たちの記憶では死んでしまっていたはずの雪の少女と鴉のような髪の少女。

 様々な要因が重なって仲間になった二人の少女、特に孤児だったところをルヴィアに拾ってもらった美遊は向こうの世界に置き去りになってしまっている。

 

 雪の少女、イリヤは向こうの世界に家族がいた。元々無理やりに近い形で俺たちの手伝いをしてもらっていた関係もあって、色々な蟠りはともかくすっきりと別れることが出来たと思うのは俺の身勝手なのかもしれないけれど。

 でも‥‥孤児院の出身で、俺たちの知っているコチラの世界のルヴィアが養子として引き取った美遊。美遊・エーデルフェルトは本来ならば一緒に連れてくる、というのが筋だったのかもしれない。

 ルヴィア自身、そう思っていたはずだ。俺たちがいたアノ世界が平行世界で、自分達が暮らしている世界とは別の場所だと知った後でだって、ロンドンのエーデルフェルト別邸に連れ帰って弟子として育てると公言して憚らなかった。

 

 

「あの場でミユ一人のために残ることは出来ませんでした。私達は大師父からの任務を達成するために、どうしても元の世界へ帰らなければいけなかったのです。ならば‥‥魔術師として決断することはなんら不思議なことではありません」

 

 

 だけど、最後の最後でルヴィア、いや、俺たちにも一つの誤算があった。

 俺たちが元の世界に帰るためには大師父謹製の魔術礼装であるカレイドステッキという、二つのステッキによって次元に穴を開けなければいけなかったんだ。そしてソレを行うのは当然ながらイリヤと美遊の二人。更に、これを行う奴は、一緒に並行世界へと転移することはできなかった。

 俺たちが元の世界に戻るには、美遊を置いていく必要がある。だからこそルヴィアは苦渋の決断として、あっちの世界のルヴィアに美遊を任せてこちらへ帰ってきたのである。

 

 

「なんら不思議なことではありませんが‥‥不本意であったのは紛れも無い事実ですわ」

 

「あぁ。今頃、美遊は何してるのかな‥‥」

 

 

 最後に、第二魔法を習得して必ず俺たちに会いに来ると叫んだ美遊。魔法なんてものが簡単に習得できるなんて誰も考えてはいないだろうけど、それでも叫んでみせた美遊の決意は俺たちにも伝わってきた。

 だからこそ心配する。あの後、無事に向こうの世界のルヴィアに引き取られることができたかどうか。あの後、俺たちが遭遇したかのような敵に遭ってしまうことはなかったかどうか。

 もちろん心配したからといって俺たちに何かができるというわけでもないかもしれない。でも、それでも心配になってしまうのは、やっぱりあの子達に俺たちがどれだけ世話になったかってことなんだろう。

 

 

「さて、私が向こうのオーギュストに渡した手紙がしっかりと機能しているならば、今頃は向こうの世界の私に引き取られて魔術師として修練をしていることでしょう。

 まさか私も、別の世界で別の育ち方をしたとはいえ自分が託された子供を切って捨てるような人間に成長しているとは思いたくありませんしね」

 

「だといいんだけどな‥‥」

 

「大丈夫よ。向こうの世界だろうとこちらの世界だろうと、似通った並行世界ならば魔術師の在り方だってそうそう変わったりはしないわ。それが自分にとって有益だと判断したなら、ためらうことなんてないはずよ。ましてや並行世界の自分がそう判断していたっていう前例があるならば、私だって捨てたりなんかしないわ」

 

「貴女にそう言われても安心できる要素にはならないのですが‥‥。まぁ、悪くはありませんわね」

 

 

 またもや、当然の理であるかのように必ず冷めてしまっているカップの中の飲み物を、全員で口に運んで一息ついた。もしかしたら俺たちはもうこのカフェテリアで温かい飲み物を頼むべきではないのかもしれない。

 不思議と俺たち四人が座っているテーブルの前後左右、つまるところ一ブロックづつ周囲に客は座っていない。別に人払いの決壊を張ったとかそういうことじゃなく、おそらくは俺以外の三人に近寄りがたいオーラが漂っているからだろう。

 特に四人が四人とも、陰鬱で思いつめた雰囲気を纏っているとなるとなおさらだ。それなりに重要な議題でありながら半ば現実逃避じみた話から、俺たちは最初の議題へと会議を軌道修正した。

 

 

「‥‥さて、それよりも今の問題は———」

 

「えぇ、ショウについて、ですわよね‥‥」

 

 

 一斉に全員が沈黙し、辺りに独特の空気が立ち込める。そもそもイギリス屈指の観光名所である大英博物館のカフェテリアは様々な国籍を持つ観光客が大量に談笑しているような空間で、今みたいな空気が流れるようなことはない。

 観光客以外の職員や学芸員なども利用はするけれど、どちらにしても大英博物館で勤務するような人たちだからか、誰も彼も情熱というか、日々を生きる希望にあふれて生き生きしているのだ。

 一瞬で立ち込めた気まずい、というよりはおそらく他の人たちまで重苦しい気分になるような空気は早々ない。‥‥とはいっても、こうして分析してる俺だってこの空気をどうにかする方法を知ってるわけじゃ、ないんだけどな。

 

 

「あのお姉さん‥‥ミス・ブルーの話が本当なら今、蒼崎君は自分の工房の中にいるらしいわね」

 

「とはいえ先ほど行ってみたところ、ウンともスンとも反応はありませんでしたわ。おそらくは、やはり居留守を決め込んでいるか、もしくは反応出来ないほどに憔悴しているか‥‥」

 

「どちらにしても長いこと放っておくわけにはいきませんね。私は向こうの世界での様子を直接見たわけではありませんが、あのショーの調子では遠くない内に体を壊してしまいます」

 

「ただでさえ無精気味だからね、蒼崎君は‥‥」

 

「放っておくと一週間でも二週間でも工房に籠もっているのは魔術師として普通ですけれどね」

 

「でもあそこまで追い詰められてる状況じゃあ憔悴するのも早いはずだぞ。最終手段として、無理矢理に連れ出すことも考えなくちゃな」

 

 

 紫遙は俺たちみたいに時計塔の外に住居を定めているわけじゃない。高位の魔術師とか部門の長とか教授とか、魔術協会に所属する重要人物達のために時計塔が作ったスペースに工房を構えて、そこに住んでいる。

 とはいっても当然ながら、実技はともかく研究面では次席候補とも言われるぐらいに優秀な紫遙だからって自分の工房を時計塔の中、それも最深部に近いぐらいの重要地区にもらえるはずがない。あれは何でも、魔法使いであるお姉さんのために用意されたものだそうだ。

 アイツの話によると、さっき会ったアノくせ者そうなお姉さんは魔術師の到達点である魔法使いのくせに工房を必要としていないらしい。半人前未満の俺にだって研究、というよりは修行するための場所が必要だというのに。

 基本的に世界中をフラフラしているお姉さんの使っていない工房を貸して貰って、紫遙は下手すれば一週間以上時計塔の中から出ないという生活をしている。たまに呼び出したりしなきゃホントに体を壊しそうだ。

 ただでさえ普段からそんな状況なのに今の紫遙の状態なら‥‥どうなってしまうか考えるにかたくない。

 

 

「とはいっても流石は魔法使い用の工房よ? 気になって軽く調べてみたんだけど、Aランク以上の魔術でもブチ当てないことには埒があかないわ、アレ。堅牢なんて言葉じゃ説明できない得体の知れない術式でガードされてる」

 

「私もショウが外出している間の術式の保全に協力していたものですから、アレの性質はよく理解しております。‥‥得体の知れない、というよりも悪質の一言に尽きますわね。どんな攻撃も吸収して、術者ごと自らの内に取り込むのです、アレは。

 中に入ったが最後、あらゆる元素を内包した秩序の混沌、終末の泥によって魔術回路の起動は適わず、たちどころに意識すらも失ってしまいますの。ショウの上のお義姉さまが構築したものだそうですが、意地の悪い術式をしておりますわよ」

 

「‥‥マジ? 恒常的に、しかも外部からは全くの普通に擬態した状態で終末の泥を起動させ続けているって尋常じゃないわよ‥‥」

 

「なんでもショウが言うには、『それが出来るからこその封印指定。正直、橙子姉に出来ないことなんてものは想像出来ないね』だそうですわ」

 

「あのシスコン魔術師、どこまでもそんなカンジなのね‥‥」

 

 

 何物にも成り、何物にも成らない原初の混沌、秩序の泥を再現した終末の泥。あらゆる矛盾と完成を含んだ特殊な術式を常に展開し続けていられるような防壁を用意されているとなると、直接の突破はほぼ不可能に近いと遠坂は独りごちた。

 最悪、最悪の話だが、もしもの時は俺かセイバーが宝具を使うという選択肢もある。流石に魔術回路が起動できないような魔術が相手でも、宝具をどうこうすることまでは出来ないだろう。それは流石に人間に出来ることの範疇を超えている。

 

 

「バカね、それで工房が崩れて蒼崎君が生き埋めになったりしたらどうするのよ。‥‥まぁ本当の本当に最後の手段ね、それは。出来れば他の方法を考えたいところだけど」

 

 

 四人、またも大きな溜息をついて視線を下へと落とす。染み一つない真っ白なテーブルの上に置かれたカップはとうの昔に湯気を立てるという努力を諦めているから、波紋一つ立てないでそこに鎮座坐している。

 どうにも空気が重くて考えも鬱なものへと偏り気味だ。普通の友達が相手で、普通の状況だったらそこまで悩むことじゃないのかもしれないけれど、状況が状況だからか俺達は有効な答えを出せずにいた。

 

 

「ホント、今すぐ首根っこ引っ掴まえて連れ出して、無理矢理にでも事情を聞き出すのが正しいんだけどね‥‥。そうもいかないとなると、ホントどうしていいものやら‥‥」

 

 

 首根っこ引っ掴んで連れ出せないのは当人が難攻不落の要塞に閉じこもっているから。そして無理矢理にでも事情を聞き出せないのは、当人の発狂しそうな錯乱振りを見せつけられてしまったから。

 迂闊に突けば何が飛び出してくるか分からない。でも突かないで放っておいたらソレはソレで自分で壊れてしまいそう。どうすれば一番アイツのためになるのか、そんなジレンマみたいな感情が俺達を包んでいた。

 まぁ遠坂なんかはちゃんと管理者(セカンドオーナー)としての利害とかも勘定してるんだけどな。利害関係を孕んだ友人関係の方が長続きするんだって、前に話していたっけ。

 

 

「聖杯戦争の記憶。‥‥おそらくショウが持っていたというその記憶が今回の事件を複雑化させた要因になっておりますわね」

 

「そうね。蒼崎君の持っていた知識が無かったなら、私達がサーヴァントを全員倒してソレで終わりって事件だったはずよ。あの謎の魔術師もクラスカードにはあまり終着していなかったみたいだしね」

 

 

 俺達が元の世界に帰って来た、その後にやって来た正体不明の魔術師。

 俺達の誰もが作れるかどうか、そもそも作り方すら分からない超一級の魔術具であるクラスカードをこともなげに作ったと言わんばかりに扱っていた、かなり上級の魔術師。

 何を期待したかは知らないが、冬木の街と、そこに生きる魔術師達の特性を自分の実験に利用した狡猾な魔術師。

 そして‥‥その魔術師はどういう経緯だかはさっぱり分からないけど、俺達の中では一番ノーマークだった俺達の友人、蒼崎紫遙へと目をつけた。

 

 大師父‥‥宝石翁から貸し出された、同じく一級の魔術礼装であるカレイドステッキを持っていたわけでもなく、俺みたいに固有結界が使えて、未来には英霊になる可能性まで秘めた人間なんかじゃない。

 蒼崎という、世界でも有名な魔法使いの家系の血を引いているのは確かだけど、あのヤロウはそこに目をつけたわけでもない。ただ‥‥おそらくは紫遙が異常なまでに錯乱した、英霊召還の触媒になりえるような“記憶”が鍵になっているだろうことだけが分かる。

 

 

「それが知られたら自分の破滅に繋がるような、いいえ、それだけじゃないみたいね。蒼崎君って自分だけの問題ならあそこまで取り乱すとは思えないもの」

 

「ショーはああ見えて神経質なところがありますが、自分のことにはあまり頓着しませんからね。もっとも私にしても彼との付き合いはこの一年弱ほどしかありませんから、確と言えたわけではありませんが」

 

「そこにお義姉様方が絡んでいるのは間違いないのですがね。彼が一番心動かされることといったら、お義姉様方についてと決まっておりますもの」

 

 

 ぎしり、と姿勢を正したら椅子が軋んだ。雑踏に近いぐらいの人混みに遠巻きに包まれたカフェテリアの中でしっかりと聞こえた音に、俺は更に眉間の皺が深くなったような気がした。

 ルヴィアの隣に座っているセイバーも、聖杯戦争の時とは違う渋面を作って空になってしまった、元は二つのケーキが狭そうに並んでいた皿を見つめている。

 最近はそれなりに自重しているセイバーは腹ぺこ王様って程じゃないけど、それでも食事が趣味といってもおかしくないぐらいには熱心に色んな食べ物を探している。

 例えば屋台とか、いわゆる食べ歩きの類がすごく好きなのだ。まぁこれなら趣味の一環ということで別に問題はないと思うんだけど、見た目とのギャップがなぁ‥‥。

 

 

「‥‥第五魔法について、とか? あれなら外部に知られちゃマズイでしょ。私が魔法使いだったりしたら弟だったとしても絞め殺すレベルだわ」

 

「ショウはミス・ブルーの使う魔法については知らないはずですわよ。そもそも概要を知っていたからといって簡単に習得できるようなものではありませんわ、魔法というものは。現に私達とて苦労しているではありませんか。

 その程度のことで自殺してしまいそうに見えるぐらいに憔悴していたら、私達よりも先にまずお義姉様方に折檻されてしまうことでしょうし」

 

「成る程、それもそうだな」

 

 

 実際に会ってみた感じ、やっぱり下のお姉さんは紫遙のことをすごく大事に思ってそうだった。

 お姉さんが紫遙の名前を呼んだ時、少し以上に心配してそうなのがよく分かったし、キョロキョロと弟を捜す視線は楽しげでありながら不安も滲ませていたんだから。

 きっと適当に面白そうだからって推薦したように見えて、実はすっごく紫遙のことを心配していたんだろう。大事な弟を執行部隊が全滅したような場所へ送り出して‥‥そしてこんな結果になってしまった。

 

 

「‥‥もしかしなくても、本当に心配してるのはお姉さん達だろうしな。俺達も何とかして力になってやらないと、今まで散々手伝って来てもらった分が返せない」

 

「そうね、魔術師にとって友人関係であろうと等価交換に変わりはないわ。借りっぱなし、貸しっぱなしっていうのは歪だものね」

 

 

 何度も繰り返すように、等価交換という魔術師にとって当たり前のはずの大原則は遠坂のトレードマークになってしまったかのようだ。決して冷酷とか冷静とかいう意味じゃなくて。

 義理とか人情とか、魔術師でありながら本当にそういった普通のことに厚いところは、遠坂に限らず俺の周りの魔術師みんなに共通してると思う。ルヴィアも、バゼットだってそんなカンジを受けるしな。

 

 

「‥‥失礼、隣よろしいですか?」

 

「え? あぁはい、どうぞ。すいませんこちらこそ占領しちゃって」

 

「いえいえ、お気になさらず。どうぞお話しを続けて下さいな」

 

 

 と、辺りも気にせず喋り続けていた俺達の隣のテーブルに、一人の女性が腰を下ろした。

 橙色のような、少しくすんだ赤い髪。今時珍しいシンプルな細い銀色のフレームのメガネをかけ、真っ白なブラウスと黒いスラックスというラフでありながらビジネスウーマンとも見えてしまう、不思議な雰囲気の女性だ。

 日本人‥‥なのだろう。髪の色はともかく見るからに東洋人である俺に話しかけた言葉は日本語だった。床に置かれた古めかしく頑丈そうなトランクを見るに、旅行者だろうか? ゴテゴテのスーツケースは日本からの観光客(カモ)だと吹聴してまわるようなものだから、選択としては正しくなくもない。

 優しげな言葉使いと細められた瞳は穏和にも見えるけど、席につく寸前にこちらの全員を見回した視線には、鋭いものが隠されているような気がして、俺はまさかと首を振った。少し神経質になってしまっているんだろう、久々の任務の後だったから。

 

 

「すいません、コーヒーをいただけますか?

 

「かしこまりました」

 

 

 近くを通りかかったウェイトレスに注文するのは、流暢なクイーンズイングリッシュ。出身こそ英国でないにしても生粋の欧米人であるルヴィアにも迫り、遠坂はともかく俺とは勝負にもならないぐらい綺麗な発音だ。

 ちらりちらりと横目で伺う俺に構わず、注文をとったウェイトレスが厨房の方へと行ってしまうと、その人はトランクの持ち手と一緒にくくりつけてあった小さめのバッグから、随分と分厚く色々な紙が挟まっている手帳を取り出した。

 すごく使い込んでいるのだろう。元はきちんとした茶色だった装丁は見事に年月を重ねて本当の渋い茶色へと変わってしまっている。まるで探検家が移籍の中で横たわる骸から見つけたものみたいだ。

 大英博物館へわざわざやって来たということは歴史家とか何かなんだろうか。どこはかとなく、研究かとかそういうタイプの人間に見えるのは俺の目が偏っているからかもしれないけど。

 

 

「‥‥とにかく、彼のことについては本当に出来る限り早く何とかする必要があるわ。このまま放っておいても悪くなりこそすれ解決なんかしないのは明らかだもの」

 

「例の“あの者”がショウを狙っているのは間違いないことですからね。あれほどの腕の持ち主、どのような手段をとってくるか分かりませんし、なにより彼があんな状況では対抗できるかどうか‥‥」

 

 

 隣に一般人がいるため、適当にぼかしながら無難に会話を続ける。どうやらココでの話し合いはこれが限界のようだ。流石にどこまで内容を分かりにくくぼかしたとしても、結局のところ物騒な内容には違いない。

 

 

「何とか、出来れば数日中に決着をつけてしまいたいところね。あの男がどれぐらいで用意を調えるかは分からないけど、あまり長くはないでしょう。‥‥絶対にどうにかしてみせるわよ、“士郎”、“ルヴィアゼリッタ”、“セイバー”」

 

 

 ぴくり、と空気が動いた気がした。

 遠坂が俺とルヴィアとセイバーの名前を出した瞬間、隣に座ってウェイトレスが持ってきた湯気を立てる温かいコーヒーを口にしていた女性から、仄かなプレッシャーが放たれる。

 プレッシャー、と呼ぶほどに凄みがあるものではなかったと思う。ただ、まるで蛙が蛇に睨まれた時のように、被捕食者が捕食者に目を付けられたかのような独特の怖気にも似た怯え。

 それはきっと戦ったらどうとか、学力とか知識がどうとか、権威とか地位がどうとか、本来ならそれら同士では比べられない色んなものを全て合わせた“実力”というものが違うんだ。

 俺とこの人では“実力”が違う。段違いに、実力が違う。そう思わせるような怖気だった。

 

 

「‥‥なるほど、やはり君達が“奴ら”だったか」

 

「え?」

 

 

 さっきの温和な口調とは一変、今度は冷たい、というよりも突き刺すかのような鋭い言葉が俺のすぐ横から聞こえてきた。

 首を返してみればさっきまでそこに座っていた穏やかな微笑を浮かべた女性はもういない。いや、いるにはいるんだけど全く印象が違うために既に別人に見えてしまう。

 外見はメガネが外れているだけ。それだけで優しげに細められていたはずの目は変わっていないはずなのに、まるで蛇のように狡猾に見え、口元までもが歪められている。

 まさに豹変。あまりの変わりっぷりに俺達の誰もが言葉を出すことが出来ない。

 

 

「衛宮士郎に遠坂凛。そしてその使い魔(サーヴァント)であるセイバーと、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトか‥‥」

 

「貴女、魔術師ね‥‥?!」

 

「この局面でそう判断しないということはあるまいよ、かの遠坂凛ならば、な。ふん、それにしてもまるで聞いていた通り、想像していた通りで面白い。私達自身の時にも思ったが、二次元での表現力というのもあながち馬鹿に出来たものではないな」

 

 

 ニヤリと笑ってみせたその人は、スラリとした足を組んでジロジロとこちらをまるでねめ回すかのように眺めてくる。実験動物を観察するかのようなその視線は、俺達が否応無くこの人の下位にあたる祖納なのだと思わせてくるのだ。

 

 

「そもそもああいうものは特徴を抜き出している分、対面しているときよりも分かりやすくなるものか。モンタージュと似たような状況になっていると考えるべきなのかな。なかなかに興味深い」

 

「ちょっと、一人で何言ってるのか知らないけど、魔術師がこうして私達に話しかけてくるっていうのがどういうことか分かっているんでしょう? 私達に何の目的があって接触したのか‥‥説明してもらおうじゃないの」

 

「まぁ焦るな。別に君達に敵対するつもりはないよ。そうだとしたらこうしてわざわざ接触する前に、君達を簡単に倒す方法なんていくらでも存在するのだからな」

 

 

 周りにはたくさんの一般人がいる。その中で、いくらなんでもあからさまに物騒な体勢をとるわけにはいかない。相手が魔術師と判明するや否や全員が魔術回路を起動させて臨戦態勢をとりはしたけれど、それでも席を立つことはしないでその場で女性を警戒する。

 この前に会った謎の魔術師の得体の知れなさ。それとは違う、仄かながらも確実に理解できる彼我の戦力差。実際に戦ったらどうか、という単純な戦闘力の比較じゃなくて、魔術師として、人間としての成熟度の違い。

 例えばセイバーと直接戦って勝てる人間が少なくても、絡め手なら分からない。それは直接的な戦闘力じゃなくて、他の部分でまかなわれるものだ。

 そういう意味で、もしこの女性が敵に回るなら侮れない。そんな印象と直感で俺はひどく体を緊張させていた。

 

 

「‥‥いくら大英博物館が魔術協会の本拠地にして一般人にも開放されているところとはいえ、ロンドンに入った魔術師は全て時計塔によって確認されているはず。貴女とてそれは同じ。それを踏まえてなお私達に接触するとは‥‥一体何が目的なんですの?」

 

 

 机の下からシャリ、と何か硬くて軽いものが擦れる音がした。多分ルヴィアか遠坂がポケットから宝石を出して万が一に備えているんだろう。

 おそらくは存在密度と遠坂からの魔力供給のラインを広げているセイバーも見習って、俺も即座に戦闘が起こっても大丈夫なように手のひらに設計図の準備をする。これでもしもの時には、すぐに投影することが出来る。

 繰り返すけど、ここは一般人ばっかりが大量に闊歩している天下の大英博物館のカフェテリアだ。ただでさえ魔術協会の総本山である時計塔の表の顔ということもあって、そうそう目立った行動をとるわけにはいかない。

 それはむしろ時計塔の学生である俺達よりも、まず間違いなく外来の魔術師である目の前の女性に対して不利に適用されるはずだ。‥‥だというのに、どちらかといえば余裕が無いのは俺達の方に見えるのは何故だろうか。

 

 

「目的、と言われてもな。本来なら私は君達には何の用事もなかったのだ。ただ単に別の用事があって時計塔まで来て、偶然カフェテリアで休んでいたんだよ。ただそれだけのことだよ」

 

「別の目的‥‥?」

 

「あぁ。とはいっても君達の風体にピンと来るものがあって聞き耳を立てさせてもらっていたわけだが‥‥。どうやら私の当初の目的と関係があるようなのでな。口を挟ませてもらったよ」

 

「‥‥私達のことを知っているのですか? 失礼ですが日本人の凛や士郎はともかく、私やルヴィアゼリッタは貴女と面識がありませんが」

 

 

 警戒態勢を解いていないながらも一応は丁寧な姿勢を崩さないセイバーが、しっかりと、それでいながら殆ど分からないぐらいに遠坂を庇う位置で問いかけた。

 ニヤニヤと意地悪そうに、そしてどうしてかは分からないけど楽しそうに笑う女性は魔術師なのだからセイバーの存在感ぐらいは分かるだろうに、一向に気にした様子がない。完全な自然体だ。

 英霊なんて存在は人間よりも遙かに上位に位置しているというのに、度胸という言葉だけでは説明できない何かを感じるような気がする。

 

 

「あぁ、そりゃ当然よく知ってるさ。‥‥“当然”な」

 

 

 元々釣りがちだった目が更に細められる。ニヤリと柔らかく、意地悪そうなのに美しいとすら思えるぐらい綺麗に口が弧を描き、いつの間にか外して片手に持っていたメガネを優雅に折りたたんで胸のポケットへとしまった。

 まるで人ごみ溢れるココが自分の家であるかのような堂々とした振る舞いで、その女性は俺達のほうを向いた拍子に顔の前へ垂れてしまった前髪を後ろへと撫でつける。

 

 

「あぁ、まず最初に自己紹介をしておくべきだったか。‥‥私の名前は蒼崎橙子。愚弟がいつも世話になっている」

 

 

 たっぷり数秒、俺達のテーブルの周りがシンと静まり返る。暖房が動いているのに何処からか入ってきた冷たい風が俺達五人の間を駆け抜け、それを肺いっぱいに吸い込んで、俺達は次の瞬間にその空気を盛大に叫び声と共に吐き出した。

 

 

「「「「えぇぇぇーーーっっ?!!」」」」

 

 

 今になって思えば、別に不思議なことでも何でもなかったのかもしれない。そりゃ本当は不思議なことかもしれないけど、その後もちょっと話す機会のあったあの二人が、義弟のピンチを嗅ぎ付けないはずも、駆けつけないはずもなかったんだ。

 だからやっぱり紫遙にとって最後に、そして最初に頼りになるのはお姉さん二人。友人としては少し残念なことだけど、まぁ仕方ない。本人がそう望んでいるんだから、さ。

 俺達は、俺達に出来ることをするだけだ。後日、憔悴していながらも少し血色のよくなった顔を俺達がお茶をしていた遠坂邸に出した紫遙を見て、俺はそう思ったのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 カッチコッチ、カッチコッチ。時代外れの大きな柱時計が立てる大きな音が、普段よりもやけに気にかかる。

 時計塔最深部‥‥とはとても言えないけど、それでもかなり深い位置にある研究室が並んだゾーン。その中の一つ、一番奥まったところにある工房。殆ど人通りが無く、そして並んだ工房の中にもおそらく在住している者は少ないだろう。

 工房の持ち主は時計塔の中でも壮々たる面子。各部門の長や一世紀以上も続く魔術の家系の歴代当主のための工房。あろうことか果ては巨人の穴蔵(アトラス)の院長や彷徨海の最高責任者の名前まで見受けることができる。

 

 ‥‥当然だけど、それらの工房の持ち主がきちんとその工房を使っているかと言われれば、もちろんNo。この階層にある工房の九割九分九厘は未使用のまま整備もされずに、下手したら数世紀もそのままという状態だ。

 これらは最初から持ち主が使うことを期待されているわけではない。これらは、時計塔の腐った———ちゃんと機能はしてるけど、魔術師とは到底思えない連中だ———上層部が魔術協会の威光を内外に示すものとして据えたのである。

 およそ名の知れた、ありとあらゆる偉大な魔術師達の工房は時計塔に用意されている。聖堂教会と同じく世界最大の神秘を管理する機関として、このように工房を揃えてやるのは面子の問題だと聞く。

 

 はてはて馬鹿らしい。『〜の工房が時計塔にあるのだ』なんて言葉を、子供でもあるまいし時計塔の魔術師達が真に受けると思ったのだろうか。

 もしかしてこの案を考え出した奴も戯れのようなものだったのかもしれないけど、どちらにしても結果は同じ。ただ誰も注目しない数十の無人の工房が時計塔の地下深くに残されただけである。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 カッチコッチ、カッチコッチ。時代外れの柱時計が立てる規則正しい音が、たった一人が空気と煙を吐いたり吸ったりする音だけが響く部屋に広がっていく。

 結局そういうわけで、俺が根城にしている“蒼崎家”、もしくは“第五の魔法使い、蒼崎青子”のための工房の周りには、十部屋に近いぐらいの範囲で誰も人はいない。

 だからこそ俺みたいな若輩者が、ここまで深いところに住んでいられるのだ。これよりちょっと上ったところにある人外魔境なんて、いくら俺が現役の魔法使いと封印指定の教えを受けた魔術師だとしても数日と保たないことだろうから。

 まぁどちらにしてもこの階層のやや下には封印指定を受けて、なおかつ執行までされてしまった魔術師達のサンプルが保管されているスペースもあるというから、物騒なことには変わらないんだけど。

 

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

 

 ずっと閉じていた目を開けると、目の前は真っ白。いや、どちらかといえば灰色と言うべきか。もやもやとして実体のない‥‥要するに煙草の煙で満たされていた。

 きっと煙草をやらない普通の人間なら、呼吸するのも困難になってしまうぐらいの密度の煙がそれなりに広い部屋の中に充満している。完全に、向こうの冬木でのエーデルフェルト別邸の焼き直しだ。

 煙草で肺が鍛えられている俺も呼吸はともかく、少しばかり目が痛い。煙に燻されるあまり、きっと服どころか資材や実験材料にも煙草の匂いが染みついてしまっていることだろう。

 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

 

 思えばココ最近‥‥具体的には向こう側の冬木からこちらへと帰ってきて、アノ得体の知れない男に会ってから、煙草と水分以外を取っていない。水分だって酒が多めで、意識できていないだけで今の俺の体調は最悪を更に下回るものだろう。

 あれから俺は、食べ物を取ってないだけじゃなくて睡眠だって殆ど取ってない。酒を飲んで倒れるように眠ったのが一回で、しかもその時は酒のせいか逆に心が不安定になって二度と手を出す気にはならなかった。

 何をしても空回りして事態を悪化させてしまいそうで、工房に帰ってきて翌日からはずっとこのソファに座って煙草ばかり吹かしている。多分、今日の正午を知らせる柱時計の音がしてから両手以外は微動だにしていないに違いない。

 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥熱っ」

 

 

 しばらく、というかそれなりの時間ぼんやりとしていたせいか、燃え尽きた煙草の火が指に達して思わず短くなったソレを取り落とす。テーブルの上に置かれた灰皿からは吸殻が完全に溢れてしまっているけど、汚れなら左程気にかからない。

 どちらかといえば心配するのは今落とした、火のついたままの吸殻で木製のテーブルに焦げ跡が残っていないかっていうことだけど、それも頭の中ですらない遙か彼方でぼんやりと思っているに過ぎなかった。

 今、最大の懸念事項である“あのこと”以外の全ての心配事、のみならず考え事全てが頭の中から閉め出されてしまっている。“あのこと”について考えること以外は、自分の生命活動に関するものも含めて何も手がつかないのだ。

 ‥‥まぁ魔術回路と魔術刻印が頑張ってくれている間は、餓死したり渇死したりすることはないだろう。魔術師とは総じて普通の人間よりはしぶといものである。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 目を閉じると、あの時の魔術師の姿が思い出される。闇夜に浮かび上がる真っ白なスーツと、蛇のように狡猾で気味の悪い視線。あふれ出てくる怖気の疾る狂気を。

 狂喜、としかいいようがないあの笑い声。俺に向かって、全力で突きつけられる強烈な感情の奔流。まったく理解できない狂喜が俺を、あの現実と共にひたすら打ちのめした。

 ひたすらに笑いつづける魔術師と、ひたすらに絶望に怯え続ける俺。相手が上に、俺が下に。立ち位置の違いが更に俺の絶望を加速する。処理しきれず気を失ったのは幸いだったのかもしれない。

 

 

「‥‥どう、しようか。このままこうしていても仕方がない」

 

 

 ボソリ、と久々にちゃんとした言葉を呟いた。頭の中は考え事で一杯なのに、どうじに何処か伽藍洞になってしまっているかのように空っぽだった。

 人は、あまりの絶望に直面した時、きっと思考を止めてしまう。それを理解していながら、俺もまた有効な解決策を考えようという気さえ起きなかった。ただただ恐怖と絶望がのし掛かってきて、それに耐えるだけで精一杯だ。

 ひたすら、ひたすらに耐える。ともすれば安直な逃げ道に走ってしまいそうな自分を、魔術師が自殺とは何事かと叱咤激励して歯を食いしばる。

 バンダナを外した額の魔術刻印にも、鏡を眺めてみれば幾筋もの爪の痕が残っていることだろう。顔面にも何本か走っているかもしれない。拳を握りしめた時に掌には抉ったような傷が出来てしまったし、爪もかなり割れていた。

 

 

「あぁ、仕方ないけど‥‥だめだ、何をしても、いや、何をすればいいんだろう、本当に」

 

 

 再び両手で頭を抱えて携帯電話のように体を折りたたむ。カサカサに乾いた唇は何かを喋る度に裂けて血が滲む。ぺろりと嘗めた舌も、どこはかとなく乾いてしまっているように感じた。

 

 

「でも何かしなきゃ。俺が何かしなきゃ‥‥この世界は———」

 

 

 矮小な俺の、ちっぽけな頭の中から溢れ出てしまった一つの秘密。それは本来ならば、一人の人間が隠し持っておくには重大すぎる情報だった。

 あぁ、本来ならそれは大したことじゃなかっただろう。オレの周りでは何人かも同じぐらいの、いや、それ以上に詳しい情報を持っていたし、オレもその情報を持っていることに何ら不都合を感じることはなかったのだから。

 だけど、あぁだけど、それはオレが俺になった瞬間から違う意味を持つようになったのだ。俺がオレであった時の記憶は、俺一人の手に余るものへと進化を遂げた。

 

 第二魔法。

 並行世界の運用は、れっきとした魔法の範疇に属している。

 逆に言い換えれば、並行世界の存在そのものが第二魔法の範疇であるということであり、つまるところ根源の、世界の中心の一部に繋がる秘奥でもあるのだ。

 きっとかなり多くの人が知っているとは思うけど、並行世界とは幾つもの可能性が更に分岐し合って生まれた数多の世界。例えばあそこで自分がああしなかったら、逆に別のことをしたら、そんな可能性によって生まれた世界だ。

 専門家である遠坂嬢に言わせれば、例えば昼の飲み物がコーヒーだったか紅茶だったか、なんて簡単な分岐はそもそも生まれないらしいし、時間の流れの中で完全に確定されて分岐しようがない事項というのも存在する。

 だから無数であってもそのような微かな違いしかない世界っていうのは統合されてしまうらしいし、逆に何から何まで、例えば物理法則とか神秘の定義とかが変わってしまう程に違うものは並行世界なんてものじゃないらしい。

 とにかく何が言いたいかって、これらはれっきとして、“世界”の中の、“根源”の中に位置する事象だということ。

 

 

「———異世界、か‥‥」

 

 

 ‥‥世界に属していないものなんてものはない。

 衛宮の投影、固有結界。そういったものは世界の修正力の対象になりはするけれど、それでも術者である衛宮自身が世界の産物であるから、タブーでありこそすれ決して禁忌ではない。世界から生まれたものもまた、世界にとってタブーであっても本質的に世界に、“根源”に属しているのだ。

 並行世界もまた世界に属している。とすればオレの存在は‥‥この世界に属しているのだろうか? あぁ、当然ながら答えは(No)。オレはこの世界にとって他人に過ぎない。

 

 俺は、橙子姉と青子姉のおかげで仮の国籍ではあるけど、何とか世界に間借りしていることが出来ている。でも俺の中にあるオレの記憶は、まだまだ世界による入国審査をくぐり抜けることが出来ていない。

 あぁ、これもまた当然だ。何せオレの記憶は、この世界とは別の、同じ根源に属した別の並行世界ともまた違う、完全な“異世界”から持ってきたんだから。

 

 

「こんな記憶、欲しくなかった‥‥。どうして何も知らないままに橙子姉や青子姉に会うことが出来なかった? ———いや、あの記憶が無かったら、そもそも縁も生まれなかった、か‥‥。ク、本当に参ったねこりゃ」

 

 

 オレの世界で存在していた、この世界の情報。そしてこの世界に存在していなかった、オレの世界の情報。

 いや、もしかしたらオレの世界にも何か裏の社会があって、そこで繰り広げられている物語がこちらの世界の某かの媒体で大衆へと発信されているという可能性もある。まぁともかく、どちらにしたってオレの世界とこの世界とは決して交わらない定めだったはずだ。

 魔法使いでもないこの俺が、交わるはずのない、ましてや根源に属しているわけでもない別の世界の記憶を持っている。俺の内にソレがある間はいいかもしれないけど、それが一度俺の外側へと漏れ出てしまったら‥‥?

 

 

「‥‥破滅だ。新たな定義が世界に持ち込まれたら、秩序が崩壊する。漏れ出したばかりの今はいいかもしれないけど、これが世界に蔓延したりしたら、秩序を崩壊させる原因になった異端は———」

 

 

 どうなるのか。そんなこと決まってるだろう。

 紛れ込んだ異物が些細なものならば、無視してもくれるだろう。ソイツが溶け込む努力をしているならば尚更だ。でも、ソイツが目立つようになってしまったら、もはや見過ごしてもいられない。

 

 

「———ぐ、あ、あぁ‥‥ッ?!」

 

 

 突如、両手で抱えていた頭の中が何かで真っ白に塗り潰される感覚が俺を襲った。

 圧倒的なまでの圧迫感と閉塞感。頭の中をぐちゃぐちゃにかき回されて、頭蓋の中にふくらみ続ける風船でも仕込まれてしまったかのように内側から何かが広がって、まるで弾けてしまいそうだ。

 

 ‥‥細切れに、激しく明滅する思考の中で気がついた。俺が今まで何も考える気になれなかったのも、そして実際に何も考えられなかったのも、決して俺が絶望と恐怖で頭の中がいっぱいだったからだけじゃない。

 

 これは世界からの拒絶だ。

 本当に久々に襲われる、世界からの修正力の猛威。これがあったから、俺はオレの記憶について考えるのを無意識の内に制限していたのだろう。

 頭痛、と単純に括ることの出来ない圧迫感。そして同時に襲ってくる吐き気や目眩、そして先程までの恐怖や絶望を更に凌ぐ心への攻撃。

 俺があそこまで動揺していたのもまた、世界からの攻撃と忠告の一種だったのだろう。でも、これはもう過去に経験したことがないぐらい強力なアプローチだ。

 

 

「ぐ‥‥が‥‥!」

 

 

 引っかき回される、俺の全てが。圧倒的な強者によって。

 耐え難い苦痛が全身を苛み、ありとあらゆる悪い影響というものが俺を襲う。これは忠告や警告を通り越して、完全に制裁だ。一応は間借りを許してくれていたらしいけれど、今回の件については厳正な態度を崩さないらしい、俺の大家さんは。

 

 

「‥‥ぎ———ぃ‥‥くそ———ッ!!」

 

 

 ふと、机の上のバスケットに、一振りのフルーツナイフが無造作に放り投げられているのが目に入った。

 あれはいつか、珍しく色んな果物の盛り合わせを持って工房へとやって来た青子姉のために俺が調達して来たものだ。

 もちろん青子姉がわざわざ持ってくる様なフルーツがまともなものだけであるわけはなく、ドリアンなどのお約束のみならず匂いが迷惑なものから、キングランブータンとかいう触手の化け物みたいにしか見えないキワモノまであった。

 それを切り開いた後に置き場所に困って飾りのように放置してあった、少しばかり装飾の綺麗なフルーツナイフ。

 もはや視界も激しく揺さぶれ、霞でいた俺は苦痛と恐怖と絶望で震える手で、無意識ながらソレを掴もうと———

 

 

「そこまでだ。‥‥間一髪だったな、紫遙」

 

 

 ひんやりとした冷たくて華奢な、それでいて力強い掌に腕を掴まれて動きを止める。

 あまりにも聞き慣れ、あまりにも切望したその声。綺麗に手入れされた爪から真っ白な腕へと視線を移動させ、そして、何よりも欲しかった顔へと辿り着く。

 

 少しばかりつり上がった、意地悪そうな目。それでも俺は、その目の持ち主がとても優しいと知っている。

 不機嫌そうにぐっと引き締められた唇。それでも俺は、その唇から俺を気遣う言葉が漏れてくるのを知っている。

 最初に会った時から全然変わっていない。最後に会った時からも全然変わっていない。

 いつでも俺を安心させてくれる、すっかり見慣れた、すっかり頼りにしている俺の一番の人。その顔を見た瞬間、俺の全身から力が抜けた。

 

 

「橙子‥‥姉‥‥?」

 

「こらこら私もいるわよー? まったく、こんなことになるっていうんなら面倒臭がって放っておくべきじゃなかったわね、このナイフ」

 

「青子姉も‥‥? どうしたんだ、二人とも一度に揃ってココまで来るなんて‥‥」

 

 

 後ろから両肩に手を置かれる。ふわりと匂う太陽と草の香りに振り返ると、長い茶髪を靡かせたもう一人の義姉の姿。

 会う頻度だけなら上の義姉よりも多い。特に倫敦に来てからは、何かにつけて振り回された活発な青の魔法使い。

 いつもとは少し違う、真剣ながらも飄々とした雰囲気を漂わせて崩れ落ちそうな俺の体を軽く支えている。華奢ながらも、力強い。‥‥そういえば何時だったろうか、俺がこの人の身長を追い抜いてしまったのは。

 

 

「何、久しぶりにお前の様子を見ておこうと思ってな。何より青子伝てに聞いていたとはいえ、こちらでどんな生活をしているかも気になっていたところだ。

 ‥‥随分と酷い顔をしているじゃないか、まったく。お前は放っておくといつもこうだ。この歳になってまで私達を煩わせる気か?」

 

 

 何とか立ち上がろうとする俺の肩を押して無理矢理に座らせると、青子姉が対面のソファに腰を下ろす。橙子姉は俺の横を素通りして、居間兼食堂の奥に拵えてある簡単なキッチンへと向かった。

 見れば手には紙袋を持っており、その中には何か色々と入っている。まさか仕事を持ってくるような人じゃないから、もしかして土産のようなものだろうか。

 

 

「どうせまた、ろくなものを食べてないのだろう。大体の事情は衛宮士郎や遠坂凜から聞いている」

 

「衛宮と遠坂嬢に?!」

 

「ちょうど昨日、博物館の方のカフェテリアで会ってな。ホラお前は座っていろ、たまには私が茶を淹れてやる」

 

 

 予想外にも手慣れた手つきで、言葉に反して橙子姉が素早く三つのマグカップにコーヒーを淹れ、簡単な菓子と一緒にトレイに乗せて運んで来た。

 久々に煙草以外の暖かいものに触れる。ガサガサになってしまった唇に滲みるけど、同時に体中にも染み渡るように感じた。‥‥あぁ、暖かい。

 

「‥‥あぁ、勿論ただ茶を飲みに来たわけじゃないぞ」

 

「え‥‥」

 

「事情は聞いたと言っただろう。随分と面倒なことになってしまったようだな」

 

 

 二人並んだ義姉と対面していると、不思議な気分になってくる。こうして三人だけで揃っているというのも、気がつけば数年ぶりかもしれない。

 伽藍の洞に式とか幹也さんとかが来てからは、たいてい賑やかな日常が主だったし、ね。

 

 

「さぁ、話してみろ。‥‥私達の助けが、必要なんだろう?」

 

 

 ベクトルこそ違えど自信満々な二人の顔。あれほど頑なに閉じていた俺の口が、解かれたように言葉を発し始めた。

 あぁやっぱり、うん、本当に俺はこの二人の義弟でよかった。

 

 だってそうだろう? 俺がピンチの時には絶対に、こうして瞬く間に駆けつけてくれるんだから。

 

 少し視界が滲んでしまったのは、きっと涙なんかのせいじゃなくて、久々に食べ物を体の中に入れたからに違いない。

 俺は絶対にばれてしまうことを分かっていながら、また心の中で少しばかりのウソをついたのだった。

 

 

 

 

 69th act Fin.

 

 

 



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設定集 『用語説明』

ここでは拙作において出てきた用語について、独自解釈、独自設定を含めた説明を行っています。
あくまで拙作の中だけでの設定ですので、ご了承ください。


 

 

 

 

 

 

■ 倫敦遠坂邸

 

 魔術協会、時計塔が特待生であり外国からの学生である遠坂一家(総勢三名)のために用意した学外の宿舎。

 本来、時計塔に通う学生はノーリッジにある学生寮に入るか自前で家を調達しなければならないのだが、色々と波乱を巻き起こす種になりそうなことを事前に察知していた———ギャグ的な意味ではない———時計塔が隔離政策の一環のように調達した。

 外見は古き良き洋館。冬木にある遠坂邸よりも更に古く、倫敦が倫敦という体裁を整えた時から在るような重厚でおどろおどろしい雰囲気を湛えているが、両脇にはまるで挟み込むかのようにアパートがそびえ立っている。

 部屋数は三人で住むには十分に過ぎ、各自が寝室と工房を持ち、客間をかなりの数だけ整備しているが、それでも手が回らず完全に空き部屋になっている部屋も幾つもある。特にワイーナリーなどは埃を被って久しい。

 工房は地下にあるが、その更に奥にも下へと降りる階段がある。もっともコレは凜達に渡る前に魔術協会によって封印されているので、何があるのかはさっぱり。

 

 前の住民は封印指定の魔術師。生物関係の魔術、特に合成獣(キメラ)人工生命(ホムンクルス)などについて研究していた魔術師であり、付近の住民を掠って被験体にしていたがために執行者によって討伐された。

 封印指定とはいっても実力は左程高かったわけではないらしく、今ではその魔術回路と魔術刻印、そして脊髄や脳などが時計塔の地下に眠っているらしい。

 

 

■ 紫遙の工房

 

 時計塔の地下深くにある。基本的に紫遙はここで寝泊まりしており、下手すれば一週間以上も時計塔から出ることがない。

 玄関から入るとすぐにリビングがあり、その奥にはダイニングとキッチンが順番に配置されている。ダイニングにはそれなりに大きなテーブルが据えられているが足は短く、両側には大きなソファが一つずつ。

 キッチンはかなり狭く、基本的に最初から住居とすることは想定されていない。

 ここから玄関に向かって右側に洗面所とシャワー。左側には寝室と、その奥には工房と作業場へと繋がる階段がある。工房と作業場は一つ下の階にあり、一番奥の工房へといく廊下には幾つか罠も。

 不潔ではないが有り得ないぐらいに散らかっており、ところ狭しと魔術書の類が積み上げられ、作業場も真ん中の作業台付近以外には資材が散乱している。

 ちなみに玄関の扉は通常のものよりも分厚く、中には秩序の沼が再現されており、無理矢理に侵入を試みた者はこの中へと閉じこめられてしまう。時計塔の中でも、トップクラスに近い防犯が施されているのは橙子の仕業。

 

 

■ 両儀流道場倫敦支部

 

 幹也との結婚を前に両儀家の次期当首として妙に張り切ってしまった式が海外進出した結果。

 やはり倫敦だけあって土地がとれなかったらしく、一階が殆ど道場で、師範一家の住居は二階へと移されている。一階には他にも風呂場と炊事場、応接室などが据えられている。ちなみに庭は狭いが細長く、ここで士郎が弓を射つこともある。

 実践的な古流をジャパニーズブームの中で誇張して宣伝したがために門下生はそれなりに多く、繁盛している。海外であるために両儀本家との絡みは無いに等しいが、師範は式との面識があるそうだ。

 元々ここで紫遙が鍛錬をしていたが最近はめっきりご無沙汰で、もっぱら士郎が手合わせに通うばかり。

 

 

■ エーデルフェルト別邸

 

 倫敦郊外に建っている豪邸。丘を幾つかと森を一つ越えると現れる大きな屋敷は近所の名物でもあり、これで別邸というのだから本邸はどれほどのものかと士郎達———特に凜———に衝撃を与えた。具体的には冬木の遠坂邸五つ分ぐらい。

 ルヴィアの他に執事筆頭のオーギュスト。他にもコックやメイド、庭師その他諸々、総勢で十数人を超える数が住み込んでおり、結構賑やか。とはいえ厳粛な性格であるルヴィアが主なので、屋敷の中では最低限の物音しかしない。

 邸内には庭も含めて数えるのも馬鹿らしいぐらい大量の、物理的、魔術的な罠が仕掛けられており、それらは執事長であるオーギュストによって管制されている。ちなみに邸内に魔術師はルヴィア以外にはいないが、オーギュストをはじめとして特殊な経歴を持った者は数多い。

 

 

■ 時計塔

 

 言わずと知れた魔術協会の総本山にして、世界でも最も優れた魔術の最高学府。

 数多の学部、学科、部門に分かれており、それら全てを把握しているのは学長や各部門の長など数が限られる。そのぐらいに人外魔境なところだと覚えていれば多分問題ない。ぶっちゃけ覚えて無くても問題ないぐらい多いけど。

 敷地は基本的に地下で、下に向かって伸びた塔をイメージすればいい。下の階層に行けば行く程に人外魔境度が増していき、最下層に何があるのかは誰も知らない。ちなみに紫遙の工房は魔法使い用であるため、結構深いところに位置している。

 表の顔は大英博物館。通常、ここのカムフラージュされた従業員出入り口から時計塔へと侵入する。また時計塔の学生は特別学芸員の待遇で大英博物館を利用できる。時計塔にあるカフェなどは非常に味が良くないので、上で食事をとる学生が多い。

 

 

■ ハドソン婦人のアパート

 

 倫敦遠坂邸のすぐ隣に立っている、これまた年代物のアパート。

 このアパートは下宿も兼ねており、管理をしているのがハドソン婦人である。もっとも今の入居者はたったの二人で、その二人もフットワークが軽く滅多に帰ってこないという。

 帰ってきた時には二階の窓からパイプの煙やら何やら怪しげな実験で生じた異臭やらがするので分かりやすい。

 

 

魔弾の射手(デア・フライシュツ)

 

 稀代の人形師である蒼崎橙子によって作り上げられた戦闘用の魔術礼装。

 自在に空を斬って飛ぶ不可思議な金属光沢を持った鈍色に光る七つの球体であり、才能の欠片もない紫遙が使っているからわかりにくいかも知れないが、魔術礼装としての位階は相当に高い。

 内部にルーンが仕込んであるため様々な魔術の触媒として使え、またプログラムを入力することによって複雑な機動をオートで取らせることが出来るため、基本的に戦闘の才能がない紫遙でもそこそこに戦うことが可能。

 欠点は、基本的に旋回半径か加速距離が必要なため、狭いところや乱戦においては動きが限定されてしまい、ほとんど使えなくなること。また製作が非常に面倒な上にメンテナンスも手間がかかるので、長期間の継続的な戦闘は困難である。

 

 

■ オストローデ

 

 ドイツのハルツ地方、ブロッケン山の近くに位置する新興都市。

 中世の時代には大きな都市が存在していたが一夜の内に謎の壊滅を遂げ、それから現代まで長い間、廃墟だけが広がっていた。十数年前に地方のプロジェクトで中央へと仕事へ向かう人達の住宅地として再興する。

 街は中心部を縦に両断する大きな街道を境に東西へ分かれており、それぞれの中央部には大きな公園が据えられている。住宅以外の様々な施設、警察署や役所、スーパーマーケットなどは都市の外周部に配置されているというおかしな都市設計。

 街の周囲は一回りはなれて途切れ途切れに、中世の名残である城壁の残骸が広がっている。その更にs外側には鬱蒼とした森であり、今でもなお夜には街を離れない方がいい。

 この周辺を領地としていた死徒、ルードヴィヒ・フォン・デム・オストローデによって現在は多数の住人が謎の失踪を遂げ、新たな住民の誘致には非常に苦労しているらしい。

 

 

■ 赤原礼装

 

 第五次聖杯戦争においてアーチャーのサーヴァントが纏っていた緋色の外套。

 マルティーンの聖骸布によって作られた最上級の魔術礼装であり、外部からの魔術的、物理的な干渉を高いレベルで遮断する。

 布だけではなく縫製の技術についても特殊な方法を採られており、刺繍糸も一つの礼装である。また手の甲の飾り石の中には依頼者であるルヴィアが魔力を込めた護りの宝石が埋め込まれている。

 ちなみに聖骸布を手配したのは、ルヴィア経由ではあるがロード・エルメロイ。また縫製を担当したのはエーデルフェルト本家お抱えの礼装職人であり、ルヴィアの体格には全く合わない不可思議な注文に、しきりに首をひねったという。

 この些細な疑問が大きな問題へと発展するのは、また別の話。

 

 

■ クラスカード

 

 鏡面界と仮称される異空間を作り出し、そこに英霊を召喚する大魔術、およびソレを行使するための魔術具を指す。

 設定された空間ないしは領域に訪れた魔術師を捕捉、二次元を介して反転させるような特殊な術式で被術者を鏡面界に取り込む。

 この際に術者は三次元から一瞬だけ二次元に存在する被術者の記憶を探ることが出来る。高次元からの干渉であるので二次元に存在する被術者は強力な精神障壁を張ってでもいない限りはこの探査を近くすることも不可能。

 

 鏡面界に召喚される黒化英霊の触媒はこの探査によって得られた被術者の記憶である。故に今回の一件で現れたサーヴァント達は、一体を除いて全てが第五次聖杯戦争時のパーソナリティを保有している。が、当然ながら黒化しているので人格は正常に働いていない。

 

 記憶を概念(キーワード)化して英霊の座に検索をかけているので“正確に英霊の正体を把握している”ならば被術者が直接英霊と対面したことがなくても触媒としては十分。ただし正確に把握していることが条件である。記憶の中の情報が少なければ必然的に召喚に用いる触媒に使うのは困難。

 また鏡面界を構成している魔力、英霊を召喚する魔力、英霊に供給される魔力は七枚のカード全てで一つの電源を使っているような状態。

 つまり供給対象であるカードの枚数が少なくなればなるほど、鏡面界の中のサーヴァントの保有魔力量は多くなる。が、カードによって作られた鏡面界はカードが発動状態で共有している歪みが少なくなるので狭くなってしまう。

 

 並行世界の運用たる第二魔法と次元論の一種である第五魔法の一部を組み合わせた、極めて高度な精神干渉系の魔術との複合技術であり、意味合いは異なれど固有結界にも匹敵する大魔術である。

 

 

獣縛の六枷(グレイプニル)

 

 紫遙が魔眼を更に超える、本来の研究の一助にと作り上げたAランクに匹敵する大魔術。

 六つの媒体———宝石やルーン石———を用いて地面に魔法陣を描き、空中に留まったそれらと地面の魔法陣とで捕縛結界を作り上げる。

 本来の宝具である『獣縛の六枷(グレイプニル)』はロキ神の眷属である魔狼フェンリルを戒めたという伝承の通り、魔物や獣を束縛する、『天の鎖(エンキドゥ)』にも似た効果を持つ。

 しかし彼の作り上げた魔術では、宝具としての特性まで再現するに至らなかった。かろうじて獣と術者が認識したものに対しては僅かに効果が強くなるという特性はあるが、バーサーカー相手では殆ど意味がない、ただの頑丈な捕縛結界。

 当然のことながら紫遙の魔力量ではろくに運用することが出来ず、実際に使ったのは実験を含めても片手の指で足りる程。今回のバサカ戦では、残りの二人に大部分の魔力運用を依存している。

 

 




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第六十九話 『義姉達の来訪』

 

 

 

 

 side Thoko Aozaki

 

 

 

 

 自分自身を確立できる人間は幸運だ。

 普通に生活をしていて、自分がどのような人間であるかを自分自身で定義したことがある者など、どれぐらい存在しているだろうか。

 定義という言葉を、自分を縛ってしまうと捉える者もいるかもしれん。しかしな、数学でも物理学でも、問題を解く前には先ず様々な要素を定義しなければ始まらない。

 どんなに過程を論じたところで、前提となる定義が無ければ全てが意味の分からないものと成り果ててしまう。何について論じているのか、そもそも論じている物を定義していないから訳が分からないのである。

 

 理工系の大学に通っている一般的な大学生なら日頃からさも当たり前のように答案用紙でやっているコレを、現実に生きる人間の生涯に当てはめればどうだろうか?

 まず自分自身がどういう人間なのか理解し、定義する。それをしておかなければ、その定義無しでは何のために、どうやって生きているのかすらあやふやになってしまう。

 言うなれば人生そのものを認識するための基盤。認識しない人生が無価値に程近いものへと変化するのは、やはり怠惰に毎日を過ごすことを人間が無意識に否定している表れだろう。

 

 普通の人間でさえ、普段ではさほど気にしていないにしても、自分自身の認識は非常に重要な事柄だ。では普通の人間ではない、魔術師ならばどうだろうか。

 我々は世界に属し、それでいながら世界の目を欺いて何とかして根源へと辿り着かんと日々頭を捻る矮小な存在だ。

 魔術師とは決して偉大な人種などではない。その一生を、ひいては家系の背負った歴史をも賭けて費やした探求の成果すら、いずれ遠くない未来において魔術はおろか神秘すら関わらない科学に追いつかれてしまうような代物である。

 

 しかし、だからといって自分の頭の中だけで作り上げた虚構の妄想にすがるわけにもいかない。我々は我々の矮小さをこれ以上なく正確に自覚し、受け止めなければならない。

 矮小な己の姿を明確に意識し、そして矮小な身で世界の真理を探る。真理とは人間などというちっぽけな存在とは比べものにならない程に広大で、自分の大きさすらも把握できていない人間に真理という無限の平野を推し量ることなど出来はしないのだ。

 

 人間では物差しとして遙かに役者不足である、根源への道の長さ。しかし矮小な身でありながらも、私達はそれを物差しとして使って目指すべき場所へと進んでいく。

 そのための最初のステップ。それこそが自分自身を定義することなのだ。

 

 

 しかし、ここでまた面白い話がある。いやいや、実際にあったことだというわけではなく、あくまで思考の過程で導き出された仮定のようなものに過ぎないがね。

 

 魔術師にとって自己を定義できないのは致命的な欠陥だ。自己を定義できていない奴に魔術師たる資格はないし、そもそも魔術とは、果ての無い、底の無い海から水をくみ上げているようなものだ。

 神秘自体には限度というものがある。神秘の希釈、というものが魔術師にとって最も危惧すべき事態だということからも分かるように、あまりにも神秘について知る、あるいは識る者が増えてしまえば神秘の濃度は薄まってしまうのだから。

 

 しかしな、結局のところ魔術師個人個人にとっての根源とは、相変わらず果ての見えない、限度の分からない海のようなものだ。いくら水を汲み上げたところで無くなってしまうということはない。まぁ、先程も言ったように薄まることはあるのだがな。

 個人にとって、汲み上げられる水の量には限度がある。魔術師にとっての容量、とでも言うべきものだな。これを超えると魔術師は容量オーバーでパンクしてしまう。当然といえば当然だが、これが意外と守られることは少ない。

 ‥‥誰もが自分の容量と言うべきものを見定められていないのだ。だからこそ、限度なく水を汲み上げては自分の内に満たし、結局はそれに溺れてしまったり、破裂したりしてしまうことになる。

 これは最初に言った、自己の定義に失敗してしまった最も典型的な例だと言えよう。一番穏便なのは自分を定義できなくて使うべき、覚えるべき魔術も分からず魔術師になれない、というパターンなんだが。

 

 さて、では一般人は自分を定義しなくても大丈夫なのかという問題がある。これもまた最初に一般人にとって自己の定義とは重要な問題ではないという話をしたが、私の言い方が悪いのもあるが、これも一部は正解で一部は外れ。

 確かに一般人が、意識的に自己を定義する必要はない。むしろ普通に日々を過ごしていくならば、それは弊害とすら言えるだろう。

 

 しかし、では逆に、“自己を定義できなくなった”時はどうだろうか?

 

 それは魔術師が、“魔術師としての己”を定義できなくなるよりも遙かに大きな問題だ。“人間としての自己の定義”が揺らいでしまえば、それは存在の危機へと直結する。

 普段なら全く意識しないだろう、自己の定義。意識しなくても最低限出来ていたその定義を見失ってしまった時に、具体的に何が起こるのか……。精神崩壊、人格瓦解。いくらても簡単に想像がつく。

 何をそこまで、とでも言うつもりか? いやいや、これに関しては精神科医なんぞよりも魔術師の方が遙かに精通しているよ。精神とは肉体と魂を繋ぐ第三要素に過ぎないが、逆を言えば、これが無ければ肉体と魂は決して繋がることはないのだ。

 

 肉体と魂が繋がらなければ、人間は生きてはいけない。魂のみで物理界に干渉することが出来るのは第三法の到達者のみ。そして、魂のみで物理界に干渉できないということは、それ即ち死んでいるのと同義である。

 

 

「あら、案外美味しいじゃない。姉貴ってばいつも紫遙にばっかり淹れさせてるから、てっきり自分じゃ淹れられないんだとばっかり思ってたわ」

 

「失礼なことを言うな。確かに普段は自分で淹れることなどないが、私よりも上手に淹れられる奴がいるからという話に過ぎん。必要があれば自分の分くらいは自分で用意するさ」

 

「普段から自分で用意してればいいじゃない、そんなこと言うぐらいなら。いっつも紫遙か、いなきゃ幹也クンにばっかり淹れさせて。たまには姉貴から従業員のみんなにお茶を振舞ってあげるとか、どう?」

 

 

 倫敦、時計塔。

 世界で最も巨大な神秘を擁する組織である聖堂教会に次ぐ巨大な組織、魔術教会の本部にして、優秀な若い魔術師達が勉学に励む学舎でもある。

 世界中の神秘の管理と研究。そして神秘の隠匿をも第一に掲げ、決して全能ではないにしても圧倒的な権力を有し、権力のみならず執行部隊などを始めとした戦力をも保有している最も有名な魔術結社だ。いや、既に結社などという言葉では収まらないのだが。

 

 その縦に、地下へと伸びた建物の奥深く。名だたる魔術師達のために用意された工房の中の一つに、私たち三人義姉弟の姿があった。

 住人が一人であることを考えれば、あまりにも広い室内。その入り口から真っ直ぐ入った部屋の中心に据えられている、これまた大きなテーブルの両側に据えられたソファに三人は腰掛けている。

 ダイニングのはずなのに、そのテーブルや足がやけに短い、まるで卓袱台のようなつくりをしていた。どちらかというとこれはリビングにあった方が見栄えもいいだろう。

 それでも一人暮らし、ということを考えるなら、まぁ妥協できないことはない。というよりも、一人暮らしの男がきちんと食卓について食事をとっている姿というのも、まぁ想像できないわけだがな。

 

 

「馬鹿なことを言うな。上司に茶を淹れてもらう部下など、想像するだけで鳥肌が走る。ましてやソレが私ならなおさらだ。

 大体な、上司は上司、部下は部下というしっかりした立場の違いを認識することは大事だぞ? 上司が上司らしくしてくれなければ部下は安心して仕事をすることも出来ん」

 

「詭弁じゃないの、それ? ていうか自分が楽したいだけでしょ。面倒なだけでしょ」

 

「詭弁も弁のうちさ。そもそも詭弁なんてもので反論できなくなる相手の方が悪いのだ。その程度の相手、普通に弁論を奮ってやることもなかろうよ」

 

「いや、だから自分が楽したいだけでしょ?」

 

「部下の仕事を取るなど、上司としてとてもとても‥‥」

 

 

 テーブルの上には果物と、大英博物館近くで購入した簡単な焼き菓子。そして先程から青子が愚痴愚痴言っているように、自覚するぐらいには珍しく私が淹れたコーヒーがマグカップに入って置かれている。

 盛大に湯気を立てるコーヒーは些か熱過ぎる気がするが、この寒い季節には丁度いい。何より地下深くにあるこの工房は、概ね一年を通じて涼しい。冬にもなると寒いぐらいだ。

 空気の循環は機能しているのだが、冷暖房まではさすがにない。なにせ千年を遙かに超える歴史を誇る時計塔の地下深くの工房に、現代機器なんぞ数えるぐらいしか置いていない。

 ここにもいくらかだけある電化製品やガスコンロなども、部屋に個別に発電装置とガスボンベを備え付けているだけなのだ。しかもその調達は事務員にやらせているが、設置自体は住人がやらなければいけないしな。

 如何に魔術師が現代機器を嫌うとはいっても、現代人である以上は生活にもそれなりに用意が必要となるのは情けない話だ。しかし、そうでもしなければ文化的な生活は望めないのだから仕方があるまいよ。

 

 

「さて、どうだ紫遙、姉が淹れたコーヒーの味は?」

 

「こら、無視すんなバカ姉貴」

 

 

 横で色々と喧しい青子への対応をすっぱりと放棄して、向かい側のソファに座った義理の弟へと視線をやる。

 大して重くもないであろうに深く深く身体をソファに沈め、両手で覆い隠すように、普段からカフェインの過剰摂取に縁のない人間なら驚いてしまうぐらいに大きなマグカップを持っている。

 

 

「久しぶりに会ったが相変わらず喧しいなお前は。最近の世間では勝ち気な女性が好まれるという話しも聞いたが、お前ほど騒がしいと嫁のもらい手もなくなるぞ?」

 

「姉貴が言うようなことじゃないし。ていうかまだ誰か男に永久就職するようなつもりはないわよ。そうね、あと百年ぐらいは」

 

「ちっ、早いとこ厄介払いが出来ると思ったんだがな。そう簡単にはいかないか」

 

 

 かなり俯いているからか、垂れた前髪に隠れて表情は見えない。普段から額に巻いているバンダナも外してしまっているから、余計に顔は髪で覆われてしまっていた。

 もちろん私や、まぁ一応は青子とて髪の毛が隠れているぐらいで紫遙の表情が分からないという程度の付き合いはしていない。私達を直視できないような落ち込み具合というと、おそらくは酷い表情をしていることだろう。

 昔から、何か負い目があるような時には私達と顔を合わせたがらなかった。結局それで解決することなどないと、何度も理解してきたはずだろうに、な。

 

 

「簡単にいくわけないでしょ。ていうか厄介払いって何よ、厄介払いって。私が姉貴のどんな厄介になってるのか、詳細にご説明願いたいわねー?」

 

「厄介も厄介、大厄介だ。ちょっと前にも酔っぱらって、伽藍の洞の中でレーザーじみた攻性魔術をバカみたいにぶっ放したのを忘れたか」

 

 

 だから紫遙が何かに悩んでいる時、本当に悩んでいる時は向こうから相談することはない。

 そして私達に軽々しく相談が出来ない程に悩んでいるならば、その大問題を紫遙一人で解決できないのも私達は分かっている。だから、そういう時は強引にでも私達から相談することを強要しなければならないのだ。

 

 

「‥‥そんなこと、あったっけ?」

 

「あったぞ。あの時は式が片っ端からお前の魔術を“殺し”、浅上が“凶げて”くれたからいいものを、式達が出かけている時だったら瞬く間に一つの廃墟の出来上がりだ。

 まったく、如何に幾重の結界で守っていたといってもお前のバカみたいな弾幕相手に耐えられるような構造はしていないのだぞ、私の根城は」

 

「マジ?」

 

「私が冗談ならともかく、意味もなく嘘をつくような人間だと思ってるのか? やれやれ、見下げ果てられたものだ」

 

 

 紫遙自身は、私達に対して弱みを見せたくないという子どもっぽい理由と、迷惑をかけたくないという殊勝な気持ちの二つが関係して相談しないという選択肢を選んでいる。しかし結局は私達からアプローチしなければならないという手間をかけさせてしまうのだから苦笑モノだ。

 ああ、苦笑と言いはしたが、別に手間を苦労と厭うていうわけではないぞ? なんというかな、まぁ義理とはいえ、たった一人の弟のためなら多少の手間ぐらいは労苦なんてものではない。

 

 

「‥‥実の妹にはこんなにキツイのにねー」

 

「お前は、実の妹以前の問題だろうが。日頃の行いを省みろ」

 

「姉貴こそ勝手に人の口座からちょこまか金下ろしてるくせによく言うわ。しかも大金じゃなくて、小金だし。大金なら怒る気にもなるけど、あんなにちょこまか下ろされたりしたら呆れて何も言う気にならないわよ」

 

「煩いなお前は、その程度のことでいちいち口やかましく言うんじゃない。たまーにホラ、金に困る時があるんだよ、それこそ飯をどうするか悩んでしまうぐらいにな。そんな時ぐらいはお布施を貰うぐらい良いだろうが」

 

「‥‥もういいわよ、別に。諦めてるし、私も特に困らないし」

 

 

 義理の弟の方が実の妹よりも待遇がいいと不思議に思う奴がいるかもしれなんが、私の中での青子は実の妹とはいっても非常に間接的な関係に過ぎん。

 私が紫遙の義姉で、青子も紫遙の義姉。だから私と青子も姉妹だと、そういう関係なのだから仕方があるまい。そうでもなかったら今こうして二人で話しているのも考えられん状態だったのだからな。

 

 

「‥‥おいしい」

 

 

 俯いていたが故に私達のやりとりを視界に入れていなかったはずの紫遙が、ちょうど口論ともいえない軽い言葉の応酬が瞬間的にピタリと止んだ時を狙ったかのように、ボソリと呟いた。

 私達の立てる物音以外はシンと静まりかえった部屋の中で瞬間的に喋り声が止んだからか、その紫遙の言葉はやけに大きく響いた。本人もそこまで大きく聞こえてしまうとは思わなかったのだろう。私達の視線を受けて、ビクリと肩を震わせる。

 

 

「そうか、それはよかった」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 怯えている、のだろうか。わかりやすい態度だが、今まで紫遙がこのような後ろ向きな感情を私達に向けてきたことが少ないだけに気にかかる。

 負い目を感じる、というレベルではないのだ。相談したいのに出来ない、という程度の負い目ならばいくらでもあっただろうが、これだけ強烈に怯えられたのは初めてだ。

 

 

「‥‥もう一杯、どうだ?」

 

「あ、うん、もらうよ‥‥」

 

 

 手元に置いていたポットから更にもう一杯を自分と紫遙のマグカップに注ぐ。熱い湯気が鼻先を濡らし、眼鏡をつけていたら間抜けを晒しただろうなと内心で独りごちた。

 そういえば言ってなかったかもしれないが、私は基本的に紫遙と一緒にいる時に眼鏡をつけることは少ない。眼鏡をつけていると一般人に相対する姿で、眼鏡を外している時は魔術師。そういう認識があるかもしれないな。

 

 紫遙と私は、義姉弟であると同時に魔術師として師弟関係にある。そして私も魔術師の常として一般社会に紛れているとはいえ、魔術師の本質は魔術師に過ぎない。

 魔術師は、魔術師として過ごすのが一番自然な在り方だ。だからこそ同じ魔術師である紫遙の前では特に必要性が無い限り、私は魔術師として在るのかも知れない。所詮、一般人としての殻を被った私は偽った状態なのだから。

 

 

「さて、そろそろ落ち着いたろう? まったく、本当にお前は心配ばかりかけさせてくれる」

 

「入ってきていきなりナイフ持って深刻な顔してたのを見た時には心臓止まるかと思ったわよ? まさか紫遙が自分から自殺するとは思ってないけど、それでも衝動的にとかあったら怖いし」

 

「‥‥ゴメン」

 

 

 青子の、少し怒ったように両手の甲を腰にあてたポーズに紫遙は更に顔を俯かせ、小さな声で謝る。普段なら笑い飛ばすだろう青子も今回ばかりは深刻な状況であると理解しているらしく、それ以上軽口を叩くこともなかった。

 実際に私達がこの工房へ入って来た時の紫遙の様子は尋常ならざるもの、というよりも可及的速やかに対処を迫られるような危険な状況であったから、青子が怒るのも当然と言える。

 まさか私も、紫遙がフルーツナイフという殺傷性が低いながらも紛れもない刃物を、自分の喉下に突きつけようとしている光景など想像もしなかったからな。

 

 

「‥‥はぁ、最初に説教しておくが、魔術師が自殺など笑いぐさ以外の何物でもないぞ? というかそういうことに思考が回る方がおかしい。ああいう頭の悪い真似を、魔術師がやるなぞ戯けているとしか言いようがない」

 

「うん‥‥」

 

「あぁ、もちろんお前が正気でこのような馬鹿げたことをするとは流石に思ってはいないがな。そこは安心しておけ。流石に十年以上もお前の義姉をしているわけではない。

 しかし、よくよく気をつけておけよ。‥‥事情が事情とはいえ、自分の制御も出来ないようでは魔術師として半人前以前の問題だ」

 

 

 じっと黙って俯いたまま話を聞いていた紫遙が、私の最後の言葉の内容にハッと顔を上げた。

 限界まで見開いた目は驚きも表しているだろうが、それより恐怖や怯えの方が目立つ。どのような心境が生じたのか、わずか十分の一秒その瞳を見ただけでも理解できてしまう程に。

 

 

「‥‥なんで、知って」

 

「私達がお前の状況を知って、何も調べないとでも思ったか。お前の連れの衛宮士郎達と、宝石翁と伝承保菌者(ゴッズホルダー)から話を聞いている」

 

「いやいや、宝石のお爺ちゃんから話聞いたの私だから。ていうかバゼットのところにも私が最初に行こうって言ったし」

 

「細かいことは気にするな。大した違いではない。———そんなことより、紫遙」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 ぐっ、と拳に力を込めた様子を見て、自然に溜息が漏れてしまう。まるで子どもの頃の義弟を相手にしているようだ‥‥と思いはしたが、よくよく考えれば子どもの頃に紫遙でもここまで怯えた様子を見せたことはない。

 それこそ最初に会った時から暫く、つまるところ紫遙が紫遙として私達の義弟になった時までのごく僅かな期間の間にだって、無かったのだ。やれやれ、これでは深刻な気分になる前に呆れてしまう。

 

 

「確かに大体の事情を聞きはしたが、それでも本人から真偽と詳しいところまで確かめないことには話にならん。さぁ、吐け」

 

「吐けって姉貴、それじゃ尋問よ。ていうか今回に限ってどうしてそんなに直接的なのよ、さっきまであんなに優しくしてたくせに」

 

「こんな腑抜けた義弟を見て黙っていられるか。かといって事情が深刻だからに叩き起こすのも解決にはならん。ならこうして、きりきり詳しい話を吐かせるより他あるまいよ」

 

「‥‥うわ、鬼畜ね」

 

「何とでも言え。さぁ紫遙、さっさと話せ。私も一応は凍結されたとはいえ封印指定を受けた身、あまり長い間ロンドンに留まっているわけにもいかん」

 

 

 当然ながら、これは嘘だ。封印指定というのは問答無用で捕縛ないしは殺害して研究成果あるいは魔術刻印や魔術回路、重要な臓器や神経を保管するという物騒なものではあるが、実際そこまで頻繁に執行されるわけではない。

 ああいや、封印指定自体はそれなりに多いぞ? だがな、封印指定を受けた魔術師を根こそぎ刈り尽くすことが出来るほど、封印指定の執行者は数が揃っているわけではない。たった三十人だぞ、連中は。しかもその三分の一はこの前の一件で滅んでしまったしな。

 優先して狩られるのは一般人などに手を出して神秘の漏洩に及んだ、いわゆる外道に墜ちた魔術師や、本当に可及的速やかに封印しなければ二度と手が出せなくなってしまうような、希少値が高すぎる魔術を会得した魔術師だ。

 私のような、執行を凍結された封印指定がうろついていたところで手出しされるようなことはまずあるまい。それこそ、私の研究成果を狙っている別の魔術師などならば、話は別だがね。

 

 

「‥‥はぁ、何をそんなに怯えている? いくら私とて、ここまで憔悴しきっている義弟を更に追い詰めるようなことはしないさ」

 

「そういうことしそうだから、怯えられてるんじゃないの?」

 

「だから煩いと言っているだろう。お前は黙っていろ、青子」

 

「あっそ」

 

 

 暫くの間くっちゃべっていたにも関わらず、口に運んだコーヒーはまだ熱い。私が好きな舌がピリピリするような熱はないが、話し疲れて少し渇いた喉を暖かく潤してくれる。

 私の言葉に何とか俯いた顔を上げ、なおかつ思い詰めたというよりは腹を括ったとでも言いたげな真剣な表情は、まるで死刑台に赴く死刑囚のようだ。

 ‥‥やれやれ、私は別に異端審問会を開くつもりはないんだがな。この様子だと最後の最後まで変わらんだろう。まぁ、まずは話を聞いておくことにするか。

 

 これまた珍しくも青子と二人で並んで、紫遙の対面にあるソファに座る。二人座っても十分に広いソファは肩が触れ合うなんてこともないから快適でいい。

 紫遙の前では一応は和解しているという態度をとってはいるが、まだまだいけ好かない妹であることには違いないからな。多少は、穏便な関係になったことは否めないが。

 

 義姉二人に対面されて更に緊張度が上がったのか、紫遙の額をおそらくは冷たい汗が滴る。まったくもって、苦笑が止まらん。困ったものだ。

 結局その後、紫遙が口を開くまでに十数分。私と青子はその間にコーヒーをもう一杯ずつ、そして茶菓子を一箱空けてしまったのであった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥ふん、成る程。大体の話を聞いていたとはいえ、やはり当事者の口から聞くと違うな」

 

「厄介なことになったわよねー。紫遙と一緒にいる衛宮クンとか遠坂サンとかも抜群のトラブルメーカーだけど、アンタも大概アンラッキーボーイよね」

 

 

 ごくごくたまにルヴィアが訪れることもあるとはいえ、原則として一人きりの俺の工房に、今日は珍しく二人の来訪者が現れていた。

 とはいってもココは本来なら俺の工房じゃないから、この二人がここにいることは自然なのだ。というか当たり前のように居座っていたけど、よくよく考えれば何だかんだで無断借用になってしまっていたっけ。

 ‥‥どうにも最初にこの工房を使うようになった経緯を思い出せない。確か、最初に借りたアパートを整備してから、次に青子姉の工房を一度見ておこうと思って‥‥。

 

 あぁ、思い出した。確か最初に工房に行った時に、あまりにも埃っぽくて放置されてて、それを整備している内にいつの間にか居着いていたんだっけか。結局のところ青子姉には一度もここを使うと宣言もしていないし、許可もとっていない。

 もっとも青子姉も一切ここを使っていないし、むしろ俺が使い始めてからの方が頻繁にここを訪れていることだろう。というよりもあの埃の積もり方から考えるに、一回ぐらいしか入っていないんじゃないだろうか。

 

 

「ああ、私もロンドンに来てから色々な事件とのエンカウント率が高すぎるとは思っていたのだが、やはり連れのせいではなくコイツ自身が原因だったか。まったく、伽藍の洞にいた時はそれほどでもなかったというのに‥‥」

 

「あれは姉貴が殆ど伽藍の洞から出さなかったからでしょ? 毎日毎日学校と家を往復するだけなら早々事件に巻き込まれたりもしないわよ。

 ていうか、あの頃の事件っていったら毎日がそうだったし、そもそも姉貴があっちこっちから依頼受けて連れ出したりしてたじゃない」

 

「若い頃は色々な経験を積んでおくことも大事なんだよ。師匠として弟子を育て上げるのは当然のことじゃないか」

 

「稼ぎが何処に入ったのか、それをしっかりと明言するなら認めてもいいわよ、その発言」

 

 

 長い間、話していた気がするのに、両掌に握りしめたマグカップの中身はまだ温かい。最近は温かい飲み物に縁がなかったから、掌から染み通って心まで温かくなってきそうだった。

 あぁおかしい、肩も足もガクガクと震えそうなのを歯を食いしばって堪えているのに、何故か掌と胸の奥だけが不思議と暖かい。

 冬木であの魔術師に会ってからずっとずっと石のように、氷のように固まっていた俺の全てが、少しずつ融かされていくかのようだ。

 恐怖でガクガク震えている心はそのままでも、温度だけがゆっくりと上がっていく。食いしばっていた歯も、段々と力を緩めていけるようになってきた。

 

 

「こら、そう怯えるな。いい加減に顔を上げろ、紫遙」

 

 

 すぐ近くで声が聞こえて、あまりの至近距離感に思わず驚いて顔を上げる。

 目の前に、鋭利な光を湛えた切れ長の瞳があった。鋼の意思が宿っている、という種類の超越した頑強な眼光ではなく、どこまでも貫き通して奥底まで切開するような、閃光のような、針のような瞳だ。

 あまりにも冷たく、どこまでも残酷に世の中の全てを評価、判断するその鋭い目は、見慣れていない人間なら、一目視線を送られただけでヒッと細い悲鳴を漏らして身を竦ませてしまうことだろう。

 それでも俺にとっては馴染んだ視線であることには変わらず、初対面や殆ど付き合いのない人間ならば単純に冷徹としか思えない視線も、俺ならば他にも色々な感情が込められているのが理解できる。

 

 冬木での事件への未熟な対応に呆れている。謎の魔術師に憤りを感じている。そもそもこんな任務を俺達に押しつけた宝石翁と青子姉に怒っている。下手すれば自害しようとしていた俺を責めている。そして‥‥案じてもくれている。

 上から覗き込んでいるのに、まるで下から見上げられているようにも感じる不思議な感覚。まるで見定められているような、観察されているかのような印象。

 今までずっと、俺が義弟として迎えられてからは対等な目線、もしくは見守るような目線で話しかけてくれていた。同じ魔術師として、対等に。

 

 

「お前は粗相をやらかした幼稚園児か? 良い大人が一つ失敗したぐらいでそんなに落ち込むものじゃない」

 

 

 だけどこの感覚には覚えがある。あれは‥‥俺が初めて、橙子姉と青子姉に会った時のことだ。

 珍獣を目にした時のような不躾な、遠慮のない視線。一切の感情を含まない冷徹な視線。最初に会った時、俺はまるで自分が何か無機物にでもなってしまったかのような感想を持った。

 相手に対する自分の認識ではなく、相手にとっての自分の認識が投射されてしまう。それほどまでに絶対的な視線が俺を射貫いたのだ。まったくもって、あれほど静かに凍り付いたコトは未だかつてなかったと思う。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「やれやれ、やっと顔を上げたか。普通の人間なら親が死んでもそんな顔はせんぞ、まったく、縁起でもない」

 

「親じゃないじゃん、別に。っていっても、姉貴は殺しても死なないけどねー。本当に文字通り」

 

「お前もな」

 

 

 近寄って来て居た橙子姉がソファへと戻り、ちゃんと顔を上げた俺は二人の義姉と相対する。

 ずっと下を向いて俯いていたから、首が強ばっていてギクシャクする。錆び付いたちょうつがいみたいにギシギシと鳴って、逆に今度は前を向いたまま首を動かせなくなってしまいそうだ。

 

 

「‥‥本当に、ごめん」

 

「気にすること無いわよ、その程度。紫遙のための苦労なら今までいくらでもやってるし」

 

「お前は苦労と言う程の苦労はしてないだろう。たまに遊びに行って連れ回して‥‥迷惑かけてやっているの間違いではないのか?」

 

「してるわよー!こう見えてねぇ、時計塔で色々と小細工したりお茶飲んだリ」

 

「後半部分が全てのくせにな」

 

 

 大きく首を回して、深呼吸をする。工房の中の微妙に黴と埃の匂いのする冷たい空気が胸の中に入ってきて、すぐに暖められて外へと向かっていく。

 嗅ぎ慣れた匂いが妙に新鮮に感じる。普段なら一切気にしないだろうに、いつもと違う気分だから埃や湿気の香りがやけに鼻につく。

 未だに心臓自体は持ち主である俺の心境をこれ以上ないくらいに代弁するかのごとく高鳴りを続けてはいるが、それでも心臓に共鳴して震えだそうとしている手足や肩を、意思の力で何とか封じ込めた。

 

 橙子姉の言う通り、これはさっきみたいに落ち込み、怯え、震えていても何の解決にもなりはしない問題だ。もちろんそれは自分でも分かっていて、それでも普段の自分らしく平静に振舞えなかったのは、やっぱりこの問題が、どうしてでも対処するのが難しい大問題だからに他ならない。

 自分一人では、どうしても重圧や不安に耐えかねる大問題。解決策を練るための思考すら一人ではおぼつかない俺のために、貴重な———かどうかは知らない。特に蒼子姉なんか一年三百六十五日暇をしているとすら言えるし———時間を割いて、危険を冒して時計塔まで来てくれた。

 確かに青子姉が俺をこの任務へと推薦したということもあるだろう。それにしたって橙子姉までもがここまで早く駆けつけてくれたことは、申し訳ないという気持ち以上に嬉しくて仕方が無いくらいだ。

 ちなみに何故こんなにも早く義弟の窮地を知ることが出来たのかということに関しては‥‥得体が知れないけど納得は出来るので割愛。少なくとも、義姉弟の絆とか愛とかいう言葉では説明されない、というかそんなニュアンスがないのは間違いない。

 

 

「しかし面倒なことになったな、本当に。想定していなかったわけではないにせよ、やはりこうして直面すると中々に面食らう」

 

「まさかここまで早くバレるとは、私だって思わなかったわよ。そりゃいくら私達の備えが十分だったとはいえ、紫遙自身は最強の魔術師ってわけじゃないし、他にも魔術師なんて山程いるものね」

 

「理解はしていたし、備えも万全のつもりではあったのだがな。やはり、世界というものは広い。まぁその広い世界であのような人種にぶち当たってしまう我が義弟の不運も相当なものだが」

 

 

 皮肉げに頬の端をゆがめた橙子姉の言葉に、青子姉もウンウンと軽い調子ながらも真剣な声色で頷いた。

 しかしそれも道理というものだろう。人形師という称号を得ながらも、その実だいたいのことは何でも一通りこなしてみせる超一流の魔術師。そして魔術師としての腕はともかく、紛れも無い第五法の行使手、真理の会得者である青の魔法使い。

 世界でも間違いなく上位の実力を持った二人の義姉が頭をこらして張った対抗策を、まさかこんな斜め上かつ正攻法なやり方で抜かれて記憶を奪われるとは、しかもそれがここまで短時間に起こるとは、俺はもとより二人だって予想はともかく予期は無理だったに違いない。

 

 俺が魂への、記憶への干渉を防ぐために張っていた精神障壁は、基本的に俺によって考案され、俺自身の魔力容量を割いて張られている。

 多少は橙子姉のアドバイスが入ったものの、基本的には俺の魔術だ。俺は自分自身をそれなりに“できる”魔術師だとは思ってはいるけれど、所詮俺の張ったものであれば橙子姉などの一流の魔術師に比べれば見劣りする。

 ただ、常時それなり以上の強度で張られている精神障壁は、本腰入れて記憶を探りにでも来ない限りは、片手間の魔術ではそう簡単に敗れはしない。何故ならそもそも魔術師が魔術師に対して精神干渉を行うという行為自体が、非常に稀なものであるからだ。

  

 俺の記憶を本腰入れて覗こうとするならば、それに見合う理由が必要となる。そしてその理由として最も考えられるものは、俺の記憶の持つ価値、すなわち“向こうの世界”の情報に他ならないだろう。

 しかしそれを入手するには、そもそもの前提として俺の精神障壁を抜けて来なければならない。俺か橙子姉か青子姉が口を滑らす以外に、他の情報調達手段などないからだ。

 ならば以上二つの要素から、俺の貧弱な魔力と術式によって編まれた精一杯の精神障壁でも、格上の魔術師から記憶を守り通す砦となり得るのだ。‥‥今回みたいな、イレギュラーさえ存在しなければ。

 

 

「中々に盲点だったな。私とお前で考えた論理には神秘の世界の常識的にも不備はなかったはずだが、そもそもこうして単純に不特定多数、それもそれなり以上の魔術師を標的として記憶を欲しがる魔術師(へんたい)がいるとは思わなかった」

 

「というよりも、本当に究極的にはそんな魔術師に出会っちゃう紫遙の不運さを私達が考慮できなかったってところかしら?

 まさかねぇ、異界創造に英霊召還、ついでに高次元からの干渉って手順を踏んでるにしても魔術師にすら通用する強力な精神干渉までこなす人外魔境に遭遇するなんてねー」

 

 

 ある程度以上の腕を持った魔術師。それも、橙子姉や時計塔の教授陣に匹敵するような、それ以上の腕を持った魔術師。そんな存在がどれくらい存在するのかと聞かれたら、そりゃ山ほどいるさと答えることだろう。

 地球の全人口に対して神秘を解する人間の数は軽く小数点以下パーセントを切る。その内で俺達と共通した魔術基盤を持つ“魔術師”の数は十数パーセント。それでもなお、世界に魔術師はたくさん存在しているのだ。

 そのたくさん存在している魔術師の中で上位に存在している橙子姉たち、封印指定という———橙子姉自身の言葉を借りるなら———人外魔境の連中。それがどれほどの数いるものかと考える奴もいるだろうけど、これが中々、結構ごろごろしているものである。

 

 例えばアスリートを考えてみよう。それこそ中学高校の部活動から企業団の選手、オリンピックで活躍する一流選手までを想定して構わない。

 俺の精神障壁を冬木のときのような、正攻法で突破できる実力を持った者を仮に国内で十指に入る以上の選手であるとしてみる。勿論国によって選手の層の厚さにも違いがあるだろうから正確とはいえないけれど、とりあえずの話である。

 この場合、国に十人‥‥では少なすぎるから、二十人と仮定してみようか。それでも世界中見渡して———面倒だから細かい国までは考えない。オリンピック参加国が‥‥何カ国だっけ? よく分からないから百で計算してみよう———三千人いないことだろう。

 ちなみに俺の実力が尋常じゃなく高いんじゃない? と訝しむ人もいるかもしれないけど、こと精神干渉の防御という点に絞れば俺は時計塔の学生でも五指に入る自身があるので、あしからず。

 

 アスリートにたとえると、こんなもの。しかし実際に俺達が相対したのは魔術師だ。

 今、俺が引き合いに出したアスリート達が現在の実力を培うのに費やした年月は、おそらくせいぜいが十数年。それも四十年を下回ることは間違いない。

 しかし魔術とは、技術であると同時に学問だ。百年単位で積み重ねた年月が、そのまま魔術師の糧となっている。ならば、実際には俺の精神障壁を破るに足る実力の持ち主はもう少しばかり多いはずである。

 

 ただ問題は、基本的に魔術師とは隠れ住む者であるということ。時計塔や巨人の穴蔵(アトラス)などの特殊な集まりでもない限りは、魔術師は他の魔術師と好んで接触することなど有り得ない。どちらかといえば、積極的に忌避する傾向にある。

 ‥‥そもそも魔術協会が定めた代々の管理人(セカンドオーナー)が存在する霊地に他の魔術師が侵入すること自体が有り得ない。そしてその魔術師が、俺の精神障壁を抜いてくるような凄腕の魔術師であったのもまた有り得ない。

 つまりは橙子姉と青子姉の言う通り、そういうものに遭遇してしまう俺がどうしようもないくらいに不運だというべきなのか。まったくもって、誰を恨んでいいのか全く分からないのである。

 

 

「出来すぎている、とすら言えるぐらいテンポ良く惨事が続いたものだ。霊脈の異常、調査部隊に続いて執行部隊の全滅、英霊の召還、記憶の簒奪。予定調和のごとき流れだな」

 

 

 もちろん、まさか最初から俺が狙われていたということはあるまい。それは最後に会った黒幕たるアノ魔術師の発言からも読み取ることができる。

 ああ、だからこそ橙子姉も青子姉も不幸と言ったのだろう、俺のことを。‥‥でも、ああ、けど———

 

 

「でも多分、不幸とかじゃないと思う‥‥」

 

「ん?」

 

「はぁ?」

 

 

 ぼそりという俺の呟きに、橙子姉と青子姉が間の抜けたような声を漏らした。この場面で俺の口から反論めいた言葉が飛び出すのが意外だったのだろうか。

 二人の声の残響が止んでしまった部屋の中を一瞬の無音が支配する。先程から度々起こっている微妙な空白も、基本的に沈黙が気にならない関係である俺達義姉弟にとってはあそこまで空気が悪くなるものではない。

 

 

「‥‥前に青子姉に言われた通りだ。異質なものは異質なものを惹き付ける。‥‥そうでしょ?」

 

 

 似たもの同士はお互いに引き付けあう。確かな証明が出来ないというのに、それは遙か昔から当然の法則として世に知られていることであった。

 実体験としては様々な例がある。例えば己の分を弁えていない死徒が死都を作ったりすれば、当然の理として討伐するための代行者が派遣されることだろう。例えば混血などは、自分たちの身を守るために積極的に集団(コミュニティ)を作ろうと互いに接触し合う。

 しかしそういう、明確な理由が存在する引力などではなく、全く理屈では説明できない引力というものも存在する。物理学でも論理でも、魔術でも超能力でも説明できない不思議な力。

 それでもその力が働くこと自体は絶対の真理として皆に認知されているから、だからこそ俺は橙子姉と青子姉から注意するようにと言われていた。

 

 

「橙子姉と青子姉と一緒に伽藍の洞にいた時は、二人に守ってもらえて、気楽に過ごせてた。秘密があっても、二人に話していることで安心できた。

 でも時計塔に来て、一人になって、守られなくなって‥‥。そしてルヴィアや衛宮や遠坂嬢達と会って、俺は錯覚してしまってたんだ」

 

「紫遙」

 

「もう俺はオレじゃない。俺は、この世界の人間だ。でも‥‥俺の中にオレがいるのも忘れちゃいけない事実だった」

 

 

 伽藍の洞での生活は、特筆することもない平穏な日々。毎日しっかりと休むことなく学校へ行って、同じく休むことなく魔術の修練を続け、合間に橙子姉が受けていた依に対しての渉外として仕事を手伝う。

 学校には話し友達以上の付き合いをしていたクラスメイトはいなかったし、部活や課外活動をしていたわけでもない。だから学校での時間は作業のようなもので、俺の生活の殆どは伽藍の洞の中にあったのだ。

 話す相手の殆どが、神秘を知っている人間。そして変わらぬ日々は、俺の感覚を犯していった。良い意味でも、悪い意味でも、変わりなく続いていく日々に麻痺してしまっていた。

 

 

「この世界の住人である俺の中に、別の世界の住人であるオレがいる。だから俺は、俺の中のオレを守らなくちゃいけなかった」

 

 

 “この世界に所属している”ことを認識する。それを最重要視しているのであれば悪いことではなかった。それでも俺が失敗してしまっていたのは、その日々の中で“それでも自分が異端である”のを忘れてしまっていたということである。

 自分では忘れていたつもりではなくても、本当の意味では意識から抜けてしまっていた。常に心の奥底で覚悟していなければならないことが、薄らいでしまっていたのだ。

 守られているなら、忘れていても問題がなかった。でも守られていた城から出て、野原へと歩き出した時、それは“もしもの時”の致命傷になる。

 

 

「いつでも世界のプレッシャーに怯えてた。自分が世界に拒絶されるのが、怖かった。でも違う、本当は俺は、とうの昔に世界から認められていたはずだ」

 

 

 そして時計塔に来て、俺よりも遥かに綺麗な輝きを放つ友人達と出会い、忘れ物は深刻になってしまった。俺より輝く友人達の過ごす日々と共にいて、俺は自分について意識を払うよりも、友人達に、衛宮達に意識を払う方が多くなってしまっていた。

 自分を卑下していたわけでも、衛宮や遠坂嬢やルヴィアと比べていたというわけでもない。ただ彼らがあまりにも輝き過ぎていて、自分の中に集めるべき注目も彼らに寄せてしまっていたというだけの話。

 友人達の世話を焼き、友人達の心配をし、それは決して悪いことではないし俺も後悔しているわけではない。けど、だからといって自分の注意を怠っていては本末転倒だ。

 

 

「俺はオレじゃない。それさえ理解していれば、俺は世界から受け入れられていたんだ。でも俺が、自分がオレであると間違った認識をしてしまっていた。俺の中にオレがいるんじゃなくて、俺とオレが入れ違いに自分を使っていたから、世界は認めてくれなかったんだ」

 

 

 クラスカードを集めるために冬木へ行って、英霊達と戦って、衛宮達が主人公のドラマかゲームを観戦してるみたいな気分になってたのかもしれない。とてもそうとは思いたくないけど、それでも可能性としては十分に考えられる。

 これは衛宮達に待ち受けていたイベントなんだと心の奥底で早合点して、そして自分が注意すべき、自分の問題から目が離れていた。だからこそ、ああして隙を突かれてしまった。

 

 

「それが俺の間違い。オレであることを認識してしまっていたから、まだ前の世界の自分を主体的に引き摺ってしまっていたから、だからこそ全てを間違えた。

 世界に拒絶されていたことも、こうして予期せぬところでオレに関する失敗を犯したのも、俺がオレのことを認識できていなかったからなんだ‥‥」

 

 

 俺である時、俺はオレのことを考えていない。なぜなら、俺は俺がオレであると勘違いをしていて、世界に拒絶されることに怯えていた。でもオレが表に出てきてしまえば、それは世界に拒絶されるのも当然という話なんだ。

 俺がオレなんじゃなくて、俺の中にオレがいる。あくまで主体が俺であれば、俺はオレになることなくオレのことを認識することが出来た。そうでないから、俺がオレになった時に世界がオレを、ひいては俺を拒絶していた。それに気づけなかったのが、俺の過ちだった。

 

 不幸も、衛宮達も、冬木のことも、聖杯戦争も、全て言い訳にならない。

 

 ああそうだ。全て、俺のことは、オレのことは、オレの、俺の責任だ。自業自得、と言い換えてもいい。だからこそ、俺はオレについて、ここで踏ん切りをつけなくてはならなかった。

  

 

「‥‥‥‥」

 

 

 まるで大舞台の名場面で、渾身の名台詞を言い終わった後のような脱力感が襲う。この長々とした口上を言い終わるためだけに、オレはどれほどまでの気力を費やしたのかと自分で自分に呆れてしまう程に、どっと汗が湧いて出てくる。

 それでも何故か俺は緊張感が緩まずに、張り詰めた空気が居住性を考慮していないわりに、無駄に広々とした居間の中を支配する。まるで出された課題を成し遂げて成果を検分して貰っているときにそっくりの沈黙と間の後に、ゆっくりと橙子姉が口を開いた。

 

 

「‥‥ふ、それがお前にとっての“答え”か。一つステップアップできたようだな、紫遙」

 

「え‥‥?」

 

 

 ふっと、本当に数えるぐらいしか、さっき何時になく情緒不安定だった俺を慰めている時にも見せなかった綺麗な笑顔が、俺の前に二つばかり揃っていた。

 鋭い目も、これ以上ないぐらいに意思の強さを示す瞳も、皮肉気な唇もそのままに、見る者がハッと域を呑んでしまうぐらいに綺麗な微笑。花がほころんだ、という表現がこれほどまでに似合わず、そして似合っている微笑を、俺は未だかつて他に知らない。

 常にそれが普通の状態として張り詰められていた弦が、緩められたのではなく、優しい音色を奏でた。そんな胸の奥深くまで響く微笑に、俺は目を見開いて一瞬呼吸を止めた。

 

 

「ずっと、心配してたのよ。紫遙は落ち着いたように見えていて不安定だから、何かきっかけになって自分らしくいられる答えを見つけたらいいなって」

 

「人はどれだけ自分のことを把握しているつもりでも、不十分だ。それは人間が万能な生物でない以上、前提として主観的に物事を考えるのが基本な生物である以上は仕方がない。解くに人生経験の浅い若造では、な」

 

 

 何時ぞや、もう片方の姉からも聞いた似たような話を橙子姉がして、ゆっくりと優雅にマグカップを口に運んだ。他所で飲んでいる時にはいつも気がつけば冷えてしまっているコーヒーは、何故か今日はまだ温かいままだった。

 

 

「でもね、そういうのって他人に言われて気づくようなものでも、得られるようなものでもないじゃない?」

 

「私達が言葉で言っても意味がない。私達が用意してやった舞台に据えても意味がない。‥‥だからこそ、窮地ではあるが今回のことはお前にとって良い試金石になったようだな」

 

 

 微笑が一転、俺の見慣れた、俺の大好きな自信に満ちた表情へと変わる。世界の全てが揺らいでも二人だけは真っ直ぐと立っていてくれる、そんな気持ちにさせてくれる大好きな表情だ。

 いつもの二人。いつもの、でも少しだけ変われたかもしれない俺。高ぶっていた心がゆっくりといつもの温度に、温かい伽藍の洞での温度へと戻っていく。

 

 

「俺が、自分で見つけたんじゃない。一人じゃ今でもずっと、さっきみたいに怯えてるだけだった。なんでかな?

 ‥‥うん、きっと二人が来てくれたからだ。二人のおかげだよ。‥‥ありがとう、橙子姉、青子姉」

 

「‥‥嬉しいことを言ってくれる、と感想を述べておこうか。ふん、調子のいいことだ」

 

「こっちこそありがとうね、紫遙。ホント、紫遙が私達の義弟でよかったわー!」

 

 

 ガシガシと、一瞬のうちにテーブルを飛び込んで接近してきた青子姉に頭をかきむしられた。

 乱暴で、なおかつそこまで力がないというわけでもないのに優しく腕が動く。ゲームセンターのパンチングマシーンでハイスコアを出した豪腕なのに、驚くぐらい細い手と指になすがままにされる。

 最後に付け足しのように皮肉を口にした橙子姉も、それとは分からないぐらいに肩が上がっているところから察するに、少しぐらいは嬉しげにしてくれているようだ。

 こういうのを自分で観察するのは良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、客観的な分析から主観的な喜びへとダイレクトに感情が揺れ動いた。

 

 

「‥‥さて、紫遙。わかっているだろうな?」

 

「‥‥うん」

 

 

 スッと、空気が引き締まる。張り詰めるのではなく、引き締まる。義姉弟としての会話から、橙子姉の一言で魔術師としての三人へと変化していく。

 例え魔術回路のスイッチをオンにしなくても、魔術師は本来の在り方として魔術師だ。だからこそ、一般の人間から見たらどんなに不自然なことでも、魔術師は魔術師として在ることが自然な生き方なのである。

 

 封印指定の人形師、蒼崎橙子。

 第五法の行使手、青の魔法使い、蒼崎青子。

 そしてもうこの世では三人しかいない蒼崎の名前を持つ魔術師である、時計塔は鉱石学科所属の二流魔術師、蒼崎紫遙。

 

 実力では俺は二流に過ぎない。戦闘も得意じゃないし、血が繋がっていないから家系が積み上げた歴史も、魔術刻印も背負っていない。

 それでも俺は、超一流の魔術師と実在する魔法使いに教えを受けた身だ。単純なスペックで劣っていようと、“魔術師として”なら一流。そういう自負がある。

 だからこそ、橙子姉がこれから言いたいことも、オレに惑わされなくなった俺なら理解できる。あぁ、俺は“魔術師”だ。

 

 

「お前の記憶は、トンデモない爆弾だ。単純にその情報だけでも深刻な被害を世界にもたらす原因に成り得る。

 聖杯戦争、月の姫君、直死の魔眼。お前の記憶の中の大雑把なカテゴリの中でも一際目立つキーコンテンツたるこの三つ。このどれか一つが不遜な魔術師一人に知れるだけで、世界全体を揺るがす大きな災厄へと導かれる可能性がある。‥‥当然わかっていることだろうがな」

 

「‥‥‥‥」

 

「そして重要なのは、お前の記憶そのものが持つ情報ではなく、正しく“そのもの”。記憶そのものがこの世界だけではない、異世界の存在を、上位世界とでも言うべき存在を証明してしまっていることだ」

 

 

 今まで何回も、繰り返し繰り返し為されてきた忠告。俺自身も十分に自覚しているこの忠告。

 今までこの話になると否応なく緊張した空気が漂っていたけれど、今回は切迫した事情が絡んでいるからに限界まで緊迫した空気が、いや、真剣な空気が更に真剣になっていく。

 

 

「“根源”へと到達した魔法使いとして言わせてもらうけれど、世界は本来ならば自身にのみ帰属する人間が、自身とは別の世界へと帰属する可能性を許しはしないわ。

 実際に渡るかどうかは問題じゃない。並行世界ではない、“完全な異世界”が存在することを識ってしまうことも、世界にとっては不利益になるの」

 

「そうだ。であるからこそ、お前と私達の間にだけ共有され、秘密にされているべき情報が他に流れてしまったことは、改めて言うまでもないだろうが見逃せない問題だ。これは早急に解決しなければならない」

 

 

 ごつん、と重い音を立てて重厚なマグカップが同じく分厚いテーブルへと置かれる。かなり大きめのマグカップの中に隣に置かれていたピッチャーから繰り返し繰り返し注がれていたコーヒーは、冷めてしまう前に空になった。

 ちなみに皿の上にそれなりの数だけ置かれていた茶菓子は、これまたいつの間にか箱の中のストックまで含めて全て無くなってしまっている。どうやら、青子姉によって食べ尽くされていたらしい。

 本来ならばカフェイン&糖分中毒になりそうな生活をしている橙子姉の腹の中に消えたことだろうけれど、今回は喋りまくっていたから手をつけていないようだ。

 

 

「魔術師が、他の魔術師によって不利益を被った。ならば、することは分かるだろう?」

 

 

 カラカラに渇いてしまった喉は相変わらず。それでも俺は、雰囲気を一変させて威圧感(プレッシャー)を放つ橙子姉を前に唾液を飲み込んだ。

 久々に見る、完全に魔術師としての蒼崎橙子。封印指定の魔術師は全員が全員バケモノだという話だけど、封印指定の中にも千差万別ある。

 魔術師が単純に実力のみで比較されることがないように、封印指定というカテゴリの中でだって色んな方向(ベクトル)に能力はそれぞれ違う。それでもその中で、明らかに“格が違う”と形容される魔術師がいるのも確かな話だ。

 蒼崎橙子は、間違いなく格が違う。魔術師としての格の違いを、蒼崎紫遙は蒼崎橙子に感じるのだ。

 

 

「ホントなら、今回だって助けてあげたいわ。危ないところは危なくないようにしてあげてね、先生が子どもにするみたいに。でもそういうわけにもいかないでしょう?」

 

「私達が全て手取り足取り教えてやるのも、やってやるのも簡単なことだ。確かに今まではそうしてやったこともある。しかし、お前がお前自身で答えを得たのであれば、その答えを得るために起きた事件の幕引きをするのも、お前自身であるべきだ」

 

「‥‥‥‥」

 

「ああ、分かっている。お前も魔術師だ、一人前のな。だからこそ、私は魔術師としてお前に‥‥いや、師として弟子である蒼崎紫遙に命じよう」

 

 

 ふぅ、と一度だけ息を吐いて、今まで以上に真っ直ぐに橙子姉と青子姉が俺へと向き直る。この二人が肩を寄せ合って座っているのは違和感があるけれど、そんなことは今はもう気にならない。

 並んだ二人からの視線が、一切の揺らぎもなく真っ直ぐに俺へと突き刺さる。それは敵意を持ったものでも、視線だけは威圧感を伴ったものでもなくて、ただ敢然とした事実と意思のみを込めて俺へと送るものであった。

 

 

「お前の記憶にある情報は、私や青子をも脅かしかねない危険なものだ。故に私は弟子であるお前に、師である私の不利益をも防ぐために命じるのだ。

 ———私達に、蒼崎に敵対したあの魔術師を、完膚無きまでに消滅させろ。一切の情け容赦は不要だ。魔術師が魔術師に喧嘩を売った、その意味を思い知らせてやれ」

 

 

 心臓が、震える。背筋がすくみ上がる。体中の血液が凍り付いてしまったかのようだ。

 でもそれは決して恐怖とか怯えとか、後ろ向きな感情から来るものではない。不思議なことに、おあかしなことに、こんな年齢になってもまあ俺は、橙子姉と青子姉からこうして魔術師としての言葉を受けることが、嬉しくてたまらなかった。

 

 

「魔法使いでも、ろくに普通の魔術が使えなくても、魔術師であることは変わらないわ。そして何より、私達は“蒼崎”よ。気にくわないけれど、私に逆らうことは姉貴に逆らうことも同じだし、姉貴に逆らうことは私に逆らうことも同じ。そして紫遙についても‥‥同じよ。

 蒼崎に逆らった者は例外なく、同じように報復される。特に今回の事情なら、姉貴の言ったように完膚無きまでに消滅させるのが一番ね」

 

「良くも悪くも、お前は蒼崎の名前に相応しい行いを要求されることになる。私達から、な。そしてそれ以上に、魔術師として自分に敵対する魔術師への報復行為は十分に理解しているはずだ」

 

 

 理解している、なんてものではない。俺はそうなりたくて、義姉達のようになりたくて、強制だったにしてもこうして時計塔へとやって来た。

 橙子姉の言葉からは、期待が重荷になるのではというニュアンスが見える。でもそれは言葉通りに受け取ったらの話。俺はもちろんそうでないし、おそらくは橙子姉も青子姉も、俺がそう思ってなどいないことは十分に承知していることだろう。

 俺は、義姉達に期待されるのが嬉しくて仕方がない。それが例え過分なものであったとしても、とうてい自分の実力では達成できないものであったとしても、俺にとっては至福以外の何物でもない。

 

 

「もう一度言う。叩き潰せ。一切の遠慮呵責なく、容赦もなく、加減もなく、全力を持って塵の一片、存在因子の一欠片も残さずに消し飛ばせ。

 思い知らせてやるのだ、奴に、求めた物が光り輝く財宝の山などではなく、竜の顎の中にずらりと揃った牙だったのだと、な」

 

 

 俺は、オレを克服した。次は俺が、オレの分の落とし前を付ける番だ。

 借りを返さなくてはならない。負債はしっかりと、返してやらなければならない。そうでなければ、オレは俺の中にはいられず、自然と俺は俺でなくなってしまうのだから。

 

 そして何より、誰よりも尊敬する義姉達のため。激励を、期待を、蒼崎の名前を地に堕とさないために。

 

 いつものように足を組み、煙草を挟んだ片方の腕の肘を抱えた傲慢なポーズを取る上の義姉と、すらりとした長い足を伸ばして自信に満ちた表情で腕組みをする下の義姉を真っ直ぐに見つめ返して。

 

 俺はさっきとは違う、決然とした思いを込めて頭を垂れ、『任せて下さい!』と声を張り上げて叫んだのであった。

 

 

 

 

 70th act Fin.

 

 




ちなみにちょっと前から“俺”と“オレ”という二つの一人称を使い分けていますが、おそらくおわかりのコトでしょうけれど“俺”が蒼崎紫遙であり、“オレ”が■■■■です。
とはいっても二重人格などではなく、単純に意識の問題です。このあたりは地の文での葛藤などから読み取っていただきたく思います。



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第七十話 『漂着者の決意』

 

 

 

 side Bazett Fraga Mcremitz

 

 

 

「やぁバゼット、遅くにすまない。怪我の調子はどうだい?」

 

「‥‥‥‥は?」

 

 

 縦に、地下に向かって伸びた縦長の構造をしている時計塔の中層部。魔術教会の中でもあまり表向きには出来ないながらもしっかりと存在している様々な組織の事務室や待合所などが存在している階層であり、私の基本的な仕事場所でもある。

 学生達が使う教室が並ぶ上層階とは違い、一つ一つの部屋の感覚は狭くない。むしろ、間に同サイズの部屋がもう一つ入ってしまうのではないかというぐらいに空いていた。

 実際に間に何があるのか、というのは私も知らない。というよりも私の同僚の内の誰もが知らないと答えることだろう。

 ドンドンと部屋の壁を叩いてみると、かなり微かにだけれど反響している音がするのだ。どうもやはり、間に何か部屋もしくは謎の空間があるらしい。

 とはいっても上の階からも下の階からも、当然ながらこの階からも通路らしきものはない。仮にも世界に名高い魔術協会の本部が無意味な構造をしているわけがないから、おそらくは某かの理由が存在するとは思うのだけれど。

 

 

「最後にバーサーカーと戦ってた時、隠してはいたけど傷を庇ってただろう? もしかしてまた傷が開いてたんじゃないかって気になってね。ただでさえ一週間ぐらいで完治する傷だとは思えなかったし」

 

「あ、いえ、傷自体はだいぶ良くなっています。こちらに戻ってきてから執行者の中でも治療が得意なものに処置をしてもらいましたから‥‥」

  

 

 執務室‥‥というよりは先程に私が自分で話した通り、事務室もしくは待合所とでも言ったような雰囲気を醸し出している室内は、中々に乱雑としていた。

 封印指定の執行者は総勢三十名。その三十名分の机が会社のオフィスのようにいくつかの列になって並んでいるのだが、ただでさえ長い歴史を持つ時計塔のこと、一つ一つが重厚なアンティークであるため中々に違和感がある。

 更にコンピューターに精通していれば情報も電子化が可能なのだろうが、残念なことに全員が全員、ほぼ生粋の魔術師である執行者達には現代機器を使いこなすならともかく好んで使用したがる者は皆無。

 故にこれからの仕事の予定に関する書類。既に執行が完了した魔術師に関する報告書の控えや資料。ついでに活動予定表や会計、その他もろもろの書類が大量にそれぞれの机に積みあがって、まるで複数の山脈が生まれているかのようだ。

 壁には隙間無くコルクボードが掲げられ、そこにはそれぞれの執行者に対する雑多な、それこそ任務の依頼から極限まで散らかった机周りの整理の依頼などが分別なく留められており、これもまた結果として乱雑な印象を強くしてしまっている。

 

 部屋の中心にこのようなカオスな執務用の空間があるのは仕方が無いにしても、入り口から見て右側にある待合室のような休憩所はさらに酷い。煙草の吸殻や使わなくなった書類、携帯食料の食いカスなど、散らかっているという状態を通り越して汚らしい。

 こちらに置いてある三組の大きなソファと一つの机も元はそれなりの代物であったはずなのだが、今となっては骨董品というよりは粗大ゴミに近い。家具職人が見たのなら怒りのあまり憤死してしまうことだろう。

 

 それというもの、全ては封印指定の執行者という職業自体に問題があるとしか言えない。

 執行者達は上役から書類を間接的な手段で受け取ると、それを自分なりのスケジュールと資材でもって執行しに行く。つまり、基本的には単独行動ばかり行っているから執行者達が一同に介するという場が無いに等しいのだ。

 もちろんチームになって執行を行う場合だって多々ある。例えば先日の、封印指定の執行者が十人も一同に介して派遣された、冬木におけるクラスカード事件(仮)。これは前代未聞ともいえるぐらいの、大出動劇と相成った。

 とはいえ珍しいことには違いがないし、チームを組むといっても大概が二人か三人だ。しかもその組み合わせというのも基本的にはずっと固定されていて、結果的には一人であるのと全く代わりが無い。それぞれ、好き勝手に動いているのであるのだから。

 

 ちなみに一番酷いものになると、部屋の中で一番大きなコルクボードに貼られた、封印指定されるべき魔術師のリストから好きなものを一枚破りとって勝手に執行しに行ってしまう。というよりも性格上これを行う執行者が一番多い。

 結果としてある程度の数の執行者が執務室に同じ時間帯に留まっているという状態が非常に珍しく、自分がこの状況を許容できるのであれば誰も掃除などしようと思わないのだ。

 まぁそれは私も同じだから責めることは出来ないのだけれど。

 

 

「———って、そうではなくて! 一体今まで何処にいたんですか紫遙君?!」

 

 

 他に一人だけ執行者が作業をしている、そんな陰気な執務室の中で、私は突然ひょいと目の前に現れた一人の友人に大きな声を張り上げた。

 机の上に置いた書類に向かって作業をしていた顔を上げてみれば、そこに立っていたのはがっしりとした頑丈な仕立てのミリタリージャケットに身を包んだ青年の姿。少し固そうな黒髪を、古びた紫色のバンダナで彩る、ともすればセンスを疑ってしまう独特の服装。

 それでも多種多様な人々が住んでいるロンドンの街ならば簡単に埋もれてしまうような友人を前に、私は心底驚き叫び声を発してしまったのであった。

 

 

「空港に着いた途端にフラリといなくなって‥‥! 遠坂さん達やルヴィアゼリッタがどれだけ心配したと思っているのですか!」

 

「いや、ごめん。ちょっと精神的に逼迫してて、自分の工房に閉じこもっちゃってたんだ。本当に、ごめん。心配かけて申し訳なかった」

 

 

 ズボンのポケットに突っ込んでいた片手の人差し指で頬をかき、申し訳なさそうに笑う。まるでいつものような姿は、つい数日前の尋常ではない程に憔悴し、落ち込み、緊迫した様子が嘘だったかのように普通だった。

 これではいつも、たまに用事がある時に私のアパートを訪ねる時とまったく同じ‥‥。そう思いかけてふと気づく。ハの字に端が下がった眉の下、細められた目の更に下には拭いようがない憔悴の痕が残っていることに。

 

 

「‥‥本当に、大丈夫なのですか? 言っては何ですが、私の怪我など日常茶飯事です。確かに重傷の部類には入るかもしれませんが、結局のところ活動できていたのだから私にとっては軽傷と言っても問題はない。

 それに引き替え貴方は完全に活動不能の状態に陥っていたではないですか。身体に傷を負っていなかったとしても‥‥」

 

「いや、大丈夫。‥‥実は義姉達が来てくれたんだ。おかげさまで、何とか持ち直せたよ」

 

 

 人好きのする穏やかな、いつも何処はかとなく困っているかのような表情が変わる。

 曖昧な笑みの形だった唇が緩やかに、けれど確実にそれと分かるぐらいの弧を描き、細められた眼の置くには明らかな喜色が見受けられる。これは私もそれなりに長くなってしまった付き合いの中で何度も見た表情だ。

 彼がこういう表情をするときは、決まって特定の人物について、つまるところ彼の唯一の肉親にして赤の他人である二人の義姉について考えている時。

 その隠しているようで隠しきれていない、本当に嬉しそうな表情を見て、私も今度こそ不安や心配が消えうせていくのを感じた。

 

 

「———なるほど。そういえば昨日、私のところに事件についての情報を得る許可証付きで来訪者が二人やって来ましたが‥‥あの二人が封印指定の人形師と、第五の魔法使いだったのですか」

 

「え? まさかバゼット、二人のことを知らなかったのかい?」

 

「一応、封印指定の執行者ですから、基本的な情報や紫遙君から耳にたこが出来るぐらい聞かされた情報ぐらいは持ち合わせていますよ。しかし実際に会ったことはありません。私の魔術教会‥‥時計塔での位階は決して高い方ではありませんから」

 

 

 もともとマクレミッツ‥‥フラガの家は魔術協会に所属してはいない。いや、本当のことを言えば魔術協会に所属しているのは私一人であって、フラガの本家と私とは勘当同然の状態になっている。

 魔術協会は軽く十世紀を超える程の、いえ、おそらくはそれ以上の圧倒的な歴史を伴っている巨大な組織。その世界全土への浸透性自体は聖堂教会に劣るものの、無いほうしている歴史自体は圧倒的だ。

 その圧倒的な歴史の中で、時計塔の上層部の席に陣取っている家系は限られる。はるか昔、それこそ時計塔の成立以前からの関わりがあるような家や、その係累以外への上層部の席は無いに等しい。

 

 魔術師の集まりとしての組織であるが故の弊害、必要悪、そのようなものに満たされた場所が此処、時計塔。それ自体は魔術を学ぶ、魔術に関わる上ではどうしても改善できない点である。

 もちろん一部にはそれを由としない、革新的な考えを持つ者もいる。恩恵を受けている家系、魔術師が少ない分、これもまた数多いと言ってもいいかもしれない。

 例えばその筆頭が彼の有名な、紫遙君つながりである程度の親交を個人的にも持っている名教授、ロード・エルメロイⅡであり、また彼の率いる———実際に率いているわけではないが———派閥全体だ。

 これは本当にifの話になるのだけれど、もしかしたら十数年未来には彼の名教授が主導になって時計塔という組織を改善しようという動きも生じるかもしれない。本当に、もしもの話になるのだけれど。

 

 

「‥‥あぁ、気にしないでください。人形師・蒼崎橙子の封印指定は凍結されたままです。私達も暇ではありませんし、別に戦闘狂というわけでもないですから、凍結された封印指定に喧嘩をふっかけるような真似はしませんよ」

 

「べ、別にそんなことは思ってないんだけどなぁ‥‥。まぁありがとう、と言っておくよ、一応」

 

「ふふ、初めて会ったときから随分と成長したと思っていましたが、お義姉さん方のことについてだけは昔から変わりませんね、紫遙君は」

 

 

 時計塔に入りたての少年魔術師。高校を卒業したばかりの、まだ十代だった蒼崎紫遙は、やはり蒼崎の名前を冠するだけの実力を持ちながらも歳相応の少年であった気がする。

 それなりの物議を醸し出す騒動を巻き起こしながらの入学。その当初の私は情報を人伝てに、また有名な人形師の封印指定の凍結という業務上の大ニュースに付属しての入手であったから、大変そうだなぁと他人事に思うだけだった。

 けれど今になって、こうして友人として付き合いをしていると思うのは、彼はやはり、あの当時の色々な陰口や抽象の類が———たとえそれなりに根拠のあるものだったとしても———くだらなく思えてしまうぐらいに“蒼崎”だったということだろうか。

 

 

「でも立ち直ったのは嬉しいですが、紫遙君、ルヴィアゼリッタや遠坂さん、士郎君には後できちんと謝っておくんですよ?

 私もそうですが彼女達は本当に心配していたんですから、さっきみたいに突然なんでもないように現れては不義理というものです」

 

「あー、うん、本当に悪かった。自分のことばっかりで周りに気が回せないなんて、立派な大人としてなってないな、俺は‥‥」

 

「‥‥いえ、別にそれを咎めているわけではないのですよ。紫遙君にだって色々と事情があるでしょうし、その人にとってそれがどれだけ深刻なことかというのは、本人にしか分からないものですから。

 ですから心配をかけた分だけ、しっかりと謝るのが道理ですよと言っただけです。まぁ紫遙君の言う通り、大の大人に言うようなことではないかもしれませんが‥‥」

 

 

 言葉だけを捉えれば普通の反応なのかもしれない。本当に申し訳ないという思い、そして心配されていたことへの感謝と気恥ずかしさ。でも、その中に少しの躊躇いのような感情が見えた気がした。

 そこまで短い付き合いでもないつもりだけれど、そこまで長い付き合いというわけでもない。そもそも他人の感情の機微を読み取るのが苦手と友人にも散々言われた私が、そのような感想を持つのもおかしな話しなのかもしれない。

 

 

「‥‥紫遙君? 私の話を聞いているのですか?」

 

「え? あ、あぁ、ちゃんと聞いてるよ? ホントにみんなには悪いことしちゃったと思ってる。‥‥後で、そう後でちゃんと謝っておくよ」

 

「‥‥そう、ですか。それならいいのですが。えぇ、別に」

 

 

 まだ微妙に違和感があるが、確信があるような違和感でもない。何よりあの状態から元に戻った紫遙君の様子を見ていると、そこをわざわざ追求するような気にもならなかった。

 困ったような笑いに戻った紫遙君は、本当にいつものとおりに見えて安心する。それほどまでに、あの冬木での紫遙君は不安定だったのだ。

 

 

「ところで今日はどうしたのですか? まさか私に挨拶するためだけにこんな穴蔵(ところ)にまでやってきたわけではないでしょう?」

 

「自分の職場なのに散々な言い方だなぁ‥‥」

 

「私の職場は基本的に戦場ですよ。昔から書類仕事は苦手なんです。というよりも今回は事件の直後でしたから執務室に詰めていましたが、普段なら殆どここには寄らないんですからね」

 

 

 何度も言ってはいるけれど、執行者は基本的に戦闘向きであり、特に脳みそ筋肉族と呼ばれるような連中が多い。根本的には魔術師であるから戦闘狂ではないのだが、どちらにしても魔術師に書類仕事を望む方がおかしいのだ。

 研究者が、特に魔術師という人種が書く文章といえば、自分の研究成果を自分にだけ分かるように記した記録だけ。とてもじゃないが報告書など書けるような者はいない。

 

 

「いや、バゼットがいてくれてよかった。‥‥実は例の、今回の事件の黒幕について何か情報がないかと思ってさ。封印指定の執行者なら、多少の情報は掴んでるんじゃないかと思ったんだけど」

 

「‥‥あの全身白(へんたい)スーツの魔術師ですか。確かに、あれから執行部隊の方にも調査依頼が来まして、ちょうど資料を掘り出して来たところです。‥‥見たいですか?」

 

「うん、頼むよ」

 

 

 真剣な表情を作った紫遙君の言葉に頷き、それなりに広い机の上に散らばった書類の山の一番上から、走り書きのような一枚のメモをとる。

 いくらずぼらな連中ばかりが集まっているとはいっても、流石に封印指定の資料を机の上に置きっぱなしにしておくようなことはしない。これは資料が何処においてあるのかを書いたもので、資料自体は隣の部屋に保管してあるのだ。

 

 

「ちょうど私も確認しようとしていたところでしたから、丁度良かった。今とってきますから、少し待っていて下さいね」

 

「ゆっくり待たせてもらうよ。あぁ、ここにあるティーセットは使っても大丈夫かい?」

 

「‥‥多分、大丈夫でしょう。念のため一度洗浄した方が望ましいかもしれませんが」

 

 

 メモを持ち、隣の資料室へと向かう。

 これまた資料室というよりは図書室と言ってもいいような、非常に古めかしい棚が並んでいる。一つ一つが尋常じゃない年月を重ねた棚の中に、現代的なバインダーが収められているのは中々にシュールだ。

 封印指定は遥か昔から行われている。そしてこの資料室には、それこそ初代の封印指定から延々何百年分の資料が保管されているのである。

 入り口近くのものはココ百年以内の資料だから近代的な装丁のものが多いが、最奥に行くと博物館にでも展示されそうなぐらい古いものが魔術も併用して納められている。もはや存命しているのかも危ぶまれる魔術師の資料だが、一応は保管しておかなければ後々不便になるかもしれない。

 家系というものが重要な魔術師という人種。資料はどれだけ古くても役に立つのだ。

 

 

「持ってきましたよ、コレです‥‥って何をやっているのですか貴方は?」

 

「え? 何って‥‥お茶を淹れただけだけど。あ、紅茶は苦手だったかい? コーヒーの方がよかったかな」

 

「そういうわけではありません。いえ、あまりにも自然に淹れていたので、少し面を喰らってしまっただけです」

 

 

 書類を手にとって戻って来ると、適度に片付けられた机の上に何処から掘り出してきたのか、華奢ながらもそれなりの骨董と見受けられるティーカップの中でストレートの紅茶が湯気を立てていた。

 完全に机の上が綺麗になっているわけではなく、適当に整理された書類を左右に除けているだけなのは、おそらくあの状態が私にとって整理されているものだという場合を想定していたからだろう。

 こういう細かいところで気が利くのは‥‥やはり彼の普段からの行動や発言から鑑みるに、お義姉さん方の教育の賜なのではないかと思う。はぁ、しかしまぁあの二人ならばそれも納得できますか。

 

 

「‥‥それが例の魔術師の資料、かい?」

 

「はい。意外にも奥の方にありまして、探すのに手間取りました。私も一度は確認していたのですが、どうやらその後に誰かが閲覧していたらしくて、別の場所に入っていたんですよ」

 

 

 分厚い資料は、詳細に封印指定の内容について調査が進められていたことを示す。しかし紫遙君に手渡した資料はやたらと薄く、重要度が高くないのか入り口に近い棚の中でも、奥の方に押し込まれていた。

 つまり元々は封印指定として登録されてはいたが、そこまで重要度が高くない。封印指定された魔術自体は再現可能なレベルに近かったということだろう。

 

 

「‥‥コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

「齢、既に百年を超える魔術師です。数十年以上前に、土地が持つ記憶を擬似的な固有結界として利用する大魔術を生み出し、封印指定されています。もしやご存じなのでは?」

 

 

 普通の人間より遥かに長生きする魔術師は少なくない。自らを死徒と化すことで単純に魔術の探求に費やすことのできる時間を増やす者は多いし、そうでなくとも魔術回路や魔術刻印を弄ることで寿命を先延ばしするのは決して不思議なことでもおかしなことでもないのだ。

 もちろん死徒となれば教会から追われる可能性も秘めているからそれなりのリスクもあるが、他の手段ならば普通は百年未満の猶予を数十年伸ばせる余地もある。これは、大きい。

 

 

「ヴィドヘルツル、なんて家系は聞いたことがない。名前からしてドイツ系かな? ‥‥このEっていうのが気になるところだけど?」

 

「よく気づきましたね。‥‥何でも調査によれば、そのEは“Einnashe”のEだそうですよ」

 

「Einnashe‥‥? まさか、死徒二十七祖第七位、腑海林アインナッシュの系譜か?!」

 

 

 『腑海林アインナッシュ』。死徒二十七祖の第七位にして、悪名高い『生きた森』。

 直径数キロにも渡って、数年に一度活動して周りの動植物を襲い出す森は、厳密に言えば死徒ではなく吸血植物の集合体であり、生きた森などという表現は似合わないのかも知れない。

 その秘密を探るため、もしくは目立つ活動をしている死徒に対する一辺倒の行動の一環として、魔術協会や聖堂教会も毎回数多の調査員や代行者を送り込むが、当然のことながら全員が全員、餌となって未帰還を迎えている。

 まさに動く天災。どうしようもない災害のような存在は、現在も時計塔に留まり続けている宝石翁こと死徒二十七祖第四位とは別の意味で有名すぎる死徒の一人だった。

 

 

「いえ、あの歩く迷惑は二代目のアインナッシュです。元々初代のアインナッシュは魔術師上がりの死徒でして、かの白の姫君によって討伐された際、近くに生えていた吸血植物がその血液を啜ることで生まれたのが、現在のアインナッシュなんですよ。

 だからこのEが指すアインナッシュとは、先代アインナッシュのことです。‥‥彼はどうにも、記憶に関する魔術において比類無き実力を誇ったと聞きます。おそらくは彼も、その血を継いでいるのでしょう」

 

 

 先代死徒二十七祖第七位は、その性質上から魔術協会からも封印指定をされていた。それ故に少ない量ではあるが、かろうじて資料が残っていたのである。

 あの真祖の姫君をも退ける程の強力な精神干渉の魔術。当然ながら死徒は基本的に子孫というものを残さないから、今回の事件に関与しているアノ魔術師は直系というわけではあるまい。

 しかし、それにしてもノウハウの一部、魔術刻印の一部を受け継いでいたりすれば十分以上の脅威だ。なにせ、資料を調べる限り、あれ以上の精神干渉を得意とする魔術師は未だかつて現れていないのだから。

 

 

「とはいえ、その家系も封印指定が執行されたのと同じく、数十年は前に完全に断絶してしまっています。どういう趣向かは知りませんが、彼は最後の一人のようです。子孫を残さない魔術師、というのもおかしな話ですがね。

 それに封印指定にされてはいますが、術式自体は十分に再現可能なものであることが判明したので、一つの土地の管理者(セカンドオーナー)を任されているそうですから。居城は既に判明しています」

 

 

 数十年前のイタリアの都市廃墟、ポンペイで起こった一夜の悲劇。魔術関係者で当時ヨーロッパにいた者ならば、記憶に残っている者も数多いのではないだろうか。

 火山によって瞬く間の間に灰に埋もれ、住人達が逃げまどう際の苦悶の表情や体の動きまでもが火山灰の中に保存された、貴重な遺跡。今もなお調査団や観光客が数多く逗留するこの都市の静かな夜、遥か太古の惨劇が再び繰り返された。

 あらゆる人々を一切の贔屓なく再び飲み込んだ溶岩。ヴェスビオ火山は噴火の兆候すら見せていなかったのに、火砕流が発生するまでの条件をただ一つ満たしていなかったのに、突如として出現した火砕流はポンペイの遺跡の中にいた全ての人々を巻き込んで、一夜のうちに消える。

 そこに残ったのは苦悶の表情のまま、あるいは何が起きたのか分からないままに死んだ人々の遺体のみ。遺跡を包み込んだはずの泥や灰は何処にも、欠片だって見あたらず、不可思議な事件として少々の修正を加えられて処理された。

 

 それこそ、コンラート・E・ヴィドヘルツルが封印指定を受けるに至った原因。土地の記憶を用いて、太古の惨劇すら再現する疑似固有結界。決して固有結界でないが故に再現可能なものではあるが、様々な要素を鑑みるに、おそらくは彼以外に再現するのは不可能であろう。

 駆けつけた魔術協会の魔術師達が、あるいは必死に魔術を操って事なきを得た、その場に居合わせた一握り未満の魔術師達が、一体何を思ったことであろうか。

 魔術では再現不可能なレベルの天災を再現してみせた異常な手管。恐怖すら覚える、卓越した魔術行使の痕跡。それなりの思惑があったからこそ現在でも封印指定が凍結‥‥というよりは手出し無用の状態になってはいるが、どんなに、恐ろしいものだろうか。

 

 

「私も知識としては知っていましたが、まさか封印指定にされた魔術だけではなく、ここまで芸達者な魔術師だったとは思いませんでした。

 いえ、ここまで多彩に多方向に超越した魔術師など、天才という表現すら生ぬるい。『天災E・ヴィドヘルツル』とはよくぞ言ったものです。彼が封印指定に至った疑似固有結界のことも合わせて、ね」

 

「俺もこの話は知ってるよ。まさか、こんな魔術師が俺のことを狙ってるとまでは思わなかったけど‥‥成る程、これだけの実力があれば納得できる。橙子姉も凌ぐ化け物だな、コイツは」

 

 

 紫遙君の言葉に僅か瞠目する。基本的に義姉こそが至上の存在として考えているフシがあるこの青年が“義姉をも凌ぐ”という言葉を持ち出すあたり、本当に問題は切迫しているのだろう。

 もちろん彼とて、蒼崎橙子という封印指定の人形師が最高の魔術師であるなどという妄想にも似た夢を抱いているわけはないだろうが、それでも口に出すというのは、自分自身が積極的にその事実を認めるということでもあるのだ。

 

 

「資料はこれだけかい? 他に何か、注意しとく話とかあったら聞いておきたいんだけれど」

 

「いえ、どうやらあまり調査が進んでいなかったらしくて、あまり情報が揃っていないんですよ。本拠地の場所は資料の中にありますし、例の疑似固有結界についての調査結果もまとめてあります。まぁ、基本的に調べれば分かる程度のものですよ」

 

 

 資料をペラペラとめくる紫遙君の表情が段々と険しく、引き締まっていく。ひたすらに錯乱するだけだったあの夜。立ち直っていたにしても、何か思い詰めたような緊迫した様子を漂わせていた冬木での彼。

 それら全ての表情とも違う、今まで見たことがない決意の色。これから何をしようというのか、思わずそう問いかけながら立ち去っていく肩を掴んでしまいたくなる決意の瞳。

 

 信頼するのも友人。しかしそれと同時に、心配するのもまた友人。

 

 だからこそ私はその衝動に逆らわず、椅子に沈めていた腰を上げ、自分でも驚くぐらい強い力で同年代の友人の腕をとった。

 

 

「‥‥紫遙君、何をしようとしているのですか? 言っておきますが、宝石翁からの報告によって執行部隊は再編の途中です。次の執行予定は、他家の管理地に手を出し、再度封印指定級の魔術具を撒き散らした彼の魔術師の予定になっています。

 色々と思うところはあるでしょうが、彼に関することで紫遙君が悩むことなどありはしません。封印指定は間もなく執行されます。何か懸案事項があるのでしたら、捉えたヴィドヘルツルを尋問することだって出来るんですからね」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 宝石翁を挟み、事後承諾ながらも時計塔の正式な任務となった今回の事件。当然ながら事の顛末は被害を受けた執行部隊の方にも一部ながらしっかりと伝わっており、元凶たる魔術師に対しては厳粛な裁断が下されている。

 他家の管理地に無許可で足を踏み入れたのみならず、同じく無断の魔術行使。そしてあろうことか時計塔が派遣した調査団と執行部隊を全滅せしめ、あまつさえ再度の封印指定レベルの魔術具の露出。

 問答無用、執行猶予なしの封印指定だ。私も軽い傷と判定されたらしく、一週間以内には十名前後の部隊———現状ではほぼ最大戦力である———が派遣されることとなった。

 

 

「いいですか、紫遙君。君も色々と考えることがあるのも分かります。お義姉さん方から何か言われただろうことも予想はできます。しかし君は、あくまでも素人に過ぎません。

 今回の件は既に時計塔の方で処理する問題になっています。余計な手出しは、時計塔に対して悪印象を与えかねませんよ」

 

 

 何をしようとしているのか、理解できる。大体、予想できる。

 彼ならば確かにそうしようとするだろう。それは当然の要求であるし、当然の権利と言える。

 しかし今回ばかりは相手と状況が悪すぎる。許すわけにはいかない。魔術師としてではなく、友人として、彼の暴挙は止めなければならない。

 

 

「いいですか、無理です。諦めて下さい。その資料を渡したのも、君が納得出来るようにするためです。いいですか、それを使って何かをしようとするなら、私はそれを全力で止めます」

 

「‥‥あぁ、そうだろうね」

 

「本当に分かっているのですか?! とにかく、私の言葉に反するようなら時計塔側から何らかのペナルティがあるものと覚悟してくださいね!」

 

「‥‥あぁ」

 

 

 全く、気のない返事が返ってくるが、問いただすわけにもいかない。彼が本当に意思を変えるつもりがないなら私がいくら言葉を尽くしても無駄だろうし、意思を変えるつもりがあるなら、今の脅迫じみた説得で既に諦めてくれていることだろう。

 それなりに頑固な魔術師という人種の中で、比較的に融通が利く蒼崎紫遙という魔術師。しかし彼も、やっぱり魔術師に過ぎないのだ。根本的な部分では自己本位であり、我が侭で放埒。

 当然ながら私も組織人でありながらもある程度はそういう要素を持ち合わせており、遠坂さん達だってそうだろう。なにせ魔術師とは、そういう人種なのだから。

 

 

「‥‥私はこれから書類を整理して、執行計画を立てなければなりません。今日はもう、帰って下さい。君も復帰したばかりで疲れていることでしょう。遠坂さんや、ルヴィアゼリッタのところにもきちんと謝りに行くんですよ」

 

「うん。分かってる。本当に、すまない。すまない、バゼット」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 ギィ、と重苦しい音を立てて開いた扉が再び閉まる。最後まで不安を拭えないまま、紫遙君は執務室から出て行った。最後の最後まで、私の期待した『大人しくしている』という言葉を残さないままに。

 

 

「やはり、実力行使しかないようですね。この書類仕事が終わったら、遠坂さんやルヴィアゼリッタにも言っておきますか。念のため、ロード・エルメロイにも手紙を出しておいた方がいいかもしれませんね。

 ‥‥放っておけば、彼は間違いなく行ってしまうことでしょう。まったく、お義姉さん方は何を言って彼を唆したのやら」

 

 

 ———後になって、私はこの時の決断をどれほど悔やんだことだろうか。

 確かに結果としては決して悪くはなかったかもしれない。それでも私が、このとき彼のココロの機微を読み取れなかったことが、一部の悲劇の呼び水になってしまったことは紛れもない事実である。

 

 昔からそういう繊細な事柄は苦手だった。あまり努力する機会が無かったとはいえ、それでも努力はしているつもりで、それでも私はやはり感情とか工作とか、そういう繊細で几帳面なことは苦手なのだ。

 本当にそれを、どれほど私が後悔したか、悔やんだか。

 

 それでも私の数少ない友人は、無事に帰って来た彼に向けて低く低く頭を下げる私に向かって、何ら気負うことない笑顔と謝罪の言葉をくれたのだから、本当に、友人にだけは恵まれた私は、不器用でもがさつでも、幸せだったのだろう。きっと‥‥‥。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 この二年近くの間にすっかり見慣れてしまった、第二の我が家とも言えるぐらい慣れ親しんだ地下の匂い。蒼崎の名前を持つ者に対して用意された工房の中で、俺はゆっくりと煙以外の普通の空気を吸い込んだ。

 煉瓦造りの、煤けた壁。魔術師の工房に余計なものは要らないとばかりに、絨毯や家具以外の調度品は殆ど置かれていない室内は殺風景でありながら、積み重ねた年月のせいかそれなりの風格というものを醸し出している。

 窓がないから光も差さなくて、旧式の———とりあえず一応は電灯である———ランプだけが灯りになっているから薄暗い。

 ここは居間兼食堂となっている場所だけれど、魔術師の住処は往々にして薄暗く、不気味であるべきだから、これは決して間違った光景ではないし、俺自身も、別に灯りを改善しようとする気はないんだけど、ね。

 

 

「そうか、もう二年か。そう考えてみると、ここも結構長いんだなぁ‥‥」

 

 

 調度品がないとは言ったけれど、よくよく考えてみればそれも間違いなのかもしれない。

 確かに美術品や壁紙の類は設えていないけれど、部屋の外周にはぐるりと雑多な品物、特に魔術書の類が大量に積まれていて、一種のインテリアのようになってしまっているのだから。

 この内の過半数は既に用済みとなってしまっていて、それでも時計塔の奥の方に位置するという立地条件から処分が面倒で放置しているものだ。俺の研究には膨大な資料が必要で、それでも実際に役に立つ資料はその中で僅かしかない。

 結果として用済みの資料が大量に残るわけだけれど、まぁこれも結局はこの部屋の特色というものなのだろう。血まみれの作業室、なんてものよりは遥かにマシだ。

 

 

「‥‥あぁ、なんで落ち着くのかと思ったらそうか、ここってば伽藍の洞に似てるんだ」

 

 

 今更になって気づく。部屋の周りに積まれた本は、伽藍の洞では旧式テレビ。壁紙の無い壁はコンクリートと煉瓦という違いこそあれ似たような雰囲気を持っているし、書類が乱雑に散らかった食卓も、似たようなものが伽藍の洞にある。

 あの時、殆ど寄らないくせに青子姉と橙子姉がこの部屋の主であるかのように全く持って違和感なく溶け込んでいたのも、やはりはそういう理由なんだろう。

 無意識にそうしてしまったのか、それともそもそも俺のいるべき場所というのが伽藍の洞だからか。どちらにしても、もしかしてこれは当然の結果だったのかもしれない。

 

 

「———さぁ、忘れ物はないかな」

 

 

 荷物はそんなに多くない。バゼットが持っているものにもよく似た、それでいて少しばかり長めのラック。いつもいつも命を預けてきた、数少ない俺の大切なもの。

 腰に不格好にぶら下げられたポシェットの中にはルーン石がこれでもかという程に詰め込まれ、すっかり擦れてしまったミリタリージャケットの裏側には式から貰った古い短刀が仕込んである。

 道中の宿泊や食事は、全て金で調達すればいい。財布の中には十分すぎるくらいの資金がある。出来るだけ、身は軽くしておきたい。

 

 挨拶をしたのは約束に反してバゼットだけ。衛宮や遠坂嬢、ルヴィア達には何も言わずに出て行くつもりだ。

 おそらく彼女達は、俺が未だに工房の中に閉じこもって震えていると思っていることだろう。義姉達に会って、しばらくは落ち着くと期待しているのかもしれない。

 

 ‥‥それでいい。それでいいんだ。

 

 喧嘩を売られたのは、確かに遠坂嬢だって一緒かもしれない。自分の管理地に侵入されて、なおかつ魔術行為まで看過したとあっては管理者(セカンドオーナー)の面子は丸つぶれだ。

 でも、実際に奴と相対すべきなのは俺だ。そればかりは、たとえ遠坂嬢が相手であっても譲れない。

 例えば遠坂嬢が奴に制裁を喰らわせようと意気込んだとしても、それは一方通行にしかならない。なぜなら奴の行動の全てのベクトルは、今のところ俺へとだけ向けられているからだ。

 今回の事件の発端は、確かに無差別なものだったのかもしれない。奴の発言から鑑みるに、信じがたいことではあるけれど、特に重要ではない試行だったらしいのだから。

 しかし結果として、奴は俺に目を付けた。俺は奴に、目を付けられた。それは一度関わってしまった以上、俺が奴の実験場として選ばれた冬木へと足を踏み入れてしまった以上、必然とも言えるぐらいに当然のことであった。

 

 運命、なんて陳腐で簡単な言葉で片付けるつもりはない。

 あらゆる要素が原因となり、絡み合って、当然の結末として導き出された解の一つ。ならばこその必然。ならばこその当然。だからこそ、俺もまた当然の結果として奴に立ち向かわなければならないのだ。

 

 

「‥‥連中、どれだけつくろっても実際に会ったら何か気づきそうだしなぁ」

 

 

 義姉達にだけかと思ったら、存外に自分は隠し事をするのが苦手らしい。バゼットにはあっさりと気づかれ、半ば脅迫じみた説教までされてしまった。

 だから、本当ならちゃんと言っておかなければいけないだろうことも、言わない。会っておかなければいけない人達にも、会わない。もう障害は何物をも残さず、俺はただ魔術師として、自分のなすべきことをする。

 実際には、俺だって常に魔術師でいられるわけじゃない。結局は人情に流され、普通の人間と何ら変わりのない日常を過ごしてしまったり、そんなことばかりだ。

 けれど当然、必要な時に魔術師でなければいけない。そしてそれは今であり、ここからの俺は完膚無きまでの魔術師でなければならない。

 

 

「後で、謝っておこう。帰ってきたら、ちゃんと‥‥」

 

 

 暗闇の中、僅かな光に反射する刃の輝きを確かめてから鞘に戻す。ポシェットの中のルーン石を触り、バンダナの締まり具合を確認し、ラックを担ぐ。

 確か、資料にあった奴の領地まで飛行機を使ってドイツまで行って、そこからはタクシーかバス。色々な準備を調えるのに向こうでも数日かかるだろうから、どんなに上手く行っても帰ってくるまで一週間弱。

 その間の工房の管理は、いつも通りルヴィアゼリッタに頼むわけにもいかない。仕方があるまい、こればかりは。あまり時間が経つわけでもなかろうし、強度を重視して整備不要の状態にしておかなければ。

 

 

「さぁ、行くか———と、なんだ急に‥‥電話?」

 

 

 部屋の中心、妙に足が短いダイニングテーブルの上に散らばった書類の山に埋もれた、旧式の黒電話からけたたましい呼び声が鳴り響いた。

 一応は時計塔の中とはいえど、電気はともかく電話線ぐらいは通っている。流石に全部が全部、使い魔を通した連絡などで済ませるわけにはいかない。

 とはいえ滅多に、それこそこちらから電話をかける時ぐらいにしか使わない黒電話からの着信に、思わずドキリと、いや、ビクリと肩が震える。

 

 

『もしもし、紫遙? やれやれ、やっと繋がったわ。昨日から何回も電話かけてるのに上手く繋がってくれないんだもの、困った困った』

 

「‥‥鮮花? どうしたんだ一体、コレクトコールなんかで電話かけてきやがって」

 

 

 少し埃に塗れた受話器をとると、そこから聞こえてきたのはちょっと前まで聞き慣れた妹弟子の声。

 声に激しく抑揚のある元気で快活で何処はかとなく上位者な雰囲気を漂わす声の少女は、それなりに久しぶりの会話であるはずだけれど、全く変わった様子がない。

 そういえば彼女にはココの電話番号を教えておいたんだったか。以前に、仮の住居に定めていたアパートの方の電話番号を教えて、大失敗したことがあったから。

 

 

『どうしたんだ、じゃないわよ! どうも一昨日から橙子師が失踪してるみたいなのよ! 幹也も居場所が分からないって言うし、もう今日の講義はどうするつもりなのよ‥‥!』

 

 

 ‥‥どうやら、橙子姉は鮮花達“伽藍の洞”の住人に何も言わないでロンドンまでやって来たらしい。自分の講義を放り出された鮮花が血相変えて連絡してきたようだ。

 どっちかっていうと本当に血相変えたのはちゃんとした従業員として雇われていた幹也さんの方だろう。雇い主がいなくなってしまった従業員なんて、想像するだけでも恐ろしい。まぁどっちにしろ幹也さんの給料の半分は俺が払っていたようなものだから関係ないっちゃ関係ないけど。

 

 

『大問題よっ! 幹也なんか今まで必ずメモか何かを残してたのにって、あっちこっち探しに行くって出かけちゃったのよ‥‥式と一緒に!』

 

「はぁ、そりゃ君にとっては大問題だろうね。というか俺にとってはそこまで問題じゃないんだけど」

 

『こらアンタ! 義姉が失踪してるのに気にしないの?!』

 

「いや、失踪って言うか、昨日からこっちにいるんだけど‥‥。ていうかホントに何も言わずに出かけたのか、橙子姉‥‥」

 

 

 まさに電話の向こうでは烈火の如く怒りながら怒鳴り散らしているだろう鮮花の姿が目に浮かぶ。とにかく一番の問題は幹也さんが式と一緒に出かけてしまったことであり、橙子姉がいないのは二の次に過ぎないのだろう。

 既に結婚式を目前に迫った二人だというのに、鮮花はまだまだ諦めるつもりがないようだ。まったく、おそらくは実際に結婚したり‥‥子どもが出来たりしても一向に諦める気はないに違いない。

 

 

『何ですってぇ?! まったく橙子師ってば何考えて突然アンタのところに行ったりしたんだか! 幹也も一々振り回されて‥‥。どうせ切っても裂いても煮ても焼いても死なないんだから、放っておいても大丈夫なのに』

 

「そいつぁ言い過ぎだぞ鮮花。流石にそれぐらいされれば橙子姉だって死ぬ。‥‥まぁ、死んだところで大した意味はないんだけど」

 

『つまるところ、それを死なないって言うのよ。‥‥で、橙子師はどういう用事でアンタんところに行ったの? まさか私達に連絡も無しに行くってことは、なにか簡単じゃない事件でも起こったってところでしょ?』

 

「‥‥‥‥」

 

 

 一転して鋭く聞き込んでくる鮮花に、俺は沈黙を以て返した。基本的に鮮花とのやり取りはコメディタッチのものになりがちだけれど、やっぱり鮮花は頭と勘が良い。

 橙子姉の行動の痕跡から、既に某かの事件が起こったことを突き止めている。こりゃ、下手して幹也さんとかを巻き込んだりしたら簡単にコトの顛末を解明されかねん。

 

 

「‥‥まぁ、そんなカンジだ。既に橙子姉に話はしたよ。大丈夫、こっちが済んだら多分すぐに橙子姉も伽藍の洞に戻るはずだ。幹也さんにも、そう言っておいてくれ」

 

『はぁ?! ちょっと紫遙、いくら何でもそんな説明で幹也が納得するわけないでしょ! もっと詳細で納得いく説明を———』

 

「あぁ悪い、電話代が心配だからもう切るよ。幹也さんにはくれぐれもよろしく」

 

『え?! ちょっとコラ紫遙待ちなさ———』

 

 

 ガチャン、とやけに軽々しい音を立てて受話器を電話騎へと下ろす。これ以上話していると、変なことまで勘づかれてしまいそうだ。

 今さっきの瞬間まで喋っていたせいか、自分が立てる物音以外が無くなった部屋は妙に静かで寂しく思えた。落差、という奴だろうか。寒々しくも思えてくる。

 

 

「‥‥鮮花とか幹也さんにも、謝らなきゃいけないかもなぁ。参ったね、こりゃ。謝らなきゃいけない人間が段々と増えてく騎がするよ」

 

 

 一度は下ろしたラックを再び担ぎ、大きく息を吐き出してから踵を返す。ここには暫く戻ってこられないから、掃除は念入りにやっておいた。‥‥まぁ、整理はしてないけれどさ。

 乱雑な方が好きだけれど、不潔なのは嫌いだ。それは俺も橙子姉も、青子姉も一緒で、あの伽藍の洞だって散らかってはいるけれど埃は綺麗に掃除してある。

 

 

 さぁ、行こう。

 魔術師が魔術師へと挑む決闘は、稀であるし古びているけれど、様式として実際に存在しているものだ。

 でも俺が今からするのは決闘なんて流麗な代物じゃない。これは、制裁だ。一人の魔術師が、自分に手を出した魔術師に対して、二度と刃向かう気にならないように、制裁を加えるのだ。

 

 俺はオレを、俺を守るために。そして何より魔術師として、奴を殺す。

 

 叩き潰す。

 一切の遠慮呵責なく、容赦もなく、加減もなく、全力を以て塵の一片、存在因子の一欠片も残さずに消し飛ばす。

 あぁ、思い知らせてやるさ。奴に、求めた者が奴にとっての光り輝く財宝なんてものじゃないことを。簡単に手に入れられるようなものではないということを。

 手に入れようと手を伸ばせば、その腕ごと喰い千切られてしまう竜の顎。まさにそれが、俺も含めた蒼崎というもの。それを、思い知らせてやる。

 

 

 額の魔術刻印が、熱を持つ。体中の魔術回路が、俺の意思に反応を示す。

 いつもより静かに、ゆっくりと閉めた部屋の扉。封印の術式を施して踵を返し、長い長い階段を目指して歩いていく。

 幕開けだ。魔術師の闘争の、幕開けだ。

 決意に込めた、魔術師としての怒りと矜恃。そして何より、蒼崎という名前。

 一歩一歩に魔力を込めるかのように、俺は歩き出す。その道の先に、きっと今までと変わらない未来と日常が、待っていると信じて。

 

 

 

 71th act Fin.

 

 

 

 




次回から最終章となります。改訂版も頑張って執筆していきます!


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番外話 『降誕祭の彼等』

 

 

 

 

 

 side Luviagelita Edelfelt

 

 

 

「ショウ、このテーブルのセッティングはこのようなカンジでよろしいんですの? テーブルクロスのサイズが机よりも少々大きいので、端が不格好になってしまってあまり気に入っていないのですが‥‥」

 

 

 長き歴史を誇る大英帝国。その中心部から少しだけ外れた路地の中、周りをこれまた普通ながらも同じように歴史あるアパートに囲まれた洋館。

 私の感覚でいえば、そこまで大きくはない。しかし先進諸国の住宅問題を鑑みるに、やはり首都の真ん中に立っているというだけで、それなりの価値というものがあります。

 今、私がロンドン留学に際して建築したエーデルフェルト別邸も、当然のことのように今私が居るこの屋敷よりは大きいが、それでも流石に都心部に建てるわけにはいかず、少し離れた郊外を選んだのです。

 

 

「いいんじゃないかな? なんか衛宮と遠坂嬢は料理の準備で忙しいみたいだし。ここは他人の家で悪いけれど、俺達で勝手にやってしまおう。何かいらんもの持ち出したりしなきゃ、遠坂嬢達だって起こりはしないだろうしね」

 

「そうですわね。‥‥はぁ、こういうことは慣れておりませんから手間ばかりかかって仕方がありませんわ。私の屋敷でやれば、メイド達に全てセッティングを調えてもらいますのに」

 

「自分たちで用意したクリスマスパーティーにしようって最初にみんなで決めたじゃないか。君だってたまにはそういう趣向も珍しくて良いって賛成してただろう?」

 

「別に嫌だなんて言っておりませんわ。ただ感想を述べただけですのよ。私とてパーティーの趣向をあえて無視するような真似はいたしません」

 

「ハハ、そういうところはちゃんと信用してるよ。そこまで短い付き合いでもないし、さ」

 

 

 両隣を古びたアパートに挟まれた洋館。ここは特待生として入学したミス・トオサカのために時計塔がわざわざ用意した学外宿舎ですわ。

 本来ならノーリッジの学生寮に入るか、もしくは私のように自力で宿舎を見つけなければいけないところを特別な扱いというのはいかがなものかと思うのですが‥‥。そのあたりは時計塔にも思惑があるのでしょう。

 時計塔は決して無能な組織ではありません。確かに老害としか言えないような澱を溜め込んだ部分も多いですが、それでも組織として成熟しきっているのもまた事実。

 伊達に西暦年と同じだけ、否、それ以上の年月を経てきたわけではありません。一介の学生に過ぎない私では、計りきれない思惑というのも少なくはないでしょうから。

 

 

「それにしても、俺としては君がホームパーティーじみたクリスマス会なんて企画に賛同するのが意外だったね。てっきり君はそういうの苦手だと思ってたから」

 

「別に、むちゃくちゃなものでなければ友人からの誘いを無碍にするようなことは致しませんわ」

 

「そうかい?」

 

「随分と誤解されてしまっているようですわね。私としてはそれなりに長い付き合いである貴方にそのような誤解をされていたのが腹立だしいところではありますが」

 

 

 始まりはシェロの何気ない一言でした。

 冬木に住んでいた頃のシェロ達は、何かにつけてパーティーのようなものを開いていたらしいのです。それは例えば誰かの誕生日であったりとかそういう当然の理由だけではなく、それこそ学校のテストが終わったりとか殆ど関係のないような些細な季節の行事など。

 ロンドンに来てからは忙しかったがためにそういう習慣を自重していたらしいのですが、せっかくのクリスマスだからと盛大にホームパーティーをしてみようと、この前に私とミス・トオサカの共同研究の休憩時間に言いました。

 

 

「まぁ魔術師が集まってすることがホームパーティーというのも、中々に珍妙なことかもしれませんけれどね」

 

「しかも面子が面子だしなぁ。時計塔の首席候補が二人に、未来の英霊と正真正銘の英霊が一人ずつ。ついでに時計塔一の名物講師に封印指定の執行者が更に二人なんて豪華な寄り合いだってのに‥‥」

 

「どこぞの死都でも滅ぼしにいくかっていうメンバーですわよね。下手すれば時計塔の最大戦力なのではありませんの? ‥‥まぁ、自分で言うようなことでもありませんが」

 

「確かに。いやいや、世の中平和が一番だね」

 

 

 まるで小学校の時のように折り紙を貼り合わせて作った輪っかの飾り紐を壁の額縁などに引っかけていたショウがこちらを振り向いて笑う。

 そこまで身長が高くないとはいっても、やはり男性であるショウはそれなりに上背がある。バゼットやロード・エルメロイがまだいらっしゃっていない以上、そしてシェロが料理で忙しい以上は肉体労働は彼の仕事ですわね。

 その分だけこういう細かい装飾などを任されたのですから私もしっかりと務めなければ。そう、そう思ってはいるのですが‥‥。

 

 

「‥‥ショウ、この額縁少し曲がっていませんこと? あと右に5°ほど回した方がよろしいのではないかと」

 

「ルヴィア、君テーブルのセッティングは完了したのかい?」

 

 

 ミス・トオサカの屋敷は両隣をアパートに挟まれている上に、基本的にカーテンを締め切っているために薄暗い印象があります。

 どのみちパーティーがあるのは夜なのですからカーテンが閉まっていても開いていても関係ないような気がするのですが、鬱屈とした雰囲気を払うために私は勢いよくカーテンを左右へと開けました。

 ‥‥いえ、やめておきましょうか。大きな窓から見えるのは整備されず不気味な雰囲気を漂わせた庭と、同じく古くさく埃っぽい路地。これはあまり良い景色とは言えませんわね。これなら外が見えない方が幾分マシですわ。

 

 

「いいじゃないか、魔術師の家っぽくて。俺の工房だって窓ないし」

 

「それは地下だからでしょう。というか工房と家とは全く違いますわよ。私の屋敷だってカーテンは開け放しておりますし。もちろん昼間の話ですが」

 

 

 エーデルフェルトの屋敷はカムフラージュの意味もあって、普通の屋敷に見えるようにしてあります。ごくごく平凡な家に見えるように窓を開けて風と光を取り入れ、綺麗に整備された庭と美しい調度品を揃え、どこからどう見てもありふれた屋敷ですわ。

 魔術師にとって一般社会に溶け込むのは命題の一つですわ。いくら成熟した魔術師が個人で群体の一個小隊を圧倒する実力を持っていたとしても、少数派であることは否定しようがありません。

 私自身もたとえ別邸に軍隊が攻めてきても返り討ちにする自信はありますが、それとは問題が異なりますもの。もとより、魔術というものは一般人に知らせるようなものではないということもありますし。

 

 

「その点で言えば、この屋敷は少々怪しすぎるというものですわね。これでは何もなくても幽霊屋敷など噂されかねないレベルですわよ」

 

「‥‥君の家も相当噂されている可能性が高いけどね。なんていうか、斜め上の方向で」

 

「は? 何のことですの?」

 

「分かってないならいいよ、別に‥‥」

 

 

 呆れた表情で乗っていた椅子から降り、画鋲のケースの蓋を閉めるショウ。一体何を言っているのかさっぱり分かりませんが、とにかく半ばバカにされていることは間違いないようですわね。

 

 

「よく分かりませんが、何と無く不快ですわ‥‥」

 

「そういうもんじゃないかな。ほら、人間わかんないことなんてたくさんあるよ。それが自分のことだったとしてもさ」

 

「何より今の貴方のセリフがよくわかりませんわ。とりあえず喋ればいいというものではないんですよの?」

 

 

 ダイニングから持ってきた大きな食卓と、リビングに元々据えてあった足の短めのテーブル。二つに統一したテーブルクロスの上に花瓶を置き、壁の飾りつけもショウがやってくれましたし‥‥。

 あとはシェロ達の料理と、招待した他の人達が来るだけですわね。そろそろパーティーを始める時間に合わせて集合するなら丁度よい時間なのですが‥‥。

 

 

「失礼します、二人とも。バゼットとフォルテが来ましたよ」

 

「セイバー、出迎えしてくれていたのか。すまないね、そっちを任せてしまって」

 

「いえ、特にやることもありませんし。シロウにキッチンから追い出されてしまったので‥‥」

 

「そ、それはつまみ食いばかりする君が悪いんじゃないかな?」

 

 

 玄関へと繋がる廊下のドアを開けて入ってきたのは、この屋敷の主であるミス・トオサカの使い魔(サーヴァント)であるセイバー。

 真名をアーサー王という一級の英霊である彼女は、私の知る限りではロンドンに来てから英霊らしい生活を送っているとはいえないのですが‥‥だからこそこうして普通に友人として接することが出来たのかもしれません。

 

 英霊とは根本的に人間と違う存在です。特に魔術師であれば英霊の圧倒的な存在感というものは間違いなく感じ取れますし、私も初めてまみえた英霊という存在がこのように親しく付き合える者だとは思いもしませんでした。

 よくよく考えてみれば、当然のことかもしれませんけどね。英霊とて元は人間、普通に人間として接することが出来れば全く気負う必要などないのでしょう。

 最も、やはり英霊という存在がそれを許さないのもまた事実。だからこそセイバーは、使い魔(サーヴァント)と言えども得難い友人なのですわね。

 

 

「おや、セイバーは食い意地が張っているのですか? そういえばランサーも私の食事によく苦言を弄していたものです。‥‥短い期間では、ありましたが」

 

「そういえば君から聖杯戦争についての話はあまり聞いていなかったね、バゼット。さて、失礼するよミスタ・アオザキ、ミス・エーデルフェルト。この屋敷の主であるミス・トオサカに挨拶するのが妥当なのだろうが、姿が見えんことだしなぁ」

 

 

 ぬっと姿を現したのは長身の女性と銀髪の女性。

 そこまで多くはない招待状を受け取った数少ない友人達の内の二人であり、先程話に上った時計塔の最大戦力の内の二人でもある。

 

 全く普段と変わらず、まるで私服などという言葉は持ち合わせていないかのような小豆色のスーツでびっしりと決め、不釣り合いなぐらいにゴツイ黒の革手袋を嵌めているのは、私達とは一年来の友人である封印指定の執行者。

 歴代最強とも噂される、現存する宝具の担い手である『伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)』、バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 

 その後ろから続いて現れたのは長い銀髪を結い上げ、白いコートの中に真っ黒いカジュアルドレスを着込んだバゼットと同じくらいの年頃の女性。

 コート自体の仕立ては女性らしく優雅なものなのに全体的にゴツイ印象を受けるのは、おそらく各種の防御術式を施された頑丈な素材を使っているのと‥‥おそらくはその懐に剣の形をした魔術礼装を仕込んでいるからでしょう。

 彼女こそはバゼットと二人で執行部隊の双璧とすら例えられる凄腕の執行者であり、何代も続く風使いの家系の出身者。『風使い』フォルテ、あるいは『素晴らしき』フォルテと呼ばれる友人の一人です。

 元々は冬木へと派遣された執行部隊の一員であり、その関係で冬木から戻ってきて‥‥ショウの一件が終わった後に、バゼットの紹介で付き合いを始めた仲でした。

 

 

「遠坂嬢なら衛宮と一緒にキッチンだよ。昼からずっと料理を作ってくれたんだけど‥‥冷めちゃいないだろうなぁ?」

 

「昼から? やれやれ、一体どんな豪勢な料理を作っているというのですか、まったく。食事などそこまで気にする必要はないではありませんか」

 

「‥‥最近は少しまともになって来たと思っていたが、やはり君は食事に頓着しないところは変わらないな。いい加減、君と二人で食事に行って同じ物を頼まれるようなことは遠慮したいのだが」

 

「バゼット、それは普通にマナー違反だよ‥‥」

 

 

 ショウがフォルテから預かったコートをハンガーにかけながら心配そうに言いました。確かに、延々何時間もキッチンに二人で籠もっているわりに、全く状況が読めません。

 ‥‥まさか二人で何かやっているのではありませんわよね? くっ、私達はひたむきに根源を目指す存在だというのに、不純異性交遊など許すわけにはいきませんわっ!

 

 

「って、なに悶えてんのルヴィアゼリッタ? ホラ、料理出来たから運んでちょうだい」

 

「ミス・トオサカ! いいですか、私の目の黒いうちは魔術師として節度ある振る舞いをしなければ共同研究のパートナーとしての関係を解消させてもらいますからね!」

 

「はぁ?」

 

「あー、気にしないでいいぞ遠坂嬢。今このコ病院が来い状態だから」

 

「失礼なこと仰らないで下さいなショウ! くっ、バゼットとフォルテも手伝って下さいな。急いで運んでしまいますわよ!」

 

 

 キッチンから両手に大皿を持った遠坂嬢が出て来ました。湯気をたてるアツアツの料理は何故か中華。しかも辛さで有名な四川料理。

 何故、このロンドンで洋風のパーティーを企画しておきながら中華料理かと疑問に思いはしますが、彼女の中華料理が美味なのは紛れもない事実なのですわよね。

 

 

「ちゃんと洋食も用意してあるぞ、ルヴィア。遠坂も得意だからって中華料理ばっかり作るなよ。雰囲気とか、そういうの必要だろ常識的に考えて」

 

「お前が常識語るのは無理があるぞ、衛宮‥‥」

 

「なんでだよ紫遙?」

 

「自分で考えてみろ、常識に照らし合わせて」

 

 

 シェロが両手に持った大皿を取り上げてテーブルへと運びます。衛宮の言葉通り、コイツが作った料理はローストビーフやローストチキン、ミネストローネにポテトサラダとベーシックなクリスマスパーティーの料理が勢揃いしていました。

 ふむ、シェロの料理は私の屋敷の料理人にも勝るとも劣らない腕前ですからね。もっとも故郷のフィンランドの味に関しては当然ながら届かないのですが、一流の料理人とはまた違う家庭的な温かさを持った味付けは、私の好みですわ。

 特に和食に関して言うならば‥‥以前に一度二度行ったことがあるロンドンの日本料理店の料理とは比べものになりませんでしたわ。あれはそう、和食という名をしたナニカという表現が正しいものでしたわね。

 

 

「ああ士郎君、私も手伝いましょう。士郎君はこちらの準備は任せて、どんどんキッチンから料理を持ってきて下さい」

 

「君は味が分からないくせに量はしっかり食べるからな。まぁリレーのようにすれば効率もいい。ミスタ・エミヤ、バゼットの言う通りに持ってきたまえ。準備は早いほうがいい」

 

「お、おう、分かった。それじゃよろしく頼むよ三人とも」

 

 

 相変わらず女らしくありながらバゼットよりも男前なフォルテに言われ、シェロはキッチンへと下がります。

 下がった端から次々と各種大皿に乗った料理を持ってくるシェロ。普段よりも手の込んだ料理は、確かに数時間キッチンに籠もった分だけありますけれど‥‥少々量が多すぎやしませんか? というよりいくらシェロだとしても、これだけ手間のかかった料理を一人では‥‥。

 

 

「先輩? あの、それは後で追加に出す料理ですから、今は冷蔵庫の中に‥‥」

 

「あらサクラ、貴女もいらしていたんですの?」

 

「酷い?! 私もちゃんと姉さんから直接呼ばれてましたよルヴィアさん!」

 

 

 ひょっこりとシェロに続いて、ここ最近で随分と見慣れた顔が姿を現しました。

 すみれ色の柔らかい髪の毛をした、優しい瞳の少女。私よりも年下でありながら母性をくすぐる穏やかな雰囲気を漂わせるのは、今期から時計塔に入学したサクラ・マトウ。

 冬木において聖杯戦争創立の御三家と呼ばれる三つの魔術の家の一つ、マキリもしくはマトウの現当主にして、時計塔においても非常に珍しい虚数魔術と蟲を使役する魔術の使い手です。

 私にとってもショウにまつわる騒動で死線を共にした関係もあり、それ以来深い親交を結んでいるわけなのですが‥‥。招待状を書いていなかったから思い出せなかったのですわね。

 

 

「‥‥あら、そういえばアザカはどうしたんですの? サクラがいるということは当然アザカもいるものだとばかり思ったのですけれど」

 

「鮮花なら教授を迎えに行っていますよ。何でも大事な用事が長引いて遅れたとのことでして」

 

「大事な用事‥‥つまるところゲームですわね。まったく、あの方は仕方がありませんわね」

 

 

 サクラは時計塔に来て以来、ロード・エルメロイにその才能を認められて彼に師事しております。

 正式な師匠はショウのお義姉様であるミス・アオザキであるということですが、ロンドンに来てからのロード・エルメロイの講義は彼女にとって非常に有益だったようですわね。魔術の出来も、ますます上達しているようですのよ。

 もう数年も修行すれば、時計塔でも上から十本の指に入る魔術師へと成長するでしょうね。付録のように一緒に師事しているアザカも、めきめきと実力を伸ばしていることですし。

 

 

「貴女もロード・エルメロイにとっては久しぶりの弟子でしょうが、ゲームばかりしているのではないでしょうね? まぁちゃんと魔術の腕が成長しているようですから心配はしていませんが‥‥」

 

「え、えぇーっとですね、まぁたまにはその、ゲームに付き合わされることもありますけ、ど‥‥」

 

「そんなことだろうと思いましたわ。今度、私からもロード・エルメロイにご注進しておかなければいけませんと———」

 

「———何をしなければならないというのだ? エーデルフェルト」

 

 

 そこまで人数がいないにしても賑やかだった室内に、低いテノールが響き渡りました。。

 現れたのは紅いコートと、黄色い肩掛けを羽織った長身の男。不機嫌そうに眉間に刻まれた皺は既に消えることはなく、鋭い眼光は見る者へと畏怖を抱かせるぐらいです。

 

 

「い、いえ何でもありませんわロード・エルメロイ。それよりようこそいらっしゃいました。もう準備は出来ておりますわ、どうぞ奥へ」

 

「ちょっとココ私の家なんだけどルヴィアゼリッタ? ロード、どうぞお座りになってください。もうすぐに始めますので」

 

「そうか。今日はお呼ばれしたのだから楽しませてもらうつもりだ」

 

 

 コートはそのままにロードが椅子へと腰かけます。どうやらアレはトレードマークの一つと認識しているらしく、ストーブをつけた室内は暖かいのですからアレでは暑いぐらいだと思うのですが、脱ぐ素振りは見せません。

 何でも赤い外套は尊敬する人物を真似ているのだと、以前お酒の席で仰っていましたか。そのお方の名前をお聞きすることは出来ませんでしたが、ゲーム関連ではどうしようもない人でも、やはりロード・エルメロイが尊敬する方ならば並の御仁ではないのでしょうね。

 

 

「‥‥ところで私のことは無視なのかしら?」

 

「あぁ鮮花、君もご苦労様。ほら座りなよ、いつまでも突っ立ってると滑稽だろ?」

 

 

 長身のロード・エルメロイに続いて姿を現したのは、同じく今期に入ってからの友人であるアザカ・コクトー。ミス・遠坂と同じく鴉の濡れ羽のような綺麗な黒髪を背中の中程まで伸ばし、上品なブラウスとベストを着込んだ女性です。

 サクラと同じくショウの上のお義姉様を師と仰ぐ超能力者。魔術師と極めて似通った方法で発火を可能とする特殊能力を持っており、その実力と封印指定の推薦を評価されて時計塔に入学されたそうですわ。

 実際、焔に関連した術に特化しているとはいえその実力は紛れもなく第一級。火に関係することならば私やミス・トオサカも凌ぐ腕前であり、私も一目置いております。

 

 

「‥‥なんか私の扱いが釈然としないわね。ちょっと紫遙、アンタ最近どうも調子に乗ってるんじゃない?」

 

「調子に乗るって‥‥おい妹弟子よ、兄弟子に対して随分と調子に乗ってるんじゃないか?」

 

「だって紫遙じゃない」

 

「紫遙じゃないって‥‥君、随分だよね? ていうか昔から随分だよね?」

 

 

 いつものように微笑ましいレベルの言い合いをしながらも、アザカは優雅な仕草でソファへと腰掛けます。既にダイニングテーブルにはショウとセイバーが座っており、あと二つの席はミス・トオサカとシェロが座る予定ですから、ソファも埋まってしまいましたわね。

 今回のホームパーティーの参加人数は私も含めて十人。如何にミス・トオサカの屋敷が大きいとしても限界ギリギリの人数ですが、これで何とか全員集まりましたわね。

 

 

「料理は全部出たか? あと飲み物も用意してあるんだけど‥‥ワインとビール、どっちがいい?」

 

「私はワインをお願いしますわ」

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

 

 シェロにワインを注いで貰い、片手で持ったグラスを掲げます。

 気づけば既に他のメンバーはそれぞれ様々なグラスに注がれた様々な飲み物を手に取り、乾杯の体勢を取っておりました。どうやらショウ達のやりとりを眺めていたらいつの間にかぼんやりとしてしまっていたらしく、私を待って頂いていたようですわね。

 

 

「さぁ、それじゃあ失礼ながら私が乾杯の音頭を取らせていただくわね。みんな、今年も一年ありがとう! まぁ色々とあったけど、何とかこうしてやってこれたのはみんなのおかげよ」

 

 

 全員が一度席を立ち、ダイニングテーブルの正面に立つミス・トオサカへと体を向けました。

 元からこの屋敷にあったという豪奢な装飾の施された細身のグラスを掲げ、偉そうに貧相な胸を張るミス・トオサカはホスト‥‥もといホステスとしては一応のところ申し分ありません。

 もっともゲストの出迎えは私とショウがしていたのですから、問題ないと言い切れるわけではありませんが。

 

 

「特に蒼崎君には色々と苦労させられたような気がするけれど‥‥」

 

「う、そいつぁ本当に申し訳ないと思っているよ‥‥」

 

「申し訳ないと思っているなら、私達の研究にもちゃんと貢献しなさいよね。専門が違うとはいえ、それなりに考察とかには関係できるでしょ? 人手とスポンサーは多ければ多い程いいんだから」

 

「金も出させる気なのかいっ?!」

 

「当然じゃない。もちろん、成果によって得られた報酬は還元するわよ。8対1対1ぐらいで」

 

「ルヴィアはともかく俺は大損じゃないかっ?! いいかい遠坂嬢、俺は魔術師なんだから等価交換じゃなきゃ動かないからなっ!」

 

 

 どうでもいいことかのように放たれたミス・トオサカの呟きに反応したショウの叫び声が大きく響きます。

 もちろんミス・トオサカとて本気でそのようなことを言っているわけではないでしょう。そしてショウとてそれに気づいていないことはないはずなのですが、やれやれ、こういう茶番を普通にやれることこそが私達が普通ではない魔術師として親交を結んでいる証拠なのかもしれませんわね。

 

 

「まぁそれはどうでもいいとして」

 

「どうでもいい?!」

 

「とにかくみんな、本当にこの一年ありがとう! そして来年からも、よろしくお願いね。なんか忘年来みたいになっちゃったけど、メリー・クリスマス!」

 

『メリー・クリスマス!』

 

 

 乾杯の音頭と共に全員が唱和し、それぞれ互いに杯が打ち鳴らされました。

 それぞれ立場の違いはあれど、不思議な縁によって集まった友人達。本来は魔術師として望むべくない穏やかな関係。その出会いと今を祝してかき鳴らされる祝宴の合図。

 それはもしかすればいずれは達消えてしまう関係かもしれません。それぞれ、それなりに物騒な立場に身を置いている友人達が故に、何か切欠があれば壊れる仲かもしれません。

 ですが、だからこそ、私達はこの絆と縁を大事にしたいと思っているのです。いわば、今という時間を確認する儀式のようなホームパーティー。

 打ち鳴らされるグラスが奏でる音色はどこか空虚でありながら、それでも今の私達を象徴するかのように純粋に綺麗な音色を歌うのでした。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「美味い! いやぁ久しぶりに食う衛宮のメシはやっぱり美味いなぁ!」

 

「そうか? なんか前にも似たようなやり取りがあった気がするけど‥‥まぁそう言ってもらえると悪い気はしないな。まだまだたくさんあるからドンドン食べてくれよ、紫遙」

 

 

 目の前に並んだ山ほどの料理。どれも俺の知る限り最高の腕前を持つ家庭料理人である衛宮士郎の料理であり、しかもクリスマスということで普段の倍以上に手が込んでいる。

 たびたび工房に籠もって食を疎かにする癖がある俺に運んでくれた料理の数々。よっぽど暇なのかと思った時もあったけど、こうして無事にロンドンでの日常へと戻ってみれば衛宮の料理もまたひと味違った心持ちで食べることが出来る気がした。

 

 

「相変わらず目を離すと食生活が杜撰になるんですのね、貴方は。保存食料などではまともに体の健康を維持することなど出来ませんわよ? ‥‥まぁ、最初から興味のないバゼットよりはマシですが」

 

「あの、私が何故ここまで散々に言われているのかよく分からないのですが‥‥? 何か、みなさんの機嫌を損ねるようなことでもしましたか?」

 

「ハハ、レストランに行く度に同じものを注文される以外は、君は気の良い友人だよバゼット」

 

「フォルテ‥‥貴女までそう言いますか‥‥」

 

 

 テーブルの上に並べられた料理はどれもこれもレストランにでも行かなければ食べられない程に手の込んだものばかりだ。

 もちろん遠坂嬢や桜嬢もかなりの部分を担っていたんだろうけれど、それでも衛宮の料理スキルには目を見張るものがある。とても主婦というレベルでは勘定できないくらいには。

 そりゃプロの料理人というわけにはいかないだろうけれどね。さっきルヴィアもボソリと零していたけれど、家庭的な味というものはプロには出せないし、逆にプロの味を家庭人に出せるということもない。

 だから衛宮ならではという味があって、きっとそれが俺達の心を掴んだ、というものなんだろうね。なんていうか、こういう言い方は何処かおかしいかもしれないんだけど。

 

 

「ミス・トオサカの中華もまぁまぁ悪くはありませんわね。‥‥シェロの味の方が好みではありますが」

 

「そりゃアンタが欧米人だからでしょうが! 欧米人には洋風の味付けの報が好みに決まってる‥‥っていうか、その料理は士郎じゃなくて桜が作ったヤツでしょ?!」

 

「私は好みの話をしただけですのよ、ミス・トオサカ?」

 

「一々いやらしいのよ言い方が!」

 

 

 普段と全く同じような言い合いをする二人の首席候補を横目で見つつ、やれやれと、これまた何時の間にやら口癖のように慣れてしまった溜息をつく。

 もっともこれは残念な溜息ではなく、どちらかといえば嬉しい溜息だろう。俺自身、ロンドンに来てからは残念な溜息はあまりついたことがない気がする。

 それというのも溜息を通り越して残念なリアクションを取らなければならない事態ばかり起きていたということではあるんだけれど、むしろそれこそが非常に残念なことだと言えるだろう。

 

 

「ところでプロフェッサ。実は一応、シエル‥‥埋葬機関の第七司祭にも招待状を送っていたんですけれど、何かご存じですか?」

 

「時計塔の教授である私が埋葬機関の代行者とパイプがあってどうする‥‥と言いたいところだが、彼女からは私の方に連絡が来ている。新たに緊急の任務が入ったということでな、残念だと言っていたよ」

 

「いや、俺もダメもとで聞いてみたんですがパイプがあって驚きです‥‥。ていうかプロフェッサ、そんなところとまでつなぎ作ったりして、何やらかすつもりなんですか?」

 

「何をやらかすつもりもない‥‥のだが、いつの間にか電話帳にアドレスが入っていてな。まぁ弟子の誰かが何処ぞへ手を伸ばしたのだろうが、まったく、私の知るところではない」

 

「‥‥それ、院長補佐の説教の前で説明できます?」

 

「‥‥ごほん、ごほんごほんごほん!」

 

 

 わざとらしい咳払いから、特に自信らしい自信がないことが分かる。この名物講師はこと教えるということに関してなら封印指定級と言えるんだけれど、残念ことに他に関しては凡才という言葉で収まってしまう。

 ‥‥うん、実際に魔術を行使するという話になると俺よりも酷いからな、この人。もちろん理論とか解析とかに関しては遥かに勝るんだけど、その辺りが劣等感の一助になっているとかいうのはプロフェッサ自身でもしっかりと理解しているらしい。

 まぁ、どちらかというと今回の問題というのは院長補佐であるバルトメロイ・ローレライ女史の恐ろしさに関係しているのだろうけれど。

 

 

「というか仮にも魔術協会と敵対関係にある聖堂教会の代行者に招待状を送るとは‥‥些か常識にもとっていないような気がしますが。一応、封印指定の執行者として聖堂協会の代行者とはそれなりにいざこざがあったりしたのですが」

 

「連中、退くということを知らないからな。私も何度か普通の代行者と戦う機会もあったが、やはり信仰というものは恐ろしいな。何の躊躇いもなく自分を犠牲にする攻撃を仕掛けてくるのだから恐れ入る」

 

「代行者も数が多いわけではないだろうにねぇ‥‥」

 

「かの弓のシエルほどの実力者になれば話は別だろうがな。私も、彼女と真っ正面から戦うような事態は避けたいものだ」

 

 

 代行者としては最上級の埋葬機関所属であるシエル。彼女の戦闘能力は単体で魔術協会の執行部隊と喧嘩できるレベルのものだ。

 もちろんその部隊の中にバゼットやフォルテがいれば拮抗した戦いになるんだろうけれど、それでも広い世界の中で上から数えた方が早い場所にいる腕前の彼女は、どの世界においてもそれなりに有名である。

 

 

「しかし彼女にも色々と世話になったじゃないか。友人と呼んでもいい関係にはなっているんだから、招待状を送るぐらい当然だと思うけどね」

 

「送るぐらいならば、確かにそうかもしれませんけれど。まぁ世話になったのは確かに本当ですわね。立場を考えればあまり大っぴらに顔を合わせるわけにはいきませんが、またお会いしたいものですわ」

 

「そういえばもう暫く会ってないな。あの事件以来か。まぁシエルもあっちこっち飛び回っているっていうし、ロンドンにも早々来るわけにはいかないんだろ?」

 

「まぁね。さっきも言ってたけど、聖堂教会と魔術協会は表で平和的に条約を結んでおきながら、裏では暗黙の了解として殺し合いをするような仲だから‥‥」

 

 

 魔術を異端として捉えている聖堂教会。彼等にとって神秘とは神の御技であり、教会によって独占されるべきものだという。

 彼等の扱う神秘は、魔術とは基盤からして違う。世界最大の宗教である彼等は、その信仰そのものが基盤になるぐらいに強大だ。基本的に過干渉するのもされるのも嫌う魔術協会も、ここまで露骨に敵視されては敵対関係をとらざるをえない。

 結局のところ長い間続いた陰湿な殺し合いの関係は今にいたるまで続く。互いに持ちつ持たれつ殺しつつの珍妙なやり取りは実に不可思議でありながら、当たり前のものになってしまっていた。

 

 

「魔術師の中にはそれなりにクリスチャンもいるのですが‥‥」

 

「は? それホントかい?」

 

「‥‥シェロといい貴方といい、どうにもニッポン人というのは宗教観念の薄い民族のようですわね。いいですかショウ、我々ヨーロッパの人間は‥‥まぁ欧州だけに限りませんが、とにかく私達は個人のレベルではなく、国家、地域のレベルで宗教教育を受けているのです。

 それは例えば私が生まれた時から宗教環境の中にいた、というような些細な話ではなく、私という人間を生むに至った環境が、地域が、国が、一宗教によって歴史作られてきたということなのですのよ」

 

「私がこういうことを言うのもおかしな話かもしれませんが、例えば日曜日に教会に行くのは当然のことですし、こうしてクリスマスを祝うのも当然のことなんですよ、紫遙君。

 もちろんそれは良い悪いという話で終わらせることもできないんです。そういうことが当たり前の環境というものを作り上げたのは何百年という歴史なのですから、個人がどうこう言って済む問題ではありません」

 

「はぁ、成る程ねぇ‥‥」

 

「こういう稼業をしていると当然、信仰なんてものには縁がありませんが。まぁそれでも習慣ではありますしね」

 

 

 日本人が元旦には初詣に行ってしまうのと同じような感覚なんだろうか? ルヴィアやバゼットの言うとおりに考えてみれば、逆に日本人にとってのそういった行事に関することも説明できるのかもしれない。

 八百万の神々に代表される、神道系の大らか極まる考え方。懐の広すぎる宗教観が、むしろ今の日本人のような無宗教観念というものを生み出しているのだという考えも、おもしろいかもね。

 

 

「まぁこうしてクリスマスパーティーなんぞに興じている以上、魔術師として不可思議な状況だということには変わりあるまい。

 どれだけ魔術師として疑問符を抱くような行為をしているように見えたとしても、自分自身が魔術師で在ると思っているならば問題はないだろう。過程は、結果で示すものだ。‥‥もっとも結果によって証明される過程ばかりでなく、過程によって証明される結果もあるのだがな」

 

 

 誰が持ってきたのか、かなりキツいブランデーを煽っていたロード・エルメロイがぽつりと呟く。

 今で様々な騒動を実際に共にこなしてきた仲間達は同年代の連中だけれど、そのどれも裏で支えてくれていたのは実はこの名物講師であった。

 現地までの手回し。事前に必要だった資料の準備。事後処理や面倒な交渉など、そういったものは全てプロフェッサがやってくれた。これらは若輩の俺達ではどうしても不十分になってしまうものであり、だからこそ本当に世話になったのはこの人なのかもしれない。

 

 

「そういえば忘れてましたけど、フラットはどうしました? プロフェッサが来られるところにはいつもちょこまかついて来てそうだったんですけど」

 

「エスカルドスなら物理的に縛って置いてきた。いつまでも付いてくるといって聞かなかったから名。まったく、アイツもそろそろ私のゼミを卒業して一人前の魔術師として巣立って欲しいものなのだが‥‥。面倒だしな」

 

「はぁ、全くアイツも困ったもんですよね。アレだけの腕がありながら魔術師として衛宮以下の危なっかしさとは‥‥。才能っていうのはホントに恐ろしいやら憎らしいやら」

 

 

 何か思うところがあったらしく複雑な表情で溜息をついたプロフェッサと、グラスを打ち鳴らす。互いに才能ある人間が側にいる者の苦労と言ったところであろうか。

 遠坂嬢にルヴィア、桜嬢や鮮花に、言わずとしれた衛宮。首席候補として煌めく二人の友人からしてみれば呆れた弟子と従者なのかもしれないけれど、それでもヤツに才能があるのも間違いない事実なのである。

 桜嬢とて同じ。不幸な過去を代償に失った才能と、得た才能。魔術師としての地力が圧倒的なまでに違うのだ。

 彼女には同情するし、そして同時に同情しない。人間として失った色々なものと代わりに手に入れた色々なものが、魔術師としての彼女の糧となっているのだから。

 当時にどれだけ辛く思ったことでも、今の糧になっているならそれでいい。そう言った衛宮に支えられ、姉を姉と呼べるようになった彼女は遠坂嬢と同じくらい眩しく、輝いていた。

 

 

「‥‥まぁ、私からしてみれば貴様も十分に才能溢れた魔術師だと思うがな」

 

「またまた、見え透いたお世辞は止してくださいよプロフェッサ。俺達は平々凡々に満足しちゃいけない生き物でしょう? 自分が劣っていることを悔しがりこそすれ、決して妥協はしちゃいけない」

 

「勿論、お前の言う通りだ。マイスター・アオザキにしごかれて来たようだな? 私が常から学生に教えていることを既に習得していたお前も、十分に恵まれているということを自覚しているべきだぞ」

 

 

 ブランデーを飲み干し、無礼講と宣言したが故に手酌で芳醇な赤ワインをグラスに注ぐプロフェッサが、不機嫌さの中に講義の際の真面目な色を滲ませて言う。

 未だ若いこの教授が、経験をも凌駕する深い深い思考によって手に入れた様々なもの。その灰色の脳細胞は他の経験深い教授をして、助言を請うコトがあるほどだ。

 おそらくはどれほどの思考を繰り返したのだろうか。どれほど深く思考したのだろうか。

 経験こそが何にも勝る成長の糧だというのは古今東西、世界中どこに行っても変わりない真実だというのに、その定義、法則すらも凌駕するほどの思考を繰り返して来たのだろう、この人は。

 

 

「確かに魔術の才は僅かなのかもしれん。神秘の世界に足を踏み入れる権利を手に入れるだけの僅かな才能を持ち合わせたのだと主張されれば、私とて首を縦に振らざるを得ん。

 しかし、お前はそれでも魔術師として最も大切なものを既に手に入れている。そうではないか?」

 

「‥‥‥‥」

 

「才能や感覚に惑わされず、あくまでも冷静に過程と結果を論ずることの出来る価値観。安直な手段に頼ることなく地道に研究を進めることの出来る根気。

 そして何より本当に優れた師、本当に優れた好敵手、そして同時に本当の友であり、本当の協力者。これらは千年の歴史を持つ家系に生まれた魔術師でも、そう簡単に得ることができないものだ。

 ‥‥そういった環境こそがお前の得た才能だ。お前が魔術師としてやっていく上で、最も重要なものだ。だから、そう自分を卑下することはない。胸を張れ。私は、そんな人間ばかりを弟子にしてきたつもりだ」

 

「プロフェッサ‥‥」

 

「少し話し過ぎたな。一人を一人が独占しているのはパーティーの趣向に反するだろう。ホラ、他の者のところへ行って歓談でもしてこい。私は『伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)』と少し話がある」

 

「‥‥ありがとう、ございました」

 

「戯言だ。早く行け」

 

 

 繰り返されるのは、たわいもない話。時計塔に来てからの思い出話‥‥それこそ黒歴史に近いものや、どうしようもなく恥ずかしい失敗談なんてものも旧知の仲なら酒の助けも借りてポンポン湧いて出てくる。

 もちろん同窓会じゃないんだから昔の話ばかりしていても仕方がない。仮にも一流、または第一線級の魔術師ばかり集まっているのであり、話が技術的な、学問的な内容へと首を傾けるのもまた同様だ。

 新しく発表された術式、前回の講義での疑問点。もしくは執行者として実際に実用的なやり方で魔術を使う機会に恵まれている二人への質問などなど。話題の尽きることはない。

 

 よくよく考えれば、不思議な組み合わせだ。

 本来ならば完全に活動圏が違う時計塔の学生と執行者が顔を合わせるようなことはないし、教授と学生との仲というのもこうやってパーティーを開くようなものではありえない。

 桜嬢や鮮花だって、もしかしたら時計塔に来ることはなかったかもしれない。遠坂嬢はともかく、衛宮が時計塔に来ない可能性は十分以上にあったし、それ以前にコイツが今の今まで生きていることがまず奇跡に近い。

 

 そして何より‥‥この俺。

 この俺がここにいてこうして友人達と、この友人達と付き合っていられることこそが奇跡。

 祈る神など俺にはいないけれど、だからこそ今この瞬間そのものに祈る。感謝する。

 たまにはそういうことを考えても、いいかもしれないだろう。だからこそのクリスマスとか、そういう行事なのかもしれない。

 

 

「———失礼します、お呼び預かり参上しました。‥‥ここは遠坂さんの家で、間違いないですよね?」

 

 

 宴から感覚的に一歩離れて干渉に浸っていると、ちょうどもたれかかっていた壁のすぐ横にあった扉が開き、予期していなかった女性が姿を現した。

 見慣れた日本人の、モンゴリアン系の黒髪とはまた違った色合いの黒髪に、こちらも完全な黒とは少し違う色合いの深い染めのカソック。臑のあたりまで覆う安心の丈の奥には物騒な代物がたくさん収納されていることを俺は知っている。

 今時は時代遅れともとれる大きなレンズのメガネは落ち着きを醸しだし、不思議とやぼったい印象は受けない。どちらかというとその落ち着き故に実年齢よりも年上に見られることが多いと嘆いてはいるけれど、残念ながら彼女の本当の実年齢は外見年齢をきっちり超えていた。

 

 

「‥‥シエル?! 君、仕事があるんじゃなかったのかい?」

 

「昨日からの任務だったのですが、想定以上に‥‥もとい想定以下の簡単な仕事でしたので、事後報告を後輩に任せて先に帰らせてもらいました。少し埃っぽいかもしれませんが、申し訳ありません‥‥。

 あぁ、それと玄関の鍵が開いていましたよ。どうやらインターフォンも壊れているようですし、勝手に上がらせていただきましたが、気をつけた方がよろしいかと」

 

 

 見れば確かに、シエルの服は微妙に埃や砂塵が目立つような気がする。一体どのような仕事だったのだろうか、というよりも何処に行ってきたのだろうか。

 まぁ当然のこととして代行者の仕事を詮索するようなマナー違反、以前の問題として、命知らずなヤツはいない。もとよりそういうところを互いに見て見ぬふりをして成り立っている友人関係である。

 

 

「あらそうだったの。ありがとうね、シエル。とにかく上がって頂戴、お酒と料理もまだまだ残ってるから」

 

「ありがとうございます遠坂さん。ですがその前に、今日は一人ゲストを連れて来ているんです」

 

「ゲスト‥‥?」

 

 

 カソックの上に纏っていたコートを、他の面々と同じようにごく自然に差し出していた衛宮の手に預けたシエルが悪戯っぽく笑う。

 いや、微妙に呆れたというか、苦笑のようなものも混じっている、どこはかとなく見慣れた笑いだ。それにしても楽しんでいるような笑いであり、遠坂嬢は怪訝に眉をひそめた。

 

 

「身分といいますか、人物は私が保証します。随分と楽しみにしていらっしゃったらしいので、どうぞ上げていただければ嬉しいです」

 

「‥‥それって、もしかして私達も知っている人だったりするの?」

 

「はい。よくご存じだと思いますよ。‥‥それで、いかがですか?」

 

 

 シエルの言葉に、遠坂嬢がプロフェッサよろしく額に刻んだ皺が更に深くなる。遠坂嬢と面識があり、ついでにシエルとも面識がある人物など思い当たる節がない。

 

 

「まぁ、貴女がそう言うんだったら害はないんでしょうけれど‥‥。いいわ、それじゃあ呼んでちょうだい」

 

「はい、ありがとうございます。‥‥よろしいそうですよ、いらして下さい!」

 

 

 シエルの呼び声に答え、律儀にも閉めていた扉が開かれる。

 始めに現れたのは皺に覆われた、それでいながら頑丈な力強さを感じさせる老齢の手。そして手首には白いフワフワモコモコの縁取りが付いており、続いて現れた茶色いブーツは丸みを帯びたユーモラスなもの。

 ブーツから順番に視線を上げていくと、そこには今日というこの日に十分過ぎるほど釣り合った赤と白のパジャマのような衣装。

 そして豊かに蓄えた髭と無骨な顔まで視線をやると———

 

 

「メリー・クリスマス! 楽しんでおるようじゃな、諸君!」

 

「———なッ、だ、だ、だ、だだだだだだだだ‥‥‥‥」

 

 

 ガクガクとバカみたいに大きく口を開けた遠坂嬢とルヴィアが、同じく目玉がこぼれ墜ちるのではないかというくらいに見開いた瞳で入ってきた人物を見つめる。

 確かにシエルの言葉は正しかった。遠坂嬢や俺達と面識があり、そしてシエルともパイプがあってもおかしくない。そして招待状を送っていないし、俺達のパーティーに気軽に顔を出しても許される人物だ。

 目を見開いて驚愕しているのは遠坂嬢やルヴィアや、俺だけではない。面識のない桜嬢や鮮花はともかく、セイバーやバゼット、フォルテはおろかプロフェッサまで開いた口が塞がらないといった様子で突然のサンタクロースを指さしている。

 

 

「おう、どうしたんじゃ皆そろってバカのように口を開けて。欠伸でも止まらんのか? ふむ、少しは度肝を抜けたと思ったんじゃがのぅ‥‥」

 

「だ、だだ、大師父!! こんなところまで何をしにいらっしゃったのですかっ?!!」

 

 

 そう、そこに立っていたのは紛れもない魔導元帥にして、第二魔法の体現者。そして死徒二十七祖の第四位という本物の吸血鬼にして魔法使い。

 ロンドンの真ん中とはいえこんな場所に気軽に現れて良い存在ではない、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグその人であった。

 

 

「なに、引きこもりのウェイバー坊主が何処ぞへ出かけるというから研究室に縛って転がされておった学生に聞いてみれば、トオサカの屋敷でクリスマスパーティーをすると言うではないか。

 クリスマスを祝うなんぞ、魔術師としてどうかとは思ったが‥‥。面白そうじゃと思ってな! ちょうど第七司祭がロンドンに来ていて、しかもここまで来るというから一緒に便乗させてもらったんじゃ」

 

「まぁ、どちらかといえば有無を言わさず連行されたと言った方が正しいかもしれませんがね‥‥」

 

「エスカルドス‥‥何処までも私の邪魔をするか、あのバカ弟子が‥‥!」

 

 

 かんらかんらと笑う宝石翁に対して、引き摺られて来たらしいシエルは何処か疲れたような笑い声。そしてプロフェッサは怒りにひくひくとこめかみの血管に負担をかけている。

 ここに宝石翁が来たということは、つまるところ珍しくも時計塔にいた彼の人に課されていた仕事を放り捨てて来たということである。基本的に吸血鬼であるこの方への仕事時間は夜に割り振られているのだから。

 何故か宝石翁に気に入られ、魔法使い専属にされてしまっているプロフェッサにしてみれば頭痛モノだろう。以前にも勝手に執務室を抜け出したあげく折衝を全てプロフェッサに放り投げたことがあり、随分と苦労させられたそうである。

 

 

「まぁ堅いことを抜かすなウェイバー坊主! 折角のクリスマスじゃぞ、無礼講が礼儀というもの。こんなに街中が浮ついた夜に仕事をするというのも無粋だとは思わんか?」

 

「そう思うならもう少し頻繁に時計塔に戻られて下さい! あるいは、もう二度といらっしゃることがなければ仕事も無くなるんです!」

 

「そういうわけにはいかんだろうに。全く、昔からお主は堅苦しくていかん。フレキシブルな思考が出来んと、新たな発想も生まれんぞ?」

 

「余計なお世話ですっ!」

 

 

 まるで若いロード・エルメロイ———もといウェイバー・ベルベット少年が叫んでいる様を見るようだ。イスカンダルほどの大男とはいかずとも、この二人は意外にも良いコンビなのかもしれない。

 プロフェッサの方が幾分背が高いはずなのに、まるで大人と子どもぐらいの差があるように見えてしまうのは不思議でしょうがないけれど、やはり宝石翁の生きてきた年月というものが彼を見た目以上に大きく見せるのだろう。

 

 

「と、とにかくようこそいらっしゃいました、大師父。手慰み程度の料理と酒ですが、どうぞお召し上がりになって下さい」

 

「うむ、是非ご馳走になろう‥‥と言いたいところじゃが、その前にまずはクリスマスプレゼントを披露しなければな」

 

「は?」

 

「手土産の一つも持たんで訪問するというのは、些か礼儀知らずというもんじゃろうよ。ちゃんと弟子とその友人達にプレゼントを用意してきたわい。さて、少し場所を空けてくれるかね?」

 

 

 宝石翁の指示で、俺達は部屋の一角に空間を作る。

 壁紙を貼る必要がないくらいに真っ白で綺麗な壁を囲んで半円を作るような陣形だ。プレゼントを持ってきたというのなら料理を退けてテーブルの上にでも広げるのが妥当だろうにと、全員が全員首を捻った。

 

 

「さて、プレゼントというのは‥‥これじゃ!」

 

 

 背に担いで来た無駄に大きく重そうな、そして万が一にも破れることのない頑丈そうな袋から、宝石翁が一つのプレゼントを取り出した。

 ちょうど、小学校低学年の女の子にでもあげれば大喜びされることだろう。パステルカラーで塗装され、可愛らしい星と天使の羽の意匠が施されたステッキは、まるで日曜日の朝にでもやっていそうな魔法少女モノのアニメにでも登場しそう。

 ‥‥そして、俺達にとって非常に見慣れたものでもあった。

 

 

『天呼ぶ地呼ぶ人が呼ぶ! 笑いを起こせと私を呼ぶ! というわけで呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンあるいはあぱらぱぁ! 皆さんお待たせ笑いの天使、カレイドステッキ・ルビーちゃんの登場ですよぉ〜っ!!』

 

「い、いやぁぁああああ?!!! な、なんでこの愉快型魔術礼装がこんなところにいるのよぉぉぉおおおおお?!!!!」

 

「そりゃワシが持ってきたからに決まっとるじゃろうが。お主達への、ワシからのクリスマスプレゼントじゃ」

 

「け、結構です! こんなものいりません! 仕舞って下さい、ていうかむしろ私に封印させて下さい! 先祖代々子々孫々未来永劫出てこられないように、遠坂家の家訓にしますから!」

 

 

 出てきたのは、某愉快型魔術礼装マジカル・ルビー。冬木において力強い相棒として活躍しながらも、それ以上にひたすら俺達をしっちゃかめっちゃかに面白そうだからという理由だけで引っかき回してくれた超高性能の意思持つマジカル☆ステッキである。

 遠坂嬢にとっては、悪夢ばかりがリフレインする天敵と言っても過言ではない存在。そんなものを前に平常心を保っていられるわけもない。

 すぐにでも殲滅してこの世から抹消削除しようと懐から宝石を取り出そうとしたところを、不穏な雰囲気を察知して背後に控えていた衛宮に一瞬で取り押さえられた。

 

 

『おーっと良いんですか、ホイホイ私をぶっ壊そうとしたりして? 宝石翁とてわざわざこうなることが分かっていながら私を連れてくると思いますか? 何かちゃんとした思惑があるとは思わないんですかー?』

 

「ぐぅ‥‥っ! だ、大師父! コイツが一体どうして私達へのクリスマスプレゼントなんですか! ご説明いただかなければ納得できません! ていうか今すぐ放り出します!」

 

 

 間違っても柄には触れないように、まぁそれで効果があるのかは知らないけれどルビーの頭にあたる部分を力の限り握りしめる遠坂嬢を楽しげに見た後、宝石翁はゆっくりと口を開いた。

 

 

「なに、お主らには先の事件で随分と迷惑をかけてしまったからな。向こうでのことを聞いた時に、何か弟子入りとは違う形で報いることは出来んかと思ったんじゃよ」

 

『そして私が宝石翁による直々の調整を受け、皆さんのご期待に沿える新機能を導入したというわけですっ! とまぁ負荷が大きいので一回きりしか使えないんですが、クリスマスプレゼントならそれもまた風情がありますよねー、あはー』

 

「あっ、ちょっと?!」

 

 

 大きく身をよじり、ルビーが遠坂嬢の手を抜け出した。

 今までルビーに会ったコトがないシエルとフォルテが、そのあまりにも生々しくて不愉快さをそそる動きに何とも言えないうめき声を漏らす。

 

 

『チェンジ! ルビィィィィィイイイ、オォォォォォオオン!!!』

 

 

 ガシャン、ガシャンと無駄に重厚な音を立ててルビーが変形していく。柄は格納され、代わりに出てきたのはプロジェクターのような投影装置。

 白い壁は、どうやらスクリーンの代わりのようなものらしい。投影装置から放たれた光は四角い枠を壁に映し出し、ノイズが走る映像が見える。

 

 

『えー、ノイズ除去ノイズ除去っと‥‥。狭間の次元への干渉も良好、対象並行世界との接続も八十%以上の安定性を示していますよー!』

 

「よし、それではルビー、やってくれたまえ」

 

『了解ですよ、あはー。それではスイッチ、オン!』

 

 

 ノイズは段々と除去され、スクリーンと化した白い壁に映像と分かる鮮明な風景が映し出された。

 そこに広がった背景は、品の良い洋館。どうも見慣れた背景は、ロンドンにあるエーデルフェルト別邸のものによく似ている。

 映し出された背景の手前には、四人の少女の姿を認めることが出来た。その内の二人は今も俺のすぐ横で白い壁を凝視しており、そしてもう二人の小柄な少女は一年ほど前に一週間ほど、毎日顔を合わせていた‥‥忘れられない大事な友人達。

 

 

「イリヤスフィール‥‥! 美遊、嬢‥‥!」

 

『凜さん?! ルヴィアさん?! それに‥‥紫遙さん』

 

 

 浮かんだのは、決別したはずの友人達。別の世界の、並行世界の友人達。

 遠坂嬢もルヴィアも、もちろん衛宮もバゼットも目を見開いて驚いている。まさか二度と会うことが適わないと決別したはずの仲間達の姿を見ることができると、誰も思いもしなかったのだ。

 

 

『え、これ本当に向こうの世界に繋がってるのルビー?!』

 

『もっちろんですよイリヤさん! とはいってもお互いにお互いを投影しているような状況ですから次元の揺らぎが影響して、簡単に通信は切れてしまいます。言いたいことがあったら、すぐに伝えたほうがいいですよ、あはー』

 

『えっ?! サ、サファイヤ時間は?!』

 

『あと数分かと。思い出話をする時間はないようです、美遊様』

 

 

 向こうでは随分と慌てた様子のようだ。二人の少女の後ろに控えた並行世界の遠坂嬢とルヴィアは、こちらに口出しする気がないらしい。二人ともよく似た仕草で腕を組んで、どうやらこちらの遠坂嬢とルヴィアを睨み付けているようだ。

 並行世界の自分と対面する、という貴重な経験をしたのは衛宮だけだから、どうにも感覚が理解できないけど、やはり珍妙なものなのだろうか。

 

 

『あ、あの皆さん、お元気ですかー? 私はこっちで色々あったけど、何とか元気にやってるよ!』

 

『私も、その、元気にやってます。魔術の修行も、こっちのルヴィアさんに弟子入りして頑張ってます。確かに‥‥まぁ、色々ありましたけど。イリヤ関連で‥‥』

 

『今は同席してませんけど、もう一人のイリヤさんが現れたり大変でしたよー!』

 

『大変というよりは楽しかったって言いたそうな感じだけど、こっちはそれぐらいじゃなかったんだけど‥‥ハァ‥‥』

 

 

 やけに疲れた様子でイリヤスフィールが溜息をつく。今日一日だけで既に十回以上も自分のものを含めて溜息を聞いたような気がするけれど、気のせいだと信じたい。

 隣の美遊嬢もまぁまぁ呆れ顔なのは、やはりルビー関連の騒動に巻き込まれたからだろう。十分に予想してしかるべきだったとは思うけど、ルビーと一緒にいれば原因がどこにあれ騒動に巻き込まれることは残念なことに確定事項のようだ。

 

 

『別に私は今回、何もやらしたりしてませんよー? 誠心誠意マスターであるイリヤさんのために身を粉にして働いたじゃないですか、あはー』

 

『なんかルビーと一緒だと苦労した気がしないのよね‥‥まぁ、それが助かる時もあるんだけど』

 

『どっちかっていうとイリヤも色々無茶苦茶するところもあるから、いいコンビだとは思うんだけど‥‥。ていうかルビー、くねくねしないで見づらい』

 

 

 まるでホームビデオのようでありながら、並行世界を介したホームビデオであるが故にこの上なく貴重な逸品だ。

 微笑ましいやり取りにピョンと飛び上がっていた心臓が、ゆっくりと元の位置に戻っていくかのような感触がした。つまり彼女達は俺達がいなくなった後にもそれなりの騒動を経て、それでも平和に過ごすことが出来たらしい。

 保護者としての責務を放り出して、一人並行世界へ残してしまった美遊嬢。まるで無責任な別れになってしまった小さな戦友がああして仲間と笑っているのを見れば、自分の犯した無責任が解消することはないとはいえ、安心する。

 

 

『‥‥と、バカ話をしたせいで時間がありませんよー? 不定周期的な次元の揺らぎが強まって来ましたから、この通信もじきに切れちゃいますからー』

 

『えぇっ?! そんな早くに切れちゃうならもっと身のある話したのに?!』

 

『最初に申し上げたはずですが、イリヤ様』

 

「あーあー、まぁ元気にやってるようなら良かったわ、二人とも。あれからどうしようもないとはいえ音沙汰無しになったけれど、その調子なら問題なさそうね」

 

「ですわね。まったく、心配損のようではありませんか。‥‥本当に、安心しましたわよ、イリヤスフィール、ミユ」

 

 

 今の今まで黙っていた遠坂嬢とルヴィアも、安心げに吐息を漏らした。

 溜息ではなく、吐息。よくよく考えてみればこの二つに違いなんてものはなく、ようはそれを受け取る側の受け取り方の違いというものなのかもしれない。

 

 

『じゃ、じゃあミユ、どうぞ!』

 

『え?!』

 

『なんか今さ、何か言っておくっていうとミユかなぁ、なんて‥‥』

 

『うっ、わかった‥‥』

 

 

 ザザ、と走るノイズが激しくなっていき、映像が乱れ始める。どうやら専門外の話だから分からないけれど、技術的に問題があって通信が途絶えようとしているらしい。

 映像の向こうでは美遊嬢とイリヤスフィールが何か喋りあって結論のようなものを出したらしく、イリヤスフィールが一歩下がり、美遊嬢が一歩踏み出した。

 画面いっぱい、他の人間が端っこに小さく見えるぐらいの距離にまで近づいた美遊嬢の顔が、ノイズまじりながらも大きく見える。一年そこらだからか殆ど変わっていない、無事な姿だ。

 

 

『‥‥あの、ルヴィアさん、紫遙さん、皆さんがそちらの世界に帰る時に、私が言ったこと、覚えていますか?』

 

「ミユ‥‥」

 

「美遊嬢‥‥」

 

 

 今でもしっかり覚えている、あの世界を離れる際のやり取りと、景色。

 澄み渡った冬木の空と、人影の見えないビルの屋上。そこに立った、一週間の間だけの戦友達。

 そして‥‥美遊嬢が小さな身体と大きな声で宣言した誓い‥‥契約。それを一言一句違わず、覚えている。

 

 

『まだ、私は未熟ですけれど、あの時の契約を違えるつもりはありません。こちらの世界のルヴィアさんに師事して、毎日ちゃんと修行もしています。

 どれだけ遠くのことになるかは分かりませんけど、絶対、絶対私自身の力でそちらへ会いに行くことが出来るようになってみせますから‥‥だから‥‥』

 

 

 ノイズが、激しくなる。もはや個人を予め特定していない限りは誰がそこにいるのかも分からないくらいに雑然とした映像になってしまい、それに同調して雑音も激しくなってきた。

 後ろの方で喋っているらしいイリヤスフィールや他の二人、そしてステッキの声も聞き取れなくなってきているのに、誓いを繰り返す美遊嬢の声だけは鮮明にこちらに届いて来た。

 それは何か理由があってのことじゃないかもしれないし、奇跡とかいう言葉で説明できるものでも、説明していいものでもないだろう。

 無感動的に言えば、おそらく美遊嬢が何を言いたいのか、俺達がはっきりと理解しているため。だから本当は俺達が聞いている美遊嬢の言葉も、本当に喋っていることそのままじゃないのかもしれない。

 でも、信じる。分かる。彼女の言いたいことが、彼女の伝えたいことが。

 

 

『待っていて下さい、必ず! か———行———から———に行き———ら———』

 

「ああ、待ってるさ! 必ず、君が来るまで待っててやるさ!」

 

「もちろんですわ、ミユ。弟子の成長を見届けるのは、師匠の義務。貴女が来る前に、私が会いに行ってさしあげますから、そちらこそ待っていて下さいな、ミユ。ふふ、これもまた、あの時に申し上げました通りですわね‥‥」

 

 

 ノイズはますます激しくなって、もはや人影ぐらいしか分からない。それでも、きっと美遊嬢には俺達の言いたいことが、俺達の伝えたいことが分かったことだろう。

 

 

『わ———した、私も———ますから———ら———!』

 

「?!」

 

『‥‥すいません、切れちゃいましたよ、あはー』

 

 

 ルビーの残念そうな声がした。どうやら、次元の揺らぎの影響によって通信は切れてしまったらしい。

 

 

「ふむ、やはり即席の追加装備ではこれぐらいか。やはりワシが直接行くぐらいしか、並行世界との繋がりを作り上げることは出来ないようだな」

 

「いえ、十分ですわ大師父。‥‥あの子の無事と元気な姿を確認できただけでも、十分ですわ。そうでしょうショウ?」

 

「あぁ、そうだね。この分だと本当に追い抜かされてしまいかねないなぁ。まったく、これだから若い連中ってのは油断ならない」

 

「コラ、お前がそういうことを言っていると私はどうなる? 人生お終いみたいな気がするから止めろ、そういう年寄りじみた発言は」

 

 

 そうそう奇跡や、運命としか言えないような出来事なんてものは起こらない。

 全ての出来事はそれぞれ関連づけられており、複雑に絡み合っている。だからこそ全ての出来事は必然であり、当然であり、帰られようがない事実でもある。

 俺達の出会いも必然。ここで映像越しとはいえ、会えたのも必然。ならば、いつか会えるのもまた必然かもしれない。

 

 必然は、必然だからとして決して自発的に行動しないという選択によって紬ぎ出されるものではない。

 俺達は俺達にとっての最良の選択肢を、その時の状況、そして自分自身の自由意思によって選択していかなければならない。

 だから俺達は、俺達にとっての最良の未来を、最良の必然を得るために日々を過ごしていく。必然を、自分の意思によって掴むために。

 美遊嬢の言葉は、必然を掴もうとする意思の表れだ。ならば俺達も、届かなかったかもしれない言葉の代わりに、これからの行動によって必然を掴んでいかなければならないのだ。

 行動によって意思を見せる、とかじゃない。俺達は魔術師だから、ただ結果によって行動を示す。結果によって、過程を示す。

 

 何か劇的な出来事があって、それで劇的に自分が変わるなんてことは有り得ない。魔術師は、ただ淡々と日々を積み重ねていって結果を得る。

 でもたまには、そうたまには、何か切欠みたいな出来事があって、それで自分自身を再確認するのも悪くはない。意味がないことではない。

 例えばあの、一年前のあの事件。俺がオレを認め、俺であることを再び選んだあの事件のように。

 

 こんなクリスマスの夜には、そういう些細な、少しばかり劇的な出来事が演出されてもいい。そう思う。魔術師として、それが釣り合ったことじゃないとしても、それでも一時的に感傷的になることは、別に悪いコトなんかじゃないはずだ。

 

 いつか出会った、本当なら、普通なら出会うことのなかった戦友。

 その姿と決意と誓いと‥‥契約。その履行を信じ、その履行に応えよう。その場にいた誰もが、きっとそういう俺達の思いに共感してくれたはずだ。

 

 そんな、ありふれたクリスマスの夜での、小さな小さな、劇的な出来事だった。

 

 

 

 

 Another act Fin.

 

 

 

 



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第七十一話 『宿敵達の開戦』

 

 

 

 

 side Conrad=Einnash=Widhoelzl

 

 

 

 人の精神、というのは非常に難解かつ魅力的な存在であると私は定義している。

 そもそも魔術師ならぬ只人の中でも、人間が三つの要素で構成されているという話は比較的ポピュラーな考えとして定着している場合が多々ある。

 ふむ、実際に人間を魂や精神のレベルでかっ捌くことの適わない一般の人間でも、結局のところ頭を絞れば似たようなところに辿り着くというのは非常に面白い話であると思うのだが‥‥まぁ、関係はない。

 結局のところ、実体を知らないままに実態について論じたところで意味がないのだ。一生を費やしてみたところで、実態を知らなければ実体は分からず、実体のみを知っていたところで思考を放棄すれば実態には辿り着かないのだから。言葉遊びのようだが、真実だ。

 

 人間を構成する三つの要素。

 即ち、第一要素である魂。これは人間の中で最も重要であり、その人物について定義している代物と言っても構わないだろう。これが無ければ、人間は‥‥いや、人間でなくともソレがソレで在ることは出来ない。

 次に第二要素である肉体。人間が物質界に干渉するためには肉体が絶対に必要だ。これが無ければ、物質界に人間が存在していることは出来ないのだ。それが何物であっても、肉体無しには人間は物質界にいられない。

 そして、第三要素である精神。他の二つに比べれば大したことがない物のように思うかもしれないが、それでも肉体と魂を繋ぐ存在である精神がなければ、同じように人間は存在していられない。

 

 ふむ、重要な二つを結ぶ架け橋。だからこそ‥‥人の精神とは面白い。

 魂こそが人間の根本的な部分を定めるところであるが、それでも個人の持つ人格と呼ばれるようなものを定めているのは概ね精神であると言われているし、ふむ、私としてもそれは肯定してしかるべきだと思う。

 魂が同一だとしても、精神が変われば人格は変わる。というよりも魂と精神は基本的に同一の持ち主の下にあるのだから、このような議論も意味のないものであるのだが、ふむ。

 

 その人物のパーソナリティを認識したいのであれば、魂よりも先に精神が重要になってくる。魂に刻まれる記憶というものを読み取る際にも、重要になるのは魂自体よりも精神の方だ。

 何故ならその記憶を持っている者自身も、直接に魂へと働きかけて自身の記憶を呼び起こしているわけではない。精神からの能動的かつ自立的な干渉で記憶を思い出している。

 魂自体に干渉するのは魔法に片足突っ込んだ荒技である故に、精神への干渉こそが魂への干渉の第一段階ということになるのだ。その割に他の魔術師共は魂にばかり気を取られ、一番簡単な道を忘れてしまっている。まったく、笑いが止まらん。

 

 

 さて、精神と一口に言ったところで、これが何であるかと定義するのは非常に難しい。

 “魂と肉体を繋ぐ”というのも抽象的だ。具体的にどのような役割を、どのようなプロセスを用いて担っているのかというのを説明するのは小一時間では済まない‥‥というより、説明される側にも私の足下に及ぶぐらいには知識が必要となる。

 ふむ、一々分かりやすく、蒙昧な連中に私がわざわざ魔術の基礎を説いてやるのも面倒極まりない。とにかくそのようなものだ、と認識出来るだけの機転が回れば問題なかろう。

 

 あやふやな存在でありながら、最もその人物のパーソナリティを象徴する存在。であるからこそ、精神とは自我が宿る場所ではないかと私は考えている。

 その人物の全ての情報を、それこそ前世を含めてありとあらゆる情報を格納する場所が魂。そして人間的な活動をするためのあらゆる要素、機能が詰め込まれているのが肉体。

 ならば自身が認識できないものこそ、自身そのものであるべきだ。そう考えれば自我と呼ばれるものが精神に宿っていると考えるのは何ら不思議なことではあるまいよ、ふむ。

 

 とすると、だ。

 人間と呼ばれる存在を読み解こうとしたとき、一つの疑問が浮かび上がる。

 例えば商品を吟味するのであれば、その商品につけられたタグや、商品そのものを調べることが大事になる。例えばタマネギを考えてみれば、どこで育てられたタマネギなのか、誰が栽培したタマネギなのか。

 そしてタマネギ自体の表皮に傷はないか。腐ってはいないか。収穫されてからどれぐらいの時間が経っているのか。そういうことを調べるのが一般的な手段だろう。

 

 しかし人間ならば‥‥いや、例えば競走馬や犬などならどうだ? これらはタグや商品自体‥‥商品の外側だけを見ても購入の決断はつけられない。

 その犬の性格、気性、飼い主になるだろう自分との相性。単純に外見だけを見ても手に入らない、そういった様々な情報を入手しなければ調べられないのだ。

 これと同じことが人間の精神にも言える。すなわち人間という存在を調べるならば、一番大切なのは魂でも肉体でもなく、精神だ。

 

 ただここで注意しなければならないのは、先程までの議論と同様に精神が非常に捉えづらいものであるということだ。

 まず定義自体が難しい代物を、どうやって解析しろというのだろうか。自分自身が自分自身の精神を捉えられていないのに、どうして他人の精神を捉えられるものだろうか。

 一般人にかける魅了の魔術とは話が違う。そもそも常に身体に微弱ながらも魔力を流している魔術師という人種には基本的に魔力を叩き込む魔眼や魅了、暗示などの魔術は利き難いものであるし、ナンセンスだとして研究する魔術師も少ない。

 ふむ、その点でいえば私は———幸いという言葉はあまり好きでないにしても———生まれの点で非常に得をしていたと言わざるをえんだろう。死徒二十七祖の一つの血をこの身に宿し、もちろん傍流ではあるにせよその研究成果の一端を、そのノウハウの一部を受け継ぐに至ったのだから。

 

 長い長い時が必要になった。

 まず精神というモノの基礎構造を研究するために、様々な種類の人間に暗示をかけて実験に利用した。

 簡単な暗示をかけてみる。魅了や洗脳、そういった基本的なものから、今度は複雑な条件付けが必要になる強制契約などまで、それこそ種類を選ばず様々なものを。

 その反応を見て、魔術的な干渉に対して一般的な精神がどのように反応するかをプロファイリングしていった。このあたりは、一般社会における実験のようなものと何ら違いはない。

 魔術師のやる研究というのも、結局のところジャンルが違うだけで大して変わりはしないのだ。ひたすらに試行を繰り返し、その中から結果を得る。試行錯誤こそが研究者としての在り方だ。

 

 ひたすら、ひたすらに僅かな条件の違いを設定して、試行と実験を繰り返した。いわゆる精神というものは個人によって千差万別で、およそ普遍的な反応というものは得られなかったが、それでも中間値とでも言うべきものを手に入れることは出来た。

 妥協とは違う。こういうものは結局のところ多くの人に共通してある一定の成果が得られるという成果がベストである。たった一つの結果を要求される術式でなければ、基本的にはそういうスタンスで研究していくのが一般的だ。

 そして手に入れたデータを元に、今度は新たな術式を、精神の構造を探る術式への構築へと踏み切った。これもまた、多くの時間を有したが‥‥。

 

 

 私が根源を見限るまでの間、私の研究の殆どは精神に関するものに向けられていたといってもおかしくはない。

 初めて封印指定をくらったあの、土地の記憶を実体化させる擬似固有結界も、実のところ精神干渉の技術を基本に組み上げたものである。土地もまた、システムさえ開発してしまえば人の記憶と同じように操作できると気づいたのは、いつのことだったか。

 根源を見限り、様々なものへと根源以上の存在を求めて手を伸ばした後も、やはり精神に関する技術は私の役に立った。人間に関するものを調べる際には、これ以上の手がかりは無い。

 あらゆることは人間が行う営みだ。もちろんこの中には死徒や妖精、妖怪、悪魔、その他もろもろの人間的な知能を持つ生物とて含まれている。

 ‥‥人間が行う営みの中に、例えどれだけ意味がないように思えても人間が、即ち精神が影響している。ふむ、ならば精神について研究することはあらゆることに同じく影響する要素を持っていると言えよう。

 

 

「ク、クク、ククククククク‥‥‥‥」

 

 

 根源以上の存在を求めて続けた果てしない試行の繰り返し。

 確実にそこにあるはずの根源とは違い、本当にあるのかどうかも分からない存在へのアクセス。それは本当に果てが見えないものであり、私は自らを機械のように試行を繰り返す存在へと変化させることで、その永遠に近い試行に耐えた。

 繰り返すことは、耐えることだ。それが例え意味のある行為だったとしても、望んだ行為だったとして、それでも繰り返すことは耐え難い苦痛、苦行である。

 特に私のように長い年月、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる回数だけの試行は、並の人間ならば十年も耐えることも出来まい。だからこそ、私は自分を機械にしたのだ。

 ふむ、例えそれを私が望んでいたとしてもだ。

 

 

「ああ、長かった。長かったなぁ‥‥。ここまで来るのは、長かったなぁ‥‥」

 

 

 根源以上の存在とは、何か。私にはそれが分からない。しかし、だからこそ目指す価値があるとも言える。

 傲慢でも驕りでもなく、魔術師として最高峰の腕を持ったこの私。その私が足を踏み入れることが出来なかった根源という存在。

 だからこそ、私は根源を見限ったのだ。根源など、我々魔術師が目指すべき存在ではないのだ。私は選ばれなかったのではなく、選ばなかった。それだけの話である。

 ならばこそ、私は根源以上の存在を確信する。それが例え理論では実現するかどうかも分からない代物であったとしても、私は私の意思でこそ存在を確信しているのだ。

 実態も分からず、存在も不確か。あやふやで、どうやって辿り着いたらいいものか、どうやって掴めばいいものかも分からない。

  

 

「‥‥しかし、それも終わりだ。ついに見つけたぞ、ついに、ついに見つけたぞ。私は、見つけたのだ。クク、クククククク‥‥‥‥」

 

 

 全てがある、と言われている根源。全てが其処から生まれた、と言われている根源。

 ならば根源以上の存在とはいったいどのようなものか。今度は全て以上、などというワケの分からない言葉遊びのようなことをするつもりはない。

 根源へと達すれば、全能か。しかし魔法を得ることは決して全能というわけではない。ならば魔法などという遠回りな方法ではなく、直接根源へと辿り着かなければ私の欲しかったものは得られなかったことだろう。

 ふむ、とするとだ。やはり“根源以上の存在”へは直接至らなければ意味がない。魔法のように、遠回りな方法でのアプローチは論外だ。

 

 直接、根源以上の存在へとアクセスできる方法を探さなければならない。

 不完全な方法で根源以上の存在へと辿り着いても、意味がないのだ。徹底的に、完全に、完膚無きまでに私は根源を超える。根源以上の存在へと辿り着き、私自身が根源を超える。

 

 

「ああ、どれほどまでに夢見たことか。私が、私の存在が証明されるこの時を。私という存在を取り戻す、その時を。

 分かるか? 私がどれほどまでに絶望したことか。失望したことか。‥‥切望したことか。

 私が私を正確に定義しているのだから、私を正確に定義していないのは周りの連中だ。しかし私は、私が私自身を正確に定義しているという程度の認識で満足など出来ない。それでは‥‥不完全なのだ」

 

 

 私には決して、自己顕示欲などという低俗な欲望はない。私は全てのものが正確に、平等に定義されることを望む。私にあるのは、即ち知識欲と正当なものへの欲求だけだ。

 ならばこそ私は、私自身が正当に評価されることを望む。たとえそれが私でなくてもいいあらゆるものが、正当に評価されるべきだ。しかし今は、一番に評価されてしかるべき私が評価されていないのだ。それは、正当な評価たらしめられていないという事実そのものを侮辱している。

 不完全な評価は、不完全な認識は、不完全な定義は‥‥不完全な世界を導き出す。不完全なものは許せない。

 私は完全であるものを望むのだ。完全であることを望むのだ。‥‥完全なものが、欲しい。完全になりたいのだ、私は。

 

 

「あぁ、楽しみだ! 楽しみだなぁ! まず最初はどうしようか、精神の表層を刺激して記憶を呼び起こし、一つ一つ解していくのがいいかなぁ?」

 

 

 久々の、弄り甲斐のある素材。自分の専門分野に関する話なだけにいくらでもやり方はある。

 最終的には、精神からの間接的な干渉(アクセス)によって記憶を探り、そこから根源以上の存在、上位世界への道筋を探るという形になるだろう。しかしそれまでに、色々とやらなければいけないことは多い。

 その過程で、少しばかり楽しもうという気持ちが働いても仕方がないことだろう。いや、その程度は許されて然るべきだ。

 

 上位世界の存在。誰もが、おそらくは初めて遭遇するだろう上位世界の存在の精神。それをどう解体していくか、どう解析していくかは本当に楽しみである。

 実際に記憶を読み取った、あの短時間の中では普通の人間と大した違いを認めることは出来なかった。しかしアレは、あくまで黒化した英霊の召喚のための触媒を得るという目的の一環に過ぎない。

 それ自体を目的に精神を探れば、もっと様々なことが分かるに違いない。表層だけの検索だけでは分からなかった、様々なことが。

 最終的な目的である、根源以上の存在、上位世界へのアクセスの過程。それもまた楽しみになる。

 およそ新発見というものについて、殆ど期待というものをしていなかった今までの私の試行の繰り返し。それを打開するような、期待の詰まった新たな研究対象。

 どれほどまでに、それが私にとって素晴らしいものであったことか。どれほどまでに、それが私にとって愛おしかったことか。

 

 

「あぁ待ち遠しい、待ち遠しいぞシヨウ・アオザキ‥‥! 無為に過ぎていくだけだった毎日が、まるで百年にも引き延ばされたかのようだ! 待っていろ、用意が調い次第、すぐに迎えにいってやる‥‥!」

 

 

 部屋を用意した。普段なら簡素なもので済ませてしまう食事も、一人増えるということでそれなりの素材を調達してきた。

 何を試そうか、という魔術師としての思考と同時に、何をしてやろうか、という不思議な思いも働いている。ふむ、これは一体どういうことなのであろうか。初めての体験に、何度となく捻った首を再び捻る。

 特定の個人に向ける感情としては、今まで体験した中で最も濃い衝動。シヨウ・アオザキを研究対象として見るならば、純粋にその価値観を論じればいい。他は全てが不要であり、不純なものであるはずだ。

 しかし現に私は、魔術師としては不完全で不純な感情を覚えている。それも、今まで全く経験したことがない類のものを。

 これは一体どんな感情、衝動だろうか。本来ならば研究以外には殆ど意識を向けないはずの私が、このような余分な感情を抱くのもおかしな話だ。

 まるで、話に伝え聞く恋のよう。純粋に存在の要素同士が惹かれ合っている。性別など問題にならない、互いが互いの存在に対して価値を見出せば惹き合う理由には十分過ぎる。ふむ、非常に興味深い。

 

 

「クク、ククク、ククククククク‥‥! あぁ楽しみだ、待ち焦がれているぞシヨウ・アオザキ、お前のことを! お前は私のところに来るべき存在だったのだから、この展開も当然と言えよう、ふむ。

 ハハハ、楽しみだ、楽しみだなぁ! やはり出迎えは盛大に、私達の栄光の幕開けとしてそれなりの用意を調えなければ———ん?」

 

「ぐ‥‥う‥‥!」

 

 

 心の奥底から湧き上がる歓喜に身をゆだねていた私の耳に、小さな、本当に小さな呻き声が聞こえた。 

 今の今まで完全に頭の中から存在が抹消されていた、とるにたらない要素。私がこの城へ冬木から戻ってきた翌々日に訪れた、私が管理する霊地‥‥つまり此の地に住まう魔術師の一人である。

 

 

「‥‥貴公は、自分が何をしたのか分かっているのか、ヴィドヘルツル公! 魔術協会によって認知された他の霊地に無許可で忍び込み、あまつさえ魔術協会から派遣された調査部隊や、執行部隊まで全滅せしめるとは‥‥!」

 

「ふむ、何をそのようなどうでもいいことについてグダグダと述べているのか? 必要なことがあれば、する。魔術師として当然の行動とは思わんかね?」

 

 

 広間の中央に一時的に出現した柱に、幾本もの頑丈な鎖で縛り付けられた魔術師。

 私の家名‥‥ヴィドヘルツルの家によって管理されるこの霊地に昔から住み、我が家とも古くから親交を結んで来たそれなりに名のある家系の現当主だ。

 名前は忘れてしまったが、どうやら私が長らく代替わりに気づかず、あるいは気にしないで隠遁していた時代に、管理者(セカンドオーナー)としての仕事を代行していたのもこの魔術師であったらしく、此の地に住まう他のいくつかの魔術師達の取りまとめ役も担っているらしい。

 

 

「思わん! いいか、貴公には貴公の行動が何を招くかという認識が欠けている! 貴公自身が封印指定されても処刑されても、それは貴公自身の責任だろう。しかし貴公は、貴公は此の地の管理者(セカンドオーナー)なのだぞ?!

 貴公の行動によって此の地そのものに、我々にもペナルティが課せられるという可能性を、少しも考えなかったというのか!!」

 

 

 名も知らぬ魔術師は、散々痛めつけられ今も尚それなり以上の力で縛り続けられている身にも関わらず、その身体のどこにそんな力が残っているのかと不思議になるほどの声で怒鳴った。

 何かの思惑があって私の城に来て、あまつさえ遙かに実力に劣る身でありながら説教を、さらには愚かにも捕縛などを試みたのであろうが‥‥。ふむ、いまいち要領をえない奴だな。

 

 

「ふむ、私がする行動が、君達にどのような影響があるというのか。私は君達が何をしようと私には関係ないと思っているし、私が何をしようとそれが君達に関係することはないとも思っている。

 私は、魔術師として私がやりたいこと、やらなければならないことを何の躊躇いもなく行う。魔術師にとって必要なことを、躊躇したり再考したりする必要があるのかね?」

 

「‥‥貴公は、我々や貴公自身がどうなってもいいと申すのか。我々は魔術師であると同時に、人間なのだぞ。集団を組んで動いている以上は、集団を意識して行動しなければならないのは当然の理だろう!」

 

「ふむ、それは凡人だからこそ、そう思うのだ。私には、私にしかやり遂げられぬ崇高な使命がある。それを遂行することを思えば、凡人達がどれだけ群れていようと、どれだけ喚いていようと、私には関係ない。

 たとえお前が、どれだけ喚こうとも。私のすることに利益がないのならば一切気にはしない」

 

「貴公は‥‥管理者(セカンドオーナー)としての責務を放棄するというのか‥‥ッ!」

 

「興味が無い」

 

「ぐぅ‥‥ッ!!」

 

 

 魔術師は私を殴ろうとでもしたのか、一歩前に出ようとして鎖に戒められ、再び呻き声を漏らす。

 哀れなことだ、魔術師という超越者であることを選びながら、只人のように組織や他の有象無象に縛られている。この者を縛る鎖は単純に視覚的な、物理的なものばかりではない。今この男を縛っている鎖は、この男の境遇そのものを表しているのだ。

 

 

「‥‥ふ、ふふ、ふふふはははははは‥‥‥‥!」

 

「ふむ?」

 

「なるほど、そうか、そうなのか。ならば終わりだ、我々も、貴公も‥‥!」

 

 

 俯いていた男が、戒められて不自由な肩を震わせて笑い出す。まるで気でも触れたかのように、最初は小刻みに、そして最後には精一杯に身体をゆすって大きな声で。

 人の精神を解読していく上で何度も眼にした、最も眼にした感情。すなわち、絶望。言葉で表すとおりの絶望が、男の身体からあふれ出していた。

 

 

「知っているか? 此の地に用事があるときは管理者(セカンドオーナー)として全く仕事をしない貴公ではなく、慣習的に私のところへ手紙が来ることを。そして貴公が帰って来ると同時に、私の元に魔術協会から一通の手紙が届いたことを」

 

「‥‥ふむ、知らんな」

 

「貴公が! 冬木の地で行った愚行のために! 貴公には再度封印指定が執行されることとなったのだ! しかも、すぐに! そして此の地は魔術協会の直轄地になるということも!

 直轄地というのがどういう意味を持っているのか、貴公は理解していないだろうな! あぁそうだろうとも! 貴公は、今の今まで全く自分の研究以外に興味を払ってこなかったのだからなぁ!?」

 

 

 男の顔は口を極限まで笑いの形に変え、目を血走るまで開ききった醜悪なものだった。

 普通の人間ならば、人の顔がここまで醜悪に変えられるのかと驚愕しただろう程に醜悪な笑顔。それも、絶望というスパイスの加わった。

 だがしかし私にとっては左程見慣れぬものでもない。私が研究の過程で様々な感情を人間に味合わせた際に、最後に見れるのはどれもこれも押しなべてこのような絶望の諦観の笑顔であったのである。

 

 

「‥‥直轄地とは、全く自由度の許されていない場所なのだ。我々の研究内容は逐一報告しなければ在住を許されず、何かあれば問答無用で協会の使いっ走りにさせられる。魔術協会という組織そのものに最初から隷属している魔術師でなければ、とてもじゃないが耐えられん!」

 

「出て行けばよかろう。私は、ソレを気にすることはない」

 

「何処へ行けばいいのというのか?! 他家の霊地など新参者が入れる場所ではないし、仮に入れたとしても到底許容できない重課を課せられるに決まっている!

 貴公のせいで、貴公のせいで此の地に住まう全ての魔術師が破滅の道を歩むことになる! 百年続いた我が家もな! 貴公が、貴公さえいなければ! 貴公が貴公でさえなければぁ!」

 

 

 みしみしと嫌な音を立てて軋む。この男が全身全霊、ありとあらゆる手段を以て私の魔術による戒めに抵抗しているのだ。

 だが、この音は決して鎖がその抵抗によって壊れてしまおうとしている音では決してない。むしろ、新たな段階へと向かう知らせの音である。

 

 

「呪ってやる! 呪ってやるぞ! コンラート・E・ヴィドヘルツル!! 貴様さえ、貴様さえ凡百の魔術師と同じような人間ならば! 貴様さえいなければ、我々は! 私の家系は———グアァァァアアアッ?!!!」

 

 

 痛みに慣れた、痛みをコントロールする術に長けた一流の魔術師が初めて叫び声を上げる。苦悶の声ではなく、まるで獣のような叫び声。

 基本的に魔術は行使するのに痛みを伴う場合が非常に多い。そんな魔術師がこのような叫び声を上げるとすれば、それは断末魔に他ならない。

 

 

「ア、ガ、ガァ、ガァァァアアア!!!」

 

 

 魔術師を戒めていた、つい先程まで激しく軋んでいた鎖が赤く輝く。

 これは捕縛していた相手が一定以上の負荷を鎖にかける程に暴れた場合、自動的に動く仕掛け。強度的には何の問題もないのだが、捕縛を続けるのが困難だと思ったがために途中で方向性が変わってこうなった。後悔はしていない。

 柱に強く、きつく縛り上げていた鎖は、赤く輝きながら縛り上げていた魔術師を更に強く、きつく縛り上げていく。その強さは縛り上げるレベルを優に超え、もはや絞め殺す勢い。当然だ、それが目的なのだから。

 

 

「が、あ、あぁ、あぁぁぁあ‥‥!」

 

 

 口から血を撒き散らし、何か堅い物が砕けるような音を立てて魔術師は崩れ落ちた。

 魔術師は、魔術回路と魔術刻印の働きによって死ににくい身体を持っているが、それでも流石に体中の骨と内臓を砕かれ、破裂させられては生きていることは適わない。

 口から大量の血を吐き出して俯いた魔術師は、大きくビクリと痙攣するとすぐに動かなくなった。外見上は少し全体的に青くなっている程度だ。ふむ、まぁ大量の血によって真っ赤に彩られている、という違いはあるが。

 

 

「ふむ、やはり魔術的な抵抗を阻害する効果を付加(エンチャント)しておいたのは正解だったか‥‥ん?」

 

 

 名のある欧州の教会の大聖堂にも匹敵する、広い広い室内。豪奢かつ大きな椅子があるこの部屋‥‥というよりは広間を、私は便宜上“玉座の間”と呼んでいる。

 無駄に広いこの城は、隅から隅まで私の目を光らせているとはいえ常に把握している部屋や箇所というものは存外に少ない。大体の部屋には封印をかけたり、もしくは研究材料や研究成果の保管場所として用いていた。

 ちなみに普段から私がいるのは地下にある工房であるが、他の魔術師が攻めて来た際の備えとして各種の罠を機動する司令塔としての役割はこの広間が担っている。とはいえ制御機器があるというわけではなく、私が術式を制御しやすい場所だという話だ。

 この広間にいれば、城の中全てが手にとるように分かる。その私の感覚網とでも言うべき術式に、一つの異常が感知された。

 

 それは些細な異常などでは、例えば神経を凝らして漸く見つけることの出来るような、隠匿された異常では決してない。

 むしろどちらかといえば堂々としたものだ。宿直中の警備員が気を抜きながらもちらりと横目で見た監視カメラの映像に不審な人影を見つけた、そんなものではない。どちらかといえば、堂々と予告状まで出した怪盗がスポットライトを浴びながら空から降りてくるような、そんな感覚。

 自らの来訪を一切隠すことはない。何一つ自分のすることに恥じるところなどないとでも言いたげに、私の領地の入り口へと訪れた。

 いわば、盗人や暗殺者などのような訪れ方ではなく、正々堂々と果し合いの名乗り上げをする英雄のような、そんな昨今稀に見る訪問者。

 今までこの古びた城を訪れた客人が管理下にある魔術師か、あるいは一般の盗掘者などのような連中ばかりであったがために、このような来訪は初めてだ。

 

 

「ふむ、これは‥‥まさか‥‥」

 

 

 視界を切り替えて、我が領地の入り口、きちんと舗装されていながらも古びた山道の麓を映す。

 近世に入ってすぐにおざなりに舗装された道はひび割れ、かろうじて車一台が通れるぐらいの広さだが、普段なら村人以外は人っ子一人寄りつかない山奥の集落の入り口に一つの人影があった。

 特にこれといった特徴のない平均的な体格のモンゴリアン。おそらくは、日本人。

 やたらと頑丈そうな、無骨なミリタリージャケットを羽織り、短めの髪だから必要ないだろうに色が擦り切れた紫色のバンダナを額に巻いている。

 なにやら太い筒を背負い、道の先を睨み付けるその姿はまさしく先程に例えた決闘者のよう。そして挑戦されるのは、私だ。

 

 

「‥‥まさか、まさか君の方から逢いに来てくれるとは‥‥!」

 

 

 その姿を見た瞬間、私の頬が一気に緩む。待ちに待っていた恋人が、向こうの方からやって来てくれたのだから、これを喜ばずにはいられないだろう。

 こちらから、迎えにいくはずだったというのに、君の方から私へ逢いに来てくれた! ふむ、ふむ、ふむ、ふむふむふむ、素晴らしい! あぁ素晴らしい!!

 そうだ、分かっているべきだろう。我々はそれぞれが、それぞれの価値というものを持っている。そしてその価値を最大限に生かせるような生き方をするべきなのだ。

 私にとっての自分の価値とは、即ち根源以上の存在を目指すこと。そして彼の価値とは、その別世界の記憶を元に、私の研究に貢献することに他ならない。

 ふむ、それ以外に何があるというのか。誰もが個性というものを、それのみが自分のアイデンティティー、存在理由として所持している。ならば、それは自身の最も特異な一点でのみ表現されるべきである。

 つまり、ならば蒼崎紫遙‥‥いや、■■■■は異世界の住人であるという、それこそを自分のアイデンティティとするべきなのだ。

 それこそが個性。それこそがアイデンティティ。そして彼の知識が及ぶ範囲を歴史が通り過ぎてしまった以上、彼の存在価値とは即ち、私がこれから試そうとしている実験へと貢献することである。それ以外に、存在価値など認められない。

 

 

「‥‥よろしい、よろしい。ならば盛大に出迎えてやらなければいかんな」

 

 

 魔術回路を回転させる。盛大に出迎えると宣言した以上は、私の全力を以て彼の決意、覚悟に応えなければならない。

 私も、彼も、魔術師。ならば私がするべきことは先ず、私の魔術師としての力量を見せつけること。

 さぁ始めよう、蒼崎紫遙。そして■■■■よ。

 我々は新たな段階へと進む。根源を目指していた存在を魔術師と呼称するならば、根源に達した存在を仮に魔法使いと呼称するならば。

 我々は、根源以上の存在を目指す我々は更に高次の存在へと昇華する。魔術師などという言葉では表現できない、新たな存在へと。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥ここが、ヤツの根城か‥‥」

 

 

 ドイツの片田舎。山中に寂しく、細々と埋もれた山村‥‥いや、一応は街という体裁を整えている小さな集落へ、俺はやって来ていた。

 昔は一つの城下町として、大きく繁栄していたのだろう。そこまで建物の数は多いわけではないにせよ、古く頑健な造りは何か敵の襲撃でも想定しているかのようで、当然のように集落全体が城壁で囲われている。

 そもそも山の中にあるという時点で、かなり敵襲に対して有利な状況を調えているのだろう。惜しむらくは城下町の規模が小さかったのと、あまりにも山奥にあったがために物流から外れてしまったことか。

 今の今になっても細々と人々が暮らし続けている集落は、とても静かで、とても寂しい。

 

 

「‥‥まるで中世の頃から、全然変わってないみたいだな。魔術師が支配する霊地っていうのは、こんなもんなのかもしれないけど。まぁ、冬木が特殊なだけ、か」

 

 

 冬木のように、一級の霊地でありながらたくさんの人が集まってそれなり以上の規模の地方都市になっているという場所はそこまで多くない。

 俺が名字としている“蒼崎”の支配する、三咲町の近くの霊地にしても人はそこまで多くない。まぁ三咲町にしてもそれなり以上の霊地としての格を持っているし、観布子も同じだ。というより、あの辺り一帯は土地の力が強い。

 おそらく日本ぐらいだろう。あの国は狭い領土を持ちながらも非常に土地の力が強く、そしてその狭い領土に驚く程に大量の人が住んでいる。だから、霊地にたくさんの人が住むという異常な事態が許容されている。

 ヨーロッパとか、他の国ならば一級の霊地にはそれなりの備えというものがあるし、そもそも霊地の多くは人の手が入りにくいような場所にあるものだ。

 反面、人が多く集まった霊地なんてものもある。そもそも霊地だからこそ、人が集まったような場所とおも言うべきだろうか。霊地にも色んな種類があって、それでもそういうところにはそれなりの備えがされている。

 

 この霊地はどちらかというと、二番目の例に当てはまるらしい。人の手の入りにくい場所に霊地があって、そしてそこに強引に人が住み着いた。

 元々、人が住むような場所にない霊地に人が住むと、それなりと祟りみたいなものがあって当然だ。おそらくここは、霊地によって障られたが故にここまで寂れてしまったのだろう。元々は城が建つぐらいには栄えていただろうに、当時の領主が何かやらかしたのかもしれない。

 霊地は、ただそこに住んでいるというわけにはいかない場所なのだ。遠坂嬢だって管理者(セカンドオーナー)として霊地に対しての責任を果たしているのだから。

 

 

「‥‥しかしここまで人気がないのも異常だよなぁ。まさか、ヴィドヘルツルのヤツが何かやったか‥‥?」

 

 

 冬木のような大規模な場所ではそうそう美味くいかないけれど、この程度の規模の霊地ならば支配者である管理者(セカンドオーナー)によって、何らかの仕掛けを施すことも不可能じゃない。

 おそらく、おそらくは何かの術式を集落の全てに張り巡らせているのだろう。‥‥軽く匂いを嗅ぐに、多分、“夜”という概念を強化した結界の一種だ。

 夜に、人は外に出ない。特にその概念を強化された結界の中に閉じこめられれば、夜遊びや深夜の出歩きを許容する現代の人間達でも家の中に閉じこもって大人しくしていることだろう。

 

 

「やってくれる。どうやら、この村に入る道の入り口に踏み入れた段階でバッチリ把握されてしまったらしい」

 

 

 人っ子一人いない道を迷うことなく奥へ奥へと歩いていく。

 やたらと蛇行して、しかも狭い道は敵襲を予想しているものだろうけれど、現代に至っては物資の流通や人通りに不便なだけの狭っ苦しい道にしかなっていない。

 そして住人が少ないがために一本道。狭いから一度に通れる人数は少ないだろうけど、残念ながら襲撃者を迷わせる効果はなさそうだ。

 

 

「‥‥この中にどれぐらいの魔術師が住み着いているんだろうね。これだけ小さな集落で、しかも霊地。住民の一割が魔術師でも驚かないぞ、俺は」

 

 

 城下町を通り過ぎ、また少しばかりの山道を登る。日本の城のように城のすぐ近くに町が広がっているわけではなく、ここの城は町から少し離れているらしい。

 一応は開かれている山道を過ぎれば、目の前にはこれまた廃墟レベルにまで荒れ果てた古い古い城がそびえ立っていた。

 

 

「‥‥さて、魔術師の工房に真っ正面から突っ込むなんて真似をしようと思ったはいいけれど、ここからどうするか?」

 

 

 俺の身長の二倍ぐらいはある扉は苔生し、蔦に覆われている。まるで数十年‥‥いや、もしかしたら百年は開いたことがないのではなかろうか。

 下手すれば廃墟レベルを通り越してそのまま廃墟、むしろ遺跡と言うべきか。とにかく人が住んでいるような場所には見えない。が、逆に魔術師の住居と考えればこれほどまでに相応しい場所もないだろう。まぁ、目立ちすぎるけれど。

 

 

「分かっているんだろう、俺が来たことは。バカみたいな訪問の仕方で悪いが、とっとと扉を開けろ。仁義を切りにきてやったぞ」

 

 

 もはや大声を出す必要もなく、普通に目の前の人と話すように声を出す。おそらくヤツが相手なら、聞こえるはずもないこの声もしっかりと聞こえているはずだ。

 ああそうだろう、分かっているんだろう。さぁ俺が来たぞ、お前が待ち望んだ俺が。待っていたんだろう、俺が来るのを、俺を手に入れるのを。

 

 ならば急いで迎えに来い。

 

 しっかりと気づいているはずだ、俺がただお前の軍門に下るために来たわけじゃないことぐらいは。

 だとしても俺を拒むことなどできないはずだ。変態的な言い方になるから非常に嫌なんだけど、それでもお前は俺は迎えるはずだ。

 俺がお前を殺す気だろうと、お前は俺を城に迎える以外にない。そして俺の挑戦を受け入れる以外にない。

 それがお前という魔術師の在り方だろう。誰よりも傲慢で、誰よりも不遜。情けない話だけれど、俺はそこにつけいれさせてもらう。

 

 

『ク、ククク、ククククク‥‥! あぁ楽しいな、おもしろいなぁ君は! いいだろう、入りたまえ蒼崎紫遙!』

 

 

 何処からともなく聞こえてきた、声。それは冬木で遭遇した、全身白尽くめの魔術師の声。俺を、心の底から揺さぶった魔術師の声。

 おそらくはニヤニヤと笑っているんだろう。醜悪な顔で、吐き気が出るくらい醜悪な顔で、どこまでも楽しそうに嬉しそうに笑っているんだろう。

 俺が、怯えそうなぐらい怖い、恐ろしい顔で、恐ろしい声で、そいつはきっとそこにいる。

 

 ギシリ、と苔生した扉に生えていた蔦が千切れていき、そして扉は開かれる。

 中は真っ暗で、何も見えない。窓という窓が閉ざされて‥‥というよりも、そもそも窓なんてものはあるのだろうか。とにかく中には灯りらしきものは一つもないらしい。

 まるで何もかも飲み込んでしまうかのような暗闇へ、大きく息を吸いこんだ俺は一歩、足を踏み入れた。

 

 

「よく来てくれたね、蒼崎紫遙。君も漸く君自身の価値をしっかりと理解し、その使命に殉じる覚悟をしてくれたようで嬉しいよ」

 

「冗談抜かすな、コンラート・E・ヴィドヘルツル。いや、天災ヴィドヘルツルとでも呼ばれたいのか、お前は? まぁ肩書きなんてものに興味を持つような性格には見えないけれど」

 

「ふむ、よく私のことを分かってくれているじゃないか君は! クク、互いのことを分かり合うというのは素晴らしいものだ、あぁ素晴らしいものだ! やはり私と君との仲は運命づけられているのだろうよ、素晴らしい素晴らしい素晴らしい素晴らしい素晴らしい!!」

 

 

 足を踏み入れたところは、まるで城という想像通りの広間。豪奢な装飾がいたるところに、それこそ芸術品に疎い俺が見ても分かるぐらいに素晴らしい装飾が施されている。

 床は綺麗なタイル張り。単純に俺の語彙と知識が不足しているからタイルなんて風情の無い言葉を使ったけれど、実際にはちゃんと中世当時の素材なわけだから別の尤もな言い方があるのだろう。

 ただし全てが全て当然のように古びていて、ひび割れ、欠け、汚れている。百年以上の月日を重ねているのならば当然と言えるけれど、灯りのない広間は更に不気味な雰囲気を醸しだしていた。

 

 

「魔術師同士の研究において大事なのは、単純に利害関係だ。信頼には意味が無く、そこにあるのは僅かな信用だけだ。

 利害関係があればこそ、魔術師は共同研究の相手を裏切ることはない。裏切ることにメリットがないと認識していれば、魔術師は魔術師を裏切ることはない。しかし、裏切ることでメリットがある、もしくは裏切ることによるデメリットがなければ何の躊躇もなく裏切る。

 ふむ、君と私との関係も同じだな。いや、違う、またそれとも違う高次元な関係と言える。お互いに、お互いの存在意義や在り方、在るべき姿として引き合っている! そうだ惹き合っているんだよ! ここに信頼すら生まれる! あぁ素晴らしい、素晴らしいと思わんかね?!」

 

「人の話を聞くつもりがないのか? なぁおい、コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

「いやいや分かっているとも、もはや私達の在り方というのは魔術師同士の関係というものとも違う。いや、進化したともいえるものだ!

 根源を目指すのが魔術師ならば、根源以上の存在を目指す私達は魔術師以上の存在だ! ならば魔術師としての常識に捕らわれるのも滑稽と言える。我々は、我々の新しい在り方を探さなければならん」

 

「人の話を聞くつもりがないんだな、そうだろ、コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

 

 広間の奥、この広間の横幅の半分近くを占拠する広い広い階段の上に、その男は立っていた。

 冬木で出会った時のような、上から下まで真っ白いスーツ。白いボルサリーノに、白い三つ揃いのスーツ。靴下も驚くくらいの純白で、当然のことながら靴も白。靴紐まで、真っ白だ。

 年月を経た、手入れをしていない金細工のようにくすんだ金髪によって疎らに覆われた瞳が、まん丸に見開かれている。驚いたのではない。喜んでいるのだ。限度を超えて、喜んでいる。

 細く歪むのなら、まだ常人の範囲内。ここまで目を見開けば相手に恐怖を与える程の尋常じゃない喜び。狂喜。見るだけで、知っていても怖気が走るぐらいのもの。

 

 

「何を言っているんだ蒼崎紫遙? 君と私とはもはや一蓮托生、運命共同体‥‥いや、共に運命を切り開く同士じゃないか。君と私との間に言葉など要るのかね? いいや要らないね、必要ない。そうだろう、君と私との仲じゃないか!

 私達の意思は私達のあるべき姿に向けられている。私は根源以上の存在を目指し、君はその知識を以て私の研究に貢献する。そして二人で、私達で新たな世界へと道を開き、根源を超えるのだ!」

 

「あぁよく分かった、要するに俺の話を聞く気はないんだろう、まったく」

 

 

 階段の一番上で、高笑いを続けるコンラート・E・ヴィドヘルツル。狂人の倣いとして人の話を全く気にしちゃいない。

 俺にとっては何の意味もなく、というよりも意味の分からないことを大きな声で喋り続ける。

 

 

「はてさて、君が何を言っているのか全く分からないが、とにかく既に用意は出来ているぞ? 君のために必要なものは全て揃っているし、術式の支度も万全だ。今すぐにでも始められるぞ!」

 

「俺にはお前が何を言っているのかさっぱりだ。‥‥いいか、念のため確認しておくけれど、俺は別にお前の研究の糧になるためにここへやって来たワケじゃない」

 

「‥‥?」

 

「———Drehen(ムーヴ)‥‥!」

 

 

 またしても、何を言っているのか分からないとでも言いたげな顔で沈黙するヴィドヘルツルに対し、俺は大きく溜息を、いや、吐息をつくと階段の上の魔術師を睨み付けた。

 真っ直ぐに立っていた身体を斜めに、相手に対する面積を減らす。左肩を前に、腰の後ろに柄が右になるように差した短刀をすぐにでも抜き放てるような体勢をとる。

 左肩に担いだ筒の中の魔術礼装は俺が手に取らなくても問題はない。始動キーを唱えて魔力を注げば、勝手に飛び出してくれる。だからこそ左肩に背負ったのであり、そちら側をヤツに向けた。

 身体の戦闘準備を調えたのなら、次は魔術師としての根本的な戦闘準備を調える。衛宮にとっての、『投影開始(トレース・オン)』や遠坂嬢にとっての『Anfang(セット)』と同じように、起動キーを唱える。

 体中に張り巡らされた魔術回路から生成された魔術が、俺の身体から迸る。一流の魔術師に比べれば大した量じゃないかもしれないけれど、それでも俺を魔術師たらしめる俺の魔力だ。

 僅かに鈍い痛みを伴うこの感覚。これこそが、魔術師である証。魔術師である実感。

 

 

「俺は魔術師として、俺の秘密を知ったお前を許さない。俺から抜け出した秘密がこれ以上広まらないように、お前を殺す。存在の一片も残さず、消滅させる。‥‥そのために、来た」

 

「‥‥‥‥」

 

「魔術師として、尋常の決闘を申し込む。‥‥古いしきたりだけど、同じくらい古い魔術師であるお前なら知っているだろう。

 ‥‥古い魔術師の決闘は、つまり殺し合いだ」

 

 

 魔術回路が、戦闘可能なレベルまで励起される。即座の魔術行使も問題ない、魔術師としての戦闘準備が完全に整った。

 左肩に提げた橙子姉謹製の魔術礼装も、腰に差した短刀も、同じく腰に括り付けた袋の中のルーン石も、そして懐に潜ませた幾つかの切り札も。

 全てが準備完了。俺は、俺の全てを以て、魔術師としての全てを以て目の前の敵を打倒する。不利益を看過することは出来ず、故に俺は俺の敵を始末する。

 その決意を以て起動した魔術回路。そして魔術師としての俺。蒼崎、紫遙。

 

 

「さぁ、殺し合いをしよう、コンラート・E・ヴィドヘルツル。例えお前が俺を掴まえる気だったとしても、俺はお前を殺すつもりだ。その存在の一片たりとも残しはしない。お前の細胞一つ一つに俺の秘密が息づいているのなら、細胞一つ残さずに消し飛ばす!」

 

 

 俺の魔術回路の励起に合わせて、まるで同調するかのように左肩に提げた『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』が震えた。いつもいつも、俺と一緒に死線をくぐり抜けてきた相棒は、精一杯に俺の期待に応えてくれるつもりらしい。

 魔術師同士の戦闘は、決して初めてじゃない。数回にも満たない経験ではあるけれど、魔術師との戦いは確かにやったことがある。けれど、決闘という定義の戦闘は初めてだ。

 今も世に伝わる、魔術師の決闘とはまた違う古いやり方。純粋に魔術の実力を競うのではなく、全ての戦力を用いた殲滅戦、即ち戦争。

 古い魔術師の決闘とは、つまるところ戦争なのだ。相手の全てを尽く叩き潰し、消滅させる戦争。そこには決闘という世間一般的な言葉に含まれるロマンなんてものは一切入ってない。

 

 

「さぁ、魔術回路を起動しろ! 術式を張り巡らせろ! 俺は、お前の敵だ!」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 全身に戦闘の意欲を漲らせ、階段の上、俺よりも遥かに高い位置に立った魔術師を睨み付ける。

 全てをぶつける、そんな覚悟と意思を露わにした俺に対し、その男‥‥ヴィドヘルツルは全く反応を見せずに立ちつくしていた。

 ただ、俺を見ている。何の感情も見せない、驚くほどに純粋な色を湛えた丸い瞳で。子どものように無垢で、痴呆のように白けている。

 まるで機関銃‥‥いや、それでは自分を過大評価し過ぎだから精々が拳銃だろうけれど、武器を構えた強盗を前に手ぶらで、何の構えも用意もせずに立ち尽くしているようだ。

 全くもって、不可解。普通の人間ならば挑発しているのか、バカにしているのかと怒るところかもしれないけれど、俺としてはそこまで単純な話ではないだろうとも思う。

 この狂人の理屈が理解不能なものであることは先刻承知。しかし理解不能でありながらも、そこに理屈があることは間違いない。

 だからこそ、意味もなく立ちつくしているわけではないのだ。

 

 

「‥‥成るほど、成るほど成るほど成るほど成るほど成るほど」

 

「?」

 

「確かに君の言いたいことも尤もだ。しかし残念だよ、蒼崎紫遙。私は君が私のことを十分に信頼‥‥いや、せめて信用してくれているものだとばかり思っていたが、どうやらまだ私の力を理解してくれていないようだ、ふむ。

 私としては、冬木の一件で君に私の実力というものを見せて、信頼を勝ち取ったように思ったんだが‥‥。成る程、ふむ、それだけでは君は不足だったようだな」

 

「はぁ?」

 

 

 何に納得できたのだろうか、ヴィドヘルツルはニヤニヤと何度も何度も何度も激しく頷いてみせる。

 頭だけではなく腰から上まで激しく前後に振って、その両腕はぶらんぶらんと激しくしっちゃかめっちゃかに、てんでんばらばら、全然ばらばらに動いていた。まるで、出来の悪い、古い古い玩具のように。

 

 

「———よろしい、ならば再び君に私の力を見せて差し上げよう! 君が私を、君自身を共同研究の資料として差し出すに相応しいパートナーとして認められるように、私の力を、君に見せて差し上げようじゃないか!」

 

「はぁ?!」

 

「ふむ、実のところ私は、君には全く用がないのだよ。“魔術師”である“蒼崎紫遙”は、本当なら私にとっては全く価値がない。

 私が必要なのはキミであって君ではないのさ。なぁそうだろ? ———“■■■■”?」

 

「———ッ! その名前で俺を呼ぶなっ!!」

 

 

 一気に、俺の中のボルテージが上がる。胸の中に、俺の一部として仕舞い込んだオレの名前を呼ばれ、瞬間的に俺は完全に激昂した。

 それはもう、この世界で呼ばれて良い名前ではない。捨て去ったわけでもなく、置いてきたわけでもなく、俺が俺の一部として、俺の中に仕舞い込んだもの。

 だからそれは、もはや橙子姉や青子姉にだって触れることが出来ない場所にあって、あの二人の義姉だってソレを分かっているから二度とその名前で俺を呼んだりはしないし、当然ながらオレを呼ぶこともない。

 言うなれば、俺の中にある一つの聖域(オレ)。そんな場所を無遠慮に踏みにじられれば‥‥怒るのは当然。

 橙子姉のことよりも、青子姉のことよりも、それは正真正銘の俺の中の逆鱗(オレ)。触れられていいところじゃない。触れていい、ところじゃない。

 

 

「オレを‥‥呼ぶな‥‥ッ! もうその名前で呼ばれていい人間はこの世にいない。いや、どの世界にもいない。オレでも、俺でも、誰でも、その名前で呼んでいい人間はいないんだっ!」

 

 

 腰の鞘から、式に貰った短刀を抜き放つ。

 魔術師としての戦闘ならば本来なら必要ない代物。魔術師としての俺を象徴するものではない代物。しかし、この決闘では全てを以て相手を妥当する戦争こそを由としている。

 これは、戦う意思の表れ。そして短刀は魔術師としての俺を象徴するものではないにしても、魔術師となったオレの、俺の絆の、むしろ俺そのものを象徴する武器だ。

 

 もう、揺らがない。俺の中にあるのは純粋な怒りだけ。コイツを殺す、理由が増えた。

 

 

「‥‥戦争だ。始めるぞ、俺と、お前との戦争だ」

 

「君にとっては戦争なのかね? ふむ、私にとっては戯れ合いに過ぎない認識だったのだが」

 

「うるせぇ、俺は戦争やる気まんまんなんだよ変態。いいか、宣戦布告はしたぞコノ野郎。無抵抗で嬲り殺しにされるのが好みなら、そうしろ。そうじゃなかったら、とっとと魔術師として尋常に立ち会いやがれ!」

 

 

 ソイツは、幸いにして今まで一度も出会わなかった俺の宿敵は、今度こそ俺の言葉にニヤリとした笑いを崩して大まじめな表情を作ってみせた。

 大仰に広げた手は、まるで何かを迎えるかのよう。そして、『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を操る時の俺にそっくりの、指揮者のような姿にも見える。

 その瞳は先程とは真逆のベクトルの、それでいながら同じく一切の感情が排除された冷たい瞳。俺が切望した魔術師としての瞳。でも、俺が目指している魔術師の瞳ではない。

 例え目の前の男が魔術師として、この世の誰よりも正しく、強く、優れていたとしても。それは俺の目指す魔術師では決してない。

 

 俺は、蒼崎だ。“蒼崎紫遙”だ。

 蒼崎紫遙として、蒼崎紫遙がするべきことをする。蒼崎紫遙に必要なことを、蒼崎紫遙がすべきことをする。

 

 回転し続ける魔術回路は熱を帯びているかのように俺の身体を火照らせる。

 握りしめた短刀は、使うかどうかは別として、俺の思考を身体と反対に冷たく凍えさせていく。それでもやはり身体は熱く、まだ封印したままの魔眼まで熱い。

 

 舌の滑りを確認して、呪文を紡ぐ。ひとりぼっちの、初めての戦争。

 緊張も、高揚もなく、冷めていく心を落ち着けて。睨み付けた視線は鋭く、何物も見逃さないように。

 開戦の合図とばかりに振り上げたヴィドヘルツルの手に呼応して現れた何体もの鎧甲冑の兵士が押し寄せてくる数を全て冷静に数え、俺は呪文を紡ぎ、左手に握りしめたルーン石を振り撒いた。

 

 全ては俺が、オレを俺の中に押しとどめるため。俺の中のオレを守るため。

 

 そしてオレの秘密を、この男と俺との中で消滅させるために。

 

 

  

 72th act Fin.

 

 

 

 



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第七十二話 『宿敵達の決戦』

 

 

 

 

 

 side Shiyo Aozaki

 

  

 

 

「———焔よ(ソウェル)!」

 

 

 左手に握り隠した二つのルーン石を前方に放り投げ、神秘を含んだ言葉を放って爆発させる。

 いつの間にやら俺の周りに群れて集って来たのは、全てが全て存在感の希薄な男達。屈強な者も、体格の良くない者も、全てが揃いの甲冑を身に纏っていた。

 甲冑といっても、その言葉から想像するようなフルプレートではない。まるでバケツのように粗末で簡素な兜を被り、筒のようなチェーンメイルを着込んでいる。手に持っているのは盾と剣。大した装飾はなく、実用一辺倒というよりは量産品のようだ。

 まるで中世の城を守る兵士そのもの。幽霊が、実体化したかのよう。俺のその感想を裏付けするかのようにどの兵士も顔色は蒼白で表情というものがない。

 

 

「まさか死霊使い(ネクロマンサー)でもあるのか、この才能のバーゲンが!!」

 

 

 爆発したルーン石が2、3体の兵士を吹き飛ばし、俺は前の連中を無視して振り向き様に背後にも近寄っていた兵士一体の首を斬り払い、ついでに右足を軸足にして左足でその隣の兵士に足刀蹴りを見舞う。

 完全に体重が乗り切っているわけではない蹴りだから威力がそこまであるわけではないけれど、それでも剣を振り上げていた相手を後ずさりさせるだけの効果はあった。

 斬り払った感触が随分と調子良い。どうやら兜のデザインが甘い、というよりも適当だ。頭は保護していても首を保護しているわけではなく、両儀流のような素肌剣術の良い的だな、これは。

 

 

「ていうか作りを別にしてもスカスカじゃねぇかコイツら? 流石に俺を相手にするには存在密度が足りない、ぞっ!」

 

 

 蹴りを見舞った兵士を追撃として短刀で薙ぎ、今度は右足で背後の兵士を蹴り飛ばす。今度はその足を地に着けず、右側にいた兵士に回し蹴りをぶち込んだ。

 相手は鎧だけれど、あくまでチェーンメイルだ。刃は防げても衝撃までは防げず、ついでに俺の靴の爪先には鉄芯が仕込んである。

 多少痺れはするけど、指が折れるまではいかない。むしろ遠慮無く蹴れる分だけ、素足で道場で戦うよりも調子が良いかもしれない。まして相手は生きてるのか死んでるのか、むしろ存在しているのかよくわからない連中だ。一切の遠慮は、いらない。

 

 

「存在密度が薄い、か。よく気づいたね蒼崎紫遙。流石は私のパートナーたるものだ!」

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル! コイツは何の手品だ!」

 

「決まっているだろう、君とて私の二つ名ぐらいは聞き覚えがあるのではないかね?」

 

「‥‥“天災”ヴィドヘルツル。まさか、あのポンペイの悪夢を起こした疑似固有結界の一種か!」

 

 

 次々に斬りかかってくる兵士の攻撃を捌きながら階段の上の魔術師を睨み付けた。

 “天災”ヴィドヘルツル。もはや今となっては言及する必要もないだろうけれど、ポンペイでヤツが起こした悪夢を指して、封印指定の魔術師としてのヤツはこう呼ばれることがある。

 まるで人の為すことの出来る所行とは思えないような規模の、過去の災害を起こす恐るべき大魔術式。そしてそのような魔術を行使できる天才魔術師。

 おそらく現代の魔術師としては、封印指定としての知名度は最上級。流石に橙子姉には劣るだろうけれど、最上級の魔術師だ。

 

 

「この城は元々、中世時代からあるものだ。時の領主は権力争いに負けて領土は廃れたが、城自体は人の手が入らずにこのまま私の手に渡るまで残っていた‥‥。

 ところで蒼崎紫遙よ、私の疑似固有結界‥‥『メモリー』の能力は知っているだろう?」

 

「‥‥詳しいことは知らない。というか、知ってたら封印指定の意味がないだろう」

 

「そう言わずに、考えてみたまえ。思考を止めた魔術師など存在する価値もない。まさか君もそうだと言うのかね?」

 

 

 戦闘中だというのに、人の神経を逆撫でするかのように笑う魔術師にイラッとする。

 当然のように魔術師、コンラート・E・ヴィドヘルツルが話している間も兵士は構わず襲ってくる。おそらく、これは推測になりはするんだけど、この兵士達はヴィドヘルツルによって制御されているわけではない。操作されているわけでも、ない。

 そしてヴィドヘルツルの言葉から分かる。ヤツの作り上げた大魔術式、疑似固有結界『メモリー』が何かしら関係していることも。

 だとするならば、あれは魔術でありながら“現象”だ。“現象”を起こすことは可能でも、制御することは不可能である。

 ヤツが聞いているのは、ヤツの大魔術の正体。そして本来ならば川の流れのように導き出される答えである、『目の前の現象がヤツの魔術によるもの、おそらくは件の大魔術式によるもの』というもう一つの確信から考えるに‥‥。

 

 

「‥‥多く知られている貴様の大魔術式の概要は、『土地の記憶を映し出す』こと。でも土地の記憶なんて表現、随分と曖昧だ。そんな曖昧な表現じゃ魔術は語れない。

 とするならば、お前が干渉(アクセス)しているのは記憶じゃなくて、記録(レコード)。土地の更に奥、地球、いや‥‥まさかお前、“根源”に至っているのか?!」

 

「‥‥‥‥なんだと」

 

 

 土地、特に霊地と呼ばれるような場所には普通の土地とは違う様々な特性がある。

 そもそも土地なんて言葉が最初から曖昧なのだ。区切りは何処だ? 土地という言葉は何だ? 大地なのか領域なのか空間なのか、そういう定義が完全に曖昧になってしまっているのだ。

 いくら封印指定で正体不明の魔術式とはいえど、実際に一度起こった現象に対して魔術協会の調査員が『土地の記憶を引き出す』なんて曖昧な表現を用いるはずがない。

 ならば何故、ここまで曖昧な表現が公的な記録としてまかり通っているのだろうか。‥‥答えは簡単極まりない。つまるところ、こともあろうに魔術協会の調査員ともあろうものが、いや、時計塔の全ての連中がその魔術式を解明できなかったのだ。

 

 不明なものに、いくつかのヒントがある。ならばどうやってその正体を見極めればいいのだろうか。限られた情報と、限られたヒント。情報の中にある確かな事実。

 その事実の隙間を憶測で補うことはしない。それは魔術師のすることではない。ならば事実を繋げるのではなく、事実の奥にあるものを推測と考察、思考によって判断する。

 条件付けを、考えるのだ。こちらから向こう、ではなく、向こうからコチラへと思考を巡らせれば答えに近いものぐらいは勝手に浮き出てくるものだ。

 

 土地は、霊地。普通の土地では括りとして不可解だし、そもそも記憶と呼べるようなものを持っているかも分からず、また、魔術的な繋がりがないものに対して一方的に何かを行使することは純粋に難しいことだと定義づけられている。

 暗示の魔術を行使する時のように、一般人に対して魔力を流し込むのとは話が違う。土地そのものが相手なんだ。どれだけ力を持たない普通の土地でも、無理。

 けど霊地ならば話はまた違う。確かに霊地の力は強い。普通の土地でさえ魔術師が相手にするにしても巨大すぎる存在なのに、霊地ならば尚更。

 しかしそこに、ちょっとした違いが出る。霊地には霊脈が通っており、そこに魔術師が介在する隙間が生まれるのだ。不思議なことに。

 

 もっとも魔術師が姑息に霊地を利用しているというわけでもないのだ。霊地の方でも魔術師に好き勝手を許してやっているようなフシがある。霊地にとって、魔術師程度はどうでもいい存在であるかのように。

 このあたりは実際に霊地と上手に、長い間付き合っている管理者(セカンドオーナー)などの方がよく知っていることだろう。あれは部外者が理屈とかで分かるようなことではない。

 

 ‥‥土地の記憶、なんてものは俺にだって分からない。

 でも記録(レコード)なら話は別だ。

 魔術師にとってそれは馴染み、親しみ、そしてそれでいながら果てなく遠い存在。

 即ち“根源(アカシックレコード)”。‥‥そしてそれに類する物。

 土地は、記録される。その全てをアカシックレコードに記録される。そこには全てが記録されているのだ。過去も、未来も、それ以外の何もかもが。

 

 

「根源‥‥? ハッ! バカを言ってはいけない、これは根源なんてものに至った成果ではないよ。巫山戯るな、馬鹿馬鹿しい、不愉快だ!

 こんなものはな、表面から情報をすくい取った程度に過ぎんよ。どいつもこいつも、小手先のことにこだわるわりにはこういう器用な真似が出来ん。

 いいか、この術式では土地そのものを媒介にして間接的に記録(レコード)干渉(アクセス)しているだけに過ぎん。根源(アカシックレコード)なんてものに至ったと勘違いされるのは我慢出来んのだよ!」

 

「‥‥やれやれ、面倒臭い野郎だ。まぁ確かに根源に至ったっていうんなら、俺をつけねらう理由もない、か」

 

「ふむ、それは考え違いというものだな、蒼崎紫遙。私は既に根源などという低俗な代物を目指して研究を続けているわけではない。

 私が知りたいのは、私が至りたいのは、根源を超えた更に上の存在。根源の、この世界の上位世界、上位存在とでも言うべき存在だよ。つまり‥‥君のような存在こそを目指しているのだ、この私は!」

 

「あぁ面倒臭い、しかも迷惑だ。ちくしょう、つまり大体お前が言いたいことは分かったよ。

 ‥‥だとすると、こりゃ益々一層、決定的なまでにお前を消滅させなければいけないみたいだな」

 

 

 成る程。魂と同じく、いや、当然ながらそれ以上に不干渉な存在。そこに干渉するためのノウハウ。間接的にでも、干渉するノウハウ。それをヤツは持っていた。

 

 精神からの、魂に存在する記憶への干渉。それと同じく、似たようなやり方で干渉(アクセス)できないことはないだろう。

 掠め取るかのように、土地の記録を盗み出して、再現する。全ては土地の力を使って、こそ泥のように引き起こしたことだ。

 勿論それは決して悪いことでも、非難されるようなことでもない。当然勝手に他所の霊脈で実験したりしたら管理者(セカンドオーナー)は烈火の如く怒り狂うことであろうけれど、それでも魔術師として、足りないものを他所から持ってくるというのは基本的な考え方である。

 

 

「この城は中世の戦争の例に漏れず、一夜の内に奇襲を喰らい、壮絶な激戦の末に全ての兵士と領主が討ち死にした惨劇で有名だ。‥‥まぁ有名と言っても、かのヴラド・ツェペシェのように普遍的な知名度を持っているわけではないがね。

 ただ普通に廃れただけでは私の『メモリー』も効果を発揮出来ん。僅かばかりにでも、惨劇と言うべき過去があった霊地だからこそ、まぁ不十分な規模ではあるが惨劇の再現も可能だ。君の周りの兵士は、その産物だよ」

 

「成る程、ただ現象を再現するだけだから貴様の制御は受け付けない、と。道理に適っているが、だからといって必死に戦っている俺を相手にべらべら喋り続けるその神経は素晴らしいな!!」

 

「お褒めいただき光栄だよ、蒼崎紫遙! ハハ、まるで打てば響くかのように答えが返ってくる! これだよこれ、今まで擦れ違った凡百の魔術師とはワケが違う!

 あぁ、君と私との相性は最高だ。君の魔術師としての力量自体は並のものだが、冷静に思考を巡らす様といい、じっくりと身につけた深い基礎知識といい、その在り方こそ一流! 魔術師としての君にさして興味がなかったのは事実だが、俄然興味が湧いてきたぞ! クク、ククク、ハハハハハハハ!!」

 

「ったく、よく喋るヤツだな! 少しはもっと建設的なことに使ったらどうなんだ」

 

「建設的じゃないかね! 君と私との、二人の在り方について語っているのだぞ? ともすれば、これから長い付き合いに、唯一無二の付き合いになるんだからな。互いのことを知り合うのが建設的でないわけはないじゃないか?!」

 

「あぁ畜生、ホントわけわかんねぇコイツ‥‥」

 

 

 ヴィドヘルツルがぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺら喋り続けている間にも、ヤツが再現した惨劇とやらはお構いなしに俺に襲いかかってくる。

 剣が、槍が、(メイス)が、四方八方から迫り来るのだ。その全てを体捌きで何とか躱し、あるいは手近な兵士の首根っこ引っ掴んで身代わりにし、もしくは受け止めた後に渾身の力で蹴り飛ばす。

 式からみっちり仕込まれた両儀流短刀術自体は短刀のみを使った殺人術の一種なんだけど、それだけではどうしようもないと習った拳法の方が性に合っていたらしい。

 ともすれば鎧相手には弾かれてしまう短刀は、何だかんだでトドメにしか使えないのだ。その分、ひたすら動き回って隙を作っていくしか勝ち目はないのは、当然だろう。

 

 戦争を繰り返す中世時代の剣術というものが、とことん実践に基づいたものだということはよく分かる。でも、当時から数百年以上も研鑽を続けてきた日本の流派というものも決してバカにならないものがあるのだ。

 しっかりと体系づけられた技術は、決して実践に基づいた経験に劣るものではない。

 

 

「とはいえ‥‥ちくしょう、数が多いっての!」

 

「ふむ、それはそうだろう。いくら零落していた城とはいえ、兵士は百人以上詰めていたわけであるし、ここだけの話、攻め込んできた別の領地の兵士も混ざっているからな」

 

「それは聞きたくなかったよっ!!」

 

 

 つまるところ、倍。いや、攻め落とされたということを鑑みればそれ以上か。

 よくよく見れば鎧も二種類あるし、武器も微妙に二種類ぐらいに分かれている気がする。ちくしょう、いくら存在密度が薄いからってこれだけの数がいると流石に参る。

 

 

「———Samiel(ザーミエル)!!」

 

 

 左肩に背負ったラックをぶん回し、背後に回っていた二人ぐらいの兵士を薙ぎ払うと勢いよく蓋を開ける。

 蓋を開ければ、始動キーを唱えるだけで勝手に飛び出す便利な魔術礼装。俺の持つ最強の武器。稀代の人形師、蒼崎橙子が作り上げた第一級の魔術礼装。

 始動キーに応えてガタリとラックの中で蠢く相棒に、更に目覚ましの言葉を叫ぶ。自己暗示という詠唱と違って、始動キーであるこれは、せめて『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』に届く声を出さなければならない。

 

 

「Ihr nennt mich Samiel! 《吾が名はザミエル!》」

 

「ほぅ‥‥?」

 

 

 目の前に突き出された剣を受け止めたラックから、勢いよく七つの球体が飛び出した。

 俺の好きなドイツオペラから名前を取って作ってくれた礼装は、オペラとは異なり七つ目の魔弾も俺の意思のままに動く。

 先程も言ったけど、使う俺がへっぽこなわりに『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』は、先代ロード・エルメロイが操った『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』に勝るとも劣らない最高級の礼装だ。

  

 

「Waffem und Steine! Hilf mir! Ans Tor! 《武器と石を用意しろ! 吾に加勢し、門にかかれ!》」

 

 

 飛び出した礼装は俺の周りを瞬時に一蹴、もとい一周。取り巻いていた兵士を薙ぎ払い、そのまま勢いよく宙へ浮かぶ。

 一直線に円を描くようにではなく、少しずつ微妙にずれた見目の悪い軌道。魔弾の同士討ちを防ぐのと、効率よく敵を倒すために最初にプログラミングされた軌道の一つだ。

 基本的にその場で臨機応変に操作する、というような器用な真似が出来るぐらいの戦闘センスを俺は持ち合わせていない。だからこそ、ありとあらゆる状況を想定して何通りもの軌道を用意しておくのが俺のスタイルだ。

 だから出来る限り広範囲を効率よくカバーできるようにしたのが、この軌道である。特に対多数を想定した15番のプログラミング。周囲だけではなく、更にたくさんの敵がいる時には更に広範囲へと拡大するコンボがつかえる軌道。

 

 

「Ich hore der Horner Schall! 《聞こえるぞ、角笛の呼び交わす響きが!》」

 

 

 上空に舞い上がった球体は、鷲か鷹のように地面すれすれまで舞い降りて更に残りの兵士を追撃する。

 ほぼ純粋な物理攻撃である『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』には霊体を送り還すような機能はない。だというのに攻撃を喰らった兵士達はまるで幽霊のように消え去っていく。

 ‥‥おそらく、現象として再現された段階で彼等は物理現象に縛られる存在になってしまったのだ。ヴィドヘルツルによる制御を受けていないのもあり、彼等は自分自身の物理観念に縛られてしまっているのだろう。

 

 

「Jetzt zieh' Er oder gnad' Ihm Gott! 《さぁ剣を抜け! 覚悟しろ!》」

 

 

 数十人の兵士を薙ぎ倒し、二つを直衛として俺の周りにつけ、残りの五つを上下左右真正面から、逃げ場が無いくらいの凄まじい速度でヴィドヘルツルへと放つ。

 逃がしたくないなら、逃げ場を作らなければいい。それを愚直なまでに踏襲した単純な突撃戦法。上下左右のいずれに逃げたところで反対側から突っ込んできた魔弾に襲われ、背後に逃げても当然に真っ正面の魔弾が襲う。

 

 

「‥‥ふむ、なるほど。単純(シンプル)でありながら効果的。十分な回避距離があるようでいて、この速度ならば避け切れん」

 

 

 ヴィドヘルツルの言葉通り。しかし自分自身で事実を述べておきながらも、稀代の魔術師は余裕綽々といった様子でニヤリと笑う。

 

 

「だが、避けられないのなら防げばいいだけの話だ」

 

「何っ?!」

 

 

 まるで指揮者のように上げた両手に応えて木造のはずの床から飛び出したのは、頑丈な石造りの幾本もの柱。

 天井まで届く石の柱は一体どうやって隠してあったのか、一瞬のうちに現れてヴィドヘルツルの目の前に迫り来ていた魔弾五つ全てを寸前で防ぎ止める。

 完全に防げた、というわけではないだろう。あくまで石で出来た柱には俺の放った魔弾がめり込み、今にも折れてしまいそうなくらいに罅が入っている。

 しかしそれでも、『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』がヤツに届かなかったのは事実。故に、結果としてヴィドヘルツルの呼び出した柱は俺の攻撃を“完全に防げた”のだ。

 

 

「‥‥『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』か。中距離戦闘用の遠隔操作型魔術礼装。人形師、蒼崎橙子によって作られた鉱石魔術の一種。

 成る程、この目で直に確かめるのは初めてだが素晴らしい出来映えの礼装だな。前回は鏡面界越しだったから全てを確かめられたわけではない故に‥‥。そう、前回は、な」

 

「その前回の一回の戦闘で、この礼装の特性を見切っていたっていうのか?!」

 

「別段、不思議なことではあるまい? 貴様とてこの数分の間に私の大魔術式の正体を見破ったのだからな‥‥」

 

 

 飛び出してきていた石柱が、ギリギリと音を立てて床の中へと戻っていく。

 不思議にも床を突き破った跡は消えていた。まるで破られた板が勝手に互いにくっついたように。もしくは時間が逆回しされたように。

 ‥‥当然、オカルトの類じゃない。おそらくは城の全てが“あるべき形”に戻るように仕組まれているんだろう。固定ともまた違う、これまたありふれていながら特殊な概念を用いた結界の一種だ。

 

 

「ほら、また見破った。たったこれだけの現象を目にしただけで、私の城の仕掛けを見破ったろう?」

 

「そんなの、俺じゃなくても出来る。遠坂嬢やルヴィアなら城に入る前からこういうことを想定して準備しておくことだろうさ」

 

「君は自分を過小評価し過ぎだよ、蒼崎紫遙。君は十分に特異な存在だ、そうだろう?

 別の世界から、上位世界からやって来たということを抜きにしても、君は特異な魔術師だ。誰よりも魔術師らしくあろうとして、そして魔術師らしくない。だというのに、君は結局のところ誰よりも魔術師らしいのだ。

 君が望む魔術師としての在り方は、君に合わない。ふむ、君は結局のところ一般人に過ぎないのだよ、元々は。だというのに君はそれを目指し、そしてその過程を経て結果的に君は魔術師として完成している」

 

「‥‥‥はぁ?」

 

「その人物が望む在り方が、その人物に相応しい在り方とは限らない。君はその矛盾を端的に表しているよ、フフフフフフフフフフ‥‥。

 自分の成りたい自分と現在の自分に、齟齬を感じて悩むのは当然の在り方だ。しかしね、その過程こそがその人物に相応しい在り方というものへの道になっているのかもしれない。ふむ、人生とは複雑怪奇なものであるな、蒼崎紫遙よ?」

 

「‥‥俺が魔術師じゃないって、言いたいのか?」

 

「やれやれ、人の話を聞かないのは君の方じゃないのかね? 私は君を、誰よりも魔術師らしいと評した気がするのだが?

 繰り返し言うが、君の目指す魔術師としての在り方は、君には似合わないのだよ。よく考えてみたまえ、本当の魔術師ならわざわざ私のところへやって来てまで決闘を挑んだりはしない。

 いや、正確に言おう。現代の魔術師ならばそんなことはしないのだよ。いくら自分の秘密を奪われたからといって、何故わざわざ自分を危険に晒す必要がある? 他にも手段は色々あるのに。‥‥魔術協会に頼る、とかな」

 

「‥‥‥‥」

 

「君の在り方は、魔術師というよりは英雄のようだな。しかし君は魔術師だ、君は英雄になどなれはしない」

 

 

 床が大きく揺れる。断続的に、継続的に、まるで震度7の地震から来る予震のように。

 城の中が、一つの生物のようだ。ヴィドヘルツルを脳にして、全体が一つの生き物として動いている。流石は稀代の魔術師の工房、居城といったところだろうか。人外魔境度合いも並ではない。

 俺の周りにいる全てが俺に敵対している。壁も、天井も、床も、兵士以外の何もかもが。震え上がる程に恐ろしく、怖じ気づいてしまう程に圧倒的な脅威。

 

 

「英雄のような、魔術師。いいじゃないか、素晴らしい。私は好きだよ、そういう在り方はね」

 

「‥‥‥‥」

 

「完全なものを、目指していた。それは今も同じで、しかし同時にこうも思うのだよ。

 もしや不完全でありながら完全であることを目指している姿こそが、最も完成された姿なのかもしれない、とな。まぁ戯れ言だがね。クク、いやいや、思考を巡らせるのも中々に面白いものだ」

 

Samiel! (ザミエル!)

 

「おっと、猛々しいな。危ないじゃないか」

 

「殺すつもりなんだよ、この脳天花咲魔術師[《のうてんはなさかまじゅつし》がぁっ!!」

 

 

 防がれた後、大きく旋回させていた『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を怒りに任せてサイドからヴィドヘルツルに放つ。‥‥そして当然のことながら、今度は壁から出てきた石柱に阻まれた。

 あの石柱、どうやら先程感じた気配と同じく、この城の中なら何処からでも出せるらしい。ただでさえ『メモリー』という最上級の儀式を城自体に仕掛けておきながら、もう一つの大魔術式を敷く‥‥? 今になって、どうにも引っかかる。

 

 

「敵と対する際に十分以上に知恵を回すのは君だけではないぞ、ふむ。確かに直接目にしたわけではないが、君が弓兵を相手に鏡面界であの魔術礼装を使っていたのは知っている。そしてその、運用方法などもな。

 分かっているぞ、君の魔術礼装の欠点は。一つ、有効な攻撃速度を得るためには加速距離、ないしは旋回半径が必要なこと。二つ、その特性上狭い場所では使えないこと。三つ、ほぼ純粋な物理攻撃、物理衝撃ゆえに防御が堅い相手には通用しないこと。

 だからこそ対策を取るのは簡単だ。‥‥このように、それなりの硬度の障害物を複数用意してやればいい。たとえ一つでは完全に防ぐことが出来なくとも、進路を遮るのなら十分に過ぎる」

 

「やれやれ、まさか一回の戦闘で見破られるとは思わなかったぞ畜生め‥‥! エミヤだって一回じゃ見破れないだろうに、信じられないな全く!」

 

「お褒め頂き光栄だ。さぁどうする? まずは初級編といったところだが、ここで根を上げるかね?」

 

「冗談抜かせ! こんな簡単に戦争が終わってたまるものかよ!」

 

 

 防がれた全ての魔弾を、単純に一直線ではなく、途中で妨害されないように複雑に絡ませた軌道で自分の周囲へと戻した。

 高速で俺の周りを回転する魔弾は先程まで雲霞の如く犇めいていた兵士達はもとより、物理的な現象であればどんなものでも防いでくれるはずだ。

 しかしその一方で‥‥ヴィドヘルツルを打倒するには大きな障害が立ちはだかっているのも、また同じ。

 

 

「‥‥クソ。啖呵切ったはいいけど、どうしたもんか」

 

 

 ありとあらゆる場所、それこそ壁や床、天井、階段、どこであろうと飛び出してくる石柱。

 確かに一本なら七つの魔弾全てを突っ込ませて、粉砕することも可能だ。橙子姉の作った礼装は、いくらへっぽこの俺が操っているとはいえ生半可な代物じゃない。

 でも一つの石柱を砕けば、それだけ魔弾が持った運動エネルギーは失われてしまう。十分な物理衝撃を伴った魔弾は純粋な魔力障壁などでは防ぎきれない性質を持っているけど、失速した攻撃ならヤツでも安全に防ぎきれるだろう。

 

 

「いや、諦めちゃいられない。いくらココがヤツの腸の中だっていっても、つけいる隙はまだあるはずだ!」

 

 

 ヤツがいるのは、階段の上。

 階段の広さは俺が二人ぐらい横に並んで寝そべることが出来るぐらいで、ヤツが立った踊り場からは二股に別れて上の階へと階段が続いている。

 つまりここからは幾つかのヒントが得られるのだ。一つ、ヤツは後退して避けることは出来ない。二つ、ヤツが左右に逃げようとすれば、そこは上り階段だからそれなりのタイムロスがあるだろう。

 ならばそこに、そこにこそつけいる隙がある。

 

 

「Der Holle Rache kocht in meinem Herzen,《地獄の復讐にこの胸は燃え、》

 Tod und Verzweitflung flammet um mich her!《死と絶望の焔が吾が身を焼き尽くす!》」

 

「ふむ‥‥?」

 

「Dorch Berg und Tal,durch Schlund und Schacht,《山と谷を通り、淵と穴を通り》

 Durch Tau und Wolken,Sturm und Nacht,《露と雲を通り、嵐と夜を通り》」

 

 

 俺の周りを回転する七つの魔弾の速度が、加速度的に速くなっていく。

 疎らに覆うはずの軌道は、あまりの速さに完全に俺を覆い隠してしまい、風を斬る音は俺の小声の詠唱もかき消した。

 回る、回る、魔弾が回る。回るごとにその速度はグングンと増し、やがては大きな球体のくせに目に留まらないぐらいの速さにまで。

 

 

「Durch Hohle,Sumpf und Erdenkluft,《洞窟と沼の大地の割れ目を通り》

 Durch Feuer,Erde,See und Luft!《火と大地と海と空を通り!》」

 

 

 まずは小手調べ、十分に加速をつけた魔弾での攻撃による突破を試す。

 ヴィドヘルツルの言葉を、目の前で見せつけられた対抗策を無視しているわけではない。ただ、試せるものは全て試すというだけだ。

 狙うのは一点突破、一カ所に七つの魔弾全てをぶつけて、石柱による防御を突破してみせる。

 たとえ失敗しても失敗したという結果が残るだけだ。それに、これはあくまで最初の一手であって、手は他にもちゃんと用意してあるのだから。

 

 

「Das wilde Heer!《来るぞ、魔王の軍勢だ!》」

 

「ハ、成る程こいつは凄い!」

 

 

 回転運動をしていた魔弾達が一気に螺旋を描くように飛び上がり、その運動エネルギーを出来る限り消耗しないように、かつ速度を殺さないように軌道を曲げて、階段の上に敢然と立ちつくすヴィドヘルツルへと向かう。

 その速度たるや、真横を新幹線が通り過ぎていると見紛うぐらいだろう。正確にキロメートルアワーを計るわけにはいかないけど、少なくとも野球ボールをパスするような気軽さで放たれたものではない。

 

 

「‥‥が、残念、今回も落第だ。先程も言わなかったかね? ‥‥一本で足りないなら、二本、三本と増やすまでだ」

 

 

 ヴィドヘルツルの目の前から更に下、階段の一番最初の段から順番に背比べをするかのように石柱が飛び出してきた。

 電光石火とでも言うべき『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』に勝るとも劣らない神速。最初からそこに生えていたかのように、当然の如く出現した石柱は、同じく当然のように魔弾の脅威の前に砕かれていく。

 ‥‥しかし、一つ砕くごとに、二つ砕くごとに、目に見えて魔弾の速度は遅くなっていくのだ。七つの魔弾全てを使って、物理現象を味方につけて、それでも魔弾は味方につけたはずの物理現象の前に敗れ去る。

 全部で六つの石柱を砕いた魔弾は、最後の七つ目の石柱に全力で罅を入れて果てた。

 

 

「‥‥ふむ、少し冷や冷やしたぞ蒼崎紫遙。半分ぐらいで止まると思ったのだが、さてさて物理学を見誤ったか、君の執念を見誤ったか、とにかく最初の一手はこれで打ち止めだね。

 まさかこれで終わりというわけではあるまい? さぁ、次の手を打ちたまえよ」

 

「言われなくとも‥‥ッ!」

 

 

 崩れ去った石柱のところから、魔弾を回収して最初の軌道に戻す。

 確かに最初の一手は失敗に終わったけれど、まだ魔力は十分に残っているし手は尽きたわけじゃない。

 

 

「Schutze,der im Dunken wacht,《暗闇の中でなお起きている射手よ》

 Samiel,Samiel,hab acht!《ザーミエル、ザーミエル、聞き給え!》

 Steh mir bei in dieser Nacht!《今夜は吾が味方となり給え!》」

 

 

 座標を設定、方程式を設定。軌道に接する平面と曲面との交点をヴィドヘルツルが立っている位置に設定し、プログラムに変数を代入する。

 七つの魔弾の一つ一つに別々の方程式があり、予め設定していた座標系の中に現在の地形を当てはめれば、それでプログラムはこの場所に相応しいものへと変わるのだ。

 

 

「?!」

 

 

 疾る、疾る、縦横無尽に魔弾が疾る。

 まるで本当に魔王の加護があるように複雑な軌道を描き、予測不能な軌跡を辿り、先程の突貫には劣るにしても目にも留まらぬ速度で。

 

 

「Der wilde Jager,der wutend mich jagt,er nahtmer naht von Norden!《狩の魔王が怒り狂って吾《なんじ》を追いかけ、近づくぞ! 近づくぞ! 北から近づくぞ!》」

 

「ぬぅ‥‥ッ!」

 

 

 部屋の中、一面を使って張られた蜘蛛の巣のように。とても規則性など捉えられない複雑な動き方で魔弾はヴィドヘルツルの周りを駆けめぐっていた。

 決して触れるわけではなく、それでも目にも留まらぬ速さで疾り続ける魔弾は決してその軌道と攻撃のタイミングを悟らせることはない。

 

 

「Er nahtmer naht von Norden!《北から来るぞ!》」

 

「そこかぁッ!!」

 

 

 ヴィドヘルツルの肌を擦るようにして壁から出現した石柱が、辛くも上方から襲撃した魔弾の迎撃に成功する。

 複雑な軌道から、先が予測できない軌道から飛び出した魔弾。実は加速するタイミングの関係上あの周期でしか飛び出せないのだけれど、受ける当人にしてみれば、いつ飛び出るかなんて知ったことではないはずだ。

 

 

「ハハ、ハハハ、ハハハハハ! いやはや流石に今のは肝を冷やしたぞ?! だが忘れているようだな、蒼崎紫遙。ここは私の城だぞ?

 普通に知覚するのとはワケが違う。私の居城に侵入した異質な魔力を感知すれば、後出しでも何とかならんことはない。クク、ククククク‥‥」

 

 

 しかし超至近距離からの攻撃にもかかわらず、間一髪でヴィドヘルツルは弾いてみせた。

 確かにここはヤツの言葉通り、ヤツ自身の居城だ。主であるヤツなら、普通に魔術師が起こす魔術とは次元が違う自由度を誇るのは紛れもない事実。というよりも自明の理。

 ‥‥けれど、勿論そんなことは俺だって分かりきっている。そもそも考え得る限りの事態は既に予想しているのだ。

 

 

「ふむ、そうだな。お前も私も英雄ではないし、戦闘者でもない。戦況に応じて、その場で臨機応変に戦うなどという真似は不可能だ。

 ならばこそ、私達の戦いは用意していた策の競い合いになる。だから、さぁ、見せたまえ君の策を。その全てを私が用意した策によって打倒してみせよう!」

 

「自惚れやがって‥‥!」

 

「ふむ、自惚れと言えば自惚れなのかもしれん。しかしまぁ当然ではないかね? 君と私の間にある遥かに大きな実力差ぐらいは既に承知しているものだと思うが、ふむ。

 私も君と同じく、戦いを生業とするものではない。戦うという在り方を持った者ではない。‥‥しかし、それでも私と君には天地の間に等しき差がある。

 だから、私は上位者として君の挑戦を待ち受ける義務があるのだよ。同じく権利も、な」

 

「よし、成る程いい度胸だ。‥‥覚悟しろコノ野郎!」

 

 

 魔力を注ぎ込まれた魔弾が更に唸りを上げて速度を増す。プログラム自体は変わらないけど、速度と運動エネルギーはこのプログラムを維持する上限限界ギリギリだ。これ以上に速度を増すと自動的に軌道を外れて明後日の方向へと飛んでいってしまう。

 プログラムによって半自動的に今の軌道を維持しているとはいえ、軌道を把握しなければいけないから演算は常に行っている。負担をかけられた脳と魔術回路が、悲鳴を上げるのを無理矢理に押し殺した。

  

 

「Wie dieser Stab in meiner Hand,nie mehr sich schmickt mit frischem Grun.《この手に握るこの杖がもはや、決して新たな緑の芽吹きに飾られぬ如く》」

 

 

 タイミングを見極める。

 『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』に入力されているプログラムは、基本的に臨機応変なんて言葉とは無縁のものだ。あまり長い時間に渡るものはないからというのもあるけれど、目標と障害物を設定して発動すれば修正することは出来ない。

 あまりにも使い勝手が悪いと思うかもしれないけれど、逆に七つの魔弾を臨機応変に、自由自在に操ることの方が遥かに難しいのである。

 もちろん才能のある人間なら別だろうけど、残念ながら俺には才能がない。その場に合わせて魔弾の軌道を操るのではなく、その場に合わせて魔弾の軌道を選択する。それが俺の戦い方だ。

 それ以外に、俺が戦う手段はない。

 

 

「Kann aus der Hole heiBem Brand Erlosung nimmer der erbluhn!《地獄の熱き焔からの救いが、汝に花咲くことはない!》」

 

「何ッ! 鋭角な軌道だと?!」

 

 

 頭の中を駆けめぐっていた演算が、ベストなタイミングを弾き出す。

 全ての魔弾の軌道の周期がピタリと合った瞬間に、壁を弾いた七つの球体が一点へと突っ込んでいった。

 

 ヴィドヘルツルのしていた一つの勘違い。それは『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』が円、もしくは曲線の軌道しか取れないだろうという安易な憶測。

 確かにそれは間違いではない。けれど礼装に負担をかけないということを考慮しなければこそ、取れる軌道というものもある。

 

 

水流よ(ラゲズ)凍結せよ(イーサ)是乃ち吹雪となる(ハガラズ)!」

 

「くっ、ルーン石?! 解呪(レジスト)‥‥間に合わんかっ!」

 

 

 まるでピンボールかビリヤードのように反発係数を操る術式を使い、それなりの硬度と質量を持った物体と衝突して、速度を落とさずに軌道を変化させる。それが、俺の隠していた切り札の一つ。

 そして続いて宣言する、力を秘めた言葉。突風を伴った魔弾の軌道に乗せて放り投げたルーン石が『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』に先行してヴィドヘルツルの元に辿り着き、その二本の足を凍りに包んで、床へと磔にした。

 

 

「———つ、兵《つわもの》達の墓標よ、仮初めの主を守れッ!!」

 

 

 刹那の時間、の間だったろう。いくら神経を集中させていても、俺に知覚できるようなものではなかった。

 その僅かな瞬間、瞬きの間に床が割れ、幾本もの石柱が斜めに突き出して檻かシェルターのようにヴィドヘルツルを覆う。鮮血が舞ったように見えたのは、おそらくあまりに余裕のない発動に自分ギリギリの場所に出現させたからだろう。

 

 

「ク、クク、ククク、クククククク‥‥」

 

「———ッ?!」

 

 

 ほぼ完全に粉砕された石柱は、しかし無事に主を守りきった。

 崩れ落ちた岩の破片が欧州人らしい真っ白な肌を傷つけ、上品な仕立てのスーツを引き裂くけれど、しかし魔弾が衝突した程のダメージはないはずだ。

 ギリギリ間に合った、防御。一つでも当たれば魔術師であろうとも簡単に五体を砕かれ、臓腑を破られ、鮮血をぶちまける魔弾の一撃。それでもヤツは、無事とはいかずとも五体満足で立っている。

 

 

「‥‥なんとか、なんとか防ぎきれたか、君の渾身の一撃を! 素晴らしかったぞ、今の攻撃は。一瞬ではあったが、この私が心底から君に恐怖した!

 たった、たった一つの単純な盲点を見逃すだけで私が簡単に死に追いやられる寸前まで行くとは、まさか夢にも思わなかった! 戦闘とはかくも簡単で呆気ないものかよ、いやぁ素晴らしい!」

 

「‥‥‥‥」

 

「だがこれで終わりだ。これ以上の狼藉を許すわけにはいかん。やんちゃな子どもには、仕置きをしなければな。

 ———兵《つわもの》達の墓標よ、貫け」

 

 

 続けて天井と床の上下から細い石の槍が凄まじい速度で飛び出してきて、速度を失い、空中で同じように一瞬の間だけ静止していた『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を貫いた。

 『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』は物理攻撃を主眼とする礼装が故に、当然のように堅く壊れにくい性質を持っている。

 しかしそれも高速で回転しながら移動している時の話。静止している状態では、いくら球という壊れにくい形を持っていても、圧倒的な物理法則の前に破壊される。‥‥なにせそもそもが、複数の鉱石を組み合わせて作り上げたものだ。

 

 

「‥‥ふむ、頼りの礼装はこれで御釈迦だな。さぁどうする? 抵抗を続けるかね? 君に残されたのはその手に持った短刀と‥‥ルーン石。その程度か?

 あぁ、君とて、その身に宿した魔眼が私には殆ど役に立たないということぐらいは分かっているだろう? 私は黒い弓兵とはワケが違う。どのような魔眼であろうと、あの程度の出力ならば簡単に解呪(レジスト)する自信ぐらいはあるぞ」

 

「‥‥‥‥」

 

「ハハ、ハハハ、ハハハハハハッ!!!!」

 

 

 静まりかえった、広間。やけに上擦った、狂気と狂喜に彩られた声が玄関ホールに響いた。

 ヤツの声の他に聞こえるのは、負荷をかけすぎたがために頭の中で破鐘のように響き続ける頭痛の音と、同じく荒い自分の吐息。

 全ての手は尽くした。もはや今の俺にやることはない。出来ることは、ない。

 

 

「ハハハハハハハハ———ハハ、ハ、ハ‥‥ッ?!」

 

「‥‥‥‥あぁ、上手くいったか」

 

 

 高笑いを続けていたヴィドヘルツルの凶悪な笑顔が、凍り付く。

 ゆっくりと見開いた目を移した先は、ヤツの左腕。その先にある、ヤツの手。

 その更に先に、不自然に張り付いた一本の紐。

 

 

「これ、は‥‥まさか‥‥?!」

 

 

 否、それは紐ではない。

 深い緑色をしたそれは生きていた。ヴィドヘルツルの手にくっついた方とは逆の端をブラブラとゆっくり揺らし、細い躰をくねらせている。

 ヴィドヘルツルの視界を全て覆うように出現した石柱の隙を塗って、ヴィドヘルツルの知覚範囲が途切れた瞬間に素早く近寄った、俺の切り札。

 

 

「‥‥一端の魔術師なら、使い魔の一匹も持っているべきだ。そう思わないか? コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

「君の‥‥使い魔‥‥?!」

 

 

 一匹の、蛇。

 体長は僅かに十五㎝という細く小さな蛇が、ヴィドヘルツルの左手の指に噛み付いていた。

 魔術師が動物や人形、あるいは何か魔術師にとって有益なものに自身の一部、乃ち血液や髪の毛、眼球、あるいは魔力を付加して生み出し、使役する存在。

 遠坂嬢ならば宝石細工に仮初めの命を与え、真祖の吸血姫なら黒猫を夢魔として用い、そして俺は一匹の蛇を研究の一環として飼っていた。

 

 

「残念ながら大した能力は持ってない。そもそも、俺のキャパシティじゃ高級な使い魔なんてものを作ると自分の方がお粗末になってしまう。

 そいつに出来るのは視覚の共有や、主である俺との間での簡単な意思疎通。‥‥そして一つだけ。その牙にインド象でも数十秒で息絶える強力な猛毒を持っていること、ぐらいかな」

 

「ぬ‥‥う‥‥!」

 

 

 『蛇の王(バジリスク)』。

 俺は自分の使い魔であるこの蛇に、そう名前を付けた。巨大な体躯も、石化の魔眼も持っていないけれど、それでもこいつは俺にとって非常に有益な存在であった。

 用いるのは大概が狭いところの偵察や、あるいは魔眼の実験対象。元々が死骸であったから、多少無茶をしても魔力を注いで休息させれば元に戻るので都合がよい。

 

 何より一つだけ、折角の使い魔だからと付与した性質。

 柔らかい人間の肌ぐらいなら何とか傷を付けることが可能な程度の小さな牙に、一種類だけ毒を注入することが出来る。

 当たり前のように実験室でも作ることが出来る程度も様々な神経性の麻痺毒矢、それこそ魔術でもないと精製できないような特殊な毒まで何でも、とにかく一種類だけ。

 そして今『蛇の王(バジリスク)』に付与した毒は俺が宣言した通り、インド象だって数十秒でぽっくり息を引き取ってしまう超強力な猛毒だ。

 ‥‥毒の精製自体は知人に頼んでいるから難しくはない。実際、こいつを運用するのはそこまで難しいことじゃないのだ。今まで、総力を挙げて戦うようなことがなかっただけで。

 

 

「現代に生きる本物の魔女が精製した毒だ。専門家でもなければ、解毒《レジスト》なんて出来はしない。‥‥化かし合いは俺の勝ちだ、コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

「‥‥‥‥ッ!」

 

 

 左腕の指の先から真っ白い肌がドス黒い紫色に染まっていく。あまりにも分かりやすい変化は、およそ人間に使うようなものではない、あまりにも強力な猛毒に冒されているから。

 魔術回路と魔術刻印を持った魔術師という生き物は、普通の人間に比べて非常に死にづらい頑丈な身体を持っている。

 例えば毒や病気なんてものにも、在る程度は耐性があるし、常識的に考えれば命の危険があるような怪我だって何とか命を繋ぎ留めていられる。それは、魔術師の持った魔術師としての特性が、魔術師を生かそうとするからだ。

 

 しかしそれも、普通の常識の範囲内ならの話。

 『蛇の王(バジリスク)』が宿した毒は普通の毒なんてものではない。『蛇の王(バジリスク)』自体に特殊な能力は無いものの、その毒自体は俺の知人の、『魔女の秘薬(ウィッチクラフト)』においてそれなり以上の腕前を持った一流の魔女によって作られたものだ。

 いくらヴィドヘルツルが天才だとしても、その筋の専門家というわけではない。そして只でさえ廃れた呪術である『魔女の秘薬(ウィッチクラフト)』が相手なら、解毒なんてものもそうそう簡単にこなせるわけもない。

 

 

「‥‥そうだな、お前の敗因は、俺という魔術師を単品で見ていたからだよ。

 『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』は橙子姉が作った礼装だ。ルーン石は時計塔の教授が、橙子姉が、バゼットが教えてくれた技術だ。‥‥その毒は無口で無愛想だけど、友達思いな友人が用意してくれたものだ。ここまで来るのに手助けしてくれたヤツだって、何人もいる。

 俺一人は大した魔術師じゃないよ。それはどうしようもない事実だ。でも、悪いけど俺は一人っきりじゃないんでね」

 

 

 自分一人で何でも出来る、なんて自惚れはしない。

 衛宮や、遠坂嬢とは違うのだ。自分一人で何かを見つけて、何かに向かって努力して、そりゃ助けだって借りながらも結局は自分で何とかしてしまうような、そういう英雄じゃないのだ、俺は。

 何処をどう見回しても、自分の力だけで手に入れられたものなんて一つもない。誰かに導かれて、誰かに助けられて、誰かに差し出されて、俺の全ては構成されている。

 それは決して、借り物なんて無様な言葉で説明するようなものじゃない。借りたのではなく、貰った、受け継いだものなんだ。俺は色んな人から色んなものを受け継いで生きてきた。

 

 

「さて、死体は灰も残さず焼いてやる。‥‥城ごとな。後始末は心配するな」

 

「‥‥‥‥!」

 

 

 ポーチから焔を司るルーン石を幾つか取り出し、魔力を込めて発動の準備を調える。

 左手の指の先から広がっていった紫色は、既に肘を超えて二の腕、もはや間を置かず肩にまで届きそうな勢いだ。

 あの紫色が体幹にある臓器にまで届けば手遅れなまでに毒が回る。強力な解毒剤があれば話は別かもしれないけれど、あの強力な毒が身体にまで回ってしまえば解毒剤を飲んだところで間に合わない。

 

 

「なる‥‥ほど‥‥いやはや、参った。まさか、こういう手段に出るとは、思わなかったよ、蒼崎紫遙‥‥!

 毒、か‥‥。確かに毒物や薬品といったものは、どちらかといえば魔女達の領分であることは知っていたが‥‥普通の魔術師ならば忌避するようなものを躊躇なく使うとは、恐れ入った‥‥!」

 

 

 既にヴィドヘルツルの腕は二の腕までの殆どがドス黒く、傍目にも分かる程の危ない紫色に染まっていた。

 どれほどまでに優秀な魔術師でも、どれほどまでに強い英雄でも、某かの特殊な能力を保有していない限りは等しく無力。秀麗な顔は歪み、額には脂汗が滲んでいるのが分かる。

 

 

「しかし、しかし、やはり甘い‥‥! 心が通じ合ったと思っていたのだが、残念ながら君は君にかける私のこの思いを、未だに理解してくれていないようだ———ッ!」

 

「何ッ?!」

 

 

 ヴィドヘルツルの叫び声と共に床に亀裂が入り、今までよりも格段に鋭い刃のような断面を晒した石柱が飛び出して来た。

 それは俺を倒すためではなく、そして俺の攻撃を防ぐためでもない。

 石柱が出現したのは主であるヴィドヘルツルの頬を擦るような至近距離。いや、実際擦っている。そしてもっと重要なものを擦って、石柱は天井に突き刺さった後に自然と崩壊した。

 

 

「お前‥‥腕を‥‥!」

 

 

 擦ったのは、毒に侵されたヴィドヘルツルの左腕。

 肩口から一気に削ぎ取られた腕が宙に舞い、毒に置かされて脆くなっていたのか、地面に落ちた衝撃でぐずぐずに崩れ落ちた。

 魔術回路か魔術刻印が仕事をしたのだろう。肩からの出血は最初こそ噴水のような勢いであったけれどすぐにぽたりぽたりという静かな滴りへと変わる。

 

 一切の躊躇を見せない、腕を排除するという決断。

 石柱なんてもので切断された腕の切断面は荒く、雑で、とてもじゃないがくっつけることなんて出来ないだろうし、そもそも魔女の毒に冒されて細胞が破壊され尽くしてしまった腕は二度と再生することも適わないだろう。

 繋がることも、再生することもない左腕。毒が回りきるまでに時間も無かっただろうに、よくも躊躇無く、捨てられたものだ‥‥!

 

 

「こうでもしなければ‥‥毒が、回ってしまうだろう‥‥?

 フフ、君に私の思いを、理解してもらうためならば、腕の一本ぐらいならば安いものだ! ハハハ、しかし流石にこれは堪える、な‥‥!

 私達はもう十分にわかり合えたはずだ。そうは思わんかね? ‥‥そろそろ———」

 

 

 一瞬で、まるで立っていた地面が実は水面であったかのように、ヴィドヘルツルの姿が床へと潜る。

 言葉と言葉の間にする息継ぎの間ほどもない僅かな瞬間。思わず硬直した俺の背後から、ヴィドヘルツルの言葉の続きが聞こえた。

 

 

「———終わりにしよう。戯れも良いが、そろそろ本懐を遂げる時だ。

 焦ることはないだろうが私はいい加減に研究に移りたい。君と私との、新たな輝ける未来への出発だ! ‥‥さぁ、まずは眠りたまえ」

 

「ぐ———ッ?!」

 

 

 肩に手を置かれる感覚に、背筋のみならず全身に怖気が走る。

 ヴィドヘルツルの全身が床に潜ったのと完全に同時に背後に現れた、この城の主。いくら自分の領土とはいえ完全に近い空間転移。

 たったそれだけのことで、今までだって十分に理解していたはずの実力の差というものを改めて理解させられる。互いに戦闘者ではなくとも、それでも魔術師としての力量があり、それは戦闘をこなす上で当然に重要な要素の一つだ。

 自分が持っているのが“ひのきの棒”なら、ヤツが持っているのは“鋼の剣”。対して差がないように見えても、この二つの間の差はやはり圧倒的である。

 

 

「眠れ、時計塔の魔術師よ。‥‥目が覚めたら君は蒼崎紫遙ではなく、■■■■に戻る」

 

「くそ‥‥ッ、こんな、こんなところで、やられ、て‥‥!」

 

 

 目の前を横切った白い掌。その掌に奪われるかのように、視界が真っ白に反転していく。

 視界が奪われ、意識まで一緒に奪われ、俺の意思とは無関係に身体が前へと傾いでいった。床に顔面が衝突しないように、すぐに振り返って短刀で首根っこを薙ぎ払えるようにと足に力を入れようとするけれど、全く力が入らない。

 雲の中で泳いでいるかのように、何もかもが不確かで俺の周りに存在している。

  

 そう、何もかもが、白い暗闇の中に沈んでいく。身体も、意識も、意思も、なにもかも。

 頭の中で暗闇の先に手を伸ばして何とか意識を自分の制御の内に取り戻そうとするけれど、心の内でも自分自身が自分の思う通りにならず、ただ力が抜けていく。

 

 

「たま‥‥る、か———」

 

「さらばだ、蒼崎紫遙。そしてこんにちわ、■■■■‥‥」

 

 

 最後に聞こえたのは、どこか懐かしい誰かの名前。

 そして何処までも沈んでいく意識の代わりに浮上していった、自分でありながら自分でない、けれどやっぱり自分のものであるはずの、久しぶりに頭が切り替わるような感覚の、誰かの意識であった。

 

 

 

 

 73th act Fin.

 

 

 



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第七十三話 『伽藍洞の訪問』

いつのまにやらお気に入り1000突破。皆様応援ありがとうございます!
改訂版も含め、執筆は頑張っております!


 

 

 

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

 

「‥‥ん、茹で具合はこんなもんか。やっぱり微妙に日本の野菜とは味が違うな。これは少しレシピを変更しないとダメかもしれないなぁ」

 

 

 じっくり時間をかけて煮込み続けたスープの中の、野菜の欠片を一つお玉の上に乗せ、茹で具合を確認する。タイミングを見計らって投入した野菜は、柔らか過ぎず、固過ぎず、丁度良い茹で加減だった。

 実はこの野菜の茹で加減というのが一番スープにおいて重要と言っても過言じゃないのだ。柔らかすぎていれば口に入れた途端に崩れてしまって食感が残念だし、固ければ当然食べづらい。

 食感を保ちながら、丁度良い柔らかさを狙う。火加減と茹で時間の見極めは、どちらかというと俺よりも桜の方が上手い。まぁ洋食に関しては何時の間にやら抜かれてしまったけど、和食ならまだ負けるつもりはないからな。

 

 

「肉の方は‥‥うん、まぁこっちもこんなもんだろ。やっぱり安い肉だと煮込めるだけ煮込んでもたかが知れてるのが、な‥‥」

 

 

 我が家のあまりよろしくない財政状況では、冬木にいた時のように高めの肉を買うわけにはいかない。

 冬木の時は、やっぱり食事っていうのがコミュニケーションの一つとして重要な位置を占めていたし、何より馴染みの肉屋があったからそれなりの値段の食材を買っていたんだけど、倫敦だと色々と事情が違う。

 まず遠坂の魔術に使う宝石の数が、普通に魔術師していた冬木の頃とは段違いだ。学生だから研究も増えるし、昔よりも色んな種類を揃えるようになったらしい。

 遠坂の宝石っていうのは種類ごとに込められる魔力とか術式とかの向き不向きがあるそうだ。このあたりは宝石にも花言葉みたいなものがあるってことぐらいは知ってるし、そのぐらいは想像出来るけど‥‥実際はもっと大変なんだとか。

 俺なんて魔術の修練に必要なのは、この身一つと精々が資料ぐらいあれば十分だから遠坂の大変さが身に染みて分かるってわけじゃないけど。まぁそれでも当然のこととして助力は惜しまないつもりだ。

 

 

「まぁ結局のところ俺のやることはあんまり変わってないのかもな。セイバーが手伝ってくれてるとはいえ、勝手が違うから家事も今まで通りってわけにもいかないし、忙しいよなぁ‥‥」

 

 

 倫敦に来てから、そりゃ色々なことに変化はあった。ただでさえ不安な英語を抱えたまま別の国に行くなんてことが、なんでもないことなわけがない。

 それでも個々人の立ち位置ってのは早々変わらない。なんていうか、一年ちょっとの間に衛宮邸でのそれぞれの立ち位置は完全に固定されちまっていた。

 で、やっぱり俺の立ち位置っていうのはこの通り。基本的にはキッチンが俺の戦場だ。

 正確に言うとキッチン周り、というよりも食事周りって言うべきか。たまにはセイバーにも頼むけど、やっぱり食材の買い出しとかも本当なら自分自身で行って、この目で食材を確かめたい。

 最近じゃ本当に忙しくて、セイバーに買い物任せっきりだもんなぁ‥‥。どうも八百屋のおっちゃんとかセイバーと俺が夫婦だとか思ってるみたいだし。困ったもんだよ。

 

 

「‥‥って、言ってる端から何やってるんだ、セイバー?」

 

「シロウ、このスープには味がありませんが、どうしたのですか?」

 

「いや、まだ味付ける前だから。まったく、あれほどつまみ食いするなって言っただろ? ほら、昼に作ったケーキでも食べててくれよ」

 

「ふむ、わかりました。昼のチーズケーキはとても美味でしたからね。いくら食べても飽きが来ない。流石はシロウです」

 

 

 昼に食後のデザートとして作ったチーズケーキを食べるように言うと、セイバーは合点がいったのか勝手に冷蔵庫の中を漁って、皿に数切れ乗ったチーズケーキを探り当てた。

 濃い黄色のソレは正統派のもので、最近の流行であるクリームチーズケーキとは違う野暮ったいものだけど、俺はそういう菓子の方が好みだな。

 隣のアパートに住んでる、この辺りの町内会長みたいなことをやってるハドソンさんも同じように、素朴で美味しいお菓子を作るのが得意で、よくレシピを教わる。

 すごく若そうに見えるけど、あれで既婚者だそうだ。旦那さんはもう亡くなられたらしいけど、毎日元気に挨拶をしてくれる姿からはとてもそんな風には見えない。

  

 

「ふもっふ、もっふ、もっふもっふ」

 

「セイバー、頼むから口の中のものを全部片付けてから喋ってくれ。それじゃ何言ってるのか分からないぞ」

 

「‥‥ごくん、失礼しました。そういえば凜はどうしたのですか? 今日は‥‥というよりも、ここ暫くは講義が入っていないと昨日の夕食で話していましたが」

 

 

 なにやら喉に詰まらせたらしいセイバーに冷蔵庫の中から牛乳を取りだし、グラスに注いで手渡してやる。

 普段の食事ではの、礼儀正しく綺麗ながらもすごいスピードで食べ続けている姿からは想像できないけれど、セイバーは意外とこういうポカをやらかすことが多い。

 そそっかしいというわけじゃないし、大事な場所で大きなポカをやらかすことはないけれど、生活感というか、セイバーも生きている人間なんだなと思わせるこういう素振りは、家族の一員であるという実感が湧く。

 

 

「そういえば今日は何で出かけたんだ‥‥? 確かに遠坂、今日は講義無いって言ってたよな?

 まぁアイツは外食とか好きじゃないし、何か特別な用事があったら携帯から電話ぐらいできるだろ、流石に。この前ちゃんと使い方教えたし」

 

「英霊でありサーヴァントである私よりも現代機器の扱いに精通していないのは、むしろ凜こそが英霊だからなのではないかと勘ぐってしまいますね。まったく、一体どうすればボタンの位置と意味を覚えてくれるというのですか」

 

「ああ、でもそういえば紫遙も機械はあんまり使わないっていってたな。魔術師の伝統ってヤツだってことは知ってるんだけど‥‥。それでも必要最低限の機械の使い方ぐらい知っといてほしいよな。遠坂だけじゃなくて俺達まで困るし」

 

 

 未だに携帯の持つ機能の内、電話と電話帳と、ついでにカメラぐらいしか使いこなせていない遠坂。しかもカメラは写真を取るだけでフォルダ分けも出来ないし、電話は本当にかけることと取ることしか出来ない。

 まぁ最低限それぐらい知っていれば何とか連絡はつくんだけど、マナーモードとか機内モードとか運転モードとか全然分からないから、うっかり大事な時に着信音が鳴ったりしたら焦って電源を切ってしまうのは痛いよなぁ‥‥。

 あれのせいで根本から電話がかからなかったことが何度か。そのたびに教えるんだけど、本人のやる気はさておき頑なに覚えられないのは何故だろうか。

 もはや何かの呪いでもかかってるんじゃないかとすら思っちゃうよな。もう、どうしたらいいもんか遠坂の機械嫌いは。

 

 

「もしかしたら時計塔に行っているのかもしれませんね。ほら、ショーは相変わらず、あんな調子ですから‥‥」

 

「そう‥‥だな‥‥。紫遙のヤツも何がショックだったのやら、まさか引きこもって出てこないなんて‥‥。遠坂とかルヴィアが散々見に行ってるけど音沙汰無しだとか」

 

「あれほどに硬度な防御術式を張った扉では、普通の魔術師が手を出すのは不可能ですからね。私の対魔力も自分自身にしか作用しませんし、扉の管理人であるショーが自分の意思で出てくる以外には方法がありませんね」

 

 

 紫遙の工房の入り口に施された術式は、秩序の沼とかいう高等魔術らしい。なんでもその中に取り込まれたが最後、魔術も何も使えずに沈んでいくしかないとかいう凶悪な代物で、こと魔術師が相手なら天敵以外の何者でもないんだとか。

 そんな危険な代物を扉に設置したのは例の上のお義姉さんだそうで、既に面識のある今となっては思わず首を縦に振って納得してしまう限りだ。

 あの蛇みたいに狡猾な目。それでいながら今まで会ったことのある誰よりも理知的な色をたたえ、実力の差というものを歴然と知らしめていた。

 

 

「‥‥結局、あのお義姉さんが説得に言っても音沙汰無しのままだしな。セイバーはあの後どうなったと思う?」

 

「さて、こと人と人との関係というものは他者の理解の及ぶところではありませんからね。私もショーが義姉上と如何なる会話を交わしたかというのは分かりません。

 ‥‥ですが、私が思うにショーにとって最上級の存在は、やはり義姉上でしょう。であればショーが義姉上から何らかのアプローチをもらって、変化がないはずはないと思います」

 

「そうか‥‥。でも、その変化ってやつが分からないとこっちとしても心配でしょうがないんだけどな」

 

「それはそうでしょう、しかし心配自体は、決して損などするものではないと思いますよ、私は。もちろん私の心配も無駄になることはない‥‥。もちろん心配の結果が悪い方向に成就した、というわけではありませんよ?」

 

「って、そっちは普通に考えてマズイだろセイバー‥‥」

 

 

 喋りながらかき混ぜすぎたのか、お玉の先で芋が崩れた。ちょっと煮すぎたかもしれない。セイバーと喋っている内に絶妙な煮加減である時間を通り過ぎてしまったらしい。

 まぁこの程度の煮崩れなら問題じゃないか。あとはビーフシチューにするから、この前に作っておいたルーを溶かして終わりかな。

 

 

「‥‥本当に、どうしちまったのかな、紫遙は‥‥」

 

 

 ルーを溶かしたシチューをお玉でかき混ぜながら、考える。一体どうすれば紫遙は元の調子を取り戻してくれるだろうか。

 実際、普段から俺達は紫遙と一緒にいるわけじゃない。一緒の学科にいる遠坂やルヴィアは講義で会うこともあるだろうけど、俺は学科も何もかも違うからそこまで会うこともないのだ。

 アイツは基本的に講義以外では工房に籠もってることが多いらしいし、アイツがうろついてるところってあまりにも時計塔の中でも深すぎて俺の活動半径とは被らないし。

 

 

「‥‥おや、ドアベルが鳴りましたね」

 

「来客か? ハドソンさんかな、こんな時間にウチ訪ねて来る人って言ったら」

 

 

 やけに古風なベルの音が、小さいながらも確かな響きとして台所の方まで聞こえてきた。

 この家はやけに広くて、特に台所が無駄に奥の方にあるからこの辺まで来るとベルの音が非常に小さく聞こえる。こればかりは家の構造上仕方がない。

 

 

「またお菓子でも焼いて持ってきてくれたのでしょうか‥‥?」

 

「それはセイバーの願望だろ‥‥」

 

 

 手を洗い、タオルで拭ってエプロンを取り、玄関へと向かう。

 台所から見て正面に続いているダイニングとリビングの、左横にある廊下の先に玄関はある。家の大きさに比してやけに狭苦しく薄暗い廊下を抜けて、俺はサンダルを突っかけて古風なドアノブに手をかけた。

 

 

「はい、今出ます‥‥って、あれ?」

 

「お久しぶりですね、衛宮さん。冬木でお会いして以来だから一週間ぐらいしか経っていないけれど、その節はお世話になりました」

 

「黒桐‥‥さん‥‥?」

 

「あの、先輩、突然おしかけてごめんなさい。最初に連絡しようと思ったんですけど、電話番号のメモを衛宮の家に置き忘れたまま来てしまって‥‥。携帯も使えないし、本当にごめんなさい」

 

「桜まで、一体どうしたんだ? そりゃ突然来たのは驚いたけど、それ自体は別に問題ないよ。桜たちが来てくれるんなら大歓迎だ。

 ‥‥でも、ホントにどうしたんだよ二人とも。もしかして何か忘れ物でもしたのか?」

 

 

 扉を開けた先に立っていたのは、つい先日まで冬木で一緒にいた二人の知人。

 二人とも同じぐらいの髪の長さで、片方は黒、片方はすみれ色。妹分の方は髪の一房をリボンでしばっている。

 見慣れた後輩と、つい最近知り合ったその姉弟子。以前に倫敦まで来ていたことがあったけれど、時計塔への進学はまだまだ先のはずで、何故ここにいるのかさっぱり分からない。

 

 

「えぇ、あの‥‥実は‥‥」

 

「まぁ待って下さいシロウ、立ち話というのもどうかと思います。リビングへと移ってはどうでしょうか?」

 

「そうだな、せっかくのお客様だけど‥‥もし良かったらお茶よりも夕食にしないか? もうそろそろシチューが出来るところなんだよ」

 

 

 理由は分からないけど、とにかく遠路はるばる俺達を訪ねてくれた知人を無碍に扱うわけにはいかない。

 すぐさま俺は踵を返すと、とりあえず二人分のスリッパを玄関から入ってすぐの廊下の床へと放る。来客用のスリッパはあまり数が多くないけど、この古い屋敷にスリッパなしで上げるのは流石にどうかと思う。

 ‥‥あぁ、そういえば外国であるにもかかわらず、この家では土足厳禁なんだ。こればっかりは日本人の性だから仕方がない。もちろん他の家では、郷に入っては郷に従えを実践するけどな。

 

 

「あら、折角スリッパを出してくれて悪いんですけど、実は二人じゃないんですよ衛宮さん」

 

「え? 二人の他にも誰かいるのか?」

 

「はい。もしよければ連れも‥‥上がらせていただいてもよろしいですか?」

 

「勿論。遠慮しないで入ってくれよ!」

 

 

 黒桐さんの言葉に首を傾げると、彼女が身体をずらしてくれて扉の向こうに立っていた連れの姿が視界に入る。

 連れは何と、予想に反して三人という大所帯だった。

 一人は上着もズボンも靴もシャツも、上から下まで真っ黒な男の人。全体的に短い髪の毛なのに、何故か前髪だけ長くて左目を覆っている。

 すごく優しそうな顔立ちをしているのに、まるで空気のように儚げな印象も受ける。それでいながらいざという時には頼りにしてみようという気すら湧く、不思議な人だ。

 

 

「藤乃ちゃん大丈夫? 調子悪くない? ほら、先に上がらせてもらいなよ」

 

「あ、ありがとうございます、先輩‥‥」

 

 

 もう一人はまるで教会のシスターが着るかのようなカソックを纏った少女。俺と同じぐらいの年頃で、腰まで届く長い黒髪が目を惹く。

 ‥‥どこはかとなく、桜に似ている。容姿とかじゃなくて、全体的な雰囲気が。

 それでも引っ込み思案のようでいて実は結構積極的な姿勢を持つ桜と違って、この子はどこまでも消極的に見える。いや、俺の一方的な主観に過ぎないから実際にどんな子だかは話してみないと分からないんだけど。

 

 

「それじゃあすいません、お邪魔します。ちょっと式、土足で上がらないでよ。わざわざスリッパ出されてるじゃない!」

 

「‥‥外国では土足で上がるんじゃなかったのか?」

 

「この家ではそれがルールなの! ていうか衛宮さんがスリッパ出してくれたんだからそれぐらい常識で判断できるでしょ?!」

 

 

 

 ‥‥そして最後の一人は、おそらくこの五人の中で一番人目を惹くだろう人物。

 肩にかかるか、かからないかぐらいのところで髪の毛を切りそろえた和装‥‥ともちょっと違う独特の日本美人。

 空色の品の良い和服は間違いなく似合っている。鋭利な光を宿した瞳と合わさって、まるで日本刀みたいな印象を受ける人だ。

 問題はその他の服装。多分ここで一番問題なのは着物の上に羽織っている赤いジャンパーで、一体どうしてこんなファッションをしようと思ったのか全く、さっぱり、これっぽっちも見当がつかない。

 いや、足下のブーツはまだ分かるんだよ。なんていうか、明治の香りがプンプンするけどさ。

 

 

「突然ごめんね、衛宮君‥‥だったかな? 初めまして、僕は黒桐幹也。そこにいる鮮花の兄だよ。こっちは両儀式。伽藍の洞の同僚でね」

 

「おい幹也、オレは別に橙子の部下でも何でもないぞ」

 

「あぁ、伽藍の洞ってわかるかな? 紫遙君から聞いてるんなら話は早いんだけど‥‥」

 

「こら幹也、人の話を聞いてるのか?」

 

 

 五人を食堂へと案内し、まずは人数分の紅茶を出して自己紹介を始める。夕食を一緒にとってもらおうと思ったはいいけれど、当然ながらすぐに出すというわけにもいかないしな。

 うーん、ウチの三人も足して八人で夕食になるわけだけど、元々シチューはかなり多めに作ってるから問題はないだろう。

 

 

「確か、紫遙のお姉さんが経営している事務所でしたよね? ‥‥あ、こちらこそ初めまして、衛宮士郎です」

 

「よろしく。‥‥うん、聞いていた通りの子みたいで安心したよ。君が紫遙君の友達で良かった。ほら、彼はああ見えて人見知りだから心配してたんだ。

 さて、鮮花はもう知り合いみたいだから紹介する必要はないとして、こっちの子は浅上藤乃。鮮花の同級生なんだ」

 

「よろしく‥‥お願いします‥‥」

 

「あ、おう、よろしく。‥‥あぁそうか、それって礼園女学院の制服だっけ」

 

「はい。外出の時も着用する義務があるので‥‥」

 

「‥‥それって倫敦に来てまで履行する必要がある校則なのか?」

 

「でも、校則ですから‥‥」

 

 

 ほとんど表情を変えないままに浅上が首を傾げて言う。じゃあ何故に隣の黒桐さんは普通に私服なのかという疑問が湧くけど‥‥これも個性なんだろうか。

 遠く離れた冬木に住んでいる俺でも知っているくらい日本では相当に有名な礼園女学院の制服も、さらに遠く離れた倫敦では只のコスプレ、もしくは本職のシスターにしか見えない。

 もっとも似合ってるのが怖いところで、およそ日本人がやっても似合うような格好じゃないと思うんだけどなぁ‥‥。

 

 

「両儀‥‥さんも、礼園の学生なんですか?」

 

 

 一応かなりの数の椅子が備え付けてあるダイニングで、すごく不機嫌そうに紅茶を啜っている和装‥‥? の女の人に話しかけた。

 この人は正直な話、服装のことが無ければ男にでも女にでも見えてしまう不思議な容貌をしている。そして同じように年齢不詳で、多分俺の前後五歳ぐらいしか離れてないとは思うんだけど、どういう風に話しかければいいのか見当もつかない。

 

 

「‥‥両儀はやめろ。式でいい」

 

「えっと、じゃあ式さん」

 

「式でいい。‥‥あと、オレは別に鮮花の同級生でも何でもない。ついでに橙子に雇われてるわけでもない。今日はコイツがわざわざ倫敦まで行くっていうから、何か厄介事に巻き込まれないようについてきただけだ」

 

 

 式さ‥‥式はそういって、隣に座って紅茶をゆっくり飲んでいる黒桐さん‥‥なんか妹さんの方と被るから、幹也さんと呼ぶことにするけれど、その幹也さんの空いている左手を弱めの力でつねった。

 この二人、すごく距離が近いな。物理的というか、ちゃんとした距離っていうわけじゃなくて精神的な距離が。

 

 

「‥‥この大所帯。どうやら只の観光というわけでもないみたいだな」

 

「そのようですね。‥‥あぁ、しかし先ずは夕食にしませんか。凜が帰ってくる様子もありませんし、お客様を待たせるのもどうかと思います」

 

 

 なぁセイバー、言い分は分かるけど、それってお前が食事にしたいだけ、だよな‥‥?

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 自分が自分であることが、これほどまでに難しいものだとは思わなかった。

 そもそも自分というものを自分自身で定義するのに何が必要かだなんて、そんなことを考えるのは哲学家とかいう、暇で暇で他に何もやることがないようなニートという名の厨二病患者だけだと思っていたのに。

 実際にはそんなものが必要ない生活をしていただけで、一度必要になると切実な問題になってくるのだ。

 今になって思えば、これまで過ごしてきた人生というものがいかに平穏無事なものであったのかということが痛々しくなる程に実感する。

 それは波瀾万丈なものでなかったとか、大きな事件に巻き込まれたことがないとかそういう問題じゃあなくて、つまるところ自分自身が揺さぶられるような出来事、もしくはそういう状態に遭遇しなかったというだけの話なのだ。

 

 自分が揺らぐ、というのがどういうものか殆どの人は分からないだろう。

 それは決定的なまでに自分の崩壊に繋がるものだ。自分の崩壊とは‥‥死に等しい。否、もしかすると死よりも酷いものかもしれない。

 全ての感覚、全ての感情。そういったものは基本的に観測者、受容者である自分自身がいてこそ感知できるものだ。

 グラフに例えて考えてみれば、原点である(0,0,0)が無い状況とも言える。いくら座標が設定されていても、原点が無ければその座標がグラフ上の何処を指しているのかさっぱりわからないだろう。

 ぐちゃぐちゃになってしまう。自分が観測しているはずの何もかもが。

 

 

「今、帰ったぞ。‥‥そこにいたのか。あまり調子は良く無さそうだな」

 

「‥‥‥‥はい」

 

 

 やることもなく微妙に埃臭いソファに座っていると、この家‥‥というよりは建物の主である女性が帰ってきた。

 真っ赤、というにはややくすんで見える橙色の髪の毛を後頭部で一つに結んだ、見紛うことなき絶世の美女。

 蛇のように狡猾で、刃のように鋭い瞳には何もかもが見透かされそうな、というよりも貫かれてしまいそうな眼光が宿っている。

 その瞳の色はひたすらに冷たい。貫くという表現こそしたけれど、この人‥‥橙子さんからはそういう能動的な姿勢は感じられない。

 ただそこにいて、俺を眺めるだけで圧迫感を与えてくる。いや、この場合は圧迫感というよりも圧倒感と言うべきなのか。格の違い、というものを思い知らされるのだ。

 彼女にオレを見下す意思も、圧倒しようという意思もないというのに。それだけで彼女は俺より遥かに高位にいる。

 

 

「少しは外に出るとかしてみたらどうだ? 別に私はお前を監禁しているわけでも、軟禁しているわけでもないぞ。

 部屋の中に籠もっていては調子を悪くするばかりだろうに。その辺りを散策する程度なら止める理由もないのだがな」

 

 

 持っていた鞄を俺の座っているソファから少し離れた事務机に置き、橙子さんは羽織っていたコートを脱いでコート掛けに掛ける。

 俺の知っているオレンジ色の、どこはかとなく趣味を疑うコートではなく、光沢のない曇った黒いコートだ。どうやらこちらの方が普段着に使っているものらしい。

 コートの下が品の良いシンプルなブラウスと艶消し仕様なスラックスなのを考えると、こちらの方が似合っている気がする。要するに、あちらは魔術師仕様だということなんだろう。

 

 

「あぁ、魔術師は自身の体調を管理できるからこそ籠もりっきりでも大丈夫なのだぞ? 普通の人間は適度に日の光に当たらなければ身体を壊す。

 文武両道、という言葉があるが、あれは頭も鍛え身体も鍛え、完璧な人間になったという意味だけを表すわけではない。例え完璧でなくともな、人間という生き物は極端な例を挙げれば勉強も運動も、どちらも同じぐらいにこなしておくのが一番良いということだ」

 

 

 本当にオレに話しているのかよく分からない調子で、橙子さんは延々とよく分からないことをイイながら流しの方へと向かう。

 事務所の規模に相応しい小さな給湯室で、珈琲でも湧かすつもりなのだろう。この人の生活サイクルを完全に把握できたわけじゃないけれど、尋常じゃないカフェイン中毒だというのは一緒に暮らし始めて数日で完全に理解できた。

 

 

「こらこら、人聞きの悪いことを言うのはやめてくれ。私は特別カフェイン中毒というわけじゃない。ただ、珈琲が一番楽だと思わないか?

 流石にインスタントは好かんが、安物でもそれなりの味になるからなぁ、こいつは」

 

 

 オレは知っている。そういうことを言いながらも、あまり気が長い方じゃない橙子さんは今日もインスタントの珈琲をマグカップに二杯入れて給湯室から出てきた。

 きっと二杯目の珈琲はちゃんと淹れるつもりで、既に用意をしてきたんだと思う。一杯目を飲んでいる間に二杯目が出来上がるという寸法だ。基本的に面倒くさがりなくせに変なところで効率にこだわる人だよな。

 

 

「そら、飲むだろう? どうせ私が出かけている間に自分で勝手に飲んだりはしなかったんだろうからな」

 

「‥‥どうも、すいません」

 

「冷蔵庫の中のものは勝手に飲み食いして構わないと言ったはずだぞ、私は。今日はちょっとした商談だったから良いが、下手すれば一日二日いなくなることもあるんだから、その辺りは臨機応変に対応しろ」

 

 

 この人はオレの知識と同じように、人形師として一般人向けの人形展をやる他にも建築家としての顔とかを持っているらしく、意外にも仕事に困っているというわけではないらしい。

 まぁ同様に決して売れっ子というわけでもないらしいんだけど、今は丁度仕事が入っているということで、今週はしょっちゅう打ち合わせだか商談だか接待だかに言っている。

 昼前くらいに出て行って、夜に帰ってくるのが大概だ。どうやら打ち合わせ→飲み会という学生かと疑う生活を送っているらしい。

 

 

「夕飯はどうした。まさか食べてないのか?」

 

「‥‥すいません、食欲が湧かなくて」

 

「ふん、そんなことだろうと思ったよ。ほら、寿司を持ってきた。

 あぁ勘違いするなよ、別に私が寿司を食ってきたというわけじゃない。途中で良い感じの寿司屋を見つけたのでな。次に来ることもあろうと思って、代わりに包んで貰ったんだ。これなら入るんじゃないか」

 

「入ります」

 

「‥‥意外に現金なヤツだな、お前。まぁいい。なら珈琲よりも日本茶だな。

 机の上を片付けておくから、茶を淹れてこい。給湯室のコンロの下にある棚に、急須と茶葉が入っている。湯は珈琲を淹れた残りが薬缶の中に入っているからな」

 

 

 橙子さんの言葉に従って、給湯室でお茶を淹れる。

 無駄にたくさん蛇口があるけれど、使えるのは一つだけだ。残りは全部縛ってあって使えない。どうも橙子さんがこういうことする正確だとは思えないから、このビルの前の持ち主———建築現場の人達がこうしたのだろう。

 ちなみに嘘か定かか寿司を食べる際には粉茶と呼ばれるお茶が一番らしいけれど、生憎と伽藍の洞にあるのは普通の茶葉であり、どこからどう見ても粉ではない。

 まぁ基本的に食事のランクというものにこだわるような生活をしていなかったオレがとやかく言うわけでもなし、日本茶というジャンルならば気にすることはないだろう。‥‥あれ、そういえば烏龍茶とか爽健美茶とかは中国茶っていうジャンルでよかったのか?

 

 

「あの、淹れて来ました」

 

「すまんな。さぁお前も座れ。昼から何も食っていないのでは腹も減っただろう?」

 

 

 ソファに座り、二人分のお茶を用意してから橙子さんの開いてくれた寿司に手を着ける。

 残念ながら単純な美味い不味い以上を知覚する舌なんて高尚なものは持ち合わせていないから、ある一定以上のランクの寿司屋だろうということ以外は分からない。

 それでも少なくとも庶民と言われる生活をしてきたオレでは今まで食べたことがないくらい美味い。ていうか寿司なんて高校合格とかのお祝いの時とか、何かのパーティーの時の少し渇いた出前ぐらいしか記憶にないのだから当然か。

 口の中に入れたらシャリが崩れるとか、そういう表現はグルメ漫画の中だけだと思ってたのに‥‥。

 

 

「美味いか」

 

「は、はい、美味しいです‥‥」

 

「そうか。私は食事をとってきたから、お前の好きなだけ食べると良い」

 

 

 お言葉に甘えて、もう一貫口に運ぶ。やはり美味い。

 ちらりと目線だけ上げて橙子さんの方を見ると、一口だけ啜った日本茶を放って自分が淹れたコーヒーを飲みながら、今日の夕刊を読んでいた。

 言葉ではオレのことを気遣っているように聞こえるけれど、その実で全くの無関心。一応ポーズとして気遣うふりはしているし、実際に多少は気遣っているんだろうけれど、それは義務的なものでしかない。

 

 

 ———オレが伽藍の洞にやって来て、既に数週間が経っている。

 あれから一週間ぐらいで何とか日常生活を送れるぐらいには回復したオレは、あれ以来仕方が為しに伽藍の洞の世話になっていた。

 どうしようもない。少なくとも今までオレがいた世界というのが、この場所とは全く違う場所だというのは確かで、そんなところに帰る手段なんてものが早々見つかるはずもないのだから。

 オレは只、ゲームとかアニメとかが好きな普通の高校生だ。学年上位という成績には程遠い凡才であり、運動神経もよろしくない。雑学なんてものも殆ど持っていない。

 そんなオレでは帰る手段の見当すらつかなかった。

 

 

『まぁ一応は拾った責任というものもあるしな。片手間ぐらいには帰る手段も探してやるし、責任はとって養ってやる。生活については心配するな』

 

『いやはや面白い拾いモノだったわね。まぁ私が拾って来たわけじゃないんだけど。‥‥心配しなさんな、私もなんかそれっぽいもの見つけたら君の助けにならないかどうか調べてあげるから』

 

 

 あの日、衝撃的な事態を知覚すると同時にもう一度気を失ってしまったオレが目を覚ますと、既に姉妹の間で話が決定していたらしい。

 オレの待遇は伽藍の洞の居候。そしてオレの進退は二人が適当に帰り道を探すということで決まったそうだ。

 最初こそ積極的にオレへとアプローチしてきた二人も、オレの傷が癒えるぐらいの頃にはその興味を大分失って来たらしい。橙子さんは次の日すぐに仕事へ出かけたし、青子さんに至っては元気な声で『バァーイ!』なんて言って失踪してしまった。

 

 ‥‥多分、二人とも本当のところはオレが帰る方法なんてないと思っているんだろう。いや、どちらかというとそれに割く労力に対して成果がワリに合わないとでも思ったのか。

 何処に行ってしまったのか分からない青子さんはともかく、橙子さんには何か調べているような様子は見えない。机に座ってぼんやりと考え事をしている姿ばかり見る。

 もしくはその考え事というものがオレの帰還手段についてかもしれないけれど、どちらにしても先行きは尋常じゃないぐらいに暗い。

 何かをこなす、というのとは違って何をどうすればいいのかさっぱりなのだから、仕方がないと言えば仕方がないわけだけど、それにしたってこれは本当にお先真っ暗ってヤツだ。

 

 

『ふむ、確かにお前の言わんとするところも分かる。

 並行世界に関することならば第二魔法の領分だ。魔法というのは確かに未知な存在だが、それでも第二魔法というのであれば解明の可能性はまだある。あれは魔法の中では一番世に知られているからな。

 ‥‥しかしお前に関して言えば、完全に話は別だ。お前がいた場所は並行世界などでは断じてない。並行世界とは違う‥‥異世界、そういうものだよ』

 

『異、世界‥‥』

 

『そう、異世界だ。並行世界とは違い、関連性といったものは基本的に無いに等しい。

 私達の世界の話がお前の世界で創作として語られていたという関連性のみがあるが、その原因というものが不明な以上、魔術的に繋がりを見出すのは難しいだろう。

 アノ手の空間移動や次元移動といった類の魔術は二つの場所、あるいは二つのモノに関連性を見出さなければいけないんだよ。

 ‥‥何より最初の手順として、相手側を認識する必要があるからな。お前の場合は、お前が元いた世界を認識、観測するということが必要になるだろう。でなければ魔術自体が成功したとしても、トンデモない場所に飛ばされる可能性が高い』

 

『そいつは、出来れば勘弁してほしいもんですね‥‥』

 

『だろう?』

 

 

 オレは、魔術師でも何でもない。

 だから帰る手段を探すとしても、オレに出来ることなんて何もないのだ。

 

 魔術師じゃないオレには研究をすることは出来ない。

 では知識だけでもと思っても、基本的に日本語で書かれた魔術書なんてないんだからどうしようもないのである。しかも橙子さんによればギリシャ語やらラテン語やらヘブライ語やらが読めたとしても、今度は暗号を解かなきゃいけないそうだ。

 だとすると本当に、オレが帰れるのは遥か先の話。超一流の橙子さんが全ての力を傾注しても、魔法を目指すというのは元から果てのない道である。

 そして橙子さんは、なんだかんだで辿り着けなかった人なのだ。あの人が凄い魔術師だってことは十分に理解しているつもりだけれど、それでも魔法使いじゃない。

 青子さんは魔法使いだけど、だからこそ魔法を使ってオレを手伝ってくれるとも思えない。無知どころか、この世界に来て間もないオレだけれど、それでも魔法使いという存在に関しては、別の感覚を覚えた。

 

 この時、というかオレがこの世界に来て意識の上では数週間ぐらいしか経ってないけれど、それでもオレは自分が元の世界に帰るアテというものが全くないことに気がついていた。

 

 

「‥‥どうした、もう食べないのか」

 

「一日中室内にいたんで、あまりお腹減ってないんですよ。ごちそうさまでした、すごく美味しかったです」

 

 

 美味しかった、という本当の気持ちが出来る限り曲解せずに伝わるよう、精一杯に表現しながら頭を下げる。なにせ本当に寿司は美味しかったんだし、わざわざオレのために夕食を持ってきてくれたのが嬉しかったのも本当だ。

 幸いにして、というよりは流石というべきか橙子さんはオレの言葉の中に虚言を見出すことはなかったようで、「そうか」と小さく呟いてまた無関心に新聞を読み始める。

 ここ最近、というよりはオレが伽藍の洞に来て、橙子さんに仕事が出来てからの決まり切ったパターンだ。オレは何もすることがないけれど、部屋で一人が嫌だからココでぼんやりと座っていて、橙子さんは橙子さんでオレに全く注意を払うことはない。

 ただ無為に、ただ意味もなく、日々を過ごす。

 それはどうだろうか、今のオレにとってどの程度まで役に立つ毎日なのか分からない。もしかしたら意味があるのかもしれないけれど、オレ自身の感覚で言うならば意味がない日々に分類されるだろう。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 暫く無言で二人、珈琲と茶を啜る。

 伽藍の洞がある観布子は工業地帯と住宅街に別れており、伽藍の洞があるのは丁度その境目。ただ時間帯のせいか工場からの音は聞こえず、辺りは静まりかえっていた。

 夕暮れで真っ赤に染まっていた部屋の中も段々と暗くなっていく。お慰み程度の照明が点るけれど、それでも元々が完成途中の廃墟同然なビルということもあり、不気味な印象は拭えない。

 橙子さんが人払いの結界を張っておかなかったら子ども達が連日連夜の如く肝試しに訪れることであろう。

 

 

「‥‥どうした、何か気になることでもあるのか」

 

「いえ、別に‥‥」

 

 

 ぼんやりと手を組んで真っ正面を眺めていると、珈琲を飲み終わったらしい橙子さんが、お代わりを鶏に行く途中で声をかけてきた。

 さっきまで無関心だった橙子さんは、今度はニヤニヤと維持の悪い瞳でオレの方を見ている。

 

 

「嘘だな。悩んでいますと顔全体でアピールしているぞ。‥‥まぁ話してみろ。私としてもすることがなくて暇なんだ。若い者の話を聞くのも年長者の務めだ。暇つぶしにもなるだろう」

 

「暇って‥‥仕事はどうしたんですか?」

 

「あんなもの片手間でもカタが付く代物だ。気が向いたときにでもやればいい。それに目の前で辛気くさい顔をされていては気が滅入るというものだろうが。これでは仕事に身も入らんよ」

 

 

 茶がすっかり冷めてしまったオレのために、新しく珈琲を持ってきてくれた。時間をかけただけあってインスタントよりは良い香りがするけれど、それでも安物の粉をつかっているのでたいしたことはない。

 どちらかというと、味よりも温度の方がありがたい。凍える程ではないとはいえ、暖房が効いていない事務所はそれなりに寒かった。

 

 

「居候なのだから家主の命令には従うものだ。さぁ、話せ」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 暖かい珈琲が喉から胸の奥へと流れ込んできて、日本茶によって暖まった身体をさらに暖める。

 身体の芯まで、というほどではないけれど、マグカップを包んだ手が温かいのは心を落ち着かせた。温もり、というのは人の心を和ませるし、落ち着かせるものだ。

 オレの向かい側に座った橙子さんは本当に暇をしているのか、ゆらゆらと手持ちぶさたに組んだ足の先を動かしている。

 

 

「‥‥オレは、これからどうしたらいいんですか」

 

「ん?」

 

「正直に言って下さい。元の世界に帰ることは‥‥出来るんですか‥‥?」

 

 

 ぴたり、と空気が静止する。気まずい静止ではなく、まるで只の空白だ。

 橙子さんの反応を待っているオレと、反応する気があるのか無いのかわからない橙子さん。

 ‥‥いや、オレは質問の答えを本当に待っているのだろうか。本当は、答えなんて無いほうが いいのではないだろうか。

 何故オレはこんな質問を橙子さんにしたんだ? 本当ならこんな質問しない方が良かったに決まっているっていうのに。

 

 

「お前からそういうことを言い始めるとは思わなかったな。‥‥聞きたいか」

 

「‥‥聞かなくても、今の状況は変わらないかもしれない。けれど、聞かなかったらずっとこのまま、オレは毎日を無為に過ごすだけになりますから‥‥」

 

 

 オレは実のところ理解してしまっている。この質問の答えが、どういう言葉として返ってくるだろうということが。

 それでいながらこの質問をしたというのは、今の停滞した事態が我慢ならないということだ。何の意味もなく、何の異議もなく毎日こうして座っているだけ。

 

 確かにこうして伽藍の洞にいれば橙子さんに養ってもらえる。橙子さんに守ってもらえる。

 ああ、成る程。最上級の魔術師にして封印指定の人形師がオレを守ってくれるのだ。それは安全ではあるかもしれない。

 でも、同じくらい安全じゃない。

 

 

「‥‥気が安いとでも言いたいのか? 知っているぞ、お前がそう長くは保たない身だということは」

 

「———ッ?!」

 

 

 心臓が、跳ね上がった。

 

 

「最近よく眠れてないんじゃないか? 何とか揉んだり洗ったりして誤魔化しているようだが、目の下に隈が見えるぞ」

 

 

 あの時から、意識を取り戻した時から、常とは違う妙な感覚がオレの中にあった。

 胸の中でもなく、頭の奥でもなく、手足の先でもなく、それは微かながらもはっきりとオレ自身の中に存在した違和感のようなものだ。

 それは最初こそ微かな違和感でありながら、徐々に、着実に、オレを蝕んでいく。最初はつばを飲み込むときに少し引っかかったような気分。それが段々と動悸、息切れなどに近い感覚を覚えるようになり、最終的には脳震盪もかくやという目眩を起こさせる。

 それは身体の異常として明らかになるようなものではないし、実際に身体に異常があるように感じるわけでもない。

 なんていうか不思議で、かつ不愉快極まりない感覚なのだ。自分自身が揺さぶられるような感覚は、正体不明でありながら確実にオレを追い詰める。

 

 自分の認識と、自分自身に齟齬があるような感覚は、子どもの身体に収まってしまった今のオレの状況からして存在していた。

 それでも、あれから感じている不愉快な感覚はそれともまた違う。もっと根本的なところでオレに影響するものだ。

 だからその影響が強くなって来た今となっては、最終的にオレの内面に生じていた変化は身体の方にまで影響を及ぼして来た。

 

 具体的な症状はさっき橙子さんに言われたものを含む。

 最初は少しばかり思考が乱れて、集中力が低くなったような気がした。

 次に頻繁に目眩や立ち眩みがするようになった。頭が揺さぶられるような、頭痛とはまた違う妙な感覚を覚えるようにもなった。

 実際のところ直接的な被害があったとは思えない。少し調子が悪い、それぐらいの意識だったろう。

 風邪とか病気とか、そういう分かりやすい体調不良ではなく、ただ単にその日の期限やら気分やら運勢やらが影響して連続で体調が悪いのだと思っていた。

 だってそうだろう? ただでさえ大火傷とか打撲とか骨折とか捻挫とか、それ以外にも煙を吸い込んでしまった喉や肺が痛んでいたりと散々な状況だったオレなのだ。少しぐらい体調不良が続いたって納得の範疇だと感じはしないか。

 

 

「頭が痛いんじゃないのか? 動悸はしないか? 胸が押しつぶされそうな不安や恐怖に苛まれたことはないか? ‥‥そういうのが頻繁じゃあないのか?」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 だから本当に異常に気がついたのはついこの前。

 身体の少し悪いぐらいなら、まだ後遺症やら不調やらと理由をつけることが出来た。しかし、それが明らかに精神に作用しているとなると話が変わる。

 

 例えば伽藍の洞の事務所で新聞を見ながらくつろいでいる時。例えば食事を終えて自分に与えられた空き部屋で一服している時。例えば一日が終わって、部屋の煎餅毛布とそば枕で就寝している時。

 そういった何気ない、普通の時間に異常は発生した。何の予兆もなく、何の理由もなく、ただそれはオレの精神を蝕んだ。

 

 ふと突然、全身を襲う寒気と震え。ふと突然、誰かに見つめられているような期がする悪寒。ふと突然、目の前に人間を遥かに凌ぐ力を持った獣が出現したかのような恐怖感。

 そういった理由のない負の感情に襲われることが、ときたまある。それは最初こそ微かな感覚だったけれど、次第に大きく、頻繁に、かつ深刻になっていった。

 全く兆候もなく、突然震え出す自分の身体。それは身体の不調というよりは、精神に影響された身体が当然の反応として自分の身体を震わせたものだ。

 落ち着かない。一所にいるとたまらなく不安になる。誰かに狙われている気がするからだ。きょろきょろと、誰もいないはずなのに辺りを見回すことを止められない。不安というよりは、恐慌状態と言うべき精神状況が増えてきた。

 

 夜も眠れない、普段も落ち着かない。それどころか不安や恐怖に苛まれて普段の生活すらおぼつかない。精神の不調は乃ち身体の不調へと繋がり、まるで不治の病にでも冒されているような気分がする。

 通常の精神状態を保つことが出来ずに頭の中はしっちゃかめっちゃかだ。考えもろくにまとまらないし、不注意になってしまう。

 常のオレならば布団に潜ってがたがた震えていたいくらいの不調。けれど、確とした理由もない状態で家主である橙子さんや青子さんに迷惑をかけるわけにはいかない。

 歯を食いしばり、笑顔とはいかずとも、せめて仏頂面を装って日々を過ごす。目の下の隈はハンドクリームを流用して———もっと良い代用品があったと思うんだけど、男という身分故にそこには思い至らなかった———誤魔化した。

 けれど流石は橙子さんというべきか、オレの小賢しい細工など簡単に見抜かれてしまっていたらしい。心配するわけでもなく、ニヤニヤとまるで嘲るか、もしくは面白い見せ物でも見るような視線だ。

 

 

「‥‥気づいてたんですか」

 

「当然だ。というよりも、よく気づかれてないと思ったと褒めてやりたい気分だぞ」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 ニヤニヤとした笑いは軽薄なものではない。そこにあるのは嘲りでありながら、傲慢ではなく不遜。自分の実力をこれ以上ない程に的確に認識しており、同時にオレとの間の力量差についてもしっかりと分かっている。

 その上で、この人は上位者としてオレに質問をしているのだ。

 

 

「自分で理由は分かっているのか? 風邪を引いたわけでもあるまいし、病気にかかった兆候もない。あの重傷だった怪我の痛みは後を引くだろうが、お前のような症状が出るとは思えない。

 脳、いや、精神に干渉するような原因。それは外傷というよりは感情に訴えるような何かである可能性が高いな。物理的なものというよりは、精神‥‥もとい魔術的なものである懸念が強いな」

 

「魔、術‥‥?」

 

「そう、魔術だ。あるいは神秘と言い換えてもいいかもしれんが、それの影響と考えるのが妥当だろう。完全に只の不調と言うには、お前の症状は深刻に過ぎる」

 

 

 ‥‥実際、今この時でも脅迫されてでもいるかのような感覚に襲われている。

 橙子さんから感じる圧迫感《プレッシャー》だけじゃない。それを増幅させるというよりは、全く違う感覚としてオレを襲う。

 個人から発せられる圧迫感ではなく、まるで深海の中にでもいるといえば良いのだろうか。水圧のような、あらゆる方向からオレを押しつぶしてくる感覚だ。

 実際に肉体に圧迫感があるわけではないけれど、それでも胸の奥にある心や精神、あるいは“オレ自身”とでも言うべきものが押しつぶされているかのように。

 

 

「‥‥“お前自身”か」

 

「なにか、思い当たることでもあるんですか?」

 

「ふむ、決して確実なことではないが、理論としてはあながち間違いではない、か。

 ‥‥成る程、固有結界などと同様な反応と考えると確かに道理には適っている。いやしかし、流石に相手がデカ過ぎる。これはしっかりとした確証を得られないことには断定できん」

 

「橙子さん?」

 

 

 オレの怪訝な声に、なにやら考え事に耽っていたらしい橙子さんはハッと現実世界へと戻ってきた。

 独白めいた言葉は目の前に座っているオレに話しかけるためのものだったのか、それとも誰に聞かせるつもりもなかったのか分からない。なにせ橙子さんは考え事を口にして、なおかつ誰にも反応を求めないという面倒なところがあるのだから。

 今のセリフも、端々によく分からない単語や文脈の分からない流れがあって、結局のところ橙子さんが何を考えているのかさっぱり分からなかった。

 

 

「‥‥一つ、基本的な話をしよう?」

 

「基本?」

 

「そうだ。お前は本職の魔術師ほどではないとはいえ、魔術や神秘の社会全体についての知識はアル程度持っているからな。その中でも更に基本の話だ」

 

 

 向かい側のソファに座った橙子さんは、長い吐息をつくとまだ熱い珈琲を口へと運ぶ。

 この伽藍の洞で、橙子さんが温くなった珈琲を飲んでいるところを見たことがない。この人が口に運ぶ飲み物は大体が熱い湯気を立てている。不思議な話で、もしかして魔術の一種なのだろうか。

 スラリと伸びた足は組んでいるとやけに様になり、白いブラウスと黒いスラックスのコントラストが立っている時やデスクで仕事をしている時よりも良く映える。

 さらに言えば特徴的な髪の色もあり、だからこそこういうシンプルで一見して素っ気ない格好が似合うのだろう。

 

 

「世界、という言葉について‥‥お前はどう思う?」

 

「‥‥世界?」

 

「そう、世界だ。単純にこの言葉からお前が思うイメージを言ってくれればいい」

 

 

 ‥‥‥‥難しい。

 橙子さんは一体どうして何を思ってこんな質問をしたのだろうか。だって、そんな抽象的なものが今のオレに関わっているとは思えない。

 いや、とりあえずオレは橙子さんの質問に答えなきゃいけないのか。こういう時に迂闊に質問を逸らしたり別なことを考えたりすると、間違いなく橙子さんから無言の殺気を向けられる。

 

 

「———地球とかだけじゃなくて、他の星とか、他の銀河とか、そういう全てを含めたもの‥‥ですか‥‥?」

 

「‥‥ほう、地球儀に載っている全てとでも答えるかと思ったが、まぁそれなりには考えているようだな。だが、間違いだ」

 

 

 少し意外そうにした後、それでも橙子さんは我が意を得たりとでも言いたげにニヤリと笑ってみせる。

 一見して分かりやすく、実のところは非常に答えの難しい質問をして困らせる、意地の悪い先生みたいな感じだ。

 こういう時、橙子さんは本当に楽しそうに笑ってみせる。クツクツと喉を鳴らして、猫か、あるいは蛇のように。いや、蛇がどう笑うのかなんて知らないけどさ。

 

 

「この場合の世界とはな、魔術においては地球をはじめとする私達人類が存在し、生活している範囲を表すと考えても良い。まぁ可能な限り噛み砕いた場合の話だがな。

 いいか、世界は私達の存在基盤だ。地球という言葉に置き換えるのも可能ではあるが、本当のところは置き換えることが出来ない。同一というわけではないんだよ。ちなみに、同じように宇宙までを表すわけでもない。魔術的に、神秘的にはな」

 

 

 橙子先生の魔術講義は続く。

 実際、ここまで魔術っぽい専門的な話を———初歩とはいえ———したことは未だかつて無い。オレはそれを魔術師としてのタブーだと思っていたし、橙子さんはその理由についても言及したことはなかった。

 だからこういう話題を橙子さんが振ってくるというのは、オレの不調の原因云々を加味しても十分に驚きをもたらすものであったと言える。

 

 

「世界とは我々の基盤であり、我々を内包する存在だ。故に我々が所属していない他の星やら他の銀河やらは内包していない。

 そして世界は、美しくあろうとする。自分が内包するあらゆるものに矛盾を許さないのだ。例えば顕著な例はお前も知っているだろう固有結界や、投影魔術。

 ‥‥さぁ、ここまで聞けば察しが悪いヤツでも分かるんじゃないか?」

 

 

 ニヤニヤが一層、おそらくは最高潮に深まる。ここが橙子さんにとって、このお話しのクライマックス、決め所とでも言うべきところなのだろう。

 理路整然と考えることが第一とでも言うべき魔術師でありながら、橙子さんの話はやけに遠回りで難解だ。結論を先に持ってくるのではなく、一見してどうでもいいような話題でひたすらに遠回りしてから結論へと持って行く。

 しかも、こうして結論は嫌って言うぐらいに勿体ぶるのだから本当にどうしようもない性悪だろう。これは流石に本人の目の前で言うわけにもいかないけれど、本人だって勿論きちんと自覚しているに違いない。

 そしてきっと、自覚していながら喜んでこういう問答を仕掛けてくるに違いない。楽しんでいる。人をからかって、人を悩ませて、楽しんでいる。

 決して悪意ではなく、相手が心底不愉快に思うその手前で巧妙に、意地悪く。

 ちゃんと程度を見極めて度を超していないとはいえ、それでも相当に趣味が悪い。でもオレが嫌々ながらも実質かなり前向きに橙子さんの問答に答えているのは、きっと命を救って貰ったことによる刷り込みのようなものだろう。

 実際、橙子さんは意地の悪い態度をとっておきながら、嫌われないだけのカリスマを持っている。

 

 

「美しいということは矛盾を生じさせないということ。矛盾とは、世界の決めた規律、世界の理に反することだ。

 世界の理とは物理法則や魔術法則、神秘の濃度にも関係する色々な要素があるが、つまるところ不自然なものや異物を許さないということでもある」

 

 

 近づいてきた橙子さんが、オレの耳にかかっている髪の毛を細く白く、綺麗な手でかきあげた。

 方針を考え、自分の中で見当をつけた順序に従って計算した問題の解答を見つけた時のように嬉しげに細められた目に映ったのは、オレのこめかみの上、髪の毛の生え際ぐらいに刻まれた無数の引っ掻き傷。

 頭の中をかき回されるように、四方八方から押しつぶされるように、オレを襲う謎の不調。それに耐えるために刻んだ自傷の痕。

 それは橙子さんがオレの追い詰められ具合を確認するのに十分なものだったはずだ。だからこそ、嬉しそうに、楽しそうに目を細めた。

 

 

「異物‥‥。つまり世界に所属しない正体不明(アンノウン)。全ての情報、全ての存在の源であるとされる根源(アカシックレコード)にすら記録されていない謎の存在。

 ‥‥さて、本来ならそんなものを世界の一員である私達が知覚できるわけもないのだが、不思議な事に私は一件だけ、その条件に当てはまるものに心当たりがある」

 

 

 左のこめかみから頬を伝い、顎を伝い、くいと持ち上げられてオレの顔は上を向く。

 そこにあったのは予想していた通りの意地悪そうな色を湛えた瞳でもなく、皮肉気に歪められた唇でもなく、愉しそうに光る真っ白な歯でもなく。

 一切の表情を廃した、それでいながらのっぺらぼうの無表情というわけでもない、不思議な穏やかさを孕んだ静かで柔らかい橙子さんの表情。

 オレを気遣っている色もない。オレを心配している色もない。でも同じように、冷徹というわけでもない。

 透き通るように透明な、色のない橙子さんの顔だった。

 

 

「———■■■■。お前は、世界に拒絶されているんだよ」

 

 

 絶対の確信を持って告げられた言葉に、さらに証拠を付け足すように。

 自分のものであるはずの名前が封印指定の人形師の口から出て、この世界に響き渡った途端。

 オレの頭をかき乱す謎の不調は、今度こそ嵐のように荒れ狂って、呆気なくオレの意識を奪っていったのだった。

 

 

 

 

 74th act Fin.

 

 

 

 



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第七十四話 『霧の街の邂逅』

 

 

 

 

 side Azaka Kokuto

 

 

 

「‥‥う〜、相変わらず美味しいわね、衛宮さんの料理。悔しいけど適いっこないわ、これじゃ。私、それなりに修行したから料理は結構できるつもりだったんだけどなぁ‥‥」

 

 

 今晩の献立はビーフシチューにシーザーサラダ、そして手作りと思しきパン。この前にお邪魔した時みたいにテーブルの上を隙間無く料理が埋め尽くしているというインパクトは無いけれど、一口シチューを味わった途端、その違和感は氷解した。

 たったスプーン一掬いのシチューに、まるでお椀一杯を飲み干したかのような深みがある。どれだけの材料をどれだけの手間と時間をかけて丁寧に煮込んだのであろうか。

 野菜の出汁と肉の出汁が、これでもかという絶妙なバランスで混ざり合って解け合って、まさか素人の料理とは思えない。

 前にも言った覚えがあるけど、この味なら礼園(ウチ)の食堂でメニューに載っても文句でないレベルよ?

 

 

「そ、そうか? まぁこればっかりは毎日作ってるものだしなあ。世辞でもそう言ってもらえると嬉しいな」

 

「シロウの料理は世辞を挟む隙間が無い程においしい。ですからシロウ、お代わりをお願いします」

 

「お、おう、ほら茶碗貸せって。黒桐さんも遠慮しないでお代わりしてくれよ。今日の夕食がシチューで良かったよ。多く作るからな、この献立は」

 

 衛宮さんは私にお代わりを勧めるかのように片手を差し出してくるけれど、流石に私だってそこまでたくさんは食べられない。というか、セイバーさんのあの小さな身体にどうしてあれだけの量が、あの勢いで入るのか納得出来ないわね‥‥。

 きっとあれも、英霊だからって言葉で済まされてしまんだろうか。やれやれ、本当に神秘の世界ってのは理解に苦しむ。

 

 

「なに、サーヴァントはマスターからの魔力供給以外にも自分で食事を摂ることで僅かながらも魔力を補充できるのです。凜に負担をかけないためにも、私が食事を摂ることは何ら不思議なことではないのですよ、アザカ」

 

「‥‥まぁそういうことなら、仕方がないのかもしれないけど」

 

 

 明らかに別の理由がありそうだけれど、得意そうにフフンと笑うセイバーさんを見ていると反論の一つも消え失せてしまう。理屈が、というよりは気力が。

 カリスマというよりは人柄だろう、こういうところで垣間見せる朗らかな雰囲気は。

 

 

「いや、でもセイバーさんの言うとおりだよ。士郎君、本当に料理が上手いんだねぇ」

 

「ありがとうございます、幹也さん。そういえば幹也さんは、向こうの方では料理とかしないんですか?」

 

 

 既に大皿に盛っていたサラダは底をつき、素早く台所から代わりの大皿を持ってきた衛宮さんが幹也に話しかける。

 幹也は背も高くないし細身で、そこまで背が高くない衛宮さんのガタイがやけに大きく見える。‥‥ていうか、幹也との対比は置いておいても意外に衛宮さんって良い体格してるわよね。鍛えてるのかしら。鍛えるって、魔術師の印象とは外れるけれど。

 

 

「いや、残念なことに僕は料理が苦手でね。式が良く作りに来てくれるから和食は良く食べるんだけどね。洋食を食べる機会はあんまり多くないから、新鮮だな」

 

「そうなんですか。式さ‥‥式は和食が作れるのか?」

 

「‥‥まぁな」

 

 

 衛宮さんに話しかけられ、式が無愛想に応じる。基本的に関心を持たない人間にはお世辞や社交辞令未満の挨拶すらしない式にしては珍しい。もしかしなくても、衛宮さんに小指の爪の先ぐらいには興味を持っているのかもしれない。

 あとやっぱり幹也のヤツ、それなりな頻度で式の訪問を受けてるらしい。もしくは幹也自ら式のアパートに行っているという可能性もあるけれど、どちらにしても私にとっては愉快なコトじゃないわけで。

 ‥‥嗚呼、もう式と幹也の、け、け、けけ、けけけけ結婚式だって近いものねぇ!! くっ、折角幹也が倫敦に行くなんて言うから私と二人っきりの旅になるかと思ったのに、なんでまたこうして何人も集まってしまったのか。

 本当に最初はこっそりと幹也と二人で出て行くつもりだったのだ。‥‥最悪、式は良いとしても桜と藤乃はどうやって倫敦行きを聞きつけたのかしらね。

 いつの間にか当たり前のように空港に旅装で立っていて‥‥あぁ、全く本当にどうしてこうなったのか。

 

 

「式は料理が上手なんだ。和食限定なんだけどね」

 

「へぇ、意外だなぁ。‥‥そういえば式の名字って“両儀”だったよな? もしかして倫敦にある両儀流の道場の関係者だったりするのか?」

 

「‥‥倫敦支部のことか。ああ、まぁ、オレは両儀流の跡取りだからな」

 

「跡取り?! 式が、両儀流の?!」

 

「おかしなことか?」

 

「いや、そんなことはないと思うぞ。でもほら、式って女の子だしな。まさか武術やってるなんて‥‥って、よく考えれば遠坂もセイバーも似たようなカンジか。いや、すまなかった」

 

「別にいい」

 

 

 式は相変わらず言葉数が少ないけれど、それでも微妙に衛宮さんに興味を示しているのを肯定するかのように、まるで鑑賞するかのように無感情にテーブルの向こうで話す衛宮さんを眺めている。

 観察‥‥という印象を受けないのは、多分興味を持っていることが鉄面皮から読み取れるから。これもまた珍しい話で、今まで式と少なからず付き合いのあった私からしてみれば、式が殺す相手以外にああやって興味を示しているのは見たことがない。

 

 

「‥‥って藤乃、そんなに食べて大丈夫? 貴女、それなりに食が細くなかった?」

 

「大丈夫。こんなに美味しいご飯を食べるのは久しぶりだから、ちょっと手が進んじゃっただけで」

 

 

 隣の藤乃は普通の人なら十分未満、それでも彼女本人を知る人間ならばちょっと眉を顰めてしまう量の食事を摂っている。

 本当に美味しかったんだろう。寮の食事だって純粋に味だけを比べるなら衛宮さんの料理よりも美味しいはずなのに、彼女はあまり食べなかったから。

 

 

「衛宮さんの料理は、心が込もっているから。寮の料理は確かに美味しいけれど、あれはたくさんの人に作った料理だから。こういう風に、誰かに料理を作ってもらうのは‥‥始めてなの」

 

「‥‥そう、なの」

 

「うん、だから凄く美味しい」

 

 

 儚げに、それでも綺麗に笑う藤乃はとても美しく見えた。

 いつもいつも消え去りそうな雰囲気すら抱えている彼女が楽しそうに笑うのは伽藍の洞の面々と一緒に居る時だけで、学校に居るときでも悲しげな無表情を崩すことはなかったというのに。

 

 

「‥‥そこまで褒めてもらうと逆になんとも言えないな」

 

「良いではないですか、シロウ。私としてはシロウの料理が美味しいことを、普段の食事で証明しているはずですが」

 

「それも、身に染みて分かってるよ‥‥」

 

 

 無言でお代わりのための器を差し出すセイバーさんに、士郎さんが何処か諦めたかのような士郎さん。なんというか、実に絵になっている。

 もちろん恋人とかいう意味じゃなくて、どちらかというとパートナーっていう意味だと思う。遠坂さんと衛宮さんだって十分に絵になるし、当然のように遠坂さんとセイバーさんでも絵になるから。

 ‥‥私の審美眼的には、幹也と式でも絵になっているというのが非常に腹立だしいところではある。っとに、尋常じゃないくらい苛々するわよ、っとにもう!

 

 

「‥‥なぁ、ところでみんなはどうして倫敦まで来たんだ? 特に黒桐さんと桜はちょっと前に来たばっかりだろ?」

 

 

 セイバーさんにお代わりをよそった士郎さんが立ちつくしたままこちらへ問う。

 やけに濃い、というよりは艶消しの赤色をしたエプロンには『贋作』と大きな文字で書いてあるけれど、一体何のことなのやら。そもそもエプロンの贋作ってどういうことだろうか。

 

 

「もしかして忘れ物でもしたのか?」

 

「いえ、そんなことはありませんよ先輩」

 

「私達は用事無かったのよ。でも兄さんが‥‥」

 

 

 既にいち早く食事を終えて倫敦には似つかわしくない緑茶をすする幹也を見る。まだ二十代のくせにやけに爺臭い仕草ばかりする兄には、湯飲みを両手で大事そうに抱える姿がやけに似合っていた。

 

 

「衛宮君も僕たちの上司が紫遙君のお姉さんの、蒼崎橙子さんだっていうのは知ってるよね?」

 

「あ、はい。紫遙からもよく聞かされてますし‥‥この前、大英博物館のカフェテリアでご本人にもお会いしました」

 

 

 衛宮さんの言葉に、伽藍の堂勢から一斉に溜息が漏れる。

 事前に知ってはいたことであっても、それでも『ああやっぱり』とでも言うような吐息が溢れてしまうのは、もはや仕方がないことだろう。

 なにせ私達の上司は基本的に好き勝手な人間で、一所に落ち着いているのが性分だなんて公言しておきながらフットワークが軽すぎる。

 

 

「‥‥はぁ、実は僕たちがこっちに来たのは所長を追っかけてきたからなんだよ」

 

「所長?」

 

「橙子師のことよ。ホラ、紫遙がこっちで何かあったらしいって何も言わずに突然飛び出しちゃったから」

 

 

 工房・伽藍の堂の所長を務める人形師、蒼崎橙子。

 表の世界でも人形関連の分野ではそれなりの知名度を誇り、神秘の世界の技術を使用しない真っ当なやり方にもかかわらず生きているかのような美しい人形を作る芸術家。

 そして神秘の世界では封印指定の魔術師として名を知られる、凄腕の術者。人体を通じて根源へと至ろうとし、今は何故か研究をやめてしまったけれど、それでも魔術の腕前は超一流だ。

 

 

「鮮花が紫遙君に電話してくれたおかげで大体の事情は理解しているつもりだけれどね。僕も特別危機的な状況ってわけじゃないなら心配もそんなにしないんだけど、ちょっと今回ばかりは焦る事情がこっちにもあってね」

 

「事情、ですか?」

 

「うん。実は所長が受けてる依頼で、今週中に出さなきゃいけない書類があるんだ。もう書類自体は出来てるんだけど、所長のサインが無いと向こうさんに提出できないから困っちゃってさ」

 

「それって本当にサインが必要な書類なんですか? 倫敦に来てまでサインを貰う程でも‥‥」

 

「いや、所長はかなり自分の好き嫌いで仕事を受ける人だから、今回の仕事も結構珍しい大口の依頼なんだよ。だからこそ期限を守らないと信用が得られないし、ましてやお金も‥‥ね」

 

「成る程、大変なんですね‥‥」

 

 

 幹也の言葉通り、単純に橙子師が失踪しただけだというならこうまで必至に探しはしない。妹さんの青子さんほどじゃないけど、橙子師もそれなりに放浪癖のようなものを持っている。

 行き先を告げずに出て行くのは基本で、帰る時間はおろか日にちすらも残さずにふらりといなくなってしまうことだって何回かあった。

 

 

「ただでさえ幹也の給料の支払いは滞っているからな。これでさらに仕事まで無くなったら大問題だ。橙子のヤツ、従業員の面倒も見られないくせに弟の面倒ばっかり見やがって‥‥」

 

「‥‥それに乗じてちゃっかり兄さんに食事作りに行ったりしてるくせに、よく言うわよ」

 

「鮮花には関係ないだろ」

 

「関係大ありよ! てゆーか私が誰の妹だと思ってたのよアンタは?!」

 

「‥‥橙子?」

 

「ざっけんなぁぁぁああ!!!!」

 

 

 抜き打ちでいつもの手袋無しで掌大の焔を礫として投げつけるが、同じく音もなく抜き放ったナイフで素早くかき消されてしまった。

 衛宮さんが目を丸くして驚いているけど、幸いにしてこの部屋の中には神秘を解する人しかいない。

 

 

「え‥‥、幹也さんは黒桐さんのお兄さんだからいいとして、浅上も式も魔術師だったりするのか?」

 

「両儀の家は退魔士だ。浅神も‥‥まぁ、そうだな」

 

「私は超能力者‥‥ですから。鮮花や衛宮さんについても、多少は知識にあります」

 

 

 既に話が進みながらも流れるように食事は終わり、驚くほどの手際の良さで何時の間にやら机の上は綺麗に片付けられている。

 食後のお茶まで全員分が流れるように出現していて、あまりの手際の良さに今度はこちらも眼をぱちくりさせてしまう。どれだけ主夫スキルが高いのだろうか、この人は。

 

 

「はぁ、それにしても所長は何処にいるのかな‥‥。直に会えさえすればサイン貰って、FAX使って先方に送ることだって出来るんだけど」

 

「この前に橙子さんと会ったのは大英博物館‥‥時計塔だったから、紫遙の様子を見てるって可能性が高いなら工房にいるかもしれませんね」

 

「時計塔、か。だとしたら僕じゃちょっと行くのは難しいかもしれないね」

 

「そうですね。ミキヤがどのような伝手を持っているかは知りませんが、普通の人間だったら簡単に時計塔に入り込むのは不可能です。例え魔術師の付き添いという形でも無理でしょう。

 私も時計塔の規則に詳しいというわけではありません。しかし前にアザカ達が入れたのは時計塔に入学する予定があったという、それなりの理由のためだと思います」

 

 

 確かに、関係者じゃないとは言えなくとも一般人でしかない幹也では時計塔に入ることは難しいだろう。いくら神秘の世界では公的に開かれた場所とはいえ、魔術協会の総本山である時計塔の警備はそこまで甘くはない。

 となると手段としては橙子師に電話をするとか、橙子師が時計塔から出て来てくれるのを待つとか、伝言を頼むとか、そういうものに限られる。

 ‥‥いやぁ、ちょっと難しいわよねそれは。ただでさえフリーダムに動き回って拘束されるのが大嫌いなあの人を掴まえるのはちょっと困難だ。

 

 

「‥‥俺が代わりに探しに行ってもいいんだけど、あまり深いところにいるとなると簡単にミイラ取りの何とやらになっちまうしなぁ。俺達が普段使ってる教室の階層より下の方に行くと、分かるの紫遙だけだし」

 

「そんなに酷いの?」

 

「あぁ。というか何処まで深いのかわかんないんだよ、あそこ。紫遙の工房だって相当奥だと思うけど、あれより更に下があるってんだから驚きだよな」

 

 

 時計塔は随分と魔境らしい。事前に橙子師から聞かされていたことではあるけれど、既に一年ほども倫敦で暮らし続けている衛宮さん達ですら深入りするのを躊躇うとは。

 

 

「何か、館内放送みたいなのはないのかい?」

 

「時計塔ってそういうところじゃないんで‥‥困りましたね」

 

 

 基本的に無関心な式と、部外者という立ち位置からスタンスを決めかねているらしい藤乃以外の全員が顎に手をやって首を捻る。

 特に生活がかかっている幹也が必至なのは分かるけれど、それと一緒に悩んでくれる衛宮さん達は本当に優しいのだろう。

 

 

「‥‥そうだな、先ずは遠坂に聞いてみないことには動けないだろ。幹也さん達には悪いけど、俺は遠坂の弟子っていう扱いで特別に入学させてもらったようなもんだからさ。

 もし時計塔の方で橙子さんを探すっていうなら、遠坂の方がよく分かる。まぁそれでも見つかるかどうかは分からないけどな‥‥」

 

 

 確かに、特待生という扱いで教授の覚えもめでたいという遠坂さんなら多少なりとも手がかりを知っているかもしれない。

 それに考えるための頭は多いに越したことはないだろう。そうでなくとも慣れた観布子の街ならともかく、右も左も分からない異国の街では勝手も違う。

 とすると例え遠坂さんが何か橙子師について情報を持っていなかったとしても、勝手が知っている人に助けてもらうことは下策というわけでもないはずだ。

 

 

「‥‥そういえば遠坂、結局どうしたんだ? なんか勢いで夕食も済ませたけど、ずっと戻って来ないし」

 

「さて、何か用事があったとしても、そろそろ帰ってくるはずですが‥‥」

 

 

 確かに、言われてみればこの屋敷の主であるはずの遠坂さんの姿がない。てっきり時計塔か何処かに用事で言っているものだとばかり思っていたのに、衛宮さん達も把握していなかったらしい。

 

 

「え‥‥と、私達だけ先に夕食を頂いてしまっても良かったんでしょうか?」

 

「まぁせっかくのお客さんだし、日本から遙々来てくれたんだから腹減ったままじゃアレだしさ。それにこれ以上遅くすると身体にも悪いし。

 ‥‥しかし本当に遠坂はどうしたんだろうな。今までは必ず何処に行くかぐらいは残していったのに」

 

 

 遠坂さんとは、この前ロンドンに来た時に大分言葉を交わした仲だった。

 第一印象は、凄く“華のある人”。そこにいるだけで周囲の人の目を、視線を自然と惹き付ける綺麗な一輪の花のように。そして名前と同じように凜と咲く花のような人だと私は思った。

 ただ、それは遠坂さんが綺麗だとかそういう話ではないとも思う。例えば遠坂さんがそこら辺を歩いていそうな普通の女子のような容貌をしていたとしても、遠坂さんが人の目を惹き付ける存在であることは変わらない。

 彼女の存在というものが、在り方というものが人を惹き付けるのだ。ベクトルこそ違えど式にも似た存在感を周囲に放っている。

 とすると私と多少ならずと衝突するのもまた当然だったのかもしれないと考えてしまうのは、私自身に華があると誤解されてしまうかもしれないけど、これまた一抹の事実が隠れている気がしてならないわね。

  

 

「‥‥ん、鍵の音がしたな?」

 

「凜でしょうか。出迎えに行って来ま———」

 

 

 普通の家に比べて少し距離が遠い玄関の方から、何か金属的な物音が聞こえた。

 おそらく今のは、この家に誰かが訪れた音だろう。家の鍵を開ける音‥‥ということは、遠坂さんが帰ってきた音だろうか。

 

 

「士郎君! セイバー! 紫遙君を知りませんかっ?!!」

 

「———って、はぁ?」

 

 

 玄関から一直線に近づいてきた足音がダイニングと一続きになったリビングの扉が大きな音を立てて開かれ、一人の女性が姿を現した。

 想像していた遠坂さんの姿ではない。長い艶のある黒髪ではなく、短い小豆色の髪の毛。前に見た赤い洋服ではなく髪と同じ小豆色のスーツを纏い、身長も心なしか随分伸び‥‥っていうか、別人だ。

 

 

「‥‥バゼットじゃないか。いきなりどうしたんだ? っていうか鍵はどうしたんだ?」

 

「鍵は凜さんに開けて貰いました。決してピッキングなどはしていませんよ」

 

「なんだ遠坂もいたのか。‥‥二人とも一体どうしたんだ、そんな深刻そうな顔をして」

 

 

 バゼットと呼ばれた長身の女性の後ろから、なんとなくしっくりとくるツインテールに髪を結んだ遠坂さんがひょっこり顔を見せる。

 しかし、その顔は決して帰宅直後の家主の顔ではなかった。バゼット‥‥さんと同様にどこか焦ったような、緊迫したような、そんな顔だ。

 きっとここまで走って来たんだろう。不思議ときっちりスーツを着込んだバゼットさんの方は汗一つかいていないのに、遠坂さんの方は息を切らせている。

 

 

「‥‥その質問には私の問いに答えてからにして下さい、士郎君。繰り返しますが、こちらに紫遙君は来ていませんか? もしくは何処でもいい、この数日で彼を見たことはありますか?」

 

「いや、冬木から帰って来たあれっきり見てないけど‥‥何かあったのか? もしかして、紫遙が工房から出てきたとか」

 

「‥‥ただ出てきただけならどれほどまでに良かったことか。士郎君、本当に紫遙君の姿は見てないんですね?」

 

「あ、あぁ」

 

 

 衛宮さんの答えに、バゼットさんは歯軋りと共に苦虫を噛み潰したかのような、それでいてそんな穏便な表現が当てはまらないくらいに物騒な顔をする。遠坂さんも、また同じ。

 だけど私にはそんな緊迫した様子よりも、二人のやり取りの間に出てきた一つの名詞の方が気になった。

 

 

「ちょ、ちょっと待って下さい二人とも! ‥‥もしかして、紫遙って蒼崎紫遙のことですよね?」

 

 

 それは勝手の知れない異国の土地にあっても聞き馴染んだ知人の名前。

 この場においては耳にしても当然な名前であっても、何となく、焦った様子で飛び込んできた人の口から出るとなると、気になる名前でもある。

 

 

「‥‥確かに、その紫遙君で間違い在りません。しかし、ところで貴女は誰ですか?」

 

「あ、自己紹介が後になってしまいましたね、すいません。‥‥私は黒桐鮮花。魔術師、蒼崎橙子の弟子で、紫遙の妹弟子にあたります」

 

「おや、紫遙君の妹弟子だったのですか。こちらこそ初めまして。私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。封印指定の執行者をしています」

 

 

 一旦落ち着き、初めて会う長身のバゼットさんと握手する。掴んだ手の体温は低めで、がっしりとした男らしいものだった。

 封印指定の執行者って、確か橙子師みたいに封印指定された魔術師を捕縛、もしくは殺害して魔術回路やら魔術刻印やらを協会まで持ち帰るっていう物騒極まる職業だったはず。

 それは言うならば、橙子さんに匹敵する腕前を、超一流の腕前を持った魔術師だということを表している。そうでなかったら封印指定の魔術師なんて化け物達相手に大立ち回りなんて出来やしない。

 

 

「あぁ気にしないで下さい、黒桐さんと言いましたか。マイスター・アオザキの封印指定は既に執行を凍結されています。その縁者に対して何か思うところがあるというわけではありませんよ。

 ‥‥なにより、私自身も紫遙君の友人であるつもりですから。そうだ、紫遙君ですよ問題は。参りましたね、ここにも来てないとなると、本当に‥‥」

 

「そうね、貴女の話を考えると、これは踏み切ったとみて間違いない‥‥」

 

 

 二人して溜息よりも遥かに重い吐息を噛み殺したかのように漏らす。事態を全く把握できていない私は知り合いの名前が深刻らしい状況の中で出ているというのに、目を白黒させるばかり。

 そんな私をさておいて痺れを切らせたのか、衛宮さんが何処かもどかしいような素振りで二人の話に割り込んだ。

 

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ二人とも! さっきから紫遙について何か話してるみたいだけど、説明してくれないんじゃ何が何やらさっぱりだ。

 先ず二人がどうしてそんなに焦ってるのか、最初にそれを話してくれ」

 

「‥‥失礼、多少ならず取り乱しておりました」

 

「私もね。‥‥悪かったわ、士郎。バゼットの話を聞いて思ったより動揺してたみたい」

 

 

 最初は大きく、その後は落ち着いた低めの声で諭すように言葉を紡いだ衛宮さんのおかげなのか、今度は小さく長い吐息を零してバゼットさんと遠坂さんが調子を取り戻す。

 ちなみに私の横をちらりと見ると、無関心な式と部外者のスタンスを崩さない冷静な藤乃はともかく、幹也は何が何だか本当に分からない様子で目を白黒させていて、きっと私もさっきは似たような顔をしていたのだろう。

 私と幹也とは男と女という違いこそあるけれど、それでもやっぱり兄妹らしい。藤乃とか橙子師とか、さっきから名前の挙がっている紫遙なんかにも良く言われた。

 

 

「‥‥蒼崎君が工房に閉じこもってたのは知ってるでしょ? ———あぁ黒桐さんは知らないと思うけど、ちょっと色々とあってね。精神的にピンチになっちゃってたのよ、彼」

 

「紫遙が‥‥精神的にキテるってことですか?」

 

「そう。私としても蒼崎君があんなに不安定になるとは思わなかったから本当に驚いたんだけど。とにかく冬木から帰ってきてからこっち、ずっと工房から出て来なかったの」

 

「———ッ?!」

 

 

 愕然と、した。

 私の知る蒼崎紫遙という人間は、魔術師だ。

 そして魔術師とは厳密に言えば人間とは違う人種であり、超越者である。それを端的に表しているのは橙子師だろうけど、もちろん当然のこととして紫遙だって超越者の範疇である魔術師に属する存在である。

 

 超越者、という言葉には全てにおいて魔術師が普通の人間を上回るという意味を表してはいないはずだ。

 橙子師だって単純な運動能力で言うなら、そこら辺の高校の運動部とかにも劣ることだろう。知識量だけを比べるなら、学者とかなら十分に匹敵するに違いない。

 魔術師は人間を超越している。それは単純にスペックを比べるわけじゃなくて、魔術師その人が自分自身を超越者であると定義しているからだ。

 もちろん、それは自分勝手に身の程も知らずに名乗っているわけじゃない。自分の在り方全てをふまえた上で、超越者であることを“選択”した。

 

 超越者である魔術師が、前述のことをふまえてそれでも具体的に何処で違うのかと言われれば‥‥。

 それはやはり、精神と魂と言うしかないだろう。特に人間を構成する三大要素の一つという意味の精神というよりも、心の違いというのが妥当だろうか。

 強靱で頑強で、波一つ立てない揺らぎない心。そんな心と精神を持った人間こそが魔術師たりえる。

 果てのない“根源”への道を、ひたすら淡々と歩んでいける。いける、という言い方が当てはまらないなら“敢えて自ら歩む”という言葉を選びたい。そういう選択こそをするのが、魔術師だ。

 そういう選択を出来る心を持つ決意をして、それを実行に移して完成した存在が魔術師だ。

 

 紫遙は私の、それなりに身近な場所にいる存在と言える。そりゃ兄弟子とはいえ別に尊敬とかはしてないし敬ったりしたつもりもないけど、それでも魔術師としての蒼崎紫遙は私だって欠片の疑いもなく認めるところである。

 “その”紫遙が、まさか一年近くも一緒にいるのだろう友人達がここまで心配する程に、精神を乱し、心を乱し、あろうことか知人に心配させっぱなしの状況を放置したままで工房に引きこもっているという。

 普通の人間ならまぁ、ごくたまにならそのくらいあってもおかしくないと思うようなことであろうと、こと魔術師がそのような状態に陥っているとなると話は別。

 蒼崎紫遙という魔術師がそこまで揺らぐとなると、並大抵のことじゃない。この場にいる誰よりも付き合いが長いであろう私としては、言葉を失うには十分以上の衝撃だった。

 

 

「———まさか紫遙が、そんな。‥‥衛宮さん、遠坂さん、紫遙に一体何があったんですか?」

 

「俺達にも、よく分からないんだ。黒桐さんだって冬木で紫遙の様子は見ただろ? 俺としては、アノ通りだとしか答えられないな」

 

「アイツに記憶を盗み見られた、って言ってたけど‥‥。ねぇ黒桐さん、紫遙が記憶を見られるだけであそこまで動揺する理由って、何か見当つかない?」

 

「えーと、私では何も‥‥」

 

 

 思い出すのは、冬木のビルの上。

 鏡面界という異空間を挟んで反対側にある並行世界から帰還した紫遙や衛宮さん達を出迎え、そして出てきた事件の黒幕とも言える、全身白尽くめの魔術師(へんたい)

 正直、まだまだ未熟者を自認する私では、ヤツが言っていることも遠坂さんやエーデルフェルトさんが言っていたことも良く分からない。

 だけど、ヤツを前にした紫遙の動揺具合だけは今でもはっきりと覚えている。そして、勿論それに対して覚えた衝撃だって。

 そのときの私は、そりゃ紫遙だって魔術師だって多少は驚愕したり動揺したりすることもあるさと、そう楽観的に考えていたけれど。まさか、今の今になるまでダメージを負う程の衝撃だったとはとても思わなかった。

 

 

「私とルヴィアゼリッタは今までね、蒼崎君を何とか工房から引きずり出そうって話し合ってたのよ。

 さっき黒桐さんにも聞いたけど、やっぱり本当のところは蒼崎君に聞かなきゃ始まらないし、理由ってものを知らなきゃ私達だって力になってあげられないもの」

 

「そういえばその前に大英博物館のカフェテリアでセイバーとも一緒に話してた時に、橙子さんに会ったんだよな。‥‥恐ろしい人だった。格が違う、っていうのを久しぶりに肌で感じたよ。

 黒桐さんも、あんな凄い人に師事してるなら腕の立つ魔術師なんだろうな。紫遙もそうだったけど、来年度が楽しみだよ」

 

「わ、私は魔術師というよりは異能者ですから、そう期待されても‥‥」

 

 

 顔は普通の落ち着いた表情だというのに、目だけがキラキラと光っている子どもっぽい視線を向けられて思わず困惑してしまう。

 そりゃ衛宮さんは確かにどちらかというと童顔だけど、体つきは相当に鍛えているらしくがっしりとしていながら引き締まっていて、かなり男らしいというのに。こういう風にふとした瞬間に見せる子どもらしさにドキッとする。

 いや、別に女として惹かれているとかそういうわけじゃないのよ。先ず遠坂さんが怖いし、私には幹也がいるしね。そうじゃなくて、なんていうかこれは人としてのカリスマみたいなものなんだと思うのよ。

 ‥‥いや、カリスマっていう言い方だと不的確かもしれないわね。純粋に、惹かれる人間性をしているって言い方の方が相応しい気がする。素朴な衛宮さんには、ソッチの方が似合う。

 

 

「話を戻すけど、それでルヴィアゼリッタと二人でロード・エルメロイのところに相談に行ってたら、突然バゼットが飛び込んできたの。それこそさっきみたいに血相変えて、汗だくでね。もしかしてあれ、執行者の執務室から全速力で走ってきたの?」

 

「‥‥予断を許さない状況だったんですよ、本当に。封印指定の執行者という仕事は冷静さを求められはしますが、私とて常に平静でいられるというわけではありません」

 

 

 普通ならからかわれているとでも思ってしかるべき言葉にも、バゼットさんは深刻な表情を崩さないままに真剣な声色で返答する。

 冗談に反応する余裕もない、というよりは、遠坂さんの方でも冗談を言ったつもりはないようだ。あくまでも真剣に、友人である紫遙のことについて考えて焦っているという風にも見える。

 

 

「ちょっと前置きが長すぎるような気もするのですが。結局のところ凜、いったいショーに何があったのですか?」

 

「‥‥何があった、っていうわけじゃないわね。どっちかっていうと、何かした、ってところかしら」

 

「は?」

 

 

 苦々しげに遠坂さんが呟き、ちらりとバゼットさんの方へと視線を移す。

 話の流れから、どうやら最初を知っているのはバゼットさんらしい。自然とその場の全ての人の目が男装の麗人へと移った。

 

 

「‥‥数日前、私が指向者の執務室にいる時に、紫遙君が訪ねてきたんですよ」

 

「紫遙が?! アイツ、調子が戻ったのか?!」

 

「ええ、私も最初はそう思いました。‥‥いえ、実際に言えば確かに精神状態は安定していたようでしたから。どうやらお義姉さん方が揃って発破をかけに来たようなのです。

 あの紫遙君の様子を見れば皆さんも安心したに違いありません。流石、蒼崎姉妹の力は偉大だと思いましたね」

 

 

 知らない人から聞いたことでも、確かにそれは納得だと私は自然に吐息を零した。

 私だって伊達に紫遙の妹弟子をしているわけじゃない。もう数年もの付き合いになる内の殆どの間、紫遙と橙子師や青子さんとの関係を見せられて来たのだ。

 紫遙は、あの二人の義姉に最大級の敬意と憧れ、そして信頼を寄せている。紫遙の全てがあの二人によって構成されていると断言してもおかしくない。

 他人である私がこう言うのもおかしなことかもしれないけれど、例えば紫遙があの二人のどちらかに「死ね」と言われたならば、多少の迷いはするだろうけど、その理由に納得さえしたら何の躊躇いも無しに自ら命を絶つだろうことは間違いないだろう。

 それほどまでの信頼を寄せている二人が、紫遙の中で最もスペースを占める二人が紫遙に発破をかけにやって来たというのなら、そりゃ疑いの余地がない。結果にも、過程にも。

 

 

「‥‥発破をかける方向は、私達が予想したものと違ったようですが」

 

「は?」

 

「簡潔に言いましょう。あの時の紫遙君の様子、そして今現在彼がロンドンにいないことを考えると‥‥。

 どうやら彼は、たった一人きりでコンラート・E・ヴィドヘルツルとの決着をつけにいったようなのです」

 

 

 ピタリ、というよりはピシリと空気が固まった。

 事情がよく分からないはずの幹也と藤乃も、バゼットさんの発した言葉の内容に凍り付いた衛宮さんとセイバーさんにつられて、息を飲んだまま呼吸を止めている。

 

 

「‥‥どういうことですか、バゼット」

 

「どういうことも何も、言ったとおりですよセイバー。彼は先日、私がいる執務室にやって来て彼の魔術師の資料を求めました。

 ‥‥あの時は力になれるかと思って渡しはしましたが、今になって思えば下策でした。まさか、忠告も無視して一人で飛び出して行ってしまうとは!」

 

 

 ギシリ、という歯軋りの音が聞こえるくらいに額に青筋を立てたバゼットさんの様子は、心配を通り越して既に激怒してしまっている。よほど腹に据えかねたのだろう。

 握りしめた拳の中に下手な宝石でも入っていたものなら、粉々に砕かれてしまいそうだ。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル‥‥?」

 

「紫遙君達と一緒に、あの冬木の夜に遭遇した全身白尽くめの魔術師(へんたい)ですよ。

 ヤツは十年ほど前に封印指定を受けた魔術師で、“天災”と呼ばれるほどの腕前です。いえ、あの夜に相対しただけでもヤツの魔術師としての力量は十分に実感できたというもの。

 ならば一人で挑むのは無謀に過ぎると、彼ならば理解出来たでしょうに‥‥!」

 

 

 状況を頭の中で整理する。

 まずあの冬木の夜に出会った白スーツの魔術師の名前はコンラート・E・ヴィドヘルツル。どうやら橙子師と同じ封印指定の魔術師で、トンデモない腕前らしい。

 そして紫遙はあれからロンドンに帰ってきてずっと工房に引きこもって鬱になっていたけど、橙子師や青子さんのおかげで立ち直り、そんでもってあの魔術師と決着を付けるために出て行った、と。

 ‥‥ちょっと、何考えてんのよアイツ。

 

 

「いや、無理でしょ。普通に考えて無理でしょ。とてもじゃないけど紫遙で太刀打ちできる相手じゃないわよ」

 

 

 紫遙の魔術師としての腕前は私だって認めるところだ。そりゃ頼りないけど、純粋に魔術師としてなら紫遙は一流‥‥とはいかないでも、それなりのものを持っているはずだ。

 でも、それは“魔術師”としての話。確かに腕前っていう表現を使いはしたけれど、本来なら魔術師同士で力量を比べるっていうのはすごくナンセンスな話になる。

 魔術師っていうのは個々を比べることの出来ない存在だ。一つ一つの魔術の完成度や熟練度でおおよその腕前の程度というものは計れても、総合的な力量を絶対的に比べるのは不可能だ。

 

 確かに蒼崎紫遙は魔術師としては、特にあの年齢では相当に真っ当に、かつ“よく出来た”魔術師をしているだろう。

 けれど魔術師として優れていても、“戦闘者”として優れているかはまた別の問題だ。それを言うと、紫遙は致命的なまでに“魔術師”であって“戦闘者”ではない。

 こと戦闘に関してなら、伽藍の洞では幹也に次いで弱いのだ。式はともかく藤乃もまぁ良しとして、私にだって負けてしまうことは必至だ。

 それは紫遙だって当然のことだと理解しているはずなのに。理解して、許容して、肯定しているはずなのに。

 自分が闘いに赴くのは最低の下策だと理解しているはずなのに、何故に紫遙は一人で闘いに、否、戦いに行ったというのだろうか。

 

 

「鮮花さんの言うとおりです。紫遙君では、決してヴィドヘルツルに勝つことはできない。だというのに一人で旅立ったということは‥‥おそらく、お義姉様方の発破が原因と見て間違いないでしょう」

 

「‥‥あの人、何を思ってそんな真似をしたんだ? って、そういえばルヴィアはどうした?」

 

「ルヴィアゼリッタなら、今あっちこっちの航空会社に連絡を入れてるわよ。私達よりもアイツの方が伝手が多いからね。遥かに効率が良いのよ。

 バゼット曰く、あの魔術師の本拠地はドイツの片田舎らしいから、もし本当に蒼崎君がヤツと戦いに行ったなら飛行機を使っているはずだからね」

 

 

 衛宮さんが話の隙間を縫って淹れてきた紅茶を口に運びながら、遠坂さんが答える。そういえばルヴィアさんって良いところのお嬢様‥‥というか貴族様だっけ。

 だとしたら確かに、ロンドンに来た異邦人である遠坂さん達よりもあっちこっちに伝手があってもおかしくない。

 まぁ思い返すとルヴィアさんもイギリスの貴族じゃなくて、フィンランドの人だったはずなんだけど。まぁ、お金を持っていると色んなことがあるんだろう。

 

 

「‥‥で、どうするんだよ遠坂。ルヴィアに調べてもらってはいるみたいだけど、もう紫遙が例の‥‥コンラート・E・ヴィドヘルツルとかいう魔術師のところに行っちゃったのは殆ど確実なんだろ?」

 

「そうね。バゼットの話からすると、そう見て間違いないと思うわ」

 

「だったら黙って見てるわけにいくか! 紫遙一人じゃ勝てないんだろ?! だったら助けに行かないと、今度こそアイツ捕まっちまうぞ!」

 

 

 冷静に表情を変えないで呟く遠坂さんに、衛宮さんが大きな声を出す。

 紫遙のことを心配してくれているのか、どうやら助けに行くつもりのようだ。今頃アイツは、バゼットさんの話が確かならドイツにいるだろうに、考える時間も無しに、言い切った。

 

 

「‥‥それはそうなんだけど、ね」

 

「遠坂!」

 

「落ち着きなさい、士郎。確かにアンタの言いたいことも分かるけど、ちょっと性急に過ぎるわよ」

 

「だって遠坂、紫遙がピンチだっていうのに黙ってられるかよ!」

 

 

 ダン、と大きな音を立てて衛宮さんの拳を受けたテーブルが軋む。

 衛宮さんは今にも走り出して行きそうなぐらい浮ついた様子で怒気を孕み、バゼットさん同様に歯を食いしばっていた。

 ただの友達、それも一年ほどしか付き合いのない友達のために、遥かに強大な敵へと挑む。しかも、その選択肢を選ぶまでに逡巡もなく。

 でも———

 

 

「遠坂さんの言うとおりですよ、衛宮さん。事情はまだはっきり分からないんですけど、まずは落ち着かないといけません」

 

「黒桐さん、紫遙は君の兄弟子だろ?!」

 

「だから落ち着いて下さい! そりゃ、私だって紫遙が危ないっていうなら黙ってられないのは同じです。でも計画も無しに飛び出すわけにはいきません!」

 

 

 衛宮さんと同じように、他人様の家だから気は引けるけどテーブルを叩く。掌が痛いけど、それでも痛みと引き替えに飛び出た大きな音は衛宮さんの激昂を一瞬でも落ち着かせた。

 ‥‥私だって鬼や悪魔っていうわけじゃない。それなりに長い付き合いで、一応はそれなりに世話になった紫遙がピンチだっていうのに、関係ないなんて決め込んではいられない。

 でも衛宮さんは、ただがむしゃらに走っていこうとしているだけだ。そこには実が伴っていない。

 実際、紫遙を助けにいくというのは、紫遙のピンチを知った段階で私の中では確定事項であるのだから。

 

 

「話はルヴィアさんの調査の結果が出て、それからじゃないんですか。紫遙を助けたいのは私だって同じなんです。力を惜しむつもりはありません。

 でも、それでも準備も同意も得ないで走り出すんじゃミイラ取りが何とやらってもんですよ。助けは惜しみませんから‥‥さぁ、作戦会議と行きましょう」

 

 

 本気の目をした遠坂さんとバゼットさん、そしてセイバーさん。

 事情を知らない幹也や式も、真剣な目でこちらを見ている。身内に何かあったとすれば、実際に手を貸すかどうかは別として、まずは前向きな姿勢を示すのは人間として当然のこと。

 ましてや私は、否、私達は魔術師だ。

 

 本来ならば孤高であるべき存在。そして孤独に、それでも何かに急かされるかのように盲目的に貪欲に根源を追い求める私達が、数多の幸運と僥倖によって手に入れることの出来る、数少ない“身内”という存在。

 だからこそ魔術師は、本来ならば不要と談じるはずの身内をこの上なく大事にする。

 それらは正しく得難い存在。いや、本来なら得るはずのなかった存在だ。それがどれほどまでに貴重なものか。どれほどまでに魔術師にとって大事で、大切なものか。

 

 紫遙にとって私は身内。そして私にとっても、私自身の紫遙に対する評価がどうであれ、紫遙は身内なのだ。

 身内のためなら多少の骨身は惜しまない。魔術師としても、黒桐鮮花としても勿論それは当然のことで。

 

 きっと周りの皆も、面倒臭そうに無関心に見える式でさえも、それは同じ。

 ‥‥全く本当に世話を焼かせてくれるわね。人にはあれだけ散々色々と苦言を弄しておいて、こういう時に今までの私の色んなポカを帳消しにするぐらいの大ポカを、大迷惑をやらかしてくれるんだから。

 ホントに、この借りは大きいわよ? ねぇ紫遙、もし無事に戻ってこれたなら今までの貸しは全部帳消しで、ついでにこれでもかってぐらい嫌味たくさん言ってやるんだから。

 覚悟してなさいよね、兄弟子さん?

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 細かく小さな雨の粒が地面に叩きつけられる音を、何処か遠いところで起きている出来事のように聞いていた。

 分厚いコンクリートの壁の向こうで、きっと雨が降っているんだろう。大粒でもなく、激しくもなく、ただただ陰鬱な小雨だけが降り続いているんだろう。

 事実なはずなのに、不確実な現実感を振りまいている雨音は、おそらくだけどオレの心象状況を表している。つまり、外部に気を払うことが出来ないくらいに自己に埋没している証拠だ。

 

 自己に埋没するという表現をどのように解釈するか、それなりの意見があるだろう。周りのことが何も分からない程に何かに集中しているという状態を表す人もいるだろうし、あるいは自己中心的に盲目的に活動しているような状態を表す人もいる。

 それらは個々人によって全く解釈が異なるものだからしかたがないと言えるけれど、ここで一つ、字面というものを額面通りに捉えて考えてみて欲しい。

 埋没するというのは能動的な意味合いをあまり含んでいない。微妙に不適切な表現だから少し言い換えれば、前向きなイメージを含んでいないのだ。

 底なし沼に埋もれて行くように、自分の中へずるずると沈んでいく。本来なら人間は足を動かし続けていなければならない生き物であるというのに、それをせず、無抵抗で自分の精神を自分の精神の中へと埋没させていく。

 

 埋まり、沈むということは自分の周りが沈んだ先で囲まれるということである。自分の外側を、沈んだ先で埋め尽くすということである。

 どうして人は自身に埋没しようとしたがるのか。本来なら群れを為して、社会を為して生活するべき生物である人間が、何故周りとの接触を隔絶してまで自己に埋没したがるのか。

 自己の周りを自己で覆う。それは自己の保護である。

 周囲から自身を隔離し、自身を保護しなければどうしようもないときがある。それは一般人、普通の人間であってもそうだろうけれど、今のオレにとっては深刻極まりないものであった。

 

 

『‥‥世界から拒絶される、ということをお前は実感としてしっかり持っているか?』

 

 

 あの日、橙子さんからオレの現状について知らされた後、情けなくもオレは何かによる衝撃で意識を失ってしまった。

 目を覚ませば伽藍の洞の、自分に割り当てられた部屋。薄いベッドの上で尋常じゃない倦怠感と共に、頭の中で破鐘を叩くような鈍痛がする。

 正確には頭が痛いというわけでもないのだろう。頭が痛むというよりは、精神が、魂が痛みを訴えているのだ。

 まぁもちろん魂が、精神が頭に宿っているというわけでもないだろうけれど、それでもオレ自身がそう感じているのだからそのものと言えるだろう。

 

 

『自分が描いた絵の中に、おかしな色が混ざっていたらどうする? そこに本来なら在るべきだった色で塗り潰すのが道理というものだろう。

 塗り潰された後に、元あった色がどうなるか‥‥。まぁ簡単に考えはつくところだろうな。塗り潰されれば元の色は消える』

 

 

 目覚めたオレの隣に座っていた、橙子さんの言葉を思い出す。

 オレはこの世界という、完成された絵の中に何故か混ざり込んでしまった、“本来なら描かれていないはずの人物”だ。描き手である“世界”にとって、オレは完成された絵の中に在ってはならないはずの存在だった。

 ならば描き手によって修正されてしまうのも道理。

 ‥‥しかし実際のオレは絵の具で塗ったくられた絵なんかじゃない。世界に修正されてしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。

 

 

『さて、それは実際に私も見たことがないから分からんな。

 だが少しばかり憶測を立てることが出来る。例えば投影物についての前例などを引き合いに出せば、まぁ多少なりとも判断材料にはなるだろう』

 

 

 そう言いながら橙子さんは、机の上に置いてあったマグカップを投影魔術のようなもので複製してみせる。魔力‥‥というのだろうか、霧が輪郭から始まって正確にマグカップを形作る様は、実は初めて見る魔術としては十分過ぎる程に神秘的だった。

 

 

『魔力で生み出された投影物は、魔力の結合が世界からの修正力‥‥いわば圧力(プレッシャー)を受けて崩壊するわけだな。

 しかし魔力で構成された投影物と異なり、既に確定された存在である人間は早々消えん。例えこの世界の人間ではない、お前でもな。ならば今度は人間を構成する三大要素の内、最も脆い精神辺りを狙ってくるのが予想される』

 

 

 精神への攻撃‥‥。つまり、今オレが受けているこの頭痛やら圧迫感やら倦怠感やら、そういう不調全てまとめて世界による仕業だということだ。

 一人、年代物っぽいアルミパイプのベッドの上で膝を抱えながら、寒くもないのにあまりの悪寒にがたがた震え、指の爪を深爪するぐらいまで歯で噛み砕いている。

 ちなみに右手の指の爪は噛みすぎて既に噛むところが無くなってしまったので、今度は指の節に噛み跡がある。流石に噛み切るぐらいまではまだ追い詰められていないけど、それも時間の問題だろう。

 

 精神への攻撃、ということは一体オレは何をしてそれに対抗すればいいのだろうか。

 今のこの状況だけを打開したところで意味はない。世界からの圧力は恒常的に、継続的に襲いかかってくる類のものだ。長く通用する対策を施さなければ全く効果が出ない。

 

 

『‥‥それはお前が見つけることだよ、■■■■。

 私からある程度の実用性のある解答を用意してやることは出来る。しかしそれでは意味がないのだ。これはお前自身が、解答を見つけなくてはならない。

 世界との付き合いというのはな、意外にも人と人との付き合いに似ているものだ。もちろん相手が絶対強者であるということは絶対に覚えておかなければいけないことではあるが、な。

 人と人との間の付き合いに亜人が口を出してもろくなことにはならん。だからこそお前はお前自身で答えを、付き合い方を導き出さねばならん。

 要するにお前のするべきことというのは、世界という大家に媚を売って自分の部屋を確保することだ。この世界の産物ではないお前が、この世界の一員になること。それがお前自身を救う早道なんだよ』

 

 

 ‥‥オレが、世界の一員になる。

 この世界から退出することができない以上、オレはこの世界で過ごしていくしかない。ならばオレは、あらゆる手を尽くしてこの世界に間借りさせてもらうしかないのだ。

 オレがこの世界にいるという矛盾を、オレ自身が必死で誤魔化さなくてはならない。そうしなければこの世界からの圧迫感、修正力は消えず、結果としてオレは精神崩壊という悲惨な末路を辿ることになるだろう。

 

 

「———嫌だ」

 

 

 掠れたような、自分の呟き声が静まりきった部屋の中でやけに大きく響いた。

 そうだ、嫌だ。そんなのは嫌だ。精神崩壊なんてそれこそ死んでもゴメンだ。絶対に、そんな末路は迎えたくない。

 正直な話をすれば、あの事故‥‥と思われる大惨事から生還できただけでも御の字だとは思っている。それでも、せっかく拾った命は何だかよく分からない理由で消費したくない。

 更に正直な話をすれば、実のところオレは今の状況を上手く把握できていないのだ。おそらくは創作物の‥‥オレが好きだった型月の、世界に、来ちゃったことは、間違い、ないんだろうけど‥‥ああやめよう、この話について考えるのは、修正力が、きつく、なる‥‥。

 

 

「冗談じゃ‥‥ない‥‥。訳が分からないまま、死んでたまるか‥‥!」

 

 

 強く、強く自分の頭を掻き毟る。これ以上、立ち止まっているわけにはいかない。

 まるで虫歯みたいだ。最初は全然平気だと思っていても、ある一線を超えると酷く自分を痛めつけてくれる。これは中々に辛い。 

 もう我慢出来る範囲は超えてしまった。もう無視できる段階を超えてしまった。

 

 

「あぁ、でも‥‥」

 

 

 そうだ。橙子さんの言っていることは間違いなんかじゃないだろうけど。

 

 ———一体オレは、どうやってこの世界の仲間入りをすれば、いいのだろうか。

 

 

 

 

 act75 Fin.

 

 



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第七十五話 『霧の街の出発』

 

 

 

 

 side Mikiya Kokuto

 

 

 

「‥‥ただいま戻りましたわ。残念なお知らせですが———と、あら、随分と大所帯ですわね。これは一体どういうことですの?」

 

 

 僕たちが一旦落ち着いてテーブルに座り直し、士郎君がもう一回入れ直してくれた、今度は間違いなく本場物の紅茶を飲んでいると、再びの来訪者が現れた。

 陽の光に映えるオレンジ色の髪の毛をした、まるで彫刻のように綺麗な顔をした欧米系の美少女。

 年頃は鮮花と同じくらいか、少し上ぐらいだろうか。欧米人は実年齢より微妙に上に見えるからよく分からないけど、外見だけではなく雰囲気からして既に大人っぽい。

 纏った服も日本などでは見ない、鮮やかな青と白いレースなどをふんだんにつかった特徴的なもので、その印象を敢えて一言で述べるならば“貴族”だろう。

 ああ、もしかしてこの人が‥‥。

 

 

「あら、ルヴィアゼリッタじゃない。早かったわね、調査は終わったの?」

 

「早かった、とは失礼ですわねミス・トオサカ。事態が事態ですから急がせて頂きましたのに」

 

 

 やはり、彼女が紫遙君が何回か話していたルヴィアという子らしい。確か紫遙君の学友で、一番付き合いが深い上に首席候補だとかいう才女らしい。

 ぴんと伸ばされた背筋といい、自信に溢れた輝く瞳といい、確かに紫遙君が側にいようと思ったのも頷ける。

 

 紫遙君はああ見えてかなりの人見知りで、しかも臆病なところもある。彼が近づこうと思う人間って、僕の前で話し合っている遠坂さん達みたいに、輝きを放っている人物とかに限られるんだ。

 多分、所長とか青子さんとかの影響があるのかもしれないね。さっきも話に挙がっていたけど、紫遙君は二人のお姉さんに心底傾倒しているから。

 

 

「初めまして‥‥でよろしかったかしら? 私はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。時計塔の鉱石学科に所属している学生です」

 

「ああ、初めまして。僕は黒桐幹也。紫遙君の友人です。こっちは妹の鮮花と、その友達の浅上藤乃。それと僕たちが務めている『伽藍の堂』の同僚の、両儀式です」

 

「なるほど、ショウの御友人ですのね。ミスタ・コクトーでよろしいかしら? お話はショウからも何度か耳にしておりますわ。どうぞよろしくお願い致しますわね」

 

 

 花の開いた、というよりは華のような笑顔を見せるルヴィアさん。可憐というよりは凜とした感じは、凜ちゃんや鮮花にも似ている。

 ‥‥それにしても外国人のはずなのに随分と日本語が達者だ。まるで生粋の日本人が話しているかのように、発音にも文法にも全く違和感がない。というよりも、この上品な言葉遣いは一体何処で学んだのだろうか。

 

 

「本当ならちゃんと皆で自己紹介させてあげたいところなんだけど、落ち着いてからにしましょう。

 それでルヴィアゼリッタ、航空会社の方を調べて来たんでしょう? ‥‥どうだったの?」

 

「‥‥シヨウ・アオザキ名義でドイツへの航空券を購入した記録がありました。バゼットの渡した資料をアテにしたと考えると、間違いなくあの魔術師(へんたい)と決着をつけに行ったんでしょうね」

 

 

 笑顔はすぐに曇り、先程のバゼットさんや凜ちゃんと同じような仏頂面へと変わる。

 どうやらルヴィアさんの言葉から察するに、やはり紫遙君はコンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師を追いかけてドイツまで行ってしまったようだ。おそらく、ドイツがその魔術師の本拠地なんだろう。

 

 ‥‥ちょっと前に鮮花と桜ちゃんが来年度の留学のために倫敦に行った帰りに、ダイレクトに伽藍の洞に帰ってくるんじゃなくて途中で冬木に寄ったらしいけど。

 その時にちょうど紫遙君達も時計塔の任務で冬木にいたということだ。冬木は僕の前でルヴィアさんと話している凜ちゃんが地主をしている領地だそうで、そこに発生した特異現象を調査するのが仕事だったとか。

 そういえば僕も一度だけ行ったことがあったっけ。あの橙子さんの調査依頼って、結局どうしてピンポイントであの二人が対象だったのかな?

 今こうして紫遙君と友達付き合いをすることになるなんて、とても予想できないと思うんだけど‥‥。

 

 あぁ、結局その特異現象というのも冬木に侵入した一人の魔術師によって巻き起こされたもので、その魔術師によって精神攻撃を喰らってしまった紫遙君は、先述のように倫敦に帰ってきてからは自分の工房に引きこもってしまったという。

 それがどんな精神攻撃かは知らない、というか凜ちゃん達があまり語りたがらなかったので分からない。けれど、普段から余裕があるような振る舞いを努めてしている紫遙君があからさまに狼狽しているとなると、考えざるをえない。

 

 

「やっぱりバゼットの言う通り、蒼崎君は行っちゃったか。ったく、あのお義姉さんってば蒼崎君に一体何吹き込んだっていうのよ‥‥。あの人なら、蒼崎君じゃとても敵う相手じゃないことぐらい分かったはずだってのに」

 

「マイスター・アオザキとは直接の面識があるわけではないのですが、私のこの腕を作ってくれた職人です。えぇ、彼女がいくら魔術師らしい魔術師とはいえ、それでも彼女らしからぬやり方ではあると思います。

 彼女ほどの術者であるならば、情報からだけでも十分に相手の実力を想像できるというもの。ならば、紫遙君をむざむざ死地に放り込むのは愚策であると理解できるはず‥‥!」

 

 

 ギリ、と歯を喰いしばったバゼットさんが握りしめた拳を重厚なテーブルに叩きつけ、分厚く古いテーブルはか弱い女子の力で殴られたとは思えない悲鳴を上げた。

 そういえば橙子さんが前に式の義手と同じモノを作って倫敦に送ったことがあったけど、あれってバゼットさんのためのものだったのか。確か、取り付けは紫遙君がやったとか聞いたけど。

 

 

「‥‥橙子師、本当に何考えてんのかしら。紫遙だってそもそも戦うとか得意なタイプじゃないってのは周知の事実じゃないの」

 

「紫遙さん、大丈夫でしょうか‥‥?」

 

「そんなのわかんないわ。藤乃だって紫遙が弱弱なのは知ってんでしょ? そりゃ小細工しようなんていくらでもあるかもしれないけど、それでも逆立ちしたってあんな橙子師クラスの化け物(へんたい)なんかには敵いっこないわよ」

 

 

 鮮花が半ば呆れたように言い、藤乃ちゃんが心配そうに眉を顰める。

 僕たち、伽藍の堂の従業員や構成員にとって、紫遙君とは所長と同じくらいの深い付き合いだ。むしろ橙子さんの自由奔放で気儘な部分に苦労させられているという点では同志と言ってもいいかもしれない。

 そんな彼が窮地に陥っているとなると、僕らだって自分のことのように心配してしまうのは当然だ。

 

 

「‥‥もはや予断はなりませんわ。私はショウを助けに参ります。バゼット、資料はまだございますのでしょう?」

 

「ええ、紫遙君に渡したのは事前に用意しておいた写しですから」

 

「ならば是非もありませんわ。私の準備は既に出来ております。今すぐに出発しても問題ありません」

 

 

 オレンジ色の髪が辺りを見回す仕草に従って揺れる。今時珍しい、縦ロールにセットされた髪は不思議と彼女によく似合っていた。

 灯りが薄い遠坂さんの家の中でも、その薄暗い光を反射して輝いている。

 同じように薄暗い伽藍の堂の中での橙子さんや紫遙君が、その光で生じる影を背負っているとするならば、薄暗い灯りでも光り輝く彼女は凜ちゃん達と同様、まさにその対極に位置すると言ってもいいだろう。

 

 

「‥‥やっぱりアンタ、蒼崎君を助けに行くつもりなのね」

 

「当然です。私はショウの友人、いえ、パートナーですわよ? 貴女はご存じないでしょうが、私とショウとは既に互いの研究に深入りする程の協力関係を結んでおります。そんな共同研究の相方を見捨てるなど出来るモノですか」

 

「ルヴィアゼリッタ、本当に分かってるの? 士郎にも言ったけど、相手は封印指定の魔術師よ。コイツみたいに、ある一点だけが封印指定級っていうキワモノじゃなくて、正真正銘の化け物なのよ?」

 

 

 斜めに立ち、自分の肩越しにルヴィアさんを見る凜ちゃんの言葉に、鮮花と桜ちゃんが怪訝な顔をする。どうやら士郎君に関する話をしていたみたいなんだけど、彼の細かい情報を知らない僕たちではさっぱり何が何やら分からない。

 僕が一年前に調査した時は、士郎君自身に何か不思議な点なんて見あたらなかったからね。正直、あのぐらいの境遇なら世界中にいくらでもいる。僕の個人的な友人や仕事上の友人の中でも片親だったり、両方の親を亡くしてしまっている人はいるから。

 どちらかというと、そんな境遇の中でも友人や知り合いが多く、強い人生を生きてきたんだなぁと思わせられた。会う人会う人が士郎君について悪いことは言わなかった。

 

 

「あの魔術師(へんたい)がどうして蒼崎君を狙っていたのかは分からない。でも目的の蒼崎君を手に入れたからには相手も私達の存在ぐらいは考慮しているはず。

 ‥‥私達だって蒼崎君を助けに行くことに異論なんて無いわ。でも、相手が相手だから対策を十分にしないと危険よ」

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツルか。さっきも何か言ってたけど、一体どういう魔術師なんだ? 冬木で会った時はよく分からなかったしなぁ‥‥」

 

 

 でも確かに、こうして友達の心配をしてくれている子が誰かに憎まれるような人間のはずがない。

 士郎君の問いかけに、沸騰した頭を出来るだけ冷ましたいとでもいうかのように、少し温くなった紅茶を啜ったバゼットさんが口を開いた。

 

 

「ヤツは精神干渉に特化した魔術師ですが、封印指定の原因自体は精神干渉とは別の魔術のようです。

 疑似固有結界、『メモリー』。詳細‥‥と言える程の情報ではありませんが、詳しくはこの資料に書いてあります」

 

「‥‥ミドルネームのEって、アインナッシュのEだったのね。先代死徒二十七祖第七位、アインナッシュ。詳しい話は知らないけど、二十七祖の家系の一つだと考えると油断は出来ないわ。

 精神干渉と言うからには基本として視覚系の防御、あとは使う術式の系統を予想して音声による干渉の注意も———」

 

 

 凜ちゃんの言葉を遮るように、大きな音を立てて再びテーブルが叩かれる。

 ただし今度は拳ではなく平手。単純な力で言うならさっきのバゼットさんの方が上だろうけれど、音の大きさでいうならこちらに軍配が挙がるだろう。

 

 

「‥‥ルヴィアゼリッタ?」

 

 

 机を叩いたのはルヴィアさん。無表情とでも言うべき能面のような顔に、怒気というよりは決然とした覚悟のようなものがちらりと見えた。

 

 

「悠長なことを、言っている場合ですか。‥‥ショウがドイツへと向かったのが三日前。ドイツの空港からヴィドヘルツルの領地まで、準備を含めたとしても二日あれば十分に過ぎるでしょう。

 切羽詰まった様子のショウのこと、準備自体はこちらにいる間に終わらせてしまっているに違いありません。ならば既に決着は着いていると考えても、おかしくないと推測出来ます」

 

 

 静かに、淡々と推測できる事実を述べていくルヴィアさんの目は真剣そのもの。

 士郎君やバゼットさんが心配気な様子を明らかにしているのに比べて、落ち着きすぎるぐらいに落ち着いている。

 何かを決めようとしている、ではなくて、何かを決めてしまっているとでも言うべきだろうか。

 既に決めてしまっているなら、揺らぎようがない。そんな様子で屹然と直立していた。

 

 

「万が一、ショウが勝っていたのなら問題はありません。しかしその可能性は低い‥‥。ならばショウがヤツの手に落ちて、既に実験体としての悲遇にあるかもしれません。

 パートナーの悲遇を見捨てるわけには参りません。状況判断が重要なのも十分に理解できますが、今は何より一刻を争う事態。急げば間に合うかもしれない状況で、足踏みは愚策ですわ! 私は一人でも至急、救出に向かわせて頂きます!」

 

 

 言い切ったルヴィアさんに、士郎君と凜ちゃんが目をぱちくりさせた。バゼットさんは瞬きする余裕のない状況のようで、まん丸に見開いた目でじっとルヴィアさんを見つめている。

 

 

「‥‥アンタ、そんな性格だったっけ?」

 

「若干、失礼なニュアンスを感じるのですが、他意でもございますの?」

 

「まさか。‥‥アンタみたいな生粋の魔術師が、いくら蒼崎君のことだとはいえ簡単に戦うことを選ぶっていうのがね。もっと躊躇したっていいとは思うんだけど」

 

「躊躇している間にショウは取り返しのつかないことになってしまいますわ‥‥!」

 

 

 ここに来て感情を抑えられないのか、ギリ、と歯軋りをしたルヴィアさんが敵意の籠もっていない鋭い瞳で凜ちゃんを睨み付けた。

 睨み付ける‥‥というよりは、瞬間的に貫いたとでもいうような視線だ。まさに視線に意思をこめる、といったところだろう。自分の意思を視線でこれ以上ないぐらい的確に伝えている。

 

 

「‥‥ショウは私が得た、初めての友人でもあります。貴女たちも分かるでしょう、あの時計塔で得ることのできる友人がどれほどまでに大切なものか。

 本来なら不要と断ずるところでしょうが、お互いが魔術師であるならば一銭を見極めることが出来る良い関係を築けます。私とショウは、まさしく魔術師として友人関係を結んでおりました。

 魔境である時計塔で、私達は多くの友人を得ることが出来ましたわ。バゼットや薬草学科の魔女《ウィッチ》、ミスタ・エスカルドスやロード・エルメロイもそうでしょう。

 ショウは私達を繋ぐ絆。かけがえのないものを失うわけにはいきませんわ」

 

 

 まるで演説のように、それでも流れるように自分の思いを伝えきったルヴィアさんの言葉に、その場にいた誰もが沈黙する。

 それは形容したかのような演説ではなく、実際には宣言だったのかもしれない。既に確定しているものを公開する、その場という空間と時間に記録する行為。

 一切の気負いないソレは、だからこそ高潔で美しい。ましてや彼女のように“輝く”太陽のような人ならば、静かな語調の中にも人を圧倒する意思が込められている。

 

 

「‥‥私は今晩最後の飛行機でドイツへ飛びます。貴女たちは如何致しますの?」

 

 

 ピタリと静止した空気の中、ルヴィアさんの言葉だけがやけに大きく部屋の中に響いた。

 神妙な表情で、みんながそれぞれの顔を見回す。意思を確認し合うように、頷き合う。

 

 

「‥‥アンタ一人で行ったって、勝率は殆ど変わらないでしょうが。実戦経験もないくせに威勢だけは良いんだから」

 

「余計なお世話ですわ。エーデルフェルトの人間は初陣だろうと優雅に勝利してみせます」

 

「その根拠の無い自信は一体どこから湧いて出てくるのよ‥‥? っとに、いくらなんでもクラスメイトを一人で放り出すのだって気が引けるんだからね、私だって」

 

 

 何処か呆れたように凜ちゃんが溜息をつき、額を掌で覆う。隠せているつもりか、そうでないのかは分からないけど、それでも口元は僅かに笑みの形を作っていた。

 士郎君も眉を引き締め、力強く頷いた。バゼットさんも決意を固めるかのように拳を握りしめている。ルヴィアさんの言葉で火が点いた、というよりは自然と足が進むようになったと言うべきだろうか。

 

 

「‥‥私も行くわ、遠坂さん」

 

「黒桐さん?」

 

「兄弟子のピンチに、妹弟子が黙ってるわけにはいかないでしょ。それに最近ちょっと鈍ってたしね。一暴れしたいとこだったのよ」

 

 

 とても淑女とは思えないセリフを口にした鮮花に咎めるような視線を向けると、『やっちゃったか』とでも言いたげな、悪戯がばれた時のような顔をしている。

 こちらも溜息をつきつつも、やや生き生きした様子の鮮花には苦笑を禁じ得ない。なんだかんだ、妹が楽しげにしているのを見るのは嬉しくないわけじゃないし、なんだかんだ鮮花はこの一年ぐらいで荒事ばかり経験し過ぎだ。

 

 

「それに来年度からすぐに時計塔に入学するんだもの。この辺りで派手に実績作っといた方が、入学した後もやりやすいってもんでしょ?」

 

「‥‥黒桐さん貴女ね、これは執行部隊による執行に先んじての独断専行なのよ? バゼットからも話があったけど、時計塔の決定を無視するんだからマイナスになりこそすれ決してプラスになりはしないわ」

 

「え、そうなの?」

 

「そうよ。下手すりゃペナルティすらあるって想定してるから、私も慎重に動きかったの。まぁルヴィアぐらいの家格ならそれなりの対応策もあるんだろうけど‥‥」

 

 

 さっきから溜息混じりの凜ちゃんの言葉に、鮮花が拍子の抜けた顔で問い返す。

 どうやら個人主義だとばかり思っていた魔術師っていう人種でも、一般社会みたいな上下関係のしがらみはあるらしい。まぁ、大学みたいな場所と本部みたいな場所がくっついたところだとは説明されていたから、分かるっちゃ分かることなんだけど。

 僕も集団社会から外れて暫く経っちゃったから、そういうしがらみとは無縁の生活してるしなぁ。なんていうか、少し不都合に感じてしまうのは身勝手っていうものだろうか。

 

 

「———ふん、そんなことだろうと思ったぞ」

 

「?!」

 

 

 ギィ、と重苦しく扉が開く音がして、リビングに通じているドアから一人の男性と、もう一人の女性が入ってきた。

 男の人の方は真っ赤な長衣に黄色い肩掛けをした黒い長髪で、体つきはがっしりしているけれど、眉間に刻まれた深い皺のおかげで随分と年上に見える。

 女の人の方はこれまた分かりやすい。キリスト教でいうとこおのシスター服‥‥カソックっていうらしいんだけど、それを身につけた青みがかった黒髪で、大きな丸めがねを掛けていた。

 

 

「ロード・エルメロイ‥‥どうしてここにいらしたんですか?」

 

「エーデルフェルトが最初に私の執務室にやって来たのでな。大体の事情は理解した。‥‥直接関わってやるわけにはいかんが、元弟子の尻拭いぐらいは手伝ってやろうと思ってな」

 

 

 ‥‥誰かは分からないけど、どうやら凜ちゃん達の知り合いらしい。もしかしたら先生、とかなのかな?

 やたらと背が高く、骨張った体つきは鍛えているようには見えなくて、欧米人と日本人との違いを確かめさせられる。今も不機嫌そうだけれど、どうやらあれは普段からのポーズのようだ。

 僕が今まで付き合った色んな人の中には、相手へ威圧感を与える目的や、もしくは油断させるためとか、あるいは自分の姿勢を伝えるために色んなポーズを取る人達がいた。

 この人の場合は、他者に対する壁みたいなものを伝える目的があるのだろうか。まぁ、普通にいつも苛々しているっていうのかもしれないけど。

 

 

「今回の件、宝石翁と私が一枚噛むことにした。‥‥とはいっても執行部隊の下準備などの手配といったところだが、その一環として先行隊を派遣することもまぁ、逸脱行為というわけではないだろう」

 

「ロード‥‥」

 

「いいか、勘違いするんじゃないぞ。私が一時でも教えを授けた魔術師が無様を晒すとなると、私への評価にも支障が出る。そのようなことをみすみす看過するわけにはいかん」

 

「‥‥はぁ」

 

「少なくとも建前はそれで出来る。しかし私にしてやれることはそれまでだ。いや、それ以上をするつもりはない。後はお前達で何とかしろ」

 

 

 フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向く‥‥ロード・エルメロイ。まるで素直になれない子どもみたいだ。

 そんな彼の様子に、後ろに建っていたカソック姿の女性は呆れたように溜息をついた。両掌を上に向けて肩をすくめる様子は、まるで常のことであるかのように堂に入っている。

 

 

「やれやれ、私はほのぼのとしたホームドラマを観るためにやって来たのではないんですけどね。ロード・エルメロイ」

 

「‥‥ふん、君も皮肉を言えるような人間味の残ったヤツだったのか。埋葬機関の構成員のくせに、面白い代行者だな」

 

「別に代行者全員が人格破綻者というわけではありませんよ。‥‥まぁ、確かに埋葬機関が人外魔境で、まともな人間がいないとい意見には反証がないわけですが。

 しかし本人を前にしてそのようなことを言うのはデリカシーに欠けますね。時計塔のカリスマ教授の名が泣きますよ?」

 

 

 ‥‥年頃は僕と同じぐらいだろうか。もしくは微妙に年下かもしれない。

 髪とか瞳の色とか、細かい顔立ちとかを観ると少なくとも日本人じゃないけど、イギリス人とかアメリカ人とかいうわけでもないだろう。英語が上手いのは‥‥欧米圏の人だからじゃないかな。

 ああ、ちなみにバゼットさんとルヴィアさんは日本語を使っているけれど、ロード・エルメロイ達は流暢な英語を使っていて、彼等との会話も当然ながら英語だ。

 むしろ僕としては明らかに欧米人なバゼットさんやルヴィアさん、セイバーさんがあそこまで日本人顔負けの日本語を操れる方が驚きなんだけれど。

 

 

「‥‥お久しぶりね、シエル。聖堂教会の代行者である貴女が、倫敦なんかに何の用事? 前みたいに死徒退治の手伝いなんて、そうそうあるようなことじゃないでしょう?」

 

「ええ、確かにご無沙汰していましたね、遠坂さん。‥‥今回の私は、前とは逆の立場です。貴女たちの、手伝いに来たんですよ」

 

「‥‥どういうことなんだ、シエルさん?」

 

「ふむ、詳しく話すと長くなるのですが」

 

 

 さも当たり前のことであるかのように追加の紅茶を二つ持ってきてくれた士郎君からティーカップを受け取り、シエルは一口含むと吐息をついた。

 士郎君の紅茶はおいしいからね。元々はそこまで上手じゃなかったらしいんだけど、凜ちゃんに言われて練習したらしい。

  

 

「蒼崎君の件は聞きました。彼が挑んでいるはずの魔術師、コンラート・E・ヴィドへツルはポンペイでの事件によって多数のクリスチャンや、第八秘蹟会の人間を殺害しました。

 ‥‥聖堂教会による指名手配は魔術協会による封印指定と同様に凍結されていましたが、今回、魔術協会が執行に踏み切ったことで聖堂教会からも手を出すことになったんです」

 

「‥‥獲物を取り合う気なのかしら? 貴女と殺し合いなんて、ぞっとしないわね」

 

「だから、最初に手助けをすると言ったでしょう?

 確かに冬木には聖堂教会から派遣された司祭がいましたが、彼に直接の被害があったわけではありません。聖堂教会(こちら)もある程度は魔術協会(そちら)の顔を立てる必要がありますからね。

 今回は前に死徒の始末を請け負って頂いた分の借りもありますから、私一人派遣して何とかポーズを示しておこうという気なのでしょう」

 

「貴女一人って‥‥下手すりゃ軍の一個中隊よりも頼りになるわよ?」

 

「まぁ丁度暇だったので。それに私個人としましても、そろそろ仕事をしないと干されてしまいそうだったんですよ」

 

 

 アハハと脳天気そうに笑うシエルに他意は見えない。始終部外者の位置をとらざるをえなかった僕としては何も口を挟むことはないんだけど、それでもこれだけは分かる。

 多分、僕たちの知らない間に、紫遙君は倫敦でたくさんの友人を作って、たくさんの手助けをしたに違いない。本人はまるでたいしたことがなかったかのように話していたけれど、きっと色んなことがあったんだろう。

 

 

「‥‥それに、少々込み入った事情もありますので」

 

「事情?」

 

「ああ、いえ、こちらの話です。どうぞお気になさらず。‥‥そういえば衛宮君と遠坂さん以外は面識がありませんでしたね。

 はじめまして、私はシエルと言います。聖堂教会の代行者‥‥まぁ、砕けた言い方をすれば異端審問官‥‥だと少々物騒ですから、悪魔払い(エクソシスト)のようなものだと思って下さい」

 

 

 怪訝な顔で訪ねる士郎君の問いを笑って誤魔化し、周りを見回したシエルは自己紹介をした。

 今度はまたもや流暢な日本語。びっくりするくらい上手だけど、なんでも普段は日本の、三咲町で過ごしているらしい。

 三咲町と言えば、観布子の隣町だ。お互いに住んでいる場所を話して、機会があれば是非また会いましょうと社交辞令にも近い挨拶をする。

 

 

「皆様、よろしくて? 意見がまとまったのならすぐにでも出発いたしますわよ?」

 

「‥‥そういうことでしたら、私は執行部隊をまとめて後から出発しましょう。本来なら私自身が先行したいぐらいなのですが‥‥仕方在りませんね」

 

「そうだな、マクレミッツはその方がいいだろう。・・いいか、私が用意してやれるのは建前だけだ。執行部隊が突入すれば、最悪アオザキも一緒に始末される可能性が高い。‥‥その前に決着を付けるのだな」

 

 

 ロード・エルメロイが不機嫌そうに言い、凜ちゃんとルヴィアさんが頷いた。

 ‥‥なんだかんだで凜ちゃんも、紫遙君を助けに行く支度はしていたらしい。リビングの脇に置いてある小さな棚から巾着のような袋を取り出して身につける。

 士郎君もすぐに二階へと向かい、真っ黒く丈の長いコートを羽織ってきた。コートの下から真っ赤な意匠が覗いているけど、あれが多分、昔所長が言っていた魔術礼装とかいうものだろう。

 

 

「‥‥おい幹也、お前はここに残ってろ。一般人のお前なら留守を預かってても平気だろ?」

 

「ちょ、こら何勝手に私の家に人泊めようとしてるのよ!」

 

「いいだろ、遠坂とやら? 一人ぐらいは倫敦の様子が分かる人間と連絡をとれた方がいいはずだ。代わりにオレもそっちに着く。鮮花じゃないけど、オレも最近暴れ足りなかったしな」

 

 

 ジャンパーのポケットに突っ込んでいた手を出し、クルクルとナイフを弄ぶ。

 最近は所長からの以来もめっきりだし、式としては暴れ足りないという気持ちも分かる。‥‥まぁ、いくら弟子である紫遙君が関係しているとはいえ、ところかまわず首を突っ込むのはやめた方がいいと思うよ。

 式も基本的には不干渉というか、興味のないことには関わらない人間だから、まぁ紫遙君が相手だからということもあるんだろうね。

 

 

「———私も行きます!」

 

「桜?!」

 

「紫遙さんには、大恩がありますから。前の私じゃありません、私だってもう戦えます。間桐家の当主が、恩を受けたまま見捨てるなんて出来ませんから」

 

「桜‥‥」

 

 

 伽藍の堂にも、週に一回は必ず顔を出していた桜ちゃんの決意に満ちた宣言。

 細かい事情が分からないから理由はさっぱりだけれど、今度こそ凜ちゃんはビックリしたらしい。今までのどの人の時よりも目を大きく真ん丸にして、桜ちゃんの方を見つめている。

 

 

「では私も」

 

「‥‥藤乃、貴女は特についてくる理由がないんじゃないの?」

 

「じゃあ鮮花、私が先輩と二人で倫敦に残っていてもいいのかしら?」

 

「それは、嫌」

 

  

 ‥‥昔より、随分と健康そうな顔色と笑顔を取り戻した藤乃ちゃんが言う。

 無痛症を強制的に引き起こされていた彼女は、本当に気が遠くなるようなリハビリや授業、勉強を通じて漸くまともに超能力者としてその力を振るうことができるようになった。

 本来なら、失明してしまうほどの不可をその身に受けた彼女がまともに生活できるようになるのは、かなり絶望的だったと言っても間違いではない。

 

 

「ほら、何も問題ないわ。紫遙さんには私もお世話になっているから、少しでも力があるなら助けに行くべきだと思うの。それに、私の魔眼があれば探すのも楽でしょう?」

 

「確かにそうだけど‥‥。まぁ、いいわ、藤乃がそういうなら自信があるってことだし、止められないしね」

 

 

 僕だって実際に式との戦いとか、彼女の受けた悲遇を見たわけでも体感したわけでもない。だからこういうことを言うのはおかしなことかもしれないけれど、それでもそういう体験をしたのなら、こういった所謂“裏”の世界からは外れたいと思っても良いはずだ。

 まぁ実際僕だって、目が見えなくなったりあっちこっちの骨が折れたりと散々な思いをしているわけだしね。特別な力を持ったりしてない僕だって、こうやって近くにいるだけでも色んな影響がある。

 だからこそ、藤乃ちゃんみたいに“超能力”と言われる特別な力を持った子は、何かに惹かれるように厄介事がやってくることだろう。

 昔、紫遙君が言っていた受け売りなんだけどね。確か、『異質な物は、惹かれ合う』だったかな?

 

 

「こういう風に、みんなと伽藍の堂に居られるのも紫遙さんのおかげだから。少しでも力になりたいって思うのは、間違いなんかじゃないはずよ」

 

 

 そんな彼女も今では精神を平常に保ちながら、『歪曲』と『千里眼』の魔眼に似た超能力を操る退魔士として暮らしている。

 もっとも退魔士としての仕事は殆どしていないらしいけどね。所長経由で、下請けのようにごくたまに活動しているらしい。基本的には普通の女子高生‥‥というわけでもないようだけど、とにかく一般人の生活をしているそうだ。

 やっぱり出来る限り荒事は避けたい。そんな彼女から戦うことを言い出したのは、確かに少し異常の驚きではあった。

 

 

「‥‥士郎さん、セイバーさん、藤乃のことをよく見てやって下さいね。私と違って完全な後衛型ですから」

 

「おう、任せろ。俺も殆ど前衛しか出来ないみたいなもんだしな。浅上のことはしっかり守る」

 

「そうですよ、アザカ。騎士の誇りに賭けて、例え百の敵がいようが、私の背後には一兵たりとも通しはしません」

 

 

 安心しろと言いたげに、士郎君とセイバーさんが力強い握り拳をこちらへ見せる。

 藤乃ちゃんも鮮花も、その二人の態度に嬉しそうに笑みを漏らした。基本的に少数精鋭な伽藍の洞以外で、こういう風に純粋な好意を向けてもらえるのは、確かに嬉しい。

 

 

「‥‥みなさん、ありがとうございます。ショウに代わって、礼を申し上げますわ」

 

「やめて下さいよルヴィアさん。そんなの、本当に紫遙地震に言わせれば良いことですから。それに全てはあの兄弟子(シスコン)の首根っこ引っ掴んで連れ戻してからです」

 

「確かに、ミス・コクトーの仰る通りですわね。‥‥では皆様、私は先に失礼いたします。人数分の旅券を手配して参りますわ」

 

「では私とマクレミッツも一緒に失礼させていただこう。いいか全員よく聞け。執行部隊の派遣は三日遅らせるのが限界だ。それ以上は越権行為に当たるし、私が一人の学生にそこまで入れ込んでいることを知られるわけにもいかん。

 それまでに必ず仕留めるか、逃げ帰ってくるかするんだ。いいか、必ずだぞ」

 

 

 ルヴィアさん、ロード・エルメロイ、バゼットさんが撤収するためにコートを羽織る。

 どうやら彼等と僕以外の全ての人達がドイツへと向かうらしい。いや、当然ルヴィアさんも行くんだろうけど、そしたら総勢で八人もの大所帯だ。

 これだけいたら、流石に何とかなるんじゃないか。素人考えでそう思ってしまうけれど、残りの誰もが笑顔の中にも厳しい色を絶やさない。

 封印指定‥‥橙子さんクラスの化け物。それが相手なら、確かに一瞬たりとも油断はならないだろう。

 別に所長を悪く言ってるわけじゃないんだけどね。詳しいことは全然分からない僕の中でも、やっぱり橙子さんが化け物じみた人なんだという考えは変わらないから。

 

 

「‥‥皆さん、私の失態が招いた事態です。本当に申し訳ない。紫遙君を、よろしくお願いします」

 

「なんで貴女が謝るのよ、バゼット? まぁそっちは執行部隊の仕事もあることだし、こっちは私達に任せてよね」

 

 

 荷物をまとめ、みんなが外に出る。

 そもそも僕らは旅行者だから大きな鞄だけを一時的にここに置いて、元々まとめてある小さな手荷物だけで向かうことになるだろう。

 向こうでの替えの服とかは望むべきじゃない。ルヴィアさんはそのぐらいの姿勢で今回の一件に臨むらしい。

 

 

「じゃあ幹也さん‥‥これを預けておきますね」

 

「これって‥‥合い鍵? いや、凜ちゃんこれはマズイよ。いくら何でも僕は部外者だし、魔術師の工房に僕みたいな赤の他人を入れたらマズイんじゃないかい?」

 

「大丈夫です。私達の部屋にはそれぞれ鍵がありますし、工房とか魔術関連のものが収めてあるエリアにも別に鍵がかかってます。

 もちろん物理的な鍵だけじゃなくて魔術的な仕掛けもたくさんありますから、おかしなところには触らないで下さいね。すぐに死ぬようなものはありませんけど、注意して下さい」

 

「‥‥う、うん、十分注意するよ‥‥」

 

 

 にっこりと綺麗に笑う凜ちゃんには物騒な影があった。

 正直、魔術師っていうのがどういうものかなんて漠然としか知らないけど、それでも魔術師の脅しに逆らうような度胸は幸いにして持ち合わせていない。

 所長だって僕の前では触りぐらいしか魔術の、神秘の話はしないけど、それでも十分過ぎるぐらいの恐怖が僕には刻みつけられていた。

 

 

「何かあったら私の‥‥いや、士郎の携帯まで連絡をお願いします。番号は電話の下に挟んでおきますので。

 留守中の来客への対応はお任せしますね。魔術関連の来客でしたら、すぐに奥の来客用の寝室に引きこもって下さい。部屋毎に防御用の結界が張ってありますから、ある程度までの相手だったらそれでも十分に対処できるはずです。

 ‥‥まぁ、今の倫敦でウチに襲撃かけてくるような無能はいないと思うけど」

 

 

 渡された合い鍵はやけに古びていたけれど、どうやら只の骨董品というわけでもないらしい。

 こういう一国の首都ともなると例え中に人が在宅していても、空き巣の類は仕事をする。夜中どころか昼間だって安心はできない。

 だからこそこんな時代遅れの鍵では十分な防犯は期待できないし、流石にそれを分かっていないってことはないだろう。

 じゃあきっとこれもウチの事務所みたいに、何らかの仕掛けがしてあるに違いないのだ。大体うちの事務所だってそもそもからして鍵なんてかかってないしね。

 

 

「それじゃあ行ってきます。くれぐれも、お気を付けて」

 

「それはこっちのセリフだよ。鮮花、藤乃ちゃん、君達も怪我なんてないようにね」

 

「私達はこれから戦いに行くんですよ? 無茶苦茶言ってくれますね、兄さん」

 

 

 呆れたように鮮花は苦笑するけど、それでも僕はそう願わずにはいられない。

 だってそうだろう? 戦いに行くのは僕の大事な妹に後輩、そして‥‥婚約者なんだ。いくら三人が三人とも僕よりはるかに強いのは分かっていても、僕の大切な人達が怪我するかもしれないなんて考えたらいてもたってもいられないよ。

 

 

「式‥‥みんなをよろしく」

 

「‥‥あぁ」

 

 

 差し出した手を、言葉少なに式が握る。

 相変わらず、出会った時から小さくて細い掌だ。それでもこの小さな掌が刃を振るい、たくさんの敵を屠ってきたことを僕は知っている。

 それは良いことでも、悪いことでもない。‥‥けれどそこには確かに力というものが存在している。だからこそ、心配と一緒に信頼も込めた。

 

 

「じゃあ、行ってきます」

 

「後をよろしくお願いします、幹也さん」

 

 

 がたん、と音が鳴って分厚い扉が閉まった。途端に家の中はシンと静まり帰り、まるで世界の中に僕一人だけ取り残されたような気がする。

 

 ああ、でもそれも一抹の真実を孕んでいるのかもしれない。

 家っていうのは、それだけで孤立した一つの世界なのだと所長‥‥橙子さんに言われたことがある。例えばうちの事務所なら、それは蒼崎橙子という魔術師が支配し、僕ら所員が構成する一つの世界なのだと。

 空間論とでも言うべきなのだろうか。そういう難しい話は、あんまり得意じゃないんだけれどね。

 

 

「‥‥さて、どうしようかな。取り残された僕としては、この世界を一人っきりで構成し続ける義務があるってわけなんだけど」

 

 

 随分と古いタイプのテレビを点けても、流れるのはわけのわからない英語のニュースやらバラエティ番組やら。

 そりゃ僕だって海外旅行なんてものに来るからには、というよりも一端の社会人として在る程度までなら英語は扱えるさ。

 けれど言葉っていうのは、人間のコミュニケーションにおいては三割未満の役割しか担っていない。逆に言うと、コミュニケーションを上手く行うには言語はさほど重要じゃない。

 僕は確かに英語圏の人達と英語を使ってある程度のレベルのコミュニケーションを行うことが出来るけれど、それは言葉以外の要素に大きく助けられたものだ。

 そしてテレビとか、そういうメディアとかになると、コレはもはやコミュニケーションではなくて情報の発信と受信になる。

 情報をただ受信するだけだと、やっぱり言葉ってのは大事なもので。だからこそテレビを見たって何がなにやらよくわからなかった。

 

 

「‥‥まぁ幸いにしてお金はあるし。食べるに困るってことはないかな。本当に、暇だよ、ウン」

 

 

 薄暗い部屋の中は、やっぱり伽藍の堂と少し似ている。

 別に僕が陰鬱な性格をしているとかいうわけじゃないと思うんだけど、それでも性分として明るいところよりは少しくらい薄暗いこういうところの方が落ち着ける気がした。

 今更くらいからといって近眼を気にするような視力でもないしね。それを言うなら片目だけっていうのが、そもそもからして視力に甚大な影響を与えているような気がするし。

 あぁ、別に式がどうこうっていうわけじゃないからね? これはそこまで長くもない今までの人生の中で色んな人に会って思ったことなんだけれど、心の中のことにしても身体の表面のことにしても、想い出や傷跡、影響っていうのは、今まで辿ってきた人生の道筋だ。

 

 ———何をするというわけでもなく、士郎君が置き土産のように残してくれたポットから紅茶をカップに移してぼんやりとしていた。

 既に夕ご飯も食べてしまっているし、今夜は本当にやることがない。今回の一件、特に紫遙君に関することを知らせるべき人は全て倫敦へと来てしまっているし、外に出るにしても見慣れぬ街を日が沈んだ後に歩くなんて愚行はしたくない。

 

 

「‥‥余計なこと考えちゃうな、こんな夜には。もう寝ちゃったほうがいいかも———っと、チャイム? こんな時間に、誰だろう‥‥?」

 

 

 自分にあてがわれた客室の様子を先ずは見てしまおうと腰を上げかけた時。

 僕らがこの屋敷に入る時にも聞いた、チャイムというよりはベルの音がリビングまで聞こえてきた。

 外を見ればすっかり真っ暗。異能者揃いの式達ならともかく、只の人間が歩くには少々危なっかしい時間だろう。

 首を傾げながらも、もし凜ちゃん達に用があった一般の人ならどうやって言い訳をしようかと考えながら、僕は扉を開けた。

 

 

「‥‥は?」

 

「開口一番、なんだその間抜け声は。幽霊にでも会ったのか、ん?」

 

 

 そこに立っていたのは僕も見慣れた、というよりは日本にいる間には毎日のように会っていた直属の上司。

 日本では滅多に着ないオレンジ色の外套を羽織り、少しくすんだ赤い髪の毛をポニーテール———そんな可愛らしい表現が似合う人じゃないけど———にした若い女性。

 さっきまで話題に挙がっていた一人の友人の上の義姉、蒼崎橙子の姿があった。

 

 

「‥‥所長、どうしたんですかこんなところまで。ていうかよくこの場所に僕がいると分かりましたね?」

 

「いや、流石に黒桐、お前がここにいることまでは知らなかったさ。‥‥遠坂の当主がいれば話でもしておこうかと思ったのだが、既に旅立った後だったか。

 まぁいい。むしろ私達にとっては好都合だと言える。余計な問答は嫌いじゃあないが、それにしたって噛み付いてくる若い連中をあしらうのは中々に疲れる。こういうときばかりは紫遙みたいな従順さというか、素直さを求めてしまうな」

 

「私達?」

 

 

 もはや意見する気もないぐらい、さもそれが当然であるかのように勝手に足を踏み入れてくる所長の後ろには、これまた頻繁ではないにせよ十分に顔見知りと言える長髪の女性の姿があった。

 月に一度、あるいはそれ以上の頻度で伽藍の堂に出入りする、これまた先程まで話題に挙がっていた紫遙君のもう一人の技師。

 歴史上五人しかいない、お伽噺ではない正真正銘の“魔法使い”。彼女の名前は、蒼崎青子。

 

 

「青子さんまで‥‥。まったく、絶対に聞いてくれないとはおもいますけど、ここは他人様の家なんですからね? ちょっとは悪びれてもらうと助かるんですけど、まぁ、仕方ないですか」

 

「こらこら幹也クン、そういう言い方はないんじゃないかしらー? 私だってそれぐらいはしっかりと分かってるわよ。気にしないだけで」

 

「そう言ってるんですよ、二人とも‥‥」

 

 

 ここは凜ちゃんの家だけど、僕じゃこの二人を止めるには役者不足過ぎる。

 本当なら留守を預かった身として勝手をするのはダメだと思う。でも、流石に無理だよと諦めながら二人を家の中に招き入れた。

 

 

「ほう、首都に構えるにしては十分過ぎる程に立派な邸宅じゃないか。時計塔も随分と見栄を張ったな。

 そこまでして媚を売る必要がある相手でもないと思うが‥‥。いや、媚を売る必要のある相手は遠坂の当主ではない、か? 宝石翁への繋ぎでも狙っているなら、その目論みは半分以上成功していると言えるのだが」

 

「紫遙もこれぐらいの家があれば、遊びに行っても居心地が良くていいんだけどねー。何考えてるか知らないけど、あの埃っぽい工房から動く気無いみたいだし」

 

 

 溜息混じりに、これまた当然のこととして近くにあったカップに紅茶を注いで口に運ぶ二人。

 あたかもこの場所が伽藍の堂であるかのように不貞不貞しく、自然だ。色々と気を揉んでしまうことすら馬鹿馬鹿しく見えてしまう

 

 

「それにしても、紫遙がいないことに気づくのが少々予想より遅かったな。伝承保菌者(ゴッズホルダー)までいながら無様なことだ」

 

「仕方ないでしょ。どっちかっていうと姉貴があそこまで工房を厳重に閉めちゃうのが悪いと思うわ。あれじゃ本当に私クラスの破壊力か、姉貴クラスの小賢しさが無きゃ突破できないもの」

 

「それは褒めてるのか? 貶してるのか? さりげなく自分を持ち上げてなかったか?」

 

「気のせいじゃないかしら」

 

 

 さも、こともなげに呟かれた言葉。

 世間話の延長では決して有り得ない、場にそぐわず、実のところ今の状況には一番適切な話題。

 いい加減この人達には驚かされてばかりと言えばそうなんだけど、そういう時には必ずといって良いほど経験する妙な空白が、僕を中心とした空気を支配した。 

 

 

「‥‥所長、もしかして皆が紫遙君を助けに行くこと、分かってらっしゃったんですか?」

 

「ああ、まぁそのぐらいは十分に予測出来る範囲だろう? もっともどのぐらいの人数が紫遙を助けに行くかは分からなかったが、それでもエーデルフェルトの小娘ぐらいは間違いなく行くと踏んでいたさ」

 

「あの子、今時珍しいぐらいに一本筋の通った子だからね。生まれながらの貴族、かつ貴族らしく育った貴族って感じだし。

 紫遙と一緒にお茶会したことがあるんだけど、ありゃ間違いなく大成するわね。ロード・エルメロイといい、紫遙も倫敦で色んな伝手持ったもんだわ、ホント」

 

 

 こともなげに言い放つ二人の言葉を、僕は自分でも不思議なくらいの注意深さで耳にしていた。

 まるで諦めてしまって適当に弄り回していたパズルの解き方が、偶然にも見つかった時みたいな明瞭感。頭の中で、今までの全ての会話が瞬間的にリピートされる。

 

 

「‥‥紫遙君が勝てないって、思ってたんですね」

 

「さっき来たばかりなのに、よく事情を知っているな、黒桐。

 ふん、確かに紫遙ではコンラート・E・ヴィドヘルツルに敵わないことぐらい分かっていたさ。あいつはそういう魔術師じゃないからな。

 自分では勝てないからと勝てるものを用意するわけではなく、かといって戦うことを諦めることも出来ない中途半端な魔術師さ。

 誰よりも魔術師らしく在ろうとして、その過程で魔術師らしさというよりは、人らしさというものを身につけてしまった。‥‥生粋の魔術師ではないが故の弊害だな」

 

 

 淡々と、まるで教科書を読み上げるかのように所長は呟く。

 

 

「目指すところとは全く間違っていない。誰よりも魔術師らしい、終着点はしっかりと捉えている。しかし人間というのはな、黒桐。そう簡単に思っている通りに進むことが出来るわけじゃない」

 

 

 流石に煙草を控えるぐらいの分別は持ち合わせているらしく、いつもなら細めの煙草を挟んでいるだろう右手を動かして所長は続けた。

 

 

「完成するっていうのはさ、そこで止まってしまうということなんだよ。私や青子は止まってしまった存在でね。

 だからこそ重要なのは、“完成へと向かっている過程そのものが完成している”ことではないかと思うんだよ。“完成してしまってはいけない”のさ。分かるか、黒桐?

 これは紫遙《アイツ》だって全く気づいてないとは思うが、それでこそ自然に形作られるというものだろう」

 

 

 ‥‥悪寒も怖気も寒気もなく、ただ空気が停止する。

 世界中の全ての人達は、この人達の掌の上なんじゃないだろうか。そんな感覚に囚われる。

 何もかもを見通しているのではないかという、畏れがそこにはあった。もはや慣れたと、言うことも出来ない。

 

 

「所長、この書類‥‥」

 

「ん? ‥‥あぁ、そういうえば忘れていたな、こんなものもあったか。悪いね黒桐、わざわざ届けてくれて。至急サインして先ずはFAXで送ることにしよう」

 

 

 鞄から取り出した書類を所長に渡す。

 そう分厚いものじゃない。A4で二枚。その内、サインをする場所はたったの三つ。

 さして時間などいらないだろう。ただの一瞬で事足りる。所長はスラックスのポケットに差していたボールペンを取り出して、サラリと走らせるとサインを終えた。

 

 

「‥‥まさか、それを忘れて行ったのも、わざとですか?」

 

 

 机の上に、これ以上なく分かりやすく忘れ去られていた書類。

 いくら色んなところがルーズな橙子さんとはいえ、仕事で重要なところはそこまで飛ばすことはない。こんな重要、かつ簡単な過程を適当に忘れるなんて考えられないのだ。

 例えソレが、紫遙君の一件を考慮していたとしても。

 

 

「まさか」

 

 

 静かに閉じられた目とティーカップで隠された口元からは、何の表情も読み取れない。

 けれども僕は、そこまで長くはないにしても十分過ぎる所長との付き合いの経験から確信していた。

 きっと今あのティーカップを強引に退けてみれば、三日月のような綺麗な笑みが見えるに違いない。

 

 それはおそらく誰よりも自信気で、何よりも綺麗で。

 

 そして誰よりも、何よりも。

 

 酷薄に見えるに違いない。

 

 

 

 76th act Fin.

 

 



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番外話 『魔女達の挽歌』

当時のエイプリルフール企画として書いた作品です。あとがきは当時のものをそのまま載せてありますのっで、ご注意を。


 

 

 

 

 

  

 不思議の国に迷い込んだアリスが此処にいたなら、その懐かしさに目を細めたことだろうか。

 

 それとも再び訪れることになってしまった異界に怯え、震えたことであろうか。

 

 異なる世界‥‥。世界というものが自らの所属する唯一絶対の基盤であるとするならば、それが異なるものへと変わった場合はどういう感覚に包まれるのだろう。

 

 今まで海水の中で生活していた魚が、淡水の中に放り込まれるようなものかもしれない。ともすれば死に直結しかねない変異。

 

 自分に対しての外界という客観的な判断基準が一変してしまえば、自分自身の主観的判断基準にも影響する。

 

 既存の法則を全否定する異界。外界に対する認識の全てが塗り替えられることで、自分すらも揺らぐ。

 

 悪い夢を見ているならどれほどまでに良いことか。そんな光景が、目の前に広がっていた。

 

 

———なんてこった、悪夢でも見てるのか、俺は

 

 

 彼もまた、アリスの心境を明確に投影(トレース)した一人だった。

 

 やや堅めの黒髪を適当な長さで切り揃え、他に比べて微妙に長い前髪をバンダナで上にあげている。

 

 古めかしいミリタリージャケットは比較的細い体つきをしている彼には残念なことに似合ってはいないが、それでも長年連れ添っているのだろう、似合わないなりに最大限に着こなしていた。

 

 

———これは明らかに異界‥‥!

———けど、何の魔術の発動も感知しなかったぞ

———いったい、なんだっていうんだ

 

 

 ミリタリージャケットの下は、頑丈そうな素材のシャツ。そしてその下はダメージ加工なんて洒落た言葉とは無関係な傷だらけのジーンズだ。

 

 全体的に無骨、あるいは無精な格好に比して、左腰に提げた小袋(ポーチ)がやけにアンバランスな雰囲気を醸し出している。

 

 よくよく注意深く見れば背後には小刀も差してあるのだが、上手に隠しているから見破られることはないだろう。

 

 

———いや、この感覚には覚えがあるような‥‥

———もしかして衛宮と同じ、固有結界か?

———だとすれば発動時まで全く違和感が無かったのにも頷ける

———けど、じゃあどうしてこんなところに

———一体どんな理由で‥‥?

 

 

 見回した周囲は、本当に混沌としていた。

 

 どこもかしこも秩序というものがない。まるで抽象画を得意とする画家がスケッチした趣味の悪い戯画(カリカチュア)を、無理矢理立体に伸ばしたかのようだ。

 

 ぐちゃぐちゃと、色々なものが重なり合い、混ざり合いして其処に存在している。

 

 全体的にファンシーでメルヘンな雰囲気は統一されてるのだが、それにしたって整合性というものに欠けているだろう。

 

 あちらこちらが適当に滅茶苦茶に繋ぎ合わさった世界は、見ているだけで精神の安定を揺さぶられる程のものだ。

 

 なにせ、『ここはこうあるべきだろう、常識的に考えて』という理屈が通用しない。

 

 

———仮にこれが固有結界だとして

———いったい何処のどいつが発動させたんだ?

———メリットがない。むしろデメリットだらけだ

———さて、一緒にいた衛宮や遠坂嬢、ルヴィアは無事か‥‥?

———まぁあの連中なら俺より安心だけど

———せめて遠坂嬢か、出来ればルヴィアと合流できれば建設的な話し合いも出来るんだけど

 

 

 何処か疲れた様子を漂わせた青年は、大きな溜息をついて髪の毛を掻き毟る。

 

 確かに彼も、優れた魔術師ではある。

 

 特に実践はもとより、理論や考察について抜きん出た才能を示す魔術師だった。

 

 とはいえ一人で出来ることには限界がある。

 

 特に最近はずっと、一人というよりは二人三人ぐらいで行動することが多い。

 

 中でも自他共に相棒と称する鉱石学科でも一二を争う才女であるフィンランドの名物貴族、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトがいれば、自分一人が考えるよりも、遥かに有意義な話し合いが出来たことだろう。

 

 

———まぁ、無い物ねだりをしても仕方ない、か

———何処に繋がっているのかも分からないけど

———まずは歩きだそう

———これが仮に固有結界だとするなら

———結界の境界線なんてものを探す方がバカバカしい

———だとすると今するべきことは、結界の中心点を探ること

———トンデモない敵がいる可能性もあるけど

———だからといって魔力切れを待つのも不安だしなぁ

 

 

 固有結界に境界、壁なんてものはない。

 

 地球を思い返せば分かるだろう。世界に、果てなんてものはない。

 

 固有結界は結界という言葉を使いこそすれ、その本質は一つの世界。

 

 それに世界の果てを探るよりも、世界の中心を探す方が遥かに楽だ。

 

 この現象を起こした理由は分からない。自分に対して害意を持っているかどうかも分からない。

 

 最終的に問答無用で脱出するには、結界を発生させた張本人‥‥術者を倒すか、術者が何らかの理由で自ら結界を解除するしかないのだ。

 

 衛宮みたいなヤツが相手なら、魔力切れを誘うのも一つの手。

 

 しかしそもそも固有結界なんてものは、魔術師が扱うようなものじゃない。

 

 相手が吸血鬼やら第五架空要素(あくま)だったりしたら、まず魔力切れは狙えないだろう。

 

 

———にしても、固有結界を見るのは衛宮以来だな

———アイツの時とは大違いだ

———無秩序で混沌としてるけど、随分と複雑な世界だ

———これは発生させてるヤツも、尋常じゃない相手だろうな

 

 

 衛宮士郎の持つ唯一の秘術、そして英霊エミヤの宝具である『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)』。

 

 ひたすらに広がる、剣の墓標。赤茶けた、渇いた大地に突き刺さる剣の葬列。それが地平線の向こうまで延々と続いている。

 

 多数の宝具、乃ち伝説上にのみ存在する武具を含んだそれは、確かに非現実的で非常識、かつ規格外な代物だろう。

 

 しかし外見上、そしてその特性自体は極めて単純なものだ。

 

 剣を複製する。ただ、それだけ。

 

 それに比べて目の前に広がる異界の何と複雑なことか。

 

 雑多で統一性も法則も見あたらないが、それでも様々な要素が一部として同じものなく重なりあっている。

 

 

———イメージによって作られる、心象世界である固有結界

———それがここまで複雑なものとなると、術者の精神が恐ろしいな

 

 

 混沌とした世界を、ひたすらに歩く。

 

 足下がしっかりしているのが唯一の幸いかもしれないが、それでも果てが見えず、危険があるともしれない道のりはストレスを溜めるものだ。

 

 彼とて修羅場の経験が無いわけではないが、それにしても本人をして戦闘要員ではないと公言するとおり、本来は戦いが得意なわけではない。

 

 先を急ぎたい気分も山々ではあるが、あくまで慎重に。

 

 何かの気配がする方向を察知して、敵や罠がないかどうか確かめながら進んでいく。

 

 牛歩のような速度だが、もとより調査を目的に発生場所である、この街までやって来たのだ。時間がかかっても、それによる具体的なデメリットが見つからない以上は焦る必要性もないだろう。

 

 

———む、何か気配がするな

———これの原因ってことはないだろうけど‥‥

———衛宮や遠坂嬢、当然ルヴィアの気配でもない

———仕方がないな

———ここは、先ず牽制させてもらおう‥‥!

 

 

 右手を腰の後ろに回し、呼吸を整える。

 

 腰は低く、重心を前へ。

 

 やや前傾姿勢のその姿は、獲物に飛びかかる肉食獣のようだ。

 

 それでいて彼自身の性質からか、獰猛というよりは冷徹な印象を受ける。

 

 

———今、あの角を曲がった先で足音がしている

———三つ数えたら、行くぞ

———いち

———に

———さんっ!!

 

 

 床を舐めるように、低姿勢のまま飛び出した。

 

 視野に極限まで集中し、襲いかかる敵を見据える。

 

 驚いたことにそこにいたのは、制服らしきものを纏った中学生ぐらいの少女だった。

 

 青みがかった薄い黒髪で、目を真ん丸にしてこちらを凝視している。

 

 しかし、流石に途中で止めるにはスキルが足りなかった。

 

 

———動くな。指一本動かせば、喉を掻っ切る

 

———ひぃっ?!

 

———正直に質問に答えれば、傷一つ付けないよ

———さて、この結界を作り出したのは君かい?

 

———ち、違いますっ! 私なんかじゃありませんっ!

 

 

 少女の目を覆うように広げた掌から伝わる、震え。

 

 そこには恐怖、怯え、焦燥と、今では昔は随分と世話になった、慣れ親しんだ感情が含まれていた。

 

 戦闘者ではない彼でも理解出来た。この異質な場所で会った少女が戦うことはおろか、こういう少しの修羅場も経験したことがない一般人であると。

 

 

———ふむ、成る程ね

———その怯え方だと刃を向けられたこともない、か

———しかし確かに君じゃないみたいだけど

———何か知っているみたいだね

———こんな状況じゃあ、ちょっと油断できないかな

 

———えぇっ?!

———ちょ、ちょっと待って下さい!

———私はどっちかっていうと、巻き込まれた側なんですよ!

———別に逃げたり戦ったりしませんから

———せめてナイフを退かして下さいっ!!

 

 

 微妙に掌が湿り、少女が恐怖のあまり僅かに涙を零してしまったことが分かる。

 

 既に傍目にも見て取れる程に少女の手足は震えていて、流石に良心に呵責を覚えた。

 

 目で見て、手で感じて、言葉を判断した結果、どうやらこちらに対抗する手段も、害意も持ち合わせていないようだ。

 

 油断はならないが、このまま脅迫という態度をとっても益にならない予感がする。

 

 そう考えた彼は、「何か不審な動きをしたら即座に刺す」と前置きしてから、最初に短刀を、次に目元を覆っていた左手をゆっくりと少女から離して距離を取った。

 

 

———手荒な真似をしてすまなかった

———ほら、こんな状況だろう?

———見知らぬ相手に警戒しないわけにもいかなくてね

 

———い、いえいえ、分かってくれたならいいんですよ

———私もまさか、中で知り合い以外に会うとは思わなくて

———ちょっとビックリしちゃった

 

 

 怯えた状態から普段の調子を取り戻せば、少女は勝ち気そうな、快活な子だった。

 

 まだ少し震えが取れないながらも、押さえられていた目元をさすりながら笑う様子はその辺りを談笑しながら歩いている普通の女子中学生と何ら変わることはない。

 

 ともすれば、如何に非常事態だったとはいえ、刃を向けてしまった彼自身が後悔してしまうぐらいに。

 

 

———こういう状況で自己紹介するというのも何だけど

———はじめまして、俺は蒼崎紫遙。年は二十三、かな

———今は倫敦に留学しているから、日本は久しぶりなんだけどね

 

———そうなんですか‥‥

———あ、私は美樹さやかって言います!

———見滝原中学の二年生です

 

———へぇ、見滝原中学っていうと、あのオンボロ校舎の‥‥?

———通りかかっただけだったなんだけどね

———見た感じ、随分と大きな中学だったなぁ

 

———オンボロ‥‥?

———え、と、私の中学は数年前に改装したばかりだから

———そんなにボロボロのはずはないんだけどなぁ‥‥?

 

———あれ、じゃあ別の中学と間違えたのかな? まぁ、いいか

 

 

 辺りの異常さに比して、二人のやりとりはごく普通なもの。

 

 喫茶店で相席を頼まれた男女が、空気の悪さに耐えかねて口を開いたような時と全く変わらない。

 

 まるで大道具と脚本がまるっきり噛み合っていない、出来の悪い喜劇のようだ。

 

 

———君もさっき言っていたみたいに、この結界に巻き込まれたのかい?

 

———もしかして蒼崎さんは、あの病院の中にいたんですか?

 

———ああ、そうだよ

———実はこの街には仕事で来ていてね、その調査の一環で病院に寄ってたんだ

———調査っていっても歩き回るぐらいのもので、大したことじゃないんだけどさ

———その途中で突然、気がついたらこの妙ちきりんな結界に閉じこめられていて‥‥

 

 

 眉間に皺を寄せ、彼‥‥蒼崎紫遙は大きな吐息をついた。

 

 仮にも一端の魔術師ともあろうものが、何の抵抗(レジスト)も出来ないまま無防備に結界に巻き込まれるとは無様極まる。

 

 ましてや紫遙は義弟とはいえ蒼崎の名字を背負う者だ。

 

 赤の称号を持つ封印指定の人形師と、青という色を冠して呼ばれる“根源”に辿り着いた魔法使いの教えを受けたというのに、不甲斐ない。

 

 自分自身への憤りもあるが、何よりこの小憎たらしい結界を作り上げた張本人には必ず痛い目に遭って貰う。

 

 例えソイツに他意は無かったとしても。そう考えるままに、鋭い視線を辺りへ巡らせた。

 

 

———実は他にも三人ほど連れがいたんだけど

———どうやら巻き込まれたときに、はぐれてしまったらしいな

———君は一人だったのかい?

 

———あ、いえ、私も一人‥‥というか一匹?

———連れがいたんですけど

———この結界に巻き込まれた時にいなくなっちゃって‥‥

———その子と合流できれば

———あ、ソイツはコレの専門家みたいな奴なんで

———とにかく合流できれば何とかなると思うんです!

 

———専門家、か

———その口ぶりだとやっぱり

———この結界が何だか漠然とでも分かっているみたいだね

 

 

 優しそうな、穏和な瞳の中に鋭い光が宿る。

 

 第一印象‥‥ナイフを突きつけられておいて印象もへったくれもないかもしれないが、とにかく最悪なそれを通り抜けた後は優しい年上のお兄さんのように見えていた突然の闖入者。

 

 表情はそのままに、瞳の奥に垣間見えた鋭さに、さやかは思わず頬を引きつらせる。

 

 口には出さなかったが、その変化が何より紫遙の最初に知りたかった糸口を雄弁に語っていた。

 

 

———どうやら決して一般人じゃない、か

———さやか嬢、俺は仕事上、どうしても情報が必要なんだ

———君みたいな女の子を相手に強硬手段はとりたくないな、俺としても

———これも脅迫みたいな言い方になるけど

———君を傷つけたくないから、大人しく教えてくれると助かる

 

———う、まぁ別に他言しちゃいけないとは言われてないしなぁ‥‥

 

 

 さりげなく手を腰に差した短刀を抜きやすい位置へ、微妙に動かす紫遙。

 

 あからさまではあったけれど、さやかのような少女を脅かすにはそれでも十分に過ぎたらしい。

 

 あからさまに顔色を悪くした彼女は、大して悩むこともなく早々に決断した。

 

 

———信じてもらえないかもしれないけど、これって“魔女”が作った結界なんですよ

 

———魔女?

———待ってくれ、魔女だって?

———それはあれかな、君達は女性の魔術師のことを魔女って言うのかな?

 

———え?

———うーん、魔術師っていうと、マミさんも一応そうなるのかな、魔法少女だし

———だとすると、まぁ魔女と魔術師、ついでに魔法少女も違うものだと思うけど

 

———馬鹿な、ありえない

———魔女の秘術(ウィッチクラフト)は薬学や呪《まじな》い、占いに特化している

———このレベルの固有結界を生み出すような魔女なんて

———寡聞にして俺は知らない

 

———え、もしかして蒼崎さんって、魔女のこと知ってるの?!

 

———知ってるも何も、友人が現代に生きる本物の魔女でね

———彼女に聞いても同じ答えが返ってくるだろうさ

———なにせ魔女っていうのは、下手すりゃ魔術師よりも誇り高い

———こんな固有結界を作るなんてのは、どっちかっていうと魔術師の領分だからね

———あの平坦な口調でひとしきり嫌味を言われるのは目に見えてる

 

 

 今度こそ紫遙は信じられないと目をむいた。

 

 彼自身も言ったように、昨今では魔女というものは減少傾向にあるとはいえ、その存在はしっかりと認知されているものだ。

 

 特に彼にとっては、時計塔に席を持っている唯一の魔女と親交を結んでいる仲なのだから。

 

 魔女について、漠然とした理念や在り方などに関していえば、それこそ耳に呪いでタコが出来るぐらいに散々聞かされている。

 

 そんな彼の常識から判断すれば、こんな大規模で精密、かつデタラメな固有結界を作り上げるような存在が、魔女なんて(一般的な魔術師にとっては)骨董品によるものだとは、とうてい信じられることではなかった。

 

 

———いやいや、だって魔女って全部こういう結界の中に隠れてるもんじゃないの?

———だからアタシだって、きゅうべぇに助けてもらわなきゃ中に入れなかったんだし

———あれ、そう考えると蒼崎さんってどうして中に入れたんだろう‥‥?

 

———うーん、どうやら互いの認識に相違があるみたいだね

———さやか嬢、君にとっての魔女ってどういう存在なんだい?

 

———魔女、ですか

———魔法少女が希望を振りまく存在なら、魔女は呪いを振りまく存在

———人々の負の感情から生み出された化け物‥‥ですかね

 

 

 さやかは首を傾げながら、彼女がつい最近に出会った正体不明の白い生物(なまもの)から教わったことを述べていく。

 

 彼女にとっては、それが真実以外の何物でもない。

 

 なにせ彼女に情報を与えてくれたのはたった二人で、そのあまりの非常識さから、その二人の情報を鵜呑みにするしかなかったのだ。

 

 むしろ、さやかには紫遙の言うことの方が意味不明なことに聞こえる。

 

 目の前に立つ青年は、ナイフなんて物騒な代物を携帯していることを除けば、ごく普通の日本人男性だ。

 

 間違っても“魔法少女”ではないし、ついでに言えば魔女や使い魔にも見えない。

 

 だというのに彼は、あたかもそれが当然のことであるかのように“魔女”について語ってみせる。しかも、その内容に関して彼女が言うならば、さっぱり意味が分からないコトばかりを当然のように。

 

 どちらにしても二人の認識はある部分で共通していたと言えよう。

 

 乃ち、互いに互いが異質な存在についての知識がある人間だと分かった、ということである。

 

 

———そうか、“君達は”その怪異のことを“魔女”と呼んでいるワケか

———君達だけのローカルルールだと言うなら

———確かに俺の知識と激しい齟齬があっても納得できる

———俺の言う“魔女”っていうのは、普遍的な意味での言葉だからね

 

———普遍的?

———蒼崎さん、悪いけどアタシには蒼崎さんが何を言ってるのかよくわかんないよ

 

———うん、俺としてもそれは同じだ

———だとすると君達は

———この怪異について一番よく知っている人達ってことになるんだけど

———どうやってこれについて知ったんだ?

———いや、それ以前に

———君達は、何者なんだ?

 

 

 厳しい、瞳をしていた。

 

 先程ちらりと見えた鋭い光は、もはや完全に穏和な瞳を支配して、さやかを見据えている。

 

 何か、違う。

 

 さっきまで自分と話していた、普通の学生である“蒼崎紫遙”の姿ではない。

 

 まるで彼自身の中で、何かを切り替える、自分を切り替えるスイッチが入ったかのように。

 

 

———私だって、詳しく知ってるわけじゃないんですよ

———ただ

———前にも同じことに巻き込まれたことがあったんです

 

———同じコト?

 

———魔女の結界ですよ

———親友と二人でその中に入り込んじゃって、使い魔に殺されそうになってた時に

———助けてくれたんです

———見滝原中学の先輩の、魔法少女が

 

———魔法少女?

 

 

 蒼崎紫遙は、今度こそあからさまにわけのわからないと言いたげな顔をした。

 

 彼にとっての魔法少女という言葉は、決して創作の中の単語ではない。むしろしっかりとした現実的な単語として、というよりはとある知人の属しているカテゴリとしての意味を持っている。

 

 乃ち『カレイドの魔法少女』。

 

 魔導元帥とも宝石翁とも呼ばれる第二の魔法使い。

 

 死徒二十七祖第四位、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ謹製の魔術礼装によって武装した少女達のことだ。

 

 

———私達に魔女について教えてくれた、きゅうべぇっていう‥‥白い、動物?

———あ、喋るんですけどね、動物って言っても

———アイツと契約した女の子が、魔法少女になって魔女と戦うんです

 

———きゅうべぇ?

———ソイツとの契約って、一体どういうことなんだい?

 

———実は

———私もよく知らないんですよ

———ただ分かってるのは

———きゅうべぇと契約したら一つだけ何でも願いを叶えてくれるってこと

———それと、魔女と戦う使命を受け入れるっていうことだけかな

 

———そいつは、随分と胡散臭いな‥‥

 

———まぁ、言われてみればその通りなんだけどねぇ

 

 

 さやかは秘匿性‥‥というものを重要視しなかったのか、プライベートに抵触しない限りの情報を紫遙に離していく。

 

 魔法少女の先輩である巴マミのこと。その戦い方、きゅうべぇとの話の内容、今までに見た魔女の姿や戦い方も。

 

 あまりにも漠然として、欠片も仕組みの理解出来ない話に紫遙は眉を顰めた。

 

 きゅうべぇ、という存在が何であるのかも分からないけれど、魔術師としてその仕組みには激しく興味をそそられる。

 

 ゼルレッチの魔術礼装のように並行世界から無限の魔力を得られるのか、でなければ戦うための魔力はどうやって調達しているのか。

 

 あるいは魔法少女と呼ばれる巴マミ自身が魔術回路から魔力を生成しているのかもしれないが、だとしたら今度は願い事を叶えるための力は何処から引っ張ってきているのか。

 

 冬木の聖杯ですら、数十年も一級の霊地である冬木の霊脈から魔力を吸い取らなければサーヴァント召喚に必要な魔力すら調達できないのだ。

 

 そこに何らかのからくりが存在していることは間違いないだろう。

 

 しかし真に気になったのは、そのシステム自体の目論みである。

 

 色々と不審な点は多いが、どれにしても悪い言い方をすれば、さやかの話の内容があまりにも漠然としていて細かくなかったがために、判断材料として役に立たなかった。

 

 

———そんなの、善意じゃないの?

———だって魔女って人を喰らうんだよ?

———放っておいたら私達の街が

———私達の大切な人達が魔女に食べられちゃうかもしれないし

 

———その程度の話なら、世界中に掃いて捨てるほど転がってるよ

———何事にも利害が伴うものだ

———君はまだ若いから分からないかもしれないけれどさ

———それだけのことを何の見返りも無しに提供するのはね

———俺にはちょっと信じられないなぁ

 

———魔女と戦うってことが、十分に見返りになるじゃない

 

———魔女を倒すことで、それがきゅうべぇとやらの利益になっているはずだ

———俺は用心深い性格でね、そういう裏とかをちゃんと知らないと評価出来ないんだ

 

 

 話しながらも二人はひたすらに奥へ奥へと歩いていく。

 

 歩を進めるごとに、結界の内部は複雑に、装飾過多になっていくような気がした。

 

 RPGのゲームでダンジョンに入った時などに、奥に進むにつれておどろおどろしい雰囲気になっていくことは王道とも言えるが、ソレを正に体言した世界であるような樹がする。

 

 既に二、三度は魔女の、使い魔の結界に入った経験がある、この場ではベテランのさやかですら、恐怖や悪寒を感じずにはいられない。

 

 そんな中、横の紫遙は自分よりも年上であるということを差っ引いても、随分と落ち着いているように見えた。

 

 

———ねぇ蒼崎さん

 

———なんだい、さやか嬢?

 

———私もこうして色々と喋ったんだから、蒼崎さんのことも教えてよ

———蒼崎さんも、只の人ってわけじゃないんでしょ?

———流石にそれぐらいは分かるよ、私でも

 

 

 いつの間にか敬語を止めたさやかが、隣で注意深く曲がり角の先を伺っていた紫遙に問う。

 

 短刀といい、手慣れた走査の様子といい、何故か左手に握りしめた小石といい。

 

 とても一般人とは思えない。その方向性がどういうところへ向いているのかは流石に分からないが、それでも巴マミと似た何かを纏っているのは察せられた。

 

 先程の“魔女”についての発言ときては、もはや誤魔化しきれないものがある。もとより明言したわけではないにせよ、今は自然とこの結界を切り抜ける一時的なパートナーなのだから。

 

 どれだけ秘密主義でも、少しぐらいは手元を明かしてくれたっていいんじゃないか。

 

 そこまで明確に考えていたわけではないにせよ彼女にとっては当然の流れとして、さやかは紫遙に話を促す。

 

 

———まぁ確かに、一理ある

———君のセリフを遣うなら、君みたいな子には信じてもらえるか分からないけど

———俺はね、魔術師っていう人種なんだよ

 

———魔術、師?

 

———そうだ、魔術師さ

———色々と説明するのは面倒だから、君達が好きなテレビゲームに登場する

———焔や氷を呼び出す魔法使いみたいな人種だと思ってくれても構わないよ

———ただ、魔法使いとは呼ばないで欲しいな

———呼ぶならあくまでも“魔術師”で

———これも説明しないけど、約束して欲しい

 

———はぁ‥‥まぁ、蒼崎さんがそう言うなら

 

———うん、助かる

———君達みたいな、普通の人間には知らされていないことだけど

———世界の裏側には俺達みたいな魔術師が少しばかり存在しているのさ

———それで裏側の世界をまとめる組織みたいなものもあってね

———俺はその組織の依頼で、最近この街で起こっている変異の調査にやって来た

 

 

 進路、オールクリーン。今のところ、さやかの話にあった“使い魔”という存在には出くわしていない。

 

 どうやらこの結界を生み出した魔女は、未だ“グリーフシード”という種のようなものから孵化しきっていない状態らしい。だから、もしかしたら自分たちが見つかっていないという可能性も考えられる。

 

 そう考えながらも紫遙は油断なく、かつ迅速に通路を進んでいった。

 

 

———君の言う魔法少女や魔女みたいな存在がどうして協会に見つからなかったのか分からないけど

———どうやら全く異質な力のようだ

———この結界から脱出出来たら

———君の先輩とかいう巴マミ嬢からも話を聞かせてもらおうかな

 

———手荒な真似は、やめてよね

 

———善処するよ

———相手がどういう態度かにも、よるけどね

 

 

 暫く進んでいくと、吹き抜けのように開けた空間へと出た。

 

 真っ暗な空洞の中に、蛍のようにたくさんの光が浮いた幻想的な場所だ。

 

 さっきまでいた、何もかもが混沌とした場所と同じ結界の中とは信じられない。

 

 

———さて、そろそろ敵もお出ましみたいだぞ

 

———え‥‥?

———う、わ、ひぃっ?!

 

 

 架け橋のようになっている通路は広く、多少気を使えば十分に戦闘も出来るだけの幅があった。

 

 その広い通路に、紫遙の膝ぐらいまでの身の丈をした不可思議な生物が待ちかまえている。

 

 ネズミというか兎というか、とにかく小動物を摸した不可思議な生物だ。

 

 身を震わせ、威嚇するかのようにこちらを睨み付けている‥‥ように見える。

 

 不気味ながらも可愛らしい仕草だが、決して見た目だけでは戦闘力を推し量ることは出来ない。

 

 

———あれ、使い魔‥‥!

———ど、どうしよう、きゅうべぇもマミさんもいないし‥‥!

 

———落ち着くんだ、さやか嬢

———こういう開けた空間じゃ、悪いけど君がいる分だけ俺達の方が不利

———何とかここを突っ切って扉を抜けよう

 

 

 抜き放った短刀の切っ先が指し示す先には、装飾された小さめの扉が見える。

 

 おそらくはこの通路を抜け、あの扉をくぐれば別の部屋へと出るはず。

 

 そこがここよりも戦い易い場所だとは限らないが、遠目に見るとあちらこちらに空も飛べるタイプの使い魔らしい影が見える以上、この開けた空間は危険極まりない。

 

 特に紫遙にとっては、一応は守るべき存在と決めたさやかという足手まといがいる。

 

 これが衛宮士郎やセイバー、あるいは遠坂凜やルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトであるならば、まだ何とかやりようがあったかもしれない。

 

 しかしどう足掻いても戦闘者には成り得ない蒼崎紫遙では、誰かを守りながらの戦いなど身に余る代物だ。

 

 何とか出来る限り、有利な立ち位置を確保しておきたいところだった。

 

 

———突っ切るって、どうするんですか蒼崎さん?!

———魔女も使い魔も、普通の人間じゃ相手出来ないですよ!

———ここは引き返してマミさんを探した方が‥‥

 

———その巴嬢も、魔女を追っているんだろう?

———だとすれば奥へ奥へ行った方が、合流できる可能性も高くなるはずだ

———引き返しても出られる保証はないし

———もし結界の崩壊に巻き込まれたら、どうなるか分かったもんじゃない

 

 

 順手に持っていたナイフを逆手に構え直し、左手をポーチの中へ突っ込む。

 

 紫遙が取り出したのは、先程から左手に握りしめていた小石と同じくらいの大きさのもの。ただし、その小石は角度が変わったためか、先程まで見えなかった細部までよく見える。

 

 小さな石の表面には、アルファベットのような、そうでないような謎の文字が書かれていた。

 

 どこかで、そう、どこかペンダントで見たことがあるような、デザインだ。

 

 

———さやか嬢

 

———え?

 

———もう忘れてしまったのかな、俺の言ったことを

———紛りなりにも俺は魔術師

———どの程度のものかは知らないけれど

———使い魔なんて名前の連中に遅れはとれないさ!

 

 

 左手を一閃、手に持っていた小石を一つ放る。

 

 それは真っ直ぐ一直線に飛ぶと、ちょうど使い魔が密集しているど真ん中へと着弾。

 

 紫遙の声と共に爆発して辺りの使い魔を十体弱もまとめて吹き飛ばした。

 

 

———焔よ(アンサズ)

 

———え、えぇぇ?!

———こ、小石が爆発したぁっ?!

 

———ルーン魔術さ

———石の表面に書かれた文字そのものが力を持っている

———あとは力ある言葉を発して

———文字に込められたその神秘を顕現させるだけ

———さぁ俺の後ろについて離れるなよ、さやか嬢!

 

 

 紫遙は続けて二つ三つと小石を放り、進路上の使い魔太刀を爆発させ、燃やし、氷漬けにする。

 

 突き出して来た岩によって串刺しにされた使い魔の横を擦り抜け、足下に迫った小動物のようなものを短刀で一閃、走り出した。

 

 たまらずさやかもそれについていく。後ろから近寄る奴は、たちまち機を見て紫遙が放った小石によって吹き飛ばされてしまう。

 

 マミのような魔法少女ではなく、一見して普通の人間にしか見えない紫遙が投げた小石によって、たちまちに使い魔達が倒されていく風景は、ある意味ではマミ以上に非現実的だ。

 

 

———ふん、使い魔っていう言葉から察するぐらいには弱いな

———こいつらだけなら衛宮ほどじゃなくても、俺だけで何とかなりそうだね

 

———うわ、信じられない

———ホントに小石だけで焔出したり氷出したり‥‥

———魔術師って、いるんだ‥‥

 

———だから俺がそれだって、言ってるじゃないか

———悪いけど他言無用にね

———君以外の一般人に広まるとなると、口封じとか面倒だからさ

 

———口封じ?!

———それって、もしかして、殺‥‥

 

———ほら喋ってる暇はないぞ、扉を開けるっ!

 

 

 開ける、と言いながらも、その実、蹴り飛ばすが正しかったらしい。

 

 走る勢いを緩めないままに前へと振り抜いた右足によって、扉は敢えなく吹っ飛ぶように道を譲った。

 

 

———速く中へ!

 

———は、はいぃっ!

 

———よし、水流(ラケズ)凍結(イーサ)氷れる棘よ(スリサズ)

 

 

 続けてさやかを部屋の中へと引っ張り込み、三つの小石を扉へと放る。

 

 一つの小石は水流を呼び出し、もう一つの小石は冷気を発して生じた水流を凍らせる。

 

 トドメの小石は凍結を助長し、完全に氷の壁となって扉を塞ぎきった。

 

 只の氷ではない。魔術によって生じた氷は、生半可な焔や衝撃では壊れず、溶けもしない頑強なものだ。

 

 これで外の使い魔達は、中へと入って来れないだろう。

 

 マミという魔法少女も入って来れないのではという懸念もあったが、この程度の氷も破れないようなら自分が戦った方がよっぽど効率が良い。

 

 

———紫遙!

 

———む、この声は‥‥?

 

 

 振り返れば、そこはさっきの空間にも勝るとも劣らない大広間。

 

 至る所に、というよりは全体がお菓子の中のような装飾になっており、床も微妙にフワフワしている。

 

 たくさん生えた足の長いテーブルが足場のようになっており、まるでイカレたお茶会(マッド・ティーパーティー)のような装いだ。

 

 甘ったるい匂いが、やけに鼻につく。

 

 年頃の女の子らしく甘い物には目のないさやかも、そのあまりの菓子臭に思わず顔をしかめた。

 

 

———衛宮に、遠坂嬢じゃないか

———二人とも無事だったのか、良かったよ

———病院で一緒に調査してたのに別々の場所に出たみたいだから、心配してたんだ

 

———色々あったけど何とか、な

 

———途中で会った、このホムンクルスに案内されたのよ

———まったく、痛くもない腹の探り合いで戦闘よりも疲れたわ

 

 

 そこに立っていたのは二人の人影。

 

 片方は地味なシャツにジーンズを着込んだ、赤銅色の不思議な髪の毛をした長身の青年。瞳は刃のような鋼色をしている。

 

 そしてもう片方は、黒いサマーセーターに真っ赤なコートを羽織った長髪の女性。

 

 艶やかな黒髪は背中の半ばを優に越え、じきに腰に達することだろう。

 

 青年の名前を衛宮士郎、女性の名前を遠坂凜。

 

 二人とも倫敦の時計塔では、蒼崎紫遙の学友として親しく付き合っている魔術師である。

 

 

———さやか、無事だったんだね!

 

———きゅうべぇ?! この人達といたんだ‥‥良かったぁ

 

 

 その二人の足下から飛び出したもう一つの影。

 

 小動物のように見えながら、既存のどんな生物とも言えない。まるで縫いぐるみのような不現実さを孕んでいる。

 

 殆ど瞬きもしない真っ赤な丸い瞳は感情を撮さず、口も殆ど開閉しない。

 

 いったい何処で呼吸をしているのであろうか。

 

 

———ホムンクルス?

———遠坂嬢、こいつについては其処のさやか嬢からも聞いているけど

———やはり真っ当な生き物じゃないみたいだね

 

———当然よ

———私に言わせれば、こいつを生き物と呼ぶかどうかも協議の対象ね

———何しろほら、生き物の気配がしないんだもの

———もし私が生物学科の魔術師だったら、解剖して標本にしたいぐらいだわ

———少なくとも純粋な魔術の産物ってわけでもないみたいだし

———言ってることだって胡散臭くて、とても信用できやしないのよ

 

———おやおや、どうやら予想通りって感じだな

———あぁ、緊急事態だけど一応紹介しておくとしようか

———彼女はさっき会った、美樹さやか嬢

———どうやら其処の生物(なまもの)の協力者らしいね

———本人はいたって普通の人間みたいだけど、無関係ではなさそうだ

 

 

 じろりと視線を這わせた凜に、きゅうべぇと何やら話していたらしいさやかがビクリと身を震わせる。

 

 優しげなお兄さんという風貌の紫遙に対して、憧れるぐらい綺麗な年上の女性である凜から睨まれるのは圧迫感が段違いだ。

 

 隣で従者のように無言で立っている士郎も合わせて、圧倒的上位者という認識が問答無用ですり込まれる。

 

 

———初めまして、きゅうべぇって言ったかな?

———俺は蒼崎紫遙

———時計塔の、魔術師だ

 

———初めまして、蒼崎紫遙

———ボクはきゅうべぇ、魔法少女の契約主ってところかな

———魔術師に会うのは、どれぐらいぶりだっけ

———まさか時計塔の魔術師に嗅ぎつかれるとは思ってもなかったよ

———不干渉を決め込んでるものだって、てっきり勘違いしていたからね

 

———さっきからだけど、その話し方ホントに気にくわないわね

———もしかして私達と対等の立ち位置にいると思っているのかしら?

———まるで今回の“魔女とやら”についての一件も掌の上であるかのような言い方だけど

———仮にそうだとしたら、時計塔はここまで大規模な神秘の流出を決して許しはしないわよ

 

 

 さやかの腕に抱かれたきゅうべぇと、その前に立つ紫遙と凜。

 

 呉越同舟、宿敵同士が相まみえたかのような凄絶な言葉の飛ばし合い。

 

 一欠片の皮肉すら優雅に織り交ぜた舌戦の、さらに前哨戦とも言える軽い応酬。

 

 とはいえ只の女子中学生であるさやかにとっては、あまり親しみ慣れないやり取りだ。

 

 そのやり取りの矛先に形式上とはいえ立たされ、思わず目をぱちくりとして脂汗を流す。

 

 凜と紫遙の視線は自分の腕の中のきゅうべぇに行っているはずなのに、どうして全身が刺すような寒気に襲われているんだろうか。

 

 

———それが誤解だな

———魔女はあくまでも、自然に現れた代物だよ

———それに対抗してボクは魔法少女を生み出し続けている

———君達に対して何か害になることをしているつもりはないし

———神秘っていう言い方も、ちょっと的外れだなぁ

 

———悪いけど時計塔側の言い分としてはね、そういう不確定な神秘を野放しには出来ないわ

———それに貴方自身からも魔力を感じる

———だとしたら神秘以外の何物でもないわ

———魔法少女っていうのをまだこの目で見たわけじゃないけれど

———もし貴方の言う魔法少女が魔力を使って神秘を顕現させる技術を持った存在なら

———貴方のしていることは不特定多数への神秘の漏洩に他ならない

 

———神秘は秘匿されるものだ

———どうやらお前は魔術協会についても理解があるようだから言っておくけど

———今までのやり取りではっきりと分かったよ

———魔術協会は実態を掴めていなかったから

———お前達への調査をやっていなかっただけだ

 

———そうね、つっこんで調査しなければ分からないもの

———魔法少女と魔女なんて儀式は

———やけに行方不明者や原因のはっきりとしない事故や自殺が多くても

———その程度のことなら土着の魔術師の実験ってことも十分にあり得るし

———あからさまに不審じゃなかったらわざわざ調査をするまでもない

———今回、私達が来たのは半ば嫌がらせみたいな仕事の押しつけ

———適当に原因の魔術師を引っ捕らえて終わらせるつもりだったけど、運が悪かったわね

 

 

 空気が凍る。

 

 周囲の警戒をしている士郎ですら、そちらへと注意を払わずにはいられない。

 

 二人と一匹の出す、おどろおどろしい雰囲気は。

 

 紫遙も凜も、ここに至って自分達が時計塔から期待されている役割を理解した。この場で自分たちが、時計塔の代行としてやるべきことを。

 

 きゅうべぇがどういう理屈で魔法少女を作り出しているのか。魔女とはどういうものか、そもそもきゅうべぇが何者なのか。

 

 それよりも何よりも、魔術協会として懸念すべきは神秘の漏洩。きゅうべぇが魔法少女を作り出すということは、乃ち神秘を不特定多数へと漏洩させていることに他ならない。

 

 つまり神秘の希釈。しかもきゅうべぇはこれからも魔女に対抗して魔法少女を増やし続けると言う。

 

 

———ふむ、まぁ魔法少女がどういうものかについては、本人に聞いた方が良さそうだね

 

———その本人に会ってないから、貴方を問い詰めているに決まっているじゃない

 

———大丈夫、今までのやりとりは全部マミにもテレパシーで聞いて貰ってるからね

———今、彼女からも連絡があったよ

———鹿目まどかと、あと二人を連れてこっちに来るって

———ほら、すぐ来るよ

 

 

 きゅうべぇの視線の先を全員が追う。

 

 するとさっき紫遙が閉ざした扉の氷が、轟音と共に爆発して綺麗さっぱり跡形もなく吹っ飛んだ。

 

 狭い穴から現れたのは、黄色をメインカラーにしたファンシーな衣装を纏った中学生から高校生ぐらいの少女。

 

 片手に真っ白な、美しい装飾の施された長銃を持ち、フワリと飛び降りてくる。

 

 その後ろからは一塊になった三人の少女。銀色の甲冑と青いドレスを纏った金髪の少女騎士が、同じく青いドレスを纏った太陽のような髪の女性と制服らしき服装のピンクがかった両結びの少女を抱いて、颯爽と紫遙達のところへと空を駈けて来た。

 

 

———待たせたわね、美樹さん、きゅうべぇ

———途中でちょっと手間取っちゃって

———セイバーさんとルヴィアゼリッタさんのおかげで、楽ではあったんだけれどね

 

———良かった、三人とも無事でしたか、シロウ、凜、ショー

 

———私達が一番後ですの?

———全く、一番乗りを期待しておりましたのに‥‥

———マミ、マドカ、貴女達がごちゃごちゃと話していたからですわよ?

 

———ご、ごめんなさいルヴィアさん‥‥

 

———別に怒っているわけではありませんわ

———貴女達との話は、私にとっても有意義でしたもの

 

 

 降り立った少女達は、何時の間にやら仲良くなったのか、戦場というのに楽しげに談笑する。

 

 殺伐としていた凜達や緊張した紫遙達の道中とは異なり、十分な戦力があったからか、親交を深めながらやって来たらしい。

 

 

———無事だとは思っていたけれど、良かったよマミ

———ちょうどほら、グリーフシードも孵化するところだしね

 

———え?!

 

 

 甲冑の少女騎士、セイバーに抱えられて降りてきた鹿目まどかが驚きの声を上げる。

 

 見れば一際高い足をしたテーブルの両脇に据えられている、同じく足の長い椅子の上。その上の空間が歪んで、何かが現れようとしていた。

 

 

———あれが、魔女‥‥?!

 

———人々の負の感情を凝縮した存在

———呪いを振りまく化け物さ

———結界の中に籠もっている奴らを倒せるのは、マミみたいな魔法少女だけだよ

 

 

 緊迫したルヴィアゼリッタの声にきゅうべぇが応えた瞬間。それを合図とするかのように空間から一匹のナニカが飛び出した。

 

 それは一つの縫いぐるみ。ファンシーでふわふわしている、抱き心地の良さそうな何処にでもある店売りの縫いぐるみだ。

 

 

———出たわね

———みんな、下がっていて頂戴

———きゅうべぇも言っていたけど、あれを倒すのは魔法少女である私の役目よ

 

 

 一歩前に出たマミが、手に持った長銃を構える。魔法少女と言っておきながら、彼女の得物は古いとはいえマスケット銃であった。

 

 一発限りの先込め式の銃。それを大量に生み出して使い捨てる。何処か士郎にも似た戦い方が、ベテラン魔法少女としての彼女の特技。

 

 

———そういうわけにもいきませんね、マミ

———如何に貴女にプライドがあろうと、あのような輩を相手に一人で戦わせるのはとても

———ここは助太刀しましょう、一時とはいえ共に轡を並べた仲として

 

———セイバーの言う通りですわね

———エーデルフェルトの名にかけて、戦場で立ち見とは我慢なりませんわ

———もしなんでしたら、乱入という形でもよろしくてよ

———乱入は試合の華ですものね

 

 

 マミに並び、セイバーとルヴィアゼリッタが前に出る。

 

 共にしていた道中で何かあったのか、連帯感にも近いものが生まれているらしい。ほんの数十分ほどの付き合いのはずが、三人ともまるで戦友のように微笑み合っている。

 

 前衛、中衛、後衛と三人揃ったバランスの良いパーティ。これが相手なら並大抵の敵を相手にしないことだろう。

 

 

———二人とも、ありがとう

———本当に、今日初めて会ったとは思えないぐらい力強いわ

 

 

 他の面々は知ることのない。

 

 二人に向けて微笑んだ、そのマミの表情の意味。

 

 

———さて、後ろで色々と話して欲しそうにしている人達もいることだし

 

 

 

 カチャ、と軽く小気味良い音を立ててマスケット銃を構える。

 

 新たに呼び出した銃で別々の場所を狙いながらも、その目が捉えるのはただ一つ。

 

 自分が倒すべき、敵。

 

 それは魔女。

 

 

———せっかくのところ悪いけど、一気に決めさせて貰うわよ!

 

 

 二発の銃弾が、戦いの始まりを告げ知らせる。

 

 それは本当なら、一人で始まるはずだった戦い。

 

 有り得なかったはずの多数に見守られ、彼女は戦い始める。

 

 それは誰の仕業だろうか、本来なら些細なことで曲がるはずのない、既に形成されていた歴史というものが変化したのは。

 

 誰も知らないし、彼女もそれを気にすることなどない。

 

 ただ彼女は未来を信じ、今を戦い続ける。

 

 既に手に入れた未来の対価を、支払うために。

 

 

 

 

 【UBW〜見滝原魔女異端】こうご期待!

 

 

 

 




 一万六千文字、いつもより少ないけど番外話としては十分でしょう。打ち切り嘘とかは性分に合わないので、こんな形に。
 無事に新年度を迎えることが出来たお祝いに、執筆させていただきました。
 作品の雰囲気を出来る限り再現しようと、いつもとは違う文章形式を取らせて頂いているので、見苦しかったかもしれませんね。
 ダッシュなんかは普通に全部発言なんですけど、心中での独白にも見えるからややこしい。
 いつもと違う文章というのも、書いていて楽しかったんですけど。
 あと蛇足ですけど、マミさんサイドも書きたかったなぁ‥‥。
あそこからちょっと原作とは違った展開に、とかいうのも想像できて面白い。
 まぁ後書きもこの辺で。
 四月馬鹿企画ではありますけど、真っ当な外伝として残しておきますので。ノシ
 それでは次話も頑張って執筆していきたいと思います。どうぞ今暫くお待ち下さい!


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第七十六話  『灰の街の天災』

 

 

 

 

 side Giovanni di San Sebastian

  

 

 

「‥‥ようこそポンペイへ、コンラート・E・ヴィドヘルツル卿。ご来訪を心よりお待ちしておりました」

 

 

 イタリアの地方にある、古代都市ポンペイ。

 遥か太古に火山の噴火による被害を受け、一夜にして灰の海に沈んだと言われる悲遇の都市。

 今では観光名所として毎日大勢の観光客によって賑わう場所だが、その本質が墓場であることには変わらない。

 イタリアの眩しい太陽に照らされた古代の町並みは白い壁を美しく輝かせる。

 しかし建物の陰にまで、光を当てることは出来ないのだ。美しく磨き上げられた遺跡の陰には、それこそ真っ黒な影が史実として広がっているのだから。

 

 

「はじめまして。私は聖堂教会から任命された、ポンペイ教会の司祭です。故あって性は捨てておりますので、どうぞジョバンニとお呼び下さい」

 

「ふむ、こちらこそ初めまして、であるか。コンラート・E・ヴィドヘルツルだ。‥‥そちらはジョバンニ神父でよろしいか?」

 

「構いませんよ。この際、呼び捨てに頂いても私としては一向に気にしないのですがね。まぁ初対面でそこまでフレンドリーに話すわけにもいかないでしょう」

 

 

 遺跡からは微妙に離れたポンペイ駅のホームに現れたのは、真っ白い町並みにも負けず劣らず、全身白尽くめの一人の男だった。

 病的なまでに、滲み一つない純白のスーツ。偏見的でありながら隔離病棟をイメージさせる気味の悪い白さは、頭に被った帽子にまで同じく、あろうことか靴までもが同色で統一されている。

 

 細いようでいて、がっしりともしているのは、おそらく骨太だからだろうか。それとも体格のみが目立っているのだろうか。

 痩せているのは間違いないのだろう。しかし同じように肩幅は広く、身長も高い。

 何よりこちらへと歩いてくる姿からは、体重というものが感じ取れなかった。

 そこに確かにいるはずなのに、存在を感じ取れない。まるで幽霊か何かのようだ。

 もし我々の生きるこの世が一つの絵画だとするならば、彼のいるところだけ消しゴムで消されたように、あるいは最初から何も書かれていないように、もしくはキャンバスですらないように空白である。

 

 

「事前にこちらへいらっしゃる旨、魔術協会を通じての連絡、ありがとうございます。

 やはり昨今は勝手に入ってくる魔術師が増えましてな。マナーを論ずるのは意味のないことだとは思っているのですが、それでも困ってしまいますよ」

 

「いや、あちらは私の領地の家令のような者がやったことでな。私自身は関与しておらんよ、ふむ」

 

「そうでしたか。いや、しかしこちらとしてはありがたい限りです。

 如何に魔術師個人の来訪とは言えども、魔術協会と聖堂教会に無用な諍いを引き起こすことは慎むべきですからね。私としては、細心の注意を払っても十分ということはないと考えております故」

 

 

 ホームから離れ、観光客でごった返す街路をゆっくりと歩いていく。

 迎えたヴィドヘルツル卿は何もかもに興味を示すかのように、態度に反して淡泊な目をあちらこちらへせわしなく動かしてはすぐに別のものへと視線を移す。

 始終その調子でゆっくりと歩を進めている様は、帝王か領主。

 

 人間は基本的に、他者との共存で生活していく生き物だ。

 群れを為すのは人間以外の動物でも当然のように行うことであるが、しかし社会まで形成する種族は限られる。

 どの程度のものであれ、他人との関わりは人間にとって必要不可欠とでも言うべきもの。

 だというのに彼はあくまでも泰然と構えて、他者に感心を示す様子がない。

 彼が多少なりとも関心を示すのはモノぐらいなのだろう。視線は全て人を擦り抜け、隣を歩く私にすら無機質な目を向けている。

 

 

「ご存じでしょうが、このポンペイは非常に面倒な立場に立たされていると言っても過言ではありません。

 遺跡がある都市といえば何処も同じようなものですが、魔術協会と聖堂教会両方の権威が及んでいる土地ですからね。特にローマに近いのも、ある意味では災いしていると言えましょう」

 

「ふむ、聖堂教会の司祭であるにしては妙な言葉だな」

 

「私はこのポンペイの管理者(セカンドオーナー)も兼ねてますからね。神の僕であると同時に魔術師‥‥。俗世は面倒で仕方がありませんな」

 

 

 名のある遺跡は、その多くが霊地であることが多い。

 例えば我が領地であるこのポンペイもそうであるし、有名なところではイギリスにあるストーンヘンジなども同じく一流の霊地である。

 しかし遺跡と化す程の歴史を持った霊地だと、表の社会とも、無関係ではいられない。特にローマに近いポンペイの街ならば、聖堂教会からの干渉とて考慮しなければならないのだ。

 

 故に私の家は、代々聖堂教会の司祭として活動している。

 魔術師であると同時に、聖職者。矛盾してはいるが代行者であるならばそこまで問題はない。そもそもからして、聖堂教会の代行者達は決して信仰が第一というわけでもないのだから。

 聖堂教会としても、ある程度こちら側の言い分に理解を示す管理者(セカンドオーナー)は都合が良いようだ。それは既に、私の先祖が証明しているわけであるが。

 

 

「どうですか、この街は?」

 

「ふむ、悪くはない。土地に染みついた過去の無念、怨念、そういった負の感情が歴史として積み重なった‥‥良い街だ。

 我々魔術師にとっては、だがな、ふむ」

 

 

 靴音が小気味よく石畳に響く。真っ白な革靴には一切の曇りは無く、陽の光を反射して鈍く輝いている。

 相も変わらず無機質な目は、それでも興味深げに建物や道などを注意深く観察していて、手元に持った自前の地図に何事かを書き連ねていた。

 

 コンラート・E・ヴィドヘルツル。

 ドイツにある“幽霊城”と呼ばれる領地を治める管理者(セカンドオーナー)であり、一時期時計塔に在籍していたこともある。

 そしてそのときに、その余りの才能から褒め称えられ、稀代の天才の名前は欧州の端であくせくと魔獣の類との戦いに勤しんでいた私の耳にも届いていた。

 曰く、ありとあらゆる魔術に精通し、どんな課題でも完璧にこなす学生。そういうふれこみの彼は、確かに期待通りの成長を遂げたのだろう。

 当時既に齢五十に達していた老齢の学生だったと聞くが、あれから数十年経った今では私など足下にも及ばないということがありありと分かる。

 

 

「聖職者としては悲しむべきことなのかもしれませんがね。人々の無念が実際に形として残っているこの街を見せ物にするというのは‥‥。

 私などは生まれたときから此処にいますから、その思いは尚更ですよ。確かに観光客を呼ぶことでこの街が繁栄しているのも事実ですが、同じく厄介事も舞い込みますからね」

 

「ふむ、そうか」

 

「貴方とて管理者(セカンドオーナー)でしょう?」

 

「そのような些事は領地にいる別の魔術師が担当している。私に必要なのは、ただ探求のみ」

 

「‥‥いやはや禁欲的なことですね。まぁ、よろしいんじゃないでしょうか。

 多少世俗に塗れているとはいえ、私も魔術師ですからね。そういうことには共感を覚えます」

 

 

 辺りを見回す目とは打って変わり、やはり私の発言に対する返答は感情の色が見えない。

 正直な話をすれば‥‥彼の愛想の欠片も感じることが出来ない態度は不愉快に思うが、聖堂教会と魔術協会の双方から接待を依頼された身としては相手をしないわけにはいかないだろう。

 

 

「いかがです、遺跡の方へいらっしゃいますか? もしご覧になられるようでしたら私が是非に案内させて頂きますが」

 

「‥‥ふむ、折角の申し出だが、遠慮させてもらうとしよう。

 遺跡も心そそられるモノがあるが、その前に街の中をじっくりと見させてもらいたい。出来れば街の入り口や周囲もチェックしたいところだな、ふむ」

 

 

 まるで子供のように、渡した地図に隅々まで指を走らせるヴィドヘルツル卿。

 確かに普通の観光客ならば遺跡や、駅から中心部までの道などにばかり気を取られてしまうことだろう。

 しかし魔術師であるならば、しかも管理者(セカンドオーナー)から正式に招かれている魔術師ならば、他にも見所は多い。

 

 

「確かに、霊脈は決して遺跡に集中しているわけではありませんからな。

 街の周囲にも魔力溜まりのような場所はありますし、お好きに見て回ってもらって構いませんよ。ですが調査だけにして下さいね。

 流石に霊脈をいじられたりしては管理者(セカンドオーナー)として面目が立ちませんので。あぁ、念のため使い魔も同伴してもらいますよ」

 

「ふむ、理解しているよ。十分に注意するとしよう」

 

 

 他の霊地ならば話は違うだろうが、流石に私の領地であるポンペイでは一般的な対応が必ずしも出来るとは限らない。

 そもそもからして観光地だ。いくら魔術師の流入を規制しようにも無理がある。

 これだけの量の観光客に紛れられてしまっては、どうしようもない。どれだけ土地勘があっても人混みに撒かれてしまうことだろう。

 

 だからこそ大事なのは独自の姿勢を作り上げることこそが大事。

 私の領地であるポンペイでは、基本的に魔術師の流入を規制しない。

 勿論、訪問する前にはしっかりと私への連絡をしてもらいたい。それは原則として魔術協会にも伝えてあるし、所属未所属に関わらず今まで守られていたルールだ。

 

 そもそも霊地の管理者(セカンドオーナー)の立ち位置というのは果てしなく微妙なものだ。

 時計塔に席次があるわけでもなく、魔術を行使する上でのメリットも大して存在しない。精々が霊地の魔力を操る権限を持っている、というだけのことだろう。

 その土地に住まう魔術師達からの上納金という旨味があると言えば、まぁ確かにあるが、それにしたって魔術師としてのメリットではない。

 

 結局のところ管理者(セカンドオーナー)なんてものは、最初からなると決まっていた者がなる役職であるのだ。

 わざわざ好きこのんで新規に管理者(セカンドオーナー)などになるものではない。正直、面倒なだけである。

 まぁ大抵の管理者(セカンドオーナー)はその土地に代々住み着いているような古参の者であるから、その心配も杞憂と言えるが。

 

 ああ、そういえば霊地を悪用するというのも、中々に難しい話ではあるな。

 

 

「ではホテルの方にはこちらから連絡をいれておきましょう。遺跡は見学できる時間が決まっておりますので、ガイドブックを見て注意しておいて下さいね」

 

「ふむ、理解した」

 

「では私は雑務がありますので、失礼します。どうぞお気を付けて」

 

 

 体勢は全く変わらないまま、言葉だけでおざなりな返事をしたヴィドヘルツル卿が遺跡の反対、ゆっくりと街の外へと向かって歩いていく。

 悪態を突きこそしないが、それでも私は去っていくその背中に重い重い溜息をつくのを堪えられなかった。

 果てしなく相手をするのが疲れる客人だ。正直な話をすれば、一応は管理者(セカンドオーナー)という立場にある私が何故ここまで気を使わなくてはならないのか。

 

 

「まったく、私は執事でも何でもないのだがな。便利屋とでも思われているのか?」

 

 

 ‥‥いや、愚痴はやめよう。

 私とて先代の跡を継いで管理者(セカンドオーナー)になった時から、このような立場に置かれることは覚悟していたはずだ。

 似たようなことなら、いくらでもあった。もっと面倒なことなら、更にあった。

 遺跡をめちゃくちゃに荒らそうとしたモグリの魔術師を血祭りにあげたことや、姑息にも遺跡の物品を持ち出そうとした魔術師。他にもネタには事欠かない。

 

 

「やれやれ、一人を受け入れると吾も吾もとポンペイにやって来るから困る。

 暫くは書類仕事に追われそうだな。まったく、いくら故郷を守るためとはいえ細々とした事務処理は面倒だ」

 

 

 一体此の地に来て何をするつもりだというのだろうか。遺跡以外に、魔術的な要素などありしない。

 ここまで怨念が籠もった霊地というのもそこまで数がないかもしれないが、それにしたって物珍しい以上の何物でもないだろう。

 何を勘違いしているのか知らないが、まぁ私としては面倒を起こさなければ私の仕事が増える以外に問題はない。それさえ自覚しているのなら、まだ私は頑張れるさ。

 

 

「‥‥まずは家に帰って書類を支度する、か。ヴィドヘルツル卿の不興を買わんようにホテルへの連絡はしっかりとしなければな」

 

 

 ちょうど高台にある私の屋敷へと向かう道に歩を進める。

 街を歩く殆どが観光客であるが、一部の住人達は私を見ると軽く会釈をしてくれる。既に先祖代々の付き合いであるからか、誰も彼も顔見知りだ。

 

 近くにヴェスヴィオという活火山があり、過去に大災害を経験しているがためか、住人達は思いやり深く連帯感も強い。

 私自身が聖職者ということもあろうが、魔術師としては研究を、そして表では聖職者として地域との交流をするという充実した生活を送ることが出来ていた。

 

 私はこの街を、ポンペイを愛している。

 この街のためならば、身を粉にして働こう。この身に代えても、私はこの街を守ってみせる。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ジョ、ジョバンニ神父! ジョバンニ神父! お願いですジョバンニ神父起きて下さい!」

 

 

 夜中、既に魔術師であろうと寝静まっている深夜。

 当然のように教会の自室で就寝していた私の部屋の扉を、いつになく切羽詰まった勢いで叩く音が聞こえ、私は泡を食って飛び起きるとドアノブに手を掛けた。

 

 

「おお、ジョバンニ神父! いらっしゃって安心しました、もうどうしたらいいか‥‥」

 

「一体どうしたというのですか、ピエトロ?! そのように慌てふためいて、いつもの貴方らしくありませんよ」

 

 

 扉を開けた先に立っていたのは、祖父母の代から親密な付き合いをしている隣人。

 一昨年に他界した彼の両親と私が親友であり、彼が子供の頃から面倒を見てきた仲だ。

 普段は温厚で人当たりがよく、近所のまとめ役にもなっている年下の知人の同様しきった声に、私も驚きを隠せない。

 

 見慣れた友人は、普段はまるで常に酒に酔っているかのような赤ら顔をすっかり青ざめさせて、徒競走の後のように激しく息を切らせている。

 感想して熱い気候とはいえ、ここまで汗をかいているというのは尋常の事態ではない。ただでさえ、普段からあまり運動せずに太り気味なピエトロならなおさらだ。

 

 

「な、なにを言っているのですか! ぼんやりしている場合ではありませんよ、ジョバンニ神父!」

 

「はぁ?」

 

「昔から寝付きが良いんだから貴方は‥‥! あああ、とにかく外に出れば分かります! ほら! 速く!」

 

 

 パジャマに使っているラフな部屋着の上から長衣を羽織り、手というよりは腕を引かれ、慌てて着いていく。

 ポンペイは遺跡の発掘調査でかなりの時間まで灯りが点いているが、それにしてもこのような時間に出歩く人間がいるはずもない。だというのに、不思議なことに窓のカーテンの隙間から見える空は、やけに明るい気がした。

 

 

「‥‥これ、は」

 

「信じられないでしょう、神父様。火山が、ヴェスヴィオ火山が噴火しているんです! さっきまで何の兆候も無かったのに!!」

 

 

 外に出れば、市街地を挟んで向こう側に悠然とそびえ立つウェスウィウスが、真っ赤に染まっていた。

 百年も経たない昔にも一度噴火し、村々を壊滅に追いやったヴェスヴィオ火山。しかしそれは、昨日の夜までは確かに普段と変わらず、泰然と我々を見守っていてくれたはずだったのに。

 今は古の神々のように怒りを振り撒き、理不尽な死を撒き散らす恐怖の象徴と化している。

 

 真っ赤に染まった火口からは、火口のサイズを上回るかもしれないぐらいの太さの噴煙が、まるで天上を支える柱のように果てが無く立ち上っていた。

 ここからでも断続的に小規模な爆発を繰り返しているのがよく分かる。たまに白い粒のようなものが撒き散らされており、どうやらあれは火山弾らしい。

 外に出れば、部屋の中では気づかなかったが灰が降り注いでいるのがよく分かる。雨のように降ってくる灰で、街行く人々の頭が微妙に白く染まっているのだ。

 

 まるで現世の終わりを告げ知らせるかのような、地獄そのものと言うべき有様。

 それは確かに、十分に覚悟していたことだった。我々はもとより、この地方に住む全ての人間は、いつか理不尽な神の怒りに触れることぐらい十分に覚悟していた。

 

 

「‥‥ピエトロ、貴方は火山が噴火する記録映像を見たことがありましたね?」

 

「え、えぇ」

 

「ならば私の言いたいことも、分かりますね?」

 

「も、もちろんです! あの状態は間違っても噴火直後なんてものじゃありません! どう考えても、噴煙の規模と火山灰の量からして一昼夜以上は噴火し続けていないとおかしい!」

 

 

 高々と天を支える噴煙は、ついさっき噴火が起こったのでは生じるはずがない。

 地面は小刻みに揺れている。眠っていたから気がつかなかったらしいが、少なくとも火山の噴火の時に起きることが出来なかったというわけはあるまい。

 既に降ってくるのは灰だけでは無くなっている。砂利のような小石から、こぶしよりも大きな礫岩まで、火山の噴火で巻き上げられ、散弾銃のように襲いかかって来ているのだ。

 

 

「‥‥まさか、ここまで突然に噴火が起こるとは」

 

「しっかりしなさい、ピエトロ! あの様子だとすぐに火砕流が迫ってきてもおかしくありません。急いで避難するのです!」

 

「神父様‥‥しかし神父様は?!」

 

 

 ともすれば腰が砕けそうなまでに震えているピエトロを叱咤激励して、街の出口、駅の方面へと背中を押す。

 深夜だから電車が動くはずもないが、駅前まで行けばバスに乗れる可能性もある。私の脳裏では、既に飽きるほどに読み返した各種の文献の記録が蘇っていた。

 

 

「‥‥私は、他に避難出来ていない人がいないか確認してきます。お年寄りや、病人などが居たら近くの人に頼んで一緒に逃げて貰わなければ」

 

「しかし神父様! そんなことをしている時間はありませんよ?!」

 

「そういうわけにはいきません。私はポンペイの信者である皆さんのおかげで生活できているようなものです。皆さんのために出来ることは、なんでもしなければ」

 

「神父様‥‥」

 

 

 都合の良い言葉を使いはしたが、それは真実。

 この街の領主、管理者(セカンドオーナー)としての義務がある。矜恃がある。誇りがある。

 何より愛する街の住人達を見殺しにするわけにはいかない。魔術師として可能な限りの領民を、聖職者として可能な限りの迷える子羊達を救わなければならない。

 

 

「さぁ、急いで。もし歴史の通りに火砕流が来るとしたら、命の限り走らなければ助かりませんよ!」

 

「‥‥わかりました。神父様も、お気を付けて!」

 

 

 走り去っていくピエトロの背中を暫しの間だけ眺めた後、反対方向へと私も走り出す。

 街道の方は阿鼻叫喚の有様だった。老若男女問わずありとあらゆる住民達が街の外へ、外へ、出来る限りヴェスヴィオ山から遠い方へと逃げていく。

 大体の顔見知りを、その道中で確認出来た。どうやら私は相当悠長に惰眠を貪っていたらしく、他の人間達は大半が既に避難を開始していたよいうだ。

 

 

「ああ、しかしあの規模の噴火では仮に火砕流まで発生するとして、人間の足では逃げ切れん‥‥!

 途中で車か何かをピックアップせねば、私も焼け死んでしまうかもしれんぞ」

 

 

 流石に義務感で死ぬのは勘弁したい。私だって、自分の命が一番大事なのは変わらないのだ。

 ‥‥どうやら住人の多くは自分の家から逃げ出し、家の中に残っている者はいないらしい。やはり私のような間抜け以外は敏感に異常に反応したのだろう。

 結構な速度で走っているからか瞬く間に街道を走ってくる住民達の姿は見えなくなった。‥‥後は住民以外の、ホテルに泊まっている観光客達か。

 あちらも従業員が、古くからポンペイに住んでいる従業員達が上手く対処してくれていると信じたいが、気になる。

 なにせホテルには彼のヴィドヘルツル卿も宿泊している。大丈夫だとは思うのだが、彼に死なれると立場上マズイ。

 

 

「‥‥やはり、人気はないな。一応上の方まで調べておくか。高いところからなら、ヴェスヴィオの様子も見ることが出来るかもしれん」

 

 

 ホテルもそこまで大規模な建物ではない。

 エレベーターを使って最上階まで上がって、あとは階段で屋上まで出る。

 常ならば雄大なウェスウィオスと白い遺跡群を眼下に望む素晴らしい景勝が、今は地獄の顕現を目の前にする、この上なくありがたくない地獄の一丁目となっていた。

 

 

「む、貴公は?!」

 

「‥‥ふむ、来たか。

 此の異常を察知すれば直ぐに嗅ぎ付けてくるとは思ったのだが、予想以上に遅かったな」

 

 

 全身白尽くめの魔術師が、怒り狂うウェスウィオスを背後に悠然と立っていた。

 まるで原初の世界に神が与えたもうた光のように真っ白な全身には、不思議なことに火山灰による汚れを確かめることが出来ない。

 自分がこの世界の王であるかのような態度も変わらず、本来ならポンペイの地においての立場は上のはずの私を、余裕を以て見下ろしている。

 

 

「何をなさっているのですか、ヴィドヘルツル卿! 早く避難なさって下さい! もうすぐにでも火砕流が押し寄せてくるかもしれません!」

 

「ふむ、確かに」

 

「火砕流が来れば、このホテルも持ちこたえられないかもしれませんよ!

 我々魔術師と言えども、自然の猛威には逆らえない‥‥。さぁ急いで! 街の外まで逃げて車を拾い———おおぉっ?!」

 

 

 大きな爆音と地震と共に、ウェスウィオスの火口から立ち上っていた煙の柱が、崩壊した。

 あれは只の煙ではない。溶岩や、水蒸気や、火山灰、火山弾、礫岩の複合物だ。

 巨大な柱が崩れ、その崩れた柱が我々の街、ポンペイへと襲いかかってくる。遠目だからゆっくりに見えはするが、恐ろしい勢いで押し寄せてくることだろう。

 

 

「‥‥まさか、本当に火砕流が。これでは過去の惨劇の繰り返しではないか」

 

「ふむ、確かにその通りだろう。“そうなるように”したのだからな」

 

 

 単調で、何の感慨も感じない言葉。確かに私に向けて言っているはずなのに、当たり前の事実を淡々と確認するかのように無機質。

切迫した状況にまるで似つかわしくない悠長な台詞回しに、私の“一瞬でも早く逃げ出さなければ”と逸る心境は拍子抜けして空白を生じさせる。

言葉の内容など、殆ど頭に入ってなど来なかった。

何よりもヴィドヘルツル卿の一本調子な、昼と何ら変わらない態度こそが、目の前の地獄とのギャップを以て私に得体の知れなさを感じさせた。

 

「な、何を仰っているのですか、ヴィドヘルツル卿? 浅薄にして私には貴公が何をお伝えになられたいのか、さっぱり‥‥」

 

「ふむ、思考を止めるのは魔術師として致命的だと言わざるを得んな。このような滅多にない光景に出くわすことが出来たのだ。もっと建設的な話をした方が益になると思うのだが、ふむ」

 

「い、いえ、確かに貴公のような才能溢れる素晴らしい魔術師と意見交換が出来るというのは、未だ未熟な私には過分の光栄でありますが……。

ああしかし、今は悠長に議論を交わしている場合ではありませんぞ! さぁお早く避難を! もうすぐにでも、火砕流がやって来ます!」

 

 既にヴィドヘルツル卿の背後に聳えるウェスウィオスから、雪崩のように火砕流が迫って来ているのが肉眼で見てとれる。

 素人にはゆっくりした速度に見えるかもしれないだろうが、我々からしてみれば冗談ではない。

 急な斜面で位置エネルギーを運動エネルギーへと変えた圧倒的な質量は、あと十分もしない内に、人間が作り出す生半可な兵器では到底抗し得ない破壊力を以て、この街を蹂躙することだろう。

 

 人間など触れるだけで消し炭にしてしまう熱。水蒸気と毒ガス、そして数多の熱された泥や礫岩、途中の山肌で削り取ったありとあらゆる物体が。

 熱による焼死。泥による溺死。濁流に打ち据えられる殴打死。ガスによる窒息死、中毒死。ありとあらゆる死因によって我々は打ちのめされることだろう。

 

 

「ふむ、見てみたまえジョバンニ司祭。美しい‥‥。我々人類では抵抗することの適わない、圧倒的な自然の猛威。自然の怒りだ」

 

「‥‥ヴィドヘルツル卿?」

 

「太古の昔、このポンペイを襲ったと言われる大噴火。

 近い過去にも一度噴火で村が一つ焼き滅ぼされたこともあるが、これほどの噴火は歴史に残るあの大災厄ぐらいだろう。

 ふむ、君は誇るといいぞ、ジョバンニ司祭。仮初めとはいえ歴史の再現を、その目出見ているのだからな」

 

  

 硝子のように透明な無表情だった顔に、初めて喜色に近い感情が籠もる。

 派手なエフェクトや美しい背景で構成されたド迫力の映画を目にした子供のように、キラキラと目を輝かせている。

 それこそ子供が日々の生活の中ふと思い付いたささやかな疑問を解消するために実行した、同じくらいささやかな実験が成功した時なように、興奮している。

 

「ああ、素晴らしい。まさか私も、これ程までのものとは思いもしなかったよ‥‥」

 

「そ、そんな、馬鹿な‥‥。ヴィドヘルツル卿、まさか貴公は‥‥?!」

 

 状況証拠に、手が震えた。

 まさか、そんなことがありえるのだろうか。人間には出来る範囲と、出来ない範囲があるというのに。

 仮に、もし仮にこの規模の物理現象、自然現象、あるいは魔術現象を起こすとして、どれだけの労力と手間、そして時間が必要になることだろうか。

 否、もはやこれは手間や労苦という問題ではない。人間に再現できる現象の範囲を完全に逸脱してしまっている。

 為すのが魔術師であろうと、聖職者であろうと変わらない。この規模の天災を再現できる人間など、両手の指で数えた方が早いことだろう。

 

 

「如何にも。

 君にも説明してもらった通り、こういった土地には過去の怨念や妄執、負の感情が染みつくものだ。それは過去のものでありながら、決して摩耗することなく、むしろ土地の奥底で熟成されるものだよ。

 これらの醸された感情が膿んでいる記録(レコード)を引き出し、人間の精神へと転写して過去の事象を再現する‥‥。

 乃ち、これぞ我が大魔術、疑似固有結界『メモリー』。私の研究の結集と言っても過言ではないよ、ふむ」

 

 

 喉の奥の奥まで、一気に乾燥してしまった。

 本当なら有り得ない、そんな錯覚までしてしまう程の圧倒感。

 私を物差しにしては到底計ることが出来ないぐらいの器の違いを感じてしまい、反射的に足が竦みそうになる。

 が、しかし私も魔術師だ。

 震える足を叱咤して、乾ききった喉の奥から声を絞り出した。

 

 

「馬鹿な‥‥そんなことが、出来るはずがない!

 土地の記憶、そんな曖昧なものを対象に術式を構成できるものか! どうやってそれを割り出す?! どうやってそれを確かめる?! どうやってそれを形象化するというのだ?!」

 

 

 私は、精神関連を専門とする術者ではない。だからこそ、おそらくは精神に作用する術式を組んでいるのだろうヴィドヘルツル卿の大魔術についても詳しく分かるはずもない。

 しかし魔術師としての一般的な知識を基にするに、やはり彼の魔術は尋常ではないほどに異常なものだった。

 

 

「ふむ、精神へ映し出す、と私は言わなかったかね?」

 

「い、いや似たような事は言ったが‥‥」

 

「怨念、妄執、負の感情。それらは全て、残りさえしていれば人の営みであることに違いはない。

 ならば同じものを同じものへと転写するのは、さほど難しいことではないよ、ふむ。まぁ私以外の魔術師に可能かと言われれば、そこは無理なのではないかと答えさせてもらうが」

 

「‥‥なんと、そのようなことが、可能だというのか?!」

 

「可能だ。その結果こそが目の前の天災であるというわけだが‥‥これを前にして、まだ納得出来ないと言うのかね?」

 

 

 愕然と、する。

 こともなげに言い放ったそれが、どれだけ困難なことだろうか。どれだけ恐ろしいことだろうか。

 もはや恐ろしいというよりは畏ろしい。そこに感じるのは恐怖というよりは畏敬の念。魔術師としてどうしようもないほどに、この男が畏ろしい。

 

 

「‥‥いくら就寝していたとはいえ、それでも事前に霊脈への細工は必要なはず。

 使い魔での監視をかいくぐって、術式の発動自体を私に悟らせず、魔術師である私にすら、ここまで完璧な精神干渉とは‥‥!」

 

「ああ、だから安心したまえジョバンニ司祭。君の懸念していたことは起こらない。

 これは人間の精神に働きかける術式だ。故に目の前のこれらは、ある意味では私によって精神に干渉された君達が見た妄想とも白昼夢ともいえる。

 もうすぐに此の街を襲うだろう火砕流が、史実と同様に建物を打ち崩すことはない。このホテルとて、例外なく無事だろう」

 

「‥‥なんだと」

 

「もっとも白昼夢とはいえども影響は当然に出るぞ?

 一度薬缶に入ったお湯で火傷した赤ん坊が、薬缶から注がれた冷水で火傷することがあるように、人間の精神というものは往々にして肉体へと干渉することもある。

 ふむ、これほどの規模の火砕流を眼にした普通の人間の想像する末路とは即ち死。これもまた例外なく、“火砕流に呑み込まれた”と認識した人々は尽く死に絶えるはずだ」

 

「———ッ?!」

 

 

 阿呆のように開け放たれていた唇が引き締まり、ギシリと自分の口の中から歯軋りが聞こえた。

 見開かれた瞼から零れ落ちそうになっていた眼球も、同じく鋭く険しく、目の前に愉快げに立ってクスクス笑いを浮かべているヴィドヘルツル卿を睨み付ける。

 

 

「‥‥左様か」

 

「ふむ?」

 

「此の現象が貴公の起こしたことだというならば、もはや目の前に迫り来る火砕流を止めるためには、貴公を殺すしかないということだな。

 どうせ貴公は、この術式を止める気はないのだろう?」

 

「当然」

 

「ならば私のやることは‥‥此の地の管理者(セカンドオーナー)として、聖職者としての私がやることは、只一つ!」

 

 

 魔術回路を起動させる。

 聖職者であり、魔術師である私にとっての魔術とは、どちらかといえば手段に近い。

 否、もはや私にとって魔術師であることも、本来ならば手段の一つに過ぎないのである。

 魔術を手段にするのが魔術使いと蔑視されるならば、魔術師であることを手段にする私はどう呼ばれるべきだろうか。

 体中に魔力が満ち満ちていく感覚と共に、毎回思っていたことが自然と脳裏によぎる。

 

 ああ、だが今だからこそ言えるのだろう。

 私は此の地、ポンペイの管理者(セカンドオーナー)であるのだ。此の地を守ることこそ、我が使命。

 ならば本当のところ、他の肩書きなど果てしなく意味のないことだと言える。私の持つアイデンティティ、存在意義は此処に証明されているのだから。

 

  

「Sanctus,Sanctus,Sanctus《聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな》」

 

「む‥‥!」

 

「Dominus,Deus Sabaoth《万軍の神なる主》 Pleni sunt cli et terra gloria tua《主の栄光は、天地に満つ》

 Hosanna,in excelsis《天のいと高きところにホザンナ》」

 

「これは‥‥栄光の賛歌か。聖書と魔術を関連させ、イメージとする、か。ふむ、中々に興味深い」

 

 

 祈るように合わせた両掌の隙間から迸る魔力。

 たとえ凡百の魔術師と言われようと、管理地での管理者(セカンドオーナー)は舐めたものではない。

 一級の霊地に支えられ、その魔術は一段階上のものにシフトする。霊地の特性を知り尽くし、霊地のために身を砕いてきた我々ならば、最高の状態で魔術を行使できるのだ。

 

 

「Benedictus qui venit in nomine Domini《褒むべきかな、主の名に依りて来るもの》

 Hosanna,in excelsis《天のいと高きところにホザンナ》」

 

ここまでは、単なる起動キーのようなもの。

 いや、厳密に言えばそのようなものでもない、ただ自分を鼓舞するための句。

 聖職者でもある私は神への祈りがイメージとして確固たるものになっているのだ。故に魔術師である私が祈りを捧げていても、さして問題はない。

 

 そもそも魔術師の詠唱とは、呪文とは、所詮自己暗示に過ぎない。

 美辞麗句や韻を駆使する者が多いというのも、自己暗示に効果があるからに過ぎないのだ。自己に陶酔する、と言い換えても良いだろう。

 祈りによって自己に埋没する。結局のところ自身にのみ適応されるような祈りが、果たして祈りと呼べるのかという話もあるが‥‥。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル。

 此のポンペイの地の管理者(セカンドオーナー)として、此の地に仇為す貴公を討伐する!」

 

「‥‥ふむ、よかろう。

 相手をしよう、ジョバンニ司祭。その力、私に見せてみるといい」

 

 

 顔の前で合わせていた手を大きく横に広げ、掌を上にして瞑目。

 霊地と同調し、私自身の力を割り増しさせていく。如何に私よりも年下とはいえ、相手は名高い大魔術氏だ。

 簡単に勝てるはずもない。いや、勝てるかどうかすら、分からぬ。

 

 

「負けるわけにはいかんよ、ヴィドヘルツル卿。私は、此の地の領主にして迷える子羊たちの導き手。

 たとえ此の身に代えることになったとしても、貴公を殺し、私の街を救わなくてはならない!」

 

 

 私が、先祖が、全ての住人達が愛したこの街を、このような男に壊させるわけにはいかないのだ。

 あぁそうだとも。

 この戦いに、敗れるわけにはいかん。たとえ最後に私の命が費えたとしても、それでも相討ちにはしてやろうではないか。

 

 そう、たとえ刺し違えたとしても。

 

 私は必ず、コイツを殺す。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 存在価値、という言葉がある。

 

 本当なら考える必要がないことかもしれないけれど、

 

 自分という人間はどうしてこの世に生を受けたのかと、

 

 そういうことを考えなかった人はいないんじゃないだろうか。

 

 

 それはとても愚かなことで、

 

 だけど俺達が人間という生き物に生まれてきてしまった以上、

 

 どうしても余計な思考は避けようがないことでもある。

 

 これが家畜や野生の動物とかなら、悩むこともないはずなのに、

 

 俺達は考えることを学んでしまった生き物だから、

 

 生きること以外にも色んなことを考えてしまう。

 

 

 どうだろうか、

 

 俺達は生まれて、ただ死ぬためだけに存在するのだろうか。

 

 その過程で何をするべきか、何かに期待されはしなかったのだろうか。

 

 何かをするために、何かを担うために、

 

 きっとオレ達は生まれてきたんだ。

 

 そう、思ってしまう時がある。

 

 

 神様が存在するというのなら、まだ話は分かるかもしれない。

 

 けど実際には、遙か昔に確かに存在していた神々は何処かへ行ってしまった。

 

 そして俺達も、神様によって生まれたわけじゃあない。

 

 神様なんてのは一つ上のレベルの生き物、あるいは存在というだけで、

 

 俺達の因果に最初から干渉しているとかいうわけじゃあないのだ。

 

 

 もし俺達が自分の存在意義がほしいとするなら、

 

 きっとそれは自分自身で、自分自身の中から見つけ出さなければいけない。

 

 

 でも本当に、そんなものは存在しているのだろうかと思うこともあるだろう。

 

 家畜も、野生の動物も、

 

 自然界あるいは社会の食物連鎖とか以外では、何か意味があるとは思えない。

 

 けれど確かに俺達人間のが生きていく中では、何か意味があるとしか思えない。

 

 俺達は無為に生きることも出来るのに、日々こうして悩んで生きている。

 

 それこそが意義の存在の証明ではないだろうか。

 

 

 ああ、だけど、俺達は英雄なんかじゃない。

 

 例えば歴史に出てくる英雄とかなら、まだ自分の存在意義というものが分かりやすいことだろう。

 

 後世に残るような偉業を成し遂げること、社会を大きく改変させること。

 

 しかし凡人では、俺達のような凡人では、

 

 自分自身の存在意義を確かめることなんて出来はしない。

 

 なにせどうやって生きていけばいいか、そんなことだって適当なんだ。

 

 

 もちろん存在意義なんてものを知らなくても、人は生きていくことが出来る。

 

 存在意義とかいう随分と曖昧で無価値なものは、所詮人生の付属物に過ぎないという考えが多いだろう。

 

 所詮、人間とて惰性で生きていくことだって出来る。

 

 精神疾患の一つなのかもしれない、こんな面倒な思考なんてものは。

 

 

 ‥‥俺だって、そう考えていられたなら、それはどれほどまでに良かったことか。

 

 

 あるいは俺がオレのままで、あの世界に留まっていたのなら、

 

 それは確かに考える必要のないことだったのかもしれない。

 

 だってそうだろう、

 

 オレ達はごく普通の日常というものを謳歌していて、それはきっと一生涯変わらない。

 

 そんな毎日の中で、

 

 自分のやりたいことについて、将来の夢について考えることがあったとしても、

 

 “存在”なんて曖昧な定義について語ることがあっただろうか?

 

 遅れてやって来た厨二病ならともかく、

 

 普通に生活している間ならば、流れている時間の感覚ぐらいが関の山で、

 

 経過していく時間の、自分の前に続いていく時間の先を、

 

 考えることぐらいが、事象の認識としては精一杯だったんだからさ。

 

 

 ああ、でもその認識は完全に覆されてしまった。

 

 覆された、というよりは、むしろ更新されたと言い換えるべきかもしれない。

 

 ある意味では、より高次元の考え方なのだろうか。

 

 それとも、もしかしたら髙いとか低いとか関係ない、別次元の話なのかもしれないけど、

 

 

 神様によって生まれた物や者ならば、きっと神様から、何か意味を与えられているんだろう。

 

 オレは神様によって生まれたわけじゃない。

 

 人間は神様によって生まれたわけじゃないのだ。

 

 世界中の宗教が何を言おうが、それは変わらない事実だということを覚えていてほしい。

 

 先にも言ったけど、

 

 世界中に色んな神様が太古の昔に実在したことは確かなんだから。

 

 それは俺も知っているサーヴァント達や、現存する宝具達が証明している。

 

 だとしたら世界中に散らばる人間達は、

 

 少なくとも全ての神様が集結して一緒に作ったんじゃない限り、

 

 別々の要素を持った存在じゃなきゃいけないしね。流石にそれは、ないだろうよ。

 

 

 じゃあオレではなくて、今の俺はどうなんだろうか。

 

 オレは確かに、向こうの世界で生まれた存在で、

 

 もちろんこれも当然のこととして、そこに神様による意思なんてあるはずがない。

 

 けれど俺は、オレがこっちの世界にやって来てから生まれた。

 

 俺なんて存在はそもそも、全くの皆無だったはずなんだ。

 

 

 今まで俺はオレを否定して、肯定して、混同してしまっていた。

 

 そこにはおそらく、主体となる俺がいて、追随するオレがいたんだと思う。

 

 ああ、けれど、よく考えてみれば、

 

 本当は仮初めの存在なのは、オレじゃなくて俺の方なんだろう。

 

 心を病んでしまった人が作り出した第二の人格のように、

 

 本来、存在していたものを主とするならば、

 

 主体であるはずなのは‥‥オレの方。

 

 俺なんてものは虚構の存在に過ぎないはずなんだよ。

 

 

 此の世界で生まれた俺は、

 

 オレに望まれて生まれた俺は、

 

 それじゃあオレか、

 

 あるいは、

 

 オレが此の世界に来ることになった、

 

 某かの理由と、それを引き起こした何者か、もしくは何物か、

 

 そういう存在から、

 

 何かの期待をされているんじゃないだろうか?

 

 

 一体オレは、否、俺は、

 

 何のために生まれたのだろうか。

 

 何のために、此の世界に生を受けたのだろうか。

 

 何のために、此の世界にやって来たのだろうか。

 

 

 前の世界には存在しなかった、

 

 あるいは気づけなかった、神秘という異質な存在。

 

 その中には運命やら、宿命やら、そういったある意味では眉唾な事象も含まれていて、

 

 結局のところ、どれだけ否定しても因果の存在は証明されてしまっている。

 

 存在意義も、また同じ。

 

 俺には、何かしらの因果が存在しているはずなんだ。

 

 例えば衛宮が、守護者になる定めを背負っているかもしれないのと同じように。

 

 

 じゃあそれは、一体どうやって分かるんだろう?

 

 歩き続けていれば、見えるのか?

 

 考え続けていれば、見えるのか?

 

 

 いや、きっと違う。

 

 俺が、いや、オレが俺の存在意義を、存在価値を知るためには、

 

 きっとオレが俺になった瞬間を理解する必要がある。

 

 見つめ直す、必要がある。

 

 オレが俺になった、その瞬間を、

 

 そしてオレが、此の世界に来ることになった、その瞬間を。

 

 

 

 ‥‥さて、俺は一体何でまた突然、こんなことを考えていたんだっけ?

 

 えぇと、確か橙子姉達に励まされてドイツへ旅立って、

 

 それで憎き怨敵であるコンラート・E・ヴィドヘルツルとの戦争を経て———

 

 

 

「———ッ?!」

 

 

 何故か普段のように、上手に回ってくれない頭でそこまで考えた時。

 カチャッという無機質な音と共に、視界が突然真っ白に染まる。

 

 ひたすら暗いトンネルの中を、何の光も無しに歩いていて、漸く見つけた出口から外に出た瞬間のように、俺の瞼を焼く光は暴力的。

 本来なら大して強い光量ではなかったろうに、何故か随分と長いこと暗闇の中にいたような感覚が俺の中にあって、極めて常識的なレベルのその光は、容赦なく俺の視覚中枢を刺激した。

 

 ‥‥身体が温かい。

 頬に触れる空気は季節に合わないぐらいに冷たいのに、胸元から下だけが温々と、安心できる温度に包まれている。

 さっきまで魘されていた、という意識があるのに、こんなに身体はリラックスしている。

 久しぶりに感じる安心感に、俺はどちらかというと当惑と衝撃すら受けた。

 

 

「‥‥こら■■、一体いつまで寝てるつもり?

 アンタ分かってると思うけど、今日は月曜日よ。学校でしょ、早く起きなさい」

 

「‥‥は?」

 

 

 ぱちくり、と見開いた目の前に飛び込んできた、ごくありふれたザラザラした白い天井。

 そして俺に母親がもしもいたならば、こんな年頃だろうなぁという声色の女の人の声。

 

 今度こそ完全に衝撃によって、俺の頭にあった色々な思考は完全に吹き飛んだ。

 

 何が何やら、完全にさっぱりという状態。

 

 そんな訳の分からない精神状況で、オレはその日、目を覚ましたのであった。

 

 

 

 77th act Fin.

 

 

 ¥

 




前半部分はヴィドへルツルが『天災』と呼ばれるようになった、ポンペイの悪夢の話ですね。
オリキャラ出てきてますけど、今回限りの登場です。
彼は以前にシエルから話があった、元第八秘蹟会所属の代行者ですね。
後半部分はいつもの独白。ここから、物語は加速していきます


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第七十七話 『救援隊の道行』

 

 

 

 side Rin Thosaka

 

 

 

 倫敦から飛行機で数時間。

 ドイツの巨大なハブ空港までやって来たら、今度は電車で数時間、いや、十数時間?

 とにかく私達の目指す場所はやたらと遠かった。

 

 ドイツの中でも片田舎。

 主要な都市からは何時間も、下手すれば一日ぐらいかかるような辺鄙な寒村。

 ドイツの国内地図からも下手すれば名前が消え去りかねない、出稼ぎや進学によって若手の殆どが流出してしまった小さな村。

 一番近い駅からも、車で数時間。そして車を降りて歩くこと更に数時間。

 私が生まれた時から住んでいる街。一生を過ごす覚悟をしていた私の領地、冬木だって立派な駅はあった。

 けれどこの村には、駅はおろかバス停だって有りはしない。というかバス路線から完全に外れてるし、そもそも道路が舗装されてないし。

 

 

「‥‥ていうか、もしかして霊地って大体こんなもん?」

 

「ジャパンが異常なのですわよ、ミス・トオサカ。

 特殊な霊地は一般人をも惹き付けますけれども、大概の霊地は僻地に存在しているんですのよ。エーデルフェルトは管理人(セカンドオーナー)ではありませんが、情報自体はそれなりに仕入れておりますので」

 

 

 いつも通りの真っ青なドレスを着たルヴィアゼリッタが、何が誇らしいのか憎たらしい胸を張りながら言う。

 一応片手に古式ゆかしい、昨今の流行であるジュラルミンケースのような無粋なものではない旅行鞄を提げ、青いリボンのついた真っ白い帽子をかぶっているのが嫌味なぐらいに似合っていた。

 清楚にも、高飛車にも、豪華にも、不遜にも見えるのは彼女の人柄というものだろう。こればかりは認めざるをえないところで、育ちっていうのはやっぱり多分に人格にも影響する。

 

 

「そういえば聖杯戦争が起こるぐらいだから、冬木だって一級の霊地なんだよな」

 

「先輩が住んでいる衛宮の家も遠坂の屋敷や龍洞寺ほどではありませんが、それなりに位階の高い霊脈の上に立っているんですよ?

 もちろん間桐の屋敷も、あとアインツベルンが郊外に建てている城も、霊脈にかすってますね。冬木の霊脈って結構密度があるんで、あそこの土地には潜在的に魔術回路を発現しやすい環境が整っているといえます」

 

「へぇ‥‥普通に住んでる分には気づかなかったけど、もしかして魔術師にとってみれば恵まれた環境だったのか?」

 

「はい。霊脈の上で修行をすれば、当然それだけ効果もあがりますし」

 

 

 私の横で荷物持ちをしている士郎の隣で楽しそうにお喋りをしているのは、予想もしなかった気の強さを見せ付けて強引についてきてしまった桜。

 冬木の地に根ざす三つの魔術の家系の中の一つ。間桐(マキリ)の家の当主である、間桐桜。

 時計塔に私が進学するのと入れ替わるようにして亡くなられた間桐の前当主である妖怪、間桐臓硯に代わって、今度は蒼崎君のお義姉さん、封印指定の人形師である蒼崎橙子さんに師事しているらしい。

 

 

「私達の事務所がある観布子は、霊地に擦ってる程度だから残念よね。まぁ私に限れば、霊地とか龍脈とかはあんまり関係ないんだけど」

 

「魔術師の工房としては十分な霊脈だと思うよ? まぁあの事務所にいる魔術師って、厳密には私と橙子先生の二人だけだから何とも言えないけど‥‥」

 

「確かに、私も真っ当な魔術師じゃないし、幹也は一般人で鮮花は超能力者。‥‥式って、どんなカテゴリに入れたらいいのかしら?」

 

「オレが知るか」

 

「別に返事なんて聞いてないわよっ!」

 

 

 ‥‥なんだこれは、まるでピクニックだ。

 ドイツの片田舎、幽霊嬢と呼ばれる霊地を目指す一行は、私を入れて総勢9名。

 そのうち、便宜上『伽藍の洞』勢と称するメンバーが楽しげに話をしながら歩いている。

 

 一人はさっきも話した、私の‥‥後輩である間桐桜。

 魔術師という顔でいるからか、昔から一緒にいた私達、冬木勢とは離れて学友達と喋っていた。

 その姿は私達と一緒にいる時とは、また違う自然な一面を覗かせている。いくら家族と言いはしても年上で目上の人物だった私達に比べ、同年代の友人達との付き合いはまた別なものなのだろう。

 

 

「大体アンタは昔っから私の場所に横入りしてきて! 幹也だってそうだし橙子さんのことだってそうじゃないのよ!

 幹也を最初に狙ってたのは私だし、橙子師のとこだって私が礼園でのんびりしてるあいだに、いつの間にかアンタが‥‥!」

 

「なんで鮮花にオレがとやかく言われなきゃいけないんだ? 意味がわからないな」

 

「そ・れ・は・わ・た・し・の・せ・り・ふ・よッ!」

 

 

 その友人達の筆頭が彼女。

 白いブラウスと品の良いベストを着込み、キッチリとタイをしめ、極めつけに膝下までのスカートと清楚でしっかりした格好で決めた魔術師、黒桐鮮花。

 件の桜の師匠である封印指定の人形師、蒼崎橙子の二番弟子にして、現在は直接教えを受ける身だという彼女は焔の魔術が得意らしい。

 

 彼女が操るのは、厳密には魔術とは異なる異能。

 発火という先天属性を備えながら、魔術回路は持たないが故に才能を超能力という、ある意味では歪な形で顕現させた才女だ。

 更に厳密に言えば超能力ともまた違う。どちらかといえば魔術寄りで、それでいながら決して魔術でもないらしい。

 魔術と同じような術式使ってるんだから、魔術でいいような気もするけど。

 

 

「‥‥二人とも、喧嘩しないでちょうだい。共倒れは望むところだけど、今はそんな朗らかにしている時でもないでしょう?」

 

「ちょっと藤乃、何サラリと毒吐いてんのよ貴女。段々と露骨になってきたわよ、気をつけなさい」

 

「鮮花は良い友達よ。でも先輩は一人だから、分け合うことは出来ないし」

 

「‥‥なぁ浅上、お前やっぱあの時殺しておけば良かったか?」

 

「あら奇遇ね、私もそう思っていますよ、式さん」

 

 

 ゾクゾクと背筋に悪寒が走った。

 なんか私の後ろで地味に修羅場が展開している。見たところ一人の男をとりあって、三人の女が争っているわけだから、これは相当な修羅場だろう。

 

 ていうか幹也さんて、黒桐さんの実のお兄さんでしょ? しかも両儀さ‥‥もとい式さんの婚約者なんじゃなかったかしら?

 

 ちなみにさっきからボソボソと小声で、それでいてよく聞こえるぐらいの大きさで毒を吐き続けているのが、浅上藤乃さん。

 この子も聞くところによると超能力者で、『歪曲の魔眼』を持っているらしい。

 蒼崎君みたいな例外的な魔術師ならともかく、他の魔術師が持っている魔眼っていうのは大概が後天的なもので、霊視以外だったら魅了や暗示が関の山。

 だから歪曲なんて破格の魔術を———いくら超能力とはいえ———内包している浅上さんは、相当なポテンシャルを秘めていたのだろう。

 

 

「やれやれ、こんな騒がしい道中になるとは思いませんでしたわ。いくら人数が多いからといって、気を抜きすぎではありませんの?」

 

「十分に予測出来たことだと思うわよ、この面子じゃ。そりゃ式さんとか浅上さんとは初対面だけど、お通夜に行くみたいな道行きになるはずはないってね。

 ごめんなさい、シエル。代行者の貴女からしてみれば、ストレスたまるわよね、こんな戦友達じゃ」

 

 

 一番後ろを、静かに微笑みながらついてくる青みがかった黒髪のシスターへと振り向いて、苦笑いしてみせる。

 黄土色の外套をカソックの上から羽織り、随分と時代外れな丸眼鏡の奥に柔和な瞳と表情が見えていた。

 歳は私より幾分か上だろう。まぁ三十はいってないだろうけど、精神年齢はかなり上ではなかろうか。

 

 美人でスタイルもよくて、しかもカソック姿。

 何処にでもいる、って表現するわけにはいかないけど、それでもこの人は紛れもなく一般人ではない。

 教会の中でも異端狩り、魔獣狩り、たまに悪魔祓いなどを行う狂信者。

 仮に、教義に忠実な信徒を敬虔な信者と、キリスト者と呼ぶのであれば、彼等は背信を以て信仰を証明する、教義に縛られない背信者(イスカリオテのユダ)

 殺人、造反、魔術、銃器、ありとあらゆる背信を彼等は許容し、許容される。

 存在しない第八の秘蹟を受けた、彼等は神の代理人。神罰の地上代行者。

 彼等の使命は、彼等の神に逆らう愚者を、その肉の最後の一片までも絶滅すること。

 

 

「いえいえ、いつもは一人の任務が多いですから、こういう道中も中々“おつ”なものですよ、凜さん。

 もちろん気を抜いているわけではないでしょう、彼女達も。皆それなりに、それぞれの修羅場をくぐってきた者特有の臭いがしますから」

 

 

 本来なら許されざる異端狩りに特化した彼等の中でも、彼女は別格。

 七名と一人の予備役のみで構成される、代行者の頂点たる埋葬機関の第七位。

 またの名を、弓。

 そのカソックに潜ませた代行者を象徴する投擲武器である黒鍵を、雨あられと投擲する代行者の看板的存在。

 常人を遥かに凌ぐ最高レベルの身体能力と体術。鉄甲作用や各種葬儀式典を施した黒鍵、そして噂に聞く謎の再生能力(リジェネーション)

 彼女は紛れもない、世界最大戦力の一人なのだ。

 

 

「‥‥しかしまぁ、それにしても大人数ですね」

 

「その通りね。実際どうしてこうなったのか、私でもよくわからないんだけど。

 あの時はなんか、その場のノリみたいな軽い調子でとんとん拍子に決まっちゃったけど、それにしたって私達は封印指定級の魔術師と戦いに行くっていうのに‥‥」

 

 

 延々と続く、坂道。もとい山道。

 鬱蒼と茂った木々の先は真っ暗で、ちょうど今日の天気が曇りだからか目的地は影も形も見えない。

 既に車を降りてから随分と歩いている。地図の通りに空間がしっかりと繋がっているのなら、そろそろ着いてもおかしくないんだけど。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル、ですか。

 出発する前にも言いましたが、聖堂教会でも所有している資料はさほど多くはありません。彼が封印指定を受けるきっかけとなったポンペイの事件において、彼の訪問前と訪問直後に管理人(セカンドオーナー)であった第八秘蹟会の代行者が提出した報告書にあるのみです」

 

「ポンペイの管理人(セカンドオーナー)って、代行者だったの?!」

 

「はい。あそこは位置的にローマ、およびバチカンにも近いですからね。立場としてはコウモリのような人間が一番好ましいのですよ。

 十数年前のことですから、私も記憶には無いんですけどね。どちらかというと魔術協会よりも聖堂教会の方が先に目を付けていた魔術師と言えます」

 

 

 幽霊城と呼ばれる、ヴィドヘルツル家の領地。

 既に魔術協会では先の事件、私の管理地である冬木に侵入した挙げ句、魔術協会の派遣した調査部隊や執行部隊を壊滅させた件によって、この領地の保証を行っていない。

 とはいえそれはつい最近、昨日か一昨日のことだ。領地における影響力、支配力は全く衰えていないはずである。

 

 

「オーギュストの調べによると、その幽霊城という場所は、住民二十弱の村から少し離れた場所にあるようですわね。どうやらその村も、領地の一つということですわ」

 

「‥‥参りましたね。その手の霊地は、村の方まで領主である魔術師の手が回っていることが多い。厄介なことにならなければ、良いのですが」

 

「厄介なこと? 貴女らしくないわね、シエル。こんな時は、厄介なことが必ず起こるに決まってるじゃない」

 

 

 私の管理する冬木という霊地みたいに、不特定多数が住んでいる場所ならば管理人(セカンドオーナー)の立場も精々が元大地主といったところ。

 けどあまり人が住んでいない霊地ならば、そこは魔術師の工房の延長線上だ。

 特に今回のように城を領地とするような魔術師が相手なら、もはや要塞を攻めるぐらいの心持ちでないと攻略なんて夢のまた夢。

 蒼崎君が掠われて、それを助けに行くなんて時点で相当な厄介事なのに、それ以下を求めるというのは楽観的希望を通り越して、奇蹟を願うに等しい。

 

 なんていうか、

 きっと私ってば人生の合間に厄介事が起こるんじゃなくて、厄介事の合間に人生があるんだろう。

 

 

「黒桐さん達も、いい加減そろそろ気を引き締めて。

 もう少し歩けばヴィドヘルツルの領地よ。そこからは私達の行動の全てが監視されているし、何時何処から攻撃が来るかも分からないわ」

 

「‥‥強力な精神干渉、ってことですか?」

 

「いえ、それは早計ですわよミス・マトウ。

 あのクラスカードの術式にしても、基部は精神干渉でありながら、実際に行使する段階まで行くと別の要素を多分に備えてまいりますもの。

 次元干渉、空間干渉、異空間創造、英霊の座への干渉(アクセス)、霊脈からの魔力の強奪など、主立ったものを数え上げるだけでもこれだけの数の要素が犇めいていますわ」

 

「要するに、何でも出来るような奴だって思った方がいいってこと?」

 

「その通りよ、黒桐さん。貴女だって直に会ったわけだから分かるでしょう?

 蒼崎君が貴女のお師匠さんのことを『幾つかの手段を使ってありとあらゆる結果を出せる人』って表現してたけど、アイツに関しては別。

 そもそもからして『ありとあらゆる手段を確保できる奴』よ。正真正銘の、化け物ね」

 

 

 前に私達の屋敷で蒼崎君が言っていた。

 彼の義姉である封印指定の人形師、蒼崎橙子は、ありとあらゆる結果を用意できる魔術師なのだと。

 ありとあらゆる手段を使って、ありとあらゆる結果を作り出すわけではない。彼女は彼女に用意できる限られた手段を以て、ありとあらゆる結果を創り出す、らしい。

 魔術師として、理想型だ。私達は過程ではなく結果で成果を証明する生き物だから、蒼崎橙子という魔術師の在り方は完成したものなのだ。

 

 しかしヴィドヘルツルは、違う。

 奴はおよそありとあらゆる魔術に精通した、天才。

 ああ、もちろん全部確認したわけじゃないわよ? それでも実際に目にしたクラスカードという規格外の魔術具や、ポンペイで起こした惨劇。

 そういう得られる限りの情報を考えると、あの魔術師は底が見えない。魔法に直結するような大魔術をくつもの種類習得しているのは確実だし、それ以上も容易に想像できる。

 

 では一体それが何を意味するのかといえば、これもまた容易に結論づけることが出来るだろう。

 即ち、採ることの出来る手段の多さ、そして多様さ。

 こちらにこれだけ手数がいれば、たとえ相手がどれだけ強大だろうと、戦闘手段の多様さに関していうならば、普通は太刀打ちできるはずがない。

 どれか一つに対応しようと思うと、他の八人の手段に対応できなくなってしまう。

 ただでさえ九人いるそれぞれが誰も彼もが、魔術師だったり超能力者だったり退魔士だったり英霊だったり代行者だったりと際物(キワモノ)なのだから。

 

 けれど奴が相手だと、その優位は必ずしも成立するわけじゃない。あらゆる手段を持ってきて、対応してしまう可能性が非常に高いのだ。

 もちろん純粋な数の優位ならば、圧倒的だろう。普通に戦うだけならば、英霊や埋葬機関の代行者なんて世界最大戦力を有した私達の価値は揺るがない。

 

 

「‥‥注意するのは、あくまで今回は攻城戦だってことですわね。堅固な城壁をたった九人ぽっちで崩すと考えますと、むしろ少ないぐらいですわ」

 

「そんなもの、かしら?

 言っちゃなんだけどルヴィアさん、私達だって決して実戦経験が無いわけじゃない。むしろ、そんじょそこらの魔術師よりは多いつもりだわ。橙子師のところにいると、色々厄介ごとは舞い込んでくるし」

 

「それでも、ですわ。

 今回は確かに本物の城が相手ということもありますけれど、それを差っぴいても魔術師の工房は正しく要塞ですの。

 我々魔術師の工房に課される基本的なコンセプトは、『来る者拒んで去る者逃がさず』ですわ。一度相手を誘い込んだならば、そこは守るための要塞ではなく、殺すための処刑場。ありとあらゆる要素を駆使して、必ず殺す。それが魔術師の工房ですわ。

 私が今住んでいる別邸は不完全なものですが、フィンランドの本邸ならば、このメンバーに襲撃されても殺し尽くす自信がありますわよ」

 

 

 フィンランドが誇る名門、エーデルフェルト家の誇りがそうさせるのか、場違いなぐらいに鮮やかな笑顔をルヴィアゼリッタは浮かべてみせる。

 悔しいけど、確かにエーデルフェルト本家の屋敷ともなれば、私が暮らしていた遠坂邸では足元にも及ばないレベルの防備が施されているに違いない。

 

 そしてエーデルフェルトほどではないにしても、ヴィドヘルツルだってそれなり以上の歴史を持った家だ。

 実際、家の力というものについては衰えきっていて見る影もない。時計塔の序列は中の下といったところだろうし、あの家系が持つ意味というのについても、既に忘却の彼方だろう。

 しかし、何処の家にも突然変異というものはあって、それがたまたま今代の当主であるコンラート・E・ヴィドヘルツルで、そして奴がたまたま、蒼崎君に興味を持った。

 

 下手に歴史のある家系に生まれた、狂った天才。

 そんな奴が管理している領地に、何の仕掛けもされていないはずはない。用意周到手薬煉(てぐすね)引いて、というのは奴の性格的に考えられないけど、何某かのトラップはあって当然。

 

 

「‥‥皆、止まってください!」

 

「どうしたの、セイバー?」

 

 

 突然、最前列で先を警戒しながら進んでいたセイバーが制止をかけ、私達は足を止めると同時に反射的に戦闘体勢をとる。

 直感スキルを持つ彼女がもし悪い予感を感じたとするならば、それは間違いなく脅威となって私達に牙を剥く。やはり緊張していたのだろう、ポケットの中の宝石を握りこんだ掌は、微妙に汗ばんでいた。

 

 

「私が一歩、踏み込む先に境界線のようなものを感じます。おそらくは、ヴィドヘルツルの領境だと思うのですが‥‥凛、どうですか?」

 

「‥‥確かに、霊脈を繋いで街一つを定義した境界線ね。ここから先は、奴の懐の中よ」

 

 

 厳密に言えば、土地に境界線なんてものはない。

 土地という概念は、市町村とか都道府県とかの概念とは全く別だ。人間が地図の上に勝手に線引きしたものを、土地が認めるわけがないだろう。

 だから霊地の管理者(セカンドオーナー)は、霊脈を繋ぎ合わせて擬似的な境界線、結界に似たようなものを作り上げて領地を主張する。人間が勝手に作り出した地図ではなく、霊脈を使って境界線を作り上げるのだ。

 

 管理者(セカンドオーナー)は別に、境界線の内側だけに関与できるというわけではない。

 霊地から発生している霊脈は縦横無尽に広がって、管理者(セカンドオーナー)が作り上げた境界線の更に外側へと伸びて行く。そちらにも、ある程度は影響力があるのも当然だろう。

 だけど境界線の内側は、真にその土地の管理者(セカンドオーナー)の思うが侭だ。

 もちろん魔術師という生物の定義を超越した力を操ることは不可能だけど、それでも他の魔術師に比べて圧倒的なアドバンテージを持ち合わせているのも事実。

 十分に気を引き締める必要がある。私達が足を踏み入れようとしているこの先は、相手の牙の射程内、いや、もはや爪に引っ掛けられた状況とすら言える。

 

 

「いい? みんなよく聞いて頂戴」

 

 

 振り返り、全員の方を向く。

 先程までの軽いノリは一転して、全員が緊迫した空気を鎧のように身に纏っている。‥‥いや、一人だけ、式さんだけは泰然磁石とした様子を崩していないけれど。

 

 

「私達の第一目標は、蒼崎君の奪還よ。それ以外は基本的に用が無いわ。

 例えばヴィドへルツルを倒す必要もない。運良く蒼崎君を救出することが出来たら、あの変態なんて放置して、とっとと尻尾巻いて逃げ出すつもり。おっけー?」

 

 

 さっきも話していたけれど、封印指定の魔術師を相手にするなんて、本当ならまともな神経でやる行為じゃない。

 確かに戦闘向きの魔術師ではなさそうだったけど、それでも封印指定は伊達じゃないのだ。どんな手を使ってくるか分かったもんじゃない以上、油断は即、死に繋がる。

 蒼崎君が前に言っていたけれど、魔術師の基本は『自分が強くなるのではなく、自分より強いものを用意すればいい』というもので、直接戦闘に結びつかない魔術でも、工夫すれば手強い相手となるだろう。

 

 ベストなのは蒼崎君が囚われているだろう場所を探し出し、救出、脱出。

 そして、その間に一回もヴィドへルツルと接触しない。これが最高、完璧のシナリオだ。

 

 

「‥‥けどまぁ、そういうわけにもいかないでしょうね。だから可能な限り戦闘を避けながら深部まで進んで蒼崎君を探索、確保次第全力で撤退ってところね」

 

「そこまで上手くいけば良いんですけど‥‥」

 

「まぁ無理ですわね。そもそも此処に来た時点で、覚悟は決めているというものですから、むしろ望むところですわ!」

 

「‥‥まぁ私は兄弟子に力を貸すって義務感で来てるようなもんだし、別にそれ自体はどうでもいいんだけどね。

 もちろん流石に死にかけたら紫遙置いても撤退するけど。それぐらいは許してくれるでしょう? ルヴィアゼリッタさん?」

 

「私は最初から強要したつもりはありませんわよ、ミス・コクトー?」

 

 

 手早く各自、自分の得物をチェックする。

 私とルヴィアゼリッタは隠しポケットの中に収納してあった宝石を、シエルはカソックの下に仕込んでいるらしい黒鍵を。

 黒桐さんは彼女に似つかわしくない革の手袋を嵌めている。‥‥もしかしてアレ、火蜥蜴の皮じゃないかしら? 今じゃ入手も加工も難しい逸品なのに、よく持ってるわね。

 どうやら式の武器はナイフらしく、一回抜き放ったそれを腰の鞘に戻す。一方で桜と浅上さんは特に武器を持たないらしい。

 まぁ魔術師である桜は触媒を必要としない魔術も使えるだろうし、浅上さんも超能力者だし‥‥。

 

 

「冗談、そういう言い方はよしてよね。けしかけてるつもりなら失敗ですよ、ルヴィアゼリッタさん」

 

「もちろん私とて意地悪で言っているわけではありませんわよ? 貴女の意思が確認できて良かったですわ、ミス・コクトー。

 私としましても、蛮勇を振るうような方に背中を任せるわけには、いきませんから、お気を悪くなされたのでしたら、謝りますわ」

 

「別に、その必要はないわ、そんなどうでもいいことで腹を立てる程、子どもじゃないつもりだし」

 

 

 サラリと真っ直ぐに伸びた黒髪を書き上げて、鮮やかに黒桐さんは笑ってみせる。

 自信にあふれた表情に、思わずこっちの口の端まで吊り上る。前に倫敦に来たときにも思ったけど、やっぱり彼女には負けてられないものね。

 

 

「それじゃあ皆、行くわよ。私と士郎とで前に出るから、それに続いて。シエルは殿をお願いね」

 

「任されました、安心して前方を警戒してください」

 

「頼りにしてるわよ、埋葬機関の第七位」

 

 

 一歩、おそらくは領地の境界線であろう線を踏み越えた瞬間、私たち全員の背筋を這うように悪寒が走る。

 ああこれは、見られている。自分の領地に入り込んだ敵を爪先から髪の毛一本に至るまで、隅から隅まで観察している。

 

 

「‥‥レディの体を不躾にも眺め回すとは、マナーのなっていない殿方ですわね」

 

「そうね、しっかりと女の子に対する礼儀ってやつを教えこんでやらないと」

 

 

 体を何かが這いまわるような不快な感覚に耐えながら暫く歩くと、小さい家屋がいくつも散り散りに並んだ、開けた場所に出た。どうやらここが村のような場所らしい。

 城下町の多くが城の中へと収納されているのに対して、この村は特に防備に対して意識を払っていないらしい。せいぜいが、道が曲がりくねっているというぐらいか。

 それにしてもすでに大部分の建物が風化したり破損したりしていて使い物にならず、城下町としての機能は半分はおろか、四分の一にも満たないことだろう。

 住んでいる気配がするのは、せいぜいが二十人程度。本当に小さな村らしい。昔は、一角の城下町として栄えていたのだとしても。

 

 

「‥‥おかしいですね、いくら寒村だとしても人の気配が無さ過ぎる」

 

「結界よ、藤乃。自分の領地だからかしら、霊脈を利用して結界を張り巡らせているわ」

 

 

 村中に魔力の流れが生じている。大きな霊脈から葉脈のように魔力を枝別れさせ、そこから結界‥‥というよりは、霧のように何らかの効果を持つ術式を発動させているのだろう。

 どうやら家屋の中には、ふつうに住人が暮らしているらしい。けど、おそらくは普段からほとんど来訪者がいないだろう村に九人もの大所帯が訪れたにも関わらず、まったく出てくる様子がない。

 

 

「それにしても狡い手を使うな、そのヴィドヘルツルっていう奴も。キャスターも聖杯戦の時は色々やってたけど、それには及ばなくてもすごい念の入りようじゃないか?」

 

「でも霊地の人間とはいえ一般人を巻き込むよりもよっぽど良いわ。狂ってるとばかり思ってたけど、一応は神秘の秘匿に気を払うぐらいの常識が残ってるみたいね」

 

「ああ、確かに聖堂教会としてもそのあたりはしっかりと守ってほしいものですね。後で記憶操作をすればいいという問題でもありませんから、こればかりは」

 

 

 城へと続く道は、曲がりくねっていながらも分かりやすかった。そもそも都市設計の観念から、迷路のようにするわけにもいかなかったのだろう。

 侵入者を分断するという利点があっても、住民の生活が著しく不都合になるとすれば、微妙。そのぐらいは領主の考えておくことだ。

 

 

「‥‥それにしても」

 

「どうかしまして、ミス・アサガミ?」

 

「いえ、“領地”に入った段階からそれなりの反撃があると思ったんですけど、そんなことがなかったので拍子抜けしてしまいました‥‥」

 

 

 確かに、小さな村とはいえ、歩いている最中に襲撃の一つや二つ、罠の一つぐらいはあってもいいはずだ。

 けれど私たちは既にとっくの昔に領地の境目を踏み越え、もうそろそろ村の出口にも差し掛かろうとしている。

 目の前には村に入るまで程ではないけど、鬱蒼とした森。その億、視線をやや上の方へと伸ばした先に小さめながらも立派な城の塔の先が見て取れた。

 

 

 

「———いや、違う。構えろ」

 

「え?」

 

 

 不審に思って立ち止まった次の瞬間。

 今までずっと言葉少なだった式さんが、突然ジャケットを煽ると腰の後ろに差してあったナイフを抜き放つ。

 

 

「‥‥む、確かにそういうわけでもないみたいですよ。皆さん、周りを見てみて下さい」

 

 

 続いてシエルも両手に都合六本の黒鍵を構え、重く静かに注意を促す。

 その言葉に従って辺りを見回せば、いつの間にか、私たちの周りにはまるで霧のような魔力の揺らぎが生じていた。

 

 

「これは———ッ?!」

 

「ヴィドヘルツルの魔術ですわ! 正体は分かりませんが、気を付けてくださいませ!」

 

 

 外を向いた円陣を瞬時に作った私たちの目の前で靄のようだった魔力が急速に形を取り始めた。

 全長は女ばかりの私達よりも高め。人の輪郭から、徐々に細部が細かく刻みこまれていく。

 バケツのような兜、鎖帷子と簡素な手甲、手に持った剣や盾、槍。その姿は正にヴィドヘルツルの居城が全盛期にあった中世の兵士そのもの。

 

 

「‥‥なるほど、主の居城を守る兵士ということですか」

 

「どういう理屈で彷徨い出てきてるのか知らないけど、いいじゃない、こっちの方が手ごたえがあっていいわ。やっと討伐っぽくなってきたわね、遠坂さん」

 

 

 魔術回路が唸りを上げる。私の二つ隣ぐらいで、一番最初にナイフを抜き放った式さんが肉食獣のように体を撓らせた。

 ここからが、闘争の始まり。封印指定の魔術師を相手にした小さな戦争。

 

 

「さぁみんな、目標はあそこに見える貧相な砦よ。周りには構わず突っ切るから、ついてきて!」

 

「貴女に指図される謂れはありませんわよ、ミス・トオサカ! 貴女の方こそ、私に着いていらっしゃいませ!」

 

「よく言ったわね! それじゃあ絶対に、遅れたりするんじゃないわよ!

 ———Anfang《セット》!」

 

 

 森の向こうに見える尖塔目がけ、邪魔になる謎の兵隊達目がけて宝石を投げる。投げつけた宝石は、大きな爆発を起こして兵士達を巻き込んだ。。

 巻き込まれた兵士達は陽炎のように消えて無くなり、城へと向かう道が開ける。

 

 ‥‥ああ、今よくよく考えてみれば、どうしてこんなことまでして蒼崎君のことを助けようと思ったんだろうか。

 そりゃ彼が大切な友達なのは、事実だ。

 倫敦に来た私達を迎えてくれたのはまぁ、仕事の一環だとしても、ことあるごとに手助けをしてくれたのは間違いない事実。

 けれど魔術師ならば、本当ならここまで危険を冒すこともないんじゃないかって、そうも思ってしまう。

 

 蒼崎君と長い付き合いのルヴィアゼリッタに引っ張られて来たっていえば、確かにそうなのかもしれない。彼女の熱意にほだされて、友達だから、恩を受けたからっていう理由を後付けしたのも、まぁ事実の一部ではあると思う。

 結局のところ、そういうのって魔術師だからという理由で完全に切り捨てることが出来ない。等価交換という概念は、既に私達が蒼崎君から恩義を受け取っているっていう認識を持っている以上、履行を確約されたようなものだ。

 

 でも、そういう理屈を抜きにしても、きっと誰もが感情による衝動でこの場に来たことだろう。

 それは彼が魅力的な人物だから、っていうのともちょっと違う気がする。確かに良い友人ではあるけれど、人間的な魅力という定義づけからは外れる人柄だ。

 

 私が思うに、きっとこれは私が士郎に惹かれたのと同じ。

 ほら、私がその、士郎とこうして付き合うようになったのは、それは士郎の人柄とか色んなものが影響してるわけよ。

 でも多分、そのきっかけみたいなものは、士郎の持っているナニカなんだと思う。

 それは士郎がどれだけ優しいかとか、頼もしいかとか、そういう問題じゃないはずだ。

 蒼崎君との関係も、それに似ている。ただし、おそらく最初に魅入られたのは彼の方からじゃないだろうか。

 

 

(‥‥癪に障る話だけど)

 

 

 運命、なんて大袈裟な言葉でも、強制力のあるものでもないけれど、物事には“流れ”というものがある。

 地面に少しでも傾斜があれば、髙いところから低いところへと緩やかにでも水が流れるように。

 必ず、っていうわけではないけれど、ただ“こうなるべき”という流れに物事は沿いやすい。

 おそらく蒼崎君に関わることも、その“流れ”の調和の一つに当てはまっているのだろう。私達がそれに従わされているというわけでもなく、ただ、自然な流れとして。

 

 ‥‥いえ、本当に流れの中心にいるのは蒼崎君なのか、そういう疑問もあるけれど。

 とにかく今は、蒼崎君を助けると決めたから。

 前に進みましょうか、必死で。

 私達の大事な友人を掠ってくれたトンデモ魔術師(へんたい)から、救い出してやらなきゃいけないんだから。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥え?」

 

 

 寝起きにしては、妙に清涼な意識の中で俺は目を開いた。

 身体はいつの間にか、各所を締め付けないゆったりとした寝間着に変わっていて、当然のように靴も履いていなければ、昨今稀にみるぐらいリラックスしている。

 何の心配も恐怖もなく、ひたすらに安心して眠れたらしい。いや、ともすれば眠っている間に何か起こるなんて想定そのものがなかったのだろうか。

 

 

「天井、か?」

 

 

 目の前には清潔な真っ白い天井。

 目が覚めたという状況に、そぐわないぐらい清潔だ。基本的に俺は汚い、というよりは年季の入った天井の下でしか生活したことがないから、何処はかとなく違和感がある。

 

 

「———って、ここオレの部屋じゃないか。なに変なこと考えてたんだよ‥‥。

 くそ、寝起きだからかな、どうかしてる」

 

 

 むやみやたらと明瞭な頭を振って、突然どこからか沸いて出てきた奇妙な感覚を振り払う。

 一瞬、一度も来たことがないような場所にいたかのような違和感を覚えてしまったけれど、落ち着いて周りを見渡してみれば、よくよく見慣れたオレの部屋だ。

 

 見上げた天井はやたらと低い。ロフトベッドだから当然なんだけど、これも何故か微妙な違和感が残っている。

 角部屋だから二方向から陽の光が差し込むけれど、これもまた不思議なことに違和感。もっと朝は暗いべきだ、なんて頭の片隅で思ってしまう。

 

 ただ、こういう違和感も本当に微妙な、それこそ一瞬『ん?』と思ってしまう程度のもので、次の瞬間には何事も無かったかのように元に戻っている。

 靴の紐を結ぶ順番を、普段と間違えたぐらいのこと。それでもこんな頻繁に、短時間に連続してこんな違和感なんて早々ないことだ。

 別に特別なことなんてしてないはずなのに、どうも今日はおかしな感じだな。

 

 

「‥‥なんか額がスースーする。寝癖でもついたかな?」

 

 

 ロフトからゆっくり、特に今日は調子がおかしいから慎重に降りる。

 六畳ほどの丁度良いオレの私室は、まぁ男子高校生らしく程よい生活感に包まれていて、その辺りは特に感慨深いものじゃないだろう。

 

 特筆すべき点もない、ごく普通の部屋。最初からあった部屋に、必要な家具やら趣味の品———少量の少年漫画やらCDの類、あとは勉強道具ばかりだ———が棚に押し込まれているだけ。

 

 唯一、高校生男子が持つには微妙に過分な大きさのCDコンポぐらいがオレの趣味をはっきりと主張している。たぶん相当にオヤジくさいと思われるけど、オレの趣味はクラシックやオペラ、ミュージカルの鑑賞だった。

 

 

「‥‥こんなにCD、少なかったかな」

 

 

 いくらそれが趣味とはいっても、バイトも程々にしかやっていないオレが大量のCDを持ち合わせることが出来るわけがない。

 小遣いだって必要経費ほどしか貰っていないから、ごくごく常識的な数のお気に入り以外は図書館などから頻繁に借りる、という形をとっていた。

 

 

「なんか物足りないな、この並び方。もっとこう、横に倍くらいの列あったような気がするんだけど‥‥そんなこと、あるはずないよなぁ」

 

 

 一つ一つCDを確かめていっても、やっぱり微妙に聞きなれたタイトルが存在しない。

 それらはちょっと前に借りたけど、一度図書館に返してしまったはずだ。流石にオレだって図書館のものを自分のものだと混同することなんてないだろう。

 

 というか、そもそも目の前に鎮座まします最新式のCDコンポ。

 お小遣いはおろか、お年玉まで投入して買った念願の最新モデル。もはや音響設備だけなら、これ以上のものを望むならば、そもそも場所をとるために選択肢に上がらなかったホームシアターぐらいしか望めないだろうという“高校生基準で”最高級のお気に入り。

 ハイテクの結集のそれにも、また同じように違和感がある。

 

 

「‥‥うーん、どうかしてるんじゃあるまいか、今日のオレは。脳みそと体の接続がうまくいっていない、ような」

 

 

 その気になればネットやら何やらに接続して好きなだけ———違法だけど———聴くこともできる。購入する前からカタログをためすがめつ眺めては、自分がそれを手に入れたところを創造してニヤつくほどのお気に入りだったというのに、今では微妙な不快感すら覚えているような気がしてならない。

 いや、確かに頭を数回振ってしまえば消えるぐらいのわずかな違和感ではあるんだけど、それでもやっぱり気になってしまう。まるで、自分が自分でないかのような違和感だ。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 とりあえず肩やら首やらを回し、吐息をついた。

 頭はこれ以上ないぐらいにすっきりしているのに、何故か思考だけが上手く回転してくれない不思議な状態だ。いうなれば、まったく現状を把握できていない。

 これもまた、ある種で寝惚けているというべきなのだろうか。今まで一度も経験したことのない特殊な状況ではあるけれど、これなら一度、本腰入れて活動する前にシャワーでも浴びて頭を本当の意味でスッキリさせるべきなのかもしれないな。

 

 

「———ちょっとアンタ、さっきから一人で何やってるの?」

 

「え?」

 

「え、じゃないわよまったく。昨日は夜遅くまで居間でゲームやってたんでしょ? それのせいで寝とぼけてるんじゃないの?」

 

 

 くるりと視線を後ろの方へ移動させると、そこには一人の女性が呆れたように立ち尽くしていた。

 歳の頃は四十ぐらいだろうか。少なくとも五十には達していないだろうし、三十というには微妙に若すぎる。どこにでもいる、ありふれた主婦という風体。

 

 

「母、さん‥‥?」

 

「あらあら、ほんとに寝とぼけてるみたいね? 鍵がかかってなかったから勝手に入らせてもらったけど、もうそろそろよい時間よ? これからすぐにご飯食べて、支度して、急いで出なきゃ一限間に合わないんじゃないかしら」

 

 

 また振り返って壁に架けてある時計の方を見ると、大きめのデジタル時計———アナログ時計はカチコチという秒針の音が耳触りで嫌いだ———は既に普段の起床時刻の三十分も後を指していた。

 ハッと、圧倒的な事実を前に一気に意識が覚醒する。オレの家から高校までは総計三十分ちょっと。結構近いけど、流石に授業が始まる十分くらい前には到着しておきたいところだ。

 ましてやシャワーを浴びたり朝食を摂ったりすることを考えると、急いだほうがいい。

 

 

「いっけね、こりゃゆっくりしてらんないや! 起こしてくれてありがとう!」

 

「分かったから、とっととシャワー浴びてきなさいな。朝ごはんは準備しておいてあげるから」

 

 

 椅子の背にかけてあった制服一式を掠めるようにして取ると、急ぎ足で風呂場へと向かう。

 即座に飛び込んで、出始めの冷たい水を顔に浴びせた。春も近いとはいえ冬場の冷水の温度はもはや暴力的なまでに凍えるけど、体と脳みそを冷やせば確実に意識は覚醒するものだ。

 

 

「‥‥今日、何の授業があったっけ」

 

 

 さっきは脳みそと体の接続がどうこうって思ってたけど、よくよく頭を捏ねくり回してみれば、どちらかというと昨日との接続が上手くいっていないような感覚だった。

 今日何をすればいいのかっていうのは、たいてい昨日の内に大まかなプランが出来ているべきもので、だからこそ今日になって全くのノープランな状態というのは珍しい。

 

 

「あー、ダメだ、やっぱり時間割見なきゃ思い出せん」

 

 

 体を拭き、風呂場から直接つながったリビングダイニングへと向かう。

 食卓には普段通りの朝食が広がっているけれど、ちょっと今日は時間がないのでゆっくりと味わっている暇はないだろう。ちょっと早食いっていうのは体によくないから嫌いなんだけど、仕方がない。納豆ごはんを勢いよくかっ込み始めた。

 

 ちなみにウチの納豆は卵とネギだけの簡素なもの。カラシは抜くけど、納豆パックについているタレはしっかりとかける。

 昔は大根おろしを入れてみたり、キムチを混ぜてみたり、山芋と一緒にしてみたり、麺つゆを使ってみたりしたんだけど、やっぱりシンプルイズベスト。

 個人的には納豆ごはんに、味噌汁と漬物があれば他にはなにもいらない。これはもう日本人としてDNAに組み込まれているのではないかと思うぐらい、オレの食生活にぴったりと合っている。

 ベーシックなキュウリや白菜の浅漬けも大好物だけど、今日の食卓に上っているのはあまりスーパーなどでは一般的ではない白瓜の漬物。

 加熱した瓜とかはあんまり好きじゃないから最初はどうかと思ったんだけど、これが食べてみるとびっくりするぐらい美味しい。キュウリや白菜がシャキシャキしているのに対して、城瓜はコリコリと独特の分厚い噛み応えがある。

 以来、白瓜の旬を待ち望むようになってしまうぐらい大好きになってしまった。

 

 

「アンタ本当にそれ好きよねえ。たくさん作っても父さんと二人で一日もしない内に食べ尽くしちゃうんだから」

 

「いや、だってこれおいしいし。ついつい箸が進んじゃうんだよねぇ‥‥」

 

「はいはい。また作ってあげるから、急いで食べ終わっちゃいなさい。ホントにいい加減にしないと今度こそ遅刻するわよ!」

 

「あぁ、確かに」

 

 

 母さんの忠告に従って、半ば飲み込むようにして朝食を終えると洗面所で歯を磨く。

 やっぱり納豆は好きだけど、これを食べるとしっかり口臭対策をしなくちゃならない。いくら女子にモテたいとか積極的に思ってるわけじゃないとしても、それでも身綺麗にしておかなければ好かれる以前に嫌われてしまうことは請け合いだ。

 

 

「忘れ物はない? 今日は何時に帰るのかしら?」

 

「そんなに遅くはならないと思うよ。夕飯までに帰れなかったら、またメールするから」

 

「そう。それじゃあ気を付けて行ってらっしゃい、嗣朗(しろう)

 

「おっけー、行ってきます」

 

 

 オレの残した食器を洗いながら、キッチンから顔を出して声をかけてくれる母さんに挨拶、玄関を出る。

 貿易商をしているらしい父さんのおかげか、一般的なレベルではあるとはいえ一戸建ての家は、三人暮らし———比較的頻繁に母子家庭———にはちょっと広いかもしれない。

 

 生まれたときから十五年以上も住み続けている我が家。

 朝から続いた違和感は、朝食の前ぐらいにはほとんど払拭されていたはずなのに、何故だろうか。

 

 振り返って眺めたオレの家には、

 『村崎』の表札がついたオレの家には、

 

 どうしてだか、自分の住処であるという安心した感情を抱くことが出来なかった。

 

 

 

 

 78th act Fin.

 

 

 



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第七十八話 『魔術師の戦争』

 

 

 

 side Luviagelita Edelfelt

 

 

 

 

「———まったく、キリがございませんわねっ!」

 

「文句ばっかり言うんじゃないわよルヴィアゼリッタ! 口よりも手と足を動かさないと死ぬわよ!」

 

(ワタクシ)に指図しないで下さいませ、ミス・トオサカ! 貴女も宝石をケチるのはお止めなさいな!」

 

「うっさいわね! どうせ金持ちには私たち庶民のことなんて分かんないでしょうけど、こんな雑魚に一々宝石なんか使ってたら、あっという間に破産しちゃうでしょうが!」

 

「信じられませんわね。貴女それでも魔術師ですの?」

 

「黙んなさい金ぴか(女)! 私だって、私だって好きでこんな星の下に生まれたわけじゃないんだからっ!」

 

 

 鬱蒼と、闇を孕んでいるかのように太陽の光を阻んで生い茂る木々の中をひた走る。

 九人で組んだ円陣は既に楕円、というよりはむしろ両端に刃を持つ鏃のように鋭く尖り、前方で海のように広がる大量の兵士の群れに突破口を開かんと突っ込んでいく。

 

 ヴィドヘルツルの領地である小さな村を抜けた先の森で、私たちは多数の兵士による襲撃を受けました。

 どの兵士も、サーヴァントや一部の幽霊(ゴースト)のようなエーテル体。さらに術式から離れているのか非常に不安定な状態ではありましたが、それでも物質界への干渉力は十分に持った敵ですわ。

 

 いくら霊体密度の低い相手とはいえ、油断をすれば当然のように殺されてしまいますわね。なにせ、彼らは相対した感じから察するに、れっきとした兵士なのですから。

 

「それにしてもっ、こいつら一体なんなんだ?! 倒しても倒しても湧いて出てくるぞ!」

 

「恐らくはヴィドヘルツルの魔術の一つ、本拠地を防衛するための術式じゃないかしらねっ! やっぱり仕掛けの一つや二つぐらいあるに違いないって思ってたけど、ホント陰険なやつだわ! 数の猛威ってのを理解してるわよ、あの変態!」

 

 ショウが差し上げた双剣、干将莫耶を投影魔術で複製したものを振るいながら叫んだシェロに、こちらも空恐ろしくなるほどの火力で群がる兵士を焼き尽くしていくミス・コクトーが答えます。

 

 

「所詮一人一人は何の特殊技能も持たない一般兵士とはいえ、ここまで多いと堪えるわね……」

 

「‥‥ふん、愚痴ってる暇があったら足を進めろ。オレは征くぞ」

 

 

 数多の敵の攻撃を捌きながらの牛歩の如き進軍に焦れたミス・リョウギが、大きく一歩踏み出した。

 突撃、突貫、突進、そんな言葉とは無縁な静かな動き。それでいながら滝の流れのように荒々しく、圧倒的な速さと重さを以て目の前の兵士を薙ぎ払う。

 後はもう以下同じことの繰り返しでしたわ。ひたすらに、とてもナイフでは傷も作れないはずの鎧に向かって刃を振るい、消し去っていくだけ。

 くるくると舞うように、一歩一歩自然体のまま着実に前へと踏み込んでいきます。

 

 

「おかしい、あのナイフは概念武装なんてものじゃなさそうなのに‥‥。なんで鎖帷子を貫いて殺すことができるんだ?」

 

「それは後で問い詰めることが出来る質問でしょ? 今は目の前の敵に集中しなさい、士郎!

 セイバー! ここは一気呵成に突破するわよ! 私たちのことは気にしないで、血路を開きなさい!」

 

「了解しました、凛!」

 

 

 私達の護衛に重きを置いていたセイバーに、もはやこのままの状況は許されぬとミス・トオサカが突破の指示を出しました。

 後衛である私やミス・アサガミの援護に終始していたセイバーは、彼女のその指令を聞くや否や、魔力の風を迸らせてまっすぐに敵の群れへと突っ込んでいきます。

 

 本来なら、セイバーの能力をかんがみるに護衛という任務はあまり向いていないはずなのですわ。

 彼女が得意とするのは圧倒的な魔力量に裏付けされた魔力放出による突破力。本来のスペックでは抗しえない体格差も、魔力放出というスキルと絶大な魔力量さえあれば覆すことも容易ですもの。

 

 

「はぁぁあああっ!!」

 

 

 振るう剣は彼女が持つという宝具、『風王結界(インビジブル・エア)』の効果を考え無くとも、あまりの膂力と速さに暴風を生み出します。

 サーヴァントに似たような存在とはいえ、存在密度の薄い雑兵風情で敵うはずもありませんわ。触れる端から面白い様に吹き飛んでいきました。 

 

 

「今ですわ皆さん! ミス・リョウギとセイバーに続きなさい!」

 

 

 楔のように撃ち込まれた隙間。そこにシェロと、剣をまったく恐れる様子もなく焔を纏った素手のままで接近戦を挑んでいたミス・コクトーを先頭にして突っ込んでいきます。

 セイバーはすでにミス・リョウギを追い抜いていますけれど、彼女もそれを横目にムッとした表情をするとセイバーの作った隙間から差し込むようにして敵を削り、着実に前へと進んでいきました。

 

 

「しぶとくないだけ死者よりは楽ですが、この数は中々に堪えますねっ!」

 

「シエルさん、後ろは頼みますよ! 藤乃、右前方は私に任せて、側面のヤツをお願いっ!」

 

 

 斬り込むように、斬り裂くように。だんだんと加速度がついた私達は、後になってみれば驚いてしまうだろう速さで進軍していました。

 先頭でひたすらに突破口になっているセイバーと式の速度は言わずもがなく、殿のシエルもやっぱり凄まじいですわね。

 私たちを後ろから追撃しようとする兵士たちに、閃光のような速度で何条もの黒鍵を放ち、木と言わず地面と言わず他の兵士と言わず縫い付けております。

 

 

「人使いが荒いのね、鮮花は。‥‥(まが)れっ!!」

 

 

 前の敵を相手にしている黒桐さんの、側面から襲いかかってきた敵。

 近寄る端からぶん殴り、蹴り飛ばす黒桐さんといえど決して広くはない場所で二方向からの攻撃を裁くのは難しい。まさしくピンチかと思いましたが、そこは後ろに浅上さんが控えておりました。

 

 さっきまでは黒かった瞳が赤く染まり、見開いたそれの視線の先にいた兵士が、まるで出来の悪かった粘土遊びの失敗作が潰されるかのように呆気なく、歪み、撓み、捻じれ、凶る。

  なんということでしょうか、そこには魔力の動きも何もなかったというのに、悪い悪夢のように簡単に、彼女は異能を行使したのです。

 あれこそがアラヤによって人間に授けられた異能、すなわち超能力。基本的にガイアの理で動く魔術師(わたくしたち)には理解出来ない一つの境地。

 

 

「‥‥初めて超能力というものを目の当たりにしますが、恐ろしいモノですわね」

 

「つぶやいているヒマがあったら走りなさいルヴィアゼリッタ! ほら見て、もうすぐ城の入口よ!」

 

 

 ミス・トオサカの言葉に呆けていた視線を前方へと戻せば、そこにはもう走って十数秒という距離に広がっている古城の外壁。

 既に風化し、蔦に覆われ、在りし日の堅牢さは殆ど残っていないだろうソレは訪れた人々曰く『幽霊城』。そう言われるに足る外観は、おそらく単純な視覚効果によるものだけではないでしょうね。

 

 

「———見て、みんな。さっきまであんなに湧いて出て来た兵士たちが‥‥!」

 

「消え、た‥‥?!」

 

「‥‥城の兵士との挟撃も可能なこの状況で兵を退いたということは、用は済んだ、ということでしょうね。 

 凛、シロウ、気を引き締めなさい。どうやらここからが正念場、本番のようですよ」

 

 

 先ほどまで互いに交わしていた怒声や剣戟の音が消え去った周囲には、不気味な沈黙だけが広がっております。

 それは空白のような静寂というよりは、ひたすらに張りつめられたが故の静寂とでも言うべきでしょう。事実、私達の内の誰一人たりとも緊張を解いてはおりませんでした。

 

 

「皆さん、あれをっ!」

 

「城門が、開く———ッ?!」

 

 

 ミス・マトウの声に振り向く必要も、ありませんでしたわ。

 

 耳の奥を、頭蓋の内側を、脳髄の芯を、胸の中心を、心の臓を。

 劈くように甲高く、貫くように鋭く、轟くように重厚な、そんな音と共に背後に構えていた城門が開く。

 

 ゆっくりと、泰然と、私達を迎え入れようとでもするかのように。

 憎たらしいぐらいの余裕を見せつけながら、扉は完全に開き切りました。

 

 

「‥‥随分と舐めてくれるじゃない、コンラート・E・ヴィドヘルツル。私達なんかに全力を尽くして戦う必要もないってことかしら?」

 

「今回ばかりは同感ですわね、ミス・トオサカ。これは少々、頭に来ましたわ」

 

 

 ミシリ、と自分の口蓋の奥で音が鳴るのが分かる。

 何もかも、理解できているつもりですわ。自分の実力、同行している仲間の実力、敵の実力。今回の目的を達成する上で彼我の関係を考慮した勝率についても。

 その上で、私は矜恃を持って宣言させていただきます。

 よくぞ、この私を、エーデルフェルト家当主、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトを舐めてくれたものですわね、と。

 

 

「まぁ間違いなく罠でしょうけど‥‥。遠坂先輩、ルヴィアさん、どうします?」

 

「是非も無いわ、桜。そうでしょ、ルヴィアゼリッタ?」

 

「えぇ勿論、私達のやることは決まっておりますわ、ミス・マトウ」

 

 

 ちらりと後ろに立つ仲間達へと視線を寄越し、こちらも悠然と歩き出す。

 脅しも、罠も、火を見るより明らかな実力差も恐ろしくはありませんもの。私は私がやると決めたことを、必ず成し遂げる。そう最初に決めたのなら、退くことは私の矜恃が許しませんわ。

 

 

「‥‥これ見よがしに私の隣を歩くのを止めては頂けませんの、ミス・トオサカ?」

 

「なんかアンタが前を歩いてるとムカつくのよね。いいじゃない、別に陣形を乱してるわけじゃないんだから」

 

「そういうことを言いたいわけではないのですが‥‥いえ、なんでもありませんわ。とにかく皆さん、注意なさって。何処か様子がおかしいですわよ」

 

 

 一歩踏み込んだ城内は、シンと静まりかえった不気味な雰囲気を湛えておりました。

 当然ながら、さっきまでは雲霞の如く犇めいていた守備兵達の姿はなく、ほぼ雨風を凌ぐ以上の意味を持たない廃墟と化した室内は、灯りの一つもありません。

 

 

「‥‥ここが、コンラート・E・ヴィドヘルツルの居城、ですか」

 

「人っ子一人居やしないじゃない。さっきまでのアレは何だったのよ‥‥?」

 

 

 さっきまで何故か戦闘に参加していなかったミス・マトウと、油断なくファイティングポーズをとったミス・コクトーの言葉に、全員で外側を向いた円陣を組んで周囲を警戒する。

 ここまで、あからさまな静寂。間違いなく罠、しかも悪質なものがあるとしか思えませんわね。

 

 開いた城門は既に閉じ、ここは相手の懐の中。否、(アギト)の中と言うべきでしょうか。

 何が起きたとしても欠片もおかしくはないのです。注意しても、し過ぎるということはありませんわ。

 

 

「———ふむ、警戒する必要はないぞ」

 

「ッ?!」

 

 

 ぞわり、と背筋に走る悪寒と共に、ちょうど玄関ホールの正面にある大階段を上った先、ボロボロの絵画が据えてある踊り場から、声がしました。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル‥‥ッ!」

 

「いかにも。私がこの城の主にして、領主。コンラート・E・ヴィドヘルツルである。

 ふむ、そういう君はフユキで見たな。確かトオサカ家の当主、だったか、ふむ?

 聖堂教会の司祭などに管理地を任せて時計塔で勉学に励んでいるはずの君が、何故こんな片田舎で観光に現を抜かしているのかね? 第二に尤も近いと言われる学院一の秀才の、君が」

 

「‥‥言ってくれるじゃない、調子に乗るのもいい加減にしなさいよね。別にアンタにとやかく言われるようなことじゃないわよ、この変態が」

 

 

 一瞬前までは確かに誰もいなかったはずの踊り場。そこには暗い屋内でなお、不自然に白く輝く一人の魔術師が立っていました。

 全身、白尽くめ。目深に被った帽子も、スーツも、ネクタイも、シャツも、スラックスも、靴下も、靴も、靴紐までも。おそらくは、下着も。

 肌も白く、蝋のような不気味な色をしております。唯一色が異なるのは、くすんだ金髪と淀んだ真っ赤な瞳だけ。

 口に張り付いた歪んだ笑い、引きつった笑いが不快感を与えますわね。相対するだけで、なんという怖気。

 

 それは実力の差による恐怖、というだけではないように思います。

 端正な顔の奥に潜ませた明らかな狂気。それに、正気である私達は圧倒されてしまうのではないでしょうか。

 事実、脳髄の奥を圧迫されるような謎の威圧感を感じておりますから。

 

 

「ふむ、エーデルフェルトの次期当主に、埋葬機関の第七位、そして剣の英霊(セイバー)、現代の英霊。

 他には成る程、超能力者が二人に黒い聖杯、『 』の体現者が一人、かね。ふむ、ふむ、ふむ、これは素晴らしい、まったくもって素晴らしいメンバーだな!」

 

「‥‥何のことを、言っているの? というか、何故それを知っているの、アンタは‥‥ッ!」

 

 

 瞬間、その場に緊張が走りました。

 隣に立つミス・トオサカはおろか、誰もが身体と顔を強ばらせてヴィドヘルツルを凝視しております。

 

 

「ふむ、しかし諸君、私の城に一体何の用かな? 悪いが私がこの居城に入って以来、残念ながら客人を迎えたことはないのだよ。

 突然の来客とはいえ来客は来客。何か持て成しをしなければとは思うが‥‥何をしたらよいものか‥‥」

 

「ッ、何を言ってんのかしら、この変態は! そんなの貴方が持ってった(ウチ)兄弟子(バカ)を取り返すために決まってんでしょうがッ!」

 

「‥‥?」

 

 

 ヴィドヘルツルに問い返したミス・コクトーの怒声に、真っ白い魔術師はまるで何を言いたいのか分からないとでも言いたげに、きょとんと首を傾げて瞬きする。

 見開いた瞳が、やけに無邪気でしたわ。思わず、身震いしてしまうぐらいに。

 

 

「何故?」

 

「はぁ?!」

 

「何故、私からシヨウ・アオザキを取り返す必要があるというのか?」

 

「‥‥どういうことかしら? ショウを掠っていったのは貴方でしょう?」

 

 

 ぐにゃりと身体を曲げ、ヴィドヘルツルは大袈裟に『理解に苦しむ』というポーズを取っております。

 端正な顔をした大の大人が子供のようにおかしな格好をするのは、相手がヴィドヘルツルということもあって滑稽というよりはおぞましいものでございましたわ。

 

 

「ふむ、ミス・ルヴィアゼリッタ。壺に蓋があるのは当然ではないかね? ペンとインク壺が一緒にあるのも、当然のことではないかね? 蓄音機とレコードときたら、これはもう一緒でないと動かない類のものだな」

 

「‥‥何が言いたいのかしら? 生憎と私達はとっとと蒼崎君を掠い返すことが目的で、長々とアンタと話してる時間なんて無いんだけど?」

 

「私はごく当然のことを話しているつもりなのだがね? 当たり前のものと、当たり前のものがある。そして此の二つが共にあることが当たり前ならば、それは普遍的に当然のものとして認知されるべきものだ。

 二つのものに不自然な点がない以上、ましてや二つのものが共にあることにすら不自然な点がない以上、それに大して不自然な感情を覚えることは間違いだとしか思えないのだが?

 ふむ、故に私には君が何を言っているのかさっぱりだよ、ミス・トオサカ。何故、当然一緒に在るべき二つのものを、引き離そうとしたいのか。それは不自然というものだよ。物事は自然のままに、完成された姿で、完璧な状態であるべきだ」

 

「‥‥何を言ってやがるんだ、こいつは? オレにはこいつが何を言ってるのか、さっぱり分からないんだが」

 

 

 ミス・リョウギの仰る通り、ヴィドヘルツルは一本筋の通っているようで通っていない、しっちゃかめっちゃかで支離滅裂な言葉の羅列をギリギリ聞き取れるぐらいの早口で一気呵成に捲し立てます。

 見開いた瞳の奥にあるのは、虚無。いえ、混沌でしょうか。

 こうやって相対しているだけで、精神を削られるような圧迫感。正直、一秒たりとも、この魔術師とは一緒にいたくありませんわ。

 

 

「ふむ、成る程、君達はまだ理解できていないというのか」

 

「はぁ?」

 

「ふむ、ふむ、いいかね? 私とシヨウ・アオザキとの間には君達では思いも付かない程に崇高かつ劇的な運命というものが存在しているのだよ。

 考えてもみたまえ、私が目指す存在と、ほぼ合致する彼という存在。彼という存在を構成するアイデンティティと、私の目指す目的とが完全に合致したのだよ!

 これがどれほどまでに奇跡的なものだったか、君達には分かるかね?! 待ち望んでいた、根源以上の存在への手がかりなのだよ、彼は! シヨウ・アオザキという存在はッ!」

 

「根源以上の、存在‥‥?! ヴィドヘルツルさん、貴方は紫遙さんのナニカを知っているんですか?!」

 

「勿論、そうでなければこのようなことは言わないよ、ミス・マキリ。私はね、本当に嬉しくてしょうがないのだよ、シヨウ・アオザキという存在と巡り会えたことが。

 このまま延々と摩耗し続け、最終的に私という個が消えて無くなる寸前に、出会えたのが彼さ。ふむ、これはもはや運命などという言葉では表現しきれんな。

 私は彼との出会いを、何と形容すればいいのだろうかね? 必然か、当然か、あるいは唖然としたと言っても良い。

 ひたすらに、ひたすらに思考と試行を繰り返す円環と化した私の日々の中で、まさに一つの理とでも言うべきだろうか? いやはや、中々に詩的だな、ロマンティックだ」

 

「‥‥初めて相対した時にも思いましたが、とんだ狂人ですね、魔術師(メイガス)。凜、シロウ、ルヴィアゼリッタ、このような人物とは議論を挟む余地などありません。即刻、斬り捨ててしまいましょう」

 

 

 カシャン、という物騒な音と共にセイバーが聖剣を構えました。

 彼女にとって、このような妄言を曰う人間は好みではないようですわね。昔、何かあったのかもしれません。胡乱な目つきで、ヴィドヘルツルを睨み付けております。

 

 

「ふむ、失礼だな騎士王殿。私は冗談や妄言を口にしたことなど一度もないつもりだ。

 大体ナニだね、友達面をして此処まで来ておいて。そもそも私に言わせれば君達はね、彼の重要性に全く気づいていないのだよ」

 

「蒼崎君の、重要性‥‥?」

 

「そうだよ、ふむ。彼はね、君達が思っている通りの『魔術師にとって希少な友人』という程度の価値しか持っていないわけじゃあない。

 君達が思っているとおりの『本来は魔術によって再現できないはずの魔眼《ノウブルカラー》を再現している』なんて点にあるわけじゃない。

 ふむ、いいかね諸君? 彼はこの世界に一人の貴重な存在なんだよ! 奇蹟のような存在だ! 万に一つ、いや、奥に一つ、あるいは那由多に一つの奇蹟によって、この世界を訪れたイレギュラーだ!」

 

「訪れ、た‥‥? 何を言っているんですの、貴方は?!」

 

「いやいや、分かるまい、君達では分かるまいよ。

 ふむ、如何に君達が此の世界において輝かしい看板を背負った存在だとしてもな、彼を理解してやれるのは此の世界で私一人きりだ。

 あのアオザキの姉妹だって、彼の価値を本当に理解できてはいないのさ! 彼の持つ希少性を理解していながら、それを隠すように指示している。まったくもって度し難い冗談だよ。

 彼の価値を、十分に理解して、共にいてやれるのは私だけだ。私と共にいてこそ、彼は君達を凌駕する輝きを放つことが出来る。いや、彼がいれば、我々は此の世界を飛び越えることだって可能なのだッ!」

 

 

 あまりにも早口で、何を言っているのかよく分かりませんわね。

 しかし一つだけ言えることがありますわ。どうやら彼は何が何でもショウを渡す気がないということですの。

 

 

「‥‥流石に穏便に話が出来れば、なんて考えていたわけではありませんけれど。しかしセイバーの言う通り、こうなれば実力行使に出るより他に無いようですわね」

 

  

 ポケットに仕舞ってある宝石を二、三個掌に握り込む。

 もはや容赦は不要ですわ。この狂人から、ショウを取り戻さなくては。

 

 

「———哀しいな」

 

「‥‥は?」

 

「哀しいな、哀しいな、哀しいな、

 哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しい名哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しい名哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しい名哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しい名哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しい名哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しい名哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな哀しいな」

 

「———ッ?!」

 

 

 身体と首を大きく左側に傾け、殆ど真横になった無表情から怒濤のように言葉が漏れます。

 おそろしいぐらいに、醜悪。最初から感じていた悪寒が、ここにきて最高潮へと達しました。いえ、悪寒についてこのような表現を使うのはおかしいかもしれませんけれど。

 

 

「哀しいな、君達が私とシヨウ・アオザキの仲を肯定してくれないのが、哀しいな。私と彼との間柄は、もはや世界中が認めるべきものだよ。

 ふむ、だというのに‥‥このように信用出来ずに私を問い詰め掠おうとする。私の下から、彼を、掠おうとするのだ!

 ‥‥許せないな、あぁ許せんよ。私と彼との間を引き裂こうとするなら‥‥君達にも、分からせてやる必要があるのかもしれんな、ふむ」

 

「‥‥ッ、気をつけて下さい皆さん! 奴は何かする気ですよ!」

 

 

 シエルの叫び声と共に、全員が元々MAXに近かった警戒度を更に一段階上げました。

 明らかに、先程までの奴と違います。一歩、前に出ただけだというのに重圧感が一ランク上がります。

 これはギアを一つ入れ替えたのと同じですわ。さっきまでの通常時の雰囲気から、戦闘時の雰囲気へとスイッチを切り替えたのです。

 

 

「ふむ、君達を純粋に排除するのは容易い。‥‥シヨウ・アオザキと違って精神に干渉する術式に対する君達の対抗策というのは実にお粗末だ。

 自分自身の抗魔力に期待して、大した対策もしていない。そんな君達を手玉にとるのは簡単だ。しかし、それでは面白くないだろうよ」

 

「‥‥どういうことだ。紫遙を放す気がないんなら、お前を倒して助け出すだけだぞ」

 

 

 シェロが最初から投影していた双剣、干将莫耶を構えて油断なく隙を窺います。

 私達がいるところから、踊り場までは遠い。如何にシロウと言えども、一足飛びには到底辿り着けない場所です。セイバーなら‥‥とも思いますけれども、彼女はヴィドヘルツルに対して円陣の反対側に陣取ってしまっています。

 なにやら不審な雰囲気を漂わせるヴィドヘルツルを相手に、迂闊な攻勢に出ないべきか、それとも迅速に勝負を決めてしまうべきか。

 全員がちらりと目線を交わし、逡巡したその時でした。

 

 

「いや、知ってもらうのだよ、彼のことを。そして彼と私が、どうしても一緒にいるべきだということをな」

 

「———ッ皆さん、散開して下さいっ!」

 

「これはっ?!」

 

 

 風化によるひび割れが蜘蛛の巣のように走っていた床に、光が走る。

 これは、自然に出来た境界線を利用した術式ですわ! 意図して境界線を引く一般的な術式よりも、その“場”に寄り添うが為に空間に効果を及ぼす魔術に有効‥‥。

 つまりこれはこの空間に対しての何らかの魔術!

 

 

「さぁ、呑まれたまえ諸君。そして味わうがいい」

 

 

 地面に走った光から、さらに上方へと光の壁が生じて私達を分断します。

 捕縛‥‥いえ、そんな生やさしい結界ではありませんわね。これは信じ難いですが、まさか転移の術式ですの?!

 

 

「君達の知らない、シヨウ・アオザキの力の一端をな」

 

「覚悟をお決めになって! 来ますわよッ?!」

 

 

 光の壁により視界が閉ざされた中で、ヴィドヘルツルの声が響きました。

 もはや、対抗術式(レジスト)は不可能。となれば咄嗟に私が叫んだように、覚悟を決める以外にありませんわ。

 

 叫んだ次の瞬間に、ぐらりと身体全体が揺れる感覚がして、

 

 次の瞬間には、私達は猛烈な嘔吐感と酩酊感と共に、おそらくは転移術式が発動いたしました。

 

 おそらくは罠。しかし、今更になって後悔も弱音を吐くことも出来ませんわ。

 

 ただただ襲いかかる吐き気と目眩を堪え、これから先に待ち受けているだろう過酷な状況に覚悟を決め、私は魔術回路を強く強く、励起致しました。

 

 ショウ、待っていて下さいな。必ず助け出してさしあげますからね!

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 がたん、ごとん、がたん、ごとん。

 

 いくら車輪の規格や線路の接合の間隔というものがある程度は統一されているとしても、普通に考えれば不規則な振動を刻むはずなのに、何故か規則的で眠気を誘う。

 昔から、こればかりは不思議でしょうがない。オレは例えば車や船なんかは酷く酔っぱらう体質なんだけど、バスとか電車の揺ればかりは心地よく感じてしまうのだ。

 そういえば車は運転する側だと全然酔わないって聞くけど、そこのところどうなんだろう。オレが将来、免許でも取れば別かもしれないけど‥‥今はまだ分からないな。

 

 

「ッいかん、また寝過ごすところだった‥‥!」

 

 

 ついついうっかり、珍しく座席に座れたせいかウトウトと居眠りに興じてしまい、いつもの駅で降り損ねかけた。

 学生街だからか、スーツ姿よりも多種多様な制服の数のほうが多い。この辺りには中高合わせて五つ以上の学校があるから仕方がない。

 通りすがる学生たちの顔も、そのせいか幼げな奴から大人びた奴まで多種多様だ。オレは高校一年生だから丁度その中間。正直、没個性と化すぐらい童顔でもないし老けてもいなかったりする。

 着てるブレザーも特に個性のない紺色のもので、胸ポケットに校章が縫い込んであるだけだしね。同じような制服もあちらこちらにちらほらと見えた。

 

 

「‥‥なんだろう、すごく新鮮な感じがするんだけど」

 

 

 いやいやいや、もう三年も同じ場所に通ってるんだぞ? 新入生が入る時期じゃあるまいし、そんなバカなことはない。

 まぁよくよく考えてみれば、オレだってつい半年前に高校に入学したっちゃあそうなんだけど、それでも中高一貫なんだから、純粋に景色だけを考えれば新鮮には程遠いことだろう。

  

 

「———よう、村崎! どうしたよ朝から辛気臭い顔しやがってさぁ!」

 

「だぁあ加藤?! お前あれほどオレの背後に立つんじゃないって言ったろうがッ!」

 

 

 シュン、という効果音が聞こえそうなぐらい鮮やかにオレの首へと太い二の腕が回され、軽く気道を締め上げられる。

 こんなことする奴は、幸いにして、あるいは不幸にしてオレの知り合いの中には一人しかいない。中学に入学した頃からの悪友にして、常に厄介ごとやら騒動やら楽しいバカ騒ぎなどをオレのところに持ってくるクラスメイト。

 名前を加藤信一郎という、柔道部所属の強面である。

 

 

「なんか最近、首が太くなった気がするんだ畜生め。このまま肩と首が一緒になったらお前のせいだぞ?」

 

「ハハハ安心しろって、高校生ぐらいじゃどんなに鍛えてても室伏みたいにゃなれねぇからよ。俺だってこんなに鍛えててもまだまだ、一流選手のそれには及ばないんだからなぁ」

 

「そんなこと聞きたいわけじゃないよっ! ったく、高校入ってからこっち調子が良いな、お前は」

 

 

 振り返った先に胸を張り、腕を組んで立っていた加藤は、デカイ図体を器用に動かして剽軽《ひょうきん》におどけてみせた。

 少し癖のある髪はスポーツマンらしく短く切りそろえられており、どちらかといえばニヒルに決める方が似合うだろう比較的端正な顔には、それとは正反対に愛嬌のある笑みを浮かべている。

 

 ああ、高校一年生にして柔道二段、もうすぐレギュラー間違いなしという武道系の友人は、ことあるごとに人の背後に音もなく忍び寄っては首を軽く絞めるという悪い癖があった。

 加減を知っているだけ良いんだけど、これではいざという時にちゃんとした反応をとれないかも、という懸念もあったりする。まぁ、考えすぎかもしれないけど。

 基本的にはスキンシップなのだろう。

 

 

「かぁーっ、つれないねぇ! 一人で登校はさびしいだろうと思って声かけてやったってのに。それともあれか? 孤独に学年末の憂鬱に浸りながら一人登校路をのんびり歩きたいってヤツか?」

 

「厨二病は小学校六年生で卒業したよ、幸いなことに。‥‥すまん、なんか今日は調子が悪くてさ」

 

「調子が悪い? どうした、風邪か? まぁ貴様ん家の過保護な母ちゃんが登校させたってことは熱は無いんだろうが‥‥」

 

 

 しばらく歩けば、それぞれの学校への道へと別れていくためか、オレが通う中高の生徒の姿しか見えなくなる。

 同じような男女二種類の制服の中を、加藤と二人で歩いていく。下手に中高一貫だからか生徒数が多く、見知った顔を探し出すことは出来ない。

 あるいは最近のアイツらは学年末だからとサボリ癖がついているから、もしかしたら数人ぐらいは学校に来ていない可能性もある。せっかくこのクラスで過ごすのがあと一週間程度なのだから、楽しんでおけばいいのにと思うんだけど。

 

 

「なんかこう、違和感があるんだよな。例えて言うならメガネをかけ間違えたみたいな。いや、オレはメガネなんて使わないけど」

 

「まだ寝ぼけてるんじゃねぇのか、村崎よ?」

 

「一応シャワーは浴びたよ。まぁ、とはいえその可能性は否めないな。朝からずっとこうなんだ。本当に今日はどうかしてやがる」

 

「まぁ腹が痛いとか息がしづらいとか頭が悪いとかじゃないなら良いんだけどな。そういうことなら仕方ねぇ、今日はほどほどに授業受けるこったな」

 

「おいこら、最後に変なの入ってたぞ」

 

「気にすんな、お茶目さ。ほら歩くスピードが遅いぞ。調子が悪いのは分かったけど、さっさと教室行っちまおうぜ?」

 

 

 オレより頭一つ分も大きい加藤の歩幅に合わせ、微妙にスピードアップする。確かにコイツのいう通り、病気や風邪というわけではない不調は気のせいの分類に属するかもしれない。

 そもそも小学生や中学生と違い、別に受験生でなくとも高校生はそうそう簡単に学校を休むわけにもいかない。まず出席日数がどうこうという問題もあるし、ましてや授業についていけない。

 

 

「ところで加藤、部活の方はどうなんだ? もう年度末だから三年の先輩の追い出し会とかあるんだろ?」

 

「まぁな。っつうても二年生が企画するから、俺達一年にやることなんて数えるぐらいしかありゃしねぇ。せいぜいが三年にパイをぶん投げて、そのあとにお決まりの投げられ会ってとこだろうな」

 

「相変わらず武道系の部活は物騒だな」

 

「そういう貴様はどうなんだよ? そりゃ部活には入っちゃいねぇだろうが、バイトの方では追い出し会とかお別れ会とかあるんじゃねぇのか?」

 

 

 加藤が入っている柔道部では、毎年何らかのイベント———今年はパイ投げらしい———の後に、恒例行事として先輩との乱捕りと、投げられ会というのがあるらしい。

 これは試合の後に、無抵抗のまま卒業する先輩にひたすら投げられるというものらしく、先輩が疲れて止めるまで下級生はひたすらに耐え続けなければいけないんだとか。

 

 

「あるけど、高校生は酒が入らない一次会だけの参加だからな。どうしてもお遊びっていうか、お情けっていうか、とにかくマジなお別れ会のムードにならないから楽しくない」

 

「成程ね。だから俺があれほどいっしょに柔道部に入ろうって誘ったろ? あの時にノッてれば、今頃それなりに青春な毎日を楽しめたはずだってのによぉ」

 

「余計なお世話だ。オレはそういうの苦手でね。ていうか最初っから黒帯の貴様と一緒に部活なんてやってられるかっつーの」

 

 

 確かに部活にも入ってなくて、バイトも適当な頻度しか入れてないとなると暇人に見えるのかもしれない。

 けどまぁホラ、そこまで無理して青春を謳歌する必要なんてあるのかって疑問も当然だと思うよ、オレは。少なくとも強要されるようなもんじゃないし、むさ苦しい柔道部も御免だった。

 

 そもそも中高一貫であるウチの高校においては、高校から新しく部活を始めるというのが非常に難しい。心境の変化とか、あとはコミュニティが出来上がってしまっているっていうのもある。

 特に野球部やバスケ部、柔道部とかの大御所な部活になるとその傾向も顕著だ。柔道部なんて素人がいきなり始めて、今まで中等部でバリバリやっていた連中との差が出ないわけがない。

 もちろん外部から入ってきた連中だっているだろうけど、中等部からの持ち上がりだと完成しきったコミュニティに割り込むのは意外に勇気がいるものだ。

 オレにとってもそれは同じで、正直バイトを始めるのだってそれなりに勇気の必要なことだった。

 

 

「しかしあれだな」

 

「ん?」

 

「違和感っていうのは具体的にどんなカンジなんだ? 貴様がわざわざそういうこと言い出すってのも妙な話だしよ。

 ホラ、眼鏡を掛け違えた感じとか言ってたけど、それって眼鏡の度が合ってないってことか? それとも他人の眼鏡をかけてるとか?」

 

「ああ、そっちが正しいかな。眼鏡の度は間違いなく合ってるはずなんだけど‥‥」

 

 

 隣を歩く加藤の例えが絶妙で、思わず手拍子をつく。

 確かに眼鏡に例えるならば、オレの眼鏡の度はしっかりと合っているらしい。ただ、だというのに他人のモノっぽい。

 

 

「例えば、昨日ある場所にあったものが今日は別の場所にあったとする」

 

「ふむふむ」

 

「それは当然に違和感を感じてしかるべきものだと思う。ていうか、常識的に考えて」

 

「jkjk」

 

「じぇーけー?」

 

「いいから続けろって、深い意味はねぇよ気にすんな」

 

 

 とても日本語とは思えない単語を口にされて疑問符を浮かべるオレに、加藤は普段と同じくひらひらと手を振って先を促す。

 正直、このやりとりはいつも通りだから特に言及することもない。コイツはたまに英語と日本語と、ついでに色んなスラングを混ぜた意味不明の言語を使用することがあるのだ。

 

 

「‥‥たださ、確実に普段通り、下手すりゃ一年ぐらいずっとそのままの位置にあるようなモノに違和感を感じるのは、普通じゃないなって」

 

「まぁそりゃな。ていうかビョーキなんじゃねえの貴様? 主に精神を病んだ的なカンジの」

 

「失礼な。豆腐の角に頭ぶつけて死ね」

 

「氏ねじゃなくて死ね、と」

 

「は?」

 

「気にすんな」

 

 

 やや坂道の校門前。 まだまだオレは体力が残ってるから十分に余力を残しているけれど、三年になるとキツイだろうなぁと以前に加藤が漏らしたことがある。

 正直オレは運動やってるわけじゃないから、一年そこら運動を止めたぐらいでそこまで体力が落ちるものかと思うわけだけど。

 

 

「そりゃ、貴様が普段から運動してないからに決まってんだろーが」

 

「必要ないことはしたくないんだよ。本当は必要なことだってやりたくないんだけど」

 

「クソNEET仕事しろ」

 

「バイトはしてるけど? てか学生はニートって言わないだろ」

 

 

 高等部は一年と二年が同じ場所に靴箱があって、三年だけ教員用のものと一緒に別の場所にある。

 これを差別だと声高に主張する一年は多いんだけど、それって多分三年の靴箱が教室に近いのと、三年の教室が二階にあるからだと思うわけですよ。

 ちなみに一年生は四階、二年生は三階に教室がある。必然的に、階段を昇る数も多いわけなんだわな。

 

 

「あぁ村崎」

 

「ん?」

 

「そういえばさっきの話なんだけどよぉ」

 

 

 靴箱から上履きを取り出して履いていると、廊下に近い方に靴箱がある加藤がやけに勿体ぶった間を取りながら話しかけてきた。

 見返り美人、なんて言いたいのか知らないけど、上を向いた角度からこちらを振り返る独特の角度を取っている。普通、そんなポーズ取る奴なんて居ないから意識しているんだろう。

 ちなみに熱烈に誘われて一度だけ真似したことがあるんだけど、同じくらい猛烈に首を痛める可能性が高いのでお勧めしない。

 

 

「そいつぁアレだな、眼鏡をこの現実世界に当てはめると———」

 

 

 怪訝に眉を顰めるオレのその顔が気に入ったのか、加藤は意地悪そうな笑みを浮かべている。

 性根が捻れ曲がったってわけじゃないけど、結構付き合い方に苦労する奴だ。これでクラスのお調子者として人気なのだからおかしな話だろう。

 

 

「貴様の外側か内側か、どっちかに意識出来ない変化があった、ってところじゃあねえかと聡明な信一郎様は思うわけですよ」

 

「意識出来ない、変化‥‥?」

 

「応さ。例えば恋をした、なんてのは意識できない類の中でも分かりやすい心境の変化だろうけど‥‥。まぁ貴様に春は来ねぇよ、当分。少なくとも俺に来るより先は許さん」

 

「では俺に訪れるだろう春を妨害する加藤、お前を最初に誅滅しておくことにするか。覚悟しろっ!」

 

「よっしゃあかかってきやがれ! 81kg級の力ってのを見せたらぁ!」

 

 

 適当にボクシングの真似をしてシュッシュッとジャブを繰り出すも、全て目にも留まらぬ速度で弾かれてしまう。おいおい誰だよ柔道は打撃に弱いとか言った奴は。

 

 

「素人のジャブが当たるか、ボケ。貴様みたいに鍛えてない奴じゃ速度もたかが知れてるし」

 

「分かってても、男には退けない時があると思うんだ、加藤君よ。だからホラ、両手をポケットに入れて突っ立っててくれるかね?」

 

「残念、スマートなだけじゃ勝てないぜぇ?」

 

 

 相も変わらずワケの分からないやりとりをしながら教室へと向かう。

 あまり顔が広いわけじゃないオレはさておき、意味が分からないレベルで顔の広い加藤は道行く生徒に次々と挨拶しては通り過ぎて行く。

 お調子者で剽軽で、人当たりが良くて誰にでも気負いなく話しかけるコイツは顔見知りを作るのがとても上手だ。羨ましくなる、ぐらいに。

 オレはコイツと一緒にいるから、それなりに人と話すことも出来てるけど‥‥。そういうこと考えると、コイツと知り合えて良かったとは思っている。

 

 

「‥‥こういうこと考えるぐらい、感傷的だから変な違和感とか感じるのかも?」

 

「あん? なんか言ったかぁ村崎?」

 

「いや、別に。ところで加藤、その手に持ってるのは何だ?」

 

「須藤と五島からもらったんだ、今日の数学のノートと英語の課題。いやぁ五限と六限だから昼休みまでに写しちまわねぇとな」

 

「‥‥いい加減に課題ぐらい自分でやりやがれ」

 

「ハッハッハ、『足りないものは他所から持ってくる』、魔術師の基本だぜ村崎よ?」

 

「魔術師の‥‥常識‥‥」

 

 

 いつもと同じ、全く意味の分からない加藤の戯言を聞いた瞬間。

 

 フッと意識を空白が支配した。

 

 真っ白に塗り潰されるってわけではなくて、その瞬間だけ意識が切り取られる感覚。

 

 それは意識が空白に切り取られた次の瞬間、つまり意識が戻った瞬間に状況証拠として得られる感覚と言える。

 

 ああ、人間っていうのはここまで素早く思考が回るものなのか。

 

 

「———俺達、魔術師の‥‥」

 

「おいおい大丈夫か村崎? やっぱり調子悪いんか、一限サボッて商店街にでも遊びに行くか? 動くマネキンとか巨大な赤ちゃん人形とか、焔髪灼眼の女の子に会えるかもしれねぇし」

 

「だからオレにはお前が何言ってんのかサッパリだっつうのに。‥‥別に良いよ、ちょっとした立ち眩みだと思う。それに一限は地理だし、あの先生怒ると怖いし」

 

 

 ぺたんぺたん、と使い古しの上履きが音を立てて階段を上っていく。今日は時間割を確認した限りではキツイ授業じゃない。

 地理の先生は怖いけど、授業自体はジーッと耐えてさえいれば自動(オート)で終わる類のものだ。ここに保健体育とか家裁とかの面倒っちい授業やバイトがあれば話は別だけど、大丈夫。

 ただ、今日は本当に耐えるだけの一日になりそうなのが、微妙に憂鬱だった。

 

 

 ———何故か加藤の言葉からこっち、妙にギクシャクする身体を引き摺って、

 

 オレは気怠いような、コントローラーの配線の接触が悪くなったラジコンのような、そんなぎこちない動きで教室へと向かう。

 

 普通に過ごすなら、嗚呼、こんな妙な気分を味わうことはないだろうさ。

 

 多分、フラッシュバックした厨二秒とか、あるいは学年末のクソ暇な時期だからこそ妙な考え事に囚われたとか、そういう結論で終わったはずだった。

 

 けど何故だろう、この妙な感覚は主観的なものだから上手に説明することは出来ないんだけど、

 

 

 この違和感だけは、看過しちゃいけないような、

 

 そんな妙な確信だけが、オレの胸の奥の奥の更に奥、

 

 よくよく自身に埋没しないと気づかない、そんな奥に、

 

 まるで焚き火やキャンプファイヤーの燃え残りのように、燻っているような、そんな気がした。

 

 なんか不透明な言い方で、悪いけどね‥‥。

 

 

 

 79th act Fin.

 

 

 

 

 




後半のside村崎ですが、友人たちの名前までは深い意味を持たせてるわけじゃありません。また設定もかなり適当です。
ただ一応は統一感といいますか、法則はあります。簡単なので、見つけたらご一報ください!ノシ


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設定集 『登場人物紹介』

これは『UBW〜倫敦魔術綺譚』に登場するキャラクターの設定集です。
基本的にオリキャラ達のものを掲載しています。
ネタバレを含みますので、できれば最新話まで読んでから読むことをお勧めします。
※挿絵は“明智あるく”氏と、東方鼬紀行文で著名な辰松氏に頂戴致しました。
あるく氏のpixiv URL = http://www.pixiv.net/member.php?id=1290035
辰松氏の“小説家になろう”マイページ = http://mypage.syosetu.com/73358/

10/18 紫遙の能力設定が高すぎたので下方修正。
    ガブローシュ追加。執事の真名関連追加。
 
11/14 ハドソン夫人追加。

11/16 ルードヴィヒ・フォン・デム・オストローデ追加

12/15 紫遙の魔眼関係追加

05/27 紫遙の情報編集。フォルテ、美遊、院長先生追加。

01/29 モンパルナスとジャン・プリュベール追加。
    コンラート・E・ヴィドヘルツル追加。
    現代の魔女追加。
 
06/10 紫遙の項目を微修正。
    ジョバンニ・デ・サンセバスティアーノ追加。
    村崎嗣郎追加。
    加藤信一郎追加。
    須藤龍勢、五島海追加。
    オクタヴィア・レイランド・フォン・ゼッケンドルフ追加。
 
07/22 グランテール追加。
    エヴァン・シュヴァンクマイエル追加。

1.8.6  こっそりあちこち修正


 

 

■ 蒼崎紫遙 {IMG416}{IMG696}

 

誕生日:不明

 

身長:175cm/体重:63kg

 

イメージカラー:薄紫

 

特技:準備の類。後始末の類。

 

趣味:クラシックやオペラ、ミュージカルの鑑賞

 

好きな物:平穏と騒動

 

苦手な物:孤独

 

天敵:コンラート・E・ヴィドヘルツル

 

 とある街で蒼崎姉妹に拾われた天涯孤独の存在。二人の義弟となり、現在は魔術師として時計塔に所属している。

 

 【略歴】

 

 橙子が隠れ棲んでいたとある街で雨の中、捨て犬のように傷だらけで転がっていた少年。橙子に拾われた後は義弟として英才(スパルタ)教育を受ける。

 魔術師としてちょっと仲直りした二人の義姉の元で様々な研鑽を積み、高校卒業と共に時計塔の鉱石学科へと問答無用で強制留学させられた。

 時計塔では入学後すぐにルヴィアと知り合い、諸々あって無二の親友となる。互いに互いを信頼しており、今では研究内容についても論議を交わすパートナーである。

 

 【人物】

 

 魔術の家系の出ではないにせよ一流の英才教育を施された一流の魔術師であるが、お人好しで人情に厚い青年。

 魔術師としての思考が一番最初に来るが、義姉に似たのか身内にはかなり甘い。

 士郎とは真逆のアプローチによって刷り込まれたポリシーとして、女性に優しくがモットー。というより綺麗な女性に弱い。

 ひきこもり気質だが、運動性能は並の上。手先は器用だが料理は苦手で、作れるのは炒飯か拉麺ぐらい。またある程度食事に関しては許容できる性格のため、最低限の保存食料で一週間工房に篭もりっきりといったこともザラ。

 この世界において知り得ないはずの知識を持ち、それらを想起させようとすると世界からの修正として“嫌がらせ”のような圧力を受ける。例えば意味もなく不安になったり、意味もなく何かに怯えたり。酷いものになると夜も眠れない。

 これは義姉達の長年の精神教育、訓練によって昔ほどの影響はなくなっているが、たまに再発する。

 

 【能力】

 

 魔術師としては準一流。戦闘向きの魔術師ではないために荒事には不向きだが、下の義姉に無理矢理連れ回されているために実戦経験はまぁまぁで、研究者としては既にそれなりの評価を得ている。

 基本的な魔術はある程度のレベルで発現できるが、自己暗示を丁寧に行う癖があり、詠唱が長めなのが欠点。魔術回路は左右あわせて十四本。属性は風、炎、氷の三天元素収束《トリニティ・エレメンツ》という比較的稀少なものだが、属性魔術はそれほど得意ではない。ちなみにメインは風。

 特性の異なる鉱石や金属を複数組み合わせて作り上げた魔術礼装、『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を荒事用に所持している。

 また式に手慰み代わりに手ほどきを受けたため、ナイフを用いた接近戦もある程度はこなす。

 

 鉱石学科に所属しているが、鉱石魔術を得意としているわけではない。その本来の研究は『魔眼の習得』である。魔術回路を形成する際に目の周辺に集中したがために、魔眼の習得に秀でている。

 本来魔術では再現できないはずの超能力も自らのものにしており、現在習得している魔眼は『歪曲』『魅了(暗示)』『幻覚』『炎焼』『束縛(重圧)』『透視(千里眼)』の六種類(九種類)。

 ただしどの魔眼も“研究用に所持しているだけ”であって大した威力はない。

 

 

 

■ 教授

 

 鉱石学科で教鞭をとる一級講師。

 座学や研究が本分であり、鉱石魔術に関する知識は超一流。ただし実技、というか戦闘が苦手で、溢れる才能に任せて魔弾の撃ち合いをするあくまとけものを教壇の陰で震えながら見ているのが大概。

 噂によると自分の机の引き出しにいつでも提出できるように辞表を用意してあるらしい。

 

 

■ 師範

 

 両儀流古流武術倫敦支部の道場主を務める武芸者。両儀の血筋ではない。息子と娘がいて齢既に40後半へと達するが、それを感じさせない程に若々しい。

 道場を立てた当初、式の紹介で紫遙を門下生にしようと勧誘していた。退魔とは何ら関係ない一般人ではあるが、下手な混血なら返り討ちに出来る程の実力があるらしい。

 現在は士郎を相手に稽古をつけているため、士郎の我流剣術にも両儀流が多分に混ざりつつある。

 

 

■ ジョージ・アラカワ

 

 倫敦の街でキャブの運転手をしている男性。ナイスミドルで気っ風の良いおっちゃん。セイバーさんの現地調達の友人第一号。

 その運転スキルは最早騎乗Aにも迫る勢い。倫敦の街のあらゆる路地裏を知り尽くし、リアルタイムで警察の警邏回路や信号機の色まで把握しているという。

 日系人で、日本に飲食店を経営している同名の従兄弟が一人と、秘密組織に所属している父方の親戚が一人いる。

 cv中●譲●。

 

 

■ オーギュスト

 

 エーデルフェルト別邸の執事長。士郎を自分の後継者にするべく日々厳しい指導を続けている。

 

 

■ ガブローシュ

 

 倫敦の街の小学校に通う少年。フランス系。セイバーさんの現地調達の友人第二号。

 倫敦中の悪ガキ共のリーダーで、主に下水道及びマンホールを利用した裏道によって何時でも何処にでも出没する。ちょっとセイバーに恋慕してるらしいが、まだ憧れと恋愛感情の区別がつかない子供。

 ちなみに父親は煙突掃除屋で、彼も将来は家業を継ぐ予定。人と握手をするのが好き。

 

 

■ ハドソン夫人

 

 倫敦遠坂邸がある地区の町内会長のようなことをやっている人。

 犬耳犬鼻犬尻尾が似合いそうな子犬系の若き未亡人で、世話焼き。倫敦で凜が唯一勝てない人。

 料理の腕はイギリス基準で達人。士郎に言わせれば「物足りない」。ただしお菓子作りは非常に上手で、特にスコーンとショートブレットがセイバーの大好物。

 

 

■ ルードヴィヒ・フォン・デム・オストローデ

 

 ドイツのハルツ地方、ブロッケン山周辺を領地とする古参の強力な死徒。

 以前戯れに作ってみた死都を蒼崎姉弟———主に青子———に殲滅され、自身も命からがら逃げ帰ったために二人を深く憎んでいる。

 死徒としての特殊能力は『融合』。外物に対する肉体や魂の拒絶反応が極度に低い。隆々とした体格、非常に強い膂力、優れた復元呪詛なども。

 腕に武器を埋め込んでの接近戦を好み、また他者を生きたまま取り込んで命のストックとすることができる。ただし容量に限りがあり、一度に数人しか取り込めない。

 相性はルドルフ。《死なずのルードヴィヒ》で通っているために本名が知れたのは第三十七話が初めてだった。

 

 

■ フォルテ

 

 魔術協会の封印指定の執行者の部隊に所属する若き才女。風を使った魔術を得意とし、特に戦闘に関しては同期の中でも群を抜く才能を発揮する。

 それなりに古い家系の出ではあったが、受け継がれた魔術礼装が戦闘用のものであったことから研究する魔術もそちらに偏り、結果として執行部隊に所属することになってしまった。が、本人はあまり気にしていない。

 基本的に女らしからぬ明瞭簡潔な性格ではあるのだが、それでありながら日常生活では非常に細かい部分に気を遣う神経質な一面もあるので、バゼットとは上手く噛み合ってしまっている。

 というか噛み合ってしまったのが運の尽きで、以後はトラブルメイカー気質のバゼットとことあるごとにペアを組まされることになり、また彼女たちが親しくするようになるためには更に十話程度を要するのだが‥‥割愛。

 二つ名は“風使いのフォルテ”または“素晴らしきフォルテ”。

 青味がかった銀の長髪ロングの(男らしい性格に反して)ゆるふわ愛され系の美人で、随所に軽装甲を施した戦闘礼装(バトルドレス)を纏う。

  

 

■ 美遊・エーデルフェルト

 

 冬木市は新都の丘の上にひっそりと建つ孤児院に住む少女。理由は不明ながらも天涯孤独の身であり、普段は孤児院の名前を名字として名乗っていた。

 文武両道の言葉を体現したかのような存在。学業は義務教育レベルを優に越え、基礎教科以外の教養も並大抵の一般人のレベルを超えている上に、身体能力も同年代では最高クラス。

 ルヴィアと紫遙、バゼットがゼルレッチの任務を受けて向かった冬木で夜中に遭遇。夜中にトラックに轢かれたところをサファイアと契約することで一命を取り留める。以後はルヴィアに拾われ、エーデルフェルトの性を名乗るようになった。

 無表情がデフォルトではあるが、心を許した相手と対面している際には結構な百面相。

 

 

■ 院長先生

 

 美遊が居住している孤児院の管理者。預かっている子供達の教育にも非常に熱心で冬木市の住人達からは人格者として認知されており、彼が毎週日曜日に行っている講演には毎週かなりの聴講者が訪れる。

 常に笑顔を絶やさぬ人物で子供達にも優しく、慕われてはいるが、料理の嗜好が発達途上の子供達に与えるには不的確に過ぎる程に中華で外道で刺激的であり、そこだけが唯一の欠点として子供達からは諦めの視線を向けられていた。

 彼は美遊のことを非常に買っていたが、それと同時に他の子供達とは違った接し方もしていて、そこが美遊の一見複雑な性格を形作る原因の一つともなっている。

 ルヴィアが美遊を引き取る際には少なからぬ額を孤児院への寄付金として提示されたのだが、その全てを一切の躊躇無く断ったことも暫く後に知られ、また冬木市の住人達からの尊敬を集めることとなる。

 cv●田●治

 

 

■ モンパルナスとジャン・プリュベール

 

 鉱石学科の学生の一人。魔術師としては中流の家系の出身者であり、実力は中の下。こう聞くと残念な魔術師に聞こえるかもしれないが、これでも時計塔の学生としては並である。

 紫遙が留守の隙を突いて工房へと忍び込もうとしたが、失敗。秩序の沼に捕らわれて寂しく救出を待っていた。

 ちょっとばかし他人の研究におんぶにだっこしようとしただけの普通の学生。結局のところ紫遙の本来の研究は鉱石魔術ではないので、骨折り損の儲け無しだったが。

 

 

■ コンラート・E・ヴィドヘルツル

 

誕生日:不明

 

身長:180cm/体重:48kg

 

イメージカラー:くすんだ金色

 

特技:基本的に何でも出来る

 

好きな物:探求

 

苦手な物:根源

 

天敵:特になし

 

 冬木の地に『クラスカード』という大迷惑な魔術具をばら撒いた張本人。

 根源(アカシックレコード)以上の存在を求めて冬木で実験を行い、結果として紫遙を見出して拉致しようと企み、恋に落ちる(←ココ重要)

 既に齢は百を超えるが若々しく、くすんだ金髪の青年に見える。眉目秀麗であるが、全体的に卑屈で傲慢な表情をしているために不気味な雰囲気を湛えている。

 

 【略歴】

 

 先代死徒二十七祖第七位アインナッシュの系譜に属する魔術師で、歴代最高の天才。

 魔術師として師である父を超えるまでに成長した若年期に出奔。以後、両親が死んで後継者がコンラートのみになるまで一切連絡を絶ち音信不通状態になっていた。

 最終的にヴィドヘルツルの領土の管理の補佐をしていた魔術師に発見され、管理者(セカンドオーナー)を拝命するが特に何かするというわけではなく、基本的に管理は補佐の魔術師に任せている。

 以前にイタリアの地方都市ポンペイにて魔術的な実験を行い、それを理由に封印指定となった。が、一霊地の管理者(セカンドオーナー)であったこと、そして血統や純粋な資質によってのみ再現できる術式というわけではなかったために執行は凍結されていた。

 

 【人物】

 

 歴代の尽くを凌ぐ魔術回路の質と数。決して驕ることない克己心と向上心。そして深い観察力、洞察力など魔術師として必要なものを殆ど備えている。

 冷静に客観的に魔術師的に考えて、自身こそが最高の魔術師であるとみなしており、その最高の魔術師である自身がどうしても辿り着けなかった根源(アカシックレコード)を憎み、最終的に見限った。

 その経緯から根源(アカシックレコード)以上の存在を確信し、ありとあらゆる手段と実験によって追い求めている。

 何十年もの長きにわたり追い求めた根源以上の存在への手がかりである紫遙に出会って恋が芽生えたが、それは彼自身に恋愛感というものが男女のものという認識がないため。恋という感情の定義だけが知識としてあり、結果として同姓である紫遙に恋愛感情を抱いた。

 

 【能力】

 

 ヴィドヘルツル家はアインナッシュの家系の傍流であるが、その精神干渉の技術は本家亡き今となっては最高峰。

 その中でもコンラートのポテンシャルは突然変異と言っても過言ではなく、単純な精神干渉の力こそ先代アインナッシュに劣るが、純粋な魔術師としての力量は凌駕する。

 基盤となる技術である精神干渉のみならず、およそ技術で補えるありとあらゆる魔術を習得しており、その分野の超一流には及ばずとも一流レベルを優に超えている

 

 ただしコンラートの性能(スペック)とは魔術師としてのものであり、戦闘者としては決して上位のものではない。単純に殴り合うなら士郎や凜に辛勝できるレベル。

 故に恐るべきは、魔術師として最高峰のレベルにあるために採れる手段が尋常でない程に豊富であること。ただし彼自身が戦闘者でないために発想の応用力に欠けるのが弱点。

 封印指定に至った疑似固有結界『メモリー』については用語集を参照。

 

 

■ 現代の魔女

 

 紫遙の友人であり、呪詛科(ジグマリエ)で薬草学の講師として教鞭をとる生粋の魔女。魔術師とは異なり、魔術師に軽蔑される存在でありながら魔術師を凌駕する知識を持つ本物。時計塔に在籍しながら忌み嫌われ、存在から目を逸らされる日本人。

 凜達が来る前から長期休暇の期間だけ時計塔に来ていた。紫遙と知り合ったのはその時で、以来こまめに文通などを交わし、共同研究なども行っている。

 現在は高校を卒業して正式に時計塔へとやって来たが、基本的には自分の工房に閉じこもって講義以外では滅多に出てこない。実際には出てきているのだが、時計塔の中では全く注目されていない存在なので誰も気にせず、工房に籠もりっぱなしという認識になっている。

 飄々とした眼鏡っ子であり、基本的に他者には無関心だが、魔女としての性質から他者からの求めには応じる。特に友人にはかなり甘いところがあり、紫遙からの頼みに応えて致死性の毒を用意した。

 ちなみに今期の特待生について思うところはあるらしいが、紫遙に対しては黙秘を貫いている。紫遙自身も彼女の出身地等を知らないからか特に勘ぐってはいない。

 

 

■ ジョバンニ・デ・サンセバスティアーノ

 

 ポンペイ教会に叙任されていた司祭。また、ポンペイの管理者(セカンドオーナー)でもある。

 代行者でありながら魔術師で、バチカンに程近いポンペイで魔術協会と聖堂協会との橋渡し役として活動していた。

 現在は齢六十を超え七十に届くほどの老齢であるが、ポンペイを継いで隠居同然の身になるまでは優秀な代行者として異端狩りに勤しんでいた。

 彼の一族は代々、教会と協会の双方に所属し、ポンペイの町を守っていた。彼もその例に漏れず、生まれ故郷であるポンペイを愛し、命に代えても守ろうと誓っていた。

 が、ある日フラリと訪れたヴィドヘルツルによる魔術で街の住民の一部が命を落とし、彼もまた町を守るためにヴィドヘルツルと対峙するが、あえなく敗れることになる。

 ちなみに苗字を名乗らなかったのは、血統を重視するわけではない代行者としての色が強かったから。今回はヴィドヘルツル及び魔術協会への牽制の意味もあった。

 

 

■ 村崎嗣郎

 

 東京郊外に住んでいる男子高校生。

 少年漫画とRPGなどのゲームが好きで、クラシックやオペラ、ミュージカルの鑑賞が趣味という微妙に渋い趣味を持った帰宅部員。

 ちなみに名前の由来は、『人と人との仲を嗣ぐ良き友人であるように』。

 人当りが良くて世話焼きだが積極的に他人との交流を試みるタイプではないので、少ないながらも堅実な友人環境の中にいる。なお家族仲は良好で、ごくごく平凡ながらも楽しい毎日を過ごしていた。

 筋金入りのヲタクである友人から、何を勘違いしたのか勧められるままにPS2版のFateを借りてプレイしてしまった。このまま何事もなく大学生になっていたら、間違いなく順調に道を踏み外したと思われる。

 ただし現段階ではサブカルチャーについて深く踏み込んでいない、どこにでもいる少し漫画やアニメ、ゲームが好きなだけのお人よしな高校生。

 

 

■ 加藤信一郎

 

 村崎嗣郎の中学校以来の親友。柔道部所属、柔道二段。

 ガタイの良い武道家でありながら筋金入りのヲタクであり、一般人には理解出来ないだろう難解な例え話やフレーズを時たま口にしては『気にすんな』と言うのが癖である。エロゲ、ギャルゲ、格ゲー、落ちゲー、STG、FPS、ラノベ漫画アニメ何でもござれのヲタクの代名詞。

 一方で非常に陽気でリーダーシップもあり、学内外問わず非常に顔が広いクラスの人気者。『自分一人で出来ないことは皆でやればいいじゃない』とばかりに課題の貸し借りの間を持ったり、自分も貸して貰ったりと活躍している。

 なお、背後から友人に近寄っては裸絞めを見舞うという悪癖がある。

 

 

■ 須藤龍勢《すどう りゅうせい》、五島海《いしま うみ》

 

 嗣郎のクラスメイト。グループは違うが、加藤を通じての知り合いである。

 須藤は生徒会に所属している秀才で、五島は加藤と同じくお調子者でクラスの人気者。

 

 

 

 ■ オクタヴィア・レイランド・フォン・ゼッケンドルフ(未登場)

 

 ノーリッジ学生寮にて受付嬢をしているドイツ人の少女。何故かドイツ人の職員が多い気がするけど、きっと気のせいだろう。

 受付嬢をしてはいるが武闘派の魔術師の一人で、『運命の車輪』という魔術礼装を使った戦闘を得意とする。故に日々ことあるごとに騒ぎを起こす学生たちの制圧に忙しい。

 紫遙とはクラシックを愛好する同志として、レコードの貸し借りを行う仲。

 

 

 ■ グランテール

 

 鉱石学科所属の学生。年長の部類に入り、酒と煙草と釣りをこよなく愛する詩人。

 紫遙の数少ない友人の一人であり、よく一緒にパブで飲み交わす仲。

 

 

 ■ エヴァン・シュヴァンクマイエル

 

 |降霊学科《ユリフィス〉所属の学生。

 ゴーレム作成を得意とする魔術師であり、自らが内部に搭乗する珍しいゴーレムを扱う。またそれでよく廊下を爆走しており、騒動の種ともなっている。

 チェコ出身で、かなりの名家。鉱石学科には聴講に来ている。

 

 



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第七十九話 『黒い杯の聖母』

Twitterではssレビューなど呟いております。IDは@42908です!
またレビューまとめblogも開いております。こちらも併せて、よろしければどうぞ!


 

 side Siel

 

 

 

 

 目を焼くような閃光を、予期していなかったわけではありません。

 とはいえあの状況で閃光に備えて目を閉じることが、最善とも私は思えませんでした。目を閉じたその間に、何が起きるとも分かりませんからね。

 視界が閉ざされていてもある程度の気配は分かりますが、やはり視覚によって齎されるものは大きい。要は閃光の最中と、そのあと、どちらに重きを置くかという一瞬の判断でした。

 

 

「‥‥ここは、何処ですか?」

 

 

 結果として閃光の中でニヤニヤと笑うヴィドヘルツルを直視し続けた私はモロに目を焼かれ、一時的に視覚を奪われてしまったわけです。

 まぁもっとも、単純に閃光によるダメージならば数秒とかからずにリカバリー出来るわけで、あまり気負う必要もないんですけどね。蛇《ロア》が消滅した今でも、私の体は元通りというわけにはいきませんでしたから。

 確かに不死性は消失しています。しかし頑丈な体、常人よりは遥かに勝る自己治癒能力、また、長い代行者としての経験は消えさりはしませんでした。

 故にこそ、私はかろうじて未だに埋葬機関の第七位という立ち位置を保持できているのかもしれません。

 元々この立ち位置は私の不死性に由るものですからね。

 

 

「凛さんに‥‥セイバー、貴女たちだけですか? 他のみなさんは?」

 

「‥‥姿が見えませんね。本当に私たち三人だけみたいですよ」

 

「まさかとは思ったけど、本当に空間転移とはね。っとに非常識なことやってくれるわ、あの変態!」

 

 

 閃光から視力が戻った視界に映ったのは、真っ暗な世界。光源に値するものが何もなく、当然のことながら光がなければ人はモノを身るのが困難になってしまう。

 代行者として暗視などの訓練も受けてはいますが、ここまで完全に光源が無い場所というのは初めてですね。まぁ見えないこともないですが、やはり辛い。

 

 

「もうシエルが言ってたけど、此処は何処よ? セイバー、何か分かる?」

 

「‥‥どうやら地下にある、洞窟のような場所のようですね。一カ所に向かって空気が流れています」

 

 

 英霊であるセイバーの身体能力、そして直感ならば暗い場所でもある程度は一帯を把握できる。彼女の言葉によると、どうやら此処は洞窟らしいですね。

 確かに嗅覚を利かせると、空気の流通が十分でない場所特有の湿った匂いが鼻につきます。人の出入りもほとんどないのでしょう。足元を探れば人が入った様子のない、自然そのままの地面が広がっているようです。

 

 

「洞窟‥‥? ヴィドヘルツルの領地の何処か、かしら? 城の地下だとしても、随分と深いみたいね。地上まで魔力の探査が届かないし、規格外な空間転移を簡単にやってくれるもんだわ」

 

「確かに。なるほど、この類の魔術には私の対魔力も働かないみたいですね。敵性魔術と認識できないからでしょうか?」

 

「モノによるみたいね。暫く気にしてなかったから注意が必要だわ。ここぞという時に過信すると命とりよ、慎重にいきましょう」

 

 

 周囲は細長い通路のようになっているらしく、セイバーのいう通り、一方向から流入してきた空気が反対方向へと抜けています。

 どうやら入口と出口が別々にあるのかもしれませんね。あるいは、空気溜りのような場所があるという可能性もあるでしょう。

  

 

「‥‥ところで凛、どうしますか? 少なくとも周囲に他のメンバーはいませんし、ここが何処かも不明です。動かないというのも手の一つかもしれませんが———」

 

「当然、歩くわ。空気が入って来る方が入口とするなら、出ていく方を目指して行くわよ。仮に城に通じてるとしたら、出口の方でしょ」

 

「裏口や勝手口だったらどうするのですか、凛さん?」

 

「当然、もう一回表に回って城に入るに決まってるじゃない。とにかく私にこんな無様を晒してくれた奴を許す気はないわ。蒼崎君のことを抜きにしても、ね」

 

 

 鼻息も荒く、とても淑女らしからぬ大股で凛さんは奥へと歩を進めます。城から続く洞窟、という可能性も確かに高いですが、まぁ此処まで来たら必要以上に急ぐ意味もないでしょうね。

 蒼崎君は早急に助け出さなければならない。しかし可及的速やかに彼に命の危険が迫っている、というわけでもないのも事実です。

 何しろ理由は分かりませんが、彼の研究において蒼崎君はかなり重要な役割を担っているようです。そんな彼を、命の危険に障るような状況に追い込むとは思えません。

 

 

「‥‥それにしても広いわね。本当に城の地下なのかしら? 上の方に行く道でもあれば地上も近くなって魔力も通るんだけど」

 

「‥‥段々と下へ下へと降りている気もしますね。凛、本当にこちらの道を選んで正解だったのですか?」

 

「だ、だって仕方ないじゃない、安易に入口の方に行ったりしたら待ち伏せされてるかもしれないし‥‥」

 

「まぁ確かに。しかし凛さん、よろしければ私の意見も聞いていただけますか?」

 

「え?」

 

 

 注意深く辺りを見回し、当面の危険が無いことを確認してから立ち止まる。

 もうかれこれ十分ぐらいはペースを落とさずに歩き続けていますからね。途中で曲り道のような道もいくつか有った気がしますが、これだけの洞窟では方向感覚も狂うというもの。

 かなり意識してはいますが、それでもそろそろ自分がどの方角を向いて歩いているのかさっぱり分からなくなってきてしまっていました。

 

 

「‥‥霊脈にはそれぞれ固有周波数のように、魔力の波長があるのは当然ご存じですね?」

 

「何よバカにしてるの? 私だってひとつの霊地の管理者(セカンドオーナー)なんだから、そのぐらいは当然わかるに決まってるじゃない。

 魔力、っていう大雑把な括りの中なら同じでも、私たち魔術師が解析するならそれ以上を求められるわ。一つ一つの霊地ごとに固有の魔力の波長がある。それを読み取れなかったら他の土地のとはいえ管理者(セカンドオーナー)失格よ」

 

「成程。では凛さん、今の言葉に従って魔力の波長を探ってみてください。地表まで魔力による探査が届かなくとも、地底と思われるこの場所ならば、むしろ地表よりも簡単に読み取れると思うのですが」

 

「‥‥確かに。ちょっと待ってて、他人様(よそさま)の霊地だと少し勝手が違うけど、やってみるわ」

 

 

 地面に片膝をついた凛さんが、ほぼ岩盤と言える大地に掌を当てて魔力を流します。

 物質を強化する時のように魔力で構成材質を補強するわけでもなく、人間を操るときのように精神に魔力で干渉するわけでもありません。

 敵対因子を持たない魔力を流し込み、それに対して霊地の大地と如何に干渉し合うかを測定するのです。それにより、自分の魔力の波長から逆算して霊地の波長も分かるということですね。

 いわばアクティブソナーと言うべきですか。しかも流石は管理者(セカンドマスター)、洗練されている。このようなやり方を試す機会に恵まれた魔術師は少ないですから。

 

 

「‥‥シエル、これは一体どういうことよ」

 

「気づきましたか、凛さん。ええ、私たちが今いる場所はヴィドヘルツルの領地などではありません。何処かまでは分かりませんが、並大抵の離れ具合ではない」

 

「そんなことが言いたいんじゃないわ! もっと事態は深刻よ、だってここは‥‥———ッ?!」

 

 

 ゾクリ、と背筋に怖気が疾る。

 思わず三人が三人とも視線を放ったのは、私たちが目指していた洞窟の奥。

 完全な暗黒に閉ざされた、まったく未知の目的地。そこから感じる、今までの障害で唯の一度たりとも感じたことがない、それ単体で殺傷力を持っていそうなぐらい凶悪な、かつ膨大な魔力の噴出。

 

 

「これは‥‥ッ?!」

 

「セイバー! シエル! 走るわよ!」

 

 

 今まで凶悪な死徒には幾らでも遭遇しましたし、戦いました。そしてその殆どを私は打倒してきました。

 しかし決して浅くない私の代行者としての経験の中でも、単純に魔力の波動というべき感覚のみで、ここまで恐怖を植え付けるものは記憶にありません。

 そして同時に、ここまで膨大な魔力の塊に出会ったことも、ありません。

 

 

「どうしたんですか凛さん、落ち着いて下さい?! こんな凶悪な魔力、先ずは様子を見ないと———」

 

「そうも言ってられないのよシエル! 確かにここはヴィドヘルツルの領地じゃないけど‥‥それだけじゃないわ! もっと最悪よ、信じられないっ!」

 

 

 一瞬たりとも迷わず悍《おぞ》ましい魔力の塊へと駆け出した凛さんを追って、私とセイバーも走り出しました。

 何処かも分からない、終わりも分からない洞窟の中に突如現れた、生物として魔術師として恐怖を抱かずにはいられない膨大で凶悪な魔力塊。

 そこを何の躊躇もなく目指すというのは、凛さんとしてはあまりにも短絡的。少なくとも以前に任務をともにした時に受けた印象からは想像も出来ない短慮でしょう。

 

 

「凛、走りながらで説明できますか?!」

 

「勿論よ! ホント、あの魔術師(へんたい)トンデモないことしてくれるわっ!」

 

 

 ですが何時になく焦った様子の凜さんからは、そのような短慮の色は見受けられません。

 むしろ切迫していることから、事態をほぼ正確に掴んでいるとも言えます。自慢ではありませんが代行者として彼女を遥かに凌ぐ経験を持つ、私よりも正確に。

 

 

「‥‥確かにシエルの言う通り、ここはさっきまで私達がいたはずのヴィドヘルツルの領地じゃないわ。波長が全然違ってる。それこそ欠片も一致しないぐらいにね」

 

「では一体‥‥?」

 

 

 もはや足下を気にする余裕もなく、走り続けた先。

 若干下り気味だった洞窟の傾斜が徐々に並行に近くなり、そして気づけば、真っ暗な道の先に仄かに光何かが見えます。

 

 真っ暗な洞窟の中に光源。‥‥あれは出口でしょうか?

 いえ、あの凶悪な魔力の波動は今では気を抜けば肌が泡立つぐらいの近さに迫ってきています。おそらくは、この先に根本が存在しているはず。

 

 

「‥‥ここは、冬木よ」

 

「え?」

 

「だから、ここは間違いなく冬木なのよ。‥‥私も魔力の波長を計測してみて心臓が止まるかと思ったわ。信じられないけど、でも管理者(セカンドオーナー)である私が冬木の霊脈の計測を間違えるわけはない。

 どういう理屈でこうなってるのかは、さっぱり分からないわ。けど此処は間違いなく冬木なの。ドイツから、どうやって此処まで‥‥!」

 

 

 凜さんの言葉に、セイバー共々呆然と立ちつくしてしまいます。

 彼女の言葉が本当なら、私達はヴィドヘルツルによって何千キロメートルも転移させられたということになるわけですから。

 

 純粋な空間転移は魔法だと言われていますが、転移魔術の類は意外にも数多く存在しています。

 例えば影を使った転移。例えば水を使った転移。他にも低次元や高次元を経由した転移など種類は様々で、また難易度も天井知らずに跳ね上がりはしますが、不可能ではありません。

 とはいえそれも、距離によって不可能に近いレベルに変化します。数キロメートルならまだ可能性が欠片でも残っていますが、数千キロの転移など、考えるのも愚かしい。

 

 

「‥‥不可能です。あり得ません」

 

「シエル?」

 

「凜さん、確かに貴女の観測に間違いはないと思います。しかし理論的に考えて、いくら相手が封印指定の魔術師であったとしても過程として有り得ない話です。

 貴女に説教するのは全く持っておかしなことだとは分かっていますが、魔術にも限界がありますよ。ドイツから冬木へと一瞬で転移、いえ、時間に関係なく、この距離を転移するのは不可能だ」

 

「‥‥でも、実際にここは冬木の霊脈の波長を持っている。これの説明は貴女、つくのかしら?」

 

「それは‥‥ッ」

 

 

 ともすれば馬鹿にしているかもしれない調子の言葉に対して、怒る様子もなく真剣な瞳の凜さんが私を見つめてくる。

 私は、それに何かを返すことが出来ませんでした。私の言葉も紛れもない正論ではあるのですが、彼女の言葉もまた、同じく正論。何も反論出来ない類のものです。

 

 

「貴女の言いたいことも分かるわ、シエル。確かに魔術師として、ここが冬木だって考えるのは非論理的なことだと思う。いくらそれが、主観的とはいえ正確な観測によって導かれた推論だとしてもね」

 

 

 そこまで言って凜さんは、ギリ、と歯を食いしばって洞窟の奥の方を睨み付ける。

 まさにそこにある魔力の波動は、一刻たりとも、その凶悪さを緩めることなく私たちの目前に脅威として存在していました。

 

 

「でもね、逆に此処が冬木だっていう可能性がある以上、ここには一つの重大な問題が存在しているわ。管理者(セカンドオーナー)である私にとって見逃すわけにはいかない問題がね」

 

管理者(セカンドオーナー)である、貴女‥‥? む、成る程、そういうことですか」

 

 

 厳しい視線の先にある洞窟の出口を確認し、私はようやく合点がいって自分も表情を引き締めます。

 理屈云々を語るのは、たしかに大事なこと。しかし目の前にこのような凶悪な魔力を放つ何者かが存在しているという事実がある以上は‥‥。

 

 

「そう、私の管理地にこんな凶悪な存在がいるのなら、私は先ず最初に管理者(セカンドオーナー)として、自分の管理地に存在している脅威を排除することを第一に考えなければいけないのよ」

 

 

 蒼崎君の救出、という目的で私たちはヴィドヘルツルの領地へとやってきました。

 しかしこうして何故か、八千キロもの転移に巻き込まれ、遠く日本は冬木へとやって来ている。そして、確定事項ではないにせよ、その冬木の地と思しき場所に未だかつて遭遇したことのない凶悪な魔力と遭遇しているのです。

 

 現状、基本的にやるべきことは二つ。

 此処が本当は何処なのかを把握すること。そして蒼崎君の捜索も兼ねて、ヴィドヘルツルの居城へと戻ること。

 この選択肢において実は、目の前の魔力の塊はさほど重要ではないと私は考えます。正直、これほどまでの脅威に正面からぶち当たるのは得策ではないでしょう。

 叶うことなら無視して反対側の探索へと移りたいところです。さらに可能なら、こちら側の洞窟は潰してしまいたいぐらいです。君子危うきに近寄らず、というのは何処の諺でしたか。

 

 

「‥‥つまり征くわけですか、凛さん」

 

「ええ、これだけの脅威を放置しておいたら管理者(セカンドオーナー)失格云々以前の問題よ。蒼崎君には悪いけど、こちらを先に処分させてもらうわ。いいわね、セイバー?」

 

「マスターの意志であれば、サーヴァントたる私は従うより他にありません。‥‥何より私も騎士として、このような邪悪な存在を見逃すわけにはいきませんからね」

 

「ありがとう、セイバー。‥‥シエル、貴女はどうする?」

 

 

 既に戦闘態勢を整えていたセイバーと、凛さんが私の方を見る。

 その顔には咎めるような色も、強要するような色もない。ただ、意見を求めていました。

 おそらくココで私が、目前の脅威と戦うのを忌避して戻ろうと言えば、私だけで戻ることになるでしょう。そして凛さん達は、残念に思いながらもそれを許してくれるでしょう。

 

 正直、戦いは避けたい。しかし乗りかかった船といえば、その通り。

 冷徹に安全性を考えるなら不確定な戦闘はするべきではないのですが、まぁここで降りるというのも仁義に悖るでしょう。

 

 

「‥‥仕方ありませんね。何の因果か折角こうして貴女達について着たわけですし、御伴しますよ。これほどの悍ましさ、セイバーと凛さんの二人でも何か間違いがあるとも限りませんし」

 

「ありがとう、悪いわねシエル。大したお礼も出来ないけど、今度一緒に食事でもどうかしら?」

 

「そうですね、その時は是非ロンドン以外でお願いします。あそこは英国清教の王立国教騎士団が幅を利かせていますから、聖堂教会の代行者である私は肩身が狭いので」

 

「約束するわ、任せて頂戴」

 

 

 鮮やかに、むしろ男前な笑顔の凛さんに懐の黒鍵の数を確かめます。

 ヴィドヘルツルの魔術によって生まれて出てきた兵士たちを相手にするので大分使ってしましましたが、それなり以上の超難敵だと仮定しても、一戦やらかす分だけは残っていますね。

 

 

「やりましょう、凛さん。元より覚悟は出来ています。代行者ですからね、腐っても」

 

「埋葬機関の第七位に代行者語られたら、私の兄弟子だった似非神父なんて端にもひっかからないわよ。‥‥頼もしいわ。頼りにしてるわよ」

 

 

 勿論、危なくなったら凜さんには申し訳ないけど撤退させて頂くつもりではあります。それは凜さんもセイバーも、言葉にしなくても十分に理解してくれていることでしょう。

 ですが、それでも当然のようにベストを尽くすつもりですよ。さぁ、行きましょうか。

 

 

「セイバー、貴女が切り込み役よ。悪いけど攻性魔術を確認したら盾になって頂戴ね」

 

「了解しました、マスター」

 

「シエル、後ろから黒鍵で援護を頼むわ。もしも撤退することになったらセイバーと一を交代して殿よ。相手が何だかは分からないけど、出来れば距離を取らせるように牽制しながらね」

 

「任せて下さい、凜さん」

 

「よし、二人とも心の準備出来た? 行くわよ、‥‥いち、にぃ、さんっ!」

 

 

 洞窟の先、ちょうど人が数人通り抜けられるぐらいの空洞に三人で順番に突っ込んで行く。

 凜さんの指令の通り、先陣を切るのは対魔力の高いセイバー。例え魔術による攻撃が来ても彼女なら殆どを無効化でき、物理攻撃も剣の英霊である彼女ならば殆どを捌けるはずです。

 主に遠距離攻撃を得意とする私の黒鍵なら、前衛の隙間を縫うように敵を狙うことも出来ますからね。この編成は悪くありません。

 

 

「‥‥これは、空洞?」

 

「嘘、冬木の地下にこんな空洞がっ?!」

 

「えぇ、私も驚きました。広い‥‥ですね、野球ドームぐらいはあるのではないですか‥‥?」

 

「なんと禍々しい魔力‥‥。凜、シエル、二人とも気を抜かないで下さい、ここは紛れもない魔窟です。気を抜くだけで精神も犯されかねません」

 

 

 一歩入ったその場所は、不気味を通り越して恐怖を感じる程に凶悪な魔力に満たされた、大空洞。

 地下にこのように巨大な空洞があるものなのでしょうか? 見上げれば首が痛くなる程に天井は高く、走っても走っても終わりが無いかのように奥行きもあります。

 ‥‥いえ、奥の方には何か塔のような構造物が———ぐ、なんですか、あれは‥‥!!

 

 

「凜さん、セイバー、あれは一体‥‥?!」

 

「知らない、あんなもの私は知らないわよっ?! あんな凶悪な魔力の塊があれば、核廃棄物並の深度でも無けりゃ地上からだって気がつかないはずないっ!」

 

 

 遠くに見える、塔。禍々しい形をしたそれに相対すると、先程まで洞窟で感じていた悪寒なんてものは笑ってしまうぐらい拍子抜けのレベルだったのだと思い知る。

 こと人間が感じることの出来る嫌悪感、恐怖、そういったものを凝縮した感情が、目の前に存在しているのですから。

 

 

「———あら、随分と遅かったんですね、皆さん」

 

「‥‥ッ?!」

 

 

 ゾクリ、今までで一番の悪寒が背筋を遅い、私は即座に反転すると二メートル以上も勢いよくバックステップしました。

 横を見ると、セイバーが凜さんを抱えて私よりも更に遠くへと後退、一瞬の内に私の横へと戻ってきています。私でも、かろうじて目で追える程の速さ。私を気遣ってくれているわけですか。クッ、今回は相方が英霊とはいえ耄碌したものです。

 

 

「‥‥嘘、どういうこと」

 

 

 後方で凜さんが呆然と呟きます。そしてそれは、油断なく構えていた私とセイバーも一緒でした。

 そこには現実感というものがありませんでした。むしろ、夢だと思ってしまったと言っても過言ではありません。

 

 全く分からないままに、いつの間にか背後に出現していたのは、一人の少女。

 雪よりも真っ白な、同時にくすんだ白い髪。身体にフィットしたドレスは黒い生地に血のように赤いラインが入ったもので、臑から下は素足です。

 艶めかしさ、怪しさ、そういったものを強調した服装ですが、それよりも不気味さ、恐ろしさ、そういったようなものが際だっていました。

 

 しかし私達にとって本当に衝撃的だったのは、

 それは彼女の恐ろしげな服装でも、私やセイバーが気づかぬ内に気配も無く背後に出現したからでも、

 どれでもありません。そんなことは、些事でした。

 

 

「———桜、アンタどうしてここに。他のみんなは何処に行ったのよ、それにその恰好、魔力‥‥ッ!」

 

「どうして? フフ、どうしてなんでしょうね? 些細なことですよ、そんなことは。私が今こうしてここにいることに、原因も目的もありません」

 

 

 目の前に立っていたのは、ほんの一時間弱ほど前には一緒にいた戦友。

 凜さんと衛宮君の後輩であり、蟲使い、かつ影使いという異質な魔術師にして、冬木の御三家と呼ばれるマキリの当主。穏やかな笑みと、自信無げながらもたくましいはにかみ、微笑みが似合う大和撫子。

 そんな優しい女性であるはずの彼女が、何故か私達の目の前で妖艶に嗤っていました。

 

 

「私は“今、ここにいるだけ”なんですよ。

 何かの理由や原因があって、それを経て此処に居るわけではありません。何かを成したくて、何かを欲してここにいるわけでもありません。私はただ、今この瞬間に在る存在。だから、“姉さん”、その質問は的外れですね」

 

「さ、くら‥‥?!」

 

「あら、どうしたんですか“姉さん”? そんなに驚いた顔をして、おかしな“姉さん”。私と“姉さん”は血を分けた実の姉妹じゃないですか。ああ、おかしな“姉さん”だ、おかしいなぁ、どうしてそんなに驚いてるのかなぁ?」

 

 

 “姉さん”?

 桜さんは、間桐桜でしょう? 間桐にして、マキリの当主。

 それが何故、遠坂の当主である凜さんを、姉と呼ぶ?

 

 

「ああそうか、姉さんは私のことなんて知らないんですよね。知らない振りを、したいんですよね。

 遠坂から間桐に養子にやられた私が、一人でどんな思いをしていたか、姉さんには分からないんですよね。いえ、分かってて無視したのかな? ねぇ、どうなんですか? ねぇ、姉さん?」

 

「‥‥‥‥ッ?!!!」

 

「くっ、落ち着きなさい凜! 冷静になるんです、今の貴女は錯乱している!

 ‥‥貴様、これ以上凜を惑わせるな! 貴様はサクラでは無いな、事情は分からないが、正体を現せ、化生がっ!!」

 

 

 剣の騎士の一喝が、混乱しかけた凜さんを正気づける。

 あと一歩で完全に動揺に支配されそうだった空気が、その一喝だけで、落ち着きと緊張を取り戻します。

 もちろん不明なことばかりな事態に戸惑っていたのは私とて同じ、一気に戦場の緊張を胸に黒鍵を取り出し、握りしめました。

 

 

「あらセイバーさん、私が他の誰に見えると言うんですか? 私は間違いなく間桐桜ですよ。今この場において、私以外に“間桐桜”はありえません」

 

「そういうことを言う者が、偽物でなくて何だというのか。他人の姿を騙るのならば、まずは対象とする人物をよく観察することだな、化生よ。貴様は桜に似ても似つかない」

 

「‥‥あら、そうでしょうか? でもセイバーさん、それでも私は“間桐桜”なんですよ?

 姉さんなら分かってくれるはずなのになぁ、ねぇ姉さん? 私は貴女の妹の、間桐桜ですよね? もう遠坂桜ではないけれど、間違いなく間桐桜ですよね?」

 

 

 妖艶な雰囲気に全く釣り合わない無邪気な微笑みを浮かべながら、

 『間桐桜によく似たナニカ』は私とセイバーの背後で緊迫した雰囲気を、セイバーのおかげで外見上は変わりないながらも、きっと精神がガタガタ震えているかのような同様を示している凛さんへと話しかけます。

 

 

 

「‥‥嘘よ」

 

「え‥‥?」

 

「嘘よ、桜はアンタみたいな子じゃないわ。

 そりゃあの子は自分に自信が持てなくて、いつも鬱々してるようなところもあるわ。ちょっと嫉妬深くて、不気味な時もある。

 けど、アンタそれ何のつもりよ、ふざけんじゃないわよっ!」

 

「‥‥‥へぇ」

 

「そんな無様な変装で私を騙せると思ってたんなら、嘗められたものね。っとに、少しだって動揺しちゃったのが恥ずかしいったら無いわ」

 

 

 怒声一喝、内面までも完全に自分を取り戻した凛さんが、鋭く“ナニカ”を睨みつける。

 凛さんの眼光に晒され、そのナニカは少しだけ目を見開いて、それでもニタリと笑って見せた。

 

 

「腹に立った勢いで殺しちゃうのは簡単だけど、その前に正体でも聞かせてもらおうかしら?

 姿形を真似るのはさておいて、なんで私と桜の関係について知っているのかしら、すっごく気になるんだけど、聞かせてもらうと嬉しいわね」

 

「‥‥‥‥」

 

「もしかして貴女、ヴィドヘルツルと繋がりがあるんじゃないかしら。そこんところも、キリキリ吐いてもらうわよ。‥‥話したくないなら、力づくで」

 

 

 そのセリフを合図に、誰からともなく同時に三人が武器を構えます。

 セイバーは聖剣を、私は黒鍵を、凛さんは宝石を。目の前の存在は今だに禍々しいオーラを放っていますが、それでも明らかな異常が前にあるのならば、それは先ほどまで正対していたヴィドヘルツルの仕業である可能性が高い。

 となると目の前の存在から、話を聞き出すのが一番効率が良さそうですね。

 

 

「‥‥フフ」

 

「は?」

 

「フフ、フフフ、フフフフフフ‥‥。あぁおかしい、おかしな姉さん。私が姉さんに嘘をつくはずなんて無いのに、そうやって疑って怖がって、あぁおかしな姉さん、本当に愉しいわ」

 

「いい加減に桜を騙るのを止めなさい、大根役者! 苛々させないで、今すぐに消滅したいのかしら?」

 

「そんなことあるわけないじゃないですか、せっかくこうして姉さんと会えたのに、すぐに終わったらつまらないですもの。

 あぁおかしな姉さん、私が姉さんに嘘をつくわけないじゃありませんか。私が、この私が、どうして姉さんに嘘をつかなきゃいけないんですか?

 私は間違いなく“間桐桜”ですよ。今、此の場所で、私以外の“間桐桜”は有り得ないんですよ?

 ウフフ、姉さんの言いたいことは分かりますよ? 一つ、私が何者なのか。一つ、此処は何処なのか。一つ、どうして私が“間桐桜”と“遠坂凜”の関係について知っているのか。一つ、私とヴィドヘルツルの間に関係はあるのか、ですよね?」

 

「‥‥‥‥」

 

「姉さんの考えてることなら何でも分かるんですよ? だって私、姉さんの妹なんですから」

 

「黙りなさいっ!」

 

 

 ビュン、と音を立てて私のすぐ横を擦るようにして黒い弾丸が飛ぶ。

 おそらく、前に『死なずのルードヴィヒ』を討伐する際にも教えてもらっていた北欧の呪い、ガンドでしょう。遠坂の魔術刻印から放たれるそれは一工程(シングルアクション)を超える速さで繰り出される機関銃の如き銃撃。

 ‥‥私を擦ったのは、苛々していたからだと信じたいですが。

 

 

「‥‥ッ?!」

 

「無駄ですよ、姉さん。私の周囲には高密度の虚数の影が配置されてますから、一工程(シングルアクション)未満のガンドじゃ傷も付けられません」

 

 

 しかし凜さんが放ったガンドは、突如そのナニカの足下から噴き上がった黒い影が壁になり、かき消えてしまいました。

 

 

「‥‥そういえば何の話をしていたんでしたか、嗚呼、姉さんの疑問の話ですね。

 フフ、四つ目の疑問には直ぐに答えられます。もちろん、私とコンラート・E・ヴィドヘルツルとの間に関わりが無いわけがないじゃないですか。私がどうして存在するのか、これに強いて理由をつけるならば、あの人と蒼崎紫遙さんのためだということになりますね」

 

「蒼崎君が‥‥っ?!」

 

「はい。まぁその説明は後に取っておきましょう。大事なことは一番最後、これは様式美ですからね。久しぶりの姉さんとの会話ですから、じっくり楽しみたいんです」

 

 

 あれは私達が感じた禍々しい魔力の根本。ナニカが桜さんをどれだけ真似ても、全く同じに見えない理由。

 どうやら諸悪の根源というヤツのようですね。‥‥なんと、おぞましい。

 

 

「三つ目の質問と、二つ目の質問は同時に答えられますよ?

 私が何故“間桐桜”と“遠坂凛”の関係について知っているか、それは私が“間桐桜”その人だからです」

 

「だからっ、ふざけるんじゃないって言ってるでしょっ!」

 

「ふざけてなんかいません。おかしな姉さん、私は姉さんに嘘をつかないって言ったでしょう?

 この場所、この時において、私は“間桐桜”以外の何者でもないんです。ああ、でも安心してください、さっきまで姉さんと一緒にいた“間桐桜”と私は別人ですから」

 

「‥‥別人? アンタが仮に“間桐桜”だとして、それじゃあアンタはどういう存在なの? 定義じゃなくて、中身が。さっきまで私と一緒にいた“間桐桜”から分裂した、とか‥‥?」

 

 

 ギリ、と歯を食いしばった凛さんが問い詰めます。

 ‥‥正直、ここまでの段階である程度の察しはついてしまっていますが、凛さんにとって桜さんは大事な存在。そして桜さんの姿を醜悪に改悪した目の前の存在との対話は、よほど腹に据えかねるのでしょう。

 

 

「あぁ流石は姉さん、でも残念ですが惜しいです。

 私は厳密に言えば、コンラート・E・ヴィドヘルツルによって生まれた存在ではありません。私の存在は、蒼崎紫遙さんによって生まれた存在なんです」

 

「ショーだと? 何故ショーが関係するというのか?!」

 

「うーん、説明すると長くなるんですけど‥‥別にワタシ自身が口止めされているわけでもないし、いいですかね?」

 

 

 しばらく小首を傾げて悩んだソレは、まぁいいかと考えたのか笑って私たちの方を見ました。

 無邪気なのは相変わらず、それにしても本物の桜さんを知っているからこそ、不気味にしか感じられません。

 

 

「姉さんは当然、シエルさんとセイバーさんも並行世界についての知識はありますよね?」

 

「当然じゃない、私は遠坂の当主だし、私自身第二魔法を目指して研究をしているんだから、知らなくてどうするのよ。今更アンタに説明されるようなことでもないわ」

 

「凛のサーヴァントである私も当然のように。貴様に講釈を垂れてもらう必要もない」

 

「私も‥‥まぁ一般的な知識であればありますね。曲がりなりにも代行者ですから、それなりに魔術の知識もありますし」

 

「それを聞いて安心しました。余計な説明をしなくて、済みますから」

 

 

 クスクスとバカにしたように笑うソレを前に、苛立ちが募る。

 確かに私は凛さんとも依然の事件を通じて親交を結んだ身ではありますが、そもそも魔術は好きません。この身に宿る魔術の知識すらも、本来なら忌まわしきもの。

 それに純粋な知識だけで語るなら、おそらく私は凛さんよりも豊富なそれを持っています。‥‥決して認めたくはないことではありますが、私の中に息づくそれは紛れもない死徒二十七祖のものなのですから。

 ですから、そのようなことを目の前のアレからわざわざ説教されるのは、業腹モノでした。

 

 

「要約してしまえば、私は『並行世界の間桐桜』ということになりますね。私は『この世界の間桐桜』が“いつか辿るかもしれなかった可能性”という存在です」

 

「桜が‥‥辿るかもしれなかった、可能性‥‥ッ?!」

 

「バカな、いくら無限の可能性を持つ並行世界といえども、あのサクラがこのように禍々しい魔力を身に纏うことがあるなど‥‥!」

 

「あれ、そんなにおかしいですか? 不思議だなぁ、二人とも“間桐桜”の一体なにを知っているっていうんですか?

 私が遠坂の家から間桐の家に引き取られて、どんな目に合っていたのかなんて知っているんですか? 私が間桐の家で真っ当な修行を受けていたと思うんですか? 魔術師の家の歴史は完全に血縁のみに伝えられる一子相伝なのに。

 血のつながっていない私が、どうやって間桐の魔術である蟲使いの技を習得したと思ってるんですか? 私が遠坂の、真っ当な人間の体のままで、他の家の秘術を継ぐことが出来たと思ってるんですか?」

 

「———ッ?!」

 

 

 いつの間にか私のすぐ背後にまで近づいてきていた凛さんが、ソレの放つ言葉でビクリと激しく震えたのを感じました。

 そう、確かにソレの言葉は全くの正論。本来ならば魔術刻印に代表される、その魔術師の家が長い歴史をかけて紡いできた神秘は、原則として血縁関係にある相手にしか継がせることが出来ません。

 ならば、仮に桜さんが元々は遠坂の家の人間であったというのが真実ならば、彼女が間桐の家に養子に出されたからといって、間桐の家の秘術を継ぐことは不可能。

 

 もちろん、それは、目の前のソレが言うとおり、“真っ当な手段に頼るならば”の話ですが。

 

 

間桐(マキリ)の魔術は蟲使いの技。本来なら外部の人間であるはずの私が蟲使いの技を習得するためには‥‥体を蟲に馴染ませる必要があったんですよ、姉さん」

 

「う‥‥そ‥‥」

 

「嘘なんかじゃありませんよ。毎日、毎日、蟲に体を馴染ませるために、体に蟲を馴染ませるために、私がどんな拷問を受けていたのか、女の私がどんな拷問を受けていたのか、聡明な姉さんならすぐに想像出来ますよね?」

 

「———ッ!!」

 

「凛、気をしっかり持ちなさい!」

 

 

 今度こそ決定的なダメージを受けたのか、凛さんはグラリとよろめき、彼女のサーヴァントであるセイバーに支えられます。

 その様子を見たソレは、ひどく愉しそうに嗤っていました。勘に障るぐらい、愉しそうに、悦んでいました。

 

 

「あぁおかしな姉さん、家同士の取り決めだからって目を背けて、他の家に売られた実の妹がどんな目に遭っているのか考えもしなかったんですか? 心配もしなかったんですか? ねぇ、どうなんですか? ねぇ、ねぇ、どうなんですか姉さんっ?!」

 

 

 嗤い声は次第に大きく、高く、強く。

 耳を覆いたくなるぐらいの音量になったその嗤い声は、いつの間にか哭き声か悲鳴のような叫び声へと変わって凛さんを打ち据えました。

 

 

「‥‥心配、してたに決まってるじゃない」

 

「‥‥‥‥」

 

「ずっと、ずっと桜の様子を毎日だって確かめてたわ。登下校の最中も、部活の最中も。桜がちゃんとやれてるか、健康に過ごしているか、笑ってられてるか、ずっと心配していたわ。

 慎二に殴られたなんて他人伝てに聞いたときは、アイツをどうしてやろうかと思ったわ。士郎の家に入り浸ってるなんて知った時は、本当にどうすればいいのかと思ったわ。

 ‥‥桜があれだけ浮かない顔をしていた間桐(マキリ)の家を継ぐなんて私に言ったときは凄く寂しかったし、同じくらい、嬉しかった。私と同じ場所まで、来てくれて。

 心配、しなかったわけないじゃない! 私と桜は、血を分けた、たった二人きりの姉妹なんだものっ!

 

 

 悲痛な叫びが、大空洞の中に木霊する。

 それは魔術師としての遠坂凛ではなく、一人の姉としての遠坂凛の叫びでした。

 ‥‥正真正銘、彼女の本当の気持ち。もしかしたら目の前のソレが以前に、もしかしたら私たちの戦友であるところの間桐桜さんが今、求めていたもの、求めているもの。それはこの、悲痛な叫びなのかもしれません。

 

 

「信じてくれなくても、いいわ。でもそれが私の、遠坂凜の正真正銘の本心」

 

「‥‥それをずっと前に聞けたなら、私もこうならなかったかもしれませんね。恥も外聞も、家同士の契約も無く、がむしゃらに私を助けに来てくれたなら、私も甘えられたかも」

 

貴女(さくら)‥‥」

 

「———でも、今更もう手遅れです。私はこうやって成ってしまったから、あとは為すだけなんです。私という存在を、そのままに」

 

 

 魔力が吹き荒れます。禍々しい魔力が。

 一度は少しだけ、あの優しい微笑みを取り戻した目の前のソレは、俯いていた顔をキッと上げ、荒れ狂っていた魔力を形にし始めます。

 影の魔術、虚数の術式。人間の持つ負の感情を、圧倒的なまでに巨大な魔力をによって顕現させる極めて特殊な魔術。

  

 

「‥‥でも少しだけ良い気分にしてくれたお礼に、教えてあげます。

 確かに私は“並行世界の間桐桜”ですけれど、並行世界から召喚されたわけでも、姉さん達が並行世界に召喚されたわけでもありません。

 私が“間桐桜”の記憶と人格を持っているのは間違いありませんが、私は“ある人物の記憶から再現された間桐桜”なんです」

 

「記憶から‥‥? それってまさか、私たちが冬木で集めてたクラスカードの術式の———ッ?!」

 

「さすが姉さん、その通りです。

 私はコンラート・E・ヴィドヘルツルの大魔術式、疑似固有結界『メモリー』によって召喚された存在なんですよ。いわば英霊の座から喚び出されるサーヴァントが英霊本体のコピーであるように、私は“とある誰かの記憶の中の間桐桜”のコピーです。

 ああ、もちろん寸分違わず間桐桜ではあります。そこは安心して下さい。今までのお話が、すべて偽物との会話だったってことは無いですから」

 

 

 詳細は既に、凛さん達から聞いてありました。

 宝石翁の命によって冬木を訪れた凛さん達が目の当りにした、クラスカードという高度な術式によって作られた最上級の魔術具。

 現実世界と合わせ鏡のようにして存在する鏡面界という異空間を創造し、高次元からの干渉という埒外の手段で他者の記憶を触媒に英霊を召喚する大魔術式。

 

 一応、対抗するために対精神干渉の用意はしてきましたが、それがどれほどまでに効果を発揮するかも謎。

 しかし少なくとも精神干渉をされたならば気づけるだけの措置は取ってきました。ですが、今の今まで警鐘は鳴らされていません。

 

 

「他の誰かの、記憶‥‥? でも私は、そんな姿した桜なんて知らない」

 

「そう、姉さんじゃありません。当然ほとんど私と面識がないシエルさん、ルヴィアゼリッタさんは除外されるし、対魔力の高いセイバーさんも無理。

 先輩にこんな惨めな姿を知られていたら、今の私は生きてませんし、鮮花と藤乃も、虚数魔術を使う私しか知らない。こうやって、負の感情に支配された私を知っている人間は、今この世界に一人だっていないんですよ。

 ‥‥フフ、もう姉さんもわかるんじゃないですか? 私が誰の記憶の中に存在していたのか、冬木の時のことを思い出せば、もう、すぐにでも」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 そう、それは簡単な消去法。

 さんざん精神干渉に対する防備を施した私たちの誰もが精神攻撃を受けていない。ならば、私たちの中に精神干渉を受けた、彼女の触媒になった人間がいないのも道理。

 つまり答えはただ一つ。私たち以外の誰か、この城にいる誰か。それは、一人しか存在しません。

  

 

「蒼崎君‥‥。そうか、あの変態が言ってた、『蒼崎君の力』っていうのは」

 

「その通り。‥‥あの人は私のことを知っている。私だけじゃありませんよ、死徒二十七祖の幾人かを、英霊の幾人かを、世界を揺るがす力を持った魔術師を、あの人は記憶の中に持っているんです」

 

「どういうことですか、それは。彼は蒼崎の人間ですが、年齢は外見相応だと聞いています。その彼が、今までの人生の中でそれほどの魔性と知り合う機会があったとは思えません‥‥!」

 

「あらあら、埋葬機関の第七位ともあろう人が、頭の回りが悪いんですね。いいですか、私は可能性の存在に過ぎないんですよ? 今、此の世界には存在しない者です。

 そんな存在のことを知っている人なんて、いるわけがないじゃありませんか」

 

「‥‥確かに貴様の言う通りだ。しかし解せない、だとしたらショーは、どうやって貴様の存在を知ったというのだ?」

 

 

 緊張が、走る。

 互いに相手に対して一切の隙を見せないままに、牽制しあったままに、話に集中しています。

 ここを違えると、大変な間違いを犯してしまうのではないか。紫遙君に対する認識を違えたままに走れば、何かトンデモない悲劇を生むのではないか。

 興味とは違う、切迫した理由によって、私達の誰もが紫遙君のヒミツについて、知識を要していました。

 

 

「‥‥あの人は、傍観者です」

 

「傍観‥‥者‥‥?」

 

「いえ、観測者って言った方が正しいのかな? 彼が居たのは、異なる世界。此の世界の上位世界‥‥いえ、観測世界と言った方がいいのかもしれませんね。

 彼の中には全てがある。『 』も、根源も、英霊の座も、魔法も、全てが彼の中に眠っている」

 

「そんな馬鹿な! 仮にそれが正しいとして、たった一人の人間の中にそんな神秘が眠っているわけがない!」

 

「うーん、私もよく分からないんですけどね。少なくともコンラートさんはそう思ってるみたいです。

 あと勘違いを一つ正しておきますと、確かにそれらは全てあの人の中に在りますが、それは“観測の結果”であって“神秘”じゃないみたいなんですね。まぁ、私にはあまり興味のないことですけど」

 

 

 愕然と、言葉を失う。

 全てが本当だなんて、信用することは出来ません。しかし彼女に嘘をつく理由がないのもまた同じ。

 そして彼女の言葉はある意味で、紫遙君に対しての疑惑の一部にある程度の説明を付け加えていました。

 それは付き合いの浅い私よりも、付き合いの長い凜さんとセイバーの方が、腑に落ちる点があったに違い在りません。二人のこめかみを、一筋の汗が垂れているのが見えます。

 

 

「あの人は私達とは違う存在なんです。私達を観測する存在で、彼自身の存在は彼自身に観測出来ないが故に、あやふや。不安定な人‥‥」

 

「‥‥馬鹿な、戯れ言を———」

 

「戯言なんて証拠が、何処にあるんですか? 私の言ってることが正しい保証が無いと言うのなら、私が言ってることを間違いだなんて言う証拠だってありはしませんよ?」

 

「だから戯言だといったのだ! 貴様は‥‥凜を苦しめる。桜ならば、凛を苦しめるようなことはしない‥‥!」

 

「それは部外者の勘違いですよ、セイバーさん。いつも綺麗だった貴方だから、そうやって眩しい理屈を翳していられるんです。

 貴方も姉さんと同じ。光の中にいて、暗いところは貴方の影にあるんですね。光に一番近い人間が、その影の中に入ることになる。姉さんで言うなら、私。貴方で言うなら‥‥息子さん(サー・モードレッド)、かな?」

 

「貴様‥‥ッ!!」

 

 

 セイバーさんへの言葉に、ミシリ、と空気が歪む音がしました。

 たった一人の騎士から放たれる圧倒的な威圧感。それは目の前の禍々しいソレに匹敵する程の圧力を持ち、横にいる私の肌までビリビリと震えます。

 恐ろしい、否、畏しい。これが英霊のホンモノの怒りですか。

 

 

「———さて、セイバーさんをからかうのも愉しいですけど、そろそろ物語を元の流れに戻さなくちゃ。

 私がここにいるのは、“私を殺すために此処にやって来た姉さんと戦う”ためなんですから、役者がその通りに動かなければ舞台は回りませんよね」

 

「アンタ、何を‥‥ッ?!」

 

「私は蒼崎紫遙さんの記憶の中の“確定してしまっている物語”をなぞる存在なんですよ。ですから姉さん、ここで私達の因縁に決着を着けましょう?

 見えますか? あの黒い塔が。私は母親としてあの子(アンリ・マユ)を生まなければいけないんです。ですから姉さん、この世全ての悪(アンリ・マユ)を現世に解放したくないなら、私を殺すことですね」

 

「何を言ってるのよ桜ッ?!」

 

「あは、やっと名前で呼んでくれた。

 でも姉さん、さっきから言ってるでしょう? 私の存在と私の目的に、何故とか理由を考えるのは無意味なんです。私はただ、決まり決まったことをやるだけの存在なんですから。

 言っておきますけど、勿論アレが生まれたところで“姉さん達の世界の冬木”が汚泥に包まれるわけじゃありません。けど姉さん、今ここに居る姉さん達は、間違いなく死にますよ‥‥?」

 

 

 ぞわり、ぞわり、ぞわり。

 ぞわわわっと背筋を今度こそ強烈な悪寒が走り抜け、私達は一瞬で反射的に臨戦態勢を取りました。

 最早、理性や理屈を越えた生存本能としての戦闘意志。それは絶対衝動として私達を生存のための戦争へと駆り立てます。

 否応のない戦闘への突入。それはある意味で、罠とも言うべきなのでしょうか。

 後になって考えてみれば、話し合いの段階ならばまだまだ荒くだったに違いないのです。

 

 

「フフ、やる気になってくれたみたいで嬉しいですよ、皆さん。

 ‥‥けど相手が姉さん達じゃ、ちょっと私もキツイですね。だってほら、何せ剣の騎士(アーサー王)と埋葬機関の第七位なんて、一人で相手出来るような敵じゃないですよね」

 

「ハ、それこそ戯れ言を曰ってくれるものですね。私も代行者としての戦闘経験は豊富な方ですが、貴女ほどの魔性を相手にしたことは片手の指で足りるぐらいしか無いんですから」

 

「お褒め頂き光栄です、蛇の娘さん。

 まぁそういうわけですから、私の方も一人だけ助っ人を呼ばせて頂きますね、‥‥此の場所に、相応しいゲストを」

 

「———ッ?!!」

 

 

 ゆらり、とソレの背後の影が揺らめいて、中から一人の魔性が姿を現しました。

 いえ、それは本当に魔性と称するべきなのでしょうか。何せ悠然とこちらへ一歩足を踏み出したのは、私もそれなりによく知る一人の少女騎士の姿。

 

 

「私‥‥だと‥‥ッ?!」

 

「ええ、そうですよセイバーさん。

 この人はセイバーさんが聖杯の泥を浴びて、汚し尽くされた存在。そうですね、黒セイバーさんと呼ぶのも無粋ですから、オルタさんとでも呼びましょうか。

 貴女の存在全てを反転させた、黒い英霊。もしかしたら貴女も冬木の時に見たことありますかね? まるで姉さんに対しての私みたいな、汚れた存在ですよ」

 

「‥‥貴様、このような屈辱をよくもッ!」

 

「ウフフフ、少しは私の気持ちが分かってくれましたか? ねぇ、今どんな気持ちですか? ねぇ、自分が汚された存在を前にして、どんな気持ちですか? あぁ少しは溜飲が下がりましたね、これだけでも儲けものでした」

 

 

 全身が漆黒の、刺々しい装飾が施された鎧を纏う少女騎士。

 金糸の髪に蒼白な肌。血走ったような赤い紋様が施されたバイザーを被っているから表情は分かりませんが、冷徹にこちらへ黒く染まった聖剣を向けて来ています。

 

 

「‥‥これなら互角の勝負が楽しめそうですね。

 さぁ姉さん、そろそろ一緒に踊りましょう? 話をするのも疲れてしまったし、それにくぅくぅお腹が空きました」

 

「‥‥桜」

 

「行きますよ姉さん。力の差を、見せてあげますね」

 

 

 ソレの足下から、次々に黒い影が起き上がる。

 影はのっぺりとした二次元的な身体を持つ巨人へと成長し、私達へと長大な腕を凶器として振るう。

 同時に大地が爆発するかのような勢いで踏み出した二人の騎士は二振りの聖剣で鍔迫り合い、私が反射で投げた聖剣が目の前で嗤うソレを狙う。

 

 戦いはそうして呆気なく、そして急転直下の勢いを以て始まった。

 舞台は世界の破滅という終幕《フィナーレ》。私達は他人に用意された舞台で踊る哀れな役者。

 それは十分に分かっていながら、それでも踊るより他に選択肢はありませんでした。

 

 何故なら、どれだけそれが愚かで哀れで、おかしなことだったとしても。

 

 この一戦を、間桐桜という少女の姿をした黒い聖杯(アンリ・マユ)を相手に戦い抜くことが、

 

 何よりも難しい命題だったからです。

 

 

 

 80th act Fin.

 

 

 

 




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第八十話 『獣の王の蹂躙』

 

 

 side EMIYA

 

 草木も眠る丑三つ時‥‥かどうか、明確な時間はわからない。

 何せ俺の時計はしっかりとさっきまでの時刻、昼過ぎの麗らかな午後の時間を指しているのに、辺りは街灯の微かな灯りしか照らすものがない暗闇だ。

 少なくとも一時間前は確かに昼間だったはずなのに、今は夕方を通り越して深夜としか思えない時間帯へとタイムトリップしてしまっている。

 

 おかしいのは、時間だけじゃなかった。

 ヴィドヘルツルの城にいたはずの俺たちは、いったいどういう理屈でか、何処かの公園の中にいたんだ。

 九人いたはずの仲間は、閃光から庇った目を開いた時には俺を含めて三人まで減っていて、他のみんなが何処に行ってしまったのかはさっぱり分からない。

 

 一緒にここまで飛ばされて来たルヴィアによると、これはヴィドヘルツルによる“空間転移”の魔術による現象だという可能性が高いらしい。

 どうやらあの閃光が術式の一部で、俺たちを分断させるのが目的だったんじゃないだろうかっていうことだ。流石のアイツも、俺たち九人を相手にするのはつらかったんだろうか。

 

 

「———どうした、動きが鈍っているぞ、人間?」

 

「余計なお世話だ‥‥よッ!」

 

 

 一瞬、余計な考えに囚われた隙を狙って喰らいついてきた獣を両手に持った干将莫耶で斬り払う。

 反射に近い動きだったから目でしっかりと確認したわけじゃないけど、今のはたぶん狼だったと思う。さっきから、動物図鑑もかくやという勢いでいろんな獣たちが俺たちに文字通り牙を剥いていた。

 最初は犬、次は狼、ライオン、蛇にワニに鷹に鷲。終いにはこれといって正式な名称を上げられない動物までいろいろ。

 

 いつの間に俺たちは動物園へと紛れ込んだのだろうか。いや、どちらかというとサファリパークか。それにしても全ての動物が牙をくなんて、随分と愛想がない動物園だろう。

 

 ‥‥ああ、もちろんこれが現実逃避だってことぐらい分かってるさ。

 けど分かって欲しい。突然こんな場所に放り出されて、それについて頭を悩ませていたところに同じくらい突然のこれなんだ。

 

 

 目の前で、必死に戦う俺たちを嘲笑う男。

 灰色の短い髪の毛に、隆々とした恵まれた体躯。

 上半身は裸で、そこに灰の混ざった黒いロングコートを羽織っている。ロングコートの中は底の知れない暗闇で、俺たちが今こうやって戦っている獣たちは全てそこから湧き出てきていた。

 

 最初こそ三人で現状について語り合っていたんだけどさ、奴はまるで影の中から浮かび上がるように公園へとやってきたんだ。

 何の問答もなく、けしかけられる獣達を斬り払うことに精一杯な十数分。あいつの正体について考える余裕もなかった。

 

 

「くっそ、コイツ一体何なんだっ?! 次から次へと‥‥この動物は一体どこから湧いてきてやがる?!」

 

「使い魔を召喚する魔術‥‥とは考えられませんわねっ! ここまでの大量かつ連続の召喚、何か小細工が無いと不可能ですわ!」

 

「じゃあ一体?!」

 

「それを戦闘しながら考えるのは、もう少し余裕が出てからですわ‥‥。この量が相手では宝石を使えませんし、ガンドでは抵抗し切れません‥‥!」

 

 

 俺のすぐ背後で、背中を守ってくれていたルヴィアが珍しく気弱な悲鳴を漏らした。

 ルヴィアは両手の魔術刻印のおかげで一工程(シングルアクション)の攻性魔術、北欧の呪いの一種であるフィンの一撃(ガンド)を放つことが出来る。

 けど、いくら物理効果もあるガンドと言っても一工程(シングルアクション)の魔術に威力を求めるのは無理があるだろう。ルヴィアのガンドは遠坂のそれに比べても確かに威力がある方だけど、それでも全ての獣を一撃で葬り去れるわけじゃない。

 一匹につき一撃二撃三撃と打ち込んでいると、さすがに両手の指先から放たれる機関銃のような魔力弾でも弾幕は不足気味だった。

 

 

「ルヴィア、横だっ!」

 

「———ッ?!」

 

 

 影に潜み、真っ黒な大蛇が鎌首を擡げてルヴィアを襲う。

 下手すれば子供ぐらいなら丸呑みに出来てしまうぐらいの太い胴体を持ったそれが狙うは、白鳥のようなルヴィアの首筋。

 咄嗟に双剣を投擲して助けようと試みたけれど、まるで狙ったかのように目の前に現れた黒い豹を反射的に斬り捨てたせいで、一拍遅れる。

 その一拍が命取り。完全に死角からの攻撃に、ルヴィアは反応できない。

 

 

「ルヴィアッ!!」

 

 

 黒い大蛇の牙が今にも首筋に届くかと思った瞬間、赤と白の混じり合った閃光が疾る。

 それは今さっきまで縦横無尽に公園の中を走り回って手当たり次第に獣を斬り捨てまくっていた式だった。

 

 

「ミス・リョウギ?!」

 

「‥‥別に感謝されるようなことはしてない。気を抜くな、まだ次々来るぞ」

 

 

 大して刃渡りも長くないはずのナイフで太い大蛇を真っ二つにしてみせた式は、編み上げブーツで砂を巻き上げ、目の前で急停止した。

 まるで嵐か疾風かと言わんばかりの大活躍により体勢を取り直せた俺とルヴィアの一斉攻撃により、周りの獣たちは一旦ではあるけど距離をとらざるを得なくなる。

 僅かに息をつくことが出来る隙間を得て、少しばかり安堵してしまうのも仕方がないことだろう。幸いにして目の前の何者かも様子見をしているのか、襲っては来なかった。

 

 

「くそ、一体なんだっていうんだ、いきなり襲いかかってきやがって‥‥。ルヴィア、式、二人ともコイツに見覚えは?」

 

「ないな」

 

「ございませんわね。しかしシェロ、その質問はご本人がいらっしゃるのですから、目の前の本人になさった方がよろしいのではなくて? そうでしょう、ねぇ、名前も知らないどちら様?」

 

 

 ふぅ、と短く吐息をついたルヴィアが鋭い視線を目前の敵へと疾らせる。

 長身をピクリと動かすこともなく悠然と佇む敵は、余裕そうな態度に反比例するかのように厳めしい面を崩さない。言葉では憎らしく挑発をしておきながら、背筋に寒気が走るぐらいの無表情だった。

 

 

「せっかくこうして舞踏会に招待して頂いたのですから、今宵の宴の趣向ぐらいは説明して貰えませんことには楽しめませんわ。

 会場の場所もわからないのでは、風情を凝らしてお出迎えにお応えするのも十分にできませんもの。ねぇ?」

 

「‥‥確かに、私が口を閉ざす必然というものも無い、か。しかし言葉を尽くすのも同様に意味がない。戯れ程度でよければ、相手をしてやってもよい。———但し、耐えてみせよ、私から言葉を引き出したいのならばな」

 

「ッ散開しろ!」

 

 

 矢のような速さで多数の獣が敵のコートの中、いや、ヤツ自身から飛び出してきた。

 先鋒を担うのは犬やオオカミ、そして既にヤツの体の中で加速を終えていたらしい鴉や小鳥。地上と空中の二方向から襲撃をしかけてくる多数の獣たちを前に、俺たちは式の号令で一気にその場からそれぞれ別方向に駆け出す。

 一瞬前まで俺たちが立っていた場所に殺到した獣たちによって地面はえぐれ、すぐさま追撃の魔弾(ケモノ)が装填され、飛び出してくる。

 今度は全方位が対象だ。コートの中からだけじゃなく、コートそのものからでも獣は出現できるらしい。

 犬やオオカミなどの攻撃的な獣だけではなく、今度は鹿やら牛やら羊やら、ありとあらゆる種類の動物が一切の秩序や法則なく手あたり次第に大量に、俺たちを狙って突進してきた。

 

 

「それでは先ずはっ! 貴方のお名前をお教え頂けますかしらっ! 宴の主催者のお名前を知らなくてはご挨拶も、できませんからねっ!」

 

 

 足元を狙って素早く這い寄る爬虫類を踏み潰し、飛びかかってきた猿を———恐ろしいことに———まったく勢いを緩めないままにバックドロップで処刑したルヴィアがオレンジ混ざりの金髪をかき上げて言う。

 正直もはや人間業じゃないんだけど、鮮やかで不適な笑顔を見せられるのは本当に‥‥その、すごいと思うんだ。

 

 

「‥‥我が名を知りたいと言うか」

 

 

 ざわり、と空気が揺らぐ。たった一人の、それこそ強大といえば間違いなく強大ではあるが、しかし一人の男によって、その威圧感は放たれていた。

 それは以前にも感じたことのある感覚だ。あの血煙薫る短い間の聖杯戦争の夜に出会ったサーヴァント達。あいつらとコイツは、同じような雰囲気をまとっている。

 

 

「———我は“混沌”。人は私をネロ・カオスと呼ぶ」

 

「ネロ・カオスですって?!」

 

 

 粛々と告げられた名前に、瞬間、ルヴィアの勝気な顔から血の気が引いた。

 どんなに危機的な状況だろうと顔色を変えない、そんな印象のある彼女が、名前を聞いただけでこうも容易く動揺する。

 乃ちそれは、危険度MAXの超危機的状況。世界の危機に迫る勢いの緊急事態。

 

 

「おいルヴィアゼリッタ、こいつが何者なのか分かるのか?」

 

「‥‥死徒二十七祖が第十位、“混沌”ネロ・カオス。簡単に説明いたしますと、世界に二十七人いる吸血鬼の王の一人ということですわ。

 詳しいことは存知ませんが、死徒二十七祖は一人の例外もなく人間が太刀打ちできるような存在ではありません。そのうちの一人が私の大師父である第二の魔法使い、死徒二十七祖第四位“万華鏡”キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグなのですから」

 

 

 死徒二十七祖。

 ロンドンに来て、最初に時計塔から受けた以来で吸血鬼に出会って以来、ロード・エルメロイの下で俺と遠坂、セイバー、ルヴィア、紫遙、そしてロードの直弟子の一人であるフラット・エスカルドスを交えた六人に対しての講義が開かれたことがある。

 吸血鬼とは真祖と死徒の二種類に分けられ、基本的に他の吸血鬼に血を吸われたり、魔術師が研究を通して成ったりしたものを死徒と言って、現在の吸血鬼はごく一人の真祖を除いて全員がこの死徒らしい。

 

 そして世界中に数多散らばる死徒の内、最初に真祖に血を吸われた者たち、乃ち原初の死徒達を『死徒二十七祖』と称する。

 当然ながら死徒が生まれてから千年以上の時が経つ以上は、何度か代替わりもあったらしいが、それでも全員が全員、世界最強クラスの強力な吸血鬼。

 一人で一つの国家を滅ぼすことすら可能な、俺たち人間にとっては埒外の存在だ。コイツらは俺たちが聖杯戦争で遭遇した、平均的なサーヴァントに相当する戦力を保持しているらしい。

 

 

「死徒二十七祖‥‥コイツが‥‥ッ?!」

 

 

 つまり、目の前の男は下手すればセイバーと互角の実力を持つ化け物だということ。

 だとしたら目の前で起こっている、次から次へと出てくる獣達にも、死徒が持っている固有能力ということで納得ができないこともない。

 ‥‥いや、だからといって対処策が思い浮かぶわけでもないし、実態が把握できるわけでもないんだけど。

 

 

「おい、コイツそんなにヤバイのか?」

 

「ヤバイなどという雑な言い方はあまり好みではありませんが、確かに奴は間違いなく危険な相手ですわ。私も噂にしか聞いたことがないのですが‥‥」

 

「‥‥前に二十七祖でもない只の死徒と戦ったことがある。それでも、姑息な策略に陥ったとはいえトンデモなく手強い奴だった」

 

 

 ドイツの片田舎、オストローデという地方都市で出会った死徒について思い出す。

 “不死身のルードヴィヒ”なる二つ名を持った歴戦の死徒。外物や、他の魂に対しての親和性が高く、剣や槍や斧を体に埋め込んで戦い、他者を体の内部に取り込んで命のストックとした、凶悪な吸血鬼。

 奴は確かに古参の死徒らしい、老獪さを身につけた恐るべき敵だった。しかし、それでも二十七人の王の中に数えられていたわけじゃあない。

 

 死徒二十七祖とは、純然たる格の違いの証だ。

 二十七人の吸血鬼の王と、その他の間には同じく純然たる違いが存在していると言われる。それは単に名前や称号というわけではなく、差が存在するからこそ称号の違いが生じたとも言えるらしい。

 最初は原初の死徒という名称だったそれが、現在においては力量の違いと同意となっている。これは、すでに完全に自立した事実となってしまっていると聞く。

 

 確かに俺たちは、何とか奴に勝利することが出来た。けれど、それはあくまで辛勝に過ぎない。偶然とか幸運とか仲間の助けとか、色々なものが重なったおかげで何とか勝てたに過ぎない。

 そもそも奴は強大な死徒だったわけだが、もし仮に目の前の奴が本当に死徒二十七祖の第十位だとすると、どれほどまでに手強い相手だということか。いや、そんな比喩のレベルを完全に超えていることだろう。

 

 

「そんなもんか? ‥‥ああ、そういや、生憎とオレは人外と殺り合ったことがなかったっけ」

 

「‥‥式って、どんな人間なんだ? 今更ながら俺、式のこと全然知らないわけなんだけどさ‥‥?」

 

「別に詮索されて困るようなものでもないけど、まぁ、今ことさらに口にするようなものでもない、か」

 

 

 さらりと『殺り合った』なんて口にする式に、背筋を冷たいものが這い上がる感触がした。

 そういえば式は紫遙の友人ってだけで、黒桐さんと一緒に倫敦に来てからこっち、ただそれだけで一緒に来ていたに過ぎない。

 いや、それ自体に権利がないとかいう問題が含まれているわけじゃないんだけど、ただ、俺としては彼女とは全然面識を深める余裕がなかったということ。

 正直な話、突然の出発といえばその通りだったから移動中も支度やら作戦会議やらで大変だったのだ。

 だから俺が式について知っているのは、退魔士をやっていて、倫敦にもある両儀流という古武術の跡取りだということだけだった。

 

 

「しかしまぁ、なるほどね。道理で“線”の見え方がおかしいと思ったぜ?」

 

「“線”?」

 

「壊れやすいように見えるんだけどな。なんか動物が出てくるときにはおかしな変化もするし、どうすりゃいいのか考えてたんだよ。

 ‥‥吸血鬼ってのは、別に不死身だったりはしないんだよな?」

 

 

 怖気づいたわけじゃないけど、相手の強大さを認識して一歩二歩下がった俺達に対して、式は一歩も退がることなく一番前で吸血鬼と相対していた。

 その式が、上から見下ろすようにこちらを振り向いて問いかけてくる。

 

 

「‥‥血を吸うことで“復元呪詛”という復元能力を使うことが出来るとされておりますわ。しかし基本的に人間に比べて殺しにくい存在なのは確かですけれど、決して不死身というわけではありません」

 

「そうか、それを聞いて安心したよ。まぁ殺せる確信はあったんだけど、な」

 

 

 漢らしい台詞と共に、ぶらりと無造作に垂れ下げていた右腕のナイフを逆手に握り倒し、肉食獣のように体を曲げ、構える。

 一切の気負いなく、自然体。倫敦の両儀流の師範も立ち居振る舞いからして違ったけれど、やっぱり跡取りなだけあって式の構えも綺麗だ。

 

 

「いいぜ、大体は理解した。吸血鬼っていっても生きてることには変わらないってわけだ。

 ならオレがすることも変わらない。目の前に殺す相手がいるなら、殺すだけだ」

 

 

 獰猛な構えの中にも、流麗さがある。

 名乗りすら上げることなく、彼女は縮めた筋肉を一気に解放して閃光のように駆け出した。

 

 

「‥‥なんと、我が六百六十六の群体よりも獣らしい」

 

「なんとでも言いな、吸血鬼。———フッ!」

 

 

 疾風を通り越した、閃光。

 いや、その動きから受ける印象は流水というべきかもしれない。視界から消え失せるわけではなく、ただ滑らかに、反応できない速度で疾る。

 目で追えないわけじゃないのに、それに対応することが出来ない。そこには純粋な速度ではなく、技巧による“速さ”が存在していた。

 

 

「———ッ?!」

 

「ッ確かに速い、しかしそれだけだな」

 

 

 一瞬のうちにシュプールを残して十メートル以上も先に悠然と立ちつくしていたネロ・カオスへと間合いを詰めた式が振るった刃は、しかし吸血鬼には届かない。

 吸血鬼自身に届くはずだった刃は奴自身から湧き出て来た一匹の‥‥象。そう、巨大なアフリカゾウによってその刃は防がれた。

 

 

「って、アフリカゾウ?!」

 

「なんという質量を無視した使い魔‥‥っ! というより、やはりこれは使い魔の域を超えておりますわっ!」

 

 

 如何に両儀流跡取りの式とは言えども、その得物はナイフ。目の前に突然現れた巨大な象が相手では分が悪い。

 それでも一体どういう理屈かは知らないけど、明らかに刃渡りが足りていないナイフで、式は何とか象までは両断してみせた。けれど、ネロ・カオスまで刃は届かなかった。

 

 

「使い魔以外の‥‥吸血鬼としての固有能力?」

 

「好きに勘ぐるが良い、人間。どのみち私に出会ってしまったからには、貴様達が辿る運命はただ一つ。最早この場の何処にも‥‥逃げ場などない、ここが貴様達の終焉だ」

 

 

 大きく薙ぎ払ったナイフのせいで隙を晒した式の横っ腹を、ネロ・カオスの体から恐ろしい勢いで飛び出た豚‥‥と思しき生き物が、俊敏な動きと熟練した武技に見合わぬ細い身体を吹き飛ばした。

 

 

「‥‥ちぃッ!」

 

「ほう、先ほどからも感じていたが、良い動きをする。人間としては最高クラスの肉体を持っているようだな、興味深い」

 

 

 吹き飛ばされた式はくるりと一回転して着地、無傷で再び戦闘態勢をとる。

 ここに来て俺たちも、着地後にできる一瞬の隙を埋めるように式の両脇へと移動し、陣形をとる。コンビやトリオを組みなれた遠坂やセイバーと違ってルヴィアと一緒に戦うのはこれが初めてだけど、流石というべきか、俺と式の意を汲んで適格に動いてくれた。

 

 

「‥‥なるほど、そのナイフは概念武装か?」

 

「概念武装? そんな大したもんじゃあないよ、これは」

 

「解せぬ。我が獣を一刀両断してみせる技、単純に技巧と断ずるには不可解だが‥‥」

 

「ハ、なんだ意外に物知らずなんだなアンタ。いいぜ、じっくり見せてやるよ、好きなだけ考え事してな」

 

 

 続けてネロ・カオスの体から現れた数多の獣を、触れる傍から当たるを幸い斬り飛ばしていく。

 吸血鬼はその長身である体躯と歩幅を生かして大きく後退し続けながらひたすらに獣を生み出し続けていて、式はそれをひたすらに追い続ける。

 

 

「くっ、一人で突っ走るなよ式っ! ルヴィア、援護を頼む!」

 

「了解いたしましたわ! ミス・リョウギとシェロは後ろを気にせずネロ・カオスを!」

 

 

 背後と側面から迫って来ていた獣が炎の爆発に巻き込まれる。ルヴィアの投げたルビーの効果だろう。遠坂と違ってルヴィアの投擲は正確だ。

 遠坂が大粒の宝石ばかり使う———使わざるをえない———のに対して、ルヴィアはどちらかというと小粒の宝石を何の惜しげもなしにばら撒く戦い方をする。

 その分だけしっかりと狙いをつけて、適格に宝石を使っていくのが得意なのかもしれない。まぁ、推測だし、こんなの遠坂に言ったら大変なことになるだろうし。

 

 

「いくぞ、投影二連‥‥喰らい付けッ!」

 

 

 数えるのもバカらしくなるぐらい大量の獣を使役する相手に、寡勢での長期戦は不利。

 両手に持っていた双剣、干将莫耶を投擲、間合いを潰そうと今まさに飛び掛からんとしていた獅子の顔面に突き立つ。

 

 

投影開始(トレース・オン)、憑依経験、共感終了。

 工程完了《ロールアウト》、全投影《バレット》待機《クリア》。

 式、周りを気にせず突っ込め!」

 

 

 一瞬しか送れなかったはずなのに、既に二歩ぐらいは先んじて背中をこちらに見せる式へと叫ぶ。

 久々にかなりの負荷をかけた魔術回路が熱を持ったかのように悲鳴を上げるけど、普段から日常的にやっているように、意志の力で捻じ伏せた。

 

 

「———停止解凍(フリーズアウト)、全投影連続層写《ソードバレル フルオープン》ッ!!」

 

 

 二十七の回路全てが激しく火花を散らして———イメージに過ぎないけれど———魔力を迸らせ、頭の中で紡いだ設計図(イメージ)の通りに、空中に二十七の剣が現れる。

 投影した剣の軍団は、とても宝具などとは呼べないけれど、相手が吸血鬼であることから多少の魔力がこもった品を用意した。

 二十七、という数は少ないように聞こえるかもしれないけれど、実際に目の前にしてみれば決して少ないわけじゃない。むしろ、針の山と言っても良い。

 ましてや弾丸よりも遥かに大きな剣が、戦闘機のように宙に浮いているのだから、圧迫感は尋常じゃないはず。

 その二十七の剣群が、式の目の前で壁を作っていた熊やらサイやら大鷲やらに殺到し、屠殺する。

 

 

「何ッ?!」

 

「いい仕事だ、衛宮!」

 

「今だ、突破しろ式———ッ!!」

 

 

 二十七の剣群が式の前に立ちはだかっていた獣をまとめて掃討、本体であるネロ・カオスまでの道が開けた。

 式が持っている謎の、よくわからない力。どんな獣でも一撃で一刀両断にする力を持っている式が攻撃の要になると、俺は直感的に悟る。

 だからこその、この活路。如何にネロ・カオスといえども途切れなく制限なく、次から次へと獣を生み出せるわけではない。だから一気呵成に敵数を減らして、式のための血路を開くのだ。

 

 

「覚悟しろ吸血鬼‥‥!」

 

「小癪! 下等な人間風情が‥‥我が血肉となるが良いっ!」

 

「式!」

 

 

 大型の強力な猛獣を出すには間に合わなかったようだけど、それでも意地か、ネロ・カオスはコートの内側から何羽もの鴉を召喚する。

 目は真っ赤に光り輝き、嘴は鋭く、槍のように尖っていた。まるで鏃だ、いくら鴉でも、あれが直撃したら痛いじゃ済まされない。式は大きく身体を捩って何匹かを躱し、残りは右手のナイフで斬り払う。

 

 

「よくぞ躱した‥‥が、残念だったな、目論見が外れて」

 

「ふん、そうでもないさ‥‥」

 

「‥‥む?」

 

 

 ゆらり、と式の身体が貧血でも起こしたかのようにフワリと傾ぐ。

 あまりにも自然なその動き、当然のことながら決して貧血なんてものじゃないし、足を縺れさせたわけでもない。

 

 横へとスライドした式の背後から、一瞬の隙を突いて突進。

 両手に構えるのは数年の間にすっかりと愛剣となった干将莫耶。完全に手になじんだ双剣を両手に、姿勢は低く、大地を舐めるように駆ける。

 

 

「くっ、貴様っ?!」

 

「おおおおぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 

 身体を大きく捻り、駆けて来たスピードと足から伝わる全ての力を上半身へ、胸へ、肩へ、腕へ、そして手首の先の剣へと伝達させる。

 単純に斬るのではなく、こうして全身の力を伝えることで斬撃の威力は途方もなく上がる。

 いくら相手が吸血鬼とはいえ、式に集中していた状態で、その背後から急襲してきた俺に咄嗟に対応するのは難しいはず。

 自分の一瞬前の判断を信じて、突進する。

 

 

「喰ら、えぇぇ!!」

 

 

 急所を守るように前に出した右腕を左手の干将で斬り払い、ガラ空きになった胴体を右手の莫耶で袈裟がけに斬りつける。

 確かな感触。完全に不意を突いた斬撃は刃渡りいっぱいに猛威を振るい、ネロ・カオスの体を両断‥‥とまではいかずとも、かなりの深手を負わせた。

 

 

「やったか?!」

 

「いやダメだ、跳べ衛宮ッ!」

 

「なっ———うわぁぁあ?!」

 

 

 確かな感触に振り返り、戦果を確認しようとした瞬間、式の叫び声が聞こえるや否や脇腹に鈍痛を感じ、俺の体は痛みを感じたのとは真逆の方向へと恐ろしい勢いで吹き飛んだ。

 

 ぐわんぐわんと痛みに揺れる視界で確認すると、俺が今さっきまで立っていた場所から少し離れた場所に、足を振り切った姿勢から更にステップを踏んで間合いをとったらしい式の姿。

 そして俺がいた場所そのものには、体を大きく破損した状態のネロ・カオスの体から飛び出した、大大きな顎を今まさに閉じた状態の鰐の姿があった。

 

 

「何———ッ?!」

 

「‥‥良い斬撃だった、人間。しかし、やはり貴様らでは私をコロスことなど出来ん」

 

 

 再び戦闘体勢をとった俺たちを小馬鹿にするかのように、ネロ・カオスは両断されたままの体で凶悪な笑みを浮かべる。

 ‥‥バカな、いくら吸血鬼が相手だとしても、ここまで決定的な傷を受けて笑っていられるなんてありえない。人体の構造なんてことを吸血鬼相手にk血合いするわけじゃないけれど、それでもこれは不可解だ。

 何せ俺の持っている双剣は紛れもない宝具で、流石に聖堂教会の代行者が使う黒鍵のような対吸血鬼用の武器じゃないにしても、秘めている神秘は桁外れ。

 宝具としてのランクは低いとはいっても、それでもまともに斬られて平気な顔をしていられるような代物じゃない。

 

 

「その剣、現存する宝具か。何者かは知らぬが、たいした武器を持っているな、小僧」

 

「嘘でしょう?! いくら何でも宝具で斬られてダメージが無いなどということはありえませんわっ!」

  

 

 ルヴィアが悲鳴じみた声を上げ、それを聞いたネロ・カオスはさらに笑みを深くした。

 渾身の一撃を防がれたことに、憤りとかそういう個人的な感情はない。けれど、そこには間違いなく驚愕が存在している。

 無傷‥‥いや、それはあまりにもおかしいだろう。俺自身の技というならともかく、相手は宝具なのだから。

 

 

「いや、貴様の言うところのダメージならば存在している。現存する宝具‥‥私も想定していなかった。

 しかし貴様たちと相対する“ワタシ”をいくら傷つけても、意味はない。‥‥このようにな」

 

「な‥‥ッ?!」

 

 

 口を開いたネロ・カオスの体が、液体と化してドロリと溶ける。

 気が付けば、いつの間にやらネロ・カオスの足元には池のような黒い泥の塊ができていて、そこに式や俺に斬られた獣たちが集合している。‥‥泥となって。

 

 

「‥‥どういうことですの」

 

「我は“混沌”、ネロ・カオス。

 この混沌たる我が身は個にして個にあらず。群にして群にあらず。

 乃ち我が身は一つの混沌であり、貴様らが目前にいるワタシは群の、いや、泥の中の一雫に過ぎん。例え傷を負い、戦うことが不可能になったとしても、また混沌の中へと戻れば良いだけの話」

 

「なん‥‥だと‥‥ッ!」

 

「我は個ではなく、六百六十六の獣の集合体。全てが個であり、個が全て。

 故に私を倒したければ、六百六十六のワタシ全てを一度に滅ぼさなければならない。表層に出てきている数百の獣の壁と、その内側にいる数十の幻想種、そしてネロ・カオスという吸血鬼自身をもな‥‥」

 

 

 一瞬だけ発生した思考の空白。そしてその後に訪れたのは、絶望にも近い色を含んだ驚愕の波濤。

 相手が必ず事実を言っているわけではないだろう。しかし一抹の真実を含ませているだろうことも、口調から予想出来る。仮に虚言を口にしていたとしても、すなわち正攻法が通じない相手だということには変わりない。

 

 

「‥‥奴の体から絶えず湧き出で続ける獣を押しのけるだけの威力を持った広範囲攻撃、それも獣だけではなく、吸血鬼である奴自身の強靱な肉体と魂をも殺し尽くすだけの威力でなければならないと、そういうことですわね」

 

「俺の投影できる宝具でも、そこまでの威力は‥‥」

 

「‥‥ビームみたいなものでも、撃てばいいってのか? バカバカしい」

 

 

 おそらくルヴィアの条件に一致する宝具なんて、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ぐらいしか考えられない。

 けど、あれは俺には過ぎた宝具だ。星が作った兵器なんて、人間に過ぎない俺には少々手に余る。

 だとすると他の宝具に頼らなきゃいけないけれど‥‥正直、俺の中にある剣の丘には、それだけの威力を持った宝具は他に『偽・螺旋剣(カラドボルグ)』ぐらいしか見あたらなかった。

 

 

「さぁ、喰らえ」

 

「みんな避けろッ!!」

 

 

 とぷん、と泥に潜ったネロ・カオスが次の瞬間には、元通りの姿で浮き上がって来る。

 そして再び奴の体から飛び出してきた獣の群れを前に、ルヴィアも式も、俺の叫び声を聞くまでもなく飛び退って各々戦闘態勢をとった。

 

 

「これはまた、正真正銘の化け物ですわね! 貴方のような大物が、何故このような片田舎に‥‥?!」

 

「確かに、私自身も想像してはいなかった。このような茶番に駆り出されるとはな、耄碌したものだ。いや、状況がこうさせたと考えるならば、それはもはや私自身にはどうしようもない世界の流れなのかもしれぬ」

 

「‥‥何を言ってやがる?」

 

「貴様らは何を聞きたい? 私がこの、極東の島国に来ることになった理由か? それとも私が、いや、“貴様らがこの場所にいる理由”か?」

 

「ッ?!」

 

 

 一瞬途切れた獣の波濤、その間から重要な台詞を口にした。

 しかしすぐにまた現れる獣の弾丸に、問いただす隙は消えて失せる。相手は動物とはいえ、まうで軍勢だ。こんなもの、たった三人で相手にする敵じゃない。

 

 隙を見て弓を投影して矢を放つけど、それでも刺さった矢は何事もなかったかのように抜けてしまう。

 ダメージが無かったわけではないだろう。けれど、刺さった端から傷が治る‥‥いや、泥で埋められていく。

 仮に『偽・螺旋剣(カラドボルグ)』や『赤原猟犬(フルンティング)』を使ったところで、一欠片でも残ってしまえば再生するに違いない。

 それに威力の大きな宝具を使う時には、魔力の充填が必要だ。決して長い時間ではないけれど、それでも獣の軍勢が相手では簡単にいきそうにはないだろう。

 

 

「私とて、今の状況を理解しているわけではない。私の主観時間においては、連続した時間の中にいるように感じていた。

 当初の目的と、貴様らとの遭遇は全く違う。予期していなかった‥‥と言い切っても構わん。そこに何者かの思惑が介入していることは感じるが‥‥どういうことなのだか」

 

「‥‥?」

 

「いわば今の私の存在は、自然災害のようなものなのかもしれん。ただ現象として存在する‥‥それも、ネロ・カオスというキャラクターではなく、パーソナリティを召喚したのだと」

 

「ぱーそ‥‥なりてぃ?」

 

「そこまで貴様ら人間に説明してやることもなかろう。貴様らに出来ることはただ一つ、我が血肉となり果て、自らの足を食み、自らの脳漿を啜ることである」

 

 

 例えば強大な魔力とか、例えば広範囲を襲う回避不可能な範囲攻撃魔術(マップ兵器)とかは、分かり易い戦力の差だと思う。セイバーみたいに、抜群にずば抜けた騎士とかも個人戦力として侮れないと、いつかセイバー自身に戦術指南を受けた時に教わった。

 けれどネロ・カオスはそれとは百八十度違う方向に特化した戦力だ。

 すなわち物量と、不死性。どれだけ一個一個が弱小な存在だったとしても、相手側の物量が自軍の十倍を超えているとなると相応の苦戦を強いられる。

 

 戦闘、という点において俺よりも遙かに勝る経験を持つらしい式がアシストとして突破口を開き、そこを狙って俺が矢を打ち込んだり直接に斬り込んだりするが、全く効いた様子はない。

 

 それも当然、前提条件からして真っ向からのぶつかり合いでは倒せるはずのない相手なのだ。

 ‥‥本来ならば、それがどれだけ腹立だしいことではあったとしても、尻尾巻いて逃げ出すのが最良の判断ってもんだろう。

 猪突猛進は悪い癖だって、さんざん遠坂からも言われたしな。状況判断はこの二年ぐらいの間に、随分とまともなレベルに達しているだろう。‥‥それを許容できるかどうかは別として。

 

 

「———けど、逃げられねぇんだよなぁ!!」

 

「当然だ、先に行ったはずだぞ? ———逃げ場などない、ここが貴様らの終焉だと」

 

 

 純粋に戦力だけを比べるなら、突破するのは不可能じゃないかもしれない。俺と式が先頭に立って両側面の敵を駆逐し、その穴をルヴィアの爆撃で広げていく。これが王道の戦術だろう。

 けれど戦場の離脱を敢行しようとするならば、ネロ・カオスの体から飛び出した足の速い猛獣や猛禽類たちに足止めされ、その隙に鈍重な大型の獣たちで壁を作られてしまう。

 ‥‥なんとも考えられた布陣だった。正直、本当に正攻法では勝ち目がないだろう。

 

 

「くっ、本当にキリがございませんわね‥‥ッ!」

 

「ルヴィア、宝石の残りは大丈夫か?!」

 

「万年貧乏性のミス・トオサカと一緒にしないで下さいませ! ‥‥とはいえ小粒の宝石の残りが少ないですわ。先までのように、穴を広げるために無駄撃ちするような数はございませんわよ!」

 

「ちくしょう、これじゃジリ貧だ! どうにかならないか‥‥!」

 

 

 ばったばったと獣を薙ぎ倒し、もはや単騎でいったいどれだけの獣を屠ったことか。

 それでも敵の数は衰えるところを知らず、否、むしろ今までよりも遙かに勢いを増して俺たちを攻め立てる。

 相手は無限。数というよりも、藤ねぇやロード・エルメロイが時々持ち込んでくるSTGゲーム風に表現するなら、残機が無限とでも言うべきか。

 そんな奴相手に、残弾制限がある俺達が長期戦を挑んでは、勝ち目がないのも自明の理。なにしろ相手は、死ぬ度に残弾がリセットされるようなものである。

 

 正直、自分でも口にしたように完全なジリ貧状態だ。

 思い返せば聖杯戦争の時だって、こんな消耗戦を強要されることは殆ど無かったように思える。例えばギルガメッシュとの戦いだって、結局のところ俺が終始攻めの姿勢を崩さなかったしな。

 

 じりじりと、自分の神経を制御する集中力が削れていくのが分かる。

 果てのないという紛れもない事実が、存外に精神に対しての消耗を強いているんだろう。とにかく普段の稽古よりも、疲れる。世界最強レベルのセイバー相手の修行なのに‥‥って、よく考えたら今目の前に対峙しているネロ・カオスだって、間違いなく世界最強レベルの一角だったか。

 

 そういえば死徒二十七祖の第十位から先は、全ての死徒が何らかの方法で不老不死を実現していると聞いた記憶がある。

 もちろんそれが確かな情報かどうかは分からない。けれど、それなりに素因票聖があるというのも事実だ。何せ連中、数百年なんて年月は軽く超えるぐらいの神秘を単独で積み重ねてやがる。数百年以上の噂は、もはや一抹の真実を含んでいてもおかしくない。

 

 

「‥‥もう我慢できないな」

 

「え?」

 

 

 手札は、ある。けれど、それを切ることの出来るタイミングが無い。

 そんな状況に不安を感じ始めた頃、式が辛抱堪らんといった様子で口を開いた。

 

 

「衛宮、さっきまではオレが援護してたけど、逆にするぞ。オレが前に出るから、お前は小物がオレに近づかないように援護しろ」

 

「ど、どういうことだよ式?!」

 

「このままじゃ埒があかないって、言ったのはお前だろ?

 オレも我慢の限界だ、そろそろ決着を付けようと思ってさ。衛宮には任せておけないから、オレが手本を見せてやるよ」

 

 

 雰囲気が、変わる。

 式がその身に纏っていた雰囲気が一変し、まるでその場を冷徹に支配するかのように染み出して来る。

 まるで今までの戦いは様子見、児戯だったとでも言いたげに、ネコ科の猛獣のようだった式の体が弛緩して、捉えようもないぐらいに脱力。

 一歩、一歩の歩みには一切の重量を感じられず、その体は空気と同化。

 ゆっくりと持ち上がる腕も同様に質量を消失、それはゆらりと空気の揺らめきであるかのように、意識を集中させなければ見て取れないほどに自然な動作。

 

 

「ぐ‥‥おぉ———?!」

 

 

 ここまで、式の動いた軌跡を辿ることしか、俺たちには出来なかった。

 すべては式が動き終わってから、辛うじて『その事実が存在したのだ』と認識できる程度。

 決して早いわけでも、速いわけでもない。爪先の端から頭髪の先まで、全身が自然に稼働してこそ可能な神業。

 

 自らの発言により一瞬だけ膠着、固体化した空気の隙間を進んでいく気体。

 今までは固体と固体、百歩譲っても液体と液体のぶつかり合いだったのだから、それに比べれば気体と化した式が先へと進むことの何と簡単なことか。

 

 

「———なんだ、殺せるじゃないか」

 

 

 完全に虚を突かれたネロ・カオスは式に懐までの侵入を許し、わずかに回避が遅れる。

 その分だけ式の刃は届く。本能に迫られて飛び退さったネロ・カオスの左手の指が、軒並み式の刃によって斬り飛ばされた。

 

 

「不死身だの軍勢だの何だの言うから試しに斬ってみりゃ、言うほど大したもんじゃあない。やっぱりお前は、死人が寄り集まっただけの無様な存在だよ、吸血鬼。

 だって、ほら、“こんなにも脆い”」

 

「人間‥‥貴様、何をした———ッ?!」

 

 

 すぐさま泥に戻って、塞がれるはずのネロ・カオスの傷が、塞がらない。

 未だかつて遭遇したことのない事態なのだろう。自らの傷口を目にしたネロ・カオスが浮かべたのは、驚愕と称するには生温い凶相だった。

 

 

「何をしたって、殺しただけだよ」

 

「殺‥‥す‥‥?」

 

「オレには線が見えるんだ。それはモノの壊れやすい線みたいなものでさ、そこを刃物とか、そういうものでなぞってやれば、殺される(コワレル)のは自然の摂理ってもんだろう?」

 

 

 反撃を警戒して間合いをとった式が、手に持ったナイフで虚空をなぞって見せる。

 きっと彼女には言葉の通り、すべてのものに“線”が見えているのだろう。そしてそれをナイフでなぞると‥‥なるほど、さっきまでアフリカゾウなんて明らかにナイフの刃渡りよりも大きな相手を両断してみせたようになると。

 ‥‥なんだそりゃ、俺が言うのも何だけど、人間が持てる能力の範疇を超えてるぞ?!

 

 

「まさか貴様、それは『直死の魔眼』‥‥ッ?!」

 

「なんだ、知ってるんじゃないか。前言は撤回してやるよ、吸血鬼。アンタ意外に博識だ」

 

 

 ヒュン、と手に持ったナイフを一回転、順手から逆手に持ち替える。

 即ちそれは戦闘態勢の証。ゆらりと、また式の体が空気に同化していく。

 

 

「‥‥さぁ殺し合おうぜ吸血鬼。オレの刃は、アンタに届くぞ」

 

「戯くな人間‥‥! この身は混沌、ネロ・カオス。原初の秩序たる混沌の沼、斬れるものなら斬ってみろッ!!

 知るがいい、我が系統樹には貴様らの想像を遥かに凌駕する幻想種が存在していることを‥‥!」

 

 

 もはや油断は誰にだって存在していない。

 ネロ・カオスの体から、蜘蛛と蠍と蟷螂と、とにかく凶悪な風貌をした昆虫が幾種類も組み合わさったような巨大な化け物が姿を現す。

 

 あれはネロ・カオスの中に渦巻く獣の因子が組み合わさって生み出された化け物。確かに、俺たちの紡ぎ得る幻想の範疇を優に超えた正真正銘の怪物だ。

 この世に存在しない、いわば敵対心と恐怖の権化。ネロ・カオスという吸血鬼が俺たちに向ける敵意のすべてを凝縮したら、ああなるんだろうか。

 『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)』を使って、なお勝てるかどうか分からない化け物が、一匹、いや、さらに次々と湧き出てこようとしている。

 

 

「‥‥おい衛宮、ルヴィアゼリッタ」

 

「何か言いたいことでもございまして?」

 

「流石にあんなキワモノが飛び出してきちゃ、オレも真っ向から突撃するわけにもいかない。援護を頼む」

 

「へぇ‥‥式からそんな言葉が出るとは」

 

「なんだ、オレのことそんなに知ってるわけじゃないだろうに、なんだよその言いぐさは」

 

「いや別に、ただ式ってそういうタイプの性格してるように見えなかったからさ‥‥。それがどうってわけじゃあないよ、むしろ安心した。任せてくれ。

 式の両サイドにはアリ一匹通さないさ。何が何やら分からないけど、とにかくネロ・カオスは任せた!」

 

「‥‥はぁ、直死の魔眼とやらが何なのか、疑問符は尽きないところではありますが。しかしショウと旧知の仲である貴女がそう仰るなら、一つ賭けに乗ってみましょう。出し惜しみは致しませんわよ、エレガントにエーデルフェルトの実力を見せつけて差し上げますわ」

 

 

 本気になったネロ・カオスが相手では、さっき神業を見せつけてくれた式でもキツイだろう。

 だからこそ、ここは俺たちが、今度は代わりに式の為に血路を開く。正直まったく意味が分からないけれど、それでもネロ・カオスに届くらしい式の刃を、奴の懐まで送るために。

 

 ただ目の前の敵を排除する。

 その時の俺たちにはそれしか考えるところがなかった。なにせ目の前の敵を何とかしなければ、命が危ない。どれだけ相手は危険だったし、俺たちにも余裕はなかった。

 

 けれど、そう、俺たちの最初の目的は浚われた紫遙の救出だったはず。

 つまるところ今の俺たちは、俺たちがおかれた状況をしっかりと理解するべきだったんだ。‥‥もちろん、今の状況がそれを許さないだろうというのは、簡単に想像できることだが。

 

 

「———ああそうだ、こんなところで手間取ってる場合じゃないってのによ‥‥!」

 

 

 すでに慣れた弓の投影をゼロコンマ秒でこなし、疾風のように進む式の側面から這い寄って来た巨大なトカゲを貫き倒す。

 横でルヴィアがエメラルドを投げて突風を巻き起こし、地面が海であるかのように飛び出してきた、全長が軽く8メートル、あるいは10メートルもあろうかという巨大な人喰い鮫(ホオジロザメ)をズタズタに引き裂いて宙に撒き散らした。

 

 

「ですわね。身動き取れない程度に痛めつけて、色々と吐いて頂きますわ!」

 

「やってみせるがいい、六百六十六の獣を乗り越えて、な」

 

 

 暗闇に光る無数の瞳。

 それが俺たちを喰おうと敵意を向けてきている。殺される、ではなく捕食される。これには生物としての根源的な恐怖が存在していた。

 けれどその恐怖を押し込め、俺は弓を握る手に力を込め、続けざまに投影した三本の矢を一直線に放つ。

 

 目の前にいるのは強大な吸血鬼。世界最強の一角。

 けれど俺は、俺たちはこんなところで死ぬわけにはいかない。やらなければならないことが、まだ山ほどあるんだ。助けなきゃならない友人がいるんだ。

 

 圧倒的な咆声を前に、三人は駆け出す。

 それはたとえて言うならば、魔王に立ち向かう勇者のパーティ。

 ‥‥まぁ、そこまで格好良くはないだろう。けれど、少なくとも候補に挙がるぐらいには十分な光景だったんじゃないかと思う。

 

 何しろホラ、俺たちが勇者かどうかは置いておいても、

 

 相手は間違いなく、

 

 魔王と称されてもおかしくないバケモノだったんだからさ。

 

 

 

 

 81th act Fin.

 

 

 

 

 



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第八十一話 『工場長の激戦』

登場人物紹介に、挿絵を追加しております。
pixivにて活躍中の明智あるく氏と、“東方鼬紀行文”で著名な辰松氏から頂戴いたしました。
お二方、ありがとうございました!


 

 

 side Azaka Kokuto

 

 

 

 魔術師が戦闘者である必要はない。

 

 例え、その魔術師が戦闘に用いることが出来る魔術を、戦闘において有利になる魔術を会得していたところで、その魔術師が戦闘者でないならば如何なる価値があるだろうか。

 魔術師にとっての魔術とは目的であって、手段ではない。魔術は研鑽することが目的であって、それを手段として何かに用いることは、そもそも発想として存在しない。

 魔術を手段として用いるものは魔術使いと呼ばれ、魔術師からは蔑まれる存在となるのだ。

 

 わたし、黒桐鮮花は魔術師だ。

 いや、確かに魔術師かと言われれば結構疑問かもしれない。なにせわたしに魔術師として必須な魔術回路は存在しないし、ならばわたしに魔術師の最終目標である根源に到達する資格はないのだろう。

 魔術師として生きることの出来ないわたしは、魔術使いなのだろうか。それでもわたしは橙子師から魔術師としての修行と心構えしか教わってないから、きっと中途半端なまま生きていくんだろうけれど。

 もしかしたら、わたしみたいな者は真っ当な魔術師から見たら許し難い存在なのかもしれない。

 

 ただ一つ言えるのは、少なくともわたしが受けた教育自体は誰はばかることなく一流のものだったと、断言できるということ。

 何せわたしの師は封印指定の人形師、蒼崎橙子。人形(ヒトガタ)を極めてしまった天才魔術師。誰もが認める、押しも押されぬ日本という極東の辺境に生まれた鬼才。

 彼女の指導を受けているといえば、誰もが一目置くことだろう。もちろん虎の威を借る狐というのは好みじゃないけれど、わたしはそれを誇りたい。

 だからこそ、彼女に魔術師として指導を受けたわたしは、その一点においてのみ魔術師である資格は存在していると思う。

 

 そんなわたしは、橙子師の指導の下でいくつかの荒事を経験している。

 ただ、荒事といっても本当にたいしたことがないものばかりだ。一番激しかったのは私の通っている礼園女学院で起こった、統一言語(ゴドーワード)の事件だけれど、あれも実際、黄路先輩自身が戦闘者でなかったこともあり、命をかけた戦いというわけにはいかなかった。

 あの妖精は数こそ暴力だったけれど、そもそも戦闘に向いている能力ではなかったことだし。私の焔を一振りするだけで消えるんじゃ、相手として不足だろう。

 ‥‥何よりわたしが煤まみれで戦っている間、式はもっとヤバイ統一言語(ゴドーワード)と戦っていたというのだから、この事件に対するわたしの貢献度にも疑問符が生じてしまう。

 もっともわたしはあの事件に対しての自分の働きに自信を持つことが出来るけれど、誇れるかっていうと‥‥それはまた別問題よね。

 成長は、ただ怠惰に日常をこなしているだけでは訪れない。

 例えば筋肉トレーニングなんかは顕著にそれを表しているだろう。腕立て伏せを百回できる人が、百回の腕立て伏せを毎日続けたところで今よりも強くなれるわけじゃない。

 強くなりたいなら、成長したいのなら百回ではなく、百十回、百二十回、百五十回の腕立て伏せをこなさきゃダメなのだ。今の自分の限界を超える意志を見せて、ようやく人は成長するための資格を得る。

 

 戦闘者でない黄路先輩は勿論、他の依頼でフルボッコにした関係者も、どれも残念な連中ばかり。わたしのテコンドー(我流)と焔にかかれば造作もなく捻ることが出来た。

 それは別に傲慢とか慢心とか、そういう類のものじゃないと自分でも言える。保有している力の差が純粋に大きいが故。

 誇ることでもないし、自慢することでもない。ただの事実に、感情が入り込む隙間なんてない。

 

 だからわたしは戦闘において、自分に最適だと思っている一つの手段しか取ることが出来ない。

 それは決して数多の戦闘経験によって培われたロジックというわけでもなく、ただのテンプレートのようなもの。

 勿論やろうと思えば、わたしが持っている焔の魔術という武器を戦闘に適したように磨き、戦闘技術を会得することも出来る。というかそれはそこまで難しいことではないし、元よりわたしの魔術は戦闘に向いている方だと言える。

 

 けれどそれは魔術師の在り方じゃないから。わたしはそれをやらない。

 一応少しばかりの護身術を見につけているし、護身が出来るぐらいには魔術の行使を考えてはいるけれど、それでも魔術師に戦闘は不要、考えることすら不純であることには違いない。

 だからこそわたしの戦闘は、その場での試行錯誤が基本になる。必勝法というか、スタンダートな戦い方から、その場で相手の出方を伺いながら戦法を変えて行く。あまり優雅とはいえない、ゴリ押しにも近い戦い方だ。

 魔術を効率よく行使する方法は知っていても、それを効率よく戦闘に利用することは知らない。これが魔術師の正しい在り方、というよりは、正しい在り方によって導かれる当然の結果と言うべきか。

 

 

「‥‥だからって、ここまで相手のセオリー通りに振り回されるのも腹が立つわね」

 

 

 本当なら戦闘に縁がなくて然るべきわたしが、こんなところ‥‥戦場に立っている。

 そして目の前の男は、わたし達の倒すべき敵は、あまりにも強大かつ洗練されていた。

 

 

「ハーッハッハッハ!! どうしたんだアオザキの弟子?! そんなちゃちな焔じゃ私に火傷一つ負わせることも出来ないぞ?!」

 

「やっかましい! さっきからケタケタケタケタ煩いのよ、この変態装束魔術師がっ!!」

 

 

 閃光と共に、わたし達は何故か今までとは全く別の場所に立っていた。

 硬くてスベスベしたリノリウムの床。そしてホールのような、二階分くらいを吹き抜けにして作られた広い空間。

 目の前にはさっきまでいた城の広場みたいに階段と踊り場が据えられていて、趣味が良かった絵画はおぞましい、ぐちゃぐちゃした君の悪いものに差し替えられていた。

 全体的な印象は淀んだ赤。照明も赤くなっており、先ほどまでの中世の城とは一線を画する。

 まるで美術館のような、地獄か何かをイメージして展示を選んだ趣味の悪く低俗な美術館のような場所だ。少なくとも、この場所を好きになれる者はいないだろう。いたとしたら、相当に精神が歪んでいるに違いない。

 

 

「どうした、そんなものかねアオザキの弟子ぃ? まったく期待外れだな。アオザキの奴ならもっと上手くやったろうに‥‥所詮ヤツでは出来の悪い弟子を育てるのが精いっぱいというところ、か」

 

「喧しいっつってんでしょうが変態! 悪趣味なコート着て、存在が目に痛いのよっ!」

 

「変態‥‥?! くっ、やはり師が師なら弟子も弟子だな! あまり調子に乗ると黒焦げにしてしまうぞ小娘がっ!」

 

「やれるもんならやってみなさいよ! いちいち勿体付けて、苛々すんのよアンタ!」

 

 

 これ以上ないぐらいに勿体つけて、わたし達の前にその男は現れた。

 一言で形容するならば、赤。古風なコートに時代錯誤なシルクハット。堅苦しいベストにループタイと、世代と時代を完全に間違った服装は嫌味なぐらい似合っていたし洒落てもいたが、目に痛い赤で統一されていたが故に違和感と残念感が漂っている。

 男としては随分と長い金髪と欧州風の顔立ちは以前に会う機会があった時計塔の名物教授、ロード・エルメロイを彷彿とさせるが、顔に浮かんだ他人を蔑む笑みが決定的に人柄を分けていた。

 自分より能力の低い人間を見下す、優越感に浸るタイプの人種。はっきりいって気に入らない、というよりこのタイプの人間を好きな人はいないんじゃなかろうか。

 

 

「Azolt———ッ!」

 

 

 自分の中に眠る異能へと干渉(アクセス)する詠唱と共に、掌に意識を集中。

 生み出されるのは、真っ赤な焔。魔術回路を持たないわたしが唯一扱える異能。橙子さんをしてすでに焔の扱いのみに関して言えば上まった評価してくれている攻性魔術は、鉄板だろうとものの数秒で溶かしてしまうぐらいの威力がある。

 今までは自分の掌の周りぐらいにしか顕現出来なかったけれど、修行の結果、火球のように飛ばしたり火焔放射をしたり出来るようになっていた。

 

 

「AnImaTo———ッ!!!」

 

 

 掌の焔が、詠唱に応えて大きく燃え上がる。

 わたしの魔術は『焔を操る魔術』ではなく、『発火の魔術』だ。

 大気に発火してもらう、対象に発火してもらう、といったプロセスを踏むので、実は魔術師をあいてにするときの攻撃力はそこまで高くない。

 なぜなら抗魔力が基本的にそれなり以上にある魔術師が相手では、発火してもらうというわけにはいかないからだ。

 

 故に大気を発火させ、間接的な手法で攻撃する。

 わたしの掌に顕現させた焔を対象に着弾、そこを火種にして大きな焔を巻き起こす。

 大きく振りかぶった掌から振り払うようにして火球が離れ、赤コートの魔術師に向かって一直線に飛んでいった。

 

 

「———Go away the shadow《影は消えよ》」

 

 

 一言、赤コートの魔術師が勿体つけた笑みと共に呟いた、たったの一言。

 その何の造作もない芝居がかった一言だけで、わたしが放った火球を遮るように、魔術師の前に高い天井まで焦がすかのような火柱が湧き上がった。

 

 

「‥‥信じられない、トンデモないわねこの変態」

 

「誰がっ! 変態だっ?!」

 

 

 わたしの焔を完全に吹き飛ばしてしまう程の、圧倒的な威力を秘めた焔の柱。

 たった一小節の詠唱で、いとも簡単に生み出したそれは、一瞬でかき消えるがそれで十分に過ぎる。

 

 

「クク、わたしの高速詠唱の味はどうかね、アオザキの弟子?」

 

「‥‥煩い変態」

 

 

 今まで見たこともない、高速詠唱。

 普通に詠唱すれば数秒かかる魔術の詠唱を、特殊な方法を使ってゼロコンマ秒に短縮、恐ろしい威力の魔術を高速で発動することが出来る。

 もちろん簡単なことではない。しかし熟練した魔術師ならば、これほどまでの高速詠唱も可能。

 そもそも詠唱を重視しない橙子師や、詠唱と自己暗示が極端に長くて実用性に乏しい紫遙はあまり重要視していない技術だから、もともと詠唱が短くて高速詠唱の実用性がアレしてるわたしも同じく重用することはないかと思ってたんだけど‥‥。

 

 

「正直ヤバイわね、こいつ」

 

「鮮花、大丈夫?」

 

「大丈夫じゃないわ、問題よ。ここまでやるとは思わなかったわ。化け物とまではいかないけど、わたし達の適うギリギリのレベルの相手よ」

 

 

 傍らに駆け寄って来た腰まで届く長い黒髪の女の子、浅上藤乃が心配そうに声をかけてくる。

 その隣で油断せずに赤コートの方を伺う姉妹弟子、間桐桜も併せて二人には敢えて手を出させず、わたしだけが矢面に立ったのには相手の戦力を把握するという思惑もあったから、心配そうにしているのも当然だろう。

 

 ‥‥結論。相手はわたし達のレベル、未だ時計塔の学生程度が良いところというわたし達ぐらいの魔術の腕とは、まったくもってレベルが違った。

 橙子師に匹敵‥‥とはいかなくとも、それに準ずる腕前だ。おそらくは時計塔の講師から教授ぐらいのレベルにはいる。

 

 

「‥‥純粋に速度そのものを加速する特殊な高速詠唱、そして自らの属性に特化した、最適化された魔術行使」

 

「その通りね。ただ単純に魔術の行使という話に限定するならば、わたし達と比べることなんてお話にもならないわ。もちろん桜の、ちょっと特殊な属性を考慮にいれても、ね」

 

 

 所詮は超能力者という理屈の伴わぬ異能者である藤乃に代わり、多少偏ってはいるけれど、しっかりと魔術師として修行を受けて来た桜が答える。

 魔術師の扱う技術として考えた場合、赤コートの使う技術は高速詠唱一つとっても、さほど真新しく新鮮なものというわけではない。

 どちらかといえばスタンダートな、悪くいえばありきたりな技術。ただ真っ当にそれを磨き続けて、真っ当に進化した結果としての、この速さ。

 あまりにも正当過ぎる魔術師。だからこそ、邪道な魔術師、魔術使い寄りであるわたしとの差が際だつ。

 

 

「‥‥どうするの鮮花? どうして私達が突然こんなところに連れてこられたのかは分からないけど、紫遙さんを救出するっていう本来の目的を考えると———」

 

「もちろん、こんなところで油売ってる場合じゃないわ。とっとと目の前の変態ブッ飛ばして先に進むべきよ」

 

「問題は、それが出来れば苦労はしないってことでは?」

 

「そんなこと分かってんの! 仕方がない、やるわよ藤乃、桜!」

 

 

 後ろに控える友人二人と共に腹を括る。

 なぜ、突然こんなところに現れたのかは分からない。あのとき、足元に浮かんだ謎の魔法陣が関係していることだけは間違いないだろうけれど、それでも相手の意図を感じるには、わたし達では若干思考能力に不足がある。

 たぶん、おそらくはあまりにも人数が多すぎたわたし達のパーティを分断させるという意図はあったんだと思う。けどそれ以上が分からない。

 分断した先でわたし達を各個撃破しようとしたのか。であるならば、わたし達がとるべき手段はどれほどのものがあるんだろうか。

 目の前の敵を倒せば、それで終わるんだろうか。倒したところで、この空間が何に由来して創造されたかによって、話は変わる。

 たとえば目の前の存在が作り出したものだとすれば? この場所は現実空間に隣接する仮想空間なのか、それとも噂に聞く固有結界のように、現実世界に投影したものなのだろうか。

 目の前の敵を倒すことで、わたし達が空間の崩壊に巻き込まれてしまう可能性はないのだろうか。そんなことを考えるときりがないし、それに戦闘中にのんびりと思考していられるほど余裕があるとも思えない。というか、現にない。

 

 

「とにかくこのいけ好かない魔術師をコテンパンにしちゃうわよ。わたしがメインで、桜はサブ。藤乃は様子を見て、隙があったらキメちゃって」

 

「分かったわ」

 

「任せて」

 

 

 戦力分析。

 わたしが使えるのは『発火』の魔術ただ一つ。

 多少の応用が利かないことはないけれど、他の魔術師たちからしてみれば随分と融通の利かない能力で、しかもこと炎の威力だけを比べるならば完全に相手に分がある状況。正直、かなりの劣勢と言わざるを得ない。

 ただ相手が底を見せていないのに、諦めてしまうのも当然愚策。ならば可能な限りこちらの手と底を見せないようにしながら、相手に数多くの引き出しを出させるために、既に初手が割れてしまっているわたしが積極的に戦いに行くべきだ。

 

 そして桜。

 蟲使いの技と、虚数属性の魔術は希少かつ強力。

 特に顕現させた影を用いる二次元的な攻撃は防御が困難で、出来ることも多い。その反面リスクも多く、諸刃の剣。逆に威力に関しては特筆するほどのことはないけれど、単純に物量や厭らしさで圧倒dけいる蟲による攻撃の方が初手としては得策。

 

 何より魔術ではなく、超能力という異能を用いる藤乃。

 それは魔術師という人種からしてみれば、基本的に理解の外にある出来事だ。何せ超能力者は魔術とは全く基盤が異なる力を用いる人種で、ある意味では超能力者にとって魔術師も一般人も変わりない。

 わたしみたいに、先天属性として『発火』を持っているという者も確かに魔術師とは異なる異能者だ。何せわたしには魔術師が魔術師たる所以であるところの魔術回路が存在しないのだから。

 けれどわたしは、どちらかといえば魔術師寄りの異能者で、わたしの異能である『発火』の制御は魔術によって行っており、だからこそ魔術師にとっても共通した基盤を持った御しやすい相手だろう。

 しかし藤乃は完全に別物。その能力に魔術師が予想できる法則など存在しない。

 仮に相手が戦闘者であったなら、それも決して圧倒的な有利に働くものではなかったことだろう。しかし、相手が“ただの”魔術師ならば、彼らは魔術の範疇でしか物事を考えることが出来ないという一点においてのみ、超能力者に遅れをとる。

 何せもともと超能力とは非常に弱い力であり、藤乃のように破壊的な能力を持っている人の方が異常なのだ。

 

 

「‥‥さて、律儀に待ってくれて悪かったわね。そろそろ本腰入れてボコボコにさせてもらうわよ、このHENTAI魔術師」

 

「だからっ! 誰がっ! HENTAIかっ?! シュボンハイム修道院次期院長、魔術師アグリッパの直系の子孫であるこの私、コルネリウス・アルバの何処をどう見たらHENTAIなんだっ!!」

 

「HENTAIはHENTAIなんだから仕方がないじゃない。わたしはね、今までおかしな恰好してる連中でまともな奴に会った試しがないのよ」

 

 

 ギシリ、と歯を軋ませて赤コートの魔術師‥‥コルネリウス・アルバは吠える。

 口角泡を飛ばして叫び散らす様子は、とても本人が言うような大魔術師には全く見えない。いっそ滑稽なくらいのオーバーリアクションと芝居がかった仕草は、そういえば橙子師も似たようにロマンチストなところがあって、魔術師っていうのはみんなこんなものかと少しげんなりとした。

 

 

「‥‥人形師、蒼崎橙子の弟子の黒桐鮮花よ。あんたが何者かなんて知らないし、橙子師のどんな知り合いなのんかも興味ないわ。でもね、悪いけど、わたし達には用事があるのよ。そこ、通してもらうわねっ!」

 

「———Es Glo《声は大きく》, Mein Nagel Ladst Mikitar《私の指は彼らを誘う》!」

 

 

 桜の足元に広がった彼女の影。普通に出来た影とは少し違和感のある、底の知れない真っ黒なソレから、うぞろうぞろと悍ましい、人間の持つ生理的嫌悪感を刺激する嫌な音と共に小さな影が現れる。

 真っ黒な影は、その躰から目を見張る程に真っ白な羽を出すと、やけに重々しい羽音を立てて飛び上がった。

 始めは数体、更に十数体、終いには数十体。黒光りする兵隊は、瞬く間に桜の周りを覆いつくし、壁のように飛び回る。もちろん壁なんてものではなく、そのすべてが弾丸でもあるんだけれど。

 

 

「‥‥ほぅ珍しい。蟲使いの魔術とはね」

 

「お褒め頂き光栄です、コルネリウス・アルバさん。せっかくですから間桐(マキリ)の業《わざ》たる斬翅蟲の恐ろしさ、その身で味わって下さい!」

 

 

 影から湧き出てきた蟲達は当然ながら只の蟲では、決してない。

 普段は普通の昆虫の類に自分の血を与えて使い魔として使役している桜だけど、こういった戦闘の時には、同じ魔道に生きるわたしをして背筋を寒いものが走り抜ける、おぞましい改造蟲を繰り出すのだ。

 

 わたしも彼女からぽつりぽつりと、魔術の修行に必要な表明の部分を聞いただけでも恐ろしくなるマキリの修行の数々。

 身体に蟲を馴染ませ、蟲に身体を馴染ませる。頭の端から爪先までを蟲に犯された桜の身体の中には、いわば魔術刻印の一種として各種多様な蟲が潜んでいる。

 彼女の魔術属性である、“虚数”とは全く違う系統の魔術を修めることが出来ているのは、このような荒療治のおかげだ。いや、これをおかげと称するのはあまりにも桜に可哀想なんだけれど。

 

 

「■■■■■———ッ!!」

 

 

 もはや羽音とは呼べない、醜悪な騒音を発生させながら蟲が飛ぶ。

 それは立派な軍隊、あるいは波濤だ。触れるもの皆、例外なくズタズタに切り裂き、押し潰し、喰らい、蝕み、犯し尽くす、猛威そのもの。

 当然ながら人間なんて何の壁にもなりはしない。触れたが最後、たちまちのうちに皮膚は割かれ、肉は吹き飛び、臓腑は喰らわれる。骨の隙間まで犯され、見るも無罪な肉塊へと成り果てる。

 

 ‥‥そのはずだった。

 

 

 

「———It is impossible to touch the thing which are not visible《己が不視の手段を以て》」

 

 

 再び巻き上がる、焔の柱。

 真っ正面から襲いかかった蟲の一隊が、悲鳴を

上げる暇すら無く瞬く間に灰燼と化して大地へと降り注いだ。

 

 

「———Forget the darkness《闇ならば忘却せよ》」

 

 

 たった一言の発音で、数小節もの詠唱を可能にする高速詠唱。

 その言葉によって次々と赤コートの魔術師の周りに焔が踊る。

 

 

「———It is impossible to see the thing which are not touched《己が不触の常識にたちかえれ》」

 

 

 散開し、上下左右から三次元的に襲いかかる蟲の小隊の悉くが燃え、焼き尽くされていった、

 その様は広間の内装もあって、まるで現世に顕現した煉獄。圧倒的な破壊力を辺りに撒き散らす焔の柱は神代の代物か。それらに囲まれる赤いコートの魔術師、コルネリウス・アルバは、圧倒的な力量をわたし達に見せつけながら嗤っていた。

 

 

「‥‥Dust to Dust。塵は塵に、灰は灰に。味のある魔術だったが、たわいもない。所詮は自らを魔道に捧げ尽くさなければ手に入れることが出来ない程度の力だ。魔道が捧げた魔術を操る私には、遠く及ばないね」

 

「調子に乗ってんじゃないわ‥‥よっ! Azoltッ!」

 

「おぉっ?! ちぃっ、小賢しい小娘が、無駄だと分かって———」

 

「喧しいわ! 続けていくわよ、Con BrIo!!」

 

「人の口上を遮るな! ええぃクソ、一体何を教えているのだ、弟子の躾がなってないぞアオザキィ!」

 

 

 何を格好つけているのか、服装共々無駄に優雅に振舞おうとする変態目掛けて、桜が仕掛けた時には既に横っ飛びに走り出していたわたしが炎弾を放つ。

 一つ、二つ、立て続けに幾つも。どれも威力としてはジャブみたいなものだけど、当然当たれば痛いし、皮膚は焼ける。顔面に当たれば酸素を奪い尽くして絶命させることは間違いない。

 

 

「“発火”の魔術とは、児戲だね! 出力はそこそこあるようだが、焔に昇華されていない炎などでは私には効かん!」

 

「吠えると弱く見えるわよ、変態。‥‥あ、決めた。アンタこれから赤ザコね。赤くてザコっぽいだから、赤ザコ」

 

「誰がザコだっ?! この私が、アグリッパの直系たるコルネリウス・アルバが何故ザコ呼ばわりされなければならないのだ!

 いい加減にそのよく回る口を閉じないと、骨も残さず灰にするぞ小娘ぇ!」

 

「そんな温い魔術でわたしを燃やせるもんですかっ! 桜、この赤ザコ滅多滅多にしてやるわよ!」

 

「任せて! Es erzahlt.《声は遠くに》Mein Schatten nimmt Sie《私の足は緑を覆う》———ッ!」

 

 

 桜の使い魔である蟲の空軍(アエリア)と同時に、新たな詠唱によって次の軍勢が生まれる。

 今度、現れたのは地を這う戦車のような蟲の群れ。空を飛ぶ兵士達よりも重厚な鎧をまとい、大きさも数倍、子猫ぐらいもある非常識なもの

 もはやこれを見て虫と形容できる人間はいないだろう。むしろ蟲でもないかもしれない。あまりの異形、あまりの脅威。醜悪な、相手を害する意思の表れ。

 それがガサリガサリとリノリウムの床を削りながら、決して目で追えぬ程の速さではなくとも、十分以上に俊敏な動きでコルネリウス・アルバへと突進する。

 

 

「また新しい蟲かね?! 醜悪! 醜悪! 醜悪極まる! いくら厚い装甲に身を包んだところで私の焔の前に、糞蟲など———ッ!!」

 

 

 腕の一振りで生まれた焔が、軍隊のように隊列を組んで向かってくる蟲達を覆い尽くす。

 その焔の威力はさっき、桜の空軍(アエリア)を迎撃した時のものに比べて何の遜色もない。

 瞬く間に深紅の焔によって姿が見えなくなる装甲蟲。その様に赤ザコはニヤリと嫌らしい笑みを浮かべ———

 

 

「なん‥‥だと‥‥ッ?!」

 

 

 燃え尽きたかと思った次の瞬間、焔の中から現れる無傷の蟲達。

 少しぐらい黒焦げているようではあるが、動きには何の支障もない。アイツを嘲笑うように、ゆっくりと、次第に速く歩を進める。

 その様に動揺したのか怯えたのか、赤ザコはびくりと一歩後ずさった。

 

 

「‥‥マキリの魔術の属性は水。水気を満たされた蟲に、真っ当な火気は通用しませんよ、赤ザコさん」

 

「だから誰がザコだっ?! クッ、クソ、焔が効かないとは‥‥!」

 

「大の大人が泣き言を漏らさないで下さい。‥‥さぁ、喰らいなさい子ども達」

 

 

 突如、動きを速くした装甲蟲達が赤ザコを襲う。

 自分が圧倒的優位に立っていてこそ醜悪だと馬鹿にしていた赤ザコが、泡を食ってフロアーから踊り場へと階段を駆け上がった。

 

 

「クソ、クソ! 嘗めるなよぉ小娘ぇ!!

 The question is prohibited.《問うことはあたわじ》The answer is simple《解答は明白なり》———ッ!」

 

 

 再びステッキを構え、詠唱。

 高速詠唱によって掲げた掌に質量すら持った強力な焔が顕現する。赤ザコは体ごと腕を振りかぶり、その焔を側に立っている柱へと投げつけた。

 

 轟音、崩壊。

 空を飛ぶために軽量化されているとはいえ、普通の手段では歯が立たない装甲を誇る空軍(アエリア)を吹き飛ばすだけの威力を持った焔をぶつければ、魔術防護を施したわけでもない只の柱なんて紙より残念な装甲しか持たない。

 

 

「‥‥ッ?!」

 

「ク、クク、どうだ小娘。焔が効かないのならば、踏みつぶしてやるまで。‥‥まぁ私の靴でやると汚いのでな、今回は瓦礫を使わせてもらったが」

 

 

 崩れ落ちた柱は、過たずに階段を上り始めていた蟲達へと襲いかかる。

 確かに下手すれば刃物すら軽くはじいてしまう装甲蟲だけど、流石に大質量が相手だと耐久力はそこまで高くない。

 そもそもハンマーなんかで殴られてしまえばひとたまりもない装甲蟲。二、三階層にも匹敵する吹き抜けを支える柱を落とされてしまっては一発だ。

 

 

「‥‥まさかそんな乱暴な方法で対処してくるなんて」

 

「フン、どうせ私の根城というわけではない。あの憎いアオザキが設計したこんな広間、全て崩れてしまえばいいのだ。

 しかし厄介だな、貴様の能力。早いところ消し炭にしてやるとしよう。———I have the flame in the left hand《この手には光》」

 

「———ッ! Es flustert《声は祈りに》!」

 

「Azoltッ!」

 

 

 赤ザコの掌から迸った焔が迫り、桜の影から火に対しての耐性を持った蟲を壁として呼び出し、わたしは隙を見て火球を放つけど、軽く別の焔の柱で迎撃されてしまう。

 複数の魔力行使を平然と行うのは、簡単に見えて意外に難しいことだ。特に攻性の魔術の場合、制御が難しいから難易度は更に上がる。

 

 

「そら、上手く立ち回らないと死ぬぞ?」

 

「喧しいっつってんでしょうが! ザコのくせに!」

 

「だからザコはやめろと言っているだろうが!」

 

「赤いくせに!」

 

「赤いのは関係ないだろう?! 他人様の趣味をどうこう言うんじゃないわっ!」

 

 

 次々と火球がわたし達を襲う。その都度、桜が蟲を使って防いでくれているけれど、それにも限界はある。

 蟲は桜の影の中に収納されている分しかいない。普段、育成しておいて、ここぞというところでこうやって使うのが彼女のやり方なのだ。今も魔力で海だそうとすれば出来るけれど、それは奥の手として別の手段に魔力をとっておきたいところだ。

 

 

「鮮花ッ!」

 

「大丈夫よ藤乃、心配しないで。流石に貴方でも焔は凶げられないでしょ?」

 

「そうだけど‥‥」

 

 

 次々に焔を弾くための蟲を喚び出し続けている桜はすでにキツそうだ。遠目には分からないだろうけれど、額や項にびっしりと汗をかいている。

 正面から力押しで攻めるのもアリだけど、それをやるなら一度こちらのペースに相手を引きずり込まなければならない。

 どっちにしてもこのままでは桜の魔力がヤバイ。わたしとか橙子師に比べて遙かに勝る魔力量を持つ桜だけど、当然それにも限界はあるからね。

 

 

「‥‥ちぃっ、いたぶるのも良いが、このままでは埒が空かんな。———I have everything in the right hand《この手こそが全てと知れ》!」

 

「ッ桜、上よ!」

 

「‥‥ッ!!」

 

  

 今まで桜へと向けられていた掌が、急に斜め上へと掲げられ、生み出された焔は天井へと向かう。

 鋭い焔は天井を砕き、かなり大きなサイズの数多の瓦礫を作り出す。

 そしてその瓦礫は、真下にいるわたし達へと重力加速度に従って襲いかかった。

 

 

「凶‥‥れぇっ!!!」

 

 

 ひときわ大きな瓦礫に続き、視界にも入っていない全ての瓦礫が粉々に捻じ“凶げ”られて砕け散る。

 わたし達の隣には、目の前にいたわたし達を押しのけてグイと前に出た藤乃の姿。すでに卒業間際にも関わらず律儀に着ているカソックのような制服の裾と長い黒髪をなびかせ、その瞳を赤く光らせている。

 日本に古くから伝わる退魔の家の末裔であるという、藤乃。彼女の家は比較的高い割合で、異能を秘めた人間を生み出すと言う。

 特に今では退魔としての“浅神”最後の生き残りになった藤乃が秘める力は、超能力の定義の枠を大きく超えるトンデモない威力を持っていた。

 

 超能力とは、アラヤ———阿頼耶識とも呼ばれる人間という種族の無意識集合体———から授けられる力であり、ガイアを基盤とする魔術に比べればささやかなものに過ぎない。

 しかも超能力者は普通の人間とは、繋ぐことの出来るチャンネルが事なる存在。即ち存在不適合者とも言われている。そんな彼ら、彼女らは、この現代社会においては長生きすることの難しい存在だ。

 

 そういう意味では、類稀な強力極まる力を持ちながらにして、人間社会に適合出来ている藤乃はとても希少な例外なのだろう。

 もちろん彼女が何かに悩んでいるのは知っている。外れてしまっていることも、どこはかとなく気づいてはいる。わたしは彼女の親友を気取っているから、それをどうにかしてやりたいとは思いながらも、きっと彼女がある一部において外れてしまっていることが、どうしても治らないことだとも分かってしまっていて。

 わたしこそが、すごく不安定な存在である彼女の親友でいられることに、喜びを感じるのだ。

 

 

「———な、何だとォ?!」

 

「ッ! 今よみんな、一気に攻めるわ! AllA MArcIA———ッ!」

 

 

 魔術とは全く事なる、超能力者という異能によって可能になった迎撃。

 おそらく少し高いところで驚愕に目を見開いている赤ザコは生粋の魔術師で、今まで超能力者なんてモノの存在に気を払ったことなどないのだろう。

 だからこその致命的な驚愕。だからこその、致命的な隙。

 

 

「Con Fuoco———ッ!」

 

「Es flustert《声は祈りに》Mein Nagel reist Hauser ab《私の指は大地を削る》!」

 

「凶が‥‥れぇッ!」

 

 

 藤乃の歪曲の魔眼、そして赤ザコの驚愕を合図に全員が駆け出した。

 

 千里眼の能力を持ち、基本的に間合いによって威力や有効範囲が左右されない藤乃は油断せずバックステップで距離を取り、今度は的確に天井を砕いて落とす。

 当然わたし達も被害を被る可能性があるけれど、お互いに息を合わせれば何ということはない。もとより踊り場という動きにくい空間にいる赤ザコは回避よりは迎撃に専念するより他はなく、落ちてくる瓦礫を燃やし尽くし、逸らし、藤乃自身への攻撃は瓦礫の影に身を隠すことで回避できた。

 

 

「く、くそっ! 調子に乗るなよ小娘共が! 消しとべ、灰諸共な!」

 

「そうはさせません! Frhling《湧き上がれ》!」

 

「サンキュー桜! Azolt!」

 

「おおおおおオノレ小娘ェ!!」

 

 

 一方、桜は攻撃が始まると同時に横っ飛びに駆け出す。

 彼女の役目は蟲による攻撃と、真っ直ぐに突っ込んで行ったわたしの援護。

 わたしでは迎撃しきれない焔を装甲蟲を用いて防御し、合間に空軍(アエリア)によって嫌がらせのような波状攻撃を行う。

 既に装甲蟲はこれでもかという程に生み出されており、何時の間にかフロア全体にぽつりぽつりと小隊が蠢いていた。

 

 

「小賢しい、小賢しい、小賢しい真似を私の前に晒しおって!!

 ———I am the order《我を存かすは万物の理》Therefore《全ての前に、汝》,you will be defeatet securely《敗北は必定なり》‥‥ッ!」

 

 

 一際大きな火球が掲げた掌の中に生まれる。その直径は赤ザコの身長に優に匹敵。その温度は摂氏一千度を軽く凌駕する。

 たった一秒未満の高速詠唱。極限まで圧縮、高速化された呪文とはいえ、これほどの魔術をこれほどの圧縮で行使出来るものだろうか。

 魔術師としての格の違い、積み重ねられた歴史の違いをひしひしと感じる。おそらくは橙子師の———勘当されはしたらしいけれど———家である、蒼崎の歴史よりもなお古いトンデモない歴史の積み重ね。そして術者本人の才能と努力の結晶。

 軽薄に見える振る舞い。優越感と自己陶酔に満ちた台詞回し。本来なら蔑まれておかしくないソレらに、十分すぎる程の理由を、強者に許された傲慢を裏付けするだけのものがそこには確かに存在している。

 

 わたしなんて、否、この場の誰もが一瞬で消し炭になってしまうだろう圧倒的な威力を秘めた焔の塊。

 そこに潜む根源的な恐怖に怯え、すくみ上がってしまいそうになる。一目散に逃げ出しそうになる。でも、それはこの上ない悪手だ。

 瞬間的に左右に視線を走らせれば、同じ様に恐怖を感じ、同じ様に踏みとどまる二人の友人の姿があった。

 何も言葉を交わさなくても、わたし達がこれから何をするべきなのか、理解できる。今までの戦闘で互いにとってきた行動から、今までの短いながらも浅からぬ付き合いによって交わして来た親交から、お互いの次の行動が確信し合える。

 

 

「死ねェ! アオザキの弟子ィィィ!!!」

 

「———凶がれェェェェェェ!!!!!」

 

 

 悲壮感な響きさえ孕んだ、藤乃の絶叫。

 ただ前方を睨みつける真っ赤に染まった彼女の瞳に映るのは、目の前の光景ではなく、ちょうど赤ザコの真上に位置する天井そのもの。

 類稀な威力を秘めた歪曲の魔眼の他に身につけたもう一つの異能。自らの魔眼を酷使することで可能な、透視(クレヤボヤンス)の上位互換たる能力、乃ち千里眼。

 普通ならば見えない場所も視界に納めることが出来る能力によって、頑強な天井の数カ所が繊細に、かつ一切の容赦なく歪み、ひしゃげ、連鎖的に崩壊し、とても人間には抗し得ない巨大な岩塊を作り出した。

 

 

 

 ‥‥それからは、まるで死に際に主観的な時間が圧縮されたかのように、全てが目まぐるしく始まり、そして終わったように思える。

 

 あまりにも巨大な物理の暴力を前に、赤ザコは焔を扱う魔術師という特性上、わたし達への接近戦は無謀と判断。その場での迎撃を試みた。

 掌に掲げた魔術の暴力ならば、眼前に迫り来ようとしている物理の暴力も消し飛ばせるかもしれない。それは確かに判断としては決して悪手ではないだろう。

 けれど、それは邪魔するわたし達がいなければ、の話だ。

 

 放った焔が、圧倒的な質量の暴力によって神代の鉄槌と化した岩塊へと迫る。

 けど、本来ならば岩塊へと衝突し、粉々に打ち砕いただろう焔の渦に、限界まで接近したわたしの炎が衝突した。

 

 確かにわたしの炎では、魔術師として超一流である赤ザコの焔をかき消すことは出来ないだろう。それどころか、わたしの焔が飲み込まれておしまい。

 しかし、それは真っ正面からブチ当たったらの話だ。

 横合から割り込ませるように突入したわたしの炎は赤ザコの焔に巻き込まれ、融合‥‥しようとする瞬間に、炸裂。

 本来ならば岩塊に衝突して炸裂するはずの焔の渦は、わたしの炎に誘われ、岩塊の遼か手前で無意味に散る。

 それで終わりと、一瞬わたしは嬉気を露にしようとして、驚愕した。

 

 

「Repeat《命ずる》———!!」

 

 

 高速詠唱なんてご大層なものじゃあない。

 只の、一言。何の変哲もない一小節(シングルアクション)で、再び神代の焔が顕現する。

 

 どれほどのものだろうか。たったの一言で反復する大魔術など、寡聞にしてわたしは知らない。

 精密に術式を組み上げ、魔力の循環路を生成し、場を整え、大源(マナ)を操る。

 それらを超一流の精度、超一流の出力で成し遂げてこそ可能な絶技。その対応はお世辞にも戦闘者として褒められたものではない力押しだっただろうけれど、十分すぎるくらいに十分で適切な力押しだった。

 

 

「■■ィィ■ィ■■ィ———ッ!!!」

 

「———ッ?!」

 

 

 しかし、こちらだって赤ザコが力押しに頼ってくるのは百も承知。

 拳大からバスケットボールぐらいまで砕かれ、障壁に弾かれる程度まで威力を落とした瓦礫の背後から、桜の斬翅蟲が襲いかかる。

 

 

 装甲蟲程の焔に対する耐性は無いけれど、瓦礫を盾にすれば接近するのも容易。既に斬翅蟲は赤ザコのすぐ目の前に、大量に接近していた。

 

 

「お、おぉぉぉおおお?!!!!」

 

 

 ここまで接近されてしまえば、お得意の大魔術は使えない。いくら魔術によって生み出された焔とはいっても、自然現象に即したものであることには違いなく、自らへの延焼を防ぐには至らないのだ。

 故に、蟲に集われた人間に出来ることはそう多くない。

 身体にたかる蟲達を片っ端から悲鳴を上げながら叩き落していくか、あるいは、自ら一も二もなく転げ回って逃げおおせるか。

 意外な事に、これ以上無いほどに矜恃(プライド)が高いだろう赤ザコが選んだのは後者だった。一瞬の判断の後に、一切の躊躇なく踊り場から身を投げ出す。

 その途中で身体のあちらこちらを強かに打ち付けるだろうけれど、蟲に喰い殺されるよりは遥かにマシ。

 ‥‥けれど、それも所詮はその場しのぎ。正しい判断が、最善手とは限らない。

 

 

「———な、なんだこれは‥‥ッ?!」

 

 

 立ち上がった、階段の終わり、広間の端。

 ちょうどそこには、何時の間にやら真っ黒な、この世の何よりも真っ黒な影が、奈落のように広がっていた。

 

 

「こ、これは、これは何だ?! 蟲‥‥?! 影‥‥?! いや、これはまさか、虚数の闇か‥‥ッ?!!」

 

 

 トラップに引っかかった赤ザコは、困惑に次いで驚愕の悲鳴を上げる。

 それは決して逃れることの出来ない虚数の泥沼。泥であるが故に緩やかに、だが確実に捕えた者を自らの中へと引きずりこむ。

 もがいても、反発力を得て逃げ出すことは出来ない。相手は実体を持たない虚数の闇。囚われた段階いで、もはや逃げ場など存在しないのだ。

 

 

「じゅ、術者は貴様かサクラ・マキリ! 何故だ、貴様は蟲使いではないのかっ?! 貴様の属性は水ではないのかっ?!」

 

 

 コルネリウス・アルバは絶叫する。

 普通に考えて、魔術師は基本的に一つの属性しか持たない。もちろん希に天賦の才として二重属性、あるいは五大元素(アベレージ・ワン)なんて例外も存在するけれど、基本的には魔術師にとって属性は一つで、初歩的なものならばともかく他の属性の魔術を扱うのは至難の業だ。

 だからこそ、蟲使いの業を背負った桜が、水気を属性とするだろう桜が、このyぽうに極めて稀少な虚数という属性を持ち合わせていることは、当然のように驚愕に値するだろう。

 

 

「‥‥マキリの魔術の特性ですよ。元々の私の属性は、あくまで虚数。そこにマキリの技術で新たな特性と魔術刻印を埋め込んだ‥‥。

 貴方みたいに正道を歩む魔術師には分からないかもしれませんね。いえ、当然のように知っているのかもしれない。けれど、実感することはないでしょう?

 醜いですか? 私の、マキリの在り方が? フフ、でも貴方はその醜い蟲に、こうして無様に負けていくんですよ? フフ、フフフフフフフフフ‥‥」

 

 

 虚数の影を操る魔術は、術者の負の情念を剥き出しにすることで発動する。

 故に気をつけなければ精神は当然不安定になるし、ともすれば自滅の可能性も高い。そのあたり、桜が橙子師からみっちりしごかれているのを横目で何回も飽きる程に見てきた。

 今も少し不安定になってはいるけれど、まだ危惧する程のものではないだろう。あれぐらいは、副作用として十分に許容される状況だ。

 

 

「ク、クソ! クソ、クソ、クソ! クソ、クソ、クソ、クソクソクソクソクソクソォォォォ!!

 おのれ、アオザキの弟子共ォ! この私が、この私がまたしてもこのような、このようなァァァァ!!!」

 

「‥‥だから、やっかましいって言ってるでしょうが、赤ザコ。都合良く慢心してくれて、本当にありがとうね」

 

 

 ずるり、ずるりと急速に赤い影は桜の影へと飲み込まれていく。

 今まで自分が醜悪と称した蟲よりも、醜悪で惨めな恐怖の表情を浮かべ、みっともなく悲鳴を上げながら。

 

 

「こ、このようなァ! クソ、クソ、クソォォォォォォッォォォォォォォォォォ!!!!!」

 

 

 見苦しく、生に執着しながら、コルネリウス・アルバが影へと消える。

 一流の魔術師に、超一流の魔術師に生まれながら、惨めに消えていく。それはどれほどまでに無念で、どれほどまでに予想外で、どれほどまでに唐突だったことか。

 ‥‥そして、それがどれほどまでに当然であることか。

 

 

 どんなに策を弄しても、どんなに自身が強大であっても、死は簡単に訪れる。

 当たり前のことだけれど、意外に実感出来ることなんて殆どない。自分という存在が一つしかいない以上は、仕方がないことではあるけれど、終わりは確実に訪れるものだ。

 だからこその、必然。あまりにも運命に左右された、予定調和。

   

 

 圧倒的な実力差がありながらの、この結末。

 これをいったいどう見るか? 単純に運の差、頭の使い方の差と見るか?

 相手に傲慢が、慢心があったとして、それを覆す何かをわたし達は本当に持っていたのか? それは今更どうこう言う疑問ではないかもしれないけれど、瞬間的に、それこそ瞬きの間のわずかな時間、わたしの脳裏に去来する一つの疑問。

  

 

 既に定まってしまった現実を前に、崩れ落ちる世界を前に、ぼろぼろの体を抱きかかえながら全員が思ったことだろう。

 訳も分からないままに戦い、訳も分からないままに勝利し、そこにいったいどんな理屈が存在していたことか。

 

 自分たちが挑もうとしていたのが、いったい何なのか。

 

 勝利したにも関わらず拭い切れない不安。

 

 これから何が待ち受けているのだろうか。そんな当然の不安。

 

 そんな不安を抱えながら、ただ壊れていく世界を、わたし達は決然と見つめていた———。

 

 

 

 82th act Fin.

 

 

 

 



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第八十二話 『双つ王の聖剣』

執筆の時間がないのは大湊警備府に着任したからでは断じてない。断じて、ない。


 

 

 

 

 side Saber

 

 

 

 

 黒い、黒い、黒い太陽が空に浮かんでいる。

 太陽とは光り輝き、私たちを照らしてくれる存在のはずだ。

 作物に、草木に光を与え、成長を促す。我々に実りを、生命を提供してくれる。

 朝、太陽が昇る時。私たちは安息の夜から解放され、活動の昼へと呼び起こされることになるのだ。朝の光を浴びて体に活力が漲り、眩しい日差しに脳髄は痺れ、覚醒。心身共に一日の活動を始める準備を得られるだろう。

 朝日抜きに、一日は始まらない。

 例え曇天の空であっても、太陽は必ずそこにある。生まれてから太陽の光を浴び続けた私たちは、ほぼ条件反射のようにそれを受け入れ、身体は動く準備を整え、精神は乱れることがない。

 

 その太陽が、黒い。

 確かに光り輝いている。外の光が一切差し込まない洞窟の中だというのに、仄かながらもしっかりと私たちは周りを見ることが出来ている。これは光源が無ければ不可能なことだ。

 だが、これほどまでにおぞましい太陽を、ついぞ私は見たことがない。

 いや、これほどまでにおぞましい太陽を、一生の内に一度でも見ることがあるなど、誰が想像するだろうか。

 黒い太陽。さん然と輝く黒い太陽。

 そんなものはこの世に在ってはいけないはずなのに。

 

 ‥‥黒い、というだけでも、ただそれだけでも

背骨がガタガタ不安定に揺れているかのように怖気を感じるというのに、その黒い太陽はとてつもない瘴気を漂わせていた。

 どのような大広間よりも広い大空洞。その奥底に存在する黒い太陽の真下には、まるで玉座であるかのように同じく黒い、ところどころ赤く脈動する塔のような構造物が聳え立っている。

 そしてその根元からは、醜悪極まりない瘴気を放つ泥が、泉のように湧き出ているのだ。

 大空洞の中は地形が複雑に入り組んでいるが、私たちが立っている部分はそれなりに広い面積が舞台のように平ら。そしてその周りは一段下がり、そこを川のように泥が流れていた。

 

 当然、このように醜悪な代物から流れでる泥が真っ当であるわけがない。

 高純度の魔力の塊。しかも属性を本来持つべき無色のそれから大きく歪められ、負の想念、あるいは悪という概念によって染められたもの。

 

 

「‥‥なんという光景。こんなところで地獄の釜の蓋が開くとは」

 

 

 これが仮に、人の世に流れ出したとしたら、何が起こることだろうか。

 離れていても感じる程に濃密な負の想念。魔術師や英霊である私たちは特に感覚として驚異を感じるが故に忌避しようと考えるが、基本的に霊体や魔力などを感知する能力に欠ける一般人———この場合、魔術回路や異能を持たない人間を指す———にすら、明確に存在の意味すら確信出来る程のもの。

 当然、こんなものに触れれば誰であってもタダでは済まない。精神は犯され、肉体は蝕まれ、二度と今までと同じ人物には戻れない。

 剣の英霊(セイバー)として破格の対魔力を持つ私であっても、同じ。こと魔術という括りに入らない純粋な———負に染まった属性は、この場合は純粋の範疇に属する———魔力は、対魔力のスキルでは防げないからだ。

 

 

「凜‥‥シエル‥‥」

 

 

 視線を彼方に巡らせれば、そこに構えているのは我が現マスターである遠坂凜と、ひょんなことから親交を結ぶことになった聖堂教会の人間、埋葬機関の第七位たる“弓の”シエル。

 現代の魔術師では、同年代に並ぶ者がいない才女である凜と、世界最強の一角に名を連ねるに十分な実力を持つシエル。その二人が焦りを露わに対峙する相手は、何と形容すれば良いのだろうか。

 

 髪は背中の中程までも伸び、凍り付く雪のように白い。そして驚く程に生気が籠もっておらず、美しいと同時に不気味。

 衣装は影が足下から這い上がって来たかのような、漆黒。ぼろ布のようでありながら不思議な光沢と艶を持った衣には、血のようなラインが走っている。

 剥き出しになった素足、顔、全てが透き通るように青白く、美しく、生気に欠けていた。頬には同じく血管のように赤い線が走り、唇は酷薄に歪められている。

 

 彼女の背後には、影の巨人。

 非現実的に聞こえるかもしれないが、そう形容するより他にない存在が不気味にもそびえ立っていた。

 のっぺりとした、漆黒の体。体積というものがなく、二次元的な体躯をしている。顔にあたる部分にはいくつかの光点があり、あれが目の代わりをしているのだろうか。あるいは弱点なのだろうか。

 とにかく巨大。まるで冬木に居た時に一度だけ目にした特撮映画に出てきた怪獣か。あるいは高所作業用のクレーンか。

 このぐらいの大きさになると人間が相手にしていい大きさではないだろう。私の聖剣(エクスカリバー)などの対城宝具の類でなければ抗し得ない代物だ。

 純粋な魔力によって編まれた巨人は、もはや存在そのものが驚異といえる。

 

 

「———ッ!」

 

「むぅ?!」

 

 

 いくつもの巨大な影と対峙する凜、そしてシエルが心配で仕方がないが、その私の思考を黒い影が遮った。

 剣の英霊(セイバー)である私をして、苛烈で鋭いと言わざるをえない強力な剣戟。鋭く、重く、強烈。交わす刃は火花を上げ、互いの得物が並のものであれば疾うに折れるどころか粉々になってしまっているだろう程。

 その膂力、その速度、その技術。どれも私に遜色劣らぬ、否、ともすれば凌駕されてしまうのではなかろうか。

 ともすれば背筋に疾る怖気を抑えられない。今まで私が出会った敵の中でも、最上級に手強い相手。

 

 

「———フッ!!」

 

 

 ギィン、と聖剣が軋みを上げながら鍔競り合いから脱出する。

 渾身の力を込めた振り払いは、相手を間合いの外へと弾き出し、それでも体勢を崩し、隙を作るまでには至らない。

 黒く染められた鎧は禍々しく、小手(ガントレット)は攻撃的な意匠の鋭い飾りがついたものだ。

 額の上から鼻辺りまでにかけて覆う仮面には恐ろしげな紋様が走り、表情を隠してしまっている。だが、不思議なことかもしれないが、私はそれがどんな顔をしているのか、よくよく知ってしまっていた。

 

 

「‥‥以前に戦った時よりも、さらに手強い。内包する魔力が桁違いだな」

 

 

 ジリ、と間合いを少しづつ詰めていく。一気に飛び込んでしまえば間違いなく隙を晒し、斬り払われてしまうだろうことは間違いない。

 相手は私と同じだけの技量と、ともすれば優に私を超える魔力量を持っているのだ。身体的なパラメータにおいては一歩譲り、自我がないことによる

剣戟の曇りにおいてのみ私に勝機が存在する。

 ‥‥あの時と、同じだ。並行世界へと紛れ込んだシロウや凛に置いていかれ、別の並行世界の凛やルヴィアゼリッタと共に戦った、クラスカード事件のあの時と。

 

 

「やれやれ、確かに私が相手というのならばコイツを持ってくるのは有効かもしれないが‥‥。こう何度も自分に似せた人形を見せられては、不快感を隠せない———ッ!」

 

 

 少しずつ詰めた間合いがギリギリの位置へと達し、足に集中させた魔力を爆発させて一瞬の内に敵の間合いの中へと踏み込む。

 振るう刃は鋭く、重く、必中必殺の覚悟を以てヤツの喉元を目指す。

 コンクリートや鉄板であろうともバターのように斬り裂き、砕くだろう一撃。だが、それが届かぬこともまた、私は知っていた。

 

 

「———ッ!!」

 

 

 鋭い呼吸音と共に振られる漆黒の剣。円を描くような軌跡が、私の剣を巻き落とす。

 黒く染まった剣は、悪という属性に染まりながらも聖なる剣であり続けている。それは星が生み出した幻想。ありとあらゆる戦場において今わの際にいた兵士たちが最期の瞬間に夢見た勝利という概念の具現。

 私の持つ、黄金色に輝く覇気を纏った聖剣と根源的に同じ存在。即ちブリテンを守護する赤き竜の化身たる、ウーサーの息子、アーサー・ペンドラゴンの持つべき聖剣。

 『約束された勝利の剣(エクスカリバー)

 

 

「雄雄雄雄雄雄雄ォ———ッ!!!」

 

 

 間髪入れず、追撃。

 巻き落とされた剣を手首の回転を使って剣戟を修正し、踏み込みと共に脳天目掛けて振り下ろす。

 

 追撃、追撃、追撃。

 手首と体全体、足裁きを用いた円運動。一撃一撃に必殺の意志と重さを込めて、繰り出す剣戟はもはや紫電そのもの。

 だがその全て、まるで鏡に映したかのように見事な剣舞によって弾き返される。同じ速度、同じ重さ、同じ技を以て。

 

 

「覇ァアッ!!」

 

 

 一際鋭い逆袈裟の一撃。相手の袈裟掛けの斬撃と交差、衝突、再び鍔迫り合いとなる。

 恐るべき膂力、私も魔力放出を最大にして抵抗しなければ即座に圧し負けてしまうことだろう。違いの魔力が火花を散らし、削れるはずのない刃金が悲鳴を上げた。

 

 

「‥‥なんと醜悪な。わざわざこの場においてまで私の存在を反転させた英霊(サーヴァント)の出来損ないを用意するとは。つくづく性根の歪んだ男か」

 

 

 クラスカードによって生じた英霊は、生じた鏡面界という異空間に取り込んだ魔術師の記憶を媒介に召喚される擬似的なサーヴァントだ。

 但し、聖杯を介した召喚ではないこの儀式で、正当なサーヴァントが召喚されることはない。能力こそ内包する魔力が多いがために元の英霊と遜色ないが、理性はなく、まるで狂戦士(バーサーカー)

 技術はあっても、それを振るう心がない。まるで英霊の現象。黒く歪んだ姿、邪悪に染められた属性、それがどれほどまでの侮辱であることだろうか。

 

 確かに、この凶悪な魔力を粮ににしているというのなら私よりも全体的にスペックが上になるのは当然のこと。

 技量自体も、私と同じ。私よりも力が強く、私よりも素早く、私よりも剣は重い。だが———

 

 

「———魂の籠もっていない剣に、私が負けると思うのか。笑止!」

 

 

 鍔迫り合いをする聖剣に、力を込める。

 クラスカードの魔術の応用。おそらくは、あのサクラも凜の記憶から再現され、歪まされ、召喚された存在に違いない。英霊の座から呼び出すのではなく、どこから持ってきたのかは知らないが、あのおぞましい魔力を使って編み上げているのだろう。

 パーティを分断し、それぞれに適した精神攻撃。なんとも恐ろしい策略。

 だが、いくら不愉快とはいえ姿形を似せたところで、私が動揺すると思うとは‥‥浅はかな。確かに身体能力では劣っていようとも、心が伴っていない剣になぞ負ける道理があるものか。

 

 

「‥‥魂、か」

 

「———ッ?!」

 

 

 すぐそばで声が聞こえた。

 怒りを込めた私の叫びを鼻で笑うような、私と寸分違わぬ声。

 剣戟が掠ったのか、ピシリと仮面に罅が入り、素顔が露わになる。くすんだ金色の髪に、淀んだ金色の瞳。肌は白く、生気が通っていない。

 だが、その瞳には、くすんだ金色の瞳には光が宿っていた。意志の光が、意思そのものがしっかりと宿っていた。

 

 

 

「貴様は何を以てして、魂が籠もっていると判断するのだ?」

 

 

 英霊の現象には、クラスカードによって召喚された黒化した英霊には決して宿らぬ意思の光。そして言語を解す能力。

 私はあまりの驚愕に剣を握る力が弱まり、一気に払われ、何とか後退して体勢を立て直す。

 

 

「———バ‥‥バカな、何故サーヴァントに、黒化したサーヴァントに自我があるのだ」

 

「‥‥どうしたのだ、何をそんなに動揺している?」

 

「クラスカードによって召喚されたサーヴァントは、その歪な召喚方法によって例外なく黒化‥‥自我を失い、属性を歪められた状態で現界する。

 今まで私が相手したサーヴァントは皆、そうだ、『お前も』同じ様にそうだった! だというのに、どうして‥‥ッ?!」

 

「‥‥フン、たいした勘違いだな。なるほど、だとするならば貴様がそこまで動揺するのも理解できるしかし、まぁ何とも無様なことだ、とても私とは思えない」

 

 

 浮かべる表情は、嘲笑。唇を歪ませ、目を細め、歯をむき出しにする。

 顔の造りは私と全く同じなのに、浮かべる表情はまるで違う。自分で自分の顔を四六時中眺めていたことなどないが、少なくとも私はこんな表情をした覚えなどない。このような、悪意に塗れた表情など私が浮かべるはずがないのだから。

 

 

「愚かなワタシ、散るがいいッ!!」

 

「くっ?!」

 

 

 ギィン、と大きな音を立てて再び剣を払い、距離をとる。

 金属製の脚甲が耳障りな音を立てて大地を削り、二つの、二条の跡を残した。恐ろしいぐらいに強い力が鬩ぎ合ったせいで、腕の筋肉が断裂したかのように痛んだ。痺れが走り、剣を持っているのが精一杯だった。

 相手の保有する魔力、供給される魔力は私を優に上回る。特に魔力放出というスキルで膂力の低さを補っている私にとって、バックグラウンドである魔力の量は大きな問題だ。

 

 

「ク、クク、クククククク‥‥」

 

「何を嗤うかっ?!」

 

「いや、何を嗤うかと言われてもな、貴様の滑稽っぷりが可笑しくて仕方がないわけだが‥‥クク、ククク‥‥」

 

「‥‥滑稽だと、それはいったいどういうことだ!」

 

「滑稽も滑稽、喜劇の中で自分だけが何一つ知らず、空回りして見せる役者ほど面白いものはないさ! 貴様、まさかと思うが今も“私がクラスカードによって生み出された英霊の現象”だとでも思っているのか?」

 

「何?!」

 

 

 黒い仮面が割れたソイツは、ひたすら顔面をゆがめて嗤う。私がどんな鏡を使っても、終ぞ見たことがないぐらいに凶悪で、醜悪な表情。

 どこまでも醜い。それは実際に世間一般的な価値観に照らして醜悪というわけではないのかもしれない。おそらくは、私自身の嫌悪感に依る主観的な感情。

 だからこそ私は目の前で、私の顔をして嗤うソイツを許せなかった。自分自身に少なからぬ矜持を抱く英霊たる身、どうして醜悪な己を許せようか。

 

 

「先程、間桐桜が言ったではないか? ここは蒼崎紫遙の記憶に依って作られた世界。私も間桐桜も、蒼崎紫遙の記憶に依って作られた存在。クラスカードは関係ない」

 

「ショーの記憶? ‥‥これが、ショーの記憶だと?」

 

「そうだ。無数ある並行世界の何処かでありえた事実。そのうちから貴様らを滅ぼすに足る舞台と役者を呼び寄せた。この城の主、コンラート・E・ヴィドヘルツルがな。———フッ!」

 

「くぅ?!」

 

 

 踏み込み、斬戟。二つの動作が一度に行われ、唐竹割りにされそうになる頭蓋の真上に聖剣をかざして何とか受け止める。

 そのまま流れるように体を回転させて続けての斬戟に移ろうとする(ワタシ)目がけて、渾身の刺突を繰り出すが、ゆらりと柳のように揺れ、躱された。

 

 

「貴様が、私の有り得た未来だと言うのか?!」

 

「その通り」

 

「戯れ言を抜かすな! 如何に私が英霊の座へと招かれていない非正規たる英霊といえど、我が生涯はあのカムランの丘で終わった……! ましてや私が、私が貴様のような醜悪な存在と化すものか!」

 

「何故そう思う? 並行世界は無数に存在する。そして聖杯戦争もまた、同じく無数に。そのいずれかで何が起こっても不思議ではない。

 例えばまさか、英雄王と同じ用に、あの汚れた聖杯の泥を浴びて貴様(ワタシ)が無事でいられると本気で思っているのか? ふん、浅薄也《せんぱくなり》!」

 

「‥‥‥‥ッ!」

 

「無様な言い分ではあるが、貴様には現実を見る能力が欠けているな。自分が誤っていると考えもせず、自らの道を突き進む。しかし、それは肯定ではなく否定の道だ。自ら以外の、全てを否定する王道。

 ハッ、笑わせる。まるでその傲慢(エゴ)を悲劇のように称して自らの存在意義すらも否定するなど、これ以上ない程に喜劇ではないか。とんだ道化(ピエロ)だよ、貴様(ワタシ)は」

 

 

 黒い鎧を擦る刺突に構いもせず、お返しとばかりに鋭い突き。肘を添えた聖剣の腹で受けると、続けざまに踏みしめた足を狙う、手首の効いた薙ぎ払い。

 漆黒の旋風かと見まごう一閃を、片足を上げて回避。そのまま前へと力の限り突き出し、蹴りを見舞った。

 

 

「グッ‥‥! フン、足癖の悪いことだな!」

 

「ほざけ! この程度で撓む甲冑であるものかっ! このまま‥‥押し切るッ!」

 

「させるか戯け、身の程を知れッ! 叩き斬るッ!!」

 

「く‥‥う‥‥ッ!!」

 

 

 お返しとばかりに蹴り込んだ脚をそのまま踏み下し、続けざまに三回の刺突。彼のアサシンとまではいかずとも、十分な速度の刺突はしかし、紙一重の見切りを以て体を捌いた黒騎士によって鎧の表面を削るに留まる。

 予定調和の如き剣戟が二人の騎士の間で交わされ、全てが弾かれ、躱され、状況に変化はない。

 いや、少しずつだが、私が圧されている?

 

 

「そら、どうした貴様(ワタシ)! 腕が痺れてきたんじゃないのか? 足に力は入っているか? 視界は霞んでいないか?

 吠えるわりには不甲斐ないぞ。そんなザマで騎士王を名乗れると思っているのかっ?!」

 

「吠えろ‥‥っ!!」

 

 

 一際強い衝撃が剣に奔り、たまらず膝を付いて堪えた。

 やはり、魔力供給の問題だろうか。凛に不満があるわけではないが、こいつの魔力は無尽蔵ともいえる黒い泥から供給されているらしい。だとすれば、魔力放出スキルの恩恵を受けた膂力は私を圧倒するに足る。

 鍔迫り合い‥‥否、競り合うという表現は相応しくないだろう。既に黒い聖剣は私の頭蓋を圧し潰さんと迫っているのだ。少しでも力を緩めてしまえば負けてしまう。

 

 

「ああ、しかし本当に面白い人間だな、ショー・アオザキは。私ですら知らなかった貴様(ワタシ)の一面を赤裸々に、乱暴に暴く。知らなかった? いや、想像もしなかったと言った方が正しいか? 不確定に存在する無数の未来を、このような未来を、私自身に表現させるとは‥‥。

 たとえ全ての所行がコンラート・E・ヴィドヘルツルによるものだったとしても、そこには間違いなく彼の存在が影響している。‥‥この世界を回す舞台装置みたいではないか?」

 

「‥‥いったい、何を言っているのだ貴様は」

 

 

 少しだけ圧迫感が緩み、代わりに顔が私へと近づく。

 澱んだ瞳に宿る、狂気ともつかない異常な光。そこには異端としての自我はあれど、異常な精神構造ではない。おそらくは私と同じような精神を持ち、異なる思考をしているのだろう。

 たとえば先の第四次聖杯戦争の時分に干戈を交えたキャスターのサーヴァントのように、精神汚染のスキルを持ち合わせている様子がないのだ。黒化し、凶悪な側面を剥き出しにしてはいる。しかし甚だ癪だが、それは個性の枠に収まる変化だ。

  

 

「いいだろう、片手間になら説明してやる。‥‥私の攻撃を凌げるのなら、なっ!」

 

「———ッ!!」

 

 

 鋭い刺突が一息に何条も、そしてそれに続いて踏み込んでの斬撃。下から構えの隙間を縫うような鋭い斬り上げを紙一重で躱し、その軌道に添うようにして思い切り弾き上げてやる。

 どれほどの膂力を込めていたのであろうか、恐ろしい力で振り上げられた黒い聖剣は、さらに恐ろしい速度で頭上へと腕を連れ去っていく。一瞬の見切りによる、僥倖。この機を逃すわけにはいかない。

 

 

「雄ォ!!!」

 

 

 弾き上げてやったはいいが、同じく振り上げた聖剣はすぐに戻すことが出来ない。咄嗟に私は左肩を前に、体重全てを乗せてのショルダータックルを敢行、(ワタシ)を吹き飛ばした。

 

 

「これで‥‥終わりだぁっ!!」

 

「———嘗めるなよ、貴様(ワタシ)っ!!」

 

 

 もはや、倒れた(ワタシ)に馬乗りになることすらもどかしい。必殺を確信するならば、それが堅実だろう。しかし黒く染まった自分(ワタシ)を前に、私は驚くほどに凶暴になっているらしい。

 自分の喉から出てきたとは思えない獣のような唸り声、それは一体、どちらの口から発せられたのだろうか。

 ショルダータックルの勢いもそのままに、倒れこむように聖剣を突き出した。

 

 

「く‥‥ぬぅ‥‥ッ!」

 

「ぐ‥‥おぉ‥‥ッ!!」

 

 

 翳した黒い聖剣を掠め、(ワタシ)の顔のすぐ横に聖剣が突き刺さる。

 お返しとばかりに寝転がったまま私の頸動脈を掻っ切ろうとする黒い聖剣を、そのまま突き刺した聖剣を斜めにすることで堪えた。

 拮抗した力が鬩ぎ合う中で、鼻と鼻が触れ合うぐらいまで近づいた顔が、目が、視線が、敵意が、殺意が交錯する。

 (ワタシ)の瞳の中に移る(ワタシ)は、まるで獣のよう。(ワタシ)の瞳に映る(ワタシ)は、同じく獰猛に牙を剥くかのように口の端を歪ませ、嗤っていた。

 

 

「‥‥何をそんなに怒り狂っている? 何がそんなに許せない?

 品行方正な騎士王とは思えない振る舞いは、何がそうさせているのだ、貴様(ワタシ)?」

 

「‥‥何がそんなに面白い。何故そんな顔をして嗤えるのだ。お前は、ワタシだろう。

 たとえ並行世界の果てに私がお前のようになる未来が存在したとしても、それが無様であることには違いない。

 だというのに、元は私であったはずのお前(ワタシ)が、何故そのように嗤っていられる?」

 

 

 剣に込める力はそのままに、剣戟の代わりに言葉を交わす。

 確かに許せなかった。しかし、何より不思議だった。解せなかった。

 仮に(ワタシ)の言葉の通り、あの禍々しい聖杯から溢れ出た泥を浴びれば、英霊もただでは済まない。英雄王のように何にも屈せぬ強烈な自我を持ち合わせる者以外は、たとえ副作用として受肉できたとしても、その属性を大きく泥に引っ張られてしまうことは間違いない。

 そんな、“英霊などとはとても言えない状態の自分”が、許容出来るはずがない。許容できず、それでも隷奴の身に甘んじるより他なかったとしても、何故嗤っていられようか。

 英雄が清冽であるべき、とは言わない。そして自分が清冽である、とも言えない。しかし如何に自分が歩んだ王道への疑問を抱えていたとしても、そこには確かに誇りがあった。

 だというのに、私の存在意義を否定する英霊たる存在の黒化。受諾するより他ない状況だとしても、何故それを許容できる?

 

 

「‥‥成程」

 

「何‥‥?」

 

「成程、貴様(ワタシ)はこう思っているわけだ。汚れた聖杯から産み出された泥によって、アルトリア・ルシウス・ペンドラゴンは黒化した。そして、その黒化の影響によって、貴様(ワタシ)がとても許容できない人格を得るに至ったのだ、と」

 

「‥‥ッ!」

 

 

 私は剣に、間違いなく渾身の力を込めている。

 だというのに私の目の前の(ワタシ)は、涼しい顔で嗤って見せているのだ。私を、嘲笑って見せているのだ。

 まるで子どもとじゃれ合っているかのように。まるで私がムキになっても。一切気にしていないかのように。

 

 

「実に、浅薄。まったくもって浅薄に過ぎる。

 貴様(ワタシ)はまた、こう思っているのだろう。何か劇的な出来事があって、それを機に人は変わるのだと。何か一つの明確な原因があって、物事は因果付けられているのだと。

 ‥‥何故そう思うのか? 短絡的だ、浅薄だ。いや、むしろ微笑ましいとすら言える。物事を単純に考えることが出来るのは、物事を深く考えることが出来ない奴の特権なのだからな」

 

「貴様、私を愚弄するかッ?!」

 

「愚弄? ‥‥ふむ、愚弄と言えば愚弄かもしれないが、私としてはむしろ賞賛、いや、哀れみか? とにかく貴様を罵っているわけではないのだがな。

 今の私と、今の貴様(ワタシ)、どちらかといえば私が後で、貴様(ワタシ)が前。ならば先には私であった貴様(ワタシ)を否定することなど、とてもとても‥‥」

 

「それを愚弄と言うのだ、たぁッあぁぁぁッ!!」

 

「———クッ、いい闘志だ、胸が滾る。‥‥フッ!」

 

 

 鎧に、衝撃。

 強烈な蹴りによって踵に重心がかかり、もんどり打って倒れる。

 鎧のおかげで打撃によるダメージはないが、衝撃によるダメージは鎧を通して肉体に伝わる。だが、それも実のところ大したことではない。

 問題は、衝撃によって崩れた体勢。隙も見せずに跳ね起きた(ワタシ)が、コンマ数秒とはいえこのような隙を見過ごすはずがないのは明々白々。

 

 

「風よ‥‥吠え上がれッ!」

 

「———風よ、荒れ狂えッ!!」

 

 

 互いに開放する、風王結界(インビジブル・エア)。但し純粋な風の鞘であるワタシの宝具とは異なり、(ワタシ)は始めから黒く染まった聖剣を露わにしており、代わりとばかりに顕現する刃は憎悪に染まった黒い魔力を固めた物。

 宝具としての神秘は含まれないが、怖気が疾る程に濃密な魔力によって形作られた黒い刃は立派に宝具と打ち合える性能を持つ。

 私が解放した風の鞘と、黒く染まった魔力の塊。ぶつかり合った魔力と神秘の奔流が辺りを揺るがし、血が固まったかのように赤黒い大地に罅を入れた。

 

 

「‥‥泥を浴びて、それだけで今の私がいると、そう思うのか? そこには原因と結果の二種類しかない。あまりにも短絡な考えだ」

 

「‥‥‥‥」

 

「あの泥は『この世全ての悪(アンリ・マユ)』。あの泥に含まれるのは、この世に存在するありとあらゆる憎悪、嫉妬、侮蔑、嘲笑、全ての負の感情を凝縮した要素。それに晒され、貴様(ワタシ)が何を思ったのか、貴様(ワタシ)に分かるというのか?」

 

「‥‥ッ?!」

 

 

 風王結界(インビジブル・エア)は風を圧縮して剣に纏わせることによって不可視の鞘とする魔術の一種。我が師にして友、天敵でもあったマーリンによって授けられた宝具。

 その特性上、ひとたび攻性の宝具として解放してしまえば、連続して使用することは出来ない。一度解放してしまった風を再び圧縮しなければならないからだ。圧縮と解放には、それぞれそれなりに力を要する。

 

 だが(ワタシ)の聖剣は最初から露わにされていた。

 即ち、奴が使って見せた風王結界(インビジブル・エア)は泥より生じ、奴の体の周囲を包む黒い魔力によって形作られた紛い物。そしてその魔力は止まること、尽きることを知らない。

 

 

「———クッ!!」

 

「そら、どうした? 足掻いて見せろ」

 

 

 次々に襲い掛かる黒い魔力の刃。

 こと魔術に分類される攻撃ならば尽くを無効化出来るAランクの対魔力スキルを持つ私だが、属性が違うとはいえ純粋な魔力の塊であるこの攻撃は防げない。

 まるで波濤のように、あるいは大蛇のように襲い掛かって来る魔力の奔流。それらを聖剣で弾き、逸らし、足捌きを以て避ける。

 だが人間の腕が二本なのに対し、(ワタシ)の操る黒い泥を内包した魔力の触手は数を次第に増やし、止まらない。

 

 

「どうした、その程度か。騎士王の名が無くぞ!」

 

「ほざけ———ッ?!」

 

 

 視界全てを埋め尽くす、泥。

 避ける、叩き落とす、逸らす、そんな小手先の対処など一切が及ばぬ暴力の具現。

 言葉で説明すれば長くなる状況も、実際に相対してみれば息を飲む刹那の瞬間よりもさらに短い間に過ぎない。既に振り抜いていた聖剣を再び構えるだけの暇もなく、まさに泥は私を飲み込まんと迫り来る。

 

 

「させ‥‥るかァァァアアア!!!!!」

 

 

 瞬間、全身から迸る、泥にも負けぬ青白い光の奔流。

 私がサーヴァントとして保有するスキルの一つ、魔力放出を用いた完全に力任せの乱暴な迎撃。

 瞬間的に黒く染まった泥そのものが純粋な魔力の塊。通常の手段では抗し得ない存在であるそれらも、同じく圧倒的な魔力の放出ならば対抗できる。

 

 ‥‥だがそれも、一時凌ぎに過ぎない。

 私が放出する魔力はマスターである凜によって供給されるもの。そして凜が現代の魔術師としては最高峰の魔術回路と魔力を保有しているとはいっても、そも前提条件として英霊一人を現界させる魔力の量というのは並ではないのだ。

 ましてや瞬間的とはいえ全身から放出しようと思うならば、魔力の量は凄まじい桁へと達する。もはや宝具にも匹敵する消費量だ。とても乱発は出来ない。

 

 ましてや切り札と言っても遜色ない威力の魔力放出には、当然のように隙が生じる。

 それを(ワタシ)が、見逃すはずはないのだ。

 

 

「———逃がさん!」

 

「ッ!」

 

「『卑王鉄槌《ヴォーティガーン》』———ッ!!」

 

 

 無理を強いたがために全身を襲う硬直。

 コンマ数秒の差とは言えども、私達の戦いにおいては致命的な隙。

 圧倒的な魔力によるバックアップを持つ(ワタシ)にとって、切り札たる宝具の能力を限定的に解除するだけならば、そのコンマ数秒で十分に事足りた。

 

 

「‥‥ぐ‥‥が‥‥ぁ‥‥!」

 

 

 黒い聖剣の周りに現れたのは、暴虐を形にしたとしか思えぬ黒い魔力の輝き。

 質量すら保有するに至ったその魔力はまるで(ワタシ)が持つ聖剣の刃が巨人の振るうそれに変わったかと思う程。

 それを喰らえば、もはや勝負が決する程の確実な痛手を負ってしまうことは間違いなかった。だが刹那の瞬間とはいえ、完全に体が硬直してしまっていた私に成す術など存在しない。

 勝利を確信した(ワタシ)の笑みを遮るかのように下から上へと振り切られた黒い輝きをまともに体に受け、私は無様に吹き飛び、泥で汚れた大地に転がった。

 

 

「———ハ、ハハ、ハハハハハハハハハ!!! どうした貴様(ワタシ)! この程度のことでもう起き上がれないのか?! 無様、なんたる無様! とてもこれが騎士王(ワタシ)とは思えない無様な姿だな!」

 

「ぐぅ‥‥!」

 

 

 もはや指一歩も動かせぬ。そう思ってしまう程に、私の全身は黒い聖剣によって打ち据えられていた。

 首を掴まれ、持ち上げられる。小柄な私とはいえ鎧を含めれば重量はそれなり以上だというのに、(ワタシ)の膂力はそれを片手で支えられるだけのものだ。

 息が苦しい、意識が遠のきそうになる。だがそこまで簡単に負ける程、私の身体は弱くなく、苦痛だけが継続する。

 

 

「‥‥あの泥に飲み込まれた時間は、一瞬でありながら永遠のような長さだった。

 ひたすらに負の感情という概念そのものを叩き付けられ、そして私自身の生の醜さをも見せつけられる。

 何故、私は斯様な生き方をしなければいけなかったのか? 何故、私は斯様な最期を遂げなければならなかったのか? 私はどう生きるべきだったのか? 私はどう成るべきだったのか‥‥?」

 

 

 白磁のような顔が、歪む。

 それは私が持っていた、いや、今もなお持っている後悔と苦悩。それを表したような渋面。

 自分自身を殺してしまいたい、八つ裂きにしてしまいたいと思う程の葛藤。それを強いて見せられ続ければ、どうなることか。

 負の感情を凝縮した泥によるものだ。それも生半可なものではなく、真っ当なものでもあるまい。

 この世全ての怨嗟の声を、自分の責任だと聞かされ続けるのならば‥‥果たして私に耐えることが出来ようか。

 

 

「‥‥なぁ貴様(ワタシ)、お前は王に相応しかったのか? 私達は、王に相応しかったのか?」

 

「‥‥‥‥」

 

「国のためを思い、民のことを思い‥‥故に多くの民のため、必要であると定めた僅かの民を犠牲にする。

 公正であるためには、感情に左右されてはならない。そうやって感情を切り捨てたから、人の心が理解出来ない。

 馬鹿な騎士共だ。王とはいえど人なのだから、心が理解出来ないはずはないというのに。理解出来るという様を見せられなかっただけだというのに。

 挙句の果てには正しい選択の末の誤りを王の責任として責めたてる。あの湖の騎士(ランスロット)などが良い例だ。奴の所業こそが全ての原因であろうはずが、身の程知らずにも貴様(ワタシ)を憎み、恨むとは」

 

「‥‥我が朋友(とも)を‥‥侮辱、するな‥‥ッ!」

 

「だが事実だ。

 全ては貴様(ワタシ)の行いが引き起こした勘違い。しかし、だからといって貴様(ワタシ)が悪なのか? 何故身勝手に貴様(ワタシ)が責められなければならない? ‥‥そう思ったことは、本当にないのか?」

 

「‥‥‥‥!」

 

「そら見ろ、そうだ、貴様(ワタシ)にも確と反論など出来はしまい。貴様は確かに自身の王道を信じて歩んで来たはず。その事実にだけは間違いなどない。

 あのカムランの丘で、後悔はしただろう。疑問を抱きはしただろう。そこで自身の人生を再評価するために思考を巡らせ、しかしあの一瞬は間違いなく自身を信じ、進んでいたはず」

 

 

 朦朧と翳み、しかしそれ以上は決して楽に落ちることが無い意識の中で、その言葉だけがしっかりと耳に残る。

 ああ、確かにそうだ。(ワタシ)の言うことにも一理ある。確かにあのカムランの丘で、絶望に塗れはした。しかし、間違いなく私は、あの時、あの時代、日々後悔などしていなかった。

 躊躇いが無かったわけではない。悩まなかったわけでもない。所詮は王と言えども人間。人の身にて人ならざる理想の王たる存在たらんとしたのだから、当然のことだ。

 だがそうだ、結局は私はその生き方を選択したのだ。

 そこには間違いなく、自分自身の意思による決定があった。

 

 

「どう思ったのだ? 裏切られ、裏切り、失敗して死んだ。その瞬間だろう、後悔したのは。

 全て無かったことにしたかったのは、辛い思いをし続けたからではない。全ての積み重ねの後に訪れた、あの絶望に耐えるためだ。ただただ与えられる結果を享受するだけでは、とても耐えられなかったからだ。

 どんなものであろうと題目を付けて、理由を付けて、自分自身の絶望を能動的に肯定する。そうでなければ耐えられなかった。そうでなければ、『そこで終わってしまった』。

 貴様(ワタシ)は『終わってしまう』ことが耐えられなかった臆病者だ。今もそうして、ほら、現世に留まり続けている。

 シロウと凜の行く末を見守る? ハッ、笑わせる。

 『終わってしまった』存在に、これからを生きる者達へしてやれることなど何もない。貴様は『終わってしまった自分』を認められなかった。『終わってしまうこと』が怖かった。だからこそ、惨めにかりそめの生にしがみついている。みっともなく、な」

 

「黙‥‥れ‥‥!」

 

 

 性質(タチ)の悪い毒のように、その言葉は

私の精神を蝕んでいく。

 どれだけ手を尽くして耳を塞いだところで、遮断出来るのは外部から入ってくる音だけだ。内から聞こえてくる音には、決して耳を塞ぐことなど出来ない。自分自身の語る言葉は、聞こえないふりを許さない。

 どうにも力の入らない左腕で、私は憎しみすら込めて目の前の黒く染まった騎士(ワタシ)の首をつかむ。

 まるで鏡に映った自分自身の首を、絞めている気がした。

 

 

「反則紛いの行いで、それだけの猶予を手に入れて、満足出来る答えは得られたのか? なぁ、貴様(ワタシ)?」

 

「‥‥!」

 

「得られてないのだろう? このままでは満足してあのカムランの丘に戻ることも出来まい。惨めなことだ、酷いことだ、まったくもって度しがたい愚かさだ。見るに耐えん」

 

「黙れ! 虚構の、偽りの存在で何を言うか、下郎!」

 

「笑わせる。偽っているのは貴様の方だ。‥‥私は、答えを見つけたぞ?」

 

「何ッ?!」

 

 

 怒りで我を忘れ、痛みを忘れ、しかし忘我を超える力を込められ、堪らず反射的に(ワタシ)の首に伸ばしていた手を自らの首を絞める黒い小手を掴む。

 刺々しく攻撃的な装飾が施された小手が首の皮膚を傷つけ血が滲むが一向に力が緩まる気配はない。

 だが強まる力に反比例して薄まっていくはずの気配は、激昂によって高ぶった精神によって、しっかりと保たれていた。

 

 

「———英雄とは一つの脅威だ。

 人々では到底敵わぬ化生、怪物を打ち滅ぼす。人々の敵を、絶対困難な状況で圧倒する。人々に利する存在。人々の敵を滅ぼす存在。‥‥だがそこには感謝、憧憬、興奮を凌駕する負の感情が存在している。

 絶対的な力に対する根源的な恐怖。自らとは異なる存在への猜疑。そして人々の敵は人外であるとは限らない。英雄が利する英雄によって存在を否定された『敵』は、理不尽なまでに圧倒的な暴力に対する憎しみを。

 これこそ道理に基づく、当たり前の現実。故に———!」

 

「が———ァ———ッ?!!」

 

 

 左肩に疾る、灼熱。

 突き立てられた黒い聖剣が、私の肩甲骨をガリガリと削る。

 まるで腕がもげてしまいそうな激痛。あと数センチ外側にずれていれば、間違いなく私の左腕は胴体を離れてしまったことだろう。

 激昂よりも何よりも、酸素不足によって霞む意識を覚醒させる刺激。だが、私の視界に入るのは愉悦と自虐に歪む、(ワタシ)の顔。

「———憎まれ、疎まれることこそ英雄の本分。ならば何故、取り繕う必要がある? 必要なのは体面でも題目でもなく、ただ英雄としての役目を全うするというだけだったのに」

 

「ぐ‥‥あ‥‥!」

 

「不平不満など押し潰せば良かったのだ。そこに必要があるならば、他の何も気にする必要などない。思い悩む必要などない。ただ必要なことを、実行するのみ。

 そうだ、なぁ貴様(ワタシ)、私達は暴君であればよかったのだ。

 喧しい騎士共など力でねじ伏せ、従えればよかったのだ。理解など得る必要などなかったのだ。

 徹底した統治。自由なき自由こそ王の生業。ならば騎士道も王道も、全てがそれに準ずるべきだった。私達は、理想の王たらんとするあまり、余計なものを内に淀ませてしまった」

 

「———ぐ、う、うあああああああぁぁぁ!!!」

 

 

 首から手が外され、私の身体が黒い聖剣のみによいって宙釣りとなる。

 自らの身体と甲冑の重みが一つ箇所に集中し、襲い来る激痛。そのあまりの痛みは脳髄に閃光が疾る程。

 骨に引っかかった聖剣がガリガリミリミリゴリゴリと音を立て、直接脳髄へと振動が走って音を伝える。なんとおぞましい音か、自分の五体が失われる様は。

 

 

「婦女子のように泣き叫ぶか。ふん、みっともない」

 

「ご‥‥がぁ‥‥ッ!」

 

 

 もはや英霊としての矜恃も何もあったものではない。

 流石に涙を流して懇願するようなことはしまいが、それでも喰い縛った歯の根だけでは抑えきれなかった苦痛が外へと飛び出す。

 その様に満足したのか、(ワタシ)はニヤリと唇を歪め、頑丈な脚甲で私の腹を蹴り込み、剣を肩から抜き放つ。

 

 

 

「‥‥この悪趣味な舞台装置の主役は凛とサクラ。我々は本来は前座に過ぎず、この舞台に上がる資格などない。だが、それはつまり筋書きに従う云われなどないということ……!」

 

 

 ガチャリ、と重厚な響きをあげて黒い聖剣が構えられる。鈍く光る切っ先は、私の血で紅く彩られていた。

 ……左手は流石に動かない。如何に英霊と言えども、肩の骨を抉られてなお、剣を握る手に力を込めることなど不可能。

 今も脳髄を苦しめる激痛は、戦いの興奮によって立ちどころに消え去るだろう。凜からの魔力供給も、次第に細くなりつつはあるが、健在。

 

 

「本来ならば露と消え去る定めの我が身だが、私と貴様(ワタシ)に限って言えば、存在基盤はほぼ同じ。

 ならば、ならば私が貴様(ワタシ)を屠り、なり代わるという結末もまた、あり得るかもしれんぞ‥‥?」

 

「戯れ言を‥‥抜かすな‥‥!」

 

 

 戦える。まだ十二分に戦える。

 

 (ワタシ)の言葉に偽りはない。認めたくはないが、確かに(ワタシ)は私だ。本当の本当に自分を偽ることなど、誰にだって出来はしないのだから。

 だが、それが正しいわけではない。正しいとは、到底認められない。

 

 あれはもう一人の自分自身が出した答え。誰にでもある二つの側面の、片方が出した答え。

 だが、私は、『この私』はそれを認めない。

 苦悩に満ち、絶望に塗れ、贖罪を望み、しかし私はこうして今、ここに立っている。

 

 もしかすれば、いつか私が本当に、(ワタシ)と同じ答えに辿り着く時が来るかもしれない。

 暴君と化し、全てを壊し尽くして座に戻る日が来るかもしれない。

 しかし、それは今ではない。

 

 いつか私がとるかもしれない選択肢を提示されたところで、今の私がそれを洗濯するとは限らない。そして少なくとも、今の私は、それを選択するつもりなどない。

 私の未来を限定するな。私の選択を限定するな。

 (ワタシ)は当然のものとしてそれを選択したのかもしれない。あるいは言葉の通り、万年、億年、那由多の彼方だけの年月に感じる程の苦悩の末に辿り着いた選択なのだとしても、『今の私』が選ぶ選択肢では、決してない!

 

 ならば私は、『今の私』という存在に賭けて、その選択を否定しよう。

 私と同じ、(ワタシ)。彼女がした選択は、間違いなく私も選び得る選択肢。だが、それを理解していてもなお、私はそれを否定しよう。

 それこそが、『今の私』の選択なのだから。

 

 

「遠い日の理想よ‥‥。さぁ、今度こそ永遠の絶望に身を委ねるがよい。祈りも、誇りも、全てはあのカムランの丘に果てていたのだ。

 我が内なる光よ、せめて優しい夢の中で眠れ」

 

 

 震える手で構える聖剣は、幾多の城壁を破った竜の息吹。

 だが今回の敵は、私と同じくブリテンを守る赤き竜の化身。その身に宿す力はすでに証明された。聖杯戦争以来。二年近くぶりに見える同等以上の怨敵。

 姿形は同じ。精神は真逆。

 到底許せぬ王道なれど、その在り方は紛れもない騎士。その覇道、許すわけにはいかぬが、認めよう。

 認めた上で、否定しよう。これは互いの王道の、信念のぶつかり合い。かつては迷いがあったがために参加出来なかった、征服王と英雄王との王道合戦が、今まさに繰り広げられようとしている。

 

 ‥‥申し訳ありません、凜。どうやら貴方の援護は出来そうにない。

 圧倒的な魔力を内包するサクラとの戦い、助太刀したい気持ちはやまやまですが、今は目の前の(ワタシ)を打ち倒すことこそ我が使命。

 

 ならば私は一人の英霊として、いや、貴方のサーヴァントとして、恥じぬ戦いをしてみせましょう。

 かつての私が生んだ虚像。‥‥否、確実に有り得たもう一つの現実を打ち倒し、貴方の下へ帰還しよう。

 そのときにこそ、答えは得られるのでしょうね。‥‥きっと、その時に。

 

 

 

 Act 83 Fin.

 

 

 

 




残念だなぁ紫遙の分の出番がないや


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Steins;Gate〜並行交叉のウィザード

執筆?してますよ!
今はね、「赤城のグルメ」という艦これ連載やってますよ!
ワハハハハハハ!!連載増やすと大変ですよね!!

追伸:2-4突破しました


 

 

 

side Kyoma Houoin?

 

 

 

「‥‥あぁ、俺だ。大変なことになっている。どうやらこれも機関の陰謀らしい、兵糧庫(れいぞうこ)の中の備蓄食料が消失している。

 それも特に、ネクタルに匹敵する選ばれし者のための知的飲料たるドクペのみが‥‥ッ! あれは狂気のマッドサイエンティストたるこの鳳凰院凶真が虹色の脳細胞を活性化させるために必要な唯一の糧。これを攻撃してくるとは、奴らも遂に本気ということか‥‥」

 

「オカリン妄想乙。もう何回言ったかわかんねーけど、妄想乙。あとそれ多分持ってったの牧瀬氏だと思われ。今日はオカリンが買い物出てってからずっとラボにいたけど、一番最後に僕の前でドクペ飲んでたのって、牧瀬氏だし」

 

「何ッ?! 助手め、いったい何のつもりだ‥‥! くっ、我が忠実なる右腕よ、何故それを黙って見逃した!」

 

「いやいや、オカリン自分のこと棚上げしすぎっしょ。ちょっと前に牧瀬氏のプリン勝手に食べてたって証言があったので、そこは止められねーだろ常考。ところで『私のプリン‥‥』って、ちょっと思わせぶりな台詞じゃね?」

 

「黙れHENTAI!」

 

 

 日本は東京、秋葉原の某所にひっそりと存在する我がラボ。その名も『未来ガジェット研究所』。

 こじんまりとしたビルの一階には地デジ化に伴い廃業の危機も間近な、偏屈な主人兼家主が構えているブラウン管工房。そしてその二階部分にあるのが、ここだ。

 うだるような暑さにも関わらずエアコンはなく、オンボロでサボり癖のある扇風機だけが涼をとる手段。そしてそんな中で二人のいい大人と数名の女性が、ウダウダ過ごしているわけである。

 

 俺の前でラボ備付のパソコンの前に座り、いかがわしい類のゲームをしているのは我が忠実かつ優秀なる右腕(ライトアーム)。スーパーハカーのダル。

 ぱっつんぱっつんのTシャツinズボン、+帽子と今時には珍しいだろうテンプレ的なヲタクファッションに、一昔前の柔道家のようなアンコ体型。だがコンピューターや機械を扱わせれば右に出るものはなく、どんなファイヤーウォールでも突破してしまう超人的なハッキング技術を持っている。

 そのダルが言うにはドクペを持って行ったのは、ラボメンアンバー004、若干18歳にしてサイエンス誌に論文を載せる程の天才少女、牧瀬紅莉栖だという。

 

 

「くっ、悪いなまた俺だ。まったく、味方の裏切りとは予想もしていなかったぞ。機関による人心操作の手は我が助手にまで及んでいるというのか」

 

 

 使い慣れた赤い携帯を耳に当て、俺は普段からやっている報告をした。

 ‥‥なんてことはない。ただの“フリ”だ。報告する相手なんかいなくて、いわば独り言と言える。

 そう、本当なら応答などないはずだった。

 

 

『———なんだ、また君か。いや、別に今は付き合っても大丈夫だけどね。それで今度は一体どうしたんだい? 前の報告ではまだ今まで通り機関とやらとの戦い続いていたはずだけど』

 

 

 ‥‥通話状態にない、それこそスリープ状態のままの携帯電話から聞こえてくる、青年の声。

 ここ最近聞きなれてしまっていた声は、また軽い調子で俺の独り言に返事を返してきた。親しみやすい、柔和な声色にからかうような響きが混じっているのもいつものこと。今日もまた、俺の妄想話を楽しみにしているのだろう。

 

 

『おっと気を悪くしないでくれよ、別に君のことを疑っているわけじゃないんだ。何せこんな関係だからね、君と僕とで生きている世界が違うって言っても、不思議なことじゃあないだろうさ』

 

 

 いつ頃からだろう、彼と俺との奇妙な関係が始まったのは。明確に思い出すことは出来ないが、そこまで昔の出来事じゃない。

 ある日突然、この携帯電話にいつものように報告をすると、彼につながるようになっていた。それこそ理由は我がラボが偶然にも開発した時を超えるメール、Dメールよりもさっぱりだ。

 話す内容は、たいしたことではない。それこそいつも俺が報告していることを彼が聞いて、感想を言うだけだ。

 たまにやりとりをすることもあるが、基本的にそれは変わらない。通話は俺から彼への一方通行で、俺の報告が彼の携帯にがっても、彼からかけた電話が俺の携帯に繋がることは未だかつてなかった。

 

 

「何を言う、機関との戦いは我が聖戦である。世界の支配構造を破壊し、画一された無個性と堕落、恭順と怠惰という名の秩序を退け、世に混沌を齎すためのジ・ハードなのだ!」

 

『聖戦とジ・ハードって本質的には同じ意味だと思うんだけどね。まぁ、俺の常識と君の常識が違う可能性は否めないけど。君からの断片的な情報では君の生きている場所がどのような世界なのかというのは、俺の常識で判断するより他にないからなぁ』

 

「ていうかオカリン、ジ・ハードだとTHE HARDとかまったく別の意味に聞こえると思われ。そもそもジハードって、英語じゃないだろ常考」

 

「ええぃ貴様ら互いの声も聞こえていないのに何故そこまでシンクロして苦言を弄するのだ?!」

 

 

 謀ったかのようにピッタリのタイミングで口々に突っ込まれ、思わず口をつぐんでしまう。

 いや、いいのだ、別に気にしてなどいない。天才にも間違いはあるのだからな。

 

 

「いつになく独り言長ぇなぁと思ったら、また“例の人”と話してたのかオカリン」

 

「その通りだ、ダル。機関との戦いを情報という面からサポートする我が同志への報告は当然の義務だろう」

 

『なんか誤解を生じる言い方してるけど、俺としては君の話を聞いてるだけの分際に過ぎないつもりなんだけどね?』

 

「オカリンに代わってもらっても俺じゃその人の声、聞こえねー謎仕様だかんなー。正直オカリンのいつもの妄想乙って切っちゃってもいいのかもしんねーと思うわけだが」

 

「マイフェイバリット・ライトアームよ、正直俺にもよくわかってない」

 

「それ、ダメじゃね?」

 

 

 毎日、というわけではない。下手すれば一週間どころか二週に一回程度のこの通話。

 最初はひどくぎこちない、猜疑心に満ちたやりとりであったソレも時間が経てば日常的なものと化し、今では繋がると時と繋がらない時と、どちらもまったく変わらず独り言を続けることが出来るようになっていた。

 ちなみにダルの話は真実だ。一度興奮して我が右腕たるダルと彼に話をさせようと思ったのだが、不思議とダルに電話を代わっても、彼の声がダルに届くことはなかったし、同じようにダルの言葉が彼に届くこともなかった。

 どうやら彼と俺との間だけ、通話が成功するというのはどの状況においても変わらない原則的事柄らしい。ちなみに代わっている間、通話が切れているということもなく、彼の話によれば只の無音状態で、ついでに言えば俺の周囲の物音なども一切聞こえないと言う。

 

 

『世界の支配構造の破壊、ねぇ。君の世界が誰に、何によって支配されているか俺の知るところではないし、それを応援するということもないけれど‥‥。

 君が世間一般でいうところの日常と乖離した生活を送っているというならば、その無卿を慰める一助になれればとは思うよ。そちらに俺が干渉する気もないし、そちらから干渉されるのも望むところではない。とすれば、互いに話をするぐらいしか出来ることはないのだしね』

 

「同じく俺も、貴様がどのような人間なのか知らないのだがな。名前すら教えない電話の向こうのジョン・ドゥ」

 

『そりゃあお互い様だろう、狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真?』

 

 

 彼は、俺との通話の異常性を周りの人間に打ち明けてはいないのだという。

 なんでも彼自身、そして彼を含む環境の殆どが秘密主義を旨とするものであり、こんな秘密を打ち明けたが最後、実験対象として面倒なことになるのは目に見えているし、ともすればアイデンティティーの崩壊たる因子を含めており、存在すら抹消されかねないとか。

 俺と同様、それがどこまで真実なのかは分からないが、もしそれが本当だというのならば相当に特殊な研究環境にいるようだ。まぁ、研究者であるということを仮定しての話だが。

 ‥‥いや、今の俺が置かれている、それこそこの不思議が通話が始まった頃には想像もつかなかった得意な状況を考えれば、あながちそれも嘘や冗談の類ではないのかもしれないのだがな。

 

 

「‥‥久しぶりに通話が長く続くな」

 

『まぁ今は互いに暇なんだろう? 確かに今までは君の一方的な報告に一言二言感想を返して、“エル・プサイ・コングルゥ”で終わりだったから、新鮮ではあるけれど』

 

「報告は簡潔に、必要なだけというのが俺のポリシーだ。‥‥だがそうだな、ここ最近はその頻度も少なくなってきていた、か」

 

『忙しかったらしいじゃないか。Dメール、だっけ? 時を遡るメールに、記憶を過去の自分に転写する装置の作成。俺も大概世間一般に比べて異常な世界にいる自覚はあるけど、俺の常識に照らし合わせても相当に異常だとは思うよ』

 

 

 電話の向こうの友人は、珍しくも少し真剣な声色を混ぜて返してくる。そういえばDメールについては話をしていたが、その途中に判明したSERNの陰謀やタイムリープマシンについては一切を漏らしていない。

 もちろんあのあまりにも危険過ぎる世界の秘密や、俺たちの存亡を揺るがしかねない実験については、とてもじゃないが一部の人間を除いて公表するわけにはいかないだろう。

 

 

「まぁ待っているといい。わがラボは今にDメールを超える、世紀の大発見を成し遂げる。その時はまた、いつものように報告しよう」

 

『その時は、きっと今の君の研究内容からして俺にも情報が来るとは思うけどね。まぁ、その時を楽しみにしているとするよ』

 

「うむ、それではさらだば。エル・プサイ———」

 

『コングルゥ』

 

 

 通話ボタンを押す必要もない。ただ電話を耳から離し、ポケットに仕舞うだけ。

 ただそれだけの動作で、きっと向こうでは通話が切れているのだろう。試行錯誤の結果とはいえある程度の原理が判明している電話レンジ(仮)と異なり、俺の携帯であるこれについては全く以て招待がつかめなかった。

 Dメールにかかりっきりの状態で新たに実証を始めることも難しいが、何よりこれは俺の携帯である。

 いや、別に自分の携帯で実験をするのが嫌だというわけではないのだ。狂気のマッドサイエンティストであるこの俺は、実験のためならば何であれ利用するつもりなのだから。

 だが、この携帯を変えるということは、今やっているDメールの実験に支障が出る可能性があるのだ。このアドレスを変えてしまえば未来からのメールが届かず、下手すれば二度と未来が変わらない、変えてしまった元の未来に戻れないということもあり得る。

 

 

「‥‥ふぅ、全く、ままならないものだな人生というのは」

 

「大雑把にまとめすぎだろオカリン。ままならないのはタイムリープマシンの製作である件について。

 ていうかオカリン、牧瀬氏から頼まれた部品、ちゃんと買ってきたん?」

 

「もちろんだ! ‥‥しかし紅莉栖は何処へ行ったのだ? 俺に雑用を任せて、自分はドロンするなど‥‥」

 

 

 先ほどダルが言った通り、どうやら紅莉栖は俺が足りなくなってしまった部品を買い出しに行っている最中に何処かへ出かけたらしい。

 俺にパシリをさせておいて出かけるとは、どうしようもない奴だと普通なら思うだろうが‥‥実際、ことタイムリープマシンの製作について、俺は一切役に立たないと言っても過言ではなかった。

 ‥‥いや、馬鹿にしてもらっては困る。こう見えてもそれなりに真剣に、技術大国日本の未来を背負って立つ技術系の学生としての自覚の下に勉強はしている。

 だが、やはり18歳にしてサイエンス詩に論文が載る程の天才変態少女。そして我が優秀なるマイフェイバリットライトアーム、稀代のスーパーハカーであるダルの二人が必死こいて作っている機械なのだ。

 いかに俺が狂気のマッドサイエンティストとはいえ、あの二人は俺ですら認めざるをえない頭脳と技術の持ち主。ならば、あの二人に任せた方が効率がいいのは間違いないだろう。

 

 

「‥‥仕方がないな。まゆりが帰ってくるまで、ジャンプでも読むか」

 

「オカリン、いい加減に電車の中でも堂々とジャンプ読む癖なんとかしろし」

 

 

 ふむ、おそらくまゆりも紅莉栖と一緒に帰ってくることだろう。あいつは秋葉原をぶらぶらすることが多いから、きっとその途中で間違いなく紅莉栖と接触してくることだろう。根拠は無いが。

 タイムリープマシンの製作はまだまだ時間がかかることだろう。だが、既に終わりは見えている。

 何せ我がラボが誇る天才二人が総力を挙げて研究をしているのだ。はっきり言わせてもらうが、こと小規模な実験と検証に依るものならば、我がラボは何処の研究機関にも勝るとも劣らぬ成果を上げるに違いない。

 

 ‥‥あぁ、ただの居場所であったはずの、この『未来ガジェット研究所』。

 俺とまゆり、ダルだけでずっと続いていくのだと思っていた、この胡散臭くも居心地の良い研究所が、このように一丸となって一つの目標に、それこそ世紀の大発見と言っても過言ではない大実験に取り組む日が来ることになるとは、いったいどうやったら予測できただろうか。

 それを目的としていたわけではない。本当は、心の何処かで「大事になってしまった‥‥」と臆病を晒している自分がいるのだと思う。

 

 

「‥‥確かに、どうしてこうなった、とは思うがな」

 

 

 けれど、今の時間はかけがえのない大切なものだ。

 いつの間にか、それこそ全く予期していなかった出会いの数々を経てラボメンとなった仲間たちも、大切なものだ。

 だからきっと、俺もなんだかんだ今を楽しんでいるのだろう。怠惰な日常ではなく、刺激的な毎日。

 不安な要素は確かにいくらでもある。トンデモないことに手を出しているのでは、という懸念は未だに拭えないが、だとしても、紅莉栖の好奇心を、何より俺の好奇心を止めることは出来ないし、もはやその段階はとうに過ぎてしまっているのだろう。

 

 

「くっ、ダメだ、のんびりジャンプなど読んでいられるか! さぁダルよ! 助手達が戻ってくる前に再度、機材の組み立てを試みるぞ!」

 

「やめとけってオカリン、この前も勝手に部品いじって牧瀬氏に怒られてただろ空気嫁jk。ていうか僕の手がけた回路壊されたりしたら機嫌が有頂天と化すし、マジでやめろよな」

 

「うぐ‥‥ま、まぁこの程度のことに俺の手を煩わせることもあるまい。ラボメンがそろうまで、ゆっくりと待っているか‥‥」

 

 

 だからこのときの俺は、この居心地の良い空間が続いていくことを、微塵も疑っていなかった。

 自分でも言った通り、不穏な気配自体は前々から感じていたというのに。これが危険なことであると、懸念を持ってしかるべきことだと、そうわかっていたはずなのに。

 

 全ては俺の招いたこと。ラボの主である、俺が軽率でなければ、俺が思慮深ければ、俺が慎重だったなら。

 そう思わずにはいられない悲劇も、延々と続く地獄も、全ては自業自得。否、自業他得と言うべきなのだろうか。

 俺の成したことで、俺以外の仲間たちが、大切な仲間たちが危険に晒される。故に俺は俺を許せない。俺は失ってしまったものを、取り戻さなければいけない。

 いずれ来るだろう精神の摩耗も、袋小路も、薄々と予期していながらも回避することなどできはしない。

 初めに俺がしでかしてしまったことが原因なのだ。それを拭い去らなければ、すべては確定されてしまったままだ。

 だから俺は続けるのだろう、何十回にも、何百回にもわたるだろう繰り返しを。

 まるで機械のように、淡々と‥‥。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥」

 

「どうかいたしましたの、ショウ? 先程から携帯電話ばかり睨みつけて」

 

 

 レースのカーテンで程よく減じられた穏やかな日光が差し込む部屋の中。一流のバイオリニストが奏でる音色をBGMに、最高級のアールグレイと絶品のショートブレッドでのティータイム。

 周りを見回せば、英国調の洋室には上品な本棚がインテリアの由緒正しい正統派の書斎。何故か据えてあるピアノの隣で“淑女の嗜み”であるらしいバイオリンの練習をしていた我が三年以上にもわたる公私共のパートナー、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは怪訝な声を発した。

 

 

「いや、別に大したことじゃないよ。最近は橙子姉からも心配そうな連絡もないしね。いやいや、まさかあの橙子姉が三日に一回もメールをくれるようになるとは‥‥」

 

「それは貴方が散々心配をかけたからではなくて? お姉様方にも、(ワタクシ)達にも」

 

「‥‥本当に悪かったってば。もうあれから一年以上も経つんだし、頼むからそのぐらいで勘弁してくれよ」

 

「別に怒っているわけでも根に持っているわけでもありませんわ。‥‥ただ、貴方は放っておくといつかまたとんでもない無茶をしそうですから。

 まったく、いつもは慎重な研究家という顔をしておいて、本当の本当に重要なところでは無茶ばっかり! 振り回される私達の苦労も考えてほしいものですわ!」

 

「普段は俺の方が君たちに振り回されてばっかりなんだけどね‥‥」

 

 

 拗ねたようにそっぽを向いてフンと横目でこちらを見やる、完全無欠のお嬢様。

 オレンジ混じりの金髪は燦々と降り注ぐ陽光のようで、栗色の瞳は一流の研磨師によって磨かれた宝玉そのもの。映り込む知性の色には否応なく魅かれてしまう。

 身にまとった青いドレスは清冽な彼女の魅力を引き立て、特徴的なドリルのような髪型は‥‥なんだろう、もう見慣れたから個性の一種だと思うんだけど、初見の人にとってはかなり珍しい部類に入るんじゃあるまいか。

 けど彼女らしいのは、その特徴的な髪型がこれ以上ないくらいに似合っていることだろう。普通の、同じ年頃の女性がこの髪型をすると、派手やら目立つやらで野暮ったいことこの上ないのだから。

 

 

「しかしルヴィア、難しい顔をしているといえば君もじゃないか。もしかして、大師父の課題の進捗は芳しくないのかい?」

 

「‥‥悔しい限りですけれど、その通りですわね。一つの家を背負って立つ者として後の者に誇れるだけの研究をしている自信はあったのですが、大師父の出す課題はそれを数段先んじておりますの」

 

「へぇ、流石は魔法使いだな。君レベルの魔術師が相手でも、魔法と魔術の間にはそれだけの差があるってことか‥‥」

 

「何を他人事のように言っておりますの。他ならぬ貴方のお姉様も、その人外魔境の一員ですのよ?」

 

「いやぁ青子姉の魔法はちょっと、俺の守備範囲から外れるからなぁ‥‥。結局のところ守らなきゃいけない秘密ではあるけど、それ以上は俺に関係ないし、だとすると青子姉も普通の人だよ」

 

 

 去年に起こったとある事件によって、今まで全くもって理解の外、というよりは認識の外であった『魔法・青』がどんなものなのか、俺たちは漠然とだけど知ることになった。

 とはいっても第五魔法とも呼ばれる青子姉の使う魔法は結局のところ、その実態を知ったところで原理など全くもって検討もつかず、ましてや研究対象に選ぶなど、とてもじゃないけどやりたくない。

 いや、まぁとっかかりぐらいなら分からないでもない。けどそれって『第二魔法は宝石魔法を研究していけば、到達できる』って言うのと同じぐらいのレベルだ。ましてや俺の研究課題とまったくかぶらないというのに、今までの研究成果を捨てて新しく選ぼうなどとはとてもじゃないけど勘弁して欲しいところだ。

 何より“あの”橙子姉が———本人の前では口が裂けても言えないけど———辿りつくことの出来なかった極みである。青子姉を見ていれば、真っ当な方法で辿りつけるものではないということぐらいは簡単に分かるというものだった。

 ‥‥あと、魔法云々が無かったところで、あの青子姉を普通と形容するのは聊か以上に無理がある気がする。

 

 

「これでも義弟だから、出来ることならば青子姉や橙子姉の技術を継承したいとは思っているけど‥‥

 それでもあくまで運命に干渉するのが、魔術師としての俺の目的だからね」

 

「次元論は専門分野ではない、と言うことですのね。そう考えてみると、どちらかというと私達の方がまだ可能性がありますわ。もっとも第二魔法を目の前にして浮気するつもりはございませんけれど」

 

「まぁ結局のところ、俺は魔術師で在ることを選んだから。一度選んだ研究を捨てるのは、ちょっとね。

 ‥‥しかしまぁ、考えると青子姉と橙子姉が結婚して子ども出来なかったら、第五魔法って失伝しちゃうのかな‥‥?」

 

「そういえばアオザキの家系はその血脈に魔法を継承する特殊な家でしたわね。確か傍流もございませんでしたわよね?」

 

「そうだね、蒼崎の家で次代の世代は、青子姉と橙子姉と俺の三人しかいない。傍流の家系も無いし、俺は血がつながっているわけじゃないから‥‥」

 

 

 魔法。

 魔術という言葉と、魔法という言葉の間には明確な違いが存在する。それこそ、拳銃と機関銃、否、拳銃と戦艦の大砲ぐらいに異なる明確な違いが。

 言うなれば魔術とは、廃れてしまった技術である。すでに科学に追い越され、時代遅れの退廃した技術でしか現象を再現出来ない骨董品(アンティーク)。その全てを科学にて代用出来る、埃の積もったガラクタ同然の代物だ。

 

 対して魔法とは魔術、そして魔術を代用出来る科学とも隔絶した存在である。

 即ち人類では、あるいは超越者たる魔術師ですら辿り着けない極み。そこに辿り着くことは、魔術師としての目的の一つ。根源に繋がった秘奥。

 歴史上存在した魔法はたったの五つ。そのうち、現存する魔法使いはたったの四人。

 一人は目の前でヴァイオリンの整備をしている我が相棒(パートナー)、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの師である吸血鬼。死徒二十七祖が第四位、宝石翁、万華鏡(カレイドスコープ)、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。

 そしてもう一人が我が愛すべき義姉、ミス・ブルーこと第五法の使い手、蒼崎青子。彼女の使う魔術は次元論に属する、宝石翁と同じくこの世界、この時間に縛られない。()のオシリスの砂の称するところ、乃ち世界の終焉に立ち会わぬ流浪者である。

 

 本来ならば魔法とは、今、隣でルヴィアが悩んでいる通り、魔術の研鑽の果てに辿り着くものであるはずだ。だが、こと第五魔法に関しては話が違うらしい。蒼崎の家は、魔法を継承するのだ。

 極東の魔術貧乏な国、日本の家柄でありながら、魔術協会では悪名ながらも高い知名度を誇る蒼崎家。魔法を継承する、というのはどうやら血族の者に魔法使いが出ることが多いという意味らしく、特に青子姉なんかは何が何やら分からない内に魔法が使えるようになってしまったとか、心底ワケの分からない継承の仕方をしているらしい。

 ちなみに当然のことながら第五魔法は血族にしか受け継がれないから、俺が魔法使いになることは百パーセント無いと言える。そして同様に、“既に定まってしまっている魔法”を俺が使えるようになるとも、どうしても思えなかった。

 

 

「まぁ第五魔法については、なるようになる気がするよ。今の継承者が、他でもない青子姉だからね」

 

「‥‥確かに、ミス・ブルーですものね」

 

 

 苦笑するルヴィアを横目に、胸ポケットに入れた煙草の箱を人差し指で軽くトンと叩いて見せる。

 これは俺とルヴィアの間での符丁のようなもの。いわば『煙草を吸ってもいいかな?』という無言の合図。瞳の動きだけで許可をくれたルヴィアに俺もアイコンタクトで謝意を示し、綺麗な真っ白いレースのカーテンと華奢なガラスの窓を開き、取り出した煙草に橙子姉から貰った骨董品(アンティーク)のライターで火を点けた。

 細かな装飾の施された大きめの頑丈なライターは、何時何処でも持ち歩くもう一つの相棒のようなもの。流石は橙子姉セレクト、不思議とどんな事故にあっても壊れず、重宝している。

 

 

「‥‥ふぅ、臭いが気になったら言ってくれよ?」

 

「それこそお気になさらず。それに貴方ならば風がこちらに流れた時点で、火を消して下さるでしょう?」

 

「随分と信頼されたものだ。まぁ、悪い気はしないけどね」

 

 

 吸い込んだ紫煙をルヴィアに向かわないように注意しながら宙へと吐き出す。

 “あの”事件から以来、どうにも煙草の量が増えてしまったように思える。やはり精神に負担を強いられていたのだろうか、今までは毎日吸わなくても良かったのが、今では毎日思わず煙草に手が伸びる。

 もっとも魔術師ならば煙草ぐらいじゃ体を壊すことはない。とはいえあまりよろしくないのも事実で、こうやって了解を貰っていながらも、ルヴィアはあまり良い顔をしていなかった。

 多分、煙草を目の前で吸われることが嫌というよりも、俺の体を心配してくれているんじゃないかと思う。もし、それが自惚れでさえなければ。

 

 

「‥‥それでショウ、理由は教えて頂けませんの?」

 

「え?」

 

「先程から携帯ばかり気にしてらっしゃる理由ですわ。もともと貴方はそこまで積極的に携帯を使う人ではなかったでしょう? それが最近では普段なら一瞥もしない携帯電話を一日にニ、三回は開いておりますわよ。

 もちろんお義姉様方からのメールもあるのでしょうが、それにしても不可解ですわ」

 

 

 そもそも携帯電話というものを所持していない彼女に言われても説得力は無いけれど、確かにもともとあんまり、いや、殆ど携帯を触らないタイプの人間である俺にしては、不思議なことなのだろう。

 ただ単に着信履歴をチェックするだけだから一瞥するだけで終わるのだけれど、それでも普段は所持していることすら忘れられてしまうぐらい放置している代物がちらちら顔を出すとなると、確かに誰であっても気にはなる。

 

 

「‥‥まぁ、別にたいしたことじゃないんだよ。ただ、今までずっと週に一度、二週に一度ぐらいは連絡があった友人からの便りが途絶えて久しいなぁと思ってね」

 

「友人? 時計塔の学生ですの? でしたら研究か何かで工房に引きこもるのはさほど珍しいことでは‥‥」

 

「あぁいや、そいつは魔術師でもなんでもないよ。いや、なんでもないはずだ、って言った方がいいかもしれないね。なにせ、会ったこともないんだから」

 

 

 薄い紫色の、青と橙の飾り石のストラップをつけた携帯電話の表面をなぞりながらそう言うと、ルヴィアはぱちくりと宝石の瞳を覆う、ビロードのカーテンのような瞼を瞬かせる。

 ともすればひょうきん、あるいは普段の態度に似合わぬ可愛らしい仕草に思わず唇の端が持ち上がってしまうけど、それをからかわれていると判断したのだろうか、彼女はすぐさま若干の不機嫌を滲ませた声色で疑問を口にした。

 

 

「おふざけにならないで、ショー。会ったこともない人間と、どのように電話番号を交換したというのんですの?」

 

「今ではインターネット上の掲示板でいくらでも匿名で交流することは出来るさ。もっとも俺と彼の場合、そんな単純なファーストコンタクトじゃなかったけれどね」

 

 

 既に半年近く絶えて久しい便り。

 宛先不明の通話履歴は、今では完全に過去のものとして埋もれ、跡形も残っていなかった。

 

 

「‥‥なぁルヴィア、電話の混線って、頻繁にあるものだと思うかい?」

 

「はい?」

 

「俺たち魔術師はそろそろ認めるべきだと思うんだけど、科学はとっくの昔に魔術を凌駕している。そりゃ新技術を導入したりしていれば色々と初期不良の類だってあるかもしれないけれど、携帯電話っていうのはごくごく最近普及した技術とはいえ、既に確立したものだと思う。まぁ、専門家じゃないからよく分からないけどね」

 

 

 そも、魔術師にとって機械の類は忌避すべきものだ。

 科学によって代用、あるいは凌駕されてしまう骨董品(アンティーク)、あるいは時代錯誤(アナクロ)である魔術師を誇りを持って行使する我々は、科学に迎合してはならない。

 ともすれば負け惜しみや畢竟な矜恃の類に見えてしまうかもしれないけれど、俺達にとってそれはごくごく当たり前のことである。

 言うなれば、そうだな‥‥カメラマンがデジタルカメラではなく、アナログな一眼レフなどを頑なに使い続けるようなものだろうか。ちょっと意味が違うけど、そんなものだ。

 魔術師で”在る”以上は科学におもねってはいけない。決して科学を軽視しているわけではないけれど、それでも魔術と科学とは水と油のようなもの。

 万人に、容易に与えられる科学ではなく、馬鹿らしいくらい長い年月を、馬鹿らしいぐらい永い世代を積み重ねて尚、果てが見えない学問を、神秘を学ぶことを選んだ超越者。

 その矜恃を示す慣習、決まりごと。それを自然と実行しているってわけ。

 閑話休題。ちょっと話が逸れちゃったな。

 

 

「‥‥私は携帯電話を持ち合わせておりませんから何とも申し上げられませんが、確かに最近では電話の混線などあまり聞いたことがございませんわね。昔の、それこそ電話交換手という職業が現役だったころならまだしも」

 

「うん、俺もずっとそう思ってた。‥‥彼からの、電話がなければ」

 

「彼‥‥ですか?」

 

「あぁ、顔も知らなければ、会ったこともない友人さ」

 

 

 いつだろうか、彼と初めて話したのは。

 突然かかってきた電話には、電話番号の表示すらなかった。本来ならば番号が表示されるところにはただの空白で、携帯電話という媒体ではありえない事態を訝って出てみれば、よくわからないことをペラペラと喋り続ける青年の声。

 言っていることは思わず眉をひそめてしまう陰謀論の類だけれど、問題は、それが本当なのか虚言なのか、判断する手段を俺が持っていないということで、それ以来その“報告”を聞いている間だけの関係ではあるけれど、友人として話をしていた。

 

 

「‥‥そんな大事なことを今まで秘密にしていたんですの」

 

「まぁどう頑張っても仕組みが理解出来なかったからね。神秘に関係あるかも分からないし」

 

「確かにどちらかというとオカルトに近い事象ですわね。相手が文明の利器では私達の検証の仕方も通用しないでしょうし‥‥」

 

「本当にたいしたことは話してない、ただの話し友達みたいなものだから、わざわざ君に言うまでもないと思ってね」

 

 

 互いに魔術師で、神秘についての話をするというのならばそれは別だろう。これが携帯電話ではなくて、自室に謎のゲートが開いたとかならまた話も違う。

 けれど俺と彼、鳳凰院凶真との関係は本当に話し友達以上の意味合いを持たない。彼の話すよく分からない陰謀論めいた機関との闘争の報告を聞いて相槌を打つだけ。

 言うなればセイバーとガブローシュ、ミスタ・ジョージとの関係にも似てる。そんなものわざわざルヴィアに言うまでもない。いくら彼女が公私ともに大切なパートナーだとはいえ。

 

 

「べ、別に妬いているわけでも何でもありませんわ! 貴方が誰とお付き合いしていようと、私に関係あることではありませんものね!」

 

「何をムキになってるんだ君は」

 

「だから、別にムキになどなっておりませんと申し上げたでしょう?!

 ‥‥それで、その彼から連絡がないから、そうやって携帯電話を気にしているということですの?」

 

「まぁ、そうなるね。さっきもいったとおり今までは週に一回、あるいは二週に一回ぐらいの割合で繋がってたんだ。けど、ここ半年近くめっきり便りがない‥‥。

 便りがないのは良い便りって言葉もあるけど、ちょっと彼の性格からは外れるかな。何か事故にでも遭ってなけりゃいいんだけどな」

 

「電話越しにしか話しをしたことがない友人のことを、よくもまぁそこまで心配出来るものですわね。それも貴方の美徳といえばそうなのかもしれませんが」

 

「止めてくれよ、背筋がムズムズする」

 

 

 ‥‥だけど、実際気になるといえば気にはなる。

 秋葉原で暮らすという彼は話を聞く限りはごく普通の大学生で、陰謀論めいた報告も、何処か真剣味を感じさせない。俺みたいに非常識な世界に身を置いている人間特有の空気を感じなかったのだ。

 もちろんそれが擬態である可能性は否めないけれど、俺の見立てではそんなことはない。生憎と一般人ではない、超越者である魔術師としての感性が完全に確立してしまってはいるけれど、まだ他の生粋の魔術師に比べれば、そのあたりの判断は出来るはずだし。

 

 しかし最後の“報告”での彼の様子は、電話越しながらも少しおかしかったように思える。

 何処はかとなく興奮を滲ませ、危うかった。何かを隠しているような感じがした。さらに詳しく言うならば、まるでどっきりを隠している子どものような‥‥。

 

 

「———ッ?!」

 

「おや、着信のようですわね」

 

 

 突如、久しぶりに震え出す携帯。

 基本的にメールで連絡を寄越す橙子姉や青子姉、時計塔で必要な会話や連絡は済ませてしまう遠坂嬢、衛宮からは電話なんて殆ど来ないから、相手は限られて来る。

 携帯の画面を見れば、つい半年前までは見慣れた電話番号の無表示。なんというタイミングだろうか、噂をすれば影とは、このことだ。

 

 

『———俺だ』

 

 

 ややくたびれた、青年の声。

 たった半年ぶりだというのに、元々少し年老いて聞こえる彼の声は、数段くたびれたものになっていた。

 まるで何もかもに疲れてしまったかのような声。とても俺より三つも四つも下の若者が出す声じゃない。ましてや平和な日本で暮らしているのならば、なおさら。

 

 

「‥‥君か、随分と久しぶりだね」

 

『あぁ、そうか、そういえば“報告”も久しぶりだったな。‥‥機関の妨害が、いや、世界の妨害が俺が目的を果たすことを妨げていたのだ』

 

 

 ちらりと隣のルヴィアに視線をやると、怪訝そうな顔をしていた。

 このぐらいの距離にいるなら普通は携帯から漏れた音で会話の様子が分かるはずなのに、どうやら彼女には何も聞こえていないらしい。

 ‥‥考えてみればそれも当然で、そういえば凶真の友人であるという人に電話を替わってもらった時は、その声はおろか周囲の物音も一切聞こえない無音状態だった。

 それはこちら側にも、ルヴィアにも適応されているのだろう。この携帯をスピーカーモードに変えたところで、彼女には何も聞こえないか、あるいは俺にも何も聞こえなくなるかのどちらかの可能性が高い。

 

 

「半年ぶり、ぐらいか。こんなに長い間、いったい何をしていたんだい?」

 

『機関との、世界との戦いだ。時間を操り、現在(いま)を繰り返し‥‥。

 ———いや待て、貴様は今なんと言った?』

 

 

 くたびれた声が、事情を話さないままに切り替わる。

 何かとてつもないことに気がついた様子。まるで生気がこもっていなかった声色に、真剣な色が加わった。

 

 

『俺は何度も何度も、あの三週間を繰り返したのだぞ。今も繰り返しの最中だ、俺以外は、運命探知(リーディングシュタイナー)を持つ俺以外の人間は、繰り返しを知覚出来ないはず。

 そうだ、お前もまた三週間より多い記憶を保有しているはずがない。だというのに、何故そんなに時間が経ったと感じている‥‥ッ?!』

 

「いったい何の話をしているんだ? 少し落ち着いてくれ」

 

 

 ‥‥繰り返し?

 正直、言っていることが支離滅裂でよく分からないのだけれど、その言葉の響きは、気になる。

 魔術師として、蒼崎の人間として、“時間”に関係するその言葉を、聞き逃すわけにはいかなかった。

 

 

「‥‥やれやれ、どうやら久しぶりで、お互い状況の把握が出来ていないみたいだね。

 鳳凰院凶真、狂気のマッドサイエンティストが随分と参ってしまってるみたいじゃないか。もし良かったら、話を聞こう。俺もちょっと、君のその話には興味がある」

 

『‥‥俺の秘密を打ち明ける、そのメリットがどこにある? お前がそれを悪用しない保証は?』

 

「確かに、無いね。けれどホラ、電話越しとはいえ紛りなりにも俺たちは長い付き合いのはずだ。そのぐらいは信用してくれているとは思ったんだけど‥‥。うん、やっぱり随分と病んでるみたいだね?

 何の意味も、助けにもならないかもしれない。けれど、話せる範囲を話してくれないか? 少しぐらいなら、抱えているものを吐き出せるんじゃないかと思うよ」

 

 

『‥…ク、クク、ククククク。狂気のマッドサイエンティスト、か‥‥。笑わせる、俺は、幼馴染み一人、好きな女一人守れない愚か者だ‥‥ッ!!』

 

 

 ぽつぽつと、打ち明けられる事の顛末。

 俺にとっては半年近い、彼にとっては“あくまで”三週間の間の出来事。

 それは魔術と科学の、否、魔法と科学の交差する可能性。神秘に科学が追いつく一つの可能性を内包した、それこそ下手すれば時計塔が丸ごと動きかねない大事件。

 

 

「‥‥なんてこったい」

 

「いったいどういう話なんですの、ショウ? 私にはお相手の声が聞こえませんから、さっぱりですわ!」

 

 

 彼自身も、分かってはいまい。

 今、彼が思っている“重大な事柄”なんてものは俺の懸念に比べれば本当にたいしたことがないものだ。たかが一つの組織がどうこう、未来の世界の支配構造がどうこうなんて、そんなもの“俺たち魔術師”にとってはどうでもいいことばかりだ。

 そんなことよりも重要な、一つの懸念。それこそ世界の支配構造なんてものではなく、世界の構造そのものが揺るがされかねない大事態。

 

 

「‥‥詳しい話は出来ない。やれやれ、困ったもんだ。たかが一学生がやらかした程度の問題かと思ったら、事はトンデモないレベルまで達してるみたいだ」

 

『何か、知っているのか、名前も知らないジョン・ドゥ‥‥?』

 

「そうだね、生憎と君の抱えている、君の個人的な問題について直接的な助言は出来ないと思うよ。俺は科学者とは対局の存在だから、とてもじゃないけど科学的な解決法は提示出来ない。

 けれど、あぁそうだ、これは君にとってはあまり歓迎出来ることじゃないかもしれないけれど、どうやら黙って傍観しているというわけにもいかないみたいだよ、鳳凰院凶真」

 

 

 ‥‥研究は一段落ついている。そもそも魔術師の研究なんてものは時計塔に便宜上提出することになっている論文以外の、本来の研究については、それこそ何世代も、十何世代もかけて追求していくものだから一段落もクソもない。

 担当している講義も、少しぐらい休んだって問題ないだろう。学生の指導なら教授に頼めばいい。ルーン学科の教授は本当にいい人だから、ちょっと世話になり過ぎていて気が引けるけど、許してくれるだろう。

 

 

「助けになれるかどうかは分からない。けれど、必ずそっちに顔を出すよ。‥‥君にとって、何回目のループの時になるかは不明だけどね」

 

『なんだと? おい、待てジョン・ドゥ!』

 

「君の言い方を真似るならば、これも運命石の扉(シュタインズ・ゲート)の選択だよ。それじゃあ、エル・プサイ・コングルゥ」

 

 

 おそらく初めてだろう、こちら側からの通話の切断。電話の向こうで久々に素に戻った鳳凰院の声を聞いた気がしたけど、それも気にすることはないだろう。

 もしかしたら次に会うときは、彼にとって何回かループを重ねた後になるかもしれないしね。

 そんな愚にも付かないことを考えながら、俺は電話帳から、ともすれば橙子姉や青子姉以上に世話になっている人の番号へと電話をかけた。

 

 

「‥‥もしもし」

 

『もしもし、紫遙君かい? 久しぶりだね、今日はどうしたの?』

 

 

 聞く人に安心感を与える穏和な声。

 きっと電話の向こうでは今日もまた

、定時ギリギリまで橙子姉の無茶ぶりに振り回されているのだろう、そろそろ長い付き合いになる義姉の事務所に務める社員。

 多分、男の人の中では俺が最も信頼する人だろう。

 

 

「突然すいません幹也さん。今そちらは大丈夫ですか?」

 

『うん、今日はちょっと大口の仕事の処理が長引いたから、まだ事務所にいるんだ。よか

ったら所長に代わるかい?』

 

「いえ、今日も幹也さんに頼みがあって電話させてもらったんです。実は、調べて欲しい人物がいまして‥‥」

 

 

 穏やかな幹也さんが、電話の向こうでキョトンとしているのが目に浮かぶようだった。突然電話してきて、人探しをして欲しいと言われれば誰だってそんな顔をすることだろう。

 けれど、こと何かを調べる、何かを探すということにかけて幹也さんの右に出る人を寡聞にして俺は知らなかった。こういう仕事に関して、幹也さんはちょっと一般常識では測れないくらいの能力を見せるのだから。

 

 

『まぁ僕に出来ることだったら何でも言ってくれよ』

 

「すいません、お世話になります。

 彼は秋葉原を本拠地に活動している学生で、本名かは分かりませんが、鳳凰院凶真といいます。未来ガジェット研究所というところにいるらしいのですが、詳細は不明です。多分、白衣を愛用していて所構わず携帯を取り出して通話する癖がある」

 

『‥‥うーん、人相とかは分からないのかい?』

 

「すいません、人相どころかどこの大学の学生なのかも‥‥。ご迷惑をおかけします」

 

『いやいや気にしないでよ。それだけ分かってるならあとはお安い御用さ。それで、調査の結果はいつも通り郵便で送ればいいのかな?』

 

「いえ、俺はこれからそちらに一度帰ろうかと思ってます。おそらく一週間はかからないと思いますので、その時にお願いします」

 

『わかった。‥‥詳しい事情は聞かないけれど、この前みたいな無茶はあんまりするものじゃないよ。所長や妹さんもそうだけど、僕だって心配したんだからね?』

 

「一年近く経ってるのに‥‥幹也さんまで言いますか‥‥」

 

『そりゃそうさ。まぁ、そっちの話も楽しみに待ってるよ。じゃあね』

 

 

 軽く耳障りな音がして、通話が切れる。結構根に持つタイプのルヴィアならまだしも、幹也さんにまで釘を刺されてしまうとは‥‥。

 あの件に関しては俺だって猛省していると何度も

釈明したろうに、みんな一向に許してくれない。まぁそれも、心配してもらってるのだと考えればうれしいことなのかな。

 

 

「‥‥ちょっとショウ、ちゃんと説明して下さいませ。貴方の言葉だけでは何が何やらさっぱりですわ!」

 

「あぁ、すまないねルヴィア。でもこれはちょっと何かの片手間に説明出来るくらい簡単な問題じゃないみたいなんだ。とりあえず、大師父の居場所は分かるかい?」

かるかい?」

 

「は? 大師父でしたら、今日は執務室で雑務を処理しているはずですが‥‥。ショウ、あの方に何の御用ですの?」

 

「いや何、どうやら事は第五魔法だけの話に収まらないみたいだ。ともすれば君たちも、十分に巻き込まれるかもしれないよ。ちょっとお伺いを立てとかなきゃいけないと思ってね。君も準備してくれ、すぐに出よう」

 

 

 何故か当然のように用意されている綺麗な灰皿に煙草を擦り付けて火を消し、ジャケットを羽織る。

 隣でヴァイオリンを片付けていたルヴィアは急に立ち上がった俺に目を白黒させながらも、自分も外出用の鞄を手にとった。

 基本的にこのお嬢様の身支度はやたらと長いことで評判なんだけど、火急の用件に対処できないわけじゃないのだ。

 

 

「ちょっとショウ! いきなり大師父の執務室に連絡も無しに参るなど、無礼にも程がありますわよ?!

 といいますか、良い加減にそろそろ簡単でも何でも説明なさって下さいな! 貴方がついてこいというならついて行きますけれど、それでも少し強引に過ぎますわよ!」

 

 

 気の利く執事が驚くほどの短時間で用意してくれた車に乗り込みながら、ルヴィアが耳元で淑女らしからぬ怒鳴り声をあげる。

 確かに少し彼女に甘え過ぎたかもしれない。それぐらいの信頼関係にあるとはいえ、親しき仲にも礼儀ありと言う。

 

 

「‥‥魔法が魔術に堕ちる瞬間が近づいているかもしれないんだ。いてもたっても、いられないよ」

 

「魔法が、魔術に‥‥ッ?!」

 

「第五魔法だけの問題じゃない。もしかすると、第二魔法だって同じように脅かされる可能性がある。だからこそ、俺も君も魔法使いの関係者として調査に行かなきゃいけないのさ。

 詳しい話は大師父のところで一緒にしよう。二度手間になるし、俺にも事態を整理する時間が欲しい」

 

 

 何も言わないままに事態の半ばをそれだけで理解したルヴィアが、運転手から電話を受け取って遠坂嬢に連絡をとっていた。

 彼の言っていることが、どれぐらいの真実を内包しているのか俺には判断がつかない。行ってみて、全てが彼の勘違いだった、大袈裟な誇大妄想だったというならそれはそれで全く問題ないし、魔術師としての俺はそれを望んでいる。

 けれど、数年前に突然訪れたあの謎の着信。それからずっと続いている、彼との関係。

 ルヴィアにはああ言いこそすれ、もしかしたら俺の目指す根源への方法と、第五魔法とは密接に絡み付いているのではないかという懸念。行き詰まっていた研究。それらを解く鍵が、あるいは鍵の手がかりが、そこにはあるのかもしれない。

 

 

「まぁ、取り越し苦労だったら日本の名所でも観光すればいい話だから、ね‥‥」

 

 

 自分で発しておきながら、その言葉には驚くほどに力が篭っていなかった。

 この世界にやってきて、この世界で暮らして、俺の勘は今までずっとやけに冴えていた。その勘が、嫌な未来を予感している。ならば何某の面倒に巻き込まれるのは目に見えているだろう。

 

 彼の言い方をすれば、そう、これも運命石の扉(シュタインズ・ゲート)の選択なのだ。

 

 

 

 

 Original act Fin.

 

************************************************

 




時系列、時差、その他もろもろメチャクチャになっています。
ちなみに小生、シュタゲはめっちゃくちゃ好きです。ラジ館に人工衛星が落ちた日も遠路はるばる向かいました。
のんびり執筆進めていきますので、よろしくお願いします。


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番外話 『衛宮邸の正月』

ストック放出につき季節外れ注意。
4-3が突破できませんなぁ‥‥。あと3-2は心臓に悪すぎるので攻略を保留してますが何か。


 

 

 

 

 side EMIYA

「んー‥‥」

 

 冬木という街は、『冬』という文字が入っている通りに寒さが厳しい場所‥‥というわけでは決して無い。冬が長いから冬木であって、実は日本海に面しているわりには温暖な気候に属している。

 もちろん冬だから、寒いことは寒いんだけどな。でも冬の間中ずっと雪が降っているような地域に比べれば、まだマシだ。

 

 

「あー‥‥」

 

 

 だからしっかりと密閉が行き届いた部屋ならば、暖房をつけなくてもこうやって炬燵に入っていれば、ぬくぬくと下半身のみならず全身が温かい。

 この炬燵という暖房具は、日本で最も誇れる文化の一つじゃないか。衛宮家でも冬には絶対に欠かせない貴い幻想(ノウブル・ファンタズム)。紛れもない宝具だ。こんなもの、俺にだって投影出来ない。

 

 

「うー‥‥」

 

「んー‥‥」

 

「‥‥って、あれ?」

 

 

 伸ばした足先にこつんと当たる、小さくて柔らかい感触。

 卓の上にぐでんとだらしなく伏せていた顔を上げると、そこには満面の笑みを、ちょっと生意気そうな小悪魔めいた笑顔を浮かべた妹分。白い雪のような髪の、冬の妖精。

 

 

「‥‥イリヤ、何時の間に入ってきたんだ。ていうか、何時の間にウチに来たんだ?」

 

「さっきー」

 

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 森の奥にあるお城に住んでいるお嬢様は、第五次聖杯戦争に御三家の一つ、アインツベルン家のマスターとして参戦していた凄腕の魔術師である。

 その正体は千年もの間、血脈と妄執を劣化させることなく伝えたアインツベルンの家が生んだ人工生命(ホムンクルス)。それも人工生命(ホムンクルス)と人間との間に生まれた存在で‥‥父親は切嗣(じいさん)らしいのだ。

 

 

「炬燵ってホント暖かいのね。日本の誇るべき文化だと思うわ。もっと足を高くして、洋式の部屋でも使えるようにして私のお城にも欲しいわねー」

 

「なんていうか、それ結構シュールな城になるぞ‥‥?」

 

「様式美と利便性なら、利便性の方をとるべきよねー。その点、炬燵はその両方を兼ね備えた画期的な家具だと思うわ」

 

「そりゃ和室ならな‥‥」

 

  

 ちょこまかと爪先を使って俺の足を弄くる小悪魔。着ているのはいつもと同じ上品な紫色のブラウスと白いレースのスカートだ。夏の暑い盛り以外だと、この上に白いコートを着込むぐらいしか服装に変わりはない。

 よく見てみれば布地も縫製も一流、遠坂の話によれば同じく一級の魔術礼装らしい。何着も持っていて着回している理由も、それなら説明がつくのかもしれないな。

 ‥‥もっとも、他にちょっとした理由さえあれば簡単に別の服を着るあたり、本当はポリシーなんて欠片も持ってないんじゃないかと思うんだけど。

 

 

「あらやだシロウ、本当にその人に合う服っていうのはそんなに多くないのよ? ていうか———」

 

 

 俺と同じように卓に突っ伏していたイリヤが、きょろきょろと辺りを見回す。

 その動きにつられるようにして同じく頭を回せば、いつもと何の変わりもない居間。ガラス戸の無効は薄っすらと雪が積もっているけれど、快晴。多分あと数日の間は晴れ間が続くだろう。

 暮れにしっかりと大掃除を済ませたから塵一つ無い。壁も綺麗に磨き上げたから、せっかくだからと張り替えた障子と同じく染み一つ無かった。

 

 

「———せっかくの新年だっていうのに、この家は変わらないわね〜。他のみんなはどうしたの?」

 

「あぁ、みんなは多分まだ寝てるよ。昨日‥‥てか今朝になっちゃうけど、随分遅くまで『年越しだーっ!』って騒いでたからな。紫遙とルヴィアと美遊ちゃんはエーデルフェルトの屋敷に、カレンは教会に帰ったみたいだけど、バゼットは確かこっちで寝てるはずだ」

 

「‥‥あの封印指定執行者(ニート)、こっち着てから仕事しないで食っちゃ寝、食っちゃ寝、プライドってもんがないのかしら」

 

「いや、ほら、バゼットは執行者だから貯金が余りまくってるらしいし、食費も家賃もしっかり出してくれてるから‥‥」

 

 

 暗い目をするイリヤから思わず視線を逸らし、苦笑い。

 確かにバゼットはいいんだ、金をしっかり出してくれるから。別に金に煩い人間であるつもりはないし、本当なら友人から金をとるような真似をするつもりはないんだが‥‥。流石に最近は食い扶持が嵩みすぎて家計がヤバイ。

 ‥‥て、あれ? もしかしてウチに常駐してるのにしっかり食費と家賃入れてくれてるのってバゼットだけか? 桜はまぁ、昔っから料理の手伝いをしてくれてるからいい。遠坂は‥‥あいつは一番食費と家賃を入れるべきなんだろうけど、貰ってないな。

 まぁ、一番ウチのエンゲル係数上昇に貢献してるのはセイバーなんだよなぁ、冷静に考えると。どうしようもないんだけど、やっぱり厳しいものがある。

 

 

「なぁに、それじゃあせっかくの新年だっていうのに今日は寝て過ごすつもりなの?」

 

「え‥‥? いや、まぁ、みんな起きてこなかったら何してもしょうがないしなぁ。一応お節はちゃんと用意してあるけど」

 

「そんなのつまんなーい! 日本にはオショウガツにやるっていういろんな行事(イベント)があるんでしょ?! 遊ぼー! 遊ぼーよシロウーッ!!」

 

「だぁあ飛びつくな抱きつくな! 危ないだろこらイリヤ!」

 

 

 その小さな身体にどれだけの力を秘めているのか、ちょっとびっくりするぐらいの跳躍力を発揮したイリヤは大きめの炬燵を飛び越え、俺と炬燵の間のわずかな空間に的確に着地する。

 雪のようだと形容した髪の毛は細く柔らかくしなやかで、密着してくる小さな体は温かいのに、不思議と髪の毛だけが冷たい森の空気と香りをはらんでいた。

 俺の胸と、炬燵の間に収まってしまう華奢な体も、これだけ密着していると動揺よりも驚きの方が先だ。まるで俺が丸まれば、その中にすっぽりと収まってしまいそう。こんなにも元気で、こんなにも可憐な少女が、こんなにも小さくて華奢であっていいのかと。

 

 

「んー、どうしたのシロウ、突然固まっちゃって。‥‥あ、さてはお姉ちゃんにドキドキしたんでしょ? もー、やらしーんだから年頃のオトコノコは!」

 

「ませたこと言ってるんじゃありません。俺よりちっちゃいくせに大人ぶるんじゃない」

 

「もー、ホントなのにー」

 

 

 イリヤはこんなこと言ってるけど、本当にやましい気持ちが湧いてこないのは、父性愛とかの存在の証明なのだろうか。

 ただ大事な、大切な存在に思いを伝える一番の手段は身体的接触だという話をどこかで聞いたことがあるけど、それも頷ける。こうやっているだけで、愛しいって思いがお互いに行き来するんだから。

 

 

「と、ところで昨夜は何してたんだ? てっきりイリヤも来るもんだと思って準備してたんだけど‥‥」

 

「あぁ、セラが『新年のお祝いはしっかりと当家でやらせて頂きますっ!』って譲らなくってね。私も一応、城主として年越しの前に城の各所をチェックしなきゃいけなかったから、こう見えても忙しかったのよ?」

 

「そういえばあそこってイリヤの工房でもあるんだよな」

 

「えぇそうよ。まぁ工房の整理を全然しないシロウには分からないでしょーけどね」

 

 

 いい加減飽きたのか、それとも暑苦しかったのか、イリヤは俺の膝から離れるとくるくるとスカートを絶妙な角度で翻らせて回る。今日は人がいないせいか、いつもなら狭く感じる居間もやけに広い。

 まぁお客様相手にお茶も出さないのはあんまりだろう。昨日、最後につかってからそのままにしておいたっけなと、俺は急須と茶缶を取りに台所へ向かった。

 

 

「‥‥って、そういえば今日はどうやってこっち来たんだ? 年明け早々に来るなんて、リズとセラもそれこそ色々言うだろ?」

 

「森出るまではバーサーカー。そこからここまでは車よ。ほら、いつものヤツ」

 

「成る程な。‥‥あれ、じゃあセラとリズは?」

 

「———ここ、いる」

 

「うわぁっ?!」

 

 

 居間の側から台所のカウンターに手を伸ばそうとすると、ひょいと現れる見慣れた白いメイド服。

 何処はかとなくボーッとした目と間延びした声は、パワー担当のリーズリット。やたらとノリが良く、いい意味でも悪い意味でもルーズなメイドらしくないメイド。イリヤと同じく人工生命(ホムンクルス)であるからか、バーサーカーにも匹敵する怪力を誇る。

 基本的にイリヤの悪ふざけの実行部隊は彼女だ。怪力で持ち上げられ、幾度となく着せ替えや拉致誘拐を強制執行されたことか‥‥。

 

 

「よ、ようリズ。いつの間にかそんなところにいたんだな。あけましておめでとう」

 

「あけおめー、ことよろー」

 

「あれ、リズがいるってことは、セラは———」

 

「———先程からここにおりますが、エミヤシロウ」

 

「うわぁっ?!」

 

 

 完全に背後から声が聞こえ、思わず飛び退く。

 そこにいたのは瞳にこもった個性ぐらいしかリズと違いのない姿形をした白づくめのメイドである、セラ。

 のんびりぼんやりした性格のリズに比べて、セラはかなり真面目かつ几帳面な性格をしている。規則や伝統、仕来りに煩く、ついでにイリヤ思いで俺にも突っかかってくることが多い。

 どうもパワータイプのリズに比べて魔術に通じているらしく、俺もよく魔術書片手に爆弾みたいな魔術をバンバンぶっ放すセラに追いかけられたものだ。

 

 

「お嬢様に何か遭ってはアインツベルンの家が廃ります。エミヤシロウが妙な気を起こさないようにお側について、見張っていなければ‥‥」

 

「俺は野獣か何かと思われてるのか」

 

「年頃の男など、そう大して違いのあるものではありません。さぁ、早くお嬢様にお茶を出しなさい下郎」

 

「相変わらず扱いがぞんざいだなぁ‥‥」

 

 

 チクチク厭味を言われながらも、おとなしくお茶を淹れる。本当なら来客用のちょっと良いお茶を使うべきなんだろうけど、そんなペースで使っていたら来客が異様に多い衛宮邸の来客用お茶なんてすぐに底を尽きてしまう。

 というか、毎日のような頻度で来訪してくるコイツらを客として勘定していいのか? 基本的に家族だよな、もはや。イリヤはアインツベルンの城に、ルヴィアと紫遙と美遊ちゃんはエーデルフェルトの屋敷に住んでるけど。

 

 

「ほらイリヤ、お茶」

 

「ありがとシロウ。‥‥ふぅ、アインツベルンのお城では紅茶が基本だから、日本茶は温まるわぁ」

 

「お嬢様! 仰って下されば私とて日本茶ぐらい!」

 

「あー、いいのよセラ。シロウのお茶だから、暖まるんだし。ねぇシロウ、それよりお茶を飲み終わったらオショウガツの遊びをしましょ? ねぇねぇ、どんなおもしろい遊びがあるの?」

 

 

 再び炬燵に収まり、俺が淹れたお茶を飲みながらイリヤがワクワクとした様子を隠そうともしないで言う。どうもイリヤの中では新年に特別な遊びをするというのが、とても珍しく楽しげに感じるらしい。

 ‥‥まぁアインツベルンの城の中で育ったというなら遊び自体にあまり触れたことがないのだろう。

 

 

「そうだなぁ、羽子板とか独楽とか凧とか、結構色々あるぞ。確か土蔵に色々置いてあったから、みんなが起きてきたら出して遊ぶか」

 

「さんせ〜い!!」

 

 

 いつの間にかセラが出したお茶菓子を食べている。

 どうやら気を使って持ってきた‥‥というよりは、『どうせろくなお茶菓子もないのでしょう、エミヤシロウ』という視線を感じる。随分と馬鹿にしてくれているとは思うけど、半ば以上真実だった。

 なにせ、ウチの茶菓子はたいてい腹ペコ王(セイバー)に食い尽くされてるから、本当に大事なお客様用のストックしか残ってない。

 

 

「‥‥よし、それじゃあそろそろみんなを起こしに行くか。もう良い時間だしな」

 

 

 多分、女の子の大半は遠坂が占拠してる離れに集まってるんだろう。そこまで広い部屋じゃないけど、とかく女子っていうのは夜に集まりたがる。

 遠坂にセイバー、桜、ライダー、バゼット、藤ねぇは間違いなく居るだろう。そういえば昨夜は美綴もいたような気がするけど、アイツは多分年明けと同時に帰ったんじゃないかな。流石に親御さんが心配するだろ。あそこは、普通の家だし‥‥。

 

 そうだな、みんなを起こすなら、その前にお節とか準備しとくか。どうせ起きてきたら洗面所の取り合いとかお茶の用意とかで忙しくなるんだ。今のウチに仕度しておいて、悪いことはないだろ。

 ‥‥今年は今までに比べて、随分と賑やかな正月になりそうだ。今までも藤ねぇのおかげでそれなり以上に賑やかではあったけど、それよりも、さらに賑やかに。

 まぁそれも、みんながちゃんと起きてきてくれたらの、話だけどな。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 正月。

 元々やたらと外国に比べて行事が多いような気がする日本という国でも、この日ばかりは群を抜いて賑やかに祝わざるをえないようだ。それは神秘の支配する特殊な世界に身をおいている、魔術師という超越者でも変わらない。

 欧米ではクリスマスを家族で盛大に祝うように、日本では正月に一族郎党が集合し、新年を無事に迎えられたことを祝う。そして三が日と呼ばれる正月からの三日間は、ひたすら酔い潰れたり遊び惚けたりするのだ。

 

 なにしろ正月休みの間にこなさなければいけないイベントは多すぎる。親類一同への挨拶周りに、お年玉のお礼、あるいは自分が渡す側になれば懐ろの心配だってするし、挨拶周りには当然のように大人の義務として飲み会が付属する。

 親類縁者にお子様が多ければ、俺たちぐらいの年頃の男衆はもう大変だ。何しろ爺様婆様叔父様叔母様に比べたら下手に体力がある分、目上の人であるところの彼らを休ませるために、遊びの相手は俺たち若い衆だ。

 しかも正月の遊びというのがこれまた曲者で、特に正月以外では自然とやらない遊びというものがごまんとあるわけで。

 凧揚げ、羽子板、独楽回し、福笑い、百人一首に書き初め、かるた、地域によっては弓の腕を競うというのも正月に神事の一環としてやったり、あるいは相撲をとるという場所もあるらしい。

 とにかく驚くべきことに子どもはそれを全部やりたがる。加えて餅つきやら何やらの力仕事までやらされた日にはもう堪らないだろう。

 

 だがしかし、幸いにして俺、蒼崎紫遙には諸事情でそれらの義務の殆どが当て嵌まらない。何せ唯一の親族(義理とはいえ)である橙子姉と青子姉は勘当状態で、ついでに言えば蒼崎の家にいる次世代の人間は俺たち三人だけ。

 となると本当なら伽藍の洞でのんびり、いつもの面子で穏やかに新年を祝っているはずだったんだけど‥‥。

 

 

「くらえ必殺、トペ・アインツベルン・アタァック!」

 

「うぼぁぁああ?!」

 

「衛宮ァァァ!!!」

 

 

 空中高くジャンプ、その状態から背後に控えていた藤村教諭が打ち上げた羽を、重力加速度と謎加速度によって得た縦回転を味方につけ、超強力なスマッシュを放つ雪の少女、イリヤスフィールはしゃぎすぎな十八歳、見た目は十歳、中身も大して変わらない幼女。

 この日のために急遽調達したらしい振り袖をしっかりと襷掛けして運動性を重視した格好で、ひたすらはしゃぐ姿は外見相応で、ともすればちょっと行き過ぎなぐらいだ。

 というかあそこまで過激に動き回っておいて着崩れが殆ど無いというのはどういうことだろうか。まさかと思うけど魔術で強化とかしてるんじゃあるまいか。

 

 

「衛宮、傷は深いぞがっかりしろーッ!!」

 

「し、紫遙‥‥、あとは任せ、た‥‥」

 

「おいがっかり、じゃなくてしっかりしろ衛宮、衛宮! 衛宮ァァアアア!!」

 

「‥‥アンタ達ね、ちょっと落ち着いて周りを見回してみなさいよ」

 

 

 右手に握りしめた武器は羽子板。互いに交わす弾丸は羽。負けた者には敗北の烙印を、勝者には蹂躙の悦びを。

 其れは一年の始まり、正月にのみ行われる儀式。互いの力を競い合い、試し合う。無慈悲な勝負は年齢も性別の差も関係ない。

 

 

「いや遠坂嬢、実際これ厳しくないか? ていうかイリヤスフィール、君は羽子板やるの初めてじゃないのかい?!」

 

「そうなんだけど意外と簡単ね、この遊び! さぁシロウ立ちなさい、私たちが直々に稽古つけてあげるんだから!」

 

「そうよ士郎! その程度でへこたれるような子に育てたつもりはないわ! さぁお姉ちゃんが根性たたき直してあげるから、さっさと向かってくるのよ!」

 

 

 目の前に立ちふさがっているのは、先ほど砲弾となって宙を舞ったイリヤスフィール・フォン・アインツベル。そして世にも不可思議な虎柄の着物を纏った快活な女性、藤村大河。こちらは羽子板もデフォルメされた虎が吠えているもので、何故か打つ度に虎の咆哮が聞こえる。

 イリヤスフィールの子どもパワーはさておき、藤村教諭の謎パワーは一体どういう理屈で生まれているんだろうか。

 

 

「‥‥おい衛宮、本当に大丈夫か?」

 

「あぁ、なんとか。しかしイリヤめ、手加減ぐらいしろよな、痛痛痛‥‥」

 

「ほらほらお兄ちゃん、顔貸して。確かこうやって筆で好きなように落書きしてもいいのよね?」

 

「ちょっとイリヤちゃん、最初は少しだけにしとくのよ? こういうのは最初にあんまり書きすぎるのはマナー違反だし、後で書く人の分がなくなっちゃうでしょ? でへへへ‥‥」

 

「おい藤ねぇ、気色悪い声だすなよってコラ、イリヤ、そこは目に墨が入る!」

 

 

 がっつりと額に羽を食らって悶絶していた衛宮を、さらに無慈悲な追撃が襲う。羽子板で負けた者は、顔に墨で落書きをされるルールだ。

 見事に右目の周りにお花を丸く描かれた衛宮が、垂れる墨を手の甲で拭った。どうにも墨の水気が多かったらしい。

 

 

「ほら何ボーッとしてるの、蒼崎君もでしょ?」

 

「げ」

 

「まさか逃げたりなんかしないわよねー、シヨウ? アオザキの人間が背中を見せるなんて、お姉様方が聞いたら何て言うかしら」

 

「別に橙子姉と青子姉は関係な———あばばばば」

 

 

 目の周りをやられた衛宮に対し、今度は俺の口の周りが標的となった。

 まるで五右衛門か誰かのようなまん丸な髭。バンダナがあるせいか額周りは勘弁してもらえそうだけど、これ単体でも十分に見た目はヤバイ。事実、ルヴィアは淑女らしからぬ笑いの発作に襲われているし、隣に座っている美遊も必死で笑いを堪えている。

 もちろん水気がアレしてるから若干垂れてくるので、すぐさま衛宮から雑巾を貰って顎を拭った。実にみっともない。

 

 

「あ、でもこのままだと時間がかかりすぎるわね。負けた方から1人抜けて、交代制にしましょう?」

 

「賛成だな。それじゃあ俺は一回休みにさせてもらおうか」

 

「そうね、それがいいわ。じゃあ次はセイバー、勝負しましょう?」

 

「ちょ、ちょっと待て! なんで俺じゃなくて紫遙が———」

 

 

 喚く衛宮を尻目にセイバーとバトンタッチ。見物組がいる縁側へと向かう。

 昨夜に随分と騒ぎ過ぎたせいか、今日はみんな遅起きだった。宴が終わったらエーデルフェルト邸へと戻った俺たち三人も見事に寝坊したから、今は昼を過ぎておやつ時といったところ。

 俺たちはエーデルフェルト邸で昼食をとってから来たけど、衛宮邸の連中は結構賑やかな昼食だったらしく、俺たちが来た頃にはまだ片付けをしていた。

 まぁ七人も食卓を囲んでたら、そりゃ賑やかにもなるか。片付けもその分だけ大変だろう。

 

 

「‥‥ふぅ、ひどい目に遭ったよ」

 

「お疲れ様です、紫遙さん」

 

「あぁ美遊、ありがとう。‥‥って、この口周りじゃあ湯飲みが汚れるんじゃないか?」

 

「蒼崎君、それゲームが終わるまで拭っちゃ駄目よーっ?」

 

「‥‥うわぁ」

 

「ご愁傷様です‥‥」

 

 

 隣に座る美遊が苦笑しながらお茶を勧めてくるけれど、口の周りの墨が気になるので、せっかくだけど乾くまで待とう。

 ちなみに参戦しないつもりらしい美遊の今日の格好は、紺色の着物に白い蝶が舞うという清楚なもの。イリヤスフィールの白地に赤い花をあしらった着物と対照的で、よく似合っている。

 ルヴィアはどうやら遠坂嬢とガチバトルを繰り広げる気マンマンでさっきから苦労して襷掛けに挑戦しているけど、やはり初めてのことだからか苦戦している。慣れてる誰かに頼めばいいのに。 

 

 

「あ、藤村教諭が吹っ飛んだ」

 

「藤村先生ーッ?!」

 

 

 魔力放出の唸りを上げ、セイバーの放った羽が轟音と共に藤村教諭の羽子板と激突。恐るべきことに暫く競り合ってみせたが、敢えなく力負けして持ち主ごと見事に吹っ飛んだ。

 もちろん敗者の掟は彼女にも厳しく適用される。口から煙を吐き、前後不覚状態の藤村教諭の顔にセイバー、衛宮、そして何故かイリヤスフィールが次々に落書き(ペインティング)を施して行く。

 一回で一人交代というルールが適用されたからか、三人とも容赦がない。そう考えると俺のこの様はまだマシな方だったのだろう。

 

 

「さぁ次は誰ですか? 騎士の名にかけて、私は誰の挑戦でも受けましょう!」

 

「‥‥言いましたね、セイバー。それでは何時ぞやの決着、この場を借りてつけさせて頂きましょうか」

 

 

 何につけても勝負事には熱くなる性格のセイバーが堂々と挙げた勝ち名乗りに、今度は同じサーヴァントである長髪の女性がノッた。

 黒いタートルネックのセーターはスレンダーな体つきを覆い隠しながらも魅力は損なわず、タイトなジーンズは腰から下のラインを強調する。今時古風な細身のメガネは知的な印象を見る者に与え、地面まで届くかという薄紫色の長髪は、絹で出来ているのかと疑う程に美しい。

 

 

「ライダー、如何に貴方といえど、私の振るう剣に勝てると思いますか」

 

「大きい口を叩くものではありませんよ、セイバー。この身は天馬なくとも最速のサーヴァントの一角。貴方に私の動き、捉えられますか?」

 

「よく言った。ならば我が一撃、受けてみるがいい!」

 

 

 真っ二つに折れてしまった藤村教諭の羽子板の代わりに新しい物を用意し、美貌の騎乗兵が庭へと降り立つ。

 唯一の一般人である藤村教諭が気絶してしまったから、やりたい放題だ。既にセイバーからは魔力の迸りが視認出来るし、ライダーはライダーで服装は変わらないまま、完全に戦闘体制をとっていた。

 

 

「‥‥美綴嬢でも連れてくるべきだったか」

 

「歯止めが利かないって、こういう状況を言うんですね‥‥。私、初めて知りました」

 

 

 羽は疾り、羽子板は唸る。少なくとも俺の知る限り、羽根つきはこんな物騒な遊びじゃない。

 それなり以上に物騒な荒事には慣れているはずの美遊も、隣で頬を引き攣らせている通り、目の前の『戦い』はおよそ人間の関与出来る領域になかった。現に衛宮とイリヤスフィールは早々に巻き添えを恐れて大きく距離を取り、兄妹仲良く、あるいは姉弟仲良く穏やかに羽根をついている。

 特に美遊嬢にしてみれば、まだ記憶が色焦せてしまう程ではない過去に命のやりとりをした相手達だ。もちろん”あの”黒化したサーヴァント達と目の前の『セイバー』、『ライダー』は明らかに別人なわけだけど、それでも色々と思うところはあるのだろう。

 あの騎士の腕の一振りが、あの騎乗兵の疾駆が、自分の命を脅かしたというのに、今その二人の間で飛び交っているのは羽、振るうのは羽子板。正直言ってどうかしている。

 

 

「とんだ災難だったようですね、紫遙君」

 

「やぁバゼット、君はやらないのかい? というか是非やりたまえ。俺だけこんな目に遭うのは不公平だ」

 

「謹んで遠慮します。ちょっと昨日は深酒が過ぎたようで、調子が‥‥」

 

 

 濃い小豆色のスーツをしっかりと着込んだ男装の麗人、鉄拳魔術師バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 いつもは仕事人らしく凛々しい仮面を被っているんだけど、プライベートというのを差っ引いても今日の彼女はどこはかとなく怠そうだ。どうやら彼女自身が証言しているように、二日酔いらしい。

 

 

「昨日は衛宮邸組で女子会だったんだって? あの狭い離れに、よく七人も入ったもんだよ」

 

「実際やってやれないことはないみたいですね。ベッドの他に布団が二つは敷けますから。もっとも、敷いてしまうと後は他に喋る以外は何も出来ませんから、持ち込んだ酒を煽りながらの飲み会ですよ」

 

「バゼットってば、楽しかったわよー? 最初は桜の話とかに聞き入ってたくせに、最後は『ランサーがランサーが』って———」

 

「り、凜さん?! 一体何を言ってるんですかッ!!」

 

「あーら隠すことないじゃないのバゼット。

そりゃアイルランドの人間からしてみれば、ランサーは掛け値なしの大英雄だものねー。憧れるわよねー? 普通のことよねー? 誰でも仕方ないわよねー? 英雄として、憧れてるだけだものねー?」

 

「ぐぅ‥‥ッ!!!」

 

 

 猫足立ちで近寄って来た遠坂嬢に小悪魔の羽と尻尾が見える。昨夜の女子会は、一部の人間が相当に煽りを喰らったようだ。

 バゼットも言い返したいらしいんだけど、一言でも口を開くと言質を取られてしまうことは明白で、黙るしかない。すると今度はそれが遠坂嬢の言っていることを肯定しているようで、面白くない。そんな顔をしている。

 

 

「なーんて、冗談よバゼット。まぁ久しぶりに貴方のあんな顔を見られて楽しかったわ。フォルテなんかに話したら吃驚するんじゃないかしら? 『鉄の女が珍しい』ってね」

 

「‥‥普段はアーチャーに振り回されっぱなしのくせに、よく言うよ」

 

「何か言ったかしら、蒼崎君?」

 

「いや別に、何でもないよ遠坂嬢?」

 

 

 無言の内に視線だけで「コロス」と脅され、慌ててそっぽをむいて誤魔化した。やっぱり彼女達、というか女性相手に調子に乗るとろくな目に遭わないようだ。

 セイバーとライダーの打ち合いはますます勢いを増し、もはや打ち込んだ羽で大地が削れてしまうぐらいだ。おそらく、止まるまい。剛の騎士と、柔の騎乗兵。相性が互いに良すぎて決着が着かないのだ。

 

 

「しかしバゼット、実際どうなんだいランサーとの仲は。一緒に歩いて居て街で見かけたら踵返して逃げ去ってしまうし、一向に進展してないと俺は見るわけだけど」

 

「べ、別に彼と私とは何もありません! ただ主従関係が過去に有ったという事実が存在するだけです!」

 

「そういうことなら、まぁ俺がどうこう言うことでもないけどね。‥‥あ、噂をすればランサー」

 

「えぇっ?!」

 

 

 ぐるりと首を回せば、そこにはお馴染みとなった青赤コンビ。

 ド派手な黄色のアロハシャツを着た槍の騎士(ランサー)と、上下黒づくめの胡散臭い弓の騎士(アーチャー)

 大の大人でも普通は一人じゃ持てない巨大な木の碓をランサーが軽々と抱え、二つばかりの木の杵をアーチャーが担いでいる。

 

 

「‥‥一体何を始めるつもりなんだい」

 

「あぁ、いたのか紫遙。いやなに、間桐桜が餅つきをやると言うのでな。こうして商店街を回って一式揃えて来たのさ。

 石の碓も悪くはないが、やはり木のソレに比べると温もりというものが違う。手入れと準備に手間はかかるが、良い道具を揃えてこそ、良い餅がつけるというものだ」

 

「野郎テメェ、途中で荷物持ちだって無理矢理連れて来て、しかも重い方持たせるたぁどういう了見だっつーの」

 

「それは兼ねてから魚屋の店主にお願いしておいたもの。ちょうど良い人手がいるのだ、こきつかうのは当たり前だろう? どうせ貴様は呼ばれなくてもノコノコと現れて飯をたかりにくるのだろうからな」

 

「黙ってりゃ人を物乞いか何かみてぇに言いやがって‥‥。喧嘩売ってんなら買うぞコラ」

 

「やめておけ、元マスターの前で無様を晒したくはないだろう?」

 

「あん? テメェこそ、そのスカした面ボコボコにされんのが怖いんじゃねぇのかぁ?!」

 

 

 一触即発。一体どうしてこの二人が揃ってしまったのか、というより何故人手が足りなかったからといって好き好んで不倶戴天の怨敵であるランサーを徴発したのか、理解に苦しむ。

 事実、二人とも縁側に近い庭の飛び石に碓と杵を置くと、一般人がいないのをこれ幸いと武器を出して牽制し合っていた。

 

 

「はいはいはい、ちょっと退いて下さい! 熱いの通りますよー!!」

 

 

 と、縁側に座ってハラハラと遣り取りを眺めていた俺達と、一触即発の二人の間を割って、大きな蒸篭を抱えた知人が現れた。

 薄い桃色の着物の上から真っ白な割烹着を羽織り、頑丈な鍋つかみで武装した藍色の髪の女性。我が家、伽藍の洞の仲間の一人であり冬木の御三家と呼ばれる魔術の家の当主の一人。間桐桜嬢だ。

 

 

「せえ、のっ!」

 

 

 碓の前に来ると、その手に持った蒸篭を豪快に上下逆さまにし、中身を投下する。

 そこに入っていたのは目の前が見えなくなるだろう程に濃い真っ白な蒸気を立てる、あっつあつの餅米だった。

 

 

「アーチャーさん、ランサーさん、ご苦労様です。

碓の方は下準備をしてくれましたか?」

 

「あぁ、しっかりと道中で湯に浸して温めてきた。もっともソコの槍兵が運んでくるまでにあらかたブチまけてしまったから、途中で冷えてしまったかもしれんがね」

 

「おいコラ! すっれすれまで熱湯注いで渡しやがった性悪が何言ってやがる?! 火傷するかと思ったんだぞ、コッチは!」

 

「英霊がそんなもので火傷をするか。

 杵もこのように、準備は万端だ。もうすぐにでも始めるかね?」

 

「はい、餅米が冷えちゃわないうちに、やりましょう。お二人ともよろしくおねがいしますね」

 

「任せたまえ」

 

 

 桜嬢の指示に従って、アーチャーとランサーは杵を持つと碓の中に放られた餅米を丹精にこね始める。

 いくら餅米に粘りがあるといっても、このまま普通についてはバラバラになるだけだ。まずはこうやって杵でこねて、大雑把に形を作ってやる必要があるのだ。

 アーチャーはともかく、意外とランサーの手つきも手馴れているな。どこかでやったことでもあるのだろうか。

 

 

「あれー? ねぇサクラ、これ一体何やってるの? 切り株の周りをグルグル回ったりして‥‥何の儀式? 降霊術?」

 

「今からお餅をつくんですよ、イリヤちゃん。よかったら後でついてみます?」

 

「つくつく! 私も餅つきやりたーい!」

 

 

 何時の間にやら羽子板に飽きたのだろうか、イリヤスフィールが面白そうな事の気配を嗅ぎつけてやって来た。

 どうやら勝負の結果は大人の面目躍如か、半々といったところらしい。衛宮も合わせて二人とも中々に顔面が愉快なことになっており、イリヤスフィールの方は手際良く準備していたらしいセラにしっかりと顔を拭かれている。

 ‥‥あぁ、どうやらそろそろ顔拭いても大丈夫みたいだな。やれやれ、やっとこの無様な五右衛門髭から解放される。

 

 

「さぁてこれぐらいでいいだろ! それじゃあつきはじめるぞ嬢ちゃん」

 

「こねるのは貴様に任せた。うっかり手を砕いてしまうかもしれん。危なくなったらしっかりその手を引っ込めることだな、ランサー」

 

「‥‥へっ、テメェこそ俺の手捌きに着いて来れんのか?」

 

「着いてこれるか、ではない。貴様の方こそ、着いてこい」

 

 

 餅つき、と掛けているのだろうか。よくわからないながらも緊迫したやりとりをすると、二騎の英霊(サーヴァント)は猛然と恐るべき勢いで餅つきを始める。

 最速の英霊、ランサーが餅をこねる速度はまさに神域。もはや視認することは出来ず、見えたかと思った腕は残像に過ぎない。餅もアーッ!という間に上下左右を反転させられ、心なしか上気しているように見えなくもない。

 しかしアーチャーとて負けてはいない。その手に握るは杵なれど、即ちこの場においては歴戦の武具。ならば武具に宿った経験を自身に憑依させ、

最適かつ最速かつ最強の一撃を次々に見舞っていく。

 

 

「おいこらアーチャー! テメェ今、俺の手を狙いやがったろ?!」

 

「なんのことかね、言いがかりは程々にするのだな。そんなことより手を止めるなよ、ランサー!」

 

 

 互いに悪態をつきながらも、手は一瞬も止まらない。

 先ほど、イリヤスフィールにもつかせてやるとか桜嬢が言ってたけど、今の二人の間にはとても踏み込む隙間など無かった。

 

 

「‥‥餅つきとはこんな物騒な光景だっただろうか。ん? どうしたんだ衛宮、頭なんか抱えて。ロダンのモノマネか?」

 

「なんでさ。ちょっと未来の自分が不安になっただけだ。‥‥あれ、なぁ紫遙、塀の上に誰かいないか?」

 

「塀の上‥‥? 何を言ってるんだお前は。そんなところに誰かが立ってるわけが———」

 

 

 衛宮の言葉に首を上の方に動かすと‥‥‥‥いた。

 なんか、いる。

 正直ちょっと自分の眼球を疑いたいところだけど、確実にいる。

 隣の美遊も全身全霊でドン引いてるけど、確かにいる。

 ‥‥具体的には、そう、金ピカ的なのが。

 

 

「———雑種共!」

 

「む?!」

 

「何だァ?!」

 

 

 金色の髪をプライベート仕様に下ろし、豪奢な耳飾りと悪趣味一歩手前ながらも何故か不思議なことに上品にすら見えるぐらい見事に似合っている華美な装飾の羽織袴に身を包んだ一人の我様(オレサマ)

 全身から溢れ出す王気(オーラ)。そして金ピカ。この男を表すのに、これ程までに的確な言葉はあるまい。

 

 

「下々の催し物とはいえ、斯様に盛大な宴に王たるこの(オレ)を招かんとは何事か!」

 

「‥‥うわぁ、また来たよメンドくさいのが」

 

「ちょっとランサー、何とかしなさいよ。同じ場所で寝泊まりしてる仲でしょ?」

 

「無茶苦茶言うな嬢ちゃん。今止められるもんなら、ずっと昔に止めてるっつーの」

 

 

 基本的にフラフラこの冬木の町を何処はかとなくうろつき、いたるところでカリスマを振りまく。

 この我様気質のくせにカリスマA+は伊達ではない。溢れ出る金を何故か商店街で散財し、しかも太っ腹。同じ土俵に立っている俺たちからしてみればウザイだけなんだけど、商店街の方々は人が出来ているのだろう、どうやら温かい目で見守っているらしい。

 商店街を歩けばあちらこちらから声を掛けられる人気者。まるでマウント深山のスーパースターだ。同じくアイドルのイリヤスフィールともまた違う人気具合を誇っている。

 

 

「‥‥呼んだ覚えはないのに、どうやって用意までしてきたんだか」

 

 

 一体どこから噂を聞きつけてきたのだろうか。手の込んだ衣装はもしや、一人で着付けをしたのか?

 まぁその場の全ての人間が何とも形容しがたい渋面をしていえることから、この男の来訪を歓迎している者がいないのは明らかだった。

 

 

「とりあえず英雄王、そこから降りろ。塀は立つところではない、瓦が痛む」

 

「ふはははは、贋作者(フェイカー)、これはまたしょぼいつきかたをしているではないか! 所詮そうやってチマチマと杵を振り回しているのが貴様にはお似合いよ。

 よい、貴様らには王の餅つきというものを、とくと見せつけてやろうではないか」

 

「人の話を聞け、英雄王」

 

「開け、『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』!」

 

 

 金ピカ‥‥ギルガメッシュの声と共に、虚空に赤い水面のようなゲートが広がる。

 そしてそこから水面を破るようにして出てくる、杵、杵、杵、杵杵杵杵杵杵杵杵。

 数えきれない程に無数の杵。木製だけではなく、鉄や銅、銀や金、得体の知れない金属で出来たものもある。

 一体どうやってこんな奇天烈な財を溜め込んだのだろうか、この英雄王は。誰もが呆れた顔をしながら、虚空に現れた無数の杵をぼんやりと眺めていた。

 

 

「‥‥おいちょっと待て英雄王。貴様まさか———」

 

「これが王の餅つきである! 刮目して地に伏せよ、雑種共———ッ!!」

 

「や、やっぱりそうなるのかァああーーーッ?!!」

 

「なんでさぁぁああ?!!」

 

 

 瞬間、轟音。

 英雄王改め慢心王の号令一下、無数の杵の全てが地上目指して突進する。

 もちろん、そんなことをして餅はおろか庭でさえも無事で済むことはなく。

 後からやってきた彼のマスター、カレン・オルテンシアを待たずして桜嬢が繰り出した虚数の海に囚われた英雄王はとても言葉では表現出来ない折檻を受けたらしいのだが‥‥。

 

 それはまた、別の機会に話すことにしたい。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「‥‥紫遙さん」

 

「———あぁ、美遊か。もうみんな寝てしまったのかい?」

 

「はい。ちょっとすごい騒動でしたから。お酒もたくさん呑んでたみたいですし」

 

「そりゃ重畳。やかましい連中がいないなら、のんびり月見酒と洒落込める」

 

 

 衛宮邸の縁側に座り、衛宮謹製のお節料理を肴に日本酒を煽る。

 俺たち以外の全員が寝静まってしまったらしい衛宮邸は、否、冬木の街は、自分の心臓の鼓動が聞こえるぐらいに何の音も聞こえなかった。

 

 

「ホント、今日は災難だったね。美遊もせっかく楽しみにしてたお餅が食べられなくて、残念だったろう?」

 

「あ、いえ、ちゃんと士郎さんが切り餅を焼いてくれましたから‥‥。七輪って、思ったより便利だったんですね」

 

「確かに。アレと網があれば何でも焼けるからなぁ。ベーコンやウィンナーも、干物だって焼ける。伽藍の洞にも一つあってね、よく屋上で酒盛りしたものさ」

 

 

 箸で取ったのは昆布で巻いたニシンの煮付け。昆布の旨味がニシンに凝縮されていて、一口齧れば口の中に芳醇な海の薫りが広がる。そこにすかさず辛口の日本酒を流し込めば、口の中に海そのものが広がったかのようだ。

 続いて口にするのは、伊達巻。ただ甘ったるいだけの安物と、衛宮の作るソレは出汁が違う。冷めてもふんわりと綿菓子のように唇で割れた後には、甘さの中に出汁の深みがある。

 スーパーで買えばボリボリとした正体不明の代物である数の子も、衛宮手製のものは天然のそれをしっかりと漬け込んであって、舌の上で解れ、その食感だけでも背筋にゾクゾクと疾るものがあった。

 

 

「‥‥美味しそうに、食べるんですね」

 

「いつもは伽藍の洞で正月を過ごすんだけどね。俺と橙子姉と青子姉の三人暮らしだろう? あっちはまともに料理できる人がいなかったから、スーパーで買ってくる安物でね。是非この至高のお節を姉達にも食べさせたいぐらいだよ」

 

「そうですね」

 

「美遊は、どんなお正月だったんだい? ‥‥あ、すまない、あまりそういうのは聞かない方がいいかな」

 

「いえ、大丈夫ですよ。私の施設は商店街の方々から寄付がありましたから。決して量が多かったわけではないので一人当たりの取り分は少なかったですけど、院長先生がご馳走(マー●ー)を振舞ってくれて‥‥」

 

「‥‥あぁ、なんていうか、大変だったんだね」

 

「はい‥‥」

 

  

 くい、とお猪口を傾ける。流石に正月の風は冷たいけど、アルコールで自然と火照る俺は問題ない。美遊は自分で用意したお茶を持っていて、風邪をひいてしまう心配はなさそうだ。

 もちろん服の方も心配はなさそうで、風呂に入る隙間が無かったから普段着のままの俺と異なり、彼女はパジャマの上からクリスマスに貰ったのだという半纏を羽織っていた。一体ルヴィアは何処で変な電波を受信したのだろうか。似合っているから、いいんだけど。

 

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

 

 暫し、無言で飲み物を啜る。風にそよぐ庭木の木擦れの音だけが聞こえていて、他には虫の声すらしない。

 不穏なぐらいに、冬木の街は静かだった。霊地の特性として、大気に満ちる濃密な魔力だけが忙しく渦巻き、動き回っている。

 この地は日本でも有数の霊地だ。蒼崎が管理している、日本有数の歪心霊脈に勝るとも劣らない。こういう場所は殆どが地元の宗教勢力、日本ならば仏教の寺か神道の神社が管理していることが多いから、魔術協会の手に渡っているのは珍しい。

 

 

「‥‥紫遙さん」

 

「なんだい、美遊?」

 

 

 少し、頼りなげな美遊の声。何を不安がっている、何かに怯えている、そんな年相応な声だった。

 彼女にしては、珍しい。けれど、それも頷けてしまう。

 惜しむらくは、それに返してあげる言葉がないということだ。俺も、彼女も、たまらなく無力だった。 

 

 

「私たち、無事に元の世界に帰れるんでしょうか?」

 

「‥‥さぁ、どうだろうね。俺としては勿論そのつもりだけれど、元よりこの事態は俺の掌の上にない。確かなことは、言えないよ」

 

「‥‥情報を集めてくるって、何処かに行ったサファイヤとも連絡がとれないし、見習いの私じゃ魔術も満足に扱えない‥‥。こんなに不安になったの、初めてで、どうしたらいいか‥‥」

 

 

 震えるような美遊の声に、ふぅと吐息をつく。

 慰めてやりたい、と思う。何とかしてやりたい、とも思う。けれどこの状況に対処するのに、あまりに俺は非力だった。

 魔術師は超越者であるけど、万能なわけではない。原因も仕組みも概ね理解出来ているし把握もしているのに、だからといって手出しのしようがない自分が、もどかしい。

 

 

「‥‥カレイドの魔法少女である、イリヤスフィールが遠坂嬢やルヴィアと同じく、この繰り返しに囚われて自分を見失っているとは思えない。ここにはルビーもいないしね。

 だとすると、彼女もまた何処か別の繰り返しの中で、君と同じように足掻いているんだろう」

 

「‥‥私たちだけが、今のこの繰り返しが異常だってことを分かってて、周りの人たちは一切それを疑問に思っていない。それが、こんなに怖いとは思いませんでした」

 

「一部の連中は、気づいてるさ。けど、打開する手段がない。もしかしたら打開する気がない奴もいるかもしれないけど、同じだ。

 俺たちには何も出来ない。なにせ、役者じゃないからね。ゲスト出演の俺たちは昼の部にこそ名前があるけど、夜の部は舞台に上がることも許されない。

 ‥‥そうだろ? 復讐者(アヴェンジャー)のサーヴァント」

 

 

 背後。灯りの消えた居間に広がる闇に向かって問いかける。

 まるで闇から浮き上がってくるように、一人の男が音もなく現れると、俺の隣に腰を下ろした。

 

 

「———ったく、好き勝手言ってくれるよなぁ。こっちだってお前らの扱いには苦労してんだぜ?

 昼間はのんびり遊び惚けて、夜は夜できっぱり割り切って殺し合いしてるっつーのに、お前らだけ素面で渋い顔してると来やがる。興醒めだぜ、興醒め。ホントつまんねー」

 

「好き勝手言っているのはそっちだろう? こちとら、のんびり惰眠を貪ってるわけにはいかないんだ。大体観客もいない舞台で役者が役に酔ってて、まともな見世物になるわけがない」

 

「何見てやがんだ、見世物だぞコノヤロー!‥‥ってか? げひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」

 

 

 自分で言った、くだらないジョークに自分でウケて、手を叩き体を前後に激しく揺らして下品に笑う。

 軽薄な表情、粗雑な物言い。全く以て中身の違う、我が愛すべき友人、衛宮士郎の姿がそこにはあった。

 

 

「なんだ嬢ちゃん、不満そうな顔だな。会うのはコレが初めてじゃねーだろーに」

 

「‥‥その体、早く士郎さんに返して下さい」

 

「そいつは出来ない相談だな。つか、どっちかってーと主なのは殻であるところの衛宮士郎じゃなくて、中身のオレサマなんだぜ? だってのに昼の部じゃ好きに動き回らせてやって、オレが正気づくのは教会であの淫乱女とズッコンバッコンしてる時だけと来た。ホント、割に合わねぇよなぁ」

 

「‥‥ッ!!」

 

「おっと悪いな、嬢ちゃんにはまだ刺激が強すぎたかね? へっへっへっへっへ」

 

「やめろアンリマユ。あまり美遊をからかわないでくれ。そのぐらいの年頃は、多感なんだからな」

 

「へぇへぇ分かりましたよ。っとにロリコンって人種は自分のこと棚にあげて他人に厳しいときた」

 

「誰がロリコンか! 誰が!」

 

「あ、シスコンだったっけ? まぁどっちも異常性愛者ってことには違いないからなぁ」

 

「‥‥コロス、こいつ今ここでコロス。悪いな衛宮、お前コロスわ。来世で会おう、兄弟」

 

「お、落ち着いて下さい紫遙さん?!」

 

 

 思わず腰の後ろに仕込んだ短刀で目の前の不愉快型サーヴァントの素ッ首掻ッ斬ろうとして、美遊に止められ踏みとどまった。

 いかん、コイツと俺との相性は決してよくない。実際に戦ったら瞬殺されるとかじゃなくて、こういう口喧嘩の段階で既に形成がよろしくない。

 

 

「アッハッハッハッハッ! ‥‥いやぁ、ホントお前ら笑かしてくれるわ。それだけで好き勝手してくれやがってんのが帳消しだぜ」

 

「言いたいことはそれだけか、歩く猥褻物」

 

「おーおー言ってくれるねぇ。‥‥ま、お前の言う通りだよ、蒼崎紫遙。残念だが、お前らに出来ることは何もない。あの駄々っ娘が正気に戻らなきゃ、この繰り返しは終わらねぇ」

 

「‥‥ちっ」

 

 

 自分で持ってきたのだろう、湯飲みに豪快に酒を注いで煽るアヴェンジャー。

 たいして酒に強い方でもない衛宮の体でソレをやるとぶっ倒れかねないけれど、今は夜だ。殆どサーヴァントの方に寄っているのだろう。へらへら笑って、何の不調も感じ取れない。

 

 

「まぁ現実を舞台に回ってる夜の部だからなぁ。お前らの内の誰かが能動的に異変に気づくこたぁねぇだろうが、他から積極的に舞台へ上がりたがる観客が大量に押しかけてくりゃ、閉幕を余儀なくされんだろ。‥‥ま、そん時は無茶苦茶した反動でトンデモねぇことになるだろうがよ」

 

「‥‥そいつは御免蒙りたいところだな。可能ならば何事も無かったかのように、全てが終わって欲しいものだ」

 

「ちょっと高望みし過ぎじゃね?」

 

「かも、な。‥‥バゼットは、ああ見えて悩んでいたんだろう? だとしたら、それにもう少し早く気づけていれば、こんなことは起こらなかったかもしれない‥‥」

 

 

 ヤケというわけではないけれど、ぐいと酒を煽る。

 聖杯戦争への、バゼットの執着心。それが聖杯の中の“テンノサカヅキ”を喚び寄せた。ならば、彼女の悩みを一早く取り除いてやれたならば、防げた可能性は大いにある。

 ‥‥何より友人として、彼女の苦しみに気づいてやれなかったことが、悔しかった。

 

 

「そうだったかもしれねぇし、そうじゃなかったかもしれねぇ。どっちみち何らかの形で綻びは出ただろうさ。こういう形で収まって、むしろ良かったかもしれないぜ?」

 

「知ったような口を聞くな。別の世界の美遊まで巻き込んで、この程度なんて抜かせるか」

 

「その辺は不思議な巡り合わせって奴だな。偶然っつうとご都合主義に聞こえるが、この世界と嬢ちゃん達の世界との間にゃ簡単に言い表せない『縁』ってのがあるんだろうぜ。‥‥ま、オレが舞台を回してるっちゃそうだけど、殆ど自動(オート)みたいなもんだ。難しい話は、そっちで頼むわ」

 

 

 もう一杯、勢いよく酒を煽ったアヴェンジャーが立ち上がる。

 何時の間にか黒く染まった彼の顔には、手には、肌には、見る者に嫌悪感を与える恐ろしい模様が描かれていた。

 

 

「そんじゃ、そろそろ行くわ。もうじき駄々っ娘が根城にフラフラ戻ってるころだろうし、アイツが起きる前に行かねぇと」

 

「‥‥お前は、それでいいのか? そんな達観したフリをして、回り続ける舞台で道化を演じて。‥‥いずれ必ず来る、自らの消滅を無感動に待ち続けるのか?」

 

 

 庭の中程まで歩みを進めるアンリマユは、既に衣装までも、完全に復讐者(アヴェンジャー)

化していた。

 今夜もまた、聖杯戦争が始まるのだ。何度目かの第三次聖杯戦争が。偽りの役者と、偽りの舞台で。

 

 

「‥‥ま、せめてオレぐらいはあの駄々っ娘に付き合ってやらないとな」

 

「そんな理由で」

 

「存在している理由なんて、そんなもんで十分だろ。じゃ、またいつか会おうや。美味い酒、楽しみにしてるぜ」

 

 

 大きく跳躍して闇に紛れてしまえば、後に残るのは静寂のみ。

 まるで取り残されてしまったかのような、静かな空間。きっと今、この屋敷の住人達を探しに行っても何処にも居まい。

 役者は皆、夜の部の公演へと出てしまっている。昼の部のゲストである俺たちは、ただ楽屋で仲間を

待っているだけだ。

 

 

「‥‥いつ、帰れるんでしょうね」

 

「さぁ、分からない。けどアヴェンジャーも言っていたように、決して果てが無いわけじゃない」

 

 

 現実を舞台に繰り返す夜の部、聖杯戦争。

 だけど昼の部は、何事もないように年月を重ねて行く。役者達がどう演じていようと、時間だけは止まらない。

 ならば、何処かで舞台は大きく動くだろう。その時こそ、俺たちが必要になるかもしれないのだ。

 

 

「‥‥さぁ美遊、今日はもう寝よう。外に出るのは危ないから、空いてる客間でも借りようか」

 

「‥‥はい」

 

 

 いつか、俺たちも見るのだろうか。

 天へと続く階段を登る、みっともなくて、それでも高貴な主人公を。それを見守る相方を。

 舞台の終わりは、きっと遠い未来じゃない。俺たちに出来ることは、昼の部の役者として、自分の役を演じることだけなのかもしれない。

 

 ただ終幕を、カーテンコールを待ち望みにしながら‥‥。

 

 

 

 

 

 Another act Fin.

 

 

 




倫敦組→クラスカード事件の後始末で冬木へ。
美遊→ギル戦の時に例の如く巻き込まれ。
ちなみに作者はhollow未プレイですので頑張って情報集めましたが、疲れた‥‥。
とりあえずこの場を借りて、もう一度あけましておめでとうございますっ!!


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第八十三話 『義姉妹の思惑』

本日の出来事
冬霞提督、間宮に乗艦出来ず。


 

 

 

 

 side Mikiya Kokuto

 

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

  

 霧の街と呼ばれる、英国の首都、倫敦。

 日本の主要都市よりも北に位置しているために寒く、また海流の影響から気候も異なる。特に高い湿度が影響して非常に霧が発生しやすいと言われており、歴史を感じさせる重厚な建築物の影響もあって陰鬱な雰囲気が漂っている。

 とはいっても流石に一年四六時中、街に霧がかかっているわけではないらしい。例えば今日なんかは日本でもそんなに見られない快晴。かといって決して真夏の太陽のように暴力的ではなく、とても長閑な日差しだった。

 綺麗に掃除が行き届いている室内に、開け放したカーテンから差し込む光が眩しい。どうやら凜ちゃんや衛宮君はあまりカーテンを開けたがらないみたいだけど、やっぱり部屋は明るい方がいい。

 

 ‥‥ただ、もちろんこういうところには魔術師としてのポリシーがあるんだろう。思い返してみれば橙子さんも伽藍の洞は照明を少な目にしたがるし、日差しも近くの工場とか立地が影響して少な目だ。紫遙君の部屋も薄暗かった。

 まぁ紫遙君の部屋に関して言えば、眼球やら何やらと不気味なオブジェが多めだから、照明が明るいと目のやり場に困ってしまうけどね。さすがに僕が仕事しているオフィス部分には、一般の人に見られても問題ない———普通とは間違っても言えない———内装だけど。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 部屋の中は埃一つ、塵一つ落ちていない。やはり衛宮君たちは随分と掃除を頑張っているらしい。

 棚の中身は整理されていて、家具も最低限のものしか置かれていない。その最低限のものというのも古めかしい洋館によくあった、重厚で厳めしい装飾の骨董品だ。

 ‥‥家具とかにお金をかけるような子達に見えないから、多分この家に元からあった調度品なんじゃないかな。よく見たら食器とか、照明とか、そういう細かいところも古めかしいものを使用している。照明なんか結構な数のランプが使われていて、それを補うように現代式の、それも装飾に凝ったものが配置されていて、凝りようが伺えた。

 

 ちなみに僕がこの屋敷に残ることになった、あの短期間の間に衛宮君はあちらこちらに簡単な書置きを残しておいてくれている。

 たとえば家具やコンロの使い方、使っていい食器や食材。買い物に行くなら八百屋や肉屋の簡単な説明。入っていい場所や入ってはいけない場所など。

 特に凜ちゃんの部屋には『入ったら死ぬよりキツイ』なんて注意書きがこっそり貼ってあったけど、これ、もし彼女の目に入ったら衛宮君は半殺しにされちゃうんだろうなぁ‥‥。

 

 

「‥‥ちょっと、お二人とも」

 

「は?」

 

「何?」

 

 

 そんな静かで居心地がよい遠坂邸の留守を一時的に預かっている僕なわけだけど、やっぱりここは他人の家。大きな顔をして居座れるものでもなく、まぁぼちぼち神経は使う。

 だというのに僕の前で大きなソファに腰掛けた二人の女性は、そういうことを全く気にしないで我が物顔で寛いでいた。

 

 

「なに自分の家みたいに満喫してるんですか。コーヒーをソファに零さないように注意して下さいよ、間違ってもカップ割ったりしないで下さいね、あと勝手に冷蔵庫の中のものとか戸棚のお菓子とか食べないで下さいよ」

 

「‥‥なんだお前は、小姑か。義理とはいえ紫遙(オトウト)よりも口うるさいとか、とんでもない従業員だな。私は事務要員を雇ったのであって、小姑やら家政婦やらマナーの家庭教師やらを雇ったつもりはないのだがね」

 

「まぁ個性が強い人間のところには同じように個性が強い奴が集まるわよね。‥‥あ、そういえば姉貴は個性が強いっていうよりは我が強いっていうか、面倒くさいっていうか———」

 

「———おっと、喧しい小蝿がこんなところにも。潰してしまいたくなるな、こう、ぷちっと」

 

「ちょ、使い魔とか出すのやめてくださいよ! 青子さんも、魔力充填しないで! ここは他人様の家なんですよっ?!」

 

 

 ソファに座って寛いでいたはずが、途端に剣呑な雰囲気を醸し出し始めた二人の間に慌てて入る。

  あの日、鮮花や式が凜ちゃん達と一緒にドイツへ紫遙君を助けに行った直後、まるで『ちょっとお出かけして来ましたよ』というくらいに気軽な様子でこの屋敷を訪れた僕の上司、蒼崎橙子。そしてその妹であるところの蒼崎青子。

 いったい今まで何処に宿をとっていたのだろうか、二人はあれからずっと帰ることなく他人様の屋敷であるここに居座り、倫敦の生活を満喫していた。それこそ直接留守を任された僕よりも遥かに堂々と、我が物顔で。

 

 

「‥‥ホント、宿はどうしてたんですか宿は。一応ここには僕しかいないってことになってるし、所長達が泊まってることは凜ちゃん達には知らせてないんですからね」

 

「別に知らされて困るようなことではないが、知らせようと思っても知らせられないだろう? 今、連中はそれどころではないはずだし、知ったところで連中には何も出来んよ」

 

「ちなみに今までは紫遙の工房にいたんだけどねー。ほら、紫遙が行っちゃったからアソコに居ても誰もご飯作ってくれないし、面倒見てくれないし。何処に何があるのか分からないし」

 

「自分の面倒ぐらい自分で見て下さいよ二人とも! もう良い大人なんですから! ていうかあそこってもともと青子さんの工房だったはずなのにどうして何処に何があるのか分からないんですか?!」

 

「分からないに決まってるじゃない。もう数年も紫遙が使ってるんだから、とっくにあの子の使いやすいようになってるわよ」

 

 

 食事を用意するのは当然、僕しかいない。伽藍の洞に居たときでも基本的に橙子さんの食事は紫遙君が作っていて、彼がキッチンを整備してくれていたから僕も一緒に自分の食事を作ることがあった。

 とはいっても彼が作る食事って、実際たいしたことはない。あるものを焼いて、適当に味付けするだけ。根本的には彼、炒飯やラーメンぐらいしかきちんと作れないらしく、結果コンビニ弁当というのも結構多かった気がする。

 

 ‥‥あれ、それを考えると結局のところ僕が一緒に橙子さん達の食事作ってたことの方が多いような?

『コンビニ行くのだるいな。おい紫遙、何かつくってくれ』

『ごめん橙子姉、今手が離せない。でも確かにコンビニ遠いし、面倒だよね』

『そうですね、僕も今月厳しいし自炊したいな。紫遙君、何か買い置きの食材あるかい?』

 みたいなカンジで。まぁおかげで全然料理なんか出来なかった僕がそれなりに自炊出来るようになったんだから、それはそれで結果としてよかったのかもしれないけど。

 

 

「‥‥はぁ、ホント何処に行ってもブレませんね、お二人は」

 

「このぐらいの歳になると芯が定まってしまうからな。逆にお前たちが羨ましいぐらいだよ」

 

「僕としてはもう少し周りに遠慮してくれると、出先とかで苦労しなくて済むんですけど」

 

「そのあたりは許せ、気を使うのもお前の仕事だろう。馬車馬のように働け、社員」

 

 

 軽口を叩く橙子さんだけれど、これでいて取引先との会談などではメガネをしっかりとかけて、理知的で優しげで出来る女性のアピールをして、それが成功しているんだから不思議なものだ。

 もっとも最近は受ける仕事が地味ながらも大口で、どういう理由でか橙子先生の琴線に触れたものばかりだったから、そういう場所は相手方の人もなかなかに懐が広くて助かった。

 

 

「僕としてはお給料さえしっかりと払って頂けるなら、相応の労働を提供する気はあるんですけどね。そもそもそれが普通の労働環境っていうものですし」

 

「給料ならちゃんと払ってるじゃないか、紫遙が」

 

「雇い主は誰ですか! 僕の雇い主は! ‥‥ほんとに、紫遙君には苦労をかけっぱなしで頭が上がりませんよ」

 

 

 そもそも自分の気分でしか仕事を請け負わない人形師、蒼崎橙子。さらに趣味の魔術品を集めるために、まったくもって無計画にお金をつかう癖のあるこの人は、そもそも上司としては最悪な部類に入るだろう。

 安定した収入はなく、事務仕事の類は所員である僕に投げっぱなし。さらに言うなら所員への給料分の収入も、気が向いたら自分の生活費諸とも魔術品の収集に突っ込んでしまうのだから、下手したら僕は給料無しなんて月も十分にあり得たのだ。いや、というより一歩手前ぐらいならザラだった。

 それを何とかしてくれていたのが他でもない紫遙君で、僕にしっかりと最低限のお給料が入るだろうぐらいの収入は橙子さんからしっかりと徴収して、別口で保管してくれているのだ。僕の給料は紫遙君がプールしておいてくれた口座から、支払われている。

 

 

「なぁ黒桐」

 

「‥‥どうしたんですか、橙子さん?」

 

「茶が切れた、淹れてくれ」

 

「ご自分でどうぞっ!!」

 

 

 他人様の持ち物だから、少しは気を使いながらも勢いよくティーセットを机の上に置く。

 いや、普通この状況で出るセリフじゃないよ、それ。大分この非常識な上司にも慣れていたつもりだけど、未だ以てして常に平常心でというわけにはいかない。なんていうか、常に泰然自若としながらも、そのままの態度で僕らを振り回すのが橙子さんだし。

 

 

「‥‥まったく、少しは上司に気を使ってくれてもいいんじゃないのか?」

 

「今は勤務時間外ですから」

 

「姉貴ってば、普段から幹也君のこと無碍に扱うからこういう時にやり返されるのよ。ほーら幹也君、元気で美人で優しい友達にお茶淹れてくれない?」

 

「いやです」

 

「なんでっ?!」

 

「いっつも僕に厄介ごと持ってくる割合、一番高いのが橙子さんで二番目が紫遙君経由の橙子さん。三番目が貴女で、四番目が紫遙君経由の貴女ですから」

 

「冷たっ?! 冷たいわよ幹也君! なんか思い出すと結構な頻度で冷たい気もするけど、今日はいつになく冷たいわっ!」

 

 

 よよよ、とわざとらしく泣き真似をしておきながらも、手だけはてきぱきと動いて自分の分の紅茶を淹れる。紫遙君が紅茶党だからか、青子さんも紅茶を飲むことが多い。橙子さんはコーヒー党なわけだけど、それに関わらず姉の分を淹れるつもりが一切ない青子さんはいつも通りだ。

 ‥‥まぁ、それに動じないでいつの間にか自分の分のコーヒーをしっかりと用意している橙子さんも橙子さんだけど。

 

 

「‥‥冷たいって言いますか」

 

「ん?」

 

「それを言うなら、お二人の方がよっぽど冷たいんじゃないんですか?」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 和やかな雰囲気から、一転して僅かながらも緊張感が場を支配する。

 ぴたりと止んだ、軽口。そして沈黙。普段ならば意図の分からない軽口ばかり叩いて僕を混乱させる橙子さんも、沈黙を保ったまま鋭い目で僕の方を睨みつけていた。

 ‥‥いや、睨みつけているというのは語弊がある。橙子さんにとって、僕は睨みつけるという敵性態度をとる相手じゃない。ただ様子を見て、観察しているだけ。僕がどういう心境でいるか、どういう態度をとるつもりなのか、それを観察しているだけだ。

 まるで無機質な瞳。僕と橙子さんが全く別の生き物なのだということを実感させられてしまう。

 大袈裟な例えかもしれないけれど、魔術師と一般人というのは殆ど種族が違うと言っても過言じゃない。それぐらいの違いが、両者の間にはあるらしい。

 

 

「‥‥どういうつもりだったんですか」

 

「何がだ?」

 

「恍けないで下さい、紫遙君のことですよ」

 

 

 自分の分のコーヒーを口にしながら、ソファで平気な顔をしている二人の姉妹を見つめる。

 顔立ちはそこまで似通っているわけじゃない。普段の表情も、皮肉屋な橙子さんと快活な青子さんでは全然違う。けれど、こちらを見る視線と醸し出す雰囲気はそっくりだ。

 ただ無感動に、僕の次の言葉を待ってる。僕がどういう態度に出るのか伺っている。

 橙子さんや青子さんと日常的に接していない人なら、この空気を圧迫感(プレッシャー)に感じてしまうことだろう。ともすれば逃げ出してしまうかもしれない。とても精神的に耐えられないはずだ。

 

 

「‥‥紫遙、か」

 

「そう、紫遙君のことですよ」

 

 

 無言でコーヒーを啜る橙子さんは澄まし顔だけど、それはいつものこと。ああやって全くこっちの話を聞いていないようでも、実はしっかり聞いている。

 この判断を見誤ると、今度は橙子さんの方から見限られてしまうことになるのだ。そのあたり、この偏屈な上司は人間判断の基準がやたらと厳しい。適当にあしらわれるようになってしまっては、この人の人間判断基準としては下の下に分類されてしまったということなんだ。

 

 

「そういえば、お前この前も言っていたな。私がこの顛末を予想していただろう、云々」

 

「分かってるじゃないですか。まぁ、橙子さんのことですから分かってやっているって確信してましたけど」

 

「そうだな、事前に予想して、確定してしまっている未来をなぞる行為を、どう思うかは個人次第だが。その点お前とのつきあいはそこまで浅いものではなかったか。少し従業員を過小評価していたかもしれない、な」

 

「巫山戯て誤魔化さないで下さいよ。‥‥それなりに怒ってるんですからね、僕は」

 

 

 ‥‥倫敦に来てから、ずっと感じていた一つの疑問。

 ずぼらな橙子さんとはいえ、実のところ今まで本当に大事なところだけはしっかりと仕事をしていた。僕や紫遙君で何とかなるようなところは、ズボラだからか知らないけれど、とことん僕たちに投げるけど‥‥。橙子さんにしか出来ない仕事はなんだかんだ———期限ギリギリでも———しっかりこなしていた。

 だからこそ、僕たちが倫敦に来る理由となった書類の件に関しては、最初から僕も猜疑的だったのだ。

 橙子さんは本当にどうしようもないくらいに、どうしようもない人だ。けれど、大人だとも思う。

 僕だって大人のはずだけど、それでも僕と橙子さん、青子さんを比べると、どうしようもないくらい大人としての違いを思い知らされてしまうのだ。

 

 そんな橙子さんだからこそ、たった一つの、いつも通りの書類を忘れてしまうなんて、ましてやそれを放置して倫敦に旅立ってしまうなんて、僕の上司のすることだとは思えない。

 橙子さんも人間だから。そんな言葉では納得できない。僕と橙子さんは、そんなに浅い付き合いじゃない。

 

 必ず、某かの理由があって、わざと書類を忘れたに違いない。

 僕たちがこうして倫敦に来ることを予想して。そして紫遙君の状態を知った僕と、僕と一緒に来るはずの式達が紫遙君を助けにいくことを確信して。

 

 

「まぁ、いまさら嘘をついても仕方がないか」

 

「当然です。もう何年の付き合いだと思ってるんですか」

 

 

 再び流れる、沈黙。

 橙子さんの真っ直ぐな視線が突き刺さり、思わず後退りしそうになる。

 余計なことを言うなと釘を刺しているわけでもなく、敵意がこもっているわけでもない。ただの視線に籠もっている力が、常人を後退させそうなぐらいに強い。

 

 

「‥‥紫遙君が倫敦に留学するって言った時は、まさかこんなことになるなんて、思いませんでしたけどね」

 

「私は魔術師の学院なのだから、それなりに危険はあると言ったはずだがな」

 

「でも留学ですよ? 色んな学生が世界中から集まって来て、そこで危険があるなんて普通は考えないでしょう。何より———」

 

 

 最愛‥‥といっても絶対橙子さんは肯定しないだろうけど、大事な義弟をそんなところに送り込むだろうか。

 ない、とは言い切れない。確かに僕は魔術師という人種に理解はあるけれど、それでもやっぱり普通の人間に比べて特殊、あるいは異常だということだけは、はっきりと分かる。

 

 でも、いくら魔術師という人種が特殊だと理解していても、それでもやっぱり、不可解だろう。

 てんでばらばらに散らばっていて、他との接触がそこまで頻繁ではないというのなら、他の魔術師と出会った時に物騒なことが起こるという理屈にも納得はいく。実際、僕も幾度となくそんなことには巻き込まれた。

 けれどある程度以上の数の人間が集まってコミュニティ、集団を作り上げた時、そこに争いを前提とする攻撃的な関係が生じているのは人間という生き物の性質上あり得ない。

 どんなに単独では攻撃的な人間達だとしても、集まりを持つ以上は、そのコミュニティを維持するという意識が必ず生じるはずだ。

 一人一人が人外魔境な集団だったとしても、毎日毎日が他者から及ぼされる命の危険だらけ、というのはおかしすぎる。

 

 

「‥‥まぁお前の言うことにも納得は出来る。実際、あそこにいる大方の魔術師は勉学で精一杯か、他人に構うのを好しとしない連中さ。

 元々、魔術師同士の争いというものがナンセンスなんだよ。魔道とは己の家系を懸けて延々と追っていくものだからな。本来ならば他者に魔道を求めることは間違っている。

 しかし同時に、ありとあらゆる手段を使っても追求するのが魔道だ。故に他者の研究成果であろうと、自分の役に立つのなら手段を選ばず手に入れようとするのは魔術師として自然な発想でもあるわけだな」

 

「じゃあ僕の言ってることは違うってことじゃないですか」

 

「いや、これはお前の言うところの、『隠れ住んでいる一般的な魔術師』の話だ。いわばお前が日常的に接している魔術師である、私や鮮花もこれに当たる。

 しかし黒桐、やはりお前は鋭い。確かにある程度以上の数の生き物が集まってコミュニティを形成するならば、当然そのコミュニティを維持しようとする全体意思が生まれるものだ。あそこもまぁ、そんなところか」

 

 

 いつもと同じようにぺらぺらと喋りながら、橙子さんは煙草に火を点ける。

 紫遙君も普段から吸っているのだろう。工房備え付けのスペースということを考えると必要以上に広々とした居間は、仄かに煙草の煙の匂いがした。

 

 

「もっとも連中にしてみれば、そこまで大層なことを考えているわけじゃない。良くも悪くも、魔術師としての自覚が薄い連中が増えて来てるんだろうな。それこそ私が学院にいたころから、その傾向は見受けられた。

 ここに来ている学生の多くは、魔術師未満のひよっ子ばかり。一部の人間を除けば、それこそ常に学生気分だ。魔術師の自覚が足りん、子どもなのだろうよ」

 

「‥‥成る程、そういう場所なら常に危険があるわけじゃない。普通に大学に通うのと変わらないってことですね」

 

「まぁ、そうなる。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトや遠坂凜などは稀有な方だろう。俗に名家と言われる魔術の家系の子女などは、時計塔に来ないで自分の家で研究しているのだろうな。昔ほど、魔術協会の影響力も高くない。時代を経て神秘が薄まるのと同様に、協会の権威も薄まっていく」

 

 

 昔を懐かしんでいるのだろうか、橙子さんの目は珍しく遠くを見ているかのような色を湛えていた。

 いつぞや僕も盛大に巻き込んで暴れた赤い魔術師、コルネリウス・アルバと黒い魔術師、荒耶宗蓮も橙子さんの学院時代の友人だったとか。

 あんな顛末になってしまったけれど、昔は仲が良かったのだろうか。紫遙君と遠坂さん達みたいな、友人として。

 

 

「しかしな、黒桐。確かに普通に時計塔で学生として勉学、研究に励むのならば大して問題も生じまい。教授から与えられる課題を日々こなし、同時に自らの研究も進め、お偉いさんにお伺いを立てる。そんなことをしていれば順調に卒業出来る。

 普通の学生として、普通に過ごしているのならな。‥‥だが、アイツは蒼崎なんだよ」

 

 

 だが、アイツは蒼崎なんだよ。

 そう言った橙子さんの顔を、僕はおそらく一生忘れないだろう。

 

 

「なぁ黒桐、お前も聞いたことぐらいあるだろう? 『異端は異端を引き寄せる』。これについて、どう思う?」

 

「異端‥‥? そういえば、鮮花とか式にも言ってましたよね。式や僕が色んな騒動に巻き込まれたのも、異端を惹き寄せたっていうことなんですか?」

 

「合ってはいるが、理想的な解答ではないな。”引き寄せる”と”惹き寄せる”では少し意味が違う。

 ”惹かれる”というのは、言うなれば人間の本能のようなものでな。例えば起源による衝動などは、この部類に入る。能動的であるか受動的であるかは別にしても、自分が感じて、もしくは相手に感じられて、あるいは互いに感じ合って生じる関係だ。

 例え互いに面識や接点が無くとも、その人物が歩んで来た軌跡、他者に及ぼした影響、存在の残滓をありとあらゆるものから本能的に感じ取る、辿る。理屈では説明出来ない『法則』というものだな」

 

 

 ことん。

 マグカップが重厚な木の机に置かれる音が、やけに大きく響いた。

 横目で見た、さっきからずっと口を閉ざしている———珍しいことに———青子さんは、僕が驚いてしまうぐらい橙子さんとは正反対の、感情を感じさせない表情をしている。

 

 

「‥‥だが”引かれる”というのはな、黒桐。相手と自分の間だけに及ぼされる力とはいえない。無意識にせよ、互いに引っ張り合う行為とは本質的に全く異なる。

 あまり使いたくない言葉ではあるが、神の見えざる手のように、自然と引き寄せられる。まるで、星々が互いの重力で、質量で、引かれ合うかのように。つまるところ、引力という奴だ。人の手の及ぶ範囲ではない」

 

 

 まだ要領を得ない様子の僕に、橙子さんは苦笑を

隠せない様子だった。

 とはいっても理解力のない僕に呆れているという感じではない。前にも聞いた話だけど、そもそも魔術師の話というのは一般人の理解の届かないところにあるらしい。

 あくまで魔術師とは超越者。それは一般人より偉いということを意味するわけではなくて、純粋に出来ること、知っていることが違うということ。

 そして目指すのは、この世の真理そのもの。崇高な目的と、矜恃に支えられた在り方。だからこそ俺は魔術師であることを誇るんですよと、いつか紫遙君は言っていた。

 

 

「全ては、世界の敷いた法則の下で動いている力だ。さっきも言ったが、重力や引力などの物理法則に並ぶ、神秘の法則だよ。

 だからこそ、回避は出来ない。絶対にだ」

 

「絶対‥‥」

 

「あぁ、不可能だ。どれだけ翼を広げて空を舞ったところで、それは重力の束縛から逃れたことにならない。

 だが、抗することは出来る。それが力の限り羽ばたき、自らの力で自由に飛び回るということだ」

 

 

 言葉を並べながら、ひょいと、机の上に飾りのように置いてあったチョコレートの紙包みを放る。

 綺麗な放物線を描いたそれは頂点まで一気に達して、それでも重力の束縛には抗えず、ストンと僕の手に収まった。

 この手の類のチョコレートは、一口で食べられるように小さく作られているから、すっぽりと手で覆えてしまう。包装紙は金属にも似た光沢のある渋い赤色。他にも同系統の緑や青の包み紙がテーブルの上に小さな山を作っていて、インテリアとしても悪くない。

 って、これ凜ちゃんのお菓子じゃないか。まぁ、このぐらいなら別に怒られないと思うけど。

 

 

「しかし黒桐、考えてもみろ。鳥籠の中で育った鳥が自由に大空を飛べるようになると思うか?」

 

 

 ‥‥鳥籠の中で育った鳥は、"鳥籠の中"という世界しか知らない。

 基本的に人間は自分の知っている世界までしか飛び立つことが出来ないものだ。本能で知っているならともかく、意識がそれに追いつかないだろう。

 動物ならば本能が理屈を凌駕する。けれど理性が発達してしまっている人間は、その理屈や感情、思いこみの部分で本能を抑制してしまうのだ。

 

 

「危ないことに遭わないように、襲われないように、大事に大事に鳥籠の中で育ててやることが出来る。しかし、それで本当に意味があるのか? 鳥籠の中にも等しく引力は働く。

 避け続けていく内に積もり積もった因果は、私では守りきれない引力を生み出す可能性がある。そうしたら、飛べない小鳥はどうなる?」

 

「‥‥‥‥ッ!」

 

 

 せせら嗤うかのように、唇の端を歪める橙子さん。

 でも表情はともかく、瞳の中の色は落ち着いたものだ。少し不気味な古い洋館に似合う薄暗い照明が作る、柔らかで仄かな光に照らされて、陰影の浮き出た横顔が特徴的だった。

 

 

「でも橙子さん、それなら何故わざわざ紫遙君を(けしか)けたんですか?」

 

「ん?」

 

「‥‥紫遙君は、何があっても思い切って自分から戦いに行ったりするような性格じゃない。彼が"らしくない”ことをするといったら、そりゃ橙子さんか青子さんが関わってるに決まってるじゃないですか」

 

 

 こういうことを言うと失礼とか、馬鹿にしてるように聞こえるかもしれないけれど、紫遙君はあんまり積極的な性格をしていないのだ。

 僕にとって典型的な魔術師といえば、橙子さんと紫遙君だ。僕の魔術師という人種に対する印象は、この二人に因るところが大きい。

 そう考えると、彼らが語る魔術師という像に、二人はこれ以上なく当てはまる。特に橙子さんは勿論、紫遙君もそれに準じる姿勢を見せていると思うし、相応しいとも思う。

 でも、魔術師として十分な在り方を心得ている紫遙君は、だからこそなのか、普通の人間としてはちょっと臆病で慎重な方なんじゃないか。

 

 それなりに付き合いは長いけれど、彼は進んで危険を冒すタイプじゃない。例えその先に栄光や名誉があったとしても、多分、彼は八割以上の勝算がない試合はしないタイプだ。少なくとも、自分からは。

 何かにっちもさっちもいかないようなことや、巻き込まれたりしたら、そりゃ彼だって何とか勝利をモノにしようと必死で頭を巡らせることだろう。けど、そうじゃなきゃ動きはしない。

 本当に失礼な言いぐさになってしまうけど、どちらかといえば彼は、どうしてもやらなきゃいけない、けれど本当ならやりたくないようなことが待ちかまえていたら、現実逃避で頭を抱えてその場に蹲ってしまうぐらいに心が弱い人間だ。

 勿論それは普段決して見せない部分だと思う。ともすれば本人も自分では隠せてると思ってるんだろうけど、さすがにここまで付き合いが深いとね。そのぐらいは分かる。

 

 

「それがどうしてもやらなきゃいけないことであっても、"やりたくない"なら、勇気を出して一歩踏み出すんじゃなくて、『どうしようどうしよう』ってその場で悩み続けてしまうのが紫遙君です」

 

「他人の義弟《おとうと》に対して随分な言いようだな、黒桐」

 

「別に、だからといって紫遙君をどうこう言うわけじゃありませんよ。ただ、彼にそういう弱い部分があることは明らかです。欠点ではあるけど、まぁ僕はそういうところも気に入ってるつもりです」

 

「褒め言葉になるか、馬鹿者が」

 

「そう言わないで下さいよ。僕にとっても、彼は弟分ですからね」

 

 

 彼にとって、“魔術師で在る”ことが最優先事項であるように僕には思える。

 本来なら彼の性質であった、臆病で弱虫で慎重。その部分を、魔術師である“蒼崎紫遙”で覆い隠しているんじゃないか。

 

 

「‥‥よく、分かっているじゃないか黒桐」

 

 

 ゾクリ、と背筋が粟立った。

 今まで本当に片手の指でも事足りるぐらいしか無かった、『聞いてはいけないことを聞いてしまった』感覚。

 それも特に、『絶対に』がその前につくぐらいの恐ろしい心地。

 僕としては橙子さんとも長い付き合いで、大体はこの人の性格や動向というものを把握しているつもりがあった。いや、事実、ついさっきまではそうだったはずだ。けど、それはどうやら間違いだったらしい。

 何しろ僕は今、初めてこの人を前にして、『死んだ』と思ってしまった。感じて、しまった。

 ついさっきまで全然恐ろしげに見えなかった、怒ってなんかなかった橙子さんが、今は死ぬほど恐ろしい。きっと今だけだと、そう信じたいぐらいに。

 

 

「姉貴」

 

「分かっている青子。そこまで口が軽い女ではないよ、私は」

 

「そりゃその辺は信用してるつもりだけどね。一応釘刺しとかなきゃ怖いでしょ、せっかく私が珍しく黙ってるのに」

 

「珍しい、という自覚はあったのか。こりゃまたそれこそ珍しい」

 

「よっしゃあ表出ろ馬鹿姉、今度こそ消し飛ばす!」

 

「やってみろ愚妹、骨の一欠片も残さんぞ」

 

 

 バチバチと散る火花が、実際に魔力の奔流となって迸る。魔術師に必須だと言われている魔術回路とやらを持たない、僕にも視認出来るくらいだ。

 この二人、仲が良いのか悪いのかよく分からない。昔は間違いなく仲悪かったらしいんだけど、今はどうなんだろうか。少なくともこういう雰囲気の時には絶対近くに寄りたくないものだけど。

 

 

「‥‥紫遙《アイツ》に必要なのは、能動的に、積極的に世界に関わることなんだよ。お膳立てしてやってでも、危険でも、その機会があるならアイツは世界に踏み込むべきなんだ。

 いつまでも傍観者を、観測者を気取っているわけにはいかない。それがアイツの、『起源』だとしてもな」

 

「?」

 

「そうでなければ世界に認められない。世界に認められなければ、この世界に間借りすることすら適わない。

 多少はお膳立てしてやってもな、アイツにはそろそろ独り立ちしてもらわなければね。‥‥本当なら、危ない目になど遭ってもらいたくはないものだが、そう言ってもいられないからな」

 

「ま、そうね。どっちにしたって、いつまでも一緒にいてあげるわけにはいかないし。子どもは巣立つものよ。それに、獅子は子どもを千尋の谷から吹き飛ばすっていうし」

 

「吹き飛ばしてどうするんですかッ! ‥‥いくらそんな理由があっても、僕はやっぱり納得出来ませんよ」

 

「理屈ではない、事実なのだ。‥‥これから先、因果が積み重なっていけば更に大きな引力が働くこともあるだろう。それは私ではなく、アイツが自分自身の力で切り抜けなければいけない。

 誰でも、というわけではない。"蒼崎紫遙"だからこそ、必要なのだ。世界に並び立つ、力が」

 

 

 最終的に僕が橙子さんの瞳から感じられたのは、背筋が凍えるぐらいに冷徹な光と、義弟を見守る優しく暖かな光。

 まるで蒼崎橙子という人間を、魔術師をこの上ないぐらいに象徴した瞳だった。魔術師として何処までも冷徹に選択することが出来て、同じくらい人間として面倒見がよく思いやりが深い。矛盾しているようでいて、どちらも橙子さんなのだ。

 

 

「でも、もし本当に取り返しがつかないことになったら———」

 

「大丈夫だ」

 

 

 ぴたり、と二人の姉妹がそろってこちらを向く。

 そこに含まれているのは絶対の信頼。否、当たり前の事実とでも言うべきなのだろうか。

 自分たちの義弟である彼が、自分たちが育てた彼が、"蒼崎紫遙”が、そんなことにはならないと理解している。

 

 

「黒桐、確かに紫遙はあまり褒められた戦闘力は持っていない。アイツはあくまでも"魔術師”だからな」

 

「本当なら魔術師が戦闘第一主義っていうのはナンセンスってことになってるからねー。ま、同時に魔術師にとって戦闘は当然こなしておくべき嗜みの一つなんだけど」

 

「まぁ情けない話かもしれないがね。だが、『魔術師が最強でないのなら、最強である何かを用意すればいい』のさ」

 

 

 ああ、さっきまでの冷徹かつ優しげな雰囲気に、新たに加わる狡猾な笑み。

 いつもの"伽藍の堂"での打ち合わせで見せる穏和で優しく、デキ女という顔だけを見ている人には分からない。封印指定の人形師、蒼崎橙子。この顔を見たならどんなにこの人に入れ込んでる男だって裸足で逃げ出すことだろう。

 

 

「私の場合のソレは、お前も知っての通り鞄に潜ませた使い魔。動く石像(ガーゴイル)人工生命(ホムンクルス)、他にも色々と手段はある。‥‥そして紫遙の場合は、分かるな?」

 

「‥‥凜ちゃんや、衛宮君、ルヴィアさん、式に鮮花」

 

「もちろん黒桐、お前もな」

 

 

 済ました顔に、懸念が募る。紫遙君が某かの経緯でこの二人の義弟(おとうと)になって、それからずっと義姉達によって育てられ、成長してきたのだろう。

 まさかこの二人は、今日この時のようなことを、その時から想定して紫遙君の世話をしてきたのだろうか?

 今までいくらでも戦慄することなんてあったけど、今もまた、あの感覚が背筋を這う。底の知れないものを持っている二人に、思わず気後れしてしまう瞬間。

 

 

「———紫遙君、式、鮮花、凜ちゃん達、みんな無事で帰ってきてくれ‥‥!」

 

 

 橙子さんが、青子さんが、こうして口にしたことは今まで決して間違いなんて無かった。

 けど、このときばかりは祈らざるをえなかった。きっと普段の橙子さんなら笑い飛ばすかご高説を唱えるかするだろう思いも、今このときばかりは真剣に。

 大事な妹が、後輩が、友人が、弟分が、大切な人がいる。

 僕はこうして待っているだけしか出来ないけど、だからこそ、こうして心配せざるをえない。いや、心配したい。

 待ってるしか出来ない僕だけど、きっと無事に帰ってくることを信じて、こうやって待ってる。

 

 みんなが、無事でありますようにと。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥申し訳ございませんが、お客様、こちらの商品は二十歳未満の方にはお求め頂けないようになっております。恐れ入りますが、年齢確認の出来るものをお見せ頂けますでしょうか?」

 

「は?」

 

 

 学年末試験が終わり、もう授業も数える程しか残っていない。所謂、消化試合というか補講だな。

 この時期になると受験も殆ど終わってしまって、最上級生である三年生なんかは殆ど学校に来ない。二年生と一年生だけでは校内も少し寂しい。

 教室はそれぞれ階が違うから特に感じるところはないけど、やっぱり喧噪っていうのは上下の階にもしっかり届くもので、三分の一が抜けてしまった校舎は何処はかとなく静かだった。

 

 そんな中、オレは今日もおざなりに先生の雑談で過ぎる授業を無為に過ごし、いつもより伸び伸びとした気分で下校路を歩いていた。

 今は部活がないらしい加藤も、今日は一緒に帰っている。ずっと部活三昧で帰りが遅いコイツが一緒にいるのは、実に珍しいことだ。なにせ、この野郎週に五回も部活があって、他の二日は家の近くの道場まで出稽古に行っていると来た。おかげで頭まで栄養が回ってないともっぱらの噂である。

 下校の途中も、ぺらぺらぺらぺらと口が止まることはない。身振り手振りが一々大げさで、しかもあんまり周りに気を遣ってないらしく、ぶっとい腕が当たりそうになることもしばしば。

 

 

「おおおおっとスイマセン店員さん! こいつ、ちょっと何か勘違いしてるみたいで、アハハハハハ!! お騒がせしてホントごめんなさいっ! 俺ら失礼しますねー!!」

 

「あ、ちょっとお客様っ?!」

 

 

 ぐい、と腕を掴んで強引に走り出す友人。

 室内系で非力なオレとは比べものにならないくらいに強い力で引っ張られると、もはや足が縺れるとかいうのを完全に通り越して綺麗に引きずられてしまう。

 

「おいおい村崎、貴様いったい何考えてやがんだ?!」

 

「え‥‥?」

 

「さっきのだよ、さっきの!」

 

 

 勢いよく引きずられ、コンビニのすぐ裏の路地にまで引き込まれる。

 オレの両肩を掴み、珍しくも動転した様子で声をあげる友人に、思わず目をぱちくりさせた。

 

 

「さっきのって」

 

「よりによって制服のまま煙草(モク)なんて買おうとしやがって‥‥。そりゃ煙草(モク)吸ってる奴らは何人か知ってるけど、流石に連中だって制服のまま煙草買いに行ったりゃしねぇぞ?!」

 

 

 がっくんがっくんと揺さぶられ、目が回る。ついでに頭の中身もぐるぐる回る。

 ベンチプレス百キロを軽く持ち上げる豪腕に揺さぶられちゃ、たかだか六十キロちょいぐらいの体重しかないオレなんて案山子よりも軽い。

 下手すると、ぐいと持ち上げられた後、真っ逆様に地面に落とされてしまうのではないかというぐらいの勢いで揺さぶられ、思わずいろんなものがいろんなところから出てしまいそうだ。

 

 

「ていうか村崎、煙草(モク)なんて吸ってたか? 吸ってるどころか持ってるところも見たことねぇし、煙の臭いもしねぇし」

 

「‥‥オレだって、今まで吸ったことも持ったこともないよ。なんだろう、自分でもおかしいんだけどさ、レジの前に立ったら自然と番号が口から出てきて‥‥」

 

「はぁ? 普通は買い慣れてなきゃ煙草の番号なんて出てこねぇだろうが。一体どうしたんだ貴様? いや、別に疑ってるわけじゃねぇんだけどさ」

 

「分からない。‥‥どうも最近、こんなことばっかりなんだ」

 

 

 肩を掴んでいた手を離し、コンビニの外壁に背を預けた加藤がジュースの缶を放った。

 幸いにして炭酸でなかったソレのプルトップに指をかけて力を込め、蓋を開ける。ぼんやりとした頭に100%オレンジジュースの酸味が心地よい。

 

 

「なぁ加藤、既視感(デジャヴ)ってさ、ホントにあると思うか?」

 

「デジャヴ? デジャヴっってアレか、前にも同じ事あったような気がするーってヤツか?」

 

「そう、それ。いま言ったけど、なんかここのところ色んなことに既視感があるんだよ。もしくは違和感もあるのかな。今まで当然と思ってたことに、違和感があるっていうか‥‥」

 

「どういうこったよソレ、意味わからん」

 

「意味わかんないのは、オレも同じだ。何が何やらさっぱりだよ」

 

 

 頭を抱えて蹲り、盛大にため息をついたオレを怪訝な顔で眺める加藤。もちろん、こいつにもオレの言ってることはよく分かっていないことだろう。

 なにせ、こう言っているオレ自身が全くもって分かっていない。だというのに他人に説明を求めるっていうのも、考えてみればおかしな話だ。

 

 

「勘違いとか、気のせいなんじゃねぇの?」

 

「そりゃ、そういうこともあるだろうさ。もしかしなくても全部それで説明つくかもしれないし」

 

「じゃあどうして」

 

「‥‥なんていうか、それで済ませちゃいけない気がするんだよ。ここで気のせいで済ませても何もないだろうけど、何もないままでいいのかって」

 

「はぁ。まぁそういうのは個々人の感覚次第だからなぁ。俺がどうこう言うことじゃねぇだろうが‥‥」

 

 

 自分の分の汁粉缶を飲み干してしまったらしい加藤は、いつものように缶をコロコロと回しながら底に残った小豆を何としても手に入れようと苦戦している。傍目に見ていると実に残念だ。

 もちろん要領を得ない俺の説明を聞いているというならば不真面目なポーズなのかもしれないけど、こいつは概ねいつもこんな感じだった。

 

 

「あれじゃないか、夢とかで似たような景色を見たことがあるとかさ。夢って人間の記憶から作られるとか言うだろ? 少しずつ現実と違う夢を見て、それを偶然覚えてたってんなら都合が合うんじゃねぇか?」

 

「‥‥そうかな?」

 

「馬鹿にしてるわけじゃあねぇが、そうそう不可思議なことなんてあるわけないだろ。とりあえずは気のせいってことでいいじゃねぇか。もし気のせいじゃなかったら、また同じようなことがあんだろ?」

 

「まぁ、それもそうか‥‥」

 

 

 釈然としないながらも、オレが感じた違和感と同じように、加藤の言ったこともまた事実だ。

 普通に考えればコイツの言うとおり、そうそう非常識なことが起こるはずもない。仮に既視感というものが本当だったとしても、日常という枠の中でよくあることなんだろう。

 加藤も言っていたが、こういうことがあると、どうにも不可思議な出来事を期待してしまうのが人間なのかもしれない。そう考えると、実に恥ずかしいものがある。

 

 

「しかし村崎よ、具体的にどんな感じなんだ? ほら、その違和感ってのは」

 

「さっきも言っただろ? 家にある例のコンポ、ほら、この前買ったヤツ。あんなもんあったかなー、とか」

 

「確か貴様が数年分の貯金はたいて買った豪華なヤツ‥‥だったっけ? アレ、自己主張少ない貴様にしちゃ珍しく興奮してペラペラ喋りまくってたもんなぁ」

 

「そ、それは今更言わなくてもいいだろ?!」

 

「でもよ、そりゃ今でもこれを買えたのが夢みたーいって意味じゃねぇんか? だってあんだけ興奮してた自慢の一品じゃねぇか」

 

「‥‥他にも持ってるはずのないCDがあるはずだって思ったり、学校の授業だってたまにやったことあるような小テストが出るんだ!」

 

「便利だな、そいつぁ」

 

「笑い事じゃないんだけどな。さっきのだって、考えてみれば同じだよ。このままじゃ警察沙汰になっておかしくない‥‥」

 

「‥‥ふむ、まぁちょっと難儀な話だな。つか煙草(モク)買う既視感(デジャヴ)ってなんだよ一体。貴様、実は前世とかあったんじゃね?」

 

「オレにそれが分かれば苦労はしないよ」

 

 

 最近なんだか増えてしまった溜息も、今日は実に重い。

 加藤に話した通り、CDコンポがどうとかテストがどうとかなら正直どうでもいいのである。なんか目眩とか頭痛とかも増えてる気もするけど、それだけならオレの中だけで完結する問題なのだから。

 けれど今さっきみたいな既視感は困る。生まれてこのかた品行方正、煙草なんて咥えたことすらないっていうのに‥‥。

 もしかしたら本当にオレに前世とやらがあって、そこでヘビースモーカーだったのだろうか。

 そんなことすら、思ってしまう。

 

 

「まぁ何かあったら言えよな。俺は人間ぶん投げるぐらいしか出来ねぇけど、出来ることならするからよ」

 

「そう言って貰えるとありがたい」

 

 

 コンビニ裏の路地にひっそりとある自販機備え付けのゴミ箱に、空き缶を放る。コンビニで買ったものだけど、公共物なのだから大丈夫だろう。

 

 

「———あれ、アンタ達こんなところで何やってんの?」

 

「げ、逢坂」

 

 

 と、ガチャリと重い扉が開く音がして振り返ると、そこには見慣れたクラスメイトの見慣れない姿。

 短めのポニーテールと、大きな目。すらり、というよりはちんまりとした体躯と、さっきまさに失態を晒したコンビニの制服が青く、鮮やかだった。

 こいつは加藤と同じ、クラスメートの1人。傍迷惑なぐらい元気で強引なムードメイカー。主に加藤と組んでクラスを引っ張っていく非委員長タイプな委員長。

 ちなみに名前は、逢坂(おうさか)(みなと)

 

 

「やめてよね、店の裏で道草食われたりしたら店の人だと思われるでしょうに。あ、もしかして、さっきの意味わかんない高校生ってアンタ達? なんか、制服でタバコ買いに来た馬鹿がいるって裏で噂になってるんだけど」

 

「あー、やっぱり噂になってたか。まぁ仕方がないっちゃ仕方がないけど」

 

「ホント何考えてんのよ慎一郞。いくらアンタでも、悪ふざけしていいところとしちゃいけないところってもんが———」

 

「いや、違う違う。煙草(モク)買おうとしたの、俺じゃなくてコイツ。村崎の奴だよ」

 

「‥‥は?」

 

 

 いつでもめまぐるしく変わる表情が、ぽかんと間の抜けたものになる。

 凝視する先はオレ。気の抜けた顔に、今度は驚愕、あるいは信じられないような色を浮かべてこちらを見た。

 

 

「村崎君が?」

 

「おう。突然なんか当たり前みたいに番号で頼んでよ。すっげー慣れてる様子だったぜ?」

 

「うわぁ、まさか"あの"村崎君がそういう人だったなんてねー。人って見かけによらないもんだね、私ちょっと驚いちゃったよ。へー、まさかねー、村崎君がねー」

 

「そうそう。いやぁ煙草とか酒とか買うの見せつける奴って背伸びして大人気取ってる馬鹿ばっかだと思ってたけど、あそこまで自然と振る舞われるとなぁ、いろいろ考え直しちゃうよなぁ」

 

「お前ら、当の本人目の前にしてよくも好き勝手言えるもんだな‥‥」

 

 

 ひそひそと、かつしっかりと聞こえる声の大きさで、まるで井戸端会議をする小母様方のように横目でこっちを見ている。

 ていうかウザイ。めっちゃウザイ。やっぱりコイツら場をむやみやたらに盛り上げること、そして相手を挑発することに関しては天才的だな。

 

 

「大体コラ加藤、誤解を招くようなことを言うな。さっき既視感(デジャヴ)とかいろいろ話してたじゃないか」

 

「あぁそういえば」

 

「は? 既視感(デジャヴ)って何の話?」

 

「ふむ、実はコイツがさっき煙草買ってた時にさ、なんかそれが当たり前ーって無意識に思ってたらしいんだよ。これって既視感(デジャヴ)じゃね?」

 

「いやいや、それだけじゃ絶対に既視感(デジャヴ)とは言わないから。てか意味も分かんないし。どういうことなの?」

 

「だから別に、たいしたことじゃない。少なくとも逢坂に言うことじゃないし」

 

「はっ、酷い?! 酷いよ村崎君! クラスでも全然話したことなかったけど相変わらず薄情ね! 友達少ないついでに薄情だね!」

 

「君こそ酷い女だなぁ?! ていうか全然話したことないのにあんなにフレンドリィに話しかけてきたのか?!」

 

 

 バシバシと肩を叩く逢坂からサッと距離をとる。このトンデモないクラスメイトの近くにいると何をネタにからかわれるか分からない。

 そもそも加藤一人でもオレには手も足も出ないのに、逢坂まで加わったら相手しきれないのは明白だ。良いように弄ばれてしまうことだろう。

 

 

「もういいよ、逢坂は放っといてくれよ。オレの勘違いで、いいからさ」

 

「あら、つれないわね。私だってからかってばかりじゃないんだけどなー。クラスメイトが悩んでるっていうんなら、真面目に相談に乗るのもやぶさかじゃないよ?」

 

「‥‥いきなり態度変えないでくれよ、調子が狂う」

 

「勝手に狂われても困るんだけど。でも、些細な悩み事も話してくれないなんてね。私、村崎君にそんな風に思われてたの‥‥?」

 

「べ、別に嫌ってるわけじゃないけどさ」

 

「誰もそこまで言えとは」

 

 

 ぐい、と体をねじ曲げて無理矢理下からのぞき込んで来る逢坂に驚いて、さらに一歩後ずさる。

 こういう急な接近は慣れてる奴じゃなかったらお化けと同じくらい驚くものだ。コイツは、そういうのが分かってない。

 

 

「———あ、そういえば二人とも‥‥まぁ慎一郎は当然として、村崎君の方は例の話は聞いてる?」

 

「例の話?」

 

「春休みの旅行の話。クラスのみんなで、多分十人くらいかな? 短いけど旅行に行こうって話があるのよね。まぁお金もかかるし、簡単に決められることじゃないかもしれないけど‥‥」

 

 

 あぁ、その話は確かに加藤から聞いている。まだ一年生だから卒業旅行には遠いけど、やたらとノリやすいウチの連中のこと、発起人である逢坂と加藤の二人に触発され、予定が空いていて、金も余っている連中はこぞって名乗りを挙げたらしい。

 ちなみに旅費は当然、全て自費。というか非公認はおろか私的な旅行に学校から金が出ると思った奴は首を括った方が良い。これから何やらかすか分からないから。

 

 

「あぁ、それじゃあ村崎君はどうするの?」

 

「オレは既に参加決定済だよ。加藤の奴が先回りして母さんに了解とってやがった」

 

「そり貴様、いつもウダウダ理由つけて春休みは部屋に引きこもってるからだろ? 中学の時だって三年間、ずっとバイトか、部屋で陰気臭いクラシック聞きながら紅茶飲んで、なんかよくわかんない本読んでるだけだもんな」

 

「陰気くさくない。長い年月をかけて磨かれてきた文化の象徴だぞ、そんな言い方をするな。あと、よくわかんない本じゃない。純文学だよ、純文学」

 

「よくわかんねぇから、いっしょくたでいいじゃねぇか。ま、そういうわけだからコイツは強制参加だ。

 面子もこれで大体集まったんじゃないか? そろそろチケットもとらなきゃいけないし、ホテルの予約も必要だ。ここらで締め切ろうぜ、(みなと)

 

 

 クラスメイトの女子というのを差っ引いても、随分と馴れ馴れしい。

 それというのもこの二人、実は赤ん坊の頃から一緒の幼馴染み。それこそ親の代からの付き合いというわけで、とても仲が良い。二人で組んでクラスのムードメーカーをやっていて、しかも付き合っているわけではないということからお察し頂けるだろう。

 乃ち、倍メンドくさい。敵に回したくないけれど、味方にしても厄介。友達してるのは、すごく楽しいんだけどね。疲れることも、あるけど。

 

 

「‥‥って、そういえば二人とも」

 

「「何?」」

 

 

 完全に一致、と言いたげなタイミングで振り向いた二人に、肝心な質問が。

 予算は言われている。というか、加藤から母さんに話があって金が自然と用意されていた。ついでに何泊かも分かっている。母さんが準備をしてくれてるから。いつの間にか、オレの知らない内に。

 

 

「———結局、オレたちって何処に行くことになってるんだ?」

 

 

 そう、肝心要の一番大事な質問。

 何もかも、オレの知らないうちに決まっていた中で、誰もが一番知っていなくてはいけなくて、オレが全く知らなかったこと。

 いや、まぁ、母さんも知らなかったんだけど。(なのに何故しっかり用意したんだ?)

 

 

「「‥‥‥‥‥‥」」

 

 

 当然といえば全く当然なオレの質問に、二人は互いに顔を見合わせて暫しの間、沈黙する。

 ああ、きっとオレが行き先を知らないなんて間抜けな事態は考えもつかなかったんだろう。

 それを証拠に、一拍おいたら今度は息を合わせて大爆笑し始めやがった。

 サボリがバレて店長にでも叱られればいいんだ、バカヤロー共め。

 

 

「アッハッハッハッハ!! いや、悪い悪い、まさか行き先も知らないで旅行に行こうなんて酔狂な奴が居るとは思わなかったんでな」

 

「‥‥母さんも知らなかったんだぞ。オレだって今更、あんな強引に段取り整えられて聞く気になれるか。テストもあったっていうのに」

 

「だから悪かったって。まぁそう考えるとお人好しも立派な遺伝か。息子の旅行の行き先も聞かないなんて、お袋さんも大概いい神経してるなぁ」

 

 

 中学の頃から度々人の家に出入りしては菓子を貪ったりゲームで俺をめったんめったんに叩きのめしたりしていた加藤は、確かに母さんと仲がいい。

 この男、無駄に馴れ馴れしく賑やかで、ここぞという時にはそれこそ果てしなく無駄に———この場合は無駄じゃないけど———気が利くのだ。

 多分、年上に気に入られるタイプ。ここぞという時には物怖じしてしまうオレとは対極にあると言っても過言ではないないだろう。

 

 

「ふふふ、それでは聞いて驚け見て笑え!」

 

「今回の遠足の行き先はドーンと海外!」

 

「遠足?」

 

 

 無駄にオーバーアクションに、息のあった動作で繰り広げられる路地裏のパフォーマンス。

 もはやこの二人に突っ込みはいらないだろう。というか、疲れる。

 

 

「世界最大の博物館!」

 

「歴史のロマン! ミステリー! ファンタスティック!」

 

「風情ある古めかしいショッピングモール!」

 

「お姉さんコレもうちょっとまけてくれへん?!」

 

「其処は貴様も大好き魔術協会の本拠地!」

 

「UBW! UBW! UBW!」

 

「分かった、分かったから少し落ち着け、お前ら」

 

 

 というか逢坂お前、今は休憩時間じゃなかったのか? こんなに長い間サボッて、俺が店長だったらカミナリ落としているところだぞ。

 え? 休憩時間じゃなくて、これから仕事? 余計悪いってーの。

 

 

「よし、それじゃあ刮目して聞けよ村崎? 今回の学年末旅行の行き先は———」

 

 

 物体つけた加藤の仕草。もちろん、あそこまでヒントが多けりゃ馬鹿でも行き先は分かる。

 即ち世界でも随一の博物館。かの帝国が長い歴史の中で簒奪して来た戦利品を並べた歴史の宝庫。

 ガーデンと呼ばれる様々なショッピングモールは、それこそ帝国の時代から連綿と続き、風情ある建物の中に花が咲き乱れる良いものだ。

 地下鉄がくまなく走るのは東京の街を彷彿とさせるけど、一国の首都として申し分のない機能に加え、往年の街並みもしっかりと残すあたりは、堂々たる

風格を感じさせる。

 

 

「「大英帝国首都、霧の街、倫敦だ!!」」

 

 

 一介の高校生が年度の納めとして行く観光地としては、十分過ぎる程に十分な場所。

 様々な小説、漫画、映画の舞台となったその街は、霧に包まれているという。

 オレたち三人にとってみれば、最近ハマった”とある”ゲームにおいて重要な場所でもある。

 

 ‥‥本当なら神戸とかアッチの舞台も巡りたかったと無邪気にはしゃぐヲタク二人は、気づかなかっただろう。当然、オレも口に出しはしなかった。

 普通に考えれば、そんなに人付き合いが得意じゃないオレだって楽しみで仕方ない。確かに今この瞬間も、そう感じているはずなのだ。

 

 けれど何故だろう、その時のオレには不思議なことに、不安のような、恐怖のようなものが胸の内に去来していた。

 例えるならばホラー映画を見ている時のような。この先何が起こるかは具体的に分からないけれど、何かは間違いなく起こる。そんな確信めいた不安が。

 

 

「おぅ村崎、出発前にFateやり直しとけよ? 特に、凜ルート」

 

「果てしなく、どうでもいい‥‥」

 

 

 しかしそれは漠然とした不安に過ぎない。

 後になって考えてみれば確かにと思うことでも、その時は違和感や確信めいたことには全く気づけないものだ。

 勿論この時のオレも、それから、あのこと"が起こるまでの、オレも‥‥。

 

 

 

 84th act Fin.

 

 

 



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第八十四話 『黒い杯と宝石』

 

 

 

 side Rin Thosaka

 

 

 

 

「Es ist gros,《軽量》 Es ist klein《重圧》———ッ!」

 

 

 重力軽減の魔術をかけ、軽くなった体で大きく跳躍。

 同じく重力増幅の魔術を併用し、素早く着地。そのすぐ後に私が今さっきまで立っていた大地が削れる。

 

 

「Es flustert《声は祈りに》 Mein Nagel reist Hauser ab《私の指は大地を削る》———ッ!」

 

 

 ビルのように聳え立つ、黒い巨人。

 まるで厚みというものを感じさせない平べったい紙のような体に、ゆらゆらと垂れる長い腕。

 けれど、軽く見えるその腕の一降りは大地を砕き、吹き飛ばすだけの力を秘めている。

 振り子のように振られる黒い布に触れたならば、よくて吹き飛ばされるか、あまりの威力に吹き飛ぶか‥‥。

 

 

「くっ、サクラ‥‥ッ!」

 

「ほら、どうしたんですか姉さん? おかしいんだ、そんなに必死になってピョンピョン跳びはねて、まるで兎か蛙みたい。おかしい姉さん」

 

「冗談言ってくれるわよ、飛び跳ねなきゃ吹き飛んじゃうでしょうが!」

 

「あら、分かってるなら頑張って飛び跳ねて下さいね。せめて私を楽しませて下さい」

 

「ッこの性悪娘が! Fixierung《狙え》,EileSalve《一斉射撃》———ッ!」

 

 

 

 次の巨人が繰り出す追撃を回避するために横っ飛びになりながら、背後に向かってガンドを乱射。

 『人をゆび指すのは失礼』という慣習の元とも言われている、北欧の古い呪い。ただ、相手を指差して不幸を願うというだけの簡単な呪いは、込める魔力の量と質によっては”フィンの一撃”とまで謳われる物理衝撃を伴ったものになるのだ。

 もちろん遠坂の家に伝わる魔導書、魔術刻印に刻まれたソレは自惚れでなく正真正銘フィンの一撃に十分過ぎる程に匹敵する。

 六代を懸けて研鑽した魔弾は、秒間ニ発から三発の早撃ちで、桜が呼び出した影の巨人へと殺到した!

 

 

「‥‥無駄。無駄、無駄、無駄、無駄ですよ姉さん」

 

「ッ!」

 

「いくら姉さんのガンド撃ちでも、一発の魔弾に込められる魔力なんてたかが知れてるでしょう? この子達に込められた魔力を削ぎ取る威力は、ありませんよ」

 

「それはやってみなきゃ‥‥分かんないわよ! ———Anfang(セット)!」

 

「だから無駄だって言ってるじゃあないですか。馬鹿な人」

 

 

 遠くにいるサクラの声が、不思議と近くから聞こえる。

 とにかく先ずは距離を取ろうと、私は適当に背後に向かってガンドで弾幕を張りながらひたすらに走った。

 

 

「Sieben《七番》 Explosionsflamme《爆炎》———ッ!」

 

 

 聖杯戦争で使い切ってからコッチ、魔力を溜め続けていた宝石(きりふだ)の一つを投げつける。

 本来、魔術師は自分の魔術回路の出力を超える魔力を放出することは出来ない。つまり、魔術回路を使うならば、魔術師が使う魔術の最大威力は魔術回路に依存する。生まれ落ちた時から、決まっているということ。

 

 けれど、遠坂の家の魔術は『力の流動・転移』を得意とする。

 それは乃ち、自らの力の流れを操ること、そして魔力を別の物に転移、貯蓄することに長けているのだ。

 特に遠坂家は現存する魔法使い、第二法の使い手たるキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの家系として宝石の扱いに長けていた。つまり、宝石に魔力を貯め、外部魔術回路として扱うことが出来るというわけ。

 何年も魔力を貯め続けた宝石は基本的に魔弾として使ってしまえば、たったの一度で灰になってしまう。けれど、本来の自分の魔術回路以上の出力を

 出すことが出来るというのは、一般人が思う以上にメリットが大きい。

 

 

「燃えろォォォオオ!!!!」

 

 

 爆炎、轟音。

 大気そのものを焦がすかのような高温の焔は瞬間的に温度が上がるがために爆発すら生み、サクラが生み出した影の、泥の巨人を包み込む。

 ‥‥けれど、それも所詮は悪足掻き。

 

 

「だから、無駄ですってば姉さん。どれだけ姉さんが魔術でこの子達を壊しても、代わりはいくらでもいるんですよ?

 今の私が使える魔力は、姉さんのそれと段違い。こうやって顕現している一部の魔術を潰されても、すぐに新しいものを作ればいいだけの話ですから」

 

「‥‥ッ?!」

 

「ほら姉さん、お代わりですよ。いくら貧乏性な姉さんでもこの状況で宝石の出し惜しみはしないと思いますけど、それもいつまで保つか‥‥楽しみだなぁ」

 

「サクラァァァアア!!!」

 

 

 のっぺりとした上半身が爆炎で吹き飛んだ泥の巨人。しかし、それも桜からの、否、あの禍々しい泥の塔からの魔力供給によって直ぐに傷は塞がる。

 それだけじゃない。サクラの足下に広がる彼女の影から、あろうことか新たな巨人が姿を表したではないか!

 

 

「‥‥いいわよ、それならそれでやりようはあるんだから! Acht《八番》 Ein Flus, Ein Halt《冬の河》———ッ!!」

 

 

 迫る二体の巨人に、もはや一切の躊躇はしない。

 虎の子の宝石をもう一つ取り出すと、神秘を顕現させる詠唱と共に巨人の足下へと投げ付けた!

 

 

「これは‥‥ッ?!」

 

「吹っ飛ばしても再生するなら、今は足止めで我慢しておくわ! いくわよサクラ、覚悟しなさい!」

 

 

 瞬間、現れる氷の柱。

 本来ならば魔術師に顕れる属性は基本的に一つ。けれど、私の属性は五大元素(アベレージ・ワン)。いわば五つの属性を持っているようなものだ。

 ならば、そう、爆炎で吹き飛ばしても再生するのならば、敢えて吹き飛ばす必要はない。

 攻撃が効かないのならば、別のアプローチを考える。

 

 爆炎で吹き飛ばせない泥の巨人も、私に攻撃するためには動かなければならないのは道理。つまり、動けないようにすればいい話。

 足らしきものは見あたらないけど、根本を凍らせてしまえば動けないでしょ!

 

 

「Gewicht《重圧》, um zu《束縛》, Verdopp elung《両極硝》———ッ!!」

 

 

 宝石に込めた魔力を爆発させることによって生み出した強固な氷の柱を媒介に、さらに戒めの呪いをかける。

 こういうのは本来あんまり得意なわけじゃない。相手を縛るとか、防御するとかいうのはどちらかというと私やルヴィアよりは蒼崎君の領分だ。

 いつぞやの狂戦士との戦いで用いた戒めの術式、『獣縛の六枷(グレイプニル)』。他にも彼が得意とするルーン、『氷れる棘(スリサズ)』。単純に魔力や魔術回路の違いで威力に差こそあれ、蒼崎君の術式は私のソレより洗練されている。

 まぁ勿論その事実を認めはしても、私だって負けるつもりは全然ない。こうして二重にかけた戒めは、いくら膨大な魔力と禍々しい属性を持つ桜の泥人形でも、そうそう簡単に解れはしない。

 

 

「いくわよサクラ! nein《9番》———」

 

「———凜さん、危ないッ!!」

 

 

 必殺と心に決めた威力の攻撃を放つ瞬間、引き伸ばされる意識。

 極限までの集中力を、瞬きをする間の、さらにその間に圧縮して発揮するがための、精神が身体に及ぼす効果。

 常の状態ならば油断なく辺りに気を遣っているはずの意識が、その瞬間だけ、一瞬よりも更に短いその瞬間だけ、相手に、倒すべき敵に集中する。

 

 

「———ッ?!」

 

 

 その刹那にサクラがニヤリと嗤ったのを”見た”、次の刹那。

 私の身体は爆発的な速度を瞬間的に得て、何かに引っ張られる形ですぐ横へと投げ飛ばされた。

 

 

「シエル‥‥?!」

 

「まったく、突っ込み過ぎです遠坂さん。焦る気持ちは分かりますが、もう少し冷静に対処出来ないようでは、貴女の魔力も技術も十全に発揮出来ませんよ?」

 

「‥‥ごめんなさい、助かったわ」

 

「いえ、分かって頂ければ、もとい落ち着いて頂ければいいのです。アレは少々、個々人で対するには厄介な相手ですからね」

 

「まったくね。我が妹ながら、イイ性格してるわ、ホント」

 

 

 地面に投げ出された私を庇うように立つ、カソック姿の代行者。

 存在しない第八の秘跡を受けた異端審問官の頂点たる埋葬機関の第七位。『弓』の二つ名を持つ世界最強の一角。

 どうやら彼女が私の横っ腹にラリアットを”丁寧に”かましてくれたおかげで、危機を脱したらしい。

 力強く踏み込んだ私の靴跡があった場所に、串刺しにせんと黒い槍が幾本も地面から突き上がっていた。

 

 

「今まで真祖の姫(あーぱー)やら死徒二十七祖やら混血やらと戦ってきましたが、ここまで凶悪な魔力、禍々しい威圧感(プレッシャー)を放つ者は見たことがない。

 先ほど貴女の妹だとか仰っていましたが、いったい何者なのですか、彼女は?」

 

「それは私の方が聞きたいくらいよ。ていうか真祖の姫とも戦り合ったことがあるのね、貴女」

 

「あれは只の色ボケ吸血鬼です。まぁ、戦闘力だけは看板に恥じることのないものですが‥‥。本気のアレの放つ威圧感(プレッシャー)は圧倒的なものとはいえ、決して禍々しいわけではありませんから。流石は腐っても星の眷属というか‥‥。

 しかし彼女は違う。まるで憎悪や嫉妬、嫌悪や拒絶といった悪の感情の概念そのものだ。根本からして我々人間、正の概念に所属する生物に対する天敵といっても過言ではない」

 

 

 ニタニタと、しかし決して下品ではなく妖艶に嗤う妹の形をした、ナニカ。

 魔術師は存在しているだけで、同じ魔術師に分かる程度の魔力を撒き散らす。それぞれに固有振動数のような波長があり、同じ魔力の波長を持つ者は一人もいない。けど、その中でもサクラの放つ魔力の波長は、属性は、威圧感(プレッシャー)は、あまりにも禍々しい。

 シエルの言う通りだ。アレは人類に、正の概念を否定する悪の概念。その具現、象徴、顕現に他ならない。とても一人の人間が持って良い魔力じゃない。

 その量も、何より、その質も。

 

 

「あら、上手く避けましたね姉さん。といってもその調子じゃシエルさんにおんぶにだっこかな?」

 

「やかましい! 大体なによ、間桐の魔術の属性は水気(すいき)、特性は吸収。随分とけったいな魔術使うじゃないの!」

 

「ああ、まぁ、そうですね。確かに姉さんの言う通り、間桐の属性ではこんな術は繰れません。‥‥そう、間桐の属性ならば」

 

「ッ?!」

 

 

 ぞわぞわとサクラの足下から、黒いものが地面を這う。

 彼女の影が、禍々しい魔力を纏って魔術の触媒として広がっているのだ。影というよりは、闇。底知れない沼のようなそれは、触れるだけで深淵まで引きずり込まれてしまいそう。

 

 

「‥‥凜さん、あれは虚数です。架空元素の闇です」

 

「虚数?! ちょっとちょっと待ちなさいよシエル、虚数属性なんてソレだけで準封印指定———ッ!」

 

「お褒め頂き光栄です、シエルさん、姉さん。そうなんですよ、私って実は、虚数属性持ちだったらしいんです。フフ、フフフフ、すごいでしょ?」

 

 

 すごいでしょ? と朗らかに笑うサクラに、ゾクリと背筋に怖気が走った。

 間桐の魔術とは、全く違う属性。むしろ五大元素使いの私の方が近いくらいなのに、サクラは虚数属性使いだという。

 

 

「虚数の闇って、間桐の魔術とは相性が良くないって思い込んでたんですけど、意外にそんなこともないみたいなんですよね。これに囚われたが最後、精神がまともにいられることは期待しない方がいいですよ‥‥?」

 

「ッ散りますよ、凜さん!」

 

「了解!」

 

 

 沼のように広がった影から、槍のような職種が襲いかかる。

 影の巨人の攻撃も驚異だけど、大きさのせいでゆっくりな巨人の動きとは異なり、影の職種は弾丸のような速さで私たちを襲う。

 

 

「代行者を甘く見られては困ります! 手加減は無用のようですね、吹き飛ばしますッ!!」

 

 

 大きく体をひねったシエルが放つ、六条の銀閃が次々にサクラの触手の根本を抉り、消滅させていく。

 聖堂教会の代行者が扱う伝統的な武器である黒鍵よりも明らかに太く、重い触手も関係ない。まるで一メートルちょっとしかない黒鍵が鉄骨であるかのような威力と速度を持っている。

 おそらくアレは、代行者に伝わる秘密の投擲法、鉄甲作用。自重をそのまま乗せることが出来るというから、その威力も納得だ。

 

 

「貴女がコンラート・E・ヴィドヘルツルによって喚び出され、現象として確立していることはよく分かりました!」

 

 

 黒鍵の射程を遙かに割る至近距離から出現した触手を蹴り飛ばし、その反動で宙を反転。

 両手の黒鍵を長く伸びた爪のように使って襲い来る触手を当たるが幸い斬り裂いていく姿は、まるで戦女神。

 流石は世界最強の一角を担う存在だ。私たちとそう歳は変わらないだろうに、まるで強さの次元が違う。

 

 

「しかし解せませんね、サクラさん。だとしても今の貴女と、私たちの知る間桐さんと、とても結びつかない。彼女は確かに優秀な魔術師でしょうが、貴女のように禍々しい魔力を持ってはいない」

 

「‥‥そんなこと、気にしてたんですか? すごく、どうでもいい」

 

「貴女は、貴女の言葉が本当ならば、間桐桜の並行世界での存在」

 

「‥‥ですけど?」

 

「だとしたら、私の知る間桐桜さんにも貴女と共通する因子が存在しているはず。ですが、貴女のような禍々しい魔力の波長を真っ当な手段で得ることは不可能です。少なくとも、私の決して短くない経験と、決して浅くない‥‥忌まわしい知識の中には」

 

 

 砂でも吐き出しているかのように言い捨てたシエルの言葉は尤もな疑問であった。

 

 魔術師は必ず、同じ魔術師という生き物には分かってしまう痕跡を残す。もちろん痕跡を辿るなんて面倒をしなくても、対面すれば魔力の波長なんて一目瞭然だ。

 そして私が今まで桜と少なからぬ間だけ一緒にいて、こんな有様になる予兆なんてものは少しだって感じ取れなかった。

 こんな悪意の塊みたいな化け物になる可能性なんて、これっぽっちも考えつかなかった。

 

 

「‥‥私自身の、間桐桜という魔術師の魔力ならば、確かにそう思わなかったっていうのも仕方が無いことかもしれませんね。自慢じゃないですけど私の魔力は、魔術回路は、姉さんのそれに勝らずとも劣らないはず。けど、だからってこんなことになるなんて思いませんよね」

 

「‥‥‥‥」

 

「私が”遠坂桜”なら、真っ当な魔術師として育ったかもしれません。姉さんと同じように正道を歩む者として、一切の気負いなしに、真っ直ぐに‥‥。

 けど私は、ワタシは”マキリ=サクラ”だから。間桐の、マキリ=ゾォルケンの妄執で生まれた存在だから。こんな風になってしまった」

 

「マキリ=ゾォルケン? それって間桐臓硯の字名よね‥‥」

 

「そう、お爺様は既に二百の時を過ごすマキリの妖怪。いえ、マキリそのものと言っても過言ではありませんね。

 間桐の魔術師は、真っ当な魔術師として後世に研究の成果を、魔道を遺していくために生まれるのではありません。彼らは間桐臓硯の妄執、聖杯を得るという目的のためだけに存在している‥‥。

 気づきませんか? 間桐は元々マキリだって言いましたけど、それってマキリ=ゾォルケンの名前ですよね? 本来なら家名であるゾォルケンの方を読み変えて新たな家名にするべきなのに、間桐臓硯はマキリの名を、己の名を新たな家名とした。

 私達は四百年を超える、ゾォルケンの家の魔術を継承しているわけではないんです。私達はゾォルケンの魔術師ではなく、マキリの魔術師。間桐は初代の当主の目的を叶える手段になってしまった‥‥」

 

「ちょ、ちょっと待って! それじゃあ貴女が間桐の家で魔術師として過ごした時間は‥‥ッ?!」

 

「えぇ、お察しの通りです。間桐の人間に待っているのは誇りを持って魔道を歩む”魔術師に成る”修行ではなく、”マキリになる”修行で、”マキリの蟲になる”修行。

 お爺様は既に元の肉体は滅び、その本体を蟲を媒介として他者に寄生する霊的存在と化した吸血鬼。だから私達も真っ当な魔術を身につけるのではなく、身体を蟲に馴染ませ、蟲を体に馴染ませる必要がある‥‥。

 元々のゾォルケンの家の魔術っていうのは使い魔や他者の隷属、吸収という特性を持ったものだったらしいんですよね。けど、それも殆ど蟲という属性に埋め尽くされちゃいました。

 皮肉ですよね、魔術師なら誰しも自らの延命によって稼いだ時間で研究の成就を願うのに、お爺様は逆に家を衰退させてしまった。妖怪は一代限りの化け物ですから、当然といえば当然なんですけど」

 

 

 ぐらりと頭が傾ぐ思いがした。

 確かに間桐と遠坂は聖杯戦争始まりの御三家として盟約を交わした仲。だからこそ私も、大雑把に間桐の家がどんな魔術を使うかってことぐらいは知っている。

 使い魔の魔術について卓越していたからこそ、聖杯戦争の重要なファクターである令呪の仕組みについて担当していたことも、そこの初代当主である間桐臓硯が蟲使いの妖怪だってことも。

 

 蟲を使うということが、あの妖怪爺の下で魔術を修めるということが、何を意味しているのか漠然とでも察していなかったのかと問われれば首肯出来ない。

 私だって魔術師だから、魔術の修行が決して綺麗事だけではないことをよく知っている。私がお父様から愛情を以て教わったように、(サクラ)が魔術を習っているとも思えなかった。

 

 けれど、魔術師としての在り方だけは守られていると、そう信じていたのだ。

 どんなに苦しくてもつらくても、魔術師として生きているのだと。

 そうでなかったら、お父様はどうして桜を間桐の家に養子にやったというのか。

 

 姉として、妹が辛い目に遭うことを許容できるはずはない。

 けれど魔術師としての私は、そう思って(よし)としてはずだった。

 だった、はずなのに‥‥ッ!

 

 

「毎日毎日、蟲でいっぱいの蟲蔵に放り込まれて、散々汚されました。

 女として、これ以上ないぐらいの屈辱と恥辱、凌辱を味合わされて、ようやく間桐の魔術師はマキリの蟲になれるんです。今では目の色も髪の色も、それに少し経つと身体が疼いちゃうくらい、変えられてしまいました‥‥。

 ねぇ姉さん、想像出来ますか? そんなものは序の口だって思うくらい、酷い毎日だったんですよ? ねぇ姉さん、さっきはああ言ってくれましたけど、こんな私を汚い女だって思いますか‥‥?」

 

 

 話をしている最中も構わず襲って来ていた影の巨人達の攻撃が止み、サクラと私の間を遮るものは無くなる。

 今もシエルは残りの使い魔を相手に獅子奮迅の戦いぶりを見せているけど、そちらへの注意を逸らし、私は真っ直ぐに(サクラ)を見つめた。

 

 ‥‥身体に纏った、赤い線が走った黒い衣、

 それはぴったりとボディにフィットしているがためか妖艶な雰囲気を醸し出しているけれど、その魔力の波長は、生きとし生けるもの全てに根源的な恐怖を引き起こすものには違いない。

 真っ白く色が変わってしまった髪は決して老婆のそれに形容される色褪せたものじゃない。むしろ、極上の絹糸のようにさらさらと黒い魔力の風に揺れている。

 それが全て、まるで悪魔や悪神のような悍ましさを放っているというのに、それでも彼女は、私の妹は、美しかったのだ。

 

 

「‥‥ねぇサクラ」

 

「はい、姉さん」

 

 

 キッと視線を上げて、真っ赤に染まった妹の目を見る。

 それはとことんまで泣き腫らしたかのような、悲壮な色を湛えたもの。そして同時に普通では決してあり得ない色は、彼女が既に人ならざるモノであることを指す。

 

 

「甘ったれるな、バカ!」

 

「ッ?!」

 

「辛かったでしょう、嫌だったでしょう。けど、そんなの魔術師の世界じゃザラにあることよ。

 綺麗事だけじゃやっていけない世界なのは、貴女がが一番よく知っているはず。五体満足なだけ儲け物ってぐらい、酷い修練を課す家だってあるわ」

 

「‥‥‥‥ッ!!!」

 

「普通に魔術師やるのだって、魔術回路を起動するただそれだけだって、人間として不適格な行為。それを行使するのに、習得するのに、苦痛が伴わないわけないじゃない。

 それでも私達は魔術師やってんのよ! 辛くても苦しくても、私達は魔術師で在るって決めたんだから!」

 

 

 真っ直ぐに一歩踏み出すと、サクラは私の剣幕にびくりと怯えて同じだけ後ずさった。

 それが気に食わなかった。何に怯えてもいい、辛い、苦しいと弱音を吐いたっていい。本当はソレが嫌で嫌でたまらない、なんてことがあったっていい。

 けど、ここ一番の場面で自分を否定することだけは、私は許さない。

 

 

「でも私は、私は魔術師になりたかったわけじゃない! 普通の家でも、普通の人間でも、お父さんと丘朝と姉さんと‥‥家族四人で仲良く過ごせたら、それでよかったのに‥‥ッ!」

 

「じゃあ言いなさいよ! 叫びなさいよ! 助けてって、(わたし)にお願いしなさいよ!

 言葉を尽くしたって伝わらない思いばっかりなのに、どうして何も言わなくても分かってもらえるなんて思うわけ?!」

 

「言えるわけないじゃないですかっ! 遠坂と間桐の家には相互不可侵の約定があるし、それを違えたらおじいさまに何をされるか‥‥姉さんには分かるんですか?!」

 

「分かるわけないでしょ! 私が悪くないなんて言うわけじゃないけど、それでもサクラが動いてくれなきゃ分かるわけないじゃない!」

 

 

 互いに、叫ぶ。まるで子どものように。

 けど確実に心は通い合っていた。通じ合っていた。

 互いに、互いの考えていることが分かる。それこそが、言葉を交わす意味。

 

 

「私は、貴女が汚いなんて思わない。どんなに蟲に塗れても、身体を犯されても、地べたを這いずり回ったからって、それで貴女が汚れるわけじゃない!

 でもね、サクラ。もし貴女がそれを(よし)としないで泣きべそかいて蹲るっていうなら、話は別よ。

 辛い目に遭って、酷い目に遭って‥‥。本当ならそこで踏ん張って前に歩いて欲しいって思うけど、そこまでは要求出来ないわ。

 ‥‥助けてって、ただそれだけ言ってもらえばなんでもやった。弱音を吐いてくれれば力になった。恨んでくれても、憎んでくれても良かった。貴女のために出来ることなら、この身を賭けてもやり遂げる。

 けどね、”何もしようとしない人間”には何も言う資格はないのよ! 現在(いま)を変えようとしなかったくせに、汚れてるだのなんだの言うんじゃない!

 アンタがこれからやるのはね、先ずは前を向いて歩き始めることよ! それが私に恨みをぶつけることでも、憎んで殺そうとすることでも構わない。けど、こうやってウジウジ何かに振り回されながらやることじゃ、決して無いわ!!」

 

 

 もう一歩、それでもサクラと私の距離は小学校の徒競走より更に遠い。

 でも言葉を交わす距離だ。一方的に言われるんじゃなくて、お互いに言葉をぶつけ合う距離だ。

 ここからなら私の言葉はサクラに届く。私の思いが、サクラに届く。

 

 「今のアンタはね、その埒外の力に自惚れて、酔っ払ってるだけよ! 酔っ払ってる人間の言うことなんてね、全部話半分なんだから。

 先ずは姉として、先輩として、その酔っ払った頭を叩いて目を覚まさせてあげるわ!

 覚悟しなさい、もう容赦なんてしてあげないんだから。お金とか何とか、考えるのやめたわ。こうなったら後先考えない大盤振る舞いよ!!」

 

 

 ポケットからとっておきの宝石を何個も取り出し、覚悟を決める。

 今さっきまでは、後のことを考えて温存していた部分もあった。私の宝石には限りがあるし、何より懐に痛い。そう後先考えないでルヴィアみたいにばら撒くわけにはいかないのだ。

 

 けど、それも今この瞬間まで。

 酔っ払いの言葉だとはいえ、サクラは全身で私にぶつかって来ている。思いの丈を吐き出してくれている。

 何かに振り回されているんだろうことは間違いないけれど、それでも彼女はありったけをぶつけてくれているのだ。

 だとしたら、妹がこんなに真剣なのに、姉が全力を出さないのは許されないことだろう。

 一般論ではなく、何より私自身がそう思うのだ。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「ホラどうしたのよサクラ、さっきまでの威勢は? さっさとかかって来なさい、時間だって無限じゃないんだから」

 

 

 立ち尽くすサクラの周りの影は、同じように棒立ちになったまま動かない。

 何時の間にかシエルの相手をしていた巨人達も動きを止めていたらしい。油断なく、けれどゆったりとカソック姿の代行者は私の側に寄り添い、無言で黒鍵を構えた。

 

 

「‥‥こうしましょう」

 

「は?」

 

「私が勝ったら姉さん、私の影の中で私と同じ目に遭ってもらいます。蟲に犯されて、蟲に塗れて、身体の全部、心までぐっちゃぐっちゃにしてあげます。

 それで、私と同じ蟲になったら、ずっと私と一緒に居ましょう? 私の闇の中で、ずっと」

 

「ハッ、ちょっとそれはゾッとしないわね。適うものなら御免蒙りたいところだわ。私だって痛いのは嫌だし、辛いのは嫌いだもの」

 

「ですよね、誰だってそうですよね」

 

「そりゃそうよ。人間、基本的には誰だって同じようなものなんだもの。そこは英霊も聖人も変わらないわ」

 

「フフ、姉さんらしい。‥‥じゃあ姉さん、もし姉さんが勝ったら、私はどうなっちゃうんですか?」

 

 

 小首を傾げるサクラの顔は、感情を感じさせない全くの無表情。

 その顔は最初はあんなに嫌悪していたはずの、妹の紛い物。

 けれど不思議なことに、この瞬間、私は彼女を本当の(サクラ)自身だと感じて言葉を発していた。

 

 

「‥‥その時はね」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 手にした宝石が私の魔力の波長に応じて煌めく。

 動きを止めていた影の巨人達も、じりじりと間合いを詰めて来ていた。

 隣のシエルが、ちらりとこちらを見る。

 その視線には呆れた色と優しい色と、どこまでも前向きな清冽な光が宿っていた。

 

 

「引っ叩いて目を覚まさせて、それから抱きしめてあげるわよ。それからずっと一緒に居ましょう。だって、二人きりの姉妹なんだから」

 

「‥‥なんだ、勝っても負けても私の勝ちみたいなものじゃないですか」

 

「ふざけたこと言うんじゃないわよ。言っとくけど私は死んでも負けたくないんだからね。そのつもりで来ないと、承知しないわよ?」

 

「フフ、望むところです。まぁ、そもそも私は舞台の上で決められた台本に合わせて踊る役者。この戦いを拒絶することなんて、始めから許されてなかったんですけど———!!」

 

「———Anfang(セット)!」

 

「聖なるかな、我が代行は主の御心なり!」

 

 

 止まっていたかのようにゆっくりと流れていた時間が、急激に加速する。

 四方八方から襲いかかる影の巨人達の攻撃を躱し、私とシエルは互いに反対側へ飛び出した。

 

 

「Funf《五番》, Fang den Wind《風の牙》———ッ!」

 

 

 裂いても裂いても影の巨人は止まらない。

 サクラの言葉の通り、膨大な魔力で僅かな傷を修復して、何事もなかったかのように攻撃を再開する。

 いや、もしかしたら本当なら修復する必要すらないのかもしれない。きっと私に向かってこれ見よがしにわざわざ修復してみせるのは、あの娘の嫌らしいところなのだろう。

 けれど助かっているのは事実だ。修復するという一手間を要するが故に、その瞬間だけ影の巨人の動きは僅かに止まる。

 でなかったら圧倒的な物量に、私とシエルはたちまちの内に圧し潰されてしまうだろうから。

 

 

「万軍の神なる主よ、貴方の栄光をここに知らせめしたまえ———ッ!」

 

 

 鈍く鉛色の光を放つ黒鍵を投擲するシエル。

 あれは教会では禁忌とされる魔術の光。流石は聖堂教会の殺し屋たる埋葬機関。代行のためなら魔術だろうと銃器だろうとお構いなしって噂は本当らしいわね。

 

 

「‥‥これは、土葬式典? 紫遙さんの知識にあったヤツですね。残念ですけどシエルさん、その手の攻撃はこの子達に通用しませんよ?」

 

「いやいや、子どもの頃に刑事コロンボが好きだったせいですかね、何でも一通り試してみないと納得出来ない性格でしてっ!」

 

「それは難儀な」

 

「ここまで思う存分、容赦なしに殺し合える相手はそうそう居ませんから。凛さんではありませんが、全力で殺らせて頂きますよ、サクラさん!

 ———主よ、どうぞこの盃に注がれた葡萄酒を祝福し、貴方の血と成し給え!」

 

 

 ニヤリと笑ったシエルが懐から取り出した小瓶を前方の地面に叩きつけて割る。

 中に入っていた赤い液体は、おそらく彼女の言葉の通りに教会(カテキズム)で定められた聖別された葡萄酒。

 普通に教会で預かるミサのために聖別するのであれば単なる儀式に過ぎないけれど、魔術のために使うのならば、特別な意味をもった触媒となる!

 

 

「———血は糧、血は通貨、血は贖い、血は力! 主よ、この不浄を清めたまえッ!」

 

 

 葡萄酒、否、血だまりに投げつけた黒鍵から炎が疾り、劫火となって巨人を包んだ。

 もちろんそんなことだけで倒せるとは思っていないだろう。

 発動の感触だけで効果を判断したシエルは、さらに懐から分厚い聖書を取り出し、追撃をかける。

 

 

「おお主よ、貴方は神の子キリスト、永遠の命の糧。貴方を於いて誰の処へ行きましょう!」

 

 

 一人でにめくれる頁。そこから何百枚という聖書の頁が吹き飛び、焔が消え、寸分違わぬ万全の姿を現した巨人をまたしても包んで行く。

 

 

「これは‥‥ッ!」

 

「原理自体は黒鍵と変わりません。要は神の僕、神の子、神に従うものという概念で包み込んでやるわけです。噛み砕いて言えばお説教、お説法の強力版ですね。

 あの巨人は通常の手段では何の攻撃も受けつけないようですから、先ずは教会の意思に沿うものにしてやろうってことですよ」

 

「あれも概念武装ってこと?」

 

「魂の重み、という意味では殆ど効果はありませんが、一応昔ながらの製法で作り上げた正当な聖書です。

 どちらかというと魔術でありながら、教会の理屈で発動する法なのですが‥‥」

 

 

 言葉を途中で切り、様子見のように一本の黒鍵を投擲する。

 

 

「‥‥やはり、効きませんかッ!」

 

 

 過たず一直線に聖書の頁に覆われた影の巨人へと飛来した黒鍵は、その速度を一切落とさないまま、まるで開け放たれた扉をくぐり抜けるかのように巨人の中へと姿を消した。

 続けて真っ黒な水が染み込んでいくかのように聖書の頁も姿を消し、全く変わらない万全な姿の使い魔が姿を現す。

 驚愕の隙を突いて接近してきた巨人の一撃を大きく飛んで距離をとり、躱しながら、シエルは毒づいた。

 

 

「Fixierung《狙え》, EileSalve《一斉射撃》———ッ!」

 

 

 独楽のようにぐるりと長い両腕を振り回そうとする巨人に対して、敢えてこれ見よがしにサクラに向かってガンドを連射し、彼女を守らせている間にもう一度距離をとる。

 やっぱりここまで大きな相手だと、間合いも段違いだ。私が今まで戦った相手で一番大きかったのがバーサーカーで、それの軽く三倍はあるんだから。

 

 

「あらまぁ、随分と姑息な手を使ってくれますね、姉さん」

 

「やっかましい! こちとらまだ人間止めたわけじゃないのよ! 一体なんなのそのバカ魔力?! 一々付き合って真っ正面から殴り合ってられますかっての!」

 

「だってさっきは、付き合ってくれるって言ったじゃないですか」

 

「戦法ってもんがあるで———ぐぅッ?!」

 

 

 ミシ、と背中に衝撃が走る。

 振り返れば、そこにいるのはもう一体の影の巨人。そして振り切った腕と、私の周囲に散らばる岩の破片。

 ‥‥成る程、あの馬鹿でかい図体だとそういうことも出来るってわけね。遠距離攻撃が出来ないなんてのは、早とちりだったか!

 

 

「あれ、思ったより頑丈?」

 

「ハッ、こういうこと予想して仕込んできたのよ、遠坂流近接戦闘用魔術礼装よ。背中にサファイヤ三つ、腕にルビー二つ、その他諸々。今の私、高価い女よ?」

 

「うわぁ、その台詞ドン退きです姉さん。お茶の間に流すジョークだったら悪趣味ですよ?」

 

「悪趣味通り越した不気味な気配放ってる奴が言うこと?!」

 

 

 倫敦に来る前に書庫を漁っていたら発見した、遠坂家に伝わる近接戦闘用の魔術礼装。

 色んな宝石を服の下に仕込むだけっていう随分と簡単な作りだけれど、それでも威力は折り紙付き。

 ま、よくよく考えてみれば魔力による筋力の水増しとか防御壁とか、当然っていえば当然の備えなのよね。

 聖杯戦争中はパートナーであるサーヴァントに近接戦闘丸投げして援護に徹する気だったから使わなかったけど、こういう荒事ならうってつけよね!

 

 

「Sturm Und Wutend Wellen《疾風怒濤》———ッ!」

 

 

 足下で魔力を爆発、迫る影の巨人から逃れる。

 宝石を使った魔術が遠坂家のお家芸ではあるけれど、五大元素(アベレージ・ワン)を属性とする私は純粋に私自身の小源《オド》でも十分な魔術を行使出来るのだ。

 

 

「Spiegel und Wasser《鏡花水月》———ッ!!」

 

 

 大きく振りかぶった巨腕が虚しく空を切る。

 巨人が狙ったのは、私が撒き散らした氷の破片で生み出された幻像。

 幻を操る魔術は決して得意な方というわけじゃないけど、膨大な魔力を持っている桜とはいえ戦闘経験は私よりもさらに未熟。見破れる道理はない。

 

 

「幻像‥‥? 随分と小賢しい真似を。そういうことするなら、こっちにも考えがありますよ‥‥?」

 

「———ッ?!」

 

 

 ずるり、と桜の前に湧き上がる巨人。

 虚数の闇によって構成された純粋に真っ黒な姿ではなく、ありとあらゆる色を内包した混沌の黒。

 存在そのものから他者への、自己への、ひいては人類そのものへの悪意が滲み出す汚泥。ぶよぶよ、ぐちょぐちょ、ぬるぬると見るだけで嫌悪感を抱かせる。

 

 

「‥‥私の身体にはお爺さまの手によって、前回の第四次聖杯戦争で入手した聖杯の破片が埋め込まれています。私はそれを通じて大聖杯と同調し、こうやって魔力を運用することが出来るってわけです」

 

「聖杯の破片‥‥?! 大聖杯って、聖杯戦争を運営するための基盤そのものっていうこと? そんなものが蓄えた魔力は———」

 

「そう、大聖杯が冬木の龍脈から七十年弱を費やして掠め取った魔力は人が、いえ、生物が対抗出来るものではありません。姉さんがいくら宝石に溜めた魔力を使って魔術回路の出力を超えたとして、聖杯を通じて直に魔力を運営出来る私には適わないってことです」

 

「‥‥いったいどういうことよ、第五次聖杯戦争で小聖杯だったイリヤスフィールだって大聖杯が溜めた魔力を自在に使うなんて不可能だったのに」

 

「それが私と彼女の違いです。私はこの現象を制御しているわけではありません。自身の魔術回路を軌道するための燃料とするわけではなく、魔力の発動を誘導してあげるだけ。いわば道案内みたいなものですね。

 制御、ではなく誘導。波長が合う私という存在だからこそ、言うことを聞いてくれているんです。不安定に聞こえるかもしれませんけど‥‥」

 

「こんなに苦労してんだから、いまさら疑問なんて持ちますかっての!」

 

「ですよねー。それじゃあ張り切って避けて下さいね」

 

 

 私が住んでいる屋敷よりも大きくなった巨人が、ぐにゃりと歪み、崩壊するようにこちらへ倒れ込んできた。

 地面へと辿り着く前に輪郭は完全に崩れ、濁流と化す。粘性を持った汚泥の速度は決して速くないが、それでもこちらが必死で逃げようとするには十分に過ぎる。

 

 

「ッ避けなさいシエル! あれを人間が浴びてはいけない!」

 

「言われずとも分かりますよ凜さん!」

 

 

 一も二もなく、踵を返して疾走。

 桜の立っていた場所は一段か二段ぐらい高いところにあって、私たちの後ろまでずっと下り坂。後退が下策だと分かっていても、それ以外にとれる策がない。

 

 

「考えがあるって、大雑把すぎるわよッ!」

 

 

 魔力で脚力を強化しての全力全開。けど、それも焼け石に水。むしろ水に焼け石、と言った方が正しいだろうか。

 下り坂を上から迫ってくる汚泥は決して目に止まらない速さじゃないとはいえ、それは傍目に見た場合の話。

 実際に相対してみれば、人間の足の適う速さではない。

 

 

「———ッ?!」

 

 

 悪態をついた次の瞬間、全身に悪寒を感じて飛び退いた。

 殆ど身を投げるような勢いで飛んだ私のすぐ側を通って行く、汚泥。

 直視に耐えない、悍ましいそれが、私の二の腕を軽く、本当に軽く掠った。

 

 

「———あ、ああ、あああああああ?!!!!!」

 

 

 憎イ、

 妬マシイ、

 不快ダ、

 嫌イダ、

 汚ラワシイ、

 苦シイ、

 辛イ、

 惨メダ、

 怪シイ、

 気持チ悪イ、

 恐ロシイ、

 醜イ、

 腹立ダシイ、

 羨マシイ、

 苛々スル、

 怨メシイ、

 悔シイ、

 恥ズカシイ、

 逃ゲタイ、

 滑稽ダ、

 怖イ、

 悼マシイ、

 虚シイ、

 絶望シタ、

 欲シイ、

 モドカシイ、

 痛イ、

 忌マワシイ、

 犯シタイ、

 

 ———死ニタイ、死ニタイ、死ニタイ、死ニタイ、死ニタイ‥‥

 

 ———死ネ

 

 

「———ッ?!!!」

 

 

 死ネ、死ネ、死ネ、

 死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、死ネ、

 死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ね死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ—————

 

 

「———凜さん、しっかりしなさい!」

 

「‥‥シエル?」

 

 

 ふと気がついたら、シエルに抱えられて宙を舞っていた。ちょっと空恐ろしくなるくらいの高さにいる。

 多分、正気を失っていたのは一秒か二秒くらいの間だろう。まだ全身に震えが走り、寒気が止まらない。

 

 

「今のが、この世全ての悪(アンリ・マユ)‥‥ッ!」

 

「凜さんともあろうものが、掠っただけでその様ですか。一体どうしてそんなものがサクラさんに?」

 

「‥‥話は大体聞いてるわ。聖杯は、第三次聖杯戦争でアインツベルンが喚び出したルール違反の復讐者(アヴェンジャー)のサーヴァントで汚されている。元々無色の魔力だったのに、悪意の固まりとして定められた反英霊を取り込むことで、彼の色に染まってしまったってわけらしいわ」

 

「なるほど、何十年も経つ間に、さらに良い感じに醸されてしまった、と」

 

「サクラの魔力の波長もそれが原因でしょうね。間桐臓硯‥‥。よくも桜に、私の妹にそんなことをッ!」

 

「ふむ、ではちょっと本気を出させてもらいますか。凜さんはそこにいて下さい!」

 

 

 岩にもたれ掛かる様に私を下ろし、シエルが再び飛ぶ。

 泥は巨人の形をしていても、影のそれとは違って俊敏に動かすことが出来ないらしい。動かす端から崩壊していくようで、宙を舞ってさえいれば被弾は免れるようだ。

  

 

「はぁぁああああ!!!」

 

 

 開いた掌から迸る雷。

 強力なそれは広範囲に疾り、影を、そして地面を灼く。

 地面に疾った雷はその場で踊り、魔法陣を描いていった。純粋に五大元素を操る魔術から、さらに高度な魔術へとつなげる術式。時計塔クラスの魔術だ、まさか教会の人間かここまで一流の魔術を使えるなんて‥‥。

 

 

「雷刃よ、踊り狂え、力の限り!」

 

 

 地面に描かれた魔法陣から魔力が放射され、空中にも数個の魔法陣が描かれる。

 そしてそれらを結ぶように、光の柱かと見まごう雷光が迸った。

 

 

「‥‥ここまでやっても効果がないとはッ!」

 

「む、無駄よシエル、虚数の魔術は単体で別の魔力軸に属している‥‥。虚数の属性に他の魔術が触れても、虚数の軸に威力を全て吸収されてしまうわ」

 

「一応、その辺りも加味した上で術式は編んでいるんですがね」

 

「サクラの扱っている魔力が膨大すぎるわ。貴女の魔力も、とても教会の人間とは思えないぐらいにバカげてるけど‥‥それでもこの世全ての悪(アンリ・マユ)が、大聖杯が七十余年で土地の龍脈から蓄えた魔力は人間じゃ比較の対象にならない‥‥!」

 

 

 そう、結果は既に分かってしまっている。

 虚数とは第五架空元素。普通の元素を数学の世界における実数部だとするならば、虚数という属性は正しく数学の世界でのそれと同様に扱うものだ。

 あれと接触したら、正の魔術は虚数という属性に吸収されてしまう。虚数という係数を付けられ、飲み込まれてしまう。

 ましてや肉体的な接触なんてトンデモない。そんなことをしたら数秒も保たずこの世全ての悪(アンリ・マユ)に汚染される。

 どんな魔術だって同じ。あれに対抗するには同じ土俵、それだけで準封印指定と言われる虚数の魔術を用いるか、あるいは虚数の属性すら吹き飛ばす、サクラに匹敵するだけの魔力を運用するか‥‥。

 

 

「でも、そんな魔力どこから用意したら‥‥?」

 

 

 人間としては過分な魔術回路と魔力量を持っているのだろうシエルですら、これなのだ。

 もしシエルの扱っている魔力がサクラのそれを超えているのなら、虚数がどうとかいう理屈すら吹き飛ばして影の巨人も、泥の巨人も消し飛ばしているはず。

 

 そして生憎と私もシエルを超える、いや、シエルに匹敵する魔力を運用することだって出来ない。

 私が扱う宝石魔術は宝石を外部魔術回路とすることで本来なら不可能な出力を発揮出来るものだけれど、それだって限界というものがある。そもそも宝石に貯められる魔力だって制限があるのだ。

 身を過ぎた魔力を扱えば、それ相応の反動(ペナルティ)はある。その覚悟もある。けど、その魔力すら用意出来ないなんて‥‥!

 

 

「———諦めるんですか」

 

「‥‥え?」

 

「諦めてしまうんですか、姉さん」

 

 

 感情を含まない無機質な声に首を回せば、そこにいたのは能面のような表情をしたサクラ。

 つまらない、とか無様だ、とか。さっきまでの彼女なら浮かべているだろう感情の全てが抜けきっている。

 

 

「自分に出来ることがないからって、諦めてしまうんですか。私を、引っ叩いて正気に戻してくれるんじゃあなかったんですか。

 そんなの、姉さんじゃない。私が憧れた人は、もっっと輝いていた。どんな時でも優雅に鮮やかに、花や宝石のような光を放っていた。

 だから私はその光を妬んだし、憎んだのに。どうやって手を伸ばせばいいか分からない、そんなことで諦めてしまうんですか」

 

「———サクラ」

 

「さぁ姉さん、立ってください。諦めないで、私を打ち倒して下さい。そうでないとワタシは‥‥マキリの聖杯、間桐桜は惨め過ぎる」

 

 

 どうしてだろう、万の言葉よりも、桜の放つ一つの言葉の方が胸に響く。

 どうしてだろう、さっきまでごちゃごちゃ色々と考えていた頭が、スッと冴え渡った。

 ああ、そうだ、私はサクラを助けるんだ。駄々をこねるあの子を張っ倒してやらなきゃ、あの子は目が覚めないんだから。

 

 

「‥‥そう、それでこそ姉さんです」

 

 

 しっかりと前を向き、構える。

 例え手段が何もないのだとしても、戦うという意思だけは捨てない。

 もしそれを止めてしまったら、遠坂凛は間桐桜を諦めることになるのだから。

 目の前のこの子が本物の桜じゃないのだとしても、それは変わらないのだ。それが私の、遠坂凛の在り方なのだ。

 

 

「ねぇ、姉さんはもう分かっているでしょう? 私相手には力押しも、小細工も何もかも効かないってことを」

 

 

 サクラが嗤う。儚げに、今にも散ってしまいそうな表情で。

 ああ、確かにあの子の言うとおり。サクラの膨大な魔力を前に力でのゴリ押しは出来ない。それは、どんな魔術師にだって不可能。

 けれど同時に、あそこまで巨大な魔力と虚数という稀少な属性の前には、どんな策も小細工も圧し潰されてしまう。無意味なのだ。

 

 

「姉さんはね、難しく考え過ぎなんですよ。考え過ぎて、答えを見失ってる。野生の獣みたいな直感力が姉さんの持ち味なのに」

 

「やかましいっ!」

 

「ふふ、おかしな姉さん。‥‥じゃあ質問です。

 力押しと搦め手。今の私に効くとしたら、どちらの方が現実的ですか?」

 

 

 さっきまでの能面のような顔とはうって変わって、優しい光が目に宿っている。

 まるでどっちが年上か分からない(サクラ)に促され、私は口を開いた。

 

 

「‥‥力押し、ね」

 

「正解。さすがは姉さんです」

 

 

 そう、サクラの言う通り、難しいことさえ考えなければ答えはひどく簡単だ。

 単純に力で圧倒するのと、一々別の手を別の手をと無限の選択肢の中から最善のそれを探し出すのと、どちらの方が楽かと言われりゃ答えは決まっている。

 

 

「で、どうしろっていうのよ、このバカ魔力。さっき私にアンタが言ったじゃないの。私達の魔力じゃ、アンタの出力には勝てないって」

 

「私の出力ってわけじゃ、ないですよ? そもそも私の出力、魔術回路の性能自体は姉さんのそれと殆ど変わりませんし。

 だから大事なのは魔力の出力っていうよりは、姉さんの魔術回路を十全に発揮出来るだけの、そしてそれによって壊した私の使い魔たちが再生するだけの暇を与えず連続で攻撃出来るだけの無制限の魔力。そうでしょう?」

 

「そりゃ理屈の上ならそうかもしれないけど‥‥。それでも非現実的だわ! だってそれが出来ないからこそ、搦め手に頼らざるをえないんじゃない!」

 

「この場所では違うんですよ、姉さん。だってここは舞台だから、舞台に必要なものは全部最初から揃ってなければおかしいんです。

 役者も、大道具も、台本も、監督も、小道具も。ね、そしたら何が必要かは自ずと分かるはずでしょう?」

 

 

 その方が分かりやすくて楽だと言いはしたけれど、普通は一番楽な手段を用意出来ないがための搦め手だ。

 けれど、それがここには在るとサクラは言った。既に用意されている、と。

 

 

「この舞台には脚本があります。コンラート・E・ヴィドヘルツルに出来るのは、他人が書いた脚本を実際に劇にするところまで。そのあとのお芝居は、脚本通りに進むのが自然なんですよ。

 だから姉さん、考えてください。望んでください。今の姉さんに、この舞台の勇者(ヒロイン)として魔王(ワタシ)を倒す為に必要な手段を」

 

 

 既に用意されているもの。私がこれから使って、サクラを打倒出来るナニカ。

 それは幻想であって、妄想ではない。虚像であって、空想ではない。私が確実に手にすることが出来る、そんな未来が可能性として存在している手段。

 

 

「凛さん‥‥ッ!」

 

 

 考えろ、考えなさい遠坂凛。

 サクラの操る巨大な魔力に、無尽蔵の魔力に対抗出来る手段。私が操れる可能性を持った、そんなモノ。

 無尽蔵の魔力に対抗するのは、同じ無尽蔵の魔力。けど、無尽蔵の魔力を貯めておける宝石なんて寡聞にして私は知らなかった。

 目の前で哀しそうに嗤う(サクラ)は間桐臓硯によって埋め込まれた大聖杯の欠片によって、あの泥を、この世全ての悪(アンリ・マユ)を操っている。けど、当然ながら私に同じことは出来ない。

 己が振るえる業には限界がある。その境界を見誤ってはいけないのだ。

 私の扱える魔術は、五大元素を操る自然魔術。そして遠坂の家の、第二の魔法使いのお家芸である宝石魔術。

 一人の魔術師が扱える魔術師なんて、そう何種類もありはしない。私は私の使える手札から、将来引くだろう山札から正解を見つけなくてはならない。

 

 

「無尽蔵の魔力には———」

 

 

 そう、私では膨大な魔力を内包した存在を、いわゆる外部魔術回路のようなものを用意することは出来ない。

 おそらくサクラの言葉から伺うところによると、ゲスト出演らしいシエルもまた同じ。

 ならば、無尽蔵の魔力に対抗するには‥‥。

 

 

「無限の、無制限の魔力———ッ!」

 

 

 答えは、あった。

 果てが見えないが、確かに量れる”無尽蔵”という概念に対するならば、私が用意するべきは正真正銘の”無限”という概念。

 ならば”無限”は、何処から見つければいい? 火なら、水なら自然魔術で生み出せる。闇は流石に無理だけど、光なら水晶などを使えば、特性に見合った宝石を用意してやればいい。

 

 じゃあ無限も、要は簡単だ。

 私に”出来ること”という発想も、”答え”が見つかったのなら逆説が成り立つ。

 ”答え”を、私が”出来ること”で、”やってしまえばいい”。

 

 

「‥‥これしかない、とは思ったけど。実際に目にすると違うわね。本当に、喚び出せるとは思わなかったわ」

 

 

 私の知っている理屈で、”無限”を創り出す。”宝石”で、”無限”を創り出す。

 無限という概念は、実はそんなに多くない。遼か昔しには果てが無いと思われた海だって終わりはあるし、手の届かない天空だって境界はある。

 だから私の知っている、”可能性”で無限という概念を創造する。”未来”とは、”可能性”という概念が存在するが故に、”無限”。

 

 相応しいのは万華鏡の輝き。互いに煌き合い、照らし合い、光は大きな輝きへと変わっていく。

 ”それ”が”在る”ことは知っている。植物の、動物の中身がどうなっているのか微に入り細を穿ち調べなくても、絵や彫刻で形を現すことは出来る。

 

 ならば、目指せ、私の辿る道の終着点を。想像しろ、全てを焦がす虹の極光を。

 ただ求めればいい。全ては、既に此所に在るのだから———ッ!!

 

 

「さぁ、いくわよサクラ。このバカ娘、きっつく引っ叩いて目を覚まさせてあげるんだから、しっかり歯ァ食いしばりなさい!

 ———Paradigma Zylinder!」

 

 

 自然と口を衝いて出てくる詠唱を、衝動のままに迷いもなく発する。

 空を握りしめたはずの掌には、膨らみを帯びた硬い感触がした。

 

 

「 ———Ersts, Zweite!」

 

 

 振りかぶる腕には、軽い重み。

 接触している掌が熱い。懐炉か、あるいは焼け石でも持っているのかというぐらいに熱を帯びた左の掌から、魔術刻印を経由して、全身の魔術回路へと魔力が迸る。

 

 胸は高鳴り、全身が火照る。遠坂の家が六代を通じて追い求めた秘宝をこの手にする陶酔が、酩酊しているかのように脳を蕩けさせる気がした。

 けれど、不思議とその感触を覚えても、頭の芯はしっかりと静まり、瞳は耽溺に溺れず真っ直ぐに前を見る。

 

 全てはこのためにあるのだから。遠坂の悲願も、魔法も、根源も、今この瞬間には手段へと成り下がる。

 たとえ魔術使いと蔑まれようと構わない。私が今、欲するのは、(サクラ)に全力で(わたし)の思いを伝えてあげることだけ!

 

 

「RandVerschwinde———ッ!!」

 

 

 全力で振り抜いた宝石剣ゼルレッチが、しゃらりと鈴が鳴るような音を立てて光を発する。

 全てを飲み込む、七色の光。乃ち、虹の極光。

 乱雑な作りに見えながらも複雑に組み合わされた各種の宝石が共鳴し、増幅し、ありとあらゆる色の光を生み出すのだ。

 生み出された様々な光が再び混ざり合い、そして人はそこに虹を見るという。もちろん、宝石剣の存在は殆ど知られていないから、こんなもの私の感傷に過ぎないのだけれど。

 

 振り抜いた先にいたサクラも、私のすぐ隣に立っていたシエルも、そして影の巨人たちも、黒い聖杯も、全てを光に包まれる。

 私に扱える最大の出力を光として放ち続ける、最上級の魔術礼装。否、魔法礼装。

 無数の並行世界から集めた魔力は、数多の可能性を内包しているが故に、とても、とても綺麗に見えたのだった———

 

 

 

 

 85th act Fin.

 

 

 

 



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番外話 『魔導師と魔弾』

 

 

 

 

 

 side Nanoha Takamachi

 

 

 

「‥‥こちら時空管理局機動六課、スターズ分隊長、高町なのは一等空尉。ロングアーチ応答願います、ロングアーチ、応答願います。時空管理局機動六課スターズ分隊長、高町なのは一等空尉です。ロングアーチ、応答願います。 ‥‥やっぱり駄目か。まぁ、もう何回もやってるしね。レイジングハート、広域緊急通信は?」

 

『I have already sent. Master, This is a serious problem. The Emergency signal was sent many times. But there is no one answered』

 

「うん、そうだね。多分もう普通の方法じゃ誰も応答してくれないと思う」

 

  

 吹き付ける風が、やけに空虚な感触をバリアジャケット越しに、体の芯まで伝えていた。

 瞳に映る景色はモノクロ写真のように色褪せたものだった。もっともこれは実際に目の前にはセピア色の物体しか存在していないというのが理由かもしれない。

 大地は真っ黒、あるいは灰色の瓦礫で埋め立てられていて、そこに乱立するビルも当然ながら焦げ付いたコンクリートの色をしている。空は今まで見たこともない程に暗い曇天で、ひとりぼっちで立っている私を圧し潰そうとしているかと思うぐらいに重苦しかった。

 

 

 周りを見回しても、少なくともビルの残骸の隙間から僅かに見える地平線まで、全てが同じような景色の繰り返ししだ。さっきちょっと飛び上がって遠くまで見渡してみたけれど、私の視力の届く限りに及ぶ。

 

 

「‥‥参ったなぁ。シャマル先生なら広域走査で辺りを調べてくれるだろうけど、私はそんなこと出来ないし、はやてちゃんにも通信が繋がらない‥‥」

 

 

 少なくとも同じ次元世界なら、はやてちゃんなら何らかの手段を用意して私に通信を繋いでくれるはず。

 でもミッドチルダ郊外に突如として出現した謎の次元歪曲の調査に、スバル達の訓練も兼ねて出動した私が、その次元歪曲に巻き込まれてこの空間に来てからそれなりの時間が経つけど、一向に通信が繋がる様子はない。

 これだけの時間があって、私を見つけられてないってことは‥‥。

 

 

「この空間自体に通信を歪める効果があるか、それとも通信が繋がらないくらい遠くに強制転移させられたか‥‥」

 

 

 どちらもありえない話じゃない。

 こういう事故は決してよくあることじゃないけど、同じように前例がないわけでもなかったはず。 

 私がいた第九十七管理外世界。つまるところ地球に比べて、時空管理局の管理下‥‥っていうと語弊があるけれど、事件や事故を扱っている範囲は比べ物にならないくらいに広いのだ。

 

 例えばあの次元歪曲がロストロギアとかによって引き起こされた可能性が考えられる。

 あの場所には何も無かったはずだけれど、離れた空間に効果を及ぼすロストロギアなんて私が今まで見たことがあるものの中にも一つか二つはあった。次元世界全体ならば、もっといっぱいあるだろう。

 確か私達が存在している、次元世界とは別概念の三次元空間と異なる別次元の異空間を創造するロストロギアの話を聞いたことがある。クロノ君だったかな? 私にその話をしてくれたのは。

 そういう類のロストロギアが作り出した異空間の中に取り込まれちゃったのなら、通信が効かないのも理由が説明出来る。

 

 ただ、勿論ただの次元歪曲が原因っていうのも否定出来ない。そもそも次元世界同士の繋がりは、今でも完全に解明されたわけじゃない未知の部分が多いから。

 次元漂流者と呼ばれる、異なる次元から突発的な事故で流れ着いてしまった人達は今の私みたいに自然に出来てしまった次元の断層に巻き込まれて、その歪みが引き起こした跳躍が原因の場合もあるし。

 ‥‥もっとも、そういう事例はそもそも次元の断層が出来た原因が次元世界間の行き来によるものであることが大半で、その歪みが蓄積された結果としての次元歪曲らしい。なら今の私みたいに、明らかに管理外世界としか思えない場所に紛れ込むのは極めて稀有な事例じゃないのかな。

 人為的な、例えば未成熟な次元間通信や航次システムの実験の余波っていう話も聞いたことがある。そういう場合は管理外世界からの次元漂流も十分にあり得て、それを契機に新たな管理局と交流を持つことになった次元世界もあるんだとか。

 

 

「シャマル先生もそうだけど、フェイトちゃんもいてくれたらもっと色んなことが分かったのに。やっぱり通信が繋がらないのが、一番痛いかなぁ‥‥」

 

 

 管理局でも抜群の知識と経験を持つ職業である、現役の執務官のフェイトちゃんなら私よりもっともっと沢山のことを知っているだろう。もしかしたらこういう前例についての知識も持っているかもしれない。

 あるいは指揮官としての知識も持っている私の現在の上官、はやてちゃんも頼りになる。エース・オブ・エースだとか言われているけれど、やっぱり私はこういう時にあんまり役に立たない人間だ。

 ‥‥何よりも長い付き合いの、幼馴染と言っても良い二人がいれば精神的に安心する。そう考えたら、私は仕事上冷静であろうとしているくせに、それなりに不安なんだろうと何処か他人事みたいに思った。

 

 

「ともかく、このまま待機していてもしょうがないことは分かった、ね。次元跳躍をしちゃったのか異空間や結界の類に閉じ込められたのかは分からないけど、どっちにしても移動したら通信が繋がらなくなる、みたいなことはないだろうし。

 だとすると少し歩いてでもこの場所がどんなところか調べないと‥‥。どんな危険なものがあるかも分からないし、もしすぐに救助が来なくて餓死とか渇死とかは勘弁だもんね」

 

 

 辺りは一つの大きさが防波堤で見ることが出来るテトラポットよりも大きな瓦礫ばっかりで、とてもその上を歩くことは出来そうにない。

 けど元々この場所が賑やかなビル街だったなら、きっと大通りだったんだろうなという部分だけ何故か綺麗に瓦礫が退けられていて、その箇所なら普通に道路を歩くように進むことが出来そうだった。

 空戦適性を持っている空戦魔導士の私なら苦もなく空を飛んで辺りを探ることも出来るけど、それはまだやっちゃいけない。あまりにも安直に過ぎる。

 空戦って便利なようでいて結構脆い。普通なら足元には地面があるから自分の下を警戒する必要はないけれど、空戦をしていると陸戦なら気にしなくて良い自分の下方も警戒しなきゃいけないから、すごい負担になるし、隙も自然と大きくなるんだよね。

 それにもし不意打ちを貰ったり、何かの事故で飛べなくなったとき、安全に着地出来るか分からないって言えばどのくらい不安定なものなのか理解(わか)ってもらえるかな?

 付け加えて言うなら魔力も温存しておきたいし。ここは歩いて辺りを探索することにしよう。

 

 

「‥‥それにしても不気味なところ。人間どころか生き物がいる気配もないし、もしかして完全に文明が廃れてしまった管理外世界なのかな?

 いまのところ大気に有毒なものは含まれてる気配はないけど‥‥。もし異常があったら知らせてね、レイジングハート?」

 

『All right, my master』

 

「ご苦労様。いつもありがとうね」

 

『No thanks. It's my pleasure』

 

 

 チラチラと大通りから外れて瓦礫の少ない路地を見てみても、小さなコンクリートの破片と埃ばかりの無味乾燥な光景が広がっているばかり。もちろん人なんていないし、それどころかネズミとかの小動物はおろか昆虫の姿も見えなかった。

 ありとあらゆる、生き物の気配がない。そういえば呟いていて気づいたんだけど、雑草に至るまで一切の植物も見当たらないよね? こういう言い方はなんだけど、もしかしなくても何かの原因でこの次元世界の生物は絶滅してしまったんじゃないのかな。

 核戦争、生物兵器、次元技術実験の失敗、他にも色んな原因が考えられる。同じように滅んでしまった次元文明は管理局の歴史を紐解いてみても決して少なくない。

 時空管理局の存在意義は次元犯罪の防止や治安維持もそうだけど、どっちかっていうと未発達な次元技術を持つ世界の正常な発展の助けになることでもあるんだ。私は、砲撃魔法の一芸特化なんだけどね。

 いや、別に他のことだってちゃんと出来るよ?! って、何を必死になってるんだか私は‥‥。

 

 

『Master, There is reaction that is partern of living for my search』

 

「えっ? 本当なの、レイジングハート?」

 

『Of course sure. Do you suspect my search?』

 

「そ、そういうわけじゃないよッ! けど、さっきまで全然反応がなかったのに一体どうしたんだろう‥‥? どの辺りにいるの?」

 

『Behind of the billding. I think this partern is from human who has some magical elements』

 

「‥‥現地の魔法技術を習得した人か、あるいは私と同じ次元漂流者。コンタクトしておくに、越したことはないよね?」

 

『I agree with you』

 

 

 用心に、片手でしっかりと掴んでいた私の大事な相棒、レイジングハートから電子的な響きを含んだ声が聞こえた。

 もう聞こえ慣れた綺麗な女性の声。もしかしたらお父さんお母さんよりも一緒にいたかもしれないパートナー。どうやら私に代わって辺りを調べていてくれた結果が出たみたいだ。

 シャマル先生と違って私とレイジングハートだとごくごく狭い範囲しか調べられないけれど、それでも人の反応がするというのは、この膠着した状況を打開する契機かもしれない。

 

 

「どうしよう、出来れば刺激しないように穏やかに接触しないと‥‥」

 

『Is there any problem?』

 

「うん。もし現地の人だったら管理局の人間と会うのは初めてかもしれないでしょ? もし誤解されたりしたら、それだけで管理局に対して悪印象を抱いちゃうかもしれないし‥‥」

 

 

 管理外世界の人間との接触には、多分管理局の中で魔法技術の行使に次ぐ量の規則が定められている。

 時空管理局は本来なら、管理外世界には不用意に接触しない方針をとっているんだ。管理外世界の正常なな発展を阻害するのは、管理局の大原則(プライム・ダイレクティブ)に抵触するから。

 それでも不可抗力でどうしても接触しなければいけない場合、それこそ何十個もの基本規則を守った上で、さらに幾つかの手順を何通りにも場合分けした接触規則を守らなきゃいけない。

 けど、結局のところは臨機応変だ。その規則通りに現場で出来るかと言えば、そんなのはとてもじゃないけど出来やしない。だからこの大原則(プライム・ダイレクティブ)が何を示すかといえば、心得のようなものらしい。

 この大原則(プライム・ダイレクティブ)を頭に叩き込んでおけば、実際に臨機応変に対応しなければいけない状況に直面しても根っこの部分に不干渉の規則が染みついてるから、それに基づいた行動がとれる。

 私と同期の空士を育てた教官がそんなこと言ってたっけ。もっとも私は文明が進歩した管理外世界では殆ど活動しなかったから、今の今まで役に立たなかったんだけど。

 けど、今こうして役に立ってるなら教えてもらったことに意味はある。

 

 

「レイジングハート、シーリングモードで待機ね。敵意がないことを示して、接近するよ」

 

『I understand, my master』

 

 

 ビルの周りを軽くチェックして、瓦礫の少ない方から回り込んでいく。

 もしレイジングハートが反応を感知した相手が現地の次元世界の人だったら、見たこともない風体の侵入者に対して自分たちの世界を守ろうと過敏に反応するかもしれない。もし私と同じ次元漂流者だったら、未知の状況に精神を圧迫されて興奮状態にあるかもしれない。

 決して刺激しないように、敵意がないことをアピール。かつ言葉が通じない可能性も考慮して、マルチタスクで翻訳魔法の準備もしておく。

 ファーストコンタクトは慎重に。そう何度も言い聞かせながら最初に私たちが立っていた場所から見てビルを挟んだ反対側へ移動した時だった。

 

 

『———Master! Anknown patern has just disapeared!』

 

「反応が消えた? どういうこと?!」

 

『I think, he set in a magic that would hide his magical behavior———Escape! Master!!』

 

「———ッ?!」

 

 

 突如消えた魔力の反応。そして即座に背筋に疾る悪寒。

 レイジングハートの警告のままに、今までの管理局での勤務で身につけた本能と経験のままに身体を横ッ飛びに投げ出してみっともない回避をする。

 

 

「ナイフ‥‥いや違う、短刀ッ?!」

 

「ちぃッ!!」

 

 

 普通の人間だったなら無様に地面に転がるところを、瞬時に今まで控えていた飛行魔法を本能的に発動してある程度の間合いをとる。

 穏便なファーストコンタクトを完全にカッ飛ばして物騒な接触。横目でしっかりと相手を確認した。

 

 

「誰ッ?!」

 

『I don`t know』

 

 

 瓦礫の山の上から跳躍して、真上から私の首を躊躇せずに狙いに来たのは、私よりも若干年上に見える青年だった。

 くすんだ渋い色合いのミリタリージャケット。ダメージとかのお洒落な言葉とは無縁なくたびれた古くさいジーンズ。清潔というよりは新品、純白というよりは無地の白いシャツ。堅い感触のしそうな前髪だけ長い奇妙な髪型の額には色褪せた紫色のバンダナ。

 奇襲を逃がし、着地した彼の瞳には冷静かつ冷酷な殺意が宿っている。まるで機械のように淡々と、業務のように真剣に。私の命をそこら辺の雑草相手にするかのようにあっさり刈り取ろうと、狙っている。

 

 

Drehen(ムーヴ)———ッ!!」

 

 

 私の問いかけに、一言も返さない。ただ吹き矢を吹くような鋭い吐息で、英語じゃない、私には分からない国の言葉を呟くと、腰に提げた袋に手を伸ばす。

 多分、私に奇襲をかける瞬間には何かの魔法を使って隠していた気配が、解き放たれている。決して多いわけじゃないけど、どこか悪寒を感じる魔力の気配。

 私たちの使うミッドチルダ式の魔法とは全く技術体系の違う未知の技法で、彼の全身を魔力が駆けめぐった。

 

 

「Dem Himmel Fluch《天には呪いあれ》———ッ!」

 

『Terible emotion! That`s effect of curse!』

 

「呪いッ?! まさか、そんな前時代的な魔法技術が‥‥くぅッ!!」

 

 

 ぞくり、と背筋に奔るおぞましい悪寒がレイジングハートの言葉を肯定する。

 あれはそう、体系化された管理局のミッドチルダ式魔法には存在しない暗い側面を全開にした、旧時代の遺物。けれど、だからこそ見たことがなくて、恐ろしい。

 決して速くはない小石の投擲を、私は本能のままに全力で回避した。

 

 

「———逃がしはしない、ここで倒れてもらう! 氷れる棘よ(スリサズ)ッ!」

 

 

 けれど、その人間に可能なことの範疇を超えない投擲は、単なる布石に過ぎなかった。

 先の投擲より数段遅い、それこそバスケの試合で至近距離のチームメイトに軽くパスをするぐらいの速さで、私の回避した先の足下に放られていた数個の小石。

 欠片も魔力を感知できない、只の小石。それが、突如として魔力を爆発させる。

 

 

 軽い音と共に地面を叩いた小石から生み出される、氷の棘。ううん、それはもう槍とか杭とか呼んだ方がいいくらいに凶悪な代物だった。

 氷結の魔力変換。先天的な素養である魔力変換資質を持っているかどうかは分からないけれど、A〜Bランクの魔力行使としては発動が異常に早く、隠密性も高い。

 少なくともミッドチルダ式やベルカ式、もしくはそれに準じるどんな術式とも全く異なる魔法技術。おそらく、より先鋭的限定的に進化したもの。

 未発達と馬鹿に出来ない。私達があたりまえのように使っている魔力弾のような攻撃とは全く毛色が違うからだろうか、どんな攻撃が来るのか欠片も想像出来なかった。

 

 

水流よ(ラケズ)凍結せよ(イーサ)是乃ち吹雪也(ハガラズ)!!」

 

 

 氷の棘が私を貫こうとしていた瞬間、すでに振りまかれていたらしい幾つもの小石。地面に跳ね、飛び、物理的にありえない加速をして私を囲むように激しく旋回する。

 そして湧き上がる水、巻き上がる冷気、吹き上がる風。大きく杭のような棘を避けた私を囲むようにして猛吹雪が吹き荒れた。

 

 

「———守って! レイジングハート!!」

 

『Circle Protection』

 

 

 自分の全周を守るサークルプロテクションを発動、しっかりと魔法を防御する。

 確かに先鋭的な観点に着目した、原則そのものが異なる特殊な魔法技術だけれど、威力自体はAに届くか届かないかというもの。決して弱いわけでもないけど、強くもない。

 このぐらいだったら十分に防御出来る。

 だったら———

 

 

「先ずは制圧してから、交渉。いつも通りいくよ‥‥レイジングハート!」

 

『Accel Shooter』

 

 

 生成するのは四発の誘導弾。私の意志とレイジングハートの制御で自由自在に動いて敵を射つ射撃魔法。

 四発は私としてはそこまで多い方じゃない。でも、様子見としてはこれで十分。先ずはこれで様子を見る!

 

 

「シュート!!」

 

「‥‥ッ!」

 

 

 地上に立つ青年の様子を見ると、空戦適性はないんだろうか。空を飛んで追ってこないのを確認して大きく数メートルの高さへ飛び上がった私は、弧を描くようにして四発の誘導弾を発射する。

 弾速は普通だけれど、着弾範囲が広い。そしてバリアで一度に防げるものでもない。たかが射撃魔法といっても、そもそも防御力が低くなってしまいがちなバリア魔法で、そこまで容易に防がれる魔法じゃないはず‥‥。

 

 

「くっ、魔力弾か! イリヤスフィールや美遊嬢みたいな真似を‥‥ッ! Samiel(ザーミエル)

 Wo ihr des Knigs Schild gewahrt,《王の盾のある限り》 dort Recht durch Urteil nun erfahrt《正義の裁可は下される》———ッ!」

 

 

 あの小石が、アリアさんが使うカードみたいな魔法媒体になっているのだろうか。だとしたらあの小石を使って何かしらの魔法を発動するはず。

 そう思って未発達の独創的な魔法を解析するために注意していた私の予想は覆されることになる。

 いつの間にか、多分さっき私を奇襲するために地面に置いていたのだろう大きな円柱のようなバッグを手に持った彼が叫び、そして円柱から飛び出した七つの球体。

 金属のような、石のような光沢を持ったそれらには魔力の反応があった。そして、螺旋を描くようにくるくると彼の周りを旋回すると、加速を付けて私の放った魔力弾を打ち砕く。

 ロストロギア‥‥という程の物じゃない。けどヴィータちゃんのシュワルベフリーゲンみたいに魔法で生み出されたものでもないみたいだ。

 

 

「あれは‥‥ロストロギア、じゃない。デバイス?」

 

 

 あの小石と同じ魔法発動体にしては、利便性がない。けどこんな風にデバイス自体が誘導弾のように飛び回るっていうのも聞いたことがない。

 かなり乱暴な使い方をするアームドデバイスも、流石にここまでのものはないだろう。

 

 

「Nicht eh'r zur Scheide kehr' das Schwert《剣よ鞘へと戻ることなかれ》 bis ihm durch Urteil Recht gewhrt《王が正義の裁可を下すまで》——ッ!」

 

『Master!』

 

「ッ詠唱が早い?! レイジングハート、隙を見つけて距離を離すよ!」

 

 

 ミッドチルダ式、ベルカ式のどの魔法にもここまで詠唱が長いものはない。はやてちゃんやフェイトちゃんの高域破壊儀式魔法は流石にかなり詠唱が長いけど、常にこれだけの詠唱が必要なわけじゃないし。

 けど注目するべきは、詠唱の早さ。発音と息の使い方を工夫して、さらに何かの方法で詠唱を圧縮しているみたい。省略じゃなくて圧縮することで術の効果が落ちないようにしている。

 私の目から見てもかなり有効な運用手段だけど、そもそも詠唱が長すぎる。多分、運用そのものに対して洗練されていない。

 ‥‥もしかしてミッドチルダ式やベルカ式みたいに、戦闘行動に最適化されているわけじゃないのかな。 

 

 

「あれ、もしかして魔法の術式がプログラム化されてない?」

 

『It defies all logic. If he uses device like us, It has always programed some manual that is magical suport』

 

「ううん、多分あのデバイスを機動させることが魔法になっているからだと思う。私たちみたいに魔力弾や砲撃を扱ったりするのとは別のアプローチを魔力に対してしてるんだ」

 

『Do you think it is deferent magical tecnic?』

 

「魔法技術そのものに対する概念が、違うのかもッ!!」

 

 

 七つ全ての魔弾が私を狙って効率よく、間断なく飛来してくる。

 普通は誘導弾を人間が扱う場合、ある程度の数までしか効率的に運用出来ない。私も本当に効率よく誘導弾を制御しようと思えば、十個も無理だ。それに、そもそもそこまでやる必要がない。

 誘導弾自体はそれなりの威力を持っているけど、あまり多くの誘導弾が迫ってきているなら相手は全周囲を防御するタイプのバリア魔法を使って守られてしまう。

 まさかこの七つの魔弾全てを制御しているの? だとしたら、マルチタスクの応用技術も持っているかもしれない。

 

 

「‥‥けど、大丈夫。戦い慣れてるわけじゃないみたい。なら、私とレイジングハートならッ!」

 

『Accel Shooter』

 

「———ッ?!」

 

 

 生成、誘導弾七連。

 さっきは難しいし、あまりやらないとは言ったけど、私とレイジングハートなら十分に可能な多数の誘導弾の制御。

 彼が操っているこの魔弾、巧みに軌道を交差、隠蔽してるけど基本的に円か楕円の軌道しか描いていない。弾速はどんどん早くなって来てるけど、捉えられないわけじゃない!

 

 

「———今ッ!」

 

『Break out』

 

 

 真っ直ぐ飛んでくる弾丸を横から殴りつけて迎撃することは出来る。さっき彼がやったのと同じ要領だ。けど高速で好き勝手に動いているボーリングの玉ぐらいの物体の真芯に、七つもの誘導弾を直撃させるのはちょっと難しい。

 なら、当てて撃ち落とすんじゃなくて、誘導弾を炸裂させることで吹き飛ばしてしまえばいい。これなら、少しぐらい外れてしまっても十分に目的を達成出来る。

 

 

「レイジングハート!!」

 

『All right』

 

 

 全ての魔弾を迎撃、一瞬だけ彼が無防備になる。

 またさっきの小石を投げてくるかもしれない。他にも何か奥の手があるかもしれない。

 けれど、チャンスは今しかない。“おはなしを聞く”なら今しかない。

 レイジングハートに加速を頼んで、私は飛んだ。

 

 

「———ッ?!」

 

「‥‥‥‥ッ!」

 

『Mission complete』

 

 

 互いに突きつける杖と、刃。

 全力全速で間合いを詰めた私と、渾身の速さで一旦は腰に収めた短刀を抜き放った彼。

 私の杖は砲撃を放てば最も効果的に魔力ダメージを全身に浸透させることが出来る胴体に。彼の短刀は少しでも刀身をズラせば危険な血管を掻っ切ることが出来る喉に。

 彼には私が既に瞬きをするよりも早く砲撃を放てるように魔力を収束しているのがわかっていて、私には彼が既に喉を掻っ切る寸前だったのを、あと一寸のところで止めたのがわかっている。

 お互いに、これ以上先にも後にも動かない、動けない状況。

 だからこそ、“おはなし”が出来る。

 

 

「時空管理局古代遺物管理部機動六課所属、高町なのは一等空尉です。

 こちらにこれ以上の交戦の意思はありません。そちらは、どうですか?」

 

「‥‥互いに武器を突きつけた状態で、そんな言葉が信用出来るわけがないだろう」

 

「成る程、わかりました。では先ず、私が武器を捨てましょう。ごめんね、レイジングハート」

 

『Master?!』

 

 

 和平の使者は、槍を持たない。

 いつかヴィータちゃんに教えてもらった言葉のままに、私が先にレイジングハートを地面に置いた。

 パートナーであるレイジングハートには申し訳ないけど、こうでもしないと目の前の彼は私の言葉を聞いてくれそうになかったから。

 

 

「‥‥まさか、本当に捨てるとは。正気かい?」

 

「正気です。貴方は話が分かる人みたいだから、これ以上無益な争いはしたくありません。

 多分だけど、私と貴方の戦闘は偶然か勘違いが招いた事故。私は貴方とお話がしたいだけなんです。なんならこのままナイフを突きつけていてくれても構いません」

 

「‥‥なんとまぁ、剛毅なお嬢さんだ」

 

 

 しっかりと真っ直ぐに目を見て言い放った私に、茫然とした顔をする彼。

 抱き合えるぐらい近い距離を遮る短刀に込められた力が、少しだけ緩んだ。

 

 

「君なら空を飛べない俺の射程外から一方的に嬲れただろうに‥‥。

 近づいて来たのも、俺から話が聞きたかったからだって言うのかい? 最初に奇襲をかけたのは俺だけど、それでも俺がこのまま君を殺さないって信じるとでも?」

 

「目を見たら分かります。私、こう見えても色んな人と戦ってきましたから」

 

 

 フェイトちゃんに、シグナムさんやヴィータちゃん。それからゆりかごで戦ったヴィヴィオ‥‥。

 本当に相手を傷つけたいわけじゃない人は、お話が出来る人は、どんなに冷酷に見えても瞳の奥には優しい光がある。

 だったら、何か事情があってお話が出来ないなら。先ずは事情がどうでもよくなるくらい、どうしようもなくなるくらい全力でお互いの力を絞りあって、お話はそれから。

 そう言った私の顔をまじまじと見つめて、彼は堪えきれなくなったように大笑いを始めた。

 

 

「あっはっはっはっは! いやぁ今時そういう面白い考えの子が遠坂嬢達の他にもいるとはね!

 ‥‥君も奥の手をしっかり隠してるみたいだけど、こっちだって同じさ。真っ直ぐ目を見てくれるなら、どうとでも出来るわけだけど‥‥」

 

「え?」

 

「いや、なんでもない。こっちだって君がそういう気なら戦いを続けるつもりはないよ。

 というか、謝らなきゃいけないのかもしれないね。まさか単次元創世の実験で出来た空間に他の人間がいるとは思わなくて‥‥」

 

「単次元創世?」

 

「ま、友人の手伝いでね。どうやら君は俺たちの実験に巻き込まれてしまったらしい。それも含めて謝罪するよ」

 

 

 私の喉元に突きつけていた短刀を鞘へと収めたその人は、にっこりと笑った後にも決まりの悪そうな苦笑いを浮かべながら頭を下げた。

 さっきまでの、機械のような無機質な顔とは全然違う。人好きのする穏和な顔立ちをしている。多分、友人も多いのだろう。周りにたくさんの人が自然と集まる、そんな雰囲気が感じられる。

 

 

「何かこの空間についてご存知なんですか? 私は、ミッドチルダ郊外に発生した次元歪曲に巻き込まれたみたいなんですけど‥‥?」

 

「ミッドチルダ? ‥‥それが何処かは分からないけど、俺たちが実験をしていたのは倫敦だよ」

 

「ロンドン? それって、もしかして第九十七管理外世界‥‥地球の、イギリスの首都の?!」

 

「あぁ、第九十七管理外世界云々については知らないけどね。しかし妙だな、いくら次元論に干渉する実験だったとはいえ、あの実験規模でここまでの大惨事になるわけはないんだけど‥‥。

 っと、いけない。自己紹介が遅れてしまったね」

 

 

 地面に落としてしまったレイジングハートにごめんねと言って、拾い上げる。やっぱり相棒を、やさしくとはいえ放り投げるのは心が痛んだ。もちろん大丈夫とは言ってくれたけど。

 英語で流暢に喋るレイジングハートは随分と彼にとって珍しいものらしい。怪訝なものを見る目で観察していたけれど、とりあえずは据え置くことにしたのか、こちらに視線を戻して開いた右手を差し出してくれた。

 

 

「魔術協会所属の魔術師、蒼崎紫遙だ。時計塔でルーン学科の講師をしている。どのぐらいの付き合いになるかは分からないけど、よろしく頼むよ」

 

「あ、はい! 高町なのはです、どうぞよろしく!」

 

 

 しっかり握手し合った手はやっぱり男の人のもので、ゴツゴツしていて、硬くて、同時に温かくて繊細だった。

 もう暫く会ってないけれど、お父さんやお兄ちゃんと同じ優しい手。これがさっき、私に向かってあの悍ましい呪いを放ったとは思えないぐらいに。

 

 これが、私と彼のファースト・コンタクト。

 短い間だけど、とても忘れることなんて出来ない奇妙で貴重な体験の始まり。

 この後にお互いの事情を確認した私達は二人りそろって驚きのあまり目を白黒させ、またその後の大騒動、大事件でも共に手を組んで必死に戦い、また驚きのあまり叫び声を上げたりするんだけど———

 

 それはまた、次の機会に。

 またはやてちゃんやヴィータちゃん達にお話するときにでも、まとめてお願いします。

 

 UBW〜倫敦魔術綺譚2wei!

 リリカルマジカル? きっといつか始まります!!

 

 

 

 

 another act Fin.

 

 

 



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第八十五話 『獣の王と死神』

デスマーチ中につき全面的に執筆断絶中。
一応こまめに頑張っておりますので、番外編ですが、近々新しいお話をお届けできる予定です!


 

 

 

 

 side Luviagelitta

 

 

 

 

 全身に突き刺さる敵意の視線。単純(シンプル)かつ明瞭(クリア)な敵意が、百も二百も(ワタクシ)へと向けられている。

 普通の暮らしをしていた人間であるならば、一時に受ける敵意の数など精々が数十。だというのに、私は未だ嘗て経験したことがないような濃度の敵意を大量に受け、立っておりました。

 “お前を殺してやる”。あるいは“喰らってやる”などという野蛮な敵意は、おそらく原初の概念であるが故に現代人が放つそれとは比べ物にならないぐらい濃厚。あまりの暴力的な視線に足が竦みそうになります。

 

 

「けれど、竦んでいるわけにはまいりませんわよね!」

 

 

 ドレスの隙間から取り出した小粒のルビーを広い範囲にばら撒くようにして、投擲。

 込められた神秘が焔として顕現し、爆発する。我がエーデルフェルトの家が第二法の使い手から指南された技術体系。宝石魔術。

 あらかじめ魔力を込めておいた宝石を用いることで、外付けの魔術回路として扱うことが出来る、優れた技法ですわ。また、魔法の一つへの手がかりでもあります。

 

 

「‥‥ほう、やはりやり方を変えるおつもりですのね。まぁ、私としても群がるケダモノを相手にするよりは、エレガントだと思いますけれど」

 

 

 宝石をばら撒き、周囲の敵を一掃すると、そのさらに外周部から私達を取り囲んでいた獣達がズルリと泥へ戻って行くのが見えました。

 なるほど、これでは埒があかないと考えたようですわね。

 

 

「‥‥ルヴィア! “アレ”が来るぞッ!」

 

「存じ上げておりますわよシェロ! ミス・リョウギ! 伏せて下さいまし!」

 

 

 海と化した泥は集まり、群から個へと変化。大きな影を作り出します。

 横に広がる、屋根のような影は翼。地面に接する街路樹のような影は鉤爪のついた二本の足。私達の方を向いて唸り声をあげる凶悪な影は嘴。

 下手な一軒家よりも大きなそれは、紛れもない鳥の形をしていながら、大きさだけが異常。いえ、如何に猛禽類の姿とはいえ、ここまで凶悪なものとなると———

 

 

「まさか、ロック鳥‥‥ッ?!」

 

「ろ、ロック鳥?」

 

「ルフ鳥とも呼ばれる、インディアの方の伝承に登場する巨大な鳥ですわ! 伝承によれば象をも持ち去る程の大きさの魔獣だったそうですが‥‥!」

 

 

 彼のマルコ・ポーロの伝聞記やシンドバッドの冒険にも登場する、幻想種一歩手前の強力な魔獣。

 船をも沈没させんとする大岩を投擲するだけの力を持ち、なによりその巨大な体躯は空の王者と呼ぶに相応しいと伺っております。

 ‥‥勿論、そんな生き物は現代まで生き残っておりません。そもそも絶滅した云々などという話すら起こらない、御伽噺にも近い存在なのですわ。

 歴史上には、確かに存在していたと魔術の世界で語られる幻想種や魔獣、神族の他にも、根も葉もない妄想や勘違いだとされている化け物や伝承の類があります。ですから私も、物語の脚色のためのホラ話だと思っていたんですけれど‥‥。

 

 

「まさか実在していたとは‥‥!」

 

 

 羽ばたきの一つで暴風が生まれ、その叫び声は戦場に響き渡る角笛にも勝る。

 そしてその怪物の奥で堂々と立っているのは、黒い体に灰色の髪、深紅の瞳の吸血鬼。

 二十七人いるという吸血鬼の王の中の一人。死徒二十七祖第十位。“混沌”ネロ・カオス。六百六十六の獣の因子を宿し、その獣たちを混沌の中から僕として召喚して使役する強力な死徒。

 いえ、強力などという言葉では収まりきりませんわね。殺しても殺しても、その身の六百六十六の命全てを同事に殺しきらなければ、殺された身を混沌の沼の中へと戻し、再生させてしまうんですもの。

 まず間違いなく世界最強の一角。如何にエーデルフェルトの家名と技術、魔術が優れていても、格が違うと認めざるを得ない敵。本来ならば、抗しようとするのも間違いな程に。

 

 

「———何をそこまで驚く、魔術師よ。我が系統樹は、六百六十六の獣で構成されると言ったはずだ。

 これらはそのまま系統樹に保存されているわけではない。数多の獣の因子、魔獣、幻想種の因子が存在するからこそ、六百六十六を優に超える獣、魔獣、幻想種の顕現が可能になる。

 貴様ら矮小な人間という存在が想像する範囲を優に超え、我が系統樹は無限の存在を創り出すことが出来るのだ。如何に策を弄しようと、人間という種族の枠を超えることは、出来まい」

 

 

 ‥‥吸血鬼、ネロ・カオスの言葉を借りるならば、彼の体の中に眠っているのは六百六十六匹の獣そのものではなく、その因子。また命そのもの。故に彼が使い魔、否、彼を構成する群体の一部として顕現させることの出来る獣の種類は、六百六十六に限らない。

 またそれらの組み合わせによって生まれる幻想種、

魔獣、(あやかし)は私達が想像出来る範疇を優に超えるのだと。

 事実、ロック鳥などという怪獣一歩手前の魔獣など未だ嘗て目にしたことはなく、私は背筋に疾る戦慄を抑えきれませんでした。

 

 

「■ィ■ィ■ァ■■ァァ———ッ!!!」

 

「ッお二人とも下がって!! ———Zeichen(サイン)!!」

 

 

 巨体のままに、墜落するかのように私達を襲って来たロック鳥に対して、小粒のルビーを持っていたのとは逆の左手で用意していたサファイアを躊躇なく投擲。

 サファイアが貼るのは、風の結界。弾き返すのではなく、力の向きを逸すように、ロック鳥は後方へと交叉していきました。

 

 

「くそ、高いな。ナイフが届かない」

 

「どいてくれ式、ネロ・カオスの方を頼む! 俺は彼奴を‥‥撃ち落とす! ルヴィア、もう一度結界を!」

 

「了解ですわシェロ!」

 

 

 さらに追加のサファイアを取り出す。宝石には限りがありますが、この程度ならば問題はありません。

 隣で弓を投影し、構えるシェロが射撃に集中出来るよう、敵の攻撃を防ぎきらなくてはッ!

 

 

「———I am the born of my sword《我が骨子は捻れ狂う》」

 

 

 巨体で素早く旋回し、こちらに再び迫るロック鳥に向かって、シェロが捻れたドリルのような剣を弓に番えます。

 とても一人の魔術師が、人間が生み出すことの出来るとは思えない濃度の神秘が、捻じれ狂った矢のような形の剣から溢れ出しております。

 あれこそがシェロのみが持つ秘奥。投影魔術(グラデーション・エア)

 

 本来ならば穴の空いたバケツに魔力を注ぎこみ続けるかのように費やす労力が膨大で、しかも鏡のような水面よりも壊れやすいものしか創り出すことが出来ないはずの、投影魔術。

 だというのに、シェロのそれは常識を覆します。

 投影したものはいつまでも消え去ることなく現実に留まり続け、特に剣に属するものは、宝具であろうと、多少の劣化こそすれ投影を可能にするのですわ。

 それが、シェロに許された唯一の秘奥が齎す物こそが、あの貴い幻想(ノウブル・ファンタズム)

 

 

「———Wind der Gebote《戒めの疾風よ》! シェロ!」

 

「任せろッ!」

 

 

 結界にと用意しておいた風の障壁を、シェロの構える捻じれた剣を本能で一瞬だけ畏れたロック鳥へと伸び、戒めの鎖とする。

 あの巨体を、あの質量を長くは留めておけないでしょう。あの程度の魔術では物理法則を無視出来る程に強力な概要とはなり得ませんから。

 ですが、文字通り鷹の眼と英霊へと至る腕を持つシェロならば、その一瞬で十分。

 暴風のように荒れ狂っていた魔力が一気に収束。湖面のような静けさを一瞬だけ湛え、その神秘を解き放つ。

 

 

「———偽・螺旋剣(カラドボルグ)ッ!!」

 

 

 解き放たれる、神代の暴風。

 稲妻そのものと化した一筋の閃光が、暴風を引き連れて荒れ狂う。

 例えば現代の世界で抑止力として十分過ぎる効果を持つ原子力爆弾。誰もが見るだけで恐怖し、怖じ気づき、畏れを抱くでしょう。その畏れこそが、武器の威力そのものですわ。

 では、その爆弾が、恐怖が解放されたら?

 爆弾ならば、炸裂するのは中に込められた爆薬。しかし宝具の解放ならば、炸裂するのは何千年もの神秘と概念、そして畏れ。

 

 

「宝具の真名を解放する、投影魔術(グラデーション・エア)だと———ッ?!」

 

 

 宝具とは、決して凡百の概念ではない。世界に幾つあるかも知れない、国宝のようなもの。

 それも歴史上での話。現代における宝具とは、両手の指で数える程度のものをのぞき、すでに伝説と化してしまっております。人間の中でも選ばれた超越者たる魔術師でも、一生の内にお目にかかれる者は何人いるでしょう。

 吸血鬼であろうと目を奪われる、貴い幻想(ノウブル・ファンタズム)。その暴風を掠めて、今度は疾風が漆黒の闇へと迫ります。

 

 

「———余所見なんて随分と余裕だな、吸血鬼」

 

「ッぬぅ?!」

 

 

 まるで地面を這うようにして、しかしその“速さ”はシェロの放った硬き雷に勝るとも劣らず。

 蒼く光る瞳は死神のような輝きを宿し、湛えた微笑は酷薄で冷たく、同時に寒気が走る程に美しい。

 逆手に構えた小さなナイフが、命を刈り取る大鎌。そんな美しい死神が、世界最強の一角たる吸血鬼に迫る。

 

 

「させるか人間ッ! 我が内に秘めし幻想を思い知るがいいッ!!」

 

 

 喉元まで迫る刃を前に吠える吸血鬼。

 指を曲げる、ただその動き一つで影から涌き上がるのは、ミス・リョウギの体を串刺しにせんとする細く鋭い節足。蜘蛛か百足か、とにかくおぞましいナニカですわ。

 

 

「はぁぁあああ!!!」

 

 

 けれど、ミス・リョウギは突如足下から涌いて出てきたソレにも一切怯みはしませんでした。

 低い姿勢から大地を蹴って跳躍。

 最初の一本目の節足を交わすと地面に手をつき、大きく体を捻って右手のナイフを一閃。残りの全ての節足を斬り落とします。

 

 

「式ッ!」

 

「衛宮! もう一発アレを射て!」

 

「無茶言うな! 一応アレ必殺技みたいなもんなんだぞ! ポンポン気軽に何発も射てるわけないだろ?!」

 

「じゃあ何とかして道を開け! オレが踏み込む場所を作るんだ!」

 

「ッ分かった任せろ!」

 

 

 ミス・リョウギが節足に手間をとられている間に、ネロ・カオスは大きく後退。

 大きく翻ったコートの影から、再び大きな怪物が出現します。今度は見たこともない化け物ですわ。

 

 

「‥‥チッ、簡単に言ってくれるよ式も。まぁ、任せてくれるってんなら期待されてるってことかな。俺じゃあの吸血鬼を消し飛ばすのはちょっと無理だし‥‥よし、やるか!

 ———投影開始(トレース・オン)、憑依経験共感終了。

 ———工程完了(ロールアウト)全投影待機(バレットクリア)

 

 

 鶏の頭に、獅子の体。蛇の尻尾に竜の翼。

 伝承に聞くグリフォンやコカトリスにも似た異形。ですが、それらとは決定的に違う合成獣(キメラ)。ひたすらに獰猛でひたすらに醜悪なソレが、一直線に突っ込んで行くミス・リョウギへと迫ります。

 

 

「衛宮!」

 

「———停止解凍《フリーズアウト》! 全投影連続層写《ソードバレル・フルオープン》!!」

 

 

 シェロの周りに浮かび上がる、数多の剣。

 投影魔術によって生み出された剣の編隊が、ミス・リョウギを迎撃せんとする合成獣(キメラ)を次々に串刺しにしていきます。

 ‥‥いけない、私もぼんやりとしているわけには参りませんわね!

 

 

「砕‥‥けろぉぉぉおお!!!」

 

 

 シェロの怒声と共に爆発する、剣。

 剣の中に秘められた神秘と幻想が炸薬となって爆発し、合成獣(キメラ)の体が四散します。

 

 

「爆発に紛れて接近するつもりか、人間。下策だぞ」

 

「いいえ! そうはさせませんわよ、ネロ・カオス! ———Abblase《吹き飛ばせ》!」

 

 

 先ほど小物に投げたのとは別の、大粒のルビーを取り出して投擲。

 地面に叩きつけるような投擲が引き起こした内蔵魔力の解放が生み出すのは、粉塵巻き上げる土煙。

 今まさに鴉の弾丸をコートの中の闇から射出しようとしていたネロ・カオスの狙いをかき乱すのですわ。勿論その隙を、死神が見逃すはずはなく‥‥。

 

 

「———あぁ、そこか」

 

「おおおおおおぉぉぉぉッ?!!」

 

 

 閃光、一閃。

 横に横に、ネロ・カオスの存在しない死角へと周りこみ続けていたミス・リョウギが一歩踏み込みました。

 ただ、その一歩が、たった一歩がとてつもなく速いですわ。まるで空間が歪み、繋がったかのように。一歩で恐ろしく遠いはずの間合いを踏み越えます。

 

 

「人間‥‥貴様ァ‥‥ッ!」

 

 

 下から上へと疾った光が、ネロ・カオスを引き裂きます。なんとか仰け反って致命傷は躱した吸血鬼の左腕が、まるで出来の悪い喜劇のように宙を舞いました。

 勿論、シェロや私の攻撃を受けた時のように、再生などしない。ミス・リョウギの『直死の魔眼』は存在が内包している死の概念を断ち切るのですわ。

 本来ならばその身に潜める六百六十六の獣の因子を同時に滅ぼさなければならない強敵も、彼女の前には普通の人間も同じ。

 まるで何の抵抗もないかのように斬り込む刃。紙というよりは、空気を裂いているかのようです。

 

「‥‥駄目だな。さすがに人間じゃないから、このぐらいじゃ死なないか。やっぱり核みたいな場所を殺さないと」

 

「その場所、分かるのか式?」

 

「さぁな。集中して視てみれば分かると思うが‥‥。接近すれば何とかなるかもな」

 

「‥‥じゃあ、式が接近するだけの隙を作らないとなッ!!」

 

 

 ミス・リョウギに勝るとも劣らない爆発的な踏み込みで、シェロがミス・リョウギと入れ替わるようにネロ・カオスに迫ります。

 策も持たぬ愚かな特攻。六百六十六の軍勢を持つ吸血鬼に対して、あまりに無力。故にネロ・カオスは嗤い、そしてシェロもニヤリと笑った。

 

 

「———ッ?!」

 

 

 吸血鬼の魔手が届く寸前で、急制動。全開だった加速度をゼロ以下に。

 いつの間にか手に持っていた双剣、干将莫耶をバスケットボールの試合で味方にパスをするかのような気軽さで、ひょいと放り投げました。

 あまりにも場違いな、一投。それが巻き起こしたものは大きかったですわ。

 シェロがいとも簡単に投影しているから気が回らなくなりがちですが、あの干将莫耶も純然たる宝具。シェロの投影によってランクが下がっているとはいえ、その内に秘めた神秘の濃度は現代の魔術を以てしても抗し得ない程のもの。

 ならば先ほどの“硬き雷”と同じように、その神秘を爆発させれば如何でしょうか。

 

 何千年にも及ぶ神秘。

 本来ならば代え難いソレを爆発させれば、如何に世に名だたる宝剣や神槍には核が劣るとも、その威力は一人の人間が出せるものではなく。

 使い魔でシェロを迎撃しようとしていたネロ・カオスも爆発に巻き込まれ、一瞬シェロを見失います。

 

 

「おおおおおおお———ッ!!!!」

 

 

 再び、投影。両手に握る双剣の鈍い光が夜の闇に閃きます。

 大きく反復横跳びのように左右へ跳躍し、ネロ・カオスをかき乱すシェロ。その魔手が吸血鬼の身体能力に比する膂力と速度を持っていようとも、シェロの猛攻はその全てを凌ぎます。

 

 

「小癪な! 人間風情がッ!」

 

「その人間にここまで良いようにあしらわれて、悔しくないのかよ吸血鬼ッ!!」

 

 

 額から玉のような汗を流しながら、まるで水でも浴びているかのように飛沫を飛ばしながら、シェロが舞っております。

 ゴール間近の、体力を絞り尽くしたマラソン選手のよう。真剣で、懸命で、必死。決して美しくはありません。けれど、化け物に挑む人間の、英雄の在り方は只ひたすらに尊いもの。

 みっともなく、見苦しく、だからこそシェロは何とかネロ・カオスに食らいついております。

 ネロ・カオスの体から涌いて出てくる獣達も、触れるが幸い斬り飛ばすシェロ。すでにその両腕は限界寸前でしょうが、それでも彼は止まりません。

 

 

「お、おお、おおおお、おおおおお———ッ!!」

 

 

 咆哮、瞬間ネロ・カオスの体から溢れ出す闇。

 蛇のような、龍のような見たこともない生き物が津波のように溢れ出し、シェロを襲います。

 乃ち双つの剣では受けきれぬ猛烈な物量。その黒い津波を見た瞬間、明確に頭をよぎる確信。あのままではシェロが死ぬ。

 そう理解(わか)った瞬間、私は弾かれたように走り出しました。

 

 

「顔を庇いなさい、シェロ! Seichen(サイン)———ッ!」

 

「———ッ?!」

 

 

 宝石も魔法陣も必要ない。魔術回路から生み出される魔力ですら。

 必要なのはその名の通り、合図(サイン)。その

合図を出す相手は宝石。既に私によって魔力が込められていた宝石は、魔力の持ち主が合図をすれば忽ち定められた通りに魔力を解放、術式を起動します。

 

 シェロの羽織った真紅の外套。

 何処ぞからロード・エルメロイが入手して来た聖骸布を譲り受けたショウがミス・トオサカに売り渡し、それを私がエーデルフェルト家御用達の礼装職人に仕立てさせた一品。彼の言うところによると、名を赤原礼装と言うそうですわ。

 糸や飾り紐は言うに及ばず、縫製の仕方に至るまでが魔術の一環である現代最高級の礼装の一つ。こと護りという概念に於いてはこれに勝るものはないでしょう。

 その外套の袖口にある飾り石。磨き上げられた光沢のある石の中に隠されたサファイアが、魔力を爆発させます。

 吹き上がる烈風が指向性を持ってシェロの体を覆い、外側へとその猛威を叩きつけ、今まさにシェロを襲おうとしていた化け物達を吹き飛ばすだけでは飽き足らず、粉々に砕き、消しとばしました。

 

 

「———天の鎖(エルキドゥ)!!」

 

 

 決して少なくはない魔力を込められたサファイアは魔力を解放すれば砕け散ります。二度目はありません。

 しかしシェロと私にはそれで十分。

 今まで何度となく迫り、迫られ、消耗の先に待っている確実な敗北を知りながらの千日手を強制されていましたが、今ここが決めどころですわ。

 

 

「bertragung《伝達》, Decke《結界》, Verbindlich《束縛》, Verschlossen《封印》———ッ!」

 

 

 キン、キン、キンと澄んだ音を響かせて私の手から宝石が弾かれます。

 正体は不明ながらもシェロが投影した鎖で張ってくれた魔法陣。あれは大師父の系譜であるトオサカとエーデルフェルトに共通した、結界作成の基礎ですわ。

 ならば私がそれに合わせられないことはない。いえ、おそらくは互いに一瞬の内に示し合わせたからこその一瞬のチャンス。

 幾つも瞬間的に魔力を放出、あるいは維持していく宝石。星々の煌めきのように魔力を溢れさせていく様は実に優雅ですけれど、その威力は折り紙付きですわ。

 

 

「Passend《整合》———Bunte Gitter《彩の格子》!」

 

 

 夥しい数の宝石によって織り成されるのは、虹色の光を放つ格子模様。

 それぞれの格子(グリッド)が独立した式を持つ捕縛結界。いえ、この怪物相手では捕縛とまではいかないでしょう。

 本来ならば捕縛とは、相手を縛り、留めること。ですがそれに使う労力は多大ですわ。特に相手が強大であればあるほど。

 ならば、破られないようにするのではなく、破られ続け、修復し続ける結界を作ればいい。

 発想自体は単純。形に出来たのは、私の研究成果。

 

 

「これは、正方行列による並列術式‥‥変数と単次式に異なる値を代入されても、定義された状態へと収束する結界式かッ?!」

 

「完全数に対して1だけ足りない平衡関数ですわ。流石に私では完全数を実現するまで至りませんけれど、格子を一つ破っても周囲の格子によって同値の関数に戻されてしまっては、貴方ほどの怪物であろうと脱出は困難。

 さぁ絡めとりましたわよ、吸血鬼《ドラクル》!! ミス・リョウギ、準備はよろしくて?!」

 

 

 煌めく格子は色とりどりに、混沌が腕を伸ばして束縛から逃れようとした端から光り輝き、効果を発揮します。

 自らを捕らえる一つの格子を破り、次の格子を破ろうとしても、その時には周りの格子の効果によって最初の格子が復元され、次の格子を破ろうとしていた手が引き戻されるのですわ。

 これこそ、過去に“蛇”と呼ばれた死徒二十七祖番外位、ミハイル・ロア・バルダムヨォンが過去に残した文献から得た術式。

 彼は複数の術式を連立させ、一つを破壊しても他の式の働きによって完全数へと戻してしまう魔術を残しておりました。ですが、私では連立方程式による完全数の維持は出来ません。まだ力量が足らないのですわ。

 ならば別な手段で、完全数と似た平衡定数を用意してやればいいだけですわ。もちろん元の術式に比べれば不完全ですが、だからこその安定感もあります。

 如何にネロ・カオスがその身に混沌を宿すまでの魔術を身につけた吸血鬼であろうと、これを破ることは難しいはずですの。時間をかけて、順番に解いていくしかありませんわ。

 ならばこそ、一瞬で解かれないからこそ、この結界は強くなります。私とシェロの二人で張った結界は、もう一人の戦友が走り寄るだけの時間を、優に稼ぐ。

 

 

「———あぁ、十分に過ぎる。なるほど、じっくり見れば見え方も変わるな。そういう存在(モノ)だったのか、吸血鬼」

 

 

 ひたり、と忍び寄る足音。それは紛れもない、死神のそれでした。

 もどかしい思いを内に結界の解呪を進めるネロ・カオスの前にゆらりと歩み出たミス・リョウギは、まるで知人に挨拶するかのような気楽さで、混沌の具現たる吸血鬼に声をかけました。

 目の前の凶悪な化け物に比べて、ミス・リョウギの存在感は実に気迫です。雲のように、空気のように、霧のように。けれど、それが何よりも不気味。

 

 

「六百六十六個のお前がいるわけじゃないんだな。お前は全ての自分を倒せとか言ってたけど、多分お前の中の混沌を束ねて、繋ぎ止めてるのは魔術か何かなんだろ?

 随分と混ざり合ってるが、だったら話は簡単だ。六百六十六の因子を囲い込んでる、“ネロ・カオス”っていう世界の核を、繭を繋ぎ止めてる繋ぎ目を“殺して”やればいい」

 

 

 すらりと伸ばした腕の先に構えたナイフが妖しく光ります。

 狙う先はネロ・カオスの胸の中心。いえ、その更に奥でしょうか? 私にもシェロにも見えない、彼女にだけ見えている“死の点”が、おそらくはネロ・カオスそのものの核。

 ならばそこを突けばいい。そう答えたミス・リョウギの瞳には確信が宿っており、私達は、戦いの終わりを確信しました。

 

 

「———オ、オオ、オオオオオォォォッ!!!」

 

「吼えるなよ。怪物。もう終いだ。お前の世界、オレが摘ませてもらう」

 

 

 混沌が、膨れ上がる。

 その身の内に喰らい秘めた有象も無象も純粋な力に変えて、ネロ・カオスが膨れ上がる。

 どんな猛禽類よりも雄大に。どんな肉食獣よりも強靭に。どんな草食獣よりも俊敏に。どんな幻想種よりも凶悪に。

 ありのままに獣の因子を具現するのではなく、全ての因子を一つへと集約させる。まるでルール違反のいいとこ取りですが、だからこそ、この世の何よりも強大な力が混沌の集約点に生まれます。

 暴虐そのもの、と言ってもいいだけの力。しかし、それを見ても、不思議と結末への不安は覚えませんでした。

 だってそうでしょう? 一度死神がその大鎌を振りかざしたのなら、決して死の運命は覆らないのですから。

 

 

「じゃあな」

 

 

 力の暴風に耐えられず砕け散る、虹色の格子。

 そして振りかざされる、暴虐の腕と爪。けれど、それにどれくらいの意味があったことか。

 どんな大木だろうと容易く引き裂いてしまうだろう腕と爪の一撃が届く前に、ミス・リョウギがたったの十五センチも刺し込んだナイフが、ネロ・カオスの胸を抉りました。

 まるで絹で出来たドレスを引き裂くように、いえ、水面に棒を差し込むように。そこには一切の抵抗がなく、躊躇もないように見えましたわ。

 いえ、当然も当然なのでしょう。彼女にとっては、殺すならば殺すことが必然かつ道理。彼女の刃が死の点を容易く貫くだろうことも、また道理。

 ならばそこに躊躇は不要。ただ、必然を必然のままに実行するのみ。

 

 

「これ‥‥は‥‥!」

 

 

 砂のように、崩れていく表皮。

 ネロ・カオスを覆っていた獣の肉体が砂のように、そして霧の様に崩れて空へと消えていきます。

 彼の世界を繋ぎ止めていた核が殺されてしまったのです。ならば残された獣の因子は散り散りに消え去り、ネロ・カオスという吸血鬼は既に死に逝く運命(さだめ)

 

 

「そうか、成る程、そうだったのか」

 

「‥‥?」

 

 

 既にその隆々とした体躯の殆どは消え去り、塵となった吸血鬼。

 劣等種族、弱者と見下す人間に殺されるそのことがどれほどまでに無念なことか。ですが、不思議とネロ・カオスは穏やかな顔つきで下手人たるミス・リョウギを見下ろしておりました。

 魔力が、幻想が、神秘が弾ける微かな音以外は何も聞こえない静寂の中。着物にジャケットを羽織った死神と大柄な悪魔の姿には、絵画にも似た美しさがあります。

 あまりにも稀薄で、だからこそ死の気配がする死神。そして圧倒的な気配を今まさに霧散させようとしている吸血鬼。

 どちらも両極端だからこそ、絵になるのでしょうか。そう、どちらもとても儚い‥‥。

 

 

「お前だからこそ、お前達だからこそ見えたのか。群体の中に溶け込み、消え去りかけた私を、ネロ・カオスという吸血鬼の中の、フォアブロ・ロワインを‥‥」

 

 

 何処か満足そうな、その笑み。

 魔術師によって具現された飛沫のような存在であろうと、そこには確かに自我がある。

 だからこそでしょうか、彼は自身がそのような存在であることを知ってなお、笑みを浮かべたのでしょうか。

  

 

「そうだ、お前が、お前達が。

 お前達だからこそ見つけられた。お前達にしか見つけられなかった。

 嗚呼そうだ、だからこそお前達が、私の死、だった、のだ、な———」

 

 

 煙草の最後の煙が消え去るように、ネロ・カオスという吸血鬼はその存在を虚空へと溶かして逝きました。

 ただ受け入れ、ただ理解し、ただ消え去る。

 それはどれだけ潔いことでしょう。どれだけ難しいことでしょう。どれだけ残酷なことでしょう。どれだけ孤独なことでしょう。

 人間が覚える、それら全ての感情の先へと自ら歩んでいった人外、吸血鬼。ですが人外になろうとした彼が最後に感じたのは、その果てに消え去るだろう、いえ、今まさに消え去りつつあった自分自身。

 ‥‥おかしいですわね、先ほどまで殺すか喰われるかという戦いの最中にあったというのに。

 

 私たちは一人の、いえ、六百六十六の吸血鬼が消えた虚空を、この空間が壊れるまでいつまでも眺めていたのでしたわ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「おおおおお!! 見てみろよ村崎、みーんな外人ばっかだ! これこそ外国に来たって感じだよなァ?!」

 

「騒ぐな加藤、喧しい。ていうか恥ずかしい」

 

「そうよ慎一郎やめなさい。これから私がこのデジカメで360度パノラマショットにチャレンジするんだから。邪魔よ、どいて」

 

「君も大概恥ずかしいなぁ?! 頼むからカメラ構えて高速で回転するのやめてくれないか?!」

 

「あぁ嗣郎君もやりたかったの? でも待ってね、先ずは私がチャレンジするから。どれだけ綺麗なパノラマ写真が取れるか、勝負よ」

 

「‥‥なんかサラリと呼び名が苗字から名前になってるし。ていうか止める気ないのはいいけど、高速で回転する必要はないだろ?」

 

「高速で回転すれば軌道が安定しそうじゃない?」

 

「そりゃ、ちゃんと高速で回転出来ればの話だぞ(みなと)?」

 

「うっさい慎一郎! じゃあ私の次はアンタにやってもらうことにするわ。必ず綺麗なパノラマ写真撮りなさいよ!」

 

「おーおーいいだろう受けて立つぜ!」

 

「‥‥なんだこのカオスは」

 

 

 遼か遠く、日本から十時間以上も空の旅を耐え抜いた先。紫色の雲、青い空、橙色の夕焼けを超えた先。

 大英帝国とかつては呼ばれ、今では意味は同じながらもイギリスと呼ばれている世界の果ての島国。

 いや、この国の人達からしてみればオレ達の方が世界の果てからやって来た黄色い人間なのかもしれない。そんな国の一番大きなハブ空港に、オレ達は降り立っていた。

 

 周りを見れば隣で恥ずかしくも騒ぐ我が親友、加藤の言った通り。髪の毛の色、肌の色、瞳の色まで何もかもがまるで違った色とりどりの人々が忙しそうに歩いている。

 色だけじゃない。背丈も体型も全然違う。日本人の中でも最近は昔に比べて生活環境が多彩だから結構な違いがあるらしいけれど、やっぱり外国ともなると人種が入り混じってしまっているからか、その違いはもっと顕著だ。

 ‥‥まぁ正直に言うと、さして高くない大陸人種特有の胴長短足が強調されてしまって何とも言えない劣等感に苛まれているだけかもしれないけれど。

 

 

「なぁなぁ加藤、逢坂。これからどうするんだ? ホテルとかは決まってんのか?」

 

「うむ、先ずはこの大荷物を何とかしなければな。身を軽くしなければ、気を楽に観光を満喫することなど出来はせん」

 

 

 やけに明るい声と、渋く改まった口調の二つが聞こえてくる。

 ヒースロー空港の真ん中で手持ち無沙汰に、若干交通の迷惑になっている日本の高校生十名強。全員が全員オレと同じクラスで、男子は加藤に、女子は逢坂に誘われて集まった酔狂な連中だ。

 普通まだ高校の半ば、卒業旅行でもないうのにこうして海外旅行に来られるというのは、財力やら余暇やらが相当に潤沢な者だけだ。その点に於いてオレ達は、どうやらそれぞれ相当に恵まれていたらしい。

 加藤と逢坂の家はそもそも二人が幼馴染であるように両親も仲が良く、二人の旅行に合わせてダブルデートに行くんだとか。他の家にしてもやたらと子どもの見聞を広めることに理解があったり、高校ではっちゃけるつもりだったのか本人の蓄えが十分だったりする。

 オレの場合は加藤の調子の良さを鷹揚にも認めている奇特な母さんが悪ノリして送り出した、という説明が正しいんだろうか。オレも少しばかり出費が嵩むけれど、渡航費と宿泊費を出してくれたことは大きい

 若い内から外国に行くのは良い経験になるわよ、と母さんは言っていたけど、こういう友達ばかりの旅行ではどうなんだろう。あまり意味はないように思えるけど、もし何かしらを得られるんなら、悪くない。

 というか本当は何かを得なければいけないんだろう。せっかくそれを期待して、お金を出してくれたのだから。

 

 

「そうね、先ずはホテルまで行きましょうか。確か空港からバスが出てるはずだから、バス停まで行きましょう」

 

「おぉ送迎バスか。すごいな!」

 

「バカね海君、そんな立派なホテルに泊まったら幾らかかるか分かったものじゃないわよ? 古くも狭くもないけど新しくも広くもない、普通のホテルよ。普通の」

 

「‥‥つまり俺らは重い荷物抱えて路線バスに乗るのかよぉ。辛ェ‥‥」

 

「そゆこと。ま、すぐの辛抱よ。この時期のバスは混んでないって噂だし。最初にPasmoとかSuicaみたいなものがあるらしいから、それを買ってからシャトルバスに乗りましょ」

 

 

 どうやら逢坂の話によると、ヒースロー空港からロンドン市街まで、便利なシャトルバスが出ているらしい。

 ロンドンの街は東京にも負けず劣らず人が多い。特にビジネスマンもさることながら、街の中にだけでも四つもの世界遺産があり、また重要な有形文化財以外にも、形のないものだって観光しがいがある。東京よりは遥かに観光客が多いだろう。

 そのためだろうか、ロンドン市街の乗り物は東京などでも非常に利便性の高い電子通貨のようなものが流通していて、それで大体の交通の利便が確保できるらしい。

 日本のカードのようなそれと比べると、やっぱり色合いの違いだからだろうか、とてもスマートな印象を受ける。

 

 

「これ、チャージが足りなくなったら痛い思いするから最初は少し多めに入れといた方がいいよ? まぁそれは日本と同じだけどさ」

 

「‥‥そういや、この国ってユーロじゃねぇのか。ポンドって分かりづらいんだよなぁ、円とのレートが」

 

「別に他の国に続けて行ったりするわけじゃないのだから、構うまい。貴様はどうせドルと円のレートすらも記憶になかろうが」

 

「おぅおぅ言ってくれるじゃありませんか須藤サンよ。俺だってドルレートぐらい分かってるっつーの。確か‥‥120円ぐらいだったっけ?」

 

「‥‥加藤、それは数年間の話だ」

 

 

 重い荷物を引きずり、オレ達は続々とシャトルバスへ乗り込んだ。

 車内はそこまで広くはなく、そこまで長い滞在ではないにせよボチボチ多い荷物を持ったオレ達からしてみれば、それなり以上には手狭だった。

 まぁ、とはいえ日本に比べてヨーロッパの旅行シーズンとは若干外れているから、そこまで乗客の数は多くない。オレ達の他の乗客はサラリーマンが多めで、彼らは荷物がやけに少ない。

 

 

「ってかさ、意外と日本人も多かったよね? さっきの空港とかもさ」

 

「まぁ流石は倫敦って感じだよね。東京もなんだかんだで外人さん多いけど、こっちは流石に外国、全然違うなぁ」

 

 

 空港から長い長い退屈な時間が過ぎ、次第に近づいていく倫敦の街並み。

 それなりに狭い車内だ、とても騒ぐような雰囲気じゃあない。多くの人間が狭い飛行機での疲労を狭いバスの中で寝って癒すという矛盾した行為に没頭する中、オレはずっと窓の外を流れる景色を見つめていた。

 ヒースロー空港を出てすぐの、郊外そのものという光景ですら日本とは全く違う。そして次第に都心部に近づけば、また違う趣が広がっているのだ。

 見慣れていない、というただ一点のせいだろうか。いや、やっぱり何かが違うのだろう。それが空気なのか、あるいは住んでいる人たちが作り上げている生活の臭いなのかはまだ分からない。けれど、柄にもないドキドキとした胸の高鳴りをオレは確かに感じていた。

 

 

「‥‥ここが、倫敦」

 

 

 シャトルバスから降りて、大きく息を吸い込んだ。

 空気の味なんてものはオレには分からない。けれど、日本で吸う空気に比べれば確かにそこには差異がある。

 少し鼻につくような気がする。味は分からないけど臭いは別だ。やっぱり欧米人の日本人とは違う体臭や、食べているものの違い、他にも様々な生活臭が空気の中に染みこんでいるのだろう。

 自分の中が、異国の空気に犯される。それは胸の中に凝りのように存在していた不安を膨らませ、同じくこの身と心を弾ませていた期待感をも膨らませる。

 成る程、外国というのはこういうものなのか。

 新しいことを知ると、少し自分が周りの人間に比べて成長した気分になる。それが卑小で勝手な優越感だとしても、思わず溺れてしまう。

 それほどの興奮が、ただ外国にいるというだけでオレの中に生まれていた。

 

 

「なんだ、随分と楽しそうだな村崎よ」

 

「‥‥まぁ、興奮ぐらいするさ。オレだって外国に来るのは初めてなんだ」

 

「俺もさ。正直、興奮するのと同じくらい不安でもある。でもよ、だからこそ楽しみで仕方ねぇよな?」

 

「否定はしない。でも調子に乗って馬鹿騒ぎするのだけは勘弁してくれよ、加藤?」

 

「ハッハッハッハッハ! ‥‥保証は出来ん」

 

「おい?!」

 

 

 ガラガラと、スーツケースを引きずってホテルへと向かう。

 勿論シャトルバスはホテルが手配しているわけじゃないから、降りたすぐ目の前にホテルがあるわけじゃあない。ただ逢坂が手配した宿は安価な割りには随分と便の良いところにあるらしく、ここから十五分も歩けば着くらしい。

 

 

「なぁ加藤、この後のプランはどうなってるんだ? 二泊三日の短い旅だ、あまり余裕はないし回れるところも限られるよな?」

 

「焦るなよ五島、確かに倫敦は広いが俺たち全員が一度に動くには狭すぎる。先ずはホテルで何人かに別れて、それぞれ回るところを決めないとな。

 こっちじゃ携帯が使えないから合流する時は時間と場所をしっかり決めとかんといかんし、もしもの時の連絡方法も考えないといざって時に詰むぜ?」

 

「そうか、携帯が使えねぇのか‥‥。じゃあお前の言うとおり、緊急の連絡とかはどうしても出来ないのか?」

 

「悲観することもないわよ海君、もともとは携帯電話なんてなかったんだから昔ながらの方法を取れば良いだけ。

 これから行くホテルってご家族で経営してるらしくて、親身になってお世話してくれるらしいわ。何かあったら公衆電話ぐらいは使い方分かるでしょ? それでホテルに連絡して、事付けしておけばいいのよ。

 もっとも本当に緊急の時は別の班からホテルに自分達で連絡しなきゃ、その情報が分からないんだけど‥‥。

 それを防ぐためにも、やっぱり一日に何回か合流した方がいいかもね」

 

「修学旅行とかだと先生がホテルにいてくれるし、携帯も外国で使える奴が支給されるはずだから楽でいいよなぁ。個人で行く時は緊急の時には連絡もへったくれもないし、ちょっと今回は人数が多すぎたか」

 

「もっと多いなら、それこそみんなから少しずつお金貰ってケータイ調達してもよかったんだけどね」

 

 

 十数名の集団は、確かに観光客としてもかなり目立つ方だろう。

 中高生の修学旅行なんかだと、外国なら班ごとの移動よりもクラスでまとまっての見学やら何やらが多いだろうし、そもそも連絡用にケータイが必要になるぐらい広範囲の自由行動を許さない。

 一方で個人や家族の旅行だったらそもそも旅行に来たメンバーが分割されるという事態が起こらないから殆ど問題がないわけだ。オレ達は今回かなり微妙な人数で外国旅行なんて難易度の高い催しに挑戦してしまったのである。

 

 

「しかし何処に行こうかねぇ」

 

「うむ、この街には世界遺産だけでも四つはある。それらに加えて人気の観光地を巡ろうと思うたならば、一週間あっても足りぬ。見るべきところは絞らねばなるまい」

 

「となるとやっぱり二手ぐらいが丁度いいのかねぇ。なぁ湊、どう思う?」

 

「私はショッピングもいいけど、やっぱり折角だから建物とか見て回りたいわね。大英博物館は外せないわ、なにせ“時計塔”だものね!」

 

「そうだな、“時計塔”だからなッ!」

 

「‥‥お前達少しは落ち着けよ」

 

 

 前を歩く加藤と逢坂が二人とオレにしか分からない会話を弾ませ、あろうことか興奮してキャリーバックを左右に激しく揺り動かす。

 とりあえず周りの人通りは少ないから迷惑ではないけれど、オレが迷惑だ。

 

 

「そもそも時計塔って言ったって、確か凛ルートの最後の方ちょこっとだけだろう? そこまで興奮することもないだろうに‥‥なんだよ、その驚いた様子は」

 

 

 呆れて溜息を零しながら意見を口にすると、暴れながらも順調に歩き続けていた二人が目を丸くしてオレの方を見つめた。

 ぽかーんと呆気に取られたように口まで半開きにしている。馬鹿にされているようで、あまり愉快じゃあない。

 

 

「‥‥いや、貴様から呼吸するようにエロゲーの話が出て来るのに違和感があってな。いやぁ人間変われば変わるもんだ、あの根暗な堅物が立派なヲタクになってしまうとは」

 

「無理やり勧めたのは、誰だと思ってるんだ‥‥ッ?!」

 

「そりゃ俺だけどよぉ、実際面白いもんだろ。お前っつったらさ、ええかっこしいのクラシックとかっつー印象があるからよ」

 

「ええかっこしい言うな。お前には分からないかもしれないけど、アレはアレで数百年も大衆に認められ続けた芸術なんだからな」

 

 

 相も変わらずオレの昔からの趣味に理解を示してくれない加藤に再び溜息が漏れる。

 そりゃオレみたいな若造がクラシックなんて古典を聞いていれば、気取ってるとか思われても仕方ないのかもしれない。けどオレはオレで理由があってクラシックが好きで、でもそれを上手く口に出して説明出来ないのがもどかしかった。

 

 

「大体それを言うなら加藤、お前だってオレに負けず劣らず違和感あるぞ。スポーツマンがヲタクって‥‥ステレオタイプのヲタクしか知らない奴からしてみれば仰天だろ?」

 

「そんなことはねぇさ、今じゃサブカルチャー‥‥ジャパニメーションはグローバルに広がってる。世界に受け入れられてるんだから、日本の中で広まらないわけはねぇよ」

 

「ま、慎一郎は元々アニメとか特撮とか大好きだったもんね。柔道の方が後なんだからスポーツマンやってる方がよっぽど違和感あるってば」

 

「違ぇねぇな」

 

 

 ワハハハハと大きな声で笑う加藤はやけに目立っていた。

 けれど周りの人から向けられる視線が日本での『迷惑な奴だなぁ』というそれではなく、純粋に驚いたもの、あるいは微笑ましいものなのが異国を感じさせる。

 積極的に日本に比べて温かいわけではないんだろう。たぶん全てを比べれば日本だって暖かいし、おおらかで優しい。

 

 

「いいか村崎、大事なのは舞台を見て写真を撮って満足することじゃあないんだ。そんなぐらいだったら行かない方がマシだ」

 

「本当なら行く必要はないのかもしれないけど、私達は行った先で舞台を、登場人物を、空気を想像するのよ。

 あぁここでああいう物語(ストーリー)があったんだなぁ、って感想じゃ不十分なの。そこに自分の空想を挿入しないと作品への思いを語れない」

 

「普通に作品を楽しむだけなら原作を何回でもやり直すだけで十分なのさ。でも俺たちはそれじゃあ足りねぇんだ」

 

「物語を見て楽しむだけじゃない。舞台を見て、知って、感じて、その材料を使って自分の中に登場人物達を、物語を“生き続けさせる”の。

 物語を受け取るだけじゃなくて、自分達の中で生かすのが一流のファンよ」

 

「だから同人とかが存在してて、聖地巡礼ってのもあるわけだ。わかったかな、村崎君?」

 

 

 熱っぽく語る二人には、情熱が溢れていた。多分、こういうのは俗にいう一般人達には理解出来ないことなんだろう。実際にオレも、少し引いている。

 ‥‥けれど、まぁ、理解出来ないことはない。その情熱が、間違っているなんて思えない。

 実際に同じ物語に触れ、楽しみ、心動かされ、オレもここにいる。ならば、この思いの延長線上に二人がいるならば、オレも同じ道の上だ。

 

 

「なぁ想像してみろよ村崎、俺達は既に終わってしまった物語の舞台を見に行くんじゃあない」

 

「今、私達と一緒に生き続けてる、呼吸をしている物語の舞台に、物語そのものに行くのよ。

 私達が憧れた、感動した、あの登場人物達と一緒に倫敦の街を歩くの。それってすごく素敵じゃない?」

 

 

 興奮して迫ってくる二人に対して言葉もない。

 もちろん完全には納得できないよ。なんだかんだでオレは二人に比べたら十分に一般人寄りの感性を持ち合わせているのだから。

 けれど折角こうして二人に誘われてこの異国の地までやって来たのだ。ならば、最初に二人に誘われたのだから、最後まで付き合うのもまた一興。

 ‥‥多分、正確には他の連中と一緒に何処かへ行くことはないということを確信していたからだろう。オレは正直、あまり人付き合いが得意な方じゃなかったから。

 

 

 ———この時、何気なく口にした“最後まで”という言葉。

 ———これが本当にその言葉の通り、最後の最後まで一緒にいるはめになるとは。

 ———その時のオレも、今のオレも、そして俺も、全くもって気づいていなかったのだった。

 

 

 

 86th act Fin.

 

 

 



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番外話 『倫敦/Next』 - 前篇

日頃より拙作をご愛顧くださりありがとうございます、冬霞です。
今回、なんと先日完結されました【Fate/Next】の作者であります真澄十氏からお許しを頂き、【UBW~倫敦魔術綺譚】とのクロスオーバーを書かせて頂きました!
【Fate/Next】は第六次聖杯戦争を扱った作品で、幾多のオリキャラ達が描く熱く美しく哀しい物語です。
もし未読の方は是非とも読みに行かれてはと切に願います。
改めまして、この企画をお許し頂きました真澄の兄者、ありがとうございました!


2014.01.11 後篇投稿に伴いage. 内容に変更はありません。あしからず。


 

 side Miyu Edelfelt 

 

 

 

 

 寒さもひと段落した西日本。段々と暖かな風が吹く日も増え、しかし夜は相変わらず寒い。特にこの冬木という土地は、真冬の寒さこそ然程でもないが寒い期間がことさら長かった。

 長い冬は、静かに過ごすものだと相場が決まっている。色んな娯楽が増え、服飾が進化し、暖房の整った現代であってもそれは基本的に変わらない。冬は人を静かにさせるものだ。大人しくなるのは、はるか昔からの風習が現代人の文化にもしっかりと残っているからだろう。

 とうの昔に日は沈み、月もそろそろ草臥れてゆっくりと帰路へ着こうかという時分。都市部はおろか住宅街からも離れた冬木の郊外にある森は、静謐なる寒さと無音の闇に包まれていた。

 

 

「―――」

 

 

 数十メートル先も見通せぬ闇の中、カチンという軽妙な金属音の後、静かに灯る一つの光。

 真っ暗な森の中で、その小さな煙草の灯はよく映えた。暗闇に慣れた瞳にゆっくりと紫煙を燻らせる人物の姿が映る。

 

 歳は三十に届かぬぐらい。そんなに老けては見えないけれど、若々しいと称するには多少ならず老け込んだ雰囲気を漂わせている。咥えた煙草のせいか、目深に被った鍔広の帽子のせいか。あるいは達観したような不思議な色の瞳のせいか。

 落ち着いた橙色のコートと濃い青のマフラーは恐ろしいぐらいにちぐはぐな組み合わせなのに、不思議とこの人に似合っていた。クラシカルなジャケットとスラックスは随分と良い仕立てで、無造作に気こなしているが全く布が寄れない完璧なジョンブルスタイルだ。

 傍にはこれもまた古風で大きな旅行鞄が置いてあって、まるで歩いていたら迷ってこんなところに来てしまった、途方に暮れているといった風。

 勿論そんなことはない。この人自身が、そういう人ではない。この場所自体が、そういう場所ではない。こんなところに迷い込むような人じゃないし、誰かが迷い込んでいい場所でもない。

 何かの目的を持つ人でなければ、何かの目的がある場所でなければ辿り着けない。そんなところが、此処だった。

 

 

「―――美遊?」

 

 

 落ち着いた声が、私の名前を呼ぶ。もう聞き慣れた、対になるこの人の伴侶の声と同じく、かつては切望した声。

 今では当たり前のように接しているその声が、こういう場所にくるとどれだけ大切なものか思い起こされて、自然と頬が緩んでしいまう。

 

 

「旦那様、火が落ちて山火事になってはいけません。どうぞこちらを」

 

 

 喫煙者でもないのに常備している携帯灰皿を差し出しながら、ふと思い出した。

 今は丈の長い外灯を羽織っているとはいえ、このコートの下は一部の隙もないお仕着せ(メイド服)。目の前にいる“主人”よりも、自分の方がこの場に似つかわしくない格好をしている。

 幸いにしてコートは上質で、寒さはまったく感じない。メイド服は殆ど隠れてしまっているけれど、頭につけたヘッドドレスがバランスを崩しいている気がしなくもない。勿論これもこの人にとっては見慣れたもの。特に何か言われるということもありはしなかった。

 

 

「ありがとう、美遊。でも旦那様はやめてくれないか、むず痒くって仕方が無い。特に君なんかは既知の仲なんだから、気にすることはないって言ってるだろう?」

 

「しかし同僚への示しがつきませんから」

 

「ここは君と俺以外には、他に誰もいないよ。俺も気を抜きたいのさ。前みたいに“紫遙さん”で構わない。いや、是非そうしてほしい」

 

「そ、そこまで仰るなら。―――紫遙、さん」

 

「うん、それでこそだ」

 

 

 煙草の火を消し、にっこりと微笑む。少し歳はとってしまったけれど、クラシカルな薄茶色の丸眼鏡越のその笑顔は私の記憶の中‥‥あの頃の、人を安心させるそれと全く変わっていなかった。

 もっとも呼び方について言うならば、紫遙さんだって昔は私のことを「美遊嬢」と呼んでいたくせに。いや、私としてはこちらの方が距離が近づいた気がして、好ましくはあるんだけど。

 

 

「おかしな感じだね。もし何か変な引け目を感じている安心しなさい。お屋敷での君は誰もが認めるメイドであり、ルヴィアの養子であり、そして魔術師だ。メイドのお仕事だって、もうメイド長からは太鼓判を押されたんだろう? なら胸を張って大丈夫さ」

 

「そんな、私などまだまだ若輩者です」

 

「いやいや。メイドとしての仕事をしっかりこなして、ルヴィアの養子としての教育もしっかり受けて、一流の魔術師でもあるなんて凄いことだよ。彼女も誇らしいと常日頃言っている。もちろん俺も、ね」

 

「‥‥‥‥」

 

「しかし君も随分と大きくなったなぁ、美遊。俺は随分と老け込んじゃったけど」

 

「そう‥‥ですか?」

 

「うん。前は俺の胸ぐらいまでしかなかったかな?」

 

「そんなに小さくはなかったです」

 

「む、そうだったっけ? しかし美遊とこうして会えて、驚いたことには違いないからな。あのときは君がこうして契約を果たすとは、思いもしなかったものだよ」

 

 

 ゆっくりと、一言一言を発音する紫遙さんの隣に行けば、肩に置かれた暖かな手。コート越しにも安心出来る大きな掌に、肩から緊張が抜けていく。

 いつも一緒にいると安心させてくれる紫遙さん。いつも一緒にいると自信を持たせてくれるルヴィアさん。そして私を心から送り出してくれた友達、イリヤ。育て上げてくれた、向こうの世界のルヴィアさんに凛さん。騒がしい藤村先生にクロ。あと‥‥誰かいたような気がするけど、名前も顔も思い出せない。

 あの日の契約から短くて長い時間がかかったけど、こうして契約を果たすことが出来たのは、周りの色んな人達の助けのおかげだ。かつての負い目も、拭えない境遇も、たくさんの事件も乗り越えて帰って来られた。私を、美遊・エーデルフェルトを作り上げてくれた場所へ。

 

 

「いま君がこうして此処にいることは、ルヴィアや遠坂嬢ですら己の思惑通りには決して成し得なかった奇跡だ。魔術師としての実力も王冠に匹敵するだろう。良い弟子を持てたな、ルヴィアも」

 

「そんなことはありません。並行世界間の転移は、私一人では不可能でした。サファイアやルビー、イリヤや向こうの世界のルヴィアさんと遠坂さんのお手伝いのおかげです。まだまだ学ばなければいけないことは山積みですから」

 

「む、確かにその通りだな。君たちが目指すのは並行世界間の移動ではなくて、運営。しかし君のおかげで手がかりも出来た。これから頑張っていかなくてはね」

 

「紫遙さんも協力者ですからね。他人事ではありませんよ」

 

「自分の研究は疎かに出来ないけどね」

 

 

 屋敷に帰れば山のように詰まれた資料と格闘しなければいけないことを思い出し、苦笑いをする紫遙さん。それも紫遙さんの研究のためというよりは、奥様‥‥ルヴィアさんの研究のための調べ物なのだから、モチベーションも微妙なのかもしれない。

 もっとも紫遙さんがルヴィアさんの手助けをするのは、二人にとっても周りにとっても至極当然のこと。嫌々、というわけでも決してないし、研究について意欲がないわけもない。勿論そこには、紫遙さん自身の異常過ぎる身の上も関係しているのだろう。

 私も人のことは言えないけれど、何より特殊なその境遇を積極的に利用して魔術の研究に活かしていくことは、紫遙さんにとって相当な苦悩を挟んだ決断だったはずだ。けど、それを支えたルヴィアさん達の努力、そして紫遙さんの自身を担保にした決断と博打。全ての結果、こうして共にいられているのは神様の采配とでも思えてしまうぐらいの奇蹟だった。

 

 

「―――まぁ感傷に浸るのもいいけれど、仕事をしっかり済ませなくてはね。調査は終わったかい、サファイア?」

 

『準備の方、委細整っております旦那様。今回のカードはまだこの場から動いていないようです』

 

「それは良かった。せっかく来たのに別の場所に移動していたんじゃあ、骨折り損ってもんだからね。あと、旦那様はやめてくれないか」

 

「そうですね。この森から抜け出して車に乗るのも時間がかかりますし‥‥」

 

「スルーか、そうか」

 

 

 ふわり、と音もなく近づいてきた相棒の報告を受け、新しい煙草に火をつけて紫遙さんは唸る。随分前の、あの並行世界の冬木での出来事以来、どうも煙草の本数が増えたとルヴィアさんも愚痴っていたっけ。

 私の肩の上へと納まったサファイアも何所はかとなく呆れた様子だ。とは言っても六芒星が填った輪っかに羽のようなリボンがついた正体不明の物体の感情表現を読み取れるのは、私やルヴィアさんや紫遙さんなどのごく一部だろう。

 

 

「初戦となると、正念場だな。しかしこうしてまたクラスカードの対処をするに当たって、側に美遊がいてくれて助かるよ」

 

「今回のクラスカードは一枚ずつの発動ではありませんからね。凛さん達が市街地を見回ってくれてますから‥‥。カードの存在が明らかになった以上、この一枚は確実に私たちが何とかしないと」

 

『仰る通りです、美遊様。姉さんからもクラスカードと接触しそうだとの連絡が入っております。各個撃破とはいえ、こちらを早く片付けてしまえば遠坂様や衛宮様の援護に迎えます』

 

「うん、そうだねサファイヤ。急いで合流してしまおう」

 

 

 にゅるんと飛び出した柄を握り、魔術回路を励起する。

 魔術刻印こそ持たないが、私にだって十分な量の回路があり、それを万全に使うための技術と知識はしっかりと与えられた。そして助けてくれる相棒だっているのだ。

 どんな魔術師にも負けない力。あの頃とは違う姿を、紫遙さんに見せてあげないと。

 

 

「―――Die Spiegelform wird fertig zum!《鏡像転送準備完了!》」

 

『Ja, meine Meisterin !! Öffnunug des Kaleidoskopsgatte!!《万華鏡回路解放!》』

 

 

 静かながらも凛々しい相棒の声が響き渡り、私の体は眩しいぐらいの光に包まれた。その縫製の糸の一本も失うことなく、異なる次元に格納される衣服。そしてしっかりと体を包む新たな戦闘服。

 ある意味では一張羅。勝負服、というのもおかしな話だけど、これ以上に頑丈で稀有で高価な衣服は他にない。そんな一品を瞬きの間に纏う。

 

 昔のレオタードのような衣装は流石に気恥ずかしくて、今ではキュロットとスカートが混ざった一部の丈が長い服を履いている。二股に別れた蝶の羽のようなマントは子どもの時と変わらなくて、何故かサファイアはこだわりがあるのか、大きく開いた背中だけはそのままになってしまった。

 既に魔法少女を名乗るのは恥ずかしいぐらいには大人になってしまったけれど、魔術師としての美遊・エーデルフェルトの完成系がこの姿。ならば万全に戦えるこの衣装と相棒に、不満なんてあるはずがない。

 

 

「紫遙さん、準備は?」

 

「大丈夫だ、問題ない。いつでもいけるよ、美遊」

 

 

 足元のトランクを足先でコツコツと小突いて示した紫遙さんに頷き返す。移動を繰り返すクラスカード相手に、これ以上待つのは下策。準備が整ったなら即座に戦闘に移るべきだ。

 掲げる相棒の勇ましい声が、深い深い森の中に響き渡る。ごくごく小さめに展開された反射路が光を発し、あまりの眩しさに眉を顰めた端に映る、これ以上ないぐらいに緊張した紫遙さんの顔。

 

 

『反射路展開完了。―――反転、開始します』

 

「紫遙さん!」

 

「―――大丈夫だ、美遊。‥‥さぁ、行くぞ!」

 

 

 脂汗すら見受けられる必死な顔で笑う、私への気遣い。

 だからそれに応えるならば、同じ笑顔でなければいけない。紫遙さんを安心させる、鮮やかな笑顔でなければいけない。

 ああ、多分、きっと。

 きっと私は、その紫遙さんの強がりがとても近しくて。心遣いがとても嬉しくて。

 ちゃんと綺麗に、笑えていたことだろう。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 ぐらり、と揺れた視界に生じる吐き気。

 目眩と共に、実際には全く揺れていないはずの脳味噌がシェイクされるかのような感覚に襲われる。

 体の内容物全てがぐちゃぐちゃにされるかのような悍ましいイメージ。

 それらは圧倒的な恐怖の感情だった。実際に己の体には何も起きていないはずなのに、只々恐怖という感情から生じるありとあらゆる負の影響が心と、それに不随して体を蝕んだ。

 

 

「―――紫遙さん! 大丈夫ですか?!」

 

「美遊‥‥? あ、あぁ、大丈夫だよ。少し眩暈がしただけさ。何も問題は、ない」

 

 

 思わず傾ぎかけた身体を支えられ、そこで漸く、一瞬だけ失いかけていた意識を取り戻した。

 心の底から心配してくれている義娘の表情に、ぐっと吐き気を堪え霞む視界を持ち直す。今では正真正銘の家族となった彼女を前に不甲斐ない姿を晒すわけにはいかない。例えそれが俺の一方的な見栄だとしても。

 

 

「まさか、前の時みたいに記憶を―――ッ?!」

 

「い、いや違う。そうじゃない。今回のクラスカード事件は性質と現象が似ているから便宜的にそう名付けただけで、“コイツ”の起こした騒動とは全く関係ないよ。そうでなければ俺は何が何でも引きこもっていたところさ」

 

 

 深呼吸を数回、気持ちを落ち着けて笑顔を作ると、俺はコートの内側を、まるで自分の身体を痛めつけるかのように拳で小突いた。

 もちろん被虐性癖があるわけでも奇行に走ったわけでも何でもない。俺が小突いたのは自分の身体ではなく、コートの内側。性格にはコートの内側に設えられホルダーに収納された俺の新たな魔術礼装をだ。

 

 

『―――ふむ、このような扱いは心苦しいな。相棒を労わる気持ちを持ち合わせるべきだ、シヨウ・アオザキ』

 

「誰が相棒か。お前はただの礼装だ。そして普通の礼装は喋らないし、普通の従者なら許可されるまで余計な口は挟まないものだぞ」

 

『宝石翁の創造物はあのように自由気儘だが、ふむ』

 

「あっちはマスターに従順だろ。貴様は黙って知恵と知識を絞り出せ」

 

『ふむ、口を利かずに知恵を出せとは、まったく』

 

「ああ言えばこう言う‥‥!」

 

 

 コートの裏側から聞こえてくる、低くて鈍い震え声。かろうじて人間が話す言葉だと分かるその声と、まるで漫才でもするかのようにやり取りを交わす。

 とある事件から新たに設えた礼装は、残念ながら自慢の武器だった。そして性質上こうして付け足した機構により意思を持つにいたったコイツが、実に厄介な代物である。主に、俺の精神衛生上の問題で。

 

 

『やれやれ、結局のところ奴隷ですらない道具に過ぎぬ此の身、如何しても主人には逆らえぬ。それを知って勝手な口すら許さぬ狭量な人間だったとは、ふむ』

 

「狭量も何も、普通は自分の道具に気を遣ったりはしない」

 

『ふむ、しかし例外は目の前のはずだが』

 

「逆にお前が道具らしくすればいい話なんじゃないのか? え? 主人に気を遣ってさぁ?」

 

「あの、紫遙さん、そのぐらいで‥‥」

 

「む、あぁすまない美遊。どうでもいい奴にどうでもいい時間を使った」

 

 

 思わずブッ壊してやろうかこのクソ礼装という気分になったけれど、半ば呆れた美遊の声で気を取り直す。

 そうだ、今は憎ったらしいコイツと言い争いをしている場合じゃあない。目の前には既に敵のフィールドが広がっている。こんな状況で悠長に構えていては、待っているのは死のみだ。

 

 

「よし、とっとと知恵を出せクソ礼装」

 

『ふむ、仕方あるまい。‥‥今回の鏡面界は正確に言えば鏡面界ではない。かつてのクラスカードによって引き起こされたものとは根本的に違う。次元ではなく、世界の捻じれによるものと見た』

 

「‥‥世界の捩れ、だと?」

 

『そうだ、マスターよ。我が身に蓄積された知識と経験によれば、クラスカードによる異変を引き起こす媒体は少なくとも同じ世界にあった。元のものは、な。ふむ。しかし今回はそもそもからして違う。

 言うなれば他の並行世界からの浸食に近い。この鏡面界‥‥便宜的にそう呼ぶが、この世界は次元と次元の狭間に作られた別世界ではなく、我々の世界に極めて近い虚数の領域に映し出された並行世界そのものだ」

 

 

 若干乱れた帽子の位置を戻し、少しだけ考える。なるほど、以前この冬木で起こったクラスカード事件。あれは鏡面界という異空間を創り出し、そこに他人の記憶を触媒にして劣化した英霊の影を召喚するという術式だった。

 あの空間を創り出すアプローチの方向は、俺たちがいた実世界Aから伸びる矢印が表すベクトル。それに対して今回のこの空間が創り出されたアプローチの方向は、乃ち並行世界Bから実世界Aへと伸びる矢印が表すベクトル。似たような作りをしていても、方向性が全く異なるわけだ。

 さらに言うならば、クラスカードだって存在しているわけじゃない。俺達が場所の特定のヒントにしたのは英霊の持つ存在の波長。つまり、かつてのクラスカードによく似ていたというだけの反応だったのだから。

 

 

「ということは、並行世界の側から私達の世界に干渉をしかけてきた魔術師がいるっていうことですか‥‥ッ?!」

 

「美遊、経験上どうしても陰謀論に寄り気味なのは分かるけど、そうとは限らない。自然現象という可能性もある」

 

『ふむ、そうかね? 神秘が引き起こす自然発生的な現象には限りがある。このように複雑な術式にもなると、もはや何者かの意図によるものか、あるいは意図せぬものにしても某かの原因があるのは間違いないだろう。ということは、ふむ、気を付けるのだなマスター』

 

「―――ッ!」

 

 

 その礼装の声をキーにしたかのように、ざわりと空気が揺れた。

 基本的には外部の影響から隔絶された場所である鏡面界。乃ち風などもごくごく僅か、この比較的限られた空間の中でのみ循環できる程度しか吹かないはずの世界で、一方向から熱波が吹き付けるかのような感覚に、俺も美遊もはじかれたようにそちらへ視線を動かした。

 

 

「来る、何かが‥‥ッ!」

 

 

 虫の知らせ、というにはあまりにもはっきりしていた。何者かの、こちらと敵対しようとする意志を痛いぐらいに感じる。思わず口に出してしまわなければ恐怖すら抱いたとでも言いたげな、思わず漏らした美遊の声もよく分かる。

 本来ならば温度も強さもない只のそよ風を熱波と感じてしまう程の威迫。鬱蒼と茂る木々の向こう、殆ど何も見渡せぬ闇の向こうから、その堂々とした覇気は叩きつけられていた。

 来る。何かが来る。必ずくる。すぐ来る。今すぐに来る。

 奇襲などでは断じてない。おそらくは向こうも、そしてこちらも、互いに刃を交える時を確信し、あまつさえ約束までしたかのような呼吸の重なり。

 そしてそれは果たして、その約定通りにやってきた!

 

 

「雄雄雄雄雄ォォォオオ―――ッ!!!!」

 

 

 ザァッ! だっただろうか。それともバキィッ! だっただろうか。かくも鮮やかに、激しく、雄々しく草木を掻き分けて、一つの騎馬が現れた。

 駆け寄って来たのでも、迫って来たのでもない。まさに瞬間的に目の前に現れたとしか思えない神速で以て、馬蹄が俺達を踏み潰さんと大気を斬り裂き、割り開き、砕き散らして現れた。

 

 

「美遊ッ!」

 

 

 場数は踏んでいた。専門ではないけれど、魔術師の嗜みとしてある程度以上に戦闘というものに精通してはいる。

 けれど、やはり決して専門ではない人間に出来ることは少ない。突発的な出来事、圧倒的な破壊力、反応出来ない速度を前にして体は咄嗟に動かない。

 しかし今この時に限って言えば、頼りになる相棒がいた。コートの内側の話はしていない。まさに隣にいて、今こうして俺の叫び声よりも先に、己のやるべきことを瞬時に判断して動けた、義理の娘。

 

 

Zeichen(サイン)―――ッ!」

 

魔力弾・炸裂術式(ボムズ)、発射《フォイア》!』

 

 

 冷静で真剣な声が二拍子、目を灼く眩い光と共に響き渡る耳を劈く轟音。自らは障壁を張り、足元に叩きつけた魔力弾を炸裂させての迎撃に、たまらず何者かは騎手を翻して俺たちを飛び越えたようである。

 予期していたとはいえ瞼どころか眼球まで若干ビリビリと痛んでいるけど、しかし幸い、他は無事。

 閃光によるダメージも、視界に与える影響は殆どない。土煙の中、振り返り、帽子を押さえて叫んだ。

 

 

「待て、俺達は時計塔の調査部隊だ! 何者かは知らないが先ずは矛を納めろ! 我々への敵対は協会への敵対を意味するぞ!」

 

「‥‥時計塔だと? 知らんなぁ、そんなものは俺の聞き及ばぬところよ」

 

 

 土煙の晴れた先、少しばかりの広場のような其処に屹立するは、威風堂々たる巨漢であった。

 まるで鍛えた鉄のように黒々とした駿馬に跨り、その巨躯は見上げれば首が悲鳴を上げる程。その手には長大な偏月刀を構え、もはや手綱など用無しと言わんばかりに両手で頭上に捧げた姿は悪鬼羅刹か、不動明王か。

 自信満々、不適に笑う顔には幾筋もの皺が走るが、それは老齢であることを殆ど感じさせない。月日を得た巨木の木目のようなそれは、雄々しく雄大で、百歩譲っても老獪である。逆立った髭は悪魔を思わせる。丸太のような腕は普通の男ならば簡単に一薙ぎに出来るに違いない。

 鎧は皮‥‥だろうか。もっとも鞣した皮の防御力は決して嘗めたものではない。重ねたそれは堅く、軽く、動きやすいために愛用した戦士は多いと聞く。

 首に巻いたスカーフのようなものは、すり切れて汚れているからこそ逆に彼の戦歴を確かなものにしている。古来、多くの武将は多くの戦をくぐり抜けて名声を獲得してきた。戦場を多く経験してきた者は、須く優れた戦士である。

 

 

「しかし魔術協会というのは何所かで耳に入った言葉だな。どうだ沙沙(しゃしゃ)! お主は知っておるかね?」

 

「―――知っていますが、貴方はまずその大声を何とかしなさい、ライダー」

 

 

 がさり、と背後の草むらが音を立て、もう一組の騎馬が現れた。

 対照的な、雪を纏ったような純白の騎影。それに跨る騎手もまた、雪の女神が降りてきたかのような人物だった。高貴な白銀の鎧に、優雅な白鳥のようなドレス。そして右の手で構えるのは月の光を反射して鋭く輝く斧槍(ハルバート)

 鉢金のような役割をするのだろう兜に似た髪飾りの下から覗く瞳は冷徹で、軽口を交わしながらも油断なくこちらを睨み付けていた。

 

 

「‥‥魔術協会の者ですか。所属と名前を名乗りなさい」

 

「そちらが、先ではないのかな?」

 

「協会の名を騙るのでない限り、素性を明かさぬ道理はないはずです。疚しいところがないならば、先ずはそちらから名乗るべきでしょう」

 

 

 とりつく暇もない、氷のような声だった。鈴の鳴るようなという例えもあるけれど、その鈴を鳴らしているのが死神の類ならば聞き心地がよろしくないのも頷ける。

 あまりにも流麗過ぎる騎手姿。この世のものとは思えない。半ば現実逃避のように、俺は頭の片隅でそんなことを考えていた。

 

 

「‥‥俺は時計塔でルーン学科の教授を勤めている。名前は、蒼崎紫遙」

 

「私は、その助手であり女中であり‥‥娘です。美遊・エーデルフェルトと言います」

 

 

 何と評したら良いものか、それなり以上には有名になってしまった俺の名を、聞いた彼女は暫く小首をかしげて悩んだ。

 しかし様子を見るに、どうもデータベースにヒットしなかったらしい。もっとも如何に有名とはいえ協会内部だけの話。協会に所属していても末端だったり、時計塔に出入りしていなかったりする魔術師ならば知らないのも道理である。

 

 

「‥‥残念ですが、その名前に聞き覚えはありません。アオザキ、というのは確か第五法の家系でしたね。関係者ですか?」

 

「そこまで言う義理はないはずだ。俺の素性に関しては、魔術協会に問い合わせをすればすぐにはっきりする」

 

「我々が死んでからでは、問い合わせも出来ませんね。今日伝書を飛ばしたとしても、帰ってくるのはいつ頃か」

 

「では最初からその問いに意味はない。情報を提供したんだ、等価交換を要求する」

 

「‥‥それも道理ですか。仕方ありませんね」

 

 

 相手が俺の名前を知らなかった時点で、既に俺の素性は全く信用ならないものになってしまっている。俺が協会の名を騙ったところで、彼女にしてみれば即座に確かめる手段はない。

 隣で雪の女性の言い分に、美遊が顔を顰めるのが気配で分かった。相変わらず、この子は真っ正直で真っ直ぐで、誠実だ。

 

 

「―――私はサーシャスフィール・フォン・アインツベルン。此度の聖杯戦争にはライダーのマスターとして、そしてアインツベルンの名を背負って参戦致しました」

 

「アインツベルン‥‥ッ、イリヤの―――ッ!」

 

 

 ‥‥半ば、予想していたその名乗り。雪の女王から発せられた姓に、美遊が小さく息を飲んだ。

 冬木の聖杯戦争を作り上げた三つの家。非常に限られた者達が御三家と呼ぶ、遠坂・間桐・アインツベルンは必ず聖杯戦争への参加権を得られるという。特にアインツベルンは聖杯戦争の中核をなす技術を持っていた家で、遠坂嬢からの話だと、聖杯を提供するのもこの家。

 

 

「‥‥イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは確かに先代の聖杯の器。しかしそれも七年も前のこと。貴女はその時の関係者? 随分と、若いようですが」

 

「なぁに、人の縁とは分からぬものよ。それに沙沙よ、そんなことを気にするよりも目の前の益荒男達と刃を交える方が血が沸くというものぞ!」

 

「‥‥健忘術数の最中においても、その調子で最後まで疾り続けたわけですいね貴方は」

 

「応さ! いやなに、これはこれで気苦労が多いがな」

 

 

 喀々と笑いながらも大上段に構えた偏月刀はぴくりとも動かぬ威丈夫、ライダー。そして彼と真っ正面の位置を崩さず、挟み打ちで待機するサーシャスフィール・フォン・アインツベルン。

 彼らはあくまで敵対の姿勢を崩さないらしい。二騎の強敵とみた美遊も、隣でかなり緊張しているのが分かる。彼女の戦歴は英雄に劣るものではないけれど、存在の格というものが違う。

 そして俺には、不審な点が山ほどあった。

 

 

「ちょっと待って欲しい。ミス・アインツベルンにライダー」

 

「むぅ?」

 

「なにか、あるのですか?」

 

「山ほどあるさ。そもそも君達は今、聖杯戦争をしているつもりなのか? 俺の主観では聖杯戦争なんて始まっていない。俺達は英霊に似た反応をする異空間を感知して、その調査にやって来たんだ」

 

 

 戦意を隠そうともしない二人に、俺も警戒はそのままに問い返す。

 俺も美遊も、この空間には黒化した英霊が一騎だけいるものだとばかり思いこんでいた。それがマスターと名乗る人物がついてきて、あまつさえサーヴァントという格を手に入れていると来た。

 はじめはサーシャスフィール・フォン・アインツベルンが並行世界から俺達の世界へと干渉してきた術者かと思った。しかし、どうも違う。

 

 

「俺の仲間には冬木の管理者(セカンドオーナー)がいる。彼女によれば、今のところ最近この霊脈範疇に出入りした管理外の魔術師はいないそうだ。どうもおかしい」

 

「‥‥冬木の管理者(セカンドオーナー)? それはトオサカのことですか。彼女には私達も会いましたが、この聖杯戦争については了解済みでした。貴方の言い分こそおかしい」

 

「そもそも此の俺がいる以上、聖杯戦争をしているのは当然の事実であろうが。小僧、貴様は何が言いたいのだ?」

 

 

 ‥‥まぁ、そうか。相手にしてみればその通りだ。

 しかし聞きたいことはまだある。いまの返事からも、読み取れる事柄は多い。

 

 

「つまりそちらは、自分たちが今どこにいるのか分かっていないのか?」

 

「むぅ、異なことを言いよる。俺はこの森に進入してきた魔術師である、貴様らを退治するために打って出たわけだが‥‥」

 

「それは違う。俺達は此処を英霊の反応がする異空間だと解釈している。美遊?」

 

「サファイヤ」

 

『―――美遊様、紫遙様、私の分析によりますとこの場は四方が最大で1キロメートル程度の結界です。それ以上の広さを感知できない原因は、かつての鏡面界と同じ、という判断をしております』

 

 

 鏡面界で見えた格子模様は、薄くなっているのか視認出来ない。しかしサファイヤは空間そのものに対しての走査を行い、次元や空間に関する調査を行える。

 魔法使い謹製の魔術礼装の名は伊達じゃない。ことこの手の調査に関して、これだけの性能を発揮する礼装は他に類を見ないことだろう。

 

 

「俺はこの件を、並行世界絡みの異変であると考えている。俺達が調査に訪れた冬木は聖杯戦争が行われていない世界。君達の世界は、聖杯戦争が行われている世界。こう考えると辻褄が合うと思わないか?」

 

「‥‥一理あります。しかし私は、その人工精霊を搭載したと思しき魔術礼装の言葉を信用出来ません。何故なら此処は私たちアインツベルンの領土。私はこの森に、今の今まで一切の異変を感じていない。この森に魔術師が踏み入るだけで、私にはそれが分かる。これについて、貴方はどう思いますか?」

 

 

 むぅ、と唸り声が漏れる。思わず叫ばなかったのは褒めてもらいたいぐらいの難問だった。

 俺としてはサファイヤの分析結果が信用出来る。というより、彼女に分からないのであれば他の誰でも分かるまい。

 しかしサーシャスフィール・フォン・アインツベルンの言い分も十分に納得出来るものだ。仮に俺が彼女であるならば、自身の領土から感じる感覚は第一に信用出来るものだろう。

 

 

「‥‥失礼を承知で言うけれど、君が何者かに惑わされている可能性は?」

 

「ありませんね。仮にあるのだとすれば、それは貴方達によるものでしょう。何故ならば、そちらの主張には論旨が通っていても証拠がありません」

 

 

 ぐるん、と斧槍(ハルバート)が振り回される。瞳に宿った光がいっそう鋭くなった。

 ピリピリと張り詰めていたテンションが、最高潮へと達する。反対側で構えるライダーのサーヴァントは、サーシャスフィールの気の昂ぶりを感じてか、楽しそうにしている。畜生、こいつら戦る気だ。

 

 

「私からしてみれば、貴方達の言葉が全て嘘である可能性が最も高い。それは、貴方も理解していると思いますが」

 

「‥・その通りだね。悔しいけど、実際にサーヴァントを従え、おそらくは令呪も持っているだろう君の主張は、逆に俺達からすると実に説得力がある」

 

「それです。貴方達は聖杯戦争に詳しすぎる。本来ならば参加者ぐらいにしか理解出来ない事柄を知りすぎている。疑わしきは罰せよ、という言葉をご存じですか‥‥?」

 

 

 真剣で緊張した様子であった美遊から伝わる、今度は若干呆れた気配。うん、そうだね、少しばかり口を滑らせた。俺はそもそも交渉事に向かない。美遊を矢面に立たせるわけにはいかないからとはいえ、無理はするものじゃなかった。

 交渉にはそれぞれステージというものがある。そして残念ながら、今は最終ステージも佳境だった。

 

 

「‥‥最後に一つだけ。俺と美遊が、この空間に侵入した術式がある。それを使えば俺達は此処から脱出することが出来るし、それを以て証明の一助になると思うんだけど」

 

「許可しません。もはや貴方達にはこれ以上の魔術行使を許さないと心得なさい」

 

「戦るかね、沙沙?」

 

「はい。この二人は生かしておく方が危険です。そもそも聖杯戦争とは、自ら以外の全ての陣営を滅ぼし尽くすもの。ならば今ここで斬り捨てておくのがベストでしょう」

 

「違いない! では参るか、沙沙よ!」

 

 

 轟、と空気を裂いて大上段からぶん回された大太刀が俺達を威圧した。掠りすらしなかった草むらが、その一振りで吹き飛ばされる程の猛槍である。触れれば一瞬のうちに臓腑まで削ぎ取られることは間違いない。

 そして反対側のサーシャスフィール・フォン・アインツベルンが構える斧槍(ハルバート)もまた岩をも叩き割る分厚い刃と重量を誇る。さらに、騎馬。対してこちらは苦しいことに中距離型の魔術師が二人。

 

 

『ふむ、絶対絶命であるな』

 

「さっきまで黙ってたと思ったら貴様‥‥!」

 

『黙っていろといったのはマスターだろう、ふむ。しかしここを切り抜けねば、待っているのは死のみであるぞ。策はあるのかね?』

 

「ない、けど、やるしかない。美遊、互いによく援護をして、何とか脱出のチャンスを得るぞ」

 

「わかりました、紫遙さん」

 

『美遊様、紫遙様、必ずや勝利を』

 

「勝利なんてしなくていいさ。ただ、切り抜けれられればね‥‥! Zamiel(ザーミエル)! Ihr nennt mich Zamiel《吾が名はザミエル》!!」

 

 

 がつん、と勢いよくトランクを蹴り飛ばす。

 旅行鞄にしても大きすぎる、重すぎるトランクに収納されていたのは、もはや俺という魔術師を著す代名詞ともなった七つの魔弾。

 

 

「さて、何とか凌げるかね。不本意なる吾が相棒、マックスウェルの魔弾よ」

 

『――― Es sei 《いずれにせよ、ふむ》. Bei den Pforten der Hölle 《明日、地獄の入り口で会うことになろう》. Morgen er oder du《奴らか、君か、どちらかがな》』

 

 

 コートの内側から取り出した、銃身を短めに切り詰めた古びた物々しいマスケット銃。銃身にいくつもの血管のような刻印、骨のような装飾の施された俺の礼装。

 本来ならば鉱石を以て作るはずだったゲテモノと化した研究の成果が、鈍く月の光を反射して光った。忌まわしき仇敵の意識を宿した、近づけておくのも不本意な相棒。しかし、今は全力で以て切り抜けるしかない。

 此奴の言う通り、どちらかが地獄に堕ちる未来がないように。

 

 

「こんなこと言われちゃやるしかないな。征くぞ、美遊。覚悟はいいか」

 

「私は出来てます、紫遙さん」

 

『この程度の危機は幾度も乗り越えて来ました。自信を確かに、油断をしませんように』

 

「うん、そうだねサファイヤ。征こう!」

 

 

 ホルダーに納められた、必殺のクラスカード。並行世界の壁に穴を開け、無尽蔵に魔力を取り出せる礼装。そして彼女自身の洗練された魔術回路と技術。

 頼れる助手にして義娘。彼女のためにも、勝たなければ。

 

 

「ほぅ、英雄ではないが良い戦士と見た。これは楽しめそうだぞ、沙沙よ」

 

「油断は禁物です、ライダー。騙りにしても時計塔の教授職を名乗る高位の魔術師に、洗練された魔術を用いる戦士と見ました。全力を以て臨みなさい」

 

「もとよりそのつもりよ。戦に手を抜く? 誰に言っておるのだ沙沙。此処に立つのは俺だぞ? この(ライダー)だぞ!」

 

 

 背筋が粟立つ。隠すことのない、真っ直ぐで猛々しい嵐のような戦意。叩きつけられる殺気が、既に奴と俺が距離は離れながらも紛れもなく相対しているのだと感じさせる。

 ああ畜生、本当なら美遊とライダー、俺とサーシャスフィール・フォン・アインツベルンの組み合わせが順当だというのに。

 このどこまでも清々しい武人は女だてらといえど美遊を相手にするつもりがないと見る。

 

 

「誇れよ魔術師、相手をするのはこの俺だ!」

 

「そうか、お前か!」

 

「そうだ! 来たぞ、貴様を倒すために来たぞ! この(ライダー)が来たぞ!」

 

 

 己を鼓舞する叫びか、相手を畏怖させる咆哮か。全てを押し流す瀑布のような叫びと共に突っ込んでくる黒金の騎兵。その反対、背中合わせになった美遊にも迫る純白の騎馬。

 もはや振り向くこともなく、俺と美遊は拳を打ち合わせ、走る。目の前に迫る地獄へと。全てを砕く悪鬼羅刹と、全てを凍らせる冬の女王と向かうべく。

 

 

Zeichen(サイン)―――ッ!」

 

Drehen(ムーヴ)―――ッ!」

 

Stark(強く)Schnell(速く)―――!」

 

「覇ァァァア―――ッ!!」

 

 

 ぶつかり合う魔力の奔流が、振り回される刃が、魔弾が地を砕き空を裂く。その戦いの結末についてはまた今度。

 全てが片付き、この茶番の正体が判明した時に。またあの部屋で、美遊にお茶を淹れてもらいながらにしようじゃないか。

 

 

 

 

 another act Fin.

 

 

 

 

 

 

 




如何でしたか、楽しく読んで頂ければ作者冥利に尽きますし、真澄氏への面目も立つといった次第です。
この短い物語の中でいくつかトンデモない設定が飛び出してきておりますが、これは倫敦の作中において適用されるものではありません。いわば夢のようなお話、と思って頂ければ幸いです。
具体的には礼装や、美遊の存在や彼女の発言から推測される諸々の事情など、他にも色々ですね。
あくまでIFのお話として、お楽しみくださいませ!


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番外話 『倫敦/Next』 - 後篇

以前に投稿しました、親愛なる真澄十氏の代表作「Fate/Next」とのクロスオーバー番外話の後篇です。
戦闘しかしていません。二万文字ずっと戦いっぱなし。
しかし魅力溢れるキャラクター達を、頑張って書き上げてみました!
楽しんで頂ければ幸いです!


 

 

 

 side Miyu Edelfelt

 

 

 

「目標、敵サーヴァント。魔力弾―――発射(シュート)ッ!」

 

 

 戦場も生活も、長年を共にした無二の相棒サファイアを振り切って、サファイアが並行世界から供給してくれる魔力を魔術回路を通して発射する。

 一切の容赦ない小手調べ。ある意味では矛盾しているけれど、並の相手‥‥それこそ凡百の食屍鬼(グール)動く死体(リビングデッド)ならば薙ぎ払えるだけの火力。

 そして同時に魔力を固めてスタート台をいくつも作り、大きく距離をとる。

 

 

「‥‥やっぱり速い」

 

『おそらくはライダー、あるいはランサーのクラスのサーヴァントかと思われます。騎馬からも宝具の気配が』

 

「うん、そうだね。油断すると、すぐに距離を詰められる」

 

 

 ヒュンヒュンと空気を切る音と共に追撃の魔力弾。

 回避か防御を強要するサーヴァント本体への弾丸。将を射んとすれば、の諺通りの騎馬狙いの弾丸。そして回避を妨げる足元への弾丸。

 今までの少なからぬ戦闘経験から引き出された、速度のある敵に対する必勝の常套手段。けれど、私もサファイアも攻撃の手を緩めない。口にした通り―――

 

 

「覇ァアァ―――ッ!!」

 

「サファイア!」

 

『Explosion‼』

 

 

 魔弾が巻き起こした土煙を斬り開き、ロケットのように飛び出して来た漆黒の騎影。

 回避が出来る速度ではない。防御が出来る威力ではない。その黒い塊にしか見えないナニカから突き出されんとする牙を見てとるや否や私は叫び、そして相棒もそれに応えた。

 

 

「‥‥やるわい、小娘の癖に恐れいる。のう黒兎、お前もそう思わんか」

 

 

 攻撃しようとした瞬間を狙った、全力の魔力爆発。いわば至近距離の炸裂弾。決して足止めだけではなく、当たれば無論、必殺の攻撃。

 しかし騎馬武者は爆発を冷静に裁き、およそ馬には不可能な動きをその類稀なる手綱捌きで可能にした。

 煤すら被っていない余裕、堂々たる姿だ。しかも―――

 

 

『美遊様、傷は‥‥?』

 

「掠っただけ。まさか避けると同時に斬り付けてくるなんて、思わなかった」

 

 

 思いの他、間合いが長い。大刀の柄の半ば辺りを握っていたはずが、瞬時に端の方へと持ち替えてみせた神業。魔力の運用効率を考えてギリギリの強度に抑えていたとはいえ、サファイアの魔力障壁を突破するだけの威力。

 ‥‥あの刃に毒が塗られていたならば、もう私は戦えなかったことだろう。

 

 

「‥‥質問を」

 

「む?」

 

「貴方は意思を持ったサーヴァント。クラスカードによって召喚された、英霊の現象と化した、“黒化した”英霊とは違う。話が通じるはず」

 

「‥‥そうさな、まぁ戦口上を述べるだけの頭はあるがな。しかし相手に聞く気がないなら意味がない、違うかね?」

 

「それは、どういう」

 

「沙沙が問答無用と言ったのだ、俺も砂の一粒ほども容赦してやる気がないのさ。粋はさておき、無駄は省くべきではないかね、ん? それとも。もしやお前も戦う前に長々と説教を垂れるクチかね?」

 

「別に‥‥そういうわけじゃない」

 

「ならば始まってしまった戦いを冷めさせるようなことをするな、娘よ。今はこの熱き猛りに身を任せるのみよッ!」

 

 

 獅子の咆哮にも匹敵する、漆黒の軍馬の恐ろしい嗎。およそ助走というものを感じさせない素早さで突っ込んできた鋭峰を、物理保護を最大にして弾き、逸らし、いなした。

 ビリビリと肩まで震えるが、決してサファイヤは手放せない。勢いに逆らわず身を任せ、宙で反転して大地へフワリと着地。唸りを上げた魔術回路が、再び攻撃を開始する。

 

 

「対魔力が効果を発揮しない弾丸、厄介だのう! しかし当たらなければどうということはないわいのう! そぅれ駆けよ黒兎!」

 

 

 掠った魔弾の性質を見てとったか、豪快に嗤ったサーヴァントは大きく円を描くように私の周りを旋回し、その圧倒的な速度と卓越した手綱捌きで全ての魔弾を避けきった。

 さっきの土煙の中だって、殆ど視認も出来なかったはずの攻撃を、自分自身の身体ですらない軍馬を操って避けきったに違いない。余裕すら感じさせる好戦的な笑みをその老齢の巨木にも似た貌に浮かべながら。

 

 

『美遊様、脚を止めては‥‥!』

 

「分かってる、サファイア。けど駄目、動いたら紫遙さんから離れちゃう。‥‥咄嗟に、援護が出来なくなる」

 

『しかし!』

 

「真っ正面から殴り合う。それしか‥‥ない!」

 

「雄雄雄ォオオォォォ―――ッ!!!」

 

 

 距離を取っての砲撃戦が、本来ならばカレイドの魔法少女の常套戦法。無限の魔力供給が私たちの最大の武器。特に相手が近距離パワー型の魔術師ないしはサーヴァントあるいは魔獣だったりした場合、相手の攻撃の届かない距離から魔力配分を考えない全力全開の砲撃を繰り返すだけで勝てる。

 このサーヴァントも、おそらくは同じ戦法が通じるはずだった。宝具次第、そしてこの驚異的な突進力にさえ気をつけていれば、基本的には近距離の攻撃手段しかもたないサーヴァントは遠距離攻撃への対抗手段がない。

 ‥‥相手が並の、サーヴァントであるならば。

 

 

「Muskulöse Macht wird gestärkt, Achtzig prozent! Der Körper wird geschützt, Zwanzig prozent!」

 

「Ja, meine Meisterin!」

 

 

 がっし、と大刀とサファイアが真正面からぶつかり、火花を散らして互いに互いを弾く。くるりと回した石突での反撃、届かず。あっという間にサーヴァントは駆け抜けて、すぐに反転してまた迫る。

 魔力弾での追撃の暇もない鋭い機動。歯噛みしながらも、再び交叉。

 

 

「はっはぁ! 女だてらに何たる剛力! 魔術師とは斯くも不気味なことよなぁ! しかし俺はどんどん疾くなるぞ、小娘よ、ついてこれるか?」

 

「ッ! Muskulöse Macht wird gestärkt, Neunzig prozent!」

 

 

 一度の閃光に、衝撃は二回。背筋に走った悪寒に急かされる侭に胴体と首を守るように構えたサファイアを持つ手が痺れる。魔力による身体強化を緩めた瞬間に弾き飛ばされ、或いは叩っ斬られていた。

 ‥‥あの質量、あの速度に対して真正面から殴り合うのは明らかな下策。というより、もう無理だ。あと数合も刃を交えたら、私は文字通り押し斬られてしまう。

 けど―――

 

 

「美遊様、空中を利用した多方向からの機動戦を提案しますが‥‥」

 

「ダメ。少しでも隙を与えたら紫遙さんが轢かれちゃう」

 

「ならば―――」

 

 

 ガィン、と鈍い音と共に交わす杖と刃。弾き合う瞬間、叩き込んだ蹴りは大刀を握っていない方の、大木のような腕に防がれ、反動を使って跳躍、宙を蹴って再び襲いかかる。

 けれどそれも、目の前から消え失せるかのような素早い反転によって空振り。騎馬も、まるで同じ生き物みたい。あれほどの巨軀があれほどの速度と機動性を持つ。チッ、と舌打ち、軽く振り回された大刀を打ち返した。

 

 

「‥‥うん、そうだね。“アレ”をやろう。隙を作るよ、サファイア」

 

「かしこまりました、マスター」

 

 

 みしり、と手の甲の骨が軋むのを感じながらサファイアと言葉を交わし、深く長く吐息をつく。もともと何年も前にサファイアとルビーが私とイリヤに渡され、クラスカードという大事件へ挑んだ時は、相手が感情と理性を持たない“黒化した”英霊だったから対抗出来たのだ。

 “黒化した”英霊は弱い。スペック馬鹿、と凛さんは言っていた。目の前の敵を自分の持っている手段と武器で、ただただ機械的に処分するだけの兵器。対戦ゲームと同じで対人対戦の方がAI対戦よりも熱い、と紫遙さんは言っていた。無数の選択肢から最適なものを選択することが出来ても、新たに選択肢を創り出すことが出来ないのだと。

 それは戦闘において、どれだけ不利であることか。だからこそ今、初めて戦う意思持つ英霊。その戦いが、堪らないプレッシャーを私に与えていた。相手は正真正銘、歴戦の英雄。熱く燃え、どんな思惑も貫き通す矛のような瞳が私を睨み付ける。

 

 

「さぁどうする娘御よ、もう手詰まりかッ?!」

 

「そんな、馬鹿なことっ!」

 

 

 再びの突進。愚直なまでの力圧しを、今度は低く屈んで宙を滑り、躱す。小細工を力と技と速度で叩き潰せるという圧倒的な自負。しかし、その通りだ。

 ならばこちらも、同じだけの力と技と速度を用意してやるより他に‥‥ない!

 

 

「―――Satz(告げる)

 

 

 掌の裏に隠したカード。英霊の座へと干渉(アクセス)。導き、引き出し、憑ろす。

 英霊の情報を我が身へとダウンロード。自分自身の上に、英霊の皮を上書き。英霊そのものに、自分自身を書き換える。

 

 

「Du überläßt alles mir《汝の身は我が下に》 Mein Schicksal überläßt《我が運命は》 Alles deimen Schwert《汝の剣に》」

 

「‥‥む、その呪文は」

 

「Das basiert auf dem Gral《聖杯の寄るべに従い》 antwort wenn《この意》 du diesem Wille《この理に》 und diesem Vernunftgrund folgt《従うならば応えよ》ッ!!」

 

 

 一瞬のフェイントから、足元を薙ぎ払いに来た刃を低空で宙返りして躱し、小声だが、確かに、契約書の文面を確かめるように慎重に。

 交叉する瞬間、僅かに目を見開いたサーヴァントとぶつかる視線。思わず私もニヤリと口元を歪めて応えた。

 

 

「Lieg des Gelüdbe hier《誓いを此処に》 Ich bin die Güte der anze Welt《我は常世総ての善と成る者》 Ich bin das Böse der ganze Welt《我は常世総ての悪を敷く者》 Du bist der Himmelmit drei Wortseelen《汝三大の言霊を纏う者》」

 

「何か仕出かすつもりよな、娘御! 見届けて‥‥いや、容赦はすまい!」

 

『Beschleunigung!!』

 

 

 大きく、しかし鋭く弧を描いて旋回する騎馬を反転して追いかけ、方向転換が済んだところで追い抜き、挑発する。さしもの名馬も、加速していない状況で急な方向転換は難しい。

 もっとも稼げた時間も僅か一秒程度。でも高速詠唱の技術を用いれば、それでも十分に過ぎる!

 

 

「komm,aus dem Kreis《抑止の輪より》 der Unterdrückung《来たれ》 der Schutzgeist《天秤の》 der Balkenwaage《守り手よ》―――ッ!」

 

 

 クラスカードという魔術具に込められた神秘が扉を開く。迸る魔力の奔流が空気を撹拌し、霧が生まれ、私の姿を覆い隠した。

 主観が変革する。存在が書き換えられる。位が一つ上へとシフトし、新たな皮を得て、私の意識は広く大きく広がり高みへ押し上げられる。

 

 

「―――ハ、ハハ、ハハハハハハッ! やりおった、やりおったわい娘御め! どういう手品だそれは。“この俺と同じ高さまで”自分を書き換えるとは!!」

 

「それを貴方に言う必要が」

 

不妨(ブゥファン)!! 否、むしろ良い! 期待させてくれる姿だ、娘御!」

 

「‥‥貴方にとって良い結果でないことを、期待する」

 

「どちらにしても俺は一向に構わんのだ。お前の思惑に沿うことになろうがなるまいが、面白い戦いが出来そうだということには、何ら変わりはないのだからな!」

 

 

 跨るは世にも聞こえし空を駆ける翼もつ天馬。気が付けば纏う、普段なら絶対に選ばない体にぴったりとフィットした、裾の短い黒い装束。そして視界を覆い隠し、一切の支障ない皮の眼帯。

 何より五体に漲る活力。宙を舞ったら何処までも飛んでいけそうなぐらい、体が軽い。岩をも素手で砕けそうな膂力と、地平線の果てまで駆けていけそうな脚力が体中に溢れていた。思わずニヤリと口元を歪めてしまいたくなりそうな、命を懸け、互いの力を競う戦いへの愉悦もまた。

 

 

夢幻召喚(インストール)、クラスカード・ライダー」

 

「ほぅ‥‥。さしづめ今のお前は此の俺、ライダーのサーヴァントも同じと言うわけか。仕組みも効果も分からぬが、言うだけの武勇を俺に味あわせてくれるのだろうな?」

 

「勿論、嫌がったって、たっぷりとッ!」

 

「応さ! 面白い相手だとは思ったが‥‥沸くのぅ、涌くのぅ!!」

 

 

 互いに馬を疾らせ、競う。彼は疾風のように地を駆け、私は雷霆のように宙を滑る。鬱蒼と茂る木や草が進路を邪魔しても関係ない。切り払い、踏み潰し、打ち砕いて意のままに進む。

 どちらも速度は同じぐらい、目にもとまらぬ突進は、しかし今度は私が有利。

 宙を駆け、木を蹴り砕いて激しく方向転換し、手に持った鎖釘で中距離から投擲攻撃をしかける私のペースだ。鎖釘の投擲を騎兵は難なく弾くが、それでも私の猛攻を前に、攻めあぐねた様子。少なくとも、これなら紫遙さんに刃が届くことは‥‥ッ!

 

 

「さて、お前ちょいと俺の主を嘗めちゃおらんかね?」

 

「‥‥何?」

 

「初見だが、確かにお前の旦那も中々腕の立つ魔術師よな。時計塔‥‥お前たちの総本山だったかね? 其処の老師とやらをやっているそうではないか。だからこそ俺と沙沙を引き離し、互いに決着をつけようと策を弄したのかもしれぬが‥‥いやはや、甘い」

 

 

 ズドン―――ッ!!

 腹に響く重低音と共に、天馬の騎首は前へと向けたまま振り返った。

 古代の神殿の柱のように、並び生えていた木々が薙ぎ倒されている。抉れたのもあれば、綺麗に斬られた断面も見える。まるで闘技場(コロッセウム)のように倒れた木々は重なり。その中心には二つの人影。

 もはや騎馬から降り、長大な斧槍(ハルバート)を上段に掲げた白銀の女騎士と、手ぶらで立つ義理の父親。

 

 

「横目でチラと見ておったが‥‥ぬかったな、あの老師め。白兎は確かに優れた駿馬よ。しかし沙沙はな―――」

 

 

 降りた方が、強い。

 そう言い放つや否や、踏みしめた地面を爆発させて飛び掛かってくる漆黒の巨体。全身の筋力を集め、渾身の一撃にて迎撃、即座に飛び退った。

 

 

「よしんばお前が俺を倒して奴の加勢に行こうとしていたなら、更に愚かなことよ。この俺をも嘗めきった報い、受ける覚悟は完了しておろうな?」

 

 

 僅かに天馬の翼を掠め、自信の程を証明するかのように鈍い輝きを見せる大刀。獲物ではなく、好敵手を前にした獰猛な笑み。思わず竦みそうになる覇気。

 断じて油断していたわけではない。多分、おそらく‥‥。

 

 

『様子見だったと、いうことでしょうか‥‥!』

 

「やっぱり、英霊‥‥。サファイア、全力で」

 

『Ja. 飛びましょう、美遊様。我々の翼で』

 

 

 どこから聞こえているのか、サファイアの声がした。そうだ、撤退するにせよ勝ち抜くにせよ、先ずは相手を無力化する必要がある。それに私がこうやってギリギリの均衡の中であっても戦い続けることで、紫遙さんも自分の戦いに集中できるのだ。

 本当は助けに行きたいけれど、本当は一緒に戦いたいけれど、そうも言ってはいられない。この敵を打倒しないことには、決して許してくれないだろうから。

 

 

「‥‥戦いを愉しんでいる余裕は、ない。一気に決めさせて、貰う―――ッ!!」

 

 

 両手に持った鎖釘を次々に投げつけ、それを弾く隙を狙って大きく距離を取った。鎖釘は、もう手放す。

 距離をとって、紫遙さんが狙われないだろうか。そんなことは考える必要がない。

 にやりと口の端を持ち上げて余裕を見せるサーヴァントはここで落とす。この一撃で屠ると決めた。例え彼がどんな俊足であろうと、私が切ったこの(カード)ならば、確実に、墜とせる。

 

 

「いくよ、サファイア」

 

『お任せください、美遊様』

 

 

 現れる、黄金の手綱。今までは手綱も鐙もなしに騎乗していたことに気づいたサーヴァントが目を見開いて驚いた。いや、それそのものというよりは、現れた手綱の美しさにか。

 実体が確かめられない程に光り、高貴な輝きを放つ手綱は明らかに人の手によって創り出されたものではなく。

 神々しいまでの金色に、誰もが目を奪われる。

 

 

「まさか宝具まで使えるというのかッ?! 何者だ娘御‥‥ッ!」

 

「そういう魔術、とだけ。それだけ知って、ここで沈めッ!」

 

 

 サファイアが魔力を解き放つ。手綱が輝き、天馬は光る。その潜在能力の全てを騎乗兵の英霊を象徴する手綱によって引き出され、一つの流星となって敵を穿つ。否、弾き散らし轢き潰す。

 漆黒の騎馬、如何なるものぞ。所詮は人間の歴史の枠に囚われた英霊に、神代の宝具は防げまい。

 

 

「翼持つ馬とは‥‥稜王も斯くや、凄まじき力よ! だが嘗めるなよ、借り物の力で懸命に戦う娘御よ。勝利への曇りなき思いこそが英雄達のぶつかり合いの行方を決めるのだ!

 照覧あれ、この身は悪鬼羅刹も震え上がらせる神速の騎将也! ゆくぞ、娘御よ、この俺がゆくぞ! ―――張来々! 遼来々!!」

 

 

 ビリビリと、力持つ言葉が私の総身を打ち据える。古代の武士(もののふ)の戦口上。かつて互いに互いを鼓舞し、敵を震え上がらせ、味方を勇気付けた威風堂々たる名乗り。それこそが彼の宝具。それこそが彼らの力。

 この身が竦むのは、決して単純に歴戦の騎兵の覇気に怯えているからではない。圧倒されているからだけではない。天馬すらも手綱で御さなければ怯えて逃げ出す程の効果の威力。

 威圧という概念そのものを叩きつける概念武装。威圧、畏れという概念が宝具の域にまで昇華したもの。だが、こちらも退けはしない。このまま黄金の手綱で天馬を御し、突っ込む!

 

 

「喰らえ、『騎英の手綱(ベルレフォーン)』―――ッ!!!」

 

我冲锋(ウォーピンイン)我冲锋(ウォーピンイン)ッ!!」

 

 

 風を巻き込んで唸りを上げる大刀。風を引き裂いて迫る流星。

 まるで迫力の違う、まるで迫力の同じ二つの轟音が激突し―――

 

 

 私の頭の中は最高潮の興奮と、その衝撃にホワイトアウトしたのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

「‥‥意外ですね」

 

「何が?」

 

「てっきり、彼女に私の相手をさせるものだと思っていました。従者と名乗ってはいましたが‥‥娘、なのでしょう?」

 

 

 

 新しい煙草に火をつけ、騎上から俺を見下ろす雪の女神のような美しい女性の言葉に応えた。

 肺を満たし、戦闘を前に生まれた焦燥や火照りを吐き出す行為は所謂そう、儀式のようなものだ。煙草の灯は夜の闇ではルーンを描くことも出来るし、相手に余裕をアピールすることも出来る。中々に優れものなのである。

 現に、この女性‥‥サーシャスフィールなる彼女も訝しげにこちらを睨み付けている。ただ、やはりというか流石というか、隙なんてものは欠片もありはしない。

 

 

「愛する娘をサーヴァントの相手なんかに放り出した俺を、冷血漢と誹るわけかい? ミス・アインツベルン」

 

「そこまでは。ただ、意外だと」

 

「まぁ誰しも、そう勘違いしてくれるだろうね。しかし君は俺の義娘を嘗めている。彼女はエーデルフェルトが誇る切り札(ジョーカー)。英霊に匹敵する力を持つ、七色(カレイド)の称号を持つ“相棒”さ」

 

 

 ブルル、と透き通るような鼻息。サーシャスフィールの白銀の戦装束に合わせたかのような、一面に足跡すらない雪原にも似た美しい駿馬。氷山のように重厚な蹄、上等の絹糸のような鬣が見る者を美しさで圧倒する。

 俺は敢えて、真っ正面で対峙する彼女たちを少し避けて煙を吐いた。戦う相手に敬意を払ったり、厭味だったりするわけではない。ただ、女性には優しくするように、教育されているだけだ。

 

 

「英霊に匹敵‥‥。大きく出たものですね、教授(プロフェッサー)

 

 

 ギャイン、と背後で鋭く刃が噛み合う音がした。だけど、振り向くことはしない。

 美遊(かのじょ)が持つ"七色(カレイド)"の字は伊達や自称では決してない。彼女自身が、この世界へ来てからエーデルフェルト家の一員として様々な事件に関わり、やがて協会すらも認めた紛れもない二つ名である。主に降霊術の一種として、今は既に解体された聖杯戦争の一端を伝える魔術を、封印指定された狂った魔術師の編み出した奇蹟の術を使いこなす彼女には全く相応しい。

 誰もがその秘密を探り、そして理解した。かつては“カレイドの魔法少女”と呼ばれた彼女が操る大魔術に触れることすら出来ないことを。彼女が、もはや魔法に最も近い魔術師であることを。英霊に等しい戦力を持つことを。

 それはエーデルフェルト家の名前を、蒼崎家の名前を高め、彼女自身の名声をも生んだ。協会の学生達の中にはファンクラブも出来ていると聞く。勿論、生半可な野郎に大事な義娘をくれてやりはしないが‥‥。

 そんな彼女を心配することなんて、俺には出来やしない。信頼し、託し、あとは俺が仕事をこなすだけだ。逆に心配されて、しまわないようにね。

 

 

「貴方の彼女への評価が、身内贔屓でないことを願っていますよ」

 

 

 ゆらり、と斧槍(ハルバート)が持ち上がる。大の大人の男である、俺の胴体を真っ二つにするには十分過ぎる程に分厚く重い武器を、軽々と彼女は片手で構えた。

 ガッ、ガッ、と白馬の蹄が土を蹴り上げる。軽妙なやりとりをしていたサーシャスフィールの瞳は既に凍り付いた湖面も斯くや。触れれば傷ついてしまいそうなぐらいに、冷たい。

 吸い終えた煙草を地面に落とし、踏みにじって残り火を消す。流石に戦いながら煙草を咥えていられる程、俺は器用じゃあない。

 

 

「問答は不要。宜しいですね?」

 

「話を振ってきたのは、君じゃあないかね?」

 

「それは失礼。では、ここからは刃で語るとしましょう。いざ―――ッ!!」

 

Drehen(ムーヴ)―――ッ!!」

 

 

 助走も無しに、鐙による一蹴りだけを合図に飛び上がる蹄。そして俺を真下から真上まで両断せんと迫る刃。

 普通の人間なら何が起こったかも分からない内に召されてしまいそうな、閃光の速度と濁流の重さを持った一撃。だけど、その時を待ち続けていたならば話は別。

 

 

「―――Samiel(ザーミエル)!!」

 

 

 斜め後ろへと跳び退りざまに、地面に置いていたトランクを蹴り付けて呪文を紡ぐ。

 ただの一声で、もう何年も付き合い続けた仲間達は即座に起動し宙を舞った。

 

 

「Ihr nennt mich Samiel 《吾が名はザミエル》!」

 

 

 木々の隙間を縫うように円を描いて旋回する七つの球体。俺という魔術師の代名詞、魔術礼装『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』。おそらくは時計塔でも最も位階の高い礼装の一つ。

 人間に視認出来るギリギリ限界の速度。小手調べに二つを両側から突撃させ、様子を見る!

 

 

「‥‥温い」

 

 

 ギラリ、と白銀が煌めき、風が断ち斬られる音。

 そして続けて響く、鈍い衝突音。ただの一振りで両側から迫る魔弾を反らし、眉を顰めることすらしない。というより、まるで明らかに十キロを超えるだろう超重武器を小枝のように振り回さなかっただろうか、この淑女。

 

 

「意外ですね、この程度でしたか。もう少し手強いものかと」

 

「こっちこそ。てっきり避けてくれるものだと」

 

「そう都合良くいきません。と、いうより、この程度なら避ける必要もありません」

 

「‥‥言ってくれるね、ミス・アインツベルン」

 

「気を使ってあげるほどの力を見せてくれませんか、プロフェッサー・アオザキ。それとも、舞台が不服でしょうか」

 

「ッ!」

 

 

 白馬の蹄が上がり、そして振り下ろされる。途端、響く轟音と振動に俺はぐらりと僅かに体勢を崩した。

 大地の悲鳴が、俺の膝を抜いた。それは物理的な振動だけではない。元来、歩兵は騎兵を恐れたものだ。馬とは兵器の王である。よく訓練された軍馬は物凄い迫力を持つのだ。百戦錬磨とは言わなくても、それなり以上の場数を踏んだ俺が完全に気圧される。

 

 

「私が貴方の時間稼ぎに付き合う必要はありません。本気を出さないならば、一息で―――」

 

 

 再び震える大地を踏みしめ、両腕を広げて魔弾の指揮を執る。

 風が一瞬、止んだ気がした。

 これからの嵐に、備えるかのように。

 

 

「―――踏み潰して、さしあげます」

 

 

 

 パカラ、パカラ、と大きく蹄が円を描く。

 俺の周りをぐるぐると、これじゃあ西部劇か時代劇だ。しかし、武術の理には適っている。同じ距離を保っている内は、そこに隙が生まれることはない。ましてや相手は軍馬。ただでさえ間合いと上背に違いがある。

 

 

「Wen wählest du zum Streiter 《神よ、問おう、戦士たるは誰なのか》―――ッ!」

 

 

 しかし彼女は一騎。対する俺は七つの魔弾を従えている。

 魔術回路から迸る魔力を礼装へと繋がる霊脈(レイライン)へ通し、二つの魔弾(カスパール)を俺と彼女を繋ぐ線分をなぞるように突撃させた。

 その軌道は、直線ではなく螺旋。紙一重の回避を許さぬ高速旋回。掠るだけでも十分な威力のある攻撃、だけど‥‥ッ!

 

 

「―――やはり、温い」

 

「ッ?!」

 

 

 ゆらり、と騎影がブレた。波のように、霞のように。

 ただそれだけで、白い騎兵は数メートルの間合いを一瞬にして詰めていた。轟音も伴わず、烈風も伴わず、風の隙間を裂いて。

 魔弾を放った俺が見たのは、もう目の前まで近づいて白銀の斧槍を振りかぶるサーシャスフィールの姿。背筋に走る悪寒。本能のままに、そして少ないながらも積み上げた戦闘論理(ロジック)のままに腕を振る。

 

 

「Der trete vor 《いざ来たれ》ッ!」

 

「ッ一撃は躱しましたか。しかし、安心するのは早いッ!」

 

 

 いざという時に備えて近くを周回させていた魔弾の射手(デア・フライシュツ)に飛び乗り、緊急回避。だけど速い! 掠りこそしなかったけど、とんでもなく速い!

 振り下ろしたのではなくて、薙ぎ払ったなら真っ二つにされてたぞ。あの一瞬の判断、間違えなかった俺、ナイスッ!

 

 

氷れる棘よ(スリサズ)ッ!」

 

「この程度のルーンで阻めるものですか! いやぁっ―――ッ!!」

 

 

 飛び乗ったはいいけど、球体を足場にいつまでも飛び続けられるわけもなく、蹴り飛ばしてカウンター代わりにすると同時にポーチから小石をバラ撒いた。

 けど、スリサズを刻んだルーン石も蹄の一撃で粉々に。か、仮にも俺はルーン学科の講師だぞッ?!

 

 

「化け物めッ!!」

 

「淑女にその言葉はどうかと思います‥‥よっ!!」

 

 

 回避の様子を見て振るわれた横薙ぎの一閃を、無様に転がって辛うじて躱した。トンデモねぇ淑女である。こんな重量物を軽々と振り回すのが淑女だと言うなら、淑女とのお付き合いは遠慮したい。

 ‥‥残念ながら、この手の淑女とのお付き合いは今のところ実に濃厚である。

 

 

「Neidlicher Stahl!《万人の羨む貴き剣よ》 Zeig' deiner Schärfe schneidenden Zahn《汝が玉散る刃を見せよ》!」

 

 

 風車も斯くや、手首の捻りによって恐ろしい鋭さで返され迫る切っ先を前に、腰に忍ばせたアーミーナイフに手を伸ばし‥‥すぐさま身を翻して逃げる。こんなにデカイ斧槍にナイフなんかで立ち向かったって真っ二つにされるのが目に見えている。

 まるで滝を纏って暴れているかのような、瀑布にも例えられる凄まじい連続攻撃を前にしてはナイフも小枝も変わらない。ぶ厚い刃が斬り裂いた風に打ち据えられるだけで痣の一つぐらい出来てしまいそうだ。

 

 

「ふむ、少なくとも逃げ足は四階位に届きますか」

 

「やかましい! heraus aus der Scheide zu mir《鋭き切っ先で鞘を払え》―――ッ!」

 

 

 自分の体を掠めるようにして魔弾が飛ぶ。大振りの一閃を見舞おうとしていたサーシャスフィールも堪らず後退した。

 魔弾は片時も止まらず旋回し続ける。複雑な軌道を描き、氷と炎と風のシュプールを描く。

 牽制のためでもあり、迎撃のためでもあり、時間稼ぎのためでもあり、攻撃のためでもある。描く軌跡は魔法陣であり、詠唱だ。

 

 

「確かに学者肌ではあるけどな、伊達に色んな看板は背負ってない‥‥ッ!」

 

 

 魔弾にルーン石を混ぜ、小規模な爆発を重ねる。

 騎兵は一度スピードに乗れば何者でも止められない突破力を持っている。そしてサーシャスフィールの手綱捌きだ。彼女は例え並足でも自分の手足のように操り、人馬一体の俊敏さを見せる白銀の騎英は歩兵のように俺の攻撃を防ぎ、躱す。

 けど、それも騎兵の特性の範疇を逸脱することはない。即ち前進。これこそ騎兵の特性だ。迂回でも跳躍でも、とにかく前進ではなく後退を強いられた騎兵は弱い。

 故に―――

 

 

 

「よし、そこだッ!」

 

 

 当てようとする必要はない。弾幕を張り、前進を止めるだけで良い。前進と旋回を許さぬ布石さえ打てば、騎兵は止まる。止まってしまえば、その一瞬だけは無防備と化す。

 避けた先を封じるように、馬足を乱すように。ダメージを与えることを考えず、ひたすら攪乱と牽制に終始。束縛、までは不可能。足止めも、数瞬。だからその瞬きほどの短い時間で確実に攻撃を当てる。それしかない。

 足が止まった。この一瞬を狙って避けきれない確実な一撃を叩き込む!

 

 

「竜も四つ足、馬も四つ足。龍退治の魔剣を受けろッ!」

 

 

 意味のないように見えた、魔弾の旋回。描いたシュプールがこの機を逃さず一斉に発光、魔法陣を作り出した。

 拘束するための呪文ではない。これは空間を精査するための魔法陣だ。避けさせないのではなく、避けられない一撃を叩き込むためのもの。生み出されるのは不可避の魔弾。龍をも屠る鋭き切っ先の一撃。

 俺の周りに光り輝く球形の魔法陣と、サーシャスフィールを含めて俺たちを取り囲む大きな球形の魔法陣。目に見えない魔力網(レイライン)が二つの魔法陣を繋ぎ、サーシャスフィールの動きの子細を掌握する。

 彼女からすれば単純に魔弾の軌跡が描いた少しの魔法陣しか見えていないだろうけれど、俺から見ればまるで二重構造のプラネタリウムだ。空に輝く数多の星々はさしずめ夜を見張る刑吏。逃げることは不可能。

 

 

 

「―――『破龍の七星(ノートゥング)』ッ!!」

 

 

 引き絞った両手に浮いていた三番(カスパール)に激突する、絶えず加速を続けていた七番(ザミエル)。十分な魔力の供給、数多の魔法陣による強化を受けて魔弾が翔けた。

 必中の場を作り出し、龍の鱗をも穿ち抉る切っ先‥‥とまで豪語できたらいいんだけど。しかし紛うことなき必殺必中の大技。

 

 

「ッ!」

 

 

 どう逃げようとしても魔弾はその動きを先読みして軌道を変える。

 動こうとした際のベクトルを感知して未来位置を予測する。瞬間移動でもしない限りは逃げられない閃光。

 過たずサーシャスフィールを襲う魔弾。当然、逃げることなど出来るはずもなく。

 

 

「く‥‥う、はぁぁあああッ!!!!」

 

 

 激しい衝突音。殆ど目に見えない速度で放たれた『破龍の七星(ノートゥング)』と、あろうことか斧槍の柄で鍔迫り合いをしてみせるサーシャスフィールの姿。

 一瞬あんまりにもあんまりな有様に呆然としてしまいそうになり、慌てて気を取り直して魔力を注ぐ。

 注がれた魔力によって加速し続ける魔弾と壮絶な鍔迫り合いを続けるサーシャスフィール。半径五メートル以上にも及ぶ大規模魔法陣によるブーストを受けている俺の必殺の一撃が、たかだかトンデモマジカル素材の斧槍に受け止められている事実に、心が折れそうだ。

 

 

「うおおおおおおッ!!!!!」

 

 

 魔力だけではダメだ、魔法陣を回転させる。

 魔力供給速度を。魔力運用効率を。どんどんどんどん加速する。魔力回路が焼き切れてしまいそうだ。けれど退けない。俺にだってプライドがある!

 

 

「っしゃあっ!!」

 

「いやあぁぁああっ!!」

 

 

 爆音、炸裂。

 何かが砕ける音。硬いモノ同士が擦れ合う音。空気を切り裂いて重量物が飛ぶ音。

 魔術回路が引きちぎれてしまうかのような激痛と共に、俺は三番(カスパール)が破壊されたことを確信した。

 それは果たして負荷に耐えられなかったからだろうか。あの斧槍によって砕かれたからだろうか。

 衝撃で巻き起こった土煙が晴れ、そこには―――

 

 

「‥‥化け物、だな」

 

「だから、淑女にそのようなことを、言うものではありませんよ、プロフェッサー‥‥!」

 

 

 果たしてそこには、白銀の騎兵が五体満足で屹立していた。

 手にした斧槍は柄の半ばから真っ二つに折れ、脇腹には魔弾の掠った痕跡。額には脂汗が滲み、しかし表情は変わらない。

 魔力による得物の強化。身体能力の強化。そして武人としての直感と経験だろうか。俺の魔弾を受け止め、逸らし、弾いて、あまつさえ最後に砕いてさえ見せた。トンデモない淑女だぜ。化け物以外の何だというのだろうか。

 

 

「参ったな、今のは俺の切り札だったんだけどね」

 

「切り札の名に相応しい一撃でした。前言は撤回しましょう。時計塔で教鞭を振るうだけのことはあります」

 

「そりゃ、どうも。見事に防いでおいて、嫌味にしか聞こえないけどな」

 

「敢えて誤解を恐れずに申し上げますが、貴方こそ私を嘗めているのではありませんか? 聖杯戦争の始まりの御三家が必勝を望んで送り出したマスターに、研究者が勝てると思う方が間違いでしょう」

 

 

 二つになってしまった斧槍を片手にまとめ、彼女は涼やかに騎馬から降りた。

 愛おしむように白馬を撫で、軽く尻を叩いて走らせた。目から離れないぐらいの、戦いに巻き込まれないぐらいの距離まで。

 

 

「‥‥騎馬武者が馬から降りて、どうするんだい?」

 

「白兎には、少々無理をさせてしまいました。足を痛めさせてしまっては今後の戦いに支障が出ますので」

 

「今後、か。その短くなった物騒なもので、俺の魔弾の射手(デア・フライシュツ)と張り合うつもりか? まさか魔力弾なんて撃てるわけでもあるまいし」

 

 

 サーシャスフィールが両手に斧槍を持ち替え、こちらに向き直った。

 彼我の距離は五メートル強。魔力で身体能力を強化すれば一足飛びに詰められる間合いに過ぎないけれど、しかし得物の差は歴然だ。あの斧槍が如何なる業物であろうと、俺の魔弾に比べれば攻撃が可能な距離というものが違いすぎる。

 ましてや彼女は騎馬から降りた。只の歩兵だ。俺の魔弾から逃れられるはずはない。

 

 

「貴方は鍛冶師です」

 

「む?」

 

「鍛冶師は立派な武具を作るのが職分です。武具を振り回すのは戦士の仕事。如何に鍛冶の腕が良くても―――」

 

 

 斧槍を持った彼女の腕が上がる。砲弾と斧槍。まともに考えれば優劣は明らかな戦力のアドバンテージを保有している俺が、一歩気圧される。

 背筋を氷みたいに冷たい筆で撫で上げられるような、そんな感触がした。

 こんな時、絶対いいことは起こらない。小さいことならルヴィアと遠坂嬢の小競り合いから、大きいことなら斬った張ったの命のやり取り‥‥つまり今のような状況まで、経験が自然に体を動かした!

 

 

「―――戦場で、戦士に敵う筈もない。shape(形骸よ)ist(意を) Leben(なぞれ)!!」

 

 

 みっともなく身を投げ出して遮二無二躱した銀色の烈風。

 俺は見た。彼女の腕から伸びた幾本もの銀糸が、撚り編み合わされ縄となるのを。

 その縄が蛇のように、短くなってしまった斧槍に絡みつくのを。

 そして鎖鎌よろしく振り回された斧刃が、ぐるりと一回り、俺が二人は協力しないと抱えられないような大木を一刀両断にしていくのを!

 

 

「‥‥やってくれるぜ」

 

 

 いつの間にか、斬り倒された木々が円陣を作っていた。

 巨木が折り重なって、さながら檻だ。魔弾の射手(デア・フライシュツ)の動きには如何なる支障もないけれど、彼女から俺へは一足飛びの距離。

 

 

「一つ、貴方にとっては残念なお報せを申し上げましょう。‥‥私は、騎馬から降りた戦闘の方が得意なのですよ」

 

 

 穏やかな声が迫る。いや、声だけじゃない。口を開くと同時に、滑らかに一歩踏み込んできた。

 折れた斧槍と結ばれていた銀縄は今は外され、手斧と呼ぶにはあまりにも巨大な刃が俺の首めがけて閃光のように疾る。もちろん虚を突かれては横たわる大樹を飛び越えて逃げることも適わず、覚悟を決める他に道はない。

 ええい、なにくそ! もとより楽に勝てるだなんて考えてやいなかった!

 

 

「っしゃあ!」

 

 

 後ろ足に体重をかけ、大きく体を反ると同時に屈む。

 頭のてっぺんの僅か数ミリ上を刃が通り抜け、恐怖に負けずに俺はサーシャスフィールの腹めがけて渾身の足刀蹴りを叩き込んだ。

 カウンター気味の一撃。しかし靴の側面に感じたのは、隙なく挟まれた柄。

 

 

「抜け目ないなッ!」

 

『‥‥ふむ。存外、いや、案の定苦戦しているようだなマスター』

 

「お前は黙ってろ! いや、早く策を寄越せ!! 役に立たない礼装め! Samiel(ザーミエル)!!」

 

 

 すぐさま彼女の向こう側へ飛び込み、腕を振るった。

 指揮者の周りを旋回するように集まり、その中に巻き込むように攻撃を始める魔弾。しかしその全てを両手に持った壊れた得物で弾き、逸らし、白銀の女騎士は俺へと迫る。

 魔弾は一つ減って六つ。正確には、反動で暫く攻撃には使えない七番(ザミエル)を除いて五つ。しかも今は殆ど接近戦。格闘戦をするような間合い。これでは十分な加速を得られない。

 普段ならば大きく弧を描く複数の軌跡を辿る七つの魔弾が絶え間なく襲いかかるのが俺の戦法。しかし如何に軌道をプログラム化してマルチタスクの処理を大幅に削いでいるとはいえ、減ってしまった魔弾で、しかもこんな至近距離で、戦闘行動が取れるほど俺は器用ではない。残念ながら。

 

 

「粘りますねプロフェッサー!」

 

 

 やむを得ず抜き放ったナイフで踏み込むと同時に防御。

 すかさず左手で掌底を見舞おうとするも、右手一本では斧槍を支えきれず、両手でナイフを押さえてその場に踏みとどまってしまう下策。歯噛みする暇もなく、襲いかかる柄による突きを、腹にまともに喰らって吹き飛んだ。

 懐に潜ませていた奴のおかげで、なんとか自分自身への直撃は防げたけど‥‥。

 

 

『‥‥痛いではないか、ふむ』

 

「嘘をつけ礼装。知恵を出せと言ってるだろう」

 

『ふむ、黙れと言ったのはマスターではないかね?』

 

「余計なお喋りをやめろと言ったんだ! 必要な時に必要な知恵を出せないでお前は何様のつもりだ?!」

 

『正面から殴り合いに誘ったのは私ではなくてマスターだ。こんな状況で策もへったくれもあるものかね、ふむ』

 

「むがーッ!!!!」

 

 

 少しだけ開いた距離を、今度は詰めずに先ほどと同じ銀鎖が俺を襲う。

 今度は一条ではない。懐に潜ませていたのだろう投げナイフらしきものに、都合三本。石突きが尖った斧槍の柄に一本。計四本の鞭が情け容赦なく振るわれた。

 こと戦いに関して、引き出しの数が違いすぎる!

 俺はなんとかナイフが括りつけられた三条の銀鎖を魔弾で砕き、最後の一条、なんとかギリギリで腐りをつかみ取った。

 

 

「‥‥かかりましたね」

 

「ッ?! 腕を‥‥!」

 

 

 しゅるりと柄から解けて俺の腕に絡みついた、銀鎖。

 驚愕の間もなく、引っ張られ、ジェットコースターのようにサーシャスフィールへと突進を強いられる。

 

 

「えぇいッ!!!」

 

「が‥‥ぁ‥‥?!」

 

 

 突進した速度を利用しての、腹部への強烈な右フック。

 いつの間にか斧槍を手放していたのか。嬲るつもりなのだろうか。突っ込んだのと同じ速度で、そのまま数メートルは吹き飛んだ。

 

 

「ば、馬鹿力め‥‥斧槍使わないぐらいじゃ、手加減って言わないんだぞ‥‥!」

 

「半殺し、のつもりだったのですが。意外に丈夫なのですね。まぁ、私としては喋れるだけの余力を残しておけばよいので、構いませんね」

 

「尋問でもするつもりか。何も話すことはないぞっ」

 

「情報の価値は私が決めます。貴方は何も考えず、ひたすら知識を吐き出せばいいのですよプロフェッサー」

 

 

 予め仕込んでおいた堅牢(エイワズ)のルーンが効いたか、とりあえず内蔵までは傷ついていない。このダメージ、回復するまで暫くは必要。けど戦闘が不可能な程ではない。

 手に絡みついた銀鎖は外れる様子がない。解呪のルーンを試しても効果がない。

 

 

『ふむ、これは束縛の礼装ではないな。金属形態の人造生命(ホムンクルス)‥‥。いわば使い魔(ファミリア)だな、ふむ』

 

「道理で感触がおかしいと思ったぞ。普通の手段じゃ解けない。なら‥‥」

 

『ふむ』

 

「お前の出番だな、マクスウェルの魔弾」

 

『やっと仕事だな、ふむ。精々頑張るとしようか、マスター』

 

 

 再び引っ張ろうとする力に逆らいながら、懐を探り、礼装を取り出した。

 姿を現したのは、短く切り詰められた銃身を持つ古ぼけたマスケット銃。全体に髄のような気色悪い装飾がついていて、もちろん喋る。さっきまで喋ってた相手は、こいつである。

 こいつ、甚だ気にくわない礼装ではあるけれど、意思持つ礼装の例に倣って非常に性能が良い。製作過程は反則ギリギリ。しかし魔術礼装としてのランクは、魔弾の射手(デア・フライシュツ)をも超えるのだ。

 

 

「‥‥この音は、美遊か。よし、こちらも負けてはいられない」

 

 

 背後で聞こえた轟音と、背中で感じた閃光。そしてあまりにも濃い神秘の圧力。

 美遊が、クラスカードを切った。あれは魔力の消費が激しすぎて、長時間は使えない。美遊がクラスカードを切る時は、即ち必殺の勝負に出た時だ。

 ならば父親として、無様なところは見せられない。あまり意味がないことかもしれないけれど、沽券に関わる。俺も、ここで勝負を決めるぞ! そう意気込み、マックスウェルの魔弾の重厚を、手首に押しつける。

 

 

「―――Wahlem(ムーヴ)

 

「ッ?!」

 

 

 カチン、という軽い音。

 そして何かに驚いたかのように、解れ、撓み、弾ける銀の鎖。

 すかさず手首を自由にし、素早く後退。

 

 

「‥‥何をしたのですか、プロフェッサー」

 

「言うと思ったかい?」

 

『ぺらぺらとお喋りしてやる義理はない、な。ふむ』

 

「お前が言うか。しかし、道理だな。もし知りたいなら、一発馳走してあげるけど、どうかな?」

 

「巫山戯たことを。‥‥制御が一瞬完全に奪われたことは確かです。しかし弾丸が詰められていないその骨董品に、何が仕込まれているのか。興味が涌いてきましたよ、プロフェッサーッ!」

 

「恐悦至極ッ!」

 

 

 銀鎖を仕舞い、再びサーシャスフィールが駆ける。

 右から、いや、左から来る! 再び礼装を構え、引き金を引いた。

 

 

「ッ! またッ?!」

 

「ぜりゃあっ!!」

 

 

 カチン。金具の音と共に、一直線に迫っていた斧槍の刃が逸れ、今度は俺のナイフがサーシャスフィールの首筋を掠った。

 至近距離での反射神経の鋭さ。そして最適な戦いの手段を選び取る勘。しかし俺も負けてばかりじゃいられないんだ。礼装で斧槍を牽制しつつ、さらに鋭く刃を振るう。

 

 

「Wonne voller Tücke《邪なる喜悦よ》! Truggeweihtes Glücke!《虚なる幸いよ》!」

 

 

 俺の背後から魔弾が迫る。骨まで響くぐらいに俺の体の近くを掠めて、しかしサーシャスフィールはそれも疾風のような斧捌きで弾き避ける。

 そこまでは確かに今までと同じ。しかしもう一つの礼装を抜いた俺は、一味違う!

 

 

「―――Wahlem(ムーヴ)ッ!!」

 

 

 弾き返された、その魔弾に向かって引き金を引いた。

 あまりにも近い。そして強烈に弾かれた魔弾。

 しかし何ということだろう、我が不本意なる相棒マックスウェルの魔弾の銃口を向けられ、引き金を合図にして、その魔弾は真反対に軌道を変え、再びサーシャスフィールに襲いかかる!

 

 

「面妖なッ!」

 

「これも弾くかミス・アインツベルン!!」

 

「嘗めてもらっては困る! 魔術師ふぜいに!!」

 

「そちらこそ嘗めるな“蒼崎”をッ!!」

 

 

 一度攻撃を凌がれると、次の攻撃まで時間が必要な魔弾の射手(デア・フライシュツ)。しかしマックスウェルの魔弾によって、まるで見えないホッケーのプレイヤーに囲まれたかのように、俺とサーシャスフィールは魔弾の嵐の中で戦っていた。

 恐ろしいまでの反復する魔弾の勢い。しかし彼女はそれを何度でも防ぎ、俺へ反撃を届かせる。

 切り札を切ったにも関わらず、彼女を追い詰めることが出来ない。俺は山ほどの切り傷で、体中が鋭く痛む。対して彼女は眉を顰めながらも余裕がある表情。俺は、脂汗までかいているっていうのに。

 

 

『これはマズイ流れだな、ふむ』

 

「そう、思うなら、もっと手を尽くせ!」

 

『尽くしているさ。しかし“場が悪い”ぞ。これでは我らは十分に戦えん、ふむ』

 

「そんなことは分かって―――ッ?!」

 

 

 かくん、と足から力が抜けた。

 斧槍(ハルバート)の爪《ピック》だ。それで膝の裏を引っ掛けられた。ズボンも防刃繊維だから皮膚まで通りはしなかったものの、致命的な、隙。

 

 

「腕の一本、頂戴しますッ!」

 

 

 手の中でくるりと斧槍を回転させ、即座に逆袈裟に斬り上げんとする刃。

 俺は防げない。例え礼装を盾にしても、コイツごと叩き斬られ、吹き飛ばされる。程々に積み上げられた戦闘経験が警鐘を通り越して覚悟を促す。

 そして俺も瞬間的にその指令に従って覚悟を決めた、そのとき‥‥!

 

 

「―――紫遙さんッ!!」

 

 

 轟。

 聞き慣れた義娘(むすめ)の声。急速に後ろへ流れる視界。顔に感じる風。

 小さいけれど、力強さを感じる細腕が俺の腕を抱えている。いつもは結んでいる髪が、解けて風に乗っている。

 その姿は年頃の女の子としては、ちょっとどうなんだろうかと小言をこぼしたくなるキワどい衣装。これは、成るほど、ライダーのサーヴァントのクラスカード!

 

 

「すまない美遊! 助かった! ライダーは?!」

 

「轢いてきました! ‥‥まだ、無事のようですがっ!」

 

 

 不安定な足場で、なんとか姿勢を立て直して眼下を見下ろす。

 美遊が召喚した天馬からは、少し口惜しそうな顔をしたサーシャスフィール、そして泥と土に塗れてはいても清冽な笑みを浮かべた騎兵のサーヴァントの姿が見えた。ボロボロのようで、全身から発する覇気に如何ほどの衰えも感じさせない。まるで小娘をあしらってやったわ、とでも言いたげに。

 トンデモない。あのサーヴァント、美遊の真名解放(ベルレフォーン)を喰らって無事なのか?!

 

 

「‥‥ライダー、仕留めきれませんでしたか」

 

「いやさ、あの娘御も中々にやるわい。最後に宝具を見せあったのだがな、まるで流星だったぞ。俺の偏月刀に罅を入れよった。ほれ見ろ、腕も痺れておるわ」

 

「成る程あれは英霊を自身に降ろしているのですか。天馬を駆る女戦士の英霊‥‥。間違いなく神代の存在。単純な武ならともかく、神秘の比べ合いでは分が悪い」

 

「おうおう、言ってくれるな沙沙よ。なぁに正体と手管が知れたのだ。次こそは切り札を切らせず、素っ首叩っ斬ってくりょうものよ」

 

「‥‥期待させて頂きましょう。しかし、これは撤退を見逃すより他ありませんね。残念です」

 

 

 冷静にこちらを睨み付ける、吹雪を宿した瞳。今はもう戦意を収めたのだろう。探るようでいて、もはや興味は失ったような色も見える。

 俺の前では天馬の手綱を握った美遊が、油断なく下を伺いながら魔法陣を描いていた。当初の目的は撤退。もはや阿吽の呼吸で俺の意図を汲み取れるとは、改めて頼れる義娘(むすめ)だ。

 

 

「‥‥紫遙さん」

 

「あぁ、分かっている。‥‥ミス・アインツベルン!」

 

 

 もはやすぐにでも撤退は可能、との合図を受けて、俺は声を張り上げた。

 すでにサーシャスフィールは白い騎馬の轡を引き、白へと帰る用意をしていた。勿論、その眼はサーヴァンと共々こちらをしっかりと捉えながら。

 

 

「三日後の昼、深山町の別邸まで来られたし! 正式に会談を申し込む!」

 

「‥‥その申し出、私が受ける必要はありますか?」

 

「貴女も俺に聞きたいことがあったはずだ! でなければ、俺を嬲る必要はなかったのだからね! ならばその質問、戦いのない昼に承る! 元より俺も美遊も、仲間も、聖杯に懸ける望みなどありはしない! 俺たちが戦う意味はないぞ!」

 

 

 両の袖を捲り、聖痕がないことを証明する。或いは何者かが脱落した時、はぐれサーヴァントと契約する資格もないと。

 俺たちは聖杯戦争に参加するために冬木へやってきたわけではない。あくまで謎の空間の歪みの正体を調査し、解決するための来訪だ。こうしてサーヴァントと、まさかマスターまでもが現れているとは露知らず、こんなことに巻き込まれるとも、露知らず。

 こうして叫ぶ通り、俺たちには彼女に聞かなければいけないことが山のようにある。

 何故、彼女たちが聖杯戦争を戦っているのか。他のマスター達の正体は。そもそも彼女たちが言うところの聖杯戦争はどのような経緯で始められたのか。サーヴァントを召喚したのは解体計画が進む冬木の聖杯なのか。彼女が会ったという遠坂凜は何者なのか。

 そして彼女も俺に聞きたいことがあるはずだ。蒼崎を名乗る俺が冬木へやってきた理由。アインツベルンの森に進入を果たした、美遊の操る謎の術式の正体。そもそも彼女からしてみれば支離滅裂なことを語る俺の話の真実。

 こちらの陣営には一人として好戦的な人間はいない。向こうだって、猪武者ではないことは今まで刃を交わしてよく分かった。ならば話し合いの余地は、ある。

 

 

「‥‥いいでしょう。しかし、場所がわかりませんね」

 

「問題ない。エーデルフェルトの名前で調べればすぐに分かるさ、昼食はこちらで用意するけれど、構わないね?」

 

「私は食事を不要としているのですが‥‥」

 

「おう、そいつはいいな! 現代の食、まだまだ堪能したいと思っていたところぞ! まさかと思うが、酒もあるかね?」

 

「承知!」

 

「重畳重畳! 沙沙よ、敵の招きに応じるのも将たる者の度量ぞ!」

 

「‥‥はぁ、分かりました。馳走になるとします」

 

 

 呵々と大笑いするライダーのサーヴァンとに、サーシャスフィールは呆れ気味の溜息を零した。なんと好対照な二人だ。良き主従の、まぁ面白い一例なのだろう。

 多分、美遊も呆れている。背中だけでよく分かった。

 

 

「‥‥鏡界回廊固定完了。紫遙さん」

 

「うん、わかったよ美遊。ではミス・アインツベルン! 楽しみにお待ちしている!」

 

「こちらこそ、プロフェッサー・アオザキ。よい会談になることを、祈るとしましょう‥‥」

 

「‥‥はぁ、余裕綽々だな。気に入らない‥‥というか、あっちこっち痛い‥‥」

 

 

 最後まで、互いに睨み合うようにして光の奔流が俺たちを遮った。

 美遊もライダーを睨み付けていたように思える。一方のライダーは楽しそうな笑いを浮かべていたのが印象的だった。どんな戦いをしていたのか非常に気になるけど、何故かヘソを曲げてしまったらしい美遊は終ぞ俺に戦いの様子を教えてくれなかった。サファイアにも聞いたんだけど、主人は美遊だからと何も話してくれなかった。期待はしていなかったけど。

 ちなみに逆にどんな戦いをしたのか美遊に聞かれた。流石にあんまりにもあんまりな戦いっぷりを聞かせては義理の父親の沽券に関わるので黙秘権を行使させて頂きまして。

 あとで整備のために机の上に放置していた我が不穏になる相棒、マックスウェルの魔弾が全部暴露しやがりましたそうで。

 暫くの間、美遊がすごく優しかった時期があって、あとで問い詰めたら白状しやがったあのクソ礼装。そう何度も頻繁に使う機会はないだろうと、一ヶ月間エーデルフェルトの屋敷の一番湿っぽいところに放置してやった。

 

 あとサーシャスフィールは短い間の付き合いながら、会う度にこのときの戦いを持ち出しては俺に嫌みを言うことになる。ライダーはこの時代のタバコが随分とお気に召したようで、勝手に箱ごとかっぱらっていっては吹かしていた。

 全てが終わった今になってみれば、結局あの出会いの責任の過半数は遠坂嬢にあったわけだけど、俺たちが冬木を訪れたことによって、いったい何が変わったのかという思いに耽ってしまう。

 それも所謂、過ぎたことなのだろうか。写真も形見も何も残さず、ただ俺たちの頭の中に遺る、匂いのような、味のような残滓。存在したことすら不確かな思い出。

 ただ僅かの間、一所に駆け抜けた戦場の空気は、この煙まみれの肺の片隅に今も少しだけ漂っていて。

 

 そこから微かに香る思い出は、世界という容れ物を超えた、ただ己の生き様を何かに刻みつけられたのだと俺を今も励ましている。

 

 

 

 

 

 Another act Fin.

 

 



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第八十六話『双つ王の決着』

 

 

 

 

 

 side Saber Alta

 

 

 

 

 閃く黄金の刃と、漆黒の刃。

 踏みしめる大地は既に幾条もの抉れた跡を、あるいは鋭い劔痕を、はたまた擂鉢のように圧壊した痕跡を残し、もはやまともな踏み場を探す方が難しい。

 刃や魔力は、土や岩など簡単に抉り、吹き飛ばす。まるで質量を持った暴風だ。我が腕が、我が腕に握った劔が巻き起こす暴虐は、実に心地よい陶酔感を私に齎してくれる。

 

 

「ハハッ、どうした騎士王(ワタシ)? 逃げ回るだけか、無様なことだ! そんな様では鼠にも劣るぞ?!」

 

「———ッ!」

 

 

 我が力を、我が腕を、我が劔を思う存分わがままに振るうことのどれほど気持ちの良いことか。

 快感、などという簡単な言葉では表現しきれない。そこには蕩けてしまいそうな愉悦と胸が透くような爽快感、そして背筋に電撃が疾る程の背徳の悦びがあった。

 人間はどうしても某かに縛られて生きなければならない生物だ。それは法であったり矜恃であったり、愚にもつかない他者への配慮であったり、道徳や遠慮であったりする。

 しかし、その全てから解放されれば、これ程までに人間は自由でいられる! 言葉の上では分かりきっていたはずのことが、実際に体感してみれば想像を遥かに超える陶酔を私に齎した。

 

 

「そら、もっと腕に力を込めろッ!」

 

「が‥‥あ‥‥ッ?!」

 

 

 両腕の力を存分に使い、思い切り体を捻って繰り出した一撃が白銀の鎧を纏った騎士王(ワタシ)を吹き飛ばす。

 その無様を見て、思わず零れる嗤い。自分と同じ顔が自分の手で傷つけられていく様は、不思議なぐらいに滑稽だった。

 

 

「‥‥あぁ、随分といい格好だな貴様(ワタシ)? いっそ力を脱いて暴虐に身を委ねてしまえば、楽になれるというのに」

 

「そのようなことが‥‥出来るものか‥‥!」

 

貴様(ワタシ)と私の力の差は歴然。もはや貴様(

ワタシ)では天地が逆転しても私の首を獲れん。それがどうして分からないのだ?」

 

「ぐ‥‥う‥‥!」

 

 

 地に伏し、必死で立ち上がろうとする騎士王(ワタシ)の頭を硬い脚甲で踏みつけた。

 せめてもの抵抗と睨みつける充血した瞳に宿った殺意が心地よい。まるで真夏の行軍の末に水浴びをした時のような爽快さだ。

 

 

貴様(ワタシ)の砕けた骨では剣を握れない。凛から供給されるか細い魔力では、貴様(ワタシ)の力は、速さは、第三魔法の一端たる大聖杯の恩恵を受けている私に到底及ばない。

 さぁどうする騎士王(ワタシ)? あれだけ大きな啖呵を切っておいて、気迫で其れらを補えないと宣うのか?」

 

 

 足の下の騎士王(ワタシ)は、もはやその名に相応しい姿をしていない。

 鏡のように磨き上げられていた胸甲は罅割れ、砕け、潰れ、ひしゃげてしまって鎧としての用を為さない。重厚な手甲(ガントレット)は殆ど崩れてしまって跡形もなかった。

 腰回りを保護する鎧など、既に大半が手甲と同じく崩れ落ちてしまっている。青いドレスは千々に破れ、隙間から見える素肌や下着は鮮血によって深紅に染まり果てる。もはや、そこにいるのは一人の敗残の騎士。

 金細工のようだった髪の毛も、今は鮮血に彩られてくすんで見える。後頭部で結い上げていた髪も、いくらかほつれてしまっており無様さを助長する。

 

 

「どうした? 反論が出来ないようなら其の首、今この瞬間に撥ねさせて貰うぞ?」

 

 

 

 ぴたりと真っ白な柔肌に聖剣を突き付ける。雪原のような白い肌は戦闘の興奮と運動によって流れるような汗をしとどに流し、潤っていた。

 箱入りの、深窓の令嬢のように柔らかく、それでいて爪などの生半可な突起物では傷もつかないだろう強靭で張りのある肌だ。自分の、生気を失ったかのような白蝋の其れとは真反対だった。

 僅かばかり刃を押し付けてみせたが、跡もつくまい。常なる人ならば触れることすら叶わないだろうものを踏みにじるのは、例え其れが私自身であったとしても愉悦である。

 

 

「それともこのまま頭を踏み潰されるのが好みか? 頭蓋を砕かれ、脳漿を撒き散らし、眼球を潰される無様を欲するか?」

 

 

 少しだけ騎士王(ワタシ)の頭を踏みつけた脚に力を入れれば、それだけで背筋を電撃のように期待と高揚が疾る。

 好い。実に好い。

 このままジリジリと頭蓋を圧迫してやれば騎士王(ワタシ)はどんな声で吼えるだろうか。あるいは泣き叫ぶかもしれないが、それもまた私の耳を楽しませてくれるに違いない。

 一息に踏み潰してやるのも面白い。その衝撃で脳漿は何処まで飛び散ることだろうか。飛び出た眼球を爪先で弄ばれるのは、騎士王(ワタシ)にとってどれほどまでの屈辱であることか。

 硬い鉄靴の底に当たる頭蓋骨の破片とへし折れた歯の残骸の感触を想像すると、今すぐにでもこの足を踏み下ろしてやりたくなる。

 

 

「抉り出した貴様(ワタシ)の眼球を、シロウと凜の前で握りつぶしてやったら‥‥どんな顔をするだろうな?」

 

「———ッ?!」

 

 

 踏みつけた頭が、揺れる。

 足に込められた力は先ほどまでと変わらない。第三魔法の一端によって不完全ながらも無限の魔力を供給されている私の膂力は目の前で無様に横たわる騎士王(ワタシ)を優に上回る。

 だというのに、揺れる。力を込めた足に、確かに伝わる叛逆の意志を。

 

 

「———オ、オオ、オオオオオオオオオオッ!!!」

 

 

 最初はか細く微かに、そして魂から絞り出すような咆吼に。

 声そのものが力に変換されると信じているかのように、五臓六腑の力全てを咆声へと変え、騎士王(ワタシ)は咆えた。

 だが、本来ならば負け犬の遠吼えに過ぎない其れも、竜の咆吼ならば話は違う。その喉から口を通って出た咆声は魔力を帯び、力が籠もる。声を基点に全身へと魔力が迸り、魔力は本来ならば少女そのものである膂力を増幅し、沸き立たせる。

 

 

「‥‥驚いたな、そこまでの気力が残っていたか」

 

「貴様の、好きに、させるものかッ! 例え我が信念が揺らぐ時が来たとしても、それは貴様の為ではないッ!」

 

「それは、意地か」

 

「応!」

 

「‥‥情けないことだな、騎士王(ワタシ)。英雄としての根幹を、意地などという陳腐な言葉で飾るとは、実に無様だ」

 

 

 構える聖剣の切っ先は小刻みに震え、吐息は荒い。

 満身創痍と呼ぶに相応しい有様。本来ならば剣を構えるどころか立っていることも辛かろうに、何故かその瞳に湛えた闘志だけは最初に(まみ)えた時と如何ほどにも変わらず。

 乃ち敵は蹂躙されるばかりの子羊ではない。手負いの獅子は手強い。例え私自身が同じく獅子であったとしても。

 

 

「意地とは意志を貫き通すことだ。貫き通された意志とは、乃ち信念だ」

 

「言葉遊びだ、意味がない」

 

「意味はある! そこに私の思いがある!!」

 

 

 動かぬ左手をそのままに、右手で構えた聖剣で突きを放つ騎士王。

 血で滑る小手(ガントレット)で、しかも片手で放っているとは思えない苛烈な刺突。その突きは健常の状態で放った物と寸分違わない。

 少し離れた間合いを強引な魔力放出で一息に詰めてきた其の一突きが私の頬を掠める。油断したか? 否、油断の隙間のない余裕を騎士王(ワタシ)の気迫が上回った!

 

 

「往生際の悪いことだな、負け犬の分際で!」

 

「まだ‥‥負けてなどいないッ!」

 

 

 躱されたと見てとるや、大きく足を踏み込んで回転。

 足りない腕の力を回転による遠心力で補って、私の喉を狙うは黄金色の刃。

 其処に在るのは消えぬ闘志と殺意。思わず、笑みが漏れる。

 

 

「‥‥悦いぞ、そうでなければな。蹂躙するのも心地良いが、そうでなくてはならぬ。

 私と貴様(ワタシ)の戦いは拮抗していなければ、一進一退の死闘でなければならぬ。そうでなければ、私は貴様(ワタシ)を“打ち負かした”ことにならないのだから」

 

「戯言をッ!」

 

 

 鼻先を掠め、前髪を一筋掻っ攫っていった剣戟のお返しとばかりに、袈裟懸け一閃。

 必勝の重みを乗せた斬撃を、しかし騎士王(ワタシ)は身を屈めて間際で躱す。そして肩を突き出しての体当たり。衝撃こそ小さいが、もちろん重い鎧を纏っているのでバランスを崩す。たたらを踏み、再び間合いが開いた。

 近い間合いは片手が砕けているが故に膂力で劣る騎士王(ワタシ)にとって不利。ならば攻める好機は奇襲か、激しく攻守が入り乱れる乱戦にのみある。

 其れはもはや正道の戦いではなく、しかし何よりも私達“らしい”。

 

 正々堂々、魔力放出で得た膂力を以て真っ向から敵を斬り伏せるやり方は、実のところ正道なれど騎士道そのものではない。

 戦場では騎士などという生き物は存在しない。其処に居るのは、一人の戦士。如何なる手段を以てしても敵を打倒する戦士なのだ。

 それを(よし)とするのが、騎士。国のために、敵を打倒しなければならないのが騎士。自らもまた綺麗な戦い方など到底望めず、相手の其れも許容するのが騎士。

 ならば、騎士王たる我らも戦場においては構えた聖剣のみを用いて戦うにあらず。我が名槍ロンゴミアント、短剣カルンナウェン、名馬ドゥン・スタリオン。全てを用いて、敵を打ち滅ぼす。

 但し其処に背後からの騙し討ちは存在しない。それは私達が騎士王(アーサー)だからである。

 

 

「ならば貴様(ワタシ)は何とするのだ、騎士王(ワタシ)が歩んで来た歴史(みち)を!」

 

「逆に問おう、お前(ワタシ)こそ何を答えとする?!」

 

「言ったではないか、間違いだったと! 理想を掲げ、正道を歩むだけでは騎士達はついてこないと! 常に他者を従わせるのは力だ! 力を以て王が権威を示さなければ、其れは乃ち王権の崩壊‥‥国の崩壊だと!

 愚かな騎士王(ワタシ)、ここまで言っても理解出来ないのか! 理想などは他者のため、弱者のためと謳っておきながら本質は自己の欲望だ! 子を叱らない親がいようか、教え子を叱らない教師がいようか。同じことだ。我々の掲げた理想は、民のためにならなかった!

 理想を掲げながら、理想のための犠牲を謳いながら、貴様(ワタシ)が半端に力を振るったからだ! 力が齎すものを(よし)としなかったからだ!」

 

「———ッ!!」

 

  

 踏み込む、と見せて蹴りこんできた鉄靴を頑丈な篭手(ガントレット)でがっしと受け止めれば、続けて再びの刺突が私を襲う。

 黒く染まった聖剣の(しのぎ)で其の刺突を受け止めれば、今度は柄頭で顔面を殴りに来る。

 本来は両手持ちで使用する聖剣を片手で使うことを強いられているがための変則的な攻撃。いや、決して間違ってはいない。むしろ戦場ではポピュラーな使い方と言える。が、英霊(サーヴァント)の戦闘とは思えない程に泥臭い。

 

 

「己の意のままに振る舞う民草は決して為政者の思い通りには動かない。ならば! 力で無理やり動かす! そうしなければ政は成らぬ! 民草に平穏など訪れない!

 それを何故拒んだ?! 理性で納得し、執行したつもりだったのか?! そんな程度では足りぬ!

 ‥‥綺麗事を謳う甘ちゃんめ、そんなことだからブリテンは滅びたのだ。圧倒的な力を振るう以外に、英雄の成すことなどない!」

 

 

 堪らず上半身を逸らし、距離を取ろうと一歩後退すれば、そこは長大な聖剣の間合い。片腕ながら集中的に魔力によって強化を施した膂力にて万全の剣戟が鎧すら砕かんと振り下された。

 だが、それもサクラによる、大聖杯による魔力の供給が十分な私との戦いにおいては拮抗こそすれ凌駕は到底不可能。十分に力を込めた黒の聖剣にて受け止める。

 ギシリ、と刃が滑る音を置き去りに、追撃。しかし既に体を入れ替え足を組み換え、距離をとった騎士王(ワタシ)にみつくまでは至らない。

 虚しく空を斬り裂いた刃は、そのまま其れを振るった持ち主に隙を齎す。長大な刀身の重みは如何に竜と等しき膂力を持つ私達といえども無視出来るものではないのだ。

 強襲と待ちに徹し、先の先、後の先を十分に読み切った騎士王(ワタシ)の刃が、またも鎧を浅く削ぐ。

 

 

「もどかしいと思う、耐えねばと思う、その思いこそが本物だった! 堪える必要も耐える必要もなかった! それが正しいのだから! 思うが儘に振るうが解だったのだ! そうすれば、ブリテンは滅びを迎えなかった!!」

 

 

 例え鎧を刃が咬もうと、肉が削がれなければ欠片も気にならない。骨を断たれなければ戦闘に聊かの支障もない。

 しかし我が刃は空を斬り、奴の刃は浅く私を捉える。

 ‥‥おかしい。どういうことだ。

 いつの間にか膂力と体力、魔力、速さで勝っているはずの私が———

 

 

「‥‥ッ?!」

 

 

 掠めるように振られた聖剣が、さして力の籠っていないはずの刃が、喉を防御するゴルゲットを弾き飛ばした。

 この戦闘が始まって初めて感じる敗北への微かな恐怖。

 背筋を走る緩やかな電撃。全身の骨を揺らす悪寒。心地のいい、生と死の狭間で剣舞に興じる感覚。

 

 

「何を、した‥‥?」

 

 

 闘争には高揚と悦楽がある。そして苦痛と恐怖もまた同じようにある。

 互いに傷つけ合い殺し合う。そこには確かに破滅的な快感があり、勝利への期待と敗北への恐怖を感じるからこその闘争だ。

 だが、目の前に立つ死に体の獅子に、私を恐怖させる程のものがあるだろうか。

 膂力、魔力、速さ、体力、損傷、全てにおいて私は騎士王(ワタシ)を上回る。もちろん技量も、窮地を脱するために必要不可欠な頭脳も同一体であるが故にほぼ完全に同一。

 ただでさえ相手は片腕。ましてやマスターたる凛がサクラと戦闘中の今は、ほぼ無限の魔力を供給されている私に比べれば片肺を塞がれた状態に等しいはず。

 道理に基づいて考えれば、私の勝利は必然。いくら一進一退の攻防を望むといっても、蹂躙を当然のものとしていたのは傲慢でも油断でもない、只の事実だった。

 そう、只今さっきまでは。

 

 

「何をした貴様(ワタシ)ィッ!」

 

 

 青眼に構えた黒い聖剣に一刀両断の気迫を込め、大きく振りかざして突進した。

 渾身の真っ向唐竹割。綺麗に受け流された端から更に大きく一歩踏み込み、振り向きざまに魔力の霧すら纏って一薙ぎにするが、これもまた鎧に聖剣の腹を当てて左腕の代わりとし、受け止められる。

 一切の遊び無く一閃二閃、数多の戦士達を斬り伏せてきた赤き竜の爪牙が、満身創痍の騎士一匹を仕留めきれない。

 

 

「———い」

 

「何?」

 

「———られない」

 

「何だ?」

 

「負 け ら れ な い の だ !」

 

 

 まるで命を薪にくべるように渾身の魔力を一つ減った四体に回して、騎士王(ワタシ)は吼えた。

 片手とは思えぬ力が咬み合わさった聖剣から伝わってくる。其処には一点の曇りもない勝利への意志が、私を打倒するという意志が篭っている。

 手負の獅子なんてものではない。手負いの竜だ。ブリテンを護る守護者、赤き竜の化身そのもの。叩きつけられる気迫、咆吼、殺気が濁流のように私を圧す。

 

 

「やっと、いつか征服王に言われたことが理解出来た。私自身に言われて、やっと理解(わか)った。それが私がお前(ワタシ)を許せない理由だ」

 

 

 片腕の人間を、両腕で圧し放すことが出来ない。どうしても、出来ない。

 歯を剥き出しにした表情は笑顔にも似ている。爛々と光り輝く瞳の中の決意には、聊かの迷いもなかった。

 ただその光が、私には何より不可解な代物だったのだ。

 

 

「何を‥‥ッ!」

 

お前(ワタシ)が私を、私達を、否定するなぁッ!!」

 

 

 喉の皮が切り裂かれるのを物ともせず、体全体を使って私を突き飛ばす騎士王(ワタシ)

 負けてなどいない、劣ってなどいないはずなのに。何故か、圧される。

 

 

「そうだ、そうだ征服王、貴様の言うとおりだった。私の目は曇っていたらしい。自分自身を目の前にして漸く気づけた。

 私は弱い。故に貴様のように全てを(よし)とは出来ない‥‥。だが、例え歩んだ其の路を後悔していても、決して否定だけはしてはいけなかった!」

 

「だが間違っていたではないか! ブリテンは滅びた! 我らのブリテンは!」

 

「そうだ! ブリテンは滅びた! 私は決して其れを許せぬ! ‥‥しかし確かに其処には思いがあった。貫いた信念が、徹した意志があった。

 辛かった。苦しかった。全ての民と全ての騎士が国の滅びを嘆いて、其れを私は覆したかった。私自身が、誰よりも其れを許容出来なかった。

 けれど、そうだ、其処には確かに栄光もあった、喜びもあった、誇りもあった。ならばそう、お前(ワタシ)の言う通りだ。結局は私個人の身勝手な願い、救済、やり直しなどのために、それを蔑ろになど、とても出来ない‥‥ッ!」

 

 

 笑顔は闘争本能の剥き出しだと言う。そして笑顔には、喜び、楽しみの感情と同等に哀しみ、苦しみの感情も込められていると言う。

 流れるような滑らかな動きで斬りかかってくる騎士王(ワタシ)は、まさしくその感情全てを表情で表していた。

 

 どれだけ今まで悩み続けていたことだろうか。それは他ならぬワタシのことだからこそ、私が誰よりも一番よく知っている。

 そして目の前に立ち塞がった自分自身の言葉で気づく、自らの過ち。今まで目を逸らし続けていた、気づけなかった真実に気づいたのだろうか。しかも、自分自身の姿を目の当たりにすることで。

 どれほどの苦痛だろうか、それは。自負心が、矜恃が、強ければ強い程に苦痛は強まることだろう。

 気づけたからといって、吹っ切れるというわけではない。むしろ気づいてしまったが故に、どうしようもない苦しさが襲ってくる。人間とは、そういう生き物なのだ。

 それらを客観的に、冷静に頭の片隅で思考しながらも、同じように私は吼えた。

 

 

「そんな、そんな戯言で何が解決するものか! そんなものは諦めだ! 何が変わった、その答で?! それが、そんなものが答だと曰うのか騎士王(ワタシ)ィッ?!」

 

 

 供給される魔力の強大さに任せた剛力で流水の如く繰り出される聖剣を弾くと、そのまま渾身の力を込めて刃を振るう。

 一振りだけの必勝の斬撃ではない。一度、二度、三度と繰り返される竜の爪牙。もちろん騎士王(ワタシ)は気迫を取り戻しこそすれ満身創痍。その刃を受けきれず、少しずつ後退していく。

 戦いの主導権を取り戻したと見た私は更に騎士王(ワタシ)を否定する言葉を咆吼と共に吐き出したが、しかし騎士王(ワタシ)は、否と応えた。

 

 

「違う、答など出ていない」

 

「なんだと‥‥!」

 

「だからこそ死ぬわけには、負けるわけにはいかないのだ!

 黒い騎士王(ワタシ)よ、それをお前は逃げだと言ったな。確かにそうなのかもしれない。本来ならば“終わってしまった”存在である私がこのように足掻いているのは無様なのかもしれない。道理に合わないのかもしれない。

 だが騎士王(ワタシ)よ、お前はそれで納得出来るのか? 生涯を受け入れられるほど悟れなかったからこそ、お前も暴虐に身を委ねたのではないのか?! それも逃げとは言わないのか!」

 

「黙‥‥れぇぇぇえええ!!!」

 

 

 脳天をかち破ろうと振り下ろした刃が滑る。斜めに突き出された聖剣によって軌道を逸らされ、騎士王(ワタシ)の刃は我が耳を裂いた。

 ただ許せなかった。私が、私を生んだ貴様(ワタシ)が、そのように私を否定することに。

 私は貴様(ワタシ)の合わせ鏡。裏と表。ならば騎士王(ワタシ)が私を否定して何とする?

 私は騎士王(ワタシ)が生涯振るえなかった全てのものを宿している。だからこそ、貴様(ワタシ)が自分自身を誤ちだと思ったからこそ、私は生まれたのだ。

 

 

「‥‥もう、逃げられないのだ。私は向き合い続ける、答を探し続ける。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、全てを受け入れられる答を見つけるまでは安易な終焉へと身を預けるわけにはいかない。

 そうだろう、騎士王(ワタシ)よ。黒く染まった私よ。私を導いてくれたワタシよ。この仮初めの現世は僥倖だったのだ。ならば探し続けるより他にやることなどない。それに———」

 

 

 突いた勢いそのままに互いにがっしと組み合った二つの影。

 鼻と鼻が触れ合う程に近づいた騎士王(ワタシ)が、ふっと柔らかに微笑んだ。

 

 

「———凛とシロウが、待っているのだ」

 

 

 ‥‥其処に、その一瞬に騎士王はいなかった。

 まるで遠い昔に我が身と捨てた、一介の少女のような微笑み。いわば愛と形容される感情がそこにはあった。否、愛とは感情を超越した、概念だ。人間は愛で概念を具現化出来るのか。

 それは私には、私達には生涯得られなかったもの。兄であるケイをして騎士王たる私にそれを感じさせることは出来なかったもの。役目に徹したギネヴィアでは互いに与えられなかったもの。

 

 あゝそうか、私は羨ましかったのだ。

 最初からそうだった、目の前の小娘(ワタシ)が気に入らなかった。

 騎士王としての生涯しか知らない私と、一時とはいえ友を、家族を得た小娘(ワタシ)。主義主張の違いなど瑣末なもの。ただその一点においてのみ、騎士王(わたし)小娘(ワタシ)は決定的に異なっている。

 ただ、それに気づいてしまった。ならば———

 

 

「———ア、アア、アアア、アアアアアア!!!」

 

 

 ならばこの身は、関門である。

 小娘(アルトリア)よ、覚悟せよ。貴様が小娘ならば、私こそが正真正銘の騎士王アーサー。

 もう私は亡霊でいい。アルトリアがこれから生きていくために乗り越えなければならない亡霊に過ぎなくて構わない。だからアルトリアよ、私を打ち負かせ。

 もしお前が仮初めに得た未来に答を見出そうとするのならば、先ずは私を打ち負かさなければ適わない。

 もはや憂いは互いに晴れた。

 

 貴様は既に満身創痍。気迫で補おうとも、英霊たる我らの体であろうとも、その損傷は無視出来る域をとうの昔に超えている。

 戦いの流れを左右していた言葉の応酬は今や不要。技量は同じ。これ以上戦いが長期に渡れば確実に小娘(アルトリア)は負けるだろう。

 故に勝負は、次の一瞬で、決まる。

 

 

「———耐えてみせよ小娘(アルトリア)! これが、ブリテンを護る赤き竜の咆吼!」

 

 

 全身から迸った魔力が両手でしっかと握り締めた黒い聖剣へと収束する。

 ああは言ったが、片手が砕けた小娘(アルトリア)聖剣(エクスカリバー)の真名を解放することは出来まい。ならばせめてものハンデ。真名解放だけは、控えてやろうではないか。

 しかし他は誓って一切の手を抜かぬ。サクラから送られる膨大な魔力の供給の殆ど全てを聖剣へ、我が竜の咆吼(ヴォーティガーン)へと注ぎ込む。

 如何に竜の因子を持ち、生き汚い英霊と言えども此の一撃には耐えられまい。よしんば耐えた、避けたとしても、サクラの魔力ならばニ撃目に必要な時間も短い。

 魔力の放出により自らの聖剣の間合いの外に弾き飛ばされた小娘(アルトリア)では、ニ撃を防ぐことは適わぬ!

 

 

「風よ、吼え上がれ! 『卑王鉄槌(ヴォーティガーン)』———ッ!!」

 

 

 黒い魔力の輝きは刃そのもの。触れれば斬り裂かれ、砕かれ、吹き飛ばされる魔力の風。

 もはや圧縮された嵐に匹敵する力が、人間には到底出し得ぬ力が小娘(アルトリア)に迫る。避けにくいように、大地を割って真下から。

 

 

「———ッ?!」

 

 

 手応え、あり。

 だが黒い刃に斬り裂かれ、吹き飛ばされたのは真っ二つに割れた小娘(アルトリア)の半身ではなく、既に節を砕かれ役立たずになった腕。篭手(ガントレット)に包まれた左手一本のみ。

 

 

「———礼を言おう、お陰様で身が軽くなった」

 

小娘(アルトリア)———ッ!!」

 

黒き騎士王(ワタシ)、これで決着だ!」

 

 

 比喩ではなく、小娘(アルトリア)が踏み締めた大地が爆発する。

 まるで円卓の騎士達の投槍もかくや、否、疾風か雷光のような目にも留まらぬ加速と突進。

 刹那の内に踏み込み、脇に構えた聖剣は私の心の臓を貫くことだろう。だが、まだだ。

 

 振り切った刃は魔力の風。乃ち本質的に実体はなく、それ自体と同じ長さの刃を実際に振るっているわけではない。

 まだだ、まだ終わっていない。全身の魔力を、そして続けてサクラから供給される魔力の全てを注ぎ込み、再び目の前に迫る小娘(アルトリア)を斬り伏せる。

 刃を返した、その瞬間だった。

 

 

「———これは、サクラ! まさか?!」

 

 

 闇の放つ光という、矛盾した光源によって支配された大空洞を満たす虹色の光。

 背後から私の背を叩く圧倒的な魔力の嵐。呪いも憎しみも、何もかも吹き飛ばす煌めく光は、我らの振るう『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』と同じく、ただただ圧倒される輝きそのもの。

 その輝きに飲まれ、サクラからの魔力供給が———途絶えた。

 

 

「おおおおおおお———ッ!!」

 

「———ッ!」

 

 

 ガシャリ、ズブリ。

 私の身体から聞こえてくる、硬いものを貫く音と柔らかい物を引き裂く音。

 ひんやりとした感触が胸の中にある。冷たい水を飲み干した時のような、あるいは戦慄が走った時や驚いた時のようなひんやりとした感触がする。

 

 

「———ハ、ハハ」

 

 

 それがどうにも可笑しくて声を漏らすと、胸の中は驚く程に冷たいというのに、灼熱のような液体が込み上げて来る。

 軽く噎せ混んで吐き出せば、それは今まで見たことがないくらいに鮮やかな赤い液体であった。

 ああ、いや、そんなことはない。過去に幾度も見てきた赤色だ。

 怪我をした時でもなく、怒りに燃えたり悲しみに暮れたりした時でもなく、人が死ぬ時に流す血の色だ。

 

 

「負けるか、この騎士王(ワタシ)が‥‥小娘(アルトリア)に」

 

「そうだ、私の勝ちだ騎士王(ワタシ)

 

「ハ、ハハ、ハハハハ‥‥!」

 

 

 愉快だった。戦いの興奮とは違う高揚が私の胸の内に去来していた。

 悪くない。決して悪くはない。妥協せず、油断せず、慢心せず、私は私の思いをぶつけたし、小娘(アルトリア)もまた同じ。

 もちろん決して互いを許せなどしない。許容など出来ない。肯定など以ての他。だが、これもまた(よし)

 死闘の末、思いのぶつかり合いの末にこの結末があるとするならば、それは立派な幕引きである。役者は十分に、舞台を楽しんだ。

 

 

「なぁ小娘(アルトリア)、これだけは覚えておけ。我々の英霊としての在り方は“無念”だ。私も貴様も、その呪縛からは決して逃れられぬ。生涯を無念に生き、無念に終わらせてしまった英霊が、私たち騎士王(アーサー)なのだから」

 

 

 ただ貴い思いを胸に剣を執り、私達は王となったはずだった。

 しかしその実どうだ、その生涯は常に無念というどうしようもない感情と一緒にあったと言っても決して過言ではない。

 何もかもが無念に彩られていた。あの時代、敵対する者達も気持ちのいい連中ばかりで、倒せば其処に無念はあった。大勢のために村一つを犠牲にする決断をした前も後も無念だらけだ。挙句の果てには朋友(ランスロット)に裏切られ、息子(モードレッド)の叛乱を許し、国を滅ぼした。

 その全てが無念だったからこそ、許せなかったからこそ、英霊になったのだ。始めは間違いなどではなかったはずなのに、いつの間にか無念が澱のように身の内に溜まっていって、真っ黒になってしまったのが私だ。私達だ。

 

 

「だから小娘(アルトリア)、お前は無念を無念のままに許容出来なければいけない。それが、貴様の答でなければいけない。無念に身を委ねた騎士王(ワタシ)を、小娘(アルトリア)は否定したのだから‥‥」

 

 

 視界が霞む。英霊(サーヴァント)たるこの身の最期も、生身であった時と何ら変わらない。

 あの湖の畔で息絶えようとしていた私は世界と契約して英霊となり、そして無念の内に英霊としての存在を過ごしていた私から、私は生まれた。

 英霊(サーヴァント)としての騎士王(ワタシ)は世界との契約を全うすれば、あの湖の畔へと戻って今度こそ生を終えるのであろう。だが、今の私はどうなるのか?

 いつか世界と契約した存在ではなく、正真正銘の英霊として生まれる騎士王(アーサー)の中に戻るのであろうか。それともまさか、あの湖の畔で目覚めるのであろうか。あるいはこのまま何処へも逝かずに消え失せてしまうのかもしれない。

 嗚呼、しかし、もしも叶うものならば———

 

 

「また、戻りたいものだ。あのログレスの広野を駆けた頃に———」

 

 

 騎士王(ワタシ)が望んだ“やり直し”ではなく、ただ純粋に懐古として。

 国を救うだの過ちを正すだの、そんなことでは決してなく。

 また思うが儘に剣を振るい、朋友(とも)と笑い、(とも)と競い、平野を、森を、広野を駆ける。共に悩み苦しみ、共に剣を執る。

 思いのままに生きられるのならば、それはどんなに楽しいことだろうか。それはどんなに、輝いた生だったことだろ

うか。

 

 そんな幸せな夢を見られるのならば‥‥それはとても、幸せなことだろう———

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 倫敦滞在の時間は、帰る段になって振り返ってみれば驚くほどの速さで過ぎていった。

 ツアーというわけでもあるまいし、時間の使い方は個々人の思う通りだと油断していたらしい。それなりにのんびりと外国での短いながらも有意義な生活を楽しもうと思っていた連中も、気が付いてみれば興奮に任せて倫敦の街中を東奔西走していたようだ。

 実際、須藤や五島の言う通り、倫敦という街は観光地として極上のスポットであるに違いない。なにせ見るべき場所は両の手の指では数えきれないぐらいにあるし、首都であるからか普段の生活の利便性も東京に負けず劣らずといった感覚だ。

 強いて言うなら物価の高さには辟易したけれど、海外旅行の最中だとあまり気にならないものらしい。この日のために貯金をしていたらしい皆は結構な勢いで散財していて、それを呆れたように見ていたオレもなんだかんだで多めに見積もっていた予算は殆どなくなっていた。

 

 外国旅行、というのはやはり特別なものだろう。

 国内の旅行だと自分から楽しんでいく、ということをしなければならない。日本という土壌の中に観光客であるオレ達が適応しているから、そこにゆとりと余裕が生まれる。

 だから観光にプラスして、能動的に求めていかないと満足感を得られないのだ。日本でのツアー旅行はメジャーなわりにあまり人気がないのはこれに影響しているのだろう。安価なツアーや、目玉商品がないと客はついてこない。まぁ、人にもよるらしいけれど。

 その分、海外旅行っていうのは異色なものらしい。なにせ英語ぺらぺら外国語楽勝な人間ならともかく、普通の旅行客っていうのは最低限の英語ぐらいしか喋れないし、ひどい場合はちっとも意思疎通が出来ないなんてことがザラらしい。

 だからツアーが安心と言われるのだろう。入ってくる情報を処理するので精一杯で、自分から何かを楽しもうと工夫する余地がない。だからこそ興奮に素直に身を任せることが出来て、楽しい。

 

 

「おーい村崎ぃ、何のんびりしてやがんだ? もうそろそろ出国ゲートにいかないと間に合わねぇぞ?」

 

「あぁ悪い加藤、すぐに行く」

 

 

 再びのヒースロー空港である。

 行きも帰りも人混みの凄まじさは変わらない。やっぱり倫敦は影響力が低下したと言われる現代でも十分に情報や人の集積地点らしい。

 その人波の中でオレたち日本の高校生達は、それぞれ満足した雰囲気を出しながらまったりと話したり、写真をとったり、あるいは売店を漁っていたりしていた。

 各自、倫敦での日々を満喫し終わり、後は無事に日本へと帰るだけ。もちろん興奮は冷めやらないけれど、十分に満足した素晴らしい旅行だった、と思う。

 実のところたいしたことはしていないんだけどね。各々行きたいところを宣言して、被った連中が着いていく。そして観たいものを観て、驚き、感動して、買いたい物を買って楽しんだ。

 

 

「それにしてもアッーという間に過ぎちまったなぁ。もうちょっとのんびり出来るかと思ったんだが」

 

「一番はしゃいでたのは貴様だろう、五島よ」

 

「おいコラ須藤、人を世界遺産巡りに引っ張ってきやがって、眼福眼福言ってたのは何処のどちら様だっての。おかげさまでカワイイ女の子に声もかけらんなかったっつの」

 

「‥‥五島、貴様英語が出来たのか?」

 

「‥‥いや、そりゃおまえ、出来ないけどよ‥‥」

 

 

 加藤と逢坂は最初に色々言っていたけれど、オレがさっき心の中で呟いていたように、実際は色々と考える隙間なんて存在しなかった。

 とかく倫敦は見る場所が多すぎる。海外旅行について少し話したけれど、それと全く同じ現象に陥っていたのは不思議な可笑しさがあるだろう。

 正直、主体性というものに欠けると自己分析出来る性格のオレだというのに、この旅行中はずっと興奮しまくりだった。加藤が騒ぎまくり、逢坂と夫婦喧嘩を始め、それにオレがツッコミを入れるという旅行に来てからのパターンが、さらに激しくなったように思える。

 二人がごちゃごちゃ言っていたことについて考える余裕はなかった。というか二人も考えていたのか定かではない。そのぐらいの興奮具合で、とにかく見るものを見て楽しむものを楽しんだ。それで精一杯だった。満足したと言えるかもしれないけれど。

 

 

「———ハッ、そういや聖地巡礼出来てないじゃないか?!」

 

「今頃気づいたのか加藤。ていうか大英博物館には行ったじゃないか」

 

「行ったけど、行ったけどさぁ! なんかガイドさんの話を解読するだけで精一杯でさぁッ?!」

 

「‥‥あのガイドさんの英語、半分も分からなかったんだけど」

 

「安心してくれ逢坂、オレもだよ」

 

 

 原作において時計塔の所在地になっている大英博物館には行った。けれど確かに加藤の言うとおり、聖地巡礼云々の余計なことを考えながら楽しめたかと言えば、無理だったことだろう。

 なにせ日本人のツアーに紛れ込めば日本語のガイドがついたことだろうけれど、残念なことにノープランで大英博物館に行った俺たちはがっつり英語のガイドさんについていくしかなく、当然ながら言っていることの半分も分からない。

 ガイドさんの方もあからさまに日本人なオレ達に配慮したのか、かなり分かり易く喋ってくれているつもりだったんだろうけど‥‥如何せん人種の壁は分厚かった。

 単語だけなら苛烈な受験戦争と暗記競争を生き抜いてきているジャパニーズ高校生にはそこまでツライ関門でもない。ただ、発音の違いだけはどうにもならないのだ。

 何言ってるのか分からないっていうのはマジで文字通りの意味なのである。単語が分からないなら意味が分からないと言うわけで、何言ってるのか分からないというのはマジで聞き取れないことである。

 いやぁ、それなりにリスニングの授業を受けてるというのに殆ど分からないのはそれなり以上に落ち込んだ。高校の勉強なんてものはクソの益にも立たないらしい。

 

 

「まぁ楽しかったんだからいいじゃない。海外旅行なんて高校生の身分じゃ早々出来ないでしょ?」

 

「そりゃそうだけどさ。‥‥素直に受け止めるべきか。写真もたくさん撮ったし土産も買ったし」

 

「クラスの連中に配って、親に配って、これぐらいで足りるかね? 先生方にも配らないと対面悪いよなぁ?」

 

「これだけあれば万全であろう。というより、情けなくもこれ以上の予算がないと正直に言うべきか‥‥」

 

「え、いや、だってお前そりゃ、やっぱり金使いすぎたし」

 

 

 きまりの悪そうに口ごもる五島は目に映る食べ物を片っ端から買い漁っては食べ、あるいは土産にとホテルに持ち帰っていた。

 加藤が武道家ならば、五島はアスリート。しかも乱暴かつ軽い性格ながら常に鍛錬を欠かさないが故にかなりの大食いだった。食べた分だけ体力に変えると普段から豪語するだけある。

 もっともそれが原因で持ち金が尽き、最後の方などは仲間から借りていたのだから世話はない。なんだかんだ気持ちの良い奴だから借りた分はしっかりと礼までつけて返すことだろう。

 

 

「しかし五島、貴様は食い物以外の土産は買わなかったのか? 逢坂や他の女子などはネックレスやら何やら随分と出店で買っていたようだが」

 

「男がそんなもん買ってどうすんだよ。ホラ、みんな揃いでキーホルダーを一つ買ったじゃねぇか。それで十分だよ」

 

 

 コペントガーデンの出店で買った、お揃いのキーホルダーを五島が弄ぶ。

 色とりどりに染色された麻紐のようなもので出自不明、正体不明の何種類かの鉱石を編み込んだシンプルなものだ。どちらかというとイギリスらしい、というよりは何処ぞの民芸品のようだった。

 少しずつ色の違う淡い石は控えめな装飾で、男子にも女子にも似合いそうだ。実際、これを見つけ出した加藤と逢坂のセンスはかなり良いと思う。

 携帯に付けても良し、鞄に付けても良し、財布に付けても良し。実際もう全員が各々好みの場所に揃いのキーホルダーを付けていた。

 

 

「さぁもう行こうぜ、名残惜しいのは分かるが時間だ」

 

 

 もう飛行機が出発する時間である。既に荷物を預けておいたオレ達は、軽装のまま飛行機へと乗り込んだ。

 またもや始まる長い空の旅である。

行きは興奮があったからか他の乗客の邪魔にならないようにしながらも賑やかに喋っていたけれど、帰りはおそらく疲れて眠りこけてしまうことだろう。

 あまり広くないエコノミーシートに腰掛けながら、オレ達は尽きぬ思い出話を語り合った。いくつかのグループに分かれて別行動をしていたのだ。倫敦にいる最中は本当に忙しくあちらこちらを走り回っていたから、やっとこさ他の連中の話を聞けるのだ。

 加藤が馬鹿をやった、逢坂が馬鹿をやった、そもそも五島は馬鹿そのものだったなど、最後は多少ならず須藤の私情に塗れた話だったろうけれど、楽しく話し尽くした。

 

 

「‥‥?」

 

「どうした、村崎?」

 

「いや、今なんか不審な振動があったような気がしたんだけど‥‥なんだろうと思って」

 

「どうせタイヤが小石でも踏みつけたんだろ? そんなことよりさ、この緊急事態のガイドをcv若本で読み上げる大会やろうぜ」

 

「‥‥なぁにを言っているんだぁ加藤ぅ」

 

「あ、意外にノルんだ、お前」

 

 

 そうこうしている内に、ゆっくりと飛行機は動き出す。

 ぐるりと飛行場を回り、出発滑走路へ。そして加速して空へと飛び出した。

 空を飛ぶという非人間的な行為に思わず体、五感、神経が緊張する。飛行機の振動全てが自分の手足で地面を、空気をなぞり、嵐の空を駆け上るイメージ。

 その中に感じた少しの違和感に過度にビクビクしてしまうけど、そんなオレを加藤は軽快に笑い飛ばした。確かに気にし過ぎと言えば間違いなく気にし過ぎで、ちょっとナーバスになっていたのかもしれない。

 毎月のように飛行機に運ばれている俺とはいえ‥‥あれ、おかしいぞ、オレはこれが飛行機に乗るのは二回目のはず———

 

 

「———いや加藤やっぱりおかしい! 加速が安定しない!」

 

「何ぃッ?!」

 

 

 グングンと空へと上がる等加速のはずが、機体がスピードに乗っていない。

 乃ち不十分な加速は不十分な飛行、そして不十分な滑空と不十分な降下を意味する。

 いったい何があったのか俺にも分からない。しかし必要以上に焦るオレの様子を見て血相を変えた加藤も隣の逢坂も、早くも寝る姿勢に入った須藤も機内食のパンフレットを眺める五島も他のクラスメートも。

 自分達に待つ未来が何なのかは直ぐに知ることになる。

 

 

『———Attention please, this plane has problem now! Set your seatbelt and keep your body to inmact———』

 

 

 気持ちの良い滑空の感覚に背筋も凍る不安定な悪寒が疾る。

 明らかな異常。それも命に危険を覚えるレベルの。機内が、騒然とした。

 

 

「なんだこりゃ?! おいこら須藤さっさと起きろ! 五秒で寝付くんじゃねぇ!!」

 

「め、面妖な! 一体何事なのだ?!」

 

「俺に分かるかよッ! とにかくシートにしっかり背中付けて歯ァ食いしばれ!」

 

 

 不安定に上昇と下降を繰り返す機体。今まで安心して体を委ねていた飛行機が突然に壁も椅子も何もないジェットコースターに乗っている気分になる。

 殆ど変わらない。このジェットコースターには何百人も乗っていて、普通のジェットコースターを遙かに凌ぐ鉄の塊で、上がり始めだったにしても高度は数百メートルを超え、おそらくこのまま落ちればオレ達は間違いなく、死ぬ。

 

 

「ちょ、ちょっと慎一郎どうすればいいの?!」

 

「落ち着け湊! 五島が言った通りだ! ショックに備えてシートにしっかり背中を預けろ!」

 

 

 少し降下する、なんてものじゃない。この不安定な揺れは、どう考えても致命的な何かが飛行機に起きたことを意味している。

 意外に冷静で緊急時のイロハを知っているらしい五島の指示で、全員がシートに背中を預けて耐ショック姿勢をとった。もう誰もがこのまま無事に飛行機の故障が直り、空の旅に戻れるとは思っていなかった。最悪の事態が、一番可能性の高い事態だと分かってしまっていた。

 生半可な希望も楽観も出来ない状況に、全員の顔が歪んでいた。あの気の強い逢坂ですら懸命に歯を食いしばって、恐怖に怯えた瞳で前を睨みつけている。

 歯を剥き出しにして怒りにも似た表情をしている五島。目をつむり、念仏を唱える須藤。そしてこちらを心配そうに見る加藤。

 

 多分、ある瞬間に全員が全員、覚悟を決めた。

 それは死ぬ、ということを許容するという意味ではなく、ただ死が迫っているという事態を確かめるということである。

 だから完全に飛行機がグラリと揺れて墜落しようとした時に感じたのは、ああやっぱり、という悲痛な確信だった。

 激しいGと、続いておそった未だかつて体験したこともないような衝撃。

 それらによって脳から意識を吹き飛ばされる直前に去来した感覚は、意識と一緒に、何か自分の核のようなものが自分の体から離れていく。

 

 そんな不思議な、感触だった———

 

 

 

 87th act Fin.

 

 

 




改訂版の執筆を優先するつもりでしたが、ちょっと悩んでます。
リアルが忙しいので色々と遅れそうですが、なんとか書いていくつもりですので、どうぞ宜しくお願いします。


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第八十七話『姉妹達の決着』

 

 

 side Sakura Makiri

 

 

 

 ただ、圧倒的な閃光が視界を灼いた。

 何も感じはしなかった。身体を魔力で焼き尽くされる感覚も、五体を衝撃で打ち砕かれる感触も、臓腑をズタズタに引き裂かれるイメージも無かった。

 あったのは唯、身体の奥の奥、ワタシという存在を構成する骨子のようなものまで響く衝撃。そして全身に満ちていた、尽きることなく湧き出していた魔力の消失。

 打ちのめされる。身体でなく、ワタシの意思が。ワタシという概念が。圧倒的な魔力は、虹色の極光の輝きは、破壊でも殺戮でもなく唯それだけを齎した。

 

 

「サクラ‥‥」

 

 

 驚く程に苦しみも痛みもなく、むしろ魔力と存在するための“導《しるべ》”を失った代わりに不思議な充足感が全身を満たしている。

 ワタシを暴虐と残酷に駆り立てていた『この世全ての悪(アンリ・マユ)』が消失し、代わりに姉さんの七色の魔力に充たされていた。

 其処には魔力に宿るはずのない、人間の感情が確かに宿っていた。姉さんの思いが、想いが伝わってくる。さっきまで散々交わした言葉の中に込められていた姉さんの思いが、直接ワタシの中へと染み渡っていく。

 魂など持たぬ仮初めの存在である私の中に、確かに感じた芯のようなナニカ。それが、姉さんの感情、思慕の情に狂おしい程なまでの感謝と歓喜を覚えている。

 震えを隠せないままに、声をかけてきた姉さん。ただ眩しいその姿に、ワタシは静かな面持ちで口を開いた。

 

 

「ああ、姉さんはやっぱり姉さんだ。いつも眩しくて、いつも綺麗で、いつも強くて‥‥」

 

「サクラ、私は‥‥」

 

「いいんです、気にしないで下さい姉さん。何故かしら、とっても気分がいいんです。怒ってもらって、叱ってもらって嬉しいなんて、おかしいですよね」

 

 

 ああ、なんで泣きそうな顔をしているんだろう。姉さんは何も悪いことはしていないのに。

 今になって、漸く分かったんですよ? ねぇ、姉さん。私は何でもいい、姉さんとこうして言葉を交わしたかった。

 辛いって言ったら、慰めて欲しかった。耐えられないって言ったら、助けて欲しかった。‥‥悪いことをしたら、叱って欲しかった。

 ワタシのやって欲しかったことをやってくれたというのに、あぁ姉さん、どうして貴女は泣いてるんですか。

 

 

「どうして、笑ってられるのよ。どれだけ言葉を繕ったって、私がサクラを間桐のお屋敷に遣ったことは変わらないじゃない。

 私が遠坂の屋敷で魔術師になる修行をしている間に、サクラは蟲になる拷問を受けていただなんて‥‥どうして、そんな、姉妹なのに‥‥!」

 

 

 全部を分かって、ワタシを倒すと決めて、実行して、それでも姉さんは哀しいと泣いていた。

 ワタシを倒すために全身の魔術回路に負荷をかけて、体中の血管が裂けて血が流れている。筋肉だって断裂しているだろう。それだけの反動が、あの極光にはあったのだ。

 それだけの技を行使する決意をして、それでも自分が不甲斐ないと涙する。自分のやるべきことを理解し、心は許容出来ないままに魔術師として必要なことを為すことが出来る。それが、姉さんだった。

 だから姉さんは眩しいのだ。強いけど、弱い。でもやっぱり強い。そんな矛盾した、あるいは歪な評価は憧れという形で周囲の皆に表れる。

 

 ワタシを倒さなければ、姉さんが死ぬ。あるいは紫遙さんを助けに行くことが出来ない。

 でもワタシが蟲に成り果ててしまったことも、許せない。何が許せないって、のうのうと遠坂の屋敷で暮らしていた自分自身。ワタシの境遇に気づけなかった姉である自分自身。

 例えワタシが何も姉さんに訴えなかったとしても、それを悪いことだと言いながらも、それでも気づけなかった自分が許せない。ワタシを助けたい、ワタシを愛したい。そういう想い全てがワタシの全身を姉さんの魔力として駆け巡っている。

 もちろん、それは破滅の魔力だ。ワタシという存在を分解し、吹き飛ばそうとする力だ。ワタシを倒すために振るわれた極光そのものなのだから、そんなものは当然の道理。

 

 でも、そう、姉さんの想いを存在そのもので受け止めたからこそ理解《わか》る。姉さんが全力でワタシを愛してくれていることが。

 だからこそ、今までの全てが最早どうでもいい。今この瞬間、これほどまでに姉さんから愛されていることに比べれば、今までの憎しみなんてどんな意味があるだろう。

 

 

「そう、ですね。憎んだことも恨んだこともあった。ずっと姉さんに憧れてて、姉さんが眩しくて、ワタシと同じ目に遭わせてやろうと思ってました。

 でも、もういいんです。だってワタシは言いたいことを全て言ったし、姉さんの想いも全部この身で理解出来た。そして、姉さんがどれほどワタシを愛してくれているのかも」

 

 

 心を満たす幸せな気持ちと裏腹に、身体の感触が薄れていく。

 ワタシという存在を構成していた魔力が吹き飛び、あとは空気みたいに薄くなってしまった殻が消え去っていくだけ。もう、ワタシが消えるまで幾らかもない。

 黒い聖杯によって喚び出されたセイバーさんも、消えてしまった。姉さんの極光の余波だけで、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』も存在を崩壊させようとしている。

 まぁ、それも当然。いわば依代のようなものだった母胎たるワタシが消えれば、あの子も同じように消え去る定め。いえ、もとよりこの舞台そのものが虚構なのだから、劇が終わってしまえば御用なのだ。

 

 

「こんなに幸せなままで、ワタシは逝ける。一時の舞台に喚び出された夢幻(ゆめまぼろし)の分際には過ぎた幸福です。まさか、こんな気持ちを味わえるなんて思ってもいなかった。

 ねぇ姉さん、逆恨みで貴女を汚そうとしたこんな私に、とんだ姉不孝な私に、貴女は今までで一番の幸せを与えてくれた。これ以上、何を望むと言うんですか。もう、満足です」

 

「嘘よ、そんなの、どうして笑っていなくなれるの。もう私は貴女に何もしてあげられないのに! せっかくサクラを理解出来たのに、これからサクラの力になれるのに、一緒にいられるのに!

 ねぇサクラ、どうして消えちゃうのよ! 私を置いて、消えちゃうのよ!」

 

 

 震え、泣き続ける姉さんの頬へと薄れかけた手を伸ばす。

 微かに指先へと伝わった感触は、真珠のように光るかけがえのない涙の粒。あんなに強い姉さんが、強くて弱い姉さんが見せてくれた、滅多に見れない弱さの結晶。

 そんな些細なことだけで嬉しく感じてしまう私は、感嘆な人間なのだろうか。あるいは卑屈で、どうしようもなく陰湿な人間なのかもしれない。

 でも当然のことなのだ。今までずっと姉さんに感じていたどす黒い劣等感が、今こうして一緒にいることで、姉さんと並び立っているという思いが込み上げてくるのだから。

何の負い目もなく、何の暗い思いもなく、ただ隣でこうして一緒に喋ったり、泣いたり、笑ったり、時には喧嘩するのもいいかもしれない。ワタシは唯それを望んでいた。

 世間一般の姉妹が当たり前のように、呼吸をするかのように出来ている交わり。それがどうしても欲しかったのだ。だから、もう満足だというのに。

 

 

「だって姉さん、ワタシの役目はもうお終いなんです。ワタシにはもう台詞も演技も残っていません。次の幕では、次の役者に演じてもらうだけ。ワタシはもう袖の裏へと捌けなければ」

 

 

 姉さんは残酷だ。幸せなままに消えていけるはずだったワタシを引きとめようとしているのだから。

 もうワタシはどうやっても現世に残ることはない。

いや、もはやこの場所そのものが現世ではなく仮初めの舞台なのだから、この舞台そのものが消え去ってしまう今、ワタシが虚空へと消え去るのもまた必然。

 だというのに姉さんはワタシに後顧の憂いを残そうとする。今までワタシなんていないかのように振舞って、ワタシを叱ろうとして、憧れ、嫉妬すら抱く程に強い姿を見せつけていたというのに。

 最後の最後で姉さんがワタシに見せたのは、まるで

ワタシがいなければ死んでしまうとでも言いたげなか細い声と震える肩。

 

 

「アンタこそ、無責任なことばっかり言って。文句ばっかり言うだけ言って消えるなんて、卑怯じゃない‥‥ッ!」

 

「あは、そう言われてみればそうですね。でもいいじゃないですか。どうせなら最後まで甘えさせて下さい。それに貰いっぱなしじゃありませんよ。姉さんには、お願いがあるんです」

 

「‥‥お願いが?」

 

「ええ。このまま消えちゃうワタシの、最後のお願いが」

 

 

 最初に相見えた時と変わらず、力強いままに涙を流し、肩を震わせて立つ姉さん。

 そんな姉さんの肩に、まるで空気そのものみたいに軽く、希薄になってしまった掌を乗せてワタシは、最後に一番大事で、もう十年ぶりになる“お願い”をした。

 

 

「―――“私”を頼みます、姉さん」

 

「“私”‥‥?」

 

「そう。きっと今もこの城の何処かで戦ってる、この世界の私を。姉さんの、本当の妹の私を助けてあげてください。

 ワタシは姉さんに救われた。もう満足です。思い残すことは何もありません。けれど、きっと私はまだ

姉さんと心を通わせていない。まだ、姉さんとこうやって仲直り出来ていないと思うんです。

 だから姉さん、ワタシのために何かしてやれないかって思ったのなら、どうぞ私を、間桐桜を助けてあげて下さい」

 

 

 ワタシの中にある、紫遙さんの記憶を辿る。

 倫敦へと行ってしまった姉さんと先輩を追いかけるわけにもいかず、追いかけられず、ただ衛宮の屋敷で漫然と過ごし、蟲蔵で陵辱されるだけの毎日を過ごしていた私。

 そんな私を苦しめていたお爺様を殺し尽くして、解放してくれた大事な恩人。私に新たな道を指し示してくれた紫色の魔術師。

 でも、結局のところ私は姉さんとの仲を解決出来ていない。ワタシのように姉さんと思いをぶつけ合ったわけでもなく、“私”のようになし崩しに聖杯戦争へと引き摺り込まれていったわけでもない。

 だから実のところ、私を取り巻く状況が変わっても、私の心までもが変わったわけではないのだ。ワタシのような、本当の救いを貰っていない。

 汚れたままで、蟲のままでも良いと言ってくれた。ただそれだけのことが、実は蟲から人になったり、綺麗になったりすることよりも遥かに大事だったということに気づけていない。

 未だに汚れた自分を、蟲である自分を引きずってしまっている。そんな矮小で卑屈でどうしようもない私を。

 どうぞ姉さん、救って下さい。

 

 

「‥‥勝手なこと、言ってくれるわよね。私と貴女がこうやって話してたことなんて、あの子は何も知らないっていうのに。突然私からこんな話されたらどんな

顔をすることやら」

 

「む、それは心外です。勝手なのは姉さんだって一緒じゃないですか。こうやってワタシを吹き飛ばすことで救おうとするなんて、そんな物騒なこと普通は考えたりしませんよ」

 

「そりゃ確かにそうだけど‥‥いいじゃない、結果的に上手く行ったんだから。上手く行くっていう確信がなかったらやらないわよ、こんなこと」

 

「はぁ、余裕を持って優雅たれ、なんて遠坂の当主が聞いて呆れます。物騒な、とかつけたら如何ですか?」

 

「‥‥自分が消えかけてるから殴れないと思って、好き勝手言ってくれるじゃない」

 

「これぐらい緩い方が、お互い気が楽でしょう?」

 

「さっきまでシリアスだったじゃない。調子狂っちゃうわよ、もう‥‥」

 

 

 ワタシのように、ある意味では非常に強引な手段での解決は出来ないだろう。仮に姉さんが突然この話を切り出したとしたら、私の性格からすると先ずは何処から秘密が漏れたのかと錯乱してもおかしくはない。

 だからこその、お願い。姉さんには大変なことをお願いしていると分かっている。けれど、そんな甘えを許してくれるとも、分かっている。

 つまるところ本当に残酷なのは、姐さんの言う通り、ワタシなのかもしれない。勝手にお願いをして、勝手に消えてしまうのだから。

 結局はどちらも同じくらい卑怯で残酷で、そして互いに想い合っている。ああ、何回心の中で叫んだことだろう。どうしてもこんなに、嬉しくて仕方がない。

 

 

「‥‥さぁ姉さん、もうこの空間は崩れます。どうぞ行って下さい。そして紫遙さんを‥‥助けてあげて」

 

「サクラ‥‥」

 

「ワタシは蒼崎紫遙、あるいは村崎嗣郎という人物の記憶を媒体にして生まれた虚像です。故に現在その殆どを記憶の再現に使っているこの城のことは大体分かりますし、紫遙さんが今どんな状況にいるのかも。

 だから姉さん、急いで。コンラート・E・ヴィドヘルツルに紫遙さんを害する意思はありませんが、それも研究のためならばどう変わるか分からない。急がなければ、紫遙さんの精神が保たないかも‥‥」

 

 

 そう、ワタシは一人の人物の記憶という曖昧なもので固定された概念。その存在は擬似固有結界『メモリー』によって作り上げられたこの異空間の中でしか維持出来ない。

 本来ならばコンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師が保有することの適わない無限の魔力をワタシが操れているのは、この異空間の中でのみ循環されるう特殊な式を、あの魔術師が張り巡らせているからだ。

 つまり全ての舞台(シーン)は繋がっている。舞台(シーン)を演じる役者達は、大体他の舞台(シーン)のことや、この城のことは把握していると言える。

 ワタシ達の他に舞台は二つ。姉さん達があまりにも多すぎたからだろう、バラバラにされた一行は逆に各個撃破を見事に退け、それぞれがそれぞれの敵を退けていた。

 あるいはそれを、人は順調と呼ぶのかもしれない。けれどワタシには分かる。コンラート・E・ヴィドヘルツルは正真正銘の大魔術師だ。姉さん達は三手に分けられたけれど、それは果たして三つの舞台しか用意できなかったという意味なんでしょうか。

 封印指定。あらゆる魔術師にとっての最大の栄誉であり、最大の厄介。そんなものを受ける魔術師が、どうして姉さん達が簡単に御せる相手だと思えるのでしょうか。

 

 全ては、あの魔術師にとってしてみれば戯れ。

 大富豪というカードゲームに例えてみるならば、2やA、あるいはジョーカーやスペードの3を持っている状態で弱いカードでの戯れを楽しむようなこと。

 こうして姉さん達が必死で戦ったところで、全てはあの魔術師の掌の上。故に、何よりも大事なのは敵の戦略に手を打っていく対処療法ではなく、ゲーム盤ごと全てを引っ繰り返す力業。あるいは速攻。

 

 何より相手があの狂人ならば、何をしでかすか分からない。

 彼は紫遙さんに対して変態的な執着を持っているみたいだけれど、それもまた彼の目的を‥‥上位世界へ達するという彼の目的を果たすためのもの。

 ならば某かの手段によって上位世界へ至ることが可能だと知れた瞬間に、紫遙さんの安否に関係なくその手段を実行しかねない狂人がコンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師だ。

 下手すると『彼の尊い自己犠牲によって我々は高次元の存在へと消化されるっ!』とか叫び出しかねませんし。

 

 

「最初の目的を、忘れないで。私みたいな虚像よりも、紫遙さんの方を気にかけてあげて下さい」

 

 

 すでに世界は存在を薄れさせてきている。

 全体が希薄になってくるわけではない。存在濃度の高い場所あら順に薄れていき、強度が脆くなったところは、まるで現実の物体のように崩れていく。

 いくら姉さん達がこの夢のような空間に紛れ込んだだけだとはいっても、ここでの死は決して精神の死などという生やさしいものじゃあない。それは純粋に、只の死。

 ならば、今すぐに解れた疑似固有結界の隙間を縫って現実の空間へと戻らなければ。姉さん自身のために、紫遙さんのために。‥‥そして、おそらくは“私”のためにも。

 

 

「‥‥サクラさん、お祈りは要りますか? 私は一応、司祭の地位にありますが」

 

「えぇ、いえ、結構ですシエルさん。映画の登場人物に感情移入しても、死を悼んでも、祈りを捧げる人はいないでしょう? 私もまた同じ存在。ならば、祈りは実在する人のための助力に替えて―――」

 

 

 聖書を取り出したシエルさんの申し出を、ワタシは頭《かぶり》を振って断った。

 ワタシと姉さんとの会話に口を挟まず、見守っていてくれた年上の先輩。ワタシと同じ、いえ、さらに惨い境遇を経ながらもにこやかに笑ってみせる強い人。

 だけど、ワタシに祈りは必要ない。これから消え去るワタシに、行く先も分からず、おそらくは虚無へと消えていく虚像への祈りなんて必要がない。

 

 

「‥‥サクラ」

 

「さぁ行ってください、姉さん。‥‥ありがとう」

 

 

 最後に感謝の言葉を呟くと、マキリサクラという存在を構成する外見要素のすべてが霧となって虚空へ消える。

 けれど、それは外見要素だけ。まだマキリサクラの意識や存在の概念は不可視の魔力となって空間に残っていた。周囲に干渉は一切できない、ただの意識として。

 それを知ってか知らずか、時間がないというのに姉さんはその場で黙って目をつむり、俯いていた。ワタシを悼んでくれているのだろうか。それとも改めて後悔しているのだろうか。あるいは、絶望していたのかもしれない。

 けれど次の瞬間に勢いよくあげた顔には、ワタシが一番欲しかった表情が浮かんでいた。

 

 ワタシのことを思いやる優しい顔でもなく。

 ワタシの境遇を悼む哀しい顔でもなく。

 ワタシへの仕打ちを悔いる絶望した顔でもなく。

 

 其処に表れていたのは、ただただ真っ直ぐな決意を込めた瞳。

 誰もが憧れる、ともすれば眩しすぎて目を逸らしたくなる輝き。ワタシ達のような人間には近寄ることすら忌わしい正道の光。

 けど、だからこそ、それでこそ。

 それだからこそワタシは姉さんに憧れた。憎んだ。妬んだのだ。そうでなかったら影を使って縊り殺しておしまいだったろう。そうでなければ、これほどまでに執着しなかったことだろう。

 

 だからワタシが憧れた姉さんこそ、最後に見たかった人そのもの。

 その太陽みたいに強い光に照らされて、包まれて、抱きしめられるような感覚。

 まるで姉さんに抱きしめてもらっているかのような感覚の中で、ワタシの意識も、薄れていった。

 

 ―――嗚呼、だから姉さん。

 ―――姉さん。

 ―――姉さん、ありがとうございました‥‥

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「―――うわぁッ?!」

 

 

 普通の寝起きにはない、まるで全身隈なく重いハンマーで殴られたかのような衝撃で、オレは自分のベッドから起き上がった。

 心臓の鼓動が急激に引き上げられて悲鳴を上げている。安らかな睡眠から一気に恐慌状態へとギアを引き上げられた脳に血液が集まり、パンクしそうだ。ドッと噴出した汗のためか、全身の汗腺にも無理やりこじ開けられたような刺すような痛みが襲っている。

 

 

「なん‥‥だ‥‥?」

 

 

 まったくわからない、突然の恐慌状態に何よりも先に感じたのは疑問だった。

 間違いないのは、ついさっき、今の今まで自分は安らかな眠りの中にいたはずだという確信。何の予兆も理由もなく、突然オレはこのパニックの中に放り込まれたに違いない。

 寝そべっていたベッドのシーツを触れば、ほとんど汗に濡れていない。たぶん、この汗はオレが悲鳴を上げて飛び起きてからすぐに噴出したものなんだろう。

 シャワーを浴びたあとだって言っても不思議じゃないくらいの汗なのに、その理由とパニックの下人が何も思い当たらない。悪夢を見たのなら継続的に魘されていたはずで、だとしたらこんな突然に汗をかくはずがないのだ。

 

 

「頭‥‥痛い‥‥。水でも飲んだら、よくなるか‥‥?」

 

 

 絶賛絶不調だった。

 心臓と頭、汗もさることながら、手足がこれでもかってぐらい震えている。

 見上げた清潔で真っ白い天井はすっきりした目覚めを促すはずなのに、それ以上に体の不調が酷すぎて心が休まらない。むしろ今は寝ることで安息を得るよりも、動いて気を紛らわせたほうがいいってぐらいに。

 

 どれほどまでの恐怖に遭遇すれば、ここまでのパニックに陥るだろう。

 突然の発汗も疑惑のてんこ盛りだったけれど、こちらもこちらで同じくらいの疑問。今まで、一度たりとも遭遇したことがないパニックに、どうして寝てる間に遭遇したのだろうか。

 人間の想像力というものは時に現実の出来事を凌ぐとは思うけれど、それでもオレという人間の持つ経験から生まれた想像力がイメージできる恐怖には限界があるはずだ。少なくとも、悪夢の類なんかじゃ決してない。

 

 

「‥‥水」

 

 

 ふらふらと、おぼつかない足取りでロフトベッドから降りる。

 六畳ほどの丁度良いオレの私室は、まぁ男子高校生らしく程よい生活感に包まれていて、その辺りは特に感慨深いものじゃないだろう。

 特筆すべき点もない、ごく普通の部屋。最初からあった部屋に、必要な家具やら趣味の品―――少量の少年漫画やらCDの類、あとは勉強道具ばかりだ―――が棚に押し込まれているだけ。

 唯一、高校生男子が持つには微妙に過分な大きさのCDコンポぐらいがオレの趣味をはっきりと主張している。たぶん相当にオヤジくさいと思われるけど、オレの趣味はクラシックやオペラ、ミュージカルの鑑賞だった。

 

 

「‥‥普通の棚、だよな。なんかこの並びに一瞬違和感を感じたけど‥‥気のせいか?」

 

 

 CDが並べてある棚を見ても、違和感なんてものは殆どない。

 “違和感を感じた”というよりは、“違和感を覚えるはずだ”という違和感を覚えたと言った方が正しいような感覚だった。

 実に回りくどくて分かりづらいけど、そういう表現が一番しっくりくる。しかしその理由もはっきりしない。実にもやもやした厭な気分である。

 自分が今何処に、あるいはどの時間にいるのかすら不確定な感覚が、たまらない気持ち悪さを生み出した。

 

 

「いかん、授業の準備をしてしまわないと。‥‥今日は、一限から体育だったか」

 

 

 まるで自然に、体が動く。昨日の内に朝やるべきことのプランは大体が立っているとはいえ、先ほど陥った恐慌状態や微妙な違和感を考えると不思議なくらいスムーズに鞄の中へ今日の授業に必要なものを突っ込んでいく。

 何処になにがあるのか、なんて当たり前のことを当たり前のままに考えられるのは、また同じように当然なこと。けれどそれでも物の置き場所なんてどうでもよいことを忘れてしまうのが人間という生き物で、それにしては何も考えないままにスイスイと教科書や筆記具、ノートを手に取っては小さな鞄へと放り投げた。

 

 

「‥‥小気味いいような、悪いような。変だな、まるで寝てるのに体が動くみたいだ」」

 

 

 部屋に備え付けの鏡を見ても、映るのは見飽きた自分の顔。

 そも一晩寝た程度で何が変わるというわけでもないはずなのに、何故かどうしようもないぐらい不安な波に襲われる。突然、自分という人物が変わってしまったのではないか。あるいは誰かが、自分になりすましているのではないか。

 自分という存在は、自分と入れ替わったその人物に宿った意識、あるいは幽霊のようなもので、本体はとっくの昔に乗っ取られているのではないか。

 ‥‥友人が聞いたら鼻で笑った後、あちらこちらに言いふらして盛大に笑い話へと変えてしまいそうな妄想を、未だに鈍痛がやまない頭を無理やりブンブンと振りたくって追い払った。

 

  

「―――ちょっとアンタ、さっきから一人で何やってるの?」

 

「え?」

 

「え、じゃないわよまったく。昨日は夜遅くまで居間でゲームやってたんでしょ? それのせいで寝とぼけてるんじゃないの?」

 

 

 くるりと視線を後ろの方へ移動させると、そこには一人の女性が呆れたように立ち尽くしていた。

 歳の頃は四十ぐらいだろうか。少なくとも五十には達していないだろうし、三十というには微妙に若すぎる。どこにでもいる、ありふれた主婦という風体。

 

 

「母、さん‥‥?」

 

「あらあら、ほんとに寝とぼけてるみたいね? 鍵がかかってなかったから勝手に入らせてもらったけど、もうそろそろいい時間よ? これからすぐにご飯食べて、支度して、急いで出なきゃ一限に間に合わないんじゃないかしら」

 

 

 また振り返って壁に架けてある時計の方を見ると、大きめのデジタル時計―――アナログ時計はカチコチという秒針の音が耳触りで嫌いだ―――は既に普段の起床時刻の三十分も後を指していた。

 ハッと、圧倒的な事実を前に一気に意識が覚醒する。オレの家から高校までは総計三十分ちょっと。結構近いけど、流石に授業が始まる十分くらい前には到着しておきたいところだ。

 ましてやシャワーを浴びたり朝食を摂ったりすることを考えると、急いだほうがいい。

 

 

「いっけね、こりゃゆっくりしてらんないや! 起こしてくれてありがとう!」

 

「分かったから、とっととシャワー浴びてきなさいな。朝ごはんは準備しておいてあげるから」

 

 

 椅子の背にかけてあった制服一式を掠めるようにして取ると、急ぎ足で風呂場へと向かう。

 即座に飛び込んで、出始めの冷たい水を顔に浴びせた。春も近いとはいえ冬場の冷水の温度はもはや暴力的なまでに凍えるけど、体と脳みそを冷やせば確実に意識は覚醒するものだ。 

 

 体を拭き、風呂場から直接つながったリビングダイニングへと向かう。

 食卓には普段通りの朝食が広がっているけれど、ちょっと今日は時間がないのでゆっくりと味わっている暇はないだろう。ちょっと早食いっていうのは体によくないから嫌いなんだけど、仕方がない。納豆ごはんを勢いよくかっ込み始めた。

 

 ちなみにウチの納豆は卵とネギだけの簡素なもの。カラシは抜くけど、納豆パックについているタレはしっかりとかける。

 昔は大根おろしを入れてみたり、キムチを混ぜてみたり、山芋と一緒にしてみたり、麺つゆを使ってみたりしたんだけど、やっぱりシンプルイズベスト。

 個人的には納豆ごはんに、味噌汁と漬物があれば他にはなにもいらない。これはもう日本人としてDNAに組み込まれているのではないかと思うぐらい、オレの食生活にぴったりと合っている。

 ベーシックなキュウリや白菜の浅漬けも大好物だけど、今日の食卓に上っているのはあまりスーパーなどでは一般的ではない白瓜の漬物。

 加熱した瓜とかはあんまり好きじゃないから最初はどうかと思ったんだけど、これが食べてみるとびっくりするぐらい美味しい。キュウリや白菜がシャキシャキしているのに対して、城瓜はコリコリと独特の分厚い噛み応えがある。

 以来、白瓜の旬を待ち望むようになってしまうぐらい大好きになってしまった。

 

 

「アンタ本当にそれ好きよねえ。たくさん作っても父さんと二人で一日もしない内に食べ尽くしちゃうんだから」

 

「いや、だってこれおいしいし。ついつい箸が進んじゃうんだよねぇ‥‥」

 

「はいはい。また作ってあげるから、急いで食べ終わっちゃいなさい。ホントにいい加減にしないと今度こそ遅刻するわよ!」

 

「あぁ、確かに」

 

 

 母さんの忠告に従って、半ば飲み込むようにして朝食を終えると洗面所で歯を磨く。

 やっぱり納豆は好きだけど、これを食べるとしっかり口臭対策をしなくちゃならない。いくら女子にモテたいとか積極的に思ってるわけじゃないとしても、それでも身綺麗にしておかなければ好かれる以前に嫌われてしまうことは請け合いだ。

 

 

「忘れ物はない? 今日は何時に帰るのかしら?」

 

「そんなに遅くはならないと思うよ。夕飯までに帰れなかったら、またメールするから」

 

「そう。それじゃあ気を付けて行ってらっしゃい、嗣朗(しろう)」

 

「おっけー、行ってきます」

 

 

 オレの残した食器を洗いながら、キッチンから顔を出して声をかけてくれる母さんに挨拶、玄関を出る。

 貿易商をしているらしい父さんのおかげか、一般的なレベルではあるとはいえ一戸建ての家は、三人暮らし―――比較的頻繁に母子家庭―――にはちょっと広いかもしれない。

 

 生まれたときから十五年以上も住み続けている我が家。

 朝から続いた違和感は、朝食の前ぐらいにはほとんど払拭されていたはずなのに、何故だろうか。

 

 振り返って眺めたオレの家には、

 『村崎』の表札がついたオレの家には、

 

 どうしてだか、どうしようもない既視感を拭い去ることが出来なかった。

 

 

 

 

 88h act Fin.

 



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第八十八話『救援隊の困惑』

大変お待たせしました、倫敦最新話をお届けします。
今回は救援隊のお話がメインで、嗣郎君については少しだけ。
色々と疑問もあるでしょうが、ここから彼の戦いが急ピッチで進んでいきます。
どうぞよろしく!


 

 

 side Shiro EMIYA

 

 

 

 閃光が視界を灼き、たまらず目を閉じた。

 鬱蒼とした緑と、どこまでも続く深い暗闇に閉ざされた公園は何処かへと消え、やがて取り戻した視界に映るのは最初に俺達が辿り着いた大広間。

 不規則なひび割れ模様が走る床に、あるいは膝をつき、あるいは何でもないように佇むのは、さっきまで一緒に死徒二十七祖の一柱と戦ったみんな。世界最強の一つと対峙し、打倒した疲労を隠せず、ただ独り着物にジャケットというちぐはぐな格好をした式だけが泰然と構えていた。

 

 

「‥‥戻って、きましたの?」

 

 

 情けなくも肩を貸してもらっていたルヴィアが、周りを見て呆然と呟いた。

 俺達以外に人影はなく。ただただ静寂が広がっている。そして主に俺が流した血痕も、数多の獣から流れ落ちた泥の残滓も奇麗に消え失せていた。

 あれは夢だったのだろうか、と思ってしまうぐらい何も残っていない。けど大事な仲間が負った傷や、懐から消え失せた宝石達、魔力の喪失による拭いがたい疲労感と倦怠感が確かに戦闘の痕跡を俺へと刻んでいた。

 

 

「みたい、だな。大丈夫かルヴィア? 式?」

 

「俺は平気だ」

 

「こちらの台詞ですわよ、シェロ。危険はないみたいですし、少しお座りになって。あまり得意ではありませんけれど、治療してさしあげますわ」

 

 

 嗜めるように言ったルヴィアが少し小粒の宝石を取り出し、呪を喚び起こして俺の身体に押し当てた。

 僅かばかりの魔力の注入、そして傷の修復。治癒とは自己治癒能力を促進させるもので、本来なら多用するべきではない。しかし戦闘の最中、敵の本拠地の中にいる今はそれどころじゃないのだ。

 ルヴィアの宝石から熱が移っていくようにじわじわと魔力が注がれ、俺の体はゆっくりと傷を塞ぎ始める。こうやって傷を直すときは、いつも刃を噛み合せるようなイメージが俺の頭を過る。ルヴィアが小さく息を飲む音がして、やっぱり傷口を女の子に見せるのは不味かったかな、なんて思った。

 ちなみに式は傷一つ負ってなくて、俺の未熟さが思い知らされる。そんなに歳は違わないと思うんだが‥‥ここまで差が出るものなんだな。

 

 

「おい、見ろ」

 

「ッ?!」

 

 

 瞬間、床に刻まれた模様に光が走り、俺とルヴィアはすぐさま戦闘態勢に。

 模様で区切られた空間をカーテンで覆い隠すように吹き上がる光の奔流。それが収まると同時に、次々と人影が現れていく。

 

 

「ここは‥‥ルヴィアに士郎?! 無事だったのね貴方達!」

 

「ミス遠坂、セイバー!」

 

「無事だったのかって、それこそこっちの台詞‥‥ってセイバー、お前どうしたんだ、その腕?!」

 

 

 光の中から現れた遠坂、シエル、セイバー。皆ボロボロで、シエルはともかく残りの二人は疲労困憊を絵に描いたような有様だった。あのセイバーが、遠坂に肩を貸されて辛うじて立っている。

 そしてセイバーの左腕は、肩のやや先ほどから断ち切られて無くなってしまっていた。

 

 

「‥‥強敵に遭遇しまして。克つために、捨てました。心配はありません、シロウ。今は少々不便ですが、凛から十分な魔力の供給があれば数日で完治します」

 

「サーヴァントって、そんな爬虫類みたいな生き物なのか」

 

「そもそもエーテル体で構成されていますからね。それに生き物でもありません、英霊です。それ以前に失礼ですよシキ、誰が爬虫類ですか誰が」

 

 

 サーヴァントはマスターからの治癒の魔術と、魔力の供給とある程度の時間があれば、たいていの傷は回復すると聖杯戦争の時にセイバーから聞いた。しかし腕一本ってのは荒療治だろう。一朝一夕で治るわけもない。

 何よりセイバー、シエル、そして遠坂が揃っていて、なおセイバーが片腕を失う相手だって? ルヴィアの話によれば俺達が戦った吸血鬼も死徒二十七祖とかいう化け物だったらしいのに、それ以上の強敵だっていうのか。

 

 

「‥‥げ、ホントだセイバーさん大変ねソレ」

 

「だ、大丈夫ですかセイバーさん?! わ、私すこしだけ治癒の勉強をしましたから、傷を奇麗にするぐらいなら‥‥!」

 

 

 と、光が収まった背後からも仲間の声が聞こえて来た。

 かなり煤けちゃいるけど、無事な様子の桜と黒桐。そして落ち着いた表情の浅上。どうやらこちらも激戦だったらしく、かなり疲れ切っていた。

 セイバーの怪我を見て、桜が慌てて近寄り傷口を確認していく。奇麗に斬りとられた傷というよりは、吹き飛ばされた傷らしい。傷口は荒くヤスリでもかけられたかのようで、普通のヤツなら正視に耐えないぐらい酷かった。

 

 

「あぁ、酷い傷じゃないですか! これ、私じゃ完治は無理です‥‥」

 

「気にしないでください、桜。応急処置は凛にしてもらいましたから、これ以上は戦いが終わり、治癒に集中できるまではどうしようもありません」

 

 

 なんとか少しばかりの治癒を施し、心配そうにセイバーと話をする桜。

 魔術特性と合っていたのか、その治癒は素人同然の俺が見ても奇麗な方だ。セイバーも今はつらそうにしているわけではないが、少しばかり眉間の皺が浅くなった気がする。

 そんな桜の様子を見て、何か妙な表情を浮かべている遠坂とシエルが少し気にかかった。遠坂らしくない、何かを言いたいのに堪えているような。いや、何を言ったらいいか分からないような顔だ。

 

 

「なぁ遠坂、なにか‥‥あったのか?」

 

「‥‥ううん、なんでもないの士郎。これは蒼崎君を助けてから、何とかする話だから」

 

「そういう言い方をされると気になるぞ」

 

「だとは思うわ。でも大丈夫。この面倒が片付いたら、ちゃんと話すから。そのぐらいは信用してくれてもいいんじゃない?」

 

「む。まぁ遠坂がそこまで言うなら、そりゃ俺だって吝かじゃない」

 

「ありがと。それと、心配かけて悪かったわね」

 

「あぁ、気にすんな」

 

 

 一息ついて、みんなで周りを見渡した。静まり返った大広間には、俺たちが変な場所に引きずりこまれる前まで、あんなに溢れ返っていた兵士達の亡霊も、紫遙を拐したコンラート・E・ヴィドヘルツルの姿もない。

 では奥へと続く道があって、その先に奴がいるのかと言えばそんなこともなく。俺たちが入って来た通路以外には扉の一つも見当たらない、完全な行き止まりだった。だが只の行き止まり、とはとても思えない。

 だって城に入ってすぐの大広間から続く道がなければ、どうやって他の部屋に入るっていうんだ?

 

 

「‥‥昔の城塞では、城攻めをしている敵方を奇襲するための城門がありました。普段は普通の城壁にカモフラージュしていて、内側からのみ開かれるというものです。探せば案外、隠し扉が見つかるのでは?」

 

「流石に大広間にそんなものをつけるなんてナンセンスよ、セイバー。多分、空間の置換か位相のズレを作り出しているか‥‥」

 

「位相のズレって、どういうことだよ遠坂?」

 

「空間の持つ固有位相は私達が近く出来る範囲では、ほぼ同じとされておりますわ、シェロ。しかしこれを意図的にずらし、歪めることによって知覚できないようにするというものです。時間的に、あるいは空間的に位相を捩じ曲げることは一般的な魔術の一つではありますが、故にこそ正攻法では中々破りづらい魔術的な備えの一つ。前にも教えたことがありませんでしたかしら?」

 

「物覚えがよくないのは自覚してる。勘弁してくれルヴィア」

 

 

 空間の持つ位相、なんて講義で聞いたのは随分昔だ。人間の知覚に関する概念で、魔術で知覚をズラしてしまう際に使われるのだという。空間そのものに干渉するのではなく、人間の知覚というステージにおいてのみ干渉されない位相を発するようにしてしまうんだと。

 言うなれば知覚に関係する概念である以上、実際に存在するものに働きかける触覚などには効果が及びづらく、また魔術による空間探査などを潜りぬけることも難しい。だがそれも術者の力量次第で、術式によっては触覚すらも欺き、実際には避けて歩いたのに、まるで通り抜けたかのような錯覚をさせる高等な魔術などへ昇華すると二人は語った。

 二人は言った、という風に自分の頭からこれっぽっちも知識が出てこないのが悲しい限りだけど、やっぱり俺は学者としての魔術師には向いていないらしい。仕方がない。

 

 

「どうしますか、遠坂さん、ミス・エーデルフェルト。必要なら私がからくりを暴きますが」

 

「聖堂教会の破戒司祭さんにやってもらうこともないわ。破るだけなら私とルヴィアで十分。ただ‥‥」

 

 

 相手の動きが読めない。

 眉間に皺を寄せて零された遠坂の呟きに、達観した様子の式と薄く瞼を閉じた浅上以外の全員が首肯した。

 不気味な静寂が広間を支配する。短い時間だったが、俺たちの不安を表すには十分すぎるほどの時間だった。

 

 

「ルヴィア、貴女のところは何が出た?」

 

「死徒二十七祖の第十位。ネロ・カオスが」

 

「桜、貴女は?」

 

「誰でしたっけ、えぇっと、木っ端、じゃなくて、赤いというか何というか」

 

「コルネリウス・アルバ」

 

「あぁそれです、ありがとう藤乃。何かの修道院の院長さんだとかいう魔術師が」

 

「コルネリウス・アルバ? 存じ上げておりますわ。随分と前に姿を消しましたが、彼のアグリッパの直系、シュボンハイム修道院の天才魔術師と噂されていた」

 

「あ、有名な人だったんですね。私てっきり勘違いした変人かと。でもそうですよね、死徒二十七祖なんて大物と釣り合うためには、そのぐらいじゃないと」

 

「桜、それ以上はいけない」

 

 

 ニコニコと笑いながら毒を吐いているようにしか見えない桜に、やむを得ず黒桐が突っ込みを入れた。

 付き合いが長い俺から見ても、今の桜はどこはかとなく恐ろしい。まさか変な呪いでも受けたのだろうかってぐらいに。

 

 

「いや、桜が毒を吐いてるなら元気ってことだしいいんだけど‥‥。そういえば遠坂さん達のところには何が出て来たわけ?」

 

「‥‥セイバーよ。端的に言えば、悪いセイバー」

 

「ってことはセイバーさんの腕って」

 

「えぇ、あったかもしれない別の可能性の果ての私自身に」

 

 

 自分自身と戦った、というセイバーに、黒桐がわけのわからないものを見るような顔をした。そりゃそうだ、誰だって実際に自分と面と向かうことなんて想像出来るわけがない。

 あるいは俺も、一生そんなチャンスはなかっただろう。幸とすべきか不幸とすべきか、まさにセイバーと同じように自分自身と対峙した経験のある俺としては、セイバーの何故か吹っ切れたような顔の理由が何となく想像出来る。

 

 

「いい顔してるな、セイバー」

 

「腕一本で、随分いい買い物をさせてもらいました、シロウ」

 

「私達はトンでもなく心配したんですけどね」

 

「それについてはあれほど謝ったではないですか凛‥‥というかですね、本来なら私が謝らなければならない謂れはないのではと」

 

「マスターに文句言うんじゃないの。ほんと、心臓止まるかと思ったわよコッチは。一難去ってまた一難って、こういうことを言うのよね」

 

「ふむ。それを言うなら遠坂さん、どうやら、また一難が飛び出して来そうな様子ですよ」

 

 

 ひやり、と緊迫感を滲ませたシエルの声に、俺たちは一斉に同じ方向に向き直った。

 シエルの放つ殺気が明確に其処を指していた。不可解に続きがない階段の、踊り場を。

 

 

「――お見事、というべきかな埋葬機関の第七位殿」

 

 

 ゆらり、と陽炎。いや、俺たちにはそれを形容するために使える言葉がそれしかないだけで、それは陽炎などでは断じてない。

 空気が目を騙しているわけでは断じてなく。空間そのものが正真正銘歪んで、撓んで、無理矢理に隙間を作り出す。

 そして現れる、全身白尽くめの異様な男。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル‥‥ッ!」

 

「如何にも。どうだったかな、今回の演目は? ふむ、どうやら楽しんで頂けたようで何より。そうだろう、ミス・トオサカ?」

 

「‥‥悪趣味な出し物だったけど、まぁ得るものはあったわ。礼なんて口が裂けても言わないけど、それだけは認めてあげましょ。最初考えてたよりは、やさしく殺してあげるわ」

 

「ふむ、照れ隠しかね?」

 

「今すぐ降りてこいゴルァ! 殴ッ血Kill!!」

 

「中指を立てるのはおやめなさいミス・トオサカ! はしたないですわよ!」

 

「そうだぞ遠坂、挑発に乗るな!」

 

 

 大袈裟にお辞儀をしておちょくってみせるコンラートに、遠坂が一瞬で沸点に達して怒鳴り散らした。ここまで遠坂を怒らせる奴も珍しい、とルヴィアと二人で必死に制した。

 遠坂はそんなに気が長い方じゃないが、とにかく外面が良くて他人に対する壁が厚い。だから普段なら厭味だって何だってサラリと受け流してみせる。その遠坂が簡単に挑発に乗るなんて、何かあったんだろうか、俺とルヴィアが見ていない間に。

 

 

「ふむ、ミスタ・エミヤやミス・マキリには申し訳ないことをした、興の乗らない相手だっただろう。人選には悩んだのだ、ふむ。やはりミス・トオサカの御相手に凝り過ぎてしまったのがいけない。どうにも夢中になってしまうと止まらなくてな。いや失敗だった、ふむ」

 

「やっぱりお礼を言った方がいいみたいですね、先輩?」

 

「その笑顔をこちらに向けないでくれ、桜。背筋が別の生き物みたいに震えるから」

 

 

 やはりアノ吸血鬼はコンラートが意図して、そうしようとして喚び出したものだったのか。あんな規格外の代物を。

 サーヴァントだって、英霊を呼び出す聖杯戦争という儀式だってあり得ないぐらいに大規模で希少だと時計塔で会った人達は口を揃えて言っていた。勿論そんなことは俺だって十分以上に分かる。だからこそ、目の前のコイツの得体の知れなさは尋常じゃあない。

 聖杯戦争は土地の龍脈を使って、長い時間をかけて英霊召還のための魔力を蓄えるというシステムらしい。英霊に匹敵するだろう敵を三体、たった一人で召喚するなんて頭がおかしい。

 

 

「‥‥しかし、ふむ。これで理解してもらえたと思うのだがな。私と、シヨウ・アオザキの力を」

 

 

 ぴくり、と全員が一斉に表情を歪めた。

 そうだ、あいつは言っていた。「俺たちも知らない紫遙の力」を見せると。そう言って俺たちをあんな変な連中が出てくる場所へと送り込んだのだ。

 

 

「俺はさっぱり分からなかったけどな」

 

「君は勉強が足らないから分からないのだ、ミスタ・エミヤ」

 

「余計なお世話だ。じゃあ遠坂は分かったのか?」

 

「なんとなくはね。でも納得は出来ない。コンラート・E・ヴィドヘルツル、さっきのあれは噂に聞くあんたの大魔術、『メモリー』の仕業ね?」

 

 

 遠坂の言葉を受けて、さも嬉しそうに頷くヴィドヘルツル。まぁそうでしょうね、と隣でシエルが呟いた。

 彼女が言うところによると、死徒二十七祖には記憶をもとに悪夢を再現する形で、ヴィドヘルツルのように何かを召喚する能力を持つ吸血鬼がいたそうだ。

 そういえばコイツと会ったときの騒動、クラスカードの魔術も記憶を媒介に英霊を召喚するって仕組みらしい。あのときはバゼットと、俺と、遠坂と、紫遙の記憶を媒介に英霊が召喚されたんだっけか。

 

 

「そうでなくては道理に合うまい、ふむ。あれこそが私と、シヨウ・アオザキの力さ、ミス・トオサカ」

 

「馬鹿にしないで。あんたの魔術が他人の記憶や土地の記録を媒介に霊体を召喚する、なんてことは封印指定の執行者からリサーチ済みよ」

 

「だからこそ納得がいかないのですよ、私も遠坂さんも。死徒二十七祖、それはまだいい。魔術協会の大魔術師、それもまだ分かります。しかし私達の前に出て来たアレ。アレはさっぱり分からない」

 

「凛とシエルの言う通りです。アレは“ありえない”ものだった。私がああなったことはなかったし、これからもああなることはないでしょう。可能性としては存在しても、実際には欠片も存在しないものは召喚しようにも出来るはずがない」

 

 

 遠坂、シエル、セイバーが一歩前に出て強く詰問した。

 あの三人が何を見たのか、俺たちにはさっぱり分からない。クラスカードの時に出て来た、黒く染まった英霊の現象のようなセイバーが出てきたのと聞いた。けど、どうにもそれだけじゃないような。

 そういえば俺たちが相手にした吸血鬼も、クラスカードの時と違って意識があった。現象では断じてなかった。同じように、三人が相手にしたというセイバーにも意識があったのだろうか。ありえたかもしれない、可能性の果てのセイバーとしての意識を持っていたというのだろうか。

 

 

「形骸に仮初めの意識を宿しても、その人格は言わばメッキ。辿って来た人生までも再現できるわけではありませんからね」

 

「あれは断じてメッキなどではありませんでした。まぎれもない私自身でした。私がそういうのだから間違いない。そして彼女も‥‥」

 

「あんなもん見せられて、無事で済ませるわけにはいかないわよね。キリキリ吐きなさいよ、話したそうな顔してるわよ、この変態」

 

 

 普通、魔術師がペラペラと自分の魔術について解説するなんてことを期待してはいけない。当たり前だけど、俺もたまに読む少年漫画みたいに解説が入るわけじゃないんだ。

 けど踊り場の上から俺たちを見下ろすヴィドヘルツルは、母親に褒めてもらうのを待っている子どもみたいに、満面の笑みを浮かべていた。無邪気な表情が端正な大人の青年の顔立ちに浮かんでいるのは、実に気味が悪い。

 

 

「‥‥君たちの推理は概ね正しい。ふむ、いや、殆ど完全に正しい」

 

「どういことよ」

 

「あれらはシヨウ・アオザキの記憶から生み出された。その一点については疑いようのない事実だということだよ」

 

「ふざけているのですか、貴方は。今までも、これからもありえないだろう存在が、どうやって記憶に残るというのですか」

 

「ふむ、ふざけてなどはいないよ騎士王殿。ただの事実だ。君が目にしたもの、耳で聞いたもの、戦い、話し、感じ取ったもの。全て彼の記憶から出てきたものだ」

 

「だからふざけてんじゃないって言ってんでしょ! ないものをどうやって、どこから持ってくるっていうのよ!」

 

「ないのではない。あるのだ、ふむ。彼は知っているのだ、全てを。我々すら知らない全てをだ」

 

 

 ゆっくりと、誇らしげに、ヴィドヘルツルは言った。

 堂々巡りのような問答だと一瞬思った。しかし奴の言葉には、何故か否定出来ないぐらいの確信と、背筋が泡立つ狂気が込められていた。

 

 

「‥‥ふむ。ここ最近の私は、英霊の座について調べていた。つい先日のクラスカードも、その結果、生まれたものだ」

 

「苦労させられたわ」

 

「溜飲が下がる思いだな、ふむ。私にとっては慰めのようなものだったが‥‥一つ、面白い考察を得ることが出来た。英霊とは不定形なのだ。移ろい、変わる、儚い存在。元は人間、意思ある存在でありながら、人々の信仰によって姿を変える精霊。不思議だとは思わんかね、騎士王殿?」

 

「‥‥どういうことですか」

 

「最初に等身大の英雄が生きていた。死して英霊に祀り上げられ、後世の人々は彼の、彼女の活躍を語り継いだ。時代を経て、次第に伝説は姿を変え、元の姿から遠ざかる。ふむ、だというのに君たちはそれを自覚していないのかね?」

 

 

 セイバーの顔が一瞬で青ざめていった。そして遠坂も、そして俺も。

 そうだ、考えれば妙なことだ。

 英霊が使う宝具には、明らかに後世で創作された逸話を反映したものがある。

 それは当たり前のことだ。奴が言う通り、英霊とは人々の信仰によって座に祀り上げられた精霊のような存在。信仰によってその在り方が定まり、信仰によって姿を変える。ある程度は。それは当たり前のことだ。

 でも英霊は、元は嘗て存在した意思あるモノ。

 自身の在り方が他人によって変えられていくことを、果たして了承しているものだろうか。

 

 

「例えば騎士王殿。貴方は男性として語り継がれているが‥‥ふむ。貴女の知らない内に、貴方が男として召喚される未来もあり得たのではないのかね?」

 

「何を、馬鹿なことを」

 

「ない、とは言わせんよ、ふむ。いや、君は死ぬ直前で世界と契約した身。もしやイレギュラーで、そのようなことが適用されないのやもしれん。しかし君たちのよく知るライダーのサーヴァント。彼女も女神としての属性と魔物としての属性が同居しているな。何もかもが、人々の信仰に左右されている、ふむ」

 

 

 青ざめながらも、このぐらいでは動揺はしない。セイバーは右手で不可視の聖剣を構え、ヴィドヘルツルを睨みつけた。

 逆にセイバーだからこそ、その感覚が分からないのだろうか。普通の英霊は自分が信仰によって変化する存在だと自覚しているのだろうか。アイツはどうだったんだろうか。

 

 

「回りくどい話はやめなさい。それが私達に何の関係があるっていうのかしら?」

 

「ふむ、論点はそこだ。意識持つ自己なる存在が、他人からの干渉について理解しているということが肝なのだ。ともすれば、人々によって創作された英霊すらいる。童話から召喚された英霊は、自分が創作の存在であることを知っている。ふむ、如何にも不思議ではないかね?」

 

「だから、どういうことなのよ」

 

「唯一性の問題なのだよ、ミス・トオサカ。ふむ、君は君の唯一性を、根源を如何やって証明できるのか、そういう問題なのだよ。全ての根元は何処にあるのかと、そういう話をしたいんだ、私は!」

 

 

 狂ったように興奮しながら振るわれた腕で、階段の手すりが粉砕される。ハンサムの部類に入るだろう顔は歪みきって醜く変貌し、息も荒く、声は大きい。

 あまりにも急激な変化に俺たちは言葉をなくし、互いに目を合わせた。

 勿論、誰もその理由なんて分かりはしない。

 

 

「何奴も此奴も、全ては根源より生ずると応えるだろう! 全ての魔術師が、愚物どもめ! では根源は何処から生じたのだ、自然発生したとでもいうのか、思考停止した化石め! 魔法使い共め! 連中の考えることなど底が知れる! 底の先にあるものを求めぬ蒙昧さよ! 真の渇きを知らぬくせに砂漠にいるかのように振る舞うのだ! これが可笑しくなくて何が可笑しいというのか!」

 

 

 ぎしり、ぎしり、と階段が軋む。奴がこちらへ降りてくる。

 速やかにセイバーが剣を構え、それを遠坂が手で制した。奴は底が知れない、迂闊に手を出すと何があるかわからないってのは、俺も同感だ。

 握り締めた掌がじっとりと汗ばんでいて、自然と乾いた喉がゴクリと鳴った。

 

 

「根源の先にあるものを、知りたくはないかね、ミス・トオサカ?」

 

「‥‥根源にすら至ってないくせに?」

 

「違う! 根源などというくだらないものには興味がない! あんなものは路傍の石ころ、プレートの隅の香草、私にとって価値のないものだ! 至る価値などあるものか! 所詮は君も愚物だ! トオサカの家では石ころを宝石と勘違いしているらしい!」

 

「んですってぇ?! 撤回しても許さないわよアンタ!!」

 

「事実だ! 魔法の残滓にすがって、自ら道を拓けぬ愚物だ! 有象無象の魔術師など、魔法使いなど所詮はその程度のものだ!」

 

 

 とうとう我慢が出来ずに遠坂が放ったガンドを、振り払った手で苦もなく消し去ったヴィドヘルツルは半狂乱に叫んだ。

 だんだんとプレッシャーが強くなっていく。ここに来て、漸く俺も異常に気がついた。辺りが次第に霞み、風景が変わっていく。もう広間と階段、踊り場なんて影も形もありはしない。

 

 

「‥‥コンラート・E・ヴィドヘルツル。私も些かならず魔術の心得のある身。だからこそ問いましょう、貴方の言わんとする根源以上の存在とは? そしてその存在と、蒼崎君との関連性とはなんですか? 先ほどセイバーと交わした問答の意味も、まだ答えてもらっていませんね」

 

 

 気がつけば俺以外の全員が、自然体な式と浅上以外の全員が戦闘態勢でヴィドヘルツルを睨みつけていた。

 代表して、シエルが口を開く。聖堂教会の代行者でありながら、この中の誰よりも魔術に秀でた異端の聖職者。彼女の構えた黒鍵がピタリと、叫び過ぎて青色吐息な魔術師を指した。

 

 

「‥‥ふむ、ふむふむふむ。蛇の娘よ。妄想の産物、可能性の果て、あったかもしれない未来。そんなものでは断じてない。君たちを、私たちを構成する全てをバラバラに分解して再構成して現れるものは、そんなものでは断じてない。私達から生まれでたものではない、君たちから生まれでたものでもない。あれはな、ふむ、そう定義された絶対の事実なのだよ。民草の信仰によって英霊が数多の姿をとるように、それが彼らの本質であるように、あれもまた、君たちの姿。君たちそのままの存在なのだ」

 

「私達が英霊とでも言うのかしら?」

 

「そうではないことは、聡明な君ならよく理解しているはずだ、ミス・コクトー。だから唯一性について述べたのだ。自らの存在が英霊と同じように、何者かの信仰によって作られたものでないと如何やって証明するのかね? 全ての事柄が、童話のように創作されたものではないと如何やって証明するのかね?」

 

「わ、私が誰かに操られてたとでも言うわけ?!」

 

「君の自由意志による選択すら、全て何者かに定められた筋書き通りだとしたら?」

 

「あるわけないでしょ、そんなの!」

 

「証明できるかね?」

 

「悪魔の証明を要求されても、請け合う気はないわ!」

 

「だが事実なのだ。シヨウ・アオザキが私にそれを教えてくれた。根源を見限った私に訪れた、根源を上回る神秘。根源すらも含んだ、あらゆるものを定めた上位の世界こそが、私の目指すもの。シヨウ・アオザキの力。神代の時代から連綿と受け継がれて来た全ての概念を覆すもの。十分に思い知ったと、思うが、ふむ?」

 

「‥‥狂ってる、ありえるはずがないわ、そんなの」

 

「ならば、さらに重ねて示そう、我々の力を」

 

 

 霞んでいた空間が、だんだんと姿を取り戻していく。

 とっくに乾いた血が染み込み、くすんでしまった絨毯は鮮血のような赤に。古くさい石造りの壁は、鏡のように磨き上げられた大理石の白に。たいして広くはなかった広間は、数えきれないぐらいの柱で支えられた果ての見えない回廊に。そして俺たちの目の前には、いつの間にか消えたヴィドヘルツルの代わりに、天まで届くかってぐらい高い高い背もたれの、石造りの玉座が。

 

 

「‥‥誰、だ?」

 

 

 その玉座には、一人の女性が鎖で縛りつけられていた。

 どんなに高級な絹糸でも代わりにならない、美しい金の髪。床まで届く髪が、白と金で織られたドレスを彩る。顔はおよそ人間に許されるはずのない美貌。

 ゆっくりとその瞳が、奥底の知れないぐらいに深紅に染まった瞳が開き、項垂れていた頭が上がる。

 

 

「そんな、馬鹿な」

 

「‥‥シエル?」

 

「ありえない、あれは人が再現できるものではない」

 

 

 常に余裕を見せていた、俺たちの中でも頭一つ実力の抜きん出たシエルが震えている。

 目を見開き、見て取れるぐらいに冷や汗を流し、歯を食いしばって震えている。

 分からない,けど感じる。あれはヤバい。

 ギルガメッシュやバーサーカーも確かにヤバかった。でも、そういうのじゃない。アレは、明らかに人間がどうこう出来る存在じゃあない。

 何がなんだか分からないけど、それだけは感じる。

 

 

「シエル、あれは何‥‥?」

 

「‥‥姿は、あーぱーと一緒。でも違う、私は知っています、見れば理解してしまう。まさか、そんな、しかし」

 

 

 スローモーションのように鎖が碎け、姫としか呼べない、彼女がゆっくりと立ち上がる。

 それだけで全員が大きく一歩飛び退いた。式や浅上すら、表情を変えて身構えていた。

 シエルは言う。

 あれは星の頭脳、夢見る石、真祖の吸血鬼を超えた何か、アルティメット・ワン、最高純度の神、自然現象としか呼べない代物、星の天蓋、両翼の主。

 

 

「つまり、どういうことよソレ」

 

「遺言は済ませて来ましたか、遠坂さん」

 

「ああ成る程、つまりそういうことね」

 

 

 こちらを眺める、無機質な瞳。

 あの瞳に見つめられただけで、いつの間にか投影し、構えていた双剣を手放しそうになる。

 本能的に命の危機を感じれば生き物は必死で抵抗するらしいけど、そんなことすら考えられない恐怖に支配される。

 どさり、と音がして黒桐が尻餅をつく。桜が膝をつく。ルヴィアがらしくない歯軋りを。式が深呼吸を。

 そして俺は、それでも何とか血が滲むくらい干将と莫耶を握りしめた。そして吐き気がするぐらい、全力で魔術回路を回転。

 

 

「――久々の五体の感触。楽しませてくれるのだろうな、道化たちよ」

 

 

 声にならない悲鳴を雄叫びに変えて、ただ一息に飛び出した。

 たとえ消し飛ばされるだろうことが分かっていても、愚直に前に出る事しか出来ない。他にそれが出来る奴はいない。

 奴の指先が少し動いただけでも死を予感する。そんな余分な感情も全て恐怖が塗りつぶし、俺は初めて勇気からではなく恐怖から剣を振るった。

 

 欠片も希望のない戦いから、意味のわからない現状から逃れるためだった。

 紫遙のことは、頭から消し飛んでしまっていた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 ――また朝が来た。

 何回目の朝だろうか。いや、朝は毎日来るものだ。そういう意味じゃあない。

 母さんが起こしに来て、高校へと行く。友達と会話をして、卒業旅行の話が出る。

 そしていつの間にか卒業旅行に行っていて、倫敦で散々馬鹿をやって、飛行機に乗って、そこで記憶が飛ぶ。

 記憶だけじゃない、多分、オレの身体も実際にぶっ飛んでいるんだろう。幸いなことに、その瞬間の記憶がないから、オレはこうして平常心で朝を迎えることが出来ていた。

 母さんとのやり取りも、同じようなものを繰り返したからか随分と等閑になってしまっていて、母さんはそれも不審に覚える様子もなく——あるいは隠してくれているのか——オレを学校へ送り出した。

 

 

「‥‥頭がどうにかなりそうだ」

 

 

 確かにどう、というわけじゃあない。本当は全てオレの思い過ごしなのかもしれない。

 最初はそう思っていた。要するに、ただの既視感(デジャブ)の延長線上だと。よくある勘違いだと。オレは中二病に再罹患してしまったに違いないと。

 けれど、それも次第に明瞭になっていく。同じ映画を間を置かず繰り返し見ているかのように、倦怠感が募っていく。そして、どうやらオレは頭がおかしくなってしまったらしい、という恐怖感も。

 

 

「そりゃ旅行中に時間が止まってしまえばいいのに、今を繰り返せばいいのに、なんて思ったことはあったよ。そりゃ、あったよ。けど、実際はこんな気分だなんて、くそ、分かってたなら一度だって願うんじゃあなかったな‥‥」

 

 

 体調は万全だ。どうやら身体の方はリセットされるらしくて、そりゃまぁリセットされなきゃグチャグチャのコゲコゲになってしまってるだろうから当たり前なんだけど、しかしオレは酷い顔をしてるはずだ。

 本来なら頭の方もリセットされるんだろうと思う。実際、きっと何回目かまでのオレは気づかずにこの騒動を繰り返していたはず。どうも人間っていうのは、人間の意識っていうのは、同じ事を繰り返すと順応する仕組みになっているらしい。

 

 

「タイムループ、ってヤツか。ちょっと、そろそろ本腰を入れて何とかしないと、オレは本当に頭がおかしくなっちゃうぞ」

 

 

 やっぱり病院に行った方がいいんだろうか。けど不幸なことに、何と卒業旅行まで病院にいく隙間なんて何処にもありゃしないのだ。

 どうせ繰り返すのだからと学校なんてサボってしまえ、って思わなかったわけじゃない。別にオレに自由な行動が許されていないわけでもないらしい。けど何故か身体は自然と同じように行動したがる。自然と、だ。わけもわらかず、じゃあない。

 なんでかって説明出来ないんだけど、むしろオレが思うに、これは繰り返しの間にとる行動にヒントがあるか、あるいはそんなものは関係ない何かじゃないと解決できないか、だろう。

 

 

「——よう、村崎! どうしたよ朝から辛気臭い顔しやがってさぁ‥‥っと、おいおいどうした貴様、突然身のこなしがよくなったんじゃないのか?」

 

 

 ひゅ、と短く風を切る音がした瞬間、オレは身体を屈めて悪友——加藤慎一郎の豪腕から逃れた。

 そりゃ、こっちは何回もこの場所この時間にお前の絞め技を喰らってるんだ。学習したなら避けるだろ常識的に考えて。

 

 

「おはよう加藤。いや、実は今朝ね、突然さ、武術の奥義に開眼したんだ」

 

「そりゃすげぇなって、んなわけあるか! せいぜい勘が鋭くなったってところだろうが‥‥くぅー、感涙だねぇ、ついに我が弟子が俺の下を離れる日が来るとは!」

 

「誰が弟子か、誰が」

 

 

 関心したように泣き真似で頷く加藤の脇腹を小突き、通学路を進む。

 ‥‥どうにも解せないのがこれだ。ループっていうのは、小説やらアニメやら漫画やらだと、多分ありふれた題材なんだと思う。オレはどれもそんなに嗜まないから呆れるほど知ってるってわけじゃあないけど、別に馴染みのない概念じゃあない。

 で、だ。

 ループ物っていうのは、例えば同じ場所で同じ人に会ったり、会った人は同じことを喋ったり、何をどうしようとしても同じことが起こったり‥‥そういうのが定番だと思うんだ。

 しかしどうにもその例からは外れる。今のやりとりだってそうだ。加藤はオレが発言や行動を変えれば、その都度様々な反応を返す。オレが同じことをしていれば流石に変わりはしないけど。

 母さんとは朝一番のやり取りだし基本的にオレの話を聞かないので、あまり変わり映えはしない。けど他のクラスメートなんてのは加藤と同じように、普通の人間にしか見えない。

 前に読んだことがある小説だと、自分の記憶の繰り返し、夢を見ている、とかいう設定だったっけ。主人公は何を言ったって同じ言葉しか返してこない知人を不審に思って、ループを見抜いた。けど、それはオレには出来ない相談だ。

 

 

「っていうか、貴様なんか顔色悪くないか? ちゃんと寝てるのか? 飯は食ったのか?」

 

「‥‥加藤、人間はさ、精神的ストレスだけで窶れることが出来る生き物なんだよ」

 

「それは人間だけに限らねぇぞ。しかし、何かあったのか? 昨日までのお前は何も考え事なんてしてません、なんて能天気な仏頂面してやがったろうが」

 

「能天気な仏頂面ってなんだよ、普通は仏頂面なら悩み事あるだろ」

 

「気にすんな。でも、悩み事があるっつうのは本当みたいだな?」

 

 

 むぅん、と唸った。

 実際に悩み事っていうのはあるわけで、今までのオレは時間の経過が何とかしてくれやしないかと期待して惰性で過ごしていたわけで。

 しかし段々と込み上げてきた危機感は、オレに行動を要求している。精神衛生の限界はまだ訪れていないから、オレはこんなにノンビリしているわけだけど、にしたってそろそろどうにかしないと不味い。

 ただ、どうにかするって言ったってね。まず何をすればいいんだかさっぱり分からない。

 小説や漫画にヒントがあるか、と言ったってね。主人公は魔術師に狙われていたり、SFの世界にいたり、どうしようもないぐらいポエティックな世界だったり、童話の中だったり。

 そんなものが今のオレにどう影響するっていうんだ。オレはいつの間にか、魔術結社に目を付けられていたのか。異世界からの侵略者と戦っていたのか、超能力を身につけていたのか。

 いや、いいんだ。確かに今の状況が非現実的だってのにはオレも同意する。だからといって何をしたらいいのかさっぱり分からないんだ。

 いっそのこと身投げでもしてみるか? いや待て、オレはどのみち死ぬんじゃあないか。あれより痛い死に方したくないし、それでまたループに戻ったら今度こそ立ち直れない。

 もともと頭が回る方じゃないんだオレは。‥‥うーん、うーん。

 

 

「相談があるなら乗るぜ?」

 

「‥‥馬鹿らしいことでも、笑わないか?」

 

「笑う」

 

「おい」

 

「笑うが‥‥馬鹿にはしねぇさ。まぁ話してみろよ、大した助けにゃならんかもしれんが、一人で考え込むより百倍マシさ」

 

「‥‥むぅん」

 

 

 まぁ、確かに。

 話したって最悪、頭がおかしくなったと思われるだけだ。オレ一人の頭の中から出てくる解決策なんて限りがある。

 じゃあ話してみるのも悪くはない。話して相手にされなくても、それでオレがどうこうって奴じゃないし。

 

 

「じゃあ、頼む。放課後に時間空いてるか?」

 

「あぁ、別にいいぜ。もし気にしないなら、湊も一緒でいいか? 俺は頭悪いが、あいつは成績いいぜ?」

 

「成績の問題じゃないと思うけど、まぁ構わないよ。逢坂さんなら、悪いようには言わないと思うし」

 

「そいつは保証する。じゃあ放課後までこの件はお預けだな。ところで村崎よ、実は——」

 

 

 何度も行った倫敦旅行の話を切り出されながら、それを適当に聞き流しながら、オレは眉間の皺を揉み解す作業に集中することにした。

 時間がループするっていうなら、そりゃ考える時間はたくさんある。けど、どうせループさせてくれるなら、スキップ機能もつけておいて欲しかったものだ。

 やっぱり何より退屈が一番の毒だと、そんなことを考えながら。

 

 

 

 

 89th act Fin.

 

 

 

 

 



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第八十九話『異世界の混乱』

おまたせしました、最新話の投稿です。
今回は場つなぎのような形になっていますが、非常に重要な話です。
というのも数年前に作成したプロットから大幅に改変を行ったため、どうしても必要な、中途半端ながらも重要な話となっているからです。
あと数話で完結となります。頑張って執筆を進めていきます!

【追伸】
2015年エイプリルフール企画やってます。
詳しくは活動報告まで!


 

 

 

 side Conrad・E・Widholzl

 

 

 疑問は尽きない。

 戯れに習得した分割思考は、身体が何をしていようとも勝手に考えをまとめてくれる。

 であるから私は、ふむ、こうして延々と試行を繰り返す。

 何回も何回も。まるで料理を食い散らかす子どものように、あれを試しては放り投げ、あっちへと興味が映っては飽きて。どれもある程度の成果は得られたが、私はそんなものに満足できなかった。

 ある程度の成果が得られた段階で、私には分かってしまうのだ。ふむ、こんなものは何の意味もない、私が求めるものではないと。

 もう少し長くそれに時間を割けば、或いは私は、世間一般においては大成功と呼ばれる結末を迎えることが出来たのだろう。しかしそれに、ふむ、それに一体どんな意味があるというのか。

 そうなると分かっていることに、何も興味など持てはしない。何も価値など見いだせない。ふむ、そんなものを喜ぶ連中というのは実に程度が低い。

 魔法使いなど最たるものだ。あんなものは本質でも何でもない、只の手段。それを周囲はもて囃し、連中は鼻高々。ふむ、反吐が出る。

 根源すら、もはや無価値にしか見えない。ただ自分が何を目指すべきか、それすら分からず、しかし私は試行を続けた。

 

 しかし、かつては実を結ばぬままに只管繰り返すだけだった試行は、ある日突如として転機を迎えた。根源を見限った私は、新たな答え、目的を得ようとしていた私は運命のように彼に巡り会った。

 既存の全ての理屈を覆す、文字通り新たな世界が広がっていた。想像もつかなかった考えが、澱みきっていた私の頭の中へと凄まじい勢いで流れ込む。どれほどぶりだろう、際限のない興奮に私は身を委ねた。

 次から次へと私は新しい理論を生み出す。ふむ、どれほど考えてもキリというものがない。ひたすらに酔いしれ、ひたすらに焦れた。手に入れたい、彼を。世界をこの手に、と。

 私は生まれた時から欠けていたのだ。片翼に過ぎなかった私は、羽ばたくために必要なもう片方の翼を遂に見つけたのだ。一瞬だって待てやしなかった。いつ彼を迎えに行こう、どうやって迎えに行こう、そんなことばかり考えていた。

 

 彼が、まさか自分から私に会いに来てくれるなど、夢にも思わなかった。

 身体中の細胞がひっくり返りそうだった。顔面の筋肉が裂けてしまいそうなぐらい嬉しかった。涙が溢れた。感謝の気持ち、興奮、感激が私の五体の全てを支配した。

 お互いの力を見せ合い、我々は理解し合った。新たな世界への階を共に上り始めるための全てが整った。

 

 

「何故だ、何故分からない」

 

 

 彼の協力を得て、私は彼の中へと入り込んだ。カレの記憶を読み解き、新たな世界への扉の鍵を開くために。

 ターゲットになるのは、カレの記憶の最後の部分。

 乃ち、あの世界を離れこの世界へと来ることになった部分。これを読み解けば、私と彼は全ての魔術師を超えて、根源すらも支配し、新たな世界へと至ることが出来る。

 注意深くカレの記憶をなぞり、その部分へと至った時は思わず拳を握り過ぎて掌を爪が突き抜けてしまうかと思った。

 

 

「そう、ここだ。ここで記憶が途切れる。続きを、続きを見なければ何も分からない」

 

 

 カレがこの世界へと来ることになったのは、そう、ここだ。ハイスクールの卒業旅行とやら。

 学友達と倫敦へ来て、その帰り。

 そうだ、ここでいつも記憶が途切れる。この、飛行機事故。飛行機事故としか思えないコレだ。ふむ、飛行機事故‥‥そんなものに興味はない。私が見たいのは事故などでは断じてない。

 事故の結果、世界を渡った? そんなことはありえない。その程度のことで世界を超えられるなら、この世界は山ほどの身元不明者で埋まってしまっている。

 ふむ、何故だ。これがカレの最後の記憶である以上は、ここに鍵が隠されている。しかし何処にも、私が求めるものはない。どこを探しても、世界を超えるための鍵が見つからない。

 こんなものを見たいのではない。こんな、どこにでもあるものが見たかったわけでは断じてない。

 違うだろう、キミはこんな価値のない情報しか持たない人間ではない。もっとだ、もっと私に見せてくれ。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、私は神経を集中させて観察する。カレの記憶を、カレの在り方を。だが、見れば見るほど、焦燥ばかりが募っていく。

 

 

「駄目だ,分からない。何故だ、どうしてカレは何も知らないのだ。何も見ていないし、何も聞いていないのだ。そんなバカなことがあるか、魂に記憶は残るはずなのだ」

 

 

 記憶は消えない。人間が何かを忘れるということはない。

 魂に、記憶は刻まれるのだ。覚えるというのは刻むということなのだから、その上から何かで埋めたところで、刻まれたという事実は残る。

 その痕を穿り返して記憶を探るのは、私の十八番だった。如何に強固に封をしていても、既に彼は私に全てを委ね、こうやって、安心して眠りについているのだ。彼からの抵抗がないなら、いとも容易く全ての記憶を読み取れるはず。

 意識がなかったからといって、記憶できないというものでもない。目で見て、耳で聞いて、肌で感じたことだけが記憶ではない。精神が眠っても魂は眠らないが故に、魂は全てを記憶する。

 だがカレは何も記憶していない.飛行機事故が起こって、意識を失い、それが彼の記憶の最後だった。其れ以降は何もないし、其れ以前は大して重要でないから確認をしていなかった。

 こんなことはあり得ない。意識を失っても、その魂が肉体を離れるまで私は記憶を調べることが出来る。なのに、調べるべき記憶が存在しない

 

 

「ふむ、ふむ、ふむふむふむ。‥‥悔しいが、どうやら手詰まりか」

 

 

 あまりにも繰り返しを続けたせいで、現実の時間にも影響が出て来た。

 本来なら、私は長い時間を思索と試行に充てることが出来る。そしてそれは現実では、一瞬の内に行われる。だが、あまりにも数が多過ぎたか。小蠅が喧しい。

 この行き詰まった感覚は久々だった。目指すものが目の前にあって、もう手が届くというのに、届かない。時間がある時ならば、いつまでも楽しんでいたいぐらいに、心躍る感覚だ。

 しかし小蠅だ、これがどうにも気になって仕方がない。ふむ、潰してしまうか。いや、しかし、油断は出来ない。騎士王に埋葬機関までいるのだ、少々潰すには手間がかかる。

 ましてや、あと少しで私の望む侭の結果が出ることが分かっているというのに、ここでやめるわけにはいかない。そうだろう?

 

 

「‥‥カレも疑問に思い始めている、か。この繰り返しを」

 

 

 鋭敏な感覚だ。まさか、夢現(ゆめうつつ)でありながら自身の異常を感じ取るとは。

 しかし哀しいかな、カレは魔術師ではない。魔術師ではない者に、その異常の答えを知ることは出来ないだろう。万が一知ることが出来たとしても、何が出来るわけもない。

 魔術は科学で代替出来る技術だが、科学に打破される存在ではない。結果で語るものであるからこそ、火を出すならばライターを使えばよく、水を出すなら蛇口を捻れば良い、魔術は科学に取って代わられた、と論じることが出来る。

 ライターで放火しようとしている者を止めるのと、魔術で放火しようとしている者を止めるのとでは全く話が異なるように。魔術師でない者に魔術を打破することは出来ない。

 

 

「ふむ、ふむ、ふむふむふむ」

 

 

 あまり時間がない。腹立たしいことだが、小蠅を追い払いながらカレの真実を追求するのは困難だ。

 しかし私はどちらかを一旦棚に上げ、残った方を処理する、などと賢しい真似をする気にはならなかった。この探究をやめるなど、とんでもない。しかし小蠅を追い払わなければ集中できないのも見逃せない事実。あちらを立てればこちらが立たず、そして私はどちらも立たせたいわけであるが、ふむ。

 

 

「待てよ、いや、しかし。あぁ、そうだ、何故気がつかなかったのか」

 

 

 天啓が舞い降りて来て、私は心の中で小躍りして喜んだ。

 私一人ではどちらも出来ない、ならば二人でやればいいではないか。幸い此処には優秀な魔術師がもう一人いるではないか。彼が手伝ってくれれば、この行き詰まった状態からも脱することが出来るかもしれない。

 魔術師ではないカレではなく、魔術師である彼ならば、あるいは。なら話は早い、この状況に彼が動揺してしまわないように、推理に集中出来るように、シチュエーションを整えてやるのだ。

 それ自体に神経を遣う以上は小蠅の処理に集中するというわけにもいかないが、ふむ‥‥まぁ、先ほどまでの閉塞した状態よりは遥かにマシであろう。

 

 

「頼むぞ、我々は共に新たな世界への階を上るのだから」

 

 

 よしんば彼にそれが出来なくとも。

 彼がどのような結論を出すのか、それがあまりにも楽しみに過ぎる。

 今まさに召喚した真祖の姫の背後に立ちながら、私は密かにほくそ笑んだ。

 共に新たな世界へと踏み出す時が、段々と近づいている。その確信を表すかのように。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥話はわかった、貴様はとりあえず病院に行こう」

 

「笑わないでオレの話を聞くって約束は何処に行ったんだ」

 

 

 放課後、学校からの帰り道にある全国チェーンの喫茶店に三人の高校生が屯していた。

 やたらと体格のいい男、加藤慎一郎。我が親友にして悪友。身体中から元気を振りまいているように見える女子、逢坂湊。加藤の幼なじみ。

 そして学ランの第一ボタンまでしっかりと留めた地味なオレ。如何にも高校生らしい三人組であるが、店員からは迷惑そうな視線が注がれている。この喫茶店、あまりにも学校に近いため我が校の生徒が毎日多数出没し、一番安い飲み物一杯で長時間粘られているのだ。

 

 

「いや、様式美だ様式美! だから席を立とうとするな!」

 

「‥‥ホントだな? 別にいいんだぞ、今ここでお前を殺しても、ループしてしまったら関係なくなるし」

 

「飛行機事故とやらに遭わなければループしないかもしれんだろうが! 落ち着け、落ち着くんだ」

 

 

 柔道で鳴らしたガタイを持っている加藤を素手で殺すのは不可能だろうけど、ここのところずっとループの影響で虫の居所が悪いオレの目付きは、加藤を慌てさせるには十分以上だったらしい。

 横に座った逢坂はケタケタと笑っていた。普通なら癇に障るはずのそれが全くいやみったらしくない快活なもので、むしろ憎らしく思うぐらいである。

 

 

「しかしズルイねぇ村崎君。それがホントの話なら君、私達が楽しみにしている卒業旅行を何度も何度も堪能してるってことじゃないの」

 

「バカを言わないでくれ逢坂。どんな好物だって食べ続ければ飽きることもあるし、それを通り越せば気が狂ってしまいそうになるんだ」

 

「の割には余裕があるよな、貴様。さっきの視線は流石に肝が冷えたが、普通そういう状況ならもっと参ってるもんだぜ。なぁ湊?」

 

「秋葉原の駅前にひとっこ一人いなかったり」

 

「夏休みが終わらなかったり」

 

「山奥の村の学校で救世主になってくれる人を待っていたり」

 

「赤い薬か青い薬か選ばされたり」

 

「最後のはちょっと違う気がするけど‥‥二人とも、あんまり巫山戯ないでくれ、頼むよ」

 

 

 いつもみたいな夫婦漫才にツッコミを入れてしまい、してやったりという表情の二人からわざとらしく視線を逸らしたオレは長い長い溜め息をついた。

 この二人と話していると、悩んでいたのが馬鹿らしくなってしまうようだ。悩んでいたか、と言われると死にそうなぐらい深刻に悩んでいたわけではないのも事実なので、そこは確かに、加藤が言うとおり妙な点なのだろう。

 参っている、というポーズをしているだけで本当に参っているかどうかは確証が持てないというか。思ったより余裕があるのは、悪いことではないんだと思うんだけど。

 

 

「この手のループ物の定番って何だったっけなぁ、湊?」

 

「要するにフラグが立ってないんじゃないかなって」

 

「フラグって何だ?」

 

「条件付けだよ。例えば伝説の武器がないと入れない洞窟には、伝説の武器を集めてから行くでしょ?」

 

「なるほどな。じゃあ伝説の武器を集めればいいわけか!」

 

「比喩よ、比喩! 他にもほら、領主の娘に会いにいかないといけないとか」

 

「なるほどな。じゃあ総理大臣の娘に会えばいいわけか!」

 

「だから比喩だって言ってんでしょバカ慎一郎!」

 

 

 フラグ、条件、成るほどねぇ。そういえばRPGでも大きなイベントを起こすための、小さなイベントが必要だったりする。

 となるとオレは、そのフラグになるイベントをこなしていないから記憶がループしてるってことなのだろうか。必要なイベント、しかし些細なものじゃないだろう。今のところループのきっかけが飛行機事故、だとすると飛行機事故が無くなるぐらいの大きなイベントが必要なはずだ。

 何をすれば飛行機事故に遭わないのか。

 いや、まぁ、飛行機乗らなきゃいいんだと思うんだけど。

 

 

「まぁ、そうなるな」

 

「そうなるわね」

 

「いっそのこと卒業旅行やめて,国内でやるか?」

 

「悪くないわね。沖縄にしましょ」

 

「沖縄も飛行機使うだろ」

 

「倫敦発の飛行機にしなきゃいいんじゃないの? あ、でもそれだったら別にハワイとかでもいいかしら」

 

「ていうかオレが行かなければいいだけだろ‥‥」

 

「それでお前、本当にループから脱出したらどうするんだよ!」

 

「卒業旅行行けなかったって事実しか残らないんだよ?!」

 

「いや、もう数えきれないぐらい行ってるし、オレは」

 

「おのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれぇ!」

 

 

 もうどんな反応をしていいか分からない、というかこの二人の反応がそもそも分からない。ただ、それは出会って最初からだったから、まぁ、いいけど。

 そういえば先ほども脳裏に過ったことだけれど、不思議とオレはこの卒業旅行に行かないという選択肢を採らない。別に強制力を感じている、わけではないのに、不思議とあの飛行機に乗ってしまうのだ。

 勿論あの、と言っても行きの飛行機は平穏無事なものである。なんでまた、オレは倫敦へ旅行しようとしているのだろう。

 

 

「ループは何かを解決しなければ脱出できない、ということはだぜ村崎? 卒業旅行に行かないだけでは何も解決しないってわけさ」

 

「慎一郎は村崎君と卒業旅行に行くの、すごい楽しみにしてたのよ」

 

「べ、別にアンタと行きたいわけじゃないんだからねっ! クラスのみんなと行くのが楽しみだったってだけなんだからね!」

 

「「キモい」」

 

「‥‥終いにゃ泣くぞ俺も」

 

 

 加藤の言うことが本当なら、オレの使命は飛行機事故に遭わないことではなくて、飛行機事故を阻止することなのか?

 あの飛行機に今後世界のために大活躍する人材が乗っていて、それを助けるためにループしている‥‥とかなら燃える展開だな。オレみたいな何の取り柄もない、どこにでもいる普通の高校生にそんな大任が務まるとは思わないけれど、もしそうなら実にドラマチックだし前向きな気持ちにもなる。

 もっとも飛行機事故を阻止する、なんてあまりにもスケールが大きな話だ。そもそも原因が分からないんだから、どうしようもない。

 

 

「よし、村崎の事情はだいたい分かった。何はともあれ調査だな」

 

「はぁ?」

 

「飛行機がどうして墜落してしまうのか、それを確認しないことにはどうしようもないだろ? とりあえず日本にいる内は過去の飛行機事故の調査をして、倫敦に行ったら現地の調査だ。今のところ記憶は持ち越されるんだよな?」

 

「あ、あぁ。最初の内は気づいてなかったんだけど、最近は安定して記憶が継続されるみたいだ」

 

「じゃあ今回の調査は無駄にならないわけだ。次のループで、また俺たちに話してくれりゃいいってことさ」

 

「‥‥今更、次のループでお前らが俺のこと信用しない云々なんて言い出さないから安心してくれ」

 

「流石は我が親友だ」

 

「別の言い方がないかどうか、今必死で脳内検索かけてるところだよ」

 

 

 拳を突き合わせ、なんとか積極的に協力してくれることになった二人に礼を言う。具体的な指針まで決まったのはありがたい限りだった。

 調べてみると、飛行機事故というのは毎日それに乗っていても、四百年に一回ぐらいしか起きないものだという。勿論それは統計上のデータに過ぎないし、実際何回も重大な飛行機事故は起こっているのだ。

 というのも飛行機は他の輸送手段に比べても一度に多くの乗客を長時間、長距離乗せるという特徴がある。一方で精密機器の結集による機械であり、その事故には多分に人為的な要因が絡んでいるらしい。

 多くの飛行機事故の資料を見た。オレの記憶は事故が起こってから、もう直ぐに途切れてしまっている。しかしどの飛行機事故も悲惨で、そんなものにオレは巻き込まれたのかと、絶望的な気持ちに陥った。

 以前にはテロリストが飛行機を乗っ取り、高層ビルに激突させるという大事件があった。日本でも過去に、歴史上最悪の飛行機事故があった。しらみつぶしに資料を読んだ。自分が助かるため、という最初の考えが吹っ飛んでいたことに、途中で気がついた。

 しかし助からないわけにはいかない。ただただ資料を読み続け、そして結局のところ、飛行機事故の半分ほどが人為的な原因によるものならば、どうにもならんのではないかという気分になってしまった。

 

 

「‥‥なんとかならないものかな」

 

 

 気がつけば倫敦に出発する直前になってしまっていた。

 旅行の準備はすっかり済んでいて、オレはベッドに横たわりながら眉間に皺を寄せる。どうにも何も思い浮かばず、しかし諦めて寝る気にもならない。

 パイロットを見張っているわけにもいかないし、それで何か出来るわけでもない。まず操縦室に入れない。

 整備不良を疑っても、オレが整備するわけにもいかないし、先ずオレは飛行機の整備なんて出来ない。「整備をしっかり!」なんて怒鳴ったところで、「やってらぁ!」とつまみ出されてしまうのが関の山だろう。

 オレはよく分からないけれど、例えば天災の類が影響しているとなると、それこそ何の役にも立てやしない。もしかして、これは所謂。

 

 

「八方ふさがり、という奴ではないだろうか」

 

 

 今日も二人に会って話をしてきた。

 オレ達の調査が現実的には何の影響も与えることが出来ない程度のものだということが分かると、二人は今度は荷物にクッションやら酸素ボンベやらを詰め始めた。とりあえずクッションを多くして助かろう、海の中に突っ込んでも平気なように酸素と浮き輪を用意しよう、という魂胆らしい。浮き輪も持っていた。

 もっともそんな巨大な手荷物は飛行機の中に持ち込めないし、毛布一枚を身体に巻いたぐらいで助かるなら飛行機事故での死人はあんなに多くはならないだろう。そもそも、その程度のことで解決できるなら、既にオレはループから脱出を果たしている気もする。

 となると一体何が原因なのだろうか。この理不尽な繰り返しは。

 

 

「もしかしてオレは恐ろしい勘違いをしている‥‥?」

 

 

 解決出来る、という希望的観測が、そもそも間違いだったのだろうか。

 オレはこのループを解決出来るものだと信じて、今回の周回では色んな努力をしてきた。けど、もしコレが、オレがどう頑張っても脱出できないものだとしたら?

 

 

「ッばかばかしい、やめよう変なこと考えるのは」

 

 

 だったらオレはいつか完全に気を狂わせてしまう未来を約束されたようなものだ。

 今は不思議、というより不気味なぐらい落ち着いているけれど、これが何百回も続いて正気でいられる保証なんて出来やしない。

 永遠と続く同じ記憶。そんな苦行を強いられるなんて、オレが何をしたっていうんだ。或いは何をしなかったっていうんだ。

 人並みの人生を過ごして来て、人並みの失敗や怠惰は数えきれないくらいあったけど‥‥。そんな人並みな罪に与えられる罰がこんな重いものだなんて、神様に嫌われたか悪魔に好かれたか。

 

 

「‥‥まぁ、あと一回ぐらいなら普通に平気だろうし」

 

 

 とりあえずはループから抜け出す努力をしようという姿勢。これが維持されている以上は大袈裟に騒ぐこともない。

 加藤と逢坂が必死に荷造りしているものが、もしかしたら何かの役にも立つかもしれないし。

 ある意味では逃げ、になるのかもしれない。そんなことを考えながらオレは眠りについた。不安で眠れない、なんてことが不思議となくて、オレは速やかに眠りに落ち、そして起きると慣れた手つきで荷物を持って、母さんに別れを告げて家を出た。

 旅行に出るときは普通、飛行機の時間や空港に到着するべき時間,乗るべき電車の時間など様々なチェックをしていくものだけど、もう今では眠りながら歩いていても大丈夫なくらいだ。

 段々と見慣れたビルの立ち並ぶ都心部を抜けて、畑や山ばかりの風景が視界を横切っていき、そして空港へ到着。そういえば、電車で隣に乗る人も、今オレの前を歩いている人も、いつも同じ人だった。

 空港での待ち合わせからも、基本的な流れは変わらない。オレが何もしなけりゃ基本的に人間の考えることってのは同じらしくて、言動も殆ど似通ったものになる。今回に関しては何故か目の下に濃い隈を作った加藤と逢坂が、明らかに健やかに眠ったと見えるオレを恨めしげに睨みつけていたけど。

 

 

「お前ら昨夜何やってたんだよ」

 

「筋トレ」

 

「千羽鶴」

 

「なんでそんなことしてたの」

 

「いや、いざってときに動ける方がいいだろ。ちょっとやり過ぎて、筋肉痛で身体動かねぇけど」

 

「もうこうなったら最後は神頼みだよ村崎君。まぁ私ってば不器用だから,満足いく一羽を折るのに一晩かかったけど」

 

「馬鹿かよ」

 

 

 愛すべき馬鹿だ、阿呆だコイツら。いや、そりゃ実際に事故に遭うことが分かってたら何が何でも生き残ろうとするのは当たり前だし、馬鹿にすることじゃないとは思う。でもやっぱりコイツらに限っては馬鹿だ。

 行きの飛行機でも熱心に避難の手順がかかれたパンフレットを熟読する二人に他の面子はドン引きである。ちなみにオレの記憶は避難云々以前の段階で途切れてしまっているため、もしかしたら即死だったのかもしれないという疑惑があった。

 案の定、徹夜を経て飛行機に乗った二人は最初の内こそ極限の緊張状態を維持していたけれど‥‥すぐに意識を飛ばしてしまう。オレも倣って寝てしまうことにした。やはり妙に気分が落ち着いている。

 飛行機を降りて空港を出てもそれは相変わらず続いていて、もう間もなくオレは死に、次のループが始まるというのに、焦ったり取り乱したりという様子が全くなくて。加藤と逢坂もしきりに首をひねっていた。

 ちなみにこの二人、オレが既に何度も何度も倫敦観光をしているのをいいことに道案内を要求してきやがって。しかし残念ながら以前まで辿っていた道のりというのも、一向が迷いながら何とか辿り着いた道のりである。つまり旅程の短縮には全く役に立たないわけで、失望の目を向けて来たのは当然だとは思う一方で実に理不尽だった。

 

 

「‥‥なぁよう村崎、本当に大丈夫なのか?」

 

「何が?」

 

「いや、だから、つまりアレだよ、アレ。失敗するんじゃないかって話だよ」

 

「失敗も何も、オレ達はチャレンジすら出来てないだろ現状」

 

「そりゃそうだけどよ‥‥」

 

 

 いつの間にか、気を張っていた加藤も逢坂も何だかんだ観光を楽しみ、帰りの飛行機の中。

 旅行の興奮も冷めやらぬ様子の皆に対して、流石に加藤も逢坂も緊張した面持ちだ。枕やクッションは羽田空港の段階で持ち込みを断られたので、今は二人ともそれぞれ二枚の毛布を貰って首や頭に巻いている。実に面白い見せ物だろう。

 しかし結局のところ、オレ達はこの事態を打破するための方策を実行することも、思いつくことも出来なかった。こうなってはどうしようもなく、次のループに期待するだけだ。

 一つ懸念しているのは、この暴走超特急みたいな二人が次回、オレの話を聞いて助けてくれるのかということである。話を聞いてくれるか、というのは、つまり今回と同じように勝手に凄い勢いで色んな準備をして、結局無駄足に終わらないかということである。

 

 

「いつもどんな感じだったんだっけ、村崎君?」

 

「どんな感じと言われてもなぁ。突然大きく飛行機が揺れて、大きな音がして、光に包まれて‥‥」

 

「それで?」

 

「それでおしまい、何も分からず終い。気がついたら自宅のベッドの上」

 

「役に立たないなぁ!」

 

「何度も言ってるじゃないか、まったくもう」

 

 

 既に搭乗ハッチは閉められ、ゆっくりと飛行機は動き出していた。

 否応なく緊張は高まる。険しい顔つきの俺たち三人に他の面子は怪訝な顔をしていたけれど、今ではそれぞれ眠りについたり機内販売のパンフレットを眺めたりテレビを見たりと、オレにとってしてみれば見慣れた光景だ。

 それはつまりこれから起こる事態もまた、見慣れたものになるということを示しているのだ。

 

 

「お前は意識が飛んで、普通に目が覚めるんだよな。俺たちはどうなるんだ?」

 

「‥‥そんなこと、オレが知るかよ」

 

「今の俺の意識はどうなるんだ。何もかも忘れて過去に戻るのか、それとも今の俺が死んで、新しい俺が何食わぬ顔で過去を過ごすのか‥‥」

 

「ちょっと、やめなさいよ慎一郎。村崎君の気持ちも考えなさいってば」

 

「いや湊、そういうつもりじゃないんだ。まぁ聞けよ村崎、“俺が”こうして喋るのは、これが最後だ」

 

 

 ふと、妙な違和感を覚えて隣の席の加藤を見た。

 逢坂は心配そうな顔でオレ達を見ている。今の加藤の言い回しが気になったのはオレだけみたいだ。

 今の“俺”は妙な言い方だった。“今の加藤”が死んでしまうから、“今の加藤”と“オレがループした先で会う加藤”が別人だとか、そういうニュアンスでもなかった。

 親友が、得体の知れないナニかに見えた。死ぬかもしれない、なんてものとは明らかに違う怖気がオレの背筋を凄まじい勢いで這い上がって来た。

 

 

「おい加藤」

 

「なぁ村崎、一つ聞くぜ。——“俺は誰だ”?」

 

 

 誰だって、そんなの決まってる。

 加藤慎一郎。俺の親友。柔道部で、ガタイがよくて、考えなしだけど友達想いで、口は回って、クラスの人気者。

 

 

「“お前は誰だ”?」

 

 

 誰だって、そんなの言うまでもないだろ。

 オレはオレだ。村崎嗣郎だ。人付きあいは得意じゃないけど、少ない友達には恵まれた。クラシックやオペラが好きだなんて、随分ジジ臭いだなんて笑われたもんだ。

 そりゃ哲学や倫理には詳しくないから難しいことは言えないけど、俺は俺だ、何を言っているんだ加藤。

 

 

「いいやお前は分かっちゃいない。でも俺はこれ以上は言えないぜ、厄介な奴がいるからな」

 

 

 なんだよ、厄介な奴って。まさか不倫でもしたか加藤、隣の逢坂がそんなに怖いか。

 

 

「村崎、人には使命があるもんだ。やるべきことがあるもんだ。大きな事件に巻き込まれた時、それが分からない奴は役立たずだ。いい加減しびれを切らしてるんだ。消されちまうぞ、お前」

 

 

 役目って、この飛行機事故を止めることか? でもオレ達には何も出来なかったじゃないか、荷が勝ち過ぎてるって、そう言ったじゃないか。

 突然どうしたんだ加藤、いつもみたいに冗談かましてくれよ。

 オレの役目って、なんだよ。消されるって、誰にだよ。

 

 

「捨てられた子犬みたいな顔すんなよ。大丈夫だ、拾ってくれた人はいるだろ。道筋もお膳立てしてもらってるんだ。‥‥もう一度聞くぞ、“お前は誰だ”?」

 

 

 誰だって、だからオレは、俺は——

 

 

「ッ?!」

 

 

 大きく飛行機が揺れた。いつの間にか飛び立っていたらしい。

 すっかり眠りこけていた須藤を五島がたたき落とすのが視界の隅っこに映る。いつも元気で笑顔を絶やさない逢坂が加藤にしがみつくのも.

 加藤は慌てることもなく、身体を揺らすこともなく、まっすぐに俺を見ている。俺も揺れていなかった。まっすぐに加藤を見ていた。

 加藤の瞳の中に映っているのは俺だ。いや、オレだけじゃない。俺の後ろに誰かいる。

 そういえば今回に限って左隣に座っている客がいつもと違った。全身白づくめの上品なスーツの、若い金髪の男。

 

 

「‥‥ふむ?」

 

 

 いつものように意識が落ちる。視界が真っ白に、まばゆい光に包まれて。

 鼓膜どころか脳みそまで破壊してしまいそうな爆音で何も聞こえなくなる。いつものことだ、すっかり慣れ切った状況だった。

 そんな中、どんな轟音の中でも通るような、小さく微かな声を、オレの耳が拾った。

 初めて耳にするのに、聞き慣れた声だった。

 その声で何かのスイッチが切り替わるように、しぶとく意識にしがみついていた最後のひとかけらがはがれ落ちて——

 

 

 

 そして、記憶は入れ替わる。

 

 

 

 

 

 90th act Fin.

 

 

 

 



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第九十話『操人形の覚醒』

久しぶりの更新。あと一話と、エピローグで完結だと思います。
今回かなり説明を省略してる部分があるんですが、それは次話で説明させて頂きます。
あと若干以上にプロット変わってて、矛盾ばっかりなのも修正しなきゃ‥‥。
修正してしまうか、改訂版として出すか、悩みますね。
四月から執筆できる環境じゃないので、この半年間で完結目指します!


side AOZAKI Sisters 

 

 

 

 カチャン、とコーヒーカップとソーサーが触れ合った。

 コトン、とマグカップが重厚なテーブルへと置かれた。

 二人の女性が大きなダイニングテーブルを挟んで座っている。互いに向かい合っているのに同じ空気を共有する気が全くない。それぞれ勝手に、したいことをしているようだ。

 片方は赤みがかった、すこし煤けたくせ毛の女性である。長めで、ウェーブがかった茶髪は適当におろされており、オフの雰囲気を醸し出している。しかし新聞に落とす視線からは贔屓目に言っても穏やかな印象は受けない。

 もう片方の女性は、卓上のランプの灯を反射して赤く光る、長く艶やかな黒髪をストレートに下ろしている。完全に時代遅れ、下手すると時代錯誤のカセットテープレコーダーを弄くり回しているが調子は悪そうだ。

 本来ならこの部屋にはもう一人、目付きが悪い方の女性の事務所で働いている男性がいるはずであった。が、生憎と今は外出中である。家事が出来るのか出来ないのか、とりあえず自分達でやる気は全くないこの二人を養うための買い出しだった。

 

 

「‥‥ちょっと姉貴、足当たってんだけど」

 

「知らんな」

 

「知らないわけないでしょ。じゃあ何よ、この足は」

 

「幻だろう」

 

「へぇ、じゃあ踏みつぶしてもいいわけ‥‥ねっ!」

 

「ほら、幻だったじゃないか。喧しい奴だ、新聞ぐらい静かに読ませろ」

 

 

 上半身は悠々と、タップダンスを踊るかのように床がダンダンと音を立てる。ちなみに彼女達の家ではない、赤の他人の家である。配慮はない。

 誰がどう見ても不仲に見えるこの二人、発言から察する通り姉妹である。但し見て分かる通り、恐ろしく仲が悪かった。具体的には殺し合いをするぐらい。比喩ではなく、マジである。

 しかしそれも十年ぐらい前までの話。義理の弟を拾ってからは今までとは打って変わったように不仲は解消され、今ではこのように仲の良い姉妹だ。

 

 

「おい足癖が悪いぞ愚妹。悪さばかりする足だ、他人様の迷惑になる前に切り取ってしまってはどうだ?」

 

「姉貴こそ拗じ曲がった性根してるくせに、よく言うわ。他人に悪さする前に‥‥あぁ残念、もう十分すぎるぐらい迷惑よね。今直ぐ自害したらどうかしら? “ストック”は日本なんでしょ? そしたら戻って来た紫遙は私で独り占めできるわけだし」

 

「馬鹿を言うな、先ずはお前の足を切り落としてからだ。安心しろ、私が新しく素直で品の良い足を作って挿げ替えてやる。タコでいいか?」

 

「いいわけないでしょ。塵も残さず消し飛ばして欲しいなら、そんなに遠慮しないでハッキリと言ってくれていいのよ?」

 

「ご免被る、塵になった粒子の一つでもお前の身体に触れたら魂が汚れてしまうだろうが」

 

「私だって御免よそんなの!」

 

 

 この通り、非常に仲が良い。

 実際この二人が同じ空間と時間を折半出来るようになった、というのは昔の二人を知る者からしてみれば仰天動地の事態だろう。顔を合わせるのは殺し合いをする時、というのが二人の中の常識だったのだから。

 封印指定の人形師、蒼崎橙子。第五法の到達者、蒼崎青子。姉がオレンジで妹がブルー。どちらも魔術教会では厄ネタの一つであり、あまりお目にかかりたくない存在であった。

 ついでに言うと二人が我が家のようにくつろいでいるのは、これまた厄ネタの一つである遠坂の屋敷。正確に言えば、倫敦にある遠坂別邸。

 家主と縁者が全員出払ってしまった其処の留守を任された、のだったらどれほど穏便だったことか。実際に留守を任されたのは先程も話に出て来た姉の事務所の従業員であり、この二人は勝手に押し掛けてきたに過ぎないのである。

 いくら家主が留守でも、魔術師の屋敷だ。直々に託された従業員‥‥黒桐幹也ならともかく、よくもまぁ普通に出入り出来るものだ。家主がうっかりなのか、二人の実力か。どちらも、が正解かもしれない。

 

 

「それに、紫遙がまともな状態で帰って来られるかは分からん」

 

「‥‥フン」

 

「分かってるじゃあないか」

 

「当たり前でしょ。分かってないなんて口が裂けても言えない。そんな無責任なことするつもりはないわ」

 

「責任は、とるさ。‥‥分かっていながら、欺いていた分の責任はな」

 

 

 レースのカーテンの隙間から僅かに射し込む陽射し。外は風が強く、雲が多い。薄暗かった部屋も雲の切れ目から太陽が覗く度に少しだけ明るくなる。

 二人揃って同じことを考えていた。超一流の魔術師と正真正銘の魔法使いという比較的長命な部類に入る彼女達も、ここ暫くは同じものへと興味と意識を集中させていた。

 名前が出ていた、義理の弟。蒼崎紫遙。

 長姉も次姉も、実家から勘当同然の身である。特に姉の方は当たり前のように実家のある界隈への出入りが禁じられており、妹は当主であるはずなのに実家へは碌に帰っていない。しかし、名字へはしっかりと拘りが残っていた。

 その名字を名乗らせてもいいと。弟とはいえ義理ならば全く別の名字を名乗らせてもいいのに、自分たちの名字を名乗らせてもいいと、そう決めた弟。

 名前すら与えた弟。自分たちの名字と、自分たちが与えた名前で縛った弟。大切な存在‥‥なのだろう。そうなのか、と聞かれたら即答する。しかし自問自答するとなると話は別。戸惑っている、迷っている、わけではない。自分がそういう定義に当てはめていいモノを得るに相応しい人間なのか、存在なのか、悩むだけ。漠然と、理解できないだけ。

 しかし気にかけている存在だった。だからこそ、彼の成長を見守った十ウン年、それだけの時間が経過した今、大きな転機に立たされていることを二人は自覚していた。

 

 

「‥‥貴方は不倫相手の子なのよ、って告白するみたいな」

 

「バカらしい喩えをするんじゃあない愚妹。‥‥何も問題はないんだ。問題は、な。“それ”は只の事実に過ぎない。そして私達は」

 

「別に心境の整理をするようなタマでもないし」

 

「していいわけでもない」

 

「つくづく魔術師って難儀よね」

 

「魔法使いもだろう」

 

「同情してんの? 似合わないわね、姉貴こそ」

 

「そういうタマじゃあないさ」

 

 

 そうだ、魔術師とは難儀な人種だった。

 一般人の抱えるだろう悩み事と無縁の人種だった。種族、と言い換えてもいい。長姉も次姉も、一般的な魔術師の枠に当てはまる存在では断じてないが、むしろその部分に限っては、どんな魔術師よりも魔術師らしかった。泰然としていて、超越的だった。

 義弟への、世間一般的な親愛。それは十分以上にあった。が、本物なのか不明だった。他人には断言できても自分自身には断言できない、そんな確信と理解だけはしっかりとある。

 つまるところ、やっぱり戸惑っているのかもしれない。自分達が対外的にとるスタンスが定まっているくせに、どう折り合いをつけていいかは分からない。しかも、それがありきたりなものではなくて。

 

 

「やること、考えること、は変わらないはずなんだけど。ていうかさぁ姉貴、どんな顔してあの子の前に立てばいいと思う? ちゃんと帰ってきたら、さ」

 

「今まで通りさ。ちゃんと帰ってきたなら、な」

 

「何も気がつかないまま、ちゃんと帰ってくるって可能性あり得る?」

 

「あり得ない。‥‥らしくもなく怖がってるのか?」

 

「魔法使いだって人間よ」

 

「嘘をつけ」

 

「じゃあ魔術師は?」

 

「アイツも魔術師だよ」

 

「違うでしょ」

 

「違わない。アイツ自身がそう定めた。そう定めて、アイツはアイツになったんだ。だから、アイツはよく分かってるはずさ。そう悩むことはない」

 

 

 そんなことを口に出しながら、ポケットの中の煙草をまさぐって、やめた。このコーヒーを淹れてから何度目かになるか分からないが、流石に他人様の家で煙草まで吸うほど図々しくはないつもりなのである。

 この話、やめない? 堂々巡りだし、意味ないし。という妹の提案に、彼女は快く賛同した。実のところ、何もすることがないのである。

 

 

「何かするつもりなら、とうの昔にしてるしね」

 

「それは許されるのか? いや、私には無理だが、お前なら」

 

「許されないわ。私は秩序を破壊する側だから、秩序の側から殴り返されちゃう」

 

「のわりには元気に飛び回っているが」

 

「破壊する側だって、破壊を強要されてるわけじゃないもの。ていうか、そういう仕組みから解き放たれた自由人なわけだし」

 

「根無し草、か。私とは大違いだな」

 

「秩序の走狗にされたこと、あるもんね姉貴は」

 

「腹立たしい、まったく。‥‥アイツも、そうだからな」

 

 

 結局取り出した煙草をクルクルと長くて繊細な指で弄び、それを箱に戻す気も起きなくて、最終的には真っ二つに折ってゴミ箱に投げ捨てた。

 なんなら箱ごと潰してしまえばよかったか、どうせ暫くは吸うつもりがないのだ、とイライラと呟く。

 そんな長姉の様子に、次姉は目を丸くした。

 

 

「‥‥呆れた。なんだかんだ気にしてるんじゃない」

 

「幸い人並の感性は残っているらしくてな、お前と違って」

 

「‥‥やっぱり消し炭にされたいわけ」

 

「トンデモない」

 

 

 心を満たしているのは無力感、ではない。彼女達にとっては、遥か遠くの国で名前も知らなければ境遇も知らない誰かが、事情すら分からないまま窮地に陥っているような感覚だった。

 義理の弟とはいえ、親族が相手でもそうだった。つまるところ心配もするし、助けも出すが、この期に及んでは何もすることがなかったのである。

 

 

「あーあ、失敗したわ。ここに幹也君でもいれば、色々と質問とかしてくれるはずなのに。答え合わせはしてあげられないし、解説も出来ないけど」

 

「お前と私だと空しくなるぐらい話が進まんな」

 

「答えを知ってるのに議論なんて出来るわけないじゃないの。ホント空しいっての。ていうか私、なんで姉貴と二人でこんなとこいるのかしら」

 

「私が知るか」

 

「私が知らないのに姉貴が知るわけないじゃない」

 

「やっぱり足をタコにされたいらしいな」

 

「トンデモない」

 

 

 もういっそ別の仕事でも入れてしまえば良かったのだ。バカンスにでも行ってくればよかったのだ。しかしどうにもそれが出来なくて、ここに残っていた。

 二人とも、一番ここにいてはいけなくて、しかしここにいる始末だった。もう何と表現していいのか分からないが、わりと色んなことが出来るだけに、自分たちがこの世で最も可哀想な存在であるような気がした。

 クイズの答えを知っている解説者。しかしクイズの最中だから、それらしいことすら言えない。解説すべき相手がいないし、解説してもいけない。二人だけなら好き勝手に喋ればいいくせに、誰にも見えないが観客がいるのである。

 しかしそんなことは十分に承知していたはずだ。あの日、義理の弟が弟になる前。彼がカレである以前、いや、彼が定義される前に、彼を拾った時から分かりきっていたことだったのだ。

 もう本当に惨めな気持ちだった。やるせない、でもなくて。空しい、でもなくて。焦っているわけでもなくて。ただただ只管に無様で惨めな気分だった。

 奈落の底に落ちるしかないトロッコを送り出して、それをずっと見続けているような。あるいは一本道を進んだ最後に「おめでとう! 君は何事もなくゴールした!」なんて巫山戯たテロップが出てくる馬鹿みたいな映画の脚本を押し付けられた監督のような。

 それが許されるなら全てが終わるまで意識を落としていたい。しかしそれは矜持が許さず、こんなザマであった。

 

 

「植物になりたいわ」

 

 

 吐き捨てるような妹の言葉に、彼女は心の中で頷いた。

 本当に、もう何もかもが惨めに思える、そんな一時だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥ッ! ‥‥ッ?! ‥‥?」

 

 

 カッと目を見開いて、俺は呼吸の仕方を忘れてしまったかのように呻いた。

 身体は燃えそうなぐらい熱くて、背筋は一面に針が突きつけられてるみたいに冷たかった。何が何だか分からないけれど、今直ぐ身体中をかきむしって肉を刳り出し、頭蓋をかち割って脳みそをぶち撒けたい気分だ。

 なんだか凄く悪い夢を見ていたような。いや、悪夢は山ほど見たけど、これはそんな感じじゃあない。わけもわからず理不尽な何かを押し付けられているみたいな、そんな感じだ。

 紐が切れた操り人形(マリオネット)を何とか動かそうとしているみたいに、自分の身体から意識が乖離している。自分を律する、自分を制御する、自分を支配するのが魔術師の基本。初めて魔術回路を開いた時、こんな感覚じゃなかったかしら。

 何とか、指一本一本を数えて、俺はゆっくりと身体に意識を通していった。つま先から頭のてっぺんまで、順番に「これは俺の身体だ」って確認しないと動けなかった。

 

 

「どうした、悪いユメでも見たか」

 

 

 身体中を浸している泥の中、ゆっくりともどかしく動く首を回すと、オレンジ色の髪をポニーテールにしている女性が自分のデスクに座ってこっちを見ていた。彼女のお気に入りの、100円ショップで買って来た真っ白いマグカップからはコーヒーの湯気が見える。煙草は吸っていなかった。ちょうど切れ目にでも、当たったのかもしれない。

 伽藍の堂。埃っぽくて、無味乾燥な事務所。廃墟に無理矢理、本棚や机や椅子やソファーを詰め込んだような場所。一つ一つ、机の上のペンすらも確認して、俺は漸く安心した。

 どうやらここは俺にとっての敵地ではない、と当たり前のことを確認しないと人心地つかなかったのである。不思議なことに。

 

 

「夢を見てたわけじゃないはずなんだけど‥‥。ていうか、俺さっきまで何してたの?」

 

「分からんのか」

 

「さっぱり。そもそも今日っていつで、今って何時、って感じだ」

 

「用事があるとは聞いてないが?」

 

「じゃなきゃ、のんびりしちゃいないか」

 

 

 腰が抜けてしまってるらしくて、立ち上がれない。それが分かったのか、軽快に笑いながら彼女は俺の分のコーヒーを淹れて持って来てくれた。

 インスタントだ‥‥。いや、まともなコーヒーもあるけど、俺はそもそもコーヒーはあんまり飲まない。つまるところ、味の違いが分からない。今はダラダラと汗を流しながらも、この堪らなく冷たい不安や恐怖を何かで紛らわしたかったから、温かいコーヒーは実にお誂えだった。

 受け取ったコーヒーには波紋。手が小刻みに震えている。ボロボロだけどクッションの利いたソファーに座っていることすら、現実味がないぐらい。

 口に含んだ真っ黒な液体の苦みが少しばかり脳の覚醒を助けてくれた気がしたけど、どうにも震えが止まりゃしない。

 ポケットに突っ込んだままだった、グシャグシャの箱から煙草を取り出して火をつけた。

 

 

「顔、真っ青よ。汗ダラダラだし、どうしたの?」

 

「分からない,さっぱり。あー、もう寝ちゃおうかな今日は」

 

「それは困るな、暫く起きていろ。どのみち、起きたばかりでは寝られんだろう」

 

「‥‥まぁ、それはそうだけど」

 

 

 いつの間にか、目の前には別の女性が座っていた。

 長い長い黒髪が、申し訳ばかりに据えられた照明の加減で赤く反射している。真夏の盛りでもあるまいし、Tシャツ一枚というのは如何なものだろう。寒い時はもちろんそれなりの格好をするんだけれど、この人に関して言えば、どんなに寒くてもこの格好で押し通るような浮世離れした印象があった。

 最近この二人が一緒にいるのは珍しい。犬猿の仲に限りなく近いのはさておいて、少なくとも俺の前では殺し合いまで至ったことはない。しかしどちらも、特に目の前の彼女は忙しくて、ここ暫くはあちらこちらと飛び回っていたらしい。

 

 

「やっぱりユメでも見てたんじゃない?」

 

「そうなのかなぁ、やっぱり。寝てた、んだよな、俺。夢ぐらい見るか」

 

「身体は平気なのか? 何か変な感じはしないか?」

 

「変じゃないところがない。俺、ヤバい寝方してた?」

 

「さぁな。しかし問題がないなら、いいさ」

 

 

 俺の目の前が占拠されてしまっているからか、窓辺に腰掛けて煙草に火を点ける。ジッポーの、キンという小気味いい音が響いた。

 ジッポーは一見俺のとお揃いに見えるけど、向こうの方が年期が入っている。俺のも新品じゃなくて倫敦の骨董市で買ったものなんだけど‥‥あれ、てことは今はいつだ?

 

 

「熱くない? 痛くない? 平気?」

 

「過保護だなぁ、大丈夫だよ。でも、こんだけギクシャクするって変だな。うたた寝にしちゃ長い時間意識が落ちてた、のか?」

 

「風邪を引くから、もうやめろ。寝るなら自分の部屋に行け」

 

「ただのうたた寝でしょ、気にするほどのことじゃないよ。いつの間に意識が落ちてるからうたた寝っていうんだよ」

 

「ソファにまで移動して寝ていた奴が言う事か」

 

「そりゃそうだけどさ」

 

 

 倫敦じゃ手に入れられない日本の煙草の味で段々と思考がクリアーになっていく。いつの間に煙草を吸うようになったんだっけ。高校出る前には、もう吸っていた気がする。その辺りをわざわざチェックするような学校じゃなかったし、保護者もとやかく言わなかったから。

 吸うようになった理由まではさっぱり思い出せないけれど、十中八九、義理の姉の真似だろう。そう言ったら相棒の少女は苦笑いをして、悪友となった奴は訳知り顔、その師匠の同級生には生暖かい目を向けられたっけ。 

 

 

「さて、主役が起きたことだから始めるか」

 

「‥‥始める?」

 

「なぁに寝惚けてるのよ。朝ちゃんと打ち合わせしたでしょう? 日が落ちてから、始めるって。ホラ早く準備して」

 

 

 下の義姉に促され、工房へと移動する。この廃ビルは作りかけの状態で放置されていて、一階に玄関がなく三階からしか出入りできない。

 そして三階が上の義姉の、表の顔の事務所。四階が私室。二階部分が工房になっていて、一階は車庫やら物置やらと化している。後輩たちの修行には事務所を使うけど、俺の修行は工房で行われていた。

 一見無防備に見える廃ビルの二階には窓がなく、二重三重の魔術的防護が施されている。俺も何気なく出入りできるのはごく一部の区画で、こと“破壊”の腕に関しては当代一と噂される下の義姉すらも、上の義姉の断りなく押し入りを行えば生きては帰れないだろう。

 魔術師の工房とは守るための要塞ではなく、侵入者を必ず殺すための罠のようなもの。生きては入れないし、生かしては出さない。特に上の義姉や同級生のような、ものづくりや礼装の扱いに長けた魔術師にとっては完全に武器庫である。

 

 

「さぁ、寝ろ」

 

「そんな、いきなり寝ろって言われても何が何だか。‥‥俺、朝なんの話してたっけ?」

 

「なんだ本当に覚えてないのか、仕方がない奴だな。お前が倫敦に行くにあたって、修行の最後の仕上げをするんだろうが」

 

 

 その、俺が立ち入りを許された唯一の区画。人形の整備をするための手術ベッドのような作業台が置かれた部屋で、俺はまるで患者のようにベッドに縛り付けられていた。

 上の義姉が何やら怪しげな器具を山ほど用意していて、俺の記憶が確かならば精神干渉系の魔術儀式に用いる礼装だ。礼装は魔術師の象徴の一つでもあるけれど、もちろん簡単なものから一品ものまで様々なものがある。今日はかなりがっつりと何かを行うつもりだったようだ。

 

 

「まぁ安心しろ。お前がやるべきことは大して存在しない。黙って寝て、話を聞いていればいい」

 

 

 てきぱきと道具を用意し、決められた場所に設置していく。

 注射器に薬品を注入し、銀のトレイに置く。電気ではなく蝋燭で灯りを用意する。俺の体の輪郭をなぞるように、鉱石を砕いて作った粉とルーン石で魔法陣を用意する。

 精神干渉系の魔術には二つの流派があって、一つは神話の時代から連綿と続く、魔力や術式を用いて強引に頭の中に潜り込む方法。そして現代魔術に近い、薬品や催眠を用いて精神を無防備にする方法だ。ただし前者には一つ問題点があって、相手が能動的に協力してくれない。今回は被験者である俺が身内だから、後者を主にした方法をとるらしい。

 

 

「さて、簡単に講義だ。いいか、魔術師を構成する要素の中で、一番大事なものは何だと思う?」

 

 

 下の義姉はおよそ一般的な魔術の知識こそあれ、少しでも専門が絡むと全く分からない。なので相当に手持ち無沙汰にしていて、俺が脱いだジャケットのポケットから埃を見つけるという遊びを始めていた。

 あのジャケットは一応れっきとした礼装で、俺の防御の最後の砦。そう簡単に破れたり解れたりということはないはずだけど、あまり乱暴に扱われるとソワソワしてしまう。

 

 

「‥‥魔術回路の質と量?」

 

「違う。そんなものは外付けの礼装で事足りる。大事なのは否定しないが、どのみち歴史の浅い家では話にならん」

 

「じゃあ知識?」

 

「違う。知識をつけるのは魔術回路を作った後だ。だからそもそも一番大事なものというわけではない」

 

「神秘を扱う魔術師として、十分な覚悟をしているかどうか?」

 

「根性論だとか精神論の話をしているわけではない。違う」

 

「‥‥だめだ、さっぱり分からない。降参するから、答えを教えてよ」

 

 

 俺の魔術回路は左右合わせて14本。初代の魔術師としては破格に近い。超一流の魔術師である上の義姉と、現代に生きる本物の魔法使いであるしたの義姉の指導は十分で、知識も技術も一人前にはあるはずだ。そして覚悟も、俺自身では出来ていると思っている。実際どうかは、よく分からないけど。

 じゃあ魔術師にとって一番大事なものって何なんだ? 神秘の探求者、超越者、保護者として大事なものって何だ?

 

 

「お前に答えられないのは、ある意味では当然だが‥‥。呆れるぐらい簡単なことだよ」

 

 

 万が一に備えて縛り付けられた俺を見下ろして、上の義姉が嗤う。

 久しぶりに見る、本当に意地の悪い笑み。その肩越しに見える下の義姉も、同じように嗤っていて‥‥。俺は不思議と背筋が凍りつくような感覚を覚えた。

 義姉たちが意地悪そうな顔するなんて、特に変なことじゃあないはずなのに。始めて見た顔のような、そんな気がして。

 何も知らない一般人が魔術師に怯えるように、義姉に怯えた。

 

 

「――起源(ルーツ)さ。自分の起源(ルーツ)を把握すること。それが魔術師にとって最も大事なことだ。だから、お前には答えられなかったんだよ。お前は自分の起源(ルーツ)を直視できないんだから」

 

 

 起源とは流転し続ける魂の原点。存在の因子。始まりの混沌に於いて生じ、その魂を縛り続ける方向性。起源とは衝動にして絶対命令なのだ。

 起源は魔術師にとって最も大事なこと。そう言われれば、成る程と思う部分は多い。

 魔術師は自分の起源に従って自らの魔道を定めなければならない。起源は属性とは違う。例えばある魔術師の起源は静止であり、その起源に従って結界術の大家と成った。魔術師は己の属性によって魔術を縛られ、起源によって魔道を定める。

 魔術師の多くは五大元素を属性として持つが、起源に近しい者は特殊な属性に目覚めると上の義姉の講義で聞いたことがある。例えば倫敦で出会った悪友は義父から起源に近しい魔道へ導く修練を受け、剣という稀有な属性を目覚めさせた。彼の起源は埋め込まれた聖剣の鞘により後天的に変化したものらしいけど。

 起源を覚醒させる、という術もある。俺は見たことがないけれど、起源を覚醒させることにより肉体と性質は変化し、超人へと進化する。しかし人間の一生程度で得た自我は、原初の衝動によってかき消されてしまうのだとか。義姉は苦々しげに、これらについて話していた。

 

 

「お前を倫敦に留学させるにあたって、師として最後に施す講義。それがお前の起源(ルーツ)の切開だ」

 

 

 その嗤いを止め、途端に無表情になって、上の義姉は言った。

 聞いた俺の顔が強張るのを確認して、今度は少し優しげに笑う。一方で、俺のジャケットを弄るのを止めた下の義姉はゾッとするぐらい透明な顔をしていた。

 俺の起源(ルーツ)の切開。そんなことをしていいのか。やってしまっていいのか。

 想像するだけで恐ろしくなる。一瞬で足場が崩れ落ちてしまうかのような感覚。絶対に触れてはいけない禁忌(タブー)。今まで一度たりとも、俺が二人の義弟になってから言葉にも出さなかったことなのに、なぜ今頃。

 

 

「まぁ落ち着いて話を聞け。大きく息を吸って、吐け。ひどい顔をしているぞ」

 

「‥‥誰のせいだと、思って、るんだよ」

 

「お前自身の問題で、それは私には関係のないことだ。お前自身がやらなければいけないことなのだから、ここ一番と思って耳を研ぎ澄ませろ」

 

 

 思えば今の俺の起源(ルーツ)は目の前の、この意地悪で厳しくも優しい義姉だった。

 俺にとっての過去とは、二人の義姉の義弟となった瞬間が最初。それ以前にどういう生活をしていて、どういう人間だったのか。そんなことは考えちゃいけないことで、そう教わってきた。

 二人の義姉は俺にとことん“それ”について考えさせないようにしてきた。例外は殆どない。思い返せば、蟲の翁の討伐へと出発したときの、あれぐらいだ。俺を題材にした物語があるとすれば、劇的な変化を起こすような、そんなとき数回だけ。

 何故なら其れに触れてしまえば、俺は俺じゃなくなってしまう。膨大な過去が、膨大な力が俺を塗りつぶしてしまう。まるで起源覚醒者が人格を、混沌衝動に塗りつぶされてしまうように。

 だから俺がこんなに震えているのは当たり前のことなんだ。今まで味方としか思えなかった義姉が、俺を殺して喰らう化け物のように見えるのも当然のことなんだ。俺の首にずっとずっと懸かっている紐を絞めようとしているんだから、怖がるのは無理のないことなんだ。

 

 

「生き物は多かれ少なかれ起源に影響される。例えばお前も知っているだろうが‥‥、禁忌という起源を持っていれば、人間であっても畜生であっても、その種において禁忌とされる何某かを求めるようになる。閉鎖という起源を持っていれば、どうだろうな。自らを閉ざし、交流を絶つか? 或いは其れを他者に強要するか‥‥」

 

 

 もう口を開くこともできずに、俺は話を聞くだけの木偶と化していた。

 起源とは混沌衝動。前世でも、何代前でも、この衝動は変わらない。一番最初、魂が生まれた原初の混沌で生まれた方向性だからだ。この方向性に、わずかに性格の違いなどが加わって人格は形成される。逆に言えば、同じ魂を持つ者はある程度性格が似通うわけだ。

 じゃあ俺の起源について考えると、こんなに動悸が激しくなるのは何故なんだろう。前世程度なんて、混沌衝動には何の関係もないというのに。

 

 

「多かれ少なかれ、とは言ったがな、稀にいるんだよ。起源を色濃く発現させる者が。あまりにも起源に近しく、魔術師ならば属性すら其れに近づいてしまう者が。段階を進み、覚醒まで至った者の多くは人格をその衝動に飲み込まれてしまうが、さらに稀に、起源と己の人格を適合させてしまう者もいる。‥‥私の知り合いにも、一人いてな」

 

 

 聞いてはいない。しかし知っている。

 “静止”を起源とする魔術師、破戒僧。おそらく其奴のことだ。この事務所の用心棒、始末屋、人間台風みたいな同僚に喧嘩を売った大馬鹿者。

 その破戒僧の話を前に聞いた時、義姉はこう言っていた。奴は己の目的のために彼奴を得ようとして、その実、彼奴のために動いていたのだと。そして奴のために動かされたであろう己もまた、同じくらい腹立たしいと。

 抑止力に動かされそうになったのだと義姉は笑った。しかし抑止力は働いていなかった。抑止力は誰にも意識されないものだから、もっと別の大きな流れがあったのだと言う。それを運命(Fate)と呼んでもいいのかと聞いたら、お前の好きに呼べばいいと言われた。

 厳密な定義が存在する。アラヤやガイアは俺たちでは計ることすらできない大きなものだから、逆に分かりやすい法則で動く。それは何かと今度は聞いたけど、上手く説明できないと彼女は溜息をついた。俺からすれば上の義姉は知らないことのない人だ。そういう認識だったので、とても驚いたのを覚えている。

 

 

「では起源に近しい、とはどういうことだと思う? 何故彼らは起源を自覚し、ある境界線を踏み越えて、己の根源衝動に喰らいついた? 虚無の混沌に逆に喰われ果てることなく、喰い尽くすことができた者は彼らと何が違っていた? そこに在るものを、何と呼ぶ?」

 

 

 だが少し頭を動かした方がいいな。運命とは何だ? と、確か義姉は続けて言った気がする。

 運命とは覆せぬ何かだと、決められた道だと、誰かに強制された選択肢だと答えたんだっけか。でも今になって考えたら、それって原初の混沌で生じた衝動のことなのかもしれない。

 じゃあ、仮にそれを運命と呼ぶとして、何にそう決められたんだ? 一人の人間の一生の営みを超えて、何代も流転する魂に何を決めて教え込もうというんだろう。誰かが死んで、また誰かが生まれて、そうして繰り返す中でその魂に決められたものって何だ。

 

 

「何代も何代も続く魂から、その代の持ち主が意味を見出し、御し、役割を果たす。運命とは、使命さ。我々はその代で果たすべき役割を果たすとき、己の魂の本質を引き出さなければいけない。抑止力の後押しも、ある意味ではそれと等しい。逆に言えば知覚した時点で既に抑止力ではなく、決められた運命の輪の中の事象だったということだな」

 

 

 ただの予定調和。

 抑止力が、例えば突発的に起こった事故に対処するための方法だとしたら、もはや延々と時間の概念すらなく、定まった台本の一部であるかのように。やらなければならないことが一部の人間にはあるのだと。そう義姉は言った。

 因果を操る魔術が存在するなら、あらゆる因果を遡求し解析し拡張すれば理解できる人理の礎も証明される。未来を定めるなら過去が定まり、過去が定まれば未来が定まる。現在から未来と過去を手繰り寄せることは容易である。ならば自分のやるべきことは、ストンと何処かに当て嵌まる。そんな役者が必ずいる。

 それが、俺か。

 あるいは、彼奴か。

 

 

「そうだ。‥‥さぁ、どうする? お前の原初(ルーツ)は何だ?」

 

「俺の‥‥ルーツは‥‥」

 

「勘違いするな、蒼崎紫遥。お前のルーツじゃあない」

 

「――アンタが喚ばれてるのよ、“村崎嗣郎”」

 

 

 瞬間、沸騰した。

 困惑も、恐怖も、あらゆる余分な感情は消え去り、冷たい湧き水を飲んだときみたいに脳髄はクリアーになる。

 身体の芯は熱湯よりも熱く煮えたぎり、氷を差し込まれたかのように思考は冷たく澄み渡る。

 

 

「誰だッ!!!!」

 

 

 ぎしりと手足を縛り付けていた革のベルトが軋み、俺はすぐさま親指の爪で掌に勇猛(ウルズ)文字(ルーン)を刻んで引き千切った。

 引きちぎった革に、続けて一瞬で氷棘(スリサズ)を。凍りつき、刃と化したベルトで足を縛っていたものを切り裂き、間髪入れずに目の前の魔術師に投げつける。

 

 

「ッ透けた?! 実体がないのか!」

 

 

 その棘は、防がれるでもなく躱されるでもなく。ただ何も其処になかったかのように、その影をすり抜けて飛んで行った。

 ‥‥はじめからおかしかったんだ。なんで俺は、当たり前のように衛宮や遠坂嬢、ルヴィアのことを考えていたんだ。今が倫敦に留学に行く前だってんなら、三人のことなんか知るはずないじゃないか。

 俺の起源について、橙子姉や青子姉が直接的に触れたことは一度もない。それどころか、自分で考えていたじゃないか。俺が二人の義弟(おとうと)になる前のことだって、早々触れなかったじゃないか。それがどれだけ危険なことか、知ってるんだから。

 あまつさえ“あの名前”を呼ぶなんて、絶対にありえない。

 俺は“蒼崎紫遥”なんだ。そう言ってくれたのは二人だったじゃないか。それを否定する言葉を、義姉さん達が口にするわけがない。コンラート・E・ヴィドヘルツルの作り出した、過去の虚像。あるいは俺に催眠をかけているのか、奴の傀儡か――

 

 

「それは違うぞ、紫遥」

 

「俺の名前を呼ぶなッ!」

 

「‥‥ええい喧しい。実体がなくても耳に響く」

 

「落ち着きなさい紫遥。貴方が今どうしたって、そんなに事態は変わらないわよ。ちょうど“外が騒がしくて”チャンスなんだから、先ずは話を聞きなさい」

 

 

 ぐ、と呻き声を漏らす。虚像とわかっていても、やっぱり俺はこの二人の姿形には弱い。

 もともと精神干渉への防御を怠っていないからか、催眠の類はほとんど経験がなかった。たとえ義姉達が相手でも。

 その分だけ、どうにも調子が狂ってしまう。偽物なんていうものを目の当たりにしたことがないから。あの黒い弓兵だって、一応は本物みたいなものだったわけだし。

 

 

「お前のもう一つの名前を呼ばなかったのに理由は山ほどある。そして今、呼んだことに理由は一つしかない。指名を果たす、解号のようなものさ。だからあまり時間はない。手短に理解し、その身を委ねろ」

 

「‥‥どういうことだよ」

 

「最初に勘違いをただしておくが、私達は事前にお前に仕込んでおいた魔術によって精神に展開された使い魔のようなもの。お前が私たちのおとうとになってから、ことあるごとに更新(アップデート)していたんだよ。最後の更新(アップデート)は」

 

「俺が出発する前の夜か」

 

「あら、勘がいいわね。姉貴に細かいところ任せてたから私の再現率が不安なんだけど、大丈夫かしらね」

 

「‥‥腹立つぐらいソックリだよ」

 

「おいどういう意味だ」

 

「そのままよ。それよりホラ早く」

 

 

 ちっ、と舌打ちを一つ、橙子姉は見慣れた仕草で取り出した煙草に火をつける。

 どう見たって本物だ。逆にいうと、あの真っ白々の変態野郎はさておいて、橙子姉達がこの幻像を作ったというなら、やっぱり俺の義姉達は化け物なのかもしれない。

 そして俺はさっきまでのクリアーな思考は完全に消え失せ、もう頭の中は滅茶苦茶だった。怒りだってとうの昔に消え去り、今は困惑しか生じていない。いったい何が、どうなってるんだ。

 

 

「講義というのは嘘ではない。私達が、お前の起源(ルーツ)の覚醒が本当に必要なときに備えて、こういう状態になることを想定して、こうやって術式が発動するようにしておいた。つまり私達がいるということは、お前がその起源(ルーツ)に従い、使命を果たさなければならない時が来たということだ」

 

「‥‥‥‥」

 

「だんまりか。普段なら考える時間を与えて回答を待つところだが、時間がない。急ぐぞ」

 

 

 橙子姉の幻像は続けた。

 抑止力は人間に知覚できない。知覚した時点で抑止力とは違う、運命の輪の中の事象へと堕落する。ある意味では、そちらの方が安全で、何も歪めず何も奪わず、ただ人理の侭に全てが収束すると。

 

 

「それが私と両儀式、荒耶宗蓮の顛末だった。お前は“知っている”な?」

 

「‥‥あぁ」

 

「荒耶宗蓮はガイアの抑止力を懸念していた。しかし本当に懸念すべきはアラヤの抑止力で、アラヤは知覚の妨害というやり方で抑止力の一つ目を用意していたと私は見ていた。真実かどうかは、知らんがな。‥‥そして総じて人間の後押しという形で顕れるが、私が先んじて荒耶宗蓮に敵対し、両儀式は己を以て荒耶宗蓮を打倒した。結果、それが抑止力だったかどうかは分からない。知覚されている時点で抑止力ではないかもしれないし、つまるところ、それは両儀式と私に課せられた小さな使命だったんだろう」

 

「抑止の力がどういうときに顕れるか、知っているわよね? 惑星の破壊、人類の滅亡、あとは――」

 

 

 根源への到達。

 荒耶宗蓮は十分に抑止力を警戒し、根源への到達を試みた。実際、それは成功しかけた。

 しかしそうはならなかった。抑止力への警戒は不十分だった。そも、その生涯からして、荒耶宗蓮は根源に到達し得ないように仕組まれていた節がある。

 それを抑止力と呼ぶべきなのか。荒耶宗蓮のように、最初から根源に到達できない障害が用意されていれば、それは抑止力の影響なのか。

 仮にそれを抑止力と呼ばずに使命と呼んだとき。

 

 

「‥‥全て、仕組まれていたのか」

 

 

 俺のやるべきことは、決まっていたのか。いや、俺自身すらも、そうなることが決まっていたのか。

 根源に到達することを防ぐために、抑止の化け物として俺は定められていたのか。今このとき、この瞬間に、抑止力として機能するように定められていたのか。

 

 

「いいか紫遥。お前は下宿人で、大家がいる。大家に家賃を払わなければいけない。だから私達は、お前がそうなるように、この術式を用意した」

 

「貴方が世界から排斥される原因だと、そう思い込んでるもの。それは本当はたいしたものじゃないのよ。本当の本当に必要なもの。貴方を滅ぼす毒にして、抑止の武器はそれじゃない」

 

「だがたいしたものでもない」

 

 

 グラグラと頭が揺れる。けれど、だんだんと最初のクリアーな思考が戻ってきた。

 うまく言葉にするのは難しい感覚だ。まるで操り人形のように、頭の中にさえも操り糸が通っているように。一挙一投足を丁寧に教えてもらっているように。

 凄まじく、合点がいったというか。腑に落ちたというか。自然に頭と体が動く。

 

 

「お前がやるべきことは、もう殆ど残ってないんだよ。お前がお前のまま、この時この場にいることが大事だ。あとは勝手に事態が進む」

 

 

 段々と全てがおぼろげになっていく。俺以外の全てが。

 煙の匂いも、見慣れた工房の風景も、静かな夜の音も、そして二人の義姉の幻像も。

 自分だけが明瞭明確に此処に在って、そして彼処で己の役目を果たそうとしている。多分、終わりは紐を引くよりも簡単だ。奴も俺も、すぐさま舞台から降りなければ。

 

 

「そうだ紫遥、最後に質問しよう。魔術師にとっては起源(ルーツ)が大事。なら役者にとって大事なものは何だと思う?」

 

「‥‥そんなの、決まってるだろ」

 

 

 真っ暗闇に落ちていくような感覚の中で、その声だけが鋭く俺の耳の中へ入ってきた。

 役者にとって大事なもの。

 それは監督から見た、役者に要求することだろうか。脚本を書いた奴にとって、大事なことだろうか。だったらそれは決まってる。

 演技力? 違う。

 容姿? 違う。

 小道具や大道具? 違う。

 人気? 違う。

 情熱? 違う。

 

 

「――脚本に書いてあることを、しっかり演じてくれることだろ」

 

 

 まるで自分のものじゃないように頭と体が動き、俺は闇の中から抜け出した。

 ただ目の前に見えるのは脚本に書かれた俺の相方。

 そして俺のやるべきことはただ一つ。誰かが十云年前から用意してくれたアホらしい脚本をなぞるだけ。

 ばかばかしいぐらい簡単で、ばかばかしいぐらい情けなくて。

 ‥‥ただ一つだけ、ばかばかしいぐらい、嬉しかった。

 

 

 

 

 90th act Fin.

 

 



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最終話 『創作者の閉幕』

1年以上ぶりの更新で、こうして最終話と題する話を更新できたのは幸いでした。感動と言い換えてもいいです。
忙しさのあまり、7年もの間、書き続けた拙作も埋もれてしまうのかなぁと思いました。
本当にこのまま書ききれないのかなぁと思いましたが、皆様の応援で何とかこの話を書き上げることができました。
もうあとはエピローグだけ。最後の最後まで、出来ましたら、どうぞおつきあいくださいませ。


 

 

 side Rin Tosaka

 

 

 

 

 心が挫けた、なんて死んでも口にしたくはない。けれど、皹ぐらいは入ったかしら?

 平行世界の妹との戦い、なんて突拍子もないものを経て絶好調に高ぶっていた心が瞬時に鎮火されてしまい、私はだいぶ弱気になっているらしい。

 式ですら眉間に皺を寄せて様子を見ていた。いつも真っ先に、無造作に敵の中へと飛び込んでいく両儀式が。

 明らかに場慣れしていない黒桐さん達も察している。あれが、台風や地震に立ち向かうようなものだと。人間が挑めるようなものではないと。英霊や吸血鬼とか、そういうものですらない格の違いを感じている。

 あのとき、コレが私たちの方を向いて言葉を発したとき、真っ先に飛び出した士郎が数歩進むだけで、その圧力に耐えかねて膝を突いた。援護しようと用意していた宝石を、投げる気も失った。高い高い崖の上から身を乗り出して、ここから落ちたら死ぬと理解するように。コレと戦えば死ぬと理解させられた。

 だから今こうして只管絶望している。前に進めば死ぬ。後ろに退けば心が死ぬ。友人を助けに来ておいて、おめおめと逃げ帰るなんて私のやることじゃない。そうしてしまいたい。でもできない。立ち向かいたい。でもできない。

 こんなにひどい気分になったのは聖杯戦争以来だった。

 

 

「‥‥ふむ、つまらん」

 

 

 楽しみにしていたショウを台無しにされたような、そんな顔と声色でコンラート・E・ヴィドヘルツルは言った。

 そのスカした顔を何とかして凹ませてやりたいんだけど、何も手が思いつかない。そして何を思いついても、間違いなく無駄になる。そういう確信がある。

 現れてから一言だけ喋った、あの星の触覚、真祖の姫君はぴくりとも動かずに立ち尽くしている。こちらを興味深そうに見てはいるけれど、動かない。

 逆にそれでよかった。あの姫君が腕を持ち上げてこちらに向けただけで、もしかしたら私は一目散に逃げ出してしまうかもしれない。

 そうなったら多分、死ぬより後悔するんだろうけれど。

 

 

「魔王に立ち向かう勇者達。しかし力及ばず敗れてしまう。それもそのはず、実のところ魔王にこそ道理があり勇者達こそが悪。魔王は目的を達し、カーテンコール‥‥というシナリオだったのだが、ふむ」

 

 

 嘗めたこと言ってくれるじゃないの、という言葉は口から出てこなかった。

 ちらりと横へ視線を動かし、ルヴィアと、その隣のシエルとアイコンタクトをとる。ルヴィアは策がない。けれど、こんな状態なのに覚悟だけは十分に決まっている。シエルは何か言いたげだ。

 ヴィドヘルツルと真祖の姫君から死角になるように背中に回した手の、指を三本立てる。私の方へ軽く動かして、目線をヴィドヘルツルへ。そして自分の太ももを軽く叩いて、目線を真祖の姫君へ。最後に目線を一番近い扉へと。

 

 

「させるとでも思ったのかね、ふむ?」

 

 

 と、次の瞬間、その扉が壁の中に塗り込まれるかのように消える。人を嘗めきった笑みを浮かべるヴィドヘルツルを、シエルも私も視線だけで殺せたならと睨みつけた。

 後出しが許されるのも、ここがアイツの陣地だから当然のこと。でも、あぁそういうこと。

 どうしてもこの全身真っ白の変態は、私たちに真祖の姫との真っ向勝負をしてもらいたいってワケ。ただただ私たちが足掻く様子を観て楽しみたいって算段かしら。

 本当に嘗めてくれる。なんでも思い通りにいくと思ったら大間違いよ。

 

 

「やれるわね?」

 

「やるしかないではありませんの」

 

「しばらくぶりに、本気であのアーパー吸血鬼をブチ殺すのも悪くありません」

 

「もちろんだ。紫遥を助けなきゃいけないんだからな」

 

「手間かけさせてくれるわ兄弟子ってのは」

 

「どっちにしたって逃げられないなら、腹くくったほうがいいよ鮮花?」

 

「‥‥ま、殺せないことはないだろ、多分」

 

「凶げられないこともないはず」

 

「片腕だろうと私の剣は曇りはしません」

 

 

 そうよ、何を怖がってたのかしら。

 相手は真祖の姫君とはいえ変態魔術師が喚び出した仮初めの器。英霊だって殺せそうな面子が揃ってるってのに、怖気付いてばっかりじゃ、せっかく助けても蒼崎君に笑われちゃうわ。

 殴って斬って燃やして凶げて、蟲に喰わせて影に沈めて、串刺しにしてやって死なないことはないでしょうよ。

 ここで全財産使い切ったって、一生かけてでも蒼崎君に返済してもらえばいいじゃない。

 

 

「‥‥ふむ、良い目だ」

 

「その余裕もすぐになくなるわド変態」

 

「そうやって吠えるがよいよ、存分にな。君たち、英雄たちの、その最期の輝きが私と彼の新たな旅立ちを祝福する!」

 

 

 靴音も高らかに、ヴィドヘルツルは真祖の姫君の隣に立つ。見た目だけは厭らしいぐらいには良いから、並んで立つと絵になるかしら。

 いいやダメね。あの星の光の隣では、セイバーの聖剣ぐらい美しくないと釣り合いがとれない。

 滑稽ね、自分の力だって思い込んで。あの半分は蒼崎君のものだっていうのに。

 ‥‥半分? 星の光の半分が蒼崎君の? おかしくない?

 

 

「灯火が最期にひときわ強く輝くように、さぁ星の触覚よ、彼女達を彩るのだ!」

 

 

 なんで私たちは納得していた? 聖杯戦争だって、英雄をサーヴァントとして使役するなんて規格外の魔術儀式だって、たった一人の魔術師では不可能なことなのに。

 ましてや星の触覚を具現化するなんて、そんなこと人間にできるわけがない。いくら優れた魔術師にだって、そんなことできるものなの?

 蒼崎君のことといい常識が麻痺してしまってたけど、有り得ることなの? 次から次へと理解の範疇の外にある結果ばかりを突きつけられて、みんな思考が麻痺してるんじゃ。

 目の前で圧倒的な存在感を放ち、本当に押しつぶされそうなぐらい私達を威圧する真祖の姫君がハリボテだとか言いたいわけじゃあない。でも、あれは本当に奴が制御できてるものなのか。

 あんなものを自由自在に、蒼崎君の助けを得ているとはいえ、操れるのだとしたら。それこそ私達がこうして抵抗の真似を許されていることも。それすら不思議なこと。

 論理が合わない。本当に蒼崎君にかかりっぱなしなら、いくら私達が足掻くところを鑑賞したいのだとしても、それすら面倒に思うぐらいのはず。

 だったらあの姫君は。

 

 

「――まぁ、そこまでだな」

 

 

 瞬間、緊張が最大限に張り詰めた広間を、鈴のような声が支配した。

 

 

「なっ、貴様いったい」

 

 

 言葉を次ぐ(いとま)もなく、数多の鎖が白づくめの魔術師を縛り上げる。

 誰もが目を疑った。一番驚いたのは、間違いなく縛り上げられた本人だったことだろう。

 信じられない、といった様子で軋む骨も構わず目を見開いて姫君の方を向く。

 

 

「人には触れてはならぬ領域というものがある」

 

 

 がし、と姫君が片手で奴の顔を掴んだ。万力に挟まれても尚これほどではあるまい、とヴィドヘルツルは呻いた。

 飛び出そうとしていた私達みんな、それを畏ろしげに注視していた。

 口を開いたところはおろか、姿を見たのすら今この時が初めて。でも本能が理解している。

 あそこにいるのは、あそこにあるのは姫君ではない。

 

 

「それと知って挑むなら、この時まで至らなかったであろう。先んじて貴様は潰れていたわ。所謂“勘違い”だからこそ許された遊びに興じていればよかったものを、貴様は踏み込み過ぎた。否、踏み込むことは既に識っていた」

 

「どういうこと、だ‥‥」

 

「誇るがいい。その勘違いが禁足を侵すと、そのチカラがあると貴様は認められた。此処に来て、貴様は褒美を受け取る運命(さだめ)にあった。しかし手づから下賜するわけにもいくまい。故に触覚を用意されていた」

 

「星の触覚、貴様このために」

 

「私ではない。そら、夢が醒めるぞ」

 

 

 ピシリ、と鎖に罅が入る。石膏像が割れるように、星の触覚の表面にも。この大広間にも。

 やがてパラパラと姫君の表面が、鎖が、大広間の壁面が崩れ落ちていき――

 

 

「ショウ?!」

 

 

 全てが元に戻った。

 ヴィドヘルツルを縛り付けていた鎖は消え、隠されていた大広間の扉は暴かれ、真祖の姫君は蒼崎君に変わっていた。

 

 

「シロ‥‥いや、シヨウ・アオザキィ?!」

 

「おはよう皆。ちょっと、寝坊したみたいだけど」

 

 

 まったく見慣れた、いつもの姿で、蒼崎君は姫君と同じようにヴィドヘルツルの頭蓋を掴み、立ち尽くす。

 困ったような笑みを浮かべ、不満気に眉間に皺を寄せて。いつもとまったく変わらない、蒼崎紫遥という魔術師。友人。驚愕と、安堵の声が後ろからも聞こえた。

 でも、その目だけが、いつもとまったく違っていた。

 色も、形も、変わりようがない。まったく日本人らしい黒い瞳が、見るものの心の奥底まで暴くような、波紋一つない水面のような静けさを湛えている。

 チカラがあるわけでも、威圧するわけでもない。その静かな瞳だけが、人好きのする、いつもの蒼崎君とまったく違う。

 それ故に、私は背筋に疾る震えを不安に感じた。

 

 

「何故お前が此処にいる、お前はいなくなったはずでは」

 

「いなくなる? 変な話だな、お前は誰を求めていた」

 

「お前ではない! お前など、お前のような無価値な、ただの魔術師など要らないのだ! 返せ、彼を、シロウ・ムラサキを!」

 

「そんな奴、いないよ。お前は勘違いしてたんだ。根源に見放され、根源に掬われた哀れな男。本当ならお前こそが、根源に最も愛された者だったのに」

 

 

 自らの魔術を破られ、鎖なくともヴィドヘルツルは動けない。人を呪わば穴二つ、と言われるように、強力な魔術は破られるとフィードバックが術者を襲う。

 だけどヴィドヘルツルは、そんなものがなくても動けないだろう。

 それは私達も一緒だった。真祖の姫の姿をした、ナニカ。その皮が剥がれて蒼崎君が出てきて、それでも皮がもう一枚あるような、そんな畏れが。どんな鎖よりも強力な畏れが私達を、彼を縛っていた。

 

 

「根源、ハッ。そんなものが私に何をするというのだ。私は世界の外側じゃあない、世界を創る側に回るはずだったのだ! いや、お前がそう望め、今からでも、そして!」

 

「‥‥コンラート・E・ヴィドヘルツル。そんなものは存在しない」

 

「存在するではないか! 村崎嗣郎が! 早く彼を出せ!」

 

「もう一度だけ言う。いいかヴィドヘルツル、“そんなものは存在しない”」

 

 

 あれほど精神を傷つけられ、憎んでいたはずの相手に、蒼崎君は穏やかな声色を崩さない。

 その静まりきった湖面のような瞳は、ああそうか、似ているんだ。士郎に。士郎は激情することも多いけど、いくら叩かれても曲がらない鋼のような強さを宿す光を、瞳に湛えている。方向性は違っても、あの瞳は士郎に似ている。

 

 

(でも、人間があんな目をできるの‥‥?)

 

 

 そうだ。あれは個人の好嫌の感情を超越した使命感。士郎と似ていて、まったく違う。

 自分を放り投げてでも他人を助けたい、という士郎の願い、思いはごく当たり前のもの。ただ覚悟と熱意の格が他の人とは、普通の人々とは一段違うだけ。

 けど蒼崎君のあの目、あの何かへ自身を準じる覚悟の重さは並を完全に振り切ってしまっている。機械のような、と形容された士郎だって本当の機械じゃあない。けれど今の蒼崎君は、まるで本物の機械だった。

 

 

「俺自身、ずっと勘違いをさせられていたんだ」

 

「勘違い、だと?」

 

「そうだ。村崎嗣郎という人間が最初にいて、今の俺は蒼崎紫遙という役割を与えられているのだと、そう勘違いしていた。お前もそうだ」

 

「そうだ。蒼崎紫遙という魔術師はお前の、村崎嗣郎という男の仮の存在だ。そうでなければ村崎嗣郎の存在は根源にとって危険すぎる劇物。故に蒼崎紫遙という仮面を被り、根源を欺かなければお前という存在は圧殺されていた」

 

「根源という、全ての原初の渦すら創造した上位の世界を、だからお前は信じた。村崎嗣郎が存在していた別の世界に行けば、この世界の全てはツクリモノという概念で捉えることが出来る。そうすれば」

 

「そうすれば、私はこの世界の全てを手に入れたも同然だ。私という存在は根源の渦の下位から上位へと置き換わる」

 

 

 意味のわからない会話を続ける二人を、私達は混乱したまま見守っていた。

 本当は今すぐにでも蒼崎君を助けて、あのド変態を仕留めてしまった方がいいに決まってる。でも直情型の士郎も黒桐さんも、戦闘狂のケがあるらしい式も、誰もが動けなかった。

 まるで遺言のやりとりをしているかのようだった、二人は。それがどちらの遺言なのかは、私にも分からなかった。

 

 

「この世界の全ての物語が、全て本当の物語だった。英霊も、魔術師も、時計塔も、根源という概念すらも、村崎嗣郎にとっては、そのあたりに転がる娯楽の一つに過ぎない。私達は物語の登場人物、簡単に誰かの気分で根本から存在を改変されるような不安定な存在だった」

 

「そう思ったんだろうな、お前は」

 

「だが私が村崎嗣郎と同じ場所に立てば、その不安定さも私のものになるのだ。回りくどい方法など何一ついらない。村崎嗣郎、お前さえいれば」

 

「だからお前はオレを、俺を狙った。あちらこちらで要らんちょっかいばかり出して、徒らに世界の根底を揺るがし続けていたお前は、俺だけを求めて動き始めた」

 

「お前だけ、お前さえいれば」

 

「“それが間違いで、それが正しかった”んだよ、コンラート・E・ヴィドヘルツル。俺がいれば、“お前がそうする”ことは分かっていた。だから俺がいて、そして“お前はそうするように決まっていたんだ”」

 

「‥‥何ぃ?」

 

 

 ヴィドヘルツルが、怯えたように一歩下がろうとした。けれど下がることは蒼崎君が許さない。

 いや、“あれは本当に蒼崎君なのか”?

 どうしても聞きたくないことを聞いたように、ヴィドヘルツルだけじゃない、みんなが一歩下がっていた。多くは話していないから、言葉だけでは何が何なのか分からない。でも少し頭が回る人なら、あの二人が何を話しているのか分かるはず。

 ああ、それは絶対に認めてはならないと、全員が理解しているんだ。多分それは、どんなことより恐ろしいもののはずなのだ。

 

 

「お前は、世界一大きな罠にかかったんだよ。コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

 

 蒼崎君は、哀しげに、寂しげに嗤った。

 その微笑みが、どれほど恐ろしかったことか。どれほど悲しかったことか。多分私たちは悲しいと感じて、そして恐ろしいと感じただろうヴィドヘルツルの顔色は忽ち変わる。

 

 

「――まさかッ!!」

 

「そのまさかさ。ありえない話じゃないか、自分達が御伽話の住人だなんて、そうは思わないか? 蒼崎紫遙という魔術師は世界を騙す仮面だった。それは本当のことさ。でも、村崎嗣郎もまた、同じようにあやふやで、全くの嘘っぱちの代物だったんだよ」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 目の前にはすっかり怯えて、目を見開いた我が宿敵。

 かっこつけてはみたけれど――あぁ、前はあんなに恐ろしかった此奴が、今は唯々哀れにしか見えなかった。

 自らの魔術のフィードバックで動けなかったのは数秒前までの話だろう。もう動こうと思えば、俺の掌なんてどんな魔術でだって振り払って距離をとれるはずだ。そして、今度こそ目的を達することが出来るだろうに。

 ‥‥いや、もうそれも適わない。いくら此奴が頑張ったところで、その目的は達成できない。

 だってそんなもの、始めから存在しなかったのだから。

 

 

「俺もお前も、遠回りだったな。本当なら一瞬で全ては終わるはずだったんだ」

 

 

 俺はずっと勘違いをしていた。村崎嗣郎という人間が最初にいて、今の俺は蒼崎紫遙という役割を与えられているのだと、そう勘違いしていた。此奴もそうだ。

 でもそれは全て嘘っぱちだった。

 村崎嗣郎なんて男は、この世のどこにも、別の世界にだって存在しないのだ。

 

 

「‥‥魔術師は根源を目指す。あらゆる方法を試す。そして失敗する。魔術師が根源に到達することを世界は許さない。あらゆる手段で根源への到達を妨害する。だから魔法使いだって、本当の意味で根源に到達したわけじゃない」

 

 

 根源の渦は全ての始まりであり、全ての終わり。

 魔法はこの世の常識では不可能なことを起こす。ゆえに“法”。根源に直結した道。でも常識で不可能、程度の、人間の頭の中から生まれ得るようなものは根源そのものとは断じて言えない。

 根源に接続している式の肉体もまた同じ。だから何? と。真に根源に接続したものならば、もはや人の知覚が及ぶところではない。俺達が観測できる範疇から飛び出してしまう。

 そうだ。根源というのは、本当にこう、どう呼んでいいか、どう表現していいか、わけのわからないナニカなのだ。だから式の中にいる「   」は、そのわけのわからないナニカを見ることはできても、そこから生まれたナニカであっても、それを人類に対して明瞭に出力し、伝えることはできない。

 なんて酷い話なんだろうな。なんて酷い気分なんだろうな。

 まるで今の俺の、この言語化しがたい気分と一緒なんだろう。

 だって俺もまた、“根源から生まれた”ナニカなのだから。

 

 

「およそ凡ゆる魔術師は根源の渦からの抑止力を受け、根源へは到達できない。その点お前は、本当に優秀だったんだろうさ。おそらく、今までで一番世界の秩序と混沌を揺るがす存在だったに違いないさ」

 

 

 だから俺が生まれた。

 コンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師は、本当に特異な存在で、とてつもない脅威だったのだろう。

 根源の渦は人類には知覚できず、何が何だかわからないナニカであるが故に、俺達への干渉の手段は制限される。それが根源の渦から生まれた俺が根源の残滓を“観測”して得た感覚だった。

 どんな舞台を整えても力技で抑止力を退けてしまうかもしれない特級の脅威。きっと根源には辿り着けないだろうけれど、辿り着くために世界をめっちゃくちゃにしてしまった魔術師。

 めっちゃくちゃに、というのは目に分かることだけではない。根源というのは触られるのを嫌がる小動物みたいで、触るぞー触るぞーと頻繁にアプローチされるだけでも過大なストレスを受けているように感じる‥‥のだと思う。

 そのストレスは様々な形で世界に悪影響を与える。一見何も起こらないし起こさない。けれど確かに悪いことだ。何とかしなければならないことなのだ。

 抑止力には人間の集合的無意識であるアラヤと、星の存続を旨とするガイヤとがあり、双方がそれぞれ抑止力の行使を行うが‥‥。俺はこいつら、結構優しいというか、そう簡単に過激な手段がとれないと感じた。昔はヤンチャした、という表現が似合うあたりは旧約聖書の神様と新約聖書の神様の違いにも似ている。

 その気になれば地表を洪水で洗い流してしまったり、火山を噴火させたり、凄まじい台風を発生させたりと好き放題できるはずなのに、やらない。

 星も疲弊しているのだろうか? 大掛かりな抑止力を行使できないほどに神秘は薄まったのだろうか? 理由はわからないけれど、あるいはそれらの手段でだって、コンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師の脅威を排除できないと判断したのかもしれない。

 だから俺が生まれた。

 

 

「――人間を一人、そのために生み出すぐらい世界を追い詰めた。それは誇れよ、コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

 

 嘘っぱちが、俺だった。

 村崎嗣郎は嘘っぱちとして生まれた。

 吸血姫と殺人貴を巡る物語は確かにあったはずだ。破戒僧が根源へと繋がる肉体を求めて、その人格の一つと、冠位の人形師と争う物語も確かにあった。聖杯を巡る物語も、数ある分岐の可能性の中から一つだけが存在した。

 でもそれが娯楽として存在している別の世界。そんなものは何処にもありゃしない。ああ、当たり前なんだよな。そんなものがあっていいはずはないし、あるかもなんて考えは妄想以上でも以下でもないんだ。

 普通に考えれば分かってしまう、夢物語。誰に話したって嘘っぱちだと笑うだろう。未来視か過去視か、詐欺か、そんな程度のことだ。知らないはずのことを知ってるなんて、そんな話は掃いて捨てるほどあるだろう?

 

 

「お前は俺という夢物語を信じてしまった。お前なら信じるだろうという信憑性を俺は持っていた。当然だな、そうあれかしと生まれたのだから、俺は」

 

 

 宇宙の外にあり、過去現在未来、そして凡ゆる可能性に通じる英霊の座。

 俺は英霊の座に存在理念が似ている。正確には、俺の中にある色んな知識が。あれは創作されたものじゃなくて、本当にそうあるかもしれなかった可能性や、そうあった過去や、そうあるだろう未来そのものなんだ。

 ただただ人類に知覚しやすいように、分かりやすいように噛み砕かれた。そして俺の中には、創作だと、物語であるとして存在する。

 村崎嗣郎なんてのも同じ。創作された人格と人生。ただの造りもの。しかし人ならぬ、根源そのものが創作したそれは、凄まじい信憑性を持っていたというだけ。本人すら騙すほどに。

 あの知識を思い出すと世界からプレッシャーを受けると。それも当然だった。来たるべき時が来るまで俺が自分の役割に気づかないようにするには、それが一番都合がよかっただけのこと。

 実際に世界から存在を否定されていたんじゃあない。あれは元から俺の中にあったセーフティ。催眠術の、ものすごいやつだ。俺は今までずっと踊らされていたというわけ。

 今ではそれでもいいと思ってしまっている自分がおかしくて、少し笑った。

 

 

「‥‥嘘だ」

 

「嘘じゃない」

 

「嘘だ、じゃあ私は、ずっと」

 

「そうだ。お前は存在しないものを追い求めていた、ただの道化だ」

 

「バカな、そんなバカなことがあるか! だって私は」

 

 

 選ばれた魔術師なんだ。そう言いたかったのだろう。

 安心しろよ、コンラート・E・ヴィドヘルツル。それは紛れもない事実なのだから。お前は選ばれた魔術師に違いない。

 お前のために俺は生まれたんだ。それは選ばれた、特別な存在じゃなきゃ許されないことだ。こんな回りくどいやり方でなければ、お前は止められなかったんだ。言うなればお前は世界の宿敵だった。

 この神秘の薄れた現代で、お前は根源に最も近づいた魔術師だった。蒼崎青子も、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグもお前ほどは世界に認められなかっただろう。だからお前は正しい。

 でも、それもここまで。結局のところお前を殺すために生まれた俺が、俺の存在意義がそれだけだったように、お前もまた俺に殺されるのが役割で、存在意義。なんて無価値で、なんて残酷な真実。

 

 

「なぜだ、なぜお前は“それ”ができる、なぜだ。お前が真に根源から生み出された存在だというのなら、お前はただそのための存在意義しか持たない飛沫のような存在ではないか。すぐに乾いて消えてしまう飛沫のように、お前という存在は消え失せるのだぞ!」

 

「そうか。お前はそう思うのか」

 

「何もかも虚ろに消え去ってしまう、そんなこと、お前にどうして耐えられるというのだ!」

 

 

 人は、一人では自身を定義付けすることが出来ない。

 誰かに観測してもらうことで、誰かに定義してもらうことで“人間”になれる。そういう概念についての話を聞いたことがあった。他者という文明によって、認識による集団の形成によって定義をされなければ、それはもはや人間ではなく獣であると。

 ならば村崎嗣郎は誰によって定義付けされていたか。答えは明確だった。すなわち俺の生みの親たる根源による定義。

 いるかいないか定かではない、人として生を受けて成長した記録すらない不確かな存在を定義づけるには、根源による直接、強力な認識が必要だった。そしてそれは、俺が役目を果たせばもはや不要なもの。村崎嗣郎は瞬く間に、晴れた日のアスファルトに跳ねた飛沫のように消え去ってしまうことだろう。

 

 

『そろそろ、お前に名前をつけようか。その名前では呼べないから、そうだな、語感は合わせるとして』

 

『“紫”は入れたいわね、私的には』

 

『たまには悪くないことも言うものだ。よし、遙か遠いところからやってきたお前だから――』

 

 

 だけど、それの何が怖いっていうんだろう。だって俺はそのために生まれてきたんだ。

 そうだ、それの何が怖いっていうんだろう。確かに村崎嗣郎は意味のない存在になってしまうかもしれない。

 かつて、それは俺を表す言葉として作られたものだったんだろう。俺は村崎嗣郎と便宜上呼ばれる存在だったかもしれないけれど。

 

 

『ショウ』

 

『紫遙』

 

『蒼崎君』

 

『ショー』

 

『紫遙君』

 

『蒼崎』

 

『シヨウ』

 

 

 こんなにも、蒼崎紫遙は観測されていた。認識されていた。定義されていた。

 なら、もう十分じゃあないか。村崎嗣郎は伽藍洞の嘘っぱちだったかもしれないけれど。俺は蒼崎紫遙だったのだから。蒼崎紫遙は、こんなにも素晴らしく人間をしていたじゃないか。

 自分の何もかもが失くなるわけじゃない。誰にも定義されなかった村崎嗣郎は失くなってしまうかもしれないけれど、蒼崎紫遙は失くならない。なら自己の喪失、定義の消失なんて恐れることじゃあないんだ。

 だったら俺のやるべきことは決まってる。

 橙子姉も青子姉も教えてくれた。

 俺は一流の役者じゃあないかもしれないけれど。それでも一端(いっぱし)の役者でいたいと思っているのなら。

 

 

「――台本通りに演じきらなきゃな。そうだろ、コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

 

 白い魔術師の頭蓋をつかんだ右手に力を込める。

 こんなことになるって分かってたんだから、脚本家はもっと楽な小道具を用意しておいてもらいたいものだったけれど、文句を言えるわけもなし。

 頼みの綱はいくつも用意してやってきていた。

 十八番の『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』。

 片手間にシゴかれた両儀流の短刀術。

 此奴にひと泡吹かせるために現代の魔女に頼んでまで用意してもらった『蛇の王(バジリスク)』。

 手持ちのルーンは使いきった。魔眼も超一流の魔術師にはレジストされてしまう威力しかない。なら本当に、最後の最後の、文字通りの奥の手を使うしかなかった。

 

 

「――戦神よ(テュール)焔もて(アンスズ)我が責を果たす(ナウスズ)いま洛陽の時(ダガズズ)

 

「ッこのルーンは、シヨウ・アオザキ貴様ァ?!」

 

 

 右腕の肘から先の骨に、びっしりと刻み込んだ力ある文字が俺ごとヴィドヘルツルを紅蓮の焔で包み込む。

 瞬く間に炭と化し、俺の右腕は焔と一体化して我が宿敵を焼き尽くさんと命を燃やす。

 旧い魔術には生贄がつきもの。特に術者の一部は生贄として一級品。捧げる部位が大きければ大きいほど、貴重であれば貴重であるほど術の効果は高まる。

 髪の毛とか歯とか、そんなもので出せる威力じゃ此奴は燃え尽きない。だからこその、腕一本。苦痛に耐えて骨に直接刻み込んだ力ある文字(ルーン)は俺の持つ最も価値の高いもの。

 余波が顔を焦がすけど、もうそんなものは熱いとも痛いとも感じなかった。俺の中で、何か大切なものが、ヴィドヘルツルが焼けるにつれて毀れていくのが理解(わか)る。

 それは勝利の確信であると共に、破滅の確信だった。世界は勝利を確信し、俺の破滅を決定したのだ。

 

 

「‥‥じゃあな、コンラート・E・ヴィドヘルツル。俺達の物語は、これでおしまいだ」

 

 

 終に掴んでいた頭蓋と首は炭化し、どうと燃え続ける身体が倒れて、俺は自分の右腕だったものを肘ぐらいから振り払った。

 ぐらりと身体が揺れる。右腕一本の喪失は思ったよりも身体のバランスに影響を与えているのか。いや、多分それだけじゃない。

 酷い吐き気。目眩。ぐにゃぐにゃと視界が歪む。立っているのに立っていないような、痛覚どころか触覚もなくなってしまったような感じだった。

 身体中の関節が消え失せてしまったように不確かで、俺は吐き気を堪えながら、視界の端に皆が駆け寄ってくるのを見た。

 

 

「ああ、せっかく来てくれたのに、礼の一つも、言えや、しない――」

 

「ショウ!」

 

「蒼崎君!」

 

「紫遙!」

 

 

 そして俺も、宿敵と同じように床に倒れ伏す。

 上等だろう石で出来た床は冷たいのだろうか、それとも先程の焔で熱せられているのだろうか。頬には何の感触もなくて、自分が寝っ転がっているのが全く現実味のない現実。

 毀れていく、俺の中の大切なナニカ。それはもう皹や欠けを通り越して、粉々に砕け散ってしまおうとしている。俺を構成しているオレが、俺でなくなる瞬間を今、感じた。

 このまま、ただちに村崎嗣郎なんて人間はいなくなる。存在を定義されなくなって、観測されていた事実もなくなって、なかったことになってしまう。誰にも認識されずに消えて失せる。

 悲しくも、寂しくもない。それは最初から分かっていた。ただただ当たり前のように消えていくのだと、何の感慨もなく消えていくのだと。

 でも不思議だった。

 当たり前の役目を当たり前のようにこなしたはずなのに。

 俺の中にあるのは、自分でも驚くぐらいの熱。

 満足感。

 そして村崎嗣郎が知るはずもない。

 蒼崎紫遙の、二人の義姉の顔。

 俺以上に満足そうな、安心したような義姉の顔に、ああ、なにか喋らなきゃ。伝えたいなにかがあると。

 口を開こうとして。

 俺の意識は、あの飛行機のときに感じたぐちゃぐちゃした渦のような沼のような泥のようなナニカの中へと引きずり込まれて。

 

 

(橙子姉、青子姉、終わったよ)

 

 

 目玉も歯も、全身の骨と血液も、すべて吹っ飛ばされるような衝撃。

 そうして俺は暗闇にすべてを委ねた。

 

 

 

 

 Final act Fin.

 

 

 

 

 

 




そういえば、いつのまにか誤字報告なる機能が実装されていて驚きました。
大量の誤字報告と修正‥‥ありがたい限りです。とても嬉しいです。
順次直していきます。ご協力ありがとうございます!


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番外話 『小悪魔の探偵』

お待たせしています、不肖冬霞です。
リハビリがてら、ロード・エルメロイⅡ世の事件簿で番外編を書いてみました。
といっても出てきてるのライネスだけですが。
ライネスかわいいですよね。想像通りのライネス。
でもグレイたんがかわいすぎて生きるのがつらい。もっとこう、どよーんとした感じの陰なキャラ描写かと思ってたんですけど、すごいかわいい。
というわけで一万文字とボリュームは少なめですが、番外編は2部構成でお届けする予定です。どうぞよろしく。


 side Reines El-Melloi Archisorte

 

 

 

 大英帝国博物館には、一部の職員や学芸員しか入れないエリアがある。一般人は「STAFF ONLY」の看板を見れば無理には入らず、普通の職員や学芸員は“何故か”入ろうとは思わない。そんなエリアがある。

 メイドを引き連れた私は目立つだろう。博物館を歩きながら、観光客からの視線を感じる。確かにこんなご時世、メイドを連れて歩くなんてコスプレ紛いの目立ちたがり屋だ。誰もが銀色の女中(トリムマウ)を物珍しげに見て、通り過ぎていく。

 ただ、それだけ。

 

 

「おかえりなさい、ミス・アーチゾルテ」

 

「ご苦労」

 

 

 受付嬢ーー何代も前から変わらないらしいーーに挨拶し、門をくぐる。手狭ながらも上品なロビーを抜け、重厚な階段を降りて地下へと潜っていく。

 奥へ。ひたすらに奥へ。ある程度の階からは行き交う人の姿も殆ど見られない。奥へ潜るごとに魔境をのぞかせる時計塔では、そもそも下手な魔術師では迂闊に下の階へと降りることはしないのだ。

 現に今も、チリチリと肌を刺すような魔力の波長を感じる。自分程度の魔術師に対してでも、まぁトリムマウ抜きでも害はない程度の索敵用の術式だ。とはいえ迂闊に変なところに入り込めば、ロクデモナイことに巻き込まれるだろう。毎年、何人かの下手な魔術師が行方不明になっているのだから。

 

 

「やれやれ、どうしてこんな深い階層なんぞに工房を構えているんだろうね彼は」

 

 

 これ以上、下の階層に潜るのは危険。そのぐらい深いところにある一つの扉の前で立ち止まる。何の変哲もない、特に特徴らしい特徴もない普通の扉だ。普通の人間や、研鑽の足りない若造や、ポッと出の魔術師が見るならば。

 意識して“目を凝らせば”すぐにわかる。五大属性それぞれが、不活性の状態で固定されている。魔術に必要な主要素が機能しないのだから、ひとたびこの『秩序の沼』に囚われれば、あらゆる魔術は起動しない。

 まぁ我が義兄上に言わせれば、破る方法はいくらでもある。強制的に活性要素をたたき込むとか、虚数領域を反転させるとか。しかし現実的に、その程度のことに対策を講じていないわけもなく。となれば悪戯心も抑え、上品に挨拶(ノック)からであろう。

 

 

「‥‥やぁ、ライネス嬢。おはよう。珍しいね。どうしたんだい朝早くに、こんなところまで」

 

「やぁ我が兄弟子。ちょっと君に用事があってね。入ってもいいかな? 生憎と魔術礼装(トリムマウ)も一緒で申し訳ないんだが」

 

「ダイニングぐらいなら構わないよ。そもそも嫁入り前の淑女と一対一で部屋の中、というのが良くないしね」

 

「おぉ感動で涙がこぼれそうだ。気遣いいただき、恐縮だな。では失礼するよ」

 

 

 ノックに応じて姿を表したのは、清潔感があるというよりは無地、無個性な白シャツの若い東洋人。擦りきれた紫色の、悪趣味なバンダナを額に巻き、濃い煙草の匂いを漂わせている。

 もちろんロックアーティストなんかではない。蒼崎紫遙。世界に四人しかいない魔法使いと、封印指定の人形師の弟にして、時計塔でも一大派閥として名を広めつつあるエルメロイ教室の兄弟子だ。

 

 

「相変わらず辛気くさいな君の部屋は。というか普通,工房を私室として使うものかな。しかも魔法使い用に時計塔から用意された工房をさ。我が義兄上ですらちゃんと外にアパートをとっているぞ」

 

「何かと物騒な立場だからね。このぐらいの方が、かえって安心するのさ。そう頻繁に外に出かけるわけでもないし、不便はないよ」

 

「不便というよりは、人間としての尊厳の問題な気がするがね私は」

 

 

 部屋の隅にたくさんの書物が積み上がっている。埃っぽくはないから掃除はしているのだろうけれど、信じられないくらい散らかっている。几帳面に整理整頓する義兄とは大違いだ。

 入ってすぐにダイニングがあり、その向こうにキッチンと、おそらくは風呂やトイレもあるのだろう。魔眼の調整をさせたことがあるから知っているが、ダイニングの両側にはそれぞれ作業場と、確か寝室があるはずだった。

 倫敦ならちょっと豪華な一人暮らしだ。この街も随分と地価が高くなったから、怠惰にも古風の言葉に付度して放置されているオンボロのアパートメントにでも入るのでなければ、トウキョウもニッコリするような狭い部屋で暮らさざるをえない。

 義兄上もエルメロイの一族が手慰みに保有しているアパートで、しかも何故か家賃までしっかりと納めて暮らしている。あのアパートも、まあ古いこと以外は贅沢な部類だろう。

 

 

「コーヒーと紅茶、どっちがお好みかな?おすすめはコーヒーだ。適当に入れても、まぁ飲める味になる」

 

「じゃあコーヒーをもらおうか。周りは紅茶党ばかりでね。たまには野蛮な味に親しむのも悪くないだろう」

 

 

 だが、せめて水だけは用意させてもらおうか。

 こういうときに備えてトリムマウにある程度の飲み物、軽食は携帯させている。二人分ぐらいの水なら常備させているから、少なくともこの地の底に無理やり引っ張ってきているものよりマシだろう。

 

 

「うむ、悪くない。たまに飲むと良いね、コーヒーも」

 

「本当は紅茶の方が好きなんだけどね。日本人はカフェインに強いから、このぐらい苦くて強い飲み物じゃないと中々眠気は晴れないんだよ。だから常飲してるのはこっちかな」

 

「概ね肉体的に劣った人種なのに、妙なところで頑丈だよな君たちは。あぁ、一応言っておくけど、私は積極的に人種差別をする性分じゃない」

 

「‥‥人種で人をイジるぐらいのことは平気でする性分だけど、ね」

 

 

 ソファなんて気の利いたものはないから、床が悪いのか微妙に傾いた椅子に腰かけ、コーヒーを啜る。来客用の真っ白なコーヒーカップだ。彼は鈍器みたいなマグカップを傾けていて、あんな量飲んだら私なら一日二日は眠ることができないだろう。

 奥の方の棚を見れば、他にも豪華・優雅・強靭なんてイメージの目立つカップや、使い古した青いマグカップ、橙色のティーカップも並んでいる。こんな辺鄙なところにあるのに、そこそこ訪問客はいるらしい。

 

 

「で、いったいどういう用事だい? いくらエルメロイの姫君でも、こんな場所まで来るのは褒められたものじゃない」

 

 

 魔術師としては一段上にいる兄弟子の目が鋭く私を射抜く。

 そもそも私と兄弟子は、私の魔眼の調整を頼んでいるほかはティータイムの話し相手ぐらいの関係だ。こうしてアポイントメントもなく気軽に、それも知り合いとはいえまがりなりにも魔術師の工房に来るということは考えられない。

 

 

「なぁに、親愛なる義兄上殿は所用で外している。しかし私のところに、どう考えても義兄向きの相談が舞い込んできてね」

 

「プロフェッサ向きの相談? また「ロクでもない案件(Fuck'n Grand Order)だろうね」

 

「否定はしない。つまり、私好みの案件ということさ」

 

 

 なるほどロクでもない姫様だ、と口だけで言われた気がした。もちろん承知の上である。この気の強くもなく、しかし媚びることもしない青年の態度は不思議とお気に入りだった。

 もっとも私に媚びる魔術師など、今の時計塔にはいない。エルメロイの名誉や地位など、とうの昔に地に堕ちた。侮られる方がはるかに多い。

 ‥‥とはいえ時計塔でも若者が多いところに出入りしていれば、妙に絡んでくる男たちが多かった。若いって素晴らしいな。私も若いが。

 

 

「相談というのは、このところ世間を騒がせている連続殺人事件についてさ」

 

「聞いている。随分と醜い愉快犯らしいね。少なくとも品の良い殺し方じゃあない」

 

「最初の被害者が見つかってから一月になるが、警察も足取りは掴めていない。品性はさておき、抜け目のない犯人だ。そして業を煮やして我々にお鉢が回ってきたわけだが」

 

 

 ロンドン警視庁(スコットランドヤード)も僅かに一部が理解している。彼らでは対処できない事件が、犯人が存在することを。その長い歴史で彼らは理解している。

 だからこそ、どうしても彼らで手におえない事件というのは我々、魔術師が捜査に加わることもある。もちろん最初から時計塔に所属する正規の魔術師に話が来ることは殆どない。まずはフリーランスや、時計塔でも小遣い稼ぎに熱心な連中などが取り掛かる。

 そして、大体の事件というのはそこで終わる。殆どの事件は神秘が関わっていることなどない、ただの迷宮入り。勿論そんなものは逆に、犯罪捜査の専門家ではない魔術師の手におえない。そして他の事件はといえば、神秘の漏洩の阻止という時計塔の第一原則に反しないものであるならば黙認だ。手を出すメリットに、デメリットが釣り合うわけがない。

 だからこそ、いわゆる木端魔術師や傭兵を乗り越えて正規の魔術師まで噂が届く事件というのは珍しく、その段階で大概は厄介な案件なのだ。

 

 

「いや、はぐらすのは優雅じゃないぞライネス嬢。仮に君の言ってることは本当だったとしても、やっぱりプロフェッサや君の耳に直接届くような話じゃない。単純に“警察が手をこまねいている”程度の事件に首を突っ込まされるなんて、普通の魔術師からしてみれば侮辱されてるにも等しい俗な案件だ。いったい何を隠しているんだ」

 

 

 ほうら、キタ。

 人知れずニヤリと心の中だけでワラウ。本当に、この男はおもしろい。義兄がおもちゃなら、彼はゲームパートナーだ。駆け引きを楽しむだけの余裕がある。姉の仕込みがいいのか慣れているのか。どちらにしても大歓迎だが。

 

 

「‥‥ガイシャからは僅かに魔力の残滓が確認できた。元々オカルトめいた手口、演出で有名になってる連続殺人犯だ。我々が動くには十分な与太話になったわけさ」

 

「魔力の残滓、ね。犯人が魔術師の可能性がある、と?」

 

「あぁ。もちろん今のままでは神秘の隠匿が破られるほどのものじゃない。ただ犯人が見つからないってだけの、オカルト的猟奇連続殺人事件。とはいえ、もし犯人に何か魔術的目的があり、世間を欺く余裕を失い、目的のために手段を選ばなくなったならば」

 

「神秘の漏洩を犯す可能性は十分にある」

 

Exactly(その通り)! となれば、そのとき尻尾を掴めるように今の内から動いていた方がいいだろう?」

 

 

 複数名の殺人なんてものは、魔術儀式ではポピュラー過ぎて例の枚挙に暇がない。ある程度の真っ当な魔術師なら、殺人歴があっても全く不思議じゃない。目の前の、このつかみ所のない平凡な兄弟子にも殺人歴はあったはずだ。

 一度に何人もの殺人が必要になる儀式。時期を問わず死体だけが必要な儀式。今回、一番厄介な事例として考えているのは“ある程度の期間で何か規則性をもった複数名の殺人が必要になる儀式”だ。

 資料を見る限り、何らかの規則性があるのだろう。ある程度の調べもついている。ゴールは分からないが、もしまだ複数名の殺人が必要となるならば、今のこの一般人でも不可能ではないだろう殺人ではなくなり、神秘の存在を確信させてしまうような殺人に発展しかねない。

 そうなると時計塔も本腰を入れてかからざるをえない。すぐに事件は終着するだろう。本気を出した時計塔の姿勢(スタンス)は戦争そのものだ。時間はかからず、犠牲も厭わず、ただ目的を迅速確実に遂行する。

 それでは困る(・・・・・・)のだ。

 

 

時計塔(おとな)が本気になる前に、エルメロイ教室の手柄にしたいんだよ私は」

 

「‥‥清々しいぐらいえげつない笑い方するねぇこの姫様は。分かったよ。とりあえず資料をくれ。一日読み込んで、それから出発でいいかな?」

 

「あぁ構わないとも。期待しているよ、名探偵(ホームズ)

 

 

 漸く、やる気になってくれたか。

 私は頭が回る方だと思う。歳の割には、とつくが、政争を得手としている以上は必要不可欠な能力がしっかりと身についている。

 一方で義兄上のようなゲームメーカーにはなれない。どうにも、認めざるをえないことだが、私は脇役気質だった。黒幕が板に付く系の脇役だ。名優になれても主役にはなれない。少なくとも、今のところは。

 この男は自分では気がついていないが、立派なゲームメーカーだ。場をひっかき回し、自分の望む展開を作り上げ、それを掌握する。程度の差はあれ、ゲームメーカーにはそういう能力がある。私はまだ経験不足で、そういうことはできないが、この凡庸な男は凡庸なままで、妙なリーダーシップでそれができてしまう。

 いいさ。今の私はまだプレイヤーたりえないが、マネージャーではある。彼は今回の、私にとっての切り札(スペードのA)だ。

 とはいえ、まだ枚数が足りない。もう何枚か切り札(トランプ)が欲しいところ。

 あまり気乗りはしない札を何枚か思い浮かべ、私は薄暗い部屋を出た。

 

 

「俺じゃあ警部(レストレード)も役者不足だよ、名医(ワトソン)殿」

 

「あまり謙遜するな。レストレードだって名警部さ」

 

「どうだかね」

 

 

 

 

 さて、義兄がいない間の暇つぶしだ。手柄なんて二の次、本当はおもしろい騒動になってくれればそれでいい。

 最近は小粒の話題ばかりだったから久しぶりの大事件の香りに胸の高鳴りが抑えられん。

 玩具にするには些か賢しいが、今回も私の楽しみを彩っておくれよ、我が兄弟子よ。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 そこはロンドンでも比較的治安がよく、そこそこ豪華なアパートが立ち並ぶ区画であった。観光客、あるいはビジネスで長期滞在する者のためのコンドミニアムもある。豪邸というほどでも、貴族街というほどでもない。絶妙に治安と羽振りのいい場所で、あまり事件とかが起こる雰囲気ではない。

 しかし今はロンドン市警(スコットランドヤード)によって厳重な警戒線が張られ、一部が封鎖されている。金銭的に余裕のある面々は疎開のように避難して別の場所に移っているのかもしれない。やけにひっそりとしていて、不気味だった。

 既に市警の上層部と話が済んでいるらしく、ライネスが身分を伝えれば恙なく現場へ入ることができた。「なんなんだこいつら」という目線をそこかしこから感じるが、担当者の応対は丁寧だった。

 ちったぁ豪華な集合住宅の一室が現場だった。この集合住宅の中には一人も警官が配置されていない。‥‥すぐにその理由は分かった。玄関のドアに手をかけただけで伝わってくる、濃厚な死の気配。ドアノブを回し、ドアが開くか開かないかってぐらいで感じる血煙の匂い。

 

 

「‥‥成る程、そりゃこんなところで立ってたら普通の人間なら気が触れるな」

 

「君も嗅覚を切ってしまえばいいんだよ」

 

「それは魔術師としての器用さの証明にはなるけど、まがりなりにも調査に来ている以上は五感を活用する方針なんだよライネス嬢」

 

 

 ぴちゃり、と足下で水音がした。なんてことはない、多少薄まってはいるけれど、床は文字通りの血の海だ。床上浸水ならぬ、床上流血ってところか。あまり笑えない冗談だな。

 この部屋で事件が起こってから、そこそこ時間は経っている。資料にもあったが、犯人はどうやらわざわざ血と水を混ぜ合わせたもので血の海を作ったらしい。これは十分猟奇的と言って差し支えないだろう。

 

 

「これは‥‥潮の匂い、かな? あまり海の近くにはいかないから馴染みはないが」

 

「イギリスも島なのに珍しいな。これ、たぶん海水だ。海水と血を混ぜ合わせたんだろう。意味はまだ、わからないけどね」

 

 

 流石に警察もコレを舐めたりはしないだろうし、特に意味がなさそうだから資料には書かなかったのだろう。俺も舐めてみる気にはならないが、間違いなく海水の匂いだ。

 かろうじて靴の中までは浸水しない、という程度の血の海を踏み越えて居間へと入れば、そこは床どころか壁一面も真っ赤に染まっている。流石に堪えたのか、背後でライネス嬢が息を押し殺すような、くぐもった声を漏らす。

 ホトケさんは居間の中央、何もないところに未だ血塗れで横たわっていた。

 

 

「‥‥まぁ、想像したほどは悪くないな」

 

 

 喉の左右、顎の裏にあたる部分に一カ所ずつ、合計二カ所の深い刺し傷。これが失血の直接的な原因か。目玉は抉られた上で眼窩に再び填め込まれたからか微妙に外に飛び出している。不自然ながに股は股関節を外されたのか、両手を挙げた姿勢と相まって、不謹慎ながらカエルのような状態だった。

 そこそこ裕福な独身男性で、些細な怨みぐらいは買っていても、ここまでされるような人間関係には心当たりがない。物盗りでもなければ、遺産騒動になりそうな経歴もないし、彼が死ぬことで特別誰かが得をするということもない。

 絵に描いたような不気味な事件だ。まぁ、それも当たり前で、彼に至るまでに既に複数名が同様の手口で殺されている。まごうことなき、連続猟奇殺人である。

 

 

「それでライネス嬢、ガイシャから魔力の反応がある、と?」

 

「あぁ。確かに、この眼で視てみれば資料の通りだ。微弱だが、魔力の残滓が視える。どういう魔術をかけたのか、あるいは魔術に縁あるもので殺したのか、そういうところまでは分からないけどね」

 

「ふむ。となると、プロフェッサに倣うなら殺しの手段を探る意味はない。とはいえあの人はちょっとサブカルチャーに(かぶ)きすぎだから、魔術師流に言えば過程ではなく結果を見る、ということになるわけだけど‥‥」

 

 

 魔術は過程を重視しない。魔術師にとって結果のみが一番であり、その結果を出すために過程を用意するわけだけど、そこで省力化とか最適化とかしていく魔術師はそんなに多くなかった。

 前にプロフェッサが現代魔術の講義の一環として話していた、栄養ドリンクの話。市販の栄養ドリンクと同じ効果を齎す魔術薬を一般的なやり方で作成した場合、そのコストは到底市販薬を買うことには勝てないということだった。

 けれどそんなことは当たり前で、そもそも魔術師とは原理主義者なのだ。愚直にトライアンドエラーを代々繰り返すからか、永遠にも等しい長い長い年月の果てに結果が得られればいいというのが伝統的な魔術師のスタイルで、一つ一つの魔術を効率化するというのは些事にすぎず、あくまで魔術師としての腕前が発揮する副産物のようなものなのだ。

 つまりこの手の儀式めいた事案を考察するとき、一般人の常識に縛られてはいけない。例えば道路を挟んだ向かい側の店に行きたいとき、目の前の横断歩道をわたるのではなく、一回別の街に寄ってから自分の好みの方角に向かって好みの方法で何日も、一見無意味な労力をかけて行く、っていう意味不明なことを平然とやってのける生き物なのである。

 

 

「どうかな、ライネス嬢。この有様から何を想像する? 犯人はどんな奴だと思う?」

 

「海が好き、目玉が好き、とか? まさかと思うけど、そんな答えを望んでいるわけではないだろうね我が兄弟子?」

 

「いや、それでいい。突き詰めれば魔術の術式っていうのは好き嫌いの話なんだ。普通の魔術師なら、他にどんな効率的な手段があったとしても自分の家の流儀を重んじる。だからスタイルってものがあるんだ、魔術師には。そういうところを探るのが、魔術師同士の戦いでは思いの外大事なんだよ」

 

 

 プロフェッサほどの、知識とセンス特化型の謎魔術師になれば、その豊富な知識で一つ一つ術式を解体していくなんてこともできる。しかし俺ではまだ役者が足りない。

 となれば先ず俺がやるべきは、敵である魔術師の癖、スタイル、雰囲気から探ること。特にこういう、斬った張ったから離れた世界ではじっくりと現場を見て、観の目を使う。そうすれば朧気ながら見えてくるはずだ。敵の意図するところというのが。

 

 

 

「海に関する魔術、目玉に関する魔術ね。海といえばギリシャ神話におけるポセイドン、ローマではネプチューン、ケルトならマナナーンといったところか」

 

「北欧神話ではエギルという神もいる。しかし実は海に由来する魔術、海を象徴とする魔術というのはそんなに多くない。どちらかというと海は恐怖の象徴、悪魔の住処としてのイメージが強く、海を舞台にする神話もそんなに多くない。海というのは果てであり、想像の及ばないところだったんだよライネス嬢」

 

 

 かの有名なアルゴナウタイの冒険、ワイナモイネンとサンボの物語など、いくらかの有名な伝承もあるけれど、そもそも外洋へ乗り出す船というものも神話の世界と比較すれば新しい概念で、海に対するイメージが豊かになったのも西暦の時代からだ。

 神話をモチーフにした魔術は特に海に疎い。ポセイドンの加護を受けた英雄、血縁とかも何人か心当たりがあるが、彼らも海で活躍したわけではない。魔術のルーツとして最も巨大な基盤を持つエジプトも、川の周りに発展した文化だから魔術的に海をモチーフにする話はあまり聞かない。

 海に関する神話、伝承が多いのは島国だろう。特に日本だ。生け贄を捧げて海を鎮める、という概念も海が生活に根ざした国でなければ出てこないものだ。そう考えると今回の事件のように、わざわざ海水を用意してまで血の海を仕立てるというのも魔術的には珍しかった。

 

 

「人々が海に乗り出すようになり、海は富と未知を運ぶ浪漫の舞台になった一方で、恐怖の象徴だった。およそ陸で死ぬよりも悲惨で、かつ大量に、あっけなく人が死ぬ。千変万化し、制御することができない。あまりに理解できず、理不尽な海の変化を人はよく悪魔や怪物に例えた」

 

 

 一匹の獣が海から上がってくる、神を冒涜する名を記した王冠を被る十本の角と七つの頭を持ち、から始まる黙示録の獣。天地創造の五日目に作り出された最強の生物。これらは世界最大の信仰基盤から生じた概念だ。

 それらに端を発するのだろう。船を沈める怪物、海の司教、クラーケン。船乗りたちは海に怪物がいると信じていた。実際のところ、どれもエイやらダイオウイカやらの見間違いで、いわゆるひとつの枯れ尾花といったもの。あまりにも若く、魔術に使うには浅すぎる。

 

 

「しかし、この手の、生け贄を必要以上にいたぶる儀式というのは比較的浅い神秘を補うやり口だ。そうだろう兄弟子?」

 

「その通りだライネス嬢。魔術の純血性を重視するならば、魔法陣やら生け贄やら細かい理屈やらというのは下策の類。となると純血性に由来しない、近世の魔術理論を基盤にした魔術と考えるのが妥当なところだけど‥‥」

 

 

 どうも俺の勘働きは、その意見に賛成してくれない。

 確かに今、資料から読みとれる魔術的な法則はない。もちろん俺が見落としているだけ、というのも十分にありえる。この手の謎解きはルーン魔術を基本として神話体系の魔術基盤を得意とする俺よりは、ロード・エルメロイ二世(プロフェッサ)向きの案件だからだ。

 俺も斬った張ったの事件に関わる方が多いから、地道な謎解きの経験が豊富なわけではない。しかしこの手の案件、実のところ比較的あっさりと片づく場合が殆どだ。神秘の漏洩のおそれがなければ、基本的に協会から目を付けられることもないし、ことさら隠匿する必要もないからだ。

 だから一見して中りがつけられない、という部分に勘が働く。

 

 

「概ね、物事を複雑にしたがる中世以降の魔術に対し、中世以前の魔術はシンプルだ。。あるいはーー」

 

 

 天使か、悪魔。

 世界最大級の魔術基盤に関わるもの。特に中世以降の魔術理論ではなく、まだ神秘が跋扈していた時代の理論を用いた魔術儀式。

 

 

「とはいえそれもプロフェッサの得意分野。そして特にヒットする感触もしない」

 

「どうする? 他の現場も回るか?」

 

「まぁ、そうだね。捜査の基本は足だって言うし」

 

「中々名探偵(ホームズ)という具合にはいかないな、我が兄弟子(レストレード)?」

 

「なんで俺が苦労しそうな空気を感じとると愉しそうにするんだい妹弟子」

 

「新たな波乱の予感を覚えるとわくわくするだろう?」

 

「俺はしないけどね」

 

 

 ぴちゃり、と水音を立てて踵を返す。

 一面真っ赤の部屋に、もう喋らない主が一体。

 ‥‥やはり、気になるのはこの殺され方だけ、か。時間、場所に意味がないなら、殺し方に意味があると考えるのが自然。しかし殺し方に意味があるなんて、ヴードゥーやオセアニアの民族呪術でもあるまいし。殺し方で分かるのは殺しの手段ぐらいだろうに。

 なんで俺の勘はこんなに反応しているのか。魔術師の勘は蔑ろにしてはならない。これはよく、考えておく必要がある。

 何故か愉しそうについてくるライネス嬢と、彼女の靴を拭くべく雑巾を用意しているトリムマウを連れて、俺たちは次の犠牲者の現場へと向かった。

 これも勘だけど、おそらくこの事件はとっとと片を付けた方がいい。大騒動になるとかならないとかじゃなくて。

 この普段はあまり絡みがないお姫様に妙に懐かれたら、俺に厄介ごとを持ってくるルートが確実に一つ、増えるからだ。

 

 

 Another act to be continue

 

 



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番外話 『戯神殿の崩落』

たいへんお待たせしましたが、番外話の後編を投稿します。
久々に執筆を楽しませていただきました。矛盾が山程あるんですけど、申し訳ない、見逃していただいて、お楽しみください。


side Gray

 

 

 

 エルメロイ教室の談話室、のような広間は喧噪に包まれていた。

 机の上はたくさんの紙が広げられ、たくさんの図形や文言が書き込まれている。それを次から次へと生産しては、適当に散らばせているから置き場所なんてなくなり、資料の本や羊皮紙は既に床の上で塔を形成していた。

 エルメロイ教室の若手魔術師達はその間をひっきりなしに往復し、盛んに議論しては、ある程度の意見がまとまったところで部屋の奥にいる捜査本部へと報告しに行く。そしてまた、頭を抱えて戻ってくるのだ。

 捜査本部に詰めているのは総勢4人。“獣性魔術”のスヴィン・グラシュエード、“エルメロイのお姫様”ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ、“時計塔唯一の日本人”である蒼崎紫遙、そして“雑用係”の半端者(グレイ)

 教室の学生達は何人かでチームを組んで意見を戦わせ、十分に叩いて纏めた上で捜査本部へと集約する。それを主に蒼崎さんとライネスさんで揉んで、スヴィンさんが纏めていく。

 久しぶりに、エルメロイ教室が全体でまとまって、ある事件に取りかかっていた。師匠は、不在にしているけれど。

 

 

「‥‥ダメだな。まるで実体がつかめない。そもそも資料が少なすぎる」

 

「そう愚痴るなライネス嬢。ここまでくると資料がないのが資料とも言える」

 

「それは屁理屈だぞ兄弟子。被害者の一人ぐらいなら魔術関係者だったから魔力の痕跡があった、で済んだ話だが、全員から僅かなりとも

痕跡が見つかった段階で明らかに魔術師がらみの事件だ。となると何も糸口がないというのは不自然すぎるだろう」

 

 

 トリムマウが淹れた紅茶を一口啜り、ライネスさんが大きく伸びをした。もう丸一日、こうして作業しているのだから疲れもする。魔術師は肉体に魔力を流して強化することができるから肉体的疲労には強いけれど、精神的疲労はまた別と師匠が前に言っていた。

 既にスヴィンさんは若干船を漕ぎかけているし、蒼崎さんも既に3箱目の煙草をーー現代魔術科(ノーリッジ)はプライベート空間以外は基本的に喫煙可だったーー空にしようとしている。他の学生達も、やや疲れた様子であった。

 

 

「仕方がない。こういう時は一回話を整理しよう」

 

「整理、ですか?」

 

「その通り。どこかでボタンを掛け違えてる可能性もあるからね。一度最初から、前提条件を洗い直すんだ。研究とかでもよくやるやり方だよ」

 

 

 新しい紙を取り出し、最初からこの事件の前提を整理していく。

 ロンドンで起こった連続猟奇殺人事件。被害者の特徴に共通性はなく、特別誰かに深く恨まれていることもないし、死ぬことで特別誰かが得するということもない。死因は失血死で、一様に喉、顎の裏二カ所を深く刺されている。凶器は包丁やナイフ、ハサミなど、家にあった刃物で、犯人を示す証拠の類は一つもない。

 被害者は喉の他にも、眼球を抉られた上で再びはめ込まれ、部屋は血と海水を混ぜたものを床一面にまき散らされて血の池のようだった。しかしそれ以外には、何も情報がない。事件が起こった場所も、家具の配置も含めて魔法陣には該当せず、そもそも魔力の痕跡は被害者にしか残っていなかった。

 

 

「やはりキーポイントは殺され方と、血の混じった海水でしょうか」

 

「そういえば君は鼻が良すぎて現場を見に行けなかったね、スヴィン。海水そのものというよりは、血の海という光景の方が鍵だろう。とはいえ血の池地獄なんて日本の概念だし、ただ海を形象したいのであればただの海水で事足りるからな。グレイ、君はどう思う?」

 

「拙は魔術師ではないので‥‥。やはり目に関連する儀式、なのでしょうか?」

 

「いや、念のためイヴェット嬢にも見てもらったが、そういう感じの儀式とは思えない、とのことだった。魔眼の大家であるローマン家と俺の意見が一致した以上、おそらく其処は考えなくていい」

 

「魔眼以外にも目をモチーフにした魔術、視線を媒介にする魔術の可能性を考えてみましたが、そこを追求したチームも成果なし。‥‥なんだフラット、戻ったのか。随分早いな」

 

 

 エルメロイ教室の双璧のもう片方、“最古参”のフラット・エスカルドスがしきりに鼻をこすりながら現れた。彼は「やっぱり捜査の基本は足! 事件は会議室じゃない、現場で起こったんですよ!」と言って最初に飛び出していったのだ。多分、こういう調べ物が苦手だからなんだろうけれど。

 

 

「やぁやぁル・シアン君。うん、戻ったよ。今日ばっかりは君の気持ちがよ~く分かったね。俺でもあの血煙、きっつかったもん。鼻が曲がるかと思ったよ!」」

 

 

 ハンカチに香水を染み込ませて吸い込みながら、異端の天才は朗らかに笑う。殆どエルメロイ教室を卒業した状態の蒼崎さんと違い、まだエルメロイ教室で現役の彼はあらゆる騒動の中心にいる。

 今回はライネスさんが持ち込んだ事件だったから遅れたけれど、かなり熱心に資料を読みふけっていたーーすぐに飽きたがーーので捜査には前向きだった。

 

 

「ル・シアンと呼ぶな! そんなことより、どうだったんだ現場は?」

 

「いやぁ思ったより酷かったねぇ!」

 

「感想じゃなくてだな!」

 

「スヴィン、疲れてるんだからあまり吠えるな頭に響く。それで、フラット?」

 

「あ、うん。やっぱり直接的に魔術に関わる痕跡は見つからなかったよ蒼崎くん。一応ちゃんと全部の現場回ったから、よっぽどユニークなやり方じゃない限り殺しそのものが何かに関わってるってことはないと思う。あまりユニーク過ぎても、普通の魔術基盤の恩恵が受けられないしね! でも殺しのやり方は分かったよ!」

 

「なに? それは本当なのかフラット?」

 

「もちろんですよ姫さま、ばっちりです。ずばり、暗示による自殺ですねアレ」

 

 

 暗示。一瞬にして捜査本部に緊張が走る。

 別に奇天烈なやり口ではない、とスヴィンさんが呟いた。魔術師にどうやってやったか(How done it?)は意味がない、の典型的な例だとも。

 確かにその通りかもしれない。普通、犯人が被害者を操って自殺させる、なんて一般人ではできようがない。魔術師にしかできないことの極めて分かりやすい一つの例だ。例えば密室殺人にしても、被害者を操って内側から鍵をかけさせて、自分で喉を突かせれば他殺の証明なんて不可能なのだから。

 

 

「成る程ね。となると“自殺させることに意味があった”というわけだ」

 

「どういうことですか、蒼崎さん?」

 

「普通、魔術師が起こしたこの手の事件の場合は、証拠の隠滅とか捜査の攪乱とか、人間社会に対しての隠蔽行為ってのはあまり行われない場合が多い。一般人が相手なら普通に呪うだけでも殺しの手段は特定できないし、社会的な手が自分に及ぶことを魔術師は重視しないからだ」

 

「例えば私がある一般人に怨みを持っていて、殺したとする。どう考えてもそいつが死ぬことで私に益がある。しかし私が犯人だという証拠なんて出てきようがない。ましてや大概の魔術師ってのは資産家で血筋も確かだから、そもそも社会の捜査とかは及びづらいし、警察とか社会とか、とるにたらないものだと考えている魔術師ばかりだ」

 

「ライネス嬢の言うとおりだ。だからわざわざ暗示なんて使って自殺にみせかけるってのは、捜査の攪乱や証拠の隠蔽というよりは、そもそも自殺させることに意味があったと考える方が自然だ。魔術師の世界ならね」

 

 

 最後の一本を吸い終わり、蒼崎さんは眉間に皺を寄せて新しい箱を空けた。続けて吸うつもりらしい。

 ここにルヴィアさんがいたなら「ここを火力発電所にでもするつもりですの!」なんて怒って取り上げただろうけれど、生憎と本家に所用があってロンドンを離れている。流石に煙くて耐えられなくなったのか、学生の一人が風を操って換気を強くした。

 

 

「しかし自殺が意味ある儀式ってのも、妙な話ですね?」

 

「そこだよ、スヴィン。自殺ってのは基本的に術者自身、あるいは自殺者が属する何らかの組織や集団に益する儀式に関わるものが殆どだ。こうやって場所も時期もてんでばらばらに自殺させて、何の意味がある?」

 

「自傷を必要とする儀式も傷そのものよりは、血や肉体等を削り取って儀式の糧とする方が重要。前に義兄が何かの講義で言っていたらしいがね。となると‥‥」

 

「それが分かったところで大した参考にはならないわけだ。何か、キーワードがあるはずだ。このすべての要素に。こうなったら魔術師も一般人もあるか。皆、何か思いついたことを直感的でもいいから教えてくれ」

 

 

 蒼崎さんの声が大きく広間に響き、皆が手を止めて難しい顔で思案を巡らせる。

 飛び出た眼球、顎の裏の刺瘡、カエルかなにかのような死に姿、血の海、暗示による自殺。自分では何も分からない。ただただ悍ましい、冒涜的な殺し方というだけだ。

 

 

「あの、ちょっといいかな」

 

「君は、カウレス・フォルヴェッジだったかな」

 

「はい。魔術には全然関係ないんですけど、一つ思い当たるところがあって」

 

 

 眼鏡をかけた、線の細い若者が手を挙げた。カウレス・フォルヴェッジ。エルメロイ教室の新顔で、魔眼蒐集列車(レール・ツェッペリン)の騒動のときも自分と一緒に師匠についていった、新進気鋭の魔術師。

 ライネスさんに手招きされ、ものすごく自信なさげに近寄ってくる。周りの視線が痛そうだった。

 

 

「俗な話で悪いんですけど、俺ホラーとかSFとか、最近の娯楽ってのが結構好きで‥‥」

 

「ほう。だから義兄とも話が合うのか」

 

「まぁある程度は。それで、現場の様子とか死体の写真とか見て思ったんですけど、これってクトゥルフ神話っぽいイメージの事件だなって」

 

 

 まったく聞き覚えのない言葉が、彼の口から飛び出した。ほとんどの人は全く分からない、といった風に首をひねっている。ただ一人、フラットさんだけがその言葉に強く反応した。

 

 

「へぇ! へぇへぇへぇ! カウレス君ってばクトゥルー好きだったんだ! いやぁ俺もざっくりとしか知らないけど、不思議な浪漫があるよねアレ! 冒涜的快楽っていうか、不明的恐怖っていうか! あぁなるほど、そういうことだったのかぁ!」

 

「おいフラット、なんだその、くとぅるふ神話というのは? 寡聞にして私は聞いたことないぞ」

 

「姫さまはまぁ、知らなくて当然かもね! かつて旧世界を支配していた外宇宙からの侵略者である神々、眠りについていた冒涜的な使徒が蘇って根源的な恐怖を人々に与えるっていうーー」

 

「待て待て待て。なんだその、旧世界とか外宇宙とか? どこの神話だ? アフリカか? オセアニアか? 宇宙ということは、マヤか?」

 

 

 今まで見たことがないくらいの困惑顔のライネスさんが、鼻息熱く語り始めたフラットさんを遮って聞く。自分も、フラットさんが何を言っているのかさっぱり分からなかった。うんうん、と頷いているカウレスさん以外の学生達も、また同じ。

 しかし蒼崎さんには何か得るものがあったのだろう。ほぅ、と一言、呟いた。

 

 

「ライネス嬢は知らなくて当然だ。俺も詳しいことは知らないけれど、それ、作家の創作物だよ。ルイス・キャロルとか、J・K・トールキンとか‥‥まぁ一緒にすると双方のファンが激怒するかもだけど、とにかく只の創作、娯楽小説さ。元はね。でも悪くないぞ、フラット、カウレス。おもしろい仮説だ。というか、ちょっと閃いたぞ」

 

 

 地図を持ってきてくれ、と頼まれて、ロンドンの地図を机の上に広げる。世界地図も、特に地中海付近を、と言われ、それも持ってきた。

 

 

「カウレス、クトゥルフに登場するキャラクターで、モチーフになったものがはっきり分かるのはあるか?」

 

「あ、はい。有名どころだけでいいですか? 俺も言うほど詳しくないんですよ」

 

「もちろん。そこに書き出してくれ」

 

 

 持ち運びできるサイズの黒板に、カウレスさんが名前と概要を書き上げていく。新顔、とは言ったがエルメロイ教室の一員。師匠の講義と個人指導を受けた学生として知識は十分以上にある。

 アザトース=天使アザゼル、ノーデンス=ケルト神話の医神、ブバスティス=エジプト神話の猫頭の天空神、ハイドラ=(おそらく)ヒュドラ‥‥

 それだ、と指揮官が呟いた。書き出した異邦の神々の名前の一つにペンで印をつける。

 

「おい兄弟子、いったいどういうことなんだ? 大衆向けの娯楽小説なんか、魔術師の事件に何の関係がある?」

 

「さて、どうにでも関係のこじつけようはあるさ。妥当なところだと、目くらまし。例えば大衆の目を背けるとか、同業者の目を背けるとか。それだけなら神秘の隠匿に熱心な、疑い深い魔術師ってだけなんだけど‥‥‥」

 

 

 にやり、と蒼崎さんが笑った。

 見当がついたとでも言いたげな様子で、別な資料を熱心に捲っていく。犯人たる魔術師を探すために用意していたリストだ。やがてぴたりと一人の魔術師の名前を指さす。

 

 

「‥‥ほう、コイツがどうしたのかな我が兄弟子?」

 

「いやなに、やり口も、動機も、犯人も検討がついた。ならば攻め口を考えるのが次の仕事だ」

 

 

 よしきた、と何人かの威勢のいい声。腕自慢(アタッカー)達も支援者(サポーター)達も、速やかに自分の部屋へと走る。武器なり防具なり礼装なり、そして護符(タリズマン)なり薬草なりを取りに行ったのだ。

 一度動き始めたエルメロイ教室はまるで一つの生き物だ。他の学科の、他の教室と違う一体感がある。普通、同じ教室で学んでいようち魔術師は魔術師。根本的に協力という発想はない。しかしエルメロイ教室は普通の魔術師とスタンスが違う。

 残った人たちは再度、地図を眺めながらああでもないこうでもないと作戦会議。ライネスさんは優雅に紅茶を、しかし隠しきれない好奇心から身を乗り出していた。

 大人がいないうちの、子ども達の悪巧み。少し無謀かもしれないけれど、その実力で無理を無茶まで引きずりおろす。

 

 

「まぁ単純に攻めるだけならエルメロイ教室のメンツで十分過ぎる。執行者の部隊とか、クロンの大隊とか、少なくとも複数人の連携のとれた魔術師が相手じゃなきゃ大丈夫だろう。となると-ーー」

 

「政治の話、となるわけだ。成る程そこからは私向きの話だな。任せたまえよ」

 

 

 にやり、にやり、と性格の悪そうな笑顔が増えた。解決の糸口を感じて集まってきた学生たちもゲッと呻いて一歩退く。気にしていないのは権力闘争に慣れているのか、あるいは肝っ玉が違うのかフラットさんとスヴィンさんだけ。

 あぁ恐ろしい。師匠について、ある程度はソウイウ世界も見る機会が増えましたが‥‥。慣れないし、慣れたくありません。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 じっとりとした空気が肺に重い。屋内のくせに、砂漠の荒野のような陽射しを感じる。同時に海辺の洞窟のような湿気も。

 司令塔である俺の近くにはフラットとライネス、そしてグレイ嬢。フラットには俺の指示に応じて場を動かす一手を打ってもらう。あと突然なにをやらかすか予想ができないので側から離せない。そしてエルメロイのお姫様は自信満々のくせに場慣れしていないからだ。

 とはいえ彼女に対しては安心してもらう、以上の理由はない。戦闘能力だけを語るのであれば自律型の魔術礼装であるトリムマウがいれば自衛には十分に過ぎる。となるとこの場で最も危なっかしいのは俺ということになるのか? まぁ最悪フラットをけしかければよかろう。

 ちなみにグレイはスヴィンと距離を離すため、というわけである。

 

 

「ねーねー蒼崎くん。みんな配置完了したみたいだけど、まだ動かないのかい?」

 

「あぁ。儀式に入ろうとした瞬間に仕掛ける。リソースの全てを儀式に注げばイレギュラーが発生したときの対処の余裕がなくなるからな。そこが狙いどころだ」

 

「最高のタイミングで横合いから思い切り殴りつけるというやつだな。実に私好みじゃないか」

 

 

 この加虐主義者(サディスト)め、と心の中で呟き、機を伺う。

 ロンドン市街地に程近いこの廃館の地下には、ちょっとした体育館ほどの空間がまるで神殿のように仕立てあげられていた。眼下に広がるのは砂が敷かれ、数本の白亜の柱の残骸が聳え立つ異国の風景だ。

 その中心に中東風の衣装の男が立ち、今まさにその魔術回路を最大限に励起させようとしているところであった。そんなに年嵩ではない。ロード・エルメロイ2世より少しばかり歳上ぐらいだろうが、鬼気迫る迫力が若々しさ荒々しさを感じさせる。

 

 

「おい兄弟子。監視のジャン・プリュベールから連絡だ。まもなく最後の生け贄が喉を裂くぞ」

 

「あの、大丈夫なのでしょうか? その、被害者の方は‥‥?」

 

「安心したまえよグレイ。今の状況を聞いて確信した。奴は現場をリアルタイムで把握しているわけじゃあない。まぁ当然だな、結果など新聞を見ればすぐにわかる。わざわざ変な一手間を加えて追われるような下手を打つはずもないだろう?」

 

「ならば定刻に始めるということか。見てみろ奴の様子を。まさに待ちきれないといった感じだ」

 

「ふうむ、生憎と念願叶うことなく我々エルメロイ教室の手柄となるのだがな。実に滑稽な余興だぞコレは」

 

「‥‥君、さらに性格悪くなってないか? いや別にいいんだけどさ」

 

 

 各部への細工は流流抜群。御覧じる仕上げは今まさに目の前に。

 儀式の最後の現場にはジャン・プリュベールとモンパルナスのおフランスコンビが待機。生贄が喉を裂く寸前に割り込んで惨事を止める。外の見張りはグランテールが。情報工作の準備も万端、抜かりなし。

 ライネス嬢の解説通り、そもそも暗示とは傀儡と異なる。操作し続けるのではなく、事前に結果を叩き込むものだ。途中で暗示が解かれ、望む結果が得られなかったとしても、リモートしているわけではないから術者がそれを知る由もなかろう。

 

 

「間も無く時間だ、みんな。よく術者を見張れ」

 

「ル・シアン組から連絡! 匂いが濃くなった! 僕的にも、そろそろ!」

 

 

 現場組が動いた。生贄の昏倒に成功。

 各地に散らばったエルメロイ教室の生徒達からも次々とメールで符牒の連絡が届く。霊気の乱れの周期が合い始め、やがて整う。

 土地の霊気が騒めき始めた。生まれた砂紋は無秩序に、そして美しく絵を描く。

 教え込まれているのだ、自らに起こっていることを。此処は倫敦にして倫敦にあらず。赤き龍が守護する土地にして、さにあらず。救い主の死した後にして、遥か昔。其はブリテン人か、ローマ人か、ケルト人か、果たして。

 

 

「トリムマウの水銀盆、砂紋と一致。最後の生贄は不発だったから多少崩れてるな。奴も気がついているのかもしれんが、まぁ生贄はあくまで呼び水。儀式は止められまい。しかし強くなってきたぞ。―――よし、今だ」

 

楽しませてやれ(Make His Day)! グレイ!」

 

「アッド!」

 

『ヒヒっ、やぁってやるぜぇ!』

 

 

 カァン、と清涼な音が響いた。

 意思持つ魔術礼装、アッドが、死神の鎌(グリムリーパー)が、その石突を柱に突き立て、理を示した。

 いかに熟練の魔術師が、その手練れ手管を駆使して土地を調教しようとも、同じく周到に用意された濃密な神秘の前には乱れを生じる。詳しくは知らないけれども、少なくともアッドの持つ神秘は彼の魔術師の整えた場にあって完全に異質なのだから。

 

 

「な、なんだ?! 一体なにが起こった」

 

「―――台無し、ってことだよ。残念だったね、魔術師カドモン・ガレル。いや、大量殺人犯」

 

 

 隠蔽の魔術を解き、砂陣の端へと姿を現した俺たちを驚愕の表情で睨みつけた彼は、未だに状況を理解していない様子だった。

 近くで見れば大して特徴のない男だった。中東風だと思っていた浅黒い肌は、おそらく呪術的な意味を持つ塗料。どちらかといえば顔だちは西洋風で、刈り上げた黒髪の一房を伸ばし、編み上げた呪術的かつ精悍な印象を、落ち窪んだ眼窩と貪欲な瞳が台無しにしている。

 

 

「‥‥何者だ、貴様らは。私の神殿に立ち入って、いったい何のつもりだ」

 

「神殿,とはたいそうな言い方だな、Mr.ガレル。お初にお目にかかる。私はライネス ・エルメロイ ・アーチゾルテ。そう言えば、我々の正体も察しがつくというものだろう?」

 

「エルメロイ、まさか、エルメロイ教室か? 時計塔の爪弾きモノ、弱輩の魔術師崩れ共が何かの用だ」

 

「おやおや魔術師崩れ、ときた。そういうお前は神官気取り、か? この程度の工房を指さして神殿とは。いやいや爪弾きモノなんて控えめな言い方はよしてくれ。そのセンスでもっと、こう、気品ある喩えで呼んでくれたまえよ遠慮せず」

 

 

 おー、煽る煽る。

 水銀盆を出したままのトリムマウを従え、ライネス嬢の舌はノリにノリまくっていた。油断なく(アッド)を構えたままのグレイ嬢をどうぞ見習ってください。

 

 

「ライネスさん、止めた方がいいのではないかと、拙は、拙は」

 

「お楽しみを邪魔すると後が怖いんだよ彼女。とはいえまぁ、時間をかけても良いことはないしなぁ」

 

 

 手筈通り、スヴィンとエヴァン・シュヴァンクマイエルの荒事コンビがカドモン・ガレルを挟んで反対側に布陣。更に全体を見渡せるぐらいに程よく距離をとり、フラットが。

 エルメロイ教室で荒事に長けているのはルヴィアを除けばこのぐらいだ。もちろん彼女を含め、実戦経験は少ない。戦闘は魔術師の嗜みとはいえ本質ではなく、何より俺達はまだ学生だった。

 ちなみにイヴェット嬢にも来てもらおうかと思ったんだけど、彼女どうにも俺を避けてる。まぁ俺も彼女に魔眼は見せたくないし、仕方がない。戦力は十分すぎるほど揃っている。

 

 

「悠長に学業に励んでいればいい、神秘の継承の価値も解さぬ学生風情が。まさか私の儀式の邪魔をしにきたと? 何故だ?」

 

Why Done It(どうして)? それともHow Done It(どうやって)? どちらにしても,先ずはどうやって此処と、今迄を突き止めたかを解説しようか。教授(プロフェッサー)に倣って貴方の魔術を解体するのも、教室を率いる先輩としての務めだからね」

 

 

 トリムマウが水銀盆を差し出す。

 それはライネス嬢の意思に従い、薄く網のように広がって倫敦の街を模す。

 

 

「先ず一番難しかったのは場所だ。儀式魔術を離れた場所で複数回。礼うならば地理的な関係の考察は欠かせない。しかし貴方の儀式はポピュラーな魔方陣とは合致しなかった」

 

 

 月の巡り、星の運行、天体に関する普遍的な要素に由来するものであれば直ぐに分かる。もちろん現代の魔術師が、何の捻りもなくポピュラーなモチーフを使うことはありえない。しかし死をキーワードに逆さまにしても、人体に映し出して再度地理関係を確かめても一致しなかった。四大元素の方位ともバラバラ、おなじく人体に映し出しても変わらず。

 生命の樹(セフィロト)にも見出せなかった。天使に由来するならば犯行は4回で終わる。どうもカバラが由来の魔術ではない。ルリア神学も紐解いてみたが、ゾハルの概念とは図を描くモノではなく内的要因に因るところが大きい。星幽界(アストラル)神殿の形もしていないときた。

 

 

「というか、そもそも方位だけをエッセンスにするなら中心点をどこに想定しても距離がバラバラなのが理解できない。距離比を計算して方位をズラしても分からない。となると論理で解せる現代魔術に由来するとは考え難い」

 

「まぁその辺りは義兄上の得意分野だから、我々がみっちり勉強しているところだしな。誰か気づくよ」

 

「あぁ。だから場所だけをいくら考えても儀式の正体が掴めなかった。そこで―――」

 

「カウレス君の天才的な閃きがあったわけだ!」

 

「フラットの言う通り。何ら神秘を有さぬ現代の娯楽が、儀式の場所に、生贄の正体に繋がったわけだ」

 

 

 場所はヒントとしてあまりにも魅力的すぎて、誰もがそれを手掛かりに儀式の正体を探ろうとした。俺たちこそHow Done It(どうやって)に惑わされてWhy Done It(どうして)を見誤っていたわけだ。

 『どうしてその場所で』を気にするならば、同じくらい『どうしてそんな現場を作ったか』を気にする必要があった。

 

 

「―――クトゥルフ神話。完全に盲点だったよ。俺も俗世の娯楽には通じてる方じゃない。でもシェイクスピアやハンス・クリスチャン・アンデルセンを由来にする魔術もあるぐらいだ。大衆娯楽も魔術の考察の一助としては捨てたもんじゃあない」

 

 

 もっとも、魔術基盤そのものには成り得まいが、と俺は心の中で付け足した。そもそも俺の詠唱もオペラから取ってるしな。

 

 

「飛び出た眼球。蛙か何か、つまり両生類や魚類のような有様。更にはご丁寧に喉元の裂傷、つまり鰓のイメージ。あまりにも凌辱的、冒涜的な生贄の様子はイメージにピタリと一致したよ」

 

「血を混ぜた理由はよくわからないけど、海水ってのもポイントだったよね! 無惨に殺すんだったら生贄を苦しませる必要がある儀式かって思ったんだけど、暗示による自殺なら主体的な苦しみが得られないから、やっぱり結果だけが欲しかったのかな! でも絵面はちょっと娯楽としてはチープかな!」

 

「煽るなフラット。しかしその通りだ。生贄は祭壇に捧げるもの、ということを考えるとその場所を祭壇にしたかったわけだ。となると何がしか神話というキーワードが出てくるのは自然だった」

 

 

 とはいえ祭壇に何かを捧げるならば、捧げる神官や巫女がその場にいる必要がある。生贄を捧げられた神は直ぐに結果を出す必要があるのは、古今東西のあらゆる神話に共通のメッセージだ。

 ならば犯行は続く。四回の過去の犯行に加え、五回目。それを割り出すためには最後のWhy Done It(どうして)を紐解く必要があった。

 

 

「貴方はパレスチナの出身だ、そうだろう?」

 

「―――ッ?!」

 

「クトゥルフ神話はオリジナルな部分が多いけど、一部にモチーフを見出すことができる。カウレスがそれを覚えていて助かったよ」

 

 

 煙草の火が指し示す御名は、ヘブライ語で『Dagon』。

 古くは紀元前2000年以上前の、それこそイリアスで語られる時代にメソポタミアなどで信仰されていた農耕の神。世間一般では名前が殆ど浸透していないけれど、ペリシテ人の神といえば聖書に通じた人間ならばピンと来るかもしれない。

 旧約聖書において、その主人公はユダヤ人達だ。エジプトで迫害されていたユダヤ人達は、モーセに導かれて彼らの繁栄と安寧の約束の地、カナンへと向かう。そしてそのカナン地方に元々いた民族、部族というのがペリシテ人だった。

 最も有名なペリシテ人というのは巨人ゴリアテだろう。イスラエルの羊飼いであったダビデが投石で打ち倒したペリシテの兵士。その逸話に代表されるように、聖書の中でペリシテ人は常に悪役として描かれている。

 

 

「もちろん神々をモチーフにしたクトゥルフの化け物は他にもいる。けれど一番の大物がダゴンだった。まぁ勘だったから順番に他も調べるつもりだったけど、結果的には最速で当たりがつけられて良かったよ」

 

 

 トリムマウの水銀盆が輪郭を変える。模していた倫敦の街は地中海の東岸一帯へ。

 倫敦の街の、犯行現場の位置関係。それを縮尺をアレコレして当て嵌めれば、地中海東岸、即ち嘗てカナンと呼ばれていたペリシテ人の土地の街の位置関係と合致する。

 アシュドド、アシュケロン、ガト、エクロン。敬虔な信徒ならば一度聞いたことがあるかないか。多少の誤差はあろうが、時計塔の歴史の地図があればこそ、忽ちその真実が明らかとなる。

 

 

「だから最後の犯行現場は此処だったんだな。ペリシテ人達の土地の最後の一つは、ガザ。聖書でも最も有名な土地だ。なにせ、怪力サムソンの死に場所だからね」

 

 

 旧約聖書においてサムソンという敬虔な若者は、神の加護を怪力という形でその長髪に宿してペリシテ人の強敵であり続けた。しかし奸計により髪を切られて神力を失い、それでも最後は囚われていた神殿ごとペリシテ人達と心中するに至る。

 儀式において一番重要な場所は、一番強いモチーフを使うに限る。他の四つの土地に比べて、ガザの知名度は群を抜いていたから。

 

 

「しかし兄弟子よ。場所がわかったから速やかに手配して此処まで来たわけだが、私はまだ納得しきれていないんだよ。ダゴン自体は確かにメソポタミアの神の一柱ではあるが、その力を得るための儀式に何故、大衆娯楽を取り入れた? 儀式の隠蔽にしては陳腐すぎる。むしろ神秘の純度が下がるというものだろう?」

 

「それが最後の肝だった。神秘は悪戯に玩具にしても良いことはない。何度も繰り返し、読みこんだビデオテープが擦り切れたり伸びたりしてしまうように、本質から遠ざかってしまうから」

 

「びでおてーぷ?」

 

「それはいいから」

 

 

 そもそもメソポタミアの神話は、かなりマイナーな部類だ。

 神秘は古ければ古いほど濃い。それは、現に神秘そのものが継続していれば、だ。古い神殿の柱、長く祀られた御神体ならばそういうこともある。あるいは一時的にせよ英霊の座から英霊本体の影法師(ゴーストライナー)を呼び出すならば。

 現代において、魔術基盤とは往々にして理論だ。メジャーであることを強く求められる。理論は翻っていえば信仰で、特に自己に、あるいは他者に働きかける現代魔術においてはメジャーな信仰基盤がなければ効果は薄まる。人と喋ろうとするならマイナーな言語よりもメジャーな言語の方が良いに決まっている。

 あぁ確かに、彼は自称するように神官をモチーフにして、そして儀式は神殿をモチーフにして礼ったのだろう。でも先述の通り、遥か昔の存在すら朧げになってしまった失われた神秘を頼りにするなら、せめて何らかの霊媒を用意するべきで。

 

 

「そもそも彼、パレスチナ人だけど、ペリシテ人じゃないしな。ペリシテ人って概念、血筋的にはもう残ってないだろ流石に。まさか直系の神官の家系とかならともかく」

 

「紀元前の神代から続く神官の家系なんて、とうに伝承保菌者(ゴッズホルダー)扱いだ。有名すぎる。私が知らないなんてことはないだろう?」

 

「そう。だというのに敢えて古代の神秘をモチーフにするならば、どんでん返しが必要になる」

 

 

 アプローチの方法が違う。

 古いものを媒介にして、古いものを呼び出すなんてのは現代魔術では最高級の贅沢。そんなことができるならば、こんな胡乱なやり方は必要ない。

 新しいものを媒介にして、古いものを呼び出す必要がある。それも真っ当な手段ではなく、とびきりリスキーで、誰もやらないようなやり方で。

 俺は急に顔色を悪くしたフラットを指さして言った。もう一度、キーワードを寄越せと。

 

 

「冒涜」

 

 

 聴き慣れた声がした。一箱いくらの、俺のシガレットのそれではない、葉巻の香りも。

 

 

教授(プロフェッサ)?!」

 

「まったく、私のいない時に火遊びをしてくれる。ライネス、お前のことだぞ。シヨウ・アオザキもだ。どうしてこうなったのかは、イヴェットから粗方聴き尽くした。主犯共はたっぷり絞ってやるからな覚悟しろ」

 

 

 黄昏のように燃える深紅のコートに、朝日のように輝く黄色のストール。あらゆる苦悩を刻み込んだような厳つい眉間に、他人を拒絶するように角ばった手足。

 ロード・エルメロイⅡ世がそこにいた。やや汗ばんだ様で、そしてバツの悪そうに笑うイヴェット・レーマンを従えて。あの女、居留守を命じたのに簡単にゲロったな。

 

 

「道すがらウチの愚義妹が集めた資料は簡単に目を通した。Mr.カドモン・ガレル。考古学(アステア)の魔術師だったな。確かに貴方自身はパレスチナの出身である他、ペリシテ人の祭儀とは縁もゆかりもない。いくつか論文を出していることまでは確認できたが、な」

 

 

 ゆっくりと歩みを進め、俺の隣へ。そして一歩、前へ。

 この人はいつもそうだった。弱音も吐くし、文句も言うし、その実力は―――特に戦闘についいては―――俺よりも劣る部分すら多い。

 それでもこの人は、常に先頭へ、いや先陣へ立つのだ。今はいない誰かの隣に立つようにして。

 

 

「貴方自身がペリシテ人に縁ある者で、祭司の継承を狙うならば、正攻法が最も簡単だった。魔術基盤を殆ど独り占めできる。わざわざホラー映画みたいな小細工を弄する以上は、むしろ貴方は継承者ではなく簒奪者。儀式を陳腐化する、その本質は何か」

 

 

 今回は百点満点の推理だな。後始末を考えると頭が痛くなるが。そう睨みつけられても、もう肩をすくめてみせるぐらいしかできない。

 葉巻の先が俺を指す。その言葉の続き、佳境は譲ると。

 

 

「涜神」

 

 

 遂にカドモン・ガレルの顔面は蒼白を通り越して真っ赤となった。

 これが、これが教授(プロフェッサ)の見ている景色か。魔術を解体し、神秘を辱めない。まさにこの事件、本来ならば真に彼向きの事件だったのだろうに。

 

 

「いかに魔術基盤としてマイナーであっても、メソポタミア由来の魔術は数えきれない。直接ダゴン神に由来するものでなくてもね。ならばその繋がりを断つ。神秘を徹底的に冒涜し、凌辱し、手の届かぬ神体を"手の届く位階まで引きずり堕ろし、反転させる"」

 

Exactly(その通り)。こうして見渡せば、貴方の言う"神殿"はそのために、至極真っ当に、丁寧に作られている。この儀式場自体は素直なものだ。祭壇には仔羊の生贄まである。ちょっとイスラエルに寄りすぎてる気配はあるが、まぁ資料も少ないからな、仕方あるまい」

 

 

 多少、強い神秘を得る程度の儀式にしてはリスクが大きすぎる。それは俺も、エルメロイ教室の皆も理解していたことだった。

 魔術師というのは徹底的に利己主義な生き物だ。叶うならば、全てを自分一人で得たい。誰かと分け合うことなどしたくない。だから堕とした。他の誰も手が出せないように、手を出したくないように凌辱した。

 真っ当に儀式をしても得られるのは神威の一旦だけ。あるかないかも分からなくなってしまった古代の神々が相手ならば、もはや其れも怪しい。ならば自分一人だけの神にする。そのためにはゼロか、あるいはマイナスの成果すら予想できるリスキーな賭けをして、勝負(コール)までは漕ぎ着けた。

 

 

「ほう、ほうほうほう。それはそれは、ちょっと想像するには私はお育ちが良すぎたかな?」

 

「性格は向いてると思うよ。生き方はさておき」

 

 

 さて、と大量殺人犯に向き直る。

 哀れな魔術師だ。本来なんら、咎められるべきではないことだったはずなのに。たかだか一般人を四人ほど血祭りにしただけ。いや、プロフェッサは許さないか。彼は魔術を解体しても、神秘を貶めることは許さないだろう。それは彼の、いや、現代魔術師の矜持に反する。なにより濃密な神秘を見つめてきた、ロード・エルメロイ Ⅱ世ならば特に。

 

 

「さて、どう落とし前をつけるアオザキ?」

 

「ライネス嬢が既に手を回してくれています。依頼の形をとって、法制科未満の時計塔の窓口へ。まさか魔術師を警察組織(スコットランド・ヤード)に引き渡すことはできませんけど、何某かの処分をした旨を―――」

 

「違う。今この"神殿"をどうするのかと聞いているんだ.よく視ろ」

 

 

 はて。その言葉にぐるりと周りを"観る"。

 真っ当な儀式の結果、高められた神威。一握りとはいえ儀式魔術の結果、それなり以上に濃厚な神秘はいつの間に煮え立つ大釜の湯のように魔力の渦を生み出し始めていた。

 トリムマウの水銀盆は、ああ、グツグツ揺らめいている。これは。

 

 

「あー、これはマズイよ蒼崎君! 由来と意図はさておいて、始めてしまった儀式の出口がないと、これはどうなっちゃうか分かんないぞ!」

 

「慌てている場合かフラット! これは、術者本人に"天罰"を落とすぐらいじゃ済まないかもしれませんよ! 少なくとも俺達はどうにかなってしまうかも!」

 

 

 フラットに続き、スヴィンも焦る。そうだ、儀式とは始まりと終わりがあるもの。一度スタートしてしまった儀式は、途中で中断することはできない。術者へのフィードバックで済めば御の字、しかし今,周到に高められた神威には術者以上の矛先が必要だ。

 

 

「‥‥まぁ自明の理だな。涜神自体はありふれた概念だ。最大の魔術基盤たる聖書が良い例だが、あれは長い歴史の中に涜神を薄めている。また涜神の対象の信仰基盤もまた,聖書の信仰基盤で覆い隠した。このように乱暴なやり方では意図しない結果以外の出力は制御できん」

 

「プロフェッサ、これでは」

 

「いやお前、そもそも最初はどうするつもりだったんだ。百点満点は撤回かつ補習といったところだな」

 

「いつもグレイ任せにしている義兄上のセリフでもないと思うのだが?」

 

「それはいつも悪いと思っているが」

 

「いえ拙は別に」

 

「悠長にしている場合ですか。ああもう、術者も放心状態で,念入りに解体しすぎですよプロフェッサ!」

 

 

 最初はどうするつもりだったかって、そりゃ激昂して術者が真っ当な神威の振るい手になる予定だったのだ。そうすればブッ飛ばすだけで十分なのだから。いくら神威の一欠片を振るおうとしたって、今此処にいる戦力ならば十分に対処できるつもりだったのだ。

 カドモン・ガレルに最早そんな気概は残ってない。さもありなん、学生風情ならともかく時計塔の君主(ロード)が出張ってきたのだから,政治的にもどうしようもない"詰み"であることを理解してしまったのだ。プロフェッサはこともなげに振る舞うけど、普通の魔術師にとって本来君主(ロード)というのはそういう、雲の上の存在。もう何もする気が起きなくたって不思議ではない。いやもっと頑張れよ此処までやって来たんだから。

 放心状態の術者は、神降ろしの状態に似ている。自らを空骸と化して神で満たす。神に委ねる。薄れた神秘の中でのそれは『神のようなナニカ』という漠然としたものが相手になるけれど、しかし彼の意図が、涜神の目論見が、そのナニカに知れる。

 自然こうして神威が荒れ狂うのは、プロフェッサの言う通り、当然のこと。そして神威を支配するのではなく、空骸として委ねてしまった術者に個はなく、他の矛先が必要になることもまた。

 

 

「グレイ、どうだ」

 

「アッド」

 

『ヒヒっ、ちょっと無理。せめて形骸があればなぁ』

 

「そんな」

 

「ツケが回ってきたか義兄上」

 

「‥‥まったく、物事は二手先三手先を読んでおくものだ。そしてそれはレディ、君の得意分野のはずなのだがな」

 

 

 しかし荒れ狂う神威の嵐の中で、それでもプロフェッサは余裕をもって佇んでいた。

 呆れたように新たな葉巻に火をつけ、紫煙を喫む。いつもの課外授業のように、生徒達(オレタチ)に教鞭を振るう。

 

 

「実際、そんなに難しい話じゃない。涜神とは本来意図しない結末であるべきで、そうなると、この儀式場の本質は神話の再現だ。ここがガザに擬えてあって、神殿であり、相手がペリシテ人の神であるならば、最大の魔術基盤の加護を以って"既に周知の結果を導けばいい"。あとはどうだ、分かるかアオザキ?」

 

 

 その長い黒髪の一房を手に取り、ロード・エルメロイⅡ世は言った。

 魔術の本質は再現だ。俺たち魔術師は過去に向かって疾走するが故に、新たな理を追い求めながら失われた遺物の再現という矛盾を求める。故に過去の再現というのは、最も慣れ親しんだ概念で、それは時に容易に導かれる答えだった。

 ならば、ここに神話を問う。

 こうなったら、こうなる。そうなるべきだという信仰を以って未来を過去に変え、因果により確定させる。

 

 

「シュヴァンクマイエル!ライネス! 逃げる準備だ! 全員抱えられるか?!」

 

「補助が欲しい! 推進力と籠をくれ!」

 

「ライネス!」

 

「あまり見せたくはなかったが、仕方ない。トリムマウの一張羅(ドレス)でフォローしよう」

 

 

 チェコの動く石像(ゴーレム)使いの名家、シュヴァンクマイエル家の次期当主が彼の動く石像(スーパーロボ)を構築する。トリムマウが不定形の水銀へと姿を変え、ゴーレムの周りに触手のように広がった。

 俺の意図を読み取ったフラットとプロフェッサがゴーレムの近くへ。グレイとスヴィンは、よろしい、自分達で行けるな。

 

 

「スヴィン! やれ! "髪"だ! ―――Drahen(ムーヴ)

 

 

 ルーン石に祈りを刻む。ラテン語の頭文字をルーンに置き換え、数文字。変則的な数秘紋(ノタリコン)は青子姉譲り。普段は使わないけど、力ある言葉の置き換えは今まさに恩恵に預かる魔術基盤とも相性がいい。

 投げ渡された数個の小石を掴み、スヴィン・グラシュエートは疾駆する。

 

 

Pallida Mors(青ざめた死よ)

 

 

 一歩目で変質、二歩目で完成、三歩目は空を裂くように。

 誰もが内に秘めるとされる獣性。特にソレに着目し、延々と代を重ねて血と獣性を濃く煮詰めたグラシュエート家の最高傑作が吠えた。

 

 

Aequo pulsat pede(全て等しく訪ね往け)

 

 

 その魔術回路から、というよりは、全身の細胞一つ一つから小源(オド)を吹き出し、やがてその魔力の霧は獣臭を纏い、吐息を漏らし、爪牙を閃かせた。

 獣を模す。誰もが知る基本的な魔術の一つだ。

 猫の敏捷性を。犬の嗅覚を。鷲の如き視力を。だけど、普通ソレらは限定的で、しかし此の不世出の器たるスヴィン・グラシュエートは獣になりきり、獣を超える。

 

 

Pauperum tabernas regumque turris(盛貧栄衰の区別なく)!!」

 

 

 鋭く閃いた爪が、過たずカドモン・ガレルの一房編み上げられた黒髪を斬り落とした。ついでとばかり、その両眼と共に。

 絶え間なく地を揺らしていた神威の鼓動が一瞬、止まる。

 

 

「さて、Samiel、ここはラテン語で締めるとしよう。―――Placere mori cum Picitibus(彼よ、ペリシテ人と共に死に給へ)

 

 

 生贄を捧げた祭壇の端、たいした神秘も宿さぬだろう両柱を魔弾の射手(デア・フライシュツ)で叩き折る。

 今まさに無秩序に溢れ出ようとしていた神威の器に穴を空ける。“どうなるか分からなかった"未来を"こうなるものだったのだ"という過去へ書き換える。

 旧約聖書の士師記に曰く、髪を切られ神力を失った勇者サムソンは、ガザにあったペリシテ人たちの神殿へと連れ去られた。そして両眼を抉られ、鎖で戒められ、辱められた。しかしまさに彼らの神、ダゴンを崇める祭典の中。神へ祈り、再び神力を取り戻し、その最期は神殿の柱をへし追ってペリシテ人達と共に果てた。彼が今まで殺したであろうペリシテ人達よりも多くの数と共に。

 いかにメソポタミアの旧神の神威が高まろうと、世界最大の魔術基盤の論理を以て、強引に結末を押し付ける。乃ち之もまた涜神。カドモン・ガレルを生贄にして台無しにするというのは、なんて喜劇だろうか。

 

 

「いかん崩れるぞ、人間やめた奴(パワータイプ)以外は全員掴まれ! Go! シュヴァンクマイエルロボ!!」

 

 

 一張羅(トリムマウ)がフォローしつつ、本人自身の方が速いスヴィン以外をシュヴァンクマイエルのロボが掴み、出口へと突進する。

 もはやカドモン・ガレルは助からない。生贄にしてしまったから、もしかしたら最後まで野望を果たした夢を見ているのだろうか。ぴくりとも動かず膝をついた彼は、まるで祈りを捧げているかのようだった。

 

 

「やれやれ、みんな無事だな?」

 

「おれいまさいこうにテンションしてるぜ」

 

「瞬間的に魔力を使いすぎたシュヴァンクマイエル君が馬鹿になりかかってる他は大丈夫そうだよ!」

 

「‥‥カドモン・ガレルはダメだったか。本当は奴の身柄も確保しておきたかったが、まぁ、仕方あるまい。この事実だけでもエルメロイとして宣言すれば政治的な手札としては十分だ」

 

「おいライネス。まさかその役目を私に振るつもりではないだろうな?」

 

「いやぁ優しい義兄上を持って私は本当に幸せだとも。本当はちゃんと自分で始末をつけるつもりだったが、せっかく義兄上が言い出してくれたのだ、目上の者に華を持たせるのも義妹の勤めというものだろう?」

 

「―――ファック、覚えていろよ貴様。次の宿題は倍の量を用意してやる」

 

 

 フラットが器用に神威の余波を逸らしつつ、ようやくエルメロイ教室は安全な場所まで戻り、一息ついた。

 義兄妹がギャーギャー仲良く喚いている。ライネス嬢の言う通り、本来ならば全員でカドモン・ガレルを袋叩きにしたあとは簀巻きにしてお持ち帰りする予定だった。しかしまぁ、彼一人がいなくなったところで、時計塔の大勢には影響ない。考古学科(アステア)とはちょっと政治的なやりとりが必要だろうけど、それは貴族(ロード)にお任せだ。

 

 

「大丈夫か、スヴィン。助かったよ。あの一言でよく俺の意図を理解してくれた」

 

「いえ、事件の概要が掴めてからは、ちょうど士師記も読み返していましたから。蒼崎先輩のルーンもお見事でした」

 

「君の獣性魔術の美しさに比べれば手品みたいなものさ。とはいえ他の魔術基盤と喧嘩しづらく、誰でも使える技術だ。もしよければ今度空いた時間に教えてあげるよ」

 

「ありがとうございます」

 

 

 砂埃を多少吸い込んだらしく、スヴィンは鼻を擦っていた。シュヴァンクマイエルは元々ゴーレムの燃費がおそろしく悪いのに、短時間にブーストをかけたせいで魔力酔いを起こしている。

 振り返れば、神殿と称された地下の儀式場は完全に崩落。荒れ狂っていた神威は霧散し、悍ましい涜神の物語が紡がれようとしていた気配すら消え去っていた。

 

 

「‥‥よかったですね」

 

「グレイ?」

 

「酷い事件でしたが、阻止できて、よかったですね。‥‥いえ、一つだけ拙には分からないことがありましたが」

 

 

 だいぶ無茶苦茶に扱われたしいアッドが文句たらたらに騒いでいるのを気にもせず、物憂げな様子でグレイが口を開いた。

 

 

「あの神威、あの魔力、拙もたいへん恐ろしかった。儀式が成功してしまえば、あれ以上恐ろしいものが顕現してしまっていたのですよね? 涜神の結果、歪みきってしまったナニカが。そんなものが、あんなに簡単に顕れてしまって良いのでしょうか? 拙が普段、接しているものは、そんなに恐ろしく危ういものなのでしょうか? 生意気かもしれませんが、拙にはそうは思えないのです」

 

 

 元々、魔術師の世界には似つかわしくないほどに感受性の強い娘だった。それが今、怯えて、俺のジャケットの端を掴み震えている。

 彼女の異変を嗅覚で感じ取ったスヴィンが泡を食って近寄ってくるのをフラットが阻止する。気持ちは分かるけど、今は逆効果だぞスヴィン。

 

 

 

「‥‥レディ、君のその疑問は的確だ。正確に言うと、君はその感受性を以て真に理解している。あの儀式は成功する可能性の低いものであった、ということをな」

 

「師匠」

 

「人を呪わば穴二つ、という諺があるそうだが、まさしくその通り。ましてや呪う相手が神だ。なかなか成功するわけはないんだよ」

 

 

 誰かを呪う、というのは二番目に古い魔術(もくてき)だ、と教授(プロフェッサ)は続けた。一番古い魔術(もくてき)は祈りだが、とも。

 他者を呪いたいとき、その代表的な理由は自己の利益である。つまり天秤の均衡を無理やり崩し、他人を貶めて自分を持ち上げるのである。このとき大事なのは、両者が天秤で計られる存在でなければならない、ということだ。簡潔に言えば、本来は呪い呪われるという相対的な関係を作る以上、両者はある程度、対等の関係でなければならない。

 

 

「しかし教授、身分の低いものが権力者を呪う、なんてことも間々あります。両者の関係は必ずしも対等でなくてもいいのでは?」

 

「トリムマウのスカートのはしっこをつまみにワインをのみたい」

 

「誰か馬鹿になったシュヴァンクマイエルを黙らせろ、レディの教育に悪い。‥‥スヴィン、それもまた尤もな疑問だ。しかし何の脈絡もなく相手を呪って利益を得る、ということはありえない」

 

 

 例えば権力者を呪うことで自分の利益を得るならば、それは政治か、あるいは商売か。どちらにしてもお互いに共通して所有の可能性がある権力なり即物的な利益なり。つまり、相手が権力者であっても、少なくともゲームのステージは一緒なのだ。そういう意味で両者は対等だ。

 立場が、というより同じ舞台(ステージ)に立っているかどうか、を考えているわけだ。

 

 

「カドモン・ガレルは神を呪おうとした。神を呪って利益を得ようとした。衰退した旧神とはいえ、一介の魔術師が神威を天秤にかけて勝負ができるか?神と人が近かったギリシャ神話の時代であっても、少なくとも神威を賭け(ベットし)て、神々に勝負(コール)した英雄はいなかったよ」

 

 

 だからカドモン・ガレルがやろうとしたのは、最も原始的な呪いとはまた違うものだ。

 あれはむしろ―――

 

 

「利益を得られるはずもないステージで相手の一方的な破滅を願うような呪いはな、天秤の原理とはかけ離れている。それが齎す結果は犠牲でも生贄でもなく‥‥破滅、と言うんだよ」

 

 

 いわゆる祟り、というやつだな。日本の方が馴染みが深いんじゃあないか? 教授(プロフェッサー)の言葉に俺は頷いた。

 リスクもリターンも何もない祟りは、魔術の歴史上を見れば日本にこそありふれた概念だった。平将門、菅原道真、殺生石と枚挙に暇はない。

 意図してか,意図しないでか、カドモン・ガレルの魔術の本質は祟りへの変質だった。あるいは神を呪い、堕ちた神威と合一して力を振るう結果を齎すだろうことを想像すれば、真実それは祟りだろう。栄光ではなく破滅。それはカドモン・ガレルが望んでいるはずのないことだった。

 齎す結果が破滅なら、そこに術者本人の利益が生じる可能性など皆無なのだ。

 

 

「せめて涜神の結果、吐き出される呪いの矛先があればな。そうすれば天秤の両側に他人を乗せる、なんとも悪辣な漁夫の利を得られただろうに。だが生憎と大概の魔術基盤はそういうやり口に対しては十分な対策がしてあるものだ」

 

 

 破滅という結末を誰かに押し付けることができれば、なんとも魅力的だったろう。しかし魔術の基本が等価交換である以上、それにはロクでもない悪辣な論理(Fack'in Grand Order)が必要になる。

 そんなものを小器用にこなせるなら、そもそもこんな危ない橋を渡る必要もなかったのだ。

 

 

「これが結末だ。身の程を弁えなかった魔術師の末路、しっかり覚えておけ。わりとよくある流れだ。どんなに優秀な魔術師でも陥る可能性のある落とし穴だ。そう言う意味では,お前たちににとっても良い教材だったかもな」

 

 

 誰かのことを思い出しているのだろうか。新たな葉巻に火をつけ、紫煙を燻らせたロード・エルメロイⅡ世はひどく寂しそうな表情で呟いた。

 身の程に余る大望は、魔術師としてはありふれたもので。ならばありふれた結末だったのだろう。生憎と才能に溢れたエルメロイ教室の弟子達は、そういうことには比較的鈍感だった。それは俺も含めて。

 

 

「さぁ、講義は終いだ。こんな埃っぽいところからは速やかに撤収するぞ。ロクでもない後始末もあることだし、な」

 

 

 トリムマウが簀巻きにしたシュヴァンクマイエルを引きずり、俺たちは地下を後にした。

 ロクでもない始まりから、ロクでもない終わりだった。でもありふれた話だった。

 最初に感じていた興奮はとっくに冷めて、落ち着いた教訓だけを得た。そういうまとめ方が,この人は得意だった。

 もしかしたら死ぬほど後味の悪い話になっていたかもしれない。そういう意味では俺たちはやっぱり子どもだったのだろうか。

 こともなげにまとめてみせた、本人曰く、まだまだ小さい背中。しかしその背中は俺たちにとっては随分と大きかった。

 まだ子どもでいていいのかもしれない。けど、勿論その背中を超えなきゃいけない時は来る。

 彼にとっての偉大な背中のように、俺たちにとっては偉大な背中。

 ライネス嬢(エルメロイのお姫様)フラットとスヴィン(教室の双璧)も、まだまだだな、と顔を見合わせて笑った。それが一番の教訓だったのかも、しれない。

 

 

 

 

another act Fin.

 

 

 

 

 

 




最終話の更新の後、厳しいご指摘の数々頂いています。
ただ、私の中では彼は私が操る人形ではなくて、ちゃんと一人のキャラクターなのです。
それは彼に限らず、全てのキャラクター達は私が操ってるわけではなく、私の中で自由に動いている。舞台は私が用意していますが、たしかに生きているんです。
私は読者を騙したり、どんでん返しを楽しんでいるわけではなく、ありのままに動く彼らを書いているだけなのです。
だから彼の物語、まだ少しだけ続きます。そしてそれは決してバッドエンドではない、ご都合主義かもしれないけど、しっかりハッピーエンドなのです。
だから本編の方はあとエピローグを1話、追加して完結とします(小声)
もうしばらくお待ちください。


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