提督と加賀 (913)
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番外編
バレンタインデーの、提督と加賀


季節外れの番外編。色々補完して、本編最新話のちょうど十ヶ月くらい前になります。


二月十四日、早朝。

所謂バレンタインデーの朝早い時間から、朝飯を間宮の食堂でとった提督の色々な意味でブラックな一日は幕を開けた。

 

「ていとーくさん!」

 

「おお、瑞鶴」

 

初手から黒い。

いつもの迷彩の騎士鎧の胸パーツのような胸当て。どちらかと言えば胸当てと言うよりも装甲に近く見える艤装と深い紺色の艤装を纏い、弓を持てば完全な臨戦態勢となる瑞鶴に出会し、提督は軽い感じに挨拶を返す。

 

よう、というような。つまるところは気安い友達に対するような態度であった。

共通話題こと加賀をネタにするあたり、極めて良好な関係を築けていると言える。

 

だから、であろう。

 

「提督さん、これ」

 

「お、チョコ?」

 

「そ。どうせ今年も私だけだと思うから、早めにあげるわ。ちゃんお返し、よろしくね」

 

瑞鶴は少なくとも表面上は割と気楽に、チョコを渡した。

彼女の言った去年のバレンタイン。提督は加賀以外の空母勢からチョコを貰っている。

 

しかし、セットで来た二航戦以外は個人的に渡してきたので、提督も二航戦はセットでいる時に、他の空母勢には個人で居る時に返していた。

 

「お返しか……リクエストは?」

 

「今日中に思いついたら頼むけど、思いつかなかったら提督さんが考えて?」

 

「了解」

 

流石に去年急遽身につけたお菓子のレシピレパートリーが尽きつつある彼は、軽く頭を悩ませつつ首を傾げる。

瑞鶴と廊下で別れたあともその悩みは続き、執務室に通じる曲がり角を曲がろうとして、提督はふと後ろを振り向いた。

 

慌てて姿を隠したような物音と、後方の曲がり角から見えるサイドテール。

 

「加賀さん、何やってんの?」

 

「…………いえ」

 

そう言えば今日は加賀さんが起こしに来なかったな、と。提督はここでようやく気づいた。

日常生活における欠落に、人は時に鈍感になってしまうらしい。

 

「どうかした―――」

 

左手にチョコを持っている提督を鋭利な眼差しで貫き、加賀はプイッと横を向いて俯いた。

どうやら朝っぱらから不機嫌モードらしいと、提督はここで敏感に悟る。

 

彼は正の感情には疎いが、負の感情には鋭敏な感覚を持っていた。

 

「―――どうかしたのですか?」

 

「何でもありません」

 

怒っていようが目付きの怜悧さと鉄面皮っぷりは変わらない。思わず敬語になった提督を、彼女は変な目で一瞥した後に再び視線を逸らす。

 

加賀は、別に怒ってはいなかった。ただ、嫉妬している。

しかしながら、そんな女心の機微がわかれば提督はとっくに誰かと結ばれていたであろうし、加賀に対しての理解は『顔に出ないだけで相当に感情を豊かな激情家』という妥当なものながら、その感情を読み取るまでには至っていない。

 

「加賀さん、怒ってます?」

 

「怒っていません」

 

声音は非常に平静であり、表情も凪いだ海のように穏やかである。

が、内面が嵐になろうが津波が起ころうが、基本的にはそう見える。

つまるところ、視覚と聴覚はまったく宛にならなかった。

 

戦々恐々としながら職務を遂行し始めた提督だが、執務室に入った時点で、加賀の嫉妬は鎮火されている。

 

一回目の好機は逃したが、職務を共に、そして二人きりで遂行できる以上はまだまだ好機はあると判断していた。

そして、一日の殆どを提督と過ごせるということを今更ながら認識し、若干機嫌が良くなってきたのである。

 

(あ、なんか加賀さん、機嫌直ったな)

 

一通り目を通してサインをし、判子を押す。

主に読むことに時間をとられながら、提督は思春期の学徒のようにチラチラと気になる相手の様子を窺っていた。

 

その結果、纏っている雰囲気のようなものが緩和されたことを知ることが出来たのである。

 

「加賀さん」

 

「はい」

 

ちゃんと顔を向けて返事をしてくれたことを喜び、提督はその返事の仕方の内容から機嫌がマシになったことを確信した。

『なんですか』、とかならば機嫌が悪い。『はい』、ならばそこそこ機嫌がいい。そして何より、こちらから目を逸らしていない。

 

「いや、別に何でもない」

 

「そう」

 

基本的にこの娘、機嫌いい時は二文字で返事を返す傾向にあるんだな、と。

提督は今更ながら理解した。本当に今更ではあるが。

 

「提督。あの、休息をとられませんか?」

 

はじまって一時間も経ってないのに休息を勧めてくる加賀に、提督は凄まじい違和感を抱く。

あの、昼休みにすら仕事をこなす加賀さんがどうかしたのか、と。提督は本気で心配になってしまっていた。

 

「ちょっと失礼」

 

基本的には提督のする、己を対象にとった行為には無抵抗な加賀のすべすべした頬を抓み、軽く引っ張る。

赤城かなんかが変装しているかもしれないと、彼は正気で信じていた。

 

「……?」

 

抓まれた頬に手を当てながら軽く首を傾げる加賀にたまらないものを感じながら、提督はボソリと呟く。

 

「変装じゃないのか……」

 

「あの、私は深海棲艦どもに成り代わられてはいないのだけれど」

 

前に本土であった提督殺害事件に関しての風聞を突如として信じたのかと判断した加賀は、基本的に身の潔白の証明がしようがないこの事件に自分が無関係であることを弁明しようとしたのである。

 

それを手で制し、どう信頼を示せばわからないといった体で提督は慌てて事情を説明した。

 

「いや、それに関しては心配してない。だけどほら、こんな短時間で休息っていうのは、何かあったのかと思って」

 

「……いえ、その、別に」

 

「いや、ならいいんだけどね」

 

語調と表情以外は明らかに挙動不審な点には目を瞑り、提督は次なる書類に取り掛かる。

彼には、加賀が無駄な器用さを発揮し、彼が変な体勢を取らない限りは見えないように、自分で作ったチョコレートを膝に置いていることなど知る由もなかった。

 

(このままでは、また去年の二の舞いになる気がするわね……)

 

去年の今日。

ほとんど公私共にセットで行動している二航戦以外の空母勢がチョコレートを手製で各個に用意し、各自がバラバラに渡して行ったのは前述した通りであるが、加賀も実は作っていたのである。

 

どう渡せばいいか、ということをひたすら悩み、何も言わずに仕事に打ち込んだ結果、結局のところ渡せずじまいに終わっていた。

 

故に今回は朝早く渡す様にアクションをとり、次いで先程も休息を提案して、『疲れているようだから』という理由をつけて無理なく渡そうとした。が、ダメ。

 

「具合が悪いんなら、非番で暇してる誰かと交代させようか?」

 

携帯端末で外出している艦娘と部屋で暇してる艦娘を適当にリストアップしながら、提督は気を使っているつもりで提案する。

だが、完璧に職務に私情を挟んでしまっているという自覚のある真面目な人間に対し、純粋な心配ほど突き刺さる物もない。

 

「結構です」

 

「あ、そうですか……」

 

膠も無く断られたことに対して特に感想を述べることなく、軽く怯んだような感じを僅かに滲ませて提督は退いた。

 

そう言えば、去年もこの頃は挙動不審で、挙動不審が終わった後には何故か落ち込んでいたな、と。

 

あと少し進めば理由やら何やらに辿り着けそうなところで立ち止まり、事実を額面通りに受け取るにとどめている提督の気楽な思考に対し、加賀は私人としての自己嫌悪と公人としての自己嫌悪に駆られていた。

 

私人としては、ヘタレ。

公人としては、落第点。

 

赤城に『私人としての実行力と決断力は、公人としての実行力と決断力の百分の一にも満たない』と断言される程、加賀はヘタレている。

 

嫌っている者達に対してならともかく、好いている相手に対して生の感情を表に出すということが怖く、表に出した結果拒絶されるのが怖い。

 

自分からは頼むことなどできないし、迫ることもできないが、頼まれれば断れないし、迫られれば受け入れてしまうようなアンバランスさを不本意ながら持っていた。

 

(…………どうしましょう)

 

前に提督を嫌っていた頃の方が、寧ろ感情を表に出せている。

鉄面皮なのは変わらないが、語気と言葉のチョイスの方面において、それは確実だった。

 

一人途方に暮れている加賀は、口を開けばそこから魂が出てしまいそうな程にぽけーっとして見えたらしい。

提督の加賀に対する心配は積もるばかりであったが、加賀が結構と言ったからには休養を受け入れるような性格でもないことを知っていた彼は、とりあえず端末を開いて赤城にメールで以って問う。

 

『加賀さんの様子がおかしいのだけど、心当たりはありませんか?』

 

返ってくるのは、速かった。

 

『解決したいのなら、仕事をすることです』

 

加賀の内面と提督の習性を読み切った赤城の的確なアドバイスである。

 

提督が真面目に仕事をすれば、確実に疲労する。

疲労すれば、それを見た加賀は『疲労回復にどうぞ』という格好の口実を見つけてチョコを渡すことができる。

 

結果、解決する。

 

その適切にして周到なアドバイスの真意を加賀からチョコをもらえるという考えを根底から持っていない提督がわかるはずもなく、彼は一つ首を傾げて仕事に戻った。

 

訳がわからないことにもとりあえず従ってみる素直さと言うのは、彼の人格的な美徳であろう。流されやすい、主体性に欠ける、とも言えるが。

 

(ともかく、他人に意見を求めた以上は従おう)

 

提督はその優秀な参謀を活かせる程度の持ち前の素直さを発揮し、仕事にコツコツと打ち込みはじめた。

加賀も三十分が経過する頃には機能停止から機能鈍化程度にまで持ち直している。

 

結果として、計朝八時から五時間の労働によって、書類の第一陣は壊滅した。

次の第二陣が来るかもしれないのは、遠征艦隊が帰還する夜の七時。ヒトキュウマルマルになってからなので、それまでには六時間のモラトリアムがある。

 

「あー、疲れた」

 

ここまでが、赤城の計算通りだった。そしてこれからが、加賀の計画通りだった。

 

「提督」

 

「はい?」

 

割りと食い気味に、加賀は珍しく焦りと緊張という感情を語気に籠めて提督に対して声を紡いだ。

その後ろ手には既に、器用に膝に乗せていたチョコが握られている。

 

一昨年は、チョコを作るほどの食生活的な余裕と時間的な余裕がなかった。

去年は好機を見逃し続けて結局渡せなかった。

 

去年のホワイトデーにおける提督の行動を影から見た時に募った今年こそ、という気持ちは、加賀にこの千載一遇の好機を逃させなかったのである。

 

「疲れている時は、甘い物がいいと聴きました」

 

「あぁ、デスノートでもそう言ってたしね」

 

極めてレトロな漫画を読み漁るのが趣味な提督らしい相槌に頷きつつ、加賀は勇気を振り絞ってチョコをぐいっと突き出した。

 

「提督、甘いものがお好きでしたら、これを」

 

「…………加賀さん、これバレンタインチョコ、だったりする?」

 

一瞬、情けなく喜びに歪みそうになった顔を全霊を以って律し、加賀はせめてもの強がりと、恥ずかしさを取り隠すためにぽつりとこぼした。

 

「いえ、意味はありません」

 

 



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ホワイトデーの、提督と加賀

ホワイトデーである。

提督は作ったクッキーを引き出しの中から取り出し、一つ溜息を付いた。

 

端末をいじり、加賀の項目を呼び出す。

小さな口がキュッと一文字に結ばれ、琥珀の瞳に感情というものは浮かんでいない。

『何ですか?』とでも言いたげなその瞳は、加賀が提督に不満と怒りを叩き付けていた頃に撮った物だった。

 

異常な美しさ、と言うのか。人間離れした美貌が、端末に浮かんでいる。

 

しみじみと、美人だと思う。そして、自分の顔を見て嫌になる。その繰り返しで毎日が進む。

 

(来たな)

 

コツ、コツ、コツ、と。

加賀の下駄が床を鳴らす音が規則正しく響き、提督は端末の電源を切って身を横たえる。

美人に起こしてもらうというのは、嬉しい。それが、恐らくこの時期を逃しては一生味わえないことならば尚更だった。

 

「提督、朝です」

 

提督は寝ている、振りをしている。

出会った時からしたら驚きの面倒見の良さに、彼は今更ながら驚いていた。

 

少しずつ変わっていったから何の違和感も抱けなかったが、今思い出してみると落差がひどい。

 

「……提督、まだ寝たいの?」

 

二、三回。加賀は優しく提督の身体を揺らす。

出会った頃ならベットごと蹴り飛ばして文字通り叩き起こしているであろうことを考え、提督は思った。

 

案外、加賀はデレてきているのかもしれないと。

 

「毎日、頑張っているものね」

 

少し口の端が弛み、加賀は寝ている振りをしている提督の頭をゆっくりと撫でる。

聴覚と触覚で感じている現在の加賀と、ベットを蹴り飛ばして『起きなさい』と言っている過去の加賀との差異に若干の怯みすらも感じつつ、提督は細く柔らかい指が自分の頭を撫でるのを感じていた。

 

これだけでも、寝ている振りをして良かったと思える。加賀に撫でられることは、それほどの価値を持っていた。

 

そろそろ起きるかな、と。加賀に色々してもらったことに対して、やる気が満ち溢れた提督が不自然にならない程度に早急に身体を起こそうとすると、加賀の視線が一点で止まった。

 

「また端末を使いっ放しで寝て……」

 

ふわりと香るいい匂いが覆い被さり、ベットの壁側に置いておいた端末が加賀の手に収まる。

仕方ないとばかりに電源を切ろうとして、加賀はピタリと動きを止めた。

 

「…………写真、変更できるのかしら」

 

無愛想であることは最早諦めの境地にまで達しているが、提督にいつも見られる写真に表れている無愛想さは尋常ではない。

眼が、非好意的であることを如実に語っていた。

 

「……やっぱり、笑える女の方が好きでしょうし」

 

部屋に備え付けられた鏡の前に写った自分の姿を見て、加賀は思わず溜息をつく。

無愛想、無表情、鉄面皮。表情豊かで可愛い女性を、つまるところ駆逐艦の大半や赤城のような女性を目指している加賀からすれば、クールビューティーなどはなんの価値も無いものにしか見えなかった。

 

「にっ、こり?」

 

掛け声とは正反対の冷笑と言うべき鏡に写った己の顔を見てたまらず目を泳がせ、加賀は再び提督のベットの側に膝立ちをする。

 

無表情な自分が、人一倍表情豊かで感情豊かな提督に好かれたいと思うのは、無謀とかそう言うレベルではないように、彼女には思われた。

だが、提督が結婚するまでは、少しでも一緒に居たいのである。

 

「提督、起きて」

 

「……おはよ」

 

「おはようございます」

 

顔のすぐ上を加賀の豊かな胸部装甲が通過するという非常に悩ましい事態に、文字通り直面した提督は、少し視線を逸らしながらむくりと上体を起こす。

 

彼の頭の中を占めるのは、あの時に起きたように見せかければラッキースケべに見せかけたセクハラができたのではないかという後悔と、やらなくて良かったという安堵の二つであった。

 

「……あの、提督」

 

「は、はい」

 

ずいっ、と身を乗り出してきた加賀の動きに、先ほどのラッキースケべチャンスのことを思い出した提督は、どもる。

もう、本当に彼は美人に耐性があるようで全く無かった。

 

「この端末の、私の写真。どう思われますか?」

 

「いつも通りの綺麗な加賀さんだな、と思います」

 

完全に緊張している提督の、半ば好意を暴露しているような一言に対して、加賀は心中で赤面しつつ、心を嬉しさで満たしている。

外見は加賀と言う艦娘に共通するところが多いと言っても、彼女はかなり気を使っていた。

 

容姿を褒められるのは、と言うより褒められるのは加賀のモチベーションを大幅に上げると言えるであろう。

 

つまり、割りと単純で直情的なのである。

 

そして、その単純で直情的な心がある違和感に辿り着いた時、彼女には珍しく思ったことがそのまま言葉に出ていた。

 

「……い、いつも通り?」

 

「はい、いつも通り」

 

「これと、今の私が、同じ?」

 

「え、はい」

 

自分から見れば、自分は割りと柔らかさというものが増しているような気がしなくもない。

だが、傍から見ると大して変わっていないらしい。このことは加賀にとってショックだった。

 

「…………そう」

 

明らかに、テンションが一段階降下している。

それを見抜けないほどには無能ではない提督は、慌てた。フォロー仕方は皆目見当がつかないが、とにかく考えなければただでさえ低い加賀の好感度がマイナスに行く。

 

もう正式に恋人になるとか、そういう奇跡には一切幻想を抱いていないとはいえ、加賀のことが好きな以上は嫌われたくない。

 

「加賀さんは、そう。ほら、いつも綺麗だよ。最近は少し柔らかみが増したけど、それもそれで新鮮味があってかなり良いし、うん。

つまりその、そういうことです。はい」

 

後半は支離滅裂になりつつ、提督は何とかフォローを及第点にまで持ち込むことができていた。

本人は知らないことであるが、『柔らかみ』と言うのが加賀にとっては気分上昇の一大ポイントだったのである。

 

「……そう」

 

「そうなのです。はい」

 

「なら、良かったわ」

 

同じ『そう』でも、アクセントと声色と雰囲気が微妙に違う。

この微妙な違いを敏感に察知してフォローと失言を見抜くチキンレースを、提督は敗け、敗け、勝ち、と言うようなリズムで繰り返していた。

 

結果として好感度は上がり続けているわけだし、放っておいても好感度はプラスに傾いていくのだから問題は無いのだが、そんなことを提督が知る訳もない。

 

他人の好意を見抜くということの、難しさ。この二人は、その思春期の男女のような難題に一年近く足踏みを強いられている。

 

互いに恋愛に対して臆病で、現状維持で満足してしまうきらいがあるとはいえ、これは些かかかり過ぎというものであった。

 

「加賀さん、そう言えば今日はホワイトデーだね」

 

「はい」

 

提督が根巻きから着替えるまで部屋の外で待機していた加賀は、若干声を上擦らせながらこの行事確認の如き問いに答えた。

なるべく意識をしないで振る舞おうとしていたものの、特に意味はないなどと言ってしまった以上、返してもらえるかどうかは極めて怪しい。

 

加賀には、割りと公私混同を起こさない提督が自身を秘書艦に据えているのは事務能力の高さの為だとわかっていたし、第一機動部隊の旗艦に据えているのは指揮能力の高さと航空母艦としての性能の高さ故だとわかっている。

 

戦力として、艦娘として必要とされていることに幸せは感じつつも、女として側に居ろと命令されないことに一抹の寂しさがあった。

 

命令されたら、何の厭もなくそれに従う。どんなことでも、する。

流石に為にならないことは諌めるが、それが聴き入れられなくとも従う。

反抗的な時期とは天と地ほどの差がある、犬のような艦娘。

 

提督が知ったことではないが、前の左を向けと頼めば右を向いてドヤ顔するような加賀とは違い、現在の加賀は後ろからトコトコと付いてくるような忠犬タイプとなっていた。

 

「バレンタインデーに、俺は君にチョコを貰った」

 

「……その、特に意味はありません。ただ、提督が疲れていたようで、たまたまチョコがあったので渡してみただけよ」

 

「そりゃあ、わかってる。俺が加賀さんからそういう意味でチョコを貰うことはないってことはね」

 

心の中は表面上に現れた淡々とした状況認識を行っているように凪いではいないが、自分の顔面偏差値と能力の総合から算出した身の程をよくよく知っている提督は、半ば諦めの境地にまで達している恋慕を抑えて加賀の横顔をチラリと眺める。

 

一見しても二度見しても、彼女は全く平静に見えた。

 

実際。

彼女は激しく動揺していた。提督は自分から好意を伝えられても、困る。困るし、嫌がる。だから、貰うことはない、と言ったのではないかと推測してしまったのだ。

 

(……手は、絶対に繋げないのかしら)

 

最初は見ていられるだけでも幸せだった。それが見ていられることが当然になって、側に居ることができることでしか幸せを感じられなくなり、今は手を繋いでみたいという大それた想いを抱いている。

 

本人的には、欲が深過ぎると思ってしまう所以だった。

 

(でも、抱きしめられたことはあるのだし、何かの事故があれば……)

 

崖から落ちたら、そうなるかもしれない。

でも、適当な崖がない。それに提督ごと落ちるということも、有り得る。

 

取り敢えず手を繋いでもらうという願望を胸の奥底に仕舞いつつ、加賀はやっと平静を取り戻した。

 

「だから、はい」

 

故に、だろう。

彼女が平静を取り戻した瞬間に差し出されたシンプルなデザインの袋を見て、彼女の意識が再び大揺れを起こしてしまったのは。

 

「これは?」

 

僅かに上ずりそうになった声を無理矢理矯正し、加賀は軽く下を向きながらその袋から視線を外す。

直視すると嬉しさのあまり跳び上がってしまいそうで、結果としてそうするしかない、と彼女は瞬時に判断していた。

 

「お返し。特に意味はないにせよ、一応バレンタインデーに貰ったわけだからね」

 

「……お返し、ですか。そうですか」

 

嬉しい。嬉しい。嬉しい。

でも、なぜあの時あんなことを照れ隠しで言ったのか、あの時の自分を小一時間問い詰めたい。

 

そんな正負相反する思いと共に、加賀はそーっと手を伸ばす。

手を伸ばした先にある『お返し』の袋を指で摘み、素早く提督の手から奪った。

 

『いらないならいいよ』とか言われて貰えなかったら、三日三晩枕を涙で濡らすことになる。

そう判断した加賀の、珍しい速攻であった。

 

「いただいておきます」

 

くるっ、と後ろを向いて、加賀は素っ気無くそう返す。

その袋を胸に抱きしめている姿からすれば不自然な程、それは素っ気無さが際立つ発音だった。

 

(ありがとう、ございます)

 

心の中で漏らした一言に感謝と恋慕の情をこめ、加賀は僅かに顔を綻ばせた。



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提督と加賀の夏休み

「加賀さーん!」

 

ムッハー、と言う顔そのままに、提督は凄まじい速度で突撃した。

加賀の顔は、いつものジト目半眼に小さな口が真一文字に結ばれている。

 

こてんと首を傾げ、加賀は提督の突撃に応えた。

 

「何かしら」

 

「夏ですよ!」

 

「ええ。暑いわね」

 

「ですよね!」

 

「はい。夏はあまり、好きではありません」

 

変にテンションが高い提督に圧倒されながら、加賀はウザがることもなく丁重に返す。

 

彼女は、夏はあまり好きではなかった。

自分の妹や僚友である赤城の姉を蹴り落として自分が命を永らえた原因となったあの大地震があったのも、夏。

 

特に思い出すわけではないが、何やら己の運命を感じずに要られない。

 

他人の生命を喰って、浅ましく貪って、生きる女、と言う。

 

「加賀さん?」

 

胸当てのすぐ上、道着の襟元をギュッと掴む。

一事が万事、彼女は不吉な予感を覚えることが多い。

 

このままでは自分は提督の命を貪って、また生き延びるのではないか。

 

加賀は、憂いを瞳に宿して視線を逸らした。

好きなひとの側に居るからかも、知れないが、兎に角マイナス思考が過ぎる。

 

「……ごめんなさいね。何かしら」

 

そう自戒して視線を上げた先には提督の顔。

向かい傷と呼ばれる頬を上から下に斜めに延びる傷が、提督の人の良さそうな顔に一種の凄みを植え付けていた。

 

「だから、海。行かない?」

 

「海?」

 

言葉の端に怪訝さを載せて、加賀は提督の提案に疑問を呈す。

特に何を問うたわけでもないが、その言葉の端には歓迎の念は浮かんでいなかった。

 

「うん、海水浴。みんなで行きたいなーって」

 

「そう」

 

気乗りのしない返事だな、と提督は思っている。

だが、自分が読み取る加賀の感情などは所謂誤報、大本営発表なことが多い。

 

これでも気乗りしてくれていると信じ、提督は最後の勇気を振り絞って加賀に声を掛けた。

 

「行かない?」

 

「いってらっしゃい」

 

提督の、心は折れた。

 

「では、お仕事が終わりましたので私はこれで」

 

「う、うん……」

 

告白してもいないのに失恋したような気分を味わった提督は、一人静に執務室でぐでんと座り込む。

 

あまり感じなかった暑さが、今は身を焼くように感じられていた。

 

一方、加賀。

 

「あ、加賀さん」

 

「ごめんなさい」

 

サラッと赤城を流し、加賀は共同部屋の自分のスペースに突撃する。

すぐさま道着を脱ぎ、袴を脱ぐ。ニーソックスを脱いで、サラシを取る。

 

「……慢心」

 

胸の間に溜まっていた汗を拭き取り、加賀は下着だけになった自分の身体を見て呟いた。

 

肥っている。ついついお魚の美味しい季節になったからということで夕食のお刺身をパクついて、このザマだった。

 

太腿が、柔らかい。下腹も流石に摘める程ではないにしろ、柔らかい。

胸も無駄に大きい。

何せ、もうすぐ三桁と言う不名誉に上ってしまいそうなのだ。

 

「…………絶対、提督には見せたく無いもの」

 

「何をです?」

 

とっさに道着を胸の前で盾とし、加賀は鏡に背中を付ける。

ドキドキと、胸が驚きで激しく脈動していた。

 

「あ、赤城さん」

 

「何を見せたくないんですか?」

 

「私の、その」

 

身体です。

そう言おうとして、加賀は黙る。

 

駄肉と言うべきだろう。そういう無駄な肉が、提督のことを好きになってから少しずつ付き始めていた。

 

トレーニングは、慢心していない。食事も多分、慢心していない。何故かそうなっているという、疑問がある。

 

現に、同じ量を食べて同じ量の運動をしている赤城の引き締まったプロポーションは一年前と変わっていなかった。

 

「身体ですか?」

 

「……はい」

 

だらしない身体だと、自分でも思っている。何せ胸が重さと大きさに負け始めているのだ。

 

九十と少しの時はまだまだ負けていなかったが、最近重さと大きさが逆襲。敗色が濃厚になりつつある。

 

「だらしない身体は、見せたくはありません」

 

「付き合えば、必ず見せてくれと言ってきますよ。提督、女の子の胸とお尻が大好きですから」

 

「ぇ、ぅ」

 

一番は脚ですが、と言いかけてやめる。

既に処理落ちしかけている加賀に、更なる情報はキツすぎるように思えたのだ。

 

「……嫌われ、ないでしょうか」

 

「勝手に見られて勝手に嫌われるなら、それまでの男の人ですよ」

 

「赤城さん。私が合わせてもらうのではないの。私が合わせるのよ」

 

加賀が、提督を好きなのだ。逆ではない。

その辺りを信じて疑っていない加賀の鋭い指摘を受けて、赤城は思わず肩を竦める。

 

何と言うか、全く自分に自信がないのだろう。

その顔には、泣きそうなほどの焦りが滲み出ていた。

 

「……どうにか、小さく見えないかしら」

 

「さあ」

 

「逆はあるのに、不公平よ」

 

いそいそと服を着込み、加賀は明らかに沈んだ様子で膝を抱える。

いつもサラシで誤魔化している身としては、水着を着て好きな人の前に立つというのは相当に難易度の高いことだった。

 

ただ、行きたいという気持ちはある。

海に行きたいと言うよりもひとりぼっちになりたくない、或いは提督にかまって欲しいというような気持ちが強い。

 

「まあ、みなさん行かれるようですからね」

 

「赤城さんも?」

 

「ええ」

 

「いつ誘われたの?」

 

「加賀さんの前だと思いますよ」

 

ヘタれていた、と言うよりヘタレ以外の何者でもなかった目に嫉妬の火種が灯り、思わず赤城は苦笑した。

 

相変わらず、全く理性的ではない。殆ど反射で感情が目に出てしまっている。

救いは表情豊かとは言い切れない所なのだろうが。

 

「……ごめんなさい」

 

「気にしていませんよ」

 

反射で嫉妬の眼差しを向けてしまったことに対するものなのか、加賀は十数秒の沈黙の後に謝った。

 

無口無表情で、気が強さを象徴するような猫のようなツリ目。

だが、押しに弱く、ヘタレで、寂しがり屋な、すぐに嫉妬する素直な構ってちゃん。あと、恥ずかしがり屋。

 

そういう風に―――つまるところは殆ど正確に、赤城は加賀を捉えていた。

世間一般では『知っているならば怒りも沸かない』とは言い切れないが、少なくとも赤城には怒りも沸かない。

 

「…………でも、そうね」

 

海水浴に行けないとはいえ、側に居られないのはたった一日。何だかんだで未だに自分が秘書艦を務めることの方が多いのだ。

 

いつも側に居ることができる。

 

幸せ、と言うべきだった。

 

だが、である。

 

「…………海水浴、行きたいわ」

 

「でしょうね」

 

人の欲望は再現が無い。海水浴と言う魅力的な行事はどうでもいいが、加賀は提督の側に居たかった。

 

「加賀さん、泳げましたっけ」

 

「いえ」

 

艦娘は基本的に、カナヅチが多い。赤城とか木曾とか如何にも武人然とした泳げそうな連中も泳げない。

 

加賀もその例外ではなかった。

 

「提督は泳げるそうです」

 

「はい」

 

「教えてもらうにかこつけて、ひっつくチャンスですよ?」

 

ダランとだらしなくベッドでうつ伏せに寝ていた加賀の背筋が、電流が流れたがごとくビクリと跳ねる。

 

「……ひっつく?」

 

「はい。もしかしたら溺れれば人工呼吸にかこつけてキスも、できるかもしれません」

 

「海水浴までに、絶対に体重を落とします」

 

全く太っていない身体を憎々しげに見つめ、加賀はぐっと拳を握った。

 

海水浴まで後、一週間の時点でのことである。



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提督と加賀の夏休み

体重が減らない。

加賀は一週間の間節制に精を出し、運動もいつもの倍はした。

 

だが、キロが動かない。動いたのはグラムだけだった。

 

「……故障しているのね」

 

加賀はそう断定して、持ち上げた体重計を優しく元の位置に戻す。

とても壊れたものに対する扱いとは思えないほど、その手際は丁寧で、優しかった。

 

女は脂肪が付きやすい。

そのことを象徴するように挑発的な育った胸を憎々しげに抑え、加賀は俯いて体重計を見る。

下が見えない、と言うほどではないが、見難い。

 

表示された重さは、変わっていなかった。

 

水着である青のビキニとパレオを掴み、加賀は体重計を放置してベットに突っ込む。

相変わらず、自分は太っている。その間違った自覚が、彼女を責めていた。

 

「加賀さん、まだ諦めてなかったんですか?」

 

「当たり前です」

 

ちらりと放置された体重計を見て全てを察した赤城は、服代わりの布団に包まった加賀を見てため息をつく。

少しでも体重が減ったと言う実感が欲しくて、彼女は一枚でも多く脱ごうとしたのだろう。結果としてあまり変わっていなかったのだが。

 

「まあ加賀さんの勝手ですけど、行きますよ」

 

「……はい」

 

女性の自分から見ても、惚れ惚れしてしまう程の美体だった。

 

尻は安産型で程好く大きく、形も崩れておらず桃のように丸い。

胸はツン、と突き出すようにせり出ており、手で掴むと指と指の間から柔らかなそれがはみ出てくるほどに大きい。

 

何故ここまでの恵まれた身体に対してグチグチと文句を言っているのか、赤城には皆目見当がつかなかった。

 

「赤城さん、お待たせしました」

 

いつものサイドポニーに、尾の無い方に傾かせて被った麦わら帽。

白いワンピースが夏の暑さを多少なりとも少なくしているような、そんな気すらする。

 

靴はいつもの通り、瑞鶴より僅かに低い小柄な身長を誤魔化す為の厚底仕様。

 

(どうせ海では誤魔化せないでしょうに)

 

浜では誤魔化しも効くかもしれないが、海では裸足。そのままの身長で挑まざるを得ない。

 

加賀の割りかし無駄な努力を横目で見て、赤城はいつものいじらしい小動物を見る目で一瞥した。

 

何というか、報われて欲しいものである。

無愛想で不器用だが、そう思わせる愛らしさが加賀にはあった。

 

(ツリ目なのに、どこか寂しそうなんですよね)

 

気の強さを示す証と言うべき瞳が、逆に弱さとか脆さとかいうものを露呈させている。

 

一度恋してしまった以上、それを拠り所にして、その一つの繋がりに依存し切ってしまうような儚さがあった。

 

加賀は、よく時計を見る。それは時間を気にする几帳面な性格だということもあるが、提督から貰ったものだから、ということもあるだろう。

 

いつも胸に忍ばせているそれに深海棲艦からの攻撃が当たりそうになると、狂ったように攻撃性能が増す様子を、赤城は何回も見たことがあった。

 

あの時計は、初めての戦いらしい戦いと言えるレイテの戦いで、姫級複数を雍した敵艦隊を殲滅した時に、加賀が最大殊勲―――所謂MVPをとった為に、その記念として提督から贈られたもののはずである。

 

一方的に関係を硬直化していた一時期は使いもせずに石ころのように適当にほっぽり出していただけだったが、加賀が提督に惚れると扱いは一変。宝石でも扱うかのように大切にされ、肌見離さず装備していた。

 

彼女にとっては必要とされた時に成果を上げたという誇りであり、存在を許されたということが物質として表れた物なのだろう。

 

加賀は、自分が提督に取って役立たずになれば自害しかねない危うさがある。

それを自覚しているかどうかは定かではないが、自分の存在を肯定してくれているも同然なのではないか。

 

「赤城さん、時間が押しています」

 

「わかってますよ、加賀さん」

 

懐中時計を懐に仕舞い、加賀は水着を入れたバッグを肩にかけて赤城を急かす。

 

加賀のメンタルを常に気にし、時に病ませ、時にケアしてきた赤城である。一動作一動作に不安点が透けるように見えた。

 

(いつになれば結ばれるんでしょう)

 

赤城は応援している。だからこそ、加賀と提督を時に近づけ、時に遠ざけている。

 

このまま結ばれても、加賀は提督に愛を求めて依存した末に盲信することになると、赤城にはわかっていた。

 

基本的に安定した性格をした提督も加賀と言う存在に恋慕を募らせる程に募らせ、自分のものにならなくとも良いと思うほどに拗れらせてしまっている。

 

拗れに拗れた恋慕の対象が急に己の掌に収まり、どうするのか。

恐らくは初めて味わう恋の成就に酔い、加賀と言う存在がたっぷりと満たしてくれる肉欲と愛欲の虜になるだろう。

 

加賀は爛れたそれを糺すどころか悦んで受け入れ、撫で、甘やかし、自ら求めて、溶かす。

 

昼夜問わず求められ、求め、精も根も尽き果てるまで一つの布団で愛し合うと思われた。

 

その過程で加賀は自分という存在を提督という存在に溶け込ませ、存在を維持していくには不可欠な歯車になろうとするに決まっている。

 

となれば、行き着く先は共依存だ。お互いがお互いを求め、生きていく為にではなく存在を構成する為に必要とし、故に拒まず、どこまでも墜ちて殻を作る。

 

殻の中を二人の世界にして、その中を愛で満たす。世俗の欲がないだけに、お互いがお互いの存在を確認し、触れ合えるだけで満足できてしまうからどうしようもない。

 

「加賀さん。自分が好かれるのではなく、自分を好いてもらうようにした方がいいですよ」

 

「……それは、何が違うのかしら」

 

「自分を変えるだけではなく、相手の価値観をこそ、自分を見てもらえるように変えていく、ということです」

 

加賀の愛は、行き過ぎていた。献身と言えば献身だが、自分というものに拘りがない。

 

自分を好きになって欲しいのではなく、何がどうあれ愛して欲しいのである。

こうしてくれた方が嬉しいな、と言えば、次の日からそれまでの人格を叩き壊して矯正していくようなところがあった。

 

そこらへんを、先ず直さなければならない。

愛と言うのは、折り合いである。互いが互いに理想を求め、折衷を付けて生きていく。

 

加賀の場合は折衷を付ける気がまるでない。そのままの提督が好きであり、求められるままに変わろうとする。

 

一種の、偶像崇拝に近いというのか。理想と提督がイコールで結ばれている為、己が提督の理想像であろうとするのだ。

 

「……何故、提督が変わらなければならないの?」

 

「折衷を付けるのが、愛ですよ。提督が他の娘と浮気したら、嫌でしょう?」

 

「それは私の努力不足よ。勿論、嫌だけれど」

 

嫌悪が内に篭もるタイプな加賀は、些細なことならば表に出すが決定的なところでは表に出さない。

溜め込んで溜め込んで溜め込んで、我慢の末に誰にもいないところで自爆しかねないところがあると、赤城は見ていた。

 

その自爆は他者に迷惑をかけない形になるだろうが、提督が望むものではないだろう。

 

「……そうですかぁ」

 

「はい。私も提督の周りに魅力的な女性が多いことは知っていますし感じてもいます」

 

的はずれなことを言いつつ、加賀は用意された車に乗り込む。

深海棲艦の湧き出る拠点を潰した鎮守府近海は、一定ラインまで一般解放されていた。

 

沿岸部では海水浴、もっと深いところでは養殖や漁。

鎮守府によって保障されている海域を飛び出して深海棲艦に沈められる漁船やらも居るが、概ね鎮守府近海に於いては平穏は保たれている。

 

「我ながら馬鹿をしたと言う自覚がある」

 

夕立ら白露型駆逐艦たちに顔を残して身体を砂に埋められながら、提督はボソリとこぼした。

 

「お待たせしました―――って、何で提督さんは憂鬱っぽい?」

 

セルフ生首になった―――と言うか、した夕立が持ってきたのは、ジュース。勿論提督がお小遣いを渡して買ってくるように促したものである。

 

「ここ来て、楽しい?」

 

海イコール戦場と言う認識は、そう言えば、と言うほど古い記憶になったわけではない。

むしろ常に更新され、鮮烈さで塗り替えられていくものだと言えた。

 

「提督さんは、楽しくないっぽい?」

 

「俺は、楽しいよ」

 

「じゃあ、夕立も楽しいっぽい!」

 

時雨も居るしな、と。提督は心の中で呟く。

教導院と言う指揮艦養成施設を主席で、しかも飛び級して卒業した時雨は、自ら志願して比島鎮守府に配属された。

 

加賀が大本営からの間諜かもしれませんということで夕立と時雨には監視をつけているが、提督はその点にはあまり賛成できていない。

何というか、幼い少女を疑いたくないのである。

 

更に理屈で言えば、間諜にするならばもっとまともな経歴にする筈だし、大量に新兵を送り込んで誰か間諜かをわかりにくくするはずだった。

夕立も時雨も、一般的な生徒とは言えない。逆にそれこそ、と言うのが加賀の主張だが、自分を殺して何になるのか。

 

「夕立、提督にそんなことをしていいのかい?」

 

「別に提督さんは怒らないっぽい。時雨もこっちきて一緒に遊べばわかるっぽい!」

 

練度が既に四十代にまで達している夕立の成長著しさに驚き、且つ感心していた時雨は、社交性が高い。

 

ただ、今夏に配属されたばかりに、元々友達だった夕立としか本当に仲良くはやれていないのが実情。

その辺りを察したのであろう。夕立は目敏く姉妹たちの輪の中に組み込もうとしていた。

 

「いい娘だな、夕立」

 

「ぽい?」

 

気を遣っているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

年々汚くなりつつある自分の思考に辟易し、提督はムクリと状態を起こす。

 

「仲良くやれよ、夕立」

 

「う、うん。そうするっぽい」

 

かなり強固に作ったはずの土のドームを一撃でぶっ壊されたからか、若干驚いたような表情をとる夕立を後に、提督は砂まみれになった身体を軽く払いながら砂浜を歩く。

 

視線の先に、金髪碧眼の美女が一人。

 

如何にも感光しそうな白い肌。金と白で構成された身体によく映える黒ビキニ。

 

らしいグラマラスボディの持ち主は、せっせと穴を掘っていた。

 

「何やってんの、お前は」

 

そう声を掛ければ、華奢な肩がビクリと跳ねる。

咄嗟に、という感じに『Achtung』と言い放って穴に潜り、身を翻してからそっとこちらを窺ってくるその姿には、一種の稚さが垣間見えた。

 

「なんだ、Admiralなのね」

 

「何だと思った?」

 

「わかるでしょ?」

 

敵襲だ、と。

戦場ではそれを意味するドイツ語を短く叫んでいたから、敵だとでも思ったのだろう。

 

「あぁ、勿論冗談だけど」

 

「なら良かった」

 

かねがね思っていた己の場所選択のミス・チョイスを暗に指摘されたような気持ちになって顔を暗くした提督にフォローを入れ、ビスマルクは足で砂を掴んで穴の底から帰還した。

 

「……で、何やってんの」

 

「見てのとおり、穴を掘っているの」

 

ドイツ人は城を作らず、穴を掘る。

そしてその底にタオルを敷き詰めて身体を横たえ、若干涼しくなった空間で寝るのだ。

 

「何で掘るんだ?」

 

「それはまあ、掘りたいから?」

 

理屈ではない、ということか。

子供が捕まえたくもない蜻蛉を眼で追い、遂には脚で持って追い回すように。

 

ドイツ人は、穴を掘る。

 

「寝るんだろ?」

 

「このまま行けば、そうなるわね」

 

「…………まあ、気を付けろよ」

 

割りと武闘派で精神的にもタフな彼女が遅れを取るとは思えないが、それでも提督は一応警告した。

 

それを聴いたビスマルクはクスリと笑う。

別に馬鹿にしたというわけではなく、単純に心配されたことが嬉しく、気恥ずかしくもあった。

 

その辺りが、からかいとして噴出したのだろう。

 

「何に?」

 

やっていることは限りなく餓鬼だが、その美貌と声音、貴品はドイツの美人なお姉様と言うべき魅力があった。

 

自分より僅かに低い背丈が急に出てきて、目と鼻の先にまで近づいてきたこともあり、提督は思わず怯んで後退する。

 

それを見たビスマルクは、サッと身を翻す。

帽子をしていないが為に完全にその砂金の如き見事な金髪がさらさらと流れ、提督の鼻先を掠めた。

 

咄嗟に女性特有の甘い香りが鼻孔を刺激し、更に三歩程に下がる。

 

「フフ……」

 

微笑を残して穴の中に掘削作業に戻ったビスマルクに対して憤懣遣る方無い気持ちを抱きつつ、提督は無言で海に向かって歩きだした。



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提督と加賀の夏休み

(……提督、変、ね)

 

提督が、変だった。自分の身体を触るとき、彼はいつも何か変な声を漏らしていたのに、今回はそれがない。

それに、敬語だった。

 

(お、かしっ、い……)

 

思考が途切れる程の快感が、断続的に身体を襲う。

静電気が脳髄で発生しているように、加賀は身体を跳ねさせては沈み、跳ねさせては沈む。

その度に柔らかな胸がクッション材のように身体を支えていた。

 

好きな人に触れられている。

それが女としての快楽の一片も知らない加賀の身体を、敏感な物に変えていた。

 

(う、で、を)

 

いやらしい、女の動き。

男を欲する、雌の動き。

 

女の部分をしきりに強調するように、自分はそうしている。

 

その自覚があるだけに、加賀は胸をクッション材にするのを止め、今まで顔を隠すのに使っていた腕を立てた。

肘で体重を支え、全身で感じてしまうが故に生じた律動を強制的に止める。

 

「腕もしなきゃいけないよ」

 

肩までをゴツゴツとした男の指が触れ、撫でる。それだけでも身体を支えていた肘が揺れるのは防げなかったのに、直接触られてはもはや加賀に抵抗の術はなかった。

 

「ぁ、く……」

 

胸が、再び背中の紐を解いた水着に着地する。

 

脚や臀部、何よりも感じやすい背中を丹念に摩られ、加賀の意識はもう既に限界に近かったのだ。

 

それが、この腕の塗り込みで壊れた。

 

「――――っぁ」

 

柔らかな二の腕を摩られ、優しく撫でられる。

 

それだけで、加賀の脳髄を甘い痺れが満たした。

 

身体を丹念に触られ、撫でられ、優しく揉みほぐされる。

 

好きな人からのそれが、加賀に初めての感覚を与えていた。

 

丹念に身体を触られ、限りなく優しく愛撫を受けるのが、こんなにも喜悦を受けることだと、彼女は知っていない。

 

艦娘の身体は人と違うのか、どうなのか。

 

少なくとも、とくん、とくん、と。お腹の深いところが疼いている。

「てぃ、と、く……」

 

「何?」

 

「わ、わた、し……を」

 

使って欲しい。雄の獣欲を慰める為の雌として、壊れるまで使って欲しい。

 

そう言おうとして、加賀の脳髄は再び凄まじい刺激を受けた。

視界が白と黒にまたたき、暗転する。

 

「ぃ、やぁ……」

 

パレオからはみ出た肉に、提督は撫でるようにして日焼け止めを塗っていく。

心身ともにおかしくなる程の快楽に言語中枢神経系を麻痺させられながら、加賀は必死で身をくねらせた。

 

痴態を見せたくない。凛とした、如何に清楚な女で、居たい。

 

「……加賀さん、動かないで」

 

必死に身を捩っていた身体が腰を大きな掌で抑えつけられたことで、加賀は抵抗を止める。

止めると言うよりも、まったく身体に力が入らなかったのだ。

 

その雌としての肢体を僅かに痙攣させるだけの存在になった加賀は、そのまま身体を揉まれ続ける。

 

唇を噛み締めて艶っぽい声を我慢してはいたものの、それでも時々我慢が切れて声が漏れた。

 

その度に、目を必死に瞑って耳まで真っ赤に染め上げる姿は、男の嗜虐心を如何にもそそる。

 

(加賀さん、何で今こんなに色気があるんだ)

 

むわりと、噎せ返りそうになりそうな程の雌の匂い。

肌が白く、程よく肉の付いた背中が日焼け止めと汗でぬらりと光り、それもまた絶妙に淫靡である。

 

信仰のような気持ちを抱けたからこそ耐えられているが、今となってはその信仰心よりも男心を擽るような加賀の艶声と柔らかさによる男のしての本能が勝りつつあった。

 

(もっと触りたい)

 

最初から何も文句も言わず、途中からは抵抗もない。

少し心配になってしまう程に、加賀は従順に身体を差し出している。

 

背中から腰にかけての細くなっていく傾斜と、腰から臀部、太腿にかけての丘のような隆起。

 

提督がわかったのは、加賀の身体で無駄なところはない、ということくらいであった。

 

お尻から太腿にかけて絞り込むように手をスライドさせ、柔らかさの元凶たる脂肪と肉を撫でる。

 

一度触れば病みつきになるほどの張りと柔らかさ。

 

このまま自分の物にしてしまいたい。

再びそのような気持ちにならなかったといえば嘘になる。

 

「終わったよ」

 

「っぁ……」

 

怯えたように、残念がるように、濡れた琥珀の瞳が振り向いた。

 

これだけ酷い目に合わされたのに、まだそんな瞳で見てくる。

 

(虐められたいのか、この娘)

 

日焼け止めを塗る作業とはなんの関係もなく、片手で加賀のむっちりとした尻を鷲掴む。

 

乱暴に、乱雑に、でも傷がつかないように。

 

もう片手は、人差し指で背骨をつーっとなだらかに下らせる。

 

「――――っ!?」

 

ビクン、と。未だかつてないほどに大きな痙攣が加賀を襲った。

安心していたところに、一番敏感な部分を触られ、女としての部分も鷲掴みにされて、背骨が反る。

 

もはや意志など関係なく、背骨が折れるのではないかと思われる程に―――それこそ海老のように背を反らし、加賀の意識はショートした。

 

「……加賀さーん」

 

白い背中に汗をかいて、加賀はばったりと倒れている。

 

先程まで自分の左手にあったゴム鞠のような弾力のある安産型の尻を思い出して何回か空中で手を掴んだり離したりすると、提督は思わずため息をついた。

 

あれだけ愛している愛していると言っても、こうも無防備な誘惑を受けてしまえばその肢体を触ってしまう。

 

(加賀さんも悪い。無防備に過ぎる)

 

忠誠心故の信頼、というやつなのかもしれないが、赤城にやってもらえば良いのだ。

 

でも、触れて嬉しい。

 

自分に素直なこの男らしい感想を抱いて、提督は取り敢えず加賀の水着の紐を結ぶ。

 

そのままクールに去ろうとした時、後ろから鼓膜を溶かすような言葉が耳朶を打った。

 

「て、いと、く……」

 

去り行く恋人の名を呼ぶような甘い声音は、加賀が意識を失っていた間に何とか平静を保つことに成功した提督の理性をも甘く溶かした。

 

追い掛けようとして腰がくだけ、ぺたりと座るだけだった加賀の方に足を向け、手を差し出す。

おずおずと伸ばしてきた加賀の手は、驚くほどに熱かった。

 

「立てる?」

 

「……難しいわ」

 

流石に息も整え直した加賀は、今までの漏れる息に邪魔されるような声色ではなく、上擦っているものの限りなく普段に近いものである。

 

無理なのに、難しい、と言うところにも、いつものらしさが表れていた。

 

「じゃあ、テントで座ってなさい。俺は海に遊びに行くから」

 

「いやです」

 

子供の駄々のような返答を不覚にも可愛いと思ってしまった提督は、咄嗟に黙り込む。

 

その間にも、加賀は怒涛のラッシュを繰り出していた。

 

「一人で遊べるほど器用ではありません。それに―――」

 

「それに?」

 

「腰をくだけさせたのは提督なのですから、責任を取っていただきます」

 

この字面だけならばいつもの加賀であり、声音が如何にも弱々しい言葉は、提督の理性をガリガリと削った。

 

加賀のすぐ後ろには、ベッドがある。腰の砕けた女など、やすやすと彼は運べるだろう。

常の鉄面皮に似合わず、案外とねっとりとした責めに弱いこともわかっているから、この無力な状態をひたすら維持し続けることも可能だろう。

 

「条件がある」

 

「……はい」

 

水着姿故に剥き出しの両肩を、挟み込むようにキツく持つ。

 

そのままテントの幕に押し付け、提督は案の定全く抵抗できていない加賀の瞳を、強い視線で射抜いた。

 

「無防備なんだよ、お前。そこを直せ。何とかしろ。その内ホントに襲われるぞ」

 

「……それは、提督だから」

 

いつもの割りと軽い言葉遣いではなく、迫真の言葉である。

提督だから、と言う加賀の珍しい本音も、今の提督には言い訳か慢心か、或いは馬鹿にされているようにしかきこえなかった。

 

「上司は部下を襲わないわけじゃないの。わかる?」

 

「そうではなくて、その」

 

「言い訳をするな。俺も男なんだから、その内我慢できなくなるぞ」

 

「……別に、我慢していただかなくともいいのだけれど」

 

「男として見てないから?」

 

言ってて悲しくなるような現実を口にしながら、提督は加賀の肩を乱暴に離す。

 

「男だよ、俺は」

 

「……わかっています」

 

「なら、気をつけなさい」

 

思わずハッとするほど柔らかな掌を持ちながら、提督は若干強めに加賀の手を引く。

最近不況や戦局の硬直があいまってモラルの低下が見られているのに、こんな美人が無防備晒していたらその気がない者までその気になるだろう。

 

明日をもしれない身なら、少しでもいい思いをしたいと思うのだ。

 

「……誰にでも心を許しているわけではありません」

 

「それは知ってる」

 

「提督だからです」

 

「上司として認めてくれてありがと。でもだからと言って男にあんなお願いをしていいことにはならないよ」

 

右腕を掴んでいる加賀の手にこもる力が増し、肩をさらさらとした髪が擽っている。

 

「……ばか」

 

ボソリと、拗ねているような色が差した声音が鳴った。

 

加賀は、拗ねていた。こんなに『提督だから』と連呼したのだから、少しくらい自分の好意に気づいてくれても良いではないか。

好きでもない男に身体を触らせるとでも思っているのか。自分はそんなに安くない。

 

お高く止まっていたくはないが、貞操観念は強い方だという自覚がある。

 

そもそも、彼女が艦として生まれた時はそうだった。二夫にまみえずと言う気風があった。

 

今の女性は、伴侶とつがいになる前に何人か男と付き合い、場合によれば契りを交わすこともあると言う。

 

(提督も、そうなのかしら)

 

女漁りを、したのだろうか。

だから、あんなに自分の身体を揉んだり撫でたりするのが巧いのだろうか。

 

他の女の人と、契ったのだろうか。

 

そう考えた途端に、加賀の頭を強い嫉妬と怒りが走る。

 

自分のものでもないじゃないか、過去のことじゃないか、と。

諌めてくれる自分は片隅に居るが、所詮片隅。それ以上でもそれ以下でもない。

 

「提督は、塗るのが巧いのね」

 

「はい?」

 

突然何だとばかりに、提督は琥珀の瞳に嫉妬の大炎を宿らせた加賀を見た。

もっとも、彼には嫉妬とわかっているわけではない。単純に、『あ、キレてる』とわかる程度なものである。

 

「……何でもありません」

 

「いやいや、何でもなくはないでしょうに」

 

「何でもありません」

 

「あっはい」

 

いつの間にやら自分で歩き出した加賀を追って、提督も砂浜に一歩ずつ歩き出す。

まだ、海水浴ははじまったばかりであった。



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提督と加賀の夏休み

泳げない加賀の手を引きながら浅い海を歩いている提督は、思わずといったようにため息をつく。

 

好きな女性と居る時にため息をつくなど言語道断だが、彼にはそれなりの理由があった。

 

(どいつもこいつも女連れかよ)

 

けっ、と唾を吐きたくなる、そんな彼は今年で二十代の後半に入る、所謂アラサー。

 

もうすぐ現在の『提督』から『魔法使い』にジョブチェンジができてしまうお年頃である。

 

「……提督?」

 

どうかしたのか、と言うような―――実際のところは、『私と居るとつまらないのかしら』と言う疑問を秘めた加賀の言葉に、提督はゆっくりと振り向いた。

 

「もうすぐ俺は提督じゃなくなる」

 

「え?」

 

「俺のジョブが提督じゃなくなるのも、そう遠いことじゃないんだということが身に沁みてわかった。それだけ」

 

魔法使いにジョブチェンジ不可避。

提督の頭にそんな警告が頭を過っていることを知る由もない加賀は、『いつもの発作かな』と首を傾げた。

 

春先の辞めたい騒動はいつものことと化しつつあるが、今は辞めたい騒動から三ヶ月後の夏。毎年のノルマと言うには速すぎるだろう。

 

「……お仕事、辞めたいの?」

 

ここだけ切り取ればただの駄目な夫か息子と、その妻か母親の会話だが、実際は上司と部下の会話だった。

 

加賀としては、この三ヶ月という短期間に二度も言い出すとはどうしたのか、と言う懸念がある。

 

それが、この慎重な訊き方につながった。

 

「いや、辞めたい辞めたくないとかそう言う問題じゃない。時間制限が近づいている」

 

今居る環境に相応しくない不穏な言い方だが、当人が真面目に言っている。

 

これのある意味真実という不明瞭さが、加賀の何故か提督にはあまり働かない嘘発見器を更に故障させた。

 

「……どうしようもないの?」

 

「うん」

 

結婚式と同様、一人でできるものではないし、誰でもいいと言うわけでもない。

迷いのない即答に、加賀はいささか面食らう。

 

基本的に半ば独立状態にあるこの鎮守府にに、中央の人事権が介在することは少ない。せいぜい余り者の受け皿になる為にその人事を受け入れていたりしているだけで、中央に招かれようとしていた艦隊の主要メンバーがそのまま居ると言う辺りに、その特質が表れていた。

 

故に、提督は自ら辞めない限りは鎮守府から引き離されることはない。

そして、今までの口ぶりを思い返して見るに、辞めることが提督の本意だとは思えない。

 

加賀は少し考えて、自分がこの問題については無理解に過ぎることを加味した上でこう述べた。

 

「私も、できることがあるならば協力するし、相談にものらせていただくけれど」

 

非常にアバウトな言い方であろう。協力するにせよ相談を受けるにせよ、提督の事情を知ることができるという『二択に見せかけた一択』であることも加賀らしい。

 

だが、この時の提督はいつもの提督ではなかった。

 

「…………そう言うことをあまり簡単に言い出すもんじゃないよ、加賀さん」

 

彼は加賀が真摯に自分の言葉に付き合ってくれたのを見て、思わず恥ずかしくなったのである。

 

あと、好きな女性に相談する内容ではない。

 

「……私では役者不足なのね」

 

「いや、むしろ役不足かな」

 

僅かに海水が掛かって光る太腿が素晴らしい加賀の脚をチラリと見つつ、提督はその場で座った。

 

鳩尾の辺りまでせり上がってきた海水を見て深さを何となく水深を察したのか、加賀もその場でペタリと座る。

 

浮きそうになった双球を左腕で抑え、加賀は肩辺りまである海水に沈んだ。

 

いつも海水の上を滑っている彼女からすれば、非常に珍しい経験である。

 

「冷たいのね」

 

「あぁ、うん」

 

何故座ったのかすら尋ねない加賀の従順さに愛らしさを感じつつ、提督はちらりと華奢な肩を見た。

 

手を壁に押し付けてドンと音を立てる壁ドンならぬ、肩を持った加賀を壁に押し付ける加賀ドンをした経験があるだけに、その壊せそうな華奢さは手に残っている。

 

「この海さぁ」

 

「はい」

 

「カップル多いよね」

 

「……そうね」

 

怨念すら感じる提督の言葉に若干引きつつ、加賀はちらりと提督を見た。

提督が恋人が欲しいというのなら、自分はその候補で居たい。

 

選ばれたいが、選ばれなくても仕方ない。何せ、側に居るだけでも幸せを感じられるのだから。

 

「爆発しろ……」

 

させろ、と言われれば艦載機を出すのも吝かではないが、しろ、というのだから自爆が望みなのだろう。

 

加賀はそう判断し、纏いかけていた艤装を仕舞った。

 

(なんで爆発して欲しいのかしら)

 

他の女がどこぞの男とイチャついていようが、関係ない。自分は好きな男性の隣に居れているのである。

 

爆発しろと言うからには何らかの害意があるのだろうが、その害意のモトが加賀にはわからなかった。

 

「提督は、あの女性が好きなの?」

 

艤装ではなく深淵を纏いながら、加賀は不器用に問う。

赤城からすれば、この時に提督の腕を掴んでその豊かな胸で挟んでやれば確実に『ノー』が帰ってくるのだ、と言うだろう。

 

だが、加賀はそんなことはできない。

そこが彼女の限界でもあり、可愛さでもあった。

 

「え、いや?」

 

「……?」

 

本気で頭の上にクエスチョンマークを乗っけているような加賀が訝しげに首を傾げたのを見て、提督はひとつ思案して言った。

 

「でもほら、妬ましいじゃん」

 

「好きだから?」

 

「違う違う。俺にはイチャつける女性が居ないからだよ」

またもや深淵歩きのカガトリウスになった隣の加賀さんに凄まれながら、提督はすぐさま否定する。

 

加賀は羨みはするが、提督絡みではないと嫉妬はしない。

 

「……本当?」

 

「ホントだよ」

 

加賀さんのことが好きだからね、と心の中で補足しつつ、提督は座ったままに海の冷たさを感じた。

 

クソ暑い夏の中、ただ浸かっているだけでも気持ち良い母なる海と戦っている自分たちは何なのかと、少し思わないでもない。

 

人間はやり過ぎたのかもしれないという退廃的な思想が、過酷な戦場を切り抜けて必死に戦い抜き、安定を手に入れた今ですらもこの男にある。

 

「ならよかったわ」

 

そんな退廃的な思想に侵されていない加賀は、深海棲艦はただの獲物で、宿敵で、殺すべき肉塊でしかない。

提督のように一種達観したような思いを抱くことはできなかった。

 

暫く居た海から上がって、砂浜を歩く。

ポツンと建っているテントの前に設置されたブルーシートに腰を下ろし、提督は青く凪いだ海を見て呟いた。

 

「…………平和だねぇ」

 

「提督が、手に入れたものよ」

 

少なくとも、この海の平和は。

そう言って、どこか達観したような寂しさがある提督を元気づけようとする。

 

どこかに行ってしまいそうな、空気に溶けてしまいそうな虚しさが、彼の身体を包んでいた。

 

「君たちが手に入れた物だ」

 

そう言った提督の左手に添えるように、加賀の白魚の指が絡む。

 

掴んでおくべきだと、そう思わせる何かがあった。

 

「…………自分を卑下しては駄目よ」

 

左手を引くようにして提督の後頭部をタオルで拭った自分の太腿に置き、膝枕のようにした後に、加賀は再び提督を諌めた。

 

たしかに彼には作戦立案能力はないが、それを補ってあまりある勝運と統率力がある。

艦娘が轟沈を恐れていないが如く積極果敢に戦うのも、指揮官が彼だからということも大きい。

 

「そうかな」

 

後頭部で加賀の生の太腿の柔らかさを堪能しながら、提督は目を細めてそう反応する。

卑下ではないと、彼は思う。現に正規教育は受けていない。

 

他の提督連中の方が、よっぽど有能だろうことは疑いないのだ。

 

「私はナンバー・ワンにはなれないもの」

 

「そーかねぇ……」

 

日に曝されて熱を持った髪を加賀の指が櫛のように梳かし、更に提督の眠気を誘う。

 

タオルで拭ったからか、海の塩の匂いよりも加賀の安心するような匂いが強い。

目を閉じれば寝てしまいそうな、そんな気すらした。

 

「…………よく、頑張っています。辞めたくなるのも、わかります。あなたがどの道を選ぼうと、私はあなたを見捨てません」

 

「提督だから?」

 

皮肉と自嘲が入り混じった言葉を吐いた自分を見下している提督を見て、加賀はなおも誠実に返す。

 

「信頼できる人で、あなたの為なら轟沈も厭わないからです」

 

「……犠牲になんて、なるなよ」

 

それに対する提督の反応は、極めて睡たげな物だった。

 

「犠牲じゃないわ。私、それで満足なの」

 

「君が死んだら、さ……」

 

切なげな声音に、胸が激しく鼓動を打ち、加賀は暫し呼吸を止めて提督の言葉を待った。

 

沈んだら、困るのか。

沈んだら、悲しむのか。

沈んだら、泣いてくれるのか。

 

人は死ぬ為に生きている。

提督は自分を好きなのかはわからないが、自分が沈んだ時に少しでも今までの自分を思い出して欲しい。

 

悲しんで、欲しい。でも、泣いては欲しくない。

元気でいて、欲しかった。

 

「……提督?」

 

寝てる。

そのことを認識して、加賀は怒るというより寧ろ安堵した。

 

「お疲れ様。ゆっくり休んでくださいね」

 

 



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本編
一話


第二次大戦から、数百年後の未来。世界は環境保護と技術開発・経済成長の折衷により、百年ほどの停滞に包まれていた。

 

技術は進歩せず、人々は躍進を忘れて怠惰に浸り、世界はただただ資源を貪る。

戦争というものを大国は長らく忘れ、小国のみが貧しさに耐えかねて他の貧しい国から奪い取っていた。

 

そんな各国の停滞という名の平穏は、遂に破られることになる。

 

 

七大国の何れかが戦争に目覚めたか?

 

否。

 

七大国の間で外交上の齟齬が生じたか?

 

否。

 

 

もっと明確な外敵によって、この平穏は破られた。

 

それは、大小の艦艇の如き性能・能力を持つ未確認生物である。

 

彼女等は、『突如』現れた。比喩でも何でもなく、気がついた時には世界に巣くっていたのである。

 

小国が陥ち、占領されても七大国は情報を収集するだけだった。平穏とは、枷でもある。唐突に現れた脅威に対して一本化された指揮の元に武力制裁を行えるほど、彼等は精力的な神経を持ち合わせていなかった。

 

彼らがその重い腰を上げたのは、自国のシーレーンを破壊され、海岸線に艦砲射撃を喰らった時である。

 

ここに至って七大国ははじめて、その未確認生物達を明確に敵と認識した。

 

すぐさま国連でその未確認生物達に対する制裁措置がとられることになる。

そして彼女ら船舶を模した未確認生物たちには、それと同時に呼称が与えられることになった。

 

――――深海棲艦。

 

妖しさとその存在の不可解さ、何よりもその揺れるような不気味さが、これ以上ない程に未確認生物たちに合っていたと言える。

 

与えられた呼称が示す通りに海から現れた彼女等を制裁するにあたっては、当然ながら海軍が用いられた。

 

出撃前、七大国の大小の艦艇からなる国連艦隊はインタビューに対してこう答えたと伝わる。

 

『世界最大の海軍戦力が、負ける理由などは見当たりません』

 

そう言い残して艦隊が出撃し、そして。

 

 

誰も、生きて帰っては来なかった。

 

 

それからは、あっという間であった。

ほとんど全ての海上戦力を用いた侵攻が全滅という最悪の形で失敗したのだから、深海棲艦に敵う国などある訳もない。

 

停滞に包まれていた世界は戦火に包まれ、次々と国が滅んでいく。

 

遂には七大国の一角が陥ちた時、世界は終わりだと誰もが思った。

 

だが、世界は人を見捨ててはいなかったのである。

 

艦娘。誰が名づけたかすらわからないほど混乱した戦況の中、彼女らは突如現れた。

 

そう。またしても『突如』である。

 

彼女らは深海棲艦相手にその力を大いに発揮し、絶望的に見えた戦局を打開していった。

 

そして、遂に深海棲艦を根拠地に追い詰め、再び六の大国と二十五の国による国連艦隊が組まれ、決戦が行われたのである。

 

結果は、壊滅。全滅でないだけマシだが、それでも高練度の艦娘が数多失われたし、この敗北から立ち直れずに滅んでしまった国もある。

 

ここ、旧七大国の一員である日本もそうなりかけていた。

 

故に、軍は苦し紛れの一手を打つ。

 

『艦娘を扱える者ならば、官民問わずに戦線に投入する』と。

 

艦娘を扱うにはある程度の素養が必要であった。軍という組織の中にも数人、それらの才能を持つ者は居たのだが、今回の反攻作戦で殆どが死んでしまったのである。

 

そして、戦死した彼らに代わって五人の民間人が軍事教練を受けた低練度であるが故に生き残った艦娘を就けられて彼らは着任した。

 

彼らの活躍は目覚しく、一時は本土への上陸作戦すら行っていた深海棲艦を圧し返すこととなる。

 

そしてその原動力となった海軍三拠点の一つ、現在ルソン島スービックにある鎮守府。

 

周囲にうず高く積もった決済書類の山々の中に埋もれながら爆睡している一人の男を見て、加賀は深い溜め息をついた。

 

「提督」

 

「へんじがない、ただのしかばねのようだ」

 

往年の名作RPGの迷台詞が、顔に海軍の軍帽を掛けたままの彼から出る。

寝ていないことは、誰が見ても明らかだった。

 

加賀は、外面と言動に反してあまり気の長い方ではない。冷静ではあるが、彼女は相当に血の気が多いのだろう。

新人時代の時には頭に来た末に深追いし、中破した経験も持っていた。

 

故に、だろう。

 

「止めろ加賀」

 

「知りません」

 

怠惰の塊のようなこの提督に対し、無言で手が構えられたのは。

 

提督の異能を駆使した察知からの制止も虚しく、それはそれは見事な貫手が提督の腹に深々と突き刺さった。

 

痛い。これは、喰らったならば物凄く痛いだろう。

何せ、彼の初期艦であり現在までの秘書官であるところの加賀は、徒手格闘特級という卓絶した格闘能力の持ち主。貧弱な元一般人の耐えられるところではない。

 

が。彼はまず、ここで耐えた。

 

「仕事しなさい」

 

極寒のシベリアの冷気を思わせる視線が、提督の身体を貫く。

氷雪の如き冷厳な視線とゴミを見るような諦めと侮蔑の瞳の中には、一片の好意すら存在してはいなかった。

 

「やってない、理由はあるんだ」

 

「……何ですか」

 

それでも尚返事をしてくれるあたり、提督は案外嫌われていないのかもしれない。

そもそも、彼は彼女以外の艦娘の前では普通に立派な提督なのである。変にテンションが高くなったりするのは腐れ縁というべき加賀の前だけだった。

 

仕事をサボるのは、いつものことだが。

 

「これを見給え」

 

仕事の手を止めながら更にサボりの理由を弁明しようとする彼に、加賀は特にその仕事の滞りを是正するでもなく一言で問うた。

 

「……何?」

 

「大本営からの通達」

 

好意の欠片もなかった冷厳な瞳にわずかな暖かみが灯り、言葉の端にもほんの僅かな期待が宿る。

『もしかしたら、来たのかもしれない』。

そんな彼女の期待を知ってか知らずか、提督は自信有りげに胸を張り、堂々と答えた。

 

「ご叱責です」

 

「期待した私が馬鹿でした」

 

ぴらりと揺れる手紙を掴み、無造作に提督の手から奪い取る。

 

『大本営』の黒インクが常の手紙とはまた違った重みを感じさせるそれを、加賀はその細い白魚の指で以ってこれまた無造作に開いた。

 

「『北方提督は最早八海域を制圧。そちらも二海域に充足することなく深海棲艦を駆逐すべし』ですか」

 

彼女の行動に、一般的な感傷とか緊張とかいったものは無縁に見える。

 

が、これでも提督の叱責を自身の失態として捉え、一層奮起せねばと思うくらいには彼女も彼を想っていた。

 

「そ。辛いもんだよね」

 

「……攻略を急がせますか?」

 

一年を掛け、仮称スービック鎮守府はルソン島近海から南方資源地との補給線を確固たるものとし、その資源を遠く三拠点の一つである横浜鎮守府に各資源1000の4000対1のレートで資源と高速修復剤を只管備蓄。成果はともかく余剰資源だけならば各鎮守府と比べても群を抜いている。

艦載機も補給補填などの事前準備に適した提督の持つ霊格のお陰で最上に近いものが揃い、練度も一日二回のルーチン出撃によって最高にまで上がっていた。

箭についた二層の矢印めいた印こそが、その証である。

 

食料も本土と何ら変わらぬ上質な物を大量に運輸して来ることで、艦娘たちは資源と食料に恵まれている非常に水準の高い生活を送れていた。

 

他の鎮守府と比べても配慮の行き届いた環境であるが故に、彼女らの士気は非常に高い。一旦号令をかければ南西諸島海域などは忽ちの内に制圧するであろう。

 

「俺は君たちの戦闘に潤沢な資源を投入できるように資源地を戦略的に確保・維持するのが役目だから、攻めるなら加賀さんに任せるよ」

 

「では、二週間後に攻略を開始します。提督が収集した情報を使用させていただけますか」

 

「いいよ。四海域分だけど、どこまで?」

 

「全てです」

 

加賀という正規空母をモデルとした艦娘は、外見的魅力に優れる。クールビューティの権化であるかのような怜悧さを感じさせる美貌に、一房靡くサイドテール。彼女らしからぬ癖っ毛もまた、その魅力を引き出している。

更に、スタイルもいい。出るところは出ているし締まるところは締まっている、理想的な体型だった。

所謂美脚というべきすらりとした脚に黒のニーソックスを履いている時はもう、絶対領域と呼ばれる部分にしか目がいかないほどの圧倒的な、魅力。

 

まあ、彼女は如何にも『できる女』のような外見をしている。少し頭の弱いところもあるが、彼女は基本的な面では相当に優秀な艦娘であり、女性だった。

 

「どうよ」

 

「まあまあね」

 

素直じゃない反応を示し、加賀はじっくりと見終えた四つのファイルを閉じる。

敵編成のパターン、思考回路。予測進路にこちらが使える海路がいつ開き、いつ閉ざされるか。閉ざされた場合の退路はどこにするのか。

 

通常何十にも及ぶ試行錯誤と幾隻かの艦娘の犠牲によって手に入れられるであろう情報と敵方の装備と味方の装備の対比がわかりやすく数字で示され、そこにはあった。

 

「作戦は任せるけど、退き時は俺が判断する。いいな?」

 

「そんなものは今更でしょう」

 

その会話からキッカリ二週間後。

命の保証などどこにもない海色に、艦娘たちが出撃した。



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二話

「またブラック鎮守府にメス入れられたね」

 

「貴方の同期?」

 

「うん。伊勢提督のとこ」

 

民間からの提督は本名ではなく就けられた初期艦の名前に提督が付け加えられて通称となる。

この場合は日本海方面の制圧が主な任務であった、航空戦艦伊勢を初期艦とした提督のことであった。

伊勢提督と呼ばれた彼の制圧した海域は七。北方方面の長門提督に次ぐ成果を上げていた伊勢提督は、更迭。所謂左遷されたことになる。

 

「俺より優秀なのに、勿体無いことだ」

 

「貴方がピーキーなだけだと思うのだけれど」

 

トントンとリズミカルに戦闘詳報へ判子を押していく提督は、空いている左手で一束の書類を掴んだ。

現在まで生存し、軍に残っている民間出身の提督を含む全提督に課せられた年に一度の霊格検診の結果表のまとめのようなものである。

 

「……やっぱ上位二人は平均値高いな、これ」

 

上位二人とは、言うまでもなく適性のみで選ばれた民間出身の長門提督と伊勢提督のことであった。

艦娘の力は提督の適性プラス艦娘の性能で計算することができる。

つまり、攻撃適性・防御適性・速度適性・幸運適性四つと登用する艦娘の火力・装甲・速度・運で求められるのだ。

 

後はまあ、艦種ごとの指揮適性や艦娘に指示を強制するための適性である拘束適性のようなものがある。

 

「伊勢提督は拘束適性がずば抜けてるからこんなことになったのかもしれないわね」

 

「そうだな」

 

伊勢提督の拘束適性はA。殆どの艦娘に意思を無視して永続的に指揮下の艦娘に自らの指令を順守させることが出来るほどの強力な霊格の持ち主であった。

 

長門提督がCであり、今隣の秘書艦にピーキーと謳われた加賀提督がEである。Cだと数時間にわたって強制が可能であり、Eだと数分も保たない。というか便宜上彼はEに分類されているだけであり、実際はもっと低かった。

 

駆逐艦にすら弾かれるような拘束適性の低さでは、航空母艦や戦艦などは小石に躓く方がまだ止まってくれることになるであろう。

 

《出撃していた艦隊が帰投しました》

 

天井についたスピーカーから出た大淀の張りのある声が耳朶を打ち、加賀が喋りながらも規定の帰路とは別な航路で帰ることを指示していた十二隻の船と十二隻の支援艦隊が鎮守府に戻ってきたことが知らされた。

 

「これで四海域解放ですね」

 

「そうだな」

 

通常六隻しか入れない海域の制限を霊格のハッキングによって書き換えた提督は、その仕事道具であるパソコンを開く。

 

 

艦娘以外は、深海棲艦の領域に入ることができない。

 

海域には六隻しか入ることができない。

 

海域によっては艦種の制限をも守らねば中心部には辿り着くことができない。

 

 

このような三条に代表されるような制限をハッキングし、書き換えるのが加賀提督の得意技であった。

 

「防衛システムはこんなもんでいいかな?」

 

「ええ」

 

攻めやすくなるように緩く書き換えた制限を緩くする前、即ち嘗ての物以上に厳しくし、限られた戦力で燎原の火の如く迫りくる外部からの侵入を防ぐことに専念させる。

精鋭艦十二隻を三つある航路が集うくびれのような地点に配置し、侵入を二倍の戦力で以って撃滅するというのが、提督の使える唯一の戦法であった。

 

「貴方は、伊勢提督のようには―――」

 

「ん?」

 

加賀が目端に何らかの感情を込めて提督を一瞥し、逸らす。

怜悧な秘書の如き印象を持たせる彼女らしからぬ言葉の詰まりに、提督は少し視線をやった。

 

四海域もの広大な海を一息に解放したが故に、大本営への報告書を書く時間が足りないのである。

 

「いえ、何でもないわ」

 

「何でもないなら手伝ってよ。俺、レポート嫌いなんだよね」

 

チラリと、加賀は提督を見た。

屈託ない笑顔と、困ったような挙措。どこかに愛嬌があるその言動は、自分が初めて彼にあった時から随分と変わっている。

 

死んだ目は生気を取り戻し、肌に感じるようなとてつもない虚しさは何とか内に収まった。

 

癖の有りすぎる部下にもまれて虚構に身を投げている暇がなくなったとも言うが、その割には彼が暇となっている時間に時々見に来たりしても目が死んでいる、というようなことはなくなっている。

 

「提督、少し休まれますか?」

 

そもそも彼は望んで軍人になったわけではない。十五を数える全鎮守府に対して何回かに渡って行われた民間からの提督と軍事教練を受けた新米との交代を望むか望まないか、と言う人事アンケートの際も迷わず『辞めたい』と書いていた。

 

その度に癖の有りすぎる部下が人事異動を行おうとした大本営に対し、連署で抗議運動を起こすが故に続投が決定しただけである。

 

大本営も主力機動部隊の一・二・五航戦と世界最強の練度を誇る水雷戦隊である一・二・三水戦に反対されては流石に人事異動をぶっ込めず、今に至った。

 

加賀は、何だかんだで辞表を叩きつけて辞めない程度の責任感を持つ彼にはそれなりに感謝している。

民間からの提督は後任がいるとわかったらそうやって辞めるケースやわざと問題行動を起こして辞めるケースもあるのだが、彼は変なところで真面目だった。

 

「……加賀さん、それは『早く仕事やれ。さもなくばとっととくたばれ』という認識でよろしいのですか?」

 

いつになく慎重に、提督は加賀に声をかける。

この提督も自分が辞めたいといった時に連署で抗議運動を起こすのが習慣である暴れ馬な精鋭たちを形だけでも止めようとしてくれたことには感謝していた。

 

まあ、一度決めたことは曲げない頑固者の彼女には非常に珍しい意志の軟らかさで一時間も保たずに全面降伏したのだが、それでもである。

 

「いえ」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「じゃあ任せた」

 

基本的に、面倒なこととかわからないことは下手に知ろうとせずに先任士官であり誰よりも現地を知る艦娘に丸投げするのが彼一流のやり方であった。

 

これは別な言い方をするならば無責任とも言うが、艦娘は中々にいい性格をしている者が多い。

要は、丸投げを信頼ととるような性格をしている者がその過半数を占め、その占められた過半数の艦娘の中に指揮官クラスが多く居たのが彼の幸運であろう。

 

彼女らは叩き上げの軍人らしい理屈ではない嗅覚とも言える第六感で作戦を提案し、その提案された作戦を加賀が無理はないものかと見聞し、提督が万全を期す準備と物資を整えてハンコを押すのがこの提督の主な仕事だった。

 

所謂放任主義というやつである。

 

「加賀さーん」

 

「何ですか」

 

怠惰にうつ伏せに寝転び、脚を振りながら提督は頼りになる秘書官の名を呼んだ。

こんな適当に呼ばれている時点で、ろくな用事があるわけもない。

 

そうわかっていながら律儀に返事を返してくれている辺り、加賀は案外甘かった。

 

「伊勢提督ってさ」

 

「はい」

 

「伊勢のこと好きだったんだってさ」

 

手に持つゲームをぴこぴことやりながら、提督は伊勢提督の伊勢にあたる自分にとっての加賀をチラリと見て、呟く。

 

「悲恋だよね」

 

「何故ですか」

 

何も考えないで垂らした釣り針に噛み付き亀のようにがっぷりと食いついた加賀の反応は、少々彼には過剰に見えた。

いつもならば何を問うにせよ、書類に向けた姿勢は崩さないはずである。

 

今はその平静さを保つどころか、語気を僅かに荒げているような感すらあった。

 

「何故、って?」

 

「何故悲恋だと断ずるのですか」

 

「そりゃ、結局離れ離れになったからだろうよ」

 

加賀のいつになく差し迫ってくるような追求に驚きながら、提督は大本営並みの感想を述べる。

所詮、彼の適当な発言の根拠などは適当な予想と月並みな感想を元にしているに過ぎなかった。

 

加賀が心中で考えたような深い意味などは、全くと言っていいほどないのである。

 

「どしたの」

 

「……いえ、別に」

 

僅かに荒げた語気を元の落ち着いたものへと戻し、加賀は提督に少し頭を下げて卓上の書類へと向き直った。

加賀の心情は、いつもいつも提督には測りかねるところがある。

 

「あ、烈風改」

 

「烈風改?」

 

「烈風改。何やかんやで開発したから矢筒に挿しといたら?」

 

序盤に出撃し、制空権確保の要である敵空母の艦戦、一朝一夕には育たない敵の精鋭艦攻・艦爆隊の尽くを撃墜した加賀にこそ、この装備は相応しい。

 

彼が積極的な攻略に乗り出さなかったのは、この烈風改が開発し終えるかし終えないかという微妙な時期であったからでもあった。

 

「いい装備ね」

 

「この怠け者の俺が解析からのレシピ調査に物凄く心血を注いだんだから、その評価は当然って感じかな」

 

自信有りげな提督を冷めたような目で見返し、加賀は若干その冷気に怯んだ彼から視線を外す。

 

「…………まあ、私も認めてはいます」

 

その僅かなデレが提督には聞こえていないことは、言うまでもない。



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三話

高く高く。天に昇った太陽の光を反射し、水面は宝石の如く輝いていた。

南方海域は熱く、雨が多い。雨が多ければ晴れ間が少なく、よってカラリとした晴れてるんだか雨が降ってるんだかわからない天気が続く。

 

全体的には暑いが、服装と過ごし方に気を遣えば苦になるような暑さではなかった。

 

そんな南方に白露型駆逐艦の四番艦、夕立は向かっている。

 

本来気をつけるべき服装は、黒いセーラー服とでも言うべき半袖とミニスカートと胸元に映える赤いリボン。

しかし頭には黒い紐の如きリボンがカチューシャの如く取り付けられ、規定の制服から一歩出てしまう程度にはお洒落に興味がある年頃であることを示していた。

 

だがそれにも限度、というか。節度というか、ともあれ環境に対して適応させる必要はあるわけである。

 

というより、そもそも服は環境の厳しさに耐え抜く為に作られた。お洒落に傾倒するあまり本来の意味を忘却してしまっては正に、本末転倒というものであろう。

 

「暑いっぽい……」

 

要は彼女は、南を舐めていた。彼女が建造されてから三年間居た横浜鎮守府艦娘教導所で学んではいたものの、彼女はさほど真面目な質ではない。

 

艦娘がこの海に現れ、組織化されてからまだ八年。人類史に刻まれるであろう彼女ら艦娘という存在も未だ世界においては若輩の新参者に過ぎず、研究の進んでいないことが多くある。

 

その一つが、服装であった。

 

彼女ら艦娘は艤装と呼ばれる服と兵器の間の子のような何かを装着して戦う。が、艤装を剥いだり厚着をさせたりしてしまえば圧倒的な身体能力は失われ、人と何ら変わりがないものとなってしまうのだ。

 

そこの境界線が未だに不明瞭であり、わからなかった。故に、彼女ら艦娘を保護・統率すべき海軍は艤装には基本的に手を加えていない。変に手を加えて貴重な戦力を失うわけにはいかないのである。

 

結果、夕立のように『南に行くのに暑さに無防備』というような惨事が多き生まれていた。

 

「……あれっぽい?」

 

両腕を抱えながら水面を滑るように航行していた夕立は水上にゆらりと浮かんできたビルを見つめ、呟く。

 

彼女が遥々南方にまで来たのは、別に観光とかではない。遠征とかでも、無論ない。

 

彼女は横浜鎮守府艦娘教導所を規定の年数である三年間で卒業した。

 

ケツから三番目という凄まじい成績で、ではあるが今は国家の非常時。五年組と呼ばれる『更に学ぶべき価値あり』とされて追加の教導院に進む者などは一部のエリートのみである。

 

全百人近くの艦娘が、今年も教導所から最前線に送られた。

 

彼女の姉妹艦であるところの白露は佐世保鎮守府に配属になり、時雨は佐世保鎮守府教導院に進み、村雨は佐伯湾泊地に配属。春雨・五月雨は舞鶴へ、海風と山風は大湊へ、江風・涼風はそのまま横浜鎮守府に配属。

 

そして夕立はと言うと。

 

「スービック鎮守府とか、本当に聞いたことないっぽい」

 

ここに時雨がいれば『二学年の二学期の時にやったじゃないか』とでも諭してくれるのであろうが、彼女は今は佐世保鎮守府教導院にいる。

というか、同期の皆は誰かしらと共に配属されるのに何故このスービック鎮守府だけが自分一人なのか。

 

夕立は、その鋭い直感で何やらきな臭いものを感じていた。

 

だが、きな臭かろうが何だろうが配属された以上は行かねばならない。

そんな気持ちでいるからか、どうにもこうにも速力が出ない。

 

「見るからにヤバイっぽい……」

 

軍用コンクリートと、鋼材。赤煉瓦の雅さも華やかさもない、打ちっぱなしの武骨な鎮守府が彼女の視界に入ってきていたのである。

 

ゴソゴソと懐をまさぐり、夕立は時雨が調べてくれたスービック鎮守府の資料を広げた。

 

曰く、極めて珍しい移転型の鎮守府であること。

 

曰く、深海棲艦の発生が緩やかな平穏な海域であること。

 

曰く、貴重な航空戦力と工作艦がいるということ。

 

曰く、国から半ば独立したような感すらあるということ。

 

「おい、何してんだ」

 

拝啓、時雨様。

 

私夕立は、スービック鎮守府に着く前に首を斬り落とされそうです。

 

眼帯に軍刀といった如何にもな軍人が、夕立の首元にその白刃を突きつけていた。

 

「て、敵じゃないっぽい!」

 

「ぽい?」

 

「敵じゃない、です!」

 

紙一枚の資料を持った右手と左手を上げ、夕立は必死で命乞いをする。

陽光を受けて煌めく白刃が眼帯をした軍人の如き艦娘の手の中で返され、突きつけていた白刃が峰へと替わった。

 

「所属は」

 

「佐世保工廠建造第二十期、横浜鎮守府教導所からスービック鎮守府に配属された白露型四番艦の夕立っぽい!」

 

「ふーん……」

 

眼帯をした艦娘の左手に持った軍刀の峰が右肩を二回ほど叩き、腰に吊るした鞘に納まる。

 

同時に配属命令書も見せたのが効いたのか、目の前にいる彼女の表情は幾分か和らいでいるような気がした。

 

「スービック鎮守府所属、球磨型五番艦の木曾だ。よろしくな」

 

通常の名乗りは、建造第何期かを伝えた後に所属と何型の何番艦かを伝えるのが一般的である。少なくとも、夕立はそう習っていた。

 

時雨から。

 

「木曾さんは建造第何期っぽい?」

 

「俺は建造型じゃねぇよ。前期型って呼ばれてる……まあ、自然発生型だな」

 

ここで注釈を入れておくと、艦娘には戦艦・航空戦艦・航空母艦・装甲空母・軽空母・重巡洋艦・重雷装巡洋艦・軽巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの種類がある。

これは艦種というものの違いであり、謂わばあって当然なものだった。

 

だが、艦娘にはもう一つの分類の仕方がある。

 

初期に突如として現れた艦娘。公称としては前期型、通称としては自然発生型、或いはオリジナルと呼ばれる艦か、建造で生まれた建造型か。

 

オリジナルと呼ばれる艦娘は一般的に工廠で生まれてくる建造型に能力で劣り、更には初期から戦っているが故に五体満足で残存している艦が少ないと言われていた。

 

「因みにうちの鎮守府には自然発生型が相当数いる。ま、厄介払いってやつだ」

 

艤装を専用の装置で装着しなければならない建造型と違って、自然発生型は意志一つで身体の内から艤装を滲むように出すことができる。

この『前期型』と呼ばれる艦娘たちの艤装装置方式は自然発生型から第五次建造が終了するまで続いた。

 

有事の際にすぐに力のオンオフを切り替えることができるのがこの前期型の特徴だが、そのオンオフは本人の意志に寄る。

 

強大な力を持つ彼女らを管理するには不適切ということで、自然発生型から第五次建造までに現れた艦娘は『解体』のメカニズムが確立されていないこともあって殆ど磨り潰された。

そして、第六次建造からは提督及び鎮守府が艤装を管理し、必要に応じて外部から装着する方式が取られるようになったのである。

 

無論、艦娘たちを統率していた提督からの反発はあった。が、反発を示した彼らは過酷に過ぎる最前線に送られ、次々と自分の艦隊ごと敵艦を道連れにして死んでいくことになる。

 

三年ほどで、前期型の艦娘は後期型とされる艦娘たちと役割を替わった。同時に軍内部の粛清も終わり、情報封鎖も徹底されることとなる。

 

中将でありながら前線に飛ばされた加賀提督も、反発を示した提督の生き残りだった。

 

「厄介払い?」

 

「提督ごとな」

 

前期型の艦娘を六隻率いて死が確約された最前線を三年間もの間、ただの一隻すら轟沈させずに戦い抜いた彼もまた、南に飛ばされることになったのである。

木曾はその六隻の一隻にあたった。

 

「ほら、着いたぜ」

 

見るからに実用性一点張りの鎮守府内の提督の執務室を眼前にした夕立は、ふと頭に浮かんだ疑問を口にする。

加賀提督というのは、何なのか。

 

というかここまで何もやっていない中将は珍しいと言う評判であるくせに、なぜ中将になれたのか。

 

それが夕立には不思議だった。

 

「一航戦ってのがいるだろ?」

 

一艦隊で数十の敵深海棲艦を相手に完全勝利した、伝説の艦娘たち。

 

一航戦とはその戦果を叩き出した伝説の部隊であり、その戦果一つで今保持する異常なまでの華美な驍名を確立したという異色の部隊である。

 

無論、その戦果の前後にもチマチマと敵深海棲艦を沈めていた。

前述の戦果と比較すると地味すぎて有名ではないが、この当時は前線で指揮を執っていた加賀提督が珍しくやる気を出し、博打に撃って出たのがこの戦闘だといえる。

 

その名は、不勉強な夕立でも知っていた。それほどに有名な出来事であり、全艦娘の誇りとすら言える戦果なのだから知らないほうがおかしいとも言える。

 

「その当時の指揮官だよ。深海棲艦の機動部隊を二つ纏めて叩き潰したときの、な」

 

どこか誇らしげに言う木曾に釣られてまだ見ぬ提督に期待を寄せた夕立が扉を開き、そして。

 

「……完璧、だな」

 

極めて精巧に作られた七人の空母娘の人形を卓上に並べ、満足げに頷く馬鹿を見た。



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四話

「……これで決まりだな」

 

「提督さん、何をしてるっぽい?」

 

「ソートだよ、夕立君」

 

何でソートしているかを言わない辺りで、彼の小狡さが伺えた。

蒼龍、加賀、赤城、飛龍、翔鶴、瑞鶴、大鳳。彼が現在指揮下においている七人の空母娘は、それぞれ様々なところに飛ばされていた。

 

現在二航戦はセレベス島の鉄鋼の輸送船団の護衛に、五航戦はスマトラ島パレンバン周辺地区で採掘された石油を東京へ輸送している船団の護衛についている。

 

スービック鎮守府の管轄区域であるフィリピン・ボルネオ・スマトラ・マレー・ジャワ・バリ・チモールに住んでいた住民たちは深海棲艦によって占領された直後に姿を消し、所在はようとして知れない。

 

世界各国でもこの『占領された地を再解放した際に住民たちが消えていた』という事例は多く報告されており、現在の世界は1900年代前半のような切り取り勝手な情勢へと変化しつつあった。

 

「現在一航戦を含む二個艦隊がパラオ付近の制空権を獲ってきてるから、思いっきりサボれんだよね」

 

「サボってていいっぽい?」

 

「大丈夫だ。問題ない」

 

諸群島に退役した艦娘の火砲を備え付けている為、防衛線は強固である。

更には駆逐艦による哨戒航行と軽空母による哨戒飛行で予期せぬ襲撃に備え、パラオに偵察・制空権握らせに行くにあたっても周囲の深海棲艦の棲地を丹念に潰した上でやっているし、何よりも慚減に慚減を繰り返した脆弱な敵戦力では突破が不可能なほどの火力と艦艇を集中していた。

 

実質、今のところの彼に危なげはないと言える。

 

「提督さん、やることないっぽい?」

 

「まーね」

 

一航戦を駆使して大兵力を打ち負かすという如何にも日本の名将らしい、手練手管を巡らせ、小部隊を以って奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功の主――――源義経の鵯越の奇襲や楠木正成の千早城籠城戦などを規範としてきた。

 

ところが彼は、その戦いの初戦を『寡を以って衆を制する』式の奇襲戦法で勝ったくせに、その後一度もその模倣をしようとしない。レイテ沖で文字通り敵機動部隊を粉砕することができたのは百に一つの幸運と百に一つの天機が合わさってこそのものであると、彼が一番わかっていたのである。

 

「俺は、ほら。戦う場所に勝てるくらいの戦力を集中させるのが仕事だからさ」

 

「どれくらいの戦力っぽい?」

 

「だいたい二倍とか、三倍とかになるまで慚減するかな」

 

夕立が教導所で教わった海戦や陸戦の模範型では大抵が日本軍が劣勢の際に如何にしてその状況下から逆転の目を掴んだか、というものであった。

 

数値的な劣勢からの巧緻な戦術の妙によって挽回して優勢に立つというのが夕立の学んだ戦いであり、それでしかない。

 

謂わば出た時には既に優勢であろうとする提督の戦い方はいまいち理解できないものであろう。

 

「てーとくさんは臆病っぽい?」

 

「劣勢での戦いは正直飽きるほどやったんで、臆病になった自覚はある」

 

「むざむざ死に向かわせる蛮勇よりはマシでしょう」

 

無邪気だからこそ痛いところをついてくる夕立に肩を竦めて戯けてみせた提督がいつも通りの軽い語調で返した瞬間、提督の机の正面にあるドアがバタリと開いた。

秘書艦、加賀の登場である。

 

「加賀さん、何故ここに……」

 

「あんな新造機動部隊など鎧袖一触です。訓練にもなりません」

 

南方海域は本来、深海棲艦の棲地が群がる危険地帯として名高かった。

 

彼が台湾を占領、鎮守府を付近に曳航してきた時の敵戦力を見てみると、こうなる。

 

『空母ヲ級改Flagship四隻と随伴艦からなる機動部隊A群(フィリピン、スービック)』

 

『空母ヲ級Flagship六隻と随伴艦からなる機動部隊B群(マレー・スマトラ)』

 

『空母ヲ級Elite六隻と随伴艦からなる機動部隊C群(ジャワ)』

 

『戦艦タ級Elite四隻と随伴艦からなる水上打撃部隊A群(セレベス海)』

 

『戦艦ル級Elite四隻と随伴艦からなる水上打撃部隊B群(南シナ海)』

 

すなわち、深海棲艦側でも屈指の猛者共が資源の豊富な南方海域を遊弋していたのだ。

 

もっとも、今は殆どが爆発四散した。南方海域は深海棲艦が時間を掛けて育て上げた精鋭空母の墓場となったのである。

 

現在はパラオに逃げた水上打撃部隊の残存と新たに建造されたと思わしき空母ヲ級が五隻。名前をつけるならば『敵機動部隊再建艦隊』となるのか。

 

「ま、再建艦隊だからね」

 

「こちらとしても練度の低さに逆に驚かされました。序盤の激戦が嘘のようです」

 

南方海域の主要資源地を完璧に抑えられ、随伴艦には深海棲艦の棲息領域でも使用可能な電探と近接信管を積まれ、ガチガチに防空を固められた状態では奇跡など起きない。威力偵察一回で、敵の再建艦隊が育てていた艦載機たちは軒並み卵の殻でも潰すようにして潰された。

 

そして。

 

「で、何ですかこれは」

 

「……知らないなぁ」

 

彼が昨日、夕立と初顔合わせをしてからソートと称してずっと並べてあった人形もまた、加賀の前で塁卵の危うさの上にある。

 

「知らないのなら要りませんね」

 

「それだけはご勘弁を」

 

瞬間移動と見紛うばかりの素早さで、提督は机を飛び越え加賀の横に着地。一種の美しさすら感じさせる精練された土下座を決めた。

 

加賀の目を盗んではせっせと作り続けたこの七体。そうやすやすと壊されたくはなかったのである。

 

「……説明」

 

「ハイ。これは俺の指揮下にある空母娘の人形でして」

 

ビキリ、と。手元にあった翔鶴の人形に亀裂が走った。

被害担当艦は、人形として作られようが被害担当艦となる運命にあるのかもしれない。

 

何しろ、位置が悪かった。加賀もまるで選別する様子がなかったあたり、適当に引っ掴んで握っただけなのだろう。

 

「私は別にこの物質の解説を求めたわけではありません」

 

「わたくしめの趣味でございます」

 

「……そう。ならいいわ」

 

提督は、安堵した。加賀は変な所で怒ることもあるが、物分りが悪いわけではない。一定の誠意を以って接すれば、案外わかってくれる。

 

が。

 

「では、翔鶴の下駄を嵌める台に書いてある81/56/83とは何かしら?」

 

提督は死んだ。

 

夕立は逃げ出した。

 

加賀は修羅になった。

 

簡潔に記せばこれだけで済む出来事が、提督の目には数分にも数十分にも感じられるほどであった。

 

「提督」

 

「はい」

 

「私の台に書かれている89/58/92の数値は、なにかしら」

 

語尾を平坦にした発音がひたすら怖い。

提督は、生まれてきたことを後悔するレベルの恐怖に身を貫かれるということを、今初めて感じた。

 

加賀は、普段はフラットな女性だった。提督にも一定の敬意と誠意を以って接してくれるし、何よりも極めて迅速に職務をこなすことができる。

職務上側に居なければ勤まらないものだとは言え、提督業が休日の時は気がついたら一席分くらい間を空けて隣にちょこんと座っていたり、本を読んだりして時間を潰していることから嫌われてはいないことも、わかっていた。

 

しかし、怒らせると怖い。無表情というか、真顔で怒りを叩きつけられて無事でいれるほど、人間の精神は強くはない。

 

「提督」

 

「はい」

 

真顔且つ平坦な美声が、恐怖を載せて彼に届く。

 

「いつですか」

 

「二ヶ月前です、はい」

 

二ヶ月前の健康チェックで、艦娘は大淀と明石監修の元に入念なメンテナンスを受けた。

提督はその時駆逐艦たちと海で遊んでいたから気づかれないと思っていたのだが、そこは変態。無駄に研ぎ澄まされた第六感と、情報厨と陰口を叩かれる情報への飽くなき渇望が、とある重巡と結びついたのである。

 

「………………あの時は、太っていました。今は痩せています」

 

「はい?」

 

「何でもありません」

 

正座からの土下座を敢行していた提督の顔が上がり、訝しげな表情が浮かんだ瞬間に加賀の足が首元を圧すようにして頭を再び土下座の定位置に戻した。

 

それに対して『ありがとうございます』と思っていた提督はもう末期なのかもしれない。

 

「……さて、はじめましょうか」

 

その踏みつけの姿勢のまま、加賀の口からひたすらに愛嬌のない説教が溢れる。

 

彼が加賀の足の下から解放されたのは、それから四時間後のことであった。



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五話

秘書艦加賀の朝は早い。

 

まず、隣室で爆睡している提督を起こさないように気を配りながら五時に起床し、パジャマのままで台所に立ち朝ご飯の仕込み。

次いで六時頃に髪をゴムで括り、更に服装を整えた後に同じ航空母艦である鳳翔と洗濯。

七時頃に鎮守府に所属する全艦娘の点呼をとってそれぞれを時間割通りに動かし、八時頃に射場で身体を目覚めさせた後、台所に立つ。

 

 

この日、彼女は九時には提督を起こしに私室に入った。

 

「……ん」

 

どちらかと言えば女ぐさい、ふわりと甘いような匂いと時々混じる火薬の臭いがする鎮守府内で、その一室は最早異空間である。

 

暑い、というのか。男の野性味が漂うような臭いが、ツンと加賀の高い鼻についた。

 

ここだけが男の臭いを発している。臭いを嗅ぐほどに親しい男性を持たない彼女からすれば、提督の私室は男の臭いというより、提督の臭いに満ちていた。

 

「提督、起きて」

 

軽く掛け布団に半身を埋めながら、加賀は寝間着に包まれた彼の身体を揺り動かす。

提督が東京の大本営に呼び出されてから今日に至るまでの二ヶ月もの間、加賀はこの行為を行えなかった。

 

「……ぉはよう」

 

「はい」

 

無表情のままに、加賀は精一杯の愛想を振り撒きながら提督の起床してから一言目の言葉に応える。

 

「おはようございます、提督」

 

「うん」

 

相変わらずの無表情に逆に安堵の気持ちを抱き、提督は適当に返事をした。

おはようからおはようと返された場合、次に何を返せばよいのかを彼は知らない。加賀との会話では基本的に、相手側から振らないと話にならないのが難点である。

 

口数が少ないというわけではないのだが、彼女は常に不興そうな顔をしていた。

 

「ごめんね、寝起き悪くて」

 

「いえ」

 

膠も無い。そして話が続かない。

最近は大本営付きの艦娘との儀礼的且つ気遣いに溢れた会話に終始していた為、彼はこのぶっきらぼうさを忘れていたのである。

 

「……機嫌悪い?」

 

「いえ」

 

無言。ひたすらに、無言。ジーッとこちらを見つめてくるだけで、話を振ろうが要らぬとばかりに切り捨てられ、彼はすごく気まずかった。

そもそも、会話がうまい方ではない。戦も大してうまくない。大本営で長門提督とやった戦術シミュレーションでも、勝算が僅かな博打に関しては勝てたがどう足掻いても互角や優勢の時には勝てなかった。

 

つまり、駆け引きも大してうまくはない。心理戦も、先読みも下手だと言っても良いであろう。

 

「ご飯」

 

「はい」

 

真顔で凝視されるという非常に居心地の悪い状況下を三十分ほど耐え抜き、提督は無我の境地に達しかけていた。

彼は別に加賀のことが嫌いではないが、ひたすら黙られると後ろめたいことが山ほどある都合上、苦しい。

 

一見すると怜悧そうに見える瞳に見つめられると何もかも暴かれそうだし、それを抜きにしても美人に見つめられるのはこっ恥ずかしいというのも、ある。

 

そんな中で彼女が発した一単語は、罪人に差し伸べられた蜘蛛の糸の如く感じられた。

 

「できています」

 

「そっか。ありがと」

 

相も変わらぬ単語文にさらりと礼を交えて返しつつ、提督は加賀の視線から逃れるように立ち上がる。

 

追尾してくる視線から逃げるように速めに脚を動かし、警察から逃げる犯罪者の如き敏捷性で提督は加賀から逃げ出した。

 

しかし。

 

「待って」

 

加賀警察こと加賀さんは犯罪者カッコカリの逃亡を裾を掴むことによって未然に防ぐ。

別に彼女は提督の後ろめたい事例を問い詰めたいとかそういうわけではない。ただ単純に歩幅を狭めて欲しかっただけであった。

 

加賀は、女性にしては身長が高い。160センチ代半ばといったところであろう。

そして、脚も相当に長い。黄金比と呼ばれる100センチ少しあるが、身長的には20センチほど負けていた。

 

適当に歩いていい提督とは違い、加賀には多少なりとも女性の嗜みというものがある。早足にはなれても大股にはなれないのだ。

 

「何かな?」

 

「できれば、歩幅をあわせて欲しいのだけれど」

 

後ろ裾を掴まれては逃げることすら覚束ない。全くと言っていいほど表情は変わっていないが、無表情で小首を傾げているあたりに彼女の僅かな愛嬌が感じられる。

 

表情は動かないが、彼女自身に感情がないわけではないのだ。

 

「ごめん」

 

「いえ」

 

一回目を瞑り、頷くだけで意思を示す。

 

「原稿ありがと。うまくいったよ」

 

「当然です」

 

彼女は、作戦計画から演説用の原稿、果ては対大本営用の答弁に至るまでのすべての立案を提督からぶん投げられていた。

 

彼女がその意思を示す場所は現場である海上しかなく、他は将である提督を補佐していればこれで事足りる。

では何故彼女自身が肝心なところで指揮を取らないかというと、その一番の要因には勝負運の無さが上げられた。

 

肝心なところでケチがつくというのか、勝ちきれないというのか。ありえないほどの不運で座礁したりしてしまいようなところが彼女にはある。自信家であり現にその能力も高いのだが、指揮官に必要不可欠な能力である運というものが憑いていなかった。

 

「提督は、運がいいもの」

 

しかし、ここにその憑いていない運という要素を豊富に備えた男がいる。

彼は運が良かった。それも生半可なものではなく、運が絡む勝負事と名のつく物に―――ルールさえ知っていれば―――負けたことがなく、幸運艦の代名詞的な存在である雪風にすらじゃんけんで勝てる程には運が良かった。

 

戦争というものが国家による賭博であるならば、将軍とか提督とかいう職にある人間は国家から掛け金をもらった賭博師であろう。

戦術や勝ち方に当たる賭博の技術は参謀とかそこいらに任せられるが、運を貸すのは将軍とか提督とか呼ばれる者達であらねばならない。

 

この運に誰よりも他の将軍よりも遥かに恵まれた者だけが名将になれた。

 

その点、この男には名将になる適正があるのだろう。技巧はないが、勝利を引き寄せる豪運があった。

 

「加賀さんの原稿が良かったんだよ」

 

「……そう」

 

いつにもまして無口な加賀だが、実は相当な気分高揚状態にある。

二ヶ月振りに会えて嬉しく思っているし、懐かしくもあった。

彼が側に居ない時に時々胸を打つ寂寥感に悩まされることがなくなり、朝起きた時もいつになく敏活に身体にバネが利いているような感覚すらあったのである。

 

弾むような、というのか。新たな空気で満たされたゴムまりのような弾力性が彼女の心を被っていた。

 

「提督」

 

「何かな?」

 

加賀のパーソナルな返事が『いえ』か『ええ』で済まされるように、提督のパーソナルな返事は『はい』か『何かな?』で済まされる。

 

一応色々考えてもこれしか出てこない加賀に対し、提督は何も考えていない時にこれが出るのだから酷いものであった。

 

「…………」

 

「…………何かな?」

 

名前を取り敢えず呼んでみたものの、彼女には何故自分が彼を呼んだかが自分にもわからない。

嬉しさという空気を入れられて弾むような心がそうさせたとしか、言えなかった。

 

「……ごめんなさい。何でもないわ」

 

「すごい気になるんだけど……」

 

気になると言われても、彼女には何の考え腹案もない。普段は理性的な仮面を被っている彼女には珍しく欲望のままに行動した結果である。

 

本当に何の用もなしに、彼女は思わず彼を呼んでしまったのだ。

 

「本当に何でもないの。ごめんなさいね」

 

考え込む時や、博打に打って出る時に両手の指のみを何回か拍手するように打ち付けて鳴らす癖が、彼にはある。

 

今回も思わず手を打ちつけながら、提督は少し首を傾げて頷いた。

 

嘗て『今日は暑いね』と言ったら『南方の夏はそういうものではないの?』と返されたあたりに彼女の無駄話を嫌う性質を感じた提督からすれば、加賀がただ名前を呼ぶというような無駄話をするとは考えられなかったのである。

 

加賀からすればこの『南方の夏はそういうものではないの?』という発言は皮肉でも嫌味でもなく、純粋な本音から発された天然の社交辞令潰しだったのだが、そんなことが件の真顔で言われてわかるわけもなかった。

 

「変な加賀さんだね」

 

「む」

 

ピクリと片眉が動き、ほんの僅かだが不況げに顔が顰められる。

無論、それは前を歩く提督にはわからなかった。



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六話

人は美女に憧れる。

もっと言えば、美女と接点を持つことに憧れる。

 

あわよくばその心を我が物にしたいし、好いてもらいたい。即物的な欲望という観点から言うなれば、その身体を貪りたい。

 

女に慣れた男ならば、ここまで発想が行くであろう。

しかしそれがそんな物に耐性のない一般人ならば、どうなるか。

そして相手が、少しありえないくらいの美女であればどうなるか。

 

ただただその容貌の美しさに蹴落とされて喋れなくなるか、或いは無理矢理ふざけて直視を避けるかのどちらかだろう。

 

この提督は、後者に分類される人種だった。

 

「仕事、終わり……」

 

「お疲れ様でした」

 

艶のある長い黒髪と、怜悧な彫刻を思わせる造形美を誇る肉体。

冷たさを湛えた切れ長の眼と、澄んだ琥珀色の瞳に、どこか可愛げのあるパーツ配置。

 

加賀という女は、紛うこと無き美女である。

そして何より、女に無縁とはいかずとも慣れてはいなかった最初期の彼に対して凄まじいまでの近寄り難さと苦手意識を抱かせるタイプの女だった。

 

「私は入浴した後、食事を取りに行きます」

 

「いってらっしゃい」

 

完璧なまでの報告言語に対してひらひらと手を振って答え、提督は一先ず胸を撫で下ろす。

 

今日も何とか乗り切った。

 

その安堵が、最早二重人格とも言えるほどに乖離した二面性を持つ彼の裏の面を満たす。

 

近寄り難いタイプの美人である彼女との当初の関係は、良好どころか普通とすら言えないものだった。

 

お互いに黙りこくり、職務上で必要最低限な会話すら行えず、この世の何よりも重い職場の空気が硬直したように互いの肩にのしかかる。

まさに気まずいと言う形容がこれ以上ないほどに当て嵌まり、連携も協力もなかった。

 

彼が使い、加賀が働く。ただそれだけの関係。

 

その関係を打破すべく、そして指揮官として必要不可欠な楽天的な性格になるべく一歩ずつ歩み、今に至る。

 

そして今も、彼の表の面は加賀に対しての近寄り難さが抜け切っていなかった。

尤も、嫌いな訳ではない。一目見て惚れたからこそ近寄り難く、変に茶化して怒られる。

 

何か変なものが憑依したのかと思う程に、表と裏の彼は違っていた。

 

共通項は、加賀に惚れているということくらいか。

 

「失礼します」

 

思考に没頭しているが故に駆け足で過ぎていった時間を、常と変わらぬ声と一定のリズムを刻むノックがひき戻す。

一日に一時間ほどしか顔を見せない表の面が裏返り、裏の彼が顔を出した。

 

「何かな、加賀さん?」

 

職務上常に着ている弓道着のような服ではなく、湯上がりの白い着物の如き和装。

朱色に染まり上記した肌が艶めかしく、新しく縛り直した髪から水気が漏れる。

 

手に持っている二膳の食事を除けば、風呂上りに夜這いに来たような服装だった。

 

「御飯、食べませんか?」

 

「ああ」

 

職務室の机に積もっていた書類は処理され、飛び散ったインクやらなにやらを除けばまあ綺麗になったと言える。

その上に新たに二膳置かれ、温かな湯気と食欲をそそる香りが部屋を満たした。

 

「加賀さん?」

 

「はい」

 

「何で膳が隣なの?」

 

職務時は、仕方ない。

だがこの私用においても隣に座られれば、裏返ったばかりの彼の心臓は無事では済まないであろう。

 

それに追い打ちをかけるように、彼女は今風呂上り。

殺人的なまでにいい匂いがする女特有の香味が、彼女の周りにふわりふわりと漂っていた。

 

「……」

 

白い肌と、黒い髪。日本人らしいその配色の中で異彩な輝きを放つ琥珀色の瞳が、ごく普通な容姿をした提督の姿を映す。

その綺麗さに心を奪われ、裏と表が一瞬ブレた。

 

男は誰でも美人に弱い。それが好きな女であり、拒む理由が恥ずかしいからということでしかないならばどんなことでも叶えてやりたいと思う。

それが、男という性の悲しき性だった。

 

「だめ?」

 

「どうぞ」

 

小首を傾げられながら訊ねられ、断れる程に強くはない。

定位置となった隣の席に白い袴のようなものに包まれたお尻が下ろされ、すぐさま足先で持って机との距離を詰める。

 

「いただきます」

 

きっちり二セット用意してきた箸の内の一つを柔からな掌で挟みながら、加賀は瞑目しながら頭を下げた。

 

礼儀正しい、と言うのか。彼女はそこのところの躾が相当なっている。

海軍のパトロンとの会談でも、礼儀やら面倒くさいアレやらコレやらを教えてくれたのは彼女だった。

 

「いただきます」

 

隣に座った意味がわからないほどにまっすぐと、椀とおかずの盛られた皿のみに眼をやっている加賀を横目でちょっと見、提督もまた彼女に倣う。

別に彼女は、自分がしていることを他人に口煩く強要したりしない。別枠として駆逐艦などの精神的に幼い者には丁寧に躾けるが、精神的に成熟した者には何も言わないのだ。

 

無論、そういう物が必要不可欠な公的な場では煩い。が、それは秘書艦として必要なものであり、謂わば職務の延長上にある。

 

艦隊の規律の維持をも引き受けている彼女も、私生活では案外寛容なのかもしれない、と。

提督はそう思っていた。

 

「……と言うか、仕事終わってからもう二時間なんだね」

 

「気がつかなかったの?」

 

少し詰問のような風を帯びた声色に怯みながら、提督は時計の方へと目を凝らす。

現在時刻は深夜二時。よくも間宮さんはここまで食堂を開けて頑張っていてくれたものである。

 

「間宮さんには迷惑掛けてるよなぁ」

 

「……そうね」

 

頬を僅かに膨らませたような、詰まるところは若干不機嫌そうな彼女の表情を伺いつつ、提督は更に会話を繋げる言葉を探した。

だが、悲しきかな。彼は別にコミュニケーション能力に秀でている訳ではない。

 

傍から見れば可愛く怒っている加賀の姿を見てしまえば、尚更その選択肢は狭められる。

 

「ごめんね。遅くまで」

 

「それほど気に病むことではないわ」

 

僅かに膨らませた頬がいつものクール顔の定位置に戻り、食事に向けられ続けていた琥珀色の瞳が必要最小限の軌道を描いて提督に向いた。

 

「あなたは良くやっています」

 

初めて戴いた書類裁き面でのお褒めの言葉に、提督の瞳が見開かれる。

正直彼は、とてもこのままでは加賀に認められたり褒められたりという―――選抜に選抜を重ねて能力の優秀な一握りのエリートのみとなった世の提督が秘書艦にやられている『ちやほや』とか『おさわりオッケー』とか『ケッコン』に至る前の段階すら踏めないと思っていた。

 

何せ自分は素行も良いとは言えないし、指揮能力の高さが尊ばれる日本海軍の実働舞台の指揮官に於いても屈指の戦下手だということを、この男は知っている。

彼にあるのは雪風と某カードゲームをやった時、揃えたら勝ちの本体とパーツを揃えて初手で引き分けにしてしまう程度の運でしかない。

 

有り体に言えば、運と軽視に軽視を重ねられている補給線構築の能力しかないのだ。

 

「…………ありがと」

 

「?」

 

女性の平均よりは高いとは言え、自分より背の小さい加賀に励まされる

己に情けなさを感じつつ、提督は箸を揃えて膳に戻す。

 

頭の上にクエスチョンマークを浮かせているような、所謂『はてな顔』を眉の動きだけで表しながら、加賀もまた膳に箸を戻した。

 

食事のペースを合わせていてくれたのか、幾度となく共に同じ釜の飯を食ってきたから合ってしまったのかは定かではないが、この二人は何となく息が合っていることは確かであろう。

 

「俺、加賀さんが初期艦で良かったよ。加賀さんじゃなかったら、正直ここまでこれてない」

 

「…………そうかしら」

 

プイッと顔を逸らして提督を視界から外し、加賀は二膳を持って椅子から腰を浮かした。

常とは違う早口で答え、なおかつ珍しくこちらを見ないで返された答えにビビっている提督の様を知るよしもなく、加賀は激しく脈打つ心臓の鼓動を感じつつ執務室を出る。

 

人ではないにも関わらず、人の物らしい鼓動がとくん、とくんと過剰に響く。

膳を間宮食堂の厨房で洗って返却し、加賀は赤城との共同部屋である一室、通称一航室へと戻った。

 

「…………とっても嬉しかったのに」

 

何で私は、あんな返事しかできないのか。

 

私もあなたが提督でよかった、と。彼女は本心を包み隠すことなくそう返すべきだったろう。

 

「加賀さん、どうでしたか?」

 

「起きていたのね、赤城さん」

 

一応深夜という非常識な時間帯に帰ってきたと言う自覚が有るため、彼女は電気をつけていなかった。

てっきり、数年来の僚友・赤城が寝ていると思っていたのである。

 

「いきなりあんなことを呟いたことと加賀さんの性格を合わせて考えると、あんまり進展がないとは思いますが……」

 

「……隣に座れて、一緒にご飯も食べられて幸せでした」

 

「まあ、だいたい予想通りですね」

 

赤城の目算によれば、提督は加賀に惚れていた。ベッタベタに惚れていた。

この南方海域を制圧する際の最終決戦後、加賀が大破して帰還した時にいつもの明るさとは真逆とすら言える暗さと狼狽っぷりを見せたのは記憶に新しい。

正直、彼は誰であろうが大破しようが労ったり充分な休養を取らせたりはするホワイトな提督だが、どんな時であろうと決して狼狽することはなかったのである。

 

少なくとも加賀が艦娘たちの中でも一つ頭抜けて大事な存在であることは、これで確定していた。

後はまあ、普段の挙措とかの端々から読み取れる緊張や強張りのようなものから推測すればいい。

 

「……幸せでした」

 

「純朴ですねぇ……」

 

赤城も恋愛慣れはしていないが、それでも加賀よりはマシなことだけは確かだろう。

何せ、何年も共に居て、好意を持ってからはや一年が経とうというのに隣に座るだけで満足しているような化石より、垢抜けていることは確かだった。

 

「うかうかしてると他の娘に取られちゃいますよ?」

 

この脅し文句がないと、加賀は永劫隣に座れるだけでまんぞくしてしまう。

そして提督もまた、『自分とじゃ釣り合っていない』という卑屈且つ妥当な判断によって片想いでもいいという結論に達していた。

 

つまり、彼女が前に踏み出さない限りは秘書艦と提督という職務上の一線を越えることができないのである。

 

もぞもぞと布団の中に身体を潜らせ、抱き枕に足と手でもって抱きつき、加賀は少し頷いた。

 

「……わかってます」

 

「恋人になれるように、頑張ってください」

 

空母の視力は暗い中でも表情の機微がわかるほどに優れている。

抱き枕に鼻から下をうずめて鬼灯のように赤面している加賀の愛らしさニヤニヤしつつ、赤城は静かに眼を閉じた。



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七話

彼の鎮守府は、恐ろしく平和だった。

 

索敵の名手である千早隊が鎮守府近海の索敵に赴き、潜水艦隊が哨戒と敵の補給線を切断しに行っている。

にも関わらず、今まで近海の警備にあたっていた駆逐艦は久しぶりに授業に勤しみ、非番の軽巡は街へと繰り出していた。

 

戦艦が居ないこの鎮守府に於いて最大の砲火力を持つ重巡は一応有事に備え、非番の軽空母は昼間から酒盛り。

 

三ヶ月かけて補強されてきた敵再建艦隊を粉微塵に叩き潰したこともあり、どこか浮かれたような気分が蔓延しているような事実は否定できないだろう。

 

だが、そんな中に居ても常と変わらない仕事をこなす者達は存在していた。

 

「提督、ヒトフタマルマル。昼食の時間です」

 

「あと少しで終わるから、飯はその後で」

 

所謂ホワイトな職場である彼の鎮守府は、一部がこなすブラックな量の仕事を漂白剤として保たれている。

 

出撃するにも、書類が要る。

開発するにも、書類が要る。

泊地を潰すにも、書類が要る。

艦娘を休ませるにも、書類が要る。

 

何をしようが書類が要るのが、大日本海軍独立任務艦隊―――南方鎮守府の実情だった。

これに忙殺され、提督は娑婆に出られない。外に出たらフレンドリーな移民の外国人のお姉さんが居るのに、出られない。

 

深海棲艦によって占領された土地に住んでいた元々の国民は一人残らず殺されている―――らしい。現に死体こそ見つかっていないものの、滅ぼされた国の民は忽然と消えていた。

 

そういうところは仕方ないので、大日本領になっている。

アメリカもやっていた。イギリスもやっていた。ドイツもやっていた。

 

この世界で力を持つ四カ国が公然とやっている以上、抗議することなど出来はしない。

 

第一にする者が居ないのである。

 

そして、世界中で枯渇しつつあった資源は、深海棲艦が発生してからと言うもの急速に再生しつつあった。

 

問題はその資源地は深海棲艦によって占領されないと再生しない上に、占領された土地を奪い返さねば確保できないことであろう。

 

領土を拡大するのは当然となり、対人戦でないが故に罪悪感もない。

皮肉なことに、停滞して萎んでいくだけだったこの世界は異形種との戦争で文明を破壊されたことによって活性化しつつあった。

 

失われた技術はある程度取り戻され、領土も増えて資源地も得る。

人は血を流さないし、国家的に見れば深海棲艦様様とすら言えた。

 

「終わったぁー!」

 

「お疲れ様でした」

 

一昔前までは極論を言えば、工廠がなくとも艦娘は鋼材・燃料・弾薬・ボーキサイトの四種を素養のある者―――提督と呼ばれる者に捧げさせ、一晩寝かせればできる物でしかなかったのである。

 

後はそれを操れる人を確保して特攻させれば、追い詰められても最悪何とかなるのだ。

この思想の全盛期、艦娘は石垣でもなければ堀でもなく、ただの弾だったといえる。

 

が、そういう事を繰り返すと付近一体で建造ができなくなることと、艦娘が死に続けた激戦区で深海棲艦が湯水のように湧くことが判明。現在は自粛ムードにあった。

 

無論、完全に止めたわけではない。進むに連れて練度の高い艦娘が要求されることがわかったが故に肉弾を壁にぶつけ続けて突破する。

このような方法が時代遅れとされただけでしかなかった。

 

あと、提督が寝てる最中に艦娘に殺されることが頻発した。

何故寝ている最中であったのかは察してもらうとして、これは正直政府にとっては痛く、直々に『腹心くらい作っておけ』との有り難い命令が下る事になる。

 

嘗て一時代を築けるほどに隆盛を極めた『肉弾を壁にぶつけ続けて罅入ったら更にぶつけて無理矢理突破』という日本軍の伝統芸能は廃れた。

 

なくなったわけではない。

 

繰り返しになるが、なくなったわけではないのである。『やるなら国民にバレないようにな』と言われただけで。

 

初期は大事にされ、生産方法がわかってきた中期は肉弾と粛清、現在は初期と中期の半々。

このブラックな業務を強いられている提督は初期組にあたった。

 

「加賀さーん」

 

「はい」

 

提督に配布された名状しがたいノートパソコンのような何かを弄くりながら、提督は情けなさを前面に押し出して加賀を呼ぶ。

彼の艦隊は中期に起こったビックウェーブに乗っていないだけあって、空母以外の練度もそこそこ高かった。

 

主力空母四隻は何れも練度八十を超えており、艦載機も索敵用の彩雲(千早隊)、制空用の烈風改(志賀隊)、爆撃用の彗星(江草隊)、雷撃用の流星改(村田隊)らに代表される、かつてのエースの名を冠したエリート部隊で固められており隙がない。

 

練度は五十を超えてから上がり難く、下手をすれば練度一から出撃千回を超えても七十に行かないことを考えれば、主力四空母たちが初期から黙々と戦っていたが故のアドバンテージだと言える。

 

常に旗艦を張る加賀の九十九、赤城の九十一、蒼龍の八十三と飛龍の八十四。

所謂四天王めいた主力四空母が、戦艦が居ないこの鎮守府の主力だと言えた。

 

「栄転、断ったらしいね」

 

「はい」

 

彼女には、栄転の話が来ている。と言うより、初期から居た六隻にはこれで全員来たことになる。

主力四空母プラス木曾と鈴谷。この六隻は練度で言えば全世界から見ても頭一つ抜けていた。

 

主力四空母は上記のとおりだが、木曾も練度八十一、鈴谷は八十。

 

大本営が各地の鎮守府で強権を持つ提督達の反乱対策に直属の戦力を集めていることを考えれば、声が掛かるのも当然な練度。

そして、百戦どころではない戦いを経て磨きあげられた『ネームド』と呼ばれる艦載機達。

 

まず木曾と鈴谷に声が掛かり、二航戦の蒼龍飛龍に声が掛かり、赤城に声が掛かり、それで軒並み断られて加賀に来た―――らしい。

 

と言うよりは、この加賀提督は一般的な提督がやる『大本営の勧誘に対して応じないようにする』するというような戦力保持を一切しようとしないから、艦娘に直接届けられる系の事例に関しては自然と疎くなっている。

 

彼は別に『寂しい』と言う感情がないわけでない。

が、大本営に行った艦娘は悠々自適なVIP待遇で迎えられていることを知っているが故に、敢えて引き止めないのだ。

 

「勿体無いね。栄転ってのは全艦娘の憧れでしょ?」

 

「別にそういう訳ではありません」

 

提督は陰気で卑屈な癖に、意外と人を恨まない質なので忘れているが、大本営は一回六隻プラス一人を殺そうとしているのである。

 

それが練度が上がったからと言って誘ってきたとしても初期の六隻の脳裏にはよぎる感情は、

 

 

どの面下げて来ているのか?

 

 

と言う怒りが先に立っていた。

 

というより、その厚顔さを真に怒るべきは素質があるからという理由の徴兵で強制的に巻き込まれた末に殺されかけたことを忘れている提督なのである。

艦娘は戦わねばならないが、彼は別にそういう訳ではないのだから。

 

時々六隻の前で『大本営も悪かったと思ってるんじゃないかな』と言っているあたり、彼女等が殺されかけたことは忘れていないらしいが、完全に自分のことは彼の頭から抜け落ちていた。

 

「なら、どういう訳?」

 

「……あなたは、その」

 

外面的には、鉄のような無表情を保ちながら。

内面的には、心臓と乙女心に早鐘打たせながら。

 

加賀は、俯きがちに声を絞り出す。

 

「私が一緒に居ないと、すぐに負けてしまいますから」

 

「そりゃまあ、そうだな」

 

苦笑しつつ自身の戦下手を認めた提督は、笑っているが故に気が付かなかった。

加賀の顔が凄く乙女らしい表情に変わったことに、気が付かなかったのである。

 

「だから、ずっとあなたを支えてあげます」

 

「…………」

 

押し倒してやろうか、と。

耳まで真っ赤にしながら俯いている加賀から目を逸らしながら、提督は一人心の中で呟いた。

 

こういう時折見せる曖昧な言動と、その曖昧さに気づいている為に出る初心っぽい可愛さが自分の魅力だと勘付いているのかいないのかはわからないが、どちらにしても確かなことは、殺人的な破壊力を持っているということであろう。

 

「それは、どういう意味で?」

 

「…………知りません」

 

からかい気味に真意を問えば、大抵彼女はそっぽを向く。

この時もその例外ではなく、それはいつもの性格的な不器用さ故の曖昧な言動―――だと少なくとも彼は捉えていた―――であることの証左であるように見えた。

 

実際のところ彼女の曖昧さは素直になりきれず、突き放したくもない為にほんの少しだけ本音を出し、重ねて本意を問われるとそっぽを向くと言ういつもの行動による。

 

要は、今まであたかも『仕事以外であなたに対して含むような感情はありません』とでも言うべき態度をとってきた自分がいきなりそんな痴態を見せるのは恥ずかしい、という感情の発露だった。

 

「……じゃあ、今後とも秘書艦としてよろしくね」

 

「無論のことです」

 

例え恋が破れても、尽くしたいという気持ちが変わるわけではない。

秘書艦としての、恋してしまった女としての献身と忠誠は彼が他の娘に懸想しようとも変わるものではないだろう。

 

そうなった時を考えるだけで胸が張り裂けそうになるし、目の前の景色が色褪せ始める。

だが、それが彼の幸せならそれを守りたい。

 

守った末に少しでも自分が彼の記憶に残れば、それだけでよかった。

 

彼女の愛は、非常に献身的なものであろう。だからこそ、関係が一向に進まないとも言えるが。

 

「……加賀さん?」

 

提督はそんな彼女の纏う、思考に引き摺られた暗い雰囲気を察した。

何か自分が粗相をしでかしたのではないかという可能性が、『秘書艦としてよろしくね』と言った後だけに彼の脳裏を激しく掠める。

 

元々明るさとは縁遠い暗く、自虐的―――或いは身の程を知り過ぎている性格であるからか、この辺の機微の予想の暗さには一貫性があった。

 

「……はい」

 

「あの、秘書艦が嫌になったら誰かに漏らす感じでもいいから、言って。俺も無理させる気はないからさ」

 

「嫌ではありません」

 

本人的には慌てて、提督的には大きく頭を振り、加賀は自身に纏わりつく暗さを払拭する。

 

この二人が完璧に意思を通わせるには、相当な時間が掛かりそうだった。



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八話

「鎧袖一触よ。心配要らないわ」

 

その日の彼の秘書艦は、いつもとは違う、だがよく似ているように仮装した女性だった。

迷彩柄の暗い紺色の服状艤装に身を包み、目の色は少しダークな深緑。髪型こそ似ているものの、髪の色の黒と言い切るにはグレーに過ぎる。

声も違うが何よりも、胸部装甲のボリュームが減っていた。

 

それは、仮装ではどうにもならない格差と言う奴だった。

 

「94点だなぁ……」

 

イントネーションと常のジト目、髪型の再現率の高さと立ち姿。

それらのプラスを加え、僅かに目立った粗で引き、提督は脳内のソロバンで採点を叩き出す。

 

「うーん」

 

いつもの秘書艦ならば絶対にしない、困り声と共に頭をポリポリかくというコミカルな動作を見、提督は目の前の秘書艦の名を声に載せた。

 

「まだまだだな、瑞鶴。ジト目は素晴らしいが、それだけだ」

 

「ソムリエからするとまだまだかぁ……」

 

翔鶴姉からは大絶賛だったんだけどなぁ、とこぼしつつ、瑞鶴は少し首を捻る。

加賀の真似をするのは、謂わば瑞鶴の一発芸のようなものであった。

 

何故一発芸なのかと問われれば、別に加賀の真似が面白いから真似しているというよりも、『皆が知っていて、なおかつ特徴的な個性を持つ』という条件を過不足無く満たしているからである。

 

「加賀さんはこう……言い方に冷たさと熱さが混ざってる感じなんだよ」

 

「……『私は戦うのが好きと言うより、勝つのが好きなのだけれど?』」

 

空母の殆どが一度は大破し、加賀すらも深海棲艦の最期の大反攻の前に大破に追い込まれたという凄まじい激戦以来、鎮守府警備が主である彼女らしいネタのぶっ込み方だった。

 

そして何より、言い方が加賀らしいアクセントであり、何よりもジト目が巧い。

 

その咄嗟の言い回しと発音に座布団を一枚やろうとした、次の瞬間。

 

「「?!」」

 

バタン、と。まるで蹴られたかのような衝撃が木製のドアに掛かり、壁にドアノブをぶつけて幾多も跳ねながら扉が開く。

 

午前の分の仕事を終わらせたとは言え、恐ろしく雑談めいた会話を行っていた自覚のある提督と瑞鶴は、喋りの合いの手をピタリと止めて扉の方へと振り向いた。

油を差していないブリキ人形のような軋みが似合う動作で振り向いた先には、怒りと何かに燃える琥珀のジト目。

 

「何をしているのかしら」

 

逃げよう。

目を合わせるまでもなく、言葉を交わす必要すらなく、提督と瑞鶴は同時に決断を下した。

 

ガラリと窓が開き、黒い軍服と迷彩柄が宙を舞う。

 

「提督さん、こっち!」

 

「従おう」

 

脚にも付いているものの、だいたい騎士鎧のような胸当てと左腕に装着した飛行甲板からなる艤装を空中で装着して身体能力を上げた瑞鶴の指が東を示し、提督は反論もなく追従した。

 

窓から飛び降りることを周到に予測し、予め衝撃吸収マットを置いていた彼の判断が功を奏した。

艤装を纏えば飛躍的に身体能力・耐久力を増すことのできる艦娘とは違い、彼は生身の人間である。窓から飛び降りればただでは済まない。

 

だが悲しいことに―――八割方自業自得だが―――大抵逃げ場所は窓しかないのだ。

 

「…………」

 

切れ長な鷹の目から放たれる琥珀色の眼光が背中に突き刺さっていることを察しながら、加賀いじりコンビは逃げ出す。

 

背中に突き刺さっている眼光が消え、瑞鶴の鼓膜を階段を降りる時特有のリズミカル且つ硬質な音が打った。

何故か、窓から飛び降りなかったらしい。

 

慢心か、余裕か、それとも階段を降りた方がよいと誤ったのか。

理由がどれにせよ、逃げる方からすればそれは僥倖である。

 

「……加賀さん、いつもより怒ってない?」

 

「いつも怒ってるかな?」

 

逃げ切った訳ではないにしてもだいたい巻いた感があるからか、提督と瑞鶴は僅かな心的余裕を見せていた。

 

「只管こちらを見ては逸らし、見ては逸らしって怒ってるんじゃないの?」

 

「……まあ、提督さんからしたらそう思うかもねぇ」

 

ニヨニヨとからかう様に笑い、これまた初期型の艦娘である瑞鶴は頭の後ろで腕を組みつつ歩みを進める。

彼女の聴覚は、意識を集中させることで明敏さを得ている。つまり、他の事例に意識を割いていてはその本来のポテンシャルを出し切れなかった。

 

だから、だろう。

進行先にはためく青の接近に、全く気がつけなかったのは。

 

「仲が良さそうですね、あなたたち」

 

視線を向けたもの全てに湿気を振り撒きそうなほどにジットリした瞳が、完全に二人の足を止めていた。

 

常は彼女の澄んだような純粋さに宝石を思わせる瞳は怒りよりもドス黒い何かに濁り、纏う雰囲気は最早魔王のような威圧感がある。

ただし、流石に急いだのだろう。

少し袴のスカートが捲れていて黒いニーソックスからはみ出た柔らかそうな太腿がその白さをより多く、白昼に晒していた。

 

「戻りましょうか」

 

「……はい」

 

微妙な空間のブレにより、『これ以上抵抗すると艤装出しますよ』という圧力を掛け、加賀は瑞鶴と並んでいた提督の手を掴んで引っ張り出す。

空気を読んで職務を放棄して逃げ去った瑞鶴に鋭い視線をやり、再び彼に視線を向けた。

 

「……加賀さん、質問」

 

「何?」

 

明らかに不機嫌且つ、眼の琥珀色が澱んでいる。

手を掴んでいる柔らかさに意識を遣る暇もなく、好きな人と計らずとも手を繋げているという喜びを感じる余裕もなく、彼は一番の味方であるはずの目の前の女性に恐怖していた。

 

「な、何で休日なのに、鎮守府に居たのかな?」

 

「…………」

 

無言を貫き、ただ進行方向を見据えながら歩くその姿から読み取れるのは、完璧なる無視。『あなたなんて眼中にありません』と言わんばかりのガン無視である。

 

(やっべぇ……)

 

辛うじて取り繕っている人格で居たが為にこの程度で済んだが、本来の後ろ向きな性格だった時にこの無視を喰らった場合、下手をしなくても致命傷であった。

 

どんどんマイナス方向に加速していく思考を破るように、一本の針が突き刺さる。

 

「……あなたと居たかったんだもの」

 

澱んでいると形容に相応しい、ドロリとした嫉妬の感情がこもった瞳を元のものへと戻しながら、加賀はポツリと呟いた。

 

負の方向に加速していく思考に注力していたが為に加賀の言った台詞の内容こそ聴き取れなかった物の、彼にとっては加賀が何かしらの言語を喋ってくれたこと自体が嬉しい。

 

「ごめん、もっかい言って?」

 

「……………何でもないわ」

 

犬の尻尾のようにふさふさと揺れ、濡れた烏の羽根のような淑やかな黒さを持つサイドテールが黒い軍服ごしの腕に凭れ掛かる。

この頃になると、彼も心理的な平衡感覚を取り戻していた。

 

彼の意識は加賀の柔らかな白い掌に向き、そのもう二度と味わえないであろう感触を一刻でも長く感じていられるように、思い出せるようにと、丹念にその掌に自分の手を吸い付ける。

 

怜悧な雰囲気とは裏腹の吸いつくような柔肌に感服しながら、提督は鎮守府の本館までの道程をダラダラと歩いた。

怒られるかと思いきや、加賀の歩みも非常に鈍い。そして恐らく、思考もかなり鈍化している。

 

だから、だろう。

 

「あのさ、加賀さん」

 

「?」

 

「手。いいの?」

 

周りで友達同士で歩いていたり、姉妹同士で歩いていたり、更には速さに任せて突っ走っている艦娘すらもこちらに注目してきている理由に、彼女は全く気付かなかった。

 

「手?」

 

右手を上げ、異常なし。

左手を上げ、吊られるような形で提督の手まで持ち上げた途端、加賀は今まで自分がしていたことにあっさり気づく。

 

手を、繋ぐ。

 

それはつまり、肉体的な面での接触。

恋人達の間での、スキンシップの第一歩。

夫婦が歩く時に、すること。

 

「…………」

 

慌てたような素振りを見せずに振り払い、左手を見るからに安産型のけしからんお尻の後ろに隠し、彼女は一歩、二歩と後ろに下がった。

 

外見上はともかくとして、彼女の内心での動揺は凄まじい。

まず最初にあたかも恋人になったかのような歓喜と抑え切れない高揚が生まれ、自分以上に親しげに話していた瑞鶴への嫉妬を押し流す。

これにより、ものの数秒で挙式までの妄想ルートが完成。

 

ここで妄想ルートに舵を切った気分高揚中の九割九分に対し、残りの一分が現実という名の冷水を浴びせて沈静化。妄想ルートの幸福と現実との差異によって気分が塞ぎ、塞いだ瞬間に九割五分が『手を繋いだ』という事実を突き付ける。

 

これに関しては全く疑いようのない事実なので残りの五分も沈静化のしようがなく、これまで年単位で月日をかけても一向に進まなかった関係が進展したことに小躍りしたところで、再び五分が現実という名の冷水を浴びせた。

 

手を繋いだのは、合意の上ではない。心理的な動揺と高低差によって随分昔に思えるが、瑞鶴から引っぺがす為に自分が彼の手を掴んだだけ。

そして、それを今提督が指摘したということは、彼は手を繋いだ状態を歓迎していない。

 

ここまで来て、やっと現実時間での一秒が経過する。

 

激しく気分のハイ・ローを繰り返し、一周回って客観視が可能となった彼女の思考は落ち着いていた。

そしてあくまでも冷静に、彼女もまたマイナス方向に加速していっていた。

 

(……嫌われているのかしら)

 

そりゃあそうだろうと、自分でも思う。

面倒くさいし、煩いし、無表情だし、愛想もない。色気もなければ魅力もなく、素直さもないし可愛げもない。

 

何より自分は、人ではない。

 

「提督」

 

「何?」

 

内面は色々と陰鬱且つ泣きそうな程の悲しみに満ちているが、彼女の声と表情だけはいつも通りのフラットなものだった。

 

そしてここでまた、彼女の複雑な内面が牙を剥く。

 

『ここで、私のことは嫌いですかと聞いて、嫌いだと言われたら?』

 

他の女の子と仲良くなっても、いい。嫉妬はするだろうが、いい。

 

だが、嫌われたら?

嫌われたら、自分はどうする?

 

お前なんて、嫌いだと。暗に含むような曖昧な笑みで返されたら?

 

「どうしたの?」

 

自分から話を振り、振って何も話さず黙り込む。

そんな身勝手さに、彼はきっと呆れている。

 

今は気遣ってくれているが、きっと彼にも呆れられる時が来るのだ。

 

「……提督は」

 

そんな焦燥感が身を焦がし、加賀の思考を曇らせる。

そう言ったきり何も言えない加賀を見て、彼は珍しく彼女の内面を察知した。

 

「焦んなくていいからさ。歩きながらゆっくり考えなよ」

 

歩き出しても、付いてこない。

振り払われることを覚悟で柔肌に触れ、提督は数分前に自分がやられたように、少し強めに彼女の手を掴む。

 

「ぁ……」

 

かわいい。録音して無限再生したい。

そんな変態じみたことを考えさせる程に愛らしい声が、思わずといった様子で彼女の小さな口から漏れた。

 

「急かしてごめんね。ちゃんと待つからさ」

 

それが例え何気ないことでも、喋るのが苦手な人にとっては苦行というか、辛い。

急かされると尚更気だけが急き、意識と身体が乖離する。

 

彼はただ読み取れないだけで、加賀がただ無感情なだけの女ではないということを知っていた。

更には、割と感情の起伏が激しい方なのではないかというところまで掴んでいたのである。

 

だからこそ、その辛さがわかった。立場が違いすぎるから例えとしては不適切だが、本気で好きな相手に本音を出せないのは、辛い。

 

彼だって、加賀の前で素になりたい。本当の自分を認めてほしい。だが、そんなことを諦めきっているから言葉に詰まらない。

 

自分並みかそれ以上に不器用な彼女には、そんな風になって欲しくなかった。

 

「無理に喋らなくたっていい。言いたいと思っても言葉が出なかったら、そのまま濁したっていいんだよ」

 

彼等はまだ、すれ違っている。互いの気持ちには気づかず、自分の気持ちにしか気づいていない。

 

しかし、この時恐らく、ほんの僅かだが進歩があったのだ。

 

「……ありがとうございます」

 

「気にしなさんな」



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九話

名を呼ばれ、振り向いた瞬間唐突に。

 

「……動くな」

 

両肩にゴツゴツとした手が載せられ、加賀は少し怯んだように後ろに下がった。

 

彼女は修羅の国かと勘違いされる程の地獄を生き抜いてきた旧来の艦娘にありがちな型である、『揚陸された時用の』体術及び白兵戦の達人である。

正直、彼女が最前線で補給も乏しく戦っていた頃は敵深海棲艦に上陸されるところを何とかしろ、という任務のパターンが多かった。

 

無駄に撃つ弾はない。

牽制に撃つ弾はない。

一撃必殺で行かねば、嬲り殺される。

 

故に、自然と喧嘩めいた乱雑な体術と一撃必殺の射術が身についた。

勿論、身につかない艦娘たちは深海棲艦によって殺されていっている。

 

そんな彼女にかかれば、今肩に手をかけている男など鎧袖一触に投げ飛ばせるはずであった。

 

「目を逸らすな」

 

だが、彼女ができたことと言えばただ目を逸らしてその場から意識だけでも逃がそうとすることくらいである。

そして、それも直ぐ様潰されてしまった。

 

「俺を見ろ」

 

日本人らしい黒眼と黒髪。自分より高い身長と、何だかんだ言いつつガッシリとした体格。

提督を見上げるように、加賀はおずおずと視線を戻す。

 

彼女は、案外と人の頼みを断われない女であった。

そして、心を許した存在からが押してくると極端に弱くなる。

 

心を許している提督からの肉体的な接触と、相変わらず全く霊的強制力を持たないものの何故か従ってしまう女としての従順さ。

それが、彼女の身体を縛っていた。

 

「…………うん、正常」

 

白い弓道着めいた服から手を離し、肩を一回叩いて一歩下がる。

確かな意思を感じさせる琥珀色の瞳をじっくりと覗けば、そうでないことはひと目でわかった。

 

「……今のはどういうことかしら?」

 

僅かに乱れた呼吸を深呼吸して整え、早鐘を打つ心臓を瞑目することで通常に戻す。

内心の動揺を感じさせない強い意思を湛えた眼が、提督の身体を鋭く射抜いた。

 

「いや、深海棲艦が擬態能力を身につけたという報告が上がっていてね」

 

「擬態?」

 

三日前。国内でも有数の巨大な施設を持つ鎮守府である横浜鎮守府が突如来襲した深海棲艦に襲われて潰滅寸前の被害を被った。

それと前後して提督が秘書艦に刺殺され、出撃用の艤装を纏う為の機構が最新鋭の爆撃機によって破損。

 

この先制攻撃によって指揮官と武装を失った横浜鎮守府は、ろくな抵抗もできず叩き潰されたのである。

 

壊された鎮守府は放棄が基本だとはいえ、壊されたのは国防の要である横浜鎮守府。

 

おいそれと放棄するわけにもいかず、現在は育成中の提督候補生と呉・大湊・佐伯から派遣された艦娘たちが再建に掛かっていた。

 

「……それは、私に伝えていいの?」

 

「うん」

 

横浜鎮守府の惨劇を聞き、眉を一つ動かした加賀は極めて冷静な問いを投げた。

 

無論、平静なわけではない。同胞が殆ど無抵抗なまま殺されたことに対する同情と、敵に対する怒りはある。

だがそれは、人がテレビで殺人事件の報道を見た時の気持ちと何ら変わりない。

 

つまり、それより何より彼の無防備な意識が問題なのだ。

 

「私に対して何も伝えず、きちんと精密検査を秘密裏に行うべきです」

 

自分の不器用さを気遣い、受け入れてくれたこともあり、加賀が抱く密やかな恋慕は一層濃いものになっている。

己を知り、受け入れてもらうということこそ、彼女が恋愛において求めるものだった。

 

人ではない自分を人のように扱ってもらい、更には内面を認めてもらったことは、彼が彼女の心を占める割合が増している現象の一助となっていたのである。

 

「あなたは些か軽率に過ぎます。もう少し強かに振る舞うべきです」

 

そして彼女は彼を大事に思うが故に、少し煩く注意を促した。

 

「軽率ってわけじゃなくて、君を信じてるんだよ。君が居なきゃ俺は何も出来ないからね」

 

「…………そう」

 

加賀はツン、とそっぽを向く。

直接的な信頼の言葉が恥ずかしかったということもあった。

 

だがそれより何よりも、無言で示してくれた『加賀は裏切ることはない』という盤石な信頼が嬉しかったのである。

 

「………………」

 

それを見た提督は、左右の指の第一関節同士を打ち合わせ、鳴らした。

彼が真面目に考えている時の、特有の所作である。

 

「どうかしましたか?」

 

「…………いや、似てるなー、と」

 

「他の『加賀』と、かしら?」

 

ならば、似ている似ていると言う必要もない。

そんなことを思いつつ、加賀は自分の中で最適と思える問いを投げた。

 

提督の表情には、珍しく懐古の念が滲み出ている。

彼が懐古するということは、殆ど確実に南方に引きこもる前に出会ったということになるだろう。

 

何せ、現在唯一とすら言えるほどに希少な連絡を取り合っている提督であり、同じく北に引きこもっている長門提督は空母を持たない。

軽空母は何隻か持っているらしいが、兎に角別な『加賀』はあちらに居なかった。

 

そもそも、この加賀は自然発生型。その中でも最古で最初の『加賀』である。

他の量産型とは違い、今までどれくらいの自分の分体とも言えるクローンたちが死んでいったか、あと何人生き残っているかもわかる。

 

旧型の加賀は自分を除いて全て海色に溶け、残るは新型の自分が何人か。

この沈んだ中に提督と出会った『加賀』が居たのかは、わからない。

だが、新型と顔を合わせる機会はなかったはずだ。

 

であるが故にその沈んだうちの誰かが提督と接触したのであろうと、思っていたのだが。

 

「あれは加賀さんじゃなかったよ。雰囲気が似てるだけで」

 

「?」

 

むっとしたような思案顔でコテンと首を傾げ、加賀は仕事をしながら思案に耽る。

自分がこの世に現れた最初の艦娘の一員であり、最初の加賀であることに対しての疑いはなかった。

同じく相棒の赤城や後輩とも言える二航戦の二人、木曾と鈴谷も最初の艦娘―――数多居た自然発生型の中でも正式なオリジナルである。

 

「いつ会ったの?」

 

「君たちが来る前の横浜空襲で」

 

横浜空襲。連合軍が大敗北を喫し、制海権を握られる事態になった人類が、制空権までもを奪われることになった一連の空戦の果てに行われた各国の大都市に向けて行われた空襲の一部。

 

日本で狙われたのは札幌・仙台・大阪・東京・横浜・京都・神戸・呉・北九州・宮崎・那覇など。死傷者は万を超え、未だに正確な犠牲者は数え切れていなかった。

この提督は、深海棲艦機動部隊に標的にされた横浜に住んでいたのである。

 

「……ごめんなさい」

 

嫌なことを思い出させてしまってごめんなさいとでも言うのか、出てくるのが遅くてごめんなさいとでも言いたかったのか。

艤装を纏えば飛行甲板が装着される方の腕を逆の手で掴み、己の無力を苛むような、身を切るような謝罪。

 

それは如何にも根が真面目で責任感が強く、気に入った対象にはとことん甘い彼女らしい無念さ溢れる物だった。

 

「いや、別にいいよ。家族とかは無事だし」

 

その頃から既に豪運を発揮していた彼は、横浜に居ても傷ひとつ負わなかったし、両親は父方の実家である甲府に行っていたから、実質彼の親族に死傷者はでていなかった。

 

「俺の上に変なのが幾つも浮かんでから、こりゃ死んだかなーと思ったんだけどね」

 

「それは、敵の艦載機ではなかったの?」

 

「いや。爆弾落としてこなかったし、ちょっとありえないほどの美人が庇ってくれたりして、死ななかった」

 

今確認されている深海棲艦は、日本語にかかわらずあらゆる言語が辿々しい。

一方で、その美人は『それっぽかった』が、日本語が極めて流暢だったのである。

 

「探してはいるんだよ。空襲が終わって、親と会う直前まで居てくれたから幻では無いと思うんだけど」

 

「…………む」

 

その似たような美人に感謝する気持ちもあるが、彼女としては嫉妬の方が先に立った。

乙女心と理性の二律相反、というやつであろう。何にせよ、彼女は案外単純な性格であり、かなり重度のヤキモチ焼きであった。

 

「何故怒る」

 

「怒ってません」

 

「というか、案外君は感情豊かなの?」

 

「私は至って冷静です」

 

感情が豊かなのかと問い、冷静ですと返ってくる辺りに彼女はかなりムキになっている。

自己嫌悪から悔恨、それから怒り。謎且つ激動の変遷を見せる加賀の感情は、提督に理解し切れないものだった。

 

「冷静に自己嫌悪しています」

 

「ああ、戻ったのね」

 

結局怒りらしき感情は一週回って自己嫌悪に還り、止まったらしい。

全く以って道程はわからないが、彼女の機嫌状態が怒りでなくなったことは提督にとって素直に喜ばしいと言える。

 

「……その方には私からも感謝を表したいものです」

 

結果的に嫉妬心を殺し切ることに成功したのか、加賀は素直にその似たような美人とやらを認めた。

 

勿論、己は人ではないというコンプレックスから生まれた『できれば見つかって欲しくない』というような考え方は捨てきれていないが、それを求めるのは酷というものだろう。

誰もが誰も、聖人のようにさっぱりしているわけではない。彼女はあくまでも好きな人に好かれたいだけで、ライバルを増やした上で手に入れたい訳ではなかった。

 

有り体に言えば、なるべくストレートに、浮気を防止する為にも彼の選べる答えを自分以外なくした上で手に入れたいのである。

 

(卑怯かもしれないけれど……)

 

恋愛も特定のものを奪っている以上、戦いと何ら変わりない。

戦いに卑怯も糞もないと、彼女は身に沁みて知っていた。

 

「てことで加賀さん、横浜行くから用意。頼むよ」

 

「私も?」

 

「うん。秘書官も同伴するようにってことらしいよ」

 

二つ指で挟んだ書類をひらひらと見せ、渡す。

 

元々、提督となれる素養を持つ者はそう多くない。

 

相手方が進化したらしいということを、より詳しい状態で共有することが求められていた。



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十話

「…………」

 

「…………」

 

提督と加賀は、無言で船に乗っていた。

船が船に乗るという珍妙な事態が起きているが、互いにそんなことを気にしている暇と余裕はない。

 

「…………あの」

 

「……何かな?」

 

やっとこさ彼が確保し、危険となる深海棲艦の泊地や発生地点を潰して回っただけあり、このフィリピンから本国へと続く航路は安全である。

 

泊地と発生地点の違いは、ダンジョンとポップ地点の違いだと考えてくれれば良い。

泊地は統率された深海棲艦が支配している基地であり、発生地点は深海棲艦が生まれる場所であった。

 

泊地から発生地点へと定期的に深海棲艦の一艦隊が向かい、その数を増やしながら泊地に帰還していったという報告もある。

 

つまりは、そういうことなのだ。

 

「赤城さんが、ごめんなさい」

 

「いやもう、仕方ないでしょ」

 

部屋どり間違えちゃいましたー、と直前に言われれば、最早抵抗する術はない。

例えそれが、家族用と言うべき二人部屋に二人が押し込まれているという現状を生み出していようと、仕方がないことなのである。

 

「……でもまあ、一人部屋に二人っていうのよりはマシだよね」

 

「…………」

 

質問に答えることなく、加賀は無言でパタパタと布団を整えはじめた。

正直、別部屋であった方が心理的な緊張を加味すれば楽に暮らせる。だが、二人部屋ならば確実に提督を守ることができた。

 

無論、すごく恥ずかしくて緊張する。しかし、合理性だけで考えるならばこれはこれでありだった。

 

「……」

 

「……」

 

暫く寝台を背に二人揃って体育座りをし、提督と加賀はテレビの視聴に勤しむ。

会話に困るという事もあったし、互いに好きあっているがゆえに完全な様子見状態に入っていることもあった。

 

何より二人が二人共、片割れの隣に居られるだけで充分に幸せを感じられたのである。

 

チラリチラリと互いに向けられる視線を痛い程に感じつつ、二人はひたすら様子見に徹した。

テレビの内容は頭に入れている。頭に入れているが、それよりも気になるものが隣にあった。

 

「あの」

 

「なあ」

 

チラ見合戦と化した様子見状態に耐え兼ね、同時に声をかけてまた沈黙。

赤城の狙いもどこへやら、二人は変なところで息があってしまっている。

 

要は、互いに臆病で不器用だった。

 

「加賀さん、何?」

 

「提督こそ、私に何か用があって?」

 

黙る。

もうどうしようとないほど、この二人は恋愛に対して臆病だった。

 

提督は好き嫌いがハッキリとしていて、なおかつその好悪の情を表に出すタイプの彼女が黙々と秘書官として働き、時に自分のことを気遣ってくれていることから嫌われていないことがわかる。

 

加賀は不器用で無愛想な自分を秘書官から解任しないことからも嫌われていないことを認識していた。

勿論、彼女が得難い戦力であるから気を遣って秘書官を解任していないということも考えられるが、角を立てないように秘書官を日替わり制にするという方法もある。

 

故に、彼が秘書官としての自分を疎んでいるという可能性は低かった。

 

嫌われていないことはわかるが、憎からず思われていることもわからないし、好きだと思われていることなどはもっとわからない。

この中途半端で、一歩踏み出さなくともある程度いい感じでいられる。

そんな曖昧さが、二人の立ち位置と距離にはあった。

 

「風呂、できたな」

 

ピロピロと鳴るアラームが二人部屋に響き、沈黙のときの終わりを告げる。

都合の良いタイミングとは言い難かったが、何にしてもありがたいのは確かだった。

 

「先にどうぞ」

 

「じゃあ、いただこうかな」

 

担いできたバックから予め出していたバスタオルと寝巻き一式を出し、提督は素直に加賀の言葉に従う。

押し問答をしてもどうにもならないし、どうにもならないことを続けても場の空気が悪くなるだけでどうにもならない。

 

その程度は、加賀の心理の機微に疎い彼にも理解できた。

 

「…………」

 

加賀は、提督が風呂に入っている間に無言を貫きながら思考を巡らす。

彼女は、サラシを巻いた上に艤装の一部である弓道着めいた服を着て、袴スカートを巻き、ニーソックスを履いていた。

 

そして寝る時は、基本的にその窮屈さからサラシを外す。つまり所謂ノーブラになっていた。

 

提督が外面から見たバストサイズの数値とはブラジャーを付けていることが前提としてあり、サラシでぐるぐるに縛っているのは完全に想定外だったのである。

具体的に言えば、五センチ未満の誤差があった。

 

即ち、実際はもっとデカいのだ。

 

「……どうしようかしら」

 

何もつけないのは相当にはしたないが、窮屈で寝苦しいのも困る。緩めればサラシが弛んでしまって気持ちが悪い。

 

これといった解決策は、現在のところありはしない。直接今もつけている胸当てを付け、背に回して結ぶ紐で位置を固定するのも有りだが、通気性に難があった。

 

動く時はサラシが要る。動かない時はサラシが無い方が快適である。

 

「……………もう少し、扱いやすい感じな手頃さが良かったわ」

 

重いし、こういう時に扱いに困る。

彼もまた、大き過ぎるのも嫌だろう。

 

「加賀さん、どうぞ」

 

「はい」

 

背後から湯気を上げながら歩いてくる彼を見て、加賀は自分の分の寝巻き一式の中にサラシを隠し持ちながらその場を立った。

軽く鼻を突き抜けるようなリンスの臭いとすれ違い、加賀はドアをきっちりと閉めて脱い所に立つ。

 

開いていたとしても彼にドアから自分を除くようなことはしないだろうが、開けっ放しにしてそういう女だと思われるのも嫌だった。

 

「…………巻くしか、ないようね」

 

痴女になり切って迫れもしないくせに痴女扱いされるのだけは嫌だし、それは自分の柄ではない。

彼女が痴女になり切るには、第一に仕事以外で彼を目の前にした心の余裕と男性経験が必要不可欠であろう。

 

ニーソックスと袴スカートを、肩を見せるようにして服を脱ぎ、加賀は手慣れた様子でするするとサラシを解いた。

こぼれた胸を左腕で抑えながら、下着を脱いで自分用の脱衣籠に入れる。

 

流石に鎮守府に居る時と同じ感覚で脱いだ服一式を共同脱衣籠に入れる訳にはいかないし、何よりも乙女の心がそれを許さなかった。

 

カラカラと扉を開けて湯煙が仄かに残る湯室へ入り、壁に掛けられたシャワーを取る。

バルブを捻り、出てくるお湯に身体を濡らす。

 

「……ふぅ」

 

温い水が身体を包み、白いタイルが敷き詰められた床に脚を伝ってゆらりと広がった。

 

緊張という精神的な要因と自身の部位の重みという物理的な要因で凝った肩がほぐされ、ふやけるようにして忽ち軟らかさを取り戻す。

 

後期型の艦娘にはない、都合の良い疲労回復。一見すればいいことばかりなお湯をかければ肉体に溜まった疲労が抜けるというこのギミックは、初期型の艦娘が磨り潰されて行く原因でもあった。

 

精神的な疲労は、抜けはしない。肉体に蓄積した疲労が全快しようと、攻撃精度と回避能力は下がる。

 

「…………」

 

疲れて、疲れて、疲れ切って。戦果のみを求められ、襤褸でも捨てるように囮にされ、人というものが憎くなり。

何の落ち度も過失もない提督に八当たり、皮肉と毒を吐き続けた。

 

生傷が絶えることのなかった六人の艦娘からの疎外感に耐えながら、彼は何を思ったのだろう。

あの賑やかさと軽さは、その疎外感によって生み出されたのではなかったか。

 

(……わからない)

 

お湯を止め、身体を洗う。

寛ぐ為の湯船を満たすお湯と、提督と過ごす閉鎖空間。

 

この二つが、思い出したくもない地獄での出来事を脳裏に巡らせていた。

 

「…………」

 

バスタオルを胸から脚の付け根を過ぎたところまで巻いたまま湯船に浸かり、口元までを潜水させる。

水中で吐いた息がブクブクと水面に浮き上がり、空気となって還っていった。

 

この行動に、特に意味はない。この世に生まれてから十年もないという経験のなさから生まれたすこしばかりの子供っぽさが、彼女の無意識な行動に現れている。

 

鼻先でブクブクと音を立てている吐息に頓着せず、加賀は更に思考を深めた。

提督が新米だった自分の補佐をし、理解をするべく努力しながらも常に体調気遣ってくれたように、自分も彼を理解したい。

 

まあ、自分は戦の素人である提督が地獄で行えたその精一杯の努力と気遣いに対して『悪いに決まっているでしょう』とか、『そんなものよりも物資をいただきたいものです』というような毒を吐くことしかしてこなかったのだから、素っ気なく返されたり流されたりしても仕方ないのだが。

 

思考をまとめ、加賀は素早く湯船から上がった。

身体を拭い、サラシを巻いて下着を履き、寝間着となる白く柔らかな着物を手早く着る。

 

「提督」

 

「…………ぉ!?」

 

風呂上りの魅力、と言うのか。火照って赤みがさした頬に、艶やかできめ細やかな肌。常とは違い括らず、サラリと流したしっとりと髪からチラリと除く色っぽいうなじ。

 

挙げれば切りがないが、割りとノーマルな性癖を持つ提督は着物だというのに我侭に自己主張する豊満な胸に思わず視線がいった。

悲しき男の性であるが、本当にわかりやすい男だと言える。

 

提督から向けられた視線は加賀の身体を太腿から上昇を開始して胸で止まり、うなじ辺りで再び停止して顔で止まった。

欲望に塗れた視線ではない為、加賀の敏感な『そういう物』に対するセンサーは発動しない。

 

もとよりそういう眼で見られることが多い為、軽く睨まねば街を歩くたびに絡まれ続けてしまう。

その為に特化されたスキルが、今完全に隙を突かれていた。

 

「あの。私、加賀です」

 

「いや、知ってる」

 

「……そう」

 

そして、彼女はこの視線を『誰だお前』のような意味を含むものだと受け取ったのである。

 

無論、ソファーを背もたれにしてテレビの視聴に勤しんでいた提督にそんな意図はない。

ただ単純且つ完全に目の前の女性の美しさに圧倒されたことによる、畏怖。

 

ちょっとありえないほどの美人だなと思い続けていたが、この一件で彼が抱いた印象は、『かなりありえないほどの美人』だった。

 

「……っ!?」

 

見惚れるを通り越して明らかにビビっている提督の隣に腰を下ろし、加賀は彼の顔を見て少し傷つく。

 

勇気を出して好きな人の隣に座ったら明らかに怯まれたのだから、その心理的な負傷は当然だった。

 

「……私、邪魔?」

 

「いやいやいやいや、そんなことは、断じて!」

 

断じて無いんだ!、と。

完全に余裕とかその他とかを全て吹き飛ばされた提督の狼狽っぷりは留まることを知らず、加賀の凹み具合も留まることを知らない。

 

なけなしの勇気を出し切り、体育座りで隣に座り続ける加賀と、シャンプーと加賀の匂いが合わさった殺人的ないい匂いから理性を守る為に距離を離したい提督。

 

暫しの間、二人の呼吸とテレビの音が部屋に響く。

 

「ちょっと中座」

 

彼は、遂に逃げた。

彼から言えば転進だが、傍から見たらただの逃げである。

 

そして加賀は、更に凹んだ。

少しでも好意が有る相手が隣に座ったならば、よっぽどのことがない限り中座などはしない。

少なくとも、彼女は自身はそうするであろうと思っている。

 

実際は彼女も緊張やら何やらのあまり中座してしまうだろうが、理論での行動と現実での行動に生じる差異がわからなかった。

 

「……飲む?」

 

「……いただきます」

 

外気を吸い、売店で酒を買ってきたであろう提督から発泡酒を受け取り、プルトップを引く。

提督は、色々考えた結果酒に逃げることにしたのだ。

 

無理矢理押し倒せば、物理的に首が飛ぶ。ただでさえ人間不信気味な加賀も傷つくだろうし、物理的に首が飛ばなくとも一点の穢れもない彼女が穢れてしまう。

 

理性を守る為には、対して強くもない酒を飲んで寝ることが一番のように、彼には思えた。

 

(…………美人だな)

 

早速一本を開け、二本目のプルトップを引きながら彼は凄まじい劣等感を覚える。

彼の初恋の相手は異常なほどの美人であり、美女だった。一瞬で釣り合わないと悟った男ですら虜にし、何度も諦めようとした男を離さない魅力がある。

 

どうしようもない。決して手に入らない華に惚れた瞬間に、彼の人生は色恋とは無縁のものだという事実が決定したのだ。

 

(美人だ)

 

弱い癖に短時間で大量に酒を飲んだことで酔いが回り、身体が僅かな浮遊感を得る。

心配そうにこちらを見つめる加賀を見て、それだけで彼の心は満たされていた。

 

最早欲しいとも思わない。隣にいて欲しいとも思わない。ただ、幸せになって欲しい。

戦いを義務付けられた時間を生き延び、恋をして、彼女自身が選んだ上等な男と結婚して、子供を授かって。その時に少しでも記憶に残れれば、それでいいだろう。

 

自分程度は、そうなっただけで果報に過ぎるというものだった。

 

再び酒を飲み、提督は加賀を僅かな寂寥感と共に見つめる。

 

彼の目には、首を傾げる加賀の姿がやけに可愛く写っていた。



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十一話

酔い潰れ、艦娘という戦闘能力に於いて人の上位に位置する種族から見ずともわかるほどに―――即ち一般人から見ても圧倒的に無防備な身体を支え、加賀は普段は見せぬ優しげな微笑を浮かべた。

体育座りから、正座へ。負荷が掛からないように最大限に気を遣いながら太腿に後頭部を乗せ、出会った時より随分と大人びた顔を見下ろす。

 

「……提督」

 

心配性で、臆病で、何よりも優しい。

自分を裏切らず、見放さず、ずっと日の目の見ない補給線の構築という地味な作業で支えていてくれた彼の身体を労るように、加賀は弓手で彼を撫でた。

 

加賀は、自分の膝に乗っている愛しい命を守る為に戦っている。

 

これは好きな対象にはパルスイートの如く甘くなり、嫌いな対象は蛇蝎の如く嫌う彼女らしい情の深さだとも言えたが、最も信じていた『海軍』という組織に裏切られたが故の極限状態での変質だと言えた。

 

どんなに性能が兵器そのものであり、護国の高尚な精神を持っていようと、ソレが人としての感情を持ち合わせている限り、海軍の高官たちは『都合が悪いから廃棄』などという兵器に対する扱いをしてはならなかったのである。

 

尤も、働かせるだけ働かせ、挙句に『叛いた時に手に負えない』という理由で敵を一隻でも道連れにしろとばかりに使い潰そうとした大本営への忠誠心はとっくに枯れ果てているが、人間そのものに怨みが有るわけではない。

 

この海軍に対する忠誠心の低下と人への愛の変わらなさは、これらを半ば独立した軍閥の様な形で南北に存在するのを認めざるを得ないという歪みを生んだ。

 

結果的にこの艦娘の力の源である艤装を着脱式にするという『安全対策』を普及させる為の部隊潰しは、世界でも屈指の精鋭機動部隊及び鬼神の如き練度を誇る水雷戦隊、精鋭水上艦隊とそれを補佐する水雷戦隊。繰り返しになるが、これらが軍閥化してしまったのである。

 

戦力としてはどの味方部隊よりも頼りになるが操縦桿を握ることすら許されることなく、下手に手を出せば食い千切られかねず、廃棄すらも不可能な兵器群と言うのが比島鎮守府―――通称・南方鎮守府への大本営からの認識だった。

 

「……ずっと、こうしていたいわね」

 

ある程度の従順さを示しながら、独立性を保つ。

こうすることで、幾ばくかの艦娘を喪うこと前提の作戦に於いて犠牲なしに切り抜け、無茶な作戦への参加を拒否することで艦載機の練度を磨り潰されるのを防げていた。

 

守勢に立つ前に戦没した加賀自身は経験していないが、人の身を手に入れてから得た知識として知っている『い号作戦』―――悪名高き『航空自滅戦』を日本の空母が経験するのは、ただの一度で充分であろう。

 

「…………む」

 

僅かに呻く提督の髪を白魚の指が梳き、柔らかな掌が風のように優しく頬を撫でた。

心底から、彼女は彼を愛しているのだろう。その手つきは、途中で酔いつぶれて寝てしまった男に対するものとは思えない程に丁寧だった。

 

(いつか、私が)

 

本当に、彼にこの恋慕が受け入れられたならば。

ずっと、共に時を歩めたならば。

 

自分もしわくちゃのおばあちゃんになった時、白髪になった彼の髪を梳き、若い時に酷使した身体を労ってということができるかもしれない。

 

近代化改修という外的手段によってしか身体が成長しない自分には、そんな夫婦にはなれないだろう。

そもそも、近代化改修しても内部能力が向上するだけなのだからどうしようもない。

 

世に住む女性たちからは羨まれる『肉体的変化のないままの死』だが、それによって付随する化け物扱いを加味すれば、どうだろうか。

不老を無くしても良いから、化け物のようなヒトモドキに向けられる視線を除いてほしいと思うのは、傲慢と言い切れるのか。

 

深海棲艦という人類の天敵が現れて海上を席巻し、その天敵である艦娘という新種が台頭し。

嵐のような時代の渦中に生きているにはあまりにも、それは穏やかに凪いだ思考だった。

 

「……!」

 

いつになく冷たい眼差しが己の身体を貫き、白いものが僅かに混ざった黒髪を梳いていた手が掴まれる。

酔いが別な何かに変わったような怜悧さが、彼の身体に満ちていた。

 

「君か」

 

「はい」

 

女性特有の柔らかな脂肪が、鍛えた者特有のしなやかな筋肉を包んでいる。

いつものそそっかしさを収めた提督は、加賀の手を掴んだ手を離した。

 

酔いが、彼の明晰とは言えない頭を醒している。

何重にもなる自己暗示の末に消し去った情報が、僅かに脳裏に去来していた。

 

「いやな夢を見た」

 

日頃から無感動だ無感動だと言われている自分よりもよっぽど起伏のない、平坦な言葉。

感情が凍り付いたような寒さを持つ言の葉が、誰よりも似合わない人物から漏れている。

 

「……暫く、いいか?」

 

加賀は、無言で頷く。

彼が何を求めて言っているかはわかる。が、何を考えているかまではわからない。

 

彼女は、ただただ彼の変化を受け入れた。

どう変わろうと、彼女の気持ちは変わらない。彼が何処へ行こうと、拒まれない限りは従うし、死ねと言われれば死ぬだろう。

 

愛という人にしか生まれ得ない感情は、彼女をがんじがらめに縛り付けていた。

 

「ありがと」

 

瞼が閉じられる前に一言、いつもの温さが戻ったような声が漏れる。

自分の大腿部に頭を置いた場合の寝心地は、案外と悪くはないらしかった。

 

「何も聞かないんだね」

 

「……あなたが何をしようと、私の行動に何ら変化をもたらすことはありませんから」

 

「そっか」

 

まだ二十代の半ばにもなっていないのに、その言葉には老いがある。

老練さや、老獪さではない。生きていくことに疲れ切ったような響きと、風韻。

精神的に疲弊し切ったような、そんな蒙さが今の彼にはあったのだ。

 

「……暫く鎮守府の外に出たらどうかしら」

 

もうすぐ本土に着く。艦娘という異種との暮らしに疲れ切ってしまったならば、彼と同じ人間という存在は精神的な回復の大いなる一助となるだろう。

 

自分では何もできないことに悔しさを感じながらも、彼女の中では提督の異常な疲弊をどうにかすることが優先されていた。

 

「いや」

 

提督は、剥き出しになった疲労の極にある自分を好きな女に遂に見せてしまったことを憎みながら、端的に断りの言葉を述べる。

 

罪悪感は、あった。

無感動・無表情と揃っているが決して無感情な訳ではなく、本心から自分を心配してくれている人間を無碍にするのは、心が痛い。

 

だが、外に出る気にはならなかった。

 

重責と艦娘たちから逃げたい逃げたいと思っているが、その癖一番逃げたくないと思っているのは彼なのである。

 

「それより、驚かないんだね」

 

「……あなたは、元から少し暗い人でしたから」

 

「なるほど」

 

秘書官として共に戦い、他の五隻が来るまで共にいただけはあった。

自分と居た時と複数を指揮下に容れた時からの変化に対しての違和感のようなものは、やはり少なからずあったのだろう。

 

ただ、押し込めていただけで。

 

「加賀さんは、夢とかある?」

 

「唐突ですね」

 

「ま、ね」

 

無理矢理話題を変えた自覚はあるのか、提督は目を閉じたまま皮肉げに口角を上げた。

この話と極度の疲弊がどう関係してくるかはわからないが、加賀は生来篤実で温和な性格をしている。

 

少しばかり血の気が多いが、それは個性というものだった。

つまり、疲弊し切った人間を問い詰めてどうにかしようとするほど、無慈悲でも無関心でも無遠慮でもない。

 

「人間になりたいと、思っています」

 

少し力を入れれば、艤装の輪郭が身体を犯す。

ジワリと浮き出てくるそれは、彼女が人ならざるものであることの証しだった。

 

「……人間か」

 

「はい」

 

窓から見える夜の海に、彼女の敵である深海棲艦は居ない。

このような海が世界全てに広がれば、彼女は人間になれるような気がしていた。

 

根拠などは、そこにない。ただ、漠然とした希望のようなものがある。

 

深海棲艦へのカウンターとして生まれたのが艦娘という存在なのであれば、深海棲艦が居なくなれば消えるしかない。

種が消えるならば、その生物的特徴である艤装をもが消えて人となるのではないか。

 

「難しいだろうね」

 

「だからこその、夢です」

 

叶わないからこそ人は夢を見るとは、誰の言葉だっただろう。

人ではないものの、苦悩する彼女の内面は限りなく人間に近かった。

 

「人間になりたいと思って生きれていたら、きっとそれは人間なんだと思うよ」

 

「そうでしょうか」

 

「獣は人間として生きようとなんざ思わないだろうし、ね。まあ、受け売りだけど」

 

いつもの表面を滑るような会話ではなく、内面に触れていくような、そんな言葉。

 

「因みに俺はサラリーマンになりたかった。そこそこ幸せで、夜まで働いたら嫁さんが待っててくれてる、みたいな。そういうの、好きなんだ」

 

「いい夢だと思います」

 

一も二もなく、加賀は反射的に首肯する。

尤も、反射的にとは言えども聞いていて落ち着くような緩急のない声色は変わらなかった。

 

加賀の声は、一定した抑揚がある。常人のように感情に応じて上げもしないし下げもしないし面白味もないが、彼女の声にはある種の魔力があった。

 

「…………落ち着く」

 

「?」

 

「瑞鶴みたいな感情剥き出しな喋り方も可愛げがあっていいけど、加賀さんの声は何よりも落ち着くね」

 

瑞鶴みたいな、と言った瞬間に凍った眼差しが瞬時に溶け、加賀の纏う雰囲気が一層和らぐ。

提督が幾ら偽った明るさを失って怜悧に見えようが、能力的には微動だにしない。

即ち、微妙な目の色の変化については感じ取ることなど出来はしなかった。

「……あの子と比べないでくれるかしら」

 

「ごめんごめん」

 

別に、馬鹿にしているわけではない。瑞鶴のことは認めているし、その明るさと無邪気さからくる女性らしい可愛らしさを羨んでもいる。

しかし恋する乙女である彼女には、二人きりでいる時に他の女の話題を振られるだけで頭にきた。

 

まあ、頭にきても何をするわけでもない。強いて言うなれば機嫌が少し悪くなるくらいであろう。

 

他の女に興味を示さねば、極めて彼女は無害であった。

 

「温い」

 

「よく言われます」

 

明確な眠気を感じさせるゆったりとした声に、加賀は僅かなおかしみを覚えた。

自分が隣座った時はあんなに挙動不審だったのにも関わらず、部分的にとは言え殆ど密着している今はリラックスしているような感さえある。

 

「酔いも覚めかけだし、水飲んでから寝室に行く。このままだと明日は加賀さんと顔もあわせられない感じになりそうだ」

 

「どうせ酔いは覚めるのですから、変わらないのでは?」

 

「違う。今なら恥ずかしいだけだから、顔をまともに見れないのは一日で済む」

 

「朝までこうだったら、どうなるのかしら?」

 

「負荷をかけた罪悪感と昨日の恥ずかしさ、起きたときの恥ずかしさで三倍になる」

 

酔っているからか、いつもと違って本音をボロボロと出している提督の言動を受け止め、加賀はくるくると思考を廻らした。

 

恥ずかしい、という言葉の真意は何なのか。

 

スタンダードに酔い潰れたところを見せて……ということか、或いは。

 

そこまで考え、加賀は激しく頭を振った。

 

(有り得ません)

 

彼に膝枕を自分がされたら、どうなるか。

 

恐らく、きっと、恥ずかしくなる。

 

だって、それは自分が彼のことを好きだから。

 

つまり、それは。

 

(有り得ません)

 

希望的観測を呟く脳内赤城さんからモナカを没収すると、加賀は重みの消えた太腿に残った温もりを撫で、立ち上がる。

 

彼女自身も、酔っていた。



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十二話

東方作戦。西方作戦。南方作戦。北方作戦。

四方を海に囲まれているが故に深海棲艦の脅威に曝され続けた国・日本は、手にした艦娘と言う名の力を揃え、数を充溢させた後に隷下の四百からなる艦娘の集団を艦隊とし、更に細かく戦隊とした。

 

そして、四方諸海の制海権奪還に向かわせたのである。

この判断には、『戦力を集中運用すべき』との反論もあった。しかし等しく大被害を被っている四方のいずれかを選ぶことは、選んだ瞬間に三方への対策を後回しにすることにほかならない。

即ち、戦力を集中運用するには国民の四分の三を敵に回す判断をしなければならなかった。

 

そんなことが民衆の支持を基盤とする民主主義で出来るはずもなく、ノウハウを学び、大量に作られた艦娘たちは忠実な犬のように大本営の命に従った提督たちに従った。

 

そしてその結果、一般の軍事用艦艇とキルレシオで十対一という凄まじさを誇った海の猛者の骸を初めてその発生源である海に晒しせたのである。

 

既に深海棲艦という『侵略者』の概要を聞いていた国民は、歓喜した。

その報は暗く、閉ざされた未来を開ける光であり、勝利した艦娘と呼ばれることになる一団は闇を切り裂き光を齎した救世主、ということになろう。

 

彼女らを率いる提督と呼ばれる、最終的に適性検査を緩くして集められた十七人は預けられた艦隊を指揮し、近海の深海棲艦を駆逐した。

戦勝の数だけ褒賞が渡され、各提督は連携も忘れて競い合う。

 

暫しの間大本営の耳に聴こえてきたのは、聴き心地良い戦勝の報だけだった。

 

戦勝の報が各地を沸かせる度に、艦娘たちに疲れは溜まる。

休んでから戦うよりも疲労を無視して戦った方が進撃速度が速い為に艤装は壊れ、艦載機は補充されず、彼女の身体は疲弊した。

 

結果、四方向で最も戦果をあげ、進撃海域を増やしていた艦隊が深海棲艦の奥地に引きつけてからの反攻によって壊滅し、戦線は崩壊。練度と疲労が比例する為、隠匿されていた精鋭艦隊―――後にEliteと呼ばれる個体―――が連携する気など微塵もないとばかりに各地に点在していた艦隊を蚤でも潰すようにして葬ってまわる。

 

遂には日本の近海にまで迫るようになった深海棲艦の無感動な姿は、予定調和だったのではないかとすら思えた。

重なる疲労の溜まった精鋭潰しによって経験を積み、練度を高めた精鋭艦隊の面々はEliteと呼ばれる個体からFlagshipと呼ばれる上位個体へと変貌し、その一段階上の姫と呼ばれる人語を介す人型の深海棲艦すらも合流。

実際この時、日本は相当に追い詰められていた。

 

今までの進撃を支えてきた精鋭艦隊は提督ごと潰されるか、残存の艦娘が生きているかいないかというところであり、提督が居なければ艦娘はその力を存分に振るうことができない。

頭を潰しに来た深海棲艦の狙いは、いっそ清々しいほどに有効だと言えるだろう。

 

だが、この時一人の無能とされた男が居た。

取り柄といえば運の良さと『人間レーダー』とも言える敵察知能力と逃げ足だけで、提督としての適性も凡庸とされた癖に、社交性にも乏しく臆病なだけというどうしようもない奴である。

彼が内地と戦地を往来して練度を高めた虎の子である二隻の航空母艦を投入。敵艦隊の位置を把握し、補給線を切断した上に艦載機で削るという徹底した慚減作戦で兵力を削り、嘗ての人類側の艦隊の如く疲弊し切ったところで一気に敵を叩いたのだ。

 

服が湿る程濃い幕霧の中、察知能力頼みの無謀なアウトレンジ攻撃からの肉薄した接近戦は、物量と練度以外の全てで勝り、天運を味方につけた二隻の航空母艦の完封で終わる。

 

『人類側の完勝』と謳われる勝利を齎した指揮官は、勝利が決まった瞬間に小船の中に居た。

少しでも精度の高い情報を伝える為に、深海棲艦の巣窟である海まで曳航されながら来ていたのである。

やけに静かな波を立てる海と、何一つとして明瞭に見えない幕霧の中、彼はただ一人己の指揮下にある艦隊を待っていた。

 

その小船に、エンジンというものはつけられていない。

 

『必ず勝てる戦だ。君たちが無事に帰ってきて、私の乗船を曳航してくれることを望む』

 

無謀と非難されたりもしたが、結果として彼は完勝した。

 

『昼行灯めいていながら豪胆であり、やるときはやる』型の名将だと認められ、徹底して引き篭もることによる迎撃主体の戦法も『彼には急進主義の破綻が見えていたからだ』囁かれた。

 

国で英雄扱いされた彼は、元窓際族とは思えない程に充溢した補充戦力を新たにあてがわれることになる。

 

重巡一隻と、軽巡一隻。あと、空母二隻。

 

どこで誰が死に、どの個体が沈んだかもわからない混乱期において、四人の即戦力が補填されることは奇跡的とすら言えるだろう。

 

そして彼はその六隻を巧みに指揮し、入念な準備と物資をもって周辺海域を奪還。近海における人類側の優位を確定的にした。

 

更にはその『一強』となった名声と地位を覆さんと複数の提督と批判的な上層部が画策した米国の救援に向かおうとする計画に反対しながら渋々参戦し、あっという間に深海棲艦に負けていく味方艦隊たちを収容・掩護しながら一人の落伍者も出さぬように指揮を取り続け、現に収容し、指揮下に容れた艦娘の中で轟沈した者はいない―――らしい。

 

「どこの超人かな、これは」

 

「目を逸らしても、現実は変わりません」

 

あの膝枕の変から一日経って精神的に復帰した提督は、傍らの加賀に声を掛けた。

 

実際には、そんな『負ければ死ぬ』というような覚悟があったわけではない。

やけに静かな波を立てる海と、何一つとして明瞭に見えない幕霧の中。断続的に続く爆音と鬼火のように前方に浮かぶ轟沈時の炎は、彼を心胆から怯えさせるのには充分だった。

そして、彼は『まあ、自分ならこうなるな』と予想をつけていたのである。

 

この自分の怯み癖を知っていた彼は、小船にエンジンというものを付いていなかった。

自主的につけなかった、とも言う。理由を要約すればそれは、あると逃げたくなるからという単純なものでしかない。

 

『必ず勝てる戦だ。君たちが無事に帰ってきて、私の乗船を曳航してくれることを望む』

 

とカッコつけたのも、更に自分を追い込むためのものでしかなく、その本質はただ臆病なだけでしかないのである。

しかし、成果という色眼鏡は人の目を曇らせた。

 

無謀と非難されたりもしたが、結果として彼は『豪胆且つ昼行灯だが、やるときはやる』型の名将だと持て囃され、徹底して引き篭もることによる迎撃主体の戦法も『彼には急進主義の破綻が見えていたからだ』と言うことになる。

 

彼は、大声で勘違いだと叫びたかったし、加賀と赤城の前で実際にそうした。

 

『俺はただ、深海棲艦よりも自分が君たちを見捨てるような奴になることが嫌だったからエンジンを付けなかったのであって、勝てる確信はなかった』、と。

 

「……米国救援の時のあれは、加賀さんの手柄なのにね」

 

「部下を善く働かせたのは指揮官の手柄です」

 

もっぱら引き篭もっていたのは、他者の疲れを測るのが難しく、疲労した女性を無理矢理働かせる人非人にはなりたくなかったから。

あと、『適性があったから戦場に行け』という人権を無視した命令に身体がついていかなかったからである。

 

「あなたは殆ど戦べたですが、機を感じ取る能力は私より勝ります。現に私は、あの時に勝ち筋を見出だせませんでした」

 

「……でもそれって、俺が練度を高めてなかったからじゃないの?」

 

「言及はしません。うまくいった確証もありませんから」

 

机上で如何にうまくいっても、実際に成功した作戦には劣ると言えます。天運と地形を味方につける豪運、見事でした。

要はそう言いたかったのだが、例によって伝わらない。

 

「……あぁ、やだ」

 

「頑張ってください」

 

日本に近づくたびに憂鬱度が増していき、遂には部屋の隅で体育座りをし始めている提督の後ろに膝を曲げて腰を下ろし、肩に軽く手を置く。

 

この普段の打たれ弱さとヘタレた感じは、最早どうしようもなかった。

本当に危機が迫った時はクソ度胸と諦めの悪さを発揮しているあたり、真性のヘタレではないが、生きている内の八割くらいがヘタれている。

 

「提督は古参の宿将らしく、どっしりと構えてればいいのだと思うのだけれど」

 

「加賀さんが本体みたいなもんじゃん……」

 

いやだー、いやだー、と。

深海棲艦が擬態と言う能力を手に入れたという深刻な事態及び西方海域が押され気味という、またまた本土まで押し返されかけて制海権が危ういという危機に対する宿将の姿とは思えないほどに情けない姿。

 

外部からの危機はどうにもなるが、内部はどうしようもないという現実をこれほど表しているものもなかった。

 

「…………頑張って」

 

背中をゆっくりと撫で、奮起を促す。

この情けない姿を見ても『私が頑張って彼を支えよう』としか思わないあたり、彼女は相当重度な恋の病に罹っていた。

 

「…………頑張ります」

 

立ち上がった提督の背中をぽんぽんと押し、加賀は手持ち無沙汰な感じを誤魔化すようにうろうろと歩き、提督が少し前まで寝ていたベットに座る。

視線の先は、明らかに挙動不審な提督。

 

身の程を知り過ぎている印象のある彼からすれば、買いかぶられるなどは地獄でしかなかった。

故に、勘違いだとはいえ少し認めたような視線を向けてきた加賀にもあっさり真実を話したのである。

 

好きな女に買いかぶられたならば少しはそれを利用したりしようとするものだが、彼の場合はそういうものが一切なかった。

勝手に買いかぶられ、見放されるくらいならば最初から買われない方がいいと考える。

 

そんな思考だからこそ、あからさまに近い好意を有り得ないと考えて否定し、希望を持たないようにしていた。

 

「ん……」

 

提督のそんなマイナス思考をは知らぬとばかり、加賀は正装である道着のままの身体を掛け布団で包み、枕に頬を乗せる。

そんな思考を読み取れないということもあったし、滅多にできないことを今ならやれるという好機を逃さないためだった。

 

まだ体温が残っているし、濃厚な男という生物の特徴を感じさせる匂いも残っている。

それに包まれると、まるで抱き締められているかのような感覚があった。

 

(前のは、あんまり憶えていないのが悔やまれます)

 

『加賀!』

 

記憶の中で怒鳴りつけるような声が、大破した上に追撃し、最後の敵機動部隊を姫ごと葬り去った後に襤褸切れのようになった身体に響く。

 

『何であんな無茶をした!』

 

頭を下げる間もなくふらついた身体が支えられ、力の抜けた背中に手が回る。

ギシリと身体中の骨が軋むような力が、強く記憶に残っていた。

 

(乱暴にと言うのが、いいのかしら)

 

怒鳴られ、怯んだところを抱き締められ、自分の身体がすっぽり腕の中に収まったあたりで言い様のない安心感というか、嬉しさが湧いたのだ。

 

血が抜け、海水を浴びせられて体温の下がった自分に、やけに彼の身体の温かさが伝わってきたというのも、あるかもしれないが。

 

「加賀さん、眠いの?」

 

「……!?」

 

欲をかいた自分の完全なる失敗だったとはいえ、まるで物でも抱き締めるかのように強く、軋むような力で扱われた点では栄光の記憶と言える一幕を思い返して目を瞑っていた加賀の鼓膜を、その一幕の主演の声が打つ。

 

「加賀さん?」

 

「はい」

 

声こそ平常だとはいえ、泳ぐ目とビクリと動いた肩が彼女の動揺をはっきりと示す。

いつもならば見られる寸前に何とか誤魔化せることをおもえば、この場合の敗因は慢心だった。

 

「あのさ。寝たいんなら俺のじゃなくて自分のとこで寝たら?」

 

「…………あちらは、寝心地が悪いの」

 

「快眠できましたって言ってたじゃん」

 

今朝方に言った自分を恨みつつ、加賀は寝返ることでそっぽを向き、掛け布団で自身をすっぽり覆う。

 

完璧な、『論破されてから解答拒否』の姿がここにあった。

 

「…………時差ボケです」

 

「今更?」

 

極めて真っ当な答えを返した彼を射竦める涙目ながらの恨めしげな視線に、提督は遂に考えを止める。

 

「おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

日本まで後、数時間のことだった。



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十三話

「うん、ああ……なるほど」

 

日本の土を踏み、暫し。

着いた瞬間から端末を取り出し、そこらに用意されたベンチに腰掛けながら通信を行う提督の隣に、加賀は周りを見渡した後に腰掛けた。

 

一見したところ、おかしな人影はなし。

加賀などの航空母艦を象った艦娘は、艦載機を使わずとも常人より遥かに優れた視覚を持つ。その視覚をもってしても視認できないならば、仇なす狂漢は居ないと判断できた。

 

「じゃあ、帰りの便は要らない、と。……いや、キャンセルは利く。

それにしても、済まなかった。こちらにはノウハウがないから、そちらを頼るしかなかったとはいえ―――」

 

何の話をしているかは見当がつかないが、端末から僅かに漏れる声から、それが長門提督のものであることがわかる。

長門提督を頼った、と言うならば大体目鼻がつくというもの。

 

「彼女が帰ってくるのかしら?」

 

「そ。戦艦の育成ノウハウは向こうの方が一枚も二枚も熟達しているからな。研鑽を積ませてくれるように頼んどいたんだけど、正解だったみたいで何よりだ」

 

正解ということは、それなりに練度を高めて経験を積み、帰ってくるのだろう。

 

六隻が揃い、自然発生型の旧式艦娘と新式の入れ替えが行われる半年前、戦線が安定した時に殆ど唯一陸路や海路を通して一時的にとはいえ国交を繋げた国に熟練の艦戦搭乗員・雷撃機搭乗員・爆撃機搭乗員を教師として送り込むことで手に入れた、艦娘。

それから半年と少しを共に戦い、客将のような扱いで遇していた彼女は、『指揮下の艦娘を見捨てることはできない』という彼の決断に同意と賛辞を示した。

 

何なら母国であるドイツに来て改めて共に戦うかとも提案されたし、ドイツに来なくとも唯一指揮下に入っている戦艦として全力を尽くすとも言ってくれたのである。

だが、客将扱いで迎え入れた彼女を沈めては後の日本とドイツの関係に罅が入りかねないと感じた彼によって本国に送還され、その頃はまだ安全だった航路を通って―――半ば無理矢理連行されるような形で大本営づきの精鋭艦隊に護衛されて帰っていった。

 

その彼女が、どうやら単艦で北海を通って深海棲艦の勢力圏である東部大西洋を突破、喜望峰にあった敵深海棲艦の洋上補給基地を襲撃して燃料と弾薬を強奪した後にインド洋まで出るという奇跡的な大航海を成し遂げて帰ってきた―――らしいのである。

 

尤も、彼女自身は流石にスマトラ島で力尽きた。

舵はまともに切れず、砲塔もあちこちが破断しており、管制装置も大破。挙句の果てには強奪してきた燃料を詰めていたドラム缶を撃ち抜かれて遂に体力が尽きたところを大本営の官吏に拾われて本土に送られることになる。

 

このままドイツに戻すのは最早不可能に近いということで、彼女は戦艦鎮守府こと北方鎮守府に送られていた。

スマトラ島まで来て、あと一歩というところで燃料が尽きて行き倒れるあたり、彼女は自身の前身となった艦が持つ幸運だか不運だかわからない運を受け継いでいたと言えるだろう。

 

「……鈴谷恐怖症が、治っていればよいのだけれど」

 

「……そだね」

 

機動部隊と対をなす、水上部隊。

加賀と双璧をなしていた嘗てのエースが帰還したことは、二人にとっても相当に嬉しいニュースであった。

 

戦艦という分厚い装甲と強力な火力を持つ艦種に太刀打ちできるのが空母しかいないと言うのが、比島鎮守府長年の悩みの種だったのである。

 

空母こそ揃っているが、敵も空母には事欠かない。

 

古参である鈴谷がル級のFlagship、それも改というような化物をワンパンで沈めたりして何とかしているとはいえ、所詮は重巡。正面切っての殴り合いで勝つというより、横から殴るというような工夫を必要とされた。

 

だが、前線限定とはいえ卓犖とした指揮能力と如何にも戦艦といった火力を持つ彼女が帰還すれば、その悩みは一応の解決を見る。

相変わらず、力のル級・技のタ級を複数相手にしなければならないところは変わらない。だが、こちらにも戦艦が居るという安心感は筆舌に尽くしたがたいものがあった。

 

「兎に角、もうすぐ来るらしいから」

 

「……む」

 

その浮つくような懐かしみと嬉しさが感じられる一言に対して、加賀の心は不満と嬉しさが半々と言ったところだった。

 

戦友に会えるのは、嬉しい。彼女にとっては赤城以外に数少ない背中を預けられる実力者なのだから、その喜びはひとしおだろう。

しかし、しかし、だ。

 

加賀は、硬派な美人である。

その戦艦も、硬派な美人である。

 

加賀は可愛げのない性格をしているという自負があるが、その戦艦の性格には案外と可愛げがあった。

 

そして何より、『大本営による本国送還』が無ければ提督をとられていたのではないかと思うほど―――元々彼女のものではないが―――二人は仲が良かったのである。

 

それに、年月をかけての再会。

 

赤城曰く、男女の仲というものは離れていた二人が再会した時に発展しやすいものだとか。

 

(…………負けません)

 

ぐっと拳を握り込み、加賀は静かに闘志を燃やす。

そちらには再会という切り札があるだろうが、こちらにはずっと一緒にいたと言うアドバンテージがあるのだ、と。

 

加賀は心中で複雑な思いを巡らせ、静かな闘志を燃やしながら好敵手を待つ。

遠くからでも聴こえる、ヒールのような形をした脚部艤装が立てる硬質な音。

 

モーゼを通すが如く開いていく人混みを当然とばかりに睥睨しながら、そのドイツ艦は現れた。

 

「Lenge Zeit nicht gesehen」

 

「Das ist das erste Mal in einem Jahr……」

 

非常に流暢なドイツ語が互いの口から漏れ、まるで映画のような非日常的なワンシーンが何でもない埠頭で繰り広げられる。

地味にドイツ語もできるこの男、案外とやれることの幅が広かった。

 

言っていることは、『久しぶりね』という言葉に対して『一年ぶりだね』と返したに過ぎないのであるが、本場に類似した所謂ネイティヴな発音のおかげで、見ている一般人にそんな瑣末事は頭に浮かぶよしもなかった。

 

「Ich habe dich vermissd, Admiral!」

 

「Me auch」

 

感極まったとばかりにハグをしてきたビスマルクを受け止め、くたびれた風情のある軍帽に手を乗せる。

 

「Willkommen zurück, Bismarck」

 

172センチあるビスマルクより頭一つ分上の提督は、ぽんぽんと軍帽を叩くようにして撫でながら身体を離した。

後方から、殺人ナイフのような殺気。

 

「何を話していたのかしら」

 

平坦な発声がより一層の恐怖を煽り、提督はビスマルクと呼ばれたドイツ艦娘に見せた大人の対応はどこへやら、ものの見事に完全に怯む。

 

「Bitte, wirst nicht so boese, kaga=san」

 

「日本語を喋りなさい」

 

「お、怒んないでよ、加賀さん」

深い海を思わせる蒼い眼を瞬かせ、ビスマルクは一人呟いた。

 

Es kann eine Chance sein.

 

まだチャンスがあるかもしれないわね、と。

 

「加賀」

 

「何かしら」

 

彼女にとっての相棒である赤城とは違う、競い合うべき好敵手として。

ビスマルクは、敢えて彼女を呼び捨てにしている。

 

「あれはほんの挨拶をしただけよ?」

 

「……なるほど」

 

挨拶の裏に含まれた主語を読み取り、その隠された主語が示す宣戦布告を、加賀は素早く読み取った。

 

「何にせよ、変わりの無いようで何より……と言っておこうかしら」

 

「そちらこそ、そのしぶとさには敬意を払います」

 

皮肉を交えながらも再会を祝し、互いに認め合っている二人はひとまず手を交わす。

仲が悪いわけではないし、勿論嫌い合っているわけではない。旧日本陸軍と旧日本海軍のように角を突き合わせて相争うわけでもなかった。

恋敵であることを除けば、この二人は案外と気が合うのである。

 

それに、この二人は自分たちが公的に軍人としてふるまわねばならない時にいがみ合っていたらどうしようもなくなるということを知っていた。

 

「私情はどうあれ改めてよろしく頼みます、ビスマルク」

 

「こちらこそ、再びよろしく頼むわね」

 

指揮官である提督を蚊帳の外に、主力部隊の長同士が和解する。

比島鎮守府の両翼が揃えば、と。

大本営によるビスマルクの強制送還を受けてから何度も愚痴のようにこぼされてきたその願望が、遂に叶った瞬間だった。

 

忠誠心に於いても能力的にも、今はどちらも加賀が勝る。

 

これからの戦の展開が楽しみだと思わせる程の成長株を二人、両隣に侍らせ、提督は横浜鎮守府へとくりだした。



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十五話

「ビスマルク、何をしているのかしら?」

 

「ドイツから持ってきた戦略SIMをしているの。暇つぶしにはもってこいなのよ?」

 

『Die Vereinigten Staaten』、『Frankreich』、『China』、『Japan』、『Russland』、『Deutschland』、『Vereinigtes Königreich』、『Italien』。

 

Szenario einsと銘打たれた項目を選択すると、それらの候補が出てくるあたり、割りとレトロな趣きがあった。

 

「上から合衆国、フランス、中国、日本国、ロシア、ドイツ連邦共和国、イギリス、イタリア。初期シナリオだから数が多いのが特徴なの」

 

「では、次のシナリオでは減るの?」

 

「Genau.中国とロシアが消えるわ」

 

いずれも深海棲艦に叩き潰された国であることを考えると人類の詰みっぷりがわかるが、加賀はあえてそこを無視した。

 

それよりも、気になることがあったのである。

 

「横についている星は何?」

 

「難易度。星の数が滅亡しやすさだと思ってくれて構わないわ」

 

最も滅亡しやすいのが星の数が5個の中国とロシア。次点で4個のイギリスとフランス。3個はイタリアで、2個には並んでドイツと日本。1個はアメリカ。

 

これが深海棲艦黎明期の勢力図であるとすれば、この星の数は異様なまでに的確だった。

 

「アメリカは飛び抜けた人材が居ない代わりに資源・艦娘数が豊富で、ドイツはまあ、人材・資源・艦娘数が万遍ない配分の初心者向けね。日本は資源・艦娘数が少ない代わりに公認のバグが居るから難易度が低いのよ」

 

専用イベントが用意されている上に専用思考プログラムまでもが組まれ、気がついたら勢力を伸ばしている日本。

『ここで操作を覚えなさい』とばかりに資源・人材・艦娘数の三要素恵まれたドイツ。

数の暴力・大正義アメリカ。

 

これがビスマルクのやっているゲームの三大勢力であり、黎明期における三巨頭であった。

 

「ドイツは艦娘の元となる艦艇があまりいないようだけれど?」

 

「計画だけでも残っていれば艦娘が生まれ得る……ということらしいわ」

 

そちらにも情報は渡したハズよ?、と。

少し不思議な顔をしながら訝しむように首を傾げるビスマルクの眼に、虚偽はない。

 

そもそも、能力に相応しいプライドと気位を持っている彼女が嘘をつくことは策略関係でなければ全く無いのだ。

嘘をつかず、己を恥じず。飽く迄も陽の当たる道を歩むことを決めたその姿には相応の努力とプライドがあった。

 

「計画だけでも、いいと言うの?」

 

「ええ。そちらの未完成艦はよく知らないから詳しく『誰が』とは言えないけど……計画だけでも艦娘という物は、生まれ得るはずなの」

 

話が一区切りついたと考えたのか、ビスマルクは陣営選択をドイツに決める。

迷ったら取り敢えず母国でプレイするというのは、彼女にとって鉄板だった。

 

「だから、ほら。未完成艦も各国に配置されているでしょう?」

 

示された先には、確かに未完成艦を含む艦隊がアメリカ方面で深海棲艦とドンパチやっている。

ゲーム内での出来事を鵜呑みにしたわけではないが、確かにドイツではその認識が普遍的なものらしい。

 

ドイツ連邦共和国海軍監修と銘打たれているらしいパッケージも、ピコピコやっている彼女の右脇にはあることだし。

 

「日本はどうなの?」

 

「専用AIを組まれているだけあって、強いわ。まあ、ある程度伸びたら奪還が止まっちゃうからプレイヤーが操作した方が強いというのはあるようね」

 

「……そう」

 

「…………提督もいるわよ?」

 

直進すればすぐのところを迂回に迂回を続けたような聞き方しかできない加賀が持っていこうとしている到達点を、彼女は直進して正確に突いた。

ビスマルクと加賀が同じような思いを抱いていることは、互いに認識しきっていることである。

 

この状態で彼女の目指す会話の到達点を予想できなければ、とても前線指揮官など務まろうはずもなかった。

 

「…………見せてもらえるかしら?」

 

「相変わらず回りくどいのね、あなた」

 

「余計なお世話です」

 

自覚し、自省してもどうにもならないことを他人に指摘されるほど癪に障ることもない。

ビスマルク本人に嫌味や馬鹿にしたような気持ちがなくとも、語風が呆れたようなものであっても、ムカつくことには変わりがないのである。

 

その言葉を受けてむき出しの肩を少しすくめたビスマルクの欧米人らしい一動作には、自然と漂う気品があった。

到底気品などは付きそうもないオーバーリアクションをしても上品さすら感じさせるあたり、『ドイツ貴族のご令嬢』と揶揄されるほどの、凡そ戦場に立つ者とは思えないほどの挙措の華やかさは健在だと言える。

 

「……運営と統率と情報以外の全てがアレですね」

 

「外から見たらそんなものだということでしょう?」

 

「かもしれません」

 

配下を纏める力である、統率。

指揮した艦隊をいかに攻撃的に運用できるかの示準となる、攻撃。

攻撃。(二回繰り返されている

指揮した艦隊をいかに防御的に運用できるかの示準となる、防御。

諜報戦の要であり、情報工作においての適性を示す、情報。

補給戦の要であり、補給の維持においての適性を示す、運営。

 

98/89/100/97/99と言う高水準で纏まった能力は、その経歴をよくよく表していた。

絶望的に見えた戦場に部下を引っ張っていき、個性的で癖のある部下を纏める統率は、高い。事実、あの時の決死の演説は理知的な質である加賀の理性すら超え、『勝てるかも知れない』と思わせたのだから相当だろう。

 

実際、彼の艦隊が防御に徹した時の粘り強さと正面からの殴り合いに徹した時の気狂いっぷりは、模擬戦で戦った加賀が手を焼くほどだった。

 

ただ、攻撃における巧妙さは全く無い。防御における巧妙さも全く無い。だから、この二要素は低い。

堅実で、粘り強い。正規教育を受けていない者特有の嗅覚と非凡さにかけるが、『補給が途絶えない』『部下が諦めない』『士気が衰えない』という三要素によって、長期戦に引きずり込まれた場合の強さと言ったら、なかった。

 

情報は、強い。敵限定だが、感知させる向きを固定すれば無類の精度と範囲を誇る。

 

運営も、強い。こと補給においての巧緻なルート確保とズレた計画の調整においては、まんまドイツ軍人なビスマルクがやった日本人の感覚を超えた―――そしてドイツがよくやり、補給が尽きて負ける―――急進機動戦に滞りも遅れも起こすことなく燃料・弾薬・鋼材と工作艦を送り続けた。

 

第一次大戦のシェリーフェンプランからバルバロッサ作戦に至るまで『補給が追いつかない』という何も学んでいないような気がするドイツ製の電撃戦に追いつけるあたり、その他の能力の追随を許さない別格ぶりが伺える。

 

「私は、99/48/74/100/100が妥当だと思うわ」

 

「防御は要塞と固定火力だよりですからもう少し低いでしょう。運営は100を超えています。認められていませんが」

 

伸び切った補給線を縮め、戦術に悪影響を与えない程度に撤退させたり進撃させたりする手綱の取りっぷりが優れているだけであり、現場の強さは現場の指揮官の強さだと言えた。

 

しかし、一応外聞的にはそれは指揮官たる提督の手柄である。

彼が『加賀とビスマルクがよく戦い、よく防いだからです』と言っても、一回自力で奇跡を起こしてしまった以上は謙遜に見えてしまった。

極端に言えば、レイテで二隻の航空母艦を以って姫級・鬼級を含む敵の艦隊複数に勝とうとした彼は、無謀を嗤う嘲笑と無能を責める罵倒に値する。

しかし彼は、それを成功させた。結果的に『霧を利用して慚減して、疲れ切ったところに全力を払底して攻めかかる』という策は正しかったのだ。

 

九割五分が運の勝利であるとはいえ、周りからするならば嘲笑し、罵倒した常人こそが馬鹿だということになる。

一度成功し、それから勝ち続けてしまうと、その人格や欠点すらが肯定されるのだ。

 

だからこそ、彼は初期の六人とドイツから来た一艦、第二次補填によってきた艦娘には『勘違いをするな、見誤るな』と戒めている訳である。

 

で、その彼はといえば。

 

「大本営曰く、此度の事件により、秘書官制度を導入したことを見直さねばならないのでは、ということですが、皆様はどうお考えでしょうか?」

 

殉職し一階級特進した横浜鎮守府司令官である中将の後任となった新米中佐は、ある意味『渦中の人』だった。

彼は、本来は徐々に制御を受け付けなくなってきた大湊警備府の提督とそこの親提督派の艦娘を更迭・退役させ、後任となるはずであった。

 

その護衛用の艦娘を得る為と、運営と統御の経験を積む。

そういう理由で、最も近場にある横浜鎮守府に研修に来ていたの、だが。

 

まさか横浜の榛名提督が討たれ、研修に来ていたはずの横浜鎮守府の後任提督を務めるとは思っていなかったであろう。

 

「このようなことが起こったからこそ、腹蔵の部下を秘書官に固定することで被害を防ぐべきではないか?」

 

キスカ・アッツ方面からなる北方を拠点とする長門提督―――南部信光中将は、古参にありがちな意見を述べた。

古参―――と言うか、地獄の戦場を前期型と呼ばれる旧型の艦娘と共に駆け抜けた提督は、秘書官との信頼関係の帯紐が堅い。

 

一方で、後期型の艦娘を指揮する提督は『癒着を生まない為』ということで一年周期で指揮する鎮守府を変更させられる。

 

故に、その信頼関係を是とする考えには馴染が薄かった。

 

「大本営は、『秘書官を固定することで近辺を警護する艦娘が突き止められ、結果としてすり替わられたのでは』、と考えているようです」

 

「つまり、どうなる?」

 

「持ち回りになる、ということになるかと思われます」

 

「だが、それでは事務が疎かになるだろう。仕事は一日一日で必ずしも内容が変わるものではないのだ」

 

仕事に悩ませられていることを思い出して頷く提督もいれば、身の安心を優先して顎に手を当てる提督もいる。

それぞれの性格が表れている反応を議長席から一望し、横浜鎮守府に新任した一条兼広提督は手元のメモに視認した情報を書き込んだ。

 

ここに居るのは、警備府以外の主要鎮守府の司令官。軍閥化を防ぐ為にも各司令官の性格と思考を掴み、適切な対処と待遇を行わねばならない。

その為に大本営は、裏を勘ぐるほど経験を積んでいない従順な新米を表向きは『横浜鎮守府の後任だから』という理由でもって議長としたのである。

 

長門提督こと南部中将は、反対。

呉の鈴木少将は、反対。

佐世保の小山田中将は、賛成。

舞鶴の宇佐美少将は、反対。

宿毛の西園寺中将は、賛成。

鹿屋の安芸中将は、賛成。

岩川の遊佐少将は、反対。

佐伯の安東中将は、賛成。

柱島の熊谷中将は、賛成。

 

「スービック鎮守府司令官、北条閣下はどう思われますか」

 

少し上ずる声を抑制しつつ、一条中佐は実質的に日本を救ったレイテの英雄に意見を伺う。

 

思わず鎮守府の旧名を言ってしまったところに、一条中佐の緊張が現れていた。

 

「賛成でも、反対でもない」

 

「詳しいお考えを伺ってもよろしいでしょうか?」

 

「秘書官を持ち回りするのは、大本営の命令であるから反対はしない。が、秘書官となった艦が狙われる危険を加味すれば練度・実務共に秀でた艦に絞るべきだと考える」

 

スービック鎮守府と言う旧名を訂正するでもなく、周りから見たら英雄、身内から見たら敬愛すべき大凡人たる彼は述べる。

 

それはただ単純に『練度の高い艦娘と入れ替えるほどの手練が擬態能力を持っているならば、低練度の艦娘を秘書官にするということは死を招くのでは』ということと、『加賀・赤城・蒼龍・木曾・ビスマルクじゃないと仕事がキツイ』という切実な悲鳴があった。

 

だが、周りからすれば『現場の提督にもある程度の裁量が持てるような、なお且つ大本営の意向を反映した』妥協案を提案したことになる。

 

反対派の提督と賛成派の提督の間をうまく宥め、大本営が一番手をこまねいている自身が妥協することで大本営の顔も立てていた。

 

隷下の戦力との帯紐を斬る気はないが、軍閥として大本営に反抗する気はない。

暗にそう示すようなその一言は、反対派の提督にも頷けるところであった。

 

「大本営によろしく頼む」

 

「了解致しました」

 

謹直に敬礼し、何やら手元のボードに書き込んだ瞬間、再建中の鎮守府の壁が崩れ落ちる。

 

茫洋と光る二つの眼に、死体と見紛うばかりの青白い肌。

長い黒髪に、盾と砲が複合されたような黒い艤装。

 

深海棲艦が、そこには居た。

 

 

 



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十四話

深海棲艦と呼ばれる人類の天敵が海上を跋扈し、各地の国を干上がらせた挙句陥落させていく修羅の時代。

 

『抵抗の世紀』と呼ばれた2100代という時代の特色であり、味であった。

 

この時代に際して通常艦艇の技術は衰退し、陸上兵器すらもお役御免とばかりに発展が止まっていく。

深海棲艦の艦載機や基地航空機に対抗できない空軍の航空機や人員も削減されていき、その代わりに台頭したのが、海軍だった。

 

国の政策は海軍が挙げる戦果に依っていくところが多くなり、旧時代の如く『海軍力こそが国力』というような見方が主流になる。

それは、端的に言えば海軍の動き如何で政策を実施できるかできないかが決まり、海軍の支持を受けた政治家、或いは海軍の思い通りに動いてくれる政治家が首相の椅子に座れることが多くなることを示していた。

 

何せ、国交というものが切れている現在の日本国を支える資源と食糧は、海軍が如何に領土を保持・拡張してくれるかに依存する。

 

例として、アメリカ合衆国を挙げよう。

 

深海棲艦を撃退できるアメリカは調子に乗ってあちこちの占領された国と地域解放していた。

彼等の手にも艦艇を模した人型兵器・艦娘が渡っていたし、その数も多かったのである。

 

だが、敗亡した国の難民を受け入れた為に経済が破綻し、治安とモラルが低下した。

 

この難民の害を解消する為に新たな土地を奪還せねばならず、奪還する度に難民が増える。

 

その結果、『この瞬間を待っていたんだ!』とばかり一転攻勢を掛けた深海棲艦によって休養が不十分であった前線部隊は壊滅。

更には嘗て平均練度五十後半という精鋭ぶりを誇った太平洋・大西洋両艦隊は半年間の戦いおいて磨り減り、その輝きを失った。

 

結果、残された練度十から二十の育成艦たちが未熟なままに戦場へと出撃し、磨り潰されて行くことになったのだろう。

アメリカは今や賄いきれない人民を抱え、ハワイとミッドウェー島をも取られ、国土に上陸されるかされないかの瀬戸際だった。

 

他にフランスやイギリスなども難民を受け入れていたが、彼等も経済的に豊かとは言い難い。

 

これに対して日本は、その結果が現れるまでもなく安定した難民の受け入れ拒否政策を貫いた。

艦娘というものが殆ど生まれなかった中国や韓国から来た人民を丁重に送り返し、入国を全く許可しなかったのである。

 

日本は、食料自給率が高い国であるとは言い難い。難民など受け入れる余裕がないし、その頃の日本の頭の中には国防しかなかった。

 

中国や韓国など、二次大戦の際に軍事用の艦艇をあまり保持していなかった国が要求してくる『艦娘の貸与』まで拒否し続け、日本は只管引き篭もる。

 

建造という方法が見つかるまで日本はただただ引き篭もっていた。

 

艦娘を深海棲艦の勢力圏に送り込むと半ば自動的にダメージを受け、敵艦隊に会った時には既に中破しているということもあり、攻撃を受ければたちまちのうちに沈む。

 

各国からこの報告を受けた大本営は、艦娘を深海棲艦勢力圏に送り込むことができる提督と呼ばれる存在が出てくるまで適性検査を続けた。

 

そしてその『待ち』の姿勢が功を奏し、日本は全体的に優勢とまではいかずとも局地戦線では優勢な戦力を保持していたにも関わらず、日本における海軍の地位は現在まともに深海棲艦とやり合えている―――ドイツ・アメリカ・イギリスなどの国の中でも最低だった。

 

要は今の日本は、軍服を着た政治家や本職の政治家が票を集めるために一時的に海域へと遠征させ、奪回しては奪われ、奪回しては奪われの繰り返しの続く消耗戦に引きずり込まれていたのである。

 

「Admiral、どうなの?あれから戦況は好転してる?」

 

ビスマルクは久しぶりに見る日本の町並みに再び興味を抱いたのか、まるで来たばかりの時のような挙措の騒がしさを見せていた。

その騒がしさも収まり、横浜市内の観光も終えたあたりで彼女はただ今の戦局を問うた。

 

指揮能力に不足はないという自信は誰よりも強い彼女だが、友邦とは言っても日本の戦局はドイツにそうやすやすと伝わってこない。

別に情報収集能力に秀でているわけでもない彼女の耳には、現在の戦局は全く不明なブラックボックスだと言える。

 

横浜市内を歩いている人間の顔を見るに、良さそうではないというのが感想だった。

 

「南方戦線では好転しているが、ここは手痛く叩かれたばかりだ」

 

第二期と呼ばれる艦娘、即ち艤装と艦娘本体を分離させることにより管理を容易にした後期型を率いる初めての提督として、ここ横浜鎮守府の司令官は指揮を執っていた。

 

適当な拠点となる島がなかった為に人工フロートを浮かべて前衛の橋頭堡とし、人工的な拠点を作ることによって国土への空襲・艦砲射撃を防いぐという戦法をとった彼の活躍は目覚ましく、少将への昇進も確実だと思われていたのである。

 

しかし、深海棲艦が擬態した秘書官に背まで刃物を突き通される形で彼は死んだ。

秘書官と司令官を失い、命令機能が完全に停止した警戒網を敵機動部隊と水上打撃部隊が突破。予め潜入し、秘書官に擬態していた深海棲艦が艤装装着機を含む港湾部を破壊し、艤装を失って人と何ら変わらない力しか持たなくなった艦娘たちも殆ど無抵抗のまま討たれ、鎮守府の施設も壊滅的な打撃を受けた。

 

市街地までは爆撃の手は及ばなかったものの、横浜鎮守府第一艦隊の被害は甚大であり、これを列挙する。

 

金剛・比叡・霧島・加賀・足柄・天龍・川内・那珂・白雪・村雨・陽炎・黒潮・夕雲・巻雲が轟沈。

 

扶桑・伊勢・妙高・那智・利根・筑摩が大破ないしは中破。

 

いずれも練度三十を越え、一人前とされるの艦娘であるが故に、その被害は相当に痛かった。

 

「四方の戦線の中で、ここが一番脆い」

 

ポツリと忌憚のない感想を漏らし、加賀は目の前に建つ旧鎮守府から、至って真面目な顔をしながらビスマルクの方へと振り向く。

 

「貴女が居た時よりはマシだけれど、戦力差は開いているわ」

 

「Gut.腕が鳴るじゃない」

 

ニヤリと狼のような獰猛な笑みを見せ、ビスマルクは黄金を溶かして糸にしたかのような見事な金髪を靡かせた。

その凄みのある一笑には、普段から艦娘と関わっているが故に美人に耐性があるはずの鎮守府職員すら一瞬目を奪われるほどの躍動的な『動』の美しさがある。

 

蒼天にほど近い断崖に一輪咲く孤高の名花を思わせる加賀の『静』の美貌に対し、彼女は気位の高く活発な貴族の令嬢といった、しかしどこか天然めいた無邪気さを感じさせる『動』の美貌という評が似合っていた。

 

「では、提督。威厳と寡黙さに重点を置いて頑張ってください」

 

「はい」

 

一先ず簡易的に再建された旧鎮守府の前で、三人の関係は意図的に儀礼的なものへと変貌する。

 

まず、加賀の出来が悪い弟を気遣うできた姉のような関係は秘書官と提督という制度上の物に固定され、戦友のような気安さと砕けた感じの特色を持つビスマルクとの関係はこれまた硬質な総司令官と一指揮官の関係に変わった。

 

本来このような切り替えは必要がない。通常、鎮守府でもこのような儀礼的かつ形式的な―――敬礼や敬語などの規律と上下関係が尊ばれるからである。

 

だが、比島鎮守府では案外とそこら辺の取り締まりが緩かった。

そもそも周りの鎮守府の如く厳しくしようとした艦娘がドイツから来てすぐのビスマルクくらいであり、加賀でさえそこのところはメリハリをつけていれば良いという物だった。

 

即ち、普段の生活を営んだり出撃したりするぶんには構わない。基本的に気のいい善良な性格を持つ個体が多い艦娘という種族を相手にするぶんには、特に強要せずとも目上の人間や他人に対して敬意を払ってくれるからである。

唯一風紀委員のような役割を果たしていたビスマルクは鎮守府内を見回るに連れて思考を変え、完全にに隙間の生じようのない『鉄の結束』を目指した。

 

これは同じような劣悪な境遇を受けた者同士にその痛みを共有させることで劇的にその一体感を高めると言う―――謂わば『身内』と『それ以外』をはっきり線引きすることで強烈な身内に対する仲間意識とそれ以外に対する敵愾心を煽るものである。

 

その頃は彼もまだ前線の危険な区域にその身を晒していたことも合わさってその煽動の進行ぶりは加速した。

加賀とビスマルクが苛烈な統率を、提督が実効性と厳粛さに乏しい緩やかな統率を示すことによって飴と鞭のような形になった彼の鎮守府は恐らく何処の鎮守府よりも艦娘同士が気さくに接し合え、結束が固いことだろう。

 

つまり儀礼的な面を捨て、却って並列な関係を鎖で繋ぐことによって更なる戦力増強を計ったのだ。

現に彼の鎮守府は仲間意識が強く、別段訓練の最低ラインを見せずとも『仲間に迷惑をかけない為』に、そこら辺の鎮守府とは比較にならない程の量と質を持つ訓練が自主性とそれに伴う士気の高さを保ったまま行われている。

 

こう言った公式の席に於いて『並列関係の強化』は儀礼的な面に疎いということで僅かにマイナス面に働くこともあるが、着いてこさせねばどうということはない。

 

「頑張りなさい、Admiral」

 

「おう」

 

軽く拳を突き出し、『ガツンとやってきなさい』といわんばかりに鼓舞してくるビスマルクと静かに手首だけで手を振ってくる加賀に背を向けた。

これと言って件の対策会議の開始時刻が差し迫っているわけではないが、念には念を入れることに越したことはない。

 

武骨な趣のある木製の扉を開け、提督は部屋の中へと入って行った。



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十六話

何度も、願った。

何度も、祈った。

何度も、何度も、悔やんだ。

 

私たちは、そう簡単に切り離せる程の繋がりしかなかったのか。

私は、あなたの片腕ではなかったのか。

 

理性で理解しても、本能がその認識を拒む。

どんな名将であっても、補給・参謀・指揮を行ってに引き受けることは能わない。

 

だからこそ、三人が必要だったのではないか、と。

 

陸に囲まれ、懐かしくも一変した景色の中。

磨かれ、光に燦めく藍玉のような薄く澄んだ蒼を湛える瞳から、一滴の雫が零れ落ちた。

 

 

Ⅹ Ⅹ Ⅹ

 

 

ほんの数分前まで個人個人が好きなことをやりたいだけやっていた、艦娘の控室。

現在そこでは、豪勢な昼食が振る舞われていた。

 

『豪勢な』と形容してみても所詮は一般家庭から見てということでしかないが、ともあれカツカツな運営を行っている鎮守府の艦娘からしたら目も眩むような、安定した運営が行われている鎮守府の艦娘からしたら少し嬉しい程度の、豊富な物資を蓄えている鎮守府の艦娘からしたら貧しく感じる程度の食事。

 

つまり、一汁三菜プラス肉料理一品という物だった。

 

「生牡蠣」

 

「獲れません」

 

「半熟卵」

 

「ありません」

 

「フランスのワイン」

 

「億が飛びます」

 

生牡蠣と言えば、現在世界でも稀となってしまった珍味中の珍味。

半熟卵はまあ、そんな贅沢に使っている余裕がない。

フランスのワインは国交の関係上プレミアが付き、ビスマルクが要求するような年代物であれば悠々億に届く。

 

酒屋成金というのは、この国ではよく聞く単語であった。

 

「……文句は言えないけど、やっぱり末期感があるわね」

 

政治も荒んでいる感じは否めないし、国民もまた生存圏の拡張を望んでいる。

仕方ないことではあるが、このままではその国民の生存圏の拡張の要求に屈した政治が軍を動かし、国防に必要不可欠な練度の高い精鋭を無為に摩耗し、使い潰してしまう可能性があった。

 

通常の敵は、練度十。

Eliteと呼ばれる赤い敵は、練度三十。

Flagshipと呼ばれる黄色の敵は、練度五十。

Flagship改と呼ばれる青色の敵は、練度七十。

 

目安だが、深海棲艦と艦娘が互角に戦うにはこのような配分でぶつけていく他はない。

練度二十から三十で、大体の艦娘が一人前―――初期改造を迎える。

 

現在各鎮守府が保有する戦力は、差異さえ有れど平均値は三十。最高値の平均は五十と言ったところだろうか。

 

練度は、通常の業務と化している出撃を一年二年繰り返しても補えるものではない。

 

「仕方ありません」

 

正直なところ、この横浜鎮守府で用意されたものよりも比島で用意されるものの方が豪華で、創意工夫が利いているだろう。

しかしながら、これはこれで出してくれた方が心を込めて作ってものだ。

 

加賀は料理を作る側だからこそ、それをよくよくわかっている。

 

「本土への食料品の輸送船も、必ずしも安全という訳ではありません。制海権を完全に確保した航路で運べる物資にも限りがありますし、何よりルートが二つしかないのです」

 

長門提督こと南部中将の泊地ALから大湊警備府の勢力圏を経由し、大湊から揚陸して本土へ至る北方航路と、フィリピンのレイテ・スービック両島から台湾を経由して九州の佐伯に揚陸する南方航路。

 

占領が確定した空き地に失業した民を植え、国が食料を買い取ることを約束して農耕をさせる。

 

それが、現在の国民生活を支えていた。

 

「悲しいわね」

 

「あなたは美食家だものね」

 

「よくわかっているじゃない」

 

何だかんだ言いながら美味い美味いと膳を平らげ、ビスマルクは持参していた紙のナプキンで口元を拭く。

 

何にせよ、彼女は根っこの方は育ちのいいお嬢様であった。一々、動作の端々がそれを匂わせる。

 

「Danke, hat gut geschmeckt」

 

「ごちそうさまでした」

 

明らかに毛並みの違う声と、流暢なドイツ語。

基本的に、各鎮守府同士は何かしらの交流がある。

 

故に大体の艦娘がそれぞれ現在確認されている日本艦をモデルとした艦娘と知己を得ている―――とまではいかずとも、顔と声くらいは知っていた。

はっきり言えば彼女らの認識内にてビスマルクと言うドイツ製艦娘は異端であり、であるからこそ興味を惹く。

 

隣に居る加賀は英雄の秘書官として有名だったことも、ビスマルクに視線がいく理由となった。

レイテの英雄の秘書官である彼女は、他の加賀とは艤装のデザインの細部が異なっている。

 

彼女が変えたというより、後期型の加賀の艤装のデザインを大本営がわざわざ変えたと言った方が正しかった。

艤装の改造の実験だったとは言え、その選択は概ね良いものだったと言えるだろう。

 

何せ、別個体の加賀が無駄に敬遠されずに済むのだから。

 

「……ねぇ、加賀」

 

「何か?」

 

「あれで満腹になったの?」

 

「はい」

 

あれで、と言っても、彼女ら空母・戦艦組に配られた食事は所謂成人男性一人前。

意外と健啖家の多い空母・戦艦をモデルにした艦娘にはベストとはいかずともベターな選択だったのだが。

 

「相変わらず小食なのね。そして無口」

 

「あなたは相変わらず健啖家で、多弁。変わりの無いようで何よりです」

 

左手で底を、右手で側面を持ちながら熱い緑茶を飲んでいる加賀と、飲み口のあたりを白さの際立つ指で持ってくるくると廻し、水を撹拌しているビスマルク。

 

一目でわかる、静と動。沈黙と喧騒、鉄と炎。どちらにも特有の魅力かあったし、何よりも見ていて飽きなかった。

 

「ねぇ、加賀」

 

「わかっています」

 

非常に鋭敏な知覚を持つ提督の艦娘である彼女たちもまた、その鋭敏な知覚を与えられている。

彼の知覚が謂わばアクティブスキルであり、オンオフ切り替えが内部で―――即ち脳に負担をかけない為に無意識のうちに切り替わってしまうことに対して、彼女たちのそれはパッシブだった。

 

パッシブと言ってもやはり身体の延長である艤装を意識しておかなければならないから、結局のところはアクティブなのかもしれないがそんなことはどうでもいい。

 

問題は、試しに艤装を意識した瞬間に鎮守府内部で深海棲艦の反応が感知できたことである。

 

「どうしたものかしら?」

 

ちらりと周りに碧玉の瞳をやったあたり、彼女の意志は周りにも注意を呼びかけて対処するということらしいが、加賀の考えはあくまでも規則に沿っていた。

 

そして何より、不確かな他人の実力を全くと言っていいほど信じていない。

 

「私たちに指揮権はありません。独自で動くべきでしょう」

 

「どちらが?」

 

「私は空母。空が私の活きるところです。壁の中は戦艦に任せます」

 

平坦で、抑揚の無い―――好意的に解釈すれば冷静沈着で泰然とした、悪意を介せば冷酷非情で人間味に欠ける。

そんな彼女の声色と鉄仮面のような表情は、いつよりも僅かに硬かった。

 

時を埋めるようなツーカーぶりを見せながらも、それを見たビスマルクは重ねて問う。

 

「私でいいのね?」

 

「私情は挟むべきではありません」

 

もう聞くなとばかりにバッサリ切って捨てられたところで、ビスマルクは彼女の手の震えと噛み締めたような口元に気づいた。

 

これが彼女の内面をよく知らないものであったならば、『折角人が気を使ってやったのに』と思ってしまうに違いない。

何せ、人より多分にある感情の波が表情と言葉に現れないのだから。

 

「任せなさい」

 

「……元より貴女に任しています」

 

それだけ言って廊下へと出て行く加賀の背を途中まで追い、右折する。

警備の艦娘が居るから顔パスとまでは行かないが、それでも彼女には自信とでも言うべきものがあった。

 

「……あれはオオヨド、かしら?」

 

彼女が知らない日本艦をモデルにした艦娘は、多い。と言うより、知っている艦娘の方が少ない。

だが、その姿は前に一度だけ見たことがある。

 

性格までは知らないが、基本的に日本の艦娘は人が良い。真面目に話せばわかるまではいかずとも、英雄の虚名を使えば何とかなる、が。

 

(かといって、笠には着たくないのよね)

 

偉ぶっても何にもならない。敬意を表されるに値するのは、能力でも家門でもなくただ実績のみ。

高い能力も活かせずに実績を挙げられなければ尊敬には値しないし、無能でも必死になって実績を挙げれば尊敬に値する。

彼女が実績を挙げたのはここを去る前であるし、過去の功績に浸るのも美しくはない。何よりも、挙げた功績というものは次の未来に挙げるものこそが『最上の物』となるべきだった。

 

いつまでもいつまでも『あの時の』ではダメなのだ。これから挙げるものこそがその人物のベストであらねばならない。

 

強烈な自身への期待と自意識の高さが、彼女の戦意を支えている。

 

無論それは、他者に強制されるべきものではない。正直なところ、一度でも『ああ、あの』といわれるような戦果や業績を残せれば上等なのだ。

ただ、彼女は自身の内にある強迫観念のような思いを否定しきれなかったし、停滞している自分を見限られるのが嫌だった。

 

「オオヨド、でいいかしら?」

 

「はい。大本営付け、大淀型の一番艦・大淀です」

 

前にも触れたが、大本営の付けの艦娘は練度が高い。それぞれが解体された鎮守府のエースとでも言うべき存在であり、寄せ集めとはいえ所謂『エース部隊』である。

その他にも大本営が独自に育成している―――とうわさがある程度だが―――精鋭部隊があるらしく、実戦経験には乏しい物の経験豊富な練度四十、五十程度ならば完封できるほどには強いのだとか。

 

この大淀も、見たところ練度七十は下らない実力者であるらしかった。

 

「貴女は先日北方の泊地ALから比島鎮守府へ転任したビスマルクさんですね?」

 

「ええ」

 

「練度は九十八。38cm連装砲4基8門、15cm連装副砲 6基12門、 10.5cm連装高角砲 8基16門を備えながら、五連装酸素魚雷も備えた異色を放つドイツの誇る大戦艦。大本営の勧誘対象でもあります」

 

さらさらと個人情報を並べ立てられ、ビスマルクは僅かに怯む。

この、何もかもを知っているかのような冷徹な視線は苦手だった。

 

加賀も冷徹な視線はよく向けるが、外壁を剥いてみるとそこには必ず温かみがある。

大淀と呼ばれた艦娘の目は、戦力を見定めるものでしかなかった。

 

「私に何か御用でしょうか?」

 

「万が一の事が起こりうる可能性があるの。それを踏まえた上で、私をその部屋の中に入れてはもらえないかしら?」

 

「不可能です。内部で行われている会議を艦娘が視聴することは許可されていません」

 

「なら、練度の高い精鋭を艤装を付けた状態で待機させておくことは、できる?」

 

「それくらいならば可能ですが、動く理由が見当たりません。その係が居る以上、貴女の一言で従事している仕事・役割を放棄して万が一に備える、ということは不可能です」

 

そして、巡回を任された艦娘を保持する大本営側の人間のメンツも潰れる。

別段言いはしないが、大淀にはその泥沼の光景が容易に想像できていた。

 

見事なまでに冷徹さを貫く大淀も、好きでやっているわけではない。

彼女は、と言うよりも彼女が所属している大本営は規律主義者である。

彼等にとっては規律が第一であり、それを保つことを何よりも求めた。

 

彼等の高位は規律の取れた社会でのみ成立する。規律が蔑ろにされては、純粋な人望と信頼の度合い、後は力で高位が決まってしまうだろう。

彼等が人的被害よりも何よりも、規律と規則を大事にする気持ちが、大淀にはわからなくもなかった。

 

だからこそ、貫かねばならないものもある。

 

「大本営は充分な警護を割り当てています。この鎮守府には艤装を装着した艦娘が巡回していますし、今のところ電探に感はありません」

 

「こちらの電探に感があったのよ。それも複数の、強大な物が」

 

「少なくとも、こちらでは無かったということになっています。無い以上は動かさないというのが大本営の考えです。貴女が正しいかもしれませんが、無い物は無いのです」

 

ビスマルクの主張は、説得力に乏しい。しかし、北条中将こと加賀提督配下の艦娘が持つ索敵能力は大本営の持つそれを凌いであまりあった。

 

だが、大本営は彼が相手だからこそ受け入れないだろう。

彼等にはない人望と才能を持ち、優秀な手駒になるであろう艦娘から『彼個人に対する絶対的な忠誠心』を持たれている以上、大本営からすれば彼は邪魔でしかない。

 

優秀な手駒とは裏を返せば敵に回せば恐ろしい駒であり、叛逆の恐ろしさ故に密偵を送り込んでも、縄で括って宅配してくるような鎮守府を内偵させることは不可能。

更には、彼の非凡な指揮能力に抗し得る人材が居ないことも、大本営の北条中将に対する恐怖混じりの憎悪をかき立てた。

 

どんなにそれが正しくとも、『大本営が間違い、北条中将が合っている』という構図を崩さない限りは絶対に聞き入れないであろう。

 

「貴女達に現実を見る気はあるのかしら?」

 

「私の預かり知るところではありません。が、嫌いな者のいうことを聞くくらいならば戦力を失おうがどうでもよい、というスタンスであることは確かかと」

 

呆れるような溜め息をついた時、壁の砕ける音が室内に響く。

 

その瞬間、室内に灰色の風が扉を蹴破って侵入した。



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十七話

提督は、脳の半分の機能を停止させながら、もう半分の脳でもって大本営からの命令とそれに対する各提督の発言を聴いていた。

 

彼は別段不真面目ではないが、真面目でもない。考えることは好きだが、それは好きなことに限られる。

つまるところ、彼は怠慢な真面目者だった。

 

(加賀さんは笑わないのかなぁ)

 

常に口を真一文字かへの字に結び、時折困惑やら何やらが見えるものの琥珀色の目は静謐なまま。

声にも感情が乗せられていないし、無駄口を叩く気もないからその内面がちっとも見えない。

 

笑顔を見てみたいというのが、彼女と会ってからの彼の目標とするところだった。

 

(結婚式には、見せてくれんのかね)

 

案外と空気を読もうと努力する彼女のことだから、晴れ舞台では笑顔を見せてくれるような気も、する。

だが、自分は呼ばれないだろう。

 

呼ばれても、心から祝福できるとも思えないわけであるし。

 

そんなマイナス思考を働かせ、提督は加賀を脳内で着せ替えることに専念した。

白無垢か、ウエディングドレスか。どちらが似合うかと聴かれれば、どうだろう。

 

彼女の好みからすれば白無垢だろうし、白無垢姿の彼女を想像することは容易だ。

しかし、女性としてウエディングドレスにも『憧れの念』のような感情を抱いていてもおかしくはない。

 

結論、どちらも似合う。

 

その馬鹿でもわかる結論に達するまで、彼の表情は硬かった。

それは名将と呼ばれるに相応しい謹厳さを守っており、如何にも何か腹案がありそうな感じがある。

 

実際は、出来レースを大真面目に妄想しているだけなのだが。

 

(俺を見る目つきも段々変わってきたし、 あの子も変わってきてんだろうな)

 

着任当初は、僅かに期待している目。

一ヶ月後は、これからのスタンダードとなるジットリとした目。

三ヶ月後は無視で、それから二ヶ月後のレイテの後はジト目に戻る。

南方海域掃討戦での大破進軍を怒鳴りつけてから、時々目を逸らされたりするようになった。

 

(…………もしかして、嫌われているのでは?)

 

好きになる要素がないのに、お前は今更何をほざいているのか。

もう一人の僕ではないが、冷静で臆病かつネガティブな内面の彼がそう告げる。

 

前はそこそこ会話を繋げることができたのに、最近は特に酷い。

具体的に言うと、唐突に黙られたり、じーっと見られたり、視線を逸らされたりと忙しい。

 

秘書官として仕えてくれている時も、ちょっと指とかが触れるだけで思いっきり払われる。

あと、五航戦とか二航戦とか二水戦とか三水戦とかの話をすると、無理矢理話の腰を切られた。

 

(……やなのかな、秘書官)

 

仕事が増えて、嫌いな奴と一緒にいなければならないのが嫌でなくて何なのか。

 

なまじっか真面目で責任感が強いから、彼女は辞めるにやめられないのだろう。というか、これはパワハラではあるまいか。

 

考えるのを止めたいような感覚に囚われながら、彼は振られた問いにきっちりと答える。

 

『無意識パワハラ対処法と擬態を何とかするとは、大本営さん流石っす』と言うような思いが、彼の中にはあった。

 

誰も知らないことではあるが。

 

言うだけ言うと、彼は再び思索の世界へと帰還する。

加賀のことを考えるとネガティブなイメージが凄まじいことになるので、敢えて『陽』のイメージしかないビスマルクのことに思考を変えるあたり、流石の逃げ足だった。

 

(ビス子は何だか大人びたが、相変わらず解り易い)

 

前は少し顔つきが子供っぽかった。あどけない、と言うのかもしれない。

ジトーっとした一部の人種には堪らない目をした加賀とは違い、彼女は若干ツリ目気味。所謂、テンプレートなお嬢様な顔をしている。

 

かつて日本にいた時の彼女は、予想外の事態や戦力に明らかにビビり、震度二程度の地震に慌てまくって鎮守府中の窓を―――真冬だと言うのに―――片っ端から開けまくった挙句提督の私室にドアを蹴破りながら逃げてきたりしていた。

 

ところが今となっては、戦艦に相応しい風格と貫禄がある。

地震に強くなったかはわからないが、もう予想外の事態や戦力に見舞われてもビビることはあるまい。

 

要は、前のビス子は落ち着きがなかったのだ。

 

脳内でのみ使用している愛称で久しぶりに会ったビスマルクのことを思い返しつつ、周りの反応を待つ体勢から発言を切り上げる方向へと転換。

大本営へのおべっかを使いながら席に座る。

 

軍閥化の疑いを持たれているこちらとしては、少しでも従ってる風な態度を取らなければならないのだ。

 

そんな風に気を配る自分を他所にやり、ドアを破って突っ込んできたビス子の慌てっぷりを思い返していると、やけにリアルな破砕音が目の前から響く。

 

茫洋と光る二つの眼に、死体と見紛うばかりの青白い肌。

長い黒髪に、盾と砲が複合されたような黒い艤装。

 

技のタ級と対をなす強者、戦艦ル級こと、力のル級。

仮面ライダー一号・二号の異名に沿って名付けられたその渾名は、この二種の戦艦の特徴をよくよく表していた。

 

タ級は、装甲や回避などの一部のステータスが高い。

ル級は、火力が高い。

 

(何故ここに居るんだ?)

 

驚くことも忘れ、ただただ疑問に感じる彼の神経は、やはり修羅場を潜り抜けてきただけあって太かった。

鈍いだけとも言うが、泊地ALの長門提督こと南部中将以外の提督が皆中腰になったり悲鳴を上げたりしているところを見ると、彼は如何にも大物に見える。

 

別に、意識したのではないのだが。

 

両手で一つずつ持った盾型の艤装から構えられた砲門が自分の方を向くのを感じ、彼は思わず声を上げた。

 

「ほぉ、死ぬか」

 

直前に迫った死を前にした、重厚な精神性を感じさせる泰然さ。

それを目にし、『喪わせてはならない』とばかりに彼を突き飛ばそうとした横浜提督の方に『要らん』とばかりに手をやり、戻す。

 

発射される。

 

そう確信した途端、割れた壁から『ナニカ』が湧いた。

 

「!?」

 

ふらふらと、恰も『撃墜寸前ですよ』と言わんばかりのたこ焼き型艦載機。

本来味方であるべきソレが、ル級の目をピンポイントで撃ち抜いたのである。

 

提督を狙おうとしたら機体の制御が利かなくなり、墜落する時に反転してしまって『偶然』フレンドリーファイアを起こした。

 

誰もが疑いの余地なくそう思う墜ち方をしたたこ焼き型の艦載機は、軽い音を立てて爆発四散する。

 

それと時を―――つまり力のル級の目に照準が合わさった時を―――同じくし、飛来した鉄製の重厚なドアがル級の頬を張った。

 

叩いた、という生優しさではない。それは正しく『張った』という表現がしっくりくる。

 

「Admiral、無事!?」

 

「ああ」

 

飼い主が事故にあった直後の犬のような、或いは落馬した後の馬のような。

そういう類の健気な従順さを感じさせるような慌てっぷりで駆け寄ってくるビスマルクを目にし、提督は静かに、謹厳さを守って答えた。

 

本心は、『ビス子様、有り難うございます!』と言うようなものだったのであるが。

 

「ヤッテ、クレル」

 

眼から青い血を流しながらも立ち上がり深海棲艦からポツリと、人語が漏れる。

 

誰もが驚くであろうその光景を眼にし、一陣の風がル級へと吹いた。

 

灰色の風。

一際目を引く見事な金髪を靡かせながらも、見る者にそう形容されたのは彼女の纏う服が濃い灰色であるが故だろう。

 

実戦という修羅の巷を潜り抜けてきた者のみが持つ超反応は、扉を蹴破った後に停止しても衰えというものを知らなかった。

 

視界を音の発生源に固定し、鉄十字の勲章を首輪型の艤装から外して手元に発生させた小銃のような艤装ので以って、正確に敵の深海棲艦を狙い撃つ。

 

ビスマルクの艤装は、この室内で展開し切るには巨大に過ぎた。

 

彼女の艤装は腰から臀部にかけてを守るように二門の副砲を備えた第一装甲と、そこから発展された形に四門の主砲を備えた第二装甲によって構成されている。

第一装甲は細身の身体から僅かな隙間を開けて設置されている為、それほどの大きさはない。精々軽巡クラスの艤装であり、充分室内でも見動きが出来るほどの物だった。

 

しかし、船首を思わせるような鋭く尖ったデザインからなる、第二装甲。これが曲者である。

まず、船首ように上向きに尖った艤装はいい。これもまた、それほどの大きさはない。

 

長門や陸奥といったビックセブンの艤装と同じくらいの、室内で行動可能な、自重気味な大きさだった。

では、何が不味いのか。論を交える必要もない。

 

『砲塔』である。

 

デカイのだ。異論を挟む余地のないほどに、それは実際巨大なのだ。

彼女の艤装は、比較的忠実に再現された船首を思わせるパーツが左右両サイド共に前方に突き出している。

そして、その船首型艤装の出発点である腰から臀部にかけての艤装から上に伸びる形で背中におぶる様に船尾も備えられていた。

 

その船尾の中央部から二本の砲塔を支える為の腕が伸び、更に船首の中央部からも二本の砲塔が伸び、これまた巨大なX状の艤装を構成している。

 

縦にも横にも長い。そして、可動域が異様に広い。あと、分厚い。

ドイツの誇る大戦艦らしく、彼女の艤装はなんの洒落もなく鉄の塊だった。

 

故に彼女が艤装を付けたまま室内でふらつくには習得が容易ではない『一部』のみを展開するという技術が必要とされるし、防御力と攻撃力を引き換えに被弾率も高くなる。

 

元になった戦艦が長門よりも27メートルほど長い船体を持つが故の巨大な艤装は、諸刃の剣であると言ってよかった。

 

部分的には硬いし、脚は速いし、火力は強いが、当たりやすいのである。

 

「Feuer」

 

まるで秘事を呟くように、ビスマルクは発声した。

手に持った10.5センチ連装高角砲から発射された豆鉄砲のような極小の玉は、ル級の不可視のシールドバリアに阻まれて地に転がる。

 

もとより、このような火力に乏しい武装で傷を与えられるとは思っていない。

だが、発射と共に空いた腕で押し込んでいけば、どうだろうか。

 

それが僅かな火力でしかないとはいえども、前へ前へと攻めていくことが可能なのだ。

 

「ギソウヲ、マトワナイトハナ」

 

嘲笑するような声を上げ、戦艦ル級は主砲をゆっくりと稼働させる。

阿呆か馬鹿のように近々距離まで詰められては、彼女の主砲での迎撃は不可能。しかし、相手は力の源である艤装の本体を纏っていない。

 

一撃を加えれば、脆い人間のように崩れることは必定だった。

 

(ここらでいいわね)

 

肩から突っ込むようにして押し込んでいたル級を前蹴りで飛ばすことによって距離を取る。

ビスマルクが下した判断には、『外に出たからという』根拠があった。

 

尤も、敵からすれば『諦めた』、或いは『下手を打った』というような解釈になる。

艤装とは通常、専用の装置を持って保管・管理。大本営の認めた出撃時に必要に応じて装着させられるものだった。

 

彼女は、謂わば新米の深海棲艦である。見慣れないこの金髪碧眼の艦娘もまた、その例外ではないと考えた。

 

艦娘は、奇襲に弱い。

 

それが横浜鎮守府と相対している深海棲艦の常識であり、艦娘たちを束ねる提督の悩みの種だった。

 

故にル級は、優れた速度で照準を合わす。

避けても、提督たちがいる鎮守府に向かう。避けなれば、死ぬ。

 

究極の二択を迫る砲弾が、ビスマルク目掛けて放たれた。



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十八話

「閣下、ご無事ですか!」

 

目の前で繰り広げられる艦娘らしからぬ肉弾戦をただただ茫洋と見つめる北条中将に、横浜の一条中佐が声を大にして問いかける。

 

横浜の提督である彼は、誰よりも彼を尊敬するところ厚かった。

彼の出身地は、高知。レイテでの完勝がなければ鹿児島と並んで侵攻対象になっていたであろう。

 

家も財産も失うという覚悟の元に直前まで奈良くんだりまで避難していただけあって、彼が『レイテに於いて我が軍が姫級を含む敵深海棲艦二個艦隊を相手に勝利し、此れを撃滅せり。指揮官は十四艦隊第七機動戦隊指揮官北条中佐』という大本営発表を聴いた時は、半信半疑のような心持ちだった。

 

姫級は、当時の第一・第三・第四艦隊からなる三個艦隊を以ってしても仕留めきれず、戦線の崩壊を齎した災厄の化身。

それが、全く名の聞こえることがなかった無名の中佐とその隷下の二隻の艦娘によって沈められたという。

 

そんなことは、とても信じられるものではない。ペテン師扱いする者もいたし、『どうせ大本営発表さ』と斜に構えるような人間もいた。

だがそれは事実だったし、英雄に祀り上げられた彼はその後も勝ち続けている。

 

八十三勝零敗十二分け。

 

不利と見ればすぐに退くため常勝ではないが、決して負けないその姿は、まさに国の盾だと言ってよかった。

 

これを、その時新米士官であった彼が尊敬していないといえば嘘になる。

彼の慇懃過ぎる態度は、その度合いを如実に表していた。

「この通り、無事だ」

 

自分なぞよりもよっぽど貴重な頭脳と統率を持つ彼は安否を確認する一条中佐の声に応え、泰然とした姿勢と珍奇な相貌を崩す。

少し茶目っ気のある態度は、未来を予知していたかのような慧眼と歴戦の勇将たる重厚さを一際引き立てた。

 

浮き足立っていた提督連中もこれに当てられて冷静さを取り戻し、かと言って座るわけにもいかずにただ立ち尽くす。

 

誰もが、一条中佐が続けるであろう言葉を待っていた。

 

「閣下、地下シェルターにお逃げを。その身に何かがあってからでは、取り返しがつかないと愚考いたします」

 

「そういう訳にはいかんだろう」

 

誰だって、近くに揚陸してきた深海棲艦が居るという事実を目にしては怯まざるを得ない。

その常識に囚われていたことを、一条中佐は彼のいやに冷静な声を聴いてすぐさま後悔した。

 

「何せ、私の部下が戦っているわけだからな。世界のどの軍隊でも指揮官が部下より先に退いていいという軍規は、ないだろう」

 

ハッとして、頭を下げる。

一条中佐は、彼の逸話の一つを思い出した。

 

レイテの奇跡の折り、彼は危険区域にエンジンや櫂のない小船一つで自身を曳航させ、戦果を泰然と待ったと言われる。

つまり、そういうことなのだ。

 

「小官が浅はかでした」

 

「いや、理屈からすれば正しい。提督は代えが利かんからな」

 

色々と勘違いされやすい彼だが、この『逃げない』『見捨てない』という二本の柱は、紛うこと無き本心だった。

今の自分は、部下の働きが傑出していたからであり、決して自分のものではない。

 

指揮官として部下の功績を横取りしたくはないし、栄転先のポストを何個か殊勲者に―――つまり、加賀を筆頭とした機動部隊の構成員たる六隻と重巡筆頭の鈴谷、水雷戦隊を統率する木曾、軽巡を束ねる神通・川内・那珂の三人に―――本土や内地の安全で福利厚生もハッキリとした場所に腐心して用意し、大本営からの召集令状などを拒否することなく通したりしている。

 

だが、どうにも部下が動かない。川内などは、栄光の横浜鎮守府水雷戦隊旗艦を用意するという召集令状が来た時、『カラダニキヲツケテネー』と思ったら次の日には元の巣に戻っていた。

 

『召集令状はなかった。イイネ?』という忍者脅迫力には、提督も『アッハイ』と言うしかない。

 

ならば、何ができるのか。

精々、出来うる限りで福利厚生とメンタルケアを整え、見捨てず逃げずに居てやることくらいだろう。

 

「これはまあ、なんの役にも立たない奴なりの意地さ」

 

手をひらりと動かして他の提督に避難を促しながら、提督は自嘲気味に笑った。

 

「戦っているのは、私の部下だ。諸君等は国の為に地下シェルターへと急いでくれるかな。負ける気はしないが、万が一ということがあるしね」

 

彼自身が驚いているほど、彼の心は凪いでいる。

レイテで『国の滅亡』が眼前に迫った時も、南方海域掃討戦という名の捨て石特攻を命じられた時も、自分は驚くほど鈍く、冷静になれた。

 

力のル級と渾名されているだけあり、戦艦ル級の砲撃は駆逐艦から重巡洋艦、ひいては戦艦の艦娘までを一回の斉射で大破・轟沈に追い込む。人が喰らえば、肉片の塊にすらなれないだろう。

 

一瞬で死が身近になった瞬間、一気に身体が冷やされた。

今の彼には、現実がよく見える。

 

「南部中将、頼みます」

 

「殺しても死にそうにない貴殿の保証だ。信じよう」

 

「嫌な信頼だ。銃弾一つで私は死にますよ」

 

この中で最優の能力を持った南部中将こと長門提督が先導し、各提督が正式な海軍式の敬礼をしながらぞろぞろと会議室を去った。

 

先程まで扉の前にいた大淀は居ない。

この部屋に居るのは、横浜提督と彼だけである。

 

「貴官も避難した方がいい」

 

「閣下が負けぬと仰せなら、小官も残らせていただきます」

 

「外れるかもしれないよ?」

 

「それで死んでも元々ですから」

 

ニヤリと笑う横浜提督の顔に、陰はなかった。

純粋なまでに、邪気がない。裏も表もなく、闇も知らない。

 

「君は、いい指揮官になる。気がする。私が言っても説得力に欠けるかもしれないし、君の能力とわからない現状では更に説得力に欠けるかもしれないけどね」

 

「い、いえ!そのようなことはありません!」

 

「そうかな」

 

「少なくとも、小官は閣下の御期待に応えるべく軍務に精励するつもりです。能力の低さは、努力することで補います」

 

この男も、恐らくは部下を見捨てない。兵器と認定された彼女等を、兵器と見ない。

 

兵器と見たら兵器でしかない彼女等を、巧く活かして用いれるだろう。

 

「Admiral、やったわよ」

 

「ビスマルク、ご苦労様」

 

パタパタと振れる尻尾と髪色に近い犬耳が幻視できるほどの忠犬っぷりが愛らしいビスマルクが鉄のヒールを高らかに鳴らし、室内へと駆けた。

艤装を展開し切る前にル級を殺し切ったからか、彼女の服装はドイツ風の灰色のダッフルコートに、見動きのしやすい長靴と黒いスカート。

 

全体的に暗い色で統一されているからこそ、美しい髪がひときわ綺麗に、煌めいて見える。

 

軍帽を被っていない彼女もいいものだ、と。提督は僅かに戻り始めた思考でそう思った。

 

「外に航空母艦が四隻、戦艦が六隻、重巡が十隻、軽巡が十五隻、駆逐が二十二隻。みんな横浜鎮守府が残した旧防衛ラインを突破してきた、ということになるけれど、気になることが一つあって」

 

「うん?」

 

チラリと視線を一条中佐の方へとやり、彼女は座っていた提督の左腕に両手を回して無理矢理立たせる。

少しの間引っ張っていった末に部屋の隅に自分が押しこまれるようになったとき、彼女はポツリと口を開いた。

 

「手引した奴が居るはずなのよ。横浜鎮守府の前任の暗殺も含めて考えていいのかは、わからないけど」

「―――理由」

 

「何故今が好機だと思ったの?何故こうも簡単に揚陸されたの?何故過剰な戦力をここへ投入したの?

説明がつかないことが、そう考えるとドミノみたいに説明がつくわ」

 

「有り得る。が、大本営ではないだろうな」

 

「わからないわ。Admiralは大本営から疎まれているし、脅威を感じられていることは確かだもの」

 

「でも、内通者はどうせ俺の虚名を恐れるんじゃないの?」

 

「それはそうだけど、可能性の枠から外すにはまだ弱いと思うの」

 

「つまり?」

 

「内通者がわかるまで、誰も信じない方がいいわ。正直、少し考えないとわからないから」

 

「了解」

 

内密の話を終え、忠犬ビス子と提督は元いた場所へと戻る。

少し不審気な顔をしている一条中佐に視線をやるでもなく、ビスマルクはその外見にはそぐわない老獪さを見せた。

 

「と言うわけで、敵空母の艦載機は加賀が殲滅し切ったらしいわ。空爆がないのはその為ね」

 

「……なるほど、じゃあ後は戦艦連中を潰す、と」

 

「戦艦の中には姫級も居るらしいの。外部では艤装を装着した子たちが頑張っているけど、姫級は荷が重いと思うわ。彼女等、中々やるから」

流石に練度三十そこいらの艦娘に『姫を含む優勢な敵艦隊を撃破せよ』とは言えない。

 

物理的にできないのである。

つまるところ、ここ横浜は占領される危機に直面していた。

 

「……待て、何故シェルターに入ったはずの提督の隷下にある艦娘が居る?」

 

「そこまでは私もわからないけど、一人残ってるAdmiralに触発されたとか、そんな感じではないかしら?」

 

長門提督の艦娘であり戦艦の中でもトップクラスの練度八十七を誇る長門が、颯爽と水上を滑り確実に数を減らしていっている。

他にも、各提督の秘書艦が指揮系統がハッキリしていないとは個々の戦闘でしかないとは言っても奮戦していた。

 

「横浜鎮守府の戦力は大本営直轄で、半ば押収されている。各提督の秘書艦を庇う形になるが、いけるな?」

 

「あら、誰に念を押しているのかしら?」

 

躾けられた忠犬は、誇り高き狼へ。

 

彼女が純粋な戦艦として生きていたD3Rの頃を彷彿とさせる、灰色の軍服。

それを思わせるシックな男性服からもわかる、起伏の激しい細い身体。

相変わらずの長靴とミニでは済まないレベルで短いスカートの組み合わせは不思議と痴女めいた印象を与えることなく、むしろ艶容たる上品な美しさを放っている。

 

身体付きそのものが無駄を削ぎ落としたが故の機能美に溢れ、見た者に精悍な肉食獣の様な印象を与えることも、その一因なのかもしれなかった。

 

「ビスマルクの戦い、特等席で見せてあげるわ」

 

「ほう、それは過福というものかな」

 

獰猛さと信頼を込めた笑みが交わされたが早いか、すぐさま二人が屋外へと出、一人が慌ててそれに続く。

 

「勝報を待つ」

 

「―――Ihr Vergnügen」

 

態々古式ゆかしい単語を選択し、ビスマルクは主に使える騎士の如く傅いた。

御意、と。如何にも芝居がかった表現に苦笑を示し、提督は軽く笑って出撃を示す。

 

それを受けて軽く笑った彼女の白玉の肌に複雑怪奇な紋様が浮かび、消え、再び異なった紋様が浮かんでは、消えた。

 

「閣下、これが」

 

「ああ」

 

端麗な顔にまで広がったその瞬間、艤装が埋没させられていた外皮から鎌首を擡げる。

 

四門の主砲、二門の副砲。機動性を重視した灰色のボディースーツに、鉄十字が誇らしげに鎮座する軍帽。

 

狙って放たれたであろう砲弾を茶褐色の手袋を填めた手でひょいと掴むや否や鉄片へと変貌させ、ドイツ第三帝国最強の戦艦は再び日本への海へと舞い戻った。

 

 

 



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十九話

「あちらも、やっているようですね」

 

さっさと戦地である横浜から直掩機を引き連れて去っている途中で、加賀は懐中時計を静かに見つめた。

 

『最大殊勲賞、おめでとう。よければ、これを受け取ってほしいんだけど』

 

遠い記憶の中に鮮やかに残る、その少し緊張したような相貌と、困ったような声色。

 

この時計は、彼から貰ったものだった。

 

(……提督)

 

一瞥の後にまるで懐かしき思い出を網膜に焼き付けるように目を瞑り、加賀は再び時計に目をやる。

 

もうすぐ、約束の時間だった。

 

「あ、加賀さん!何をしてるんですか?」

 

時間通り。

 

ある種の達成感を得た加賀は、通過点に過ぎないとの認識をしながらもこくりと頷いた。

 

彼女は、裏表の激しい性格である。

尤も、というよりは激情家であるが故に常人よりも感情の量が多く、感情の量が多いが故に好意と嫌悪に絶大な差が生まれる、と言った方が正しかった。

 

つまり性格からして有り得ないが、提督が彼女を手籠めにしようとして、挙動不審ながら人気のない場所へ誘き出そうとすれば、加賀はあっさりと騙されるだろう。

なんの疑いも抱かずにとことこと歩いて向かい、艤装を出す気もなく、周りの様子も探ることなく押し倒されて手籠めにされることは間違いがない。

 

一方で、一度敵意を抱いた者には全く油断をしなかった。行動一つ一つに疑いを抱き、片っ端から洗い直し、その上に自らの感情というフィルターを通さず明度の高い判断を下す。

その後に、考えうる限り対策と言える手を打つだろう。

 

「ま、まさか、内乱ですか?飛龍びっくり!」

飛龍、蒼龍、飛鷹、隼鷹、五十鈴、陽炎、黒潮、不知火。

 

対潜・対空警戒に優れた第二航空戦隊が、スービック港湾から発した貨物船から離れて加賀の停泊地点へと集った。

 

「やめなさい、わざとらしい」

 

ペロッと舌を出して軽く詫びた彼女の艤装は、艦載機に至るまで最精鋭で固めた完全武装。

所謂、『いつでもやれる』体勢である。

二航戦は、一般艦艇による輸送隊の護衛任務に従事していた。

つまり、全体の編成としては練度六十を超えている五航戦を育成枠として、一航戦を決戦兵力として鎮守府に留め、 二航戦を輸送作戦に従事させることによって何の違和感もなく遊兵化させる。

 

いつか来るであろう『不審』の為に。迅速に、的確に仇なす者を討つ為に。

 

こんな『完璧な』奇襲劇に、裏がないなどあるはずが無かった。

 

「大方、予想通りです。あ計画の通りに手続きを」

 

「はいはーい」

 

あくまでも、『輸送作戦』。その轍は外さない。

 

「陽炎ちゃん、黒潮ちゃん、不知火ちゃんは五十鈴さんの指揮下に入って対潜警戒を。飛鷹さん、隼鷹さんは対空警戒を引き続きお願いします。

飛鷹さんは貨物船に『横浜二敵キタリ、飛龍・蒼龍ハコレヲ友軍ト共二迎撃セントス』と電報を。隼鷹さんは三十分後に停泊先を変更する旨を横浜鎮守府に伝えてください」

 

「了解。気をつけてね」

 

「あんま心配はしてないけどさ。叩けるだけ叩いて無茶せずに帰ってきてよ」

 

戦闘指揮官でしかない飛龍の穴埋め役である蒼龍が細かな指示を出し、練度が共に七十を越している飛鷹・隼鷹の軽空母二人に後を託す。

 

飛鷹が蒼龍と頷き合い、隼鷹と飛龍が杯を煽る様なジェスチャーをした後に航路を変更した。

 

横浜鎮守府を再建するための貨物船は横浜に直接では揚陸するのではなく、焼津港から陸路で運び込むことに変更する旨は、既に手配してある。

 

「一隻残らず水底へ沈めます」

 

「了解。艦載機は?」

 

「あなたは艦攻、蒼龍は艦爆。私は索敵と艦戦を。索敵機が周囲を二重偵察し終え次第、第一攻撃隊を編成。敵艦を叩き始めます」

 

優しげな蒼龍の瞳と、茶目っ気のある飛龍の瞳から甘さが消え、冷徹なまでの戦闘倫理が顔を出す。

 

「物を介さぬ獣には、徹底した鞭を。痛みで躾け、黙らせることです」

 

無言で頷いた二人の顔に、先程までの日常の顔はない。

ただ、敵を討つ為に極限までに磨き上げられた名刀の如き気配が、彼女たちの身体には漂っていた。

 

「慢心せず、気を抜かず、固まり過ぎず。それが出来れば一・二航戦は無敵です」

 

告げられた二人が、無言で頷く。

自分たちは、勝ってきた。百戦して無敗、欠落した艦船はなし。

 

慢心はない。戦い、勝ち。それによって引き起こされた疲労の蓄積もない。

 

護衛任務に従事したあとは決まったことではないものの一日二日はぐっすりと朝寝坊でき、艦載機の妖精さんたちもたっぷりと疲労を抜くことができる。

 

慢心も、蓄積疲労による破綻も、ない。一つ一つ足元を固め、堅実に歩めばまず負けはなかった。

 

「また、勝ちを積み上げます。続きなさい」

 

尊敬する先輩の静かな檄を、後輩二人は静かに、されど確実に受け止める。

 

偵察機が帰ってくるまでの時間が、やけにもどかしく思われた。

 

「ビス丸、大丈夫かなぁ……」

 

念の為に直掩機を展開し終えた飛龍の目線が砲火と飛沫の上がる横浜鎮守府付近に向き、一つポツリとこぼす。

ビス丸だのビス子だのと言われているが、彼女の実力は本物だ。提督から『ビス子キタル』との電報をもらった時、古参の艦娘たちの喜びようが尋常では無かったことからもその人望と、背中を預けるに足る実力の一端が読み取れる。

 

だがしかし、敵は航空母艦が四隻、戦艦が六隻、重巡が十隻、軽巡が十五隻、駆逐が二十二隻。しかも戦艦の内の一隻は姫級だと言う。

加賀の索敵機から情報は受け取っていたものの、改めて考えると凄まじい戦力だった。

 

駆逐艦は全て、確認されている三種類の中で最も強力な個体である二級。それのElite。

軽巡はツ級と呼ばれる驚異的な雷撃能力を持った個体であり、重巡も最強の個体であるネ級のElite。

戦艦の練度こそElite・Flagship・Flagship改とバラバラなものの、姫がついていて統率面でも隙がない。

更には航空母艦もFlagshipを四隻というから、横浜鎮守府が相手にしている太平洋に巣食う深海棲艦側の最強編成だと言ってもよいだろう。

 

「大丈夫かなぁ……」

 

「大丈夫でしょう」

 

珍しく断言するような加賀の口振りに驚きつつ、飛龍は一つ頷いた。

加賀が大丈夫だと言うならば、大丈夫。盲信するわけではないが、これまでの経歴と信頼が不思議とそう思わせる。

 

こちらへと帰還してくる偵察機を遠目に観察しながら、飛龍は矢筒から静かに一矢を引き抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

中破・大破が量産され、小破でない者は居ないとすら言える。

指揮系統が摩滅しているような現状は、そんな惨状を生み出していた。

 

直線的に進行し、砲撃するときに脚を遅滞させて狙いをつける。

思わず目を覆いたくなる程の低練度と、経験不足。そんな新人の艦娘を敵戦艦の砲撃を茶褐色の手袋に付いた鉄十字の紋様が彫刻された手甲で彼方に弾き落としつつ、ビスマルクは残存艦隊の収集に励んでいた。

 

見捨ててしまえば楽は楽だが、彼女の性格的に無理がある。

 

「脚を止めない!」

 

最大戦速に近い速さで航行しながら、驚くべき正確さでビシバシと敵に初撃を命中させていくビスマルクは、大なり小なり損傷した艦娘を無理矢理立たせ、引っ張るように距離を取った。

 

彼女は本来、戦艦にあるまじきインファイターであり、顔つき合わせた至近距離で本来の力を発揮する。

だが、遠距離でもやれないことはなかった。

 

「損傷した艦を内側に、戦闘に耐えうる艦で紡錘陣を!」

 

機関部をやられて航行が不可能になった艦を一々陸上に揚げ終え、戦うに足る戦力を従える。

最早損傷していない艦艇の方が少ない以上、小破よりの中破艦や小破艦に紡錘陣の内部に収容して面に対する砲火力を高める以上に策はない。

 

単艦で叩けないこともないが、それでは市街地を囮にせざるを得なくなる。

最早、指揮権云々をぐちぐち論じている場合ではない。

 

「先頭は私が。装甲の厚い戦艦が前面に立って敵の砲撃を防ぎ、敵戦艦に砲火を集中。砲身が焼けつくまで撃って撃って撃ちまくりなさい!」

 

「了解した」

 

殆ど唯一の無傷の艦である長門が全艦を代表して命令を受け取り、腕を軽く振って命令への帰属を促す。

彼女もまた、前期型。ビスマルクが所属していた泊地ALの秘書官を務める勇将であった。

 

「Feuer!」

 

水上で僅かなもたつきを見せながらも陣形が整い、集中すべき火力を保持した艦艇が全面に出てきた瞬間、ビスマルクは後ろに眼が付いているかの如く素早く司令を下す。

 

稼働可能な戦艦四隻が突出したビスマルクを中央の尖鋭とし、鏃のように二隻ずつを持って翼となった。

内部には重軽傷を負った駆逐艦・軽巡洋艦が庇われるように配置され、重巡洋艦が横腹を護る。

 

流星の如く赤い尾と白煙を引いて指定された敵戦艦のル級Flagship改に集中し、砲撃を防がんと展開されたバリアのような障壁をビスマルクの第一主砲『Anton』から放たれた徹甲弾がぶち抜き、主砲塔部分にあたる艤装ごと海底へともっていく。

 

第二主砲『Berta』、第三主砲『Cäsar』、第四主砲『Dora』が機関部・主砲塔・射撃管制装置を奪い取り、数多の艦娘を苦しめてきた艤装を単なる鉄片へと変貌させた。

 

夾叉の段階すら踏まぬ命中精度は、ドイツ第三帝国の科学力の粋を集めた光学測距儀と射撃計算機によるところが大きいであろう。

しかし、やはり動く敵に砲撃を加え続けた経験値がビスマルクの精密射撃を支えていた。

 

続く味方艦も射角を調整しながら次々に狙いをつけられた戦艦へと砲撃を開始し、脚の止まった敵を脚を止めずに撃ち抜いていく。

 

「ビスマルク、燃料は大丈夫か?」

 

「まだ半分近くあるけれど、何?」

 

「有るならば回避行動を取れ。貴艦もいつまでも無傷というわけにはいかないだろう」

 

「避けたら後ろに弾が行くじゃない」

 

「…………それもそうか」

 

苦虫を噛み潰したかのような顔で、長門は自らの短慮を悔やんだ。

ビスマルクが自ら先頭に立ったのは、何も指揮を取りやすいからではない。元々自分に砲撃を集中させ、味方艦の被害を抑えるつもりだったのである。

 

「被害が拡大したら、私が代わろう」

 

「そうはならんさ」

 

口角を上げ、肌に負けぬ程に白い歯が見える。

獰猛ながら貴品のある笑みは、同性である長門ですら一瞬眼が釘付けになるほどのものだった。

 

「敵砲撃、来ます!」

 

悲鳴のような声が上がり、心配そうな視線がビスマルクのしなやかな背中に向かう。

 

「さあ、かかってらっしゃい!」

 

放たれようとする砲弾の雨を相手に啖呵を切ったその姿には、いっそ堂々とした感すらあった。

 

戦艦棲姫、戦艦ル級Flagship改、戦艦ル級Flagship、戦艦ル級Elite。

 

一隻を第一斉射によって、一隻をビスマルク単艦によって撃沈された後に残された四隻が主砲四基八門をビスマルク目掛けて照準を合わせ、轟音と共に徹甲弾を撃ち出す。

 

戦艦棲姫は、練度五十の戦艦を一撃で撃沈させた実績を持つ強大極まりない主砲を持ち、ル級もその異名通りに火力に於いては一つ頭抜けた性能を持っていた。

 

その三十二発からなる一斉射撃を受けては、流石のビスマルクもただでは済まないであろう。

 

「上部障壁を解除、半径を二十五センチ縮小。正面の出力七十二,八パーセント上昇」

 

目視からなる威力洞察で必要とされる出力をザックリ割り出し、球体の如く展開された障壁の一部を解除し、縮小。余剰エネルギーと節約した分のエネルギーを正面に回す。

 

敵艦載機による攻撃を考慮に入れる必要がなく、なおかつ場数を踏んでいたからこそとしか言えない絶妙な障壁操作。

名人芸としか言えない『ギリギリ防げる程度の』障壁の展開で、彼女は戦艦棲姫の艤装から放たれた八発の徹甲弾と、それに続く二十四発を目と鼻の先のまで縮まった障壁で爆風すら届かせずに防ぎ切った。

 

艦娘と呼ばれる彼女たちは、生前纏っていた装甲の代わりに障壁のようなものを展開できる。

オートで展開されるそれは、本来操作できるものではない。自身の装甲値以上の防御力を叩き出すことは不可能だし、駆逐艦の砲撃でも量を喰らえば展開する為の内部エネルギーが尽きてダメージを喰らってしまう。

 

しかし、ビスマルクはその自前の装甲に加え、生前『四百発以上の砲弾をくらっても自沈するまで沈まなかった』という逸話からなる補正で更なる防御力を手にしていた。

 

だからこそ一回の防御で展開される障壁は硬く分厚く、エネルギーの消費も激しい。

が、彼女は『装甲の一部を切って別のところにつなげる』という狂ったような精密操作とオートの展開をマニュアルに戻すことで適切な量の障壁を展開・エネルギー消費を控えるという技能を身に着けたのである。

 

何回も使えるものではないが、相当に役に立つのは間違いがなかった。

 

「第二斉射、用意」

 

何の怯みも傷もなく、受け止めた時の苦悶もなく。ビスマルクは続く艦艇に号令を下す。

目標は、複縦陣を敷いて突っ込んでくる敵旗艦。

 

「目標、敵旗艦戦艦棲姫。Feuer!」

 



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二十話

「第一次攻撃隊、全機攻撃完了しました。損害は雷撃機一、爆撃機一。敵の損害は重巡四、軽巡三、駆逐四。第二次攻撃隊の発艦を求むとのことです」

 

蒼龍の報告を聴き、加賀は微かに一つ頷く。

 

「五分後に第二次攻撃隊を全機発艦。その後に第一次攻撃隊の艦載機の帰還作業に移ります」

 

敵戦艦の射程距離に入ることなく、三艦の航空母艦からなる機動部隊は僅かな余裕と相当の警戒をもって水上を直進していた。

加賀が敵航空母艦の艦載機を一機残らず叩き落としていたものの、敵航空母艦が四隻で終わるとも限らない。

 

航空母艦同士の戦いにも備え、加賀は直掩に艦戦を充実させている。

が、戦艦に比べて防御力に劣る航空母艦にとっては、回避行動も重要。故に、別な海域にも索敵機をやっていた。

 

「索敵機から入電。『敵増援ノ可能性ハナシ』」

 

「現在の艦隊が敵の現有戦力、ってことかな?」

 

「であろう、と思われます」

 

ビスマルクが巧みな砲火の集中運用と攻撃指揮で練度の低い寄せ集めの自艦隊を統率し、何とか轟沈艦を出さずに立ち回っている。

優秀な機動力に任せて攻撃と回避を繰り返すという彼女の艦隊運動は、低練度な艦とやると燃料消費が激しい上についてこれないというデメリットしかないものでしかなくなってしまう。本来は『敵の砲火に当たらず、自艦隊の砲火を集中できる』、人型という小回りの利く形状を活かした艦娘ならではの合理的なものなのだが、それにこだわってばかりでは敵に負けるよりも早く状況に負ける。

 

「五分」

 

「第二次攻撃隊、全機発艦!」

 

放たれた矢が爆撃機と雷撃機の群れへと変わり、数秒のラグもなく編隊へ。

南方海域の猛者たちと戦い続けてきただけに、キビキビとしたその速さには練度の高さが光っていた。

 

一方で、蒼龍と飛龍の放った第一次攻撃隊によって隊列をズタズタに引き裂かれた敵艦隊の混乱に付け込むようにして

ビスマルク率いる残存艦隊は敵戦艦を何れも大破・轟沈に追い込むことに成功。敵旗艦である戦艦棲姫もビスマルクの砲撃によって障壁となっていたシールドが破断され、四基ある砲塔の内三基の旋回装置を故障させている。

 

敵水雷戦隊を第一次攻撃隊が叩いた今、隊列を崩した敵に対して最早速度を落として距離を敢えて詰めないようにするなどという調節は必要なかった。

 

「長門、損傷した艦艇を揚陸してちょうだい」

 

「承知した」

 

旗艦である戦艦棲姫をビスマルクとの真っ向からの殴り合いで砲火力を四分の一以下にまで抑えられ、一翼を成していた水雷戦隊までを壊滅に追い込まれた敵を一点突破し、大破・中破等の損傷艦艇を長門と数隻の護衛艦に任せて回頭する。

 

彼女の指揮下に残された艦艇は五隻でしかないが、何れも練度四十を越える艦だった。

平均六十の日本での軽機動重巡戦隊や、本国での混成部隊を率いていた彼女からすれば満足のいくものではないが、それよりも先程まではマシであろう。

 

何せ、実戦経験の無い艦までを引き連れて逃げ延びねばならなかったのだから。

 

「目標、敵重巡洋艦リ級Flagship。敵右翼に砲火を集中しなさい」

 

回頭し、再びのすれ違いざまに砲撃を敵重巡洋艦に叩き込む。

叩き込まれた砲弾は二撃めで敵のシールド防御を打ち破り、忽ちの内に轟沈に追い込んだ。

再度装填し、戦艦棲姫に砲撃を仕掛けるべく距離を詰める。

 

「シズミナサイ……!」

 

同時に、戦艦棲姫が唯一稼働可能している砲塔の二門をビスマルクに向けた。

 

「Feuer!」

 

中盤から旗艦同士の殴り合いの様相を呈してきた

この横浜大木の艦隊決戦であったが、戦艦棲姫の

放った二弾ははたき落とされ、三十八センチ連装砲

からカウンター気味に応射された一式徹甲弾が戦艦

棲姫の艤装を完全に仕留めきったことで終焉した。

「三人居なければあんな無様は晒さないのよ」

 

ポツリととんでもない事を言い放ち、ビスマルクは大腿部まで伸びた軍服めいた艤装のポケットから一枚の札を取り出す。

 

それを静かに前に翳すと、沈み行く戦艦棲姫の艤装と魂魄が光の束となり、水底に変わって札へと吸い込まれた。

 

「グラーフの忠告も馬鹿にならないものね。流石はドイツの科学力、と言ったところなのでしょうけど」

 

空に見える二編隊が残敵を掃射し、煤一つ付いていない身体を静かに揚陸させる。

艤装を解き、凝った首を軽く回して解し。

 

横浜に於ける彼女の戦いは、一隻も犠牲を出さず、己も損なわないという理想の勝利という形で終わりを告げた。

 

「攻撃指揮は流石の卓抜さだな、ビスマルク」

 

「あなたこそ、よ。長門」

 

賞賛の言葉を微笑で流し、暫しの間世間話に勤しむ。

この二人は、半年ほど同一の鎮守府に所属していた。

 

秘書艦と客将という極めて渉外的な立ち位置ながら、この二人の仲は非常に良い。

ビスマルクからすれば長門は彼女にとって妹のような存在であるとある重巡洋艦と最期を共にした艦であり、長門からすればビスマルクは己の理想とする艦隊決戦を実際に―――ドイツ方は艦隊と言えるほどの規模ではなかったが―――やってのけ、世界屈指の巡洋戦艦を殆ど瞬殺してのけた北海の姫。

 

お互いがお互いに親しみと敬意を持って接している以上、更には互いに真面目な性格をしている以上、余程のことがない限り衝突することは有り得ないといえる。

 

如何にも和の武人と言った風情の長門と、風雅と貴品ある貴族を思わせるビスマルクの二人が笑語しているその光景に、他の艦娘は立ち入れないような風を感じていた。

 

話してみるとそうでもないが、外国人とはただそれだけで遠慮や怯みを生ませてしまう。

偏見でしかないが、島国、それも深海棲艦によって閉鎖されてしまっているこの世に於いては、しかたなかった。

 

金髪碧眼の艦娘と言えば代表的なところで愛宕がいるが、彼女は目尻が下がった温和そうな風貌をしている。

気の強さと誇り高さを感じさせるキッとつり上がった切れ長の碧眼とシミ一つない新雪の如き肌は、『如何にも』な印象を与えていたのだ。

 

繰り返すが、実際はそうでもない。気は強いし誇り高いが、彼女は幾分か丸くなっている。

 

前よりは余計なプライドが剥がれ、素の部分が出てきていると言えた。

 

「あの!」

 

そんな風貌に何度か躊躇い、小柄な少女が声をかける。

 

吹雪。彼女は特型駆逐艦と呼ばれる新型駆逐艦のリーダー格であり、自然と特型駆逐艦皆のまとめ役となることが多い。

今回もまた、比較的軽傷な他の特型駆逐艦をゾロゾロと引き連れ、彼女は皆に押されるようにやってきた。

 

「何かしら?」

 

長門との会話を一旦切り上げ、ビスマルクは軽く見下ろすような形で吹雪を見る。

身長差的に仕方ないことではあるが、それにしても3、40センチの身長差は大きかった。

 

「あ、あの……」

 

少し怯んだような様子で人差し指を突き合わせ、地面を見ては上にあるビスマルクの高い鼻梁とアクアマリンのような薄い碧色へと上下に漂わす。

 

明らかに威圧してしまったような感じがあることを、ビスマルクはピンと感じ取った。

彼女は、別段鈍い質ではない。特に『姉様姉様』と慕われることが多い都合上、年下の気持ちには敏感だった。

 

「別に焦らなくてもいいのよ?」

 

膝を曲げて腰を落とし、視線を合わせる。単純な目線合わせではあるが、これが案外と効果的であることを、彼女は経験から知っていた。

 

「あ、えーと」

 

まだ少しごもりながらも、吹雪は一回唾を飲み込み、庇ってもらった時に見た勇壮さとは打って変わった優しげな美人顔を見つめる。

大人の女性らしい非常に落ち着いた物腰と、髪が風に靡く度にふわりと香る硝煙とは無縁の花のような匂い。

 

戦っている時に抱いた憧れとはまた別な憧れを抱きながら、吹雪は薄れた緊張を振り払いながら口を開いた。

 

「私と皆を助けてくれて、ありがとうございます!」

 

「いいのよ。気にしなくて」

 

彼女には、これ以上ない程ドヤッと言う顔が似合うであろう。

 

隣に立つクソ真面目な性格をしている長門にすらそう思わせるあたり、彼女のドヤ顔は凄いものがあった。

 

「友軍を助けるのは友邦として当然の義務だもの」

 

鎖骨と胸の間の平坦な部位に指先を置き、目を瞑って胸を張る。

 

ドヤッ。

 

そんな擬音が似合う彼女の耳朶を、規則正しい革靴の音律が打ったその途端、ビスマルクの眼がパチリと開く。

 

「ビスマルク、お疲れ様」

 

「Admiral……」

 

振り向いた無傷のビスマルクに安堵しながらも、加賀を斜め右後ろに引き連れた提督は更に歩みを進めた。

あの褒められたがりのビスマルクも、一皮剥けて大人になったものだ、と。

 

何やらの感慨と共にそんなことを思い、提督はいつもの言葉を口にした。

 

「流石の防御力と攻撃指揮、ってとこかな。見てて安心できる戦いぶりだったよ」

 

「ええ、そうでしょう?」

 

この時点で何か怪しい雲行きを感じた彼は、僅かな不安と共に次なる言葉を待つ。

 

そして。

 

「いいのよ?もっと褒めても」

 

外面と内面が変わっても、ドヤ顔と本質は変わらない。

鈴谷と似たようなものを感じながら、提督は背中から腹に突き通すような視線を受け、犬のくせに猫のように目を細めるビスマルクの軟らかな金髪を撫で回した。



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二十一話

背後から肋骨の隙間に剣を突き通し、肺を貫いて肉を抉るように胸へと刺す。

 

比喩ではあるが、このような表現が似合うほど鋭い視線を浴びせられ、三日。

提督はとある軍艦の船内で加賀を侍らせながら仕事をしていた。

 

「……あの、加賀さん」

 

「………………………」

 

抵抗する気力すら根こそぎ圧し折るような眼光が、提督の身体を突き通す。

怖い。緩衝材であるビスマルクですら、裸足で逃げ出すこの迫力。

 

「何かしら」

 

「いえ、何でも……」

 

「何でもないのなら話しかけないでいただけますか?」

 

「はい……」

 

とっくに諦めているとはいえ、好きな女性に『話しかけんな』と言われるのは精神的にくるものがあった。

 

何故怒っているのか解らない。過度なスキンシップが悪いというのならばわからなくもないが、あれはビス子自身が求めてきたものである。

仲間意識が強い加賀さんが仲間に嫌がらせされたことに対して怒るならばわかるが、あれは嫌がらせではない。

 

「……」

 

黒いニーソックスに包まれたむっちりと肉付きのいい太腿を組み、加賀はベットに腰掛けていた。

加賀は元々良いとは言えない目つきが、一睨みで気の弱い人間を殺せそうなほどに鋭くなっていることに気づいている。

 

しかし、どうにもならない。ムカムカしているのだ。

 

(何でビス丸だけが褒められるのですか)

 

自分だって頑張った。市街地に被害が及ばないように、ビスマルクの戦闘が少しでも優位に進むようにと敵空母の艦載機を根こそぎ撃墜し、更には蒼龍・飛龍からなる二航戦を指揮して残敵を掃討している。

 

自分だって褒めてもらえるだけ頑張ったのだ。

 

(何でビス丸だけが撫でられるのですか)

 

貧乏揺すりで軽く部屋を揺らしながら、加賀は枕を抱きかかえる。

鼻から下を少し男臭い匂いのする白い枕に埋めながら頬を膨らますその姿は、目つきを除けば完全に拗ねているとしか思えなかった。

 

(目つきがヤバイな……)

 

チラリと後方を見た提督が感じたのは、背中に刃物を突きつけられたかのような恐怖を与える魔眼めいた気配だった。

 

どうしよう、と彼は考える。

加賀は怖い。キレると怖いのだ。

 

(…………何がマズかったんだ?)

 

頼みの綱の赤城もいない。緩衝材ことビス子は『新世界より』を聞きながら操舵室に籠もっている。

 

どうしようもない。そして、彼は思考を止めた。

というよりも、肉感的な太腿の魅力が恐怖を上回ったと言っていいだろう。

日本人よりもスタイルがいいはずのドイツ人よりも何故かスタイルがいい加賀の身体を全知全能で感知しながら、提督は背中に突き刺さる視線が和らぐのを感じ、止めた。

 

「提督」

 

「はい?」

 

「お仕事、手伝います」

 

いきなりどうしたと突っ込みたくなるほどの優しげな口調が逆に恐怖を煽る中、提督は敏腕秘書らしい容姿に恥じることなく仕事を己の三倍の速度で片付けていく加賀をぼんやりと見つめる。

 

絶対に人に懐かないシャム猫のような雰囲気と、何度見ても飽きない氷の美貌。

メリハリの利いた極上の美体を道着が覆い、豊満な胸を胸当てが締め付ける。

 

憧れと恋慕しか抱けないような好みの塊。それが、彼にとっての彼女だった。

 

「……やりました」

 

「お疲れ様」

 

ぐっ、と握った拳を内側に下げ、派手さを軽減させたガッツポーズのような動作を取る加賀に不釣り合いな子供っぽさを感じながら、提督はひとまず労りの言葉を投げる。

 

何故手伝ってくれたかはわからないが、仕事が減ったことは確か。

これを労ずして、何を労ると言うのか。

 

目の前で一つ頷いた加賀に、何かを期待するようにジーッと視線を浴びせられながら、提督は仕事に戻ろうと椅子を回転させた。

 

「提督」

 

「おぅ!?」

 

回転させた椅子を片腕で戻され、再び加賀の美人顔の前に座らされた提督は、少し胸が高鳴るのを感じた。

 

ああもう、自分は本当に同しようもないほど彼女が好きなのだ。

 

叶わない恋に情念を燃やす自分を嘲笑しながら、彼は想いを他所へとやる。

 

自分では、到底絶世の美女たる彼女には釣り合わない。

そんな冷徹な判断で希望を破棄する計算高さが、彼にはあった。

 

「私、やりました」

 

「はい」

 

「やりました」

 

「はい」

 

軽く俯きながら同じ様な発言を繰り返す加賀を見た提督は、少しのあいだ思考を巡らす。

彼女は、仕事を頑張っていた。頑張れば、疲れるだろう。

 

ならば、何故俯いているのか。簡単ではないか。

 

「加賀さん、自分の部屋に帰っていいよ」

 

細い肩に手を置き、優しく諭す。

 

加賀の体勢が『撫でなさい』というものであるのにも関わらず一切その選択肢が出てこないのには、ある意味で凄まじいものがあった。

 

何せ、この男は加賀の抱いている恋慕に対しては本当に鈍感で無頓着なのである。

 

そして加賀は例によって例の如く、頭にきた。

 

「ごぅ!?」

 

「…………」

 

軽く跳び上がって無言の頭突きを提督の顎に食らわせ、加賀は強かに反動ダメージを食らった頭を抑える。

軽く涙目になる程には、彼女も痛手を負っていた。

 

「か、加賀さん。何で怒ってんの?」

 

「私は、ちゃんとやりました」

 

再び軽く俯き、加賀は自分の思い通りに動かない口を憎悪する。

彼女は、ビスマルクのように優しい感じに撫でて欲しいのだ。

 

撫でて、撫でて、撫でて、よくやったと褒めてほしい。

できれば、ぎゅーっと抱きしめて撫でて欲しい。

 

巧く甘えることができない彼女は、自己嫌悪が激しかった。

側に甘え上手なライバルが出てきたから、尚更かもしれない。だが、元々彼女は不器用で上手く立ち回れない質なのである。

 

だからこそ、彼女を相手にする者はそこらへんをうまく汲んでやらなければならない。

極論だが、心の動きがわからないならば、『好かれてんのかな』とわかればガンガンセクハラしていくような積極性がなければ彼女の気持ちを汲むことは難しかった。

 

「いや、わかってる。頼りにしてるよ」

 

無言で首を振り、犬の尾のようなサイドテールが暴れる。

もっと他のことを求めていることを、彼はここで初めて理解した。

 

気づいても、何をすればいいのかがわからないのが彼の彼たる所以である。

 

「何をすればいいの?」

 

「……よくやった、ってしてください」

 

「はぁ?」

 

まるで意味がわからんぞとばかりに訊き返す提督に、加賀はいつになく怯み、竦んだ。

敵は怖いが、怯まないし竦まない。何故なら、勝ち筋が見えるから。

 

しかし、この慕う男の行動だけはどうしようもなく怖いのだ。

この世のすべてが、ではないが負けても再起を計れば二度目がある。

 

だが、喪った恋慕を再建する方法など、彼女は知らなかった。

 

「…………」

 

「……足りないなら、もっとがんばります」

 

無言で立ち尽くしたまま固まっている提督を無意識の上目遣いで、加賀は切ない想いを堪えるように見上げる。

 

「頑張ったら、なでてください」

 

「……撫でて欲しいの?」

 

「…………」

 

肯定するのは恥ずかしい。だが、ビスマルクのように撫でられたい。

そしてできれば、抱きしめて欲しかった。

 

自分から言えるわけ無いから、偶々の事故のような形で。

 

「……厭?」

 

「い、いや、いいけどね」

 

すーっと髪に向けて手を伸ばし、僅かに引っ込める。

癖っ毛を直す為に入念に手入れされた艶やかな濡れ羽の髪は、彼に不思議な神聖さを感じさせるものであった。

 

「……いや?」

 

「そんなことはないです」

 

上目遣いが更に殺人的な破壊力を齎している状態の加賀の頭に手を置き、撫でる。

所謂ジト目に分類される眼の目尻が下がったことに気づくこともなく、提督は自分のものとは明らかに違う柔らかな髪を手で味わっていた。

 

ビスマルクもいいが、加賀もいい。癖っ毛な感じがあるが、柔らかい。

サラサラ感はビスマルクの勝ちで、柔らかさなら加賀の勝ちであろう。

 

やり始めたら止まらないような感覚に襲われつつ、提督は加賀を撫で続けた。



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二十二話

「……あー、日本っていいわ」

 

加賀とビスマルクの護衛という名の追跡を振り切り、提督は悠々街に繰り出していた。

彼は、自分が狙われていることなど毛程も感じていない。兎に角、無防備且つ余裕綽々なところがある。

 

足に踏みしめる日本の土―――というか、アスファルト。

 

二航戦や木曾や鈴谷をわざわざ招いて二週間に渡って繰り広げられた演習も殆ど完全な勝利で終わり、提督や艦娘たちには各鎮守府日替わりで一日の休暇が与えられていた。

 

「ん?」

 

ふと目を路地に向ければ、群がる大人と中学生くらいの餓鬼。

持ち前の俗物的な野次馬根性で、彼は軍服のままフラフラと向かう。

 

人混みに流されながらもゆらゆらと入っていくと、一人の美女が無表情なままに焦っていた。

 

雪のように白い髪、燃えるような紅い眼に映える黒いセーラー服めいたワンピースと、騎士鎧のようなゴツいブーツ。

そして、目を惹くサイトポニー。

 

「あッ!」

 

深海棲艦め、化け物めと叫ばれ、石を投げられている彼女に駆け寄り、手を引いた。

紅玉の目が驚きに見開かれ、ゴツいブーツがガシャリガシャリとぎこちない音を立てて追従する。

 

どこかのドラマの逃避行のような光景に、今まで彼女を囲んでいた暴徒たちは一瞬呆気にとられた。

 

そして。

 

「追え!」

 

ガシャリガシャリと言うけたたましい音は、目立つ。音まるだしの追跡など、彼等からすれば簡単に見えた。

 

「こっち」

 

いつどこで把握したかわからないほどの迷いのなさで、提督は歩行する度にガシャリガシャリと五月蝿い彼女を小路地に押し込み、更に逃げたところで留まる。

隠れた小路地の角から顔を出して暴徒と共が過ぎ去ったことを確認し、提督は自重気味にガシャリガシャリとブーツを鳴らす彼女を引っ張り出した。

 

「危なかったね」

 

「……」

 

何処かで見たことのあるジト目をはち切れんばかりの歓喜を湛えた眼差しでジーッとこちらを見てくる彼女を、提督は暫し呆然と見つめた。

 

どこがとは言わないが、実際豊満である。ロケットなんちゃらとはこのことであろう。

 

そこまで考え、提督は冷静に現状を俯瞰した。

 

実際豊満な何やらを持った美人を、小路地という名の暗がりに半ば無理矢理連れ込む。

これを人は、誘拐未遂或いは強姦未遂と呼ぶ。

 

「……あの、俺のこと憶えてる?」

 

ここで、助けてもらったんだけど。

 

ナンパの定型文の如き言い訳を紡ぐべくそう続けようとして、提督は思わず押し黙る。

 

彼女の紅玉の瞳からは、ポロポロと水滴が零れ落ちていた。

 

「ずっと」

 

「はい?」

 

「ずっと、憶えていました」

 

涙声のままに漏れた声は聴き取りにくく、その感情だけがナマに伝わる。

相変わらずの流暢な日本語には、無限の寂寥と恋慕がこもっていた。

 

無論、提督にその恋慕の情はわからない。彼にはただ、圧倒的な寂寥感と愛らしさがダイレクトに伝わっている。

 

異形の生を身に宿した美女と、異能の力を身に宿した男。

片方はそれに気づき、もう片方はそれに気づかず、二人は『泣き止んだから取り敢えず』と言った感じで小路地から出た。

 

「アルビニズムの人だからって、何が悪いってわけでもないのにな……」

 

「……」

 

先天性色素欠乏症、通称アルビノ。元から発症率の低いこの症状は、『深海棲艦と似ている』というただそれだけの理由で迫害の対象となっていた。

彼等彼女等が何をした訳でもない。ただ、似ているだけである。

 

深海棲艦が揚陸してきたり海岸から砲撃をしてきたりして直接的な被害を被った地域でなら、百歩譲ってもわからなくもない。僅かとは言え似てる点があるならば、怯んでしまう気持ちもわからなくもないのだ。

 

しかし、直接的な被害を被っていない内陸部でもより苛烈に迫害の対象となるのは、どうか。

何もされていない訳ではないだろう。しかし、何の罪もない人を『似ている』という理由だけで蔑視するのは、如何なものか。

 

彼は、アルビノの迫害を知ってから私財を投じて積極的に彼等彼女等を比島に誘致してきていた。

比島に住む人々には、アルビノに関して差別的な思考を持つものが少ない。

 

何せ本土から隔離されている上に、実質的な最高権力者である提督が『アルビノは何も悪くないよ』と言っている。

周りに流される日本人の気質を巧いこと利用し、彼は比島を駆け込み寺のように運営していた。

 

「あの時は、どうもありがとう」

 

「いえ」

 

サイドポニーテール、デフォルトジト目、あと実際豊満である胸部装甲に、細身ながら肉づきのいい太腿。

 

加賀にどことなく似ている彼女は、口調までどことなく似ていた。

 

「もしよければ、名前。教えてもらってもいい?」

 

「…………」

 

相変わらずの無意識的にナンパめいた単語選択で、提督は命の恩人の名を問うた。

沈黙が紅玉の眼が暫く泳ぎ、握られた手に力が籠もる。

 

一秒、二秒。

 

どことなく自信を失ったような上目遣いで、アルビノめいた美女は口を開いた。

 

「土佐」

 

「随分と特徴的な名前だね」

 

「…………」

 

土佐と言うのは、少なくとも女性につけられるべき名前ではない。

 

恐らく偽名であろうが、提督は別にそこらへんを詳しく掘り返すことはしなかった。誰にだって聞かれたくないことはあるし、言いたくないこともある。

 

それに、別段本名を知らなければならない理由もなかった。

彼は、ただ単に『ねえ』などで会話を進めるのが難しいと判断したが故に聞いたに過ぎないのである。

 

「土佐さん、これ一応俺の端末の番号。繋がるかどうかはその時次第だけど、何かあったら力になるよ」

 

「……」

 

加賀めいた雰囲気を醸し出す土佐は無言でコクリと首肯した。

 

「身の回りに、気をつけて」

 

「それ、家の敏腕秘書にも言われたよ。初対面に等しい君にも言われるとなると、どうにも俺は不用心らしいな」

 

軽い口調で苦笑しながら返された提督の返事を受け、土佐の美貌に悲哀が浮かぶ。

 

切なさと、無情。己の失態で取り零した何かを悼み、悔やみ、耐えるような無念と、莫大な喪失感。

総てを喪ったような虚しさと悼切が、彼女の美貌を哀しげなものへと変えていた。

 

「ご、ごめん……」

 

これ以上無い程の悲しみの体に、流石の彼も焦りを見せる。

 

彼女が言った忠告は、彼としては耳にタコができるほどに聞いていたことだったから、正直聞き飽きていた。

故に軽くうんざりしながら流したのだが、そのことがここまで彼女を傷つけるとは思っていなかったのである。

 

軽く瞑目し、土下座の勢いで謝ろうとした、その時。

 

「提督!」

 

後ろから耳朶を打つ、聴き慣れた声。

何故か頬に血を付着させた加賀が、常日頃の怜悧さをかなぐり捨てた焦燥ぶりを表に出していた。

 

「加賀さん、その血―――」

 

「返り血です」

 

アッハイ、としか言いようのない断言に面食らいつつ、提督は一先ずポケットから出した黒いハンカチで加賀の頬を拭く。

拭かれた右頬が少し上がり、ジト目が三日月のように細まった。

 

(加賀さんの頬って柔っこいな、おい)

 

返り血という世紀末的不謹慎さを拭っているにも関わらずその柔らかさにときめく。

提督は、彼女のしとやな黒髪を撫でてて以来ずっとこんな感じな頭であった。

 

「提督、ここで何をしているのですか」

 

「いや、命の恩人に会ってさ。ほら―――」

提督が振り向き、加賀が背伸びして彼の肩あたりから顔を出す。

四本の視線集中した先には、何も存在していなかった。

 

「…………提督?」

 

「そんな目で俺を見るな。本当に居たんだって」

 

とうとう現実と妄想の区切りがつかなくなったか、可哀想に。

何よりも雄弁に語るジト目を受け、提督は必死に弁明をする。

 

本当に偶然命の恩人と会い、泣かせちゃったりしたものの二、三語話せたこと。

話したのちに携帯端末の番号を教えたこと。

 

かなりタイプな美女だったと口にした辺りで加賀のジト目がマヒャドを掛けたが如く極寒のシベリア気候と化し、提督の弁明は氷結の憂き目にあった。

 

「行きますよ」

 

「はい」

 

子供でも先導するかのように手を繋ぎ、引っ張っていく彼女に母性を感じる。

暢気にそんなことを考えつつ、提督は僅かに頬を染めながらも周囲への警戒を怠らない加賀を見つめながらふらふらと歩みを進めた。

 

「……提督は」

 

「うん?」

 

「提督は、私がこうしてないとどこかに行ってしまうから手を繋いでいるの。別にその恩人とやらへの対抗心からとかでは、断じてないわ」

 

白魚の指に割と長い指が絡まり、触れる。

本当にいちいち柔らかい、女を感じさせる肉感的な身体に、提督は感嘆の念を抱いた。

 

もう、加賀さんを一回でもだけたら死んでもいい。

 

夫になるであろう相手が死んだら、慰めてそのまま奪ってしまいたい。

 

本能に近い獣欲が、ほんのり頬を染めている女へと渇望を示す。

彼女は、やけに無防備なのだ。結果として事故が起こってしまっても仕方ないほどに美しく、騙されやすい。

 

(加賀さんの将来の夫は、この世で一番幸せ者だな……)

 

無言なところは、余計な相槌や喋りを要求されないぶん嬉しい。

無表情なところは、堪らない。

身体も実際豊満であるし、何より抱き枕にぴったりの柔らかさがある。

声は平坦ながら耳に刺さらず、違和感なく鳴り、他者を落ち着かせることもできた。

 

「……あー、憂鬱」

 

加賀が笑っているところなど見たことがないためそこは妄想で保管し、結婚したい俳優ランキング一位の男性と結婚しているところを思い浮かべ、提督は勝手に一人で鬱になっている。

だからこその、この発言だったのだが。

 

「……私と居るの、厭?」

 

不安そうな眼差しと、平坦な声色が提督へと向けられる。

彼は少し考え、慌てて否定した。

 

まだまだ互いの気持ちに気づくには、かなりの時間が必要だろう。

 

そんな感想をいだかせるほどに、この二人はお互いビビリで鈍かった。



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二十三話

「うちの鎮守府って、ひょっとして豊かな方なのかな」

 

魔王城を思わせる複雑怪奇な要塞めいた艦橋と、艦娘がつけているデフォルメされた砲とは比べ物にならないほど巨大な砲塔。

全長251メートルという世界でも屈指の巨体を誇る戦艦ビスマルクの甲板で、三人の男女は机の上に置かれた色とりどりの料理を摘んでいた。

 

「Admiral、それは今更というものよ?」

 

「あ、そうなの?」

 

「他の鎮守府では燃料弾薬等の資材を用意するだけで精一杯、ということが多々あります」

 

円形のテーブルの三方を囲むようにして会食に勤しむ三人は、豪華客船の船上パーティーに招かれた客ではない。

人類を守る為に生まれたということになっている艦娘と、その艦娘を強化・運用することのできる提督と呼ばれる男である。

 

烏のような濡れ羽の髪を括ったサイドテールが愛らしさを、琥珀の目が怜悧さを感じさせる加賀は、嘗て南雲機動部隊の中核を為した精鋭・一航戦の片割れ。

黄金を溶かしたような見事な金髪を流したロングの髪と少しつり気味の碧眼が気の強そうな印象を与えるビスマルクは、敵から嬲り殺しの如く四百発の砲弾を叩き込まれて尚撃沈されることなく自沈した、誇り高きドイツ第三帝国最強の戦艦。

 

黒髪にどこか温和そうな眼差し、採点すれば七十点と言ったような風貌に頬の向かい傷が歴戦の味を出させている男は、北条某。階級は中将。公的には世界屈指の戦略眼を持つ名将ということになっている、天然物の補給の巧者であった。

 

「へぇ……まあ、一人で鎮守府回すのは難しいもんね。わかるよ」

 

「補給に関しては貴方が一人でやっているのではなくて?」

 

「そりゃまあ、それくらいしかやることないからね。あと、飯は旨い方がいいし。でも、イマイチ有り難くない感じが凄い」

 

世は太陽などの自然エネルギーを活かした自律型の無人機全盛期。大規模な補給線を構築するなどという思想は一世紀ほど前に忘れ去られ、有人兵器は性能を重視した一部の大兵器のみ。

 

つまり、暴走したらまずい兵器に人が乗り込み、大抵は無人機。これが現代の対人戦争だと言える。

故に、補給はほとんど不要だった。その気になれば何時でも基地に帰れるし、そもそも大国同士での戦争がないから有人の大兵器に出番がなかったのである。

 

「補給は大事なことよ、Admiral。現に、バルバロッサ作戦で充分な補給があれば我が第三帝国も憎きソビエトを斃せていたもの」

 

補給線をズタズタにしてもあまり応えた様子のない敵を干殺しにしたその手腕は褒められてしかるべきだが、哀しいかな。この国にとっての名将は寡兵で雲霞の如き大軍を撃破・翻弄する手腕に優れた者。

 

加えてこの世は今、前述したように無人機を操る戦術シュミレーションの成績が評価の過半を占める時代だった。

 

彼のような『補給線を切って、干乾びたところを大軍で潰そうぜ』というソビエトめいた思考は『狡い』『汚い』『時間の無駄』という有り難い評価を頂戴することになる。

 

「いつも加賀さんは『補給は大事』って言ってくれてるけど、兎に角地味だよね、兵站。他の鎮守府がぶん投げる気もわかる気がする」

 

「でも、ぶん投げた鎮守府の末路は壊滅でしょう?」

 

ベーコンをふんだんに使った石窯ピザに半熟卵を載せたビスマルク風ピザを一切れ咀嚼し、貴族の令嬢を思わせる優雅さで彼女は昼からワインを飲んでいる提督に問いを投げた。

嘗て突出して進撃し続け、『好き勝手動いても途切れない』という驚異的な兵站運営の手腕の有り難みを実感しただけに、戦術的な眼しか持たない彼女の補給線への執着は根強い。

 

本国ドイツに帰った際に『世界屈指の名将の指揮を受けた艦娘として、学ぶべき戦略・戦術はありましたか?』と聞かれて、彼女は『そんな物よりも兵站が凄まじい』と答えている。

このようなこともあり、提督が輸送船と速吸ら補給艦を運用し、適切な場所と予想される進路にドシドシ物資を運ぶ姿は、寧ろ友邦ドイツで大きく評価されていた。

 

「伸び切った兵站線をつかれたことは幸いにしてありませんが、それに近いことをされて前線部隊が壊滅するのは茶飯事です」

 

「何で学ばないんだろ」

 

「馬鹿だからでしょう」

 

相変わらず嫌いな物に対してはドラアイスの如く冷たく、辛辣に過ぎる加賀の評価に提督は首を傾げる。

馬鹿が馬鹿やってたらこの国はとうに滅んでいるのだから、一概に馬鹿と言い切ることはできまいと言うのが、彼の思案するところだった。

 

「正面切って戦ったら勝てているから、とかじゃない?」

 

「…………かもな」

 

フランス産のワインに舌鼓を打っていたビスマルクは、嘗て自分が陥っていた錯誤を口にする。

正面切って戦ったら勝てると言うのは、言い訳として有りがちだった。

 

裏返せば『正面切って戦わねば勝てない』ということに目を向けないことがかなりあるのである。

まあ、実際正規教育を受けたものは正面切っての戦いに強いから、本当にわからなくもないのだが。

 

「それはわからなくもないけど、俺はそもそも正面切って戦いたくないんだよね」

 

「極めて妥当な考えです」

 

「私も正面切っての戦いに憧れはあるけど、確実な勝ちを拾っていくべきと言う理性はあるわ」

 

同僚に聞かれれば一笑にふされる言葉に肯定が返ってきたことに満足しつつ、提督は手元のワインを飲んだ。

深みのある味と、芳醇な酸味。最高級のフランスワインだけあって、それは舌が歓呼の雄叫びを上げる。

 

「ワイン、旨いな」

 

「やっぱりワインはフランスよね……」

 

無言でコクコク飲んでいる加賀に代わり、相変わらずの無邪気さと気品のない混ぜになった独特の雰囲気を纏ったビスマルクが応えた。

傍から見たら完璧に飲酒運転であろうが、彼女にとっては戦艦ビスマルクを動かすことは自分が歩くことと同義である。

 

つまり、酩酊ないしは泥酔しない限りは運航に支障は来さなかった。

 

「それにしても、何でまた急に演習だったのかね。近場に居た二航戦はともかく、木曾とか鈴谷とか神通とかも呼べってのはイマイチ解せん」

 

「戦力の把握ではないでしょうか。敵味方の戦力を正確に把握することこそが、戦いの第一歩ですから」

 

ビスマルクのまなじりがピクリと動き、彼女は気ぜわしげにワイングラスを回して中の赤紫の液体を撹拌する。

自分に対して含まれた意味と、提督に対して含まれた意味。

 

これが大きく違うことが、聡い彼女には解っていた。

 

「大規模な作戦でもあるのかしら?」

 

「わかりません。ですが、備えておいて損は無いと考えます」

 

探りを入れ、返ってきたのは巧みな言葉。

決して棒読みではないが感情の起伏を感じさせない平坦な発声は、人をすぐ信じる質な彼から本意を隠すには充分なものであろう。

 

となれば。

 

「なら、そろそろ私は水面警戒に戻ろうかしら」

 

「折角のワイン、飲んでかないのか?」

 

「一応これも私の一部な訳だから、喰らったら意外とキツいのよ」

 

少し不審気に問いを投げる提督に、戦艦そのものと言う完全に展開した状態となった己の艤装をヒールで叩き、身を翻す。

 

いつ何処でも、比島鎮守府の領海内に入らなければ危機は去らない。

蒼龍・飛龍が木曾や鈴谷、神通からなる護衛艦隊に守られて一足先に帰ったのはなぜだろうかと思っていたが、道理で。

 

聞かされてから妙に得心といった己の不明さを恥じつつ、ビスマルクは食事会場となっている甲板を後にした。

 

彼女の本国は、守りに徹していることもあって基本的にこのような内輪揉めが起きない。

故にビスマルクが『本国』と言うものに疑心を抱くという心得を持っていないのは当然だが、此処は日本。

 

(慣らしておくべき、ということね)

 

そんな風に独りごちつつ、彼女は帽子についたレーダーで海中・海面を探り始めた。

 

その頃。

 

「行っちゃったよ」

 

「仕事熱心なのは良いことです」

 

内心を悟れる妖怪が居たならば、『どの口が言うか』というところだろう。

腹黒いと言うわけではないが、二重人格を思わせる内面の適宜な豹変こそ彼女の強さの源であった。

 

「私も少し中座します」

 

「じゃあ、俺も」

 

三人が三人とも中座した末に向かった先は、管制室、私室、通信室。

ビスマルクは警戒に、加賀は私的な連絡手段を使いに、提督は分艦隊の司令官たちに連絡をしに中座したのである。

 

『はい提督、何ですか?』

 

「第三分艦隊に繋いでくれ」

 

『了解しました』

 

比島に構えた鎮守府とは別な、ボルネオ島の補給基地。そこの司令官であり、通信の中継をする役割を担っている大淀に提督は一先ず通信を入れた。

 

大本営にも、大淀は居る。ボルネオ島にも、大淀は居る。

違いは眼鏡の弦の色くらいであろうが、能力はかなり違っていた。

 

この大淀は、謀略とか駆け引きとかが苦手な代わりに管理能力に秀でる。

大本営の大淀は、この大淀が苦手なことに優れる。

 

任された職掌に適応する形でこうなったのであろうが、なんとも雰囲気が違っていた。

具体的に言えば、主席の女学生と敏腕のオーエルくらいには違っていた。

 

『何だ?』

 

「木曾、今いいか?」

 

『まあな。退屈じゃないけど、暇ではあるぞ』

 

木曾には雷巡全てと軽巡数隻、二水戦などの水雷戦隊―――即ち、夜戦火力を豊富に保有する戦闘集団を指揮下に置いている。

常に直卒の艦隊は二水戦ら護衛の任を免除された戦闘集団だけだが、船団護衛に割り振られる駆逐隊なども彼女の管轄であることを加味すれば、木曾は最大の数を持つ部隊の司令官であると言えた。

 

「加賀さんが艦艇配置を変えたんだけど……確か、君は参謀資格持ってたよな?」

 

『ああ。それ程練成したわけでもないけどな』

 

「なら、これを見て『どこからの敵を想定しているか』ってのは、わかるか?」

 

通信用のホログラムに映し出された木曾の秀麗な顔が曇り、眼帯をつけていない方の眼が僅かに閉じられる。

顔の良い奴は何をやっても格好いい。

 

そんな世の無常をヒシヒシと感じながら、提督はホログラムを見続けた。

 

『北方……台湾のあたりと、トラック・ラバウルの辺りだな。西部戦線は叩いたから、本土への北方航路を護るってとこか、或いは―――』

 

「腹を割って話そう。俺と君の仲じゃないか」

 

言葉を濁そうとした木曾の台詞を遮り、信頼していることを強調して真実を求める。

自分のできることとできないことを明確に分けた、如何にも彼らしい言一手だった。

 

『……本土への警戒だろう』

 

「そうか」

 

僅かな嬉しさのようなものを見せた木曾の男前な相貌から目を逸らし、提督は少し考え込む。

 

彼としては、本国とことを構えたくはない。正直なところ、彼は生き残る為の戦力をこれ以上磨り減らす訳にはいかないと考えていた。

 

だからこそ、集中して運用する為に自らが育てた練度の高い艦娘に大本営への移籍を奨めたのである。

 

『純粋に軍事的な面で言うなら、加賀はことを構える気はないと思うぞ。あれは強かな戦略家だ。完全に潰す気なら演習で大勝する必要は無かった』

 

「うーむ」

 

『やっぱ、歪な力関係を正常な枠にそのまま当て嵌めようとしたら歪むもんだろう?

つまり、この演習で示したのはそういうことじゃないのか?』

 

制海権の拡張には貢献する。指示もある程度聞くが、介入は許さない。

見棄てられたことは忘れていない。だが、必要に応じて協力程度はしてやってもいい。

 

だいたいが、そんなところであろう。

 

「なるほど」

 

『俺が口を出すことじゃないかもしれないが、加賀はあれで心配性な奴だ。何を選ぼうがお前に心理的な負担が掛かるからって黙ってんだろ』

 

「まあ、そこのところは気にしてないさ。でも、責任取るときに何やってたかくらいは知ってなきゃダメだろ?」

 

『そんなことにはさせないさ』

 

不敵な笑みを浮かべる男前な木曾を見て少し笑い返し、提督は改めて部下に恵まれたことに感謝した。

 

自分が勝手に庇い、勝手に孤立した。その責任は己が取るべきだが、それを何とかしようとしていれている。

 

「わかった。これからも頼りにさせてもらうぞ、木曾」

 

『俺が出来ることなら何だってやってやるよ』

 

身も心もイケメンな木曾が安心させるような微笑を浮かべ、やけに板についた海軍式の敬礼を行う。

 

返しとばかりに答礼を行い、ホログラムは溶けるように霧へと還った。



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二十四話

空母寮、赤城部屋。

実質的には加賀との共同部屋だが何故か、ただ一人赤城の名が冠された部屋で、二人の美女が向かい合っていた。

 

「加賀さん、現状がわかっていますか?」

 

「……はい」

 

身内の敵を酷評したドライアイスの如き怜悧さは影を潜め、ただの乙女がそこには居る。

どうしようもないほど縮こまり、彼女は安定の体育座りで落ち込んでいた。

 

「いいですか?」

 

「はい」

 

「今までは出来レースでした。つまり、出走者があなたしか居なかったのですから、如何に止まろうが遅かろうが問題はなかったのです」

 

「はい」

 

「ですが今回、ドイツ製のスーパーカーが参戦しました。わかりますね?」

 

「…………」

 

いつも真一文字に結ばれている口が困ったようにへの字となり、琥珀の眼が自信なさげにふらりと揺れる。

 

自分に自信がない。どうしようもないが、もう加賀の恋愛に対する臆病さは治すことの叶わない宿痾だった。

 

「負けますよ、加賀さん。取られちゃいますよ」

 

「……いやです」

 

「結婚して、二人はドイツで暮らすでしょうね。此処は居辛いですし、ドイツも彼の補給線構築の手腕を買っています。加賀さんは付いていけるはずもなく、結婚式に出てそれで死ぬまで会えません」

 

「止めて下さい」

 

あまりの惨めさと、自分の隣に居てくれた彼が居なくなるという悲しさを、彼女はその豊かな想像力で以って鮮明にイメージしてしまう。

 

あまりにも悲しくて、生きる気力の九割が持って行かれることは請負だった。

 

駄々っ子のように首を振った後に赤城をキッと睨みつける彼女の眼には、涙がじわりと浮かんでいる。

敵に対する時の大胆さと周到さがあれば提督などは簡単に落ちるのに、ドライアイスの中身はすぐに傷つく泣き虫なのだ。

 

逆だったら逆だったでかなり人格的に問題がある。

だが、このヘタレっぷりも拙かった。

 

何せ、聴きたくありませんとばかりに両掌が両耳に蓋をしているのだから。

 

「目を逸らしても何も変わりませんよ」

 

「……提督もそう簡単には落ちません」

 

「押されたら直ぐですよ。向こうは加賀さんが好いてくれてることを知らないんですから」

 

本当は、有り得ないと断じて諦めきっているのだが、それを言うと加賀は更に凹む。

中々凹まない割に凹んでしまっては膨らますことが困難な質である彼女には、兎に角希望的観測を伝え続けることが重要だった。

 

それに、どっちであろうが対して変わりはしない。

 

「…………私の頭を撫でてくれました」

 

「ビス丸は?」

 

都合が悪かったらすぐ黙る。拗ねたらそっぽを向いて頬を膨らます。

切れ者ぶりはどうしたと言わんばかりのいじらしさに、赤城は頭を軽く抑えた。

 

「現実見ましょう、加賀さん」

 

「……どうしたら勝てますか?」

 

遂に惨めな自分の未来予想図を本能でも理解した加賀は、怜悧な相貌を不安と縋るような弱さに染める。

 

「既成事実でしょう」

 

無害そうな顔でとんでもないことを吐いた赤城を、加賀は心の底から恐ろしいというような顔で見つめた。

 

「ん……!」

 

そして、その隙を逃す赤城ではない。無造作に伸ばした手でぐいっと加賀の張りのある胸を鷲掴みにし、赤城はピクリと爪先から肩のあたりまでを小刻みに震わした反応を冷静に観察する。

 

服越しに食い込んだ指を押し返そうとする張りもあるし、手の指から溢れそうなほどの柔らかさも―――つまり、必要とされる案件を全て満たした胸部装甲。

 

感度も相当に良いし、何よりも常日頃の無表情からの恥じらいと触られたことに対する快感と、それに抗い我慢しようとする気持ちが混ざったようなその表情は、常の氷の美貌と同じ素材を使ったのとは思えないほどに淫靡で扇情的な魅力があった。

 

「何とか胸を触らせて、こんな顔をする。そうしたら確実に襲ってくれます」

 

鷲掴みにされた挙句、胸当てとサラシで凝った胸を揉み解されたこともあり、加賀のうなじに朱が昇る。

 

息を荒げて声色を調節しようとする様子にもまた、男を獣へと変える狂おしいほどの色気があった。

 

「……い、嫌です」

 

「何でですか?起動こそ難しいですが、成功率は百パーセントですよ?」

 

黒いニーソックスに包まれた太腿をモジモジと擦らせながら、加賀は揉み解された胸を抑えつけながらポツリとこぼす。

 

「その、初めては……」

 

「初めては?」

 

「愛してるって、言われてからでないと、その……」

 

それは、愛してると言われ、結婚した時に、生涯尽くすべき夫に捧げられるべきだった。

なんだかんだで求められたら断われずに捧げてしまいそうだが、それはそれである。

 

「乙女ですねぇ……」

 

「……普通では、ないの?」

 

「加賀さんを応援するにあたって私も色々と調べましたけど、そこまでお堅い人はこの世には存在しないようです」

 

鉄の塊が、肉と骨と脂肪で作られた型に圧し込まれた。

心があるとは思うが、無いと考えるものもある。

 

それは同一個体であっても様々意見の分かれるところであり、そう簡単に決着の付くものではなかった。

 

が、加賀は人になりたいと思っている。だからこそ、心と言う不確かで誤差しか生み出さないおおよそ兵器には不必要なものを許容したのだ。

 

「私、やっぱり人ではないのかしら」

 

「……」

 

これまで加賀は散々黙ってきたが、今度は赤城が押し黙る。

 

そも、彼女は心と言う物をあまり信用していないし、許容していない。兵器の本分は忘れるべきではないと思っているし、必要に応じて切り捨てられるものだと理解していた。

 

例えば、撤退戦の時。指揮官は金こそかかるが量産できる兵器より、兵士を優先する。

だから、赤城は加賀のように大本営に対して精神まで根付いた嫌悪を持っている訳ではなかった。

 

あの時、艦娘は兵器だった。そして、旧式になった兵器は廃棄される。

運命のあの戦いを終えた自分が鳳翔と同じく練習空母になるべきだったように、艦娘を兵器として見るならば大本営は完璧に筋の通った行動をしていた。

 

意思を持った兵器に踊らされる指揮官などは排斥して然るべきだし、廃棄される筈だった兵器が使い続けることによって性能が上がったのならばそれは、最高権力者が一括して運用した方がいいに決まっている。

 

大本営の理屈は、兵器としてみている人間には完全な道理として通るのだ。

逆に大本営からすれば自分たちの提督は、兵器に愛着を持ち、あまつさえその兵器たちを守るためには叛逆することさえ厭わない意味不明な人間だということになる。

 

これが理性でわかっていても尚彼の判断に感謝し、見棄てられたことに一抹の不信を抱いてしまう辺り、彼女も兵器ではなかった。

しかし彼女は、人間になりたいとは思わない。

 

別に加賀を否定するわけではないが、赤城は沈むまで赤城としてあるべきだという矜持のようなものが、彼女の精神の根底としてあった。

 

職人気質だと、言えなくもない。

 

「少なくとも艦載機を放つことができ、念ずるだけで鋼鉄の艤装を出すことができ、捻れば他人を殺害できる程の膂力を持つものは人ではないでしょうね」

 

「…………そう」

 

あくまでも戦場では兵器の役割に徹しようとする彼女と、くだらないことで一々悩む加賀とではその性質が大きく異なる。

 

だが彼女は、今まで支えてきてくれた相棒を支えるくらいはすべきだと思っていた。

 

「でも、あの提督は艦娘を人として見ています。加賀さんもまた、そう見られているのではありませんか?」

 

「…………そう、かしら」

 

「きっとそうですよ」

 

「……はい」

 

少し安心したように笑む加賀を見つめ赤城の心は僅かに温かみを帯びる。

結局のところ、彼女は加賀に甘かった。『人ではありません、私は加賀です』と言って憚らなかった彼女が宗旨を変えても、それは彼女ら二人の訣別の原因には成り得ない。

 

「頑張って」

 

「はい」

 

そう背中を押すと少しは自信が湧いてきたのか、秘書艦としての任を果たすべく加賀が立ち上がった。

 

歪んだサラシを隠すように改めて胸当てを結ぶその姿は、少しの勇気と覚悟に彩られていた。



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二十五話

加賀は、いつものように仕事をしていた。

書類に目を通し、要約したものを提督に渡す。

 

秘書艦としての権限を越すことなく、彼女はあくまでも決済を提督に委ねていた。

勿論、本当に時間がないときは自分で片付けてしまう。

 

しかし、その場合も彼女は提督決済した書類に書かれていた要旨を抜き出して伝え、『それは嫌だな』と言われたならば即座に取り止めていた。

 

独断専行しがちに思われる切れ者である彼女だが、犬のような忠実さを以って上官である彼を支えている。

 

少なくとも、現在は。

 

「……仕事終了。お疲れ様でした」

 

「うん、お疲れさん」

 

謹厳実直な体を崩さず、加賀はテンプレートと化した言葉を紡いだ。

仕事が終わったら、これを言う。

言い終わったら、テレビをつける。

 

そのまま夜の九時までダラダラし、夜ご飯を作って十時に食べ、身の回りを整理整頓の後、就寝。

 

何の色気もない、そんなダラダラ生活が大演習から二ヶ月ほど続いていた。

 

「お、速報か」

 

左の頬を乗せて肘をつきながら軽くチャンネルを切り替えていた提督の手が止まり、リモコンが机の脇に戻される。

情報収集の名手でもある彼からしたら遅すぎる情報であっても、『どのように加工されたか』を見ることはかなりためになるのだ。

 

真相がわからないことがあっても、元情報が如何に加工されたかの法則に当て嵌めれば枠くらいは掴めるだろう。

尤も、今まで真相がわからないことがテレビに放送されたことはなかったが。

 

『臨時ニュースです。大湊警備府が管理する樺太で、海軍は大演習を行うとのことです。既に大湊警備府に所属する艦艇は樺太に集結した模様であり、政府は付近の住民たちに近づかないようにとの声明を発表しました』

 

「嘘を付け」

 

軽く欠伸をし、チャンネルを変える。

くだらないことには一々突っ込んでもいられないとばかりに億劫な態度を崩さない提督に、加賀は静かに問い掛けた。

 

「嘘?」

 

「そ。大湊警備府の艦娘たちが叛乱したのよ。新任の提督を弾劾して、ね」

 

「大湊警備府の前任は那須隆治退役中将……あなたの一つ下の世代ね」

 

正確に言えば艦娘を兵器として見ていない最後の世代だと言え、現在の主要鎮守府を預かる提督はこの世代に該当する。

 

特徴と言えば歳こそ二十代半ばから五十代後半までと幅広いものの、いずれも福利厚生にそこそこ力を注いでいることであろう。

 

艦娘は飯を食わずとも生きていけるし、寝なくとも身体機能に支障はない。

反抗的な意思を持つ艦娘も、支配適性が高い者ならばむりやり従えることができる。

 

つまり、大本営曰く『兵器の顔色をうかがって』おり、仲間感覚の横繋がりと上司と部下の縦繋がりで付き合っているのが南部中将・北条中将こと提督ら第一世代。

第一世代ほどではないが福利厚生に気を使い、上司と部下の縦繋がりでのみ付き合っているのが第二世代。

この支配適性に物を言わせて艦娘を兵器として運用、必要に応じて破棄するのが第三世代以降だと言えた。

 

「新任は伊東少将。第三世代以降の人ね」

 

「期待の新人って奴だね」

 

第一・第二世代は地獄を潜り抜けてきた所為か、横の繋がりが深い。

大本営からすれば、意味不明な見方をする人間が精強な戦力を従えて横で繋がっているのだから、恐ろしいことこの上ない。

 

見つけて即投入が常識だった原石のままの第一・第二世代とは違い、コツコツと支配適性を中心に加工していった人的資源を入れ替えているのである。

本来ならばあまり問題にならない伊勢提督のブラック運用がテコ入れされたのは、彼が第一世代だからということもあった。

 

まあ、彼もあまりの戦力の少なさと過労の為にやっていることは第三世代以降と変わらなくなってしまっていたのであるが。

 

「支配適性はS。ご立派ね」

 

嘗ては提督にも向けられていたゾッとするような冷たい視線で、加賀はチャンネルを変えた先でも割り込んできた臨時ニュースの画面を見据える。

 

「そんなに言うもんじゃないよ。誰だって圧倒的な力を見せつけられたら怖くなるさ」

 

「あなたも?」

 

その四文字からなる問いには、恐れられているのではないかと言う少しの不安と、否定してほしいという願望を込められていた。

 

初期の頃ではあるが、自分たちが彼に不満を抱き、造反しようとしていた事実はある。

見棄てられた時に、血の気が多い質である彼女の胸に人間という種族に対する暗い激情が迸ったのも、覆しようのない事実だった。

 

そして、そのやり用のない怒りがただ一人の身近な人間である提督に対する居辛さや言葉の棘となって刺さったことも、事実である。

 

加賀が恋愛に対して臆病である一因が、この事実に対する慚愧の念があることは否定できなかった。

 

「ああ、怖いよ。叛乱を起こされたら手も足も出ないままに殺されるし、何回か嬲り殺しにされるかなって思ったこともあるからね」

 

「…………すみません」

 

「仕方ないさ。人間が嫌いになるのも、わかるような事態だったからね」

 

自分より遥かに優れた戦闘能力を持っている部下には距離を置かれ、上層部には見捨てられる。

見棄てられた艦娘たちには同胞が居たが、彼には同胞などいない。全てが自分に敵意を持っており、そこまではいかずとも潜在的な不信があった。

 

事態が好転するまでの半年間で最も悲惨な環境に居たのは、間違いなく提督であったろう。

 

「あの、私―――」

 

「いいって。別に謝罪でどうこうなることでもないし君たちが謝ることでもない。実際俺は君たちを戦わせていたわけだしな」

 

今まで命を懸けて守っていた者に裏切られ、背中から刺された挙句に見棄てられる。

艦娘たちがいくら善良な性格をしていても、不信感が芽生えねばおかしかった。

 

そしてその頃は、彼の状態も酷い。夜も眠れずに睡眠薬を摂取して無理矢理寝付き、こちらに向かってくる足音に怯え、周りに心許せる者が居ない。

嘗ては親しく言葉を交わせた艦娘にも、自分に対する遠慮と僅かな怯えに、己の同族に対する嫌悪がある。

 

正直なところ、度々悪夢として出てくる死と隣合わせの半年間を彼は思い出したくもなかった。

まあ、互いに勘違いしているだけだったと分かったから凝りはない。

 

艦娘たちは人への不信感はあったものの彼への敵意はなかったし、彼もただ『そうなるのではないか』という恐怖があっただけである。

 

「今はそうでもない。怖いは怖いが、それは誰にも平等に向けられる俺固有の臆病さからのものだ」

 

「…………」

 

「嘘じゃない。俺は、加賀さんたちを怖がってないよ。ただ、平等に怯えてるだけだから」

 

過去の自分に、戻れたら。

 

そう思ったことは数知れないし、自分を殺してしまいたいと思ったことも数知れない。

 

「提督は、この仕事を辞めたいですか?」

 

「ああ、辞めたい。辞めていいよと言われれば俺は手を打って喜ぶだろうけどだが、でも途中でほっぽりだすのもなんだかなと、思うわけだ」

 

ズキリと、心が痛む。

臆病だ臆病だと言っているが、彼の心は強い。

 

傷つきやすいし逃げ腰だが、折れることはないから強いのだ。

 

それを利用している自分が他の何よりも嫌悪を掻き立てる。

どうしようもなく、醜いと。

 

「しかも、君たちが戦っている中でのうのうと日常を刻める気もしない。

もしかしたら自分だったら助けられたかもしれないのに、と。後悔したくないわけよ」

 

自分を嘲るように笑いながら、提督は己を馬鹿にするように呟いた。

 

「我ながら馬鹿だね。ここに居ても戦えないし、何が変わるわけでもない。何が出来るわけでもないのに、その場に居合わせないよりはマシだとか思っている……自己満足の極みだな」

 

「そんなことは!」

 

今まで生きてきた中でもぶっちぎりで大きな声が加賀の喉奥から放たれ、提督と加賀の双方が驚く。

提督も加賀がこれほどまでに大きな声を出せるのだと思っていなかったし、加賀もこんなに大きな声を自分が出せるのだとは全く思っていなかった。

 

「……ないわ。本当よ」

 

「あ、はい……」

 

彼女らしからぬ大声に圧倒され、提督は萎縮したままにそう答える。

他の艦娘と比べれば、それほど大きい声というわけではない。しかし、普段から寡黙で物静かな加賀が言ったからこそ、その反動は大きかった。

 

「……ま、まあ。兎に角加賀さんにはあの時も今はも助けられてるよ。感謝してます」

 

「……私、何かしたかしら?」

 

「ほら、時々夜食作ってくれり、黙って話を聴いてくれたでしょ?

あれ、結構楽になったんだ」

 

別に、何が出来るわけではない。ただ、最後まで付いてきてくれた人に見棄てられたくなかったから、彼女は側に居たのである。

人が住む街からはなれて野に独居する者は却って孤独というものを感じない。人の中にいればこそ孤独は深まる。

 

しかしながらその孤独を慰めてくれるのも人なのである。

 

「ありがとね、加賀さん」

 

「あれは、違います」

 

「加賀さんにとっては違うかもね。でも、それは受け取り手が決めるもんだよ」

 

あの時の恋慕は、仄かに揺らめく程度の火でしかなかった。

何となく気になり、疲れていそうだったので夜食を作っただけである。

 

「本当にありがとう。君が居なきゃ恐怖に目が曇ったままだったよ」

 

「……いえ」

 

自然と頭に置かれた手に撫でられるたびに、赤城に言われた言葉が薄れていく。

柔らかく、優しく、彼の掌が加賀の犯した罪科故の凝りを溶かしていった。

 

(ずっと、ずっと、あなたのことを愛してます)

 

例えばこの思いが叶わなくとも、私はあなたの盾であり、弓である。

世界があなたを否定しようと、私だけは着いていく。

 

あなたが、そうしてくれたように。

 

とくり、と。

温かな鼓動と共に、彼女は一つ壁を超えた。



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二十六話

大本営は、陸海空の三軍の高官から構成される合同機関である。

 

陸軍は一時本土に上陸されてしまった時に勇戦。人員・兵器の殆どを失いながらこれを食い止めたこともあって影響力を消失。『本土に来るかもしれないから一応』ということで解体はされなかったものの、予算は四割ほど削られた。

空軍も深海棲艦に対して無力な無人機が流行らなくなったことと、上層部の面々が爆撃によってこの世から文字通り消滅したことにより、解体されている。

 

本来三軍から構成されるべきこの大本営は、海軍八割陸軍二割という圧倒的な差を以って実質的に海軍の独占機関となっていた。

 

この大本営は艦娘を指揮する適性を見出されなかったものの、養成学校での成績の優秀さを基本とした人員で構成される。

そもそも提督という職業が能力よりも素質が優先されることもあり、彼らには常に劣等感と不満が付きまとっていた。

 

自分ならもっと巧く出来る。

自分の方が優秀なのに、何故奴なのか。

 

その結果から生まれるものはと言われれば即ち、現場意見の軽視だった。

旧日本軍に於いて『恩賜組』と呼ばれた優等生で構成された参謀たちが恩賜組よりも成績が劣等な情報参謀を軽視したようなことが、ここでもまた起こっていたのである。

 

優等生と言うのは、プライドが高い。何せ、この世における殆どの勝負事に勝ち続けてきたのだ。プライドが高くなければ維持は出来ないし、勝てば自ずとプライドが備わる。

 

ビス丸だのビス子だの言われているビスマルクも剣角こそ取れたものの未だにプライドが高いし、加賀も生前・現在問う必要すら無い程にかなりプライドが高い。

 

「つまり、我々に大本営から直々に『一個艦隊を北方海域へと派遣するように』ってくるのは余程切羽詰まっていることの証左になるわけだ」

 

「……」

 

「そうね」

 

無言のまま視線のみで先を促す加賀と、キッチリと相槌を打つビスマルク。

比島鎮守府実働部隊の双璧とも言えるこの二人が私室に呼び出されたのには、それなりの理由があった。

 

加賀は深夜に、それも私室に呼び出された時にかなりの覚悟と期待を抱いたし、ビスマルクも寝巻きのまま行く訳にもいかずに何があっても対処できるような洒落た服装で出頭したが、そんなことを彼が知る訳もない。

あくまでも深夜に呼び出したのは数分前に届いた実質上の救援要請を迅速且つ内密に処理する為であり、それ以外の理由などは無いのである。

 

「まあ、当然ながら俺も本土に行かなければならない。だから君達を呼んだわけだ」

 

「了解したわ、Admiral。留守中の通商破壊と艦隊運営はこのビスマルクがバッチリ請け負ってあげる」

 

どちらか一方を残し、どちらか一方に一個艦隊を預ける。

二人呼び出されたのだから当然そうなるであろうと言う予想が二人にはあり、自然とその役割が割り振られていた。

 

加賀が外征へ行く。ビスマルクが鎮守府の番をする。

 

特に理由はないが、提督ならばこのような判断をするのではないかと言う確信めいた予想が、彼女たちにはあった。

 

が。

 

「いや、ビスマルクが五航戦と妙高型重巡洋艦四隻と木曾を含む二水戦からなる一個艦隊を率いて俺と外征。加賀さんが赤城と二航戦・三水戦らを統轄して鎮守府の留守を守って欲しい」

 

「は?」

 

「……え?」

 

コロコロ変わる表情が所謂ポカン顔になったビスマルクと、一語に万語に勝る疑問と不安を混ぜた加賀の視線が提督へ集中する。

 

「今回は編成に口を出されてはいない。これは俺自身が考えて決めたことだ。機密情報に類する為、今言ったことを口外することは禁ずる。あと、ビスマルクは明日フタマルマルマルに料亭風庵に顔を出すように。以上、解散」

 

異例とも取れる判断を下した提督は、敢えて二人の視線に目を合わせることなく書類を読み上げるような調子で言い終えた。

 

「返事」

 

「了解」

 

「……了解、しました」

 

一拍遅れて返事をし、トコトコと所在無さげに去っていく加賀の背を追いかける様に、敬礼を終えたビスマルクが追従する。

 

「加賀、大丈夫?」

 

「はい」

 

明らかに大丈夫ではない。

一目見てそうわかる彼女を気遣って度々声を掛けるも、明らかに心がどこかに昇っていた。

 

秘書艦として長期に渡って仕えてきた彼女からすれば、この判断は強いショックを受けるものなのだろう。

喪心するには些か軽い出来事に過ぎる気もしなくなかったが、彼女にもその寂しさはわからなくもなかった。

 

彼女も彼の為に結果を上げ、優秀な悍馬に有りがちな癖を無くして尽くしてきた挙句にドイツに強制送還させられた時は喪心している。

まあ、今から見ては『勝算のない戦いに巻き込む人数は少ない方がいい』という善意からのものだと思うが、女からすれば『死ぬかも知れないが一緒に来て欲しい』と言われたほうが嬉しいこともある。

 

女と付き合うのに慣れていない提督が知るよしも無いが。

 

「私の強制送還の時もそうだけれど、何かしらの理由があると思うの」

 

「知っています」

 

「私の経験からすると、何かしら独断するに足る強い理由がある―――つまり、貴女を心配してのものではないかしら?」

 

「知っています」

 

取り付く島もないというのはこの事だった。

 

「……明日、それとなく聞いてみるわ」

 

「……お願いします」

 

もう、これはどうしようもない。

 

プライドとかそういう虚飾が吹っ飛ぶ程の衝撃に出くわした加賀はダンボール箱に入れて捨てられ、更には濡れ鼠になった仔猫のような雰囲気がある。

自分が犬気質、或いは馬気質な癖に猫が好きな彼女からすれば、捨てられた猫のようになった加賀を無視して自らの幸福を喜ぶわけにもいかなかった。

 

「……何だかなー、と言いたいわね」

 

さらりと流した金髪を指で玩び、『ビスマルクの部屋』という標札のついた自室の扉を開ける。

誰もいない部屋に少し寂しい物を感じながら、ビスマルクは布団に潜り込んだ。

 

幸運の黒猫オスカーと戯れる夢を見た、翌日のヒトキュウサンマル。

 

「何だ、一人で行ってなかったのか?」

 

「道がわからなかったとか、そういうことでは無いわ。同じ行くなら、話しながら行きたいと思っただけよ」

 

グラマラスなワガママボディーを常日頃纏っている灰色のボディースーツから瀟洒な洋服へと変え、更に季節感を重視した黒いコートに身を包む。

 

黒いコートと夜の闇に、発光しているかのような見事な金髪が映えていた。

 

「……案外と冷えるものね」

 

「深海棲艦が来てから寒冷化が始まってるらしい。人間が温暖化を引き起こしたことに対する意趣返しのように、ね」

 

北洋から来ただけに、彼女は寒さに慣れている。しかし、ここが本当に南方かと思う程に今夜の外気は寒かった。

 

「人類はやり過ぎたのかもしれない」

 

「いつになく感傷的ね。神というものを信じているの?」

 

「因果を」

 

信じている。

敢えて省き、提督は一般的な海軍のイメージとは異なる黒い軍服の袖を振った。

特に理由はない。強いて言うならば、指先に通おうとしない血をシャッフルするような感覚であろう。

 

「まあ、人が滅ぶのもいい。文明が衰退するのもいいさ」

 

「過激なことは言わない方が賢明よ、Admiral」

 

「何が過激なもんかね。他者を盾にすることでしか生きられない種族なんざ、死んだ方がいい」

 

ビスマルクは、黙って聴いていた。

人の心とは複雑なものであることを、彼女もまた良く知っていのである。

 

「今の人類は、他者が常に犠牲になっていることすら気づいていない」

 

「今更、よ」

 

生物が生きていくには誰かを淘汰せねばならない。米を食うにも稲を殺し、肉を食うにも獣を殺す。

 

より良い生活のために他者を蹴落とし、結果として蹴落とした者を死に追いやることもあるだろう。

 

彼が言っているのは、自分の罪悪感から出たエゴに過ぎなかった。

 

「……それもそうか」

 

「だからまだ、人は滅びないんじゃないかしら?」

 

白いマフラーに鼻から下を埋めながら、ビスマルクはクスリと笑う。

生きる為に稲を殺しても、獣を殺しても、人は気に病まない。儀礼的に感謝を口にするが、犠牲になった彼等に何かをしてやろうとは、思わない。

 

自分たちもそんなものだろうと、彼女は割り切っていた。

 

感謝は口にする。死も、悼む。

されど、艦娘が死ねば所詮は『一隻』なのだ。

 

『一人』では、ない。

 

加賀は、そこのところがわかっていないのだろう。期待を抱いていたから、憎悪がある。

ビスマルクには、期待はない。生まれたことに対する義務感と、やれることをやれるだけやってみたいという欲のみがあった。

 

加賀は、最初のうちに理想を見てしまったのだろう。人との共存や、対等な関係と言った、それを。

 

ビスマルクには、それがない。種族的な差異を自覚していたし、軍艦としての服従心と誇りのみがある。

 

人類との対等な立場での共存などは考えたこともなかったし、これからもないだろう。

現在、『個人』との対等な立場での共存ならば夢見ているが。

 

「滅びを華々しくする為に私達が居るならば、別だけれど。神は人に試練を潜り抜けられるだけの武器を与えたと、考えられない?」

 

「武器だとは思いたくはない。同志、だと思いたい」

 

「事実を認めない在り方は、好きよ。理想は綺麗なものだもの」

 

その綺麗さが、彼の鎮守府にいる艦娘を絶望に叩き込んでいた。

互いに疎通し合っているのならば手酷いマッチポンプだが、互いの見方が違う。

 

それだけに、彼の業は深かった。そして、彼もその業の深さを自覚している。

 

「俺は、悪党だな」

 

「理想を抱くとはそういうものでしょう、Admiral。

貴方の悩みは言うなれば、理想に魅せられた者が悪いのか、魅せてしまった理想が悪いのか、理想を理想と定義せざるを得ない現実が悪いのか、と問うも同然なことなのだから」

 

そんなものは、見方によって変わる。

見方と言うのは、本当に都合の良い言葉だった。

 

「誰だって化物を隣人に持ちたくない。でも、持とうと思える人も居る。社会とはそれでいいの。思想を統一しようとする先には、排斥しか待っていないわ」

 

「重みがあるな、君が言うと」

 

彼女の生まれたドイツ第三帝国といえば、思想と国民感情を統一して一方向に向かせたことで著名な国である。

外部からの圧力と莫大な借金が独裁者と言うものを必要としていたとはいえ、彼女の真の母国はあまり褒められた国ではない。

 

「貴方へのアンチ・テーゼよ。私も含めて、貴方への批判者は内部に居ない。アンチ・テーゼの提唱者は大本営であり、国民である。貴方の世界が閉鎖的で完結的にならないことを、望むわ」

 

「その時に君は、諌めてくれるかな?」

 

「諌めるし、アンチ・テーゼを述べるでしょう。だけれど、貴方がそれを言い出したならば、私は最後に貴方に従う」

 

「何故?」

 

断定的な物言いに対して呈された疑問を受け、ビスマルクはその白磁の美貌に悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「私は、民主主義が独裁を望んだドイツ第三帝国の戦艦なのよ?」



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二十七話

「で、何故私なの?」

 

ゲルマンの魔女。

如何にもそんな印象を与える悪戯っぽい笑顔を浮かべた美貌に見惚れ、不思議がるように首を傾げられてから数分後。

少し早めではあるが、二人は料亭風庵に到着していた。

 

予め、部屋は予約してある。

 

するすると着物の似合う女将に案内され、奥の個室に通された二人の間で最初に鳴ったのは、ビスマルクの疑問の声だった。

 

「大本営に対して敵意を抱いていないからだ」

 

明快且つ率直に、加賀という女性の好悪の情の激烈さを知っていれば誰でもわかるほどに単純な理由である。

加賀は大本営という仰々しい名前から、偉ぶりが好きな構成員、作戦を押し付けてくる厚顔ぶりと、首輪を付けようとする敵愾心の全てに明確な嫌悪を示していた。

 

兎に角、反りが合わない。互いにプライドが高く能力がある為に妥協を知らず、彼女を連れていけばただでさえ微妙な大本営との仲が更に拗れることは想像に難くないであろう。

彼としては、それは出来れば避けたかった。

 

「……なるほど、いいわ。やってあげる」

 

「ありがと。正直、渉外系の仕事には加賀さんは向いてないからさ」

 

ビスマルクは、色も相まって静かに凪ぐ湖面を思わせる碧眼でもって彼を見据える。

 

「見かけは臆病、辺境警備の昼行灯。彼は北条、最後の壁」

 

『Leyte』と銘打たれた映画を見た時に、ポロリと出てきたフレーズである。

自分にも取材班のようなものが来たことは関係ないであろうが、政府から正式に派遣された『加賀』と『赤城』が居たこともあり、それは中々と言える出来であった。

 

映画となるくらいには多分に、そして人類が圧倒的劣勢を跳ね返して勝てるということの証左として、彼は英雄的に描かれている。

 

プロパガンダと言う奴だった。

 

「何だ、そりゃ」

 

「プロパガンダ映画の一節の、和訳。限られた情報しかないから、貴方は都合の良い偶像となっているのよ」

 

「俺が居なくなれば半年保たない、とか公言する参謀本部がある国だからな。どうにも俺は君の本国に好かれているらしい」

 

あくまでもこれは年単位で前、つまり彼が現在勢力圏に置く南太平洋地域に精強なる深海棲艦の艦隊が海上で威を振るっていた時である。

 

現在、南太平洋に於ける深海棲艦の艦隊はまさに補給線と精強なる艦艇の尽くを失った根切れの状態にあった。

謂わば、稲が頭を垂れて刈られる時を待っている状態だと言える。

 

彼は最早、南太平洋海域からの攻勢を守るには必要ない駒だった。

 

「残そうとは、思わなかったの?」

 

「いつまでも個人に頼るような防衛ラインを敷いてちゃ、いずれ大病になって帰ってくるさ」

 

ある程度脅威を残させることで有利に立ち回ることができることを知っていて尚、やらない。

あくまでも真摯に、彼は国の為を思って動いている。

 

それが、思想的な―――つまり、支配か融和かの違いだけで疎まれているのだ。

 

「あなた、何でドイツ人じゃないのかしら」

 

「そりゃあ相模に生まれたからだろうさ」

 

ドイツでは、思想が政府によって統一されることはない。第三帝国の轍を踏まないよう、細心の注意が払われている。

それには勿論限度はあるし、危険思想を野放しにするという事ではない。

 

が、ドイツの艦娘には人権のようなものが認められている。厳密に言えば人権ではないが、支配などはなるべく行わないようにしていた。

 

彼等の国民性として、勝者を畏敬し敗者を冷遇する、というものがある。

自分との関係がどうあれ勝者には一定の敬意を示し、敗者を冷たくはじき出す。

 

艦娘は勝者であり、提督もまた深海棲艦という異分子に対する勝者であった。

 

「……だーから俺が人気なのか」

 

「そう。どのような形であれ、勝ちは勝ち。勝者には畏敬と栄光を、敗者には侮蔑と転落を。それがドイツという国よ」

 

「怖い国だ」

 

「勝ち過ぎると殺す国よりは、余程怖くないと思うけれど?」

 

どっちもどっちだが、提督には身びいきもあって日本のほうがマシに見える。

そもそも『己は勝者になれるような器ではない』と自己規定している彼にとって、勝てないと生きていけないというのは、どうか。

 

まあ、戦わなければ生き残れないというのは深海棲艦が居ない頃から続く社会の仕組みでは、あった。

要はオブラートに包んで言って欲しかったのである。

 

「だがまあ、俺は本来勝者ではない。ただ運と人材に恵まれただけだ」

 

「あら、『運も実力の内』と言うじゃない。将帥たるもの、戦機と勝利を引き込む運を持ってなきゃダメなのよ、Admiral」

 

時の女神に愛されているとしか言えない豪運を持つ者が、英雄となる。

 

ガイウス・ユリウス・ カエサルしかり、ナポレオン・ボナパルトしかり、鉄血の方のビスマルクしかり。

彼等は神憑り的な、或いは時の女神に愛されているとしか思えない運によって巡ってきた機会を逃さず掴んでいった結果、英雄となった。

 

英雄とは風であろう。動けば周りに音が生じ、気に流れをつくる。

 

彼が動くことで生じる風は彼自身には感じられぬとしても、その温厚な眼差しと柔和な表情は周囲の空気を変える物を持っていた。

 

「運に関しては、納得がいく。俺は天に愛されてるレベルで運がいいからな」

 

「魚雷一本が致命傷になった私には無かったものであり、恐らく貴方より軍事に造詣が深い将たちが渇望して遂に掴み損ねたものよ。大事にしなさい」

 

ビスマルクが言い終えたて暫くして、個室を区切る襖がカラリと開く。

これぞ和という料理を前に、二人は静かに手を合わせた。

 

 

一方、加賀。

 

(…………選ばれなかっ、た)

 

赤城部屋の隅っこで、彼女はダークマターを生成している。

無論本当にダークマターを生成しているわけではないが、それに近いものが生まれるのではないかと錯覚させるほどに、今の彼女は暗かった。

 

(……私はもう、要らない娘なのかしら)

 

ビスマルクの方が、愛想がいい。話が上手い。よく笑って、可愛い。綺麗。耐久力でも上で、速力でも上。

 

一方自分は嫉妬深くてヤキモチ焼きで、おまけに短気。無愛想だし、無口だし、笑わない。可愛いくないし、綺麗でもない。耐久力にも速力にも劣る。

 

(……いや)

 

枕を抱きしめ、無表情の仮面を崩れさせる程に彼女は啼いた。

辛い。痛い。心が軋むように罅割れ、砕けそうな程に脆くなる。

 

いっそ壊してしまおうと、そう思うほどに痛かった。

 

そして彼女が纏う暗黒闘気は、流石の赤城にも『どうしようもない』と思わせるだけのものだったのである。

 

「ど、どうしたのよ、一航戦の頼り辛い方?」

 

結果、鶴姉妹の幸運な方が動員された。

これは、紐パンの方では赤城の二の舞いであろうと判断されたが故の動員であろう。

 

常日頃やり合っている対抗馬をぶつけて対抗心を煽り、元気を取り戻したところを赤城と鶴姉妹の紐パンの方とで説得すると言うのが、だいたいの作戦であった。

 

「……瑞鶴ですか」

 

相変わらず暗く、声のトーンは一段低い。

提督と居るときは光っているように見える琥珀の目からも光が消えかけている。

 

この外見と返事の時点で、瑞鶴は恐怖とは別な何かが背筋を走るのを感じた。

 

「貴女は鍛練を積めば私の後を継げます。精進しなさい」

 

「え……」

 

「貴女も、一航戦なのだから」

 

期待の裏返しとも取れる鬼のような要求と辛辣な口振り、圧倒的な技量によって瑞鶴を育ててきた彼女にとっての『本当は好きだけど嫌いっぽく振る舞ってしまう、だけどやっぱり頼りになる師匠』は、ただの良い人になっている。

 

瑞鶴は、脱兎の如く逃走した。

もう、こんな棘のない言葉を吐くのは加賀ではない。

 

「あれ、加賀さんじゃない!絶対なんかおかしいって!」

 

「そうねぇ……」

 

常に厳しくされている人間が優しくされると逆に怖くなってくる例の現象に見舞われた瑞鶴をあやしつつ、翔鶴と赤城は顔を見合わせる。

 

逆に、今がチャンスなのではないか。

 

ジョースター卿の教えを受けてもない二人に、そんな共通の思考が芽生えた。

加賀は、素直ではない。どちらかと言えば内にある殻に自分を押し込んでしまうところがあり、とても柔らかい中身を知る前に多くの人はその硬さに辟易してしまう。

 

だが、今は多大なる精神的なダメージのお陰で殻が剥け、柔らかいところが剥き出しになっていた。

 

(しますか?)

 

(しましょう)

 

そういうことになった。

 

素早くアイ・コンタクトを交わし、二人は一人を引き摺って撤退する。

ビスマルクからの電信でもうすぐ帰ってくる旨が報告されている今、下手に励ましたりして殻を復活させることはなかった。

 

提督には、柔らかい中身が剥き出しのままあってもらう。こうでもしないと、関係が全く進まない。

 

殻が復活してからの加賀の羞恥心には犠牲になってもらうとして、二人はそううかうかとしていられないことを或いは当事者以上に知っていた。

 

「翔鶴姉、加賀さんを励ましたりしなくていいの?」

 

「瑞鶴。この世の中には励ましたりしない方が素直になれる人もいるのよ」

 

少し不思議そうな顔をする瑞鶴を帯同して五航戦の私室まで退き、赤城は厳かに決断を告げる。

 

「加賀さんには、犠牲になってもらいましょう」

 

一升瓶を置いてきたのは、その為でもあった。

加賀は殻が有る時は中々酔わないが、泣いている時は異常に酔いが回るのが速い。

 

そのことを利用し、本音をぶつける。

 

励ましても、彼女の不安は根本的な解決にはならないのだ。

 

「ただいまー」

 

「Ich bin da」

 

声のトーンで酔い具合を測り、提督はほろ酔いくらいであろうと測定する。

ビスマルクは、相手を潰れるほどには酔わせない。程度と節度を弁えるように、相手の酒量を自然と調節してやって生きてきていた。

 

つまり、泥酔しない程度に気持ちよく飲めるくらいのベストな状態で、彼女との飲み会は終わる。

 

「ビス丸、ちょっと」

 

「?」

 

シラフかと思う程に常と変わらない語調と体捌きと、爽やかな匂い。

常に香らせている薄っすらとした香水の匂いを漂わせながら、ビスマルクは五航戦部屋へと入室した。

 

「何かしら?私は加賀に用が有るから、手短にしてくれると助かるわ」

 

「その用。提督から直接言わせて欲しいんです」

 

何の用かも察している聡い赤城から放たれた願いの意図を察してなお、ビスマルクは『任せなさい』とばかりに頷いた。



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二十八話

「加賀さーん」

 

ほろ酔いとなり、本来楽天的とは間逆な性格が楽天的となった提督は、赤城部屋に入って早々加賀に絡んだ。

普段ならばその負の暗黒闘気に圧されて怯むところを、提督は行ったのである。

 

「……提督」

 

「あ、加賀さんも呑んでんの?俺もね、呑んできたのよ」

 

無遠慮に隣に腰を下ろした彼を慮り、加賀は卓上に置かれた一升瓶を持って目の前に置かれていた空きのグラスに注いだ。

 

「どうぞ」

 

「あんがと」

 

この頃には加賀もしたたかに酔っていたし、何よりも彼女は傷心中である。

想い人と話し、自分のことをどう思ってるか聞いてみたかった。そして秘書官として見放されたのならば、兵器としての自分の性能を売り込みたかった。

 

「提督は、私のことをどう思っていますか」

 

「どうも何も、美人だなーと」

 

褒められた。

この外見は加賀という艦娘に共通するものであれ、それでも褒められるのは嬉しい。単純かもしれないが、自分の気持ちに素直になった時に恋慕の情を抱いた男に対する彼女ほどちょろい物はないであろう。

 

言うなれば、常に何をしても好感度が下がらない状態なのに素直になったとき、即ち今は何をしようが好感度が上がる感じになっていた。

 

「……女として、私は貴方の役に立てていません」

 

「何か言い方がエロいね」

 

普段ならば心の奥に留めておくような事柄をポロリと吐き、提督は流し込むように酒を更に呑み下す。彼が酔っているから理性が消えかかっているのもあったが、実際、加賀の今の発言はイケナイ関係にあるかのような錯覚を持たせるかのような曖昧さがあった。

 

怜悧且つ平坦な声色をしている加賀だからこそ、えもしれない色気がある。

 

「そういう意味ではありません」

 

わずかに頬を染めながら、加賀は必死に弁明した。彼女が言いたいのは自分が人として扱われるには充分な成果を上げていないのではないかということであり、色事において、というわけではない。

 

無論、迫られたらどうなるかはわからないが。ひとまずは色事においてではなく、一個の存在としての話である。

 

「知ってるさ。要は君は、自分が役立たずだから今回の任から外されたと思ってるんでしょ?」

 

「……はい」

 

「残念ながら、それは違う。俺はまだまだ加賀さんを側から離す気はないよ」

 

くいっとお酒を引っ掛けながら、提督はふらーっと加賀から一升瓶へと目を移した。

どうでもいいが、彼はかなりの酒好きである。

 

ドイツに留学していたことがある為にビールやワインの方が舌に合うが、日本酒もいけなくはない。

だから、日本語が出来なくて孤立しがちだった―――というか孤立していたビスマルクを引き取り、日本語を教えたりなんだりかんだりとしていたという経歴がある。

 

他の提督は年齢もマチマチだし学歴もそれぞれで、第三外国語でドイツ語をやっていても日常に忙殺されて忘れた、ということが多かった。

その点彼は年齢的にほとんど現役に近かったし、元々ドイツが好きな男である。

 

ビスマルクと聴いた時に角付きの鉄兜を被った爺さんが腕振り回して演説しているところを想像し、しかる後にそれを無理矢理女体化するという荒行をこなし、覚悟完了した彼に待っていたのはただの美人だった。

 

ただのと言うには美人に過ぎ、頭に『絶世の』とかその美貌を賛美する形容詞が何個か付くほどの美人だったが、そこそこ美人耐性ができていた彼にとっては真紅の衝撃、とまではいかなかったろう。

まあド肝はぬかれたし、ツンケンしている時代のビス子が躾けられるまでかなりかかっていたのだが。

 

「……ぇ、と」

 

蚊の鳴くような声で戸惑い、燃料を機関部につっこまれたかのように顔が紅潮する。

うなじから顔までを真っ赤にした加賀は、体育座りの要領で折り畳まれた脚に額をのせた。

 

丸まるように姿勢を変えたことにより、淑やかな黒髪と目で見てわかる程に紅潮したうなじが色っぽく、太腿に押し潰された胸が男を誘うような魔性の魅力を放っている。

 

赤城の策からすればアレだが、これを提督が見なくて正解だった。

見ていたら、生唾を飲み込むどころでなく刺激されていたことが請負である。

 

「あら、加賀さん寝ちゃったの?」

 

「い、いえ」

 

僅かに乱れた声が、彼女の心理的な動揺を如実に表していた。

機関部代わりの心臓は壊れるのではないかと思う程に早鐘を打ち、全身を超高速で血が駆け巡る。

 

身体はポカポカと火照り始め、脳内は歓喜で満たされていた。

 

「なら、飲もうよ。酒」

 

「……………ありがとうございます」

 

暫しの沈黙で無理矢理息と鼓動を整え、全身から朱色を引かせる。

加賀の身体には未だ震えという形で隠し切れない動揺が残っているものの、酔っている男が一目見てわかるほどではなかった。

 

「……私、側にいてもいいの?」

 

「勿論。目の保養になるし仕事は出来るし強いしで、非の打ち所のない敏腕秘書だもんな、加賀さんは」

 

泣きそうな程の嬉しさに唇を噛み締めながら、加賀は酔ったかのように身体を傾ける。

とん、と。サイドテールになっていない方の側頭部が提督の二の腕にぶつかり、そのままの体勢で凭れかかった。

 

口の端が少し上がり、加賀は僅かに微笑む。

まだ任から外された理由は説明されていないが、必要とされていることがわかった途端に両肩にのしかかっていた重みが消えたような感じがしたのだ。

 

「疲れてる?」

 

「少し」

 

「ごめんね。でも、いつもありがとう」

 

凭れられていない方の手で髪を撫で、猫のように目を細めている加賀のサイドテールに触れる。

猫めいた性格をしている加賀の尻尾は、どちらかと言えば犬だった。

 

「柔らかいし、艶がある。相変わらずのいい髪だね」

 

「…………手入れ、してますから」

 

潮風に負けないように、彼女は風呂に入った時は入念にケアをしている。

いつ撫でられても良いようにと手入れを怠らない癖に、ビスマルクの如く撫でてほしいと言えないあたりが彼女だった。

 

「へー」

 

気のない返事の後に何回かポンポンと頭を軽く叩かれ、頭の上から掌が消える。

名残惜しげにチラリと上目遣いになり、加賀は残念さを隠す様に俯いた。

 

ここでこんな顔を見せれば、二度と撫でてもらえないであろう。

 

彼がそれくらい鈍いということは最早、鈍い彼女にもわかっていた。

 

「戦、敵はどれくらいの戦力ですか?」

 

「横浜の残存艦隊と伊勢提督の残存艦隊も、一部合流したらしい。大湊警備府だと手狭だからってことで拠点を捨てて管理領域である樺太で再編成してるから―――どうだろうな」

 

管理領域。

 

これは、鎮守府・基地・泊地・警備府などがそれぞれ占領した海域・地域を軽く支配できると言うようなもので、それぞれ独自の戦時体制を敷くことができるようにという配慮のもと作り出された物だった。

 

住民の戸籍は日本国であり、政治を行うのも日本国の公務員だが、資源や基地を管理するのは駐屯している軍である。

 

北から順に並べていくと、泊地ALの南部中将は泊地AL一帯、大湊警備府は北海道から樺太まで。

後は基本的に本土にある為管理領域を持つ鎮守府は少ないが、地味に最大規模なのが北条中将こと彼の物であった。

 

北は港湾都市として栄える台湾、本拠地であるルソン島・ ビサヤ諸島 ・ミンダナオ島からなる旧フィリピン領を挟んで南にジャワ・スマトラ・セレベス・ボルネオ・ニューギニア・ティモールなどの豊富な天然資源を産出する島々を保有する。

 

誰が呼んだか『北条王国』。ご先祖様もビックリな広大かつ豊かな地方政権だった。

 

これを維持し、半ば独立不羈たる地位を確保したのが加賀の『潰されない為に牙を砥ぐ』という方針であり、『艦隊・国の維持に必要な資源の八割を北条王国カッコカリに頼らざるを得ない』という環境を整えることだったのである。

 

「政府は燃料弾薬に困ってるらしいから、苦戦したのでしょう」

 

「そうらしいね」

 

無論、誰が輸出を堰き止めたかは言うまでもない。

 

「因果応報ですから憐れみも何も抱いてませんが、懲りることを望みます」

 

「何を懲りるの?」

 

「……無謀さと無能さを。罪の深さを」

 

ドライアイス製の剣めいた雰囲気を纏い始めた加賀の頭に手を乗せ、撫でる。

キッと釣り上がった眦が蕩け、主にまたたびを嗅がされた猫のような温さと柔らかさを取り戻したところで、提督は再び何回か頭をポンポン叩いて手を離した。

 

「ね、止めたげなよ」

 

「……考慮しておきます」

 

牙を抜かれれば、ほとんど確実に粛清される。

太平洋は深海棲艦が50、北に居る同志も含めない自分たちが30、人間が20くらいの戦力比が望ましい。

人間たちの戦力の半分は北に居る同志を含めていることを考えれば、50:30:10:10くらいか。

 

南方に来た時は80:10:5:5でなんとか敵を削れたから、少しの誤差ならばこちらが潰れる心配はない。

 

今は、35:50:5:10。深海棲艦を潰し過ぎたお陰で、資源などの地力と練度、艦艇数や火力を含めた戦力が偏ったからこういうことになった。

 

(アメリカが滅びれば、MI方面艦隊がこちらに来て丁度なのだけれど)

 

向こうも中々しぶといし、守勢ながら盛り返しつつもあるらしい。

 

今は、やろうと思えばトラック以東を管理領域に容れられる。やると戦力比が更に崩れるからやらないが。

 

「……加賀さん」

 

「わかりました。止めます」

 

戦力比の為に。というか、一人決戦兵器めいた『(対空をしっかりやれば)不沈戦艦』の加入によって戦力比が更に開いたのをどうにかせねばならない。

 

ビス丸が倒した戦艦棲鬼。アレを使って天秤を合わす。

 

「ありがとね、加賀さん」

 

「いえ」

 

頭を凭れさせながら、加賀は想い人と共に静かに時を刻んでいた。

 

「それよりも、私もお外に食べに行きたいです」

 

「クリスマスまでには帰るよ」

 

酔っているからこそ、二人の間で本音のキャッチボールが行なわれている。

例えそれがフラグでしかなくとも、加賀と提督の間では有り得べかざるものであった。

 

「はい」

 

無表情の中に嬉しさと恥ずかしさを込め、加賀は凭れながら静かに寝入る。

それは、腹黒くならざるを得なかった彼女の素の姿だった。

 

 



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二十九話

ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調、『新世界より』。

内容を全く知らない人が聴いても『何かが迫ってくるような』印象を抱く、威圧感と勇壮さの双方を含有した序盤から始まるその一節は、提督の最も好みとする音曲だった。

 

そして。

 

「本当にこの曲に似合うな、君は」

 

「そうでしょう?」

 

身体のラインをくっきりと表す灰色のボディースーツとフラスコの底を逆さにして鍔を付けたような軍帽。

ボディースーツから独立した長手袋が肘のすぐ下を縛り、前膊を覆っている。

 

当然ながらスカートを履かずにニーソックスで済ませ、二の腕までもが剥き出しになったことで更に健康的な色気を醸し出す彼女の艤装には、その武威の象徴たる砲塔がない。

 

つまり、今の彼女は艤装の機械部分を取り払ったような格好であった。

 

「いいのよ、もっと褒めても」

 

ドイツらしい鉄の質実剛健な美と無骨ながら暗さを感じさせる鋭利なデザインを船体は、まさしく魔王の座乗艦といったところであろう。

兎にも角にも、これほどまでにラスボス感が溢れんばかりに剥き出しになった艦も珍しかった。

 

こんな物が『新世界より』をBGMに砲塔を向けて迫ってきたら。

 

そして、四百発の鉄の塊をぶつけられても沈まなかったら。

 

そう考えると、少し空恐ろしいものがある。

 

「本当にカッコいいな。貴族らしい派手さとドイツらしい無骨さが同居してるあたり、擽られるものがあるよ」

 

「そうでしょう、そうでしょう?」

 

日本にもビックセブンや最強や違法建築など多彩な戦艦が存在するが、ドイツびいきなところがある提督からすれば戦艦ビスマルクが一番だった。

勿論、このドヤっている金髪碧眼の艦娘も、鉄血宰相ヒゲオットーも好きである。

 

要は、そういうことなのだ、

 

「指揮官用に変異した艦と言えば泊地ALの南部中将んとこの長門だけど、君も中々の性能だ」

 

「そうよ、Admiral。私に座乗している限り、貴方の安全は何人たりとも侵せないわ」

 

指揮官用と名付られた艦娘が、初期の頃は複数存在している。

彼女等は移動用の脚としてモデルになった艦艇を喚び出すことができ、しかも提督を艦娘本人の意思によって艤装内に収容することができた。

 

つまり、提督を無理矢理にでも艦艇に座乗させた後に喚び出した艦娘が艤装に戻せば幽閉することが可能なのである。

無論、このような機能は後期型にはない。そんなことをしたら神隠しが続出してしまうし、現に磨り潰し際には指揮官用の艦娘が最優先の目標となった。

 

これをすれば、提督の異能が艦娘にも賦与される。ビスマルクが北条某を艤装に迎え入れれば運が上がり、命中率と索敵能力に大幅な補正が掛かった。

長門が南部某を艤装に迎え入れれば火力と装甲が跳ね上がる。

 

即ち、人間からすればただでさえ手のつけられない艦娘が更に手がつけられないということになるため、この機能は削除された。

 

それに、座乗艦が沈めば提督も死ぬ。

提督が艦娘の実力を信じ、命を無条件で預けなければならないこともあり、これは互いに信頼し合っているが前提の初期機能だと言えた。

 

「……信頼し合うことができると、カミサマは思ってたんだろうね」

 

「まあ、仕方ないでしょう。私達も広義で見れば深海棲艦と変わらない桁の外れた力を持つ異分子なのだし、恐れる気持ちを抱くことは必然、ではないの?」

 

少し鬱になった提督の思考が更に鬱へと行かぬよう、ビスマルクはさらりと思考の綱を切る。

思いやりからくるさりげないフォローと、元来のサバサバした気質もあり、この二人の合性はすこぶる良い。

 

加賀が同方向へと追従するタイプならば、ビスマルクは異方向へと引っ張っていくタイプであることも幸いした。

二人揃えれば程良く天秤の釣り合いが取れるのである。

 

「……不思議なものだね」

 

共存と言う夢を望んだからこそ鷹派になった加賀と、全てが終わったらひっそりと去ればいいと言う端から共存という夢を不可能視していたからこそ鳩派なビスマルクと言う構造は、中々に世の中に蔓延る感情というものの複雑さを感じさせた。

 

愛しているからこそ、憎む。

見切ったからこそ、庇う。

 

どちらが正しく、望ましいのかは定かではない。

しかし、どちらも完全に徹し切れていないところが人らしかった。

 

憎んでいても、滅ぼそうとしない。

見切っていても、執着を捨てない。

 

曖昧さのない一徹さが『潔さ』とされて美徳とされるが、提督は潔い人間などはこの世には居ないと考えている。

 

一方を見ているということは真逆であるもう一方を背に抱えるか、或いは捨てているということであり、その決断に後悔こそ抱かないものの残執はある。

彼自身、あの時艦娘と呼ばれる彼女らの命を―――彼自身がそうなるこも望んでいないにも関わらず―――背負ってしまった提督としての職責を全うする為、そして自分が自分たちの為に傷だらけになりながらも戦ってくれた彼女らを見捨てると言う罪悪感に耐えられないことを知っているが為に、人を敵に回した。

 

後悔はしていないが、あの時に失われた絆も確かにある。

それを懐かしむのは、潔くないというものだ。しかし、彼は懐かしまずにはいられない。

 

捨ててきた物と言うのは、時として残酷なまでのきらびやかさを纏うものである。

それを目にして懐かしまないほど、彼は達観できていなかった。

 

「感情というものは、本当に不思議なものよ。鉄の塊だった頃は知らなかったから、まだまだわからないことが多いけれど、これだけは言えるわ」

 

「俺も言える。でも、後悔はしないように生きてる」

 

彼らしからぬ男らしい言い切りにビスマルクが提督の顔を覗き込むと、そこには案の定の苦笑があった。

 

「……んだと、思う。だといいな、かも知れない。でも、見捨てたくは無かった」

 

「それでこそ貴方、というものじゃないかしら」

 

「かもな。できればカッコ良くなりたかったんだが」

 

気の強さ、誇り高さと、明敏さに、高貴な血が醸し出す気品。

 

これら四個の題目を与えられた神が彫刻したならばこのような仕上がりになると確信を抱かせる美貌に母性愛を滲ませながら微笑し、ビスマルクは軽やかなステップを踏む。

 

カン、カン、カン、と。

ハイヒールが甲板を叩く硬質な音をリズミカルに響かせながら、ビスマルクは提督の正面に回り込んだ。

 

「凡庸ながら、譲れないものがあったのでしょう?」

 

「そ。せめて職責だけは、って言うことだけで、カッコ良さなんかありゃしないさ」

 

「凡庸な意地、いいじゃない。私は格好良いと思うし―――」

 

美貌に竦んだ提督の左横を通り抜けざまに、ビスマルクは密やかに呟いた。

 

「―――意地を貫く姿は、私、とっても好きよ」

 

秘事を囁く乙女のような頬の赤みと、僅かに震える声を必死に整えるあまりに上擦ったような、そんな声。

 

それらには気づかず、思わぬ言葉と常の健康的な色気とは違った艶やかな色気に数瞬硬直した後、バネ仕掛けの人形のように背後へ振り向く。

 

潮風に靡く金髪が、やけに鮮やかに目に焼きついていた。

 

そして、一方。

 

「…………変な声になってた、わよね」

 

告白である、つもりはない。ただ、態度だけで示していた好意を表に出しただけ。

告白はもっと盛大に、明確にやる。曖昧さは、性に合わない。

 

少し戸惑ったような反応には、いつもの通りの態度で応えればいい。そうすれば、彼は自分を『己に対して好意を抱いているか、いないか』という境目に分類するはずだ。

 

完全に分類されては、一挙手一投足に目を向けられることはほとんど無い。曖昧だからこそ、目に止まる。

 

「問題は、私といったところかしら」

 

私室の扉に背中で凭れながら、胸に手を当てて動悸を冷ます。

 

「気張りなさい、私」

 

まだ僅かに赤味がさしたままの頬をピシャンと両手で叩き、気合を入れ直した。

 

さあ、勝負はこれから。

 

戦場での口癖であるそれが、心の中で反芻されていた。



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三十話

ビス子は自分に惚れているのか、否か。

提督は彼女の狙い通り、そこのところが気になり始めていた。

 

これを確実に確かめるには、大きく分けて二つの方法がある。

 

一つ。本人に訊くこと。

 

二つ。一挙手一投足に気を配って統計を取ること。

 

これら二つにはそれぞれ異なる利点があり、同時に異なる問題点があった。

 

まずは、前者の利点と問題点から。

前者を選べば、なるほどたちまちの内に彼が抱いた疑問は氷解されるであろう。しかし、それが勘違いだった場合は、どうか。

おそらく自意識過剰という―――顔面偏差値的にもっともな―――レッテルを貼られ、ビスマルクとの意思疎通にも齟齬が生じる。現在築いた戦友として気兼ねなく相談したり酒を酌み交わすといったような関係も、消える。

 

すぐわかるという心理的な負担の軽減を含めば、ハイリスクハイリターンという言葉が似合う案。それが前者だった。

 

では、後者はどうか。

後者を選んでしまえば、彼の心に蟠っている疑念は氷解されることなく居座る。謂わば、何時出るかわからない一挙手一投足に注目した結果とやらを待ち続けなくてはならないのだ。

されど、消極的ながら利益はある。それはつまり彼女との関係を悪い方向へと進ませる可能性が殆どなくなる、ということだった。

 

待ち時間での忍耐とそれに吊り合うだけの結果が取れるかどうかわからないことも加味すれば、これは前者とは色を変えたローリスクローリターンな案だと言える。

 

ここで注目してほしいのが、提督がどちらに転ぶにしてもかなりの決断力を要求されるのに対し、ビス子はどちらに転ぼうが利益しか出ない、ということだ。

 

前者を選ばれても彼の性格的に『好きです』『わかりました』『付き合っていただけますか』『はい』とはいかないだろう。

が、ここで無理矢理返事を急かすことなく『いつまでも待ちます』といえば、どうか。

 

少し考えても見てほしい。

 

気高き獅子の如き金髪と、澄んだ湖水のような美しさを湛える碧眼。

 

俊敏果敢といった言葉の似あう精悍な狼を思わせるほっそりとした無駄のない身体。

 

件の気の強さ、誇り高さと、明敏さに、高貴な血が醸し出す気品という四個の課題を与えられた神が創ったかのような、各パーツが一つのテーマに即して纏まった美貌。

 

加賀には僅かに劣るものの相当に豊かな形の良い胸部装甲。

 

顔を埋めてみたいほどの柔らかみを感じさせる加賀とはまた違った魅力を持つ、よくバネの通った反発性のある魅惑の太腿。

 

白人特有の透けるような肌の美点のみを抽出したような印象を受ける白絹の肌。

 

軽く列挙しただけでこれほどまでの女として備えられる武器を持った全身兵器のような美女が自分のことを慕い、あまつさえ己が告白の答えを言い渋ったのにも関わらず『まだ返事はいりません、あなたの心が定まるまで待っています』と一途さを仄かに透けさせて一歩下がったら。

 

そして彼女が、そんな姿勢とは無縁に見える気の強いタイプだったならば。

 

たいていの男は、陥ちる。

 

つまり前者を選択した場合はほぼほぼ確実にビス子大勝利ルートが固定されていた。

 

そして、次善の策としての後者。これも中々高い効果が見込めるであろう。

何せ、色恋事と言うものは友愛から親愛へとシフトさせてきた繋がりをもう一段上の『恋愛』へと引き上げなければならないのだ。

友愛で人柄を知り、親愛でその人柄に溶け込み、恋愛を以って同化する。

この過程を踏まずにいきなり告白しても、互いに観察し合っていない限り帰ってくるのは『友達から』であり、快諾したにしても暫しの間は恋愛ではなく友愛から親愛へのステップを踏み、知り合わなければうまくいきようはずもない。

 

友愛から親愛へは、シフトした。そして、恋愛と移行させる為に親愛で溶け込んだ感覚を乖離させ、今一度見てもらう必要がある。

 

彼女は、驚くべき綿密な計画と誤差・齟齬の擦り合わせを一人でやってのけていた。

 

そもそもドイツ人と言うのが平素理屈っぽいということもこの計画性に関係があるのかもしれないが、民族性がどうあれ結果としてはこの立案・実行能力の高さは彼女の能力だと言えるであろう。

 

ヘタれている暇などないし、余裕もない。相手には走っているように見せないが実のところは走っているというのが彼女の現状であり、それが如何にも貴族らしかった。

 

で、結果的にどうなっているのかと言うと。

 

「Admiral、シャキッとしなさい」

 

「……うん」

 

ビス子怒りの五時半起こしを喰らい、提督は眼を瞬かせながら外套を着る。

ついでに言うならば、別に彼女は怒っていない。謂わば慣用的な表現である。

 

加賀は更に四半刻早い五時に起こしに来るが一時間くらい寝顔を見ながらぽけーっとしているので、全く以って実害はない。

 

時々提督の胸板のあたりに顔を押し付けていたりするが、本当に愛玩する猫めいて害のない女だった。

 

そして提督は、それを知らない。気がついたら側に居るんだね、くらいなもの。

 

ビス子はまあ、身体に優しく意識に厳しい規則正しい生活をしている。

加賀は一見厳しそうに見えてダダ甘な為、『あと十分』と頼まれたら嫌と言えないようなおかしみがあった。

 

「くっそ眠い」

 

「いつもこの時間に起きているのではないの?」

 

「いや、いつもは六時から六時半とかで、まちまち」

 

昨夜の脳内検討の結果、提督はそこそこ意識していくことに決めている。

元々ビス子の『らしい』優雅さや気品には目が惹かれるものがあった。それを更に見ていく。

 

犬のような忠実さからくるいじめたくなるような愛らしさと、褒めて褒めてと来る時と普段の凛々しさの対比が彼女の魅力になっていることに今更ながら気づいた彼は、寝ぼけ眼を擦って目を凝らした。

今は、凛々しいビスマルクである。

 

「ふぅん……そうなの」

 

「含んだ言い方だな。何か問題があるのかい?」

 

「別に。そういうことか、と思っただけよ」

 

ひらひらと手を振りながら部屋を去るビスマルクの背中を見送り、提督はベッドから降りて前へと進み、机の傍らにあるハンガーラックからワンセットの軍服を取った。

柄でもないが、彼は軍人である。一応整えるべき体裁というものがあり、どうでもいいならば秩序と規律に従わなければならない。

 

白い桜花が二輪印された中将の階級章が縫い付けられた軍服をさらさらと着こみ、襟元を正して軍靴のつま先を地面に打ち付けて軍帽を被る。

手袋を填めた手でドアノブを回し、現代的な通信機器が配備された私室兼司令室を出ると質朴且つ古風な廊下が眼前に広がった。

 

まるでドアを開けた瞬間にタイムスリップしたかのような不思議な気分と違和感は、彼が常に感じるところであろう。何せ、指令室は現代でありながら艦自身は二十世紀なのだ。

 

「まあ、この艦を造ったドイツ人も二百年ちょい経って極東の黄色人種に使われるとは思ってなかっただろうな……」

 

「それはまあ、そうでしょうね。私も日本に来るとは思っていなかったもの」

 

「なんでもって神様はこんな気が狂ったような世界にしてしまったのかねぇ」

 

二つの軍靴が艦を鳴らし、金髪と黒髪が廊下を進む。

如何に慧眼を持つ非凡人であってもイギリス海軍に壮絶なリンチを受けて沈んでからも引き上げられることなくこの地球という星の海原に姿を現すとは思っていなかったであろうし、海上を化け物が占拠するとは予想することすらできなかったであろう。

 

この一事においても、如何に人の能力を基にする予想というものがあてにならないのがわかった。

 

神とは

気紛れで、人の予想を嘲笑いたいがために時に信じ難い贔屓と邪魔をすることがままある。

 

そんな世界に生きて、己の勝運を信じるのが果たして意味があるのか、どうか。

少なくとも今のところは運が良く、素質などと言うチケットをもたせ前途を閉ざすと言う最大の邪魔を神が罪滅ぼしという『殊勝な』感情の元に贔屓していると言うべきであろう。

 

「ビスマルク、今日の予定は?」

 

「マルハチマルマルに大湊警備府の総司令部に赴き、作戦会議。終わり次第総司令部の指示に従って動くことになるわ」

 

「わかった。じゃ、行こうか」

 

提督は己の打ちっ放し鎮守府とは違う彼方に見える赤煉瓦を見て嘆息し、大湊警備府近海に割り当てられた区画に接舷・占領している大艦巨砲主義の産物から降りた。

 

本来彼女が収容していた兵員は人間から艦娘という軍艦の力を持っている人でも兵器でもないような存在に入れ替わり、削減されている。

 

つまるところ、ビスマルクが率いてきた艦娘たちはこの戦艦ビスマルクで居住していた。

 

「提督、おはようございます。何処へいらっしゃるのですか?」

 

「作戦会議、ということになっている」

 

「その間、艦隊の統率を頼むわね」

 

「了解。任されました」

 

ビシッ、と綺麗な敬礼をして謹直に立つ矢矧に視線をやり、ビスマルクは提督に小声で驚嘆を告げた。

 

「矢矧、暁、雷電の二人に響、夕雲、巻雲、風雲、朝霜、飛鷹と隼鷹と妙高・足柄・羽黒・那智の変則艦隊は、まだ崩してなかったのね」

 

「そりゃまあ一度固まったのは統一運用した方がいいし、崩す理由もなかったからな。軽空母の二人は引き抜いて使ったりしていたけども、だいたいこの枠は崩してないさ」

 

極めて変則的なこの艦隊、司令官―――というか司令艦はビスマルクだった。

ドイツへ送還されるまで最大火力となっていた彼女は、当初戦線が拡大するに連れて護衛・哨戒の為に多くの戦闘単位を作らねばならない都合上、そして戦艦が一隻もいない都合もあり、過去にかなり頼りとされている。

 

つまり、本来は重巡洋艦を何隻か突っ込んで火力の足しにする彼特有の艦隊編成の例外として、その重巡洋艦何隻かに匹敵するとなった上で編成された。

 

戦艦ビスマルク、軽巡矢矧、暁型駆逐艦四隻。最初はこの組み合わせであり、他の部隊より僅かに火力に劣っていたのである。

 

だが、戦線の拡大がマシになっていくに従い、戦闘単位の統合が行われた。

そして、謂わば均一に配置していた火力をビスマルクの令下の艦隊に集中することを決定される。

 

つまり、今までの戦果と練度を加味し、先鋒。敵の堅陣をぶち抜く為の錐としての役割を担わせる旨が提督直々に発表され、それに伴って他の勇名を馳せた戦闘単位を統合。新たに虎の子の練成が終わった軽空母も配置し、こんな歪な有り様になった。

 

当初は、艦隊運動担当の矢矧を戦術担当のビスマルクが、暁型四隻を艦隊運動担当の矢矧が統率することで事足りのだ。

しかし別な一隊が合流し、矢矧が担っていた艦隊運動を誰がやるかということになり、これが狂うことになる。

 

将軍がビスマルク。下士官が矢矧。兵士が暁型四隻。

これは殆ど固定された機構であり、動かすにはあまりに勿体無い練度があった。

 

なので、本来指揮を取るべき重巡洋艦・軽空母がただの一介の軽巡たる矢矧の指揮を受けることになる。

 

矢矧は、名人芸を持つ人種に有りがちな武人気質・職人気質な性格をしていた。

自然と見込んでくれた提督とそれを容れたビスマルクに対して強烈な感謝と忠誠の念を深めたし、指揮下に容れられた妙高型の四隻と夕雲型の四隻に異論はなかったが、同僚に見られるたびに首を傾げられるような変則的な編成となったのである。

 

「嘗ての最強水上部隊の復活、ということに圧されない程度に気張って頑張ってくれ」

 

「必ず」

 

白い手袋を見せるようにサッと最敬礼し、矢矧は阿賀野型共通の制服めいた艤装を艦橋に吹く風に靡かせて艦内へと向かう。

 

やることは、演習。

 

大方、久々に本来の指揮官のもとで戦うのだからと張り切っているのだろう。

 

「そう言えば。何故私の副官に矢矧を付けたの?」

 

「不満かい?」

 

「まさか。ただ、ふと気になっただけ」

 

矢矧の姿が完全に消えたところで声をかけるあたり、彼女はこういう反応も予期していたのだろうと考えられた。

が、わかりきった質問でも意思を確かめることは重要である。

 

「理由は二つ。まず、気質が似てる」

 

「……なるほど、二つ目は?」

 

「どちらもバグっているのではないかと思うほどしぶといし、敢闘精神に優れる。しぶとい指揮官には、しぶとい副官がお似合いだろうし、錐役には敢闘精神がなくては務まらんだろうさ」

 

錐役には、弾雨の中でも掻い潜ってなお驀進するが如き勇気と豪胆さが必要とされた。

 

その点ではまあ、適任であろう。

 

「総旗艦が先頭に立つなんて、現在ではとっくに廃れたのでないの?」

 

「どっこい、伝統と言う都合の良い言葉がある」

 

「嘘は良くないわね。ただ、後方で扇動するだけの正義の広告塔になりたくないだけでしょう?」

 

「そういう解釈をする者はよっぽどの捻くれ者しか居なくてね。何せ、とっくに廃れたはずの絶滅危惧種なもんだから、さ」

 

互いに茶目っ気ある笑いを見せ、提督は本体を連れて戦艦ビスマルクを跡にした。



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三十一話

「先ず今回の作戦は国家の威信を賭けたものであることを、諸提督には認識していただきたい」

 

「ほう、これはこれはまた大仰な表現を用いたものです。小官の耳と脳が未だ正常に機能しているのであれば確か、軍令部長殿と作戦本部長殿は先のミッドウェイへの大遠征に於いても、好き放題に伸びた戦線の縮小も計らずに案の定負け、結果として迫る敵複数艦隊が向かっている時もレイテで何方かが身を張っていることも知らずにのうのうと仰られた筈。国家の威信とはそう何回も賭けることができ、なお且つ負けても払わずに済むものでしたかな」

 

細い眼を不敵に見開き、泊地ALに第一戦隊以外の殆どの戦力を残してきた南部中将が皮肉げに呟く。

南部中将が有能ながら極めて皮肉げな物言いをすることは周知の事実であった。

 

「……大仰かも知れぬ。が、国家権力が反乱軍に負けたとあらば示しが付かんのだ」

 

「どうせ我が国の政柄を握る有能な大臣方が情報封鎖で何とかしてくれますよ。軍令部長閣下と作戦本部長閣下に置かれましては確かに作戦の重要さを誇示する必要は有りましょうが、肩に力を入れすぎてもなんにもいいことは有りはしません。楽に行きましょう」

 

大本営に対して陰影使い分ける愚痴と批判を溢す加賀を『皮肉屋』だなと思い、南部中将に対しても『皮肉屋』だなと思う本人もまた、真実だけに極めて皮肉たっぷりな発言をしている。

 

その口調に厭味ったらしさや反応を楽しむような意思がなく、ただ周りの緊迫した参謀・提督等からガスを抜こうとしているような語調なだけに、彼の皮肉は痛烈だった。

最も、彼に政府に対する不満がないとは言い切れないから、無意識の皮肉という訳ではないであろう。

 

「北条中将、口を謹んでいただきたい。情報封鎖など、民主主義国家たる日本がすべきことではありませんぞ」

 

「いや、失言でした。本当にそうなら良いんですがね」

 

今度は口調の端に皮肉を滲ませ、提督は軍帽を人差し指で弄んだ。

彼は、己と南部中将の旗下の艦隊を抜きにした国防に必要不可欠でないだけの余剰艦隊を集結、樺太に駐留する反乱軍に艦隊決戦を挑もうとして先制攻撃としての夜襲を喰らって手痛く敗退させられたことをすでに掴んでいたのである。

 

南部中将も掴むとまではいかずとも察知はしていた。

別に彼は誰彼構わず皮肉を撒き散らすような性悪ではない。報道規制どころか情報封鎖をしているくせに今更どの口が『国家の威信を賭ける』だのと口にするのかということにおかしみを覚えたからこそ、そう言ってのけている。

 

まあ、自らの同胞であり戦友である彼が、これほどまでには鮮やかな皮肉を披露して己の腹筋を全力で殺しに来るとは思っていなかったが。

 

「……諸提督等の展望を、お聴きしたい」

 

遂にはその皮肉に対して述べる舌を持たずに黙りこくる軍令部長の跡を引き取るようにして作戦本部長が場を作る。

これでこの場は穴の空いた壁であるお偉方へ皮肉という名の陳情を通す場では無くなった。

 

各提督が、型に嵌められたような意見を次々に述べる。

発言をしている彼等は揉み消された敗戦の際にも立ち会っていた提督であり、つまるところは復仇の念に駆られていた。

 

それは己の駒を失った喪失感であり、戦友を失った喪失感であり、何よりも己の立場が危うくなったことに対する危機感だと言える。

 

どうしようもないが、彼等も得体の知れない化物に対抗できる見栄えのいい兵器を側に置き、自衛できる特権階級のような職をみすみす失いたくは無かった。

最悪、大本営から監察官と言う名の代行者が送り込まれることもあり得る。

 

それは必ずしもその特権階級から追われることと同義ではないが、幾ばくかの忍耐と緊張を必要とされるものであった。

人間、一度手に入れた物を失いたくはないのである。

 

「一条大佐は如何に思われるか」

 

だいたい予想通りだとばかりの満足げな笑みを浮かべる―――つまり、彼もまた地位が危ういのであろうと感じさせる作戦本部長の水を受け、一条中佐は見解を述べた。

 

「敵艦隊は我が艦隊より士気・練度・数量に勝ります。ここは如何にして負けぬ戦いをするか、ということに終止すべきかと」

 

「つまり君は何が言いたいのかね?」

 

「戦うことに厭は有りません。反乱軍には罰と言う名の鉄槌を下さねば規律が空洞化しますから武力で以って圧すのは小官の望むところですが、やり用を考えなくては勝てないであろうと思います」

 

流石に、これまでの提督が言ってきた『盛大に、正式に、正当に戦いましょう』というような漢字を使えば十五文字程度しか掛からないものではない。

 

具体的な作戦を立て、それに従って勝機を得るべきタイミングまで耐え凌ぐ。

 

これは作戦本部長の意に叶うことであり、一時的に怪しくなった彼への『忠誠心』項目の評価をアップさせるものだった。

 

「では、南部中将は」

 

「おお、てっきり意見は求められんものだと思っていたのだがな」

 

「ご冗談を。重鎮御二方の献策は最後にしていただかないと、後継の案の芽が出ぬと思っただけでしかありませんよ」

 

「なるほど、では私からはこう言われるが良いだろうな。『他の方々の宜しいように』、と」

 

どうせ意見などは求めていない姿勢だけの者に語る舌などありはしない。

言外にそう臭わせた南部中将の言葉が終わると共に、帽子をくるくると回している提督の元に一斉に視線が向く。

 

「北条中将は、如何に」

 

「私は臆病者なので、マトモに戦わない事を策の一つとして出したいと思います」

 

「これだけの艦隊を集結させて起きながら、貴重な燃料を溶かすだけの結果に終わらせようということか?」

 

「勘違いしないでいただきたい。私はマトモにやらないと言っただけに過ぎません」

 

自分の意思を汲み取ってくれる加賀ならばこう考えるだろうな、と。

自分の型に載せるタイプであるビス子に反したスタイルを取る今は居ない秘書艦に思いを馳せ、帽子を手から離した。

 

「我々は、所謂雑軍。寄せ集めです。指揮系統は軍令部長殿、或いは作戦本部長殿が一本化なされるとしても、どうしても現場での連携に齟齬が生じ、その齟齬は戦術レベルの誤差となり、遂には戦略レベルの狂いとなって我が軍を鞭打つでしょう」

 

「雑軍は敵も同じではないか」

 

「それはそうでしょうが、伊勢提督の艦艇は、大湊警備府の預りとなっていたことを考えると主力となっている旧大湊警備府所属の艦艇とのある程度の面識・共同作戦の機会あったと考えられます。

我々も面識が全くないとは言えませんが勿論同一の鎮守府で訓練を積んだわけではないですし、現に貴方方は演習においてただの一個艦隊でしかなかった我が艦隊に敗れておいでだ。残念だが、連携においてさほど期待を持てるとは思えません」

 

あの鮮やか過ぎる負けっぷりは、皆の記憶に新しい。

鮮やか過ぎて恨みや無念さすら抱けないほどに、物の見事に翻弄されたのだ。

連携においてさほど期待を持てるとは思えないという言葉が優しく聞こえるものであるということは、他ならぬ本人達が一番骨身に染みてよくわかっている。

 

「では、どうするのだ」

 

「この際、各鎮守府の艦隊を以って個々の独立した戦力となします。そして、猟犬が熊を追い出すような形で敵艦隊を燻り出すのです」

 

「馬鹿な、主戦力まで釣ってくるにせよ、射程の長い戦艦からすれば各個撃破が容易。景気の良い的でしかないではないか!」

 

「マトモに戦わない、と言ったでしょう。旧大湊警備府の艦艇は重武装な戦艦が主力。快速な駆逐艦・軽巡洋艦で以って艦隊を編成すれば逃走のみならば容易なはずです」

 

僅かな怒気を発して席を立った軍令部長を、加賀めいた感じのする他者を落ち着かせるようなのんびりとした声が諌める。

謂わば彼は加賀ならばこうするかな、程度な考えを披露している気でしかなかった。

 

即ち、己の想像したものを原文として音読するような調子で読むことが可能だったのである。

 

「敵が乗ってくるとも限らんだろう」

 

「確かに。ですが、作戦本部長殿は大事なことを忘れられておられるようだ」

 

「何?」

 

疑問を表情に貼り付けたような作戦本部長を諭すように、提督は常のはっちゃけた感じとは違う相変わらずの落ち着かせるような声で次なる言葉を紡いだ。

 

「敵は資源を新たに得られない。詰まるところは手持ちの分しか物資がない。我らは本土から潤沢な補給を得ることができます。極論ですが、我らはただ艦娘に燃料弾薬の補給と食物による栄養摂取を充分とした上でただのんべんだらりとアヒルの昼寝の如く居るだけでいいのです。熟した果実が落ちる如く敵の戦力は潰えるでしょう」

 

「つまり、貴官は敵は早期決着の為に出てこざるを得ない、というのだな」

 

「はい。無論敵は無能とは程遠い実戦派の那須退役中将ですから、襲撃の周期を読み取っては逆に近海に一個戦隊を以って伏兵となし、退路を経たせることで各個撃破をなそうとするでしょう。しかし、それはこちらもできることです」

 

敵艦隊の偵察を密にし、周期が読まれたと仮想されるタイミングを機にこちらも全艦隊を出撃させ、包囲を敷くように進撃させる。

 

「無論、包囲が成功することはないでしょう。しかし、下手をすれば包囲されるという恐怖と資源が刻一刻と減っていくことに対する心理的抑圧、それに対して何もできない己に対する苛立ちなど、様々な心理効果が見込めます。

その時に降伏を促すもよし、艦隊決戦を挑むも良し、です」

 

「向こうから夜襲を仕掛けてくることは、有りはせんか?」

 

「敵の那須隆治退役中将は先ほど述べたように名だたる名将。同じ手が二度通用するなどという甘い予測を取るまい、という警戒の裏を書いてくることも十分に考えられますが、こちらが備えていればそれに寡兵であたる愚は冒さないでしょう。何せ、全軍で夜襲というものはできることではありませんから」

 

戦史上では黒木為禎が師団丸ごとこの『大軍での夜襲』を敢行しているから一概にないとは言い切れないが、それは今話すべきことではない。今回の献策の狙いはあくまでも国民にばれないようにとの軍部・政治家連中の意志を汲み取って『隠密裏に対処できますよ』と示してやらねばならない。

軍属ではあるが、彼は艦娘と艦娘を戦わせたくはない。本音を言えば敵の備蓄を浪費さしめるための出撃すらもやりたくはなかった。

 

だが、艦隊決戦となれば戦わざるを得ない。

 

そのような私情と『戦力保全』という全体的な目標のために、彼は『彼の意志に沿っているであろう加賀の思考』を洞察し、柄でもなく直々に発案したのである。

 

「閣下、それはあまりに閣下らしくない案だと小官には見受けられますが!」

 

「うん?」

 

「彼のレイテにてなされた戦術の巧妙さを以て敵艦隊を撃滅するべく案を練られるべきだと、考えます」

 

この言葉が聞こえた時、彼はつくづく思った。

 

加賀を連れてこなくてよかった、と。

 



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三十二話

「―――では、提督は北条中将が必ず先頭に立たれると言うのですか?」

 

「そうだ」

 

扶桑の問い掛けに静かな声色で言葉を返し、那須隆治退役中将は頷いた。

 

「お言葉ですが、今の海軍でそれほどの気概を持つ者は居ないのではありませんか?」

 

「居るわよ、大和」

 

新造艦にすら断言される程に堕落した海軍の現状を脳裏に浮かべて悩みつつ、那須隆治退役中将は扶桑の言葉に驚きの色を隠せない大和を諭すような口調で説明を始めた。

 

「北条氏文中将閣下と、南部信光中将閣下と、私と。三提督と称された私たちは、功績と才能に差があれど一様にとある誓いを守ってきた。

否、一人がやってきたことに感化されてやり始めたと言うべきか」

 

「何を、ですか?」

 

「陣頭指揮、だ」

 

それは、まだ前期艦娘破棄令が出される前。アメリカの救援に赴くべくミッドウェー島へと侵攻した時の、こと。

 

「我らは、大本営に対して疑念を抱いていなかった。指示には従ったし、扶桑が指揮官を載せるタイプであることを知っても何ら思うところはなかった」

 

苦いような口調で、那須隆治退役中将は呟く。

 

「馬鹿なことだ」

 

ミッドウェー救援作戦。件の減らぬベット・国家の威信を賭けた作戦であり、前期型の艦娘が数多く沈んだ自滅戦。

その中盤は彼と南部中将の艦隊であり、北条中将は今となっては狂っているような『加賀、ビスマルク、赤城、蒼龍、飛龍、木曾、鈴谷、矢矧』という最強チームを基幹とした新造艦隊を率いて先鋒を形成していた。

 

この戦いの負け方は、非常に単純である。

 

進み過ぎ、艦娘たちの疲労を無視して進んだ結果、案の定負けた。これに尽きる。

 

「……我々は、うまく言い包められた。いや、従う他に選択肢を選択できるほどの勇気がなかった」

 

「提督……」

 

元々民間人である彼等は、『軍のことは専門家に』と言う気風が強かった。故に、態々危険な現場にでて行く北条中将を大本営の言う通り『ただの死にたがり』や『功績と名誉欲しさの目立ちたがり』程度にしか思っていなかったのである。

 

道中で、彼は何回か連絡を入れて撤退を進言した。

 

『無理がある』、と。

 

だが、大本営は通信回線を切ることでこれに報いる。

つまり、お前の進言など聴く価値無し、と間接的に言ったのだ。

 

しかし、事態は回線を切って二日後に急変する。

別働艦隊が本土に迫り、ミッドウェー方面でも敵泊地を分割攻略していた遠征艦隊に大攻勢が開始されたのだ。

 

大本営直属の第一・第二・第三艦隊の通信が途絶する中、大本営が回線を繋いだのは彼のところであった。

 

どうなっているのか。

何故報告しなかった。

艦隊を引っ返させろ。

 

身勝手過ぎる命令を投げた大本営に対し、彼は恐ろしく落ち着いた様子でこう返した。

 

『貴官等は、過去の専門家であっても未来の専門家ではないようですね』

 

『こうなるように何度も進言し、出兵にも反対しましたが、今更とやかく言うつもりはありません。一隻でも多くの味方を逃がすべく一瞬でも長く踏み止まって引き付けますので、一刻も速く退却命令を』

 

『味方艦を一隻でも多く逃がす。限界まで踏み止まって戦おう』

 

皮肉からはじまって令下の艦隊への訓示で終わった通信から一ヶ月後、最も後方に居た艦隊が帰ってきたのを皮切りに、幾ばくかの損害を出してはいたものの中盤を構成していた艦隊が戻り、そして。

 

主要なところでもビスマルクは御自慢の対射撃アーマー―――バリアとかシールドとか障壁とか言われているアレ―――を残り一割まで削り取られ、加賀は艦載機を半分まで撃ち減らされ、赤城は中破、蒼龍は大破。飛龍は小破し、木曾は魚雷発射管を全て破壊され、鈴谷は飛行甲板を完全に砕かれ、矢矧は砲と名の付く物を全てと魚雷発射管を一機残して全て破壊されてはいたが、轟沈はしていなかった。

 

他艦艇もまさに満身創痍といった言葉がぴったりな幽鬼の如きやられっぷりであったが、喪失艦が一隻も出なかった辺りに彼は北条氏文の凄みを感じている。

一隻も失わせない為に立てられたであろう作戦、低速且つ故障揃いの艦艇を一隻も落伍させない艦隊運動の巧妙さ、芸術的とすらいえる砲火の一点集中運用。

 

そして、それを容れて束ねる統御の才。

 

「艦隊の損傷率は六割だが、彼の艦隊は損失率ゼロで帰還した。大本営は歓迎よりもどうにか敗戦の責任を誰かに擦り付けようとすることに心を砕いていたが、彼が傑物であることに変わりはない。

頬の向かい傷もその時に出来たのだろうな。あれ以来彼の旗艦であるビスマルクは損傷という損傷をしていないわけであるし」

 

「ですがその時は佐官だった筈。将官となって名誉と地位を手に入れたこと、更には基地と方面軍を指揮していることから考えても、今更前線に出てくるということはわからないのではありませんか?」

 

「彼は『何故陣頭に立つのか』と聞いたとき、言った。『自分の命令・責任において戦わせておきながら己だけのうのうと後方にいるわけにはいかない』、と」

 

静けさに包まれた樺太泊地で、那須隆治退役中将は両手の組み合わせながら厳かに舌を動かす。

 

「彼には動かないでもらいたい。が、そういうわけにもいくまい。そう言った場合は、こちらも潜在的な同志だからと言って手加減することはできない。旗艦を沈める気で砲火を集中。これを退けよう」

 

最も危険なのは、彼の名将のブレインたる加賀である。

次点では旗艦であり、優秀な戦術家でもある最強の矛・ビスマルク。その次は命令を全体に行き渡らせるため神経というべき矢矧だろうか。

 

全員集合とまではいかないし、航空戦力も充分とは言えないだが、日本の危機を幾度となく救ってきた巨人は矛と自由且つ機敏な四肢を振り回して襲ってくる。

 

「これは諸君らの望む敵ではないだろうが、どうか私に力を貸して欲しい」

 

「それは今更ですよ、提督」

 

「すでに退役されていた提督にご出馬願ったのは私たちです。どこまでもお伴致します」

 

にこやかに、されどどこかに悲壮と儚さを込めて頷く扶桑と大和を見て、男はわずかに軍帽を引く。

 

照れているような、泣いているような。それらの弱さを彼女らに見せ無いように覆い隠すような一動作だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、敵からも味方からも危険視されているこの男は、酒を傾けながら私室の三面通信機の真ん中の面に加賀との回線を繋いだ。

 

「加賀さん、聞いてくれよ」

 

『……いいけれど』

 

矢矧と言うほとほと裏方仕事に適正のある実務家がそれはそれは形式的粉飾を一片も施さない―――つまり、甚だ日本らしくなく読みやすい報告書を上げてくれているために艦隊の調子・練度は彼の頭に入っており、その矢矧ら元配下たちとコミュニケーションをとっているビスマルクからも士気と戦意の高揚ぶりは知らされている。

 

一方で、加賀は決して暇ではない。督戦・練成・遠征・事務の全てを行っている為にてんてこ舞いであり、提督四人分くらいの効率で提督十人分の仕事をこなしていた。

 

「……あ、今暇?」

 

『相談に応ずる時間なら作れているつもりだけれど』

 

遠征に行っていて、離れている。

話し掛けるにも一手間二手間掛かり、側にビスマルクが居るのに相談は自分にされている現状に、加賀は心で小躍りする程の嬉しさを感じていた。

 

普通ならば『ただでさえ仕事が多いのに愚痴など聞いていられるか』と言う怒りを抱いても無理はないところであることを考えれば、彼女の恋慕の深さはやはりどこか常軌では測れないところがある。

 

「大本営はさ、君たちの間で同士討ちしろって言ってるんだよ?」

 

『はい』

 

「俺が折角ない頭使って戦わないように考えたのに、艦隊決戦で勝つことに意味があるんだと」

 

『愚者は面子に、智者は実に拘ります。賢者はどちらも取りますから、貴方は智者に留まって賢者ではありません。が、愚者ではないというのは喜ばしいと思います』

 

遂には存在そのものを無視するようになった加賀は、自分が考えたようないやらしい作戦を聴き、首肯した。

 

『貴方の発案ですか?』

 

「加賀さんならこうするかなーって思っただけ。まあ、実質は加賀さんのレプリカ作戦ってとこかな」

 

『他人の作戦癖を踏襲しているとはいえ、貴方はただの戦下手ではありません。私でもそう提案したでしょうから』

 

ホログラムと言うか、なんというか。周囲の懐かしい執務室の景色ごと映し出された加賀の顔が少し曇る。

顎に手を当てて何かを考えるその姿は、如何にも有能な印象があった。

 

「で、那須隆治退役中将が指揮を取った海戦を全て纏めて圧縮したデータをそちらに送ったんだけど、どうかな」

 

『……善く纏められています。貴方は常に主観を貫く頑固さに欠けますが、寧ろそれが明度と透度を高めていると言えるでしょう』

 

仮想敵がわかった瞬間から一応と言う形で纏めていた情報を抽出・圧縮したデータから、加賀に個癖を読み取ってもらうのが彼の目的であり、万が一の時の勝算だと言える。

 

その勝算を導くための問いは彼が玉石混交の情報の海から用意せねばならないが、加賀が解いてくれるならばその苦労は問題にはならない。

要は、目の前の敵と戦わせなら殆ど負けはないビスマルクの用兵の巧緻さを台無しにする不確定要素を減らす為の苦労だった。

 

『那須隆治退役中将は、敵を包囲する時には別働隊を以って繞回運動させる選択をします』

 

「それは、何だ。当たり前じゃないのか?」

 

『包囲に失敗したように見せかけ、別働隊を以ってこの任に当たらせるということです。これは一度も行われていませんが、見る限りでは彼は今回の戦いを誘発したように思われます。つまり、夜戦での攻撃に負けて退いた時の追撃行為が不徹底でした』

 

とっておきの罠に誘い込むために、一気に戦力を釣ろうとしていたのか。或いは殲滅を好まなかったのか。

 

「では、どうする?」

 

『泊地ALの一個艦隊か、貴方の直卒艦隊を、或いは大本営直卒艦隊を二個。他の鎮守府のものであれば四個艦隊を別働隊に対する邀撃部隊としてその場で編成。敵繞回部隊を砕き、逆包囲を試みればよいでしょう。まあ、先に挙げた二者以外に出来るとは思いませんが』

 

「その場で編成ってのは、無理があるだろう。戦いってのは相撲みたいに『組み合って、逃げて』ってのが出来ないんだからさ」

 

『それくらいしなければ騙せません。提督は敵をそれほど甘く見られますか?』

 

ぐうの音も出ない程に完璧にのされた提督は、わかりきったことを口にする。

 

「甘く見てはいない。だが、それじゃ防ぎようがないじゃないか」

 

『戦術レベルの勝利が戦略レベルの敗北を覆せないように、総司令官の無能は現場が如何に奮闘しようとそれを補えないのです』

 

「でも、戦略レベルでは勝ってるよね?」

 

『待つような忍耐と知恵があれば勝てます。つまり、有利なだけですね』

 

ダメか。

ダメです。

 

そういうことになった。

 

「と言うような感じで終わるわけにもダメじゃないかね。何とかならないかな?」

 

『なります』

 

「おお、どうやって?」

 

『総司令部が爆発事故で地上から消えます。各鎮守府司令官も地上から消えます。とっても残念なことです』

 

この時点で嫌な予感しかしなくなった提督の判断力は、極めて真っ当であると言えた。

何せ、いきなり敗因が爆発四散してこの世からサヨナラしているのである。

 

『そこで、序列的な証拠と権利を示しつつ泊地ALの南部中将と貴方とで指揮権を引き継ぎます。練度の低い部隊を盾にしてそこから各精鋭艦艇の主砲で攻撃すれば勝てるでしょう』

 

「それはできないな」

 

『知っています。だから無理だと言いました』

 

囲炉裏からドライアイスへ、そしてまた囲炉裏へ。

変遷の激しい加賀の雰囲気に目を白黒させながら、提督は軽くため息をついた。

 

「無理?」

 

『無理です』

 

「勝てない?」

 

『勝てません』

 

「奇跡とか?

起きちゃったり―――」

 

『ないです。そもそも戦う前から運任せにするあたり、貴方も理解しているのだと思うけれど?』

 

結果。現場の悪戦苦闘に期待する。

一応の忠告を得た後二時間ほど雑談し、加賀との回線は切れた。

 

 

 

 



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三十三話

『もうこんな時間か』

 

「……そうね」

 

愚痴を聴き、相槌を打ち、慰める。

一時間続けばいい加減辟易としてもいいような状況が既に二時間を越え、フィリピンの時刻は二十三時を回っていた。

 

『今が十二月五日。計らずとも大本営のお陰でクリスマスまでには帰れそうだ。どんな形であれ』

 

「生きて帰ってきて欲しいのだけれど」

 

『そりゃ、俺だって死にたくないさ』

 

じゃあね、と手が振られた後に回線が切れる。

今は、十二月四日二十三時。

向こうは、十二月五日を少し過ぎたあたりか。

 

(もっと、話していたかった)

 

漠然とした喪失感が心を空洞にさせ、加賀は管理の任されている執務室から提督の私室へと足を運んだ。

 

寂しい。寂しい。寂しい。

 

自分の居ないところで彼が戦う。

それが、こんなにも苦しい。

 

(いや、私は―――)

 

戦うのではなく、離れるのが嫌なのだ。

どうしようもなく、嫌なのだ。

 

託された合鍵を鍵穴に挿し込み、半回転させる。

提督の匂いが僅かに残る彼の私室は、加賀の寂しさを慰める為の部屋と化していた。

 

(提督、寂しい)

 

早く帰ってきて欲しい。声を聴かせてほしい。無事な姿を見せてほしい。自分の隣に座ってほしい。

 

(寂しいわ)

 

決して豪華とは言えない折り畳み式の木の椅子に柔らかな臀部を下ろし、加賀は手を枕にして机の上に上半身を預ける。

胸が邪魔なことこの上ないが、邪魔だと思って小さくなる訳でもなかった。

 

(提督、何をしているの?)

 

私は、こんなにも寂しい。

私は、こんなにも想っている。

私は、こんなにも心配している。

 

好きで、好きで、大好きで。陽向のように明るい笑顔と、日陰の暗さが心地よい。

側に居られれば、幸せだった。それだけで心が満ち、一日一日を瑞々しく生きられた。

 

側に居て、仕事をして。

勿論、会話は少ない。親しさを示す行為は何もしないし、彼の言葉には遠慮のようなものがあり、彼の動作には壁を感じる。

 

だけど、それでも幸せだった。表に出せないが、側に居るだけで幸せで、守ってきた正義と信じた物全てに裏切られた心の傷が癒えた。

 

強く、居られた。

 

「側に居てください」

 

机の上に飾ってあるのは、写真。

五年前の使命感と希望に満ちていた自分と、五年前から相変わらず困ったような顔をした彼。

 

「貴方を愛しています。貴方の為に、死にます。貴方が望むなら何でも、します」

 

だから私を裏切らないで。だから私を見棄てないで。だから私を側に置いて。

 

私は、貴方の役に立つ女です。

私は、貴方を裏切りません。

私は、貴方を一生愛します。

 

遊びでもいい。常の気軽さで手を出し、時々顧みるだけでもいい。

 

もう、愛してしまった。

情愛の深い自分が、彼に恋慕の情を抱いてしまった。

 

「邪魔になったら、自死を命じてくれればいいの」

 

前の出張の時もそうだが今回で、流石にわかる。

自分はもう、一人であることに耐えられない。一人が怖い。

 

彼女は、全身をどっぷりと提督の優しさに浸からせてしまっていた。

もう足掻けもしないし息継ぎも出来ない。

 

己の存在意義と、戦ってきた意味。

それを喪ってしまった彼女は、提督にすべてを依存していた。

 

提督が望んだことではない。彼が望んだのは、自分が狂おしい程愛してしまった加賀と言う女を絶望の内から引き摺り出したいということ、だけ。

 

だが、彼女は依然として絶望の中に居る。

全ての居場所を喪わせた絶望は、逃げ込める所が一箇所しかないことで更に深みを増していた。

 

彼女は、もう何処にも逃げ場はない。恋慕を絶たれれば、彼女は絶望の海に呑み込まれるだろう。

 

「…………提督」

 

椅子から立ち上がり、提督が鎮守府を発ってから何も手を付けていない布団に身体を横たえ、掛け布団に身体をぐるぐると巻き、敷布団と枕に顔を埋めた。

 

到底できる女とは思えないほどのミノムシっぷりと、寂しさのあまりポロポロ泣いているその姿はもはや艦娘でも正規空母でもなんでもない。

ただの寂しがりやな兎か猫の類であるとしか見えないであろう。

 

「加賀さん、大丈夫ですか?」

 

「お仕事はやっています」

 

もはや好きな人の部屋で好きな人の布団に包まっていることを抗弁しようともしない加賀の力なき声が布団を蓑にしたミノムシから漏れた。

明らかに大丈夫ではないし、彼女も大丈夫であるとは言っていない。ただ、提督から任された仕事は大過なくこなしている。

 

任されたことを淡々とこなしほかを顧みないそれは忠誠心の高さであるとも言えたし、自主性の乏しさであるとも言えた。

 

「御飯、食べてますか?」

 

「昨日ゼリー飲料と栄養調整食品をいただきました。これにより身体が機能不全になることは防げています」

 

意訳すると、食欲がない。

彼女は提督と共に居る時は優秀な官吏であり調整役であり教師であったが、提督が居なくなった途端にそれらが抜け落ちてしまい、謂わばアクティブからパッシブになってしまう。

 

それは、食事においても変わらなかった。

提督に喜んで欲しいから、作る。別に己の分を作るのは『ただ食事風景を見られるのも嫌だろう』『彼の性格からして一緒に食べることを好むだろう』という認識から発した気遣いの類でしかなかった。

 

つまり、彼女は元々それほど食べない。赤城は女性にしてはよく食べる方であり、食事そのものを楽しみとするが、加賀は提督と一緒に食べることを好む。

 

食事自体に興味はないため、提督が居なくなるとこうなった。

 

「……あの、今日は?」

 

「食べていません」

 

二十三時五十七分は未だ『今日』であって『昨日』でないこと考えれば、彼女は今日始まってからの約二十四時間で何も食べていないことになる。

 

「……食べた方が良いですよ?」

 

「ごめんなさい」

 

ミノムシ加賀は布団と言う蓑を纏ってもくっきりとわかる我儘な身体を無意識的に赤城に見せつけながら振り向き、謝った。

 

同じ女、そしてかなり良いスタイルを持っている赤城ですら羨ましいほどの美体から、萎れるように活力が抜けている。

 

「……提督が誰かと結婚して退役したら、死ぬんじゃないですか?」

 

今は通信と匂いによって、つまり五感の内三つを感じているが、触れられなかっただけ、頻度が低いだけでこの無気力・萎れっぷり。

永遠に会えないとなれば、どうなるのかを想像するのは容易かった。

 

「…………わかりません」

 

「まあ、提督は貴女の幸せを願ってます。見棄てられないことを貴方が望んで口に出すなら、そうならないと思いますよ」

 

「……幸せを願ってるならお嫁さんにして欲しいのだけれど」

 

じゃあそう言えば良いのに。

だいたいを訳せばそんなことを言おうとした赤城の口が閉じられ、再び開かれる。

 

「提督の側に居るのが、一番幸せ?」

 

「……はい」

 

ミノムシ加賀の肩らしき部位を掴み、赤城は静かに言い切った。

 

「なら、帰ってきたらにそれを言いなさい。少しでも好意を伝えなければ、いずれ必ず離れることになります」

 

何だかんだで、距離を詰めたいのは加賀も変わらない。

提督の匂いに包まれた加賀は、顔だけだしてこくりと一つ頷いた。



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三十四話

「つまり、我々は同胞と戦うことになったわけだ」

 

軍帽を頭の上から取り、日本人らしい黒い髪をポリポリと掻きながら提督は申し訳無さげに打ち明けた。

 

彼は、ただでさえ人間のために彼女等を戦わせているという負い目を負っている。

それなのにまた、人と人同士の争いに艦娘を巻き込むなどと言うことが起きた。

 

戦争は、いい。歴史上幾度となく人類は同胞と戦い、殺し合ってきている。

だが、何故彼女等を巻き込むのか。

 

「私は諸君らの提督としては不適切な指示だが、戦線離脱を許可したい。人同士の争いは、人の手で終わらせるべきだからね」

 

「では、戦線離脱をした場合どうすればいいのですか?」

 

「戦線離脱をした場合は比島へ帰りなさい。好きな所に行っていいが、そこが一番安全だろうからね」

 

生真面目と言える矢矧の質問に応じ、提督はポツリと呟いた。

 

「詰るところ、人類は手に余る力を手に入れたのかもしれない。こうなれば、私を含めて一度滅んだ方が世の為だったのかもしれないな」

 

「そうすると、私たちは何を守ればいいの?」

 

「自分の身を。それが本来正しい戦争だろう」

 

ビスマルクの質問に何の迷いもなく答え、提督は目深に帽子を被り直す。

隣に立っているビスマルクも、正面に立っている矢矧も、何も言わずにその場を去った。

 

「……だからこんなところに全員を呼び出した、ということなのかしら?」

 

「そうでしょうね。私に乗っていては実質私には選択権がないもの」

 

彼女等には、二日間の自由行動とそれが終わって一時間後のイチロクマルマルに提督が宿泊している室に来るようにとのお達しがあった。

なのでだいたいわかっていたが、これはまあ予想通りだと言える。

 

「矢矧、貴女はどうするの?」

 

「一度誓った忠誠は破られるべきではないと考えます」

 

小さい加賀とでも言うべき才気と、忠誠心。

伊達に彼女の『貴女はこれ、貴女はこれ』という素質を叩き伸ばす教育を受けていないと言うべきか。

 

一個人に拠る忠誠心と言うものが教育によってではなく、ただその人物への印象で変わることを考えれば、この二人は本質的に似通っているところがあるのかも知れなかった。

 

「なるほど。駆逐艦たちにはどう伝えるの?」

 

「そのままを伝えたいと思います。選択は強制されるべきではありませんから、私の意見は伝えずにおこうかと」

 

これまた、妥当な処理である。非凡さはないが篤実さがある。

 

豪華な廊下を一歩下がりながら歩いている矢矧には言わないものの、ビスマルクはその平凡な判断能力と非凡な艦隊運動の卓越さというアンバランスさを多いに買っていた。

 

彼女ほどの艦隊運動の巧者は母国ドイツにも居なかったし、提督のような清濁併せ呑む巨大な器と勝運を持った提督も居なかった。

日本はこれを、厚く遇するべきなのであろうが。

 

「いいんじゃないかしら。私は重巡連中に言ってくるけど……まあ、足柄がいるから無駄でしょうね」

 

「誰よりも勝利に拘ってきた彼女が逃げるのは少し、想像できません」

 

勝利、勝利、勝利。二言目にはそれである。

科学の発達したこの世の中でもゲン担ぎを忘れない、或いはそれほどまでに勝利への念が強すぎる艦娘を矢矧の言葉で思い出し、ビスマルクは僅かに帽子の鍔を下げた。

 

「他の妙高型も、姉妹一人を見捨てられるような世渡りの巧い性格ではないし、確定かもしれないわね」

 

「……まあ、こちらも殆ど確定したようなものだから」

 

娘が親に懐くように、駆逐艦は提督に懐いている。

わらわらと群がってくる幼女たちには流石に何の手も打てない加賀からすれば嫉妬の対象でしかないが、彼女たちもその忠誠心は高いのだ。

忠誠心なのかと聴かれれば頭上に『はてな』を浮かべる娘が過半を占めるであろうが、傍から見ればそうである。

 

「提督は本気で言っているのだろうけど、個人に拠る忠誠心と言うものがあることを理解していないのか、しても認識しようとしないのか」

 

「どちらもでしょう。提督は相当鈍いもの」

 

矢矧とビスマルクが笑い合い、軽く手を振ってそれぞれの役目を果たすべく廊下を左右に別れた。

 

結果として、彼の艦隊から離脱しようとするものは出なかった。しかしそれは、総意としてではなく個人的な意思レベルの話でも皆が与えられた『大義』と言うものを信じていないことを意味していた。

 

そして、数日経って自艦隊と味方複数艦隊が隊列を整えながら進んでいるのを見ても、提督の憂鬱は収まらない。

寧ろ戦場が近づく度に憂鬱さが増し、遂には溜息をつくほどになっていた。

 

「全く、うちの艦隊は頑固者揃いか。意志の固さは別なときに使って欲しいもんだね」

 

艤装を纏い、船体を仕舞って移動している最中のビスマルクの顔が映し出されたスクリーンに、提督は思わずといった様子で溢す。

 

三面あるスクリーンの中央にはビスマルクからの視点が、左にはビスマルクの喜怒哀楽豊かな美人顔が、右には電探代わりのヘッドフォンを装着した矢矧のクールな美貌が映し出されていた。

 

通常の彼が得られる視覚的情報はこの三つだけであるが、感覚的な情報はその気になれば艦娘を凌駕する。

何より、土壇場になると非常に的確な指示を下すことが、彼には出来た。

 

本人は『あれは運が良かったんだよ。君たちの奮戦もあったが、とにかく運が良かった』と自嘲気味に評す指示の的確さと、長時間保たないものの艦娘より範囲・精度ともに正確な索敵能力こそ、ビスマルクが危険を冒して彼を乗せてきた理由でもある。

 

士気的な意味だけに留まらず、彼にはそこに居る意味があった。

 

『司令官の意志が固くて頑固者なんだから仕方ないでしょう、Admiral』

 

「何を言うのかな、君は。俺ほど意志が弱くて柔軟な人間はいないと思うがね」

 

『冗談』

 

海原に、鉄の艤装を背負った少女が数十人。

そんな常識的な目から見たら異端極まりない光景の一隅。長い金髪と灰色の軍帽を被った女性と黒い長髪を一本に括った女性が率いる一団からは、後方から白いジャージを来たマネージャーの如き少女が離れるように南方へと退いていく。

 

『何故、今になって速吸が来たの?』

 

「叩きに来るなら此処らへんだから、念の為に燃料を補給しておこうと思って予め遣わしといたんだ。機動力の有無は命の有無にも関わるからね」

 

正しい判断だ、とビスマルクは思った。

もうすぐ樺太から程近い最後の此方側の基地がある。本当ならば一気に其処に駆け込んで再度出撃・樺太に向けて進撃したほうが良かろうが、敵からすれば長駆してきた自分たちを待つ必要が見当たらない。

 

ここで一度補給を入れておくのが、案外と命運を分けるかも知れなかった。

 

『敵艦隊発見、十三時方向!』

 

数分後、矢矧の張り詰めた声が艦隊を揺るがす。

提督が座乗している艦隊の一員である彼女の索敵範囲は空母艦娘に匹敵していた。

 

正確性はともかく、臨戦態勢を整えるべく一番に発見する為の大雑把な広さを、彼女の電探は持っている。

 

「総司令部へ通達。此方第八艦隊、ワレ敵艦隊発見ス、とね」

 

『十二時方向・十三時方向に偵察機を発艦させなさい。直掩機は一時収容して再度発艦。急がず正確に、だけど素早く、ね』

 

索敵には第二艦隊が当たるということで索敵機の発艦は禁じられていた為に電探による索敵に専念していたが、最早そんな悠長なことを言っている場合ではない。

矢矧も大雑把・広範囲な物から高精度な物へと電探を代え、再び索敵に入っていた。

 

『いいのかい?まあ、あたしと飛鷹はいいんだけどさ』

 

「ビスマルクの指示に従うように。責任は私がとる」

 

自然と変わった提督の一人称に臨戦態勢となったことを感じたのか、隼鷹は常は見られぬ謹厳な面持ちで敬礼し、割り込んだ矢矧用の回線を切る。

正面の回線からは紙のヒトガタとなった直掩機が収容され、これまた陰陽師の如く飛行甲板に連ねたヒトガタが索敵機と艦戦になって空へと揚がった。

 

『提督、敵の距離は200キロメートル以北です』

 

「わかった。予想接触時間は?」

 

『約二時間。どうしますか?』

 

「対空戦闘用意、視認でき次第で砲雷撃戦の用意を。対空戦闘は君が駆逐艦を主力として執り、砲雷撃戦はビスマルクが重巡を中心にして指揮を執るように」

 

パッ、と敬礼して消えていく回線からの映像に敬礼で返し、溜め息をつく。

対空戦闘ならば矢矧が独自に研究している為に先達だが、彼女は本来艦隊運動の巧者。

 

何個も役割を兼ねさせても難色一つ示さないが、あまりよろしいとは言えなかった。

 

『敵艦隊より第八・第十艦隊司令部及び総司令部に通信が入っているわ』

 

「繋ぐように」

 

見事な敬礼をして消えるビスマルク用の回線を、見覚えのある同僚の顔が占拠する。

 

那須隆治。階級は中将。退役しているとはいえ鍛えるのを怠らなかったからか頑健な身体付きをしており、その鋭意は寧ろ増加していた。

 

『我々には叛逆の意志も、権力への欲もない』

 

『ほざくな叛逆者。ならば何故日本国に砲口を向け、樺太を不法に占拠したのか!』

 

『世の中の無道を糺す為だ、本部長閣下』

 

一息入れ、呼吸を正す。

自らの思いの丈を吐くように、彼は厳かに問いを投げた。

 

『深海棲艦と言う天敵に見舞われながら、この世に人が生き長らえているのは何故か』

 

提督も、帽子を手でいじくり回していて答えない。

南部中将も、興味深げに口の端を上げるのみで答えない。

 

作戦本部長も、内面はどうあれ様子をうかがうかの様な体を崩さずに居た。

 

『一重に艦娘と呼ばれる彼女らが我々の藩屏となって奮戦し、その身を捧げてきたからではないか』

 

『それは我ら海軍の働きを不当に貶めるものであろう!』

 

『不当では、ない。我らは何もしてこなかった。前期型と呼ばれる古参の艦娘に対しては褒賞を以って報いるどころか仇を以って報い、一部の輩は大量生産できることを良いことに使い潰し、あまつさえ女として夜伽を強要している鎮守府すらもある』

 

やれやれ、と。提督はゆっくりとした挙動で肩を竦める。

これはもう、真実なだけに反論できない。距離の暴力が大本営お得意の権威の暴力によって黙らせることを防ぎ、作戦本部長の顔も蒼白だった。

 

『そんな事実は確認されていないであろうが!』

 

『証拠の品はある。現に私は貴官らに提出した筈だが、公開されなかったようだな』

 

ファイルが各司令部・各旗艦の元へと送信され、開くか否かを請求に迫る。

いきなり開かないのは、良心か。或いは更なる狙いがあるのか。

 

(なるほど。嫌悪ではなく不信感を煽る、か)

 

開くなと言う命令は、不信感を煽る。

開けば、嫌悪感を煽る。

 

人は、嫌悪を抱いても言う事は聞く。しかし、不信を抱けばそうは行かない。

 

(私ならばどうするかはこの際問題ではないな。作戦本部長殿ならば受け入れんだろうという、それだけでいい)

 

そのどちらに転ぼうがどうにもならない二者択一を選ばせることで、戦意の鈍化を計ろうというのだろう。

全く、厄介な奴を敵に回したものだった。

 

『作戦本部長閣下、身にやましいことはないと抗弁されてきたのですから、ここは戦意の低下を防ぐことも含めて開かせるべきかと』

 

『馬鹿なことを言うな!』

 

一条中佐の提言を一蹴し、作戦本部長は一喝には高すぎる声で叫ぶ。

 

『ファイルの削除を命ずる!これは敵の罠であり、策である!』

 

大本営直轄の第一・第二・第三艦隊が僅かな迷いと共に、意思を持たぬ第四・第五艦隊が機械的に削除し、第六・第七艦隊が迷いを抱き、第八・第九・第十艦隊が複製した後に削除。

 

第九艦隊は、一条中佐の艦隊であった。



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三十五話

「敵は士気が高く、味方は士気は低い。敵は根拠地に近く、味方は遠い。その上数にも劣るときた」

 

玩ばれてクタクタになった帽子をぽんっと頭に載せ、提督は真ん中の画面を切り替える。

 

戦術ホログラム。一艦隊を単位として様々な陣形の変容によって形を変えて表示し、距離までを縮尺によって表示してくれる憎いやつであった。

 

「ビスマルク、艦隊の配列は?」

 

『最左翼に第六艦隊、左翼部に第七艦隊、第八艦隊。中央最先鋒に第一艦隊、中盤は第二艦隊、第三艦隊、後衛は第九艦隊。四・五・十艦隊が右翼を構成し、最右翼を第十艦隊が守っているわ』

 

「ちょうど真反対ってほど露骨でもないが、ほとんど反対って感じか……これは連携は無理そうだな」

 

『私たちは中央よりの左翼。第十艦隊は最右翼。連携は中央部悉く粉砕されないと難しいわね』

 

紡錘陣と言うべき三角形の―――と言うよりは敵軍の砲弾の雨に向かって左翼・右翼の計六艦隊を布代わりに張り、中央部四艦隊を骨にし計十艦隊による傘を差しているような感じになる。

本来は第九艦隊が最先鋒であったが、進軍途中に無理矢理陣形を改変。第九艦隊を後方に押し込み、シャッフルしたような感じで第一・第二・第三艦隊の順で敵に相対することになっていた。

 

「我が艦隊は、どうかな」

 

『変わりません。元々期待するところは薄いですから』

 

艦隊を直接動かしている矢矧の報告を聴き、提督は大きくため息を吐く。

 

『て、提督?矢矧、何かお気に触ることを―――』

 

「いや、君は何も悪くない。これはこちらの問題だ」

 

わたわたとクールで凛々しい和風美人とでも言うべき美貌を戸惑いと動揺に染めた矢矧の言葉を遮って楔を打ち込み、納得させて通信回線を遮断。

常に冷静沈着な矢矧でも慌てることがあるのか、と変に驚きながらも頬肘を付いた。

 

(期待するところは薄い、か。本格的に拙いなぁ、これは)

 

大本営のその後の言い訳も見苦しかったし、その言い訳に一々突っ込まずに交信を切った敵も見事。

 

己の解釈を与えるのではなく、自ら考えさせることによって、植えつけた不信の種に水をやる。

 

誰が考えたかは知らないが、いやらしい謀略だった。

 

『あの、提督。敵雷撃機を中心とした一編隊が接近しています。どうなされますか?』

 

「直掩機を前方に回して警戒。対空戦闘を準備しなさい」

 

『はいっ』

 

まだ僅かな遠慮がある矢矧のいつも通りに綺麗な敬礼を見送り、思考を打ち切る。

 

何で艦娘を粗雑に扱い、己の欲望の為に利用するような輩の為に戦わなければならないのかは、わからない。

それを黙認し、己に回してくるようにと物品を買うような気軽さで『購入』する政治家の失脚を防ぐ為に戦わなければならないのかも、わからない。

 

わからないが、ここは民主主義国家ということになっていた。

軍事的叛乱に拠る政権の樹立を許す訳にもいかないし、前例を残すのもよろしくないだろう。

 

「震電改の出撃用意を」

 

戦艦の六割が南部中将に、航空母艦の七割が北条中将に率いられ、那須隆治退役中将は戦艦の四割と航空母艦の二割を保持していた。

 

現在のところ、航空戦力は北条・那須・連合軍・南部である。

 

その航空戦力は充分にして過大とは言えないが、連合軍を相手にするには充分な練度と数を持っていた。

 

『出撃準備、完了しました。順次発艦・邀撃させますか?』

 

「いや、味方が勝手に発艦させている。同士討ちを防ぐ為にも止めておこう」

 

『了解しました』

 

飛鷹の白制服の袖が振れ、回線が切れる。

作戦本部長からの回線はないから、大方練度の低い艦娘が単艦隊で戦う時と同じような感覚で発艦させたのだろう。

 

「もうこの統制の無秩序さはどうしようもない。我が艦隊の航空戦力は邀撃に徹しよう」

 

『それがいいと思うわ。同士討ちで貴重な搭乗員を失いたくは無いもの』

 

戦術ホログラムが示す右翼方面の部隊に蟻が木を食っていくような有り様でポツリポツリと穴が開けられていき、何艦かが轟沈したことが明確にわかった。

 

「どうかな」

 

『航空戦ではドッグファイトが発生。混戦に持ち込まれ、同士討ちで賑やかになっているようね』

 

雷撃機が魚雷を投下する音と爆音が断続的に響く。

 

『決して良質とは言えないバックグラウンドミュージックですな、北条中将』

 

「南部中将」

 

『失礼。どうにも性分でして』

 

いきなり通信回線に割り込んできた皮肉屋の口をつぐませ、提督は僅かな溜め息とともに悪びれない南部中将に応対した。

 

「通信をするには、するだけの理由があろうと見受けますが?」

 

『何、右翼方面の被害状況を報告してやろうと言う親切心ですよ、北条中将』

 

轟沈が七、大破が四、中破が二。小破が九。

 

一個艦隊十二隻を三セット連ねた三十六隻からなる右翼集団は、その戦力を大幅に減らされている。

そのことが良くわかる報告に、北条氏文はこめかみに手をやって少し揉んだ。

 

「で、内訳は」

 

『無傷の我が艦隊を除いた右翼集団は、規定通り戦艦・空母・重巡が二隻ずつ居りました。撃沈七隻は軽巡・駆逐に集中しておるようです』

 

日本海軍の一艦隊は、後期型と言われる艦娘が主力となるにあたって戦力が落ちた為、駆逐艦五隻と軽巡一隻のワンセットと戦艦・航空母艦・重巡洋艦を二隻ずつのワンセットを組み合わせて編成されている。

 

彼の艦隊は『旧制度上の二艦隊が統合』されたものなので軽空母二隻と戦艦一隻、重巡洋艦四隻と軽巡洋艦一隻、駆逐艦が八隻の計十六隻。

南部中将の艦隊は見かけ上従っている風を出すことを好む彼らしく、『戦艦四隻、航空母艦二隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦二隻』の変則編成での十二隻。

 

「……少し、待ってくれるかな」

 

『ええ、構いませんが』

 

右翼集団に意識を巡らし、己の情報処理能力を越したことによる頭痛に苦しみながらも海域全体を俯瞰し、スキャン。

左翼集団と右翼集団がそれほど離れていないことが、彼の異能を使うにあたってのデメリットを軽減させた。

 

「雷撃機は去ったか?」

 

『たった今。三分の一ほどには撃ち減らしましたが、こちらも相当に落とされました』

 

「十分以内に潜水艦が来るので、対潜警戒を怠らないことです。護衛艦を減らしたのか、敵を減らしたのかはこの際問題ではないでしょう。駆逐艦・軽巡洋艦に集中したことに着眼点を置くべきです」

 

まるで事務でも報告するような語調で予想を述べ、提督は僅かに眉を顰める。

 

「まさか対潜装備を持たせていないということはありませんよね?」

 

『我が艦隊は持っている。他は艦隊決戦のことしか考えておらんようでな』

 

「なるほど……」

 

その旨を伝えるべく回線が切られたが為にブラックアウトしたスクリーンを見て、また溜め息をつく。

 

彼の顔には、色濃い疲労が見えていた。

味方の不準備と、敵の周到さ。潜水艦と言う通商破壊作戦にしか使われていなかった艦艇を長駆させ、対空戦闘をしていたが為に上に意識の行っていた艦艇を水中から仕留める嫌らしさといったら、ない。

 

「慚減邀撃は防衛側の特権とはいえ、中々どうして敵も周到なものだ」

 

『Admiral。こちらも対潜戦闘を用意させる?』

 

「いや、いいだろう。これまで見たところ、敵の狙いは右翼集団らしいからね」

 

『敵の狙いは大型艦艇の内のどれかしら?』

 

「二次大戦で撃沈された空母の死因を集計すると三十八隻のうち潜水艦による戦没艦は十六隻、水上艦による戦没艦は二隻、艦載機による戦没艦は十五隻、陸上機による戦没艦四隻、事故一隻になる。潜水艦が狙うのは、航空母艦ではないかな」

 

龍の眼は描けるが龍全体は描けないビスマルクの出番は、まだ早い。

此方もただ雷撃機にやられていたわけではないし、反攻のための雷撃戦・爆撃機を発艦させていた。

 

だが、帰る場所を無くせば幾ら勇戦しようと艦載機は虚しく海底に突撃するしか他に手がなくなる。

 

「やられなければ、いいのだがね」

 

呟いた言葉が空気に溶け切る前に、ブラックアウトしたスクリーンを矢矧が占めた。未だ緊張感と遠慮が取れないが、その顔には呆れと虚しさがありありと浮かんでいる。

とてもではないが、良報であるとは考えられない顔だった。

 

「矢矧、いやに不景気な顔じゃないか。どうかしたのかな?」

 

『……対潜警戒は無用、と。それよりも未だ対空戦闘に備えるべしとのことです』

 

「そうか……まあ、そうなるだろうとは考えていたさ」

 

『あまり気落ちなさることはありません。どのみち対潜装備もないのでは警戒したところで装備の不備という失態は取り返せるものではないのですから』

 

艦隊を運動させることにかけては右に出るものがない矢矧が言うからこそ、その信憑性があるとは思える。しかし、その艦隊運動で所在不明な潜水艦の位置をあぶりだしたことを知っている以上は『はいそうですか』とは言えない。

 

「いずれこの応急修理音と航行音が空母からの爆発音に変わるんじゃないかって考えるのは、ひやひやものだな」

 

対空戦闘に意識を割きながらも、妖精たちは自分たちが所属する艦を一瞬でも長く生き残らせるための応急修理を専念していた。

 

この杞憂と味方艦載機の惨敗が知らされるのは、敵艦隊と接触する十数分前のことである。



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三十六話

「敵艦隊発見、十二時方向!」

 

飛鷹の鋭い索敵能力に頼らずともわかる、視認できるようなところまで敵艦隊が出てきていた。

最早あれから時は経ち、予想接触時間に達そうとしている。このことを考えると視認できるのは普通だが、艦載機隊の攻撃が幾ばくかの損害を与えていると考えた提督の予想にはまだわずかな期待があったのだろう。

 

敵艦隊は当然ながら艦列も整然としており、つぎはぎとも言えない。艦隊に欠損は見られないし、損傷した艦艇の姿も見えない。

 

「……殆ど無傷、なのかしら?」

 

「旧制二個艦隊十六隻が相手にするには十三個艦隊百五十六隻は多すぎます。何隻かが脱落しようとも変わりません」

 

「そうかもしれないわね」

 

こちらは九個艦隊百八隻と変則一個艦隊十六隻の百二十四隻。三十二隻の戦力的開きを『出撃時点では』持っていた。度重なる空襲で右翼・中央部から駆逐艦十九隻、軽巡洋艦四隻、航空母艦五隻が喪失させられている。

 

つまり、旧十個艦隊九十六隻対十三個艦隊百五十六隻。三割程の兵力差が両者の間では開かれていた。

 

「はじまりましたね」

 

「整然とした動きはまず見事、ですか」

 

敵味方の航空機が入り乱れ、長射程の戦艦から砲撃を開始。この期に及んではもはや交渉や訴えるべきことなど何もないとばかりに始まった戦火は、右翼方面から野火の如く広がり中央部へ。左翼方面にはまだ来ては居ないが、同じ草原にいる以上は野火から逃れることもできない。

何せ、その火自体もまた意思を持っている。『燃やしてやりたい』、と。

 

「戦艦部隊どうしの殴り合いはまず互角、ですかね」

 

「この短時間で負け始めたら、本当にどうしようもないわ。少なくとも中央部を構成する艦隊は高い練度を誇る精鋭なのよ?」

 

中央部がじりじりと押し返しつつあり、右翼部隊はじりじりと押し返されていた。何かとやかく言う気はないが、矢矧にしたら意外である。

嘗ての司令官に存在していた性格の悪さはどうあれ腕のある艦隊を知っているビスマルクからすれば意外というわけではなかった。

 

大本営の直属艦隊はその旧艦隊出身の艦娘と新編された後期型の艦娘の入り混じった混成艦隊ではあるが、内地で充分に訓練を積んでいるだけって中々に統制・連携がとれた艦隊になっている。

艦載機の練度も消耗が続くほかの鎮守府とは比較にならないし、経験こそ近海の駆逐艦と潜水艦と身内との演習でしか積んでいないが、それは艦隊としての実戦経験の浅さであり個々の艦艇はそれぞれ別な艦隊で戦っている経験があった。

 

つまり、大本営は馬鹿にならない程度の精鋭部隊を保持している。そう言い切ってもいいほど、現場の部隊は奮戦していた。

 

「案外と、内地組も馬鹿にはできないわね」

 

『あんまり人を馬鹿にするもんじゃないよ、矢矧。スポーツじゃないんだから、強い敵と戦ったからってこちらが強くなるとは限らないのさ』

 

いきなり敬愛する提督から声を掛けられたことに怯んだのか、矢矧は思わずといった様子で後ろを向く。慌ててきょろきょろと海上を見回してしまったあたりに、彼女の動揺がうかがえた。

 

勿論提督は海上にも後方にも居ないし、ただ単に彼女が反射的に動いたことに過ぎない。だが、彼女には歴戦の艦らしからぬ初々しさがある。

それが得も知れない可愛さがあるし、常に凛々しさを纏っている人間が慌てて中身の女性らしさを見せた時ほど面白いものもなかった。

 

『私はビスマルクの艦内だよ』

 

「あ、その……いえ、わかっては、います。はい」

 

『まあ、敵も味方も侮るなかれ、だ。勝つにしても負けるにしても、侮った状態で勝ち負けの結果を得るのは良くはない』

 

矢矧から緊張が消え、阿賀野型らしいトランジスタグラマーな身体から無駄な緊張感が排されて鋭気が満ちる。彼女特有の張り詰めたような気は、戦争において武器にもなるが弱点にもなっていた。

久しぶりにビスマルクの指揮下に入ることに気張っている矢矧では、このおそらく長期的な戦闘になるであろう海戦の途中で鋭気が切れるかもわからない。

 

鋭気を以て短期の内に敵を潰走せしめるのも大事だが、この戦いにおいてはそれは適わないだろう。

 

『頑張ってくれ』

 

「はいっ」

 

相変わらずの気張りっぷりに提督は少し頭を掻いた。気張るのもいいが、この張り切りは頼もしいにせよわずかに危うい。

加賀の指揮下にいれる以外は、目から離さない方がいいのかもしれなかった。

 

「敵左翼部隊所属の艦載機隊、突入してきます!」

 

「震電改を出撃させなさい。制空権を確保しなければ戦いにもならないわ」

 

練度の低い空母艦娘に所属する搭乗員では同じ機種である敵戦と味方艦戦を見て叩き落とされる前に一瞬で区別することなどできはしないが、流石に飛鷹・隼鷹の両軽空母の艦載機は違っていた。

そもそも震電系統は比島鎮守府の独占機体であるために機種が違うと言うこともあるが、その戦いぶりには安定した物がある。

 

「敵艦戦、退いていきます。こちらの損失は二機、あちらは十三機。追撃しますか?」

 

「いや、隼鷹に半数の収容を任せ、飛鷹に同数の発艦を。終わったら役割を変えてもう一度」

 

ヒトガタに変わって収容されていく艦載機たちに、殆どタイムラグと言うものはない。

しかし、気をつけるに越したことはなかった。

 

一方、那須隆治退役中将の旗艦扶桑では。

 

「……やはり敵左翼部隊では制空権を確保するのは不可能か」

 

『ビスマルクも矢矧も、制空権の重要さを文字通り刻み込まれて艦娘となっていますから、これからも抜かりはないかと思います。こちらは防空に徹するべきではないでしょうか?』

 

「……それもそうだ。が、制空権を得られんとなると厳しい戦いになるだろう。

大和。戦況はどうだ?」

 

回線を左翼部隊に対抗させている指揮官である大和に繋ぎ、戦況を尋ねる。

回線が繋がったことからいきなり混戦の鉄火場であることは無いと思っていたが、一見したところ思ったよりも味方の被害が少なかった。

 

『至って平凡な砲戦が三十分に渡って続いています。しかし、やはり非凡です』

 

「どう非凡なのだ」

 

『敵は対砲撃用・対爆撃用のバリアを切って戦っています。つまり当たれば沈められますが、当たりません。大袈裟ではないものの小刻みに的確に動かれ、掠らせるどころか夾叉すらも出来ていないのが現状です』

 

「制空権を取れず、敵が矢矧ときたらそうだろうな。味方は?」

 

『それがあちらも掠らせるばかりで、何とも言えません。全体的は平凡ながら、局所的には非凡なのだと言えます』

 

那須隆治退役中将は、ちらりと視線を横に逃しながら思考に耽る。

三十分の凡戦が、攻めあぐねてのものであればいい。だが、到底そうであるとは思えなかった。

 

北条中将の戦術的な巧妙さは衰えたとも思えないし、知略の泉も枯れているとは断ぜない。

 

「油断はするな。バリアが長持ちして装甲の厚い戦艦を前に出し、じっくりと攻めていけ」

 

『はい』

 

そう彼女が返した瞬間に、大和と視界を共有させていたスクリーンに鈍色の白煙の弧を描いた流星の群が降り、一気に爆音と焔に覆われる。

 

耳を戦闘機の飛翔音の如き甲高い音が支配し、慌てたような扶桑の顔が視界に入った。

 

「どうした!」

 

『敵艦隊は左翼部隊の先頭にあった戦艦二隻に砲撃を集中。重巡洋艦四隻の砲門四十門と戦艦の主砲八門の計四十八門から放たれた砲弾が全弾流星の如く着弾し、対砲バリアも装甲も粉微塵に粉砕された模様です』

 

聴覚の回復した彼の耳朶を打ったのは、殆ど信じ難い難易度を誇る曲芸と、それによる被害の甚大さだった。

 

「……轟沈か」

 

『大破です。尤も、機関部も砲塔もその機能がありませんから駆逐艦による曳航が必要不可欠ですが』

 

「曳航させろ。見捨てる訳にはいかん」

 

ただの一度の斉射で、戦艦二隻と駆逐艦二隻が失われる。

一個艦隊の三分の一、左翼部隊の九分の一が失われたことに、彼は渋面を浮かべることを禁じ得なかった。

 

『敵艦隊、微速で整然と退いていきます。既に射程距離を脱されました』

 

「追撃はするなよ。確実に罠がある」

 

『……了解しています』

 

大和の悔しそうな表情が示すように、これは完全にしてやられた形になる。

しかし、一気に攻められたら確実に打撃を与えられるであろう局面で微速で整然と退かれては、罠があるとしか考えられなかった。

 

が、実際はそんなものはない。三十分の凡戦で敵艦隊の移動パターンを読み、射角を調整し、隊列をそれ専用に整えて成功した曲芸ことピンポイント砲撃はそう何回も繰り返せるものではないし、突入して燃料と弾薬を浪費するわけにもいかないと言うのが、実際のところである。

 

何せ、まだまだ三つに割けられた一部隊の内の三分の一と戦っているだけなのだから。

 

『効果は大、と言ったところか。牽制にも使えるし、有り難いよ』

 

「……些か以上に、晴れがましく思います」

 

僅かな混乱に乗じてか、味方の散発的な砲撃も夾叉に持ち込めていたりと目覚ましい。

彼女の統制の下に放たれた一撃はただの一撃であることには変わりないが、戦術的な活性を産む一撃であることは確実だった。

 

「提督、私にはまだ余裕が有ります。混乱に乗じて再度進み、ピンポイントにもう一度砲火を集中しましょう」

 

褒められたことに気負ったのか、矢矧が語気を上げて次なるピンポイント砲撃を求める。

提督が座標を伝えて射角を調整し、矢矧が動かす。謂わば共同作業であるが故に、このピンポイント砲撃は一層曲芸めいていた。

 

提督に、この更なるピンポイント砲撃に対して異存はない。

しかし、あまり切り札は使いすぎるものではないという認識が、ある。

 

それに、ビスマルクがちらりと目配せしてきているあたり、何があるのだ。

 

『いや、序盤戦では一射で充分じゃないかな?』

 

「そう、ですか……」

 

『終盤にかけての決定力を得る為に、あれはとっておこうじゃないか』

 

しょぼーん、と言う擬音が似合う感じに萎んでしまった矢矧を励まし、『それでいい』とでも言うような顔をしているビスマルクに目配せする。

 

『ビスマルク、先程の微速後進の如く好きなように』

 

「Ihr Vergnügen」

 

ビスマルクに一任するとの声を掛け、一先ず提督は黙った。その後を引き継ぐような形で、彼女は前進させるべく指示を出した。

 

「震電改に爆撃機と雷撃機を含んだ三編隊を構成。駆逐艦は敵戦艦に二隻一組で肉薄、攻撃に当たること」

 

嘗て十八番とも言えた戦法に、これまで回避するくらいしか出番のなかった駆逐艦の意気が大いに上がる。

 

『ビスマルク』

 

「何かしら?」

 

『善く戦っているな。敵も、味方も』

 

慚減戦法の集中した右翼では、やはりと言うべきか敵が優勢。制空権も拮抗に近いが、押し切られることも考えられる。

中央部では、大本営直属の三艦隊が砲弾と魚雷、航空機の三種を活かして攻めまくっていた。

左翼部隊は、僅かに押しているのか、負けているのか。

 

「まあ、誰だって負けたくはないでしょう?」

 

『それはそうだ』

 

艦載機に意識のリソースを割かれている間に肉薄し、複数で取り囲んで大威力の魚雷で戦闘不能に追い込む。

駆逐艦の対処に注力すれば、頭上から爆弾が降ってくる。

 

ビスマルクと妙高型重巡洋艦による援護射撃も馬鹿にならず、じわじわと戦闘不能の艦が増えていた。

 

「機関部を破壊しなさい。敵戦力を潰して残り士気を上げるより、ご退場願った方が効率的よ」



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三十七話

右翼方面は、押されているままにその『劣勢』を維持していた。

無論劣勢が続いてもよいこととは言えないが、潰走をはじめていない辺りはまだマシである。

何せ、パターン化された戦術・運動能力しか持たない、意思を一人に委ねられた二十四の艦艇と十二の決断力と柔軟な思考を持っている艦艇が足掻いているだけなのだ。

 

だからこそ、敵の戦力が集中している。

ここで、劣勢を維持できるのは大したものだと言えた。

 

中央部は現在、戦場に立つことで活発になった戦闘意欲を敵にぶつけ、新造正規空母たちを基幹とした機動部隊を後衛に、戦艦を基幹とした水上打撃部隊を敵に向かわせてこれに対処。ビスマルクや矢矧の予想よりも遥かに組織的且つ効率的に戦っていたのである。

 

攻めたり守ったりを繰り返すのではなく、敵旗艦に突っ込むように性急な攻めを掛けようとしているのが、僅かに心配の種ではあったが。

 

そして、左翼。

 

ここでは、轟沈艦よりも退避した艦が多いという異常事態が発生していた。

戦意の鈍い二個艦隊を側面の盾にし、時計の秒針を狂いなく手動で動かしていくような精密極まりない艦隊運動で火力を集中。

 

限られた物から最上の結果を叩き出さざるを得なかった敵の守りを貫く錐部隊の本領発揮である。

 

「そろそろ攻勢限界点に達します。どうしますか?」

 

「壁を作るように一斉砲火。艦載機で敵の足を止め、駆逐艦を収容」

 

現場において最も要求される『決断の速さ』を完璧に満たしながら、ビスマルクは矢矧に指示を下した。

矢矧が全艦にどう動くかを伝え、目標となる座標を伝える。

 

敵艦隊の猛烈な砲撃を紙一重としか言えない無駄のない小刻みな回避運動で避けながら、駆逐艦が敵艦隊を重巡洋艦の主砲の射程内へと引き寄せた。

 

向こうはビスマルク以外後方支援射撃のかなわない射程外に出て安心していたようだが、引き寄せられてはどうしようもない。

 

「Feuer!」

 

長射程の三十八センチ連装砲が唸りを上げ、水柱が敵の視界を塞ぐ。

それは予測の範疇だと言わんばかりに動じず、駆逐艦たちを仕留めに来る敵艦隊を一息遅れて降り注いだ 二十,三センチ(三号)連装砲から放たれた弾が直撃した。

 

敵は攻勢の臨界点にある。そう判断したからこその、謂わば見極める目があるだけ引っ掛かってしまったというあんまりな事態に、大和は素早く艦隊を退かせた。

空には、爆撃機と雷撃機が悠々と飛翔している。

 

制空権を握られた末に釣りに引っ掛かり、更には撃ち崩された陣形のままでいつの間にやら密集体型によって砲弾の雨を降らす準備を整えた敵に突っ込んでは今度こそ轟沈者がでるだろう。

 

「……それにしても、あれだけ掻き回してまだ整然と陣形を整え直すとは尋常ではありませんね」

 

『敵さんも、君だけには言われたくないだろうね』

 

矢矧の陣形構築と艦隊運動こそ、尋常ではない。誰もが彼女の賞賛の言葉に同じような感情を抱き、心の内でぼそりと呟いた。

実際に口に出したのは彼だけだが、その言葉に首を横に振ったり疑問を示す者は皆無といってよい。

 

「あとは、ヤマト、型?」

 

「はい。あれは恐らく大和です。確証はないけれど、そんな気がするの」

 

矢矧の艦歴は進水の遅さもあって後半の戦いから、つまり敗色が濃厚となった時期に生まれ、戦い、死んでいる。

後半の大規模作戦の殆どに参戦し、常に勇戦してきた彼女は、最期の戦いとなる菊水特攻作戦で大和に次ぐ大型艦であったため圧倒的多数のアメリカ軍を相手にすることになった。

 

最終的に合計魚雷六、七本・爆弾十、十一発を被弾。大和に先んずること十二分、姉妹艦と比べても異様に長く戦闘を継続した矢矧は二年と少しの生涯を終えたのである。

 

『顔馴染みか』

 

「はい。ですが、戦うからには全力でやります」

 

提督の語気に漂う心配そうな、彼女の身を慮るような言葉を自身を持って断ち切った。『矢矧』と、自分は違う。艦名を受け継ぎ、戦歴も確かに記憶にあるが、違うのだ。

 

そんな矢矧の気持ちを知ってか知らずか、提督は軽く軍帽を目深に引く。

顔馴染みで、かつてはともに戦った艦と、砲火を交える。彼女たちがそれに関してどういった気持ちを抱いているのかはわからないが、彼は己の業の深さを再確認した。

 

私欲だか大義だか何だかは知らないが、このようなことをみだりに起こすわけにはいかない。同士討ちなどは、この世で最も忌むべき行為でしかないのだから。

だがしかし、それが彼女らの生命に関わりのあることだったならば、どうか。

 

彼女らに自分たちのために立ってくれと言われたならば、どうか。

 

自分の身に危険が迫ろうが、それはまあ仕方がない。死にたくはないが、仕方がない。だが、彼女等はどうか。

上の人々が他者に無欲な献身を強制するのは勝手だが、押し付けられる方はたまったものではないのではないか。

 

提督の思考がしきりに勧められている反乱という事象に対して思考を巡らせているさなか、ビスマルクまでもが『お前が言うな』と言われるであろう台詞を吐いていた。

 

「まあ、とにかく。あのヤマトは強いのね。硬いし火力もあるしで、散々だわ」

 

「ビスマルク。大和も貴女にだけは言われたくないと思います」

 

「そうかしら?」

 

軽く頭を傾げ、思考を切り換え終えたビスマルクは帽子の鍔にさらりと手をやる。

大和の硬さと、敵艦隊の運動の巧さ。これら二つに加え、敵全体の練度の高さと予備戦力の豊富さ。計四個の敵の優秀な点が、自艦隊の進撃を阻んでいた。

 

このまま戦力の消耗がなく、集中力が続けばいずれは突破できるだろう。だがしかし、戦力も集中力も消耗していくし、矢矧の『時計の秒針を手動で刻むような』艦隊運動の巧妙さもその高水準が失われることは疑う余地もなかった。

 

「味方艦隊より入電です。『我の側面部を援護されることを望む』。どうなさいますか?」

 

「……なるほど」

 

左翼方面の戦いを戦意の寡少な第六・第七艦隊に任せ、もっとも勢いのある第八艦隊を攻勢を強めている中央部の援護に向かわせる。

中央部へ精鋭部隊を錐のように集中させ、一息に敵艦隊中央部を突破。無理矢理ぶち抜いて敵旗艦扶桑を轟沈さしめ、指揮系統をズタズタに引き裂いてしまおうというのが大体の作戦計画だった。

 

特に巧緻さがあるわけではない至ってシンプルな作戦なだけに、ビスマルクは余計な制約を負って戦わずに済む。色々と条件を付けられる方が、却ってその破壊力を削いでしまう。

 

「別に馬鹿にしていたわけではありませんが、大本営はもっと小煩いものだと思ってました」

 

『現場にいるときはそこそこ大らかなんだよ。役所に入ると政治家になってしまうけどね』

 

そもそも、今の大本営は艦娘が出てくる前の絶望的な戦況下で殆ど全滅した海軍の旧エリートの生き残りが占めている。平時の予算取りと政府への献金などのお役所勤めの為に小細工と力の平行性を好む傾向にあった。

 

故に『自分の描いた戦いの邪魔をされない為に』戦う前にこまごま口を出してきたり提案を一蹴したりするが、戦いに入ったならばそこそこ物分かりがよくなる。

あくまでも、自分が主導権を握っている間は、だが。

 

「私は拒む理由はないと思うけど、矢矧はどうなの?」

 

「同意します」

 

「いいんじゃない?」

 

副官とでも言うべき矢矧の同意と先鋒大将というべき足柄の同意を受け、ビスマルクは第六・第七艦隊に左翼を任せるとの電信を送った。

反応は芳しくなかったものの、一応の行動は示してくれたあたりもたせてくれはするだろう。動きの鈍さからどうにも信用はならないし、士気の低い軍隊が勝ったためしは無いということを考えれば頼りにもならないが、任せないことには動けもしない。

 

「Admiral。貴方は?」

 

『私はとうに前から戦術的判断は君に一任しているよ』

 

ビスマルクは、即断した。

 

敵左翼部隊と行っていた砲撃戦を取りやめ、砲門を閉じて迅速に後退。のろのろと出てくる第七艦隊にスイッチし、得意の紡錘陣形を以て前面に火力を集中。

押し込まれつつある敵艦隊中央部を樵が大木に切り込みを入れていくかの如き確実さで砲弾を叩きつけていく。

 

「第一艦隊に道を開いてやりなさい」

 

貴族的なプライドの高さと、騎士的な忠実さ。双方の美点を合わせたような彼女らしい号令が、黒煙と緋に彩られた戦場の空気を切り裂いた。

 

「Feuer!」

 

ピンポイント。敵の戦列を構成する為に必要不可欠な一戦隊に火力を集中し、その悉くを大破に追い込む。

本来ならばこの間隙を突いて乗り崩し、火力集中と欠損部分を起点にした半包囲で壊滅さしめるところだが、今それをやろうとすれば第一艦隊と隊列が入り混じることになるし、『手柄を奪った』という汚名を着せられかねない。

 

ここは、何もしない。というより、紡錘陣形の先端を敵側面に向け続けることこそが大本営の望むことだろうという予想が、彼女にはあった。

 

「次発装填、急ぎなさい」

 

獅子の勇敢さと、鷹の知恵。狼の如き俊敏さ。

敵に怯まない自信と、それに見合う実力。牙を必要以上に見せない賢さと、機を逃さない決断の速さ。

 

殆ど理想的な前線指揮官である彼女は、そこそこの配慮も施すことができるのである。

 

「全艦、突撃!」

 

複縦陣の丁度中央で指揮を執っている大淀の命令が隅々まで行き渡り、綺麗な艦列を維持したまま第一艦隊は前進した。

ピンポイント砲撃の威力とその技術的な難度に一時魅せられていたものの、そこに含まれた好意を見逃さないほど盲目でもない。

 

「敵艦隊を打ち崩します。砲火を敵旗艦に集中して下さい」

 

扶桑。改二と呼ばれる一種の到達点に達した初めての艦娘に、第一艦隊の砲火が集中する。

旗艦に砲火が集中することが日常茶飯事な第八艦隊とは違い、敵艦隊の旗艦は中央部に位置していた。大淀もそうだが、これはむしろ先頭に立って被弾上等な戦いをする方がおかしいのであって決して臆病ということではない。

 

本来撃沈されてはならない艦というのは、中央部で味方を盾にしつつ戦う。戦艦であれば味方の頭を越えて砲撃を行ってもいいし、航空母艦であれば艦載機を以て敵艦載機と戦わせたりしてもよい。軽巡であれば対空戦闘の士気を執ったりと、様々なことが中央部ではできる。

陣頭指揮というのは色々と大変且つ不便なところがあった。利点と言えば、視界が広がることと常に現状を見て判断を下せることであろう。

 

「ビスマルク。被弾状況は大丈夫なの?」

 

「三十二発。それがどうかした?」

 

そしらぬような顔で砲撃を放ち、砲弾を敵に喰らわせるとともに向かってきた砲弾を弾く。

極めて困難なことをなしながらも平然と会話できる辺りに、彼女の異常な強さが伺えた。旗艦というには戦闘的過ぎるが、その資格が充分にある。

 

『そろそろかな』

 

提督のつぶやきが、不吉な空気を纏っていた。



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三十八話

「Admiral、何がそろそろなの?」

 

『それは、この戦場の帰趨が決するのが、だよ』

 

味方中央部を構成する第一(大本営)・第二(大本営)・第三(大本営)艦隊がぐいぐいと押していき、それに第九(一条)艦隊が続く。

左翼から来援した第八(北条)艦隊が敵中央部側面へ砲火を叩き込んで中央部の突撃を助け、第八(北条)艦隊が抜けた左翼は第六・第七艦隊が敵の減少した三個艦隊に圧されまくっていた。

 

右翼はじわじわと圧されて左翼と同じような地点まで―――と言うよりは、左翼が一息に右翼と同じような地点まで圧されているが、完全に潰走する前に敵旗艦・扶桑を撃沈すればこちらの勝ちであろう。

 

まあ両翼が完全に破壊され、包囲されたらほとんど負けが確定するが。

 

『こちらは戦術ホログラムを見てるからよくよくわかるが、両翼が完全に圧し込まれている。開戦から三時間、よく善戦してくれたと言えるが、こちらは包囲されかけだ。どれだけ善戦しようとも、素直に褒めるという訳にはいかないな』

 

「どうすればいいかしら?」

 

『咬まれた手を守るには手を引くでなく手を喉元に突っ込むべし。敵の左右両翼をあぎととすれば、中央部が喉だ。思いっきり突っ込んで吐かせてやればいい、が』

 

戦略的な見地を得やすいハードと、趣味である加賀との戦場シュミレーションで得た経験。

現場に於いて最良の指揮官である彼女には大局はわからないが、提督ならばそこそこわかるであろうという期待に、提督は可能な限り頭を使うことで応えた。

 

『手首を切り落とされてはどうにもならない』

 

「……後方に回り込む部隊が居る?」

 

『その通り。まあ、受け売りだけどね』

 

加賀が無表情且つ眼鏡と言うスパルタ先生風衣装で指し棒とホログラムを使用して戦略講座をしてくれたお陰もあり、提督もそこそこの戦略を知っている。

迂回部隊が居ると、この時点のホログラムを見ればわかるかもしれないが、加賀のように何も戦況が動かない内から予想することは不可能だった。

 

「……第九(一条)艦隊に連絡を取らないの?」

 

『取った。が、彼が対応しても退路を絶たれることには変わりないし、邀撃しても勝てる練度であるとは限らないからね。過大に期待しないとなると、時間稼ぎがいいところだろう』

 

最後衛に回されたということになると、練度が低いということになる。

練度が低いと言うことは経験も浅いということになるし、その戦力で敵艦隊の別働隊に勝てるとは思えない。

 

勝利の鍵を握る別働隊には当然原則として精強な艦隊が割り当てられるべきだし、何よりも那須隆治退役中将の元で有名をほしいままにした山城の姿が見えなかった。

 

「なら、私は前に進むことだけ考えればいい、ということ?」

 

『そうだね』

 

極めて単純に思考を切り替えたビスマルクの問いに答えつつ、提督は静かに瞼を閉じる。

 

索敵開始。

地形が、海抜が、魚が。艦艇が。

 

一度発動すればその全てが彼の異能たる索敵の網を逃れることは敵わない。

 

まあ、艦娘なのか深海棲艦なのかはわからないが、艦種や強さくらいならばわかる。

 

『……こいつは拙いな』

 

「今度は何が起こったの?」

 

『後方に回り込んでいるのとは違う、六隻からなる半個艦隊が大湊に移動した大本営に向かっている。編成は空母四隻に重巡一隻、雷巡一隻ってとこかな』

 

無論、大湊にも四個艦隊が待機していた。故に六隻如き心配はいらないのだろうが、どうにも胸騒ぎがしてならない。

 

しかし、此処で無理に撤退しようとすれば大きな被害が出るし、間に合わないだろう。

これが深海棲艦か、帰投中の一艦隊か、それとも那須隆治退役中将の配下の艦娘か。

 

それがわからない以上、迂闊な手を打つわけにもいかなかった。

 

「練度は?」

 

『……九十代後半。全部、な』

 

妙に神妙な提督の声が、さらに危機感を煽る。

が、ビスマルクは編成と練度に疑問を抱いた。

 

山城の姿が見えないならば、彼女はどこに居るのか。いや、まだ提督に聞いていない後方に回り込んでいる艦隊に居るならばいい。

だが、練度が九十代後半というのはどうにも解せない。慢心ではないが、北条艦隊にしか練度九十代を超えた航空母艦は居ないはずである。

 

しかも、四隻。これはどう考えてもおかしい。

 

「その半個艦隊は深海棲艦、後ろに回り込んでいるのは那須隆治退役中将の別働隊、じゃないかしら」

 

『……ふーん、まあいいさ。どっちにしろやることは変わらない』

 

前を突破し、旗艦を轟沈さしめる。義はあちらにあるが、だからと言って負けて差し上げるわけにもいかなかった。

 

『敵中央部F7地点に砲撃を集中。なるべく正確に、効率的にだ』

 

「そこが一番脆いのかしら?」

 

『そうだ。少なくともそう見えるだろう?』

 

「確かに」

 

損傷艦と小型艦が多い。しかも、後続の一艦隊との紐帯となっている。

先のピンポイント砲撃で切られた紐帯を結び直したのは見事だが、それが更に粗を生んでいた。

 

「全艦砲撃用意、F7地点」

 

「暁は一番主砲の射角を十度、右に五度回頭。雷は二番主砲の射角を七度調整して九度回頭、足柄は出過ぎ。G4地点まで下がりなさい」

 

その後も滔々と続く指示と電信を受け、艦隊がさらさらと綻びを糺す。敵からすれば、やっとのことで生じさせられた綻びが数分足らずで補修されたわけである。

それにかかった計算は馬鹿にならないが、それで生ずる鉄壁さも馬鹿にはならない。

 

「今のところは波は凪いでいるからいいけれど、波が荒れ始めたら射角は各自調整。流れに沿って回頭指示を下します」

 

一斉攻撃と目標の変更の度に、一々こんなことをしている矢矧の苦労と疲労は押して知れた。

 

軽くこめかみに指を当てながら自らも主砲の射角をこまめに調整し、矢矧はその後もこまごま指示を下す。

遠いならば電信、近いければ口。判断・計算・打ち込みの速さの三種が揃った彼女に砲撃の恐ろしいまでの命中率は非常に大きなところを依存していた。

 

「攻撃体制、完了しました」

 

三分足らずで艦隊の再編成と目標に対して命中させるような―――即ち敵艦隊の数分後の位置に当たるような射角と艦の位置の修正を終え、矢矧は遂に口を噤む。

喋り疲れたとも言えるし、体力が払底し始めたとも言えるだろう。

 

だがそれは、非常に無理からぬことだった。

 

「撃ち崩しなさい!」

 

彼女の苦労を重々承知しているビスマルクは、適切なタイミングを見極めて斉射の指示を下す。

射程と、敵の意識の緩急。無闇やたらにしかけても勝てないし、数を撃ち込めば勝てるわけでもない。

 

「Feuer!」

 

戦局の停滞を切り裂くような鋭利な声が砲弾の雨となって降り注ぎ、八割が敵の艤装とバリアを叩いた。

 

叩いたと言っても、最早そんな生やさしい状況ではない。あるものは艤装を砕き、バリアごと艤装を抉る。

発射から着弾にかかるラグと、前方の第一艦隊からの砲火が収まり、油断するタイミングが物の見事に組み合ったからこその大戦果だった。

 

「次発装填。各自着弾観測射撃で撃ち減らした敵を確実に仕留め、敵艦隊の腹に楔を打ち込むのよ」

 

最早機関部やなにやらを狙い、曳航させて戦力を減らすような遠大な戦術を取っているわけにはいかない。一刻も早く敵艦隊の艦列を乱したのちに楔を打ち込み、そこから敵旗艦を狙って降伏さしめるしか勝筋がないのである。

 

「旗艦には砲撃を集中せず、随伴艦を確実に打ち減らすの」

 

「何故旗艦を狙わないの?」

 

「矢矧、貴女はAdmiralが戦場で討たれたらやすやすと降伏の道を選ぶのかしら?」

 

矢矧は、一瞬で納得したような風を見せて一つ静かに頷いた。

少なくともその場で即座に降伏はしない。殺した相手をむりやりにでも道連れにし、生き残れても鎮守府に帰って殉死がいいところだろう。

 

ビスマルクや木曾辺りも殉死タイプだが、加賀や鈴谷は叛逆タイプか。どちらにせよ、やられるのは極めて厄介だった。

 

「殺したらこちらが危ない、と?」

 

「そう。そして、大本営直轄の三個艦隊はそれを理解していない。当たり前なことだけれど、彼たちは制度に従っているのだから」

 

国という枠組みに従っている大本営に従っている。

つまり、大本営の首がすげ変わろうとなんら暴動や叛乱を起こすことはないし、死んでも『ご愁傷様です』くらいなものだった。

 

だからこそ、彼女たちにはわからない。個人に忠誠を誓っている者を相手にする時の厄介さが。

 

「私たちは、『人と艦娘の共存』という理想を体現してくれた彼に忠誠を誓っている。制度や理念、理想に忠誠を誓っている訳ではないわ。だからこそ、見えるものもあるし見えないものある」

 

「なるほど」

 

つまり、扶桑を轟沈させてはならない。敵もまた、ビスマルクを轟沈させてはならない。

 

程々に削り、あと一撃に追い込んで『お前が死ぬのはいい。彼女を道連れにするのか?』という形で退却或いは降伏に追い込む。これが死兵を作り出さないための、迂遠ながら犠牲の少ない方法だった。

 

「勝つ気は、あるの?」

 

「負けたくは、ないわね。敵が誰であれ、負けは楽しいものではないもの。

それに、まだまだ弾薬も、燃料もある。時間はないけど、尽きたわけではない。味方も小破すらしていないのだから、全力を尽くせば勝てる。そうでしょう?」

 

『勝ち目を絞られ、負けの目が濃いがそれでも勝つ気はあるか』

 

そう問うた矢矧に一寸の迷いもなく勝ち気そのものな答えを返し、ビスマルクは不敵に笑う。

完全包囲までの僅かな時間に活路を見出した第八艦隊の、猛反撃が幕を開けた。



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三十九話

ビスマルクを先頭に、足柄を次鋒にした猛攻は、味方中央部の援護―――もとい主攻も有り、概ねうまく運んでいた。

 

「残り燃料は三割、弾薬も三割。全部叩きつければ勝てなくもない、かしら?」

 

「目前の艦を追い込めばいいのだから、勝てなくもないはずだけど……」

 

矢矧はちらりと後方を振り返り、軽く首を振って視線を戻す。

自分たちが今更後方に向かい、繞回・包囲してくる敵部隊を防ぐわけにもいかない。

 

進むしかないが、進み続けるには後方に不安が残っていた。

 

そんな不安とは裏腹に、統一された砲撃指揮は敵艦隊を斜めに切り裂き、更にそこから傷口を広げつつある。

ビスマルクたち第八艦隊は、多少心中に不安からなる迷いという蟠りを抱えていても何とかなる程度の練度と技能を持っていた。

 

駆逐艦の雷撃を中軸に据えた近接戦闘と、艦載機による精密爆撃。

それによってもたらされたは、この艦隊一の長射程を誇るビスマルクの主砲が遂に一旦後退した敵旗艦たる扶桑の姿を捉える。

 

提督が声を上げたのは、その時だった。

 

『無線を傍受した。大本営直属艦隊が退く、らしい』

 

「どういうこと?」

 

『さあ。我々をここで捨て石にするかで大淀と大本営では相当やりあっているみたいだけど、何かがあったんじゃない?』

 

無線、索敵、敵弾の予測。

 

艦娘の性能を向上させる異能が主な提督において、唯一と言っていい自己完結の異能を持っている提督は、基本的に自分から電波を拾ったり索敵をしたりと忙しい。

 

今回も、その行動の最中で偶然拾ったものらしかった。

 

「捨て石って……腐ってるわね」

 

戦線維持と艦隊行動の円滑化に腐心していた矢矧は、舌打ちと共に大本営の行動を嘆く。

吐き捨てるように言っただけな為、外部に回線を繋げていた提督と隣に居たビスマルクにしか聴こえていないのは幸いだった。

 

回線に乗せてしまったいたら、確実に士気が下がっていただろう。

 

『そう言いなさんな、矢矧さん。俺もまあ、自分の艦隊と他人の艦隊だったら迷わず自分の艦隊を選んじゃうような人間なんだしさ』

 

個人回線を矢矧に繋ぎ、提督は『誰でもそうだよ』という論法で説き伏せにかかった。

軍閥化を厭われている現状、不満を溶かしていかねば割と取り返しがつかないことになる。

 

そのくらいの政治的センスは、彼にもあった。

 

「……すみません。軽率でした」

 

『うん。で、ビスマルク。打開策は?』

 

「敵の戦略的な行動は、後方に回っての包囲殲滅、よね?」

 

『じゃないかな。よくわからないけども』

 

加賀に『当たり前のように勝ち、当たり前のように敗ける』と評された提督の戦術眼などは大したものではなく、経験でしかない。

それを自覚しているからこそ、正規教育を受けている艦娘に任せているようなところがあるのであろう。

 

「なら、後方に回ってくる艦隊は大本営の三個艦隊に任せ、我々は前進。敵を食い止めつつ追撃を絶ち、後は退くことにするわ」

 

『わかった。だけど、大本営が戦うかな?』

 

「敵は、何に対して反乱を起こしたの?」

 

なるほど、と提督は頷いた。

反乱を起こした那須元提督は、所謂良識派。自分も所謂良識派。

 

彼もその辺りはわかっているだろう。だからこそ、その酷使の仕方すらも酷い大本営に対して反旗を翻したのだ。

 

『未来の味方となり得る勢力には、恩を売りたい。だが、おおっぴらに売ってはこちらの首が危うい。程々に戦って、退いてくれるわけか』

 

「Genau」

 

その通り、と流暢なドイツ語で述べたビスマルクの提案を完全に理解し、提督は口を挟んだことを詫びつつ己の職分に戻った。

軍事的な玄人として育成された艦娘に余計な口を挟み、作戦を歪な物にして敗死してしまった同僚の、なんと多いことか。

 

自分のやれる範囲だけをやる、というのは彼の習性にすらなっていた。

 

「では、敵の頭を抑えるわよ」

 

「了解」

 

血気盛んに戦い続けていた足柄も、無線でのすったもんだの末に『これからのより激しい戦闘の為に』と受け入れる。

 

攻撃態勢から横への移動態勢へと、矢矧の手によって素早く姿を変えた艦隊は、散発的に来る敵弾を整然と避けながら敵の頭に出る事に成功していた。

 

『入電』

 

「あら、クリスマスパーティーの招待状でも届いた?」

 

苦戦と言っていい戦のさなかだからこそ、と言わんばかりに余裕の笑みを見せつける彼女に、提督は苦笑しつつその冗談を返した。

 

『残念ながら、今年は身内だけでだよ、ビスマルク。無線はまあ、退くから殿はよろしく、と言った体のものさ』

 

自分たちが殿を務めることを全艦に行き渡らせるべく、移動中の第八艦隊(北条)に所属する艦娘全員に回線が繋がれる。

 

誰もがもはや返す言葉も見つからず、或いは返す気すら失せていく中、隼鷹がお気楽そうな体を崩さずにポツリとこぼした。

 

「飛鷹、今まで無断で置いていかれたことを考えれば、これは大きな一歩だと思わない?」

 

当然ながら、提督の艦隊には割りと地獄を見てきた面子が多い。

それを逆手に取ったポジティブシンキングには笑うしかなく、暫くの間回線は含み笑いで満ちた。

 

笑うしかない、と言うマイナスの感情よりも、隼鷹のおどけたような口調に負の感情がほだされたという艦娘が多い。元来、彼女等は性善説の住人なのである。

 

「そうね、隼鷹」

 

少しムッとしていた飛鷹も、他の艦娘も笑顔になったところで、ビスマルクが矢矧に目配せした。

 

この時、矢矧は士気回復のために意識的に統一速度を低下させている。

その低下分を、ビスマルクの目配せで元に戻した。

 

もうやるべきことはやり切り、あとは殿を務めるだけだと言う自覚がある。

 

「さあ、進歩を見せてくれた大本営が持つ艦隊を救ってやりましょうか」

 

白磁の肌。

そう形容して何ら問題のない肌を見せながら、ビスマルクはスッと手を掲げた。

 

「全艦突撃!」

 

退きはじめた大本営艦隊の後部に喰い付こうとしていた敵艦を一斉射撃で怯ませ、そのまま敵艦隊の頭を抑える。

 

頭を無理矢理に抑えつけ、那須艦隊の前進を阻んでいる形になっているが故に、ビスマルクへ降り注ぐ砲火は尋常なものではない。

 

まだ穴開きだらけの戦線を支え続けていた南部・一条の両艦隊に撤退することを、提督は勧めた。

と言うよりも、全体の兵力の殆どが大本営の三個艦隊が離脱してしまったが為に逃げている。

 

もはや、勝ち目は無かった。

 

『本艦は味方の最後衛に付き、一条・南部両艦隊の撤退を掩護する。ビスマルク、付き合ってくれるかい?』

 

「当たり前、よ。あなたはそういう人だもの」

 

最後衛と言っては安全そうだが、実質最前線である。

それだけに、降り注ぐ砲火も熾烈を極めた。

 

『ビスマルク。砲撃が来るぞ。十一時方向。右舷方向に回避することを勧める』

 

「人気者は辛いわね」

 

『全くだ』

 

バリアと言うべき防御装甲を削られることなく完全に回避することに成功し、ビスマルクはボソリと感想を述べた。

凄まじい数の砲弾が、彼女には降り注いでいる。

 

『あ、右舷から雷撃。前進して対処。その後は左舷方向からの砲撃が予想されるから、バリアを厚くしておいてくれ』

 

「了解。情報は共有させた?」

 

『勿論』

 

ビスマルクが避けて、後続にあたっては元も子もない。

その辺りを共有させ、全艦を統率するのは矢矧の役目である。

 

「今のは、事前にわかっていなければ雷撃に対処するのは難しかったわ。ありがとう」

 

『いや、こちらこそ避けてくれてありがとう。って、また来るぞ。二時方向。左舷に避けてくれ』

 

ひょいひょいと避け、傷を防ぐ。

その様な曲芸じみた回避運動も、そう長くは保たないことは重々承知していた。

 

例によって例のごとく、提督は座乗艦共々己の命を艦娘の撤退の為に矢面に晒している。

 

ビスマルクもこの癖には慣れているだけに、『死ぬかも知れない』と思うよりも、『この人の元に帰ってきた』という感慨の方が先に来た。

 

『苦労をかける。本当に』

 

「苦労だと思っているなら、乗せてないわ」

 

『そうかね。君は優しいから、無理しているという可能性もあるんじゃないの?』

 

「怒るわよ。そういう指揮官を乗せて戦えるのは、私としては本望なの」

 

どう足掻こうが、自分は艦娘という存在を盾にして戦っていることに変わりはない。

エゴではないか、と思うこともある。というよりも、思わない方が珍しい。

 

それだけに、ビスマルクは自分の気持ちをストレートに表現し続けねばならなかった。

 

自慢の主砲の一斉射撃で敵戦艦と重巡二隻を大破に追い込み、ビスマルクはやっと一息つく。

殿の最後衛は、疲れる。回避に関しては提督がアシストしてくれているからまだまだバリアに余裕もあるが、本来ならばこうも避け続けることは難しい筈なのだ。

 

『疲れた?』

 

「Admiralは?」

 

『そりゃまあ、君には負けるけど疲れたよ』

 

異能を使うにも、体力が要る。

実際に砲撃や雷撃に直面し、指揮までこなしているビスマルクと仕事量は違えど、消耗は似たようなものだった。

 

敵の追撃の弱まりを感じながら回線を繋げて話しているビスマルクの元に、隼鷹からの回線が入る。

もう既にこの時点で嫌な予感しかしないが、楽観にかまけて現実を無視するわけにもいかない。

 

ビスマルクは、回線を繋いだ。

 

「あー、こいつはヤバイんじゃないかな」

 

「どうしたの?」

 

後方を中心にしているものの、全方向を警戒するべく艦載機を放っていた隼鷹が焦りの声を上げるということは、何かがあった。

 

提督がビスマルクに雨霰と降り注ぐ敵の攻撃の察知に全力を傾けている為に、仕事が増えた隼鷹は一時的に航空戦から離脱し、現在の空は飛鷹が一手に支えている。

 

ビスマルクのあくまで余裕、と言ったプライドが高そうな面持ちは、本心からのものではない。

あくまで指揮官としての仮面であり、旗艦としての仮面である。

 

迂闊に動揺や怯みを見せてはいけないと言うことを、この聡い艦娘は知っていた。

 

『後方で敵艦載機群を発見。新型だよ』

 

「新型、と言うことは深海棲艦?」

 

『それも、恐らくは姫級を含む二、三隻の空母機動部隊だろうね。こっちには来てないみたいだし、見つかってもかかってこられなかったけど……どうする?』

 

「隼鷹は偵察機で敵の確認を。矢矧は大本営直属艦隊の大淀に電信、『我、後方ニ敵深海棲艦ヲ発見セリ。編成ハ不明ナレド、空母三隻ハ確実ナリ』、と」

 

「了解」

 

恐らく敵の一艦隊が迂回しており、敵の艦載機群が本土目掛けて一直線に迫っている。

この状況下で戦える程、ビスマルクは無謀な決断を下すことはできなかった。

 

と言うよりも、大本営はその有能さでこれを掴んだからこそ己の艦隊を退かせたのではないか。本土が目的だった場合、到底間に合うとは思えないが。

 

「二連斉射して、徐々に後退。索敵を密にして横浜に寄港、補給を受けてから比島へ撤退……で、いい?」

 

『現場の指揮は君に任せてある。良い様に計らってくれ』

 

思ったより酷いものではない。少なくとも、自分たちにとっては。

 

怜悧な取捨選択を行いつつ、ビスマルクは艦隊を率いて殿の任を完遂させた。



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四十話

「あー、疲れた」

 

鎮守府に帰ってきた提督はゆっくりとした足取りで私室に入って着替え、倒れ込むようにベットにうつ伏せに身体を置いた。

疲労が、濃い。ビスマルクや矢矧などはもっとだろうが、それにしても疲れ切っている。

 

(……なんで布団が丸まってるんだ)

 

大きさを無視してこと形的にのみ見ればミノムシの蓑かなんかと見間違えるほどだし、敷布団の方にも掛け布団の方にもやけにいい匂いが香っていた。

 

加賀あたりが香木でも炊き込んでくれたのか。だが、それにしても何故ミノムシなのか。

疲れて思考の回らない自分の頭の鈍さに辟易しながら、提督はミノムシの蓑を引っペがす。

 

ポフン、と言う感じの擬音が立ったことにも気づかず、物凄く寝心地のいい温度になっている布団を身体にかけ、側にあった柔らかいのを引き寄せた。

抱き枕にちょうどいい柔らかさと硬さと、長さ。そして何より、布団に香る物よりもひときわいい匂いがする。

 

湿ったような、吸い付くような。だがさらりとした絹のような表面に、血が通った人間よりは少し温かい懐炉のような抱き心地。

張りのあるモノに挟まれるような、包まれるような、押し返すような何かに顔を突っ込み、思いっ切り抱き締めた。

 

物凄く、抱き心地が良い。この抱き枕を作った職人は人間国宝として称されるべきであろう。

 

そんなくだらないことを考えつつ、彼は目を閉じて眠りについた。

 

(……ぅ?)

 

三時間後の、マルサンマルマル。

低血圧な加賀は、まだまだ酩酊したような意識で目を覚ました。

 

目の前がぽわぽわと霞み、自分の胸部にある硬い感触が存在感を増す。

僅かな嫌悪感と共に押し退けようとした頭の髪の硬さにデジャヴを感じ、まだまだ思考の鈍い加賀は欠伸をしながらぼんやりと見下ろす。

 

「ていとく?」

 

自分の胸に突っ伏すような形で寝ている提督を抱き締め、ジットリとした眼がとろりと溶けた。

 

「貴方なら、いいわ……」

 

腕を後頭部に優しく回し、北半球が殆ど丸出しになった胸に提督を受け入れる。

断固とした抵抗をつづける瞼に屈し、加賀は同じ布団で寝ている疑問を感じないままに再び寝入った。

 

その寝顔はいつになくあどけない無垢なものであり、いつものジト目も閉じられている。

二十歳少しくらいの湿気た目をしたエロい身体付きのお姉さんとでも言う彼女は、一見すれば十代後半の乙女だとしか言えなかった。

 

そして、続いて提督も起きた。

 

「……加賀さんかぁ」

 

なら、柔らかいのも当然だ。何せ元々肉感的な身体なのに、それの最も柔らかな部位である胸に顔を埋めているのだから、至極当たり前だろう。

 

(……何で、加賀さんはこんなに可愛いんだろ)

 

湿気た目をしてるくせに、身体はエロい。そして、無防備。

いつか必ず男に何やらをされるだろうという確信を持ちながら、自分の中の恋慕と独占欲が荒れ狂うのを、彼は感じた。

 

加賀のことが好きだと思ったならば多々あったが、こんなにも明確に自分の物にしたいと思ったの初めてだった。

毬のように形の良い胸を、締めれば折れてしまいそうな腰を、柔らかさを感じさせる安産型の臀部を、白く穢れの知らない肌を、異様な美しさを。

 

その全てを、渡したくない。

 

「……加賀起きろ。よくないぞ」

 

「んぅ?」

 

組んだ脚の膝下にもっちりとした双球が乗っかり、太腿に加賀のとろけた寝顔が乗っかる。

飼い主に甘える仔犬のような可愛さがあり、それに不釣り合いな殺人的な色気がある。

そして、物凄く柔らかい。

 

「てぃ、とく?」

 

「うん。起きなさい」

 

「や」

 

「我侭を言うな」

 

我侭な身体で我侭をやられることほど、己の煩悩を刺激されることもない。今は彼女の異様な美しさが色気に勝っているから何とかなっているが、これ以上色気が増すとどうなるかわからない。

思わず真顔で丁寧語ではない言葉を吐いてしまった己に気づかず、提督はやりと加賀を無理矢理剥がそうとした。

 

「……なぜ、はなすの?」

 

「何でも何もない。頼むから離れてくれ」

 

「や」

 

「加賀」

 

「いや……」

 

最早崇拝に近い恋慕で興奮を防ぎ、駄々をこねる加賀から脚を抜く。

むっちりとした胸が脚に擦れることで、男として備わった本能を刺激していた。

 

「加賀さん、男にそういうことをするのはやめなさい」

 

「……ていとくなら、いいわ」

 

「ダメだ」

 

勘違いさせるようなセリフは吐かず、君の夫になる奴にやってやりなさい。

そう言おうとして、提督の胸がズキリと痛む。

 

こんなに可愛い加賀を、誰かが娶る時が来るのだ。

今無理矢理に手を出してしまってもおかしくはない。想いを遂げようとして一生がダメになっても、構わない。

 

だが、それは彼女を傷つけることになる。

 

(好きだ)

 

他の男に、彼女が抱かれる。そう考えるだけで気が狂うほど憎くなる。

 

彼女ことは、好きだ。好きだからこそ、憎い。憎くて憎くて、虐めたくなる。

 

だが、それはよくない。彼女はそう言うような対象ではない。

 

「……ていとく」

 

いつものジト目から、半眼よりもなお瞼の落ちた三日月へ。

肌の見えた寝間着を最後の気力と言わんばかりにのろのろとただした彼女は、バターン、と倒れ込むように彼の胸元に突っ込む。

その氷の美貌は、明確な甘えに入っていた。

 

「おかえりなさい」

 

ポツリと呟かれた中に無限の寂寥と忠犬めいた愛らしさを見出した彼は、思わずといったような風情で抱きしめる。

色っぽい鎖骨に加え、肩までもが激突時の衝撃で僅かに見えてしまっている彼女の美体を寝巻きである着物を定位置に戻して隠し、彼は再び軽く抱きしめた。

 

「ただいま」

 

また寝た加賀から、答えは返ってきはしない。

ただ、規則正しい寝息が服越しに胸板を擽るだけである。

 

可愛い。殺伐とした戦場から帰ってきたご褒美。

 

それが、この加賀の添い寝と寝顔なのかも知れなかった。

 

「……頑張ろう」

 

加賀の髪を軽く手で梳き、癖っ毛の跳ね具合を面白がりながら更に撫でる。

安堵したような、剣呑さが取れた子供っぽい寝顔。この寝顔を守る為ならば、たぶん自分はなんでも出来るのだ。

 

「……愛してるよ。本当に」

 

自分では絶対に釣り合わないし、好かれているとしても上司としか見られない。

彼はそんな現状の虚しさを察し、この恋慕が報われることを諦めている。

 

彼女が退役したならば、超絶美形で性格もいい男と結婚し、この国を守る為に戦っていたということを記憶のみに残して余生を過ごすだろう。

 

自分はこの平和を護ったのだ、作ったのだと。そう言いながら子供を抱く幸せな彼女の側に己がいなくとも、それでもいい。

 

(絶滅させることは、不可能だ)

 

自然に発生するポイントを全て潰すことは出来ないが、減らして一海域に押し込むことくらいならば出来る。

戦いは起こるだろう。だが、少なくとも彼女に戦火は及ばない。そんな時期があればいい。

 

「五年か、十年か……一時でもいいから、安息が欲しいものだな」

 

その後人がどうなるかは、後世の人々が決めるだろう。

自分は自分のできることをやり、少しでも平和への礎を築いていく。

 

柔らかくて温かな彼女の身体を離し、提督は手をそろそろと加賀に向けて伸ばした。

 

髪を結ばず、目を開けてもいない彼女の顔は、あどけない。

絹のようにさらりとした髪に、布団にぐるぐる巻になってなおわかる細い腰と、豊かな胸部装甲。

蓑虫巻きの隙間からちらりと見える白い大腿部は、思わず触れてみたくなるほどの、いかにも柔らかそうなものだった。

 

改めて言うまでもないが、側に居て恐ろしくなってくるほどの美人である。

 

「それにしても、無防備な……」

 

自分の身体が持つ破壊力、常の姿とのギャップが生み出す殲滅力。そこら辺を、彼女はわかっていないように思われた。

 

二度三度頭を撫で、その度に擦り寄ろうとする加賀を巧みに押し留めつつまた撫でる。

 

可愛い。そして、やはり自分はこの女が好きなのだ。

 

(……退役して、結婚。してくれないかな)

 

そうしたら諦めもつく。己の感情は見返りを求める恋慕ではなく、ただ好きだと言う偶像崇拝のようなものへと変質するだろう。

いや、もう既にそうなりつつあるのだが。

 

「君を好きで居ることくらいは、俺にも許される、かな」

 

それ以上は、決して許されない。

腕の中で息づく生命を愛おしげに抱きしめ、提督は痛む心を堪えて加賀を突き放す。

 

高嶺の、花なのだ。どんなに近くに居ても、加賀が自分のことを良い上司だと思っていてくれたとしても、決して手の届かない高嶺の花。

 

そんな彼女を一時的にとは言え、半ば手中に収めた提督は、ドキドキしながらその寝顔を見つめ続けた。



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四十一話

長く、しなやかな脚が自分の脚に絡んでいた。

ちょっと異常なまでに美しい顔が胸板に添えられ、静かな寝息が服越しに擽る。

 

肋骨辺りに弾力と柔軟さに富んだ二つの果実が押し付けられ、左手を加賀の白魚の指が掴んでいた。

 

ほとんど全方位が、柔らかい。そして、殺人的な程にいい匂いが自分の身体の周りを漂っている。

 

何度引き離しても別な形で、更に密着してくる加賀に諦めを抱きながら、提督は法華経を口ずさみながら必死に欲情を堪えていた。

 

「…………ん、ぅ」

 

やっと起きた。

結局何度引き離しても引っ付いてきて、その場を離れようとしたら袖をきゅっ、と掴まれるという苦行を終えて、提督は眠い瞼を擦って加賀を引き離そうとする。

 

起きているなら引き離せる。と言うより、加賀がこうもしつこく引っ付いて絡みついてくるのは、確実に自分を認識していないことが原因なのだから。

 

「…………起き抜けが、一番眠い」

 

何だかんだで乱れた服を糺しながら、加賀は左手でしっかりと提督の袖を掴んだままに右手でごしごしと眉を擦った。

何故左手に掴んでいる物を離さないのか、と言うことを問い質したい提督の思いは他所に、彼は加賀に眠たげな声で同意を返す。

 

「同意するよ。本当に」

 

「……?」

 

左を向き、加賀はいつも通りのジト目を大きく開いた。

自分が下敷きにしていたのは、寝不足気味の提督。

起きて直ぐ、それも側に居て、同じベットに寝ている。

 

「……ぇ、え?」

 

「最初に言っておくけど、俺は加賀さんに何もしてないから。つまり、綺麗なままだから安心しなさい」

 

「きれ……」

 

そこでようやく意識と記憶が接合されたのか、加賀は今言われていることの意味と、そこに至るまでの経緯をほぼ完璧に思い出し、悟った。

 

自分は寝る準備を済ませた上で鎮守府内の見回りをしていたら、提督の私室を通り過ぎたのである。

扉を開いて覗いてみた部屋の人気の無さが寂しくて寂しくて、提督の残り香が無きにしもあらずな布団に潜り込み、恐らくそのまま自分は寝た。

 

そして驚異的な運で以って今夜提督が帰ってきたのだろう。深夜に帰ってきた提督は何とか着替えて、ベットに殆ど倒れ込むようにして寝入ってしまったのではなかろうか。

 

だから、このようなことになっている。

 

不運でもあり幸運でもあるが、こうなってしまった。

 

「……提督」

 

「はい」

 

「本当にすみませんでした」

 

「あ、はい」

 

「今日の仕事は私がやっておきます。提督は一日掛けて体力を戻してください」

 

『やってしまった』と言う後悔からくる謎の威圧感を帯びた真摯な謝罪からの、有無を言わさぬ休養依頼。

 

それに思わず頷いてしまった提督は、珍しくニーソックスを履いていない生脚状態の加賀をボケー、と見送った。

 

そして、加賀。

 

彼女は提督の私室を出るや否や、ふらふらと揺れながら自室に帰り着き、鏡の前で髪を整えていた赤城を華麗にスルーして自分の布団に潜り込む。

 

心臓が爆発しそうな程に早鐘を打ち、顔から火が出そうなほど熱を持っている。そのみっともない感情を努めて表に出さないようにして提督の前を辞した加賀は、その反動だとでも言うかのように自室の布団の中で感情を爆発させていた。

 

(……尻の軽い女だと、思われたのではないかしら)

 

男の寝室に潜り込んで、その寝所で寝る。

恥じらいや慎みというものがない、男好きの女であるかのように、見られたのではないか。

 

提督の好みの女性像がわからない為、彼の好みが大和撫子的な女性像であろうと取り敢えず予想を立てていた加賀は泣きそうになり、それでも好きな男の人と紛いなりにも一夜を共に出来たことに対する嬉しさもあり、内面の悲嘆と歓喜の食い合いとで変なことになっていた。

 

「加賀さん、昨夜はお楽しみでしたか?」

 

「…………赤城さんは、提督が帰ってきたことを知っていたの?」

 

「午前零時に帰ってきたので、一応は」

 

午前零時に帰ってきた。

自分が寝たのは午後十一時くらいで、いつもの自分ならば午前一時くらいまで起きている。

赤城もそれを知っているし、よりによってこの日に、しかも他人の寝床で早寝してしまうなど想像もしていなかったのだろう。

 

「……えーと、提督が自室に行って二時間経っても加賀さんが帰ってこなかったので『そう』だと思ったんですが、違います?」

 

「…………」

 

深夜に男性が帰ってきた。

自室で好きな女性と鉢合わせになり、その好きな女性もその男性のことが好きである。

好きな女性は帰ってこなかった。このことから予想される情景は一つしかない。

 

それに対する沈黙に含まれた重さと後悔を、赤城は見逃さなかった。

 

「……え、もしかして、加賀さん寝てた、とかですか?」

 

「…………」

 

自分が想像した情景が起こらなかったとなると、加賀が即行で提督の寝床で寝ており、提督がそれに遠慮して床かソファーかで寝た、ということが考えられる。

 

「……一緒には、寝ました。たぶん」

 

「記憶は?」

 

「……ありません」

 

赤城がそのヘタレ可愛い答えから、ふと連想したのはつい数年前までのことだった。

提督という存在が持つモラルの平均値が今とは比べ物にならない程低く、その低さが普遍化していたあの時。

 

風評と上層部からの扱いによって人間というものが信じられなくなったこの鎮守府の艦娘たちは、基本的には何も悪いことをしていないはずの提督すら『人間だから』ということで一括にして警戒し、恐れ、決して寝姿などは見せなかった。

 

寝る時も二人か三人で眠り、決して熟睡はしない。

 

加賀は低血圧であり、朝に物凄く弱いことから、当時四人しかいなかった空母組の艦娘たちは加賀を囲むようにして寝た。

それほど彼の加賀に対する好意は隠そうとしても明白であり、他の三人にとっては阻害すべきものだったのである。

 

当時はその見目麗しさと戦争に対する絶望感や、真反対ながら勝利による高揚、適性があるからといって望まぬ戦いに駆り出されたという不満が艦娘に叩きつけられた時代だった。

 

いつそうなるかわからない、ということで加賀を一人にはさせなかったものだが、提督は今に至るまで一切そのようなことをしないでいる。

 

(提督は意志が強いのか、それともただ単に臆病なのか……何にせよ、面白い人ですね)

 

彼女にはどちらかは、わからない。

赤城の疑問に答えるならば、どちらも正しい、と言えた。

 

提督は変なところで意志が強い。そして、相当ビビりなところがある。

 

辞めたい辞めたいと言って、本気の九分目まで行って戻ってきてしまうのも、その意志の強さから発した責任感と不安感によるところが大きい。

 

無理矢理食べようとする者も居るし、据え膳に箸を伸ばせない提督のような人も居るのだ。

こんなことを言ったら加賀がムッとしそうなものだが、忠誠心の対象と反抗心の対象が同一でありながら異なっている彼女の気持ちが破断しないように、赤城はせっせと世話を焼いている。

 

本当に、加賀の内面には犬めいた忠誠心と狼めいた強烈な反抗心が共存共栄を計れている以上、彼女の『嫌いな物に対しては際限なく辛辣に、冷酷に、好きな物に対しては際限なく甘くなる』という特性が深く根付いていることに関して疑いようはない。

故に未だ、根本的な解決は計れないままだった。

 

「……少し恥ずかしさがマシになってきたので、ご飯を作りに行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

サラシを巻き、いつもの艤装を身に纏う。

物凄い動揺状態にあることは変わりないにせよ、加賀は真面目なところは変わらなかった。

 

せかせかと脚を動かして厨房へ踏み入り、自分専用となりつつある一角に立ってご飯を作る。

 

提督のご飯を作り、あたかも食堂でとってきたかのような挙措で渡す。

その事をひたすら繰り返してきただけに、加賀は多少の動揺をものともしないほどの技量を身に着けていた。

 

「……まあまあ、かしら」

 

少し味見をし、自分の分と提督の分とを器用に片手で持って提督の部屋と進む。

三回のノックのあと、加賀はドアの隙間から顔を出し、ごろりと寝転がっている提督をチラリと見た。

 

まだ、恥ずかしい。どういう形で一緒に寝ていたのかはわからないし、知るのが怖い気もする。

だが、どんな形であれ好きな男の人と一緒に寝てしまったということに変わりはない。

 

「はいは……」

 

「……ぁ」

 

上体を起こして応対しようとした提督と、入ってきた加賀。

目と目が合い、殆ど同時に左右に別れた。

 

提督は、知らなかったとはいえ加賀を抱き枕にしてしまったことに罪悪感があり、加賀は提督と寝てしまったことに顔から火が出そうな恥ずかしさがある。

 

「……どうも」

 

「……いえ」

 

渡してきた食事を卓袱台にまで運び、座布団に腰掛けて箸を持つ。

その正面の座布団に加賀がぽすん、と腰掛けた。

 

「加賀さん、ここで食べるの?」

 

「……いけない?」

 

「あ、いえ」

 

恥ずかしいけど、一緒に居たい。

ものすごく恥ずかしいけど、一緒に居たい。

 

いじましい程の恋慕が、加賀を微妙に積極的にしていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

暫くの間、二人は互いをチラチラ見ながら無言で箸を動かしている。

これは会話の糸口を掴もうというのもあったし、何となく見てみたいから、というのもあった。

 

その五回目のチラ見の末、提督はあることに気がついた。

 

「……あの、提督。何か?」

 

胸を見つめられている。

幾ら機微に疎いところがある加賀でも、よく視線が突き刺さる部位に対するセンサーは鋭敏だった。

 

それが好きな人からの視線ならば咎める気にはならないが、より一層気になることも確かである。

 

「加賀さん、胸小さくなった?」

 

「…………それは、その」

 

寝ている時にパットを仕込んでいるとは思えないし、起きた時に感じたあの柔らかさと温かさは紛れもなく本物だと断言できた。

 

彼は、昨夜から今朝に掛けて加賀の実際豊満な胸部装甲に顔を突っ込むまで、女性の胸に顔を埋めた経験がない。しかしながら、あれはパットではないことくらいならば、わかる。

 

このセクハラでしかない問いを投げられ、加賀は真っ赤になって硬直した。

寝ている時に素のものを見られたことが、ここで確定したからである。

 

(将来的には見せることになるのだからセーフと、そう考えましょう)

 

いつまでもサラシで誤魔化せはしない。共同生活を営むことになれば、確実に見られる時が来る。

 

(……見せることに、なる)

 

自力でフォローしたつもりが思い切り自爆してしまった形になった加賀は、顔を更に真っ赤に染めた。

急激に体温が上がり、腕に艤装たる飛行甲板の輪郭が現れ、消える。

 

元々の艦艇としての特色が如実に現れ始めてしまう程に動揺しまくった加賀は、顔を俯かせながらもじもじとこぼした。

 

「その、サラシを」

 

「え?」

 

その疑問がポロリと出た形になるが、提督はこれを言ったあと相当後悔した。

その後悔も、このかなりの沈黙と聴き取りにくい加賀の小声で一瞬吹き飛ぶ。

 

「さ、サラシを……」

 

「サラシを?」

 

彼は聴き取りにくい言葉には、すぐさま聴き返してしまう質であった。

 

「……さ、サラシを巻いているので、小さくなっているの」

 

「な、なるほど」

 

湯気が出始め、艤装がチカチカと浮き出し始めた加賀の顔は、俯き気味なので全く見えない。

声と表情にあまり感情が出ない彼女が出そうともせずに艤装をチカチカと浮かせ始めてしまうというのは、怒っているか恥ずかしがっているかのどちらか。

 

それを読み取れた提督は、一先ずお茶を濁して口を閉じる。

 

(……よく考えなくとも、今のはセクハラだな)

 

ブラック世代の提督でありながら、セクハラ・無理強い・強権発動をしない主義である提督は、冗談混じりのセクハラならばともかく今回のようなストレートなセクハラをしたことはないと、多分思っている。

 

「加賀さん」

 

「……はい」

 

「俺、君にセクハラしてる?」

 

「私は気にしていません」

 

提督がブラック世代のアルアル三条を順守していたら加賀は提督のことを好きになっていなかったであろうが、完璧に熱を上げている今となってはそのアルアル三条を順守して欲しい気も、する。

 

故に加賀は時たま、フィギュアを作られたり、胸と足に関して視線によるセクハラを受けているが別に咎めることはなかった。

 

他の艦娘にセクハラめいたことをしたら、流石に寛容な加賀も嫉妬で折檻せざるを得なくなるのだが、自分の身体を触られるくらいならば普通に許してくれる程度には寛容だった。

 

「つまり、してるんだね?」

 

「セクハラとは受け手側の認識によって成立することが殆どなのだから、気にする必要はありません」

 

自分の身体ならばお触りオーケーという免罪符に耐え難い誘惑を感じながら、提督は思わずそっぽを向く。

 

美味しいはずの食べた料理の味が、全くわからなくなっていた。



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四十二話

「……」

 

食休みの時間にかこつけて、加賀はベッドを背もたれにして提督の隣に腰掛けていた。

青い袴のようなスカートと黒いニーソックスで艶めかしい白い肌は殆ど見えず、黒い胸当てが白い道着めいた服の胸部を押さえつけている。

 

提督の視線は彼女に向けられておらず、わざと逸らしたかのように明後日の方角を向いていた。

 

食休みというのも本当だが、加賀の手は忙しなく動いている。彼女はボードを下敷き代わりにし、仕事を黙々とこなしているのだ。

 

提督を隣においていくとやる気がもくもくと湧いてきて、結果作業効率が増す彼女であるが、その物理的な距離が近ければ近いほどにその効果は高かった。

 

もう既に加賀は、一日にこなす書類の三分の一を終わらせている。

 

敏腕な秘書艦であり、自分を使えば得がありますよ、ということを隣に座っている提督に示す絶好のチャンスなのだ。

 

「……あ」

 

右肩に重みが掛かり、動かしていたペンが僅かにブレる。

機械で打ったように綺麗で、ある意味味気ない文字が若干の人間味を帯び、加賀の口から思わずと言った体で驚きがこぼれた。

 

基本的に仕事の邪魔になるようなちょっかいはかけない提督らしからぬちょっかいだな、と加賀は僅かにむくれつつ横を向く。

 

そのむくれ顔を提督が見ていたら少しの罪悪感と共に、あまりの可愛さに鞭打たれていたであろうが、彼の意識は既に無かった。

 

要は、寝ていたのである。

 

「…………提督、寝てるの?」

 

当然、返答はない。目を安心しきったかのように瞑り、彼は加賀の肩に凭れるようにして静かに寝息を立てていた。

 

加賀の身体は、温かい。元となった艦艇からして焼き鳥製造機という渾名を持っているのでその所為かもしれないが、彼女は常にほかほかと温かく、体温が上がりやすい。

 

その温さが肩から伝わり、ふわりとしていい匂いとカリカリと言う一定のリズムを刻むペンと紙を子守唄にして寝てしまったのである。

 

「私の仕事を、見て欲しかったのだけれど……仕方ないわね」

 

と言うより、自分を見て欲しい。

真面目に働き、役に立つところを見て欲しかった。

側に置いて欲しいという加賀の思いは、ビスマルクと言う強力な対抗馬が来てから日に日に増してきている。

 

「私ね、提督。あなたのことを愛しているわ。あの時以来、本当に、愛しているの。だから、一緒にいて欲しい。私を、見て欲しいの」

 

前は自分の前でこのように寝ることなどなかった。

彼は艦娘を恐れ憚り、自分は彼を嫌っていた。

 

「……あなたが寝ているなら、言えるのに、私は一歩が踏み出せない」

 

怖い。

心の底から、彼から拒絶されるのが怖い。嘗て自分がしたことをわかっているだけに、加賀の懊悩は深いのだ。

 

見棄てられて、手の平を返されて。それでも戦っても、報われなくて。

戦う目的を見失って、でも戦って、結局憎しみが勝つ。

 

そうして、自分たちは提督を疎外した。

 

それを彼は許してくれたとはいえ、償えたとは思っていない。

更には許していないかもしれないと、時々思う。

 

形而上を取り繕うことは、誰にでもできるのだから。

 

「……好きに、なっていいのかしら」

 

その資格すらないのかもしれない。一旦勝手に嫌って、勝手に好きになる。そんなことが、許されるのか。

 

だがもう、好きなのだ。心の底から、愛してしまっている。

 

彼の為に生きることが愛することなら、死ぬこともまた愛の一形態であるということはわかっていた。

 

「…………あなたの、心が知りたいわ」

 

正面に回り、思ったよりも固い胸に手をやる。

トクン、トクン、と。ゆっくり生を刻んでいる彼の心臓の鼓動が、手を通して伝わってきていた。

 

生きろと、言われた。頬を叩かれて、呆然としている合間に抱き締められて。

骨が軋み、痛む程の抱擁と、提督らしからぬ珍しい激しい感情の爆発と共に、自分は生きろと言われた。

 

命令は、更新されるべきだろう。

 

「命令、して」

 

命令してくれたら、自分はきっと何でもする。生きるも死ぬも、それに託せる。

 

人では無く、兵器として生きれば、楽で良かった。だが、人に好かれたいならば、人で居なければならない。

 

「…………」

 

規則正しい寝息を立てている提督の身体を引っ張り、膝に乗せる。

提督は、何故か自分の大腿部をジッーと見つめることがかなり多い。胸とどっこいどっこい、と言ったところだろう。

 

だから、たぶんこれも喜んでくれるはずだった。

 

「…………仕事、しましょうか」

 

ポツリと呟き、仕事に取り掛かる。

加賀さん加賀さんと、いつもうるさいほどに話し掛けてくれる提督が寝てしまって、その一室は沈黙に包まれていた。

 

元々多弁な方ではない加賀は、仕事をやると決めたらひたすらそれに打ち込む。

どうにも集中力に欠ける提督は一時間に一度会話を挟まなければやっていけないようだが、加賀はひたすらに打ち込むことができた。

 

結果として、加賀は提督と共に仕事をこなしている時よりも遥かに速い速度で、仕事を終える。

そして。

 

「……ん?」

 

「おはようございます。もう昼だけれど、よく寝られたようで何よりです」

 

極めて平坦な発声に、『いい御身分ですね』と似通うような何かを感じ取った提督は、加賀の柔らかな太腿から頭を上げた。

 

「ごめん」

 

「……責めては、いないのだけれど」

 

「え、そうなの?」

 

「はい」

 

加賀を好きだと思っているが、殆ど同等レベルで恐れている提督からすれば、加賀の機嫌を損ねたくはない。

物理的にも怖いし、精神的にも怖かった。

 

「?」

 

「い、いや。何でもありません」

 

冷徹な美人は、いい。

だけど、怖い。

 

割りと臆病者な提督は、冷蔵庫から水が入ったペットボトルを取り出して喉を潤しつつ、ぼんやりと思考を巡らせる。

加賀の膝枕で寝たせいか、物凄く深く眠れた。最近どうにも眠りが浅いこともあり、提督はこのことに関しては嬉しかった。

 

「提督は、最近眠れていますか?」

 

「いや、あんまり。でも今はよく眠れたし、今朝もよく眠れたよ」

 

加賀の側に居ると眠れるのか、加賀の柔らかさを肌で感じると眠れるのか。

どちらなのかはわからないが、提督はそのように予測していた。

 

「……また、眠りますか?」

 

「うーん」

 

悩ましい。

加賀は、女である。香水や何やらを付けすぎた甘ったるい匂いがしないのに、ふわりと身体の芯から薫っているような香気がある。

 

落ち着くようで、そうではない。物質として見れば落ち着く匂いだが、それに体温と柔らかみが付属すれば、それは却って劣情を煽るものとなっていた。

 

提督も、男である。女ばかりの鎮守府で、悩ましい思いをしたことが一度もなく、何かを契機に一気に無防備になった彼女を抱きたい、と思ったことも一度や二度ではない。

 

女を知らないから手をこまねいているが、間違いを起こしそうになることもあると、彼は自分を洞察していた。

 

「加賀さんの側となると、どうもね」

 

「……落ち着かない、かしら」

 

「いや、加賀さんは美人さんだからさ。側に居るとこう、間違いが起きちゃうかもしれないし」

 

何故か凹んだような加賀に、慌てて釈明する。

誰だって、向けた善意を蔑ろにされればムッとするだろう。その辺り、加賀も同じらしかった。

 

もっとも、それは提督の思い違いでしかないのだが。

 

「ただの枕とは、思えないの?」

 

「物扱いは嫌だ」

 

「それはそうだけれど」

 

一応、自分たちがカテゴリとしては生物型の兵器にあたることは、加賀も知っている。

 

刀槍、有人兵器、無人兵器、生物型兵器。

 

人間の武器は年々進歩していた。大国同士の戦争が収まっていたから配備は最小限になっていたものの、生物型兵器も開発途上にあったのだ。

 

何の利益を上げるわけでもないから、その研究は微々たる物であったし、まだまだ船には人が僅かながら乗り込んでいたが、乗組員は基本的に機械化されている。

 

第二世代の兵器が第四世代となって転生した形、とも言えた。

 

「少しくらい、いいと思うわ。普段はそう扱わないのだから」

 

「少しくらい、少しくらいと迫られて、ガバッ、だよ。加賀さん」

 

「?」

 

恋はしているものの、軍事的な教育と一般常識しか教えられていない加賀には、恋愛という欲求への実体験がない。

ふわっふわした妄想に近い想像だけで、加賀は恋愛というものを想像していた。

 

故に、そういう方面には詳しくないが何故か手口だけは知っている提督の話が理解できない。

 

何が少しくらいなのか、そしてガバッとは何なのか。その辺りを、加賀は想像に頼るしかなかった。

 

(『少しくらい側に居たい』から派生して『少しくらい手を繋いでも罰は当たらない』から派生して、更に『ガバッと抱き締められる』、ということかしら)

 

完全に己の思考に一致している。

 

加賀はそう思ったが、と言うよりも自分の思考に合わせるより他にないのだ。

知識に乏しく、経験に貧しいのだから、当然であろう。

 

「……提督なら」

 

「はい?」

 

「ガバッてして、いいわ」

 

背丈の都合上、自然と上目遣いになる。

その破壊力に思わず鼻を抑えた提督は、思いっ切り後ずさった。

 

最愛の女性を、自分には相応しくないから誰かに取られていい、と真面目に考えてしまう彼は、まごうことなきヘタレである。

 

そのヘタレっぷりが、この近年稀に見る押し倒しチャンスにも遺憾なく発揮されていた。

 

「嫌?」

 

「い、嫌と言うより、何で?」

 

「…………提督だから、かしら」

 

加賀が膝を一歩進めると、サラシで縛っていてもそれとわかる豊かな胸部装甲が僅かに揺れる。

思わず生唾を呑みこみながら、提督は三歩ほど後ろに下がった。

 

「か、加賀さん」

 

「何?」

 

「上司はこう、もれなく部下にそういうことを強いる存在じゃないんだよ。信じられないかもしれないけどさ」

 

それほど酷いセクハラはしてきていないつもりの提督としては、自身の行いよりも、殆どがあの世や牢に行ってしまった嘗ての同僚を思い浮かべずにはいられない。

 

加賀という同一の艦娘に手を出していた同僚も居ることを加味し、提督は敢えてこのような表現を用いている。

嫌悪感とか幸福感と言うものは、どうやら同一の艦娘の中で微々たる物だとはいえ、共有されるようなのだ。

 

「信じているし、わかっています。だから、提督ならいいと」

 

「いやいやいや、それ、はぁ!?」

 

開けっ放しのドアから廊下に出ようとし、何でもない段差に引っ掛かる。

引っ掛かった時点で言葉が途切れ、そのまま彼は後頭部を強打した。

 

ガン、と言う衝撃と共に、意識が飛ぶ。

最後に見たのは、加賀の驚いたような顔だった。



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四十三話

ぼんやりと、輪郭が浮かぶ。

琥珀の目と、烏のように黒い髪。

 

怜悧な印象を受けるその相貌を、提督は確かに見たことがあった。

ちょうど、この角度で。

この、ふわりと香るような匂いが顔の周りにあって。

 

「……加賀さん」

 

「提督、気づいたのね」

 

心なしか嬉しそうな加賀の言葉を遮ったのは、提督の如何にも訝しげな表情。

彼は、己の記憶の海に意識を埋没させていた。

 

「……ねぇ」

 

「何?」

 

いつになく真面目な声色に、きゅっと身が引き締まる。

ぐっ、と掴まれた手が温かく、加賀は思わず目を逸らした。

 

「違う。こっち向いて」

 

「は、はい」

 

嫌だ、と言うほど反抗的ではない。と言うよりも犬のように従順な質の加賀は、恥ずかしさを堪えて提督の疑念と誰何の念が混ざったような瞳を見つめ返した。

 

「―――加賀さんってさ、そうはホイホイ居るような美人じゃないわけよ」

 

「同型の艦であれば、複数存在しますが……」

 

「いや、艦娘としてじゃなく、人間として。人がここまで完全な美人顔ってのは、なかなか無いと思うんだ」

 

無造作に手を頬にやり、撫でる。

普段のヘタレっぷりとは裏腹に、提督は真面目な態度とブレない視線で、加賀に静かに向けていた。

 

「……どこかで、会ったことないかな」

 

「会ったこと、ですか」

 

「そう。あの場所で提督見習いと秘書艦として、会う前に。会ったことないかな。こんな形で。

こうして気絶したところを、加賀さんが助けてくれた気がするんだよ。覚え、ないかな」

 

加賀の記憶は、いきなりはじまる。

幼い頃の記憶は忘れているから断片的に思い起こすことができるということはなく、いきなり精密な風景が浮かぶのだ。

 

気がついたら横須賀の海に居て、キラキラと海が光っていた。

人間が居て、こちらを指差していて。

 

それで自分は艦娘として分類され、横須賀の仮設鎮守府に連行され、軍学校の特殊施設に入れられた。

そこで二年ほど学び、提督と会ったのである。

 

実質的に、彼女に自由行動の権利はなかった。

 

「無いと、思います」

 

「本当に?」

 

明らかな確信を孕んだ疑いに、加賀は思わず怯む。

普段は布で包んだような感情表現しかしないくせに、今回はいやに鋭利さが際立つ。

 

その変化に対する不安が、先に立っていた。

 

「ごめんなさい。本当に、心当たりがないの」

 

「そうか……」

 

役立たず、と言われるかと思いきや、意外にも提督はそのまま押し黙る。

鋭利さと言うものが、徐々に鞘に収まっていくような印象を受けた。

 

「提督」

 

「ん?」

 

「役に立てなくて、ごめんなさい」

 

「あ、いや。気にしなくていいよ。何かこう、猛烈な既視感がしただけだから」

 

いつも基本的に笑ってくれている彼の表情が曇ったことに、加賀は胸が痛むのを感じた。

 

劣悪な環境で歪んでしまったとはいえ、彼女は元々『性善説を具現化したような善良さ』を持つ艦娘という種族の一人である。

本質的には、彼女は優しくしようと思えるものには優しかった。

 

「思い出すように、頑張ります」

 

「あ、いや、バカの戯言だと思って聞き流してくれていいのよ、ホント」

 

犬であれば消沈して尻尾が垂れているような加賀を励ましつつ、提督は脚を組んで壁に凭れる。

 

加賀に似た恩人だと、思っていたことがある。

だが、あれほどまでにダブったのは初めてだった。今までは、似てるっちゃ似てる、程度なものだった。

 

(あの娘は、何だったのやら)

 

あまり憶えていない、というのが正直なことである。

と言うよりも、平和な世界という常識が現実をむりやり見せつける形で叩き壊された時だっただけに、あの燃える街以外あまり憶えていないのだ。

 

そのことを話題にすると加賀が肩身の狭いような反応をする為、彼はあまり話題に上らせない。

しかし、加賀に似ているということが何かを示しているような予感がある。

 

「……あの」

 

「あぁ、うん?」

 

「私、出会った時はどんな感じでしたか?」

 

「真面目な感じ」

 

キビキビしていて、提督の不慣れな仕事ぶりに愚痴をこぼすことなく支えてくれた。

まあ、戦場に出ることができずにひたすら演習、という状況に追い込まれるにあたって少し不満を漏らしたりはしていたのだが。

 

「……それから?」

 

「それからはまあ、うん。人が嫌いになったっぽかったような」

 

「今も、そうだけれど」

 

変化とは言えない、ということを暗に示そうとした加賀の言葉に一つ首を横に振り、提督は自分に対する変化を一つ上げた。

 

「前はよく下賤な豚が人の姿をしているのを見るような視線を浴びせかけてくれてたのに、今じゃすっかりいい子になっちゃって、ねぇ」

 

下賤な豚、というあたりで、加賀は肩をびくりと上下させた。

実際、そんなような目で見ていた自覚がある。

 

なにせ、人間が嫌いだったのだ。

 

「…………そこまでではないけれど」

 

「豚くらいには思ってた?」

 

「……」

 

素直に、加賀はこくりと頷いた。

良くも悪くも信頼する存在には素直なところが、加賀という犬系艦娘の美点でもあり欠点でもある。

 

美人に蔑まれることに不覚ながら興奮を禁じえない提督は、これに対して『あの頃もよかったなぁ』などと思いを馳せていたが、加賀のいたたまれなさは積もる一方だった。

 

嫌いなものはとことん嫌い、好きなものはとことん好き。

好悪の情が激しいという自覚があるだけに、『職務上の上司』という不干渉な関係から『見捨てた一員』を経て『愛する人』となった提督は、このジェットコースターを経験している。

 

加賀としては、過去の自分を殴り殺してやりたい。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うのは、ある意味真理だとよくわかる己の過去を見せられ、加賀は地味に黄昏れていた。

 

「今も豚?」

 

「今は、その」

 

信頼する上司で、愛する人。

後は、飼い主とでも言うのか。ストッパーとでも言うのか。首輪とリードを握ってくれている存在であろう。

 

ともすれば嫌いな奴を徹底的に、影に日向に攻撃し、叩きのめしてしまいがちな加賀の攻撃的な性格を鈍化させているのが彼だった。

 

それが吉と出るか凶と出るかは、まだわからないが。

 

「今は、信頼しています。あなたのもとであれば、死んでも良い程度には」

 

「え、あ、うん。ありがと」

 

忠誠心と言うものを、極一般的な小家庭で生きてきた彼はあまり理解できない。

 

と言うよりも、平和な世界での一般人に『忠誠心とは?』と訊いても、『上限は百』とか帰ってくるだけであろう。

 

彼も、そのクチだった。死んでも良い、と言われても、その気持ちがわからない。

 

「……信じてくれないのは当然だけれど、これからも働きで示します」

 

「いや、忠誠心ってのがあんまりわかんないんだ。俺がこの人の為なら死ねるってのは、好きな人しか対象にないし」

 

琥珀の眼が見開かれ、好きな人という一言で加賀が開こうとしていた忠誠心講座で使うべく用意していた言葉が吹き飛ぶ。

 

提督に好きな人が居るというのは、加賀は想定していなかった。

 

提督は側にいてくれて、自分を支えてくれている。

あくまで職務上の関係だとはいえ、そこから男と女の関係に発展させるのは非常に常套的な手段である筈だった。

 

滑稽なことに、加賀は自分ができていないことを提督ができると思っていた。

更に言えば、この常套手段に出ないということは女の子にあまり興味がないのか、とすら思っていたのである。

 

加賀は男に興味はないが、提督には純度百パーセントの興味しかない。勝手な妄想で悶えてしまう程に、興味がある。

 

加賀は、このことを完璧に失念していた。

 

「…………………好きな人」

 

「あ」

 

あ、と言う反応で、加賀は思った。

提督は人間なのである。生きているし、欲望もある。

 

つまりは恋もするし人を愛しもするということ。

 

少しでいい、自分と居る時だけでいいから自分を見て、愛して欲しい。

赤城から『愛人気質はやめた方が』と言われた加賀は、この段になって自分が愛人気質ではないことに否応無しに気付かされた。

 

どろり、と。

黒い泥のような感情が胸から漏れる。

嫉妬と、独占欲。

 

常々自分はそういうことを許容できるし、許容したいと思っていた加賀に対して、心は高らかに叛旗を翻していた。

 

(醜い)

 

自分が、いやになる。

 

この時ばかりは己の鉄面皮に感謝しつつ、加賀は若干光が消えかけている瞳を閉じた。

 

こんな汚い姿は見られたくない。提督が見ているということを、知りたくない。

 

自分の殻に閉じこもってしまった加賀に、提督は何ら良い手を思い浮かべることはできなかった。

 

そもそも、原因がわかってもなぜそれが原因となったのかがわからない。

 

(俺に提督でいて欲しい、のかな)

 

結婚すれば、まあ、退役するだろう。美人揃いの職場に居て、中破やら大破やらであられもない姿を大真面目に見なければならないのだから、夫婦関係と提督業が両立するはずもない。

 

そう考えると、先ほどのセクハラ認可も納得がいく。

やめて欲しくなくて身体を差し出そうとするのでは本末転倒も甚だしいように思えるが、そうでないと説明がつかない。

 

どう宥めたものか、と。彼は真面目に考え始めた。



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四十四話

仙庭工様、おきな様、Lumiere404様、前象様、さく様、評価いただき幸いです。
お米精米委員会様、十評価感謝です!


「加賀さん、加賀さん」

 

「……はい」

 

若干涙目な加賀に怯みつつ、提督は不器用に彼女の頭を撫でた。

こういう凹んでいる時にここぞとばかりにお触りするのはどうかと思うが、彼も男。触れる時には触りたい。

 

艶やかな髪である。癖っ毛だが、それが却って愛らしい。

好きになった者の弱みなのかもしれないが、彼にはそうとしか思えなかった。

 

「俺はまあ、ずっと君の側に居てあげるから、さ。ほら、求められる限りは」

 

「…………それは、その」

 

提督が提督でなくなって、この鎮守府にも居なくなって、どこかに小さな家を買って、そこに住む。

その平凡な風景に、自分も住んでいていいということなのだろうか。

 

自分が居て欲しいといえば、本当にいつまでも側に居てくれるのだろうか。

そんな加賀の期待とは裏腹に、提督は思い上がれるほど楽天的でもない。

 

「あ、ああ、提督として、だよ?」

 

癖っ毛を弄ったり、一房に括ったサイドテールを梳かしたりと、割りと加賀の髪を好き放題していた提督は、少し慌てたように両手を立てて弁明する。

 

初めから玉砕が確定している告白ができるほど、提督は強くはなかった。

 

「……わかっています」

 

自分の髪から離れた手を不満げに見つめ、加賀は少し視線を下げて頷く。

 

見た目と言動からすれば意外なことに、加賀は甘えたがりだった。

いつも背筋をピンと伸ばしたような凛々しさを保っているからこそ、好きな人には甘えたい。

 

提督は駆逐艦には撫でたり褒めたり、一緒に気軽に出かけてあげたり、抱き上げたりしている。

自分もそうされたい、と思わない日はなかったと言っていい。

 

上げた功績では、駆逐艦には負けていないつもりなのだ。少しくらい甘えさせてくれてもバチは当たらないという、自負もある。

 

撫でてくれとは、素直に言えない。甘えていいのは子供までという、極一般的な常識も持ち合わせているが故に、加賀は黙らざるを得なかった。

 

「……ど、どしたの」

 

じーっと、半円の―――逆さにした蒲鉾状のジト目が提督を貫く。

このジト目は得も言えぬ可愛さがあるから彼は好きだが、無言の威圧が付与されていては話は別。

 

若干、怯まざるを得なかった。

 

加賀も、特に何も言えない。今提督を見ているのは甘えたいからであり、褒めてほしいからである。

そのことを自分から言うには、可愛さの欠片も見当たらない鉄面皮をぶら下げた己の外見は相応しくないと感じていた。

 

傍から見て、内情を知っていればくだらないことだが、この二人の勘違いはこのような自己認識の齟齬から生ずることが非常に多い。

 

(な、何なんだろ)

 

提督として側に居てあげますよと言って、加賀はわかってますと返した。

それからひたすら不満が浮かぶジト目で見つめられ、今に至る。

 

(何様のつもりだ、ということかな)

 

居てあげる、とは思い上がっているということなのだろうか。

提督は表面上は加賀の上司だが、実働艦隊の殆どは加賀が掌握している。

 

どっちが上の立場かと問われれば、形式上は提督が上、実質的には加賀が上であろう。

 

「えー、加賀さんの提督で居ても、よろしいでしょうか」

 

「それは、今更」

 

「い、今更と言いますと?」

 

「初めて会ってから色々ありましたが、私が提督として仰ぐのはあなただけ、と言うことです」

 

無表情の中に確固たる意志を宿しながら、加賀は半歩前に踏み出した。

 

恋しい。触れて、愛して欲しい。

 

暫く会えなかった反動と言うものが、加賀の身体を動かしている。

それに、一緒に寝てしまったということもある。

 

それが結果的に、彼女にやけくそ気味の積極性を与えていた。

 

「提督、私はあなたの決められたことに、従います。気兼ねなく命令なさってください」

 

サイドテールがピコピコと動き、いつもは黒いシャム猫のような雰囲気のある加賀が犬のそれに変わる。

 

と言ってもオオカミ犬、というのか。シベリアンハスキーのような感じではあるが。

 

(忠誠心ってやつなのかな)

 

忠誠心は無償ではない。

要求するに値する人物と、要求するに値しない人物が居るのだ。

 

自分は恐らく、能力的にも性格的にも後者だろう。少なくとも、大本営のような戦略経営の才能もないし、戦術的な才能もないという自負がある。

 

忠誠心を要求するに値する人物に、ならなければならない。

 

「……俺に出来るのは、ビスマルクに座乗して前線に出たり、君たちが常に全力を出せるように補給を絶やさないくらいだけど、さ。

その忠誠心に相応しい男になれるように、頑張るよ」

 

「頑張って下さい。だけど」

 

私は認めている。

 

と言うよりも、私も認めている。と言った方が正しいか、と変なところで几帳面な加賀は自分が紡ぐ言葉を推敲した。

 

どうやら自分は言動からして勘違いされやすいという自覚が、彼女にも芽生え始めている。

 

沈黙すら勘違いの要因になるということも、わかる。

故に彼女は一つ一つ言葉を選んで喋り、その後に推敲して話す。

 

これもまた、提督の心理に緊張という名の負荷をかけさせていた。

 

(な、何で黙るんだろ)

 

気にしていない相手が数秒黙ろうが関係ないが、意識の八割を傾けている相手が沈黙すると過敏な程に反応する。

 

閃きよりと長考によって思考を醸成させる加賀は、今回に限らず度々黙った。

 

と言っても、今回の加賀の沈黙は五秒に満たない。

閃きの人というより熟考の人である彼女の思考時間としては、短い方であろう。

 

「私は、認めています。実数はわかりませんが、皆も認めているものが多かろうと、思います」

 

如何にも加賀らしい真面目で、誤報をなくして勘違いによる摩擦を減らそうと言う感覚が如実に出ていた。

 

「そうかね?」

 

「ええ」

 

ビスマルクもそうだし、木曾もそうだ。矢矧もそうだろう。

口に出すのは自分を含まずにこれら三人くらいだが、他の艦娘も忠誠心に薄い者は少ない。

 

絶無、と言っても良いかもしれなかった。

 

別にカリスマ性があるわけではなく、容姿が優れているわけでもない彼が慕われている理由はただ一つ、実績である。

 

一隻も沈めることなく、過重な労働を強いることなく、無理をしない戦いを繰り返して、彼は海域を解放してきたのだ。

この実績が、艦娘たちに慕われる原因となっている。

 

単純な話、自分と同一個体や仲間を沈められた挙句に功績を挙げられていない提督と、一隻も沈めずに最上の功績を挙げている提督のどちらがよいと問われれば、後者だろうという話だった。

 

「ほんとに?」

 

「本当です」

 

琥珀の視線が、提督を射す。

誠実さと親愛が見えるような気がするその瞳には、加賀の滅多に見せない感情があられていた。

 

提督は琥珀の瞳に圧されるように何となく黙る。

可愛いというのか。綺麗というのか。神が作ったような美貌に見つめられては、動悸を抑えることなど出来ようもない。

 

が、ここで目をそらしたら損なのだ。こんな美人と顔つき合わせて見つめ合えるなど、もはや一生ないと言っていいだろう。

 

(加賀さん、大事にされるといいな)

 

こんな美人と結婚できるならば、自分ならば絹に包むようにして大事にする。大事にして、幸せにしてやりたいと、そう思う。

愛しているから、身を退く。少なくとも艦娘という

存在を盾にしてきた自分に、一緒になる資格はない。

 

加賀とは、上司と部下でいい。

 

「……」

 

そんなことを考えつつ、提督は加賀を見続ける。

眼福だし、何よりも好きな人の顔を見ることがたまらなく幸せだった。

 

その内、加賀はぷいっと横を向く。

頬が、僅かに赤かった。

 

(……返事しなかったから、怒っちゃったのかな)

 

だが、怒らせてみたい。

 

すすっと加賀が向いた方向に移動し、また顔を見る。

 

暫くして、更に顔を赤くした加賀がそっぽを向き、提督が追う。

 

それをしばらく繰り返し、加賀は遂に窓の方向を向いた。

壁を盾にして、回り込まれないようにしたのである。

 

(おぉ、怒っていらっしゃる)

 

窓に、赤面した加賀が映っていた。

となれば、その映っている加賀を見つめる他に選択肢は無い。

 

ジーっと、質の悪いストーカーの様に加賀の怒りに燃えて赤面している美貌を、提督はひたすら凝視した。

 

加賀はずっと目を合わせていると怒るというのが、提督が得た今までの経験である。

 

「…………ぅ」

 

遂に、加賀は耳まで真っ赤にして俯いた。

怒っているところ悪いが、凄まじく可愛い。

 

真面目に話してくれていたのに途中からストーカーまがいのセクハラに切り替えて有耶無耶にしてしまった己に戦慄しながら、提督は目に焼き付けるようにして赤面しながら俯いている加賀を見つめている。

 

可愛い。可愛いのだ。

 

こんな光景を見ると、上司と部下でいいと言う痩せ我慢が消え去ってきてしまう。

 

罪作りな女め、と。提督は加賀を理不尽に責めた。

その一瞬後には己の煩悩の所為だと自戒するあたり、ほとほと無害な男ではあるのだが、その自己認識の強固さが加賀の内面の認識をするに際しては邪魔と言って良い。

 

「……ていとく」

 

「…………はい、何でございましょうか」

 

いつも話す時は目を合わせてくる加賀が俯いていることに怒りの深さや何やらを感じ、提督は怯んだ。

 

実際のところ、加賀は提督が熱心に見つめてくることに対する恥ずかしさに耐え切れずに視線を逸し、それを何回か続けた挙句に逃げ切ろうとし、それに失敗して盛大に爆死したに過ぎない。

 

故に加賀は、提督に対して怒っていない。

彼女は原因が自分のあがり症と経験不足にあることを知っていたからである。

 

爆死の原因が、『窓に映った自分を見つめられ、その見つめている提督を自分も見ることができる』ということだったにせよ、それで提督を責める気はなかった。

 

ただ、真意は知りたい。

 

「何で、私を、その」

 

今、見続けてくれたのか。

根暗で無愛想で人付き合いの下手な、可愛くない自分を嫌がりもせずに見てくれたのか。

 

加賀が問いたいのはその辺りだったはずだが、提督はそこまで加賀の心を読めるわけではない。

 

故に、彼としては素直に理由を述べるしか術がなかった。

 

「い、いや、加賀さんは美人だなーってさ」

 

「提督は、優しいのね」

 

毎回言われているような褒め言葉を、リップサービスだと感じつつも喜んでしまう。

実際にはそんなことは全然ないのだが、加賀はそんな自分が情けなく思えていた。




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四十五話

「心理スカウター?」

 

「そうです。見た対象の言葉に込められた心理を1ミクロンのズレもなく把握できる優れものですよ!」

 

明石から受け取ったブツを、赤城は訝しげに抓んだ。

片眼鏡と言うべきそれは、なんの変哲もない、ように見える。

 

だが、説明を聴くに何やら凄い性能を持っている、らしい。

 

1ミクロンの云々というあたりに明石の自信家としての一面と、この片眼鏡に対する信頼が伺えた。

 

だが、普段は具体的な単位を引用しないことを加味すれば、どうか。

 

(案外、自信がないのかもしれませんね)

 

だからわざと虚勢を張っているのだ、と赤城は思わないでもなかった。

だが、致命的な欠陥を持つ品を世に出そうとするほど、明石のプライドは低俗ではない。

 

本人の言葉から滲み出る不安を、常の行動を観察した上での推論で打ち消し、赤城は無造作にそれを付けた。

 

「こうすればいいと?」

 

「そうです!」

 

――――そうです!

 

木霊のように、赤城の耳に明石の声が響く。

不快になるほどの大きさではないが、突如としてこのような怪奇現象に襲われたならば、自分ならば座禅でも組むだろう。

 

加賀ならばビビって提督の部屋に逃げようとした挙句に入るか入るまいかと扉の前で右往左往し、提督ならば寝る。

その程度には、怖かった。なにせ、いきなり幻聴がするのだ。

 

「実はそれ、二つで一つでして」

 

――――提督と加賀さん用の特注です

 

心の声を聴いて、赤城はなるほどと頷く。

これを付ければ、あの思春期をこじらせたように怯み、接近、怯みを繰り返す二人の仲も進展せざるを得ない。

 

それにこれは、他にも様々な用途で貴重な補佐用具して使えそうだった。

 

「なるほど、提督と加賀さん用ですか」

 

読み取った心の声が正しいかどうかの確認も込めて、赤城は態々口に出して問う。

 

明石は、自分の発明品については過不足なく、用途から対象者に至るまで全てを細かく説明してくれる良心を持ち合わせている。

黙っていても対象者が誰なのかはわかっていたはずだが、今は性能をチェックすることが大事だった。

 

「あ、試験動作はどうやら上々ですね」

 

――――正直、駆逐艦達に試してみても同じことを繰り返すだけで困っていたんですけど……

 

それはそうだと、赤城は思う。

あの頃の子供に、裏表はない。思ったことがぺろりと口に出てしまい、困るような年頃なのだから。

 

「なるほど、ではもう一ついただけますか?」

 

「話が早いですね」

 

――――やっぱり交渉の窓口に赤城さんを選んで正解でした

 

素直に加賀に渡していたら、使うか使うまいか三日三晩悩み、結局『提督が私を嫌っていて、それでも秘書艦として据え置きにしてくださっているのだとしたら』などとネガティブ方向に思考が向き、結局お蔵入りになったことだろう。

 

提督でも基本的にはコミュニケーションが苦手なネガティブということは共通している為、同じ様な期間を同じ様に悩んで、同じ様な結論に達しただろうと考えられた。

 

となると、赤城は自分の役割を把握できる。

 

謂わば、自分の役割はパイプを繋ぐことなのだ。

親しい人にはころっと騙される加賀と、基本的には騙されやすい提督をうまいことだまくらかしてこの片眼鏡を付けさせる。

 

提督にはプレゼントとして渡し、『しばらくは付けていてください』と頼めば付けてくれるだろうし、加賀には『提督とお揃いですよ』と囁やけばいそいそと付け始めることに疑いはない。

 

だが、だ。

 

果たしてそのような手法であの二人の面倒くさい関係をむりやり整理して良いのだろうか。

 

そんなことを考えつつ、赤城は珍しく朝御飯を食べることを忘れて考え込んでいた。

 

「あ、先輩。御飯食べないの?」

 

片眼鏡は、外している。

それ故に声の後に心の声は伝わってこないが、全くその必要が無いほどに心配気な気持ちに溢れた声音が、赤城の耳朶を打った。

 

「瑞鶴さんですか」

 

「そ、そうだけど……どうしたの?」

 

――――片眼鏡……って、何で?

明石さんも付けてたらしいし、流行ってるのかな?

 

つくづく優れものである。

 

赤城は、今更ながらこの片眼鏡の性能に対してそのような確信を抱いた。

人の言葉に含められた心の声を聴けるならば、己が見ていない過去の出来事すら拾えるということ。

 

現に今、明石が駆逐艦に対して行っていた性能チェックを誰かが見て、それを瑞鶴に話したということがわかっている。

 

物証だけのこの状況に推論を混ぜるならば、伝えた存在は恐らくは翔鶴ではない。

翔鶴ならば、『翔鶴ねえに』という主語がつくはずなのだ。

 

ならば、対潜警戒に向かう都合上駆逐艦に近い軽空母の内の誰かが、瑞鶴にこの事を喋ったのだろう。

 

瑞鳳か飛鷹あたりか、と。赤城は適当にアテを付けた。

 

「瑞鶴さん、少しを手を貸してください」

 

首を傾げる瑞鶴に片眼鏡を渡しながら、赤城は事情を説明する。

瑞鶴の表情が訝しげなものから楽しげなものへと変わるまで、数秒とかからなかった。

 

「先輩は、何でこれを加賀さん辺りに渡さないの?」

 

「まあ、色々あるんですよ」

 

――――加賀さんにとっては、このような形で気持ちを知ることができるのが良い事なのか、わかりませんし

 

前を歩く赤城の心の声を聴いて、瑞鶴は少し頭を傾げる。

生来単純な、詰まるところはさらりとしたようなところがある瑞鶴には、恐ろしく屈折した心理を持つ加賀の面倒くささがわからなかった。

 

「今わかったのですけれど、この片眼鏡。視界に発言者を入れていないと心の声を聴くことができないようですね」

 

赤城の背中に目はない。

片眼鏡を付けた状態の瑞鶴を視界に収めている内は心の声を聴くことができ、今は問うてきた真意が脳に刷り込まれるように入ってこなかったことを考えれば、どうやらそうらしかった。

 

「へぇー……不便ね」

 

そんなことはないだろうと、赤城は思う。

こんな平和な使われ方をされようとしているが、この片眼鏡はブラック鎮守府で使われれば相当な効果を発揮したであろう代物。

 

視界に収めている内だけとはいえ、腹黒く、そういうことしか考えないニンゲンに対しては、この片眼鏡は相当な効果を発揮する筈だった。

 

遅れてやってきた五航戦には、わからないだろうが。

 

「さあ、どうなるんでしょうか」

 

「ふふーん」

 

執務室の前の廊下で様子を伺うように角から顔を覗かせる。

ドアの前では、加賀と提督が丁度会ったところであった。

 

普段あまり会話が弾む二人ではないが、それは表面上でのこと。

内面では、どうなのか。その辺り、赤城も瑞鶴も気にならないといえば嘘になろう。

 

薄々、予想は付いているとはいえ。

 

「……提督」

 

――――顔が赤いわね。どこか体調が悪いのかしら。寝不足気味らしいけれど、私にできることなら何でもしてあげたいのだけれど

 

「お、おはよ」

 

――――相変わらず美人だな、この娘。正直、顔突き合わせるたびにそう思わせられる。心臓が保たんな

 

この時点で、赤城は半ば確信を持ってこの観察会が砂糖に塗れたものになることを確信した。

同時に、己の判断力を賞賛した。

 

彼女の腰には、苦味の強い珈琲を淹れた水筒がある。

 

「おはようございます」

 

――――この挨拶を交わせることが、とっても幸せだわ。あと何年で提督が他の人と結ばれるかはわからないけれど……このいつものことがとっても幸せだと、思い出すこともあるのでしょう

 

「うん」

 

――――加賀さんに挨拶を返してもらえるってのは、果報だなぁ。いつまで続くかは知らないけども、加賀さんも退役する時はするだろうし

 

赤城も瑞鶴も、これには僅かに頬を引き攣らせた。

何というか、酷い。思っていることの半分も口に出していないし、お互いがお互いのことを誤解した挙句にその積極性の無さもあいまって、お互い好意の欠片も感じさせない会話に留まっている。

 

表面を掘り返してみれば砂糖が間欠泉のように噴き出すが、肝心の表面が塩で固められているのだ。

 

「あちゃー」

 

「これは……」

 

瑞鶴は思わず目を閉じて額に手を当て、赤城も流石に目を逸らす。

恐らくこの二人の間には、三十年経っても何の進展も起こらない。

 

自信を持って、赤城はそれを断言できた。

 

現状を壊すことを恐れ、現状のちっぽけな幸せを噛み締めて満足してしまっている。

 

「もうこれ、駄目かもしれませんね」

 

「う、うん……」

 

どちらかが表面上の塩をかち割って内部を掘り進めようとしてくれれば解決するのだろうが、そんなことは起こり得ない。

 

そこまでの共通認識を抱かせてしまうこの二人とは何なのか、ということになるが、傍から見てやきもきするのは確定であった。

 

その後何も喋らず、いつものように加賀が扉を開け、提督が入る。

観察対象が執務室に入ってしまっては、この二人になしうることはごく限られたものだった。

 

「どうします?」

 

対象を取った時は敬語、呟く時はタメ。

加賀には完全に噛み付いてくる瑞鶴も、赤城に対して明確に問うたり、答えたりする時は流石に敬語に切り替えている。

 

加賀の警戒心の強さは、番犬のそれに近い。一歩でも踏み込めば吼え掛かり、怪しい気配があれば唸る。

 

反応に関しての表現は比喩だが、比喩だからこそ恐ろしい。

爆撃やら体術やらで瞬く間に制圧されることに疑いは無かった。

 

「上の裏から回りましょう」

 

無駄に綺麗な比島鎮守府では、汚い所というものがない。

無いようにしているし、その為に手間を惜しまないのが加賀である。

 

提督は割りと汚い感じに部屋を維持するが、そこには一切手を触れないあたり、加賀は『それはそれ、これはこれ』という割り切り方がサバサバとしていた。

 

「確か前に掃除したのは……三日前?」

 

「まだ綺麗でしょう。おそらく」

 

頬に人差し指をあてて記憶をまさぐり当てた瑞鶴に、赤城が多分に希望的要素が含まれた観測を述べる。

 

離れたドアからは、僅かな声が漏れるのみだった。



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四十六話

「……ん?」

 

留守番をしていた加賀が提出した明細と報告を少しずつ読み解いていく為に、提督はまずは資源の明細から目を通した。

 

ボーキサイトの消費は常とあまり変わらないが、12月20日から21日にかけて燃料と弾薬とが爆発的に増加している。

 

旧フィリピンと呼ばれる島嶼群を本拠にしたこの鎮守府には基本的には自給自足をして有り余るほどの資源が毎日のように振り込まれる。

新たに発見された南方資源の源泉と言える土地が、ルソンなのだ。

 

ルソンには極力手を付けず、謂わば最終手段として資源の採掘は深海棲艦が放棄した島嶼で資源を採掘。

 

掘り尽くすまで主力を留めておき、あらかた終わればその警備に回していた艦娘を引き揚げさせ、駆逐艦や軽巡に担がせて備蓄。

 

深海棲艦が占拠した島嶼は、資源が出る。枯渇していても、復活する。

 

提督が密かに突き止めたギミックを利用して、彼は戦力となりうる軍需物資を物狂いのように備蓄し続けていた。

 

もっともそれは、隷下の艦隊が高い練度を持ち、ある程度の備蓄があるからこそできることなのだが、それを満たしているからこそである。

 

彼は自身が恵まれていることを自覚し、その幸福を自覚していた。

 

「加賀さん、侵攻あったの?」

 

「はい」

 

戦闘詳報に目を通しつつ、提督は隣で鉄面皮を保っている加賀をちらりと見る。

侵攻を受けたと言うのに、平静を保っている。彼女の豪胆さが、提督には羨ましかった。

 

「12月20日ヒトヨンマルマルから空母七隻、重巡洋艦三隻、軽巡洋艦五隻、駆逐艦二十隻領域に侵入し、12月21日マルサンマルマルに引き返しました。こちらは小破が三隻、艦載機隊の被害は五機。敵空母五隻、重巡二隻、軽巡洋艦五隻、駆逐艦十九隻を撃沈しています」

 

「相変わらず、すごいね」

 

「はい。鎧袖一触です」

 

誇らしげに言うでもなく、加賀は極めて平坦な発音でそう述べた。

当然のことだ、と言わんばかりのその台詞は、聴く者が聴けばこう聴こえる。

 

――――頑張りました。褒めて、撫でて、ぎゅーってしてください

 

口ではとても言えないし、態度からではわかりようもない。

 

「甘いですねぇ」

 

「うん……」

 

本当に、態度と内面に差異が有り過ぎる。

片眼鏡を通して見ることで心の声を聴いた赤城と瑞鶴は、顔を見合わせてつぶやいた。

 

彼女たちが居るのは、屋根裏。排気口というべき鉄柵の隙間から視線を向けていた。

ここに通じている場所に来るのに何回か同僚たちの『何をやってるんだ?』と言う懐疑の視線を向けられたが、赤城はある意味で図太い。

瑞鶴はそれほどではないが、腹を括ってしまえるところがある。

 

二航戦は不在だから良いとしても、翔鶴は良い娘なので、このような盗み聞きをすると聴けば全力で止めに来ることは間違いが無かった。

 

「加賀さんは、傷はどう?」

 

――――この娘、ヘソ曲げて傷を誤魔化すところあるからなぁ

 

「損傷箇所は有りません。心配いらないわ」

 

――――せっかく心配してくれたのに、何故私はこんなにも無愛想に答えているのかしら。あぁ、私の馬鹿馬鹿馬鹿

 

ヘソ曲げて傷を誤魔化すところは、修復までの時間がギリギリだったとはいえ轟沈寸前にまでいった前科を持っている。

それ故に、彼は全くその辺りの加賀の発言を信用していなかった。

 

「診断書は?」

 

――――まーた、痩せ我慢してるんじゃないかこれ

 

赤城は、提督らしい疑い方に苦笑しつつ心の中で『今回は痩せ我慢ではないですよ』と、こぼす。

 

いつもいつも無理して、自分の身を全く考えずに全身全霊で彼の為に働こうとする加賀を押し留め、『あなたが無理する方が却って提督には負担となります』と諭すのが赤城の役目。

他の艦娘には強いないからこそ、自分の身を捨てて尽くそうとするのが、加賀と言う狼種犬系艦娘だった。

 

「……これだけれど」

 

――――信用、されてないのかしら。これまでを振り返れば当然だけれど……少しくらい、私を信用して欲しいものね

 

「それはお人好しの提督さんでも無理なんじゃ……」

 

屋根裏から様子を伺っている瑞鶴にすらそう言われてしまう程度には『不惜身命』を貫いていると思われる彼女は、一応反省はしている。

ただ、少し、忠誠心プラス恋慕プラス罪悪感が自分の命と釣り合わないだけなのだ。

 

具体的に言えば、提督の性格が反転して、『加賀ぁ、お前あの時はよくも俺の精神を圧搾してくれやがったなぁ』と脅せば、罪悪感に襲われて途端に奴隷の様に従順になる。

 

何をしようとも文句は言わないし、死ねと言われたら死ぬ程度には、加賀は罪悪感を抱いていた。

 

コンピュータで解析され、診断され、印刷された結果に目を通し、提督は一つ頷く。

 

「よし、誤魔化してないね」

 

――――目を離せない娘だな。こと、このことに関しては

 

「……むぅ」

 

――――心配してくれるのは、嬉しいのだけれど

 

お互いが、お互いを想っている。

そのことが節々にわかるだけに、赤城の珈琲摂取量は増えた。

備えが無かった瑞鶴は、砂糖を吐きそうになっている。

 

「あの、提督」

 

「うん?」

 

「……いえ、その、何でもないわ」

 

このごく短い会話も、この二人が片眼鏡を通して見れば、こうなる。

 

――――提督とお出掛けなど大それたことは望まないから、少し見回りにでも行きたいわ。けれど、提督は仏頂面の私なんかを連れ回して嬉しいとは思えないし、どうなのかしら

 

――――あ、加賀さんから話し掛けてくれた。嬉しいな

 

――――提督は私のことをどう思ってくれているのかしら。仏頂面な私を秘書艦として使っていただいてるのは、温情なのでしょう。ならばここで胡座をかいて更に欲を深めるのは、業が深いというもの。提督は優しすぎるから、断われないでしょうし

 

「……甘い」

 

「……これ、何でお互いに気づかないんですか?」

 

「お互い自分の欠点だけを凝視して、『釣り合うわけがない』と断じてしまっているからですよ」

 

砂糖を口から吐きそうになり、あまりの甘さから逆に見ているこちらが恥ずかしくなった、という形の瑞鶴は頬を染めて俯いた。

 

もうこれを無理矢理にでも付け、結婚させてしまおうと、思わないでもなかった。

 

「やっぱり、加賀さんには結ばれるのはまだ早いですね」

 

「ぇ、え?」

 

そんな考えを打ち砕くように、赤城はポツリとこぼして来た道を逆進し始める。

 

瑞鶴は一瞬呆気にとられたものの、慌てて追従しながら理由を問うた。

 

「あの娘の愛の形は、溶かすような愛です。成熟しなければこの形は変わりません」

 

「?」

 

溶かすような愛と言われても、瑞鶴にはわからない。

この辺り、もう恥ずかしくなって片眼鏡を外してしまったことが裏目に出ていた。

 

加賀は、提督に依存している。

存在意義とか色んなものを、好きになるにつれて提督と同一化させてしまった。

 

それは提督が悪いわけではないが、加賀が悪いわけでもない。ただ、頼れる人間が一人だけで、その人を好きになってしまった、と言うのが不味かったのである。

 

加賀は依存し、依存し、依存する。どんな扱いを受けてもそれを受け入れ、想い人の理不尽を愛で溶かす。

 

愛しているから。

 

この一言で、加賀は永遠に想い人から離れることもできずに尽くし、尽くし、尽くすのだ。

お互いの常識や暗黙の了解といったものを甘やかし、依存し、愛すといった暖かさで包み、溶解させる。

 

もう加賀は提督と言う想い人に対する愛しさに首まで漬かった状態であり、生命維持以外の全てを依存していた。

 

死ねと言われたら、死ぬ。

消えろと言われたら、消える。

戦えと言われたら、戦う。

勝てと言われたら、勝つまで戦い抜くだろう。

 

その依存は、自分だけでなく依存対象までをも溶かしてしまうことに、

加賀は気づいていなかった。

 

提督はこのまま加賀の愛を知り、受け入れれば、その愛の深さに驚き、喜ぶ。両想いであり、打算も何も無いのだから、喜ぶ以外に分岐はない。

そして、躊躇いもなくその愛に沈んでいくだろう。

 

どろどろに蕩けたような二人の世界を構築し、共依存してどうしようもならなくなる。

加賀の依存の対象は少なくとも、断固とした孤影を守らなければならない。

 

そうすれば、加賀は提督を献身的に支えるだけの良妻で済む。

ただ、自信がない提督と自信がない加賀が組むと、どうしようもならなくなるだけだった。

 

まだ早いと言うのは、そういうことである。どちらが成長してこの時間を縮めるのかはわからないが、少なくとも赤城にはそう思えた。

 

愛してしまったが為に、加賀は裏切られ、切り捨てられ、見捨てられた時に芽生えた恐れが提督へ剥き出しになっている。

 

元来加賀は、戦士として強くはない。そもそも傷を負わされたら怒るか怯むかの二択しかない彼女の心が、戦いに向いているはずもない。

弱い心を必死に鼓舞しながら戦って、見捨てられて壊れかけ、何とか提督が継ぎ直した。

 

提督が居なくなればどうなるかは目に見えているだけに、赤城の心配と配慮は細やかであり、深い。

 

決して心は強くない相方の姿を目に浮かべながら、赤城は更に思案を巡らせ始めていた。

 

――――ほんの少しでいいから、私を見て。私を褒めて。私を愛して。

 

私を、捨てないで。お前など要らないと、言わないで。

 

わたしと、ずっといっしょにいて。ひとりに、しないで。

 

 

ふとした拍子に毀れてしまいそうな脆さを持つ彼女は、変わらず凛として、提督の側で座って居た。



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四十七話

赤城たちが去って、二時間程経った後。

少し続いた沈黙を打ち破るように、真面目な加賀に適当な話題を振ることに定評がある提督は口を開いた。

 

「ねぶるって、さ」

 

「?」

 

ねぶる。九州あたりの方言らしい。舐めるとほぼ同義。

 

頭にクエスチョンマークを浮かべながらも律儀にその言葉に対しての情報を脳内にあるだけ掻き集めた加賀は、一つ頷く。

 

何が来るのかわからないが、意味さえわかっていれば完全にわからなくなる、ということもあるまい。

 

彼女は、ごく常識的にそう思っていた。

 

「エロいよね」

 

「……え?」

 

「いや、だからさ。ねぶるって、エロいよね」

 

意味がわからない。

加賀の頭を、理解不能という四字がよぎり、埋め尽くす。

 

ねぶるの何がエロいのか、加賀にはまるで理解できなかった。

 

「加賀さんをねぶりたいです」

 

仕事に疲れた男特有の何も考えていない発言が飛び出し、加賀は更に困惑した。

最低限の嗜みとして香水くらいは付けたいと思っているが、なにせそのたぐいの嗜好品をつくる余裕がない。

 

それに、あったとしても値が張り、とても手を出せたものではない。

冬だから汗はかいていないと思いたいが、好きな人の前で道着の襟元を嗅いでみるわけにもいかなかった。

 

「……私、何の味もしないけれど」

 

どこをねぶるのか、わからない。

わからないが、提督がしたいならさせてあげたい。

だが、少し不安でもあるし、恥ずかしくもある。

 

少し怯みながら、加賀は健気にも姿勢を正して提督に向き直った。

彼女は基本的に身体を触られても、『大概にして欲しいものね』と―――つまり、程々にしてくれれば触っていいと言っていた。

 

即ち、『仕事にならないまでに滅茶苦茶しないならばお触りオーケー』である。

この本意を察知したというわけではなく、ただ単に辛抱たまらなくなっただけだが、以前の提督は半年に一回程の頻度で故意にお触りを求めてくる傾向にあった。

 

最近踏んだり、膝枕をしたり、計らずも添い寝できた、というようなことはあったが、八ヶ月前のように『加賀さーん!』とか言う喚声と共にアルコール臭が漂う突撃を喰らって臀部を引っ叩かれてから、とんとそのようなことはなかったのである。

 

(流石に動揺して、蹴り飛ばしてしまったからだと思っていたけれど)

 

自分は別にお触りは禁止していない。

ただ、事前に触ると言ってもらわないと、こちらも驚く。

それに、恥ずかしさに耐えるにも事前のシュミレーションが大事なのだ。

 

恥ずかしさのあまり蹴り飛ばしてしまったのは、その辺りが原因である。

 

酔っていたこともあって、その滑らかな蹴りで気絶した提督は酒を呑んでからの記憶を無くしてしまったらしいという報告を受けて、加賀は随分気に病んでいた。

 

「……ねぶる?」

 

「い、いや」

 

前回の臀部引っ叩き事件は、提督も加賀から『こういうことがあった』という形で聴いている。

 

流石に、提督も自分の頭が仕事のしすぎでおかしくなっていることを自覚し、慌ててそれを取り止めた。

 

「ちょっと頭がおかしくなってた。変なこと言ってごめんね」

 

「……別に、いいのだけれど」

 

触られるのは、嫌ではないのだ。嫌だと思ったら、海に投げ入れている。

 

だのに、臀部を引っ叩かれた加賀は叩かれた瞬間に少し艶やかで甘い吐息を漏らし、若干の痛みと喜びに思わず片目を瞑って顎を上に逸らしただけだった。

後に蹴ったが、それだけだった。

 

常に妄想の種にしてきた大破状態で骨が軋むほど抱きしめられた案件といい、加賀は提督にならばいじめられるのも許容できる。

と言うよりは寧ろ歓迎していた。

 

(そんなことは無いと思うけれど、私は痛いのが好きなのかしら)

 

負傷した時などは、目の前がチカリと燦めく程急激に頭に血が昇る。

だから、恐らくはそのようなことはない、はずだった。

 

結局、加賀の中では『何にせよ、提督が自分に構ってくれたから嬉しかったのだ』というところに落ち着く。

これも、割といつものことだった。

 

「休憩しよう。これ以上続けたら、何か意味わかんないこという自信がある」

 

「そう」

 

微かに吐いた息と共に漏れ声が、たまらなく艶めかしい。

無意識だろうとわかってはいるが、加賀を愛している提督にとってはその無意識かの些細な動作ですらドキリとしてしまう。

 

肌が、雪のように白い。

気候が近頃おかしくなっているこの世界では、旧フィリピンでも豪雪が降っていた。

 

「このままだと、歩けない程度に積もるね」

 

「はい」

 

カーテンから少し窓の外を覗かず、提督は異能で景色を感知して感想を述べる。

深海棲艦が出現してから発言した異能は、もはや眼で見たり鼻で嗅いだりすると同様に、自然に彼の第六感として備わっていた。

 

と言っても、少し張り詰める程度に、今は寒い。

積もるのは見なくともわかる程だが、歩けない程度に、と言ったところに彼の特異性が表れていると言えるだろう。

 

彼は視界が潰されても、全く日常生活に支障をきたさない稀有な人物なのだから。

 

「あ、そうだ」

 

「?」

 

「ボランティアしよう。街の雪もさ、掻いちゃおうよ」

 

フィリピンには艦娘のみが住んでいるわけではなく、日本国民も住んでいた。

資源を惜しみなく使って明石の工廠で大量生産された水耕プラントや人造蛋白プラントなどを使い、本土の様に餓えてはいない。

 

寧ろ、配給制だからこその食生活が完全に補償されているおかげで嗜好品の生産が進んでいる。

香水などはまだまだ値が張るが、ほそぼそと作られているのが現状だった。

 

一度まっさらな廃墟にされただけに一から街区画を整備でき、農業用区画や畜産用区画などに本土の生存競争で敗れた者たちを入植させて自給自足を行っていた。

 

もっとも、人の手で作る野菜も肉も、美味いとはいえ嗜好品。自給自足できている主な要因は水耕プラントや人造蛋白プラントなどがフル稼働しているからである。

 

つまり海軍が、と言うよりも提督率いる比島鎮守府がこの比島に住む人々の最低限の、だが本土ではそれすらも難しい暮らしを支えていた。

 

だから別に艦娘との関係は険悪と言うわけではないが、良好とも言い難い。

生きていくに困っていた人間が生きていくに困らない食生活を保障されたにも関わらず彼らの不満がまだあるのは、政治における区画割り、入植者の選別権などを海軍に牛耳られているからであろう。

誰にでも言えることだが、欲望とは際限がないものなのだ。

 

故に謂わば、普通、という線を挟んで無関心でいるような関係である。

 

個性派揃いの艦娘と、恨み骨髄な古参の加賀等を抑えたり宥めたりし、大本営との間を取り持ってきた調整役たる提督としては、この関係を少しでも良好な―――とまではいかずとも、マシなものに変えたかった。

 

「反対です」

 

「え、なんで?」

 

「一度こちらが雪掻きを手伝えば、今度積もった時に『なぜ手伝わないのか』と言われるでしょう。つけあがらせない方が懸命よ」

 

頭から人の自立心と善性を信じていない加賀の言葉に、提督は少し困ったように笑う。

それはその通りだと思うし、自分も欲望には限りがないことだとわかってもいる。

 

なにせこの美人の側に居て、少し声をかけていただけるだけでもありがたかったのに、今ではお触りをしたいと思ったり、ねぶりたいなどとトチ狂ったことを言い出す始末。

 

そのような人間が、彼の一番身近に居た。

と言うより、自分である。

 

「そ、そうですね」

 

「欲望には際限がないわ。私も夢のようなことを一度でもしてもらったら、またして欲しいと思うもの」

 

「……なんか、やけに実体験有りげな言葉だね」

 

「…………いつもそう思っているから、当然よ」

 

やっぱり、国防を全て艦娘に依存しているから、だろうか。

深海棲艦と互角に戦えるのが彼女たちだけだとわかってきた最初の頃、彼女らはまるで賓客のような待遇を受けた。

 

三食はまだまだ今に比べたら安かった―――とはいえ、あたかも神に接するようにして、高級品であることは変わりなかった天然の肉が付き、米や野菜も存分に饗す。

 

それが量産可能であり、人に従う者であるとわかってから、熱い掌返しを自分達はやった。

 

神は隷僕になったのである。

 

人の抱く感情は、守ってくれるだけで有り難いと言う素朴な感謝から、守るのは当然だと言う傲慢に変わったのだ。

 

「ごめんね、加賀さん」

 

「……?」

 

何で身を切られたように痛切な表情を見せて彼が謝るのか、加賀にはわからない。

提督からすれば神から隷僕へと貶めた人間という存在を、それでも守ってくれている艦娘と言う存在に対する謝罪と感謝であるが、加賀は彼の思考を覗けない。

 

唐突に謝られたようにしか、感じることができなかった。

 

「……何を、謝っているの?」

 

「君たちに生死が賭かる程の迷惑をかけている、ことに対して」

 

加賀には、わからなかった。

この君たちが、という表現が艦娘と言う全体を表していることが、わからなかったのである。

 

「……よくわからないけれど、私はやりたくてやっています。貴方は謝るより、お礼を言って欲しいわ」

 

そして、できれば褒めて欲しい。

撫でて、腰の辺りに腕を回してもらう。

 

耳元でありがとう、と呟いてもらって、軋むほどに抱き締めて欲しかった。

 

だが、提督はそう大胆なことが出来るわけではない。

ちらりと加賀を見て、提督は俯く。

 

どうしよう、と言うような戸惑いを見て、加賀はぺこりと頭を垂れた。

 

撫でろ、と言うのである。

癖っ毛がぴょこりと跳ねている加賀の柔らかな黒髪に手を添え、提督は恐る恐る、優しく撫でた。

 

「……ありがと。今までも、これからも」

 

加賀は、そうされるだけで幸せだった。



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四十八話

ビス子怒りの五時半起こしを喰らい、五時四十七分に起床した彼は仕事がてら、現在の日本の国土を立体として表した地図をビスマルクと共に怜悧な眼で見下ろしていた。

 

人形の団体が深海棲艦の空襲によって寸断されたものの、徐々に復旧されてきている道路をのろのろと移動していく。

近海では背中から砲塔が生えていたり、弓を持っていたりと言う、各艦種の特徴を捉えていると思しき人形が滑らかに動いていた。

 

俯瞰風景と言うべきその地図は、軍事的に必要な要素を余すところなく映し出していた。

 

「相変わらず、機材がある上での情報把握にかけては他の追随を許さないわね」

 

「まあ、他の提督みたいに『バリア強度の上昇』とか『砲撃速度の上昇』とか、『火力の底上げ』とか、役に立つ能力じゃないけどね」

 

他の提督は、艦娘の能力を上げる異能を持つことが多い。と言うよりも、その底上げの幅の大きさこそが提督としての有能さとして格付けされている。

 

故に提督としての適性を持つ人間の発掘と練磨が急速に組織化された今となっては、彼は提督にすらなれないだろう。

 

格付けの仕方は、彼が本土勤務をしていた頃から僅かに変わった。

先ず艦娘の意思を奪う拘束力の強さ。

次に、艦娘の攻防能力を底上げする幅の大きさ。

最後に、独自性となっていた。

 

直接能力を上げることができるのは運と言う戦闘に役に立つとは確信できない不確定要素、独自性は索敵特化とすれば及第だが、拘束力に於いては塵屑同然。

 

長門提督こと南部中将などは火力とバリア強度を大幅に底上げでき、横浜提督こと一条中佐は雷撃能力と火力を底上げできる。

 

彼が出来るのは人間電探と言うべき異能と機材を活かしての広範囲・高精度索敵だけなのだ。

それも、負担をなるべく減らす為に異能二割機材八割の割合で、である。

 

索敵と、敵海域の制限や機構のハッキング。

謂わば奇襲を潰し、罠を外し、正面切っての殴り合いに終止させるだけの異能だった。

 

もっとも、世界最強と言っていい練度を誇る艦隊と正面切っての殴り合いを強制されようものならば、敵の絶望感は尋常なものではないだろう。

その点、彼が捨て艦と呼ばれる効率的な海域占領方法を使わずに地道に艦隊の練度を上げ、レイテ以外では勝てる敵としか戦ってこなかったのは正しい選択だと言えた。

 

そんなことを考えて、やった行為ではないだろうが。

 

「深海棲艦に動きは見えない。と言うことは、先程の第一攻勢で使い切ってしまったのかしら?」

 

「深海棲艦の戦力も、尽きることがあるらしいからね」

 

第一攻勢、と呼ばれたそれは、件の十二月二十日から二十一日にかけての敵機動部隊の来襲を含んだ各鎮守府に向けて深海棲艦がしかけた攻勢を指す。

 

大本営は間一髪でこれを掴み、直属艦隊を引き返させた。

それが、先の那須退役中将との戦いでビスマルク達が前線に取り残された原因である。

 

この機敏な判断によって大本営は辛うじて敵機動部隊の迎撃に成功したものの、このように完全に敵機動部隊を迎撃できた鎮守府は、三つしかない。

 

留守部隊に主力を振り分けていた長門提督こと南部中将と、大本営が置かれていたが為に計らずも大規模な援軍を受けることができた横浜提督こと一条中佐、遠征部隊が敵補給線破壊艦隊だった彼の鎮守府くらいなものだった。

 

他は鎮守府の空や海を占領されたり、轟沈者を出していたりする。

 

「まだ鎮守府に帰投できていない艦隊も居るらしいし……何か、また拙い感じになってきてる気がするわ」

 

「奇遇だね。同感だよ」

 

更に言えば、表向きは『演習』としてしまったが為に、演習にかまけているが為に主力を横浜に集結させてしまったということで、街に被害を出した各提督も非難を免れていない。

 

裏向きには大本営が叛乱艦隊を鎮圧しきれなかったということで、事情を知っている各提督への威光と権威の低下が著しかった。

 

具体的に言えば、今までは大本営が極めて強力な艦隊を保持しているからこそ軛を打つことができ、軍閥化が抑えられていたのである。

 

中央集権的な海軍の各鎮守府に対する支配体制を維持する為に打ち込んだ軛が、緩み始めていた。

 

誰もがこの不自由な世界に不満を抱え、それでも力無き故に折り合いをつけて生きている。

だからこそ、艦娘と言う力を行使できる自分たちはよくよく身を謹み、誰よりも折り合って生きるべきなのだ。

 

「俺はそう思ってたんだが、力を行使できるから自分たちは偉い、と思う提督が多過ぎる。実際に戦うのが誰だと思っているんだ」

 

「……ふぅ」

 

怒りすら篭もった提督の言葉を受け、ビスマルクは肩をすくめて溜め息をつく。

 

彼女としては、別に肯定も否定もできない。力を行使できる提督と言う職につけたのはのは生まれ持った特質があり、努力があった。

 

更には今まで一市民だった人間が『適性があるから』と言っていきなり徴兵され、今まで生き残っているということになる。

 

そのことにストレスを感じ、手に入れた力に驕りきってしまうのもわからなくもないのだ。

 

この辺りを嫌悪する加賀とは違い、ビスマルクには柔軟性と理解があった。

それは裏を返せば、『そこまで期待していないし、評価もしていない』ということなのだが。

 

加賀が病的なまでに人を嫌うのは、その善性と誇り高さに期待していたし、評価もしていたのに裏切られたからだろう。

 

最初から期待していないし評価もしていない者と、期待していて評価もしていたのに裏切られた者。

 

どちらが良いのかは明確な答えを出せないが、ビスマルクは提督には更なる成長を期待していたし、その性格や能力に対して評価もしていた。

 

加賀がその能力をわざと評価せず、敢えて期待を抱いていないのとは対照的である。

 

加賀は、停滞しても後退してもいいから、裏切られたくない。

 

ビスマルクは、僅か半歩でもいいから脚を前に出して欲しい。

 

過去の出来事から発したその辺りに、扱いの差は表れていた。

 

謂わば両者の差は、拠り所となる大樹は拠り所であり続けてくれればよいのか、それとも実を付けて欲しいのかと言う差であろう。

どちらも否定できるが、否定できない。

 

人付き合いに正解などはないが、難問、と言うのが一番しっくりくる表現だった。

 

「Admiral、人とは権力を手に入れる度に更なる高みを目指そうとするものなのよ。貴方の理屈は常識上の理屈だけど、それでしかないわ」

 

「権力闘争は、常識外での戦い。わかってるよ」

 

権力を手に入れると却って隷下の艦娘たちの身が危なくなることを何となく悟っている彼は、中将になってから二年だが昇進しようとすらしない。

 

大将どころか元帥になれるだけの功績を上げているのだが、やっかみを買うのが嫌だった。

と言うより、艦娘の給料を上げてくれと言う要望を通す代わりに昇進を蹴った後、そもそも昇進の話が来なくなっている。

 

「……結束しなきゃ滅びるのに、何で結束できないのかな」

 

「結束しなくとも誰かが何とかしてくれたからでしょう。現にレイテから侵攻してきた姫を含む艦隊を、誰かさんが何とかしてくれたわけじゃない?」

 

その誰かさんは、深海棲艦の最精鋭だった南方艦隊を撃滅してしまっていた。

南方艦隊が健在で、比島を含む豊富な資源地を得ていなかったならば、まだここまで酷いことにはなっていないだろう。

 

なにせ、そうする余裕もないのだから。

 

「ま、まあ、俺が悪いんだろうね」

 

割りとまともに皮肉を呑み込んでしまった提督は、思わずといった形で肩を落とした。

彼は外から来た危機を救ったし、外から来るであろう危機を未然に防いだ。しかし、その所為で内から危機が産まれたのである。

 

ビスマルクの言った言葉は、提督にとって相当耳が痛い。

危機を救う程の力量がない癖に、運と部下に恵まれて何とかなってきてしまっているのだが今までだが、それにあぐらをかかれては少々辛いのだ。

 

「べ、別にそうとは言ってないじゃない。元気出しなさい、Admiral」

 

「とは言ってもね」

 

南方艦隊の残存戦力である機動部隊は第一攻勢で加賀率いる機動部隊と対戦して擂り潰されてしまっている。

南は無事だが、それだけだった。正直なところ、戦力が過疎化した日本海側と四国・九州・関東あたりの沿岸部が拙い。

 

今挙げた地にある鎮守府は戦力が揃っているとは言えないから、第一攻勢で深海棲艦の残存戦力が尽きるとも思えなかった。

 

具体的に言えば、第一攻勢に繋げる形で第二攻勢もできるであろう。

 

「……四国を取られでもしたら日本滅亡までノンストップな気がするんですがそれは」

 

「……………ま、まあ。ここを保持することが肝要よ。資源地まで失えば基盤を失って、結果的に反攻作戦もできなくなるわけだし、AdmiralはAdmiralの義務と責務を全うしなさい」

 

「うん」

 

最近めっきり少なくなった大本営の報告書要求を自分で書き終え、それをビスマルクの目に通させる。

全部手とり足とりやってくれる加賀とは違い、ビスマルクは先ずやらせる。

 

その後少し添削し、指導するような形で報告書を完成させるのだ。

 

細かいところを一々指摘することもできたはずであるが、そこのところはこまめに直すだけに留める。

かなり間違っているところには口を挟んで説明し、完成した報告書を自分で読ませる。

 

これで間違えた箇所を自分で勘付かせ、放って置けば次に間違える箇所の十個のうちの一つを潰す。

 

それが、ビスマルクのやり方だった。

 

「終わったー」

 

「お疲れ様」

 

一息ついて彼が見たのは、壇に置かれた日本地図。

うじゃうじゃと動きを止めない人や艦娘、深海棲艦らの動向に目を通すことができるこれは、ビスマルクの艤装の中―――司令室に殆ど死蔵されていた。

 

彼はビスマルクに座乗することが多い、というよりも隷下の艦娘の中で座乗できる艦娘がビスマルクしか居ない。

故に、自分が指揮する時の戦闘に役に立つ物はビスマルクが艤装を展開した際に持ち込んでいたのだが、彼女が強制送還される時に外に出すことを怠ったのである。

 

結果、提督が居なければ何の役にも立たない機材と、機材が無ければ全体を俯瞰することはできない提督に別れてしまったのだ。

 

ビスマルクとの書類仕事をするにつけ、彼はそのような昔のことを思い出す。

昔と言うほど昔ではないが、毎日をのんべんだらりと過ごしていた自分の人生の中で、ここ数年は比べるのが馬鹿らしいほどに密度が濃い。

 

対人関係においても、事件性においても、である。

 

「ビス子」

 

報告書の最終チェックをしているビスマルクは、呼び方から提督が公の姿勢から私の姿勢に切り替わったことを覚った。

 

一貫して加賀さん呼びな加賀が密やかな嫉妬を抱く呼び方を受け、ビスマルクは律儀にも書類から目を離してそれに応ずる。

 

「命の補充はどうよ」

 

「出来ているけど、何?」

 

「なら万が一にも不覚はないな。ちょっと付き合ってくれ」

 

くいっと指をさしたその先には、鎮守府の外の繁華街があった。



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四十九話

提督は『クリスマスまでには帰ってくる』という由緒正しき未帰還フラグを建てておきながら、キッチリそのフラグをへし折った。

いわば彼が使ったのは『敢えてへし折ることが可能なフラグを建てることによって不慮の事故を防ぐ』というような高等テクニックだったのだが、そんなことは本人も聴いた艦娘たちも知りはしない。

 

帰還してから二日後。提督はビスマルクを連れて繁華街に繰り出していた。

 

「で、何をしに行くの?」

 

「クリスマスですよ、ビス子さん」

 

大きめの靴下に詰められていたであろう大量の手紙を肩掛けバッグから数通だしてチラチラと見せながら、提督はどこか得意げな顔で二日後にあるイベントを告げる。

その得意げな顔を見て。ビスマルクは少し驚いた。

 

この顔を見るに、大本営から艦娘をいたわるべく予算がついたのだろう。ブラック企業めいた雰囲気のある日本が、こんな切羽詰まった状況で催し物にたいして経費を出す余裕を持っていたとは。

 

この比島鎮守府は割りと本気で余裕があるが、こんな余裕がある鎮守府は日本どころか世界にもそうはない。

その働きをいたわるためにも、この判断は良い部類に入るのではないだろうか。

 

「経費で落とせたのね?」

 

「自腹です」

 

いつもの艤装を纏っている時の履いてないファッションとは打って変わって、ビスマルクはキチンと長めの脚にフィットするデニムを履いている。

トレードマークの軍帽は被っていないし、メリハリの付いた身体のラインが浮き出るボディスーツは着ていない。

 

代わりに着ている黒いセーターと灰色のコートの暗さに、砂金が河となって流れているかのような金髪がよく映えていた。

 

平たく言うと、美しい。それだけに、少し黄昏れたようにそっぽを向く姿も、通り過ぎる人々の目を惹いてしまう。

 

『こんな美人相手に何やってんだ』というような視線に四方八方から貫かれ、提督は少し居た堪れなくなった。

 

「おい、ビス子」

 

「何かしら?」

 

とは言っても、ビスマルクが黄昏れていたのは殆ど一瞬に過ぎない。彼女は元来明るい性格をしていたし、切り替えも速い。

このようなある意味『いつものこと』をいつまでも引き摺るほどヤワではなかった。

 

「何故黄昏れる」

 

「それはまあ、ある意味予想通りだったからよ」

 

正直なところ予想外であってくれた方が良かったと、ビスマルクの言葉が告げている。

何が予想外であってくれた方が良かったのかは彼にはわからないが、クリスマスパーティーをやることに関しては悪感情を抱いていないように思えた。

 

彼女としては、開催費が経費で落ちて欲しかったのであろう。理由はよくわからないが。

 

「で、プレゼントを買いに行くわけかしら?」

 

「うん」

 

主な対象は駆逐艦。軽巡・重巡・空母組は対象外となっている。

サンタは居ないが子供たちにプレゼントを渡す二十代前半の提督は、ここに居た。

 

因みに対象者は八十七人。一人二千円の旧代相場のお手軽コースでも174,000円であり、物価の高騰を考えれば百万に届くことは疑いがない。

 

なにせ、ビス子が持参したゲームが筐体だけで十五万。提督も加賀に仕事を任せた時にする、携帯用のアレが、筐体だけで十五万なのだ。

 

カセットはダウンロード方式を取っているから安いが、筐体はそうはいかないのである。

 

「合計金額は?」

 

「3,756,800円。食費は除外、クリスマスプレゼント非対象者へのお疲れ様賞は込みで」

 

提督は無自覚で軍閥を率いているようなところがあるとはいえ、紛いなりにも軍人。つまるところは公務員。

アイドルやら何やらが廃れた世紀末世界においては、スポーツ選手やら何やらに次ぐ高給取りだった。

 

「まあ、これはいいんだ。まだまだ金はあるし、使い道もないし」

 

年収の五分の一が一日で消し飛ぶクリスマスパーティーとは何か、とも考えなくもないが、参加人数が尋常ではない。

当たり前かな、と金銭感覚が麻痺しかけた頭で頷き、ビスマルクはふとした疑問を口にした。

 

「博打はしないの?」

 

娯楽が断線しがちなメディアと、ゲームだけ。毎日が息が詰まるような緊張感にある軍人は、得てしてその気鬱を発散させる為に様々な娯楽に手を出すことが多い。

 

博打は、その代表格であろう。勝ちも負けも派手なところが、どこか彼らの琴線に触れるのかも知れなかった。

 

「暇潰しにやってたよ。だけど、出禁喰らった」

 

「出禁?」

 

「うん。イカサマ対策に加賀さん連れてって、適当に賭けてたらあれよあれよいう間に一財産築けちゃってさ。それにまあ、それからは顔出せるほど暇でも無かったしね」

 

おおっぴらなイカサマをしようとすれば加賀が物理的に潰し、下手な小細工をしても提督が勝つ。

 

彼は生来運が良かった。日常生活に於いてはそうでもないが、勝負事に対する時のそれは尋常なものではなかったのである。

 

「Admiralも、大変だったのね」

 

「まあねぇ」

 

やはりビスマルクは陽性だと、提督は改めて感じた。

この手の苦労話を加賀とやると、語気が暗くなる。それはそもそも暗い話なのだから当然のことなのだが、ビスマルクにはその陰性を陽性に転換できる才能があるらしい。

 

声に含まれた明るさもあるのだろうが、元来陽気なのだろう。そこのあたりは、加賀には無い魅力だった。

 

(俺が政略の話を持ち込むのも、不思議とビス子の方が多いからな)

 

政略には暗さが付き纏う。

元々明るい性格とは言えない加賀にこのような話を振れば、恐らく確実に暗くなった。

 

しかし、何となくビスマルクと話せば明るくなる。暗いドブを覗き込むような行為をしていることには変わりないが、そのドブの暗さが僅かなりともマシに見えることは確かだった。

 

「まあ、今はとりあえずあの娘たちのプレゼントを買うことに専念しましょう。何もこんな時に、話をすることもないわ」

 

「全くそのとおりだ」

 

常に三歩ほど斜め後ろを慎み深く付いて来る加賀とは違い、ビスマルクは常に隣を歩く。お国柄の違いとも言えるし、個人的な性格の違いとも言える。

何にせよ、加賀はこの隣を歩けるビスマルクを羨んでいるのもまた、確かだった。

 

じゃあお前も隣に来いよと思われるかもしれないが、そんな簡単で単純な思考回路をしていれば加賀は提督ととっくに結ばれていたはずである。

 

少し気後れしあっているのが、提督と加賀の関係の進行ペースの致命的なノロさの原因であろう。それに引き換えビスマルクと提督の間には気後れなどというものはない。

その辺りの関係も歩き方一つで表れているのだから面白かった。

 

「物価というものが高くなったのに、人はいつでも逞しいわね」

 

艦船として建造された時にハイパーインフレーションを見てきたビスマルクに、その時の記憶があるかは定かではない。

加賀の場合はミッドウェーで沈没する時の記憶がある様な口振りがあった。

 

自分で口に出そうとはしていないが、加賀はそのような風を匂わせることがある。

ビスマルクも死ぬ寸前の記憶がある様な口振りであったし、実際に話しているのも聴いたことがあった。

 

最期の記憶だけがポツリとあるのか、平均的に記憶があるが最期の記憶が色濃いのか。

 

そこのところはわからないが、何となく経験があることは察せられる。

 

「三倍になっても、何となくうまく回っている。いつ決壊して高転びするのかはわからないけど」

 

「高転びする前に、戻ると良いわね」

 

多分無理だろうということくらい、経済に疎い提督にもわかっていた。当然、ビスマルクにもわかっていた。

 

しかし、現状認識と願いは必ずしも一致するものではないし、一致せねばならない理由もない。

 

そもそもビスマルクは兵士であり、提督は一指揮官に過ぎない。政治に関しては門外漢、と言うよりも管轄外。ビスマルクには素養があるが、学んだだけで実践してみたわけではないのである。

軍人は経済

を保持することが仕事であるが、この状態でそれを求めるのは些か酷というものだった。

 

「本当にね」

 

彼の一手ではシーレーンの完全な保持などできはしない。

 

資源地を保持し、堅守する。彼は自身の能力をその程度だと規定していたし、現に彼自身の能力は戦争に向いているものではなかった。

 

後方支援と、関係調整。補給を絶やさず、友軍との連携を密にすることくらいしか、彼はできない。

 

いっそ自嘲的な眼で、彼は自らを見下していた。

 

「今、北と中央と南で分かれているが」

 

ビスマルクがその手の歴史にも詳しいと知っている提督は、主語を出さずに例のみを挙げる。

 

「我々は平家みたいなものさ」

 

「あなたは平家の、誰?」

 

「維盛」

 

「水鳥の音に驚いて逃げた人でしょう、それは」

 

「その程度さ」

 

それは無いだろうというビスマルクの視線を受け流し、買い物カゴに商品を几帳面に積みなから自戒した。

 

その程度の男が優秀な部下を使っているのは、自分の意見に意固地にならないからだと、彼は幾度も己を戒めている。

 

(どちらかと言うと、その父親だと思わないでもないけど)

 

ビスマルクの思った父親とは、平重盛。平家一門の調整役である。

何かと暴走しがちな一門の面々に待ったをかけ続けているところなど、非常に似ている。殆どのキャリアが後方支援と陸軍との折衝交渉だった提督からすれば、親近感を覚えても良さそうなものだった。

 

言えば『そんなに有能でも人格者でもない』と突っぱねられるだろうが、事実として彼が居なくなった瞬間に戦力の大半は消え去るだろう。

 

別に瞬時に轟沈するわけでもないが、士気や何やらがガタ落ちするのは目に見えていた。

 

「一航戦の二人は?」

 

「赤城は盛俊、加賀が重衡。二航戦は纏めて忠度、五航戦は姉が知盛、妹が教経かね」

 

盛俊は平家一の侍大将、重衡は美濃源氏・近江源氏の討滅や水島の戦いで完勝した常勝将軍。忠度は文武両道の達人、知盛は平家最後の総大将、教経は文字通り矢が尽き刀が折れるまで戦った猛将。

 

盛俊・重衡・忠度が全員一の谷の奇襲に敗れて結果的に死んでいることを考えれば、提督の言わんとしているところが自ずと知れた。

 

「やる気はないわけね」

 

「ない。怖いから、勝てる戦を勝手知った場所でやる」

 

来たらやるが、来なければ放置。基本的に内部での騒乱には日和見をするのが彼の基本スタンスである。

だから南部中将こと長門提督も、那須退役中将もとくに声をかけようとしなかった。

 

彼等からすれば、自分たちや大本営、各鎮守府に資源を供給している提督の鎮守府を敵にしようとはしなかったし、過去何度かあった政変もどきでも完全に沈黙しているだけで何もしていない実績から、味方に付けることを諦めている。

 

深海棲艦南方艦隊を完全に抑え込んでいるだけで、御の字だと思っていた。

 

大本営はそれに満足していないが、彼は元々あまり内ゲバに介入する気もなかったし、今回の珍しくやる気を出した介入で、もうほとほとやる気が尽きている。

叛乱の動機に共感出来てしまったし、もうこれ以上醜い人間を見ることにあまり積極的にはなれないのが本当のところだった。

 

「正直なところ、南方資源を囲い込んでいれば早々本土は飢えないし、艦娘達も実力を発揮できるはずだ。あとは本土の方々に任せよう」

 

「……」

 

本音を言えば、それはどうかしらとビスマルクは言いたい。内乱が現に今本土で起こっているわけだし、四国に一艦隊が上陸したいう風聞もある。

この風聞は提督を異能を利用した壇で示されたものであるから、ほとんど間違いのない情報なのだ。

 

どちらかを叩き潰すなりなんなりして内乱を強制終了させるか、その調整能力を活かして何とか講和させる他にない。

何にせよ、深海棲艦という強力な外敵と戦うには人類と艦娘は一丸となるしか打開策はなかった。

 

(まあ、今からどうにかなる問題でもないわね……)

 

当人たちの間で一応の解決がみられるまで放置した方がいいだろう。下手に首を突っ込めば思わぬ反撃を被ることにもなる。

 

でも一応手は打っておこうと、ビスマルクはあることを提案した。



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五十話

「ごめん」

 

「…………」

 

提督の謝りに対してむすっ、と頬を膨らませ、加賀は秘書艦としての任務を果たすべく敬礼した。

 

私は怒っていますと言わんばかりのその顔は、怖いというよりは可愛い。

無表情な加賀の片頬が膨らみ、ジト目を少し陰らせてそっぽを向くその姿は、常勝を誇る空母娘と言うよりもただの可愛い女性である。

 

加賀は明らかに気分を害していた。

 

(……あのほっぺた、潰したいなぁ)

 

元々揉んだら程良く柔らかく、張りがありそうな魅力的なほっぺたをしているのだ。

 

膨らんでいるとあらば、そうしたい。

 

「さあ加賀さん、仕事しようぜ」

 

肩が小さい。

掴んだ肩が思ったよりもすっぽりと手に入ったことに驚きつつ、提督はそう声を掛けた。

 

「…………」

 

一言も喋らず、加賀は肩に置かれた手を払ってそっぽを向く。

私は怒っていますと言う態度はつまり、構ってくれ、ということらしい。

 

構って欲しくて、加賀はそっぽを向いていた。

だが、提督も一度の斥候で爆弾と化しているとわかった加賀に触れる程勇者ではない。

 

―――放っておこう。

 

これが、怒った加賀に対する提督の基本スタンスだった。

 

むすっ、が、むすー、くらいにまで収まった加賀をちらりと見ながら、提督はポリポリと頭を掻く。

 

加賀さんと話したいが、加賀さんに怒られたくない。

その辺りの微妙な心理が、提督の沈黙には表れていた。

 

(……ていとくのばか)

 

ペンに力を込め、加賀は書類に怨みがあるのかと思われる程の筆圧で書類を続々と処理している。

 

自分とは一緒に外出しないのに、ビスマルクとは外出する。

それが『ビス子の艤装にプレゼントを放り込めば駆逐艦娘に見られないし、重荷にもならないし一石二鳥』と言う合理的な判断だとしても、だ。

 

(ばか。ばかばかばかばか)

 

怒りは表に出せないし、癇癪を起こすほど理性的でないわけでもない。

加賀はムカムカと盛り上がる怒りを持て余しながら、書類を次々に終わらせている。

 

早く終わらせて、一緒に外出したい。

誘えるかどうかはともかく、誘ってもらえる可能性は僅かにあった。

 

(提督なんか、嫌いよ)

 

そう呟いてみて、慌てて首を横に振る。

 

(違います。愛しています)

 

嫌いではない。断じてない。自分は提督に愛されたいし、愛したい。自分の愛で、提督を楽にしてあげたい。

 

加賀は黙っている提督を横目で見ながら、黙々と仕事をこなした。

幸い、最近回ってくる書類は少ない。大本営もそれどころではない、ということなのだろう。

 

「……やりました」

 

「そうか、お疲れ」

 

あまりに素っ気ない言葉を受け、加賀は些か面食らい、その三倍ほど愕然とした。

 

提督が、構ってくれない。セクハラでも何でもいいから、構って欲しくて自分は頑張っているのに、構ってくれない。

 

「……手伝います」

 

「いや、いいよ」

 

短いながらも明確な拒絶の言葉が放たれ、彼女は相当明確に怯む。

提督に手伝いを拒まれたことがなかっただけに、それは新鮮な恐怖だった。

 

自分のアイデンティティーが犯されているような気がしたのである。

秘書艦としての有能さで勝ることができない己など、ただの無愛想で魅力が皆無な女でしかない。

 

どうしようと、加賀は頭が真っ白になった。

 

「……よし、終わり」

 

三時間ほどの勤務で書類は全て裁かれ、纏めて大淀の元に電子化されて送られる。

そこで改めて確認され、大本営に更に電子化して送る、と言うのが実情だった。

 

「早く終わったねぇ」

 

「……はい」

 

加賀は、明らかにテンション下げて俯いている。

彼女にとっての執務の時間とは愛しの提督の隣に居れて、しかも色々声を掛けてもらえる楽しい時間なのだ。

 

早く終わって、嬉しいと思えるはずもない。

 

(……あぁ、殻が剥れた)

 

自ら口を開いて起こりだそうとしない程度に怒っている時に無視し続けると、加賀は逆に怯む。

怯んで、どこかおどおどとしてこちらの様子を伺ってくるのだ。

 

いつも凛と張っている背は少し曲がり、気の強さを象徴しているような猫目は目尻が下がって気の弱さが垣間見え、怯まずにこちらを見据えてくる視線は定まらない。

 

その女性的魅力に富んだ身体にも関わらず、その隙の無さから女と言う感触を抱かせない加賀の、女としての弱さが剥き出しになる。

 

この瞬間が、提督は何よりも好きだった。

 

おどおどとこちらを見て、視線を合わせるようにこちらが動けば地面を見つめる。

沈黙の中にある『話しかけてくれ』という欲望を無視して、加賀に自分の不器用さを直視させる。

 

話そうとこちらを見た瞬間に、椅子を鳴らしたりしてその先を断つ。

普段ならば何でもないような音で怯み、不安げにこちら見てくる加賀を無視し、提督は加賀を観察していた。

 

(可愛いけど、そろそろかな)

 

怒っている時に、この手はよく使う。だからこそ、彼は退き時を知りすぎるほどに知っていた。

 

「加賀さん、今日もありがと」

 

「……はい」

 

柔らかい、梳いても指に引っ掛からない髪を撫でる。

一撫でするごとにオオカミが犬に変わっていくような感じがあった。

 

加賀のことを、提督はオオカミだと思っている。誇り高く、賢い。だからこそ独立心が強い。

 

それをできれば、犬にしたい。叛乱は、起こしたくないのだ。

そのような切実な理由もあって、加賀にあらん限りの愛を込めて、提督は撫でる。

 

「いつも感謝してるよ。書類仕事にしても戦争にしても、加賀さんには頼りっぱなしだね」

 

「……いえ」

 

ただ俯いたまま撫でられるだけだった加賀が、少し身体を提督に添えた。

十五分間撫でたの末、頬を胸板に付けるようにして加賀は提督の愛撫を受け入れていた。

 

加賀は好きな人の生の匂いに包まれて、頭を痺れさせてしまっている。

もはや理性と呼べる理性はなく、抵抗心と言うべき心も溶け切っていた。

 

「加賀さん」

 

「……、はい」

 

服越しに胸板をくすぐる吐息が、やけに熱っぽい。

加賀は撫でられるのが好きらしいとわかってきた最近の成果を踏まえてのちょろまかしは、彼にとっても意外の念があった。

 

サラシに潰されてもなお張りのある、瑞々しい果実のような加賀の胸部装甲が提督の鳩尾の辺りに押し付けられている。

 

正直今まで、言葉や何やらで褒め称え、加賀をいい感じに高揚させて赦しを乞うのが一般的だった。

褒め称えるにしても事実だから、嘘をつくような罪悪感はない。ただ、あまりのちょろさに罪悪感を抱いたものである。

 

しかし、今回は情欲が凄まじく刺激された。息は熱っぽく、身体は温かい。魅力的な胸部装甲が押し付けられ、その声音は途絶え途絶えでやけに色っぽい。

 

心臓が、やけに暴れている。

激しく、リズミカルに。自分のか、それとも加賀のものなのか。それがわからないほど、二人は融和させるように身体を触れ合わせていた。

 

自分の男としての欲望が激しく刺激されるのを感じながら、提督はもう二度とやるまいと心に決めつつ、加賀の耳元でトドメとばかりに呟いた。

 

「昨日は、ごめんね」

 

ゾクッと背筋を跳ねさせ、加賀は無言でこくんと頷く。

 

いじましいくらいの従順さで、加賀は怒りを霧散させてしまっていた。

 

「ありがとう」

 

「……ぁ」

 

加賀の言葉が途切れ、瑞々しい果実が当たる面積をより大きくする。

 

大規模なセクハラに弱い。押しにも弱い。雰囲気づくりにも弱い。

 

少し加賀の将来が心配になりながら、提督は加賀を一度抱き締めて解放した。

 

果実が押し潰され、最大の快感を布越しに感じた後に接触面積が減っていき、離れる。

その寸前までとろけるような柔らかみのあった加賀の胸部装甲の名残りを惜しみながら、提督は加賀をちらりと見た。

 

瑞々しい果実に手を添えながら、加賀は肩で息をしている。

呼吸をする度に上下するその豊満な果実の皮を剥いてやり、本能のままに貪り食いたいという欲望に必死に抵抗しながら、提督は加賀が落ち着くのを待っていた。

 

「加賀さん、落ち着いた?」

 

「……」

 

ひとつだけ、こくっ、と頷く。

あれだけのセクハラを受けて文句も言わないその従順さに謎の苛立ちを感じつつ、提督は加賀の左手首を持った。

 

己を見つめる琥珀の瞳に宿る不安の中に、僅かな期待があるのは自分の気の所為、なのだろう。

 

「加賀さん、はい」

 

財布から五万円を出し、提督は加賀に差し出した。

 

頭を撫でるだけ撫で、セクハラをするだけした後の何の脈絡もない動作に怯みながら、加賀は袴に付いたポケットから財布を取り出す。

 

ちらりと財布を開いて見て、加賀は手に万札を五枚ほど持って差し出した。

 

「……どうぞ」

 

「いやいやいや、違うでしょ」

 

渡された五万円に代わって差し出した五万円を突っ返され、加賀は頭をクエスチョンマークで埋め尽くす。

 

提督に五万円を渡されることに関して、彼女には心当たりが全くない。

 

(撫で代、ということかしら)

 

更に五枚握り、差し出す。

五万円と十万円のトレードという意味不明な取り引きが行われようとしていたとき、提督が加賀の十万円をまたしても突き返した。

 

「いや、何で?」

 

「……た、足りないかしら」

 

「足りないも何も、そういうことじゃないんだけども」

 

お互いの認識に齟齬が生じている。

そのことをあっさり理解しつつ、提督と加賀は取り敢えずと言った形で金をしまった。

 

暫く、二人の間に音が消える。

 

提督は加賀の押しの弱さを逆用して許してもらった己の外道さに後悔の念を抱き、加賀は耳で血の流れる音が聴こえるほどに緊張していた。

 

(提督は、男の人なんだわ)

 

筋肉のハリがあって、どこか堅い。

骨と肌の間には自分と同じく肉も脂肪もあるだろうが、どこまでも柔らかい自分と違って木石のように凝り固まっているのだろう。

 

軍服には時々吸う葉巻の臭いと汗が混ざり、ツンとするような匂いがしていた。

途中で嗅ぐのをやめてしまったほど、あの男の匂いには頭が痺れていくような中毒性がある。

 

「……食材を買ってもらおうと思ってさ」

 

ボソリとこぼした提督の言葉に、加賀は正気を取り戻す。

彼女はこくりと、また頷いた。



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五十一話

また、死んだ。

また、死んだ。

 

また、またまたまたまた。

何回も何回戦って、安心を得て、側に居てくれと頼まれて。

 

手を、繋いで。

 

抱き上げた時には、事切れている。

 

海に身体を浮かべ、向かう。

空襲を防ぎ、陰から見守る。

 

それから触れたことも、あった。共に暮らしたことも、あった。

でも、死ぬのだ。自分は生き残り、彼は死ぬ。

 

自分に関わると、死ぬ。

 

守ろうとした。何回も何回も繰り返し、検討しながらやり直した。

でも、死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 

死んで、死んで、死んで。十回の繰り返しの後に、彼女は壊れた。

目の前でひたすら自分の愛し抜き、依存していた存在が死ぬのを見て、壊れた。

 

全て壊れればいいと、そう思った。

 

むくり、と。白い身体が起き上がる。

色素が抜け落ちたような身体は女性らしい起伏に富んでおり、その相貌には怜悧さがあった。

 

そしてその眼には、絶望がある。

 

「……テイ、トク」

 

蹲った。額を膝にくっつけ、手を回す。

こうしていれば、気づいた提督が来てくれた。

 

どうしたんだ、と言って、来てくれたのだ。

 

今、来る人は居ない。

 

(私はその優しさに甘えて、甘えて、甘え切って……)

 

依存した。全てを依存して、受け止めてもらって、自分は幸せだった。

 

この肢体を何度も愛され、彼を何度も愛し、とろけるようにして抱き合って寝て。

そうして朝が来て、お互い顔を合わせて苦笑するのだ。

 

そんな日は、もう二度とやってきはしない。

 

ズブリと、頸を刃で掻く。

まだ赤い血が噴出し、身体が別の生き物になったように痙攣し、そして、戻った。

 

「……ダメ」

 

戻りたい。戻りたい。

戻りたい戻りたい戻りたい。

 

彼に自分として会いたい。自分として隣を歩きたい。自分として、愛してほしい。

 

依存して依存して依存して、その重みに気づかずに死なせてしまったようなことは二度と起こさない。

 

―――俺は、君のことを愛してるんだけど、君はどうかな?

 

最期の出撃の前に、彼は問うた。

自分が彼の愛を受け入れ、彼に一度も明確な好意を示す言葉を言わなかったからだろう。

少し困ったように、彼は言った。

 

―――嫌い?

 

違います、と自分は答えたのだ。

そして、黙った。

 

恥ずかしいのだと。照れくさいのだと。それを黙っていても理解してくれると思っていて、甘えていた。

 

―――次に帰ってくるまでには、その可愛い口から聴きたいな。

 

唇を奪われて恥ずかしくて、でもその何倍も嬉しくて、でも表情に表せなくて。

言葉にも出せず、自分はこくりと頷いた。

 

帰ってきたら、言うつもりだった。

 

でも、彼は帰ってこなかった。

自分が迎えに行き、やっと会えたのだ。

 

物言わぬ屍となって。

 

「……アイタイ」

 

逢いたい。逢いたい。逢いたい。

 

肩を掻い抱き、軋む程に締め付ける。

彼は自分を愛してくれた彼ではないとしても、外見も口振りも、全てが同じだった。

 

壊れそうな心を抱えて、白の少女は黒い島の上で涙を流す。

島には誰も、居なかった。

 

 

Ⅹ Ⅹ Ⅹ

 

 

何か、ぽわぽわしている。

 

渡された五万円を財布にしまい、椅子に座っている加賀を横目で見て、提督は少し心配になった。

 

加賀の機嫌が良い、ように思われるのである。

 

何故セクハラされて喜ぶのかはわからないから、今回の喜びはビスマルクと同じような仕事を振り分けられたから、だろうか。

 

未だにあまり理解できない忠誠心と言うものは、同じ立場に立つ同僚と同じ質量の仕事をその対象から得られないと不満に思うものらしいかった。

 

(それにしても、柔らかかった)

 

抱きしめるのは二度目だが、一度目は切羽詰まっていた事を考えると、その柔らかさや女性特有の良い香りを存分に堪能できたのは今回が初めて、ということになる。

 

本当に日本人系の身体付きなのかと問いたくなる程に豊満な胸部装甲と、いつも醸し出している雰囲気とは打って変わった押しの弱さと従順さ。

 

その辺りが、提督を更に夢中にさせていた。

 

「提督」

 

キラキラと光り輝くようなやる気を漲らせ、少し乱れた服を整え直した加賀は提督の前へと進み出る。

頭の中にお花畑を咲かせていそうな雰囲気は変わっていないが、それでも彼女の身体を包むぽわぽわ感は少しマシになっているように見えた。

 

「何?」

 

「ありがとうございました」

 

ぺこり、と加賀は頭を下げる。

彼女からすればこれは『撫で、抱きしめていただいてありがとうございます』ということだろうが、提督にはそれがわからなかった。

 

加賀からすれば提督に抱きしめられることはご褒美でしかないが、提督にとっては自分が抱きしめてやることがご褒美だとは思っていない。

 

何故ありがとうなのか。それが彼にはわからないのはそれが理由である。

 

「どういたしまして?」

 

豊かな胸部装甲の南半球から腰へとなだらかに下って、折れそうな程に細くなり、臀部の辺りで膨らむ。

 

提督は、女性としての魅力に富みすぎているほどに富んだ身体を抱きしめていたのだということに改めて恥ずかしくなっていた。

 

恐ろしい程の美人である。釣り気味の猫目が持つ険しさを真一文字に結んだ口元が冷たさに変え、芯が通ったような背筋がその冷たさを凛々しさに変えているのだ。

 

冷たい美貌、と言うのか。完全にその美貌に、提督は一目惚れしてしまっている。

中身も知って更に惚れたが、まず恋心を持っていかれたのは加賀の美貌によっていた。

 

内面のちょろさを知ったのは最近のことだし、綺麗というよりも案外可愛いところもあると感じたのも一年ほど秘書艦と提督という形で付き合ってからであるが。

 

提督は、癖っ毛がピョコピョコと飛び出し、自分がめちゃめちゃに撫でてしまったがために少し乱れた髪を見る。

艶やかで黒曜石のような美しさを持つ、淑やかな黒色をしていた。

 

「……これからも、その」

 

そう言いかけた加賀の身体が半歩ほど、前に出る。

踏み出したのは加賀らしくなく、半歩と言うところが加賀らしい。

 

胸の前に手を当て、彼女はそれ以後を言い淀む。

構って欲しいが、構って欲しいとは言えない。その辺りが、加賀の面倒臭さだった。

 

尤も、構ってやればすぐに気分が高揚してしまうあたり、いざやるとなれば面倒臭くはない。

 

「加賀さーん?」

 

「……いえ、何でもないわ」

 

それでも、こうして言い淀んでいる所に水を向けられると咄嗟に否定してしまい、更には今まで言おうとしてきたことを無かったことにしてしまう。

 

感情が豊かで血の気が多いのにもかかわらず面に出ないと言う美点でもあり欠点でもある特徴が、彼女の進歩を邪魔していた。

 

「そっか」

 

「そうよ」

 

それっきり黙った加賀は、何となく歩き始めた提督に追従して歩く。

 

加賀は極めて優秀なナンバーツーだが、それだけでしかない。それに、リーダーシップにはかけるし、好き・嫌いで対応を両極端にしてしまう。

彼女はその辺りをキチンと理解していた。

 

リーダーシップと言えるリーダーシップを持っているのは、提督のみなのである。

彼が居なくなれば決断力は鈍り、その決断に対する信頼も鈍る。

 

重盛・高倉上皇・清盛と、今まで隆盛を保てていたリーダーシップの持ち主を立て続けに喪った平家がどうなったかは、歴史というものが証明していた。

 

加賀が何をするにせよ、それは提督の承認を受け、全面的な後押しを受けてのものなければならない。

 

「加賀さん」

 

話し掛けられて、加賀は少し距離を詰める。

提督が言うことならば何にせよ、一応は聴いてみようとするのが加賀の素直さだと言える。

 

尤も、聴いてみようとするだけであり、それに対していつも明確な反応を示すわけではない。

 

「四国奪還戦は成功したらしい。高知の沿岸部しか占領されていなかったから、この作戦名は大袈裟だとは思うけども」

 

今回がまさに、それだった。

 

「……それは重畳なことね」

 

自分でも驚くほど素っ気ない声色が出たことに逆に驚きつつ、加賀はツン、とそっぽを向く。

 

このような素っ気ない反応を示して欲しいと、提督が思っていないことを彼女は容易に想像できた。

 

だが、殆どこの言葉は脊髄反射で出てしまっている。

 

罰の悪さを心に仕舞い、加賀はもう一度提督に向き直った。

 

「素直だねぇ」

 

「私が心配すべきことは大本営がこちらに主力艦隊を向けてくることと、敵南方艦隊の残存部隊が共同作戦を取り、戦力が分散されてしまうことよ。寧ろ、失敗してくれた方が防衛上楽でした」

 

「何で?」

 

「程良く互いに損耗したところに介入し、深海棲艦駐屯部隊を殲滅してから大本営に譲渡する。こうすれば大本営も再建に時間と資材を割かれますし、距離的な問題からこの鎮守府からその為の資材を供給することになります。この供給を緩急自在に絞れば、敵艦隊の襲撃時期を操作することすら可能です」

 

資源の供給をやめれば、即開戦で都合も良い。

割と腹黒い加賀に若干ビビりながら、提督は肩をすくめて話を終えた。



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五十二話

あいつ、あの美女とは違う女連れて歩いてやがる。

そんな視線に身を斬られながら、提督は三歩後ろをとことことついてくる加賀を振り返り、止まった。

 

黒いトレンチコートに青いスカートと、灰色の長靴下。

いつもの下駄と殆ど同じくらい身長を誤魔化せる上げ底の焦げ茶色のブーツを履いた、加賀。

 

おしゃれをしてきた彼女も、その途端止まる。

 

提督が振り向くと加賀が首を傾げ、後退すると後退する。

付かず離れずと言う、提督と加賀の距離感を表したかのような姿勢を赤城が見たならば、溜め息と共に首を横に振っていたに違いない。

 

加賀は己の立ち位置の幸福を余すところなく噛み締め、満足してしまうようなところがあった。

進みたいと言う気持ちはあるが、それで提督に嫌われてしまうのが、彼女は一番嫌なのである。

 

提督から歩み寄られれば、割と酷い扱いであろうが無抵抗で受け入れてしまうようなところがあるが、その将としての先制攻撃を好む性格とは裏腹に、彼女は積極性に欠けていた。

 

「提督、何か?」

 

「いや、話しづらいなー、と」

 

「…………ごめんなさい」

 

提督が指摘したのは、歩く位置。

加賀が自覚したのは、無愛想さ。

 

どちらも加賀が話し掛けられる頻度の少なさに多少なりとも影響を与えていたものの、この場合は『どちらも同じだから良い』と言えたものではない。

 

所謂いつものすれ違いが、買い出しに出てから僅か七分で浮き彫りになっている。

何だかんだでいつもそのすれ違いは解消されるものの、無いに越したことはないのだ。

 

提督は『隣で歩いてくれ』とは恥ずかしくて言えない。

加賀は歩く位置よりも先ず、自分の表情の乏しさに目が行く。

 

その辺りが、今回の勘違いの原因だった。

 

「……加賀さん」

 

暫く三歩空けたそのままに歩き続け、提督は少し寂しくなって振り向く。

そこには、僅かに寂しげな顔をした加賀がいた。

 

「……はい、提督」

 

「話しづらいから、話しづらいから、隣に来ない?」

 

大事なことなので二回言い、提督はなけなしの勇気を振り絞って自分の左隣へと誘う。

 

それを受けて無言のままに、加賀は俯き加減に頷いた。

 

頭一つ分小さい背丈が左に並び、双方無言のままに時が過ぎる。

 

加賀は隣に来ないかと言う誘いに対して喜びを内面で爆発させ、提督は抱きしめてから続く従順さに嗜虐心をそそられていた。

 

クールで凛とした、敏腕の秘書艦。人とは思えないほどに完成した美貌と、感情を良く映し出す琥珀の瞳。

 

反抗心が強いところを見せつけられ続けただけに、今垣間見えている従順さが愛おしい。

 

わん、と言いそうな雰囲気である。

 

(私が、提督の隣に)

 

流石に気分が高揚します、とは言い切れない。何せ動揺もしているし、変な臭いがしないか心配で仕方がない。

ちらりと視線が向けられる度に、加賀は心の中で過剰な反応を見せていた。

 

(気を遣って、くれたのかしら)

 

話しづらいということをポロッとこぼしてしまった提督が、その理由は本当のところ、自分の表情の鉄仮面ぶりに由来するということをを隠す為の理由付けとして、わざと隣に来るように言ってくれたのか。

 

それとも、本当に隣に来てくれないと話しにくいのか。

 

前者ならばその気遣いが、後者ならば自分と話したいと思ってくれていることが、加賀にはたまらなく嬉しかった。

 

(またぽわぽわしてるような気が、しなくもないな)

 

加賀の雰囲気が、その身体のように柔らかい。

そんなことを思った提督は、ものの見事に自爆した。

 

巧緻に過ぎる程に巧妙に、そして精緻に。

男という生物を虜にする為に作られたとしか思えない程に柔らかく、細く、程良い固さがある身体を、思い出してしまったのである。

 

身長が赤城より小さい為、その分だけ小さな肩。

 

血の通いが温かさと鼓動と共に感じられる、肩甲骨と背骨に沿って凹みがある背。

 

くびれに廻した腕が余る程に細く、折れそうな腰。

 

腕の中に包みこまれ、おずおずと見上げてきた時の薄い唇の色の鮮やかさまでが、くっきりと脳裏に浮かんできていた。

 

そして何故だが、眩暈すら襲ってきている。

 

「提督?」

 

少し見上げるように、加賀は急に足を止めた提督に横から声をかけた。

よく見ればハッキリと感情を映し出してくれていることがわかる琥珀の瞳には、不安と懸念がありありと浮かんでいる。

 

可愛い。

 

可愛い。

 

その二語を心で呟き、提督はサッと視線を逸らす。

加賀の身体を抱きしめて味わってしまってから、まだ一時間も経っていない。

 

これ以上見ていると、またやってしまいそうな気がしてならなかった。

 

「少し座っていい?」

 

「はい」

 

ベンチを指してそう言うと、加賀は嫌な顔一つせずにそれに従う。

急に足を止めた違和感から生じる不快感よりも、彼女にとっては遥かにその異常に対する心配のほうが大きかった。

 

「……」

 

「……」

 

座っても、何をするわけでもない。

 

心配なのか、時間を無駄にするのが嫌なのか。

ちらちらとこちらを見てくる加賀の真意を、提督は測りかねていた。

 

加賀の心と言えば、『提督、ごめんなさい。あなたが仕事終わりで疲れているのに私はビス子だけではなく自分も自分もと言う欲望からお買い物に付き合わせてしまって、このような事態を招いてしまいました。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』と、止まりもしないし韻も踏まない怒涛の自己嫌悪と謝罪で埋め尽くされている。

 

止まりもしないし韻も踏まない怒涛の自己嫌悪を提督が知れたならば、加賀の動揺を瞬時に知り得ただろう。

 

そんな都合の良い道具はある。が、提督は持っていないし存在を知りもしなかった。

 

この男が今考えていることは、『加賀さんって四十代くらいのおっさんの後妻か、後家が似合うな』と言う極めて脳天気な妄想である。

 

眩暈は、暫くした後に収まってきていた。

 

「よーし、行こうか」

 

「あ……」

 

立ち上がろうとした提督の手を、加賀は咄嗟に掴む。

 

その後にちらりと視線を下げて繋いだ手を見て慌てて離し、一回怯みながら提督を見上げ、そーっと手を伸ばしてまた手を繋いだ。

 

(可愛い。でもまあ、やっぱり人は苦手なんだろうな)

 

一連の動作の初々しさに目を細め、提督は繋いだ手をしっかりと掴み直して加賀を立たせた。

 

「加賀さん、行こ?」

 

「……疲れては、いないのかしら」

 

「いや、少し座りたくなっただけだから大丈夫だよ」

 

(優しい嘘ね)

 

あまりにもあんまりな、優しい嘘。

元々嘘が下手なのは知っているが、今回はそれに輪を掛けて酷い。

 

少し座りたくなっただけ、と言うのは説得力に乏し過ぎる。

かと言って、このままでは自分が提督を心配し続けるということを、わかっていたのではないか。

 

だからこそ、嘘を付いた。

 

(愛して、いるのかしら)

 

普通、愛しているならば彼の身体を慮って鎮守府に帰るべきだろう。

だが、自分はそれを望んでいない。まだ一緒に出かけていたいと思っている。

 

自分の愛は、身勝手だ。

 

詰まるところ、側に居たい。側に居て、愛してほしい。自分はそれだけなのではないか。

 

「加賀さん?」

 

止まってしまった加賀の方へと、提督は振り向いた。

 

わざわざ着替えた私服の裾が、加賀の手に掴まれていたのである。

 

「……提督」

 

「うん?」

 

口を開けて、加賀は言葉に詰まったように閉じた。

事実として、彼女は言葉に詰まっている。

 

提督に己の貪婪さを伝えたくない。

提督に己の勝手さを伝えたくない。

 

醜い女だと、見られたくない。

 

加賀は、提督の裾を掴んでいない方の手を強く握り締めた。

 

自分を引き千切って殺してやりたい。あまりにも、醜悪にすぎるこの身体と心を、殺してやりたい。

 

側に居たいから、提督が気を遣ってくれたから。

だからこそ、提督の身を心配すべきではないのか。

 

恋する乙女の当然の欲求すらも突き詰めて考えてしまう、加賀の悪癖がよく出ていた。

 

「提と――――」

 

「とう」

 

びすっ、と。

加賀の形のいい頭蓋の上辺に提督のチョップが振り下ろされる。

 

痛くはない。が、咄嗟の反応で喰らった部位を両手で抑え、加賀はまたしても怯えたように提督を見上げた。

 

「加賀さん、考え過ぎ。俺は大丈夫なんだよ。だから大丈夫なの。いい?」

 

「ですが」

 

「ですがじゃない」

 

うだうだ考えるのは、加賀の悪癖。

大抵その結果、ろくでもない考えに行き着くことも含めて、である。

 

「行くぞ、加賀」

 

「……ぁ」

 

さんを、付けていない。

おそらく無意識だろうが、これで加賀は抵抗心を根こそぎ持っていかれた。

 

「返事は?」

 

「……はい」

 

満足げに頷き、提督は加賀の手を離す。

お互いに少し、名残惜しかった。



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五十三話

「提督、こちらの方が」

 

「新鮮?」

 

「はい」

 

いつもの背筋に芯を通したような輪とした佇まいを取り戻し、加賀は提督の一歩斜め後ろを歩いていた。

 

その進んだ二歩は加賀の成長を如実に―――つまり、目に分かる程に表している。

 

「提督、荷物は……」

 

加賀の目利きで鎮守府に足りなかった食材を買い終えた帰り道、加賀は提督にそう提案した。

 

空母組の中では一番非力だとはいえ、十二万七千四百馬力。野菜如きを運ぶのは造作もない。

 

何せ、艤装を完全に展開すれば鉄腕アトムより力持ちなのである。

戦艦組とは違って大仰で目を惹くような艤装ではない為、空母組はその他の艦種に比べて高い馬力を自在に引き出すことが可能だった。

 

「それは勘弁してよ」

 

「何故?」

 

僅かに苦笑しながら言う提督に、加賀は間髪入れずに問いかけた。

別に答えを急いているつもりもなければ、苛ついているわけでもない。単純に、力持ちに荷物を任せないという非合理が不思議だったのである。

 

「あー、うん。男の意地、かな。女の子に荷物を持たせて自分は手ぶらってのは、どうもね」

 

ビス子には、と言いかけて、加賀は口をつぐんだ。

彼女の場合は艤装に格納しただけなので持っているわけではない。

 

どうやらあの人をも格納できる特殊な艤装には、物理法則が通用しないところがある。

重さも感じないのだと、聴いたことがあった。

 

「……」

 

「あ」

 

加賀が嬉しさと不満と心配とで黙ったのをどう感じたのか、提督は態とらしく話題を逸らそうと声を上げる。

これに律儀に反応した加賀は、犬の尾の如きサイドテールを僅かに揺らして振り向いた。

 

「そういえば艦載機の機種転換、どうよ」

 

「説得は終わりました。八割方転換前と同程度の練度になり、実戦に於いても過欠はありません」

 

一航戦の艦載機群は一番楽な戦局でありながら、一番酷い戦局であったと言われる一年目からの生き残りが大半であり、そうでないものも二年目が多い。

二航戦は二年目が殆どで、若干安定を見せた三年目に練成されたものが補充に、飛行隊長として数少ない一年目が居る。

 

一年目の主力機体は、零戦21型と九九艦爆、九七艦攻。

 

二年目の主力機体は、零戦32型と彗星、天山。

 

三年目の主力機体は、零戦52型と彗星、天山。

 

やや安定してきた四年目は紫電改が開発され、艦爆が彗星一二型甲と艦攻が流星。

 

完全に南方艦隊を撃滅した五年目は資源地を抑えることができたために開発に回せる資源が増え、余裕が出来たために烈風や震電改が配備することができた。

 

機種転換などという悠長なことを考える間もなかった激戦の中、一航戦は戦い続けてきた。結果としてその練度は初期でしか通用しなかった最低の性能の艦載機で『たこ焼き』と呼ばれる深海棲艦の最新鋭艦載機群をタコ殴りにできる程度に成長していたものの、提督はある重大な決断を下した。

 

四年目前半から各旧式艦載機の、新鋭機への一斉転換を命じたのである。

 

この当時の従順さランキングでは五航戦、二航戦、一航戦という順だった為、紫電改に機種転換してくれたのは翔鶴・瑞鶴と二航戦のみだったが、三年目後半から四年目初頭にかけてはその列に一航戦も加わった。

 

『これまで零戦でやってきた、これからもできる。現に敵の新艦載機にも勝ち続けている』という妖精たちの不満を収めるために説得したり、従順になった加賀と元々そこそこ協力的ではあった赤城、積極的に機種転換に賛成してくれた二航戦、五航戦の尽力があったからこそ、恐ろしく頑固だった一航戦の妖精たちもこれに従わせることに成功したのであろう。

 

三十機で三流、四十機で二流、五十機で一流、七十機でエース、百機でスーパーエース。

全盛期では千機近い艦載機群が配備されていた深海棲艦南方艦隊を撃滅した六隻の正規空母と、四隻の軽空母。

 

雑魚と化した海域の敵艦載機を芽の内に引き千切っていくスタイルで稼いだということもあるが、その撃墜数の八割が敵の新型艦載機や熟練の搭乗員を乗せた艦載機であることを考えれば、そのスコアは充分に誇れるものだと言える。

 

百機落としのスーパーエースたちが居るだけに、撃墜数四十機越えでないと二流ですらないという修羅の鎮守府での機種転換は相当な手間が掛かった。

何せ零戦に慣れきっているのである。新型の艦載機に配置転換するにも些細なズレが生まれてしまうし、元の技量に戻すには相当な時間が掛かる。

 

しかし、慣れたならば機体性能が上がった分だけ強くなるはずだった。

 

「全体的な戦力は上がってる?」

 

「性能の分だけですが」

 

不本意そうに、加賀は言う。

 

最低でも二千時間の飛行訓練を積んだ後、配属されるのが新兵。

 

二千時間の飛行訓練の後に実戦経験豊富な飛行隊長の元で雑魚と化した南方艦隊をいびり、敵の芽を詰むことで慣らす。

この様な経過を経て、やっと三流として迎え入れられるのである。

 

平均七千時間以上の飛行時間を糧とした最精鋭が、一航戦。

平均四千時間程の飛行時間を持つ精鋭が、二航戦。

平均飛行時間が三千時間程の新芽が、五航戦。

 

特に五年と言う期間で練成された一航戦の最精鋭の練度は、他の鎮守府の追随を許さないものとなっていた。

 

「艦載機の練度は数値化されてない分、底がない。エース軍団にしてくれよ」

 

「それは勿論のことです」

 

自信満々と言った雰囲気を漂わせ、加賀は怜悧な瞳を閉じて頷く。

 

「大本営の航空隊は凄い強かったからさ」

 

彼女には最初に配備された計九十三機の艦載機の内、激戦を潜り抜けて生き延びてきた三十二機の戦闘機と八機の雷撃機を中核とした艦載機群を、彼女は心から信頼していた。

 

赤城の場合は雷撃機と爆撃機が多い為に損耗も激しく、生き延びてきた機体も十三機と少ないが、その生き残りを中核とした艦載機群を信頼しているのは変わりがない。

 

飛龍は確実且つ派手に戦果を挙げてきた十二機の雷撃機を、蒼龍は命中率が未だに九割を切っていない十四機の爆撃機を、参戦の遅かった翔鶴は命中率八割超の二十四機の爆撃機を、瑞鶴は三十七機の戦闘機隊を、それぞれ中核に据えている。

 

それぞれ他の鎮守府では行き着いていないネームド隊と言うレベルにまで高まっているだけに、彼女等の『自分たちは無敵』と言う認識は根強い。

 

事実強いだろうが、提督にはその強さが逆に不安だった。

 

特に、『空母機動部隊は最強。その中でも一航戦が最強です』とか言い出しそうなところが。

 

驕れるものは久しからず。盛者必衰の理を表す。

 

ここらで嘘を付いても水を差しておこうという魂胆だった。

 

「……む」

 

「物凄い強かったよ。ホント。無敵、みたいな?」

 

カチン、と来たような空気を纏った加賀が腕を掴んで上目で睨む。

 

他の鎮守府の艦娘を褒めて欲しくないと言う、一種の独占欲のような感情が働いていた。

 

「……無敵など、有り得ないことです」

 

「こちらもね」

 

「ですが、常勝ではあります」

 

「負けるまでのことだけどもね」

 

ひたすらブーメランのように加賀の言葉を返して、提督はむっとしてしまった加賀を見下ろす。

案外、扱いやすいところでは扱いやすい。こう言っておけば、加賀はいざという時も気を引き締めてかかるだろう。

 

(大本営の航空隊の練成時間が千時間で、強敵との実戦経験が乏しいことは、黙っておくか)

 

いつも演習の航空戦で敗け続けている五航戦の相対的な練度の低さは、大本営にはそこそこ知られていた。

 

弁護するならば、一航戦との演習ではキルレシオは一対六とボロ負けだが、決して弱いわけではない。

寧ろ彼女等は他の鎮守府に居たならば航空戦における絶対的なエースであると言っていいであろう。

 

そこのところを情報軽視の傾向がある大本営は理解していない。

大本営が脅威と見ているのは練度九十を越える化け物集団一航戦と、強固な自己蘇生能力を持つビスマルクのみであった。

 

このままもし万が一闘うことになっても、航空戦では勝てる。

そして航空戦に勝てるならば、ある程度の優位に立って水上戦を戦える筈なのだ。

 

「…………負けないですもん」

 

「はい?」

 

いつもの無口無感情ではあるが良く耳に入る美しい声音とは違い、完全にぼそっと口に出た形で発せられたであろうその言葉の語尾を聴き、提督は思わず訊き返す。

 

虐めたいとかそのようなことは思っておらず、純粋にその語尾に途轍もない違和感を感じたからであった。

 

「何でもないわ」

 

「いや今、もんって……」

 

「何でもないわ。いい?」

 

「アッハイ」

 

特殊スキル、威圧感。

そう形容するしかない程見事で重厚な威圧感の前に、提督は遂に口をつぐむ。

 

加賀がいつの間にか荷物を奪取していることに気づくのは、これからしばらくしての話だった。



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対馬にて

対馬は日本の国防上での要所である。

 

基地を設置されれば常に日本の殆どが空襲の範囲に入ることになるのだ。

故にこの基地に駐屯している艦娘たちは先の討伐戦でも動員されず、精鋭として名を馳せている。

 

その鎮守府に所属しているのは航空母艦八隻と軽空母六隻、戦艦四隻を基幹とした八十隻。練度はいずれも五十を超えており、日本海側の鎮めとしては十分な戦力だと言えた。

 

南方艦隊への鎮めと資源地の堅守という任務を帯びている比島鎮守府の百二十隻と大本営の百五十隻には劣るものの、五十隻と言うのは北方のキスカ島を基幹とした群島型鎮守府の主である南部提督の百隻に次ぐ。

 

これは大本営が如何にこの方面を重視し、占領されることを恐れているかということを如実に表していた。

 

幸いにも日本海側の深海棲艦は弱く、エリート、フラッグシップと呼ばれる個体も少ない。

 

南方ではよく湧くフラッグシップ改と呼ばれる一般の深海棲艦の最終形態というべき個体も、ここでは湧いたことがなかった。

 

ここで未だかつて深海棲艦と大きな戦いが行われていないからなのか、それとも太平洋戦争時に海戦と言う海戦が行われていないからなのかはわからないが、この鎮守府に駐屯している艦娘と提督には幸いであることには変わりないであろう。

 

しかし今回に限っては、彼女等はその交戦経験の不足が祟った。

 

「交戦終了」

 

展開していた攻撃隊を収容し終え、加賀は呟いた。

無論対馬に居る彼女は、南方で提督に懸想している彼女と同一個体ではない。

 

極めて当然のことだが、対馬に居る存在が同時に比島に居ることはできないのである。

 

大本営は、索敵機というものを軽視しがち。

提督こと北条氏衡が時々漏らすフレーズは、この鎮守府にも遺伝していた。

 

と言うよりも、空母に索敵機を積んでいる余裕がないと言うべきか。

艦娘自身の練度は高い物の、この対馬鎮守府の艦載機は練度が低い。

 

対馬提督にとって艦娘は大事にすべきものだったが、艦載機は戦艦で言うところの所謂『優秀な弾』であり、消耗するのが前提の物だったのである。

 

故にその航空母艦の高い練度に比して未熟な艦載機が多かった。

もっとも、世間一般の枠から見ればエースと呼んでいい物も居たが、それでも敵と戦う時は艦戦・艦爆・艦攻をガン積みしている。

 

太平洋戦争時の現実の空母と同じように、良い機体に乗れたから敵の旧機体に必ず勝てる、というものでもない。

敵の旧機式艦戦に未熟な妖精が乗った烈風が何機も叩き落とされるなど珍しい事態でもなかった。

 

だからこそ空母には索敵機を積まない。一つでも多くの弾を積み、敵を爆撃し、雷撃し、敵の弾を止めねばならないのである。

 

自分の艦載機隊が今回も五分の一ほどの損害を受けていることを見てため息をつきながら、対馬の加賀は鎮守府に帰還すべく身を翻した。

 

同僚である赤城や蒼龍、飛龍もそれに続く。

 

「今回も、安定して勝てましたね」

 

比島に居る同一個体と比べれば随分と柔らかみある―――詰まるところはまだ甘さのある赤城は、同一個体と比べてもその鉄面皮さが変わらない加賀は、頷いた。

 

対馬鎮守府の担当である日本海付近は、強力な深海棲艦が湧きにくい。

五年程の統計でしかないが、そのことが証明されている。

 

「本土は色々あるみたいですけど、大丈夫でしょうか?」

 

「叛乱、だっけ。そんな余裕なんて無いのにね」

 

護国、という概念を刻み込まれて建造された後期型の艦娘らしく、二航戦の二人は本気で国の行方を案じていた。

因みに初期型である加賀等も、相当酷い目に合わない限りは『護国』という念を持っていたのである。

 

裏切られたからこそ、忠誠心の対象が概念から個人に変わってしまったわけであるが。

 

「まあ、私達を引っ張り出していないということはそれなりに余裕があるのではないかしら」

 

本気で重大時になれば、なりふり構わないだろう。

冷静な現実感覚を持つ加賀からすれば、大本営はまだ切羽詰まっているわけではない。建造の元締めや艦娘の機密を握っているだけに、まだまだ底力があるのだ。

 

少なくとも各鎮守府はそう信じていたし、その認識は間違いではないだろう。

何せ、二百隻ほどの艦艇と艦娘及び深海棲艦を対象とした研究施設を持っているのだから、その戦力は不気味でもあった。

 

「……それにしても、最近深海棲艦の挙動が不気味ですね」

 

赤城が漏らした言葉に、殆ど全員が頷く。

各鎮守府に攻め寄せ、一次攻撃の後に手応えのなかった鎮守府に第二波を撃ち込むのかと思えばそうでもない。

 

兎に角統一性を欠き、作戦に粘りがないのだ。

 

この頑強な抵抗であっさりと敵を蹴散らしたこの鎮守府に向けて、Eliteでもない戦艦ル級を五隻と空母ヲ級四隻、随伴の駆逐艦と軽巡を三隻ずつと言う適当な有り合わせの艦隊で派遣したことでもわかる。

 

戦艦二隻、航空母艦六隻と軽空母二隻、重巡四隻と軽巡四隻、駆逐艦二十隻という大艦隊でこれを迎撃、今は鎧袖一触に滅ぼした帰りだった。

 

「いつも統一された戦略が行われていたわけではありませんし、そう気に病むこともないんじゃないですか?」

 

飛龍の一見慢心に取れる言葉も、一理ある。

事実として深海棲艦の行動は不可解なことが多かった。

 

レイテで加賀提督こと北条提督の艦隊が敵の姫級を複数含む艦隊を撃滅した時、深海棲艦はまだまだ余力がありながらも退いて戦線を立て直し、結果として日本に態勢を整え直す時間を与えている。

 

主な奇妙と言えばそれだが、大小様々な奇妙が積み重なった末に、この戦局の硬直があった。

 

個々が独立して、統一されないまま波状攻撃を仕掛けられているような気がするのである。

 

「……でも、これが統一されたらと考えるとゾッとしませんね」

 

「もうすぐクリスマスなのに、どこも案外余裕ないよね……」

 

掛け合いの相手である前向きで陽気な飛龍とは違い、慎重派な蒼龍は思わずといった形でそう呟いた。

元々、戦力でも練度でも負けている。辛うじて戦線を維持できているのは大本営が戦力の補填に走り回り、或いは冷徹に切り捨てて多を生かしてきたからだった。

 

それに反発したのが那須元中将であり、耐え切れなかったのが北条中将であろう。

旧型を見捨てる代わりに最新鋭艦を集めた艦隊の提督にすると言われ、新しいポストがあるとわかってなお保身を計れなかったのが彼なのだ。

 

新世代の提督の指揮下である自分たちにそのことはわからないし、自分たちの提督もわからないだろう。

だが、本来は大本営も北条提督を使い潰す気はなかったはずだった。

 

「何とか、かの二勢力の関係を修復できないものでしょうか」

 

「無理だと思うなー。上がそれを受け入れても、下がうるさいでしょ」

 

翔鶴が言い、瑞鶴が返す。

流石にベテランなだけあって、この六隻は非常に視野が広かった。

 

だから、だろう。

 

彼女等を根こそぎ葬るべき罠が、戦略レベルで用意されていたのは。

 

この帰還途中の平和な会話を、既に艦載機を放った敵は聴いていたわけではない。聴いていたからこそ、攻撃を仕掛けたわけでもない。

 

ただその敵たる深海棲艦は、彼女の前では警戒など無意味であるということを、彼女も彼女の相棒も随伴艦たちも知っていた。

 

『慢心モ、油断モ、警戒モ、無意味デス』

 

移動式のフロートに巣食った、腰まである白髪を綺麗に後ろに流した深海棲艦の口元が黒い茨のような艤装に包まれている。

 

くぐもったような、片言のような喋り方は、そのせいなのかも知られなかった。

 

その移動式のフロートの横に立つのは、白い尾のようなサイドテールに、美しくこれまた白い後ろ髪を持った深海棲艦。

紅い目には浮かぶ感情は凪いでいながらも、どこか仄かに激情がある。

 

通常の個体よりも髪の長い重巡ネ級と、黄金の左眼に切傷があり、右眼が白い仮面に覆われた雷巡。

 

たった四隻で、この艦隊は一方面を担当していた。

 

第二波と呼べる寄せ集め艦隊で釣り、周囲に予め配置しておいた空母群で一挙に殲滅。そのまま対馬を占領する。

 

それが、この二人の姫級と重巡ネ級と雷巡チ級の亜種を統率する深海棲艦の上位個体が立案した作戦だった。

 

『ここで、滅ぼす』

 

統率する個体は、後に言うところの空母棲姫。

すらりとした、けれど感情をあまり感じさせない淡白な喋り方をする空母だった。

 

移動式のフロートに巣食った深海棲艦の上位個体―――所謂姫級から第一次攻撃隊が発艦し、それから五分遅れて空母棲姫の艦載機群が飛び立つ。

 

数十分前にアウトレンジで放たれたこの艦載機群を、先の対馬艦隊が事前に察知することはついぞ無かった。

 

第一次攻撃隊は、空から湧き出たように唐突に、六隻の空母群の直上に現れたのである。

 

「な―――」

 

驚きの声を上げることも許されぬまま、まず加賀が被弾した。

三発の爆弾と四発の魚雷を受け、瞬く間に脚が膝まで海水に漬かっていく。

 

咄嗟に空を見上げた赤城も五発の爆弾は回避できたものの、雷撃で足を止められ、続いた六発目に中破させられ、トドメの七発目で沈められた。

 

飛龍と瑞鶴は飛行甲板を楯にして一発の爆弾を防いで損傷したものの、結果的に雷撃の回避に成功したが、蒼龍と翔鶴は同じような末路を辿る。

 

我に返った駆逐艦たちが対空射撃を打ち上げるにあたって数機が火を吹いた。

 

あまりの出来事に呆然としている彼女らに、更なる爆撃と雷撃が襲いかかる。

艦娘の戦いは、艤装そのものが人間大に縮小されているだけあって本来のものより射程が短い。本来半ば敵の艦影が視認できるような近距離で戦うことが多かった。

 

それは空母も同じことであり、電探の射程もそれほど長くない。だからこそ提督の索敵範囲が異様に広い異能が珍重されるのである。

 

完全に虚を突かれた艦娘たちは、電探を持っている艦娘は電探を、持っていない艦娘は視界に頼って艦載機が飛来してきた方向に目を凝らした。

 

「水上電探に感あり!」

 

「何故今まで気づかなかった!?」

 

後ろから聴こえた僚艦の怒声混じりの問いに、電探を持った駆逐艦娘はわけがわからないと言うような面持ちで振り返る。

 

「わかりません……位置からして、少なくとも三分前には察知できていたはずなんです!」

 

「対空電探も同じような状況です。敵はステルス機能かそれに類する物を備えていると思わえます」

 

では何故今頃になってステルス機能を解いたのか。

 

わからないことが、多すぎた。

一先ず艦隊を立て直し、中破未満で済んだ飛龍が悔しさと不甲斐なさに唇を噛み締めながら鎮守府に状況を報告する。

 

《大雑把でもいい。すぐさま戦闘詳報に纏めて大本営と比島に報告をあげろ。大本営ならば心辺りがあるかもしれない。比島も同様だ。付近の鎮守府に援軍要請を―――》

 

そこまで言って、飛龍の耳を爆音が震わせる。

付近で起こった物では、無い。

 

「提督!?」

 

ショットしたようなかすれた音声と後方にあがる黒煙が、事実を物語っていた。

 

『……これで、投了よ』

 

色素が抜けたような白い肌に、血を凝縮したような赤い瞳を持った姫級が、静かな絶望を告げていた。



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五十四話

はこだて様、R.M様、評価いただき感謝です。
U-cha!!!様、十評価ありがとうございました!

あと一個で六十個。もはや目が眩みそうです。
というか皆加賀さん好きね(断定)。


「クリスマス、か」

 

「どうかしたのか?」

 

「いや、別に何がどうということでもないんだけどね」

 

初期メンプラスビスマルクプラス五航戦を集めてのクリスマスパーティーの如何に成功させるかという会議で、提督は木曾の問いを受けて露骨にため息を付いた。

自分が大学生の頃はこんな美人軍団と共に円卓を囲むようなことはせず、男臭い連中と繁華街を歩くカップル共に舌打ちをしながら焼肉屋に入って酒をかっ食らっていたものである。

 

それがどうしてこうなったかというような悩みはあったものの、それ以上に時代というものの変遷を感じずにいられない。

 

五年前は家を爆撃されて母方の実家に居た。

四年前は今以上にじゃじゃ馬ではあったが人間不信になっていなかった純真な加賀と赤城と共に呉鎮守府に居た。

三年前は艦娘たちとは冷戦状態で、一人寂しく酒を飲んでいた。

二年前は艦娘たちからそれなりの信用は得ていたが三年前とは比べ物にならないほどに戦局が悪化していて、飲む酒もなかった。

一年前はまだ戦っていて、皆で戦勝祝いのような形で少し飲んだ。というか、少ししか飲めなかった。

 

今、酒も食糧もある。プレゼントすら用意出来ている。

 

「別に俺が何をやったわけでもないけど、こうしてみると感慨深いもんだよ」

 

日本酒を飲んでいる木曾と、ビールを飲んでいるビスマルク、その頃いなかった五航戦以外のその場に居るほとんど全員が、手酌で酒を飲んでいた提督の感慨深げな視線から目を逸らした。

 

大なり小なり、目を逸らした艦娘たちは提督を信じられなくなったり、辛くあたったりなどしている。

それは些か以上に仕方ない環境に放り込まれたから仕方ないとはいえ、本来善人である艦娘たちには開き直ることができていなかった。

 

提督に皮肉るような意図がないとはいえ、である。

 

「そ、そうだね……」

 

珍しく本島の鎮守府に帰ってきた飛龍が目を逸らし、逸らした先の蒼龍も目を逸らす。

 

「だ、だよね、先輩?」

 

その先に居た赤城は茶を啜り、なんの躊躇いもなく加賀を見て、加賀は心中であたふたとした後に少し咳払いをする。

 

ぶん投げられた問いを、何の後ろ向きな感情も抱いていない五航戦にぶつけるわけにもいかず、加賀は処理を迫られていた。

 

「……提督。感慨に耽るのはいいけれど、今は先を見ることが肝要よ」

 

「まあ、そーだね」

 

貧乏くじを引いた加賀が、無意識で彼女らの痛いところを抉り抜いた提督の追撃を阻み、場は一先ず安定する。

 

時は12月23日。駆逐艦中心のクリスマスパーティーは明日。空母寮や重巡寮や軽巡寮でも、謂わば前夜祭が行われていた。

 

その頃対馬では惨劇の幕が開かれていたのだが、そんなことは彼女らは知らない。年に一度の大規模休暇だったのである。

 

そのコミュ力と非凡な実力を買われていつもは外洋で兵站警護と輸送船団の護衛に従事している鈴谷と、支島の支部をパターンを変えてぐるぐると回り続け、防空と鈴谷と同じくらい輸送船団の護衛に従事している二航戦も、この日ばかりはお休みだった。

 

支島鎮守府は大淀が管理する物と、鳥海が管理する物がある。

 

それぞれ三十隻ずつの戦力が振り分けられており、輸送船団の護衛は任されていないことから、本島の鎮守府と戦力は拮抗していた。

 

「鳥海は明日、大淀は明後日やるらしい。索敵も警戒も輸送船団の護衛も任せて、我々は骨を休めよう」

 

一応の計画は立てていた為、ただの穴埋めで済んだ会議はお開きとなり、すぐさま宴会が始まる。

 

「この修羅場な世界に祝福をってことで、おつかれさーん!」

 

「おーっ!」

 

ノリのいい鈴谷が音頭を取り、各艦娘もめいめい好きな飲み物をグラスに入れて乾杯する。

 

周到且つ入念に警戒網を敷いたからこその恐ろしく平和な空気が、この比島鎮守府には流れていた。

 

「鈴谷、おつかれー」

 

「ほんっと、疲れたぁ……調整とかそう言うのがマジ面倒かったんですけど」

 

渉外、と言うのか。艦娘が一手に輸送を引き受け、護衛も艦娘がこなすことを考えれば単純にその必要人数は膨大なものとなる。

必然的に、細々とした輸送ならばともかく大規模な輸送ならば民間の輸送業者を頼るしかない。

 

その手の業者との交渉を、この鈴谷は担当していた。謂わば縁の下の力持ちとでも言うべきか。

 

「でもそのお陰で、暮らしも戦いと安定してきている。ありがとな」

 

「まあ、いいけどさぁ。いい加減鈴谷も戦いたいなーって」

 

鈴谷の練度は八十代前半。九十代が三人居るこの鎮守府では、七位にランクインする。

つまり、『高練度の艦娘を突っ込んで艦隊を組め』と言われれば、あぶれるのだ。

 

余談だが、何故六隻なのかと言えば深海棲艦が作る領域には、入ることができる艦娘に制限が課せられることが多いからである。

基本的にはその手の小細工に長けた深海棲艦がまだ出てきていない為か、『六隻まで』というオーソドックスなものが大半になっているが、それでも充分に小賢しかった。

 

提督は何故かその深海棲艦側の領域をハッキングできる為、嵐のような物量で殴り殺せるのではあるが。

 

「鈴谷は確かに強いよ。でも俺は何よりも、そのコミュ力を評価してるんだけどね」

 

「それは嬉しいけどさー」

 

前任者を交代させるには、過失がなくてはならない。鈴谷にとっては残念ながら、提督にとってはありがたいことに、鈴谷に過失は今のところはない。

過失を作れば交代できることを、或いは交代のきっかけを作れることを鈴谷もわかっているであろうが、彼女は自分の欲望の為に公務を蔑ろにできるほど不真面目ではなかった。

 

だが、一個の戦力としての鈴谷が魅力的なことは確かだろう。

ドイツから来たビスマルクの鼻っ柱を叩き折り、今に至るまでのトラウマと重巡洋艦に対する警戒を生ませたのは彼女なのだから。

 

「やっぱ重巡の本懐は戦闘じゃん?」

 

「それはそうだけども、補給も大事だからなぁ……」

 

正直なところ。

戦力としての鈴谷を必要とする程の敵が今は居ない。

 

「そんな敵が出たら、頼むよ」

 

「ぶーぶー。提督のケチぃー!」

 

頬を膨らませて何だかんだ言いながらも、公務はこなす。

その辺りは全幅の信頼を置いているため、提督はどこで使うかと言うことを相談することを思案し、思いついた。

 

「飛龍、ちょっといいかな」

 

「はい。何かありましたか?」

 

ぶーぶー言っていた鈴谷が飲み物のおかわりに行くということで別れ、提督は飛龍に声を掛ける。

 

外洋で警戒任務に従事してるだけあって、飛龍の肌は健康的な小麦色に焼けていた。

 

「警戒任務の時って、敵に出くわす?」

 

「まあ、輸送船団に手を出させる前に敵を叩くのが任務だからね。敵には出くわすし、叩きに行くよ」

 

提督の異様な広範囲を誇る索敵網をリンクさせて、敵が接近し次第激撃に向かう。

敵わないようならば、輸送の中止を護衛艦隊に伝え、付近の三島の内のいずれかに救援を乞うというのが飛龍を旗艦とした二航戦の任務だった。

 

「鈴谷って入れてやれるかな」

 

「心強いけど……輸送船団との揉め事で頭が痛くなりそうじゃない?」

 

「それはそうなんだけども、戦いたいらしくてさ」

 

「うーん。まぁ、こちらは全然構わないんだけど―――」

 

後任はどうするかというものを考えたほうがいいという的を射た指摘に、提督はもっともだと頷く。

 

個人の力量に頼っているようでは、いまいちシステムとして確立させたとは言い難い。

 

「誰がいいかね」

 

「木曾とかは?」

 

「戦闘部隊の隊長なのに、いいもんかね」

 

「そう言ったら、鈴谷だって元は艦隊率いてブイブイ鳴らしてたわけだし……言ってみたら案外すんなりと通るかもしれませんよ?」

 

赤城が隙の無い研ぎ澄まされた刃のような武人なら、木曾はおおらかな東洋豪傑風の武人だと言えるだろう。

 

人に好かれやすい、そんな頼れる雰囲気を持っていた。

 

「……案外、ベストかもな」

 

「ふふん、どぉよ。意外と私も見てるでしょ?」

 

「うん。正直なところ、そっちは蒼龍の担当かと思ってたよ」

 

戦闘指揮官としての側面が強過ぎる飛龍の意外な一面に驚き、感心する。

軍艦と言う数値化されたステータスを持っているから勘違いしがちだが、艦娘は内面の成長で戦力として強くなりもするし弱くなりもする。

 

カタログスペックだけで判断できるわけではないところが、艦娘は兵器だと断言できない証拠だといえるし、状況の改善への布石になり得るのではないか。

そんなことを考えつつ、提督は彼に任せられている『情報収集権・人事権・開戦権』の三権の内の一つを使うかどうかをも思案していた。

 

(もう一戦隊預けてもいいのかもな)

 

一航戦はその制圧力から、一隻プラス重巡洋艦二隻プラス戦隊で組ませ、分裂させている。

二航戦・五航戦は分裂させていないし増員もしていなかったが、二航戦は増員してよいのかもしれない。

 

「提督?」

 

「…………ん、いや」

 

急に黙ったのを訝しんだのか、飛龍が片眉を顰めて首を傾げた。

こう見ると二航戦は普通に女子大生、といった感じだろう。

 

歴戦の、が枕詞に付きかねない覇気と壮気があるから、普通にではないが。

 

「飛龍は、もう一戦隊率いれそうか?」

 

木曾に頼んで、加賀とビス子に相談する。

割りと色々やることが増えたことを認識しつつ、提督は飛龍に問うた。

 

こちらがどうするにせよ、まずは本人の意志を訊いてからである。

 

本人のことで蚊帳の外に置かれたくはないだろうという、提督の気遣いだった。



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五十五話

だるまさん様、迫王様、日陰の隅っこの炭酸水様、評価ありがとうございました。

艦これ改で丁から丙にいつ行くか、姉様を幸運艦にしながら装備を整えつつチキっている所為で送れました。すみません。


「木曾、頼みがあるんだけども」

 

「何だ?」

 

イケメン。

雷巡になっていなかった頃の戦傷で斜めの切傷が付いた右眼を眼帯で覆っている彼女を見て、提督はしみじみそう思う。

 

男勝りの東洋豪傑風の武人。それが提督が抱く木曾に対するイメージだった。

大本営の恨みも口にすることは殆ど無く、性根がサッパリとしていて頼りがいがある。

 

相棒、とでも言うのか。

加賀が惚れた女と頭脳を兼ね、ビス子が右腕、赤城が左腕ならば木曾は懐刀なのだ。

 

身を守る為の鋭利な刀。

その勝手な認識に沿うように、と言うよりはむしろ超えるようにして期待に応えてきてくれた木曾に対し、提督はかなり一方的な信頼を抱いている。

 

もっともそれは提督目線での話であり、木曾も木曾で提督の情報収集能力や指揮官としての統率力、人格面に多大な信頼を置いていた。

 

戦術面に関してはお察しである。

割りと気を遣う質の木曾ならば、『どこか一つでも極めてれば一流だろ?』とでも言うかもしれないが、これは事実だった。

 

「鈴谷と輸送船団の護衛を代わってやれないかな。一時的にでいいんだけども」

 

「頼まれたのか?」

 

「まあ、ね」

 

洞察力の鋭さが滲み出ている織部色の瞳にすぐに見抜かれて頭を掻きながら、提督は包み隠さず打ち明けた。

 

嘘をつかないでおこうと、自然と思える存在にわざわざ嘘をつく理由はない。

 

「ならいいぜ。俺には、お前を板挟みにする気はないさ」

 

「木曾……」

 

本当にお前はイケメンだな、と言い掛けて提督は止めた。

女性に対してイケメンというのが褒め言葉なのか、それがどうにもわからない。

 

格好いいな、とも言いたいが、それもどうなのかと思う。

 

「……いい女だな、お前」

 

「ハハッ、照れるな」

 

自分よりも背が小さいにもかかわらず、しかも女性にもかかわらず、頼れる兄貴分のような空気を醸し出している木曾が、すこし照れ臭そうに頭を掻く。

 

なかなかにギャップが豊富な光景に驚き、惹かれながら、提督は酒を呑みつつ食べ物を抓んでいた。

 

後ろから凄まじい嫉妬の眼差しが背中をぶっ刺して貫通していることに気づかなかったのが、幸いだったのだろう。

 

彼は、男友達と呑むようなノリで木曾と呑み、大いに喋って楽しんでいた。

 

「木曾」

 

胡乱げな目をした加賀がやって来たのは、その時である。

 

酔っている。そのことが一目でわかる眼差しなのに、その佇まいは機械のように正確で、規範を一歩も踏み越えていなかった。

 

「ん、加賀か。何だ?」

 

「少し、提督を貸していただけるかしら。詳しくは言えないけれど、公的な―――そう、公的な義務に於いて提督が必要なの」

 

私的ではない。私的に提督を呼び出そうとなどしていない。

 

この二度言うことで強調された言葉は提督にとっては『あくまで公的なお付き合い。提督が退役すればただの他人』という事実を突きつけられたような気分になり、木曾からすれば『私情を抑えているのかな』という、からかいたいような気分になった。

 

「いいぜ。ほら、お前も行ってやれよ」

 

「ああ……」

 

若干の諧謔味と刃を砥いでいるような隙の無さが湛えられた織部色の瞳が猫のように細まり、『私と貴方は部下と上司。私的なお付き合いなどありません』と断言されて傷心の提督の背を叩く。

 

気のない返事と共に酒を呷って立ち上がった提督の斜め後ろに、すぐ加賀が影のように寄り添った。

 

「難儀なもんだなぁ」

 

不器用と言うか、何というか。

 

ああも恋慕に身を焦がしながら、されど只管に職務にひたむきになられると、自分の心の一画に根付いている思いを、自覚せずにはいられない。

 

(らしくないさ)

 

酒を己で注ぎ、呑み干す。

嘗てもっとも『らしくなかった』艦娘が、提督への恋慕を必死になって叶えようとしていることを、その牛歩どころか蝸牛のような遅さの変化を身近で見てきた木曾は、気づくことができていなかった。

 

 

月が、綺麗な夜である。

 

「加賀さん、待って」

 

「はい」

 

会議室現宴会場から出る前に待ったをかけ、提督はグラスを被せた日本酒を瓶ごと取った。

好きな女性に『勘違いしてんじゃねーよ』と言われた傷を治すことはおそらく永劫に―――彼の感覚では―――訪れないが、それでも誤魔化すことはできる。

 

その手段が、酒だった。

 

「おまたせ」

 

「お酒、好きなのね」

 

加賀の声に皮肉の色はないが、少しこれに眉を顰めた提督は、思わず傷心のままに加賀に抗す。

 

声音の端に諦念を滲ませ、瞳に反抗心を見せ、提督は珍しく加賀に負の感情をぶつけた。

 

「こんなの呑まなきゃやってらんないよ」

 

宴会場の最中に仕事なんか、と言うことと、加賀さんに思いっ切り振られた、ということ。

 

こんなのが示すのはこの二つであったが、それが加賀に伝わるとは限らない。

 

「……っ」

 

鉄面皮が僅かに揺らぎ、瞳に宿した意志が定まらなくなる。

 

―――否定された。

 

そういう思いが、彼女にはあった。

 

「……ごめんなさい」

 

怯えたように、加賀は俯いて謝る。

彼女が一番恐れるのは依存している相手、つまりは提督に否定されること。

 

彼女は心底、提督が見せた負の感情に狼狽していた。

 

「ごめんなさい」

 

「あ、いや、こちらこそ……」

 

私と居ても楽しくなくて、呑めないとやっていけないほどに辛いなら。

 

そう言いかけて、止まる。

つまらないのは当然だ。自分は感情表現が下手だし、可愛くもない。格好良くもなければ、美しくもない。

 

なんの取り柄もない、鉄面皮の女である。木曾のような格好いい女性と呑んでいて、そんな女に連れ出されたら、どうか。

 

自分だったら、嫌だ。提督と呑んでいるのに、他の男に、しかも何の取り柄も魅力もない男に邪魔されたくはない。

それが私的な空間を、公的なもので壊されたのならば、尚更。

 

「後のことは私がやっておきます。楽しく木曾と呑んでいるところを―――」

 

今までおとなしく、と言うよりはむしろ怯えていた加賀の肌から、嫉妬の毒棘が飛び出す。

 

自分の魅力の無さを認めて好きな男の人を魅力の有る女性に引き渡すなど、したくはない。

 

公務なのだから、無理矢理にでもしょっぴけるのだ。

自分は悪くない。自分は、悪くない。

 

言いかけたところで、加賀はそう暗示をかけようとし、止めた。

 

(卑怯者。臆病者)

 

自分を酷評し、先を続ける。

自分の心を抉るような痛みと共に、加賀は辛うじて平静を保って言い繋げた。

 

「―――邪魔をしてしまい、すみませんでした」

 

くるっと身を翻し、先へ進む。

宴会場に戻る気もないし、戻る必要もない。

 

嫌われたのだ。提督に、邪魔な奴だと思われたのだ。

 

(死ぬ、べきでしょう)

 

死んだら、どうなるのだろうか。喜ぶのだろうか。悲しむのだろうか。

 

提督は、泣いてくれるだろうか。

命日にはほんの一瞬でもいいから、自分のことを、思い出してくれるだろうか。

 

(艦載機の子たちは、遺して)

 

そうして死ぬのが、一番いい。

 

凄まじく内向的で自罰的な特徴がよく現れている思考を巡らせながら、加賀は逃げるようにその場を後にした。

 

逃げたい。嫌いって、言われたくない。愛して欲しい。

 

ドロドロとして粘性の高い感情が高まり、その昂りに乗じて身体に艤装の模様が競り出るように浮かび、沈む。

 

角を曲がり、加賀はほっと一息をついた。

やっと、泣ける。

 

そう思った瞬間、床にお尻を付きそうになり、思わず苦笑が漏れた。

 

(弱くなったものね)

 

前は、他人など何する者ぞと思っていた。孤高で居たからこそ強い面もあった。

しかし、今はどうだ。他人からの承認無しでは生命の維持すらする気にならない。

 

崩れ落ちたら、本当に立てなくなる。

廊下で無様を晒したくないと思う程度の自尊心を持っている加賀は、壁に手をついて身を起こした。

 

「……か、加賀さーん?」

 

その途端、提督の声が鼓膜を震わす。

必死に立て直した心の平静が、完全に崩壊した瞬間だった。

 

それでも、泣きたくはない。泣き顔を見るのが嫌いだと、提督は言っている。

 

醜い自分を更に悪化させない為に、加賀は必死に取り繕った。

 

「…………何かしら」

 

「ごめん。仕事ちゃんとするから、許して」

 

「気に病まなくていいわ」

 

思わずその言葉に甘え、飛びつきそうになった自分を打擲し、加賀は背筋に溶けた鉛を流し込んでいくかのような苦痛と共に虚勢を張る。

 

「私一人でもできるもの」

 

「そりゃあそうだろうけど、さ。俺もまあ、せめて上司としては加賀さんと一緒に居たいんだよ」

 

焦っているのか、提督には珍しく告白スレスレの言葉が飛び出した。

 

私人としての自分が『赤の他人で、誘おうなどとは絶対に思わない』程度な物だということは、よく考えればわかりきったことだろう。

 

そう思い直して、彼は拗ねるのをやめて、もう一点の希望もないと諦めた。

 

今まで心の何処かで『何かの間違い』で加賀と恋人になれるかもしれないと思っていた、自分が愚かだったのだ。

 

もう希望もないと言うより、最初からそんなものはない。そう考えれば、些か気が楽だった。

 

逆に考えれば、最初から一点の希望もない加賀の運命の人以外の人間よりは、自分はいくらかマシなのだ。

何せ、側に入れる。声を聴ける。言葉を交わせる。それで充分、幸せと言うべきだった。

 

「……上司としては?」

 

「うん」

 

「…………そう、ね」

 

上司としてはと言うことは、自分とは私的なお付き合いをしてくれない、と言うよりはしたくもないが、上司と部下、提督と秘書艦だから付き合ってやるということなのだろうと、加賀はそう解釈する。

 

そもそも前提がズレているのだから、正しく伝わるわけもない。

加賀は提督を愛しているが嫌われていると思っており、提督は加賀を愛しているが嫌われていると想っている。

 

互いの勘違い故にノーガードで殴り合うような恋愛模様は、一向に改善される様子を見せなかった。



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五十六話

渇新風様、三三一体様、Birman様、評価ありがとうございます!


「―――なるほど」

 

隣にちょこんと腰を下ろしている加賀の温かさといい匂いに癒やされながらも、提督は頭の中を警戒と脅威一色に染め上げながら呟いた。

 

「第七艦隊、壊滅か」

 

「はい」

 

反乱討伐が失敗したものの、離反した南部中将の第五艦隊と那須退役中将の第十艦隊は軍籍から除かれ、大日本帝国の艦隊は従来の中央集権的十二艦隊制を廃止せざるを得なくなった。

 

加賀提督こと北条氏衡中将が統括する艦隊は元来の呼称だった第八艦隊は無傷故にそのままだが、第十一艦隊には一条中佐が大佐に昇進し、代将となって再編。

 

何だかんだ功績を挙げた彼も大将になり、艦隊司令官の中では一つ頭抜けた存在となっている。

 

第一艦隊は大本営の直属の三個艦隊を以って編成。

第二艦隊は佐世保の小山田中将。

第三艦隊が呉の鈴木中将。

第四艦隊が舞鶴の宇佐美中将。

第五艦隊が宿毛の西園寺中将。

第六艦隊が岩川の遊佐中将。

第七艦隊が対馬の蒲池中将。

第八艦隊が北条大将。

第九艦隊が鹿屋の安芸中将。

第十艦隊岩川の遊佐中将。

第十一艦隊が横浜の一条代将。

第十二艦隊が佐伯の安東中将が第十二艦隊。

 

練成所としての意味合いが大きい柱島の熊谷中将の艦隊が解体され、各艦隊の補充要員となっていた。

 

各提督の昇進の沙汰を終え、やっとこれらを再編成も目処がついた途端、三番目に強大な艦隊であった第七艦隊が壊滅したのである。

 

「大変なことだ。月並みな感想になるけども」

 

比島鎮守府でも、再編成が行われた。

 

第一戦隊の旗艦がビスマルク。

第一航空戦隊の旗艦が加賀。

第一水雷戦隊の旗艦が木曾。

 

第二戦隊の旗艦が鈴谷。

第二航空戦隊の旗艦が飛龍。

第二水雷戦隊の旗艦が矢矧。

 

第三戦隊の旗艦が鳥海。

第三航空戦隊の旗艦が瑞鳳。

第三水雷戦隊の旗艦が神通。

 

第四戦隊の旗艦が足柄。

第四航空戦隊の旗艦が龍譲。

第四水雷戦隊の旗艦が川内。

 

第五戦隊の旗艦が羽黒。

第五航空戦隊の旗艦が翔鶴。

第五水雷戦隊の旗艦が阿武隈。

 

それはまあ気の遠くなるような事務仕事が必要な作業であり、その苦労は提督の心に恐怖として残っていた。

 

第七艦隊に所属していた艦娘たちが沈んだことにも心が傷んだが、そこから立ち直ってみればふと思い浮かぶのは大本営に課せられたこれからの再編成作業である。

 

「……大変なことだ」

 

「また動けなくなるものね」

 

再編成するにも、第七艦隊の残存艦艇を早急に接収し、再編の為の基幹に据えなければならない。

それが現状で難く、更には『誰が沈んだか』ということが正確に把握できない以上、再編の為の戦力を集める事すら難しかった。

 

即ち、再編成が終わるまでは迂闊に動けない。加賀が言ったのはこういうことである。

 

一方で五つの艦隊規模の分艦隊を持つ提督も、これには同情せずにはいられない。

大本営には艦隊規模であることが疑いない十一個の艦隊があるのだから、現場に任せるところもあるとはいえ、その働く量は約二倍。

 

「……大本営は大丈夫なんだろうか」

 

「大丈夫ではないことだけは確かなのではないかしら」

 

だよな、と返したくなり、口を閉じる。

実際問題として、対馬が陥落したと言うのは戦略的に極めて大きいのだ。

 

日本海の佐渡側の鎮めは伊勢提督こと長尾提督が行っていたものの、現在は解任されて何故か反乱軍側に元々率いていた艦娘たちを引き連れて居る。

 

佐渡・対馬の両拠点が破られたということは、富山やら新潟やらが空襲を受けても不思議では無かった。

 

「で、だ。この艦隊の異能持ちは何人?」

 

「四人よ。制御できているのは三人」

 

「……え、四人?」

 

「ええ」

 

赤城、加賀、ビスマルクは異能持ちであることは知っている。

その内異能の中身を知っているのはビスマルクだけだが、四人目がいるとは知らなかった。

 

「誰?」

 

「瑞鶴よ」

 

瑞鶴の練度は七十前半。青い青いと言われる練度ではないが、この鎮守府では平均以下である。

 

他の艦娘に異能が発言していないことも考えれば、随分早熟だと言えた。

 

「随分早いね」

 

「赤城さんも練度が七十を超えた頃には僅かながらも片鱗があったから、そこのところはわかりません」

 

加賀やビスマルク、蒼龍が秀才ならば、赤城と飛龍は天才である。瑞鶴もそれに近い天性の素養があり、だからこそムラがある。

 

翔鶴が努力と研鑽を怠らない秀才型であることを考えれば、そうなのかもしれなかった。

 

「じゃあ、飛龍は?」

 

「わかりませんが、発現していないと思われます。瑞鶴のように、周りや本人が気づいていないということもありえますが」

 

艦娘の素養や、艦としての戦歴、艦娘としての練度。

他にも条件があるかもしれないが、それは未だに明らかになっていないのである。

 

この場合、瑞鶴の航空母艦としての素養がずば抜けていることに理由を求めるしかなかった。なにせ事実として、素質だけならば随一なのだから。

 

それは加賀も認めることだし、だからこそ厳しく扱いているのだ。

何だかんだ反抗しながらも成果を挙げ、練度を積み重ねている後輩を見て、愛おしくないといえば嘘になる。

 

「瑞鶴の異能は、俺に言える?」

 

「はい。他の娘のも、お望みとあれば」

 

「……お願い」

 

異能を教えてもらおうとしたことがないこともあるが、ビスマルクのようにあけすけに自己申告してくれなかったことに少し、疎外感を感じてしまう提督である。

 

三、四年前に感じた柵のようなものは今は薄れてきたが、それでもこのようなことがあると、感じずにはいられない。

 

赤城は天才故の、更には武人としての完璧主義から。

加賀は『やめろ』と言われたことそのままだからということから。

瑞鶴は、まだまだ制御できたものではないから。

 

このようなもっともな理由があったとはいえ、ただでさえ意訳すれば『職務上仕方ないからよくしてやってるんだよ。勘違いしてんじゃねーよ』というボディーブローを喰らってグロッキーとなった提督には、相当な辛さがあった。

 

今回の加賀の『お望みとあれば』というのも、『話したくないけど、職務上要求されるならやってやるよ』という風に聴こえたのである。

 

「赤城さんは、有り体に言えば時を止めることができます。今のところは三分二十六秒。彼女の停止した世界で動けるのは、許可を出された者のみです」

 

「……強いな」

 

思わず、提督は感嘆の溜息を漏らした。

赤城の異能は謂わば、己のトラウマと言うか、恥辱というか。その原因となった己の心を叩き直し、更には時間と言う絶対的な概念に立ち向かおうと言う気概があってこそなのだろう。

 

絶望などする前に敵を殴ってでも黙らせる、と言うような凄まじい闘争本能が、抗おうとしない物への抵抗の芽を芽生えさせていたのだった。

 

「私は、敵の攻撃対象を上書きすることができます。詳しく言うならば、敵の艤装や艦載機の狙いを私に上書きすること。これが私の異能です」

 

内部から浮上してくるような、水温とも何とも言えない様な音と共に艤装を出し、実際に異能を発動させる。

訳がわからない内に全てが終わる赤城や、試すにはリスクが高いビスマルクとは違い、彼女は実際に見せることができた。

 

「使うと、このように飛行甲板に日の丸が浮かび、同じく日の丸の鉢巻が額に艤装として装着されます。敵はこの日の丸を狙うような形になって、引き寄せられるということです」

 

「取り敢えず、使用禁止ね」

 

「……はい」

 

五寸どころではないぶっとい釘を刺され、加賀はツーっと目を逸らす。

もうすでに何回か使っているなどとは、言えるわけもなかった。

 

「瑞鶴は?」

 

「あの娘は私の真逆で、敵の狙いを自分から逸らすの。ビスマルクが自己蘇生なら、あの娘は絶対防御と言ったところかしら」

 

周りには直撃するかもしれないが、自分は装甲にすら当てず逸らすことができる。

それが瑞鶴の、近く発見された異能だった。

 

ある海戦まで様々な戦場を駆けながら、殆ど被弾しなかった幸運艦に相応しいものではある。

 

実際に今までの異能は、元ネタと言うべきものがあるからだ。

その元ネタは具体的に言えば死因というべきものであり、そこから一歩でも進もうとする気概が具現化し、物理法則に喧嘩を売っているのが、異能。

 

そういう理解が、提督にはある。

 

「運が良いかもしれないから、言わなかったのだけれど」

 

「……うーん」

 

だが、瑞鶴はどうなのか。幸運艦たから逸らすと言うのは、安直ではないか。

 

成長しきっていないのか、それとも異能ではなく、単純に運がいいのか。

 

「……まあ兎に角、赤城を呼ぼうか」

 

「戦闘詳報の件ですか」

 

「ああ」

 

打てば響くような返事に頼もしさを覚えながら、提督は加賀に赤城を呼び出す様に頼む。

 

瑞鶴の件も含めて、聴きたいことが色々とあった。

 

 




感想・評価いただければ幸いです。


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五十七話

「できますよ」

 

艦載機を索敵範囲外から気づかせることなく急襲できるかという問いに対して、赤城は持ち手の骨を銀箔に包んだ七面鳥を齧り、咀嚼し終えて事も無げに言った。

 

「技術的に?」

 

「それもそうです。いくら技術的に可能だと言っても運が必要ですけど、その点提督は武運がありますし」

 

七面鳥を綺麗に食べ終え、袴スカートから出したお手拭きで手を拭う。

そのまま僅かに脂に濡れた唇も拭いて、赤城は骨をゴミ箱に捨てる。

 

「でも、そういうことではないですよね?」

 

「うん」

 

深海棲艦にも武運が憑いた艦隊が居ることは否定できない。だが、戦闘詳報を見るに、敵艦載機は真正面から現れ、雷撃機はそのまま雷撃して去り、爆撃機は直上で爆撃している。

 

技術どうこうの問題ではない。それが技術を備えた加賀が出した結論だった。

 

「異能で、これほどまでに気づかずに接近するにはどのような方法を用いればいいのか。まあ、最短距離は時を止めることですけど」

 

私はまだ三分半程しか止められません、と赤城は言う。

三分半程では、技術で補ったとしても視界外からの攻撃は不可能なのだ。

 

「提督は、その端末がアップデートされたことをご存知ですか?」

 

「聴いた。けど、異能は君たちから知らされていなかったから、見てなかった。見るべきじゃないとも思ってたし、ね」

 

「うーん……もう少し遠慮が無くてもいいんですけど」

 

まあ見たほうが速いでしょうと促され、提督は胸ポケットに入れていた端末の電源を入れる。

 

歩く時に自然に振られる分のエネルギーや日光や何やらで自動的に充電してくれるそれは、基本的には電池が切れることはない。

 

コンソールを操作し、艦娘の一覧を呼び出す。

色々明石にいじられているから大本営からもらった当初からはかけ離れたデザインをしているが、どんどん機能が追加されていることもあって、提督は別に嫌ではなかった。

 

「……異能欄、ね」

 

「はい」

 

運命の五分間、と言う言葉がある。

赤城の異能の元となったのはそれであり、結果として『失敗を踏みつけ、乗り越える』と言う強い意志と自信が彼女のそれを構成していた。

 

範囲はA。装填はE。威力はーとして表されているから無いということだろう。

持続はD。成長性はB。

 

ご丁寧に『最大値:A、最低値:E』と書かれているから、相当にピーキーなステータスだった。

 

「私、まだまだ粗いんです。一回使うと次に使うまで丸々三日かかりますし、持続時間も三分半。使ったらそこから問答無用で止まるので中断して残った時間を引き継ぐ、なんて芸当はできませんし、現状では『視界外からの奇襲』と言うところまでは」

 

「成長しきれば、できるかな?」

 

「できるまで、成長をやめる気はありませんし、満足することもしませんよ」

 

つまり、敵が異能持ちならそれは赤城の上位互換ということになるだろう。

少なくとも、異能面においては。

 

「……勝てそう?」

 

「正面から戦えば負けるでしょうけど、色々と工夫をすれば案外上手く行くのではないでしょうか」

 

楽観的な赤城を羨ましそうに見つめ、提督は端末に目を落とした。

 

異能の名前は『不撓不屈』。己に勝つ、諦めない、と言うようならしい名前である。

 

そんな気持ちを持ちたいと、提督は思った。現に、今怖くてたまらない。

 

今まで必死に手を広げて、全ての実を何とか落とさずに戦ってきた。沢山の艦娘の力を借りてだが、それでも轟沈させてはいなかった。

 

それが、今回崩れるかも知らないのである。

 

「なるほど、オーケー。じゃあ対策を考えておくよ」

 

「無理をなさらない程度に、よろしくお願い致します」

 

丁寧なお辞儀とともに、加賀にだけ見えるように、意味有りげな目配せをした赤城が退出する。

 

横に、加賀が座っている。

今にも押し潰されそうな提督の心を、それだけが柱となって支えていた。

 

「勝てるかな」

 

「彼我の戦力差がわかるまで、なんとも」

 

「あー、うん」

 

元来正規教育を受けた軍人ではない彼は、プレッシャーに弱い。

軍人とは我慢すること、という至言があるように、軍人は苦境に立っても決して弱音を吐いたりしてはならないのである。

 

彼は自分を必死に律しているから弱音を吐いたりすることはないが、それでも不安感を隠し切れてはいなかった。

 

好きな女性の前では無様を見せたくはないという見栄っ張りな思考が、彼を擬似軍人としていたと言っても過言ではないであろう。

 

加賀には、弱味を見せたくない。それだけで、耐えてこれたことが沢山あった。

 

(……不安なのかしら)

 

そのことを察して、加賀は今更ながら真面目に応対したことを後悔した。

 

割りと生真面目なところがある彼女は、見栄を張るよりも現実をそのまま言ってしまう。

木曾やビスマルクならば、ここで安心しろとでも言って提督の不安を解消できたのだろうが、自分にそんなことはできなかった。

 

「あの」

 

「何?」

 

「心配はいらないわ。何の根拠があるわけでもないけれど、その……」

 

あまり上手く言えない自分を不甲斐なく思い、加賀は思わず俯く。

バシン、と元気づけたいのに、そうもいかないのが嫌だった。

 

俯いている加賀の視界に、少し震えている提督の手が入る。

 

(怖いのね)

 

母性がかき立てられるような見栄の張りぶりに、加賀は少し微笑ましい物を感じた。

 

見栄を張っている提督は、なんとなく可愛い。抱き締めてあげたいような気持ちがふわりと浮かぶ。

 

「提督」

 

「な――」

 

何、とまた言いそうになった提督の顔を、加賀の豊かな胸部装甲が包み込んだ。

 

背が低い加賀としては、提督の背と首に手を回して、少し屈ませるようにして抱きしめるしかない。

首に回していた方の手を頭に添え、撫でる。

 

後から見れば『何と恥ずかしいことをしたのか』と絶句したい程のものだったが、この時の加賀には活発な母性本能があった。

 

抱きしめて、安心させたいと言う母性が恥ずかしさを超えていたのである。

 

「む?」

 

安心するような、そしてものすごく眠気を誘う加賀の匂いを嗅ぎ、母性の柔らかさを感じ、提督は思わず首を傾げた。

 

何が起こったのかわかるが、理解することを脳が拒絶している。

そんなような状態に、彼はあった。

 

「私が、頑張ります」

 

そんなこんなで混乱している提督を安心させようと、出来うる限り感情を表に出した温かな声である。

 

人型を取ってからまだ満五年も経っていないのに、彼女には非常に濃やかな母性が育まれていた。

そこがまた赤城に『共依存させかねない』と思わせる一因なのだが、彼女は別に彼を依存させたいわけではない。

 

普通に安心してもらいたいだけだった。

 

「赤城さんも、ビスマルクも、木曾も、鈴谷も、蒼龍も、飛龍も―――あと五航戦も居ます」

 

だから、他者の名前も挙げる。

心にまで届くようにと自分の体温で提督を温め、少しでも安心してもらえるように、自分たちを頼ってもらえるようにと抱きしめる。

 

「あなたの為だけに、あなたの命令で動く無敵艦隊よ。擂り潰されてきた他国のそれとも、擂り潰してきた深海棲艦のそれとも比べ物にならない練度があるわ」

 

「……不吉」

 

ボソリと、提督は呟いた。

彼からすれば、無敵艦隊など死亡フラグないし敗滅フラグだとしか思えないのである。

 

「何が?」

 

「無敵艦隊って言っても、いつかは敗れる時が来るわけじゃん」

 

「それは、そうだけれど」

 

加賀の与える安心感にほだされたのか、提督は目蓋を僅かに閉じながら不安を口にした。

 

無敵艦隊と謳われた艦隊で、終わりが良かったものは一つとしてない。この世は盛者必衰、弱肉強食。

 

それが戦争という非常時であり、理性化された倫理観が通じにくい環境ならば尚更であろう。

 

「心配だよ」

 

とくん、とくん、と。

分厚い胸部装甲を通しても、心臓の鼓動が微かに聴こえていた。

 

加賀は生きている。人間と同じような容姿で、人間と同じような言葉を使い、人間と同じような感情を持って、生きているのだ。

 

「……提督は、生き残るわ」

 

「皆で生き残らなきゃ意味がない」

 

温かくて、柔らかくて、小さい。

そんな加賀に抱きしめられて、包み込まれて、安心を得ている。

 

そんな自分に情けなさを感じつつ、提督は一先ず身を委ねた。

 

二十年程早く人として産まれてきているのに、逆にこのざま。

 

「頼りないかな、俺は」

 

「とっても、頼れる人よ」

 

甘くて温かく、柔らかい。

眠りたい、と言う欲望に抗しかねて、提督は腕を加賀の腰に回す。

 

細い。細過ぎるほどに、細い。

 

女性としての魅力溢れる、揉みに揉んで吸いたくなる程に見事な形とハリを持った双球からクリームを絞るようにして細まり、腰部で極まって臀部で膨らむ。

 

見れば見るほどに美しい、抱き締めて殺したくなる程の細っぽい身体だった。

 

「頼れる?」

 

「はい」

 

完全に子供が母親に甘えているような姿勢で、提督は尋ねる。

女の身体と言う神秘に、少なくとも意識がある時には提督は今までこんなにも密着していたことはなかった。

 

好きだ、という気持ちが募る。細く、必要な部分にむっちりと肉の付いた身体に密着するのは、その甘い眠気を誘うような匂いと安心感が相俟って麻薬のような癖と快感があった。

 

「提督、寝たの?」

 

「……寝てない、けど、このままがいい」

 

少し離れて、また引っ付く。

こうすることでまた、エアバッグのようにして加賀の身体を味わうことができた。

 

無性に安心するこの匂いを、もっと嗅いでいたい。柔らかさと温かさを、離したくない。

 

その気持ちがあらわれたのか、痛い程に抱きしめられて、胸の形が押し付けられた頭を受け入れるようにうねるように変わる。

 

ここになって流石に恥ずかしくなって、加賀は僅かに身を捩った。

 

「前に、ここまで怖かった時はさ」

 

ポツリ、と抱きしめるのをやめて、身を起こした提督が呟く。

加賀は少し琥珀の瞳を動かし、半分ほど自分に抱きしめられていて見えないその顔を見た。

 

「一人で耐えなきゃいけなかったわけだから、状況は好転してるのかもね」

 

「……ごめんなさい」

 

「いや、今嫌々にでもこうしてくれるのが、嬉しいよ。安心もしたし、落ち着きもした」

 

名残惜しさをこらえて、提督は加賀のめちゃくちゃにしたくなるような魅力を持つ身体から離れる。

 

女体の神秘と言うものの全てが、彼女の身体に詰まっていた。

できればその隅々までを探検し尽くしたいところだが、あいにく自分にその資格はない。

 

「……提督を抱きしめるのは、嫌ではないわ。私が嫌うということは、触れたくもないということだもの」

 

事実、提督も前はそうだった。

好悪の情が深く、その差も大きい。好きな者には限りなく甘く、嫌いな者には際限なく冷たい。

 

「あー、提督を、ね」

 

冷や水をかけられたように浮かれていた心が冷める。

頭を掻き、提督は加賀の身体をちらりと見た。

瞳には何の疑問もなく、逆にこちらの言い方に対する戸惑いがあった。

 

「…………そう、だけれど」

 

相当悩んだらしく、加賀はかなりの沈黙の後に返す。

 

「君の提督で居られてよかったよ。提督にならなきゃ、加賀さんとはこうしていられないわけだし」

 

「私も、提督の秘書艦としての任を課してくれたことだけは、大本営に感謝しています」

 

少しきな臭い言い方だな、と思いつつも、無意味な沈黙が気まずさを呼ぶことを加賀は知っていた。

 

出来るだけの好意を示すべく、それとなく加賀は好意を伝える。

 

「ああそう」

 

だが、帰ってきたのはいつになく冷淡な言葉だった。

 

視線が冷たい。こちらへの害意と言うよりも、諦めと悔しさのような負の感情だが、加賀はその辺りに敏感である。

 

すぐさま、彼女は自分の発言が歓迎されていないことに気づいた。

 

「…………提督は、私でない方が良かった?」

 

「わかんないよ、そんなこと」

 

恋したいとは思っていた。だが、こんなに苦しいとも思っていなかった。

 

加賀とは、いいところまでは行く。他人ではないし、嫌われているとは思えないほどに近くまで行ける。

 

しかし、その度に『提督だから』と言う現実を突きつけられるのだ。

 

ならば最初から気のない態度を取って欲しい。抱きしめたり、認めるような言葉を言わないで欲しい。

 

『加賀さんは、最初の提督が俺じゃなくてもそう言ってるよ』

 

『もっと優秀な奴が出てきたら、そっちの方がいいだろうに』

 

『別に俺に拘る理由も何もない癖に、無自覚でこちらの心を縛るのはやめて欲しい。もしかしたら、とその度に思うのだから』

 

ぐるぐると、その三言が回る。

 

加賀が優しくしてくれる度にそう思い、提督だからと聴く度に冷める。

救いは、すぐに『提督だから』と言ってくれるから長期の期待を抱かないで済むところだろうか。

 

「でもやっぱり、加賀さんでよかったんじゃないかな」

 

「……そう」

 



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五十八話

浅き者様、活字中毒様、皐月病様、評価いただき光栄です!


少し嬉しげな、弾む様な声を出した加賀は、気持ちとは真逆に俯いた。

 

あからさまにお前で良かったと言われ、選ばれて良かったと言う感情を表に出すのは、はしたないように思える。

赤城のように愛想が良いが闘争本能や激情をみだりに外に出さないようなポーカーフェイスが、加賀は欲しかった。

 

自分に備わっているのは生まれ持っての無愛想な面だけだが。

 

「……嬉しいわ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

如何にも取ってつけたような言葉に若干怯み、提督は頬を引き攣らせながら敬語で礼を述べる。

 

加賀の感情表現は、平坦なのだ。言葉にもほんの僅かな感情しか出ず、怒っている時にわかる程度。

 

「敬語でなくとも、いいのだけれど」

 

「あ、はい」

 

「……?」

 

困ったように首を傾げ、加賀は提督を訝しげに見つめた。

 

加賀は、いじめられたいと言うような感情がある。軋むほどに抱き締められるのが嬉しく、骨と肉が圧迫されて提督の身体に押し付けられて痛みを感じるのが幸福だった。

 

命令されて、支配されたい。支配されて、毀されたい。

 

踏みつけられて組み敷かれるような、そんなことをされるのが彼女の欲望として確かにある。

 

現に通りかかりざまに尻を思いっ切り叩かれた時も、嫌ではなかった。怯んだりはしたが、ムカリとはしなかった。

 

鉄面皮の割りに短気な、という自覚のある加賀は、沸点が低いわけではない。

すれ違いざまに女性が尻を叩かれれば、怒るだろう。

 

いやではない、と思っていた。

 

「もっと、乱雑に扱ってくれてもいいのよ、提督。私はあなたの秘書艦なのだから」

 

「加賀さんを乱雑に扱うってのは、なぁ」

 

芸術作品を床に叩きつけて割ろうとするようなもの。

そのような認識が、彼にはある。

 

もっとも、その芸術作品を戦場に出しているのは自分なのだが。

 

「……」

 

加賀としては提督に、支配されたい。頭のてっぺんから足のつま先に至るまで全てを支配され、組み敷かれて犯されたい。

愛を囁かれ、溶け合いたい。

 

芸術作品なんぞではなく、使い捨てのカイロでいい。使うだけ使われて捨てられたい。

 

身体の芯から甘い欲望が解き放たれ、加賀は思わず赤面する。

 

(私、淫らなのかしら)

 

隷属願望に魘されたところはあると、わかっている。

だが、それは仕方ないとも思っていたし、割り切れていた。

 

だが、その思考が世間一般の女性として正しく、健全かと言われれば首を縦に振る自信は無い。

 

「提督は、優しいのね」

 

「そうかな」

 

優しい人は好きな女を鉄火場に立たせないと思う。

心の中でつぶやき、加賀と言う女を見た。

 

美人である。人だということが信じられないほど完成されているが、非現実的な美貌ではない。

あくまでも絶世の、健全な美貌なのだ。

 

「……加賀さん、飲もう」

 

「いいけれど」

 

一旦酒を取りに戻り、加賀はちょこん、と安産型のお尻を提督の横に置いた。

 

これは、提督としては意外である。

 

てっきり隣に座ったという事実をリセットする為に彼女がわざわざ取りに行ってくれたのかと思ったのだが、そういうことでもないらしい。

 

こういうことがあるからこそ加賀は自分に気がある―――とまではいかずとも脈があるのではないか、と思ってしまうのだ。

 

グラスは二杯。それぞれに酒が満たされ、泡を立てる。

 

お互いに乾杯、と言って、提督と加賀は同時に喉を潤した。

 

喉が渇いている。物理的要因ではなく、心理的な要因によって。

 

提督は、片手で持ってぐびぐびと飲む。

加賀は、両手で持ってちびりちびりと飲む。

 

この二人の飲むスピードが違うくせにペースが同じと言うのは、喋る配分の違いでもあった。

 

「……恋、したことある?」

 

「え?」

 

加賀に唐突に問い、提督は戸惑う彼女に対してもう一度繰り返した。

 

「恋」

 

「……しています」

 

「そっか」

 

素っ気ない返答にやや落胆し、面食らいながら、加賀は変わらない外面とは裏腹に内心で拗ねた。

 

自分に興味があってした質問ではなく、彼が語りたいことを語るための質問だと気づいたのである。

 

「加賀さんにはわかんないだろうけど、恋って苦しいんだよ」

 

「苦しい?」

 

「理性じゃなくて、感情で好いてるんだ。無理だと思っても諦めきれないし、その人の一挙手一投足が気になるし、一言でもこちらを褒めたり認めてたりするような言葉があると嬉しくなる。逆に、それが恋と繋がらないとわかるとすごく、辛い」

 

加賀は、側に居るだけで幸せだった。そりゃあ自分のことを好きになって欲しいが、本質的には『側に居るだけで』というところは変化していない。

 

自分は連れないような態度を取った覚えは無いから、つまりはそういうことなのだろうと思う。

 

提督は好きな人が居て、それは自分ではないのだ。

 

「……今、わかったような気がします」

 

「言われるまで気づかなかったの?」

 

「ごめんなさい」

 

少し驚いたような顔をした提督を見て、加賀の心は更に傷んだ。

 

脳天気な奴だとか、思われたのだろうか。

それとも、この言われるまで気づかなかったのという言葉は、彼が自分とは別な女性に恋していることを、ということなのだろうか。

 

後者ならば、自分は拒絶されたことになる。

 

「……提督、は」

 

絞り出すように、加賀は勇気を振り絞ってこの二択の特定に動いた。

 

「提督は、私と居るのは苦痛?」

 

ある意味苦痛だと言いかけて、提督は口を噤む。

 

苦痛なのはこちらの都合で、加賀が悪いわけではない。強いて言うならば、ややこしい言動をなくしてほしい。

 

苦痛だと言えば、決定的な破局が訪れるだろう。

 

「……苦痛じゃない。でも時々、加賀さんがわからなくなって、辛いよ」

 

「表情に、出ないものね」

 

その自嘲気味の台詞には、あることが表れていた。

つまりそれは、加賀は本当は感情豊かで、でも表に出ない、ということである。

 

そして、それに関して彼女は悩んでいる。

 

しくじったな、と提督は思った。

何を言えばいいかわからない。この時に至って、提督の女性経験の浅さが露呈した。

 

「…………でも加賀さんは、頑張ってるじゃん」

 

「結果が出なければ意味はないわ」

 

それはそうだとも思う。だが、表情の鈍さと言うのは生まれつきのもので、矯正できるたぐいのものではない。

 

加賀は表情筋が死滅しているのではないかと思うほど無表情だが、なんとなくわかるようになってきているのだ。

 

それが受け手側の成長か送り手側の成長かは、定かではないが。

 

「……私も、夢があるわ」

 

「ん?」

 

「私も、夢を抱けたの」

 

仔犬のような無垢さで、加賀は提督に凭れ掛かり、見上げる。

 

凭れ掛かる為にサイドテールは解かれ、美しい黒髪がさらさらと後ろに流れていた。

 

「好きな人に、必要として欲しい。好きな人に、頼って欲しい。好きな人に、愛して欲しい。好きな人と私だけで、暮らしたいの」

 

美しい。

いつものサイドテールももちろん最高だが、くくっていた髪を解くと目新しさとしとやかさ、女としてのもろさが出ている。

 

言っていることの慎ましさもあって、提督は思わず抱きしめてやりたくなった。

奪ってやろうという悪魔の囁きをいくどもはねのけ、彼は何とか無防備な肢体を組み敷くことを耐える。

 

「……いけない夢かしら?」

 

「いけなくは、ないよ」

 

つまりはその時が来たということだ。

 

提督は心の中で呟いた。

 

加賀が艦娘から普通の女に戻り、退役して余生を暮らす。

そこに自分はいないし、居るべきではなかった。

 

「で、その好きな男とは一緒になれそうなの?」

 

「……それは、まだです。だけれど、一緒にいる機会は今でもかなりあるので、いずれは」

 

四六時中秘書艦として引きずり回されながら、それでも互いに都合のつく時間を作ってはあっているのか。

 

まったくしらなかった事実に驚きつつ、提督は自分がお邪魔虫でしか無いことに気付いた。

 

(秘書艦、解任してやろうかな。好きでもない男の側に居なくて済む、と泣いて喜ぶかもしれん)

 

実際そんなことをされれば加賀は別の意味でさめざめと泣くだろうが、そんなことを彼がわかるわけもない。

 

なんか嫌な予感をおぼえて首をかしげる加賀を見て、提督の頭からその考えは吹き飛ぶ。

 

可愛い。可愛いのだ。

 

どうせとられるならせめて寸前まで側にいたい。

 

「……加賀さんは、俺の側に居てくれる?」

 

いつまで、と。

心の中でそう付け足して、提督はその黒のニーソックスが眩しい太腿に置かれた柔らかな手を掴む。

 

期限が決まっていたら、答えてくれる。

もし万が一何かの事故で加賀が自分のことが好きだったら、『ずっと』とでも答えてくれるだろう。

 

思いを断ち切るためにも、提督は曖昧ながら大きく振りかぶった一太刀を振り下ろした。

 

「…………」

 

無限に感じられる沈黙のあとで、加賀の表情が更に固まる。

 

それは、見せたくない、見られたくないと言うような拒絶の貌だった。

 

「……いつまで、居てほしいの?」

 

 




Q.加賀さんは何を考えてこういったのでしょう?


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五十九話

いつまで、と加賀は訊いた。

 

加賀としてはその曖昧さが怖い。『ずっと居ます』と言う言葉が誤爆するのが怖い。

 

その意味も込めて、加賀は提督にそれを求めた。

 

加賀は、『ずっと居てほしい』と言って欲しかったのである。

 

だが、それは提督が加賀に求めたことだった。

 

(やっぱり不承不承、だよな)

 

感情が読みにくい加賀だが、それくらいならばわかる。

その琥珀の瞳には戸惑いが写し出されていたし、明らかに手の辺りが挙動不審なのだ。

 

鉄面皮と言える無表情の中にも、動くものがある。どこかそわそわとしていると言うのが、提督の見方だった。

 

「加賀さんが、俺を見捨てるまで、かな」

 

「それでは、ずっと居ることになります」

 

「嫌?」

 

「いえ」

 

俯いてこぼしただけに、表情が見え難い。

提督よりも背が低いだけに、色っぽいうなじがちらりと見える。

 

陶器のような白さが美しく、少し提督は圧倒された。

何となく、自分より綺麗というか、芸術的な物に対する気後れがある。

 

両手で酒を入れたグラスを持ち、ちびちびと呑んでいる加賀は、酔いの熱も顔に出ない。態度にも出ない。

内に篭もり、少しずつではなく一気に波が来るタイプだった。

 

いつも結っている髪を梳いた加賀の髪が、提督の肩に僅かに触れる。

ほんの一歩だけ、加賀は横に動いて近づいていた。

 

「私で、いいの?」

 

「加賀さんにとっての提督が俺でいいなら、そうなる」

 

どこか不安げにそっぽを向いたような言い方に、加賀は昔の自分の所業を色々と思い出した。

反抗期の女学生のようにことあるごとに噛み付き、指摘し、駄目出しする。

 

その繰り返しが提督から自信を奪ったことは、想像に難くない。

 

「……色々、あなたに酷いことをしてきたという自覚があるからとやかく言ったりはできないけれど、私はこれでもあなたに忠誠を誓っています。そこのところはその、信じてほしいわ」

 

「なんか最近角とかが取れて、おとなしいもんね、加賀さんは」

 

常に警戒と敵意を失わなかった猫が、不意におずおずと近づいてきたような感覚が、提督を常に支配している。

かと言ってこちらから歩み寄れば、つつつっ、と何処かに行ってしまうのであるが。

 

「……少しは、その、素直になりたいと」

 

「いいことなんじゃないかな、それは。そうしてくれれば俺も随分楽になるよ」

 

「素直な私の方が、面倒くさい頃の私よりいいでしょう?」

 

少し悔やむ様にポツリとこぼれた言葉に、提督は少し頭を傾げて反論した。

 

「いや、加賀さんは面倒くさくても良かったよ。何か、面倒くさいけど特有の可愛さがあった」

 

それにと言ってはおかしいが、基本的に今の己の腹心と言うか、信頼の置ける―――ビス子やら赤城やら―――は、一様に面倒くさかった。

人なのだから当然だが、信頼関係を築くには相当な労力を使う。素直なのも居たが、素直な子と言うのは希少で、なおかつ素直だからと言って信頼関係を築くのが簡単というわけではない。

素直と言うのは、最初からある程度言うことを聞いてくれるというだけで、信頼関係を築くには地道な積み重ねを要求される。

 

赤城はまあ、素直と言ったら素直で、面倒くさいと言う分類に入れるとしても面倒くさい連合の中でも極めて良識的だった。

最も面倒くさい加賀が事務の一切を取り仕切る秘書艦、次席のビス子が文字通り盾となる旗艦なあたり、彼の面倒くさい女に対する懐柔の巧みさは達人と言えよう。

 

「……提督は、ヘンな趣味をしていらっしゃるのね」

 

急によそよそしくなってそっぽを向いた加賀を見て、提督は再び地雷を踏んだかと危ぶむ。

そもそも、彼は面倒くさい女に対する懐柔の方法は心理把握の巧みさによるものではなく、その面倒くささの迷宮を素直さと根気で溶かす、と言った物なのだ。

 

だから、何処まで行けば懐柔し切れたのがわからない。ビスマルクは色々とわかりやすいからわかっただけである。

例えるならば、最初に話しかけた時の第一声たる『気安いわね』プラス氷のような冷たい表情から、日本滞在の終盤の『私が旗艦になって、護ってあげるわ。感謝しなさい』言う褒めてオーラまるだしのドヤ顔への変遷。これを見れば、流石にわかる。シベリアンハスキーがわんこになったことくらいは。

 

加賀はまぁ、柔らかくなった。ちゃんと受け答えしてくれるようになったし、ゴミを見るような目で見てくれなくなった。声音も冷たさが消えた。

ただ、どうかな、とも思う。

 

感情の起伏を感じるが、その内容がわからない。故に、懐柔し切れたのかな、とは思えない。

ビスマルクの地雷は踏んでも五秒くらいで何とかなるし、何より地表面に剥き出しで放置されている。

 

加賀の地雷は本当にわからないし、踏んだことすらわからないことが多々あった。

 

「軽蔑した?」

 

ふるふるっと、首が振られる。

違います、ということらしいが、その動作は鼻に毒だった。

加賀の自由になった髪からは常に、ふわりといい匂いがしている。

 

それがほわほわと撒かれたようなもので、提督としてはそのいい匂いに居たたまれなくなる。

 

加賀は普段から、女女しているわけではなかった。

 

時々大荒れする琥珀の目は感情の波を映すことなく凪いでいて、口はその寡黙さを示すように結ばれている。

服装は当然艤装のそれであり、喋ることも少なく、声音もまた凪いでいる。

 

腰のくびれや胸と臀部の豊かさは彼女の女としての魅力を無計画に、無造作に、そして暴力的に撒き散らすが、肝心の顔が美術品のような美しさでしか無いから、ある程度中和されている状態なのだ。

 

つまり、感情とか、そう言った躍動感がない。

 

だから動作と匂い、視覚と嗅覚による不意打ちを食らうと、提督としては正気ではいられなかった。

 

(女だよな、やっぱり)

 

何とか美術品のような部分に注視することでその女として自己主張の旺盛な部分から目を逸らしてきたのに、こうなっては辛い。

 

「あの」

 

「はい」

 

少し俯いて何やら考えていた加賀が唐突に横を向き、その口を開いたことで、提督も彼女と目を合わせた。

ほんのり動揺の波が来ている琥珀の瞳は、提督には眩しく見えるほどに愛らしく見えた。

 

「今のはその、違います、と言うことよ。つまり、軽蔑はしていないと、そういうことになるわ」

 

「わかってるよ」

 

「……そう」

 

誤解を招きたくなかったのか、ちゃんと一生懸命(と、思われる。表情と声色は変わらないが、眼が切実であった)話してくれたのだから、これは素直に嬉しい。

 

第一、加賀の可愛いところを見れた。話す姿は、慣れないながらも誠意があったのだ。

 

「なら、いいの」

 

ちびちびと注がれた酒を飲む作業に戻った加賀の身体が、次第に弛緩してくる。

達成感による満足と、緊張感が切れたことに対する安堵と、何よりも余り強くない酒を少しずつとは言え摂取し続けたことが、原因だった。

 

「加賀さん」

 

完全に船を漕いでいる加賀に提督が話しかけ、返答がないことにを確認して彼女を見る。

寝始めと寝起き。この時に何されようが、人はまるで頓着しない。気づきもしない。答えはするが、覚えていないことが多いのだ。

 

「眠いの?」

 

「……ええ」

 

「なら、寝たら。お酒飲むと不安とか恐怖とかがあっても、ぐっすり眠れるんだよ」

 

「ええ」

 

几帳面に両手で持っていたグラスを机に置き、加賀はソファーに背を預けて寝息を立て始めた。

相変わらず、無防備である。

 

「加賀さん、寝ちゃったか」

 

答えはない。規則正しい寝息と、自分の肩にかかる微かな重みが、その事実を示していた。

 

腰に手を当て、少し抱き寄せる。

細さが際立ち、掴めば潰せそうな華奢さがあった。

 

「男の前で寝ると、襲われるよ」

 

結構な頻度で、加賀は酔い潰れる。

そんな風には見えないくせに、案外と酒に弱い。しかも、潰れるまでは飲まない、と言う節度がない。

 

前はこんなことは無かったはずなのだが、同じ時を過ごす度に酔う頻度と、眠りに落ちる可能性は高くなっているように思える。

 

非常に不安に思いながらも、提督は取り敢えずなんとなく撫でていた腰から手を離した。

胸からなだらかに落ちるくびれを撫で、臀部の前で引き返す。

 

何と言うか、かなりのセクハラだが、寝た加賀さんが悪い。

広い袖から出ている滑らかな手を撫で、掴む。

 

体温が高い。暖かいと言うよりも、暑い。天候がガタガタと変わっているこの謎の冬の時期、加賀の暑さは嬉しいが、少し心配にもなる。

 

「……取り敢えず起こすか」

 

色々と触り続けていた身体を揺すり、加賀を起こそうと苦心する。

だが、加賀は早々起きない。目覚めが悪いし、低血圧で判断も鈍い。

 

起こそうと揺らせば割りと眼に毒な光景が現れるのだが、それでも加賀は薄っすらと眼を開いた。

 

「部屋に帰ろう、加賀さん」

 

「……いや」

 

睡たげな目が何回か瞬き、また閉じる。

寝させてくれ、ということらしい。

 

こうなれば、何をしようが起きないことを提督は知っている。

 

対面を向いていたが為にぐったりと加賀の身体が提督へと倒れ込み、むにゅりとした圧倒的な質量が提督の鳩尾辺りに押し付けられた。

 

「……ゆっくりしましょう、ていとく」

 

「ゆっくりしましょう、って?」

 

果実酒の甘ったるい匂いと加賀の髪の何とも言えない良い香りが混ざり、思わずゴクリと唾を飲む。

女と言う存在が、自分の身体に押し付けられている。そんなつもりがあるのかないのかはわからないが、背筋がくすぐられたような甘美があった。

 

ゴシゴシと、甘える猫のように自分の頭を胸板に擦り付ける加賀をどうしたものか、と言うような、頭が白むような気持ちがある。

 

「……加賀さん、酔ってるでしょ。自分の気持ちに沿わないで、勢いで動くのはやめなさい」

 

「酔っていません。したいから、しているの」

 

眼が、完全に据わっていた。

 

ぎゅーっと身体を押し付け、甘えるように自分の匂いをつけようしているその姿は、まごうことなき『所有権を主張しようとしている猫』そのものである。

 

「……マタタビに酔った猫のような」

 

自然と声に出ていた感想に何を思ったのか、少し髪が乱れた加賀が胸板から頭を離す。

据わった眼で対面になり、加賀はおぼつかない手で酒を取って飲み、ほんのり赤くなった。

 

「……にゃー」

 

ぼそり、と呟く。

言った途端にそっぽを向き、後ろを向く。恥ずかしそうに俯かせた琥珀の瞳といつものように引き締まった口元、すぐ前まで押し付けられていた胸に変わって、小さな肩とすらりと背骨が通って形のいい背中が視界に入った。

 

(どうしたんだ、加賀さんは)

 

凄まじく可愛かったが、いきなりこんなになったことに戸惑いがある。

ほんのりと骨の美しさが見える背中も可愛いな、と、提督は暢気に考えていた。

 

肩甲骨と背骨にたまらない色気がある。

ひとまず水を渡して飲ませ、暫く経った。

 

加賀の肩のところに手を当て、提督はほぼ確定させるように声を掛けた。

 

「加賀さん、酔ってるね」

 

「……ええ」

 

「寝てきなさい」

 

こくん、と頷いて、加賀はフラフラしながらも立ち上がる。

よろめいた所を両肩を持って支えてやり、提督は振り向いた加賀に対して言った。

 

「送るよ。近いけども」

 

「…………お願いします」

 

ちどり足の加賀は、何回かふらふらと提督の方に寄りかかる。

その度に女性らしい柔らかみに満ちた加賀の身体が、提督を散々に悩ませた。

 

ぐいっ、と抱き寄せて、押し倒してやりたいと思える程に。

 

「……やっぱり、そうはならないのね」

 

「何がよ」

 

「いえ」

 

気の迷いです、とポツリとこぼし、加賀はピン、と背すじを伸ばした。



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