【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた (食卓塩准将)
しおりを挟む

第一章
第一病・悲しみの向こうへ


……声が、聞こえたんだ。

ヤンデレの物語を書け、そんな声がな。


 ──身体が、重い。

 鉛のような身体を引き摺りながら、苦労して倉庫の扉を開き、外へ出る。

 右足を前に出すが、うまく足が地面を踏み込めず、そのまま前のめりに倒れてしまった。

 

「……てぇ」

 

 受身も出来ずに顔から地面にぶつかった事に顔を顰めるが、それ以上に全身が痛く、熱く、俺は起き上がる事をせずに、倒れたままでいた。

 起き上がろうと左手を支えにしようとしたら、なんと動かない、折れでもしたのだろうか。

 ならば、ともう片方の腕で起き上がろうとしたが、そもそも力が出ない事に気づいた。

 直後に地面に自分の血が、しかも頭から流れた血が滴れて来たのを見て、あぁ、こんなに血が出たらなぁと納得する、自分の事の筈なのに妙に他人事みたいだ。

 仕方が無いので起き上がるのは諦め、かと言って何時までも地面にキスしてるような格好はお断りだったので、痛む身体を無視しながら、無理やり身体を反転させてなんとか仰向けになる。 血が足りなくて視力が落ちてるからか、はたまたさっきまで暗い倉庫にいたからか、視界に映る空の色はどよんとした不鮮明な物だった。

 ふいに、頬に水が落ちて来る。 『あれ?』と思う間も無く、雨が全身を濡らし始めた、どうやら視力の良し悪しに関係なく、始めから空はどよんとしたままだったようだ。 冷たい水が身体に当たり、先ほどから俺を悩ませていた物のうち熱さは解消され……ダメだ、当たってない背中が熱い。

 

「……死ぬのかな、俺」

 

 自分の学校の敷地内にある倉庫の前に居るわけだが、あいにく今日は休校日で、この学校には今、俺を除いたら倉庫の中でおねんねしてる二人しかいない、警備員のオッサンぐらいなら居るかもしれないが、まぁ無駄な思考だろう、こんなに身体が痛いんだ、俺はこの後死ぬんだろう。

 

「…………ちくしょう」

 

 自然と、意識するまでもなく口から言葉が出てくる……『ちくしょう』? 俺は、何を悔しがっているんだろう。 思考が切り替わり、自分の深層心理への探究へと血の足りない脳みそが動き始める。

 齢十八歳で死ぬことに悔しがっているのだろうか? 昔は人生五十年と言ってたし、今はもっと長い時代だ、二十歳にもならずに死ぬのはもったいない事この上ないだろう。 だがそれは違う、と思う。 心の中で答えを得た時特有のスッキリとした手応えが無いからだ、命が惜しいわけでは無いようだ、ならばなんだ? 

 今際の際に、こんな寂しい場所で、たった一人で死んでしまう事だろうか? フランダースの犬の主人公だって、若くして死んだがその時には愛犬も一緒だった、家族や友人どころか犬猫すらいない場所で死ぬのは寂しい物かもしれない。 だがこれも違うと思う、やはり手ごたえがさっぱりだ。

 じゃあなんだ、そろそろ頭がぼんやりして来て時間が無い事を体感している、さっさと答えが欲しい、何を悔しがってるんだ。 ひょっとしたら、悔しいという感情の対象は、自分では無いのかもしれない、こんなに考えても思い浮かばないんだ、誰か他の人の事で悔しがっているのかもしれない。

 

「…………あ、そうか」

 

 その考えに至ったら、驚くほどあっさりと、それこそ1+1の解を求めるよりも早く、答えが出てきた。

 だが、せっかく今際の際に待ち望んだ答えを得たのにも関わらず、期待していたスッキリとした手応えはなかった。 むしろ逆に、身体を蝕む痛みをゆうに超えた、全く別の『痛み』が、心の中に生まれてしまった。 この後に及んで自ら死期を早めるような真似をするとは、トコトン自分の間抜けさに呆れて来る。

 ああそうだった、俺は別に自分が死んでしまう事など構わない……と言うのは嘘になるが(俺にも親しい友人はいる、そいつらと別れるのは悲しい)、今この時においてそれは然程重要な事でもなんでも無かった。 元々、今の自分自身に執着するような物など、俺には無かったのだから。

 そうだ、俺は、自分の命なんかとは比べものになら無い、大切なモノを失ってしまった事を、そしてそれをそのままにして、ここで死んでしまう事、それが悔しいのだ。

 

「…………畜生っ」

 

 不意に、頭の中に過去の思い出が駆け巡った。 喜怒哀楽様々な物が詰まったその記憶の海の中には俺自身覚えて無くて、とうの昔に忘却した筈の物まであり、これが俗に言う走馬灯だと理解する。

 そして、その記憶の中には当然、“彼女”との思い出も沢山あった。

 それらは本来、俺の心を暖かくしてくれる筈の物だった。 が、今は違う。 今はただ俺を蝕み、苦しめるだけの毒にしかならなかった。

 

 ──だから、俺はその記憶を眺めながら、心の奥である願い事をした。

 

 それは叶う物かどうかは分からない、でも、俺はいるとするならば、こんな歳で、こんな寂しい場所で死なせる神に、この程度は仕事しろと思いながらソレを願った。

 やがて、記憶の回想が終わりに差し掛かって来る……つまり、長々と愚痴っていた俺の寿命も遂に終わるのだ。

 

「……ごめんな、────」

 

 目から、涙が溢れて頬を伝う感触を覚えながら、最後に、俺が大好きだったあの娘の名前を呟いて、

 俺、頸城縁の人生は、呆気なく幕切れとなった。

 

 ──────────

 

「──ん、──ちゃん‼」

 

 暖かい陽射しと、柔らかな布団、春の朝が、俺をやんわりと包み込んでいる。

 

「起きて、朝なんだよ?」

 

 それは、まるで俺を更なる眠りに誘うかのように、俺の意識を深淵の彼方まで──

 

「もう、また寝ちゃ駄目だってば‼」

「……だぁう、うっさいなぁ……」

 

 なんだ、さっきから俺の肩を揺すり、俺の耳に入ってくる声は……俺はもう一人で死んで行くんだ、幻聴なんか聴こえるほど血だって残ってない……って、あれ? 知らない声じゃ、ないぞ? と言うより、今俺はどうなっている? 気がついたら痛みも熱さも無ければ、身体中に当たっている筈の雨の感触すらない。 更に言えば冷たく土臭い場所に倒れている筈なのに、地面がとてもフカフカしていて、まるでベッドみたいだ。

 

「お兄ちゃん、寝ぼけてないで起きてってば、遅刻しちゃうよ」

 

 それに、俺はこの声を知っている、知っているぞ。 でも、なんだこの違和感は、『俺』はこの声を知っていて、だけど同時にもう一人の《俺》とでも言う物が、また違う意味でこの声を知っている……そんなワケの分からない感覚、同一性の欠けた感覚、まさに違和感ならぬ『異和感』だ。

 俺はその感覚の正体を掴む為、布団を顔まで被り、思考を遮る光が差し込まない無の世界を作ろうとして────って、はぁ!? 布団!? 

 

「もう、いい加減に起きてってば、お兄ちゃ────ん!!!!」

「あっしまぁ⁉」

 

 ──状況を把握する前に、ベッドから布団ごと引っぺがされて、床に落ちてしまった……え、床? 今度は俺、ベッドから床と言ったのか? 

 

「──ってぇ!」

「あ、ごめんなさいお兄ちゃん‼ 力入れ過ぎちゃった……大丈夫? 怪我無い⁉」

 

 俺の布団を引っぺがした者が、過剰に慌てた声で俺の心配をする、幸い下には何も無かったので怪我は無く、俺はゆっくり頭をあげながら、声の主に自分の無事を伝える。

 

「大丈夫大丈夫、ちょっと頭打っただけだから問題な──」

 

 そして、視界に声の主を入れた瞬間、言葉と共に思考が止まった。

 

「良かった……ごめんねお兄ちゃん、お兄ちゃんが起きないからって、私ついやり過ぎちゃって……どうしたの、ぼぉっとして?」

 

 先ほどからの声の主──淡いクリーム色をした髪を二本の白いリボンで左右にまとめている少女が、不審がって俺を見ている……と、言うより、

 

「誰だ、お前は? それに、ここは……って、なんで俺寝巻きなんだ!? さっきまで私服で学校に居たのに……け、怪我まで治ってやがる⁉」

 

 突如自分に訪れた異変に考えが追いつかず、取り乱してしまう。 そんな俺を、少女が胡乱げな顔で見る。

 

「お兄ちゃん、ひょっとしてまだ寝惚けてるの? 家族の顔を忘れるワケ無いよね?」

「家族……?」

「そうだよお兄ちゃん、私とお兄ちゃんは、世界でたった二人だけの兄妹なんだよ?」

「兄妹……妹…………って、ん?」

 

 少女の声を聞いていると、自然にある名前が脳裏に浮かび上がってくる……そうだ、俺はこの娘を知っている、この娘は、

 

「……なぎ、さ?」

「そうだよお兄ちゃん、渚だよ? もうスッキリ目は醒めた?」

「渚……家族、俺の」

「う〜ん、まだ少し寝惚けてる? さてはお兄ちゃん、昨日は夜更かししてたんでしょ。 もう駄目なんだよ、私が起こしに来なかったら遅刻しちゃうんだから」

「あ、あぁ……すまない」

「ふふ、そんな本気になって謝らなくたって良いよ、冗談だから。 私がお兄ちゃんを起こしに来なくなるなんて事、あり得ないよ、家族なんだから」

「そ、そうだよな、ありがとう……」

「どういたしまして。 じゃあお兄ちゃん? 本当にそう思ってるなら、早く着替えて降りて来てね。 朝ごはん出来てるから、冷めないうちに」

 

 そう言って、少女──もとい、『妹』の渚は部屋を出て行った。

 

「……なんで、俺は彼女を知っているんだ」

 

 今のは、なんだ? 何故俺は数秒前まで知らなかった筈の女の子の名前を言えて、しかもそれがごく当然のように感じているんだ? 

 それだけじゃない、起きたばかりの時は、渚の顔も名前もまるっきり分からなかったのに、いざ名前を思い出すと、渚の名前を呼んだ時や渚が俺に話しかけて来た時、その内容──どれもが『今まで何度と経験して来た』ような認識を俺に与えた。

 そしてそれらの感覚が、渚の言っていた言葉が全て事実だと教えている──すなわち、俺はこの家に妹の渚と暮らしていて、今日もまたいつものように起こしてもらった。

 

 それだけではない、両親は仕事の都合で家には居なくて、家事全般は渚が行っている事や、学校には二人して歩いて二十分の距離にある私立の中高一貫校に通っている事、部活には所属しておらず、帰りは友人(この友人の顔と名前もすぐに浮かび上がって来た)とゲーセンや飲食店で過ごしている事、近所に同じ年齢の幼馴染の女の子がいる事……そして何よりも、

 

 ──俺の名前が、頸城縁などでは無く、『野々原』縁だと言う事も。

 

 それら全てが、俺の頭の中で次々と『常識』として出てきた。

 だが、それはおかしい、おかしいのだ、何故なら俺はさっきまで学校の倉庫の前で倒れて、そのまま死んだ筈、こんな暖かい陽射しの射す部屋で寝ている筈が無いんだから。

 しかし、そんな思いとは裏腹に、次々と野々原縁の今までの生きてきた記憶が湧いてくるのも確かだ。 俺の頭にある記憶は、どれも偽物では無く、紛れも無く今日までの俺の生きてきた証として刻まれている。

 

『頸城縁』である自分と、『野々原縁』である自分、そのどちらもが同じ《自分》であり、それはすなわち──

 

「……まさか」

 

 思考の末、一つの、余りにも馬鹿げた答えに辿り着いた俺は、寝巻きからハンガーに掛けてあった制服に手早く着替えた後、急いで一階に降りる。 リビングには家族共用のパソコンがある、それで一つ調べたい物があるのだ(本当は自分の部屋にもデスクトップがあるが、早く降りないと渚が心配するだろうと思い、一階のパソコンを選んだ)。

 

「あ、お兄ちゃん、ちゃんと起きて来たんだね、遅いからまた寝ちゃったんだと──」

「渚、ご飯の前に一つ調べて良いか!」

「ふぇ‼ ど、どうしたの急に」

「理由は後で話すから、調べ物させてな?」

「う、うん……まだ時間あるから大丈夫だけど」

「ありがと」

 

 遅刻しそうな時間までにはまだまだ余裕がある事は俺も『知っていた』が、それでも待っててくれて居た渚に黙ってパソコン使うのは良くない、了承を得たのですぐさまパソコンの電源を入れ、とある単語で検索を掛けた。

 

『頸城縁』 『事件』

 

 すると、幾つかの検索結果の中にあった大型掲示板サイトに、目当てのモノが見つかった。

 

「お兄ちゃん、何を探して.え? 学生の、傷害事件?」

「……見つけた、やっぱりな」

 

 サイトを開くと、そのスレッドでは今から十九年前に、某県の私立高校で起きた傷害事件について書かれていた。

『ゆとり世代が生んだ悲劇』だの、『今日に続く教育委員会の怠慢の始まり』だの、『リアルキ◯ガイ』だの、様々な書き込みがあり、隣に立って内容を見ている渚は半ば呆然とそれらを読んでいたが、俺はそういったどうでも良い書き込みには目を通さず、スレッドを開いた画面の真ん中に書いてあった、一つの書き込みに集中していた。

 

 102 :この名無しが凄い‼:20●●/04/24(月) 21:01:27.07 ID:0Fysu53cvRIgj

 

 特定したお。

 死亡した少年(18)の本名は頸城(くびき) 縁(よすが)、暴行加えた奴の名前は何故かさっぱり出てこないが、こいつの出身校俺と同じだったわww

 

 

「くびき……よすが? 名前がお兄ちゃんと同じだね?」

「──は、はははは……マジ、かよ」

「お、お兄ちゃん? 今度はどうしたの?」

 

 渚が急に笑い出した俺に驚く、俺はと言うと、俺しか理解し得ない事態のあり得なさに、ただただ呆れて、笑うしかなかった。

 だって、そうだろう? 一番あり得ない筈の出来事が起きたんだ、これはまるっきりフィクションの話で、俺は無神論者だってのに、それを撤回しなきゃならなくなっちまった。

 

「……なぁ、渚よ」

「うん……なに?」

 

 

「輪廻転生って、信じる?」

 

 

 ────────────

 

「お兄ちゃんがこの人……? 前、世?」

「まあ、そういう事に……なるとしか、言えない」

 

 要するに話をまとめると、だ。

 前世で頸城縁と言う名前の人間として生まれ育っていた俺は、ネットに上がるぐらいの出来事が原因で、先ほど見た夢の光景の通りにポックリと死んで、その後、仏教で言う輪廻転生の果てに、この野々原家の長男として生まれ変わり、今日までの十七年間を生きてきた。

 ところが、なんの前触れも無く突如今日に、前世の記憶を夢を経て思い出し、結果、野々原縁という俺の意識と、頸城縁だった俺の意識とが交わり、一つになって、ある意味では新しい俺となって目を覚ました。 朝起きた時に始め渚を渚だと分からなかったのは、頸城縁の意識がしっちゃかめっちゃかになってて記憶がめちゃくちゃになってたから、

 

「──というわけ、なんだが……分かった?」

「……………………」

 

 俺の説明に、渚はじっと俺の目を見ながらじっと静かに話を聞いていたが、やがておもむろに口を開いた。

 

「つまり、今のお兄ちゃんは今までのお兄ちゃんで、だけど一緒に、その、頸城さんだった時のお兄ちゃんでもあるって意味、なのかな?」

「…………そう、だな。 多分、その見方で間違ってないと思う」

「……………………そうなんだ」

 

 うん、やっぱり信じられないよな、こんな事。 俺だっていきなり家族が『俺の前世が〜』とか言いだしたら引くもん、『うわ、こいつ頭イッテやがる』って思うもん。

 

「ごめん、やっぱバカみたいだよな、これじゃ末期の厨二病だ。 今言った事は全部忘れて──」

「──ううん、私、信じるよ」

「……えっ?」

 

 いま、渚は何と言った? 信じるよ? 今のはたから見たらただひたすら痛い話を? 

 

「な、なんでだよ、こんな与太話、自分で言うのもなんだけど普通なら笑い飛ばすようなモンだろ」

「他の人が言ってたらそうなんだけどね……でも」

 

 そこで一息付いてから、渚は微笑みながら言った。

 

「私が、お兄ちゃんの言葉を疑うワケないじゃない」

「…………なんで、そこまでハッキリ言えるんだ?」

「だって、お兄ちゃんはいつも私には本当の事しか言わない、嘘なんかつかないもん」

「な、渚……」

「たとえ世界中の人がお兄ちゃんの事を信じなくても、私だけは信じるよ?」

「お前……」

「お兄ちゃんの言葉を疑うような奴なんて、生きてる事さえ許さないもん……ッ!」

 

 いや、その気持ちは嬉しいけどいささか行き過ぎじゃないか? 

 

「それに、始めから関係無いよ」

「関係無い? 何がだ?」

「たとえお兄ちゃんが昔どんな人でも、今は私の、私だけのお兄ちゃん……私にはそれだけで十分だよ?」

 

 あ、やばい、今少し泣きそうになった。

 

「だから、私は──キャ!」

「渚、お前はなんて良い妹なんだ!」

 

 感激のあまり、つい渚を抱き締めてしまった。 静な自分が朝っぱらから何やってんだと言うが、生前(頸城縁)家族にこんな事言われた事が無かったので、感激もひとしおなのだ。

 渚は、始め陸に上がった魚のようにあたふたとしていたが、やがて静かに俺の背中に手を回し、自然に互いに抱き合う形になる。 互いの鼓動の音さえ聞こえてしまいそうな程密着して、渚が静かに俺に言う。

 

「お、お兄ちゃん……その、こうしてくれるのは嬉しいけど、朝ご飯……冷めちゃうよ?」

「あ、そうだった! って、もうそろそろ食べないとやばいんじゃないか?」

 

 渚の言葉で今がまだ朝飯前だという事を思い出した俺は、直ぐに渚から離れた。

 その時僅かに渚が、残念そうな顔をしたのを見て、クラスメイト(今の)が時々口にする『妹萌え』というモノの一端を垣間見た気がした。

 

「──さ、早く朝ご飯食べよう、お兄ちゃん!」

「……あぁ、そうだな!」

 

 そうして、俺たちはちょっとした騒動の末、ようやく少し冷めた朝ごはんをとったのだった。

 家族と一緒に食べる朝ごはんは、野々原縁にとっては至極当然のモノで、頸城縁にとってはこの上無く幸せなモノだった。

 

 ────────────

 

 朝食を食べ終え、二人で食器を洗い終えた後、俺たちは二人で学校に向かって慣れ親しんだ通学路を歩く。 その慣れ親しんでいる筈の道も、今日は何故か新鮮な気もするのが少し面白かった。

 

「……あ、そうだ、渚」

「ん? 何?」

「あの事な、とりあえず今は周りには言わない事にするから、お前もそのつもりでいてくれ」

 

 俺の前世についてなんて、それこそ渚のような、今時珍しいぐらいの兄思いな妹だから信じてくれたのであって、他の人に話してもきっと『お前は何を言ってるんだ』としか言われないだろう。 なので、これは俺と渚だけの秘密にする事に決めたのだ。

 まぁ、もしこの人なら信じてくれるかも……と思う人が出来たら、話したりするかもしれないが……案外、お寺や神社にいる人とかなら信じてくれるかもな、そんな場所に行く事も滅多に無いと思うけど。

 

「うん、分かった。 つまり、私とお兄ちゃん、二人だけの秘密だね」

「そうだな、今のところはこの方針で頼む」

「お安い御用だよ、お兄ちゃん」

 

 そう笑顔で返す渚を見て、『ああ、この俺は本当幸せな奴だなぁ』と思った。

 確かに俺は前世では別の人間で、しかもその気になれば頸城縁の生きていた場所に行けるし、あの時友人だった人やその親族、更には頸城縁自身の親族にだって会えるだろう、会っても向こうは分からないかもしれないが。 声も容姿も全く違うのだし。

 でも、俺はそうしようとは思わない。 渚が言ってくれたように、今の俺は頸城縁ではなく、野々原渚の兄で、野々原家の長男の『野々原縁』なんだ、頸城縁とは違う家族がいて、友達がいて、今があるんだ。 だから、俺は文字通り『過去を引きずる』事はしない。 そのつもりでいる。

 

 俺は頸城縁『だった』が、今は『違う』のだから。

 

 そうやって新しい覚悟を決めながら、渚と他愛ない話をしながら歩き続ける事ちょうど二十分、俺たちは自分たちが通う私立良舟高校に着いた。

 

「じゃあお兄ちゃん、またね」

「おう、またな」

 

 中間一貫校でも、高校生と中学生では昇降口も違うので、俺と渚はここで一端お別れになる。もっとも、学園の敷地はつながっているから、会おうと思えば簡単に会えるわけだが。……さて、今日も高校生活を楽しく満喫するとしますか。

 下駄箱で上靴に履き替え、自分の教室に向かって歩く。 途中トイレに向かうクラスメイトに挨拶などを交わし、『2-3』とプレートが立てられた教室に入る。

 

「おはよー」

「おはよー野々原」

「うん、おはよう」

 

 基本ノリの良いクラスメイト達は、俺が挨拶するとそれに合わせてそれぞれ挨拶仕返してくれた。

 その後、自分の席に着いてカバンを置いた直後、聞き慣れた女の子の声が、後ろから俺を呼んだ。

 

「おはよう、縁」

「おぅ、おはよう綾瀬」

 

 髪の毛を黒い大きなリボンで纏めた、制服の上からでも分かる立派なスタイルをしている女の子、河本綾瀬。 俺と十年以上の付き合いがある幼馴染だ。

 

 ────ん? 

 

「見たよ、今日も朝から渚ちゃんと一緒に登校してたでしょ」

「まぁな、もう日課だからな、渚と登校するのは」

「なんか……まるで夫婦みたいね」

 

 ────金槌、五寸釘、刃こぼれした包丁、

 

「何言ってんだ、帰りはお前と一緒の時の方が多いじゃないか」

「う、うん、そうだよね、あはは!」

「そうだよ、朝から変な事いうなよ……まぁ、俺もあんま人の事言えないんだが」

「え、どういう事?」

 

 ────ヤンデレ

 

「──────ッッッッ!!!!」

「? どうしたの縁、急に驚いた顔して」

「え……あ、いや、なんでもないよウン!」

「……嘘、あからさまに何かあったって顔してるよ、今の貴方」

「だ、大丈夫だから、本当……でも、ちょっとトイレ行って来て良いかな?」

「ああ……そういう事。 お腹痛くなったなら素直に言えば良いのに、変な縁」

「はは、そうだな……じゃあ、ホームルームが始まる前に戻るよ」

「私、先生に言っといてあげるよ?」

「いい、大丈夫だから!」

 

 そう言って、俺は一目散にトイレに向かった、途中またクラスメイトとすれ違ったが、今度は気軽に挨拶するような精神的余裕が無かった。

 

 朝、渚と話して、自分の身に起きた事に気づいたせいで、俺は今の今まで忘れてしまっていた。

 確かに、『違和感』は無くなった。 理由こそ不明のままだが、俺は前世の記憶を思い出した、違和感の元凶はそれだった。

 だが、もっと前の事を思い出して見ろ。 朝、一番始め、俺を起こしに来た渚の声を聞いて俺はそれをどう思っていた!? 

 

 ──俺はこの声を知っている、知っているぞ。 でも、なんだこの違和感は、『俺』はこの声を知っていて、だけど同時にもう一人の《俺》とでも言うものが、また違う意味でこの声を知っている……そんなワケの分からない感覚、同一性の欠けた感覚、まさに『異和感』だ。

 

 そう、俺は『知っていた』! 二つの意識が混在して渚の顔も名前も思い出せなかった状態に居たのに、俺は、『野々原縁』は、そして『頸城縁』は、渚の声を、『知っていた』のだ! 

 それこそが『異和感』、違和感ならぬ異和感だ。 そして今さっき綾瀬との会話の中で自然と浮かんで来た──渚の名前を思い出したのと似たような感覚だった──言葉とイメージ、その中で最後に出てきた、『ヤンデレ』という言葉。

 

「……あ、あぁぁ……!」

 

 その瞬間、俺はついに異和感の正体をも突き止め、そして──、

 

「なんて、ことだぁああ!?」

 

 同時に、絶望に近い感情が俺を支配した。

 そうだ、俺は知っていた、頸城縁は知っていた、野々原渚を、河本綾瀬を、そして、この世界そのものを──そう!! 

 

 この世界は、頸城縁が生前趣味で好んで聞いていた、『ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD』の世界だったのだ!! 

 

「こ、これは……」

 

 危険! 圧倒的危険! 命の危機! 四方を地雷で固められた草原に同じ、一歩でも踏み間違えれば殺される……誰に? 問うまでも無い、彼女達にだ! 

 まさにこの俺の存在、それ自体が死亡フラグ! なぜ輪廻転生の果てにこんな世界に生まれ変わる事になってしまったのか、まるっきり検討がつかないがそんな事今はどうでもいい、俺は更にもう一つ恐ろしい仮定に辿り着いたのだから! 

 

 今日、なんの前触れも無く前世の記憶を思い出した。

 しかも、それはよりによって死ぬ寸前の記憶だった。

 それは、即ち、近いうちにこのままでは俺が死ぬという事を表してるのではないだろうか!? 

 CDで散々聞いて来たあの、普段は優しいがふとした事で一気に病み始め、最終的に主人公(この場合俺)を殺して来た彼女達の誰かに、俺が……殺される……!? 

 

 いや、待て、まだそうと決まったワケじゃ無い。 俺はまだ怪我をして綾瀬からハンカチを貰ったり、綾瀬の家でご飯を食べたり、綾瀬と付き合ったり、そんな関係性には全く至ってない。

 つまり未だ俺は、渚や綾瀬の琴線に触れるような危ない状況には居ないハズ、まだ真っ白な状態、死亡フラグなど無いのだ! 

 

 だが、それは本当だろうか? たとえそうだとしても、このままのほほんと暮らしていたら、いつ知らない間にデッドエンドルートに突入するかも分からない、油断など全く出来ないのだ。

 

「……つまり、これは……ッ!」

 

 これは、戦争。

 俺の、たった一人の最終決戦。

 俺の、生存戦争。

 

 迫り来る幾多もの死亡フラグを躱し、

 血生臭い出来事に逢う事なく、

 平穏無事に生き続ける、そのために俺は絶対に生還してみせる! 

 

 

 ────────────

 

 これは、それなりに波乱万丈な人生を経て新たな人生を生きて、そこでもまた死にそうになった、ある一人の少年の、生存への戦いである。

 

 果たして彼が、このいつ終わるかも知れない終わら無い悪夢から無事生還出来るのかどうか、それは……神のみぞ知る。

 

 

 

 ──to be continued




次にお前は、なぜこんな物語を書いたと言う。

はい、食卓塩少佐です。
まだ他に書いてる作品があるのにこんなモン投下しちゃいました(照兵屁露(てへぺろ)
しかしこの作品はあくまでもサブ、本命はもう一つの方なので、この物語は亀更新になると思いますのであらかじめご了承ください。


それはそうと、ヤンデレ良いですよねヤンデレ、僕ヤンデレ好きなんですよ。
ヤンデレの何が良いかって、あの暗く淀んだ瞳、あの状態のヤンデレを更に言葉攻めして更に真っ黒い瞳にしたいですよね〜きっと俺だけですねそんな事言うの。

しかし、原作のヤンデレの女の子に(以下割愛)の主人公、どうやら浮気性みたいですね、それでわざわざ自分から死亡フラグ立ててるんですから、自業自得ですよねぇ〜。
この作品の主人公はある程度原作知識を覚えてますが、まぁ世界線の収束と言うモノがありますれば、はたしてどうなるモノやら。

それでは、こんなテンションの作品でもよければ、また次回会いましょう。

さよなら、サヨナラ

追記:2020年の某日。とある事情で書き直しを少ししました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二病・forever

 お待たせしました、第二話でございます。
 本当は一万文字程度で終わらせるつもりだったのが、一万七千文字行ってしまいましたでござるの巻。

 それでは、お楽しみください。

 綾瀬ちゃんマジ幼馴染!


 ──私と彼が一番最初に出会ったのは、小学二年生の、満開だった桜が散って、青々とした葉桜になっていた頃の学校の帰り道、途中にある公園のそばを歩いていた時だった。

 たまたま普段一緒に帰る友達が休んでて、いつもより少し寂しい気持ちになりながら一人で通学路を歩いていた私は、公園の方から誰かの泣いている声が聞こえて、本当は両親に帰りに寄り道しちゃいけないって言われていたのだけれど、気になってつい足を運んでしまったのだった。 お陰で彼に出会う事が出来たのだから、この時の私の判断には手放しで褒め称えたいところだ。

 公園に入ると、隅っこの、ちょうど大きな桜の木や今はもう滅多に見ない回旋塔(球形のジャングルジムのような物をグルグル回って遊ぶ遊具)の陰になって目に付きにくい場所に三人の男の子が居た。 そのうちの一人は地面にうずくまって泣いていて、後の二人がその子を手に持った木の棒で笑いながら叩いていた。

 誰か親と言えるような大人が居ない事と、中途半端な時間だからかその子達と私しか公園に人は居なくて二人を止めるような人が居なかった事、そして三人が下校中である証拠である、ランドセルを背中に背負ったままなのを見て、私はすぐに地面にうずくまっている子が遊びの延長線なんかじゃ無くて虐められている事を理解した。

 その瞬間、私は後先考えずにうずくまっている男の子の所へ駆け出して、叩いていた二人の前に庇うように立った。 いきなり、しかも女の子が邪魔して来た事に二人は驚いていたけど、すぐに強気になって木の棒を私に向けながら『じゃますると、お前もたたくぞ』と脅して来た。 でも学校で何度かクラスの男子と衝突した事があった私はそのぐらいで怯んだりはしなくて、逆に『そんな事したら、すぐに先生に言うんだから!』と言い返した、通学路から考えると学年は分からなくても同じ学校の生徒である事は間違いなかったので、十分二人を止める方法になり得た。

 

 この年齢の子どもは、(当然、私もだけど)何よりも学校や親に言いつけられるのが一番恐い物で、二人もすぐに狼狽えて、顔を合わせた後に汚い言葉を吐きながら逃げるように、というより実際に逃げたのだろう、二人は急いで公園から出て行った。 後に残ったのは当然私と泣いている男の子だけで、私は男の子の方に体の向きを変えて、すぐそばに立って声を掛けた。

 

『ねぇ、だいじょうぶ?』

 

 確か、初めに掛けた言葉がそれだったと思う……ふふ、あの時の情景や彼の顔はいくらでもハッキリと思い出せるのに、私自身の事だけは随分とあやふやな事に自分の事ながら笑っちゃうわ。

 

 声を掛けたのは良かったのだけれど、男の子は私に全然反応しないで、全然泣き止まなかった。

 何回も『大丈夫』と言っても聞いてくれなくて、段々私も困って来ちゃって、それでも怒ったり見捨てたりするのはさっきの二人と同じだと思ったから、私はその後も何度も何度も男の子に『もう大丈夫だよ、だから泣かないで』と言い続けた。

 その甲斐もあってか、ようやく話を聞いてくれるぐらいには落ち着いたその子が、泣き腫らした目で私を見た時、ここだけの話だけど、男の子なのに情けないって思っちゃったのは内緒だ。

 

『もうだいじょうぶ? どこかいたくない?』

 

 改めてそう聞くと、その子は頷きながら、

 

『うん……だいじょうぶ』

 

 と答えた。 初めて聞いた声は思っていたよりも柔らかくて、一瞬女の子じゃないかと勘違いしてしまった、これも彼には内緒。

 その後、立ち上がった男の子の服の汚れを一緒に払って、やっぱりまだ完全に泣き止まないその子を家まで一緒に付いて行ってあげる事にした。 正直、そこまでする必要は無かったのかもしれないけど、その時の私はそうする事に特に疑問を持ち合わせて居なかった、一人で帰らせて、途中にあの二人が待ち構えていたらという可能性もあったからかもしれない。

 手を握って、男の子が言う方向に歩いて行くと、すぐに『アレ?』という気持ちになった。 何故かと言うと、周りに立っている家や歩いている道に見覚えがあったから。

 

 それもそのはず、男の子の家は、なんと私の家の隣だったのだから。

 その事に当然驚いたけれども、それ以上に私は何故今日まで二人して互いの存在に気づかなかった事に驚いてしまった。

 

 私達が男の子の家に着いたちょうどその時、彼のお母さんが買い物から戻って来て、泣いてる子どもとその手を引いてる私を見て、凄く驚いたみたい。

 取り敢えず話を聞くために彼のお家に上がらせてもらって、私は公園であった事の一部始終を彼のお母さんに話した後、彼の方からも、おずおずと事情を説明してもらった。

 

 いじめは二年生の初めの頃からあったらしく、それまでは暴力を振るうほど激しいものではなかったのだけれど、あの二人が段々と調子付いて来て、その日初めて直接暴力を振るわれたらしい……とは言っても、暴力がその日初めてと言うだけで、それまでは上履きを泥に投げ捨てられたり、体育着を隠されたり、してもいない事を濡れ衣着せられたり、陰で十分暴力と同じくらい酷い事はされて来たのだけれど。 彼女は、その事を初めて知ったらしく、それまで息子のいじめに気づいてあげられなかった事に酷く心を痛めてしまい、同時に彼を助けた私にありがとうと礼を言った。

 

 その後、彼女は自分達がその年の春に引っ越して来たばかりである事、彼は引っ込み思案な所があり上手く友人を作れなかった事、両親共に仕事をしていて子どもにかけてあげる時間が足りない事を話してくれた。全部話した後に『ごめんね、こんな話貴女に言っても、まだ分からないわよね』と、何処か悲しそうに笑った表情が印象的だった。

 

 だからだろうか。

 

『じゃあ、わたしの家にいれば良いですよ!』

 

 なんて、突拍子もない事を言ってしまった。

 

 

 ────でも、結果的にそれが、私と男の子の関係を生んだ切っ掛けだった。

 

 それから、私と彼は一緒に居る時間が多くなった。 私が提案したように、彼の家に両親が仕事で居ない時は、戻ってくるまで私の家で過ごすようになったからだ。

 私の両親もその事をあっさりと承諾して、一緒に夜ご飯を食べたり、お風呂に入らせたり、お泊まりをする時もあった。 お父さんに至っては前々から息子を持ってみたかったらしくって、彼を自分の子どもみたいに可愛がって、時々私がヤキモチを焼いた事もあるぐらいだ。

 両親同士も、私と彼との交流を通じて交友を持つようになり、初めは彼の両親は謝ったり礼を言ったりばかりだったけど、そのうちすっかり仲の良いご近所付き合いになった。

 学校でも、私は彼がまた虐められたりしないように登下校や休み時間などは一緒に居て、進級して三年生になってからはずっと同じクラスになり、時々喧嘩をしたり、周りから冷やかされたりしたけど仲の良い友達であり続けた。 中学になってもそれは同じで、高校生になる時は少し問題が起きたけれど、結果的に一緒の学校に通う事になり、今年からクラスも同じになった彼と私の関係はもうかれこれ十年近い物になった。

 

 彼はその十年の間に初めて出会った時のような情けなさは無くなり、身長も私より小さかったのがみるみる内に追い越され、性格も以前とは比べものにならない程明るくなって、私の他にも友だちが出来た。 彼は、もう私が守ってあげる必要も無いくらいに変わった。

 そして私もこの十年の間で、私の中での彼が、『ちょっと情けなくて守ってあげる対象』から、思春期を経て『好きな人』に変わった事を感じている。 今はまだ、この気持ちを伝える事はしないけれど、いつか必ず、彼に自分のこの気持ちを伝えたいと思う。

 

 そう、私の、河本綾瀬の気持ちを、幼馴染の、野々原縁に。

 

 ……その縁についてなのだけれど、どうも今日は様子がおかしい。

 朝会って、お腹が痛いからトイレに行って戻って来てからの彼の様子が、明らかにおかしくて、まるで何かに怯えているように見える。 現に、今も授業中で皆が先生と黒板に意識を向けているのに、彼だけは────

 

「……ぶつぶつ、…………ぶつぶつ」

 

 何を言ってるのかまでは分からないけど、明らかに授業そっちのけで何かを考え込んでいる……どうしたんだろう、何かあったのかな? 朝食べたご飯に悪い物でもあったのかな? それとも文房具か教科書やノートを忘れて来たのかな? 

 と言うより、どうして彼の隣に座っている女子(クラスメイトの阿部加奈子さん)は彼に何にも声を掛けたりしないんだろう、あんなに困っているのが丸わかりなのに無視している事が私には少し理解出来ない。

 

 同じ教室に居るのに、すぐに彼を助けてあげられない自分が、恨めしかった。

 

 ……

 

「──この時、フランスは新たにヴァロワ朝を立ち、これにイギリスのエドワード三世がフランス王位継承権を主張した結果、1339年、百年戦争が始まったんだ。 この戦争では始めイギリスのエドワード黒太子が────」

 

 朝に驚愕の事実を知ってから速くも、四時限目の授業である世界史になっていた。 が、俺は教師の声なんぞ全く耳には入らず、ただただずっとある一つの事を考え続けていた。

 

『この世界は、ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCDの世界である』……それはつまり、俺が誰かに良くて監禁、最悪殺される世界だという事を呈示している。

 朝に確認した通りまだ俺が誰かに監禁や殺害をされる切っ掛けは起きては居ないが、これから先に起きない事には繋がらない、つまり、俺はこれから先死なない為に、どうしなければならないのかを考えていかなくてはならないのだ。

 一番初めに考えついたのは転勤中の両親の元に、俺だけ連れてってもらう事。 そうすれば渚や綾瀬とも否応無く距離を取る事になり、一番身近な死亡フラグがへし折れるからだ。

 だが、それは考えた瞬間すぐに却下した、現実的じゃない事もあるが、まだ高校一年生の渚を、あの家に一人置いて行く事なんか出来るワケが無いからだ。 ただでさえ物騒になって来ている世の中、家に一人だけでいる渚に危ない男の手が迫るなんて事、考えるだけでも恐ろしい。

 それに、この街には十年近く住んで来て愛着も充分に湧いてるし、気心の知れた親友と呼べる奴だって居るんだ、そいつらと離れたくはないし、それに何よりも──

 

 俺より前の席に座っている、頭にリボンを結んでいる(ヘアリボン、と言うのだったか?)女子にチラと視線を向ける……そう、彼女──俺の幼馴染である河本綾瀬、彼女と離れ離れになるのもまた、俺には考えられない事だった。

 妹である渚は家族である俺の事を一番理解してくれている人間だが、同年代の、等身大の『野々原縁』という人間については、渚や親友よりも遥かに、綾瀬が理解してくれているからだ。

 それに、これは『頸城縁』という、『俺』であり【俺】では無い、もう一人の自分とでも呼べる人間の意識が交わったから理解出来たが、【野々原縁】は、意識の底で河本綾瀬の事を意識しているのだ。 それはまだ恋心と言えるほどハッキリとした気持ちでは無いけれども、他の女子に対しては抱かない気持ちを、俺は綾瀬に抱いている……自分事なのに他人事みたいに、俺はそれを認識した。

 

 だから、俺は二つ目に思い付いた『彼女達から徹底的に距離を取って、関わりを持たない様に生活する』という考えもすぐに破棄した。

 渚や綾瀬が、もし関係を持って間も無い間柄だったらそれも出来ただろう、だけど実際はそうじゃない、たとえ前世では娯楽CDの登場人物でキャラクターに過ぎなかったのだとしても、『今の』俺にとっては掛け替えの無い家族であり、幼馴染なのだ。

 それは彼女らだけでは無く、両親や幼少期に世話になった綾瀬のご家族の方、そしてこの学校のみんなやしまいにはこの世界そのものにだって言える、全て掛け値なしの【本物】なんだから。

 

 そして、だからこそ、俺はどうすれば良いのか、明確な答えを出せずにいる。

 彼女らが大切な存在だからこそ、邪険に扱うなど出来ないし、かと言って何もしなければ、自分はその大切な存在に危害を加えられる……だが、現場では彼女達は自分にとっては良き妹で、良き幼馴染、何の危害も加えないどころか、俺の今ある幸せの象徴とさえ言える。

 突き放す事も、近づく事も出来ない……そんな状態で、どうすれば良いのかなんて、分かる筈も無かった。 ……と、そんなタイミングでだ、

 

「おい野々原、お前話を聞いてるのか?」

「──っ! は、ハイ!」

 

 やっべ、考え込み過ぎて全く授業を聞いてなかった! しかもこの世界史担当教師、岡山卓は、授業を聞いてない生徒に対しては授業でやってない箇所を質問して来て、そこで答えられなかったら廊下に立たせるって言う、今時珍しいタイプの教師。 最ッ悪だ……! 

 見ると、周りの生徒達が皆して『あちゃー』と言う目で俺を見ている、心配してくれているのは綾瀬や親友ぐらいだ。 というより、誰かこうなる前に声かけてくれよ……はぁ。

 

「野々原、やはり話を聞いてなかったみたいだな」

「ち、違います先生。 俺は、その──」

「言い訳は良い」

「はい」

 

 どうやら質問攻めは避けられないようだ。

 

「それじゃ野々原? 百年戦争の終わった年と、勝利した国とその王の名前、その年に起きたもう一つの歴史的出来事を言ってみろ」

「え、えっ〜と……」

 

 ひゃ、百年戦争!? 今日は百年戦争の授業だったのか? というかそもそも百年戦争て何処の戦争だっけ、スコープドッグに乗って戦うむせる戦争だっけ? 何処と何処の戦争だっけ、えっと……えっと…………、

 

「答えられないか、授業を真面目に受けないからだ。 罰として────」

「終わった年は1453年で、戦勝国はフランスで王はヴァロワ朝五代目のシャルル7世。 この当時起きたもう一つの出来事は、えっと、ビザンツ帝国がオスマン帝国のスレイマン……じゃなくて、メフメト2世に首都コンスタンティノープルを陥落されて滅びた事……だと、思います?」

「…………予習が出来てるようでよろしい、ただ授業はしっかり聞け」

「は、はい」

 

 ……答える事が出来てしまった。 って、よくよく考えたら前世の俺ってすなわち頸城縁は死んだのが十八歳の文系高校生だったわけだから、普通に今俺がやってる授業の範囲なんか終わってるんだよな……、精神年齢は今の俺のまんまでも、記憶ないし知識については多少先を進んでいるって事だもん……そりゃ答えられるか、頸城縁、世界史得意科目だったし。

 その後、俺はそれまで散々考えていた回避策について考えるのを一旦止め、岡山先生もまた、俺に再度問題をふっかける事なく、平穏に四時限目を終える事が出来たのだった。

 

 で、昼休み。

 

「縁っ」

 

 無事に世界史を終える事が出来た事に安堵のため息を吐いていると、一人の男子生徒がトタトタと俺の席にやって来た、俺の親友である綾小路悠(あやのこうじゆう)という奴で、父親が日本人で母親がそれは見事なプラチナブロンドのヨーロッパ系女性のハーフであり、父親はどっかの金持ちの一族の立派な家系らしいのだが、本人は至って一般市民然としており、全く金持ちの雰囲気が無い。 とは言っても、住んでいる家はこの街の一等地の高級住宅街なので、やっぱり金持ちのおぼっちゃんなのだ。

 おぼっちゃんと言っても、こいつは父親の方の血を余り受け継がなかったのか、所々跳ねちゃいるが髪は母親譲りの金髪で、顔も女顔、声帯が声変わりを忘れたのか声まで高く、トドメとばかりに身長も160センチと低めで、少し本気になれば女と勘違いされてもおかしく無い奴なのだ。

 一応頭髪は学校側に地毛申請してるし、周りの男子生徒と違う身体的特徴も『ハーフだから』で片付けられ、人間関係に問題は無いので全く問題は無いのだが。

 初めて会ったのが中学二年の夏休み直前で、転校生としてやって来たこいつが隣の席になったのが切っ掛けだった……とはいえ、男子と女子の両方からも好まれる容姿や家がお金持ちなんていう高スペックの人間と、よく俺は友人になれたもんだと今更ながらに思う。

 

「ん? どうしたの縁、僕の顔をジッと見たりしてさ」

「んにゃ、何にも無いよ」

「そう? じゃあお昼にしようよ」

「あいよー」

 

 悠は近くの席の椅子を拝借して、自前の弁当箱を俺の机に置いた。 俺も渚が毎日作ってくれている愛妹(家族愛という意味だ)弁当を取り出し、机の上に広げる。

 基本この学校の昼は、自前の弁当か購買部のパンや菓子類、もしくは別館にある広い食堂の三種類あるのだが、食堂のメニューは些か値段が高く(それでも使用する生徒は充分居るのだが)、そういった生徒らは購買部のパンか、俺らみたいに弁当をもって来て居る。 弁当・パン組は教室や屋上、外のベンチなど自由に食べる場所を選ぶ事が許されており、大体の生徒は屋上かベンチに行くか、食堂を利用する友人に弁当持って着いて行ったりしている。

 

 そんなもんで、お昼休みには教室に残っている生徒は俺らを含めても一桁だけだ。

 元々は俺も教室の外で食べたりしていたのだが、高一の時に他学年の生徒と軽いトラブルがあり、それ以来外で食べるのが億劫に感じたので教室で食べるのが慣習になった。

 悠の場合はバリバリ食堂の高いメニューも問題無いのだが、『どうせ食べるなら親友と』などとクサい事を言って、俺と同じように教室・弁当組になった、その事についてクラスの女子の何人かが、ヒソヒソしながら『あの二人の関係……まさしく愛ね』なんて言ってたが、俺たちが否定するより先に綾瀬が『ナニカ』をして以降、そういった声は表立っては聞こえなくなった……いったい何をしたんだろう綾瀬、五寸釘を使っていない事を願うばかりだ。

 

 その綾瀬だが、彼女はお昼は仲の良い女友達と一緒に食堂でガールズトークとやらを満喫しているらしい、元々俺よりずっと社交性に富んだ彼女だ、そういった事は得意だろう。

 

「ねぇ、縁」

 

 弁当のオカズを見て、どれから手を付けようと悩んでいる所に、既に食べ始めていた悠が何故か嬉しそうな顔をしながら話し掛けて来た、どうしたと言うのだろうか。

 

「どうした、オカズはやらんぞ」

「そうじゃなくて、さっきの授業のコトだよ」

「さっきの? ……あぁ、その事ね、それがどうかしたのか?」

 

 こいつが言おうとしてるのは十中八九、俺が岡山先生の質問に完答出来た事についてだろう、こいつは俺が本来文系なのに世界史が苦手で、既に授業でやっている箇所の問題さえ間違ってしまうぐらいなのを知っているからだ。 どれくらい苦手かと言うと、古代ギリシャで『万物の根源は数字』と唱えた人間が、アルキメデスかピタゴラスかで悩んでしまうぐらいだ、どっちが答えかだなんて、今更今の俺にとっては問うまでも無いが。

 

「どうかしたどころじゃ無いよ、岡山先生の質問攻めをかいくぐるなんて、凄いじゃないか! 今日まで岡山先生、十六連勝で縁が間違えたら新記録の十七連勝だったんだよ?」

「あの先生……頑張り過ぎだろ」

 

 まさかそんな記録を伸ばしているとは思わなんだ、と言うか誰だよ連勝記録なんか数えてる奴は。

 

「お前も、ああなる前に声かけといてくれよなぁ」

「あはは、ゴメンゴメン。 ちょうど僕と河本さんが縁に声を掛けようとしたタイミングで気づかれちゃったんだよ」

「あ、そうだったの? なら、まあ仕方ないか」

 

 そっか、綾瀬もわざわざ声を掛けようとしてくれたのか……バレれば自分が逆に怒られるかもしれないのに。 ありがたい話だが、どこかばつが悪い気持ちになってしまった。

 

「随分スラスラと答えてたけど、予習してたの?」

「え、あ、うん。 まぁそんな所だ。 昨日は渚に言われてさ」

「渚ちゃんか、きっと普段から勉強を怠る傾向にある縁を心配したんだろうね、お兄ちゃん思いな渚ちゃんらしいよ」

「うっせ、三年から本気出すから良いんだよ」

「ふふ……受験、落ちるよ?」

「黙っとけ!」

 

 さり気なく話題を逸らす、俺の前世絡みの話題は如何に親友の悠であろうともそう簡単に言える物では無いからだ。 たとえこいつでも俺が前世の記憶を思い出したなんて言っても、絶対に可哀想な物を見るような目で俺を見るに違いないからだ。 あっさりと信じた渚が特別なだけで、他の奴が同じように信じてくれるワケが無い。

 

「まあ、縁の勉強態度についてはまたの機会に話すとして、話題を戻すけど」

「戻すのかよ」

「何故? 駄目かな」

「いや、駄目というワケじゃないけどさ……」

 

 逸らしたつもりだったが、文字通り『つもり』だけだった。 何気に聡い所があるこいつの事だ、案外俺が話題を変えたがっている事に感づいているかもしれない……もっとも、俺が前世の記憶を思い出した事にまでは気づくワケ無い(気づいたら化け物だ)だろうが。

 

「そもそも、先生に注意されるまで何を考えていたのさ?」

「そ……それは、だな〜」

 

 どうしよう、予想していなかったとはいえ、答えに困る事を聞かれてしまった。 当然何を考えていたかなんて言える筈無いし、だからってこいつを誤魔化すのも無理だろう。

 ……いや、これは案外良い機会かもしれない、全部を話さないまでも、ある程度内容をぼかせば大丈夫だろう、午前中一人で延々と考えてもどうすれば良いのか分からずじまいだったのだ、綾瀬や渚以外で一番気心の知れたこいつに意見を貰うのも悪くないだろう。

 

「……まぁ、誰にも言うなよ?」

「ん、僕が思っているより重大事?」

「まぁ……な」

「分かった、人は少ないけど、小声で話そうか」

 

 気の利く奴でありがたい、俺は必要最小限まで声のトーンを落として話し始める。

 

「その、な。 人間関係についてなんだけどさ」

「うん」

「ある奴とな、今は仲が良いんだけど、このままだといつかお互いに良くない事が起きてしまうんだ」

「……うん」

 

 悠は合間合間に余計な茶々を入れる事なく、静かにうなづいて続きを促す。

 

「向こうはそうなる事が分からなくて、その事を知ってるのは俺だけなんだ。 でも、それを相手に伝える事も出来ないし、相手は何も悪い事をしてないんだ、原因を作ってしまうのは俺で、だけどその原因は今のままではどうしても回避出来なくて……」

「……出来なくて?」

「相手が悪いワケじゃないから突き放せないし、俺自身も、どうすれば良いのか分からないんだ……こういう時、どうすれば良いのかな?」

「………………」

 

 言い終わると、悠は何時になく真面目な顔をして思案し始めた、具体的な内容や理由を省いた分かりにくい相談をしてしまった事を済まなく思うが、現状で極力前世絡みの事を誤魔化して言えるのがこの程度な為、仕方ない。

 一、二分程した後、悠がその思案顔を解いて、ぽろっと聞いて来た。

 

「その『相手』って、河本さんの事?」

「なっ……ぅえ、え!?」

「その反応……やっぱりそうなんだ?」

「ち、ちげぇよ馬鹿! なんでそこで綾瀬が出て来るんだよ!?」

「縁、声大きいよ?」

「あ、ぅ……すまん」

 

 お、驚いた……全く綾瀬の名前なんか出さなかったのに、どうして綾瀬の事だなんて言い出したんだよこいつ……しかも、そんな間違ってるワケでも無いという点で恐ろしい、厳密には綾瀬だけじゃ無くて他の人も含めた話なんだけどな。

 

「僕から見れば、縁と河本さんはそんな将来性に不安があるようには見えないけど? 二人とも仲が良いし、河本さんの方も────」

「だ、だから、綾瀬の事じゃないってば……っ!」

「? そうなの?」

「そうなの。 あくまでも俺だけの話なんだって」

「ふぅん……まぁ、そういう事にしといてあげるけどさぁ」

 

 訝しむ目で俺をじろじろと見る悠、ここで視線を逸らしたらかえって怪しまれるだろう、俺は悠の視線に真っ向から睨み返す。 するとすぐにため息を吐いて悠は視線を自ら逸らして、椅子の背もたれに体を預けて、肩を竦める。

 

「今の自分がどうすれば良いのか分からない、か……中々にシビアな問題だね」

「あぁ……」

「それでいて、また哲学的でもある、思春期だから年相応とも言えるし、不相応な悩みとも言える」

「そ、そうなのか?」

「それはそうだよ、原因も結果も分かってて、その原因に当たる自分は何をすべきなのかが見出せない。 十七年積み重ねて来た人生の経験の中で培って来た自分では対処出来ない問題で、それでいてその問題を解く事が可能なのは自分だけ……随分と矛盾と無矛盾に振り回された悩みだよ。 そんな悩み、普通は僕たちぐらいの学生じゃ抱かない悩みさ、他人との付き合い方に戸惑いを覚える事だけで言えば、思春期らしいと思うけど、ね」

「………………」

 

 こいつは、こんな風にこっちに分からせる気があるのか無いのか分からないような事を話す事が稀にある。 今のだって、多分言いたいのは俺の悩みはこの年頃の子どもは普通抱かない悩みだって事なんだろうけど、それを二重三重に言葉を巻いて話すモンだから、聞いてると困惑してしまう。

 

「つまり、だから……俺はどうすれば?」

「さぁね」

「え、ちょっ、お前それは無いんじゃないか?」

「言ったでしょ? 縁が抱いてるその悩みは、どうあっても縁にしか解決出来ない事なんだ。 だから僕に言える事は、一つだけ」

「あぁ、なんだ……?」

「今の自分を、変えてみるんだ」

 

 ……変える、自分を? 

 

「それってのはつまり、イメチェンしろと?」

「それで良いのかもしれない、髪型を変えてみたり、服を変えてみたり、今まで食べなかった物を食べてみたり……そんな小さな変化。 もしくは、新しい趣味を持ってみたり、新しい文化に触れてみたり、何か運動をしたりとかの大きな変化が必要なのかもしれない」

「それで、俺が答えを見つけられるのか?」

「確約は出来ないよ。 でも、今現在の縁じゃ分からないんだったら縁が今までして来なかった事を積み重ねて、新しい物の見方や経験を得る事で、新しい自分が答えを見つけてくれるかもしれない、そういう事」

「新しい、自分……それを手に入れる為に、新しい事をしろって事か」

「それが絶対だとは言えないけどね」

 

 悠はそう言うが、俺にはその提案はとても魅力的だった。

 偶に社会人が仕事のストレスや悩みを新しい趣味やスポーツを経て発散させるという話を聞く事がある、俺の悩みも、何か新しい事に触れる事で解決の糸口が見つかるかもしれない……いや、どうせそれ以外は今の所何も思い浮かべないんだ、この際その可能性に賭けるしか無いだろう。

 そうなると何をするべきだろうか、髪型は下手に変えると生活指導の対象にされてしまうから出来ないし、服だって、平日はずっと学校の制服を着て変えようが無いし、休日は私服だが、前世の頸城と違い俺は比較的多くの服を持ってるから新しい服を買うスペースが無いし、何より金が勿体無い。

 食べ物に関してだって、昔から俺と渚は好き嫌いが無くて一般的な食材は何でも食べるから、食べた事が無いのは余程マイナーな食材か所謂ゲテモノぐらいしか無い。

 なら、趣味や運動か……これはこれで何をすべきかで悩むし……。

 

「──もし、何をするのかでも悩んでいるなら」

 

 俺の心の声が聞こえていたのか、測ったようなタイミングで悠が口を開いた。

 

「今縁は帰宅部でしょ? 部活動に参加するっていうのは悪くないと思うよ」

 

 部活動か……確かに、部活はそれその物が新しい趣味になるし、俺は高校生になってから部活をしてないから新しい経験にもなる、運動部は今からじゃ遅いかもしれないが、文芸部系の部活なら遅い早いは余り無い筈だし、何より中学の時は運動部だったから新しい経験その物だ。

 問題は、部費と渚との晩ご飯の時間合わせか……渚とは相談する必要があるが、部費ならきっと両親に電話で言えば送ってくれるだろう、元々あの二人は俺が帰宅部である事にそれ程肯定的じゃ無かったのだから、かえって喜ぶかもしれない。

 

 おお、段々と袋小路だった思考に明るみが出て来たぞ。 袋小路を綾小路……いや止めておこう。

 

「どうやら、指標は立ったみたいだね?」

「あぁ、全部お前のおかげだ、ありがとな悠」

「礼には及ばないよ、僕は何も解決出来てないんだから……それより」

「ん?」

「早く弁当を食べたらどうかな? それなりに時間が経ってしまっているよ」

「──げぇ、本当だ!」

 

 いつの間にやら悠は弁当を食べ終えており、教室にも相談し始める時より生徒の数が増えている、もうすぐ食堂にいる生徒も戻って来る時間帯だ。 それに対し、俺はまだオカズの一つも手に付けていない、このままでは、せっかく作ってくれた渚に悪い。

 

「も、もっと速くに言ってくれよぉ!!」

「思考の邪魔をしたくなかったから」

 

 その後、教室に続々と戻って来たクラスメイト達は、授業開始三分前にも関わらず必死に弁当をかっ食らう俺と、それを愛犬を見るような目でニコニコしながら眺める悠の姿を見てある者は呆れ、ある者は笑い、ある者は────

 

『やっぱり、あの二人の間にあるのは愛ね』

 

 ────腐った妄想を膨らませていた。

 

 

 ……

 

 放課後、全ての授業とHR、掃除も終わり後は帰るだけになった教室で、俺はせっせと帰り支度をする。 部活動をする事にしたは良いけども、やはり初めに親と渚に話をしてからでは無いと駄目なので、今日は普段通り帰って、明日から悠に付き合って貰いながら幾つかの部活を順繰りに巡る事にしたのだ。

 粗方のクラスメイトはさっさと各々の部活に向かい、悠も今日は親族で集まりがあるからと帰ってしまい、教室はあっという間に閑散とした物になった。 俺は急ぐ理由も無いのでゆっくりとカバンに荷物を詰め込んでいたがそれも終わり、後はちゃっちゃと帰路に着くだけになった、そんな時だ。

 

「よ……縁」

 

 廊下に立っていた綾瀬が、おずおずと俺の所に来た……そう言えば、今日は朝以外に綾瀬と会話しなかったな、俺。 まあ仕方ないのかもしれないけど。

 

「綾瀬、今日は委員会は良いのか?」

 

 綾瀬は俺と同じように部活に所属しておらず、変わりに広報委員会という委員会に入っている、簡単に言えば学校の新しい情報を学級新聞として配布したりする委員会で、綾瀬曰く下手な部活より大変らしいのだ。

 

「うん、今日は何も無いから大丈夫──だから、その……ね」

 

 夕方だから、という理由だけでは説得不足な程に頬を紅潮させている綾瀬……これは今までにも何回かあった事で、その度に昨日までの俺は『なんだ、顔赤いぞ。 風邪でもひいたか?』なんて、鈍感も良い所のズレずれな事を言ったのだったが、今の俺は綾瀬が何故顔を赤くしてるかの理由を知っている……知っているから、かえって綾瀬のそんな仕草を見ると、こちらまで変にこっ恥ずかしくなってしまう。

 がしかし、いつまでもここで互いに突っ立ってオブジェやってる事に意味を感じないので、ここは男の俺から声を掛ける事にした。

 

「綾瀬、良かったら一緒に帰ろうぜ」

「っ! うんっ!」

 

 心底嬉しそうに笑う綾瀬。 その笑顔は俺の心も笑顔にしてくれる物ではあるが、同時に何処か綾瀬を良いように扱っているような気持ちにもさせて、心の奥がチリリと傷んだ。

 

 ……

 

「────でね、そこで弘美が思い切り転んじゃったの」

「くくっ、それ鼻大丈夫だったのか?」

「大丈夫だったけど、顔が真っ赤っかになって、私つい笑っちゃったの。 悪い事しちゃったなぁ」

「そんなふうに思ってる顔には見えないけど?」

「あ、それ酷いなぁ。 貴方だってもし見たら笑うよ、きっと」

 

 帰り道を二人並んで、他愛も無い話をしながら歩く、二人で帰る時のいつものパターンだ。 どうでも良い事だが、綾瀬は学校や外にいる時は基本俺を名前で呼ぶが、二人きりの時などはほとんど貴方と呼ぶ。

 それにしても気のせいだろうか、いつもより綾瀬の言葉に力が無いような気がする……なんと言うか、別の事に意識を半分置いているような、そんな感じだ。

 綾瀬自身それを自覚しているのか、話の途中途中で見せる笑顔も何処か暗い印象を抱かせる、トレードマークのリボンまで萎びれているみたいだ。

 

「なぁ、綾瀬?」

「うん、なに?」

「俺の気のせいだったらそれで良いんだけど一応聞くな? お前なんかあったか?」

「えっ……なんかって、どうして?」

「なんとなぁく今のお前、半分心ここに在らずみたいな感じに見えたからさ」

「え、嘘……、そんな風に見えた?」

「その反応は、どうやら当たりみたいだな」

「あっ、あははは……勘付かれちゃった」

 

 いたずらがばれた子どものように頭をかきながら恥ずかしさを誤魔化す綾瀬、俺としては、十年も一緒に居たのだからそのぐらいの変化は簡単に見つけられるからなんて事は無い。

 

「で、俺はお前がどうしてそんなふうになってたのを聞いた方が良いか? 気にせずスルーしておくべきか?」

「ううん、聞いて欲しい、かな」

「そっか。 なら……」

 

 ちょうど良いタイミングで、俺たちは帰り道の途中にある公園に差し掛かる。

 

「公園のベンチに座りながら話すか?」

「うん、ありがとう……なんか今日の貴方、いつもより気が利くね?」

「気のせい気のせい」

 

 そう言って、公園に入る。 もうすぐ五時になるからか、遊んでいた小学生は次々と帰って行き、中の人の数は疎らになった。

 真ん中に設置されているベンチに座り、話をする用意が出来てから、おもむろに綾瀬が口を開く。

 

「今日の貴方────」

「え、俺の事なの?」

「えっ……うん、そうだけど……? やっぱり駄目だった?」

「いや、てっきりお前自身の悩みか何かだと思ってたから……どうぞ、話を続けて」

 

 思わぬところで話の腰を折ってしまったが、まさか俺の事について話すつもりだったとは、盲点だった。

 

「今日の貴方、朝から様子おかしかったよね」

「そうだったかな……」

「うん。 私も始めはただお腹が痛かっただけだと思ってたけど、それにしてはおかしかったし、そのあとの授業中の貴方を見てると、何か大変な事に悩んでるように見えたの」

「…………ッッ」

 

 はは……参ったな、朝の時点から勘付かれたてたか。

 全然何も言って来なかったから、気にしてないのかと思ってたのに、そんな事無かったんだな。 まあ、悠が気づいたぐらいだ、綾瀬なら当然……か。

 

「それに、その……お昼休みの時、貴方が綾小路君に何か相談事してたって、クラスの人が教えてくれて」

「あぁ、そっか〜……ははは。 小声で話してたつもりだったけど、流石に見てた人居たか」

 

 あの時、教室には俺と悠以外にも少数ながらもクラスメイトは居た、いくら小声で話してても、内容こそ分からずとも相談をしているぐらいは分かるか。 ましてや、俺は一回動転して大声で綾瀬の名前を口にしたんだ、直接綾瀬に報告する奴がいたっておかしくない。

 失敗したなぁ、場所変えれば良かった。 そうすりゃ相談事に見えても綾瀬に伝えるようなクラスメイトだって居なかっただろうし、何より綾瀬に俺が何か悩みを持ってるだなんて知られずに済んだのに……迂闊だった。

 

「やっぱり、綾小路君に何か相談してたのね?」

「まぁ、な」

 

 ここで嘘ついたって、逆に綾瀬を怪しませるだけだ、なら素直に答えた方が余程良い。

 

 ……ん? 待てよ、それに今のこの状況、結構ヤバくないか? 気のせいかもしれないが、前世で頸城が聞いていたCDでは大抵、こんなふうに一対一の状態で相手が病み始めて、最終的に主人公(この場合俺の事になる)に危害を加え始めてしまうパターンだ。

 そうだ、そうだよ! 今のこのシチュエーション、自分から作り出してしまったとはいえ、完璧な死亡フラグじゃないか! しまったぁ……あんなに一日中死亡フラグを回避する為に考えてたのに、まさか自分の知らないうちの行動で首に手を掛けてしまっていたなんて、迂闊で済む話じゃねぇぞ! 

 ここは取り敢えずありそうな嘘を言って誤魔化して話を終わらせるしか無い、下手な対応は即、俺の死に繋がるんだからな。 ヘマ打って綾瀬が病み始めてしまったら最後、綾瀬は俺を五寸釘で手足や耳を串刺しにする、苦しむ悲鳴も好きなんて言い出すぐらいだ、言葉を間違えるなよ俺、死にたく無かったらな…………ッッ!! 

 

 

 ────そうやって、心の中で密かに覚悟を決めていた時だった。

 

 

「────ごめんね」

「────え?」

 

 唐突に、しかも、今にも泣きそうなぐらいに目に涙を溜めながら、綾瀬が謝って来た……何故? 

 

「理由は分からないけど……私の せい、なんだよね。 朝、私に会ってから貴方の様子がおかしくなったから、きっと私の────」

 

 そう言って、抑える事の出来なかった涙を流しながら悲痛に微笑む彼女の顔を見た瞬間──

 

「違うッッ!!」

 

 俺は、公園中に響き渡る程の声で言いながら、綾瀬を抱きしめていた。

 

「えっ……よす、が?」

「違う、違う……違うんだよ、綾瀬」

 

 驚き混乱している綾瀬の身体をしっかりと抱きしめながら、俺は今さっきまで自分が考えていた事に激しく怒り、後悔した。

 何が『たとえ前世では娯楽CDの登場人物でキャラクターに過ぎなかったのだとしても、『今の』俺にとっては掛け替えの無い家族であり、幼馴染なのだ』だよ、今の俺はどう考えたって綾瀬をその『キャラクター』扱いしてたよ! 

 綾瀬は真剣に俺の事を心配してくれていたのに、俺はまるでゲームの選択肢があるみたいに綾瀬を誤魔化そうとして、綾瀬の真剣な想いを踏みにじっていたんだ、とんだ最低野郎だろ、それ……ッッ!! 

 

「ごめんって言わなきゃならないのは俺の方なんだ……お前達(……)は何にも悪くないのに、勝手に俺が変な心配させて、ごめん……本当にごめん」

「縁……」

 

 身体を離して、ポケットから予備に持っていたハンカチを取り出して、綾瀬の涙を拭った後、俺は綾瀬の目を見ながら言う。

 

「綾瀬、俺が朝から悩んでいたのは本当だ、そしてそれを悠に相談したのも本当だ」

「なら────」

「でもそれは、繰り返す通りお前に非があるワケじゃない、そんな話には全く少しも、塵芥一つ分も繋がらない。 だけど」

「だけど……?」

「何に悩んでいたのか、その理由は、お前には話せない」

「……どうして?」

「それも、話す事は出来ない。 でもこれはお前だから話せないって意味じゃなくて、悠にも、俺の両親にも、渚にだって話せない事なんだ……だから、その……」

 

 どうする、どう言えば良いんだ。 嘘では無い言葉で綾瀬を安心してあげるのには、どう言葉を伝えれば良いんだ……っ。

 

「だから、な? 俺はお前にそんな風に心配して貰いたくなくて、えっと……」

「──もう、いいよ」

「え?」

 

 綾瀬は、最後に目元に残った涙を手で拭った後、悲痛では無い本物の笑みを浮かべて言った。

 

「もういい、理由は分からないままだけど、貴方の気持ちはちゃんと伝わった(……)から……もう大丈夫、今の私はそれで充分」

「綾瀬……」

「だから、貴方もそんな風に無理して頑張らないで? 貴方のそうやって無理に頑張っちゃうところは好きだけど、今はそうして欲しくないかな」

「────うん、分かった」

 

 

 ……

 

「部活?」

 

 話が終わり、公園を出て再び家に向かって歩く途中で、俺は悠との相談で何を決めたのかだけは伝えるべきだと思い、部活動に参加するつもりである事を話した。

 

「うん、新しい経験が欲しくてね。 まだしたいってだけで、親にも渚にも話して無いんだけど」

「おじ様とおば様に話さなきゃいけないのは分かるけど……どうして渚ちゃんにまで?」

「渚にはいつも晩御飯の支度まで任せてるからな。 折角ご飯作ってくれたのに家で一人だけで食べるなんて寂しい思い、させたくないからさ」

 

 渚は今でこそしゃんとしているが、今より小さい頃は親が居ない事の寂しさで良く泣いたものだ。 今はそんな事しないだろうけど、やっぱりそれでも一人にしたくはない。

 

「でも、貴方の時間は貴方のものでしょ? 妹だからって、渚ちゃんの為だけに貴方のしたい事を我慢する必要なんか無いはずよ?」

「良いんだよ、それが家族ひいては兄妹って奴なんだから。 我慢でも何でもないさ」

「……そう。 貴方がそう言うなら、私は何も言わないけど.」

「そうしてくれ」

 

 そのうち、遂に帰り道も終わり、俺と綾瀬の家に到着した。

 綾瀬が家に向かう前に、少しからかうような声色で俺に言う。

 

「でも……驚いちゃった。 貴方ったら、いきなり抱きしめてくるんだもん」

「うっ、それはだな……どうすれば落ち着いてくれるか考えて、と言うより脊髄反射的な物で。 でも勘違いするなよ!? 誰にだってするわけじゃ無くて、お前が幼馴染だからってワケで……って何言ってんだ俺」

 

 思い出すと、一気に恥ずかしさが足の先から頭のてっぺんまで支配する。 よくあんな大胆な事出来たな俺。

 

「あ〜、もしかして今更照れてるの?」

「うっせ、照れて悪いか」

「あははは! 今の貴方ったら、凄い顔が赤いよ?」

「──っあぁもう、俺の顔なんていいから、さっさと家に帰れよもうっ」

「ふふ、じゃあまたね、縁」

 

 最後に俺をからかって満足したのか、綾瀬は終始笑顔のままで家の中に入って行った。

 俺もその後すぐに自分の家に戻り、下駄箱で靴を脱いだ後、公園での出来事を改めて思い出した。

 

「そういえば、抱きしめた時はそこまで気が回らなかったけど……柔らかかったな、綾瀬」

「何が柔らかかったの? お兄ちゃん」

「ドムぅあッッ!!??」

 

 抱きしめた時に感じた綾瀬の感触を思い出していたらいきなり背後から渚の声が聞こえて来て、俺は一気に寿命が百年縮まったような気がした。

 声のした方を見ると、案の定渚がたった今玄関から入って来たばかりで、靴べらで自分の靴を脱ごうとしていた。

 

「な、渚……おかえりなさい」

「うん、ただいま、お兄ちゃん」

「俺もちょうど今さっき帰って来たばかりなんだ」

「へぇ、そうなんだぁ……で、お兄ちゃん? 何が柔らかかったの?」

「グフ……それは、だな……」

「うん、それは?」

 

 ヤバイ、気のせいかもしれないが渚の瞳の色が暗くなってる気がする。 今度こそ死亡フラグだろこれ、でも本当の事言ったら益々死ぬ確立増えるんじゃないのコレ? 

 嘘はつきたくないけど、渚がその気(……)になったら俺だけじゃなく綾瀬にも被害が及ぶかもしれない、仕方ない、ここは諺の嘘も方便を使わせて頂くとしよう、許せ渚……ッッ!! 

 

「それはな、渚の……」

「? 私の?」

「渚の、ブラジャーだ!!」

「……ぇ? え!? ぶ、ブラジャー!? 私の!!??」

「いやぁ〜この前間違ってお前の洗濯機にあったまだ洗う前のブラジャー掴んじまってさぁ、予想以上の柔らかさで驚いちゃったんだようん、女物の下着って思ったよりソフトなんだなあはははは、悪ぃなあ〜〜アッハハハハ!!」

 

 はは、どうだ、見事な変態だぜ畜生。でもさっき嘘も方便と言ったが、間違って渚のブラジャーを掴んでしまったのは実話だ。まぁ、柔らかくは無かったけどさ。

 驚愕の真実(渚限定)を知った渚は、暗くなっていた瞳を顔ごと真っ赤に染め、ワナワナと震えた後に、

 

「お、お兄ちゃんのばかぁ! エッチ!!」

「ギャン!?」

 

 思いっきりの力を込めたビンタをかまして、泣きながら自分の部屋に戻って行った。

 

「はは……輪廻転生ってキツイな……」

 

 綾瀬に続いて渚まで泣かせてしまった挙句ビンタまでされた俺だが……。というか、中学生相手に何やってんだ俺は。

 まあ、命が助かったんだから、貰い物か……。

 

「社会的には死んだようなもの……ってか、トホホ」

 

 

 ────かくして、俺の前世の記憶を取り戻した最初の一日は幕を閉じた。

 

 結局、その日最後に泣いたのは、頬の肉体的痛みと、夕食を渚が作ってくれなかったのでカップラーメンで過ごした事による精神的痛みの二重苦でやるせなくなった、俺なのであった。

 

 

 

 ──to be continued




 綾瀬ちゃんマジ幼馴染!

 はい、以上で第二話でごぜぇました。
 自分的には、綾瀬は主人公と明確に恋人関係にならない限り、病んだりする事は無いと思います、じっさいCDでも彼女が病んだのは主人公が綾瀬さんと付き合ってるのにも関わらず他の女性の話ばかりしてたのが原因ですし。

 CDの都合上、前後の展開が殆ど無いですが、恐らくあの主人公は綾瀬さんと付き合うようになってからも頻繁に他の女性の話を口にしたんでしょう、なんと失礼な。

 しかし、今回の綾瀬さん自分的には『もうメインヒロインで良くね?』な気分になるくらいに綾瀬ちゃんマジ幼馴染! な感じでしたが、如何だったでせうか? 縁に五寸釘を打ち付けたくなったのでしょうか。

 ちなみに私としてはヤンデレになった女の子を動けなくした後に、綾瀬さんよろしく『ブスはしね』的な言葉攻めをしてその暗く濁った瞳をさらに暗くしたいところです、そんな事する前に自分が**されそうですがね、そもそもヤンデレな女性なんてそうそうお目にかかれないですし。


 では、また次の話のあとがきでお会いしませう

 サヨナラ、さよなら

追記:こちらも一部修正しました。(20200424)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三病・影二つ

更新遅くなりました、すみません。
なんか物語のスピードがやや駆け足気味かもしれませんね。

では、はじまりはじまり


 ──彼女は孤独だった。

 それがいつの頃からだったのかはハッキリしない。 ただ、物心を持ち、親の目を気にせず、自分の意思で、自分のしたい事が出来るような年齢に達した頃には、既に彼女は自身が孤独だと認識していた。

 幼い頃から、自己主張が周りの子どもよりも少なかったのが原因だったのだろうか。 病弱で頻繁に幼稚園や学校を休む事が続き、まともに友達を作る事が出来なかったからだろうか。 いずれにせよ、彼女はゆっくりと、しかし確実に、“独りぼっち”になっていった。

 

 それは学校という外の空間だけに限った話ではなく、家庭の中でも同じ事だった。 両親は共働きで、小学生の頃まではまだ一緒に過ごす時間が多かったが、中学になり、少しずつ一人で何でも出来るようになるにつれて、家族の時間は減っていき、高校生になった時には、両親は既に家にいる時間よりも、外にいる時間の方が多くなり、家族がその仲を深めていく為にある筈の家は、単に休息を取るための無料の宿と同じようなモノになってしまった。

 別に、家族の仲が壊れてしまったワケでは無い。 たまの休日には両親は彼女との時間を有意義に過ごそうとするし、彼女もまた、両親に対して悪い感情を懐く事は無かった。 ただ、その一緒に過ごす時間があまりにも少な過ぎた為に、両親は彼女の孤独に気付かなかったし、気付けなかった。 同時に、彼女もまた、両親に自身の想いを告げる事が出来なかったし、告げる気も起きなかった。

 憎み合っているからではなく、家族として愛し合っているからこそ、彼女と両親の間には、決して目に見える事のない、不可侵の壁が出来てしまった。 その壁はもうどちらにもどうする事も出来ず、彼女は一人だけの家で寝食を過ごし、独りぼっちで学校に通う。 そんな孤独な日々を、抗う事無く享受していた。

 

 ──その心の最奥に、言いようも無いほどの悲しみを抱え、声にならない声で嘆き続けながら。

 

 これから始まる物語は、そんな彼女の人生のベクトルを、ほんの少しだけ変えた、ちっぽけな物語。

 

 ……

 

「──ぶかつ?」

「おう」

 

 翌日、渚の怒りも取り敢えず収まり、なんとか昨晩のようなご飯に有り付けないなんて事にならずに済んだ朝。 俺は安堵の空気もそこそこに、渚の作った朝ごはんに舌を喜ばせながら、昨日言いそびれた事、つまり『部活動に入る事を報告』と、その事についての許可を貰う為、早速に話した……のではあるが。

 

「……」

「えっと、渚?」

 

 この通り、始めの一言から全く喋らなくなり、まるでフリーズしたゲームボーイのように固まってしまっている、ポケモンとか、セーブ中に『ピー』とか鳴りながら画面固まった時の虚無感は半端じゃ無かったな……って、そんな話をもし渚に言おうものなら、『なんの話?』とか言われそうだな。

 

「えぇと渚? 俺が何言ってるのか、聞こえて無かったり……?」

「あ、ううん、ごめんなさい、ちょっと驚いちゃって」

「驚いた?」

 

『うん』と、ぽかんとしていた事が恥ずかしそうに、やや顔を赤らめる渚。 そんな固まるほど驚くような事だろうか? 綾瀬や両親だって、意外そうな反応こそ取りはしたが、渚ほど大袈裟な反応はしなかった。 日ごろから寝食を共にしている人間では受ける印象が違ったりするのだろうか? そりゃまあ確かに、渚がある日突然『私、今日からチア部になるっ!!』とか言い出したら驚いて固まってしまうかもしれないけどさ……いや、渚のチアガール姿か、あれ、結構いけるんじゃね? 

 なんせ、渚は身内贔屓を無しにしても十分にその、なんだ、可愛い。 たいていの衣装なら簡単に着こなせるだろう、うん。 だからそういう話をしてるんじゃなくて、部活の話だ。

 

「ぶかつって、部活動の事、なんだよね?」

「うん、勿論」

「お父さんや、お母さんにはもう話したの?」

「うん、昨日の夜に。 許可も貰ったよ」

「……ふぅん」

 

 そう呟いてから、まるで見定めるかのように俺の顔を、いや目を、ジッと見つめだす渚。 現状では特に悪い事や嘘は言ってないのにも関わらず、渚の目を見ていると、嘘や悪戯がバレて叱られるのを怖がる子どものような気分になってしまうから不思議だ。 ……まぁ? 色々言ってない事はあるのだが。

 果たして次の渚の言葉は何だろうか、流石にヤンデレ関連に繋がりそうな事を聞かれたら答えられる筈は無いが、『何部に入るの?』みたいな質問なら、『まだ決まってない』と答えれば良いし、『なんで部活動に参加しようと思ったの?』みたいな質問なら、『人生経験にな』という風に答えれば良い、いずれにせよ、昨日のうちにある程度は来ると思われる疑問は予想し、それに対する答えも何パターンか用意してある、抜かりは無い。 更に言えば、今は時間が限られている朝食時、質問だって、朝食べるご飯や食べ終わった後の食器洗いで時間を必要とする為に、あまり時間は掛けられない筈、きっと一つ聞くので手一杯になる、昨日のうちに話せなかった事が逆にいい状況を招いた、『塞翁が馬』とはこの事か。

 

「……一つ、聞いて良い?」

「ぉう、良いぞ?」

 

 来た、質問が来た。 さあ来い、どんな質問でもごく自然風に答えてみせる。

 

「あのね……」

 

 ──そんな風に、俺は心の中で渚から来るであろう言葉を予想し、待ち構えていたのだが。

 直後に、そんな俺の心に出来た堅牢な城塞を、まるで藁の家の如く一発で吹き飛ばすような質問(大風)が、渚の可愛らしい口から繰り出された。

 

 

「昨日、公園で綾瀬さんと、何話していたの?」

「──マジすか?」

 

 な……なんだって? はぁ!? コイツ何故、何故昨日俺と綾瀬が公園で話してた事知ってんだよ!? 

 ブラフか? いや、ブラフだとしたら『公園』と指定せず、ただ漫然と何を話していたかだけ聞く筈、もしかしたらそういう風に思わせる事も含めたブラフなのかもしれないが、何よりも、今俺に問い詰めている渚の目、口調、雰囲気、それら全てが、渚が勘や推測で聞いていない事を確信させる、間違いなく渚は昨日、俺と綾瀬が公園で会話していた事を知っている、見ている! 

 

 だが、あの時公園には綾瀬の他に、俺の知っている人間の姿は見えなかった。 ベンチは公園の中央に設置されていたから、俺達の前方は公園から一望出来るので、俺や渚、綾瀬が通常通学路として使わない、やや遠回りの道を歩いた先の、俺と綾瀬の向いてた方向から百八十度反対側にもう一つの出入り口を通らない限り、あの時の俺と綾瀬に見つからないままで二人の会話している姿なんか見れる筈が無い。

 そして公園の会話を見ていたという事は、その後俺と綾瀬が互いの家に着いて別れるまでの間も、ずっと見ていた事に当然繋がる。 その間、渚は一言も俺らに声を掛ける事無く静かに、距離を取ってただジッと俺と綾瀬がリア充よろしく談笑しながら帰っていく姿を、見ていた事になる……ッ! 

 そしてそれを昨日の間に聞くのではなく、ある程度時間が開き、油断しているこのタイミングで聞いてくるというやり方! これはもう既に、将棋でいう『詰み』なのではないのだろうか。

 

 考え過ぎだと思いたい、単なる思い込みだと信じたい、だが俺は『知っている』! この野々原渚という俺の可愛い妹は、あっさりとそんな、普通の人間が『考え過ぎ』『思い込み』だと言うような事を、いや、それ以上の危険な事すらやってのける女の子である事をッッ! 

 

『あんな人! どうせお兄ちゃんの事何にも分かって無いんだから!!』

『お兄ちゃんをこの世で一番理解しているのは私、私なの!』

 

 頭の中で、前世で聴いた『CD』の渚の言葉が思い起こされる。

 今の渚はまだそんな色んな意味で危ない言葉は言ってないが、俺の返事次第ではすぐに暴走しかねない。 そうなると最後、俺に待っているのは一つの部屋に監禁され、渚が作るオムライスや八宝菜を無理やり口に捩じ込められ、最後には✕される未来しか無い。 下手な事は言えないぞ、縁……ッ! 

 

「どうしたのお兄ちゃん? 急に黙っちゃって」

 

 マズい、渚が俺の沈黙に不信感を抱き始めた。 このまま黙り続けていたら、『私に言えない事、してたんだぁ……ふぅん』とか言って結局危惧した未来にしかならない! 早く何か言わなくては! 

 だがしかし、どこまで話せばいい? もし仮に渚が公園よりもっと前から見ていた場合、俺が綾瀬の誤解を解くためにした行為、つまり、『綾瀬を抱きしめた』事も知っていたのなら、答え方によっては墓穴を掘る事になる、と同時に、そこまでの事を知らないでいたのなら、これもまた答え方で墓穴を掘る事になる……、これでは、何をどこまで話せばいいのかが全く分からない。 しかし、その事に苦悩するほどの余裕は今の俺に与えられてない事もまた事実。

 

 いや、しかし待てよ? 昨日から俺はずっと同じ考えに囚われていたが、もしかしたらこの『現実の渚』は、前世で俺が知っている『キャラクターの渚』とは違うのではないだろうか? ヤンデレではないと言っているのではない、当然そうであって欲しいのが一番ではあるが、今ここで俺が言っているのは、CDで聴いた『キャラクターの渚』とは違い、『現実の渚』は、兄である俺に対して『親愛』の情は懐いていても『恋愛』の情は懐いていないのではないか? という事だ。

 昨日痛感したように、この世界はフィクションではなくどこまでも現実だ。 『妹が兄に恋愛感情を懐く』ってのは基本的に考えて反社会的な事であり、一般的にはあり得ないモノと認識されている。 『病んデレ』とは恋愛感情が様々な要因で精神に影響を及ぼし、結果的に他者が見ると病んでいるような行為を行う人の事を言うが(これが絶対の定義だとは言わないが)、つまりが基本的には非ヤンデレの人と物の価値観、常識、倫理観は同じという事。 よく『ヤンデレ=常に狂気的、血まみれ、包丁、人殺しに躊躇いが無い』などと勘違いする奴がいるが、それは間違いだ。 病んでも終始自分しか傷つけないタイプが居れば、行動自体はやや一般的ではなくとも平和的なままのタイプも居る。 ……まぁ、残念な事にうちの渚は病んだ場合、狂気的行動に移るタイプなのだが。

 

 つまり何が言いたいのかというと、渚がヤンデレで、どのようなタイプのヤンデレであろうと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事、デレが無ければ何も始まらないからだ。 そして渚は、ふだんから親が不在である我が家の家事を切り盛りしているしっかり者、世間一般の常識についても、俺なんかよりずっと分かっている人物だ、如何に現存の法律が近親相姦を明確に犯罪と明言していないとはいえ、『現実の渚』が実の兄に恋愛感情を懐くとは考えにくい……筈、だ。 この質問だって、単純にただ昨日の俺と綾瀬のやり取りを知りたいだけかもしれないじゃないか。

 

 少々早計かもしれないが、この新しい考え方のおかげで、先ほどまで俺を深く包み込んでいた焦りと絶望感が薄らいだ。 瞬間接着剤でも塗ったかのように動かなかった口も直り、次に何を言えば良いか、その言葉も瞬時に脳内で構築されていく。 全ての可能性を考慮した上でのセリフを並び立てて、俺はようやっと声を発した。

 

「俺が昨日、公園で何を話していたのか、まぁ教えてやっても良いんだが……その前に、渚、ちょっとこっち来い」

「? ……うん」

 

 俺が近くまで寄れと言うと、やや怪訝な顔をしながらではあるものの、素直に来る渚、俺はその柔らかそうな頭に右手を伸ばし……、

 

「どうしたの、何か──痛い!」

 

 ちょっと(……)だけ力を込めて、デコピンをした。

 

「ぇ、え? な、なんで?」

 

 デコピンされたところを痛そうに擦り、少し目に涙を溜めながら、上目遣いで俺を見る渚。 その仕草に一瞬罪悪感と『やべ、可愛い』という気持ちと、ほんのちょっぴりだけ『もう少し苛めたい』という気持ちが噴き出したが、それら全てを脳の隅っこに追いやる。

 

「お前、俺と綾瀬が公園に居た事知ってたって事は、実はその前から見てたろ、俺たちの事」

「っ、そ、その……えっと」

「見てたな?」

「……はい」

「はぁ……どこから見てた?」

「校門を出て、少しした所から……」

 

 って、ほとんど最初からじゃないか! まぁ昨日俺とほぼ同タイミングで帰宅して来たのだから、そのくらいでもおかしくないかもしれんが、そう遠くないとはいえ、学校から家までの道を俺たちに気付かれないように尾行(?)し続けるって、こいつある意味凄いんじゃないか? というかなによりもまず、

 

「ストーカーじゃないか、普通に怖ぇよ」

「……ごめんなさい」

「んまぁそれについてはもう良いとして、そんだけ最初から尾行してたって事は、アレだろ? 俺が綾瀬を抱きしめた所もバッチリ見てたんだろ?」

「……うん、見てたよ、お兄ちゃんが『違う』って言いながら、綾瀬さんの事抱きしめてた所」

「正直なところ、一番聞きたい所ってそこだろ? んで、もし俺が黙ってたりしたら『どうして誤魔化すの』って追求するつもりだった、違うか?」

「全部お見通し、だったんだね」

 

 観念したとばかりに、あっさりと認める渚。 気になるのなら素直に聞いて来ればいい物を、わざわざ遠回りな聞き方をして、この件が俺にとって『隠しておきたい事』なのかどうか判別する辺り、わが妹は策士の様な事をする。 もし抱きしめた事を俺が話さないでいたら、それこそCDで聴いたような展開に、俺はなったのかもしれない、危なかった。

 

「さて、俺に鎌をかけたお仕置きとしてデコピンもしたし、あんま時間も無いから、昨日あった事についてささっと説明するよ」

「うん、お願い。 ……それと、お兄ちゃん」

「ん?」

「試すような事しちゃって、ごめんね」

「……良いって」

 

 可愛いな、畜生。

 

 ……

 

「──ま、こんなところだ」

「……」

 

 渚にはこの世界がヤンデレCDの世界だという事を抜かして、『人生経験』の為に悠と相談して部活をしようと決めた事、綾瀬がいつもと様子が違う俺を見て、自分が何かしたのではと誤解した事、その誤解を解く為の上手い方法が思い至らず、その結果、抱きしめてしまった事を話した。

 全てを話し終えた後、渚は目を閉じて数秒逡巡して、何故か俺をジト目しながら言ってきた。

 

「事情は分かったけど、お兄ちゃん? 絶対に綾瀬さんを抱きしめる必要は無かったよね?」

「うぇ、だから、その時はそれ以外にどうすれば良いか分からなかったんだって」

「本当に? 単純に綾瀬さんに抱きつきたかったからじゃないの?」

「どぅあ、誰がそんなセクハラ染みた事考えるか!」

 

 思わず語勢を荒くして言う俺だが、そんな事意にもしないとばかりに、むしろ一層疑念を強くしながら、続けて話す渚。

 

「どうだか、昨日玄関で『柔らかい』って言ってたのも、どうせ綾瀬さんの……む、胸の事でも考えてたんでしょ」

「ッッ! そ、それは……だな」

「そうなんでしょ?」

「……はい」

「ふぅん……咄嗟に私の下着の感触だなんて誤魔化して、お兄ちゃん、私に嘘付いた事無かったのに」

 

 うぐぅ、瞬く間に先ほどと立ち位置が変わって、すっかり俺が渚の前に小さくなっている。 というより、結局綾瀬の胸柔らかいって言ってた事バレてしまった。 とはいえ、これは仕方ないだろう、幼馴染をそんな目で見るのは失礼だが、綾瀬のスタイルは結構その、立派なのだ。 同じ女性でも、渚とは比べ物に──

 

「な、に、か、言っ、た?」

「なんでもありません」

 

 女って、時々生まれながらに読心術を持っていると思うんだ。

 

「……ふ、ふん。 昨日の朝は、私の事抱きしめた癖に。 お兄ちゃんは女の人だったら誰でもいいんでしょ」

「な、そんなワケあるかぁ! 綾瀬は十年来の幼馴染だから出来たんだし、抱きしめたって言ったってお前は妹だからノーカンみたいなもんだし、洗う前のブラ掴んだのは実話だッッ!!」

 

 あ、今自分から猛烈に地雷を踏み鳴らすのと、豪く深い墓穴を掘った音がした。

 そして案の定、顔を真っ赤にして、再び目に涙を溜めて、赤石の力で噴火する二秒前の火山のように体をプルプル震わせんながら、渚が叫ぶ。

 

「も……もっと酷いよ! お兄ちゃんのバカぁぁ!!!!」

 

 ……

 

 早朝の壮絶な心理戦と朝ごはん、食器洗いが終わり、今日も今日とていつも通り学校に続く通学路を歩く、俺と渚。 一歩間違えれば危ない事になっていたかもしれない状況も事なきを得て、無事に登校する事は出来たものの、その代わりまぁた面倒な代償を払ってしまった、つまり……。

 

「お兄ちゃんの女好き」

「すみません」

 

 そう、妹に、あろう事か、女好きのレッテルを貼られてしまったのである。兄としてこれ以上心にクるモノがあるだろうか? いやぁ無いね。たとえ妹じゃなくても家族にそんな事言われるだけでショックだ。

 

「お兄ちゃん、()の記憶思い出して、性格変わっちゃったみたい」

「そ、そうかぁ?」

「そうだよ、今までのお兄ちゃんは、私に嘘付く事無かったもん」

「そ、そうだった……かなぁ」

 

 ごめん渚、記憶思い出す前から、案外嘘付いてるわ、俺。

 主に、思春期の男子が愛読する大人の参考書の有無とか、大人のホームビデオの位置とか。

 

「まぁ、人間の思考や行動は記憶に依存したり左右されたりするモノだからな、今までの俺と違う人生を経験した記憶があったら、幾らかは変わるだろうさ」

「そういう言い方も昨日からだよね」

「ハハハ、まぁこればっかりは我慢してくれ」

「そうやって笑って誤魔化すところだけは、ちっとも変わらないんだから……」

 

 そうぼやきながらも、歩調を俺に合わせているのを鑑みるに、もう渚はそんな怒っていないようだ。 何はともあれ、不名誉な称号を手に入れた事を除けば万事上手くいったのだ、ようやくこの話題に戻せる。

 

「ところで渚、俺の部活の件だが」

「部活? ……あ、忘れてた」

「っておい、忘れるなよ其処。 で、許可は頂けるのかな?」

「う~ん」

 

 可愛く唸りながら、俺の目をじぃっと見る渚。 やがて胡乱気な表情になる。

 

「部活とか言って、本当は女の人と一緒になる時間を取りたいだけじゃないの?」

「考え過ぎだ! 誰がそんな自殺行為するか!」

「なら、約束する?」

「約束? 何をさ」

 

 そう聞くと、渚は俺の一歩前に立ち止まり、小指を、『指切りげんまん』するように出してきた。

 

「約束、私に隠れて、女の人と一緒になったり、イチャイチャしない。 ね?」

「いや、それって結構無理──」

「出来ないの?」

「いやそうじゃなくて、急に声のトーン下げるの止めて怖いから。 そうじゃなくて、まだどの部活にするかも決めて無いし、イチャイチャとかはともかく、女子と一緒になるなってのは、集団生活送る上でも無理というか……、逆の立場で考えてみろ、かなり厳しいぜ?」

 

 それにその条件だと、遠回し的に『私以外の女と接触を持つな』と言ってるようなモノ、素直に承諾するのには些か以上に受け入れ難い条件だ。

 そんな俺の心の声が聞こえるわけも無く、渚は、『集団生活』という言葉を用いた俺の言葉を受けて、再び考えるように黙り込む。 実際に、もし自分が兄以外の男性と一切接触を持つなと言われたら無理だろう。 委員会や担任が女性オンリーなんて事、共学の学校じゃあまず無いんだから、教室に入った瞬間に約束破りになってしまう、それが分からない渚ではない筈。

 

 案の定、渚はそのあと、『女目的で部活をしない事』と、だいぶ条件を優しくして、晴れて許可をくれる事になった。 心配しなくとも、今の俺の状態で、特定の誰かと付き合おうなんてこと、絶対に思わないから安心してくれ渚。 もちろん、お前相手でもな? 

 

「それじゃ、今日は部活巡りで遅くなるから、多分遅く帰るからな」

「うん、お兄ちゃん、私との約束、ちゃんと守ってね?」

 

 そう言い交して、俺と渚はそれぞれの教室へと向かった。 いやぁ、朝っぱらからハードだったよ。

 

 ……

 

「おはよう、縁」

「オウ、おはよう悠」

 

 教室に入って一番に、悠が俺の席に来て挨拶した。 今日もハイスペックな金髪が目に映える、セットとか大変そうだ。 俺なんかと違って、金持ちの坊ちゃんともなると髪の手入れとかも女子並みに徹底するのだろうか? 毎日シャンプーとリンスを一本丸々消費とかしてそうだ。

 

「……なんか、朝から失礼な事を考えてないかい?」

「まさか、冗談はよせよ」

「本当かなぁ……」

「一か月に捨てるシャンプーのボトルって、三十超える?」

「って、やっぱり考えてるんじゃないか」

「おっと失礼」

「まったく……今日の放課後、一緒に見て回ってあげないよ?」

「それは困る! 謝るから、この通り!」

 

 もしそんな事されたら、一人で部活回る事になっちまう、ただでさえ中途半端な時期で気まずいってのに、それを一人だけでやるだなんてハードな事、是が非でも回避しないといけない。 すぐさま両手を顔の前に合わせて頭を下げる、するとすぐに悠のカラカラとした笑い声が耳に届いて来た。

 

「勿論冗談だよ、縁、本気にし過ぎだって」

「お前なぁ……死活問題なんだぞ、あんま心臓に悪い冗談はやめてくれ」

「まぁまぁ、これでお相子って事で。 どっちにしろ僕も君の選んだ部活に入るんだし、行かない、なんて事は無いから、安心してくれ」

 

 そうか、コイツも俺と同じ部活に入るのか、なら安心だな。 親友が一緒の部活に入ってくれるのなら、これ程頼りになる事はそうそう無い、渚だって、自分の知っている兄の、『同性』の友人も一緒である事を知ったら、より安心してくれるだろうし、良い事尽くめだ、やはり持つべき物は親ゅ──って、ちょっと待てい!! 

 

「お前、今最後なんつった!?」

「ん? 僕も同じ部活に入るって言ったんだよ? 何か問題でも?」

「いや、お前家庭の仕事色々あっから部活とか委員会とかやらないんじゃなかったっけ?」

 

 綾小路家、金持ちのブルジョワ社会なんかとは縁の無い俺なんかにはその名がどれ程社会に力を持つ家なのかは皆目見当付かないし、悠とは金持ちの坊ちゃんだから友達になったワケじゃないので、知りたいという気さえ起きないが、悠は年々『家庭の事情』とやらで放課後すぐに帰宅する事が多くなって来ており、学校側もそれを知ってなのか、基本生徒はなにかしらの委員会に身を置く必要があるが、悠はそれが免除されている。 余談だが、今言った通り、一人一つの委員会なので俺も委員会に所属している、文化祭実行委員だ。 そこを選んだ理由は、文化祭の時以外は仕事が無いし、実行委員は一クラス三人なので、自分の仕事は極力ほかの二人に回して楽が出来るからだ。

 

「うん、それがね、昨日で一通りやる事が終わってね。今日から僕は、それなりに時間が取れるんだ」

「そう、なのか……? 俺はお前が家に帰ってから塾や稽古で忙しいから、絶対部活や委員会とかには関わらないと思ってたんだが」

「うん、それも間違ってはいないんだけどね……。 それ以外にも、やらなくちゃならない事があったりしたのさ」

「成る程ぉ……、まぁ、それがなんなのかは無理に聞いたりはしないがさ、ホントに大丈夫か? 無理してないだろうな?」

「心配し過ぎだって……縁って、そんな心配性だったっけ? 心配してくれるのは嬉しいけど、まるで人が変わったみたいだね」 

「……そうかい?」

 

 自分でも心配し過ぎなきらいがあるのは自覚しているが、こればかりは仕方ない。 それに悠の言ってる事も正しい。 悠の言うとおり、この心配し過ぎるのは、野々原縁では無く、頸城縁の性格なのだから。

 しかし渚にも言われたよな、『人が変わった』って。 いや、似たようなニュアンスの言葉なら、昨日綾瀬にも言われたな。 う~ん、思っているより人格が変わっているのかもしれない、自分で言った言葉だが、記憶は人の性格に影響を与えるモノだ。 そうだと自覚していても、それがどの程度まで影響を及ぼすのか、それまでは把握しきれないみだ。

 

 そんな風に、以前までの自分との違いに軽い考察をしている俺を見てどう思ったのか、さっきとは違い、今度は柔らかい声でクスクスしながら、子どもを宥める親みたいな口調で俺に言う。

 

「じゃあ、縁も納得出来るしっかりした理由を話すとするよ」

「ん? 理由?」

「昨日、僕が君に言った言葉さ、『今までして来なかった事を積み重ねて、新しい物の見方や経験を得る事で、新しい自分が答えを見つけてくれるかもしれない』、これが、今の僕には必要なんだって、昨日縁と話をしながら思ったのさ」

「お前も? なんか、困ってる事があるのか?」

「そういうわけでは無いけどね。……純粋に、今の自分とは違う自分を手に入れたい、そう思っているんだよ」

「そう、か」

「納得、してくれたかな?」

「まぁ、うん」

「なら良かった……あ、もうすぐホームルームの時間だ、じゃあ、取り敢えず今はこれで」

「おう」

 

 ……正直、今の悠の言葉が、心から思っている本当の言葉なのか、それとも、俺を納得させる為に咄嗟に言った言葉なのか、ハッキリとした答えは分からない。だけど、きっとその両方なのかもしれない。

 悠は、もしかしたら、俺にも言わないような大きい何かを背負っているのかもしれない、『普通』の家庭に生まれて育った俺には骨身から共感し得ない、『普通じゃない』金持ちの家に生まれた悠だけにしか分からない、そんな何かを。

 

 ──って、それこそ考え過ぎだよな。 そんな事考えてるの知られたら、また悠には呆れられるし、綾瀬なら笑うかもしれないし、渚だったら『どうして私より他の人の心配する事が多いの?』とか言い出しそうだ、おお恐い、考えるのはそこまでにしておこう。

 

 そう自分の中で結論付けたのと同じタイミングで、チャイムが鳴るのと共に先生が教室に入り、朝のホームルームが始まった。

 

 ……

 

「起ぃ立、さようならぁ」

 

『さようなら』

 

 特に語るような事も無く、授業も休み時間も淡々と過ぎ、遂に放課後になった。

 強いて挙げるとするならば、綾瀬が昨日の件を引き摺って、俺も綾瀬もろくに互いの顔を合わせる事が出来なかったせいで、察しの良い奴がコソコソと茶々入れてきたくらいだ、歯軋りモノの出来事ではあるが、こちらが一切相手にさえしなければその内自然消滅するので、放って置く事にした(そうしろと悠が言った)。

 

「さて、行こうか? 縁」

 

 帰り支度は部活回りの後にする積もりなのだろう、悠は何も持たずに教室を出ようとしている。 悠の言葉を聞いて、委員会に行こうとしていた綾瀬の足が止まり、廊下に半分出かけていた足を戻して、こちらに振り返る。

 

「縁に綾小路君、行こうかって、部活の事?」

「あぁ、河本さんも知ってたんだね、縁から聞いたのかな?」

「あ、うん。 昨日の帰りにね。 ……ご両親や渚ちゃんの許可が要るって言ってたけど、もう許可は貰ったの?」

「まあな」

「そうなんだ……、てっきり渚ちゃんは、かなりごねるかなって思っていたけど」

「多少条件が付いたが、日頃の兄としての行いのお陰で、なんとか」

「そ、そう……よ、良かったね」

 

 ? なんとなく動揺してる気が……まだ恥ずかしくって上手く会話が出来ないだけか? 

 綾瀬のやや不審な態度について聞こうと思ったのだが、悠が俺の肩をトトンと叩き、申し訳なさそうな顔をして、俺に小声で話す。

 

「縁、河本さんと話したいのは分かるけど、あんまりノンビリしていると、時間無くなっちゃうよ?」

「お、おう……そうだったな。 綾瀬」

「な、何?」

「お前、これから委員会なんだろ? 俺は今日一緒には帰れそうにないから、気をつけて帰れよ?」

「……うん! 貴方(……)も、頑張ってね」

 

 そう言って、今度こそ綾瀬は教室から出て行った。 というか綾瀬、最後俺への呼び方が名前から、二人の時しか言わない筈の『貴方』になってたぞ、大抵の人は気付かないから良いんだが──

 

「……ふぅん、貴方、か……、良いね?」

 

 ほら、こうして気付く奴がいるから気を付けて貰いたいものだ。

 

 ……

 

 運動部にそれぞれ部室が与えられているように、当然文化部にも部室は与えられている。 ただ運動部と違い面倒なのが、部室の場所があちこちに点在して且つ、分かりにくい事だ。

 今現在『部活棟』なる建物が建築中で、来年にはそこに運動部と吹奏楽部以外の全てを纏めるらしいのだが、現状では一年生の棟にあったり、二年生の棟にあったり、三年の……といった具合に加えて、一階から四階までと、場合によっては地下一階にまでと、バラバラもいいところなので、移動時間も考えると、一日七時間の授業で終わるのが清掃抜きで四時四十五分前後、この時期の学校の活動終了時間が六時半(事前に許可を貰ってたり、運動部の場合は大会前などの場合その限りではないが)、今が五時二分前なので、ちょうど一時間半程度、その気になら、今日中に全ての部活を回る事も可能なのではあるが──

 

「駄目だよ、そんな駆け足で部活を見て回っても、ろくな結果になりはしないからね」

「そ、そんなもんか?」

「勿論。 見た先から頭の中で複雑に混ざって、どの部活がどういった物か分からなくなって、結局一番印象に残った部活を選んでしまう事になると思うよ?」

「確かに、それは言えてるな……」

 

 そういえば中学の時も、面倒だからって一日で全部の部活見たせいでどれも印象に残らなくて、結局最後に見たからって理由で剣道部に入ったんだっけ。おかげで身体は丈夫になったし、学ぶ事も多かったからその選択自体には後悔してはいないが、もう少し考えても良かったんじゃないかと時々思ったりした物だ。危なく過去と同じ事をしてしまった。

 

「っふふ、そんな少し抜けてるところはいつも通りだね。 人が変わったように感じたのは、気のせいだったかな?」

「……うっせ。 そんな事より、今俺たちは何部に向かっているんだ?」

 

 回る順番は悠に一任している、自分事なのに他人任せなのはどうかと思うが、他の誰でも無い本人が任せてほしいと言い出したので、そのご厚意に甘えさせて貰う事にした、なんか悠依存症みたいな、俺。 悠いないと何も出来ない人間みたい、勿論そんな事無いけど。

 俺たち二年生が居る棟の四階に続く階段を上りきり、廊下を淡々と進む。 四階は電子・情報課の生徒のフロアなので、同じ建物でも二階に居る俺は(元から興味無かった事もあって)ここに何があるのかはサッパリで、分かるのはパソコン室がある事ぐらいだ。

 

「あぁごめん。 人になんだかんだ言っておきながら、僕も君に言って無かったね。 今向かってるのは『手芸部』だよ」

「手芸、あれか? 服作ったりぬいぐるみ縫ったりする……」

「その認識で大方間違ってはいないかな、実際どんな活動をしているのかは、見れば分かるさ」

「だな、そ~すっか」

「──さて、この部屋が手芸部の部室だよ」

 

 廊下の角を曲がって二つ目の部屋のドアの前に立ち止まると、悠は俺に道を譲るかのようにどいた。 プレートには無機質な字で『手芸部』とあり、どうやら悠の言う通りで間違いは無さそうだが……、

 

「……俺から入れと?」

「主役は?」

「たはぁ……さいですか」

「そんな緊張しなくて大丈夫」

 

 俺から入れって事ねぇ、正直、こういうのはすんごい緊張するから、出来れば悠に任せたかったんだが、よく考えなくても、その思考こそ悠依存症の始まりだ。 悠が言うように、あくまでも今回の部活見学の主たる理由は俺にあるのだから、俺から入るのが当然の流れだし、筋ってモノだ。

 よし、と自分を景気付けてから、俺はドアをノックする。 するとすぐに中から『ハイどうぞ』と返事が来たので、俺はそこでもう一度素早く深呼吸してから部室に入った。

 

「し、失礼しまっす。 あの、今日は見が──」

「あぁ大丈夫、話は聞いてるよ。 見学に来た……野々原君と綾小路君だよね?」

「え、もう話は聞いてるって……」

「綾小路君がね、君は聞いてなかったのか?」

「そ、そうなのか悠!?」

 

 そんな話、全く聞いてないぞ俺は。 驚いて悠を見ると、からかう様な表情で薄く笑いながら言った。

 

「だから言ったじゃないか、緊張しなくて大丈夫って」

「お前なぁ……事前に言ってくれるのは有難いが、そういう変なサプライズ擬きはやめれ」

「了解。 次からは注意しておくよ」

「絶対話半分しか聞いてないだろお前。 まぁ良いけどさ」

 

 そんな俺たちのやり取りを見てクスクスしながら、先ほどから俺たちの応対をしている男子部員──襟章の色から判断するに三年生──が、手芸部の活動内容を説明してくれた。

 その内容は思っていたより自由度が高く、ぬいぐるみを作成する人、手袋やマフラーなどの編み物を作る人や、エプロン等の小物から本格的な衣服を作成する人もいる。 衣服に至っては、作られた内の何着かは演劇部などで使用されたりするそうだ。 ここ数年は、着物を作って茶道部に一、二着あげてるらしいのだから驚きだ。 かなり本格的な部活のようだ。

 

 全部聞いた後、時間の問題もあったので、話をしてくれた先輩(副部長だった)とその他の部員に礼をして手芸部を跡にした。

 

「思ったより本格的だったな、驚いたわ」

「そうだね。 他の部活動とも連携しているという点が、僕には深く印象に残ったよ」

「大手の会社っぽいからか? 連携とかが」

「大手じゃなくとも他社との連携はあるさ。 でも、そうだね、そういう事にしておくよ」

「? 相変わらず変な言い回し。 んで、次は何部に?」

「うん、次は『演劇部』だよ」

 

 演劇部か、文化祭では中世の物語や現代風の劇を披露している部活か。 先の手芸部で話していた、演劇部用の衣装がどれ程の物か、実際にお目にかかるチャンスでもあるワケだ。

 演劇部の部室は三年棟の地下一階にある。 衣装部屋と演技練習用の部屋、何の演目にするか話し合う為の部屋と計三つあり、地下一階は演劇部が独占しているようなものだ。 ところで、地下に衣装なんか置いたりして、梅雨の季節とか大丈夫なのだろうか? 

 

 ……

 

「──ふぁあ……、なんか、疲れたわ俺」

「お疲れ様、縁」

 

 演劇部の見学では、衣装を見せてくれたり、来月にこの町の市民ホールで演じるという演劇の練習を見させてもらった。 コーチがプロの方だったらしく部員たちの練習に対する真剣さが高く、演技力も本格的で、僅かな間しか居られなかったが、俺も悠もすっかり魅せられた。

 悠は、『家の人に見させられる(…………)モノより、よっぽど気持ちが良い』だなんて言っていたが、流石にそれは言い過ぎなんじゃないだろうか。

 

 演劇部の後はロボット研究部の見学に向かい、設計中のロボットや、『ロボット相撲』なる大会用のロボットを実際に操作させてもらったりもした。 悠とロボット相撲をして、五回した内四回負けた、あいつも俺と同じ初心者の筈なのに、金持ちになると操縦テクニックまで庶民とは違ったりするのだろうか? 本人曰く、『幼少期にラジコンで遊んでいた経験が響いた』ようだが、そういえば俺はラジコンで遊んだ事が一回しか無かった、小学生の時に父親に買って貰った車のを、当時俺を苛めていた奴等に派手に壊されてからは、一度も欲しいと思わなかったな。

 

 その次は自動車研究部。 ここでは自動車の遍歴、いつの時代にどんな車が生まれたのか、その背景は何なのか等の歴史的な活動の他、他の大学や会社等で車のパーツを見たり触れたりする部活で、それまでに見てきた部活に比べると派手さや見栄えの良さでは多少劣るかもしれないが、中身の濃さはピカイチだ。 狭く深く、という言葉が一番しっくり来るだろうか。

 

 そして今日最後に回ったのが、漫画部。 名前からでは、日がな一日中部室で漫画を読み耽る、ヲタク専門の、部活とは名ばかりの集団なのかと思ってしまうが、ところがどうして、新しくは現代、古くは平安・鎌倉にまで遡って漫画の起源や歴史、時代と共に移り変わって行った漫画を調べたり、海外の漫画の研究や、世界に向けて発信されている現代日本の漫画の『これから』を至極真面目に論じたりする、かなり真面目な部活であり、内容そのものは先の自動車研と重なるが、漫画部の場合、『王道漫画とは、何時から生まれたのか』やら、『BLやGL、TSモノは何時生まれたのか』等、変に幅広いのが特徴だ。

 

 それだけならばただ感心して終わったのだが、部員の中に一人、うちのクラスに在籍している女子がおり、しかもそいつは俗に言う『腐女子』で、俺と悠を見るやいなや『この本読んでみて!』とガチBL系の漫画を渡して来て、その剣幕に押されて数ページか読んでみた所、その余りにもアレな中身に、神経をガッツリ削られ、終いにはその女子がキラキラ瞳を輝かせながら放った『このマンガの二人、野々原君と綾小路君に似てると思わない!?』という発言で、俺では無く悠が静かに激昂し、危ない事にならない内に悠の腕を掴んで礼もそこそこに部室を出て行った。 去り際、背中から聞こえた『キャー駆け落ちよ!』という言葉には流石に俺も頭に来たが、なんとか堪える事は出来た。

 

 そのお陰で、俺も悠もすっかり(主に精神的に)疲れ果ててしまった。 趣味嗜好はその人それぞれだからどうこう言うべきでは無いが、正直あんな風に押し付けてくるのは止めて貰いたいモノだ。 今はもう収まったが、悠は本気で怒ったら半端じゃ無いほど恐ろしいのだから。

 

「最後のはともかく、今日はどうだった?」

「あぁ、どれも新鮮で魅力的だったよ……最後以外は」

「ははは……うん。 彼女の差し出した本を手に取った時点で、僕たちの負けは決まっていたみたいだね」

「これ以上考えたくねぇや、今日はもう帰ろう、さっさと帰って、漫画の内容を頭から消したい」

「同感だよ……じゃ、また明日」

「おう、また明日な」

 

 鞄を片手に、それぞれの帰路に着く。といっても悠は迎えの車に乗っていくのがお決まりなので、歩いて帰るのは俺一人だ。 活動終了時間いっぱいまで学校に居たので、同じ道を歩く生徒はおらず、空もすっかり暗くなってしまった。

 車の走る音もまばらで、静かな道を歩いてると、今日一日の疲れがズッシリと肩に身体全体に重くのしかかってきた様な錯覚を覚える。朝は渚と一悶着、放課後は慣れない部活見学と、家と学校とで休む暇なく考えて、動いて、喋り続けたのだ、そりゃ疲労も溜まるだろう。誰とも話さず、静かに自分一人だけでいられるこの下校時間は、俺に一時の休息を与えてくれる。

 

 まあ、家でも学校でも、『孤独』ってモノとは無縁という事は、とても大切な事なのではあるが、それにしたって、一人で静かにしたい時はあるだろう。

 

「……あ、渚が待ってるんだった」

 

 どうやら、下校時間だからってそうゆっくりとするワケにはいかないようだ。 俺はリア充さながらに忙しい自分に苦笑しながら、途中にある自販機で買った炭酸飲料を片手に、急ぎ足で自宅に向かった。

 

 ……

 

「ただいまぁ」

「あ、お帰りなさい、お兄ちゃん」

 

 玄関に入るとすぐに、明るい声と共に、渚がエプロン姿で迎えにやって来た。わざわざ新婚の奥さんの如く来てくれるのは嬉しいのだが、はて? 現在の時間は七時過ぎ、いつもの時間なら、とっくに晩御飯は作り終わってる筈なのに。それどころか、キッチンからは出来たての料理が放つ香ばしい香りもやってくる。

 

「渚。 ご飯、まだ食べて無かったのか?」

「うん、ちょうど作り終わったところだよ」

「ちょうど作り終わった? なぜさ? いつもならとっくに食べ終わってるのに」

 

 そう聞くと、渚は柔らかく破顔して、俺の手を取りながら言った。

 

「お兄ちゃんには、作りたてのご飯を食べさせたかったから……帰ってくる時間帯に合わせて作ったの」

「──ホントに!? でも、何時に家に着くとか言って無かったのに」

「もう、そんな事言われなくても、大体予想くらいは出来るよ」

「そうか。 いずれにせよ、わざわざありがとうな」

「別に良いよ……家族(……)だもん」

「……そうだな。 その通りだ」

 

 渚が作ってくれた出来たてのご飯を、渚と一緒に食べている間に、俺は下校中に感じていた疲労が消し飛んでいる事を自覚して、家族という存在が自身に与えてくれるモノの大切さを噛み締めた。

 

 ──そして、こんな優しい彼女と、決して悲惨な結末にならない為の決意を固めた。

 今、こうして俺と彼女との間にある団欒は、この先も永遠に続くとは限らない。俺が知っているような、血にまみれた結果になってしまう可能性が高いのだ。そんな未来を迎えない為に、今自分が出来る精一杯の事をしよう。その為の手段は親友が示してくれたし、その為の一歩も今日踏み出したのだから。

『部活動をする事』が目的ではない、その部活動という今の自分に無い経験をする過程の中で新しい自分、価値観を得て、『答えを見つける』事が目的なのだ。決して、それを忘れてはならない。

 

 ──その日以降、俺と悠は数日に渡って放課後に部活動見学をしていった。

 部員の数、活動の規模、派手さ・地味さ等に関係なく、やはりどの部活も俺には目新しく、入る・入らないは別として、興味をそそられるモノだったと共に、この学校の部活動にかける支援の大きさを思い知らされたのだった。

 そして、多くの部活を見て回り、とうとう最後の部活になり、その『最後の部活』の部室に向かう途中、ふと悠が、こんな事を言い出した。

 

「次に僕たちが向かう、最後の部活なんだけどね」

「ん? それがどうした」

「実は、正式には部活動とは呼べない物なんだ」

「と言うと?」

「実はね──」

 

 悠が言うには、その部は三年生がおらず、一年生も居ないらしく、在籍しているのは二年生の一人だけなのだという。 そして、夏休みが始まるまでに、最低でも五人、顧問を抜いて四人居なければ、その部は廃部になってしまうのだという。

 なので、もし今から行くその部に入ったとしても、部員が足らず数か月経てばまた帰宅部に戻ってしまうので、行くべきか行かざるべきか、悩んでいたらしい。 最後に行く事になったのも、悩んだ結果答えを先送りにしてきたからのようだ、しかし結局、こうして行く事になったのだ、今更言われたって気にしない。

 

「別にそれでもいいよ、行って見たら案外、俺に合ってる部かもしれないしな」

「う~ん、僕から見たら、今から行く部は、到底縁とは縁が無いように思えるんだけどね」

「なんだ失敬な。 そんなの分からんだろうが。 大体、その廃部寸前ってのは、何部なんだよ」

「あぁ、それはね──」

 

「──園芸部(……)だよ」

 

「……え?」

 

 園芸部? あれ、何だっけ。 何か引っかかる、喉の奥に魚の骨が刺さった時のような、世界史の問題を解いてる時に人物の名前や土地の名前が思い出せない時のような、そんな細かい不快感ともどかしさを感じる。

 いや、より正しい例えを出すなら、俺がこの世界はヤンデレCDの世界だという事を発覚する直前、男子トイレの中で感じていたソレに近い。

 

「……あれ? どうかしたのかい?」

「ん? あぁ、ゴメン。 なんでもない」

 

 いつの間にか悠の足は止まっており、俺達二人は一年棟の一階、保健室の隣にある部屋の前に立っていた。

 部屋の扉には、今日まで見てきた全ての部室と同じように、『園芸部』と書かれてあるプレートがあったが、俺は今までしてきたように、ドアノブを回して、先に部室の中に入る事が出来ないでいた。

 

「縁? どうしたのさ、さっきから明らかに様子がおかしいじゃないか。 園芸部に何かあるのかい?」

「い、いや……そんな事は無い。 無い……筈なんだ」

 

 そうだ、俺は前世でも今までの人生でも、一度だって園芸部と関わりを持った事は無かった、だから何も躊躇う必要なんか無い、無い筈。 だというのに、先ほどから感じる引っかかりは収まる事無く、むしろ強くなっていく、その事実が、俺にこれ以上先に進ませる事を押し留めている。

 だがそれと同時に、このドアノブを回して、部室の中に入れば、この引っかかりの正体を知る事が出来る事も、俺は強く確信している。

 

「今日は……ここを見るのはやめておこうか? 部員の人には、僕が言っといてあげるからさ」

 

 悠が俺の尋常ではない様子を案じて、今日は止めにするかと言ってくれた。 その気持ちは有難いし、俺が躊躇している事も本当だ。 だが、もう部活巡りはこの園芸部で最後なのだ、他に見る部活は無く、今日止めたら後は延々と園芸部だけ行かない日が続いてしまう。 それでは園芸部の部員や、今日まで俺に付き合って、各部に声を掛けてくれた悠に対して悪いだけでなく、俺自身にもよくないだろう。

 

 仮にこのまま、悠の言う通りに、今日は止めて行かないのだとしても、それで引っかかりは解けないだろうし、もしかしたら、俺が見つけようとしている『答え』に辿り着けなくなるかもしれない。 この引っかかりは俗に言う死亡フラグなどでは無く、生存フラグなのかもしれない。 なら……俺は……。

 

「大丈夫、いこう」

「本当に良いのかい? 遠慮する事ないんだよ?」

「良い……部室、入るな?」

「うん……分かった」

 

 ドアをノックする、部屋の中から、小さくだが、女子生徒の声で『どうぞ』という返事が聞こえた。

 俺はその声を聴いてから、最後に一回、初めて手芸部の部室に入った時のように深呼吸をして、部室の中に入った。

 

「見学してもらいに来ました、二年の野々原です。 よろしくお願いします」

「同じく、綾小路悠です。 一昨日話はしましたが、改めて今日は宜しくお願いします」

 

 幾つも部を回る内にテンプレートとなった挨拶をして、軽くお辞儀をする。 そうして頭を上げてからやっと、俺は園芸部にたった一人在籍しているという、その女子生徒の顔を見た(……)、見てしまった。

 そして、同時に、直前まで感じていた引っかかりの正体と理由を、全て理解した、してしまった。

 

「は……はい、こちらこそ、その……何もない部室ですが、よろしくお願いします」

 

 男子との会話に馴れないように(他人との会話に馴れないように)、落ち込んだ暗い声。 腰まで伸びた、長い黒髪。 顔、声、体系、雰囲気、それら全てが、俺の知識の中にある一人の少女と一致する。

 

「園芸部の、部長をしています──」

 

 あぁ、知っている。 俺はこの女子生徒を知っている。 わざわざ名前を言われなくとも、この女子生徒を、俺は初めっから知っていた! 

 

『あれはきっと、運命の出会いだったんですよ』

『貴方の代わりは何処にも居ない……貴方の代わりは、誰にもなれない』

貴方を養分に(…………)育ったこの花は、一体どんな綺麗な花を咲かせてくれるのかしら?』

 

 

 頸城縁が、生前最後に聴いたヤンデレCDシリーズのヒロイン。

 それまで聴いた二つと違い、頸城縁の胆を冷やした人物。

 それ以降のシリーズを、興味は持っても最後まで買おうとしなかった切っ掛けを生んだ者。 その人物の名前は、名前はッ! 

 

柏木(……)園子(……)……です」

 

 柏木……園子ぉぉ!! 

 

 

 ──to be continued




三話目にして、ヤンデレCD初期の三人が出揃いました。
三人目の柏木園子さん。 容姿と中の人の事情で『せかのは様』だなんて呼ばれちゃってるヒロインですが、柏木さんのCDを聴くと、言葉様とは似てるのが容姿だけであとは全く違う性格のような気がします。

そんな柏木さんに、最後になんか焦ったりビビったりしてた主人公ですが、CD聴いてない方は『何ビビってんだコイツ?』と思うかもしれませんが、視聴済みの方なら多少でも主人公に共感出来るかと思います。

いやホント、私も途中から、ん? と思ったりしたけど。最後の最後で背筋凍りましたからね、柏木さんには。 それまでの妹と幼馴染がまだ可愛気残ってた分。、一層に。
気になる方は是非、CDを買って聴いてみてください、眠りたくない夜にはピッタリですよ(宣伝)

何はともあれ、今後も不定期更新になってしまいますが、よろしくお願いします。
では、さよならさよなら


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四病・星に願いを

なんか全体的に駆け足気味かもしれません

それでは、始まり始まり


 

「柏木……園子」

 

 半ば無意識にそう言ってから、しまったと自分の行動に後悔する。 しかしもう遅い、小さい声ではあったものの、園芸部室という狭い空間の中では、しっかりと自分の呟きは二人の耳に伝わってしまった。

 

「え……?」

「ん?」

 

 唐突に自分の名前を呟かれた事に緊張や不信感、怯えなどをない交ぜにしたような表情の柏木園子と、純粋な驚きに染まった表情の悠が俺を見る。

 

「わ、私の名前が、どうかしましたか……?」

「……縁」

「あ、いやっ、ちょっと珍しい苗字だなって思って」

 

 ……我ながら、この言い訳は苦し過ぎないだろうか。 柏木なんて苗字、いや、『なんて』は失礼だが、いずれにせよわざわざ口に出してまで言うほど珍しい苗字でも無いだろうに。 見ろ、二人ともあやしがって──

 

「は……はい、そうですか……?」

「まぁ、僕たちのクラスには居なかったからね、珍しがるのもおかしくないかもしれないけど、聞こえる声で言うのは少し失礼じゃないかな」

 

 ──意外とすんなり受け入れてもらえたみたいだ。 実はけっこう珍しかったりするのだろうか、柏木という苗字は。

 

「それじゃあ気を取り直して、園芸部の活動についてお話して頂けますか?」

「は、はい……分かりましたっ」

 

 まあなんにせよ、二人は納得してくれたのだから良いだろう。 何はともあれ、ここは一旦落ち着こう。

 予想もしない形で柏木園子と対面した事でややパニックに陥ってしまったが、今のマヌケなやり取りで少し脳みそが冷えた、状況を整理しよう。

 

 とは言っても、状況は一言で済む。 『部活回りの〆に園芸部に来たら、柏木園子が居た』それだけの話。 問題は『なぜこの結果を予測出来なかったのか』だ。

 結論から言うと、俺はさっきまで自分の前世の知識、つまりヤンデレCDについての知識を過信していたという事になる。 俺は前世で聴いたヤンデレCDの『野々原渚』『河本綾瀬』『柏木園子』についての記憶と知識があったからこそ、この世界がヤンデレCDの世界だと認識する事が出来た。 CDで聴いた人物の声や印象的な(悪い意味で)セリフ、最終的に主人公に何をしたのかについてまでは覚えていた、だが覚えていたのはそういった『大まかな事』だけだったという事に、俺は気付いては無かった。 『細かい設定』までは覚えていなかったのだ。

 具体的に言えば、CDの主人公はどうやってヒロインと出会ったのか、どういった過程で好意が生まれたのか、部活動(……)や委員会は何をしているのか、など。

 

 考えてみれば、俺は『現実の』綾瀬はともかく、CDで聴いた『河本綾瀬』がどうやって主人公と出会い、どういった過程で恋人同士になったのかを、ろくに覚えていない。 それと同じように柏木園子が園芸部に所属していたという『設定』を、俺はこの状況に陥ってしまうまで忘れていた、たしか、CDでは一瞬チラッと言っただけじゃなかったのだろうか? 言い訳がましいが、そんな細かいセリフまで覚えていられるワケが無い。 これが予測出来なかった原因、『出来なかった』というよりも『出来るはずが無かった』。 

 

 だがここでこのままパニックになってはいけない、それでは身を滅ぼす道に突き進むだけだ。 それに、柏木園子とこうした形で出会ってしまった事、その事自体は好まざる状況ではあるがその実、実際の所はそこまで最悪な状況でも無い事が分かる。

 と言うのも、柏木園子はヤンデレCDにしてもこの世界においても、野々原渚や河本綾瀬と比べて一つだけ、しかし決定的な部分が違うのだ。

 それは、野々原縁との『繋がり』。 『野々原縁と野々原渚』が『兄妹』、『野々原縁と河本綾瀬』が『幼馴染』であるように、自分と彼女達との間には幼い頃から又は生まれた時からの繋がり、『(えん)』と呼べる物がある。

 だが、『野々原縁と柏木園子』の場合は違う。 俺にとっての彼女、彼女にとっての俺は互いに、今日偶然部室で出会い、初めて会話をしたただの同級生に過ぎない。 渚や綾瀬との間にはある繋がり・縁は野々原縁と柏木園子との間には、何一つ存在していない。 それらの事実から絶対的な事が一つ分かる。

 

 それは、柏木園子は野々原縁にデレていないという事。この前渚に問い詰められた時と同じ方則だ。恋愛感情が無ければデレが起きない、デレが無ければヤンデレにはならない、現状柏木園子が俺に対して何か危険な行動をするという可能性は、0なのだ(もっとも渚の場合は、その後のやり取りでデレてない可能性がメッキリ低い事が分かってしまったけれども)。

 ならば後は簡単だ、このまま自然にやり過ごして、柏木園子にとっての野々原縁を部活見学に来たただの同級生という印象で止まらせるだけで良い。 これだけで、明日以降柏木園子との縁は切れて無くなるのだから。

 

「──が、園芸部の主な活動、です。 今は私だけですから、専ら部室の花壇に水やりをするだけですが……」

「はい、とても分かりやすかったです。 丁寧な説明をして頂き、ありがとうございました」

「い、いえ、そんなことは」

「謙遜しなくて良いですよ。 あ、そうだ、モノはついでで、一つお聞きしても?」

「はい。 私で答えられるなら……ですけど」

 

 そうこうしている間に柏木園子の説明は終わり、話題の中心は部の説明から別の話題に移っていった。 始めはオドオドしていた態度も、悠に対してだけはある程度緩和している、悠の丁寧な口調や物腰が警戒心を和らげているんだろう、今この時に限っては羨ましいと思わないが、こいつの誰とでも仲良くなれるという所は美点だと思う。

 

「実は、来月僕の母の誕生日がありまして、年齢は母の名誉の為に伏せますけどね。 それで、誕生日プレゼントの他にもう一つ花をあげたいんです、ですが花に関しては詳しくないので、何をあげれば良いのか、アドバイスを頂きたいのです」

「誕生日にあげる花を……あの、そんな大切な事に私なんかがアドバイスして、いいんですか?」

「ノープロブレム、家の者達に聞いたら母の耳に届くかもしれませんし、親しい友人に聞くにしても、縁にそんな事聞くだけ無駄ですからね」

「ってオイ! 会話の中でさり気なく俺を貶すなよ!?」

「本当だろう? 嘘だというのなら、何か一つでも君の好きな花を言ってみせてくれよ」

「……それは……」

 

 くぅ、何て事を。 ついいつものノリで悠にツッコミしてしまったが、俺が花の知識について乏しいのは確かだ、生物の授業で花の構造とかの学問的な知識は分かってても、種類や花言葉とかの趣味的な知識はサッパリだ。

 それだけじゃなく、先ほど会話に入らずやり過ごすと決めたばかりなのに、いつの間にか話題の中心が俺に移っている!? どんな事だろうと言わないと収拾がつきそうに無い。

 自分の(毎度ながらの)浅はかな行為に辟易しながら、取り敢えず頭の中に浮かんでくる花の名前を口にする。 そう、俺が知っている花は──

 

『──ねぇ、この花の花言葉って何か、知ってる?』

『……分かんないなぁ、瑠依はそういうの詳しいよな。 でも何回も言うけど、僕は花の名前はちっとも分からない』

『えぇ~、これも?』

『はは……ごめんね。 それで答えはなんなの?』

『仕方ないなぁ、この花はね────』

 

 ──不意に、昔の記憶──頸城縁の小学生だった頃の記憶──が脳裏に浮かび上がってきた。

 野々原縁の過去とは違う、いずれ朽ち果てる事に気づきもせず、ただ目の前の幸せをを無作為に享受していただけの日々の一コマ。 懐かしさを覚えるのよりも、胸の奥に締め付けて来るような痛みを与える、大切だった記憶。

 その記憶の中で、頸城縁は自分より一歳年下の少女と居た。 笑顔で話しかける少女は、先日親から貰ったというやたら厚い花の図鑑を手に頸城縁の家に遊びに来て、図鑑にある花の名前や花言葉を言い当てる遊びを頸城縁に半ば無理やりさせたが、全く答えられない彼に対して、不満そうに唇を尖らせながら──でもどこか楽しそうに──頸城縁に色んな花の名前とその花言葉を教えてくれた。

 

 あぁ、そういえば、この時教えて貰った花の殆どは既に忘れてしまったが、二つだけ印象に残って、こうして野々原縁という別人になってでもハッキリ覚えている物があった。

 一つはクローバー、これは花では無いが図鑑に載っていた。 クローバーと言えば幸運を呼ぶ四葉のクローバーが印象的だが、自分が知っているクローバーの花言葉は、『復讐心』。 その他にもクローバーには花言葉があるらしいが、一般的なイメージと離れたこの言葉が、頸城縁には受けが良かったらしい。

 

 そして、もう一つが──

 

「──シオン。 花言葉は『思い出』、それと──」

「『あなたを忘れない』、ですね」

「……そうだな」

 

 俺の答えに、先ほどまでの警戒心が薄れて、どこか感心しているような顔と表情でもう一つの花言葉を言う柏木園子と、またまた純粋に驚きの表情になる悠。 二人を交互に見ながら、悠が興味津々に聞いてくる。

 

「シオン? 初めて聞く花の名前だ。 どんな花なんだい?」

「ええっと、シオンは東アジア原産の花です。 漢字で書く時は『紫』と、草冠のある、学苑や芸苑という時に使う『苑』を『おん』とよんで、『紫苑』です」

「意外と歴史が深いぞ、ほらこの前古典の授業で習ったのあったろ?」

「古典……今昔物語だね」

「そ。 それのどの場面かまでは知らないが、その今昔何たらにも名前が出てるみたいだ」

 

 一度口に出してから、次々と記憶にある限りの知識が浮かび、それを言葉に出した。 どの季節に咲くのか、どんな色をしているか等──所々柏木園子が補足をしてくれながら、俺はシオンだけでなくクローバーについても話した。 たった二つだけだが、話し終えた後の悠は驚きだけではなく、感心した表情で俺を見ていた。

 

「へぇ、本当に花の知識あったんだね、縁は」

「まぁこの二つだけだがな、しかも片方は花と言うより草、雑草だ。言ってから思い知ったが、知識があるなんて言えるレベルじゃとても無い」

「そんな事無いさ、ねぇ柏木さん?」

「はい、紫苑については私よりも詳しかったですし、十分凄いと思います」

「──ッッ!!」

 

 不意に向けられた会話にも怯む事無く、静かで控えめではあったが、今日ここで会ってから一度も見せなかった笑顔を俺に向ける柏木。 その思いも由らない反応、柔らかい笑顔に、柏木園子がどういった人間であるかを分かっている筈なのにもかかわらず、一瞬だけドキっとしてしまった。

 っと、気が付いたらもう完全に話の流れが俺中心になってしまっていた、もしかしたら悠が唐突に母親の話をしだしたのはこれが狙いだったのかもしれない、もしそうだとしたら、完全に今の状況は悠の狙い通り、思う壺状態だ。

 

「そ、そんな事より悠、お前の母親に渡す花についてまだ決まっていないだろ、それを決めろよ」

「ああ、そうだったね、すっかり忘れていたよ」

 

 忘れるなよ、自分の母親だろうが。 やっぱり単なる口実でしか無かったな? 

 

「それでは柏木さん、改めてお願いします」

「はい、それじゃあまずは──」

 

 そのあと、花を選ぶ為に悠の母親の出身や本人の好きな色、その他諸々をヒントにして話し合い、最終的に決まったのが、なんと、

 

「『ゴールドコイン』とは……なんともまぁ、香ばしいまでの……」

「これからの季節に咲く花ですから、調度良いとは思います。 花言葉は『美しい人格』です、けど……」

「ははは……母さんは自分の髪やそれに近い色が好きだからね、それに何よりもその……お金が、好きだから」

 

 うっわあ……それはまた何ともこう、凄い好みで、とはとてもじゃないが言えなかった。 だって言ってる悠自身が一番恥ずかしそうにしていたからだ。 ちなみにゴールドコインとは春から夏に掛けて咲く花で、名前の通り金貨のような色をしているので、そういう名前になっている。 園芸部内にある図鑑から写真を見てみたが、確かにそれらしい花だった。

 

「僕の家系は代々、特に女性が拝金主義でね、『お金で買えないモノは無い』なんて素で考えてる人が多くて……母さんも外から嫁いで来た筈なのに、すっかり綾小路家に染まっちゃって、いや本当に、お恥ずかしい」

「あ、あははは……」

「うん、よく分からんが、ドンマイ」

 

 苦笑いする柏木と、素直に同情する俺。 しかしお金で買えないモノは無い、か……。 もしそんな事本気で考えてる奴と出会ってしまったら、そりゃもう面倒だろうな。 まぁ、そういう奴と接触の機会を持つ事自体まず無いだろうけどさ。

 

 ……

 

 そして、あらかたやる事も済んだので、ようやく俺と悠は部活見学を終える事になった。

 

「それでは柏木さん、今日はありがとうございました」

「どうも、時間を取らせてしまって」

 

 部室を出る前に二人で柏木に礼をする。

 

「いえ、私もこうやって花の話題で誰かとお話しするのは久しぶりだったので、楽しかったです。 でも……」

「でも、どうしました?」

 

 何かを言いかけて口を閉じる柏木に対し、悠が発言を促すようにするが、結局言いかけた事については何にも言わず、柏木園子は最後に──

 

「今日は、本当に嬉しかったです(………………)。 ありがとうございました」

 

 そう、何かを堪えるように静かな笑顔で俺達に言った。

 

 ……

 

「で、今日は、どうだった?」

「どうって、何がさ」

 

 部活巡りも終わり、ここ数日で久しぶりに早めに帰る事が出来たので、俺は渚にメールで連絡をしたあと、今日は習い事までに十分時間があるという悠と一緒に街の繁華街にあるゲームセンターによって遊ぶ事にした。 ちなみに今しているのは二百円で遊べるエアホッケーだ。

 これまでの俺の戦績は中学から数えて182戦中81勝93敗の負け越し。 最近は二人でゲーセンに行くなんてことも減ったのだし、貴重な機会は真剣に遊びたい。

 

「そのままの、意味さ。 入りたいと、思った?」

「別に、なんでそんな事、聞くんだ、よっと!」

 

 今まで悠は、部活巡りの後は自分の感想こそ言いはしても、俺に感想を聞いて来る事は無かった、それがどうして今日だけは聞いてくるのだろうか、しかもゲーセンに向かうまでの道では無く、こうした真剣勝負の最中に。

 

「今日が最後だったしね、それに!」

「おっと危ね……それに、なんだ!!」

 

 自分のゴールに入りそうだった円盤を寸前のところで止めて、言葉を言い切る直後に思いっ切り円盤を右側に向けて打つ。 そうする事で円盤が右の壁にぶつかってから不規則に悠のゴールに向かって飛んでいく。 俺への会話に意識の一部を預けている今の悠には、反応出来まい──そう思っていたのだが、

 

「いや、今日の縁は今までで一番楽しそうだったから、さ!!!!」

「んなッ!? お前何言って──しまった!」

 

 俺の戦略を最初から予期していたかのように悠は円盤の不規則な動きを捉えて、強烈なスマッシュと共に予想外な言葉を俺に飛ばしてきた。 その両方に面喰い、俺は悠の言葉に答えられないのと共に、見事に円盤をゴールに決められてしまった。 それと同時に鳴るゲームの終了音、40対50で、俺の負けになってしまった。

 

「お、お前……ズルいぞ、精神攻撃なんて」

「ふふ、これでまた僕の勝ちスコアが上がったね」

「それもだが、何だよさっき言ったのって、俺が楽しそうだったって?」

 

 悠にまた負けてしまった事は確かに悔しいが、それより看過できない事を言われた。 自分が、よりにもよってこの野々原縁が、柏木園子との会話を楽しんでいただと? 

 

「まあ、まずは席を変えよう、少し疲れた」

 

 学校からここまで歩いて来てそのまま遊んだので、エアホッケーの筐体から離れて、簡易な休憩所の椅子に座りながら話を続ける事になった、個人的にはもう終わりでいいのだが。 俺が空いてる席を見つけて荷物を置いてる間に、悠が二人分の飲み物を持って来る。

 

「言っとくが、俺は別に楽しんでたわけじゃないぞ、お前が花について聞いてきたから答えただけだろうが」

「そうだけど、それを差し引いても今日の縁は今までと違って積極的に話していたんじゃないかな」

「それはっ……まぁそうだったけどさ」

 

 それだって、ひょんなタイミングでセンチメンタルな記憶を思い出した弾みに、ツラツラと言葉が口から零れただけであって、決して柏木園子との会話に楽しさを覚えていたという事では無い、決してだ。

 だがそんな事を悠に言えるはずも無く、ただ否定するだけの俺の言葉に逆に何か感じたのか、手に持った缶ジュースを一口飲んでから、札束の枚数を一枚一枚丁寧に数える時の高利貸しのような目で俺を見据えて言った。

 

「ねぇ縁、君はもしかして、前から柏木さんを知っていたのかい?」

「──へ?」

 

 あ、やばい、コイツなんか感づいてる。いや、まさか俺が前世の記憶思い出した事に気付ける筈は無いだろうし、ただ何となく普通じゃないって事に気付いている、そんな雰囲気だ。

 前世の事については最初の日に渚に言った通り他人には話さない事にしているので、たとえ親友の悠が相手だとしても答えるわけにもいかない。 なので、ここは毎度のように誤魔化してやり過ごす事にする、悪いな悠。

 

「俺が柏木園子を知っているかって? そんなの当たり前だろう」

「……へぇ、それはまた、どうして?」

「バーロー、クラスが違うだけで学年が同じなんだぞ? 名前や顔ぐらい、廊下ですれ違ったり誰かの会話の中でうっかり耳に入ったりして覚えたりするさ。 ただ、園芸部に居たって事は知らなかったってだけだよ」

 

 実際の所、学校ではトイレや移動教室以外は大抵教室にこもっているのでまだ一回もすれ違ったり会話で聴いたりした事は無いのではあるが。 それにしたって、悠が見てない所や時間帯で俺が廊下に出る事はあるんだ、そう簡単に俺の言葉を疑ってかかる事は考えにくい。

 しかし先ほどのエアホッケーの時と同じく、俺の言う事を予測していたかのように悠はすぐさま俺に言い返してきた。

 

「ねぇ縁、嘘を吐く人間の幾つかある特徴の一つに、こんな特徴があるんだ」

「特徴?」

「うん、言われる前に予め言及されそうな事についてそれらしい理由を並べて、相手に言わせないって特徴がね」

「ッッ!」

 

 って、それはまるっきり今の俺の事を指してるじゃないか、なんでそんな知識持ってるんだよお前は! 普通の高校生が持ってなくていい知識だろ──って、そうだコイツ普通とはちょっと違った家庭の子だった。

 今更ながら自分の友人のスペックの高さを再認識しながら次の対策を考える……時間は無いので、取り敢えず頭に浮かんだ言葉でそのまま反論する事にした。

 

「別に、嘘吐きが必ず全員そうだというわけじゃないだろ? お前が言った通り、幾つかある内の一つに過ぎないんだからさ」

「そうだね。 でも、今君は話を逸らすだけでハッキリと否定はしなかった、それは遠回しに肯定しているって事じゃないのかな?」

「ぼ……暴論だろそれ……!」

 

 駄目だ、コイツはもう何を言っても『俺が何か知っている』という考えを覆そうもない。 むしろ俺が否定的な言葉を言う事で一層確信してしまう程だ。

 こうなってはもう仕方がない、ここはもう──

 

「……ま、まぁ? 俺が仮に何かお前に言えない事があったとして、それがなんだとお前は言うつもりだ?」

 

 ──開き直る事にした。

 

「ん……それは」

「無いだろ? 何にも思い浮かばなぁい、それはつまり、疑っても意味が無いって事だ。 違うか?」

 

 実際の所はそんな事が無い事は分かっている。 だがこうして開き直ってしまえば、あとは悠が自分で答えを出さなくちゃいけない事になる。 そうなると、まさか少し普通じゃない洞察力の高い悠であっても、現実的な事しか言えなくなってしまう。 もし仮に、俺が前世の記憶やらヤンデレCDの知識やらを持っている事に気づいて──当然有り得ないが──、それを言って見せた所で逆に馬鹿にされるだけだ。 俺が言うのもなんだが、そんな非現実的な事、言った所でまともに取り合わない事は十分に分かる事だ。

 かと言って、現実的な事を言って見せようにも、先の俺の言葉で説明が済む話であり、それをわざわざ否定しても、三流探偵が当てずっぽうに的外れな人を犯人に指名するようなモノで、やはり何も言えなくなる。

 

 つまり、開き直ってさえしまえば相手に疑いの心を持たせてしまう事になっても、物的証拠さえ無ければずっと秘密を暴かれる事は無いって話だ。 よくドラマで悪者が追い詰められた果てに開き直る事が多いのは、こういった理由からだと思う。 悪者はその後言い逃れのない物的証拠を出されて本当に追い詰められてしまうが、俺にはそんな物ないので完全に大丈夫、縁大勝利という事になる。

 

 それが分かって、悠は少しの間何を言うべきか考えるように黙っていたが、やがて降参するように浅いため息を吐いた。

 

「……分かった、降参だよ縁。 ここで開き直られたらもう僕には言える言葉が少ししかない」

「まだあるのかよ!?」

「あるさ、でもそんな風に無理に聞いて君を不快にはさせたくないからここで止めるよ。 僕は君に嫌な思いをさせたくて聞いたわけじゃ無いからね」

「お、おう。 そりゃどうもありがとよ」

 

 ようやっと追及する気が無くなった事に安堵しながら自分の飲み物を口に運ぶ。 結局悠の疑念は払えなかったままに終わったが、答えには微塵も近づいてないだろうし、取り敢えず今は何部に入るのか決めないとな。

 

「前に言ってた、『このままだと悪くなるけどどうしようも出来ない人』が、もしかしたら柏木さんの事かなと思ったんだけどなぁ」

「…………まぁ、気のせいだろ」

 

 前言撤回、ヒントどころか核心に近い所まで考えていましたこの人、もうやだ恐い。

 

「さ、話も済んだし、さっさと次行こうぜ悠。 俺あのスリルドライヴってのやってみたい」

「うん……そうだね」

 

 ……

 

 その後三十分ほどシューティングゲームやクレーンゲームなどで遊んで、渚と約束した帰る時間に近づいたので、そろそろ帰る事にした。 俺は歩きで帰るのだが、悠はお約束のごとく迎えの車が来た。

 

「それじゃ、今日はこれで……あぁ、縁」

「ん?」

「君は柏木さんとの会話を楽しんでいないと言ったけど、きっと彼女は楽しんでいたと、僕は思うよ」

「またその話か? それもあり得ないって、楽しそうに見えたのはお前が基本フレンドリーな性格だったからだろ? それだけだよ」

「……でもね、縁」

 

 自分の迎えの車に乗って、最後に悠はどこか諭すような口調で、俺に言った。

 

「人は、それだけでは、心の底から『そうだ』と言える理由がないと、『本当に嬉しかった』なんて言えないんだよ?」

 

 ……

 

 帰り道を歩く途中、自分のポケットの中でケータイが小さく振動しているのに気づいた。 すぐにみると、待ち受けに渚からのメールと電話が届いている事が表示されていた、どうやら俺が気づかなかっただけで、さっきから何回も着信していたようだ、マナーモードはこういう事があるから困る。

 取り敢えずメールの受信欄を開いて、渚のメールを見てみる。

 

『お兄ちゃん、今帰ってる途中?』

『おーい、お兄ちゃん? メール見てる?』

『電話も反応ないよ〜? 今どこにいるの?』

『おそ〜い! o(`ω´ )o もうそろそろ約束していた時間だよ!』

『ねぇ、どうしてなんにも返信してくれないの? 今本当に綾小路さんと一緒に遊んでいるの?』

『どうして無視するの? ねぇ、本当はお兄ちゃん、誰か女の人と一緒にいるんじゃないの?』

 

 以上、きっちり五分おきに着信した愛妹からのメールである。

 

「はは、可愛いなぁ」

 

 そう呟きながら、早速一番新しい着信のメールに返信した。

 

『お前はメンヘラか』

 

 メールを送って十秒も経たない間に、再びケータイが振動する。 あ、メールじゃなくて電話だ。

 

「はいもしもし」

『メンヘラじゃないもん! 少し心配性ってだけだもん!』

「おう、それにあと独占欲が強いのを加えても良いと思うぞ、それと少し声下げろ耳痛い」

 

 あ、ごめんなさいと軽く謝ってから、再び渚が少し声を抑えながら電話越しに話す。 やれやれ、通話始まって早速これである。

 

『私、そんな暗い性格じゃないよ、お兄ちゃん!』

「そうか、そう思うのならそうなんだろう、お前の中ではな」

『もう、そんな風に本題を誤魔化さないで』

「はいはい」

 

 若干拗ねたような口調になるのが分かる。 こういう電話越しでもころころ表情が変わるのが分かるのが可愛いところだと思うよ、本当に。

 

『そもそも、お兄ちゃんが私のメール無視するのがいけないんだよ?』

「ああ、それは確かにごめんな。 マナーモードにしてたから気づかなかったんだよ。 今家に向かってる、あと十二、三分もあれば家に着くから」

『そうなんだ、良かった。 じゃあそのまままっすぐ家に帰って来てね』

「そりゃ、そのつもりだけど……」

 

 ふと、渚の電話から渚以外の人の声──というより、音が聞える。 具体的に言うと、量販店などで聞くような、アナウンスやBGMのような物が。

 

「渚、今お前ひょっとしたら、外に居るのか?」

『あ……うん、ナイスボートに居るよ』

 

 ナイスボートは、俺たちの住んでいる地域で一番多くの商品を取り扱っている大型量販店の名前で、家から八分ほど、今俺が歩いている道の先にある。

 

『冷蔵庫みたら明日からの食材が足りなかったから、買いに行ってたの』

「なんだ、それならちょうど俺の進行方向先にあるんだし、買い物手伝うよ」

『い、いいよそんな事しなくて! お兄ちゃんは学校帰りなんだから、そのまままっすぐ帰って?』

「そういうワケにはいかないだろ。 お前、普段から買い物は多めに買うタイプだし、どうせ今も帰りの事考えないで、両手一杯に袋があるんじゃないのか?」

『うっ……それは、そうだけど』

 

 やっぱりだ。 渚のそういうところは母親譲りで、母さんも『納豆が無いわー』とか言って買いに出掛けてから、両手一杯に何袋も持って帰宅して来る事があった。 渚はまだマシな方だが、多く買う癖がある事には変わらない。

 

「今急いでそっちに行くから、ちょっと待ってろ」

『ほ、本当にいいんだよ、私は大丈夫だから──』

「い、い、か、ら。 それとも何か? お前はダサい兄なんかと一緒に買い物したくない、歩きたくない、顔も見たくない非ブラコンなのか? それなら俺も納得して、素直に家に帰る──」

『そ、そんな事無いから!? 私、お兄ちゃんの事嫌いなんて事絶対に無いよ!?』

「ならもう問題無いな。 じゃ、あと五分待ってろ」

『う、うん。 分かった……』

 

 そう言って電話を切ったあと、俺はケータイを無造作にポケットに入れて、早歩きだったのを走るのに変えて、宣言通り急いで渚の元へ向かう。

 店の前に到着すると、ドアのそばで渚が、大きいビニール袋に沢山食材やら生活用品やらを詰めたのを四つほど重そうに持ちながら、俺の来るのを待っていた。 ったく、足りないのは食材だって言ってたくせに、シャンプーの詰め替えや風呂用の洗剤とかも買って、女の子一人が持つ量じゃ無いっての。

 ──と、俺の姿を見つけた渚が、気恥ずかしそうに俺を見た。

 

「ほうら、案の定そんな沢山持ちやがって。 ほら、全部よこせ」

「だ、だめだよそんなの! 重いから!」

「重いから俺が持つんだろ、せっかく来たのに妹の方が重い荷物持つって、俺が居る意味ないだろ」

「う、うぅ……分かった。 でも、全部は駄目! 一つは私が絶対持つからね!」

「はいはい」

 

 これ以上互いにごねてもかえって効率が悪いので、素直に渚に一番軽い袋を持たせた。 春になって長くなった日もようやく沈み、残照がわずかに照らす帰路を二人並んで歩く。 そういえば、朝はほぼ毎日一緒に登校しているが、帰りに一緒なのは珍しい、渚もその事を考えていたのか、視線を向けると目が合い、楽しそうに破顔する。

 

「ごめんねお兄ちゃん、疲れてるのに重い荷物持たせちゃって。 でもありがとう、私嬉しいよ(……)

「……嬉しい、か」

「うん、だってこうして一緒に帰るの、久しぶりだから」

「そうか。 そいつは、良かった」

 

 ──心の底から『そうだ』と言える理由がないと、『本当に嬉しかった』なんて言えないんだよ? 

 別れ際に悠が言った言葉が思い起こされる。 渚は、俺と一緒に帰られる事が嬉しいと言った。 柏木園子もまた、本当に嬉しかったと言っていた。

 もう一度、隣で柔らかく微笑む渚を見る。 俺と一緒に帰られる事が渚にとって『そうだ』と言える『嬉しい』の理由なら、柏木園子は一体、どんな理由で『嬉しい』と言ったのだろうか。

 

 別れ際に見せたあの月のように静かな笑みを思い出しながら、そんな益体も無い事を、つい考えてしまった。

 

 ……

 

 翌日、部活巡りも終わり、悠は急用で放課後さっさと家に帰ってしまい、暇になった俺は、特に学校に残る理由も無いので家に帰って何部に入るのか考える事にしたのだが──

 

「……はぁ、よくこんな数の本、お前一人に任せたよなお前んとこの委員長も」

「いつもはもっと少ないんだよ? 今日はたまたま普段より多いの」

 

 大小、厚さもバラバラな十数冊の本を抱える俺がそう言うと、同じく数冊の本を抱えた、今日も大きいリボンが可愛らしい少女、幼馴染の綾瀬が苦笑しながら答えた。

 鞄に荷物を入れている途中、綾瀬が『ちょっと良い?』と言って十数冊の本を一緒に図書室まで持っていくのを手伝って欲しいと頼んできたのだ。 なんでも、今度校内新聞でこの高校の歴史を記事にするらしいのだが、その資料として使用された本を返していってほしいと、委員長に頼まれたらしい。

 

「にしたって、なぁ……」

「委員長、女性で結構男女関係なくビシバシ働かせる人なんだよね」

「うっへぇ、俺なんか居たら胃に穴が開きそうだな」

「うん、貴方じゃ三日で死んじゃうかも」

「ブラック企業かっ」

 

 下手な部活より忙しいってのは本当らしいな……、マスメディアの闘争は学校という場でも変わらず、という事か。

 

「そういえば、もう何部に入るのかは決めたの?」

「いや、まだ考え中。 なんか悠も俺が選んだ部に入るとか言ってるから、そう簡単に決めらんないんだよな」

「え、綾小路君も入るの!?」

「そうなんだよ、俺も驚いたけど、人生経験の為らしい」

「へぇ……彼にも色々あるんだね」

「そう。 だからこそ、入ってもなぁんにもしない部活に入っちゃったら悠にも悪いからな」

「頑張ってね、縁」

「おう。 頑張るよ、綾瀬」

 

 そう話している内に図書室に着いた。 本は貸出受付の傍にある専用の返却口があって、そこに本を入れればあとは後日、図書委員が本を元々あった場所に片付ける。 かなりの重さと数だから大変だろうけど、是非図書委員には頑張ってもらいたい。

 

「──ふぅ、これでお終い。 手伝ってくれてありがとうね」

「どういたしまして、ちょっと肩こったけどな」

「もう、まだ私も貴方も若いでしょ? でも、お礼に今度夜ご飯ご馳走してあげる」

「えっ」

 

 晩御飯ご馳走してもらうって、かなり死亡フラグのような気がしてならないんだが。CDで渚が本格的にキレたのって確か、主人公が綾瀬に晩御飯ご馳走して貰ったの誤魔化してたからだよな? 

 

「あぁそのな綾瀬、ご馳走してくれるのは嬉し──ありがたいけど、気持ちだけで十分だよ」

「え、どうして? 中華好きだよね?」

「それは、その──ん?」

 

『昨日食材たくさん買って、消費しないと駄目だから』、そう言おうとした直前に、図書室の奥から本が崩れる音と、小さく悲鳴のようなのが聞こえた。

 

「今の本が崩れる音だったよね?」

「図書室で落ちたり崩れたりするのは本だけだしな……ちょっと様子見てみるか?」

「うん、そうしよう? 痛がってる声も聞こえたし……」

 

 俺は野次馬根性的なノリで気になったので、綾瀬は純粋に本を落とした誰かへの心配から、音のした方に行ってみる事にした。 するとそこには──

 

「あ~あ、本上から落としちゃったよコイツ」

「ちょっと何やってんの? もし本に傷ついたら弁償モノじゃん」

「この程度もマトモに出来ないの?」

「そ、その……ごめんなさい。 すぐに片づけるので──」

 

「はぁ? そんなの当たり前じゃん。 そんな事いちいち言わないで、ウザいから」

「ご、ごめんなさい」

 

「ごめんごめん言ってないでさぁ、さっさと片付けたら? ま、謝って来なかったらそれはそれでムカつくケド」

「は、はい。 すぐに片づけますっ……」

 

「こっちは本当は図書委員会の仕事なのに、アンタが自分からやりたいって言うからわざわざやらせてあげてんのに、かえって邪魔になるってなんなの?」

「はい……本当にごめんなさい」

 

 三人の女子生徒が、床に散らばった本を片付けているもう一人の女子生徒を囲んで、乱暴な言葉を吐き出している。 中には片付けている少女の足を小突いて邪魔したりするのもいる。 ──これは、まるで、

 

「ねぇ縁、あれってもしかして──」

「……あぁ」

 

 綾瀬が抑えた声で俺に言う。 そう、今俺たちから少し離れた先で繰り広げられている光景は、どこからどう見ても、一人の女子生徒を三人の女子生徒がいじめているモノであった。 そして、その俺が顔も名前も知らない三人にいじめられているのは、

 

「柏木……園子」

「え、知ってるの?」

「園芸部の部長、昨日会った」

「そ、そうなの──っあ、三人の方、図書室から出ていくみたい」

 

 綾瀬の言う通り、いじめをしていた三人は俺達に気付く事無く、最後まで柏木園子に辛辣な言葉を吐きながら図書室を出て行く。 あとには、沈んだ表情で片づけをする柏木だけが残った。

 三人が完全に居なくなった直後、綾瀬がすぐさま柏木の元に駆け寄った。

 

「あなた、大丈夫!?」

「っ! えっと、貴女は? ……あ」

「……どうも、昨日は世話になりました」

 

 突如駆け寄ってきた綾瀬に困惑し、次いで現れた俺に、見られたくない物を見られたような表情になる柏木。 数瞬固まって、ハッとしたように急いで本を拾って、元あった場所に戻してから、

 

「す、すみません。 へんなところを見せてしまって」

「ううん、そんなことより、柏木さん、あなたさっきの人達に」

「ち、違います! あの人達はなんにも悪くないんです、悪いのは私だけで」

「嘘。 どう見てもあなたに酷い事してるようにしか──」

「わ、私、もう行きます、ごめんなさい」

「あ、柏木さん!?」

 

 綾瀬の言葉が言い終わる前に、柏木が急いで図書室を出て行く。 一瞬俺と目が合い、僅かに頭を下げる。

 

「ど、どういう事……?」

 

 話を無視されて茫然としながら俺を見る綾瀬。 俺はと言うと、柏木園子が出て行った出入り口を眺めながら、数瞬前の彼女の顔を思い浮かべていた。

 一瞬、ほんの一瞬だけしか見えなかったが、自分と目があった時の彼女の目には、涙が溜まっていた。

 

「あ……そうだった」

「どうしたの、縁?」

 

 そうだ、CDでどうやって彼女が主人公に好意を持ったのか、それを思い出した。

 きっかけは、夜の公園で出会った事。 その後、新しいクラスで一緒になった事。 そして──、

 

 いじめられていた彼女を、助けた事だった。

 

 

 

 

 ──to be continued






どうも、食卓塩です。
最近新しい環境や新作ゲームに時間を取ってまた更新が遅くなりました。

それはそうと(おい)、柏木さんがアニメのスクイズにいたら、西園寺さんのお腹をナタでは無くスコップで発掘するんでしょうか? そんな事したら赤ちゃんも一緒にぐちゅっとなって見つからないと思いますね。 いや、柏木さんならそんなことしないで素直に学校の花壇の肥料でしょうかね。

ちなみにクローバーの花言葉は復讐以外にも種類ごとに色々あります。

『約束』
『私を思って』
『私の物になって』

あらら? クローバーってヤンデレ属性じゃないでしょうか?

皆さんも気が向いたら花言葉を調べてみるといいかもしれません、自分の誕生花とその花言葉を調べてどんな花言葉が出て来るか……ちょっと面白そうですね。

それではまた次回に、さよならさよなら


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五病・夢

渚ルート⇒ヨスガノソラ、あかい色に染まる坂
綾瀬ルート⇒俺の妹と幼なじみが修羅場過ぎる
園子ルート⇒Schop Days (new!)



 それでは、ヤンデレ以下略始まり始まり
 今回一番長いです。


 晴れやかに澄み渡った空、例年より長く続いた梅雨もようやっと収まり、季節は加速度的に夏へと向かって行く。 辺りに人気は無く、今この時においてだけは二人だけの物になった道を俺と彼女(……)とで歩く。 小さく吹く風が彼女の髪をたなびかせて、空気の流れに沿って流れていく。 時折顔の前に髪が来て視界が遮られると、『長すぎるのも困りますね』と、彼女──柏木園子が、そっと俺に向かって微笑んだ。

 その笑顔を見て、俺の心拍が一段早くなる。 これから自分が彼女に行おうとしている事を考えると、なおさら一層緊張してきてしまうのだ。 そんな俺の心境など知らずに園子はにこにこと、かつて抱いていた暗い影を一切感じさせない表情でいる。

 やがて、俺たちはとある場所に行きついた。 園子の家から少し離れたところにある、小さな公園。 俺が彼女に告白した時の場所だ。 着くと彼女はそれまであえて俺に言わなかった質問をしてきた。

 

「縁くん、今日はどうしてここに?」

「うん、まぁその、だな……」

 

 いざここへ来た目的を話そうとすると、先ほど以上に心臓が高鳴り、喉や口の中がいやに乾いてくる、ともすれば逃げ出しかねない自分の体に気合を入れて、口を動かそうとする……よし、言うぞ、言うぞ! 

 

「これ、受け取ってくれ」

 

 やや声が上擦り気味になりながら、俺はポケットに隠していた、リボンの飾りがある箱を園子に渡した。

 

「え……その、これは?」

「開けてみてくれ」

 

 突然渡されたものに困惑しながらも、俺から受け取った箱を丁寧に開ける園子。 そして箱に入ってある物が何か分かると、途端に顔を綻ばせた。

 

「わぁ……! これ、ネックレス、ですか?」

「まぁ、な。 どういったのが良いのか良く分からなかったから、四葉のクローバーの飾りを選んだんだ、完全に俺の趣味だけどさ」

 

 俺がそう言うと、園子は少しの間ネックレスをじっと見てから答えた。

 

「こんな綺麗なネックレス、人から貰うのなんて初めて。 縁くん、私嬉しいです」

「本当か! 良かった……」

 

 気に入って貰えたと分かり、思わず深い安堵の息をはいてしまう。 先ほどまで溜まっていた緊張が、肺の中の二酸化炭素や酸素などと一緒に外へ出て行った感覚がする。

 

「でも、どうして急に? 今日は別に祝日では無い筈ですが」

「いいや、ちゃんとした祝日だろ?」

「え? そ、そうでしたっけ? えぇっと、憲法記念日はとっくに終わってますし、だったら──」

 

 何の祝日だったかを思い出そうとする園子。 そのあたふたとした様子を見ていると、幸せな気分になると共に少しだけ複雑な気分になってしまう、こういったのを気にするのって、男子よりむしろ女子のような気がしたんだが、俺一人の偏見だったんだろうか? 

 あれこれ考えて悩んでいる姿を見るのは楽しいが、彼女に対してこれ以上サディスティックなままでいるのも問題があるだろう、仕方ないのでヒントを出してあげる事にした。

 

「じゃあヒント、この場所」

「この場所ですか? ──あっ」

 

 俺がヒントを出すと、それまで答えを考えあぐねていた園子の顔がパッと輝いた。 どうやらすぐ答えに辿り着けたらしい、良かった、こんな最高に分かりやすいヒントを出してもまだ分からないでいられていたら、さすがに俺もへこんでしまうところだ。

 

「縁くん、もしかして……」

「その通り、今日は、俺がここで園子に告白して付き合い始めて、ちょうど一年だ。 だからそのネックレスは、それを祝してのプレゼントだったんだけど……すぐに分かると思ってたんだがなぁ」

「あはは、ごめんなさい。 でも、まさか縁くんが覚えていてくれてるなんて思ってなかったから、失念してました」

「それ、地味に酷くないか?」

「そうですね、ふふっ」

 

 二人で笑いあう、こんな風に小さいけれど大切なモノを、二人で一緒に共有していける事が、今の俺には──そしてきっと、彼女にとっても、最高の幸せだった。

 ひとしきり笑いあった後。俺は園子に手を差し伸べて、一番言いたかったことを言った。

 

「園子、俺なんかの彼女になってくれて有難う。 これからも、出来れば、ず、ずっと一緒に、俺と一緒にいてくれるか」

 

 自分でもどうかと思うくらいの歯の浮くような言葉、羞恥心や断られたらどうしようという不安や、言い切った事の達成感やらが心の中に納まらず全身をない交ぜにして暴れまわっていく。

 園子は、俺の言葉を聞いて、次いで俺の顔と差し出された手のひらとを交互に見てから、ゆっくりと瞳を涙で揺らしながら応える。

 

「はい……はい! 私も、縁くんの恋人になれて、本当に嬉しいです! 一人だった私を、孤独から出してくれた、暖かさを教えてくれた、幸せを、くれた……。 縁くんは、私の、大切な──世界で一番大切な人です」

 

 園子の偽りのない言葉に、胸が熱くなる。 彼女と今の関係になるまでの過程は決して楽な物では無かったけれども、それら全てがこの幸せのためにあったのだと理解する。 きっとこの先に待ち構えてあるどんな厳しい試練や苦痛も、この恋人と一緒なら、必ず乗り越えて行けると、強く確信した。

 そうして俺が万感の思いに耽っていたら、園子が予想外な行動を起こした。 差し出されていた俺の手をそっと握り、次の瞬間にその手を俺ごと引っ張って、なんと抱き着いてきたのだ、普段からの園子では想像だにしない積極的な行動に、それまで考えていた事が全て吹き飛んでいく。

 

「そ……園子?」

 

 俺がそっと胸元の園子に声をかけると、園子は赤かった顔をさらに赤くして、さらに俺の腰に腕をまわした後、上目づかいになりながら、震えながら、しかしその中に込められた思いの強さがしっかりと伝わる声で、そっと言った。

 

「大好きです……縁くん。 貴方を、愛しています」

「園子……」

 

 もう言葉は必要では無かった。 言葉以上のモノで、園子は俺の想いに答えてくれたのだから、あとはただ、園子と同じように俺も言葉ではなく行動で園子に自分の気持ちを伝えるだけでいい。 園子と同じように、園子の腰に腕をまわして、しっかりと力強く抱きしめ返した。

 どのくらい経ったのだろうか、一秒が永遠に続いているような感覚、手垢のついた使い古された表現ではあるが、まさにそれとしか言い表せないほどの時間の後、ふと、園子が俺に言った。

 

「縁くん……実は私も、縁くんに見せたいモノがあるんです」

「え? そうなのか?」

「後ろを、見てください」

「後ろ?」

 

 後ろにあるのは、公園の出入り口だけで、入る時には何にも無かった。 それにさっきからずっと園子は俺の正面にいたから、俺の後ろで何か用意する事なんて出来るはずがないのだが。 言葉の真意は分からないが、取りあえず言われた通り後ろを見てみる事にした、抱きしめ合ったままでは振り返る事が出来ないので、名残惜しいながらも俺が腕を離すと、園子も倣って俺から腕を離す、そうして、振り返って背後を視界に収める。 そこには──そこ、には……、

 

「──は?」

 

 俺は一瞬、目に映るソレが何なのか、理解が出来なかった。 いや、無意識に、瞬間的に、ソレが()なのか理解する機能を、体と心の両方で遮断させたのだ。 そのまま目を逸らして、何か他の物に視界を移せば忘れられたのだろう、今さっき見た者をすぐに忘れ、見なかった事にして永遠に忘却出来たのだろう、しかしもう無理だ、この目は、この体は、完全に目の前にあるソレに固定されてしまっていた。 さながら、ピンセットで飾られた虫の標本のように、そこから指一つ動かす事さえ不可能になっていた。

 よく見慣れた制服、大きくて可愛らしい色彩のヘアリボン、そして、錆び付いた鉄の臭いと言いようも無いほどの異臭の中で、ほんの僅かに香る、懐かしく、良く知った匂い。

 ──そう、俺の目の前にあるのは、腹部を何かで大きく抉られ中の物(臓器)が無残にも撒き散らされて、もはや完全に生気の失った、土気色した河本綾瀬だった──、

 

「──ッ! 綾瀬ぇ!!」

「待って下さい、待って」

 

 突如目の前に現れた幼馴染の惨たらしい姿、目の前が真っ白になるよりも早く、俺の身体が動き出していた。 しかし俺の足が地を離れるよりも僅かに早く園子が俺の右腕を掴んで動きを止める。  焦る気持ちを必死に抑えながら、そもそもこれを見てくれと言い出したのは誰であったかを思い出すが、それが示唆する可能性を否定し、何をどうするべきか、ともすれば簡単に決壊してしまいそうな思考、それを止めたのは、他ならぬ園子の口から出た、信じられない言葉だった。

 

「どうして、彼女のところに行こうとするんですか」

「どうしてって、だって綾瀬が、綾瀬が……!!」

「幼馴染だからですか? 幼馴染は恋人より優先しなくちゃいけない人なんですか?」

「そういう話じゃないだろ、このままじゃ綾瀬が──」

「もう死んでます、今さらどうしたって遅いです」

「遅いって……急にどうしたんだ、何言ってんだよ園子!」

「どうにかなっているのは縁くんの方です。 そんなに取り乱されたら、せっかく頑張って縁くんに見て貰ったのに、勿体ないです」

「はぁ? もったいないって、何の事だよ、それじゃまるで……」

 

 吐き気が沸いてくる、今も鼻孔を刺す異臭にでは無く、それを前にしても何一つ動揺せず、平静を貫いている園子に。 そんな自分に自己嫌悪する心の余裕さえ、今の自分には残されていない。 いつの間にか両足は地面と一体化したかのように全く動かず、綾瀬の元に駆け寄る事も腕を振り払う事も出来ない、園子の言葉を聞きながらもはや疑いようのない一つの事実を、必死に否定し続ける事しか今の俺に出来る事は残されていなかった。 はたと、今自分を支配しているのが『恐怖』である事を自覚する、他の誰でもない、数十秒前まで幸福の対象だった人間に、俺は純然な恐怖を抱いているのだ。

 

「河本さん、私と縁くんが付き合っている事知っていていつも縁くんの傍にいました。 私が貴方と河本さんが話している所を寂しく思っている事を知ってて、わざと一緒にいたんです」

 

 それは俺も察していた。 ただ、幼馴染で気心が知れているので邪険に扱うなんて事は出来なかったし、その分二人だけの時間を作って、寂しい思いをさせたりしないようにやって来たつもりだった。 それが全く意味を成さなかったという事なのだろうか、園子の独白は続く。

 

「だから、そんな意地悪しないで、私と縁くんとの関係を認めてくださいって、家に来て貰って私言ったんです。 なのに、あんたなんて認めないって言ったから……泥棒猫とまで言ったんですよ? センスが古いどころじゃないです。 ──だから、認められなくても、問題ないようにしました」

 

 園子の口から発せられたその言葉は、死刑判決のように俺の心の中に残っていた最後の希望を砕いた。 もはや否定しようがない、他の誰でもない園子自身の口から出たのだ、つまり今俺たちの前に横たわっている綾瀬だった肉の塊を生み出したのは……、

 

「だって仕方ないじゃないですか、一応、その後も話し合いで解決しようとはしたんですよ? 縁くんの大切な幼馴染なんですから。 でも河本さん、金槌なんて出してきたんです、それでもう駄目なんだって分かったんです、そしたら許せなくなって、彼女には友達も居場所も沢山あるのに──私には縁くんしかいないのに、そのたった一つだけの掛け替えのない物を、河本さんは私から奪おうとしたんですから」

 

 無理だ、園子の言葉を最後まで聞いてあげないといけないと理解しているはずなのに、もはや園子の想いも綾瀬の死体も放って、身体はコンマ一秒でも早くこの場から逃げ出したいと訴えて止まない。

 

「これが社会に受け入れられない事だとは分かっています、でも──」

 

「縁くんは、私を受け入れてくれますよね」

 

 俺の腕から離れて、両手が俺の両頬へとのびる、見惚れるような慈愛に満ちた表情の園子の手は、いつの間にか錆び臭く真っ赤に血塗られていた。

 今の園子には、野々原縁しか見えていない、なんて事だ、彼女の為にと思ってしてきた事が、逆に彼女の世界を縮めてしまったのだ、社会的立場も倫理観も今の彼女には意味を為さない、彼女はただ、俺に受け入れてもらい、肯定してもらい、愛してもらえれば良い、()()()()しかない。 それは純粋な原始の愛であり、同時に全てを壊す魔性の愛だ、そう、まさに病的な恋──ヤンデレそのもの。

 園子の指が頬に届こうとした時、それまで俺の足の自由を奪っていた地面の重圧が、まるで氷が溶けたかのように無くなった。

 

「──っく、うわぁ!!」

 

 それまで身体に溜まっていた力が反射的に園子から離れようと動き出すが、急に足の自由を取り戻したからか、一度地から離れた足がうまく地面を踏み込めず、無様に背中から転んでしまった。 背中の痛みを我慢しながら、なお地を這いずりながらも園子から距離を取ろうとする身体、もはや主観がどこにあるのか、自分の身体を動かしているのは本当に自分の意思なのか、何もかもが分からなくなってきた。

 その中でただひとつハッキリしているのは、頬を撫でる筈だった手が宙をかき、否定された事を理解した、悲しげな園子の表情だけだった。

 

「そう──ですか。 残念、です。 でも良いです、たとえ貴方が今の私を受け入れてくれなくても、私は」

 

 そう言いながら近づいてくる園子、その手には、綾瀬を掘った時の血が今もポタポタと滴る、園芸用のスコップが握られていた。 瞬く間に俺と園子の距離は詰められ、地に倒れたままの俺の上に、園子が立ち尽くす。

 

「……ぁ、ああ……」

 

 命乞いをしようとも、喉が尋常ではない程にまで乾ききっており、出るのはちっぽけな枯れ木のような声。 スコップを振り上げる様を目にし、自分に迫る死に対する確信が、これ以上足掻く事を諦めさせる。

 

「どんなカタチでも、私を想い続けてくれるなら、私は十分幸せです、だから──私にも、貴方を永遠に愛させてください」

 

 その言葉を最後に、勢いよく振り落されるスコップ、その様を見ながら、俺はただこれから自分を襲う死の激痛に恐怖し、出ない声で絶叫するばかりだった。

 

 ……

 

「お兄ちゃん、お兄ちゃん、大丈夫!?」

「──ッッハ!!」

 

 肩を大きく揺すられ、聞き馴染んだ声が耳朶に響き、意識がハッキリする。 背中を包むのは砂と血にまみれた硬い地面ではなく柔らかいベッドの感触、視界に映るのは柏木園子と真っ赤なスコップではなく見慣れた自分の部屋の天井と、心配そうに自分を見つめる妹の渚の顔だった。

 

「ぁ──ああ、ゆめ……今の、夢か、よ……畜生、マジでビビったぞ糞……」

「大丈夫? すごい汗だよ、はいハンカチ」

 

 もう制服に着替えていた渚がポケットから花柄のハンカチを取り出して俺に渡してくれた、その心遣いに素直に感謝しながら、そのハンカチを受け取る。 ベッドから半身を起して、額の汗を拭う、背中にもビッシリと汗が出ており、心臓は気が狂ったかのように鼓動を打っている、肺もそれに倣って激しい呼吸を繰り返し、まるで持久走を始まりから終わりまでずっと全速力で走ったような、ありえない規模の疲労感を覚える。

 それだけじゃない、目を開いても閉じていても、脳裏に映るのは先程までの夢の光景。 綾瀬の血の匂い、柏木園子の指の温度、硬い地面の感触、そして──スコップが俺の腹部を貫いた瞬間の身を引き裂かれる痛み、それら全てが一緒くたに、鮮明に思い出される。 ──あぁ、駄目だいけない、思い出すな思い出すな思い出すな、アレは全部夢だ、夢だ、夢なんだ、だからさっさと意識を現実に戻せ、野々原縁! 妹の前で朝っぱらから吐き気を催してんじゃねえよ馬鹿野郎が!! 

 

「お兄ちゃん、顔色すごく悪いよ、今日は学校休む?」

 

 渚が俺の手を取る、夢の中で感じた指の温度より低い渚の手の感触が、恐慌状態に陥りかけた俺の精神を清涼剤のようにゆっくりと正常にしていく。 呼吸も心拍もまだマトモとは言えないが、なんとか落ち着きを取り戻す事は出来た。

 

「いや……大丈夫だ、ありがとう、渚のおかげで少し楽になった」

「そんな、とても平気だなんて思えないよ」

「本当に大丈夫だから、怖い夢みて、いい歳して震えてるだけだから」

「でも──」

「いいから、な? 着替えて下に降りるから、渚は朝ごはんの用意しといてくれ。 あ、ハンカチは今日借りるな、俺の汗で汚れちゃったから」

「そんな、別にハンカチは良いけど……分かった、ゆっくりでいいから、ちゃんと落ち着いてから降りてきてね?」

 

 終始心配しながら、渚は一階に下りて行った。 その姿が部屋からなくなり、階段を降り切った音を聞いてから、俺は深いため息をついた。

 

「はあ……、はぁあぁ……恐かった」

 

 多少落ち着いたとはいえ、夢の内容は今もなお鮮明に覚えている、いや、あれは本当に夢だったのか? あんなに鮮明な、まるで記憶のようなのが夢で済むのか? 

 思い出すのは、俺が前世の記憶を思い出す切っ掛けになったあの夢──頸城縁の死の光景だ、あの時も冷たい雨や土臭い地面の感覚や自身の身体中の痛みは鮮明に感じられ、そしてそれは夢ではなかった、厳密に言えば夢だが、あの痛みや光景は、過去に現実で起きた事だった。

 ならば、あの夢もまた、それと同じような物なのではないのだろうか? 過去ではなく未来の光景を映した──柏木園子と自分が恋人になった仮の未来の事実を、自分は体験したのではないのか……いや、それは考え過ぎか。 幾らなんでも展開が唐突過ぎた、突如出て来る綾瀬の死体──吐き気が戻ってきたのを我慢する──、血塗れのスコップ、どれも夢じゃなければ瞬間的に出て来る事はない、だからあれは、ただ自分の脳が作り出した、ただの(……)夢に違いない。 そうでなくちゃ困る。

 

「それにしたって、なんて夢を見てんだよ俺は……」

 

 あろう事か、あの柏木園子と自分が恋人同士になっている夢だなんて、見た後に言うのも変な話かもしれないが信じられない。 何かの間違いであって欲しい、このままだと自己嫌悪になりそうだ、いやもうなっている。

 いずれにせよ、気持ちを切り替えないと。 鬱屈とした顔でいるといつまでも渚を心配させ続けてしまう、無理矢理でも、せめて表情だけでも平静を保てるようにしよう。

 

「……着替えるか」

 

 重い足に力を込めてベッドから起き上がり、ハンガーに掛けてある制服に手を伸ばした。

 

 ……

 

「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん? なんだ?」

 

 朝食を終えて、いつものように二人で行き慣れた通学路を歩く。 なんとか食事中はいつもの表情を作る事が出来たと思う、渚も気を遣ってくれたのか追及してくる事は無かった。 その渚が、夢からある程度時間が経ったこのタイミングで俺に聞いてくる事と言えば、もう決まっているだろう。

 

「本当はまだ聞かない方が良いかもしれないけど、聞いちゃうね? 夢って、どんな夢見たの?」

「うん……やっぱそれ聞いてくるか」

 

 やっぱり、朝は聞いてこなくても、流石にずっと聞かないままでいるのは無理だったのだろう、俺だって朝に渚が苦しそうな顔で怖い夢を見ていたと言われたら何も聞かないでいるのは無理だろうし、仕方ないとは思うがさて、どう言ったらいい物か……って、食事中何してたんだ俺は。

 こうして渚からの言及が来る事はあらかじめ分かっていた筈なのに、なんでそれらしい返答の一つも用意しなかったんだ、いざ言われてから答えを考えるなんてマヌケにも程がある、質問に即答できない事を『答えられないやましい事』だと思い違えて、それが病む事に繋がる可能性がある事くらい、とっくに分かりきっていた筈だろうが。 ……今さらそれを悔やんでも意味ないか、答えを用意しない時に不意打ちで質問くらった事自体は今までにもあった、それと同じ要領で答えればいい筈だ。

 とは言っても、渚の知らない女子と恋人同士になっていて、プレゼント渡して抱き合った後、何故か殺されていた綾瀬と同じように殺されてしまっただなんて悪夢、そのまま素直に言っていいとは思えないし、だからと言って部分だけ話すといってもどこを言えばいいのだろう、どこを話しても渚にろくな印象を与えない、こうなったら──

 

「今日の昼食がまずくなるだけだ、知らない方がいい」

「……お兄ちゃん、そんなに私に言えない夢をみたんだ」

 

 これでもかという程の逆効果だった。 と言うよりも、今の俺のセリフはなんだ? 

『昼食がまずくなる、知らない方が良い』だなんて何か隠しているのバレッバレで臭いセリフを、よく言えたものだ数秒前の俺は、気でもふれたのか? こうなってしまったら何も言わないままで終わらせるのは無理だ、多少危険はあっても、きちんと話す事にしよう。

 

「付き合って一年になる彼女にプレゼントした後、綾瀬の死体を見せられて、そのまま俺も殺された、そんな夢を見たんだよ」

「……」

 

 沈黙する渚。 『彼女』とか『綾瀬』だとか、スルー出来ない単語が混じっていたのにも関わらず、思っていたよりはるかに渚の反応が薄い。俺が何か言った後に黙り込む事は今までにも何度かあった、だが気のせいだろうか、今の渚の目には、先ほどまでの心配の色よりも諦観の色が込められているように見える。

 

「……どうした、嘘は言ってないぞ?」

「あ、ううん。 疑っているわけじゃないの、ただ──」

 

 そこで一度言葉を区切り、言い出しにくそうに俺の顔を見てから言った。

 

「それだけなのかなって」

「それだけって、何がだ?」

「お兄ちゃん、変わったから」

「……え?」

 

 何気なく発せられたその言葉に、俺は思わず言葉を失ってしまった。 渚の言葉の真意が掴めないからだ、渚の言葉は続く。

 

「態度とか言葉とか、()と同じに見えていても、やっぱり違うから、お兄ちゃんが私に言う事は信じるけど、本当に言ってる事だけが全部なのかなって、ちょっと思っちゃった、ごめんね」

「…………いや、謝らなくていいよ」

 

『以前と変わった』、その言葉はこれまでにも渚や綾瀬、悠にも言われた事はあった。 でもここまで正面から、これまでの──前世の記憶を思い出す前までの野々原縁との乖離を告げられたのは初めてだった。

 以前から言っていた通り、人間の人格は環境や人間関係の他にも、自身の持つ記憶や経験が大きく影響を与えるものであるから、前世の頸城縁という全く違う経験と記憶を思い出した俺が、思い出す前と後で差異があるのはある種当然だと言えた。 しかし、だからと言って思い出す前までの俺の全てがなくなってしまうわけが無く、俺もまたたとえ頸城縁の人格が混ざっても、野々原縁としての根本的なところは変わらないでいるつもりだったし、綾瀬や悠にしたって『なんか変わった?』程度の意味でしか俺の変化についての言及は無かった。

 しかし、今の渚の言葉はそれら二人と違い、明確に思い出す前までの野々原縁と思い出した後の野々原縁には違いがあると言った、俺が保たれたままだと信じていた根本的なところまで変わったと、渚は言葉の先にそう告げていたのだ。

 唯一、俺が前世の記憶を思い出した事を知っている人間だからそう思ったのだろうか、それとも妹として誰よりも近い位置で日々、野々原縁を見てきたから? 

 そしてそれは単なる今の俺に対する、率直な感想なのか、それとも何かしらの意味が込められた不平や不満なのか、渚の言葉の真意が俺には分からなかった。

 それ以降、渚は話を逸らすかのように別の話題を持ち出し、校舎につくまでこの話を続けることをさせなかった。 俺もまた、渚の真意について言及する気になれず、校舎についたあとは、お互い心に澱を残したような心持ちでそれぞれの教室に分かれたのだった。

 

 ……

 

 教室に入り、自分の席に着く。 渚の言葉は未だに俺の脳裏で延々と壊れた再生機のようにループし続けている。 そこに、クラスの女友達との会話を終えた綾瀬が、俺の席にやって来た。 夢の中に現れた凄惨な綾瀬の死体を今日何度目かで思い出し、言いようも無いほどの気持ち悪さが再度こみあがってきたがなんとか表情に出ないように抑える。

 

「おはよーう、縁」

「ぁ、綾瀬……おはよう、体の調子はどうだ? どこか痛いところとか、無いか?」

「え? どうしたの急に? 怪我はないし、至って健康だけど……」

「そっか……うん、よかった」

「?? 変な縁。 昨日だって一緒に図書室まで重い荷物運んだでしょ? 私が体調悪かったらあんな事出来ないじゃない」

 

 朗らかに、自分の健常さを自慢するかのように小さく胸を張る綾瀬、朝までの暗い雰囲気とは全く縁の無い、陽だまりのような声と笑顔が、渚の言葉で影が差しかかっていた俺の心の重さを軽くしてくれた。

 ──だからであろうか、次の瞬間、俺はあとの自分では信じられない程あっさりと、まるでその日の天候を口にするかのように軽く、口を動かしていた。

 

「そう、だよな。 そうだった、お前はそんな()()()じゃ無──ッッ!!」

「あははは、朝から変なの。 でも理由はよく分からないけど心配してくれたんだ、ありがとう」

「…………」

「あれ、今度はどうしたの縁、なんでまた黙っちゃうの? 私、知らない間に変なこと言っちゃった!?」

 

 小さく慌てふためく綾瀬、俺は直前の自分の言った言葉に愕然としながら、何とか綾瀬の誤解を訂正しようと、先程までとは打って変わって鈍重になった口に力を込めながら言った。

 

「いや……()()は何も言ってない、だから気にする必要無いよ」

「そうなの? 本当に? なにか悩み事があるなら、私や綾小路君に言った方が良いよ?」

「いや、原因は分かってるんだ、あとは自分の中で整理をつけるだけだから」

「……ひょっとして、今朝渚ちゃんと何かあったの?」

「…………いや、自分の事だよ。 悪いけどさ、一人にさせてくれ」

「……うん、分かった」

 

 納得しないながらも、綾瀬はそれ以上無理に言及しないで自分の席に戻ってくれた。 俺が何か隠している事は丸分かりだったろうし、聞きたい事だってあっただろうが、それを抑えてくれた事に感謝する一方で、俺は自分への嫌悪から叫びだしたくなるのを堪える。

 俺はさっき、綾瀬に『お前はそんなキャラクターじゃない』と言おうとしていた、綾瀬の事を人間では無く、一つのキャラクターとして見て言葉を発していた、そんな事今までの俺が──野々原縁が──した事が無く、そして絶対にしてはならない事だと誓っていた事の筈だったのに、自分は一瞬とは言え綾瀬をそんな目で見てしまったんだ。

 いったいどうなってしまったんだ俺は、渚に言われるまでも無い、今日の俺は全くいつもの野々原縁では無い、周りの人達への見方も、自分の心の在り方も、何もかもが自分の物だと分かっていながら、同時に別人のような──!! 

 

「……あ」

 

 気付いた、そうだ、初めて前世の記憶を思い出した時と似た事が起きているんだ。 あの時の俺は初め元々あった野々原縁の意識と記憶に、例えるなら森と湖だけが描かれていた風景画に新しく人間を描き足すように、頸城縁の意識と記憶が混じったせいで渚の事や自分の状況が分からなくなっていた。 そのあと、ゆっくりと自分に起きた出来事を認識する事で、野々原縁という人格に、頸城縁という『同一人物でありながら別人』の人格が溶けていった、記憶や価値観を共有して多少の変化は生じても、この体を支配しているのは野々原縁のままであった。

 しかし今の俺は、安定していた人格の『バランス』が狂っているんだろう。 自分を支配している意識の中で、野々原縁よりも頸城縁の方が強く出ているという事だ。

 もちろんそれだけで綾瀬を人間視しなかった事を正当化するつもりは無いけど、少なくとも渚に上手く言葉を返せなかった事や、人が変わったと言われた事は納得出来るようになった、半分はその通りなのだから。

 

「……でも、なんでこんな事になった?」

 

 昨日までこんな事態になる予兆さえ無かったというのに……。

 とにかく、一度自分の身に起きた異常が分かれば、あとはなるべく違和感がでないように振る舞えば……それでも綾瀬や悠は違和感を覚えるだろうけど、日常生活を送る上では問題は無い、この件については渚ぐらいにしか相談できないのだし、学校にいる間はこうなった原因を自分だけで突き止めなくちゃいけない、ったく、ただでさえ夢の衝撃が晴れないまんまなのに、更に面倒な事態が起きやがって、クソ面倒クセぇ。

 

 盛大な溜息を吐くのと同時に教師がチャイムと共に教室に入ってきて、今日も学校生活が本格的に始まった。

 

 ……

 

 三時限目の数学が終わり、トイレに行った後。 教室まで続く廊下の短い距離を歩いている途中、予期せもしない遭遇をしてしまった。

 

「あ……野々原、さん」

「か、柏木……さん、どう、も」

 

 そう、よりにもよって今日朝から俺の精神をガリガリ削る原因となった夢に出てきた柏木園子その人だ。

 こんな事失礼なのは承知の上だが、本人を目の前にするとより鮮明に、夢の内容が思い出されてしまう。

 

「──っう!」

 

 本日何度目かの嘔吐感。 当然こんな廊下の真ん中で嘔吐するわけにもいかず、柏木園子から視線を移して数秒堪えた後に、口元に手を置いて、食道をせり上がってこようとする感覚を喉元までで抑える。 吐き出すような無様は晒さないで済んだが、柏木園子にはハッキリと見られてしまっている。

 

「あ、あの……どうかしましたか? お顔の色が優れないです、大丈夫ですか?」

 

 状況的に、自分の何かが原因で俺の体調が悪くなったのでは無いかと心配する柏木園子。 確かに半分はその通りだと言えるが、どこまで行っても夢は夢であり、本物の柏木園子は俺に何もしていないのだから、これ以上気分の悪いのを見せてはいけない。 夢の事を頭から追い出して、柏木園子に『何でも無い』と伝えようとした──その時。

 柏木園子が、素手で両腕にたくさんの欠片──割れた花瓶を抱えている事に気付いた。

 

「あんた……それ、どうしたんだ」

「あ……これですか?」

 

 柏木園子は、見られてはいけない物を見られてしまったかのような痛々しい表情になったあと、途切れ途切れに言った。

 

「これは、その……先ほど、私がぼうっとしてたので……間違って、落としてしまったんです。 その、処理を」

「落として? ……そんな叩き割った時みたいに割れてるのが?」

「は……はい、勢いよく落としてしまったん、です」

「勢い良くって……」

 

 嘘だと、すぐに分かった。 表情や声に動揺がありありと映し出されていたからだ。 小学生でも嘘だと分かるほどだ。 なによりも、割れた花瓶を素手で処理しようだなんて危ない事、普通だったらする筈が無い。 だったらなぜ、今こうして柏木はそんな事をしているのか。

 思い浮かぶのは、昨日見た、図書室の場面。 三人の女子生徒の前で床に落ちた本を拾う柏木園子の姿。 あの後、綾瀬は何も言わ無かったが、あれは間違いなくいじめの光景だった。 そして、俺が知っているCDの柏木園子というキャラクターもまた、いじめを受けていた。

 であるならば、柏木が今抱えているその破片も、きっとあの時図書室にいた女子たちがわざと割って、それを柏木のせいに仕立て上げ、片づけを強要したのだろう、驚くほど自然に、そして鮮明に、その光景が頭に浮かんだ。

 

 ──いや、驚く? 今更何を言っているのだろうか自分は。 今の自分(野々原縁)昔の自分(頸城縁)も、それは既に十分見て、経験してきた事の筈じゃないか。

 そうだ、今頭の中に浮かんだ光景は決してただの想像では無い、あれは野々原縁がまだ小学生の頃、そして頸城縁が──あの日、何もかも手遅れになって、学校の倉庫の前で一人死んでいく、その直前まで見てきた、慣れ親しんでいた光景のトレースだったのだから。

 

 ──潰れたゴキブリの死骸を見下すようなクラスメイトの視線、

 ──厄介事から極力避けようとする教師たちの態度、

 ──そして、日を追うごとに容赦なく、心身を傷つけてくる下卑た笑顔と耳障りな嘲笑、

 

 おそらく今柏木園子が学校生活の中で感じているであろうそれらはみな、俺も知っているだろう事だ。

 

「……それじゃあ、私、もうゴミ箱に行きますね。 次は移動教室ですから急がないと教室が施錠されてしまいますから」

「あ──待て、俺もてつ……」

「……はい? なんですか?」

「……いや、なんでも無い」

 

 言いかけた言葉を寸前で押し留める。 柏木はそのまま階段に向かい、一階にある割れたガラスや陶器などを捨てる為のゴミ箱へ行った。

 

「『俺も手伝う』……だって? 同じいじめられっ子で、共感でも湧いたのかよ頸城」

 

 去ろうとした柏木園子に咄嗟に言おうとした言葉、直前まで夢の光景を思い出して本人を前にして嘔吐感を催していた奴が、よくそんな偽善に満ちた事を言おうとしたものだ、ふざけるな。

 だいたい、彼女を助けて何をしたいというんだ? 下手に関わりを持とうとしたら夢で見た光景が本物になってしまう事だッてあり得るんだぞ? 俺だけじゃなく綾瀬まで殺されるような事になるかもしれないってのに、構わないとでも言うのか? たとえそうじゃなくても、『自分以外の女性と仲良くしている』というだけで、渚──最悪の場合綾瀬も──が行動を起こす可能性だってあるんだ、それを一番分かっていなくちゃならないのは、他ならぬ自分自身の筈だろう!? 

 

「……ああ、分かってるよ、そんな事。 そんな事わざわざ確認するまでも無い。 だから言いかけたけど言わなかったんだ」

 

 その通りだ、こんな念入りに言い聞かせなくても、とっくに分かり切っている事なんだ。

 ──あぁ、でも、一体どうしてだろうか。 正しいと分かっている筈なのに、妹の渚や幼馴染の綾瀬と違い、単なる同級生でしかない柏木園子とは、関わりを持とうとさえしなければ、少なくとも死亡フラグの一つは完全に消え去ると分かっているのに──、

 

「……なんで、こんなに胸糞悪い気分になるんだよ──っ!」

 

 

 ……

 

 四時限目終了のチャイムと共に、大勢の生徒が待ちわびる、お昼休みになった。 いつものように食堂へ向かう者、購買に向かう者、屋外のベンチや屋上で食べようとする者とクラスメイト達がバラバラに分かれていく。 その中で、いつものように悠が俺の席に来た。

 

「さて、今日も楽しい昼食としよう。 縁」

「ん……そうだな」

 

 朝から続く陰鬱な物とは全く関係を持たない親友の声を聴くだけで、幾分か気分も落ち着く。 こんな事を声出して言うと、またクラスの腐女子が騒ぎそうなので絶対に言わないが。

 

「なぁ、縁。 唐突だが一つ聞いても良いかい?」

「いいけど、なんだ?」

「君は、もしかして──」

『野々原ー、河本ー、呼ばれてる』

「──え?」

「ん? 俺が?」

 

 まるで図ったかのようなタイミングで、出入り口の近くにいた女子生徒が俺と綾瀬を呼んできた。 一体どうしたというのだろう、俺だけならまだ思いつく事はあるが、そこに綾瀬の名前が伴うと分からなくなる、何か俺と綾瀬共通の問題でもあっただろうか? 悠も珍しい呼び出しに小さいながらも驚いている、綾瀬の方を見たら、やはり悠と同じ表情だった。 俺と同じように綾瀬や悠にも思い当たる節が無いのだろう。

 

「縁と河本さんが……? なんだろう?」

「さぁな、取り敢えず行ってみるよ。 ごめんな、話の途中で」

「いや、構わないよ。 はやく行って上げた方が良い、どんな話かは分からないけど待たせちゃだめだからね」

「悪い、なるべく早く戻って来るよ」

 

 そう言って、もう廊下に出て俺が来るのを待っていた綾瀬の元に向かった。

 

「そう──、益体の無い、有り得るはずのない馬鹿話、だからね」

 

 呼び出してきた女子生徒が言うには、相手はこのフロアの一番端にある空き教室で待っているらしい、教師の名前を出さない所をみると、どうやら呼び出しの相手は俺達と同じ生徒のようだが、何故わざわざ俺達を空き教室なんかに呼ぶのだろうか? 仕方がないので綾瀬と一緒に空き教室に向かう事にした。

 

「何か心当たりは……無いよな?」

「うん。 貴方も?」

「無いね、でも空き教室に来いって言うくらいだ、あんまり周りの生徒に聞かれたくない話題かもな」

「聞かれたくない……あ、もしかしたら」

「ん? どうした綾瀬──って、着いたか」

 

 端にあるとは言っても、普通に歩いても一分もしない位置だ、綾瀬と一言二言会話している内に着いてしまった。

 空き教室の扉は締まっており、中に人のいる気配などを感じる事は出来ないが、きっと俺と綾瀬を呼び出した人物が中で待っているのだろう。 一応ノックしてみると、『入りなさいよ』という女子の声が聞こえた……ん? 今の声、最近聞いた気がしたのだが、気のせいだろうか? 

 

「取り敢えず、入ってみるか」

「そうね……嫌な予感しかしないけど」

 

 空き教室の扉を開いて、中に入る。 中で待っていたのは──! 

 

「お前……」

「縁、この人、昨日図書室で見た……」

「はい、どうも。 あたしの事、名前わかんなくても顔は分かるよね? なんせ昨日図書室であったんだからさ」

 

 空き教室の机の上に行儀悪く座っていたのは、昨日図書室で柏木をいじめていた女子の一人だった。 三時限目の休憩時間に見た柏木の姿が思い出されて、自然、身体に緊張が走る。

 その緊張が相手に伝わったのか、どこか余裕をに満ちた表情で女子生徒が話し始めた。

 

「そう身構えなくていいよ、あたしはただ忠告しといてあげるってだけだから」

「忠告……?」

 

 困惑した声で綾瀬が答える、女子生徒は『そう!』と答えてから俺を指さして言った。

 

「あんたら、昨日あたし達が園子にしてた事、見てたでしょ?」

「っ、気付いていたの?」

「まぁねぇ、っていうか、気付いたからまだ言い足りなかったけど出てったんだし」

「それで、わざわざ人のいない空き教室まで呼び出して何を言いたいんだ、さっさと言え」

 

 女子生徒の話し方が鼻についてウザったい、さっさとここから出ていきたい気分だ。 女子生徒の方はというと、たいして悪びれもせずに、『ハイハイ』と言って話を進める。

 

「あんたらにはどう見えたか知んないけど、あれは園子が悪いから。 勝手にあたし達があいつを責めてるとか勘違いしないでね」

「勘違いって、あれは誰が見たって──」

「余計な事言うと、アンタもタダで済まないよ、河本サン?」

「──っっ!!」

 

 教師にチクったらお前もいじめの対象にする──言外にそう言う女子生徒。 言葉の意味を察した綾瀬が、思わず息を詰めた。 次いで、俺へと視線を移す

 

「アンタもよ、野々原。 休み時間にアイツとグチャグチャ話してたけど」

「……俺もいじめの対象にしようってか?」

「いじめ? 変な事言わないでよね、そんな物騒な事。 あ、でもそういえばさ……」

「……? なんだよ」

 

 いやらしい笑みを浮かべてから、一度言葉を切る女子生徒。 少し間をおいてから、こちらの神経を逆なでさせる言葉を、言った。

 

「野々原って、中等部に妹いるんだよね?」

「ッ、テメェ! まさか渚に!」

「縁、抑えて!」

 

 咄嗟に飛び掛かりそうになった俺を、綾瀬が止めてくれた。 そんな俺たちの姿を、変わらず笑顔で見ながら、言葉を続ける女子生徒。

 

「そんな怖い顔しなくていいよ、別に何もしてないんだし」

「…………」

「だけどぉ、もしどっかの誰かさんが言うこと聞かないで余計な事をしたら、あたし達どうしちゃうんだろう?」

「……糞女が」

「あ、ひっど~い。 まぁいいケド、それじゃあ二人とも? あたしの言葉、しっかり胸に刻んでおいてね」

 

 最後まで自分のペースを保ったまま、言いたい事を全部言い終えた女子生徒は、俺達を置いて空き教室から出て行った。

 

「……ックソ!! 頭に来んなあの女!!」

 

 本当なら辺りの机の一つでも蹴り飛ばしたかったが、綾瀬の目の前でそれをするワケにはいかず、せいぜい普段は口に出して言わないような雑言を吐き出すくらいしか出来なかった。

 

「縁……あの人の言うとおりにしよう?」

「え?」

「柏木さんを苛めてる事は見逃せない事だけど、それで貴方や渚ちゃんまで、苛めの対象にされるかもしれないんだよ……?」

「綾瀬、でも──」

「貴方が関係ない苛めに関わって傷つくのは嫌。 このまま何も知らなかった事にしよう? きっと、そのうち先生や他の人が柏木さんを助けてくれるはずだから……ね?」

 

 俺の服の袖を掴んで懇願するように言う綾瀬。 その言葉に、いじめを見て見ぬふりをしようと言う自身への罪悪感と、それ以上に野々原縁に傷ついて欲しくないという気持ちがこもっているのが、ありありと分かった。

 口はまだ何かを言い返そうとしていたが、普段よりもずっと強く自分を見る綾瀬の目を見て、俺はそれ以上何も言う事が出来なかった。

 

「──そう、か。 そんな事が」

 

 空き教室を出たあと、綾瀬は食堂へ行き、俺は教室に戻った。 悠は変わらず空いてる俺の前の生徒の席に座っており、やや量の減った弁当箱に箸を伸ばしていた。

 本当は、誰にも言わない方が良かったのだろう。 しかし、自分はどうすべきかが分からず、悠に先ほどあった出来事と、柏木園子がいじめられているという事を、昨日見た図書室の話も交えて、クラスにまだ少し残っていたクラスメイトに聞こえない音量を意識しながら話した。

 

「話は分かったよ、どうたら噂は本当だったんだね」

「噂?」

「うん。 以前部活回りの為の前調べをしていた時に、今の園芸部が柏木さん一人だけなのは、彼女がいじめに遭っているからって噂があったんだ」

「そう……だったのか」

「その時は僕も信じて無かったし、縁に言ってもしょうがない事だと思ったから言わなかったんだ、ごめん」

「いや、それはいいけど。 ……それで、俺はどうするべきだと思う?」

 

 俺が前世の記憶を思い出して悩んでいた時も、詳細を話さなくても悠は有用な答えを出してくれた。 それなら、きっと今回もなにか良い答えを教えてくれるかもしれない。

 俺が心の中で悠に期待していると、逡巡したあとに、悠は静かに話し始めた。

 

「……仮に、だよ」

「ああ」

「仮に、縁がその女子生徒の言う言葉に逆らうとする」

「ああ」

「そのあと、君は何をしたいんだい?」

「……何、を?」

「そう、言う事に逆らう事は出来る、問題はそこじゃないんだ。 大切なのはその後にどうするのかって事。 先生に報告するのか、いじめの現場を止めるのか、それともそれ以外の何かをするのか、どの行動を選択するのかを最初から考えていないと、たとえ逆らうと決めたとしても、結局何も変わらないままなんだ」

「行動を、選択する……」

 

 悠の言葉が胸にしみる、確かに俺は目先の答えばかりに気を取られていて、そのあとの行動を全く頭に入れて無かった。

 悠の言葉は続く。

 

「そもそも、()()は彼女をどうしたいんだい? もし初めから彼女を気に掛けるつもりが無かったら、こんな事で悩んだりはしない。 でも、だからと言って今の()()が率先して彼女の力になりたいと思っているようにも見えない、違うかな?」

「それは……」

「もし、ヨスガが今の彼女に同情しているだけで、それだけで悩んでいるのなら、干渉するのは止めるべきだ。 それは単なる偽善だ、彼女の力になるどころか、侮辱にしかならない。 それとも、もしそれ以外の、人には言えない自分だけの理由があるのなら──」

 

「──本気で悩んで、考えて、そうして選んだ選択を進んで行けばいい。 僕が言えるのは、それだけだよ、ヨスガ」

 

 ……

 

 放課後になった。

 鞄の中に荷物を詰め込む、すると、綾瀬がトコトコと来て俺に言った。

 

「ねぇ、縁、今日はこれから予定ある?」

「予定? ……うん、ないかな」

「じゃ、じゃあ、今日は私も委員会が無いから、久しぶりに、一緒に帰ろ?」

「そういえばここ数日は帰りが別だったな。 うん、一緒に帰るか」

「──うん! じゃあ行こう!」

 

 嬉しそうに笑顔を浮かばせて、頭のリボンを揺らせながら俺の腕を取って歩き出す綾瀬。 いつもより積極的なのは、単純に嬉しいからかそれとも、昼休みの事を忘れさせるためだろうか。 俺の腕を取るのが恥ずかしいからか、僅かに顔を赤らめる綾瀬を、素直に可愛いと思った。

 

 教室を出て、廊下を歩く。 階段を降りると、視界の端に図書室が映る。

 ──足が、止まった。

 

「……縁? どうしたの?」

 

 胡乱気に綾瀬が俺の名前を呼ぶ。 そして、俺が何を見ているのかに気付いて、はっと息を呑むのが分かった。

 

 ──足が、図書室の入り口に向かって歩き出す。

 

 図書室の入り口の所で足が止まり、中の様子を、耳と目で窺う。

 図書室には人気が無かったが──、奥の方から、聞き知った声が耳朶を打った。

 

「ねぇ、縁、どうしたの? もしかして──」

 

 綾瀬が心配そうにしながら小声で囁く。 きっと声のする方には、昨日と同じように、三人の女子が柏木園子を囲っていじめをしているんだろう。

 悠の言葉が頭の中で再生される、そうして、今、俺が何をしたいのか、何をすべきなのかを考えた。

 

 同情や感傷で動けば、渚がいじめの対象になるばかりでなく、柏木本人の事も侮辱する事になる。

 もし、彼女をいじめから助けられたとしても、それは俺の死亡フラグを増やすだけかもしれない。

 今朝の夢やCDのような事になれば、死ぬのは俺だけじゃなく、綾瀬にも危険が生じる。

 このまま見過ごせば、心は痛んでも危険は無くなる、その内教師が柏木を助ける事だって考えられる。

 このまま、何も知らなかった事に、見なかった事にすれば──

 

『やめなさい! もしまだこの子にひどいことするなら、先生に言いつけてやるんだから!!』

 

 その時、まるで天啓のように、野々原縁の海馬の奥底に大切に眠ってあった、傍らに立つ幼馴染との出会いの始まりの記憶を思い出した。

 今よりずっと幼く、自分より背丈の大きい同級生に、家の近くの公園の桜の樹の陰で、いじめられていた野々原縁の元に、いきなり現れて、自分を助けてくれた少女の背中と、自身も怖さで僅かに震えながらも、男子二人をはねのける強い声。

 あの時、抗う事も助けを請う事も出来なかった野々原縁を、同じ小さな子供だった彼女──河本綾瀬は助けてくれた。

 

「────っあ、そっか……そうだったんだ」

「縁……?」

 

 ──歯車が噛み合うように、俺は自身をむしばむこの感情が、何故出て来るのかその理由に気付いた。

 同情では無い、そしてきっと、純粋に柏木園子を救済したいからというわけでもないだろう。

 きっと自分が柏木園子を気に掛ける一番の理由は──、

 

 ──最後に、もう一度だけ自身に選択の余地を与える。 今から自分が行おうとしている行動、選ぼうとしている選択に、迷いは無いかと。

 答えは、明らかだった。

 

「悪いな……野々原縁。今から俺、地雷踏むわ」

 

 そう笑いながら言って、俺は図書室の中へと、足を踏み出した。

 

 

 ──to be continued




不定期更新で完全敗北な食卓塩UC。

月一投稿もままならぬわが甲斐性の無さ。 人によっては一か月だけでエタるエタる言う人がいるのであまり投稿に間を開けたくないのですが、遅筆だから仕方ないね(正当化)

全く執筆意欲が湧かない物でしたから、秒速5センチメートルみたり、耳を澄ませばみたり、今やってる変猫みて昨今の萌業界の破壊力に恐れ戦いたり、とにかくいろいろしてなんとか前回の投稿から1か月と3日で投稿できました。

それと最近、友人の薦めで数年前の作品でef見てます、友人曰く心が温まるいいアニメだと教えられたので見始めたのですが、宮村みやこがアホ毛繋がりで西園寺世界にしか見えず、『あぁ、もう自分はなんかおわってるな』と悲しくなってきました、個人的には西園寺世界よりずっと可愛かったです。

いちおうこの作品も学園ものっぽいんでその手の作品を参考に見ますが、そのたびに鬱になる不思議、ラブコメの主人公の親友ポジでその作品がハーレム系か否かが分かると思います。

主人公とあまり違いの無い、比較的準主役的性格だとシリアス系
主人公よりも変態orスケベだと、作品はハーレム系か修羅場系、スクイズのあいつは許さない
問題児とかだと、ハーレム系か純愛系、大抵学校行事でなにかやらかす
男の娘みたいなタイプだと、シリアス系以外いけそうだけど、高確率で男だと思ってたらワケあり男装女子でしたってオチになる

工藤叶が女の子だと知った時の衝撃は半端なかったです、あれはヤバい、実にヤバい、初めてカードキャプターさくら見た時よりヤバかった。

とまあ、今回もテンションの任せるままに余計なあとがき書きました、はたしてこれ読んでる方いるのかしら?
では、かなうならばまた次回で。 さよならさよなら


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六病・これから

食卓塩史上、過去最長の話です。
時間に余裕がある時にのんびり読んでくださいな。

では、始まり始まり


 床に乱雑に落ちた幾つもの本を、柏木園子は指先の痛みで表情が歪むのを抑えながら、拾い集めていた。

 もし僅かでも痛そうな仕草や顔をすれば、彼女たちがすぐさま反応して、辛辣な言葉を掛けてくる事が分かっているからだ。 彼女たちが柏木園子に掛けてくる罵詈雑言や陰湿な行動が、日を追う毎に段々とエスカレートして行く事に彼女は気付いていたが、それをどうする事も出来なかった。 下手に口答えをすればかえって事態を悪化させてしまう、誰か全く違う第三者が間に立たない限り、今の柏木園子の状況が好転する事は絶対に無い。 しかし、その第三者に助けを請う事をも、柏木園子はしなかった。

 

 

 それは何故か? 

 ──答えは単純、彼女がそれを望まないからだ。

 ではどうして望まない? 

 ──答えは明快、今自身が受けている仕打ちは、たとえ苦痛であっても、自身に相応しい罰だと自分に言い聞かせているからだ。

 

 他でもない、本来人に助けを請うのが普通の事なのにも関わらず、自分が悪いのだと我慢し、壁を作ってしまう彼女の性格そのものが、自身を最も苦しめているのだ。

 

「ほら、なにゆっくりしてんのよ、もっと急いで拾いなさいよ!」

 

 三人の内の一人が、園子の絆創膏が貼られた指を踏みつけ、小さく左右に動かす。

 

「──っっ!!」

 

 固い靴底に踏まれる痛みと、床に当たってまだ塞がっていない傷口がゆっくりと開いて行く事による痛みに、思わず小さな悲鳴を上げる園子。 そしてそれを耳に入れた女子は、踏む力をさらに強くして、強い語勢で園子に言う。

 

「何? 痛がってるの? 自分が悪いのになぁに被害者ぶっちゃってんの?」

「すみ、ま……せん。 急ぎますから、足を──」

「馬鹿じゃないの? あたしが踏み飽きるまで待ってなさいよ、要領悪いわね、頭の中どうなってんの?」

「は……はいっ」

 

 痛い、ともすれば涙が零れてしまいそうになる。 しかしそれが出来ない。 この袋小路は、柏木園子を覆う壁が破壊されない限り、もはやどうする事も出来なかった。 そして──

 

「よう、柏木。 ここに居たか」

 

 その時は、何の前触れもなく訪れた。

 

「……え?」

 

 まるで友人の名前を呼ぶかのように、気さくで、聞き覚えのある、しかしこの場にいる筈のない男の声。その声のした方へ顔を向ける。 そこにいたのは、

 

「野々原……君?」

 

 野々原縁。 つい先日知り合ったばかりの、ただそれだけの男子生徒。

 

「ど、どうして、ここにいるんですか?」

 

 分からない。 友人ですら無い、ほぼ赤の他人に近い筈の彼が、どうしてこの場所にいるのかが、園子には分からなかった。 自分の指を踏んでいた女子を含めた三人も、突如図書室に現れた野々原縁に驚き、言葉を失っている。

 そんな中、今この場所にいる全員からの視線を受けながらも、なんの気負いも感じさせない縁が、次の瞬間、場の空気をぐるりと変える言葉を言った。

 

「お前を探していたんだ……一緒に帰ろうぜ?」

 

 ──その言葉は、彼女を苦しめる壁に大きなヒビを入れる楔であり、

 ──同時に野々原縁の命を脅かす、地雷の爆発音でもあった。

 

 ……

 

 昨日と寸分違わぬ場所、図書室にある二つの出入り口からでは見えない、大きな本棚の陰になっている場所に、柏木と三人の女子はいた。

 構図も殆ど変わらない、床に乱雑に落ちている十数冊の分厚い本を、伏して拾い集める柏木を、三人の女子が見下ろす。 昨日と違うのは、柏木の指に痛々しく絆創膏が貼られている事と、その指を、今日の昼間に、俺と綾瀬を呼び出した女子が踏みつけている事だ。

 あぁ、あれは酷く痛そうだ。 まだ傷口も塞がっていないだろうに、きっと踏まれている柏木の指には血が滲んでいるのだろう。 そして、痛がっている柏木を見て女子は、更に踏む力を強め、罵詈雑言を浴びせていく。 心と体、その両方を万遍なく苦しめる、やり方は地味だが人を追い詰めるのにはうってつけのやり方だ。

 っと、こんな事を考えている暇は無いよな。 ぼうっとしていると更に酷い仕打ちをしそうだ、言う言葉や行動はもう頭の中で整理している、覚悟も出来ている、あとはただ一言、声を掛ければいい。 たとえそれが、取り返しが付かなくなるくらいの愚行だとしても。

 

「よう、柏木。 ここに居たか」

「……え?」

「な、あんた、野々原……!?」

 

 俺の声を聞いて、柏木と三人の女子が条件反射的に俺へと振り向いた。 柏木の指を踏んでいる女子なんか、昼間に警告してここに現れるはずの無い奴が出てきたものだから、目玉を真ん丸にして驚いていやがる。

 まあでも、一番驚いているのは、指を踏まれている事も忘れているかのように俺の顔を凝視している柏木なんだろうけどな。

 

「よ、縁……」

 

 綾瀬が後ろから追いかけてきた、あのまま出入り口で待っていてもよかったのに。 俺の名前を呼ぶその声には、女子三人に目を付けられてしまうのではないかという不安ではなく、単純に俺の行動に対しての驚きと、困惑の色が多く含まれていた。

 それはそうだろう、だって俺自身、きっと一時間前の俺が今の俺を見たら絶対理解できないと思う自信があるくらいなのだから。

 

『お前は何をしているんだ』

『自分が何をしているか分かっているのか』

 

 うん、青筋立てて……とまではいかないが、きっと今の俺を見たら、ものすごい剣幕で怒鳴り散らすんだろう。 とはいえ、仕方がないだろう、俺が──野々原縁がそういう(……)人間だってことに、()自身、ついさっき自覚したばかりなのだから。

 

「ど、どうして、ここにいるんですか?」

 

 どうしているのか、おそらくこの場にいる全員が抱いているだろう事を、いじめている三人組が言うのではなく、柏木がいう事に変な面白さを感じてしまうが、まぁ良いだろう。

 

「縁、どうするつもりなの?」

「……綾瀬、悪いが、話を合わせてくれ」

「え? う、うん……いいけど」

「ありがとう」

 

 小声で綾瀬に言ったあと、俺は一呼吸してから、出来る限り自然な感じを意識しながら、柏木に言う。

 

「お前を探していたんだ……一緒に帰ろうぜ?」

「──な!!」

「よ、縁!?」

 

 柏木の足を踏んでる女子と綾瀬が、驚きの声を漏らす……って綾瀬、お前まで驚いてどうする、気持ちは分かるが。 一瞬だけ視線を送る、するとすぐに意味を察して表情を元に戻す綾瀬。 どうやらいじめ三人組には嘘だとバレずにはすんだようだ。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 

 やや間を置いてから、足を踏んでいる女子以外のいじめ三人組の一人、茶髪で制服を着崩している女子が、俺と柏木の間に立って話し出す、そういえばさっきから俺はこのいじめ三人組の事を女子だの指示代名詞ばかり使って名前を知らないままだな。 相手の名前をすぐに聞かないのは頸城縁の悪癖が移ってしまったのが原因だろう。

 とは言えども、まさかこの状況で今更名前を聞けるワケもなし。 なので取り敢えず、今はこのままで良いとしよう。

 

「あんた、今日の昼休みにマユミから話されたんじゃないの? 今自分が何してるのか、分かってるわけ!?」

「さ、行こうぜ柏木、何時まで床に座ってんだよ」

「は……はぁ? シカト!?」

 

 シカトじゃねえよ、聞いてっけど答えるのが面倒くさいから相手してないだけだ──って、それがシカトするって事か。 でも別に良いか、コイツの話を無視したところでコイツが病んで、俺に死亡フラグが発生するわけでも無いのだし。

 あぁ、そう考えるとなんて笑えない話だろう、明確に敵意を向けて来るコイツらよりも、常から俺に好意(この場合は恋愛感情以外の意味)を向けてくれる方のが恐いだなんて。

 ……あ、そういえば今さり気なく一人名前が分かったな、漢字は分からないが『マユミ』というようだ、昼間俺と綾瀬を脅して、今柏木の足を踏んづけているのは。

 

 

「あ、あの……私、でも」

 

 当の柏木は、相変わらず指の事も忘れて俺への返事に窮している。 このまま俺の言葉に従い、この場を離れる事が恐いのだろう、まあそうなる事も大体予想は出来ていたので、ここは俺自ら動いて、柏木にこの場を離れる大義名分を与える事にしよう。 でも、その前に──、

 

「……綾瀬」

「何……?」

 

 ……う、心なしか若干暗い声。 俺が自分以外の女子に一緒に帰ろうと言ってる事が面白くないのか、どこか声に険を感じてしまう、単なる俺の自意識過剰でしかないと願いたい。 とはいえ、今から俺が行おうとする行為は間違いなく、綾瀬の機嫌を損ねてしまうであろう事は確定なので、そんな願いは何の意味も成さないのだが。 だとしても、何もしないで死亡フラグを立ててしまわない為にも、言うべき事は言って置かなければ。

 

「予め言っとく、ゴメン」

「ゴメン? それってどういう意味──」

 

 綾瀬の追求を待たず、俺は眼前の茶髪を避けて柏木の前に行き、柏木と同じ目線にまで屈む。

 

「あんた、なんのつもり──痛っ!」

 

 マユミとやらの言葉を無視して、右手の甲で、柏木の指を踏んでいる足のアキレス腱辺りを強く叩いて退かせる。 痛いとか言ってるけど、直前まで自分がしていた事を、マユミは忘れているのだろうか。 いやそもそも意識して無いんだろうな。

 それより柏木だ、唐突に自分の指を苛む原因が無くなった事と、俺が急に近づいた事で固まってしまっているが、生憎元に戻るまで待ってやれるほど状況は和やかでは無い、なので。

 

「あの、何を──きゃ!」

「え、えぇ!?」

 

 無理やり、柏木の手を取り、立ち上がらせる。 普通ならすぐに手を跳ね除けるのだろうが、急な展開が重なって、より一層固まってしまう柏木。 綾瀬も綾瀬で、目の前の光景に驚いて硬直している。

 

「足は痺れて無いか?」

「だ、大丈夫ですけど……でも」

「よし、じゃあ帰ろう。 綾瀬も、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「そ、そんな事無いけど──あっ、ま、待って二人とも!」

 

 こうして、徹頭徹尾マユミら三人の事を無視して、俺は綾瀬と柏木を連れて、図書室を出て行った。 出ていくまでに一度も後ろを振り返らなかった為、背後でマユミ達がどんな表情で俺を見ていたのか、それは分からなかったが、まあ十中八九見てて良いモノでは無いだろう。 それでも、病んだ渚や綾瀬の方が段違いに恐いのであろうが。

 

 ……

 

「あ、あの……手を、手を離して、下さい!」

 

 図書室を出て、そのまま一階の下駄箱前まで手を繋いで歩いてると、柏木が立ち止まって言った。 言われるままに手を離す、すると柏木は握られていた手をもう片方の手で包むように重ねながら、珍しく強めの語調で俺に言う。

 

「一体、何のつもりなんですか? どうして、私にこんな事を」

「何のつもりはこっちの方だよ柏木さん、柏木さんこそ、昨日に続いて二日も図書室で何をされてたんだ?」

「──っ、し、質問に質問で答えないで下さい!」

 

 驚いた。 CDの柏木園子は一度も大きな声を出した事は無かったので、柏木がこうして大きな(それでも控えめだが)声を出すのは新鮮だ。

 

「質問を質問で返すな、確かに柏木さんの言う通りではある。 それを承知でまた質問をしてしまうけど、知ってる人があんな事されてる場面を見て、素通りできると思うか? それも二日続けて、同じ場所で、同じ人に」

「……それは、そのっ」

「こんな事、本人を目の前にして言うべき事じゃないのは重々承知だが、あえて言わせて貰うぞ。 柏木さん、アンタはあのマユミとかいう三人組にいじめられているんだろう?」

「──っっ!!」

「ちょっと、縁!? なんてこと言うの!?」

 

 俺が明確に出した『いじめ』という言葉に動揺する柏木。 あまりに遠慮の無い俺を窘めようとする綾瀬。 もちろん今の俺の発言が、デリカシーの無い物である事は十分に分かっている、しかし柏木は今日まであの三人にいじめを受けて来たのにも関わらず、誰にも相談しようとはしなかったようだ。 何故誰の助けも求めなかったのか、可能性の一つとして、まだ自分がいじめられているという自覚が無いという事が考えられる。

 いじめを受けるという事はつまり、その集団の中で弱者の立場にいるという事であり、いじめを受けていると自覚するというのは、自分が弱者の立場であるのを受け入れるという事にも繋がる。 そんな事を認めたくない人は幾らでもいるだろう、そういう人は時に、自分が受けている仕打ちを、『おふざけの延長線』程度だと自分の中で無理やり決めつけて、決していじめを受けているという風に考えない事がある。

 本人としては自分の最後の意地や矜持を守っている事になるが、そういう態度がかえっていじめている側には時に滑稽に、時に生意気に、時にもっといじめて良いのだという勘違いの切っ掛けに繋がるのだ。

 だからこそ、柏木がそのパターンでは無いと限らないので、一度ハッキリと正面から言わなければいけないのだ、『お前は今、いじめを受けている』と。

 

「柏木さん、どうしてあの三人にされている事を誰にも言わないんだ。 アンタの受けている仕打ちは、間違いなくいじめのソレだ」

「…………」

「どうしてあの三人はアンタにあんな事をする? 何がアンタとあの三人の間にあった」

「縁、幾らなんでも明け透けに聞き過ぎ! 柏木さんごめんね、急に縁がこんな失礼な事言っちゃって……ほら、縁も、柏木さんに謝って」

「あ、綾瀬、今はそういう事してる場合じゃ──」

 

 我慢の限界だとばかりに、綾瀬が俺の肩と頭を掴んで、無理やり柏木に謝らせようとしている。 小学生の時悪戯がばれた時に同じ事されたのを思い出すが、今はそんな事で時間を潰している場合じゃないのに。

 俺の質問に対して、柏木はじっと床に視線を移し、何も言わないでいたが、俺が綾瀬の腕から逃れようと四苦八苦しだした途端、先ほどのやや強い語調とは真逆な、まるで喉の奥から僅かに絞り出したような声で言った。

 

「いじめじゃありません……悪いのは、私ですから」

「──え?」

「柏木、さん? 自分が悪いって、どういう事?」

 

 予想だにしなかった言葉に、俺も綾瀬も、動きが止まる。 その僅かな沈黙に堪えかねるかのように、一歩後ろに下がった後に、

 

「私、部活がありますから。 ……さようなら」

「あ、柏木さん!」

「行っちゃった……」

 

 俺の静止の声も聞かず、廊下を走って園芸部の部室へ行ってしまった柏木。 俺も綾瀬も、その背中を追いかける事はしなかった、さすがにあそこまでハッキリ拒絶の意を表されてしまえば、俺だって追求する気は無くなる。

 

「まあ、始めから素直にポンポン言ってくれるワケ無いとは思ってたけどさ」

 

 仕方がない、今後の事につては取り敢えず夜決めるとして、今はもう帰る事に──

 

「縁、どうするつもりなの? これから貴方、何をしようとしているの?」

 

 ──それもだが、綾瀬の疑問に答える必要がありそうだ、まぁ当然か。

 

「うん、ここで話すのもあれだから、帰りながらで良いか?」

 

 ……

 

「解決させる……柏木さんのいじめを?」

 

 帰り道、提案通り帰路を歩きながら、俺はこれから自分がどうするつもりなのかを、ざっくばらんに説明した。 するとやはり、綾瀬は驚いた顔で俺に言った。

 

「でも、そんな事したら、あの人達、渚ちゃんに手を出すのよ? それはどうするつもりなの?」

「ああ、それについてはもう対策は考えてある。 と言っても他力本願だが」

「もしかして、綾小路君の事?」

「そう、当たり。 きっとアイツに頼めば、目立たない形で護衛を付けてくれるだろうさ」

 

 半分冗談のつもりで言っているが、多分本当に悠なら護衛を出してくれそうだ。

 

「それに、もしそれが無理だとしても、アイツらが言葉通りに実行出来はしないさ」

「でも……そうかもしれないけど、なにも貴方が直接柏木さんの解決の為に動く事無いじゃない、普通に先生に言えば、すぐに終わる筈よ?」

 

 綾瀬の言う事にも一理ある……と言うよりか、それが多分正しい判断なのだろう。

 だがしかし、綾瀬は知らないのだ。 いじめの持つもう一つの恐さを。

 

「確かに先生に言えば、大方一、二週間で解決するだろう。 でもな、それじゃ駄目なんだ綾瀬」

「なんで? それで解決するなら、何も問題なんて──」

「あるんだよ、十分に。 いじめってのは、一、二週間親や教師に説教喰らったぐらいで、禍根が消える事は無いんだ」

「……どうして?」

「確かに説教されれば、その瞬間はいじめは無くなるだろう。 でもな、それはいじめの行為を止めただけで、いじめに至るまでの心的原因、その解決までには至らないんだよ」

 

 そう。 確かに教師にいじめが発覚すれば、教師側は詳しい経緯や原因を生徒から聞き出し、今後二度といじめが起きないように措置はするだろう。 でもそれは言うなれば半強制的な反省をいじめをした側にさせる事でもあり、それで心から反省する人もいるが、大抵の人間が心にわだかまりを残す事になってしまうのだ。

 少々性悪説的な見方があるかもしれないが、恐らくこのまま教師に言って柏木の問題を解決させても、マユミ達三人にはわだかまりが残るだろう、そうなった場合、最悪のパターンでは、

 

「──いじめが再発する可能性がある。 より分かり難く、より陰湿な形でな。 だから、とてつもなく困難なのは分かっているが、あの四人の間で、自主的に解決させるしか無いんだ」

 

 そう、いじめをした側と受けた側が、教師が解決させた後に完全に和解し、仲良くなる事などほぼ無いだろう、わだかまり、確執が残る限り、本当の意味での解決なんて無いのだ。

 俺の説明を聞いて、しばらくの間綾瀬は沈黙するが、公園を過ぎて、家が近くなったところで、再び口を開いた。

 

「貴方の言いたい事は分かった……だけど」

「だけど、どうした?」

「どうして貴方はそんなに詳しいの? まるで今まで言って来た事を、貴方自身が全部体験して来たみたいに」

「……別に、ただ専門家ぶって、起こり得る事を言っただけだよ」

「……縁」

 

 一瞬、綾瀬にも頸城縁の事について話そうかと思ったが、それは止めた。

 やはり恐いのだ、全てを話した途端、綾瀬が俺を異常者を見る目で見て来るかもしれない事を。

 そう考えれば考えるほど、あっさり俺の話を信じた渚が『異常』である事を、思い知らされるのだった。

 

「この件には、悠に手伝って貰う事はあるが、極力俺だけで進めようと思う、だからお前はアイツらに目を付けられないように、何も関わらない方が良い」

 

 そう言った俺の言葉に、綾瀬は帰路の最後まで、僅かにさえ肯定の意を示す事は無かった。

 

 ……

 

「ただ今……ん。 渚、帰ってたんだな」

 

 家に帰ると玄関からキッチンの明かりが見えた、先に帰宅していた渚が、夕飯の準備をしようとしているのだろう。 今朝に微妙な空気のまま別れたので、今一つどのように渚と付き合えば良いか、分からない。

 しかし渚の方はと言うと、俺が帰って来たのに気付くと、トタタタと制服姿のままの渚が玄関までやって来て、わざわざ迎えに来てくれた。

 

「お帰りなさい、お兄ちゃん。 今からご飯作るから、少し待って──けほんっ」

「ん? 渚お前、風邪ひいてるのか?」

 

 渚が少し苦しそうに咳をする、話している声も、朝の様子とは違い、どこか無理をしているような雰囲気だ。

 

「う、ううん。 私、風邪なんてひいて無いよ? 大丈夫だから」

 

 首を左右に振って俺の言葉を否定する渚。 その少し過剰な反応で、渚が隠し事をしているのが良く分かった。よく見ると、顔も若干赤くなっており、明らかに風邪の初期症状だ。

 

「渚、おでこ触らせろ、熱測るから」

「え!? 良いよそんな事しなくて!」

「いいから。 素直に静かにしろ、分かんなくなっちゃうだろうが」

「んぅ……はい」

 

 近づいておでこに手を宛がおうとしたら、慌てて避けようとした渚だったが、俺に一喝されてようやく静かになる。 別に義理の兄妹がおでことおでこをくっつけて熱を測ろうとしてるワケじゃあるまいし、その反応自体が、もう風邪をひいてる事を肯定しているようなもんだ。

 案の定、手のひら越しに伝わる渚の体温は、もう片方の手で触っている自分の額からの温度よりも高かった。

 

「ほら、やっぱ少し発熱してるじゃないか。 何が大丈夫だよ」

「ううぅ、恥ずかしいからだよ……」

「恥ずかしいだけで咳が出るか」

 

 さて、妹が風邪をひいてるのに、知らん顔してこのまま料理させるワケにもいかないだろう、さっきまで感じていた気まずさもこの状況では雲の向こうだ、ここは俺が動かないとな。

 

「渚、お前は部屋に行って着替えろ、今日の晩御飯は俺が作るから」

「えっ!? だ、駄目だよそんなの! お兄ちゃんに迷惑かけちゃ──」

「ばっか、こういうのは迷惑って言わないだろう。 家に二人しかいない内の片方が風邪ひいたんだ、ならもう片方が代わりに動くのが当然だろ?」

 

 それに、前世の記憶を思い出してから段々と、家庭の事全般を渚一人に任せてしまう事に罪悪感を懐き始めていたのだ、別に身体に重大な問題があるわけでも無いのに、毎日毎日渚だけに家事を任せるのもおかしい事だろう。 本来ならこういう状況になる前から、渚の手伝いをするべきだったのだ。

 

「で、でも、お兄ちゃん、料理できないでしょ? どうするつもり?」

 

 俺の料理不足を心配する渚。 フフフ、確かに今まで野々原縁はこの家でまともに料理をした事は無い、だがしかし、その心配は無用のものだ。 何故かと言うと──、

 

「大丈夫だ渚。 実を言うと、頸城縁は生前、一人暮らしで食生活はほぼ全て自炊だったんだ」

「──え?」

「だから、今の俺に直接的な経験は無くとも、前世の記憶越しの、間接的な経験ならある。 ……まぁ、それだけで万事上手くいくとは俺も思っていないが、それでもただの素人よりは大丈夫な筈だ」

「……」

「あれ、渚?」

 

 俺の冗談染みた言葉に、何かしら言ってくるのだとばかり思っていたが、渚は何も言わず、俺の鳩尾辺りに視線を落として、じっと黙っていた、ひょっとして滑ったのだろうか? もしくは、怒った? 

 ちなみに、頸城縁が自炊していた事も、記憶がある程度残っているのも事実だが、実際は俺が学校で調理実習の時作った料理を何か作るつもりだった、まさか本当にあんな理由だけで作れるはずもない。

 俺の声を聞いて、はっとしたようにしてから、渚が少し低い声で言った。

 

「……うん。 分かったよお兄ちゃん。 そこまで言うなら、今日は任せるね」

「おう、任せておけ! まあ当然味は渚に及ばないだろうけどな!」

 

 そうと決まったらまずは汚い手を洗わないとな、料理をする前の基本だ。 良く考えてみるとこれが野々原縁の人生では初めての、一人でする料理だった。 なので、少し不安はあるものの、どこかワクワクした気持ちになって、俺は手洗い場へと向かって行った。

 だからであろうか、俺が手洗い場へ向かい、渚から離れた後に、

 

「……違う。 違うよ(……)、お兄ちゃん」

 

 ──小さく渚が漏らしたその一言に、俺は気付けなかった。

 

 ……

 

 あの後、俺は数ある調理実習で行った料理の中から、一番簡単で素人にも易しい、カレーを作る事にした。 基本は、切った野菜や肉を鍋で炒めたり煮たりした後に市販のルーを入れるだけなので、然程苦戦せずに作る事が出来た。 せいぜい苦労した点を挙げるとすれば、ニンジンをどう切ればいいか分からなかった事と、玉ねぎが目に染みた事、そして鍋に入れる水の量がいまいち分からなかった事ぐらいだ……うん、前世の記憶なんて微塵の役にも立たなかったな。

 それでもなんとか食べられる物として出来上がったカレーを、言われた通り部屋着に着替えた渚は、美味しいと言ってくれた、お世辞なのかもしれないが、まぁ『人生初』の料理は成功出来たと見て良いだろう。 渚には薬を飲ませて、今日は早めに眠らせた、その後にも食器洗いや授業の復習などやるべき事を終わらせて、時刻は十一時になっていた。 さて、ここからが俺の本番である。

 この時間なら、悠も習い事や家の都合が終わっても良い頃だ、料理している間は頭の片隅に置いていた、柏木の問題解決について、悠に協力して貰う為の電話をしなくてはならなかった。 本当ならこんな夜分に電話するのではなく、明日学校でするべきなのだろうが、状況はそこまで呑気な事を許してくれないだろう、ここはどんどん動いて行かなくてはいけない。

 自分の携帯電話から、悠の番号を出して電話する、繋がらなかったらという不安もあったが、五回ほどコール音が鳴った後、電話越しに悠の声が聴こえた。

 

『はい、もしもしこんばんわ。 どうしたんだい、ヨスガ』

「ああ、悪いなこんな時間に。 今、平気か?」

『うん。 ちょうど暇を持て余していた所だよ』

「そっか、なら良かった。 実はお前に協力して貰いたい事があってさ、そのお願いをしようと思ったんだ」

『随分直球に言うんだね、ひょっとしてそれは、柏木さんの事かな?』

 

 あっさりと、悠が俺の言いたい事を当てる。 本来なら驚くべき事なのかもしれないが、今日の会話を鑑みれば、そんなに驚くべき事でも無いかもしれない。 それに悠は元から人の言いたい事や考えている事に対して鋭い。

 

「ああその通り、当たりだよ。 では、詳しい話をしても?」

『モチロン。 放課後僕が君と別れてから何があったのか、詳しく聞かせて貰うよ』

 

 悠の言う通り、図書室であった出来事を悠に話した。 全部話した後、何故か悠は楽しそう……と言うよりかは嬉しそうに、俺に言った。

 

『そっか、そんな事があったんだね。 うん』

「お前、なんか喜んでないか? まさかと思うが──」

『あぁいや、誤解させてごめん。 柏木さんがいじめられている事に喜んでいるワケじゃないんだ』

「? じゃあ、何に喜んでいるんだよ」

『キミに対してだよ、縁。 やっぱりキミは僕の知っている縁だった。 それが分かって安心したのさ』

「?? お、おう。 そうか、良く分からないけど、まあ良いか」

 

 どこか引っかかる言い方だったが、それに対して言及する前に、悠が話を先に続けだした。

 

『それで、僕は何をすれば良いかな? そのマユミって人達三人組と柏木さんの関係や繋がりを調べるだけで良いのかな』

「ま、まあそうなんだけど……相手から先に言われると、なんか尻込みしちゃうな」

『良いよ、気にしなくても。 あとは何が出来るかな?』

「ああ、じゃあ本当に頼みたい事で、渚の方にアイツらの手が来ないように、出来ないかな」

『そういえば、彼女たちは渚ちゃんの事を脅迫材料にしていたね、うん。 それとなく護衛を付けとくよ』

「ああ、その、なんだ。 頼んどいて言うのもあれだが、本当に良いのか? そこまでして貰っても」

『大丈夫だよ、だって──』

 

 何の気負いも無く、悠はさも当然のことを言うように、こう言った。

 

『お金があれば、大抵の事は何でも出来るからね』

 

 お金持ちって凄い。 改めてそう思った。

 

 ……

 

 翌朝、昨日の渚の様子が心配だったので、いつもより少し早めに起きて、渚の部屋に様子を見に行った、すると、

 

「お兄ちゃん、おはよう──コホッコホッ!」

「渚お前、悪化してるじゃないか!」

 

 昨日より更に具合の悪くなった渚が、フラフラしながら寝間着から制服に着替えようとしていた。 あと少し入るのが遅かったら着替中で大騒ぎ物だったが、そんな事今どうでもいい、今の渚は明らかに昨日の晩より酷くなっている。

 

「ほら、制服に着替えなくていいよ。 今日は学校休め」

「で、出来ないよ、休むなんて……ケホッ!」

「そんな咳き込んでる奴が言うな、ほらちょっと待ってろ、タオル持って来るから、それで体の汗を拭け」

 

 そう言って、一旦部屋を出て、急いで風呂場からまだ使って無いタオルを持ってきて、渚に渡した。 拭いてる様を見るワケにはいかないので、また部屋を出る。

 扉越しに渚に着替えたらそのまま寝ていろと言ってから、リビングに置いてある救急箱を開いて、熱冷ましのシートがあるか確認する、しかしまるで図ったかのように、救急箱には昨日渚に飲ました風邪薬の他、包帯や消毒液や脱脂綿、絆創膏などは揃っていたのに、熱冷まシートだけは無かった。

 

「こうなったら濡れタオルで代用するか。 氷枕も用意しないとな」

 

 発熱した時の必需品である濡れタオルと氷枕を用意して、渚の部屋に戻る。 言われた通りに、渚はベッドに横になっていた。

 枕を乾いた布で巻いた氷枕と取り替えて、絞った濡れタオルを額に宛がうと、渚は気恥ずかしそうに布団を口元まで引っ張る。

 

「うぅ、冷たい……」

「そりゃあそうだ、濡れてるんだから。 ちゃんと絞ったけど、濡れ過ぎては無いか?」

「うん、大丈夫……ありがとうね」

「どういたしまして。 少し待ってろ、ご飯作って来るから」

「……ちゃんと、出来る?」

「おう、任せとけ」

 

 昨日の件があってか、渚は始めの時のように俺が料理をする事に対して反対しなかった。

 

 ……

 

「渚、ご飯出来たぞ」

「う、うん……って、それってお粥?」

 

 渚が俺がトレーに載せた食器から沸き立つ湯気を見て、料理の名前を言う。

 

「ああ、風邪の時には最適だろ?」

「そうだけど……ふふっ」

「ん。 どうしたよ、笑ったりなんかして」

「あんなに意気込んでたから、どんなのが来るのかなって思ってたから」

「……うっせ、お粥だって立派な料理だろう」

「そうだね、ありがとう、お兄ちゃん」

 

 濡れタオルを桶に戻して、半身を起こした渚が、食器と一緒に持って来たレンゲを持って、ゆっくりとお粥を口にする──と、その直後、

 

「──ケホッ、ケホッ!」

 

 咄嗟に口元に手を置きながら、渚が強く咳き込んだ。 慌てて背中を摩り、呼吸が落ち着くのを待つ。 十秒ほど経ってから、ようやく渚の呼吸が落ち着いた。

 

「だ、大丈夫か渚。 咳き込むぐらい不味かったか?」

「違うの……思ったより熱くって、それを間違って気管に入れちゃって」

「……なんだ、良かった。 次からは少し冷やしてから口に入れような」

「うん、そうするね」

 

 その後は、食べる前に二・三度、ふーっと息を吹き掛けてからお粥を口にする渚。 その姿に小動物的な可愛さを感じながら、俺も自分の分が入ってある食器からお粥を食べる。 うん、確かに熱いなこれは。

 

「学校には連絡しといた、父さんと母さんには、もう少ししたら伝えるよ」

「もう……そこまでしなくても。 それくらいなら、寝てても出来るよ」

「これも兄の役目って話だ。 親が家に居ないなら、俺が保護者として、しっかりしないとだからな。 ……まぁ、見事に風邪をひかせてしまったんだけれど」

「…………保護者、か」

「ん?」

「うぅん、何でも無い」

 

 明らかに何か呟いたのは分かってたが、あまりにも小声だったので聞き取れなかった。 かと言ってそれほど重要な事を言ったようでも無いので、あまり言及しないでおこう。

 

「しかし、本当に熱いな、これ」

「そうだね。 でも、美味しいよ」

「そっか? 殆ど味無いぜ?」

「それでも」

 

 それ程量が多くないお粥を、二人で熱い熱い言いながらゆっくりと食べる。 いつもと違う環境で、渚が熱を出していると言う状況ではあるが、不思議と、心が暖かくなる時間だった。

 やがて全部食べ終わり、食器を片付けて、薬も飲ませると、再び横になった渚。 疲れた身体で、食事を摂って安心したのか、段々と表情に眠気が出て来た。

 

「……お兄ちゃん。 学校には、行かないの?」

 

 枕元の目覚まし時計を見ながら、渚が俺に言う。 時刻は八時ちょうどで、あと三十分で校門が閉まってしまい、遅刻扱いになってしまうのを、渚は心配しているようだ。

 

「このまま、お前がしっかり寝付くまでここにいるよ」

「えっ! 幾ら何でもそれはだけは駄目だよお兄ちゃん。 私のせいで遅刻なんて」

「構わないよ、そんな事より自分の事を心配しろ、さっき熱測ったら7度8分だったんだからな。 それに、遅刻なんかよりも、お前の方が大切だ」

「……っ」

「なんてな、気取った事言っちまった。 今のは忘れ──」

「ねぇ、お兄ちゃん?」

「──ん、どうした? 水か?」

 

 歯の浮くような台詞を吐いたので、照れ隠しをしようとしたら、渚が俺に手を差し出して、はにかみながら言った。

 

「手……握っててくれる? 私が眠るまで」

「手を?」

「うん……そうしたら、安心して眠れそうな気がするから……駄目、かな?」

「ううん、良いよ、握っててやる」

 

 照れ臭いが、渚も久しぶりに大きな風邪をひいて不安になってるんだろう、俺がそうする事で安心出来るってなら、幾らでもするさ。

 俺より一回り小さな手を、壊れ物を扱うようにそっと握る。 久しぶりに握った渚の手は汗で少し湿っていた。

 

「……ふふ、こうしてると、なんか昔の事を思い出しちゃう」

「昔? ……あぁ、そうだな」

 

 渚の言う通り、俺達が小学生の頃にも、渚は風邪をひいて、熱で寝込む事が多かった。 その頃はもう両親の仕事は忙しかったので、代わりに俺が付きっきりで看病したんだっけ。 平日の時は学校終わったら走って家に向かったりして、時々綾瀬にも手伝って貰った事もあった気がする。

 昔を懐かしむようにゆっくりと目蓋を閉じながら、渚の言葉は続く。

 

「あの頃は、良かったなぁ……。 私、出来るなら、あの頃に戻りたい」

「……バカ、年寄りみたいな事言ってるんじゃねぇよ。 もしまたあの時に戻ったら、今より出来ない事沢山あるぞ?」

「それでも良いよ……私は、それでも」

「──渚?」

「あたしは……それ、で……も……」

 

 言葉が段々と弱くなり、握る手の力もそれに倣っていく。 そうして、最後まで言葉を言い切る事無く、渚は眠った。

 

「寝た、か。 ……昔が良い、か」

 

 最後に、渚が言った言葉は、昨日の朝に俺に言った事と繋がっているのだろうか。 気にはなったが、もう学校に行かなければならない。 思ったより早く渚が寝付いたので、まだ全力で走れば間に合いそうだ。

 

「じゃあ、行ってくるな、渚」

 

 最後に、眠っている渚にそう言ってから、俺は静かに部屋を後にした。

 

 ……

 

 文字通り全力で走り切ったおかげで、遅刻二分前に教室に辿り着く事が出来た。 息も絶え絶えで、汗も出ているが、まあ遅刻しないで済んだのだし、良しとしよう。

 

「おはよう縁、今日は随分ギリギリの登校だったね」

「おう、おはよう……」

 

 悠が、汗を額から零してゼーハーと荒い呼吸をしている俺を見て苦笑いしながら言った。

 

「渚が、風邪ひいて熱出してな……それで、遅くなった」

「そうだったのか、渚ちゃんの容態はかなり悪いのかい? なんなら、病院に連れて行ってあげた方が」

「ああいや、そこまでじゃないんだ、熱が出たんだけど、病院が必要な程じゃないから大丈夫だ」

「そうかい、なら良かった。 早く治るといいね、縁も風邪が移らないように気を付けて」

「おう、折角頼んだ護衛が無駄になってしまって悪いな」

「気にしないでいいよ、それより縁、今日の昼休みに例の件で話があるから、そのつもりでいてくれ」

 

 例の件? 随分と脚色染みた言い方だが、もしかして柏木の件を言ってるのだろうか。

 

「まさか、もう何か分かったのか?」

「うん」

 

 予想的中だったようだ。 いやしかし、頼んだのが昨日の夜11時だったのに、もう何か情報掴んだって、早すぎだろう、一体どんな情報網を使ったんだ、こいつは。 知り合いに非公式に何でも知っている情報屋でもいるのだろうか。

 俺が新たに垣間見た親友の一面に若干慄いていると、後ろから別の声が、俺達に話しかけてきた。

 

「二人とも、ちょっと良い?」

「綾瀬か、おはよう」

「河本さん、何かな?」

 

 声は綾瀬のものだった。 神妙な顔付きで、俺と悠を見る。

 

「今の話って、彼女の事でしょ、私にも話してくれる?」

「えっ……僕は構わないけど、縁はどうなんだい?」

 

 綾瀬の突然の、そして意外な頼み事に、俺も悠も驚く。 悠の方は構わないと言っているが、俺はそうはいかなかった。

 

「綾瀬、お前が聞いてどうするんだ? 聞いたって、お前には何も──」

「いいから、私にも話して。 縁に何の迷惑も掛からないでしょう?」

「そ、そりゃあそうだけど……」

 

 思ったよりも綾瀬の意思は強く、興味本位で聞いてるのでは無い事が伺える。 だが何故だ、昨日まで綾瀬は柏木の件に関わるのを避けていたし、俺だって関わらないで良いと言った筈なのに。

 

「河本さんも、こう言ってる事だし。 縁、河本さんにも話して良いんじゃないかな?」

「ん……まあ、話すのはお前なんだし、お前が良いんなら」

「ありがとう、二人とも」

 

 礼を言って、そそくさと自分の席に戻っていく。 綾瀬にどうして昨日と違う事を言い出したのか聞こうとしたが、忌々しくもチャイムが鳴り、担任が教室に入って来たので、それは叶わなかった。

 それならばと、他の業間休みに話しかけようとしたのだが、体育で更衣室に行ったり、他の女子のグループと集まって話しかけづらい雰囲気になったりで、素直に昼休みを待つしか無かった。

 

 ……

 

「──それじゃあ、朝に言った通り、僕の調べた結果を話すよ」

「ああ、そうしてくれ」

「…………お願い」

 

 待望の昼休み。 いつも通りに悠が俺の前の席に来たので、綾瀬が俺の右隣の席に座り、三角形の形になって、悠の話が始まった。

 

「まず、柏木さんを苛めていた三人の生徒の名前を言うよ。 五十音順に小松京子、新房沙紀、早坂真弓。 三人の内、早坂さんは柏木さんと同じクラスで、昨日の昼休みに二人を呼び出したのもこの人だね」

 

 なるほど、マユミ……早坂の名前は昨日の時点で分かっていたが、他二人はそんな名前だったのか。 まあどうせ苗字くらいしか覚えられそうに無いけど、俺地名とか人名とか、名前覚えるの下手だし。

 

「そして、新房沙紀さん。 彼女は図書委員なんだ。 毎週火曜日と水曜日の放課後に図書室にいる」

「待てよ、てことは──」

「そう、この放課後に図書室を利用する生徒は殆どいない。 柏木さんへのいじめ行為は、この時行われているようだね」

「……だから、二日続けてあそこに居たのね」

 

 やり方が陰湿だ、ベタな体育館裏や校舎裏とかの方がよっぽど可愛いく見える。 たしかに図書室なら、いじめの現場として誰も思わないだろう。

 

「それで、早坂達三人と、柏木にはどんな接点が?」

「その事について、一つ興味深い事があるんだ」

「興味深い事?」

「うん。 三人とも、去年まで、柏木さんと同じ園芸部に居たんだ」

『え?』

 

 予想外な言葉に、思わず俺と綾瀬の言葉が重なる。 柏木と三人が、去年まで同じ部活だった? なんだそれ、じゃあ、もしかして今園芸部が柏木一人なのと、いじめ問題は関係しているのか? 

 

「ど、どうして同じ部員だったのに、あんな事になってるの?」

 

 俺より先に、綾瀬が悠に尋ねる。 しかし、それまでと違い、悠は眉間に小さく皺を作り、困ったように言う。

 

「それが、僕もその先を調べようとしたんだけど、どうもそれらしい理由が出てこないんだ。 ツテにも聞いたんだけど、相手も分からないようなんだ」

「は……はぁ? な、なんだそれ?」

「去年の園芸部に、何かがあった事だけは確かなんだ。 でも、その『何か』が何なのか、それが分からないんだ」

「じゃあ、お手上げってこと?」

 

 たった一晩でここまで調べ上げる程の悠でも、去年園芸部に起こったであろう何かの正体は掴めない。 それじゃあ、後は当たって砕けろの覚悟でまた柏木に直接聞くか、逆転の発想で早坂達に聞くしか無いのかもしれない。

 

「いや、それで諦めるのは気に入らないから、もう少し広い視野で調べてみたんだ、園芸部だけじゃなく、去年何が起きたかを、ね。 そしたら、興味深い事実が浮かんだんだ」

「興味深い事実? と言うと?」

「去年の秋頃、文化祭が終わって少しした後に、先生が一人急に辞めた事を覚えているかい?」

「教師が辞めた? ……あったっけ、そんなの?」

「あ、私覚えてる。 名前は忘れちゃったけど、確か男の先生だったよ。 中途半端な季節に辞めたから、少し話題になったし、確か縁にも話したと思うんだけど……」

 

 ああ、言われてみれば確かに、去年の秋頃に悠や綾瀬が俺に話してた気がする。 そう言えば、多少生徒の間で話題になったとは言え、教師が辞めたってのに、臨時の離任式なんかもしないで、殆ど学校側が話さなかったから、そもそもどうして辞めたのかすら分からなかったな。

 

「それで、その辞めてった教師と、柏木たちにどう繋がりが?」

「辞めた先生は、ただ辞めたたのでは無く、()()()()で、園芸部の、顧問だったんだ」

「顧問? じゃあ、その顧問が辞めたのと」

「柏木さんのいじめは関係しているかも」

「うん。 二人の言う通り、僕もそうだとは思う 」

 

 懲戒免職は、余程の事がない限り言い渡され無い重い処置だ。 そんな事があったのに、全く学校側は生徒に説明しないで、世間にも取り沙汰され無かった。 そして、その教師が園芸部の顧問だった。

 だが、ここまで欠片が揃っているのに、肝心なところが引っ掛からない。

 

「僕は今日、家でもう少し深くこの件について調べてみるつもりだけど、縁はどうする?」

 

 どうする、か。 さっきは柏木や早坂に直接聞くなんて事考えていたが、事は思ったより重大そうだ、教師が懲戒免職になるのは、生徒とのトラブルが原因の場合が考えられる、もしそうなら、絶対に話してくれ無いだろう、ならば、

 

「今の園芸部の顧問に、聞いてみようと思う」

 

 教師に聞いたからって、去年園芸部で何があったかなんて分かるとは限らない。 それでも、園芸部の顧問の教師なら、他の教師に聞くよりはずっと教えてもらえる可能性があると踏んだ。

 

「そう、だね……先生が素直に話すかは分からないけど、聞いてみるのもありだろう、放課後に聞きに行くのかい?」

「そのつもりだ。 ……正直、褒められた話じゃないがな」

 

 教師にいじめの事実を話さずに、いじめの原因かもしれない出来事を尋ねる。 柏木を助ける為なのに、それと相反するような、矛盾した行動をする事に躊躇いを感じないワケが無い。

 

「先生方が解決させては根本からの解決にならない、完全にその通りだとは僕も言わないけど、縁の言う事にも一理ある。 まぁ……仕方ないのかもしれないね」

「ありがとう悠、そう言ってくれるだけでもありがたい。 今の顧問には、俺一人で聞きに──」

「待って縁、私も一緒に行く」

「──なっ!?」

 

 何言ってんだコイツ!? もう完全に柏木の件から避ける気無いじゃないか! 

 思ったより大きな声を出してしまい、教室にいる数人のクラスメイトが、何事かと俺を見て来たので、さっきよりも数段声の音量を低くしてから、俺は綾瀬に詰め寄って言う。

 

「お前、自分が何言ってるのか分かってるのか?」

 

 俺の問いかけに対し、綾瀬は全く退かない。 それどころか強い眼差しで俺を見返し、

 

「分かってるわよ、縁がしようとしているのが必ずしも正しくない事も、どうして私を関わらせたくないのかも」

「それなら、どうして?」

「『どうして』? ……それを、貴方が言うの?」

「はぁ?」

 

 質問に対して質問で返すな……昨日柏木に言われた言葉だが、なるほど確かに、これは面食らう。 綾瀬が今の言葉にどんな意味を込めたのか、全く分からない。 ったく、渚と言い綾瀬と言い、どうしてこう、俺の頭をこんがらからせる事ばかり言うんだ。

 

「二人とも、そこまでにして」

 

 つい、睨みあうような形になった俺と綾瀬の間に悠が割って入る。

 

「柏木さんの件を考えているのに、二人が対立しちゃったら意味が無いだろう?」

「悠……」

「綾小路君……」

 

 悠の諭すような言葉で、熱くなりかけた頭が急速に冷えていく。 確かに悠の言う通りだ、ここで綾瀬と喧嘩したって、ろくな結果を生まない事は考えるまでも無く分かる筈だ。 ましてや、この喧嘩が切っ掛けで綾瀬を病ませてしまい、俺の死亡フラグが生まれてしまうなんて事も有り得なくも無いのだ。

 

「ああ……そうだな。 悠の言う通りだ、悪かった、綾瀬」

「そんな……私の方こそ感情的になっちゃった、ごめんなさい」

 

 互いに謝る俺と綾瀬。 その様を見てから、悠は纏めるように言った。

 

「縁の気持ちは分かるけど、河本さんだってこの件には無関係じゃないし、何より縁が積極的に関わってるんだ、自分ばかり何もしないままでいられないと言う気持ちも、縁は分かってあげるべきじゃないかな?」

「……ん、分かった」

 

 ここまで言われては、もう綾瀬を止める事なんか出来はしない、早坂達の標的にならないか心配ではあるものの、ここはもう綾瀬の同行を了承するしかなさそうだ。

 

 その後、これ以上話せる内容が無くなったので、俺達は残った時間を食事のみに費やした。 食事中、なんどか悠が話題を振ったが、先ほどの出来事が尾を引いて、俺も綾瀬もうまく会話を進める事が出来ず、綾瀬との間に気まずい空気を残して、昼休みは終わった。

 

 ……

 

 放課後になり、宣言通り悠は更なる調べ物の為に足早に帰宅して行った。 その背中を見送った後、教室に残った俺は、同じく残った綾瀬をチラと見る。 昼間の気まずい空気は放課後になっても払拭されず、どう言葉を掛ければいいか分からなかった。

 かと言っても教室でいつまでも立ち往生していられるわけでもないので、自分に心の中で喝を入れた後に、俺は綾瀬に言った。

 

「じゃあ、行くか」

「……う、うん。 そうしましょう」

 

 ぎこちなさを十分に持ちながら、二人で園芸部の顧問がいる職員室へと向かう。 悠が帰り際に教えてくれたが、園芸部の顧問は一年の担当教師で、幹谷という名前らしい。 二年棟から一年棟に入り、一階にある職員室の扉に着いた。 この先の廊下を進むと、園芸部の部室がある。 きっとそこには柏木が居るのだろうが、今はその事を頭から出して、俺は職員室の扉をノックして、中に入った。

 

「失礼します、二年の野々原と言います」

「お、同じ二年の河本です」

 

 普段来る事のない二年生が一年棟の職員室に来た事で、何人かの教師が珍しそうに自分達に視線を送る。 その内の一人の男性教師が、俺に声をかけた。

 

「二年生か、珍しいな。 どうした?」

「はい、幹谷先生に用が有るのですが、居ますでしょうか?」

「えっ、私ですか?」

 

 俺が幹谷の名前を口にすると、一番奥に座って、菓子パンを口にしていた、若い女性教師が驚いた声で反応して、急いでこちらまでやって来た。

 

「えーと、君達、初めて話する、よね?」

「はい、確かにそうです」

「うん、私が忘れてるワケじゃなくて良かった……。 それで、私にどんな用事が?」

「はい、一つ、お聞きしたい事があるのですが、出来ればここ以外の場所で話をしたいのですが、今はお時間ありますでしょうか?」

「聞きたい事? うん、今は大丈夫だから良いよ。 それじゃあ、生徒指導室に行きましょう」

「はい、ありがとうございます」

 

 生徒指導室、通常は素行の悪い生徒に教師が説教をする為の場所だ。 別に説教を受けるワケでも無いと言うのに、自然と嫌な気分になってしまうのは仕方ないだろう。 隣を見れば、綾瀬もあまりいい表情にはなって無かった。

 職員室を出て、園芸部の部室とは反対の方向にある生徒指導室に入ると、幹谷先生は扉に『使用中』と書かれたプレートを掛けてから、扉を閉めた。

 

「それで、話って言うのは?」

「はい、その……園芸部について、なのですが」

「園芸部? あぁ、だから私だったのね」

 

 園芸部の言葉で、自分が呼ばれた理由に合点が言った幹谷先生は、軽く笑いながら言った。

 

「ひょっとして、君達二人とも入部希望者?」

「あ、いえ、その……」

 

 しどろもどろになって、答えあぐねる綾瀬。 綾瀬は部活に入ってはいないが、園芸部に入るつもりは無いのだが、嬉しそうに言う先生を前にして、なかなか断りの言葉が言えないでいるようだ。

 

「いえ、自分はまだ決めかねているところですが、あや……河本は違います」

「あぁそうなの? ゴメンね、焦るような事言っちゃって」

「いえそんな、お構いなく……」

 

 互いに頭を下げる二人。 綾瀬は初めて会話する教師だからかいつもより低姿勢だが、幹谷先生の方は教師だと言うのに随分フランクな性格の様だ。

 

「話の腰が折れちゃったわね、それで、園芸部について何の質問が?」

「はい。 園芸部の部員についてです」

「──っ、と言うと?」

「去年、園芸部は一年生が四人いて二年生も三人程居たと、友人から聞きました。 でも今は柏木さん一人しか居ません。 何故柏木さんだけしか居ないのですか? 去年に、何かあったのですか?」

「あ〜、そうか、それを聞くのね……」

 

 幹谷先生は、直前までの笑顔が引っ込んで、心から困った様に眉間に皺を寄せる。 その反応から、何かしらの事実を知っている様ではあるが、それを話すべきか否かで悩んでいる様だ。

 

「一つ聞くけど、君たちは柏木さんの友達?」

「友達と言う程親しくはありません。 ですが、全く知らないワケでも無いです」

「そっか……」

 

 そう言って、再び黙り込む幹谷先生。 緊張が俺と綾瀬を包む、もし駄目だと言われたら、後は悠の力に頼らざるを得なくなってしまう。 綾瀬には自分の力で解決すると言ったが、実際はかなり悠頼みになっている事に、こんなタイミングで気づいた。 我ながら情けないと思う。

 どれほど経っただろうか、時間的には数秒かもしれないが、体感的には数分程の沈黙の後に、ため息を吐きながら幹谷先生が口を開いた。

 

「今から言う事は、他の生徒に言いふらさないって、約束してくれるかな?」

「っ! はい、約束します」

「わ、私も」

 

 俺と綾瀬の言葉に頷いて、幹谷先生は声の音量を落として、静かに話し始めた。

 

「本当は、この事を話すのは理事長に禁止させられてるけど、私自身、気に入らなかったし、貴方達を信用して話す事にするわ」

「……はい」

 

 理事長という、予想以上に大きい人物の名前が出た事に一瞬気が引けたが、話して間も無い筈の自分達を信用するという幹谷先生の言葉を受けて、気を引き締め直す。

 

「それじゃ、話すわね。 園芸部がどうして今、柏木さん一人だけなのか、それはね──」

 

 ……

 

「な……それで、今柏木さんは一人だけなんですか!?」

「うん、そう……。 酷いでしょ?」

「…………」

 

 ──幹谷先生の口から出た言葉は、俺が考えていた物より遥かに酷いモノだった。 綾瀬は口元に手を抑えて、絶句している。

 幹谷先生の話した内容を纏めると、こうだ。

 

 去年、園芸部には、一年生に柏木と早坂達を含めた四人、二年生には三人いた。 三年生はいなかったが、年の差が近い者たちが集まって、比較的部の人間関係は良かった。 柏木もまた、部の仲間たちと良好な関係を築いていたらしい。

 女子ばかりの部の中、当時顧問だった教師は、教師になりたての新人で男性だったが、気さくな性格で、部員達からの人望もあった人物だった。

 だがしかし、文化祭が終わり、少ししてからの事だ。 放課後、校内の活動時間も終わり、部活をしている生徒も皆下校した後に、たまたま園芸部の前を通った幹谷先生が、園芸部室から物が倒れる音と、女子の小さな悲鳴を聞いた。 慌てて中に入ると、そこには柏木を床に組み伏せて、服に手を掛けようとしている男性教師がいた。

 すぐに人を呼んで、その男性教師を取り押さえた後、男性教師は警察に引き渡された。 男性教師は自身の行為を全て認め、後から行われた家宅捜査で、男性教師の部屋に多数の女子生徒の盗撮写真が発見された。

 結果、男性教師は懲戒免職になり、更に婦女暴行罪や余りある余罪で逮捕される事になった、ここまでは当然の流れだが、ここからがおかしかった。

 本来、この事を学園の生徒にしっかり説明すべきなのにも関わらず、学園の理事長がそれを許さず、生徒は、ただ教師が一人、学園を辞めたという事だけを知らされた。

 確かに嘘を言っているワケではないが、事実を全て話しているわけでも無い。 反対する教師は少なくなかったが、学園が行うべき措置は全て済んだと判断した理事長の意思が変わる事は無かった。 反対した教師の多くは今年になって他校へ追い出された。

 

 もはやこの時点でおかしい事だらけなのは分かるが、一番おかしかったのは、被害を受けた柏木園子自身だった。

 本来、この不当な処置に対して告訴すべき筈の柏木だったが、柏木は告訴するどころか、事実を部員に話す事すらしなかった。 そして柏木の両親達も、当初は学園に対して非難の声を挙げていたが、ある日を境に、急に学園の措置を認めた。 認めてしまったのだ。

 結果、園芸部の部員達は急に学園を辞めた顧問の理由を知らされず、しかし、事件後、様子がおかしかった柏木から、柏木が顧問の辞めた理由と関係があると踏んだ早坂達が、柏木を詰問し、何も話さなかった柏木をみて、顧問が辞めたのは柏木が何かしたからだと判断し、彼女達の人間関係は破綻した。

 二年生達は早坂達と柏木の対立を止める事が出来ず、また、当人達も柏木に対し懐疑的だったので、瞬く間に園芸部は崩れ、翌年、柏木を除いた全員が園芸部を辞め、それぞれ別の部活へと別れてしまった。

 

 それが、柏木だけが園芸部にいる理由であり、

 いじめの原因、そのものだった。

 

「信じられない様な話だけど、これは全部本当なの。 私以外の先生も納得してないけど、ね」

「……馬鹿げてる、何だよそれ」

 

 ああそうだ、こんな話は馬鹿げてる、ろくな事実確認も無いのに、何故柏木が悪いと完全に決めつけるのか、理解出来ないし、したくも無い。

 

「おかしいわよね、やっぱり。 学園の処置も、それをおかしいと言えない私たち教師も」

 

 自虐的に、小さく笑いながら、幹谷先生が言う。

 

「野々原君に、河本さん。 貴方達に園芸部に入ってと言うつもりは無いわ。 でも──」

 

「──彼女の、柏木さんの、いい友達になってあげてね」

 

 ……

 

 話が終わり、俺達は幹谷先生に礼を言って、生徒指導室を後にした。 綾瀬はまだ事の悲惨さと複雑さから、暗い面持ちで黙っている。 自分の通う学園であんな事が起きていたというショックが大きいのだろう。

 その気持ちは俺も分かる、話の内容はもちろんだが、自分がいる場所で、そんな事があったなんて正直最悪だ、ましてそれがいじめの原因に直接繋がっているのだから、尚更ウンザリしてしまうだろう。

 だが、俺はそれ以上に納得できない事があった。

 

「縁、どこに行くの?」

「園芸部室」

「園芸部に? もしかして……」

 

 綾瀬はもう俺が何をするつもりなのか、察しがついたようだ。 正直、あんな話聞いた後すぐに本人に顔を合わせるのは気が引けるが、それでも今聞きに行かないと気が済まない。 綾瀬もそれが分かっているから、俺を止めないで黙って一緒について来ている。

 先述したとおり、同じ階にあるので、一分もしない内に園芸部の部室の扉に着いた。 ノックをして、中から柏木の『はい、どうぞ』という返事を聞いてから、扉を開ける。

 

「どなたで──、野々原君? どうして……」

 

 昨日に続いて今日も、しかもわざわざ部室に現れるとは思ってなかったようで、花瓶を手にして立っていた柏木は、何が起きたのか分からない顔をしている。

 俺は、柏木の数歩前まで詰め寄って、つとめて冷静に言った。

 

「話を聞いたよ」

「話……? 何の事ですか」

「どうして、園芸部には柏木さんしかいないのか、その理由をだよ」

「──え?」

 

 柏木の表情が小さく歪む。

 

「そして分かったよ、どうしてあいつらがあんたをいじめるのかも」

「ぁ……あ……」

「だけど、一つだけ分からない。 どうして、あんたは本当の事を早坂達に言わないんだ? 何で悪いのは自分“”だなんて言うんだ?」

 

 そう、柏木は始めから早坂達のいじめを受け入れて、周りに助けを求めなかった。 それだけに留まらず、昨日は俺と綾瀬に対して、『悪いのは、私ですから』とまで言った。

 しかし、事実は全く異なっていた。 どう考えても柏木が責められる謂れはなかった。 なのにも関わらず、柏木は真実を話そうとせず、更には自身を貶めている。

 それが、俺にはどうしても納得いかなかった。 『いじめを受けるのに相応しい理由』が無いクセに、本来ならば苦しむ必要など無いクセに、何もしない態度が理解出来なかったのだ。

 

 だが、柏木は口を開こうとせず、焦るようにジリジリと俺から後ずさりするばかりで、何も答えない。 その様に苛立ちを抑えながら、一歩、柏木に歩み寄ろうとした直後、

 

 ──パリンという甲高い音が、俺と柏木の間に鳴り響いた。

 

「──ぁ」

「おっと!」

 

 柏木が手に持っていた花瓶を誤って床に落とし、花瓶が割れてしまった。 中に水は入って無かったようで濡れはしなかったが、大小幾つかの割れた花瓶の欠片が、俺と柏木の間に巻き散らかる。

 

「何やってんだよ、危ないな。 早く片付けないと……」

「っ!」

「な──痛っ!」

 

 突然柏木が動き出したと思ったら、鞄を手に取って、綾瀬のいない方の出入り口から部室を走って出て行ってしまった。 その時に、欠片を取るために伸ばした腕が、柏木の脚とぶつかってしまい、危なくバランスを崩して床に転ぶところだった。

 

「縁、大丈夫!?」

 

 慌てて綾瀬がこちらにやってくる、綾瀬の方もいきなり柏木が走り出すとは思ってなかったようだ。

 

「俺は良いよ、それより柏木を追いかけないと」

「駄目よ、だってそんな怪我してる!」

「怪我? ……うわっ、ホントだ」

 

 言われて気が付いたが、どうやらぶつかった拍子に強く握ってしまったからか、掌からポタポタと血が流れて、床に小さな水たまりを作っていた。

 

「いってぇ……ちょっとコレは、深く切ったかも」

 

 すぐに欠片を手放して傷口を見る、所々深く欠片が刺さってしまい、僅かに動かすだけで掌の肉と肉が擦れあう感触が、鋭い痛みとなっていく。 利き手じゃなくてよかった。

 

「すぐに手当てしないと、もう柏木さんの事はもう良いから!」

「お、おう……分かった」

 

 大丈夫な方の手首をつかんで、至近距離で俺の目を見ながら言う綾瀬の気迫に押されて、つい首を縦に振ってしまう。 確かに、こうしてここで話している最中にも、柏木はもう学園の敷地内には居ないだろう。 本気で追いかければ追いつく事も出来るかもしれないが、それよりも怪我を何とかする方が先だろう。 何より綾瀬がそれを許さない。

 

「血が止まらない……、そうだ」

 

 出血が止まる様子を見せない俺の掌を見て、綾瀬がポケットから何かを取り出す。

 

「取り敢えず、これで手を拭いて」

 

 綾瀬が応急処置の為に取り出した物は、花柄をした、綾瀬のハンカチだった──って、ハンカチィ!? 

 

「い、いや綾瀬! ハンカチはいい、ハンカチはいらない!」

「何言ってるの、こんなに血が出てるんだから、止めなくちゃ──」

 

 うんそうですよね、普通はそうですよ? でも、『血を止める為』『綾瀬のハンカチ』、この二つだけでろくな結果になる気がしない! 柏木の事で頭がいっぱいいっぱいだったが、まさかこんな急襲染みたタイミングで全く別の死亡フラグが飛び込んでくるとは思いもしなかったぞ! 

 

「せ、折角のハンカチを、俺なんかの血付けて汚すワケにはいかないだろ?」

「そんな事、私気にしない──」

「大丈夫、水で流せば良いから! そしてすぐに保健室行こう」

「あっ……」

 

 部室の中にあった水道に駆け寄り、水を流して手を突っ込む。 傷口が沁みてヒリヒリするが、仮にハンカチを受け取っていた場合に起こりうる未来よりはずっとマシだろう。

 

「……よし、血は落ちたから、さっさと保健室に行こう」

「うん……そうしましょう」

 

 やや不満そうな顔で、ハンカチをポケットにしまう綾瀬。 その姿を見て少し悪い気持ちになってしまったが、仮にハンカチを受け取ってしまった場合、下手したら綾瀬も死ぬかもしれないのだ、なので、これは綾瀬の為にも必要な事だと自分に言い聞かせて、罪悪感を押し殺した。

 

「失礼します……あれ、いない」

 

 一年棟の保健室に行くと、中には誰もいなかった。 そういえば、この学園には各棟ごとに保健室と保険医がいるが、放課後は一人だけ残って、残りの二つの保健室は開けているけども、基本はもぬけの殻だという話を聞いた事があったが、どうやら今日は一年棟に保険医は残って無かったようだ、なんて間の悪い。

 

「まいったな、先生いないのか。 血もまた出始めたし……」

「仕方ないから、勝手に道具借りましょう、私がするから、縁は椅子に座って」

「え、いや、そんな事するワケには──」

「柏木さんのいじめを解決させるより大した事無いから、いいから座って」

 

 強い口調で、半ば命令するように言う綾瀬。 先程のハンカチの事もあるし、なによりちょっと怖かったので素直に椅子に座って綾瀬からの手当てを受ける事にした。

 

「っつう、消毒液痛ぇ……」

「我慢するっ」

 

 消毒液を沁み込ませた脱脂綿で傷口を拭いた後に、的確に絆創膏を貼っていく綾瀬。 その馴れたような手つきを見ながら、そういえば小学生の時にも、よく転んで怪我をした時にこうして手当てして貰った事を思い出した、あの頃はヒザだったが。

 

「……ふふっ、何だか、小学生の時みたいね」

「あ、やっぱお前も思った?」

「うん、あの頃の貴方、今よりずっと無鉄砲で、色んなところ怪我させてたよね」

「ははは……そういうのまで思い出さなくていいよ。 それに、中学からはちゃんとしてたろ?」

「どうかなぁ……綾小路君の時の貴方は、今までで一番凄かったと思うけど」

「ぐぁ、あれは、一時のテンションと言うか、中二病と言うか……」

 

 思わぬ形で、過去の負の遺産を思い起こしてしまった。 そうは言っても、やはり懐かしく、心の温まる話題だったからか、昼休みから続いていた気まずさはすっかりなりを潜めていた。 そういえば今朝の時と言い、今日は昔の事を思い出す事が多いな。

 ……そこまで考え至ってから、一つ気になった事を、綾瀬に聞いてみる事にした。

 

「なあ、綾瀬?」

「何?」

「昔と、今……どっちが良い?」

「え……?」

 

 手当てする手を止めて、ポカンとする綾瀬。 質問がどういう意図での言葉か、測りかねているのだろう。

 渚は、昔と今で、昔が良かったと言っていた、出来るのなら、昔に戻りたいとも。 ならば綾瀬はどうなのだろうか、綾瀬も今より昔の方が良いと思うのだろうか? 

 正直なところ、どうして自分がそんな事を気にするのか、自分でも分からない。 それでも、綾瀬がどう思っているのか、それを知りたかった。

 

「昔と今。 そんなの、どっちが良いかなんて決まっているじゃない」

 

 あまり考えずに、綾瀬は笑顔で言った。

 

「今の方が私は好き、こうして今の貴方と一緒に居られる今が、私は好きよ?」

「──。 そ、そうか、答えてくれてありがとう……」

 

 綾瀬が答えてくれた瞬間、唐突に涙腺が緩くなって、危うく涙が出そうになった。 いそいで顔を綾瀬からそらして誤魔化す。 理由はハッキリしないが、綾瀬が『今が良い』と答えてくれた事が、とてつもなく嬉しいと思っている。

 そんな俺の心の内に気付いているのかいないのか、綾瀬は小さく笑いながら、しかし僅かに声のトーンを落として言った。

 

「ねえ縁、今度は私から聞いて良い?」

「良いぞ、なんだ?」

「……どうして、貴方はそんなに柏木さんの事を気に掛けるの?」

「っ!」

 

 弾かれたように綾瀬の方に顔を向けなおす。 綾瀬はじっと、俺の顔を下から見つめていた。

 

「私、少し前から貴方がどこか変わったと思ってた」

「……っ」

「それでも、貴方は貴方だったし、私も貴方が何を考えているのか、分からなくなるなんて事無かった」

 

 そこで一旦言葉を止めて、溢れ返そうになる気持ちを抑えるように、ゆっくりと心の言葉を吐露する。

 

「……でも、ここ数日の貴方は分からないの。 いじめを見過ごせないと言うのは分かるの、でも、先生に言わないで、大変だと分かっているのに自分で解決しようとしたり、先生に直接聞こうとしたり、怪我を無視してまで柏木さんを追い駆けようとしたり……、今の貴方がどうしてそこまでするのか、何を考えているのかが、今の私には分からないの」

 

 俺と綾瀬だけの保健室で、綾瀬の独白が続く。

 

「一緒に居れば、自然に分かるかもと思ってた。 隣で貴方のする事を見れば、貴方の考えが分かるようになるかもしれないからって。 でもやっぱり分からない、分からないの……っ、貴方の気持ちが、全然っ!」

「……綾瀬」

 

 そこまで言って、遂に堪えるのに限界が来たのか、震える声で、何かに怯えるように俺の目を見つめて、綾瀬が言う。

 

「縁は……柏木さんの事が、好きなの?」

「──ッ!?」

「ゴメンね、こんな事聞いて貴方の事困らせて……、でもどうしても分からないから、後は直接聞くしか、どうすれば良いか分からなかったから……。 貴方が柏木さんの事好きなら、それも仕方ないかもって、思っちゃって……」

 

 ──あぁ、俺は馬鹿だ。

 どうして綾瀬が、あんなに柏木の件に関わるのを嫌がっていたのに、今日俺と一緒に行動したのか、その理由にやっと気付いた。

 俺は自分一人で柏木を助ける事に納得して、傍にいた綾瀬に何も話さなかった。 悠は始めから俺が動こうとする事を確信していたから何も聞かなかったが、綾瀬は違うのだ。 そのせいで、綾瀬は百八十度変わった俺の行動・考えが理解出来ず、昨日の帰りから今の今まで、ずっと悩んでいたんだろう。

 なんてことは無い、俺は柏木をどうかしようとばかり考えて、綾瀬の事をないがしろにしてしまい、結果、綾瀬の心をはやらせてしまったのだ。

 話さないと駄目だ、頸城縁の事については、信じて貰える貰えないと言うよりも、今話したら余計に混乱させてしまうかもしれない、と言う懸念から言えないが、それ以外の、どうして俺が柏木の為に動くのか、その理由を今、俺は言わないといけない。

 

「綾瀬」

「……うん」

「まず、始めに言うな。 こうして面と向かって、綾瀬の気持ちを言ってくれてありがとう。 恥ずかしい話だけど、綾瀬がどんな気持ちで今日一日いたのか、俺は全然分かって無かったんだ」

「…………うん」

「だから、俺も言うよ、どうして俺が柏木の為に動いてるのか」

 

 その言葉に、一瞬身体を震わせる綾瀬、俺は空いている方の手を伸ばして、綾瀬の肩に置いてから言った。

 

「──それはな、綾瀬がいたからなんだ」

「……え? どういう、事?」

 

 意味が分からないと言う風に俺を見る綾瀬、その顔を見ながら、俺は言葉を続けた。

 

「俺と綾瀬が初めて会った日の事、覚えてるか? 通学路の途中にある、いつも通る公園にある桜の樹の陰で、いじめられていた俺を、綾瀬が助けてくれたのが、俺達の出会いの始まりだったよな?」

「縁……覚えていたの?」

「ううん、実は最近までおぼろげにしか覚えて無かったんだ、女の子に助けて貰ったってのが、幼いながらに恥ずかしかったんだろうな、俺は」

 

 ──でも、

 

「一昨日、初めて早坂達にいじめられていた柏木を見た時から、何かずっと引っかかっていたんだ。 でもそれがどうしてなのか、俺には分からなかった。 でもな、思い出したんだよ、俺はあの時、綾瀬に助けてもらった時、綾瀬がカッコ良いって思ったんだ」

「…………」

 

 綾瀬はとつとつと話す俺の言葉を、一言一句聞き逃さないように聞いている、だから俺も、今だけは死亡フラグとか地雷なんてモノは頭から追い出して、嘘偽りの無い、本当に思っている事だけを話した。

 

「そしてもう一つ、ある気持ちが、心の中に生まれたんだ、それが何か分かるか?」

「分からない……なに?」

「それはな、綾瀬、お前のように、誰か困っている人がいたら、理由が無くても力になりたい。 そんな、綾瀬みたいになりたいって気持ちなんだ」

「──っ、じゃあ、貴方が柏木さんのいじめを解決しようとしてるのは」

「ああ。 今の俺を動かしているのは、綾瀬が見ず知らずの人を助けてくれる姿を見せてくれたからなんだ」

 

 それを、十数年の年月の中で、野々原縁は知らない内に、意識の中からそれを忘れて行ってしまってた。 それを思い出せたのは、皮肉にも、前世の記憶と意識が混じって、今までの自分を客観的に観る自分が出来たからだった。

 

 頸城縁だけだったら、死ぬのが恐くて助けない。

 野々原縁だけだったら、助けられるかもしれないが、死ぬかもしれない。

 その両方が混ざった今の俺だから、かつて野々原縁が懐いていた想いを持って、恐くても動く事が出来るんだ。

 

「だから……俺は、俺がそうしたいから、俺がそういう人間だって、分かったからそうしてるんだ。 綾瀬が言ったように、柏木の事が好きだからとか、そんなつもりで動いてるワケじゃないんだ」

「…………ほんとう?」

「うん、本当」

「うそじゃない?」

「嘘つける筈がない」

「……縁っ」

 

 自分では理解出来なかった俺の行動原理が、自分自身だと言われた綾瀬は、形容し難い声色で俺の名前を呟くと、処置を終えた俺の手をジッと見つめて、何かを考えるように黙り込んだ。

 ひょっとして、怒っているのだろうか? もしくは納得出来ないのだろうか? 数十秒程沈黙した後に、ようやく綾瀬が口を開いた。

 

「貴方がどうして柏木さんの為に動いてるのかは、分かった」

「そうか、分かってくれて良かった……」

「だって、貴方に初めて会った時の私を見たからなんて言われたら、それ以外何も言えないわよ……。 そうか、貴方はちゃんと、覚えててくれたんだ」

「綾瀬──」

「でも」

「ッ!」

 

 柔らかい口調が一変、急に冷たい口調になった綾瀬が、鋭い視線で俺の目を見てくる。 その豹変振りに、弛緩していた身体が強張る。

 

「でも、なんだ?」

「私、まだ一つだけ納得出来ない事があるの」

「……と、言うと?」

 

 綾瀬がまだ何に対して納得出来ていないのか、皆目見当がつか無いので、そのまま聞く事にした。 下手に勘ぐりして、ヤブヘビになるよりはマシだと思ったからだ。

 すると綾瀬は再び表情を変えて、冷たく鋭いものから、怒った……と言うよりも、拗ねたような、いじけた様な表情と声色になって一言、こう言った。

 

「……手」

「あ、はい?」

 

 手って、この手の事か? それがどうしたと言うのだろう。

 

「えーっと、手が、どうにかしたか?」

「昨日、図書室から柏木さんを連れて行く時に、貴方、柏木さんの手を握ってた」

「うぇ!? そ、そうだったっけ?」

「うん、しっかり握ってた。 連れて行くだけなら手首や腕でも十分なのに、下駄箱までずっと。 あれはどう言う事なの?」

「そ、それはだな……その、えっと」

 

 全く、これっぽっちも予想出来なかった。 まさか昨日の、柏木の手を握った事を追及されるなんて。

 確かに連れて行くだけなら何も手じゃなくても問題は無かった。 なのにも関わらず、どうしてわざわざ手を握ったのかと言えば……特に理由が思い浮かばない。 なんて答えれば良いんだ、こういう時? 

 

「……ぷっ、あははは!」

 

 俺が答えあぐねて、なんと言うべきか頭を捻らせていると、噴き出す様に綾瀬が笑いだした。

 

「わ、笑うなよ」

「ごめんなさい、だって、今の貴方、凄く困った顔してたから、面白くて」

「あ、あのなぁ……」

 

 謝ってからも、暫く笑い続ける綾瀬。 ある程度満足して、目に僅かに涙を溜めながら、綾瀬が言う。

 

「うん……、私、貴方がそうやって私の為に悩んだりする顔、好きかも」

「や、やめろよ、冗談にもならない……」

 

 いや本当、洒落にならないからやめて欲しい。 女の子らしくて素敵かもしれないが、聞き様によっては恐ろしい思考に繋がるのだから、いや本当に。

 

「じゃあ、はい」

「……ん? 今度はなんだ」

 

 綾瀬が俺に手を差し出して来た。 仲良しの握手でもしようと言うのだろうか。

 いや、待てよ、これと同じような事が、朝にもあったんじゃなかったか? そう思っている矢先に、綾瀬が微笑んで、からかう様な口調で言った。

 

「今日、家に帰るまで手を繋いで帰ってくれたら許してあげる、簡単でしょ?」

「え、ちょ、帰るまでずっとか!? 今から!?」

 

 それは、何と言うか、途轍も無く恥ずかしいぞ! 朝に渚の手を握ったが、あれは風邪をひいて精神的に弱ってたし、何より妹だから別に気にしないで済んだが、幼馴染が相手で同じように手を繋ぐなんて、そ、そんな事お前……! 

 羞恥心とその他諸々な感情が俺の頭の中でグジャグシャになって、ヒキガエルの様にピクピしていると、途端に不安そうに綾瀬が言った。

 

「……私と手を繋ぐの、そんなに嫌だ?」

「い、いや、そんな事無い! ただ、いくら幼馴染とは言え、同い年の女の子の手を握るのには、一定の勇気が必要でだな」

「私の事、ちゃんと女の子として見てくれるんだ、嬉しい」

「〜〜ッ! だから、そういう言葉を──あぁもう! 分かったよ!」

 

 これ以上聞いてるこっちが赤面するようなセリフを言われ続けたら、こっちの方が辛抱たまらない。 なので、半分は自棄で、もう半分は恥ずかしいのを誤魔化す為に、絆創膏の貼って無い方の手で綾瀬の差し出す手を握った。

 

「……ほら、これで良いか?」

「うん……、貴方の手、大きいね」

「ま、まあな」

 

 恥ずかしさを誤魔化す為に握ったものの、いざこうなるとまた別の恥ずかしさが襲って来る。

 繋いだ手から伝わる綾瀬の暖かさを感じながら、俺はこの何とも言えない空気を払拭しようと、取り敢えず思いつく事を言った。

 

「こ、こうして手を繋ぐの、いつ振りだったっけ?」

 

 確か、小学何年生かまではこうして手を繋ぐ事がよくあったと思う、でも最後からどれ位経ったのかなんて、分かる筈が──、

 

「…………七年と、三十五日振りだよ」

「え? それ、マジで?」

「うん」

「……そ、そうか。 よく覚えてたな」

 

 その数字が本当かどうか、覚えていない俺には真偽の程は分からないが、繋いだ手から、暖かさだけで無く、綾瀬の気持ち全部が伝わって来る気がして、不思議な気持ちになる。

 

「ほ、ほら、もう遅いから、早く帰ろう?」

「お、おう、そうするか」

 

 まだ互いに恥ずかしさがあったものの、最後まで繋いだ手を離さずに、俺達はこの日、帰路についた。

 

 

 翌日、柏木園子は、学園に来なかった。

 

 

 ──to be continued




いい加減柏木園子編(仮称)を終わらせたい今日この頃。約三万字進んだのに事態が思うより進展しない事に絶望しながら、また一ヶ月執筆の為にパソコンに触る事をしない日々が始まるのであった。

プロット上では、次で柏木園子編(仮称)は終わりそうです、それがそのまま最終回になるのかは、まあ、あれですよね。

しかし、ヒロインが複数いると、バランス良く出番を配分するのが大変ですね、その辺、ハーレムのごとくヒロインを複数出してる商業作家の方々はやはり凄いなぁと、しょうもない事を思ったりします。話の中心は柏木園子さんの筈なのに、明らかに柏木園子さん、出番少なかったですよね、何をしてるのやら。

話題は変わりますが、幼なじみ属性と言うのは、近年恋愛物において負けフラグになっている気がしてなんか残念です、主人公の一番近い場所にいて、いちゃコラさせやすいので、酷い言い方をすれば、舞台装置に便利だからですかね?妹系キャラも似たような気がします、でも義理じゃなくて本当の妹だとばっちりメインヒロインする場合もあるので、日本って恐い。

取り敢えず後書きはここまで、またいつ更新するか分かりませんが、きなーがにお待ちください。

では、さよならさよなら


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七病・月はいつもそこにある

前に投稿してからどれくらいたったっけー、半月くらいかなー(惚け)

それでは、始まりはじまり


 柏木園子が学園を欠席した。

 その事実を知ったのは、未だに熱が引かない渚を寝かしつけて、昨日より早く教室に着いた後……ではなく、朝のホームルームが終わった後。 一時限目が始まるまでの十分間の業間休みの時だった。

 俺にその事実を教えたのは、今日も今日とて頭のリボンが可愛らしい幼馴染では無く、人間百科事典とも言える情報量を誇る親友でも無かった。

 そもそも、いつもは俺よりずっと前から教室に居て、俺に挨拶をしてくる親友は、今日珍しく俺よりずっと遅く、朝のチャイムが鳴る寸前に教室に入って来た。 生真面目とまでは行かないものの、基本校則に従順な人間だけあって、俺だけじゃなく、他のクラスメイトも珍しがる事だった。 そんな親友に対して俺は、ホームルームが終わった後、昨日手に入れた柏木絡みの情報を伝える為に、そして遅刻しそうになった理由を尋ねる為に、幼馴染──河本綾瀬と共に親友のもとへ向かった。 そんな俺達に、親友──綾小路悠はこう言った。

 

『今日の昼休みに、二人に言わなければならない事があるんだ、空き教室に集まってくれるかな』

 

 空き教室とは、以前俺が柏木いじめの主犯──そうと決まったわけでは無いが、とりあえず主犯っぽい女子生徒、早坂真弓に呼び出された無人の教室の事だ。 突然の申し出に、首を傾げた俺達であったが、話の内容はその時に話すと言うとそれっきり黙ってしまい、どこか話しかけにくい雰囲気だった為に、遅れた理由を聞くのも止めて悠の言う通りにする事にした。

 

 それが、今からちょうど一分二十六秒ほど前の事である。

 じゃあ今俺は何をしているのかと言うと、なんと悠との約束より早く、別の要件で空き教室にいた。 そして、そこに俺を呼び出した人物から、柏木園子が休んだ事を知らされたのであった。

 その人物は他でもない、早坂真弓だった。 先にも名前を挙げた、柏木いじめの主犯から直接柏木の欠席を教えられた事になる。 何故わざわざそんな事を俺に話したのか、当然疑問に感じたが、それを追及するまでも無く、本人の口から理由は説明された。

 曰く、今まで何をされても決して学園を休む事が無かった柏木が、今日初めて休んだので、俺が何か余計な事を言って自分たちを嵌めようと、画策してるのではないかと探りに来た、らしい。 今まで散々──自覚の有る無しに関わらず、学園を休んでもおかしくない事し続けていた筈なのに、よくそんな事を人に聞けるもんだ。 『自分ではそんなつもりは無かった』、これはどのいじめをする人間も思っている、共通の言葉のようだ。

 

「ちょっと、黙ってないで何か言いなさいよ」

「……ん? あぁ、スマンスマン」

 

 いけない、まだ聞かれた質問に対して返答をしていなかった。 あんまりにもあんまりな質問だったから、答える事すら躊躇われてしまった。 正直な話、こんなバカみたいな話にいちいち付き合う義理は無い、その気になれば黙って自分の教室に戻る事だって出来る。 だが、せっかくこうして柏木問題の中心人物が目の前にいるのだから、ここは少し踏み込んで、『いじめをしている側』の主張も聞いてみるとしよう……胸糞悪くなる事は避けられないだろうがな。

 

「俺が何か言ったんじゃないか、そう言う質問だったな?」

「さっきからずっとそう言ってるでしょ? 何、アンタ耳悪いの?」

「いちいち悪口挟むなよ、舌打ちしたくなるだろ。 ……で、お前の言う『何か』ってのは、具体的にどういう事だよ」

「ハァ? 言ってる意味がわかんないんですケド? 日本語で話してくんない?」

 

 だからその最後の一言がいちいち気に障るから止めろって言うんだよ、言葉の最後に相手を貶さないと死ぬ病気でも患ってんのかお前は。 売り言葉に買い言葉で口にしたくなる衝動を抑えながら、俺は用意した言葉を、努めて冷静に早坂へ投げかけた。

 

「じゃあ分かりやすく言うよ。 お前らにとって俺に言われたら困る言葉って、どんな内容なんだよ。 どんな言葉を言われたらお前ら三人組は困るんだ?」

「益々意味わかんないし。 馬鹿なの?」

「こっちこそ、柏木に何か言ったんじゃないかって言う質問自体、俺に聞いてどうすんの、馬鹿じゃねえのって言いたいんだが」

 

 あ、言っちゃった。 けどまぁいいや、言ってもどうせ大した事じゃないし。 渚は家にいるから何かされる必要も無いし。

 

「あ、ひょっとしてアレか?」

「アレって何よ」

「自分たちのしている行動が、他人に知られたらマズい行為だって、分かってるのか」

「何それ……さっきからウザいんだけど」

 

 ウザいんならわざわざ呼び出すなよ早坂。 こっちだってお前なんかと朝っぱらから会話なんてしたくないんだからさ。

 言葉こそ強気な物だが、今の早坂は明らかに態度に変化が生じている。 まるで図星を突かれた時の動揺に似ているが、この場合においての『図星』は『自分たちがいじめを行っている事』だから、あくまでもいじめはしてないと考えているコイツにとっては、図星を突かれたというのは間違いかもしれない。

 

「というかお前、さっきからハァだのウザいしか言ってないけど、本当に日本語理解出来てないの、お前なんじゃね?」

 

 わなわな、という表現がとても似合う仕草をしながら、早坂の顔が段々と熟れた歯肉のように赤くなっていく。

 まあ流石にここまでコケにされたら頭に来るだろうさ。 直後、苛立ちを隠す事も無く早坂が怒鳴った。

 

「さっきから生意気なのよアンタ、シスコンの変態なくせして!」

「シスコンでも無ければ変態でも無い、同級生だから年齢も同じ、どこに生意気なんて要素があるんだ? 一度単語の意味を調べた方が良いぞ」

「その一言が余計だって言ってんのよ、アンタ、自分の妹がどうなっても良いの?」

「一言が余計だと言うのは、今のお前に見事なまでにブーメランしているんだが? 渚はまぁ、現在風邪で絶賛自宅療養中だから暴行脅迫その他諸々やれるもんならやってみな、どうぞ。 幾らでもご自由に」

「……ッチ!」

 

 ことごとく自分の言葉や脅しが躱されて、遂には舌打ちまでする始末。 整った顔立ちが台無しだと言いたくなったが、半分以上自業自得だし、煽ってる俺に言われてもかえって逆効果にしかならないのでやめた。 というより俺が舌打ちしたいくらいなんだから、お前も我慢しろよ。 俺の質問にだって論点すり替えて答えないし、まあ質問に質問で返した俺も悪いかもしれんが。

 

「と言うか、たった一日来なくなっただけでそんな焦るくらいなら、始めから柏木に何もしなけりゃいいだろ」

「何、あたしらが悪いって言いたいわけ?」

 

 ──来た、この言葉が欲しかったんだ。 今の一言は自分たちに非が有ると思っている人間には決して口に出せない言葉だ。 ここから早坂の考えている事、主張を聞き出そう。

 

「違うのか? というか、お前らは自分のしている行動に疑問を持っていないのか」

「はぁ? あたし達が園子にしている事のどこに、疑問を挟む余地があんのよ」

「無いと言うのか? まるっきり悪くないと?」

「そうよ」

「悪いのは一切合財が柏木だけで、自分たちは常に正しいと?」

「しつこい、さっきからそう言ってるじゃない!」

 

 こいつは……。 本当に去年、園芸部の顧問が学園を去ったのは柏木が何かしたせいだと信じているのか。 ここまで念を押されて尚、ハッキリ言い切るぐらいだ、よほど自分の考えに自信があるんだろう。

 

「だが、実際問題、お前らがしてきた事が原因で、今日柏木は休んだんだろ?」

「知らないわよそんなの、あんたが余計な事吹き込んだか、アイツが勝手に休んだかってだけじゃない、何でアタシらのせいになんのよ」

「自分たちに非が有ると思っていたからこそ、俺が何か余計な事を吹っ掛けたんじゃないかと思って、聞きに来たんじゃないのか?」

「……ッ、それは……」

 

 再び言葉に詰まる早坂。 だが先程ほど時間が掛からない内に、早坂がもう話は終わりだと言うように言い放つ。

 

「ふざけないで……悪いのは、被害者ぶったアイツの方なんだから!!」

「あ、おい……、行きやがった」

 

 捨て台詞を残して、早坂は逃げるように空き教室を出て行った。 いや、『ように』では無くまんま逃げか。 時間的にもあと数分で一時限目が始まるから、まぁちょうど良かったのではあるが……。

 それに、最後の最後にようやっと、アイツの本当の主張を聞く事も出来た、試みは成功したと言えるだろう。 当然、予想した通りに胸糞悪い気分にはなったが。

 

「悪いのは、被害者ぶったアイツ、か……」

 

 悪い事をしているのは、というより、先に悪い事をしたのは相手の方だ。 だから自分たちが今している事は、その悪い事に対しての罰である。 決して自分たちに非が生じるような事では無い、非があってはならない、もうここまで来たらそう信じるしかない。 きっと、それが早坂達の考えている事なのだろう。

 今の言葉の応酬の中で、早坂に本当の事を言おうと思わなかったワケでは無い。 もし俺が真実を早坂に話して、早坂がそれを信じれば、それだけでこの件は解決したかもしれないのだから。 だが、俺はそうしなかった、『真実を話す』という選択肢を、俺は選ばなかった。

 何故なら、たとえ言っても、こちらにはそれを裏付けさせる程の確たる証拠がまだ無いから。 早坂が園芸部の顧問に直接尋ねれば信じるだろうが、それはあり得ない事。 今は何を言っても無駄……そう思ってはいるのだが。

 

「……やっぱ、言えば良かったかもしれないなぁ」

 

 もし、今の俺の立場に立って物を視る事が出来る──例えば、俺を中心とした物語があって、俺の行動や、周りの物事を客観的に観ている/読んでいる人がいたら、今の俺をどう評価するのだろうか? 共感するか、完全に納得は出来なくても納得するか、もしくは非難するか……益体の無い考えではあるが、俺には最後の評価をする人が多い様な気がした。

 

「……そうはいっても仕方がないよな、それが俺の決めたやり方なんだから」

 

 頭の中でアイススケートのようにクルクル踊る、『偽善者』という単語を意識から追い出しながら、俺は自分の教室に戻った。

 

「──あ、縁!」

 

 教室に戻ると、俺を待っていたのか、綾瀬がすぐさま駆け寄ってきた。

 

「大丈夫だった? さっきの、早坂さんだったでしょ、何言われたの?」

「うん、柏木が今日、学校を休んだらしい」

「え!?」

「で、俺が何か入れ知恵したんじゃないかって探ってきた」

「そうだったんだ……まあ、あながち間違いでも無いけど……」

「……まぁね」

 

 今更ながら早坂のしてきた質問に対する答えを言うと、俺の回答は『そうとも言える』だ。 なんとも日本人らしい、曖昧で奥深い言葉だろうか。

 別に柏木に『学園を休め』だとか、『早坂達に復讐しろ』だの唆してはいない。 だが、確実に柏木の心情に変化を与える行為をした事は否めない。

 

『どうして、園芸部には柏木さんしかいないのか、その理由をだよ』

『そして分かったよ、どうしてあいつらがあんたをいじめるのかも』

『だけど、一つだけ分からない。 どうして、あんたは本当の事を早坂達に言わないんだ? 何で悪いのは自分だなんて言うんだ?』

 

 以上のように捲し立てて、俺にずっと自分の胸の内にしまっていた事を次々と明け透けにされてしまったんだ。 聞いた本人が言うのもなんだが、確かにショックで学園を休んでもおかしくは無いかもしれない。 それにしても、学園を休む理由がいじめを受けるのが嫌だからでは無く、俺に会いたくないからってのも酷い話だとは思うが。

 

「何で、そこまで頑なに話そうとしないのかなぁ、柏木は。 同じ女子視点で見て、何か思い浮かばないか?」

「う~ん。 そう言われても……私と柏木さんじゃ、性格も考え方も全然違いそうだし」

「だよ、なぁ。 柏木の方がずっと静かで大人しいだろうし」

 

 同じなのはヤンデレ属性の資質が有る事くらいか、なんてこった。

 

「あ〜、その言い方。 縁は大人しい方が良いの?」

「……別に。 ピャーピャー騒いでる奴よりは、静かな方が良いってだけ。 早坂みたいなのと話した後だと、余計にそう感じるだけ。 別段静かな女性がタイプってワケじゃないよ」

「そ、そっか。 良かった……」

 

 そこで安心するな、そこで。 こっちはこっちで別の意味で安心したけど。

 

「でも、そうなるとこれからどうするの? 聞き出せる情報は全部分かったみたいだし、もうこれ以上は誰に聞いても新しい事は分からないんじゃない?」

「そうなんだよな、だから後は柏木本人からしか聞く事が無かったってのに……」

「その柏木さんが、休んじゃったからねぇ……」

「悠が昼休みに話す内容が、俺達の知らない情報である事を祈るばかりだな」

「そうね……。 その綾小路君だけど、随分と落ち込んでるみたい」

「本当だよ……いつもの調子と全く違う」

 

 遠目で悠の席を見ると、普段の明朗快活さが嘘のように塞ぎ込んでいる。 艶のある筈の金髪も萎びかかっているみたいで、今の悠は枯れかけの向日葵の様だった。

 本当、昨日何があったのだろうか、放課後までは元気だったのに。 たしか『僕は今日、家でもう少し深くこの件について調べてみるつもりだけど』と言ってたが、その後に何か、落ち込むような事実でも分かったのだろうか。

 

「なんにせよ、昼休みまで待つ他に、どうしようも無いか」

「……はぁ」

 

 朝から心に靄が掛かったような気分だったが、そんな俺達の心情などお構いなしにチャイムが鳴り、一時限目が始まった。 チャイムの音を聞きながら、俺達は互いにため息を吐きながら、それぞれ自分の席に戻っていった。

 

 ……

 

 普段は大して気にもしないのに、いざと言う時になると、異様に時間の流れが遅く感じると言う経験は、俺だけじゃなく多くの現代人が体験した事があるだろう。

 お湯を入れたカップラーメンが出来上がるのを待つ時、遅刻しそうな時に乗ったバスが信号で止まった時、踏切が鳴り終わるまで待つ時、その他諸々。 普段は大した事無い筈の、たかが数分や数十秒が、その時だけ何故か長く感じてしまう。

 勿論それは自分が勝手に感じているだけで、時間は常に同じリズムで平等に時を刻んでいる。 そうだと分かっていてもやはり、人間は主観で幾らでも時間を長くしたり短くしたりする生き物なのだ。 本人の意思に関係なく、という言葉が付くが。

 そして今回も、昼休みに話すと言う悠の話の内容が気になると言うのに、図ったみたいに時間の経過が酷く遅く感じた。 普段は授業の息抜きをするための時間である業間ですらも、この時に限ってはひたすら邪魔でしかなかった。 その逸る気持ちが表に出ていたのか、悠以外の友人や、授業中の教師にまでわざわざ声を掛けられて心配されてしまった、大変恥ずかしい。 そうやって、イタい思いをしながら授業と業間をやり過ごし、ようやっと昼休みが訪れた。

 

「さてと、話してもらうぜ、悠」

 

 朝の約束通り、空き教室に集まってから、俺は悠にそう言った。 言葉に頷いた後、悠が『その前に』と、俺と綾瀬に問いかけてくる。

 

「まず、二人が昨日どこまで分かったのか、話してくれるかな」

「? ……おう、分かった」

 

 俺は綾瀬と昨日分かった事──園芸部顧問が起こした問題、理事長による学園の生徒に対する事実の黙秘、柏木園子本人やその家族の不可解な行動、そこから生じた園芸部員の不和と、いじめの原因、知り得た全てを話した。

 話の間、悠は何度か痛々しい表情になり、全て聞き終えた後は、腐ったリンゴのように憔悴した、何かを諦めるような雰囲気になっていた。

 

「そう……か、本当に、全部分かったんだね」

「ああ、思ったより早く事の全貌が掴めた、これもお前のおかげだよ」

「どうして理事長や柏木さんが事実を隠してるのかは、分からないままなんだけどね……。 肝心の柏木さんも、今日は休んで居ないみたいだし」

 

 それに、と綾瀬は首を傾げながら言葉を続けた。

 

「昨日帰ってから考えたんだけど、やっぱり変よね。 学園の先生や柏木さんのご両親が何もしなかったのって」

「ああ、そうだよな。 たとえ理事長が口止めさせたからって、内容が内容だし、絶対に内部告発とかあってもおかしくないのに」

「それに、柏木さんのご両親は始めは学園に抗議してたんでしょ? それなのに、急に何も言わなくなって……これって不自然よね?」

 

 改めて浮上した不可解な出来事に、互いに疑問をぶつけあう俺と綾瀬。 その会話を聞きながら、悠が手を細かく震わせながら、口を開いた。

 

「──その事に、ついてなんだけど」

 

 いや、手だけでは無い。 声もまた、先程までよりなお暗く、萎びれた稲穂の様に震えていた。 その様子にすぐさま尋常では無い物を感じ取ったが、直後の言葉でそれは確信に変わった。

 

「……今回の件。 その事実の隠ぺいも含めて、僕の家……綾小路家が関わっていたんだ」

「は……はい?」

「綾小路君の家が? どういう事?」

「……うん。 長くなるけど、聞いて欲しい──」

 

 今までわざわざ話すような事でも無いし、トラブルを招く恐れもあったからと悠は他言しなかったらしいが、悠の生家である綾小路家は、俺たちが在籍しているこの良舟学園の設立時からの関係者であり、同時に一番の出資者だったようだ。

 出だしの一発、この事実だけで大したものではあるが、元々悠の家が大金持ちだった事は俺も綾瀬も知っていたので、何も感じないという訳では無いにしても、それ程驚くような内容でも無かった。

 だが問題はここからで、この綾小路家という一族は現在一枚岩ではなく、現在綾小路家を取り仕切っている悠の祖父が過去に複数の女性との間に子を作った事で、それぞれ母親の違う四人の子供が生まれ、今その内の長男と、悠の父親である二男との間で、対立があるらしい。

 理由はあまり言いたくないからと簡単に説明されたが、綾小路家は代々家督は一族の第一子、それも男子に継がせるという習わしがあり、当然異母四兄弟の中でも、自然に長男へ家督相続権が行く筈だった。 しかし、その長男の方には娘しか生まれず、現在のところ、綾小路家で最も若い男子が悠という状況だった。 それが家督相続の争いに繋がっているらしい。

 

「本家のさく……従妹と僕は、生まれた年も同じだった。 習わしを変えて女にも家督を継がせるようにしたい叔父と、僕を利用して家督を手に入れようとする父で、対立が出来てしまったんだ。 ……まだ、僕も従妹もお腹の中にいた時からね、馬鹿げているだろう?」

 

 しかしやはりそんな状況を快くないと思っている者も少なくない数いて、そんな人たちからの声を無くす為に、両家の共同出資という形で表面上は和解した姿を見せるという目的で出来たのが、他でもないこの良舟学園だった。 この学園が設立してまだそれほど経ってないのは分かっていたが、思わぬ形で自分の母校が建てられた理由を知って、正直この時点でお腹一杯な状態だった。 だが、一番大変なのはこの話の後にあった。

 さて、パンフレット等では『子ども達の可能性を広げる為の~』などと書かれておいて、実際は大人の事情がたっぷりな理由で生まれたこの学園。 表面上の和解とは言え、二つの綾小路家が出資者になっており(金額は本家の方が僅かに多いらしい、とても幾らかなんて聞けないが)、更には去年からは対立の切っ掛けで、家督相続のカギともなっている悠が在籍する事になり、嵐の前の静寂の如く、両家の間に不安定な状況が続いていた。

 そんな一触即発な所に、両家共に看過できない、とんでもない事態が発生した。 そう、俺達が解決させようとしている、柏木園子の事件だ。

 自分たちが出資している学園で、未遂とは言え教師が生徒に対して性的な暴行を行い、更にその他にも余罪があった。 それが広く社会に広まったら、綾小路家の名に泥を付けてしまう所か、どんな事態に発展してしまうかも分からない。 最悪の場合どちらにも家督相続の権利が無くなってしまうかもしれないのだ。 『お金で買えないモノは無い』が座右の銘である綾小路家にとって、その程度毒にも薬にもならないスキャンダルなのかもしれないが、家督相続権が消えてしまう可能性を孕むこの事件を、素直に社会に広めるワケにはいかなかった。

 その結果、二人は初めて本当の意味で結託し、当主である自分たちの父すら騙し、互いのコネクションを使って、事件を迅速かつ丁寧に『無かった事』にした。 悠曰く、『ギリギリ法に触れない、黒に近い白のような行為』を行ったらしい。

 両家が協力して行った隠蔽工作のお陰で、事件は事件では無くなり、事実を知るのは、綾小路家の息がたっぷりと掛かった理事長その他、学園で重要な位置にいる人物数人と、実際に事件の場所に居合わせた、幹谷先生のようなごく僅かの教師だけになった。 そのごく僅かな教師達の中でも、隠蔽に対して反対した者は悉く社会的に抹殺され、真実を叫ぶ者はいなくなってしまった。 昨日俺達に幹谷先生が話してくれたのは、本当に危ない事だったのだと分かる。

 学生たちには、ホームルームの時に教師が一人辞めたという、嘘では無いにしても決して真実ではない事のみを伝え、抗議を起こした柏木の両親にも、綾小路家が二人が勤めている会社に関わりのある会社や人物などに手を回して、間接的に封殺させた。

 

 見事に、そして完璧に、真実は花壇に埋めた生首の如く、見えなくなってしまったのである。

 

 さて、そうなった結果、事実を知らない園芸部では何が起きたのか。 突如理由も分からずに学園を去った、人柄の良く、一見問題が起こりそうも無い顧問。 様子のおかしい柏木園子。 そういえば、柏木が残った日を最後に、顧問は学園から去って行った、それはつまりあの日柏木が……。 正直、短絡的にも程があるが、柏木自身何も言わなかった事が手伝って、今の様に早坂達の中で顧問が辞めたのは、柏木が何かやったのだと言う構図が出来上がってしまったのだろう。 高校一年生とは言え去年までは中学生だった者達だ、まだ理性的な考えが出来なくてもおかしくないのかもしれないが……。 早坂達の行動に馬鹿々々しさばかり感じてしまうのは、こうして全部の事実を知っているからこそできる思考なのだろうか? 

 しかし、ここまで聞くと確かに、悠が誰もいない空き教室で話したいと言うワケだ、こんな話、教室で気軽に話せる内容じゃない。 ここまで聞いてきた俺や綾瀬だって、質の濃い話を聞かされて、正直頭がいっぱいいっぱいなのだから。 だがようやっと、悠がどうして俺達に朝から顔を合わせられなかったのかが分かった。 つまるところ、だ。

 

「今回の件、ありとあらゆる面で、綾小路家が原因になっている。 柏木さんが苛められているのも、縁や河本さんが解決のために苦悩しているのも、全部僕たち綾小路家のせいなんだ……本当に、ごめん」

『…………』

 

 全てを話し終えた後、空き教室には沈黙だけが続いた。

 ──綾小路家の不和

 ──学園設立の理由

 ──事件の裏で起きていた事実

 

 いずれもが、ただの一学生にしか過ぎない俺と綾瀬にとって、重すぎる話だった。

 正直なところ、話の内容を十全に理解しているかと聞かれたら、半分も理解出来ていないとしか言う他無いだろう。

 だが、それでは駄目なのだ。 理解しなければ。 悠が恐らく腹を括って話してくれたこの事実は、今回の件を解決させるにおいて非常に重要な情報なのだから。 十全が無理でも、せめて八分目ぐらいは理解しておく必要がある。 そして、問題はそれだけでは無い。

 全ての元凶ともいえる綾小路家。 その人間であり、俺や綾瀬の友人でもある綾小路悠。 彼に対して、俺は何か言わなければならない。 謝罪されたのだ、それに対して返事をする義務があるだろう。

 隣の綾瀬に視線を向ける、すると目が合った。 その綾瀬の視線が、言葉にしなくとも何を伝えたいのか、俺は然程労せずに理解出来た、『目は口ほどにものをいう』とはこの事を言うのだろう。

 

『貴方の、思うように、任せる』

 

 聞きようによっては薄情だと言えるかもしれないが、柏木の件に首を突っ込んだのはあくまでも俺だ。 綾瀬は俺の行動に納得はしたがあくまでも俺の付添いでしか無く、俺がこれを機に事件への関わりを止めると言えばそれに従うし、なお解決に向けて行動すると言えば、やはりそれに付き合うだけなのだ。

 そしてこれは非常に嫌な言い方ではあるが、俺と綾瀬は幼馴染、俺と悠は親友と言う関係があるが、綾瀬と悠の関係は、あくまでも俺と言う共通項を介した関係でしか無く、そこまで深い関わりが無い。 その証拠に、二人は今まで互いに苗字と『さん』『君』付で呼び合い、親しい会話をした事が無い。

 そんな関係の中、俺がここで悠に対して縁を切ると言えば、恐らく綾瀬も、思うところは合っても素直に俺に倣って悠との関係を断つと思う。 おこがましい考えかもしれないが、きっと悠もそれが分かっているからこそ、ずっと陰鬱とした雰囲気で、俺と綾瀬に話したのだろう。

 ふざける事は許されない。 ここで悠を突き放すのも、変わらず友人としてあり続けるのも、この後の自分に掛かっている。 それならば、自分の今抱いている気持ちを素直に言う事にしよう。

 

「……悠、お前の言いたい事は分かった」

「……うん」

「それでな……」

 

 ぎゅっと、悠の拳が強く握られる。 拒絶か許容か、次に発せられる俺の言葉に悠が全神経を向けているのが分かった。 ……だからこそ、恐らく次に悠が浮かべるであろう表情も、簡単に予測する事が出来た。

 

「そんな話された後に謝られても、正直困る」

「……え?」

 

 ほら、やっぱりきょとんとした顔になった。

 

「いや、お前としてはきっとここで『お前には失望した』とか、『そんな事言うな、俺達友達だろ!』みたいなセリフが来るもんだと思ってたかもしれないが、今言った通りに、俺にとってはただただ困るだけなんだよ」

 

 きょとんとした顔が発展して、困惑しだす悠。 綾瀬はというと、俺が何を言い出すのかと、半分興味深そうにしながら俺の話を黙って聞いている。

 

「だってそうだろ? お前のご家族の対立とか、学園が出来た理由とか聞かれても『大変だな』とか『そうだったのか』ぐらいしか言えないし、事件を隠蔽(いんぺい)していた事だって、今回の問題の真相ではあっても、物証が無いから早坂達に対しては効果が不十分だ」

 

 実際にはそんな事無いのだが、ここは敢えてそう言わせて貰う事にした。 実際、綾小路家がどれ程の影響力を持つのかが分からなくても、悠の家が大金持ちだと言う事は広く知れ渡っている筈。 その悠が直接さっきの話をすれば、それだけで十分早坂達を納得させられる可能性はあるのだから。

 

「それに、そんな話を今さらされても、綾瀬はともかく俺には何一つお前を責める資格がないんだよ」

「……どうして、だい?」

 

 悠がようやっと俺の言葉に対してまともな言語で反応してくれた。 さあここからだ、焦る事でも無いが、俺の正直な気持ちをしっかり悠に伝えなければ。

 

「だって、今日まで柏木の問題についてここまで情報を得る事が出来たのは、全部お前のおかげなんだから」

 

 そう、俺が柏木の問題を解決させると心に決めた日の夜に悠に電話してから、すぐに悠は情報を集めてくれた。 それこそ、俺が何日掛けても集めようがない様な細かい情報までしっかりだ。 本来ずっと時間が掛かりそうだった事を、悠はその何倍もの速さで成してくれた、他ならぬ俺なんかの為に、だ。

 

「そんなお前の家族が実は黒幕でしたって言われても、俺は今日までその黒幕の力に甘えていたんだから、何も言う権利が無いんだよ。 そりゃあ、綾小路家に対して何も思わなかったわけじゃないぜ? でも、それはあくまで隠ぺいをしたお前の父親や叔父さん相手にでしか無くて、それにしたって証拠なんか無いに決まってるんだから、結局恨みつらみとか考えるだけ無駄ってこと」

 

 困惑から驚きの表情へと、悠が変わっていく。 ここまで来てようやく俺が悠に対して悪い感情を懐いていない事を察したらしい。 全く、普段の異様なまでの洞察力の高さはどこに言ってたのやら。

 

「長くなったが、つまり俺が言いたいのは、俺にはお前を許す事も許さない事も、始めから出来ないから、謝るなって事。 それだけだ、OK?」

「…………」

 

 俺が言い終わると、再び沈黙が場を支配する。 しかし、今の沈黙は先ほどまでの鬱屈とした沈黙では無く、どこかほわほわとした、軽い雰囲気の沈黙だった。

 どのくらい続いただろうか、体感でも然程長くない程度の間を開けて、悠が口を開いた。

 

「……参ったなぁ」

 

 言葉の覇気こそ先程までと同じ弱々しい物であったが、その言葉を話す口元や雰囲気は、明らかに昨日までの、『普段通り』の悠のそれであった。

 

「君にそう言われたら、僕はもう、他に言いようが無いや。 あるとすれば、意地でも物的証拠を掻き集めて、早坂さん達に証明する事や、柏木さんに謝るしかないよ」

「十分あるじゃねぇか」

「うん……そうだね、十分過ぎるぐらいにだ」

「それが分かってるんなら結構。 じゃあ後はどうする?」

 

 俺がそう言うと、悠は『ははは……』と小さくではあるが今日初めて笑った後、両頬を掌で軽くたたいた。

 

「うん、手間を取らせたね……。 こんな所で時間を潰す余裕は無かったよ」

 

 そう言い切った顔と声は、もはや直前までの陰鬱としたものでは無く、完全に普段通りの、皆が知る、満開の向日葵のような綾小路悠だった。

 それと同時に、もう悠の話は終わった。 まどろっこしい会話は終わり、ようやっと柏木の件について話しをする事が出来るようになった。 昼休みはあと三十分あるが、今まで話し合えなかった分を埋める為に全て使った方が良いだろう……。 そう思っていた矢先に、今まで黙秘を続けてきた綾瀬が話し掛けて来た。

 

「二人とも、仲直りしてくれたのは良いんだけど、今日柏木さんがいなくて、もう分かる情報は全部分かったけど、これからどうするつもり?」

『…………』

 

 そうだ、すっかり頭から消えていたが、今日柏木は欠席しているのだった。 綾瀬の言う通りもう知り得る情報は全て知り得た今、出来る事は柏木本人から話を聞く事だけなのに、肝心の柏木がいなけりゃ、何の意味も無いじゃないか! 

 

「やっべ……柏木の家知ってそうな奴って誰だろ」

「僕も、柏木さんの家がどこにあるのかは詳しく調べて無かった……失敗した」

 

 情けない話だが、二人して詰んでしまった。

 

「悠、今すぐに柏木の家を見つけるって、出来る?」

「流石にそれは……」

「だよな……まぁ、出来ても頼むつもりないけどさ」

 

 聞いといてなんだが、さっき綾小路家の黒い話を聞いたばかりなのに、すぐにその力にあやかる気にはならない。

 

「じゃあ、明日土曜日だし、その時に柏木の家探すか?」

「縁、それは無理だよ」

「え? 明日何かあったっけ?」

 

 明日は土曜日だ、特に何も無いはずだが……そう思っていると、悠が残念そうに言った。

 

「忘れたのかい? 明日は登校日だよ」

「……あ、ああっ! そういえばそうだった!」

 

 トンと忘れてた。 この学園は二年生になると、毎月第二土曜日と第四土曜日は、祝日じゃない限り基本的に登校しなければいけないのだ。 この状況下では非常に厄介な校則だと思わざるを得ない。

 

「じゃあ後はもう、今日の放課後に探すしか無いか……。 部活とかの大義名分も無いのに、第三者から見て何の関わりも無いように見える俺達が、柏木の住所聞くワケにもいかないからな」

「そうだね……、昨日縁が聞いたっていう顧問の先生にも聞き出すのは厳しいと思う。 簡単に生徒のプライバシーを教えると、今はうるさいし、何よりも──」

「あんまり柏木に関する行動を教師達に知られるのも良く無いってか」

「うん、ご明察」

 

 悠の話から、教師も今や信用出来ない対象になってしまった。 下手すれば俺たちにも口止めがかかるかもしれない、例えばありもしない事をでっち上げて生活指導とか……考えるだけでウンザリだ。

 万事休す……とまでは言わないが、それに近い空気が俺と悠の間に立ちこもる。 勿論手の施しようはあるのだが、渚の熱の事もある。 早急に問題を解決させたいと言う気持ちと、今は放課後に遅くまで家を空けたままにしたくない、と言う気持ちがせめぎ合ってハッキリとした答えを出せない。

 そんなお通夜もかくや、というような雰囲気の中、綾瀬が躊躇いがちに言った。

 

「えっと……私、多分分かるかも。 柏木さんの、住んでる家」

「──え?」

 

 綾瀬の言葉に、一瞬思考が止まる俺と悠。 そうして、たっぷり二秒思考停止した後、先に活動を再開したのは悠の方だった。

 

「それは本当? 河本さん」

「う、うん。 ハッキリ分かるワケじゃないけど、大体の場所なら」

 

 次いで、脳の活動が再開した俺が綾瀬に聞いた。

 

「どうして知ってるんだ? お前と柏木は無関係だったんだろ?」

「うん。 そうなんだけど、前に一回だけ、柏木さんが帰ってる姿を見た事があるの」

「帰ってる姿を?」

「去年の冬くらいかな、家族と一緒に隣町のレストランに行った帰りの車の窓から、柏木さんが外灯の照らしてる道を一人で歩いてて、一軒家に入る所をみたの。 その時はそれが誰か分からなかったんだけど、一緒に見てたお母さんが『危ないね、こんな時間に』って言ってたのを何となく覚えてて」

 

 そうだったのか。 てことはその時綾瀬の乗ってた車が走った場所を歩いて行けば、柏木の家に辿り着けるって事だな。

 

「グッジョブだ綾瀬! これで一気に道が開いた」

「で、でも、もう何か月も前の事だし、あの時は夜で暗かったから、私の見間違いかもしれないよ? あんまり正確じゃないかも……」

「いや、こんなタイミングで思い出したんだ、きっと合ってる筈だ、どっちにしろ今は他にやりようも無いんだし、俺は綾瀬の記憶を信じるよ」

「うん。 僕も同意見だ。 だけど問題は、河本さんの話だと柏木さんの家は隣町だって事だね」

 

 隣町って言うと、良末(りょうすえ)町か。 一番近い場所でも、ここから歩いて三十分以上は掛かる場所だな。 となると、仮に柏木と会っても十分やそこらで話が済むワケも無いし、場合によっては帰る時間も合わせると何時間もかかってしまう可能性もあるワケか。 それは流石に困るな。

 

「ちなみに綾瀬、その車の中で柏木を見つけてから家に着くまで、何分くらい掛かった?」

「え? うーん……曖昧だけど、大体三十分くらい、かな」

「車で三十分か……遠いのは確定だな」

 

 車で約三十分も掛かる距離、ましてや不確かな場所を行くのだから、まず柏木の家に到達するのでも一時間は優に超えるだろう。 当てずっぽうで動くより帰りは早くなると思うが、そこまで長い間渚を家に一人きりにさせて置きたくない。 アイツの事だから風邪なのにどっかに出掛けたりはしないだろうが、少し体調が良くなったからと一人で夕飯を作りかねない。 柏木の事も大切だが、やはり最優先は家族だ。

 すると悠が、あっけらかんとした口調で、思い切ったアイデアを言って来た。

 

「こうなったらこれしかない。 二人とも、今日は早退しよう」

『ええ!?』

 

 そのある種ぶっ飛んだ、悠らしくない案に、俺と綾瀬の反応が重なる。 そんな俺達に構いもせず、悠は言葉を続ける。

 

「先生には僕が話を付けておくから、二人は今日早退して、その足で柏木さんの家にまで行くんだ。 そうすれば早い内から柏木さんの家に着く事も出来る」

「い、いや、確かにそれは手っ取り早い考えではあるが、流石にそれは……」

「サボりは、ちょっと気が引けるというか……」

 

 渋る俺たちに、悠が眉を僅かにひそめながら、さながら生徒に説教をかます先生のように言った。

 

「じゃあ、この問題を先延ばしにして良いのかい?」

「うっ、それは……嫌だけど」

「だろう? こんな事、僕が言うのおかしいかもしれないけど、縁は今、渚ちゃんの心配もしている筈だよね? それなら、さっさと心配事を減らす事を優先するべきじゃないかな」

「…………」

 

 そう、だよな……。 サボるのは気が引けるが、それより早急にいじめを解決させる方が先決だ。 サボった分の授業は取り返せるが、いじめはそうはいかないのだし。 それに、悠の言う通り渚の事もある、何とかすると言ってるし、ここは親友の言葉を信じる事にしよう。

 

「分かった、その代わり上手い言い訳を頼むぜ、悠」

「うん、任せといて」

「……まあ、こうなるのは分かってたけど」

 

 俺がサボる事を了承したと分かると、綾瀬もため息を吐きながらも納得してくれた。 もっとも、綾瀬の案内が無ければそもそもどうにもならないので、是が非でもサボってもらう事になるのであるが。

 

「そうと決まったらさっさと二人は教室に行って、荷物を整理してくれ」

「おう、了解した! 急ごう綾瀬、出来るだけ具合の悪さを印象付けながらな」

「ふふ、これでもかって位に矛盾してるわね、それ」

 

 いざサボると決心すると、不安感と共に変な高揚感が湧いて来た。 普段しない、しちゃいけないと教えられている事をする時は何故か興奮する物だ、幼い時に悪戯する時など、まさにそうだろう。

 やや早歩きで教室の前まで行き、即座に気怠そうな足取りを意識しながら、自分の席まで戻り、無言でカバンに荷物を詰め始める。 綾瀬もまた、素のままではあるがカバンに帰りの用意をし始めた。

 

「なんだ、お前帰るのか?」

 

 クラスメイトの七宮が、帰り支度をする俺に話しかけてくる、流石に気になるか。

 

「まぁな。 午前中は我慢出来たんだが、午後は無理そうだ」

「ふぅん、なんか河本も帰るみたいだけど?」

「そうだな」

「……そういや、ここ最近お前と綾小路、前よりずっとつるんでるよな」

「え、そりゃあね、あいつとは中学から一緒だし」

「まあ()()綾小路と好んで積極的に絡むのはお前か女子達ぐらいなもんだから分かるけど、最近は河本まで一緒に放課後居るじゃねえか」

「……っ、まあ、確かにそうだけど」

「綾小路だけならともかく、女子の河本まで一緒ってのは絶対に何かあるだろ、放課後何してんのさ、楽しそうな事してんなら言えよ、ん〜?」

「じ、女子って言ってもあや──河本も悠と同じ昔なじみだし、俺が部活に入るから、何に入るか相談に乗ってくれてるだけだよ」

「ああ聞いてる聞いてる、確か河本とは『幼なじみ』なんだろ?」

 

 七宮の発言に追随して、更に他のクラスメイトまでもが俺に茶々を入れた。 お前らさっさと解放しやがれ。

 

「小学生からの幼なじみだろ? しかも仲が良くて家が近い……かぁ〜お前はギャルゲの主人公か? 羨ましいィ!」

「…………ギャルゲの世界だったらどんなに良かっただろうな、いや本当に」

「……野々原?」

 

 ……

 

 七宮らのくだらない尋問から開放され、ようやっと校門に辿り着いた。 綾瀬は既に着いて待っており、俺の姿を見つけて安堵するような表情を浮かべていた。

 

「悪い、七宮達に捕まってた」

「うん、私も聞いてたから……その、ご愁傷様」

「はぁ……。 まあいいや、さっさと柏木の自宅へ行こう」

「うん。 でも、本当に綾小路君は先生にうまく説明出来てるのかな……」

「それはあいつに賭けるしか──」

 

 話してる途中に、マナーモードにしておいたケータイがプルプルと震え出した、取り出すとディスプレイには『メールを受信しました』の文字、どうやら悠からのようだ。

 噂をすればなんとやら、図ったようなタイミングで届いたメールをすぐさま開いて読んでみた。

 

『任務完了、先生への説明は滞りなく済んだよ、心置き無く探しに行ってくれ。頑張ってね』

 

 マジかよ、空き教室から出てまだ十分かそこらしか経ってないぞ、一体どんな魔法の言葉を使ったら簡単に教師を納得させられるんだよ。

 

「今のメール彼から?」

「ああ、上手く行ったって。 我が友ながら恐ろしい手早さだ」

「綾小路家だから、先生方も余り口出せないのかもね」

「ああ〜それありそうだな」

 

 そうだとしたら、俺はまた綾小路家の力を借りた事になってしまうのだが。 間接的かつやむを得ないとはいえ、本来忌むべき対象の力ばかり借りてしまうというのは、かなり情けないのではないだろうか。

 

「また考え事してる……何について考えてるかは分からなくないけど、せっかく綾小路君が作ってくれたチャンスなんだから、さっさと行きましょう!」

「ん、お、おう。 そうだな、案内頼むぞ綾瀬!」

「えぇ。 自信は無いけど、任せて」

「くく、エラく矛盾してるな、それ」

「いいから!」

 

 ……

 

 綾瀬の記憶する方向に向かって歩き始めて、約一時間が経とうとしていた、学園は今頃六時限目の授業が始まっている頃だろう。 もうすぐ今日の学校の時間が終わるという希望と、まだあと一つ授業が残っているという絶望の板挟みになっている時間帯だ。 それでもまだハッキリと終わりが見えている分楽だと俺は思う。

 

 一方、俺たちの方はと言うと──。

 

「……ここね」

 

 見事、学校の授業よりも先に目標に達成していた。

 

「案外、あっさりと見つかったもんだな。 綾瀬の記憶力に感謝」

 

 やや閑静な住宅街の中にある、国道に面した二階建ての一軒家、玄関にある表札にもハッキリと『柏木』と書かれてあった。 俺や綾瀬の家よりかは少し立派な造りで、柏木の家の経済事情が窺い知れる。 もちろん良い意味で。

 

「ここに、柏木がいるんだよな」

「この表札にある柏木が別の人のじゃ無ければな」

「ちょ、ちょっと、ここに来てそんな不安になるような事言わないでよ」

「ごめんごめん……それじゃ、インターホン押すぞ」

「うん……」

 

 固唾をのんで見守る綾瀬の視線を受けながら、俺はインターホンを押した。

 直後、よく耳にする客人を知らせるチャイムが鳴った事を玄関越しに確認する。 いよいよ柏木と対面するのか、もし出て来たのが柏木の親だとしたらどう話を切り出せばいいのか、来るまでに幾らでも考えられたはずの事が今更になって頭の中で駆け巡るのを感じながら、俺は玄関がガチャリと開き、中から人が現れるのを待っていた……のだが。

 

「……反応無い、わね?」

「ああ……無い、な?」

 

 押してから一分近く経ったが、玄関が開くどころか家の中から物音ひとつ、何かが動くような気配すらしない。 まるでもぬけの殻のようだ。

 

「柏木、いないのかな?」

「寝てる……のかも?」

 

 念のため、もう一回だけインターホンを押してみる。 しかし、やはり結果は同じく何の反応も無い、流石にこうなると心に焦りが生じてくる。 大丈夫だと思いながらも、改めて表札を確認したり、他の家にも柏木性が無いか見て回ったりしたが、やはり辺りで柏木の表札が確認できるのはこの家だけだ。となると、やはり今日学園にいない柏木が家の中に居る筈なのだが。

 

「もしかして出かけてるのか? 今日休んだのは単純に休まざるを得ない事情があったからだけとか?」

「それならただの骨折り損で終わるけど、もしかしたら、居留守だったりして」

「それありそうだな……」

 

 もしそうだとしたら、後はどうしようも無くなる。 家の外から大声で柏木を呼べば出てくるかもしれないが、その前に近所の人達に通報されかねない。 まだ授業している時間帯に制服のままここまで来たから、不審に見えてもおかしくないだろう。

 

「どうしよう、この状況」

「諦めた方が良いのかも。 本当に休む理由があって休んでるなら会えそうに無いし、居留守なら尚更よ」

「……じゃあ──」

 

 最後に一回外から柏木を呼んでみるか、半分自棄になってそんな事を口走ろうとした瞬間、俺たちの背後から第三者の声が聞こえてきた。

 

「君達、柏木さんの玄関に立ってどうしたの?」

『!?』

 

 声のした方を向くと、そこには買い物帰りなのか、エコバック片手にこちらを訝しるように見る女性の姿があった。 ヤバいな……懸念していた事が現実になってしまった。 きっとあの女性には今の俺達がまだ明るい時間帯に制服着た男女が人の家の玄関前に怪しく(たむろ)しているように見えるだろう。 制服からどこの生徒かもすぐに分かるだろうし、学園に通報されればバックれていた事が判明して悠も合わせて三人ともお終いだ。 更に柏木の自宅にいた理由を聞かれれば、もう教師に隠れて柏木の苛めを解決させる事なんて不可能! 悠から綾小路家の意向で去年の柏木の件が隠蔽された事を知った今、教師たちは早坂達の事を止めるどころか今の苛めさえ『ありもしない事実』にしてしまうかもしれない。

 今この場で学園側に俺達の事を知らされる事は絶対に避けねばならない、かと言って今この場から逃走したとしても、俺達の特徴を教師に伝えられれば、遅くない内に身元が割れてしまうだろう。 綾瀬はトレードマークにもなっている大きなヘアリボンをしているし、俺自身だって、今まで言及してこなかったが渚の実兄なだけあって、髪の色が染めてもいないのに渚と同じ淡いクリーム色だ、クソ! 前世ではあくまでもフィクションだったのが現実になるとこういう弊害が出て来るなんて、こうなるなら黒く染めればよかった! 

 

「君らの制服、確か良舟学園のよね? まだこの時間は授業中なんじゃないかしら?」

 

 最ッ悪だ、どこの学園の生徒なのかどころか、本来ならまだ授業中だって事まで把握されている。 益々女性の表情は怪訝な物になっていき、いつ携帯電話を手に取って俺達を学園側に通報してもおかしくない雰囲気になっている。

 

「──はい、そうです! 私は河本綾瀬、彼は野々原縁で、良舟学園の二年生です」

 

 そこにいきなり綾瀬が、まるで先制を切るかのように自ら学園と学年、更には本名まで女性に申告し出した。 っていやいや! 何やってんだ綾瀬、学年までバラすとか、自殺行為どころか自爆テロ並みの愚行だろ! たとえ話すとしても、一年生や三年生とかワザと誤った情報を言うか、存在しない名前を出して制服着た不審者を装って、少しでも自分の身元を誤魔化すようにするべきだろうに! 

 

「ぉ、おい綾瀬、何を──」

「いいから、私に任せて」

 

 小声で綾瀬を制しようと声を掛けると、同じく小声で、しかし俺よりはるかに力強く綾瀬が俺の言葉を封殺した。

 ……何をするつもりなのかは知らないが、どうやら綾瀬なりに考えがあるようだ、『私に任せて』、その言葉を信じてみる事にしよう、どうせもう俺には打つ手が無いのだし。

 

「やっぱり、何でこんな時間に、しかも柏木さんの家に──」

「私達は、その、柏木さんの友達なんです!」

「……え? 園子ちゃんの?」

 

 女性の表情が驚きの物に一転する。

 

「そうなんです! 柏木さんとはお互い二年生になってから知り合ったんですけど、この数日様子がおかしくて、今日学園を休んだので、何かあったんじゃないかと来たんです!」

 

 相手に話す隙を与えないように瞬く間に喋る綾瀬。 そして女性の方はと言うと──、

 

「……そうだったの、君達は、園子ちゃんのお友達」

 

 見事に綾瀬の言葉を信じて、怪訝どころか感心した顔になっていた。 ……成る程な、これは単純に自分たちが怪しい人物ではない事を示すだけじゃない。 わざと少し(……)大きな声で話すようにして、居留守だとしても家の中に居る柏木に俺たちの存在を示している。 我が幼馴染ながら大したもんだ。

 

「それで、なんですが。 貴女はこの付近にお住いの方ですか?」

「ええそうよ。 というより、柏木さんの隣の家」

 

 そう言って、女性は言葉通り柏木の右隣にある家を指さした、柏木の家より敷地が広く、庭には名前こそすぐ出てこない物の、色とりどりの花が綺麗に咲いている。 それを聞いて益々綾瀬が勢いづいて女性に詰め寄り、今度は俺からでも僅かにしか聞こえない程の声の大きさで女性に言った。

 

「それなら一つ質問があるのですが、今日は柏木さんは家族とどこかに出かけたりはしませんでしたか」

「いえ、そんな様子は見られなかったわよ?」

「じゃあ、柏木さん一人でどこかに出かけたりは」

「私もしょっちゅう見てるワケじゃないからハッキリ言えないけど、午前中は庭の手入れをしてたから、少なくともとも午前中は、柏木さんの玄関から誰かが出たってのは見なかったわね」

「誰も? その、柏木さんのご両親は」

「柏木さん、去年の暮れからかしらね、ただでさえ忙しかったのに、急にもっと忙しくなっちゃって、最近は殆ど家に居ないのよ」

「そう、ですか……。 なら、昨日から何か柏木さんについて変わった事はありませんでしたか」

「何か変わった事? そうね……あ、でもそういえば」

「そういえば、なんですか?」

「今日ってこの地区はゴミの日なのね。 それで、いつもは朝ゴミを出す時に、いつも必ず学校に行く園子ちゃんとすれ違うのよ、軽い挨拶を交わす程度なんだけど。 でも今日は珍しく会わなかったわ」

「……分かりました。 ありがとうございます」

 

 一通りの審問染みた会話が収まると、綾瀬は横目でチラと俺を見た、すぐに頷いて返事をする。 ……あぁ、もう意図は伝わっているよ、綾瀬。 今のあえて小声でした会話は、確実に居留守を使って家の中に居るであろう柏木に聞こえさせない為の行動だ。 そして質問の内容は、今日綾瀬が学園を休んだのがやむを得ない事情からでは無く、単純にずる休みをしたのだと言う確証を得る為のモノ。

 家族と出かけたワケでは無く、個人でどこかに行ったという形跡は最低でも午前中は無い。 そもそも普段は登校途中に会う筈がそれも無い。 これだけ揃えば今日柏木がずっと家にこもっている事は明白だ。

 

「……おみごと、綾瀬」

 

 思わずため息が零れてしまった。 最悪の事態を避けるのみならず、ここまで聞き出すなんて……うん、後で綾瀬に何か奢らなきゃな。

 しかし、だ。 逆にこれで柏木が今徹底的に他者の存在を否定していると言う事も分かってしまった。 まだ俺達だと分からないうえでも居留守を使ったんだ、綾瀬が俺達の存在を知ったであろう今なら尚更、柏木は出てこないかもしれない、その点だけは褒められる事じゃなかったな、かえって逆効果だった。

 

「あ、そうだ。 他にもう一つあったわ、変わった事」

「それは何ですか?」

 

 不意打ちの様に女性が自分から口を開く。 今度は何だろうか? 

 

「少し前から、夜遅くに園子ちゃんが家から出たのを見た事あったわ。 散歩に行ったようだけど、もう辺りは寝てる時間帯だから、危ないと思ったのよねぇ。 最近様子がおかしいって言ってたけど、ひょっとしてそれが関係してるんじゃないかしら」

「そうかもしれませんね……、わざわざそこまで詳しく教えていただき、ありがとうございました」

「まあいいわこのくらい。 学園からここまで、それなりに遠いのにお疲れ様」

 

 ぺこりと頭を下げて礼をする綾瀬にそう言って、女性は自分の家に帰ろうと歩き始めた。 ……と思った直後、くるっと俺の方を向いて来た。

 

「君も、園子ちゃんのお友達?」

「え……まぁ、はい。 あや──河本よりは親しくないですが」

「ふうん……」

 

 そう呟くと、女性はどこか品定めをするように俺をジイッと見る。 もしかしてウソがバレたのか? と僅かに心の中に焦りが生じた瞬間、まるでそれを見透かしたように女性はニカッと笑い、こう言った。

 

「いきなり男友達なんてと思ったけど、わざわざ心配してくるなんて、今時優しいのね」

「いや、そんな事は無いですよ、本当に」

「ううん、そんな事無いわ。 ねえ、野々原君、だっけ?」

「はい、なんでしょう?」

 

 俺の名前を確認するように言ってから、女性はまるで懇願するように俺に言った。

 

「今まで、所詮お隣さんだけど、ずっと園子ちゃんを見てて、君たちみたいな『お友達』がこうして園子ちゃんの所に現れる事は無かったわ。 だから──」

 

「どうか、あの子の良いお友達になってあげてね?」

 

 ……

 

 女性が家に帰った後、俺達はこれ以上この場に残って本当に怪しまれるのを避ける為に、口惜しいが一度柏木の家を離れて、元来た道を引き返す事にした、つまりは帰宅だ。

 昨日と同じ二人っきりでの帰宅だが、俺と綾瀬の間にはラブコメな雰囲気はひとかけらも無く、逆に鉛の雲のような重苦しい空気が漂っていた。

 

「……思いっ切りバレてたな、俺達の事」

「そうね……、上手くいったと思ったんだけど」

 

 さっきの俺に向けて言った言葉、あれは間違いなく俺と綾瀬が本物の友人では無い事を看破しての発言だったろう、綾瀬の言い方が悪かったのか俺の反応がいけなかったのか、もしくは初めから全部お見通しだったか、個人的には三つ目が一番それらしいが仮にそうでなかったとしても残る理由は俺のせいだろう、間違っても綾瀬の説明が下手だったからではない。

 オマケになんだ、なんとなく昨日の幹谷先生にも同じような言葉で話の〆になった気がする。 まさかとはおもうが、幹谷先生にもバレてたりするのか? ……いや、大丈夫だよな、きっと。

 

「それはそうと、これからどうするの? 肝心の柏木さんは引きこもって見る事すら出来ないし、明日登校するかも分からないのに」

「あ、それに関してはもう考えてる」

「えっ、そうなの!?」

 

 予想外だったのか、直前までの重苦しい空気が無かったかのように素直に驚く綾瀬。 その切り替えに小さく感謝しながら、俺も出来るだけ陽気に話す事を意識して話す事にした。 正直なところ、これから俺がやろうとしている事はあまり気が進まないからだ。

 

「あの人、夜に柏木が出歩いてたって言ってたろ? それに賭けてみる」

「つまり、貴方も遅い時間にまた柏木さんの家に行くって事?」

「ああ。 でも流石に夜遅くに見知らぬ男が住宅街に一人、個人宅の前で待ち伏せするのは昼間より危ない、だから」

「だから?」

 

 そこまで言って、俺は一度深呼吸して、自分の今の気持ちを固めてから、改めて口に出した。

 

「今日、柏木が向かうであろう場所で、柏木と話を付ける」

「向かう場所って……そんなのどうやって分かるの?」

「さっきケータイでこの辺りのマップを見たんだが、柏木の家から少しした所に公園がある、きっと柏木は夜そこにいるだろう、そこで柏木と会う」

「うーん。 本当にそれで会えると思う?」

「勿論確証は無いさ、でも夜じゃなくても人は散歩するなら、ある程度行く場所は決めてるもんだ、近くに公園があるのなら、そこを目的地にしていてもおかしくないだろ?」

「まあ、そう言えなくも無いけど……」

「もし会えなかったら、その時はその時、明日柏木が登校する事を願うさ」

「……分かった、風邪ひかないのと、危ない人に遭わないように気を付けてね? 縁」

「おう、分かったよ」

 

 

 嘘だ。 確証が無いなどというのは嘘だ。 俺にはハッキリと今日の夜柏木に会える自信と、その根拠がある。 そのいずれもが、俺個人と、しいて言うならば渚にしか理解し得ない物だが。

 つまり、俺は柏木が夜に家の近くの公園に行くことを俺は知っているのだ。 何故か? それは勿論、ヤンデレCDでの柏木園子がそのような行動を取っていたからだ。

 CDの『柏木園子』はいじめを受けて夜の公園で泣いていた所を、主人公に見られたところから二人の出会いが始まっていた。 柏木も、最近夜に一人で出歩いていると言うし、となればまず間違いなく公園に居る筈だ、 確実に会える。

 だがしかし、本来なら接触を避け、死亡フラグを生まないために活用すべきである知識を、まさかこんな方法で使う事になるとは……。 苛めに関わる時に覚悟していたとはいえ、トホホと嘆かずにはいられない。 そんな心の声が顔に表れてしまったのか、綾瀬が横から俺の顔を窺ってきた。

 

「ねえ、本当に大丈夫なの? 無理してない?」

「無理はしてない、無茶はしてるかもだが」

「うん、それは知ってる」

「そうかよ」

 

 小さく笑う綾瀬の顔と言葉で、気休めかもしれないが少し心の重しが軽くなった気がした、ありがとな。

 

 ……

 

「お兄ちゃん……その手、どうしたの?」

 

 帰宅した後、今日も今日とて風邪の渚の代わりに夜ご飯を作り、渚の部屋に持ってきて、そのままそこで食事をしていると、ふと俺の手のひらに貼られてあった絆創膏を見つけた渚が、心配そうに問い掛けて来た。

 

「ん……、あぁこれか」

 

 昨日はまだ熱が高くて、俺の手の傷に気付く事が無かったが、多少は体調が良くなったので気付いたのだろう。 さて、この傷をどう説明すればいい物か。

 今日まで俺は、柏木の件について、一度も渚に話をした事が無い。 そもそも俺が柏木の件に関わり始めたのと、渚が風邪で寝込む事になったのがほぼ同時期であり、話す機会というか、タイミングのようなモノが無かった。 ……建前はそうなのだが。

 実際の理由はと言うと、あまり渚に俺が女子の為に動いているという情報を与えたくなかった、というのが理由としては遙かに大きい。 ヤンデレCDのヒロイン達が暴走するきっかけの中で、唯一渚だけが純粋なジェラシーから凶行に走るという事を知っているので、出来るだけ渚を刺激しかねない情報は渚の耳に入れさせたくは無かった。 少し姑息かもしれないが、命を脅かす危険はなにも柏木園子の件だけでは無い。 日常の些細な仕草から延々と連なって、いきなり襲ってくるモノなのだから、これも必要な事だ。

 もっとも、そこまで警戒するくらいならばさっさとこの街から一人出て行けば良いだろう、という話になるが、これに関しては以前にも心に決めたように、渚や綾瀬たちに対してマイナスの感情ばかりを抱いているワケでは無い、確かに恐れる感情はあっても、それ以上にプラスの想いを、俺は持っている。

 それは家族としての愛情であったり、幼馴染としての親愛であったり、友人としての友情であったりなど言葉は様々だが、紛れもなく綾瀬や渚に対しての感情なのだ。

 何よりも、たとえ一人でこの街を去ったとしても、綾瀬はまだ分からないが、渚からは絶対に逃げられない気がする。 何というかもう、その気になれば地の果てまでも追いかけてくるような、変に絶対的な確信を感じられるのだ。

 

 おっと、ついまたいつもの癖で余計な方向に話が進んでしまった。 今は渚に手の怪我について説明しなければならないのに。 俺は手を開いたり握ったりを繰り返して、出来る限り大した事が無いように見せながら言った。

 

「昨日、学校で割れた花瓶片付ける時に、間違って手を切っちゃったんだ。 面倒だからって片付ける時に箒使わないで、素手でやったのが間違いだったな。 大きい欠片掴んだ時に痛ッてなっちまった」

 

 今までにも何度か用いた、『全てでは無いが、事実を話す』言い方をした。 以前にも言ったが、これは自分が自分が話したく無いを言わなければいけない時や、相手から極力追求を避ける時に非常に有効な手段だ。 嘘をつく事なく、それでいながら自身に都合の悪くない箇所だけを抽出して話せば良いのだから。 勿論どこを抽出して話すかは自分で考える必要があるし、この方法を使えば絶対に誤魔化せるというわけでも無いので、使い所は考えなければならないが……、

 

「そうだったんだ……災難だったね」

 

 とまぁこの通り、しっかりと相手を納得させる事が出来る。 彼女に浮気を疑われた時は是非使ってみよう、俺は絶対に使わないけど、そもそも浮気以前に恋人居ないし。 浮気したら死ぬ世界だし。

 

「……あ、そうだ。 熱は今どのくらいだ? 計った?」

「うぅん、まだ」

「そか、じゃあ体温計で計ってくれ」

「うん」

 

 俺が体温計を渡すと、渚がパジャマのボタンを取ってゆっくりと体温計を脇に挟む。

 

「…………」

「どうしたの?」

「いんや、何にも」

「? そう」

 

 年頃の女の子が、下着を着てるとはいえ無造作に胸元を開いたというのに、何の色気も感じなかった自分に色んな意味で感心していたなんて、言える筈が無い。

 つか、膨らみは僅かに確認出来たが、本当にその、なんだ、『平和』だな。 何処がとは言わないが、もし今さっきの仕草を綾瀬がしていたら、俺は思わず目を逸らしたに違いない。

 

「……なんかお兄ちゃん、今凄く失礼な事考えてる?」

「そんな、まさか。 自分から死にに逝く様な事考えるかよ、ハハハ」

「死ぬって……もう」

 

 そんな取り留めの無い会話をしている内に、ピピピっと軽快な電子音が部屋に鳴り響き、渚の体温計がその仕事を果たした事を伝える。

 

「温度分かったか、何度だ?」

「えっとね……はぁ」

 

 渚が温度計を取り、そこに映っている自身の体温の数値を見ると、すぐさま表情に暗いモノが出ると同時に、ため息を吐く。 体温計を受け取って俺も何度になってるかを見てみると、

 

「三十八度、四分か……まだ全然下がらないなぁ」

「うん……もう学校休みたく無いのに」

「こればっかりは仕方がないな、来週も休みたくなかったら、今日もしっかり寝るんだぞ?」

「うん、分かってるよ……」

 

 言い方が幼い子を相手にするようだったのが気に入らなかったのか、やや不満そうに頷いてから、食べ終わって用の無くなった食器をトレイに戻した後、渚は素直にベットに横になった。

 部屋に掛けてある時計に目をやると、もうすぐ八時に回ろうとしていた。 目的地である公園までは始めタクシーを使おうと思っていたが、遅い時間に高校生がタクシーを一人で使う事を怪しまれる危険性と、単純にお金が掛かるのが嫌だという二つの理由で徒歩で向かうことにしている為に、そろそろ行かなければ昼と同じ骨折り損になってしまいかねない。 そう思って立ち上がり、トレイを持って部屋を出ようと渚に背を向けた、その直後。

 

「ねぇお兄ちゃん、(あたし)に何か、隠してること……無い?」

「っ!」

 

 不意を突くようなその言葉に、授業中微睡んでいる時に名指しされる時のように身体が僅かにビクついてしまった。

 

「どうして、そう思うんだ?」

 

 体の向きを変えず、背を向けたまま渚に問いかける。

 

「どうしてかな……理由はよく分からないや。 でもなんか、そんな気がしたから」

「……そうか」

「その手の怪我も、(あたし)に隠してる事と関係してるんじゃないかな?」

 

 流石妹と言うべきか、熱で弱ってても俺への観察眼はピカイチだった。 だからと言って渚に話すわけにもいかない、今といい手の怪我といい、本来安静にしているべきなのに俺の事を心配してくれる渚には心苦しいが、先ほどと同じように誤魔化す事にしよう。

 

「──―別に、特段話すような事は無いよ。 渚の気のせいさ」

「本当に?」

「ああ、本当に」

「……うん、分かったよ。 何も無いなら良かった、おやすみお兄ちゃん」

 

 後ろから布団を動かす音がする。 言葉通り寝るつもりなのだろう。

 

「ああ、おやすみ渚」

 

 

 ──―結局最後まで、俺は渚に背を向けたまま部屋を出た。 その後ろめたさが、後になって自分の首を絞める事になるのを、この時の俺は分かる余地も無かった。

 いや、余地はあったが、考えようとしなかった。

 

 ……

 

 食器を洗い終えた後、二階に聞こえないように静かに家を出た俺は、夜のジョギングよろしく、小走りで目的地である公園へ向かっていた。五月の夜はまだ小寒く、冷気が顔の皮膚をじんわりと冷たくするが、走る間に段々と身体が暖まり、その寒さも気にしなくなってきた。 代わりに徐々に心拍は高くなっていき、足は乳酸が溜まり始め、呼吸が多少困難になっていく。 走るのをやめて身体を休ませたいという欲求が出てくるが、まだ目的地までは遠い、体力にも幾分かは余裕があるので、そのまま走り続けた。

 走っている間、僅かでも疲労を忘れられるようにと、柏木に会ったらどう話を切り出そうか考えてみた。 昼間は向かう事ばかり考えていていざ会ったらどうするかを全く考えて無かったが、今はそこまで切羽詰まった心境では無い。

 しかしいざ考えてみると、思いの外上手な話し方が思い浮かばなかった。 向こうはただでさえ他人を拒絶しているのだから、下手な応対では何も結果を得られないまま終わってしまう事だってあり得るのに、どこか『何とかなるだろう』という楽観的な考えが頭の中をよぎる。

 そこから出た結論は、取り繕うことを止めるという事だった。 あらかじめ用意しておいた言葉や態度ではなく、その時その瞬間の俺で立ち向かって行く、それが一番確からしい答えだろう。

 

 そして、外出から腕時計で確認して一時間二十二分と約四十一秒後、間に我慢出来ず何度か歩きながらではあったが目的地である公園の前まで辿り着いた。

 

「はぁ……はぁ、流石に、疲れた」

 

 肩で息をしながら、初めて目にする公園の景観を眺める。 と言っても、そこまで大きな公園でも無いので、すぐにそれも終わってしまった。 そうして分かった事は、今目にしているこの公園は、『初めて』目にするものでは無かったという事だ。

 

「あの時に見た夢と、ウンザリするくらい一致してるな」

 

 わざわざ口に出して確認するまでもなく、あの日、柏木の件に関わると決めた日の朝に見た、俺が柏木に殺される夢で見た公園の景色と、呆れるぐらいに合致していた。

 今思えば、あれは単なる夢ではなく、未来に起きうる可能性の一つだったのだろう。 もちろん何も無い所からいきなり綾瀬の死体が出てきたりなど、あり得ない内容ではあったが、前世の記憶を思い出さず、純粋な野々原縁が柏木園子を助けた結果、野々原縁は柏木園子と恋人同士になり、その後殺されてしまうのだろう、死体はCDで聴いたのと同じように、首だけあるいは身体ごと鉢植えの中に植えられて、花の養分にされてお終いだ。

 ハハッ、これだけで考えると、何で俺がそんな目に合わなくちゃいけないのかと憤慨したくなるな。 今更ながら、そんな危険な未来になりかねない事を自ら進んでやっている事に、呆れて笑ってしまいそうになる。

 だがまあいいさ、上手にやろう、俺には綾瀬や悠と言う頼れる仲間がいて、その2人のおかげでここまで来れたんだ、後は俺が一人だけで、バッチリ決めれば良いだけ、死にたくなかったら死ぬ気で頑張れ、俺。

 

 そうやって、自己啓発していると、俺の位置と反対の方角から一人、ゆっくりとした足取りで公園に入って行くのが見えた。 そいつが居る位置には外灯からの灯りがある為少し離れたここからでも見えるが、俺の位置には外灯は無いので、俺の姿が向かうからでは確認出来ないのだろう。

 たとえ俺の真上に外灯があったとしても、きっと()()は気づかないに違いない。 何故なら、()()は今自分の目の前だけを見て、決して辺りを見回そうとはしていないからだ。

 そう、彼女──―柏木園子は、周囲を気にせず、足元だけを見ながら、ゆっくりと公園の中に入り、遊具……ブランコだろうか? ともかくそれに腰掛けた。

 

「マラソン選手ばりに走ってきた甲斐があったみたいだな」

 

 そうやってまた口にしなくてもいい確認を取りながら、すぐ公園へは行かずに、そばにあった自動販売機へと向かった。 単純に俺が喉乾いたというのも理由だが、飲み物を渡せば、柏木も無闇に逃げ出さないだろうと思っての事だった。 ありのままで応対するとは言ったが、かと言って何も話せないまま逃げ出されては困るので仕方ない。 自分用の炭酸飲料と、柏木用にホットのミルクティーを購入後、今度こそ公園の敷地内へと足を踏み入れた。

 

 ……

 

「よう、月が綺麗だな」

「えっ!? きゃっ!」

 

 近くまでゆっくり近づいてから声を掛けたあと、すぐさま先ほど買ったミルクティーを山なりに投げ渡した。 柏木は急に声をかけられた事、その声の主が俺だった事、更には自分の方に向かってくる缶の三段構えに驚きと困惑とを混ぜながら、しっかりと缶をキャッチした後に、俺に言った。

 

「ど、ど、どうして、どうして野々原君がここにいるんですか!?」

「お前こそ、どうしてこんな時間に公園にいるのさ」

「っ! だから、質問に質問で返さないでください!」

 

 やはり急な事で驚いてるからか、今まで見てきた中でも特に今の柏木は勢いが大きい。 普段からこれくらいなら、早坂達もおとなしかったかもしれん、じゃなくて、

 

「まあ言いたいことはあるだろうが待て、せっかく買ったんだからそのミルクティー飲んで落ち着け」

「あっ……これ、野々原君が?」

「おう、せっかく昼に会えずしまいでやっと会えたんだから、逃げられちゃたまんないからな」

「…………そういう、事、ですか」

「うん、そういうこと」

 

 俺がここにいる理由を察した柏木だったが、やはり渡されたミルクティーが足かせになってすぐにどこかへ行くような事は無かった。 その間にちゃっかりと柏木の隣の空いてるブランコに座り、自分の分の缶を開けて喉に液体を流し込む。 それを横目に見て、柏木も倣って仕方なしなしにミルクティーを飲み始めた。

 

「…………」

「…………」

 

 缶の中身を飲み終えるまでの間、互いに一言も発さない時間が続く。 沈んだ船のように見事に黙り込む、まさしく沈黙そのものだ。

 だがそんな時間は小型船が沈没するより早く崩れるモノ、やや意外だが俺より先に飲み終えた柏木の方から、口火を切った。

 

「……どうして、そんなに私に会いたがるんですか」

「逆に──―」

「質問で返さないで、答えてください」

「……お前が受けてる苛めを終わらせる為だよ」

「苛めなんか受けてま──―」

「もう粗方知ってる、去年の秋頃お前の身に起きた事、学園のした理不尽な処理、そして早坂達の動機も……いい加減誤魔化すのは諦めろよ、こっちは殆ど知ってて行動してんだからさ」

「……だとしても、野々原君に話す理由はありません、私は別に気にしてませんから」

「嘘付くなよ」

「嘘なんかじゃ──―」

「気にしていない人間が、こんな夜遅くに人気のない公園に来て、ブランコに座りながら涙なんか流すかよ」

「──―っ!」

 

 そう、柏木は俺が声を掛けるまで、声にこそ出していなかったが泣いていた。 その証拠に、俺から顔を逸らすようにして俯いている柏木の横顔から覗く目には、うっすらとだが涙の跡が残っている。

 

「誰でもいい、誰かに今の自分の事を見て欲しい、知って欲しい、何か異常が起きているのではと察して欲しい。 そう心の中で思っているから、お前はこうして夜に一人出歩いて、こうして俺に見つかっても昨日の放課後みたいにすぐ逃げ出そうとはしないんじゃないか?」

「…………」

 

 再び沈黙が生まれる、だがそれは先ほどの無為な沈黙とは違い、俺の言葉に対する肯定の沈黙でもあった。 意識的にしろ無意識的にしろ、たった今、柏木は自身が苛めを受けていることを、それを誰かに知ってもらいたい事を、俺に認めたのだ。 であるならば、次は俺から話しかける。

 

「……分からない事がある。 この苛めを完全に消す為に必要な情報、それが分からないままだ」

「……」

「なあ柏木、お前どうして、誰にも本当の事を話そうとしなかったんだ?」

「それは、その……」

 

 言葉が途中で止まる。 仕方ないのでもう少し俺の方から話を進める事にしよう。

 

「教師達に話せない事は分かる。 でもあいつら──―早坂達には話せたんじゃないか? 学園側は去年の園芸部顧問がした犯行を封殺した。 教師が一人辞める事を告げるだけで、建前になる説明すらしなかった」

「……」

「だからこそ真実を推し量る事しか出来ない早坂達は、事件当日最後まで顧問と一緒に居たお前が何か関係しているんだと考えて、それが今の苛めに繋がってるんだろ?」

「……はい。 そうだと、思います」

 

 肯定。 沈黙によるものでは無く、明確で正確で的確な、言語による肯定が、とうとうやっと柏木の口から直接出て来た。 話の流れが良い方向に進んでいる事を感じる。

 

「だったら、お前は早坂達に真実を話せばよかったんだ。 学園側が予め嘘の説明をしたならまだしも、そうじゃ無いんだから、お前の言葉をアイツらは頭ごなしに否定する筈無い、すぐに信じる信じないはともかく、軽率にお前が全部悪いと判断する事は無かったんじゃないか?」

「……。 そうかもしれません」

「そこまで分かっていて、どうしてお前はひたすら黙ってたんだよ。 『苛められる側にも理由はある』なんて危なっかしい言葉使うつもりは無いが、ここまでのお前を見てると、わざと自分からいじめられに行ってるように見えるぞ? もしかして始めから苛められたかったのか?」

「──―違います! 私は、そんなつもりじゃ……」

 

 空き缶を握ったまま、ずっと俯いていた柏木が俺の方に顔を向けた。 ここまでハッキリと、学園で見せた建前とは違う、本当の自分の主張を示す事はきっと初めてだろう。 僅かに震えながらもしっかりと俺を捉えている柏木の目を、同じようにしっかりと見ながら、言葉を続けた。

 

「知ってるよ、お前はそんなつもりじゃない」

「……っ」

「だからこそ教えてくれ、お前が真実を話す事も、誰からの助けも請わない──―請えなかった理由を」

 

 思いつく限りの言葉は言い切った、これが悠ならもっと相手の心を動かせるような言葉が言えるのだろうが、俺にはこれが今できる精一杯。 もしこれでも……いや、もう後ろ向きな事は考えないことにしよう、俺の言葉が柏木に届くのを信じよう。

 何度目かの沈黙、たかが数秒でしか無い筈のそれがいやに長く感じる。 湯を入れたカップラーメンが出来上がるのを待つ時の様に、遅刻しそうな時に乗ったバスが信号で止まった時の様に、踏切が鳴り終わるまで待つ時の様に、一日千秋が一秒ごとに起きているような感覚。

 

 だがそれは所詮ただの錯覚、だからこの沈黙も、ほんの数秒で崩れた。 柏木の言葉によって。

 

「…………強要、されたんです」

「強要?」

「はい……先生に『誰にも何も言うな』って。 放課後生徒指導室に呼ばれて、校長先生から直接言われました」

 

 堰を切る様に、柏木の口から言葉が溢れだした。

 

「もし言ったら、園芸部を廃部にして、私も事実を知った他の生徒も退学させるって……。 自分のせいで関係ない人まで退学なんて嫌だったから、私誰にも言えなくて……」

 

「私だって本当はこんなの嫌です、中学まで友達と呼べるような人がいなくて、園芸部に入ってやっと早坂さん達と仲良くなれたのに、それも本当の事を言えないで痛い事ばかりされて、泣きたくても誰にも見えない所じゃないと出来ない、誰かに助けてもらう事も許されない」

 

「お父さんやお母さんは仕事が忙しくて、家に居ない日が多くて大変だから、これ以上負担を掛けたくなくて言えません」

 

「園芸部も、やっと出来た私の居場所も、このままだと無くなっちゃいます、そしたらもう本当に私、どこにも居場所が無くなってしまいます……こんなの、嫌です! 絶対に嫌です!!」

 

 その言葉は、今まで柏木園子という少女が胸の内に込めていた思いの全てであり、

 

「野々原君、おねがいします……たすけてください、力を、かしてください……」

 

 ──―彼女を孤独にしていた、彼女の壁が崩れる音でもあった。

 

「うん。 その言葉を待ってた」

「野々原くん……」

「地雷を踏み抜く覚悟で走り続けた甲斐がようやく成った。 本当に、いや本当に」

「じ、地雷?」

「ああ、こっちの話。 至極個人的かつ他人が聞いても意味不明になること間違いなしだから気にすんな」

「はい、分かりました……?」

 

 直前の重い空気を吹き払うようにわざと明るい声で言った後に、俺はブランコから立ち上がる。

 

「じゃ柏木、後は任せてくれ。 お前の()()は俺──―俺達が守ってみせるからよ」

「は、はい……! ありがとうございます、本当に……私なんかの為に」

「お礼は全部終わった後に屋上とかで頼むよ」

「お、屋上ですか? でも屋上は普段施錠されてるんじゃ」

「冗談だよ、じゃあな、気を付けて帰れよ」

 

 そう笑いながら言って、俺は柏木に背を向けて、家に帰ろうと歩みを進めた。 すると十歩もしない間に、後ろから柏木の呼び止める声が届いた。

 

「野々原君、一つだけ聞いても良いですか?」

 

 俺は歩みを止めて、身体を柏木の方に向き直す。 柏木も立ち上がっていた。

 

「なんだ、質問されるのには慣れてるから何でも聞きな」

「あの、その……どうして野々原君は、私が野々原君に助けてと言う前から、ずっと私の力になろうとしてくれたんですか? この前までお互い名前も知らなかったのに」

「ああ、その事ね。 それはな……」

「はい……」

「前世の俺が苛めを受けてたからかな?」

「そうなんですか……えっ?」

「だから冗談だよ、今度こそじゃあな、明日はちゃんと学園に来いよ」

 

 その言葉を最後に、踵を返して今度こそ俺は家に向かって歩みを進めた。

 公園を出て、もうすっかり柏木から離れた所まで歩いてから、俺は携帯電話をポケットから取り出した。 そうして今も起きているだろう、今回の黒幕の一族でありながら、俺の最も頼れる親友である人物に電話を掛ける。 以前と同じように、きっちりコールが三回鳴った後に、相手の声が耳朶に響いた。

 

『はい、もしもしこんばんわ。 どうしたんだい、縁』

「ああ、こんばんわ悠。 今日はありがとうな」

『いいよそんなの、それで、彼女から話は聞けたのかい?』

「おう、それでだな──―」

 

 さっきの柏木の言葉を受けてから、決めた事がある。

 形振りは構わない、利用できるものは一切合財使って柏木の苛めを解決させてみせる。 それがたとえ黒幕の力だとしても、徹底的に利用してやる! 

 

 ……

 

「…………やっと家に着いた」

 

 行き帰りで合計三時間以上歩いてきたからか、もしくは柏木との会話で精神をすり減らしたからか、深夜を迎えた我が家の前に辿り着く頃には、身も心も疲れ切っていた。

 あの後、悠と電話での話し合いも終わり、やれるだけの事はやり尽くした。 あとは悠が──―いや、()小路()()が上手く動いてくれるかに掛かっている、俺の思惑通りに綾小路家が働いてくれれば、早くて明日のうちに柏木の苛めは解決出来るだろう。 もっとも、それが叶わなくてもその時は代案を実行するだけだが。

 いずれにせよ、もう今日のうちに出来ることは無い。 腕時計を見るとあと数分で明日になる、あとは静かに家の中に入って、渚を起こさないように自分の部屋に戻ろう。

 そう思いながら、眠気で重くなってきた(まなこ)とあくびを我慢しながら、ゆっくりと、家の扉を開いた──―、

 

「……お帰りなさい、お兄ちゃん。 遅かったね」

「──―っ!?」

 

 な、渚……!? 

 扉を開いた先には、夜の冷気で冷えている中、玄関の前で明かりもつけずにこちらをじっと見つめる渚が居た。

 何でこんな時間に、玄関の前で立ってるんだこいつは! もう時間からしてとっくに寝ているはずなのに! さっきたまたま起きて水でも飲みに降りてきたところを遭遇しただけか? いや、それなら俺が扉を開けた時にタイミングよく玄関の前に立っている筈が無いし、何より──―

 

『……お帰りなさい、お兄ちゃん。 ()()()()()

 

 ……そう、さっきまで寝ていた奴が『遅かったね』なんて言える筈が無い、俺が家を出た事を知っている奴でも無い限り、俺が遅くまで家を空けていた事が分かる筈が──―、

 

「まさか、お前ずっとここで俺を待ってたのか?」

「うん、そうだよお兄ちゃん」

 

 ……寒気がした。 俺が家を出た事を知られた事よりも、ここで俺を待ち続けたという事に。

 

「お兄ちゃん、やっぱり様子がおかしかったから、何かいつもより早く部屋を出ようとしてたし……、それで、もしかしたらと思ってこっそり部屋を出て、外に出るお兄ちゃんを見たの」

「……なんで、その時俺に声をかけるなり電話をかけるなりしなかったんだ?」

「だって、そうしたらお兄ちゃんは外でやろうと思ってた事が出来なくなっちゃうでしょ? ただでさえ風邪を引いてるのに、これ以上お兄ちゃんの邪魔なんか出来るわけ無いよ」

 

 そう笑顔で答える渚、対して俺は、虚勢でも笑う事すら出来ないくらいに頬が引き攣っていた。 渚の言葉は続く。

 

「でも、やっぱり珍しいでしょ? あっ、怪しんでるんじゃないよ? でも(あたし)に何も言わないで夜に家を出るなんて今までそんなこと一回も無かったから、気になってここで待つ事にしたの……、だから、お兄ちゃん」

「……だから、なんだ?」

「ちゃんと話してくれるんだよね? 私を家に置いたまま、黙って外に出て何をしてたか、ちゃんと話してくれるんだよね?」

「……それ、は」

 

 背中どころか全身に冷たい汗が流れる、それは皮膚どころか身体の中まで染み込んで、まるで俺の全てを凍らせるように思考を凍りつかせる。 今からでもすぐに何か、納得させられる程の嘘や誤魔化しじゃなくていいから何か口にしなければならないと分かっているのに、口が動かない。

 それはまるで昨日見た柏木に殺される夢の中のようで、今この場にある全てが、渚を中心に動いているかのような錯覚を感じる。

 

「……どうしたの、お兄ちゃん? 私はただ外で何をしてきたのか聞いてるだけだよ? どうして何も言わないのかな?」

「……っ」

 

 渚が一言発する度に、何か口にしろと心の中で思うが、そう焦れば焦るほど、かえって言葉が喉につっかえる。 今までに感じたことの無い焦燥感に為す術もなくなっている事だけが嫌にハッキリと認識出来る。

 そうして、黙り続けている俺を見て、渚の表情が──―いや、全てが変わった。

 

「どうして何も言わないのかな? あ、もしかして言わないんじゃなくて、言えないのかな? そうだとしたら、お兄ちゃんはこんな夜遅くまで、どこで、誰と、私に言えない様な事をして来たのかな?」

 

「……ねぇ、お兄ちゃん」

 

 

「もしかしたら、女の人と一緒だったんじゃないかな?」

 

 

 

 ──to be continued




あと二話くらいで柏木編は終わります
最近二万字越えがデフォみたいになってますが、それだとまた何ヶ月もかかりそうで怖いので次は一万字程度で行きたいと思います

ではさよならさよなら


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八病・ここだけの話はここだけで

本当に、本当に長らくお待たせいたしました
エタり明け一発目なのでクオリティはアレですが、少しでも楽しみにしてもらった方々に報いる事が出来れば幸いです

それでは、はじまりはじまり


 ──男は、砂糖水に群がるアリのように迫る眠気を押し殺しながらハンドルを握り、自身の職場と自宅とのちょうど間にある、市民会館に向かって車を走らせていた。

 何度目かのあくびをかみ殺しているその男の乗る車は、年季を感じさせられる立派な外国車で、そう簡単に一般市民が所有する事が出来ない物だ。 そんな車を悠々と走らせているのだから、当然それを運転している男もそれなりの所得や社会的地位を持つ人間だった。

 だが、今その男の顔を彩る表情は、そういった自身の現状に満足している者のそれでは無かった。 事実、男は心の中に押し留めておくのには限界となった不満を、誰に聞かせるでもなく口に出して言った。

 

「──ったく、何でこんな時間になって……もう帰ろうという時に……チッ」

 

 既に深夜を迎え、日付もとうに変わっている。 一日の仕事を終えて、これから自宅に帰ろうとしたちょうどその時分に、男の携帯電話に着信が掛かったのだ。 電話番号は登録されている者ではなく、やや不審に思いながら出てみると、聞いたことのない男の声で、今すぐ職場から車で十数分先にある市民会館に来いと言って来た。 唐突な話に困惑するが、相手はその事だけを伝えると自身の名前も名乗らず、説明を求めようとするより先に勝手に電話を切ったのである。

 当然、くだらないイタズラ電話と一蹴して無視することも出来た。

 しかし、ただのイタズラでわざわざこんな時間に、場所まで指定してそこに来いと言うだろうか? 行かない事は簡単だが、安易に決めるのも迂闊ではないか、そう考えたら最後、男は電話を無視する事が出来なくなってしまった。

『大した事でなければすぐに帰ればいい』、『市民会館までの道は、普段も家までの行き来に通うから』、そう自分を納得させる言葉を何度も吐きながら、同時にこれから会う事になる人間に対して様々な罵詈雑言を心中で吐き続けながら、とうとう目的地が目に見えて来た。

 ここに来るまでの建物は時間が時間だったのもあって、どれも明かりが消えていた。 当然、普段なら市民会館もとっくに夜の静寂の中に溶け込んでいるはずだったが、今は空に浮かぶ月に張り合うかの様に屋内の明かりが照っていた。

 車を駐車場に付け、市民会館の入り口に向かう。 するとそこにはまるでドラマに出て来るような黒服を着た、自身より遥かに体格の良い人物が銅像の様に立っており、男を見つけて口を開いた。

 

「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」

 

 夜遅くに呼び出した事に対する詫びも入れないのかという文句が頭に浮かび上がるよりも前に、銅像はさくさくと屋内に入って行く。 慌てて男は声を張り上げる、ここに着くまでに蓄積した不満の蓋がズレた。

 

「お、おいお前!」

 

 低い声で怒鳴ったのにも関わらず、相手はたいした反応も見せず、機械的に振り向き、男の目を見て返事をした。

 

「なんでしょうか」

 

 まるで本当に銅で出来ているかの様な無機質な声に、男は僅かにたじろぐ。 そしてその声が、電話で聞いた者の声と同じ事に今更ながら気づいた。 途端に、彼の心は強気になる。

 

「なんでしょうかじゃないだろう! 一体俺に何の要件があるんだ! こんな時間にこんな場所までわざわざ来させて、まず先に言うべき事があるだろ? どうなんだ!?」

 

 沸騰した鍋からお湯が零れだすようにどんどんと不満が漏れ出し、遠慮なく相手にぶちまける。 しかし、それら一切をまるで気にもしないかの様に、黒服の男は淡々と言葉を返した。

 

「貴方をお呼びした方がこの先の部屋で待っております。 私はただここに貴方をお連れする事だけしか承っておりません」

「な、なにぃ……?」

「要件も貴方の要求する謝罪も、彼がしてくれるでしょう。 では」

「あ、待て……チッ!」

 

 今度は男の言葉に反応せず、黒服の男は静かに入り口の方へと戻って行った。

 後に残るのは腐った卵のような居心地の悪い静寂。 黒服が示した先には、会議室と書かれたプレートのある部屋の扉が一つあるだけだった。

 

「──チッ」

 

 何度目かの舌打ちをして、男はワザと大きく足音を鳴らしながら会議室に向かい、その扉を躊躇いなく開いた。 そうして、睨むように部屋の中心に置かれた長机の先に座る、自分を呼び出した人物の顔を見た瞬間、男は続いて吐き出そうとした言葉がのどに詰まり、募っていた苛立ちと眠気が吹き飛んだ。

 

「そんな、おまえ……いや、貴方は……っ、これは、どういう」

 

 目の前の光景が理解出来ない、そう身体を使って表現する男に対して、部屋の奥に居たその人物──綾小路悠は、穏やかに、寒空の月の様な明るくもどこか突き刺すような笑顔を浮かべながら言った。

 

「落ち着いて、まずは座って下さい。 今日の私は一学生としてではなく、綾小路家の人間として、()()()()()()(ざい)(ぜん)(あきら)さん。 貴方に話がありますので」

 

 自分より一回りも二回りも下のはずの少年の笑顔に、寒気を通り越した悪寒が男の中を駆け巡った。

 

 ……

 

 人間が、物事に対して「失敗した」と心から痛感する時とは、どのような時だろうか。

 見たい思っていたテレビを録画して、いざ見てみると、間違って全く違う番組を録画していた時? 

 中学校にやる合唱のパート分けで、本来自分が出せる音よりも高い声のパートに入ってしまった時? 

 受験期、普段慣れないボールペンを使って一枚しかない受験票に記入している途中で、誤って自分の名前を書き間違えた時? 

 一目見てから好きになって、結婚まで辿り着いた相手がその実、自分とはまるっきり趣味も価値観も違う人間だと分かった時? 

 人間が心から「失敗した」と痛感するのはどのような時かなんてのは、今四つの例を挙げたように、人それぞれだとしか言いようがない。

 三者三様、十人十色、百人百様、千差万別、言い方なんて幾らでもある。 日本語とは便利なものだ。

 さて、人それぞれという答えが出たが、ならば俺の場合になるとどうなのだろうか。 俺が心から「失敗した」と痛感するのはどんな時か、やはり俺にもいろいろあるが、すぐに思いつくモノとしては、まず前世の自分の人生だ。

 どんな人生だったのかは長くなるし、思い出したいような物でも無いのでここでは割愛させて貰う。 しかし、「後悔先に立たず」とはいうものの、既に死んでいて、もう後に立てるはずもない事を、後悔できる人間なんてのはそうそういないだろう。 これはおそらく俺にしか味わう事の出来ない、極端に特別な事例だと言える。 それが良いか悪いかは別としてだが。

 では極端ではなく、他人が聞いても納得出来るような一般的な事例を挙げるとすれば何になるだろうか。 これもまた唸るほどあるが、やはり今一番答えるのに相応しいモノと言えば──―、

 

「……こんな遅くまで、女の人と一緒に居たんだね? お兄ちゃん?」

 

 ──―妹、野々原渚を甘く見ていた。 という事だ。

 

「黙ってないで何か言ってよお兄ちゃん」

 

 拙い。 非常に拙い。 今まで経験してきた中で最も危機的な状況にあるといえる。

 バレていた。 気づかれていた。 見られていた。

 俺が隠し事をしていたこと。 女子に会おうとしていたこと。 夜中に家を出たこと。

 すべて、全て、総て、すべからず渚に筒抜けだった。

 何故、どうしてこのような状況に陥るパターンをまったく想定していなかったのか。 渚が風邪だからと油断していたから、夜遅くだから寝ているだろうとタカをくくっていたから、それらはもちろんだが何よりも、俺の頭が柏木に会うことだけを考えてばかりで、後顧の憂いを断つなんて発想を初めっから持とうとしなかったからに他ならない。

 

「どうしたの? いつもなら勝手にいっぱい喋るのに、どうして何も言ってくれないの?」

 

 そもそも、たとえ家を出た瞬間を見られていて、こうして玄関で待ち伏せされていたとしても、『夜にジョギングしていた』とでも言えば誤魔化せたんだ、なのに馬鹿正直に狼狽して、結局渚の発言を全て肯定してしまう形になってしまった。

 

「ねぇ、お兄ちゃん……」

 

 いや違う、ジョギング並みの距離を歩いたり走ったりしたことは事実だが、どうしてもそれでは隠せないものがある、『におい』だ。 CDの『野々原渚』は、一人でご飯を食べたという主人公の嘘を、おそらく服から『女のにおい』を嗅ぎ取ることで看破し、嘘をつかれたことに対して激高した。 もし仮に俺がジョギングしていたと言っていたならば、すぐさま俺から女の──柏木のにおいを嗅ぎ取って、今頃とっくに『終わっていた』だろう、むしろ今の状況のほうが良かったんだ。

 

「ねぇったら……っ」

 

 そんな判断すら分からなくなってしまうくらい、今の俺は自覚している以上の混乱をしているってワケだ。 どうする? 結果的に致命的な嘘を言わずに済んだとはいえ、渚に隠し事をしていたことに変わりはない、状況的にいくらかの差異はあるものの、実質CDの修羅場と同じようなものなんだぞ、それくらいは自覚できる。 だから、まずは──、

 

「──何か言いなさいよ! 黙ってるんじゃなくて!!」

「!?」

 

 ──っ、しまった、混乱した頭を整理しようとするので手一杯になってたせいで、あろうことかこの状況で渚を無視するなんていう最大の愚を犯してしまった! 危機に対する察知も重要度判断も何も出来ていない! 

 何でもいい、今すぐにこの場を収めるのはどの道無理だ、まずはこれ以上最悪な展開を避けるために何か言え! 『あー』でも『うー』でも良い! 

 

「……八宝菜」

「え?」

「ぁいやごめん、なんでもない」

 

 馬鹿か俺は。 何でも良いからって一番に思い出したのが綾瀬の作った八宝菜って、ふざけてんのか俺は、そんなに綾瀬の作る八宝菜が好きか、あぁ? いや、そうじゃなくて、確かに綾瀬の作る八宝菜はおいしいけど。

 

「……ふざけてるのかな、お兄ちゃん。 私のこと、馬鹿にしてるの?」

「いや、違うんだ、今のは」

「そんな風にでたらめなことばかり言って、いつも私のこと騙してきたんだね」

 

 当たり前の話だが、かえって渚の機嫌を損ねてしまった。

 

「本当、お兄ちゃんは演技が上手だね。 今日までずっと私のこと騙して、夜になったら女の人のところに遊びに行ってたんでしょう?」

「えっ、いや待て、それは違う──」

「私ぜんぜん気づかなかったなぁ、本当に、わかんなかったよ……」

「だから、それは誤解だって──」

「何が誤解だって言うの!!」

「っ!」

 

 続けて言おうとした言葉が、渚の怒声で引っ込んでしまった。 言葉というより、全身が竦んでしまう。

 

「私に隠れて女の人と会いに行ったのは本当でしょ!? 私はちゃんと『何か隠してることない?』って聞いたのにその時もテキトウなこといって誤魔化して、今だって私のこと馬鹿にして、何が違うの!」

 

 熱で寝込んでいたのが嘘のように、怒髪天を突くような勢いで俺を責める渚。 その言葉に、俺は何も言い返すことが出来ない。 だって、いくらかの認識の違いはあるものの、本質的には渚の言ったことは全て正しいからだ。

 俺は確かに今日、渚に隠れて柏木に会いに行った。 行く前に渚に何か隠してないかと聞かれたときは笑って誤魔化した。 渚が怒るのは当然の帰結なのは分かる、だがそれでも、俺は言われるままでいるわけにはかない。 誤魔化すのではなく、『言い訳』をする必要があるんだ。 それがどれだけ危ういことだとしても、もう誤魔化しは二度と通用しない。

 

「……渚」

「なに」

 

 直前とは真逆の冷め切った声にまた竦みかけてしまったが、すぐに気を取り直して言う。

 

「渚の言ったことは正しい。 俺は確かに渚に隠してたし、誤魔化しもしていた」

「……ふぅん、認めるんだ」

「でも、決して渚を騙そうとか、馬鹿にしようってつもりはないんだ」

「なにを──」

「何を言ってんだって思うのは分かる。 言っても信用がないって事も分かる。 でも信じてほしい、これだけは」

「……」

「誤魔化しとか、その場しのぎの嘘とかじゃなくて本当に悪いと思ってる。 いや違う、情けない話だが自分が渚の信頼を蔑ろにしていたんだって、怒鳴られてようやく分かった。 本当にごめん」

 

 全部言ってから、頭を下げた。 これで程度で今の渚の溜飲が下るとは思わない。 しかしたとえ言い訳をするにしても、先にやるべきことは、事態の解決や回避ではなく、素直な謝罪だと感じた。 それすら単なる自己満足にしか過ぎないのかもしれないが。

 

「……」

 

 頭を下げてから数秒経っても渚は黙ったままだが、俺は姿勢を直すことなく続ける。 そうして十数秒が経ったころ、ようやく渚が口を開いた。

 

「……もういいよ、そんな格好しないで」

 

 ため息にも似た息を吐きながら、渚が小さく呟いた。 その声色からは『許し』よりも『呆れ』の方が多いように感じた。

 

「また嘘を言ってきたら本当に、本当に許さなかったけど、ちゃんと謝ってくれたなら──、言い訳は、聞いてあげる」

「……ありがとう」

「……ちゃんと聞くから、最後まで言って。 でも、もしまたごまかしたり嘘言ったりしたら、絶対に許さないからね?」

 

 口調こそおとなしいが、ようは最終通告だ。 ここで渚を怒らせてしまったら本当に『終わる』。 それをひしひしと感じて喉の奥に小さな渇きを覚えた。

 渚のくれた最後のチャンスだ。 素直に警告に従って、一切の嘘偽りなしで話す。 もちろん、俺が話す内容は柏木園子が受けているイジメについてなのだが、この話をするには必然的に、どうしても学園や悠の実家である綾小路家が行った事件の隠ぺいについても話さなくちゃいけなくなる。 綾小路家についてだけは、俺だけでなく渚知っている悠の事もあるので言いたく無かったが、それをすると誤魔化しの内に入る。 悠にも後日謝る事にして、ここでは綾小路家の事も包み隠さず話すとしよう。

「予め言うけど、少し長い話だ。 お前の風邪の事もあるし、リビングで腰をつけて話したい」

「……うん、分かった。 早くあがって」

「ああ」

 

 靴を脱ぎ、ようやく家の床に足を付けた。 深夜のフローリングは夜の空気をふんだんに吸って、無様を曝した俺を嘲笑するかのように冷たい。 だがそれでも、先程までの渚の瞳に比べればまだ温かみが感じられる。 リビングの電気をつけて、俺と渚でテーブルに向き合うように座ってから、俺は今日までの自分がしてきた行動を思い返しながらおもむろに話し始めた。

 

「まず、俺が誰に会いに言ったのかだけど。 相手は柏木園子と言って同じ学年の、他クラスの生徒なんだ」

「かしわぎ、さん? 綾瀬さんじゃなくて?」

「綾瀬じゃない、先に話すことになるが、今日俺が柏木園子に会いに行くことは予めあいつも知ってるよ」

「え、綾瀬も?」

 

 どうやら渚は不特定に『女の人』と言って来たが、実際には綾瀬と会いに行ったと思っていたらしい。 予想が外れて、更にその綾瀬が俺の行動を把握してて、看過していた事が渚には驚きだったようだ。 その時点で、これが単純に恋愛絡みの話ではないという事に、渚は気付き始めたはずだ。

 

「……それで、どうしてその柏木さんって人に、お兄ちゃんが会いに行ったの?」

「いじめを、な」

「いじめ?」

「ああ、どうしていじめられてるのかを、聞きにいったんだ」

 

 この説明だけで『そうだったんだ、大変だったね』で終われば万々歳だったが、そんな展開なぞ同じ時間を百万回ループしてもあり得ない。 しかしだからと言って一気に説明しても、それで渚が理解を示してしてくれるとは限らない。 その為、あえて徐々に話す事で、より話の内容に渚が関心を向けてくれる可能性を上げる。 ほんの僅かでも良い、今俺がしている事に理解を示してくれる為に、出来る手段は出尽くすまで使っていく。

 

「いじめられてるの? その人が?」

「うん」

「それで、なんでわざわざそんな事をお兄ちゃんが聞く必要があるの?」

 

 それは当たり前の質問であり、同時に今回の俺の一連の行動全体に関わる決定的な疑問だ。 同じクラスのいじめ問題ならまだしも、わざわざ別クラスのいじめ問題に俺が関わる理由なんて無い筈だ。 日頃から正義感溢れたお節介野郎ならあり得なくもないが、自分の兄がそんな人間ではない事くらい、他ならぬ渚がよく知っている。 その渚だからこそ、今の俺の行動は奇怪に映っているだろう。

 そしてその疑問は、今から俺が口にする言葉で更に強い物になるに違いない。 俺は聞き間違いと錯覚させない様にハッキリと言った。

 

「柏木のいじめを解決するって約束したから」

「は?」

「っ……」

 

 怖い。 言葉の端から『ワケが分からない』という感情がありありと伝わって来る。 男として情けないが、渚の普段の口調とは似つかわしくない言葉、それもたったの一語だけで怖いと思ってしまった。

 でも止まっていられない。 渚には綾瀬のとき以上に俺が柏木のために行動する理由をしっかりと説明しなくちゃいけない、家の外では同じ空間にいる時間が多い綾瀬とは違い、渚の場合は学園こそ同じでも校舎が違う分、あらかじめ持っている情報の量や認識には大きく違いがあるからだ。

 

「初めて柏木を知ったのは、部活を悠と一緒に回って、最後に園芸部に行った時だった。 その時はまだ特に問題になるようなことはなかったんだ。 ただ、部員が一人だけで、夏休みが終わって後期に入っても部員が増えなかったら、園芸部が廃部になるってことを知った」

「……」

「次の日にな、放課後綾瀬の委員会の仕事に付き合わされて図書室に行ったんだ。 そしたらさ、人目に着きにくい場所で柏木が女子生徒の三人に囲まれてたのを偶然見たんだよ。 そいつらは元は柏木と同じ園芸部の部員で、一人が今図書委員だったから好きに図書室を使用できるのを利用して柏木をいじめてたんだよ」

「ふうん、それで、どうしたって言うの?」

「その日は、三人がすぐに図書室を出てって、後から来た俺と綾瀬から柏木が逃げたから、それっきり何も起きなかったけど、次の日にまた図書室で同じように柏木はいじめられていたから、それで──」

「見てみぬ振りできなくなったお兄ちゃんが割って入ったってこと?」

「──ああ、そういうことになる」

 

 事態の切っ掛けは発言通りしっかり聞いてくれて、理解もしてくれたようだった。 しかし当然ここまでの説明だけで納得してくれるはずもなく、『でも』と渚が続けて言った。

 

「単にいじめられてた事を先生に言えばいいんじゃないの?」

 

 来た、今回柏木の件で、綾瀬の時にも悠の時にも必ず言われた言葉だ。 なぜ素直に先生の力を頼らないのか。 悠にはやんわりと、綾瀬には直接聞かれ、その時々に俺はこう言った。

 

「教師に頼めば多分いじめは止めてくれるだろう、それは俺も同感だよ」

「だったら──」

 

『だったら』の先の言葉を俺は言わせない。 教師に言う事は確かに間違いではないのだ。 早期的な解決を求めるのならば、むしろ最適解でもある。 だがしかし、こと今回に限っては、柏木に関してだけは妥協にすら成り得ない最悪の回答になる。

 

「だめなんだよ、教師には言えないんだ」

「言えないって……どうして?」

「教師がしてくれるのはいじめを止める事だけだ。 当然いじめに至るまでの過程や理由は教師も聞くだろう、でも生徒同士のわだかまりを完全に消すなんて事は、教師には出来ないし、そもそもそこまでしようと考える教師はいない」

 

 いや、1000人集めれば両手の指に収まる程度には見つかるかもだが、わざわざそんなギャンブルを、綾小路家がトップに立つ良舟学園でする気にはなれない。 たとえいるとしても、いじめ問題の裏にそれ以上の爆弾を持つ柏木の為に動ける人間は、一人としていないのだ。 せいぜい園芸部顧問だった幹谷先生のように、隠れて事実を話してくれるのが限度だろう。

 

「……ずいぶん、ハッキリ言うんだね、お兄ちゃんにしては珍しく」

()()経験の結果、だよ」

「あぁ……そう」

 

 渚になら、今の言葉の意味が分かるだろう。 まあ、今頸城縁(前世)の話を持ち出す暇はないのでどうでも良いが。

 

「でもな、教師の力を仰がなかった事は正解だったんだ」

 

 ここまででは、渚以外の人間に言う場合では、単に俺が教師を信用していない捻くれた学生でしかないと思われても反論できなかった。 だが、悠に協力を求めてすさまじい勢いで、いじめの理由に繋がる情報が集まった。 そして俺も綾瀬と一緒に事情を伏せて幹谷先生から話しを聞き、結果的に俺の判断が間違っていなかった事が分かった。

 

「柏木がどうしていじめられてたのか、それを調べてく内に、去年の九月頃に学園で起きた事件に行き当たったんだ」

「去年の九月? その時に学園で事件なんて呼べる事なんてあった?」

「渚が知らないのは当然だよ。 事件とは言ったけど、当時は俺も含めて、学園の生徒の殆どが知らなかったからな」

「殆どが知らないって、どういうこと? だって事件だったんでしょう、誰も知らないなんてあり得ないじゃない、何があったの?」

 

 ここからは柏木の踏み込まれたくなかった領域に関する話になる。 だがもう流石にここでまた話すべきか否かを考える気はない。 彼女には申し訳ないと思うが、俺がここで渚に理解を得てもらえなければ、柏木自身にも身の危険が及ぶ事がおおいに考えられるのだから。 すくなくとも俺の渚がCDの『野々原渚』と似た思考回路をしているならば、その可能性は限りなく高いだろう。 言い訳臭いが彼女の為にも話さなければいけない。

 

「……園芸部の前の顧問だった教師が、放課後部室に一人でいた柏木を襲ったんだ」

「襲っ──て、え、え?」

 

 さしもの怒りモードの渚も、これには動揺したようだ。 もっとも、気が動転したのは一瞬だけですぐに気を取り直したが。 あるいは俺がゆっくりと喋っている間に、幾分か冷静な思考に戻ってきていたのかもしれない。

 

「言葉の意味はだいたい察しがつく……よな?」

「え、う、うん……」

「ならいい」

 

 流石にその程度の話は分かるか。 分からなかったらどうしようと思っていたが杞憂で済んだ。 兄としては複雑でもあるが。

 

「幸い、直前に他の教師がその場を見て止めに入ったお陰で、柏木は最悪の事にならずにはすんだ。 が、当然顧問は社会的に死亡、懲戒免職の形で学園を追放されたよ、今はどうしてるかは全く分からない」

「……それ、本当にあったの? そんな大変な事があったなら、普通はニュースになったり、そうじゃなくても誰も知らないなんて事あり得ないと思うけど」

「そうだよな、普通じゃあり得ない、俺だってこんな事去年の九月にあったなんて全く聞かなかったし、噂話ですら耳にしなかった」

 

 だから、それはつまり、普通じゃない事が起きたという事に他ならない。

 そしてそれこそが、彼女のいじめがただのいじめに収まらず、俺が関わるまでになってしまった最大の理由だ。

 

「渚は、悠の事は当然知ってるよな?」

「? お兄ちゃんの友達の、綾小路さんでしょ? もちろん知ってるけど……」

「じゃあ、悠の家の事は?」

「この地域でも有数の分限者だって、お父さんは言ってた。 お母さんも、資産家だって…………」

 

 どうやら大まかな事くらいは既に把握しているようだ。 もっとも、学園の中でさえとんでもない金持ちだって噂が回っているのだから、渚が知ってても当たり前だが。 何故噂止まりで確たる事実として広まっていないのかだが、恐らく普段連れ添ってる俺があまりにも庶民だからだろう、金持ちが庶民とつるむワケがないと言う一種の共通認識。 悪く言い換えれば偏見だ、事実中学の時に一度だけそれが問題として浮き彫りになった事もあった。

 話がややそれてしまったが、渚や両親に、このまちに住む人の、恐らくほとんどが綾小路家については『大まかな事』しか分かっていない。 俺でさえ綾小路家の実態については、柏木の事を調べるにあたって副次的に知った事実なのだから。 ちょっとお金持ちだとか、月に一回海外旅行出来るだとか、そんな可愛い次元では無かった。 もっと驚くべき、まさしく庶民の発想なんてふた回りは優に超えているものであったのだから。

 

「どれくらい金持ちかと言うとな」

「ちょっと待って、今綾小路さんの家の話は関係ないでしょ、話をそらさないで」

「そらしてない、最後まで聞いてれば大きく関係してるって分かる話だ」

「……分かった、続けて」

 

 憮然とする渚だが、本当に関係している話なのだから最後まで聞いてもらわないと困る。 と言うより聞くと言ったのは渚の方なのだから、発言の責任は──いや、これについては俺が言える立場では全く無いな。 本当に反省出来ているのか自分が疑わしくなったが、まずは話を続ける事が最優先事項だ。

 

「俺達が通ってる学園、あるだろ」

「うん、それが何か──っえ、うそ、もしかして」

 

 先程とは違い、今の一言だけで瞬時に俺の言いたい事を察してみせた。 とはいえ、流石に顔も知っている兄の友人が、学園一つ作れるほどの分限者の人間だとは信じられないようで、躊躇いがちに聞いてきた。

 

「学園の創立者が、綾小路さんって事、なの?」

「厳密には、優の親父さんと伯父さんの二人がな。 理事長は勿論の事、校長含めた学園の責任者は軒並み綾小路家の関係者、らしい。 悠が言うにはな」

「そう、だったんだ……本当の本当に、資産家のお家だったんだ……あっ、じゃあ、それって──」

 

 このあたりは流石俺の嘘を見抜けた慧眼と言えるだろう、自分で無関係だと言ってたのにも関わらず、同じく俺が何か言うよりも早く、渚は先程までの柏木の話と今の綾小路家の話のつながりをたちどころに理解して見せた。

 

「悠の親父は綾小路家の次男で、当然伯父は長男だ。 そんな、次代の綾小路家の名を継いで行くかもしれない二人が共同で創設した学園で、教師が生徒に手を出した。 世間に広まれば不祥事なんかで済まない、綾小路家を継ぐどころか、家の名前に泥塗る事になってしまいかねない」

「だから、隠したの? 本当にそんな事なんて出来るの? 幾ら何でもそんな酷い事」

「悠が以前、自分の家を指してこう言った事がある、『金さえあれば何でも出来ると考える人間が多い』ってな。 言い換えれば、どんな事でも金がある限りは躊躇無く出来るって事だろうさ」

 

 そして、極めつけと言えばいいのか、ある意味で中途半端に過ぎた隠蔽処置が生んだ結果が、一人の男性教師が原因不明なまま学園から消えた、と言う事実だった。

 

「園芸部の生徒で元顧問がいなくなった理由を知っているのは、被害者である柏木しかいなかった。 そして当然柏木にも学園から口止めを強要されていた。 何も知らない他の園芸部員が唯一知っている事は、元顧問が最後に学園にいた日、部室に最後までいたのが柏木だけだったと言う事だ」

 

 本当、くだらない。 もう少し年齢が重なればそんな考えがぶっ飛んでる事に簡単に気づけるだろうが、あいにく高校生と言ってもまだまだ思考はガキのままだ、そんなくだらない考えだって簡単に信じるし、それに基づいてどんな腐った行動だって起こせる。 その事を、他ならぬ()()()()()()()()理解している。

 

「だからそいつらは柏木が原因だと思った。 根拠も無く、単純に柏木しか()()()()()だから、柏木が犯人だと決め付けた。 柏木も本当の事は言えないから、連中の幼稚な思い込みは確信に増長して、今も続いている。 もう顧問が消えた理由を聞くでも責めるでもなく、ただ痛めつける事だけに目的が挿げ替えられてな」

 

 俺がそう言いきると、渚はこれまでの会話を頭の中でまとめるためか、深く溜息を吐いてから目を瞑って暫く沈黙した。 無理も無いだろう、単純に夜中妹に隠れて綾瀬と逢引きしてるだけだと思っていたのが、予想に反して重苦しく複雑な内容だったのだから。

 体感でおおよそ五分程度だろうか、会話中は話す事に夢中だったので気にならなかったが、黙っていると部屋の空気がじわじわと体を冷たくしていく。 いい加減寒さが無視できなくなってきたところで、ようやっと渚が口を開いた。

 

「……つまり、お兄ちゃんは」

 

 ゆっくりと、ただの一言であってさえも誤りがないように、渚は言葉を口ずさんでいく。

 

「学校側ではどうしようも出来ない柏木さんの為に、いじめを解決しようと動いてた、って事なんだね」

 

 随分と短くまとまったが、確かにその通りで間違いは無い。 そうなるに至った経緯も、途中にあった事も、全部今ままでの会話で渚に言い尽くしたのだし、これ以上訂正を求める事もいたずらに否定する必要も無い。

 

「それで間違いない、合ってるよ」

「そう……」

 

 静かに頷く。 納得したのだろうか? いや、そうじゃない。 テーブルの上に置いた手を硬く握り締め、顔を俯かせて表情をこちらに見せないまま、振り絞るような声で渚は言った。

 

「何で……何で、お兄ちゃんなの」

 

『何で』、その言葉もまた、綾瀬に悠、柏木の全員から問われた言葉だった。 全く持って赤の他人であった筈の野々原縁が、何故そうまでして助けようとするのか。 それに対しての答えも、既に自分は見出している。

 

「昔俺がさ、いじめっぽい事されてたの、覚えてる?」

「昔? ……うん、覚えてるよ、初めて綾瀬さんが家に来た時の事でしょ」

「そう。 まぁいじめと言えるほどの事じゃあ無かったんだろうけどさ、それでも俺は何も出来なかったし、怖かったんだ。 そんな時に助けてくれたのが──」

「言わなくてもいいよ、覚えてるって言ってるでしょ」

 

 分かっていた事だが、やっぱり渚にとっては気に入らない話のようだ。 俺が嫌な思いをしていたと言う事実に気づけず、赤の他人だった綾瀬が俺を助けて、かつ一緒に帰ってきたと言う事実が、当時の渚には鼻持ちなら無いものだったのかもしれない。 そうだとしても、渚の神経を逆なでさせてしまうような事だとしても、嘘を言う事は出来ない。

 

「じゃあお兄ちゃんは、昔綾瀬さんに助けてもらったから、その真似をしてるって事?」

「まね……真似、か。 言われなかったから考えもしなかったが、確かに、俺は綾瀬の真似をしているのかもな。 俺自身にその自覚がなくても、俺の行動基盤に、綾瀬の影響が強く出てる事は確かだよ」

 

 でも、それだけではなかった。 綾瀬の影響だけではないのだ。

 

「それに加えてもう一つ、理由がある」

 

 これは綾瀬にも言わなかった、言えなかった理由。 同時に、渚にしか言えない理由だ。

 

頸城縁(前世の馬鹿野郎)はね、いじめが原因……で正しいのかな。 とりあえずまぁ、他人からの悪意に対して何もしなかった結果、アホみたいに死んだんだ」

「──っ!」

 

 渚が何を思ったのか、俯かせていた顔を俺に向けた。 怒っているのか、驚いているのか、はたまた悲しんでいるのか……哀しい事に、俺には分からない。

 

「だから、だろうな。 いじめられてる柏木を無視出来なかったし、無抵抗だったのが頸城縁(自分)と重なって気に入らなかったんだと思う」

 

 とうてい綺麗な感情とは言えない、ハッキリ言って自分でも認めるのは嫌だが、この身勝手な感情は同属嫌悪とでも言えば良いのだろうか。 同族とはいうが理由も無いのに何もしなかった死人と、理由があって何も出来なかった彼女とでは雲泥の差があるのは分かっているけれどもな。

 

「だから……だから、俺は二つの意味で動いてる。 失敗した自分(頸城縁)と、今の自分(野々原縁)の二人分、理由があるんだ」

 

 これで今度こそ、自分が言えることは全部言い切ったと思う。 とにかく一番に、渚に隠していた事は事実だったが、単に柏木と仲良くなりたいとか、恋人関係になりたいとか、そんな理由で行動していたわけでは無かった事は分かってもらえた筈だ。 ──そう、思い込んでいた。

 

「──どうして?」

 

「……え?」

 

 俺を見つめたまま渚が言った言葉は、その表情と同じに酷く乾いた、およそ感情が乗せられているとは思えない程に淡々とした物だった。 それなのに、棒読みに聞こえるどころか、言葉の裏に何かしらの情感が込められていると、嫌にハッキリと感じられる。

 だが素直に意味が分からなかった。

 俺はもう既に渚の『どうして』に対する答えを言っている、それなのにも関わらず、渚の口から出た言葉は納得でも不服でも無く、再度の疑問だった。 その言葉に俺の方がどうしてだと言いたくなる。 渚は未だに何が分からないと言うんだ。

 

「えっと渚……悪いが、お前が何を聞きたいのかが分からないんだが。 俺が柏木の為に動く理由は、さっき言ったよな?」

「そうじゃなくて」

「そうじゃ、ない?」

「なんで()()()()()がわざわざそんな余計な事をしているの?」

「余計な、こと?」

 

 一つ理解した。 いや厳密には理解にまで至らないが、渚の言葉が何を意味しているのかは分かった。

 今日まで、俺に『どうして』と聞いてくる人は三人いた。 一人は綾瀬、二人目は悠、最後の一人は柏木。 いずれも、俺が柏木の為に行動する理由を聞いていた。

 だが、渚の『どうして』は、先の三人とは言葉こそ同じではあるが、指し示すモノが似ているようで違うのだ。

 

「お兄ちゃんは自分からわざわざ面倒ごとに関わって行くような性格じゃ無かった。 いつも笑っていて、どちらかと言えば自分が楽になる方を選んで来た。 だから、今までは自分が家事をするなんて事は無かったし、帰りに荷物を一緒に持ってくれる事も無かったし、絶対に部活をしようなんて事も考えなかった」

 

 渚は今回の事だけを聞いてるのではなく、これまでの俺の行動全てに対して、疑問を投げかけている、それが渚の『どうして』が指している内容だ。

 何故それを今この場で聞いてくるのかまでは分からない、でも渚にとってはそれらが繋がっているのだろう。 しかし肝心の俺が、その問いに対してどう答えれば良いのかが分からない。 俺が部活をする事も、家事手伝いをする事も、全部渚が了承した事だと言うのに、何故ここに来て再度矢面に立つのかが、分からなかった。

 

 だが、俺がその疑問に答えを得る前に、唐突にこの時間は終わってしまう事になる。

 

 

「私は、あたしが言いたいのは──お兄ちゃんは……本と──はっ──」

「お、おい! どうした渚!?」

 

 椅子から立ち上がり、俺の元に詰め寄りながら何かを続けて言おうとしたが、最後まで言い切る前に渚の身体が俺の方に倒れて行った。 床にぶつける前にすかさず駆け寄り、渚を抱きとめる。

 

「渚、大丈夫……って、熱いぞお前!」

「こほっ……こほっ!」

 

 わざわざ体温計を使うまでも無く、抱きかかえただけでパジャマ越しに渚の体温が高くなっていることが分かる、それくらい今の渚は発熱している。 それだけでなく顔や背中や手足のどこも汗で濡れている、こいつ、こんな容態になってるのに今の今まで我慢してたのか!? 

 

「くそ、もう話をしてる場合じゃない、すぐに部屋に戻るぞ、服も着替えなきゃ!」

「待って……まだ、終わって……」

「そんな場合じゃ無いだろ! 死にたいのか!?」

「…………っ」

 

 ここまで渚の容態に気づかなかった自分への苛立ちと、焦る気持ちを抑えながら、急いで渚の部屋に向かった。

 まずベットに寝かせた後、一階からタオルと冷蔵庫の中のスポーツ飲料が入ったペットボトルを持ってきた後に、渚のパジャマを脱がせて汗だらけの身体を拭く。 パジャマの下は当然とは言え下着だけだったが、年頃の女子の裸だの下着だの今は気にしてられる状況では無い。

 そもそも妹相手にそんな気は起きないし、何よりこれ以上に渚の容態が悪化したら俺を信用して愛娘を家に置いてきた親父に見せる顔が無い。 替えのパジャマに着替えさせて体温計を脇に挟み、身体に布団を被せてから、半身だけ起こしてペットボトルの蓋を開けて飲ませようとした。

 

「渚、飲めるか?」

「……」

「……くそっ」

 

 もはや返事も出来ない程に意識が朦朧としている様だ。 とは言っても、無理に飲ませては逆に咽せて苦しませてしまうだけになるだろう。 水分は大切だが、それよりもしっかりと身体を休めせる事を優先すべきなのだろう。 せめて時間が深夜帯でさえ無かったら、綾瀬に助けを願う事も出来たのだが、今はそうもいかない。

 ピピッと軽快な音と共に計り終えた事を知らせる体温計を見ると、優に39度を超えており、明らか俺が家を出る前よりも悪くなっているのが分かった。 しかし、汗も止まって呼吸も汗を拭う前よりも穏やかになり、既に完全な睡眠状態になっているので、あとはもうこれ以上悪化する事は無いと思われる。 とにかく山場は去ったのだ。

 

「……はあぁ、もう、くっそぉ……」

 

 取り敢えずやる事が終わり、安堵の息を吐いきながら床に倒れこみ、ベッドに背中を預けた。 少しして内側からこみ上げて来たのは、どうしようもない位の自己嫌悪だった。

 渚が俺が家に帰るまでずっと玄関前に立っていた事を分かっていながら、俺はそれ以上の事にまで考えが及ばなかった、自己保身に思考が全て向いていたからだ。 そもそもの話、まだ治ってないのにあんな寒い場所に長時間居れば誰だって病症が悪化するのは当たり前だ、たとえ話をするにしても、俺はリビングでは無く渚の部屋で、ベッドに横にならせながら話すべきだった。 その方がまだ渚の身体の負担は軽かったのだから。

 それらを一切全く微塵も考えもせず、リビングに連れて行った理由はなんだ、考察するまでも無い、先にも挙げた自己保身の為に違いない。 どこに何があるのか全て把握している渚の部屋よりも、共通の空間であるリビングの方が話すにしてもはるかに安全だと、無意識下で分かっていたから、渚の容態よりも()()()()()()()()()()選んだのだ。

 

「ここに来てもこの有様かよ、ふざけてんのか……」

 

 どこまで自分大好き野郎なんだ俺は、そりゃ死にたく無いから色々考えるのは仕方ないさ、でもそれで結果的に渚を苦しめる事になってんじゃ意味ないだろうよ! 渚は俺のなんだ? 妹だろうよ、そんで俺は兄だ、ドヤ顔で言い訳垂れるより先に優先すべき事があんだろうが大馬鹿野郎!! 

 

「何が『本当に悪いと思ってる』だ、何が『渚の信頼を蔑ろにしていたんだってようやく分かった本当にごめん』だ、そんな事言ってる時点で既に何も分かって無かったじゃねえかよ、本当口だけは良く回るな、今もだけどよ!」

 

 こんな自分が柏木を助けようなんて、よく言えたモノだ、遊んでいるのかいい加減にしろ、馬鹿にしやがってふざけんな。

 目の前に自分が居れば思い切り殴りつけたい、自室なら手が壊れるまでそこらじゅうを殴りつけたい、だがここは渚の部屋で、俺は一人だけだ、だからそれら一切の自己満足にしかならない欲求も押さえつける。 それこそ、先にしなくちゃいけない事は山ほどあるのだから。

 

「ごめんって言葉も、今じゃ胡散臭くて言えないな、俺、お前に何も言えないよ」

 

 そう呟くのを最後に、俺はもう一度だけ渚の顔の汗を拭い、電気を消して部屋を出た。 もうこれ以上出来る事は無いのだから、後は良い意味でも悪い意味でも寝る事しか出来ない。 とにかく明日は柏木のいじめに決着を付けなくてはいけないのだから。 俺がうだうだと停滞しているんじゃままならない。

 結局、渚との意思疎通は成らず、それどころか大きく溝を作る形で、その日の俺の一日は終わってしまった。 心の中に、黒く淀んだ大きな澱を残したまま。

 

 

 翌朝。 部屋に戻っても素直に眠るのには、些かどころじゃない位に気分が優れなかったが、眠気は勝手に湧いてくるもので、結局ベッドの上に倒れて着替えもしないままに意識を手放してしまった。

 その為に寝つけが悪かったからか、寝る時間はいつもよりだいぶ遅かったのにも関わらず、起きる時間は六時十三分と、渚の看病のために早く起きていたここ最近よりもさらに早く起床する事になった。

 せっかくなので、昨日は遠出して汗が出たのにシャワーも浴びずに寝てしまったので、シャワーを浴びて汗臭くなった身体を洗い、心はともかく身体をスッキリさせてから朝食の用意をし始めた。

 渚の分のおかゆ、自分の分の焼き鮭に目玉焼きとキャベツの千切り、二人分の味噌汁を作り終えた後、先に俺だけ食事を摂って食器を片づけてから、昨晩の様にトレーに渚の分のご飯を載せて部屋に向かう。 が、いざ部屋の前に立つと、部屋の中に入るどころか、ドアをノックする事すら躊躇ってしまう。

 かと言って、このまま部屋の前で立ち往生するワケにもいかない。 深呼吸をしてから、俺は左手でトレイを持ち、空いた右手でドアをノックした。

 

「渚、朝ごはん持ってきたぞ」

 

 昨日までなら、すぐに返事が来たが案の定今日はなんの返事も返ってこない。 それだけで嫌になって来たが、気持ちを抑えてドアノブを回した。

 

「渚、入るからな」

 

 一応断りを入れてから、ゆっくりと部屋に入る。 見ると渚はこちらに背を向けるようにしてベッドに横になっていた。

 

「……渚、朝ごはんだけど、食べられるか?」

「いらない」

 

 ぶっきらぼうではあるが、やっとこちらの問いかけに対して返事をしてくれた。 それだけでも幾分か心が軽くなってしまうのは仕方ないだろう。

 

「でも、風邪悪化してるだろ? ちゃんと食べなきゃ──―」

「良いから、ほっといてよ」

「……っ」

 

 これは駄目だな……、分かってはいたが、昨日からずっと渚は俺に対しての態度を軟化させてはいないらしい。 となると、後は俺がいない時に食べてくれることを願うばかりだ、今の状態で俺がごねても泥沼化するだけだろうし。

 

「……分かった、じゃあ、ご飯は置いとくから、お腹すいたらちゃんと食べてくれな? 食べ終えた食器は、廊下にでも置いといていいから」

「…………」

「……じゃ、俺、行ってくるよ。 今日は土曜日の登校だから、普段よりは少し早めに帰られると思うけど、もし体調がもっと悪くなったら、すぐに電話してくれな?」

「…………」

 

 依然こちらの顔も見せない渚の背中にそう言ってから、俺は部屋を出る。 だが、ドアノブに手を掛けてドアを閉める前に、振り返ってもう一度、渚の背中に向けて言った。

 

「……俺は確かに最近、渚が納得できない行動ばかり取って来たかもしれない。 でもな、俺は渚を蔑ろにするつもりは本当に無いんだ。 昨日渚が俺に言おうとした事は、渚の身体が良くなったら、必ず聞くから、だから待っててくれ」

「…………」

「最後まで自分勝手でごめんな……じゃあ、行ってくる」

 

 言うべき事、伝えたい事を出来うる限り言った後に、俺はすぐに鞄を手に取って、家を出た。

 

「……そういう事じゃないよ、ばか」

 

 ──その、搾り取ったように呟いた渚の声を、俺はまたしても聞くことが出来なかった。

 

 ……

 

 通学路を歩いていると、公園を過ぎた辺りで背後から声を掛けられた。

 

「縁、おはよう」

「んっ……あぁ、おはよう綾瀬」

 

 この辺りで俺に声を掛ける人間は決まっている、幼馴染の綾瀬だ。 今日も今日とて特徴的な大きいヘアリボンが、俺に駆け寄る綾瀬の動き合わせて上下に揺れている。

 

「朝一緒になるのは、珍しいな」

「そうだね、いつもは渚ちゃんと一緒だから、少し貴方の方が遅いし……、渚ちゃんは今日も体調悪いの?」

「ん……まあ、ね」

 

 渚の事を尋ねられて、思わず言葉が濁ってしまうのを抑えられなかった。 それでも表情には出さなかったつもりだったが、綾瀬には簡単に見抜かれたらしい。

 

「昨日、渚ちゃんと何かあったんでしょ」

「……あぁ。 柏木の事について、渚に隠していたのが分かられて、それから俺の不始末の所為で風邪が悪化した」

「やっぱり、か」

 

 沈黙が起きる。 歩く速さはそのままに、二人の間の空気だけがゆっくりになっていく感覚を覚える。 俺は昨日から続く自己嫌悪に引っ張られたまま何も言えず、口火を切ったのは綾瀬の方だった。

 

「私は、ね。 否定はしないから」

「……え?」

「渚ちゃんに黙ってたのは間違ってたのかもしれない。 でも貴方が渚ちゃんに心配掛けたく無かったって気持ちは分かるし、それも間違いでは無いと思うの。 それにほら、あの子貴方と女の子の事になるとジェラシー凄いし」

 

 そう笑っていいながら、綾瀬は俺の目を見つめながら、ハッキリと言った。

 

「貴方の今までの行動や判断は、全部が全部正しいワケじゃなくて、大小問わずに、絶対に間違いは沢山あったんだと思う。 そうだとしても私は、今の渚ちゃんを想う気持ちや柏木さんを助けようとする気持ちが、間違ってたり非難される様なモノじゃ無いって思うよ」

「綾瀬……」

「だから安心して。 渚ちゃんや他の人が、何より貴方自身が自分を嫌いになっていても、私だけは貴方を嫌いにならないし、否定もしないから」

 

 そうはにかみながら言う綾瀬の言葉に、情けなくも、ほんの少しだけ、涙腺が緩んでしまった。

 

「ありがと、綾瀬……でも、恥ずかしいぞ俺が」

「何言ってるの、貴方よりも言ってる私の方が恥ずかしいわよ」

「あははは! そりゃあ確かにその通りだ」

 

 ああ、本当に、本当にありがたい。 昨日までの自分の行動に後悔は残っている、だが綾瀬のくれたほんの僅かな言葉だけで、もう心の澱は消えてくれた。

 ──と、こんな話をしている内に、いつの間にか見慣れた校舎が目の前に現れていた。 良舟学園、俺達の学び舎でありながら、ある意味では柏木のいじめを生み出した元凶その物。 もっとも、いじめの原因を校舎の存在に当ててしまえば、この世のいじめは全て『学校があるのが悪い』なんて暴論に至ってしまうのだが。

 そんなくだらない事を考えつく程度には心に余裕が戻った俺に、綾瀬が発破をかける様に言った。

 

「今日が一番大事なんだから、しっかりやり切ってよね」

「おう、やる事やって、後悔も懺悔も反省もその後だ」

 

 もう自己嫌悪に心を占めさせるのはお終い、それらは全部終わったら、改めてもう一度相手にする。 今は、これからは柏木の事を終わらせる事だけに全てを集中させるんだ。

 

 そう心に決めて俺は校門を超えて、学園の敷地に足を踏みつけた。

 

 

 ──to be continued



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九病・未来は僕らの…

今回の展開になるまでどのくらい月日が経ったのやら
プロット書いたらそれに満足する悪いタイプの人間だってようです、私は

では、始まり始まり


「あっ」

「え……」

 

 階段を上がろうとしたところで、なんと柏木に会った。

 昨日の夜言った通りに、今日はちゃんと登校してくれたみたいだ。

 

「おはよう、ございます……」

「あぁ、おはよう、柏木」

「おはよう、柏木さん」

 

 俺と柏木は硬く、綾瀬は朗らかに、互いに毛色の違う挨拶を交わしたあと、階段の前で固まってしまう。 俺たちの間や後ろを他の生徒がチラチラ見てくるのが恥ずかしいが、昨日の事が尾を引くのか、どちらも次の行動に動けずにいる。 綾瀬も流石に下手に口を出すまいと、敢えて俺と柏木の様子を静観している。

 いい加減にきつくなってきたそんな空気を、意外にも俺や綾瀬でも無く、柏木が破った。

 

「あ、あの……」

「ん、なんだ?」

「昨日の、事なんですけど……」

「うん」

 

 なんだろう、まだ何か踏ん切りがつかないのだろうか? 

 

「昨日は、力を貸してって言いましたけど、その、やっぱり私なんかの為に──」

「却下」

 

 聞くまでも無かったな、即刻発言を許可しませんさせません。

 

「えっ、その、まだ私全部言ってない──」

「言ってなくても意味は通じる、それに、今更言っても遅いよ柏木」

「遅い……? それって、どういう意味ですか?」

「早ければ今日のうちに、全部終わるってコト」

「えっ、えぇ!?」

 

 目を丸くして驚く柏木。 まあ、その反応は間違っていない、相談を持ちかけた相手が次の日にはもう解決一歩手前なんて都合のいい事なんて、普通は考えられない、俺も悠がいなかったらそうだった。

 

「まあ、殆ど俺の力じゃなくて、俺の友人達の力なんだがな……。 それでだ、柏木、お前に最後に一つ確認したい事がある」

「確認したい事、ですか」

「お前は、早坂たちの事を恨んでいるのか?」

「恨んでいるのか、ですか……」

 

 目を閉じて自問する柏木、何故このタイミングでそれを聞いたのかと言うと、俺には柏木が早坂たちを恨んでいるのかどうか、判断がつかなかったからだ。

 そんな事、目に見えて分かっているだろうと思うかもしれない。 でも昨日の柏木の口振りから、柏木はいじめ自体は嫌だが、早坂たち本人に対して必ずしも嫌悪を抱いてはいないんじゃないか、とも思えたのだ。

 それを示すように、柏木は俺の問いにすぐ答える事をせず、今こうして目を瞑って自身に問いかけている。 柏木は自覚していないかもだが、その時点で半分以上答えを言っているような物だ。

 園芸部で出来た友達、自分をいじめてくるのはあくまでも本当の事を知らなくて、本人も口に出来なかったから。 思いのすれ違いと言うには些か早坂たちに非が多い物の、単純に彼女達を悪と断定するわけにもいかない、そう考える事も決して悪くは無い。 もっとも、そんな事を考えていい権利を持つのも、柏木ただ一人だけだが。

 

「……分からないです。 早坂さん達にされた事は辛かったけど、でも私、きっと心の何処かで早坂さん達とまた仲良くなりたいって……思ってるかもしれません」

「そう、か……うん、よく分かったよ」

「へ、変ですよね? こんな中途半端な気持ちで野々原君に助けてなんて、きっと私、どこかおかしいんです」

「おかしいかどうかは、ノーコメントとさせて貰うけど、これだけは言って置くな」

「……はい、なんですか?」

 

 これから話す言葉が、恐らく彼女のこれからを左右する分岐点、選択肢と言う奴だ。 どちらが正しく、どちらが間違っているという物は無いが、ハッピーエンドかノーメルエンドのどちらかになる。

 

「もし、お前のその気持ちが本当なら……、最後の選択は、俺じゃなくてお前が自分で決めてくれ。 俺はあいつらに対しては遠慮も躊躇いもしないから、徹底的にやる。 お前の問題全てを『解消』するつもりだ」

「…………っ」

「お前が『解消』ではなく、『解決』を望むとするなら、どうすればいいか、どうしたいのか、自分で考えて決めてくれ」

「……はい、分かりました」

 

 俺の言葉の意味を読み取った柏木が先程の曖昧な答えとは違ってハッキリと頷いた。

 

「うん、じゃあ俺達はさっさと教室行くから」

「それじゃあ柏木さん、()()()()()

 

 そう言って、俺たちは柏木の返事を待たずに教室に向かった。

 

 教室に着くと、遅刻ギリギリの到着だった昨日と違い既に教室に居た悠が、他のクラスメイトと会話をしながら俺が来るのを待っていた。 そうして、俺達を見つけるやいなや、ぱたぱたと直前まで談笑していたグループから離れ、俺の席にやって来た。

 

「柏木さんは今日来てるかな?」

「ああ、さっき階段の前で会ったよ」

「そっか、良かった。 これでバッチリだね」

「ん? バッチリって事は、まさかお前、昨日頼んだの、昨日の内にすぐやったのか……?」

 

 ここ数日のやり取りでもはや分かり切っていたが、念のためにと悠に視線を向ける、それを受けて悠は苦笑を交えながらあっけらかんと答えた。

 

「おかげで、今日は寝不足になっちゃったよ、中々正直に話してくれなくてね」

「……行動、迅速過ぎだろう、いや有難いけどね」

 

 いや、もう本当その、これからは悠の事をジェバンニと呼んだ方が良いかもしれん。 それにしたって一体この数日間で何回、一晩でやってくれましたを連発してくれるんだこの親友は。 悠とは別に計画について話していた綾瀬も、会話の意味をすぐに察して同じく驚いた。

 

「もしかして、今日の放課後までにって計画してたアレの事? 本当、綾小路君は動くの早いわね……」

「いやいや、今回は特別だよ、僕だってこの件に関しては十分に関係者なんだから、当然身も入るさ」

 

 身内の恥そのものだからね、そう答えてから悠は場の空気を切り替えるかのように咳払いをした後、鋭い目線で俺を見やった。

 

「さて、縁、もうこちら側の手札はほぼ揃ったよ、あとは行動に起こすだけだ」

「今日のうちに、柏木さんのいじめを終わらせる……、自分の事じゃないのに緊張するわね、これ」

「一応確認するが、今日の授業は三限までで、後は無いんだよな」

「そうだよ。 だから実行は帰りのHR後すぐにって事で良いのかな」

 

 悠の視線だけでなく、綾瀬のそれも俺を捉える。 その視線を受けて、最後の確認とばかりに、俺は目を閉じて現状の全てを確認し直す。

 悠の言うとおり、出来得ることは全てやり切った。いいや、最後に一つだけ、ピースが欠けたままだが、この空白は俺らでは埋めようがない。 最後の空白が埋まるかどうかは、俺じゃなくて向こうが決めなくちゃいけないからだ。

 それに、この欠けているピースは問題を終わらせる事の障害にはなり得ない。 当然ある方が良いが、無くても問題は全く無いとも言えるのだ。 つまり、もうやるべき事も足りない行程も無く、実行に移すだけと言う事に他ならない。

 

「──ああ、今日の放課後に、全部終わらせる。 綾瀬、悠、最後まで頼む」

「うん、もちろん」

「任せて! と言っても、私はそんなに大した事してないけどね」

 

 俺の言葉に、力強く返事をしてくれる二人。 結局、始めは俺一人でやるとか言ってたのに、今じゃ最後の最後まで二人の力に頼りきる形になってしまった。

 もっとも、二人はそんな事は気にしないのだろうが、今回の件で俺がどれだけ友人に恵まれていたのかを確認する事が出来た。

 柏木園子のいじめについては、三人で取り組んだ。

 全部終わった後、渚に関しては、今度こそ俺が一人で解決しよう。

 

 ……

 

(…………はぁ)

 

 柏木園子は、放課後独特のクラスの喧騒の中、一人席に座ったまま、朝に野々原縁と交わした会話を思い出していた。

 野々原縁という人物を、柏木はあまりという表現では少しばかり足りない程度に知らない。 当然の話だ、彼と柏木が知り合ったのは、ここ数日かそこらなのだから。

 なのにも関わらず、まるで向こうは、初めからこちらの事を分かっているかのように接して来た。 それだけでも困惑するのに、実際に野々原と交わす会話はいつも、同じ地平で話している筈なのに、度々回りくどい言い回しや比喩を使うので、どこかずれている様な感覚を覚える事が多く、本心が掴めなかった。

 その野々原が今朝、『早ければ今日のうちに全部終わる』と、ハッキリそう言った。 自分と話す時以外の、普段の彼を知っているわけでは無いが、それでもその言葉に確実性があるという事は、柏木も十分に分かっている。

 

(多分このまま家に帰ったとしても、野々原君はいじめを止めてくれる……でも)

 

 野々原はもう一つ、自身に言った。

 

『お前が解消ではなく解決を望むなら、どうすればいいか、自分で決めてくれ』

 

 その言葉が意味するのは、野々原が『解消』と『解決』、似ているようでどこかが決定的に違うこの二つの内どれかの結末を、柏木に委ねたという事。

 今日は土曜日の登校で、一人っきりの園芸部も今は行く気にもならない。 このまま家に帰れば、柏木は『解消』を選択した事になるのだろう。

 では、『解決』を望んだ場合、何をするべきなのか。

 そもそも自分は、早坂達とどのような決着(解決)を望んでいるのか、それすら柏木は自覚出来てはいない。

 

(私はどうすれば……、駄目、分からない)

 

 焦燥感にも似た感情を胸の中に抱えたまま、霞の様な答えを求めて、柏木は黙考し続ける。

 そんな柏木の意識を断ち切るように、唐突に校内放送を告げるチャイムが柏木の耳朶に響いた。

 

『二年生の早坂真弓さん、小松京子さん、新房沙紀さん、至急、園芸部部室に来てください。 繰り返します、早坂真弓さん────』

(えっ……?)

 

 スピーカーから流れてくる声は、野々原と一緒にいた大きなヘアリボンが特徴の女子生徒の声だと、柏木はすぐに気付くことが出来た。 名前は確か、河本綾瀬だったか。

 突然見知った人間の声が校内放送で流れた事に驚くが、しかしそれ以上に、その放送で挙げられた名前の方が彼女の注意を引いた。

 

(今のって……もしかして)

 

 思わずクラスに残っていた早坂へと顔を向ける。 すると早坂の方もまた、柏木に鋭い視線を向けていた。

 咄嗟に視線を逸らす柏木、それを見て早坂はすぐにでも問い詰めたい様子だったが、それを抑えて足早に教室を出て行った。

 

(きっと、野々原君達が……じゃあ、やっぱり……)

 

 残った時間はもう僅か。

 恐らく、これから先ずっと影響する人生の選択を前に、柏木は決断を迫られていた。

 

 ……

 

「……さて、後はあいつらが来るのを待つだけか」

 

 綾瀬が校内放送で早坂達を呼び出した、悠には別件で席を外して貰っているので、園芸部の部室には今俺しかいない。 正直な話、あの三人を相手に俺一人で相手しなければならないと言うのはウンザリだが、渚と正面から対話した昨日の夜に比べればまだマシだと、自分を奮起させる。

 

「おっ、来たかな……」

 

 廊下をかつかつと歩く音が部室に近づいて来る、その音が部室の扉の前で止まったかと思うと、勢い良く扉が開かれた。

 開いた扉の先に居たのは、予想を裏切らず、早坂真弓その人だった。 ただし、三人ではなく二人だけだったが。

 

「早坂に、もう一人は……えっと」

「こ、小松……」

「ああ、そうだったな」

 

 俺が柏木を図書室から連れ出した時に、早坂の他二人のうち、柏木の手を楽しそうにグリグリ踏んでいた方が新房沙紀で、何もせずぼやっと突っ立ってたのが、今いる小松京子だった。

 

「新房沙紀はどうした、ここには三人呼んだはずなんだが」

「沙紀は今日風邪で欠席してるんだけど、家からここまで来いって言うつもり?」

「う~ん、出来るものならここまで裸足で来てほしかったね」

「はぁ!? 野々原、アンタそろそろいい加減にしなさいよ、だいたい、ここにも何の用件があって呼んだワケ?」

「真弓、少し落ち着いて……ね?」

「……ふん」

 

 今にも俺に掴みかかって来そうな早坂を、多少オドオドしながらもしっかり宥める小松。 なるほど、しっかり宥める事が出来るって事は、早坂の言いなりの身分では無く同等の立場なんだな。 柏木に積極的に危害を加えないからコイツだけ所謂『巻き込まれている』のかとも思ったが、元来控えめなだけで気のせいだったようだな。

 それはそうと、さっさと話を進めるとしよう、これ以上こいつらと無駄な世間話をしても一銭にすらならない。

 

「俺がここにアンタらを呼んだのは、話を付ける為だ。 単刀直入に言おう、今日を持って柏木に対するいじめ行為を止めろ」

 

 フィクションだとよく聞くけど現実じゃあ使う機会の無い言葉、俺的第二位の『単刀直入に言おう』を遂に言う事が出来た。 ほんの僅かな感激が一瞬だけ胸の内を駆け巡って、儚く溶けて消えた。 ちなみに第一位は『戦慄』で、三位は『待て、話し合おう』だ。 一位だけは心中でのみ時々発言しているが。

 

「いじめ? ……あぁ、やっぱりそっち系の話ね」

「そう、そっち系の話。 で、答えは?」

「無理。 だいたいあたし達苛めとかしてないし、やって無い事をするなって、出来るワケないじゃん」

「小松も、同じ意見なのか?」

「……まあ、そんな感じ」

「あっそう」

 

 聞く前からわかっていた事ではあったが、やはり言われて素直にはいと答えるワケが無かったか。 これでもう、こいつらは最良の道を自分たちで消してしまった事になる。 あとは、徹底的に最後の最後まで終わらせてやるしかない、遠慮なんかするものか。

 

「じゃあ違うことを聞かせて貰うけど、お前らはどうして柏木にあんな仕打ちをし続けるんだ? 去年の暮れ辺りからしてるみたいじゃないか」

「何であんたにそんな事いちいち言わなくちゃいけないの? カンケー無いじゃん」

「いいから答えてくれよ、お前らがしてるのが苛めじゃないなら、正当な理由があるんだろ、それが納得出来る内容だったら俺ももう何も言わないからさ」

「だから、そんなの部外者のあんたに言う意味が無いって言ってんの、日本語分かる?」

「話逸らすなよ、お前以前俺に言ってただろ、悪いのは柏木の方だって、その根拠を話せって言ってんだろ」

「だーかーらー! 園芸部でも同じクラスでも何でもないお前に話す意味が無いって言ってんでしょ!? 何でそんなに知りたいワケ? あ分かった、あんた園子の事好きなんでしょ、だから気を引きたくてアタシ達に突っかかってるんだ、キッモ、死んだら?」

「いや、そういう露骨な話題逸らしはいらないかいい加減に──」

「あーもー終わりー、この話はおしまい、もう帰るわ、行こう京子」

「いや真弓、流石にマズいって」

「京子も何言ってんの、こんなキモ男なんかとこれ以上同じ場所に居たら死ぬから」

「だから、それがマズい──」

「いいのー、どうせ普段はろくに女子と目を合わせるのすら出来そうに無いクズ男なんだから、シカトしたって何の問題も──」

 

「五月蝿い」

 

「──っ!?」

 

 勢いよく捲し立てていた早坂が、まるで恐ろしい物を目にした様に一瞬身体を震わせて閉口する。

 元々静かにしていた小松も、ともすれば早坂以上の怯えた目で俺を見る。 それらの姿は、皮肉にも苛めを受けている最中の柏木のそれと非常によく似ていた。

 たった一言だけ言っただけでオーバーなリアクションだと思うが、その気持ちは分からないでもない。 今しがた俺の口から出た声は、俺自身でさえ本当に自分の身体から発せられたモノなのかと疑ってしまう位に、侮蔑と威圧の念が込められたモノであったからだ。

 昨日の夜見た怒っている姿の渚を、無意識のうちに模倣していたのかもしれない。 それとも単純に、怒った時の話し方や雰囲気が似ているのだろうか。 なんせ俺は渚の兄だ、そういう所は似通っていてもおかしくない。

 となると俺にもヤンデレの素質があるって事になってしまうのだが。 嫌だなぁ、野郎のヤンデレやツンデレとか誰が得するんだよ、個人的には「ふたなり」や「男の娘」並みに得しねえよ、あくまでも個人的にだが。

 いずれにせよ、虚勢だけで場を乗り切ろうとしていた早坂を黙らせるのには今の一言は、効果覿面を超えて、もはや殺人的だった。

 

「お前が頑なに俺の質問に答えないなら、俺が答えを当ててやろうか?」

「ふん、勝手に言えば? アタシは知らないし」

「理由は簡単だ。 『理由なんて無い』からだろ? 始めから柏木を責めるハッキリとした理由がさ」

「……ハァ? テキトーなこと言わないでくれる?」

 

 十分確信を突いた言葉を言ったつもりだったが、まだそれだけで早坂はうろたえる事は無かった。 てかスルーしないのかよ、小物め。

 小松も不安げな表情を浮かべてはいるが今の俺の発言に対してはそこまで大きな反応を示していないように見える。 やや拍子抜けだったが、それなら別の角度から話を進めるだけだ。

 

「去年の秋頃、園芸部の顧問が突然学園を辞めたよな?」

「そうだけど……それがどうしたって言うのよ」

 

 当然脈絡のない話題を振られたので一瞬だけ困惑する様子を見せたが、すぐに調子を取り直す早坂。 だが次の言葉を聞いたら今度こそ本当に動揺するだろう。

 

「お前らは知ってたか? その顧問は懲戒免職になって学園を辞める事になったんだぜ」

「だぁから、そんなどうでもいい……え?」

「懲戒、免職って、何それ……どういう事」

 

 こちらの思惑通り、聞きなれないと言うよりはこの場で耳にするとは露にも思わなかったであろう言葉に、二人は見事に動揺しだした。 ほとんど発言のなかった小松まで疑問を投げかけて来たが、それには直ぐに答えずに話を進める。

 

「知らなかったのか、自分たちが信頼していた教師が何の前触れも無く唐突に消えた理由を?」

「馬鹿にしてんの? 嘘言うんじゃないわよ、懲戒免職だなんてどこで知ったって言うの」

「調べたんだよ、それでも分からない所は、良い意味で手の早い友人に調べて貰ったんだ」

「そんな理由で納得するワケ無いでしょ!? だいたい、そこまで言い切れる証拠はあるんでしょうね!?」

「今すぐ見せられる物はないな」

「ほら、やっぱりただのデマカセじゃない」

「ならお前たちはどういった理由で顧問が辞めたのか、ハッキリ言えるのか?」

「それは……分かんないけど」

 

 俺が今すぐ納得させられる程の物証を持っていない事は確かだが、同時に早坂や小松が顧問の辞めた理由を知らないのもまた事実だ。

 

「そりゃあそうだよな、お前たちだけじゃなくて全校生徒知らされなかったんだから。 朝のHRにチラッと辞めましたって話だけ聞かされて、後は何も説明が無かったんだから当然誰も分からないよなぁ」

「……そうよ。 その通りよ! 園子が部室に最後まで残ってた日のあと急に学園に来なくなって、いきなり辞めたって言われたんだから理由なんて分かるワケないじゃない!」

 

 その通り。 早坂達から見ればまさにそうなのだ、顧問が来なくなって急に辞める前に、顧問が最後に会っていたであろう人物は柏木だけであり、その柏木も顧問が来なくなった辺りから様子がおかしくなっていた。

 その上、顧問が辞めた理由を最も知っている可能性のある柏木は、意味深な雰囲気でありながらも、早坂達に何も言わなかった。 顧問が消えた件に自身が関与しているかについて、肯定も否定も。

 校長に口止めされていたと言う事実を知っている俺なら、やむを得ない事だと分かるが、何も知らない早坂達にとっては、柏木の態度は顧問の件と関連付けるには十分すぎるほど疑わしく見えただろう。 だから、

 

「お前らは元顧問が消えた理由と、様子がおかしい柏木を結びつけた。 そして、明確な根拠も無いままに柏木を元顧問が学園を去った元凶だと決めつけて、『罰』を与え始めた、そうなんだろう?」

「……」

 

 ここに来て、ついに早坂が黙った。 表情こそ先ほどと変わらず攻撃的だが、何も言い返さない。

 

「沈黙は肯定と受け取るぞ、間違ってる箇所があるんなら言ってみろ」

「……園子は、アタシ達の言葉を否定しなかった」

「そうらしいな。 だが、肯定はしたのか? ただの一度でも。 常に黙ってるだけだったんじゃないか?」

「でも、何も言わないってのはそうだって認めてる事じゃない、今アンタが『沈黙は肯定と受け取る』って言ったみたいに」

 

 ……ふぅん。 相手の言葉を利用して言い返す、と言うよりは揚げ足を取るくらいの精神的余裕はまだ残ってるのか。 だが、屁理屈をこくのにも相手を選ぶべきだったな。

 

「今の状況と、当時のお前らの状況を一緒にするなよ。 日常会話でふざけあいながら言う『死ね』と互いに凶器持った時の『死ね』が同じ意味合いだと思ってんのか、お前は?」

「ハァ? ……例えが意味不明なんだけど」

「お前らが今俺に返した沈黙と、柏木がお前らに返した沈黙は、同じ言葉で括れても重さが違うって事なんだよ」

「重さが違うって……」

 

 俺の言いたい事が何かを、まだ早坂は良く分かっていないようだ。 これは俺の言い方が悪いのか、早坂のおつむが悪いのか。 たとえ前者であったとしても俺は謝らない。

 

「どうして柏木はお前らに何も言わなかったと思う? 考えてみろ、もちろん『肯定』以外の答えでだ」

「何でって、そんなの……分かんないわよ」

 

 分からないよなぁ? だから安易な考えに結びつけて柏木をいじめたんだからよ。 あらかじめ考えておけと言われてるならまだしも、こんな状況で答えろと言われても分からないとしか答えられないだろうさ。

 

「じゃあ、もっと前の話で、どうして元顧問は学園を懲戒免職なんて形で去ったと思う?」

「それこそもっと分かるわけ……あぁもうっ、だから! 全部園子が悪いって事じゃないの!?」

「違う」

「はぁ!? どうして!」

「柏木は確かに元顧問が学園を去る理由に関係はあるが、決して加害者じゃ無い」

「じゃあ何だってのよ! ハッキリ言ってみなさいよ! さっきから変に勿体ぶった言い方ばかりして、そういうの頭に来るのよ!」

 

 遂に我慢できなくなった早坂が、俺に虚勢では無い本物の怒気で迫る。 だがそれは、自ら最後の一線を踏み越えてしまう事と同意である事を、早坂は分かっていない。

 俺は二回、深呼吸をした後に、昨日の渚を思い出して、今までよりも更に冷たい声色を意識しながら、早坂に致命的打撃となるであろう事実を言った。

 

「強姦未遂だよ」

「……え、え? 何それ、強か……って」

「いい言葉じゃないんだから何度も言わせるな、お前らが尊敬していた元顧問は、柏木に性的な暴行を行おうとして失敗して、懲戒免職になったんだよ」

 

 早坂の怒声で熱くなっていた部屋の空気が、一気に冷えていくのが分かる。 尊敬していた人物が犯したと言う、信じられない事実を、まだ早坂はしっかりと認識出来ずにいる。 小松もそれは同じようで、俺に懐疑の視線を向ける。

 やがて、理解はともかくとして、言われた言葉の意味をしっかりと認識し終わった早坂が、これもまた当然の反応だが、俺に食いかかるように言った。

 

「ば、馬鹿言ってんじゃ無いわよ! 先生がそんな事する人なワケないでしょ! それにもし本当にそんな事があったんなら、警察に捕まってるはずだし、生徒にだって話が行くに決まってるに──」

「警察には捕まったさ、だがすぐに釈放されたよ。 でも生徒はおろか学園外の誰も知らないよ、すぐに事実は隠蔽されたからな」

「隠蔽って、そんな漫画みたいな事出来るわけが!」

「出来ちまったんだよ、やっちまったんだよ。 俺らの学園の校長や理事長や出資者さん方がな。 金持ちってのはすげーよな、本当に金さえあれば何でも出来るんだからさ。 味方ならこの上なく頼もしいが、絶対敵にはしたくない人間だよ」

 

 まあ? 他ならぬその金持ちの力を借りて今ここにいるのが俺なんですけどね。 自分の発言をそのまんま体現しているワケだから、説得力も人一倍あると自負出来る、褒められた物かどうかは知らないがね。

 

「な、ならどうしてあんたはそんな事をあんたが知ってるの。 隠蔽されてるなら知る筈無いでしょ!」

「今言っただろ、味方なら頼もしいって。 幸い俺には金持ちの親友がいるもんでね、まさかあそこまで凄い奴だとは、今回の件があるまで露とも知らなかったが」

「金持ちのって……もしかしてあんたのクラスの、綾小路のこと? 嘘、あいつって噂じゃ無くて本当にそんな家だったの!?」

 

 俺の交友関係を知らなくても、俺のクラスにいる金持ちってだけですぐに悠の名前が出て来る辺り、流石、見た目が華やかなのもあってか悠の知名度は他クラスにも大きい様だ。

 

「まあ? この隠蔽云々の話は俺が幹谷先生に直接聞いて教えて貰った事だがな。 もちろんお前らの『いじめ』は隠してな、気になるなら直接聞けば? 自分達のしてきた事が教師に知られるかもだが」

「っ……、聞かないわよ、そんなの。 信じてないもの」

「そうかよ、だが俺の話はまだ聞け。 話はそれだけでは済まなかったんだからな」

「それだけって……まだあるって言うの」

 

 まだ? 安心(絶望)しろ、まだまだあるよ。

 

「柏木はな、その事実を他人に話す事を固く止められていたんだ、園芸部の廃部と自身の退学を突き出されてな」

「ま、待ってよ……それってつまりじゃあ、園子がアタシ達に何も言わなかったのって」

「言わないんじゃなくて、言えなかったって事だ。 人間だから、言語でなくとも伝える術はあったとは思うが、柏木には思いつかなかったんだろう。 そしてめでたく、頭のめでたいお前らは決めつけのまま、本来被害者であった筈の柏木を更に追い苦しめたんだよ」

「な……何それ、一体だれが園子にそんな事言ったの! だいたいさっきから全部本当の事みたいに言ってるけど、全然証拠が無いままじゃない!」

 

 どうやら証拠がない事、それだけが今の早坂にとって最後の防衛線のようだ。 確かにもうこれ以上証拠なしで話を進める事も、早坂達を納得させることも出来そうにはない。 だったら、要望通り証拠を出す……いや、証拠に来てもらおう。

 俺はおもむろに携帯電話を取り出して、悠の番号に電話をする。 唐突な動きで胡乱気に俺を見る早坂だったが、日常生活で文房具より携帯電話を多く握っているだけあってそういうところだけはマナーが分かるのか、電話中の俺に声を掛ける事は無かった。 いつも通り三コールの後に、悠の声が耳朶に響く。

 

『縁かな』

「ああ。 連れて来てくれ」

『もう、良いのかい?』

「頼む」

『分かったよ。 今すぐそっちに行く』

 

 僅か数秒の会話を終えて、俺は携帯をしまう。 当然疑問に覚えただろう、先ほどから沈黙を貫いていた──と言うよりかは、俺と早川の言い合いに入る余地が無く、黙るより他が無かった小松が聞いてきた。

 

「今の電話は、誰にしたの?」

「さっき話題に上がった綾小路悠にだよ。 人を呼んで貰った」

 

 俺の答えに対して、早坂が毒々しい口調で言う。

 

「人って、今更誰をここに呼ぶってのよ。 今度は複数でさっきと同じこと言うつもり? 言っとくけど、もう何を言ったって証拠がないなら──」

「その証拠に来てもらうんだよ。 いや、物じゃ無くて人だから証人か」

「は? 証人って、……え?」

「だ、誰が来るの?」

 

 先程までの会話から、俺の証人になれるような人物は限られている。 それが分かるからこそ、二人はあり得ないという気持ちと、本当ならどうしようという気持ちで揺れ始めている。

 だが遅い、さっさと認めればこうはなら無かったのに、馬鹿の一つ覚えもよろしく、証拠をよこせよこせと言ったのは自分たちなのだ。 もうここまで来たら本当に逃げ道はない。 悠のすぐに行くと言う発言通り、早くも廊下から二人分の足音が聞こえて来て、ドアの前で止まった。

 

「入るよ」

 

 そう言ってガチャリと音を立てながら、ドアがゆっくりと開かれる。

 一人目は悠、容姿と先ほどの会話からそう判断した二人は特に大きな反応を示さなかった。 しかし、もう一人の姿を見た瞬間──

 

「え……え、ウソ、マジで?」

「……はぁ、終わった」

 

 早坂はただひたすら困惑し、小松はあきらめる様に小さく息を吐いた。

 悠と共に入って来たその男は、早坂達はおろか俺にとっても、普段は縁がない人物だった。

 しかし、かと言って全くの無縁というワケでもなく、むしろこの学園の生徒ならば誰しもが知っている人間で、しかもこの学園の実情を良く知る人間でもあり、だからこそ、こんな生徒同士のいざこざには絶対に姿を見せるはずのない、そんな展開を想像すらしない人物だった。

 

「わざわざこんな場所まで来て下さってありがとうございます、校長先生」

 

 そう、悠と共にやって来たのは、柏木に口止めを強要した張本人、良舟学園の校長、財前明だった。

 

 ……

 

『はい、もしもしこんばんわ。 どうしたんだい、縁』

「ああ、こんばんわ悠。 今日はありがとうな」

『いいよそんなの、それで、彼女から話は聞けたのかい?』

「それについてなんだが。 図々しい事を承知してまた一つ、お前の力を頼りたい」

 

 俺が電話の要件を言うと、悠は頭の上に疑問符でも付けたような口調で返事をした。

 

『構わないよ。 でも現状ではもう探る当てが無い筈だったよね、何か掴んだのかな?』

「今の俺達の校長、もちろん知ってるよな」

『それは当然。 財前校長も今日の昼間に話したように、綾小路家、それも叔父の本家と繋がりが厚い人なんだ』

 

 財前明校長に対して、昼間の話も混ぜた説明をする悠。 その話から察するに、現校長は悠の親父さんにとっては自分と対立している本家の人間なので、疎ましく思っている可能性が高いかもしれない事が伺える。

 将来当主になる可能性のある自分の息子が通っている学園の校長が、敵対勢力の人間なのだから、そうであってもおかしくない。 つまり、仮に校長が不利な立場に立つ事があっても、それが公の場で不祥事を晒す様な案件でも無い限り、悠の親父さんは、悠の綾小路家は、何も邪魔をしないって事だ。

 

『その財前校長がどうしたんだい。 今の会話の流れから行って、意味も無く聞いたわけじゃ無いんだろう?』

「ああ。 柏木が教えてくれた。 あの校長、園芸部をすぐに潰さない代わりに自分が受けた事を口止めさせられていたんだ。 退学までチラつかせてな」

『そうか……部員一人だけの部がどうして年を跨いでも存続していたのか不思議だったけど、そういうカラクリがあったんだね』

「そのくせ、今期が終わってまだ部員がいなかったら廃部にする取り決めだったんだろ、とことん酷い話だな」

『縁の言わんとする事は分かったよ、財前校長に直接話を聞いて証人になって貰うんだろう?』

 

 うーん、これだけの会話で俺の言いたいことを、ピンポイントに言い当てる洞察力の高さよ。 俺は前世の記憶持ちだったら、悠はテレパシー能力でも持ってるんじゃないかねぇ? 俺は多分こいつ相手には、一生掛かっても敵わないだろうな。

 

「あっははは、ご明察。 早坂達に俺達の話を信じさせる証拠として、直接、早坂達の目の前で学園が隠した事実を全部認めさせる。 物的証拠が手に入らない代わりに、人間に証拠になって貰う」

『……うん、いいよ、悪くない。 歯に衣着せぬ言い方をさせて貰うと君の発想はとっても厭らしいけど、でも最も簡単に解決させる方法だね』

「厭らしいとか言うなよ、考えないようにしてるんだからさ。 それに……」

『それに?』

「……いや、何も無いや。 それで、こんな無茶な頼みだが、やってくれるか?」

 

 悠に途中まで言おうと思った言葉を飲み込んで、確認を取る。 さっき悠は俺の考えを厭らしいと言ったが、それは本当の話だ。 それだけではなく今だって、俺は表面上は頼む形を取っているが、実際は悠の持つ、柏木に対する罪悪感を利用しているのと同じなのだから。

 始めから断る筈が無いのを分かって厳しい事を注文する、これが厭らしい事以外に何だと言うのか。 にもかかわらず、敢えて何も言わないで軽いジョークで済ませた悠には、本当に頭が上がらない。

 

『出来うる限り早く済ませるよ、待っててね』

「……悪いな」

『謝る事なんてないよ、じゃあ……おやすみ、縁』

 

 ……

 

 以上、誰の得にもならない回想終わり。 もし今回の件がつつがなく終了したら、悠には何かしら礼をしないとな。 その前に呆れられて友情が無くなってしまったらどうしようもないが。

 

「校長先生、幾つかお答えいただきたい事があります、よろしいでしょうか」

「……さっさと言え、どうせ断れないんだ」

 

 校長は不愉快さを微塵も隠すことなく答える、それもそうか、昨晩頼んで翌日コレなのだから、悠はよほど強引な手口を使ったに違いない。 とはいえ、その事に対して俺が校長に憐憫の情の類いを抱く事は無い。 自業自得とか身から出た錆とか言い方はそれぞれあるが、とどのつまり悪いのは校長自身なのだから、俺は何のためらいも無く校長に全てを喋らせる。 そして、もうこの半年以上も柏木を苦しめた問題を終わらせよう。

 

「ではお言葉に甘えて。 まず去年の九月、この学園の、この部屋で、教師が生徒に性的暴行を行おうとした事実があった事を認めますか?」

「……ああ」

「それは当時の園芸部の顧問と、園芸部部員であった柏木園子との間で起きた事でしたか?」

「……その通りだ」

『……っ!』

 

 早坂達が息を飲むのが分かった。 この時点でもはや決着がついたのと同じだが、俺は更に続けて質問を重ねる。

 

「その事実を、貴方達は隠蔽して事実を世間に知らせなかった、ですよね?」

「…………あぁ、そうだよ。 学園の生徒だけでなく、マスコミにも一切漏れない様にした」

「……そんな、どうしてそんなこと」

 

 完全に言葉に力の無くなった早坂の呟きを無視して、俺は最後の質問をした。

 

「貴方は、その事実を誰にも話さないように、柏木に口止めをしましたか?」

「それは……」

 

 先程までと違って答えに窮する校長。 しかし悠が小声で『校長先生?』と言っただけで顔色が急変し、まるで競馬に全財産を投資する男の様に、ヤケクソ気味に言った。

 

「そうだ、俺が柏木に強要した! 他言すれば園芸部はすぐに廃部にし、柏木自身も退学にさせると脅した! ……ああもう言ったぞ、これでいいんだろう!?」

「……最、低。 何よ、それ……じゃあ、本当に」

「園子、悪くなかったんだね……それなのに、私たちは園子の事……」

 

 校長の告白に嫌悪感を抱くと同時に、ようやく自分達が今までしてきたことの重大さが分かり絶望にも似た表情を見せる二人。 そして、そんな二人の事など意に介さないように校長は悠に向かって言った。

 

「さあこれで良いだろう、俺はもう──」

 

 恐らく全てを言えば解放されると踏んでいたのだろう、ヤケクソ気味なのはそのまま、やや強気になってドアに向かおうと歩き始めた校長。 しかし、校長が捨て台詞とするつもりだった言葉を言い切る前に悠が、昨日の渚とも質の違う、これまで聞いた事も無い乾ききった声で校長に言った。

 

「何を勘違いしてるんですか? 先程の発言は全部録音させて貰いました。 貴方はこれからもっと()()()方々に、今と同じ発言をしてもらいます」

「な、な!? 待てお前約束と違うだろ! ここで全部言えば私の事は見逃すと話で──」

「あはっ、そんな話をまともに受けてたんですか。 ……嘘でしょう?」

 

 制服内側の胸ポケットから録音機を取り出しながら、悠は年上の校長相手に悠々と、侮蔑を隠すことなく話す。 それに対し校長はどんどんと表情や態度に余裕がなくなって行くのが目に見えて分かり、しまいには俺たち生徒の前で怒鳴り始めた。

 

「ふ、ふざけるなよクソガキ! 綾小路家の人間だからって調子に乗るのもいい加減にしろ、だいたい俺がこの件で教育委員会に行ったら、綾小路家だってタダでは済まないだろうが!」

「馬鹿にしないで下さいね。 貴方の様な人の為に綾小路家が道連れになるワケがないでしょう。 父や伯父も、当時不祥事を起こした時に校長してた貴方を、わざわざ残しておく意味を感じていませんでしたね」

「な、何を、デマカセを言うな、私は信頼されていて──」

「惰性ですよ、ただの。 綾小路家の悪い点です、明らか要らない物でも、きっかけが無ければ放置してしまう。 でもきっかけさえあればこの様に、貴方一人簡単に切り捨てる事が出来ます。 ふふっ、まさにトカゲの尻尾ですね」

「こ、この……このクソガキがぁ!」

 

 怒りに耐えかね、遂に拳を振り上げる校長。 俺の知識の及ばない域の会話に半ば呆然とするしかなかったが、校長が何をしようとしているかは考えなくても分かる。 俺と二人の間には数歩分距離はあるが、校長の拳を止めようと駆け寄った。

 だが、俺が動くよりも速く、まるでボクサーがクロスカウンターを決めるかの様に、悠の言葉が校長に突き刺さった。

 

「殴りたければどうぞお好きに。 ただし貴方が職を失うどころか、今後の人生の大半を狭い鉄格子の中で過ごしたければ、ですがね」

「──っ!?」

 

 それはまさに綾小路家の人間である悠だからこそ、有効に使える殺し文句(切り札)だった。 普通の家庭の人間相手なら簡単に殴れただろう、実際教師が理不尽に生徒を殴るなんて事例は、そこかしこに点在している。 だが悠は違う、もし今この状況で悠に危害を加えたならば、それだけで人生は終わったのと同義と化すだろう。

 一個人の人生を終わらせる。 それが可能なのが綾小路家なのだと、俺はとうに理解しているし、ましてや関係者である校長が分からない筈も無い。 だから校長に出来る事は精々、振り上げた拳を抑えて、怨嗟の声を漏らす事ぐらいでだった。

 

「うっ……、く、そぉ……ッ!」

 

 振り上げた拳が、そのまま何もせずに元の位置に戻る。 振り絞る様に呟いた一言を最後に、校長はその場にへたり込む。 殴らなくとも既に彼は終わっている。 悠の言った『お偉いさん』が何を意味しているかまでは分からないものの、校長にとって避けたい事に間違いは無いだろう。

 結局、さっきまでの小松と似て、悠と校長の間に入れず呆然としたままだった俺だったが、悠が『さあ、話を続けて』と言ったことで気を取り直し、俺は本来の相手である早坂たちに対して、最後の追い込みを掛ける事にした。

 

「早坂、小松。 些か想定外の事も起きたが、もう俺の言ったことが全部本当だと信じたよな?」

「……ええ」

「うん」

 

 声は小さかったが、ついに二人は自分の非を認めた。 今日来ていないもう一人の方も、二人が言えば即座にいじめをやめるだろう。 これでようやく、柏木はこいつらから痛い思いをしなくて済むようになる。 だがあいにくと、まだやり終えて無いことがある。 もしここで話を終わらせてしまえば、それは教師が止めさせるのとほとんど変わらない結果にしかならないだろう。

 この問題について取り掛かり始めた時に、俺が綾瀬に言った様に、一切の遺恨がなくなるまで徹底的にしないと、こいつらと柏木の関係はこれから先もずっと歪んだままになるのは間違いない。 最悪の場合だと別の理由でいじめが再開するかもしれない。 それだとゲームに例えればノーマルエンド止まりになる。

 それ以外の終わり方にさせる為の手段は二通りある。 一つは最も平和的で、ハッピーエンドになる為の方法。 だがそれを成功させるのに最も重要な人物が今、この場にいない。 だから俺はもう一つの、言うならばバッドエンドとでも呼べるような方法を行う事にする。

 

「つまりお前らは非を認めた事になるワケだ。 ならお前ら、もう自分が何をされても文句は言えないよな? 今まで柏木を苦しめてきた分の罰は、当然受けるつもりあるんだろ?」

「それは、そうだけど」

「何をするつもりなの……?」

 

 二人から視線を移して、へたり込んだ姿勢のままの校長に向ける。

 

「校長先生、一つ提案があります」

「……なんだ」

「柏木の件を悠にチクらせない代わりに、三人ほど退学させて欲しい人が居るんです」

「えっ……やだ、待ってよ」

「……縁、君は」

 

 言葉の意味を察して顔が青くなる早坂と、驚いた顔で俺を見やる悠。 対する校長は何を言ってるんだこいつはという顔で俺を見たが、即座にこれが起死回生のチャンスだと判断し、顔色を変えた。

 

「それは本気で言ってるのか」

「はい。 そこにいる早坂と小松、それにもう一人今日ここにいない新房という生徒を、適当な理由で退学させてくれさえすれば」

「三人もか……真っ当な理由もなしでは、だが……」

「それこそ簡単でしょう、今回のいじめをダシにすればいいんです。 長期に渡る陰湿かつ非道な仕打ちを、大々的に学園に発して退学処分にすればいいんです。 いじめに敏感な今の世の中で、校長の貴方だったらそれが可能でしょう?」

 

 これが、俺の考えたバッドエンドの方法。 今この瞬間まで誰にも──悠はおろか綾瀬にさえ言わなかった最悪の手段。 柏木との完全な和解が不可能だというのなら、根本から、この場合は柏木とこいつらの繋がりを完全に断ち切ってしまえばいい、その為の手段が三人の退学だ。

 本来はもっと回りくどい過程を踏むつもりだったが、直前の悠との言い合いが上手い具合に校長の思考を狂わせて、冷静な判断が出来なくなっている事が幸いした。

 これが成功すれば、もれなく柏木とこいつらの縁は一切の禍根も残らなくなるだろう。 逆恨みくらいはあり得るかもしれないが、自分達のして来た事が世間に広まっていては、容易に動く事もままならなくなる。

 最悪の場合では、周囲から向けられる非難の目に耐えきれず、引きこもるなり家族で引っ越すなりするだろう。 何故ならいじめをする人間の殆どは、自分のした行為を返されると、たちどころに脆くなる人間ばかりだからだ。 やる時は簡単にやり、やり返される時も簡単に崩れ落ちる。

 

「ま、待ってよ! そんなの、あんまりじゃ──」

「あ? 何があんまりだよ?」

 

 出来る限りの荒声を意識しながら、早坂を睨み怒鳴りつける。 既に早坂も小松も、自身の柏木に対する罪悪感から大きい態度に出られない、低い声で静かに言っても黙るだろうが、相手の思考を乱す為には、大きい声の方が今は有効だ。

 

「そんなのあんまりだって? 一体どこがどう『あんまり』なんだよ、言ってみろ!」

「だ、だってその、退学なんて、幾ら何でもやり過ぎじゃ──」

「何処がだ馬鹿女! やり過ぎでも何でもないんだよこの程度! お前まだ自分がどんな事して来たのか分かってねえのか? あぁオイ、どうなんだよ!?」

「……っ、分かってる、けど」

「いじめたんだよお前らは! 半年近くも! 教師にレイプされかけて、校長含めたクズな連中に口止めされて、心が追い詰められてる柏木園子を、もれなく身体も一緒に更に痛めつけたんだよ! 三人がかりでなぁ!? そうだろう、楽しんでたなぁお前ら随分とよぉ!? 違う事一つでも言ってるかぁ?」

「……違く、ない、けど」

「野々原君、お願い……もうやめて、真弓も私も、悪いって分かってるから」

「だっったら口ごたえすんなよ、黙って退学でも何でも受け入れろ」

 

 ……あーあ、こんなに怒鳴ってどうするんだ俺。 なんかもう、俺が二人を虐めてるみたいだな、本当に。 これで悠にも呆れられたら本当に目も当てられないぞ、柏木一人のために友人なくすんじゃ話にならねえ。

 それでも、今はこうするより他はないのだから、だったらせめて逆恨みで柏木が恨まれないように俺がトコトン嫌な奴になりきるしかない。 実のところ、下衆の極みで悪いがストレス発散にちょうど良いんだコレが。

 

「さあ校長先生、どうなんですか? 彼女らを退学にさせて自分の立場を守りますか、それとも今更くだらない良心に靡いて彼女らを庇って身を滅ぼしたいですか?」

「……本当に、あの二人を退学にすれば、なかったことにするのか?」

「話を聞いてください、あの二人と新房です。 ですがそうです、録音データは残させて貰いますが、貴方の立場はこれからも安泰です」

「…………そうか」

 

 床から立ち上がり、小さく笑いながら、校長が言った。

 

「なら、話は決まりだ」

「つまりは?」

「……っ」

「あんなこと、しなきゃよかった……」

 

 現実から逃れるように目を閉じる早坂に、茫然自失になりながら今更過去の行いを悔いる小松。

 

「そこの二人と、新房とか言う生徒を──」

「──校長先生、そこまでですね」

 

 当然保身を考えていた校長の言葉で、今回の全てに決着がつこうとしたその直前に、いつからかドアを眺めていた悠が、酷く冷静に呟いた。

 

「退が……ちぃ、なんだ綾小路! もうお前が言うことは何もないだろう!」

「まあ、確かに僕が言うことはないんですが」

「だったらなんだ、もう黙っててくれないかお前は!」

 

 もはや保身の事しかロクに頭が回らないのか、悠に対してと言うよりも、教員が生徒にかけて良い言葉使いを大きく逸脱した発言を繰り返す校長だったが、もはや微塵も意に介さず、いつもの笑顔で悠は応えた。

 

「確かに僕が言うことはないですね。 ですが残念ながら貴方も、発言する必要はなくなったみたいですよ?」

「何言ってるんだお前は、訳のわからない事を言うなこいつらはもう退が──」

「だってほら、聞こえませんか? 足音」

 

 再び校長の言葉を、悠がまるで暖簾の様に軽々と押しのけながら言ってようやく、俺を含めた全員が廊下から聞こえてくる二人分の足音に気づいた。 その瞬間に俺の中で猛烈に、『やった!』という達成感が爆発した。 バッドエンドになる前に。間に合ったのだ。

 足音の正体や、これから先にまた何が起ころうとしているのかが、皆目検討つかない校長や早坂達と違い、これから起きるであろう出来事とその結果を知る悠が、苦笑まじりに俺に言った。

 

「……まったく、時間稼ぎで悪役の演技をやるにしても、もう少し言い方があるんじゃないかな?」

「あははは……まあ、半分は本音だったから、あながち演技ってワケでもないんだがな」

「それにしたってだよ……まあいいけどさ。 いずれにせよ、僕と君の役割も、ここで終わりだね」

「ああ、そうだな」

 

 そう俺がいい終わった直後に、合わせる様にして園芸部の扉が開かれて、足音の主達が姿を見せた。

 

「あっぶなーい、何とか間に合ったみたいね」

 

 一人は河本綾瀬、言わずと知れた俺の幼馴染である。 そしてもう一人はこの場の皆が知る、今回の最大の主要人物でありながらその実、ここまで全く姿を見せなかった人物である──、

 

「大事なお話の最中に失礼します……柏木、園子です」

 

 

 柏木園子(ハッピーエンド)が、やって来た。

 

 

 ──to be continued




次は柏木編の終わりになると共に、最終話前編になると思います


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十病・なまえをよんで

柏木編最終話及び最終章前編です
では、はじまりはじまり


 ああ、本当に良かった。 間に合ったのだから。 全てが決まって取り返しのつかなくなってしまう直前に、こうして柏木がここに来てくれたという事実に、俺は心の中で感謝する。

 

「柏木? おい、どうして柏木が今ここにきたんだ」

 

 悠と校長が入って来た時の早坂達を焼き写したかの様に、校長が何が起きたのか把握できずに俺や悠に聞いてくる。 早坂達は入って来たのが柏木だと分かっただけでばつが悪そうに顔を伏せたのに、このおっさんは呑気に何を言ってるのやら、厚顔無恥とまでは言わなくても相当面の皮が厚い事は確かだ。

 最も、既得権益に関わる問題になるとさっきまでの様にトコトンへたれに成り下がってしまう様だが。

 取り敢えず俺と悠の交互に質問してくる校長は無視して、俺は一歩だけ柏木に近づいてから、ここに来た理由の確認を取る事にした。

 

「柏木」

「はい」

「……大丈夫、だな?」

「……はいっ!」

 

 今朝までのオドオドしていた態度が全くと言って良いほどなくなっ……てはいないが、迷いが吹っ切れた力強さを感じさせる声で、柏木は答えてみせた。

 ……うん、いい加減な判断かもしれないが、もうこれだけで十分だと確信出来た。 そうと決まれば話は早い、後は最後の舞台を整える為に、俺も含めたこれ以上この場に居る必要のない人間には退場させる事にしよう。

 

「そういうことだ。 悠、綾瀬、後は柏木に任せよう」

「ええ、いいわよ。 ……しっかりね、柏木さん」

「は、はい。 ありがとうございます、河本さん」

 

 この二人、なんかいつの間にか仲良くなってないか? 気のせいだろうか。

 

「それじゃあ柏木さん、また後で」

「はい。 綾小路君も、ありがとうございます」

「いえいえ……何してるんです校長、貴方も行くんですよ」

 

 名前を呼ばれてハッとする校長。 するとすぐに俺に向かって捲し立てる。

 

「い、いや待て野々原、私の件はどうするつもりだ!」

「あ、さっきのアレですか? いやあ、校長が結論言い出す前に、より早坂達に判決下すのにふさわしいヒト(柏木)が来ちゃいましたから、なかった事に」

「ふざ、ふざけるなぁ!! 私が早坂達を退学にすれば今回の件から私を見逃すと言ったのはお前だろうがぁ!!」

「え……いやだなあ、校長先生ぇ……。 あんな言葉を鵜呑みにしちゃったんですか? あはは、嘘でしょう?」

「このっ……、大人を馬鹿にしやがって、クソガキどもがっ……」

 

 尋常じゃない憎しみの念を込めながら校長が俺と悠を睨みつける。 正直少しだけビビったが、悠の方が何食わぬ顔で『校長先生、さっさと行きましょう?』と言ったら、後は叱られた子犬の様に大人しくなって、先に部室を出ようとする悠の後ろを黙ってついて行った。 結局、最初から最後まで生徒の前で大人げない醜態を晒しただけで終わってしまったな、あの人は。

 

「なんか変な空気になっちゃったけど……行こう、縁」

「そうだな、それじゃ後は、同じ部員だった者同士で話し合って貰おうか。 教室行って荷物片付けようぜ綾瀬」

「野々原、アンタ、なんで……」

 

 早坂が何やら言ってるが、当然それらに答える事はしない。 俺が言うべき事や言いたかった事は全部言い切った。 後は全部柏木が直接終わらせるだけだ。

 綾瀬と共に足早に部室を出た後、俺はピシャリとドアを閉めて、その場を離れた。

 

 ……

 

「……あれが、貴方の考えてた終わらせ方?」

 

 部室を離れた後、俺達の教室に戻って悠が帰ってくるのを待つ間、綾瀬がちいさく笑いながら俺に聞いてきた。

 

「まあ、な。 以前に、先生にチクって終わらせるだけじゃ駄目だって、言ったの覚えてるか?」

「覚えてる。 第三者が無理やり間に入っても、解決しないって話だったっけ?」

「そう。 だから今回、俺があいつらを説き伏せて終わらせるってやり方じゃいけなかったんだ。 教師が俺に替わるだけだったからな、それじゃ意味がない。 だから柏木には、どうしても最後の最後に出て来てもらって、柏木の手で、今回の件を終わらせてもらう必要があったんだ」

「なるほどね~、うまく行ったみたいだから良かったけど、もし私が捕まえる前に柏木さんが帰っちゃったら、ご破算になる所だったわね」

 

 そう、実は綾瀬には俺が話しを進めている間に、柏木がどこに居るのか見つけて、もし本人に部室へ向かおうとする意志があったら、急いで連れて来てもらうように頼んでいたのだ。

 俺は早坂達と話をして、悠は校長の確保(逃げようとする可能性も考えられたので)、綾瀬には柏木の確保をさせる、それが今回俺が計画していた作戦だった。

 しかし、実のところ柏木の来るタイミングはかなりギリギリだった。 途中で柏木に来てもらって、本人のいる中話を進めていくつもりだったが、現実にはノーマルエンド一歩手前だったのだから。

 綾瀬も言うように、最終的には成功に向かったから良かったものの、如何に俺の考えが甘かったのかを痛感させられた。 もうこんな事あって欲しくはないが、もし次も同じような出来事に見舞われた時は、今回を教訓にしようと思う。

 

「二人とも、お疲れ様」

 

 まるで疲れを感じさせない声で、今回一番頑張ってくれた人が戻ってきた。

 

「綾小路君もお疲れ様、校長先生はどうなったの?」

「ああ、彼は……今頃車に乗って別の場所に向かってるんじゃないかな?」

「別の場所?」

「うん。 まあ、今回の事でトコトン絞られるんじゃないかな」

「あ~、そういう事ね、うん。 分かった」

 

 明確には分からない物の、校長に訪れる修羅場を察して、やや引き気味に綾瀬が言った。 そんな綾瀬にイタズラっぽく笑ってから、悠が俺に言った。

 

「縁、今回はお疲れ様。 これできっといじめの方は良い方向で終わると思うけど、まだ問題が一つ残ってる事は分かってるよね?」

「えっ、まだ何かあったの? ……ってあぁ、部活の事ね?」

 

 綾瀬が思い出して、表情が陰る。 そうなのだ、いじめの件とは別で、俺は柏木の守ってきた園芸部を廃部にさせない事も約束していた。 夏休みが始まるまでに部員を集めないと、強制的に園芸部は休部になってしまう。 来年になっても入部希望者がいなければ廃部だ。 しかも一度休部になったら部室は使えない、来年新入生を勧誘するにしたって部室がないんじゃ勧誘しようがない、休部になっても実質終わりなのだ。

 

「早坂さん達は今年違う部に入ってるから、正当な理由もなしに部活を変える事は出来ないだろうね」

「だからって、わざわざ関係ない人に無理に園芸部に入って貰うわけにもいかないわよね……どうするの? 縁」

 

 新たな問題が浮上、一難去ってまた一難……だと思うかもしれないが、実はこっちの問題に関してもとっくに解決策は見出していた。

 

「悠、あのさ、お前確か前に──」

 

 ……

 

 ひとしきり話が終わった頃に、トタトタと廊下を走る音が俺達の教室までやって来たかと思うと、肩で息をしながら柏木が姿を見せた。

 

「よ、良かった……まだ、残ってたんですね……」

「あ、ああそうだけど、どうした柏木。 そんなに急いで、何か問題が起きたのか?」

「いえその、問題はないんです、ですけど、その……」

「……?」

 

 最後に園芸部で見た時と違い、また今朝の時の様に煮え切らない態度で言葉が止まる柏木。 だが、少ししてから、意を決したように柏木が言った。

 

「あ、あの……野々原君に、伝えたい事がある、ので……」

「えっ」

「も、もう一回、園芸部の部室に来てください!」

「あ、ちょ、ま──」

 

 言いたい事だけ言うと、また柏木はドタドタと去って行った。 恐らく部室に戻ったのであろう。

 さて……さて、たった今起きた事を端的に言うと、だ。 柏木が早坂達との会話を終えてその報告と共に、俺に部室に来るよう言った。 悠と、綾瀬のいる前で、だ。 もう一度言う、綾瀬のいる前で、だ。

 さてさてさて、ここで自分自身に問題だ。 ヤンデレCDの柏木編で、柏木と対立して殺し合い(と言っても柏木が瞬殺したようだが)をした人物は誰でしょう? 

 考えるまでもない、当然答えは綾瀬だ。 以前に見た夢でも、綾瀬はもれなく死体となって出てきました、思い出したら今も少し気持ち悪さが戻ってくるぐらいにはトラウマレベルだ。

 さーてさてさて、夢やCDとは違うとはいえ、そうなってしまう可能性が高いのに、柏木が俺一人を部活に呼ぶと言う場面を目の当たりにして、綾瀬はどういった反応を示すのだろうか? ……考えたくもない、振り向けばすぐに答えが分かるものの、ハッキリ言うと恐くて見られない。

 

「縁」

「っ、ひゃい!?」

 

 唐突に背後の綾瀬が俺の名前を呼ぶ、状況も合わさっておかしな返事になってしまったが、そんなことより綾瀬が何を言うのか、それについて全注意を払わなければならない。

 なるべく動揺を悟られないように、ゆっくりと振り返る、そこには負の気配を万遍なく放出している姿──、

 

「何ぼうっとしてるの? 早く行かないと柏木さん困っちゃうわよ?」

 

 などは全くなく、むしろ早く柏木の元へ行こうとしない俺に怪訝な顔をする綾瀬がいた。 え、何で? 

 

「いや、そりゃ行くけどさ……その、良いのか?」

「どうして私達に聞くの? 呼ばれたのは貴方の方でしょ?」

「でも、……いあや、マジで良いの?」

 

 だっておかしいだろう、柏木のいじめを解決させるって決めた時は、最初に俺が柏木の事好きだからそんな事してるんじゃないかって疑った綾瀬がだぞ? その綾瀬が、目の前で二人っきりになるお誘い受けてるの見て、むしろ行けよボーイ、だなんて言うか? この綾瀬本物かよ? 

 

「……何で驚いてるのか知らないけど、柏木さんは、今回の事をしっかり終わらせるために、最後に貴方に言う事があるって言ってるんでしょう? 柏木さんにとっては貴方と話をする事が必要なんだから、早く行く!」

「僕達はまだここで待ってるから、しっかり話をつけに行っておいで」

 

 うーん、どういうワケか知らないが、綾瀬が今の柏木に対して、以前までとは違う心持ちでいるらしいのは分かる。 ここに悠が居るのも理由の一つかもしれないが、少なくとも今俺が柏木の所に向かっても、危険性は無いようだ。

 

「分かった、遅くなったら先に帰ってて良いからな!」

 

 そう言って、俺は急いで園芸部室まで走り出した。

 

 ……

 

「……良かったの? 河本さん」

 

 縁が勢いよく教室を出て行ったあと、僕は隣に立つ河本さんに聞いてみた。

 

「良かったのって、何が?」

 

 質問の主語が抜けていたからか、河本さんが聞き返す。 ふふ、本当は何のことを指してるのか分かってるくせに。 意地悪する気はなかったけど、聞かれたので明確に言う事にしよう。 きっとその方が早く話が進むだろうから。

 

「だって、柏木さんが縁を部室まで来るように言った時の顔見たよね、あれは十中八九──」

「分かってるわよ、それくらい」

 

 うん、やっぱりこうした方が河本さんが自ら話すのを促せるね。

 

「……どうして敢えて送り出したのか、聞いても良いかな?」

「柏木さんは、それくらいの事しても良いくらい頑張ったから」

「頑張ったから……?」

「柏木さん、辛くてもずっと一人で頑張ってきたでしょ? そんな柏木さんを助けた縁を、彼女が好きになっても、おかしくないもの」

 

 なるほどね……じゃあ今回縁を柏木さんのところへ送り出したのは、長い間一人で頑張ってきた柏木さんに対するご褒美って事なのかな? 随分と余裕だなぁ、幼馴染ゆえに持てる余裕、特権なのかもしれないね。

 そういえば、河本さんは柏木さんを部室まで連れてくる役割を担っていたんだっけ、ひょっとしたら今日、僕や縁の知らない内に二人の関係が少し良好な関係になっていたのかもね。 今だけじゃなくあの事(……)についても、そうだと考えれば合点がいく。

 

「僕は誤解してたよ。 河本さんはもっとこう……独占欲の強いヒトだと思ってた。 でも、案外そうでもなかったんだね」

 

 厳密に言えば、独占欲の強いヒトではなく、独占欲の塊だけどね。 最初、縁に積極的に手伝おうとしなかったのは、縁と柏木さんの関係が近しくなってしまう事を恐れての事だったんだろうし。

 あぁでも、後半は僕じゃ手の届かなかった範囲で協力してくれた所を見ると、僕の見てない所で二人の間に何かあったんだろうね。 少なくとも、河本さんの縁に対する見方を改めさせるぐらいの事が。

 それはそうと、曲がりなりにも独占欲の強い人間だなわて、ある意味では失礼な事を言われたのに、河本さんはそれに対して怒ることはなく、代わりに小さく苦笑しながら言ってみせた。

 

「そんなことないって……ただ、信じてるだけだから、私は」

「ふぅん……そうなんだ」

 

 訂正、河本さんこの人は独占欲が強いヒトじゃない、それだけじゃないんだ。

 きっと、多分これは……重いんだね、愛が。 とっても。 重過ぎて相手を押し潰してしまいかね無い程に。 そしてそれはきっと、河本さんだけじゃなくて『彼女』も……。

 

「全く……大変だね、彼は」

「え?」

「ううん、こっちの話だよ、河本さん」

 

 頑張れ、縁。 そう心の中で呟いて、僕は親友の前途を憂い……少しだけ、楽しくなりそうだと思ってしまった。

 

 ……

 

「スマン、若干遅くなった!」

 

 本日、二度目になる園芸部室の扉を開く。

 室内には既に早坂達の姿はなく、本当に柏木と俺の二人きりだ。

 

「来なかったらどうしようと思ってましたが、杞憂だったみたいですね」

 

 そうはにかみながら言ってから、柏木がほぅっと安堵の息をつく。 その姿からは、昨日までの陰は微塵も感じられなかった。 大丈夫だと思っていても少しは不安もあったのだが、杞憂だったのはこちらの方だったらしい。

 

「その様子から見るに、うまくいったんだな」

「はい、またすぐに去年の様に仲良く、と言うのは流石に無理でしたけど、でも、今までの事分かってくれて、謝ってくれて……もう、これからは大丈夫だと思えます」

「そう、か」

 

 結局柏木達があの後どんな会話をしたのかは分からないし、聞くつもりも毛頭無い、それは野暮ってもんだ。 もう柏木がいじめられる事も、早坂達と禍根を残す事も無くなった、それだけが分かればそれで良い。

 

「私は、もう終わりだと思ってました。 どうしようも無くて、学園を辞めちゃおうかなんて思った事もありました。 野々原君が居なかったら、きっとまだ、私はあの公園で泣いてたと思います」

 

 目を閉じてこれまでの事を反芻しながら、胸に手をあて静かに、これまでずっと押さえ込んできた感情を吐露しながら柏木が言う。 僅かに微笑みながら話すその言葉一つ一つから、柏木が今日までどれ程苦しんできたか、今日の出来事がどれだけ彼女にとって大きな物であったのかがまざまざと感じて取れた。

 良かった、と心の底から思う。 綾瀬の言う通り、たまたま全てがうまく合致しただけで、人によってはもっと確実で堅実な方法を思いつけたのかもしれないが、俺が思いつける最善の方法はこれだけだったし、それで彼女が今笑ってくれてるなら、それに越した物は何も無い。

 

「貴方のおかげです、野々原君……本当に、本当にありがとうございました」

 

 閉ざしていた目を開けて、今度こそ明瞭に微笑んで、柏木が俺に言う。 その笑顔は以前夢に見た笑顔よりもはるかに輝いて見えた。

 しかし、だ。 その笑顔を向けるのが俺だけだと言うのは間違いだろう、行動のきっかけは俺だが、綾瀬や悠がいなければ絶対にこんな早くに終わる事は無かったし、そもそも終わるかどうかさえ定かでは無かったのだから。

 

「どういたしまして、でも、その言葉は後で二人にも言ってあげてくれ」

「はい、もちろんです。 でも一番に野々原君に言いたくて、その……すみません?」

「おいおい、なんでそこで謝っちゃうんだよ」

「……ですよね、ふふっ」

 

 すっかり緊張が抜けて弛緩しきった空気の中二人、肩を揺らして笑い合う。 思えば柏木とここまで肩の力を抜いて会話したのは、今日が初めてではなかろうか。 日頃どれだけ切迫した日常を過ごしてきたんだ俺は、我ながらもう少しゆとりを持てよと言いたい。

 ひとしきり笑い終えると、そこには穏やかな沈黙が漂う。 しかし本当に静かだ、それでいて何か喋らなきゃ、という焦りも生じない。 ゆっくりと、好きなタイミングで会話が出来る事の素晴らしさを今になって実感した。

 そうは言っても、何時までも互いに黙ったままじゃ埒が明かないし、待っててくれているかもしれない悠や綾瀬にも悪い、ここはそろそろ会話を再開させるべきだろう。

 

「あの」

「あのさ」

 

 おいおい、まさかの同時に発言かよ、完全に出鼻をくじかれてしまったぞコレ。 が、しかし! ここでまた互いにもたついてちゃそれこそ時間の浪費、ここは早坂達を相手にしていた時を思い出して、俺から行こう。

 

「俺から話し始めても?」

「あっ、はい。 なんでしょうか」

「早坂達の件は終わってもさ、まだ柏木にはもう一つ問題があったよな? 園芸部の存続についてさ」

「ええ……ちょうど私もその事について野々原君に言おうと思ってたんです」

「ん? 何か案があったのか? よければ先に言ってくれるか」

 

 昨日まで部活について考えていられる環境じゃなかっただろうし、考えたとしても早坂達と和解してから俺を呼びに来た僅かな間の事だろうけど。 もし俺が用意した物よりも現実的だったら、そっちの方を優先的に採用して──、

 

「もう、園芸部は無くなっても良いんじゃないかって思ったん──」

「却下だ」

「ええっ? また言い終わらない内に却下ですか……」

 

 当たり前だの何たらかんたら、こちとら月夜の晩に『お前の居場所は俺が守るぜ』なんてクサい事言ってしまったんだから、発言に責任を持たせろ。 言った俺は当然、発言を受け入れたお前もだ。

 

「園芸部、胸糞悪い事もあったが、お前にとって大切な場所だったんだろ?」

「それは勿論、今も私にとっては大切な場所ではありますけど」

「だったら、そんなあっさり……でもないか、ずっと一人で頑張ってたわけだし──とにかく! まだ夏休みまでまだ猶予があって、せっかくいじめも無くなったんだから諦めるのは勿体無いだろ」

「でも、部員は私だけですし、一人だけではどうしても……」

 

 そう言って柏木が困り顔で苦笑する。 こういう会話でもすぐに暗鬱とした表情を見せなくなった点は、昨日よりもネガティブ思考から脱却した事を感じさせる。 だがそれでも部の存続に諦観しているのには、やはり現状一人しかいない事が大きな原因だろう。 恐らく柏木の元々の性格からでは、一年生に勧誘なんて簡単には出来ないだろうし、自然に部員が来るのを待つくらいしか出来ないのだろう、それがほぼ不可能だと理解していても、だ。

 でも良かった、おかげで俺の策が無駄になる事は無くなりそうだ。 ……ポケットに右手を入れて中にあるソレ(……)を確認してから、俺はもう一度世間話をする様な気軽さで、柏木に言う。

 

「なあ柏木、俺とお前が知り合う事になったきっかけを覚えてるか」

「きっかけですか? それは確か、野々原君と綾小路さんが、見学に来た時だったと」

「そう、よく覚えてたな。 今じゃ不思議と随分前の話に、それこそ一年も昔の事に感じるが、きっかけはその通りだ、それで柏木、俺達は何であの時いろんな部活を見学していたでしょう?」

「それは当然、入る部活を選んでいたから……ですよね?」

 

 自信なさ気にそう答える柏木。 うーん、もうこの時点で察するかと思っていたんだが、案外そういった方向の思考には疎いのかもしれないな。 渚や綾瀬に、悠みたいな察しの良すぎる連中とばっかりいるから、若干感覚が麻痺しているのかもしれない。

 仕方ない、ここはもうどストレートに動いた方が話が早いだろう、そう判断つけた俺は、ポケットに持っていたソレ(……)を取り出して、柏木の前に突き出した。

 

「えっ……それって、まさか……」

 

 俺の手に握られている物が何なのかハッキリと認識した柏木は、まず口元を押さえながら驚いて見せた。 よしよし、望んでいたまんまのリアクションを見せてくれて万々歳だ。 と言うより、これでドライな反応返されたらこっちが困る、何故なら俺が柏木に突き出して見せたのは──、

 

「入部届けだ、三人分! 部の存続には顧問を抜いて最低四人いればいいわけだから、これで万事解決だ!」

 

 学生手帳のまんなから辺にある、入部届けが三人分。 これが俺の考えた廃部を回避させる為の策だった。

 まあ、正直この程度の事は策と言える位に高尚な物では無いが。 とにかく部員が少なくて、しかも一人じゃ何も出来ないと言うなら、そこに俺と、一緒の部活に入ると言っていた悠が入部しよう、という計画だった。

 ……その筈だったのだが、柏木に言った通り今俺の手には、一人多い三枚分の入部届けがある。 一体この一枚多い入部届けは誰の物なのか、疑問の答えは十数分前に遡る。

 

 ……

 

「悠、あのさ、お前確か前に入る部活は俺に合わせるって言ったよな」

「そうだったね……ん? あっそうか、そういう事だね」

「え? え? 二人だけで何を納得してるの?」

 

 俺と悠の会話についてこれず、綾瀬が頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。

 

「俺と悠は元々、どの部活に入るか決める為に、いろんな部活を回ってたろ? だから俺と悠が園芸部に入部して、あとの一人は何とか夏休み前に確保しようって考えたんだ」

「僕は前に縁が入ると決めた部活に行くって決めてたからね、いいアイデアだと思うよ。 当然僕も異議無しだ」

 

 二人で事の顛末を説明終わると、何故かやや青い顔をし始めた綾瀬が、右手を肩の高さまで上げて、引きつった笑顔でおずおずと聞いてきた。

 

「それって、つまり、これからは放課後に部室で二人(……)が毎日一緒になるって事?」

「そりゃ当たり前でしょ、園芸部は園芸部用の部室があるんだから」

 

 いまさら何当然のことを、さも地球の終わりみたいな顔して聞いて来るんだこの幼馴染は。 そして悠よ、お前は逆にどうしてニヤニヤしているんだ? まるで面白いものを見ている様に、確かに青い顔する綾瀬は珍しいけど面白くは無いぞ? 

 幼馴染と親友がこぞっておかしな様子を見せるものだから、ついつい話が続かない、あまり待たせると柏木に悪いのだが。 ここからどやって話の収束に掛かろうかと考え出した矢先に、綾瀬が迫真の表情でいきなり、突拍子も無い事を言い出した。

 

「決めた! 私も園芸部に入るわ! 私も部活はどこにも入ってないし、問題ないわよね!?」

「はいぃ!? いきなり何言ってんだお前!!」

「アハハハハハ! やっぱりそうなるよね!」

 

 驚愕する俺と、待ってましたとばかりに手を叩いて大笑いする悠。 唐突な発言の筈なのに、何故ここまでリアクションに差がついてしまうのか。 と言うか悠、お前楽しむな。

 

「綾瀬お前、広報委員会の活動はどうするんだよ!? 結構ハードな職場なんだろ」

「辞めるわ」

「良いのかよ!?」

「何? 貴方は私が園芸部に入るのがそんなに嫌なの? 私と一緒になる事がそんなに苦痛?」

「あ、いや違います、そうじゃなくてですね……」

 

 一瞬で不穏な気配を察知してしまい、言葉が尻すぼみしてしまう。 最近綾瀬からは危険な雰囲気を感じなかったので油断していたが、綾瀬も場合によっては十二分に『ヤヴァい』のだ。 冷静に考えれば綾瀬が園芸部に入る事で生じるデメリットは無い(願望補正多め)し、むしろ最後の一人を探さなくて済むのでメリットだ。

 

「じゃあ、綾瀬も、うん。 よろしくな」

「ええ。 ……はい、これ」

 

 学生手帳を取り出して、慣れた手つきで入部届けが記載されているページをめくって、これまた慣れた手つきで切り取り、俺に渡す。 次いで会話中に静かに自分の名前を記入し終えていた悠からの入部届けも受け取り、これで園芸部の未来は安泰となったわけだ。 ……うん、綾瀬は記入する仕草を全く見せていなかったのに、届け用紙にもう名前が書かれてある事については触れない方が良いだろうな。 キジも鳴かずば何とやら、だ。

 

 ……

 

 ──とまあ、柏木が教室に入ってくる少し前にこんなやり取りがあったわけだ。

 

「俺と悠と、綾瀬の三人が園芸部に入る。 これでもまだ、お前は廃部を受け入れるか?」

「……っ、野々原、君……」

 

 くぐもった声でそうつぶやいて、柏木が手を小さく震わせて、俺の手から入部届けを受け取る。

 これでようやく、俺は柏木との約束を果たせた。 いじめを無くし、部も存続させる。 結果だけを見ればそれはCDで語られた顛末と同じだろう。 しかし、その過程は大きく異なっている。 恐らく最初から最後まで一人で行動し、柏木を自分しか映さない人間にしてしまった『主人公』と、親友二人の力を借りながら、最後には柏木自身に最後をゆだねて、外の世界を向けさせた『野々原縁』とでは、その先に待つ未来に大きな違いがある。

 もう、目の前に居る柏木がCDの『柏木園子』の様に、世界を省みない人間になる事だけは絶対にないと、俺は信じたい。 自分の為というのも当然あるが、何より彼女自身のこれからの為にも、切にそう願う。

 

「今日はもう放課後で、家に帰る用事があるからだけど、来週からよろしくな、部長?」

 

 俺がそう軽く言うと、柏木ははっと息を呑んで、やがて、

 

「野々原君……うっ、うぅ……」

「ゔえぇ!? 何で泣く!? 俺何か地雷踏んだか!?」

 

 あろう事か、その場で泣き出してしまった。 女子の泣き顔なら今までに何回も見てきたし、ついさっきもこの部屋で早坂達のそれを見たが、まさか泣くとは露にも思わないタイミングでのソレだったので、俺の動揺も一塩だった。

 

「いえ、違うんです、その、嬉しくてつい……」

「あ、ああそうか、なら良いのか……?」

 

 どうやら感極まって泣いてしまったようだが、相手を喜ばせて泣かせた経験も無いので、結局もぞもぞとした気分になってしまった。 どうやら女の涙に弱い人間のようだ、綾瀬が泣いた時もテンパって抱きついたりしたし。

 

「野々原君は、本当に不思議です」

「ふ、不思議?」

「会って少ししか経ってないのに、私の考えを誰よりも分かってくれて、力になってくれました」

「……っ」

 

 指で涙を拭いながら、心の奥から紡ぎだす様に話すその言葉に、俺は思わず止める事も茶化してごまかす事も出来なかった。

 

「いじめから私を救ってくれて、早坂さん達とやり直す機会をくれて、園芸部も廃部にならずに済んで……私の大切な物を、野々原君は全部守ってくれました」

「柏木……」

 

 いや、ソレは違う。 柏木は一つ思い違いをしている。 今後の柏木の為に、そこだけはハッキリといってあげないとな。

 

「違うぞ柏木、確かに俺はお前の力にはなった。 でもな、今ある結果は、お前が自分で動いた結果得られた物だろ?」

「そう……でしょうか?」

「俺がいじめを止めようと動いたのは、そりゃ俺が自発的に動いてた分もあったが、決定的だったのはお前が俺に助けてくれと言った(……)からだ。 お前が早坂達と関係のやり直しが出来たのは、お前が自分で解決しようと()()()()からだ」

「あっ……」

「ほらな? 俺はただお前の脇でちょろちょろ動いてただけだった。 一番大切な物が何かを考えて、その為に行動したのは全部、お前自身なんだよ、柏木」

 

 そう、だからこそ、今の柏木に言える、言うに相応しい言葉がある。

 

 ──彼女は、孤独だった。

「お前はもう、孤独じゃない」

 

 ──幼い頃から、自己主張が周りの子どもよりも少なかったのが原因だったのだろうか。 病弱で頻繁に幼稚園や学校を休む事が続き、まともに友達を作る事が出来なかったからだろうか。

「他人との係わりが出来ない人間でも、自分の気持ちを相手に見せられない人間でも無くなった」

 

 ──いずれにせよ、彼女はゆっくりと、しかし確実に、“独りぼっち”になっていった。

 ──その心の最奥に、言いようも無いほどの悲しみを抱え、声にならない声で嘆き続けながら。

「独りぼっちになって、痛みや苦しみを心の奥に押さえ込む必要なんか、もう無いさ」

 

「だから、自分に自信持てよ。 そんで何かまたきつい事が起きたら言えばいい。 同じ(……)園芸部の部員が力になるからよ」

「……ふふっ」

「おい、笑うな、我ながら臭い台詞吐き出しまくってる事は自覚してるんだからよ」

 

 今の場に柏木しか居なくて良かった。 もし綾瀬や悠のどちらか一人でも居て聞かれていたら、向こう十年間はネタにされる事間違い無しだからな。 というか今こうして笑われてる時点でもう負の歴史確定ではないか。

 自分の頭を抱えてのた打ち回りたい、そんな俺の心中も察する事無く、まだクスクス笑いながら柏木が言った。

 

「いえ、違うんです。 やっぱり野々原君は不思議な人だなあって、思ったので」

「そうだね、こんな痛い事言える人間なんて不思議ちゃんしか居ないもんね」

「いえ、そうではなくてですね。 私、今まで自分の事を何にも出来ないってずっと思ってたんです。 でも、野々原君にそう言って貰えるだけで、初めて本当に自信がついた様な気がして。 だから、やっぱり野々原君はすごい人だと思います」

 

 そりゃ今までお前にポジティブな事言ってくれる人間が居なかっただけだろ、と言いたくなったが、それを言ってもまた話がループする気がしたので口をつぐんだ。

 ひとしきり笑い終えると、改めて柏木が俺の目をまっすぐに見つめる。 その僅かな仕草と空気の変化から、この園芸部室で交わされて来た二人だけの時間に、最後の会話が来たのだと分かった。

 

「野々原君……最後に、一つだけ、私のお願いを聞いて貰っても、良いですか?」

 

 お願い、と柏木は言った。 それが何なのか、柏木の口から言われるまでは俺に分かる術は当然無い。

 だが、自意識過剰と笑われるのを分かった上で敢えて仮定するとして、それが『告白』だったとしたら、俺はどうする? 

 CDではいじめが無くなってから、『主人公』と『柏木園子』は恋人同士になった。 その過程には必然、どちらかからの告白があっただろう。 そして『野々原縁()』と『柏木』も、出会ってからの日数こそ少ないが、今ではもう先程までの様な、朗らかな会話を交わせるくらいの関係に、自然となっている。 始めは柏木を警戒していた俺は、今ではもうその名残も無い。 そして自惚れでは無く柏木の方も、俺に対しての感情は好意的な物だと言えるだろう。

 これは柏木に対する懸念ではない。 仮に告白を受けたとして、果たして俺がその告白にどう返事をするのかという、俺自身に対する問題提議なのだ。 俺はその時、告白に応じるのだろうか、断るのだろうか。 先述の通り、俺はもう柏木に危機感は抱いていない。 確かに『柏木園子』はヤンデレで、閉ざされた世界で自分の愛を貫く為に、『主人公』の命を奪った猟奇的な人間だった。 だが、『柏木』は違う。 設定と思考と物語が定められたCDのキャラクターである『柏木園子』と違い、外の世界へ目を向き、他人に自分から関わる事を知った、生きた人間だ。

 であるならば、もはや彼女は、CDと同じヤンデレの思考を持った人間でもなくなっているのではないか? それなら自分が過度に柏木を避ける意味なんて、無いようなものじゃないか。 幾重にも重なって揺れる思考を抑え込みながら、俺は柏木にとりあえずの返事をする。

 

「あぁ……なんだ?」

「はい、その……私と──」

 

 心臓がドクン、と強く鼓動を鳴らす。

 私と、その後に続く言葉を柏木が言おうとした瞬間──、脳裏に彼女(……)の顔が、ふっと浮かんだ。

 

 

 

 

「私と──名前で呼び合ってくれませんか?」

「──え?」

 

 緊張が一気に解けていく。 えっと……名前で呼び合うってのは、どゆこと? 

 

「……というと、つまりは?」

「その、ですね……これから野々原君とは、一緒の部活をする仲間……に、なるわけですから。 これからは、お互いに、下の名前で呼び合いたいなと、思ったので」

「…………」

「えっと、駄目です、か?」

 

 ああ、全く。

 コレだから俺は、ったく、もう、ほんとに俺は。

 

「くっ、くははは! あはははははははは!!」

「え、ええ!? あの私、そんなにおかしい事言ってましたか!?」

「いや、違うよ、大丈夫、俺が空回りして馬鹿な思考してただけだから」

「そ、そうなんですか……」

「そ。 思春期の男子特有の謎現象だと思って──ぷふっ、ふはは」

 

 あったりまえだよな? そもそも冷静に考えなくたって、この程度で好きになるとか告白だとか、あり得るわけねえだろうよ! ばーかだな本当に俺は、こんなお粗末な思考回路だったから前世で野垂れ死にするんだよ。

 ……まあ、でも、あれか。

 こんな奴にも、わざわざ名前で呼び合うって言ってくれる奴が出て来てくれるんだから、それはそれで良いか。

 

「うん、勿論構わないよ。 改めてこれからよろしくな、()()

 

 そういいながら、柏木に手を差し出す。 それを受けて、柏木は今まで見た中で一番輝いた笑顔を見せて、

 

「はい! よろしくお願いしますね。 縁君!」

 

 しっかりと、俺の手を握り締めた。

 

 ……

 

 彼が帰ったあとも、私は一人この部屋に残っていました。 今までだって一人でこの部室に居ましたけど、今の私を包むこの部屋の空気は、もはや孤独のものではなく、確かな人のぬくもりが感じられる物です。

 わざわざ、やる事が残っていると嘘を言ってまでここに残った理由は、気持ちに区切りをつける為でした。

 

 実を言えば──本当は私は今日、この部屋で、彼に自分の気持ちを告白しようと思っていたんです。

 

 彼に対する気持ちが好意であった事を自覚したのは、昨日の晩に彼と会話を交わした後が初めてでした。 だが思えば初めて出会った時から、不思議と私は彼に対して拒絶感を覚えてはいなかった事にも気づきました。 きっとあの時から、彼の不思議な雰囲気に、どことなく惹かれていたのだと、今なら思えます。

 そして、私の為なんかに本当に頑張ってくれて、最後には早坂さん達と話す為に背中を押してくれて、自覚したばかりの想いが、風船の様に膨れ上がっていくのが分かって、抑えられなくなりました。 入部届けをくれた時にも、人は嬉しい時でも本当に涙を流せるのだと、生まれて初めて分かりました。

 

「……でも、駄目でした、ね」

 

 彼に告白しようと、勇気を振り絞って彼の目を見つめた時に、私は気づいてしまったんです。

 彼の目が、揺らいでいる事に。 そしてその瞳の奥に、私ではない誰かを映して、その人への思いで心を苦しめている事に。

 だから……だから、私は、とっさに違う事を言ってしまいました。 勿論名前で呼び合いたいとは思っていたので決して嘘ではありませんが。

 

「だって、彼は私の苦しみを解いてくれたんですから。 私が、彼を苦しめちゃ、嘘になっちゃいますよね」

 

 私が告白すれば、彼は受け入れてくれたかもしれません。

 でもそれは、私の想いを無理やり押し付けてしまう事と同じ。

 だから、きっとそれは彼を余計に苦しめてしまう事になる。 それだけは、死んでも嫌です。

 

「私の恋は、すぐに終わっちゃいました。 後に残ったのは、のこんの月の様な、片思いだけ。 でも……」

 

 彼が心の奥で思っているその人が、いつか彼の想いに応えて、彼を幸せにしてくれるのなら。

 私はそれでも良いと、思えるのです。

 当然、心は痛むでしょう。 彼の隣に居るのは自分でありたいと、今もこれからもずっと考え続けるでしょう。 でもこれが、私を救ってくれた彼への、私なりのお返しだと思えるのです。 この恋心が、彼の苦しみになるくらいなら、私の胸の中に一生閉まって置いた方が、ずっと良い。 彼は心のうちを隠すなと言ってくれましたが、コレだけは絶対に譲れません。

 

「だから、お願いしますね、彼の想い人さん。 どうか縁君を、幸せにしてあげてくださいよ?」

 

 さもないと、その事で私が怒っちゃいますからね? 

 もし彼を悲しませたりしたら、その時は……絶対に、絶対に許しませんからね? ふふっ。

 

 

 ──to be continued




結局、柏木はヤンデレなのか違うのか。
管理・依存・狂気、種類が多いヤンデレですが
自分の思いを徹底的に抑えて、好きな人の幸せを思うのも、ヤンデレの持つ色の一つだと思います



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一病・それでも彼と彼女と彼女の青春はまちがい続ける。

最終章中編(上)です
久しぶりに一万ちょっとで済みました
いつもより短いですが、始まり始まり


「待たせたな……ってアレ、悠は?」

 

 柏木との会話を終えて教室に戻る。 するとそこには綾瀬しか居らず、悠の姿が無くなっていた。

 

「先に帰るって行っちゃった。 この後校長先生関連で一仕事あるみたい」

「ああ、それはもう。 なんか俺のやった事の後始末させてるみたいで悪いな」

「彼からの伝言、『気にすること無いよ』ですって。 貴方の考えはお見通しだったみたいね」

「あらら」

 

 雑談もそこそこにして、帰る準備をする。 もう今日この学園でやるべき事は全て終わった。 後は家に帰って、まだ互いに溝が出来たままの渚と、仲直りをするだけだ。 この後にまだやるべき事があるだなんて、十人並みの人間ならストレスと精神的疲労による過労死でも起きてしまいそうだが、ここは一度死んでる俺、あいにくとその手の疲れには慣れている。 全くもって褒められる物でも自慢できる事でもないがね。

 

「……ねえ、縁?」

 

 既に放課後を迎えてから一時間近く経ち、誰もいなくなった校舎を早々に出て、いつもの様に二人でポツポツと喋りながら帰る途中、ふと綾瀬がこんな事を聞いてきた。

 

「良かったら……柏木さんと、どんな話をしてきたのか教えてくれる?」

 

 まあ、気にはなるよな。 ただ、そう簡単に聞いていいもんかどうかは流石に判断できないから、俺にわざわざ『良かったら』なんて枕詞つけて聞いて来るんだろうけど。

 さて、どうしようか。 実のところ、取り立てて綾瀬に言うような内容は無いと思うのだが、こういう時に男女で価値観の相違というか、俺にとって言うほどでもない事が綾瀬にとって聞きたい事である可能性も高いし。 かと言って園子との会話を簡単に話しちゃって良いとも思えない。

 うーん、こうなったらアレだな、俺お得意の、『あくまでも事実だけを言うが、その裏にある過程を話さない』誤魔化し方で行くとしよう。 もう渚には簡単には通じない方法ではある(地味に致命的だ)が、今回に関してなら別に問題は無いだろう。

 

「来週から園芸部になるから、園子に、これからよろしくって話をしてきた。 それだけさ」

「ふ~ん、園子(……)、ね……」

「あっ」

 

 そうじゃん、今まで柏木柏木言ってたのが急に名前呼びになったら、それっぽいやり取りがあったの簡単に分かられるじゃん、何でそこまで頭が回らなかったんだ俺は。

 地味に痛恨のミスをやらかして、軽くヒヤヒヤしながら綾瀬を見たが、意外にも綾瀬は大した事もなさそうに、むしろ悠がする様なニヤニヤした表情を見せていた。

 

「ま、良いんじゃない? 柏木さんが部長で副部長はきっと貴方になるんだろうから、お互い仲良く名前で呼び合ったって」

「そ、そうか……まあ、それで良いなら」

「──告白とか、されなかったの?」

「ぴゃ!?」

 

 思ったよりも静かなリアクションで安堵しかけていたところに、電撃戦のごとく投げられた問いに、思わず奇声を上げてしまった。 この場合の奇声は、本当に告白された事からの動揺ではなく、恥ずかしい思い違いをしていた自分自身の痛々しさが起因なのだが。

 

「ぴゃって……聞いた事無い声出たわね、今の。 もしかして、本当に告白されたの?」

「いや、違う、そういう質問が来るとは思わなんだから、つい動揺しただけだ」

 

 これも嘘ではないぞ、動揺の根本的理由については絶対に言えないが、想定しない質問だったというのは事実だからな! 

 

「そう……」

 

 再びすんなりと納得してくれた綾瀬。 ふう、これでようやっと落ちつ──、

 

「じゃあもし告白されてたら、貴方はなんて返事したの?」

「はいぃぃ!?」

 

 ──くどころか、更に込み入った話になってしまった。

 というかその疑問は、まさに俺がさっき保健室で考えてた事そのもので、先程の動揺を生み出すきっかけになった負の思考で、つまり出来ればもう二度と考えたくはない事なんだが

 

「あり得ないとか、そういうのを度外視して考えて欲しいの。 もし告白されてたら、貴方はどうしてたのか、教えて欲しいな」

「……ノーコメント、って答えは駄目?」

「うん、駄目」

 

 参ったな。 どうやら逃げ場は無いみたいだ。 これはもう何らかの明確な答えを言うしか無い。 このまま黙り続けて家まで粘れば、何も言わなくて済むけど、別にそこまでして言いたくない事でも無いのだし、腹を括るか。

 

「もし柏木から告白されたら……きっと、俺は嬉しくなると思うよ」

「っ、そ、そっか……。 まあ、柏木さんって美人だし、性格も良いから、貴方が付き合おうとするのも、と、当然よね」

 

 まだ俺は答え終わって無いのに、勝手に結論を付けそうな綾瀬をけん制するつもりで、語調を強めながら俺は言い加えた。

 

「ただ」

「……ただ?」

「きっと、というか絶対に、俺は付き合う事はしないと思うよ」

「……それは、どうして?」

 

 どうして、と綾瀬は聞く。 理由は幾つかある、第一に柏木が未だにヤンデレ思考のままなら、些細な事で簡単に地雷を踏み抜いて、死亡フラグを掻っ攫う事に繋がりかねないから。 第二に、綾瀬はまだ分からないとして、恐らく渚が何かしらやらかす可能性があるから。

 特に第二の理由については、昨夜の事で今日もピリピリした状態に居るのに恋人が出来て、それも相手が柏木だと知られたら、結局女目当てで動いてたんじゃないかと言われてしまう。 昨日散々渚に言った弁解が全て虚言になり、俺は正真正銘嘘つきになってしまうだろう。 これは地雷や死亡フラグどころじゃない、非常に分かりやすい自殺行為だ。

 だが、これら二つの理由を綾瀬に言っていい物だとは到底思えない。 一つ目は綾瀬にとってはわけの分からない内容だし、二つ目は言えばかえって悪い方向に進む刺激になりかねない。 率先して藪をつつく気はないのだ

 で、あるならば。 俺は綾瀬に第三の理由を話すべきだろう。 何てことはない、これは生き死に全く関係の無い、至極個人的な理由だ。

 

「余裕がない、からだよ」

「余裕?」

「そ、余裕。 時間の余裕ってよりかは、心の余裕。 今の俺は人間的にまだまだ未熟だし、きっと誰か一人と恋仲って関係になっても、絶対に相手に迷惑をかける事になると思うんだ」

「…………」

 

 我ながら、考え方が古臭い物だと言う自覚はあるが、こればかりはどうあっても譲れない。 特に前世の記憶を思い出す前の野々原縁は、ヤンデレCDの『主人公』程では無かったにしてもそこらへんが割といい加減だったし、頸城縁()も人間関係拗らせて死ぬ以外に、色々償いようが無い事をした人間だ。

 こんな二つの人格がミキサー掛けられて混ざった様な俺が、このまま誰かと付き合ったとしても、渚やら何やらを抜きにしても、傷つけてしまう事になるのは間違いない。 最低でも頸城縁が死んだ年齢を越えるまで、もしくは高校を卒業するまでは、誰かと特別な関係になるつもりは無い。

 

 そう言った事柄を、頸城縁関連の話をボカして綾瀬に話すと、最後まで聞き終えた後に綾瀬が小さく笑いながら俺に言った。

 

「思ってたよりも、真面目だったんだ。 今まで貴方の事は良く知ってるつもりだったけど、少し驚いちゃった」

「そ、そっか? やっぱり、こういうのって時代錯誤かな」

「時代錯誤って言うよりはこう……重いわね」

「お、重い!?」

 

 まさかそう言われるとは考えても居なかった。 と言うか重いってどう言うことだよ。

 

「うーん、何て言うのかな。 貴方の相手に向けようとする思いが真剣過ぎるって言うのかな。 徹底的に誠実にあろうとしてるから、ガチガチになってるって感じ」

「ガチガチに、か」

「うん」

 

 重いと言われた事を素直に肯定したくは無いが、一理はあると思う。 例えば世間一般の人が持つ恋愛観が、軽快に動けるラフな衣服だとするならば、俺の恋愛観は一挙手一投足において全てが堅苦しい鎧兜なのだろう。

 そんな風に、納得しないまでも自分なりに飲み込もうとしたところに、綾瀬が続けて言った。

 

「『自分が相手を傷つけてしまって、そのせいで相手が死ぬ事になったらどうしよう』とか、思ったりしない?」

「──えっ」

 

 何の気なしに言われたその言葉が、するりと自分の心の最奥にまで突き刺さるのを感じた。 もはや一理あるとかの土壌じゃない、まさにそのとおりだったのだ。 悔しい事にこうして綾瀬に言われるまで自覚出来ていなかったが、今の俺は自分の言葉や行動で、自分の大切な人を傷つけてしまう事を嫌がり、恐れていた。

 それ故に簡単に恋人を作ろうとはしないし、だからこそ昨夜の渚との件も酷く心に堪えたのだろう。

 綾瀬が重いと言った俺の価値観は、前世の記憶を思い出す前の『野々原縁』では絶対に考えもしなかった、『失敗』した頸城縁の記憶が混じったからこそ構築された価値観だったのだ。

 なるほど、確かにこれは重い、重苦しくて自分でも嫌になってしまいそうだ。 だからと言って棄却しようとも思わないが、ヤンデレと似た方向に病んでる価値観だと言えるかもしれん。 ヤンデレな妹の兄はヤンデルってか、面白くもないぞ。

 

「でも、その方が私としてはまだ安心出来るから、良いかな」

「おいおい、安心って何だよ」

「それはこっちの話」

「なんだそりゃ」

 

 いまいち要領を得ないが、本人が納得しているのならそれで良いだろう。 あまり他人に個人的な考え方や価値観を話すのになれていないから、俺ももうこれ以上この話を続けようとも思わないし。 何より、自分が自覚していた以上に深刻な理由で、重い考え方の持ち主だったというのが分かって地味にショックなのだ。 なのでもう別の話題をして考えないようにしたい。

 そんな俺の心象を察してくれたのかどうかは知らないが、新しい話題を考える前に綾瀬の方から、別の話題を提供してきた。

 

「そういえば、今ってお家には渚ちゃんが居るのよね?」

「ん? そうだな、まだ熱引いてないはずだから、家に着いたら晩御飯の支度しないと」

「え!? 今って貴方がご飯作ってたの?」

「そうだけど、それが何か──いや分かった、俺が作るなんて信じられなぁいとか思ってんだろ」

「そ、そこまでは考えてないけど……でも意外ね、てっきりレトルトか出前ばかりなんだと思ってた」

「言葉が違うだけで言ってる事は同じじゃねえか」

 

 全く心外だ、悠にも言ったら綾瀬と同じ反応を返されるのだろうか、だとしたら普段の俺は一体どれだけ渚の負担になっているのやら。 やっぱ渚と仲直り出来たら、今までよりもずっと家事の手伝いしなきゃだな。

 

「でもつまりは、今日の夜ご飯も貴方が作るって事なんだよね」

「そりゃあもちろん、何作るか決めてないから、場合によっては買い物するかもしれんがなー」

「そっか……うん、分かった」

「何が分かったのさ」

「こっちの話〜」

「またそれか」

 

 綾瀬の頭の中でどんな考えが渦巻いてるのか気にはなるが、そういう方向に頭を働かすのは飽きた。 昨日から今日にかけて、と言うかこの一週間近くずっと脳みそを酷使し続けてたから、流石に疲れてる。

 今日はあと渚と仲直りする事だけに集中して、ご飯作ったら何も考えずに眠りたい。 出来れば明日は日曜日だし、何処にも出かけず、リラックスして一日を過ごしたいな。

 

「──と、もう家に着いちゃったね」

「そうだな、んじゃ、また来週な」

「うん、またねっ! ……ふふっ」

 

 綾瀬が家に入るのを見届けてから、俺も自宅に到着した。 だがそのまま家に入るのではなく、玄関の前で一度立ち止まって、今日最後の大仕事に取り掛かる前に、一度自分を克己させる。

 柏木の件に集中する為に考えずにいたが、結局昨日の夜に渚が言っていた言葉の意味を、俺は理解出来ないままに終わっていた。 その意味を理解出来なければ、きっと渚と仲直りは出来ないだろう。 問題はそれをどうやって理解するか、だが……。

 

「……よし、こうなったら正面から行く」

 

 もう分からない物は分からないのだから、今日の晩御飯の時に、渚に直接聞く事にしよう。 情けないかもしれないが、もう相手の心の裏を読んだり、言葉を変えてごまかしたり、理詰めで押し込めるのは無しだ。 今は溝が出来てしまっているけれども、渚は家族だ。 恥も外聞も躊躇いも感じずに、相手の本音を聞けるのは家族だからこその物なのだから、修羅場は覚悟の上でやってやる。

 

「ただいま」

 

 玄関を開けても、昨夜の様に渚が出待ちしているような事は無く、普段から両親の不在から日中は静かな我が家が、一層沈黙を深めていた。 渚はまだ寝ているのかもしれない、気にはなるが顔を見に行ったせいで起こしたら悪いし、自然と目を覚ますのを待とう。 それとも起こして病院に連れて行くべきだろうか……いや、この時間じゃもう近くの病院は診察受付時間終わってるから無理か。

 

「……おっ、食べ終わった後の食器、渚の分か」

 

 さっそく冷蔵庫の中身を確認しようとキッチンに向かったら、シンクに使用済み食器が丁寧に置かれていた。 あの後ちゃんと食べてくれてたのかと安心はしたが、部屋の前に置いとけって言ったのにわざわざここまで持ってきたのか、そのせいで体調に影響が無ければいいんだが。

 

「さ、て……うぅん、色々ないな」

 

 肉野菜卵豆腐油揚げ鰹節味噌納豆ヨーグルト牛乳炭酸飲料渚用スポーツ飲料、どれも今晩の分は残ってるけど、明日以降の分としては全く足りていない。 足りてるのは麦茶と数種類のアイスだけ。 うーん、こりゃあ今日はいっぱい買い物しないとなぁ……。 こんなに食材がなくなってしまったのは、看病初日と二日目、肉体的にはまだ慣れない料理で食材を浪費してしまったのが原因かもしれん。

 現在の時刻はまだ四時前で、最寄のスーパーである『ナイスボート』が安売りセールをする時間まで一時間弱ある。 そこまで待てば生活費を節約して買い物出来るが、そのせいで帰ってからご飯が出来るまでに時間が掛かってしまう。 なるべく渚が起きてご飯を食べたい時にすぐ用意出来るようにしたいが、買う物の量が多いからこの時間だとそれなりに値が張ってしまう、出来れば数日分買い溜めもしておきたいから尚更、うーん。

 

「どうすっかなぁ……ん?」

 

 時間とお金を天秤に計って悩んでいたところ唐突に、俺のポケットに入っていた電話がプルプルと振動して、着信を告げた。

 

「電話──綾瀬から?」

 

 ディスプレイに表示された相手の名前は、先程別れたばかりの綾瀬だった。 一体どうしたというのか。

 

「綾瀬、どうした」

『あっ、繋がった。 今家の前に居るんだけど、玄関の鍵開けてくれる?』

「はい!?」

『いいからいいから、早く家に入れてよ』

「な、何だってのさ!」

 

 突然の自宅訪問の知らせに困惑しか出来ないが、玄関を開けて欲しいようなので急いで向かう。 すると確かに、玄関のガラスブロック越しに、綾瀬と思わしき人影が確認できた。 どうやら理由もなしに来たわけでもなさそうだ、とにかく玄関の鍵を開けると、『んしょ』っという掛け声と共に綾瀬が入ってきた。

 

「あはははー、さっき振りね」

「おう、どうかし──って、ええ!?」

 

 家に入った綾瀬を見て、俺は思わず驚きの声を上げてしまった。 とはいえ無理もない、綾瀬は手ぶらで来たのではなく、今にもはち切れそうな程に食材が詰まったビニール袋を、両手に一つずつ持っていたからだ。 さっき分かれてから僅かな時間しか経っておらず、ビニールの中の食材が河本家の物である事は明確で、となるとそれをわざわざ持って来た理由は一つしか無いワケで──、

 

「綾瀬よ、それってもしや」

「うん。 結構買う物多くて困ってるんじゃないかなって思って、持って来たの」

「やっぱり! 駄目じゃないかそんな事して!」

 

 綾瀬が持ってきた量は、俺が買い物に行く場合に『この位買い込もう』と思っていたのとほぼ同量だった。 それだけの量の物を買う為の時間が無くなり、なおかつタダで済むと言うのは正直助かるが、流石にそんな図々しい事するワケにはいかない。 これだと今度は河本家の食卓事情に響くじゃないか。

 

「どうして? 冷蔵庫の中空っぽで大変なんでしょ?」

「そうだけどもさ、おじさんやおばさんに悪いって」

「あっ、それなら大丈夫。 これ持っていけって言ったの、お母さんだから」

「……マジで?」

「うん、なんでもっと早く教えなかったんだーって怒ってたよ? それに風邪に効く食べ物つくるって買い物行っちゃったし……なんか私の時よりも熱入ってる気がしない?」

「あはは……申し訳ない」

 

 小母さんが言ったのなら、素直に受け取るしか無いか。 これ以上はかえって小母さんに失礼になる、受け取る事で何か不都合が生じる事も無し、渚の容態が治った後にちゃんとお礼を言いに行こう、お返しに果物でも買ってね。

 

「これは有難く、ほんっと〜に有難く頂くよ。 小母さんには本当助かりますって言っておいてくれ」

「うん、そうして。 じゃないと重いの頑張って持ってきた私の苦労が徒労になっちゃうから」

「徒労って、俺とお前の家は歩いて100歩も無いだろ? 隣同士なんだから」

 

 そう軽口を言い合いながら、綾瀬から荷物を受け取り冷蔵庫まで持っていく。 綾瀬はお邪魔しまーすと家に上がって先に冷蔵庫まで行き、勝手知ったる他人の家とばかりに麦茶とバニラ味のアイスを取り出し、テーブルの上で食べ始めた。 麦茶は来客用でもあるので問題無いが、アイスは別だ。

 

「おい、バニラ味はそれが最後なんだぞ、俺食べようと思ってたのに」

「いいじゃない、ここまで運んで来た私へのご褒美って事にしてよ」

「ったく、それ言われたら何も言えないだろう、狡いな」

「ふふっ、役得役得」

 

 全く悪びれない綾瀬に見切りを付けて、俺はさっさと袋の中身を冷蔵庫に移す作業を進める。 小母さんか綾瀬かどちらが袋に入れたのかは知らんが、初めから片付けやすく入ってあったので非常に楽だ。

 渚も買い物でカゴから袋に入れる時に工夫しているが、俺の場合は取り敢えず入れれば良いって考え方だから冷蔵庫に入れる時にどうも手間をとってしまう。 小さい工夫だけど、こういうのも見習わないとな。

 

「よし片付け終わり。 後は晩ご飯作るだけだから、綾瀬もアイス食べ終わったら帰っちゃっても大丈夫だ。 今日はありがとな」

「え、私がご飯作るわよ」

「はい?」

 

 え、今綾瀬さん何ておっしゃいますた? 

 

「だから、今晩のご飯、私が作ってあげるって。 どうせ貴方、今日なに作るか決めてないんでしょ?」

「そうだけど、いやしかし! 流石にそこまでして貰うのは悪いって!」

「別に今日が初めてってワケじゃないじゃない。 先月だってしたんだし」

 

 確かに綾瀬の言う通り、綾瀬にはちょくちょく家で料理を作ってもらう事がある。 だから今日作って貰うのは不自然な事ではない、だが問題はそこじゃないんだ。 渚の精神状態が不安定なこの状況で、綾瀬に料理して貰っている所なんて見られたら最後、どうなってしまうのか全く予測がつかなくなる事、それが問題なんだ。

 

「あーえっと、綾瀬。 その気持ちは素直に嬉しいし、出来れば俺もご好意に甘んじたいんだ」

「うん……どうかしたの?」

「その、な? 今渚が風邪ひいてるじゃん」

「そうだけど、それが?」

「それでさ、何というかその、な……」

「うん」

 

 あまりストレートに言うと、かえって綾瀬の機嫌を損ねてしまうかもしれない、それは避けないとな。 ヤンデレCDの『河本綾瀬』と違い、綾瀬は少し不機嫌になっても即ヤバくなる程地雷女じゃないのは分かっているが、せっかくの厚意に不誠実な事はしたくない。

 中々上手い言い回しが思い浮かばず、間が空いてしまう。 中途半端な所で歯切れ悪く話が止まったものだから、綾瀬が少し表情を曇らせて俺に言った。

 

「……ひょっとして、私迷惑だったりする?」

「ああいや違うんだ! ただな……」

 

 ああもう、これ以上また色々と考えを張り巡らせるのは止めよう。 俺の言おうとしてる事は恥ずかしい事ではあるが、馬鹿にされる事ではない。 きっとこの綾瀬なら、一つ二つ思う所はあるかもしれないが、笑って済ませてくれる筈だ。

 

「あのな、実は────」

 

 渚が風邪で心が不安定になっている事、昨晩に渚と喧嘩をしてしまった事、今朝のそのせいで落ち込んでいた事、そして何より、まだ何が原因で渚と仲直り出来ていないか分からないままでいる事を、包み隠さず事細かに綾瀬に話した。

 話の間綾瀬は、最初は驚いていたが段々と静かに話を聞き始めた。 そうして全て聞き終えると、表情を見せないように顔を伏せた。 雰囲気から怒っている様には感じられないが、何を言い出すのか内心気が気でなくなっていると、

 

「──プフッ!」

 

 直前まで漂っていた重苦しい間を吹き飛ばすかのように、綾瀬が吹き出した。

 

「あ、あはははは! 何があったのかと思ったら、そういう事だったわけね!」

 

 こちらの希望的観測通りに、綾瀬は怒るのではなく笑ってくれた。 目に涙を浮かべるくらい笑われるのは少々想定外だったが、まぁ良いだろう、結果オーライだ。

 ひとしきり笑い終えた後に、眼に浮いた涙を指で拭ってから、綾瀬が思いも寄らない事を言った。

 

「ごめんね、悪気は無いんだけど、何か安心しちゃって」

「安心? あぁ、迷惑がられて無くて良かったって意味か」

「ううん、そうじゃなくて」

「え?」

 

 迷惑云々の意味じゃないとするならば、一体今の話から何をどう安心したというのか。 いまいち綾瀬の発言の意味が分からずに居ると、表情に出ていたのだろう、綾瀬がまた小さく笑ってから言った。

 

「あのね、私が安心したのは、貴方のそういう失敗しちゃうトコロ」

「はい? 失敗するのが安心出来るのか?」

「うん。 だって、貴方が完璧じゃないって事だから」

「はぁ……」

 

 説明が入ったが、それでもまだ意味が分からない。 元々俺は自分を完璧にしようなんて思っていないし、だからこそこうして綾瀬や悠達の世話になったり、渚と溝が出来てしまったりするのだから。

 そう思っていると、綾瀬もまだ俺が発言の意図を掴めていない事を分かっていたのか、更に説明に補足するように話を続けた。

 

「最近の貴方、側から見て絶対に無理だって思わせる様な事ばかりして来た自覚ある?」

「いや……よく分からないんだが」

「だよね……うん。 そうだと思った」

 

 うんうんと首を振りながら、綾瀬は困りながらも何処か嬉しそうに、人差し指をピンッと立てながら言った。

 

「あのね、結果的に達成は出来たけど、普通の人って、人がいじめられてるのを見て『可哀想』って思ったり、『何とかしたいな』って思う事はあっても、それを実行する事は中々出来ないの」

「……うん」

「仮に何か行動を起こすのにしても、それは先生や親にいじめの事実を教える事だけ。 他人任せになっちゃうけどそれが普通で、当たり前の行動。 でも貴方は違った、先生に言えばどうにかなる事も、自分が得しない事も分かっていたのに、柏木さんの事情を慮って、自分の力だけで解決しようとしてた」

「綾瀬、それは違うよ、柏木の事は俺一人じゃ──」

 

 俺一人じゃなく、綾瀬と悠、それに事情を話してくれた園芸部顧問の幹谷先生などの協力、そして何より現状を何とかしたいと願う園子の意思があったからこそ成し得た結果だった。 そう言おうとした俺の言葉を、押し込むように綾瀬が言葉を紡ぐ。

 

「うん、分かってる。 貴方一人が全部やったわけじゃない。 でもね、確かに私や綾小路君、幹谷先生の協力は大きく関係していたけど、それも全部貴方が行動したからこその話なんだよ? 貴方の事だから、柏木さんが動いたからって思ってるかもしれないけど、私は『助けて』って言う柏木さんの声に貴方が応えたから、今日の結果になったんだと思う」

 

 まるで諭すかのように、淡々と、しかし深く感情のこもった声で綾瀬は俺に言う。 その言葉に対して、俺は話の始まりが何だったかも忘れて最後まで聞く事しか出来なかった。

 

「柏木さんから拒絶されても心を開くまで粘ったし、私のあやふやな記憶なんかを信じて、場所の分からない柏木さんの家まで辿り着いてみせた。 本当なら責める事も出来たのに綾小路君を怒りもしなかったし、早坂さんや校長先生に正面から相手していった。 普通なら無茶だって思う事の全部を、貴方は最後までやりきった。 そんな姿を隣でずっと見せられてたら、ついつい完璧だって思っちゃうわよ」

 

 それは紛れも無い綾瀬の本音だった。

 俺が何故園子の為に行動しているかを保健室で問われたあの日以降、綾瀬は俺の行動に疑問や否定の言葉を投げ掛ける事は無かった。

 だがやはり、胸の内では俺のやろうとしていた事を無茶な事だと思っていたのだ。 その上で尚、綾瀬は何も言わずに協力してくれていた。

 そしてだからこそ、無茶だと思う事をやり遂げた俺に、綾瀬は口にこそしなかったが距離感を覚えていたんだと思う。 ちょうど今回の柏木の件で、悠が見せた情報収集力や行動力、経済力に対して、縮めようの無い差を感じていた様に。

 悠の場合は元々金持ちだと言う事だけなら分かっていたし、縮めようがない差を縮めたいとも思わなかったので、問題は無かった。 それと同じく綾瀬もまた、離別や悪感情とは無縁の所で、俺との間に壁を感じ始めていたのだ。

 

「だから……だからね、さっきの貴方の話を聞いて、あぁなんだ、まだまだダメな所もあるんだって思ったの」

「……そうか。 まあ、変に壁を意識されるよりゃあよっぽどマシだけどさ」

 

 本当に。 後々これが原因になって綾瀬とまですれ違いが生じるなんて事態に陥ったら、もうどうにも無くなってしまうところだった。 渚との不和を喜ぶワケでは無いが、それがきっかけで壁が無くなってくれるなら、怪我の功名という奴だろう。 ……ただし、

 

「お前は満足かもしれんが、全く嬉しくないからな俺!」

「あははは! だからごめんねって言ったじゃない」

「『ごめんね』ってそういう意味かよ! 抜かりない奴だな本当に」

「褒め言葉だって思っておくわね」

 

 俺のなけなしの皮肉に、綾瀬は手をひらひらと振りながら、まるで悪びれる様子も無く返した。 言いたい事がないワケでは無いが、取り敢えず悪い事でも無いのだし、これ以上この話題を引っ張って逆に拗れるのも嫌なので、俺はため息を返すだけで終わりとした。

 

「しっかり仲直りするのよ? 同級生にかまけて妹と喧嘩しちゃった駄目なお兄さん?」

 

 突き立てていた指を俺の額に軽く突き立てながら、綾瀬が言った。 綾瀬が昔、まだ俺より背が高かった頃に良くやった仕草だ。 お姉さん振るその仕草に昔はヤキモキしたものだったが、今回は正論だったのもあって手を払う事はせず、恥ずかしさはあるものの、撫でられるまま素直に頷いた。

 

「……おう」

「ん、素直でよろしい」

 

 すっかりお姉さんぶったまま微笑みながらそう言うと、綾瀬は俺から離れて、一度うん、と背伸びをしてから、

 

「それじゃあ、私はもう帰るね」

「ああ、渚が治ったらちゃんと礼するよ」

「うん、期待してるっ」

 

 ああ、なんとか事無きを得たか、そう俺が心の中で安堵して、ほっと溜息を吐いたその瞬間、リビングの出入り口から、『音』が聞こえた。 聞こえてしまった。

 

 音源が何かだなんて、考えるまでもなかった。 この家には音が出る(……)物は幾らでもあるが、音を出させる(……)者は三人しか居ないのだから。

 そう、つまりこうして二人で会話していた俺と綾瀬の他に、床を踏み鳴らしす音を出せるのは、リビングの出入り口から、信じられない物を見るような目で俺と綾瀬を見ている渚以外には、あり得ないのだ。

 

「渚ちゃん? あ、もしかして起こしちゃった? ごめんね……渚、ちゃん?」

 

 綾瀬がたちどころに渚の異変に気付く。

 綾瀬に話し掛けられても、渚は何も反応を返さず、今までに見せた事も無い表情で俺達を見る。

 そして──、渚がそんな表情(カオ)で俺たちを見ていたという事は、つまり。

 

「なんで……その女が今ここに居るの」

「え? 渚ちゃん、どうし──」

「うるさい」

「えっ────」

「うるさい、この……嘘つき!!」

 

 ──つまり、考えうる中で最も最悪な状況に陥ったという事に、他ならなかった。

 

 柏木園子の一件が終わり、もう仲直りをするだけだと思っていたが、なんて事はない、俺の本番は、これからだったのだ。

 

 

 ──to be continued




きっと青春(と言う名の修羅場)が聞こえる
君と彼女と彼女の恋をプレイしてみたい
理由は特にありません


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二病・光差す未来へ

残り数百文字で手が止まる癖はどうにかしたいです

それでは、最終章中編(下)、始まりです。
中編なんて言ってますが、ぶっちゃけ最終章下もかねてます


 野々原渚にとって、野々原縁という存在は、ただの家族という範疇に収まる人間ではなかった。

 まだ幼稚園に通う程の幼かった頃、おとなしく人との関わりに消極的だった渚にとって、縁は両親の都合で引っ越してから見知らぬ人々が溢れる街の中で、唯一信頼出来る人物()だった。

 転校先の幼稚園で友達が出来るまで、いや、ある程度友達と呼べるような人間が出来てからも渚は、進んで兄と遊びたがった。 通学路が同じ友達が居らず、かと言って誰かの家に行ったりする気も起きなかった渚には、一緒に遊んでくれる存在が兄しか居なかったのだ。

 縁自身も妹である渚を拒絶する事は決して無い。 妹が素直に甘えてくるのに対して悪い気は当然なかったし、転校して友達と呼べる人間が居ないのは縁も同じだった。 そのうちに、渚にとっては常に兄と一緒にいる事が当たり前になっていく。 二人だけの時間には強く思い出に残る様な大きな刺激は無い。 しかし、だからこそ、二人だけの時間はゆっくりと、穏やかに過ぎていた。

 

 ──だが、渚にとって絶対的であり、揺らぐ事の無いと思われていた時間は、ある日唐突に、そしてあっさりと無くなった。

 事の始まりは、渚が小学生になったばかりのある春の日。

 渚が家に帰り、いつも通りに縁が家に帰るのを待っていた時の事である。 自分にはまだ広く感じる自室で、兄を待ちながらふと時計を見た。 そこで渚は、兄がいつもより少し帰ってくるのが遅い事に気づく。

 気づきはしたが、何故遅いのかが分かる訳も無く、その後しばらくの間、渚は一階に降りて母親と会話をしながら、兄を待った。

 それからやっと玄関の扉が開かれる音が聞こえ、渚が喜び勇んで玄関に向かうと、兄の隣に今まで見た事の無い人が居たではないか。

 その人物はあっけに取られている渚や、驚く兄妹の母親に対して、子どもにしては随分とハキハキとした力強い口調で言った。

 

「野々原くんのお母さんと、妹ちゃんですね。 野々原くんの事について、おはなしがあってきました」

 

 そう口火を切ってから、縁が今まで同級生にいじめられており、今日も近くの公園で二人掛かりで殴られていた事を話す。 そんな事実を知らなかった母親は酷く驚き、助けてくれたその人物に深く感謝した後、何故言ってくれなかったのかと目に涙を浮かべながら、縁を優しく抱きしめる。

 渚もまた、今まで自分に笑顔しか向けていなかった兄が、自分の知らない所で苦しい思いをして来た事にショックを覚えた。 当然の事、兄をいじめたと言う顔も名前も知らない縁の同級生を恨みもした。

 だが、それよりも渚の心を苛んだのは、今まで蓄積されていた兄の苦しみを、一番長く兄と接して来た筈の自分では無く、今日その日初めて出会ったばかりの、ぽっと出の存在が先に気づいた、という事実そのものだった。

 

 こうして生まれた名前の付かない気持ちを抱えながら、渚を取り巻く世界はその日を境に大きく変化する。

 縁を助けたその人物の家が隣だった事。

 更に縁と学年が一緒だった事。

 それらのきっかけで親同士の親交が深まり、いつしか縁とその人物は友人関係になった。

 兄は渚だけの兄では無くなり、自分ではない第三者の友達になってしまった。

 

 そうして今まで二人だけの物だった時間と空間に、第三者──河本綾瀬が入り、全てが変容して行った。

 

 やや内気だった縁は、快活な綾瀬の影響を少しずつ受けて、年相応の明るい少年になって行き、いじめも無くなってからクラスの友達と一緒に遊ぶようになり、家で渚と遊ぶ時間は半分になった。 そして半分になった時間の中にも、綾瀬が交じる事が度々あり、結局二人きりの時間は今までの三分の一にも満たない程になってしまったのだ。

 それでも、それは決して孤独を感じる物では無かった。 綾瀬が交えてからの時間も楽しい物ではあったし、何より元々二人でいた時間が極端に多かったから、二人きりが三分の一になっても全く一緒じゃないワケでは無かったからだ。 それどころか綾瀬に関わる事で以前より外の世界に目が向く様になり、渚自身もはっきりと友達と呼べる人間が出来る様になったので、逆に孤独の時間は減ったと言えた。

 

 だが、問題の質はそこではない。 何故なら、友人が出来、外に目が向く様になっても、尚渚にとって縁は唯一無二の存在であり続けていたからだ。

 一緒にいる時間が増えたとか減ったとかとか、それ以外の時間が楽しいとかつまらないとか、そんな物は言ってしまえばどうでも良かったのである。

 つまり、渚に取って一番重要なのは、『兄を取られた』という事のみであった。 兄は妹である自分だけの物。 兄と一緒に居ていいのは妹である自分だけ。 だから今までずっと一緒だった、ずっと家で一緒に、二人だけで楽しんでいた。

 だと言うのに(…………)何故他人が入って来るのか(……………………)。 兄妹でも家族でも無い他人が、何故自分の兄に馴れ馴れしく近づき、兄を自分の知らないニンゲンに変えて行ってしまうのか。

 

 やめて欲しい、そんな事しないで、私のお兄ちゃんを(………………)知らないヒト(…………)にしないで! 

 

 そう叫びたかった、声を荒げて綾瀬に言いたかった。 しかし、そんな自分の思いを知る事の無い縁は、あの頃見せた事の無い笑顔を浮かべて毎日を楽しそうに生きて、それでいながらあの頃と同じ様に渚を大事にし続けていた。 じりじりと変わって行っていくが、根本の部分は渚がよく知る、愛すべき『兄』のままであった。 だからこそ耐えた、だからこそ、渚は溢れそうな激情に蓋をして、妹であり続けた。 ──―だと言うのに!! 

 

『……なぁ、渚よ──―輪廻転生って、信じる?』

 

 中学3年生になってから少し経った春の日。 そんな、馬鹿みたいな言葉一つで、何もかもが崩壊した。

 唐突に、『前世』の、10数年前にさほど大きな話題にもならなかったいじめの事件で死んだ少年、の記憶を思い出したと語った兄をみて、始めは本気で何を言ってるのか理解できなかった。 しかし、その口ぶりがあまりにも真に迫っている物だから、渚は嘘をついていると思えず、その信じられない様な話を受け入れた。

 そして、それからすぐに、渚は『縁』の言葉が嘘ではない事を、最悪の形で思い知ってしまった。 その日を境に。『兄』は『兄の姿をしたナニカ』になってしまったのだ。

 

 野々原縁()は、人の心の機微に疎い人間だった。 悪意は無いが、時折人の心を蔑ろにしてしまう時があり、鈍感だった。

『野々原縁の姿をしたナニカ』は、人の心の変化に聡く、常にこちらを慮る発言を考えて、纏めてから口にする。

 

 野々原縁()は、率先して家事を手伝わず、買い物に付き合わなかった。 寂しかったが、兄が喜ぶ顔を見られるなら満足だった。

『野々原縁の姿をしたナニカ』は、自分から家事を行い、率先して買い物に付き合い、一緒になって喜んだ。

 

 野々原縁()は、自分や友人達と直接関わりのある事でもない限り、名前の知らない他人と関わらず、また、興味もなかった。

『野々原縁の姿をしたナニカ』は、あろう事か自分から、今まで交流の無かった女子生徒のいじめを止めようと動き出した。

 

 なんだ、これは。 何なのだ。

 私の目の前に居て、私達兄妹の家に居て、私に兄の様に接して来るこのヒトは、いったい誰? 疑問と、猛烈な違和感が日に日に渚を飲み込んで行った。

 どっちの方が良いかとか悪いかではない、問題の本質はそこに無い。 問題は、渚の『兄』ならばそんな事する筈が無い、と言う行為を、どう見ても兄としか思えない人間が行っている事、それだけだった。 それでも渚は必死に考えた。 それでも向こうは兄として接して来るし、兄と同じところがたくさんあるのだから、きっとアレは兄なのだろうと。 でも、そうやって信じ込ませる事にも、ついに限界の時が来てしまった。

 

 野々原縁()は、どんなに心を蔑ろにする事があっても、決して自分に嘘をつかなかった。

 だが、『野々原縁の姿をしたナニカ』は、自分に嘘を言った。 嘘を言ったのだ。 それは、それだけは、もはや誤摩化しようも無い絶対的な『兄』との違いであった。

 

 だから、渚は糾弾するのだ。

 万感の憎悪を込めて、満身の否定を持って。

 今日まで自分を騙したその男を。 『兄』の皮を被った『ナニカ』を。

 ──―よくも嘘をついたな。 ──―今まで信じようとしたのに。

 

 この──―、

 

 ……

 

「──―この嘘つき!!」

 

 渚の言葉が、俺の耳から全身に深々と突き刺さっていくのを感じる。

 想定していた中で、最も避けたかった状況になってしまったのだと、認めるしか無い。 何故こうなってしまったのか、こんな事にならない為に今日まで考えて行動してきたつもりなのに、結局無駄になってしまった事が一周回って笑えてきてしまう。

 とは言っても、当然口に出して笑い声を上げるほど自暴自棄にはなっていない。 放棄したくなる思考を無理矢理にでも動かして、早急に現状の確認をする。

 今の状況は、最も避けたかったモノではあるが、『最悪』な状況にまではまだ至っていない。 何故なら、俺たちと渚の間には僅かながら距離があり、渚の立つ場所──―リビングの入り口には殺傷力のある物は無い。 そして何より、渚自身の体調が優れておらず、過激な行動を起こすだけの体力が無いからだ。 無論、これからの展開次第では無理矢理にでも渚が動く可能性はあり得るが、体調が悪いと言う時点でその可能性は普段よりずっと低い事は絶対。 つまり俺がヘマさえしなければ──―この状況自体が十分なヘマだが──―今回に限っては、ヤンデレCDにある様な流血沙汰にまで発展せずに済むのだ。 ……多少、希望的観測が混じっているのは否定しない。

 

「……渚、まだ風邪治ってないだろう、言いたい事があるのは分かるけど、まずは座って──―」

「うるさい、黙って」

「──―ッ」

 

 拒絶の意思は昨日の比じゃない。 どういう結論なのかは分からないが、もはや今の渚は完結している。 俺が何を言っても、その言葉で心を揺るがせる事は出来ないのかもしれない。

 

「ちょっと待って、渚ちゃん。 今の言葉は何? 少し口が悪すぎるんじゃない?」

 

 綾瀬が諭す様な口調で渚に言う。 俺と渚が喧嘩したままなのは今朝の時点で分かっていたが、考えていたよりも険悪な態度に、思わず口を挟まずにはいられなかったのだろう。 その気持ちはありがたいが、

 

「そっちこそ何様なの? 赤の他人のくせに偉そうにお姉さんぶった態度取らないでよ」

「……渚ちゃん、本当にどうしたの? いつもの渚ちゃんらしく無いよ?」

「それがお姉さんぶってるって言ってるのよ綾瀬。 あんたはいつもそうやって上から目線で人の事分かった様な顔して……(あたし)とお兄ちゃんの間に割り込んで来た!」

「わ、割り込んでって──―私はそんな事してない!」

「綾瀬にとってはそうだったってだけでしょ、……まあ、今はもうどうでも良いケド、そんなヒトの事なんて」

 

 そう吐き捨てて、渚は俺を睨む。 たった今口にした『そんなヒト』とは、俺の事を指しているのだと、考えなくても分かった。

 同じ事に気付いた綾瀬が、目を見開いて俺へと振り返り、もう一度渚に視線を戻した。 その表情からはありありと『信じられない』と言う気持ちが伝わって来る。 俺の次に今まで渚と接してきた年数が長い綾瀬だからこそ、俺を蔑ろにする渚の言葉が、信じられなかったのだろう。 俺自身、顔には出すまいとしているが、これまでの経緯を踏まえても、今の発言には今までで一番心が痛んだ。

 

「どうしてそんな事言うの!? 渚ちゃんは縁の事、お兄ちゃんの事が好きな筈でしょ!?」

「そうよ、私はお兄ちゃんが好き! 大好き! だから幼なじみとか言ってお兄ちゃんにすり寄って来る綾瀬、あんたも大っ嫌いだった!」

「……っ」

 

 思わず声を荒げた綾瀬に、同じくらいの怒声で、渚がこれまで胸の奥に潜めて居たであろう本心を包み隠さず吐露した。

 その言葉の端々から、渚の綾瀬に対しての怨嗟の念が嫌と言うほどに伝わり、さしもの綾瀬も口を噤むしかなくなる。

 閉口した綾瀬と、一連の会話で情けなくも何を語るべきか分からない俺を見据え、現状が自分の独壇場と理解する渚は、続けて、決定的なまでに全てを終わらせる言葉を、口にした。

 

「──―でも、もう綾瀬なんてどうでもいい、これからもずっと、そこでぼーっとしてるお兄ちゃんによく似た人と仲良くしてればいいじゃない。 でもその前に、私の、野々原家からは出て行ってよ」

 

 その言葉は、俺と綾瀬に対し、それぞれ別種の意味を持つ。

 綾瀬に取っては意味の掴めない、怒りの延長線上にしか受け取れない言葉だが。

 俺に取っては、怒りを通り越して、存在その物を否定する言葉だった。

 そうして、そこまで言われてようやく/そこまで言われてもまだ、俺の口は何にも解決策を見出せないままに、勝手に言葉を噤んだ。

 

「……なぁ、渚。 俺はもう、お前に取っては赤の他人なのか」

「そうだよ、はじめからそう言ってるじゃない」

「どうして、だ? やっぱり嘘を──―お前に取って俺が嘘を言ったから、なのか?」

「それもあるけど、それだけじゃない。 と言うよりも──―理由はそっちの方がよく分かってるんじゃないの?」

「分かっている? 俺が?」

「うん、だって──―」

 

 この後に、渚が発した言葉が、崩れそうになっていた俺の心を、完全に打ち壊した。

 

あなた(……)は、お兄ちゃんじゃない」

 

「お兄ちゃんは、私に嘘をついた事がなかった」

「お兄ちゃんは、自分から私の買い物を手伝う事はなかった」

「お兄ちゃんは、自分から料理する事なんてなかった」

「お兄ちゃんは、率先して赤の他人の為に動くなんて面倒な事はなかった」

「お兄ちゃんは、私の気持ちを慮ったり気を揉んだりする事なんてなかった」

 

「みんな、みんな、みんな、みんな、みんな、あなた(……)が出てきてから変わっちゃった」

 

 渚は呆然と言葉を聞くばかりの俺と綾瀬に近づき、手が届かない程度の距離で立ち止まり(触れたく無いという意志を示して)

 

「全部、全部全部全部全部! あなた(……)のせいで無くなっちゃった! お兄ちゃんはあんた(……)のせいで何もかも変わって、私の知らないヒトになっちゃった!」

 

「返してよ、私のお兄ちゃんを返して! 私だけに優しくしてくれた、私だけと遊んでくれた、あのお兄ちゃん(…………)を返してよ! 知らないヒト(頸城縁)────ー!!!!」

 

 ──―そう、言い切った。

 

「………………っは」

 

 なんてこった。

 そう言う事か。

 

「よ、縁? どういう事? クビキって、誰の事?」

 

 この場でただ一人、付いて行けずに困惑する綾瀬が、俺を見る。 だが、もう今の俺には、その疑問に答えてやれるだけの余裕はなかった。

 ここまで全てを聞いて、ようやく、俺は全てを理解して、そして、納得した。

 なんて事は無い。 渚に取って俺は、おそらくあの日、俺が前世の記憶を思い出した事を告白したあの朝から、『兄の皮を被った全く別の他人』でしか無かった。 昨日までは『渚のお兄ちゃん』と同じ行動を取る事が多かったから許容してきたが、その限界がきた、というだけなのだろう。 俺は、頸城縁の記憶を思い出したその瞬間から、『渚のお兄ちゃん』では無くなったのだ。

 

「はは、ははは……はは、っはははははは!! そっか、俺は赤の他人か!」

「縁、落ち着いて? 渚ちゃんも調子悪いから心に無い事言っちゃただけで、きっと」

「いや、いい。 いいんだ綾瀬。 きっと渚の言葉は合ってるんだと思うから」

「そんなの……」

「納得したんだ。 それならもうさっさと──―」

「──―だけどな、渚」

 

 今日初めて渚の言葉を遮る。

 俺の変化に付いて行けないのは分かる。 綾瀬や悠だって過去に一度、同じ様な疑問を投げかけてきた。

 今まで俺がしてこなかった行動が多いのも共感する。 他ならぬ俺自身がそう思ってきたから。

 だが、それでも俺は、渚に言いたい言葉がある。 こんな時だからこそ気付いて、言わなくちゃいけない言葉がある。

 その為に、俺はこれまで渚に向けた事の無かった、怒りを込めて、言った。

 

「──―ふざけるな、お前が勝手に『野々原縁()』を定義するんじゃねえよ」

「何が『私はお兄ちゃんが大好き』だ。 笑わせるなよ、ここが寄席なら腹が捻れる程笑ってるトコロだ」

 

 ──―思えば、今日まで特に問題にあげようとはしなかったが、一つ、やけにおかしいと思う事があった。

 ヤンデレCDの『河本綾瀬』や『柏木園子』達は、凶行の内容こそ個人差がある物の、原因自体は共通していた。 それは『彼女ら』の恋人になった『主人公』が、『彼女ら』を蔑ろにしていたからだ。 それにしたって監禁したり殺したりは論外ではあるけれど、そもそも『主人公』がしっかりと『彼女ら』の事を見て、声に耳を傾ければ、結果は変わっていたに違いない。

 記憶に残っているCDから分かる情報とは多少異なっている物の、『俺』の知る『綾瀬』や『園子』達も当然ヤンデレの思考なのだろうが、『主人公』と『俺』とで異なっているのは、まだ俺が誰かと恋仲になってはおらず、思考が病んでしまうだけの過程が存在していないと言う事だった。

 だからこそ俺は今日まで細心の注意を払って、不用意に死亡フラグになるような事はしないで来た(つもりだった)。 そして、それらは実際に功を奏し、柏木のいじめを解消させた今でも俺に危険な兆候は無い。

 

 だが一人だけ、その理屈では辻褄が合わなくなってしまう人物が居た。 それが『野々原渚』だった。

 他の三人の中で、唯一『主人公』と血縁関係にあり、恋人の枠に収まる事の出来ない、それでも『ヤンデレ』化して凶行を行った人間。 それが『野々原渚』だった。

 俺は『野々原渚』が凶行を行った理由を、孤独を感じたからだと認識していた、のだろう。 だから、『渚』に対して俺は買い物に付き合ったり、風邪を引いてたら看病したり、代わりに料理したり、当たり前だが(…………)孤独を感じさせない行動(……………………)を取って来た。 けれども、今こうして渚は俺に拒絶の意を示している。 その原因は何か、答えは渚が自ら話したが、その言葉の奥に、本当の理由があった。

 

「お前は俺の事なんか──―いや、『野々原縁』の事はこれっぽっちも好いちゃいねえよ」

 

 渚は、『野々原渚と言う人間』は、野々原縁に対して恋心など抱いてはいなかった。

 

「お前は始めっから今日までずっと、『自分に優しくしてくれるお兄ちゃん』が居ればそれだけで良かったんだ」

 

 野々原渚を『ヤンデレ』だと認識する事自体が、既に間違い。 ポーカーのルールでダウトを行うが如き見当違いだった。

 詰まるトコロ、野々原渚は『デレ』いない。 デレていないのに病んだ行動を取っているのなら、それに当てはまる理由は、たった一つ。

 

「自分を寂しがらせない、自分を蔑ろにしない、常に自分に関心を向けてくれる、そんなお人形さんさえ居てくれれば──―詰まるトコロ、自分さえ良ければ(………………)それで良い(…………)だけだったんだろ!? この自己愛の固まりが!!!!」

 

 これが、結論。 渚は俺に恋人でも兄でもなく、ただひたすら、自分に孤独を感じさせないでくれる役割だけを求めていただけ。 俺との関係や性格の問題などそれらの副次品、自分に取って都合のいい状態であればそれで良いだけでしか無かった。 こんなのは『ヤンデレ』とは言わない、他人に好意を抱いていないのだから『ヤンデル』だ。

 

「……な、に、言ってるの……。 勝手な事、言わないでよ」

 

 此処に至り、俺からそんな言葉を投げかけられるとは思いもよらなかっただろう。 口調が目に見えて弱まった渚に、俺は続けて語勢を緩める事無く言葉を紡ぐ。

 

「否定なんか出来ないよな? そうやって狼狽しているのが良い証拠だ」

「ち、違う! 私はお兄ちゃんの事が好きなんだもん!! アナタが勝手な事言わないでよ」

「勝手な事なんかじゃないさ、だってお前はずっと、『お兄ちゃん』は『そんな事しない』って頭っから決めつけていたろ」

「……それが、どうしたって言うのよ!」

「それが全部さ! お前は『私の考えたお兄ちゃん』を押し付けて、それにそぐわない俺を『お兄ちゃんじゃない』と言ったんだ。 俺が頸城の記憶を思い出して無くても、お前は野々原縁の行動が気に入らなきゃ簡単に否定しただろうよ! 『お兄ちゃんはそんな事言わない! そんなのお兄ちゃんじゃない』ってな!!」

 

 確信を込めて俺は言った。 だって、本当にその言葉を『野々原渚』は口にしたし、そうやって最後には殺したんだから。

 

「ちがう……ちがうよ、私は、あたしはそんな事いわない。 ……あたしは」

「そういう奴なんだよキミは。 そんな人間がよく人を否定出来るな? 人を人と見ない欠陥人間のくせに!」

「──―ッ!?」

 

 欠陥人間、そう言い切られた渚の目には、うっすらとだが涙が浮かんでいる様に見えた。 だがそんなの知った事か。 渚に対する恐怖などとうに消え失せ、足は自然と歩幅を大きくして渚の前まで進み、伸ばした手は怯えた目で自分を見る渚の服の首元を掴み、その顔を無理矢理近づかせる。

 

「どうだよ、この状況からどうやって否定してみせる? 認めるしか無いだろ? 何せ今日までの自分の行動が物語ってるんだもんな?」

「いっ──―いたいよ、て、手をはなして……恐い」

「恐い? 俺が怒ってるのは自分のせいだろうに、こんな時でも自分が一番なんだなオマエはよォ!?」

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……謝りますから、あたしが悪かったから、だから許して、許してよ……ゲホッ、ゲホッ!」

 

 服を掴む俺の手を震えた手で覆い、ハッキリと分かるくらいに涙を浮かべ、咳き込みながら何度も何度も『ごめんなさい』と連呼し始める渚。

 

 ──―思えば、この時の俺は途中から理性のタガが外れてしまったのだろう。 今日まで幾つものフラグを避け、ギリギリの所を何度も乗り越えて、園子のいじめを解消し、そうやって積もりに積もった心労・ストレス。 本来ならば他人に向ける筈の無かったそれらが、渚との言い合いの中で、我慢の限界を超えてしまった。

 だからこの時、自分に追いつめられて涙を流す渚を見ても、俺はただひたすら鬱陶しく不愉快で、綾瀬の事も忘れて一切合切否定したくなっていた。 そうして、何の躊躇いも無く、家族として、兄として決して言ってはいけない『その言葉』を、俺は口にしようとして──―、

 

「ごめんなさい? そう思ってるんなら、今すぐし──―」

「──―いい加減にしなさい!!」

 

 横合いから思いっきり叩き込んで来た綾瀬の平手に、今まで感じた事の無い『痛み』と共に頬を打ち抜かれた。

 真っ黒に染まっていた思考は嘘の様にクリアになり、俺は数歩後ろによろめきながら渚の服から手を離し、 無理矢理身体を持って行かれていた渚は、途端に力なく膝から崩れ落ちる。

 何故、縁と同じ様に罵倒した筈の綾瀬が、自分を助けてくれた/縁を止めたのか、理由は分からず、行動が信じられない渚が、涙の乾かない瞳を大きく見開き、まじまじと綾瀬を見やる。 そんな渚に一瞬、視線を合わした綾瀬は、先程の俺がそうした様に、ずんずんと俺に詰め寄り、語勢を強く、しかし怒鳴りつける様にはせずに言った。

 

「貴方が、渚ちゃんを否定して、どうするの」

「──―っ」

 

 その一言は、渚の言葉の様に攻撃的ではなかったが。

 渚の言ったどの言葉よりも、今の俺の心に突き刺さった。

 

「確かに渚ちゃんは、貴方に対して自分の願望を押し付けてた。 貴方自身よりも、自分の方を重視してたわ。 けど──―」

 

 言葉を一旦止めて、渚の顔を手で指し示しながら、言葉を続ける。

 

「本当に自分だけが良いって人が、あんなに貴方の為に動こうとすると思う? いつも貴方より先に起きて朝ご飯の用意して、学校帰りは買い物に行って、夜ご飯も作って、それ以外の家事も全部嫌がらないでやって。 人形としか見てない人に、笑顔で毎日毎日、小さい頃から今日までずっと慕い続けると思ってる? だとしたら、本当に人を人と見てないのは貴方の方よ、縁」

 

 その言葉は、他の誰でもない、今まで一番近い場所で俺と渚を見て来た綾瀬だからこそ口に出来る言葉だった。

 兄としてでも、妹としてでもなく、第三者の視点から俺達兄妹を 深く理解しているから、綾瀬は言ってくれるのだ。 『貴方達は本当の兄妹であった』と。 『決して虚飾だけで終わる物じゃなかった』のだと。

 そして同時に、『それくらいの事、分からない貴方じゃないだろう』と、綾瀬は言ってくれている。 『他人の自分が分かる事を、兄の貴方が分からない訳が無いだろう』と。

 

「渚ちゃんを、渚ちゃんの笑顔を一番近い場所で、一番長く見て来た貴方なら分かるでしょ? 渚ちゃんはそれが全部(…………)じゃないとしても、確かに貴方を大事に思っていた(…………………………)って事くらい。 なのに、貴方が渚ちゃんの全部を否定してどうするの、渚ちゃんの事を見てあげないでどうするの、本っ当に──―馬鹿じゃないの!?」

 

 最後の言葉は、堪えきれなかった憤慨の片鱗か。 本当なら俺以上に声を荒げて言いたかったのをぎりぎりまで抑えて話してくれた綾瀬に、人間としてのデキの違いを感じる。 おかげで、数分前までの自分を、ブッッ殺したくなるくらいに目が覚めた。

 

「あぁ。 うん。 本当に俺バカだ。 言われたから言い返すとか、まんま小学生だった」

「分かればいいわ。 それなら、あと貴方がやるべき事は……分かってるわよね、さすがにそのくらいは」

「ああ。 ──―渚っ」

「えっ……な、なに」

 

 まだ俺に恐怖感を残している渚が、おずおずと俺を見上げる。 その視線と仕草に、猛烈な罪悪感と自己嫌悪に苛まれそうではあるが、今は自分の事など二の次三の次で良い、俺は腰を下ろして、渚と同じ視線になってから、

 

「ごめんなさい──―渚の言う通り、俺は兄に相応しく無い人間だった」

 

 土下座、とは違うが、深く頭を下げた。 やや間を置いてから、あっけに取られてながら渚が言った。

 

「…………どうして、謝るの」

俺が悪いから(…………)だ。 渚の望み通りにしなかったからとか、綾瀬に叩かれたからとかじゃなく、俺が、渚の兄ってだけで渚の全部を知った気になっていた(…………………………)。 そんな傲慢を、さっきまで抱いていた事に俺は気付いてなかった。 だから結果的に渚の言葉は正しかった、俺は最初からお前の兄に相応しい人間じゃなかった。 だから──―」

 

 だから、その先の言葉を俺は頭を上げて、一生一番の大博打をする覚悟で、渚の目を見つめ言った。

 

「もう一回、チャンスをくれ。 今度は頑張るから──―お前の孤独を癒すだけの『お兄ちゃん』としてじゃなくても、お前を満足させるくらいの『兄』になってみせるから、俺を信じてくれ!」

「…………っ」

 

 形容しがたい顔で俺の視線を受ける渚。 そうやってしばらく無言で見つめ合った後に、渚は今一度綾瀬に視線を移す。 綾瀬はそんな渚に対して軽く微笑み、そんな反応を返された渚は、最後に顔をうつむかせて、ぼそぼそと聞き取れない言葉をつぶやいてから、

 

「……熱あがっちゃうから、部屋に戻る」

 

 そう言って、すくっと立ち上がり、リビングから出ようとした。 『──―あぁ、駄目だったか』という無念と『それもそうだ』という諦観が一度に綯い交ぜになってやって来て、小さくため息がこぼれそうになった直前、リビングの入り口でふと足を止めた渚が、こちらに顔を振り向かないまま、小さくだが今度はハッキリと聞き取れる声で、こう言った。

 

「部屋で寝るから……そ、その、夜ご飯、おねがいね……っ」

 

 そう言って、こちらの返答も待たずに渚は覚束ない足取りで階段を駆け上がって行った。

 え〜っと、これはつまり、その、なんだ。

 

「チャンスをくれた……のか?」

「どうかしらねぇ。 多分、保留期間って事じゃない?」

「保留期間?」

「答えをどうするかは、この後の貴方次第ってことだと思う」

「そっか……うん、そうだな、すぐに答えを貰えるって思う方が間違ってる」

 

 なら、床に膝を付けてる暇はないよな。

 

「よっと……ってて」

 

 立ち上がって、気合いを入れようとつい頬を軽く叩いたら、今頃になって綾瀬に叩かれた痛みを主張して、つい声を出してしまった。

 

「あっ……ごめんね。 強く叩いたって自覚はあったけど……痛むわよね?」

「ん、そりゃあもう。 でも良いよ、この位の痛みは必要経費だから」

 

 ひょっとすれば、こんな痛みに収まる程度じゃ済まない結果にだってなり得たのだから、言い換えればこの程度で済んで良かっただろう。 むしろ生死とは別に、人間関係そのものが終りかねなかったあの瞬間に、俺を力ずくでも止めてくれた事に、感謝しきれない。

 

「綾瀬も、ありがとな。 ここにお前が居なかったら、きっと俺、終わってた」

「どういたしまして……で、いいのか分からないけど。 ……まぁ実の所、あの娘の言葉には私も結構頭に来たけどね。 貴方の怒り様が尋常じゃ無かったから、逆に頭が覚めちゃったわ」

「それは、なんとも」

 

 俺と同様に、当然綾瀬も渚の言い分に憤りを覚えてはいたらしい。 仮に俺が冷静さを保っていたら、渚と綾瀬の間で対立が起きていたかもしれない──―そうなると、確実に俺の場合よりも酷い有様になるのは目に見えて分かるので、結果的には俺が怒って正解だった……のだろうか。

 

「──―そんなわけねえだろ、妹を脅えさせる兄なんて失格だ」

 

 そう、失格だ。 だからチャンスを求めた。 だからあとは、それをうまく活かす事だけに集中しないとね。

 そうと決まれば、やる事は一つ。 渚に頼まれた通りに、今晩の夕ご飯を作らなきゃ。

 

「よっしゃ! 今日はポトフを作るぜ!」

「えっ、あ、あぁ夜ご飯の話ね。 そう言えば今から作り出そうってところで話が拗れちゃったのよね」

 

 その通り。 よもやただ食材を親切心で持って来ただけなのに、こんな修羅場になってしまうとは、綾瀬も想像だにしなかっただろう。 無事に事が済んだ故の安心感からか、さっきまでの事を思い出してくつくつと笑う。

 

「ホント、今日は一日おつかれさま。 貴方にとってはとことん気の休まらない日だったわね」

「まったくだ」

「まだ一日が終わるまで時間は残ってるから、今日は最後まで気を抜かない様に、ね? それじゃあまた明後日、久しぶりに一緒に登校したいけど渚ちゃんが怒るといけないから──―学校で会いましょ」

「うん、また明後日。 学校で」

 

 俺の返事に笑顔で一つ頷いて、綾瀬はぱたぱたと帰っていった。

 そうして、ようやく。 ようやく……俺一人だけの空間が、そこに生まれてくれた。

 

「──―ふぅ。 綾瀬はああ言ってたが、今日はもうこれ以上頭を働かせたく無いな」

 

 と、独り言をこぼす事すらおっくうに感じながらも、意識を半分放置したまま料理をこなせる程上手ではないので、やっぱり細心の注意を払いながら、俺は野々原縁としては人生初のポトフ作りに手を掛け始めるのだった。 ……何の気なしにポトフなんて言ったが、まあ大丈夫だろう、細かい調理過程を覚えちゃいないが、だいたいはカレーと一緒だ。

 ──―そう意気込んで、なんとか問題なく完成させたポトフを、部屋に運んで眠っていた渚の勉強机の上に置き、俺はようやっと、長かった一日を終えた。 自分の分の食事もつつがなく終えて部屋に戻り、勢い良くベッドの上に大の字になって倒れる。

 果たしてこの日だけで何回、俺は死ぬ危機に直面していたのだろうか。 数えてみようかとも思ったが、考えるだけでも気が遠くなりそうだったので、やがて俺は考えるのをやめて、着替えも部屋の照明もそのままに寝落ちした。

 

 ……

 

 真夜中。 12時を過ぎたばかりの頃。 いつの間にか置かれていたポトフを食べ、薬を飲んで容態が落ち着いた渚は、閉まりきってない扉の隙間から照明の明かりが漏れている縁の部屋の前に居た。

 扉は開いている。 ノブに手をかけるまでもなく、軽く押し出すだけでも簡単に部屋に入る事は出来る。 しかし、今の渚にはその『簡単』が今生で最も難関な行動であった。 伸ばしかけた手は途中でとどまり、水を漕ぐ様に空を切るだけ、かれこれ10回前後も、渚は扉の前で立ち往生していた。

 

「……お兄ちゃん(…………)、起きてる?」

 

 やっとの事で喉から絞り出せた声。 渚は自分が違和感無く縁の事を『お兄ちゃん』と呼べた事に安堵する。 しかし、大きくは無くとも聞こえる音量ではある筈なのに、扉の向こうからは返事が返ってこない。 昼間の事もあって臆しているのかとも考えられるが、それだとしても物音が無さ過ぎる。

 イヤホンでもして曲でも聴いてるのだろうか、だとすれば今度は肩を叩くなりなんなりで自分の存在に気付かせる必要が生じて来る。 今の渚にそれは扉を押す事よりも難行を通り越して不可能だった。 とは言えこのまま立ち尽くすだけで入られない。 渚は意を決して部屋に入る事を決意する。

 

「……入る、よ?」

 

 あらかじめ断りを入れて、渚はいつもの何倍にも重く感じる扉を押して兄の居る部屋の中を視界に映す。 するとそこには──―、

 

「あ……寝てたんだ」

 

 ベッドの上で、今日最後に見た服のまま静かに寝息を立てる縁がいた。 なるほど、これではいくら渚が声をかけても反応が返ってはこない筈である。 ひとまず無視されなかった事にほぅっと息を漏らしてから、しかしこれでは兄に話そうと思っていた事が言えなくなってしまったと、内心でほとほと困り果てる渚だった。

 一度起こすか? とも考えた渚だったが、起こして最初に目に映るのが今の自分では、兄が動転してしまうのではないか、それではまともな会話になるのか怪しくなってしまうと思い直し、起こすという選択肢を棄却した。 ならばどうしようかと再び思索に移ろうとしたその時に、

 

「──―ん。 なぎ、さ……ごめん、な」

 

 寝言で自分の名を呼ぶ兄の声が、耳にすんなりと入って来た。 起きたのかと一瞬、静かに驚きながら、渚は今しがた自分の名を呼んだ兄の寝顔をふと見つめてみた。 考えてみれば、兄に別の人格が統合されたあの日から、自分はろくに兄の寝顔を見ていない事に気付く。 最後に見たのも、何か悪い夢にうなされていた時で、落ち着いた寝顔はとんと、見なくなっていたのだ。

 だが、いまこうして久方ぶりに兄の寝顔を見てみると、顔立ちは随分と大人びて来たが、面影は二人だけで居たあの頃と変わらない、自分がよく知る兄そのものであった。 そうして、眠る兄の顔を見てやっと、渚は心から思えた。

 

「性格や、話し方は少し変わっちゃったけど。 お兄ちゃんは、お兄ちゃんのままだったんだね」

 

 その事に、自分はまた綾瀬よりも遅れて気付いた。 自分が気付くよりも、いつもいつも、綾瀬は兄の事を受け入れ、理解しようと努め、事実そうして来た。 後塵を拝すだけの自分は綾瀬を『敵』だと見ていたのに、その敵に今日は助けられてしまった。 だからもう、認めるしか無かった、綾瀬は自分よりも『野々原縁』という人間を。一人の『人間』として見ていると。 野々原縁を『お兄ちゃん』としてしか見ていなかった、その事に気付きもしなかった自分よりも、ずっと兄の隣に立つ事に適した人間である、と。

 ──―だが、それがどうしたと言うのだ、渚は意を改めて『幼なじみ』である彼女の顔を思い浮かべて、心の中で指を指し、宣言する。

 確かに、今はあんたの方がお兄ちゃんに近い。 けどそんなの、すぐに私が追いついて、逆に追いつけないくらいに追い抜いてやるんだから。 もう一度、昔のお兄ちゃん、少し前までのお兄ちゃん、今のお兄ちゃん、全部のお兄ちゃんを思い出して、野々原縁がどういうヒトなのかを、あんたよりもずっとずっと、ず──っと! 理解してみせるんだから! 

 

「そうよ、幼なじみなんて言ったって、所詮他人じゃない。 会話する時間も、お兄ちゃんを見ていられる時間も、私の方がずっと多いんだから。 お兄ちゃんを本当に好きになれる(…………)のは私だけだもん。 赤の他人なんかに、お兄ちゃんを渡して良いワケないわ」

 

 ──―だから、お兄ちゃん。 待っててね? 

 ──―あんな女よりも、私の方がずっと良いって。 私と一緒に居る事が正しい事なんだって。

 ──―これから、証明してみせるんだから! 

 

 新たな決意と共にぐっと拳に力を込め。 渚は毛布を優しく兄の上に掛けて、部屋の電気を消してから、起こさない様にゆっくりと、部屋を後にした。

 

 この後、安らかな眠りについていた縁は、突如妹の顔をした形容しがたいものに触手責めされる悪夢にうなされ。

 病み上がり夜中にうろついた代償に渚は、またもや熱がぶり返して翌日も一日中ベッドの生活を余儀なくされた。

 

 始まったばかりの兄妹の生活は、はやくも暗雲立ちこむ気の重い物になりそうであった。

 

 

 ──to be continued




次回で最終回です
では、また


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終病・ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなって来た

タイトル長くて済みません、でも最終話だけはこれ以外譲れなかった



 あの日から、三ヶ月が過ぎた。

 それまでの間、俺の日常は、頸城縁の記憶を思い出してから起きた怒濤の一ヶ月が嘘だったかの様にマトモだった。

 

 渚とはあの後、特に目立つ様な会話もなく、結局あの時の俺の言葉に対して明確な答えを出してもらえないままだ。 しかし、どういう訳か渚の俺に対する態度は元に戻り、今も問題の無いまま一緒に生活している。

 結局俺をもう一度兄として見てくれる様になったのか、妥協と我慢をしているだけなのかは分からないが、とりあえず関係が破綻せずに済んだ、と言う事だけは確かだろう。 あの時の宣言通り、俺はこれからも渚に兄として認めてくれる様に生きていくだけだ。 ……まあ、それが具体的にどういう物なのかがはっきりしていないのがネックなのだが。 そこはそれ、渚の様子や頼りがいのある友人達の知恵を頼りに頑張っていきたいと思う。

 

 綾瀬とも、何ら問題なく過ごせている。 渚との喧嘩の時に頸城の名前を出されたから、その事について何かしらの追求がくる物だとばかりに思い、身構えていたが、肩すかしとなってしまったらしい。 一方、渚とはあの日以降、何となくだが互いの接し方に変化が生じた様に見える。 一見会話や態度は平穏その物だが、具体的にどうとは言えないけれども間違いなく対立している、そう感じさせる気配があった。

 だが、それと同時に根拠無くCDの二人の様な殺伐とした、血なまぐさい展開になる様な気もしないから不思議だ。 単純な敵以外の見方が、互いに生まれているのかもしれない。 願わくばそれが健全な物である事を。

 

 悠に関してだが、どうやら園子の一件で悠の伯父側の人間である校長に責任を押し付けた事で、跡目争いで一歩先を進める事が出来たらしい。 行った行為が個人の暴走による物とされてしまい、実質伯父側にトカゲの尻尾として切り捨てられた校長は、かつての元園芸部顧問の様にろくな説明も無いままその職を追われ、現在は副校長と教頭が限定的に校長の代わりを務めている。 理由は校長のポジションには綾小路家の人間が付く事が暗黙の決まりになっているのだが、誰の息がかかった人間を務めさせるかで小競り合いがあるから。らしい。 金持ちの世界の話は、俺には分からない。

 ただ一つ心配なのが、今回の件がひょっとしたら『面倒な人物を連れて来る事になるかもしれない』という悠の言葉だったが、これに関しては詳しい説明をしてもらえなかったので、悠の杞憂で済む事を祈ろう。

 

 園子は、現在は去年までとはいかなくとも、徐々に早川達とかつての様な関係に戻りつつある様子だ。 あの園芸部室での追求の後、居なかった三人目(悪いが名前を忘れた)も含めた全員で、俺と綾瀬に謝りに来たのには驚いたが、その時一緒に『園子とのすれ違いを正してくれてありがとう』と、礼を言われた事に更に驚いたのは記憶に新しい。 雨降って地固まると言うのか、とにもかくにも園子と連中の一度崩れた友情がどうなるのかは、あいつらの間だけの問題だ、もう俺が口出しする事じゃない。

 それともう一つ、園芸部については、見事に部員が集まり、無事にあと一週間後に迫る夏休みを迎えても、部を存続させる事が出来る運びとなった。 今まで放課後になったら悠やそれ以外の部に所属してない野郎友達と一緒に、道草食って過ごすだけだった日々は、晴れて毎日園芸部の部室に向かい、健全な部活動を行うという新たなモノに変わった。 かく言う今も俺は、授業と掃除とその他諸々(…………)を終えて、園芸部に足を運んでいる途中なのであった。

 

「おーっす、来ましたぜっと」

「あっ縁、やっと来たの? 遅いわよ」

「おつかれさま、無事に未提出の課題の穴埋めは済んだかい?」

「うっ、ま、まあな。 夏休みも補習なんてしたく無いし、なんとかやったよ」

 

 こいつら、人の苦労も知らずに明け透けと……ま、まあ? 確かに英語の課題をすっかり忘れて来たのは俺の落ち度だし、それに対して即席の試験で済ませてくれたのは教師の温情なのだから、文句も反論も一切言えないけどさ。

 

「そんな事より、園子はまだ来てないのか?」

「部長はちょっと幹谷先生に呼ばれて職員室、後で二人一緒(……)に来るそうだよ」

「ああ、そっか」

 

 悠の返答に納得して、俺は二人がいるテーブルに向かい、六人分のパイプ椅子──―今はもう二人が使っているから残った四つのうち一つに腰掛けた。

 ──―まあ、俺個人のヘマでちょこちょこと厄介事はあったりもしたけれど、ヤンデレCDやら死亡フラグやらとは無縁な、平和な日々が今の俺を包み込んでいるのは確かだ。 もちろん、これからも気を抜かずに人生の地雷を踏まない様にしていくし、そもそも地雷を踏む様な状況や展開などを生み出す事すら無い様にしていきたい。

 

「縁、そう言えば私、貴方に聞きたかった事があるんだけど、聞いても良い?」

「ん? なんだ」

 

 ──―ただし。

 

「あの時、渚ちゃんと貴方が久しぶりに喧嘩した時に渚ちゃんが貴方の事『クビキヨスガ』って一回呼んだと思うけど、あれって何の事なの?」

 

 ──―向こうから飛来して来る爆弾に関しては、対処の使用がありません。

 

「──―ッッッッッッ!!!??!??!??」

「あっ、縁凄い動揺してる。 僕ちょっとその表情好きかも」

 

 おい親友、人の危機を前にして愉悦に浸るな。 と言うか、えっ、嘘、マジで? マジで今この状況でそれを俺に聞くの? この三ヶ月全く触れてこなかったのに、何でよりによって二人っきりの時じゃなくて悠まで居るところで聞いて来るの綾瀬!? 

 

「ぁああ綾瀬、いったい何をいきなり」

「うん、私も唐突なのは自覚してるけど……貴方、いきなり聞かないとすぐに誤摩化しちゃうでしょ?」

 

 さっすが幼なじみ! 俺の行動パターンを完全把握してるんだね、ふざけるな。 前々から悠並みに察しのいい聡明な人間だと思っていたが、こんな状況でそれを発揮されても困ると言うか。 冗談抜きでこの状況危機だよ。 いやホント、綾瀬の言う様に全く誤摩化すのに適した言葉が一つも思い浮かばない。

 この状況を打開するのは、俺一人じゃあ到底叶わない。 ここは親友の察しの良さに頼る事にしよう。 そう思って俺は、目線を悠に向けて、『なんとかしてくれ』という意味を込めたアイコンタクトを送る。 するとそれに気付いた悠がにっこりと微笑み、わずかにだが頷いてくれた。 良かった、さっきは不穏な発言もあったが、やはり親友。 俺の危機には力を貸して──―、

 

「そう言えば前ゲームセンターに行って、僕の追求から逃げる為に『……ま、まぁ? 俺が仮に何かお前に言えない事があったとして、それがなんだとお前は言うつもりだ?』って見事に開き直ってたけど、ひょっとしてそれと関係あるのかな?」

 

 こ……こいつらっ、最初っからグルだった……。

 なんでそんな何ヶ月も前の会話を逐一覚えてんだよこいつは。 いくら金持ちだからって飛び抜けた記憶力持ってるのはおかしいだろ、俺も言われて思い出したくらいだぞその言葉!? 

 

「なんで覚えてるのかって顔してるね? はは、当たり前じゃないか。 キミと交わした会話を、僕が忘れるワケないだろう? 親友なんだから」

「親友の範疇を大きく逸脱しているとしか思えないぞ、それ……」

「そんな事より、早く教えてよ。 じゃないと二人とも部室に戻って来ちゃうから」

「う、ううっ……」

「前々から気になってたからね。 キミの性格がちょこっと変わったのにも深く関わっていそうだし。 この際全部話してもらおうかな」

「ううう、くぅぅぅぅ……」

 

 ああ、もう。 ここまで追いつめられたらどうしようも出来ない。 本当に終わりのようだ。

 前世絡みの事を打ち明けて受け入れてくれたのは、あの時の渚が俺個人の人格をさほど重要視していない『ヤンデル』状態だった事が大きく関わっているからだ。 それに対して今居るこの二人は普段はマトモな神経をした常識人。 渚が非常識人だなんて事を言う訳じゃないが、全部を包み隠さず言ったら最後、気味悪がられてしまうだろう。 そうなれば今の人間関係も破綻するしか無い、俺は晴れて変人か気狂いのレッテルを貼られて、二度と二人と友人として過ごす事が出来なくなってしまうに違いない。

 そんなの嫌に決まっているが、かといって黙り続ける事も出来ない。 ここまで問いつめられて沈黙を貫けば、秘密は守れるかもしれないがそれこそ人間関係に亀裂を生じさせてしまう。 下手したらそれが原因で、綾瀬に何らかのスイッチが入ってしまうかもしれない。

 

 言ったらおしまい。 言わなくても詰み。 どっちも破滅の可能性が見えているのなら、せめて、言って受け入れてもらえる可能性が残っている前者を選ぶべきだ。

 ──―よし、決めた。 何度も言う様に、此処までくればもう何もかも終わった様な物なんだ。 だったら俺は──―、今日まで俺に好意を向けてくれた友人達に対して嘘をつかない方向で終わりたい! 

 

「分かった。 言うよ。 でもその前に、二人に一つ聞きたいんだ」

「聞きたい事?」

「何だい?」

 

「──―輪廻転生って、信じるタイプ?」

 

 ……

 

 ──―…………そうして、俺は言えるだけの事は一切合切全部言い切った。 在庫切れの大破綻だ。 ただ一点だけ、『ヤンデレCD』の事だけは言わなかった。 理由は渚の時と同じこの世界が創作物の世界だ、という事を今目の前で確かに生きてる二人に言いたく無かったからと、もう一つ。 思い出したばかりの頃は分かっていなかったが、この世界はれっきとした一つの、確たる世界だからだ。

 今言った様に二人は創作物のキャラクターとしてではなく、一人の人間として今まで生きて来たし、もはやCDだけで知った誰とも違う、唯一無二の存在だ。 そんな人間が生きるこの世界を、『前世で聞いた創作物の世界』だなどと呼ぶのは甚だ間違っている。

 だから、言わない。 言えないではなく、言う必要が無いんだ。 間違っている事をわざわざ口にする事は無い。

 そして、俺の言葉を聞いて二人が向ける反応に、俺がどうこう口にする権利も、無い。

 

『…………』

 

 俺が言い切った後、二人は顔を合わせて何か目線で会話でもしてるのかと言わんばかりに沈黙している。 一方俺は『さて、帰る用意でもするかな』なんて現実逃避じみた思考に脳みそを働かそうとしていた。

 が、しかし、そんな俺の逃避行は見逃さないとばかりに、これまた唐突に、悠の口が開かれた。 その口から紡がれる言葉は、拒絶なのか、受容か。

 

「──―はは、凄いな!」

「……へ?」

「凄いって言ったのさ。 それはつまり、アレかい? もう一人の僕って奴なのか? キミの中にもう一人のキミが眠ってるって事なんだろう!? なんてファンタスティック! オカルトが現実に昇華したんだね!?」

「いや、あの、綾小路さんや。 普通そこは俺の正気を疑うところなんじゃ──―」

「疑うワケないさ、縁の言葉なんだもの! キミの言葉が嘘か偽りかだなんて、目を見れば簡単に分かるよ、そんな事よりさぁ、今度僕の父が経営している病院で、縁の脳を調べさせてくれないかな!? ああ安心して、何もかっ捌いたりちくちくいじったりする訳じゃないんだ。 脳波を調べたり構造をスキャンで分析したりするだけさ。 何せ前世の記憶なんて非科学的な事象をキミの脳は観測しているんだからさ! 勿論タダで、なんて言わないよ? キミの望む限りの額を払うつもりだから、何なら僕の家に一緒に住まないか、そうだその方が病院で調べるよりも早く済むし、キミと一緒に過ごせるんだから一石二鳥だ! ぜひともそのように──────」

 

「ストップ!! 綾小路くん、いくら何でも興奮し過ぎだってば!」

 

 あの時の渚なんてかわいく思える程に発狂じみた勢いでマシンガントークをかまして来た悠に戦く俺に変わって、綾瀬が悠を止めてくれた。 『ああ申し訳ない。 つい……』なんてはにかみながら口を閉ざす悠を後に、緊張が無くなったのか軽くため息をこぼしながら、綾瀬が俺に言った。

 

「──―まあ、綾小路くんの反応はオーバーだけど。 私も……貴方の言った事、信じるわよ? それは勿論、ちょっとだけ……ううん、かなり驚いたけど」

 

『でも今の綾小路くん見てたら吹き飛んじゃった』なんて軽く笑ってみせる綾瀬。 俺はその言葉が嬉しいのに信じられず、せっかく良い方向に受け取ってくれたのに、わざわざ二人に対して問いかけてしまう。

 

「なあ、どうして二人そろって簡単に信じちゃうんだよ!? 普通に考えて俺の発言って頭がおかしいとしか思えないだろ!?」

「何でって、わざわざ言う必要あるかい?」

「まあ、私もうまく言葉にはできないんだけど。 あえて言うなら──―」

 

 そこで一旦言葉を止めて、綾瀬がぐるりと部室を見回し、その後天井に指を指してから、こう言った。

 

此処(……)が、理由かな?」

「此処って……部室が?」

 

 言葉の意味がいまいち掴めない俺に、補足する様に悠が言葉を繋げる。

 

「今あるこの部室は、少し前までの縁では作る事が出来なかった場所だ。 クビキヨスガという他者の記憶を思い出したキミが、部活動を始めようと決心して、色々な部活を回って、柏木さんと出会って、柏木さんのいじめを止めようと頑張って、僕たちと一緒に園芸部に入って……そう言った一つ一つの行動の軌跡と蓄積から、園芸部とそこに所属する僕らが居る。 繰り返すけど、それはただの野々原縁だけでは決してなし得なかった結果だよ」

「そう、だから──―貴方の言葉が真実かどうかなんて分からなくても、貴方のして来た行動が、私たちに貴方の言葉を信じさせたの。 ……それで納得、してくれる?」

 

 ──―そっか。 うん、そうか。

 俺は今日まで、自分で言うのもなんだが、色々精神すり減らして、頑張って来たつもりだった。

 前世の記憶思い出したら、幼なじみや妹に殺される可能性の高い世界だと知って絶望したり。 彼女らの言動に逐一ビビったり。 その場を凌ぐ為の言葉や行動を頭からひねり出したり。 わざわざ死ぬ可能性を増やしてまで園子のいじめを解決しようとしたり。 挙げ句の果てに渚と今までに無いくらいの大喧嘩をしたり。

 ──―死にたく無いのに死にたくなって来る様な、そんな経験を短い期間で沢山経験してきた。 でも、それが巡り巡って、今彼女と彼が言ってくれた言葉の様に、本来異常者として忌避される様な俺の言葉を受け入れてくれる礎になっていたのなら。 それは、本当に善かったと言える事なんだろう。

 以前に、月の光が煌煌と照らす公園で、園子に言った言葉を思い出した。

 

『じゃ柏木、後は任せてくれ。 お前の寄す処(よすが)は俺──―俺達が守ってみせるからよ』

 

 なんて事は無い。 この言葉は最終的に、俺の寄す処を守る事になった。 俺は自分では意識していないうちに、自分の拠り所を作っていたんだ。 その事に、今の今まで気付かなかっただけ。 何だよ、渚の時と言い、俺って分かってるようで気付いてない事だらけじゃんか。

 

「ありがとう……本当にありがとうな、二人とも」

 

 気がつくと俺の目にうっすらと涙が浮かび始めていた。 それを誤摩化すのも兼ねて、俺は二人に深々と頭を下げた。

 そんな俺に、綾瀬が逆になじる様に言い寄って来た。

 

「と言うよりも、言ったら私たちが距離を取るって思ってたの? それって少し心外かも。 私ってそんなに薄情な人間だって思われてたのかな……」

「うん、僕も。 まさか親友にそんな軽い男だと思われてたなんて、ショックだ」

「え、うええ!? なんでそうなる!? いや二人ともちょっと待ってくれ! 俺は別に二人を軽んじてた訳じゃなくてだな──―」

 

 まさかの展開に浮き出た涙も引っ込んで、俺は頭を上げて慌てて弁明しようとした。 と、そこで二人の顔を見やると、なんと言葉とは裏腹にくすくすと笑みを浮かべつつ、今現在必死な顔になっているであろう俺を見やっていた。 つまり、はめられたのだ。

 

「っ〜〜お前らな!? ちょっとさっきから俺を弄ぶ方向で息が合いすぎてないか!?」

「ほーら、ようやっと普段のキミに戻った!」

「うるせえこの金持ちのボンボンが! こちとら必死な気持ちで話したのに笑いやがって、今度特上フカヒレでも寄越せ畜生!」

「うん、いいよ。 なんなら今週の日曜にでも宮城の気仙沼に行って新鮮なフカヒレを買いにいこうか?」

「いや、そこをすらっと言うなよ……でも本気なら後でよろしく」

「そこは貰っちゃうんだ……」

 

 綾瀬のささやかな突っ込みを耳に挟みつつ、その後俺たちは、直前の会話など無かったかの様に、至極当たり前の学生の会話を続けていった。 その充実感は、今までに感じた事の無い程の物だったのは言うまでもない。

 

 ……

 

「あ、来たみたいだね」

 

 廊下から聞こえて来る二人分の足音に最初に気付いた悠がそう言った。 その言葉通り、直後に部室の扉が開かれ、先程まで空席だった二人が姿を現した。

 

「あ、縁くん、もう来てたんですね。 ちょうど良かったです」

 

 一人は我らが部長、柏木園子。 あの日から自分に自信が付いたのか、雰囲気は随分と明るくなった。

 そして、もう一人は──―、

 

「お兄ちゃん、夏休みは補習受けずに済みそう?」

 

 俺の夏休みを心配する、妹の渚だ。

 ……そう、渚である。 園芸部中等部3年生、野々原渚である。

 どうして渚が? と思うかもしれないが、実は俺と渚が喧嘩をした翌々日の月曜日、初めて俺たち二年生組で園芸部に集まって、これから園芸部を再起動しようと話し合いを行っていた時。

 

『私も、園芸部に入ります!』

 

 と、既に記入済みの入部届けを持って来た渚が現れ、まさかの園芸部入りを果たしてしまったのだ。

 当然驚く俺と綾瀬だったが、悠はこうなる事を予期していたかの様ににまにまとするだけだったし、園子も一年生が入ってくれる事を素直に歓迎するばかりで、しかも俺の妹だと知るや否やなんか特別可愛がり始めて、気がつくと何も言葉を挟めないまま怒濤の勢いで全てが決まっていた。

 何より、その後に俺の顔を見ながら恥ずかしげに渚が言ったある言葉に、俺はもう何も言えなくなってしまったのだ。 その言葉とは──―、

 

『こ、これから……お兄ちゃんの事、お兄ちゃんがどんな人なのか知っていくから……だから、(あたし)の事も近くでみてね……ヨスガ(……)

 

 俺だけじゃなく、渚からも俺を理解する様に歩み寄ってくれると言うのだから、当然俺にその言葉を拒絶する事なんて出来る筈がなかった。 最後に『お兄ちゃん』じゃなくて『ヨスガ』と呼んで来た事に、妹相手ながらドキッとしてしまった事や、綾瀬がなんか恐い気配を噴出したりしたが、一番最初に言った様に、今日まで至って普通の園芸部として、俺たちは活動していた。

 

「それで部長、幹谷先生とはどんな話を?」

「あ、はい。 先生とは夏休みに行う合宿についての話をして来たんです」

『合宿?』

 

 俺と綾瀬と、渚の声が重なる。 頷いてから園子は、嬉しさを隠す事無くにこやかに微笑みながら話を続ける。

 

「せっかく部員がそろって園芸部も再開出来たので、お祝いも兼ねてどこかに合宿をする、という話になったんです。 場所や日時は私達で決められますから、実質旅行と同じ、ですね」

「へぇ、良いじゃないそれ! せっかくなら普段行かない様な場所にしたいなあ。 貴方はどこにしたい?」

「俺は、う〜ん。 こういう経験無いからすぐに思い浮かばないな、渚は?」

「私はお兄ちゃんが行きたい所なら何所でも良いよ」

「ちょっと渚ちゃん、それだと縁が困るでしょ? ちゃんと具体的な場所を言わないとね?」

「それなら綾瀬さんだってお兄ちゃんに意見丸投げしてるじゃない、一番お兄ちゃんが困ってるのは綾瀬さんに対してだよ、気付かないの?」

「な……」

「はいはい、二人とも落ち着いてね。 部長、行き先の候補だけど、僕の家族の別荘なら問題ないよ?」

 

 あ、やっぱり別荘とか持ってるんだ。 そうだよな、ややステレオタイプな見方かもだが、やっぱ金持ちなら別荘の一つくらい──―、

 

「太平洋沖に孤島を幾つか所有しているんだけど、インフラもしっかり整備されてるから、問題ないよ?」

「持ち過ぎだろ綾小路家!?」

 

 訂正、やっぱ綾小路家って闇が深いわ、深すぎるわ。

 

「孤島丸ごとですか! 凄いんですね、綾小路君のご家族は」

「それほどでも。 でももし部長がそこにすると言うなら、可能な限り最高のおもてなしをするつもりだよ」

「それはありがたいのですけど、今回はやっぱり部活の合宿、という物がメインですから、私が行くから特別扱いと言うのはいいですよ」

「そうです? なら極普通の別荘として。 島には本土には無い珍しい植物も多いですから、きっと気に入ってくれると思いますよ」

「珍しい植物、ですか? それはとっても素敵ですね!」

「なら決まり、で……良いかな? 三人は」

 

 面白いくらいにすらすらと会話が進んでいくが、俺に異議はない。 それは綾瀬と渚も同じのようで、三人ともそろって頷くと、悠は両手をパンと叩いて嬉しそうに、

 

「決定だ。 島だから当然海もあるから、みんな海水用具を持っていくと良いよ」

「そっか、なら水着も新しいの買わなくっちゃなあ……ねえ縁、土曜日に一緒に買いに行きましょ!」

「俺とか? まあ……うん、いいけ──―」

「──―綾瀬さんごめんなさい? お兄ちゃんは私と買いにいくから行けないの」

 

 綾瀬の水着姿を想像して、多少躊躇いながらも了承しようとした俺の横から渚が口を挟み、そんな事を言い出した。 当然のように、綾瀬は渚に言い返す。 ちょっと待ってくれ、この展開嫌な予感しかしないんだ。 少し時間を、

 

「渚ちゃん、先に縁に声かけたの私だよ? ヤキモチ焼くのは分かるけど、子供みたいな事やめよう?」

「順番とか関係ありません、お兄ちゃんは家族だもん、なら妹の方を優先するのは当然ですから。 ね、お兄ちゃん?」

 

 あ──────もう! やっぱりまあた面倒な事になって来た。 どっちを選択してもろくな未来になる気がしない。 というか何だこれ、何だこの展開、普通ならニヤけても良い筈なのにどうしてこんな背筋が凍って来るのさ! なんで地雷踏まない様に気をつけてるのにそっちからやって来るのさ。

 

「この際、二人で買いにいけば──―」

「却下」

「お兄ちゃん? 渚はお兄ちゃんと一緒に行きたいって言ってるんだよ?」

 

 やばい、分かってたけど第三の選択肢が瞬殺された。 こうなったら今度こそ、親友の力を借りるしか──―、

 

「モテモテだね、縁!」

「あ、あの……頑張ってくださいね?」

 

 ふっざけんなよテメェ等!? 一見気軽そうでこちとら人生の生死を決める分岐点に立ってんだぞ現在進行形で! 

 そんな風に俺が本日二度目の裏切りに怒り嘆いていると、沈黙に耐えられなくなった二人が目の前に詰め寄って来た。

 

「お兄ちゃん!」

「縁!」

 

「〜〜っ、あぁ、ったく……」

 

 ──―こんな、ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて俺は、もうこの言葉を呟かずには居られなくなってしまった。

 

「──―死にたくなって来た」

 

 

 

 

 ──―THE・END



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編
夏の終わり


一度完結したお話ですが、一つだけ心残りがあったので一話限りの短い話でまとめました

今回、ヤンデレCDの二次創作のくせにヤンデレ、修羅場成分は皆無です。すみません(笑)
一話から最終話まで読み続けて、主人公に少しばかりでも愛着を持ってくれた物好きな方たち向けです

では、始まり始まり


 暑いのは苦手だが、嫌いじゃない。

 秋や冬に暑いのは流石に考えものだが、夏は最初から暑いものだと決まっているから、むしろ暑くなきゃこっちが困ってしまう。

 そんな事をぼんやりと考えながら、俺は自室のベッドに寝っ転がって、窓に映る青空を眺めていた。

 

 本日。 8月31日。 午後13:30。 夏休み最後の日である。

 

 園芸部の合宿を無事……うん、無事にやり過ごし、久しぶりに帰宅した両親と家族旅行に出かけたり、ちょっと離れた所にある寂れた神社を、そこの巫女さんと一緒に人がやって来るように頑張ったり、全体的にドタバタしていた夏休みも、ようやっと終わりを迎えようとしている。

 こういう時、まだ宿題を終わらせてないってのがお約束だが、前期にヤンデレ回避の為に死力を尽くした経験を持つ俺にそんなお約束は通じない。 一昨日全部終わらせて、今こうして俺はのんびり出来ている。

 渚の方は終わり切らなかったらしく、今日は友達の家で何人かで集まってやるみたいだ。 綾瀬や園子は、家族でお出かけらしい。 悠は家にお客さんが来るらしく忙しいとの事。

 

 ……さて、そんな事をわざわざ口にしている事からある程度察しがつくとは思うが、要は今日の俺は、遊ぶ相手が居なくて暇なのである。 だから家でのんびりしているのだ。

 決して他に友達が居ないって意味ではない。 園芸部以外の友人は皆部活で時間が無いのでハナっから諦めているだけ。

 

「……むなしい」

 

 残り僅かな期間しか楽しめない蝉の鳴き声を耳にしながら、胸中の言葉をぽつりと漏らす。

 せっかくの夏休み最後の日に、どうして俺はこんな虚しい思いに晒されないと行けないんだろう。 きっと、思ったよりこの夏休みが充実して、楽しかったからだ。

 野々原縁だけの認識でみればそこまででは無かったかもしれない。 しかし、どういうワケか俺の中に目覚めた前世の自分──―頸城縁としては、この夏休みは筆舌に尽くしがたいほど最高な日々だった。 そもそも、ただ外を歩くだけで後ろ指を指されないって時点で、最高なんだが。

 

 とにもかくにも、今の俺にとって最高だったこの夏休みの終わりを、ただ自室のベッドで寝て過ごしたで終わらせるのは、ハッキリ言って嫌だ。

 嫌なら、外に出るしかない。 特に何か目的がなくとも、外に出るでけでも家に篭っているよりだいぶ違う筈だから。

 それに、外に出れば、なにかしらイベントが起こるかもしれない。 ゲーム脳と揶揄されるかもしれないが、前世の記憶を思い出すなんて珍事よりはよっぽど可能性があるだろうよ。

 

「──―よぉし、それなら行くか、うん、行こう。 そういう事になった」

 

 前世で自分が読んでいたとある小説のワンフレーズを口にしながら、俺はベッドから立ち上がり、そのままさくさくと部屋を出た。 思い立ったが即行動、前期の園子関連の出来事を終えてから、心無しかフットワークが軽くなった気がする。 そんな事を思いながら、俺は曖昧な何かに期待して茹だる様な暑さの中街へと繰り出した。

 

 ──―しかし、この瞬間の俺は分かっていなかった。

 この外出が、後に起こるクッッッソめんどくさい出来事の引き金に繋がるのだと言う事を。

 ヤンデレに囲まれて死にたくなる様な日々を過ごしておきながら、カタチの見えないイベントに期待するのは大いに愚かな行為であると、俺は思い知る事になる。

 

 

 ……

 

 とりあえず最初に足を運んだのは、いつも行くゲーセンだった。

 うん、当然何もイベントなんか起こる筈もない。 対人要素のあるゲームでもやってれば声を掛けられる事もあるかもしれないが、その手の王道である格闘ゲームは苦手の部類にあるから手を出さないし、音ゲーとかも太鼓を叩く某ゲームくらいしかやらない。 さいきんやっと『難しい』でもクリア出来る様になった程度の自分に、声が掛かるわけも無い。

 ので、ここではクレーンゲーム──―と言っても一般的なタイプではなく、スティックを操作して穴にちょうど良く入れるタイプだが──―を何度か遊んで、400円無駄にして帰った。 あのタイプのは以前連続で景品をゲットした事があるから軽く自信があるんだが、まあ、今日はその為に金を使い尽くす気にも慣れないし良いや。

 

 その次に足を運んだのは、街で一番大きいショッピングモールだ。

 ここには普段通う近所のスーパー『ナイスボート』よりも当然ながら品揃えが豊富だし、服屋や靴屋や雑貨店、本屋や映画館に小規模のフードコートも揃っている。 俺の住む街はそんなに田舎ってワケじゃないが、別に威張れるほどの都会でもない。 だからココにはいつも、他のどの場所よりも多く人が集まっている。

 まあ、大して都会でも田舎でもないってのは俺一人の意見だし、なんでそんな街に綾小路家なんて言う大金持ちが居るんだよって言いたくもなるから、割と謎な街なんだがな、ここは。

 

 さて、そのショッピングモールの中だが、正直ココでも何か期待出来る物は特に無い。 こういう所で売っている服や靴は、いざ買おうとしたら軽く2万は超えかねないが、今はそこまで財布に金はない。 ウィンドウショッピングをする選択肢もあるが、ぶっちゃけそこまでしたいわけでもない。

 ので、俺は本屋に寄って普段読んでる漫画の新刊があるかだけを確認して、その場を去った。 映画館で映画を見る、これも立派な選択だが、今は特に見たい映画がない。 来月上映される怪獣映画のパンフレットだけ回収した。 『ジラ』という巨大イグアナ怪獣がトルコで大暴れする作品の、待望の2作目だからな。 絶対に観なくちゃ。

 

「うん……まあ、こんなもんだよな、所詮」

 

 あとはもう特に行きたい場所が思い浮かばず、足も疲れてきたので近場の公園に立ち寄り、自販機で買った炭酸飲料をベンチに座ってグビリと飲む。

 うん、ツキナミだがなんかもうこれだけで今日は満足かもしれない。 特に何かしたワケでは無いものの、一人でのんびりとぶらぶら歩くのだって、たまには悪くない、そんな気もしてきたからだ。

 前世がアレな人生だったからか、今日みたいに誰の目も気にせずにのーんびりと外で過ごせるってのは、思いのほか良い気分だと知る事が出来た。同じ言葉の繰り返しになるが、ツキナミの幸せってのは結構、尊い。

 

 手元のスマートフォンに映された時刻を確認すると15:30を回っている。 だいたい2時間近く歩き回った事になる。 今からゆっくり帰れば16時を過ぎた辺りに帰宅となるだろうか。 渚の帰宅も視野に入る時間帯になるし、もう帰るとするか。

 そう決めた俺は、空になった空き缶をワケも無くそのまま手に取りながら、家に向かって再び足を動かし始めた。

 心無しか、行く時はまだけたたましさのあった蝉の合唱は鳴りを潜み始め、秋の虫達の声が混じってきた様にも感じる。 日も以前より短くなったし、夏が終わるって事を思い知らされる気がして、なんか寂しくなった。

 頸城縁は夏を迎えないまま死んだからかな、行く前にも口にした気がするが、どうにも夏が終わるのを嫌がっている自分が居る。

 

 

 家に着いたら、俺の夏が終わる。

 

 そんな気持ちが、胸中にずっと渦巻いていた。

 

 ──―だから、だろうか。

 

 俺はこのとき、ふと、気まぐれに映った狭い路地に眼を囚われた。

 

 何の変哲も無い、ただの路地。人が住んでるかも怪しい古い家屋と家屋の間に出来た、まだ日が昇っているこの時間でも、薄暗いその通路。

 別に、そこを通る必要性なんて全くない。 今歩いている道をまっすぐ進めば、あと15分程度で家に着く。 むしろ、その路地を歩けば家に着くには着くが、遠回りもいいところだ、大きなタイムロスになる。 全く行くだけ無駄な行為に間違いない。

 

 ──―でも、たった数十分だけだとしても、『夏の終わり』を先延ばし出来る。

 

 そう、思い立った……思い立ってしまった俺は、最早何の躊躇いも無く、その道へと歩を進めた──―進めて、しまった。

 

 ……

 

 歩いて数分、やっぱりと言うべきか、なあんにもイベントと呼べる出来事は起きない。

 まあ、この時点で俺の中の主目的はとっくに『帰宅の遅延』そのものになっているので、もはやイベントがどうとかは頭から離れているんだが。

 

 人と車の行き交う喧噪から離れて行き、無音の空間が広がりを見せ出した。 実際には無音ではなく、わずかに風がふく音やどこかで流れる水の音やらが、小さく主張している。 平安時代の詩人ならばこの状況下で、何か粋な一句を即興で歌ったりしたのかもしれない。

 なら、自分も何か一句作ってみようか。 どうせ気まぐれで見つけたこの道だ、普段なら鼻で笑って終わる様な行為も、気まぐれで行ったって良いじゃないか。

 5、7、5で、季語を加えるのが俳句なので、夏の季語は何だったのか思い出そうと、俺は足を止めて瞳を閉じ、遠い昔の記憶を掘り起こそうとした。 それは果たして野々原縁の過去なのか、頸城縁の過去なのか、ええっと……夏の季語は──―、

 

「あ──もうしつこいわね! 私はしばらく一人で居たいって言ってるでしょう! 何で邪魔するの!?」

「──―!!?!?!??!!?」

 

 求めていた答えが出て来る前に、唐突に耳朶に響いてきた甲高い声に、思考を中断させられた。 っていうか……何事? 

 声は歩いている道を抜けた先にある、少し開けた空間からの物だった。 声から判断するに俺と同じかそれ以下の年齢の女子の物。 話す内容からして、誰か別の人間に向かって行った言葉だろう。

 何にせよ声の調子からあまり良くない状況であると考えられる。 よくよく考えてみたらここは薄暗くて狭くて、人の気配がない。 まさかとは思うが仮に事件が起きても簡単にはバレそうにない場所だった。

 

 仮にここが開けた場所なら無視していたかもだが、この状況でそれが出来るほど非情な人間ではない。 俺は駆け足で声のした方へと向かった。

 

「大丈夫ですか!? 何かありました!?」

 

 視界に映ったのは、渚よりも背が低く、ワンピースを着ている少女と、少女から少し離れた場所に立つ、まるで漫画に出る様な黒服サングラスの男性の、2人の姿だった。

 直後、脳裏に浮かんだのは『ヤの付く集団』と『誘拐』という単語。 ひょっとして俺は、冴えない正義感の為にとんでもない場面に出くわしてしまったんじゃないだろうか。

 

「何だお前は! 関係無い奴はさっさと失せろ!」

「え、あ、はい! すみませんでした!」

 

 こ、こええぇ……。

 案の定黒服さんから怒声を浴びられる。 ガタイは普通だけどやけにドスの利いた声に素直にビビったが、要求は『ここから失せろ』だけなので、ありがたく従う事にする。

 本当に危ない方なのかは定かじゃないが知りたくないし、何よりヤンデレ云々関係無くこんな場所でぽっくりあの世行きになったら、前世の自分が浮かばれねえ! 今も浮かんでないけど! 

 

 我ながら礼儀正しく斜め45度に礼をした後、即座に踵を返してその場を立ち去ろうとした、その時だ。

 

「ちょっと待ちなさい庶民!」

 

 いつの間にか俺の真後ろまで駆け寄って腕を掴んできた少女が、俺の腕を掴んで逃走を阻んだ! ナニしてくれてんのこの子、ふざけないでくれるか!? 

 

「な、なんです! 俺はさっさとここから離れて──―」

「私を逃がしなさい。 出来るわよね? さぁやって」

 

 はいい? 人の発言押しつぶして何言いやがりますかこの娘は! 

 

「無理無理無理! 何言ってんですあんた、俺は家に帰る途中で」

「庶民の都合なんて知らないわよ、私がやれと言ったら従いなさい、ホラ早く」

「お、お嬢様! まだそんなことを言うのですか!? ──―おい小僧! 下手な事をしたらどうなるか分かってるんだろうな?」

「ひ、ひぃぃぃ……」

 

 サングラス越しに突き刺さる眼孔に肝が冷える。 こんな恐い経験今までしたこない。 冗談じゃない、今ここでこの女の言う通りに動いたら、間違いなく終わる! 人生が。

 幸い少女の力は軽く振るほどける程度でしかない。 ここは無理矢理にでも腕を払って、退散と──―。

 

「……お願い。 私を助けて……っ!」

「──―っ!」

 

 最初に耳にしたとき同じく唐突に、耳元に少女の懇願する声が届く。

 だが、しかし。 その声に乗っている色、それが俺の行動を金縛りの如く停止させた。

 

 直前まで見せていた唯我独尊の権化の様な声色とは打って変わって、弱々しく、もし無理矢理腕を振りほどけば、すぐにでも枯れ散ってしまう花を思い起こさせる。 そんな声だったからだ。

 

 さっきまで見せていた無根拠に強気な態度とは一変したその声。 振り返ると。それを発した少女の俺を見る瞳も、懇願する者のそれになっていた。

 

「──────っ」

 

 いや、違う。

 決してギャップに心を射止められたとか、そんなんじゃない。

 さっきから起きてる事は何もかも唐突だし、ハッキリ言ってこの少女本人に対して何か情が湧く程のモノを、俺は持ってない。

 

 でも、今一瞬見せた少女の姿は、俺に2つの姿、2つの記憶を思い起こさせた。

 

 1つは、野々原縁の記憶。

 数ヶ月前、いじめを受けて苦しんでいた時の柏木園子の姿だ。

 

 そして、もう1つは──―、

 

『ねえ──―、どうして、縁は──―』

 

 頸城縁の記憶に眠るとある人間(取り返しのつかない過ちの記憶)、だ。

 

 もう一度言う、決して今の言葉だけで絆されたんじゃない。

 でも、あの言葉を発した少女の姿は、少女を囲む環境は、あの時の園子と、彼女(……)と同じシチュエーションであるのだと、理解してしまったのだ。

 

 一回目(頸城縁)は、無視してしまった。 自分に向けられた手を振りほどいて、……そして全部終わった。

 二回目(野々原縁)は、こっちから腕を伸ばして、その手を掴んだ。

 

 なら……三回目()は? 

 二回目と異なり、再びあの頃と、一回目と同じく、向こうから手を伸ばして来るこの状況で、自分はナニをする? ナニが出来る? 

 

「おい、ガキ、ヘタな事考えてるんじゃないぞ、そのまま消えろ」

 

 相も変わらずドスの利いたオッサンの声が耳に届く。 しかし、不思議に、先程まで感じていた恐怖はすっかり鳴りを潜め、代わりにこんな事を考えていた。

 

 ああ──―、渚が本気でキレた時よりも、だいぶ恐くないな──―と。

 

 それだけじゃない。 よく考えてみれば、よくよく考えてみれば、俺は今よりよっぽど恐ろしい思いを散々してきたじゃないか。 前世の記憶を思い出してからこっち、渚や綾瀬が病まない様に無駄に思考を張り巡らせ、園子のいじめの時も、この夏休みに入ってからも、俺は自慢じゃないが死ぬかもしれない、なんて思いを何度も経験してきた。

 

 それに比べたらこの状況の何とイージーなものか! だってやる事は明確に示されている。 このまま少女の腕をとって逃げれば良い、それだけなのだ! 

 逃げる事すら出来ない、許されなかった渚や綾瀬との対話に比べれば、笑えるくらい簡単だ、ゆとり世代の俺が言うにはやや躊躇われる言い回しだが、ゆとり極まりないじゃないか! 

 

 なら、うん。 いいだろう。

 

「──―ん? いや待て、お前もしかしてゆ──―」

「──―ぜぇやぁ!」

 

 オッサンが何かに思い至り、張りつめていた緊張の糸を一瞬だけ緩めた隙を見逃さず、少女の腕を掴み俺は──―振り返りながら、思いっきりもう片方の手に持っていた空き缶を、オッサンの顔面にぶん投げた。

 

「──―う、ってなぁ! いっっつ!!!」

「ほら、行くぞ!」

「え、あ、ちょっと! きゃっ──―!」

 

 我ながらほれぼれする程のコントロールで、空き缶(言わなかったがアルミではなくスチールだ)がオッサンの鼻っ柱に命中した。 まさかこんな風に空き缶が役に立つなんて、分からん物だ。

 

「こんの、ガキがっコラァ!!!」

 

 オッサンは当たり前だが激怒して俺らを追いかける。 だがスタートダッシュの早さで稼いだ距離のアドバンテージは、だいぶ俺に有利に働いている。

 

「悪い、担ぐぞ」

「担ぐって──―きゃあ! ナニするのよ変態!」

「うっせ! 逃げたいならちょっと我慢しろ!」

 

 少女を抱きかかえて、米俵でも担ぐかの様に持ち抱えて、先程まで歩いてきた道をダッシュで走り去る。 傍目からしたら、今の俺の方が誘拐犯の様だろう。 急な事に驚いている少女は俺の言葉になんかまるで順応せず、ピーピー喚きながら背中を叩いている、気にはなるが痛くないからこの際無視だ。

 元々そこまで長い道を歩いたワケじゃないので、簡単に表の通りに出る事は出来た。 通行人の奇異な物を見る目線が刺さるが、構わずそのまま家とは反対の方向に向かって走り続けた。 仮に家の方まで走って住所を特定されたら、あとが怖い。 明確な目的を定めていなかったが、言うなれば来た道を戻っただけなので、少ししたら先程休憩していた公園にたどり着いた。

 

「あのオッサンは、もう追っかけてきてないな」

 

 人目につく事を嫌がったのか、いつの間にかオッサンは見えなくなっていた。 まあ、だからと言って油断は全く出来ないもの、とりあえずこれで一段落は着いただろう。

 

「ちょっと、いつまで私にこんな恥ずかしい格好させるつもりなのよ! いい加減降ろしなさいって!」

「あーはいはい、分かった分かった」

 

 追跡を捲けた安堵で緊張が解れた耳に、先程よりもずっと甲高く少女の声が轟く。 これ以上この格好で居させてもかえって通報されかねないし、ここはもう素直に降ろす事にした。 肩も痛いしね。

 

「──―ったく、お望み通り逃がしてあげたってのに耳元で騒ぎ過ぎだっての」

「やり方って物があるでしょう! あんな乱暴に持ち上げるなんて……私を誰だと思ってるの!?」

「知らんよ」

 

 今日初めてあったばかりの奴に『私を誰だと思ってる』なんて言われたって、そう答えるしかない。 だのに、まるでそれが信じられない言葉であるかの様に、少女は眼をまんまるにして動揺してみせた。

 

「知らないって言うの……? 私を?」

「ああ、うん。 悪いけどさっぱり」

「そんな……庶民が私の事を知らないなんて……あり得無い……あり得無いわ……」

 

 聴こえるか聴こえないかギリギリの声でぼそぼそと呟くパツキン娘。

 ひょっとして、有名人だったりするんだろうか。 さっきのオッサンの様子からして、お忍びでこの街に来ていたとか? いや、こんなフツーの街にわざわざ来る理由なんて分からないけども。

 

「ごめん、名前を言ってくれたら誰か分かるかもしれない」

「……ふん、馴れ馴れしく名前を聞かないでくれるかしら? アンタみたいな庶民に名乗る程私は安っぽくないの」

「えー……」

 

 ダメだ、この子、まるで絵に描いた様に高飛車すぎる。 さっきまでの態度はどこに行った。

 

「──―やっぱりアイツが居る街なだけあるわね。 住んでる人間も低俗だわ」

「はい? なんて?」

 

 何かぼやいたのは分かったが、今度のは何を言ってるかさっぱり聴こえなかった。

 

「何でも無いわよ。 ふんっ」

「ああ、はい。 さようですか」

 

 どうも自分を知らなかったのがかなりショックだった様だ。 すっかり眼に見えるくらい鼻を曲げてしまっている。

 さーって、どうしよっかな。 もう主目的は達成されたし、もう俺がここにこれ以上留まる理由は無いワケで。 どうしてオッサンから逃げたがっていたのか、実際問題何者なのか、これからどうしたいのか等々、気になる事も幾つかあるのも本音。

 だけども、こうも鼻曲がりな態度を見せられたら、これ以上彼女に関わろうとしても徒労に終わるだけな気もする。 しょうがない、同じ道を歩くと見つかるかもだから、遠回りして変えるとするか。 最終的には当初期待していたイベントも発生してくれたし、もう今日は良いだろう、うん。

 

「あー、じゃあ、俺もう帰るから。 さいなら」

 

 そう言って、踵を返した途端。

 

「待ちなさい」

「グぇ」

 

 腕ではなく今度は服の襟をむんずと掴まれた。 反対側に引っ張られた服が喉に直撃して、思わず普段出さないうめき声を上げてしまう。

 

「かほっ……何するのさ! もうやる事は終わっただろう?」

「案内しなさい」

「は?」

「同じことを言わせないで。 案内しなさい」

「……は?」

「だーから! この街に来るのは初めてなの! だからアンタが私を案内しなさいって言ってるのよ!」

 

 何でこうなる。

 断る理由こそ無いが、まさかこういう事態に陥るなんて。想定外すぎる。

 

「この私を案内出来るって言うのよ? 庶民なら普通自分から懇願するべき所を、逆にお願いしてあげてるんだから、感謝なさい?」

「ちなみに、拒否権とかは」

「あると思ってんの?」

「お願いしてるのにそんなに上から目線な理由は」

「あなたは庶民で私は貴族だから。 何かおかしい所でも?」

「うん、オッケー。 とりあえず話が絶対通じない所までは分かった」

「ちょっと! それどういう意味よ!」

 

 この手のタイプの人間は前世含めて出会った事が無い。 だがこれ以上何を言っても、全部無視される事は間違いないだろう。 多分そうとう過保護に育てられてきたんだろう、自分の要求が他人にはねのけられるなんて経験、今までした事無かったに違いない。

 あの黒服オッサンの事と言い、もしかしたら本当に俺が知らないだけで、有名人なのかもしれない。 としたらオッサンはマネージャーかなにかだろうか。

 

「……言っとくが、住んでる俺が言うのもなんだが面白い物があるわけでもないぞ、ここは」

「そんなのハナッから期待してないわ。 私はアイツが居るこの街がどんな場所なのかを、あらかじめ知っておきたいだけだから」

「あいつ? 誰かこの街に知り合いが?」

「庶民に話す事じゃないわ。 さ、案内を始めてくれる?」

「もう了承すら問わないのな……はぁ」

 

 もし、今日が夏休み最後の日でさえなかったら。

 何の用事もない日でさえなかったら。

 何かしら言いワケを作って、拒否出来ただろうに。

 

「あ〜もう良いよ分かった分かった。 言っとくがホント期待はするなよ?」

「言ったでしょ、最初から期待してないって」

 

 一度家に帰ろうとはしたが、結局暇である事には変わりない。 なので、断るモチベーションも湧かず、俺は諦観と共に未だ名前の分からないままの少女を街案内する事に決めた。 決めさせられた。

 

 ……

 

「つまんない」

「期待すんなって言ったよな!?」

 

 繁華街、先程寄ったショッピングモール、今日俺が一人で回った場所や、行かなかった場所をひとしきり案内した後、少女はそう言い放った。 思わず人通りの多い場所で大声で言い返してしまったが、少女は涼風でも浴びた様に白けた表情で返す。

 

「幾ら普通の街だと言っても限度があるじゃない。 ここ、幾ら何でも平凡すぎない? 特に最初行ったあの庶民御用達みたいな無駄に広い納屋。 人と物は多いくせに私に相応しい物は何も売ってない。 あんな場所で集まって楽しそうにしてるんだから、この街の人は皆こぞって幸福指数低そうね……いや、一周回って凄く高そう」

「大変まどろっこしい且つややこしい言い回しで貶してくれてありがとうよ」

 

 ショッピングモールを納屋と言い放つ人間を始めて見たよ。 しかも自分に相応しい物は何一つ無いとか何様だこいつ。 流石にイラッと来たが、あんまりにも臆面も無くさも『当たり前の事』を話す様に言う物だから、こちらも一周回って言い返す気が失せた。

 

「それに、アンタの言い方だと少し期待しちゃうじゃない。 大昔のお笑いタレントで居たわよね? 本当の事と逆の事言って煽るってネタ。 フラメンコフラグとか」

「そのネタは今のテレビでも現役だから。 俺にそんな高度なフラグ回収タクティクスはねえよ」

 

 死亡フラグなら何度も折ってきたが。

 

「とにかく、こうして歩き回れるのも後少ししか無いから、もう最後にアンタのお気に入りの場所でも連れて行ってよ」

「お気に入りの場所? って言われてもなあ……」

 

 今んとこ寄ってないのはゲームセンターと、それこそ俺がひっそり気に入っているとある場所の2つだけ。 もし少女のオーダー通りお気に入りの場所に行くとするならば、間違いなく後者を選ぶのだが……。

 

『──―ちょっと、何アンタ達、あっち行ってよ』

 

 そこは俺にとっては最高の場所だが、他人にとっては、ましてやこの平凡嫌いなお嬢様にとっては一番退屈極まりない場所であると容易に想像出来てしまう。

 

『──―いや、離して! ちょっとアンタ何ボーッとしてるの!』

 

 となると、ゲーセン一択だが……それはそれでどうなんだ? という疑念が激しく俺の中で渦巻いてしまう。 いや、確かにゲーセンは娯楽と刺激の宝庫ではあるが、遊ぶには金が必要だ、まして満喫するには高校生に安くない出費を求められる。 様子を見るにきっと自分の財布とか持ってなさそうだし、俺は俺で代わりに金出して遊ばせてやれる程の懐具合ではない。

 金がなくてぐるぐる回るゲームセンター程、無駄で徒労で退屈で地味に苦痛な物は無いと思うのが俺の意見だ。 それこそ、この子にとって一番意味の無い空間になるに違いない。 うーんどうするべきか。 いっその事本人から聞いてみるのもありか? 

 

「なあ、2つ候補があるんだけどさ──―」

 

 俺が意見を求めようと少女の方へ顔を向ける。 すると、

 

「あ! やっとこっちに気付いた! 長考過ぎるのよ! さっきから声かけてるのに!」

「あんな冴えねー奴ほっぽいてさ、行こうぜ? 君ここらで見ないけど可愛いねー! 何処住み?」

「ラ*ンやってる? 趣味何? 何月生まれ? てか男? 女?」

「意味分かんない事聞いて来るんじゃないわよ! 社会的に殺すわよ!?」

「そうやって強がるのも可愛いじゃん、つーかスッゲエ髪サラサラじゃん、その色地毛でなの? ハーフとか?」

「あああもう! こいつらなんとかしてよー!」

 

 2人組のチャラい系(?)男子2人組に執拗に絡まれていた。

 服装は学生服(俺とは違う高校だが)で、随分と着崩している。 髪は片方はなんか良く分かんない色に染めて、もう片方はバリッバリにワックスで決め込んでいる。

 そこだけ見れば完全にアレな人達で終わるんだが、発言が偶然か意図してかネットで時折見るコピペめいているし、少女に話しかける2人の体勢がやけに斜めで、昔(頸城縁が)秋葉原に行った時見たメイドに話しかける時のキモオタによく似ている。

 うーん、この2人組本当にチャラ男で片付けて良いタイプなのだろうか。 判断に迷う。

 

 ──―ハッ! またどうでも良い事で長考してしまった。 全く、どうにもこの長考癖だけは簡単に治ってくれないな。

 

「あー、2人共、悪いけど俺達今から寄る所あるから──―」

「ハアアアアアア!?!???!?!??!?!?」

「うっせ──ーんだよ消えろボケカス糞でも食ってマスカイてろ殺すぞぉ?」

 

 ……すっごい。 人間って一瞬であんなに奇声と暴言を吐けるのか。

 

「ああ、うん。 話は聞こうね。 悪いけど俺ら行く所あるからさよな──―」

「ハァァァァァァアアアアア???!!!??!!」

「話聞いてんのか失せろっテンダヨ耳壊れてんのか耳鼻科に週8で行けよ行けっつうか逝けよマジキメエ優等生気取ってんじゃねえぞつーかクセエから寄んなや小指折るぞウゥン?」

 

 ……うん。

 凄い脅されてるのは分かるんだけどね。

 

「正直、君らそんなに恐くないよ?」

 

 一度、キレた渚の相手をしてみると良い。 きっとその程度のまくしたてる様な口調じゃ恐くないから。

 

『なめてんのかガキがっこの!』

 

 あんまりさらっと言い返したのが気に触ったのか、2人はまんま同じタイミングで同じ言葉を返してきた。 仲いいね。

 さて、どうしようか。 幸い2人は俺よりガタイが言い訳でもない。 喧嘩に自信は無いが、不意打ちで片方に金的喰らわすか、鳩尾に蹴りでも入れてその隙に逃げれば良いかな。

 あまり自慢出来る物ではないが、前世のとある教訓で、複数相手にする時は2人が限界、3人以上居たら即退散、2人相手でも片方潰して逃げろってのを学んでいる。 女の子連れてるなら尚更逃げるのが一番だ。

 うん、ぺちゃくちゃ喚いてた方に金的だ。 そう決めた直後──―、

 

「ぅっ──―べぇ!」

 

 俺が狙いを定めていた方の男子の鳩尾に、少女が深々と肘打ちをかました。

 言語化が困難なうめき声と、鳩尾をやられた時特有の痛みと、同じく特有の呼吸が出来ない苦しみに顔を歪ませて膝から崩れていく。

 見るからに痛そうだが、少女は俺に向けていた時よりも遥かに涼やかな顔で見下した後、すたすたと俺の横を通り過ぎて、

 

「行くわよ、さっさと案内しなさい」

 

 と、だけ言った。

 

「き、キヨちゃん! 大丈夫か!」

「ううう……いてえよお! ほー、ほー! ああああいってえええ!」

「…………御愁傷様」

 

 金的を目論んでいた俺が思うのもアレだが、あんまりにも痛そうだったんで、最後に哀れみの言葉を投げかけて、俺は少女の後ろ姿を追った。 男子2人は、その後追いかけて来る事は無かった。 だいぶキヨちゃんと呼ばれていた方が苦しんでいるんだろう。

 追いついてからすぐに、『ずいぶん腰の入った肘打ちだったな』とからかうと、少女はぼそっと『皮膚を切除して新品に変えたいわ』と呟いた。

 

 ……

 

 ゲームセンターに行ったら、さっきの2人とまた鉢合わせる可能性が無いとも言えない。 せっかく穏便──―あくまでこっちにとってはだが──―に済んだのに、また問題がぶり返す様な事があっちゃ行けないので、行き先は結局俺のお気に入りの場所にする事にした。

 

「ねえ、まだなのー?」

「もうすぐだ」

 

 そこは30分程歩いた街の外れにあり、たどり着くには軽く坂を登る必要があった。

 初めはどんな場所に着くのか少しばかり期待の色を見せていた少女も、20分程歩いた辺りから不満の色をちらつかせる様になり、挙げ句坂を登ると分かってからはハッキリと難色を示した。

 が、時刻も夕方を回っており、せっかくここまで来た分の苦労が水の泡になる事、それにこの時間に行くのが一番いい事を話すと、表情は怪訝なままだったが渋々了承した。

 

「これで、たいした事無かったら、さっきの奴より痛いのを喰らわすんだから」

「それは困るな……だいぶ困るな……」

「だいたい、こんな山みたいな場所の上に何があるってのよ?」

「あるって言うよりも……うん、やっぱそこは着いてからのお楽しみで」

「何よそれ……ああもう、山登りなんて私のする事じゃないのに」

「山って……確かに高地だが普通に人の住む場所だぞ」

 

 体力無いんだな、と茶々を入れようかとも思ったが、いくら彼女に無理矢理やらされているとは言え、ここに連れてきたのは俺の意思だし、そこまで言うのは単なる煽りにしかならないと思い、止めた。 口は災いの元、沈黙は金だ。

 とまぁそんな事を考えているうちに、あっという間に丘の頂上にたどり着く。 と言っても、ここはまだ目的地への中継地点に過ぎない。 周りには自販機1台とガードレールに囲まれた駐車場だけ、後は樹々に覆われて何も無い。

 

「……で、坂を登らされたワケだけど、まさかこんな場所を見せる為に、ここまで歩かせたつもりじゃないでしょうね?」

「それはないそれはない。 大丈夫、ここまで来たら後はもうすぐだよ」

「もう聞き飽きたわよその言葉! こんな場所に何があるって言うのよ、犬小屋みたいに狭い駐車場があるだけで後はくだり坂、まだ最初に行ったあの無駄に大きくて広い癖にろくな物が売ってない、庶民御用達な店の方がはるかにマシ!」

「まぁまぁ。 信じて着いて来なって」

 

 語気に苛立ちを含め始めた少女をなだめながら、俺は駐車場の奥に設置されてある自販機まで歩き、通り過ぎてからその後ろにあるガードレールを跨いで、うっそうとした雑木林の向こうへと進んだ。

 

「はぁ!? そんな場所歩かせるつもり?」

「おう。 ここを抜けたら目の前だから、さ、行こう」

「行こうって、整備すらされてない山道じゃないの、ふざけないで! ……まさか、私を騙してこんな場所で襲うつもりね!?」

 

 おいおい、しまいには強姦魔の疑いまでかけてきますか、この人は。

 

「んな事しねーよ、俺はむっちりした女性のがタイプなんだ。 お前は幼児た──―スレンダー過ぎて範疇に無い」

「ちょっと待ちなさい今なんて言いかけたの? 場合に寄っては社会的に抹殺するわよ?」

「いいから、さっさと行こうぜ、もう時間が無い。 それとも嫌ならこっから一人で帰るか?」

「一人で帰るって、私をここに放置する気!?」

 

 お、一人ぼっちにされそうとなったら態度が軟化したな。 ならこの路線で攻めて行くとしようか。

 

「行くのはお気に入りの場所だって言ったろ? 最近あんまり足を運べなかったから、せっかくだし俺はこのまま行くぞ」

「そ、そんなのって無いわよ! 責任感とか無いの?」

「そうは言ってもな。 俺はお前にこの街を案内しろって頼まれた責任を果たすつもりでここまで来たわけで。 嫌だって言うなら俺の仕事はここでおしまい、後はお前の自己責任になると思うんだが」

「う……」

 

 うんうん。 冷静に考えれば単なる屁理屈に過ぎないが、この状況がそうと感じさせない錯覚を生み出している。 ま、そもそも『街を案内しろ』と言い出したのが向こうからだし、結構無理矢理だったのがここにきて彼女の足を引っ張ってるな。

 短い時間とはいえ一緒に行動して分かったが、この子はかなり傲岸不遜ではあっても、物の理が理解出来ない程理不尽ではない。

 普段は何の加護があって強気なのかは知らないが、一人ぼっちでは強気な態度を保てないと見える。 そうなると、普段は鈍い理性が自分の行った行動を深々と理解してしまうから、俺に対してこれ以上傲慢な言動を取れなくなってしまう、という所かな。

 

 そうであれば、後一押し。 きっと次の言葉で向こうは折れる。

 

「ここまでの道はほぼ一本道だし、帰るには困らないよな? 街に着く頃にはもう日が落ちて暗くなってるだろうけど、保護者に会えると良いな」

「〜〜〜っ! ああもう! 分かったわよ! 一緒に行くから、さっさと案内しなさい!」

「なら結構。 さ、こっちだ」

 

 思惑通り。 流石にここから一人で帰るのは嫌な様で、ため息と嫌な顔を散々してから、というかしながら俺の後ろを着いて来る。 ワンピース姿でガードレールを跨ぐのは嫌がっていたが、俺がサクサク進むのを見て、焦って追いかけてきた。

 歩く地面には落ち葉が絨毯の様に敷かれ、陽光を遮る様に樹の枝葉がうっそうと茂る。 俺にその気はないが、確かに何かあっても人が気付かない、そんな手つかずの道なき道を約3分程歩き通し、いい加減少女の限界が近づいてきた所で、目的地にたどり着いた。

 樹々に覆われて薄暗かった視界はカーテンを開いた窓の様に晴れて、万華鏡に映る光の様にてらてらと、夕焼け色の光が俺達を迎える。

 

「──―さあ、着いたぞ。 どんなもんかな?」

「着いたって、何にもな──―」

 

 相変わらず建造物の見えない状況に、溜まりにたまった不満の声を漏らそうとした少女の口はしかし、直後視界に映った『ソレ』を前に、喋る行為を放棄した。

 

「どうだろうか? 個人的にはこの街で一番の場所だと思ってるんだが」

「……すごい……街が、ずっと向こうまで、見渡せる」

 

 そう、俺がここまで案内して見せたかったのは、先程までの物や施設といったモノではなく、『景色』だった。

 

 ここは野々原縁が幼少期、一人で街に冒険に出かけ、挙げ句道に迷い、泣きながら歩く中偶然見つけた。 この街で一番高い丘の上と言う事もあって、街全体を、それこそ向こう街やその向こうの街まで一気に見渡せる、最高の景観を持っていた。

 ちょうど一家族がビニールシートを敷いてピクニックでも出来そうな位の広さ、辺りを覆っている樹々は申し合わせたかの様にこの空間にだけは無い。 この場所が人の作った人工か、自然の気まぐれが生んだ天然かは分からないが、どちらにせよいいセンスをしている。

 特にこの時間、夕方になると街全体が琥珀色に染め上がり、一種の幻想的な雰囲気を醸し出す。 自分が普段暮らしている、慣れ親しんだ街を少し離れた場所から見るだけでまるで別の空間の様に感じる事が出来るここは、見つけた瞬間からずっと、俺の一番のお気に入りだった。

 

「……」

 

 俺が始めてここを、この景色を見た時と同じ感動を味わってくれているのか、少女はしばしほうけたままじっと夕暮れ色に染まった街を観ていた。

 それにならって、俺も目の前に意識を向ける。 俺がまだこの街に来たばかりの、渚と同じく不安ばっかりだった頃から変わらず在り続けるこの景色は、17になった今でも変わらずに居てくれている。 建物は少しずつ変わって行くが、この景色が変わる事は無い。

 

『当たり前』が、そこにはある。 『何が起きても変わらないモノ』が。 その不動な在り方は、引っ越しで環境の変化にてんてこまいだった当時の俺に深い安心を与えてくれたし、18で死んだ頸城縁(前世)の忌まわしい記憶を思い出した今では、“ツキナミの幸せ”を感じさせてくれる。

 そう言えば、頸城縁も夕焼けが好きだったっけな。 どうやらそう言う所は前世()も今も変わらないらしい。 何もかも違う頸城縁と野々原縁の中で1つ共通点が見つかって、無性に嬉しくなった。

 

 そんな風に、俺がまたささやかな喜びに内心満足していると、やがて少女はぽつりと呟いた。

 

「ふぅん……アンタ(庶民)、こういう楽しみ方が出来る奴だったのね」

「まあね。 で、どうかな感想は? ここまで連れ回しただけの甲斐はあったかな?」

「微妙ね」

 

 そっか……。 まあ、ショッピングモールを納屋と言い放つくらいの人間だし、物珍しいだけでこの程度じゃ満足なんかしないか。

 

「でも──―」

「ん?」

 

「でも、まぁ……今日見てきた中では、一番良い所だったわ。 ギリギリ、及第点ね」

 

「そっか……なら、良かった」

 

 うん。 良かった。 だって流石にここも納屋とか犬小屋みたいに言われたら、流石に凹んだだろうしね。 別に、この傲岸不遜な少女が今日初めて見せる笑顔で『一番良かった』って言った事が嬉しいとか、そう言う事ではない。 本当だ。

 

「今まで誰にも見せた事の無い景色だったからな。 俺も見せた甲斐が在るってもんだ」

「誰にも……? 幾ら庶民にだって家族や友人くらいは居るんでしょ? なのに今までここに連れてきた事無かったの?」

「そりゃ居るがさ。 でも、無かった。 特に理由はないし、今日も別にお前をここに連れてくのに抵抗無かったから、まあ、タイミングの問題よな」

「そう……そうなんだ。 私が初めてだったのね……」

 

 最後の方はぼそぼそで聴こえなかったが、段々と少女の顔が赤く色づいてきたのは、夕焼けのせいだけではないだろう。

 

「なんだ、こんなロマンチックな場所に連れてきてもらってときめいたか?」

「は、ハァ!? いい加減な事言わないでよね! 確かにここは良い場所だし、私が最初ってのも何か嬉し──―じゃなくて、この程度の景色、別に今まで一度も観てこなかったわけじゃないんだから!」

「ほう、それはまた大層なことで」

「本当なんだから、本当よ!? 富士山なんてメじゃないわ、去年だってお父様達と一緒にグランドキャニオンまで行ったんだから!」

「ここに来るまででへばってたのにか? 嘘だろぉ?」

「庶民の物差しで計らないでくれる? あんな場所、ヘリでさくっと行けば簡単よ」

 

 ヘリって……まるで金持ちみたいな事を。 いや、こいつの貴族っぽい言動は今更か。 よくよく見たらこいつの服装、白を基調にしたワンピースとシンプルとは言え服から履物まで全部高そうだ。 ひょっとして、本当に金持ち? 

 そんなぽっと生まれた疑問など察するわけもなく、少女はどこからかスマートフォン(てか持ってたのか)を取り出して、誰かに電話をかけ始めた。 一言二言で終わった通話の内容を知る事は出来なかったが、電話をしまうと俺に向き直して言った。

 

「今日はご苦労だったわね。 今迎えを呼んだから、あの犬小屋みたいな駐車場に戻りましょ?」

「え、迎え? ここが分かるのか?」

「ええ。 あと何分もしない内に来ると思うわ」

 

 そう言って、少女は一度だけ後ろを振り返り、夕焼け色から薄暗い闇色に変わって行く景色を視界におさめてから、満足げに来た道を引き返して行く。

 それにならう様に、今度は来た時と逆で俺が少女の後をついて行った。

 その間に会話は無かった。 向こうにその気がなく、俺も後少しでこの時間が終わると分かったら、不思議と話しかける気が起きなかった。

 

 ……

 

 何の問題も無く駐車場に戻る。 迎えがすぐに来ると言ったが、車が近づく音は聴こえない。 だが、少女が上を向きながら言った。

 

「来たわね」

「え、何が──―ってはあ!?」

 

 確かに、少女の言葉通り、来た。

 ただし車ではなく、ヘリコプターが。

 

「お待たせしましたお嬢様、しかし、まさかこんな所にまで」

 

 風をたなびかせながら難なく着地したヘリコプターの操縦席から降りてきたのは、さっき俺達が逃げたオッサンと、

 

咲夜(……)、君と言う奴は何でいつも──―って、え!?」

 

 今日は人が尋ねて来ると言っていた我が親友、綾小路悠だった──―って、えええ!? 

 

『な、なんで君(お前)が此処に居るんだ!?』

 

 同時に同じ言葉を言い合う俺達。 いやホント、意味が分からない! 何故? どうして悠がわざわざヘリに乗ってまでこいつの事を迎えにきたんだ? 

 

「なんだ、アンタ達知り合いだったの?」

「知り合いっていうか、友人って言うんだが」

「咲夜、君は知っててわざと──―、仰木、分かってたのに僕に黙ってたのか?」

「申し訳ありません、ガ──―彼が悠様のご友人だと言う確証がなかったので」

 

 あまり見ないテンションでオッサンにまくしたてる悠。 その姿は焦っているのか怒っているのか。 とにかく、今まで見た事の無い態度だ。

 そんな悠を見てどこか愉快気に、少女は言った。

 

「ふふ、安心しなさい悠。 私、別にこの庶民がアンタの友人だったなんて知らなかったから」

「……本当かい?」

「ここで嘘を言ってどうするのよ。 偶然よ、偶然。 でも……ふふ、そう、そうだったの、庶民、アンタが悠の“親友”だったのね……」

「お、おう……」

 

 悠と少女の間にえも言われぬ空気が流れて行く。 それは俺を基点としているのか、何故か俺の居心地も悪くなる。

 

 ──―だからだろうか、俺は事ここに至ってようやっと気付いた。

 

 少女の髪色は、悠と同じ綺麗なプラチナブロンドであった、と言う事を。

 

「あの、さ……まさか、もしかして、お前、綾小路家の人間だったり?」

「ふ──―あははは! 何、私と悠の会話を見てすぐに気付かなかったの? あははは! 庶民あなた結構天然な所もあるのね、面白いわ!」

 

 そんなにつぼにはまる様な事だったのか甚だ疑問だが、少女は辺りで鳴り響く夏の終わりを告げる蝉とヒグラシの合唱よりも甲高く笑う。 その姿を、オッサンは無表情で、悠は苦虫を噛み締める様に見やる。

 

「──―名前は?」

 

 唐突に、少女が俺に問いかけてきた。 いきなり過ぎて『えっ』と返すと、もう一度。

 

「だから、名前は? 庶民でも名前くらいは在るでしょう。言いなさい」

「そりゃ在るに決まってるだろう、……縁。 野々原縁だ」

 

 思えば、今日初めて俺は彼女に名前を名乗った。 ずっと庶民だのアンタだのとばかり呼ばれていたからか、やけに違和感を覚える。

 一方、少女はゆっくり小声で俺の名前を噛み締める様に呟いた後、きっちり振り返り、俺の眼を見て言った。

 

「咲夜。 綾小路咲夜が私の名前よ。 その庶民的な脳みそにしっかり刻み付けておきなさい」

「お、おう……」

「──―フッ。 さ、行きましょ! 散々歩き回ったからか疲れちゃった、早くシャワーを浴びたいわ」

 

 俺が生返事するのを聞いて満足そうに微笑んだ後、少女──―綾小路咲夜は踵を返してすたすたと迎えのヘリにまで歩いて行った。 途中、オッサンに何か話した後、オッサンが手渡した紙に、同じく手渡したペンを持って何か書いて、後は振り返りもせずヘリに乗り込んだ。

 

「……じゃあ。 また明日、学校で」

「あ、ああ! 気をつけて……な」

 

 悠も重苦しい表情のまま、俺に一言だけ言ってヘリに乗る。 最後にオッサンが俺に近寄り、

 

「……さすがにスチール缶を投げるのはどうかと思うぞ」

 

 そう恨めしそうに呟いて乱暴に俺に紙切れを寄越してから、走ってヘリの操縦席に戻り、ぱらぱらと音を立てて飛び去って行った。

 

「……何がなんだったんだ」

 

 僅か数分の事だったが、非情に密度の濃い時間を過ごした気がする。

 とりあえず、俺が理解し得た物は、今日1日過ごしたあの少女が綾小路家の人間であるという事。 そして──―、

 

「っていうか、この紙切れは何だ──―小切手? ……い、いっせんまんんんんんん!??!?!?!??!?」

 

 

 ──―後期が、きっと平穏ではないだろう、という確信だ。

 

 

 事実この時の直感は正しい物であった。

 あと数時間後に迎える後期、そこからの生活は、前期とはまた違った意味で、俺に様々な問題が降り掛かって来る事になる。 それらは全て、今日この日の俺の行動が起因になったと言えるだろう。

 

 8月31日、夏休み最後の日。

 夏の終わりを惜しんで外に刺激を求めたこの日が、

 

 ()()()()にとって最後の平穏であったという事を、この時の俺はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 ──―おわり。




後書きはあとで活動報告で書きます。ありがとうございました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雨が晴れた後-1

一年近く投稿しなかったので、リハビリの意味で5000字程度の前後編を投稿します。
内容は今作のオリジナル主人公、野々原縁の掘り下げです。
ヤンデレCD要素は薄いですが、よければどうぞ読んでください。

時系列は、1章最終回と2章1話の間です。
ではでは


「まあまあ、2人ともそこまでにしよう。 縁の胃に穴が空いちゃ大変だよ?」

 

 死にたくなって来た俺に助け舟を出したのは悠だった。

 流石親友、でも遅過ぎる。 こいつめ、散々楽しめるところだけ楽しみ尽くしてから助けたな?

 とは言え、冷静な第三者の介入により渚と綾瀬も一応は静かになり、俺も無事に今日を生きていける運びとなりそうだ。 あゝ、良かった。

 

「もう6月も下旬ね。 今年は梅雨らしい日が無いから実感わかないけど」

 

 綾瀬が窓を眺めてぽつりと漏らした。 その言葉通り、今年は五月の中旬から全国的に梅雨入りしたものの、肝心の雨日がとんとないまま、下旬を迎えていた。 おかげで6月21日現在も、ジメジメした日もなく快適な日を過ごせているものの、『らしくない』というのも少し気になってしまうものだ。

 

「洗濯物に困らないから助かりますけどね。 去年はもう、ひどかったですし」

 

 次いで園子が口にした通り、去年は四月の下旬から梅雨入りが始まり、六月七月と、ニュースでは梅雨明けしたというものの全くそんな雰囲気もないまま雨の日が多く続いたものだった。 言ってしまえば去年の下半期は晴れより雨の日のほうが多かったとすらいえる。

 だから、今年はその分晴れの日が多いのかも。 なんて口にしようとも思ったけれど、揶揄われそうだからやめた。

 

「なんにしたって、晴れてるってのは良い事だよ。 雨の日が延々と続くよりは」

「そうかな、僕は雨の日に家でゆったりするのも結構好きだけど」

「それはたまにだからだよ。 毎日年がら年中雨の日が続いてみろ、いやでも陰気な人間になってしまうって」

 

 確信をもってそう答えると、悠はやや間をおいてから、こんなことを言ってきた。

 

「縁が何かに対してそこまではっきり言うのって、珍しくないかな?」

「えっいやそんなことはないでしょ」

 

 即座に否定したが、横から園子が、

 

「確かに、そこまで明確に何かを否定する縁君って見たことないかもです」

 

 なんて言い出して、しまいには綾瀬まで、

 

「もともと、大嫌いなものはハッキリ言うとこあった気もするけど……縁ってそんなに雨嫌いだったっけ」

 

 なんて言うものだから、とうとう聞き流すわけにも行かなくなった。

 自分ではそんなつもりなかったけれど、なにやら俺の今の発言は普段の俺から見たら、やや否定的なものに映るらしい。 複数人にそう言われたら、まあそういう事なんだろうと認めざるを得ない。

 

「まあ、だとしても良いけどね。 僕も雨が好きか嫌いかで言えば後者だし。 生態系には必要不可欠ってだけだし」

「降水率が30とか40%だと、傘持って出るか悩んじゃいますよね。 降らないならいいけど、降った時に気落ちしちゃいますし」

「分かる分かる、傘も使わないと片手塞がって邪魔だもん。 そろそろ傘に変わる雨具出てこないかなって、ずっと思ってるくらい」

 

 若者の会話の流れは速いもので、俺の口調がどうのこうのって話題はとうに終わり、気が付くと今度は過去の雨エピソードに華が咲いていた。

 まあいいけど。 ただ、俺の中では変にもやっとした感情のしこりが残ってしまった。

 

・・・

 

 その後、つつがなく部活動も終わり、今日は家族と外食に出かけると言った綾瀬とも別れて、俺と渚の二人だけで通学路を歩く。

 途中までは特に話す事もなく歩いてたが、通学路も中盤に差し掛かった頃に、渚の方からおもむろに言ってきた。

 

「ところでお兄ちゃん。 さっきの話……だけどさ」

「ん?」

「雨の件、だけど。 あれって、お兄ちゃんってよりも、()()()()()()だよね?」

「……うん。 だね」

 

 さっき、渚だけは俺に何も言ってこなかったけど、それはつまり、渚は俺の口調が普段と違う理由に察しがついてたからだったわけだ。

 本当に、わが妹ながら聡い人間だと思う。 俺が思い至るよりも先に、その結論に辿り着いていたんだから。

 渚の言う通り、俺も先ほどの発言が野々原縁からじゃなく、頸城縁の経験によるものだと思っている。

 

「雨、俺はともかく、頸城縁は大っ嫌いだったよ。 それこそ……ううん、とにかく、嫌いだった」

「やっぱり。 どうして嫌いだったのか、聞いてもいい?」

「もう聞いてるじゃんか」

 

 軽く笑いながらそう答えて、俺はさっきまでより少しだけ真剣な面持ちで渚に尋ねた。

 

「ハッキリ言って、面白くないぞ。 くだらない自分語りみたいなもんだ。 それでもいいか?」

「うん。 知りたいから、そっちの事も」

「そっか……」

 

 なら、話さないとだな。

 全部を話すとなったらバカみたいな時間がかかるから、端的なところだけ話すとしよう。 それだってそこそこ時間とるけど。

 でも、俺の中にいる頸城縁(もう一人の俺)を知りたいと思ってくれてるなら、渚は全部聞いてくれるだろう。

 

「雨が降る日、俺はいつも何かを失ってばかりだったんだ」

 

 今だけは、頸城縁として。

 目の前の少女に、愚か者の末路を訥々と話そう。

 

「家族、友人、大切だった人や居場所。 果てには」

 

 自分の、命さえも。

 

・・・

 

 瑞那。

 みずな、と読む。

 もともとは水無で、『水が尽きること無い』という意味だったらしい。

 

 そこが、俺の生まれ育ち、死ぬまで居た街の名だ。

 その由来通り、この街は年中曇りか雨の日ばかりで、晴れの日が日本全国でも屈指の少なさで、梅雨とか梅雨明けとか、まるで外国の話に聞こえたものだった。

 だからだろうか、物心ついたころから、俺はこの街に住む人の多くが、どんよりと湿っぽい人たちに見えて仕方なかった。

 もちろん明朗快活な人もいた。 けど、それより圧倒的に多くの人間が、それこそ曇り空のようにどんよりと暗い奴らに見えたんだ。

 

 そんな街でも、途中まではそこそこうまく生きていたんだけど、最初の雨の日を境に、俺の人生はあっという間に転落していった。

 

 最初の『雨の日』、俺は家と、社会的立場を失った。

 父がどうしようもない過ちを犯したのである。 その結果、家族で暮らしていた家を手放し、母親と共にアパートに暮らすことになった。

 両親は離婚し、過ちを犯した男の妻子である俺たちは近所から蔑みの目を向けられた。 まだ世の中の不条理に対する心の持ち方を知らなかった俺は、急変し続けた環境に振り回されるばかりだったが、きっと母親の方はそれに加えて、露骨に無責任な周囲からの責めに苦しめられていたに違いない。

 

 二度目の『雨の日』。 それは突然だった。

 ドアノブにタオルを縛って、母親が自殺していた。

 後になって知ったが、比較的安らかに自殺できる方法だったらしい。 さらに知ったことで、母親は自殺するころには既に精神的に限界に到達してたらしく、ある意味当然な末路だった。

 このころの記憶はほとんど残っていない。 死体になった親を見てから数年の記憶が俺にはないんだ。 葬儀を行ってくれた親戚は俺の様子を見ていた筈だが、親戚との仲も壊滅的だった為に聞く機会も生涯無かった。 中学生になって半年くらいから、俺の記憶は確かなものに戻った。

 

 このころには、地元に知れ渡りすぎた父と母の影響で、本当に村八分みたいな状態だった。 いじめとか、そんな次元を通り越して、完全に外界との関わりが断たれて居た。

 物心ついたころに、じめじめした人たちばかりだなと指した連中の中に、気が付けば俺も仲間入りしていた。

 

 三度目の『雨の日』は、……ああ、だめだ。 これは言いたくない。

 いじわるじゃないんだ。 せめてもの誠意として理由を述べると、単純に、俺がこの過去に対して向き合える段階ではないってことだ。

 考えるだけで、どうにかなってしまいそうな、……とにかく、これについては、俺にとって生きる意味や気力がなくなったってことだけ分かってくれればいい。 結局は終わったことで、今更どうにもならない事なんだから。

 

 四度目の『雨の日』。

 この日は、頸城縁が生まれた日。 6月28日。

 そして、俺が死んだ日だ。

 

・・・

 

「で、どうして俺はそんな場所に来なきゃいけないんだ?」

 

 時と場所は変わって、今は週末日曜の午前11時22分。 ガタンゴトンと揺れる電車から降りて、生まれて初めて来る懐かしい駅の名前に、何とも言えない気分となった。

 俺は朝から渚に連れられ、半ば無理やり、この場所に連れてこられた。

 すなわち、瑞那にだ。

 ホームから覘く街並みは、記憶から何も変わってはおらず、空も相変わらずの曇り模様だった。

 何もかもが、頸城縁の生きたころと変わらな過ぎて、いっそのこと気持ち悪くなる。

 

「前、私言ったよね、知りたいって。 この前の雨の話も、園芸部に入った理由だってそう」

 

 先に駅の改札を出て、渚がこちらに背中を向けたまま言う。

 

「だから、見て肌で感じて、知りたいの。 今のお兄ちゃんを作ってるモノを。 ここでお兄ちゃんの中に居る頸城縁……さんが、どんなモノを見て、どう生きたのかを」

「よりによって、今日か?」

 

 今日は、28日。

 6月28日だ。 つまり、四度目の雨の日。 頸城縁が生まれて死んだ、そんな日だ。

 

「うん。 今日だからこそ、私はここに来たかったの」

「なんにも面白くないぞ」

「前もそういった」

「そうだっけ」

「それに、楽しむために来たわけじゃないから。 大丈夫」

 

 俺が大丈夫じゃない、そう答えるのを堪えて、俺は分かったと一言、改札を通って渚の前を歩き、

 

「じゃあ、まずは、頸城縁(おれ)が死んだところに行こうか」

 

 

 そう、口火を切った。

 

 瑞那高等学校。 ああ、学校の名前は当然変わってなかった。 日曜というのもあって、当然生徒の姿も見えない。 中に入ることはかなわないが、はなっからそんな気はないので問題ない。

 俺が死んだのは、この高校の体育倉庫だ。

 死因はたぶん血の減りすぎ。 ろくに動かない体を何とか仰向きにして、一言二言の独り言をして、目を閉じたら、野々原縁に生まれ変わってた。 意識だけをたどれば、今年の四月に飛んだって感じか。

 今更ながら、変な事になってるな。

 

「たしか、校門の間反対の位置に倉庫あったはずだけど」

 

 そう言って渚を死地へご案内したが、当時は高校の外周塀からも見えたはずの倉庫が、見つからなかった。

 記憶違いかと思って一周したが、結局見つからず、よくよく見たら体育館も新しい物になっているのに気付く。 つまりは、倉庫はなくなったんだ。

 

「まあ、そりゃそうか。 よくよく考えたら、生徒が死んだ場所そのまま使うわけないわな!」

「……なんか、すごい他人事だね。お兄ちゃん」

「他人事だからな。 一応」

「そういうものなの……?」

「そう思わないと、何かよくわからなくなるから」

 

 今の俺は、間違いなく今を生きてる、野々原縁だ。 これは絶対の事実。

 そして、この街でかつて頸城縁が生きて、目の前の高校で死んだのもまた事実だ。

 だけど、俺の中の頸城縁と、この世界で生きた頸城縁は『=』ではない。

 当然だ、何故なら頸城縁()の生きた世界では、この世界に生きる人間、つまり、今俺と一緒にいる渚や、綾瀬たちは『創作上の人物』だからだ。

 でも、この世界では、今更言うまでもないが、みんな現実を生きる人間として存在している。 決して創作のキャラなんかじゃない。

 だから明確に同じ人間が生きた同じ場所、とは言えない。 『他人事』とは、そういう意味でもあるんだ。

 

 そう考えたら、本当に俺の意識と同化してる野々原縁は、俺の前世なのか? と疑問がわいてしまうけど、今はそんなことに思考を割くつもりもないので、敢えて考えない事にする。 した。

 

「んじゃ、次はどこ行こうか。 頸城縁が歩いてた場所、点々と回るか?」

「うん。 お願い」

 

 その後、俺は生前住んでたアパート、買い物に利用してたスーパーやコンビニ、図書館や植物園、そういったところを練り歩いた。

 行く先々で、渚から当時の気持ちや、何をしていたか聞かれたが、だいたいが退屈極まりない内容で、正直、申し訳ない気分になる。

 アパートは無くなってたし、スーパーは店の名前が変わってた。 コンビニもつぶれてコインランドリーになったし、図書館は残ってたけど植物園はパチンコになっていた。

 色々無くなって、色々消えて、色々変わってた。

 でも、空は曇り空のままだったし、街で見る人間の顔はどいつもこいつも、じめじめしたうす暗い物のまま。

 

 ───そろそろ、俺の心が限界になってきた。

 最初は渚の思いにこたえようと思っていたが、もう案内できる場所もない。 そろそろ帰る流れに持っていこう。

 

「……だいたい、いけるところは行ききった。 時間もお昼過ぎてるし、どっかで食べたら帰ろうか」

「うん。 でも、最後に絶対に行きたいところがあるんだけど、そこ行ったら帰るじゃダメかな……?」

 

 今までの『絶対に行きたい』という強い態度ではなく、俺の機嫌をうかがうような、恐る恐るな口調。

 自然と、俺の方から『どこに行きたいんだ』という言葉が出る。

 そして、渚の口から出た『最後に行きたい場所』は───、

 

 頸城縁()の墓だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雨が晴れた後-2

前中後編の三回になりました。
真ん中の話です。前編以上に原作要素がなく、完全に主人公の掘り下げっぽい話です。
暇があればどうぞ



「おっはよ! 縁!」

 

 快活な声色と共に、勢いよく俺の肩を叩く少女。

 その勢いに多少体勢を崩しながら、俺は声の主に向けて不快感を隠そうともせず言った。

 

「……その挨拶の仕方はやめろっていったよな、瑠衣」

「お断りしまーす! 先輩なんだから、後輩からのスキンシップには応えるべきだと思いますがー?」

「都合のいい時ばかり先輩扱いするのやめろや」

「んふふ」

 

 全く悪びれないでにししと笑うこいつは、紬 瑠衣(つむぎ るい)。 俺の2年後輩で……一応、俺の幼馴染にあたる人間だ。

 ただ、昔からずっと一緒にいたわけじゃなく、父が罪を犯す以前に暮らしていた家のご近所同士で、一緒にいたのはお互い小学5年と3年の時までだった。

 今年から高校生になって、わざわざ近場の高校じゃなく、バス通学が必要なうちの高校に来て、数年ぶりに再会する事になった間柄。

 ぶっちゃけ、俺の方は18になる今日までにくそみたいな事が多すぎて、彼女の事は記憶のかなたに眠る、暖かい思い出として終わっていた。

 だから、彼女が入学したその日のうちに俺の存在に気づき、声をかけてきたのが、5月になった今でもまだ信じられない。

 俺の方はほとんど顔を忘れていたのに、向こうは俺の名前を知る機会もないまま、当時の記憶を頼りに、ほぼ直感で俺と分かったらしい。 犬かよって思ったが、流石にそれを口にするのはしなかった。

 

「……とにかく、とにかくな瑠衣。 あんま人前で、ましてや校門前で俺に絡むのはやめろ? お前の為にならないから」

「もー、またそういう事言う。 ぐちぐち言う人の事なんて気にしたって無駄だよ?」

 

 全く俺の言う事を聞きやしない。 これは痛々しい妄言でも照れ隠しでもなく、正真正銘、瑠衣の為に言った事なのに。

 父の行為は、この瑞那中に知れ渡っている。 この街にいる人間の多くは、俺を犯罪者の子供として忌避して、避けている。

 そんな俺と一緒にいたら、自然とそいつも周囲から避けられるようになる。 いいや、それだけなら別に良いのかもしれない、瑠衣の言う通り気にしないって言ってくれる人もかつては居た。

 だが、世の中とはとても珍妙なもので、周囲の人間は俺を避けて関わろうとしないだけで終わるが、俺とかかわっている人間に対しては、害を与え始めるんだ。

 

 詰まる所、いじめの理由になる。

 

 理由は、犯罪者の息子と一緒にいるから。 だからお前は犯罪者の仲間だ、というのだ。

 馬鹿らしい。 犯罪者の仲間を叩くのなら、おおもとの俺を叩けばいいのに。 俺には何もせず、俺を理由に、俺と一緒にいる人間をいじめる。 意味が分からなったが、それがまかり通るのが、学校だった。

 当然、いじめが知れたら先生はそれを止める。 生徒を怒り、いじめをやめろと説教する。 これまた当然いじめっ子はいじめをやめると約束するが、それで解決したと思うのが、教師の限界だ。

 いじめは止めるモノじゃない、消すものだ。 行う人間を怒って終わるんなら、そんなに楽なものは無い。 いじめを行った背景、理由、それらを徹底してしらみつぶしに消さないと、いじめは終わらない。

 

 案の定、教師の説教の後も俺と関わる人間をいじめるブームは消えず、そのたびに教師はうわべだけの解決を取り、それでも苛めが無くならないから、最終的に俺を怒った。

 

 曰く、俺の周囲に対する態度や雰囲気が。

 周囲の人たちを良くない気持ちにさせている。 らしい。

 だから、もっと明るく、元気になりなさい、と。

 

 笑わせる。 こんな事を小学生後半から中学を卒業するまで言われ続けた。

 

 そんな事を経た現状だ。 瑠衣には本当に、人前で俺と関わってほしくは無い。

 俺を覚えててくれた事はうれしい。 周りなんて気にしないと言ってくれるのも助かる。

 でも、それとこれは別だ。 俺のせいで、彼女の今後の学生生活に影を落とすようなことはあってほしくない。

 

 あの頃と同じように、木洩れ日みたいな暖かい笑顔を向けてくれる彼女だからこそ。

 

「縁はさ。 抑え過ぎなんだよ」

 

 唐突に瑠衣が言う。

 

「抑え込まれすぎて、それが普通になって、もう誰も抑え込む人がいなくなっても、今度は自分で自分を抑え込んでる。 もう、縁に嫌なことする人なんて居ないんだから、もっと我がままでいようよ」

 

 何も、言えなくなった。

 

「心の傷って、他人には見えないのに、他人に教えてもらわないと自覚できないからさ。……とにかく! 縁はあたしといっしょにいる時は精神的リストカット禁止ね!」

「……」

「返事ー?」

「精神的リストカットって、どんな語彙力だよ」

「はーーーいそうやって屁理屈に逃げる―!」

 

 うっさい。

 まともに何か言おうとしたら、ちょっと泣いちゃいそうだから、そうやって誤魔化すしかないんだよ。

 

「おーーうおう、そろそろイチャコラ終わってくれないか。 登校時間なくなっちまうぞ」

 

 そんな冷やかしを言いながら、瑠衣とは別にもう一人、俺のクラスメイトである堀内 和人(ほりうち かずと)が姿を見せた。

 瑠衣がここに入学する前から、周囲からの目線など気にせずにちょくちょく俺に絡んでくる、変人だ。

 高2の時に同じクラスなって以来、俺からは全く絡まないのに、堀内の方からは何かと声をかけてくる。 いじめこそないが、確実に周囲から変な目で見られてるだろうに、何で平気なのかが分からない。

 厄介なことに、こいつは瑠衣が来てからあっという間に意気投合して、

 

「あ、堀内先輩! おはようです。 イチャコラなんてもんじゃないですよ、今日も朝から縁先輩は空みたいにどんよりです」

「じゃあその分、紬っちが隣でテラテラ輝いてあげないとな」

「そうしたいのはやまやまですが、学年が違うので……私がいないうちは、今日も堀内先輩お願いしますね?」

「任せとけー?」

 

 ……こんな具合で、俺をダシにはしゃぎやがる。

 

「……先に教室行くね」

 

「あ、逃げた!」

「ちょまぁてよ!」

「うっさい! 堀内はその物まねやめろ! 似てないって言ってるだろ何回も!!」

 

 ───大変に騒がしい、春の刹那。

 すっかり瑞那の空模様にふさわしい人間になった俺の隣に現れた、二つの光。

 口や態度では厄介がっていたが。 この時の俺ですら自覚していた。

 今この時間が、今までの人生で一番楽しく、本当に、本当に、終わってほしくないと。

 

 ───でも、どうやらこの時の神様ってのは、とことん頸城縁の事が嫌いだったらしい。

 

 この一月後。 雨の降る日。 瑠衣は死んだ。

 

 そして、その数日後。 同じ雨の日。 今度は俺が死んだ。

 

 ああ、本当に。

 ───雨は、大っ嫌いだ。

 

・・・

 

「───ちゃん、お兄ちゃん、起きて。 降りるよ」

 

 そっと肩を揺らし、渚が俺を起こしてくれた。

 俺の墓があると思われる墓地までは距離がある。 俺たちはバスに乗って移動していたが、どうやらその間寝ていたようだ。

 

 そのせいもあってか。 たぶん初めて、頸城縁の夢を見た。 思い出したくない記憶と共に。

 

「……何か、夢見てた?」

「ああ。 うん。 つまんない夢を見てた」

「……そっか」

 

 あえてそれ以上は問いかけてこない渚に感謝しつつ、俺たちはバスを降りた。

 こんな時期に、兄妹とはいえ男女二人が墓地に向かう姿を、バス運転手は怪訝そうに見てたが、もちろんそんなこと気にせず、俺たちは歩き出す。

 

 頸城家の墓があるのは奥の方だから、バス停から歩いても幾分かかる。 当然その間に時間は出来るので、渚が俺に問いかけてきた。

 

「……頸城縁さんってほとんど家族と一緒にいる時間なかったんだね」

「そうだな」

「一人っ子だったんでしょ?」

「うん」

「……どう思った?」

「何を?」

「今のお兄ちゃんになって、頸城縁さんの記憶とか、気持ちとか持ってから、……お父さんやお母さんが居て、()がいて」

「…………不思議だったよ。 でも」

「でも?」

「嬉しかった」

「……」

「親は遠いけど確かに生きていて、いつも家には一緒にいる家族がいて……それだけじゃない。 街を歩いても、学校に行っても、当たり前にやりたいようにやれて。 ……そんな当たり前が、どんなに大切で、どんなに幸せなのかが、良く分かった。 思い、知らされた」

「……そっか。 だから……ううん、ありがとう、教えてくれて」

 

 それ以降、二人の会話は止まった。

 場の雰囲気に呑まれてるわけではないが、目的地が近づくにつれてもくもくと歩き続ける。 そうして、頸城縁が母親の墓参りに向かった時の記憶を頼りに奥へ奥へと進んでいくと、

 

「……あった」

「ここが、頸城さんの……」

 

 『頸城家之墓』。 そう記された墓をついに見つける。 墓石には『頸城 由香里』と書かれた名前と、

 『頸城縁』、という名前が記されていた。

 間違いない、頸城縁の墓だ。

 

「……いざ、こうして墓前に立ってみると、何か湧き上がるがあるんだろうと思ってたが」

「うん」

「……おどろくほど、何もないな」

「そうなの?」

「ちゃんと、弔ってくれたんだなって。 それだけはすごい今、思ってる」

「……」

 

 何も出てこない。 というよりも、何を出せばいいのか分からない。

 泣けばいいのか、怒ればいいのか、笑えばいいのか、小粋なジョークの一つでも挟めれば格好良かったのか。

 前世の自分が眠っている墓に、前世の記憶と意識を持った状態で向き合う。 こんな状況になって、何が正解かなんてわかるわけもない。

 

「とりあえず、お線香あげるね」

 

 そう言って、渚は事前に用意した線香にマッチで器用に火をつけて、呆然とたたずむ俺を後ろに、一般的な墓参りの所作を行っていく。

 両手を合わせて目を閉じ、何を渚が考えているのかは、俺には分からない。

 長く、瞳を閉じ続け、ようやっと渚が目を開けた頃、俺の頬にポタリと冷たい雫が当たった。

 

「……雨か」

「降ってきちゃったね。 傘も買ってくるんだった」

「風邪ひくとまずいし、もう帰ろう。 ……良いか?」

「……うん。 ありがとう、ごめんね、無理言っちゃって」

「いいよ、平気だ」

「……ありがとう」

 

 繰り返し、俺にありがとうと言って、渚が墓から離れる。

 そうして、俺の、俺たちの瑞那巡りは終わりになった。

 バス停でバスを待って、バスが来たら駅に向かって、そして俺たちの家に帰る。

 

 それが、今日という日の終わり方。

 

 ───そう、なるはずだったのに。

 

「あの、あなたたち、そこで何してる、の?」

 

 俺の背後から投げ掛けられたその言葉が耳朶に響いた瞬間。 まるで金縛りにあったかのように固まってしまった。

 体だけじゃない、思考も真っ白になる。

 

「あ、あの、私たち、お墓参りに来てて……」

 

 急に声をかけられたからか、渚の方もやや慌てて受け答えしている。

 でもまだ、真っ当に返事できてるだけましだろう。

 俺はそんな当たり前な返しすらできず、何秒か忘れていた鼓動と呼吸を取り戻すかのような、激しい動機と過呼吸を表に出さないよう必死に立ち尽くすしか出来なくなっている。

 

 馬鹿な。

 そんな。

 嘘だ。

 ありえない。

 

 似たようなワードが延々と頭の中を駆け巡り、それでも否定できない事実が、やがて嫌でも俺の思考を現実に引き戻していく。

 あるいは、俺が完全に頸城縁だったら、パニックを起こせたのだろう。

 俺が、あくまでも野々原縁だったから。

 頸城縁の記憶と心を持っていても、野々原縁という第三者の意識を持っていたから、当事者のように狂乱する事が出来なかった。

 関心が向く。 意欲がわく。 後ろを振り向けと、声の主を視界に捉えろと、野々原縁である俺は、頸城縁に容赦なく指示を出す。

 

 やがて、それは俺という身体の最優先事項になり。

 軋む心だけを放置して、俺はゆっくりと振り向いた。

 

「えっと、君たち、兄妹……かな?」

 

 その声は、その言葉を紡ぐ人間は、

 見間違えるはずもない。 俺の記憶の姿よりずいぶん大人びてはいるが───()()()()()()()()()───紬 瑠衣、その人だった!!

 

 

 一度目の雨の日は、家と立場を失った。

 二度目の雨の日は、母を失った。

 三度目の雨の日は、大切な人を失った。

 四度目の雨の日に、俺は自身を喪った。

 

 そして、死んでから訪れた五度目の雨の日。

 既に死んだ頸城縁()は、既に死んでいる筈の人(・・・・・・・・・・)と、再び出逢う事になった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雨が晴れた後-3

番外編三部作が四部作に膨れ上がりました。
文字数も一気に増えてます。
暇なときにどうぞ、主人公の掘り下げ話です。


「やあ、頸城君」

 

 穏やかな口調で、そいつは俺の肩を軽くたたいた。

 

「ああ」

「相変わらず辛気臭い顔してるね。 生きててつまらなくないかい?」

「……」

 

 顔を合わせて早々、そんなことをあけすけと人様に言い放つこの男の名前は、羽瀬川 総一郎(はせがわ そういちろう)。 この前転校してきたクラスメイトだ。

 なんでも、都内の高校から、わざわざこんな街に来たらしい。 まんま興味なかったので、どうでも良かったのだが、席が斜め後ろという微妙な近さもあって、何よりこの街出身じゃないというのがあって、たまに声をかけてくる、そんな人間()()()。 最初は。

 

「やっぱり、人殺しの子供は態度も陰険になるのかな? それとも生まれつきだったり? だとしたらごめんよ!」

 

 今はこの通り、基本俺を避ける連中すらぎょっとするような顔になる発言を、俺に堂々と述べるとんでもない男になっている。

 とはいえ、父親が刑務所に行って、母親が帰ったら死体になった経験を経た上では、たかだかこの程度、心を揺らすに至りはしない。 そんなことで精神的強さなんて得たくはなかったが、俺を正面から貶す羽瀬川(この男)より残酷なことをする人間が、世の中には居るのだから。

 

「……っち、相変わらず詰まんない男だね」

「その詰まんない男に相手にされてないお前は、ひょっとしてもっとつまらない人間なのでは?」

 

 構ってもらえない不満を露骨に漏らす羽瀬川を、それ以上の露骨さで煽ったのが、トイレから教室に戻ってきた堀内だった。

 予期せぬ方向からの発言に、心の準備もくそもなかった羽瀬川はたじろぐ。 が、すぐに気を取り直して、堀内を睨んで一言、

 

「口の利き方には気をつけろよ」

 

 そう言って、教室出て行った。

 

「なんてことをしてくれる」

「なんだよ、助けてやったのに」

「今のが? いたずらにイラつかせただけじゃんか」

「すっきりした?」

「した」

「ならいいだろうに」

「けど、あいつの席は俺の後ろだ。 こっからの学生生活に支障が起きたらどうする」

「なら俺はあいつの二つ隣の席だ、何かちょっかい掛けたらその隙だらけの背中を狙ってやるさ」

「やめろや」

 

 本当に、こいつは口が減らない。 ああ言えばこう言うって所は瑠衣と同じだ。 そんな人間ばかり周りにいても困るのだが。

 

「実際のところ、俺たちが羽瀬川と一緒にいるのはごくわずかな時間だけだろうさ」

「というと、なんで」

「あいつが東京からここに来た理由、聞いてないのか」

「興味ない」

 

 親の地方転勤か何かだろうと思っていた。

 俺の返しに、あきれたようなため息をこぼす堀内。 こいつにため息されるってなんか嫌だな。

 

「お前ってホント、そういうとこは……まあいい、とりあえず理由な。 ()()()()()()()、らしい」

「……ふうん」

「女関係か、喧嘩か、詳細はさすがに知らないが、あいつの父親、結構世にいう大物の類らしくてな。 ほとぼり冷めるまでの避暑地って所だろう、ここに来たの」

「なるほどね」

「……思ったより反応ドライだな、やっぱ興味ないから?」

 

 それもあるが、うわさで偏見を持たれる立場はよく知っている。 羽瀬川をかばう気はないが、よく知らない男を良く分からない理由で非難する気にはなれない。

 ましてや、よく知ろうという気には一生ならないから、結果的には無寛容の無関心に落ち着く。

 

「なるほどね、まあ、その方が平和だけどさ」

 

 肩をすくめて、堀内は言った。

 

「今のうちに釘刺しとかないと、増長すると思うぜ、あの手の、親の力が強い奴って」

 

 

 ───「その言葉を、しっかり胸にとどめていけば良かった。 

 後悔はいつだって、後の祭りと一緒にやってくる。

 

・・・

 

「はっはっはっはっは……っ」

 

 限界を訴える肉体を徹底的に無視して、前を歩く老若男女を押しのけて、刺さる非難の視線にかかずらう事もなく、俺はひたすら走っている。

 辿り着いた先は病院。 ドアを通り、事前に聞いた病室まで、手続きの一切を無視してエレベーターを駆け上がり向かう。

 後ろから所員の声がするが、相手する気なんてなかった。

 

「はっはっはっはっは……」

 

 嘘だ、嘘だ、嘘であってくれ。 嘘じゃなかったら意味が分からない、意味が分からない、分かるわけがない、冗談じゃないふざけんな!!!!

 ただひたすら、何かに向けての怒りに似た焦燥を回転し続けて、もつれそうな足を殴って歩みを続け、やがて、俺は向かっていた病室に辿り着いた。

 

 その中には、堀内と、瑠衣のお父さんと、そして、そして───、

 

「……ぁ、───、ぁあ、ぅぅぅううあああああ……」

 

 顔に白い布を掛けた、───××の姿があった。

 

「なんで、……なんでぇぇぇ……っ! なん、でぇぇ……」

 

 嗚咽、慟哭、怨嗟、嫌悪。 最後に後悔。

 限界を超えた足は力が抜けて、無様に俺を地に伏させる。

 後はただひたすらマイナス思考とワードが脳を駆け巡り。

 ただひたすら主語と述語にかけた単語を口から漏らした。

 

 そんな俺の肩に、そっと手を当てる人がいた。 瑠衣のお父さんだ。

 

「縁君、泣くな。 瑠衣だって、自分が理由で大好きだった君に泣いてほしくない筈だ」

 

 その、言葉に。

 自分だって、自分が一番悲しくて苦しいはずなのに、何だったら俺を恨んで憎んで、今すぐにでも殺してくれていい位なのに。

 俺を慮ってくれたその言葉が、その優しさが。 正しく瑠衣の父親らしくって、瑠衣がこの人を見て育って来たんだと分かって、そんな瑠衣の未来が消えてしまったという事実を、受け入れてしまった。

 

 そうなると、もうやみくもに嘆く時間は無い。 後に在るのは、

 

「ごめん、なさい……」

 

 俺が瑠衣の幼馴染で。

 

「ごめんなさい……」

 

 突き放して、守ろうとしなくて。

 

「ごめんなさい……」

 

 関わらない方が瑠衣のためだと、自分が怖いだけなのを誤魔化して。

 

「ごめんないさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 思えば。

 誰かに、心から許しを問う事も。

 誰かの死に、心から涙を流す事も。

 この時が、最初で最後だった。

 

・・・

 

 時は過ぎ、6月28日。

 

「はあ? 君の後輩に俺が手を出した?」

 

 場所は、校舎裏の体育倉庫の中。 そして今日は休校日。

 

「瑠衣の服は破れかかってた。フェンスは脆かったが、無理やり力で押さないと壊れることはなかった」

 

 俺が呼んで、こいつが来た。

 

「彼女は勝手に誰もいない屋上から自殺したんだろ? 服だって落ちた時のだろうさ、フェンスも……飛び降りするんだから壊すだろ」

 

 今ここには、俺とこいつしかいない。

 

「そうやって俺を貶めるのやめてくれないか、不愉快だよ」

「お前が東京で何をしたかは知ってる、何人()()()()()?」

「あ、ふうん。 ……それ知った上での事だったのか」

 

 こいつがわざわざ、こんなしけた街に来た理由は、詰まる所それだった。

 

「だからと言って俺が原因とか思考が飛躍しすぎなんだけど? それとも、あ! 分かった、俺を犯人にして自分が殺したのを誤魔化したいんだろ?」

「……なんて?」

 

 なんて言った、今こいつ。

 

「だってそうだろ? お前は人殺しの息子なんだからさ。 人殺すなら俺よりお前の方が自然じゃないか、ははは!」

「そっか……」

 

 そういう事、言うか。

 

「……相変わらずつまんねえリアクションだな、……まあいいや」

 

 心底つまらなそうに、羽瀬川は頭をポリポリ掻いて、直後。

 

「はーい、どうぞお前も死んであいつの後を追ってくださいな」

 

 唐突にそんな事を言い出したかと思った矢先、後頭部に衝撃が走った。 当然、体は膝から崩れて、這うような姿勢になる。 殴られた箇所からぼたりと流れた血が、地面にペンキを塗るように赤く染めていく。

 何が起きたのかは分からないが、誰の仕業なのかは直ぐに分かった。 言うまでもなく、目の前にいる羽瀬川による行為だ。

 

「呼ばれたからって、お前相手に本当に一人で来るわけがないだろうって。 馬鹿だなあ、お前」

「そういう、事、するか……」

 

 ともすればすっと消えてしまいそうな意識の中、やっとの思いで振り向くと、俺の後ろにはバットを持った男子生徒が一人いた。 顔も名前も知らないが、羽瀬川の連れの誰かだろう。

 今しがた俺の頭部を襲った衝撃は、そいつが持ったバットによるもの。 つまり、最初から羽瀬川は俺をこうするつもりで、誘いに乗ったという事か。

 

「う、ぉぇ……」

 

 そこまで事態を理解した途端、一気に痛みと眩暈と、嘔吐感がやってきた。

 

「な、なあ羽瀬川君、良いのかなこれ。 すごい苦しんでるけど」

「良いんだよ、何かあっても父さんが黙らせてくれる。 お前が余計な事しなきゃな」

「そ、そうなら、いいんだけど」

 

 人を打ちのめしておいて、勝手な事を言う。 動きたいが、痛いのと気持ち悪いのと、手足がしびれて今の姿勢を保つので精一杯だ。

 そんな俺の首元を掴み、羽瀬川が無理やり立ち上がらせる。

 ぼやけてた視界に、嫌でも羽瀬川の顔が映りこむ。 ひどく、楽しそうな表情をしていた。

 

「ふ、はは。 ほんと、お前馬鹿。 馬鹿だし詰まんねえ」

「あっ……そう……」

「でもまあ、別にそれもどうでもいいよ。 今のお前、最高に面白いから」

 

 そう言って、雑に首元から手を放す。 バランスを崩した俺は再び地面に倒れて、そんな俺の顔に、羽瀬川が足を乗せてきた。

 バットで殴られた箇所に、靴底がめり込む。

 

「っ……!」

「ふふ、痛いかよ? 格好つけてこんな場所に俺を連れてこなきゃ良かったのにな。 今お前を助けてくれるは誰もいないぞ?」

 

 乗せた足を左右に揺らし、グリグリと俺の頭を踏みつける。 踏みつけながら、ゲラゲラと笑っている。

 

「たの、しいか……そんなに笑って」

 

 いつの間にか、そんな言葉が口を滑って出てきた。 本来なら痛みでそんな余裕など無い筈なのに。

 

「楽しいかって? 当たり前だろそんなの! こんな辺鄙な街に来て、陰湿な顔した奴らばっかに囲まれて、退屈極まりなかったんだ」

「そっか、確かに……この街は、住んでる人間も、鬱蒼としてるな……っ!」

 

 一生相いれない男だが、この街を見る目は確かだったらしい。

 今更になって、そんな共感できるところなんて知りたくなかったが。

 

「そんなところに、出てきたのが『犯罪者の子ども』だ、退屈しのぎになるかと思ったのに、お前も堀内も、俺をハナッから眼中に入れやしない! ふざけやがって!」

 

 そんな理由で何度も絡んできたのか、子供かこいつは。

 

「あの瑠衣ってやつもだ。 この街の奴らを見てきた中で一番ましだったから、色々教えてやろうとしたのに、お前なんかに夢中で俺を相手にしないで、ああ、本当に不愉快だったから、分からせてやったさ!」

「っ!!!!」

 

 その言葉に、急激に脆弱だった意識と肉体に力が入る。

 

「やっぱり、お前が、お前がやったんだな? お前が瑠衣を、屋上から……」

「カラダに直接教えてやろうとしただけさ! そしたら抵抗して、たまたまフェンスが壊れたってだけだよ! 俺は何も悪くない、いいや、お前が悪い!」

 

 俺を踏む力が強くなっていく。 興奮しているのか、羽瀬川の口調も次第に激しい物になっていった。

 

「そうさ、お前らが悪いんだ。 素直に俺の言う通りにしないから、俺を苛立たせたからこうなったんだよ!」

 

 踏みつけはやがて、蹴りへと変わった。 頭からの出血が激しくなっていく。

 これ以上の出血は危険だ。 素人でもさすがに分かる。 でも、きっと謝罪か降伏の意思を見せない限り、羽瀬川が止まることはない。

 羽瀬川の言う通り、休校日の体育倉庫に人が来ることはまずあり得ない。 このままでは羽瀬川に殺意が有る無し関係なしに、失血死するだろう。

 言わなければ。 『すみませんでした』と、『許してください』と。

 このまま、無様に死にたくないのなら───、

 

「はっ、なんだよ。 何人も()()()()()くせに、初めて人を殺したみたいにビビってんのか」

 

 ───冗談じゃない。

 

「な、に……?」

 

 足が止まる。 声が震えだす。 俺の言葉が興奮していた羽瀬川の脳内にするりと入り込み、一気に侵食していくのが見て取れた。

 それを機に、地に伏していた顔を羽瀬川に向ける。 右側の視界がぼやけてるが、その分まだはっきり見える左目で、羽瀬川を刺すように睨みつける。

 

「そうだよ。 お前は、今回が初めての殺しじゃない。 東京で散々、何人も殺してきたんだ。 直接手を掛けなかった、それだけ」

「違う、違うだろ……何、お前、何言って」

「俺が人殺しの子供? ああそうだな。 だったらお前は何だ? れっきとした人殺しじゃね? ははは! 人の事言える口かよ!? なあ!?」

「黙れよ……いい加減にしろよ、適当な事言うな!」

「なんだ、動揺してんのか? 今まで自慢の『お父さん』に任せてたから何の自覚もなかったか?」

 

 四つん這いから、膝立ちに。 先ほどとは逆に、立ちすくむ羽瀬川の首元に腕を伸ばして掴み、俺の眼前まで引き寄せた。

 急な行動に一瞬呆気にとられた羽瀬川に、俺はとどめの言葉を浴びせる。

 

「成程、確かに俺は詰まらない男だよ。 お前みたいな無自覚の人殺しに比べたら、カスみてぇなもんさ!」

 

 謝罪しなければ? 降伏しなければ? 死にたくないなら?

 ああ馬鹿らしい、冗談じゃない。

 瑠衣を死なせた時点で、死なせるまで何もしなかった時点で、既に俺は無様でしかないんだ。 今更死のうが生きようが、無様である事には変わりない。

 

 なら、今やるべき事は決まっている。

 

「ち、違うだろおーーーーー!!!」

 

 今まで聞いたこともない、先ほどまでのとも異なる、一切余裕のない絶叫をあげて、羽瀬川が俺の横っ面を殴り飛ばした。

 倒れそうな俺の右腕をつかみ、そのまま、何度も何度も、顔面を殴りつけていく。

 

「お前が! お前なんかが! 知ったような事言うな! 俺は殺してないし殺したのはお前なんだよ!」

 

 完全な現実逃避の類。 既に真っ当な思考能力は、羽瀬川の中から消え失せていた。

 俺は、再び一方的に殴りつけられる中、意識だけは手放さないように、羽瀬川を睨み続ける。

 

「そうさ、この後お前があいつを殺したって事にしてやる! 父さんなら簡単にそれが出来るしな! 周りだってきっと信じるだろうさ!」

「羽瀬川君、やりすぎだって! それ以上やったら死んじゃう」

「うるさいな! 今更ビビるな! お前だってもう逃げられないんだからな!」

「で、でも……」

「それ以上余計な事言うならこいつを殺した犯人はお前ってことにしてもいいんだぜ? ああ!?」

「わ、わかった! 分かったから……」

「なら最初から口出すな! それにな、どうせこいつが殺してなくても、誰一人としてこいつをかばう奴なんか居ねえよ!」

 

「だって!」

 

「コイツは!」

 

「人殺しの子供なんだから!!!」

 

 ──────ああ、良く分かったよ。

 

「……あ?」

 

 殴る手が、止まった。

 力の抜けた声を漏らして、羽瀬川は視線を、俺ではなく自分の足元、正確には右太ももへと向ける。

 

「は、羽瀬川君……あ、足……」

 

 取り巻きの男が震える声で言う。 果たして羽瀬川が向けた視線の先には、自分の太ももに深々と突き刺さった2B黒鉛筆と、それを握り締めている俺の左手が見えた。

 

「え……なんで、これ」

 

 その事実を認識して、羽瀬川の脳が理解するよりも早く、俺は思い切り力を込めて鉛筆を刺さったところから折った。

 

 直後、狭い室内に絶叫が響き渡る。

 

「ああああああああ! 痛い痛い痛い!! 死ぬ、いたいいいい!」

 

 護身用、と言うわけではなかったが。

 羽瀬川を呼ぶにあたって、何も備えてない訳がないだろう。

 掴まれたのが右腕で、鉛筆を入れてたのがズボンの左ポケットで助かった。 逆なら取り出すのが非常に困難だったし、こうして殴られる間に刺す事も叶わなかっただろう。

 

「よいっしょっと……」

 

 痛みでのたうち回る羽瀬川をよそに、ようやっと立ち上がった俺は、まずさっきからずっとうるさかった後ろの男子生徒の方に顔を向ける。

 

「ひぃ! ちょ、待って……」

 

 もともと羽瀬川の腰巾着か金魚の糞でしかなかった奴に、何かできる様な度胸もメンタルもない。 目が合っただけで勝手におびえた男子生徒は、本来なら圧倒的優位にあるのも忘れて恐怖に染まっている。

 

「お願いします! 俺はただ羽瀬川にお願いされただけで! 君を痛めつけるつもりなんて全く!!」

「うん。 でも俺をバットで殴ったのは君だよね?」

「で、でも! だけど!」

「お前だよなって言ってんだよ!? 事実だけ言え!」

「ひいい! あっうわ!?」

 

 でかい声一つあげられただけで、男子生徒は俺が何をするでもなく勝手に足を躓き、そのまま後ろに倒れた。

 握っていた、もはや何の意味もないバットがそいつの手から離れて、ころころと俺の目の前に転がってきた。 俺は何のためらいもなくそれを拾い、淡々と男子生徒の前に歩み寄る。

 

「許して! ゆるしてよおおおおおおお!」

「きもい」

 

 赤子の夜泣きの方が600倍マシに感じる汚い鳴き声を無視して、俺はバットを無警戒に開かせていた男子生徒の股の間に振り落とした。

 当然、振った先には()()がある。 確かに肉の潰れた感触をバット越しに認識した俺は、一瞬で沈黙した男子生徒から、改めて羽瀬川の方へと視線を向けなおした。

 が、その矢先。

 

 どんっと羽瀬川の方から俺に体当たりしてきた。

 あの状態から走れるのかという驚きもあったが、いや違う。 羽瀬川は体当たりしたのでは無い。

 

「はっ……忍ばせてたのがお前だけだと思うなよ。 はは、は……」

 

 見れば、先ほどの意趣返しのつもりであろうか。 俺の腹に羽瀬川の持っていた物が深々と突き刺さっていた。

 ただし、鉛筆なんて優しい物じゃく、ナイフが。

 ちょうど手のひらに収まる様な、映画で見た事もある小さなナイフだ。 さすが金持ち、護身用の武器もレベルが違う。

 

 で、それがなんだ。

 

「え、なんで───ぶっ!?」

 

 ヘラヘラ笑っている隙だらけの所にバットを叩きこむ。 脳天からぶっ叩かれた羽瀬川は、その場にぶっ倒れた。

 あいにくの事だが、もう、何の痛みも俺は感じていなかった。 何かが刺さってる感触はある。 常に絶えず何かが流れている感覚もある。 でも、体中が燃えるように熱いが、恐ろしい程に視界はクリアに、思考は鮮明さを保っている。

 ……きっと、これは本来起きてはいけない状況なんだろう。 何を言われるでもなく、自分が一番わかってる。 こんな状態がずっと続くわけもない。 これが終わったらきっと俺は。

 だからこそ。 最後まで、やれる事だけは果たさないと。

 

 突き刺さったナイフを、腹から抜き取る。 今更抜いたところから血がどうのなんて考えてられない。 俺はナイフとバットをそれぞれ持ちつつ、羽瀬川に向けて歩を進める。

 

「待て、よ……それ以上やったら、ほんとに殺しになるぞ……」

「後ろの奴に同じ事言われた時、お前なんて言ってた? 今更ビビるなよ」

 

 それに、

 

「お前が散々言っただろ、俺は人殺しの息子だって。 って事は、俺に()()()()()を期待してるんだろ?」

「そ、そんな……本当に、人殺しになるんだぞお前!? いいのかよ! 残った家族や友達に迷惑かける事なんだぞ!! いいのかよそれで!」

「……」

 

 残った家族や、友人? 今更、何を言ってるんだ?

 

「父親は居ないようなもんだし、母親はとっくに天の上だよ」

「な、なら友達は!? お前の好きな奴は!? 大事な奴は!? そいつらにお前と同じ辛さ味わわせていいのか!?」

「ぷっ、くく、ふふふ……」

 

 大事な人?

 好きな人?

 ああ。 居たさ。 ほんのわずかな時間だったけど、確かに俺のくそみたいな人生の中でもそんな人が居た。

 鬱蒼とした曇り空を散らして、世界を照らすような笑顔をする子が居たよ。

 それを、

 

「それを俺から奪ったのが、お前じゃねえかああああああああ!!!!」

 

 ──────そこからはもう、終わりに向かうだけだった。

 

・・・

 

 ――身体が、重い。

 鉛のような身体を引き摺りながら、苦労して倉庫の扉を開き、外へ出る。

 右足を前に出すが、うまく足が地面を踏み込めず、そのまま前のめりに倒れてしまった。

 

「……てぇ」

 

 受身も出来ずに顔から地面にぶつかった事に顔を顰めるが、それ以上に全身が痛く、熱く、俺は起き上がる事をせずに、倒れたままでいた。

 それでも何とか起き上がろうと左手を支えにしようとしたら、なんと動かない、折れでもしたのだろうか。

 ならば、ともう片方の腕で起き上がろうとしたが、そもそも力が出ない事に気づいた。

 直後に地面に自分の血が、しかも頭から流れた血が滴れて来たのを見て、あぁ、こんなに血が出たらなぁと納得する。

 

 分かっていたことだが、やっぱり、さっきまでの無敵モードは、時間限定だったらしい。

 

 仕方が無いので諦め、かと言って何時までも地面にキスしてるような格好はお断りだったので、痛む身体を無視しながら、無理やり身体を反転させてなんとか仰向けになる。 血が足りなくて視力が落ちてるからか、はたまたさっきまで暗い倉庫にいたからか、視界に映る空の色はどよんとした不鮮明な物だった。

 ふいに、頬に水が落ちて来る。 『あれ?』と思う間も無く、雨が全身を濡らし始めた、どうやら視力の良し悪しに関係なく、始めから空はどよんとしたままだったようだ。

 

 当たり前だ。 ここは瑞那。 曇が常に空を覆う、そんな街だ。

 冷たい水が身体に当たり、先ほどから俺を悩ませていた物のうち熱さは解消され……ダメだ、当たってない背中が熱い。

 

「……死ぬのかな、俺」

 

 自分の学校の敷地内にある倉庫の前に居るわけだが、あいにく今日は休校日で、この学校には今、俺を除いたら倉庫の中でおねんねしてる2人しかいない、警備員のオッサンぐらいなら居るかもしれないが、まぁ無駄な思考だろう、こんなに身体が痛いんだ、俺はこの後死ぬんだろう。

 

「……ちくしょう」

 

 自然と、意識するまでもなく口から言葉が出てきた。

 俺は、何を悔しがっているんだろう。 思考が切り替わり、自分の深層心理への探究へと血の足りない脳みそが動き始める。

 齢十八歳で死ぬことに悔しがっているのだろうか? 昔は人生五十年と言ってたし、今はもっと長い時代だ、二十歳にもならずに死ぬのはもったいない事この上ないだろう。 だがそれは違う、と思う。 心の中で答えを得た時特有のスッキリとした手応えが無いからだ、命が惜しいわけでは無いようだ、ならばなんだ?

 今際の際に、こんな寂しい場所で、たった一人で死んでしまう事だろうか? フランダースの犬の主人公だって、若くして死んだがその時には愛犬も一緒だった、家族や友人どころか犬猫すらいない場所で死ぬのは寂しい物かもしれない。 だがこれも違うと思う、やはり手ごたえがさっぱりだ。

 じゃあなんだ、そろそろ頭がぼんやりして来て時間が無い事を体感している、さっさと答えが欲しい、何を悔しがってるんだ。 ひょっとしたら、悔しいという感情の対象は、自分では無いのかもしれない、こんなに考えても思い浮かばないんだ、誰か他の人の事で悔しがっているのかもしれない。

 

「……あ、そうか」

 

 その考えに至ったら、驚くほどあっさりと、それこそ1+1の解を求めるよりも早く、答えが出てきた。

 だが、せっかく今際の際に待ち望んだ答えを得たのにも関わらず、期待していたスッキリとした手応えはなかった。 むしろ逆に、身体を蝕む痛みをゆうに超えた、全く別の『痛み』が、心の中に生まれてしまった。 この後に及んで自ら死期を早めるような真似をするとは、トコトン自分の間抜けさに呆れて来る。

 ああそうだった、俺は別に自分が死んでしまう事など構わない……と言うのは嘘になるが、今この時においてそれは然程重要な事でもなんでも無かった。

 そうだ、俺は、自分の命なんかとは比べものになら無い、大切なモノを失ってしまった事を、そしてそれをそのままにして、ここで死んでしまう事、それが悔しいのだ。

 

「……畜生っ」

 

 不意に、頭の中に過去の思い出が駆け巡った。 喜怒哀楽様々な物が詰まったその記憶の海の中には俺自身覚えて無くて、とうの昔に忘却した筈の物まであり、これが俗に言う走馬灯だと理解する。

 そして、その記憶の中には当然、“彼女”との思い出も沢山あった。

 

 幼い頃の、本当に何も知らなかった時の二人の思い出。

 今年になって再会してから、再び紡いだ二人の記憶。

 

 ああ、こんなにも。 こんなにも、胸を苦しめるのか。

 

「縁!!!」

 

 ふいに、自分の名前を呼ぶ声がした。

 信じられない、こんな場所に、誰が。

 

「縁、縁! ああ畜生! やっぱりかお前。 一人で行きやがって!」

「堀内……なのか?」

 

 もはや機能しない視力ではなく、かろうじて仕事する聴覚で、堀内が来たことを認識する。

 

「ああそうだよ! 俺だ。 なんでお前一人で行ったんだ、あいつの背中は俺が狙うって言ったろ!」

「あれ……本気だったのかよ」

「ったり前だろ!」

 

 改めて思えば、こいつも瑠衣と同じように、変に俺に絡んでくる男だった。

 何かあれば俺に声をかけて、遊びに誘って、塩対応な俺に愛想を尽かずに。 以前無理やり貸してきたCDも、聞いたら割とハマったのが癪に障ったんだっけ。

 でも。

 

「悔しいけど……お前居たから、退屈しなかったな」

「はあ? いまこんな状況で言うなよ、死別みたいだろ、今に救急車来るから待ってろ」

「見りゃ、わかんだろ。 もう遅いって。 だから、素直に聞いとけよ」

「だから、そういうのやめろって」

 

 相変わらず、話を聞かない奴だ。 でも、おかげで無様な最期が、少しだけにぎやかになった。

 

「ごめんな……きっと、こっからお前に迷惑が掛かると思う。 俺と一緒に居たから」

「良いんだよそんなの、もう喋んな」

「いや、言うわ。 お前と瑠衣と、一緒にいる時間な。 楽しかったよ、本当に、本当に……たのしかった」

「縁……畜生、救急車まだかよ!」

「堀……和人、最後にさ、頼まれてくれ」

「……なんだ?」

「瑠衣の、お父さんにさ。 つたえて……病院で泣くなっていってくれて、ありがとうございますって。 ……あと、本当にごめんなさいって」

「うん……分かった、絶対伝えるから安心しとけ」

「たのむな。 尊敬してるひと、だからさ……」

 

 もう、これで何も言う事はない。

 だけど、最後の最後に一つだけ、心の中で小さな祈りを口にした。

 

『どうか、俺の居ない世界では、瑠衣が幸せに生きていますように』

 

 それは叶う訳もない、むなしい願い。

 でも、俺はいるとするならば、こんな歳で、こんな寂しい場所で死なせる神に、この程度は仕事しろと思いながらソレを願った。

 

「ありがとう和人……ごめんな、瑠衣」

 

 目から、涙が溢れて頬を伝う感触を覚えながら、最後に、友達と、大好きだった娘の名前を呟いて、

 俺、頸城縁の人生は、呆気なく幕切れとなった。

 

・・・

 

「───ちゃん、お兄ちゃんっ」

「っ!!」

 

 妹、渚の声で、俺は意識を現実に引き戻した。

 信じられないものを見て、俺は一瞬だけ、意識を現実から逃避させていたようだ。 情けない。

 

 でも、今回ばかりは、現実逃避も仕方ないだろう。 なぜなら、

 

「えっと、君たち、兄妹……かな?」

「その墓に何か用が? それとも探してる途中だったかい?」

 

 俺の目の前に、成長した紬瑠衣と、その横に堀内和人がいるのだから。

 

「えっと、その……」

 

 何か言わなければ、頭ではわかっているが、フリーズしてるかのようにうまく機能しない。 このまま不自然に言い淀んで居ては、怪しまれる一方だ。

 だけど、だけど!!! いったいどうして、冷静になんて居られるというんだ。 今までも冷静な思考を求められる場面は多々あった。 でも、こんなのは初めてだ。

 だってそうだろう? 自分の目で確かに確認して、葬式にだって出た。 絶対に間違いなく死んでいる筈の瑠衣が、今こうして目の前に立っているんだ。 それがどうして冷静にいられる。

 

「あ、あの! 私たち、頸城家の親戚で、お墓参りに来たんです!」

 

 俺ではなく、渚が代わりに口火を切ってた。

 

「頸城家の、親戚……? もう10数年も誰一人として来なかったのにか?」

「本当の事なの?」

 

 当然、訝しげに問いただす二人。 さりげなく墓に親せきが誰も来てなかった事を知ったが、今はどうでもいい。

 

「はい、その、この前親族での集まりがあって、その時にその、頸城縁さんの話が出てですね……詳細を誰も話してくれなかったから、調べようと、今日ここまで来たんです。 ね、お兄ちゃん?」

 

 よく、そこまで急拵えで理由を作れるものだ。 渚の機転の良さに内心で感謝しつつ、ようやっと心が落ち着いた俺も、それに乗っかるように発言した。

 

「そうなんです。 あまり良くない事があったという事しか知らされず、気になったので妹と来たんです。 その……お二人は、ご存じなのですか? えっと……頸城、さんのこと」

 

 ああもう、何もかもが言いにくい! でも、いくら何でも、こいつら相手に本当の事を話すわけにも行かない。 隠さないと。 隠したうえで、いったい何が起きているのか、それを知らないといけない。

 死んだはずの瑠衣が生きていている。 きっと、この世界の頸城縁の過去に、頸城縁()の知らない何かがあるはずなんだ。

 もし、今日俺が渚に連れられてこの世界の瑞那に来た理由があるとすれば、きっとそれを知る為に違いない。 運命、なんて陳腐な言い回しは好まないが、きっとそういう事なんだろう。 それだけじゃない、この年になって、俺に前世の記憶が出てきたのにも関係があるかもしれない。

 

「ああ、俺たちは、縁の友人だった」

「なら、教えて頂けませんか? 昔、何があったのか。 誰も何も教えてくれないから、知りたいんです」

「……お兄ちゃん」

 

 渚がぽそっと呟いて、俺を見る。 そして、小さくうなづいた。

 

「私からもお願いします。 単なる興味本位で聞いていけない事なのは分かってます。 けど、何も知らないでいるのは嫌なんです」

 

 ぺこりと頭を下げて渚が言う。 追って俺もお願いしますと言いながら頭を下げた。

 わずかな沈黙。 先に口を開いたのは、瑠衣だった。

 

「……いいよ、分かった。 頭下げないで?」

「瑠衣、良いのか?」

「良いの。 貴方も、言うほど悪い印象、無いでしょ?」

「だけど、ペラペラ話していい事じゃ」

「分かってる。 でも、不思議ね。 何となくだけど、あの二人になら話しても良いって気になったの。 和君はそんな感じしない?」

「……わーかった」

 

 二人の中で、答えが出たようだ。

 ……色々、今の会話の中でも気になることがあるが。

 

「良いよ、話をしよう。 でも、ここじゃなんだから、街に戻ってからな。 二人はここまで何で来た?」

「ありがとうございます。 ここまではバスで来ました」

「じゃあ俺たちの車に乗りな。 けど、俺たちが縁に墓参りした後な。 あと、君ら、名前は?」

 

 言われて、一瞬考える。 素直に答えていい物かと。

 いくら見た目は完全に異なるといっても、フルネームで『野々原縁です』と答えていい物か。

 ダメだ、確実に話がややこしくなる。 偽名で通そう。

 

「小鳥遊、小鳥遊(たかなし)悠って言います」

「えっ……!? 妹の小鳥遊渚、です」

 

 とっさに、従妹の苗字と悠の名前を組み合わせてしまった。 渚もさすがに驚いてたが、怪しまれない範囲内でのリアクションにとどまったのが幸いだった。

 

「悠君に、渚ちゃんね。 じゃあ、ちょっと待っててね」

 

 瑠衣がそういって、頸城縁の墓前に向かう。

 

「……なんで、嘘の名前にしたの?」

 

 二人が墓参りしてる間に、渚が当然の疑問を小声で聞いてきた。

 

「あのまま縁って答えたら面倒になるかと思ったんだ」

「それにしたって、苗字がそのままでよかったとおもうけど。 わざわざ夢見ちゃんの苗字にする意味ないよね」

 

 確かにその通りであった。

 

「ごめんって。 まだ頭がちゃんと回ってないんだ」

「大丈夫お兄ちゃん? あの人たちと会ってから様子が変だよ?」

「あいつらは、頸城縁の友達で……女の方は、俺の記憶なら死んでるはずなんだ」

「えっ……どういうこと? それって」

「分からない。 だから、それを知りたいんだ。 ほんとはこの後帰るつもりだったけど、少しだけ、俺に付き合ってくれ」

「……うん。 私も気になるから、分かったよ」

 

 渚が納得してくれたのと同じタイミングで、二人の墓参りも終わったようだ。

 

「お待たせ。 じゃあ、行こうか二人とも。 場所は……」

「ファミレスは……そこでするような話でもないからな。 じゃあ、俺たちの家で良いか」

「俺たちの……ですか? えっと、お二人は」

 

 一瞬、余りにもサラっというから、聞き逃したワードに渚が食いついてくれた。

 俺『達』?

 

「ああ、ごめん、聞いといてこっちが紹介し忘れてた。 俺の名前は堀内和人」

 

 そんなのは知っている、言わなくていい。

 

「あたしは()()()()()()。 よろしくね」

 

 ……………………。

 

 人生で、一番ビックリした瞬間であった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雨が晴れた後-4

番外編 雨が晴れた後の最終回です。
最早いらない前書きですが、原作要素は薄い、今作の補完になる話です。
では


 堀内たちの車に乗せられて、俺と渚は二人が今住んでいるという家に向かう事になった。

 車に乗せられている間、渚は堀内たちと何処から来たのかとか、今何歳なのかとか、他愛もなければ当たり障りもない会話をポツポツと交わしていた。

 俺も聞かれた質問には愛想悪いと思われない程度に答えていたが、頭の中は殆どが、現状把握ないし落ち着きを取り戻す方向でいっぱいになっていた。

 未だに、後部座席から見る二人の後ろ姿を視認していても、自分の見ているものが信じられないでいる。

 あの時、俺は確かに、病院で死んだ瑠衣の姿を見た。 悪夢のような話だったが、夢でもなければ幻でもない。 葬式にも出席したし、墓前にだって立った。

 瑠衣は、間違いなく死んでいる。

 

 ……なのに、今、こうして、俺の目の前には成長した瑠衣が居て。 そして……、

 

「っ……」

「お兄ちゃん? 大丈夫? 顔色良くないけど」

「ん、平気。 車乗るの久しぶりだったから、少し酔っちゃったかもな」

 

 動揺が顔に出ていたのか、隣の渚に心配された。 正確には車酔いではないが、現状に酔いまわされてる様なのは事実なので、あながち嘘でもない。

 そんな俺の様子をバックミラーでちらっと覗きながら、瑠衣が言う。

 

「和君の運転、結構荒っぽいところあるもんね。 私も最初のころは車酔いしちゃった事あるし」

「は、はは……いえ、単に俺が車に慣れてないってだけですから、お気遣いなく」

「そうだぞ。 瑠衣の方が運転荒っぽいくせに。 この前お義父さんがぽろっと愚痴ってたんだからな」

「え、ええ? 本当それ!?」

 

 ああ、これだ。 この二人の関係。 これもまた俺の冷静さを失わせている要因だ。 

 この二人、今は結婚しているときた。 死んだ筈の瑠衣が生きていて、しかも堀内と結婚している。 こんな状況、驚愕かつ複雑すぎて、どう感情に現せば分からな……いや、違うな。

 分からないっていうのは、違う。 確かに信じられない事のオンパレードで、受け入れ難い事実のフルコースではあるけれども、それでも、確かに素直に喜ばしい事がある。

 

「……生きてるんだな」

 

 ぽそっと、誰の耳にも入らない様な声で漏らして、自分自身に聞かせた。

 そう、俺の記憶とは違って、この世界では、瑠衣は生きている。 生きているんだ、生きていてくれてたんだ。

 理由はまだ分からないけれど、俺の記憶している過去とこの世界の過去とで何かしらの差異があったのは間違いない。 でも、それはこの後分かるから良いんだ。 何はともあれ、瑠衣はあの『雨の日』を越えて今日まで生きていた、それだけは、本当に、心の底から嬉しい。

 

 ……でも、それだけじゃない。

 もう一つだけ、どうしても引っかかる事がある。

 それは瑠衣だけじゃない、堀内にも言えることだが、二人の表情が、()()んだ。

 会話自体は陰険なモノとは違う。 夫婦の近しい距離間から生まれる会話は、時折大きな声や笑い声を混ぜていて、そこは何もおかしくはない。

 でも、だけれど、二人を知ってるからこそ分かる事がある。 会話の合間合間、口が開いて言葉を紡ぐまでの間。 二人が見せる表情は、かつての様な朗らかさを明らかに失っている。

 明るく会話をしていても、どこか無理をしているような……心の底にいつも何か重い物を負ってるような。

 言ってしまえば、()()()()()()()()()()()()になっていた。 曇り空のように陰鬱で、鬱蒼としていて、常に雨が降り出しそうなハッキリしない雰囲気。 俺の記憶にある二人とはかけ離れた姿になっているんだ。

 

 それが、どうしても気に掛かる。

 

「ついたぞ、ここだ」

「あまり奇麗じゃないかもだけど、許してね」

 

 二人が言うように、車は二階建ての一軒家の前に止まった。

 もしかして、とも思ったが、二人が住む家は俺の記憶にある紬家の家ではなく、普通に初めてみるモノだった。 頸城縁()は堀内の家に行った事がないので、ここが元々あった堀内家なのか新築なのかは知らないが。

 

「お邪魔します」

「……おじゃまします」

 

 テンプレな挨拶もそこそこ、案内されるままに居間に上がった俺たちは、出されたお茶や菓子には手を付けず、本題に移ることにした。

 

「早速ですけど、教えてください。 頸城縁さんはどういう方だったんですか」

 

 渚が対面の二人に問いかける。 それに対してまず応えたのは、瑠衣だった。

 

「縁はね……いつも、何かに縛られて生きてる、そういう人だった」

「縛られてる……? その、何にですか」

「色んなもの。 家族の事とか、周囲からの事とか、彼の生きてる環境全てが、彼を縛り付けていた。 ……縁自身は、何も悪いことしてなかったのにね」

 

 瑠衣の言葉に続いて、堀内が言う。

 

「あいつの父親がな、犯罪起こしたんだ。 この街は空がしょっちゅう雲で蓋されてるから、話が広まるのも早くてな。 父親の因果が、子の縁に向いたんだ」

「みんな、縁と縁のお母さんを避けてた。 ううん、避けるだけじゃなくて、中には責める人達もいた。 それで縁のお母さんも、自分から命を……」

「そういう事、だったんですね……」

 

 言って、渚が横目で俺をちらと見た。 大まかな話はすでに聞いてるモノだったが、改めて明確に話を聞いた今、渚の中でどんな心境に至っているのだろうか。

 話は続く。

 

「私は、縁と小さい頃に一緒だったの。 さっき言った縁のお父さんが罪を犯してから、離れ離れになって、次に会ったのは、私が高校生になった時だった」

「幼馴染、だったんですか?」

「うん。 そういう事になるのかな……私はそう思ってたけど、縁にとってはどうだったんだろ。 最後まで聞けないで終わっちゃった」

「お二人は、当時は仲が良かったんですか?」

「小さい頃はいつも一緒にいたよ。 年も二歳違いだから、周りからは兄妹みたいってよく言われたし、私も縁お兄ちゃんって呼んでたな……懐かしい」

「そう、だったんですね……」

 

 渚がもう一度俺を見た。 何か、言いたいことでもあるんだろうか。

 頸城縁が、偶然とはいえお兄ちゃんと呼ばれていた事に驚きでもあったのかも知れない。 その辺りの話は全く話していなかったから仕方ない。

 

「ではその、高校生になって再会してからの二人は、どうだったんですか?」

「その時は、私は同じ学校に縁が居たって知らなくて、たまたま入学式の前に縁を見つけて、そこから話すようになったんだけど、彼はその頃にはもう、私の記憶とはかけ離れてた」

「口を開けば、割と面白いし、普通にノリがよかったんだけどな」

 

 それはお前の強引なノリに拒否するのもうんざりしたからだ、とつい言いだしそうな自分を抑える。 今は聴きに徹しなければ。

 

「うん。 和君の言う通り、いざ話すようになれば、雰囲気は変わったけど、縁は変わらず私にやさしく接してくれてた。 でも、私と会う前に色んな事があったんだと思う。 縁は私と一緒にいる時間を、悪いと思ってたの」

「それは俺に対しても同じだったな。 あっ俺は高校2年の時からあいつの友達だったんだけど、ずっと俺と居ない方がいいとか、迷惑かけたくないから話しかけるなって口にしてた。 3年になって瑠衣と会う頃には言わなくなったけどね」

 

 だからそれはお前があまりにもしつこくめげなかったからで……っと、いけないいけない。

 

「……お二人が、頸城さんにとっての数少ない心の助け、だったんですね」

 

 渚が今までの話を、渚なりに総括する。

 それは正しいまとめ方だ。 当時の俺も口にこそしなかったが、周囲に流されず俺に話しかけてくれた瑠衣と堀内の事を、ありがたいと思ってた。 だからこそ迷惑掛けたくないと思ったし、距離を取ろうともしたんだ。

 ……考えてみれば。 それは少し前までの園子とも通じる在り方だったのかもしれない。 園芸部と瑠衣や堀内(友達)、対象は異なるがお互いにとって大事なものを守る為に、他人から差し伸べられた手をありがたいと思いながらも、壁を作って、拒絶して……園子はその壁を壊して俺の手を取ってくれたが、頸城縁()は……。

 だから、ヤンデレCDの知識を持っていたのに、当時の俺は園子に力になろうとしたのかもな。 今となっては、もう、気にするまでもない話だが。

 

 ───話が脱線した。 とにかく、当時の俺にとって二人の存在は大事なものだった。 それは間違いのない話だが。

 二人の口から出たのは、意外な言葉だった。 いや、心外な言葉というべきか。

 

「───ううん、たぶん、違うと思う」

「後悔しても遅いのは分かってるが、余計な事ばかりしちまったかなって、思ってるよ」

『え?』

 

 余りにも予想外な両者の発言に、渚はもとより、聴きに徹するはずの俺まで驚きの声をあげてしまった。

 な、なにを言ってるんだこいつら!? 『たぶん違う』!? 『余計な事をして後悔』!?

 

「ち、違うんですか? お二人の話を聞くに、生前一緒に過ごす事が多かったと思ってましたが」

「私たちは友達だと思ってた。 でも」

「あいつにとっては、ただひたすらに、生きづらくなる枷になってた。 今となったら、そう思っちまうんだよな」

「それは、その───」

「なんでですか?」

 

 渚の言葉を遮って、俺が言った。 それは、俺が聞かなきゃいけない事だ。

 

「どうして、お二人の存在がぉ……頸城縁さんにとって枷になってたと、思うんですか?」

「……縁は、昔はとても明るい顔をする人だったの。 よく言ってた、この街はいつも曇り空だから、暮らしてる人もうす暗い顔ばかりしてるって」

「それが、なにか」

「再会した時の彼は、最初に言ったように周りから理不尽な目に遭って、すっかり暗い顔になってた。 彼が言ってた、曇り空みたいな顔に」

「そうかもしれませんが、だからこそ、あなた達が救いになってました。 お二人が居たからこそ、彼の人生は」

「お兄ちゃん、落ち着いて」

「───、すみません、ちょっと熱くなりすぎました」

 

 渚の言葉で一気に我に返る。 危ない、もう少し話してたら、装う事を忘れて完全に当事者のつもりで話していたところだ。 もっとも、既にだいぶ怪しいが。

 だが意外な事に、二人は俺を不審がるのではなく、ポカンと驚くに留まっていた。 話の内容や話し方よりも、先ほどまで黙っていた俺が熱く話し出したことの方が印象に残ったのかもしれない。 だとすれば不幸中の幸いだ。

 

「……ありがとう、そう言ってくれると、少しは救われるわ」

「一瞬、本当にアイツがそう言ったような気すらしたよ。 最も、あいつが今の俺たちを見たら、結婚してて驚くだろうけどな」

「……それは、間違いなくそうだと思います」

 

 冗談交じりに本音を告げて、話を続けてもらう。

 

「それで、結局のところ、何が彼にとって枷になったと?」

「あいつさ、死ぬ一カ月くらい前から、その頃転校してきた奴に執拗に絡まれてたんだよ」

 

 羽瀬川の事だろう。

 

「絡まれること自体はアイツも慣れてて、見てても上手に相手にしてなかった。 でも、それはアイツが自分の身だけを守る為に持ったスキルで、アイツの周りを守るものでは無かったんだよな」

「……っと、言いますと?」

「本人に相手にされないから、縁が仲良くしてた奴に対象が変わり始めてた。 それが俺だったらまだ良かったんだが、そいつが目を付けたのが」

「私だった」

 

 知ってる。 羽瀬川が瑠衣に興味を向け始めていたのも知ってた。 だから俺は一層、瑠衣と距離を取ろうとして、最悪の結果になった。

 既に目を付け始めてから距離をとっても、瑠衣を守れる奴が完全に居なくなるだけだって事を、その時の俺は全く理解していなかった。 馬鹿な、本当に馬鹿な話だよ。

 

「その人は、私に手を出そうとして、私も拒否したけど。 放課後屋上に居た時に、その人が何人も生徒を連れて私の所にやって来て」

「……」

 

 正直、聴きたくない箇所だ。

 だって、それはまさに俺の後悔である、瑠衣が死ぬ時。 その瞬間を、瑠衣の口から聞いてることになるんだから。

『俺が瑠衣のそばにいれば守ってやれたかもしれない』。 そんなどうしようもないifばかりを考えてしまう、取り返しのつかない過去。

 屋上で羽瀬川に襲われた瑠衣は、逃げるさなか背にしていたフェンスが壊れたことによって、屋上から───、

 

「そこに、縁が来てくれたの」

「───え?」

 

 今、なんて?

 誰が来た?

 

「縁がね、和君もだけど、来てくれて……助けてくれたの」

「え、えっと、は? 来たんですか? 頸城さんが? 助けに来たんですか」

 

 あり得ない。 嘘だろ? 俺が?

 

「ああ。 最初は瑠衣から距離を取ろうとしてたんだがな。 前に俺が縁に言ってたんだ、『あの手の人間はほっとくと増長する』って。 それを気にしてたから、急いで瑠衣の所に行くって言いだしてさ……二人で学校中探して、本当に偶然、瑠衣が危ないところに出くわしたんだ」

 

 ああ───。

 その言葉も、俺は知っている。

 確かに、確かに、堀内から言われた言葉だった。

 頸城縁()は、その言葉をしっかり刻み込んでおくべきで、それをしなかったから後悔する事になったが───、

 この世界の頸城縁は、しっかりと、堀内の言葉を頭に入れていたのか。

 

 だから。 だからか。 だからなのか。 それでなんだな!

 

 全ての疑問と見出した答えが合致し、目まぐるしい量の感情の波が、決壊したダムのように俺の中で全てを飲み込んでいく。

 

 そんな俺の心境を知らずに、二人の言葉は続いていく。

 

「瑠衣はすぐに助けた。 でも、あいつは……縁はそれだけじゃ止まらなかった。 後にも先にも、あんなに怒った頸城縁を見たのはあれが最初で、最後になっちまった」

「えっと、じゃあ頸城さんが亡くなられたのは、その時に……?」

 

 渚の問いは、疑問の体をなしてはいたが、確信に依った発言だ。

 聴くまでもない、きっと、怒り狂ったこの世界の頸城縁は、羽瀬川と取っ組み合いにでも発展して、最後は例のフェンスにでも寄って。

 

「そう、なの。 相手と喧嘩になって、偶然体が寄りかかってたフェンスが脆くて、一緒に落ちて……そして、縁は……」

「瑠衣、もういい。 そういう事だ。 そうして縁は死んでしまった。 俺も目の前で呆然と見てるだけで、助けられなかった」

「それが、頸城さんが亡くなられた理由だったんですね……。 って、お兄ちゃん、どうしたの?」

「お、おい、大丈夫か?」

 

 急に渚が驚いた顔して俺を見る。 次いで堀内まで深刻な顔をし始めて、言われた俺が驚いた。

 

「ごめんね、嫌な話だったよね? はい、これで涙拭いて」

 

 そう瑠衣に言われて、差し出されたハンカチを見て───そこで僅かに綾瀬を思い出しながら───、そこまで言われて、初めて自分が泣いている事に気づいた。

 気づいたら最後、一気に抑圧されていた感情が、さらなる涙と嗚咽になって、表に出てきてしまった。

 

「あ、あれ……すみ、ません……こんなつもりじゃ、なかったんですけどね? はは……ははっおかしいな」

 

 嬉しい。

 本当に嬉しい。

 瑠衣が生きていた事が。 生きている理由が。

 頸城縁()が臆病で出来なかった事を、この世界の俺は成し遂げていた。 その事実が、どうしようもない程に嬉しいんだ。

 よくやった、この世界の頸城縁に、形容しがたいほどの感謝を賛辞を述べたい。 無様に生きて死んだ頸城縁()なんかとは違う、この世界に生きた頸城縁は、600倍真っ当な人間だった。

 それが分かって、改めて瑠衣が生きている事が真実心に染み込んできて、それで、涙が出てきたんだ。

 瑠衣に何もしてやれなくて死んだんじゃ無い。 頸城縁の死が、その後10数年に渡る、いやもっとこれから先も続く瑠衣の未来に繋がったんだ。 こんなに嬉しい事は、無い。

 

 でも。

 

「お二人が自分を枷だと言ったのは、そこからなんですね」

 

 見透かした俺の言葉に一瞬間を置いて、堀内が首肯する。

 

「そうだよ。 俺たちがあいつの言う通りに関わりを辞めていれば、アイツが死ぬことはなかった。 今となってはそう思うばかりなんだ」

「……うん。 私たちは縁と一緒にいて本当に楽しかったけど。 縁にとっては、苦しみの種でしかなかった。 事実、私が理由で、縁は死んだもの。 私が、縁と一緒に居たいって気持ちを押し付けてたから……」

「そ、それは違うと思います! 悪いのはあくまでも瑠衣さんを襲ったり、頸城さんをいじめようとした人じゃないですか!」

「だとしても、私たちが彼を追い詰める要因になったのは、間違いないよ」

「そんな……」

 

 渚が力なく言葉を失う。

 こればかりは、完全な第三者である渚にもどうにもできない領域だろう。 どこまで行っても、どんなに話を聞いても、当時を生きてきた二人にしか分からない世界なのだから。

 それを知ってるからこそ、渚も何も言えなくなって沈黙するほかないんだ。

 

「お兄ちゃん……」

 

 渚が何か言ってほしいように、俺に言葉を促す。

 いつの間にか俺と同じくらい、話に感情移入してくれてる渚に、感謝と愛おしさを抱くが、俺はそれに対して、黙って首を振るだけだった。

 

「どうして……?」

 

 主語のない疑問だが、言いたいことは分かる。 渚にとっては第三者だが、俺は違うだろうと言いたいのだ。

 でも、これは既に俺にとっても別の話になっていた。

 元より、俺は野々原縁。 渚と同じ、本来なら完全に赤の他人の話だ。 今は親戚をよそっているが、それにしたって、瑠衣たちにどうのこうの言える立場ではない。

 では、頸城縁()にとっては? これも同様だ。 この世界の頸城縁は、頸城縁()と異なり、為すべき事から逃げず、言い訳をせず、最後まで生き抜いた。 同じ頸城縁かもしれないが、もはやその時点で、口を出せる資格は無い。

 

 ……もちろん、言いたい事はある。 でもそれは、この世界に生きた頸城縁()が言うべき言葉であって、頸城縁()の出る幕では、無いのだ。

 

「お話、聴かせていただいてありがとうございました。 つらい経験を話して貰ってすみません。 親戚には話せませんが、俺も渚も、今日の話をちゃんと胸にしまっておきます」

「そっか。 ありがとう。 縁も、君達の事は知らないけど、一人でも縁の事を分かってくれた人が居るだけで、浮かばれると思う」

「二人とも、わざわざ瑞那まで来てくれてありがとうね。 帰りは電車でしょう? 駅まで送るわね」

「先に言われたな。 車で送るよ。 ……じゃ、行こうか」

「最後まですみません。 ご厚意に甘えさせていただきますね。 渚、帰るよ?」

「……うん。 和人さん、瑠衣さん、ありがとうございました」

 

 結局最後まで、渚は納得する様子もなく、車に乗ってからは終始沈黙のまま、駅までついた。

 駅に着くと、電車が来るのはちょうど2分後と言ったところだった。

 俺たちは急いで改札口まで向かい、先に渚が二人に頭をぺこりと下げてから改札を通ってホームに行く。

 俺も渚に倣って、二人に最後の礼を述べようと───おそらく、最後の別れを告げようと───、二人に振り向いた、その時だ。

 

「俺たちさ、来年子供が生まれるんだ」

 

 急に、堀内がそんなことを言い出した。

 

「そうなんですか、おめでとうございます」

 

 それ以外、何も言える言葉がない。 素直に喜ばしいと思える。

 

「最後にさ、俺から聞いていいかな。 時間ないのにごめん」

「なんです?」

「……どうして、瑠衣の旧姓を知ってたんだ?」

「和君……?」

「言ってたんだよ。 さっき家で、瑠衣の事、紬さんって。 俺たち一回もその名前出してなかったよな? なんで……知ってたんだ?」

 

 余りにもさりげなく俺が口にしていた失言を、こいつは、聞き逃していなかった。

 ふふ、流石だよ、頸城縁の友人なだけあって、面倒くさい奴だ。

 でも、この世界の俺は知らなくても、頸城縁()は知っている。 こいつは、俺なんかの死に際に駆け寄って、最後まで死ぬなって言ってくれる、そんな最高にいい奴だ。……だから、そんな堀内に嘘をつくのは、もうしたくないのだけど。

 

「……さすがに、それくらいは聴きましたよ。 親戚の集まりの時に。 まさか結婚してるとまでは、知りませんでしたが」

 

 それくらいが、安パイな嘘だろう。 許せよ、和人。

 

「そっか。 だよな……ごめんな。 なんか君、全然雰囲気も顔も声も違うのに、なぜか変に、アイツに重なって見えちゃってさ。 つい、変な事聞いちゃったわ」

「───!!」

 

 やめろよ。 せっかく、抑えてるのに。 出しゃばらないように、我慢してるのに。 最後の最後になって、いつもお前は急にそういう事をし出す!

 

「私も、……私もね」

 

 瑠衣、頼むから、もう黙って、

 

「最初、縁のお墓の前に君が立ってるの見て、本当に、縁が居るように見えてたの。 だから、かな……君と渚ちゃんが一緒にいるの、昔の私と縁を思い出しちゃってた」

「もう、会う事ないかもだけどさ。 君たちは、長く生きてくれな。 目の前で親友に死なれるのって、想像以上に心に来るから、さ」

「これからも、元気にね。 幸せに楽しく、だよ」

 

 だから、それを。

 今、全然幸せそうじゃない顔で。

 今、全く楽しめていない顔で。

 今も、ずっと後悔し続けてるその口で。

 自分たちが素直に幸せになれてないくせに、人に言うのをやめろよ!!!!

 

「……はい。 ありがとう、ございます。 お二人ともお元気でっ」

 

 限界まで心を締め付けて、水一滴分の感情すら押し殺して、俺はかりそめの言葉を口から放ち、踵を返す。

 後は改札を抜けて、電車を待って、電車に乗って、帰るだけ。

 それで、この時間は終わる。 今日という、長くて短い物語は終わる。 渚も待ってるんだ、さっさと行こう。

 足を一歩前に踏み出し、改札に帰りの運賃をチャージしてあるカードをかざして、

 

 

『──────本当に、それでいいのか?』

 

「っ!」

 

 手が止まった。

 いや、何をしている。 止めるな。 行け、行けよ。 もう頸城縁()の出番はないんだ、さっさと、

 

『そうしてまた、逃げて終わるのか?』

 

 違う、逃げてるわけじゃない。 本当に、出る幕がないんだ。 資格がないんだ。 だから、

 

『だから?』

 

 だから……、俺は、もう、

 

「違うよな?」

「え?」

「悠くん? 違うって、何が?」

 

 口に出た、この言葉は、ほかでもない、野々原縁()の言葉だ。

 今日一日、ずっと頸城縁の記憶と意識に身を委ねていた、『今この世界を生きる人間()』の言葉だ。

 

 ああ、そうさ。 違うぞ、何をせせこましい理屈としゃらくさい理論で身を固めているんだ。 馬鹿らしい! ああ馬鹿らしい!

 あの二人に声をかける資格があるのは、別の世界に生きた頸城縁()じゃない? そんなの知った事か! 俺は野々原縁だ、そんな死人の未練に、突き動かされて、同じような後悔してたまるかって話だよ。

 何も知らない野々原縁だけじゃ言えないだろう。 知ってるからこそ頸城縁()では言えない事もある。 でも、俺はそのどちらでもない。 今を生きて、この世界で生きて、頸城縁を知っている俺だ。

 なら、言えばいい。 言ってしまえ。 そんな勝手に作った縛りなんて、野々原縁が従う理由は、無いんだから。

 

「あーー、ったく。 もう、そうだよ。 その通りだよ。 そうだよな」

 

 ありがとう、野々原縁()

 

「全くよ、どうしようもねえな、二人して!」

「ゆ、悠君!?」

 

 身体を二人の方に向き直して、開口一番俺は言った。

 急変した俺の言動に、二人は驚愕する。 ああ、急に何を言い出したのかと思ってるんだろう。 だが知ったこっちゃない、こちとらお前たちに会ってからこっち、ずーーーーっとそういう気持ちになってたんだからな。

 

「瑠衣、あんなに太陽みたいな笑顔浮かべてたお前はどこに行ったんだよ? 久しぶりに会った俺がすっかり街の人間らしくなったって言ったが、俺から言わせたら今のお前がまさにそうだよ」

 

「それに、とんでもない勘違いしてやがる。 お前たちが俺にとって枷だった? 死ぬ原因だった? 冗談じゃない、冗談じゃないよ!」

 

「俺はな、一人でも何とか生きて行けたかもしれない。 二人と会わなかったら、高校卒業してたかもしれない。 でもな、でも!」

 

「そしたら俺はきっと、そのあとの人生で勝手に死んでたよ。 きっと。間違いなく自分で死んでた。 お袋みたく、ドアノブにタオル掛けてゆっくり自殺してたさ! なぜかわかるか?」

 

「なかったからだよ、お前らと会わなかった人生には、まともに、純粋に、心から楽しいって思える記憶が無いから。 だからきっと死んだ!」

 

 涙が、また勝手にこぼれだした。

 

「逆なんだよ! お前たちは、俺にとって、あの頃の俺にとって、どうしようもない位に生きる理由だったんだ、糧だったんだ! 勝手に絡んで人の言う事も聞かない和人のおかげで2年の時は楽しかったし、3年になって瑠衣と再会した時、お前の方から俺を見つけてくれた時、本当に、……嬉しかったんだ」

 

 だから、俺は、

 

「だから、大事だったんだ。 だから俺は死ねたんだよ! 瑠衣。 お前以外の人間の為に、俺が死んだりするもんか。 お前たちと一緒に居た時間が何より楽しかったから、俺は死んだんだ!」

 

「それを、自分たちのせいだなんて、言わないでくれよ。 俺が死んだことで、お前たちの将来が曇り空になるなんて、言わないでくれよ」

 

「俺は、死んだけどさ。 でも、だからこそ、お前たちには、死ぬまで幸せでいて欲しいんだ。 それが我がままだとしても、それだけが、頸城縁として生きた人間の最後の願いなんだから」

 

 そうだ。 それを忘れていた。 たとえ死に方は違っても、今わの際に願う事は、同じだったはず。

『どうか、瑠衣が幸せでありますように』。

 なら、俺がこの世界を生きた頸城縁()の代わりに言葉を伝えるのは、何も間違ってなかったんだ。

 

「きっと、どんな世界に居たって、どんな死に方したって、変わらない。 頸城縁にとって、瑠衣が幸せでいることが、何よりの願いなんだからさ」

 

 ああ、言った。 言い切ってやったさ。

 だから、今度こそ、もう終わり。

 

「───なんてきっと、二人が一緒に生きた頸城縁さんなら、言うんじゃないかと思います」

『……』

 

 俺の言葉に、何を感じたのか。 二人は黙って……いや、堀内はうっすら、瑠衣はハッキリと涙を流しながら、俺を見つめていた。

 冷静に考えれば、今日あったばかりの子供が知ったようなでぺらぺら口にしただけ。 一方的だが、仮にそう受け取られても、悲しいが構わない。 とにかく、二人の中にある後悔が、消えるきっかけに成ってくれれば、それでいい。

 そう思っていた俺の背後から、渚が思わぬ声をかけた。

 

「もう電車来るよ、急いで! ()()()()()()()!」

「縁……!?」

「ああ、今行くよ!」

 

 このタイミングで、渚が本名で呼び出した。

 でもちょうどいい、俺は渚に返事して、勢いよく改札を通って、渚の隣に行く。 確かに、電車は既にホームに向かってくるのが見えるところまで来ていた。

 

「ま、待って!」

 

 瑠衣の声。 それ自体に応えるつもりはなく、しかし、俺は今一度、改札の向こうにいる二人に振り向いた。

 

「ごめんなさい、最後に1つだけ。 俺の名前は野々原、野々原縁です」

「縁……、嘘だろ? まさか、本当に」

「縁、縁なの……? 私、ずっと」

 

 その問いに答えることはせず、だけれど、俺は最後にもう一回だけ、()()()()()()()()()

 

「和人! 瑠衣の旦那になったんなら、絶対に瑠衣を泣かすなよ! 悲しませたりしたら、墓から出てきてぶっ殺してやるからな!」

「ああ……ああ!」

「そして、瑠衣」

「うん……何? 縁」

「やっぱ、瑠衣は笑顔でいるのが一番だよ。 来年には子供生まれるんだろ? なら、今のうちに笑顔取り戻せよな。 お前の笑顔は、世界で一番なんだから」

「うん……分かった。 私、頑張る、頑張るからね」

 

 電車が来た。 ドアが開く。 二人の方を向いたまま、体だけ車両の中に入る。

 ああもう、本当に時間がない。 だから、次にいう言葉が本当に最後だ。

 

「二人とも、結婚おめでとう!! こっから末永く生きろよ! 生きて、生きて生きて、生きてくれ! どうか…………どうか、幸せにね!!」

 

 そして扉が閉まった。 電車は速やかに駅を離れ、瞬く間に二人の姿は見えなくなり、やがて瑞那からも遠ざかっていく。

 最後の俺の言葉に、二人がどう答えたかは分からない。

 けど。 けれども。

 

「お疲れさま、お兄ちゃん」

「……ありがとう、渚」

 

 俺たち以外、誰もいない車両の中で。 渚にゆっくりと頭を撫でられながら。

 止めどなくあふれる涙をなすが儘にする俺の中に、もはや思い残すものは無かった。

 

 さようなら、瑠衣。 和人。

 どうか、幸せに。

 

 

 

 ・・・

 

 二人が去ったあと。 堀内和人とその妻、瑠衣は、過ぎ去った電車の残滓を見るように、その場にたたずんでいた。

 何人かが怪訝そうに二人を見やるが、そんな視線など意に介さず、そのまましばらくしてから、瑠衣が和人に言った。

 

「縁が、来てくれたんだね」

 

 先ほどまでここにいた少年。 最後に自身の名を縁だと明かした少年。 彼が最後に自分たちに見せた振舞いや言動は、確かにかつて自分たちが共に過ごした男のそれであった。

 だが、死人が姿を変えて現れるなどあり得ない話である。 当然鼻にかけるまでもない戯言であるが、和人はその言葉に頷きを返した。

 

「言われちゃったな。 曇り空みたいな顔するなって」

 

 それは、生前の彼が最も嫌うものだったから。 ならば、

 

「ちょっと時間かかりそうだけど、戻らないとな。 昔の俺たちに、ううん昔以上に!」

「そうだね。 じゃないと、お墓から出てきちゃう」

「ははは、どっちの縁が来るのか、それはそれで気になるけどな!」

「もうっ!」

 

 二人でひとしきり笑いあって、そうして、二人はこれが久しく心から笑った瞬間だと気づいた。

 

「やっぱ縁だな。 こんなに笑ったの、アイツと居た時以来だ」

「うん。 でも、もう縁抜きでも笑えるようにならないとね」

「ああ。 アイツに言われたが、瑠衣の笑顔は、世界で一番だからな」

「……うん!」

 

 瑠衣がそう答えた直後、

 

「あっ───空が」

 

 いつの間にかあれだけ空を埋め尽くしていた雲が消え果て、空には瑞那にとって久方ぶりの太陽が浮かんでいた。

 

「ああ、空が青い……」

「……奇麗だ」

 

 瑠衣が歓喜に溢れる表情で、空を見上げる。 和人はそんな瑠衣の様子を見て、胸中で決意を固める。 先ほど、少年の姿を借りた親友に言われた言葉を握り締めて。

 

「貴方だけが背負う話じゃないよ?」

 

 瑠衣が言う。

 

「二人で。 幸せになっていこう? 改めて、これからもよろしくね、和君」

「……ん。 よろしくな、瑠衣」

 

 かつて二人と一緒にいた彼が何よりも愛した、太陽のような笑顔を。

 この先は、二人で守って、未来に持っていこう。

 

 

 

 雨が晴れた後、二人の道には、燦燦と照らす陽光が差し込んでいた。

 

 

 END.




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
後ほど、活動報告で今回の細かい話などしようと思います。
では


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 綾小路編
第壱病・ツキナミ


日常系ヤンデレCD二次創作第二章です
ごちうさやのんのんびより見る感覚でお楽しみください
私はどっちも見てません、がっこうぐらし!難民です


 思えば、自分の高校二年生はかなり波乱な幕開けであった。

 『前世の記憶を思い出す』なんていう馬鹿みたいな出来事から始まり、自分の周りの人物が、前世では『創作の世界の住人』で、しかも『下手な行動をとったら殺されるヤンデレ』ばかりだと判明し、ただ悠々と青春を過ごすだけで良かっただけな筈の俺の人生は、一瞬にして胃薬が必要な人生に豹変した。

 俺がこんな世界の人間になってしまった理由は分からないまま。 しかも前世の自分が知っている創作の世界と異なり、向こうでは『現実』の人間だった筈の頸城縁(オレ)は、この世界でも過去に死んでいた。 当然、この世界における現実で、だ。

 

 そういう、色々とワケの分からない世界の中で、最初は創作の世界と重ねて周囲を見ていた俺も、修羅場をくぐり抜けたり、コミュニケーションを交わすうちに、次第にこの世界とそこに生きる人達をハッキリと、『今を生きる人間』だと認識する様になって行った。 結構、この辺の葛藤もあった気がする。 たった数ヶ月の間の話なのに、もう3、4年も経った様な懐かしさを覚えるから不思議だ。

 

 さて、冒頭からへんてこな話をしてしまったが、続けて改めて自己紹介をしたいと思う。

 俺の名前は野々原縁、仕事で何ヶ月かに一回しか帰って来ない子供不幸者な両親の建てた家に、妹の野々原渚と2人で暮らしている。 家事は分担で、月水金が俺、火木土は渚、日曜は2人で……という塩梅だ。 先述したが前世の自分、頸城縁の人生の記憶を思い出した事が切っ掛けで結構大変な思いをしたが、夏休みを経てだいぶ落ち着きを取り戻し、今ではそこそこ快適な人間関係を築ける様になった……と、思っている。 あくまで主観だが。

 

「あ、お兄ちゃん、おはよう。 今日はいつもより早く起きたね」

「おはよ。 まあ、始業式だからな。 こういう日くらいはしっかりしなきゃ。 というか、今日の朝食担当は俺なんだし、渚こそもうちょっと寝てても良いんだぞ」

(アタシ)はいつもこの時間に起きてるし、お兄ちゃんみたいに遅くまで起きてないから平気だもん」

「うっ、朝っぱらから耳が痛い……」

 

 早朝からありがたいお言葉を耳朶にぶつけてくれたのが、妹の野々原渚。 俺に似ないで華奢で可愛らしく、今日も日光に照らされた亜麻色の髪と薄ピンクのリボンが愛らしい。 兄妹仲は悪くなく、数ヶ月前も本音で語り合いをしたくらいだ。 頸城縁の記憶では創作上の人物として、兄を刺し殺すヤンデレとして描かれていたが、俺の妹の渚は今の所そんな雰囲気はない。 今でもたまに包丁握ってる姿に背筋がひやっとするのは内緒の話だ。

 

「下ごしらえは昨日のうちにしてたけど、少し時間掛かるし、それまでテレビでも見てなよ〜」

「ううん、お兄ちゃんが料理してる所見てるからいいよ」

「いや、そんな所見たって何も面白くないでしょ君……」

「そんなことないもーん。 朝料理してるお兄ちゃんの背中を見られるのは、渚だけの特権だし」

「あーー……はい。 うん、そうですか」

 

 可愛い事言いやがって、この妹め。

 今の様に、渚はあの日―――俺と渚の間にあった確執が消えた日を境に、こんな風にハッキリと好意を示す様になって来た。 いや、好意を示すと言うよりも、ハッキリと思っている事を口にする様になった、と言う方が正しいか。

 それまでも渚は俺に対して好意的な態度だったけれども、それまでは薄皮一枚分あった壁が取り払われて、より遠慮が消えたと言うか、俺に『野々原渚はどういう人間なのか』を見せる様になった。 その変化を見て思い起こされるのは、渚が園芸部に入部する事を決めた時に、俺に言った言葉だ。

 

『こ、これから……お兄ちゃんの事、お兄ちゃんがどんな人なのか知っていくから……だから、私の事も近くでみてね……ヨスガ(・・・)

 

 きっと渚はこの言葉を実行しているんだ。 何故なら、俺と渚は互いに認識のズレがあった事が切っ掛けで衝突してしまったから。

 俺は渚に『寂しい思いをさせなければ何も起きない』と思い込み、渚は自分の理想的な『お兄ちゃん』を押し付けた。 きっと互いに深く踏み込んでしまったら、その思い込みと押しつけの上に生まれていた調和が崩れてしまうと分かっていた。 薄皮一枚分の壁とは、すなわちそう言う事だ。

 だけどそんな欺瞞の上で出来た関係なんて、いつか絶対に崩れてしまう。 それは前世で聞いたCDだろうと、この現実だろうと同じ事だ。 そしてその通り、俺と渚は主張の対立を引き起こし、あわや……という事態にまでなった。

 あの時は綾瀬が居たから何とかなったが、俺も渚も、もう二度とあんな事態は避けたい筈だ。 だから自分の考えや主張を、俺にしっかりと明かす様になったんだろう。

 でもそれは同時に、俺の事もしっかり『視ている』という事になるワケで。 当然、俺も渚に対してはこれまで以上に誠心誠意……いや違うな、取り繕ったり誤摩化したりせず、『今の野々原縁』を見せて行く事を心がけている。

 

 たぶん俺と渚は、少し前まで『兄妹』という土台の上にあぐらをかいている、何か別の関係だった。

 きっと今は、俺達が改めて『兄』と『妹』としての関係を構築させて行く……そんな時間なのだと、勝手に考えている。

 

 ・・・

 

「そういえば、お兄ちゃん。 ずっと気になってる事があるんだけど」

 

 朝食の用意を終えて、2人で向かい合わせに食事をとっていると、思い出したかの様に渚が俺に問いかけた。

 

「昨日は結局、1日何してたの?」

「……」

「……お兄ちゃん?」

「……ふぅ」

 

 実はまだ一回も飲んでないけれど、いい加減常備しようかな、胃薬。

 どうしてこの妹はいつもいつも、答えにくい事をいきなりぶっ込んで来るのだろうか。 誰に似た。

 

「そっか。 やっぱり女の人と一緒に居たんだね」

「あ、察しつきました?」

今の(・・)お兄ちゃんが言い淀む時なんて、それしかないでしょ?」

「そんな事ないよ。 でも、なんで分かった?」

「どうせお兄ちゃんの事だもん、また柏木さんの時みたいに自分から面倒事に関わったんでしょ?」

 

 手にあごを乗せてやれやれと言った口調で話す渚に、俺は内心かなり驚いた。

 俺が園子の件にどうして関わる事になったのかは過去に説明していたから、その話を渚が口にする事自体は驚く程のモノではない。

 じゃあ何に驚いたのかと言うと、渚がまだ経緯を聞いて無いのに、俺が善意で人(しかも女の子)に関わろうとしたと確信している上に、その行動を否定していない事についてだ。

 何も知らない人がそれを聞いても『だからなんだ』と首を傾げるだろう。 だが俺にとっては違う。 だって、先述した渚との喧嘩の際に、渚は俺にこういったのだから。

 

『あなたは、お兄ちゃんじゃない』

『お兄ちゃんは、率先して赤の他人の為に動くなんて面倒な事はしなかった』

『お兄ちゃんは、私の気持ちを慮ったり気を揉んだりする事なんてなかった』

 

 『面倒な事には自ら手を伸ばさず、他人の気持ちに疎い』。 それが、渚が肯定する『兄』の姿であった。 それが人から見てどのように映るかなどは問題ではなく、渚にとって『自分の兄』とは『こういう人間でなければならない』という不文律だった。 そこから逸脱した俺を、渚は兄では無い赤の他人だと、かつて断言した。

 俺が先程渚に昨日は何をしていたのか? と問われて答えに窮した最大の理由がそれだ。 別にやましい事は全くしていないのだから、昨日女子と一緒に行動していたという事実を話す事は躊躇わない。 けれども、出会う過程が、以前渚が俺を否定した理由に完全に合致する。 あの時から何ヶ月も経っているこそいるが、やはり渚にまた拒絶や否定をされないかと、心の中で竦んでしまった。

 

 でも、渚はそんな俺の不安を一蹴する様に、かつてとは真逆の態度を見せた。 俺が『他人の為』に『面倒な事態に進んで関わる』事を詰りながらも、『どうせお兄ちゃんの事だから(・・・・・・・・・・・・・)』と野々原縁()を兄として肯定する言葉を言ってくれたんだ。

 だからそれは、かつて渚の中で渚を完全に満たしていた『お兄ちゃん』という理想を『兄』とするのではなく、今目の前に居る俺を『兄』と受け入れてくれたって事になる。

 正直に言って嬉しい、本当に嬉しい! まだどの位かは分からないけれども、少なくともあのときよりは俺を兄だと認めてくれているんだから。 こんなの他所の家庭からしたら『当たり前の事』だろうけど、それでも俺は嬉しいんだ。

 

「えっと、お兄ちゃん? 急に驚いた顔になったり嬉しそうな顔になったり、忙しそうに表情変えてるけど、まだ昨日何があったのか何も聞いてないんだけど……?」

 

 よほど俺の気持ちが顔に表れていたのか、渚は珍しく怪訝な目で俺を見やった。 いけない、と気を取り直して渚に昨日起こった事のあらましを説明した。

 

 夏休み最後の日を惜しんで普段歩かない道を通ったところ、そこで不審な男に詰め寄られてる少女を見つけて、少女のお願いを聞き入れた俺が少女を連れてその場を離れた事。

 少女はこの日初めてこの街に来て右も左も分からないので、仕方なく。 本っ当に仕方なく、街を案内した事。

 最後に俺が案内した場所にどこからか少女の迎えが飛んで来て、その中に親友の悠が居た事。

 そして―――、少女の正体が悠のイトコで綾小路本家の長女、『綾小路咲夜』だった事。

 

 たった1日の、特に大きな出来事でもなかったが、渚は俺が話す事に逐一相づちをして返した。 そうして最後までしっかりと聞いてから、渚はジト目になりながら言った。

 

「……ほんっとうに、お兄ちゃんって余計な事に関わるよね。 その上流されやすいって所は変わらないままだし、なんでそこだけはしっかりと昔のままなの?」

「うっ、しょ、しょうがないだろ。 面と向かってお願いなんてされたら簡単に断れないのが―――」

「だいたい、一緒に居る時間が短くなかったのに悠さんの親戚だって分かったのが別れる直前ってどういう事? もっと早くに聞いて分かっていたら、さっさと悠さんに電話して終わりだったじゃない」

「そうは言ってもな、あいつかなり高圧的で名前聞いても教えなかったんだぞ?」

「それならそれで街案内までしなくても良かったよね。 なんだかんだ言ってお兄ちゃん、女の子と街を歩き回る事が楽しみだったんじゃないの?」

「そんな恐い事誰が楽しめるか!?」

「でも結果的には同じ事だよね?」

「……出来れば、結果ではなく過程の方を評価していただきたい」

 

 怒っている様子ではないが、こういう風に冷静な口調でじわじわと問いつめられるのも結構キツい。 真綿で首を絞められるとはまさにこの事か。

 とは言っても、繰り返すが渚は別に怒っては居ない。 呆れているだけだ。 だからこれ以上の追求をする事は無く、ただため息を1つこぼして、最後に、

 

「お兄ちゃんが昔からそう言う人なのは分かってるけど……そうやって後先考えないで行動してると、いつか取り返しのつかない事になっちゃうよ?」

 

 そう言って、うなだれる俺の顔に右手を伸ばし、額を指で軽く突っついた。

 地味に今の一言は心を抉ったが、ぷにぷにと額を押す指の感触が割と心地いいので甘んじてその言葉と共に受け入れる事にした。

 

「……まぁ、―――」

 

 まぁ に続けて小声で何かを呟いていたが、それが何かは聞かず、俺はその後淡々と朝食を口に運ぶ事にしたのだった。

 

・・・

 

 食事を終えて食器を洗っている俺の背中に、布巾でテーブルを拭いている渚からの言葉が当たった。

 

「あ! ちょっと待って! 駄目だよ! お兄ちゃんに一番聞かなきゃいけない事がまだ残ってるの思い出した!」

「えっ、まだ何か?」

 

 もうだいたいは話終えたと思ったが、何か残っていただろうか? そんな気持ちを包み隠さず言葉に乗せて返した俺に、渚は『充分あるよ!』と言い返しながら、玄関の方へぱたぱたと何かを取りに向かった。

 我が家の玄関には、メモ帳代わりの小さいホワイトボードが掛けてあって、ミニ磁石で何かを貼付けたり、マジックペンで何か書いたり出来る。 だがその気になれば携帯端末で簡単にメッセージを送り合える現代社会、玄関のホワイトボードはもはや単なる装飾品でしか無い筈なのだが、いったい渚は何をしに―――、

 

「―――あっ」

 

 そこまで思想してから、ようやく俺はある事を思い出した。 そもそも渚は昨日の夜、結局遅くまで友人の家で宿題の処理に追われて(後半は主に友人の手伝いだったそうだが)、帰って来たのが夜遅くだった。 送り迎えは向こうのご両親が親切でやってくれるとの事だったから、俺は帰宅して上記の内容を電話で渚から聞いた後、粛々と夕食を済ませて眠った。

 だがこの日、俺は咲夜から別れ際に『あるモノ』を、街案内の謝礼として貰っていたのだが、それを部屋に持ち込む気分になれず、かといっていい加減な場所に置き捨てるわけにもいかず、珍しくホワイトボードに磁石で貼付けていたのだ。

 

「やっば……すっかり頭の中で無かった事にしてた」

 

 俺が思い出したのと同時に、玄関からそれを回収した渚が、俺にやや震える手で見せながら言った。

 

「こ、この一千万って書かれてる小切手、どうしたの!??!?!?」

「……本当、なんなんだろうねえ、それ」

 

 渚が俺に提示したのは、昨日俺が手渡された一千万円分の小切手。 一応少し調べたが、どうやら本物らしい。 信じられないが、俺は昨日女の子1人を街案内しただけで一千万を手に入れてしまったのだ。 とは言っても一介の学生にそんな大金が扱える筈もなし、正直持ってるだけで頭がどうにかなりそうな気がしたから、見えない所に置いたのだが……。

 やっぱり、逃げずに直面しないと駄目だよね。 これ……。

 

「だいたい察しが付くと思うけど、昨日別れ際に渡された。 謝礼……なんだろうね、案内した」

「そ、そんな事だけでこんな大金ポンッて渡すの? お兄ちゃんのお友達の親戚だから、余り言いたくないけど……綾小路家って、色々ズレてる様な……」

「ストップ、その先の言葉は俺がかつて悠と交友関係持ち始めて、一ヶ月の間に抱いた感想だ。 言ってはいけない」

「う、うん……でも、本当にどうしよう、これ」

「そうだなあ……」

 

 小切手は直接現金にするか、自分の口座に直接お金を振り込んでもらうかの二択がある。 両親が作った俺と渚の生活費用の口座があるが、「はいはーい」と振り込むわけにもいかない。 当たり前の話だが、一回は両親に話をしなきゃいけないのだが。

 

「父さん達はまだ、仕事で話せないよな……?」

「うん。 夏休みの時に向こう三ヶ月は連絡も厳しいって言ってた……」

「参ったな……しょうがない。 今日の夜当たりに一応俺から連絡入れてみるから、取りあえずその見るだけで疲れそうな紙は片付けておこう」

 

 以前俺が部活動に入りたい事を両親に伝えようとした時、駄目元で電話したら上手く繋がった。 今回もそうなる事を願いながら俺が言うと、一応納得した渚は、おぼつかない返事をして小切手をリビングにある引き出しにしまい込んだ。

 こうして、昨日のへんちきな出会いから始まった騒動は、ようやっと収まったのであった。 本当、どうして俺は朝っぱらこんなに疲れなきゃいけないのだろうか。 出来れば今日はもうこれ以上、疲れる様な出来事は起きない事を願うばかりだ。

 

「植物の様な人生……とまでは言わないけど、もう少し落ち着いた生活を過ごしたい」

 

 ―――そんなふうに、俺が心からの言葉を漏らしてから、はや4分。 2人で一緒に学校に行く為に家を出た直後だ。

 

「おはよう縁、渚ちゃんも。 制服姿を見るのは久しぶりね!」

 

 家の敷地のすぐ外に、大っきな目立つヘアリボンをした、幼なじみの河本綾瀬が立っていた。

 

「お、おはよう綾瀬。 今日は早いな?」

「綾瀬さん? なんで……?」

 

 言葉と雰囲気こそ違うが、兄妹揃って口から出たこ言葉の意味は同じ、『何故綾瀬が此処に居る?』であった。

 綾瀬は前期は俺や渚より少し早く家を出て学校に居るので、このタイミングで遭遇する事なんて一度も無かった。 だから綾瀬が今、こうして家の前で立っている事が純粋に驚きなのだ。

 渚の場合はそういった理由に関係無く、純粋に『何で居るの?』というニュアンスを感じる……、正直、かなりマズいのでは無いだろうか。

 

「前期はまだ委員会のお仕事があって早く行かなきゃだったけど、もうその必要が無いから。 一緒に学校に行こうと思ったの。 良いわよね?」

 

 今日の青空に匹敵する、一点の迷いも無い笑顔でそう答える綾瀬。 うん、俺こういう疑問の体を成してない疑問系って大好き。 相手を追いつめるには最適だよね、本当好き。

 

「あ、ああ。 俺は別に、というか全く構わないけど……」

 

 そう、俺は構わない。 クラスでは野郎友達から色々からかわれているが、既に下校時は一緒に帰ってる事も知られている。 今更朝も一緒に登校したって、たいして問題には感じない。 そう、あくまで俺1人の問題であるならば、だ。

 ここに渚が絡むと、一気に話が変わって来る。 だって渚は十中八九綾瀬の事を良く思ってないし、むしろ邪魔にすら感じているかもしれない。 そんな綾瀬が、朝の登校時間に介入して来るのだから、到底看過出来る物ではないだろう。 ひょっとしたら此処でこのまま論争なんて事態にも発展しかねない……。

 そう思いながら、俺がびくびくと背後の渚に顔を向けると、そこには、

 

「はい、良いですよ? 行きましょうか」

 

 綾瀬の笑顔にも負けない可愛らしい笑顔を浮かべて応える渚があった……え? 笑顔? なんで?

 

「もう、どうしたの、お兄ちゃん? そんな呆気にとられた様な顔して。 一緒に学校に行くってだけの事で私が反対するワケないじゃない。 あ、それともお兄ちゃんって私の事そんなに心が狭い人だと思ってたの? そうならちょっとショック……」

「いや、まさか! そんな事無いぞ! 渚もいいなら何の問題も無いんだ、一緒に行こうか綾瀬」

「うん! それにしても、相変わらず2人は仲がいいね〜」

 

 俺が渚に狼狽する様子を見ながら、綾瀬はからかう様にそう言った。 ううん、なんというか、園子の園芸部に入ってからこっち、俺は結構綾瀬にからかわれる事が増えた気がしないでもないぞ。 不愉快ってワケでは無いが、何か引っかかる。

 

「あ、そうだ。 ねえお兄ちゃん」

「ん?」

「えいっ」

 

 そんなかけ声と共に、渚は俺の腕に自分の腕を絡めて来た。

 さながら、仲の良い恋人の様に、だ。

 

 なんと、綾瀬の目の前で。

 

「他人同士ならちょっと恥ずかしいけど、家族だし、良いよね?」

 

 家族なら問題ない。 そう話す渚の頬は僅かに紅潮しており、言葉とは裏腹に幾分かの羞恥心が残っている事を示している。

 なれない事をして自分でも戸惑っているのだろう。 ここまで積極的な行動を渚が取るのは珍しいが、小動物を思わせる様な上目遣いでこちらを見上げる姿を前にすると、からかいの言葉も引っ込むと言う物だ。

 

 ただし、綾瀬の目の前で。

 

「ど、どうしたの? ここで立ちっぱなしだと、遅刻しちゃうよ? 早くいこう?」

「あ……はい、うん。 そうダネ」

「ふふ、カタコトになってるよ? ひょっとして照れちゃってるの?」

「そ、そんなワケあるかよ。 ほら、行くぞ」

 

 逆に渚にからかわれてしまい、つい条件反射でそう言い返してしまった。 我ながらコッテコテの初心な男子学生じみた発言だと思う。 ひょっとして俺は馬鹿なんじゃないだろうか。 綾瀬の前でこういう行動を取るのがどれだけ危険な物かを、誰よりも理解しているのは俺の筈だろうに。 それなのに渚のやるがままに身を任せるとか、それこそ地雷に自ら飛び込んで行く様なモノ。 なに、なんなの? 前期に色々修羅場経験して中毒にでもなったか?

 先程は後ろを向くのに恐怖を覚えたが、今度は前を見るのに勇気を求められる惨状になってしまった。 だからと言ってここで何もしなければ遅刻するのは自明の理。何より、『何もしない』事が最も寿命を減らす事を、俺はこれまでの経験で骨身にしみ込ませている。 前を見るしか無い、歩き出すしか、無いのだ。

 そう自分を克己させて、俺は綾瀬の方へと顔を向けた。 そこには先程の笑顔とは裏腹に、瞳の虹彩が消え失せて薄ら笑いを浮かべた綾瀬の姿が―――、

 

「ふふ、本っ当に2人共仲が良いよね。 知らない人が見たら恋人同士にしか見えないよ」

 

 ―――あるどころか、むしろ先程よりも微笑ましく俺達を見る綾瀬の姿があった。 って、ええ!? なんで!?

 どうしてさっきから2人共俺の想像の真逆を行くリアクションを取るの? いや、修羅場にならないと言うならそれはそれで良いんだ。 良いのだけれど、何かこう、底の知れない恐さがあると言うか、この後何が起きるか予測出来ない不安が果てしないのが嫌だ。

 いや、だが待て。 渚と綾瀬は園芸部と言う同じ空間で活動する様になり、俺の見ない間でも一緒に居る時間、互いを理解する時間は増えている筈だ。 それは『ヤンデレCD』では決して起こりえなかった出来事であり、つまりそこから生じる人間関係の変化を、俺は予測出来ないのもある意味では当然とも言える。

 つまり、だ。 もしかしたら、もうこの2人は俺の心配とは裏腹に、とっくに仲良くなっているのではないか? だとしたら最高だ。 『ヤンデレCD』であった様な、影で行われる殺し合いなんて事も起きず、平和な学校生活を送る事が―――、

 

「ふふ、恋人同士に見えますか? 『幼なじみ』の綾瀬さんに言われると、本当にそうなんじゃないかって思い始めちゃいます」

「うんうん。 でもまぁ、何処まで行っても2人は『家族』で『兄』と『妹』だからね。 それ以上は何も無いって分かるから安心出来るよ」

「……ふふっ」

「……ははっ」

 

 ―――あ、はい、分かりました。

 仲良くなんか、無い。

 この2人、言外に牽制し合ってるだけだ。『まだそこまでじゃない』と判断してるのか、『俺の手前おとなしくしているだけ』なのか、ハッキリとは分からないが、お互いに睨み合っているのだと、今の会話だけで察しがついた。

 

 だが、それにしてもここまで2人が互いの領域に干渉し合っている姿を見るのは初めてだ。 仲良くはなってないけども、互いの態度に変化が生じている事は間違いが無いだろう。

 しかし、その結果が今の登校風景となると、今後の学生生活がどうなってしまうのか、些か以上に分からなくなって来た。 今朝だけで俺の予想を翻す出来事が連続で起きている事からも、今俺の周りで動いている『空気』というか、『人間関係』が、夏休み前とは異なっている事は嫌でも理解出来る。

 これまでは『俺個人』が渚や綾瀬達との関わり方に気をつけるだけで話が済んでいたが、今後は『渚や綾瀬』が、互いにどう関わって行くのかも気にしなくては行けなくなった……のかも、しれない。

 

 もっと分かりやすく言うならば、今までは『俺』が『地雷を踏んで』、綾瀬や渚達に『殺される』未来を避ける為に考え、行動して来たが。

 これからは『渚や綾瀬達』が、『一線を越えて』、『殺し合う』未来を防ぐ為に考え、行動しなくちゃいけない、というわけだ。

 どっちの方が楽かと言えば、そんな事分からない。 前者は心臓に悪く、後者は胃に悪い。 記憶を取り戻した最初の日、これは俺の生存の為の戦いだと自分に言い聞かせたが、どうやら戦いは新たなステージに移行した。

 

「はぁ……」

 

 いっその事、俺が女だったなら。 こんな面倒な悩みなんて一切抱かずに済むのに。

 そんな現実逃避の戯言を脳裏の片隅に思い浮かべながら、俺はその後も延々と続く2人の睦まじい会話に、耳を預けていたのであった。

 

・・・

 

「それじゃあお兄ちゃん、また後でね!」

 

 校門前について流石に腕を絡めるのが限界に感じたのか、渚はぱっと腕を放すと、一足お先に昇降口へと駆けつけて行った。 『おう、またな』と手を振ってその姿を送った俺に、綾瀬が言う。

 

「ねえ縁。 まさかとは思うけど……今までも朝はああやって登校してたわけ?」

「ええ!? いや、そんな事は無いぞ。 今日みたいなのは本当初めてだ」

「へぇ……そうなんだ。 今日が初めてなんだ。 ふぅん……」

 

 意味深にそう呟きながら、渚のさった跡へ視線を向ける綾瀬。

 ―――って、ああ!? しまった、もしかして今の発言は綾瀬の『一線』を押しかねない発言だったのではないか!? だとしたらマズい! すぐにフォローを入れないと。

 

「あぁいやでも! あいつって前から俺以外にも家族の腕に引っ付く様な所あったし、今日だけが特別ってワケじゃないと思うよ?」

「……どうしたの、急に慌てた様にまくしたてて」

 

 思ったよりもかなり冷静に返された。 いやほんと、こういう時の俺の発言て裏目に出るよな。

 

「―――ぷふっ、もしかして、渚ちゃんの事庇ってるの?」

「え、あ、いやあ、まあその……」

 

 図星を突かれて言葉を窮してしまう。 そんな俺の姿が面白いのか、綾瀬は笑いながら続けて言った。

 

「もう、貴方は心配し過ぎだって! あのくらいの事で私がいちいち渚ちゃんに何か思うわけが無いじゃない」

「……そりゃそうだよな。 うん。 我ながら少し気にしすぎたかも」

「あ、でもそういう風に渚ちゃんの事考えてあげるのは私、良いと思うよ? もう二度と渚ちゃんに酷い事言わない様に気をつけてるって言うのが伝わるから」

「ん……ありがと」

 

 思ったよりもずっとマトモな事を言われて、逆に俺が嗜められる始末。 俺が思ってるより、ずっと綾瀬は大人なのかもしれないな。

 そんなやりとりを校門前で交わす俺達の背中に、よく知る人物の声が聴こえて来た。

 

「おはよう、2人共。 ここでお話しするのは仲が良くていいけど、あまり立て込んでると始業式が始まっちゃうよ? 何より、通る学生の邪魔になりかねない。 移動した方が良いんじゃないかな?」

 

 そう話すのは今朝も話した俺の親友、綾小路悠だった。

 

「悠か……おはよう、昨日ぶりだな」

「おはよう綾小路君、2人は昨日も会ったの?」

「うん。 まあね。 ……実は、その事について2人にあらかじめ話しておきたい事があって―――」

 

 あいさつもそこそこ、悠が神妙な面持ちで何かを口にしようとした瞬間、始業5分前を告げるチャイムが鳴り響いた。

 

「……どうやら、ぶっつけ本番になりそうだね……まあ、2人には直接関係のない話だし、良いか」

「悠?」

「どうかしたの?」

「いや、いいんだ。 それより早く教室に行こう! すぐに講堂にいく筈だし」

 

 何か喉につっかえる雰囲気を醸し出しておきながら、結局悠は1人で納得して先に教室に向かってぱたぱたと駆けて行った。 それに倣って俺達も互いに首を傾げながら後に続く。

 教室に着くと、悠の言う通りすぐに講堂に移動となり、悠の話を聞く暇はなかった。

 

 ―――そして、奇しくも悠の発言通り、『ぶっつけ本番』で、俺は悠が話そうとした事を理解した。

 

 いつもの始業式。

 中等部と高等部の学生が一度に集まるこの日。普段なら退屈なだけの時間が、今日ばかりは違った。

 異変は2つ。

 

 1つは前期まで居た教師の退任。 年齢も担当教科も、辞める理由もバラバラだが、のべ10人の教師が学園を去り、入れ替わりに同じ人数が『新しい先生』として紹介された。

 

 そして、もう1つは『中等部の転校生』。

 校長の呼びかけに応じて、傲岸不遜を擬人化させたかの様な顔付けで壇上に姿を現したその人物を見て、ある者はどよめき、ある者は黄色い声を上げた。

 綾瀬は何が起きたか良く分からない顔を浮かべ、悠は苦虫を噛み潰した様な表情を見せる。 そして俺は―――『驚愕』と『納得』を同時に乗せたような、えも言われぬ顔になっていただろう。 そんな面持ちのまま視線を―――昨日ぶりに会う少女(・・・・・・・・・)に向けた。

 

「―――綾小路咲夜よ、私の名前を脳髄に叩き込んで、精々崇めると良いわ。 庶民ども!」

 

 ―――平穏な学生生活なんて、もう二度と送れっこ無い。

 どこか、心の奥でそう確信したのを、俺はこの時自覚した。

 

 

 

 ―――続く―――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第弐病・アイゾウ

 綾小路咲夜が転校してきた。

 その事実が、今後俺の―――俺達の学生生活に、どれだけの影響を与える事になるのか、正直な所まだハッキリ予想がついていない。 だが、前期に綾小路の本家筋……つまり咲夜の父方の息が掛かった人間を、園子と園芸部の為に悠と一緒に学園から追放させた事が原因にあるだろう事は、簡単に理解できた。 やり過ぎたとは思っていないし、間違った行動だったとも……思いたくはない。

 とにかく、現状俺は綾小路咲夜について、悠と互いの親が対立している事と、昨日一緒に街を回った時の印象くらいしか情報が無い。 昨日の言動や先程の始業式で全校生徒を前にした時の高飛車を飛び越えた傲慢ちきな物言いから、既に性格は把握できているが、だからと言ってそれで何もかもが予測できるのなら、俺はエスパーかなにかの類いだろう。

 とにかく、悠としっかり話をする必要がある。

 

 

 ―――の、だけれども。

 

「綾瀬、悠は何処行った?」

 

 うちの学園は始業式が終わったらその日はもうおしまい。 部活も委員会も一切の活動が無く、野球部を筆頭に運動部の幾つかが許可を得て活動するだけで、実質夏休みのオフタイムのような物になっている。

 園芸部もその例に倣い、今日はこのまま各自解散の流れになるのだと、先程廊下から俺を呼んだ園子に言われた。

 だから、これから悠と話をしようと思っていたのに、園子と話していた僅かな間に、いつの間にか消えていた。 教室に残っていた綾瀬なら悠の姿を見ていたろうと、声をかけたのだが、

 

「…………」

 

 綾瀬の方はと言うと、普段はあまり目にしない険しい表情で、何か思索しているようだった。 当然、俺の言葉なんて耳に入っているわけも無く。

 ただ、『声をかけられた』事には気付いたのか、パッと弾く様に俺の方へと顔を向けて、

 

「あ、ごめんなさい……。 ちょっとボーッとしてて聞いてなかった。 夏休みボケかな……はは」

 

 と、誤摩化す様に苦笑いを浮かべた。

 何を考えていたのか、追求する事は簡単だ。 でも、今はあえてそれをしない事にした。 悠の事を早く聞きたいのもあるが、それ以上に、綾瀬の誤摩化したいという気持ちを尊重しておきたい。

 綾瀬は、俺が理由で思い悩む時は割とはっきりと、すぐ問いつめて来る性格だ。 その綾瀬が誤摩化すのだから、きっと理由は俺以外にあって、しかも余り話したくない物なんだろう。

 なら、今は良い。 そのうち目に余るようなら、その時に無理にでも聞き出すだけだ。

 

「悠がいないんだけど。 教室出る所見た?」

「綾小路君? ごめん、私も見てないかな……」

「そっか。 家の用事で早く帰ったのかな。 綾小路咲夜が転校してきたし……」

「確か、今日転校してきたあの子と綾小路君の家って、跡目争いしてるんだよね? 難しい話は良く分からないけど、今朝の彼の様子から見ても、急な出来事だったんじゃないかなあ」

「やっぱそう思う? 今後どうなるかについても話しておきたかったんだけど……居ないんじゃあ仕方ないよな。 俺らも帰るか」

 

 明日また、改めて話をすれば良い。 流石にそれくらいの猶予は普通にあるだろうと思い直し、帰る事に決めた。 だけど、

 

「ごめんね……私も一緒に帰りたいんだけど、今日これからちょっと用事が入ってて……。 悪いけど、貴方だけ先に帰ってて」

「用事? なんの―――いや、分かった。 気をつけてな」

「ありがとう、貴方もね。 夏休み気分が抜けないままで途中事故にあったりしないでよ?」

「はいはい」

 

 そう、軽口を交わし合い、俺は一人教室を抜けた。

 『用事』が何なのかは知らないけど、それが先程難しい顔で考えていた物なんだと察しはついた。 なら下手に追求しないで素直に去った方が、多分、今の綾瀬には良い筈。

 渚を誘うかも迷ったが、渚は渚で友達と帰るだろうし、わざわざ妹を誘いに一年のフロアに行くのも憚られたので、結局素直に帰ることにした。

 

「ねえ」

 

 いや、少し急げば先に帰ってる七宮達の集団に追いつけるかも?

 最近は園芸部やら何やらで悠達以外の友人とあまり関わってないが、今年のや夏休みには七宮の親戚とひょんなコトがきっかけで知り合ったりもしたし、それについて話もしてみたい。

 たぶん連中は素直に帰るなんて事はしないで、間違いなく近くの店に立ち寄るだろうし、久々に道草を食うのも悪く無いだろう。

 

「ねえったら」

 

 ああでも、冷蔵庫に食材残ってたっけ? もしかしたら明日以降の分を買いに行く必要があるかもしれない。 行きつけのスーパーであるナイス・ボートはお昼から一時間セールをするから、今家に帰れば間に合う。

 夕方のセールに向かうのもアリっちゃあアリだけど、買い物を早く済ませるに越した事は無い。 友人とのコミュニケーションを取るか、家庭の事情を取るか……悩みどころだなー。

 

「ねえ聞いてるの? 聞こえてるでしょ?」

 

 うーん、親が居ないから家で自由奔放に出来る分、こういう時に行動に制約がかかるのは、我が家庭の事情故の所か。 自由に責任は付き物だけど、責任が付くってそれもう自由じゃなくね?  とか思ってしまう―――、

 

「ねえったら! さっきから無視するとかどういうつもりなの!?」

「―――えうおわ!?」

 

 甲高い声と共にいきなり腕を引っ張られて、驚きながら振り向くと、そこには少し前まで俺の脳内会議で新たな議題となって居た渦中の人物がいた。

 今日会うのは二度目。 と言っても一度目は始業式だから、正しくはこれが本日最初の出会いになるわけだが。

 

「綾小路咲夜……」

「へぇ、ちゃんと名前は覚えていたのね。 庶民の脳みそにしては上出来ね。 まぁ? 私の名前を忘れるなんて、万に一つであってもあり得ないのだけど」

 

 名前一つ言っただけでこの発言である。いや本当、昨日も思ったけど『御嬢様』そのものって感じだな、この子。

 問題の人物がこうして下駄箱近くで、しかも向こうから姿を見せてきた事には驚いたが、それだけでたじろぐ程今の自分はヤワではない。

 

「そう言うお前の方はどうなんだよ、俺の名前、覚えてるのか?」

「はぁ? 当たり前じゃないの、私はあなた達凡百の庶民とは違うのよ。 忘れるわけが無いじゃない。 ―――野々原縁、此処に来る前から話は聞いてたからとっくに知ってたわ」

「え」

「それよりあんたに頼―――特別に! して欲し……じゃなくて、私の為に働かせてあげる」

「はい?」

 

 言ってる意味がイマイチわからない。 そんな事より本家の人間が俺の名前を口にしていた件について問い詰めたい。

 

「……言ってる意味がわからないって顔してるわね」

「そりゃそうだ、なんだその『働かせてあげる』って。俺はもうこれから帰るとこなんだが」

「―――はぁ、これだから庶民は。 良いわ、私も些か唐突だった事は否めないし、分かるように説明してあげる」

 

 ため息まじりに自分のなっがい髪を一度、手で梳きながら、綾小路咲夜が言った。

 

「やる事は昨日と同じ、いや、昨日より簡単よ。 私にこの学園を案内しなさい」

「断る、じゃあな」

「そう、素直に言う通りに―――って、なんでよ!」

 

 自分の頼み事が断られるとは微塵も思ってなかった綾小路が、さながらノリツッコミの要領で俺に食ってかかる。断りの言葉と共に咲夜の横を通り過ぎたのに、小走りで俺の前に立ち塞がってきた。

 

「そこでどうして断るのよ! 昨日は快く引き受けたじゃない!」

「快く!???!? 半ば強制的に連れ回したの間違いだろう」

「この私が、直々にお願いしてるのに、どうして断るのよ!?」

「わざわざ俺が案内する必要も無いだろ普通に考えて。 お前には転入した先にクラスメイトが居るんだから、そいつらに頼めよ」

「……ふ、ふん。 あんなへっぴり腰の情けない庶民なんかに、貴族たる私の先導が務まるわけないじゃない。 私に近づく事さえ怖がる連中なのに」

「そりゃお前、転校してきた中学2年生が始業式でいきなりあんな発言したら誰だって近寄らないよ、避けるよ」

 

 暫し、沈黙。

 綾小路、途端に赤面して、

 

「さ、避けられてなんか無いわよ! 冗談じゃ無いわ! あの程度で避けるような奴ら、こっちから願い下げなんだから!」

「別に避けられてる事に殊更反応しなくても……ああ良いや」

 

 さしもの御嬢様も、自分の言動が原因で避けられてる自覚はあったのか。 恥ずかしさと気まずさを誤魔化すように声を荒げて反論してきた。

 しかし参った、確かにこうなると綾小路が学内で頼れるのは悠を除けば数少ない接点持ちである俺しかいない。 普通なら手を貸しても良いが、今回は相手が綾小路咲夜だ。

 

「あー、まあ事情は大体察しついたけどさ。 やっぱあんま力は貸せないな」

「……なんでよ」

「なんでって、お前の方の家はさ……言いにくいが、悠の家と仲悪いんだろ?」

「あぁ……そういう意味ね」

 

 悠の名前を出せば、こちらの言いたいことも簡単に伝わった。

 

「つまりあんたは、あっち(・・・)側ってわけね。 だから私と一緒には居られない、と」

「そんな陣営分けしてるつもりは無いよ。ただ、あんま関わらない方が良いんじゃないかとね」

 

 実際、どういう理由か分からないけど、自分の名前が知らないところで広まってるのは怖いところがある。 頸城縁(前世)にそれがあって、しかも必ず悪評(謂れなき)だったもんだから尚更だ。

 ましてやその相手が自分の親友と家族ぐるみで仲の悪い連中と来た。そりゃ当然関わりを避けて然るべき、だと思うのだけども。

 

「ふっ、案外小さなことを気にするのね、あんたって」

 

 綾小路の方はと言うと、先程までのあたふたした態度を一変させて、場馴れした風格で俺に言った。

 

「そんな些細なことなんの問題もないわ。私も、私に従う奴らも皆、あんたの事を知っていても大して気にかけてなんか無いわ。もしかして……自意識過剰、なのかしら?」

「…………そ、そうか」

 

 この女郎、煽りやがる。

 

「これで心の檻は無くなったわね? じゃあ気分も晴れた事だし、心置きなく私を案内なさい」

 

 これで全て解決したと確信した綾小路が、今度もまた断られる可能性を微塵も考慮せず俺に案内を命じる。 その小生意気な態度を見るとやはりどうしても断りたい衝動に駆られるが、グッと抑えた。

 断る事は出来ても、ここまで来たらもう昨日のやり取りの焼き直しになるだろう。

 むしろ、此処で断るよりも潔く了承して、綾小路の性格や思考を少しでも分かるようになった方が、今後の学園生活にどれ程影響する人物なのか測れるかもしれない。

 

「分かったよ。 屈服したわけじゃないが、他に頼るあてのないお嬢様の為に力を貸すとしましょう」

「な! 言い方っていうのがあるでしょう!? 昨日から思ってたけど、あんた少し私のこと子ども扱いし過ぎじゃないかしら!! たったの3歳差なんだからね!」

「はは、まさか。 後輩として扱ってるだけさ」

 

 中学生どころか小学生を扱う気でいるだなんて、言えるわけが無かった。

 

・・・

 

 結局昨日と同じ流れになったが、難易度はだいぶ楽になった。 なんせだだっ広い街から、限られた学園と場所が狭まったからだ。

 その上校舎で案内が必要な場所なんて限られている。 誰でも分かる講堂や学食を除けば、後は科目別に使われる教室をいくつか案内する程度だ。

 だから、昨日とは違って十数分で任務は達成された。 さしもの綾小路も、今回は文句の一つも言わずに終わった。

 

「なんか呆気ないわね。 こんなものなの?」

 

 訂正。 どう転んでも文句言わなきゃ死ぬ病のようだ、こいつは。

 

「街とは違うからなー。 部室を一つ一つ巡ればまた違うけど」

「嫌よそんなの、面倒にも程があるわ」

「だろうよ。 俺も同感だから助かる」

 

 もし仮に『良いわね!案内しなさい!』とか言われてたらダッシュで逃げてたところだ。

 

「そんな所より、一つ行って見たい所があるんだけど」

「へぇ、そりゃどこで?」

「屋上」

 

 ……ほぉ。 また随分と雅な趣味を。

 

「残念だがそこは無理だよ。 屋上は何年か前に飛び降り自殺した生徒がいたせいで閉鎖されてる」

 

 噂の域を出てないが、俺が入学した時既に施錠されていた。 今では密かに鍵を持つ悪童か、こっそり喫煙を目論む教師くらいしか屋上には行けないだろう。

 

「そ。 なら教師に開けるよう指示すれば良いのね。 職員室は何処だったかしら」

「おいおいマジで言ってるのか」

「本気よ。 こんな事で嘘ついてどうするの」

 

 たかが一学生が言ったところで屋上が開放されるはずもない。 だが、綾小路はいわばこのわ学園のスポンサーの孫娘。 邪険に扱えるはずもなく、恐らくは施錠も解かれるかもしれない。

 だけどそうなったら教師のヘイトは間違いなく、綾小路を連れてきた俺に向けられるんだよなー。 そんなの最悪でしかないのだけど。

 

「ん? もしかして今度は教師に睨まれるのを気にしてるの?」

「え、分かるのか?」

「私をなめないで頂戴。 貴族たるもの、庶民が何を考えてるのか位、簡単に把握出来て当然でしょう? やっぱりあなたってどーでも良い細かい事をやけに気にするのね。 生き辛くない?」

「……よけーなおせわだ」

 

 綾瀬や悠、渚。

 俺の周りには察しの良いというか、相手をよく見る力に長けた人が揃っているが。

 

 ―――正直、綾小路の『ヒトを視る眼』は苦手だと、この時思い始めた。

 

・・・

 

「はぁー……、風通しが思ったより良いわね」

「そりゃー屋上だからなー、風しか通らねえよ」

 

 思ったよりも簡単に、屋上の鍵は開放された。

 今まで鍵がかかっていた理由が安全管理のためとかじゃなく、単に何年か前に夜屋上の鍵をかけた警備員が、その鍵を無くして開かなくなったから。 という理由だったのには呆れたものだった。

 今まであまり屋上開放を強く要望する声が無かったから、どさくさ紛れにそのままにしていたが、綾小路の要望をキッカケに無理やり鍵が壊され、晴れて数年ぶりに屋上が開放された。

 今までここを密かに使う人が居たかは定かではないが、もうこれで秘密基地は無くなったわけだ、南無。

 

「それで、どうだ? お望みの屋上は」

「微妙ね」

 

 即答かよ。

 

「時間帯もあるかもだけど、全然面白くない。 箱庭より狭く感じるわ、ここから見える景色」

「そうか? 俺は新鮮味があって悪くないけどな、ここから街を眺めるのは初めてだし」

「これだから物を知らない庶民は……って言いたい所だけど、多分これはあなたが物好きなだけって事でしょうね」

「というと?」

「あなた、日常の、普段人が目にも止めないささやかなもので幸せとか感じちゃうタイプでしょ」

「……っ!」

 

 確信する、俺はこいつの視る眼が苦手だ。

 あって2日しか経ってないのに、こいつは俺の性格をもののズバリと当てやがった。

 

「なんで、そう思ったよ」

「色々よ。 例えばこの学園の案内の時、教室のカーテンが外れかけてて風が吹くとカーテンが変な膨らみ方するとか、ロッカーの扉が壊れてて閉めても五分に一度開くとか……そんな普段から意識しなきゃ口に出ない事を話してたでしょう、あなた」

 

 確かに、俺は教室を案内する際に、そんな感じの事を退屈凌ぎになるかと思い口にした。 どれもくだらないの一言で流されていたと思ったが、まさかそれが俺の性格を図る材料になっていたとは。

 

「まあ、一番は昨日あなたが私に見せたものよね」

「見せたって……景色か? 夕方の」

「そ。 あんなの、普段から月並みな幸せで満足しちゃうような人間じゃなきゃ人に見せようなんて思わないわよ。 この消費社会であんな情緒的な物を見せてくるなんて、ね」

 

 クスクス、と笑いながら綾小路は言う。

 反面、俺は多分あまり良い顔をしてなかった。

 だって、俺は今回綾小路の性格を知る為に一緒に居たのに、逆に俺の方が完全に性格を看破されたのだから。

 そんな俺の様子が楽しいのか、綾小路は最後まで笑顔の上機嫌で、最後に、

 

「ふふ、なんだかんだで今日もそこそこ楽しめたわ。 じゃあね、また明日」

 

 そう言い捨てて、先に屋内に戻って行った。

 

 それを横目に、俺は。

 

「わざわざ屋上から景色を見ようとする辺り、よほど昨日の景色が気に入ったんだな」

 

 言われっぱなしは癪だったので、イタチの最後っ屁と言うものをかましたのだった。

 

「―――べ、べつに気に入ってなんかないわよ!」

 

 そんな声が聴こえたのは、多分気のせいではない。

 

・・・

 

 さて、綾小路は最後赤面して去って行ったが。 まだ俺は屋上に残って居た。

 理由は当然、先ほどまでのやり取りから、綾小路の人となりを考察する為である。

 

 取り敢えず、子供のような身体つきと態度だが、能力は間違いなく悠に並ぶスペックだと言うのは分かった。

 ワガママで傲慢ちき、他人を庶民と見下し自身を貴族と傲るが、人を見る目は確か。 間違いなく、頭もキレる。

 

「……あれ、普通にRPGじゃラスボスなれるんじゃねこれ」

 

 誰も居ない空間で一人、ポツリと零す言葉は簡単に屋上を吹きすさぶ風に乗って消えていく。

 とにかく、今回俺が得た教訓は、綾小路咲夜という人間が、金の力を抜きにしても敵に回った場合厄介極まりない人間だと言う事だった。

 よくよく考えてみれば、これは至極当然な事だったかもしれない。 単純に本家のボンボンってだけなら、転校したってあの悠がぐったりしてる筈もないのだから。 悠を持ってしても厄介となる相手に、俺一人で何か出来るわけもない。

 

「はぁ……別に勝負してるわけじゃないが、なんか果てし無く咬ませ犬ポジで負けた気分」

 

 やめやめ、こんなネガティブな事考えてたら、せっかくの1日が腐っていく。 もうこれ以上綾小路について思考を割くのはやめて、今日この後どうするかを考えよう。

 とは言えども、流石に当初考えて居た案のうち、七宮達に追いつくのは無理な話になった。 となれば後は買い物か、今からでも走って帰ればセールには間に合うかな。

 

「さっさと行かなきゃ―――ん?」

 

 時間に余裕も無くなってるので、とっとと屋上を去る為に踵を返そうとした俺の視界の隅に、あるモノが映った。

 屋上からは校庭は勿論、校舎と屋外を隔てる壁の間など、普段足を運ばず人目にもつかない空間も見下ろす事が出来る。 そこに、見覚えのあるリボンを頭に付けた後ろ姿があったのだ。

 雑草が生い茂った、こんな時間でも陽の当たらない一画。 普通なら誰もいる筈の無い空間に、河本綾瀬が居る。

 

「何やってるんだあいつ……誰かと話してる?」

 

 それほど遠くから見てるわけでもないが、何せ後ろ姿なのでどんな会話をしてるのか、表情で察する事も出来ない。 ただ、綾瀬の前方には女子がもう一人いて、何となく平穏な雰囲気を感じない。

 もしかしたら綾瀬の言う用事とは、あの女子と話をする事だったのだろうか。 それにしても、わざわざ何故こんな場所で? よほど人に聞かれたくない話でもしていたのだろうか。

 というか、綾瀬の悩みの種って絶対に人間トラブルだよな? 綾瀬の性格からしてあんまり人と問題起こしそうにないけども、男子と女子では人間関係の起こり方って異なるし、結構めんどうで複雑な関係になってるのか?

 

「―――え?」

 

 何が起きてるのか把握できないままで居た俺の目に、衝撃的な映像が映る。

 綾瀬と話していた相手が、屋上にも届く程の高い声で何かを怒鳴った後に、綾瀬を突き飛ばしたのだ。 しかも倒れた綾瀬に目もくれず、走ってその場を去って行った。

 走り去る生徒の姿を上から目で追う事も出来たが、今はそれ以上に尻餅をついた綾瀬の方が心配だ。 急いで屋上を離れて、綾瀬の場所に向かう。 この際上から見ていた事がバレようが構うもんか。 上履きのまま校舎を出て、コンクリと砂利の床を蹴り、鬱蒼とした地面を踏みならす。 目的地に着くと、そこには未だに倒れたままの姿勢で、顔をうつむかせた綾瀬の姿があった。

 

「綾瀬!」

 

 俺の言葉を耳にした綾瀬が、教室の時のようにぱっとこちらに顔を向けて、次いでその顔を驚きに染めた。

 

「縁!? ど、どうして貴方がここに居るの? もう帰ったんじゃ」

「野暮用で野良猫に噛まれてたんだ。 そっちこそ何があったんだよ、女子と話してたみたいだけど」

「ちょっと待って。 なんで貴方がその事を知ってるの? 何処で見たの? 盗み聞きしてたの? どうして」

「違う、屋上でたまたまお前と女子が言い合いしてるのを目にしたんだよ、そしたらお前が突き飛ばされたから急いできたんだ!」

「お、屋上? あそこって閉鎖されてたんじゃ……」

 

 ああもうじれったい! こうなったら簡単に何があったか説明してやる。 そうしたら綾瀬だって何があったか話すだろうさ。

 

「野暮用ってのはさっきまで綾小路咲夜に捕まって学園の案内をさせられてたんだよ! それであいつが屋上行きたいって言ったら簡単に解放されて、それで偶然見つけた! 納得したか!?」

「え、えぇ……それは分かった、けど……」

 

 やや迫真に言い過ぎたか、綾瀬は直前までの逆切れ一歩手前の様な態度は一蹴され、気圧されている様におとなしくなった。

 

「分かってくれて何より。 それで? さっきは誰と話してたんだ。 見た所仲のいい友人なんかじゃ無いみたいだけど」

「さ、さっき話してたのは前期まで私がいた委員会で一緒だった子……」

「委員会の? どうしてもう関係無い筈の奴がお前と喧嘩なんか」

「け、喧嘩ってワケじゃないの。 ただ、私が急に委員会を辞めたから、それであの子に仕事が回って、その文句があったって言うか……だから、別に喧嘩やトラブルがあるって事じゃ」

「でも、事実お前はそうやって突き飛ばされてるじゃないか。 それが喧嘩やトラブルじゃなかったら何なんだよ」

「……」

 

 俺の指摘に対して、綾瀬は珍しく押し黙る事しかしない。 きっと綾瀬本人もこれ以上否定するのが無理だと分かっているからだ。 理由は分からないけども、今回綾瀬が絡んでいる問題には、どうしても俺を関わらせたくないらしい。 いや、それとも、

 

「……男女間の違い。 か」

「え?」

「何でも無い。 取りあえず、一旦ここを離れよう。 いつまでもこんな場所にいたらカビが生えそうだ。 ほらっ起きて」

「う、うん……ありがとう」

 

 俺が差し伸べた手を素直に掴んで綾瀬が立ち上がる、服についた土や草を手で払うと、気恥ずかしそうに言った。

 

「ごめんね……普段はこういう隠し事って私の方が嫌がるのに、こういう時だけ……都合良くて」

「ホントだよ。 もう相手が誰とか何があったとか聞かないけどさ、お前一人で解決できそうなのか?」

「うん。 向こうは少し誤解してるだけだって分かったから、きちんと話せばすぐに終わるから」

「そっか。 なら、良いけどさ……」

「それより、あなた、上履きのままここにきたの?」

 

 今頃になって、俺が上履きのままであることに気づいた綾瀬。

 

「そんなに、心配してくれたんだ……」

 

 呆れられるかと思いきや、なんかすごく嬉しそうにそう呟くものだから、ただでさえ恥ずかしいのに上乗せされて背中が痒くなってきた。 帰ろう、もう帰ろう。

 

「……まあ、綾瀬が一人で解決できるなら、それで良いや。 先帰るわ、うん」

 

 これ以上このむず痒さに耐えられる気がしないので、踵を返して足早に下駄箱に戻ろうとする。 そんな俺に、綾瀬が慌てて追いかけてきた。

 

「あ、待ってよ。 一緒に帰ろ」

「用事あるんじゃなかったのか」

「もう終わったの、分かるでしょ」

「……鞄とかまだ教室だよな」

「うん」

「先に校門で待ってる」

「うん」

 

 この後普通に帰宅した。 当然のように、お昼のセールには間に合わなかった。

 買い物は結局夕方の、一番割引されるがライバルの主婦が多い時間帯になり、綾小路や綾瀬の事に思考を割く余裕なんて到底なかったのは、語るまでもない。

 

 綾瀬の前では納得した風に見せたが、包み隠さず言わせて貰えば、当然まだ気になっている。 綾瀬が誰かに恨みを持たれてる所なんて今まで一回も見た事ないし、結局何が理由かもわからないままだから、仕方ない。

 でも、一度分かったと言ってしまったのだから、今更また根掘り葉掘りほじくり返すわけにも行かない。

 園子の時と重ねて考える自分が居るが、今回は園子の時ほど重い内容では無いだろうし、何より昔から一緒の綾瀬の事なんだ。

 軽く扱ってるからではなく、信頼してるからこそ、敢えて綾瀬の意思を尊重する。 言い訳にも聞こえるかもだが、ね。

 

 ―――そんな風に自分を納得させて、静観を決め込んだ俺だったが。 そう言う時に限って、事態は向こうから迫って来るものだった。

 

・・・

 

 翌日。

 

「咲夜に学園を案内したって?」

 

 昼休みになって早々、俺は昨日綾小路に連れ回された事を悠に報告した。

 

「一体何を考えてるんだ、アレは……」

 

 はぁーーーっと深いため息を吐いて、悠が椅子の背もたれに体をグダりと預けて天井を仰ぐ。

 こう言ったら悪いが、普段中々お目にかかれない姿だから少し面白い。

 

「屋上が開放された事がにわかに話題なってて、どうしたのかと思ってたけど、そんな事があったなんて」

「まあ、そういう事があってさ。 俺も昨日は真面目に綾小路に接してみたが、中々敵に回したくない人間なんだな、お前のイトコ」

「うん。 綾小路の人間は皆多かれ少なかれ、何処かしら思考や倫理観が常識を蔑ろにした物だったりするけど、彼女の場合、一番厄介なのが拝金主義というか、金があれば不可能なんて無いって思想でね……」

「そういえば前も似たような事言ってたな。 『お金で買えない物は無い』だっけ?」

「それだよ。 懐かしいね、まだ部活動何処に入るのか決めかねてた時だったっけ。 あの頃はまだ平和だったなあ」

 

 身内の恥を晒しての羞恥心か、頬を紅潮させて苦笑いしながら頬を軽く掻きながら、悠は続けて言う。

 

「とにかく、金で何でも言うこと聞かせるって考え方なのに、そのくせ人を見極める目もある。 大抵の人間は札束叩いて黙らせるけど、中にはそれに屈しない人もいるだろう。 その手の相手には周りの人を潰して孤立させるって手段を簡単に取れるのが咲夜だ」

 

 親戚の話なのに一切の容赦なくそう言いきってみせる悠。 恐らく今まで何度も、俺の知らない世界で衝突してたんだろうなと思わせる言葉だ。

 

「でも、安心してくれ。 確かに咲夜は油断できない相手だけど、すぐ僕達に何かアクションを起こすって事も無い筈だから」

「そうなのか?」

「うん。 そもそも何で咲夜が家族と離れて使用人だけ連れて、この街に来たのか―――その理由さえ明らかになってないのだけど。 この学園は以前話した様に、僕の家と咲夜の家の共同出費で建てられたような物だ。 言うならば中立地帯。 いくら綾小路家の人間だからってそう簡単に好き勝手出来ない筈さ」

 

 確固たる確信、とまでは言えない物の、かなりの自信を持って悠は言った。 かつて園子の過去を調べる際に、成り行きでこの学園が建てられた経緯を知ったのでその言葉に疑問は持たなかった。 かつて本家側の人間として園子にアカハラをしていた校長も、既にいないのだから。

 

「そうと分かったらだいぶ安心したよ。 綾小路家が生半可な豪族じゃないってのは、俺でも分かる事だったから」

「ああでも、本当に油断だけはしないでね。 何もしないのは『家の都合』ってだけであって、『咲夜が我慢できなくなった時』に何をしでかすかは分からないから」

「……なるほど。 しびれを切らしたら何かしらの強硬手段を取るかもってか。 そもそも何するのかさえ全く分からないけど」

「ひょっとしたら、伯父様はそれを狙って咲夜を単身こちらに送ったのかもしれないからね。 彼らが直接動けばすぐに問題になるし対応されるけど、『子供の勝手な行動』なら予測がつかないし、言い訳がしやすいから」

 

 あーーー、本当にドロドロしてるんだなあ、綾小路家の事情は。

 

「あ、ごめん縁。 ちょっとトイレ行って来るよ」

「ん? 良いよ別に。 というか俺も行くわ」

「あ、そう?」

「うん、連れションだな」

 

 いかにも男子学生らしい行動だ。 頸城縁にはそんな事する相手一人しか居なかったが。

 

「い、いちいち言わなくても良いよ。 ……恥ずかしいから」

「っつぁ、何年の付き合いだと思ってんのさ。 今更言うなって」

「……もう」

 

 先程までの真面目一辺倒な話題から一転、年相応の軽い会話に自然と移る。 これだから男の子ってのは気楽で良いね、なんて唐突に思ってしまった。

 そうして2人で揃って教室を出て、トイレまでの僅かな距離を、悠の少し後ろについて歩いて行くと、

 

「―――え?」

 

 ―――不意に、後ろから誰かに腕を取られた。

 

「な、だ、誰ってか危ない―――うわわっ」

 

 そのまま、振り返る暇すら与えられず凄い勢いで後ろの方へと引っ張られていく。 腕力そのものはたいした事無いと言うか、後ろを振り向けないけど視界に女子の制服が見えてるので、間違いなく女子の仕業なのは分かるんだが、何せ不意をつかれた勢いが強い。 何事かと俺と俺を引っ張る何者かを奇異の視線で見やる生徒の視線も痛い。

 

「ちょっと、一体何のつもりだよ!」

「ウルサい。 いいから黙って着いて来て」

 

 !?

 俺の知ってる女子の声じゃない。 綾小路がまた奇襲を決めてきたのかとも思ったが、そうでもないとなると本当に誰なんだこの女子は!

 

「転びそうだから! 俺今凄い勢いで後ろ歩き中なんだけど! 逃げたりしないからせめて前向いて歩かせてくれ! 頼むから!」

「―――チッ」

 

 舌打ちされたが、懇願が相手の耳に届いたのか、歩みが止まって手も離してくれた。

 ほっと息をつきながら、俺はようやくいきなり自分を引っ張り回した相手の顔を見やった。

 

「ったく、一対何の用で―――君は」

「話は後。 さっさとついて来て」

 

 相手が何者かが分かった俺は驚きの声を漏らしたが、それに対して特に反応するそぶりもなく、勝手に進んで行く。

 文句を口に出したいのはやまやまだったが、僅かな間に随分と悠や教室のある場所から離れてしまったので、観念して後ろをついて行く事にする。

 廊下を進み、階段を上って―――後ろ歩きで階段上らせる気だったのかこの人は―――、特定の科目でしか使われない教室が並ぶフロアへとやって来た。

 この時点で正直引き返したかったが、それを許さないとばかりに、普段は使われない空き教室の前に立った女子生徒が、初めてこっちを振り向いて言った。

 

「入って、そっちから」

「……マジ?」

「さっさとしろ」

「はいはい。分かったからそんな威圧的になるなよ……昔何か悪い事君にしたっけ俺」

 

 軽口を叩いてこそ居るが、本音をいうとそんな余裕全くない。 相手は腕力で言えば負ける気こそしないが、それだけで安心できる程俺の心臓は剛毛ではない。

 ましてや相手が―――昨日、屋上で見た綾瀬と対峙していた女子なのだから。

 

「あんた、河本と普段から一緒に居る奴だよね」

 

 俺が教室の真ん中くらいまで入ったのを見てから、おもむろに女子も教室の中に入って来た。 しかも、何処から持って来たのか、鍵を取り出して内側から施錠までして。

 

「そうだけど……君は? あや―――河本の友達?」

「はあ? 友達? アタシが、河本の? 笑えない冗談はやめてよ。 あんなのと友達なるくらいならキモオタとシた方がまだ少しマシだっての」

「……随分な言い草だな。 俺が河本の友達だって分かってるのに」

「本当それね!」

 

 何が面白いのか、女子生徒がこっちを馬鹿にする様に鼻で笑う。 多分俺がむっとしてるのが滑稽なのだろうけど。 控えめに言って不愉快だ。

 

「で? わざわざ俺をここに連れて来て、何の用なんだよ。 まさか俺の前でひたすら河本の悪口言いたいだけか? そう言うのはSNSで勝手にしてろ」

「あんたさ、アイツと付き合ってんでしょ?」

 

 咳嗽。

 

「―――けほっ、いったい、いきなり、何言ってんだよお前」

「付き合ってないの? しょっちゅう一緒に居るって噂じゃん」

「誰が流した噂か知らないけど止めてくれ、渚―――妹の耳に届いたら俺が死ぬ」

「……本当に付き合ってないの?」

 

 予測が外れて拍子抜け、みたいな顔をされる。 まったく持って事態の把握には至らないが、とにかく今回の発端が俺と綾瀬の関係に関わっているのなら、さっさと説明すれば済むかもしれない。

 

「俺と綾瀬は幼なじみだけど、そう言う関係じゃない。 それに一緒に居るのも園芸部だからってのが理由だよ。 分かった?」

「へーー、本当は河本じゃなく綾瀬って呼んでるんだ。 幼なじみってのも今知ったけど、そう言うコト」

「……納得したか? ならさっさとここから出してほしんだけどな」

 

 余計な事を勢い余って言ってしまったと内心下打ちしながら、俺は事態の収束に向けて動く。

 しかし、相手はまだ何かあるらしいのか、いっこうに鍵を開ける気配もそぶりも見せず―――逆に、ニタリと笑ってこちらを見た。

 

「あんたさあ、もっかい聞くけど、アイツの恋人でもなんでもないんだよね? ただの幼なじみ、そうだよね?」

「……だから? 同じ事何回も言いたくないんだけど、オウムじゃあるまいし」

「だったらさ……アタシと、今ここでシてよ」

「は?」

 

 急な発言に、呆然とした俺の前で、なんと未だに名前も把握できてない女子生徒がおもむろに服に手をかけ始めた―――って、はあああ!? 何言ってんのこいつ!? 何おっぱじめる気ナノ!?

 

「ちょっとお前! はあ!? 意味湧かんねえよ!」

「大声出さないでよ、一応人気は無いけど万が一があるんだから」

「だからそうじゃなくて、何でいきなりそんな事になるんだ、ワケが分からないっての!」

「別にいいじゃん、この程度でうろたえ過ぎ。 童貞なの?」

 

 童貞で悪いか! と言い返す前に、相手はポスッとスカートを床に落とした。

 下着を危うく直視しそうになり、性欲より先に生命の危機を感じた俺はとっさに後ろを向く事で既成事実を避けた。

 

「ほんと何考えてんだよお前、第一名前も知らない、今日初めてマトモに会話した相手とそんなのするわけ」

「名前は本条。 河本とは委員会が同じだった。 はいこれで知り合い同士ね」

 

 委員会が同じなのは昨日綾瀬から聞いてるよ! というかやっぱり委員会絡みで綾瀬と問題こじらせてるのか? でもだからって何で矛先が俺にくるんだよ、ワケ湧かんねえ!

 

「本条、綾瀬と委員会で何かあったのかもしれないけど、当てつけでこんな事するのは止めろ、マジで。 お互いのためにならないから」

「あ、少しは知ってるんだ。 アイツから教えてもらったの? やっぱ付き合ってなくても関係深いじゃん、セフレだったりしないの?」

「いい加減にしろよ、俺だっていつまでも言われるがままで済む程フェミでもな―――!!???!?!!??!?」

「済む程、なに?」

 

 言葉はのど元で止まってしまった。

 何故って、いつの間にか脱ぎ終えた本条が、(恐らくほぼ全裸に近い姿で)俺に後ろから抱きついて来たからだ。 背中に制服越しに伝わって来る熱っぽくやけに柔らかい感触と、普段嗅ぐ事の無い甘ったるい匂いが思考と肉体を硬直させて行く。

 後ろからのびる手は俺の胸筋辺りをぺたぺたと触れ、なでる様にくっつける。 背中に冷たい物が一滴走る感触を覚えると、耳元から本条の、熱のこもった声がした。

 

「良いじゃん、別に理由なんてどうでも……それこそ、セフレでもなんでもさ」

「ば、馬鹿じゃねえの……そんな事したら殺されるっての」

「くすっ、童貞のくせにやけにやせ我慢するんだ。 キモイけド面白っ。 ……ね、アタシそんなに魅力無い? 一応胸は平均より大きいんだケド」

「魅力以前の問題だろうが……っ! 性格云々の前にこのシチュエーションが理解不能だ!」

「はぁ。 もうめんどくさ」

「な、なに―――うわぁ!」

 

 恥ずかしながら棒立ちになっていた俺を、本条が押し倒して来た。 受け身を取って顔をぶつける事は無かったが、今度は床に倒れた俺の上を覆う様に、本条がかぶさって来た。

 地面に倒れている俺と、得物を補食するかの様に俺の上に覆い被さる本条。 普通なら男女逆の体勢だが、今は間違いなく俺が襲われている立場なので適切だ。

 

「ねえ、しっかりアタシの事みなよ」

「―――っ」

 

 真っ正面を見ると、下着姿の本条をまじまじと見てしまうので、俺はまたとっさに横を見る事で理性を保たせる。

 ハッキリ言おう、確かに俺は童貞も良い所だが、今この瞬間、俺の脳を占拠しているのはもはや本条への動揺や性欲ではなく、『この場面を綾瀬や渚に見られたら人生が終わる』という恐怖心であった。

 だからまだ下着姿さえ見なけりゃ下半身が生理的反応を示す事も無いし、ギリギリまで思考を冷静に持っていける。

 このまま一線を越えないで、5時限目のチャイムが鳴るまで耐えれば、流石に本条も諦める筈だ。 ―――そう思っていた俺に、本条は新たな爆弾を放り投げて来た。

 

「あのさあ、今ここで何もしなくたって、もうアンタ詰んでるんだけど。 分かってる?」

「は、はあ? 何をデタラメ―――あ、やべえ」

 

 そう、決して手を出さなきゃ良いってワケではないのだ。

 今、本条は下着姿、そんな状態でもしこのまま教室を出て誰かの前に出てみろ。

 俺は問答無用でレイプ未遂の糞野郎のレッテルを貼られてしまうだろう! 何せ向こうがあられもない姿なのに対してこっちはばっちり着こなした状態。 ましてや男女での体格の差は歴然。

 つまり……今の俺には、もう何もあらがう手段が残されていない?

 

「さ、最低だぞお前……痴漢冤罪と何ら変わらねえじゃねえか」

「残念だけど、今の時代女の子が泣けばそれだけで男なんて終わりだから。 今のアンタがそうなってるみたいに、ね」

「本条……」

「どう転んでもアンタに出来る事なんて無いんだから。 さ。 ……それなら、お互い気持ち良くなった方がマシじゃない?」

 

 そう言って、子供をあやす母親の様に、そっぽ向いていた俺の顔を無理矢理正面に向ける。

 とうとう、本条の姿をはっきりと目にしてしまったが、性欲が理性を溶かす事は無かった。

 今この瞬間、俺が考えていた事は、たとえ退学―――最悪警察沙汰になるとしても、この場で本条を徹底的に叩きのめして、病院送りにしてやろうか。 と言う物騒極まりない物だった。

 野々原縁だけの思考回路ならそうはならなかった筈だが、生憎と今の俺は前世の記憶と意識(頸城縁)入りだ。 その手の暴力沙汰にも抵抗は些か無い!

 

「もういい加減観念した? じゃあ、お互い楽になろ」

「……」

 

 拳に力を込めて、いつでも殴りつける準備に入る。

 最後に一回だけ、そもそも何故こんな事になったのか、原因を考察する事にした。

 幾ら綾瀬と関係がこじれているからって、直接俺を標的にする理由は無いだろう。 それなら、第三者の入れ知恵で俺を嵌める様に言われたのかもしれない。

 その考えに至った時、先程悠が言った言葉が、脳裏を駆け巡った。

 

『とにかく、金で何でも言うこと聞かせるって考え方なのに、そのくせ人を見極める目もある。 大抵の人間は札束叩いて黙らせるけど、中にはそれに屈しない人もいるだろう。 その手の相手には周りの人を潰して孤立させるって手段を簡単に取れるのが咲夜だ』

 

 ―――まさか、昨日と一昨日のやり取りで俺を完全な悠派の人間だと決めた綾小路が、悠を潰す為にまず俺から落とす算段で、本条にけしかけたんじゃないか!?

 そうだとすれば説明が行く! 俺がこのまま何をしたって、悠は強姦魔か暴力男の友人ってレッテルを貼られてしまう。 そうなりゃ学園内での立場も一気に危うくなる。

 いや、悠に限らず綾瀬や渚、園子にだって被害が行くだろう。 警察沙汰なっても良いから殴るだって? 冗談じゃない! 俺の行動一つで皆の将来が壊れるじゃないか!

 

「このまま、お前の言う通りにすれば、何も騒ぎは起こさないか」

「ん? んーまあ当分はね。 アンタが素直なうちは、だけど」

「……分かったよ」

 

 皆の将来や立場を殺すくらいなら、あとで殺された方がマシだ。

 

「それじゃ、いくよー」

 

 せめてもの抵抗として、目を閉じる。

 ここから起きる一切を、俺は脳に映像として残さない。 それだけが、大切な皆に出来る唯一の誠意だった。

 

 本条の手が、俺の服に触れるのが分かる。 そのまま、脱がそうと掛かった、その瞬間。

 

 ―――ガァァァァン!!!!!!

 

『!!??』

 

 物凄い音で扉が叩き付けられた。 続いて、先程よりも更に大きい音がしたと思ったら、扉の吹っ飛ぶ音が聴こえた。

 

「な、なに……なんなのいったい」

「誰か来た……?」

 

 目を開き、とっさに上半身だけ起き上げて、俺は扉の方へと視界を向ける。 本条が押し飛ばされてしまったがそんなのどうでも良い。

 施錠されていた扉を(たぶん蹴り)飛ばして、突如この場に現れた人物、それは―――、

 

「こ、河本?」

「綾瀬……!」

 

 そう、先程まで扉があった場所に立っているのは、河本綾瀬だった。 綾瀬に、見られたのだ。 この場面を。

 

 さよなら、俺の人生。

 

「―――なにやってるの」

「な、どうしてアンタがここに居るんだよ! さっき工具室に行く様にメールしたろ!」

「うん。 だから?」

「だからって―――なんで、アンタが今ここに居るのか聞いてんでしょうが」

「やだなあ、聞いてるのは私の方だよ。 ねえ縁」

「……ん」

「したの?」

「いや」

「そう。 そっか。 分かった」

 

 いつもと変わらない語調。

 いつもと変わらない雰囲気。

 いつもと変わらない明るい笑顔。

 

 普段と何ら変わらない綾瀬のまま―――それ自体が既に異常である事を理解して―――綾瀬はすたすたと俺達の方へと近づく。 そして―――、

 

「―――っごぉ」

 

 普通なら絶対発しない呻き声が上がった。 ―――俺ではなく、本条から。

 

「―――え?」

 

 今日だけで何度目かになる茫然自失。 完全に自分がやられると思っていた俺は、綾瀬に顔面を蹴り飛ばされ、コロコロと壁まで転がって行く本条と、変わらずすたすた歩み寄る綾瀬の姿を、まるで映画でも見てるかの様な気分で眺めるしか無かった。

 

「あ、あんた、いきなりナにすん―――」

「黙って」

 

 激昂する本条に構わず、綾瀬はポケットから何かを取り出した。 それを見て、本条は言われた言葉通りに沈黙してしまう。

 綾瀬が取り出したもの、それは俺もよく知っている。 ―――五寸釘だった。

 なる程、本条は先程綾瀬を工具室におびき寄せたと言っていた。 そこは一階の外れにあり、確かにそこなら五寸釘も見つかるだろう。 だけど、何でよりによって、頸城縁がCDの『河本綾瀬』でよく見た五寸釘を選んでしまったんだ。

 

「そ、それで……なにする、つもり」

「うん? 分かるでしょう? そんなにあなたはぼけてるとは思えないけど」

「ひっ……、待って、待ってよ、悪かった、謝るって。 だから……」

「謝るとか謝らないとか、そう言う話じゃないの。 分からない? 分からないのかなあ……」

「ま、マダなにもしてないから! アイツもずっと抵抗してたし! だから許してよ! アたしが悪かったからさ!」

「だからぁ……」

 

 涙すら浮かべて懇願する本条の言葉を一切無視して、

 

「そう言う問題じゃあ無いって、言ってるでしょ!」

 

 五寸釘を、振り下ろした。

 

「―――ねえ、本庄さん」

「あなたが委員会の御手洗君の事好きなのは分かってた」

「それで、御手洗君が私に好意持ってた事はあなたから昨日聞いた」

「私が急に委員会を辞めたせいであなたに仕事が増えた事は謝るわ」

「私が止めて御手洗君も辞めようとしてて、あなたの恋が散りそうなのも分かった」

「逆恨みとも思ったけど、私にも責任の一端はあると思ったから、昨日は黙って話を聞いたの」

「でも、それがいけなかったみたいね」

「あなた、調子乗りすぎた」

「幾ら自暴自棄だからって、幾らあなたがビッチだからって」

 

「わたしの縁に手を出していい理由にはならないでしょ」

 

「今回は、特別だから」

「縁が私の事を考えて、あえて何もしなかったから、許すの。 ううん、許さないけど。 でも見逃して上げるから」

「だから」

「もう二度と、こんな事しないでね」

「勘違いしておかしい事はしないでね」

 

「―――ブスが調子のるな」

 

・・・

 

 五寸釘は、本条の顔のすぐ側、壁を深々と貫いただけに終わった。

 綾瀬の淡々とした言葉全てにうなづきながら、いそいそと服を着直した本条は、そのまま弾くように教室から出て行った。

 その後、俺は綾瀬に何かされる事も無く、その代わり、事の顛末を事細かく語った。

 

 綾瀬が以前所属していた委員会には、御手洗と言う後輩が居たらしい。 彼は綾瀬に好意を持っていて、御手洗が好きだった本条に以前から睨まれていたらしい。

 そんな中、綾瀬は園芸部に入る為に委員会を辞めた。 そして、何処からか俺と付き合っているという噂を聞きつけ、失意の中委員会を辞める事にしたとか。

 綾瀬のせいで仕事が増えて、アタックする機会も失った本条は完全に綾瀬に憎悪を燃やし、腹いせに俺とヤることで既成事実をつくり、同じ様に綾瀬の恋を潰してやるつもりだった。

 

 ―――以上が、今回の話の流れの全部だ。

 まったく、俺からすれば迷惑も良い所だった。

 

「ごめんね。 昨日私が正直に話していたら、貴方にあんな恐い重いさせなくて済んだのに」

「いいよ、別に。 最後は事なきを得たから。 それより―――」

「ありがとう……やっぱりあなたはやさしいね。 昔と同じ」

「そんな事無いって。 でも―――」

「でも、なんか少し嬉しかったかな。 いつの間にか身長も超されて、私があなたを守る事なんて無くなったから。 少しだけ、昔に戻った気分」

「あの……綾瀬」

「ん? なに?」

 

 柔らかい日差しのような笑顔で、俺を()()()()()()

 

「いい加減、離れてくれ」

「やだ」

 

 俺の懇願虚しく、俺に真っ正面からぎゅーっと抱きついていた綾瀬は、更にキツく抱きしめてくる。

 本条なんか比べ物にならない胸の感触と良いニオイが、今度こそ俺の理性を蝕み始めている。 いけない、イメージしろ縁、目のハイライトが消えた渚を。

 

「いい加減、五限目も近いし、な?」

「じゃあ、せめてそれまで。 じゃないと、あの女のニオイが残ったままになるから」

「……はあ。 せめて、予鈴で離してくれよな」

 

 

 そう言えば、そうだった。

 綾瀬は、CDの『河本綾瀬』は、始めから俺に手を出す事は無かった。

 原因がありはした物の、出来る限り命を取る事はしなかった。 というか三人の中で唯一『主人公』は死ななかったのが『河本綾瀬』編だ。

 でもその代わり、近づく女を容赦なく追いつめる。

 五寸釘を手に、何度も何度もさし貫いて、殺す。

 

 独占欲の、かたまり。

 それが、綾瀬だったのだ。

 

「ねえ、縁」

「―――ん?」

「もしあのまま、私が間に合わなかったら、どうしてた」

「……舌を噛み切って自殺してたよ」

「ん……そっか。 ()()()()。 ちゃんと間に合って」

 

 そう言って、胸板に顔を埋める綾瀬。 そのよかったは、どんな意味なのか。 それを尋ねる勇気は、俺には無かった。

 

 ただ、このあとの長い学生生活で、もう二度と綾瀬の手に五寸釘が握られることが無い様、祈る様に天井を仰ぐ事しか、今の俺に出来る事は、もう何も無かった。

 

 

 

―――続く―――




このあと縁は臭い消しのために放課後ホースで全身を濡らし、ジャージに着替えて部室に行きました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第参病・オモイデ

亀更新を突き進む。ヤンデレ成分をもっとください。酸素よりほしい


 俺がドロッドロな人間関係の煽りを受けた日から数日が経った。

 あれからは特に綾小路咲夜からの目立つちょっかいや、頭が痛くなる面倒事も無く、平和な日々が続いて居た。

 強いてあげるとすれば時折、『綾小路咲夜が3年の〜〜と衝突した』とか、ひやっとするような話を耳にした程度だろう。

 

 俺達の学生生活に何らかの問題が起きた事は無く、ひょっとしたら今後も特に何も起きず、綾小路咲夜が転校した事に対する不安が杞憂に終わるのではないか―――そう思い始めていた金曜日の朝に、申し合わせたかの如く事態は動き始めた。

 

 普段生徒の多くが目に止めない、学校行事や各委員会・部活動からの情報が貼られている一階の掲示板に、どういうワケかその日はヤケに多くの生徒が集まっていたのだ。

 ざわざわと沸き立っている生徒の群れを眺めながら、『今日何かあったっけ?』と隣の綾瀬に尋ねたが、『特に何も聞いてないけど』と返され、渚に聞いても『私も分からない』と言われた。

 仕方ないので、自分も人だかりの中に突っ込んで皆が見ているであろう紙を見ようと足を運んだ所に、人だかりの中からげっそりとしたした顔で這い出て来たクラスメイトの七宮を見つけた。 早速何があったのか聞いてみると、

 

「なーんかクソめんどいのが出来上がるみたいだぜ」

 

 と、言われた。

 

「何が面倒なんだ?」

「見りゃわかるよ」

 

 そう言い捨てて先に階段を上がり教室に向かってしまった七宮。 仕方ないので、俺も人の群れを掻き分けながら何が貼られているのかを直接確かめる事にした。

 

「……おいおい、これは」

 

 皆が見ていたはり紙には、以下の内容が書かれていた。

 

『九月八日より、新たに学内査問委員会を設置する事が決まりました。 本委員会は一年生の綾小路咲夜を委員長として、校内の各委員会、部活動がその理念に沿って正しく、適切な活動を行っているかを判断する委員会です。 当日行われる生徒会総会にて詳細を説明します。』

 

 学内査問委員会。 なんか一昔前にあったと聞く事業仕分けなる物を彷彿とさせる字面だが、問題はそこには無い。

 委員会や部活動が正しく運営されているかを見る、これだけでかなり面倒なニオイを放っているのに、それ以上に厄介なのが、委員長があろうことか綾小路咲夜だと言う事だ。

 これってつまり、綾小路咲夜の一存で委員会や部活動が取り潰しにされる可能性があるって事なんじゃないか? もっとも、はり紙には『判断する』とし書かれておらず、直接何か介入できる存在と書かれていないが。

 

「咲夜の発言権が大きくなれば、否が応にも従わざるを得ない。 そんな状況が生み出される可能性はあるね」

 

 教室について、既に居た悠にいち早く先の内容を話した所、帰って来た返答がこれである。

 

「思ってたよりずっと咲夜側はこの学園を掌握しようと動いていた。 情けない話だけど、転校の件に続いて今回も後手後手の後手に回ってしまったよ。 色々と牽制はかけていたのに、全部から振りだった」

 

 口調は平静を保っているけども、その眉間には普段見せないしわが寄せている。 焦っているんだろう、こんな悠を見るのは初めてだった。

 

「でもさ。 別に委員会が出来たからって必ず俺達が不利に回るってワケでもないんじゃないか」

 

 だからか、まだろくに考えても居ないのに、ひょいとこんな事を口走ってしまった。

 

「―――と、言うと?」

 

 悠もいきなり俺がこんな事を口にするとは思ってなかっただろう。 やや豆鉄砲を喰らったような顔で俺に説明を促して来た。 ええと、何か適当な理由を言わなきゃ、励ましたかったからってだけじゃ無責任な発言も良い所だ。

 

「委員長になるってのはさ、それだけ個人の行動に責任がつくわけだ? だったら、咲夜だって傲岸不遜な態度は取れない筈だぜ。 だって、委員会や部活動にケチつける立場の人間の発言に説得力が無かったら、誰も耳を傾けやしない」

 

 日々ガラスをぶち壊してる不良がある日花瓶を割った人に『物を大事にしろ』と言ったって『お前が言うな』で終わるだろう。 それと同じように、学園の一生徒としてある程度マトモな奴じゃなきゃ、委員会や部活の活動に何を言っても『まずテメーの振りから直せ』で終わるに違いない。

 うん、とっさに思い付いた言い訳ではあるが、結構説得力のある物ではなかったろうか? どのような意図かは明瞭ではないとは言え、今回の委員会設立は綾小路咲夜自身にも枷をつける行動に等しい筈だ。

 

「なる程ね。 それも一理あるかな」

 

 悠も俺の言葉にある程度納得したのか、先程より幾らか表情を柔らかくした。 だが、それに俺が安堵を覚えるよりも速く、

 

「でもそれは、普通の生徒の場合だ」

 

 諦観を感じさせる声色で、言いきった。

 

「咲夜はね、ただの生徒じゃない。 僕と同じ―――いや、僕よりも()()()()()()()()。 常識や道理を、無理矢理ねじ伏せる事に躊躇いが無いし、出来てしまう。 それを、縁も覚えておいて」

「お……おう、肝に命じておくわ」

「……まあ? それを分かっておきながらここまで好き放題させてしまった僕が言ってもそれこそ説得力が無いのかな、うん。 とにかく、これからは本気でアイツの動向を警戒する必要があるみたいだね。 死にたくなってきそうだ」

 

 悠がそう話をまとめた直後、始業のチャイムが校内に鳴り響いた。

 普段から聞き慣れている筈のチャイムが、今日はどこか不吉を感じさせる物に感じた。

 

・・・

 

 翌日。 土曜日。 午後1時。

 昼食もそこそこに俺は自転車に乗って、隣町にまで出ていた。

 理由は一つ、ある人に、最近の学園生活事情を相談して、何か良い解決案……というか、別の視点からの意見が欲しいのだ。 ざっくばらんに言ってしまえば人生相談のような物か。

 隣町の更に外れにある山に建つ神社。 そこが俺の目的地。 入り口にあたる大きな鳥居をくぐると、その先にうんざりするように長く長く、傾斜も急な石段がある。 その階段を上りきった先にあるのが、『七宮神社』だ。

 

「……やっぱ、いつ見ても上るのに躊躇いを覚えるよな。 これ」

 

 夏休みのある期間には、ここをもっと参拝客のある神社にしようと、やけにはりきった物だった。

 その甲斐もあってか、初めてここに来たときは寂れた雰囲気を醸し出していたこの場所も、今ではある程度人の行き交いを感じさせる温かみを放っている。

 今だって、俺が石段の先にある神社を見上げていた間に、何人かが神社から帰って行ったところだ。

 

「さて、と。 以前より忙しいのは間違いないのだし、さっさと行って用事済ませますか!」

 

 そう自分を鼓舞して、俺は石段を上り始めた。

 

 体力にはある程度自信があるが、そんな自分でも石段の最後の方になると肩で息をする。 今は手すりがあるからお年寄りでも頑張れば上れるが、少し前まではそんなの無かったから、人が寄り付かないのも当たり前だった。

 

 石段を上り終えた先には、入り口にあったものよりかは幾らか小さな鳥居があり、その向こうには古めかしくも厳かな雰囲気を放つ本殿があった。

 山の木々が神社の周りを囲い、この空間だけが世界から隔絶されているかのように感じる。

 初めて来たときから未だに、何の神様を祭っているのか分からないが、由緒正しい神社である事には間違いないだろう。

 俺が会おうとしてるのは、この神社で巫女をしている『七宮伊織』という人だ。

 学校は違うが1つ上の先輩。 今まで見たこと無いくらい長い黒髪と、物静かで落ち着いた佇まいから、初めて会った時にもっと歳上だと思っていた。

 土日のこの時間なら、きっと彼女は奥で畳の上に律儀に正座でもしながらお茶を飲んでいるに違いない。 さっそく会って話をしようと足を進めたその時、後ろの方から鈴の音のような声がした。

 

「わあ、これはとてもとても、立派な神社だなあ」

 

 独り言にしてはやや大きすぎる声。 単純に感動から出たにしては指向性の強すぎる言葉。 今のが間違いなく自分に向けられた言葉だと認識した俺は、つい後ろを振り返った。

 ―――瞬間、頬を生ぬるい風が撫でた。

 例えるなら、唾液がたっぷりと乗った舌で嘗め回された様な嫌悪感。 とにかく、今までにない怖気が、瞬時に俺を襲ったのだ。

 

「はじめましてぇ、野々原縁さん?」

 

 ―――朗らかに笑って俺の名前を口にした、()()()()()()()()()()()()()()

 

・・・

 

「あれ? もしかして警戒されてますか?」

 

 距離にして、1メートル半。

 鳥居の真下にいつの間にか立っていたその少年は、俺の顔を見るや否やすぐにそんなことを口にして見せた。

 『白々しい』。 そんな言葉が胸の内から湧き出るよりも早く、続いて。

 

「まあ、あたりまえですよねえ。 いきなり会った人に名前知られていたら、誰だって警戒しますよ」

 

 両手を顔の前でぱんっと合わせながら、からからと笑いつつ口にした。

 

「……」

 

 ジョークのつもりなのか? だとしたらひどく滑っている。 こちらの警戒を解こうとしての発言なら逆効果だ。

 相変わらず鳥居から先に進もうとせず、休日だというのにどこかの学校の制服を身にまとい、ニコニコとしているが、俺はすでに目の前の少年が『まともな奴』じゃない事を確信している。

 

 『俺の名前を知っていたから』―――じゃない。

 『休日にそぐわない恰好をしているから』―――これも違う。

 『少年、と呼称しているが実際の所どっちか分からない中性的な顔立ちをしているから』―――でもない。

 

 答えは、『笑顔』だ。

 

 『笑っているようで笑っていない』とか、『目が死んでいる』だとか、『笑顔の裏側に激しい悪意を感じる』とかでもない。

 純粋に俺に向かって笑顔を向けている事が、気持ち悪いのだ。 どう過去を振り返っても会った事ない人間が、初めて会う人間に対して、まるで旧来の友人を相手にするような優しく温かい笑顔を見せているのだ。 これが気持ち悪くなくてなんというのか。

 

「―――誰かな、君」

 

 たったそれだけの言葉をひねり出すのに、多大なカロリーを消費した気がする。 『分からない』を前にしたらこれだけの行為すら困難になるのだと、今この瞬間に体感している。

 一方、少年はようやっとその笑顔を崩し、自然体な表情になって俺の言葉に返した。

 

「誰だと思います?」

「はあ!?」

「おおっと、そんなに本気のトーンで怒んないでくださいよ。 確かに質問に質問で返すのは失礼ですけど……ああ、そう言えばそれが嫌いなんでしたっけ。 すみません忘れてました」

「―――っ!」

 

 さりげなく、本当にさりげなく俺の性格まで言い当てやがった。 本当になんなんだこいつは!

 

「せんり」

「え?」

「せんりですよ、塚本せんり。 今のところの僕の名前です。 覚えてくださいね」

「はぁ……」

 

 少年は自身をせんりと自称した。 これで俺のせんりに対する警戒が解けたかといえば、当然そんなことは万に一つもあり得ない。 むしろ名前が判明してやっぱり今まで会った事のない人間と分かった事で一層警戒心は強まったと言っていい。

 

「なんで俺の名前を知ってるんだ。 どこから―――」

「ああそうだ縁さん」

 

 俺の言葉をさえぎって、せんりは人差し指を口元に寄せて、アイドルさながらのウインクをしながら、

 

「そろそろ、綾小路咲夜さんも動き始めるんじゃないでしょうか」

 

 などと、爆弾発言を口にした。

 

「……君は、その、綾小路家の人間なのか?」

 

 だとしたら俺を知っているのにも納得がいく。 仮に綾小路家の人間なら、悠の友人を調べれば簡単に俺まで辿り着く。

 わざわざ咲夜をさん付けで呼ぶ辺り、咲夜側の人間ではなさそうだが、悠側の人間にも思えない。 だとしたら俺が今まで会った事のない、話でしか聞いてなかった他の派閥の者だろうか。

 

「あ、何か勘違いしているようですが、僕は綾小路家なんかじゃありませんよ」

 

 長々と脳内で考えていたことがあっという間に否定された。

 

「僕をあんな紙幣の多寡でしかモノを視られない連中と一緒にしないで下さいよ。 さすがに困ります」

「……じゃあ何なんだよ」

 

 これまたさりげなく間接的に俺の親友を侮辱されたが、その事について言及するよりも、この塚本せんりの正体を明らかにする方が今は優先事項だ。 湧いてきた怒りをぐっと抑える。

 

「僕が誰なのか。 細かく説明する事は出来ませんが、簡単に言えば『知りたがり』というだけです。 世の中の色んな事を知りたい、そんな人間です。 といっても結構制約が多くてですね、本当は僕があなたの目の前に姿を見せて、会話するのはアウトな行為なんですねぇ」

「……その知りたがりが、わざわざアウトだと分かってて俺に会いに来た理由は何だよ。 こんなただの一般人に」

「それについては明快です。 たとえ咎められる行動だったとしても、あなたに会ってみたかったから」

「会いたかった? 俺なんかに?」

「ええ、そうです」

 

 要領を得ない。

 どれほど厳しいものかは知らないが、ちょっとコンビニに行く程度のノリでルールを破り、わざわざ一般人である俺に会いに行くとか、何の得があるんだ。

 

「そんなに変な事でもないと思いますが?」

「どうして?」

「両親が仕事に多忙なあまり、妹と二人暮らし。 成績を保ち続けるという条件のもと、やや一般的とは言えない生活サイクル。 これだけでも人によっては十分興味を抱くものです。 縁さん、ご自分が一般的に見ると特殊な環境にいる自覚はないんですか?」

「それは、ま……他とは違うところはあると思ってるけど」

 

 時折、クラスの会話の中で耳にする。

 

『母親が勉強しろとうるさい』

『父親が臭くて近寄りたくない』

『家族が邪魔』

 

 時折、クラスの会話の中で言われる。

 

『縁は家に親いないんだろ?』

『好き放題できるね』

『うらやましい、変わってくれ』

 

 そういった事を聞いたり言われたりする度に、親が家にいるのが当たり前のやつと、親が家にいないのが当たり前のやつとの間には、認識に大きな差があると思っている。

 だから、俺はそういう点では、一般的な学生とは言えないのかもしれない。 普段は意識しないけど、言われて納得する程度の自覚は持っているつもりだ。

 でも、だからといって、それはそれで完結する話だ。 得体の知れない自称『知りたがり』が、接触図るほどの理由とは思えない。

 そんな俺の疑問に答えるように、右手の人差し指を顔の前でくるくるさせながら、せんりは言う。

 

「ですがそれ以上に、一般的ではないにせよ、庶民でしか無い筈のあなたが、分家筋とはいえ国際的な大富豪である綾小路家の人間と親友関係にあり、今度は本家の令嬢である綾小路咲夜とも接点を持ち始めた。 ただの庶民がですよ? こんなの、世の中の知りたがりが放っておくわけがないじゃないですか」

 

 特に名門出とかじゃない俺が一体どうやってあの『綾小路家』の人間と友人関係になったのか。 それもまた、たまに言われる言葉だった。

 だけど、これも偶然が生んだ出会いだ。 俺が何かしたってわけじゃない。

 

「別に狙って友達になったんじゃない。 たまたまだ」

「そう。 偶然。 あなたが今口にしたように多くの人間がそう結論付けて、結局はあなたの今後の動向を遠巻きに見るだけに留まった。 そこにはあなたの身を案じた綾小路悠の手も加わっているでしょうが、結局は僕ら以外の誰もが、あなたへの関心をそこで留めた」

「……」

 

 空気が変わっていることに、今気づく。

 空は相も変わらず青々しいのに、俺とせんりの間にだけ曇天が立ちこもっているかのように、暗く重苦しい。

 いけない、これ以上こいつのペースで話をさせるな。 本能が警告を放つが、だからといって何もできない。 させる余裕を、目の前の人間は与えてくれなかった。

 

「だってそうでしょう? 野々原縁の人生は、『運命の偶然』で『綾小路悠と出会い、友人になる』事はあっても、絶対に『綾小路咲夜と8月31日に出会う』事はなかったんですから」

 

 今までで一番の寒気が背中を伝っていく。 こいつは、夏休み最後の日に俺がとった行動を、完全に把握している。

 なぜ? どこで知った? どこで見ていた?

 

「なんで、どうしてお前があの日の俺の行動を知ってるんだよ!」

「言ったでしょう? 『知りたがり』だって」

「単なる知りたがり屋の範疇超えてるだろう!」

「ふふっ、確かに」

「……っ、何で知ってるのかは言わないつもりか」

 

 動揺して語勢が強まった俺を面白そうに見るせんりに、一周回って冷静さを取り戻す。

 たぶん、こいつは俺が思っているよりずっと、俺のことを知っている。 そして、俺の反応や態度を見て愉しんでいるんだ。

 乗せられるな、こいつは渚や綾瀬と言った『自分の死』に関わる様な存在では決してない。 不気味でこそあるが、いちいち相手のペースに合わせて墓穴を掘る必要もないんだから。

 

「……仮に、俺があの日咲夜と会った事の何がおかしいんだ? あれだって偶然だ。 あの日まで俺は咲夜の存在を知らなかったんだから」

 

 別れ際にようやっと綾小路咲夜だと知った。 悠の時と同じように、俺があらかじめ何か用意したり画策して出会ったわけではない。

 だから、普通に考えてもここまでの話に出てきた多くの『知りたがり』達と違って、せんりだけが関心を向ける理由なんて、どこにも―――、

 

「そう偶然! それなんです、まさにそれが僕の興味を惹きつけんです」

 

 我が意を得たり、せんりは両手をパチンと音を鳴らしながら合わせると、まっすぐこちらの目を見て続けて言った。

 

「あなたはあの日まっすぐ家に帰ろうとしたはずが、ふとした気の変容で狭い路地を歩いて遠回りをした。 そうして綾小路咲夜と出会い、敵対関係以外の繋がりを持った。 ……でもね、縁さん。 貴方って今年の4月頃まで(・・・・・・・・)、そんな面倒な事する人でした?」

 

 ―――ちょっと待ってくれ。 もしかしてこいつは、

 

「ありえないんですよ。 本来の『野々原縁の思考パターン』では、あの瞬間にあなたの気が変わる事自体が、まずありえなかった。 それ以前にも、それこそ今年の4月以降、今まで観測して居た野々原縁がする筈のない行動を貴方は度々とっていましたが、あの時がその最たるものだった。 僕は確信しましたよ、『これは野々原縁だけの判断ではない』と」

 

 『せんり』の眼が、俺を捕らえて離さない。

 今すぐにこの場を離れるべきだと理性が警鐘を鳴らすが、蛇に睨まれたカエルの如く、俺は『せんり』の言葉を聞くに徹している。

 信じられない話だが、こいつは、

 

「縁さん、あなたぁ―――」

 

「その中に、何を飼ってるんです?」

 

 頸城縁(オレ)に、感づいている?

 

・・・

 

「―――ヨスガさん? お久しぶりですね!」

 

 その一言で、ギリギリまで張りつめていた輪ゴムが千切れる様に、辺りの空気が弛緩した。

 

「―――ぁ」

 

 振り向いて、俺は視界に古風な巫女服を纏った黒髪の少女を映す。

 それだけで、何か救われた様な気持ちになった。

 

「どうしたんですか? あぁいえ、来てくれたのは凄く嬉し……嬉しい、ですけど」

 

 自分の言葉に多少の恥ずかしさを覚えて、頬を軽く紅潮させながら言う。 未だ背中を伝う冷え切った汗に不快感を覚えながらも、俺は少女に声を掛けた。

 

「久しぶりです、七宮さん」

 

 言って、初めて自分の声が震えている事に気付く。

 

「凄い顔をしていますよ、体調が悪いのに無理して来たんですか?」

「いや、違うんです、体調とかは大丈夫です、ただ―――」

 

 言いながら顔をせんりの方へと向き直したが―――、そこには既に誰も居なかった。

 

「……誰か、さっきまで居たんですか?」

「えっと、はい。 そうだったんだけど……」

 

 階段を下りた先も見渡したけど、人の姿はない。 たった数秒で忽然と消えてしまったのか。

 まるでさっきまで幻を相手にしていたようだ。

 

「……とりあえず、中にどうぞ。 せっかく来てくれたのですし、何か私に相談したいことがあるんですよね?」

「……はい。 お言葉に甘えて」

 

・・・

 

「どうぞ、ちょうど新しいお茶菓子が入ったんです」

「ああ、どうも。 ありがとうございます」

 

 応接間に案内してもらった後、わざわざお茶と和菓子を運んで来てくれた。 畳のにおいと、縁側から吹いてくる涼しい風が、重暗くなっていた心を軽くしてくれる。

 

 七宮伊織さん。 俺と同年代にして早くもこの神社の巫女をしている。

 彼女との出会いは、今年の夏休みの中盤に俺がとある理由でちょっと面倒な状態に陥っている間、この神社に足を運んで出会った人だ。

 そのせいもあって、俺自身はあまり七宮さんとの思い出がないが、今回のように親切にしてくれるのだから、きっと俺は何かしたんだろう。

 そしてこれはあまり大きな問題ではないが、クラスメイトの七宮とは親戚だった。 世間は狭い。

 

「それで、今日はどんな事で相談に来たんですか?」

「その前に、どうして俺が相談に来たって分かったんです? 俺何も言ってないのに」

「それは……内緒、です」

「な、内緒。 そうですか……」

 

 古くから歴史を持つ七宮神社の巫女である彼女は、一般人には持ちえない不思議な力を持っている、という知識が俺にはある。 具体的には、『神様の声が聴こえる』らしい。

 突拍子もない話だ。 到底信じられない。 でも俺はそれを事実だと信じている。 そう信じるに至る過程や理由は思い出せないけど、きっとこれも、夏休み中の出来事に大きく関わっているんだろう。

 

「話っていうのは、その、正直七宮さんに話してもしょうがないかもしれないんですけど……」

 

 そう切り出してから、俺は夏休み最後の日から今日まで、俺の周りで起きた出来事について話した。

 神妙な面持ちで俺の話を聞いていた七宮さんだが、話し終えたころになると、表情は打って変わってやわらかいものに変わっていた。 話の内容からして、なごめる要素はなかった筈なのだが。

 

「えっと七宮さん、俺の話、面白かったですか……? あまり聞いてて気持ちのいい話じゃないと思うんですが」

「あ、ごめんなさい。 別に面白がっていたわけじゃないんです。 ただ……」

「ただ、なんです?」

「私の知らないヨスガさんの生活を聞くことができて、それが少しだけ、嬉しくなって……ごめんなさい、ヨスガさんは大変な思いをしているのに、こんな事思うのは変ですよね。 聞き流してください」

「……いえ、お構いなく」

 

 俺と彼女の間にどんなやり取りがあったのかは分からないけれど。

 そんな風に、俺の日常を聞くだけでも喜んでくれる彼女に、申し訳なさを感じてしまった。

 

「話を戻しましょう。 その転校生の綾小路さんですが……きっと、この後も、どんどんヨスガさんたちにとって好ましくない行動を取ると思います」

「やっぱり、そう思いますか」

「そのうえで、必ず悠さんの家と綾小路さんの家の間にある関係が、表面化するはずです。 何も対処しなければ、確実にそれがヨスガさんの学校を分断させていくと思います」

「それは、悠派の人間と咲夜派の人間で学園が分断されるって事ですね」

「もちろん、これは私の憶測の域を出ていませんから、杞憂に終わるかもしれません。 そうであってほしいです。 だけど、もし本当にそうなってしまったら」

「そうなったら?」

「カギを握るのは、ヨスガさんだと思います」

 

 カギを握る。 どういう意味だろう。 なぜ俺が。

 

「今のままだと、悠さんか綾小路さん、どちらかが潰れる形でしか問題は解決しないと思うんです。きっと、悠さんであっても、家族同士で対立している相手には優しく出来ない、気がします」

「それは……確かに、そうですね。 悠は過激な事を嫌う性格だと思いますが、それでも、やる時はやる男だと思う」

「だから、あなたしかいないんです。 あなただけが、悠さんと綾小路さん、両方と関わりを持って、しかも悪くない印象を持たれている。 事態を最悪な方向に行かせないためには、きっとあなたという存在がどう動くかで、決まるんだと思います」

 

 ―――勘弁してくれ。 そう思ってしまった。

 一般人でしかない俺が、大金持ちの対立に関わるなんて、絶対に大変な事になる。

 もちろん、七宮さんが自分で言う通り杞憂で終わってくれれば良いのだが、『この人の予感は当たるだろう』という確信が、俺の中にある。 だからきっと、いつか俺が動かなきゃいけない時が来るのだろう。

 

 でも、ならその時俺は何をすればいいんだろう。

 そもそも、いったい綾小路家の間でどんな対立が起きるというんだろう。

 ―――わからない。 そこまで予想しろというのは、流石に七宮さんには言えなかった。

 

「ありがとう、ございます。 先は思いやられるけど、心構えは出来ました」

「ごめんなさい……、逆にヨスガさんの重荷になってしまったみたいで……」

「そんな事ないですよ。 普段あまり相談とかしないので、話聞いてくれて嬉しかったです」

「そうですか……なら、よかったです」

 

 自分の言葉が逆に俺を追い詰めてしまったのではないか、そう心配する七宮さんに気にするなと返す。 わざわざ俺のために時間を割いてくれた彼女に、悪い気持ちはさせたくなかった。

 そのまま外に出て、また鳥居の下まで歩いたところで、最後、七宮さんが言った。

 

「ヨスガさん」

「はい」

「私が声をかける前に、ヨスガさんが話をしていた人についてですが」

「ああ、はい。 そういえばそれについて話してませんでしたね」

「その人がどんな人かは、私にもわかりません。 ですけど……気を付けてください」

「それは、どうして」

「姿はなくても、その人が残した気配を感じます。 ヨスガさんに直接害を与えないかもしれませんが、それでもきっと、これからヨスガさんに何か、良くないモノを運んでくる、そんな気がするんです」

 

 良くないモノ。

 それだけは、本当にその通りだと思った。 俺は七宮さんの忠告に礼を述べて、『でも』と最後に一つだけ、冗談交じりの笑みを浮かべて聞いてみた。

 

「それは、『神様の声』がそう伝えたんですか?」

 

 その言葉に、七宮さんは一瞬ぽかんとした表情を浮かべてから、やわらかい笑みを浮かべて言った。

 

「いいえ、違いますよ。 縁さん」

 

「もう―――今の私に、神の声は聴こえませんから」

 

 

―――続く―――

 




七宮伊織さんを出したいがために回り道して出した話。世に放つまでにどんだけかかってんだ。

CDでは彼女、主人公と恋人関係になってから神様の声が聴こえなくなってるんですよね
神より主人公を優先したからか、恋をしたからか、その両方が理由か
その描写を多分に取り込んでるので、今回出てきた七宮さんが神の声聴こえないってのは、

さて、どういう事なんでしょうね

また半年後までお待ちください!!(おい)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第肆病・ホウカイ

主人公とは、完璧ではない
不完全こそ、主人公に求められる要素である

いや、知らないけど


 それに気づいたのは、放課後、部活動の時間も終わり全生徒が帰ろうとする時だった。

 

 この日は運悪く英語の小テストで引っかかり、俺は放課後部活動も行けず補習を受けていた。

 ようやっと終わったのと、下校を促すチャイムが鳴り響いたのが同時。 教師は『明日の補習は免れたな』と笑いながら出て行き、言い返す言葉を想起する気力も枯れ果てた俺は、特に急ぐでもなくゆっくりと帰り支度をした。

 とはいえ、たかが帰り支度程度で1時間もかかるわけもなし、5,6分で終わった作業は俺を離席させるのに十分な理由を与え、程なく俺は教室を出る。

 廊下の窓から差し込む赤黄色の光が、俺に1日の終わりを粛々と告げる。 相変わらず綾小路咲夜の動向が気にかかる日々が続くが、今日も悪い日ではなかったと、夕焼けを見て思った。

 たまには友達や妹と関わらず一人で帰るのも悪くない。 孤独は寂しいが、普段隣に居てくれる人がいるからこそ感じる一人きりの瞬間は、そう悪く無いものだ。

 

「って、多分咲夜はこう言うとこを突いてきたんだろうなぁ」

 

 以前、咲夜に自分の好みを的確に言い当てられた事を思い出す。 ささやかな事に幸せや価値を感じる、あいつは俺を指してそう言った。 言われて反論が浮かぶどころか、確かにその通りだと納得もした。 今俺が一人で帰る時間を楽しんでる事からも、それは証明されている。

 とは言っても、それを出会ってから1日程度の人間に見透かされるのは今でも驚き。 綾小路家の人間は伊達じゃないって理由もあるだろうが、俺自身そういうのが分かりやすい人間なのかもしれない。

 

 人の気配が完全に失せた廊下を過ぎて、階段を粛々と降り、静寂と若干の汗臭さを匂わせる昇降口に辿り着く。

 自分の外靴がしまってある下駄箱まで行く途中、ふと、視線の左端に意識が向いた。

 向いた先にあるのは掲示板、先日多くの生徒の耳目を集めていた例の張り紙があった。

 

「学内査問委員会、か……」

 

 明後日行われる生徒会総会でその全貌が明らかになる、綾小路咲夜を中心に据えた新たな委員会。 以前に悠と話した時は俺自身そこまで危険視する程じゃないのでは、なんて思ったりしたけれど。

 こうして刻々と時が近づいてくると、やはりどんな物になるのか、嫌でも気にしてしまう。 わざわざ学園を動かして新しく委員会を作るのだから、余程の理由があるのは間違いない、そしてそれは間違いなく、同じ綾小路家である悠にも影響を与えるだろう。

 

「……俺が、なんとかするしかないって?」

 

 この前七宮神社で七宮伊織さんに相談に乗ってもらった際、彼女に言われた言葉が重くのしかかる。 このまま放って置くと、悠と咲夜のお家問題は第三者が見過ごせないレベルに発展して、そのうち巻き込まれると。 そして、『その時になってから』ではもう遅いのだ、とも。

 だから悠と咲夜の両方と関わりを持つ俺が、という事なのだけど……正直言って、俺にそんなデカいこと出来る自信は無い。 皆無だ。 絶対に無理。

 綾小路家がデカい家って事は今までの日々で既に充分なくらい分かりきっている。 それなのに一般市民である俺がそんな家どうしの争いに突っ込んでみろ、一瞬で潰される。 鯉が滝登りするんじゃない、蟻が滝登りするようなもんだ、岩肌に足を付ける暇もなく流されて終わる。

 

「はぁ……やめたやめた、もう終わり」

 

 敢えて口にする事で思考をリセットさせる。 考えても仕方ない事を無理に考えたところで、先にあるのは不安と疲労だけだ。

 止めていた足を進めて、下駄箱で靴を履き替える。 そうして後は出るだけになった時、俺はそれに気づいた。

 

・・・

 

「誰かのカバン?」

 

 別のクラスの下駄箱の下に、丁寧に置かれたカバンがあった。

 靴を見ても、どれも全部上履きで、中に生徒が残ってるとは思えない。 なら、誰かがカバンを置いて今も外で何かをしてるって事になる。 ―――こんな時間まで?

 俺みたいに補習を受けていたとは思えないし、もう部活してた生徒の気配もないから、後考えられるのはどっかの委員会の生徒がまだ何かしてるって事位か?

 

 疑問の答えは、すぐに明らかとなった。校庭の花壇に、よく知る人の後ろ姿があったからだ。

 

「あ、あれ? 園子?」

「よ、縁君!?」

 

 俺もたいがい驚いたが、それ以上に驚いてる様子で、柏木園子が俺を見て言った。

 

「ど、どうしてまだ学校にいるんですか」

「いや、補習を受けてたから今やっと帰ろうとして……園子は何で、というか何してたのさ」

「わ、私は、その……えっと……」

 

 大変答えるのを苦しそうに、うんうんとひとしきりうなってから、最後に搾り取ったみたいな声で、

 

「そ、その……部活、です。 学園の花壇に新しい花を植えていました……」

「はい? いや、ちょっと待て待て、こんな時間まで残って何かやるなんて昨日まで聞いてないって。 渚達は? もしかして園子一人でやってるんじゃ」

「ええっと、私一人でやれる簡単な内容でしたので……皆さんには特に説明していないです」

「なんでさ、こんな時間まで残ってやる作業が簡単なわけないだろうに。 俺も手伝うって」

「いえ、実はもう帰ろうと思ってたので大丈夫です。 さすがに私だって一日で全部やろうなんて思っていませんよ、今週中にできればいい位ですから、ありがとうございます」

「そ、そっか……もう帰るっていうなら、まあ……。 でも明日からは」

「お気持ちはとてもうれしいですけど、これに関しては私が先生に勝手に取り付けた約束なので、皆さんの下校時間を煩わせてしまうわけにはいきません。 気にしないでください、私結構こういうの得意なんですよ?」

 

 終始、笑顔でそう言いながら、結局俺の申し出を断ったまま、園子は帰っていった。

 

・・・

 

「……」

 

 帰宅後、渚が作ってくれた夕飯を口にしながら、俺は先ほどの事を脳内で反芻していた。

 よく味のしみた肉じゃがのジャガイモを咀嚼し、次いで炊き立ての白米を口の中に駆け込み、味覚を楽しんでから大根の味噌汁を飲み込む。 どれも俺が作るより何倍も美味しく、大変に満足と多幸感を与えてくれるモノではあるが、やはり園子の事が気にかかって純粋に食だけを楽しめない。

 

「お兄ちゃん、何かあったの? さっきからちょっと難しい顔してるけど……美味しくなかった?」

「ん……実は」

 

 素直に口にしようとした刹那、自分が『渚の作った料理を口にしながら他の女の事を考えていた』事を馬鹿正直に口にしようとしていた事を自覚し、舌を噛み切る勢いで押し留めた。

 最近、少し関係性が一新されたからと言って、少し油断しすぎじゃないだろうか? 以前より危機管理が覚束なくなっている自覚がある。

 かと言って、ここで嘘をつくような事もあり得ない。

 となれば、この後に俺が口にするべき言葉は。

 

「……そういう顔してる?」

「うん。 悩み事抱えてる時の顔してる」

「流石。 よく見てるんだな……確かに色々悩み事はあるよ。 後期が始まってから、どうも周りの環境が穏やかじゃ無くなってるのもあるし、人間関係とかにも色々影響出始めるんじゃないかって……」

「思ってたより、すごく深い事に悩んでるんだね……」

「最近はね、特に。 どうせ大して頭が回る人間でも無いのに、前より考える事が増えてきた気がするよ。 今日もちょっと気に掛かることがあったし……」

 

 ここまでは、本当の事を話す。 嘘は何一つ混じっちゃいない。 気に掛かることが増えたことも、今日また一つ増えたことも全部事実だからだ。

 そして、本題はこっから。

 

「渚は綾小路咲夜と距離が近いだろ? それも結構心配なんだぜ?」

「うぇ、わ、私?」

 

 これも、また事実。

 学年は違うとはいえ渚が咲夜と物理的な距離で近い事は、間違いなく俺の懸案事項の中でも最右翼だ。

 誤魔化すのともまた違う、俺が気になっていた事をこの機会に聞いてみることにした。

 

「今の所、変なことされたり、言われたりしてないか? ―――あ、いや、変な事は散々言ってるとは思うけど」

「ええっとね……確かに、本当にあの綾小路さんのイトコなのかなって位に凄い強気な性格してるけど、私はまだ、何かされたりって事は無いかな。 あ、でも」

「でも?」

「一回だけ向こうから話しかけて来て―――『あんたとアイツ、髪の色以外特に似てないわね、本当に兄妹なの?』って言われたよ。 勿論はいって答えたけど、あとはそれだけ」

「……うーん、そっか」

 

 意外なことに、咲夜は渚に対しても大したアクションを起こさないでいた。 ひょっとしたら綾小路咲夜は俺が警戒してるだけで、何もやらかす事なんて考えちゃいないのかもしれない。 もっとも、あの態度や発言からして俺たちを低く見てるのは間違いないけども、少なくともこの学園内では、悠と目立つ対立をする気がないのでは、ないだろうか。

 勿論、学内査問委員会なる不穏な響きを持った委員会を創設した事については留意しているつもりだ。 けれどそれだって、咲夜が『誰かの作った委員会や部活に入るなんてやだ』みたいな駄々をこねて生み出した、名前だけの委員会って可能性も十分に考えられる。

 咲夜の転校は俺にとっても悠にとっても、電撃的な出来事だった。 その驚きや焦りから、俺や悠はもしかして、必要以上に疑心を働かしてるだけかもしれない。 少なくとも、咲夜が転校して来て少し経った今、それくらいの事を考えられるだけの余裕は出てきた。

 

 希望的観測過ぎるか?

 悲しい事にそう言われたら余り反論出来ない。

 

 一度、いや明日、悠に話してみよう。 最近の悠はそれまでの笑顔が薄れて、暗い表情が目立つようになってきている、原因は間違いなく咲夜なのだろうから、少しでも心の負担を軽くしてやりたい。

 

「分かった。 教えてくれてありがとうね、渚。 それと」

「ん、なに?」

「咲夜に『本当に兄妹か』って聞かれて、『はい』って答えてくれて、ありがとう」

 

 硬直する時間。

 俺が急に何を言い出したのか、発言の意味を具に理解出来なかった渚が、白米を掴んだ箸を口元に止めて俺の目をポカンと見る。

 しかし、それは一瞬の事。 すぐに俺の言葉の意図する事を噛み締めた渚は動き出す。

 

 止まっていた箸を動かし、

 咀嚼し、

 味噌汁で飲み込んで、

 軽く息を吐いてから、一言。

 

「―――当たり前の事言っただけだよ、お兄ちゃん」

 

・・・

 

「ねえ、綾瀬」

 

 翌日のお昼休み。 一緒に食べる約束をした悠が一瞬席を離れている間に、俺はこんな事を幼馴染に聴いてみた。

 

「園芸部に居て、楽しい?」

「……急に、どうしたの」

 

 唐突な質問に、当然綾瀬の顔も怪訝なものになる。 が、すぐに答えてくれた。

 

「……楽しいわよ? 前よりあなたと話す時間が増えたし、綾小路君とも話す機会が増えて、どんな人か分かるようになったし、園子も、今まで会ったこと無いタイプで面白いし―――」

「ちょっと待ってお前園子と呼び捨てしあう仲になってんの?」

「え、そこに引っかかるの? うぅん、呼び捨ては私だけで、向こうは名前にさん付け。 別に今更さん付けしなくても良いのにね」

「そっか……そうなのか……」

 

 綾瀬は大したことない様に語ってみせるが、俺にとっては到底信じられない事だ。

 だってそうだろう、前世で聴いたCDの中じゃ、『河本綾瀬』が『柏木園子』を呼び捨てにする位の関係なんてあり得なかったのだから。

 どちらかが、どちらかを殺す。 それだけの関係だった。 園子はともかく、綾瀬においては確か『ブスは死ね』と連呼しながら殺したと語っていた。

 そんな2人と同じパーソナルを持つ綾瀬と園子が、この世界では友人として接し合い、あまつさえ同じ部活で毎日顔を合わせているのだ。 改めて、自分が置かれてる状況が既にヤンデレCDのシチュエーションとかけ離れた物になった事を自覚させられる。

 

「……そういう事もあるんだな」

 

 ふと、綾瀬との会話の最中ではあるが、ヤンデレCDの2人にも、この世界の2人の様な関係が築かれる可能性があったのかを考えてしまった。

 もっとも、それは完全に無駄な事ではあるが。

 この世界とは異なり、あれはどこまで行っても創作の世界。 それ以上の可能性が無い完結され切った物語だ。 どこまで考えても、もしも(IF)なんて起こり得ない。

 あるいは、俺が認識してるこの世界こそが、そのもしも(IF)なのかもしれないな。 ―――なんて、途方も無い事にまで思考を伸ばしてみた。 きっとたぶん、くだらない。

 

「それで、どうしてそんな事聞いてきたの?」

「んー、色々あってね」

「えぇなにその色々って。 誤魔化しすぎて気になるわよ」

「まあ、その、ね。 一番の理由は純粋に気になったから」

「ふぅん、じゃあ逆に聞いちゃうけどあなた自身、園芸部をどう思ってるの?」

「俺?」

 

 問いを返されて、俺は考える。 あまり深く考えずに答えるとすれば簡単、「居心地のいい場所」で済む。 それは嘘じゃ無いし、なんの誤魔化しもない。

 だけどそれは、1人の部員としての意見だ。 綾瀬が求めているのはそれもあるが、『園芸部を残した人間』としての意見だろう。 それなら、安直な答えに落ち着くわけにはいかない。

 複雑な事情が絡まって、最終的に俺達の居場所になった園芸部。 学期の後半に集ったから、夏休み以外まだ目立った活動はしてないけど、それでも、放課後に集まってコミュニケーションを取る場所が出来た。

 

 そんな空間を、俺はどう思っている?

 これからどうしたい?

 

「これからも……この関係が続けばなって……そう思ってる」

「ふーん……この関係って言うと、具体的にはどんなの?」

「具体的に……そうだな、特に示し合せるわけでもなく、同じ場所に集まって、何か話したり、かと言って無理に会話をしなきゃって焦燥にかられる必要もなかったり、一緒にいて当たり前で、飽きる事がなくて……うぅん、なんか上手く言葉にできないわ」

「ふふ、でも、なんとなく言いたい事、伝わったかな」

 

 綾瀬がそう微笑むのと同時に、席を離れていた悠が戻ってきた。

 

「何か面白そうな話をしてるね、遅れたけど混ぜてもらっても?」

「うん、勿論。 今ね、園芸部をどう思ってるかって話をしてたの。綾小路君はどう? 縁と一緒に存続を守った側として」

「僕の場合、殆ど自分の意思は挟まずに、縁に合わせた所が大きいから、最初は『こういう空間もありか』って意識の方が大きかったかな、実は」

「そうなんだ。 意外とドライだったのね」

「ああいや、それはあくまでも最初の話だよ」

 

 聞いてて俺も思った事を綾瀬が口にすると、悠は軽く苦笑して顔の前で手を振り、あくまでも過去形の話だと言うのを強調してから、続けて言った。

 

「まだ園芸部に入って半年も経ってないけど、今はもう僕にとっては『貴重な時間を過ごせる場所』になってる。なにぶん家では色々重苦しい話ばかり出るし、学校では縁や河本さん以外、特に話す相手もいないからね」

 

 大した事ない様に口にしてるが悠、それって実はかなり苦しい事だぞ。

 

「だからね、立場や人を選ばずに忌憚なく過ごせる空間っていうのは、とても好きだよ」

 

 最後にそう締めると、悠の胸ポケットから小さく振動する音が鳴り出した、多分マナーモードの端末に着信が入ったのだろう。 取り出して画面を確認すると悠はため息ひとつしてから、

 

「ごめん2人とも、あと30分位で授業始まるけど、僕は少し呼ばれたから離れるよ。あ、仮に遅れるとしても5時限目の途中くらいには間に合うようにするから、先生にもそう伝えてくれるかな。じゃ、また後で」

 

 矢継ぎ早にそう言い残して、教室を後にした。

 

「忙しそうね、綾小路君。 ここ最近は特に」

「やっぱり……口にしてないだけで、咲夜の転校で色々大変な状態なのかな」

「貴方は特に聴いてないの? 彼からは」

「聞いてない……たまに聞いても、今は大きな事は無いって返事が来るだけだ」

 

 もちろん、それが本当なんて思ってはいない。

 いないけど、必要以上に家の関係に介入するのにも、多少躊躇いがある。 自分が巻き込まれるのが嫌―――という気持ちが僅かながらあるのも確かだけど、それ以上に、俺が介入する事で更に面倒な事態になるかも、と言うのが一番怖い。

 だけど、この前七宮さんに相談受けた時の事もあるし……かと言ってならどうアクションを起こせば良いのかも不明瞭なまま。

 ああそれに、話が逸れてるが、今は園子の事もある。 6月までの自分の命に関わる悩み事とはだいぶ質が異なるものの、今俺の頭の中を埋め尽くしてる悩み事も、十分頭痛を引き起こすに足る物だと思う。

 それでも考える事が嫌になったり、頭痛で現実逃避しない所は、自分という人間の美点なのか、欠点なのか。

 

「―――あれこれ考えてもしょうがないのか、それとも今は考え悩むべき時なのか、分かんねえなあ」

「……貴方も、結構ナーバスね。 なんか、最近は皆悩んでる所ばかり見てるかも……私も、この前までそうだったし」

「季節の変わり目だから、思考にもムラが出てるのかもな」

「5月病じゃなくて9月病? でも本当にそういうの、あるかもね」

 

 すくなくとも、綾瀬とこうして話をする瞬間は、何の憂いも不安もなく、安らかなものでありたい。

 なーんの解決にも繋がってないし、ヒントすら無いままだが、会話をするってのは大事だ。 お陰で少し動く気力が戻ってきた。 このままウダウダしててもしょうがない。 特にやるべき事も思い浮かばないが、だからこそ、

 

「ちょっと、顔洗ってくる。 頭切り替えてくよ」

「ん。 分かった」

 

・・・

 

 有言実行、教室を後にして、自販機に向かう。学園の構造上、最寄りの自販機は中等部との連絡通路上にあるので、よく他学年や中等部の生徒の姿が見られるのだが。

 

「あら、庶民じゃない、久しぶりに顔を見るわね」

 

 だからと言って、まさか、こうも偶然的な遭遇に見舞う羽目になるとは思ってなかった。

 

「言っておくけど、別に狙ってなんかないわよ。 たまたまなんだから」

「寧ろそうじゃないと困るよ」

 

 下手な会話は避けよう。 軽い返事と共に俺はそのまま蛇口に手を伸ばそうとした。 けれどこの金髪お嬢様は、そんな俺の手を止めるに十分過ぎるワードを、簡単に叩き出してきた。

 

「そう言えばー、昨日、外で何を話してたの?」

「……なんで、君がその場面を見てるのか、物凄く気になるよ」

 

 とぼけたり、否定する気は無いよ。 もうこいつは確信している。 下手にごまかして話をややこしくする方が疲れる。

 

「私はあんた達庶民とは違って忙しいの、ここ最近は特にね。 それで、たまたま昨日窓から外を見たら、あんたともう1人の女子生徒が何か話してたのを、視界に映しちゃったってワケ。 普段なら別に気にしないけど、その時は忙しさの中で別の刺激が欲しかったから変に頭に残っちゃった。 ……まぁ、それでも特段問い詰める気もなかったけれど、今こうして面と向かったら、改めて気になっちゃったからこの際聞いてみる事にしたの、分かった?」

「長い長い! たまたま目に映ったから気になったで良いだろその説明!」

「『気になった』だとまるで私が日頃からアンタの事意識してるみたくなるじゃない! たまたまよ! 偶然頭に残る様な環境と条件が揃ったってだけ!」

「……もう、それで良いです」

 

 言動だけなら凄いその……ツン、嫌々々々、それは無い無いあり得ない、こいつとの境遇からツンから始まりデレで終わる4文字の言葉を連想するなど、なんの需要にもならない。

 下手な事を考えずに、素直にこいつの言動だけを受け取るとしたら、つまり、こいつはそういう言い方(・・・・・・・・)しか出来ない(・・・・・・)んじゃないかな?

 つまりは、何か裏を持ってないと言葉を口に出来ない。 みたいな?

 何か、引っかかるな。

 

「ちょっと? 質問に対する答えをまだ聞いてないけど?」

「ん、ああ、やっぱ聞くのかそれ」

 

 さりげなく今ので会話が終わることを期待していたものの、そうはいかなかった。 しょうがないから話す事に。

 

「話してた相手は俺の部長だよ。 みんな帰った時間なのに残ってたから何してるんだって聞いてたんだ」

「部長……ふうん、じゃあアレが園芸部の……そういうことね。 あいつだったんだ」

 

 何かを一人で納得する咲夜。 こいつの前で園芸部に絡んだ話をするのは正直避けたいが、状況がそれを許さない。 それより、ひとつ気になったことがある。

 

「園子の顔を知らなかったのか、お前」

「柏木園子の事はここに来る時軽く聞いてるわ。 顔? 知ってるわけないじゃない」

 

 そっか、こいつは園子の顔はおろか、その存在をこの学園に来るまで知らないでいたのか。

 自分の家族がその人生を潰しかけた人間を。 こいつは、俺の話を聞くまでろくに認知していなかったんだ。

 

「それで、何をしてたのよ。 あんたみたいに補習で居残りされてたわけじゃないんでしょう?」

「なんで俺が補習受けてたことは知ってんだよ……。 いつからか分かんないけど、学園の花壇の植え替え、らしい」

「そんなことやってたの? しかも一人で? 効率って言葉を知らないの? そもそも、どうしてあんたがそれを知らないのよ」

「誰にも言ってなかったんだよ。 昨日初めて知ったんだ。 俺もすぐに手伝うって言ったけど、もう今日は帰るからって……」

「手伝う? ……あっそう。 で、今日も放課後やるのよね? あんたはどうするつもりなの?」

「手伝うさ、あたりまえだろ。 だけど、また断られたらって思うと」

「馬鹿じゃないの」

 

 俺の言葉をさえぎって、唐突に咲夜がそう言った。

 

「ば、馬鹿ってなんでだよ。 なにも変な事言ってないだろ」

「はぁ……あんたそういう所あるのね。 まあ、庶民の頭じゃ仕方ないか」

「だから、何言ってるんだよお前は。 いきなり好き放題言い始めて」

「手伝う」

「は?」

「『手伝う』って、あんたはさっきから口にしてるわよね」

 

 その通りだが、だから何だというの―――、

 いや、確かにちょっと待て? 言われて初めて、俺もこの言い方に引っかかりを覚えた。

 だが、急に芽生えた『しこり』に対する答えが胸の内に生まれる前より早く、咲夜が核心を突いてきた。

 

「あんた達の部活動じゃないの? なんで『手伝う』のよ。 まるで第三者みたいじゃない。 当事者でしょあんたも。 断られたらどうするっていうの、そんなの無視して一緒にやればいいじゃない」

 

「結局」

 

「部活動、なんて口では言ってるけど、あんたはちっとも園芸部の為に動こうって気がないのよ。 ……どうせ庶民の考える事だから、『仲良く集まって過ごせる場所があればいい』程度にしか思ってないんじゃない?」

 

「それって」

 

「部活動としては、とっくに終わってるようなものよ」

 

・・・

 

「庶民相手に無駄な会話しすぎたわ。 まあ気にしなくてもいいんじゃない? どうせすぐにどうでもよくなるわよ。 じゃ」

 

 そう言い残し、咲夜はとたとたと階段を下りて自分の教室に帰っていった。

 俺はというと、咲夜に言われた言葉を延々頭の中で再生しながら、教室に向かっていた。

 

「完全論破された」

 

 咲夜の言葉には、何一つ誤ったものがなかった。 どれもすべて、正しくその通りだった。

 俺は、少なくとも俺に関しては、まさしく。 部活動を『集まる為の口実』程度にしか見ていなかったんだ。

 『そんなことはない!』と激しく主張する心もある。 何なら心の主流派はそっちだ。 もし脳の判断が多数決制なら、咲夜の言葉も全く意に介さなかっただろう。

 だが、あいにく俺の脳も心も国会ではなく、多数派に優勢なシステムでもない。 少数派の思考が、多数派を打ちのめす事がよくある、今回もそうだ。

 

「……畜生、悔しいな」

 

 自分が、真剣に部活動をしようとしていた園子の力として相応しくなかったこと。

 そんな自分の実態を、自分で気づく事が出来なかったこと。

 そして、それを出会って間もない、親友の敵から指摘されてようやく気付けたこと。

 

 何もかもが、悔しい。 自分がその程度の人間だったのかといやでも思い知らされた。

 綾瀬に、逆に質問されたとき、答えるまで時間がかかったのも、答えが何となくあやふやだったのも、原因はそこにあったんだ。 俺には、真っ当な『園芸部員』としての視点が育まれていなかった、だから答えに窮したんだ。

 

「悔しい、けど!」

 

 歩みを止めて、両頬をぱちりと叩き、自分に喝を入れる。 周りの生徒が驚いて俺を見るが、羞恥心なんてものは無い、頬の痛みも、鈍重になりかけた脳を覚ますのにちょうどよかった。

 

 ここで自己嫌悪に染まって思考が止まるのは、少し前までの俺だ。

 ほんとに、ほんっとに悔しいけど、でも俺は咲夜の指摘で自分の至らなさに気づいた。 気づけたのなら、後は行動すればいいだけの話じゃないか!

 

 そうと決まれば、もう足取りは軽かった。 駆け足で教室に戻り、席で待っていた綾瀬に声をかける。

 

「綾瀬―――」

 

・・・

 

 放課後。 部活の時間中は目立ったアクションもなく、俺もあえて昨日の事を園子に話す事もせず、全員下校する時間になった。

 宣言通り途中から戻ってきた悠や渚も含めて、全員さよならをしてから―――俺は、昨日園子と会った昇降口前に戻った。 そして案の定、そこには昨日と同じように園子が一人で植え替えをしていた。

 

「よう、良い夕日だな園子」

「―――っえ! 縁くん、どうして……今日は補習もないのに。 それにその恰好」

 

 驚きと同時に、俺の格好にも指摘をする園子。 確かに、俺はさっきまで着てた制服ではなく、ジャージと軍手に、スコップを装備している。 完全に今から帰る学生の格好ではない。

 

「どうして、昨日私だけで良いって言ったのに」

「部員だからな。 部活をしに来たんですよ、部長」

「そんなことしなくていいんです、もう帰る時間なのに、縁君の家は渚さんもいるから早く帰らないと」

「―――大丈夫ですよ、柏木先輩」

 

 俺より少し遅れて、渚も同じ格好で姿を見せた。

 いや、ここまでくれば当然、渚だけじゃない。

 

「ごめんー、ちょっと着替えるのに時間かかっちゃった」

「どうやら順位的には僕が一番遅いみたいだね、失礼」

 

 綾瀬に悠も、続々と現れた。

 予想外な展開に、あっけにとられた園子。 そんな園子の肩に手を置いて、俺は言った。

 

「何を言っても帰んないからな。 今日のうちに出来るところまで、部員全員でやろう。 なんたって園芸部だからな」

「縁、くん」

「考えてみたら、ようやく園芸部らしい活動ね。 というより、こう言う事はもっと早く言ってくれないと」

「花の手入れは家の庭園で慣れてるから、任せてよ。 それと綾小路さんの言葉の焼き増しになるけど、こういうのはちゃんと部員に教えてほしかったかな」

 

 言いながら、作業に移る二人。 園子はまだ硬直しながらも、ぽつぽつと口を動かして。

 

「私は……皆さんが居てくれさえしたら、それで十分だと思って……園芸部は私一人のワガママで残ってたようなものですから、みんなに疲れる様な事はさせたくないって……だから」

 

 そう話す園子に返したのは、俺ではなく、俺の隣に立ち並んだ渚だった。

 

「そういう関係性は、ダメだと思います」

「渚さん……」

 

 一瞬、横目で俺の事を見てから、渚は言葉を続けた。

 

「『ただ居てくれたらいい』『一緒にいるだけで十分』……そういう関係性は、いつかきっと、壊れます。 それもたぶん、取り返しのつかない様なカタチで。 だから、柏木先輩の考え方はいけない、と思います」

 

「私とお兄ちゃんが……そうでしたから」

 

 そう言って、渚も作業に移った。

 後に残った俺と園子。 さりげなく自分の恥ずかしい過去を暴露されて、俺も思わず苦み笑いをしてしまう。

 

「まあ、そういう事で。 俺ら全員、帰れって言われても帰んないので、よろしく」

「……本当に」

「ん?」

「本当に、縁君は、不思議な人です……初めて会った時からずっと、私の、一番欲しい物をくれます」

「そんなんじゃないよ。 実は今回に関しては、咲夜の言葉がなかったらこういう行動も起きなかったし」

「咲夜……綾小路君の従妹さん、のですか」

「うん。 園子の前で言うのもなんだが、俺自身『園芸部員』の自覚がなかった、園子はそれで良かったのかもしれないけど、俺が自分に納得できない。 だからま、今回は俺一人の考えじゃなくて……つまり、今まで園子の厚意に甘えてた、ごめん」

 

 自己満足の域を出ない謝罪だが、そうだと自覚しても、謝るしかない。

 

「謝らないでください、縁さん。 私だって、最初から縁君たちの力を借りるなんて考えを思いつきもしなかった。 最初から、皆さんを信用していなかったんです」

「いや、それは違うだろ」

「同じです。 同じで、良いんです。 私も、縁君も。 お互い、足りないところがあった、それで良いんです」

「そっか……なら、後はお互いに補い合うだけだな」

「……はいっ!」

 

 力強い返事とともに、園子がほほ笑む。

 夕焼けに照らされたその笑顔は、普段よりもずっと、魅力的で惹かれるモノだった。

 

「お兄ちゃん? いつまで先輩の肩に手をのせてるの?」

「そろそろ二人とも動いていいんじゃない?」

「おっと、くわばらくわばら」

 

 後方から聞こえる声に慌てて思考を戻し、俺たちはいそいそと作業に移った。

 

「……本当に、縁君は、不思議です」

 

 作業しながら、園子が俺にしか聞こえない声量で言う。

 

「だから、今回に限っては別に俺の―――」

「ううん。 きっかけは違っても、縁君だから私にこの時間をくれるんです。 縁君しか、私にこんな想いをくれる人はいません」

「そ、そっか……ならよかった。 なんか、さすがに照れるな」

「もう……せっかく我慢しようって思ってるのに、こんな事されたら、私―――」

 

「そこまでよ、庶民ども!」

 

 園子の言葉が終わりまで出る途中に遮られた。

 その口調、その言い回し、もはやこの空間に現れた第三者が誰かなんて、考えるまでもない。

 現に、その人物に一番近い人物―――綾小路悠が、普段聞かない厳しい口調でそいつに言った。

 

「いきなり現れて何の用だい―――咲夜」

「あ、庶民だけかと思ったらあんたもいたのね。 溶け込んでて気づかなかったわ」

 

 綾小路、咲夜。

 そばには、三年生から一年生まで、計8人程度の生徒が取り巻きとして立っていた。 まさかこいつらが、例の委員会のメンバーなのではないか?

 

「え……えっと、綾小路、さん」

 

 部長としての責務からか、率先して園子が咲夜に話しかけた、声は若干震えている。 それもそうだろう、相手は自分の人生を破滅しかけた側の人間なのだから。

 

「私たちは、先生から許可を得て活動しています。 綾小路さんから、咎められることは何もしていません。 暗くなる前に帰りますから、気にしないで、ください」

「ふん……先生に許可を得ている、ね」

 

 そう言ってから、咲夜は取り巻きの一人が手に持っていた一枚の紙を手に取り、それを見ながら言った。

 

「確かに、顧問からの許可は得ているわね。 でも、それはあくまで顧問の独断。 校長が直接了承したわけではない。 そうよね?」

「それは……はい」

「ましてや、日が沈みかけた遅い時間。 この辺りは目立った犯罪が少ないとはいえ、女子生徒が多い部活で、暗くなる直前まで活動。 当然帰る途中に日は沈むし、暗い道を帰ることになる」

「……」

 

 咲夜の正論に、悠も反論できずにいる。 当然、俺も。

 咲夜の言葉は続く。

 

「そもそもの話、部活動の時間に行えば良い事を、わざわざ遅くになってから活動する辺り、学園の運営にも真っ向から刃向かう非道徳的な行為とも取れるわね。 違う?」

「それは……運動部の邪魔になっちゃいけないからと、この時間に」

「それは部長であるあなたが他の部にあらかじめ周知して段取りをしていたら良かっただけの話でしょ。 職務怠慢を他人のせいにしてる時点で、意識の低さが露呈してるわね」

「おい綾小路、それは言い過ぎだろ」

「黙りなさい庶民、言われないと気づけなかったあんたは柏木園子以下の意識よ」

「―――っ!」

 

 一瞬で説き伏せられた。 何もかも正論で、悔しさすら起きない。

 全員、咲夜の勢いに呑まれていた。 場を完全に支配した事を悠々と感じて、咲夜は次に、致命的な言葉を口にした。

 

「―――以上の理由から、園芸部は学園の運営に不利益を生む存在と判断して、『学内査問委員会』は園芸部の廃止を宣告します」

 

 

 

 

 希望的観測。

 全く、その通りだった。

 綾小路咲夜の『攻撃』は、とっくの前から始まっていた。

 

『だから、あなたしかいないんです。 あなただけが、悠さんと綾小路さん、両方と関わりを持って、しかも悪くない印象を持たれている。 事態を最悪な方向に行かせないためには、きっとあなたという存在がどう動くかで、決まるんだと思います』

 

 伊織さんの言葉が、頭の中で重く鳴り響いた。

 

 

 

―――続く―――




年末までに更新もう一回したいですね


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第伍病・センコク

 それは、あまりにも唐突過ぎであり、同時に、“綾小路咲夜”らしさに満ちた発言だった。

 

「園芸部を廃部しなさい」

 

 確かに責められる部分はあった。 反省すべき行為や考えは多く、自身の身の潔白を主張する気なんてハナっから毛頭ない。

 だが、しかし。

 だがしかし、だ。

 

 それで『廃部だから諦めなさい』『はい分かりました』で終われるワケがない。

 園子の厚意にかまけて、同じ部員としての意識が足りず負担をかけてしまった事は、俺の失態で。

 本来学生は全員家に帰らなきゃいけない時間帯に、活動をしていた事も、到底褒められる行いでは無かった。

 間違いは認める。 起こしてしまった。 それで叱責が来るなら甘じて受け入れよう。 反省文を求められるなら原稿用紙何十枚でも書き連ねてみせる。 行動で示せと言うならば毎朝誰よりも早く校門に行って、掃除だってする。

 でも、更生や反省の機会を根こそぎ奪う廃部だけには、絶対従えない。

 

 ……なんて、思いを感情に乗せて素直に吐き出したところで、事態が収まるわけではない。

 そんな生易しい相手ではなく、むしろ、逆に咲夜に対して付け入るスキを与えてしまうだけだろう。 だから考えろ、咲夜の目的を察しろ。

 その為に今やるべきなのは、まず咲夜の話をある程度まで聞く、つまり判断材料を得る事だ。 頭ごなしに否定する事だけが対話じゃないんだから。

 

「悪いけど、余りにも話が急すぎて意味が分からないんだ。 順を追って説明してくれないか」

「……驚かないの?」

 

 思った反応と違う返事が来たからか、咲夜は一瞬間を置いてからそう聞き返してきた。

 だとしたら都合がいい。 この手の状況は、全体のペースを掴んでいる方が有利に話を進めやすい物だから。

 

「もちろんパニック寸前だよ。 だから説明を求めてるんだ」

「~~っ、調子狂うわね……まあいいわ。 ヒステリックにならなかった事は褒めてあげる。 本当はその方がやりやすかったけど」

 

 たちどころに先ほどまでの張りつめた空気が弛緩していく。 ここまでは狙い通り。 さっきの空気のまま話が進んでいたら、まずろくな状況にも結果にもならなかったに違いない。

 普段通りの調子に戻った───と言っても、十分すぎるほどやり辛い相手ではあるけど───咲夜が、自信満々に語り始めた。

 

「といっても簡単な話よ。 私……というよりも査問委員会ね。 私達は以前からあんた達園芸部の動きを監視()てたの。 その中で、学園のルールに則る事がなくて、部活動の領分を大きく逸脱した行動が見られるようになったと判断したの。 今だってまさにそうよね? こんな時間まで全員で花の植え替えなんて、あり得ない事じゃない」

 

 悔しいが、これに関しては完全に咲夜の言い分が正しいので、流石に何も言えない。 他のみんなもそこは同じようで、園子は自分を責めているのか、人一倍表情を重くしていた。

 早くこの状況を打開したいが、まだ咲夜の話は終わらない。

 

「というわけで、園芸部には廃部が最もふさわしいと判断したわけ。 こんな時間でもまだ帰ろうとしない部活動なんて、不良のたまり場になったら大変だものね? この判断は()()()()()()()()()()。 ハイ説明おしまい、庶民の頭でも分かりやすい説明だったわね、感謝しなさい」

 

 徹底的に上から目線な態度。 かつての羽瀬川ですらここまで自意識最強ではなかったろうに。

 そんな綾瀬にまず応えたのは悠だった。

 

「うん、とても良く分かったよ。 相変わらず君らしい、一方的で理不尽な、聴くに値しない内容だった」

「あ、綾小路君、そんな挑発するような事言ったら……」

「大丈夫だよ部長、今すぐこの場で廃部になんてならない。 この女の我儘を素直に聞く必要なんてないから安心して」

 

 普段からは想像に難しい、真正面から喧嘩を売る様な言い方に焦る園子を、今度は普段の口調で宥める悠。

 咲夜はというと、悠の挑発的文言で頭に血が上り……なんてことは一切なく、むしろ、その言葉を待っていたとばかりに、にやりと口端を上がらせた。

 

「悠、やっと口を開いたわね。 でも残念、いまや庶民の取り巻きでしか無いあんたに何を言われようと、何も響きはしないわ。 というか、ソイツ(庶民)が何か言ってからじゃないと口開けないのなら、最初から黙っていなさい」

「縁は親友だ。 取り巻きなんて雑で誤った表現でまとめないでくれるかい。 僕が黙っていたのは君がこの数年で少しは考えてモノを言えるようになったかを見ていたからさ。 結果は……もうさっき言ったからいいや」

「親友……親友って言ったの? あんたがそんな言葉を口にするなんて、ずいぶん柔らかくなったものね。 驚いたわ。 その遠回しで厭味ったらしい言い方しかできない性格で、良く友達ができたわね?」

「人は成長するものだよ、精神的にせよ肉体的にせよ、ね? その点、君はどちらも変化が見えてこないけど……第二次性徴期はまだのようだ。 あと訂正が一つ、僕は誰に対してもこんな言い方をするんじゃなくて、きちんと相手によって相応しい態度を変えてるだけなんだ。 君の名誉のためにも、これ以上は言わせないでくれ」

「っ……本当、人を不快にさせる言い回しはお上手ね。 母親から譲ってもらったのかしら?」

「母さんは関係ないだろう……」

 

 ───まさに舌戦と呼ぶにふさわしい応酬が間の前で繰り広げられている。 瞬く間にこの場は悠と咲夜だけのものになっていった。

 しかし、以前から咲夜絡みの話になると悠は少し性格が変わると思っていたけど、ここまで完全に相手を煽りに煽る姿を見るのは初めて……いや、()()()()()()()()。 けれども、とにかく驚きだ。

 

「あの綾小路君が、セクハラ発言してる」

「お、お兄ちゃん……悠先輩、いつもと性格が違う気がするんだけど……」

「まるで人が変わったみたいです……」

 

 渚や綾瀬はおろか、自分の部が廃部宣告されて一番パニックになっておかしくない園子までもが、今の悠の姿に関心を持っていかれている。 やや緊張感に欠けた状況だが、それだけ今の悠が咲夜に向けた敵意が強烈だという事の現れとも言える。

 最初に感情的になってはいけないと理性を働かせた俺とは対照的に、悠は時間が経つごとに言葉の熱量を上げている。 感情の高まりに思考を任せている節すら見受けられてきた。

 

「あ、あの、一ついいですか……?」

 

 この終わりがなさそうな舌戦に介入したのは、意外にもこの場で一番それをしなさそうな、園子だった。

 疑問形で切り出したが、咲夜の返事も待たずに、そのまま話を続ける。

 

「その、査問委員会が決めた判断というものには、必ず従わないといけない決まり、なのでしょうか?」

「はあ? 誰なのよあんた」

「っ、園芸部部長の、柏木園子、です。 質問に答えてくださいっ」

 

 威圧的な咲夜の返しに一瞬たじろぐが、すぐに気を持ち直して言い返した園子。

 悠も悠なら、園子も園子だ。 いつもは穏やかで相手に食って掛かる事をしない彼女が、自分から……しかも、()()()()()()綾小路家である咲夜に自分の言葉を押し通すなんて。

 それに、発言の内容自体も的確だ。 ここまで話を聞いていて、俺も隙を見つけたら言おうと思っていた内容なのだから。

 

「部長? ……ああ、そういう事ね。 つまりあんたが、一年前の……」

 

 園子にとって忌々しい思い出。 以前は園子の事を聞かれて何も知らないでいた咲夜だが、あの後調べたか聞いたのか、咲夜は園子がかつて綾小路家の圧力を受けていた人間だと知っているようだ。

 園子を刺すように見る咲夜、その視線に負けそうになりながらも、決して視線を咲夜から離さない園子。 先ほどの悠との舌戦と異なり沈黙の時間が僅かに生まれる。

 だが、咲夜がほどなく視線を外し、というかつまらなそうにため息を零してその時間は終わった。 その後、

 

「正解に辿り着いたみたいね。 つまんないけど……」

「正解、ですか……?」

「そ。 実のところ、査問委員会には園芸部はおろか、全ての部活動や委員会を即座に廃部に出来る権利はないわ。 もちろん、私個人にもね」

 

 まるで種明かしをするように、あっけらかんと咲夜はそう言ってのけた。

 これに即食らいついたのは、やはり悠だ。

 

「やっぱりね。 いくら君が立ちあげた委員会だとしても、あくまでも学園の生徒の一人でしかない君に、そんな決定権があるわけない」

 

 先ほどまでの興奮した様子は演技だったのかと言わんばかりに、冷静な口調で話す。

 確かにその通りで、いくら学園創設者側の人間だからって言った言葉がまんま通る筈がない。 屋上の扉の鍵を外すのとは規模が違う。

 複数の生徒や、金の問題。 教師たちの存在意義や、何よりも悠の存在がある。 現状の咲夜にそこまで好き勝手出来る力は無いんだ。

 

「馬鹿にしないでくれる? その気になれば私の好きにするなんて簡単よ。 でもそれじゃあ教師どもの居る意味がなくなる……尤も有象無象なんだからどうでもいいんだけど、とにかくこの学園の為には必要なコマだから、ある程度は仕事を残してやったのよ」

 

 ここでようやく、俺が会話の本筋に乗っかれた。

 

「そうなると、査問委員会の決めた事はどう処理されるんだ」

「良い質問ね。 まぁ、本当は明日の生徒会総会で説明するつもりだったけど、特別に今教えてあげるわ、感謝しなさい。 査問員会の決定は全生徒の総意で決められる。 素晴らしいわね、まさに『みんなで作っていく学園生活』よ?」

 

 微塵も素晴らしいと思っていないどころか、心底くだらない過程だと思ってそうな顔をしている。

 とは言え、俺も『我が道を押し通す』を地で生きている咲夜が、このように見下している大衆(庶民)の意見を基に動くというのは、話を聞いてるだけでも違和感しかない。

 終わりに差し掛かろうとしている空気を、悠が最後まとめに掛かった。

 

「話は見えてきたね。 つまりは今査問委員会には何も力がない。 そもそも明日から始まる委員会が今日何を言ったって、最初から相手する必要もなかったのさ。 ね、安心してって言ったろう部長?」

「そういう事だったんですね……良かった。 でも、つまりは明日改めて廃部を問われることになるんじゃないでしょうか」

「それもないから安心して。 今回の事を議題に上げるってことはつまり、査問委員会が僕たち同様こんな時間まで、()()()()()()()()()残ってたことを自白するに等しいんだから」

 

 そういう事になる。 俺達は一応まだ部活という名目があったが、まだ本格始動する前の査問委員会がこんな時間まで居る正当な理由なんて無い。

 さらに言えば、何の効力もない虚偽の申告で俺達を廃部にしようとしたんだから、変に騒ぐものなら逆に自分の首を絞める事にしかならない。

 

「はいはい、その通りよ。 ちぇっ、もうちょっと慌てふためく姿が見られるかと思ったのに、つまんないの」

 

 すっかり狙ってた展開と違う方向に話がまとまり、咲夜は不満足なのを隠そうともしない。

 

「ま、いいわ。 私もこの程度で従順になるなんて思ってなかったし。 本番は明日からだし……帰るわ、これ以上ここにいる意味もなくなったから」

 

 そう言って、俺たちの反応を待たずに、さっさと咲夜は学園を後にしていった。 他の生徒もそれにならって粛々と消えていく。

 

「なんとか、なったのかな?」

 

 嵐の後のような静寂の中、綾瀬がまだ先ほどまでの空気感を持ち越したまま言った。

 その言葉を皮切りに、ようやく俺達も、ほっと息を落とした。

 

「い、一時はどうなるかと思いました、縁君に綾小路君、ありがとうございますね」

「いえ、僕こそ、同じ綾小路家の人間でいながらアイツの好き勝手を止められないで、ご迷惑おかけしました」

「そんな、あなたは全然迷惑なんて掛けてないですよ。 本当なら部長の私がやるべき事なんですから……情けないです」

「ううん、そんな事ないって。 園子あのお嬢様に面と向かっていったじゃん。 私なんて何も言えないでたし、凄いよ園子、全然部長してる!」

「あ、綾瀬さん……ありがとう、ございます」

 

 綾瀬の言う通り、あの場で率先して声を上げる事が出来たのは凄い事だと思う。 俺も機会を探るばかりで全く入っていけてなかったし。

 少なくとも、出会ったばかりの園子からは想像できない活躍だった。 綾瀬の真似じゃないが、まさに部長らしかったと思う。

 という事をそのまま素直に俺も園子に伝えた。 先ほどまでの緊張が解けて気が緩んだからか、終始園子は顔を真っ赤にして、俺や綾瀬の言葉に過剰すぎる程謙虚になっていった。

 

「とりあえず、これ以上はもう無理ですし、今日は帰りましょう。 続きは明日……みんなで」

 

 部長のその一言で、今日の俺たちの部活動は、やっとのこと終わりを告げる。

 ホンの十数分の間だったのに、まるで一年近くも時間が経ったような疲労感を背負いながら、俺たちは各々の帰路についた。

 

 その帰り道の途中。 俺を挟んで右に綾瀬、左に渚と並んで帰る中、

 

「そういえば、査問委員会の決め方って、結局どうやって決めると思う?」

「全生徒の総意で決めるって言ってたが、そういやどうやって総意を見るかは言ってなかったな……渚は何だと思う?」

「うーん……多数決、とかかな?」

 

 多数決か。 確かにそれが一番わかりやすい総意のはかり方ではあるか。 アンケート用紙みたいなのに記入して集計~なんて事を考えてた俺より手早い発想だ。

 

「あ、でも全校生徒で多数決っていうのも差が明確にならないと分かりにくいよね……全生徒が一か所に集まる時なんて頻繁にあるわけでもないし」

「無いってわけでもないのよね~。 渚ちゃんの考えが正しかったとしたら、それこそ明日の生徒会総会なんて絶好の機会じゃない?」

「綾瀬さんは、明日いきなり動くと思います?」

「今まで遠巻きにしか見てなかったけど、今日の様子を見たら……やりそうかなーって思う。 渚ちゃんは? クラス一緒なんでしょ?」

「はい……私もそう思います」

 

 そうだった。 最近までおとなしかったからあまり気にしてなかったが、渚と咲夜はあろうことか同じクラスなんだよな。 今後はそれも懸念事項の仲間入りだ。

 

「渚、少しでも咲夜がちょっかい掛けてきたらすぐに逃げるんだぞ。 どんな時でもいいから、すぐに俺の所にこいな?」

「お兄ちゃん……うん、ありがとう。 でも、流石に今日の事だけで心配しすぎだよ。 いくら綾小路さんだって……ううん、分かった。 気を付けるね」

 

 途中まで言いかけた言葉を抑えて、渚がこくんとうなづいた。 俺の少し過剰な心配の理由が分かったからか。 それ以上渚が否定してくることはなかった。

 一人だけおいてかれた綾瀬は、急に渚が言葉を変えた理由に至れず、不思議そうな顔で俺と渚の両方を見やる。

 

「あれれー? なんか今の言い方、普段と雰囲気違わなかった?」

「別に……普通ですよ」

「そうかなぁ……やけに意味深な間が二人の間にあった気がするんだけど」

「気にしすぎですって。 あっでも、兄妹だから、綾瀬さんには分からない何かがあるのかも、ですね……?」

「……ふーん」

 

 二人ともいきなり剣呑な空気醸し出さないで。 最近穏やかなってきたと思ったのに、いざ一緒に帰ろうってなったらすぐこれか。

 

「とにかく、明日以降、今まで以上に気を付けていかないと。 用心しなきゃいけないのは綾瀬だって同じだからな。 この前の事もあったし、何かあったらすぐに教えろよ?」

「うん、ありがと。 そういえば言えてなかったけど、あの時はごめんね、巻き込んで」

 

 あ、しまった。 この前綾瀬の人間関係に巻き込まれた話は渚には話していないんだった!

 やばい、詳細を聞かれて今とっさに穏便な説明できる気がしない。

 

「この前? この前って何ですか? ……お兄ちゃん、綾瀬さんに何かされたの?」

 

 ああほらやっぱりこうなった、助けて。

 

「あれ、そういえば渚ちゃんには話してなかったんだ?」

「なんですか、教えてください」

「ふふ、内緒」

「はぁ?」

 

 なんで綾瀬はそうやって危機を煽ることを平気でするんですか。

 

「私と縁の……うーん、渚ちゃん風に言うなら、『幼馴染にしか分からない何か』かなー?」

「……っ、人の発言をあげつらってからかわないでください!」

「あ、もう着いちゃったか。 じゃあね二人とも、また明日!」

 

 散々渚を煽った挙句、何も教えずにさっそうと帰宅した綾瀬。

 残ったのは、久方ぶりに危ない空気を放つ渚と、久しぶりに背中をくそ冷たい汗が伝う俺。

 

「……お兄ちゃん」

「話すから」

「うそは」

「つかないから」

「……なら、早く家に帰ろう」

「はい」

 

 慣れた、とは言わないが。

 機械化されたかの如く、適切な答えと対応が出来るようになったのは、成長と言っていい物か悩みどころであった。

 

 ・・・

 

「で、何があったの? お兄ちゃん」

 

 夕食の用意を先に済ませて、食卓で向き合いながら、おもむろに渚が切り出した。

 

「一言でいうとトラブルに巻き込まれました」

「具体的に教えてほしいな」

「綾瀬が元居た委員会の男子が綾瀬の事を好きでさ、他に男子生徒に恋心抱いてた女子が妬みから綾瀬に嫌がらせしようとしてた」

「それって、人間関係のトラブルって事? あの綾瀬さんでもそういう事あるんだ……へぇ」

 

 軽く驚く渚の気持ちは良く分かる、俺も最初は綾瀬にその手のトラブルが起きるとは思っていなかったから。 とはいえ、一度起きたのなら信じられないもくそもなかったのだけれど。

 

「それで、どうしてお兄ちゃんがその中に関わることになったの?」

「そりゃまあ、幼馴染だからだろうな……」

「あ……そう、そういう事ね」

 

 単純明快な理由に納得するとともに、どこか腑に落ちなさそうな表情を見せる渚。

 

「と言っても、そこまで大変な事にはならなかったよ? 最終的には綾瀬が無理やり誤解を解いて、否応なく終わったからさ」

「そっか、ならよかった……」

「……どうかしたのか? 何か、今の俺の説明で気に入らないとこでもあった?」

 

 確かに、相手が自分で服脱いで脅迫してきたり、最後長時間綾瀬に抱き着かれたりと、言ってない部分はあったが、そんなの言えるわけがないし幸いにも話の本題とはズレた内容なので違和感なく省いている。

 はたから聞けば、特に疑念を抱く内容でもない筈なのに。

 

「……ねえお兄ちゃん」

「ん?」

「その、お兄ちゃんを巻き込んだ人って、お兄ちゃんが綾瀬さんの幼馴染だから、目を付けたんだよね?」

「ん……そう、だな」

「綾瀬さんが誤解を解いたっていうのも、つまり、綾瀬さんが好きなのは……お兄ちゃんだって言ったんでしょ?」

「そこまではっきりとは言ってないけど」

「でも、つまりはそういう事でしょ?」

「それは……えっと」

 

 今までにない詰め寄られ方に、思わず言い淀んでしまった。

 返事に困っている俺に、渚はさらに続けて言った。

 

「ねえお兄ちゃん、『幼馴染』って、そんなに特別な関係なのかな?」

「特別な関係……?」

「私はね、幼馴染なんて言っても、所詮は他人だって思ってたの。 家族より特別な関係なんて、無いって……でも、他の人にとっては違うのかな」

 

 確かに、幼馴染という関係を特別視する人間は多い。

 友達、親友、恋人、夫婦……それらと近しくも異なる関係が幼馴染だ。

 性別に関係は無く、たまたま、一緒にいる時間が長くなったから生まれた関係。 成分さえ抜き出したら、確かに渚の言うように所詮は他人と言い切ることも出来なくはない。

 

「幼馴染はキョウダイや家族みたいな関係に近いって、みんな思ってる。 なのに、恋人同士になったとしても、誰もおかしいって言わない。 本当の兄妹が恋人になったらみんな変な目で見るのに」

「……」

「私ね、それが狡いって昔から思ってる。 他人なのに兄妹の間に平気で入ってきて、いつか気が付くと、誰よりも一緒にいる時間が多くなってて、皆がそれを当たり前に見て、置いて行かれる私はただ見るしかできない……そんなのって、狡いじゃない。 本当は兄妹の方がずっとずっとずっと、特別な関係なはずなのに、一緒にいるのが当たり前のことなのに……」

 

 ああ、そういう事か。 これが『野々原渚』の言葉の意味だったのか。

 CDではヒステリックな叫びの中で出てきた一言に過ぎなかったが、きっかけはともあれこうして穏やかな空気の中聞くと、深く心に入ってくる。

 幼馴染という存在を、俺も頸城縁も持っている。 頸城縁の時は、お互いの中に恋愛感情があったのかまでは結局分からなかったけど、でも家族のように大事な存在として、お互いを認識していただろう、少なくとも俺は。

 では、今の俺は?

 

「お兄ちゃんは、『幼馴染』の綾瀬さんをどう思ってるの? 綾瀬さんがお兄ちゃんを、……好きなのは、流石に分かってるでしょ? お兄ちゃんは、どうなの」

 

 俺の目をじっと見て、真摯に向き合う渚。

 正直に言うと、俺はいつかこの言葉を問われる時があったら、その時の渚は狂気を孕んだ姿でいると思っていた。 答えによっては、俺か綾瀬のいずれかが危機に陥る。 そんな時に向けられる言葉なのだと。

 だが、いざその時になってみたら実態は違った。

 渚は狂気を孕むどころか、今まで一番真剣に、考えて俺に問いかけている。 命の危険や駆け引きなどとは無縁な真摯な時が俺たちの間にあるだけだ。

 なら、俺も答えないといけないだろう。 今の俺が思ってることを、素直に。

 

「……俺の中で、一番心の距離が近い人間だと、思ってる。 それこそ、渚の言うように、家族みたいに一緒に居て当たり前だと思ってるし、それに……」

 

 一瞬自分を止めた躊躇を振り払って、言い切った。

 

「いつか、自然と恋人になって、家族になるんじゃないか。 そう思っているところも、ある。 それくらい俺と綾瀬は一緒にいる時間が長いし、他の女子にはそう思う事は無い。 きっと、それは」

「二人が幼馴染だから」

「そう、そうだな。 うん。 俺の好きな事も嫌いな事も知ってて、俺も綾瀬のそういう所を知ってて、お互いの過去を知ってて……」

「一緒に居ることが他の人よりもずっと、当たり前になってる」

「……うん」

「じゃあ、どうして『好き』って気持ちになったの? 幼馴染って言うだけで、好きになるの? 一緒に居る時間が好きって気持ちを生むの?」

「それは……」

 

 言われてみたら、確かに。

 一緒に居て当たり前、いつか恋人になるんだろう、そんな気持ちは好きと呼ばれる部類に入るのかもしれないけど、じゃあ、その『好き』はいつ形になったんだろう?

 渚の言葉をマネするつもりはないが、一緒に居る時間が『好き』を生むなら、それこそ渚の事を『好き』になる方が自然だと言える。

 じゃあ、渚の事は好きじゃないのか? いいやそんなわけない。 俺は渚の事が好きだし、それは綾瀬を……ああもうこの際言うさ、綾瀬を好きだと思う気持ちと、なんら優劣のない物だ。

 綾瀬を好きと思う気持ちと、渚を好きと思う気持ちには、質的違いが生まれる理由は無い筈なんだ。

 じゃあ、何が違う? 『家族と他人だから当たり前の違いだろ』という楽な結論に逃げるのは無しだ、渚だってそう言われる事も可能性として分かった上で聞いてるのだから。

 

 だけど、どんなに考えても渚に答えられるだけの言葉が俺の中から出てこない。 何か頭の奥の方で引っかかりは覚えるが、それをはっきりと掴み取る事が出来ない。

 沈黙が続き、答えあぐねる俺を、しかし渚は別段責める事をしなかった。 代わりに、少しだけ寂しそうに一瞬だけ目を閉じながら息を吐いて、

 

「……ごめんね、ちょっと綾瀬さんがからかってたから、お兄ちゃんに八つ当たりみたいに意地悪な事聞いちゃった」

 

 優しい笑顔を浮かべて、そんなことを平気で言った。

 そして俺は嫌でも理解する。 今の俺では、渚の問いに答えられるだけの明確な気持ちがないのだと。

 もし、今のまま無理やり答えを見つけたとしても、きっとそれは中身のない形だけのもにしか過ぎないだろう。 だからきっと、俺は渚に今、救われたのだ。

 

「ごはん、冷ましちゃ嫌だし、食べよう? いただきます」

「……ああ、いただきます」

 

 渚と俺の会話で夕飯は確かに少しだけ冷たくなったけど。

 それでも、俺の中に残ったわだかまりよりは、ずっと素直に身体の中に溶けていった。

 

 ・・・

 

 翌日、木曜日。

 いつものように渚と登校して、普段通り教室について、当たり前に綾瀬と悠と会話を挟みつつ、日々内容の変わる授業を受けていく。

 

「昨日はごめんね、渚ちゃん凄い色々聞いてきたでしょう? 大丈夫だった?」

 

 お昼休みの中で、綾瀬にそう尋ねられた。

 

「ううん、大丈夫。 特に問題は無かったよ」

「え、そうなの? 私てっきり鬼のように貴方に聞いてくるんじゃないかと思ってて、後で悪いことしたかなって思ったけど、本当に平気だった?」

「大丈夫だって。 でも、次からはああいう言い方は無しな?」

「うん、流石にもうしないわね」

 

 他愛もなく、でも、暖かい会話。

 これが、渚と交わす時とで何が違うのだろうか。

 改めて『幼馴染』とは何なのかを考えて、でも答えが出る間もなく、時間は動き、とうとう6限目の生徒会総会になった。

 

 全ての生徒が講堂に集まる。 その殆どが強制されたつまらなさを隠すことなく、近くの友人や自分一人で世界を作り、早々にこの時間が過ぎるのを待つばかりであった。

 今までなら俺もそう言った生徒たちの仲間だったけど、今回は話が違う。 今日は咲夜が動くのだから。

 予算の話、生徒の苦情やら提案、教師たちのどうでもいい話……相変わらずわざわざ全生徒を一か所に集めてまでやる価値があるか分からない時間が過ぎていく中、ついに『その時』は来た。

 

「では最後に、以前から掲示板で告知はしていましたが、今日から新しくできる委員会の紹介と、委員長からのあいさつがあります」

 

 司会運営役の生徒が言ったその言葉に、ろくに話を聞いてなかった生徒たちもしんと静まり返っていく。

 一種奇妙な現象ともいえるが、皆今から登壇して言葉を話すのが『綾小路咲夜』だと分かっているからこそ、いったい彼女が何を言い出すのか気になっているんだろう。

 それだけ、今この学園においての彼女の存在感の高さがうかがえる。

 

 そう言った生徒たちの視線をすべて受けながら、しかし何らひるむ様子もなく、咲夜が登壇した。

 

「端的に話すわ。 査問委員会は、あんた達が分を弁えて日々生きているかを測る為にある」

 

 既に、その言い方で講堂がどよめいた。

 

「と言っても、大した話じゃないわよ。 あんた達庶民が出来る事なんてたかが知れてるもの。 分を弁えないなんて言い方しても、当てはまる奴なんかそうそう居ないわ。 でも……」

 

 一瞬の間を置いて、咲夜は言った。

 

「この前掲示板で告知してから、既にメンバーを使ってあんた達の活動を見させてもらったけど。 残念ながら幾らか目に余る行為をした連中がいたのね」

 

「野球部、隠れて喫煙してる生徒が居た。 サッカー部、3年生が1年生をいじめていた。 弓道部、部活の帰りに寄ったゲームセンターで長時間居座ってた。 文芸部、部の活動と著しく離れた活動内容……これについてはパソコン同好会とアマチュア無線部も当てはまるわね。 水泳部は……ここでは言うのを省くけど、プールの水って汚いのによくデキたわね? 信じられない」

 

 淡々と咲夜が言い連ねていく、部活動の監視報告。 俺たちにしていたのと同じ事を、咲夜は他の部活動にも行っていたのだ。

 当然、生徒の中からは悲鳴や怒号に近い物が飛び交っていく。 そんなヤジに一切ひるまず、最後に咲夜は、

 

「───以上の部活動を、向こう3カ月の活動停止にするのがふさわしいと、私……じゃなくて、査問委員会は進言するわ。 賛同する者は起立しなさい」

 

 この場で悪事を暴露し、流れるように総意を求める。 それが咲夜のやり方だったのか!

 だが、こんな雪崩式で採決を取ろうとしても、まともな結果なんて出るのか? いまだに生徒たちは動揺しているし、切れて話にならない奴もいる。 これじゃあ明確な決なんて───、

 

 そう、思っていた俺の考えは、次の瞬間木っ端に砕け散った。

 

 先ほどまでの空気が嘘のように、全生徒のうち7割以上の生徒が、まるで機械のようにすくっと立ち上がって見せたのだから。

 

「え……?」

 

 その中には、先ほどまで困惑していた生徒も多くいた。 咲夜が決を求めるまで当たり前に動揺を見せたのに、まるで『最初からそうと決めていた』様に平気な顔して立ち上がり、咲夜の言葉に恭順を示した。

 そうして、そこまで言ってやっと、俺は気づく。 この行為と時間の中に含まれた、咲夜の狙いを。

 

「炙り出した……自分の敵を」

 

 今、この場で着席したままの生徒は、すなわち査問委員会の───すなわち、咲夜の意にそぐわない生徒であるという事。

 その、学園の中に居て特定しづらい『敵』の在りかを、咲夜この一回で簡単に特定して見せたのだ。

 おそらく、それに気づかず座ったままでいる生徒が多くで、きっと、もう咲夜はそんな生徒たちを次のターゲットに捉えている。

 査問委員会、そして採決方法は、この学園において咲夜の敵を浄化する為の公的な手段だった。

 

 それに気づかず、俺は……焦る気持ちの中、後ろにいる悠を見た。

 

「……情けないって言葉の最上級を教えて欲しいよ、縁」

 

 そう口にする悠は、既に諦観した面持ちで、周囲を見ながら、

 

「この数週間、静かだったのは、この日の為だった。 きっと今起立している生徒、全員がもう、()()()()()()()だよ」

「───まじ、かよ」

 

 これが、綾小路咲夜のやり方。

 今まで大人しかったのは、悠の目があったからではなく。

 息をひそめて自分の派閥を学園内に生み出し、この学園を支配する為だった。

 

 ああ、最悪だ。

 

 本当の意味で、俺たちの日常が崩壊していくのを、この日をもって、俺は理解した。

 ……死にたくなってきそうだった。

 

 

 

 ―――続く―――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第陸病・ゴウマン

元号が変わってやがる!!!


 結果だけを語れば、全て咲夜の思惑通りで事が終わった。 見事なものである、というしかない。

 学生というのは、その殆どが清廉潔白や完全無欠という概念からは程遠い存在である。

 誰かしら、どこかしら過ちや欠点があり、それらを周囲の人達による妥協や許容、または秘匿する事によって、集団生活が成り立っている。

 例えば、この前の園子や俺たちの行動がそれだった。 校則違反な時間帯であると分かっていながら、園子や俺たちは各々の思いから行けない事だと分かっていても、部活動を行った。

 

『褒められた行為ではないが迷惑が掛かるのは自分だけ、あるいは自分の迷惑を許してくれる存在だけ、だから悪いと分かっていても構わずに行う』

 

 字面や言い回しは多少異なっていても、このような考え方を持つ人は、あらゆる集団の中に居るだろう。

 善行を求められる世の中で、ほんのちょっぴりの悪が事態を良い方向に動かしている。

 だが、先述した通りそれは須らく妥協と許容によって成り立つものだ。

 もし、この中にそれらを許さない徹底的な正義の執行人が生まれた場合、集団はたちどころに機能を損なっていく。

 

 それが、綾小路咲夜の生み出した『査問委員会』だ。

 あらゆる委員会、部活動の所属員の日頃の行動や振舞いを監視し、校則や公序良俗に引っかかる者を全校生徒の前で晒し上げ、反論の余地すらなく潰す。

 当然、反論する権利は無い。 何故なら査問委員会が口にするのは、紛れもなく自分自身が任意に起こした行為ばかりなのだから。

 些細な悪すら許さない空間。 正論の極みを、咲夜はあの場で作り出したんだ。

 その上、咲夜の秀逸なところは、決して大衆を第三者に収まらせなかった所にある。 名前を上げられた生徒以外は『ああ、良かった』『自分たちには関係ないだろう』と安堵して終わるのが普通だ。 けど、咲夜は最後に、名前を上げられた生徒の処遇を、そういった者たち全員に委ねた。 『賛同の者は起立する事』で、自らも悪を裁く立場の人間であると、責任を負わせる事にした。

 

 こうなれば、残った生徒たちも安堵していられない。

 名前を上げられた生徒の中には自分の友人である者もいただろう。 あるいは関係はなくとも、クラスの席順だったりで物理的に距離が近い人もいたに違いない

 そんな『あーあ、ばれちゃったなお前』と笑い話で済ませようとしてた人らが、彼らの目の前で罰を与える側になる選択を求められてしまったのだから。

 当然抵抗感はある。 しかし、悪いのは間違いなく名前を上げられた人達、そして場所は全生徒が一か所に集まる講堂。 となれば、嫌でも起立するしか無い。

 

 そうなったら最後。 査問委員会の存在意義が明確になった瞬間が訪れる。

 微々たる悪が許容されず、清廉潔白であることを意識せざるを得ない学園。 まだ軽度ではあるが、今後幾らでも互いを警戒し監視し会う、そんな集団になってしまう可能性が生まれたわけだ。

 しかも、そういった仲でも起立しなかった生徒たちを『自分たちの敵となりうる存在』としてマークすることもできる。 一切合切無駄がない、完璧な手腕だった。

 

 とどめに言えば、そんな大それた動きを、曲がりなりにも咲夜の動向を警戒していた悠の目を完全に掻い潜って完遂しきった事。 これも大きい。

 

 つまり───、

 

「今回は、どうしようもない位に僕の負けだ。 ごめんね皆」

 

 園芸部の部室で全員が集まって開口一番、悠が頭を下げながらそう言った。

 

「ま、待ってください! そんな事しなくていいですから」

 

 慌てて悠の頭を上げようとするのは園子。 綾瀬と渚もそれに続く。

 

「そうそう、私達誰も悠君が悪いなんて思ってないよ? 考えすぎだって」

「というより、幾ら綾小路先輩でも、あんな漫画みたいな事現実でやるなんて想像できないですって」

 

 各々の言葉で悠を励まそうとしているが、きっと悠が謝っているのはそこではない。

 

「うん、ありがとう……でも、きっとこれから咲夜は今まで以上に露骨なアクションを園芸部に対して起こすに違いないから、本当にごめん」

「あ……そっか、全校生徒の前であんな事出来ちゃうんだもんね。 もう昨日みたいにこそこそ私たちを潰そうなんてしないで、堂々とみんなの前で私たちに廃部勧告する可能性もあるって事か」

「そう、ですね……昨日の件は向こうにも責められる箇所があるからまだ分かりませんが、今後の私たちの行動次第で、幾らでも足元をすくってくるかもって事はあり得ますね……」

 

 悠の言葉で一気に事態の深刻さを理解し、表情が暗くなる綾瀬と園子。 渚も俺に不安げな顔を向ける。

 

「お兄ちゃん、これからどうなっちゃうんだろ……?」

「……学園のイニシアチブは、だいぶ咲夜側に偏っちゃったと思う。 学内にも咲夜側の人間が多くいると思うし、少なくとも、今までより校則を強く意識しないと、だね」

 

 だけど、それ自体は特別大変な事でもない。

 

「俺たちは基本的にはみんな、責められるような事はしていない。 昨日の件だけが特別だっただけだしね。 悠が咲夜と家柄の問題を抱えてるのは確かに気になるけど、あくまでも咲夜の率いる査問委員会が『生徒の行動』を査問するっていうなら、今まで通りに過ごしているだけで───、責められる隙を作らないだけでいいさ。 な、悠?」

「そう、だ……ね。 うん、さっき名前を上げられた生徒たちはみんな、確かに責められるだけの行動をとっていた人達がほとんどだった。 なら少なくとも、皆に関しては、普段通りで問題は無い筈、だよ」

 

 普段の悠らしからぬ、思い切り歯切れの悪い言葉だった。 事実を述べるというよりも、そうであって欲しいと希望を述べるのに近い、そんな言葉。

 いや、希望的観測なのは、俺もそうなのかもしれない。

 

「いつも通りに、とは言うけど、咲夜が自分の身内を使って俺達に害をなすとも分からない。 自己防衛意識は持っておくべきかもな」

「なんか、たった少しの間で一気に色々変わっちゃった感じね……」

 

 綾瀬がほとほと困ったようにそう呟いた直後、部室の扉が勢いよく開かれた。 同時に室内に響く声。 誰のかなんて言うまでもない。

 

「あら、思ったよりも活気づいてるのね。 沈み切った顔を見に来たのに、つまらない」

 

 件の渦中に位置する人物、綾小路咲夜だ。

 

「想像してたよりシラケた部室ね、一瞬物置小屋かと思ったわ。 それにしたって物置小屋より狭いけど」

「あ、綾小路さん。 いったい何の」

「庶民がなれなれしく私の名前を呼ばないでくれる?」

「───っ!」

 

 高圧的極まりない言動で園子を一蹴する咲夜。 たった一人でここまで来たようだが、まさか本当に俺たちの様子を見たいだけでここまで来たというのか? 

 

「なら、僕が聞くよ。 何の用だい咲夜。 君がここにわざわざ足を運ぶ理由なんて、今は無い筈だろう」

「悠……ふん、さっきの講堂で見せてくれた表情はとても良かったわ。 その礼を言いに来た。 とかどうかしら?」

「……言ってくれるじゃないか。 よっぽど暇なんだね」

「ふん、言ってなさい。 普段ならうっとおしいだけのアンタの言い回しが今はとっても聴いてて心地いいわよ」

 

 完全に上から目線で、昨日まではまだ悠の言葉に心を動かしていた咲夜が、平然とあしらっている。

 そのまま、部室をぐるりと見渡し、俺達を見据え、咲夜は本題であるかのように言った。

 

「あんた達想像力に乏しい庶民たちでも、これでわかったでしょ? 綾小路家……いいえ、私がその気になったら、どんな事が出来るのかって事が」

 

 その、確かな実績ありきで堂々と語る様に、流石に返す言葉を持つ人間はこの場に居なかった。 咲夜の独壇場は続く。

 

「あんた達が今まで仲良しこよししていたそこの男にはあんな事出来ない。 そうして、これからも私のやりたいようにこの学園は動いていくわ。 つまり……」

 

 一瞬、敢えて間を置きながら、咲夜は口角を上げて、邪悪めいた笑顔を浮かべて言い切った。

 

「身の振り方、考えた方が良いわよ。 今後もそこの生まれだけ中途半端に恵まれた男についていくか、それとも……ま、そこは自分で考えなさいな。 いいたいのはそれだけ、これ以上こんな場所に居たらかび臭くなるわ」

 

 散々好き勝手に言って、咲夜は本当に部室を出て行った。

 嵐の前の静寂ならぬ、嵐の後の静寂に、残った俺たちは包まれる。 かけるべき言葉がすぐに出ない俺達に先んじて、悠が力のない笑顔に弱々しい声で言った。

 

「……くやしいけど、今回ばかりは咲夜の言う通りかな。 皆、さっきは普段通りに生活すれば問題ないって言ったけど、訂正するよ。 僕と距離を取っ」

「そんなことはしませんよ」

 

 悠の言葉を途中で遮ったのは、俺ではなく園子の方だ。

 

「安心してください、どんな事を言われたって、私は綾小路君を切り離すなんてことは絶対しませんから。 それは皆さんも同じはずだと思います。 ……ね?」

 

 優しい口調だが、確たる自信をもって俺達に顔を向ける園子。 当然、それに否と答えるはずもなく。

 

「そういう事。 部長に先言われたけど、変な事言うもんじゃない」

「ねっ。 今まで一緒にやってきたのに、ここであっさり手のひら返せる様な人、そういないわよ」

「私は……綾小路先輩とはあまり一緒に居た事ないですけど、先輩とあの人なら、先輩の方がずっと信用できます。 お兄ちゃんをずっと助けてくれてたし」

 

 俺たちの言葉に、悠は僅かに間を開けたが、やがて恥ずかしそうに頭を掻きながら、

 

「まいったな……こういう事言われるの無いから、ちょっとうまい返しが出てこないや。 でも、ありがとう。 本当にありがとう」

 

 はにかみながら、そう言った。

 

 ‣‣‣

 納得はしたけど、くれぐれも今後は咲夜に近づかないように。

 そう忠告して、咲夜の話は終わった。

 そこからは何時もの園芸部の時間が始まり、久方ぶりに穏やかな気持ちで放課後を迎えた。

 

 明日は園子が家族との予定があるという事で、残念ながら部活は無しだ。

 それならそれで、俺も金曜の安売りでスーパーでの主婦たちとの食材をめぐる争いにいち早く参戦するばかりだ。

 学生らしく友人たちと遊ぶっていうのも選択肢にはあるが、明日は俺が夕飯当番なのでそうもいかない。

 

 それはそれとして、今俺は渚の作ってくれた夕飯を頂いてから、自分の部屋にいる。時刻は既に22時を過ぎて、いい加減就寝も考える必要がある時間だ。

 そんな俺の右手には、スマホが握られていて、画面には悠の電話番号が表示されている。あと指を一回たたけば、アイツに電話が出来る状態である。

 今日、一応納得はしたが、悠は一度俺達を突き離す言葉を口にした。穏やかな言い方ではあったが、そういう事を口にするって言うのはそれだけアイツの心に積み重なっているんだ、疲労が。

 

「よし」

 

 景気つけにそう一言漏らして、俺は悠に電話を掛けた。

 コール音が一回、二回、三回。こんな遅い時間にもかかわらず、いつもと同じように、悠は3コール以内で俺の電話に出た。

 

「こんばんわ、どうかした? 珍しいじゃないか」

「ごめんな遅い時間に。ちょっとさ、気になって」

「大丈夫だよ、僕も眠れなかったからいいタイミングだった。それで気になる事って?」

「結構ストレス掛かってるんじゃないかって。ここ最近、俺達かなり咲夜に振り回されてるし、お前はその中でも一番被害受けてんじゃないかなってさ」

 

 こういう時に取り繕っても何にもならないので、単刀直入に本題をぶつけた。悠はやや間を開けたが、やがて『いつものように』朗らかな声で、

 

「そういうことか。ありがとう心配してくれて。嬉しいよ。でも大丈夫さ、彼女の身勝手な行動は今回に始まった事じゃないし、綾小路家は咲夜に限らず誰もかれも癖の強すぎる人達ばかりだからね……。だから大丈夫さ」

 

 苦笑いを途中はさみつつ、悠は言った。普段ならそれで納得して終わる所だろうけど、今日はそうもいかない。

 

「悠。俺の……頸城縁の過去は、とっくに調べてるだろ?」

「え? う、うん。まぁ、そこそこは……勝手に詮索して悪いとは思ってるけど」

「そこは別にいいよ、問題ない。でもそれなら分かるよな? 頸城縁の死ぬ間際の環境が」

「……ま、うん。そうだね、キャパオーバーな精神的苦痛に満ちた状況だったと思ってるよ」

「そう、だからさ。なんとなくわかるんだよ、無理はし始めてるんだって事が。お前さっき、2回『大丈夫だ』って口にしたよな? 追い詰められかけてる奴ってさ、そういう風に大丈夫だって言いがちなんだよな。『きついけど平気』でも『なんとか行けそう』でもなく、ただただ『大丈夫』ってだけ」

「………………」

「まあ、俺の経験だけで語ってもなんだけどさ。気になるんだよ、親友の事だしさ? もし本当にだいじょうぶなら、それで良いんだ」

「縁」

 

 こっ恥ずかしくなり自然と早口になる俺に、悠は言葉を続ける。

 

「君は、良い奴だね」

「おお? 急に変な事言うなよビックリするぜ」

「茶化すなよ、僕の本心なんだから。……だから、本心を言うね」

「……おう」

「辛いよ。正直、今までにない位に苦しい状況なんだ」

 

 ……やっぱりか。だと、思った。

 

「僕は咲夜の考える事は予測できる自信があったんだ。綾小路家には癖の強すぎる人間が多いのは事実だけど、咲夜はいくらか直情タイプだから。馬鹿っていう意味ではないけど、『こういう時はこうするだろう』というのが考えやすかった。でも」

「査問委員会は、予想の範疇になかった?」

「咲夜が自分の思うようになる空間を作るところまでは考え通りだったよ。だけど、今日みたいに『自分の判断の是非を他人に委ねる』なんて、考えもしなかった。彼女は本当に、自分の意思を貫く人間だったんだよ。それが、多数決なんて手段を取ったんだ。表情に出さないようにしてたけど、信じられなかったよ」

「言われてみれば確かにそうだったな。俺も数回しか直接話したこと無いけど、普段俺達を庶民って呼んで見下してるのに、その庶民に決めてもらうってのは違和感あるよな」

「成長したからなのか、誰か咲夜に吹聴しているのか分からないけど、もう僕の知ってる咲夜じゃない。ああ、こんなの言いたくないけど、皆には咲夜の言う通りにしてもらった方が良かったよ。咲夜の考えてる事から皆を守れる自信がないんだ」

「……」

 

 それは、間違いなく悠の心の底から出た弱音だった。

 悠が心労を抱いてる事は分かっていたけど、ここまでというのは分かっていなかった。今まで見た事もない悠の(さま)に、思わず言葉が止まってしまう。

 それを感じ取ってか、悠は一度呼吸を置いた。

 

「ごめん、いきなりそんな事言ったって困るよね。せっかく柏木さんや河本さん、渚ちゃんにも励ましてもらったっていうのに……たまにこういう風に悲観的になるんだ、僕の悪い癖だなあ」

「いや、そんなこと無いって……」

「ふふ、じゃあそろそろ時間も遅いから、寝るね」

「ああ、そうか……悪いな、電話出てくれてありがとう」

「こちらこそ。じゃあ、また明日ね」

 

 その言葉で、悠との通話は終わった。

 スマホを置いてから、俺はベッドに横になって天井を見ながらさっきまでの悠との会話を反芻する。

 

「自分から踏み込んどいてなにやってんだよ俺は……」

 

 悠を心配するように声をかけていながら、いざ悠が心を開いて素直な心境を述べてくれたというのに、俺は何一つ、あいつの心に届く言葉をかけてやれなかった。

 結局、俺も悠が自分で心配しているほど弱ってなんかいないと思っていたんだ。あいつの親友だというだけで分かった気になって、実際は全然あいつの心に寄り添えていなかった。

 悠はそんな俺を責める様な事はしなかった。優しいアイツの事だから、ほんとに責めるような気持ちは無いのだろうけど。俺の胸の中には苦々しいドロッとした物が溜まっていく。

 

「はぁ、くそ……」

 

 焦りが段々と自分を飲み込んでいくのを、この夜の俺はまだ自覚できていなかった。

 

 そして、夜が明け日が上り、今週最後の登校日である金曜が始まる。

 

 ‣‣‣

 ───この日から、事態は急変する。始まりは、綾瀬からだった。

「じゃ、またな」

「うん、お兄ちゃん」

 

 普段通り渚と登校して、昇降口前でわかれて教室についた途端、すぐにクラスの雰囲気がおかしい事に気づいた。

 原因は直ぐに分かった。クラスの奴らが教えてくれるよりも先に目についたからだ。俺は級友らへの挨拶をせずに、すぐさま渦中の人物へ声をかけた。

 

「綾瀬、これ、酷いな……」

「縁……うん。朝来たらもうこんなになってて」

 

 渦中の人物とは綾瀬の事であったが、騒ぎの原因は綾瀬本人ではなく、その机にあった。

 綾瀬の机は、中までびっしりと木工用のボンドのようなもので塗りたぐられて、もはや真っ当に使える状態ではなくなっていた。

 いったい誰がこんなことを、何故綾瀬がこんな目に、そんな怒りや思いは当然頭の中に湧き出てきたが、今はそれよりもさっさと机を取り換える必要がある。

 

「綾瀬、机の中に貴重品とかは無かった?」

「うん、それは大丈夫。 先生にもさっき連絡したから机も取り換えてくれるから、平気だけど……」

 

 流石は綾瀬。さっさとやるべき事は済ませていたか。とはいえ、その表情からは困惑が見て取れる。

 それは当たり前だ、今まで綾瀬と一緒に居る中で、彼女がこんな露骨な悪意に見舞われた所なんて見た事ない。そのくらい初めての事なんだ、落ち着いてるように見えても、動揺はしてるはずだ。

 

「まずは良かった。通学路で何かされたりはしなかった?」

「それもないわ。教室に入るまでは特に何も。本当にいきなりこういう事になってて、ちょっと、びっくりしてる」

「びっくりして当たり前だよ、ちょっとどころじゃなくてかなり驚いてしかるべきだし、なんなら怒っても良いくらいだ」

「誰がやったのかも分からないし、流石に怒ったりはしないわよ。それに、前に貴方と渚ちゃんが喧嘩した時の方がずっとビックリだったから」

「っ……、んまあ、そりゃあ耐性が出来ててよかったよ」

 

 

 訂正。このタイミングでそんな事言えるのなら、思ったよりも綾瀬のメンタルは平気だ。

 ともかく、この後間もなくして先生方が机を持ってきて、綾瀬の言う通り特に問題もなく授業は進められることになった。

 当然、最初に誰がやったか心当たりある人を先生は尋ねたが、そこで素直に言う奴が最初からこんな事する訳もない。当たり前に犯人は分からず、かと言って永遠とその話題だけを引っ張るわけにも行かないので、それ以降先生方が深く突っ込むことは無かった。

 無かったのなら、自発的に動くしかない。

 

 お昼休みになってすぐ、俺はとある人物の元へと歩を進めていた。

 目当ての人物がいる教室について声をかけると、そいつは一瞬驚いた顔をしてから、不快そうに睨みつつ、渋々教室から出てきた。

 

「悪いな、本条」

「……何の用よ」

 

 

 そいつの名前は本条。ちょっと前に綾瀬との間に生じた人間関係のトラブルで俺を盛大に巻き込んでくれた女子生徒だ。

 こいつが散々やらかしてくれたおかげで俺は放課後、頭にバケツで水を浴びて部活に出向く羽目になったりしたのだが、その事はもういい。それより俺がここに来たのは、今回の件でこいつが関わってるのでは、と思ったからだ。

 

「今朝、あや……河本の机が誰かに荒らされた。聞いてるか?」

「あんたのクラスで何か騒ぎがあったのは聞いてるけど。そう、そんな事あったんだ、へぇ」

 

 しらを切っているようには見えない。けれどそれが本当であるか怪しいところだ。以前俺にやってくれた事を思えば演技の可能性も十分にある。

 単刀直入に言うとしよう、この手の相手に長々と時間を取るのは嫌だからな。

 

「やったのお前か?」

「はぁ!? 藪から棒に何言ってるわけ? そんなわけないでしょ? もしそれならこうしてあんたの話に付き合うわけないでしょ、バッカじゃないの!?」

 

 導火線に火が付いたように一気に捲し立てる本条の顔は、嘘偽りのない表情に見えた。

 心の底から心外だと、自分の無関与を主張する人間のソレだと分かる。

 

「……本当に何も知らないみたいだな」

「そう言ってんでしょ。もう河本と関わるのも嫌なわけ。でもいい気味だわ、どこのどいつがやったか知らないけど感謝したいわよ」

「……そっか。悪かったな急に疑って。んじゃ」

 

 それで本条との会話は終わった。

 僅かな時間ではあったが、彼女が今回の件に関わっていない事は理解した。綾瀬ともう関わりたくないと口にした時の本条は本気でうんざりしてる人間にしか出せない顔と声だった。よほどあの五寸釘がトラウマになっていたんだろう。

 となると完全にとは言わないにしても、最大候補が外れてしまった。犯人捜しは振り出しに戻るわけだが……。

 

「くそ、本当に誰も浮かびやしない」

 

 綾瀬が普段敵を作らない性格だから、こういう時に容疑者が出てこない。恨まれすぎて誰の犯行か分からないというのはよく聞く話だけど、逆の人間でも似たような状態に陥るモノなのか。

 とにかく、これ以上動き回っても意味がない。一度教室に戻って昼飯を取りながらゆっくり考えよう。

 

「あ、いた!」

 

 教室に戻るや否や、綾瀬が俺のそばに駆け寄ってきた。手には自分の分のお弁当がある。まだ手を付けていないようだ。

 

「もう、どこ行ってたの? 休み時間になったらすぐに消えたから、また何かあったんじゃないかって心配したんだから」

「あ、あぁ……悪い」

 

 言いながら俺の腕を掴んで席まで引っ張る綾瀬。今日は一緒に食べる約束をしていないし、とっくに女友達と食べてると思っていたのだが、俺を待っていたようだ。

 少し驚いたりもしたが、わざわざ自分を待ってくれたというのは素直に嬉しい。

 悠は……どうやら居ないようだ。

 

「で、何処に行ってたの?」

 

 隠す必要はないが幾ばくかの躊躇いはある、以前人間関係の縺れがあった相手の話をする事と、何より今朝の件を綾瀬にぶり返させるのが悪いと思うからだ。

 とは言え、綾瀬を騙すだけの理由には到底なりえない。なりえないし、躊躇いがあるだけで聞かれたら素直に答えるつもりでいた。

 ので、素直に先ほどの事を俺は綾瀬に伝えた。

 

「そうなんだ……ごめんね、わざわざそんな事してもらっちゃって」

「勝手にやった事だし、結局ハズレだったからなぁ。……はぁ何なんだろうな一体」

「見つからないものはしょうがないわよ。先生たちも探してくれるっていうし、私も授業に問題は無いし、後は任せましょう?」

 

 ……意外というわけじゃないが、綾瀬が当人にしてはあまり今回の件に関心がないように感じた。

 確かに、犯人の目星はつかず、現状探そうとしても闇雲な行為にしかならないから、後は先生に任せるという綾瀬の発言は正しいが、それにしたって、全く気にもしてない様に見えるのは気のせいだろうか? 

 まるで自演した……いやあり得ないあり得ない。昨日の綾瀬にあんな事出来る瞬間は無かったし、あったとしても、綾瀬はそんな事する人間じゃない。

 仮定であってもそんな事を一瞬でも考えた自分を恥じつつ、俺はようやっと綾瀬とやや遅めの昼食を摂るのであった。

 

 それからも結局犯人が見つかることは無く、放課後を迎えてしまう。今日は昨日園子が言うように部活は無い。悠も早々に帰ってしまい、犯人を捜すにも手掛かりやあてはないまま。

 ハッキリ言って気に入らないけど、買い物をしなきゃいけないので俺も帰るしかない。

 帰り支度もそこそこに、カバンをもって教室を出たところに、廊下にいた綾瀬が声をかけてきた。

 

「あ、もう帰るの?」

「うん。スーパーの安売りに行こうと思ってる」

「そっか、今日はあなたが炊事係なんだ。えっと……じゃあ私も買い物手伝ってもいい?」

「えっでも大丈夫なのか? 他の人と予定とか、金曜日だし」

「うん、今日は夜に家族でご飯食べに行くから、家に帰る以外何もないし……ダメかな」

「いいや、助かるよ! 物によっては一人一個しか買えないのもあるし、一人で買い物するよりも綾瀬と居る方が楽しいしさ」

「そっか、ならよかった……ちょっと待っててね。すぐに私も帰る用意済ませるから!」

 

 そう言って綾瀬はパタパタと教室に戻っていった。

 ちょっと口を滑らせて渚が聞いたら睨んできそうなことも口にしてしまったが、まあ、これくらいは流石に大丈夫だろ……大丈夫だよな? 

 

 それから、途中渚と遭遇する、なんて怖い事もなく俺達は安売り目当てで普段より人の多いスーパー『ナイスボート』で買い物を済ませた。

 食材のほかにも、洗剤やらトイレットペーパーやら生活必需品も買ったので、二人とも両手が袋で塞がる状態で家に向かっている。当然綾瀬には軽い物が入った袋を持たせてる。

 無事に買い物を済ませた安堵感に加えて幾らかの疲労もあって、店を出て少しの間二人とも沈黙していたけど、綾瀬がふいに言葉を漏らした。

 

「あの、さ……」

「うん?」

「今日は、犯人捜ししてくれてありがとうね」

「お? いや、急にどうした」

「お昼の時はちゃんと言えてなかったから」

「そうだっけ?」

 

 それにしたって礼を言われることは無いと思う。見つけることが出来たなら話は別だけど分からずじまいなのだし。

 

「結局誰がやったんだろうな。あんなこと」

「うん」

「でもあれだな、意外と綾瀬は驚いたりしなかったんだな。俺も含めて周りの方が騒ぎにしてた印象あるぞ」

「……そう?」

「そうそう。犯人は分からないけど、綾瀬の毅然とした態度見てたら拍子抜けとか思ってるんじゃないか」

 

 この発言に関して、俺は一切の悪意を持ってはおらず。

()()に、綾瀬の心の強さを称賛しているつもりで口にしていた。

 だからこそ───、

 

「良かった……なら、結構私も演技が上手なのかな」

 

 足を止めて、袋を持つ両手をわずかに震えさせている綾瀬の姿を見るまで、()()()()()()()()()()()()()()()()気づいていなかった。

 言うまでもなく、疲労からくる行為ではない。

 綾瀬は我慢していたんだ。朝、自分の机があんな風にされているのを見てから、今の今まで。誰かも分からない犯人に付け入るスキを与えないために。気丈なふりをしていただけに過ぎなかった。

 

「ごめんね、急に止まったりして、ちょっと気が抜けちゃったかも」

「ちょっと休もうぜ。公園近いし」

「……うん、ありがとう」

 

 以前にも帰る途中によった、俺と綾瀬が初めて出会った公園に立ち寄り、ベンチに腰掛ける。

 

「幼馴染失格だね。ごめん」

「謝らないで、あなたは何も悪くないのに」

 

 綾瀬がわざわざ昼に俺を待っていたのは、不安を少しでも和らげようとしていたから。

 帰りを一緒に行こうと言い出したのも、以前から一緒に帰ることがある以上に、帰り道に何かされるんじゃないかという恐怖があったからだ。

 そんな綾瀬の心の状態を全く気づけないでいて、俺はすっかり綾瀬は平気でいるんだと思い込んでいたわけだ。

 昨日と同じだ。

 悠の心がどれだけ弱っているか分かってなかったのに続いて、綾瀬が怖がっている事に気づいていなかった。

 傲慢になっているんだとつくづく思い知らされる。思えば、夏休み前に渚と正面向いて言い合いをした時も、発端は渚の本意を思い違いしていた所にある。()()()()()()()()()()()()()()。悠にしても綾瀬にしても、友人だから幼馴染だからと、わかった気になっていた。

 思い違いもいいところだ。

 

「平気でいるんだと思ってた。怖かったんだよな」

「……怖かった。急にあんな事されるなんて思ってなかったし。他にも何かされるんじゃないかって」

「───っ」

 

 幸いにも今回は机への行為だけで終わったが、綾瀬の言うように犯人がすぐにでも本人に直接危害を加える可能性だってあった。俺だってそれを考えなかったわけじゃないが、綾瀬の心の心配よりも先に犯人を捜す方を優先した。

 結果、今目の前で今日一日ずっと気を張り詰めて弱った綾瀬がいる。

 俺がやるべきなのは、犯人捜しよりも綾瀬を安心させることだったのに、そこをはき違えてしまった。

 自己嫌悪を通り越して笑ってしまいそうになる。前世で似たような失敗をしたのに、生まれ変わっても同じ間違いをしているんだから。

 あの時(頸城縁)は距離を取ることで幼馴染を守れると思って死なせて、今回は犯人を捜そうと躍起になって……結果は異なるが、相手の心より自分の都合を優先した点においては何ら差異は無い。

 でも、だけれども、一度目と違って二度目の今回は反省が出来るだけの思考と、時間がある。頸城は彼女を死なせてしまったけど、俺はまだ間に合う。

 

 思考の切り替えの早さが、自分の長所だ。そう結論付けて俺は、綾瀬の手を握った。

 

「っ!」

 

 当然綾瀬は驚いている。だけど、手を振り払うような事は無かった。さっきまで袋を持っていた手は普段より熱っぽい。そして、僅かに震えていた。

 俺自身唐突な行為だと分かるし、普段なら渚に何かされるのが怖くて絶対にしないが、綾瀬は今この瞬間も怖がっている。

 俺の今後の不安で、今の綾瀬の安心を得られるのなら、安い物だ。……もっとも、こうした所で不安を払えるか分かったものでは無いが。

 

「やっぱり、ごめん。綾瀬は謝らなくていいっていうけど、俺は綾瀬より自分の正義感を優先してた。犯人見つけて綾瀬にかっこいい自分をさ、見せたいとか……思ってたんだと思う。恥ずかしい奴だな」

「縁……」

「俺もさ、最近ちょっと焦ったり考えがまとまらないんだ。綾小路咲夜が来てから、段々周りの環境が変わってきてるよな? そのせいにしたくないけど、前より自分の事ばかり考えるようになってきてるよ。今だって自分の愚痴をこぼしてさ、メンヘラみたいでやだね、はは……」

 

 綾瀬の不安を払おうと思ってるのに、口から出てきた言葉は何故か自分の愚痴。果てには自嘲の笑いまでしている。全く何をしてるのか心と脳みそが噛み合ってない。

 だけど、優しい綾瀬はそんな俺にあきれる事は無く、やや間を開けてから、くすっと笑いながら言った。

 

「そんな風にあなたが愚痴をこぼすの、新鮮かも」

「そっかな。ちょくちょく不甲斐なさを嘆く事ある気がするけど」

「ううん、そういう時とはちょっと違う、貴方が心の底で何を思ってて、何が出来なくて気に病んでるのとか、言わないでしょ? それに、私にかっこいい姿見せたかったなんて……ふふっ、男の子って感じ」

「ん……はぁ、そう言うなって。ああなんか一気に恥ずかしくなってきた」

「あはははっ!」

 

 朗らかに、陰りなく綾瀬が笑ってくれた。今日一日でようやくその笑顔を見られた気がする。思ってもない展開だったけど、何にせよ望んでいた表情を見られて良かった。

 

「いじけないでね。私嬉しいんだから。私と同じようにあなたも不安や焦りを持ってたんだって分かったし……何よりそれを私に話してくれたのが、嬉しい」

「話すさ。綾瀬か悠しかいないし、俺が愚痴零せる相手。渚の前だとお兄ちゃんしたくなるから、余計にさ」

「んー……、そこで綾小路君の名前が出てくるの面白くないなぁ」

「嘘は言いたくないからね。許せよ、野郎の親友なんだから」

「親友か……そうよね、なら仕方ないか」

 

 納得して、綾瀬は一度視線を空に向けた。

 そんな綾瀬の横顔を見てると、綾瀬がふいに俺の手を握り返して、俺に視線を戻した。

 

「綾小路君は彼女が転校してからずっと大変だし、査問委員会が出来たし、貴方が人並みに不安を抱えてるのが分かって、変な事言うけど安心した」

「そういう安心の仕方ってある?」

「あるわよ、『自分だけじゃないんだ』って分かるだけでも、それが貴方だったら猶更」

 

 苦しかったり大変な思いをしてるのは自分だけじゃない。という言葉が俺は嫌いだ。それは人を救う言葉ではなく、人に我慢を強いる言葉として使われるから。

 だけど、今綾瀬が俺に言ってくれた事でその認識が少しだけ変わった。

 他人から言われるのは我慢の強要でしかないが、自分の心から生まれるその言葉は、たとえ物事の解決にはつながらなくとも、確かに人を助ける力があるのだと。

 少なくとも今この瞬間、誰かの悪意にさらされ恐怖と不安を抱いていた綾瀬は、俺が焦りと不安を抱いてると分かり、僅かでも救いを得た。なら、それでいいだろう。

 そして、だからこそ敢えて問う。

 

「綾瀬、これから学園はどうなると思う?」

「……分からないわ。でも、たぶん前より居づらい環境になる気がする」

「だよな。……やだな」

「うん、すごく嫌」

 

 解決案が出るはずもない、明確化しない先の不安を口にして、少なくとも俺達は共に『それが嫌だ』と共有の想いを持っている。

 うん、本当に、それが分かっただけでも、何も変わってないのに少しだけマシになった。

 

「きっと犯人は見つかるよ」

「え?」

「咲夜や査問委員会は気に掛かるけど、でもそれと綾瀬の机に酷い事をした奴は話が別だ。先生達が見つけるし、見つからないなら、二人で犯人見つけてとっちめてやろう。な?」

 

 さっきより少しだけ握る力を強くして、綾瀬にニカっと笑ってみせる。

 綾瀬もまた、言葉は無くとも、同じように微笑んだ。

 

 あぁ、今日俺は犯人捜しなどせずに、最初からこういう言葉を言えばよかったんだ。

 それを何もかも手遅れになる前に気づけて、ちゃんと口に出来て、本当に良かった。

 

 ‣‣‣

 

 何も解決せず、何も変わらず。

 それでも、この時の俺達は確かな安心と、心の距離が近まったのを感じた。

 

 だけど、だからこそ。

 何も解決せず、何も変わってない『不安の種』は容赦なく根を張り、芽吹き、花を咲かせる。

 翌週、月曜日。

 

 この日までの出来事が全て序章であったと彼が理解する、野々原縁にとって地獄と同義になる一週間が、始まる。

 

 

 ──続く──



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第漆病・ホコサキ

 週が明けた月曜日。先週の金曜日が嘘のように何も起こらず、平穏に授業を終えた俺たちはいつものように部室に集まった。

 ここ数日は色んな事があったから、なかなか放課後みんなが集まる機会も少なくなっていた。そんな事も加算して、当たり前のハズだったこの時間がとても懐かしいような気分になる。

 特に悠について言えば、ここしばらくはずっと暗い表情が続いていたのもあって、部室で園子や綾瀬と土日にあった出来事を笑顔で話している姿をみるとひどく安心する。

 咲夜が「査問委員会」を立ち上げて本格的に動き始めてから、まだ一週間も経っていないのに。俺たちは既に彼女の影響を受けているんだと実感させられた。

 そんな空気を俺以外のみんなも感じていたのか、心なしか今日みんなが口にする話題はどれも他愛のない、けれど朗らかなものばかりだった。

 

「縁、どうしたの? さっきからずっと静かだけど」

 

 ふいに、綾瀬から声をかけられた。

 綾瀬の言うようにじっとみんなの会話する姿を見ていた俺は、まさか急に話題を振られるとは思わず答える言葉に窮してしまった。

 

「……ぁ、いや……」

 

 素直にさっきまで考えていたことを口にしたんじゃ、せっかくの明るい空気が台無しになってしまう。

 思考を張り巡らせて、この場でもっとも無難でかつ、嘘にならない言葉を選び取り口にした。

 

「喉、乾いちゃってさ。自販機に行こうとしてたんだけどみんなの話も面白いから……いつ抜け出そうかなってタイミングを見計らってた」

「そんな事で黙ってたの?」

 

 特に疑うこともなく俺の言うことを真に受けた綾瀬が、しょうがないなあとでも言うように笑う。

 

「まじめな表情しながらそんなこと考えていたのかい? ここから自販機まで行って買って戻ってくるまで3分もないのに」

「きっと縁にとっては私たちと離れるその3分ですら、愛おしくてたまらないのよ」

「なるほど。死ぬほど愛されてるね僕たち」

 

 ここぞとばかりに俺をいじくり倒そうと団結する綾瀬と悠。こういう時の2人は毎回見事な掛け合いを見せていい感じに俺を煽ってくれるが、こんなやりとりにすらも安心感を覚えてしまうからどうしようもない。

 結局、2人の言葉にも苦笑で応えるしかできなかった俺にそれ以上2人が何か言ってくることはなく、代わりに園子と渚が助け舟を出してくれた。

 

「もう2人とも、そんな風に縁君をからかっちゃだめです。縁君も気にせず行ってください」

「戻ってくるまでに何か面白い話があったら、お家で言うから。大丈夫だよお兄ちゃん」

 

 もしかして俺の気持ちを察してくれたのかな。

 2人の言葉に短くありがとうと答えて、俺はいったん部室を出た。

 

『もっとも、綾小路さんや部長ならともかく、綾瀬さんに面白い話なんて言えるとは思えないですけどねえ?』

『そこは安心して良いよ、渚ちゃん。あなたより友達多いから、私。話すネタは尽きないの』

『……友達の数と面白い話が言えるかは関係ないと思いますけど? 私の方が家族な分、お兄ちゃんがどんな話好きなのかよく分かってるし。ただのただのガールフレンドなだけの綾瀬さんには分からないかもですけど』

『ただのガールフレンドじゃなくて幼馴染ね?』

『そうでしたごめんなさい。でも、それって何が違うんですか?』

『いろいろ違うわよ? よかったら渚ちゃんがまだ中学にいて全然知らない去年の縁の話とか、してあげようか?』

『ふ、ふぅーん……学校の話なんて家でいくらでも聞いてますけど、学校でしか一緒にいない綾瀬さんに何か面白い話なんてあるんですか?』

『こらこら、2人とも話の趣旨がどんどんズレ込んでるよ──?』

『縁君の去年ですか、気になりますね……』

『部長、素直に気になってないで2人を止めるの手伝って欲しいかなあ……』

 

 扉の向こうから漏れて聞こえる会話を背に受け、果たして本当に部室を出てしまってよかったのか一抹の不安を覚えてしまったが、悠と園子の2人がいる中で何か修羅場が生まれることもないだろう。

 すでに修羅場という見方もできるし、ああいうやり取りができるのは逆に信頼関係のなせる業とも言えるが、少なくともあの2人については今更だ。下手に止めに戻る方がかえって話をややこしくするに違いない。

 

「うん、こういう分析ができるようになったの、成長したな俺」

 

 以前ならもう冷や汗もいいところだが、経験を踏んだ俺は以前よりも若干物事を見る時の視野を広くすることができた。と思うことにしている。

 思うことにしつつ、俺は嘘から出た誠ではないけども、自販機のある方へ足を進めた。のどが湧いてきたのは本当の事だったから。

 

 悠が口にした通り、歩いてすぐの距離にある自販機に着いて、何を飲むか品定めする。

 外の自販機と比べて、学園内の自販機はスポーツ飲料やビタミンウォーターの類が多く、炭酸飲料のレパートリーは貧弱だ。あったとしても、いまいち味がパッとしないサイダーや、ふたを開けて数分で炭酸が抜けきる手抜き飲料ばかり。とうてい選ぶ気になんかならない。

 

「レモンウォーターと炭酸混ぜたの企画提案した奴って、絶対自分の料理味見しないで人にふるまう奴だろ。どう考えても不味いってのに」

 

 いつの頃か、ものは試しと今言ったレモン味のビタミンウォーターにソーダを混ぜた飲み物を口にした事があったが、一口して残りを捨ててしまった事を思い出す。お金をどぶに捨てた行為に罪悪感を覚えつつも、そうする他に選択肢が無い不味さに当時の俺は憤慨したものだった。

 その時の飲料が目の前の自販機に堂々と売られているのを見ながら、俺は人の味覚の好みとか多彩さに、ほんの少しばかり関心したのであった。

 

「自販機の前で長考ですか? ずいぶんとゆとりに満ち溢れた趣味ですね」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

 

 不意に横からかけられた声に、反射的に答えようとした。

 でも、声の主人を視界に収めた途端に、言葉が止まってしまった。

 

「どーも。どうも。神社でお会いして以来ですね」

「……確か、塚本君だっけ」

 

 本人の口にする通り、以前に七宮神社で出会った少年が、そこにいた。

 

「覚えていてくれてたんですね。ありがとうございます」

 

 かつて自分を『塚本せんり』と名乗った彼はそう言って、にっこりと屈託のない笑みを浮かべて見せた。

 自分を覚えててくれて心底うれしい、口にしなくともそんな気持ちが容易に読み取れる。

 でも、それで素直にこっちも心を開くかと言えば、そんなわけがない。

 

 彼は初めて会った時、この学園とは違う制服を着ていた。

 七宮神社はここから近いとは言い難く、あの神社周辺に生活する他校の学生が、わざわざこの学園まで足を運ぶ事なんて学園祭が開かれてる時期以外まずないだろう。

 だがしかし、事実としてこの塚本せんりという男は今、俺の目の前にいる。しかも、この学園の制服を着て(・・・・・・・・・・)

 俺の記憶が間違っていない限り、咲夜が来てから新しく転校生が来たなんて話も出ていない。そして当然の事だが、俺は今日この瞬間まで一度も彼と学園内で会った事はない。

 つまり、彼はわざわざ俺たちと同じ制服を着こんで、ここまで来たという事になる。理由は分からないけど、でもとにかく何かしらの狙いを持って俺に話しかけてきた。

 こんな異質極まりない状況で、塚本に対して素直な対応なんてできるほど、俺の心臓は丈夫ではない。

 当然、警戒する。歩いて3〜4歩で埋まる僅かな互いの間に厚い壁を建てるように、塚本を見据えた。

 ポーカーフェイスを求められる場所でもなし、俺が何を考えてるかは塚本にも簡単に察しがついただろう。

 

「ああ、警戒されてます? もしかして」

「悪いけど。この前会った時も君はよく分からない言葉を吹っかけてきたからね」

「ま、そうですよね。怪しんで当然です。あの日、七宮の巫女もきっと君に、悪いものがさっきまでいたとか、言ってたでしょう?」

「……」

 

 あまりにもあっけらかんと、自分を警戒に足る人物だと塚本は自白する。

 その拍子抜けなまでに何もかも隠さない──それでいて一切本質を見せない言動に、若干苛立ちのような感情が顔を覗かせてきたのを抑える。

 そんな俺の内心をトコトン見透かしたように、大仰にため息を溢しながら、彼はこう言った。

 

「その用心深さを、どうして今日一日ずっと表に出さないで来たんですか」

 

 一瞬、何を言いたいのか分からなかったが、すぐに発言の真意を理解した。

 

「……君にとやかく言われる事じゃないと思うけど」

「そうでしょうけど。でもあなた、正直無頓着すぎません? 先週河本綾瀬がひどい目に遭ったばかりなのに」

「──っ!」

 

 心臓をグイっと引っ張られたような錯覚を覚える。とたん、そのたった一言を聞いただけで心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。

 塚本の言葉はまだ続く。

 

「今だってそうですね。あなたは先週起きたことから目をそらして、いつも通りの日常を演じている。いや、これについては貴方だけに限った話ではありませんが。あの部室にいる全員が考えないようにしてます。綾小路咲夜と査問員会の事を」

 

 もう、黙って聞くわけにはいかなかった。

 

「ずいぶん言ってくれるじゃないか」

 

 好き放題言われて、でも自分の中でその通りだと認めてしまう俺がいる。

 

「嫌な言い方するんだな君は」

「ワザとです。すみません。どうも危機感を欠如しているように見えましたので」

「そもそも君は何なんだ」

「前に話した通りですよ。僕は知りたがり、ただの情報収集家なだけです」

「ただの知りたがりが、わざわざ制服着てここまで来ないだろ」

「それについても言ったはずですよ。僕は今、君がどう動くのか気になってるんです。従来のデータから外れた行動ばかり取る今の君が、綾小路咲夜という劇物を前にどう動くのか、ね」

「……趣味が悪いな」

「そういう性分(もの)ですので」

 

 容量を得ないし、意味も分からないが、とにかく塚本は積極的に俺たちに危害を加える気はないのだと分かった。

 その代わり、まるでバードウォッチングでもするかのごとく、俺の一挙手一投足を見る気でいる。それがどうしようもなく、気味悪い。

 

「……情報収集家を自称するんなら、先週綾瀬の机を荒らした奴を教えて欲しいものだけど」

「お金さえ頂ければ」

「ああそうかい。じゃあ結構だ。ならせめて、今後は話しかけてこないでくれ。ストレスの要因は増やしたくない」

「あれ、結構嫌われちゃいました? もしかして」

「好かれる要素があったと思うか?」

「いやぁ、無いですねぇ主観的に見ても」

 

 どこまでも飄々(ひょうひょう)とした態度を貫く塚本に付き合ってられなくなった俺は、本来の目的を放棄してその場から去る事にした。これ以上彼と話していると、本当に頭がどうかなりそうだ。

 

 俺が拒絶の意を行動で示した事が功を奏したのかは分からないが、塚本の横を通り過ぎようとする間際、それまでの俺を揶揄(からか)う口調から一転して真剣味を帯びた声色で言った。

 

「このまま嫌われて終わるのは本意では無いので、そうですね。これは情報ではなく所見として言いますが」

 

 そんな断りを入れてから、

 

「今のこの閉塞的な空気、そして『この後起きるだろう状況』……それらに対処出来るのは同じ綾小路家である悠ではなく、アナタだけですよ」

 

 そんな呪いのような言葉を吐き掛けた。

 

 たまらず、足が止まる。

 肩がぶつかるような距離感の中、塚本はじっと俺の目を見据えていた。

 

「……いや、そんなわけないだろ」

「彼では現状維持すらままならない事は、もう貴方にも分かったでしょう? 無理なんですよ、彼では咲夜を止められない。時間があれば話は別でしょうが、それが彼には全く無い。恐らく今日か明日にでも、綾小路咲夜は次の手を打つでしょう」

「次の手ってなんだよ。俺たちは査問委員会に目を付けられる事はもうして無いぞ」

「それについては何も言えません。所見の域を超えてるので」

「……っ!」

 

 もどかしさと苛立ちがまたも頭の中をグルグルと駆け巡る。

 それを表に噴き出さずに済んでいるのは、俺の自制心の賜物などではなく、今俺を見据えている塚本の眼が、それを許さないからだ。

 

「……だとしてもこの先、咲夜が何をやってきたって、ただの学生でしかない俺に何か出来るはず無いだろ」

 

 そんな、ありきたり過ぎる返しをするのが精一杯になった。

 

「本当にそう思いますか? 自分は他の学生と──―彼女が庶民と見下す大衆と同じ立ち位置にいると、本気で思ってます?」

「……」

「まあ、そう思いたいうちはそれでいいでしょう。それが貴方の選択なら、それも良しです」

 

 そう言ってから、塚本はさっきまで俺が立っていた自販機の前に行き、制服のポケットから財布を出して躊躇いなく飲み物を買った。

 買ったのは、俺が買わないと決めていた例のまずい炭酸スポーツ飲料だった。プルタブを開けてぐいっと一口か二口飲み、すぐにやめた。

 

「ははっ、なるほど。あなたがウンザリした顔で見た理由が理解出来ました。確かに、これは酷いですね」

「……飲まなくても分かるもんだろ。わざわざ嫌な思いして金まで無駄にして、何がしたいんだ」

「理解したかったんですよ」

「理解?」

「『分かる』と『理解する』は別ですよ。情報として頭に入ってるのと、実体験として体で覚えるのは、その後の行動に与える影響が全く違いますからね」

 

 缶の中に残ったまずい液体を一気に飲み干し、自販機横のゴミ箱に入れ、最後に塚本は今までのやり取りで一番俺の中に突き刺さる言葉を投げて来た。

 

「もっとも? それは一番あなた自身が分かってるとは思いますけどね」

「何を根拠に、そんなこと」

「そうでしょう? だって、当初は自分に害を為す存在だと『分かっていた』から、あなたは柏木園子を避けていた」

「!?」

「でも彼女の実情を『理解』してからは、手のひらを返す様に彼女のために動き始めた」

「お前……本当にどこまで人の事を」

 

 はらわたを好き勝手いじくり回されているような、吐き気とも違う気持ち悪さが五臓六腑に染み渡る。

 そんな俺の様子なんておかまいなし、あいも変わらずのこびりついた様な笑みを崩さず、塚本は言葉を続けた。

 

「……綾小路咲夜に対しても、『理解』すれば何か変わるのかもですよ?」

 

 ・・・

 

『それじゃあ、また会いましょう』なんて言葉を残して、言いたい事を好き放題口にした塚本は去っていった。

 あとに残ったのは、言いようのない気持ち悪さを胸に抱えた俺一人。

 

「……なんでここに来たのか目的忘れちゃったよ」

 

 話を逸らすためにここまで来たのに、その結果もっと嫌な思いをする羽目になったわけだ。

 結局、飲み物を買う気分も失せた俺は、行きとはまるっきり違う気分で部室に帰ることに。

 部室が近づくにつれ、聞こえて来るみんなの声も大きくなっていく。それに反比例するかのように、俺の足取りは重りを繋がれたかのように鈍重になっていく。

 

 突きつけられてしまった。

 背けていた目を、がっしり顔ごと掴まれて向かざるを得ない状況にされた。

『やましい事をしなければ、何もされない』なんてのはただの希望的観測だと。綾小路咲夜はハッキリと自分たちに次の手を打とうとしていると。そして──―、

 

 悠ではもう止められないところまで来ている、と。

 

「……だったらどうしろって言うんだよ」

 

 塚本は人を試すような言い方をしたが、誰がどう見たって俺に出来る事なんか何もない。

 たまたまちょっと知り合って、他の生徒よりも会うのが早かった程度。そのくらいでしかない俺が、果たして綾小路家のご令嬢相手に何が出来ると? 無理だ……考えるだけでも馬鹿らしい。

 

 園子の時とは違うんだ。あくまでも立場上は対等だった相手との対立ではなく、今回は完全に……こんな言い方したくもないけど、金持ちと庶民の、ゾウとアリの対立になる。

 いや、対立にすらならないか。ひたすら踏み抜かれておしまい。終わりだ。

 

 やめよう、こんなこと考えたまま部室に戻ったら、察しのいい悠や綾瀬に簡単に気づかれる。

 気づかれたら、言わなきゃいけなくなる。そしたらおしまいだ。もう朗らかに談笑なんて出来ない。

 今日はせっかくみんなが揃っているんだから、この時間を大事にしたいんだ。だから、さっさと切り替えてくれよ俺。

 

 ……そんな風に、メンタルをリセットしようと励めば励むほど、逆に心は焦ってしまう。そんな事分かってるのに、でもそれ以外に手段が思い浮かばないから、俺はとうとう部室の扉の前で立ち尽くしてしまった。

 横開き式の扉が、今だけは分厚い鉄の塊に見える。とても手を出せはしない。

 

「……っ、何ぐじぐじしてんだ俺は」

 

 焦燥が苛立ちに変わろうとする境目に、部屋から園子の言葉が耳朶に響いた。

 

『そう言えば……縁君はまだ来ないのでしょうか? 遅いですね』

 

 びくっ、とまるで悪事を見られた幼子のように身体が反射的に動く。園子のそれがきっかけになって、綾瀬や渚の声が続く。

 

『ホントだ……どうしたんだろ、いくら何でも遅いよね』

『何かあったのかな……私、ちょっと探してきます』

『まぁまぁ、縁の事だから、自販機のメニューに文句でもつけながら品定めしてるんじゃないかな?』

『それは確かにやってそうではありますが……でも、確かにもう出てから10分以上も経ちますし、心配ですよね』

 

 次々と俺について口にするみんなの声が、さっきとは違う焦りを俺に与える。

 せっかくの楽しい空気を壊すまいとしていたら、今度は俺が原因で望まない方向に話が進んでいく。この上更に今の俺の顔なんて見られたら、もっと状況は良くない方に行くばかりだ。

 

『やっぱり、私見てきます!』

 

 そう言いながら椅子から立つ音が聞こえた。

 瞬間、俺の思考はほんのわずかに正気を取り戻す。

 

 立ち上がってスタスタと出入り口に向かい、その扉を開く渚。

 

 本来、その次に渚が視界に収めるべきものは、憂鬱な表情を浮かべる俺の姿のはずだ。

 だがしかし、実際に渚の目に映った景色は、窓から夕焼けのオレンジ色が差し込む無人の廊下だった。

 それもそのはず。俺は渚が見に行く言った瞬間、素早く──―自分でもこんなに俊敏に動けたのかと感心するくらい瞬時に足を動かし、階段を通って屋上まで走っていたからだ。

 

 現在進行形で走りながら、果たして自分が何をしているのかと、自問自答する。

 逃げた。俺は今、間違いなく逃げている。

 

 渚に嘘をつきたくない。みんなを心配させたくない。

 かと言って、本当の事を伝えても何かしら安心させる手段は持ち合わせていない。

 

 だから、対面する瞬間を先延ばしにした。

 帰るための荷物は全部部室に置いたまま。渚とはどうしたって家で会う。このまま帰ったりなんてすれば、それこそここまで悶々と悩んでた時間と意味が全てお釈迦になる。

 どうにもならない物を無理にどうにかしようとしたから、結局より面倒な事態に発展する選択肢を、俺は自ら選んでしまったのだ。

 

「何やってんだ、何したいんだよ俺は!!」

 

 走りながら、抑えきれない苛立ちを声に出す。

 方向性の皆無な衝動のままに、屋上にたどり着く。いつだったか咲夜によって解放された空間には誰もおらず、壁も天井もないそこは夕焼け色に染まっていた。

 

 肩で息をしつつ、パラペットまで来た俺はそのまま眼下の景色を一望する。特に何か感じ入る事もなく、ある程度に呼吸を落ち着かせてから、その場にあぐらをかいた。

 ここまで、この一連の動きには何の意味もない。園芸部から衝動的に逃げた勢いのまま、どこかに落ち着かせるでもなく、ただ無気力になるまでの時間を稼いでるだけ。

 

 ……野々原縁の人生において、こんな時間は初めてだ。

 やれる事がわからず、無関心でもいられない。逃げ道はいくらでも作れるけど、真綿で締められるような気だけが延々と続く。

 

「……ほんと、分かんねえよ」

 

 何度言葉を漏らしても、答えは見つからない。

 当然の話だ。

 そもそも、俺がどんな答えを求めているのか、自分自身でわかっていないのだから。

 

 ・・・

 

「ただいま」

 

 ガラリと扉を開けると、一瞬の静寂の後に弾けるような声が返ってきた。

 

「お兄ちゃんどこ行ってたの!? どこにもいなかったから心配したんだよ?」

 

 当然のことだが、渚が詰め寄ってきた。

 その、純粋に心配してくれる(させてしまった)顔に申し訳なさを噛みしめながら、俺は素直に答えた。

 

「屋上に行ってきた。ちょっと、外の空気を沢山吸いたくなってさ」

「屋上に……って、もう……何かあったんじゃないかって本当に心配したんだから」

「悪い。俺も屋上から外をうろうろしてた渚を見つけて、ヤバいと思って戻ってきたんだ。ごめんな……みんなも」

 

 宥めるように渚の頭をポンポンと撫でながら、みんなにも頭を下げる。それを受けて、何かしら言いたかったと思う綾瀬や悠も仕方ないとばかりに首肯してくれた。

 代わりにではないが、園子が言う。

 

「気分転換したくなるのは良いですけど、流石に屋上に行くのは方向転換しすぎですよ? 渚ちゃんすごく心配してたんですから」

「……そうだよな、心配してくれてありがとう渚」

「もう……なにもなかったから良いけど。もう少し考えて動いてね?」

 

 不承不承ながらも怒りを収めてくれた渚の頭をもう一度ポンっと撫でると、それで今日はおしまいだと言わんばかりに学園のチャイムが鳴り響いた。

 部活動の終わりを知らせる、最後のチャイム。少し前まではこのチャイムが鳴ってからも平気で活動している生徒が多く居たものだが、咲夜の台頭からこっち、万が一にも査問委員会の標的になっては困ると、早いところでは20分も前に帰り支度する部活も増えたと聞く。

 こんな細かなところにも咲夜の影がちらつくのに頭を痛ませつつ、俺たちもそそくさと帰り支度を済ませて解散の途に至った。

 

「それじゃあ皆さん、さようなら。また明日です」

「気を付けてね」

 

 園子や悠と別れて、帰り道が同じ俺ら兄妹と綾瀬が同じ道を歩く。

 真ん中を俺が歩いて、両脇に2人が並ぶ。俺を挟んで2人が会話しているのを黙って聞きながら、相変わらず塚本の言葉を延々と脳内で繰り返していた。

 

 屋上で呆然としていた時間で逸る心は落ち着かせたが、当然として解答は見つからないまま。

 いい加減、考えるだけ無駄なんだと根を上げる自分がいる。最初から俺に出来ることなんてないと言ってたのに、どうしてこういつまでもグダグダと……。

 

「……おーい、聴いてる? ねぇってば」

「あ、ん? ごめん、聴いてなかった。なに?」

「はぁ~……。渚ちゃん、あなたのお兄さん今日一日こんな調子だけど、土日でなにかあったの?」

「特に、何もなかったはずですけど……幼馴染の綾瀬さんこそ、なにか知らないんですか? クラスも一緒なのに」

「知ってたら渚ちゃんにすぐ教えるし……ってなればもう、アレのことよね?」

「だと思います」

「おいおい、2人だけで勝手に納得して話進ませるなよ」

 

 俺がそういうと、綾瀬が2,3歩先を歩いてから振り返って、俺の進行方向に立った。

 自然に俺の足が止まり、綾瀬と向き合う形になる。渚もそれに倣って歩みを止めた。

 

「ねえ、縁」

「な、なにさ」

「なにもできることなんてないって、あなたも分かってるでしょ?」

 

 率直に、綾瀬は俺の心のしこりを言い当てた。

 いや、渚も察しがついてたようだから、たいして難しい推理でもなかったかもしれない。

 それにしたって、開口一番で「分かってるでしょ?」は流石というか……とっくに俺の葛藤もお見通しだったわけだ。

 

「やっぱ、そう?」

「うん、無い。前の時とは相手も規模も違うんだから、縁じゃなくてもどうにかできる人なんていないわよ」

 

 あえて何についてかは明言しないまま会話を交わす。

 綾瀬の口から出てきた言葉は、なんども俺の中で自分を納得させるために引きだしたソレと同じものだった。

 

「……だよな。俺もそう思う」

 

 不思議なことに、自分に言い聞かせるための言葉と、他人に言われるのとでは、同じ言葉でもなぜか納得の度合いが違った。

 ひょっとしたら、俺はずっとそういう言葉を欲しがっていたのかもしれない。

 主観だけではどうあっても「無理だ」と納得しきれないから、他人に言われることで無理だという気持ちが「逃げの気持ちではない」と思いたかったのかも。

 

「……渚はどう思う?」

 

 渚がどう思っているかを知りたくて、話を振ってみる。

 

「……うん、柏木先輩のいじめを止めるのとはやることが違うと思う……かな」

 

 答えは、やっぱり綾瀬と同じだった。

 

「そっか……そっか。……そうか」

 

 綾瀬と渚の2人に言われて、ようやっと俺も心の引っ掛かりが収まったのを感じた。

 塚本に煽られてからこっち、ずっと情緒不安定に自分を振り回していた感情が消え失せていく。

 

「ありがとうな。目が覚めたよ」

 

 納得という安堵を抱いて、俺は綾瀬に答える。

 それでもなお、塚本の言葉は心の奥底にひっそりと突き刺さっていて。

 それを頭の片隅でしっかりと自覚しつつも、俺はもう、それ以上考えないことにした。

 

 そんなふうにしていたら翌日。

 地獄が待っていた。

 

 

 

 

「待って縁、待つんだ!」

「うるせえ止めんな!」

 

 悠が必死になって後ろから俺を止めようとする。

 それを振り払おうとするが、器用に組み付いて前にも後ろにも進めない。

 掲示板に向かれていた生徒たちの視線がこちらに集まってくるのを感じて、俺は一層に苛立ちを募らせる。

 

「離せってんだよ!」

「っ、うわ!」

 

 わざと重心を後ろに倒して、悠に俺の全体重を預ける形にする。当然それをまともに受ける悠だが、元々力持ちでもなんでもない悠はすぐに体幹を崩してしまい、俺を止めようとする力も緩む。

 その隙に悠の手足を振りほどくことに成功した俺は、走ってその場を離れた。

 

「ダメだ縁! 行くんじゃない!」

 

 恐らくしりもちでも着いたであろう悠の声が、後ろから聞こえてくる。

 だがそんなのお構いなしに、俺は目的の場所──綾小路咲夜のいる中等部の教室まで向かう。

 

 途中、何人もの生徒とぶつかりそうになり、教師にも注意を受けながら、ものの数分で到着した。

 荒れた呼吸を整えることもせず、俺は教室の中に入る。

 急に現れた俺の姿に、当然中等部の生徒たちは驚き、中には俺がただならぬ気配でいることに気づいて怖がる子もいる。

 教室をぐるりと見まわして咲夜を捜したが、どこにも咲夜はいなかった。

 

「なあ君、咲夜はどこにいる?」

 

 一番近くにいた女子生徒に聞くと、多少たじろぎながらこう言った。

 

「えっと、綾小路さんは……まだ、来てないと思います」

「何時くらいに来るかわかるかな?」

「わ、わからないです……」

「そっか、ありがとう」

 

 HRまで15分程度ある。まだ教室に来てないのなら、中等部の昇降口か校門前にいた方が良いか? いやだめだ、そこまで露骨に待ってたら流石に教師に咎められる。

 そんなことを考えながら次の行動を思索していると、横から高圧的な言葉が俺に掛かってきた。

 

「朝から騒がしいわね。なんでここにあんたがいるのよ」

 

 声の主は、言うまでもなく綾小路咲夜。捜していた人物が、まさにたった今姿を見せた。

 咲夜の登場に、俺の質問に答えてくれた子や、他の生徒たち……高等部の学生が来たと野次馬していた他クラスの子も一斉に各々の教室に戻っていく。

 すでに存在するだけで周囲を威圧しているのか、蜘蛛の子を散らすような様を見ながら、つまらなそうに「ふん」と一言漏らしながら、視線を俺に向き直して咲夜が言う。

 

「で? 質問の答えがないけど、なんで高等部のあんたがここにいるのよ」

 

 多少出鼻をくじかれたが、目的は変わらない。俺は制服のポケットに突っ込ませていた物を咲夜に突きつけた。

 

これ(・・)はなんだよ、ふざけんのも大概にしろよ!」

 

 咲夜に突きつけたのは、一枚の写真が貼り付けされたA4用紙だ。

 当然ただの紙切れを突き出すわけもなく。

 貼り付けされていたのは、『綾瀬が制服姿で男性と夜の街を歩いている』様に見える写真だった。

 

 

 このくそったれな紙切れを見つけたのは、ほんの数分前だった。

 下駄箱で靴を履き替えているとすぐに、以前査問委員会についてのチラシが張られた時にもあったような喧騒が、掲示板前にあるのに気付いた。

 当然すぐにそれを思い出したし、塚本の言っていた「次の手」が始まったのかと急いで掲示板行くと、これが張られていた。

 

『高等部2年の河本綾瀬は、先週金曜の夜にパパ活をしていた。過去にも同じようなことをしている可能性がある』

 

 明朝体の小さな文字の並びであらわされたその文章の意味を理解するのに、果たして体感で何時間を要しただろう。

 偶然、同じタイミングで登校してきた悠が、呆然としている俺に声をかけてくれたから正気に戻れたし、戻ったからこそ噴き出してきた怒りに思考も身体も全部任せた。

 高々と張り付けられていた紙切れを掴んで千切り取って、こんなことをしたであろう犯人、綾小路咲夜のもとに向かうことにした。

 確たる証拠はないが、塚本が昨日警告してきた翌日に起きたこの事態に、咲夜以外の選択肢は出てこなかった。

 そうして悠の反対も振り切って、俺はここまで来たというわけだ。

 

 咲夜は、怪訝な表情で俺の顔と紙をひとしきり見た後、こともなげにこう言った。

 

「なによこれ、知らないわよこんなの」

「とぼけんな! これだけじゃない、前に綾瀬の机を荒らしたのもお前がやらせたことだろ!」

「この前? 机? ますます要領を得ないわ……写真に映ってるのはあんたと一緒にいる女と似てるけど……そもそもパパ活って何よ」

 

 馬鹿にしてるのかと思ったが、咲夜の浮かべる表情は縁起の類には見えず、本当に何を言ってるかわからない人間が見せるものだった。

 

「だいたい察した。つまり、あんたの恋人が受けてる嫌がらせをあたしが仕向けたって考えたわけね?」

「違う、いや、そうだけど、綾瀬は恋人じゃなく」

「どうでもいいわよそんなの。ケドはっきり言っとくわ。軽率な判断だったわね。探偵だったら即廃業モノの推察よ」

「──っ」

 

 違うのか? 今回の件に綾瀬は関わっていないと? 

 そんなはずない、ここ一連の出来事は咲夜が転入してから起きたことばかりだ。それらに一切咲夜が関与していないわけが……! 

 

 そこまで考えついて、ようやっと俺は一つの仮定にたどり着く。だがそれはあまりにも遅い、遅すぎる考察でもあった。

 

「縁! ……あぁもう、言わんこっちゃない」

「……悠」

 

 追いかけてきた悠が、俺たちの姿を見てすぐさま状況を理解する。

 

「咲夜、縁が勘違いで色々迷惑かけただろうし、申し訳ないけど、もう連れてくね」

「ちょ、ちょっと」

「急いで、河本さんがまずいんだ!」

「!!」

 

 事ここに至って、俺は自分の迂闊な行動に本気で公開することになった。

 いつからあの紙が貼られていたのかは知らないが、俺たちが見つける時にはすでに人だかりができていたのだから、当然のように教師たちも何が起きたのかはすでに把握して然るべきだろう。

 であれば、綾瀬本人に事情を聴きに行くのは小学生だってわかる話。写真は間違いなく偽物だ、でも綾瀬が身の潔白を証明するには紙がないと始まらない。それを俺が持ったままじゃいつまで経っても綾瀬は疑われるばかりじゃないか! 

 

「悪い咲夜、俺──」

「別にいいわよ、何も被害受けたわけじゃないし……それに」

 

 咲夜は思ったよりあっさりと俺たちが戻ろうとするのに対して何も文句を言わず、しかしニヤリと笑いながら、最後にこう言った。

 

「事情はよく分かったわ。しっかりと依頼(・・)は受けたわよ」

「は? なんのこと──」

「縁急いで!」

「──っ、おう!」

 

 言葉の意味が分からず問いただそうとしたが悠の声でそれは叶わず、心に不穏な影を残しながらも俺は急いで高等部の校舎に向けて走った。

 

 ・・・

 

 戻ってすぐに職員室に行くと、案の定綾瀬が生徒指導の教師から事情を聴かれていた。俺はすぐに持っていた紙を教師に渡したが、それですぐに話が収まるわけもなく。

 綾瀬の金曜夜の動向を洗いざらい聞いて、両親にも確認して、最後に写真をチェックして悪質で粗悪な偽物(コラージュ)だと判明して、ようやく疑惑が晴れた。

 こうやって文字だけにすればあっという間のようだが、実際のところ綾瀬が教室に入ってこれたのは、4時限目からだった。そこまで時間がかかったのには、俺が持ち出していた紙がしわくちゃになって写真を調べるのに苦戦したからというのが大きい。とことん、俺の行動は逆効果だった。

 

「2人ともごめん、逆に迷惑かけて」

 

 昼休みになってすぐ人気のない廊下の端っこに移動して、綾瀬には状況の悪化を招いたことについて、悠には止めてくれたにも関わらずそれを無碍にしたことについて、俺は頭を下げた。

 下げてどうにかなるわけではないと分かっているが。

 

「や、やめてよ縁……私は分かってもらったから大丈夫」

「僕も、ちょっと痛かったけどさ、あの状況で縁が怒るのも、咲夜の仕業だって考えちゃうのも無理はないって

 

 2人そろってそうは言ってくれるが、事態はそんな優しくはない。

 教師は4時限目に入る前に、今回の件については悪質ないたずらで綾瀬は潔白だと明言してくれたが、一度広まった噂や疑念、風評はそう簡単に覆されるものではない。

 現に、ここに移動するまでにも、綾瀬に対して奇異の目を向けてくる奴がいた。綾瀬はもう終わったことのように言ってくれるが、そんなことはないんだ。

 悠にしたって、今の彼にとって咲夜と直接向き合うのはそれだけでも充分なストレスになるだろう。ましてや俺の軽率な行為で咲夜に付け入るスキを与えてしまってたら……。

 

『やぱり、ごめん。綾瀬は謝らなくていいっていうけど、俺は綾瀬より自分の正義感を優先してた。犯人見つけて綾瀬にかっこいい自分をさ、見せたいとか……思ってたんだと思う。恥ずかしい奴だな』

 

 先週金曜、綾瀬の机が荒らされたときに俺はそんな言葉を口にしていた。そこからこのザマだ。

 俺は何にも成長していないじゃないか。ふざけてるのか。

 

「ただ縁はそうだね……河本さんや渚ちゃんが関わると急に判断力が落ちる傾向あるから、そこを気を付けた方が良いかもね」

「ん……」

「まあ、そのくらい2人の事が大事だっていう意味なら、美徳でもあるけどさ?」

「綾小路君、こういう会話の流れでからかわないの……もう」

 

 こちらの気を察して、多少俺の行動に言及こそすれ、すぐに笑い話に変えてくれたことに感謝しつつ、俺も何か別の話題を口にしようとした瞬間。

 唐突な校内放送が鳴り響いた。

 

『本日の6時限目は、中等部・高等部合同の緊急集会になりました。生徒は5時限目が終わり次第、講堂に移動してください。繰り返します、本日の──』

 

 急な全校集会の知らせに、動揺する声が廊下からも聞こえてくる。

 こういうことは今までにもなかったわけじゃないが、それにしたって滅多に起こることでもない。

 

「……なんだろうな、このタイミングで」

「緊急集会だなんて、いつぶりだろうね……」

「……もしかしたら、これは──」

 

 悠が何かを口にしようとした矢先、悠のポケットから無機質な電子音が鳴る。誰かからの着信のようだ。

 

「っ……、ごめん2人とも、抜けるね」

「大丈夫だよ、行ってこい」

 

 いそいそとその場を後にした悠を見送り、静寂に包まれた廊下に、俺と綾瀬の二人きりになる。

 

「……えっと」

 

 お昼時間に2人でいることはよくあることだが、今日に限っては少し気まずさがある。

 かと言ってこのまま無言でお昼時間を終わらせるわけにもいかない。

 何かしら言葉を出さなければ……そう思って綾瀬の顔を見ていると、気になったことが出てきた。

 

「綾瀬」

「うん、なに?」

「今、落ち着いているように見えてるのは、演技か?」

 

 この前は、落ち着き払った様子を学内では装っていた綾瀬だが、今日もはたから見れば普通のように見える雰囲気だ。

 同じように演技をしていると考えれば良いだけかもしれないが、こう立て続けに自分が標的にされた上で、普段と変わらない立ち居振る舞いができるほど、綾瀬は女優ではないと思う。

 

 そうなると考えてしまうのが、綾瀬の中で何かしらスイッチが入ったのではと言うこと。

 綾瀬は基本的には我慢するタイプの人間だ。でも理由次第で普通の人間にはできない事を、それこそ「平気な顔をして」できてしまえる人間であることも知っている。

 だから、ひょっとしたら今の綾瀬はそのモードに入ってるんじゃないかと心配になったんだ。今の綾瀬は演技で平気なフリをしてるんじゃなくて、「そっち側」に思考を切り替えただけなんじゃないかと。もしそうだとしたら、最悪の場合怪我人が出るだけじゃ済まなくなるから。

 

 ところが俺から質問を受けた当の綾瀬はと言うと、一瞬パチクリと瞬きをして、後は変わらずいつもの様子で答えた。

 

「大丈夫。流石に朝は驚いたし、まだ変な目で見られて困るところもあるけど……先生たちは分かってくれたから。間違った噂も、そんな長く続かないわよ」

「そ、そっか……無理に平気なフリしなくても良いんだからな? 少なくとも俺や悠がいる前くらいではさ」

「本当に大丈夫だって。……でも、この前の帰りに私があんなこと言ったから、心配してくれてるんだよね? ありがとう、嬉しい」

「嬉しいって……まぁ、綾瀬が本当に大丈夫なら良いんだけどさ」

「本当だって……あっでも」

「でも?」

 

 ちょっと文句を言いたそうな表情になって、綾瀬は大きく一歩を踏み込んで、ぐいっと俺に顔を近づけてきた。

 

「な、ちょ、ちょっと」

 

 鼻と鼻があと少しでくっつきそうな位の距離感、こんな光景を第三者が見たら確実に恋人同士のイチャコラに見えるし、渚に見られたら人生にピリオドが打たれる可能性だってある。

 そんな風にあっという間にドギマギハラハラする俺の心情をよそに、綾瀬は小声で囁くように言った。

 

「私がこの前みたいに弱いところを見せるのは、貴方の前でだけよ。綾小路君も仲のいい友達だけど、見せるのは貴方にだけ。そこをちゃんと覚えててね?」

「そ、そっか……」

 

 予想外の発言に、純粋に戸惑ってしまった。

 そんな様子が面白かったのか、綾瀬はくすっと微笑むと半歩下がり、ピッと人差し指を立てながら説教でもするように言う。

 

「だから私の弱いところを見る権利は、『俺や悠がいる前』じゃなくて、貴方だけが独占して。他の人にも共有させようしないでね?」

「……わかった」

「うん、ならよし! 教室に戻りましょう? お昼まだ食べてないし」

 

 そう言って、スタスタと教室まで戻っていく綾瀬。

 

「あぁ……そうだな」

 

 気がつくとかなり心拍数が上がっている心臓に、さっさと副交感神経による鎮静が掛かるのを祈りながら、俺は先を歩く綾瀬を追った。

 

それに私結構嬉しいんだ……だって、私がこういう目にあったら、貴方が怒ったり悩んだり、私のためだけに心を割いてくれるから

 

 追いつくまでの数瞬に綾瀬が口にした言葉を、俺は聞き取ることができなかった。

 

 ・・・

 

「査問委員会から連絡があります」

 

 それが、緊急集会が始まってすぐに伝えられた言葉だった。

 

「全校生徒の授業潰してまで、委員会のために集会開くのかよ……」

 

 たとえ学園創立の関係者だからって、そんな権力が査問委員会にあるという事実そのものに、吐き気に似た気持ち悪さを覚えた。

 周りを見渡せば怯える者や険しい表情を見せる者、これから起こることに他人ごとで楽しみにしている者など、反応はど三者三様ではあるが、またあの『晒し上げ』が始まるのだと、講堂全体が張り詰めた空気になっている。

 前回は、部活や委員会の時間に素行の悪かった生徒の名前を挙げて、当人はもとより、所属する部活動や委員会にも制裁を与えた。

 ならば今回も、やることは変わらないだろう。ここでの問題は、今回の集会が急に開かれたということにある。急に開くくらいだからそれなりの理由が当然あるはずだ。そして俺はその理由に足るだけの行動を、朝している。

 

 咲夜に直接、綾瀬が受けた被害について問い詰めてしまった。それ自体は園芸部に関わりのない行為だから、園芸部と関連付けて制裁を受ける可能性は薄いと考えていた。

 だが、それは今言った通り『薄い』だけ。その気になればいくらでもこじつけてしまえるのだと、俺は考えていなかった。

 ましてやこうして学園全体に影響力を持っているのなら、全くのウソをでっちあげてもそれを事実だと押し通せてしまうことも簡単だろう。

 

 致命的に選択を間違えた……たとえ綾瀬に何があったとしても、俺は絶対に咲夜に対してアクションを起こしてはいけなかったんだ! 

 悠に綾瀬や渚が関わる案件については判断力が落ちるなんて言われて納得はしていたが、今頃になってそれを心の底から思い知らされる。

 背中や額から、焦燥感からくる汗が滴り落ちるのが分かる。後悔と罪悪感に苛まれるだけの余裕すら、すでに失っていた。

 

「それでは、査問委員会副委員長の木戸さん、お願いします」

 

 そんな声とともに、壇上に高等部3年の生徒が立ち、全員をぐるりと見渡す。

 咲夜はいないようだ。中等部の生徒の列にいるのだろうか。

 

「今回、皆さんには残念な……とても残念な知らせがあります」

 

 心臓を掴まれたような心地の中、木戸と呼ばれた上級生の言葉を聞く。

 

「私たちの仲間に、無実の生徒を陥れようとした者がいました。高等部2年生のある女子生徒の机を使用不可能になるまで荒らし、さらには大多数の生徒が見る掲示板に事実無根の内容を書いた文面を貼り、彼女の学生生活を破壊しようとしたのです」

 

 芝居かかった言い回しと大仰な手振りを織り交ぜながら、彼が口にしているのは紛れもなく綾瀬の事だった。

 最悪の予想が外れたことで、両肩から背中にかけて重くのしかかっていたプレッシャーがスッと消えた感じがした。

『なぜ綾瀬の事を査問委員会が?』という疑問が当然脳裏をよぎったが、続けて脳裏に思いだされたのは、朝に咲夜が口にした言葉。

 だとしても、なぜ咲夜はわざわざそんなことをするのかが分からない。

 

『事情はよく分かったわ。しっかりと依頼(・・)は受けたわよ』

 

 あの時はその言葉の真意を聞くことができなかったけど、つまりはこの状況がその答えだったのか。

 朝の俺の行動を咲夜は自分に対する不愉快な行為とは取らず、査問委員会への依頼だと受け取ったんだ。

 

「私たちは別に探偵でも何でもありませんが、事態の悪質さに見過ごすことができず、すぐに犯人の特定に動きました。今日、こうして皆さんの大切な時間を割いていただいたのは、犯人が明らかになったとともに、これから二度とこのようなことが起きないために、全生徒にこの事実を知ってもらうためです」

 

 サラリと、本当にサラリと木戸は『犯人を見つけた』なんて言い放った。

 どうやって見つけたんだ、咲夜は綾瀬の人間関係も近況も何も分からないはずなのに、今日のうちで犯人に目星が付くわけがないだろう。

 

 そんな一般論的反論を抱きつつも、同時に『咲夜ならそれができるに違いない』という、無根拠な確信があった。

 園子のいじめをどうにかしようと動いた時に、俺は悠の『綾小路家としての力』を多大に頼っていた。だからなのかもしれない、咲夜がその気になればいくらでも━━全生徒のおはようからおやすみまで全てを把握できるのでは、そう思えてしまう。

 

 そんな俺の予想を真実にするかのごとく、その後木戸は犯人と思わしき人物の名前を挙げた。

 

 そいつは高等部3年生、電子技術研究部(通称「ロボット研究部、略してロボ研)の生徒だった。

 顔も名前も全くわからない、本当に接点皆無の他人が、一連の行為の犯人だった。

 そいつは全校生徒の衆目の下、名指しされたにもかかわらず、特筆すべきような反応も示さずにアッサリと自分の犯行を認め、教師たちに連れられて講堂を後にした。

 

 あまりにも、あまりにもアッサリと、先週から俺たちをかき回していた事件が解決してしまい、俺はどんな感情を抱けばいいのか分からなくなってしまった。

 綾瀬や悠が今どんな表情をしてるのか気になったが、それをわざわざ調べようと行動に起こす気にもならない。

 

「今回はみなさんに直接関係性のない案件でしたが、今後もこのように著しく悪質な行為に査問委員会は目を向けていきます。もし今この瞬間にも、何かしら苦しんでいる人が居るなら、是非我々に声を届けてください」

 

 まるで漫画やドラマに出てくる正義の味方のようだ。

 聞こえの良い英雄的な発言に対して、拍手をする生徒や歓声を上げる生徒もいる。

 そんな反応を受けて満足げに頷いてから、次に木戸はこんな事を言った。

 

「では最後に、今回の件についての連帯責任をみなさんに問いたいと思います」

 

 その言葉で、一気に全員が静まり返った。

 それが一番怖いんだ。一瞬だけとはいえ多くの生徒が忘れてしまっていた。

 査問委員会は、ここからが恐ろしい。全員の前で晒し上げながら多数決という名の暴力で、無理やり罰を与える。

 こんなことがまかり通るなんておかしいのに、咲夜が教師たちを掌握しているから全てが許されてしまう。

 実質、咲夜の想い通りに学園の生徒を支配できてしまう。

 

 いや、違う。

 

 俺たちが、必死に目をそらして。現状にすがっている間に。

 とっくに、この学園は咲夜に掌握され尽くしていたんだ。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ロボ研に下された『罰』は、3か月の活動停止だった。

 俺はあまり詳しくないから分からないが、これから冬にかけてロボ研も大会などがあったはずだ。

 それらに向けたこれまでの、そしてこれから先あっただろう努力と時間が全て消えてなくなった。一人の女子高生を破滅に導こうとした結果として、その連帯責任として、果たしてこれが妥当なのか過剰なのかは分からない。

 ただ、例によって『多数決』で決まった後に、集会が終わって生徒たちが各々の教室に戻ろうとする中に、一人だけ床に泣き崩れている3年生の姿を見た瞬間。

 何が正しくて、誰が悪いか、分からなくなってしまった。

 

「これで分かったでしょう? 誰に従うのが正しいのか」

 

 言葉としてではなく、行動として。

 咲夜にそう告げられた気がした。

 

「……」

 

 放課後。悠と一緒に部室へ続く廊下を歩く。

 綾瀬は犯人が見つかったことで、教師たちと話をするために再び職員室に行った。

 普段なら野郎同士で会話が自然に生まれるものだったが、さすがに何も言葉が出ない。

 かといって、黙り続けるわけにもいかない。何とか喉奥から力を絞る。

 

「まったく予想外の人間が犯人だったな」

「うん、そうだね」

「これで、綾瀬への誤解が完全に解けてくれるよな」

「解けると思うよ」

「……」

 

 会話終了。

 コミュニケーション能力弱者同士の会話か。

 

「教室戻るときに床に倒れてた人、多分ロボ研の部長だよな」

「そのはず。名前は分からないけど、うちのロボ研はコンテストや大会で高い評価や成績を残してるって聞くから、きっとこの3か月の活動停止は彼にとって……最悪だろうね」

「受験も控えてるだろうから、マジで最後の時間だったってことか」

 

 ますます、形容しがたい感情が胸を締め付ける。

 これでたとえば、犯人が俺たちの知るだれかで、裁きを受けたのがそいつだけだったら、ざまあみろとしか思わない。

 だけど実際のところ、犯人は予想だにしなかった人物で、それを明らかにしたのは咲夜たちで、しかも無関係な部員が巻き込まれて。後味が悪いことこの上ない。

 

「こうやって、個人の行動が連帯責任になる例が出来たからには、何をするにもやりづらくなるだろうな」

「まるで全体主義だよ。咲夜は査問委員会を軸に、学園の生徒の行動を恐怖で管理しようとしてるんだ。一番手頃な支配の仕方。綾小路の人間がいかにもやりそうな手段だ」

 

 唾棄するように言葉を口にする悠。

 それはどこか、自分自身に対しても放った言葉のようにも感じる。

 

「でも、今回は……」

「ん?」

「……いや、なんでもない。気にしないで」

 

 悠がそういう時は、間違いなく気にしないといけない話だ。

 追求しようとも思ったが、悠がそれをさせまいとばかりに、言葉をつづけた。

 

「それよりも、僕はこれから学園に起きる変化が気がかりだよ」

「変化か。確かに、さっきも言ったけどこれからは誰もかれもが連帯責任を恐れて派手なことしなくなるよな」

「それだけじゃないよ。これからは間違いなく、お互いがお互いの行動を監視しあうようになる」

「監視って、まさか何かあったら査問委員会に告げ口でもするってか」

「うん。査問員委員会が学園内で圧倒的に有利な立場にいることは、もう全ての生徒が思い知った。となれば、少しでも査問委員会に目を付けられないような立ち回りをする人が出てくる」

「嫌われないためってか、気に入られるために媚びを売るってわけだ……」

「まあ、概ねそういうところだね。でもそうなるともう一つ、懸案事項があるんだ」

「おいおい、監視しあうってだけで最悪なのに、まだ何かあるって、嫌だぞ」

「そうも言ってられないよ。多分こっちの方が僕たちにとってより重要なんだから」

 

 危機感を煽るように、悠は声のトーンを一段階下げる。

 これ以上更に危惧すべき事があるなんて考えたくもなかったけど、悠のその言い方が、図らずしもあの塚本せんりのそれと似ていたものだから、嫌でも関心が向いてしまった。

 

「……なに」

「僕たちが──―」

 

「あ゛あぁぁ゛ぁ゛ぁああああ゛あ゛あ゛ああ!!!」

 

 ──―質量のある怒声が、背中から俺たちを襲った。

 

「……は?」

 

 一瞬、本当の本当に、何が起きたのか分からなくて、俺はさっきまでの会話で自分が何を聞こうとしていたのかさえ、完全に忘れてしまった。

 そして、恐らく数瞬にも及ばない時間だったのだろうけれど、瞬き1回分すら多いくらいのほんの一瞬の間だったろうけれど、体感ではおよそ2〜3分もあったその刹那に。

 

『怒声』の主人であろう人物の──―先ほど、講堂の床に倒れ伏していた、名前も知らないロボ研の部長が、俺たちの背後から伸ばした腕で悠の顔面を完璧なストレートで殴り飛ばした。

 

 まるでプロレスの試合のように、肉が肉を叩くあの特有の音が鼓膜に響く。次に、受け身も取れず突如自分に降り掛かったエネルギーに流されるまま吹っ飛んだ悠が、ボールみたいに廊下に3、4回打ち付けられる音がして──―そこでようやく、俺も呆然自失から立ち直った。

 

「おい嘘だろ……悠!!」

 

 打ち所が悪かったのか、単純に殴り飛ばされた鼻や口から出たのか、床にぐったりと倒れ伏している悠の首から上の辺りに、既に血溜まりが見えている。

 

 急いで駆け寄ろうとした俺よりも、ロボ研の部長がもっと早く動いて、悠の上にのし掛かった。

 当然、次に起こす行動が何かなんてこの状況ならすぐに分かる。

 マウントポジション。馬乗りになった部長は、更に無抵抗の悠に向けて拳を振り下ろそうとして、そこでようやく俺の手が追いついた。

 

「お前、馬鹿か!? 自分がなにをしてんのか分かってんのかよ!」

「うるさい! 離せよ! この! こいつが!! 綾小路のこいつらが!!! 俺の……ぁあああああ!!」

 

 後ろから羽交い締めにして何とか悠から引きずり離すが、酔って暴れる中年男性の方がマシなくらいに暴れてこっちが被害を受けそうだ。

 周りの生徒は少し離れたところから俺たちをマジマジと見ている。悠の出血をみて慌てて教師を呼びに行った生徒もいるが、だいたいは野次馬根性で集まっているだけ。

 ……まずい、目立ち過ぎている。さっきの今で、目立ってしまうのは悪影響しか及ぼさない。こっちも暴力で黙らせるのではなく、言葉で宥めないとこっちも査問委員会にケチをつけられかねない。

 

 魚の息の根を止める時のように、思いっきり頭を殴りつけて黙らせたい(それができる相手かはともかく)気持ちがこれでもかとあったが、それを無理やり押さえつけて説得することに決めた。

 

「同じ綾小路家でも悠と咲夜は別だろ! 落ち着けよ!」

「うるさい! お前だってあいつらの仲間なんだろう!」

「仲間って……何言ってんだお前、マジで一回落ち着けっての!」

「仲間だろうが!」

 

 俺の腕を振り払い、ゆらゆらとふらつきながらも、部長は俺に顔を向けキッと睨みつけて来た。

 その目には、疑いようもない憎しみと恨みが込められている。

 だけどその憎しみは逆恨みだ、確かにロボ研が受けた罰はあまりにも過激だけど、それと悠が殴られるのには何の関係もない。

 

「アンタがキレるのも無理はないだろうけど、悠は今回の件には無関係だ! それこそぶん殴るなら綾瀬にあんな事した自分の部員を恨めよ! そっちが先だろ!」

「……っ」

 

 人だかりがさっきまでより増えている。そろそろこの場を納めないと本当にまずい。だから俺はこの状況で一番相手に刺さる言葉を選んでぶつけた。そうすれば相手は一気に黙るかと思ったからだ。

 

 それが、まずかった。

 

 確かに俺の言葉は相手の芯を突いた。でもそれは同時に、最も言われてはならない言葉を吐かせるきっかけになってしまった。

 次にロボ研の部長が言い放った言葉で、俺は悠が何を最も危惧していたのかを理解する事になる。

 

「良いよなお前らは! たとえ誰かがお前らに手を出しても」

 

 

同じ綾小路家の人間がいる園芸部は(・・・・・・・・・・・・・・・・)!」

 

査問委員会に守ってもらえるからな(・・・・・・・・・・・・・・・・)!」

 

 あぁ、終わった。

 まずそう思ったよ。

 

 実態はそんなものじゃない。俺たちは徐々に確実に、咲夜に日常を壊されて来てるのに。

 これで、この一言で、俺たち園芸部と咲夜の査問委員会には、繋がりがあると思われてしまった。

 

 ヤジウマしていた生徒たちも、ざわついている。きっとこの誤った認識は、瞬く間に学園内を駆け巡り、そして『事実』になるだろう。

 

 悠が最も危惧していた事、それは。

 俺たち園芸部が、査問委員会に対する学園内の憎しみの矛先にされる事だった。

 

 

 ──続く──



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第捌病・ゲンカイ

2年ぶりに1年以内に2回も更新しました。うれしい
このままどんどん終わりまで突き進んでいきますね


『園芸部と査問委員会は密接な関係にある』

 

 この噂は、呆れてしまうほどに早く、学園内を駆け抜けた。

 噂は人々の間で熟成されて、真実になり、生徒たちはその真実を疑う事なく、晴れて俺たちは査問委員会に気に入られている連中になってしまった。

 

 その結果。

 

「……くそがよ」

 

 教室にある悠のロッカーに大量に入っていた紙屑(・・)をゴミ箱に捨てる。

 昨日、ロボ研の部長にブン殴られた悠は打ち所が悪く、頭を強く打ち付けて脳震盪を起こしてしまった。その上額からも出血が出た事で、今日は1日休みだった。

 綾瀬も、解決したとはいえあんな事があった上に悠の事も重なり気が滅入ったのだろう。今日は休むと連絡が来ている。

 

 援交を捏造した男やロボ研の部長は、即刻停学になったと幹谷先生からは知らされた。

 だけど、俺がそれでスッキリしたかと言えば当然そんなわけがない。

 

 たとえロボ研の2人が停学になろうが、昨日ロボ研部長が言い放った言葉が消え去る事は無いのだから。

 今日、純然たる被害者である2人が休んだ事について、心配する様子を見せた奴は殆どいなかった。

 俺や悠と日頃接する機会があるクラスの男子数人と、綾瀬が日頃仲良くしてる女子生徒が何人か、それ以外はみんな腫物を扱うように、むしろ居なくて良かったとでも言うような雰囲気さえ漂わせながら、今日1日を過ごしていた。

 

 そして、極め付けは俺がさっき捨てた紙屑。

 これは教室の悠のロッカーの中に入ってた物だ。

 紙にはメッセージが書かれてあり、だがしかし、それらに何が書かれていたかを明かすかに語る気は全くない。

 語れば不快感を抑えるのに一苦労するのが目に見えるから。

 

 つまり、そう言う文言がたくさんあったと言うことだ。

 

 今時、SNSでいくらでも好き勝手に言えるのにもかかわらず。こうして古臭いやり方をわざわざ選ぶ連中の愚昧さに心底ため息が出てくる。

 

 これら全て、綾小路咲夜が描いた絵の通りの展開だったとしたならば。

 もう、完全に手詰まりのような物だ。

 

 たったの1日で園芸部は学園全体から疎まれる存在になった。そのくせ、下手に加害でもした物ならば、ロボ研のような末路が待っている。でも査問委員会や綾小路咲夜に対するヘイトは溜まっていく一方で。

 

 そんな状況の中で『何をするかわからない』咲夜に恨みをぶつけるのではなく、以前から存在を知っている、いわば『人となりを知っている』綾小路家の悠に向けて、密かに悪感情をぶつけようとする気運が非常に高まっている。

 

 昨日まで、全くそんな気持ちを持って居なかった奴らが。

 ただの言葉で、瞬く間に害をなす存在に変わった。

 

 反吐が出る、こんな事をした奴らを今すぐ暴いて、その顔に同じ文言を書き込んで街中を一周させてやりたい。

 だけど、それを実行する事に何の今もない事は火を見るより明らかな事で、仮にそんな事してしまえば、悠の汚名が注がれるどころか逆に園芸部員全員が本当に危険視されるだけだ。

 

 それに、ここまで延々と不特定多数に向けた悪感情を発露してきた俺だが、現状を生み出してしまった原因は俺にもある……いや、俺が一番の原因だと言ってもしょうがない。

 

 誰も言ってくることは無いが、そもそもこんな噂が立ってしまったのは、綾小路咲夜が俺の話を受けて事態を知り、頼んでも居ないのに解決に向けて査問委員会を使ったからだ。

 つまり、俺が昨日の朝、ヒステリックな頭で咲夜に突っ掛かったりなんてしなければ……犯人が見つかるのは時間が掛かったかもしれないけど、悠が殴られることも、園芸部が学園内のヘイトを買うことも無かったんだ。

 

 だから、原因は俺にある。

 きっと悠はこうなる可能性も視野に入れて、俺を止めていたんだ。俺がもう少し聞く耳を持てば、こうなるって説明してくれたんだ。

 

 俺が、全部台無しにしてしまった。

 

「……っ」

 

 そう考えるだけで、叫び出したくなる程の激情が心の内から湧き上がってくる。

 でも、それを僅かでも外に出す資格なんて俺には無い。何とかしなくちゃいけないんだ。起こしてしまった事の補償を立てないといけない、嘆く事も怒る事も、一切合切現場の俺にそんな資格は無い。

 

 でも、だからと言って、そこまで分かって居たからって、じゃあ俺に何ができる? 何を変えられる? 

 噂はもう学園内を駆け巡って2周も3周もしている。

 多くの生徒は園芸部員を査問委員会に並んで危険視している。

 俺はまだ被害を受けて居ないが、今後は中等部にいる渚にだって、影響が出てくるだろう。

 

 何度も自問自答してきた事をまた考えざるを得ない。

 どうにもならないのに、どうにもならない事をどうにかならないかとどうしようもない立場で考える。

 

『真摯に過ごすしか無いと思います』

 

 放課後の部室で、園子はそう言った。

 

『誠実に、私達は何も悪いところはないと、示していくより何もできないですよ』

 

 きっと、そうなのだろう。

 そうなのだろうけど。

 

『だから、縁くんもあまり気を詰めないでください。きっとあの2人もここに居たら、同じ事を言うはずです』

 

 それは素直に胸にくる言葉で。

 一緒に部室に居た渚も同意する言葉だった。

 

『また、しばらく園芸部は活動を止めましょう……皆さんと一緒に過ごさないのは、寂しいですけど。しばらくしたら、誤解も解けるはずですから。そうしたら、また皆一緒に、おしゃべりしましょう?』

 

 リスクを鑑みた、これもまた正しい判断だと言える。

 明日以降学園に戻ってくるだろう悠や綾瀬にとっても、今居心地の悪いこの学園にいる時間を少しでも減らそうという、園子なりの配慮もあるんだろう。

 

 だけど、きっと、間違いなく。園子の願いは叶わない。胸の中で、そんな最悪な事を確信している自分がいる。

 

 何故なら、この状況は非常に似ているのだ。

 頸城縁(前世の俺)が身を置いていた環境と。

 いや、なんなら完全に同じだとハッキリ明言した方が心持ちが良いかもしれない。

 

 直接的な被害が無くとも、周囲から避けられ恐れられ、場合によっては理不尽に蔑まれる。

 違いを挙げれば、俺1人が矢面に立っているか、園芸部員全員がそうかでしかない。

 悠が実際に殴られてる分、もっと事態は酷いともいえる。

 

 そして、頸城縁の顛末を知る自分だから分かる事が1つ。

 

 たとえ、波風立たず静かに過ごしたとしても、周りの評価は変わらない。

 頸城縁は、自身にまとわり付く噂を払拭するために何かアクションを取った事は無かった。だけど、それ以上悪く見られないために静かに過ごしていた。例外もあったけど。

 

 だけど、頸城がどんなに静かに過ごそうと、衝突を避けようと、周囲の評価は何も変わる事が無かった。それと同じ未来が、これから先園芸部に起きるんじゃないかと言う危機感が絶えない。

 

 何もしなければ悪化し続ける、何かしなければならない。焦りと不安が思考をグチャグチャにするけど、事を起こした張本人としての責任が、パニックになりそうな脳味噌を強制的に現実へ引き戻す。

 

 園子のいじめを解決しようとした時も、渚や綾瀬達の病みを爆発させまいと四苦八苦した時も、前世の頸城縁の人生でも味わった事の無い事態を前に、いよいよもって袋小路の模様を呈してきた。

 

「……さむいな」

 

 帰宅して夕飯も食べて、部屋で1人だけになってからふと、そんな言葉が自然と口に出た。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「あんた、ちょっと付き合いなさい」

 

 翌日、綾瀬と悠は今日も学園を休んだ。悠は怪我の影響で、綾瀬はご両親が登校するのを止めてるらしい。無理もない話だ。

 虚無な時間を過ごして放課後。昨日の園子のお達し通り部活をしない俺と渚は帰宅する事にしたが、俺は夕飯のおかずを買う為に、渚は洗濯物をしまうために、それぞれで帰ろうとしていた。

 

 通学路から離れて、スーパーに続く道の途中にある坂道の手前まで歩いたところに、彼女は現れた。

 この場合の「彼女」が誰かなんて言うまでもないが、あえて明言する。綾小路咲夜だ。

 

 辺りを見回したが、査問委員会らしい生徒はおろか、お付きの護衛じみた大人の姿も見えなかった。

 

「誰もいないわよ。引き払わせたから」

 

 俺の視線の動きから意図を察した咲夜が先んじて説明を挟んだ。

 だから何だという話だが。

 

「何よ、そんなに警戒しなくたっていいじゃない。本当に誰もいないんだから」

「……今の俺たちがどんな状況になってるかくらい、知ってるんだろ?」

「話には聞いてるけど?」

「なら、当然俺が警戒するのも分かるだろ」

 

 学園から離れているとはいえ、この辺りに生徒が歩く可能性はゼロじゃない。

 ただでさえ癒着が疑われているのに、こうして面と向かっている姿を誰かに見られたら、とうとう言い逃れが出来なくなる。

 

「勝手な噂に随分悩まされているみたいね。アイツが追い詰められているのは爽快だけど、巻き込まれてるアンタ達にはさすがに少し同情するわ」

「……煽りたいだけならもういいか? 暇じゃないんだ」

「そんなこと言っていいのかしら?」

「どういう意味だよ」

「アンタの幼馴染の……名前忘れたけど、そいつに嫌がらせしていた奴を突き止めたのは誰だと思ってるの? 誰のおかげ?」

「……」

 

 正論と認めたくはないが、反論できる余地がないのは確かだ。

 何も義理を感じる必要なんてないが、咲夜が動いたから犯人が見つかったのは事実だし、それだけの影響力を持っている奴を今、邪険に扱ってしまえばどんな事態が待っているか予想できない俺じゃない。さすがに、もう分かった。

 

「分かったよ。どこに行けばいい」

「最初から素直に言うこと聞けばいいのよ」

 

 勝ち誇ったようにそう言い放ってから、咲夜はおもむろにスマートフォンを取り出して誰かに連絡を取る。

 するとどこからともなく、いかにも高級車然とした車両が姿を見せる。

 慣れたしぐさで後部座席のドアを開けて奥の方に座ろうとして、途中こっちを振り返りながら、

 

「なにぼーっとしてるのよ、さっさと乗りなさい」

 

 乗れというのか、俺の人生で一生乗る機会もなさそうな高級車に。

 

「誰もいないって言ってたじゃないか」

「いなくても呼べば来るのよ」

 

 さも当然だと言わんばかりの態度に、とうとう返す言葉もなくなり、俺もすごすごと車に入っていった。

 

 

「この街に引っ越してからのあいつの話を聞いた時、耳を疑ったわ」

 

 どこに向かってるのかも分からないまま発進する車内で、咲夜が窓を見ながら言った。

 

「あの偏屈な奴が信じられないくらい穏やかな性格になってて、頭でも打って人格変わったのかと思ったくらいよ」

「……」

「なによ、つれないわね」

「こんな話をするために俺を誘ったのか?」

「そうだけど?」

「……そうかい」

 

 咲夜の意図が読めない。わざわざこんな話をするためだけに、俺に接触を図るような単純な人間なのだろうか? 

 

「あんた、あいつとどうやって友達なんて関係になれたの?」

「色々あったんだよ」

「その色々が何なのかを聞いてるんだけど」

「なんでそんな事を聞きたいんだよ。何が狙いなんだ?」

「質問に質問で返すわけ? でもまぁ、そうね。確かに話の趣旨はそこには無いわけだし、どう友達になれたかはこの際どうでもいいとして」

 

 いったんそこで間を作ってから、咲夜は視線を窓から俺に向け直し、にたっとした笑みを浮かべながら言った。

 

「あんたにとって、あいつはどんな奴なの?」

「どんな奴って……お前がさっき言った通りだよ、友達だ」

「それは知ってるわよ。聞きたいのは程度について。どれくらい大事に思ってるの?」

 

 ますます意図が分からない。だけどここで話を濁したり、ごまかしたりしたところで何かが好転するわけでもない。

 咲夜は意味のない事をする人間じゃないだろう。そこは悠と同じはず。

 それにここは咲夜のテリトリーもいいところだ。それなら素直に答えた方が自分のためにもなるだろう。

 

「親友だよ。あいつがどう思ってるかは知らないけど、俺はあいつを親友だと思ってる」

「理由は?」

「理由って……息が合うとか、一緒にいて楽しいとか、俺にはない価値観を持ってるとか、そういう物の積み重ねだよ。普通のことだろ?」

「…………そうね」

 

 今度は打って変わって歯切れの悪い返事を見せた。何か癇に障るところでもあったのかと警戒するが、伺う間もなく話を続けてくる。

 

「あいつの内面が好きになったっていうわけ? 綾小路家だからってわけじゃなく」

「自慢じゃないけど綾小路家がどんな一族なのかって事すらこの前までちゃんと分かっていなかったんだ。金持ちだったからどうこうとかはなかったよ」

 

 これも本当の話。金持ちの坊ちゃんだという事くらいは分かっていたが、それが理由で交友関係を築こうと考えた事はない。

 これも俺にとっては特に面白みのある話ではないと感じていたが、咲夜はここに食らいついてきた。

 

「この前までって言ったけど、それっていつからの話?」

 

 いつから。それを明確にするというならば答えは1つ。

 園芸部に園子しかいなかった時、去年園子が園芸部の顧問に性的暴行をされかけたにもかかわらず、学園の名誉のために当時学園を牛耳っていた校長に口封じをされて廃部まで追い込まれていた時だ。

 園子をいじめる連中や、園子がかつての顧問を誘惑していたという諸々の誤解を解くために、あの時初めて悠に『綾小路家』としての権力を頼った。俺が綾小路家の恩恵を強く受けたのは、あの時が最初だった。

 

「ふぅん。やっぱりそういう事ね」

 

 俺の話を受けて、咲夜は何かを納得したかのように頷いてから、

 

「じゃあやっぱり、あんたが発端なわけか」

「は?」

 

 俺が発端? 何を言ってるんだ。

 

「鳩が豆鉄砲って言葉があるけど、どういう表情か今のあんたを見てるとよく分かる。アタシの言ってる意味、分かってないでしょ?」

「……」

 

 沈黙をもってそれに返すしかない。肯定と受け取った咲夜が言葉を続ける。

 

「何もかものよ。アタシがここに来たのも、あんたの大好きなアイツが辛い目に遭ってるのも、全部あんたが原因ってコト」

「はぁ!?」

 

 車内に俺の動揺する声がこだまする。

 だって、本当に意味が分からない。それじゃまるで、俺のせいで今学園や園芸部、綾瀬や悠が苦しんでいるみたいじゃないか。

 なんでそうなる。学園が閉塞的になっているのも、悠が追い詰められているのも、根本的には咲夜が転校して査問委員会なんてものを作ったからじゃないか。それが俺のせいだって? 

 

「責任転嫁も大概にしろよ」

 

 動揺がそのまま怒りに転じていく。

 ここしばらくずっと心の中にたまり続けてきた、理不尽な物事に対する不満やストレスが、次々と膨れ上がっていく。

 咲夜の起源を損なって逆に立場が悪くなる可能性を恐れて言葉を選んでいたが、あっという間に我慢ができなくなってしまった。

 

 

「お前が査問委員会なんてふざけた物を作って、みんなを理不尽に支配しようとしてるのが原因だろ……、俺達は普通に過ごしてたのに、それを横からいきなり出てきて全部ぶっ壊しといて、俺が原因だって? 冗談じゃねえ、お前がみんなを苦しめてるんだろ!」

「被害者面が上手ね」

「てめぇ……っ!」

 

 出来ることなら、今すぐその顔面がぐちゃぐちゃになるまで叩きのめしたい。

 だがいくら怒っているからと言っても、この場でそれが出来ると思うほど理性は消えちゃいなかった。

 仮に一発でも咲夜に手を出せば、間違いなく俺の人生は今日で終わる。いや、俺だけじゃなく皆にも波及するだろう。

 すでに怒鳴り声を上げてしまっているが、これ以上は本当にだめだ。

 

「被害者面って言ったな、じゃあ俺が加害者だって言うなら理由を言えよ、説明してみろ」

「えぇ。そのつもりだから……いったん深呼吸でもしたら?」

 

 どこまでも余裕を崩さずに、咲夜は上から目線で居続けている。

 言う通りにするのも心底癪に障るけど、これから咲夜が口にする言葉を聞くにあたっては、今の精神状態じゃままならないのは間違いない。

 深い呼吸の繰り返しを機械的に無機質に繰り返し、強制的に落ち着かせてから、俺は咲夜に話を促した。

 

「アタシに、こんな面白みのない地方都市まで行くよう話が出たのは、6月の中旬。本当急に決まったんだから」

 

 6月と言えば、時期的には園子の問題が解決して、俺たちが園芸部に入った辺りだ。何故そんな頃に急に決まった? 

 

「『バランスが崩れたから、それを直しに行きなさい』それが理由だったわ。正直、どうでも良かったんだけど、話の中心にアイツが居たから気が乗ったのよ」

「待ってくれ、バランスって何についてのバランスなんだ。そこから──―」

 

 そこまで言いかけて、俺は前に悠から聞いた話を思い出した。

 何についての話かと言えば、俺達の通う良舟学園が出来た経緯についてだ。

 

 この学園は綾小路家が設立に関わっており、悠の父親と咲夜の父親が特に深く関与していたらしい。元々この2人は対立が深く、この学園を建てるにあたってもかなりの衝突があった。

 つまり、この学園は前々から綾小路家の権力闘争の場でもあったという事。

 

 つまり、ここで言う『バランス』が指す意味は、

 

「お前達側の人間だった校長が追放されて、学園内で悠側の立場が上がったから、お前が送り出されたのか?」

「言い方は気に入らないけど、概ねそんな所よ」

「でもおかしいだろ、いくらお前らの親が学園の設立に関わってたからって、ただの学園だぞ? 園子が襲われた事実を隠蔽した事もそうだ、あの学園はそんなに大事な所なのか?」

「……その辺の面倒な話は知ってるか。じゃあ、幾らか説明が楽になるわね」

 

 そこで一旦間を開け、咲夜は自分が今から話そうとしてる事を頭の中で整理させつつも、面倒くさそうにしながら言った。

 

「確かに、本当ならあんな学園どうでも良いのよ。誰が何をしようと、何が起きようと、隠蔽だったりアタシが送られたりなんて事、あり得ない事なんだから」

 

 あり得ない。そう断言する咲夜。

 だがしかし、現実として、園子の事件は隠蔽されたし、咲夜はこの街に来た。じゃあ何が綾小路家をそこまで動かしている? 

 

「それでもお父様や、アイツの家があんな風に躍起になってるのは、その先にある利権が絡んでるから」

「利権って……なんの」

「この街の再開発についてよ」

「!?」

 

 つまり、咲夜の言う事はこうだ。

 この街一帯は、綾小路重工を中心にした再開発計画の中心であり、その事業のリーダーを誰が務めるかで綾小路家同士の対立があった。

 

 利権争いは最終的に悠と咲夜の親同士の1対1にまでなった。しかし、決着が着く前に綾小路家とは無関係な理由で、世界的な大不況が起こり、この街の再開発計画は一旦凍結する事になってしまった。

 それでも、既に工事が始まってしまった建物については止めるわけにもいかず、そう言った中途半端な状況で建てられた内の1つに、俺達の通う学園があった。

 

 計画は凍結こそしたが、天下の綾小路家がいつまでも不況に頭を抱え続けるワケも無い。むしろ時が経った事で計画の規模は拡大した。

 綾小路重工に留まらず、綾小路が携わってるあらゆる企業を集約させた、ある意味王国の様な地方都市にする、そんな構想まで出来ているらしい。

 

 正直、そこまで来ると最早スケールがデカ過ぎて話についていけないが、つまりは近年再び利権争いが再開したという事だ。

 

 その渦中に、かつての再開発計画の賜物である、良舟学園がなってしまった。

 

 学園の運営を成功させ、街の発展に繋げる事が出来れば、この街全体の価値が高まっていく。すなわち、学園を掌握する事が、最終的には計画の主導者になり、莫大な利権を得る為の足掛かりになるわけだ。

 

 そんな大人達の都合に、俺達は振り回されている。

 

「そして、ちょっと前まではお父様に従ってる男が学園の校長をしていた。つまり、あそこの実権はお父様が握ってたの。利権争いって言えば対等な立場だった様にも聞こえるけど、実質は先が見えた争いだったわけね」

 

 それが覆りそうになったのが、今年の5月から6月に掛けてに起きた、とある出来事だった。

 つまり、俺達が校長の隠蔽を暴いて、園子のいじめを解決した事。これによって咲夜側の人間が学園から消え去り、利権争いの場に立っている悠が残るのみになった。パワーバランスが崩壊したのである。

 

 咲夜が言うには『お父様はだいぶ焦っていた』。既にケリの着いていた争いが思いもよらないタイミングで急展開を迎えた事もそうだが、何よりも驚きだったのは悠についてだった。

 

 悠は、綾小路家の人間で居ながらも、彼本人は権力争いを避ける穏健派の人間だと見られていたらしい。

 利権争いに関わってこそいるが、中等部2年から良舟学園に在籍して4年間、1度も学園の掌握に動こうとしなかった。その事からも既に利権は諦めており、悠が学園に在籍してるのは親のせめてもの足掻きであると。

 

 その悠が、よもや校長を直接追放し、学園の情勢を大きく塗り替えたのだ。

 咲夜の父親が、動かないわけが無かった。

 

「──―とまぁ、ここまで一方的に話してきたけど……酷い顔ね、大丈夫?」

「……ちょっと待ってくれ、じゃあ、本当に……」

 

 学園の情勢を大きく塗り替えたのは、悠だ。

 だけど、悠がそんな風に動いたのは、彼本人の意思からでは無い。

 俺が、協力を頼んだからだ。

 

 悠は学園を支配しようなんて全く思って無かった。ただ平穏に、楽しく学生生活を過ごしたい、それが悠の望みだったはず。

 そんな願いを、俺が壊したって事なのか? 

 

「やり過ぎたのよ、アンタ」

 

 咲夜が鋭く刺すような口調で、でも何処か同情するような色も含めて言った。

 

「最初にアイツの事を聞いて、真っ先に違和感を覚えたわ。だから調べさせたの、アタシの独断でね」

「調べた……?」

「情報屋ってのがいるのよ、それもとびきりのね。アタシはああいう連中嫌いだけど、それでも流石ね、お父様から貰った話に一切出てこない人間の話があったわ、それがアンタ」

「俺の話が、無かった?」

「えぇ。お父様は全く把握していなかった。おおかた、アイツが色々弄って隠してたんでしょうね。『親友』を守る為に」

「そんな……悠はそんな事一言も」

「言わないでしょ、意味が無いもの。アイツに『君の為に全て僕1人でやった事にしたよ』って言われて、納得するの?」

 

 するわけがない、なんでそんな事をしたんだって、むしろ問い詰めるだろう。

 

「だからよ。まぁ結局追放はアイツのした事だから、裏にアンタが居ても居なくても変わらない。アタシもお父様にアンタの事を詳しく話したりしてないし。でも」

 

 その後に続く咲夜の言葉を、俺は聞きたく無かった。

 

「でも、アンタが柏木園子の為に動こうとかしなかったら、アタシはこの街に来なかったし、アイツもアンタの幼なじみも嫌な思いをする事は無かった。今この状況を作り出したのは、その大元は──―」

 

「野々原縁、アンタなのよ」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「長々と付き合わせたわね」

 

 車はいつの間にか止まっていた。

 俺は、いつそうしたのか知らないが、車から降りて、車内の咲夜を呆然としつつ見ていた。

 

「まぁでも、アタシがこんなに庶民に時間を使うなんて滅多にない事なんだから、ありがたく思いなさいよね。アンタが知りたかっただろう色々な事も教えてあげたんだから……」

「……」

「ちょっと、何か言いなさいよ。無視するワケ?」

「……俺は、どうすればよかったんだ」

「え?」

「園子の力になりたいと思った。俺1人じゃ無理だから、悠に力を貸してくれって頼んだ……そして今の時間を、園芸部って言う場所が出来たのに……」

 

 咲夜に言ってもしょうがない事を、しょうがないと分かった上で、俺は言わずにはいられなかった。

 

「なのに、俺があの場所を作ったから、今こんなに苦しむ事になるなんて、じゃあ一体、俺はどうすれば良かったんだよ! 園子を見捨てれば良かったのか!? 何も知らないフリして避けて、今日まで生きていれば良かったのかよ!!」

「知らないわよ」

 

 心からの叫びを、慟哭を、しかし咲夜はコバエを払うかの如く切り捨てた。

 

「でも」

 

 その後続く咲夜の言葉から逃げる力は、もう俺には無かった。

 

「今から出来る事は教えてあげる」

「今から、出来る……?」

「そう。アンタ、アイツを裏切りなさい」

「は……はぁ?」

 

 もう、立ってるのさえ精一杯になってきた。

 

「アンタが、いいえ、園芸部が今どんな状況にあるかは知ってる。このままだと針のむしろ、苦しいままでしょう?」

「……」

「だから、アタシが助けてあげる。前も似た様な事アンタに言った覚えがあるけど、今度はちゃんと考えなさい。アタシが今学園でどんな事が出来るかを。その上で言うわ、アンタ達を、アタシが、助けてあげる。だから」

 

「アンタが、アイツを裏切りなさい。何でもいいわ、嘘でもでっち上げて査問委員会に報告するの。そうしたらアタシが直接アイツを退学にして、それでおしまい。くだらない噂も全部アタシがその場で否定してあげる、園芸部もアンタもみんな、平和になるのよ?」

 

「どう? 素敵な提案でしょ?」

「ふ、ふざけんな……、どこまで、どこまで人を馬鹿に」

「庶民に対してここまで提案してるのよ、何が不満なの?」

「不満も何も、そんなの余りにも残酷過ぎる……、俺に悠を裏切れだなんて、そんなの」

「じゃあアンタにこの後何が出来るっ言うのよ? 何も出来ないし、思いつきもしないでしょ?」

「それは……」

 

 そうだ。

 俺はもう、何も思いつかない。

 

『よかれ』と思って園子のいじめを解決して『今』に至った。

 前世の人生でも『あいつのために』と接触を避けて、俺は幼なじみの少女を死なせている。

 

 俺が『良い事だ』と考えて取る行動は全て、全部全部全部全部全部全部全部、裏返る。

 悪くなる、駄目になる、否定される、否定する、自分で馬鹿だと否定して嫌悪する、今がそうであるように! 

 

 だから、何も思いつかない。考えちゃいけない。

 でも、それでも、悠を裏切るなんて出来るはずがない! 

 

「……本当に、アイツの事を大事に思ってるのね」

 

 車内からどんな表情で咲夜がそう言ったのか、俺は知る由も無かった。だが、それが最後のキッカケになったのだろう。最後に咲夜はこう言った。

 

「じゃあ今週の金曜に、アタシがまた集会を開くわ。そこでアンタが何も言わなかったら、アタシが直接園芸部を潰してあげる。アンタ達全員が終わるのよ? これなら、アンタにとっても裏切る理由になるんじゃ無いかしら?」

 

 じゃあ、くれぐれもよく考える事ね。そう言い残して咲夜は去っていった。

 俺の家から少し離れた場所にある公園。時刻は18時を過ぎて、辺りには人の気配は無い。

 ──―もう、限界だった。

 

「──―っっっ!!」

 

 近くの茂みに顔を埋めて、俺は胃の中の物を全て吐き出した。

 目に涙が勝手に浮き出て、形容出来ない無言の悲鳴をあげながら、吐くものが無くなってもまだ吐き続ける。

 どのくらいそうしていたのか、力が抜けて砂利の床にへたり込む俺の背中に、今最も聴きたくない人物の声が来た。

 

「だから言ったじゃないですか、軽率だって」

「……っ、塚本」

 

 目尻の涙を急いでぬぐい、俺は塚本を睨んだ。

 だがこうなる事を織り込み済みで現れたであろうこの人間は、当然のように俺の視線で怯む事もなく、スタスタと俺の目の前にまで歩み寄って、しゃがんで視線まで合わせてきた。

 

「色々と、彼女から聞いたと思います。最後の彼女の提案は想定外でしたね。何が彼女にあんな事言わせたのか気になりますが……まずはお疲れ様でした。吐くまで追い詰められるなんて、大変でしたね」

「……お前が、咲夜に、情報を与えたのか」

 

 咲夜が独自に調べる為に頼った『情報屋』。

 俺には、目の前のこいつがそうだと言う確信があった。

 そして、案の定、塚本はあっさりと、

 

「はい、そうですよ」

 

 そう、認めた。

 

「──―ふざけんなっ!!」

 

 生まれて初めて、躊躇なく人の顔を殴った。

 嘔吐でカラカラの体力をかき集めて、俺は塚本を殴り付けた。

 きっとこうなる事すら分かっていただろう。俺が殴る事も、殴ったところで何も意味が無いと、俺自身分かった上でそうした事も。

 そうだ、ここで塚本を殴ったところで、もっと言えば殺したって何も事態は変わらない! こいつが咲夜に情報を与えなかったとしても、きっと咲夜は査問委員会を立ち上げて今と何も変わらない状況を作っていた。

 だから俺が塚本に怒りをぶつけるのは無駄な事、そうだと分かっていても、俺は塚本を殴らずにはいられなかった。

 

「お前が、お前のせいで、お前は……!」

 

 自分でも何を言いたいのか纏まらない、フラフラと立ち上がり、殴られたまま床に倒れ込む塚本に近づく。

 塚本はそんな俺を見て、変わらず薄っぺらな笑顔を貼り付けつつ言った。

 

「違いますよね。貴方が分不相応に柏木園子に干渉し、綾小路家の力に頼ったからですよね」

「うるせぇえええええ!!!」

 

 昨日のロボ研の部長と同じように、馬乗りになって塚本の顔を殴打する。何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も、塚本を殴って殴って殴り続けた。

 だと言うのに塚本は、十数発も殴られたにしては余りにもケロッとした様子でいた。俺の拳だけが異様に熱い。

 

「地面殴ってどうするんですか」

 

 その言葉にようやく、自分が殴り続けたのは顔ではなく砂利の地面だと言う事に気づいた。熱いのは切り傷で血が滲んだからだ。

 

「優しい人ですね。それに残念なくらいギリギリまで理性が残ってる。だから、殴りたくても殴れない」

「うるせえ」

「もう嫌でも理解しましたよね、貴方は今回の事態の、決してワキ役なんかじゃない。主役なんです。何も出来ないではなく、何かしないといけないんです」

「うるせえって言ってんだろ!」

 

 馬乗りになるのも嫌になって、塚本から離れて立つ。

 塚本はすぐに立ち上がって砂埃を払いつつ、俺の言葉なんて全く耳にいれずに言葉を続けた。

 

「月曜日に話した通りです。貴方しか居ないんですよ、だから綾小路咲夜も貴方に選択を与えた」

「じゃあ、俺が悠を裏切るのが正しいって言うのかよ! そしたらあいつはどうなると思ってんだ」

「終わるでしょう、退学というだけじゃなく、綾小路家の中でも彼の立場は消えると思います。家族からもはみ出し者にされて二度と貴方と会う事もないのでは?」

「そこまで分かってて俺に裏切ろって、よく言えるな」

「裏切れとは言ってませんよ、早とちりしすぎです。別に、綾小路咲夜が提示した条件を呑む以外にも選択肢はあるでしょう? そこは自分で考えてください」

「簡単に言うなよ、それが一番難しいからこうなってるんだろが」

「よく思い出してみてください。今日の咲夜との接触はヒントになってると思いますよ」

「分かるもんかよ、何なんだよお前は!」

 

 最悪な提言はするが、ろくな助言はしない。

 頼んでもないのに干渉するは癖に、その言動にはとことん無責任。

 そのくせ、話す言葉に間違いがない。

 

「何度も言ってますよ?」

 

 結局最後まで笑顔を絶やさずに、塚本は決まりきった言葉を返すばかりだった。

 

「ただの情報収集が好きな人間ですよ」

 

 そう言って、またどっかに消えてった。

 

「うっ……」

 

 散々叫んで怒鳴って、また気持ち悪くなって、俺は公衆トイレに入ってもう一回吐いた。

 

「さむい……寒いよ、渚」

 

 まだ残暑の季節だというのに。

 まるで真冬のように、身体が寒くて仕方がなかった。

 

 ──続く──




暴力はだめです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第玖病「そんなの、お兄ちゃんじゃない」

 吐くものを全て吐き出して、次に起こした行動はコンビニに行きながらスマホの連絡先を開く事だった。

 コンビニへ行く理由は、スーパーで買い物ができなかったから。渚は俺がスーパーで買い物をして帰ってくると信じている。

 今からスーパーに戻るのは遅いから、せめてコンビニで買える食材だけでも調達しないといけない。そうしないと、渚が心配してしまう。何があったのかを聞かれたら、答えないでいられる自信が無い。そうして話してしまえば、渚の負担にもなってしまう。それは俺の望むところではない。

 

 もう一つ、連絡先を開く理由は悠に連絡をするためだ。

 今さっき、咲夜から言われた事を俺は悠に言わなきゃいけない。言って、それで……それで、どうしようとか全く何も思い浮かばない。

 でも、黙っているわけにはいかないだろ。ちゃんと伝えないと、裏切れと言われた事を、金曜日……詰まり明後日に全てが終わると。

 

 コール音は、いつものように3回目に到達する前に悠の肉声に変わった。

 2日振りに聴く友人の『もしもし』という声に、小さく安堵した。

 

「こんな時間にごめん、今大丈夫か?」

「問題ないよ。……心配かけてごめんね」

「良いって……」

 

 どう、話を切り出せば良いか分からない。分からないけど、でも延々と沈黙するばかりじゃ埒が明かない。言わなきゃ。

 

「悠、俺さ……さっき」

「咲夜に、持ち掛けられたんでしょ?」

「え……なんで、知って」

「さっき、本人から連絡がきたんだ。ごめんね、嫌な思いを凄くしたと思う、ごめん」

 

 やめてくれ。なんで悠が謝らないといけないんだ。何も悠は悪くないのに。

 本当に謝るべきは俺の方だというのに、更に続けて悠はこう言った。

 

「縁、君は咲夜の言うとおりにするべきだ」

「な、何言ってんだ! そんな事出来るわけがないだろ!」

「いいや、そうしないといけない。もう学園は完全に咲夜の意のままになった。僕とのつながりがある限り、園芸部に対する悪感情は続く。だから君が、君は……」

 

 スマホ越しでも悠の声が震えているのが分かる。悠だって本当はこんな事望んじゃない。言いたくないはずなんだ。

 なのに、それを口にしないといけない。それはつまり、悠にも最早完全に打つ手がないという事。

 俺は、心のどこかでまだ可能性を信じていたのかもしれない。ありのままを伝える事で、悠にしか思いつかない逆転の作戦が出てくるんじゃないかと。

 でも、実際はそんな事なかった。悠はもうとっくに心が折れていて、限界を迎えていた。なのにまた俺は、そんな悠に期待して……。

 

 悠に、悠が一番言いたくない言葉を言わせてしまった。

 

「僕は、せめて君の言葉で、終わりたい」

 

「だから頼む、僕を裏切ってくれ、縁」

 

「君と友達になれて、本当に幸せだった。ありがとうございました」

 

「さようなら」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「おかえりなさい、お兄ちゃん。ちょっと遅かったね」

「……うん、ただいま。帰る途中に悠と電話してて。少し時間食っちゃった、悪いな」

「ううん、別に良いけど……悠さんと何かあった?」

「ううん、大丈夫。ケガのせいでもう少し学園には行けないってさ」

「そっか……でも、きっと大丈夫だよ。来週にはまた皆で部室に集まって───」

「渚」

「ん、な、なに?」

「今日、俺が料理当番だったけど代わってもらえないかな?」

「いいけど……本当に何かあった?」

「大丈夫。食材、これだけしか買えなかったけど、あとはあるもので作ってね」

「うん……」

 

 半ば無理やり渚に押し付ける形になって、俺は2階の自室に戻っていく。

 

「お兄ちゃん、ご飯は食べないの……?」

「うん。色々疲れが溜まってるのかな。ちょっと寒いから、部屋で寝てるね」

「寒いって……風邪ひいたの? お薬持っていくよ?」

「大丈夫だから、な?」

「お兄ちゃん……」

 

 心配させてしまったのは間違いないけども、だけど、これが精いっぱいの空元気だった。

 部屋に入って、電気を付けて、荷物を降ろして着替えたら、電気を消してベッドに横になる。

 本当だったら今日の授業の復習だとか、明日の予習だとか、やらなきゃいけない事が幾つもあるのに、もう何もできなかった。

 

 だから眠ってしまおうと思ったのに、口の中に残った胃酸の臭いとか、咲夜や塚本や悠の言葉が延々と頭の中で繰り返し再生されるばかり。

 それに、タオルケットや布団を被っているのに全身の寒さが消えない。寒くて、身体が震えてそれも眠気を遠ざける。

 

「……本当に、どうすればいいんだ」

 

 咲夜は、悠を裏切って自分の味方になれと言った。

 悠は、咲夜の言う通りにしてくれと言った。

 塚本は、他の選択肢があると言っている。

 

 悠を裏切らないと、園芸部が廃部にされる。廃部にされてその先は、学園からの追放だろう。

 だけど裏切れば、悠を除く皆はこの先平穏な日々を過ごせる。

 悠1人の犠牲で全てが解決するのなら、悠がそれを良しとしているのなら、俺は悠を裏切っても良いんじゃないだろうか。

 

 ──―そんな考えがほんの僅かでも脳裏をよぎった事実に、俺は心底怖気が走った。

 

 そんな結末を避ける為に、今まで頭を悩ませてきたんだ。だから例え、どれだけ困難な道だとしても俺は別の手段を見つけなきゃいけない。それは塚本も言っている事だ。俺を苦悩させてる原因の一つでもあるアイツの言葉の通りになるのは、心底不本意ではあるが。

 じゃあ改めて考えろ、塚本の言う『他の選択肢』とは何だ? 

 悠を裏切る事無く、園芸部を守り、咲夜の支配を止める方法? 

 はは、なんだよそれ。馬鹿じゃないのか。そんなの、あるわけ無いじゃないか。どうしてそんな都合の良い、魔法みたいな手段があるっていうんだ。

 

 無理だ。綾小路咲夜を、あの孤高で、容赦の無い、徹底的なまでに物を進める少女に使えるカードが無い。情報が無い、知識が無い。

 無い、無い、無い。何も無い。何も無いのに参考になる事例も類書も文献も無い。俺1人で全部どうにかしないといけない。

 

「だから、それが無理だって言ってるんだろうが……っ!!!」

 

 もうどうしたって悠を裏切る選択肢しか見えて来ない。そんなのあり得ないのに、絶対にいけないのに、でもそれしか道が見えない。

 

「嫌だ、それだけは本当に、本当に嫌だ……」

 

 身体の寒さが、また一層酷くなった気がする。自分を抱き締めるように身体を丸くしても、何も変わらない。

 

「寒い、寒い寒い寒い寒い寒い……なんでこんなに寒いんだよ、なんでっ!」

 

 余りにも寒過ぎて、咲夜の事よりもそっちについての苛立ちが強くなる。ぶっ殺したくなるくらい寒さが消えない。

 

 ……いや、ちょっと待て。

 今俺、なんて言った? 

『ぶっ殺したくなるくらい』って言ったか? 

 

「いや、流石に……駄目だろう」

 

 まるで、たまたま歩いてた道の上に転がってる石ころに意識が向いたかの様に。

『ぶっ殺したくなる』という言葉がヤケに引っ掛かった。

 そう、例えば、咲夜を殺してしまったらどうなる? 

 咲夜を殺せば、咲夜の傀儡でしかない査問委員会は実質解散になる。咲夜が死ねば俺達の学園を舞台にした綾小路家の権力闘争も、無理やり終わるしかないだろう。

 

 だが、そんなの現実的な考えとは到底言えない。咲夜は常に周りに護衛の人を付けているだろう。外では当然、学園でも見えないところで配備させてるに違いない。

 そんな咲夜に手を出すチャンスなんて──―、

 

「いや、あるわ」

 

 俺にはあった。

 咲夜はどういうわけか、普段『庶民』と見下して歯牙にも掛けないでいる一般生徒達と比べて、俺に対しては変にコミュニケーションを図ろうとしている節がある。今日だってわざわざ一人で俺に声をかけて来た。『呼べば来る』とは言え、最初は一人だけだった。俺に対してはそう言う行動を取るんだ。

 

 それが何故なのか分からないし、もしかしたらそれはとても大事なポイントの様な気もするが、今からまた新しい事を0から考える余裕なんて俺には無い。

 とにかく、頼めば一人で俺の前に現れてくれる可能性は大きいわけで、それが大事なんだ。

 

 一対一になれば、華奢な咲夜を手に掛けるなんて事、俺でも簡単に出来るだろう。

 

「いや、待てって、だからそうじゃないだろ」

 

 無論、そこから犯行が発覚して捕まるまで、半日も持たないだろう。

 もし本当に咲夜を殺せば、俺はその日のうちに人生が終わる。

 渚や綾瀬は勿論、親にだってとんでもない迷惑を掛けてしまう事になる。ともすれば園芸部の存続にだって影響を及ぼす事になるかもしれないが、存続の危機は咲夜を殺さなくたって現在進行形で起きている。

 

 それに、咲夜を殺せば、悠が動きやすくなって、園芸部が無くならない様に上手く収めてくれる可能性だってあるわけだ。

 俺は犯罪者になるが、その代わりに悠を裏切らず、園芸部も皆も学園から追放される事も無くなる。

 

 もしかしたら、これは本当に良い考えなのかもしれない。

 何か致命的に間違ってる様な気もするけど、でも、咲夜の言う通りするでもなく何もせずに全員が終わるのでもなく、それこそ塚本が言う『俺にしか出来ない別のやり方』が、『咲夜を殺す』事になるんじゃないのか? 

 

 そうだ。きっとそうなんだ。

 

「でも、嫌だな」

 

 弱音を、寒さに震える唇をギュッとしめて黙らせる。

 嫌ならなんだ、また0から考えられるのか? 嫌だ、苦しいと嘆きながら答えのない答えを探す事をしたいのか? それが嫌なら黙っていろ。

 

 もうこれしか無いんだ。

 だから、もう考えるな。これ以上苦しむな。

 決めた事を、決めた通りに動けばそれで良いんだから。

 

 あぁ、それでも──

 

「泣かせる事になるのは、やっぱ嫌だな」

 

 心の中の一番奥にある本音を、無意識に口から溢した、その直後に。

 

「お兄ちゃん、起きてる?」

 

 ──渚の、声がした。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 お兄ちゃんに何かが起きた事を、(アタシ)は帰って来たその姿を見てすぐに確信した。

 

 帰って来たのが遅かったからとか、スーパーに寄ったはずなのにコンビニの袋を手に持っていたからとか、そういう小さな理由からじゃない。

 血の気の引いた青白い頬、憔悴してふらつく立ち姿、そして何よりも、今まで何があったって決して光を失わなかったその瞳が、まるで真っ黒なペンキでも塗ったかの様に深く、暗く、黒く澱んでいた。

 

『あの日』を境にお兄ちゃんは私の知るお兄ちゃんでは無くなったけど、それでも、その瞳が曇る事なんて、私と喧嘩した時だって無かった。

 だから、放課後途中で別れたスーパーに寄ったお兄ちゃんがここまで打ちのめされる様な事が起きたと分かった。

 

『帰る途中に悠と電話してて。少し時間食っちゃった、悪いな』

 

 嘘だ。

 悠さんと電話したのは本当かもしれない。だけど、それだけで、お兄ちゃんが一番の親友と電話しただけで、そんな風になるはずが無い。

 正直、この時点で私は『誰に何をされたのか』察しがついたけど、それをお兄ちゃんは教えてくれる事もなく、話をはぐらかして部屋に入ってしまった。

 

 少し前までの私なら、これに対して『嘘をついてる』と思ったかもしれない。でも、今のお兄ちゃんを見てそんな気持ちにはなれなかった。

 だって、あんなに弱っているのに、お兄ちゃんは私を見たら笑顔でただいまって答えてくれた。弱々しいけど、私のために必死に笑顔になった。

 

 そんなお兄ちゃんに『嘘つき』なんて、言えるはずがない。

 

 代わりに感じたのは、何があったのかすぐに教えてくれない事に対する寂しさ。

 お兄ちゃんにとって、私は悩みを打ち明けてくれるだけの信頼感や頼り甲斐が無いんだと、如実に感じてしまう。

 でもそれだけじゃなくて、お兄ちゃんなりの優しさがあっての事だというのも分かってる。お兄ちゃんがあんなに苦しむ悩みを、妹の私に共有させたく無いから言わない。今のお兄ちゃんは『そういう人』なんだ。

 

 ──―だから、私から行かないと駄目だと決めた。

 

 お兄ちゃんが今何に苦しんでいるのか。

 お兄ちゃんはどうしたいのか。

 お兄ちゃんのために何が出来るのか。

 

 それを全部、お兄ちゃんから引き出す。

 そうしないと、きっと、これは確信だけど、お兄ちゃんは潰れてしまうから。

 

「ちょっと前の私でも、こんな風に思ったのかな」

 

 自問自答を言葉にして、私は私を振り返る。

 

 あの時、今のお兄ちゃんと初めて喧嘩をした時。

 

 私はお兄ちゃんの事を『お前なんてお兄ちゃんじゃない』って否定した。

 頸城縁(前世の自分)の意識と記憶が混じって、私の今まで知るお兄ちゃんと変わった事を受け入れられなくて、思わず口にした──してしまった。

 

 酷い事を言ってしまったと、あれから何度も何度も思い返しては自分に嫌悪感を抱いた。

 お兄ちゃんが『お兄ちゃん』であろうとして来た、心や努力を全て無為にしたのだから。

 

 そして、お兄ちゃんは、私に『自分を安心させてくれる存在なら誰でも良いんだろ』と言った。

 お兄ちゃんに対する気持ちは『恋』ではなくて、安心に対する『執着』、あるいは『依存』だと。

 

 そんな事ない、と今でも思う。

 でも、それを頭ごなしに否定出来る自信が、その時の私には無かった。

 

 

 もしあの時、綾瀬が間に入って私とお兄ちゃんの喧嘩を止めてくれなかったら、私達はあの日終わっていたと思う。

 

 綾瀬が居たから、私達兄妹は改めて家族として、兄妹としてお互いの在り方や価値観を尊重していこうと決めた。具体的なそう明言したわけじゃないし、どちらもわだかまりは残っていたけど。

 それでも、私はもう一度今のお兄ちゃんを『お兄ちゃん』として見ていこうと決めた。

 お兄ちゃんも私に真摯に向き合って、自分がどういう人間なのかを見せている。

 

 だから、誠実に在り続けてくれた今のお兄ちゃんに、『妹』の私は力になりたくなった。

 

 自問自答の答えは、決まった。

 

「ちょっと前の私なら、こうはならない」

 

 でも、

 

「今の私は、今のお兄ちゃんを助けたい」

 

 それに、私は知ってしまった。理解してしまったから。

 今年の6月。頸城縁さんの生まれて死んだ街にお兄ちゃんと一緒に行った時。

 頸城縁がどういう人間で、どんな考えや価値観を持つ人だったのかを。

 

 自分自身が嫌な思いをするのは構わないけど、自分の大事な人が苦しんでいる時は、自分の事の様に、自分の事以上に思い悩んで苦しんで、怒る人。

 大事な人を守るためなら、人を殺す事だって厭わない人。

 

 それが今のお兄ちゃんの半分(頸城縁という人)だ。

 

「今だってほっといたら、殺しちゃおうなんて考えるかもしれないもんね」

 

 頸城縁の時は、家族なんて居なかったかもしれない。

 でも、野々原縁には、私という妹がいる。

 

 だったら、私がお兄ちゃんを頸城縁の様にはさせないんだから! 

 

 そう決意して、私は階段を上がり、お兄ちゃんの部屋の扉を叩いた。

 

「お兄ちゃん、起きてる?」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……あぁ、入って良いよ」

 

 少ししてから、部屋の中からそう返事が来た。

 ゆっくりと扉を開けて部屋に入ると、もう部屋の電気は消えていて、お兄ちゃんはベッドに居た。

 上半身だけ起こしてこっちを見ているお兄ちゃんの姿は、薄暗い部屋の中でも一際暗く見える。

 

「寝てたのに、ごめんね。お兄ちゃんと話がしたくて」

「いいよ、大丈夫」

「体調はどう? さっき寒いって言ってたから、体が温まるようにスープ作ったんだけど、降りて飲まない?」

「ん……今日は、もういいかな。明日は大変だから、早く寝ないと」

 

 だから、話を早々に終わらせたい。そんな言葉の意図を汲みながらも、私は言葉を続ける。

 ううん、続けるばかりじゃ話をはぐらかされて終わるだけだ。

 だから、もういきなり本題をぶつける事にした。

 

「お兄ちゃん、明日は大変だっていうけど、何かあるの?」

「え……いや、まぁ査問委員会の目もあるし、園子も言ってたよな、俺達が誠実に過ごせば学園の生徒も園芸部に対する疑念を解いてくれるって」

「言ってたね」

「だからさ、明日から早く登校して、少しでも模範生みたいな風に思われようと思ってねそれで」

「それでどうにもならないって、お兄ちゃん(頸城縁)が一番よく分かってるはずだよね?」

「──っ!」

 

 お兄ちゃんの肩が揺れたのが見えた。

 やっぱり、そうだ。

 こういう方向の話の進め方は、私にしか出来ない。

 

「だって、お兄ちゃんは……ううん、お兄ちゃんの中にいる頸城さんは、皆からの偏見に無反応だったから、最後は死んじゃったんだよね?」

「……そうだね」

「じゃあ、模範生になろうとして明日朝早く登校するなんて行為が無駄だってお兄ちゃんは私に言われなくてもわかるよね」

「……うん」

「だったら、お兄ちゃんは本当は、何をしようとして大変だって言ったの?」

「……」

 

 言葉が止まった。

 ここにきて、私の中にある最悪な予想は真実味を帯びた。

 本当にもう、しょうがないんだからお兄ちゃんは。

 

「ねえお兄ちゃん。今日、綾小路咲夜さんに何か言われたんでしょ?」

「あ……えっと」

「もう隠さなくていいんだよ、お兄ちゃん。何があったのか話して?」

「だけど……っ、えっと、でも話したってどうにも」

「なるかならないかは、話してからじゃないと分からないよ? それに、今のお兄ちゃんは自分だけで悩みを解決できないと思う。助けが必要だって自分でも思ってるんじゃないのかな」

「……巻き込みたくない」

「今更何言ってるの、お兄ちゃん。私も悠さんの事は知ってるし、私だって園芸部なんだよ? 何より家族なんだから。……もうとっくに巻き込まれてるし、もっと言えば綾小路咲夜の事はお兄ちゃん一人の問題じゃない、園芸部皆で立ち向かわなきゃいけない事だったと思う」

 

 きっと、お兄ちゃんは勘違いしていた。園芸部を今の形にしたのはお兄ちゃんだ。だからきっと、園芸部を守るのは自分一人に課せられた役割だと思っていた。

 そんなの、勘違いもいいところよ。お兄ちゃんは別に無敵のヒーローでもなければ、なんでも出来る超人でも無い。

 ただの、他の人より少しだけ行動力があって、でも普通に悩むし苦しむし、間違った考えや行動も取る。

 私や綾瀬と同じ普通の……私のお兄ちゃんだ。

 

 たった一人で園芸部を守るだけの技量、お兄ちゃんにはない。

 

 そういった勘違いを見透かして、綾小路咲夜はお兄ちゃんが一人の時に声をかけてきたに違いない。

 もう、今から園芸部皆で立ち向かうなんて事は出来ない状況だけれど、だったら、妹の私が今から出来る事をするしかない。

 一人か二人では、全然違うって事を、お兄ちゃんに教えてあげる。

 

「だから、話して? お兄ちゃんが今日言われた事を。今日まで、お兄ちゃんがどんなに苦しんで来たのか」

 

 ベッドに向かい、お兄ちゃんの横に座る。

 冷たい手を握って、言葉だけじゃなく思いも伝わるように言った。

 

「お兄ちゃんは今まで皆のために頑張ってきたんだから。お兄ちゃんのために頑張らせて」

「渚……」

 

 この日。

 私は初めて。

 

「……助けてくれ、もう、どうすればいいか分からないんだ」

 

 お兄ちゃんが涙を流して、人に助けを求める姿を見た。

 不安や恐怖を、恥も外聞も捨てて他の人に打ち明けるのは、勇気の必要な行為だと思う。

 それを、幼馴染の綾瀬や親友の悠さんではなく、自分で見せてくれた事に、場違いながらも嬉しさを感じてしまったのは、内緒の話だった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 お兄ちゃんの口から出てきた話は、私の想像の範疇を超えていた。

 

 神出鬼没の自称『情報屋』。

 学園全体を巻き込む綾小路家の争い。

 そして、あと2日後に迫る、園芸部存続を左右する咲夜の脅迫。

 

 そのどれもが、お兄ちゃんを追い詰めるのに十分すぎる問題だ。

 こんな事を内側に抱えていれば、お兄ちゃんが今の状態になるのは至極当然だといえる。

 

 というか、だんだん頭にきた。

 綾小路家の問題なんて私達には全く関係無いし、お兄ちゃんが柏木さんのために校長先生を追放させたのだって、元は隠ぺいした人達が悪いんじゃない! 

 それなのに、全部お兄ちゃんが悪い事にして、ふざけてるとしか言えない。

 

 あと自称『情報屋』の塚本って人にも怒りが込み上げてくる。

 お兄ちゃんが一人の時にばっかり出てきて、お兄ちゃんに意味深な言葉を言って悩ませるだけ悩ませて居なくなるなんて、お兄ちゃんをオモチャか何かと勘違いしてるんじゃないの? 

 

 どれもこれもふざけた話ばっかりで、聞いてるうちに何回も殺意が湧いてきたけれど。

 そんな気持ちを一瞬で押し込めたのは、最後にお兄ちゃんが口にした言葉だった。

 

「だから、俺は明日咲夜を殺そうと思う」

 

 ああ、やっぱりだ。

 最悪の予想が、的中しちゃった。

 今のお兄ちゃんにとってその判断は無理もないけど、でも『良いよ』なんて言えるわけない。

 

「それが間違った答えだって、お兄ちゃんも自分で分かってるよね?」

「ああ、分かってる。分かってるけど、これしかない」

「どうして、そう思うの?」

「だって、それ以外に悠を裏切らずに事を収める方法がない」

「でも、それじゃあお兄ちゃんが捕まっちゃうよ? それはいいの?」

「俺は、それでも良いさ。皆がどうにかなるなら、それで」

「良いワケないでしょ!!」

 

 本当は大きな声なんて出したくないけど。

 でも、言わなきゃダメ。お兄ちゃん(頸城縁)に分かってもらうためにも、言わなきゃいけないんだ。

 

「その方法で一番楽になるのは、お兄ちゃんだよ。ううん、お兄ちゃんしか楽にならない、誰も救われないし、笑顔になんてなれない」

「……そんな事ないだろ、事態が収まれば、きっと」

「堀内さんと瑠衣さんの事、忘れたの!?」

「っ、あ……」

 

 6月に、私達が出会った『頸城縁のかつての友人』だった2人。

 2人は、頸城縁が自分達のために亡くなった事をずっと悔やんでいた。

 誰かのために身を呈して何かするのは凄い事だと思う。でもそれで死んじゃったら、あとに残る人は罪悪感に呑まれるばかりになると、私はあの日知った。

 

「それと同じ事をお兄ちゃんはやろうとしてるんだよ! なんでそれが分からないの? お兄ちゃんが咲夜を殺して全部解決? なるわけないでしょそんな事!」

「…………」

「私は泣くよ? 綾瀬だって悠さんだって、柏木さんだって泣く。それから先の人生、どんなに良い事が起きたって、お兄ちゃんの犠牲の上に成り立ってる人生なんて最悪なんだよ? それに気づいてよお兄ちゃん!」

 

 言葉は間違いなくお兄ちゃんの中に届いたはず。

 一切の反論もせずに、お兄ちゃんは私に言われた言葉の一つ一つをかみしめる様にうなだれる。

 少しして、ポツリとお兄ちゃんは言った。

 

「でも、じゃあ、どうすればいいんだ」

「それを、一緒に考えようよ」

「わかんねぇよ、思いつかねぇんだよ……何にも」

 

 涙が、ぽつぽつとこぼれる。

 

「もうどうしようもないんだよ、咲夜を止める言葉も手段も、俺にはない」

「そんな事ない」

「どうしてそう言い切れるんだよ!」

「だってお兄ちゃんは、お兄ちゃんだもん」

「は……?」

 

 お兄ちゃんは困惑している。

 けれどこんなの、何もおかしな言葉じゃない。

 今日までずっと、隣で見てきたから分かる。

 今のお兄ちゃんを見て、知って、理解したからこそ、

 妹の私はこう言える。

 

「『もうどうしようもない』なんて、お兄ちゃんはそんな事言わない。そんなのお兄ちゃんじゃないよ?」

 

 だから──、

 

「私達の園芸部を、お兄ちゃんの大事なものを、咲夜から取り戻そう! ──皆が揃ったままで!」

 

 その言葉を、お兄ちゃんが聞いた瞬間に。

 

「──ああ、そうだ。その通りだな。……ありがとう、渚。君が俺の妹でよかった」

 

 薄暗い部屋の中でもはっきりと分かる。

 お兄ちゃんの瞳に、光が戻った。

 

 

 

 ──to be continued

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第拾病「友達だからだ」

 綾小路咲夜にとって、今回の出来事は今までと何も変わらず『当たり前』の連鎖でしかなかった。

 綾小路家という、日本はおろか世界にすらその存在を知らしめる名家に生まれた彼女にとって、『理不尽』とか『想定外』とか、そう言う概念は空想の産物に等しい。

 自分の要望が通らなかった事は一切無く、無さすぎて『自分の思い通りにならない』と言う発想そのものがまず生まれない。

 

 雨が『水に濡れる者の寒さ』を知らない様に。

 火が『燃えてる物の熱さ』が分からない様に。

 

 理不尽も想定外も、それらは全て彼女が他人(庶民)に知らず知らずのうちに押し付けるモノで、決して自分に降り掛かるものでは無かった。

 

 だがしかし、それは無理もない話だ。

 貧乏人は金持ちの生活を夢想する事は多々あるにしても、金持ちが貧民の暮らしに焦がれる事などありはしないのだから。

『庶民』が受ける受難を、『貴族』が知る理由などないのだ。

 

 だから、咲夜は今回もまた、当たり前の様に動き、当たり前の様に事をなし、当たり前の様に終わらせるつもりでいた。

 親族の──自身よりもなお次期当主の座に近しい人物からの指示を受け、都心からやや離れた地方都市、いずれ綾小路家の『国』となる土地にある学園を掌握する。こんな事にわざわざ感情を起伏させる意味なんて、あるはずも無い。

 

 ……が、何事にもほんの少しだけ、気まぐれの様な例外がある。庶民の使う言葉で言う『強いて言うなら』の『強いて』が、貴族にも付いて回る時がある。

 

 自分の向かう先、すなわち『良舟学園』に居るとある人物。

 

『綾小路悠夜』

 

 ──自身と同じ綾小路家でありながら、現在は牙を抜かれた獣の様に地に落ち、空気の様な存在として生きる男。それが、ここには居た。

 

 調べれば、今は自身を『悠』と名乗り、温厚で物腰柔らかに、平穏な生活を庶民の中で営んでいるという。

 反吐が出る様な気持ちを、咲夜は久しく感じた。

 何故なら、彼女が知る綾小路悠夜とは、決してその様な人間では無かったからだ。

 

 彼は、かつて自分以外の全人類を見下しているのではないかと疑うほどの、傲慢が服を着て歩いてる様な人間だった。

 綾小路家には『お金で買えない物は無い』という考えが深く刻まれているのだが、悠夜の場合はそれを通り越して『自分に従う上に金を払える幸せを噛みしめろ』とでも言わんばかりの横暴さ、傲慢さで常に身の回りの人々に接していた。

 

 自身を生んだ両親と、現当主にのみ傅き、それ以外の人間ならたとえ同じ綾小路家でも──とりわけ、歳下の自分に対しては露骨に、悠夜は見下した言動と態度を隠さなかった。

 そんな男がある日を境に綾小路家の跡目争いから身を引き、一族の前にも姿を見せなくなり、気がついたら地方都市の一学生として日々を享受している。

 

 それが、気味悪くなければ何だというのか。

 だから気に入らない。昔から理解したく無かったが、当時は自身と同じ『貴族』としての在り方に準じていただけまだマシだった。

 だが今はその矜恃すら捨て去り、たかが『庶民』と成り果てた。

 

 綾小路家の人間でありながらその名と血を無作為に野に放っている。しかも自分を見下していた奴が! 

 

 だから、咲夜は徹底的に潰してやろうと決めていた。

 当たり前に、淡々と当然の如く事を済ませる以外に、乗り気になる理由が生まれたのだ。

 

 それが、今回の『強いて』の一つ目。

 

 一つ目と言うからには、当然二つ目もある。

 生き物の多くが二つの目を持つ様に、咲夜の二つの眼にも、二つ目の『強いて』があった。

 

 と言っても、これは最初からあった事柄ではなく、あくまでも悠夜について調べさせた内に出て来た副産物で、偶然見つけた『強いて』だが。とにかく、気にならざるを得ない男が居た。

 

 それが『野々原縁』だった。

 過去から今までの経歴を調べるに、特筆すべき所があるとすれば両親が不在の日が非常に多く、10代半ばで既に妹と2人暮らしをしているくらい。それ以外は彼女が一括りに縛って捨てる庶民と何も変わらない人間だった。

 

 しかし、彼は『綾小路悠』の親友の位置にいた。

 さらに、悠夜が現在の性格になったのは、野々原縁が悠夜と関わる様になってからだという話も出てきた。

 つまり、『悠夜』を『悠』に変えたのは野々原縁だと言う事になる。

 

 それが、咲夜には不可解だった。

 何があったのか、何が起きたのか、どんな心の変化があの2人の間で生まれたのか、自身が雇った情報屋は『そこまでは料金の範囲を超えてますので』と教える事は無かった。

 

 それだけではなく、今回自分が良舟学園に行く事になった直接の原因にすら、野々原縁は深く関わっている。

 たかが庶民が、巡り巡って自分に影響を与えたと言っても過言では無いのだ。

 

 そんな庶民がいるものだろうか? 

 少なくとも、今まで庶民に関心を向けてこなかった咲夜には、野々原縁がどんな人間なのか想像すら出来なかった。

 

 であるならば、自分で知るしかない。

 果たしてどんな理由で、あの傲慢な男と友人になんてものになろうと決めたのか。何故友人であり続けているのか。

 

 あくまで受け身でしか無かった彼女の姿勢が、前のめりになった瞬間だった。

 

 ──まさか、8月最後の日にそうだと知らず出会う事になるとは思わなかったし、たかが街の夕焼けなんかを見せられる事になるとも思わなかったし、図らずもそんな庶民的な景色を見て──多少でも、心を動かされる事になるとも思っていなかったが。

 

 ともかく。

 

 9月から良舟学園の生徒として君臨した咲夜は、それからも予め決められたシナリオに従い学園で自身の傀儡となる査問委員会を打ち立て、教職員を黙らせ、生徒を従わせ、瞬く間に学園を意のままに出来る位置まで躍り出た。

 

 そうなるまでの僅かな間でも、咲夜は隙あらば野々原縁に接触を図ろうとしていた。まだ自分の最大の謎である、『悠夜と何故友人になったのか』を明らかにしてないからだ。

 しかし、中等部と高等部の差があるとは言え、同じ敷地内に居ると言うのに、咲夜は驚くほど縁との十全な会話の機会を得る事は出来なかった。

 

 理由は単純、悠夜が密かに動き、自身と縁が出会う場を作らせなかったからだ。

 だから咲夜は、強引にシナリオを進めて、無理やりにでも縁との接触の機会を生むために、悠夜を学園の中で袋小路にさせる方針を取った。

 

 従者に指示を出し、適当な額を条件に悠夜の周りの人物に『ちょっかい』を掛けさせ、悠夜にストレスを与えると共に、悠夜の存在が全体に不幸を与える様な展開を生み出す布石を用意した。

 与えられたシナリオからはやや逸脱した、咲夜の独断で決まった事だったが──結果的にロボ研の部長の逆上した発言によって、その目論見はものの見事に成功。

 流石に、野々原縁の幼馴染に『パパ活』疑惑を持たせて騒ぎを起こすと言うやり方はどうかと思ったが、事を起こした生徒が勝手に考えついてした事で、自分がそうしろと指示したわけでもないので、『都合良く動いてくれた』程度で考えが終わった。

 

 とにかく、これを気に悠夜は怪我を負って学園を休み、更に学園内でも査問委員会──と言うよりも自分に対して、直接怒りや不満をぶつけられない生徒達の憎しみの対象になった。

 

 彼や野々原縁が所属していた園芸部そのものも、査問委員会との関係を疑われて立場が危うくなったが、そんなのは庶民が勝手に考えを飛躍して産んだ愚かな疑念でしか無く、咲夜の意に介する事ではない。

 

 ようやくちゃんと話が出来る状況になり、満を辞して1人きりだった彼を車に誘ったのが、水曜の夕方だった。

 

 野々原縁は、初めて会った時とは比べものにならない位に、自分に対して警戒心を向けていた。無理もないだろう、と咲夜はそれを受け入れる。自分が査問委員会を使ってしている事や、悠夜にしている事、何より縁達の現状を鑑みれば警戒しない事の方がおかしい。

 

 だから、咲夜は野々原縁に対してまず自覚を促すところから始める事にした。

 きっと悠夜からアレコレと自分について話を受けているのだろうが、そもそも自分が良舟学園に来た理由の中に、野々原縁がある事を分からせた。

 

 だが、咲夜は珍しくこの選択がミスだと思った。

 

 余程、衝撃的な事実と受け止めてしまったのだろう。縁は深く動揺してしまい、これ以上は十全に悠夜についての会話が出来ないと判断した咲夜は、『これから幾らでも話を聴く機会はある』と思い直し、憔悴した縁を車から下ろして──あろう事か、余計な事を思いついてしまった。

 

『この男は、どこまであの男(悠夜)のために心を痛められるのだろうか』

 

 一度それが気になると、もう止められなかった。

 

 台風が自ら晴天になろうとはしない様に。

 火災が進んで鎮火されようとしない様に。

 

 綾小路咲夜と言う激情の中に沸いた知的好奇心は、自制なんて概念とは無縁に縁を苦しめた。

 

『悠を裏切るか、心中するか』

 

 我ながら残酷な選択肢を与えたが、多くの言葉を交わすよりも、その方がどれだけ悠夜を思っているかが簡単に分かる。

 

 裏切れば、その程度。

 心中するなら……改めてその心境を聴けば良い。

 たとえ口を割らないとしても、金さえ積めばどうせ最後は言う事を聞くものだ。

 

 お金で買えないモノはない。たとえ自分を嫌う人間でさえも、本人やその周囲に金を積めば、簡単に物事は動く。

 どのみち縁が悠夜を裏切ろうと、裏切らなかろうと、与えられたシナリオに書かれた結末は近く、覆る事もない。

 もはやここまで来れば、咲夜がこの先取る行動は決まっていた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「さて。ここまでが『彼女の視点』で振り返った『今まで』です」

 

 薄暗い月明かりの中、良舟学園では無いどこかの制服──でもなく、一張羅のスーツを着込んだ少年。『塚本せんり』が淡々と言葉を紡いだ。

 彼だけがスポットライトの様に照らされ、周囲は深い夜の黒に染められている。さながら一人芝居の劇場の模様を呈していた。

 

「しかしこれはおかしな話なんです。『お金で買えないモノは無い』を自論にしてる彼女は結局ここでもその結論に至った。野々原縁がどう転んでも最後は金で収めようとしました」

 

 大仰に、塚本は言葉を続ける。

 この事実を誰かに話す事を、心底楽しんでいるように。

 

「でも、それなら初めて出会った時に最初から金を積んで自分の疑問を答えさせれば良かったんです。なんでそれを考えもしなかったのか。その理由に、彼女は気づいていません。なんなら、そうすれば良かったという事すら未だ分かってない」

 

 夜の闇は動じる事なく、ひたすらに塚本の言葉を飲み込んでいく。

 やがて薄い雲が月に掛かり、ゆっくりと柔らかく、しかし確実に塚本を照らしていた月明かりが消えていく。

 月明かりが尽きて全身が夜に溶けるその直前、塚本は最後にニッタリと笑みを貼り付けて言った。

 

「これって、結構大事ですよね。だって、人は得てしてそういう『気づかない』にその人の真実が隠れてるんですから」

 

 あるいは、

 

「敢えて『気づこうとしない』心の動き、でしょうか」

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「はぁ?」

 

 それが、登校早々の綾小路咲夜の言葉だった。

 HRの開始を告げるチャイムが鳴る10分前。中等部と高等部を繋ぐ連絡通路の手前で、咲夜はたった今自分が言われた発言を思い返して、やはり『はぁ?』と言う以外無い結論に至った。

 

「何言ってるのアンタ……意味が分からないんだけど」

「じゃあもう一回言う。頼むから悠や俺達をこれ以上追い詰めるのはやめてください」

 

 そう言って深々と頭を下げたのは、昨日話をした野々原縁だった。

 以前と同じ様に教室まで姿を見せた彼に誘われ、昨日あれだけ憔悴していたのが嘘の様に復活していたから、何か面白い事でも考えたのかとついてみたら、これだった。

 

 何の捻りもない、ただ純粋な『もうやめてくれ』と言う懇願。

 正直、期待外れだった。

 そう言うと、まるで自分がこの庶民に何か期待をしていたのかの様で癪ではあるが。

 無いはずだったが、あの悠夜と親友をしていたくらいだから、わずかでもその可能性を感じていたかもしれない。

 

 一蹴するのは簡単だが、どうしても気になってしまう事があった。

 

「何でそこまでするのよ」

 

 やめる気なんて更々無いが、縁の行動理由は気になった。

 昨日の様子を見て、縁にはもう新しく何か行動を起こすだけの気力は無いと思っていた。

 だが、期待外れとは言え堂々と正面から『やめてくれ』と懇願してきた。

 

 その行動力が何処から湧き出てくるのか、そこが咲夜には分からない。

 

「アイツを助けようとする理由が分からないわ。綾小路家の人間とは言っても、これから先アイツと一緒にいたって何もメリットないのに」

「メリットなんて関係無い」

「だったら尚更なんでよ」

「友達だからだ」

 

 ハッキリとそう言い切った縁に、咲夜は返す言葉を見失った。

 

 友達。それは咲夜にとってあまりにも無力な言葉だ。

 

 咲夜は幼い頃からずっと、年上で力もある大人達が『綾小路』と『庶民』、『主人』と『従者』、『報酬を与える側』と『恩恵を受ける側』と言う明確な関係の元、自分に忠実だった世界で生きてきた。

 そんな咲夜にとって友達とは『平等』で『契約も金銭も絡まない』、何一つ信用に値しない関係にしか思えない。

 

 であるならば当然、そんな関係を理由に動く縁が理解出来なかった。

 自分に頭を下げている姿は、他の生徒からも見られている。ここは中等部だから見ているのは全員縁にとって年下の中学生ばかりだ。

 

「恥ずかしくないの? アンタ色んな奴らに見られてるのよ?」

「恥ずかしくなんてあるもんか、悠の為になるんなら、衆目で頭を下げる事なんて何でもない」

「……意味わからない」

 

 一体悠夜の何が、縁をここまでさせるというのか。

 メリットなんて関係ないと縁は言うが、そんなわけがない。きっと何か理由があるはず。

 それとも、本当に『友達』だと言うだけでここまで出来るのだろうか? 

 

 だとしても、そうだとすれば、何故悠夜なんかにそんな人間が出来るのか。そんな関係を築けるのだろうか。

 悠夜だって本来は自分と同じ、綾小路家の人間だと言うのに。どうして──、

 

「くだらない」

 

 どうして、その先に続く言葉を明確にする前に、咲夜はそれ以上考える事をやめた。

 その言葉が何であるかを自覚したら、何故か自分を許せなくなってしまう気がした。

 

 その代わりに、咲夜の中に湧き出たのは怒りだった。

 何に対しての怒りかは分からない。本当に怒りと形容して良いものかも、考える気にはならない。

 だがとにかく、咲夜はたった今目の前で頭を下げてる男に対して、どうしても加虐しなければ気が済まなくなったのだ。

 

「アンタ、本当にあいつなんかの為に何でも出来るって言うなら、土下座してみなさいよ。地面に額を擦り付けて、お願いしますやめて下さいってくらい言ってみなさい」

 

 流石にそれはプライドが許さない筈、そうしたら所詮口だけの友人だと非難すれば良い、そう思った咲夜だったが、

 

「分かりました」

 

 そう淡白に言い返して縁はすぐさまその場で土下座をして見せた。昨夜の言う通りに額を廊下に擦り付けて、先程までよりもずっと丁寧な口調になり、

 

「お願いします。園芸部を──私の友人の悠を、これ以上苦しめるのはやめて下さい」

 

 そんな事を、言って見せた。

 

「っ……!」

 

 苛立ちを収めるために要求したのに、咲夜の中の激情はかえって強くなった。

 100歩譲って縁の言う友達という関係があるとしても。

 果たして、本当にこんな呆気なく土下座まで出来るものなのだろうか? 

 

 金と契約で成り立つ関係性でさえ、土下座を求められればまずは、どんな小さな仕草や言葉や態度でも、抵抗の意を示す筈だ。

 それを、野々原縁という男は躊躇いなくやってのけた。

 そこまでか? そんなに、この男にとって悠夜は大事な人なのか? 

 

 なんで、どうして、

 あんな男に、こんな友人が──、

 

「──っ!!」

 

 縁の呻き声が廊下に響いた。

 咲夜が、縁の後頭部を踏んだからだ。

 この良舟学園に来てから一度も他人に見せた事の無い表情を、咲夜は縁に向けていた。

 先程から咲夜の心の多くを占める怒り。それだけではなく、何故か哀しさや──どこか悔しさの様な物も含んでいる、そんな表情だった。

 もっとも、縁はそんな表情を向けられてる事など分かるワケもない。ただひたすら、咲夜に頭を踏まれて蹴られて、それでも土下座を崩さず為されるがままを貫いていた。

 

「そうやって一生頭を下げてればいいじゃない! アンタが何を言っても、何をしても、明日で終わりなんだから」

 

 何回、縁の頭を蹴ったのだろうか。少し離れたところから見ていた中学生も、咲夜の暴行を目の当たりにして巻き込まれまいとその場を離れ、文字通り2人きりになる。

 落ち着きを取り戻した咲夜は、未だに土下座したままの縁を無視して踵を返し、教室に戻ろうと足を進める。縁が止めてくる気配はない。

 その代わり、3〜4歩ほど歩いてから立ち止まり、咲夜は振り返らないまま縁に冷たく言い放った。

 

「アンタがアイツを──悠夜をそんなに大事に思ってるのは嫌と言うくらい分かった」

「……」

「でもね、アンタは知らないかもだけど、アイツはアンタが思ってるよりもずっと最低な奴なんだから。『友達』だなんて思ってるのはアンタだけよ」

 

 その言葉に縁は何も言い返さず。

 小さな舌打ちを残して、咲夜は教室まで戻っていった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「いててっ……」

 

 咲夜にしこたま踏み抜かれた後頭部をさすりながら、縁は自分の教室に向かって歩く。

 

「だ、大丈夫ですか……?」

 

 心配そうにそう言ったのは、柏木園子だ。

 彼女は縁から頼まれて、彼と一緒に中等部まで同行していた。同じく縁の要望で、彼が咲夜と会話している間は少し離れてた所から2人のやりとりを見ていたのだ。

 

「悠夜──か」

 

 咲夜が去り際に口にした言葉を、縁は小さく反芻する。

 

 親友である悠の、本当の名前。

 悠が良舟学園に来てから半年頃までは、彼は自分をそう名乗っていた。

 その頃の悠を思い返して、縁は咲夜の言葉に一つ納得が言った。

 

「確かに、あの頃の悠は、かなりの問題児だったもんな……」

「そうだったんですか?」

「まぁ、もし園子があの頃の悠を見たら、絶対仲良くなろうとか思わない程度に、今とは性格が違ってたよ」

「……咲夜さんの様な感じだったんですか?」

「もっと。咲夜は俺達を『庶民』て言うけど、これって一応人間扱いはしてるだろ?」

「そうですけど……えっと、じゃあつまり?」

 

 縁の言い方で、園子は察しがついてしまい、尚更信じられないという顔になる。

 

「人間扱いしてなかったよ、あの頃は。家畜扱いでもなく、本当に視界に映す気が無かったんだろうな」

「想像出来ません……そこだけ聞くと、その、咲夜さんの方がよっぽど……」

「まぁ、咲夜とあの頃の悠を比べたら、100人が100人咲夜の方がマシって答えるだろうな」

 

 そんな『綾小路悠夜』が、どうして今の様な性格の『綾小路悠』になったのか。

 その過程を思い返そうとして、縁はやめた。たとえ過ぎ去った思い出だとしても、当時を振り返るには、教室に辿り着くまでの僅かな時間では到底足りない。その頃については、悠が元気に戻ってきて皆が部室にいる時に、改めて話そうと決めた。

 

 その代わりに、縁は考える。

 もし、咲夜の悠に対する印象が当時の『綾小路悠夜』のままであったとすれば。

 これまでの悠に対する冷たい態度も、俺が悠の親友だという事実に対する疑問も、全て納得がいく。

 きっと咲夜の中にある悠は、今も変わらず『綾小路悠夜』のままなのだ。

 

 そして、だからこそ──きっと、そこに活路がある。

 

 咲夜への懇願は何の意味もなく終わってしまったが、確実に得られたものはあった。

「園子、明日について何だけど、お願いがあるんだ」

 

 既に、昨日咲夜に言われた事は全て園子にも共有済みである。

 その上で、縁は明日咲夜が起こす緊急集会について、園子にあるお願いをした。

 それを聞いた園子は一瞬驚いたが、すぐに納得して力強く頷いた。

 

「はい。分かりました……頑張ってくださいね」

 

 ありがとう。縁はそう言い返して、2人は各々の教室に分かれていった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 時は僅かに遡る。

 渚に自身が抱えてる悩みを打ち明けてから、小一時間が過ぎた頃。

 縁は、数時間前に咲夜に車から降ろされ、嘔吐した公園のベンチに1人佇んでいた。

 警察が見かけでもしたら、職質不可避という状況だ。

 縁がそんなリスクを踏まえてまで、敢えてまたこの公園に戻って来た理由は、ただ一つ。

 

「露骨に待ち過ぎじゃないですか。どうしたんですか?」

 

 待っていたからだ。

 他でもない、塚本せんりを。

 

「スーツ姿なんだな」

 

 塚本の格好は、今までとは違い、こんなスーツ姿だった。

 年齢不相応な格好なはずだが、妙に似合っているな。と縁は内心呟く。むしろ、今までの学生服姿の方が似合っていないとすら思った。

 

「はい。仕事があったので。普段はこの格好なんですよ」

「そうか」

「それで、わざわざこんな時間に、こんな所に来てどうしました? ゲロの処理でも?」

「それはもうやった。俺がここに来たのは、こうすりゃお前が来るかと思ったからだ」

「……おやおや」

 

 様子が変わった。塚本はすぐに縁の変化に気づいた。

 夕方から今までの間に何が起きたのかを、把握する事は流石に出来ない。けれども、今の縁の精神テンションは咲夜が査問委員会を打ち立てるよりも前の、力強い時期のそれに戻りつつあるのは確かだった。

 

「僕に用がある、と」

「あぁ。俺がやりたい事の為には、お前の力がどうしても必要だからさ」

「やりたい事……成る程、成る程成る程」

 

 その言葉だけで、塚本は縁が咲夜に真正面から立ち向かおうとしている事を理解した。

 咲夜の示した『悠を裏切る、または心中する』以外の、縁にしか出来ないやり方を見出したのだと。

 

「その為に、情報が欲しいわけですね? だから僕に依頼をする為、ここで僕が気になってちょっかいかけてくるのを待っていたわけですか」

「そう言う事。と言っても、半ば賭けみたいな物だったけどな。誘っといてなんだが、ストーカーかよ」

「酷い」

 

 そんな小言を挟みつつ、塚本は本題を聞く前一つ、重要な話を持ち出した。

 

「依頼内容の前に一つ。これはビジネスの話なので、大事な事をお伺いしますね」

「なんだよ」

「依頼料ですよ。言っておきますが、僕たちを雇うとなれば一般的な高校生のお財布では絶対に足りませんよ。依頼について話を進めても、手持ちが無ければ話になりません。貴方が幾らまで払えるのか、先に聞かせてください」

「あぁ、そう言う事か。後で話そうと思ってたが……じゃあはい、これ受け取って」

 

 そう言って、縁はポケットから取り出した一枚の紙を塚本に渡した。

 

「なんです、これ……はい?」

 

 思わず、困惑の声を上げてしまう塚本。

 今まで会話した中で一度も見た事が無かった塚本の反応に内心ほくそ笑みつつ、縁は平然を装いながら話を続けた。

 

「これでダメか?」

「いや、まぁ……悪くないですよ、問題ないですけど」

「なんだよ」

「恥とか、意地とか、無いんですか? よりによって、これって……」

 

 縁から受け取った紙、それは8月最後の日に、縁との別れ際に咲夜が渡した、1千万円の額が記入された小切手だった。

 渡された日からずっと使い道が分からず、渚と相談の上保管しっぱなしだった物。それを、縁は簡単に塚本に渡したのだった。

 

「使えるものはなんだって使う。それくらいしなきゃ咲夜を止めるなんて出来ないだろ?」

「それは、確かに」

「それに、元々どう使えば良いか分からなくて持て余してた物だし」

「ふふ、ふふふ……」

 

 幾ら相手が綾小路咲夜だと言っても、1千万円という大金をここまで簡単に手離すのを目の当たりにしては、流石に笑わざるを得なかった。

 だが同時に、納得も出来た。

 4月以降行動パターンが変わった野々原縁だが、その変わった後の縁なら、こんな事を簡単にやってしまうだろう。

 

「良いですよ、この額で引き受けましょう。それでは──」

 

 一端間を開けて、縁にお辞儀し始める塚本。

 急に何を始めたのかと呆然とする縁だが、塚本はお構いなし顔を上げてから、フッと柔らかい笑み──今まで見せた張り付けた笑顔とは異なる、恐らく初めて見せる本当の笑みを浮かべながら言った。

 

「私、塚本せんり──いいえ、『千里塚インフォメーション』が、貴方の望む情報を全て御用意致します。なんなりと、お申し付けくださいませ」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 自身に与えられたシナリオの最終章。

 金曜日の集会が、始まった。

 

 今回は自分が進行から採決まで全てを務める、そう咲夜は決めていた。

 本来なら既に査問委員会は先週の様に、所属する生徒達に全てを任せ、咲夜はただ委員長と言う座に座り続ければ良い。そう言うシナリオだった。

 

 だが、咲夜の性格がそれを良しとしなかった。

 ましてや今日で悠夜に引導が下されるのだ。

 その役を自分以外に委ねるなんて選択肢、咲夜が取るはずも無かった。

 

 それに何よりも──、

 

「野々原縁、アンタの答えを聞かせて貰うわよ」

 

 今となっては、悠夜と同じくらいに疎ましい男の名前を口にする。

 昨日も朝から不快な思いにさせられた。

 なんで不快に感じたのか、その理由さえ曖昧なままのが更に不快感を助長させる。

 

 悠夜の為に、土下座して頭を踏み抜かれてもなお、悠夜を助けようとした『友人』。

 そんな人間が、果たして今までの自分の人生に居ただろうか。

 

 自分の世話をする人間はいる。

 自分の警備を務める人間もいる。

 可愛がってくれる人間もいるし、評価してる人間もいる。

 およそ、現代社会で多くの人々が欲し、願い、望む立場と人間関係を、自分は生まれた時から既に持ち合わせている。

 

 でも、だからこそ、考えてしまった。

 

 果たして、金も権利も立場も関係なく、自分のために他人に土下座までして助けてくれる人が、果たして居るのだろうかと。

 あんな、人を人とも思わなかった悠夜にさえ、そんな人間が生まれたんだから。

 自分にだって、そういう人が。

 そんな、※※が──、

 

「──咲夜様、お時間です」

 

 思考が、現実に引き摺り戻される。

 

「──えぇ、分かってるわ」

 

 先程まで自分が考えていた事は、全て気の迷いだと切り捨てる事にした。

 自分は『貴族』。『庶民』とは存在の価値が違う人間なのだから。

 

 あぁ、でも。どうせ今日で最後になるのなら。

 少しだけ、もうちょっとだけ、思いを馳せてしまおう。

 

 全生徒を見渡せる演説台の前に立ち、備え付けマイクの電源が入ってるのを確認し、小さく呼吸を整えて。

 

「第3回、査問委員会による緊急集会を始めるわ」

 

 ──もしかしたら、自分がこんなにも悠夜を気に入らないでいたのは。

 

 ──自分を肯定する人間ばかりだった中、ただ1人、自分を周りとは違う眼でみる人間だったからかもしれない。

 

「さっそくだけど、先週から今日までで、査問委員会に報告したい事がある生徒、ここでそれを言いなさい」

 

 それが、野々原縁に与えた分岐点。

 ここで縁が手を挙げれば、悠夜は学園から消え、綾小路家からも立場を失い、破滅する。

 

 ここで縁が手を挙げなければ、悠夜だけじゃなく園芸部の全員を学園から追放する。

 

「さぁ、アンタの答えを見せてみなさい」

 

 マイクが拾わないほどの小声で呟く。

 生徒達は『この場で査問委員会に報告する生徒が果たしているのか』とザワついている。

 やがて、その中の一画から一際大きな声が響いた。

 

 視線を向けるとそこには、堂々と右手を挙げる、縁の姿があった。

 

 ニヤリ、と咲夜はほくそ笑む。

 ここで手を挙げたという事はつまり、縁は悠夜を──彼にとって親友である『悠』を裏切る選択をした。

 

 あれだけ『友人』だなんだと言っておきながら、やはり最後は裏切ったのだ。

 だが、それで良い。それが最も賢い選択なのだから。咲夜はそれ以上縁を攻める気は無かった。

 

 後はもう、ただこれから縁がする『報告』を受けて、悠夜を終わらせるだけ。それで、シナリオは完結する。

 

「良いわ、話してみなさい。野々原縁。──アンタの(願い)を聴いてあげる」

 

 もはや一片の障害も無い。

 ここから先は未知数のない出来レース。

 綾小路咲夜が今まで生きてきた『当たり前』の延長でしかない。

 

 そのフィナーレを飾る縁に、査問委員会の生徒が駆け付けてマイクを手渡す。

 マイクを受け取った縁が、咲夜とは違い特に気負う様子も見せず、ただし真っ直ぐに咲夜を見据えて言った。

 

「咲夜、まず最初に言いたいんだが──学校に通うだけなのに、しかも中学一年生が、真っ赤でスケスケでレースの付いた下着を履くのはちょっとマセ過ぎてるんじゃないかな?」

 

 ──勝負下着かよ。そう半笑いで付け加えた縁の言葉は、全生徒のみならず、教師達も聴いてて何を言ってるのか理解出来なかった。

 

 言ってる言葉は分かる。

 しかし、この状況で、この流れで、絶対言うような内容では無い。だから、理解出来ずに誰もが固まってしまった。

 

 ただ、1人。

 

「……ぁ、あぁ」

 

 この場で、この学園で唯一。

 縁の言う事を理解出来る人間。すなわち、

 

「ああああああああああああ!!!!」

 

 本日まさに真っ赤でフリフリでスケスケな下着をスカートの下に納めている、綾小路咲夜だけは、下着よりも更に深く濃い真っ赤な顔になり、産声を超える全力の叫び声を、マイクに乗せて講堂中に響かせるのであった。

 

 誰もがつんざく様な悲鳴に耳を押さえる中、ただ1人、縁だけは変わらずに、咲夜を見据え続けている。

 

(さぁ、反撃開始だ。お嬢様)

 

 シナリオの最終章は今まさに、大きく赤字を書き込まれんとしていた。

 

 

 

――to be continued




千里塚インフォメーション

知らん人からしたら、いきなりなんぞや?って奴だと思います。
この二次創作だけの組織名とかじゃなく、ヤンデレCDと同じ世界観(てかシェアワールド?)の別作品があって、そこに出てくる組織に、千里塚インフォメーションがあります。

ヤンデレCD3作目の『惨』のアフターストーリー(現在は版権元が潰れて見られません……)でも、朝倉巴くんを木っ端微塵にしたユーミアの行方を追うとある人物が、千里塚に情報を依頼してたりします。


残り2話以内で、2章咲夜編が終わります。
2017年くらいから始まった2章、ようやく完結が近くなりました。最後までよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第拾壱病「ようこそ、庶民の世界へ」

第2章『綾小路編』大詰めです
投稿に間隔が空いてすみません。
それでは、どぞどぞ


 時間軸は2日前、縁の部屋に遡る。

 

「まずは、咲夜を知るべきだと思う!」

 

 それが渚の提案した解決手段だった。

 一瞬、呆気に取られるほど単純なもの過ぎて、それがどう解決に繋がるのか、縁には思い付かなかった。

 

「お兄ちゃんに酷い事した塚本って人も言ってたでしょ?」

「えっと、確かにそうだけど、それがどう解決に繋がるんだ……? 咲夜の性格なんて、もう俺達十分思い知らされてるんじゃ」

「本当? 本当にそう言える?」

 

 首を傾げて疑問をぶつける縁にグッと詰め寄る渚。不意に顔が近づいて縁はたじろぐが、渚は構わず言葉を続けた。

 

「私達が、ううん、お兄ちゃんが今咲夜に懐いているイメージは、全部悠さんから聴いた言葉と、学園での姿だけだよね?」

「まあ、そうだけど……」

「じゃあ、それ以外での咲夜がどういう人なのかは知ってる? 聞いた事ある?」

「それ以外でって……つまり?」

「学園以外での姿の事。家族とか、友達とか、私達に見せない姿がどんな物なのかって、誰も知らないままだよね」

「たしかに……たしかに、そうだ」

 

 今まで考えもしなかったが、縁が知っている咲夜の情報は大半が渚の言う通り、学園での振る舞いと悠からの伝聞に過ぎない。

 

「だから、咲夜がどんなものを好きだとか、嫌いだとか、そういう、私達が普段人と会話する時に必要な情報が何も分からないでいる……だから、お兄ちゃんも咲夜を相手にして何も言えないし、考えが浮かばないんだよ」

 

 それはまさに、コペルニクス的回転とでも言える発想だった。

 縁が咲夜を相手に『どうしようもない』と感じてるのは、本当に手段が無いからではなく咲夜という人間を知らないから。手段が『無い』のではなく、『見えていない』だけなのだという。

 

 唯一、咲夜の人となりを知るヒントになる事と言えば、夏休み最後の日に初めて出逢った時の姿くらいだろう。

 

「……っ!」

 

 そこまで考えついて、縁は気づいた。

 確かに、高飛車で自分以外を庶民と見下す態度こそ同じではあったが、あの日わずかな時間とは言え共に過ごした時の咲夜と、それ以降の咲夜の振る舞いには若干の違和感があった事に。

 

 学園に居る咲夜は、その行動全てが理にかなっていた。査問委員会を立ち上げてから今日まで一切の落ち度もなく、完璧と言えるようなその在り方に縁は勝ち目が無いと絶望していた。

 

 だが、夏休み最後の日に出会った咲夜は必ずしもそうでは無かった。

 お付きの黒服から逃げ出そうと大人を困らせ、偶然居合わせた自分に助けを強要し、見捨てられそうになったら弱々しく懇願する様な姿さえ見せた。

 その後も、特に計画性もなく行き当たりばったりに行動し、後先考えない言動で縁を翻弄し、最後は……街が夕焼けに染まる光景を見て心惹かれていた。

 

 その全てが、今学園で自分を狂わせている咲夜の姿と合致しない。

 まるで、学園に来てからの彼女は誰かの指示通りに動いているのでは無いか──、

 

 何故今までそう言った発想に辿り着かなかったのか。理由は単純で、咲夜を知る事は悠を裏切る事に繋がるという考えがあったからだ。

 だから、縁は無意識的に咲夜を考察しなかった。その結果、咲夜を前にした時も何を言えばいいのか、どう立ち回ればいいのかが分からず、言われるがまま、なすがままになっていた。

 

『 『分かる』と『理解する』は別ですよ。情報として頭に入ってるのと、実体験として体で覚えるのは、その後の行動に与える影響が全く違いますからね 』

 

 塚本が言った言葉。

 その通りだと認めてしまうのは縁にとっては癪だが、結局はそういうことだったのだと認めざるを得なかった。

 

「何か思いついたって顔してる。うん、やっぱりお兄ちゃんはそうやって自信のある表情じゃないと落ち着かないよ」

 

 自分の中で一条の道が見え始めてきた縁を、笑顔で喜ぶ渚。

 今まで袋小路に陥っていたのに、まだ解決には程遠いとは言え、渚はこうもあっさりと心の重荷を取り外してくれる。その事実が縁の中に抑えきれない程の愛おしさを生み出した。

 無言で渚の後頭部に手を伸ばし、そのまま優しく渚の顔を自分の顔に近づけた。

 

「ひゃっ、ちょ、えぇ!?」

 

 互いの額がくっ付いて、唐突にゼロ距離になった2人の距離に慌てる渚。先程とは逆の構図になり、縁は渚の紅潮した体温を肌に感じつつ言った。

 

「ありがとう、渚。さっきも言ったけど、渚が俺の妹で本当に良かった」

「……お兄ちゃん」

「なんとなく、どうすれば良いか分かってきた。多分なんとかなると思う」

「……うん」

「ちょっとだけ、たまには、情けないお兄ちゃんになる時もあるけど。その時は、よかったらまた今日みたいに喝入れてくれると助かる」

 

 縁は、自分の兄はもうすぐ、いつも通りの兄に戻る。

 友達のために、自分の好きな世界を守るために、自分で出来る事以上の事を為そうとする人間になろうとしている。

 だが、今自分に語り掛けてくれる兄は、そんな強い部分を脱ぎ捨てた等身大の人間だ。

 学園の友達にも、園子にも、悠や綾瀬の様な親友にだって決して聴かせない言葉を口にしている。

 

「……うん」

 

 縁に少しでも力を与えたくて、そっと抱き締めながら、渚は兄の言葉に応えた。

 

「いつだって、お兄ちゃんの背中を押してあげる。だって、私はお兄ちゃんの妹だもん」

 

 親友や幼馴染の様に、隣に立つ事は出来なくても。

 兄の後ろを見る事は妹にしか出来ない事なのだから。

 

「……サンキュー」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 時間軸はそこから数時間後、深夜の公園に移る。

 縁から依頼内容を聴いた塚本は、今まで縁に見せなかった困惑の表情を浮かべていた。

 

「えっと……何ですって?」

 

 あるいは、それすら一種のポーズだったかもしれないが。

 困ってる顔を見られただけで、縁の中に『勝った』と言う気持ちが湧いていた。

 それを決して面に出さない様に気を張りつつ、改めて縁は塚本に依頼内容を告げた。

 

「綾小路咲夜の全てを知りたい。アイツがどうしてここに来たのか、誰の指示で動いてるのか、趣味は何なのか、友達は何人いるのか、誰が好きなのか嫌いなのか……後はまぁ、絶対に知られたくないだろう恥ずかしい秘密とか沢山あれば最高」

「……なるほど」

 

 頭を抱えて自分が言われた言葉を現実だと飲み込む塚本。

 

「えっと、もっと何か、綾小路家の弱みとかそういう、交渉に有利になるものでは無く? 綾小路咲夜個人の情報を知りたいのですか?」

 

 念のため、自分はそう言った『より交渉に使える』情報も洗い出せると伝えるが、縁の言葉が変わるはずも無かった。

 

「そう。お前が俺に言ったじゃないか、理解しろって」

「確かに言いましたが……あぁ、覚えてたんですね」

「俺は綾小路咲夜を知りたい。アイツの全てを。だからそれを教えてくれ」

 

 別の意味に取られてもおかしくない言い方をする縁に、堪らず塚本は噴き出した。

 

「あっはっは! 貴方、河本綾瀬に聞かれたら人生詰むレベルの発言してるって自覚あります?」

 

 唐突に病んだら恐ろしい幼馴染を会話に出されるが、今だけはその恐怖を無視する。その代わりに、縁も同じく笑い返した。

 

「ははは! 詰むって言うならとっくに詰んでる。詰まりに詰まって吐き出した結果が今だよ」

「開き直りますか。きっと私達をこんな用途でご利用いただくお客様は貴方が初めてでしょうね」

「ああ、上等。相変わらずお前がどんな奴なのか知らないけど、金は払ったんだからちゃんと働いてくれよな」

 

 どこまでも引かずに言い返す縁に、塚本は満足した様に答える。

 

「もちろんです。正直馬鹿みたいに簡単な依頼で申し訳なさすら感じますが、彼女の全てをお伝え致します」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 そうした過程を経て、俺は今日を迎えた。

 壇上で俺を見下す敵に、底辺から見据えて俺は立っている。

 

「なんで、なんでそんなこと知ってるのよ! 変態!!!」

 

 そう叫んでいるのは、先ほど俺に本日の下着を言い当てられた咲夜だ。

 こちらの『予想通り』に、咲夜はほんの数分前までの勝ち誇った様子から一転、半狂乱になりながら俺を睨んでいる。

 そんな咲夜をみながら、俺は更に咲夜の焦りを加速させるべく追い打ちをかけた。

 

「そんな怖い顔するなよ。昨日だって真っ黒でキレッキレなの履いて俺の頭踏んづけてたのに。あそこで俺が顔を上げてたら丸見えだったんだぞお前?」

「な、なんで、みみみみ、見てたの!?」

 

 もう少ししたら憤死するんじゃないかと思うほど、顔面を真っ赤に紅潮させている。

 周りの生徒たち──今日やっと登校してきて、何も事情を知らないでいる綾瀬──も俺から距離を取り、何が起きているのか、何が起きようとしているのかを呆然と見守るしかできないでいる。

 つまり、今この瞬間、この場を動かしているのは俺だ。

 畳みかけろ、咲夜にまともな思考をさせる余裕を与えるな。口を動かしていけ。

 

「下着の色の話が嫌なら、初めておねしょした時については良いのか? もしくは最後におねしょした時についてなら? でもまぁ、最近ってなるとほんのい──」

「あぁぁぁああぁぁ!! 黙りなさいよ────!!!」

 

 とうとう我慢できなくなり、咲夜は壇上から降りて俺の前まで駆け寄ってきた。

 途中、何度か転びそうになりながらも何とか姿勢を保ち、マイク越しではない生の声で、俺に怒りをぶつける。

 

「どこで知ったの、なんで知ってるの、なんのつもりなの!?」

「調べたんだよ、お前がここに来る前にやった事と同じ事をしたんだ」

「調べたって……まさか」

 

 やはり自分が同じ事をしただけあって、俺の発言の意味をすぐに理解した咲夜だった。

 

「金については夏休みにお前から貰った金をそのまま全部渡したよ。もっともお釣りが来るレベルらしかったけど、その代わりにお前の下着事情とか余計な事も知っちまったがな」

 

 聞いた直後は『余計な事まで教えやがって』と思ったが、こうして咲夜の思考を大いに乱す事が出来たのなら、結果オーライといえる。

 

「アンタ、何がしたいのよ……」

「何がしたい? それを今更聞くのか? 俺の望みなんて、昨日散々お前にお願いしたじゃないか」

「──っ!」

 

 納得と驚愕、それら二つがない交ぜになって、咲夜は言葉を失った。

 たかが庶民の俺が、昨日まで憔悴して狼狽して、咲夜に頭を下げる事しか出来なかった人間が、自分のプライベートや知られたくない事を徹底的に明け透けに、全生徒の前で公開しようとするなんて展開は考えもしなかっただろう。

 

「俺はちゃんと昨日お願いしたんだぜ、やめてくれって。でもお前は断った。ならこうするしかないじゃないか」

「だ、だからって、こんな事するなんて信じられない、意味わかんない……」

「そうかもな。でも」

「でも、何よ」

 

 万感の意を込めて、俺は言った。

 

「ようやく、お前をここまで引き摺り下ろせた」

「はぁ? どう言う意味よ、それ」

「学園に来てから、お前はずっと完璧だった。何をやっても何を言っても、誰もお前に文句を言えない。学園全てがお前を肯定してるかの様に、何もかもがお前の都合通りに動いてた……俺達もな」

「……っ」

 

 咲夜の言葉が止まる。

 なら、言いたい事をこのまま言わせてもらおう。

 

「そのお前をやっと焦らせた。やっと困惑させられた、やっと動揺させた、やっと、やっと、やっとやっとやっと……貴族と言ってはばからないお前を、俺と同じ目線にまで引き摺り下ろせた!」

 

 今、俺の目の前に居るのは完璧な綾小路咲夜じゃない。

 8月最後の日、俺と一緒に街を回った、あの傍若無人で我儘な綾小路咲夜だ。

 

 だったら、何も怖がる事なんてない。

 俺は咲夜を右手の人差し指で差しながら、堂々と言い放った。

 

「ようこそ綾小路咲夜、庶民の世界へ。せいぜいこれから僅かな時間を楽しんでくれ」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 塚本から貰った情報は、どれもこれも今回の事態を解決させる──つまり綾小路家を黙らせる価値のある──物ではなかった。

 もっとも、それは当然の話。俺が調べたのは綾小路家じゃなく、あくまでも咲夜本人の情報なのだから。

 今回の事態の裏に綾小路家全体のお家争いがある以上、いかに個人の情報を探ったとしても、綾小路家そのものを止める事なんて出来やしない。

 

 とは言え、仮に綾小路家の弱みになる情報を俺が手に入れたとしても、それで形勢逆転なんて無理な話だ。

 俺程度の人間がそんな情報を拡散しようとしても、簡単にもみ消されて終わるのがオチ。綾小路財閥とか、綾小路重工とか、大きい組織全体を相手にしても、金も人の数も時間も余裕も全部勝っている向こうが簡単に無かった事にして終わるだけだ。

 

 では何故、俺があくまでも綾小路咲夜個人の情報だけを知ろうとしたのか。

 渚から咲夜を理解する事が解決の糸口になると言われたから。それは間違いない。

 だけど同時にもう一つ、俺は大きな思い違いをしていた事に気づいた。

 事態の裏に潜むのは綾小路家だが、今この学園に居て動いているのは、あくまでも咲夜だけだ。

 つまり、俺が相手をするべきなのは綾小路家という強大な組織ではなく、あくまでも綾小路咲夜個人。一人の人間でしかない。

 

 綾小路咲夜を相手にする=綾小路家という図式になる事は間違いない。

 だけど、ここでカギとなるのはこの街に来たのが権謀術数に長けた人間ではなく、中学一年生の咲夜だという事。

 

 自分を貴族だと誇り、

 一般人を庶民と括って見下し、

 悠を毛嫌いし、

 自分の思い通りに行かないと気が済まない。そんな傍若無人を絵にかいたような人間。

 

 だけど、

 俺にとってお気に入りの風景だった、夕焼けに染まる街並みを見て、奇麗だと言ってくれた。

 

 そういう、誰かと何かを共感出来る感性を持つ女の子。

 それが、綾小路咲夜なのだ。

 

 ならば、生まれが一般人の家庭だろうと大金持ちの一族だろうと、生きている限り恥ずかしい過去が絶対にある。

 つまり俺が咲夜を止めたいと思うのなら、そういう咲夜にとって『他人に知られたくない秘密』を全て牛耳り、それを盾に強請れば良いだけの話だったのだ! 

 

 

「お前の事は全部調べた。下着の種類とかおもらしとか以外にも、初恋の相手だとか、金と権利でごまかした失敗だとか、人に聞かれたくない事は全部知ってる。やろうと思えば今すぐ全部ぶち撒けても良いんだぜ」

「な、なによそれ……信じられない、最低」

「最低で結構。誰に何と言われようと、こうしてお前を引き摺り下ろせたなら大成功だ」

 

 俺のやっている事は確かに最低の部類だ。

 一人の少女の過去を隅々まで調べて、恥ずかしい過去を公衆の面前で晒上げ、自分の言う事を聞かせようとする。それが最低の行いと言わずに何というか。

 だが、そこまでやったからこそ、今この瞬間がある。

 壇上で全てを見下して、完全に勝ち誇っていた咲夜を驚かせ、困惑させ、焦らせ、壇上から俺の目の前まで来させた。

 

 この街に来てからずっと、俺達の上に居続けた存在を、同じ地平まで引き摺り下ろさせたのだ。

 驚いてるだろう。

 焦っているだろう。

 自分の置かれている状況が信じられないだろう。

 

 それ等は全て、普通に生きてる俺達にとっては特別でもないモノで、でも金持ちであるお前にとっては極限まで無縁の概念だったに違いない。

 

『ようこそ、庶民の世界へ』

 

 普通なら口にした瞬間に恥ずかしさで死にたくなる様なこの言葉が、今この状況に限っては、この言葉は咲夜の心を揺らがせる一言になった。

 

「殺してやる……絶対に許さないんだから、アンタの家族も周りの奴も全員、今すぐ殺してやるんだから!!」

 

 仮にも査問委員会を設立した立場でありながら、暴力的な発言を一切の躊躇なく言い放つ咲夜。

 普通ならその発言に戦々恐々して然るべきだが、この程度の展開を予想しないでここに立っている俺ではない。

 むしろ、これは既に咲夜がそこまで追い詰められていると言う証左なのだ。

 俺がどこまでの情報を握っているか、それを測ろうとしない──出来ないのが咲夜なのだ。

 

「殺せるものなら殺してみろよ、ただしその場合、お前は取り消しのつかない事になるけどな」

「どう言う意味よそれ!」

「今から30分後に、俺が知った情報を全てテキストに起こしたデータを、メールサービスを使って無差別に送信するように設定した。お嬢様は予約送信って知ってるか? 便利だよなあ」

「な、なんて事、してんのよ……」

「俺を殺せば予約送信を削除出来なくなる。俺の家族や友人を人質にしようと、俺は予約送信を止めない。絶対にお前の知られたくない全てを世界中にばら撒いてやる」

 

 政治家や芸人の不祥事は大喜びで取り上げても、それらが属する政党や事務所までは決して相手にしない。マスコミや野次馬ってのはそういうものだ。組織そのものを相手にしなくとも、そこに属する人間のスキャンダルには嬉々として食いつこうとする。

 同じ事が今回についても言える。綾小路財閥や、綾小路家に属する組織の情報を手にしても、もみ消される可能性は大きいが、綾小路家のお嬢さんのスキャンダルならば、一気に話が変わる。

 咲夜の恥ずべき部分をマスコミが取り上げ、世界に振りまく事になる。後から火消しに回ろうと、一度拡散した個人の情報が消えさる事は決してない。

 

「い、意味が分かんない……なんでそこまでやるのよ」

「ずっと言ってるだろ。土下座までして頼んだのに、お前が悠や俺達に対する行為を全く止めようとしないからだ」

 

 もう少し、追い詰める。

 

「あぁ、後昨日俺を乱暴に踏みつけてくれた姿は、園子にちゃんと録画してもらってる。その映像もちゃんとばら撒くからよろしくな」

 

 その為に、昨日は園子について来てもらってた。

 同じ役割を仮に渚や綾瀬に任せたら、きっと失敗する。園子にしか頼めない事だった。

 今日までのありとあらゆる出来事が、全て自分に帰って来ている事を思い知らされた咲夜。

 こちらを睨む眼光こそ変わらないが、言葉には明らかに力が無くなり始めていた。

 

「狂ってる、狂ってわよアンタ……今してる事も、昨日の事だって、普通そこまでやらないじゃない。諦めるじゃない。無理だって思う筈よ」

 

 敢えて返さずに、咲夜のいうがままにさせる。

 

「それなのに、なんでこんな酷い事を平然と思い付くのよ、実行出来るのよ、アンタ狂ってる、絶対におかしい!」

 

 咲夜の言葉に力が戻っていく。

 

「何がアンタをそうさせるのよ! あんな奴の為にここまでやるなんて馬鹿じゃないの!? 信じられない!!」

 

 もう、言葉は充分だ。

 俺がどうしてここまでやるかなんて、もう何度も答えたはずなのに、まだ咲夜は分かっていなかった。

 いや、分かっていないのではなく──、

 

「やっぱり、無理な話か」

「──え?」

 

 呟く様に吐き捨てた言葉に、咲夜は一瞬だけ張り詰めてた気を緩め──その瞬間に、俺は咲夜に駆け寄り手を伸ばし、胸元を掴んで眼前まで引き寄せた。

 

 さぁ、ここからが最終局面だ。

 

「俺が狂ってるだと!? どの口でそれを言うんだよ!」

「っ!?」

 

 目の前の咲夜に、怒声を浴びせる。

 不良じみた行動だが、だからこそ俺の剣幕に査問委員会の生徒はおろか、教員達も止められずにいる。

 

「俺が狂ってるんだとしたら、そうさせたのはお前じゃねえか! 俺の大事な友達を、大事な空間を侵略して来たのは誰だ!?」

「ひっ……」

「お前だよな!? 自覚がない様なら教えてやるよ、お前なんだよ! お前が俺を狂わせたんだ、お前がこの状況を作ったんだ!」

「そ、そんなのって……言い掛かりじゃない」

「言い掛かりだと思うなら今の俺を止めてみせろよ、そう言えばお前らは『お金で買えないモノは無い』が信条なんだってなぁ? だったら買ってみせろ、俺の悠に対する友情を金で買ってみせろ」

「……」

「『金で買えないモノがある』って事を分からないから、お前は理解出来ないんだよ」

 

 そう言って、掴んでいた手を離す。

 俺に引きずられるままになっていた咲夜は、そのまま力なくその場に座り込んでしまった。

 見上げる側と見下す側が逆転した状況。見れば、咲夜の瞳には涙が浮かび出ていた。

 

「……分かんないわよ、分かるわけ無いじゃない」

 

 涙を拭わないまま、座り込んだまま、咲夜は言う。

 

「友達って何よ、こんな事出来るくらいの関係がお金も無いのに出来るなんて考えつくはずないでしょう……」

 

 

 友達を知らない。

 それが、塚本から聴いた中で一際俺の関心を引いた情報だった。

 

 それも仕方の無い話だろう。

 傍若無人で横暴、それでいて綾小路家のご令嬢。

 そんな彼女の友人になれる人間なんて、そうそういるはずもない。

 だから彼女は何度言われても、言葉だけじゃ理解出来なかった。実際に行動に移されて追い込まれて、初めて今この瞬間に咲夜は知ったのだ。

 

 たとえお金が絡まなくても、誰かのために動こうとする人間がいる。

 

 もし咲夜が俺達を庶民と見下さず、庶民の生態にほんの僅かでも関心を向けていれば、友達という概念を理解はせずとも、知識として頭に入ってたかもしれない。

 その場合、間違いなくこの状況を作り出す事は出来なかった。

 

 咲夜が友達を知らない人間だったから、俺達は苦しめられた。

 だけど、だからこそ俺は、今回の問題を収めるたった一つのやり方を見つけられた。

 

「悠……悠夜も、この街に来た頃は今のお前と同じだったよ」

「──え?」

 

 ここでその話が出てくるとは思わなかったのだろう、不意を突かれた様な気の抜けた声を咲夜はあげた。

 

「お前みたいに、俺達市民を『庶民』だなんだって見下して相手にしなくってさ。本当に酷い性格。俺達を果たして人間扱いしてるのかってくらい辛辣な言動だったよ」

「……それが、なんで友達になれたのよ」

「詳しく話すと長くなるから割愛するけど、まぁ結構衝突してさ、その中でお互いどういう人間で、どんな性格なのかを知ったんだ。そうしてるうちに嫌いだった所も気にならなくなって、気が付いたら友達になってた」

「……結局、なんなの」

「この話で言いたい事はつまり、気に入らない奴でも何回か付き合ってけば、嫌でも良いところが見えてくるって事。友達ってのはそういうさり気なく見えた良いところをお互いに知る所から生まれるんだと思うぜ」

「……なによそれ、意味わかんない」

 

 視線を床に伏せて、咲夜は今までで一番弱々しくそう呟いた。

 

 自分より性格の悪かった悠夜にさえ、俺みたいな友達が出来た。

 なのに、自分には友達が全くいない。

 それが彼女にとってどれだけのダメージなのかは、彼女自身にしか分からない。けれど彼女の尊厳に深く関わる話である事は間違いない。

 だからきっと、今から俺がいう言葉は咲夜に届くはずだ。

 

「3つ、俺の出す条件を飲めば、メールは送らないが、どうする?」

「……本当?」

「あぁ。本当だ、まず1つ目は、査問委員会を無くす事。どうだ」

「……それって、つまり」

「そう。お前の親達の利権争いはもうやめろって事だ」

 

 査問委員会は、咲夜がこの学園を牛耳るために──つまりは利権争いのために作られた委員会。それが無くなるという事は、この学園を舞台にした綾小路家の衝突が終わるという事。

 

「どうする? 査問委員会を無くすか、無くさないか、答えは?」

「……分かった、査問委員会は今日で終わりにする」

「俺達園芸部や悠に対する仕打ちも?」

「終わりよ。全部終わり」

「多数決取るか?」

「要らないわよ、そんなの……」

 

 生徒達がざわめく。

 それもそうだ、この流れでアッサリと、悪名高い査問委員会が無くなる事に決定したのだから。

 自分の秘密と、家の事情。

 どちらを優先するかと言えば、咲夜は自分だった。咲夜の性格を知る事が出来たから取れた手段。まずはこれで、園芸部の危機は去った。

 

 だけど、まだこれで終わりじゃない。

 これでも充分求めていた結果だが、ここで終わってはいけないんだ。

 

 査問委員会がなくなってから残るのは、打ちのめされた咲夜と、咲夜に憎しみを抱く多くの生徒達。

 咲夜の権力は変わらないままだが、咲夜に対する恐怖感はみんなの心から消えている。

 

 そうなったらなにが起きると思う? 

 男の悠でさえ、綾小路家と言うだけで殴られたんだ。金と権力はあっても、非力な咲夜なら、もっと暴力的な事をされてもおかしくはない。

 直接的な被害は最初だけかもしれないが、その後も間接的な嫌がらせが咲夜に降り掛かる事は想像に難くない。

 

 無論、そんな状態になれば咲夜は簡単にこの学園を離れていくだろう。だけどそしたら、今度は新しい綾小路家の息がかかった人間がこの学園にやってくるだろう。

 咲夜とは違って、本当の意味で隙のない人間が来たら、それこそどうしようもなくなる。咲夜がこの学園に居続ける事が、これから先重要になるんだ。

 

 そうなると、咲夜にはここに残る理由が必要だ。

 その理由を、俺が提示する。

 

「条件2つ目、園芸部に入れ」

「分かったわ……って、はぁ!?」

 

 今度は別の意味で生徒達がざわつく。

 見てないが、恐らく綾瀬や渚も驚いているだろう。園子にだけは昨日既に話をして、納得して貰っている。

 

 ……もっとも、自分を苦しめた側の人間を迎え入れる事に納得してもらうのだから、それはそれで1つ条件を飲む事になったのだが。それはまた別の話。

 

「なんのつもりよ、私を園芸部に入れるなんて」

 

 今度ばかりは流石に素直にハイと答えない。

 まあそれもそうだ。自分が何をしてきたのかはよく分かってるだろう。明確に園芸部を潰そうとしてた人間を、部員として迎え入れる意味が分からないのは当然の話だ。

 

「理由は簡単だ。もうこれ以上お前と悠がチクチクいがみ合うのを見るのは嫌だから」

「だったら尚更じゃない、アタシとアイツを同じ部にするなんて矛盾してるわ」

「話は最後まで聞けよ。だから決めたんだ、お前らには『友達』になってもらう」

「は、はぁぁ!?」

 

 ある意味、今日1番信じられないというリアクションをしてきた。

 

「お前らは元々の性格が同じだから同族嫌悪じみた対立してたが、俺の友達の定義はさっきも言った通りだ。性格が近い分、だからこそ理解出来る価値観や感性、金持ち特有の常識とかあるだろう?」

「だけど、それでアイツと友達になれなんて……」

「それだけじゃない、俺もお前とはもっと仲良くなってみたいんだよ」

「えぇ!?」

 

 さっき以上に信じられないという顔をする咲夜。

 

「それこそ、本当に意味分からないわ! 何がしたいのよアンタ! アタシを追い詰めたと思ったら今度は友達になりたい!? 意味不明過ぎるわよ!」

「友達になるまでは言ってない、仲良くなりたいって言ってるんだ」

「それの何が違うのよ!」

「そのうち分かるよ。とにかくどうするんだ、部員になるか、ならないか?」

 

 突き詰められて、また視線を床に向ける咲夜。

 もどかしくなった俺は先ほどとは違いゆっくりと咲夜に近づき、手を差し伸べた。

 

「少なくとも、お前はあの日、俺が見せた街の景色を『悪くない』って言ってくれた」

「それは、言ったけど……」

「だから、少なくともその分はお前を嫌いになれない。俺の好きなものを分かってくれたから、俺もまた悠の時みたいに、これからお前を知りたいと思ってるんだ……本当だぜ?」

「……そう」

 

 ぶっきらぼうに答えてから、

 

「分かったわよ、その条件ものむわ」

 

 俺の手を掴み、立ち上がった。

 綾小路咲夜が園芸部の部員になった瞬間である。

 

「そういう事だ、みんな!」

 

 左手に持ってたマイクの電源を付けて、全生徒に宣言する。

 

「査問委員会はたった今終わらせた! 代わりに咲夜は俺達園芸部の後輩になった! 文句はねえな!?」

 

 生徒達がそれぞれ反応しているが、賛成も否定も求めては居ないので、俺は1番大事な事を全員に伝える事だけに集中する。

 

「こっから先、咲夜に変な事してみろ、その時は俺が園芸部の仲間に手を出した奴を徹底的に後悔させてやるからな! 分かったか!」

 

 かなり問題発言なのは間違い無いが、それによってこの瞬間から、咲夜に対するヘイトは大幅に減ったのは間違いない。

 全校生徒の前で昨夜を問い詰めて、査問委員会を終わらせた人間が、咲夜を身内に抱え込んで今度は守ると言う構図。

 一般生徒にとっても予想外の展開だが、同時に咲夜が今後変な事をしないための防波堤として、俺への信頼も生まれただろう。

 

 これによって、咲夜に被害を加えようとする奴らを牽制出来るようになった。

 

「それで、最後の条件はなんなの?」

「あぁ、最後の条件は……」

 

 査問委員会を無くした。

 園芸部に入れて危険の芽を摘んだ。

 それじゃあ最後に残っているのは当然。

 

「謝れ」

「え?」

「え? じゃない、謝れ。俺は勿論の事、園子や綾瀬、渚とそれに……学園に戻ってきたら、悠にもだ」

「ま、待ちなさいよ! 謝るだなんてそんな」

「は? 出来ないの? じゃあ良いけどあと5分くらいだからな送信まで」

 

 直接的なリスクを提示する事で、改めて状況を再認識させる。案の定効果テキメンだった。

 

「うぅぅ〜〜! 分かったわよぉ! 謝るわ! 謝るからもう許して!!」

 

 半ば自棄になって最後の条件も受け入れた咲夜。

 

「それじゃあ早速、俺に言っとこうか」

「うぅ……」

 

 悔しさと恥ずかしさに飲み込まれそうになりながら、しかしそれでも1度ハッキリと口にした以上、自分の発言を反故に出来ないのだろう。プライドの高い咲夜だからこそ、いかに屈辱的な事でもやると言った事はやるしか無い。

 

 すーはーすーはーと呼吸を整えた後、

 

「あぁもう、行くわよ、ちゃんと聞きなさい! アタシは──」

 

 恐らく人生で初めての謝罪を咲夜はするのだった。

 同時に、右手に持ったスマートフォンで予約送信を取り消す。

 

 綾小路咲夜が来てから始まった、学園を巻き込んでの騒動がやっと終わった瞬間であった。

 

 これで後は、残る問題もただ1つ。

 その問題にもすぐに向き合う事になるだろうと、俺は強く確信していた。

 

 ──バン! という音と共に、閉じられていた講堂の扉が開かれる。

 

 多くの生徒は変わらず査問委員会が無くなった事への喜びや、咲夜が謝罪の言葉を口にした事に湧き上がって気付いてなかったが、俺はちゃんとその扉を誰が開けたのかまで見ていた。

 

 扉を開けたその人物は、肩で息をしながら講堂の様子を見る。

 そいつの事だから、きっと何が起きたのかを察知したに違いない。

 そうして目敏く俺の姿を見つけて、そいつ──遅すぎる登場を果たした、綾小路悠が言った。

 

「縁、君は──お前は、自分が何やってるのか分かってるのか!!」

 

 今までに聴いた事も無い怒号。

 間違いなく、今の悠はキレている。

 

 まぁ良いさ。怒ってるなら都合が良い。

 俺も、コイツには言いたい事がある。

 

「何やってるかだって? 見りゃあー分かるだろ。当たり前の事をしたんだよ!」

 

 言いながら、俺も悠に向かって歩いていく

 

 あと2M、悠の右手がギュッと握られるのを見た。

 

 あと1M、俺の左手に力が籠ったのを悠は見ただろう。

 

 そして、距離がゼロに近くなったその瞬間。

 

「ふざけんな縁ぁああああ!」

「歯ァ食いしばれ金持ちボンボンがぁあああ!」

 

 互いに叫びながら、拳を振るった。

 

 

 

――to be continued

 

 

 




次回、第2章『綾小路編』最終回です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第拾弐病「好きだから」

仕事が修羅場になり、前回の更新から3ヶ月ほど空いてしまいました。
1章とは大きくテイストの変わった2章もいよいよ大詰めです。どうか最後までお付き合い頂ければ幸いです。


 我ながら、一体何をやってるんだと呆れる。

 不良漫画でもないのに、たくさんの生徒が見ている前で殴り合いの喧嘩なんて、本当に馬鹿げている。

 この後は絶対教師達にしこたま指導されるだろうし、生徒達からの評判だって悪くなる、ロクな未来が無い。

 

 それを十分に理解しても尚、俺はもちろんのこと、悠も互いに止まる気はなかった。

 もう既に何発か良いのを貰ってだいぶ体のあちこちが痛いが、気分は萎えるどころじゃない。

 

「温室育ちの坊ちゃんのくせに、よく動くじゃないか」

「育ちが違うんだよ」

 

 こちらの挑発に対して、同じ様に返してくる悠。

 思えば、こうやってアイツと真っ向から対立するなんて事、今日が初めてだ。これまで多少の意見の食い違いはあったにせよ、アイツと『友達』になってからはここまで感情をぶつけ合うなんて事は無かった。

 

 そんな事を考えてると、不意に後ろから声を掛けられた。

 

「な、なにしてるのよアンタ、急に殴り合いなんて始めて」

「ん……」

 

 声の出所は、ほんのさっきまで園芸部の存続を掛けて対立していた綾小路家咲夜だった。

 目を丸々にしながら、殴り合いを始めた俺達を信じられないもの見てる様な表情を浮かべている。

 

「アンタ、悠夜(アイツ)のために私と対立したんじゃないの? それがどうして今度は急にアイツと喧嘩になるのよ!」

 

 それは現状を見てる人なら誰しもが思う事だろう。査問委員会や咲夜に真っ向から対立してまで園芸部や悠のことを守ろうとした俺が、なんでこんな事……俺が見てる側の人間だったら絶対そう思う。

 実を言えば俺だって本当は、こんな事するつもりは無かった。今度アイツの顔を見た時にはきっと、再会できた喜びと安堵で顔が綻ぶものだとばかり思っていた。

 

 けど、いざアイツのツラを拝んだ時、胸中に生まれた感情は全く別のものだった。

 

「だからだよ」

「え?」

 

 咲夜に顔を向けて、俺は答える。

 

「悠を、園芸部を守りたいと思ってたからこそ、アイツを殴らなきゃ気が済まない事に気づいたってこと」

「な、なんでよ。ますます意味不明よ」

「それは」

「よそ見してるなよ!」

 

 咲夜との会話に意識を向けてる間に、悠が拳を握り締めながら一気に間合いを詰めてきた。咄嗟に顔をガードしたが、

 

「うぐっ!」

 

 殴ろうとする拳はフェイントで、悠は走り込みながら姿勢を低くして、ガラ空きになった俺の胴に目掛けてタックルをしてきた。

 幾ら悠が華奢な身体だとしても、全力で走って来た人間のタックルを受けて平気でいられるわけが無い。

 そのまま体勢を崩してしまい、講堂の床に倒れてしまう。

 

 逆に馬乗りの体勢になった悠は、容赦なく拳を振り下ろしてきた。

 

「この、この、この!!」

 

 腕でガードしながら耐えるが、このままではジリ貧だ。かと言って、腕を解けば顔面をタコ殴りにされるのがオチだろう。

 だから、口を動かす事にした。

 

「随分と、怒ってるじゃないか……何がそんなに気に入らないんだよ」

「何が……何がだって!?」

「俺がお前に怒るのはともかく、お前が俺に怒る筋合いなんて、ないだろ」

「──ッ!」

 

 拳が、止まった。

 

「僕がどんな気持ちで、諦めたと思ってるんだ」

「……何を」

「僕がどんな気持ちで! 君達と一緒に過ごす時間を諦めたと思ってるんだって言ってるんだよ!」

 

 ガードの姿勢を解いて、腕の隙間から悠の顔を見上げる。キッと睨むその眼には、僅かながら涙が浮かんでいる様に見えた。

 

「僕じゃ咲夜には敵わない。みんなと一緒に……君と一緒に卒業まで過ごしたいけど、それが無理だと思ったから諦めたんだぞ! なのに君は、自分がどんなに馬鹿なことをしたと思ってるんだ!」

「諦めた? そんなのお前が勝手に決めた事だろ、それで俺に怒るのかよ」

「そうじゃないとみんなに迷惑が掛かるのは、君も充分理解しただろ!」

 

 ああその通りだ。咲夜に逆らえば逆らうほど、どんどん追い詰められていくのを、俺も散々思い知らされた。後にも先にも、ストレスで嘔吐するなんて経験は今回が初めてだったのだから。

 俺だけじゃなく渚や綾瀬、園子も同じ目に遭うのが分かっているから、本当は嫌だけど学園から去る決意をしたんだろう。

 

 それを理解した上で、俺は悠に言った。

 

「それが気に入らないんだよ」

「な……!」

「だいたい、今更それを言ってどうするんだよ。もう咲夜と査問委員会とは決着ついたんだよ。失敗したならともかく成功した俺に怒る権利なんて、それこそ無いだろ」

 

 真っ向から、見上げる姿勢のまま上から目線で悠を否定する

 

「ふざけるなよ!」

 

 当然の様に悠の怒りは再燃し、右手を振り下ろそうとしたが、

 

「いつまでも人の上に乗ってるんじゃねえよ!」

 

 それより早く上半身を起き上がらせて、その勢いのまま悠の顔面めがけて頭突きする。

 声にならない声を上げつつ転げ落ちた悠を追いかけて、俺は痛がる悠の首元を掴む。

 

「どうにかしよう、諦めないで考えようってしてた矢先にアッサリ諦めた、それが気に入らないって言うんだよ!」

 

 悠の顔を見た時、安堵や嬉しさ湧くものだと俺は思っていた。でもいざその時が来たら、俺の中に今日までの記憶がスパークする様に溢れ出た。

 素直に喜ぼうとした自分を、今日この瞬間まで踏ん張ってきた自分自身が止めた。『俺がここまで現状を打破しようと動いたのに、当の本人は何をしていた?』そんな言葉が自分の中で生まれた途端、もう落ち着いて悠の顔を見ることは出来なくなった。だってそうだろう? アイツはアッサリと咲夜に抗うことを放棄した。園芸部のみんなと──俺と一緒に生きる選択肢を投げ捨てたんだ。

 それが──それが何より、一番許せない! 

 

「俺達の関係はそんな簡単に捨てても良いくらい安かったのか? ああダメだ諦めようって思えるちっぽけな繋がりだったのかよ? 確かに、俺たちが出会ってまだ三年しか経ってねえ、片手で数えきれる年数しか一緒に居なかったよ、でもな!」

 

 たとえ一緒に過ごした時間が三年だけと言おうとも、その中身は、時間の濃さは、決して片手で収まりきるモノじゃ無いはずだ。

 

「俺はお前と一緒に過ごした時間が、凄く大事だったんだ。大事だったし、これから先だって続けて行きたいと思ってる。今回の事でお前が俺の前から居なくなるかもしれないと思った時、死にたくなるほど苦しくなった。絶対に嫌だと思った、お前もそう思ってると信じてたから絶対に咲夜に負けないでどうにかならないか考えようとしてた」

 

 話すうちに、どんどん感情が昂ってしまう。

 

「なのに! なんでお前はあんなにアッサリ俺を切り捨てたんだ! 親友だと思ってたのは俺だけで、お前にとっては表面上の付き合いだったのかよ?」

 

 そこまで言った直後、なすがままになっていた悠が同じ様に俺の首元を掴む。グイッと顔を近づけて、ツバが飛ぶのも構わずに言い返してきた。

 

「そんなわけが無いだろ! 極端な事言うなよ! 僕だって君を大事な親友だと思ってる、今だって! 三年『しか』って君は言ったけど君に会ってからの三年間はそれまでの僕の人生全てと天秤に測ったって負けない時間なんだ! だからこそ、咲夜からみんなを──君を守りたくて、それで諦めたんじゃないか!」

 

 ここまで来て、やっと悠は自分の気持ちを言葉に出し始めた。

 

「君が電話を掛けてくれたあの時、君がいつになく意気消沈してるのが分かった、絶対咲夜が何かしたんだって……咲夜を殺したいとすら思ったよ。でも僕が身を引けば、君が僕を見限ってくれたら、それでもう君が苦しむことは無かったんだ。あの時電話を切った僕が淡白に薄情に君の電話を切ったと思うのか!? どれだけ泣きたいのを耐えたと思ってるんだ、どんなに……切りたくないと叫びたかったか、分かるのかよ!」

 

 いつしか涙を流しながら、悠が言葉を弾き出す。

 生徒や教師たちがいる事なんてもう意識の範疇には無い。俺の眼には悠が、悠の眼には俺しか映っていない。

 あの日の電話から途切れていた俺たちの時間の穴を、感情のすれ違いを、世界が急いで修正しようとしてる様な錯覚を覚えた。

 

「お前の気持ちがどうだったのかなんて……分かるかよ」

「な……!」

「だってそうだろ、お前だって俺がこんな事すると思ってなかったんだ、お前が俺の気持ちが分からなかったのに、俺だけ都合良くお前の気持ちを理解なんて出来るわけねぇだろ、だから金持ちのボンボンなんだよお前は!」

「そ……そのボンボンの力を借りなきゃ柏木さんの事だって解決出来なかったのが君じゃないか! 都合いい時ばかり頼るな!」

「自分じゃ足りない所を親友の力に頼って何が悪いんだよ!」

 

 あぁ、もうこんなの開き直りだ。

 そんな事百も承知で口は回る。

 

「だから今回はお前の力は諦めて動いたんだろうが! むしろ褒めろよ! 結局お前怒るんじゃねえか、理不尽なのは咲夜と変わんねえなぁ流石綾小路家だよ。そもそも今回の騒動や園子の時だって大元は、俺も含めた殆どの生徒が関係ないお前ら綾小路家の問題が理由だろ? それを巻き込まれた俺が解決しようとして何が悪いんだよ!」

「それは……確かにそうだけど、でも今回は君の理想通りに事が進んだから良かっただけだ。失敗したらどうなるか考えなかった?」

 

 それは今日に至るまでに何度も考えた事だ。失敗すれば俺一人が咲夜に潰されるだけじゃない。園芸部の全員が等しく咲夜に潰される。それに、

 

「みんなの家族だってタダじゃすまない。何人の人生が君の行動に左右されていたと思ってる! 何も考えてないからそんな事が出来るんだ、これからも君はそうやって自分の気に入らない事について、何人も何人も巻き込んで後先考えず突っ込んでいくのかい!?」

 

 辛辣だが、どれも正論だった。

 そして同時に、俺にそこまで言ってくれる(…………)人間はこの世で悠だけだ。

 渚や園子は俺の気持ちを汲んで背中を押してくれた。綾瀬だってもし俺のやろうとする事を聞いたら、多少止めはしても力を貸してくれるだろう。

 同性の親友だからこそ、真正面からここまで言ってくれる。言葉は厳しいけど、悠が俺を本当に大事に思ってくれてるのは痛いほど分かった。

 だからこそ俺──もハッキリとここは言い返す。ロジカルとは程遠いけれど、悠と同じくらい真正面から。

 

「俺が何を考えて、こんな事したのかって聞いたよな? だったら嫌でも分かる様にハッキリと言うよ、お前が好きだからさ!」

「好きって──えぇええええ!?」

「好きだからこんな事出来るんだろうが、お前と離れたく無いから何でもかんでも手を尽くしたんだ、文句あるか!」

 

 全て言い切った俺は、悠の首元を掴んでいた手を離す。

 すると、悠も俺の首元を掴んだ手を離して、しかもその場にペタンと座り込んでしまった。

 どこかぽぉっとした表情で俺を見上げて、すっかり何も言わなくなる。

 

「お、おい……どうした」

「……っ」

 

 さっきまでの勢いが嘘の様な悠に面食らってると、後ろからポンと肩を掴む感覚があった。振り返ると、園芸部顧問の幹本先生だった。

 

「君たち……二人だけの世界を作るのは学生らしくて素敵だけど、そろそろ現実見渡しましょう?」

「──あ」

 

 俺と悠の間にあった溝を修正し終えた世界は、手のひらを返すように俺に現実を認識させた。つまりは、俺と悠のやりとりの一部始終を見た生徒・教師たちの視線である。

 

「〜〜〜!!!!」

 

 当然、みっちりしこたま怒られた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「痛っ……」

「ほら、我慢するっ」

 

 案の定生徒指導の先生からタップリとお灸を据えられた俺と悠(不思議とやり玉に上がったのは喧嘩の部分だけで、俺と咲夜の件についてはノータッチだった。ありがたいが)。その後、悠は俺に何か言うことも無いまま、そそくさと帰ってしまった。

 俺もさっさと教室に戻って帰宅しようとしたが、先生から『顔の傷だけでも消毒してこい』と言われてしまい、強制的に保健室に行く事となった。

 

 治療を強要したくせに肝心の保健室には誰もおらず、仕方ないから自分で処置しようとしたところに、俺のかばんを持った綾瀬がやってきた。

 ちょうど消毒液をひたしたコットンを顔につけようとして所だった俺を止めて、自分がやると言い出し、断る理由もない(断ると後が怖そう)ので、素直に任せる事にした。

 

「思ったより、結構あちこち痛いな……唇も切れてたかあ」

「当然よ、あなた凄い綾小路くんに殴られてたんだから。……ほら、首動かさない」

「んぃててて! アゴ掴まないでくれ、そこも痛いんだ結構地味にマジで」

「自業自得。だいたい、いい歳してあんな小学生みたいな喧嘩なんて……最近のあなたはずいぶん大人になってきたなって思ったのに、本当にもう馬鹿なんだから」

「それについては……何も言い返せない」

「それに、あの綾小路さんに向かって急にあんなドラマや映画みたいな事するなんて、私何も聞いてなかった。結果的にはうまく行ったから良かったけど、彼も言った通り凄い怖い事してたって、自覚してる?」

「……ごめん」

 

 今回の俺の行動については、綾瀬には何も知らせずに全て事を進めていた。

 綾瀬が今日まで学園を休んで居なかった事も理由の一つだが、話せば絶対に止められると思ったからと言うのが一番の理由だったからだ。

 

「まぁ、私もずっとここ何日か休んでたから、あなたが言い出すタイミングが無かったのもあると思うけど……園子だって知ってたのに、私は何も知らないでたなんて」

「そ、園子には裏工作に協力してもらったからさ。それに園芸部の部長だし、園子自身も今回の騒動に間接的とは言え一番関わりあったし、だから別に綾瀬を除け者にしたって事は」

「無理に理由並べ立てなくて良いから……あなたはそう言う事しないって分かってるから」

「ん……」

 

 ぴしゃりと言う綾瀬の口調は、咎めるようなものではないとすぐに分かったが、依然として綾瀬自身の雰囲気から剣呑なモノを感じるのは気のせいだろうか。

 こういう時、サラッと原因に気づければ良いのだろうけど、生憎今の俺は心身共に疲れ切ったのもあってその手の思考がダメになっている。だからと言うのもあって、直接聞く事にした。

 

「えーとさ、綾瀬」

「ん、なに?」

「まだ他にも何か、怒ってたりする? いや、してます?」

「別に、怒ってないわよ」

「それ絶対怒ってる時に言う言葉だよね」

「怒ってないったら。なんでそう思うのよ」

「いや、だってこう、何となく綾瀬からそういうオーラが感じるっていうか、その」

 

 小学生の頃、俺がやらかしたイタズラに対して怒る直前の綾瀬がよく見せていた表情や雰囲気とよく似てるから、そう話すと綾瀬はやや間を置いてから言った。

 

「ふーん……そう言えば、昔はあなたから色々イタズラされてたわね。アタシのヘアリボンにあなたの名前書かれたり、教科書こっそり取り替えてたり」

「あははは……すみません」

 

 墓穴を掘ってしまった。かえって過去の行いを責められるハメに。

 そう言えば教科書については当時、怒られはしたけれども俺が取った綾瀬の教科書を返す事は無く、そのままお互いの教科書で一年間すごしたっけ。

 

「そう言うイタズラ、綾小路くんにはしなかったの?」

「へ、悠に? いや、やらないよ流石に」

 

 あれは好意の裏返し的行動というか、まだそう言う感情を自覚したり表現するのが出来なかったのが理由だったわけだし、中学生にもなって同じような事を、しかも同性相手にするわけが無い。

 それくらいの事は流石に綾瀬だって分かるものだと思うが。

 

「ふぅん、彼にはそう言う事はなかったんだ。やっぱり『好きな人』は特別って事ね」

「は……えぇ!?」

 

 まさかとは思うが、綾瀬は俺が喧嘩の最後で悠に言った言葉について、先ほどからずっと怒ってたのか? 

 はぁぁ嘘だろ!? 相手は男だぞ!? そりゃ悠の見た目が本人がちょっと本気出せば俗に言う『男の娘』に慣れるくらいの容姿とは言えども、あの時の『好き』は絶対に『親友として』の言葉だと分かるものだろ。

 

「あ、綾瀬さん……言うまでも無いが俺は男友達として好きって言っただけで、決して綾瀬が思う様な意味では無いんですよ?」

「ふーん……」

「…………」

「…………」

「〜〜っっ」

 

 勘弁して欲しい。

 修羅場に相対する時の心構えはある程度付いてきたが、こういう詰られ方にはまだ全然耐性が無い。

 流石にここから血飛沫が舞う展開は無いと思うし、無言でジト目のままこちらを睨む綾瀬の顔はそれはそれで可愛いけれど。

 

「──ぷっ、あはは!」

 

 とか悩んでたら、急に笑いを噴き出す綾瀬。

 

「あはははは! あなた今、怒られてる時の子犬みたい」

「なっ、あーやーせー! からかったな!」

「だって、困ってるあなたの顔可愛いんだもん、つい、ね?」

「ね? じゃねえよ……もう本当、咲夜相手にするよりもキツかったぞ」

「それはオーバーじゃない?」

「ちっとも」

 

 演技だと分かって安堵する。

 

「でも、アタシだけ何も知らなかったのは、やっぱり寂しかったかな」

「??」

 

 綾瀬が呟いた言葉がちゃんと聞き取れなかった。

 何を言ったのか聞こうとしたが、右頬から痛みが走って言葉をうまく出せなかった。

 

「まだ痛むところあるの?」

 

 心配した綾瀬がグイッと俺の顔を掴んで覗き込んでくる。

 

「やっぱり、口の中も切ってるじゃない。ほら、もっとちゃんと口開けて」

「あ、綾瀬……ちょっと」

「もう、何? 喋るとどこが切れてるか分からな……っ!」

 

 口の中まで見ようとするから、当然顔が近くなる。息が当たるんじゃないかってくらいお互いの距離が近い事に気付いた綾瀬が、瞬間沸騰湯沸かし器もかくやという勢いで赤面する。

 

「ご、ごめんなさい!!」

「いや、謝んなくていい……」

「……」

「……」

 

 先程とはまた違う意味での沈黙が漂う。

 気恥ずかしさから、次の言葉が喉から上に出てこない。

 またしても、この沈黙を破ったのは綾瀬の方からだった。

 

「よ、縁!」

「はい!?」

 

 急に大きな声で名前を呼ばれたから、驚きつつ答えると、綾瀬は自分の膝の辺りをポンっと叩きながら言った。

 

「あ、頭……ここに置いて? 膝枕してあげるから」

「はあ? 急にどうした!?」

 

 恥ずかしさで判断力が落ちたのだろうか。

 

「い、良いから! 言い合いとか殴り合いとか疲れてるでしょ? 膝枕してあげるから!」

「今までの流れとの繋がりがなさ過ぎて意味がわからな──」

「あぁもう、良いから!」

「ぐぇっ──」

 

 肩を掴まれ、無理やり体を引っ張られる。強制的に膝枕の姿勢にされた。

 あまりにも急な展開に頭が『?』で埋め尽くされているが、確かに今日はずっと動きっぱなしだったのもあり、脱力して横になれるのはありがたかった。

 綾瀬の膝……というか太もも辺りだが、高さも柔らかさもちょうど良いから、油断してるとさっきまで張り詰めていた分の緊張がほぐれて、あっという間に眠くなりそう。うん、というかこれはまずい。

 

「あー……綾瀬、もう」

「ねぇ、教えて? アタシが学園を休んでる間、あなたがどう過ごしてきたのか。今日までにどんな事があったのか」

 

 膝枕を終わらせようと提案する前に、綾瀬が質問を投げかけて来た。

 先週綾瀬が学園に来なくなってからの日々について、どうやら綾瀬はこの状態で話を進めたがっているらしい。

 なら仕方ない。物凄く恥ずかしいけど、話すとしよう。

 

 俺は決して綾瀬に顔を向ける事はせず、横になったまま、今日までの出来事を大まかに話した。

 咲夜に聞かされた綾小路家内の対立。俺に託された悠を見捨てるか否かの選択。心が折れかけて咲夜の殺害まで考えていた事と、そんな俺を助けてくれた渚について。

 塚本の事も詳しいやり取りは省いて説明した。あまりアイツの話は振り返りたく無いし、万が一詳しく話した事で何か起きたら嫌だから。

 

 綾瀬は聴きながら合間合間で一つ二つ質問を挟みつつも、最後まで静かに話を聴いていた。そうして、一通り今日までの経緯を話し合えると、

 

「……お疲れ様。本当に、頑張ったのね」

 

 そう言いながら、子どもをあやす親のように俺の頭を撫で始めた。当然恥ずかしさが爆発してすぐにでも止めて欲しかったが、同時に言っても止まないだろうという確信もあり、いっそ気が済むまでされるままでいようと決めた。

 もっとも、このタイミングで渚に来られたら最悪だが。

 

「今日、綾小路咲夜さんの秘密をバラしたのは、渚ちゃんの提案した作戦だったのね」

「うん。俺たちみんな、悠の口から聞いた話でしか咲夜を知らなかった。だから咲夜の事を深く知れば、『何も知らない状態』よりも、現状を打破できるアイデアが見つかるんじゃないかって」

「そう……渚ちゃんがそういうの思いつくんだ。ちょっと意外だったかも」

「そうか?」

「うん、だってあの子、いつもあなたの事しか考えて無さそうだし。他の人を、ましてや女の子を理解すればなんて提案、考えつくと思わなかった」

「言われてみれば、確かにそうかもな」

「でも」

 

 一呼吸おいて、綾瀬は言葉を続けた。

 

「あなたが辛そうにしてるから、渚ちゃんも頑張って考えたんだろうなぁ。本当は嫌なの我慢して、あなたが他の女の子の事を深く知るように促して」

 

 アルバムを開いて当時を思い起こすように、穏やかな口調で話す綾瀬。その言葉は俺に聞かせているというよりも、自分自身に言い聞かせてるようにも感じた。

 

「もし、私が渚ちゃんの立場に居たら、私も同じ事をあなたに言えたのかな……」

「綾瀬……」

「気付いてる? 渚ちゃんね、前にあなたと喧嘩してから、凄く周りを見るようになった。あなたの事はもちろん、あなたの周りの人間関係も全部」

「うん……そうだな」

 

『自分』と『兄』という狭い世界しか見なかった渚では、心が潰れかけていた俺を助けてくれなかった。綾瀬の言う通り、渚が『自分に都合のいい世界』を見なくなったからこそだと思う。

 

「あの子も成長してる。園子だって、初めて会った頃ならビクビクして何も出来なかったと思うけど、あなたを信じて力になろうとしてた」

 

 俺の頭を撫でる手が、止まった。

 

「アタシだけ、何も出来なかった。あなたに心配されて、それで喜んで……あなたが苦しんでいた時に、何も」

「それはちが──」

「違くないの」

 

 否定しようとした俺の言葉を、綾瀬がぴしゃりと止めた。俺もそれ以上綾瀬の言葉に口を挟めなくなる。

 

「実際、アタシは今回の件について何も知らないまま今日まで過ごしてたから。幼なじみなのに……ううん、幼なじみって立場に甘えてた」

 

 言葉の端から、僅かに苛立ちを感じる。

 他者に対してではなく、自分自身に対しての怒りを、綾瀬は抱いているんだ。

 今綾瀬の方を向いたら、どんな顔をしてるんだろうか……見たいとは思えなかった。

 

「今だって、あなたにわざわざこう言う事を話して、同情してもらおうとしてる。ずるいよね」

「綾瀬」

「幼なじみだからいつでもあなたの事を理解出来てる、少し話さなくても一番あなたを分かってるのは自分だ……なんて、無条件に思ってた。馬鹿みたい」

「綾瀬、そこまでだ」

 

 起き上がって、今度は迷いなく綾瀬の顔を見る。泣いては居ないが、代わりに思い切り苦いものを口にしてる様な表情を浮かべていた。

 それは自己嫌悪の顔なのだと、すぐに気づいた。今の綾瀬は自分を否定しようとしている。

 

「先に言っておくが、これは同情じゃ無い。だからちゃんと聴いてほしい」

「縁……」

「確かに今回、綾瀬は何かしたってわけじゃ無かった。でも、その代わりってわけじゃ無いが綾瀬は被害者だった。だから、綾瀬が何も出来なくたっておかしく無いんだ」

 

 仮に綾瀬が俺の心に寄り添えなかったという、俺にとっては全く問題のない事について悩んでいるのだとしても、それは仕方のない話だ。

 だって、俺自身綾瀬と連絡を取る手段はあったにも関わらず、今日の事を伝えていなかった。もう既に被害者である綾瀬に更なる心労を与えたくなかったからだ。

 何も伝えてないのだから、超能力者でもない綾瀬が俺のために何かしようなんて思いつくわけが無い。

 そんな都合よく何かを察するなんて事、あり得ないんだから。

 

「それに、何度も言うように綾瀬は俺たちの中で最初に実害を受けた人間だ。自分の事でいっぱいいっぱいの状況だったはずだ、違うか?」

「……うん」

「だったら、俺の事なんて考えなくてもそれが自然じゃないか。むしろ、あんな目に遭ったのにそれでも俺の事を優先されたら、困るよ」

 

 そう言って小さく笑ってみせると、つられて綾瀬も小さな笑みを見せてくれた。

 良かった。取り敢えずどうにか、自己嫌悪の考えは収まってくれたみたいだ。

 

「ありがとう、ごめんね、結局あなたに慰められちゃった」

「慰めてないし謝らなくてもいいよ。本当の事しか言ってないから」

 

 俺がそう言うと、綾瀬は俺をじーっと見て何秒か黙った後に、また小さく笑いながら言った。

 

「……ほんと、昔とは違うなぁ。前は泣きべそなあなたを慰めてたのに、気がついたらすっかり立場が変わっちゃった」

「だとしたら、綾瀬の教育の賜物です。俺一人で勝手に変わったわけじゃないよ」

「ふふっ、何? 教育の賜物って……お母さんじゃないんだから」

「それは確かに」

 

 そう言って、お互いにクスクスと笑い合う。

 ひとしきり笑い終えてから、綾瀬が少し真剣な表情になって言った。

 

「……アタシも、もっとあなたの助けになれる様に頑張るね」

「もう、充分色々助けられてきたよ」

「昔の事でしょ? 今のあなたの力にはなれてないから。アタシも渚ちゃんみたいに、あなたの事を理解して、それであなたの──」

 

「無理ですよ」

 

 

 綾瀬の言葉を、突如現れた第三者の声が遮った。いや、誰の声かなんて考えるまでも無い。妹の渚の声だ。

 渚が、保健室の入り口に立っていた。

 

 いつからそこにいたのか、どこから話を聴いていたのか、問い詰めたい事は何個もあるが、それら一切の質問を挟ませる余地もなく、スタスタと保健室の中に進み俺達の正面にまで距離を積めた渚が、間髪入れず綾瀬に言った。

 

「幼なじみと言ってもただの他人だって、綾瀬さんも分かりましたよね? だって、昔から一緒に居て教室も同じなのに、今回お兄ちゃんのために何も出来なかったじゃないですか」

「……っ」

「今回の事で、証明出来たと思います。お兄ちゃんを理解出来るのは、同じ家族で妹の私だけです。でも、お兄ちゃんが今のお兄ちゃんになるまでに、綾瀬さんから受けた影響はたくさんありますし、これからもお兄ちゃんが楽しい学生生活を過ごすためには、綾瀬さんが必要だと思いますから──」

 

 そこまで言って、一瞬俺の方を眼だけで見てから、最後通告のように言い放った。

 

「これからも『幼なじみ』として、分を弁えてお兄ちゃんと一緒に居てください。よろしくお願いしますね?」

「渚、いくら何でも言い過ぎだ!」

 

 水を得た魚の様に綾瀬を煽る渚を、慌てて止めた。

 まるで綾瀬が『俺が楽しく学生生活を過ごすためのツール』であるかの様な言い方だ。そんな人を舞台装置の様な扱いする言葉を、看過する事は出来ない。

 何より、このままでは綾瀬が渚に対して抱く悪感情がとてつもない物になる。

 それこそ、ヤンデレCDの様に俺の見ていない所で密かに殺し合いなんて事態に発展してもおかしくない事を、渚は言ってしまったのだ。

 

「渚、いくら何でも今のは失礼だ。綾瀬に謝れ」

「謝る必要なんて無いよお兄ちゃん。だって、私が言った事を一番思ってるのは、きっと綾瀬さん自身だもん」

「そんな事は──」

「縁、良いの」

 

 綾瀬が渚ではなく、俺の言葉を遮った。

 

「良いの……渚ちゃんの言葉は、間違ってないから」

「そんな事ない! 綾瀬は俺の」

「俺の、『何』?」

「……俺の」

 

 その先が、出て来なかった。

 幼なじみでは、渚の言葉を否定出来ない。

 じゃあそれ以外の言葉で綾瀬を表すには……、覚悟が必要だ。

 そしてその覚悟を、今この場で決める事は出来なかった。

 

 それを分かっていたかの様に、綾瀬は先程までと同じ様に小さく笑って(泣くのをこらえて)

 

「……先に帰るね。じゃあね、渚ちゃんも」

「──はい、気をつけてくださいね」

「うん、ありがとう」

 

 そう言って、駆け足で保健室を去っていった。

 後に残ったのは、俺達兄妹だけ。

 

「それじゃ、私達も帰ろう、お兄ちゃん!」

 

 先程までと打って変わって、朗らかな笑顔で俺に手を差し伸べる渚。

 

「今日は大安売りの日だから一緒に買い物手伝って欲しいの。それで探してたんだ。お兄ちゃん今日までいっぱい頑張ったから、お兄ちゃんの好物いっぱい作ってあげるね!」

「……」

「お兄ちゃん?」

 

 何か、さっきまでの時間で、大きな過ちをしてしまった様な感覚が胸から離れない。

 それが何なのか、答えが見つかる事は無く。

 

「──あぁ、帰ろう」

 

 渚の手を取り、一緒に保健室を出て行く。

 

 綾小路咲夜が転校してから生まれた問題は、今日をもって解決された。

 しかし、今日を迎えるまでに生じた人間関係の『捻れ』は決して消える事なく、緩やかに、柔らかに、しかし確実に俺達に影響を与えようとしていた。

 

 

 

 ──続く

 




次回、2章綾小路編エピローグ
2日以内に更新します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終病「そして、冬が訪れる」

第二章綾小路編、最終話です
それでは、どうぞ


「お兄ちゃん、起きて。朝だよ」

「ん……あぁおはよう」

 

 渚に優しく肩を揺らされて、俺は目を覚ました。

 咲夜、そして悠と衝突したあの日から時間が経ち、季節は10月を迎えた。

 夏の残暑はとうに消え、秋が深まると共に太陽が昇るのもうんと遅くなり、布団から離れるのを躊躇いたくなる朝が多くなってきた。

 

「朝ごはん、まだだよな? 着替えたらすぐ行くから、お味噌汁の用意だけ先にお願いできる?」

「うん、分かった。二度寝はだめだよ?」

「寝ないって」

 

 渚のからかいに笑って答えて、俺はベッドから立ち上がる。

 ハンガーにかけた制服に袖を通しながら窓を眺めると、通路を歩く見知った人間の背中が見えた。

 

「……綾瀬、もう家を出てるのか」

 

 時刻はまだ7時を過ぎたばかり。登校するには少し早過ぎる時間にも関わらず、綾瀬は学園に向かっている。

 あの日、保健室での事があって以来、俺と綾瀬の間には薄い壁が一枚立っている様な感覚がある。

 会話をしなくなったわけでは無い。教室では会話するし、部活の時間では他のメンバーと共に活動したり雑談したり、そこは変わらない。

 

 だけど一緒に登下校したり、お昼食べたり、お喋りしたり、二人だけで何かをするって時間はすっかり無くなった。俺からそういう機会を持ち出そうとした時もあったが、色々理由をつけて断られてしまう。

 あの日、渚が言った言葉が綾瀬に影響を与えているのは間違い無いが……。綾瀬に『避けられている』という、いままでに無い状況に、正直俺は戸惑っている。

 せっかく、咲夜から俺たちの時間と居場所を守ったと言うのに。

 

「……はぁ」

 

 ため息と共に、俺は止まっていた手を動かして着替えに戻る。

 そう言えば咲夜についてだが、あの後律儀に俺との約束通り、査問委員会を即日に解体させ、恐怖政治による学園の統治は瞬く間になりを潜める事となった。

 高圧的な態度はそのままに、しかし、学園を舞台にした悠とのお家騒動も取り敢えず収まった様に見える。

 

 とは言え、転校してからすぐに査問委員会を立ち上げて、多くの生徒達に圧制を敷こうとした咲夜に対し、敵愾心を抱く奴は多い。咲夜でなければ今頃、間違いなくいじめに発展していただろう。

 そうならないもう一つの理由に、咲夜が現在(これも律儀に約束を守り)園芸部に所属しているというのもある。

 

 俺が咲夜と正面切って対峙し、最終的には園芸部に引き込んだわけだが、それで俺に対する変なイメージが付いてしまった。具体的には『園芸部、ひいてはその部員に危害を加えたら個人情報すっぱ抜いて脅す男』だと言う。

 不本意な風評だと言いたいが、今回俺がした事を端的に言い表してるので否定もしきれない。

 そのせいで俺に対しても警戒心を持つ人が出てしまった様にも見受けられるが、これについても最早『仕方ない事』として受け入れる事としている。

 

 心配だった園子を含めた部員達とのコミュニケーションも、意外だが必要な場合以外の干渉は避けつつ、部員全体で会話する際にはある程度発言もするなど、まだ大きなトラブルは生じていない。

 渚なんて、俺の知らないところで何かしやしないかヒヤヒヤしていたのだが、そんな俺の心配を逆に見透かして『何も変な事はしないよ』と釘を刺して来た。

 強いて言うなら、悠だけは時折皮肉めいた言葉を咲夜に投げかけ、時に冷たく、時に売り言葉に買い言葉なレベルの言葉を返して小さな火花を散らしている事くらいだろう。

 

「お待たせ、朝は鮭のムニエルな。渚は引き続き味噌汁頼む」

「ありがとう、お兄ちゃん。あっ、襟が立ってるよ」

「マジ? あっホントだ。ごめんサンキュー」

「もう、だらしないんだから」

 

 朝から渚に呆れられつつ、俺は朝食の用意を進める。

 

 ……あぁ、そう言えば悠についてだが。

 アレだけの喧嘩をしたにも関わらず、結局翌週からはすっかり元通りの関係に戻れてしまった。

 月曜日に教室で顔を合わせた時、周囲のクラスメイト達が一気に鎮まって俺らの動向を伺ったのにはビビったが、それ以上に俺も悠も、殴られた場所に絆創膏やらこぶやらが出来てて、それがなんか面白くてお互い同時に笑ってしまった。

 

『はははは! せっかくの良い顔も台無しだな!』

『縁の方は前より男前になったんじゃないかな、ははは!』

 

 そんな風に笑いながらまた会話出来る事に、俺は内心凄く安心したし、嬉しく思った。

 ところがだ、このやり取りを見てクラスの一部の人間があらぬ疑惑を立てる様になってしまった。

 

『ねぇ、やっぱあの二人って……』

『うん、この前『好きだー!』て告白してたもんね、集会で』

『きゃ──! お金持ちの中性的美少年×庶民の親友きた!』

 

 ……とまぁ、男同士の強い感情のぶつかり合いをすぐにBL認定し出す趣味の悪い連中からは、もっぱら『素材』とされてしまっている。

 この事について、俺は当然否定しているが、悠は積極的に鎮静させようとはしていない。それどころかむしろ面白がっている節さえ見える。

 死の恐怖や咲夜に脅されてた時とは異なる種類の悩みの種になりつつあるが、コレについては死の危険は無いので、風化を待って耐える事に決めた。

 

「──よし、じゃあ行こうか渚」

「うん、行ってきまーす」

 

 朝食を食べ終えて片付けも済ませた俺達は、今日も並んで登校する。

 普段と何も変わらない。けれど、何かが変わりかけている様に感じる通学路を歩きながら、俺達兄妹は今日も一日を始めていく。

 

「それじゃ、また放課後に」

「うん、またね!」

 

 別々の昇降口から校舎に向かう俺達。

 もはやルーティンと化して、目をつぶっても外靴と上履きを履き替えられる様な気さえしながら、俺は慣れきった足取りで教室に到着する。

 中にはすでに教室に居て、女子生徒と談笑する綾瀬の姿があった。悠はまだ居ない。

 

 一瞬、綾瀬と目があったが、俺はうまくリアクション出来ず固まったのに対して、綾瀬は挨拶代わりなのか小さく頷き、そのままさらっと会話を再開していた。

 やはり、ここでも俺と綾瀬の間に何か壁を感じてしまう。

 

「ねぇねぇ、野々原くん」

 

 自分の席に着くと、女子生徒から声を掛けられた。

 

「野々原くんと河本さんって、前より会話しなくなったよね」

 

 人が気にしてることをアッサリと突いてからに。

 

「まぁ、そうかな? あまり気にしたことないけど」

「うそー、だって前まで『付き合ってるの?』てくらいつるんでたじゃん、綾小路くんもいたけどさ」

「まぁー、三人で何かするってのは多かったかもな」

「多かったよー、一時は三角関係!? とか噂なってたし」

「誰だよそんなの言った奴……まぁとにかく、別にそっちが邪推する様な事は何もないから」

 

 綾瀬も聞こえる範囲内でこういう話はあまりしたくないので、さっさと切り上げようとしたが、そうはうまく行かなかった。

 

「それじゃあさ、野々原くんって河本さんとも綾小路くんとも付き合ってないんだよね?」

「何故そこでサラッと悠の名前を出す? ──ってそうじゃなくて、付き合ってないよ、それが?」

「そうなんだ、じゃあさじゃあさ、駅前に新しく出来たカフェあるんだけど、あたしらと今日行かない?」

 

 えぇ、そういう展開に話繋げるの!? 

 

「すごいおっきいパフェがあってさ、人数が四人以上じゃないと頼めないの。だから綾小路くんも一緒に行かない? どうかな?」

「あー、そうだな……悠にも聞かないとだし、この場で即決は」

「綾小路くんならきっと野々原くんが誘えば即OKだよ、ね、行こうよー」

 

 思ったより強引な誘いに面食らうが、断るにもこちらの理由が弱い……。今この場ではOKを言いつつ、裏で悠に断る様連絡を入れてみるか? 

 いや、それで悠がダメになったとしても別のメンバーを加えて俺含めた四人で行くって未来もありあるし……、そもそも断る必要もないのか? 

 

 ──そんな風に悩んでるところに、後ろから別の声が掛かってきた。

 

「縁、今日はスーパーの買い出しの日じゃなかった?」

「──え」

「河本さん?」

 

 そう、綾瀬が割って入ってきたのだ。先程まで会話してたクラスメイトとの会話を終えて。あるいは、俺が女子から放課後に誘われているのを聞いて……? 

 何にせよ、これは願ってもない助け舟だ。

 

「ごめん、そうなんだよ。俺んち妹と二人暮らしだからさ。今日は月曜だから俺が買い出し当番なんだ……悪いけど、無理そうかな」

「そっかー、分かった。妹さんと仲良いもんね野々原くん。しょうがないか。じゃあまたの機会にね!」

「うん、ありがとう」

 

 思ったよりアッサリと納得してもらい、ほっと胸を撫で下ろした矢先、

 

「縁、ちょっと来て?」

「ん……おう」

 

 綾瀬に小声で呼ばれて、教室から少し離れた廊下の角まで出る。

 

「うかつに喋りすぎよ。渚ちゃんも居るんだから、もう少し考えないとダメじゃない」

「あ、あぁ……そうだな。すまない」

「とにかく、あなたは最近良くも悪くも注目されてるんだから、もっと気を引きしめないとダメなんだから。分かった?」

「分かった、さっきは本当にありがとう。助かったよ」

「……どういたしまして」

 

 俺が礼を言うと少し照れ臭そうにそう答える綾瀬。

 

「それに、綾瀬とこうして二人で喋るの、やけに久しぶりって感じで嬉しかった、サンキューな」

 

 前よりぎこちないが、また二人だけの会話が出来て安心した。

 

「──もう、戻るわよ」

 

 返事はそっけなかったが。

 

「ねぇねぇ、野々原くん」

「うおっ」

 

 教室に戻るや否や、また先ほどの生徒に声を掛けられた。

 綾瀬はもう普段通りの雰囲気で、最初に会話してた相手とまたお喋りを楽しんでいる。

 

「二人って付き合ってないんだよね?」

「……そうだよ?」

「でも、さっきの河本さんの反応、やきもち焼いてる彼女さんみたいだったよ?」

「えっと……そんな事無いんじゃないかな?」

「そう? ……まあ、良いけどさ。じゃあ野々原くんは? 

「俺? なにが?」

「だから、野々原くんは河本さんのこと好きなの?」

「──っ」

 

 俺が綾瀬をどう思っているか。

 今の俺が、綾瀬に対してどんな気持ちを持っているか。

 過去の俺は、綾瀬に対して好意を抱いてたと思う。けど、今の俺は誰かに対して恋愛感情を持つ事を自制している。

 それは、その先にある惨劇を回避するだ。綾瀬、渚、園子、それぞれと恋仲になった先にある未来を、頸城縁(前世の俺)の俺はよく知っている。

 だから、その未来を避ける第一手として俺は『誰とも付き合わない、恋愛関係にならない』事を決めた。

『デレが生じなければ病みもしない』そう言う根拠の下今日まで生きて、生き延びてきた俺だったが。

 

 じゃあ、だからと言って、誰の事も好きにならないままで俺はいるのか。そんな疑問がふっと湧いてしまった。

 恋愛関係にならなくても、誰かを好きになっているんじゃないのか。ましてや、うっすらとは言え好意を持ってた綾瀬について俺はどう思ってるんだ? 

 

「……えっと──」

 

 女子生徒が投げかけた爆弾級の問いについて、どう答えたのかを、俺は思い出す事が出来なかった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 お昼になり、気分転換に今日は中庭で食べる事にした。悠は惣菜パンを買いに行ったが、俺は弁当を持参してるので先に向かった。

 

 中等部校舎と高等部校舎を繋ぐ連絡通路の下にある中庭では、俺の様に昼食をとる生徒のためにテーブルや椅子が用意されてあり、中等部と高等部の生徒達が入り混じっている。

 こうして見ると、綾小路家が関わってるだけあって豪華な造りをしているなぁ、と今更ながら思いつつ、俺は空いていたスペースの椅子に座り、悠を待つ事にした。

 

「──何してるのよ、あんた」

「おっ」

 

 そんな俺に声を掛けてきたのが、意外や意外、咲夜だった。

 周りには誰もおらず、一人だけで中庭まで来た様だ。

 

「──ぼっちか」

「え、なに? 煽った? 今煽ったわよね? いきなり喧嘩売ってる?」

 

 思ったより率直な発言すぎてダメだったのか、結構な剣幕で睨み付けられる。

 すかさず発言を撤回して平謝りをする。

 

「──ふん、そもそもアタシが庶民達と食事するのが筋違いって物よ。なんで生活レベルを落とさなきゃいけないわけ?」

「ま、まあまあ……落ち着けって」

「落ち着いてるわよ! それにぼっちなのはアンタもじゃない。一人で四人席占めてるの恥ずかしく無いのかしら」

「俺は違うぞ、後で悠が来るのを待ってるだけ」

「……あぁそう」

 

 露骨に不機嫌な態度を見せる咲夜だが、もしかして、

 

「良かったら一緒に食べるか? 俺は構わないぞ」

「だ、誰がアンタなんかと!」

「あれ、てっきり知ってる奴が見つかったから声を掛けてきたのだとばかり」

「ちちち、違うわよ! それに、アイツとも一緒に食べるなんて冗談じゃないわ!」

「そんな事言うなよ。それに庶民と食べるのが嫌なら尚更、同じ貴族の人間と」

「分かって言ってるでしょ!?」

 

 打てば響く楽器の様に、素直に反応を返してくるのが面白いと思える様になった。

 少し前まではむしろトラウマになりそうだったのを考えると、我ながら驚く事でもある。

 

「でもさ、実際園芸部で頻繁に顔を見る様になって、どう思った? 相変わらずアイツは無条件に嫌いか?」

「嫌いよ、相変わらず生意気な態度が本当に気に入らないわ」

「そっか……」

 

 やはり、両者の間にある溝はまだ深いのか。

 

「でもまぁ、思ったよりも違うところはあったと言えるわね」

「ん? というと」

「笑うじゃない、アイツ。アンタと話す時以外も結構。それが一番驚いた事かしらね」

「そっか……」

「アンタが、アイツをそういう風に変えたのかしらね」

 

 そう言いながら(話しながらさり気なく俺と反対側の椅子に座り向き合う形になりつつ)、咲夜が続けて言う。

 

「アンタの言う『友情』て言うのがアイツを変えたのか知らないけど。よくやったわよ」

「俺的にはその友情が、二人の間にも芽生える事を期待してるんだがな」

「ないない、無いわよ。馬鹿じゃないの。死んだって無理」

「辛辣な事」

 

 そう言って、いったん互いに間を空ける。

 なんだかんだ言って俺達が二人だけで会話する機会は少なく、しかも殆どが健全な状況では無かった。今こうして平和な空気感で会話してるのが珍しいくらいだ。

 

「まぁ、でもさ」

「でも、何?」

「友情ってのがどこまで続くのか、どこまでが友情なのか分からなくなる時ってのは、あるよ」

「え? 急になに言ってるのよ」

「いや、さ。この前の悠との喧嘩もそうだけど、今までお互いに理解しあってると思ってたら、実はそうでも無いんじゃないのかみたいな事は、たまにあるんだよ。そう言う時に友情て何だろうって思っちゃう時あるんだ」

「何よそれ、アタシに偉そうに友情語った人間のいう言葉?」

「本当な、面目ない」

 

 苦笑しながら答えつつ、俺の脳裡に浮かぶのはやはり綾瀬の事だった。

 先程は久しぶりに会話が出来たが、結局その後何か変わったわけでもない。悠にも少し心配されたが、結局何をどうすれば良いのか分からないままだ。

 

「まぁ、とにかく、友情ってのは維持するのも築き上げるのも難しいってコト」

「それを友達のいないアタシに言ってどうするのよ……」

「あ、友達いない事自覚してるんだ」

「──っっ、違うわよ!!! 庶民の友達なんて要らないんだから!!」

「あ、ちょ、おい待てって──行っちゃった」

 

 茹でたタコよりも真っ赤な顔になりながら、咲夜は走り去ってしまった。

 最後、俺も余計な事を言ってしまったと反省はするが、咲夜も咲夜で自分に友達がいない事を自覚して、多分気にしているんだと思う。

 それが良い意味での咲夜の変化に繋がれば良いなと、勝手に思ってしまうのは、相手が妹の渚と同年代だからだろうか。

 

「いっそ、渚と友達になってくれれば……いや、それはそれで後が怖いから無しか」

 

 そんな事をぼやいてると、スマートフォンから微振動が伝わってきた。見ると、園子からの連絡が表示されていた。

 

『すみません、今日急用が入ったので、部活動は無しか、私抜きでお願いします!』

 

「あー……こりゃ、仕方ない」

 

 こうなった場合、基本的には部活は無く放課後は解散になる。

 それ自体に不平不満を述べる事は無いのだが──、

 

 せっかく綾瀬とまた会話出来る機会が無くなったのが、嫌に口惜しく感じてしまう自分を自覚せざるを得なかった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ──そして、放課後。

 

 今日は部活が無い事もあり、急遽悠と渚の三人でゲームセンターに寄って帰る事になった。

 ここしばらく、と言うか園芸部に入って以来、悠と帰りに道草を食う事は無かった。そこに渚も混じって帰るのだから、新鮮味がある。

 

 とは言え、クラスから噂されてるのもあるので、校門前で集合するのでは無く、学園から少し離れたコンビニ前で合流という事にしている。

 悠は教室の掃除当番だったので、俺が一人先行でコンビニ前で待つ事になった。

 

 図らずもお昼と同じ状況になり、もしかしたらまた誰かに声を掛けられるんじゃないかと思っていたが、

 

「お久しぶりですね、野々原さん」

 

 どうやら今日ばかりは、思った事が現実になる能力を手に入れている様だ。全く嬉しくも無いが。

 

「そんな見るからに嫌そうな顔しないでくださいよ。一緒に園芸部を救った仲でしょう?」

「マジで言ってるのか?」

「もちろん。冗談です」

 

 そう言い放つ声の主は、塚本せんり。

 咲夜と並び、一時期の俺に多大なストレスを与えてくれた人間だ。

 もっとも塚本の言う通り……と認めたくは無いが、最終的に咲夜を止める事が出来たのは塚本からの情報のお陰なので、頭ごなしに拒否出来る立場に居ないのが非常にもどかしい。

 

「今日は何の様だ? というか、今日もスーツ姿か」

「似合うでしょ?」

 

 そう言いながら、誇らしそうに自分の背格好を見せてくる。前にもスーツ姿は見たが、夜に街頭の明かりから見るのと、夕方とは言え太陽の昇ってる頃に見るのとでは、少し印象が違うものだ。

 

「別に、用は無かったんです。ですが偶然近くにに野々原さんが居たので、挨拶しようと思いましてね」

「そっか。まぁ、わざわざありがとう」

「まぁ、ありがとうだなんて、随分柔らかい対応をしてくれる様になったんですね」

 

 驚きつつも嬉しそうに、塚本は口元に手を当ててカラカラと笑う。

 

「まぁな……お前には散々心を乱されたけど、結局最後はお前からの情報ありきで咲夜と戦えたし……今思えば、ヒントもくれてたしな」

 

 咲夜を理解しろ、と言うのは渚から貰ったアドバイスだったが、実際はもっと早く、この塚本から言われていた言葉だった。

 そう思えば、もしかして塚本は塚本なりに、最初から俺の味方になろうとしていたのだろうか? 

 

「それはありませんよー」

 

 飄々とした声色で、塚本は俺の考察を否定する。

 

「何度も言う様に、貴方がどう動くか気になって、その中でちょっと所感を述べただけなのであの時は。こちらとしては咲夜に抗っても、呑み込まれても、その結果だけを知りたいだけでした」

 

 どこまでが本気でそう言ってるのか、相変わらず俺には分からない。まるで精巧に作られたカカシを相手に会話してる様な気分だ。

 けれど、それで良いのだと俺は思う事にした。この男を理解しようと言うのが、そもそもの間違いなのだと。

 カカシに感じるのなら、きっとこの塚本せんりという人間は、カカシなのだろう。

 

「何でも良いよ。とにかく、まだ礼を言ってなかったし、後腐れあると嫌だから勝手に言わせてもらう。……ありがとう、助かりました」

「────」

 

 塚本の言動や態度なんて無視してそう言った。

 言われた塚本は、先程までの態度をピシャリと止めて、驚いた猫みたいに目を開いて固まってしまった。

 いや、そこでフリーズするなよ。と言おうとした矢先、スマートフォンから着信の振動が鳴る。

 急いで見ると、悠から『直接ゲーセンで合流にしてほしい』というメールが来た。

 

「……綾小路悠夜から、ですか?」

「そう。悪いけど、俺もう行かなきゃだから」

「分かりました、それでは──」

「次会う時は、もう少しとっつきやすい態度と言動で頼むわ。じゃあまた!」

 

 たまには俺から一方的に消えても良いだろう。

 そう思いつつ、俺は塚本に言葉をたたみかけて、そそくさとその場を後にした。

 途中、渚に集合場所の変更を伝える事を忘れる俺では無かった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……じゃあまた、ですか」

 

 珍しく自分より先に去った野々原縁の背中を見送った後に、塚本はコンビニ前から移動し始めた。

 取り敢えず夕焼けがやけに目に染みるので、近くの裏路地に行こうと、コンビニの裏手から回ろうとした。

 

 その、建物の裏で他人の目が無くなる僅かな瞬間に、

 

「──待ちなさい」

 

 冷ややかなナイフの様な切れ味を持つ声……だけではない。実際に首元に感じる鋭利な刃物の感触が、塚本の動きを止めた。

 誰かが、自分の後ろにいる。そしてその人物は、刃物で自分を脅している。

 コンビニの裏手と言う、誰の目も通らないこの僅かな空間を逃さず、自分の背後を取る人間がどれだけ居るだろうかと、塚本は一瞬考え、そして……幾らでも居るか、と結論付けた。

 

「誰ですか? こんな物騒な事をして何がしたいんです?」

 

 自分を、『塚本せんり』をわざわざ狙う人間ならば、それは普通の社会に属する人間ではない。ならば、余程社会の闇に詳しい人間が──そう考察したが、返ってきた言葉に面食らってしまった。

 

「お前が、お兄ちゃんを苦しめた『情報通』ね?」

「──なんと」

 

 驚いた事に、それは裏社会の人間などでは無く、先ほど自身が会話した男の妹、野々原渚であった。

 

「──これはこれは、お初にお目にかかりま」

「喋らないで、お兄ちゃんを苦しめた奴の言葉なんて耳に入れたくもない」

「────」

 

 首元により深く当てがわれる刃物の感触。

 ここから少しでも押すか引けば、塚本の首から噴水の様に鮮血が飛び散る事になる。

 そして恐るべき事に、渚の放つ殺気は本物だった。ここから一言でも口を開けば渚は自身を殺す。塚本はそう確信して、返事代わりに首を縦に振った。

 

 意図を理解した渚は、怒りと怨念を圧縮して固めた様な声色で、塚本に言った。

 

「今回、最終的にはお前のおかげでお兄ちゃんは問題を解決する事が出来た。だからお前を今ここで殺す事だけは、止めてあげる。お兄ちゃんも、お前に対して許してる様だし」

 

 だけど──そう言って一呼吸置いた後に、渚は塚本に宣言した。

 

「次、またお兄ちゃんの前に現れて、お兄ちゃんを苦しめる様な事をしてみなさい。その時は……お前をバラバラにして、ドブネズミの餌にしてやるから」

「──っ」

 

 およそ、中学生の女子が口にする様な言葉とは思えないそれを耳にしつつ、塚本は平然とその言葉に首肯で応えた。

 

「話はそれだけ、それじゃあ、サヨウナラ」

 

 最後にそう言って、渚はその場を離れていった。

 後に残された塚本は、まだ首元に残る刃物の感触の残滓を味わいながら、数瞬までの渚の言動を振り返る。

 彼女が居たから自分の背後に張っていたのかは知らないが、その行動力と圧力は、驚くべき物だった。

 それも一重に、兄への愛ゆえの行動だとすれば……重過ぎる感情を向けられている野々原縁に、初めて心からの同情を禁じ得ない塚本であった。

 

「それにしても、次にあったら……ですか」

 

 渚の言葉を反芻して、塚本はくっくと笑う。

 なんて──なんて、無駄な脅しをした物だと。

 

 刹那、塚本の正面に一人の男が姿を見せた。

 自身と同じスーツ姿。しかしその男の表情には一切の感情が込められておらず、ただじっとこちらを見ている。

 その男の口が開き、自身に言った。

 

「──時間だ」

「そう、ですか」

 

 思ったより、早かったな。

 そう思いながら塚本はスタスタと男の前まで歩みを進めて、最後目の前に立つと、笑顔で言った。

 

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 

 

 ──なんて、無駄な脅しをした物だ。

 ──もう、会う機会なんて、二度と無いというのに。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

『──昨夜23時頃、市内の○○ビル路地裏で銃声の様な音が──』

 

 朝から物騒なニュースを垂れ流すテレビの音を背景に、俺は今日も朝食の用意を渚と続けていた。

 今日は俺が味噌汁を、渚が主菜を務めている。

 

「そっち、どう?」

「待ってー……うん、大根に箸が刺さった。味噌入れるわ」

「はーい」

 

 いつも通りのやり取りを交わしつつ、一旦コンロの火を止めて、味噌を溶かそうとした、その矢先に、

 

「あ、電話なってる」

 

 渚が家の固定電話が鳴っている事を告げた。

 早朝から、しかも家の電話に掛けてくる人間で思いつくのは僅かしか居ない。

 

「俺が出るから、渚は続けて。あ、味噌溶かすのだけ任せても良い?」

「うん、ありがとう!」

 

 渚に任せて、俺が受話器を取った。

 もしもし、と応えると案の定、受話器越しに予想通りの人物──すなわち、母親からの声が聞こえた。

 

「縁? ごめんね、朝早くから」

「母さん、大丈夫だよおはよう。そっちは今何時ごろ?」

「まだ夜中の3時……こっちはまだ暑いわ。そっちはどう?」

「結構冷え込んできたよ。それで、どうしたのこんな朝早くから」

 

 親がこの時間に電話する事は今までに無かった。何か大きな問題でも、と最初思ったが声色からしてそうでは無い様だ。

 

「実はね、まだ確定じゃ無いんだけど、伝えなきゃいけない事があって」

「なにさ」

「昔、と言っても二、三年前まで近くにいた従姉妹の夢見ちゃん、もしかしたら来月頃にこっちに戻って来るかも知れないから、もし来たらお世話してあげて」

 

 夢見ちゃん──小鳥遊夢見、母さんの言う通り三年前まで一緒に居た、従姉妹だ。

 不慮の事故で両親が他界した後に、小鳥遊のご親戚に預かられたが、その子が戻って来るかも知れないと言う事だ。

 

 まだ未確定ではあるが、一応先に伝えておこうと言う意味で電話をかけて来たらしい。

 用件だけ伝え終えたら、一応俺たちの様子を心配しつつ、眠気が限界に達していた母親は電話を切った。

 

「──少しずつ、変わっていってるな」

 

 夢見ちゃんが本当に戻って来たとしたら、果たして俺達にどんな変化が訪れるのだろうか。

 

 元通りに戻った、悠との関係。

 前より深まった、渚との関係。

 噛み合わない、綾瀬との関係。

 

 三者三様の在り方と、自身の立ち振る舞い。

 徐々に変わろうとする環境を前に、俺も、今まで通りのやり方ではダメなのでは無いかと、自問しつつ、受話器を戻した。

 

 自問しても、自答までには至らない。

 答えの見えない、けれど放置するワケにもいかない自分を取り巻く環境。

 

 死にたくなる……とまでは言わないが、

 様々な物をそのままにしつつ、短い秋が終わり、冬が訪れようとしていた。

 

 ──END




細かい後書きは活動報告に回そうと思うので、ここでは端的に

1章と2章では、敢えて様々な雰囲気なテイストを変えてみました。
その上で、読者の皆様には違和感やその他諸々があったかも知れませんが、自分としてはある程度納得のいく持ち運びでした。

露骨に続きを匂わす幕引きですが、第三章があるとして、果たして完結まで何年かかるのやら(自分の更新履歴を振り返りつつ)。

三章は無いですが、番外編はあります。
1ヶ月以内に更新を目指すので、また気楽にお待ちいただければ!

それでは、さよならさよなら。

追記
これ(二章)書いて終わる間に、ヤンデレCDの会社が潰れて、その後最近になって18禁ASMRコンテンツとして復活して、もうなんかスゲーな世界と思いました。
生きてると面白い事が起きる物ですね。本作の縁くんはよく死にたくなりますが、皆さんは長く楽しく生きましょう

では、今度こそさよなら


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編 Ⅱ
君の知らない物語-1


番外編です。
時系列はまたしても1章と2章の間。夏休み中の出来事になります。


 けたたましく鳴り響くセミの声。

 

 それを全身に浴びながら、オレはここ「七宮神社」境内の外れにある、ちょこんと伸びている人一人座れる程度の大きさの石に腰掛けていた。

 

 時刻は18時を過ぎていて、夜が顔を覗かせている。

 だが真夏の太陽は沈んでもなお、その面影を大きく残してオレたちの頭上にまだ若干の青空を残していた。

 

 騒がしいのはセミだけじゃない。

 

 境内には屋台が並び、焼きそばとかお好み焼きとか、綿飴とかを買うお客がわいのわいのとはしゃいでるし、あちこちで子供も大人も関係なく、今この瞬間を惜しみなく楽しんでいる。

 

 祭り。

 祭りなのだ、今日は。

 

 七宮神社に老若男女が集まり、その誰もが笑顔を浮かべている。

 そんな喜ばしい瞬間を生み出す一助になれたことを、この先の『俺』は覚えていないだろうが、今この瞬間ここに居るオレは、絶対に忘れない。

 

「──縁くん」

 

 後ろから優しく語りかけてくる声。

 誰の声かなんて、考えるまでもない。

 確かな確信を持って振り返ると、期待を裏切る事なく彼女──七宮伊織がいた。

 

 見慣れた巫女服も、今日はいつもよりずっと気品高く、清純に見える。

 

「演舞は何時からだっけ?」

「七時半よ。だから……」

「今からざっと、一時間くらいは一緒に遊べるって事だ」

「ええ。そうね」

 

 そう言いながら朗らかに笑みを浮かべる。つられてオレも笑顔になる。

 

「それじゃあ、行こっか」

 

 手を差し伸べると、彼女はまだ気恥ずかしそうにしながらも、手を握ってくれた。

 

「行きましょう、縁くん」

「うん」

 

 そう言って、オレ達は二人で賑わう人々の中に混じっていく。

 これからの一時間が、オレにとって彼女と過ごす最後のひと時になる。

 だから悔いのないように、たとえこの身体から記憶が消えても、世界にオレと彼女が過ごした時を刻むため、最高の一時間にする。

 

 握った手から彼女の体温を感じながら、オレは瞳を輝かせてどの屋台から行こうか考えている彼女の横顔を見る。そして、改めて強く想うのだ。

 

 ──自分は、この子に恋をしている。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……ユーウツだ」

 

 自室のベッドで横になりながら、俺は誰に言うでもなくそう呟く。別に一人ぼっちでいる事に虚しさを感じての発言では無い。

 夏休みも中盤に差し掛かろうとするこの時期に、すっぽりと布団を被り額には熱さまシートを貼っている。自分の状況について、耐えられずに漏らしたんだ。

 

 夏休みが始まって早々に出かけた、園芸部の合宿から帰った直後に体調を崩した俺は、無様に夏風邪を拗らせてしまった。

 同じタイミングで仕事の合間をぬって帰ってきた両親が、俺と渚を連れて旅行に連れ出そうとしてくれたが、当然俺は無理。

 渚も心配して残ろうとしたが、年に何度もない親と触れ合う機会を、台無しにしたく無かったので半ば無理やり行かせた。かなり抵抗されたけども『俺に後で楽しい土産話をして欲しい、母さん達も子どもと特別な時間を過ごしたがってるから』と強く説得して、どうにか納得してくれた。

 まぁその結果、こうして俺は一人で夏風邪療養に励む事となったわけなので、憂鬱だと愚痴る資格は本来無いのだが。

 

 綾瀬は同じく家族旅行に出かけ、悠も綾小路家の事情とやらで暫くこの街を離れている。園子はどう過ごしてるか分からないが、家の距離が一番離れている相手に、感染るリスクを承知で遊びに来てくれなんて言えるはずも無い。というか、仮にそんな事したら後で渚や綾瀬にバレて、どんな展開が待ち受けるか分かったもんじゃない。

 

 まぁ、ここまで色々あったし、前世の記憶を思い出してから怒涛の勢いで波乱万丈な時間を駆け抜けた、その疲れが一気に噴き出たのだと考えよう。逆に良い機会なのだと。

 そう自分を納得させて徹底して寝込んだおかげで、三九度もあった熱は三十七度台まで収まり、明日にでもなれば完全回復するだろう。となれば次に問題となるのは──、

 

「お腹空いたな……マジで」

 

 肉体が健康に近づけば近づく程に、内臓も調子を取り戻すので栄養が欲しくなる。親が用意してくれたスポーツ飲料やゼリーだけでは物足りなくなってくる。

 仕方ないので、だるい体を無理やり起こして一階に向かう事にした。

 

 果たして冷蔵庫には何が入ってるだろうか。肉があれば雑に塩こしょうを掛けて焼けば良いし、野菜もモヤシとかなら雑に茹でて塩掛けて食べればお腹は満たされる。根菜だと皮を剥く作業から始まるので困るので、出来れば楽な物があるのを願うばかりだ。

 一番理想を言えば、今はトマトを丸かじりしたい気分だ。トマトは良い、水分が補えるし食べ応えもある、塩掛ければ味も少し変わるし栄養価も高い。トマトさえあれば大抵の問題は解決する、みんなも食べようトマトを。

 

 ……いけない、熱で脳がまいってるのか思考が勝手に暴走し掛けていた。こんな意味不明な事を考えながら歩いてると、変な所で転んでしまうかもしれない。

 

「──おっと?」

 

 ほら、言ってるそばから、階段を踏み外して──え? 

 

「あ、やべ……」

 

 階段一歩目から踏み外して、上半身から吸い込まれるように傾く自分の体を自覚しながら、数瞬後に遅れてやってきた危機感に思考がやっと追いつく。

 もはや体勢を立て直す事は無理だと判断して、咄嗟に頭をかばう。直後に今まで体感した事の無い種類の痛みが襲い掛かって──。

 

 そこで、俺の意識は途絶えた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──んぅ……くっ痛ぇ……」

 

 体が熱い。至る所が火でも発してるかの様だ。

 全身打ち付けられたかの様に痛い。本当に痛い。何が起きたのか分からない。

 

「何が起きて……階段から落ちたのか?」

 

 見ると、目の前に階段がある。状況から判断するに、階段を転げ落ちたらしい。

 

「よく生きてたなオレ……いや、もう死んでるんだけどさ」

 

 とっくに死に果てて、今はこの世界の野々原縁に生まれ変わって早数ヶ月。オレのヤンデレCDの知識を用いて色々頑張っていたが、危うくこんな呆気ない死に方で二度目の人生を終えてしまう所だった。

 オレ自身は野々原縁に全てを委ねていたけれど、その最後がこんな呆気ないものだったら、それこそ死んでも死に切れなかったろう。

 至る所が痛いが、オレが死んだ時に比べればはるかにマシと言うものだ。あの時と違って雨が降る校庭でも無いし、出血多量でも無い。

 

「……ん?」

 

 ──と、ここまできて、オレは一つの違和感に気付いた。

 さっきから、意識の表層に出ているのが自分しかいない。今までは野々原縁の意識がメインになっていたのに、今この瞬間、彼の意識を全く感じない。

 

「これ……ひょっとしてオレの意識だけが表に出てるのか?」

 

 試しに、野々原縁の記憶を遡ろうとしてみたが──全くと言って良いほど、何も思い浮かばない。

 いや、厳密に言えば、四ヶ月程前に野々原縁と意識が混ざった日以降の記憶は思い出せる。どんな事をしたのか、誰に何を言ったのかなど、は。

 だけど、その時野々原縁が『どんな気持ちでその様な言動を選んだのか』という、心情などは全く分からない。俺個人の感性で察したり考察するのは可能だけど、本人の視点で振り返る事が不可能になっている。

 

 それだけじゃない。意識が混ざる前の、野々原縁個人が生きてきた人生の記憶もサッパリ分からない。

 河本綾瀬との出会い方や、綾小路悠との出会いなど、意識が混じってから何度か野々原縁が思い返した記憶は別として、例えば去年の今頃に野々原縁がみんなとどんな話をしたのかや、何をしたか。そう言った記憶が全然思い出せない。

 

 さながら、本に書いてある内容を知識として覚えたかの様に、オレはこの四ヶ月の野々原縁の行動以外、何も分からない状態になっていた。

 

「おいおいおい、これはマズいぞ」

 

 原因は分からない。思いつくのは先程野々原縁が階段から転げ落ちた事による気絶だが、それがどうしてオレだけの意識がこの体を半ば乗っ取る様な状態に繋がるのか皆目見当付かない。

 見当が付かないのと同時に、すぐ脳裏に浮かんだのがこの後に野々原渚や河本綾瀬達と会った際の振る舞いだ。

 オレ達の『事情』については、既に分かってもらったはずだが、それはそれとしてオレが彼女らと対面した時に、地雷を踏んでしまわないかが問題なわけである。

 ただでさえ、前回野々原渚は『違和感』を理由に野々原縁と対立したというのに、今度は中身が完全に別人な『兄』を相手にしたらどうなるか分かったものじゃ無い。同じ事は河本綾瀬にも言える。

 

 ここ暫くは、様々な事が起きて意識が薄れていたがあくまでもこの世界は『ヤンデレCD』の世界なわけで、立ち回り方を誤ったら死につながるリスクがある。そんな状態で今のオレがどれだけ危機的な状況なのか、自覚すればする程恐ろしくなってくる。

 

「彼女達がこの街に居ない状況で良かった……。本当に良かった」

 

 もしこの場に彼女達が居たら、果たしてどうすれば良かったのか。想像もしたくない『もしも』がもしものままである事にだけ、自分の運の良さを噛み締めた。あるいはコレを不幸中の幸いと呼ぶのだろうか。とにかく、今の自分が想定外の事態にあるのは間違い無いが、致命的ではないと深く理解した。

 

 自分の状況を把握した途端、自分の意思とは無関係に、野々原縁の肉体の一部──具体的にはお腹が勝手に動いた。つまり、腹の虫が鳴り始めたという事である。

 

「そう言えば、空腹で一階に行こうと階段降りてたんだったな」

 

 思考が落ち着きを取り戻すと同時に、野々原縁が本来行おうとしてた行為を思い出す。となれば当然、今この体を動かしてる俺もまた、空腹を感じてしまうのは仕方ない。

 転倒の原因にもなっていた熱による怠さは、不思議と無くなっていた。交感神経が作用した一時的なものかもしれないが、つまりより一層、食欲が主張を強めているわけだ。

 野々原縁はしきりに『トマトを丸かじりしたい』と言ってたので、その通りに動いてやろうと思うのだが、その前にもう一つやりたい事がある。

 

「目やにが酷い……顔洗わないと」

 

 寝て起きて、また眠る……という生活のせいだろうか。体調不良が眼にも影響を及ぼしたのか、汚い話だけど目やにがゴロゴロしてる。野々原縁はそういう所に注意を向ける余裕も無かったのかもしれないが、オレはそうもいかん。

 いい加減床に倒れてるわけにもいかないので、節々の痛みに我慢しながら立ち上がったオレはまず、洗面所に向かった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「当然だが……顔が違うな」

 

 完全にオレの意識で野々原縁の顔を見たのはコレが初めてなため、洗面所の鏡に映る今の自分の顔に、ひたすら違和感と気味の悪さを覚える。黒髪で、どちらかと言えば鋭く目つきの悪い顔立ちだったオレの顔と違い、野々原渚と同じ髪色で、この世の汚さなんてあんま知らなそうな澄んだ眼をしてる面を見てると、少しだけ苛立ちの様なモノさえ感じてしまう。

 

「いかにも人に好かれて生きてきましたって顔してんな、お前な。本当に……」

 

 本当に、の先の言葉を音にするのはオレの惨めさをこの世に発したく無いので、グッと堪えた。

 

 常に眉間にシワを寄せて、嬉しい気持ちも悲しい気持ちも、全部抑え込んでいたオレとは違い、四月から見てきた野々原縁と言う男は、思った事もやりたい事も、キチンとアウトプットする人間だった。それは時に節操の無さや身を滅ぼす危険も孕んだはいたが、そこは器用にオレの記憶や思考を参考に立ち回っていたから、往来、世渡りがオレより遥かに上手な人間なんだろう。

 

 柏木園子のイジメを解決し、河本綾瀬とのすれ違いを起こさず、野々原渚との衝突も無血でおさめた。『ヤンデレCD』の主人公と同じ立場に居ながら、違う結果と未来を掴めた事を、オレは常に意識の端っこから見て、驚き、安堵して来た。この体が今日まで無傷のままいる事が、どれだけ幸運なのか知る者は、この世界では野々原縁とオレしか居ない。

 

「──オレもお前の十分の一くらい、人付き合いが上手だったら良かったのにな」

 

 自嘲気味に──この顔には似合わない表情を浮かべながら、鏡に映る野々原縁の顔に語りかける。

 本当に、ほんの少しでも上手く生きられれば、オレは瑠衣を死なせる事なく、生きていけたかもしれないのに。

 

「そう言えば……『この世界』の瑠衣や堀内にも、お前は言葉を掛けてくれたんだったな」

 

 六月の末、オレの命日に野々原縁は妹を連れて、あの街に出向き、この世界では生きていた瑠衣達と出会い、あの二人にオレが最後まで言えなかった言葉を、代わりに伝えてくれた。

 あの時だって、オレの意識は『この世界』の頸城縁(オレ)との違いを感じながら、何も言わずにしようとしたのを、野々原縁が良しとしなかった。だから伝えられた。

 

「ため息しか出ないよ、もう」

 

 もう一度、自嘲の苦笑いをしてから、オレは洗面器に溜めた冷水に顔を埋める。そこから苦しくなる直前くらいまで我慢した後、周りが濡れるのも構わず勢いよく顔を上げ、自分のシャツで顔を拭きながらその場を離れた。

 そんな事でメンタルをリセット出来たとは思わないが、そうでもしなければいつまでも野々原縁への嫉妬じみた気持ちが出続ける気がした。

 

「さあーて。何があるかな」

 

 リビングに着いて冷蔵を開いたが、残念な事にトマトは無かった。

 代わりに、両親が旅行前に用意してたのだろう、煮物やら焼けばすぐ出来るタラの西京漬やら、缶詰などがあった。

 

 野々原縁の要望通りに出来なかったのだけは残念だったが、階段から転げ落ちる前よりも食欲が増してる状況では、むしろ好都合だ。

 オレはそれらを適当に食し、ある程度満足したのを自覚した後、目覚めれば元通り野々原縁の意識がメインになるだろう事を期待しつつ、その日は寝た。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日。『オレ』は目を覚ました。

 そう、目を覚ましたのは野々原縁の意識ではなく、オレの意識だった。

 

「何故だ……」

 

 上半身だけを起き上がらせて、ベッド脇の窓を覆うカーテンを開き、朝七時の陽光を浴びながら、オレはヒステリックと紙一重な感情をどうにか抑える。

 

「一晩経てば、元に戻るとばかり思ってたんだが」

 

 そんな願望は、夜の夢の如く儚く散った。

 今日もこの肉体を動かしてるのは、齢一八で無様にこの世をさったはずの頸城縁の意識。本来動かすべきである野々原縁の意識は未だ眠っている。

 死んだはずの人間が、全く違う人間の体を自分の物の様に扱える状況について、オレは生前その様な経験を記した情報媒体に触れた事が無かった。だから全く持って未知の経験をしているワケだが……正直、居心地は全く持って良い物では無い。

 こればかりはオレと同じ状況にならないと理解出来ないと思うが、例えるなら寄生虫の様な気分だ。宿主の意思を蹂躙して自分の目的の為に肉体を操作する、他者ありきの生物。または冬虫夏草の様な、そんなモノに自分がなった様な気がする。

 

 もちろんこんなのはただの例えだが、それとは別にもう一つ、最悪の予感が頭にこびりついてしまう。

 それはつまり、階段を転げ落ちた時にもう野々原縁は死んでしまい、彼にこびりついていたオレが辛うじて残り、今この様に肉体を動かしているのではという説だ。

 もしこれが本当だとしたら、最悪を通り越して地獄の始まりなのだが、あくまで仮説の一つでしか無いのでこれについて考えるのはやめておく。

 

「……とにかく、動くか」

 

 夏風邪はすっかり治ってしまった。体はもう問題なく動ける。となれば、いつまでもベッドに横になってるワケにはいかない。さっさと着替えて朝食を食べてから、シャワーを浴びてスッキリさせて、次に何をすべきかを考え始めた。

 と言っても、選択肢はこのまま家に引きこもるか外に出るかの二択しかない。そしてオレが選ぶのは、断然後者の方だった。たった一晩とは言え、家にこもって何も起きなかった。であれば、次にやるべきは外に出る事だろう。問題はどこに行くのかという事だが。

 

「こればっかりは……どうも分からないな」

 

 オレが共有する野々原縁の思い出の土地は、本当に数える程度しかない。彼が通ってる学園や、帰りに道草食う時寄ってたゲームセンター、休日に行くスーパーやレストランなど、当たり障りのない場所ばかりだ。

 とは言え、彼が慣れ親しんでる場所に行けば、それが刺激になる可能性もゼロではない。全くどこに行けば良いか分からないよりは、候補があるだけマシだと考えることにしよう、した。

 

「じゃ……行ってきますって言うのは違うよな」

 

 一瞬、野々原縁が毎日やってたからオレも言いそうになったが、本来オレの家では無いのだから、行ってきますと口にする事に果てしなく違和感を覚えてしまう。だいたい、家に誰も居ないのに言う必要なんて無いだろう。キャバ嬢にマジの恋愛感情抱くのと同じくらい無意味な事だ。

 死ぬ前は『行ってきます』も『ただいま』も言わない人間だった。最初からそうだったわけでは無いけど、『返事を返してくれる人』が居なかったから。

 

「……やめやめ」

 

 今となっては遠い世界の過去に成り果てた記憶を、無理やり押し込めてオレは野々原家を出た。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 結論から言う。無駄だった。

 半ば、わかっている事ではあった。最も彼が慣れ親しんでるだろう野々原家に居て何も起きないのだから、その他の土地に足を運んだとて影響が出るわけもない。

 とは言え、彼が『河本綾瀬と初めて出会った公園』に行った時も変化無しだったのには、多少の期待を裏切られたような感じになった。その時の彼の心境までは分からないが、野々原縁という人間のターニングポイントだったろうに。

 

「こりゃ、よほど深い所にまで意識が眠ってるのかね」

 

 あるいは彼にとってどこも大して思い入れのない場所か。いや、それはないだろうけど。

 とにかく、思いつく限り彼と由縁のある場所は回り尽くした。となれば次にオレが考えたのは、この肉体にとって未知の刺激を与えるというものだ。そもそもオレに意識がさし変わったのだって、階段から転ぶと言う未知の経験があってこその物だった。

 同じ様に新しい経験を踏めば、眠ってる彼の意識も驚いて眼を覚ますかもしれない。行った事の無い場所に行くとか、やった事の無いモノに手を出すとか、言わば一種のショック療法。

 もしそれでも彼の意識が表に出て来なければ……原理原則に則ってオレも階段から転んで頭を打ってしまおう。オレの意識も同じ様に眠れば無理やり野々原縁が起きるかもしれない。または昏睡状態になるか。そうなれば嫌だが、オレがこの体を動かし続けて『ヤンデレCD』のヒロインである彼女達を相手にし続けるよりマシだろ。

 そうと決まればどこ行くか。取り敢えずこの街から離れてみよう。時刻は一二時を迎えようとしている。一度野々原家に戻り、お昼を食べてから自転車で行動する事に決めた。

 

 

「……じゃ、再度出発」

 

 この街から離れる。それ以外に明確な目的を敢えて用意せず、オレは基本的には国道に沿いながら気分に任せて自転車を走らせた。

 病み上がりの体で、炎天下の中を動き回る事に後ろ髪を引かれる気持ちもあったが、どうせオレの肉体では無い。せめて死なない程度に気をつけてやれる事をするだけだ。

 

 野々原縁の住む街は都心とのアクセスが充実している地方都市だが、そこから少し外れると、途端に平々凡々な街並みが視界を埋めた。

 高層では無いが飛び降り自殺するには十分足りるビル。大型では無いが試食コーナー巡りで腹を満たせる程度に広いスーパー。車で移動中の人間をターゲットにした立地にあるラーメンショップ。過疎では無いが発展性も感じない地方の街並み。面白味は欠けるが、オレが生まれ育った場所と比べれば、空が晴れているだけで遥かにマシだ。

 そう。空が晴れていればそれだけでオレは構わない。こうやって世間様を堂々と移動出来るだけで上等過ぎる。生きてる時はこんな行動出来なかったから、尚更そう思う。

 

 自転車を一度止めて、スマートフォン(携帯電話も随分と形が変わったもんだ)の電源ボタンを押して時刻を確認する。再出発してずっとペダルを回し続けたが、液晶に映る数字は十四時を指しており、二時間ちょっと走り続けていたらしい。

 となれば、大きな目的は既に達成出来たわけになる。国道沿いにまっすぐ走り続けて来たので、休憩がてら横道にそれる事にした。自転車から降りて手で押しつつ、知らない街を練り歩く。

 

 野々原縁の住む街に比べれば当然大人しいが、オレの住んでた街よりもだいぶ栄えている。自販機で適当な炭酸飲料を飲みつつフラついてると、住宅街を抜けてやや人気の無い小さな山の近くまで来た。

 セミの鳴き声がやたらめったら耳に響くが、木々が影を作ってるお陰で暑さは多少やわらいだ。ささやかだが冷たい風も吹いて来たので、非常に心地が良い。

 そのまま山の周りを歩いていたら、視界の端に映ったとあるモノがオレの注意を引いた。

 

「鳥居……神社だ」

 

 そこそこに大きく立派な鳥居がそこにあった。

 ここまで歩いた山沿いの道路とは違い、鳥居の周りは雑草も木々もなく、ある程度の車が駐車できる様に整地されてある。

 この街に古くからある由緒正しい神社なのかもしれない。気になったので鳥居の下まで向かう事にした。

 

「……おぉ、中々に階段が長い」

 

 鳥居の先に見えたのは、角度はそこまで急では無いけどもかなり段数の多い石造りの階段だった。山の上までまっすぐ伸びてる階段の先に、神社があるに違いない。

 こう言うのを見た時、野々原縁ならどうするだろうか。面倒だと即座にこの場を離れるのか、または面白そうだと階段を登るのか。

 彼の答えは分からないが、オレの場合は前者だ。本来ならばこんな苦痛でしか無い階段を登るなんて馬鹿げている。

 けれども、今回はその限りでは無い。野々原縁にとって初めての経験をしようとここまで来たのだ。そんな中、偶然目に映った神様の居る場所。ダジャレでは無いけども『(えん)』を感じてしまうのも仕方ないでは無いだろうか? 

 それに、オレが野々原縁の意識に混ざってからの四ヶ月、彼が神社に足を運んだ事は無かった。流石に参拝が未知の経験なんて事は無いだろうが、突如オレ(と野々原縁)を襲ったこの状況を神様に助けてもらう様に祈るだけでも、悪く無いだろ。

 死ぬ前は全く信心深さとは無縁だったが、死んだはずの人間が今こうして意識だけとは言え今世にいるのだから、きっと神様だっているだろ。そんないい加減な意識を忍ばせつつ、オレは早速石段の一歩目を踏みしめた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 一段目を登る時には平然としていた体も、最後の一段を踏み締めた時には肩で息をする程度に疲労してた。

 石段を上り終えた先には、入り口にあったものよりかは幾らか小さな鳥居があり、更にその向こうには古めかしくも厳かな雰囲気を放つ本殿があった。

 山の木々が神社の周りを囲い、この空間だけが世界から隔絶されているかのような錯覚すら感じる。先程までオレがいた世界より半歩ずれてる、とでも言えば伝わるだろうか。とにかくそう言う感じだ。

 

 そんな風に、オレが神社とその周りの景色をマジマジと眺めていたら、

 

「……何者ですか」

 

 不意に、そんな鋭い声色の言葉がオレに向けられた。

 見れば、いつのまにか賽銭箱の前に少女が一人。腰よりも長い髪を風に揺らしながらオレを見ていた。

 その双眸は言葉よりも鋭くオレを見据え、警戒しているのが丸分かりだった。

 それだけでもオレの度肝を抜かすには充分だったが、更に拍車を掛けたのが少女の格好と雰囲気。一目で『本職だ』と確信出来るくらい似合い過ぎてる巫女服と、最初にこの神社を見た時と同じよう厳かな、いやそれ以上の……油断してると静かに押し潰されてしまう様な気さえするオーラ。

 オーラなんて漫画みたいな表現をシラフのまま思いつく自分に呆れながらも、とにかくオレは、唐突に現れた巫女相手にあっという間に呑み込まれようとしている。

 

「……あー、立ち入り禁止でしたか? もしそうならすみません」

「はぐらかさないでください。貴方は何者ですか」

 

 何とか喉から出した言葉もにべもなく突き返される。

 気になるのは、二回も言われた『何者ですか』という言葉。普通初対面の人、しかも基本的には参拝客としか思わない人間相手に何者なんて聞き方はしないだろ。

 呑まれかけてたオレの自意識は、この疑問に縋り付く事でどうにか平静を保つ事に成功した。

 

「何者と言われても、たまたまここに足を運んだだけの者ですが……もし一般人立ち入り禁止の場所とかなら、階段下に看板とか立てた方が良いですよ」

「シラをきるのはやめなさい」

 

 先程より更に一段、強めの回答が返ってきた。

 ますます意味が分からないが、それでも彼女がオレに対して何かを確信してる事だけは理解する。

 

「シラをきるって……何のことです?」

 

 その問いに対して、次に巫女が出した言葉は、オレの想像を遥かに超えた物だった。

 

「貴方の魂の事です。──死者が生きてる人の体を動かすなんて許される事では無いわ」

「──!!!」

 

 気づけばオレは小走りで巫女の元に駆け寄り、その両肩を掴むまでしていた。

 先程まで感じていた畏れの様なモノは簡単に吹き飛び、オレは目の前に降って湧いた幸運に心踊る一歩手前まで興奮する。

 だってそうだろう、まさかこんな簡単にオレの状況を説明出来て、しかも何とかしてもらえそうな人が出てきたのだから。

 

「アンタ、オレが──この体うごかしてるオレが死人だって分かるんだな? 流石神職、巫女さんて凄えな!」

「──っっ????!!!」

「オレもなんでこんな事になったのか全然分からなくて困ってた所だ。このまま彼の意識が眠ったままじゃ大変な事になるばかりで、たまたま通りがかったらアンタみたいな凄い巫女さんに会えるなんて、まさに神様の思し召しって奴だな」

「────」

「初めて自分の名前()に感謝してる所ですよ。この手の幸運とは無縁な生涯だったので。オレもさっさとこの体を彼に返したいんですが、何か知らな──あの?」

 

 つい、ペラペラと自分ばかり喋りすぎてしまった。

 気がつくと、巫女さんは目をまん丸と見開いて、オレを凝視したまま固まっていた。

 そこには先程までの他者を圧倒するオーラは無く、まるで──、

 

「い、いやぁああああああ!!!!」

「は?」

 

 まるで、ではなくまさに。

 ウブな生娘全開の──失礼、乙女な悲鳴をあげつつ、オレの両手を振り払い、勢いよく平手打ちをした。

 

「うぼぁ!?」

 

 それは、生前でも味わった事が無かった、とても体重の乗った良いビンタだった。

 

「──はっ! す、すみません! 私つい……あの、大丈夫ですか!?」

 

 吹き飛ばされ、したたかに頭を石畳に打ち付ける。

 薄らいでいく意識の中、慌てふためく様な言葉を微かに耳に収めつつ、オレはこれで次に眼が覚めるのは野々原縁なら万々歳だと思い、真昼の炎天下の中、意識を手放した。

 

 死ぬ前と同じ天に仰向け晒して眠るにしても、雨空と晴天ではここまで気分が違うのかと、良く分かった。

 

 

 ──続く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

君の知らない物語-2

クリスマスプレゼントもどきです。

この番外編、分かりにくいかもしれないので言いますと、第2部より前の、夏休み中期の話です。


「まさか、女の子の平手打ちで気絶する日が来るとは思ってもいなかった」

 

 それが、目を覚まして最初の感想だった。

 神社の敷地内にある、木陰に置かれたベンチで横になった姿勢のまま目を覚ましたのは、変わらずオレのままだった。気絶する直前の期待は儚く消え去った。残念な事だ……残念な事だ。

 

 残念な事だ。

 

「あの……すみません」

 

 言ったのは、先程見事なスイングでオレをノックダウンした巫女さんだ。

 起き上がって普通に椅子に座る姿勢になったオレの正面に立ち、尋常じゃない程の申し訳なさオーラを出している。

 恐らく、オレの顔色を見て自分の平手打ちにより気分を害してると思ってるんだろう。気分が落ち込んでるのは間違いないが、理由はオレ個人の勝手な都合によるものだから、気にしないで欲しい。

 

「いや、大丈夫です。良いスイングでしたよ」

 

 そう答えると、かえって困惑した様な表情になる巫女さん。

 ファーストコンタクト時の厳かな雰囲気とは随分と違うものだ。

 

「流石にさっきはオレが悪かったです。初対面の女の子の肩をいきなり掴むなんて、通報されないだけ幸運だと思うくらいですから」

 

 実際、あの時はオレらしからぬ興奮の仕方で誤った行動を取ってしまった。深く反省しないといけない。もし堀内や瑠衣にあんな事してる姿を見られたら、間違いなく半年は笑いのネタにされただろう。……まぁ、瑠衣と再会してからの時間は半年も無かったが。

 

「でも驚きました。オレがこの体の持ち主じゃないって、分かるんですね」

 

 そう、この巫女さん、オレが野々原縁じゃない事を一発で見抜いた。今この体に起きてる異常事態──もっとも、普段からオレの意識が混ざってる事が異常事態なのだが──を解決に導いてくれる可能性を持つ人間。……かもしれない。

 オレの方から話を振ると、巫女さんは少しだけ表情を固いものに直してから応えた。

 

「はい。貴方からは、死んだ人間の気配がしたので」

「そういうの、あるんだ」

「うまく表現は出来ませんが……とても冷たくて氷の様な感じがするんですが……そんな貴方が生きてる人間の体で存在してるのが信じられませんでした。それでつい、キツい言い方になって……すみません」

「あぁ、謝らないでください。何も間違っていませんから!」

 

 頭まで下げてきた巫女さんに慌ててそう言った。

 霊感を持ってるらしい彼女から見ても、オレみたいなのは初めてなのだろう。半ばルールや概念を知っているからこそ、例外(らしい)オレが何なのか分からなくなったと。

 それで『何者だ』なんて質問に繋がったワケだ。

 

「確かにオレは……ああ紛らわしいな。今こうして喋ってる意識は、この体の本来の持ち主の意識ではないです。だけど別にオレが乗っ取ったとか取り憑いたとか、そう言うのではなくて……いや実質同じ事なのか? だけど悪意があるワケでも無くてですね……」

「えぇっと……つまり、どう言う事なんでしょうか」

 

 巫女さんは益々困惑してる様だ。聞く側が困惑する話し方をしたのはオレの落ち度なので仕方ない。

 

「ちょっと長い話になるんですが、聞いてくれますか? オレが今こうなってるのにも繋がる話なので」

 

 巫女さんの眼を見て言う。困った様に何度かオレの顔と頭上の木々を交互に見比べたが、何度かそうして本人の中で決心が付いたのか、巫女さんは『分かりました』という返事と共に頷いてくれた。

 軽く安堵してから、オレはベンチの左端に体を移し、大きく空いた右側を指しつつ言う。

 

「なら、座ってください。オレが座ってるのに巫女さんだけ立ちっぱなしじゃあ、落ち着いて話も出来ません」

「わ、分かりました……失礼します」

 

 巫女さんはおずおずとベンチの反対側に腰を落ち着けた。

 もう一人座れる程度の空間を残しつつ、オレは今日までに野々原縁の身に起きた出来事を、ヤンデレCDの事をボカして簡潔に説明……する前に、一つやる事が。

 

「オレの名前は……今こうして話してるオレは、頸城縁と言います。本当の体の持ち主は野々原縁です。もし良かったら、巫女さんの名前を教えて頂いてもいいですか?」

 

 こういつまでも巫女さん巫女さんじゃむず痒くなる。オレから自己紹介なんて生きてた頃じゃまずありえないし、ましてや女子の名前を尋ねるだなんて、やはり堀内や瑠衣が見たら目玉が飛び出るくらい驚くんじゃ無いだろうか。

 そんなオレの内心はさておき。巫女さんはオレの名前と野々原縁の名前が似ている事に驚きながら、

 

「……私は七宮伊織と言います。この七宮神社の巫女をしています」

「……ん、七宮?」

 

 その名前をオレはどっかで聞いた事がある。

 まさか彼女もヤンデレCDの? ……いや、オレが生前堀内に押し付けられて聴いたCDには三人しかいなかった。その中には『七宮伊織』なんて名前のキャラクターは居なかったはず。

 確か、堀内は他にも何枚か同じシリーズのCDを持ってたから、その中に『七宮伊織』がいる可能性もゼロでは無い。

 当時、一枚目を聴いて、特に『柏木園子編』で凄く恐がっていたオレに、聞いても無いのに『続編にはこんなヒロインが居るんだぜ!』なんて何人かベラベラとキャラクターの名前や説明をしてきたのに対して、右から左に話を受け流していたが……。

 

 なんて、馬鹿らしい事を考える物じゃない。

 第一、たまたま違う街の神社に来たらそこの巫女がヤンデレCDのキャラクターだったなんて事、あるわけが無い。そんな天文学的確率よりも、野々原縁が昨日までに何かの機会に『七宮』の名前を聞いた事があると考える方が余程正しい。

 そして、オレはすぐにこの既知感の正体を見つける事に成功した。それはやはりオレが生前に聴いたCDのキャラクターなどでは無く、

 

「もしかして、ご親戚が隣の良舟学園に通ってませんか?」

「え……もしかして、彼の同級生なんですか?」

「クラスメイトです! 厳密にはオレじゃ無く野々原縁のですが!」

 

 やはりだ! 野々原縁が通う学園のクラスに一人、彼が綾小路悠以外に絡む男子生徒の中に、七宮という苗字が居た。

 しかも、芋づる式に思い出す野々原縁の記憶の中でその生徒は『親戚に神社に暮らしてるやつがいる』みたいな事を言ってた事まで思い出した。であればもう確実に、この巫女さんはクラスメイトの親戚だ。

 

「いや、奇縁ってヤツですね……まさかこういう形で間接的にとはいえ」

「はい……驚きました。こんな事ってあるんですね」

「本当ですよ」

 

 赤の他人だと思っていた人同士に思わぬ繋がりがある事が分かり、驚きは安堵へと変わり、自然と笑いを生み出す。

 平手打ちされる時までには考えられないが、オレも巫女さん──もとい七宮さんも、お互い少しの間小さく笑い合った。

 

 そうして会話のウォーミングアップとしては十分過ぎる成果を生み出した後、オレはようやく、七宮さんにこの四ヶ月間の事を説明し始めたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ここだけの話、オレはヤンデレCDの主人公が嫌いだ。

 急に何を言ってるんだと思うかもしれないが聴いて欲しい。

 

 “ヤンデレCDの主人公”と“野々原縁”が同じでは無いという前提の上で、絶対ヤンデレCDの主人公って馬鹿だろ。『野々原渚』『河本綾瀬』『柏木園子』、それぞれ怖い所はあるがそれを引き出してるのはいずれも主人公だ。

 妹の『野々原渚』が浮気だなんだでヒステリックになるのはともかく、『河本綾瀬』や『柏木園子』については、狂気の原因は主人公の浮気症だ。付き合ってるのに彼女の前で延々と、他の女の話ばかりしたらヤンデレじゃ無くても険悪になる物だ。それを平然としてるのだから、一般的な感性を持つ人だってヤンデレにやらなくたって気に病むだろう。

 そんな事を(恐らく)無自覚のままやり続けて、最終的には命を落とす結末になった主人公に、生前のオレは苛立ちすら抱いた記憶がある。堀内がその後進めて来た二作目以降のCDを聴かず、堀内の勝手な解説や紹介しか耳に入れなかったのはそう言う理由もある。

 

 妹や幼なじみ、同級生の心を蔑ろにして、自分の事ばかり考えていそうなCDの主人公に対して嫌悪感を抱いていた。そんなオレがこの世界で野々原縁という人間に生まれ変わった事が、今になると本当に皮肉だと言うしかない。

 生前は人生の九割近くが不幸な事ばかりだったが、もしかしたら神様はオレの事が大嫌いで、そんなオレを死後も苦しめたくてこの世界に生まれ変わらせたのかも。……なんて、ふざけた妄想をしてしまった。

 

 この世界の野々原縁だって、運良く修羅場にならない様立ち回りを上手にこなしてこそいるが、元来の性分は“ヤンデレCDの主人公”と変わらないと思っている。それこそ、オレの意識が混ざらなかったら果たしてどうなっていただろうか。憶測の域は出ないが、恐らく渚の不満を察する事が出来ずに殺されていたのではないか。

 

 ──とまぁ、そんな風に、“ヤンデレCDの主人公”と“野々原縁”について好き勝手述べさせてもらったが。これはあくまでオレが生きてた頃の所感で、という話だ。

 じゃあ、オレが彼の意識に混ざって四ヶ月を過ごした上ではどうか。

 

 端的に言えば、感謝している。

 理由は単純で、彼が生きている瑠衣と堀内に出会わせてくれたからだ。

 死んだ幼なじみと、迷惑を掛けてしまった友人。その二人がこの世界では夫婦として共に生活していた。尋常じゃない程に驚いたが、あの二人が最後に見せてくれた笑顔にオレは救われた。

 野々原縁が居なければ、オレはあの二人にもう一度会う事は出来なかった。もうそれだけで、感謝以外に言う事が無い。

 

 それに、“ヤンデレCDの主人公”に対して相手の気持ちを蔑ろにしてると言ったが、その言葉は他の誰でも無いオレ自身を説明しているものだった。

 瑠衣や堀内の気持ちを蔑ろにして、自分が楽になる行動ばかりを選んで、その積み重ねが瑠衣やオレ自身の死に繋がったのだから、本当に笑えない。

 とどのつまり、オレが“ヤンデレCDの主人公”を嫌悪してたのは同族嫌悪だったんだろう。

 

 

 ──とまぁ、そんな事を頭の片隅で考えつつ、オレは七宮さんにこの四ヶ月と今に至るまでの経緯を説明した。

 

「にわかには、信じられない話です」

 

 それが、開口一番の七宮さんの発言だった。

 無理もない。今までは野々原渚や河本綾瀬、綾小路悠達が簡単に人の言葉を信じ過ぎなだけだろう。

 どうすれば信じてもらえるかな、と思案する所だったが、七宮さんは『だけど』と言葉を続けた。

 

「あなたは確かに死者だから……きっと本当の事、なんですよね」

 

 七宮さんに霊感があって良かった。じゃないときっと、黄色い救急車を呼ばれる所だった。

 もっとも、七宮さんがオレを見抜いてなければ話す事も無かったが。

 

「まあそういうわけでして、どうにか眠ってる野々原の意識を起こしたいんですが、いいアイディアは無いでしょうか?」

 

 ここでやっとオレは本当に聞きたい事を言えた。

 しかし、七宮さんの口から出た言葉はオレの期待にはそわないものだった。

 

「……正直、私にはどうすれば良いか分からないです。野々原──頸城さんは特殊過ぎて」

「……あー、そう、ですか」

 

 落胆しないと言えば当然嘘になる。だけど納得の方が先に来た。巫女さんだって万能じゃない、無理だと言われても仕方ないだろう。

 

「ごめんなさい、力になれなくて」

「そんな、滅相もないです。むしろオレの方こそ、無理な話をしてすみませんでした。やっぱ自分でどうにかしてみます」

 

 腰を上げ、座ったままの七宮さんに頭を下げて『失礼しました』と言って神社から出ようとする。

 程なく階段の一歩目に足を踏み込もうとしたその時。

 

「あの、待ってください!」

 

 七宮さんが小走りで後ろから追い掛けて来た。

 

七宮神社(ここ)は今はあまり人が来ない神社ですけど、昔は悩みを持つ人がたくさん来て、相談に乗る事が多かったんですけど……」

「……? はい」

「書庫に、当時の神主が人々の悩みを記録した本があるはずなんです、だから、過去に頸城さんの様な方が居たか調べてみます」

「えぇ!? いや、それはありがたいですけど、でも悪いですよ」

 

 思いも寄らない提案に嬉しくなったが、冷静に考えてオレと同じ案件を相談しに来る人なんていないだろう。

 

「ですけど……何か他にあてはあるんですか?」

「それは、これから探そうと思ってますが……」

「ありますか?」

「……無いですね」

「でしたら、まず可能性のある方から探すべきだと思います。それに」

「それに?」

 

 一瞬、間を置いてから、七宮さんはややバツが悪そうに言った。

 

「先程、思い切り平手打ちしてしまったお詫びが、出来てませんから」

「──ははっ」

 

 そんな理由に、思わず笑ってしまった。

 

「分かりました、それじゃあ是非、ご厚意に甘えさせて頂きます」

「──はい!」

 

 安心した様に顔を綻ばせる七宮さんを見て、自然とオレも笑顔になった。そういえば、ずいぶん久しぶりに人の善意に触れた気がする。野々原縁は当然の話だが、オレがこうして誰かの善意の対象にされるのは、本当に久しい事だった。

 それに、考えてみれば昨日オレの意識が表に出てから、初めて会話した相手が七宮さんだった。風邪をひいてから一人で野々原家に居たのだから、この体もオレ自身も、誰かとコミュニケーションを取る事自体久しぶりというわけだ。

 その、久しぶりの対話相手がオレに起きた問題の解決に協力的人間だったと言うのも、言わば神の思し召しってモノなのだろうか? 

 

 まぁ、本当に神様ってのがこの縁を与えたのかは知らないが、いずれにせよ七宮さん一人に任せっぱなしにするわけにはいかない。

 

「オレも一緒に探させてください。一人より二人の方が見つかりやすいと思いますから」

「ありがとうございます。でしたら、書庫の鍵は父が持ってるので、明日またここに来てくれますか?」

「分かりました、じゃあ、午後イチで来ますので、よろしくです」

 

 最後にもう一度七宮さんに礼を述べてから、オレは長々と登った階段を粛々と降りていった。一回だけ振り返ったら、鳥居の所からオレを見送っている七宮さんの姿が見えた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 来た道を戻る様に自転車で走ってる内に、時刻はもうすぐ十七時を迎えようとしていた。

 もっとも、夏の十七時はまだまだ日没には遠く、人も車もセミも太陽もみんな、活動を休ませようとはしない。暑苦しさも収まるところを見せず、喉の渇きはオレに水分を摂取しろとしきりに主張している。

 それに加えて、普段はやらない自転車での長距離移動を敢行した疲労による空腹も、食事をしろと対抗し難い圧力を体に押し付けてくる。

 

 帰ってから冷蔵庫にある何かを食べようと思ってたが、こう喉もお腹もクレームを付けてきては、その考えを曲げても仕方ない。ちょうど良舟町にも辿り着いたので、オレはこのまま駅前にある商店街で何か食べる事に決めた。

 

「何食べようかな……ん?」

 

 自転車から降りて、手で押しながら歩道を歩きつつ、自分が何を食べたがってるか考えると、前方に不穏な集団が居るのを見つけた。

 大学生か高卒の社会人くらいの年齢をした男が、道の真ん中で学生服を着た男に突っかかっている。

 人々は我関せず、という様にその二人から露骨にそれながら道を歩いており、まるで川の中洲みたいな模様を呈している。

 

『文句あんならサッサと言えよ、さっきから何睨んでんだお前』

『文句も無ければ睨んでもないです。自意識過剰では?』

 

 どうも見たところ、文句無しにイチャモン付けられてる様だ。イチャモン掛けてる方の男はガタイも良いから、助けようにも敵意を向けられるのが怖くて見て見ぬ振りをするしかないのだろう。オレも出来る事なら関わりを避けたい所だが……。

 

「……うーん」

 

 誰も彼もが露骨に見ないフリをしてる様子を見てしまうと、自分も同じ様に振る舞う事に非常に抵抗感を覚えてしまう。

 それにもう一つ、本来なら気にしなくても良いことかも知れないが──七宮さんの顔も、頭に浮かんだ。

 今日会ったばかりなのに、わざわざオレのために力を貸してくれる様な優しい人間と出会って、明日からその恩恵を受けようという矢先に、薄情な事をしても良いのだろうか? そんな、余計な考えがしきりに後ろ髪を引いてくるのだ。

 かと言って、オレは喧嘩が強いわけではない。はたから見ても身体能力やら喧嘩慣れの度合いはオレが劣ってる。下手に介入すれば返り討ちに遭うのが良いところだ。

 だけど、絡まれてる生徒はオレよりも更に喧嘩とか無理そうな体躯をしている。その上、

 

『もう良いです? これ以上あなたと居ても人生の無駄なんですが?』

『はぁ? テメェ大概にしとけよ? 何考えてんだ頭おかしいのかよ』

『はぁ……ダル絡みする人なんですねえ』

 

 ──そんな具合に、場を収めるどころか更に煽る様な発言をしている。流血沙汰になるまで秒読みと言うところだ。

 むしろ自分から状況を悪化させてるんじゃないか、馬鹿なんじゃないか、そう思いつつ、いい加減もどかしくなったオレはおもむろにスマートフォンのカメラを起動して、動画撮影モードに変えつつ言った。

 

「はい、証拠撮影してますー」

「──ん? は? お前何してんだふざけんな、撮ってんじゃねえよ!」

 

 急に割って入ってきた奴が、自分にカメラを向けて撮影してくるなんて状況に、男は露骨に動揺する様を見せた。

 機先を制する事に成功したのを確信したので、そのまま流れに乗って追い込む事にする。

 

「恐喝の証拠も撮れましたー、これ警察に見せたら百オレの勝ちだね」

「はぁ意味わかんねぇ、キモこいつ、死ねよマジ頭おかしいだろ!」

 

 始めは悪態を吐きながら暴力をチラつかせたが、オレがいつまでも動画撮影を止まないのと、オレが動いた事で見て見ぬフリをしてた奴らも、野次馬感覚で自分を見ている=何か起きた際に不都合な証言を述べる人間がいる事に気づいた男はそそくさと走り去っていった。

 

 いざ動くまでは、原稿用紙二枚分くらいの懊悩をしたものだが、終わり方はアッサリとしたものだった。

 見てるだけだった大衆も雲の子を散らし、後に残ったのは、オレと絡まれていた男子だけ。

 

「どうも、ありがとうございます。助かりました」

 

 先に声を掛けたのは向こうからだった。先程まで危ない状況だったにも関わらず、まるで何もなかった様に平気な顔している。

 

「怪我ないですか? ただ絡まれてるだけっぽかったけど」

「お陰様で、何もされてません。もう少しあのままだったら危ないところでしたけど」

 

 そう言って、柔和な笑みを浮かべて見せた。

 

「危ないところだったって……自分から煽ってませんでした?」

「ええ、そうですよ」

「そうですよって……ワザとだったのか!?」

 

 それっぽい仕草だったとはいえ、アッサリと言われて思わず問い詰める様な口調になってしまった。

 こっちは一触即発だったから、それなりに勇気を出して間に入ったと言うのに、その状況を敢えて作ったと言うのだから無理もないだろ。

 

「はい。一発殴られればこちらのモノだったので」

 

 そう言いながら、彼はオレの後ろの方を指差した。

 振り返ると、視線の先にスーツを着た男性が二人。こちらを無機質な表情で見ている。

 彼の発言と、状況を省みるに、オレのした事を既に彼とその取り巻きは行っていたワケだ。

 

「相手に手を出させて、警察に有利にな状況を作ろうとしてたのか……」

「ええ。ですが、その手間が省けてとても助かりました。別に殴られるのが好きでも無かったので」

「いやまぁ、良いけどさ」

 

 少し腑に落ちない気分だが、結果的に安全は保証されてたのなら、文句を言う理由も筋合いも無いので、それ以上何か言う事はやめた。

 

「んじゃ、また絡まれない様に気をつけてください」

 

 そう言って、当初の目的であるご飯どころを探しに行こうとしたが、

 

「ああ、待ってください。お名前を教えてくれますか?」

 

 後ろからそう声を掛けられたが、相手はワザと殴られようとしたり、怪しい雰囲気のスーツ男を取り巻きにしてる人間なので、これ以上関わると厄介な事になりそうだ。ここで素直に名前を伝えるのは避けるべきだろう。

 

「名乗る程の者でも無いです。あと、幾らアテがあってもああやってワザと煽ったり、殴られようとするのはやめた方が良いっすよ。じゃ」

 

 振り返らないままそう答えて、今度こそそそくさとその場を離れていった。

 彼はそれ以上声をかける事もなく、その後オレは行くアテも無いので結局チェーンの牛丼屋で夕飯を済ませたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日の朝、家の電話が鳴った。

 はじめは取るのに躊躇したが、ここで無視しても次はスマートフォンに着信が来るだけだと思い直したオレは、意を決して家電話の受話器を取った。電波越しに聴こえたのは、野々原縁の父親の声だった。

 

 実の所、オレ自身は家族という存在についてめっきり耐性が無い。今更ここで人生を振り返ってベラベラ語る気もないが、特に『父親』という存在についてはトコトン無理だ。

 だから、オレと野々原父との間でどの様な会話のやり取りが行われていたのか、細かい描写を説明するのは省かせてもらう。

 

 端的に情報だけ挙げれば、以下の通り。

 オレが体調を治した事を伝えた。

 向こうがそれに安堵し、早めに切り上げる事も考えていた旅行を本来の予定である二週間のまま続行する事になった。

 それをオレは良しとして、ぎこちないながらもお土産を期待する、いかにも『息子』らしい言動を取った。

 途中、野々原渚が心配して電話相手となり、オレは当たり障りのない受け答えをしつつ、最後にワザとではなく、精神と肉体の限界を迎えた事による咳き込みで通話を終わりの流れに持っていき、電話を切った。

 

 その後、無理をして『家族』と仲良しこよしなやり取りをした事による違和感と気持ち悪さと、自己嫌悪的な悪寒にやられて、トイレで胃液を吐き出した。

 

 ああもう、朝から最悪な出だしである。

 唯一助かるのは、電話越しならまだしも直面すればまず間違いなく違和感に気付くであろう野々原渚含めた、野々原家が二週間後まで家に居ないのが分かった事だろうか。

 後は、朝食の前だったのも良かった。食べた物を吐き出さずに済んだのは大きい。

 

 とにかく、オレはシャワーで心身共に洗い流した後、軽く朝食を取りつつ体調を整えて、約束の時間に間に合う様に、七宮神社へ向けて出発した。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 神社までの道のりをちゃんと覚えていないままだったが、七宮神社で検索した所、昨日より30分も早く到着出来るルートが分かり、何の問題もなくオレは約束の時間五分前に到着出来た。

 長い階段を登り終えると、今日も今日とて巫女服姿の七宮さんが、賽銭箱の前でホウキを持ちつつ立っていた。

 

「こんにちわ、お待たせしてすみません」

 

 そう声を掛けると、オレの到着に気づいた七宮さんも挨拶を返した。

 

「今日も暑いですけど、ここは涼しくて良いですね」

 

 階段を登るまでは暑いし疲れるしで大変なのだが、山の頂上に建てられて、木々に囲まれてるからだろうか、マイナスイオンが充満している境内は涼しい。

 

「そうなんです。神社の中の方がかえって熱がこもって暑いくらいで……普段からここにいる方が快適なんです」

「つまり、今から行く書庫は外より暑いって事ですかね?」

「はい、そうですね」

 

 熱中症には気をつけて下さいね。そうからかう様に言いながら、七宮さんは早速書庫へと案内してくれた。

 本殿の裏手にある蔵で、扉にかかってある錠前を、七宮さんが古めかしい鍵で開けた。

 

 入ってまず思ったのが、いかにも何年も人の手が入っていないだろうと思わしき外観と比べ、中は埃っぽくもカビ臭くも無いというのが一つ。そしてもう一つが──、

 

「こ、こんなにあるんですね……」

「はい……正直、一人じゃとても手に負えません」

 

 ズラリと立ち並ぶ本棚と、そこに敷き詰められた手記の数々だった。

 

「明治時代より前からの手記もあるので、父が管理して保存状態は問題ないですが、数が膨大なんです」

「……取り敢えず、新しい日付のものから当たりましょうか」

「はい、そうしましょう」

 

 数が多いのは面食らったけど、その分オレと同じケースが見つかる可能性が出て来るとも言える。オレらしくないプラス思考の考え方だが、とにかく二人で一冊ずつ手記を読む事にした。

 俺が手に取った手記は昭和六二年に記録されたモノらしく、古書特有のにおいを漂わせるページをめくりながら、達筆な文字を読み進めていく。

 

 内容は規模の大小様々だが、やはりオレと同じ様なモノは見受けれない。

 

「それにしても……借金の相談がやけに多くないかこれ……」

 

 一冊目を読み終えた感想がそれだった。神社の神主に相談してどうするんだ、神通力で借金が無くなるとでも思ってるのだろうか。だとしたら心底おめでたい話だ。

 その他にも、逃げた猫についてとか、ネズミ講の被害相談とか、アル中から脱却したいとか、どれもこれも『相談先間違ってない?』と言いたい内容ばかりが書かれてあった。

 たまに当時思春期の男子が恋愛相談とかしてるのが、一周回って心の救いになってしまった。

 

 

 その後も、黙々と二人で手記を読んではしまい、読んではしまいを繰り返していった。

 元々話し上手な人間でも無いが、それは七宮さんも同じ様で、延々とページをめくる音と、手記を取り出す時の動く音だけが書庫の中を満たす。

 とは言っても、たとえ自分ごとの問題だとしても人間の集中力は有限だ。手記を読み始めてから三時間が立つ頃には、どちらかともかく休憩する事に決めた。となれば当然会話が発生するわけで、内容はやはり先程まで読んでた手記の内容についてだ。

 

「借金の相談、頸城さんの読んだのにもあったんですね」

「そうなんですよ、しかも同じ人間が結構な額で何度も借金してるじゃないですか、読んでて段々腹立ってきましたよ、こいつ反省しなさすぎだろうって」

「ただ、私が読んだものには最後返済が終わってお礼に来た記録があるので、どうにかなったみたいです」

 

 七宮さんが最初に読んだのは一番新しい物だったらしく、どうやらオレ達が散々モヤモヤさせられた名も無き借金男は無事に真っ当な道を歩めたようだ。

 

「それにしても、やっぱりオレみたいな悩みを相談する人は居ないみたいだ……」

「そうですね……でも、まだ全体の十分の一も読んでませんから、まだまだこれからですよ」

 

 励ます様にそう言ってくれる七宮さんの言葉に、小さく笑顔で返す。確かに手記はまだまだ沢山あるので、その中にもしかしたらオレと同じ案件があるかもしれない。問題はその量の多さなワケなんだが……。

 

「とにかく、もう少し頑張って……と思ったら、もう夜か」

 

 時間を見たら六時半を過ぎていた。

 書庫の中にいると外の明かりが分からないのもあるが、ずっとセミが鳴いているのもあって、時間の経過に気づかなかった。

 既に夕飯時だと意識してしまったが最後、オレのものではない体が空腹を主張し始めた。

 となれば、潮時だろう。集中力も既に尽きてしまった。

 

「今日はここまでにしましょう。オレもお腹空きましたし」

「あ……もうそんな時間になったんですね。あっという間です」

「明日また来ます。ただ……もし迷惑じゃ無かったらもっと早く来てもいいです? 量が多いから時間も欲しいですから……ダメです?」

「いいえ、大丈夫ですよ。私も同じ事考えてたので」

「本当ですか、ありがとうございます。だったら十時くらいに来ますね」

 

 そんな約束を取り付けて、その日は神社を後にした。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 この日から、オレは毎日七宮神社に出向き、一日中書庫で過去の文献を読みふけると言う時間を過ごす様になった。

 ページをめぐり、内容を読み込み、時折七宮さんが持って来てくれた麦茶や和菓子をつまみつつ、夕方までまたページをめくる。そんな時間を四日ほど続けるうちに、始めはギクシャクしていた七宮さんとの会話も、ずいぶん気楽に出来るようになった。

 いかんせん、本には今まで七宮神社に相談しに来た人達の事が書かれてあるので、生々しい物もあればお笑い草の様な物もあり、二人の話題のネタには事欠かなかった。気がついたら付箋なんか持ち出して、お互いに見せたいページがすぐ分かるように貼り付けたりしたくらいだ。

 

 本来の目的から考えると脱線も甚だしい事ではあったが、いつの間にか『野々原縁』を全く知らない人間とのコミュニケーションに、今の自分が救われている事にも気付いてしまい、無理にでも現状を変えようと言う考えが生まれなかった。

 

 この日も、朝食をそこそこにさっさと家を出発して、道中たまには休憩用にいつもと飲み物を用意しようと思ったオレは自転車を止めて、冷房の効いたコンビニでスポーツ飲料と炭酸飲料を一本ずつ買った。

 仮にも連日女子の所へ向かうので、配慮として汗拭き用のタオルや臭い消しスプレーとかをリュックに背負って来たので、袋は貰わずに飲み物をしまいながらコンビニを出た直後、思いもしない人物に声をかけられた。

 

「おや、どうも」

「ん、ん? あんた━━いや、君は」

 

 口の悪さを内心戒めながら、声をかけてきた相手を見ると、この前ガラの悪い男に絡まれていた学生服の男だった。

 

「先日はありがとうございました、『名乗るほどのものでもない』さん?」

 

 コンビニから出て来た飼い主を見つけた子犬みたいに、柔和な笑顔を浮かべながら、彼はオレがふざけて名乗った言葉を一言一句そのままに言ってきた。

 

「んぁ……いざそう言われると普通に恥ずかしいな」

「ご自分でそう名乗ったのですから、僕はちゃんと聞きましたよ名前」

「はい、分かったのでやめてくれ。オレは──」

 

 一瞬どちらで名乗るべきか悩んだが、

 

「オレは縁、野々原縁だ。野々原でも縁でも、好きな方で読んでくれ」

「では改めて、先日は大したお礼もできないままで、すみませんでした。野々原さん」

 

 そう言いながら、彼は右手をこちらに差し出す。

 

「僕の名前は──塚本千里と言います。よろしく」

 

 どうやら自己紹介の時に握手をする習慣の人間らしい。

 握手……握手か。英語ではHandshake。お互いの手を握り合う清らかな行為。

 本来の野々原縁が、どれだけこの行為をしてきたかは知らないが、オレにとってこれは、かなり希少なモノだったりする。

 父親が犯罪者、母親は自殺、そんな家の子どもだと街中に知れ渡ってる中、わざわざオレに握手を求める奴なんて皆無だったからだ。

 

「……ハフェフォビア(接触恐怖症)だったりします?」

「あぁ、いや、なんでもない」

 

 申し訳なさそうな顔をした塚本さんの顔を見て、慌てて握手を返した。

 

「この前のは大した事してないから気にしないで。それより、その……」

「はい?」

「制服、この前と違う?」

 

 彼の姿を視認した時、まず最初に気になったのは実はそこだった。

 

「趣味? この夏休みに律儀に制服着てたのは実は学生じゃなくて、そういう性癖?」

「いやいや、そう言うわけじゃありません。僕の格好については、企業秘密のようなものと思ってもらえれば。少なくともあなたが今考えてるような事ではないとだけ、ハッキリ言っておきます」

「凄い若作りしてる制服おじさんとかじゃないって事です?」

「……結構酷いこと考えるんですね」

 

 塚本さんは先程から見せていた笑顔を崩す。ショックを隠せない様だ。

 

「おじさんでも学生(仮)でもありません。年齢は野々原さんと同世代です」

「まあ、そう言うならそれで良いや」

「本当ですよ? 本当ですからね? ……まぁ、それよりも、せっかくこうして再会できたので、何かこの前のお礼をしたいんですが」

「お礼? いや、急にそう言われても……」

 

 そもそもこの前の事については、彼がわざと相手を焚きつかせてただけ、オレがしたのはほぼ余計なお世話だと言うのに。

 

「なんでも言って下さい。流石に人殺しは出来ませんが、社会的に抹殺させる位までは出来ますので」

「物騒な事は言わないでくれ」

 

 もし本当に出来たのなら、オレの人生で瑠衣やオレを手にかけたクソ野郎を社会的に抹殺して欲しいものだが、空想するだけ馬鹿な話。

 そもそも、不良から助けた程度で人の人生終わらせるくらいの事してくれるとか、冗談にしても過激すぎる。この前も思ったが、この塚本って人はかなり変わった人間だ。

 

 とは言っても、どうやら是が非でも何か恩返ししたい様だし……もうちょっと早く提案してくれたら、飲み物買って貰うという、簡単なモノで済んだのに。

 それ以外で何か、人手が欲しい事と言えば……あっ。

 

「一つあったな」

「お、なんです?」

「この後、時間あったりします?」

「時間? ……夜までは、具体的には午後八時頃まではですね」

「なら良かった。自転車乗って、二人乗りに抵抗は?」

「無いですけど……あの、どこへ向かうんです?」

「七宮神社って所へ。そこで今調べ物してるんだけど、良ければそれを手伝って欲しい」

「なるほど……神社で探し物」

「無理そう? ならまた後日に別の──」

「構いません、よろしくお願いします。安全運転でお願いしますよ?」

 

 快くそう返事すると、彼はオレが自転車に乗った後になれた仕草で二人乗りの姿勢になった。

 本来警察のお世話になる、お世辞にも褒められた行為ではない。制服着てるくせに躊躇いなく二人乗りに応じる辺り、やはりただの真面目な学生ではないみたいだ。

 

「じゃ、行きますか」

 

 ぎしり、と重みを感じさせるペダルを踏み込んで、オレ達はコンビニを後にした。

 

 

 

 ──続く。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

君の知らない物語-3

 小高い山の上に立つ、七宮神社。

 その入り口になる長い階段の前に、額から汗を垂れ流し、肩で息をする男が二人いた。

 

 いや、まぁ、オレ達なんだけどさ。

 

「安全運転……って、お願いしましたよね」

「はは……ははは」

「途中、七回くらい死を覚悟したんですが」

「塚本クン、オレは一度だって安全運転するなんて言ってないぜ。そもそも安全運転と二人乗りなんて相反する概念が並び立つワケが無いじゃないか」

 

 持参したタオルで顔を拭きながらそう答えると、

 

「程度! というものが!! あるでしょう!!!」

 

 彼はここ一番の大声で言った。

 

「三回、いや七回は『あっこれはダメだ死んだ。詰みだわ』と思う場面がありましたよ、七詰みってどんな運転すればなるんですか? 最後の坂道じゃ、ノーブレーキで駆け下りてあわや転倒しかけたじゃないですか」

「あれは……ヤバかった」

「そもそも、坂道を行かなくても楽な道ありましたよね? それに、登る時に意地でも二人乗りを続けようとしたのだって意味不明過ぎます!」

「いや、ほら……昔見たアニメ映画でそういう場面あったから、つい」

「アレは『意中の女の子』を後ろに乗せた時の話でしょう、男同士でやっても疲れて汗だくになるだけじゃないですか」

「まぁまぁ……こうして無事に着いたのだし、良しとしよう、な?」

「……君の提案に乗った事、だいぶ後悔してるのですが……自分で言い出した事なので仕方ないとして……」

 

 不満げ──当然だが──にそう言いつつ、塚本くんの視線はオレから長い階段へ向けられる。

 

「今度は、ここを登る、と」

「そうそう。長いよね」

「思ってたより三倍は長いですね」

「毎回登り終わる頃には肩で息するんだよね」

「それ知ってて途中坂道選んだんですか君は」

「馬鹿だよね」

「馬鹿ですね」

「ほらスプレー。汗止まるし匂いも消えるよ」

「あぁ……はい、どうも」

 

 お互いに汗エチケットを整えた後、オレ達は散々見続けていた階段を登り始めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「えっと……お隣の方は?」

 

 今日は珍しく鳥居の下でオレを待っててくれてた七宮さんが、当然の事だが彼を見て困惑していた。

 

「この前知り合って、これからオレ達の手伝いしてくれる塚本千里って人です。急に連れてきてごめんなさい」

「い、いえいえ、私達だけじゃまだまだ時間が掛かりそうだったから、寧ろありがたいくらいですし」

「そう言ってくれると助かります。改めまして、塚本です。お二人の間に挟まる様な真似をしてすみません」

 

 そんな挨拶をしてから、オレを見てニヤリと笑った。

 

「もう、女の子と一緒に探してるのなら最初にそう言ってくださいよ。知ってたらお邪魔虫みたいな事しなかったのに──いたっ!」

 

 からかってきたので頭を軽く小突いた。

 

「変な事言うのはやめろ」

「照れてます? 照れてますね?」

「もう一発行っとくか?」

 

 今日初めてちゃんと話す様になった相手とは思えない会話だが、不思議と距離感を間違えてる様な感覚は無かった。

 彼の雰囲気がそうさせるのだろうか。空気を読まないわけじゃないが、把握しつつも敢えて踏み込んでくる感じがする。そのスタンスは、オレの生前の数少ない友人だった堀内とどことなく似ていて、当時と違って周りの視線とか気にしなくて良い今のオレにとっては、だいぶ付き合いやすいタイプなのかもしれない。

 

 側から見ても同じ印象を受けたのか、七宮さんがこんな事を言った。

 

「二人とも、最近知り合ったみたいですけど、凄く仲が良いんですね」

「いやいや、僕が人一倍馴れ馴れしいだけですよ。逆に聞きますとお二人は出会ってどれくらいなんです?」

「えっと、私とくび──」

 

 あ、マズイ! 

 

「七宮さん、ちょっと!」

「え、あっあの!? ひゃっ──」

 

 急いで七宮さんの手を掴んで、塚本くんから少し距離を取った所まで歩く。

 その後、塚本の耳に届かない様に小声で言った。

 

「実は、彼にはオレを『野々原縁』として自己紹介してるんです」

「あ──そう言う事ですね。確かに、他の人には簡単に話せる事情ではありませんし……すみません、不用意でした」

「気にしないで下さい。取り敢えず今後は頸城じゃなく、名前の方で読んでもらえれば」

「えっ」

 

 既にオレの事情を知って貰ってる彼女には、というか彼女だけには、誤魔化すためだとしても『野々原さん』と呼ばれるのは嫌だった。

 だから、どうせなら名前の方で呼んで欲しかったのだが……いささか軽率なお願いだったか? 

 

「あー……もし嫌なら、野々原の方でも大丈夫ですよ? と言うかそうですよね、いきなり名前呼びはちょっと」

「わ、分かりました!」

「無理してません?」

「大丈夫です。これからは縁さんと呼ぶので、えっと……なので、あなたも私を名前で呼んでくれたら」

「えっ、それは、それこそ良いんですか?」

「はい……私は名前で呼ぶのに、あなたからは苗字で呼ばれると、それこそ塚本さんに怪しまれるかもしれないので……どうぞ、伊織、と呼んでください」

「オッケーです……じゃあ、よろしくです」

 

 思わぬ展開に多少戸惑っていると、

 

「あのー?」

 

 いつの間にか塚本くんがオレ達の近くに寄って来ていた。

 

「そろそろ何を探してるのか具体的に教えて頂けますか? お二人で特別な空間を作ってる所申し訳ないですが」

「待て待て、特別な空間とか言うな。オレは七──伊織さんに事の経緯を改めて説明してただけだ、ですよね?」

「は、はい! その、えっと……縁さんの言う通りです」

「そうでしたか、早とちりしちゃいましたね」

「とにかく、話は書庫でしましょう!」

 

 伊織さんが半ば強引に話を切り上げ、オレ達はいつものごとく書庫に向かった。

 

「はぁ……オカルト研究の取材で『前世の記憶』について語る人間を調べてる、と」

「そゆことです。友人の頼みでね。ネットで調べたら出てくる物じゃなく、ローカルなネタが欲しいんだとさ」

「それでわざわざ神社に……野々原さんにそんな事頼むご友人が居たんですね」

「こう言う事頼まれたのは初めて」

「そうですか。なるほど」

 

 ここに来るまでに考えてた偽の理由を話すと、すんなりと納得してくれた。

 

「それじゃあ、今から六時まで作業開始だ」

 

 オレの掛け声と共に、新たに三人目を加えての読書タイムがスタートした。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 二人で進めていた事も人手が増えれば当然、一人分効率が上がる。そう思って塚本くんをここに呼んだわけだが、結果的にそれは正しい判断というか、期待以上のものだと分かった。

 

「……あの、塚本くん」

「はい?」

「今、それで何冊目?」

「えーっと、二十七、ですね」

「ちなみに伊織さんは?」

「すみません、まだ四冊目です」

「ああいえ、オレも三冊目なので」

 

 端的に言うと、彼の読み進めるスピードは異常だった。速読と言うヤツだろうか、パラパラ漫画でも見てる様な速さでページをめくり、一分もかからずに一冊を読み終える。

 あまりにも速すぎるのでちゃんと分かってるのか怪しく思ったが、適当に開いたページの内容を聞いたら完璧に答えて来たから、素直に凄えと驚くばかりだ。

 それを言うとはにかみながら『仕事……バイトでこういうのが必要なので』なんて言ってたが、果たしてこんなスペックを求められる仕事とは何だろうか。聞いたがはぐらかされるばかりだった。

 

 その後、オレと伊織さんも負けじと読み進めて行き、時刻はあっという間に目標の六時を迎えたのだった。

 しかし、結果はと言うと……。

 

「うーん」

「今日で五日目になりますが、芳しくないですね」

「まだ焦るような時間じゃ無いのかもしれませんが……」

 

 野々原家が旅行から帰って来るのも遠く無い。流石にそろそろ目星の一つや二つは見つけたい物だったが、あいも変わらず前世絡みの悩みは記録されていなかった。

 

「今日読んだ中で一番多かったのは、恋愛相談ってか占いでした。しかも気になる子が三人いて、その全員から言い寄られたみたいで」

「えぇ……余程魅力的だったんでしょうね。多少気の多い男性という気もしますが」

「誰が自分の妻にふさわしいか、占って欲しいって内容でした。それで選ぶとか」

「前言撤回します」

「手のひら返しが早過ぎる」

「そうじゃないですか、逆に縁さんは許せますか? 人の心を踏みにじる選択を、神に委ねようとしてるんですよ、信じられません」

「ん……それは確かに」

 

 巫女さんとしては許せない事だろう。神様を厚く信仰する人間にとって、神を愚弄する行為に他ならないという感じか。

 

「──って、すみません。つい熱くなってしまって。過去の記録に怒ってもしょうがないですよね」

「いえいえ、たとえ神様相手じゃなくてもこの相談者は失礼な奴だと思いますよ。好きだっていう女性にとってはもちろん、それに」

「それに、なんです?」

「世の中の彼女いない男にとっても忌々しい。この相談者は間違いなく男女両方の敵です」

「ふふ……あははは!」

 

 思いのほかウケが良かったのか、今日初めて伊織さんが笑顔を見せる。

 塚本くんがいるからか、今日は緊張しているようだったので笑う姿を見て安心できた。

 

「縁くんはたまにそうやって変なこと言うから、会話してて楽しいです」

「そう思ってくれるなら何よりです、実はいつも伊織さんの前では無理してるから、寝る前に自分の発言が恥ずかしくなって悶えてるってのはここだけの話ですよ」

「絶対嘘ですよね、そんな風にすらすら言葉出てくるのに」

「いや、まあ流石に無理してるっていうのは嘘ですけど、伊織さんと話すのは楽しいから自然と普段より頑張っちゃうのは本当です」

「……ぅ、えっと、それはどういう」

「お二人で楽しく会話してるところ申し訳ないのですがー?」

「うおっ!」

「きゃっ!」

 

 オレ達の間からにゅっと顔を出してきた塚本くんに、思わず驚いて素っ頓狂な声を挙げてしまう。

 

「そんな驚かなくても良いじゃないですか」

「気配消しながら顔出されたら誰だって驚くって」

「気配なんて消してませんよ、二人だけで仲良く会話してこっちの存在忘れてただけなのでは?」

『っ!?』

「とまあ、そんな事より、これ見てくださいよ」

 

 好き勝手な事を言いながら、彼が一冊の手記を見せてきた。

 

「ここに書いてある昭和47年三月の記録、これが二人が探していたものにあてはまりませんかー?」

 

 

 彼が指した記録には、大まかにこう書かれていた。

 

 ある日、一人の男が訪ねてきた。大野健司と名乗るその男は、なぜ自分がこの町にいるのかを分かっていなかった。

 最初、時の神主は大野を重度の記憶喪失か、認知症の類だと思ったが、事はそう単純ではなかった。

 大野はこの町にやってきた経緯以外の、全ての記憶をしっかり覚えていた。年齢も、出身も、職業も、人間関係も──そして、自分がいつどうやって死んだのかも。

 

 そう、彼は七宮神社があるこの町とは全く違う場所で生きた人間の記憶を持っていたのだ。

 気が付くと町の公園のベンチにいて、わけも分からずあちこちさまよい、事態が事態なので警察や病院に行くわけにもいかず、自分の`家族`にも連絡するけにはいかないので、途方に暮れてさまよった果てに七宮神社に辿り着いたというわけだ。

 聞いた話をもとに、神主は実際に大野健司という人間が過去に居たかを調べたところ、それが本当だった事が分かった。

 ページの最後には、このまま放って置くわけにもいかなくなった神主が、とにかく彼の面倒を見る事に決めたと書かれてある。

 

「縁くん、これは……」

「ええ、まさにこういうのを探してたんだ。ありがとう塚本くん!」

 

 あれだけ見つかりそうもなかった事例をあっさりと見つけた塚本くんに感激して、思わず両手を握ってぶんぶん振って感謝の意を伝えた。

 

「いぃぃえぇぇいぃええ」

 

 腕と一緒に上半身を上下に揺らしつつ答える塚本くん。

 だが続けて彼の口から出た言葉は、あまり良くないものだった。

 

「ただし、この後彼がどうなったのかは、続きのページをめくっても分かりませんでした。同じ棚にあった手記も読んだのですが、全然違う時代の記述だったり、この町の民俗資料だったり……ピンポイントに続きが書かれてある手記を見つけ出すには引き続き人海戦術で見つけるしかなさそうです」

 

 書かれてある年代がたまに急に古くなったりはオレもあったけど、一つ新しい情報があった。

 

「民俗資料? オレが今日まで読んだのにはそういうの無かったけど、ここってそういうのもあったんですか?」

 

 てっきり町の人からの相談内容ばかりがまとめられているのだとばかり考えていたが、伊織さんが首肯して答えた。

 

「はい、父の代からはしっかりと年代別、ジャンル別に整理してますが、祖父母の代まではその……その辺りが杜撰で、内容も年代も、かなりバラバラになってるかもしれません」

「さては七宮さん、お父様に蔵書の整理も任されてますね」

「そうなんです……片づけるから鍵を貸してほしいとお願いしたので……でも、想像よりバラバラだったみたいで……すみません」

 

 伊織さんは恥ずかしさと申し訳なさが入り混じったような表情で俯きながらそんな事を言ったが、オレからすればそんなの初耳だ。

 確かに、伊織さんが書庫の事を提案して、翌日あっさりと話が進むものだから不思議だなとは思ったが、まさかそういう条件のもとだったなんて。

 という事は、もしかして……。

 

「伊織さん、もしかしてオレが帰った後にいつも全部一人で片付けしてました?」

「え? ……はい、そうですけど」

「なんでオレ

 にも声掛けてくれなかったんですか。オレだってやらないと駄目じゃないですか」

「書庫の整理はいずれは私がやらなきゃいけない事だったので、それに縁君はいつも読んだ後ちゃんと棚に片づけてどこまで読んだか教えてくれますし、書庫整理に巻き込むなんて出来ないです」

 

 伊織さんが良かれと思ってそう言ってるのは分かる。

 だけど、それで`はい分かりました`と頷くわけにはいかない。

 

「そんな事ないです、オレだってもう関係者じゃないですか。毎日ここにきて、ここにある物を取り扱ってる。これって完全に関係者ですよね?」

「それは、そうですけど……でも、縁君の帰る時間が遅くなっちゃいますし」

「どうせ家には今オレしかいないので問題ありません。それに」

「それに、なんです?」

「探していた内容の手記が見つかって、どこかに続きがあるんなら、お礼に書庫の整理くらいやらないと罰が当たっちゃいますよ」

 

 ましてやここが神社の敷地内であるなら、尚更だ。

 

「変な話ですが、これもオレを助けるためだと思って、今後はオレにも片付けさせてくださいよ、ね?」

 

 お願いポーズ──両手を前に合わせて、片目はウインク気味に閉じ、はにかみながらお願いする一連の仕草だが。オレが生きていた時によく堀内や瑠衣にやられた──でそう言うと、伊織さんは少しだけ困ったように、小声で『あー』とか『うー』とか悩んだ後、観念したように言った。

 

「……分かりました、これからは書庫の整理も一緒にお願いします」

「はい、もちろんです!」

 

 なるほど、あの二人が最終的にこのポーズをやるだけある。結構効果てきめんだった。

 

「それでお二人とも、今日はこの後まだ探し物を続けますか?」

 

 そういえば夜は用事があると彼は言ってたのを思い出した。八時までと言ってたが、ここから帰るのを考えるとそろそろお開きにしないといけないだろう。

 

「いいや、今日は初めて進展があったし、続きは明日にしよう。ここからは片付けにしよう」

「お気遣いありがとうございます。先ほどはお二人の会話を邪魔したくないから黙ってましたが、かかわってる以上僕も片づけは手伝うので、三人でパッパッパッと終わらせましょう」

 

 塚本くんの言うほど迅速では無かったが、三十分もかからずに読んだ手記を年代別にまとめ終えて書庫を出た。

 日中は生物をすべて滅却せんとするような陽光は鳴りを潜め、涼やかな風と共に空を黄昏色に染めている。

 伊織さんと別れの挨拶もそこそこに、オレと塚本くんは来るとき汗だくになって登った階段を淡々と降りていった。

 

「明日も君はここに来ます?」

「その予定」

「OKです、なら僕も来ますね」

「マジ?」

「マジです」

 

 手伝ってもらうのは今日だけのつもりだったから、彼の申し出は正直助かった。

 

「今日これからある用事がすんだら、少し時間が空くので。……まあ、もっとも?」

 

 塚本くんは変なところで言葉を止めて、ニヤニヤしつつオレを見てくる。

 それがオレにちょっかいをかけようとしてる時の堀内や瑠衣の顔とそっくりだったから、嫌な予感をしつつオレは先を促した。

 

「もっとも、なにさ」

「君が彼女と二人きりで過ごしたいというのであれば、空気を読んでクールに去りますよ」

「……はぁ」

 

 望まないため息をこぼしてオレは肩をすくめた。やっぱりそういう話か、最初にオレと伊織さんが会話した時も勘繰るような言葉を口にしていたし。

 オレが頸城縁として生きていた頃、世の思春期には男女がちょっと近しい距離感で会話してたら何でもかんでも恋愛ごとに結び付ける奴らが一定数いたが、彼もまたその類らしい。

 本来なら躍起になって否定するなり、呆れて無視するなりするものだったが、初めて会った時から不思議な、どこか浮世離れしてる雰囲気を放つ人間が、そういう年相応なところを見せてきた事に安心してしまった。

 

「別に、君が勘繰るような関係じゃないよオレ達は」

「ふふ、ほんとですか?」

「本当。だって知り合ってからまだ一週間も経ってないし」

「その割には随分と打ち解けてたみたいですが……それに、親密になるのに日数は関係ないと思いますよ」

「っ……変なこと言うなって」

 

 予想外の言葉を言われて、思わず返す言葉に窮してしまう。

 これ以上この話を続けられたらさらに面倒な方向に話が進みそうだったが、幸運にもそのタイミングで石段を下り終えた。

 急いで自転車に向かって駆け出した事で、話題を無理やり終わらせる。

 塚本くんもそれ以上、追及してくる事はなかった。

 

「帰りは安全運転でお願いしますね」

「ああ。さすがにオレも暗い道でふざけて死にたくないしね」

「やっぱり行きはふざけてたんですか」

「ははは、もうここに来るまでの事は水に流して欲しい……あれ?」

「ん? どうしました」

 

 自転車にかけていた鍵を開けようと、後ろポケットにしまったカギを取りだそうとしたが……腰に回した手に、鍵の感触はなかった。

 

「……鍵が無い、書庫で落としかもしれないっす」

「マジですか」

「大マジっす……」

 

 最後に鍵の存在を確認したのは、書庫に入る直前だった。

 野々原縁がどうなのかは知らないけど、オレはちょくちょく落とし物をするタイプだったので、鍵や財布の様な貴重品をしまったポケットは何度か確認する性格だから、間違いない。

 当然の話だけど、鍵が開かないと自転車は動かせない。となれば、是が非でもオレはもう一度七宮神社に向かう必要があるわけで……。

 

「ごめん、塚本くん。もっかい上に行かないと駄目っぽい」

「今からまたこの石段を上るわけですか。災難ですね」

「うん……でも、それ以上に用事がある君を待たせちゃって申しわけない」

「あー、それについてはお構いなく。車を呼べば迎えが来ますから。僕の事は気にせずゆっくり戻っちゃってください」

「え、迎え来るの? それなら最初から自転車に二人乗りで帰るなんてしなくても」

「はい。でも、その方が楽しそうでしょう?」

「……はは、やっぱ不思議な性格してるね、君って」

 

 わざわざそんな理由で時間のかかる方を選ぼうとしてたんだから。もしオレがこのまま神社に戻らずに歩いて帰ろうと言い出したら、一緒に歩こうとしたんじゃないだろうか。

 

「それなら、ありがたくマイペースで戻るとするよ。でもその前に」

 

 そういって、オレは自分のスマートフォンを取り出して彼に見せる。

 

「何かSNSはやってる? 明日からも会うんだし、すぐ連絡取れるようにしておこうよ」

 

 オレの生きた頃には電話番号かメールアドレスが主流だったが、現代はそれに限らず幾らでも手段がある。

 それに伴う弊害も起きてるようだけど、総じていい時代になったものだと思う。

 

「──ああ、すみません。その手の連絡手段は使ってないんです。煩わしくて」

「……あぁ、そうなのね」

 

 まあ、そういう人も幾らでもいるだろう。

 

「じゃあ、電話番号でもいいかな? 電話すれば済む事だし、番号さえわかればショートメールでのやり取りはできるでしょ?」

「ええ、そっちなら問題なく。番号言いますよー」

「いや、画面だけ見せてくれれば。電話帳にささっと登録するから」

「かしこまりました、はいどうぞ」

 

 そう言って彼が見せてきた画面に表示された電話番号を、宣言通りささっと登録する。

 

「それじゃあ、今日はここまでって事で。ごめんね本当。それと改めて、今日はありがとう」

「こちらこそ、暇を持て余して時を浪費する手間が省けました」

「また明日」

「良い夜を」

 

 そんな会話を〆に、オレ達は解散した。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──あっ、戻ってきたんですね!」

「え、伊織さん?」

 

 石段をゆっくりと登り終えたオレを、伊織さんが迎えてくれた。

 

「これを取りに戻ってきたんですよね?」

「あ、拾ってくれたんですか!」

 

 タタタタ、と駆け寄り手渡してくれたのは、まさにオレが探していた自転車の鍵だった。

 

「落ちてるのを見つけて、すぐにあなたのだと分かったから追いかけようとしてたんです」

「やっぱ神社の中に落としてたか、これからは財布の中にでもしまっておくべきかな……」

「ふふ、コードリールに取り付ければ落とさなくてすみますよ。はいどうぞ」

「ありがとうございます伊織さん、おかげで助かりました」

 

 受け取った鍵は間違いなくオレの物。これで家まで長々と歩かずに済む。神社に戻ってから探す手間が省けて助かった。

 

「……」

「……」

 

 受け取ってから、途端に二人して黙り込んでしまう。

 普段ならすぐ書庫に行って調べ物して、夜になれば帰るって決められた流れがある。その中でなら会話に窮する事なんて無いし、幾らでも話せるのに。

 こんな風に思わぬタイミングで二人だけになると、初めて親の言いつけを破った子どもみたいに、ヤケにドギマギしてしまう。

 話す事が何も無いなら、あとはもう帰れば良いだけなのに、何故かそれを躊躇っている自分がいる。この時間を呆気なく終わらせる事にひどく勿体ないと感じてる自分がいるんだ。

 

「……あの」

「は、はい!?」

「っ、すみません、驚かせてしまって」

「ああいえ! オレが伊織さん前にしながら勝手に考え事しちゃってただけなんで!」

 

 まさか彼女から話を振ってくるなんて思わなかったから、少し驚いてしまった。と言うか人を前にしながら別の事に意識を持っていかれ過ぎだ、失礼だぞオレ。

 

「……すみません、なんです?」

「その、塚本さんが待ってないかと思って」

「あぁ、そうですね。彼なんですが、どうやら車で迎えが来るらしくて。オレと危なっかしい二人乗りするより遥かにマシって感じです」

「そうだったんですね、良かった……」

「え?」

「いえその! 鍵が無くて二人とも困ってると思ったので。えっと、それなら縁さんはこの後って急ぎの用事などはありますか?」

「いえ、オレは特に何も。お腹も減ってないからゆっくり帰ろうと」

「なら、よければ少しお話、していきませんか?」

「……っ」

 

 彼女の言葉は、オレにとってかなり予想外だった。

 

「初めてあってから、縁さんと今日まで毎日会ってますけど、お互いについて会話した事、あまり無かったと思うので……だめ、でしょうか?」

「……滅相もないです。そういえば確かに読んだ手記の内容についてばっかりでしたね、オレらの会話って」

「それでも縁さんと話すのは楽しいですけど、せっかくなので……結構気になってたんですよ? 縁さんはどうして今の状況になったのかだったり、縁さん自身はどんな人生だったのかだったり」

「どんな人生って言えばまぁ、死んでるので色々お察しになると思いますけど……あんまり、面白い話じゃなくてもよければ」

「えぇ。教えて下さい、私にあなたの事を」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 初めて会って、自分の状況を説明した時と同じベンチに座りながら、オレは以前とは違う、オレ自身の人生について、なるべく陰鬱にならない様に、そして決して正当化しない様に意識しつつ、話し始めた。

 

「端的に結論から言えば、オレはメンヘラでした」

 

 

「め、めんへら……メンヘラですか?」

「はい。メンヘラです。どんなのか分かります?」

「あんまり……おおよその意味は分かるんですが」

「さらっと言えば被害者ぶった加害者、同情されるだけの背景はあっても、決して手放しで可哀想とは言えない。認めたくないけどオレはそんな奴でした、そんな奴です」

「えぇっと、その……なんと言えばいいか」

 

 返す言葉が分からなくなり、伊織さんは困惑している。

 流石に始めから飛ばし過ぎたと内省しつつ、オレは切り替えの意味も込めて指を軽く鳴らしながら、続けて言った。

 

「冗談です」

「じょ、冗談なんですか?」

「はい、メンヘラってのは下手くそなジョーク、自虐です。滑りました無視してください」

「……もう、真面目に話してください。困ります」

「すみません……でも、全部が全部嘘って話では無いです。むしろ、今話した中で嘘なのがメンヘラって事だけな位で」

 

 視線を伊織さんから、オレたちの上で爛々と輝いている三日月に移す。すると三日月はこっちを見るなと言わんばかりに、瞬く間に雲に隠れてしまった。 

 

「少なくとも、私は初めて縁さんと会ってから今日まで、あなたが言う様な酷い人間だと感じた事は無いです。どうして、自分をそんな風に思ってるんです」

「……女の子を一人、死なせたんです」

「縁さんが……ですか?」

「ああいや、オレが殺したって意味では──いや、同じようなものですね。原因はオレにあったので」

「今も悔やんでるってことは、本当に大事な人だったんですね」

「えぇ。瑠衣《るい》って名前なんですが、幼なじみで。とは言っても一緒に過ごした時間はあんまり無かったんですが」

 

 話す前に、今一度自分の過去と、今年の六月に出会った"この世界の瑠衣たち"との思い出を振り返った。

 自分の過去を話すのはこれが初めてじゃなく、野々原縁がオレの記憶をもとに野々原渚へ話した事がある。

 その時はかなり大雑把に説明したが、今回はもう少し細かく伊織さんに説明しようと思う。

 

「瑠衣とは小学校五年生の時まで一緒に遊んだりした仲でした」

「そうなんですね……途中で遊ばなくなったのは、何があったんですか?」

「父が、犯罪者になったんです」

 

 金持ちの家に数人の仲間と押し入って、強盗をした。

 その時、偶然大人が家を留守にしていた為に金目の物が手に入らず、家中を手あたり次第に荒らしまわした。

 それだけならまだ良かったのだが、最悪な事にその日、家には子どもたちが留守番をしていた。

 そして、父と仲間たちはその子どもたちを手にかけた。全員殺したとも、一人だけ生き残ったとも聞いてるが、とにかく、父はオレの生まれ育った町の人間なら誰でも知る犯罪者となり、母はそんな犯罪者の妻、オレはその息子というレッテルを強制的に貼られる事になった。

 

「人殺しの家族が同じ家に留まるわけにもいかないですよね? 案の定昨日まで仲良かった近所の人が、たちどころに白い眼を向けてくる様になりましたよ。だから急いで引っ越したんです。当然、瑠衣とは別れの挨拶すらできませんでした」

「そんな……縁さんは何も悪い事してないのに、どうして」

「そんな物ですよ、少なくともオレの周りはそうでした。そしてそれは、引っ越した後も同じでした」

 

 引っ越し先は安いアパートだった。最初の数日は大丈夫だったが、すぐにオレ達親子の素性は知られて、あっという間に村八分の出来上がり。

 理解を示してくれる人は僅かにいたが、それ以上のストレスや謂れのない誹謗中傷がオレ達に降りかかった。

 オレは当時まだ小学生だったから、周りの態度や言動も耐え得るものだったけど、母はすぐに限界を迎えていた。

 小学校六年生の誕生日、学校から帰宅したオレを待っていたのは誕生日ケーキでもプレゼントでもなく、自殺して冷たく固まった母の死体だった。

 父の犯罪と母の自殺、それらのショッキングな事実を受け止められる程オレの精神は強くなかった。そこからしばらくの間オレの記憶はあいまいで、気が付くとオレは中学生を卒業して高校生までなっていて、周囲から孤立していた。

 

「いじめとかは無かったんです。そういう形での接触すら避けられてたんでしょうけど……とにかく、明るく活発な少年だった頸城縁くんは、あれよあれよと人と関わらない奴になっちゃいました」

「す……すみません、想像してたより話が重くて、あまり言葉が出てこないです」

「ですよね」

「それに、今の縁さんとは普通に会話してますから、正直本当にそんな事があったなんて思えなくて……」

「死んじゃいましたからね、オレ。死んでからも同じ気分で居られませんよ、ははは」

「……笑えませんよ」

「ん……失礼しました」

 

 ここまでは、聞いた人間の全員が同情してくれる話。

 問題はこの先、高校三年生になった俺が新入生の瑠衣と再会してからにある。

 

「この当時、オレには一人だけ堀内っていう友人が居ました。堀内は二年の時からの付き合いで、周りから避けられてるオレに自分から絡みに来る変な奴でした」

 

 オレにヤンデレCD(と、それを素材に作成された動画)の存在を教えたのも堀内だ。

 めんどくさがり屋で、普段からいい加減な態度。それでいて一年の頃から班長とか委員長とか、部活動でも副部長になったり、やたら人をまとめる立場に付く男だったよ。

 聞けば中学の頃から水泳部のスポーツマンらしいが、普通にサブカルにも手を出すから、クラスのヤンチャな奴とネクラなオタクの両方と上手に付き合ってた。

 

「こんな事、アイツには死んでも言えませんが、今オレが伊織さんや塚本くんと会話する時、結構アイツの振る舞い方を参考にしてるんです」

「真似できるくらい、仲が良かったんですね」

「違いますよ! ……まぁ、でも、アイツの人間関係構築力の高さは、当時から本当に凄いと思ってましたよ。不思議なカリスマ性があったんだと思います」

 

 良くも悪くも人を選ばず、どのクラスカーストにも属さないが、満遍なくコミュニケーションを取る。出世する人間てのはああ言うのを指すんだと、今ならよく分かる。

 

「そんな奴だからこそ、オレと友達なんてなろうとしたんでしょうね。後にも先にも、悪意無くオレに関わろうとしたのは瑠衣を除けば堀内だけでしたから」

「……ふふっ」

 

 不意に、伊織さんがクスリと笑った。

 

「縁さんは、本当にその堀内さんが好きなんですね。気づいてます? さっきから遠回しだけどずっと、堀内さんの事を誇らしげにベタ褒めしてますよ?」

「……うっ」

「瑠衣さんと再会するまで……うぅん、今でも。堀内さんは縁さんの中で救いになってたんだって、凄く伝わります」

「あ〜〜〜……はい、そっすね」

 

 オレが瑠衣や堀内らに対してどう思ってたかは、“この世界”にいる二人に伝えた言葉のままだ。

 あの時は野々原縁が代弁する形になったが、あの別れ際口にしたのは紛れもなくオレの本心だったのだから。

 ただ、それを出会ってようやく一週間を迎えそうなばかりの女の子に見透かされたのが、無性に気恥ずかしい。

 

「そんなに分かりやすかったですか、オレ」

「はい」

「露骨に言動に出てた?」

「ええ、これでもかってくらい」

「うぅわ、はず……オレまじハッズ……生きてた頃はツンツンしといて死んでから本人のいない所でデレデレとか、今日びツンデレでもやらねえよ……」

「もう、縁さん、一人で勝手に羞恥心に呑まれないで話を続けてください」

「……地味に容赦しないっすね、伊織さん」

「巫女なので」

「何ですかその新たなギャグ、少しドヤ顔で可愛いっすね、そんな事も言えるなんて意外でした」

「…………っ」

「割と本気で照れんでくださいよ!!」

 

 静かな……セミの鳴き声で静かとは程遠い夜の神社の境内に、オレのツッコミが響き渡る。

 さながら即席の漫才を堪能した両者の間に流れる沈黙。

 

『ふふ、あははははは!」

 

 それを破ったのはどちらからともなく噴き出した笑い声だった。

 

「あーもう、こんなに笑ったの死んでから初めてですよ」

「私も、縁くんと出会ってからはよく笑いますが……、ふふっ、こんな風に笑うのは久しぶりな気がします」

 

 特に目立つ様な笑いのネタがあるわけではない。オレと伊織さんのやり取りから自然に生まれた、楽しいと言う気持ち。

 それはまるで、幼い頃に瑠衣と過ごした日々の様でいて──だからこそ。

 

「今、たくさん笑えて良かったです。こっから先は“もう笑うしか無い”って内容になるので」

「──はい、続けてください」

 

 せっかくの和やかな空気を壊したくなかったが、既に言った通り、高校生のオレは加害者だ。いつまでもケラケラしてられない。

 

「オレが三年になって、新一年生の入学式があった日の帰りに、瑠衣は急にオレの前に姿を見せました。もう七年くらい会わなくなって体格や人相も変わったはずなのに、瑠衣は一目でオレを見つけたんです」

 

 生徒がたくさんいる中で、隣に堀内もいた所に大声で『やっぱり縁だ!』と女の子が駆け寄ってきた時はマジで焦ったし、周囲の目も刺さるから冷や汗ダラダラ。とにかくその場を離れたい一心で逃げる様に家まで走った。

 

 マラソン走者さながらに帰宅した後、玄関で突っ伏して息を整えつつ、“誰だあの子は”って疑問で脳みそをパンパンにしてたが、二分くらい考えてようやく瑠衣だと思い至って、懐かしさとほろ苦さがいっぺんに押し寄せる。

 明日からの学校には瑠衣が居る。明るく溌剌な小学五年生の自分を知る彼女に、今の自分を見られたくなかった。

 “明日からどんな顔して学校行けば良いんだ”──そんな事を悩んでたら、

 

『おーい縁、幼なじみの瑠衣ちゃん連れてきたぞー』

 

 堀内の大馬鹿野郎が、しっかりオレ達の関係性までおさえて瑠衣を連れて来やがった。

 比較的に良く通る声が玄関越しに聞こえて、扉一枚向こうには瑠衣が居るって事実に、オレはある意味で怯えてた。

 だが、こうして居留守を使えばひとまず会わずに済む。そう思ってたのだが──、

 

『あ、鍵開いてるじゃん』

 

 大馬鹿野郎はもう一人いた。

 

『入るぞー』

「ま、待て!!!」

 

 人生で三番目くらい素早く動いて、扉にチェーンを掛ける。

 

「あっ! チェーン掛けやがった! 往生際が悪いぞ」

「うるせえ! 帰れ! オレは今日忙しいんだ!」

「絶対嘘だ。数年ぶりに幼なじみに再会するのが恥ずかしいだけだろ」

「いいから帰れって──うわぁ指を這わせるな怖いだろ!」

 

 ドアの隙間から堀内の指が死にかけの触手みたいに(うごめ)いて、チェーンをかちゃかちゃ揺らす。更に顔を覗かせて、目ん玉をまん丸と開きながらこちらを鋭く睨むから、ホラー映画みたいで普通に怖かった。

 

「あーけーろーよー」

「そんな不気味な奴、平時でも家に入れるか馬鹿!」

「もう堪忍しろって、ここに来るまでにお前がどんなスクールライフだったかは、俺が事細かに教えてるから気にする必要無いぞ」

「──っ!」

 

 その時懐いた感情が苛立ちなのか、羞恥心なのかは分からなかった。もしかしたら彼女にだけは、綺麗な頃の自分だけを憶えて欲しかったのかもしれない。

 

「余計な事しやがって、迷惑だ帰れ!」

「おお、そんな怒るなよって」

「怒ってねえよ!」

「怒ってるじゃん絶対に──うわわ、ドア閉めようとするな」

 

 無理やりドアを閉めようとするオレを見て、堀内は急いで指を離した。

 

『危ねえだろ、怪我するぞ!』

「オレはしねえよ! 帰れもう、帰れよ!」

 

 そう言いながらすぐに扉の鍵も閉めて、もうこれ以上何を言われても無視するために部屋に篭ろうと踵を返した。その直後だ。

 

『──あの、縁?』

 

 瑠衣の言葉が聞こえた途端、足が止まった。

 

『縁の事については、全部アタシが聞いた事なの。幼なじみだった事を言ったのもアタシから。……だから、堀内さんの事は責めないで』

 

 久しぶりに耳にする彼女の声は、さっき学校で聞いた時とは真逆の声色だった。

 

『ごめんね、無理に押し入る様な真似しちゃって……もうこう言う事はしないから……。あの、でもね、久しぶりに会えて良かったと思ってるよ。本当に、ホントだよ!』

「……」

『今の縁が、昔と違うのは分かってたつもりだったけど、ちゃんと分かって無かった……もう、こう言う事はしないから。学校でも、気をつけるね……』

 

 瑠衣は今にも泣き出しそうなくらい辛そうだ。

 話を聞いてるうちに、オレの中から叫び出したくなる様な衝動が湧き上がってくる。

 他の誰でも無い、オレの言動や態度のせいで瑠衣を哀しませたと思うと、これ以上耐えられる気がしなかった。

 

『それじゃあ、さような──』

「待て、待って!!!」

 

 人生で二番目くらいに素早い動きで、ドアの鍵とチェーンを開けて、そのままの勢いで扉を開けた。

 扉の先にいた瑠衣は、驚きつつもしっかりとオレを見据え、一瞬間を置いてからくにゃっと顔を綻ばせる。

 

「──久しぶり、縁お兄ちゃん」

 

 ぴんと跳ねた左右のアホ毛。

 泣き顔から笑顔にぐるっと豹変する表情。

 犬がブンブンと左右に尻尾を振るみたいに、腕をわきわきさせて『嬉しい』という気持ちを表現する仕草。

 

 そのどれもが、オレの知る彼女まんまだった。

 何もかも変わった自分の前に、あの頃の輝きを失わなかった瑠衣が居る。

 その事実は、貧相な自分の語彙では表現できないほど複雑で、激しい感情をオレに与えた。

 それらをぐっと飲み込んで、オレは極力情け無い顔にならない様に意識しながら、七年ぶりに彼女の言葉に答えた。

 

「うん……久しぶり、瑠衣。元気そうで何よりだ」

 

 もっと気の利いた言葉はねえのかと自分で思ったし、後日堀内からもこっそり叱られた。

 とはいえ、この時はこれが精一杯だったのだから仕方ない。それにこんな雑な返事にだって、瑠衣は直後の瑠衣は大喜びしてくれたのだから。

 

「うん、うん……元気だよ──元気だったよ──!!」

「──なっ!?」

 

 主人から『よし』と言われて駆け寄る犬みたいに、瑠衣はオレにタックル──ではなく、全力の抱擁をぶつけて来た。

 秋田犬が全力で乗り掛かるとこんな位だろうか、という重みで転びそうな身体に喝を入れ、どうにか踏ん張りながら、止まっていた二人の時間が動き始めたのを、全身で感じた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それからオレ達は、七年間の溝を埋める様に一緒の時間を過ごした。

 放課後や休日、瑠衣から誘われて町のあちこち、たまには町の外にも出かけたりした。

 出かけてやる事と言えば、瑠衣の行きたい店で食事したり、買い物に付き合ったり、動物園やら水族館やら回ったり、後は徒歩や自転車で意味もなくあちこちブラブラ回って探検もどきの様な事をしたり、様々だった。

 堀内と三人で遊ぶ日もあれば二人きりで遊ぶ日もあって、二人だけで遊ぶ事の方が多かった。誘われてばかりじゃ申し訳ないし情けないからと、二回くらいオレから誘って都内まで遊んだ事もあって、その時は物凄く喜んでくれて……そんな瑠衣の姿を見てオレも嬉しくなった。

 彼女の笑顔は、オレが住む町の人間がよく浮かべる陰鬱気味な物とは全く違う、太陽の様な笑顔だった。

 そんな彼女の隣を並んで歩くと、まるで恋人同士のデートみたいだと思った時もあったが、その時のオレはすぐにそんな考えを振り払って、ただの幼なじみ同士で遊んでるだけだ、と思う事にしていた。

 今にして思えば、そのくらい、心から浮かれてたんだろう。

 

「デートですね」

「違いますよ」

「誰が聞いてもデートじゃないですか。縁さんは私に生前の惚気話をしたいんですか? ここから先は笑えないとか加害者って言うのは、そう言う意味で言ってたんですか?」

「違いますって……最後まで聞いてくださいよ。急に当たりきつくなってるじゃないですか」

「……ん、続きをどうぞ」

「それじゃ……。とにかく、オレは瑠衣と再会してからは、だいぶ楽しい時間を過ごせました。だけど、学校では極力自分と関わらない様に言ってたんですが、それを瑠衣は聞いてくれなかったんです」

 

 学校で不用意に絡んで、そこから目をつけられたら大変な事になる。そう思ったオレの意見を瑠衣も堀内も聞いてくれなかった。

 朝の校門前、お昼の食堂、放課後……すれ違えば必ず瑠衣はオレに声をかけて明るく会話を持ちかけてくる。邪険に扱うなんて出来るわけないし、その場に堀内が居れば必然的にオレがツッコミ役として立ち振舞う事になる。

 もうどうやっても、瑠衣が入学する前よりも目立つしかない日々を送っていた。

 

「こんなんで大丈夫なのか、そんな不安が常に頭の中を占めてたんですが、まぁやっぱり的中したんですよね、最悪の相手に目をつけられたんです」

 

 初瀬川、という東京から急に転校して来た一人の男がいる。

 父親がどっかの議員先生とやらで、その七光を存分に浴びた初瀬川は、転向早々常に堂々した態度で振る舞っていた。

 とは言え顔は良くて金もあり、根暗とは真逆の性格だから、比較的早くクラスの中で立場を作っていき、十分な存在感を持つに至るまでになったが、一部の生徒は彼の裏を知っていた。

 

「初瀬川は教員の前では自身溢れる好青年を演じてましたが、裏では何人かの連れと一緒に生徒を恐喝したり、暴行するクソ野郎でした」

 

 怪我人も出たが、親のコネで黙らせて、また新しい“生贄”を見つけて同じ事をする……そんな事をしてる男が次に目をつけたのが、事もあろうに“犯罪者の息子”と地元の学生達から避けられてるオレだった。

 始めは無視したし、オレの隣に学生人気の高い堀内も居たから初瀬川からのアクションは些細な物だった。しかし、瑠衣の存在を知ったアイツはオレを脅しに入った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「君が最近よく一緒にいる女の子、結構可愛いよね? ああいう素直そうな子を騙してるのは良くないと思うな」

 

 放課後になって帰ろうとした六月のある日、奴は急にそんな事を言い出した。

 始めは何を言われてるか意味が分からなかった。

 だから、今まで同じ様に無視して教室を出ようとしたが、この日ばかりは初瀬川も強気で、オレの肩を掴んで引き止める。

 

「無視してるんじゃねえよ、犯罪者予備軍が」

「手を離せよ、お前と話すつもりなんて無い」

「そうやってまた女の子騙して楽しい思いするつもりかよ」

「さっきから……誰が誰を騙すって? 馬鹿言ってろ」

 

 そう言って肩を掴んだる手を振り払い、今度こそ教室を出ようとしたが、出入り口には奴の取り巻きの一人が立っていた。

 背後から初瀬川の声が続く。

 

「だってそうだろう? お前みたいな危険な人間を、一体誰がどうして、好き好んで近づこうなんてするよ? あの変人の堀内ならともかく、女子が積極的にお前に声かけるなんてありえないだろう?」

「……」

「ましてや、あの子は一年だ。つまり、まだ右も左も分からない彼女を良いように吹き込んで、騙してるとしか思えない。それが自然な考えだろ? 君を知ってる奴ならみんなそう思ってるさ」

「勝手な事言ってんじゃねえ。オレは瑠衣に何も吹き込んでねえよ……だいたい、お前にとやかく言われる筋合いもねえよ」

 

 既にはらわたが煮えくり返るくらいの苛立ちは募っていたが、ここで手を挙げればどう足掻いても自分が不利になる。この学園での立場を鑑みれば、たとえ初瀬川に非があろうととオレが疑われるのは火を見るより明らか。

 我慢するより他はない、そう自分に言い聞かせながらいち早く帰る事を優先していたのだが、

 

「じゃあなんだい? 瑠衣って子はお前がどんなに危険な奴なのか分かった上で、わざわざ自分から近づいてるってのかい?」

「だったら、なんだってんだよ」

「ああ、そんな危ない思想の人間がこの学校にいちゃ、今後が危ぶまれるなぁ。退学してもらわないと」

「──ハァ!?」

 

 思わず、振り返って初瀬川の胸ぐらを掴みかかってしまう。ダメだと分かっていても、理不尽に瑠衣を巻き込もうとする話を聞いてしまった以上、我慢出来なかった。

 そして、それが不味かった。この時ニヤリと口角を上げる初瀬川の表情に、オレは気づく事が出来なかった。

 

「ふざけんな、瑠衣は関係無いだろ……! アイツはオレの幼なじみで、オレの親父が罪犯す前から知ってるから声掛けてくれてるだけだ、勝手に巻き込むな」

「だったらなんだよ、昔の君と今の君とは違うだろ。現に今、君はこうして俺に暴力を振おうとしている、言葉だけの俺に対して実力行使で黙らせようとしてるんだ」

「けしかけてるのはお前だろうが、白々しい事言ってんじゃねえぞ」

「たとえそうだとしても、大人が信用するのはどっちだ? この場を教師が見たら誰の言葉を信じる? 当然俺だ。そうなれば瑠衣って子は勿論、日頃からお前と居る堀内の奴もどう思われるかなぁ……ははは!」

「──クソ野郎が!」

 

 胸ぐらを掴んでた手を離す。初瀬川は服を軽く伸ばしながら二、三歩下がりつつ、この上なく薄っぺらい笑顔を見せつつ言った。

 

「可哀想だなぁ、犯罪者の息子ってのは。普通に学校で友達と過ごす事すら、許されないんだからさ。同情するよ、心から」

 

 それ以上、初瀬川の言葉を聴くのは限界だった。

 踵を返して、出入り口を塞いでた男を無理やり押し退けて教室を出て行く。

 もはや、初瀬川が話しかけてくる事も無かった。奴のやりたい事は全部やり終えたからだろう。

 

 そして、オレの中でもある決断が出た。

 それが全部を終わらせる、最悪のアイデアだとは露とも知らずに。

 

「あ──、待ってたよ縁! 今日は遅かったね」

 

 校門前でソワソワしながら立っていた瑠衣が、オレを見つけていつもの笑顔を浮かべながら駆け寄って来た。

 前から例えに用いてた様に、本当に子犬の様な振る舞いの彼女を見て一瞬、決意が揺らいだが、オレはそれをグッと押し込めた。……押し込めて、しまった。

 

「……どうしたの? 様子変だよ、何かあった?」

 

 顔を見るや否や、いち早くオレの異変を察知する。

 こんなにオレを理解してくれてる存在なんて、他には居ない。それほどオレにとって大事な人だからこそ──そう自分に言い聞かせて、オレは言った。最悪の言葉を。

 

「──瑠衣、もう今後二度と、オレに関わるな」

「──えっ?」

 

 言われた瑠衣は始め、言葉の意味を十分に理解出来ていない様だった。

 やがて言葉を咀嚼し、飲み込み、ちゃんと意味を理解出来て──そして始めて、信じられない様な顔で言った。

 

「急に、どうしたの? なんでそんな事言うの? 誰かに何か言われた?」

 

 そこまで分かってくれるのかと、泣きそうになる。

 でも、それでも、これ以上オレと居る事で初瀬川達から目を付けられるわけにはいかないから──オレは、言ってはいけない言葉を口にした。

 

「もうウンザリなんだよ! いつもいつもまとわりついて来やがって! 邪魔なんだよ鬱陶しい!」

「──っ!」

「幼なじみだから無条件に何でもかんでも受け入れられると思ったか? 大間違いだよ。今日まで我慢してたが、流石に限界だわ。……もう二度と関わんないでくれ」

「──どうして、そんな事、急に言うの?」

「だから言ってるだろ、限界なんだって──」

「嘘だよ!!」

 

 オレの言葉を遮ってそう叫んだ瑠衣の顔は、オレが初めて見る物だった。

 怒りと、それ以上に哀しみ。何処までもオレが本心から口にしてるわけ無いと信じていて──その上で、突き放そうとしてるオレと、そうけしかけた誰かに対して怒っているのをひしひしと感じる。

 

「ねぇ、本当の事を言って? 縁がそんな酷い事簡単に言える様な人間じゃ無いって事くらい、私分かるよ? 理由があるんでしょ? 誰かに、さっき何か言われたんだよね? ならそう言ってよ、私一緒にその人に言うからさ、縁はそんな人じゃ無い、私も好きだから一緒にいるんだって!」

「…………っ」

「だから、“もう関わるな”なんて冷たい事言わないでよ……、学校で話すのがダメならこれからはそうするから、だから……やっとまた会えたのに、一緒に居たいのに、また離れるなんて、嫌だよぉ……っ!!」

 

 そう言いながら、彼女の瞳から涙が溢れる。

 初めて、瑠衣を泣かせてしまった。

 先程からずっと自分を動かして来た歪んだ使命感と、類を泣かせた罪悪感が、オレを壊した。

 

「──っ!!」

「縁!? 待って、待ってよ……」

 

 トチ狂った脳と心は、オレの体をとにかくその場から引き離す事だけを考えた。

 意味のわからないまま、とにかく走って、走って、走って走って走り続けて、家まで逃げた。

 

 これが、オレの罪だった。

 被害者だったオレが、加害者になった瞬間だった。

 オレを無条件に受け入れて、最後まで信じてくれた女の子を、その想いを、無碍にして、裏切って、突き放した。

 

 ──これが、オレと瑠衣の最後の会話になるとも知らずに。

 

 

 オレと別れたその後すぐに、瑠衣は死んだ。

 

 知らせを聞いて駆け出したオレは、急に強く降り出した雨に打たれながら病院に向かい、そしてびしょ濡れで冷たくなりなりながら──もっと冷たくなって二度と目覚めない瑠衣の死体を目にしたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──死因は、屋上からの転落。一部のフェンスが壊れていて、そこから落ちた事による物だとすぐ分かりました」

「……そんな、そんな事って、あって良いんですか……」

「あったんですよ。だけど、瑠衣の死因は決して自殺なんかじゃ無かった」

 

 そう、瑠衣を知る人間なら誰だって、死因が別にある事は分かってる。

 衣服が不自然に破けていた事や、瑠衣自身の性格から鑑みても自殺はおかしい。

 でも、客観的に見てそれくらいしか理由は無かったし、警察もそれ以上の動きを見せなかった。

 瑠衣のご両親も当然納得なんてして無かったが、愛娘を亡くした事や、葬儀の準備などで忙殺されてしまい、真相を突き止めるまでの余裕はない。

 葬儀の日は六月の二八日で、オレをぶっ殺したって文句は言えない位なのに、瑠衣のご両親は葬儀によんでくれた。

 だけど葬儀の当日、オレは式場には居なかった。葬式には遺影がある、そこにはきっと彼女の笑顔があって、オレはどんな形であれもう二度と、彼女の顔を見る資格はないと思っていたから。

 

 その代わりに、オレは高校の体育倉庫に居た。

 喪服ではなく制服を着て、正面には参列者では無く初瀬川が居た。

 何故ここに初瀬川が居るのか。答えは単純、オレが呼んだから。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 瑠衣が死んだ翌日、自室でボンヤリとテレビを点けていたオレの耳に、家電話の鳴る音が届いた。

 椅子代わりに腰掛けていたベッドから立ち上がり、受話器を取ると、声の主人は安堵した様にまずため息をこぼした。

 

『良かった、生きてたか、縁』

「ああ、堀内か。どうした」

『どうしたって……今日お前来てないから、もしかしたらと思って』

 

 どうやらオレが自殺してる可能性を考えて、電話して来た様だ。

 

「変な心配するなよ、お袋のマネなんかしねえよ」

『そっか、そっか……なら良かった』

「死んだって瑠衣が生き返るわけでもないしな」

『……あぁ、そうだ。そうだよ』

 

 この時のオレはもう、自責の念やら後悔やら、怒りやら悲しみやら、楽しかった頃の思い出やら最後に関した交わした言葉やら、もう何もかもがない混ぜになって心がぐちゃぐちゃだった。

 だから、登校する気も無ければ死ぬ気もない。

 

「もういいか、お前も授業あるだろ、切るぞ」

『その前に、お前には伝えないといけない事があるんだ』

「なんだ」

『昨日、な。警察は全くその辺無頓着だったけど、何人も見てたんだよ。瑠衣が屋上に向かってくの……初瀬川達と』

「──は?」

 

 堀内が言った言葉の意味を、正しく理解して呑み込む。

 

「それ、ほんとか」

『ああ、誰も本人には聞けないが、今日すぐに警察に伝えた奴も居て、その上で初瀬川には何も聞かれる事無かったよ。これ、絶対アイツらが何かしたって──』

「──っく、ふふふ、ははははは!」

『縁……?』

 

 こんなのもう、笑うしか無かった。

 だってそうだろう。

 初瀬川達が“何かした”? 

 馬鹿かよそんなの、アイツが“何もかもした”に決まってるだろう! 

 

『まだ警察が動かないと決まったわけじゃない、だから縁、頼むから、早まるなよ?』

「早まるなって──くく、オレが何すると思ってんだよ」

『そりゃお前、もし本当にアイツが瑠衣ちゃんを殺したってなら、やりたい事は決まってるだろ』

「……」

『殺すなって言わねえよ、でも、もし本当にそうするって決めたなら、俺も巻き込ませろ。良いな?』

「──お前こそ早まんな馬鹿。晴れて部長なって、今度デカい大会控えてるんだろ、あんな奴のせいで人生棒に振る様な事考えるじゃねえよ」

『縁……』

「電話、サンキュな。笑ったら急にお腹空いたから、もう切るよ」

『あぁ、じゃあ、またな親友、待ってから』

 

 そう言って、堀内との電話を終えた。

 

「何が親友だよ、まだ知り合って一年ちょいだろうが」

 

 もっとも堀内なら、仲良くなるのに年月や時間は関係ない、なんて言うんだろうが。

 

 兎にも角にも、皮肉にも。

 ぐちゃぐちゃで木っ端微塵だったオレの心は、他ならぬ初瀬川という存在によって、再構築された。

 

 翌日からは登校し、驚く生徒達の視線を完全に無視して、オレは静かに──瑠衣と再会する前と同じ日々を過ごした。

 ただし、堀内にはひたすら瑠衣が死んだ時の目撃情報や、初瀬川自身の過去について調べて貰った。

 

 そうして、初瀬川が東京からオレ達の住む町に来た理由と、やはり初瀬川が犯人だという確信を温めて──警察が全く動く事無いと分かった時、オレは決めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「この後、呆気なく初瀬川は自分が瑠衣を屋上に呼びつけて、落とした事を認めましたよ。──もっとも、アイツは最後まで自分は悪く無いとのたまってたけど」

「最後まで……?」

「えぇ。オレが初瀬川を殺したんです」

「……そう、ですか」

 

 伊織さんの表情が今日一番に引き攣る。

 そりゃそうなるだろう、こんな簡単に人殺しを告白されちゃ、誰でも。

 

「実を言うと、胸にボイスレコーダー仕込ませてたんですよ。万が一アイツが泣いて謝って来たら、証言を警察や新聞局に突き出して、社会的に殺すのもアリだなって」

 

 でも、そんな事は考えるだけ無駄な仮定だった。

 一人で来いと言ったが、当然の様に奴は取り巻きを呼んでいて、そのうちの一人に後頭部をバットで叩かれた。多分それが致命傷になったんだと思うが、

 

「お陰で正当防衛も成立したから、心置きなく全員殺しました。いや、殺す気で殴ったのは初瀬川だけなので、他が死んだかは分かりませんけど」

 

 そう言って、深く深く、息を吐く。

 視線は地面に。もうこれから先、伊織さんの顔を見るのは怖かった。

 だけど、話すと決めた以上、口だけは変わらず動かし続けた。

 

「結局、瑠衣の葬式の日にオレは死にました。人殺しの息子は晴れて、正真正銘の人殺しになったわけです」

「……」

「過去話は以上で終わりです。長くなっちゃいましたね。本当はサラッと流し流しのつもりでしたが、やっぱ無理でした」

「……」

「最初に言いましたよね、オレは加害者だって。そう言う事です」

 

 瑠衣の心を傷つけて、踏み躙った。

 初瀬川とは言え、人を殺した。

 

 なら、オレは明確に加害者だ。

 何がメンヘラだ、そんな生ぬるい物では無い。

 

「オレと関わらなきゃ、瑠衣が死ぬ事は無かった。オレのせいで瑠衣は死んだんです。瑠衣が絡まなきゃ初瀬川を殺す事も無かったでしょう。結局、オレは人殺しなんです」

 

 さぁ、伊織さんは何で反応するかな。

 

 怖がって拒絶するのか。

 はたまたそんな事無いって否定してくれるのか。

 または、何も言わずに部屋に戻って、二度とオレとの関わりを断つのか。

 誰が来ても構わないが、やっぱり少し、いやだいぶ怖い。

 

「……」

 

 伊織さんが何も言わないまま、一歩こちらに歩み寄る音が聴こえた。良かった、どうやら無言で去る事は無いらしい。

 一歩、また一歩と距離が縮むにつれて、自分の心臓の音が嫌に激しく聴こえてくる。

 

 そうして、また一歩。もうオレの目の前で、視線の先に彼女の足先が見える程の距離だ。

 緊張と怖さの相乗効果で、とうとう目も開けられなくなりオレはギュッと瞼を閉じる──その直後、

 

「──っ!」

 

 優しく、頭から抱きしめられる感覚がオレを包んだ。

 流石に驚いたが、伊織さんの続けて放った言葉に、オレは一切抵抗する気を失った。

 

「──話してくれて、ありがとう」

 

 今までの敬語口調では無い、恐らく彼女の素の話し方で、伊織さんは『ありがとう』と言った。

 ありがとう? 何で彼女は礼なんか言うんだろう? 今の話のどこに、オレを抱きしめてまで礼を述べる要素がある? 

 

「貴方が今話してくれた事は、決して気軽に口に出来る物じゃなかったと思う」

「──そうですけど」

「貴方が二人の死因になった事は本当かもしれません。でも、私はそれを罪だとは思いません……思えません」

「どうして、です?」

「貴方が生きていた時に味わった苦しみや哀しみ、怒り……どれも想像出来ない位過酷な物で、それは全部、貴方だけの物。そんなに苦しい思いをした果てに起きた悲劇を、貴方の行動を否定出来る人間なんて居ないわ」

「……オレだけの」

「そう。貴方だけの。それを包み隠さず私に話してくれた事が、嬉しい」

 

 そんな事言われるとは思わなかった。でも、不思議と胸にストンと落ち着くのは、抱きしめられながら言われてるからだろうか。

 

「でも、だからこそ気づいて欲しい、貴方自身の心に」

「?」

「さっき、貴方は自分の心をぐちゃぐちゃになったって言ったけど、それは今も変わらないはずよ」

「そんな事無いですよ、オレはもう──」

「なら、どうしてずっと貴方は泣けないでいるの?」

 

 泣けない。

 泣かない、ではなく。泣けない。

 たった一文字の違いだが、それはとても大きな違いをもたらしている。

 

「自覚してる以上に、貴方の心はまだ哀しんでるし、苦しんでる。でも泣けないのは、ずっと“自分には泣く資格なんて無い”って自分を縛り付けてるから」

 

 伊織さんにそう言われた直後、かつて瑠衣から言われた言葉がオレの脳裡を過った。

 

『縁はさ。 抑え過ぎなんだよ』

 

 そうだ、あの時もオレは伊織さんと同じ様な事を言われてたんだっけ。

 

『抑え込まれすぎて、それが普通になって、もう誰も抑え込む人がいなくなっても、今度は自分で自分を抑え込んでる。 もう、縁に嫌なことする人なんて居ないんだから、もっと我がままでいようよ』

 

「自分の心に気づいて。泣いたって良い。ここは神社で、神以外には私しか居ないから大丈夫。泣く縁さんを咎める人なんてもう、何処にも居ないわ」

 

 ──あぁ、マズい。

 

 本当に偶然なのだろうけど、瑠衣と同じ言葉を今こうして、信頼出来る人に言われたりなんてしたら、崩れてしまう。

 瑠衣が死んだ日に枯れた筈の涙が、心をぐちゃぐちゃにして感じなくした罪悪感が、後悔が、そして何よりも──、

 

「たくさん泣いて、たくさん哀しんで、そしてたくさん、瑠衣さんと過ごした時間を想ってあげて」

「──でも苦しいですよ、本当の本当に、死にたくなる位辛いんですよ」

 

 瑠衣と過ごした時はほんの二か月しか無いのに、オレが生きた一八年の人生で一番強烈で輝かしくて、それを喪った事実と真正面から向き合うなんて──、

 

「ほんの僅かな時間だったとしても、どんなに苦しくても、その苦しみや辛さは全部、貴方にとって瑠衣さんがどれだけ大切な人だったかを証明する物だから」

 

 ──もう、限界だった。

 

 気がつけば、オレは伊織さんの背中に腕を回して、ぐっと身体を預けて──両方の目から大粒の涙を溢しながら、子どもみたいに泣いていた。

 

 罪悪感と、後悔と──そして。

 死んでからやっと、瑠衣の事を、瑠衣と過ごした思い出を想って、泣いた。

 

 自分の心に無頓着過ぎた馬鹿な男の泣き声は、雲間から差し込む月光の下に佇む神社の中に、しんしんととけていった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「まさか、女の子に抱擁されて号泣する日が来るとは思ってもいなかった」

 

 それが、散々泣き腫らして落ち着いてから最初の感想だった。

 正直、落ち着いてからとは言ったものの、信じられないくらい顔が赤い。まだ恥ずかしさは全く鳴りを潜めてはいない。

 

「あの……すみません。あんなはしたない事を、つい……」

 

 隣でそう返したのは、オレに負けず劣らず羞恥で真っ赤っかになってる伊織さんだ。

 初めて会った時は手が触れただけで平手打ちするくらいの人だ、そりゃある程度見知った仲とは言え本来はめちゃくちゃハードルの高い行為だった筈。あまり恥ずかしさを引きずるのはやめておこう。

 

 それに何より、彼女のおかげで自分の心の中にずっとあった重しのような物がスッと消えたのだから。

 

「謝らないでください。むしろありがとうございました。色々本当に、楽になったので」

「本当ですか? ……なら良かったです」

「──ていうか、口調、戻っちゃいましたね」

 

 さっきまでは敬語なんてほぼ無くて、凄いフランクな口調になってたのに。いつの間にか従来のものになってた。

 それを指摘すると、一層顔を赤くして伊織さんは言った。

 

「さっきのはその──アレが私の普段の口調ではあるんですが……さっきの縁さんを見てたら装う余裕が無くなって……」

「じゃあ、これからもその口調で居てくださいよ」

「え、でも……馴れ馴れし過ぎませんか?」

「その方がオレも嬉しいです。それに──」

 

 一度目を閉じて、思い出す。

 さっき戻る前には塚本くんから、生前は堀内から言われた言葉を。

 

「──仲良くなるのに、年月や時間は関係ない。らしいので」

「……うん、分かったわ。それじゃあその、これからはこんな口調になるけど……」

「うん、その方がやっぱ良いです」

「……もうっ」

 

 少しだけ、距離感が近くなった事を感じながらオレはせっかくだからもっと伊織さんを知りたくなった。

 そうだ、オレの話をしたのだから、今度は彼女の事を聞きたい。

 

「伊織さん、次は伊織さんの話を聞かせてくださいよ、何でも良いですから。オレも知りたいです、伊織さんの事をもっと」

「私の? ……でも、私も何も縁さんのためになる様な話なんて無いわ」

「タメになるとか考えなくて良いですよ」

「……なら、分かった」

 

 少し悩む様子を見せたが、程なくして伊織さんは決心した様に頷き、語り始めた。

 

「私、友達って呼べる人がいないの」

「それは、巫女さんだから……です?」

「うん、そう。私は幼い頃から、両親から神に身も心も捧げるよう教わって来た。世界に汚されない様に、常に清らかにあり続ける事が大事だって」

「それならもしかして、今こうしてオレと居るのはアウトなんじゃ?」

 

 早速浮かんだ疑問を、我慢できずに漏らしてしまう。

 伊織さんはくすっと微笑むと──その仕草すら初めてだ──、“大丈夫”と前置きしてから言った。

 

「貴方は余りにも特別だもの。きっと貴方がここに来て私と出会ったのは、神の思し召しだと思うの」

「あはは……だとしたら、本当に神様に感謝しないと」

 

 茶化してるんじゃ無く、本心からそう思った。

 

「それで、ここからは信じて貰えないかもしれないけど、私は幼い頃からずっと、“神の声”が聴こえるの。儀式をして集中してると、語り掛けてくる。そうして一層、神への信心を強くする……私はそうやって生きてきた」

「神の声、か……想像も出来ないな」

「でしょう? ふふ……だからこの話をしたらみんな、気味悪がって……」

「オレは疑わないっすよ、て言うか、気味の悪さで言えばオレの方が大概だし」

「ありがとう……でもそうしてるうちに私は、友達って存在とは縁遠い人間になってた。だから貴方が堀内さんの事を誇らしげに話すのが、少し羨ましかった。私も誰かの事をそんな風に話してみたい、誰かにそんな風に言われてみたい……って」

「伊織さん……」

 

 決して口にこそしないが、彼女が抱いてるのは間違いなく“寂しさ”だろうと思った。

 同年代の子達に理解して貰えない事、それでも神に心身を捧げる事の方が大事だから、彼女の周りにいる誰もがそれを問題としなかった。きっとそれは、彼女自身も。

 もっとも、彼女は自覚のなかったオレとは違い、冷静に状況を見た上で積み重ねた諦観の結果なのだろうけど。

 

「伊織さんは後悔してますか? 今までの生き方を」

「してないわ。神に身も心も捧げるのは両親からの教育からとは言え、確かに神は私の事を見て、言葉をくれる。だから良いの……でも」

「でも、なんです?」

「この神社……貴方や塚本君以外に参拝客を見た事あった?」

「……そういや、見なかったですね、ほとんど」

「でしょう?」

 

 はぁ、とため息を溢してから、伊織さんは神社をぐるりと見てから、言葉を続けた。

 

「山の上にあるから仕方ないかもしれない。でも、殆ど人の来ない状況はずっと残念に思ってる」

 

 それが、今の彼女の中で最も大きな悩みだった。

 

「来週、祭りがあるの。昔からの付き合いでたくさん出店は来てくれるんだけど、それでも来る人は年々減っていく。私が小さい頃、お爺ちゃんが神主だった頃はたくさん人が居て、私はそれを見るのが好きだった。でも、今はもう……」

「じゃあ、それやりましょう」

 

 パン、と拳を手のひらに打ち付けながらベンチから立ち上がり、オレは決めた。

 伊織さんが神社を昔みたいに人が多く来る状態にしたいっていうのなら、その為に協力したい。

 

「今から一週間位しかなくても、ビラ配りでも街に出て街宣するでも、やりましょうよ」

「えぇ!? でも貴方は調べなきゃいけない事がまだ──」

「それも一緒に。午前と午後で分けるとか幾らでもやりようは有りますよ、ね?」

「……もう、強引なんだから」

 

 伊織さんが折れた。となればこうもしてられない。

 

「じゃあ、早速帰って色々準備して来ます」

 

 家のパソコンとコピー機でチラシ作成とか、より効果的な広告の仕方とか、やるべき事は山の様にある。早く帰って動き出さないと。

 でもその前に、ちゃんと言っておかないといけない。

 

「伊織さん」

「何?」

「ありがとうございました。オレの話を聞いてくれた事だけじゃなく、今日までの事全部」

 

 初めて会った日から今日まで、伊織さんがオレを受け入れてくれたから、どうにかやっていけてる。

 

「明日からより一層頑張っていくから、改めてよろしくです」

「……それは私も同じよ。今眠ってる野々原さんの意識が目覚められる様に私も協力するから、一緒に頑張りましょう」

「──はいっ!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

『カギは見つかりました?』

 

 帰宅後にスマートフォンを確認すると、SMSで塚本くんからメッセージが届いてた。

 

『大丈夫、ありがとう。それと一つ、明日相談したい事があるんだ』

 

 そう返信するとすぐに既読がついて、『了解です』と返事が来た。

 

「さて、それじゃあ早速……お、やっぱりインストールされてたか。助かる」

 

 家のパソコンを起動して、デザイン制作系のアプリケーションがあるか調べたらすぐに見つかった。

 早速起動して、いくつかチラシのラフ案を作成する。

 生前、家に居たまま稼げるバイトとして、簡易的なデザイン系のバイトを経験してたから、こういうのは苦手じゃない。

 

「基本的な使い心地は同じだけど、表記が所々違うな……テキストボックスは何処から挿入できるんだ? ……あぁここか」

 

 オレの時代の頃よりだいぶ機能がアップデートされてるので、最初は操作に苦戦したが慣れれば後は楽だった。

 頭の中で浮かんだ案を3つほど、その他にインターネットを調べて参考になる物を5つ作った。

 そうこうしてるうちに日付も変わっていたので、ラフ案を全てプリントした後、今日はシャワーを浴びて寝た。

 

 翌日、プリントしたラフ案をリュックにしまって出発しようとした矢先に、野々原渚から電話が来た。

 ビクビクしつつも出ると、両親が旅先の途中で仕事案件が入り帰国が更に遅れるという連絡だった。

 こちらとしては願ったり叶ったりな状況だったが、喜ぶ仕草なんてしたら即怪しまれるので、とにかく無理だけしない様に言って電話は終わらせる。

 その後、改めて家を出ようとしたら、再度スマートフォンが振動した。今度は誰だと思ったら画面には『綾小路悠』とあった。

 

「──また面倒な相手から来た」

 

 正直なところ、オレは金持ちの権力持ちという時点で綾小路悠が苦手だ。なので可能なら無視したい所だが……。

 

「一応初瀬川と違って、良い奴っぽいんだよなあコイツ」

 

 野々原縁の意識の中で垣間見た彼の言動は、基本的に善良な物ばかり。裏ではどんな事してるか分からないが、恐らく野々原縁に対してはちゃんと友人関係を結んでいるらしい。

 仕方ないので、こちらも出る事にした。

 

『もしもし、おはよう。朝からごめん』

「あぁ……おはよう、ございます」

『?? 寝ぼけてるのかい?』

「ああいや、気にしな……気にしないでくれ」

『……? まぁいいや、今少し時間あるかな?』

「あー……大丈夫だよ。何かあった?」

『うん、実はさ──』

 

 曰く、今度綾小路悠の父が携わってる会社の系列で飲食店を開くらしい。

 その開店日に是非、野々原縁とその家族を招きたいとの事。

 何とも、金持ちならではのお誘いで心底ため息が出そうだが、わざわざ気を回してくれるんだから本当、良い奴なんだろうなぁ、コイツ。

 とは言え、先程野々原渚から伝えられた情報から見るに、まだ帰国の目処が立ってないため、即答は出来ない。その旨を伝えると少し残念そうにしながらも、綾小路悠は『分かった』と言った。

 

『──あぁ、それともう一つ、聞きたい事が』

「何です?」

 

『──君、最近何してるの?』

 

 ゾクッとした。

 まるで浮気の証拠を掴んだ彼女みたいな──男相手に変な例えだが、それくらいの鋭さがある発言だったから。

 どう答えれば良いものか……オレじゃ無く、野々原縁ならどう答えるかを考えて、オレは答えた。

 

「──この前まで熱で倒れてたからさ、取り戻す勢いで、色んな所を自転車で走ってるよ」

『……この炎天下日和の中でかい? 相変わらず君は、物好きな所あるよね……』

「気分転換にはちょうど良いよ。まぁ制汗スプレーのコスト代だけが痛いかな」

『それはそうだよ……まぁ、熱中症にだけは気をつけて、じゃあまた、ご家族の帰宅予定が分かったら教えてね』

「あぁ……じゃあ」

 

 電話を終わらせて、ほうっとため息をつく。

 何とかボロを出さずに電話を終えられた。

 

「それじゃあ、今度こそ──っ!!」

 

 玄関の扉に手を掛けた、その直後。

 何本ものバットで一気に頭を叩かれた様な頭痛がオレを襲った。

 まともに立つ事すら難しく、思わず片膝になって、痛みが引くまで肩で息をする。

 

「はぁ……はぁ……何だよ、今の……」

 

 冷たい汗が頬をつたう。

 何分ほど経ったのか、ようやく痛みがおさまり、俺は脚に力を入れ直す。

 しかし、まだ全身の気だるさが残り、視界はぐらついている。

 

「畜生、これから出掛けようって時に……あれ?」

 

 俺は、何処に出掛けようとしてたんだっけ? 

 バッグに紙束を詰めて、自転車の鍵を持って、こんな暑い日に……。

 

「いや、何言ってんだ、神社に行くんだろオレ。……頭痛すぎて記憶飛んだか?」

 

 数瞬考えたが、すぐに目的を思い出す。

 我ながら馬鹿らしいレベルのド忘れだが、そのくらい今の頭痛が酷かった、という事にしておこう。

 

「──こりゃ、もしかして今更階段から転んだ時のダメージが出たのかな」

 

 もしかしたら、酷い病気の前触れかもしれない。

 野々原縁の方に悪いので、来週辺り一度病院に行こうかな。

 

 そんな事を思いつつ、オレは今日も今日とて、七宮神社に向かうのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その頃、七宮伊織は神社の書庫に居た。

 

「──縁さんが来る前に、少しだけ読み進めないと」

 

 昨夜、自分の悩みを聞いた縁は、今からでも祭りに人が集まる様に協力すると言ってくれた。

 こちらの静止も聞かず、半ば強引にではあったが、彼の厚意はとても嬉しく、ありがたいものだった。

 だからこそ、自分も彼が居ないうちに、少しでも彼の役に立とうと思い、先行して手記を読み漁ろうとしていたのだ。

 

「思えば、こんな風に男の子の為に何かしようって思うの、初めてかもしれないわね」

 

 彼にも話した通り、伊織は世間から離れた生活をして来た。

 生涯を神に捧げる為という理由ではあったが、それ故に異性の同年代との関わりなんて全くと言って良いほど無かった。

 そんな自分が、今はこうして率先して行動してるのだから、運命とは分からない物だ。

 もっとも、頸城縁は生者の肉体に死者の魂が入っている余りにも特例なので、果たして異性との関わりに数えて良いのか疑問ではある。などと内心微笑みつつ、伊織はまだ手をつけていない棚から一冊、手記を手に取った。

 

「良かった、これは民俗資料じゃなかった……それに日付が近い。もしかしたら」

 

 伊織が手に取ったのは、昨日塚本が見つけた“前世の記憶を思い出した人間”の記録と同じ年の記録だった。

 もしかしたら、その続きが書かれてるかもしれない。そんな期待を抱きつつページを捲る。

 縁に朗報を伝えられるかもしれない、そんな想いのまま記録を読み続けていくと、

 

「あった、これだわ……っ!」

 

 まさに件の人物について書かれた記録を見つけた。

 やった! と小さく握り拳を作りつつ、その内容を読んでいく──しかし、

 

「え、何……何よ、これ」

 

 喜びの表情は、読み終える頃には氷の様に冷たいモノになっていた。

 

「──そんな、そんな事って……」

 

 そう呟き、伊織は読み終えた手記を──棚と壁の隙間に隠した。

 見せたくない、または見せられない。自分自身、その行動の理由が分からないまま意識の外へ追いやっていった。

 

 伊織が隠した手記には、端的まとめるとこう記されていた。

 

『男は神社で三か月暮らしたが突如、本来の人格の意識を取り戻した』

 

『──しかし』

 

『男は、別の人間の意識が肉体を支配していた間の生活……すなわち、自分が神社で過ごした時間を、何も覚えていなかった』

 

 

 ──続く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

君の知らない物語-4

「おはようございます、伊織さん」

 

 約束の時間前に神社に着くと、今日も伊織さんは鳥居の下でオレを待ってくれていた。

 

「あ……おはよう、縁さん」

 

 そう返事するが、その声色にはやや元気が無い。

 昨日はそんな事無かったから、何かあったのだろうか。

 今もオレの顔を一瞬見たが、すぐに足元に視線を映して浮かない顔をしてる。

 

「伊織さん……、伊織さん?」

「え……あ、ごめんなさい。なに?」

「体調優れなかったりします? ちょっと疲れてそうな顔してるから」

「そんな顔、してる?」

「はい。あー、もしかしたら陽射しにやられました? 伊織さん今日も鳥居の下(ここ)で待ってたし。個人的には嬉しいけど、無理にここで待ってなくても」

「大丈夫、私がここに居るのは好きにやってる事──いえその、そうじゃなくて……とにかく、疲れてるとか、そういうのじゃ無いの。平気よ?」

 

 そう言って平然を装う伊織さんだが、今の少し慌てた話し方からして、間違いなく平気な筈は無い。

 絶対に何かある筈なんだが……分からない。かと言って下手に詮索するのも失礼な話だし、これ以上あれこれ根掘り葉掘り聞くわけにもいかない。

 仕方ないので、ここは伊織さんの言葉に納得する事にした。

 

「分かりました。けど伊織さん、もし何か問題とかあったら、普通に話してくださいね? オレ、伊織さんの力になりたいので」

 

 昨日オレに掛けてくれた言葉のおかげで、かなり心が救われた。そのお礼として、なんだってやるつもりでいる。昨日日付が変わるまでチラシのラフ案作りに勤しんだのも、その一環だ。

 オレの言葉を受けて、伊織さんはまた浮かない顔を見せたがそれも一瞬の事で、すぐ笑顔に切り替えた。

 

「……ありがとう」

「いえいえ」

 

 多少納得いかない部分はあるが、その程度の引っ掛かりは喉の奥に飲み込んで、胃の中に溶かしてしまおう。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 鳥居の下での会話も終わり、オレ達はまず、昨日も会話したベンチに場所を移す。

 早速昨日作ったラフ案を伊織さんに見せて、その反応を待つ事にした。

 

「──」

 

 伊織さんは一枚一枚丁寧に見ている。その姿からは先程までの憂いさは無く、普段通り凛とした佇まいに戻っている。

 もしかしたら、さっきのは本当にオレの勘違いだったのかもしれない。

 

「──ふぅ、ありがとう」

 

 全てを見終わった伊織さんが、ほうっと息を吐いてオレを見て言った。

 

「どんなもんでしょう?」

「正直、驚いちゃった……。これ全部、昨日帰ってから作ったのよね? どれくらい掛かったの?」

「帰ったのが八時くらいで、日付が変わるくらいに終わったからざっと四時間位ですね。──あぁでも、途中結構休憩挟んでたから実際はも少し短いです」

「それでも凄いわ……こんなにたくさん、私じゃ思いつかないもの」

「昔取った杵柄……程立派なもんじゃ無いですが。半分は既に世に出てるモノをモデルとして参考にしたので、考えるより調べる方が時間掛かりましたよ」

 

 世の中、大抵のものは0から生み出すよりも、既にある物を自分なりに差別化していった方が良いもんだ。パクリとか盗用とかとは違ってね。

 

「それにしても……」

「まぁまぁ、それよりどうします? 今見た中でこれが良いっていうのがあれば、今日の夜に清書しますよ」

「ちょ、ちょっと待って……!」

 

 今度はさっきよりも食い入る様に、それぞれのデザインを見比べる伊織さん。その妙に必死そうな仕草が可愛くて、内心でほっこりする。

 そうしてまた数分ほど経った後、小さく『うーん』と唸ってから、かなり申し訳なさそうに言った。

 

「……家の人にも見せてから決めても良い?」

 

 顔が赤いのは恥ずかしいからか、または木陰とはいえ炎天下の外に居るからか。どちらにせよ、普段から巫女服着て凛とした女の子からそんな事言われたら駄目と言えるわけもない。

 と言うか、一晩経って明るい場所でくだけた口調の伊織さん見るとかなり印象変わるな。別人みたいだ。

 ──おっと、いけない。邪な事考えてないでちゃんと会話しないと。

 

「もちろん良いですよ。まぁ、人に見せられたモノじゃ無いですけど。要望とかあったらそれも聞いといてください」

「ええ。それじゃあ早速、渡しに行くわね。ちょっと待ってて」

 

 そう言って、パタパタと小石を弾ませながら伊織さんは一度社務所に戻った。

 その後、伊織さんが苦笑いを浮かべつつ『全部採用なんて言われて……』と帰ってきた時は流石に笑った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ビラの方針も定まった(本当に全部採用する事になった)ので、まだお昼前だが塚本くんが来る前に書庫での作業に入る事とした。

 彼は凄い勢いで読み進める物だから、別に勝負事じゃ無いが少し対抗心みたいな物が芽生えてるので、スタートダッシュの差で負けない様に頑張るつもりだ。

 ……いや、趣旨が変わってる自覚は流石にある。それはそれとして、という事で。

 

「さて、それじゃあ早速手をつけましょうか伊織さん」

「……」

「──伊織さん?」

「え、あぁ、うん……そうね、塚本さんに負けない様に頑張らないと……」

 

 そう言って無理に笑ってみせているが、見てる側としては逆に不安になる。

 先程までは調子が戻ってたのに、書庫に来てからはまた最初の様な浮かない姿になってしまった。

 いや、それ以上だ。心なしか心ここに在らずって感じで、何かに怯えている子どもの様な印象がある。

 やっぱり、昨日あの後何かあったんじゃ無いだろうか。さっきは自重したけど、また根掘り葉掘り聞きたくなる。

 だけど仮に聞いても、また『何でもない』と返されて終わるんだろうな。

 

「……伊織さん」

「ん……何?」

「今日は、オレの方が一冊でも多く読破しますからね」

「ふふっ、私だって負けないから」

 

 瑠衣や堀内も、かつてのオレを見てこんな風にもどかしい想いをしていたのかな。

 そんな風に考えると、無性に申し訳なくなって伊織さんにこれ以上何も言えなくなってしまった。

 

 

 ──そうして今日もまた、黙々と読み進める時間が始まる。

 昨日までと違うのは、読んだ物をジャンル分けするのと、読むスピード位だ。と言ってもまぁ、塚本くんの神速ばりの速読には到底及ばないけど。

 お昼になり、持参してたコンビニのサンドイッチを食べつつ、いつもの様に伊織さんと読んだ内容について談笑する。

 そうして休憩もそこそこ、作業再開しようと思ったら所に、塚本くんが姿を見せた。

 

「こんにちは……おや、お二人とも既に始めておられる。早く無いですか?」

「ん、あぁ塚本くん来たか。今日もよろしく」

「今、お茶運んできますね」

「お構いなく……いえ、暑いのでせっかくだから頂きますね、ありがとうございます」

 

 伊織さんが一度書庫から離れて、ものの数分で麦茶を持ってきた。

 

「はい、どうぞ」

「夏と麦茶……定番の組み合わせですが、クリスマスやハロウィンの様に形骸化してズレた商法と違って嫌味が無くて良いですよね」

「拗ねた喜び方してるなぁ……」

 

 わざわざ敵を作る様な方向に攻めなくても良いだろうに。

 やっぱり色々変わってる奴だなぁと思っている所に、視界の隅から麦茶の入ったグラスを持つ伊織さんの手が映った。

 

「はい、貴方も飲んで」

「ああ、オレの分も用意してくれたんですね、助かります」

「ううん、もっと早く持ってくればよかったわ。ごめんね」

「滅相もないですよ」

 

「……ん?」

 

 頂いた麦茶をぐびり、と一口飲む。

 氷も入って冷えた麦茶は、期待通りの冷たさと美味さを味覚に与えてから、勢いよく喉を通っていった。……って、あれ? この麦茶、後味がちょっと違う。

 

「なんか、ほのかな甘さを感じます」

「あ、気づいた? 実は少しだけ砂糖を混ぜてるの」

「砂糖を? 初めて聞きますよ、麦茶に砂糖は」

「あまり知られてないみたいだけど、濃い麦茶に砂糖を入れると美味しいのよ? 実際、そうでしょ?」

「はい、これは驚いた」

 

「…………んん??」

 

 麦茶に砂糖か。その発想は無かったな。

 外国だと緑茶に砂糖入れて飲む人も居るらしいが、感覚的にはそれと同じなのだろうか。それにしたってこれは美味しい、早速オレも帰宅したら家の麦茶でマネしたい。

 

「ありがとうございます、お陰で知見が広がりました」

「そんな、大袈裟よ、このくらい。……おかわりいる?」

「はい、是非」

 

「──いやいやいやいや、ちょっと待ちましょうよ二人とも」

 

『え、何(だ)?』

 

 急に塚本くんが声を大にして話し始めるものだから、二人して驚く。

 『反応まで揃っちゃってまぁ』なんて呟きながら、彼は言った。

 

「距離感、近くなってませんか?」

『──っ!』

 

 言われてハッとした。

 確かに、昨日と今日でオレと伊織さんのやり取りは明らかに変わっている。当事者だからそれを受け入れていたが、側から見たら急な展開で困惑するのも当然の話だ。

 オレも伊織さんも、第三者に言われて初めて互いに恥ずかしくなり、磁石みたいに距離を取ったが、時既に遅しという奴だ。

 塚本くんは眉毛を片方吊り上げて、まるで鬼の首でも取ったかの様な勢いで畳み掛けてくる。

 

「え、どういう事ですかこれ、昨日自転車の鍵取りに戻ってから何が起きたんですか? 何をしたんですか? ナニをシたんですか? ハグしたんですか? キスしたんですか?」

「落ち着け! キスなんてしてねえよ!」

「『なんて』!? じゃあハグまではしたって事なんですか!?」

「な、だ、揚げ足取りするなよ!」

 

 確かにハグと取れるやり取りをしたのは間違い無い。伊織さんに至っては羞恥心で顔が()(だこ)の様だ、忍びない。

 しかし、そんなのお構い無しとばかりに塚本くんは捲し立て続ける。

 

「揚げ足の一つ二つも取りたくなりますよ、夜道を一人で帰らせといて自分は夜の神社で巫女さんと仲睦まじくしてたと聞けば。誰だって怒るでしょう? 違いますか?」

「う……それを言われると──っておいコラ、何ニヤつくの我慢してんだお前」

 

 痛い所を突かれたと思ったが、発言者の口元が露骨にヒクヒクしているのをオレの目は見逃さなかった。

 間違いない、コイツ、ただオレと伊織さんをからかっている。

 

「お前さっきから怒ってるフリして楽しんでるだけだなさては!」

 

 オレがそう言った途端、まるでさっきまで仮面でも被ってたのかと言わんばかりに塚本くんの顔から表情が消えて、一切の温度も感じない真顔になった。

 

「そんなの当たり前じゃないですか。何を当然のことを今更」

「……っ、当たり前ってお前」

 

 思わず、激し過ぎる表情の変化に戸惑ってしまう。

 

「……ふぅ、やれやれ」

 

 そう小さくため息をこぼして、塚本くんはオレに近づく。

 まだ少し戸惑って硬直していると、顔をオレの右耳に寄せて、無表情な顔のままオレにしか聞こえない位の小声で言った。

 

「──結局、どこまでしたんですか?」

 

 ──ダボハゼ(大馬鹿)が。

 

「痛いっ! 小突く事は無いじゃないですかぁ!」

「うっせぇわ」

「──たんこぶなったらどうするんですか、もう」

 

 間髪入れずに頭頂部に軽くゲンコツをすると、塚本くんは素直に痛がり、ぶつくさと文句を言いながらもそれ以上追求する事はやめた。

 伊織さんが心配して冷やしタオルを持って来ようとしたのを、塚本くんが止める。その後手で小突かれた所をさすりながら、涙っぽいのを目元に浮かべつつ言った。

 

「それで、昨日いただいた連絡の中にあった相談したい事ってなんです?」

「あぁ、その事なんだが──」

 

 昨日伊織さんから聞いた話をかいつまんで説明した。

 全部説明した後、最後にオレがもうチラシ作成までほぼ終わった事を付け加えると、さっきまで元気に捲し立ててたのが嘘みたく静かに話を聞いてた塚本くんは、数瞬考える被りをした後にサラリと言った。

 

「今の時代なら、SNS使えば良いと思いますよ。七宮神社のアカウントを作って、神社と祭りの存在を不特定多数の人達にアピールすれば良いんです。下手に他の物に手を出して広告料掛かるよりも、SNSで無料に広めた方が楽ですよ」

「あー……なるほど、それがあったか」

 

 ちょっと前の世代に生きたオレじゃあ出来ない発想だった。

 確かに、目的はあくまでも不特定多数の人間に興味を持ってもらう事なんだから、実に適してる。

 

「神社マニアや愛好家と言うのは十分な位に居ます。その中で人気があって拡散力を持ってる人に見て貰えば、その手の人達は自ら宣伝役になってくれる筈ですよ。他にも有名な神社がアカウント作ってる事もあるので、それらと繋がりを持てばそこから広まるってストーリーラインもあります」

「じゃあ早速やろう、ね、伊織さん! ……伊織さん?」

 

 具体的なやり方まで提示してくれたんだから、後はその通りに動くだけだと思ったのだが、伊織さんは少し困った様子だった。

 

「実はその──そう言ったインターネットについては、少し……いえかなり疎くてですね……何より、持ってないんです私、スマートフォンの類を」

「……あっ」

 

 恐らく、昨日話していた“俗世に汚されないため”って奴だろう。親の方針で携帯型の通信端末を持っていないのだ。

 しょっちゅう巫女服着てて、スマートフォンを取り出す姿が一切見られなかったから“もしかしたら”とは思ってたが……。

 いきなり出鼻を挫かれた形になったが、意外にも塚本くんは『そうですか』と軽く流して、続けて言った。

 

「じゃあ、パソコンはあります? ノーパソだと尚都合が良いです。流石にそれ位はあると踏んでますが……どうでしょう?」

「それなら大丈夫です、少し型が古い物ですけど」

「問題無いです、お手数ですが持ってきて貰えますか?」

「はい!」

 

 再びパタパタと書庫から出て行く伊織さん。なんか使いっ走りみたいで申し訳ないが、どこに何があるのか分かるのは彼女だけなので物理的に仕方ない。

 

「今どき、全くインターネットに触れない10代の女子というのも居るんですね」

「神職だからかなぁ……いや、多分ここが他より厳格なんだろうね」

「神聖な巫女が現代社会に穢されないため……とかの理由なら、むしろどんな物が穢れなのかある程度見せなきゃ、仮に触れたりしたら一気に染まってしまいそうなモノですが……」

「その辺の話はオレらがどうのこうの言えないしな……難しい所だ」

 

 居ない間に二人でデリケートな話をしてたら、またすぐにノートパソコンを抱えて伊織さんが戻ってきた。はい、デリケートな話題お終い。

 

「ありがとうございます、それじゃあ今日は読むよりネット関係(こっち)を先にやった方が良いですよね」

「すみません……お願いします!」

「オレもバズる? 言い方あってる? ……なやり方は知らないから、一任します」

「はい、任されました。……あぁそうそう、因みに七宮神社はホームページ作ってますか? ──って、それこそ自分で調べてみます」

 

 そう言って慣れた仕草でキーボードを叩くと、ノーパソの画面に七宮神社のホームページと思われるウェブサイトが出た。良かった、ちゃんとホームページはあったんだ……と安心したオレ達だったが、中身を見ていくと塚本くんの顔はみるみる渋い表情になっていった。

 はわはわとする伊織さんには聞こえない程の小声で『ぇ、0年代でもこんなの見ないぞ?』なんて呟く始末。

 それもそのはず、ホームページはあるが、神社の概要やら歴史やら、ある意味一番参拝客呼び込むために必要なアクセスすら無かったのだから。

 これではただ作った、と言うだけで何の意味もない。仮にアカウントを作ってこのページへのリンクを貼った所で、どんなに神社愛が強い人も拡散しようが無いだろう。

 

「──何度もすみません、またお願いが」

 

 ホームページを隅々まで見終わる頃(実に1.6分程)には、いつになくマジな声色の塚本くんが出来上がっていた。

 

「は、はい……なんでしょうか?」

「この神社の歴史を綴った書物などあれば……ありったけ持ってきていただけませんか?」

「え……それは良いですけど、結構古い物もあるので、読めるか分からないのもあったりしますが──」

「構いません、読めます。読めないのは地球外言語か小学生が遊びで作ったオリジナル言語位なのでお構いなく」

「は、はい……探してくるので、待っててください」

「よろしくです」

 

 大言壮語も良いところ、と切り捨てられないプレッシャーを放ちながら、塚本くんは画面を見続けてポツリと言った。

 

「“情報”に携わる人間として、この杜撰な情報管理は耐えかねる……」

「キャラ変わってんぞー、てかマジで何者なの君」

 

 ──取り敢えず、この後はもうオレだけが読む作業をするって認識でいた方が良さそうだ。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ページを捲る音、タイピングする音、行ったり来たりの足音。

 セミの合唱を背景にして三者三様の音を立てながら、時間は緩やかに過ぎていく。

 オレ達の頭上で爛々と輝いていた太陽も、夕焼け色に衣替えしながら地球の裏側に隠れようとしていた。

 

「──よし、こんな感じですかね」

 

 歴史書を読みつつホームページの改装をしてた塚本くんが、達成感に満ち溢れた声でそう言った。

 

「どうでしょう、確認願います」

「はい……わぁ、凄いです! 全然違う」

 

 恐る恐る画面を覗き、すぐに驚きと喜びで顔を綻ばせる伊織さん。オレも気になったので、今読んでた手記を閉じて画面を見た。

 

「おー、全然違う」

「二人して同じ反応ですか、ふふ」

 

 だって全然違うんだもん。

 画用紙に神社の名前だけ貼り付けた様に雑だったホーム画面は、今や荘厳なフォントで綴られた“七宮神社”の元、概要、由来、沿革、歴史、当然アクセスも──全ての項目がしっかりと設けられている。もはや完全に別物だ。

 

「ありがとうございます、これ位立派なら、皆も喜ぶと思います」

「なら何よりです、後はSNSのアカウントを作ってリンクを貼ったり、祭りの告知をするだけなんですが……うん、時刻も丁度良いですね」

 

 塚本くんはノーパソに表示されてる時刻を確認して、次にオレを見て言った。

 

「そちらはどんな塩梅でしょうか? そろそろ五時になりますし、片付けもするんでしたよね?」

「今読んでるのが終われば、今日は終わりにしようと思う」

「ちなみに、めぼしい情報はありましたか?」

「うーん、無かったよ。そろそろ当たりたいんだけどな」

「無かったですか? ……確かに、全体の半分以上読み進めたし、そろそろ見つかってもおかしく無いですが」

 

 どうもオレは運が悪い様で、全く目当ての記録が見つからない。

 

「──それで塚本さん、アカウントはどう作れば良いんでしょうか?」

「ん? ──あぁ、それについてもやりますよ、任せてください。それに伴って必要な物があってですね」

 

 そう言って、塚本くんはカメラを持つジェスチャーをした。

 

「ホームページやアカウントのサムネイル……顔の代わりになる画像ですね。それに使う写真を撮りたいんです。やっぱり神社の広告なのに写真が無いと締まらないですから」

「言われてみりゃ確かに。それさえあれば後は完璧ってわけだ」

「はい。カメラが無ければスマートフォンで撮った写真データをパソコンに送れば良いだけですし、すぐに取り掛かりたいのですが」

「カメラは……あります、大丈夫です。すぐ持ってきますね」

 

 聞けば、過去に神社にカメラを寄進した人が居たらしい。

 種類などはよく分からないが、名前を調べたら中古でもそこそこの値が張る上質なカメラだった。

 『これなら何の問題もありませんね』と満足げにシャッターを切る塚本くんの姿は、側からみれば完璧にカメラ少年にしか映らないだろう。

 

 遠近様々なアングルで神社の至る所を写真に収めた塚本くんは、これで終わりかと思ってたオレ達に最後、予想外な事を要求し出した。

 

「伊織さんの写真も載せたい!?」

「はい、建物だけではやはり親しみが生まれにくいです。七宮さん程の美人ならモデル顔負け、しかも巫女。SNSには建物だけで良いですが、ホームページには人が必要なんですよ」

「そうは言ってもなぁ……」

 

 伊織さんにとってはいきなりな要求だ。確かに彼女の容姿はそんじょそこらのミスコン優勝者すら霞むレベルだが、それと本人の意思は話が別だろう。

 こればかりは無理だと思ったが、伊織さんの口から出た言葉は意外な物だった。

 

「わ、分かりました! やります!」

「え!? 本気で!?」

 

 両手をぎゅっと握り、意を決した伊織さんは、既に緊張で声を震わせつつ言う。

 

「えぇ。貴方も塚本さんも、頑張ってくれてるのに私だけ何もしないのは駄目よ……やってみる」

「既に語尾が弱々しいのだけど」

「──っ、塚本さん、お願いします!」

 

 出た唾は戻らねえ、とばかりに事を進める伊織さん。無駄に漢らしい事しなくても……。

 

「はーい、では行きますよー」

「お……お願いします!」

 

 塚本くんの指示で本殿を背景に、手には大幣(おおぬき)を持ってカメラの前に立つ。

 そのまま何枚か写真を撮っていくが、なかなか終わらない。

 アングルや夕焼けの明るさも、素人目には問題ない様に感じるが、何枚撮っても塚本くんは満足しない。

 

「うーん」

「何が問題なってるんだ?」

「見てもらえれば分かります、どぞ」

「? おう……、あーなるほど」

「ど、どうしましたか?」

 

 カメラのディスプレイに映った、先程撮った写真のデータを見てすぐに理由が分かった。

 

「硬すぎる、表情が」

「そうなんですよね……笑顔も引き攣ってて」

「うぅ……すみません」

「ああいや、伊織さんは慣れてないから仕方ないですよ」

 

 申し訳なさで沈みそうな伊織さんをフォローしつつ、果てどうしたものかと考える。と言っても答えはすぐに出たが、

 こればかりは仕方ないし、今回は建物の写真だけでも良いじゃない。そう提案しようとした矢先、塚本くんはまた突拍子も無い提案を、今度はオレに対して言ってきた。

 

「そうだ! 次は君がカメラやってみてください!」

「はぁ!? オレはど素人だぞ、かえって酷くなるだけだって」

「設定はもうしてるから、壊しでもしない限り撮れますよ、とにかくほら、持って持って、手放しますよ」

「あ、ちょ、分かった分かりましたから!」

 

 無理矢理押し付けてくる物だから、否応なしに受け取らざるを得ない。

 一体何を狙っての行動なのか分からないが、やれと言われてやるしか無いので、観念してカメラを持つ。

 

「じゃあ、と、撮りますよ」

「お、お願い……」

 

 レンズを向けて、しっかりと範囲内に被写体が収まる様にして、シャッターボタンを押す──その直前、

 

「あー……ちょっと待ってください。そのヘンテコな姿勢で撮るのはやめた方が」

「え……そんな変?」

「はい、光線でも撃つ気です?」

 

 言われて気づいたが、確かにオレは今、我が国が誇る某世界的特撮ヒーローが必殺技を出す直前の様な、前のめりの姿勢でカメラを構えてた。

 側から見りゃあ、だいぶへんてこりんだったろう……。

 

「君まで緊張してどうするんですか……」

「め、面目ねぇ……」

 

 羞恥心で今度はオレが沈みたくなった。

 こりゃ、いよいよ持って建物の写真だけで──そう思った時、

 

「──ふふ、あはは!」

 

 伊織さんが口元を抑えながら笑った。

 なんとか小さい笑いで済ませようとしてるが、大笑いしたいのを全身で我慢してるのが丸分かりだ。

 なるほど、余程彼女から見てもオレの姿勢はおかしかったんだろう。

 

 そうか、そうか。

 

「……」

「よ、縁さん! ワザとその姿勢なるのはやめて──あははは! ごめんなさい! 抑えられない、ははははは!」

「どうせなら腹が捩れるまで笑っちゃえ」

「も、もう! いじわるしないで──〜〜っ!」

 

 少しの間、神社には巫女さんの快活な笑い声がセミに負けじと鳴り響いた。

 

 

「さて、緊張は解けましたかね?」

「……もう、本当に強引なんだから」

 

 伊織さんはちょっとむくれつつも、すぐに『でも、そうね』と言葉を続けた。

 

「緊張は解けたみたい。肩も軽いわ。ありがとう」

「いえいえ、緊張解けたのはオレもですよ。それじゃあ──行きますよ?」

「えぇ、お願いね」

 

 今度こそ、オレは自然な格好でカメラを構える。

 レンズの先に映る伊織さんも、先程とは比べ物にならない位、柔らかい笑顔をオレに向けた。

 夕焼けに染まる彼女の顔は、まるでそれ自体が幻の様に神秘的で。

 それが現実のものだと証明するために、オレはシャッターボタンを押した。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その後、無事に何枚か写真を撮って、一番良かった物を採用した塚本くんはあっという間にSNS用のアカウントも作り、やる事を迅速に終えた。

 残る時間は片付けに回して、今日は取り出す物が多かったので終わったのは七時前だった。

 

「結局、手記については新しい情報無かったけど、残りの数も減ってますし、時間の問題ですね」

「……うん、そうね」

「次は明後日になるんですよね?」

 

 片付け中に伊織さんから言われた事で、明日は祭りの屋台やら、祭りで披露する奉納演舞の練習で一日使いたいとの事なので、オレはチラシを配る事に集中する事にした。

 

「それじゃあ、また明後日会いましょう」

「えぇ、……またね」

 

 別れの言葉もそこそこ、今日も長い階段を隣にいる少年と一緒に降る。

 七時を迎えても、流石は夏。踏み外したらコロコロ転がる石段も問題ない。

 それにしたって、今日も含めてここに来て六日か。初めてこの階段を登った時はまさかこんな事になるとは思いもしなかった。

 

「……ん?」

 

 そもそも、何で俺はここに足を運ぶ事になったんだっけか。

 

「──どうしました? また忘れ物ですか?」

 

 隣に並んで歩く──知らない少年が俺に問い掛ける。

 そう言えばこの少年とも、いつから俺は会ってるんだ? こんな風に並んで歩く様な関係では無い筈だ。

 

「誰かな、君」

「──はい? 暑さで気が触れましたか?」

 

 あんまりな言い方にムッとしたが、瞬間、自分の発言の方がおかしい事に気づいた。

 そりゃそうだ、さっきまで一緒に伊織さんのために頑張ってたのに、急にマジな初見相手にする様な態度と発言されたら、誰でも『お前は何を言ってるんだ?』となる。

 

「大丈夫ですか?」

「あ……あぁ、ちょっとボケてみた。滑ったな」

「ドド滑りです、悲惨ですね」

「そこまで言うなよ……ごめん」

「や、構いませんよ。ギャグが滑るのは誰でも一度は通る道です」

 

 咄嗟の嘘で誤魔化すが、オレは内心かなり焦っている。

 

 今、本当にたった今まで、オレは本気で伊織さんや塚本くんの事を忘れていた。

 まるで息を吸って吐く様な自然さで、この数日間を忘却していたんだ。

 決してド忘れなんかで説明できる物じゃ無い、朝の様に頭痛が生じたわけでも無い、明らかにおかしい。異常だ。

 

 その後、帰宅して自分の症状を調べたが、完全に一致する項目は無く、かと言って近しいのはどれも甚大な病ばかり。

 いよいよ持って病院に行く必要があるのではと考えつつも、自分の状況を鑑みたらかえって面倒な事になるのでは、と言う恐れもある。

 結局、野々原縁の意識を取り戻す手掛かり探しや、伊織さんの祭りの手伝いもあるのに、他に時間を使ってられないという思いが勝り、結局もう数日様子を見ようという結論で無理矢理自分を納得させて、この日は寝た。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日、七宮神社では朝から演舞用の舞台設営が始まっていた。

 伊織は祭りの日に、この舞台で奉納演舞を披露する。そのための練習は以前から行っていたが、ここ数日は頸城縁と出会い、彼と行動する時間を優先した事で疎かになっていた。

 

 実のところ、彼女が諸事情で異性の男子と行動してる事を、彼女の家族は黙認していた。最初はいかがなものかと思ったが、遠目から見た少年からは伊織に対して邪な事を考えてる気配が無かったからだ。

 祭りを盛り上げるために人肌脱ごうとしてる話を聞いて、ほぼ心配は無くなったものの、流石に残り一週間を切ってる状況で演舞の練習が皆無と言うのは不味い。

 そのため伊織に苦言を呈した事が、今日一日練習に励む事になった理由である。

 

「──ふぅ、一度休憩ね」

 

 演舞に用いる特別な大幣を掛け台に置き、伊織は部屋の隅で正座しながら息を整えていた。

 久しぶりに神事に集中している気がして、伊織はこの数日間がどれだけ頸城縁との時間に溢れていたのかを思い知った。

 

「出会ってまだ、一週間も経っていない、のよね」

 

 毎日会っているからか、体感では既に何ヶ月も経っているような気さえする。

 それだけ彼と過ごす時間が濃いという事なのだろうが、特別な事はしていない筈なのに不思議なものだ、と小さく笑う。

 そう言えば、彼と出会ってからはよく笑う様にもなった。今もこうして、そばに居なくても思い出すだけで顔が綻ぶ位だ。それまでの日々が自分がこんなに頻繁に笑う様な事など、果たして有っただろうか? 

 

 ──早く会いたい、そんな気持ちを口にしないが心の隅で転がしながら、伊織は演舞の練習を再開する。

 

 通常、人間の集中力は通常は四五分。訓練すれば二時間程度まで伸びるというのが定説だが、伊織のそれは常人や訓練した人を遥かに凌駕していた。

 今までの遅れを取り戻すためか、もしくは集中する事で今日という日を早く終わらせたいからか、はたまたその両方か──気づけば伊織は滝の様な汗を流しながら時刻が十八時を迎えようとしてる事に気づいた。

 このタイミングで集中が途切れたのは、ここ数日間でこの時間帯が一つの区切りになっていたからだろうか。とにかく、体力も流石に限界に近い状態で空腹と喉の渇きもある。今日はここまでにしようと伊織は決めた。

 

「……でも、その前に」

 

 伊織は最後に御身体の前に行き、意識を再度集中させる。

 こうして自分の全てを神に向ける事で、伊織は昔から彼女にしか聞こえない『神の声』を聴く事が出来た。

 歴代の巫女が皆この神の声を聴けるわけでは無いらしいが、伊織は幼い頃からハッキリと神の声を聴く事が出来て、それ故に家族にも巫女として強い期待を向けられていた。

 

 かつては神の声を聴ける事が周囲から見て異質に映るとは分からず、無邪気に話した結果、周囲の同年代の子どもやその親から避けられる想いをした事もあった。

 しかし、彼女はそれを悔やんだ事は無く、今日までひたすら神を信仰し続けて来た。

 たとえ周りからどう思われようと、現代社会から切り離されていようと、こうして意識を全て神に集中すれば、神は自分に語り掛けてくれるのだから──。

 

「──ぇ」

 

 声が──声が、聴こえない。

 

「そ、んな……どうして?」

 

 集中が足りないからだろうか。

 体力が消耗してるからだろうか。

 違う、今までそんな理由で神の声が聴けないなんて事態は起きた事が無い。

 七宮伊織が、神の声を聴けないなんて現象がそもそも起こり得るはず無いのだ。なのに、そのあり得ない事が今自分の身に降りかかっている。

 

「神よ──何故……何故ですか!? どうして、急に……答えてください!」

 

 四つん這いになって神に答えを乞うても、語り掛ける言葉はここにあらず。

 あるのは、ただひたすらに無情な静寂のみ。

 

 ガタガタと、自分の中で何かが崩れていく音がする。

 今日まで、自分の人生を支えていたアイデンティティーが、たった今唐突に、理由も分からないまま消え去ったのだ。

 支柱を失った家屋は自らの自重で崩れ落ちるしか無い。それは人間同じだ。

 

 今まで、“神の声が聴こえた”から耐えられた自分の人生が、一気に自分自身を押し潰さんとしていた。

 

「嫌、嫌嫌嫌──嫌ぁぁぁぁ!!!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 不安で眠れないかと思っていたが、体は良くも悪くも正直で、今日もいつもと同じ時間に目が覚めた。

 起きてからすぐ、朝食もそこそこに出かける準備を始めた。

 チラシのデザインを清書しつつ、昨日塚本くんが撮影した神社の写真をメインビジュアルとして追加する。

 そうして改めて完成した配るチラシ全種類を、各三十枚ずつプリントして早速街に出かけた。

 

 SNSでの情報拡散はしたが、やはり地元周辺の人を招くにはアナログな方法も欠かせない。塚本くんもそう言ってたので、俺は今日中に全部捌く勢いで自転車を走らせた。

 野々原縁にとって馴染みの店、普段行かない場所、人の集まりそうな施設、とにかく思いつく所に直接当たり、どっかにチラシを貼ってもらえないか頼み込んだ。

 正直、結構な割合で断られる事が多いと覚悟して居たんだが──意外にもすんなりと受け取って、目の前で貼ってくれる人達ばかりでこっちが面食らってしまった。

 

 オレが生まれ育った瑞無の人間なら、果たしてどうだったろうか。迷惑そうに拒否する人は居ないかもしれないが、きっと受け取って数分もしない内にゴミ箱へ捨てる人の方が多いだろう。

 そう思ってしまうのは、オレがあの町の人間のほとんどを心底嫌っている故だろうか。

 ──やめよう、とにかくこの町の人達は皆やけに優しい人が多いって事は間違いないし、それで充分じゃないか。

 

 そんなわけで、思ったよりも進捗は悪く無くチラシ配りは順調に進んでいく。

 とは言っても、近いエリアに何枚も配っては勿体無いし拡散効果も薄い。町の隅から隅まで、出来るだけ滞り無くチラシを配りたいので、その辺を考えて行動したら、あっという間に時間は夕方に差し掛かっていた。

 

 果たして伊織さんは今、どうしているだろう。昨日は午前中、少し元気が無さそうだったが元気だろうか。

 最後に会ってからまだ二十四時間経っていないのに、何故か暫く会ってない様な気がするのは、ここ毎日ずっと会ってた反動だろうか。

 これじゃいかん、依存体質じゃ無いんだから。そう自分を内心で揶揄って、オレは残る二枚のうち片方を、大型書店の店主に渡した。

 

「──ふぅ、これで残るはとうとう一枚か」

 

 と言っても、今の店でこの辺りのめぼしい場所は尽きてしまったのだが。

 このエリアは最近開発が進んでおり、最新の大型ショッピングモールが初冬頃に出来る予定になってる。将来的には人がたくさん通る場所だが、今はまだそうじゃない。

 よりによって、残り一枚で配る先が見つからなくなるとは思わなかった。

 

「さて、どうしたら良いかな」

 

 どうせなら、さっきの店に二枚渡せば良かった。今からでも間に合うだろうか──そう思った矢先に、知ってる声が聞こえた。

 

「あれ……ヨスガじゃないか」

「え──っ!」

 

 名前を呼ぶ誰かの方へ顔を向けると、そこに居たのは、野々原縁のよく知る男だった。

 すなわち、綾小路悠。縁の親友で、大金持ちの綾小路家の生まれで──今のオレが一番会いたくない人間だった。

 

「あ、あぁ……まさかここで会えるとはな」

「本当だよ、どうして君がここに? ──あ、もしかして見に来てくれたの?」

「──?」

 

 野々原を装って会話するが、彼の言う事がよく分からない。見に来たってのは何を指してる? 

 

「あー、そこで頭にクエスチョンマーク浮かべるって事は違うのか。残念」

 

 本当に残念そうに、しかしそれすらも楽しそうな雰囲気で彼はオレ達の真横を指さす。その方向を見ると、近日オープンの立て看板がある、野外パーティーも出来そうなレストランがあった。

 

「僕が電話で言ったレストラン、あと二日後にで開く予定なんだ。ビアガーデンもする予定だよ」

「そっか──そりゃあ、凄いな」

 

 同じ家が金持ちの権力持ちでも、初瀬川じゃ比較対象にならないレベルだ。野々原は凄い奴を親友にしてるんだな、と改めて思う。

 

「──ん? 君、何持ってるの?」

「あ、ああ……これか」

 

 めざとくオレの手元にあるチラシを見つけて、何か聞いてくる綾小路。

 見られたものは仕方ないので、オレは適当に嘘を混ぜつつ、神社の祭りを盛り上げるために動いてる事を話した。

 全部聞くと綾小路は納得したのかしてないのか、

 

「ふーん……なるほど?」

 

 と意味深な答えを返すばかりだった。

 

「──っ」

 

 正直、オレはこいつが苦手だ。

 野々原をよく知る人間の一人だから、というだけではない。

 やはり生前の名残か、金持ちというだけで拒否感が果てしない。共有してる野々原の記憶や知識から見るに、彼が悪人では無いと分かっていても、一度染み付いた苦手意識は簡単に消えはしないものだ。

 

 だから可能ならさっさとこの場から離れたいのだが、それでは仮にここを切り抜けられたとしても、野々原の意識が目覚めた後に、人間関係の遺恨が残るかもしれない。

 野々原に迷惑を掛けるやり方は出来ないので、オレはとにかく綾小路から離れてくれる展開を待つしか無かった。

 

 しかし、そんなオレの気も知らずに彼は黙ってオレとチラシを交互に見るばかりだ。

 そうして何かを納得したのか、小さく頷くと、ようやく話し始めた。

 

「ねぇ、ヨスガ」

「な、なんだ?」

「僕は君に対して、中学二年生から付き合いがある親友としての距離感で接してるんだけど──もしかして、初めましての距離感の方が良かった?」

「な!?」

 

 あぁそうだった、彼は野々原も認めるレベルの、異常なまでに察しの良い人間だったのだ。

 しかも、頸城縁(オレ)についての知識もある。普通の人間ならともかくコイツなら、違和感から気づく事はあり得る話だ。

 答えは言ってないが、既にオレの反応で答えは得たとばかりに、綾小路は納得した表情を見せた。

 

「やっぱりか──ここ数日、電話越しでもおかしいと思ってたんだ。一体何がどうして、人格が入れ替わっちゃってるんだい?」

 

 こうなりゃ仕方ない、素直に話す以外の道は無いだろう。

 

「──自分でも、よく分からないんだ。野々原縁(コイツ)が熱出した時に家の階段で転んで、気がついたらオレがメインになってた。本当にそれだけで、何も分からない」

「ふーん……それで、君は何でまた神社の祭りを盛り上げるための手伝いなんかを?」

「偶然、オレみたいな状況になった人間の情報がある神社に……つまりチラシにある神社に行きついてな。何とか野々原縁の意識を起こす方法を探してて、その礼として……って感じだ」

「そっか、一応ヨスガの意識を起こすための行動は取ってたんだね。安心したよ。僕も早くヨスガに会いたいからね、出来るだけ早く起こしてくれると嬉しい」

「──あぁ、そうだな」

 

 そりゃ当然の話だが。

 今起きてるオレの事を蔑ろにされてる様で、少しムカついた。

 

「……くくっ、くくく」

 

 急に綾小路が笑い出す。伊織さんのそれとは違う、不気味な笑い方だ。

 

「……どうしたって言うんだ急に」

「あぁ、いや……同じ顔でもここまで変わるものだと思ったら少し面白くて、ごめんね」

「何のこと言ってるんだ?」

「君さ、僕の事嫌いだろ?」

 

 唐突に、人の心を覗いた様な事を言って来た。

 思わず、背筋がゾッとする。これは昨日の電話でも感じた感覚だった。

 

「厳密には、僕みたいな親が金持ちの権力者で、その七光を浴びてる子どもが、君は嫌いだよね? 頸城縁くん?」

「……だいたい知ってるっぽいな」

「まあね、何せ親友の前世なんて言うんだ、気になって調べもするさ。……まぁ、君が僕を嫌うのも納得だよ」

 

 そう言ってニヒルに笑いながら、綾小路は自分に手を差し出して来た。

 

「チラシ、くれないか?」

「……え?」

「表立って協力はしないけど、店で一番目立つところに貼るよ。それ位はしても、良いだろう?」

「あぁ……ありがとう」

 

 思わぬ協力に面食らいつつもオレは最後の一枚を綾小路に渡す。

 受け取った彼はまた少し黙ってから、意を決した様にして言った。

 

「──本当はさ、僕は君とも仲良くなって見たかったんだ」

「そう、なのか?」

「こう言うと君は怒るかもしれないけど、僕も君も、生まれ育った家庭と、家族の行いで自分の人生を決められた者同士で……君の事を調べてく内に、勝手にシンパシー感じたりしたからさ」

「──そっか」

 

 怒ったら……なんて、そんな事しないさ。

 むしろ、今も偏見と差別の色眼鏡で見続けてる自分が申し訳なくなる位だ。

 だから、オレも最後にこう言って返した。

 

「オレも──君の事はよく知らないし、確かに君みたいな育ちの人間は大嫌いだけど──」

 

 でも、

 

「君が良い奴だってのは、分かるよ」

 

 せめてもの謝罪の意を込めて、それだけは嘘偽りなく言った。

 『そっか』と笑う彼の笑顔は、初めて不気味さを感じない、綺麗な笑顔だった。

 

 ──続く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

君の知らない物語-5

 月曜日。オレの意識が表に出る様になって一週間が経った事になる。

 七宮神社へ足を運ぶのは一日ぶりだ。しかし、先週ほぼ毎日通った長い石段はたった一日で様変わりしていた。

 鳥居まで長々と提灯が吊るされ、石段の両端にも置物型の提灯が点々と設置されている。

 

 たった一日でここまで変わるかと驚きつつ、オレは今日も今日とて神社までの道を登っていく。

 祭りの装飾がされてるからか、単に慣れたからか、不思議と足取りは軽く、いつもは登り終える頃に肩で息をしてたのも、今日は平気だった。

 

「──あれ、今日は居ないのか」

 

 ここ最近は登った先の鳥居でオレを待ってくれてた伊織さんの姿は、今日は無かった。

 すぐに昨日の戦果をお伝え出来るかと思ってたのでやや拍子抜けだが、別にこの後すぐ会えるし、何より健康的にもその方が俺も安心するから問題無い。

 鳥居の下で挨拶がてら頭を軽く下げてから、オレは神社の敷地内に足を進めた。

 

「おー、ここも変わってる」

 

 広々としていた空間は、石段と同じ様に祭りの装飾や屋台が設置され始めている。奥には他より頭一つ高い舞台の様な物が建てられており、恐らく伊織さんはこの舞台の上で演舞を披露するのだろう。

 お世辞にも交通の弁が良いとは言えない山の上の神社に、こんなに多くの屋台が来るなんて、正直予想外だった。

 こりゃあいよいよ、たくさん人を呼び込まないとだな。

 

「さて、祭りの準備は良いとして……どこだ?」

 

 肝心の伊織さんの姿がまだ見つからない。時間は間違って居ないはずなのに、どうしたものか。

 

「うーん……お! いたいた」

 

 よく辺りを見回したら、オレ達がよく会話する時のベンチに伊織さんは居た、屋台の影に隠れる形になってすぐ目に映らなかった。

 

「伊織さーん、おはようございます、聞いてくださいよ。昨日何と……伊織さん?」

 

 声を掛けながら近寄ると、異常さがすぐに分かった。

 目の下のクマが酷い。表情も一昨日より更に弱々しく、まるで彼女の周囲だけこってりと深い闇の様だった。

 一昨日は何でも無いと誤魔化されたが、今回はそうもいかない。絶対に何かあった。しかもかなり良く無い事が。

 

「伊織さん。大丈夫ですか?」

 

 はやる気持ちを抑えながら、膝立ちになってベンチに座る彼女の彼女の肩を優しく揺する。するとゆっくり顔を上げながら、彼女の目は視界にオレを捉える。

 

「あ──縁、さん……?」

 

 自分の中に封じ込めていた彼女の意識が、ようやくオレを認識した。

 

「はい、オレです。縁です。凄くやつれてるじゃないですか。熱中症とかじゃ無いですよね、その様子だと」

「……っ!!」

「──うぉっ、い、お?」

 

 いきなり伊織さんがオレに抱きついて来た。

 急な事なので、女の子に抱きつかれたって驚きよりも、姿勢が崩れて後ろに倒れそうなのを堪える方に意識を持っていかれる。

 

「危ないですよ、本当に何が──っ!」

 

 どうにか倒れる事なく受け止めると、先日とは真逆に伊織さんはオレの胸に顔を埋めながら、小さく震えていた。

 瞬間、あらゆるネガティブな単語が頭の中を駆け巡っていく。年頃の女性が震えてしまう様な出来事なんて、幾らでも想定出来る。まさかSNSで人の目につく様になったせいで、誰かに酷い事をされたのでは無いか。

 そんな最悪のシチュエーションが頭に浮かんだ直後、伊織さんの震える口から言葉が漏れ出た。

 

「──い、の」

「はい? 何ですか?」

「きこえ、無いの」

「聞こえない? 何が──いや、もしかして」

 

 すぐに、先日伊織さんが言った言葉を思い出す。同時に、堰を切ったように悲痛な声で彼女は叫んだ。

 

「何も聴こえなくなったの! 何度声を掛けても、意識を向けても、急に何も……こんな事、今まで一回も無かったのに、どうして……どうして!!」

「伊織さん……」

 

 伊織さんは神社の巫女として生きていて、幼い頃から『神の声』を聴いて来た。

 たとえ周りから不気味がられようが、そんな事を気にしないでいられたのは、文字通り神様から見守って貰ってる事を実感出来てたからだ。

 それが急に聴こえなくなって、彼女の心の支柱が崩れてしまった。それがどれ程の混乱と恐怖を生み出したのか、オレには想像すら出来ない。

 

「私──私、どうすれば良いの? 何を間違えたの? 分からない、分からない、分からない分からない分からない!!」

「──くそっ」

 

 ここまで取り乱す人間を相手にした事なんて無い。

 彼女にしか認知し得ない世界で起きた事象に対して、掛けられる言葉も持ち合わせていなかった。

 オレがどうしようも無かった時に、彼女は手を差し伸べてくれたのに、彼女がオレに苦しみを吐露してる今、何も出来ない自分が恨めしい。

 何も言えないオレは、その代わり幾らでも彼女の涙と叫びを受け入れるつもりで、強く強く、伊織さんの体を抱きしめるばかりだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……落ち着きましたか?」

「……えぇ」

 

 幾らか落ち着いた伊織さんが、オレからおずおずと離れてベンチに戻る。

 

「服、汚してごめんなさい……」

「いや、良いですよ」

 

 それよりも、改めて何が起きたのか整理する必要がある。

 

「神様の声ってのが、聴こえなくなったんですね」

「そう、なの……」

「一応聞きますが、いつからかは分かります? 原因が何か分かればどうにかなるかもしれません」

「分からないの、昨日初めて気づいて……こんなの、家族には絶対言えない、私が何か間違えたから声が聴こえなくなった……神に見捨てられたのよ、見捨てられて……」

「伊織さん、大丈夫、大丈夫です。深呼吸」

「っ……」

 

 また錯乱しそうな彼女の手を握り、なるべく優しく声を掛ける。もっとも、オレなんて長年彼女を支えて来た『神の声』にはとても及ばないだろうが。

 それでも、先ほどかなり泣き叫んだのがガス抜きになってたのか、それとも声だけじゃなく手を握ってるからか、伊織さんがまた取り乱す事は無かった。

 

「とにかく、今は落ち着く所から始めましょう。何が理由で聴こえなくなったのか、理由を判明させるのはその後で、ね?」

「……ありがとう、手を握ってくれて」

「滅相もないです」

 

 それにしても、だ。

 オレ自身でさえ野々原縁の意識の覚醒と、一昨日から起きてる記憶の短期的忘却っていう二つの問題があるのに、今度は伊織さんにまで問題が発生するとは。

 すぐにでも原因を究明したいが、本人にも皆目検討が付かないとあれば、オレに分かるわけもない。そうなると後は、この前塚本くんがした様に神社の資料に手掛かりがないか調べるくらいしか手が無いぞ。

 まずは塚本くんが来たら、彼に聞いてみるとしよう。既にオレが知りたい情報をホームページ改装する際に読んでたかも知れない。

 

「取り敢えず、まずは塚本くんが来るのを待ちましょう」

「……? 塚本さんが来てからどうするの?」

「彼がこの前読んだ七宮神社(ここ)の歴史書に、書いてるかもしれませんから、その──」

 

 その、から先の言葉を言おうとして、はたとオレの口は止まってしまった。

 瞬間、息が詰まる。また“あれ”が始まるのをつぶさに理解したが、抗う術も無いまま目の前が白くなって──、

 

「……縁さん、縁さん? 急にどうしたの?」

 

 ──思いっきり背伸びをした時に起こる貧血の様に、ちょっとでも気を緩んだら何もかも崩れてしまいそうな意識をどうにか留める。

 気がつけば、両膝をついて肩で大きく息をしていた。真夏日なのに腰から上の半身が冷えきって、だんだんと引いていた血が通い出すのが分かる。

 

「ヨスガさん、ヨスガさん!? 大丈夫? しっかりして!」

 

 視界がボヤけているが、恐らく隣にいる女の子が、必死の剣幕で俺の肩を揺すりながら心配してくれてる。揺すり過ぎて肩が少し痛いが、こうやって心配して貰えるのは助かる。

 一体何が起きたってんだ、こんな現象今まで起きた事が無い。強いて言うなら、今年の四月に俺が頸城縁の記憶を思い出した時に似た様な目眩があった気もするが……。

 

「うっ……クッソ、マジで何なんだよ」

 

 だいぶ楽になったが、まだ脳に酸素が足りて無い気がする。

 おぼつかない脳みそが脱水症状を懸念しているが、ここに来るまでに一度水分は補給してる……あれ、してたっけ? 

 

「凄い汗……はい、これで拭いたら一回ベンチに横になって、すぐに水持ってくるから」

 

 さっきから凄く心配してくれてるが、これ以上お世話になるのも悪い。何より、見知らぬ女の子と一緒に居るのを綾瀬や渚に知られたら何が起きるか分かったもんじゃ無い。

 僅かなリスクも背負うものじゃ無いし、ここはいち早くこの場を立ち去る事にしよう。

 

「いや、大丈夫だよ。すぐに帰るから」

「──えっ?」

 

 帰ると言った瞬間、女の子は信じられないものを見る様な目で俺を凝視する。

 確かにさっきまでの様子を見た後なら『何言ってんだお前』と思うのも仕方ない。だが、この子の目はそんな怪訝な物を見るものではなく、とんでもないものを見ている人の様な感じで、どうもそれが気に掛かった。

 

「いや、体調も治って来たしさっさと帰るから……あ、え、ん?」

 

 ──そういや、そもそも何で俺はこんな所にいるんだ。

 朝からわざわざ、自分から。こんな見知らぬ場所に居て……今俺を心配してくれてる女の子にしたって、彼女はどうして俺に親しく接してくれてた? 

 

「君は……」

「──っ!」

 

 “君は”──その後に続く言葉が何であるかを察した彼女が、酷く哀しそうな表情を浮かべる。

 それを目の当たりにして──刹那に“あの日”の瑠衣を思い出して──言おうとしていた言葉を口に出し切る前に、思い切り自分の右頬をぶん殴った。

 

「──誰じゃない!!!!!!!」

 

 そうだ、“誰か”なんて聞くまでも無い、彼女は七宮伊織、この七宮神社の巫女で、オレのために力を貸してくれて、オレの過去を受け入れてくれて、オレ自身気づいてなかった心の声に気づかせてくれて──決して、オレの口から誰ですかなんて言っていい存在じゃ無い! 

 

「ああクソ! クソクソクソクソ! まただ、また、昨日は大丈夫だったのに! 何で……クソォ!」

 

 最低最悪な言葉を半分でも口にした自分が許せず、石砂利の地面に額を打ちつける。当然頭が眉間を走るが、その痛みでこのふざけた忘却が収まるなら安い物だ。

 

「縁さん──縁、やめて……良いから、もう、やめてっ!」

「……伊織、さん。ごめんなさい」

 

 何度も地面に頭をぶつけようとするオレを、伊織さんが後ろから羽交い締めの要領で止めた。

 振り払う様な事が出来るはずもなく、額から僅かに流れる自分の血の感覚が、僅かに冷静さを取り戻させてくれた。

 

「ごめんなさい、伊織さん、今……今オレ、完全にあなたの事が分からなくなってた」

 

 それだけじゃ無い。

 

「あなたの事だけじゃ無い、ここがどこか、なんでここにいるのか、何もかも分からなくなってて……一昨日からこうなんです、すぐに思い出すけど今みたいに、少しの間全部忘れてしまうんです……すみません」

 

 伊織さんだって、昨日からずっと苦しんでいるのに、更に余計な負担を押し付けてしまう様で、本当の本当に最低な気持ちになる。

 羽交い締めされて逆に良かった。ただでさえ今さっき伊織さんの悲しむ顔を見たばかりなのに、こんな事を真正面から目を見て言える勇気なんて、持ち合わせて居ない。

 

 果たして伊織さんはオレの言葉を受けて、どう思っているのだろうか。

 そう思った矢先、彼女がぽつりと口にした言葉を、オレは確かに捕らえた。

 

「やっぱり、本当の事なの……」

「本当の事? 何がですか?」

「え──いや、えっと……」

 

 恐らく、伊織さんは無意識に言葉にしてたと思う。オレに聞かれて咄嗟に腕を離して、距離を取ろうとしたのが分かったから。

 すかさず伊織さんの方へ体の向きを変え、逃さない様に今度はオレが彼女の両肩を掴む。さっきまで見られなかった顔も、彼女がオレの間に起きてる現象について何か知ってるかもと思ったら、真っ直ぐ見据えられた。

 

「伊織さん、何を知ってるんですか。オレがさっきみたいに全部分からなくなる原因に、思い当たる事があるんですよね?」

「……っ」

 

 伊織さんはオレから目を逸らす。

 間違いない、この反応は何かを隠してる人のソレだ。

 伊織さんは今、オレが抱えてる問題の原因を知ってて、それを黙っているんだ。

 意地悪や嫌がらせなんて理由でそんな事する人じゃないのは充分知ってる。きっと何か理由があるに違いないが、今はその理由すら知りたい。もう二度と恩のある人を前にして『君は誰だ』なんて言いたくない。

 

「お願いです、教えてください伊織さん」

「……嫌、言いたくない」

「どうしてです、オレはもうあなたや塚本くんを忘れたくないんです!」

「──だって、だって! どうしたって貴方は忘れる、私の事を、忘れちゃうもの!」

「!?」

 

 “どうしたって忘れる”

 その言葉の意味がすぐには理解出来ず、オレは続けて彼女の言葉の真意を問う事が出来なかった。

 いや、正しくは、伊織さんの言葉を受けて“もしかしたら”と頭の中に浮かんだ仮説を確実な物にしたく無いから、自分からそれ以上聞こうとしなかったのかもしれない。

 

 オレは掴んでいた肩から手を離して、だらんと重力に委ねた。

 伊織さんは自分を抱きしめる様に、掴まれてた両肩に手を添えて、ぎゅっと唇を結んで自分の足元だけに視線を向けている。

 まるで全身が鎖で拘束された様に、オレ達は固まっている。もうお互いに何も言えない。何も動けない。永遠にそんな時間が続く様な錯覚すらして──、

 

「──今の言葉、聞き捨てなりませんね」

 

 それはやはり錯覚なのだと、否応がなしに現実を突きつける第三者──塚本くんの言葉が再びこの場を動かした。

 

「話は途中からですが──まぁ正しくは、七宮さんが彼を後ろから止めてる所位から聞いてましたが」

 

 そこそこ中盤から見て居た様だ。

 

「君の記憶が消えてしまうという、通常なら健忘症やアルツハイマーを疑うべき深刻な事態について、七宮さんは何か決定的な情報を持っている。そうとしか見えませんが」

「それは……その……」

 

 塚本くんからの問い掛けに、答えあぐねてしまう伊織さん。その歯切れの悪さは、もはや全面的に彼の発言を肯定してるのと変わらない。

 しかし明確にイエスと返事が来るまで質問を止める気は無いのか、塚本くんは続けて挑発的な言葉を口にした。

 

「もしかして、七宮さんが彼をそうする様に仕向けているんですか?」

「お、おい何言ってるんだ」

「言葉通りですが。一番単純かつ幼稚なロジックです。君の記憶障害──仮に記憶障害と呼称しますが、その原因を作ってるのが七宮さんなら、彼女が原因を知ってるのも、先ほど発言した『結局全て忘れる』と言う発言も頷ける。何故なら全部自分でそう仕組んでるのだから」

「ち、違います! 私はそんな事しない!」

「じゃあ──ああおっと、君はどうか手を出さないで、悪意は無いですよ。七宮さんに優しい君の代わりに言ってるんだから」

 

 オレがすぐにでも彼の口を黙らせようとしたのを、気配で察知して釘を刺して来た。

 オレが伊織さんに強く言えないのを分かった上で、敢えて彼がこんな尋問じみた物言いをしている。文句があるなら自分で聞いてみろ、自分の事だろう──言外にそう言った意味も込められていた。

 

「じゃあ──もし自分が関与してないと言うなら、貴女は彼に証明するべきでは? 彼を大事に思っていて、彼にあらぬ疑いをかけられたく無いなら、自分の知る事を素直に明かすべきだと、思いますよ」

「……」

「──まぁ、ここまで言っておいて何ですが、貴女なりに言えない理由があるんでしょう。ですが、それならそれで理由がある事だけは明言すべきです。彼だって根掘り葉掘り聞こうとはしない筈ですよ、ね?」

 

 それが塚本くんの妥協点、と言う事だろうか。

 ある程度黙秘する事を肯定しつつ、適度に罪悪感を与えて終わりにする。参考にはしたく無いが、ここまでこじれた状態で現状維持を続けるにはこれしか無いという判断だ。

 

 嫌らしい話の畳み方だが、もうこれ以上話したく無い伊織さんを無理に話させないで済むなら、乗るしかない。そう思って彼の言葉を肯定しようとした、その矢先に。

 

「──わかった」

 

 伊織さんが意を決した様に硬い声で言った。

 

「書庫に来て……見せなきゃいけないものがあるから」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「これ、読んで。ここに今のあなたに起きてる現象の理由が書いてる、から」

 

 書庫に来て伊織さんが本棚と壁の隙間から取り出した、一冊の手記。

 そんな所に手記を隠してた事に驚くオレと、『どうりで残り冊数の割に見つからないわけだ』と納得する塚本くん、二者二様の反応を見せてから、すぐに内容の把握に移った。

 ──そして、すぐに全ての理由が判明した。

 

「……肉体の本来の持ち主が意識を取り戻す代わりに、その間の記憶を全て忘れてしまう」

「ふむ……記憶喪失の人間でそういった事例がありますが、前世の人格や意識が途絶えた場合も似た様な事が起きるとは……学者に言えば鼻で笑われる事ですが、興味深い記述である事は違いないですね」

 

 これまた、全く異なる反応を示すオレと塚本くん。

 ただし、これについてはオレの反応が奇異なだけで普通は塚本くんの抱く感想の方があるべきものだが。

 

 手記には、神社でお世話になった男が三ヶ月七宮神社に住み込みとして働き、その間に起きた出来事や、人間関係について記されて居た。

 三ヶ月の間に、当初は状況に戸惑ってばかりだった男も徐々に適応していき、今より多く来て居た参拝客らとも交友を深めていく中で、生前とは異なる新たな人間関係築いていく。

 しかしある日、何の前触れもなく肉体の本来の意識が表出する。

 本来の意識を取り戻した男は、始めて神社に来た様に自分が何故ここに居るのかを尋ねた。神主は丁寧に状況を全て細かく説明したが、男は聞いた話を一切記憶していなかった。

 

 まるで幻の様に、男の中にあった“前世の人格”とそれが紡いだ時間は、本来の意識が目覚めると同時に消滅したのだ。

 

 つまり、つまりだ。

 ここに書かれた事と同じ事が、今のオレに起きようとしていると、伊織さんは考えている。

 伊織さんが頑なに言いたくなかった理由が分かった途端、急に怖くなってしまった。

 

「問題はです、これを七宮さんが見せたくなかった理由何ですが……」

 

 塚本くんがオレと伊織さんを交互に見ながら、オレの持つ手記を指差して言う。

 

「彼は“友人の頼み”で前世の記憶について調べてたんですね? であれば隠す必要なんて皆無で、むしろ率先して見せるべきだ。──もし、その話が本当であればね」

「……塚本くん、それについては、オレが言うよ」

 

 塚本くんにとってのもう一つの疑問には、オレが答えるべきだ。

 到底信じて貰えない事を分かった上で、オレは本当の事を──死者の意識であるオレが野々原縁の意識を起こすために動いてた事を明かした。

 

「──馬鹿にしてます?」

 

 全て聴き終えた後の第一声がそれだった。

 あんまりな発言ではあるが、今まで野々原縁が打ち明けた相手や、伊織さんが特別理解のある人だっただけで、彼の反応こそが本来多数派である。

 

「証拠は無い、だから信じて貰うしかなくて……でも、あり得ないと思うよな」

「正直、頭の病院をオススメしたい所ですが──いや、それならあれにも説明はつくか……他にも……」

 

 疑っていた塚本くんの言葉がだんだんと小さくなっていく。果てには考え込む様に黙ってしまった。

 恐らく、先ほどの手記の内容とオレが一昨日彼に『誰だ』と聴いた事を結び付けているんだろう。

 僅か間だが、彼の中で常識と現実がせめぎ合いが起きた結果、彼が選んだのは現実の方だった。

 

「──納得しました、理解は出来ませんが、今の君は野々原縁ではなく、頸城縁だと言う認識で、これからは接しますよ」

「……そうしてくれると助かる」

「──であれば、というか、そうならそうでやっぱり不可解ですよ、七宮さん」

 

 塚本くんの追求は止むどころか、改めて伊織さんへ向けられた。

 

「何故、彼にこの内容を見せたくなかったのですか。貴女が頸城さんの協力をしてるのなら、嘘の理由以上に見せてあげるべきでは?」

 

 確かに、その言葉は的を得ている。

 これが野々原縁の意識が目覚めかけてる前触れだとすれば、オレの本来の目的達成に大きく近づく事となるのだから。

 もうこれ以上調べる必要もない。野々原縁の意識が目覚めるまで、残り僅かな時間を静かに過ごせば、万事解決ハッピーエンドだ。

 

 ……そのはず、なのだが。

 

「彼がここ数日の記憶を失うのは、確かに寂しいですがそれは野々原縁さんには無関係な事。こちらは彼の状況が良くなっていると喜ぶべきでは? 違いますか?」

「それは……そうですけど、でも、だけど……」

「……要領を得ませんね。頸城さん、貴方はどう思ってるんです、自分がこのまま野々原縁さんの体を使い続けるのと、本来の意識が目覚めるの、どちらが望ましいです?」

 

 追求に答えられないでいる伊織さんの姿を見て、塚本くんが同意を求める様にオレに尋ねる。

 伊織さんはどこか縋るような目でオレを見る。そんな伊織さんの視線を受けながら、オレはここ数日の出来事を思い返した。

 

 初めて伊織さんと出会った日の事。

 伊織さんと書庫で談笑しながら手掛かりを探した時間。

 祭りを盛り上げるために塚本くんも交えて過ごした時間。

 そして何よりも──夜の神社で交わした会話と、優しく抱きしめてくれた温かさ。

 

「オレは……」

 

 忘れたくない。それは紛れもない本心だ。

 たとえ野々原縁の意識を目覚めさせる過程で生まれた時間と、気持ちだったとしても。

 この気持ちと、記憶を、忘れたく無い。

 

 そう、口にしようとした瞬間に──、

 

『僕も早くヨスガに会いたいからね、出来るだけ早く起こしてくれると嬉しい』

 

 昨日出会った、綾小路悠の言葉が脳裏を駆けた。

 続けて、電話越しに聴いた野々原渚や、その両親。

 それだけじゃ無い、オレは会ってないが、幼なじみの河本綾瀬や、園芸部の柏木園子……オレが“ヤンデレCDのキャラクター”と認識しているが、野々原縁にとっては掛け替えの無い存在たちの姿。

 

 ……あぁ、そうだ、そうだったな。

 オレにとってここ数日の思い出が大事な様に。

 瑠衣や堀内との思い出が無二の宝である様に。

 野々原縁にとっても、野々原渚や綾小路悠達と生きてる時間は替え難い人生なのだ。

 それを、たとえ野々原縁の前世の人間だとしても──死んだ人間の未練で消し去ってはいけない。

 今年の六月、瑞無の町で“この世界”の瑠衣達に、野々原縁が別れの言葉を告げた時と同じだ。何よりも優先すべきは、今現在この世界に生きている人間。そこに死者が足を引っ張ってはダメなんだ。

 

 ──オレは、消えなくちゃいけないのだ。

 

「オレは──オレも、塚本くんと同じ意見だ」

「──そん、な……」

 

 裏切られた、そう思っているのだろうか。

 何故伊織さんがそんなにまでオレの記憶が消えるのを嫌がるのか、その理由をちゃんと聴きたい。

 でも、それ以上にオレは野々原縁を優先しなきゃいけないんだ。伊織さんを忘れたく無い、一緒に居たいと叫ぶ自分を殺してでも──。

 だから、自分自身に言い聞かせる意味でも、オレははっきりと口にした。

 

「この体の本当あの主人は、あくまでも野々原縁だ。オレじゃ無い……だから、記憶を失っても、仕方ないと思う」

 

 それでも、たとえそうでも──そう言葉を続けようとしたが、それは出来なかった。

 

「帰って!!!」

 

 伊織さんが、悲痛な叫びを書庫の中に響かせる。

 

「伊織さん、オレは──」

「嫌! もう貴方の言葉なんて聴きたくない!」

「──っ」

「帰ってったら!」

 

 髪を振り乱し、目を硬く閉じて、伊織さんは拒絶の言葉をぶつけてくる。

 

「──頸城さん、ここは素直に聴きましょう」

 

 これ以上何を言っても火に油です。そう小声で注釈を入れて、オレの腕を軽く掴む。

 

「……はい」

 

 それに抗わず、オレは忸怩たる思いで書庫を──七宮神社を初めて日の登る時間に後にしたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──すみません、今更過ぎますが、彼女を追い込んでしまって」

「……本当だよ」

 

 帰り道、並んで歩きながら、先ほどの事を振り返る。

 塚本くんはすぐに自分が言い過ぎた事を謝罪したが、オレが彼の発言について批判する資格は無い。

 結局、最後彼女をああもさせたのは、同意したオレなんだから。

 

「──大丈夫かな、伊織さん」

「不味いと思いますよ」

「そんなアッサリと言うかな、君」

「サバサバ系なので」

「サバサバ系自称する女って大抵ジメジメしてるよね」

「ノーコメント、口は災いの元ですよ、頸城さん」

 

 どの口でそれを言うか、そう内心で思いつつ、オレはこれから自分がどうするかを考える。

 不思議と、何の根拠もないが、自分が置かれてる状況を理解したら、記憶が唐突に消える事への恐怖感は消えた気がする。伊織さんを傷つける言葉にはなったが、オレが野々原縁の意識の覚醒を待ってるのは本心だからだ。

 

 だけど、それでもう“野々原縁が目覚めるまで家で寝てる”なんて行動を取るつもりは無い。

 伊織さんが口にした、神社に人がたくさんいる姿を見たいと言う、ささやかな願い。──それを現実にしたい、いいやそれだけじゃない。

 

 野々原縁が目覚めるのは良い、だけどまだ、今はダメだ。

 たとえ、その過程で生まれた副産物の様な思い出だとしても、そこで生まれたモノを、オレは蔑ろにしたくない。

 だから、まだ忘れてちゃいけない。忘れちゃダメなんだ。

 

 何故伊織さんがあそこまでオレが忘れる事を嫌がったのか。

 オレがさっき言いそびれた言葉。

 それらをちゃんと話さないと──伊織さんがオレに向けてくれる真摯な想いに応えないと、オレはまた瑠衣の時と同じ過ちをしたまま終わってしまう。

 

 それだけは、絶対に──死んでも嫌だから。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 縁達を追い出した後、伊織はもう何度目かになる、神の声を聴くための儀式を行い──そして、やはり何も聴こえなかった。

 あれから時間が経ち、とうに夜中を迎えているにも関わらず昨日からずっと聴こえないまま、理由は分からない。

 

「──なんで、どうしてのっ!」

 

 神前でありながら、誰もいない空間で声を荒げる伊織。

 昨日から分からない事ばかりが、延々と自分の頭の中を駆け巡り続けている。

 

 神の声が聴こえない理由だけでは無い。

 頸城縁、彼の記憶が消えてしまう事への強烈な拒否感もまた、伊織は理由を自覚出来ないまま持て余している感情だった。

 

 今日、塚本から言われた言葉は全て正論であると、伊織自身も分かってはいた。

 嘘の理由でも、本来の理由でも、自分があの手記を見つけた時すぐに、縁に教えるべきだった。

 それをせずにどうして、自分は隠してしまったのか。

 そして今も、徐々に彼が消えて野々原縁が目覚めようとしてる事が受け入れられ無いのか。

 

 自分は何のために彼に協力していたのか。

 ここまでの行動と、今の感情が完全に食い違っていて、もう自分じゃどうしたいのか分からない。

 だから神に教えて欲しいのに、その神からも見放されてしまった。

 

「私は──私は、どうすれば良いの……どうしたいのよ」

 

 もはや、誰に問い掛けても返ってこない言葉を空に投げる。

 

 ──が、しかし。

 

「答えに気づかないフリをするのはやめたらどうですか?」

 

 その言葉に返事を返す存在が、不意に現れた。

 

「誰っ!」

 

 ここは神社の本殿、しかも御神体を祀っている前だ。

 そこに加えて夜遅く。ただでさえ無関係な人間が入らない場所に、人が立ち歩かない時間帯。

 伊織は瞬時に心を切り替えて、罰当たりな侵入者への警戒心を剥き出しにしつつ、御神体のそばに掛けてあった御幣を手に取った。

 

「……すみません、罰当たりなのは自覚してますが──生憎と、こちらの信仰対象は“情報”なので」

「──塚本、さん?」

 

 暗闇から姿を見せた声の主人は、まさかの塚本千里だった。

 何故彼がここに、そんな驚きが瞬く間に警戒心を弛ませる。

 塚本は普段通りの柔和な笑顔のまま、そんな伊織に言った。

 

「認めたら楽になりますよ、貴女が必死に目を逸らしてる本心を」

 

 その言葉で、弛みかけてた警戒心を再度絞らせる。

 そう、彼は神職しか踏み入ってはならない神前に音もなく忍び寄ったのだ。たとえ知ってる人間でも、危険人物である事は間違いない。

 初めて会った時から尋常では無い気配を感じていたが、それがたった今確信に変わる。

 何よりも、彼の言葉がまた自分を掻き乱そうとしてる事が、伊織には耐え難かった。

 

「──何を言ってるか、全く分からないわ」

「あ、ようやく、敬語やめてくれましたね。距離感が縮まった錯覚がして嬉しさと虚しさがダブルで来ました」

「ふざけないで!」

 

 本当に、昼間の彼と同じ人間なのか。伊織は訝しんだ。

 佇まいや発言の雰囲気は同じ。しかし、纏っている雰囲気……邪気は、昼間も含めた今まで見てきた彼には全く無かった。

 

「──歴史書に書いてましたが」

 

 そんな伊織の警戒心も意に介さず、塚本は言葉を続ける。

 

「貴女達七宮の巫女は皆──、神に自身の意識と精神、そして人生を全て集中して、声を聴くらしいですね」

「……それが、なに」

 

 そんな事はとうの昔に知っている。まさに釈迦に説法……新色が使う例えとして適切かはともかく、伊織にとっては知り尽くした話題だ。

 

「──まだ分かりませんか?」

 

 いい加減、伊織も我慢の限界が近くなってきた。

 この男はどこまで、人の精神を逆撫でする話し方をすれば気に済むのだろうか。

 

「ああもう、その御幣の中身()を見せるのはやめてくださいよ? 分からないなら全部言いますが、よろしいですね?」

「──っ!」

 

 こちらの手の内を分かりきった上で、塚本は自分を挑発──否、まさかと思うが、アドバイスをしている? 

 いよいよ持って彼の本心が分からなくなった伊織は、続く塚本の言葉を──聞いてはいけない言葉を耳に入れてしまった。

 

「声が聴こえないというのはつまり──単に、神様よりも意識してる人が、神に集中できない……神より大事な存在が居るからでは?」

「……なんですって」

 

 反応は静かだが、まるで爆弾でも投げ込まれた様な衝撃が、彼女の内を襲った。

 気がつけば伊織は塚本から目を逸らし、握っていた御幣を落として自分の顔を手で覆い隠す。

 

 まるで食中毒でもかかった様に、脳が咀嚼して飲み込んでから、じわじわと──そして瞬く間に、塚本の言葉が全身に満ちていった。

 

 自分に、神以上に意識してる存在が居る。

 そんな馬鹿な、あり得ない。全ては塚本の妄言だ──そう意を唱える声は自分の中に全く居なかった。

 信じられない事に、塚本の言葉を受けて最初に伊織が受けた感情は、怒りでも困惑でも動揺でも無い──納得だった。

 そう、伊織は瞬間に納得したのだ。塚本の言葉を全面的に肯定した……神に全てを捧げるべきである自分の中に、神より大事な人間──頸城縁を想っている事に。

 

「あ……あぁ……」

 

 そうだ、分かっていた。分かっていたのだ。塚本の言う通り。

 

「ああぁ……」

 

 自分がいつからか──頸城縁に恋をしていた事など、わざわざ言われるまでも無く、自覚していた恋心なのだから。

 

 しかし、これを認めるわけにはいかなかった。

 巫女だから? ……それもある。いや本来であればそれが全ての理由であるべきだが、今の伊織にとってそれはもはや一番の理由では無い。

 

 では、何が彼女に自身の恋心を見て見ぬ振りさせたのか。

 それは、縁が今もなお、消えつつある存在である事。

 頸城縁は本来の体の主人である野々原縁の中に溶けつつあり、彼が自分と過ごした時間が、幻の如く消え去ろうとしている事。

 ──自分を、忘れ去られてしまう事。

 

「あああぁ……っ!!!」

 

 だから、この恋は認めてはいけなかった。

 だって、それは認めたら最後、恋では無く呪いに変わる。

 生まれて初めて懐いた他者への恋心、しかしその想い人は消え去りつつある、叶わない恋。

 

 だが、諦められない。一度認めてしまえば最後、もう彼を失ってしまう事が、彼の中から自分が消える事が耐えられない。

 

 つまりは、それが彼の願い──野々原縁の目覚めに拒否感を覚えた理由なのだ。

 本来の目的とあまりに対極に位置する、自身の欲望。矛盾したエゴは、恋という(かたち)を自覚して、瞬く間に膨れあがろうとしていた。

 

「──ダメ!!」

 

 伊織は手を払う。

 まるで最後の防衛ラインを死守するかの様に、自分自身へ(くびき)を打つ様に。

 ──既に、塚本千里の姿はどこにも居なかった。

 

「ダメ、ダメ、ダメダメダメダメ……絶対に、ダメなんだから!」

 

 この恋心は、彼の望みを叶えない。

 彼の事が好きならば、自分はこの恋を永遠に封じ込めなければならない。

 であるならば、今日彼を追い出したのは正解だった。

 きっともう、彼は二度とここには来ないだろう。拒絶した自分を避けて、彼が二度とあの石段を登って自分に笑顔を見せてくれる事は無い。自分を、笑顔にさせてくれる事も無い。

 

 自分を──、

 

「駄目……なのに……」

 

 自分と、ずっと一緒にいて欲しい。

 二度と、来て欲しくない。

 

 相反する二つの心に押し潰されそうになりながらこの日、七宮伊織は初めて恋の苦しみに泣いた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日……正しくは翌日の夕方六時。

 オレは、七宮神社にまた戻って来た。

 この時間まで掛かったのは、単にオレの覚悟不足からだ。

 ここに来る事は昨日から決めていたが、いざ足を運ぶにあたって“本当に良いのか”という疑問が足を引き留めた。

 オレが今から伊織さんに言う言葉は、どこまでも自分勝手なお願いだから。それが伊織さんを苦しめてしまう事だと分かった上で、敢えてそれを口にしようとするのに、どうしても躊躇いが生じてしまった。

 

 だが、それもこうして鳥居の下までくれば、完全に消え去っている。

 この先、オレがどうなるかなんてのはもう、勘定の外だ。覚悟を決めて、境内を進む。

 昨日よりも更に祭りの装飾と屋台が増えた敷地内は、既にいつでも祭りを行える様相だ。

 その中でも一際目立つ演舞舞台。そこに、彼女は居た。

 

 一心不乱に、演舞で用いる御幣を手に演舞の練習をしている姿は、夕方の仄かな明るさと闇の中で一際存在感を放っている。

 あぁ、綺麗だな。素直にそう想った。思えば七宮伊織と言う個人との関わりは多くあったが、巫女としての彼女の姿を見たのはほんの僅かだったと思う。凛とした佇まいで、刀の様に鋭い気配を放つ彼女の姿は、普段オレの前で見せた朗らかな物とは一線を画していた。

 

 その彼女に、オレは言葉を掛ける。

 

「──伊織さん、こんばんは」

 

 演舞の動きがパタっと止まり、まるで錆びついたぜんまい仕掛けの様にゆっくりと、伊織さんはオレを舞台の上から見据えた。

 

「……なんで、来たの」

「来ると思いませんでしたか?」

「……っ」

「話がしたいんです。たとえ忘れるとしても、あなたと」

 

 そう言うと、伊織さんはオレに背を向けて、やや間を置いてから、

 

「──少し、待って」

 

 そう言って舞台から降りて、一度本殿の方へ戻った。

 

「……ふう」

 

 まずは門前払いされずに済んだ事にだけ安堵する。

 伊織さんは舞台の照明に当たってたから、恐らく着替えか汗を拭きに戻ったのだと思う。であればオレは素直に彼女がまた姿を見せるのを待つだけだ。

 

 その後、五分ほど待って──体感ではそれ以上だったが──伊織さんがまたオレの前に姿を見せる。

 

「伊織さん、オレはあなたに──っ!」

 

 先手必勝、とばかりにオレから話を振ろうとした矢先、急に猛烈な目眩が襲った。

 まさか、ここに来てまたアレが来たのか? そう想ったが、そう考えられている時点でこの目眩が今までと異なる物だと言う事に、すぐ気が付いた。

 

 目眩だけじゃ無く、全身が長時間正座した後に来る痺れの様な感覚に包まれる。猛烈な違和感に嘔吐しそうになりながらも、もう一つ普段と違う事に気がつく。

 ──伊織さんが心配する様子を全く見せていない。今まで必ず駆け寄って心配してくれた彼女が、まるで何事もないかの様にその場に佇み、それどころか、

 

「いおり、さん……!」

 

 今まで見せた事の無い、暗澹とした笑顔を浮かべていたのだから。

 最後に、ふと嗅いだ事の無い香が鼻腔をくすぐって、オレは意識を手放した。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 バチバチと何かが小さく弾ける音で目が覚めた。

 

「んぅ……ん、ん?」

 

 オレはいつの間にか見知らぬ部屋で、冷たい木の床に足をだらんと伸ばしながら、壁に背中をぐったりと預ける姿勢で座っていた。

 部屋の右手奥には、何かを祀るために置かれた立派な神棚があり、神棚の両脇には焚き火台がある。先ほどから聞こえるバチバチという音は、焚き火のものだった。

 どうやらさっき目眩で倒れた後、ここまで運ばれたらしい。

 部屋の中は気を失う直前に嗅いだ物と同じ香に満ちていた。

 

「……目が覚めた?」

「伊織さん……」

 

 部屋の左手奥から、ゆらりと、さながら幽鬼じみた足取りで彼女は姿を見せた。

 それは舞台の上にいた時とはまるで異なり、オレはここに来て人間がここまで違う姿を見せられるのかと、見当違いなところに驚いた。

 

「さっきはごめんなさい、手荒なマネをしてしまって」

「一体,何をしたんですか」

 

 先ほど、彼女は身じろぎもせずにオレを気絶させた。

 そして今も、手足にかけて重石でも乗せられてる様な感覚が残っている。

 その時嗅いだ香がこの部屋にも充満しているが、何か関係があるのだろうか。

 幾つもの疑問が頭の中をぐるぐる回る中、伊織さんから来た解答は思いもよらないものだった。

 

「さっき貴方の身に起きたのは私が施した術式、簡易的な封印よ」

「じゅ……なんですって?」

 

 急にぶっ込まれたワードに思わず面食らう。

 伊織さんはオレが困惑するのを分かってた様で、露骨に疑問を抱いてるオレの顔を見てクスクスと笑い、眼前まですっと近づいて説明した。

 

「信じられないわよね、仕方ないわ。今まで一度も話した事無かったから」

 

 そう言って、自分の手をオレの足へと伸ばし、ずっと指を這わせる。脛から膝、そして太ももまで滑らせて、更にその先──自分では気づかなかったが、太ももの裏に貼られていた紙を剥がして、オレの前に見せた。

 

 伊織さんが剥がしたのは一枚の長方形の薄紙。どちらが表裏なのか分からないが、どちらにも墨でびっしりと何かしらの文字が書かれてあり……一目で『呪符』だと理解出来た。

 オレの反応を把握して、伊織さんの言葉が続く。

 

「私はね、古くからこの神社に伝わってきた特別な力を扱う事が出来るの。秘術とか、呪術とか、呼び方は何でも良い……その中の一つを貴方に使った。意識と体の自由を奪う術式をね」

「……マジですか」

 

 信じられないが、嘘だと否定出来る立場では無い。

 元よりオレの存在だって他人から見れば充分あり得ないモノだし、何より実際にこの身でその“術式”というのを受けてしまえば、信じるより他は無い。

 

「すぐに楽になるから、安心して」

 

 そう言って、呪符を手に持ったまま、またオレから離れる伊織さん。

 そして今度は神棚の前に掛けてあった御幣──先ほど、演舞の練習に用いてた物よりも一回り大きくて長い──を手に取る。

 

 一方でオレも、さっきまで思いもよらない展開に頭が持っていかれたが、ようやく現状に対しての心構えが出来上がってきた。

 とにかくオレは、伊織さんに術式を掛けられて、恐らく神社の最奥部──関係者しか足を踏み入れない本殿などに運ばれた。

 それをしたのは全部伊織さんの意思であり、今もなお彼女は何かをしようと動いている。

 流石にそろそろ、彼女の本意を聞かなきゃいけないだろう。

 何故オレにこんなマネをしてまで、無理やり連れて来たのか。そして今から、何をしようとしてるのか。

 

「伊織さん、何でこんな事するんですか」

「貴方が悪いのよ。貴方がここに来てしまったから」

 

 わずかな間もなくオレが悪いと、彼女は言い切った。

 

「もう来ないと思ってたのに、来なければ諦められた、諦めようとしてたのに──でも、貴方は来てしまった。だったらもう、こうするしかないわ」

 

 そう言って、彼女は手に持っていた御幣をまるで刀の様に構え直し──ゆっくりと鈍色の刃を抜き出した。

 

「……嘘だろ」

 

 かなり大きいと思ってたが、まさか御幣だと思ってたものが日本刀だとは、流石に予想外だった。

 

「美しい刀身……あなたもそう思うでしょう?」

 

 焚き火の明かりに照らされた刀身を見ながら,彼女はゆったりとした口調で言う。

 生憎、刀身の美しさを感じる余裕なんて無い。オレが感じるのは、凶器としての恐ろしさだけ。

 その刃がオレの首をはねようとすれば、アッサリとお陀仏するだろう。明確な死をもたらす武器が目の前にあって、平静を保ってるだけで自分を褒めたくなる。

 

「……私が神の声を聴けなくなったって、昨日言ったわよね」

 

 伊織さんが引き続き刀を見ながら言う。

 

「……はい、理由は分からないままだけど」

「私ね、分かったの。理由が」

「──それが、この状況と関係してるんですか」

「…………そうね」

 

 何故かこの質問に対しては、かなりの間を置いて答えた。

 そこに引っ掛かりを感じたが、追及する間も無く伊織さんは言葉を続ける。

 

「私は、幼い時からずっと、身も心も神に捧げるために生きてきた。神の声を聴いて、神の事だけを考えて……そうやってずっと生きてきたの」

「それは、以前も聞きました」

 

 だから、周りからどう思われようと構わず、世間の事なんて何も気にせず、信仰し続けていたと。

 そんな彼女の人生の大半を支え続けたアイデンティティーとも言える、神との繋がり──繋がりを感じられる“声”が聴こえなくなった事が、彼女に大きな衝撃を与えた。

 今彼女がこんな事してるのも、間違いなくそれが理由の一つになっては居るんだろうが……因果関係がハッキリと結び付かない。

 

「……だから、私は恋なんて絶対しない、自分の人生には縁が無いと思ってた」

「……」

「そう思ってたのに」

 

 そこで一度言葉を止めて、彼女はオレを真っ直ぐ見つめて言った。

 

「私は、貴方に恋をしてしまった。神だけを信じてた私が、いつの間にか貴方の事を考えて、貴方の声を聴きたくなっていた。神への信仰よりも貴方を想う事の方が大事になってたの」

 

 それは、あまりにも悲痛な告白だった。

 

「神の声が聴こえなくなったのもそれが理由。私が神と貴方を天秤に掛けて、無自覚のまま貴方を優先したから、神との繋がりを絶ったのは、神を裏切ったのは、私なの」

「……だから、オレを殺すんですか?」

「──いいえ、違うわ」

 

 オレの問いに、一瞬瞳を泳がせながら彼女は答えた。

 その一瞬の仕草に、まだ何か彼女の中で迷いがあるのが伺えた。

 

「私は今まで、誰かを愛する事なんて無かった。初恋なの」

「……それは、光栄です」

「ふふっ、こんな状況でも貴方は、そんな風に言葉を返してくれるのね。ありがとう、好きよ」

「──っ」

 

 こんな歪な状況で無ければ、どんなに心が弾む言葉だろう。

 彼女に好意を持たれる事が、好意を伝えられるなんて、嬉しいに決まってる。

 でも、この状況がそれを許さない。

 

「私は、貴方を失いたく無いからここに連れてきたの」

「どういう意味ですか。監禁なんてしても、オレはもうじき──」

「そう……そうよ! 貴方は消える。貴方は貴方じゃなくなって、私の前から居なくなる!」

「っ!」

「私は生まれて初めて誰かを好きになった。一度自覚したらもう、この気持ちを抑える事なんて出来ない。なのに貴方は消えてしまう、私の事を……私と過ごした時間を全部忘れて──それが、私には許せない!!」

 

 自分の胸に手を当てながら、彼女は叫ぶ。

 

「貴方を失いたく無い、消えて欲しくない、忘れないで欲しい、これからもずっと……祭りが終わったって神社に人が来なくたって、貴方にだけはそばに居て欲しい」

 

 でも、それは叶わない願いだ。

 だって──、

 

「でもそれは、貴方の望みとは相反するモノ。貴方の望みと私の願いは交わらない……だから、もし貴方がまたここに来る事が無ければ、諦めようと思った。そう決めたのに……」

「そういう、事ですか」

 

 だから最初にオレを見た時に言ったのか、何で来たのって。

 

「貴方は来てしまった……ならもう、我慢なんて出来ない」

 

 そう言って、次に刀の切先をオレに向ける。

 

「これは七宮神社に代々伝わる神剣、黄泉比良坂(よもつひらさか)。この刀は斬った者の命をあの世では無く、神の元へと連れて行く……この刀で貴方をその体から解き放つの」

「……本気で言ってるんですか?」

「ええ。それ以外に貴方を残す方法が無いもの……貴方をこの世から切り離して、神の元へ送る。……私も一緒に」

「ちょっと待ってください! それって、貴方も死ぬって事ですか!?」

「死じゃ無いわ……でもその方が貴方に伝わりやすいなら、いまはそれで良い。そうよ、貴方を斬った後は私もすぐに後を追う。そうすればずっと、私は貴方のそばに居られる」

「そんな、考え直してください伊織さん! そんな事しちゃダメです! 間違ってますよ!」

 

 貴方を殺して私も死ぬ、なんて言葉はフィクションの中だけだと思ってたのに、よりによってそれを伊織さんの口から聞く事になるなんて思わなかった。

 彼女の言葉をまとめたらまさにそう言う事だが、つまりはオレのせいで伊織さんが死ぬって意味だ。

 野々原縁を死なせるワケにいかないのは当然の事だが、伊織さんが死ぬのも絶対にダメだ。

 

「考え直してください、あなたが死ぬ必要なんてありません! オレの事を思ってくれてるのは嬉しいですが、こんなの間違ってます!」

「そうかもしれない……私もね、まさか自分がこんな事考えつくなんて思ってなかった。こんな自分勝手な理由で誰かを──それも好きな人と一緒に、なんて」

「だったら──」

「でも、しょうがないじゃない!!」

 

 説得しようとする口が止まる。

 

「それ位、貴方を失いたく無い……貴方がいなくなった後の世界を、生きて行くなんて考えるだけで死にたくなる、貴方と一緒に居られるなら何しても良い──そんな風に考えるくらい、縁くん、私は貴方が好きなの!」

「……」

 

 黒く澱んでいてもなお、真っ直ぐで純粋な想い。

 全身全霊の言葉を前に、もうオレが返せる言葉は無かった。

 

 一歩、また一歩と、伊織さんが歩みを進める。

 オレは身一つ動かさずに、ただ目を閉じて、今日までの日々を反芻する。

 伊織さんと交わした言葉、触れた時の手や体の温度、その積み重ねの行き着く先が今だとすれば、それは仕方ないのかもしれない。

 

 伊織さんの歩く音が目の前で止まった。恐らく、今目を開ければ眼前に彼女が居るんだろう。

 その気配だけを感じて、オレは最後の数瞬を待つ。

 

「それじゃあ、おやすみなさい──またすぐに会いましょう」

 

 刀を構える音が聴こえる。だけどその前に一つだけ、彼女に言わなきゃいけない事がある。

 

「伊織さん、一つだけ、お願いがあります」

「……なに?」

「オレをその刀で斬ったら、神様の所にオレは行くんですよね?」

「えぇ、そうよ」

「それなら、伊織さんはどうかすぐ死んだりしないでください」

「──っ」

 

 それだけが言いたかった。

 オレが彼女の手で死ぬ事を、もう今更どうこう言ったりはしない。

 でも、彼女が後を追うのだけはやめて欲しい。

 

「伊織さんはこれからも生きてください。病気とか事故とかは出来るだけならない様にして、最後まで健康で、楽しい事六割、嫌な事四割な人生を寿命が尽きる日まで、どうか生きてください」

「…………」

「いつか会えるなら、伊織さんにはこの世界で味わえる楽しさをたくさん経験して欲しい」

 

 二十歳を過ぎれば、お酒が飲める。

 社会人になれば、自分の責任で好きな事が出来る。

 十代の人生では想像も出来ない事に、生きていれば必ず巡り会える。

 

「知らない街や遠い国、初めて見る動物や珍しい食べ物、趣味や人との出会い──この先、伊織さんの心を惹きつける何かが絶対待ってます。生きていれば、必ず」

 

 だって、本来死んでるオレが、未来の無くなったはずのオレが、伊織さんと出会えたんだから。

 今を生きてる彼女に、何も起きないワケがない。

 

「この世界は確かに、伊織さんから見たら汚いものが多いかもしれません。神を信仰するあなたにとって邪魔なものが目につくと思います。でもきっと、それだけじゃ無いです」

 

 だから、伊織さんにはこれからも生きて、素晴らしい未来の何かと出会って欲しい。

 

「オレのところに来るのは、その後でも充分です。神様のところがどんな場所か見当もつきませんが、オレは待ってますから。あと、見た目が変わってると思うので、気をつけてください」

 

 最後にちょっと余計な事も言ったが、これでとうとう言う事も尽きた。

 

「以上です──さぁ、どうぞ」

 

 我ながら、もう少し命乞いとかしてみたらどうだ。

 言い切ってから、内心で少しだけ笑った。

 

「──えぇ」

 

 刀が振るわれて空気を斬る音が、鼓膜に届く。

 刹那、冷たく鋭い刃がオレの首に触れた。

 

 ごめんな、野々原縁。

 巻き込んじゃって。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……」

 

 静寂と、時折挟み込む焚き火の音がオレを包む。

 まぶたは閉じたままだが、周囲が何か変わった様な気配は感じない。

 死後の世界がどんなものか分からないが、ひょっとしてこれがそうなのだろうか? 

 いまいち実感が湧かないけれども、瞼を開けば違う景色が映ってるのかもしれない。

 せめて、大っ嫌いな雨模様の天気だけは無い事を願いつつ、オレはゆっくりと目を開いた。

 

「……あれ?」

 

 視界には喉元まで迫った黄泉比良坂の刃と、前傾姿勢で刀を持った姿勢のまま止まってる伊織さんが映っていた。

 これらの視覚情報から得られる結果は一つ。

 伊織さんが首を刎ねる寸前で手を止めて、まだおれが生きているという事。

 

「……斬らないの?」

 

 自分から死を乞うつもりは毛頭無いが、黙ってるワケにもいかない。

 伊織さんは顔を俯かせて表情を見せないまま、震える声でオレに言葉を返した。

 

「──どうして」

 

 ぽたり、木の床に何かが滴り落ちる音がした。

 ゆっくりと、伊織さんが顔を上げる。

 

「どうしてあなたは──そんなに優しいの」

 

 両眼から涙をこぼしながら、彼女は言った。

 

「あなたが優しい人だからです、オレは人によって態度変える性格なので」

「優しくなんて無い、私は理不尽な理由であなたを殺そうとしたのよ? その気になれば逃げられたのに」

 

 体中を支配してた重さは、さっき伊織さんが呪符を剥がした時にすっかり消えていた。

 確かに、オレは逃げようと思えば逃げられたのだ。

 

「逃げて欲しかった、怖がって気味悪がって、頭のおかしい女だと思って私を嫌って欲しかったのに……なのに逃げないどころかあんな言葉まで言われて──そんな貴方を斬るなんて、出来るわけない!」

 

 がしゃん、と黄泉比良坂を手からこぼす。

 神剣を握っていた両の手はそのまま、オレの服の襟を掴んだ。

 

「どうして……どうして貴方は逃げないの!? どうして私の前にまた姿を見せたの!? 貴方は消えるのに、私を忘れて居なくなるのに、そうやって最後まで私の好きな貴方で居続けるのよ!」

「伊織さん……」

「酷いわよ、貴方は……嫌われて終わりたかったのに、最後まで優しくて、最後まで残酷で……」

「──ごめんなさい」

 

 本当にオレと言う人間は、死んでも変わらない。

 自分を想ってくれてる人を、泣かせてばかりだ。

 

「オレ、伊織さんに感謝してるんです」

「──え?」

 

『たくさん泣いて、たくさん哀しんで、そしてたくさん、瑠衣さんと過ごした時間を想ってあげて』

『ほんの僅かな時間だったとしても、どんなに苦しくても、その苦しみや辛さは全部、貴方にとって瑠衣さんがどれだけ大切な人だったかを証明する物だから』

 

「否定するばかりだった自分の過去を、あなたから貰った言葉で初めて、ちゃんと受け入れる事が出来ました」

 

 だから、この恩を必ず返したいと思った。

 そのために祭りの準備にも協力した。

 

「それに決めたんです。もう二度と、自分を真剣に想ってくれる人から逃げない。瑠衣を死なせた日と同じ過ちは繰り返さないって」

 

 だから、伊織さんの刃から逃げると言う発想は無かった。

 だから、伊織さんには死ぬまで生きて欲しかった。

 それに──、

 

「それに、オレが逃げたら伊織さんの中に延々に罪悪感が生まれるでしょう? それだけは、死んでも嫌だったからさ」

 

 これまでの会話でもさり気なく繰り出したジョークを言いながら、オレは笑って言った。

 伊織さんは涙を流しながらもオレの言葉を聴いて、最後に初めてクスッと小さく頬を綻ばせた。

 

「──もう死んでるのに、今更何言ってるのよ」

「あ、初めて指摘してくれましたね。死ぬまで触れられないと思ってました」

「だから──もう……」

「伊織さん」

「なに? ──きゃっ!」

 

 ようやく緊張の糸が緩んだ伊織さんの手を掴み、そのままオレの方へと引き寄せた。

 当然、引っ張られた伊織さんは前のめりに倒れ込み、全身でオレに抱きつく姿勢になる。

 そのまま彼女の背中に腕を回す。急な事にフリーズしてる伊織さんの頭を撫でながら、オレは言った。

 

「伊織さん」

「な、なに?」

「オレを好きになってくれて、ありがとうございます」

「──うん」

「オレも──オレも、あなたが好きです」

 

 一緒に過ごした時間は、とても短い。

 でも、生きてた頃も死んでからも、散々言われた言葉だ。

 

『時間なんて関係ない』

 

 だから、その僅かな時間で自分の中に生まれた気持ちの全てを今ここで、曝け出した。

 

「オレを見つけてくれたあなたが好きです」

「焦って平手打ちするあなたが好きです」

「微笑んでるあなたが好きです」

「真剣な表情で手記を読む時のあなたが好きです」

「暑いのに鳥居の下でオレを待ってるあなたが好きです」

「麦茶の豆知識を披露してるあなたが好きです」

「塚本くんがホームページを見て唸ってたのを見て焦ってるあなたが好きです」

「大笑いしそうなのを我慢してるあなたが好きです」

「演舞の練習をしてるあなたが好きです」

「オレのために泣いて、叫んで、怒ってくれるあなたが好きです」

 

「そんなあなたの事が、好きです」

 

 だから、これは本当に残酷で、伊織さんに負けないくらい自分勝手なお願いだと思うけど。

 

「最後まで、あなたと一緒にいたい。野々原縁の意識が目覚めて、オレが消えるその直前まで、あなたと一緒に生きたいんです。──だめ、ですか?」

 

 伊織さんの腕が、オレを抱きしめる。

 互いに抱き合いながら、彼女は答えた。

 

「だめなんて──言えるわけ無いじゃない」

「うん」

「本当に、残酷な人なんだから」

「ごめん」

「謝らないで……もっと泣きたくなる」

「さっきたくさん好きって言った後に何だけど、泣いてる伊織さんは哀しくなるから困るな」

「あなたが好きだから泣くの、好きだから勝手に涙が出るの」

「──ありがとう。あなたに会えて本当に良かった」

「えぇ。私もよ、あなたと会えて──あなたを好きになれて良かった」

 

 そうやってお互いに想いを交換し合い、小さく笑って──オレ達は、最後の時まで一緒に居ると決めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それからの日々は、穏やかに過ぎて行った。

 配り終えたチラシをまた印刷して、七宮神社の周りや、全然違う町まで配った。

 SNSも炎上や身バレに気をつけながら、少しでも遠くの人にも来てもらえる様に更新した。

 もはや必要の無くなった書庫の手記整理も、最後までやり終えた。

 

 途中、塚本くんが来た時に伊織さんとの間に固い空気が流れた時は少し焦ったが、すぐに伊織さんから『あの日はありがとうございます。お陰で気づけました』と頭を下げて、事なきを得た。

 塚本くんにとってそれは想定外だった様で、面食らっていたが、すぐにオレ達の関係が変わったのを察して、小さく微笑みながら『こちらこそ、出過ぎた真似を謝罪します』と謝った。

 

 あの二人の間に何があったのか、気にならないと言えば嘘になるが、殊更知る必要も無いと思ってる。

 塚本くんは後でこっそり『何があったか気にならないんですか?』と尋ねてきたが、『何もかも知れば良いワケでも無い』と断った。

 その時、彼は今まで見せた事も無い、形容し難い表情でオレをしばらく凝視したが、程なく『そう言うのも、アリですね』と返すのみだった。

 

 オレの方はどうかと言えば、不思議とあの夜からは、突発的に記憶が忘却する事は無くなった。

 その代わり、徐々に──しかし確実に、自分の存在が塵の様に薄くなっていく感覚が強くなっていった。

 恐らく、渚達が帰ってくる頃にはもう、オレと言う存在は野々原縁の中に溶けて消えているだろう。

 

 前触れもなくふっと消えるのと、日々自分が消える感覚を自覚するのと、どちらが残酷かと言えば判断が難しい所だが、最後まで伊織さんを伊織さんだと分かって、オレがオレだと分かったまま消える事が出来るなら、オレはそっちの方が良かった。

 

 すっきり出来る事を尽くして、オレは最後の日を迎えた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 けたたましく鳴り響くセミの声。

 

 それを全身に浴びながら、オレは境内の外れにある、ちょこんと伸びている、人一人座れる程度の大きさの石に腰掛けていた。

 普段使っていたベンチは、屋台の人が荷物置き場に使って座れないからだ。

 

 時刻は18時を過ぎていて、夜が顔を覗かせている。

 だが真夏の太陽は沈んでもなお、その面影を大きく残してオレたちの頭上にまだ若干の青空を残していた。

 

 騒がしいのはセミだけじゃない。

 

 境内には屋台が並び、焼きそばとかお好み焼きとか、綿飴とかを買うお客がわいのわいのとはしゃいでるし、あちこちで子供も大人も関係なく、今この瞬間を惜しみなく楽しんでいる。

 

 祭り。

 祭りなのだ、今日は。

 

 七宮神社に老若男女が集まり、その誰もが笑顔を浮かべている。

 伊織さんが見たかった光景が、たった今現実になっていた。

 そんな喜ばしい瞬間を生み出す一助になれたことを、この先の『俺』は覚えていないだろうが、今この瞬間ここに居るオレは、絶対に忘れない。

 

「集客大成功でしたね」

 

 頭にヒーローのお面、両手にはたこ焼きと広島で作られるタイプのお好み焼きの容器、右手の中指には水ヨーヨーをぶら下げた塚本くんが満面の笑みで姿を見せた。

 ドン引きする程の祭りエンジョイフォームだが、着てる服はいつも通り──毎回違う──どっかの学生服だった。

 

「イヤそこまで楽しんでるなら浴衣着ようや!」

「ははは、元気そうで何よりです」

 

 そう言いながら、彼はオレの真横に立った。

 さっきまでのオレと同じ様に、祭りを楽しむ人達を見ながら、話を続ける。

 

「……今日で、君とこうやって会話できるのも最後ですか」

「ん──そうだな。寂しいか?」

「えぇ、とっても」

 

 意外に素直な答えが返ってきたから、驚いて彼の顔を見たら、塚本くんも同じ様にオレを見ていた。

 

「偶然とは言え、君とこうして出会って、過ごした時間は思ったより楽しかったです。それが今日で終わると思えば、寂しく無いと言える程淡白な人間性では無いですよ」

「難しい言い方するなよ」

 

 相変わらず、変な奴だなと笑いながら、オレも素直に言った。

 

「オレも寂しいよ、せっかく出来た友達とサヨナラするのは」

「友達? ……君とは出会って二週間もしないのに、そんな風に言ってくれて良いんですか?」

「お前が言ったんだろ? “時間は関係ない”って」

「……はは」

 

 “そうでしたね”と、彼は薄く微笑んだ。

 

「一つ、お願いしたい事があるんです」

「なんだ?」

「貴方のスマートフォンにある、“塚本千里との連絡履歴”を、全て消してください」

「分かった」

「理由は聞かないんですか?」

「どうせオレが消えたら、野々原縁にとっては謎の人物とのやり取りになって混乱するだろうし、良いよ」

 

 それに、と一度呼吸を置いてから、

 

「前も言ったろ? 何でもかんでも知れば良いワケじゃない」

「そう──そうでしたね、君はそんな哲学の持ち主でした」

「そんな立派なもんじゃないよ」

「……ですが、今回ばかりはそうも言えない。友達と言ってくれた君への、僅かばかりの誠意と思って聞いて欲しい」

 

 真剣な声色で、塚本くんは言った。

 

「塚本千里……君に言ったこの名前は、偽名です」

「……そうなのか」

「本当の名前は明かせませんが──実は日本の裏社会で凄く暗躍してる人達の一人なんですよ、驚きました?」

「いや、別に」

 

 むしろ、今まで感じてた不思議な人って感覚が間違ってないのが分かった。

 

「えー……もっとこう、ビビったり訝しんだりしないの?」

「急に口調変えた方に驚いたよ。あんな速読したりする人間が普通の人なワケないと思ってたし、妥当でしょ」

「うーん……千里塚インフォメーションの凄さをもっと伝えるべき? 嫌でもあまり話し過ぎてもし少しでも記憶に残ったら……七罪位は言ってもワンチャン?」

「おーい、すっかり自分の世界に篭ってキャラ崩壊起こすな」

 

 脛を軽く小突いてこっちの世界に戻した。

 

「ん──失礼しました」

 

 軽く咳払いをして、塚本くん(仮称)は話を続ける。

 

「とにかく、一般人が今後も千里塚インフォメーションとコネクションを持ってたら、回り回って君──と言うより、野々原縁氏が困るかも知れませんからね」

「オッケー」

 

 そう返事して、自分のスマートフォンから彼との通話やSMSの履歴を消していった。その後、消した証拠を見せると、次に彼はこう言った。

 

「ありがとうございます。お礼と言ったら何ですが──一つだけ、貴方の知りたい事を何でも教えてあげますよ」

「え、急に言われてもなぁ……」

「そう言わずに。ただで七罪の力を使える機会なんて今後無いですよ」

「その“ナナツミ”とやらがよく分からないんだが……うーん、そうだなぁ」

 

 国家機密でも何でもどうぞ、と自信たっぷりに息巻いてるが、どうせ何を知ったところで持ち越せないならなぁ……。

 少しだけ考えて、良い考えを思いついた。

 

「それじゃあ、一つ頼めるか?」

「はい、何でしょう」

「オレが消えて、野々原縁が目覚めてからさ……アイツが大変な事になったら、助けてくれないか」

「……さっきの言葉、忘れましたか?」

「まぁそう言わずに、な。オレの記憶やら何やら引き継いでるせいか、野々原縁も大概苦労人だからさ。頼むよ」

 

 そう言いながら、久しぶりにお願いポーズを取る。

 塚本くんは少しだけ考える素振りを見せた後、観念する様に小さくため息をついた。

 

「分かりました、これから先野々原縁さんに何かあれば、力になると約束します」

「ありがとう、無理言って悪い」

「構いませんよ……まぁ、野々原縁さんとは君みたいにソリが合うか分かりませんけど」

「くくっ、メチャクチャ嫌われそうだな、君って距離感の取り方とか雰囲気とか変わってるから」

「確かに。君みたいな歯に衣着せぬ性格な人じゃ無いと駄目かもですね」

「自覚してるなら治そうや」

「嫌です」

「だめだこりゃ」

 

 そう言ってお互い笑い合う。

 

「……さて、そろそろ帰ります」

「そっか……早いね」

「仕事があるのでね。口惜しいですが、七宮さんによろしくお伝えください」

「じゃあしょうがないか……分かった」

「それじゃあ、今生の別れです。さようなら、頸城縁さん。もう一度言うけど、君と過ごした時間は楽しかった」

「あぁ、さようなら塚本千里くん」

 

 そう言って互いに別れを告げた後、彼はゆったりとした足取りで、祭りを楽しむ人達の中に消えて行った。

 

 

「──縁くん」

 

 後ろから優しく語りかけてくる声。

 誰の声かなんて、考えるまでもない。

 確かな確信を持って振り返ると、期待を裏切る事なく彼女──七宮伊織がいた。

 

 見慣れた巫女服も、今日はいつもよりずっと気品高く、清純に見える。

 

「塚本くんがさっきまでいたよ、よろしくだって」

「そう……もう帰ったの?」

「仕事あるってさ。タイミング悪い」

「もしかしたら、気を遣ってくれたのかも」

 

 その可能性は考えていなかった。

 本当に、最後まで読めない奴だったな。彼は。

 

「──今更だけど、アイツって男なんだよな」

「……さぁ?」

 

 もしかしたら、これをアイツに聞けば良かったか? 

 そんな些細な疑問を浮かばせて、すぐに消し飛ばす。

 ここからは、伊織さんとの時間に集中しよう。

 

「演舞は何時からだっけ?」

「七時半よ。だから……」

「今からざっと、一時間くらいは一緒に遊べるって事だ」

「ええ。そうね」

 

 そう言いながら朗らかに笑みを浮かべる。つられてオレも笑顔になる。

 

「それじゃあ、行こっか」

 

 手を差し伸べると、彼女はまだ気恥ずかしそうにしながらも、手を握ってくれた。

 

「行きましょう、縁くん」

「うん」

 

 そう言って、オレ達は二人で賑わう人々の中に混じっていく。

 これからの一時間が、オレにとって彼女と過ごす最後のひと時になる。

 だから悔いのないように、たとえこの身体から記憶が消えても、世界にオレと彼女が過ごした時を刻むため、最高の一時間にしようと決めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──すっかり、静かになったね」

「えぇ。祭りの後の静寂ってちょっと寂しいのね」

 

 時刻は九時過ぎ。もう祭りも終わり、人々はそれぞれの家に帰って行った。

 オレと伊織さんは、一番多く共に時間を過ごした書庫の中で、部屋の隅に腰掛けながら祭りの余韻に浸っていた。

 

「──それにしても、伊織さんがあんなに型抜き上手いとは思わなかった」

「ふふっ。集中してやる事が得意なのかも」

 

 型抜きの中で一番難しいのに挑戦したら、オレはものの数分でリタイアしたのに対して、伊織さんは見事にクリアしてみせた。

 周りで見ていた人達よりも、店主が一番驚いてたのが面白かった。

 

「あなたも、輪投げであんなに決めるなんて。私より倍は点数取ってた」

「オレも驚いたよ。……でもまぁ、景品譲ったのは惜しかったかな」

「もう、まだ言うんだから」

「冗談ですよ」

 

 型抜きで負けたが、輪投げは子どもの頃に瑠衣と何度も遊んでた経験を活かして、伊織さんよりダブルスコア以上点数を獲得して見せた。

 だが景品のぬいぐるみは隣でやってた女の子が狙ってた様で、オレがゲットしたのを見て泣き出してしまい、伊織さんが譲ってあげてと言うので渡した、

 惜しい気持ちもあったが、渡した時に満面の笑みでお礼を言われたので、悪い気はしない。

 

 それ以外にも、塚本くんもやってた水ヨーヨーに挑戦してお互いに獲得数ゼロで終わったり、輪投げのリベンジと伊織さんが息巻いた射的やダーツでしのぎを削りあったり、どっちの方が運が良いかの勝負でおみくじを買って爆死したり──とにかく、時間の許す限り屋台を回った。

 途中、SNSの情報から来てくれた人が伊織さんに声を掛けて、隣にいるオレを指して“恋人同士なの? ”と聞く人達が居たり、熱心な神社愛好家がいつか資料を見せて欲しいとお願いしたり、予想外の出来事もあった。

 

 そして奉納演舞では、七宮神社の巫女として、伊織さんが見事な演舞を観客全員に披露し、大きな拍手を生んだ。

 

 どこまでも楽しく、笑顔に満ちた時間だった。

 その最後を、こうして伊織さんと二人きりで締め括る事が出来る。

 本当に……本当に、これがオレの最後の時間で良かったと思う。

 

「──どう?」

「もう、だいぶ薄いです……軽いって言った方が合ってるのかな?」

「──そう」

 

 意識はハッキリしているが、まるで寝落ちする直前の様な、ふとした拍子に消えてしまいそうな感覚がある。

 どうやら、ここまでの様だ。

 

「伊織さん──手を繋いでて良いかな」

「もちろん……はい」

 

 オレが差し出した右手を、伊織さんが左手で優しく握る。

 指と指を絡めて、ぎゅっと強く握り合う。

 握り合う手から、お互いの熱と、存在を感じ合う。

 ──それだけでもう、二人とも充分すぎる程に幸せだった。

 

「──ねぇ、伊織さん?」

「なに?」

「──ありがとう」

「……うん、私こそありがとう。大好きよ」

 

 そう言って、お互いに笑い合い。

 ──オレは、瞼を閉じた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……ん、あれ?」

 

 若干の肌寒さで目が覚めた。

 瞼を閉じてた時はもちろんだが、目を覚ましても、辺りは真っ暗だった。

 それもそのはず、俺は人気の無い空間の中に一人、ポツンとベンチに座ってたのだから。

 

 季節は夏真っ盛りとは言え、流石に夜になれば少しは肌寒さも感じるものだ。

 スマートフォンで時刻を確認すると、とっくに夜の十時を迎えていた。

 それにしたって、何だって俺はこんなとこで一人寝てたんだろうか。

 確か今日は、先日から手伝いをしてた神社の祭りがあって、それで……。

 

「──ヨスガさん?」

 

 不意に、声を掛けられた。

 ちょっと驚きつつも声のした方へ顔を向けると、そこに居たのは、

 

「あぁ、七宮さん。こんばんは」

 

 この神社の巫女、七宮さんがいた。

 

「すみません、こんな遅い時間に。なんか疲れて寝ちゃってたみたいで」

「気にしないでください、ヨスガさんも連日手伝って頂いて、疲れが溜まってたんだと思います」

 

 そう言って気遣ってくれるのは、ありがたいが、普通に深夜に差し掛かる時間帯まで寝てたのは、我ながら恥ずかしい。

 確かに、ここ数日は特に祭りの準備に忙しくて、睡眠時間も足りなかったかもしれないが……まさか終わった頃に寝落ちするとは。

 

「まだまだ夏とは言え、風邪を引かない様に気をつけてくださいね」

「はい、それじゃあ目も覚めたんで、帰りますね」

 

 気恥ずかしさを誤魔化す様に頭を軽く掻きながら、俺は踵を返そうとした。──その矢先、

 

「……ヨスガさん? どうしました?」

「──え、あれ?」

 

 不意に、俺の目から涙が溢れた。

 目に何か入ったワケじゃ無い。悲しくなったわけでもない。目だけが勝手に悲しんでるかの様に、理由の分からない涙が溢れ続ける。

 

「──すみません、起きたばかりで、なんか急に涙出てきちゃいました、ははは」

「……いえ、気にしないでください」

 

 腕で涙を拭い、無理やり泣き止ませる。

 そうして、俺は見苦しいものを見せたお詫びに小さく頭を下げて、今度こそ踵を返した。

 

「──ヨスガさん!」

 

 後ろから、七宮さんの呼び止める声がする。

 すぐに足を止めて振り返ると、七宮さんは数瞬間を置いた後に、にこやかに言った。

 

「──何かあったら、相談に来てください。祭りを手伝ってくれたお礼です」

 

 それは助かる。今後渚や綾瀬の事で困った事があったら、相談に乗ってもらうのも……いやダメだな、むしろ修羅場が加速しかねない。

 渚達以外の事で何か起きたら……例えば、悠の事でとか、とにかく修羅場と縁のない案件の時に、また訪ねてみるのも良いだろう。

 

「はい! その時は是非、お世話になります。……それじゃあ!」

 

 そう言って、お互いに笑顔で小さく手を振りながら、七宮さんは社務所に、俺は住み慣れた我が家に、それぞれ別々の目的地へと足を運んでいった。

 渚は明日帰ってくる。

 久しぶりに再開する家族との時間を心待ちにして、俺は急いで自転車を走らせたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 野々原縁が長い石段を降りて、自転車に乗り帰宅してくのを、少し離れた木陰の中から一人の人間──塚本千里と自称し、呼称されていた者は見ていた。

 歩き方や振る舞いなど、僅かな違いから、既にあの肉体は本来の持ち主である野々原縁によって動かされている事を、塚本は察した。

 

「──彼はまた、野々原縁の中に溶けましたか」

 

 誰に言うでもなく、一人そう呟く。

 そして、今から二十四時間前に、七宮伊織と交わした会話を思い出した。

 

『彼の記憶を捏造する?』

『はい、私が術式で、彼がこの約二週間、ずっと神社の祭りを手伝って来たという記憶を彼に埋め込みます』

 

 それが、野々原縁が目覚めても急な環境の変化に混乱させずに済ませる方法だと彼女は言った。

 縁はそれに反対しなかったと言う。信頼する彼女に全てを委ねたらしい。

 

『でも、それじゃあ永遠にあなたが苦しい思いをするだけですね』

『いえ……私も、彼が眠りに付いたら、同じ術式を自分に掛けるつもりです』

『──っ、忘れるつもりですか?』

 

 確かに、想い人と同じ顔と声の人を前に、平然を装うのは厳しいだろう。

 しかし、かと言った完全に記憶から消してしまうのは如何なものか。そう言おうとしたが、先にそれを伊織は制して話を続けた。

 

『違います。私は彼と過ごした時間を無かった事にはしません。……でも、これから先彼と過ごした時を思い続けて生きるのも、きっと無理です。いつか我慢が出来なくなった、私は自分の命を断つと思います』

『──では、どう言う意味です』

『この二週間の記憶を、私の心と思い出を──神に捧げます。でもそれは、ただ捧げるんじゃ無いです。もう一つ、記憶を捏造する以外に彼に掛かる術式の“代償”として、この私を捧げるんです』

『それはどんな術式か、聞いても?』

 

 伊織は頷き、まるで子を愛しむ母の様な表情で縁を想いながら、こう言った。

 

『──これから先、彼が死に瀕した時、神の守護が与えられる……神より人を選んだ私が、唯一神の御力を頂くには、供物に“今の私”を捧げるより他は無いんです』

 

 たとえ二度と彼が伊織を愛する事が無かろうと、かつて自分を愛した彼──厳密には、彼の心と記憶を取り込んだ野々原縁のために、頸城縁と過ごした自分を捧げる。

 それは、常人では到底なし得ない狂気の沙汰だ。

 しかし、それを否定できる人間なんてこの世に誰一人居ないだろう。

 ──それ程まで、七宮伊織の頸城縁へ向けた愛は深く、重く、尊い物なのだから。

 

 

「……最早、全ての真相を知るのは、一人だけと言うわけですか」

 

 きっと七宮伊織も、今はもう今日までの日々を忘却して、野々原縁に対して何か強い感情を懐く事は無いのだろう。

 あの二人の間にあった時間を、断片的にとは言え分かっているのは、この世界で塚本千里ただ一人になってしまった。

 

「これを、報告しなければ、ですが」

 

 そう言って、手に持った携帯端末──その画面に書かれた文字を見る。

 

『報告書・対象者、野々原縁』

 

 塚本千里──数時間前、頸城縁に告白した通り、日本の裏社会で大きな影響力を持つ『千里塚インフォメーション』の人間であるこの人物は、この日ただ一つだけ、頸城縁に嘘をついた。

 

 塚本千里は、偶然頸城縁に出会った。

 しかし、塚本が頸城縁の住む街に来たのは、決して慰安旅行や気まぐれの類では無い。

 仕事──野々原縁の調査のためだったのだ。

 

 今年の五月、突如彼は今までの行動パターンから逸脱した動きを取り、友人の綾小路悠の力を最大限に活かして、綾小路咲夜の家系に従属する、彼の通う学園の校長を退任に追い込んだ。

 これにより、咲夜の父方──綾小路本家の人間から、事態の経緯と原因の究明、そしてキーマンである野々原縁の調査依頼が、千里塚インフォメーションに来た。

 そのため、塚本は縁のいる町に来ていたのだが──、

 

「まさか、そこでターゲットに会うだけじゃなく、一緒に過ごして、しかもとんでもない秘密まで知っちゃうなんて、ね」

 

 彼と過ごした僅かな時間を思い出し、クックっと笑う。

 まさかターゲットと思ってた人間が、別の人格になってるなんて思いもしなかった、と。

 本当に、本当に、面白い時間だった。

 

 そんな彼に友達と言われた事も、本当に嬉しかった。

 

「──だから、約束は守りますよ、ヨスガさん」

 

 今後、野々原縁の身に、彼の力だけでは到底解決し得ない事が起きた時、力になる。

 それが、彼と最後に交わした、友達との約束だ。

 

「それに、あの二人の思い出を、無造作に知られるのは……面白く無いですからね」

 

 そう言って端末を操作し、塚本は提出しようとした報告書の中から、事前に記述していた内容の一部──頸城縁の存在と、この約二週間の日々を、削除した。

 

 これは、『野々原縁の報告書』には関係無い。

 塚本が共に過ごしたのは、頸城縁だったのだから。

 屁理屈なのは分かってる。千里塚の人間として相応しく無い行為なのも承知の上。

 

 全て分かった上で、塚本は報告書を提出し──その後、端末を地面に落として、足で粉々に打ち砕いた。

 

 これで、塚本の端末からも頸城縁と、友達と過ごした履歴は消滅した。

 

 彼の生きた証は、永遠に自分の海馬の中にのみ残る。

 彼が最後、伊織とどんな時を過ごしたのかまでは分からないが、それは別に問題では無かった。

 “何でもかんでも知れば良いワケじゃない”。彼と彼女の末期だけは、永遠に二人のみが知る世界であれば良い。

 

「だからそれ以外の全ては──ちゃんと覚え続けていくからね、頸城縁さん」

 

 そう言って、塚本は闇の中に消えて行った。

 

 これは、一夏の幻。

 これは、確かに在った恋の残滓。

 

 そして──これは、野々原縁()の知らない物語。

 

 

 

 END.




番外編、君の知らない物語 これにて終わりです。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

第二章は既に終わってますが、この番外編をもって、真の意味で第二章は終わったと、書き終えた今は感じています。

詳しい後書きは、活動報告にてさせていただきましたので、良ければそちらも見ていただければと思います。

ここまで読んでいただき、お気に入りや評価などもいただき、誠にありがとうございました。

まだこの作品、もう少し続くので、今後ともよろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章 河本綾瀬編
第1病 エンドロール


感想、評価、お気に入りありがとうございます。
低速更新にも関わらず、嬉しい限りです。

第3章 河本綾瀬編、始まります。



 俺、野々原縁には、目下のところ悩みが2つある。

 

 一つ目の悩みは、目の前に長々と続く花壇の植え替えだ。

 園芸部の活動の一環として、園芸部は先日から2班に分かれて花壇の植え替えをしてるが、これが数の多いこと多いこと。

 枯れてしまった草花を袋に詰めて、用意した新しい種や球根を植える単純な作業だが、いかんせん、敷地が広いので大変さもひとしおだ。

 言ってしまえば、校舎内の清掃活動にもなっているので落ちた木の葉をかき集めるとか、低い姿勢で作業する時間が多い。

 まさかこの年でぎっくり腰とか笑えないので、万が一でも腰をやってしまわない様に気をつけている。

 

「お兄ちゃん、そっちは終わった?」

 

 俺と同じく額にうっすら汗をかきながら言ったのは、妹の渚。

 今日は俺と渚ともう1人で動いてる。渚は昔から家の草むしりとか花の世話とかやってたので、俺よりずっと手際が良い。

 たまに出てくる虫にも動揺しないどころか、ミミズなら軍手越しとは言え平気で触るから、我ながら頼りになる妹だと思うばかりだ。

 

「もうすぐ終わるよ、そっちは?」

「終わったよ。向こうの花壇に行くね」

「分かった、すぐに追いつくよ」

「うん」

 

 今年の5月末に、“女の子が多い所”に行く俺を追いかける形で入部した渚。

 ヤンデレCDの“野々原渚”、“河本綾瀬”、“柏木園子”が勢揃いするという状況に、最初はどうなるのかとだいぶ胃を痛めたものだが、10月も半ばに差し掛かる現在、渚はとても協力的に活動してくれてる。

 

「それに比べて……」

 

 一区切り着いて一息つく以上の息を吐きながら、俺は少し離れた所にいる奴を見る。

 学生が昼休みや放課後に席を囲み談話するために設置された丸テーブルの椅子に、そいつは悠々と足を組みながら佇んでいる。

 俺が視線を向けるのに気づいたそいつは、これ見よがしに使いの者に注がせた紅茶を飲んでほくそ笑んでいる。

 明確な挑発行為に、思わず我慢の尾が切れた。

 

「うぉい咲夜嬢! そろそろお前も動けよ!」

 

 これこそが目下の所俺を悩ませている二つ目の悩み──新入部員の綾小路咲夜である。

 

「──ふっ。い・や・よ」

 

 紅茶を一飲みした後、映画『ティファニーに朝食を』のオードリー・ヘプバーンの様なポーズで不敵に言い放った。非常にイラつくが、容姿が淡麗なので普通に似合ってるのが悔しい。

 先月、俺と学園や園芸部、そして親友の悠を巡って大きく対立した後に、紆余曲折を経て園芸部の新人になったワケだが……。

 この女、丸くなったかと思えば──いや思った事なんて一瞬も無いが、とにかく従来通りの唯我独尊ぶりを遺憾なく発揮している。

 

「そんな汚れ仕事、私がやるワケ無いじゃない」

「歴とした園芸部の活動だぞ、お前も部員の端くれなら──」

「知らないわよそんなの、庶民のアンタが頑張りなさい」

「〜〜っ、ならせめてその支給係とこれ見よがしにティータイムするのを止めろ! 英国貴族かぶれかお前は!」

「なんですって! 訂正しなさい、アタシはかぶれじゃなくて正真正銘の貴族よ!」

 

 英国かぶれ、の所は否定しなくて良いのか。そんなツッコミが口から出そうになるのを抑える。

 

「──もう、諦めようよお兄ちゃん。何言っても意味ないと思う」

 

 渚が諦観した表情で俺を宥める。

 もう既に渚は、咲夜が戦力になる可能性を切り捨てたらしい。

 

「渚、そうは言うがな」

「元々2人も3人も変わらない仕事量だし、その分私が頑張るから、一緒に残りもやっていこ、ね?」

 

 我が妹ながらなんと出来た子だ。秋桜の様に可愛い笑顔を見せながら言う渚に心を癒される。

 本当、これでヤンデレCDのヒロインだって分かってなけりゃ、心の底からシスコンになれそうな物なのになぁ……。

 

「アンタの妹はまだ分別が付いてる様ね、見習いなさいよ」

「匙投げてるんだよ、都合よく解釈するな」

 

 妹の尊厳のために訂正をして、俺も渚の後を追いかける。

 今日はもう、2人でやるしか無いと腹を括った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──あの2人、大丈夫かな」

 

 もう一つの班で動いていた河本綾瀬は、跳ねっ返りの咲夜と組んでしまった野々原兄妹──厳密には兄の縁の方──を心配しながら呟いた。

 

「断言する、まず絶対にアレはサボってる。今頃給仕係にカモミールティーでも注がせて呑気にしてるよ」

 

 にべもなく断言したのは、縁の親友であり、咲夜と同じ綾小路の性を持つ悠夜。学園では悠と名乗っている。

 普段は温厚で誰に対しても丁寧な彼だが、咲夜を前にした時だけは“アレ”とまで辛辣な態度になる。

 そうなるのは今日が初めてでは無いが、綾瀬ともう一人この場にいる、園芸部部長の柏木園子はやはりまだ馴れなかった。

 

「相変わらず、咲夜さんに対しては辛辣なんですね、悠さんは」

「悠君とあの子って、いとこ同士なんだっけ?」

 

 知り合ってからずっと綾小路呼びだったが、咲夜が入部した事で苗字呼びが被った結果、悠から名前で呼ぶ様に話が決まっている。

 親しいから自然な距離感の縮め方と言えるが、同時に、他人からの呼ばれ方でさえ同じなのが嫌だ、という嫌悪の表現とも受け取れる。

 案の定、園子や綾瀬から関係性を尋ねられた悠は、口元に付いた土を軍手の甲で拭いながら苦々しく答えた。

 

「まあ、以前も話した通りそうだよ。本当に、一番歳の近い親戚がアレって運が悪いよ」

「まぁ、かなり強烈よね。ここに転校してからずっと」

「それでも、縁に全校生徒の前で大恥かかされてからは少しマシになったんだよ」

「え、あれで!?」

「そう。昔から一族が集まる時に歳が近いからいつもアイツの相手を任されてたけど、アイツは本当にワガママだし文句しか言わないし頑固だし──はぁ……」

 

 深々とため息を漏らしながら、悠は植え替え作業を進める。

 心なしか、雑草をむしり取る手つきが乱暴になっている気もしたが、綾瀬はあえて触れない事にした。

 

「結構苦労してたのね、悠くんも」

「悠さんは、咲夜さんとだけ仲が悪いんですか? 他のいとこやご親戚の話は聞きませんが」

 

 意外にも園子が一歩踏み入った話を持ってきた。

 曲がりなりにも、5月まで間接的に綾小路家の被害を受けたはずの園子が、綾小路家の人間関係について聞いてくるのは驚きだ。

 一瞬間に入って話を止めようかとも思ったが、悠が特に困った様子を見せないのと、綾瀬や縁なら遠慮して聞こうとはしない話題なので、悪い気もするが敢えて聴きに徹した。

 

「うーん……まぁ、殊更相性が悪いのは咲夜だけかな。でも……」

 

 そう言って一旦手を止めて、思い出す様に秋空を見上げてから、悠はやはり苦笑を園子に見せつつ言った。

 

「綾小路家全体が、僕は苦手かな。誰もが誰も嫌な人ってワケじゃ無いけど……皆、何処かしら特化しておかしいから」

「そう、ですか……」

「普段は優しいけど、自分の携わる業界の発展に生じる犠牲は躊躇しない人。笑顔で陽気に接するけど、人の裏側まで覗き込んで来る様な人。……正直、こんな事言うの癪だけど咲夜が一番相手してて楽かも」

 

 悠が見て来た、自分の同じ綾小路の血を持つ人間達。

 その誰もが自分には無い、しかし欲しいとは思わない“何か”を持っていた。

 

「僕がこの町に来てから、ずっと名前を“悠”って言ってたよね」

「そうね……あの子(咲夜)がサラッと悠夜って呼んだ時は人違いかと思った」

「僕や咲夜だけじゃなく、僕らの世代は皆、名前に“夜”が付くんだ。この町には一族の政治闘争が嫌で逃げて来たって理由があるけど、その時に色々リセットしたくてね。この町では綾小路家の象徴みたいな“夜”って文字を名前から消したかったんだ」

 

 結局、それも意味無くなったけど。

 そう自嘲しながら、悠は作業の手を再開する。

 その顔は先程までの苦々しいものではなく、恥ずかしさから来る赤面に変わっていた。

 

「ごめんごめん、自分語りが過ぎた」

「いえ、聞いたのはこっちですから。ありがとうございました」

「ははは、面白い話では無いと思うけどね」

 

 2人のやりとりを聴きながら、綾瀬は思う。

 彼の人間性に一番近しいのが咲夜であり、その咲夜が同じ学園の同じ部室に居ると言うのも、因果な物だと。

 もっとも、そうなる様に事を動かしたのは悠でも咲夜でもなく、縁なのだが。

 

「話が逸れたけど、何が言いたいのかって言うと、咲夜が今日も部室に来たってだけでも、信じられないレベルって事」

「確かに……一応毎日部室に来てますし、目立った問題行動なども無いですね」

 

 9月末、縁の大立ち回りで全生徒の前まで園芸部入部と、査問委員会の廃会を強制的に決められた時以降、咲夜は理不尽に周りに害を与える様な事は無くなった。

 高飛車な態度で他人を見下す言動こそ変わらないが、査問委員会を動かしてた時の様な、独裁者然とした雰囲気は消えている。

 

「部長、サボってる時点でもう十分過ぎる程問題部員です」

「ま、まぁ……まだサボりとは分からないわけですから」

「……もう、部長はアイツに甘過ぎですよ……」

 

 ため息を吐いてから、悠は過去語りで止まってた分を取り戻そうと作業に没頭し始めた。

 代わりに、綾瀬がふと気になった事を園子に尋ねた。

 

「そう言えば、よく入部させたわよね」

「え、咲夜さんをですか?」

「そ。だってほら、園芸部がそもそも廃部されそうになったの、あの子の家の都合だったワケでしょ? ……私ならちょっと、いや絶対無理って思うから」

「うーん、確かにそうかもですね……」

 

 まるで他人事の様な反応だったから、思わず植え替え中の低い姿勢のまま、前のめりに倒れてしまいそうになる綾瀬。

 

「そうかもって、気にならなかったの?」

「……気にならない、と言えば嘘になりますけど」

 

 そう言いうと、少しだけ考える間を置いてから、言葉を続けた。

 

「あの子が直接何かしたワケじゃ無いから、その点について責めるのは悪いと思ってます」

「でも、査問委員会なんて立ち上げて潰そうとしてたのよ? それも水に流せるの?」

「流石にあの時は困りましたけど……結局、それも無かった事になりましたから。何よりも」

「何よりも?」

「──縁君に、全校生徒の前で恥ずかしい想いされてますから、それ以上何かを言うのは、可哀想かな……と」

 

 苦笑しながら、園子は言った。

 綾瀬はそんな園子につられて同じ様に引き気味に笑う。

 

「あー……そうかも、ね」

 

 縁が園芸部と親友を守るためにやった事は、身内として見れば勇気ある頼もしい行為だったが、やられた側からすれば最悪を通り越して悪魔の所業だろう。

 それを持ち出されてしまえば、確かにもうこれ以上周りが言える言葉は無いかもしれない。

 

「それに……縁君が『入部させたい』と言うなら、どんな人でも私は反対しないです」

「──信頼してるのね、縁の事」

「はい、もちろんです」

 

 先ほどとは異なる、満面の笑顔で応える園子。

 縁を心から信頼し、彼の言葉なら何だって信用する。

 自分とは形の違う、しかし強固な繋がりがあるからこそ見せる笑顔だった。

 

 そんな園子の笑顔を見て、僅かだが心の中にチクリとした痛みを覚える綾瀬。

 その痛みから目を逸らしながら、綾瀬は手作業と会話を続けた。

 

「しっかし、廃部寸前だった園芸部も、中等部の一年生が入って本格的に安泰って感じよね」

「はい。これも縁君が頑張ってくれたお陰です。……本当に、良かった」

「──っ、そうね」

 

 思いを馳せるような目をする園子の横顔を見て、またも胸に小さな痛みを感じる。

 何故、こんな些細な会話で自分が引っ掛かりを覚えてしまうのか、綾瀬は自分に問いかけるが、答えを返してくれる存在などいるわけもない。

 

「──でも、私は綾瀬さんにも感謝してるんですよ?」

「え?」

 

 園子から投げられた予想外の発言に、綾瀬は一瞬固まってしまう。

 すぐに気恥ずかしさから照れ笑いを浮かべて誤魔化すが、そんな綾瀬の反応を特に茶化す事もせず、園子は話を続ける。

 

「あの日、綾瀬さんは私に園芸部室へ来るように言ってくれましたが、私には行く勇気が無かったんです」

 

 そんな綾瀬とは逆に、園子はまるで昨日の出来事の様にツラツラと言う。

 

「縁君が私のために凄く準備してくれていたのは分かっていたけど、それでも校長先生や早川さん達を前に立つのは、怖かったんです」

「まぁ、そうよね……」

 

 自分を追い詰めようとした学園の長と、誤解からとは言え自分を虐めていた人物らと、正面から立ち向かう事を求められては恐れが前に出るのも仕方ない。

 仮に縁が万全の策を講じていたとしても、最後は自分に委ねられているのなら、躊躇いが生じても誰だって責められない。

 

 事実、縁も当時は園子が来ない場合のパターンB(バッドエンド)……園子の害となる人物達の退学という最悪の手段を用意していたくらいだ。

 全てがうまくいった今だからこそ言えるが、当時はかなりギリギリの所で話が進んでいたのだ。

 

「そんな私の背中をぐっと押してくれたのが、綾瀬さんだったんですよ?」

「そ、そんな事言ったっけ私?」

「そうですよ!」

 

 まるで自分の事のように、心外だと言わんばかりに力みながら園子は言った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──はぁ……」

 

 “あの日”の放課後。

 園子は教室の席で一人、自分の人生で大きな分岐点となり得る選択を前に、どうすべきか決めかねていた。

 

『柏木、お前に最後に一つ確認したい事がある』

 

 その日の朝、園子は縁にこう問われた。

 

『お前は、早坂たちの事を恨んでいるのか?』

 

 なんて、難しい事を聞くのだとその時は思った。

 恨んでいるかいないか、そんな風に問われれば、恨みがあるに決まっている。

 自分が彼女達にされた仕打ちを思えば、当然の事だ。

 

 しかし、その行動の原因を掘り下げれば、自分が真実を伝えなかった事も大きい。

 言えば園芸部を潰される、そう脅されていたからこそ、園子は真実を早川達に言えず、だからこそ早川達は自分を悪だと決めつけてきた。

 どちらかがもう少し歩み寄れば、相手を信じれば違う道があったかもしれないが、そうはならなかった。

 

 四面楚歌、万事休す、そんな八方塞がりな意味の言葉ばかりが似合う自分に手を差し伸べてくれたのが、野々原縁だった。

 とは言え、前述の通り彼女には最後の一歩──真実を知った彼女達と、和解しようとする勇気が無かった。

 

 しかし、自分は彼の問いかけに対して“まだ自分は彼女達とやり直したいと思う気持ちがある”と答えた。

 答えたのならば、それが本心だとするならば、やはり自分は早く校長室へ向かわないと行けない。

 

『お前が『解消』ではなく、『解決』を望むとするなら、どうすればいいか、どうしたいのか、自分で考えて決めてくれ』

 

 なんて残酷な事を言うんだ。そう思った。

 だけど、縁の言葉はかつて真実を言わなかったために苦しむ事になった自分に、深く刺さる言葉でもあった。

 

 勇気を振り絞って、かつて友人だった早川達とやり直したい気持ち。

 その“振り絞る勇気”を振り絞るに至らない、弱い自分。

 

 何をすべきか分かっていながら、それが出来ない自分にどうしようも無い気持ちを抱きそうになったその時、彼女──河本綾瀬は現れた。

 

「居た! ──ふぅ、どうにか見つけたわね!」

 

 教室の扉をガラッと力強く開けて、教壇側から自分を見やる綾瀬に、園子はたじろぐ。

 しかし、綾瀬は持ち前の明るさがなす技か、普段通りの調子でスタスタと園子の前の席に腰掛けて、上半身だけ園子を向ける。

 

「あなた、柏木さんで合ってる?」

「は、はい……そうですが、あなたは」

 

 園子は何度か、縁の隣にいる綾瀬の姿を見た事はあった。

 しかし、名前も分からなければ、彼女がここにくる理由も見当がつかない。

 

「私、河本って言うの。縁の友達、よろしくね」

「は、はい……」

 

 瞬時に来訪者の意図を察して、園子の頬が強張る。

 そんな園子の顔を見て、綾瀬は顔の前で手をひらひらとジェスチャーしつつ言う。

 

「あぁ、違うの。無理矢理あなたを連れて行こうとか、そんな事考えてないからね」

「……そうなんですか?」

「うんうん。イヤイヤ引っ張っても、意味無いから」

「じゃあ、あなたは──」

 

 どうして、ここに来たの? 

 そう言葉を続けようとした園子に覆い被さるようにして、

 

「見ておきたかったの、縁が助けようと躍起になってる人がどんなのか」

 

 園子の机の上に肘をつき、じっと見つめながら言った。

 その視線につい顔を伏せてしまう園子。

 そんな様子を見て綾瀬は内心──、

 

(うーん、ダメかも)

 

 身も蓋もない事を考えていた。

 

(縁には“本人にその気がありそうなら、連れてきて欲しい”って頼まれたけど……この子、一生ここでウジウジしてそう)

 

 正直これは無駄足だったかもしれない、と綾瀬は早くも諦めの域に達しようとしている。

 どんなに準備をしていようとも、本人にその気が無ければ居ない方がマシという状況は多くある。今回はまさにそのパターンに当てはまってるんじゃないだろうか。

 

(──とは言っても、すぐ諦めるってわけにもいかないのよね)

 

 どのような意図があるかは分からないが、縁は既に園子と面識がある悠ではなく、自分を園子の引率役に選んだ。

 園芸部と園子の件について、悠が縁の力として大きな活躍をしているのに対して、幼なじみである自分はほとんど役に立ってない事を、綾瀬は内心気にしている。

 そんな中、白羽の矢が立ったのだ。

 自分を頼ってくれた縁をガッカリさせたくはない。

 

(……とはいえ、怖がらせる様な事言ったのは私の方なのよね)

 

 事前に持っている情報から、園子が初対面の人間に対して非常に臆してしまう事は容易に予想出来ていた。

 それにもかかわらず、綾瀬は先程の様な品定めする鋭い視線を園子に向けてしまった。

 案の定、園子は自分から目を逸らしてしまい、一回り小さくなった様な錯覚さえ覚えてしまう程萎縮している。

 これでは逆効果だ。

 

(うーん……やっぱり全然割り切れてないかも)

 

 妹の渚を除いて、今まで自分以外の異性と親しい関係になった事がない縁が、最近急激に距離感を縮めている人物。

 それが、綾瀬が園子に抱く1番大きな印象だ。

 これまで渚と自分、更に言えば渚は家族なのだから当たり前だとして、実質彼が異性へ向けるリソースの全てを独占していたのだ。

 明確に付き合ってこそいないが、綾瀬にとって面白いはずが無い。

 

 例えそれが、いじめから助けたいからと言う理由であろうとも……、縁の目が自分以外に向くのに、平気なわけがなかった。

 

「あ、あの」

 

 そんな綾瀬の思考に、園子の言葉が割って入ってきた。

 

「ん、なに?」

「その……えっと、野々原さんは今、早坂さん達と何をしてるんでしょうか」

「何って……」

 

(アンタのために時間を使ってるんでしょう? そんな事聞くまでもないじゃない)

 

 そう言い返したくなる気持ちをぎゅっと抑えて、綾瀬は努めて平常心を保ちつつ答える。

 

「園芸部室に居るわよ。何のためかは、分かってるでしょ?」

「……はい」

 

 抑えたそばからまた、責める様な口調になってしまう。

 ダメだと分かってはいても、どうしても攻撃的な口調が顔を覗かせてしまう事に、綾瀬自身も内心困惑し始めた。

 

(──私、こんなに自分の事抑えられない性格だったっけ?)

 

 “縁の期待に応えたい”という理性と、“園子への仄かな嫉妬心”という感情。2つの相反するモノが相互に顔を出しては、綾瀬の心を揺り動かす。

 こんな具合では到底、縁が全てを終わらせてしまう前に園子を連れて行くなんて無理だ。

 園子では無く、自分自身に原因がある事に否応なく気付かされる。

 

「野々原さんは、どうして私なんかを助けようとするんでしょうか」

 

 綾瀬から視線を外しつつ、園子は言う。

 

「嫌って意味じゃないんです。だけど、分からなくて……彼に聞いても、はぐらかすだけですし」

「……園芸部を助けようとしたの迷惑だった?」

「──そんなわけないです!」

 

 綾瀬が放った言葉に、ガタッ! と机から身を乗り出して園子は言った。

 先程まで自分から逸らしていた目は、しっかりと自身を見据えている。否定するとして、もう少し静かな反応をしてくると予想してた綾瀬は、園子の行動に少し驚いた。

 直後、自分の行動に恥ずかしさを覚えて、園子はまたおずおずと椅子に座り直す。

 

「そんな風に大きな声出せるんだ、あなた」

「す、すみません……つい」

「ううん、謝らないで。その方が私も話しやすいし」

 

 ほんの些細なきっかけだったが。

 園子が分厚い氷の中からようやく、生の感情を見せてきた事で、綾瀬の中でも本腰を入れて対話しようと言う気持ちが芽生え始める。

 

「話を戻しましょう。嫌じゃないなら何で、あなたは縁の行動が気になるの?」

「……彼が私に何か企んでるとか、そう言う事は無いと思ってます。でも、私は彼と今まで何の接点もなかったし、過去に接点もありません」

「うん……そうよね」

「はい。だから……私を助ける理由が彼には無いんです。なのに、彼は早坂さん達だけじゃなく、大人にも……自分が損するだけなのに」

 

 自分のために動いてくれる事は嬉しいが、そうしてくれるに足る過程が、理由が、過去が、関わりが無い。

 

(あー……そっか、この子。怖いんだ)

 

 ずっと負の感情に人生を振り回されていた園子は、次第に心を閉ざしてしまい、いつしかその痛みに慣れてしまっていた。

 その閉ざされた心の壁を壊して、突如手を差し伸べてきたのが縁だ。

 しかし、暗闇の中に篭り続けていた園子にとって、縁の差し伸べた手の先にある光は、あまりにも強過ぎる。

 例えそれが彼女に一切の害意を含まないモノだと分かっていても……彼女にとっては未知なる恐怖に映ってるのだろう。

 

 詰まるところ。

 園子が今もこうして踏ん切りが付かないでいる最後の理由は、縁の混ざりっ気のない純粋な善意に、園子が戸惑っているからだった。

 

(縁ったら、カッコつけすぎなのよ)

 

 内心でそうため息を吐きながら、綾瀬は園子の言葉を反芻する。

 

 “どうして、縁は園子(自分)を助けようとするのか”

 奇しくも同じ疑問を、綾瀬は先日縁にぶつけた事がある。

 園子ははぐらかされた様だが、綾瀬はハッキリと答えを返された。

 

 放課後の保健室で、気恥ずかしさからやや頬を赤らめつつ、幼なじみは言った。

 

『──それはな、綾瀬がいたからなんだ』

『俺と綾瀬が初めて会った日の事、覚えてるか? 通学路の途中にある、いつも通る公園にある桜の樹の陰で、いじめられていた俺を、綾瀬が助けてくれたのが、俺達の出会いの始まりだったよな?』

『今の俺を動かしているのは、綾瀬が見ず知らずの人を助けてくれる姿を見せてくれたからなんだ』

 

(──縁がこの子を助けようとする理由、知ってる筈なのに、何やってるんだろ)

 

 園子が悩む理由を知り、縁の言葉を思い出し、先程までの自分の行動を振り返る。

 縁が綾瀬に園子を託した理由。それは、2人が初めて出会ったあの日の様に、綾瀬が園子に手を差し伸べてくれる事を信じていたからではないか。

 

 縁は、自分の中にある綾瀬への憧れと尊敬から、園子のために頑張ろうとしている。

 しかし、言わば始まりとも言える綾瀬自身が先程からしている事は、縁やかつての綾瀬からはかけ離れた行動ばかり。

 

(なんか、ダサいな私)

 

 綾瀬は、自分のやっている事が猛烈に恥ずかしくなり、その恥が猛烈な勢いで自身への怒りへと変わっていった。

 

「……河本さん? どうしました?」

 

 すっかり沈黙してしまった綾瀬に、あたふたし始める園子。

 そんな様子を視界に収めながら、綾瀬は決意する。

 

「──決めたわ」

 

 スッと立ち上がり、鋭い眼差しになる。

 

「あ、あの……?」

 

 ひょっとして、自分は聞いちゃいけない事を質問してしまったのだろうか。そんな園子の焦りを意に介さずに、

 

「柏木さん、あなたを無理矢理連れて行く事はしないって言ったけど」

「は、はい」

「それ、撤回するから」

「え、えぇ!? ──きゃっ!」

 

 唐突に園子の手を握り、無理やり立ち上がらせて歩き出した。

 引っ張られる姿勢のまま園子は抵抗する間も無く、どうにか転ばない様に歩を進めるので精一杯という状態だ。

 

「ちょ、ちょっと待って──」

「待たない」

 

 途中何度も転びそうになる園子の事を気にせず、スタスタと廊下を歩く綾瀬。

 途中、まだ帰宅してない生徒達が、すれ違う度に何事かと2人をチラ見する。

 

「も──もう! まってください!」

 

 そんな視線にも遂に耐えかねて、園子は無理やり足を止めた。

 今度は逆に綾瀬が後ろに倒れそうになったが、なんとか体勢を整える。

 

「何なんですか一体! 私はまだ行くとは」

「教えてあげる」

 

 園子の抗議の声も聞かず、綾瀬が言う。

 

「縁が何であなたを助けようとしてるか、気になるんでしょ?」

「それは、確かにそう言いましたけど、今は──」

「理由なんて無いのよ」

「──はい?」

 

 あまりにも突拍子の無い答えに、思わず園子は返す言葉を失ってしまう。

 そんな様子を面白そうに小さく笑いながら、綾瀬は更に続ける。

 

「縁が助けるのは、単に彼がそうしたいからってだけ。その後あなたから何か取ろうとか、何かして欲しいとか、そんなの何も考えてないわよ」

「そんな……そんな理由で」

「そう言う性格なのよ。……なってたのよ、いつの間にか」

「……」

 

 一瞬、縁の事を語る綾瀬の顔に先程までと毛色の違う感情を見た園子だったが、それが何なのか分かるより早く、綾瀬は言った。

 

「だから、あなたに身を持って教えてあげる。縁があなたのためにたくさん準備したハッピーエンドがどんなものか。私は横にずっと居たってだけだけど、あなたがいないだけで全部台無しになるなんて、そんなの許さないから」

「ゆ、許さないって……」

 

 気がつけば脅迫じみた事まで言われている。

 さっきまでとは別の意味で不安を感じ始める園子だったが、

 

「お願い、彼を信じて」

 

 園子の両手をぎゅっと握り、目をじっと見つめながら言う綾瀬。

 

「もし、この後校長室に行って、あなたの納得出来ない結果に終わったら、私の事好きな様にして良いから。殴っても蹴っても、あなたが今まで早坂さんにされた事をそのまましても良い。なんなら、私を殺して校舎の花壇に埋めても構わない」

「な、何言ってるんですか河本さん! 冗談でもやめてください!」

「私は本気よ」

 

 振り払おうとする園子の手を、絶対に離すまいと両手で握り続ける綾瀬。

 常軌を逸した発言ばかりする綾瀬に、園子はどうしても聞きたくなった。

 

「どうして──どうしてそんな事を本気で言えるんですか?」

 

 綾瀬の答えは即答だった。

 

「信じてるからよ、()を……私の幼なじみを、心からね」

 

 自信たっぷりな言葉と顔に、園子は思う。

 自分の事を信じるだけでも難しいのに、目の前の河本という同級生は、他人である筈の野々原縁を心から信じている。

 それがどれだけ自分にとって眩しい在り方であるか。

 

「わたしにも……河本さんの様に、自信を持って何かを言えるだけの事があれば、きっとこんな風にうじうじと悩む事もなかったんでしょうか」

「柏木さんには、何もないの? 自信を持って言える事」

「……無いから、こうやって野々原さんや河本さんに迷惑かけてるんじゃ無いですか」

 

(──あぁ、もしかしたら、私は)

 

 園子が先日縁にはっきり助けてと言っておいて。未だに決心がつかない本当の理由。

 単に自分に無いものを持ってる彼への、つまらない八つ当たりだったのかもしれない。

 

「──私、そうは感じないけど」

 

 瞬間、園子の心の片隅から産まれかけた、黒く澱んだ考えが掻き消えた。

 

「それは、どういう」

「だって柏木さん、さっき教室で凄い大きな声で言ったじゃない。“縁が園芸部や自分を助けようとしてくれたのは迷惑じゃ無い”って」

「……」

「それって、柏木さんの中にハッキリと“園芸部を守りたい”って意思があるからじゃ無いの?」

「──っ!」

「なら、それをハッキリいえば良いのよ。柏木さんが胸の内に暖めて大事にしてた思い、校長室にいる奴らにぶち撒けちゃいましょ?」

 

 まるで簡単な事だと言わんばかりに、ウインクしながら綾瀬は言う。

 園芸部を守りたい。

 それは言われるでも無い、柏木園子の確かな本心。

 綾瀬の言葉通り、それだけは絶対に譲れない確固たる意思だ。

 

「……良いんですか、そんな事して」

 

 今までの生き方には全く無い──自分の願いのためだけに動く事の是非を、まるで親の顔を伺う子の様に園子は綾瀬に問う。

 それに対し綾瀬は──、

 

「そんなの、当たり前じゃない」

 

 そう、笑顔でカラカラと応えた。

 

「……」

 

 何かが外れる音が、園子の中に響く。

 それはもしかすれば、最後まで残っていた躊躇いという心の枷が外れる音かもしれない。

 

「──河本さん、手を離してください」

「でも、まだ──」

「一人で、歩きますから」

 

 そう答える園子の顔は、教室からここにくるまで見せていた枯れかけの萎びれた花の様な物ではなく、今にも満開を迎えようとする生き生きとした物だった。

 

「──そう、分かったわ」

 

 その顔を見て、綾瀬も満足気に手を離す。

 

(──なんか、少し似てるかも)

 

 決意を固めた園子の顔が、何処となく、同じ様な場面でみせる縁のそれと重なる。

 

(──もしかしたら、そういうのも理由だったかもね)

 

 教室で1人、うじうじしている園子。

 公園で1人、泣きながらされるがままだった縁。

 居ても立っても居られず、無理やり動き出したのは今も昔も同じ。

 

 ならば、自分は園子にかつての縁を見ていたのかもしれない。妙に心がざわついたのは嫉妬だけではなく──。

 

「ふふっ、変なの」

「──え、何がですか?」

 

 園芸部室までの廊下を横に並んで歩く綾瀬に、園子が訊ねる。

 綾瀬はその問いには答えず、代わりに、

 

「ねぇ、柏木さん。あなたが全部うまくいったら、後で私たち友達にならない?」

「ぇ、ええ?」

「私、名前は綾瀬っていうの。だから全部終わったらそう呼んでね。私も柏木さんの事は園子って呼ぶから」

「ちょ、ちょっと待ってください、そんな急に」

「良いから良いから、さっほら園芸部室目の前よ、気を引き締めて!」

「も、もう──分かりました」

 

 否応なしに話を進めて、無理矢理距離感を詰めてくる。

 こういう所は野々原縁と似ているなぁ、そう思いながら園子は決意を固めて、園芸部室の扉に手を伸ばしていった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──あの時の綾瀬さんの言葉があるから、最後の一線を踏み越えられたんです。本当にありがとうございます」

「ふぅん、あの日の裏側ではそんな事起きてたんだね。河本さんも結構やるねー?」

「も、もうからかわないでよ。そんなの別に今更お礼言われる事でもないでしょ!」

 

 思いもしない話の展開に、薄く赤面しながら綾瀬は言う。

 

「他の話しましょ、他の話。ほら、手も止まってるわよ2人して!」

 

 はぐらかす様に言う綾瀬を見て、2人もそれ以上かつての綾瀬について何か言う事はやめた。

 その代わりに、綾瀬の望み通り“他の話”を、悠が持ち出す。

 

「そう言えば今更だけど、君と縁は幼なじみだよね」

「えぇ、そうだけど?」

「出会ったきっかけって覚えてるかな?」

「あ、それは私も気になります」

「えぇ、また私の話? ……まぁ良いけど」

 

 他の話になっても結局自分の話題なのかと思いつつも、綾瀬は端的に縁との出会いを話した。

 

「──じゃあ、縁君は綾瀬さんの様になりたくて、私を助けてくれたんですね!」

 

 目をぱちくりと開かせながら、園子が言う。

 悠も発言こそしないが、何か納得した様に頷いている。

 

「そんな事は、まぁ……言われたけど、私も」

「やっぱり。と言うことは、つまり……」

 

 一度そこで言葉を止めて、園子は自分の軍手を外した。

 何をするつもりなのかと見ていた綾瀬の手を、園子がぎゅっと握る。

 

「私が今、皆さんと楽しく過ごせているのは、本当に綾瀬さんのお陰なんですね」

 

 少し気恥ずかしそうに、しかしハッキリと綾瀬の目を見ながら、笑顔の園子が言った。

 

「ありがとうございます」

「……」

 

 その、余りにもまっすぐな笑顔に、綾瀬はしばしの間呆然とする以外の機能を失った。

 

「──も、もう! さっきからやめてよ。私は別にそんなつもりないし」

「そんな事──」

「ああもうほら、私軍手のままなのに握るから汚れてるじゃない! 手洗って、ね?」

「……ふふ、分かりました」

 

 早口で捲し立てる綾瀬だが、照れ隠しで言ってるのだと分かり、園子は柔らかく微笑んで一度その場を離れて近場の水飲み場へと向かった。

 

「思いがけない攻撃だったね」

 

 残った悠が、作業をしながら呟いた。

 綾瀬は先程までの恥ずかしさを払拭させる様に、少し語勢を強くしながら悠を見て言った。

 

「悠君も変な事言うのやめてよ!」

「変な事じゃ無いでしょ?」

「だけど、私はあんな風に言われる様な──」

「謙遜しなくて良いさ。君が居なきゃあの時部長が来る事は無かったんだ。縁や僕ばっかり槍玉に上がるけど、部長にとっては君だって充分すぎる程、恩人なんだよ」

 

 こちらを見ずに、淡々と述べる悠。

 

「……だから、そんなんじゃ無いんだってば」

 

 吐き捨てる様に漏らした言葉は、秋の夕焼けの中で密かに溶け、誰の耳にも入る事が無かった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「そういえば、アンタと河本綾瀬って幼なじみなのよね」

 

 相変わらず作業に参加しない咲夜が、さりとて紅茶を飲み耽るのにも飽きたのか、絶賛作業中である俺の真横に並び立ってそんな事を言い出した。

 

「……急にどうした」

「聞かれた事に答えなさい、どうなのよ」

「はぁ……まぁ、そうだけど。なんでそんな事聞くんだよ」

「付き合ってるわけじゃ無いの?」

「──ブッ!」

「ちょっと、汚いじゃない!」

「ゲホ、うぇ……」

 

 爆弾発言をサラリと投げて来た。お陰で唾液を気管支に吸い込んでしまい、思い切りむせてしまう。

 ひとしきり咳き込んだ後、俺は手を止めて咲夜に言った。

 

「付き合ってねえよ! 何でそんな疑問湧くんだ!」

「だって、前までかなり仲良かったじゃないアンタ達。アレで付き合ってないと思う方が無理あると思うわよ」

「──っ」

 

 咲夜の返した言葉に対して、返す言葉に窮してしまう。

 続く発現がどんなものか察してしまったから、尚更だ。

 

「最近アンタ達、側から見ても全然話さないから、くだらない喧嘩でもしてるかと思ったのに、付き合ってないのね」

「……そうだよ」

 

 やはりだ。

 となれば、この後に来る言葉だってもう予想がつく。

 

「じゃあ、何でアンタ達最近疎遠なのよ」

 

 考えない様にしてた事を、変なタイミングで向き合わされてしまう。

 咲夜の言う通り。綾瀬とは以前保健室で交わした会話を最後に、めっきり会話の量が減ってしまったままだ。

 その場には俺と綾瀬、それに渚がいて……間違いなく渚がかけた言葉がきっかけになってると思うが……それを事細かく咲夜に言う気にはならない。

 と言うか、大元を辿れば咲夜が査問委員会なんて物を立ち上げて俺達に脅迫なんてしなければ、何も無かったんだ。

 それを完全に他人事のスタンスで聞いてくるんだから、本当にこの後輩は……。

 

「な、何よ……そんな恨みがましい目で見て」

「──はぁ、何でもない」

 

 やめよう。咲夜とはあの日、全校生徒の前で決着をつけたのだから。

 咲夜のした事について報復をしない代わりに、咲夜の目論見を止めさせた。自分から手打ちの話を持ち出したのに、今更俺から文句を言うのは筋違いだろう。

 

「……何よ、煮え切らないわね。結局なんでアンタ達は仲悪くなってるのよ、やっぱり本当は付き合ってて別れたとか──」

「2人はただの幼なじみですよ、お兄ちゃんもそう言いましたよね?」

 

 再度降りかかりそうになった咲夜の追求を、いつの間にか俺達の間に入ってきた渚が止めた。

 

「綾小路さん、2人はただの幼なじみで友達なの。普通の距離感で接してるだけなの」

「何でコイツじゃなくアンタが答えるのよ、アタシはコイツに」

「はい、良いから良いから。もう集合時間近いから部室に戻りましょう?」

「きゃっ! 無理矢理引っ張らないで──やだっ軍手のままじゃない! 離して……1人で歩けるったら!」

 

 咲夜の発言を待たずに、腕を掴んで無理矢理校舎まで戻っていく渚。咲夜は有無も言わせない渚について行くのでいっぱいいっぱいになり、俺に対する追求などすっかり頭の隅に追いやられてしまった。

 

「お兄ちゃんも、そろそろ行こう!」

「あー……うん、ここ終わったらな」

「先に待ってるからね!」

 

 キラキラした笑顔で言う渚だが、それが純粋にただの笑顔だと思う奴は、この場には誰も居なかった。

 

 

「〜〜もう、土臭いの取れないじゃない……」

 

 ぶつくさと文句を垂れる咲夜と、素知らぬ顔の渚と一緒に部室に戻ると、先に園子達のグループが戻っていた。

 

「お疲れ様です、進捗はどうでした?」

「ノルマ分は終わったよ。この調子なら明日の30分くらいで終わりそう。そっちは?」

「私達は……ちょっとまだかかりそうです」

「あれ、意外。もう終わったのだとばかり」

「あはは……」

 

 俺達と違ってサボる奴が居ない組み合わせだから、てっきり今日で終わったのだとばかり思ってた。

 まあ、明日俺達が終わったらその足で手伝えば良いか。そう納得したが、横の咲夜はここぞとばかりに悠へイチャモンを投げ掛ける。

 

「アンタ、ブツクサとくだらない世間話でもしてたんじゃないの?」

「……うるさいなぁ、そういう君はどうせ何もしないで漬物石みたいになってたんだろ」

「ツケモノイシって何よ!」

 

 またいつもの口論が始まった……のだが、気のせいだろうか、悠の歯切れが悪かった。

 見ると、園子や綾瀬も若干バツが悪そうに苦笑いしている。

 え、もしかして本当に喋ってて進まなかったの? 黙々と頑張ってたの俺と渚の兄妹だけ? 

 

 まぁ、良いけどさ。ただちょっと意外なだけで。

 

「アタシはそこに居るってだけで意味があるのよ、アタシ達の方が進捗は上だったんだから、文句言う前に反省する事ね!」

 

 いや、お前が誇らしげに言う資格は無いだろ。

 なんて口出しすれば、更に話がこじれるのは目に見えて明らかなので黙っておく。藪蛇はごめんだ。

 

「……ふん、縁に弱みを握られて敗北したクセに」

「な、何ですって──!」

 

 せっかく俺が黙ってても、悠が更に焚き付けるような発言をするせいで咲夜の怒りが臨界点を迎えそうになっている。

 流石にこれ以上2人の口喧嘩を静観するわけにもいかない、そう思った矢先に動いたのは綾瀬だった。

 

「はい、2人ともそこまで。私達がお喋りしすぎたのは本当なんだし、これ以上はもうやめましょ、ね?」

 

 間に立って、咲夜は悠を押し留める。

 ならば俺は咲夜担当だ。

 

「そうそう。もう咲夜の情報はデータごと消してるから気にするな。中身も覚えちゃいないから」

 

 俺と綾瀬が互いに綾小路を宥め、園子はそんな様子をどことなく楽しんでるように眺めて、渚は小さくため息をこぼす。

 そうしてようやっと場が静まり、俺達は下校の校内放送とチャイムが鳴るまでの残り時間を、いつもの通り雑談で潰す事にした。

 

「……そう言えば、今更だけど」

 

 明日の予定やら、勉強や教師への愚痴などある程度話題を出し尽くしてから、咲夜が俺に言った。

 

「あの情報って、アンタどうやって集めたのよ」

「あ、それは僕も確かに気になるな。探偵でも雇ったのかい?」

「あー……あれな」

 

 そういえば、まだちゃんと話していなかった。

 少し前まで、俺の前に現れては心を掻き乱す発言を繰り返した挙句、最後の最後に決め手となった、神出鬼没の男について。

 

「変な奴……もうホントに変な奴が居てさ。そいつが情報屋だって言うから頼んだら一晩でかき集めてくれた」

「……情報屋? 名前は分かるかな」

「塚本とか、千里塚とか名乗ってたけど……何なんだろうな」

 

『千里塚!?』

 

 その名前を出した途端、悠だけじゃなく咲夜も……普段いがみ合ってる綾小路家の2人が初めて息を揃えて驚愕の声を発した。

 

「お、おう……そうだよ?」

「千里塚、確かにそう言ったのか?」

「だからそうだってば……え何、有名どころなの?」

「有名……まぁ、そう言えばそうね」

 

 いまいち要領を得ない咲夜の言葉に頭を傾げていると、そんな事よりもと言う勢いで悠が詰め寄ってきた。

 

「良いかい縁、君が言ったその千里塚と言うのは──ああもう、こんな言い方したく無いけど、“庶民”が生きてて絶対縁が生まれる存在では無いんだ。僕ら綾小路家や──えっと」

「政界や裏社会に関わるクラスの人間達しか関わらない、アンタみたいに平和にのほほんとしてる奴が出会うはずないのよ」

「──まぁ、言葉遣いは悪いけど、言いたい事はそう」

 

 成る程、言いたい事はだいたい伝わった。とは言えだ。

 

「あいつ、ハッキリそう言ってたんだよな。千里塚インフォメーションって。嘘なのかなあれ」

「……マジかい?」

「マジよ」

 

 俺がそう返事すると、悠と咲夜は顔を寄せ合って、ひそひそと何かを相談し始めた。

 

「どう思う?」

「絶対に千里塚を騙った偽物よ。前にも亜桜や紅蓮宮の偽物が出たじゃない。どうせその類よ」

「だけど千里塚は諜報がメイン、戦闘力で誤魔化せる他の七罪とは話が違うよ」

「じゃあ本物の千里塚が本当にアイツに接触したって言いたいの? そっちの方があり得ないじゃない」

「それは、確かに……」

 

「おーい、もう話は良いか? ならそろそろ帰る用意を」

「待ちなさい!」

「なんだよ……」

「金はどうしたの、本当にせよ偽物にせよ、依頼料が無いわけないでしょ?」

「あぁ、それは……前にお前からもらった小切手を」

 

 そう返すと、咲夜はやや思い出すための間を置いた。

 

「……8月に、アンタと初めて会った日のアレ?」

「そう、アレ」

「……やっぱり、偽物で確定ね。千里塚があんなハシタ金で動くはず無いもの」

「そう言う物なのか? 本当、お前ら2人の会話についていけないから分からないが」

「そうなの! ……でもそれはそれでムカつくわね、偽者のくせにアタシの個人情報全部バレるなんて、何よそれ……」

 

 よく分からないままだが、どうやら咲夜は本人なりに話の落とし所を見つけたらしい。

 悠もまだかなり引っかかる所がある表情をしているが、とにかくそれ以上追求してくる事は無かった。

 園子や渚も俺と同じ様にポカンとした表情だし、綾瀬は──、

 

「……」

 

 綾瀬だけは、部室の窓を見つめて……敢えて会話に意識を向けない様な、硬い面持ちでいた。

 それがどこか寂しげな雰囲気でもあったから、今までなら『どうした?』と気楽に声をかけたのだが……最近の俺達の距離感でそれを実行するのは、難しかった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「それじゃあ、待ってるねお兄ちゃん」

「またね、みんな」

「……はぁ、さっさとシャワー浴びたい」

 

 下校の時間になり、三者三様の言葉と共に部員達が帰路につく。俺は部室の鍵を返却するため、園子は部の日報を顧問の幹本先生に提出するために、職員室に寄ってから帰る。

 渚はそんな俺を校門の前で待ち、綾瀬は……教室に忘れ物があるとかで、一度戻って行った。

 

「そう言えばさ、3人でなんの話ししてたのさ」

「え! ……言わなきゃダメです、か?」

「言いたくないなら構わないよ、それはそれとして気になっちゃうけど」

「そう言うわけでは……」

「じゃあ気になるなあ」

「分かりました、でも、恥ずかしくなったりしないでくださいよ?」

 

 そう前置きをしてから、園子は何を話してたかを教えてくれた……のだけど。

 

「あー……俺と綾瀬がどうやって出会ったのかまで言ったのね、あの子ってば」

「ふふ、照れなくても良いですよ」

「そうは言うがさぁ……」

 

 昔の自分を全然園子には話していないので、預かり知らぬ場所で語られると言うのはこう、どうも、もどかしい。

 

「綾瀬も明け透けに話すなよー……恥ずかしいなぁもう」

「恥ずかしいなんて、そんな事思う必要無いです」

 

 羞恥心に埋もれそうな俺に、凛とした口調で園子が言う。

 

「どんな過去や経緯があっても、縁君や悠さん、綾瀬さん達が私を助けてくれたのは事実です。それに、今もこうやって皆さんと楽しく部活動が出来てるんだから……もっと誇りに思ってください」

 

 そう話す園子の表情は、窓から差し込む夕焼けより遥かに明るい。

 頸城縁(前世)の記憶や意識が目を覚ました直後は、彼女に対して恐れの方が多かったが、今はもう彼女から凶行に至るヤンデレの雰囲気は微塵も感じられない。

 それは俺だけじゃなく、皆の力で今の時間を作ったのだと、園子自身が思っているからだ。“ヤンデレCD”の様に1人の力で園子を助けていたら、きっとこうはならなかった。

 

「……まぁ、なら良かった」

「はい、良いんです」

 

 綾瀬との溝は残ったが、今この現状は、そこまで悲観的になる物でもないのだと、心から思った。

 

 職員室について、要件をつつがなく終えた俺達だが、帰る前に園子に言っておかなきゃいけない事が1つある。

 

「──この前の、お礼がしたい?」

「そ」

 

 咲夜と対決する前日、ワザと咲夜に土下座して頭を踏まれた際に、コッソリ園子にはその光景を隠し撮りして貰っていた。

 結局、その映像も使う機会が無かったが……嫌な役をお願いした事には変わりない。

 

「まだ、その時の礼をしてないからさ。なんでも言ってくれ、死ぬ以外は善処するから」

「変な事言わないでください。……でも、何でも良いんですか?」

「ああ、二言は無い。言ってくれ」

 

 ──この時、俺はひょっとしたら気が緩んでいたのかもしれない。

 たとえ、園子からヤンデレの雰囲気が無かったとしても。

 “女の子から何でも言う事を聞く”なんて行為がどれだけ危険なのかを、全く考えないなんて。

 

「それじゃあ──」

 

 何をしてもらおうか、逡巡する園子。

 僅かな間を思考に巡らし、最後に出した答えは、これから始まる怒涛なる日々の幕開けとなる物だった。

 

「──私と、付き合ってくれませんか?」




感想お待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2病 デートじゃない!

ゴールデンウィークは執筆ウィーク!
ステイホームに適した趣味を持ってて助かりました


『──私と、付き合ってくれませんか?』

 

 “やってしまった”

 それが、園子の言葉を脳が認識した瞬間に俺が思った言葉だ。

 “地雷を踏まない”──それが、俺が前世の記憶を思い出してからずっと心に決めていたルールだった。

 渚に綾瀬、もちろん園子も……自分の周りにいる女子がみんなこぞってヤンデレの素質を持ち、一度病めば他者を害する事だって厭わない。その凶刃は俺自身にも向けられる。

 そんな未来を避けるためには、女子達との関係を上手に築く必要があった。とりわけ、誰かとの“恋愛関係”だけは絶対に避けなきゃいけない。

 

 それを分かっていたはずなのに、何で今こんな展開になっている? 

 答えは明確で明瞭で、だからこそ言い逃れのしようが無い程暗愚。──俺が今の状況に慣れてしまったからに他ならない。

 本来なら絶対にあってはいけない……『何でも言う事を聞く』なんて発言を、軽い弾みで口に出したのは、もはや油断と慢心以外の何物でもない。

 

 ──ああくそ! 分かってる、分かってるさ! 本当にマジで完璧に油断してた、園子が俺に『付き合ってくれ』と発言する可能性を微塵も考慮していなかった! 

 久しぶりに、本当に久しぶりに心の底から焦っている。この前まで咲夜達相手に感じていた焦燥感や心労も大概だったが、“この手”のストレスは夏休み前に渚と喧嘩して以降で初めてだ。

 

 だから俺は思い出す必要があった。

 数ヶ月前までの自分はどう切り抜けて来たのかを。この状況を打開する為に必要な物をどの様にして見つけて来たのかを。

 

 ほんの僅かな逡巡の後、答えに行き着いた。

 明確な回答ではないが、俺はいつもこんな時にはその場の状況や、相手の発言をよく見直して、思い返して、吟味していた。

 そうして、幾つかある抜け道を見つけて、そこに駆け込む事で地雷を避けて来たのだ。

 ならば、今回もそうするべきだろう。慌てふためいて混乱するのはもう終わり。

 “もう終わり”なんて状況は、自分1人の狭い思考の中に篭ってるからこそ陥る考え方。落ち着いて考えればどうとでもなる事の方が多いのだから。

 

 ──そんなアップダウン激しい思考を、体感では数十秒、実際は5秒程の間で巡らせた俺が見つけた園子への返答はこれだった。

 

「──どこに?」

 

 惚けた答えにも見えるが、これは問題の無い答え。

 園子は『付き合ってくれ』と言った。青春真っ盛りな男子高校生としては『恋人になってくれ』という意味に捉える方が自然だろう。

 だけど、俺にはそんな純情少年完全感覚ドリーマーみたいな事を考える余生は無い。下手打って病ませりゃ死ぬかもしれん中を生きてる俺は、園子の言葉をこう捉えた。

 

『行きたい場所があるから、一緒に来て欲しい』

 

 こう思ったのには理由が3つある。

 1つは、単純に言葉をその様に読み取る事が出来るから。

 

 2つ目は、新しい施設や興味のある所があっても普段の園子を見るに1人で行ってみる様な性格では無いと思うから。

 これについては園子に限らずよくある話。大型のテーマパークとか、絶対行けば楽しいと分かるし興味もあるけど、1人で行くには足が重いのと同じだ。

 

 そして3つ目は、柏木園子と言う人間を振り返れば、例え俺が『何でも言って』と発言したからって、こんなタイミングで告白をする人間では無い事が明確だったから。

 

 これらの理由を持って『どこに?』と返した。

 正解なら健全に話が進む。誤った判断だったら最悪の展開に一歩近づくのだが──っ、

 

「はい! 実はこの前新しいショッピングモールが出来たんですが、私が好きなブランドの店があるんです。だけどその、ああ言う場所に1人で行くのが慣れてなくて、良ければ──縁君? どうしました?」

「いや、問題ない。ただ猛烈に自分が好きになっただけ」

「……はい?」

 

 五分五分……いや、7:3で3の方な賭けが的中して、思わず腕だけでガッツポーズを決める。

 園子にはだいぶ変な目で見られてしまったが、この際それはどうでもいい。

 慌てる必要は、無かった。何の問題もなかったのだ! それが分かっただけでもう今は充分過ぎる。

 

「それじゃあ、次の土曜日に駅前で集合……で良いですか?」

「うん、分かったよ。時間は何時からにしようか」

「午前中から動きたいですけど、どうです?」

「問題ない問題ない、なら10時とかは?」

「はい! それでお願いします」

「じゃあ、よろしく」

「はい、ではまた明日!」

 

 そう言って、園子は一足先に帰っていった。

 その姿を見送って、さぁ俺も待ってる渚の所に向かおうと決めたその時、ふと気付いた。

 

 いや、確かに恋愛関係とかそういう事にはならなかったけどさ。

 ……これ、見方によっては普通にデートじゃね? 

 

「──いやいやいや、いやいやいやいや」

 

 言葉に出して聴覚情報として脳にも認識させる事で、心と体に『これはデートではない』と言い聞かせる。

 だけど、土曜の午前から若い男女がわざわざ集まって出かけるって、そんなの誰がどう見ても、少なくとも俺がそういう事してる人見たらまずデートだって──

 

「いやいや! いや違うし! 違うから! そういうのじゃねぇから!!」

 

 否定しようとしても、すればする程、反発する様に自分の中で大きくなっていく言葉。

 

 “それ、デートじゃね? ”

 

「うおおおぉぉぉぉ……違うんだぁ……そんな意図は無いんだ……」

 

 膝をつき、頭を抱えて懊悩する。

 恋人とかの話じゃ無いのは良かった。明確な修羅場直行じゃ無いのも助かった。あくまでもこの前の礼で買い物につきそうだけ。

 でもそれを、渚や綾瀬が知ったらどう認識する!? 

 ほら、やっぱり側から見たらデートじゃね? 

 

「うっそ、俺とうとう、地雷踏んだ?」

 

 もう約束をしてしまった。自分から集合時間まで決めといてやっぱ無しなんて、それこそ人間的にアウトな行為。

 やるしかない、行くしか無いのだ。

 

 ……とは言っても、園子に礼をしたいのは本心だし、仮にデートと思われる可能性があるにしたって、あの場で無理だと断る事の方が厳しいと思う自分もいる。

 

「──しゃあない、よな」

 

 膝立ちから立ち上がり、制服に少しついた埃を手で払い落とす。

 やましい気持ちが無ければ良いのだ。これデートだと浮かれなければ良いのだ。誠実に過ごせば、決して修羅場なんて起こさない。

 

「ちゃんとやれよ、俺……こうなったらやり切るしかねえからな……ファイトー!」

 

 小声で言い聞かす様に呟いて、俺は何とか精神を安定させる事に成功した。

 直後、そんな俺を背後から撃ち抜く様に、

 

「──さっきから、何してるの?」

「おわああああああ!」

 

 もう帰ってるかと思った綾瀬の怪訝な声が俺を襲った。

 

「きゃ! な、なによ急に……」

「あ、綾瀬さん!? え、いつからいた?」

「綾瀬“さん”って……たった今だけど?」

「そ、そうですか……」

 

 どうやら園子との会話自体は聞かれなかったらしい。良かった。

 

「何安心してるのか分からないけど、さっきから1人で崩れ落ちたり立ち直ったり、見ててだいぶ不気味だけど……何してたの?」

 

 恥ずかしい姿はまるまる見られたらしい。最悪だ。

 

「ええとまぁ、さっきまでの挙動については見なかった事にして欲しい。てかそうしてください、お願いします」

 

 ただでさえ最近はろくにコミュニケーション取れてないのに、あんな所見られては半ば幼馴染関係終わったのでは? なんて思いつつ綾瀬に忘却を乞う。

 綾瀬もそんな俺の姿を見て何を思ったのかは窺い知れ無いが、取り敢えず『まぁ、いいけど……』と頷いてくれた。

 

「……」

「……っ」

 

 静寂が互いの周りを包む。

 ああそうです。何度も言うが、今の俺達の間には少し深くて割と高い壁がある様な感じだ。前の様な互いに自然と会話が生まれたり、沈黙してても気まずくない関係では無い。

 会話のネタが尽きてしまえば、当然、後に残るのは互いの沈黙。

 

「……あの、さ」

「じゃあ私、帰るから」

 

 先に口火を切ったのは俺だが、仕掛けたのは綾瀬の方が早かった。

 ふい、と俺から目を逸らして、別れの言葉と共に俺の左隣から通り過ぎようとする綾瀬。

 そんな綾瀬の姿を見て──このまま見送ったら最後、もう二度と綾瀬との関係を直すキッカケが訪れ無い様な、不吉な確信を覚えた。

 

「待って」

 

 そう短く告げて、綾瀬の左手首を掴む。

 大した力も込めてはいなかったが、綾瀬は抵抗する事も無く静かに立ち止まった。

 こちらを向き直す事はないまま、静かに言う。

 

「……何?」

 

 冷たい口調では無い、ニュートラルな雰囲気。

 綾瀬もきっと、俺と同じ気まずさを感じているに違いない。だからこそどうにか、“普通”を装っているんだろう。

 しかし、過去の俺達のやり取りを振り返れば間違いなく断絶を感じる声色だ。

 

 それを間近に浴びながらも、怯む事なく──この行動が地雷になる可能性を考慮した上で敢えて──俺は言った。

 

「い……一緒に帰ろうぜ。久しぶりに、さ」

 

 初めの言葉を噛んでしまったが、些細なミスだ。ミスの範疇に入らん。

 

「だめよ」

 

 即拒絶された。終わった。

 ああもうこれで綾瀬との関係も途絶確定か……そんな諦観に呑まれて掴んでいた手の力を緩めようとしたが、直前に綾瀬の言葉が続いた。

 

「渚ちゃんが……待ってるでしょ」

 

 待った。

 断る理由が俺自身じゃなく、渚が居る事だと言うのなら、まだ勝機はある。

 一緒に帰るだけの事に勝機もクソもないのは自分でも分かってるが、とにかく、俺と一緒に居たくないからってワケじゃねえだけで充分だ。幾らでもカバー出来る。

 

「そうだけど、別に3人で帰るのなんて初めてじゃないだろ?」

「でも……」

 

 とは言え、流石に躊躇う気持ちの方が大きいのが見て取れる。

 どうしたって、保健室の件が頭にチラつくのは仕方ない。

 出来るだけそこを避けて会話をしたかったけど、やっぱり無理だと判断。なら逆に敢えて切り出してみる事にした。

 

「この前渚に言われた事、気にしてると思うけど」

「っ!」

 

 後ろ姿がびくんと揺れる。

 そこには意識を向けずに、俺は言葉を続けた。

 

「一緒に帰る位、“幼なじみ”なら“普通”の範囲内だと思うんだ」

「──普通?」

「そう。家がご近所さんで、帰る方向が同じで、幼なじみのクラスメイトで、部活も同じ。なら一緒に帰るのだって、自然な流れじゃないか?」

 

 まだまだ、もう少しだけたたみかけろ。何なら少し誇張しても構わん。

 

「友達なら──っ」

 

 自分で発した言葉に何故かチクリと引っ掛かりを覚えたのを強引に無視して、言葉を続ける。

 

「友達なら、当然の範疇を超えてない。渚だって何も言わないよ」

 

 反面、心の中では色々思う事だらけなのは言うまでも無い。

 だけど、その分渚に溜まった不満は俺がサンドバッグになる位の覚悟はある。

 

「何か言ってきたら、俺が間に入るから……まぁ、完璧に止める自信は無いけど……だめかな?」

「……本当に良いの?」

「良いよ! もちろん!」

 

 綾瀬の口から『でも』とか『だけど』以外の言葉を引き出せた。最後のダメ押しとばかりに、力強く綾瀬の言葉に応える。

 ……これで『やっぱり一緒に帰らない』と言われたら、もう諦めるしかないけど。

 しかし幸いな事に、次に綾瀬の口から出た言葉は俺を意気消沈させる物でなかった。

 

「──分かった。じゃあ、一緒に帰りましょ」

「……っ、うん!」

「だからその、手……」

 

 おずおずと、ゆっくりとこちらを振り向いて──正確には俺の手を見て、

 

「そろそろ、離して?」

「ん? あぁ! ごめん!」

 

 綾瀬の手首を掴んだままだった。慌てて手を離すと、綾瀬は掴まれていた手首を僅かに見た後、改めて俺を見て言った。

 

「行きましょ、渚ちゃんが待ちくたびれちゃう」

「だな、渚は怒ると恐いんだ」

「──うん、知ってる」

 

 本人には絶対聞かせちゃならない会話を挟みつつ、俺達は足早に校舎を出て行った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──でね、私も驚いちゃって大きな声出したらクラスの人が皆こっち見て……恥ずかしかったぁ」

 

 帰り道。俺が綾瀬とも一緒に帰ろうと言うと、渚は文句の一つも言わずに了承した。

 何かしらのプチ修羅場は覚悟していた分、こうもあっさりと話が進むと拍子抜けだったが、何も起きない事が一番だ。

 

 今は、今日渚が4限の授業で起きた出来事を話している。

 どうやら、窓を開けていたらバッタが入ってきて渚の机に止まったらしい。

 家の家事一式を俺と半分こして切り盛りしてる渚だ、そんじょそこらの女子とは違って虫1匹程度で普通なら驚きはしないが、流石に不意打ちは話が別だろう。

 

「で、そのバッタどうした? 思わず潰した?」

「そんな事しないよ、私の声に驚いたのかな、すぐに飛んで外に出たんだ」

「そりゃ良かった、バッタのお腹には寄生虫が居るからな。もし潰したら渚の机に──」

「もう! そうやってワザと気持ち悪い事言うのやめて!」

「その机からジワジワと渚に近づいて、渚の毛穴から体内に──いてててっ! 耳引っ張るな!」

「お兄ちゃん? 私、やめてって言ったんだけど、聴こえなかったかなぁ?」

「聴こえてます! 千切れるから許して! ごめん!!」

「──もう、最初から言わなきゃ良いのに」

「すみませんでした」

 

 引っ張られた右耳をさすりながら、俺は渚に謝った。

 その間、綾瀬は終始無言だったが、

 

「大丈夫……?」

 

 控えめな声色で心配の声をかけてくれた。

 “ありがとう、大丈夫”そう返答しようと口を開いたが、それより先に、綾瀬が会話に混ざるのを待ってたと言わんばかりに渚が言った。

 

「綾瀬さん、お兄ちゃんってからよく学校の出来事は聞いてますけど、何か変な事してませんか?」

「えっと……そうね、縁は……」

 

 急に話を振られた綾瀬はたじろいで、俺をちらちら見つつ答えた。

 

「そこまで、変な事はして無いかな。強いて言うなら……」

「強いて言うなら?」

「最近ちょっと、ため息こぼす所が増えたかも」

「ため息? ……そうですか」

 

 正直、結構驚いた。

 最近の綾瀬とは疎遠になっていたから、渚に最近の俺の姿を聞かれたって答えられないと思っていたから。

 むしろ、渚はもしかしたらそうやって俺との距離感の断絶を、綾瀬に自覚させようとすらしてたかもしれない。

 それに対して、綾瀬が口にしたのはまさに最近の俺に当てはまるモノだった。

 

 ため息の原因は、言うまでも無く綾瀬との事。

 自分としてはそこまで自覚は無かったけど、増えたと言及する位に、綾瀬は俺を見ていたのだ。

 ……そっか、俺が綾瀬を気にしてたのと同じ様に、綾瀬もまだ、そうか。

 少しだけ、安心した。

 

「お兄ちゃん、ため息なんてどうしたの? あまりため息こぼすと幸せが薄くなるってお母さん言ってたよ?」

 

 渚が会話の矛先を俺に向け直した。

 流石に“綾瀬との事で悩んでた”と明け透けに言うわけにもいかない。しかし、全く違う事を言って渚に純度100%の嘘を吐くのも嫌だ。

 ……仕方ない。こうなったら、さっき園子を相手にした時の様に少し前までの俺が使ってた手段を掘り起こそう。

 つまり、真実と織り交ぜて話す。

 

「綾瀬が八宝菜上手に作るだろ?」

「え、八宝菜? ……確かに綾瀬さんの八宝菜上手だし、私も敵わないと思ってるけど……それが?」

「俺も敵わないけど、でもやっぱ上手に作ってみたいと思うわけだよ。それで今度材料買って作ろうかと思ったんだがさ」

「……う、うん?」

「八宝菜ってコスト掛かるじゃん。食材の。野菜とかは安く売ってるタイミングで買えば良いけど、でもエビとかイカとかは割といつも値が張るし、何より調味料だよな、1回の消費量が馬鹿にならない。だから簡単に手が出せなくてよ」

「……それで、ため息こぼしてたの?」

 

 そう聞いたのは綾瀬の方だった。

 もちろん、それが全ての理由ではない。ここだけの話、本当に綾瀬の八宝菜並に美味しいのを作りたいと思ってたし、それに掛かるコストで躊躇ってたのも本当ではあるが。

 けど、いずれにせよ“綾瀬”について悩んでため息こぼしてたのは本当だったから、単に嘘を吐くのとは違って迷いなく言葉を出せた。

 だからこそ、渚も呆れつつも疑う事なく俺の言葉を飲み込んで言った。

 

「もう、お兄ちゃんそんな事で悩んでたの? だったら素直に綾瀬さんに教えて貰えば良いじゃない」

『え?』

 

 思わず、綾瀬と同じタイミング、同じ言葉で反応する。

 だってそうだろう、綾瀬にあれ程牽制してた渚が、教えて貰えば良いなんて事言うと誰が思う? そんな事、まず考える事すらまず無いだろう。

 

 所が、当の渚はと言うと、驚かれたのが不本意だと言わんばかりに不満げに頬を軽く膨らませて言った。

 

「もう、お兄ちゃんも綾瀬さんも驚き過ぎ。私の事なんだと思ってるの?」

 

 独占欲高過ぎるヤンデレ妹予備軍。

 なんて、答えるわけにもいかないので苦笑で誤魔化すが、渚は続けて言った。

 

「別にその位で文句なんて言わないよ。私も、綾瀬さんが料理上手なの分かってるし、悔しいけど八宝菜は勝てないと思ってるから。でもお兄ちゃん」

「な、なんだ?」

「どうせなら、競うより別の強みを作った方が良いんじゃないかな?」

「と言うと、八宝菜以外で上手に作れるようになれと?」

「そう!」

 

 成る程。

 すっかり、話の趣旨が料理にもつれ込んだが、まぁ構わないだろう。こっちの方が話の内容も帰り道に適して、何より健全だ。

 

「なら、そうだな……全く違うジャンルってのもアリだけど、敢えて同じ中華で行くなら、酢豚とか本気で手を出してみたいかな」

「酢豚? 良いと思う、豚肉なら安く買えるしね」

「そうだな。少しパイナップルが高いくらいだし、やっぱ酢豚を攻めてみるか」

「え、ちょっと待ってお兄ちゃん、今なんて?」

「縁、あなたまさかパイナップル入れる派なの?」

「え、2人してどうしたよ急に」

 

 さっきの渚みたいに、今度は俺が2人から疑問視されて困惑する。

 何だよ、酢豚にパイナップルは公式でも入る食材だろうが。

 

「お兄ちゃん、パイナップルはダメだよ。あれは全体の和を乱すから」

「私もたまに酢豚は作るけど、パイナップルは無しかな……食感も味も他と違い過ぎて、どうしても食べてる時に気になるし」

「えー! そこが良いんだろ? 味だって調和取れてると思うけど」

「絶対ダメだよお兄ちゃん! 酢豚にパイナップル入れるなんてそんなの、せっかくの食材にドブを混ぜるようなモノだって!」

「そこまでは言わないけど、絶対おすすめしない」

 

 2人して滅茶苦茶否定してくるじゃねえか。

 もはや誤魔化すための方便だった酢豚が、俺の中のメインコンテンツになりつつある。

 と言うか、そこまで言うんなら是が非でもパイナップルを入れた美味しい酢豚で2人を納得させたい位まで、今の俺は反骨心を滾らせ始めていた。

 

「オッケー、そこまで言うなら今度俺が絶対美味いの作るからな。そんでもって2人を手のひら返しさせてやる」

『絶対無理』

「2人して同じ事言うな! 今の内に手のひら返す練習しておくんだな!」

 

 そう俺が息巻いた所で、タイミングが良いのか悪いのか、綾瀬の家の前まで辿り着いた。

 本当はもう少し会話を続けたい気持ちだが、今日はこの位が良い所だろう。

 図らずも、最後は以前の様な距離感で会話をする事が出来た。それだけでも十分だ、何も問題は──あっ。

 

「ふふ、それじゃあ手の平返し出来るか楽しみにしてる。……またね」

「あ! 綾瀬、その……」

「──何?」

「えっと……」

 

 唐突に思い出したのは、今度の週末に約束した園子との件。

 それを綾瀬に言うべきか悩み、思わず呼び止めてしまった。

 だけど、どう伝えれば良い? 

 最近疎遠になりかけて、ようやく会話が出来たと言うのに、渚もいるこの状況で──いや渚にも言わなきゃいけないと分かってるが、とにかく、下手に伝えても逆に疎遠が深まるだけにしかならない気がする。

 

 とは言え、言わないなら言わないで後から禍根が生まれるのも不本意だ。

 それを分かりつつも、結局どう話を切り出せば良いか分からず、結局、

 

「──また、明日」

「……? うん、また明日」

 

 そう言葉を濁らせて、終わらせるしか無かった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その日の夜。

 夕飯を終えて風呂も入って、課題や明日の予習をぼちぼち進めていた俺の部屋の扉に、トントンとノックする音が響いた。

 

『お兄ちゃん、今ちょっと良い?』

 

 声の主人はもちろん渚だ。

 俺はもうすぐ終わりつつあった予習の手を一旦止めて、椅子から立ち上がり直接扉を開いて渚を部屋に招いた。

 

「どうした?」

「あ、ごめんね……勉強中だった?」

「大丈夫、もう終わった所だから。むしろタイミング良くて流石って感じ」

「もう、変な所で褒めないでよ。調子狂っちゃう」

 

 照れ笑いしつつも、渚は俺のベッドに腰掛けた。

 俺は教科書ノート類一式を片付ける意図もあって、椅子に座り直した。

 用具一式を鞄にしまいつつ、話を進めた。

 

「どうした? 勉強で分からない場所があったか?」

「ううん、そうじゃないの。でも聞きたい事があるのはその通りかな」

「──なんだ?」

 

 この時点で、俺は渚が何を聞いてくるのかを半ば分かっていた。

 さっきの帰り道の姿を見れば、渚なら簡単に思い浮かぶモノだろうから。

 

「さっき、綾瀬さんに本当は何を言おうとしてたの?」

 

 やっぱり。それだ。

 正味、渚の前であんな姿を見せてしまった時点で問い詰められるのは時間の問題だと思ってたが……タイミングを掴むより先に渚から来たか。

 こうなってしまったら、渚にはもうここで素直に言うしか無いだろうな。

 

 夜、俺の部屋、渚が訪れる。

 シチュエーションだけ見れば、まんま前世で聴いたヤンデレCDの渚編まんまだ。

 ここで嘘や誤魔化しをしたら最後、どうなるか分からない。

 努めて冷静に、事実と理由を述べるしか無いだろう。

 

「今度、園子と新しいショッピングモールに行く約束したんだ」

「へぇ、どうして?」

「前に、咲夜と園芸部の存続について講堂で話をしたろ?」

「うん。あの後私もお兄ちゃんの妹だから、凄く色々聞かれたんだよ? 大変だったなあ」

「それは、ごめん」

「良いよ大丈夫。話、続けて?」

「あぁ。それでだな、あの前の日に結局使わなかったけど咲夜とやり取りした動画を園子に隠し撮りして貰ってさ。園子には園芸部の件で迷惑掛けた上に、そんな事までして貰ったから、お礼に何かしたくて」

「それで、ショッピングモールに行く事になったの?」

「うん」

「ふーん……そっかぁ」

 

 そう答えて、何かを考える様に渚は天井を見ながら、足をふらふらさせる。

 仕草は可愛いが、そんな単純な感想を抱けるだけの余裕は無い。

 一気に逆上……は、ヤンデレCDの『野々原渚』ならともかく、今の渚はしないと思うが、それでも次にどう反応するか分からず真綿で首を絞められる様な緊張感が俺を圧迫する。

 

「ねぇ、お兄ちゃん」

「お、おう……」

「それって、デートだよね?」

「ブフォッ!」

 

 当初、自分の中に渦巻いてた疑問を渚から持ち出されてしまい、堪らず狼狽してしまう。

 

「違う、側からみればそうかもしれないが、俺と園子は決してそんなつもりでは」

「柏木さんはそう言ったの?」

「いや、言ってない」

「でも思ってるかもしれないよね?」

「それは、本人にしか分からないよ」

「少なくともお兄ちゃんの言う通り、私から見れば……多分綾瀬さんから見てもデートにしか思えないかな」

「……そんな事無いです、本当です」

 

 渚はそんな俺の言葉に耳を傾けてるのかいないのか、構わずに話を続ける。

 

「お兄ちゃん、私に初めて部活に入るって相談した日の事、覚えてる?」

「え? それは覚えてるけど」

「その時お兄ちゃんと私がどんな会話した、覚えてる?」

「それは──」

 

 思い出す。当時、俺は渚の許可を得た上で部活動に参加しようと決めていた。

 そのために渚に相談を持ちかけた所、こんな会話をしたのだった。

 

『部活とか言って、本当は女の人と一緒になる時間を取りたいだけじゃないの?』

『考え過ぎだ! 誰がそんな自殺行為するか!』

『なら、約束する?』

『約束? 何をさ』

『約束、私に隠れて、女の人と一緒になったり、イチャイチャしない。 ね?』

『いや、それって結構無理──』

『出来ないの?』

『いやそうじゃなくて、急に声のトーン下げるの止めて怖いから。 そうじゃなくて、まだどの部活にするかも決めて無いし、イチャイチャとかはともかく、女子と一緒になるなってのは、集団生活送る上でも無理というか……、逆の立場で考えてみろ、かなり厳しいぜ?』

 

 そうして、最終的には『女目的で部活をしない事』と、だいぶ条件を優しくして許可をくれた。

 そこまで話すと、渚は『そうだったよね』と頷いた後、ブラブラしてた足を止めて言った。

 

「──約束、破ったよね」

「っ!!」

 

 瞬間、渚の纏う雰囲気が変わった。

 一気に背中に鳥肌が立ち始める。

 危ない。まだ会話の域に止まっているが、これから俺の一挙手一投足でその後が決まる状況だ。

 逆上こそしないが、静かなまま、渚が『行動』に移る可能性は大いにある。

 想定しうる最悪を避けるために、本気で渚との会話に臨む事にした。

 

「渚、もっかい言うけど、俺はデートのつもりはないし、今回はあくまでもこの前のお礼がしたいだけだ」

「でも、それなら他にやれる事あるよね? 部活動の事とか」

「部活動じゃ幾ら頑張っても“お礼”にはならないだろ? プライベートでも何でも、普段出来ない事でお礼がしたかったんだ」

「……」

「もし、疑いが晴れないのなら、当日は1時間に1回電話してくれても良い。何なら、渚も一緒に行こうか?」

 

 それが俺のトドメの言葉だった。

 普通ならそこまで話を持って行かない場所まで、敢えていく。

 1時間ごとの電話も、同行も、渚が本気で俺と園子の関係を訝しんでるなら飲み込むだろう。

 だけど、もし俺の言葉を信じる、ないし納得したのなら──、

 

「──はぁ」

 

 やや長い沈黙の後に、ため息を吐いてから渚は言った。

 

「そこまで言われたら、もう私だって何も言う事無いよ。本当に電話したり一緒に行ったりなんてしたら、それこそ私が変だもん」

「渚……」

「分かった。お兄ちゃんの言う事信じる」

「ありがとう、なら──」

「でも! その前に」

 

 渚はすくっと立ち上がり、俺の真ん前まで来ると、顔を近づけて詰め寄る様にしながら言った。

 

「あの時なら、私もお兄ちゃんのために頑張った気がするんだけどなー?」

「え、まあ、たしかに」

「ベッドで死んだ顔みたいになってたお兄ちゃんを元気つけたのは、どこの誰だったでしょうか?」

「渚、だな」

 

 その通り。一時期俺の精神が病んで潰れかけて、咲夜を殺そうとすら考え始めてた馬鹿な俺を止めてくれたのが、他ならぬ渚だった。

 

「それなのに、私は柏木さんみたいにお礼された記憶ないけど、おかしいって思わない?」

「それは、まあ……確かに」

「それなら、お兄ちゃんは柏木さんより先に、私にお礼をするべきじゃないかな?」

 

 笑顔で言うが、有無を言わさせ無い迫力はそのままだ。

 

「……だな。確かに、順番が間違ってた」

「うん、分かってくれたなら良いの」

「それなら、何をすれば良いかな……家事はいつも分担してるし、勉強見るのもお礼にならないし……」

「そーだなぁ……それじゃあ」

 

 そう言って、渚はとたとたとベットに戻り、そのまま横になった。

 その行動の意図が分からず、ポカンとしていると、渚は頬を少し赤らめて言った。

 

「ほら、お兄ちゃん何してるの? 早く寝る用意して」

「え、ええ?」

「お礼、だよ。今日は私と一緒に寝て。それがお礼」

「マジか!?」

「マジです」

 

 思いもよらない提案に、椅子から転げ落ちそうになったのをどうにか留まった。

 この歳で同じベットに寝るのは、いくら兄妹でもどうかと思うが……もはや渚は布団を被って就寝態勢に入っている。

 もうこれは素直に一緒に寝るしかない。そう決めた俺は明日の用意を手早く済ませて、電気を消して渚の隣に横たわった。

 

「……ふふ、お兄ちゃんと一緒に寝るの、久しぶり」

「そうだな」

 

 真横で渚の囁く様な声が耳朶に響く。

 

「俺、寝相悪いかもしれないから、その時はごめんな」

「いいよ、大丈夫」

「狭く無いか?」

「平気だよ、ありがとう」

 

 薄暗い部屋の中で、それでも渚が笑顔で答えたのは分かった。

 

 やがて口数も少なくなり、お互いに意識が闇の中に溶け始めそうになる。

 隣に聞こえる渚の呼吸も、段々と静かにリズミカルな物になっていくのが分かった。

 

「……ねぇ、お兄ちゃん?」

「ん?」

「ちゃんと正直に言ってくれて、嬉しかった」

「……うん」

「ねぇ、もう1個、お願いしても良い?」

「なんだ?」

「腕枕、してもいい?」

「寝心地は保証しないぞ」

「大丈夫だよ、お兄ちゃんの腕だもん」

「そっか」

 

 少し照れ臭いが、ここまで来たらもう構わん。

 俺は左腕を伸ばして、そこに渚の頭を乗せた。

 渚は『ん〜!』と小さく喜びの声をあげると、最後に、

 

「お兄ちゃん」

「ん?」

「おやすみなさい」

 

 そう言って、スイッチが切れたおもちゃの様に静かに眠りについた。

 

「──うん、おやすみ渚」

 

 俺も、そう返事して、瞼を閉じる。

 急な添い寝になったけど、不思議とストレスや疲れが払拭されてる感覚を覚える。

 この歳になったらもう無いと思ってたが、家族と一緒に寝るっていうのは、案外リラックス出来るものだと分かった。

 

 まだ、綾瀬との関係修復は終わってないし。

 渚と綾瀬との間にある問題も、残ったままだけど。

 今日だけは、俺に全幅の信頼を寄せて眠った可愛い妹の体温を感じながら、眠ってしまおうと決めたのだった。




感想お待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3病 アネモネ・プラム

感想、お気に入り、評価ありがとうございます。
モチベにとてもよく効きます。

それでは、綾瀬編第3話、どぞ


「困った……」

 

 土曜日の朝7時30分。空は快晴、冬に差し掛からんとする晩秋にしては暖かく、日中は23℃になる予報。

 まさに、出掛けるにはうってつけな1日の始まりである。

 

 そんな朝に、俺は1階の洗面台の前で、いくつかの服を手にしながら、鏡に映る自分の姿を見て頭を悩ませていた。

 今日は園子と約束した日。つまりこの後、この街に新設されたショッピングモールに向かう事になるんだが。

 

「こう言う時の正解が、分からない」

 

 何を着れば良いんだ。

 服はある。種類もそこそこだ。そこは問題では無い。

 問題はデート……いやデートじゃないけど、とにかく親しい女子と2人で出歩く際にどんなのを着れば良いのか、てんで分からない所にある。

 前世の自分も、幼馴染の妹分みたいな子と2人で遊ぶ事はあったが、当時と今では微妙に服の流行りってのが違う。

 中学の時に綾瀬や渚と2人きりで出歩く事はあったが、その時な格好は学校の制服だったんだよな……校則で決められてて。

 

 渚にはこんな事、絶対に相談出来ない。

 年下の妹に相談すると言う情けなさも当然あるが、相談しよう物なら何が起こるか分からない。地雷を踏み抜くのはもう2度とごめんだ。

 

 と言うわけで、延々と1人で考えていたのだが……、

 

「あーもー、あれこれ悩んでもしょうがねえ。無難で行くぞ無難で!」

 

 結局ベストな答えは見つからず、一周回って『服なんて清潔感さえあれば問題ねえ』『何ならデート向けの服を今日行く場所で買えば良いだろ』と言う発想に至った。

 開き直りとも言うが、少なくともこれで恥ずかしい思いをする事は無いはずだ。

 

 

「おはようお兄ちゃん……あれ、もう出掛けるの?」

「ん、おはよう渚……まだ出ないよ」

 

 着る服を決めて着替えを終えた頃に、渚が眠たげな目を擦りながら1階に降りて来た。

 

「朝ごはん、食べるでしょ?」

「もちろん。一緒に作りましょうや」

「……うん」

 

 やや返事までに時間を要したな。

 俺が朝から着替えてる理由は当然分かってるだろうし、色々不満とかはあるんだろうが……それを表に出さない様にしてくれてるのはありがたい。

 この前一緒に寝た事で、今日の事は飲み込んでくれているらしい。

 

「うーん……んー……」

 

 とか思ってたら、何やら寝起きの目をショバショバさせながら、渚が俺を値踏みする様にジロジロ見てくる。

 

「な、何さ」

「うん……お兄ちゃんの服を見てた」

「お、おかしく無いだろ? 別に」

 

 半袖のワークシャツに、アクティブパンツ。

 暖かい日なので動きやすい格好にした。

 念のためバックには薄いパーカーを用意してるが、特に問題は無い。無いよね? 

 

「……ダサいかな?」

「……ううん、全然。問題ないよ」

「良かったぁ……答えるまでタメ作るのやめてくれよ緊張するから」

「えへへ、もし恥ずかしい格好してたらどうしようって思ってたから、ついしっかり見ちゃった。お兄ちゃん、家だとジャージ姿が多いから」

「流石に気を使いますー。特に今日みたいな場合は。……あっでも当然渚と出かける事があっても、ジャージ姿でフラつく様な事はしないからな」

 

 園子と出かける時だけ気を使うなんて捉え方されては困るので、念のために言っておいた。

 

「ふーん……何か取ってつけた様に言うね」

「絶対に気のせいです。信じろ兄貴を」

「……ふふ、分かってるよ。お兄ちゃん」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 集合場所には家からゆっくり歩けば30分する。

 自転車ならその半分以下の時間で辿り着くが、今日は1人で行動するわけでは無いし、駐輪代が出てくるのが嫌なので無し。

 公共交通機関もあるにはあるが、まあ余裕持って歩いて行くのもたまには良いだろう。

 と言うわけで、集合時間の10分前には着く様に家を出た。これで間違いなく遅刻だけはしないと思いつつ、更に歩くペースを早めたので、集合場所の駅には25分も早く着いてしまった。のだけど。

 

「あ、おはようございます縁君!」

「え! もう居るの!?」

 

 既に園子が待っていた。

 嘘だろ、幾ら何でも早過ぎやしないか。いつから待ってたんだ。

 

「私から誘っておいて遅れるのだけは避けたかったので、早めに来ちゃいました」

「何時から居たの? もしかして9時くらいから?」

「えっと……そうですね」

 

 そうなると、35分もここで待ってた事になる。

 俺が早めに来たからその時間で済んだものの、本来の予定通りなら、まるまる1時間彼女はここで俺を待つ事になっていた。

 

「流石に早く来過ぎだって。大丈夫? 朝ごはん食べて来たか?」

「えぇっと……食べましたよ?」

 

 一瞬、視線が泳ぐのを見逃す俺では無かった。

 きっとこの子、今日は早く来る事に全神経注いでる。

 

「食べてないでしょ」

「た、食べてますよ! 本当です」

「じゃあ何食べて来たの?」

「えっと……その……カニと小エビの入ったトマトサラダと、シーフードパエリアと、イカ墨パスタを……」

「それ絶対朝食べるボリュームじゃないでしょ。昨日の夜ご飯だよねそれ」

 

 と言うか、魚介類多いな。どれも美味しそうじゃないか。

 パエリアなんてレストラン以外で食べる家あるのかよ……いや、悠や咲夜の家なら余裕でやるか。やりそうだな。

 

「…………」

「うっ……そんな風に凝視しないでください」

「朝ごはん、食べないで来ただろ」

「……はい」

 

 もしケモ耳が園子に生えてたら、叱られた犬みたいにペコンとなっているに違いない。

 遅刻しないため、早めに来てくれるのは良いとしても、限度がある。

 

「取り敢えず、まずはご飯食べる所から始めよう。今から行くとこ、フードコートは当然あるよね?」

「はい。……ありがとうございます」

「礼を言われる様な事じゃ無いでしょ」

 

 今からだと朝ごはんにしては遅く、昼ごはんにしては早くなってしまうが、1日2食よりはまだ良い。

 さっそく、ショッピングモールへ向かう事にした。

 

 

「ほぉー広いな……」

 

 目的地についてまず思ったのがそれだった。

 今年の夏に咲夜を案内した際に行った所も複合施設だったが、今回はそこの倍以上の敷地を誇っている。

 ファッションは勿論の事、グルメ&フーズにインテリアや生活雑貨、電化製品、楽器、ベビー用品、映画館、アミューズメント、ミニライブとか出来るイベントスペース。

 

 一応首都圏に入るとはいえ、地方都市にこの規模の建物が出来るとは……今度、渚も連れてってやりたいな。

 

「これ、きっとあいつらの家も関わってるんだろうなー……」

「でしょうね……」

 

 予想外の広さと人だかりの多さに2人とも息を呑みつつ、ほぼ間違いなく関与してるであろう友人の姿を思い浮かべる。

 初めて来る場所で迷わないか心配だったが、インフォグラフィックス溢れる案内板のおかげで問題なくフードコートエリアにありついた。

 店の数もだいぶあるので園子はどれにしようかと、うんうん悩んでいる。

 俺はお腹空いてないので、ささっと手に入るクリームソーダと大判焼きを買って、座席を確保した。

 園子は俺が買ってからもずいぶん悩んでる様子だったが、最終的にはカレーライスをトレーに載せて着席した。

 

「縁君のそれ、呼び方沢山ありますよね」

「今は大判焼きって俺は呼んでるけど、小さい頃は今川焼きって呼んでたなぁ。後は地域によって二重焼きとか、御座候とか言うみたいだよ」

「ご、ござ……?」

「結構、個性的だよね。向こうからすれば大判焼きって呼び方は平々凡々だったり、今川焼きも意味不明なんだろうけど」

 

 この手の食文化は神聖かつ触れてはいけない領域だ。

 特に食べ物の呼び名については、お好み焼きしかり芋煮・豚汁しかり、その土地特有の理由があるもんだ。

 

「園子は何で呼んでるの、これ」

「私は今川焼きって呼びますが、父は大判焼きでした。本当にバラバラですね」

「まぁ結果的に口に入って美味しかったら、それで良いって事にしとこう」

「ですね。私もそれが1番だと思います。それに」

「それに?」

「呼び名がたくさんあるって、それ位みんなに愛されてる食べ物って事ですから」

「成る程……良い事言うなぁ、流石俺達の部長、懐が広い」

「ええ? もう、変な褒め方しないでください」

 

 いや、本当にその考え方は良いと思うんだがな。

 呼び名が多いのはそれだけ日本各地に広まってる証拠。知名度と普及率の高さの現れだ。

 その意味では、日本最強の和菓子は大判焼きって事になるのかもしれない。いや、今川焼き? 二重焼き? 御座候? 

 ああもう、ややこしい。これについて考える事はやめだ。

 

「ちなみに、園子は大阪と広島、どっちのお好み焼きが好き?」

「えぇ……良い具合に落ち着いたと思ったのに、もっと荒れそうな話題に振れるんですか?」

「違う違う、どちらも美味しい食べ物だし、呼び名とかは関係無くて。あくまでも好き嫌いの話。俺は食べ応えあるから広島のが好きかな、園子は?」

「……もっと安心して会話出来る話題にしませんか?」

「じゃあ、きのこたけのこ戦争……まぁ、たけのこが圧倒的多数派で戦争にならない、俺からすればきのこデモが良い所だけど」

「もう〜〜!」

 

 途中から焦り始める園子の姿が面白くて、その後もワザと危うい話題を出してからかった。

 ちなみに、俺がどっち派なのかについては──割愛させていただく。

 

 

「──さて、それじゃあ本番、参りますか」

「はい、よろしくお願いしますね」

 

 食事を終えてからは、メインの目的である園子のショッピングだ。

 園子が以前から気になっていたブランドが3つ、4つあり、それらを近い順から回っていく。

 しかし、今更だが、まさか園子が服屋さんに興味津々だとはなぁ……。

 

 確かに今日の園子が着ている私服、秋用のふんわりとしたブラウスにフレアスカートの組み合わせで、制服の時とはまるで印象が違うが、どれも高そうな物を着ている。

 更に言えば、俗に言う“服に着られてる”のではなく、ちゃんとバッチリ着こなしている辺り……意外って言うのは失礼だが、園子はオシャレ好きだというのが伺える。

 

 ……うん、何かこういう感覚は久しぶりになるけど。

 やっぱり『ヤンデレCDに出て来た柏木園子』のイメージだけで、見ちゃいけないんだなって改めて思った。

 今、こうして目の前で生きてる彼女のプライベートを見て知って、自分の中にまだ前世の情報ありきで人を見ている部分が残ってる事を自覚させられる。

 

 申し訳なさが込み上げてくるが、それは口に出さずに、今日とことん彼女の買い物に付き添う事で昇華させよう。

 取り敢えず、まずは本来出会い頭に言うべきだった言葉を伝えますか。

 

「園子」

「はい?」

「今日の服可愛いな、学園の時とはガラッと印象変わって凄い」

「はいっ!? え、えっと、ありがとうございます……」

 

 “今更そこに言及するのか? ”的反応だが、さもありなん。

 

「よ、縁君も、普段と違う感じで良いと思います、よっ……」

「あはは、お世辞でも嬉しい。……おし、今日はとことん買い物に付き合うからな、荷物持ちは任せてくれ」

「えぇ、そんな、荷物持ちなんて良いですよ!」

「それじゃあ男の俺が来た意味が薄れるじゃないの」

「そんな事ないです、今日は──」

 

 そこで言い淀む園子。

 続きを促そうと口を開くが、その必要はなかった。

 

「今日は、ウィンドウショッピングが主な目的ですから!」

「えぇ、そうなのか!?」

「は、はい……。流石に、行く先々で購入出来るだけの手持ちは無いと言いますか……その」

「いや、逆に安心したよ。悠や咲夜に留まらず園子まで爆買い豪遊出来る人だったら、金銭的コンプレックスに苛まれる所だったから」

「どういうコンプレックスですか、それ……」

「もうちょっと悠と付き合い長くなれば分かるよ」

 

 露骨に格差が分かる“金持ちしか買えない高級ブランド”とかに限らず、文房具とか日用品とか、細々とした物でもやっぱ扱う物が違うからなぁ。

 

「とにかく、それならそれで、今日はとことんお店を冷やかそう!」

「言い方、言い方をもう少しオブラートに包んでください!」

 

 改めて目的が定まった事で、より一層やる気が湧いて来たのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ふぃー……歩いたなぁ」

「はい! 実りのある時間でした」

 

 分かっていた事だが、最初に目星を付けていた店以外にも、園子の興味はグイグイ向いていった。

 初めて行く所はもちろん、服以外にも雑貨店、インテリア、食器、本屋、アロマ、エトセトラエトセトラ……そして意外にもゲームセンターまで、園子の興味関心は新設のショッピングモールをトコトン味わい尽くさんとしていた。

 

 特に、ペット売り場を通った時のはしゃぎ様は凄かった。

 ガラス越しに子犬や子猫をじっと見つめて、向こうが園子を見返すとそれだけで嬉しそうに、小さく感動の声を漏らす様は、とうてい『ヤンデレCD』からは想像もつかない物だったから。

 

 あと、ゲームセンターでガンシューティングをした時、園子は意外な才能を見せた。

 初めはグロテスクなグラフィックのゾンビに目を逸らしながらのプレイで、あっという間にゲームオーバーしていたが、アッサリ負けるのが悔しくて、何度かコンテニューしていくうちに慣れたのか手際が良くなっていった。

 ヘッドショットは当たり前、リロードも弾が尽きる前に器用にこなし、この手のゲームに必ずいる巨大なボスキャラ相手にも、エイムが合わせづらい弱点部分に的確にダメージを与えていく。

 

 悠と学園帰りに遊んである程度慣れているはずの俺よりも、グングンと腕前を上げていった園子は、ラスボス一歩手前で初見殺し的な相手に負けはしたものの、後ろで何人かギャラリーが出来る程の腕を見せた。

 その後もコンテニューしようとしたが、ふと、自分に注目が向いてるのに気づいて猛烈に恥ずかしくなり、急ぎ足でゲームセンターから脱したのだった。

 

 そうして今、最初ここに来た時に足を運んだフードコートにまた戻ってきた俺らは、お互いに飲み物を飲みながら今日1日の感想を述べ合っている。

 

 今日は間違いなく、楽しい1日だった。

 実の所、園子と2人だけで過ごす事は無かったから、一体どうなるのか不安な所も大いにあった。

 別に園子が悪いのではなく、普段から仲は良いが2人だけで長時間過ごした事が無いから、どうなるか分からないなんて事は誰にでもあるはず。

 しかし、それらは一切杞憂だったと分かった。『ヤンデレCD』では暗い子なんて言われてた園子だが、今の彼女は大人しく自分から目立つ行為こそしないが、一緒に居て充分に楽しい子だ。

 

 だが、まぁしかし、だ。

 

「──まさか、俺の服まで見立てられるとは思わなかったよ」

 

 自分の座ってる席の隣に置いた紙袋を見つつ、俺は苦笑しながら言う。

 そう、彼女のウィンドウショッピングに付き合ってる最中、メンズ服の前を通った園子が、突如店頭に立つマネキンの服を見て『これ、縁君にも似合うと思いませんか!?』なんて言い出した事で、まさかの俺に似合う服探しが始まったりもしたのだ。

 それもまた1つの店に限らず、あっちこっちを行ったり来たり、下手したら自分の服よりも力が入ってたんじゃないかと言わんばかりに、園子は俺に服を提示しては試着、提示しては試着を繰り返させ──最終的に、1番似合うと豪語する物を購入させる所まで至った。

 万が一のためにそこそこ財布にお金は入れてたが、まさかそれらをフルに使う事態が訪れるとは思わなかった。

 それでもまぁ、なんだ。園子が見立てた物はどれも、着た俺自身が『あぁ良いな』と思う位だったので、不満は無い。むしろありがたい。

 

「ふふ、つい熱が入ってしまって……でも、試着した時も言いましたが、似合ってますよ」

「ありがとう、照れるけど、ちゃんと着ますよ」

 

 問題は、これを渚にどう説明すれば良いかだが……、今はそれを考えるのはよしておこう。

 

「──じゃあ、名残惜しいけど、そろそろ帰ろうか」

 

 目的は全て果たした。寄り道もし尽くして、体力もお金も底が見えて来ている。

 時刻も気がつけば16時を越えて、モールの窓から見える景色も夕方の空を映していた。

 

「はい、そうしましょう」

 

 充分楽しみ尽くした園子も、笑顔で頷いた。

 

 飲み物を入れてたグラスを返し、フードコートを出て出口まで向かう途中、家族連れで来てる子だろうか、男女の子どもが反対方向から笑いながら俺達の前を無理やり走り過ぎていった。

 俺はサッと避けたので問題なかったが、

 

「きゃっ──!」

 

 女の子の方に持ってた荷物が当たった園子は、姿勢を崩してしまい、前方に転びそうになった。

 

「おっと、あぶねー。大丈夫?」

 

 咄嗟に転ばない様に園子の両肩を支える。

 

「は、はい。ありがとうございます……」

「良かった。ったく、こんな人だかりの中を走るなっての、親の顔が見たいよ」

 

 後ろを見ると、既に件の子どもは遠くの方に走り去っていた。髪色からして外国の子どもにも見えたが、行儀の悪さに国籍は関係無いだろうに。

 まあ、本当に海外の子なのかは分からないけどさ。髪の色で物を言うなら、俺や渚の髪色も……うん。やめよう。

 

「あ、あの……縁君?」

「どうした、もしかして足挫いたか?」

 

 園子がやけに焦った様な雰囲気で、上目遣いに俺を見るから何が起きたのかと心配になる。

 

「えっとそうじゃなくて、ちゃんと立てますから、離れても大丈夫です、よ?」

「え──ぁああ、そうな! すまんくっつき過ぎた!」

 

 園子の言葉の意味を理解した途端、自分が凄え園子にピタッとくっついてる姿勢になってるのに気づいた。

 紙袋の持ち手を手首に引っ掛けて自由にした両手で園子の両肩を抱き寄せ、ピタッとくっついたお互いの体に、拳一つ分程度の距離しかない顔、見つめ合う瞳。

 こんなの誰が見ても……その、キスする直前みたいな物だ。

 周りの人達がチラチラこっちを見ている。たぶん“こんな往来のど真ん中でいちゃつくなよ”とか思ってるに違いない。

 

 マズイ。

 最高にやらかした。

 

「──と、とりあえず! 駅まで行こう! うん!」

「……はい」

 

 パッと人1人分の距離を取り、さっさとここから出るために率先して前を歩いていく。

 俺も園子も、今の出来事のせいで顔が赤い。こんな所を渚達に見られた物なら、何を言ってもタダじゃ済まないだろう。ここが家からだいぶ離れた所にあって助かった。

 

「……」

「…………」

 

 その後も先程の事が尾を引いて、ショッピングモールを出て解散場所の駅までの道を無言で歩く。

 せっかく直前まで楽しく過ごしていたのに、最後がこんな終わり方では余りにも後味が悪過ぎる。

 いつまでもこのままでは居られない。ここは男の俺から、自然体に、何事もなかった様に会話を始めよう。

 

「あのさ──」

「その──」

 

『っ!』

 

 最悪っ! 恐らく打開しようと動くタイミングが被った! 

 だがここで一歩引いたらまた会話が途絶える。或いは、互いに『そっちからどうぞ』なんて先を譲っても結果は同じ。

 ここは、俺が無理矢理にでも会話をこじ開ける! 

 

「今日は何が1番──」

「さっき食べたパンケーキ美味しか──」

 

『っっ!!』

 

 お前も同じ思考回路だったんかい!! 

 

『……』

 

 恐らく向こうもそんな事を思ってるに違いない。

 結局、会話が途切れて沈黙が戻ってきた。

 いや、しかし、まさか園子も同じ事を考えてるとは思ってなかった。意外と園子も積極的な所があるんだな。

 

「……ふふっ」

「あははっ」

 

 自然と、2人揃って笑い声が漏れた。

 

「いっそこのまま、お互いに言いたい事を言い合うってのはどう?」

「会話が成り立ちませんよ、それだと」

「側からみりゃ完全におかしな奴らの会話だ」

「流石にこれ以上周りから見られるのは嫌です」

「違いねえ」

 

 そう言って、また互いにクスクスと笑い合う。

 そこにはもう、さっきまでの緊張や気まずさは完全に無くなっていた。

 

 改めて2人で今日は何が1番楽しかったのかや、フードコートで食べたパンケーキとパフェ(こっちは俺が食べた)の味について話を弾ませる。

 そうして、気がつけばあっという間に解散場所の駅に辿り着いたのだった。

 

「いや、改めて今日は楽しかったよ、ありがとね」

「そんな、私の方こそ、こんな風に誰かと……それも男の子と一緒に出かけるのは初めてで、どうなるか緊張しましたけど……凄く、楽しかったです!」

「良かった。俺も実は最初緊張してた」

「え、そうなんですか? 凄く自然体だったから、慣れてるんだろうなぁってばかり」

「園子が余りにも早く来てて驚きの方が勝っちゃったんだよ」

「あぅ……」

 

 痛い所を突かれた、とばかりに目を閉じて狼狽える園子。

 その姿を見てちょっとばかり追い討ちで揶揄いたくもなったが、そろそろ帰らないと渚から詰られる未来が見えてくるので、グッと堪えた。

 

「──それじゃあ、今日はここまでって事で」

「はい。──その、改めてありがとうございます」

「こっちこそ。……それじゃあ、また週明けに」

 

 そう言って、俺の方から先に家路へと足を運ぶ。

 

「あ、あの、縁君!」

 

 その矢先──園子から呼び止められた。

 振り向くと、呼び止める時の仕草だったのか、右手を俺の方に向けた姿勢で、園子が俺を見ていた。

 

「あの……もし、もし縁君さえ良ければ、また──」

 

 その先の言葉を、言わせてはいけない。

 直感で、俺はそう確信した。

 

「また行こうよ、今度は部のみんなも誘ってさ!」

「──っ、……はい! そうしましょう! また、みんなで!」

 

 そう笑顔で答える園子の顔が、少しだけひしゃげて見えたのは、気のせいだと自分に言い聞かせた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……はぁ」

 

 行きと同じ、1人きりの帰り道。

 俺は本日初めのため息をこぼす。

 

 さっきのは、凄く意地悪な返しだったと自覚している。

 きっと園子は、また俺と2人で行こうと言いたかったんだろう。それを、俺は無理やり上書きした。

 

 本当に俺と居て楽しかったからなのか、恋愛感情に基づいてるのか、深く考える事を今は敢えてしない。

 でも、どちらにせよ、あそこでまた2人で遊ぶ約束を取り付けたら、俺は“地雷”を踏む事になると思ってる。

 

 何故なら、今回は俺から言い出した『お礼がしたい』という大義名分があって、だからこそ渚も理解を示してくれたのに。

 今度また遊ぶなんて事になれば、そこには何の大義名分も無く、ただ純粋に男女が仲睦まじいという事実しか無い。

 そうなれば、渚を納得させるのは無理だ。間違いなく彼女の琴線に触れる。地雷を踏む。

 渚だけじゃ無い、今は関係が微妙だが、綾瀬にだって知られればどうなるか分かったものじゃ──いや、火を見るよりも明らかだ。

 

 忘れちゃいけない。

 この世界は、俺が前世で聴いた『ヤンデレCD』と酷似していると言う事を。

 今日、『ヤンデレCD』では知る由もなかった園子の新しい一面を知る事が出来た。園子だけじゃ無く、渚や綾瀬だって、CDだけでは分からない色々な姿を今まで沢山見てる。

 それでも、彼女達にヤンデレの資質が──それも、人を殺す事も厭わない病み方をする可能性がある事は事実なんだ。

 

 であれば、もう今日以上の時間を、2人きりで作る事は許されない。

 もしそれをするのなら、俺は園子と真剣に向き合う位にならないといけない。

 そして、それだけの覚悟を、俺は持ち合わせて居ない。

 

「──ようやく、みんなで一緒に過ごせる時間が、空間が出来たんだ」

 

 同じ部室に、CDでは殺意を向き合うだけだった渚と綾瀬、園子がいて。

 親友の悠と、跳ねっ返りだけど快活な咲夜も居る。

 そんな平和な時間を、場所を、前世の俺では叶う事の無かった心の寄す処を、失いたくは無い。

 

「──結局、少し後味悪くなっちゃったな」

 

 太陽が沈みきって、その残滓がどうにか青色を残す晩秋の空を見上げながら、膿を吐き出す様に呟いた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──えっ」

 

 その日、彼女は最近出来たばかりの大型複合施設に足を運んでいた。

 今まで通販か、遠くの街まで出向く必要があった自分の好きなブランドが出店してると知り、どうしても行きたくなったからだ。

 

 本当は1人じゃなく、一緒に行きたい人が居たが──その人と彼女の間には今、微妙だが確実に互いを隔たる壁があった。

 もっとも、その壁を作ってるのは他ならぬ自分自身ではあるのだが。

 

 一緒に行きたかった人には、妹が居た。

 その妹から言われた言葉が、自分の中に深く深く突き刺さり、それを否定出来ない自分に嫌気がさし、気がつけば自分から距離を取り始めて居た。

 

 一緒に行きたかった人は、それでもどうにか自分と一緒の時間を作ろうと気を回してくれた。

 その気持ちをありがたく思いながらも、自分の中に“気を遣われる位の関係になっている”という苛立ちが生まれてしまい、せっかくの相手の気持ちに反する行動ばかり取ってしまった。

 

 それでも、この前も相手から一緒に帰ろうと提案してくれて、ようやく彼女はそれに応じた。

 2人の間には、件の妹が居たが、それでも彼女は、その人と久しぶりに、本当に久しぶりに楽しく会話が出来た。

 嬉しかった、楽しかった。

 会話したのはほんの僅かな時間だったが、時計が指し示す時間の何倍も、彼女の心の時間は長かった。

 こんなに幸せな気持ちになれるのなら、もういっそ今まで通りの接し方に戻ればいいとさえ思ったが、妹の目を思い出すと、やはりそんな気持ちもすぐに萎んでしまった。

 

 そんな自分の気持ちを払拭する意味も込めて、彼女──河本綾瀬は、1人でショッピングモールに足を運んだのだった。

 

 目当てだったブランド以外にも、コスメや香水、手帳やジュエリー、興味のある所を渡り歩く。

 その時間も、もし側にあの人が居たら、という考えがよぎったが、そんなものはすぐに頭から振り払い、目の前の物に意識を集中させた。

 

 そうして、楽しめるだけ楽しんで、さあ帰ろうかと言う矢先に、綾瀬の視界に、その人──野々原縁の姿が映った。

 やや距離があるが、自分の歩く方向に、気のせいなどでは無く本当に縁がいる。

 今日何度も隣にいて欲しいと思っていた縁が、走ればすぐに触れられる程の距離にいるのだ。

 

 もう、妹──野々原渚に以前言われた言葉を気にする心は無かった。

 往来の真ん中でもハッキリと聴こえる声で彼の名前を呼び、その隣に立ちたい、そう思い口を開こうとした、その直前──、

 

 縁の隣に、自分のよく知る女の子──柏木園子がいる事に気づいた。

 たまたま出会ったのだろうか? そんな惚けた事を考えたが、そんなわけが無いのは綾瀬自身分かっていた。

 だって──綾瀬の視界の先で、縁は仲睦まじく、園子の事を抱き寄せていたのだから。

 

 まるで──いや、まさに。

 恋人同士の様に。

 

 

「──はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 

 気がつけば、綾瀬は走っていた。

 ショッピングモールの人だかりの中を、すれ違う人とぶつかる事も厭わずに、ひたすら縁達のいる反対方向を、モールの出口を、ひた走る。

 今日はウィンドウショッピングで何も買って無くて良かった、そんな余計な事を頭の片隅に浮かべ、綾瀬は体の限界も無視して走り、いつの間にか、家の近くの公園──初めて縁と出会った場所に居た。

 

「──はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 足も、肺も、心臓も、全部が悲鳴を上げている。

 しかし、それ以上に悲鳴を上げたいのは綾瀬の心だった。

 

「──られた」

 

 公園の真ん中にあるベンチ──以前彼に抱きしめられた場所──に顔を埋める様にもたれかかり、誰にも聴こえない声で、綾瀬呟く。

 

「──とられた、とられた、とられた、とられた、とられた取られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた盗られた──盗られちゃった!」

 

 気がつけば、汗ではない雫が綾瀬の頬を伝う。

 大粒の涙だと気付くのに時間は掛からなかった。

 

 恋人同士のデート。

 それ以外、さっき自分がみた景色を説明出来る言葉は無い。

 大好きだった幼なじみを、園子に奪われたのだ。

 その事実が、この上なく綾瀬を苦しめる。

 

 許せない。

 許さない。

 横から泥棒みたいに掠め取って、絶対に許せるはずが無い。

 

 悲しみが怒りに、怒りが憤怒に変わっていく。

 憤怒が殺意に転じる──縁が最も恐れている事態になるのも、時間の問題だったが──、

 

『私が今、皆さんと楽しく過ごせているのは、本当に綾瀬さんのお陰なんですね』

 

 この前彼女が自分に向けてくれた笑顔と、心からの言葉を思い出して──、

 

『幼なじみと言ってもただの他人だって、綾瀬さんも分かりましたよね? だって、昔から一緒に居て教室も同じなのに、今回お兄ちゃんのために何も出来なかったじゃないですか』

『これからも『幼なじみ』として、分を弁えてお兄ちゃんと一緒に居てください。よろしくお願いしますね?』

 

 これまで何度も綾瀬の頭の中に刻まれた、渚の言葉がここに来てまた出て来た。

 

 そうだ、渚にこの言葉を言われて、自分でも言い返せない現実に押し潰されて、縁から距離を取ったのは自分では無いか。

 渚に負けず、今まで通り彼の隣に立ち続けて居れば、少なくとも園子の付け入る隙は無かった。

 

 取られた? 盗られた? 違う。

 自分から縁を明け渡したのだ。誰にでも手が届く様に離れたのだ。

 それでも縁は変わらず自分との距離を詰めようとしてくれていたのに、それすらも全部払い除けて来たのは誰だ? 

 他らならぬ、自分自身だ。

 

 何もかもが、何もかもが、全部全部全部、自分で招いた結果なのだ。

 なら、縁と園子が付き合っても、何一つ文句を言う資格は無いだろう。

 

 それに、綾瀬にとっても既に園子は大事な友人の1人になっていた。

 そんな彼女が、縁に恋心を抱いてるのは、分かりきっていた事だ。

 その上で縁の隣から自分が消えれば、彼女が動く事だって当然の事だと、冷静さを取り戻しつつある綾瀬の理性は判断する。

 

「あは──っ」

 

 ベンチに顔を埋めたまま、綾瀬は渇いた笑い声を、ほんの僅かに絞り出す。

 

「──そっか」

 

 混乱し、倒錯していた思考が落ち着きを取り戻して、ようやく改めて事実を受け止めて、綾瀬は自分に言い聞かせる様に言う。

 

「終わったんだ、私の、初恋」

 

 幼なじみとしてずっと、隣で見て来た男の子。

 いじめられて泣いていて、守ってあげた。

 少し頼らなくて、優柔不断な所もあった。

 

 気がつけば背丈を越され、頼り甲斐が生まれ、恋をしていた。

 そんな存在が、もう届かない場所に居る。

 

「終わっちゃった……終わっちゃったよう……」

 

 誰も居ない、誰も見ていない、2人の初まりの場所で。

 綾瀬は、声を上げる力すらも無く、ただひたすらに失恋と喪失に涙を流した。





ヤンデレCDの系譜である、ヤンデレASMRを購入しました。
ヤンデレCD5とも言えるこの作品、今回で2作目ですが、読者の皆様は既に聴いてますでしょうか?
内容はR18なので年齢制限のかかる物ですが、ストーリーの随所に過去作のオマージュがあって、往来のファンなら買って後悔しない物だと個人的には思いました。
令和の世でまだコンテンツが続いてる事に感謝して、今日も生きてます。

二次創作ではありますが、自分もエタらずに書き進めたいと思います。
良ければ感想お待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4病 マンネリ

感想やお気に入り登録、評価ありがとうございます。

作中も晩秋で季節の変わり目ですが、リアルも梅雨が近いのでお体に気をつけてください


 園子と出かけた2日後。月曜日の教室に、俺は普段より少し早く到着した。理由は特に無く、単純に俺も渚も早起きして、朝の始まりが20分程度早かったから。

 

 俺は登校時に前方に学生の姿が全くいないと不安に駆られるから、小学生の時から登校時間は1番学生が居る時間帯を狙っている。

 それが普段より早まったのだから、当然の事、朝の通学路を歩く学生の数は少なくて、朝練のために早出してる人がチラホラ見られる程度。

 渚と2人で『たまにはこの時間に超余裕持って出るのも悪く無いね』と話しながら、悠々自適に歩く朝だった。

 

 当然の事だが、教室の1番乗りは俺だった。

 放課後でも無いのに誰も居ない教室と言うのは中々に不思議な雰囲気だが、それもこの後大した時間もかからない内に、喧騒で満ち溢れるようになる。

 換気目的で窓を開けて、外から入る風を顔に感じながら自席に座り、今日の始まりを待っていると、割とすぐに教室の扉がガラリと開く音がした。

 どうやら本日2番目の到着者が来たらしい。せっかくだから朝の挨拶でも決めようと顔を向けると、入って来たのは──、

 

「綾瀬、お……おはよう」

「っ……おはよう」

 

 朝の一発目から綾瀬だった。

 いや当然の事、今日必ず会う事は分かっていたけど、そう言えば最近綾瀬は朝早く出てるんだった。そりゃこうなる可能性も大きいか。

 だが、動揺こそしたけども綾瀬とはこの前一緒に帰ってから少しだけ話しやすくなっている。まだ気まずさは残ってるが今までよりはかなり楽だ。

 それに今日は、会話を弾ませる秘策があったりする。絶対に今週中に綾瀬と仲直りするんだ。

 

「……今日は、早いんだ」

 

 心の中で意気込んでいると綾瀬の方から話しかけてきた。

 良い傾向だ、まだ他のクラスメイトが来ない内に、ちゃんと会話を重ねていこう。

 

「早起きしちゃってさ。もっとゆっくり朝を過ごすのも考えたけど、手持ち無沙汰になってさっさと登校しようって考えになったから」

「そうなんだ……渚ちゃんも?」

「うん、2人揃って。まあ渚に関しては俺が動いた音を聞いて起きたって可能性もあるけど……いや多分そうだわ」

「ふふっ、渚ちゃんらしいね」

 

 無理なく交わされてる会話に内心ほぉっと安堵の息を漏らす。

 渚の名前が出た時、一瞬先行きに不安を覚えたけれども、綾瀬の様子はあまり変わらないままだったから良かった。

 そこで心に余裕が出来たからだろうか、ふと、綾瀬の顔を見て気付いた。

 

「綾瀬、目元少し腫れぼったく無いか?」

「えっ?」

「ちょっと充血してるし、目に何か炎症とか起きてるんじゃないか?」

「……あー、うん、これね! 昨日ちょっとその、夜に映画観て、遅くまで起きちゃったのと、内容に感動しちゃって、それでかな?」

「……そっか、なら良かった」

 

 朝早いのに遅くまで映画ってのも、睡眠時間的にどうかと思いはしたが、そこまで言及するのはやめておいた。

 

「あのさ、綾瀬」

「なに?」

「今日、久しぶりに一緒にお昼食べないか?」

 

 “もちろん悠も入れて3人でさ”そう早口で付け加える。

 先日一緒に帰った事で、確実に綾瀬との距離は元に戻る傾向にある。お昼には秘策も出せるし、絶対にここは一緒に食べたい。

 

……なんで

「ん?」

 

 一瞬、綾瀬が何かを口にしていたのだが、何と言ったのか聞き取る事が出来なかった。

 すかさず聞き直そうとしたが、廊下から複数の生徒の声が聞こえて来て、それがクラスメイトの物だと分かった。

 綾瀬はきっと、2人だけの時にしか会話しようとしない。ここ最近の傾向からそれを察した俺は、口惜しいが朝の会話はここまでだと判断する。

 

「──ごめん綾瀬、無理にとは言わないから、良かったらお昼にまた声かけてくれ! じゃ!」

「……っ」

 

 矢継ぎ早にそう言って、俺は一旦教室を出て手洗いに向かった。

 この時の俺は、自分の伝えたい事を口にする事だけに意識を向け過ぎて、綾瀬の様子が明らかにおかしい事にまで、気づく事が出来なかったのだと、後から知る事になる。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 早起きは三文の徳ってことわざをご存知だろうか。

 早起きすれば何かしらの利益を受ける事がある、という意味だ。

 特にそれを意識した今日では無いのだが、1時限目が現国の授業だったのもあってか、ふとこの言葉を思い出して、ひょっとしたら何かしら恩恵を受けるかもしれない。なんて期待を持ったりした。

 

 だが、結論から言う。

 全くもって、徳なんて無かった。

 早起きして朝食も取ったが、覚醒時間が早かったせいか、お腹が減るのも普段より早かった。俺は空腹になると眠気が出て来るタイプなので、おかげさまで3限目あたりからかなり怪しく、船をこかない様に必死に耳とか手のツボを刺激していた。

 

 その甲斐もあって、どうにか難関である4限目の古文漢文でも起き続ける事が出来た。ただし、授業内容についてはもう殆ど覚えていないし、ノートもミミズが死にそうで足掻いた後みたいな黒い線しか書かれてないから、後で自主学習が必須になってる。

 

 大体、三文の徳の三文ってのは調べてみたら、大昔の通貨で現代で換算すれば100円行くか行かないかくらいだと言う。

 毎日三文稼げばそりゃ確かに一年も経つ頃にはそこそこな利益になってるけど、別にこれから毎日三文稼ぐつもりも無いし、期待する方が間違っている。

 

 だいたい、三文って言えば悪い言葉として使われる『三文芝居』でも出て来るワードじゃないか、本当に『早起きは三文の徳』が良い事を指すことわざなのかすら怪しくなって来たぞ。

 

「おーい、野々原、なんかイラついてる?」

 

 クラスメイトの七宮(意外にも俺が夏休みに祭りのバイトとして短期間だけ足を運んだ、七宮神社の巫女さんのいとこだった)が、呆れた顔をしながら声をかけて来た。

 どうやら心の声がまんま顔にも現れていたらしい。返事をする前に咳払いをしつつ、メンタルをリセットさせる。

 

「──ちょっと、空腹と睡眠欲のダブルパンチで思考が飛んでた」

「元に戻れた様で何よりだよ。何つーか、ヤンキー漫画に出て来るキレッキレな不良みたいな顔付きになってたからな」

「それは誇張表現過ぎだろ幾らなんでも」

「んな事ねえよ、河本と綾小路もお前に声かけたがってたのに怖い顔してるから困ってんぞ」

「えっ!」

 

 慌てて七宮が指さす方へ顔を向けると、そこには確かに見るから困ってる雰囲気全開の顔をしてる綾瀬と、苦笑いを浮かべて小さく手を振る悠がいた。

 

「……なんつうか、お前らが3人揃うの久しぶりじゃね? と言うか河本とは、か」

「……まぁな」

「何やったか知らんけども、ちゃんと仲直りしろよ?」

「おう、分かってるよ」

 

 七宮との会話もそこそこに切り上げて、急ぎ2人の元に駆け寄った。

 

「ごめん、眠気にやられてた」

「みたいだね、今も眠そうな顔してるよ、君」

「あーマジ? ちょっと顔洗って来るわ」

「了解、じゃあ僕らは中庭で席を取って来るよ」

「ん、って事は綾瀬は……」

 

 今の言い方はつまり、綾瀬も今日は一緒にお昼を食べると捉えて良いのか? 

 そう言う意味も込めて綾瀬に視線を向けると、一瞬だけ目が合ってすぐに逸らされたが『……誘ってくれたから』と小さく頷きながら言った。

 

「……ははっ、そっか。良かった」

 

 眠気が晴れた、とは言わないけども。

 ちょっと安心して、気力が幾らか戻った気がする。

 少なくとも、手洗い場に行くまでの道で眠りこけて倒れる事だけは無さそうだ。

 

 

 廊下を早歩きで駆け抜けて、速攻で顔面に水を吹っかけて、俺は足早に弁当手に中庭へ向かった。

 同じ様な目的で外に出た学生らの間をすり抜けつつ、綾瀬達がいる場所を探し回すと、ものの数秒で見つけた。

 

「お待たせです、悪い待たせた」

「大丈夫大丈夫、眠気は覚めた?」

「オウお陰様で、バッチリ」

 

 席についてカバンから弁当を取り出す。

 実は秘策というのは、この弁当だ。

 

「なぁ綾瀬、この前帰った時に話した事、覚えてるか?」

「え? えっと……確か、酢豚が──」

「そう! 今日はこれを綾瀬にも食べて貰いたくてな!」

 

 そう言って勢いよく蓋を開けて見せたのは、雪辱のパイナップル入り酢豚。

 食べる前から批判の声が続出したパイナップルの悔しさを歓喜に、食わず嫌いの心なき批判を万感の賞賛に変えるため本気で作ったものだ。

 

「本当に作ったんだ……しかも結構パイナップル入ってる。わぁ……」

「チンジャオロースと言いながら実際はタケノコばかりな物は許せないが、パイナップルの多い酢豚は問題無い」

「君のそのパイナップルへの信頼はどこから生まれてるのさ」

 

 予想通り、綾瀬は昨今の微妙な距離感も頭から離れて素のリアクションを見せている。かなり動揺しているみたいだ。

 悠も俺がパイナップルを入れる派だと分かってるが、こうして弁当に持って来る事は初めてだったから、驚き半分呆れ半分という具合だ。

 

「さぁ、食べてみてくれ。中華は全般で綾瀬の方が上手だけど、今回は不味いとは言わせねえから」

「う、うん……」

 

 俺の気迫に押されて、恐る恐る箸を伸ばす。

 

「それ、肉だぞ」

「わ、分かってるわよ。間違えただけ……」

 

 さり気なく肉から行こうとしたのを制して、パイナップルを取らせる。

 

「もう、強引なんだから……えい!」

 

 不本意ながらも終始いやいやだったが、綾瀬は観念したのか意を決してパイナップルを口に入れた。

 最初は露骨にいや嫌だった綾瀬が、もぐもぐと噛み締めてる内に、やる気の感じられない目に別の感情が宿り始めたのを、俺は見逃さなかった。

 

「思ったより食べやすい……意外」

「だろ? その後に肉食べてみな」

「うん……凄い、甘いし柔らかい」

 

 狙い通りの反応で大変満足だ。

 パイナップルは入れるタイミングが悪いと、タンパク質やら何やらが壊れて、果肉も栄養も台無しになる。

 下手すると果肉がささくれた様になって、ただ食べづらい割に主張の強い塊にしかならない。それを避けるためにベストなタイミングで投入したんだ。美味しくて当然だ。

 

「あんをかけるのと同じくらいのタイミングでパイナップル入れるのが良いんだよな。あと、切り方。結構丁寧に美味しく食べられる様に気をつけたんだ。手間はかかったが、その甲斐はあったね」

「本当にビックリした。あなた、いつの間にか料理も上手になってたんだ」

「台所立ってれば自然とね。まあでも、綾瀬や渚にはやっぱり及ばないよ」

 

 1番敵わないと思うのは栄養バランスを考える事だ。

 ここだけの話、余程難しい料理でも無けりゃ、今の時代レシピ通りに作ればまず美味しくなる。大事なのは毎日、コツコツと、栄養バランスを偏らせずに料理の献立を決める事。

 その点で言えば、俺はまだまだだと言わざるを得ない。

 

「うーん、全く作らない僕にとって耳が痛くなる会話だ」

 

 自虐的に笑いながらパイナップルを頬張り、悠が嘆く。

 昨夜の言葉じゃ無いけど、綾小路家は本来俺らとこうして過ごす事すら無い筈の大富豪だし、自分で料理作らなくても何の問題も無いだろう。

 そう言うと、悠はどこまで本気で言ってるかは分からないが、冷ややかにこう返して来た。

 

「いや分からないよ? 綾小路家だって事業を失敗したら瞬く間に零落するかもしれない。その時にお粥の1つも作れないんじゃ死ぬしか無い」

 

 縁起でもねえ事言うなとは思ったが、確かに世の中何が起こるか分からないのは確かだ。

 

「まあ、もしお前が露頭に迷う事があったら、俺の家に住めば良いよ。間違ってもホームレスにはさせねえから」

「……ふふっ、君と暮らせるなら、それも悪く無いかもね」

「ちょっと、悠君。変なこと言わないの」

「失礼しました」

 

 悠の冗談にツッコミを入れる綾瀬に、敬礼しながら頭を下げる悠。

 こんなやり取りも、本当に久しぶりに感じる。

 願わくばこれからも……そう思った所に、綾瀬がふとこんな提案を持って来た。

 

「ねぇ、縁。これからお昼の時は園子も呼ばない?」

「え? なんで?」

「何でって……園子、クラスは違うけどいつも私達と放課後は一緒なんだし……なんか、1人だけ違うって言うのが気になっちゃって」

「あぁ、確かにな……」

 

 言われてみればその通り。

 園子は園子でクラスの友人と過ごしてると思って特に気にしなかったが、こうして園芸部メンバーの高校生組4人の中で、園子1人だけはぐれてるんじゃ良いもんじゃ無いってのも頷ける考えだ。

 取り敢えず、誘うだけ誘ったって悪く無い。

 

「そうだな! 早速今日声かけてみるよ!」

 

 綾瀬がこうやって園子の事を気にかけてくれるのが嬉しくて、笑顔でそう言った。

 

 実際、ヤンデレCDの知識だけで綾瀬と園子の組み合わせを考えたら、終始険悪で最悪な物だ。

 CDの綾瀬編だと、最終的に殺しはするものの渚は当初貼り付けにしただけなのに対し、園子については拷問の果てに『ブスは死ね』と連呼しながら心身共に追い詰めて殺した。

 園子編でも、渚の事は見逃したが、綾瀬の事は腹にスコップをブッ刺して殺し、校舎の花壇に埋めている。

 

 基本、CDにおいて“河本綾瀬”と“柏木園子”は、文字通り殺し合いしかしてないのだ。

 そんな殺伐の極みだったCDと違い、綾瀬と園子は今や良き友人同士で、互いの事を考え思い合ってる。

 当初、綾瀬が園芸部に入部した時はどうなるかと思ったが、それだけの関係を築いたのならば、余程の事がない限りCDの様な殺し合う関係にはならないはずだ。

 

 現に今もこうして、綾瀬は園子だけ仲間外れになっている状況を良くないと思って話に上げたのだから。

 

「……うん、必ず声かけてね、お願いよ」

「任せてくれ。そのうち一回は園芸部全員でお昼食べるとか、しても良いかもな」

「咲夜が応じるとは思わないよー?」

「主にお前が嫌がる方に100$賭けるぜ」

「おー、100$なんて金持ってたんだ君」

「テメェ久しぶりに金持ちマウント取ったな? それはライン越えだぞお前」

「僕に咲夜関係で煽るのも大概ライン越えだと理解したまえよ親友」

「やめなさい馬鹿2人」

『失礼しました』

 

 台本でもある様な勢いで漫才じみた会話をする。近くで聞いてる生徒達も密かにクスリと笑ってたので、まぁ良いとしよう。

 兎にも角にも、こうして綾瀬とまた楽しくお昼ご飯を食べたし、ようやく、ようやく俺の日常は安寧を取り戻し始めたのだと、強く実感する事が出来る時間なのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 あっという間に時が過ぎ、放課後。

 今日も今日とて、花壇の植え替えが待っている。

 

 何かがおかしい。

 

 綾小路悠夜は、今日のお昼に河本綾瀬を見てからずっと思っていた。

 今日の昼、ここ暫く両者の関係が優れなかった縁と綾瀬が、久しぶりに(自分を挟んでだが)お昼ご飯を一緒に食べた。

 まだ会話にぎこちなさは残ってたが、縁はようやく幼なじみとの時間を取れて嬉しそうにしていた。しかし、河本綾瀬はそんな縁に対してこんな提案を出した。

 園子もこれから呼ばないか、と。

 

 この後すぐに彼女が口にした誘う理由は、一見すると至極真っ当でかつ、園子を思っている人間だからこそ口に出来る言葉だと思うだろう。綾瀬と過ごした時間が長い縁も、その理由を違和感なく信じ込み、アッサリと今後は園子も交えてお昼を過ごす事を決めた。

 

 しかし、2人を当事者同士ではなく第三者という立場から見て来た悠は、だからこそ、そのおかしさに気づけた。

 河本綾瀬が縁に恋心を抱いてる事は、彼女と彼の今までの関係を知る者ならある程度簡単に分かる。

 そして悠は、綾瀬がどれだけ縁の側に居る事に執着して来たかを見ている。

 日頃の接し方、いいままで所属してた委員会を辞めてまで無理やり入った園芸部、園子や咲夜の問題に、微力ながらもどうにか役立とうとする姿勢……そのどれもが、他者を牽制して、縁の隣に居続けるための彼女なりの努力だったはず。

 その綾瀬が、アッサリと、縁に園子も誘えば良いと言った。

 

 “唯一共にお昼を過ごす異性”という、絶対的な立ち位置を降りたのだ。何なら関係性がおかしくなってからでさえ、他の女子が縁に近寄ろうとする度にそれとなく妨害して来た綾瀬が! 

 これが異常でなければ何なのか。

 よりによって縁は綾瀬との関係が戻りつつある事にのみ意識を向けて、些細ながらも確実な変化に気付けていない。

 

 ならば自分が指摘するべきなのかもしれない。

 だが、そうする事は大いに躊躇われた。

 理由は3つある。

 

 1つ。これらはあくまでも自分の杞憂である、という可能性が残っているから。

 2つ。2人の関係がズレ始めたキッカケには、確実に自分──厳密には学園の後期が始まり早々に起きた綾小路家の問題があって、そんな自分があれこれと口にするのは烏滸がましいにも程があるから。

 3つ。本当に異変が杞憂でなく事実だとしても、これは彼と彼女、幼なじみ同士で気付き、解決すべき事だと思っているから。例えそれが大きな衝突な感情のぶつかり合いになり、互いが傷つく未来だとしても。

 

 しかし、まずは何よりも本当に考え過ぎであれば何よりだ。

 そう自分の中に立ちこもる不安にふたをして、悠は午後からの授業も終え、今日も今日とて渦中の人物全員が集う園芸部室へと向かったのだった。

 

 ──そうしてすぐに、やはりこの不安は杞憂では無かったのだと、思い知る出来事が起こる。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「規模が緩い」

 

 部活動の時間。全員が集まり、園子が今日の活動内容を確認しようとした矢先、実態のある幽霊部員(来てるけどサボってる奴)の咲夜が唐突にそう言い放った。

 

 何を言い出すんだ? と素直な反応を示すのは園子だけ。

 後は厄介な事になりそうと苦い顔をする渚や俺。そして『また始まった』と先の未来を予知しつつ絶望して頭を抱えるのが悠。

 後はそんな悠を見て心配そうにする綾瀬だ。

 

 まさに三者三様ならぬ、五者五様の有様を見せる園芸部員メンバー。

 咲夜はそんな俺達に目もくれず、先程の発言の続きを述べた。

 

「毎日毎日、掘っては植え、植えては埋めて、掘っては植え、植えては埋めての繰り返し。いい加減うんざりして来た。良く飽きないなって逆に尊敬するレベルよ」

「まぁまぁ、それが園芸部の主な活動の一つですから」

「それが良くないのよ! 園芸部だからこの程度しか出来ないなんて、アタシが居るのにそんな体たらくが許される筈ないでしょ!?」

「おい咲夜、お前誰に向かって口聞いてるんだ。だいたい普段からサボってる奴が言える義理じゃないだろ」

 

 悠が間に入って咲夜を止めようとするが、咲夜の口がそれで止まるわけもなく。

 

「黙りなさい、亜流。サボりじゃないわ。“アタシが動くに相応しくない活動”というだけよ。政治闘争から逃げた腑抜けのアンタとは違って、真の貴族の腰は重いのよ」

「……っ、随分と言ってくれるじゃないか。それじゃあお前が動くに相応しい活動ってのは何か言ってみなよ」

「言われなくてもそのつもりよ、アンタが割って入らなきゃとっくに──まぁ良いわ、来なさいアンタ達!」

 

 そう言って咲夜が指をパチンと鳴らした途端、部室の扉をガラリと開けて、よく咲夜の紅茶を注いだりしてるお給仕係の生徒が入って来た。

 両手に、何かがパンパンに詰まった袋を何個も持ちながら。

 それらを俺達の前にストンと置いて、声も無く静かに部室から出て行く。

 俺らはもちろんの事、喧嘩腰だった悠ですら呆気に取られた中、1番最初に動いたのは園子だった。

 

「──これ! もしかして種と苗……それに肥料ですか?」

「その通りよ。流石部長してるだけあって気付くのも早いわね。アンタ達も見習いなさい、特に縁」

「そこでいきなり俺に振るなよ」

「わぁ、これ凄いです! どれも日本じゃ希少で中々手に入らない植物の種や苗ばっかりですよ!」

 

 昨夜の標的になりそうなのをすんでの所で躱すと、園子が袋の中身を見ていつになく興奮し始めた。

 

「凄いです咲夜さん! こんなに沢山! どうやって集めたんですか?」

「ふん、こんなの造作もない事よ。アタシを誰だと思ってるの?」

「これ、私達のために持って来てくれたんですね、ありがとうございます!」

「べ、別にアンタ達のためってワケじゃ──って急に抱きつかないで! 胸が顔に当たって息でき──」

 

 嬉しさ余って感激100倍、と言った感じの園子が、咲夜が言葉を言い切る前に抱きしめてピョンピョン跳ねた。

 まだ袋の中をちゃんと見てないけども、園子が珍しい行動ばかり取っているのを見ると、不思議とほっこりする。

 普段から生意気極まりない言動をする咲夜も、顔面を園子の胸に押し潰されてるせいで、手をもがもがしてるばかりで完全に無力化されている。

 まるで歳の離れた……と言っても中1と高2だから4歳差だが、姉妹みたいな雰囲気で面白い。

 

「はーなーしーなーさーいー!」

 

 まだ解放されずにもがいてる咲耶の声をBGMにしつつ、俺も袋の中身を確認してみる。

 なるほど、確かに聞いたこともない品名が書かれた紙の付いた包装の中に、種やら苗が入っている。その中に何か俺でも知ってる物がないか探してみたが──え? 

 

「なぁ、咲夜」

「──ぷはっ! ちょっともう離しなさいよ! ……で、何よ、アンタもアタシに感謝の意を示したいワケ? 良いわよ、さぁ言いなさい!」

「これ、トリカブトって書いてないか?」

「あぁそれ? 確かトリカブトの中でも希少種らしいわよ、ハナカズラ? とか? ……それが何か?」

「何かじゃねえよ! 毒持ち植物育てられるワケねえだろ!」

「え、毒あるの!?」

「知らなかったのかい!」

 

 危なく学園に危険地帯を生み出す所だった。

 ハナカズラ──つまりトリカブトは、昔殺人にも使われた事があるレベルで毒の強い花だ。種類によっては花粉にも毒が入ってるので、春の花粉飛び交う季節は注意しなきゃいけない。

 スマートフォンで軽く調べたが、確かにハナカズラってのは希少種だ。しかし、流石に毒花を学園に植えるわけにはいかないだろう。

 

「それだけじゃないよ」

 

 悠も袋の中を漁って、1つの苗を持ち出し言った。

 

「これ、バオバブだよ。確かに日本でも自宅で育てる人は居るけど、咲夜、君絶対外に植える気満々だったろ」

「当たり前じゃない」

「ここをアフリカやマダガスカルにしたいのかい? 仮に外に植えるにしても、今からの季節じゃすぐに枯れるよ」

「何とかしなさいよ、そのくらい」

「咲夜、馬鹿な君にも分かるように言うが、それは一週間で庶民に貴族並みの日収を収めろと言うレベルだ」

「何よそれ、絶対に無理じゃない。絶望的ね」

 

 金持ちにしか通じない例え話を交わす2人を後ろに、咲夜から無理やり離されて、少しだけ冷静さを取り戻した園子も袋の中身を見て言う。

 

「確かに……毒があるのはハナカズラだけみたいですが、その他にも気候的、植える面積、飼育面積的な理由で難しいのも多いですね……全体の4分の1くらいしか使え無さそうです」

「環境が理由だって言うなら、植物園を作れば良いじゃない」

「現代のマリーアントワネット理論はやめろ。その先は公開処刑だぞ」

「既にアタシを全校生徒の前で辱めたアンタが言う言葉じゃないわよ」

「ぐぅの音も出ねえ」

 

 急に正論ぶちまかされてなす術がなくなる。

 代わりに悠が止めに入った。

 

「こんな事したら、ただでさえ査問委員会の件で憎まれてる君が入部して、悪い意味でも目立ってる園芸部なのに、尚更悪目立ちするだろ」

「むしろアタシが居るんだから、それくらいしなきゃ威厳が無いじゃない」

「元から無いから安心して。というか園芸部で威厳放ってどうしたいのさ」

 

 水掛け論の様に言い合いが続くばかりで、このままでは咲夜の突拍子の無い発言が現実になりかねない。

 どう説得すべきか悩んだところに、園子が後ろから咲夜の肩に手を掛けて、宥める様に語りかける。

 

「咲夜さん、気持ちは分かりますし、こうして咲夜さんなりに園芸部を盛り上げようとしてくれるのは嬉しいですが、もし私達だけ植物園を建ててもらったら、他の部活動も専用の施設を沢山作らないといけなくなります」

「急に何よ、頭に胸押し付けないで……まぁ言いたい事は分かるけど。専用の練習場作れ位は言い出すでしょうね」

「そうです。もしそうやって要望を全部聞いていくと、学園の財政が壊れちゃいます。そうなったら学園も経ち行かなくなるし、果ては綾小路家の皆さんが笑われる原因にもなりかねません」

「……確かに、そんな理由で潰れたら、事業失敗なんて物じゃ無いわね、大恥もいい所だわ」

「なので、今日は今からでも植えて良い物だけを使う事にしましょう? その他については、私が先生と相談してどうするか決めますから」

「……分かったわ。だから離れてって。アンタ最近距離感近くない?」

「はい……ふふ、分かってくれてありがとうございます」

 

 そうして、余りにもアッサリと咲夜を宥める事に成功した園子。

 驚く事に、1番咲夜の扱いが上手なのは園子らしい。因縁浅からぬ関係のはずなのに、人の相性は分からない。

 

「それじゃあ、班分けしなきゃダメよね」

 

 綾瀬が場の空気を切り替える様に手をパチンと叩きながら言った。

 

「今から植えられる物もそうだけど、先週からの残りもあるし、今日は綾小路さんが持って来たのを部室で振り分けする班と、外に出て続きをする班に分けない?」

「はい。それで良いと思います。では──」

「じゃあ私と悠くんと渚ちゃんで外に出るから、後の3人は振り分けお願いね!」

 

 綾瀬が捲し立てる様に班分けを決めていく。

 すかさず、文句を立てたのは渚だった。

 

「ちょっと綾瀬さん! この前と違うんですけど」

「いつも同じ顔ぶれだとマンネリ感あるじゃない」

「だからって勝手に──」

「この中で植物に詳しいのは園子と縁。それに綾小路さんは自分が持って来たから何があるか分かるでしょ?」

「まぁ、汚れるよりはまだマシね。分かったわ」

「綾小路さんまで……」

 

 意外にも咲夜が素直に同意したせいで、渚が文句を言えなくなってしまった。

 俺も、綾瀬の話す理由には一理あると思ってしまったので、取り立てて反対も出来ない。

 

「渚ちゃんはお兄ちゃんと一緒に動きたいのは分かるけど、今日はわがまま言わないで頑張りましょう? ね?」

「……別に、わがままなんて言って無いです」

「それじゃあ、早速始めましょ!」

 

 不満を抑える渚を横に、綾瀬が音頭をとる。

 その振る舞いは普段通り快活で、俺の中に一瞬だけ生まれた違和感も、あっという間に萎んでいった。




今更ですが、私は個人的にヤンデレCDの推しヒロインってのが固まってなかったのですが、今は小鳥遊夢乃がダントツで推しです。
「夢見じゃないの?」って方はぜひ、18歳以上になってから調べてみてください。

ではまた。
感想お待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5病 オモイ と オモイ

「当てつけですか?」

 

 植え替え作業の傍ら、渚は綾瀬にヒソヒソ声で言った。

 

「何が?」

 

 目をパチクリしながら、キョトンとした顔で答える綾瀬。

 本当に何を言われてるか分からない、と言った様子に内心の苛立ちを一段階挙げつつ、表には出さずに渚は言葉を続けた。

 

「この前の、保健室で私が言った事についての当てつけかって聞いてます」

「……あぁ、その事ね」

 

 渚の言いたい事を理解して、一度頷いた綾瀬は、顔色や声色を変える事も無くアッサリと答えた。

 

「違うわよ?」

 

 そんなわけがない。渚は綾瀬が露骨な嘘をついてる事に、先ほどまでどうにか抑えていた乱暴な気持ちをついに吐き出してしまう。

 

「嘘よ、じゃなきゃお兄ちゃんと私を引き離そうとする理由なんて無いでしょ?」

 

 しかしこれに対しても綾瀬は調子を崩す事なく、癇癪を起こす幼児をあやす親の様な態度のままだった。

 

「渚ちゃん。私、本当にあなたには当てつけとか思って無いわよ? それに」

「それに、何です?」

「あなたの言う通りだと思うから。私はただの幼なじみで、それだけなの。あなたから見ても……縁にとっても」

「……どうかしたんですか?」

 

 渚自身も意外だったが、口から出た言葉はまさかの心配の声だった。

 その位、今目の前で平然と佇む綾瀬は“異常”に映ったからだ。

 綾瀬が自分の事をただの幼なじみだと認める分には構わない。だが、縁も自分をそう思ってるという発言については、看過出来なかった。

 

 縁が今も綾瀬の事を気にしているのは、妹という立場に居なくとも彼を見ていれば分かる事だ。縁はどうにかして、綾瀬との関係を修復したいと思っている。

 その根幹にある感情が何かや、そもそも発端が渚自身の発言にある事などは別として、縁が綾瀬を“ただの幼なじみ”以上の想いを持ってるのは明確。

 

 にもかかわらず、綾瀬自身が、縁の気持ちに気づいていない。

 いや、敢えてシャットアウトしているのか? 

 いずれにせよ、今の綾瀬の心理状態が、今までの物とは違っている事だけは確かだった。

 

 それ故に、渚は思わず、少なくとも“心にも無い”ワケではない心配の言葉をかけてしまった。

 

「……渚ちゃんが私にそう言うなんて、珍しいね」

「あっ……えっと」

 

 案の定そこについて言及され、思わず語勢を弱めてたじろぐ渚。

 そんな様子を見て小さく笑いながら、綾瀬はどこまでも“いつも通り”に渚に言った。

 

「本当に何も無いし、大丈夫よ」

「……そうですか」

「ほら、今日中に全部終わらせちゃいましょ」

 

 そう言って、自分の手を洗いに一度手洗い場へと向かっていく綾瀬。

 そんな綾瀬の後ろ姿を見て、渚はうまく言葉にできない気持ちを心の中でぐるぐると立ち巡らせて、やがて吐き出す様にため息をついたのだった。

 

「……本当に大丈夫なら、その腫れてた目元の理由くらい言ってみなさいよ」

 

 兄の縁は気づいているのだろうか。

 綾瀬の目元の僅かな腫れは、昨晩泣き腫らした人間のものだと言う事に。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ない、ない! ……うわぁーどうしよう!」

 

 教室で自分のランドセルの中身を見ながら、少女が困った声を上げていた。

 既に帰りの会が終わって、殆どの子が家路か児童館に向かっている中、少女だけがクラスに残って、何かを探している。

 ランドセルの中を隅々まで探したあと、机の中や教室の後ろにある荷物入れのロッカーなど、隅々まで細かく見るが、どこにも目当てのものは無い。

 先生が『一緒に探す?』と声をかけたが、少女はその申し出を慌てて断った。それなら、と先に職員室に帰っていった先生の背中を見てから、また探し始める。

 

「どうしよう……あれを見られたら……」

 

 人手はあった方が良い。しかし、少女は決して誰にも、自分の探し物を他人に見られたくは無かった。今こうして探してる間にも、誰かが見つけてしまったら──。

 最悪の未来を想像して、思わず身震いしてしまう。そんな思いを払拭する様に頭を振り、少女はもう一度ランドセルから見直す事にした。

 

 そんな少女に、教室の入り口から声をかける人物がいた。

 

「おーい、何してんだよ」

「きゃっ──!」

 

 声をかけたのは、少女の友人であるクラスメイトの少年だった。

 陽の当たり方ではオレンジ色に見える時もある、グラデーションのかかった薄栗色の頭髪を揺らしながら、少年はスタスタと少女の前まで近づく。

 

「何か探してた? 俺も手伝うよ」

「え! い、いいよ大丈夫! 1人で見つけるから!」

「大丈夫に見えないって。すごく困った顔してるよ?」

「……そんなこと、ないもん」

「しーてーるー。……あっ分かった! ゲーム持ってきてたんだろ、だから誰にも見られたく無いとか」

「ち、違うわよ! そんな事するわけないじゃない!」

「ん? じゃあ人に見られても問題ない物って事でしょ? だったら一緒に探した方が良いじゃん」

「う……それは、その、えっと」

 

 思わぬ誘導尋問に乗せられてしまい、いよいよ断る大義名分が無くなってしまう。

 少年は、少女がもう反論できない事を確信すると、安心させる様にニカッと笑いながら言った。

 

「大丈夫! 探し物がなんだろうと、絶対何も言わないから!」

「……ほんとう?」

「本当のホント!」

「……分かった」

「で? 探し物はなんですか?」

「自由帳」

 

 自由帳、と聞いて少年の頭に浮かんだのは、前の週に彼が少女と文房具屋に行った時に買った、お揃いの表紙をした自由帳だった。

 

「この前に買ったやつ?」

「うん、そう。5時間目に外でスケッチしたでしょ? その時に落としちゃったみたいで、どこにもないの」

「あちゃー、そうなると教室探しても無いんじゃないかな」

 

 5時間目は理科の授業で、校庭に咲いてる草花を調べてスケッチをする内容だった。

 となれば教室で落とした可能性よりも、校庭や廊下で落とした可能性の方が高い。ここでいつまでも時間を浪費したところで徒労でしかない。既に心当たりを調べ尽くしたのなら、なおさらだ。

 

「外探した方がいいよ、教室は探し尽くしたんでしょ?」

「やっぱりそうだよね。じゃあ、早く行きましょう!」

 

 いそいそとランドセルを背負い、少女が駆け足で校庭まで向かおうとする。

 少年は廊下の隅々を見やって、万が一でも廊下に落ちてないかを確認しつつ、少女の背中を追った。

 

 校庭に着くと、自分達が授業中に歩いたエリアを中心に探したが、どれだけ細かく見ても自由帳らしき物は一切見当たらなかった。

 やがて、完全下校のチャイムが鳴り、これ以上は学校に居られない時間になったが、それでもやはり見つかる事は無い。

 仕方ないので、一縷の望みをかけて職員室に無いか聞いてみたところ、ノート類の落とし物こそ確かにあったが、少女の物はそこには無かった。

 

 失意の中、トボトボと家路を歩く少女の隣を歩きながら少年が元気つける様に言う。

 

「もうしょうがないから、諦めよーぜ? お母さんに怒られるかもしれないけど、また買ってもらおうよ」

「それじゃあ意味ないの……あれじゃないと」

「なんで──あぁいや、うん、なんか特別だったんだな」

 

 どうしても失くした自由帳にこだわる理由を聞きたくなったが、根掘り葉掘り聞くのも悪いと思い直して、少年はただ頷くだけにした。

 

「じゃあその代わり、明日からまた落ちてないか探すよ俺も。それで見つかったら、すぐに教えるから。な?」

「……ありがとう。でも、もし見つけたらお願いがあるの」

「ん? なに?」

「絶対に、中を見ないで。絶対によ? ぜ──ーったいに、だからね!」

「わ、分かった分かった! 見ないから! な!? 見ないで教えるから!」

 

 ヤケに強調してくる少女の剣幕に圧されながら、少年は苦笑いしつつ答えた。

 なるほど、そんなに見られたら困るものを自由帳に書き込んだのだろう、と予想が出来たから。

 おそらく、最近クラスで流行ってるポエムというか詩というか、そういう類のものを書いたのだろうなと内心で結論付け、その日はそれぞれの家に帰った。

 

 ──そして、問題は少年が帰宅して自室でランドセルの中身を出した時に起こった。

 

「アレ!? なんで自由帳2つもあるの?」

 

 ランドセルの中には、同じ表紙の自由帳が2冊入っていた。

 1つは自分の名前が書いてあるもの。そしてもう1つは──名前が書いてないが、おそらく少女の物で間違いなかった。

 

 少年が間違えたり、わざと入れたのを忘れてたわけでは無い。恐らくは落ちてた自由帳を拾ったクラスの誰かが、少年の自由帳の表紙を知っていて、親切心で机の上に置いたのだろう。

 それを自分が気づかないままランドセルにしまい、現状に至るのだ。と、百点満点の推理を脳内で披露した後、急いで少女に渡さなきゃ行けないと、自由帳を取り部屋を出ようとした。しかし、

 

「うわ、ちょっ、っとと」

 

 急に動いたのが祟ったのか、右足首を軽く捻らせてしまった。痛みは一瞬だったが、バランスを崩したせいで自由帳を手から落としてしまう。

 重力に歯向かう事なく自由落下する自由帳は、部屋の床に不時着する直前に、僅かに生じた風でパラパラと中身を開いていき、完全に中が丸見えな状態で落ちてしまった。

 

「うげ、中は見るなって散々言われたのに」

 

 思いもしない理由で少女との約束を破ってしまいそうになり、急いで目を逸らそうとしたが、

 

「──えっ」

 

 ページの右端に、うっすらと書かれた落書きが視界に入り、思わずそれに目線を向けてしまった。

 

 そこに描かれていたのは──、

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──んぁ」

 

 授業が終わったチャイムを聴いて、唐突に意識が目覚めた。

 4時限目は数学だったが、担任が急な体調不良で休みになり、授業は自習になった。

 始めは真面目に自習してたが、段々と眠気が襲ってきて、気がついたらガッツリ寝てしまったらしい。

 

「……懐かしい夢を見たな」

 

 小学校5年生頃の夢を、見ていた。

 内容は、俺の綾瀬に対する見方が大きく変わるきっかけとなった出来事だった。

 あの時の事は、今の俺と綾瀬の関係にも、きっと深く関係しているに違いない。

 何故そんな出来事を、綾瀬との距離感がぐらついてる今になって夢として見たのか、引っ掛かるところではあるが、それだけに何もかも集中するのも嫌なので、一旦は頭の隅に置いておく事にした。

 夢は夢、過去は過去。今は目の前の事に意識を集中しなきゃいけない。何故ならば、

 

「さて、席も確保できたな、良かった」

「季節の変わり目で寒くなってきたから、外で食べようとする人が減ってきたね」

「食欲の秋って言うけど、そろそろ冬だものね」

 

 昼休みに、今日も綾瀬と悠とで昼食を共にしようと中庭のテーブルに集まる事になっていたからだ。

 眠い頭に喝を入れて目を覚まし、今日も、以前の様に一緒にお昼を食べる。既に中庭のテーブル席は悠が確保していた。

 

「悪いな、今度は俺が早めに席取るから」

「なら、さっきみたいに自習で寝たりしないようにね」

「えっ、あなた寝てたの?」

「あー、まぁラスト10分前位で」

「開始10分の間違いじゃないか?」

「やめろ、言うな!」

「……まったく、しょうがないんだから」

 

 こうして自然に会話を交わし、昼を共にできるのを見ると徐々にではあるが、綾瀬との距離感が戻りつつあるのを感じて、自然と頬が綻ぶ。

 それだけでは無い、今日はこの前話に出た通り、普段の3人に加えてもう1人来る事になっている。

 

「おーい、こっちこっち」

 

 綾瀬が手を振りながら呼び込む。

 すると、校舎から出て辺りをうろちょろ見てた人物──園子が駆け寄ってきた。

 

「すみません、遅くなりました」

「大丈夫大丈夫、全然遅く無いから」

 

 授業が長引いたらしく、急いで来た様子の園子を安心させようと笑顔で答える綾瀬。

 2人の関係性も、最近は特に良好に見える。

 快活で活発。明るく朗らか。誰にでも基本分け隔てなく接する綾瀬。

 おとなしくて理知的。交友関係こそ狭いがその分深く、心にブレない芯を持っている園子。

 “ヤンデレCD”では互いを嫌悪し合い、殺し合う関係だった2人も、今では良き友人同士だ。

 

「皆さんはちゃんとお弁当を持って来てるんですね。私は学食から買って来たお弁当だから、少し恥ずかしいです」

 

 俺と綾瀬は自炊で、悠は使用人が作った弁当をそれぞれ持って来ている。最低でも悠と食べる機会が多いから感覚が麻痺してるが、両親が家にいて小遣いで月のお金をやりくりしてる学生は、だいたいがお昼は学校で売ってる弁当や惣菜パンを買ってる。

 園子もその大多数のパターンだったらしく、俺らが弁当を持参してるのが気になったんだろう。

 

「弁当って言ってもさ、俺や渚は親があちこち飛んでるから2人で生活するだろ? そしたらどうしても生活費は自分らで工面する必要があるんだよ。それで毎回学食に頼るよりも、作り置きした物を持って来た方が良いって結論になっただけだよ」

「僕は……まぁ色々ひっくるめて言えば『体裁』だね。天下の綾小路家の人間が、庶民と同じグレードの物を食べるわけにはなんてくだらない理由。……わざわざお弁当を持ってくる明確な理由は無いよ」

「私は……特に無いかな。うん、料理するのは嫌いじゃ無いし、よく家でも私が作る事多いから、お弁当もその延長線みたいな感じかな」

 

 三者三様の理由を述べる。別に大した事はないと伝えたかったが、どうも園子的には皆と違うと言う事実そのものに不満があるみたいだ。

 

「……今度、私もお昼のお弁当作ってみます」

「おー、そりゃ楽しみ。園子はどのジャンルが得意なんだ?」

「得意、と胸を張って言える物は、無いんです。恥ずかしい話ですが、掃除や洗濯はしますけど料理だけはほとんど手を出してないので……初心者におすすめのジャンルがあれば、教えて欲しいです」

「うーん、オススメってなるとあまりパッと出てこないな。取り敢えず、俺が参考にしてる料理アプリ教えるから、そこから気に入ったのを作ってみると良いよ」

「そういうアプリがあるんですね、是非お願いします」

 

 俺の提案に快く乗った園子は、俺が教えたアプリをすぐに検索して、その場でスマートフォンにインストールした。

 

「わぁ、たくさん料理が紹介されてるんですね……これなら間違いも起こさずに済みそうです」

「便利だろ? 何買えば良いか、実際にどう包丁切ったり具材を煮込んだりとか、文と映像で分かりやすい紹介してるんだ」

「はい、とても分かりやすくて便利です! 食材だけで検索も出来るんですね」

 

 俺が初めて料理アプリを使った時以上の興奮と喜び具合を見て、教えて良かったと心から思った。

 園子は何を作ろうか考え込み始めたので、俺は会話に入らなかった綾瀬と悠に意識を向けた。

 

「──とと、ごめんごめん。俺と園子だけの会話になっちゃって」

「別に構わないよ、僕も今初めてそのアプリの存在を知ったからね」

「私も平気──でも、ねぇ縁」

 

 そこで一旦言葉を止めて、綾瀬は少しの間だけ黙った後で俺を見ながら言った。

 

「どうせなら、直接教えた方が良いと思うけど?」

 

 発言の意図がイマイチわからず、ポカンと口を開いたまま数瞬固まっていたが、すぐに綾瀬は説明を続ける。

 

「私もたまにそれ見るから便利なのは分かるけど、やっぱり隣に立って教えるのが1番だと思わない?」

「それは、まぁそうだけど」

 

 それをしたら、渚や綾瀬の中でいつ地雷が炸裂するか分からない。あり得ない選択肢だ。そう思ってたのだが──、

 

「だから、縁が隣に立って教えてあげたら?」

「……え?」

 

 綾瀬の口からそんな言葉が出て来た事に、驚きを隠せなかった。

 

「何よ、私そんな変な事言った?」

「いや、言ってないけどさ」

 

 だって、それはつまり俺と園子の2人だけで時間を過ごす事に──いや、悠とか渚や咲夜を誘えば良いだけだが、とにかく、綾瀬が俺に“自分以外の女の子と一緒に居ろ”と言って来た事になる。

 そんな事あるか? 少なくとも『ヤンデレCDの河本綾瀬』なら絶対にあり得ない。この世界の、俺が今まで接して来た綾瀬にしたってそんな提案する人間じゃないのは明白だ。

 

 なのに、綾瀬はまるでコンビニに買い出しを頼む程度の軽さで、俺に園子と2人で過ごせと言ったんだ。

 

「……良いのか?」

「ふふっ、なんで私に断りを入れるの? それを聞くなら園子に対してでしょ?」

 

 見当違いな発言をする子を揶揄うように、綾瀬は笑う。

 確かにその通り。

 その通りなんだが、だからこそおかしい。

 

 前世と今の俺、両方の視点から見ても違和感しかない行動を綾瀬は取っている。

 でも、会話の流れはあくまでも違和感なく、本当に自然としか言いようが無い。

 

 だけど、問題提起する根拠が『お前はヤンデレCDでは俺(主人公)の事を好きだから、俺が他の女の子と仲良くする事を促すはずが無い』なんていう、あまりにも個人的かつ横暴かつ傲慢かつ、考えるだけでも気持ちと気色の悪いモノしかない。

 だから、綾瀬に違和感は覚えても、それを言及するに足る理由も根拠も無くて、何も言えない。だから、

 

「園子は、良いのか? 自分で言うのも何だが、アプリの方が確実な事教えてくれるけど」

 

 “会話の自然な流れ”に沿って、園子に問いかけるしかない。

 園子はやや間を置いて、俺と綾瀬の顔を少しだけ見やってから、はにかみながら言った。

 

「えっと……はい。もし良ければ、お願いしたいです」

「決まりね! ちゃんと責任持って先生やるのよ? 園子がちゃんと料理できる様になるかは、あなた次第なんだから!」

 

 挑発する様な言葉を言いながら笑みを浮かべる綾瀬。

 

「わぁ大変だ。縁の教え方ひとつで部長がメシマズ嫁になるかどうか決まるわけだね」

 

 悠も綾瀬の挑発に乗じて、俺を試す様な発言をする。綾瀬の発言には何にも違和感を覚えていない様だ。

 綾瀬が俺を揶揄い始めたら、悠も便乗する。いつも通りの流れ。

 俺だけが、ただひたすらに悩んでいる。

 

「……メシマズ嫁は飛躍しすぎだろ、プレッシャー与えんな」

 

 だから、もう俺はこれ以上考える事をやめた。

 それで良いのかは分からないが、もうこれしか選択肢は無かったのだ。

 

「じゃあ早速、何を作るのか決めましょう?」

「いや、ご飯食べようぜ……」

 

 先日、部室で生まれた違和感。

 それと同じモノがまた、自分の中で頭をもたげるのが分かって嫌になった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日。4限前の休み時間。

 

「……いちー」

 

 昨日の事がどうしても頭に引っかかり、朝から授業に集中出来なかった俺は、3限の体育で跳び箱をしてる時に右手を捻ってしまった。

 幸い、大きな怪我にはならなかったものの、少し動かすだけで顔がひきつる程度には痛みがあるので、少しの間は安静にしなきゃならない。

 保健室の先生に湿布を貼ってもらい、ついでにしっかりとテーピングを施してもらったので、今日これから派手に動かさなければ明日には治る。今日は俺がご飯作る日だったから、帰る前に渚に代わってもらう様にお願いしなきゃいけないな。

 

 次の授業はまた家庭科で、体育と続いて移動教室。しかも昨日料理の話をした翌日に、調理実習だ。

 本当はさっさと着替えて向かう必要があるけど、この利き手がこの状態では包丁もフライパンも鍋もろくに扱えない。残念だが諦める事にした。

 それはそれで、先生に休む事を伝える必要があるので、一旦保健室を出て家庭科室に向かおうとした時。

 

「あ、縁君」

 

 部屋を出てすぐ、園子と鉢合わせした。

 何故、園子がここに? 仮に次の授業が俺みたいに移動教室のある科目だとしても、保健室前を通る必要は無いはず。その類の教室は全て2階以上にあって、保健室は1階にあるからだ。

 

「どうした? 園子も体調悪いのか?」

「いえ、その……あっ、本当に右手怪我したんですね」

 

 園子が俺の右手を見て、我が事の様に痛々しそうな表情を浮かべた。

 そうやって心配してくれるのは嬉しいけど、気になる事が1つある。

 

「ん、俺の右手の事、誰から聞いた?」

「綾瀬さんがさっき私の教室に来て、教えてくれたんです」

「綾瀬が?」

 

 わざわざ、授業終わりに園子の教室まで行って俺の事を教えたって? 次にまた家庭科室に移動しなきゃいけなくて、更に着替える時間まで必要だってのに? 

 

「綾瀬さん、早く着替えなきゃ行けないからって、そのまま更衣室に走って行ったんです」

「時間ねぇの分かってて、何でまたそんな事……」

「私も気になったんですけど、綾瀬さん、凄く心配した顔で自分は次の授業の用意しなきゃだから、代わりに見に行って様子教えて欲しいって言われて……」

 

 そう言って、少しだけ考える素振りを見せた後、園子が恐る恐る言った。

 

「あの……最近の綾瀬さん、少し様子おかしく無いですか?」

 

 それはまんま、俺の中で生まれては消え、消えては生まれてを繰り返した疑念だった。

 俺が覚えていた違和感を、俺以外の人間も持っていた。それが分かっただけで、独りよがりな考えでは無かったと分かり、少しだけ安堵する。

 だが、仮初の安堵に浸っているワケには当然行かない。

 俺だけがおかしいと思ってたのでは無いなら、きっと間違いなく、今の綾瀬の行動は変なのだから。

 

「それは、俺も思ってた」

 

 下手に言葉を脚色する事もなく、俺は園子の言葉を肯定する。

 

「やっぱり、そうですよね!」

 

 俺と同じ様に我が意を得たり、という顔になった園子が、食い気味に前のめりの体制になって俺に詰め寄った。

 左右の手を胸の前で握りしめて、ここしばらくの愚痴をこぼす様な勢いで、言葉を続ける。

 

「こういう時、まず初めに誰よりも貴方の具合を見に行くのが、今までの綾瀬さんだと思います。なのに、私に伝えるだけで自分は行かないって……絶対変だと思うんです」

「えっと……最初に綾瀬が来るかどうかは分からないけど、着替えと移動教室があるのに園子へ最優先に伝えるってのは変だと思うよ」

「それもそうですけど、やっぱり綾瀬さんが私を先に向かわせるというのが、変です」

「そこは譲らないんだ……」

 

 ヤケにそこにこだわる園子だが、実のところ俺も、最初に様子を見に来るなら悠か綾瀬だと思っていた。その内悠は俺に保健室へ行く様伝えた……つまり、既に容態をある程度分かってる状態なので、見に来るなら綾瀬の方が早いと思ってたんだ。

 ちょっと前までの簡単な会話もままならない関係だったら、そんな事は思いもしなかったが、最近はまた以前の様に会話が出来る様になってたから、そう思ってしまった。

 

 だがしかし、今回の事の様に細かいところで違和感を覚える事は何度かあっても、やはり最終的には、ある考えに行き着いてしまう。

 

「でも綾瀬さん、全くと言っていいくらい普段はいつも通りですよね……。昨日だって、私や縁さん達と自然に会話してたから、ハッキリとおかしいって言えないんです」

 

 どうやら、ここについてもまた、園子は同じ事を考えていたみたいだ。

 その通り。綾瀬は何度も言うが、普段は全く変わらない、俺達がよく知る河本綾瀬そのものだ。今回の件だって言ってしまえば感情論から来る違和感でしか無い。

 10分しか無い休憩時間の間に着替えと移動教室が待ってるが、仲の良い共通の友人に俺の事を教えたいと思ったから、伝えるだけ伝えた。そう考える事も出来るし、何ならその方が客観的に見れば特に違和感もなく当たり前の範疇に映る。

 

 だから、『最近のお前少し変だぞ』なんて言えない。

 言うだけの論理的な根拠が無いのだ。

 この前のお昼と同じ。『自然な流れ』の範疇に、あくまでも綾瀬は留まっている。俺や園子の違和感こそが『不自然』で『少しおかしい』のだから。

 

 だから、やはり、結局。

 こうして俺と園子の間では『絶対におかしい』と思う綾瀬の行動についても、

 

「……取り敢えず、園子は教室に戻ろう? 俺も先生に調理実習出来ない事伝えなきゃだし」

「っ、はい……そうですよね。お大事にしてください」

「あぁ、ありがとう。園子も普通にこの後授業あるのに、わざわざ来てくれて嬉しかったよ」

 

 “自然な流れ”に則って、それぞれが本来この後やるべき事に、行動を移すしか出来なかった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 一度でも疑念から確信に変わってしまった違和感は、どのまでも俺の意識を苛んでいく。

 

 俺が手を負傷してから、部活動の時間で綾瀬は俺の手首を心配しての提案で『常に力仕事にならない事だけを行う』様に言った。

 その提案に反対する人は当然居らず、その結果、メンバーの中で身体能力が高めの綾瀬は常に外で植え替えの作業を行い、俺は部室内の掃除や、部屋で育ててる植物の水やりなど、簡単な作業のみを行う様になった。

 “俺が隠れて変な事をしない様に”と綾瀬は、渚を常に側に置かせて、日によって園子や咲夜を3人目のメンバーとして班分けさせた。

 たまには綾瀬も部室内のメンバーになれば良い、という園子の提案には、『ずっと部屋にいるのは退屈しちゃうから』と笑顔で断った。

 

 お昼の食事。園子が来るまでは3人で会話を弾ませるが、園子が来たら綾瀬は園子から話す様に会話を促して、自分は聞きに徹する様になった。

 今まで園子を仲間外れにしてきた分、たくさん園子の話を聞きたいから、綾瀬はそう言った。その言葉に偽りの色は感じられず、本心から友人を想っての言葉だと思えた。

 最近は、話の途中で先生に呼ばれて席を外す事や、クラスの女友達と食事をする事が増えて、俺と悠と園子の組み合わせで食事を進める事もある。

 

 部活終わりに、また一緒に帰ろうと声をかけた。

 綾瀬は少し困った顔をしながら、『また渚ちゃんに邪魔者扱いされるのは困る』と言った。

 前みたいに、自分が間に立って渚のブレーキ役になるからと言ったら、『あなたを凄く大事に想ってる妹にそんな危険物扱いみたいな事、言ったらダメよ』と嗜められた。

 “また今度、もう少し渚の機嫌が良い日に誘って? ”俺の額に指をつんと押し付けて、柔らかい笑みでそう言った彼女に、返す言葉を持たなかった。

 綾瀬と一緒にいる時間を作るのに躍起になり過ぎて、確かに俺はその気が無くとも、渚を障害の様に扱う言葉遣いをしていた事は、事実だったからだ。反省して、その日は渚の好きな料理をひたすら振る舞った。

 

 綾瀬の言葉は、行動は、どれもこれも、どうしたって自然で、当たり前の行動しか無かった。

 

「──ねぇ、お兄ちゃん」

 

 渚の好物を披露した翌日、お返しにと渚は俺の好物をたくさん作った。

 そんな豪勢な夕飯の並んだ食卓を2人で囲む中、渚がポツリと言った。

 

「何か、悩んでるでしょ」

「うん」

 

 隠す今は無い。

 隠す術も無い。

 俺は素直に、そして即決で渚に言った。

 

「……やっぱり。何かもう、お兄ちゃんが困ってたり悩んでる時だけはすぐに分かる様になっちゃったかも」

 

 咲夜と査問委員会の件で精神が限界寸前まで疲弊していた時、俺の異変を察知して助けてくれたのが、渚だった。

 であれば、俺の様子がおかしい事くらい、気付くのはなんて事ないのだろう。

 

「何について悩んでるか、当てても良い?」

「いや、言うよ。綾瀬の事だ」

 

 渚に、綾瀬との事について相談を持ちかける。

 前世の記憶を思い出した直後なら、この時点で死が確定するレベルの愚行だった。

 しかし、それはあくまでも『ヤンデレCDの野々原渚』しか知らない時の話である。

 俺との兄妹喧嘩や、園芸部員として綾瀬や園子達と表面上以上の付き合いをせざる得ない環境の中で、病んだ俺を助ける位まで成長した今の渚が相手なら、まだ大丈夫だと思える。

 

「ふーん、やっぱりあの女の事で悩んでたんだ」

 

 だ、大丈夫……だよな? 大丈夫なはずだ。

 

「何で綾瀬さんの事で悩んでたの? 最近、お兄ちゃんと綾瀬さん前みたいによく話す様に見えたけど」

 

 渚が声の調子を普段通りに戻して(しかし若干の圧は残ってるが)話す言葉が、まさに俺の悩みそのものだった。

 渚の言う通り、俺が感情論的に抱く違和感は、第三者からすれば全く気づかない物ばかり。

 

「それが、本当にその通りなら良かったんだけど、違うんだ」

「違う? 何が違うの? 本当は私の見ないところで喧嘩してたり?」

「そう言うのじゃないけど、なんて言うかこう、避けられてるんだ、明らかに」

「避けられてる? どういう事?」

 

 俺の言葉に、いまいち要領を得ないと言った方を浮かべる渚に、俺は先程並び立てた違和感の事例を、大まかに伝えた。

 それを渚は静かに聞いてたが、全部聞き終わった後に出た言葉は、アッサリとしたモノだった。

 

「うん、それがなんでお兄ちゃんを避けてる扱いになるの?」

「……そういう感想になるか」

「うん。聞いた話だけだと、綾瀬さん、比較的真っ当な事しか言って無いし、お兄ちゃんがネガティブに捉え過ぎとしか思えないかな」

 

 やっぱり、そうなるのか。

 やはり俺が抱いてた違和感は、単なる気のせいでしか無いのかもしれない。そう思い始めたところに、『だけど』と渚は言葉を続けた。

 

「綾瀬さんが、お兄ちゃんと柏木さんをヤケに一緒に居させようとしてる雰囲気はあると思う。それがどんな意図なのかは分からないし、それこそ私の気のせいかもしれないけど」

「それは、俺も少し思ってた。最近は特に、俺と園子に他1人って時間が増えてるから。今日のお昼も、綾瀬がいきなり参加出来ないってお昼に抜けてさ」

「ふーん? お兄ちゃん、最近はまた綾瀬さんとご飯食べてたんだ? 知らなかったなぁ私。そこに園子さんも居たのに、園芸部の部員の私は居ないんだ」

「こ、高等部と中等部で少し距離あったから、悪いと思って誘わなかったんだ。それこそ、綾瀬が渚や咲夜を呼ぶ事を提案してたくらいでさ」

 

 相談に乗ってもらってる筈が、機雷を交わし続ける操舵手な様な気分になって来た。ワンクッション挟まないと出来ない会話が多すぎる! 

 

「──そこで綾瀬さんが提案したの?」

 

 幸いにも──幸いでは無いが、渚の関心はまた話の本質に向き直った。

 

「うん、やっぱり変だと思う。あの人、私に保健室でキツい事言われてから色々変わったんじゃないかな」

「──うん、キッカケは間違いなくそこだと思う」

 

 渚の口からハッキリと保健室での事を言及されると、キュッと胸が苦しい気持ちになる。

 あの時、査問委員会相手に何も出来なかった無力感を、俺は払拭させようとしたが、渚はそれを武器に綾瀬の心にトドメを刺した。

 俺のためには何も出来ない、ただの幼なじみは、分を弁えろ。言葉は違うが渚の伝えたい事はそうだ。

 あの時の渚の言葉が無ければ、今こうして悩む事も無かったに違いない。言うなれば、元凶とも言える。

 

 そんな仄暗い気持ちが顔にも出てしまってたのか、渚は俺をマジマジと見つめてから、ハッキリと言った。

 

「私は、間違った事は言ってないし、綾瀬さんもそう思ったから、何も言い返せなかったんだよ、お兄ちゃん」

「──だろうな。その通りだ。けど、今の綾瀬は」

「ねえお兄ちゃん」

 

 俺の言葉を遮って、渚は橋を食卓の箸置きに乗せてから、こんな事を聞いて来た。

 

「どうして、この前柏木さんと出かける事を私には事前に教えたのに、綾瀬さんには言わなかったの?」

 

 今までの会話の流れとは、あまりにも時系列と脈絡が繋がらない発言。

 しかし、それに対して何故か俺は、とっさにちゃんとした答えを用意する事が出来なかった。いや、ちゃんと答えになる言葉を考えようとしても、通信制限がかかったスマートフォンの様に、思考が遅々として進まず、何も思いつかない。

 まるで、渚の言葉一つでスイッチが入った様に思考回路にデバフが掛かったみたいだ。

 

 そんな俺に、渚は更に畳み掛ける。

 

「もしかして、後ろめたさがあったのかな」

 

「何で綾瀬さんにはあったの?」

 

「私には無かったのは、何で?」

 

 今までに無かった形で詰問する渚に、俺は呻き声の様な返答を小さく返す位しか出来なかった。

 前世でヤンデレCDを聴いた時に『ちゃんと言い返せよ』と思った場面が幾つかある。『返事しないからかえって怒らせてるじゃねえか』と。

 しかし、今こうして渚の前に居ると、よく分かった。食卓越しにいる渚の発した言葉に、脳が答えを用意出来ないのだ。

 答えないのでは無く、答えられない。

 

 ただし、今回はCDの様に恐怖が原因では無く、俺自身、自分の心が分からないからだ。

 確かに、渚の疑問はもっともだ。俺が綾瀬に言おうとしなかったのは、自然とそう決めたからだが、じゃあその理由は何だと掘り返そうとすると途端に、思考が固まってしまう。

 

「──ごめん、何故か、答えが思い浮かばない」

 

 結果、こんな間抜けな答えを返すしか出来なかった。

 それでも、渚は俺が返事をしただけで満足だったのか、コクンと頷くと、

 

「じゃあ、別の質問をするね? お兄ちゃんはどうして、今の綾瀬との距離感が嫌なの? 外から見たら、今も2人は充分仲が良い友人にしか見えない。特に、異性としてはね? それでもお兄ちゃんの中に違和感や不満が出てくるのは、どうして?」

「──分からない」

 

 これもまた、同じ様に答えが出てこない……いや、答えの方から逃げていってるような、そんな感覚がある。

 

「……そっか。分かった、意地悪な質問ばかりしてごめんね?」

 

 俺の情けない答えに何度か頷いて、ようやく渚は普段通りの笑顔を見せながら、そう言った。

 

「お兄ちゃんがあの日、ちゃんと私に正直に言ってくれた事は嬉しかったよ」

「……うん」

「ご飯、冷めちゃったね? 温め直す?」

「あぁ、いや、このままで良いよ。すぐ食べた終わるから」

 

 そう言って、急いで残ったご飯を食べて、食器を空にした。

 そのまま、シンクの前に2人並んで洗い物をする。

 食器を割らない様にちゃんと目と頭と手は動かしていたが、その傍らでは、渚に言われた言葉がどこまでもどこまでも、それこそこの後ベッドに横になって眠る時まで、延々と頭の中にあった。

 

 ──それゆえに、

 

「綾瀬との関係が壊れる事はしたくないんだ……本当に、大事にしてるんだね、お兄ちゃんは

 

 ──渚の本質を突いた呟きは幸か不幸か、縁の耳には届かなかった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 時は進み、翌日の放課後。

 綾瀬は一足先に部室に到着していた。

 

「さて、と……今日はどんな班割りで行こうかな」

 

 陽気に、綾瀬を知る誰もが思い浮かべる様な声のトーンで、綾瀬は言葉を発する。まるで、いつ誰が来てもすぐに、みんなの知る綾瀬を見せられる様に。

 

「昨日は縁と園子と咲夜だっから……うーん、流石にそろそろ縁を部屋に缶詰めさせるのも変だし……なら私が交代すれば良いか。最近ずっと力仕事で疲れたものね。うん」

 

 誰もいない部屋で、自分自身に言い聞かせる。

 

「あの2人はここしばらくずっと内勤担当だったから、ここで2人揃って植え替えに回してもおかしくないわよね。うん、全然普通。当たり前──本当、何もおかしくない」

 

 無意識に、笑顔は段々と真顔になっていくが、綾瀬はそれに気づかない。

 

「本当、あの2人、一緒に居て何もおかしくないなぁ。全然違和感無いし、自然と会話して、笑い合って、楽しそうにしてる……ははっ」

 

 枯れた枝が折れる時の様な乾き切った笑い声が、静かに部室の中に鳴り響く。

 

「本当──ホントに、何やってるんだろ、私」

 

 誰もいない空間で、誰にも聞かせてはいけない独白をする綾瀬。

 だが、これは間違いなく不幸とジャンル分け出来てしまうが、生憎、

 

「そんなのアタシが聞きたい位よ」

 

 その独白を聞いてる人間がいた。

 

「っ!?」

 

 急いで声のした方、部室の入り口を振り返ると、そこには呆れ切った顔をする金髪の少女──綾小路咲夜が居た。

 

「あ、綾小路さん? 来てたんだ」

「そりゃ来るわよ、部員なんだから」

 

 そう淡白に返して、スタスタと部屋の中に入る。

 先程の独白をどこまで聞かれてしまったのか、綾瀬は猛烈に鳴る心臓の鼓動に吐き気すら催し始めるが、それをグッと堪える。

 こちらから何も言わなければ良い。さっさと、話を別の話題に移そう。

 

「今日から、縁にもまた力仕事任せようと思うんだけど──」

「ねぇ」

 

 会話の流れを完全に断ち切って、咲夜は真っ正面から綾瀬に向かって言った。

 

「アンタ、いつまでその馬鹿みたいな事続けるつもりなの? いい加減にして」

「ぇ、え? 何のことかな、私別に何も──」

 

 落ち着け。動揺するな。

 そう必死に自分に言い聞かせる綾瀬を、金と権力と権謀術数をよく知る咲夜は更に追い詰める。

 

「最近はもう露骨過ぎてウンザリしてるのよ、何で柏木園子とアイツをくっ付かせようとしてるわけ? アンタ、縁が好きじゃなかったの?」

「──っ、なに、言ってるのよ」

 

 平然を装うなんて事、綾瀬には不可能になっていた。

 しかも、自分の恋愛感情を、よりにもよって1番精神の幼いはずの咲夜に見透かされるとは。もはや何を言っても誤魔化しが効く状態では無い。

 

 ──しかし、ここで一周回って思考が冷静さを取り戻す。

 誤魔化しが効かないなら、逆に本当の事を伝えて、咲夜もこちら側に引き込めば良いだけ。

 

「あのね、2人は隠してるけど、付き合ってるの」

「はぁ? 縁と柏木園子がって事?」

「だから、私がさり気なく学園でも一緒の時間が増える様に、色々気を回してるって事。分かってくれた?」

 

 これで取り敢えず納得はしてくれるはず。この後更にどうするかは、咲夜の出方次第。

 そう考えていた綾瀬だが、それはあまりにも咲夜を知らな過ぎる人間の発想であると、直後に思い知る事となる。

 

「だから、何よ」

「……は?」

「2人が付き合ってるから何よ、どうしてアンタが2人を立てようするわけ? 馬鹿じゃ無いの?」

「えっと、ごめん。馬鹿はあなたの方じゃないかな……話、聞いてた?」

「聞いてるわよ、だから言ってるの。だって」

 

 その後に咲夜が言った言葉で、完全に綾瀬の思考は破壊される。

 

「アタシが同じ立場なら、絶対にアイツは渡さない。自分の物にするわ。自分の物を横取りなんて、許せるはずないじゃ無い」

 

 わけがわからない。

 いや、分かる。

 分かってはいけない、の間違いだ。

 

「……そんな事、出来るわけない」

「何でよ」

「だって、私には……私は、縁に何も──っ!!」

 

 綾瀬が言葉を言い切ろうとする直前、部室の扉が開く音がした。

 綾瀬は勢い強く、咲夜はゆったりと、扉の先を見る。

 

 そこには──、

 

「……綾瀬?」

 

 感情を剥き出したした自分を見て、目を大きく開かせる縁。

 そしてその隣には、寄り添う様に立つ園子の姿があった。

 

「──はぁ、空気最悪。綾瀬アンタどうにかしなさいよ」

「っ!!!」

 

 その言葉が、最後のダメ押しになったのか。

 縁と園子を見て、唇を噛み締め、綾瀬は反対側の出入り口から部室を出て行った。




いつも、感想やお気に入り登録ありがとうございます。
気がつけばお気に入りが3000件超えて、驚きました。

あと最近ウマ娘にハマりました。最推しはダスカです。あとナイスネイチャ
トウカイテイオーが二次創作ではまさかのヤンデレ筆頭になるから、分からない物ですね。

このペースで更新を続けて行けたら、3章は6月中に終われそうです。引き続き頑張ります。
よければ感想お待ちしてます。ではでは


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6病 死にたくなってきた

半年ぶりの更新になりました。
その間、色々ありましたが、何とか年内に更新できてよかったです。

・ここまでのあらすじ
①縁君と綾瀬、渚の容赦ない発言のせいですれ違う
②縁君、第2章で園子に迷惑をかけたお礼としてデートする
③綾瀬、デート中の2人を見てしまい失恋(誤解)。縁君はみられたことに気づかず
④こじれる

こんな具合から始まる第6話です、よろしくお願いします!


 茫然自失、今の俺たちを的確に言い表すならまさにそれだ。

 部室に入ろうと扉を開けたら、先に中にいた綾瀬が目を見開いて俺たちを見て、そのまま脱兎の如く反対側の出口から走り去っていった。

 誰かが何かをしたわけじゃない。だけど確実に何かがあった。でもその何かが全く分からないから、俺も渚も悠も園子も……みんな揃って馬鹿みたいに数秒間固まってしまった。

 

「追いかけなくていいの?」

 

 そんな俺たちにとって鶴の一声である言葉を投げ掛けたのは、綾瀬と同じく先に部室に居たであろう咲夜だった。

 瞬間、今自分が何をするべきか、今自分がどれだけ時間を無駄にしていたかを否応なしに理解させられる。

 

「──っ、あとで何あったか教えろよな!」

「知らないわよアタシだって」

 

 それだけの言葉のやりとりをして、俺は遅ればせながら急いで綾瀬の後を追いかけ始めた。

 走り去る時、荷物一式持ったままだからわざわざ教室には戻らないはず。であれば……! 

 

 まだ若干呆然としたままの脳細胞を叩き起こしてシナプスを働かせると、導き出した答えに従って足を動かす。

 行き先はここ部室棟の昇降口。教室に戻る予定は無いし、あんな走り去り方したんじゃ後で部室に戻る気もないだろうから、家に帰るだろう。

 

 そう判断したのだけど……。

 

「い、居ねえ……」

 

 幾ら数秒間のタイムラグがあったとしても、せめて部室棟を出て行く後ろ姿くらいは見えたっていい。全く追いつけないほど綾瀬はズバ抜けて速いわけじゃないし、俺は鈍重じゃ無いのだから。

 しかし、現実はこれ。綾瀬の姿はおろか、ここから出て行った形跡すら感じない。

 

「──ヨスガ!」

 

 代わりに、悠の声が後ろからした。

 長距離走は得意だが短距離走はあまり得意じゃ無い悠は、俺以上に肩で息をしながら追いつく。

 

「こっちじゃない、校舎の方だ!」

「……ああー! そうか!」

 

 本日、綾小路家の人間に言われてハッとすること2回目。

 どうやらまだ俺の脳は半分寝ていたらしい。

 幾ら荷物一式持ってたって、綾瀬は上履きだ。部室棟と校舎は繋がってるから、たとえ急いで帰るとしたって一度校舎に戻るのは当然の話だった。

 

 そして、校舎の昇降口と部室棟は方角的にま反対の位置にある。改めて追いかけようとしても、もう流石に追いつけるほど俺は俊足じゃ無いし、綾瀬はノロマじゃねえ。

 

「追いかけるのは、諦めた方が良い」

「だな……ああチクショー! 間抜けなことした!」

「落ち着いて。それより、何があったかを咲夜から聞こう。僕は断言するけど、絶対アイツ余計な事言った」

「だろうな!」

 

 綾瀬の様子がおかしいのは今に始まった話では無かったが、今起きた事には絶対、咲夜の影響がある。

 まずはそこを明らかにしてから、綾瀬と話をすることにしよう。

 そう自分を納得させつつ、部室に戻ることにした。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ハァ!? 帰った!??」

 

 部室に戻ったら、なんと咲夜は帰ってしまっていた。

 驚く俺に、渚と園子が申し訳なさそうにうなだれながら言う。

 

「……ごめんね、何度も引き留めたんだけど」

「聴く耳持たずに出て行っちゃいました」

「いやいや、2人が謝る事じゃ無いよ」

 

 せめて何が起きたのかだけでもハッキリさせたかったのに、予定がいきなり頓挫した。

 

「……アイツさぁ」

 

 隣で悠も頭を抱えている。怒りか呆れか諦観か。もしくはそのすべてかもしれない。

 いずれにせよこれでもう、さっき部室で何が起きたのかを知るすべが途絶えてしまった。

 となると後は綾瀬に何が起きたのかを推察するしかないわけだが……。

 

 それで推察ができれば苦労はしないよ、決して口には出せない気持ちがぐるぐると全身に巻き付いてくる。

 最近の綾瀬は本当に何を考えているのか分からない。じゃあ昔の綾瀬なら分かっていたのかといえば、そういうわけでもないのだけども。

 それにしたって、今の綾瀬は本当におかしい。ヤンデレとは全く違う方向性が違う。ヤンデレCDの『河本綾瀬』、この世界を生きる彼女、そのどちらともつながらない行動ばかりだ。

 綾瀬と出会ってから初めての姿を、今の綾瀬は見せている。これはもう、ヤンデレ的バッドエンドを回避するだとか、地雷を避けるだとか、余計な事を考えてる場合じゃないのかもしれない。

 

「ねえ縁、ちょっといいかな」

 

 気を取り直したらしい悠が、指で俺の服の裾をちょいちょいと引っ張りながら言う。

 

「少し二人だけで話したいことがあるんだ、良いかな?」

 

 ちらっと、隣の渚たちを見ながら話す悠に俺は頷く。

 もうこんな状態で部活をするのは無理な状況だったので、解散する事になったついでに、素直に悠と話をしたいと渚を説得して先に帰ってもらった。

 学園を出て──そういえば随分と久しぶりな気もするが──二人で繁華街の喫茶店に寄る。

 俺が頼んだ抹茶カフェラテと、悠が頼んだ苺オレが来てから、まず悠が言った。

 

「さっきの河本さん、君から見てどうかな」

「……正直、よくわかんない」

「その心は?」

「言葉通りっていうか……本当、情けない話なんだけどさ」

「うん」

「普通、何年も一緒にいればさ、全部とは言わなくても何となく『相手は今こう思ってるんじゃないかな』とか、『こういう事したら相手はこう思うだろうな』って言うのが分かって来るはずじゃないか」

「そうだね。僕も君と話す時はそうだし」

「まあ、それがすれ違ってこの前みたいなことになったんだけどな」

「講堂で喧嘩した件を今ぶり返さないで」

「ん、すまん」

 

 話の腰を折ってしまったことを反省しつつ、抹茶カフェラテをずずいっと飲み込んでから、話を続けた。

 

「だけど、今は綾瀬に対してそれが無くって。何を言えば喜ぶのか、怒るのか、そもそも今綾瀬は何を考えてるのか、そういうのが全然掴めないんだ」

「……」

 

 話していくうちに、心の中で栓をしていたもの──ここしばらくずっと抱いていた綾瀬への不安感がどんどん零れていく。

 そうしてついに、俺は一番認めたくなくて、でも一番口に出したかった言葉を吐き出した。

 

「なんというか……綾瀬が俺の知ってる綾瀬じゃなくなったような、別人にすり替わったような感じがするんだよ」

 

 抱き続けていた違和感。心の底からふっと顔を覗かせては、その度に摘み取っていたが、ついに限界を迎えてしまった。

 嫌な話だけど、口にしたら急にほんのちょっぴり心が軽くような感じすらしてしまう。

 そんな俺の言葉を、悠は静かに聞いて、苺オレを一口飲み、そこからやや間をあけてから、ゆっくりと言った。

 

「今の河本さんが、君のよく知る河本さんと違う。別人みたい、か……別人」

「ああ」

「それだから、今の縁には河本さんが何をどう考えてるか分からない。確かに、赤の他人が何考えてるのかは分からないよね。今の君にとって彼女はそうなりつつあるのか」

「そこまではっきりとは、言いたくないな」

 

 たとえ今の綾瀬の心が分からなくても、赤の他人と同じだなんて考え方だけはしたくない。

 

「でも、最近の彼女からは()()()()()としている雰囲気はあったよね」

「っ!」

「露骨に君を避けてたじゃないか、彼女。君を。一見自然な風を装ってるけど、みんなそれは何となく察してると思うよ」

「やっぱ、俺の事避けてるよな、綾瀬」

 

 ずっと思っていたことだが、こうして第三者に指摘されると、とうとうその通りだと認めざるをえない。

 

「きっと、彼女が君を避けるようになったのと、今日の行動は繋がってるはずだよ。いつから河本さんは君を避けるようになったんだい? 切っ掛けに心当たりはある?」

「ま、待って、そう急に色々質問しないでくれ」

 

 一気にギアが入ったような悠の勢いに若干吞まれそうになりつつ、一呼吸置く。

 抹茶ラテが心なしかさっきより苦くなった気がした。

 

「いつからって言えば、たぶん、お前と講堂で殴り合った日の後からだと思う」

「えっ」

「また話をぶり返してるとか、そういうんじゃないぜ。本当にその日以降なんだ。たぶんだけど、切っ掛けも分かってる」

「……詳しく話せるかい?」

 

 言いたくない、特に悠に対してだと本当言いづらい話ではあったが、腹を決める。

 悠との殴り合いの後、保健室で綾瀬に怪我の手当をしてもらった時のこと。

 

『アタシだけ、何も出来なかった。あなたに心配されて、それで喜んで……あなたが苦しんでいた時に、何も』

 

 綾瀬が咲夜と査問委員会の行動に何もできず、俺の力になれなかった事を悔いていたこと。

 

『幼なじみと言ってもただの他人だって、綾瀬さんも分かりましたよね? だって、昔から一緒に居て教室も同じなのに、今回お兄ちゃんのために何も出来なかったじゃないですか』

『お兄ちゃんを理解出来るのは、同じ家族で妹の私だけです』

『お兄ちゃんが楽しい学生生活を過ごすためには、綾瀬さんが必要だと思いますから──これからも『幼なじみ』として、分を弁えてお兄ちゃんと一緒に居てください。よろしくお願いしますね?』

 

 そんな綾瀬に対して、渚が容赦ない言葉を掛けたこと。

 そして──、

 

『良いの……渚ちゃんの言葉は、間違ってないから』

 

 それを、他ならぬ綾瀬自身が認めて、受け入れてしまったこと。

 全部話し終える頃には抹茶ラテはすっかり冷めてしまった。

 

「……なんでそうなっちゃうのさ」

 

 聞き終えた悠も、すっかり苦い顔になって頭を抱えていた。

 事の顛末には綾小路家の存在もかかわっているため、悠としても当事者の一人という責任感があるのかもしれない。

 実際のところは悠だって咲夜から被害を受けていた人のひとりなのだから、そんな事感じなくても良いし、実際そう言ってはみたが、

 

「そもそもの話、最初に僕が咲夜側の企みを止められていれば、君と河本さんのすれ違いは起きなかったワケだろう?」

 

 逆効果にしかならなかった。

 

「……とにかく」

 

 ひとしきり凹んで、苺オレも飲み干した悠は、スイッチを切り替えるようにこめかみを指で軽くたたきつつ言った。

 

「君と河本さんの間に亀裂が生じた切っ掛けは分かった。でも、それだけじゃ今の状況を説明しきれない」

「まあ、だよな」

「咲夜が園芸部に加入するようになった直後から君達の関係はギクシャクしてたけど、でも一緒に帰ったり君達だけで会話する場面は何度かあったよね」

 

 その通り。綾瀬との関係を持ちなおそうと俺から動いたし、綾瀬も徐々にではあるが、渚に言われた言葉を引きずらないようになりつつあった。

 

「でも、それが先日から急に、君と二人っきりになるのを避けるようになった」

「……うん」

 

 話が戻るが、そこが今綾瀬を理解できなくなっている最大の要因になっている。

 途中まではうまく関係回復に持って行けてたのに、記憶してる限りじゃ綾瀬の前で地雷を踏むような行為はしてなかったはずなのに。

 手のひらを反すように、それでいながら俺を嫌うとかじゃなく、憎むでもなく、ましてやヤンデレ化するわけでもなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、その行動が全く理解できない。

 分からなくなった。

 

「たぶんだけど、これはまた別の理由があるんじゃないかな。いや、絶対にあるよ。じゃなきゃ河本さんが君を完全に避けるなんてマネするわけない」

「別の理由……でも、それが何なのか、全然俺には思い浮かばなくて」

「河本さんに直接聞いたことはある?」

「直接?」

 

 我ながら間抜けな声色が出てしまったと思う。

 そのぐらい、悠の問いかけは、俺の頭には無かった発想だったに違いない。

 

「直接って、綾瀬に? なんで俺を避けるようになったのかって?」

「それ以外ないじゃないか」

「いや、いやいやいやいや……」

 

 それができるなら最初から悩んだりしないよ。

 

「それができるなら最初から悩んだりしないよ」

 

 心と口で一言一句同じ言葉が出てしまった。

 

「なんで?」

 

 それに対する悠の返しもまた、限りなくシンプルなものだった。

 

「いや何でって、さっきも言ったじゃんか。今の綾瀬は俺を避けてるし」

「うん」

「綾瀬がなんか他人みたいで、聞こうったってどう言えば良いか分からないから」

「でも、河本さんは君にとって他人じゃないよね? どんなに“赤の他人”の()()()()()()()()、君たちは幼なじみ同士のはずだろう?」

「……それは、うん」

「だったら、聞いちゃえばよかったじゃないか。今の彼女の気持ちを、彼女の都合や態度なんて完全に無視して、はっきりさ。それができない関係では無い事を、二人を見てきた僕は知ってるよ」

「──っ」

 

 だから、

 それができるなら最初から、

 

「それができない理由を、突き付けてあげようか?」

 

 俺が反論の言葉を口に出す余地もなく、問いかけの体をしながら悠はお構いなしに続けた。

 

「君、最後にちゃんと彼女と話をしたのはいつだい? 面と向かって二人きりで」

「それは……」

 

 最後に渚と三人で下校した時を最後に綾瀬とちゃんと話すことはしなくなった。

 綾瀬が翌週から俺を避けるようになった事も理由だけど、じゃあ対面が厳しいなら電話やSNSで……なんて間接的な手段を使う事だって、俺はしていない。

 

「確かに面と向かって会話するのが難しくても、今の時代、君がズボンの右ポケットにしまってるスマートフォンを使えばいつだって会話を仕掛けることはできたはずだ。それを君はしなかった。無意識に避けてたんだろうね」

 

 心臓をぎゅっと掴まれてる感じで、なんで悠が俺のスマートフォンをしまうポケットを正確に言い当ててるのか疑問に抱く余裕もないまま、親友の独壇場となった場の空気は進んでいく。

 

「実のところ。最初に君に河本さんの様子を尋ねた時からずっと思ってたんだ」

「なに、を?」

「君さ、河本さんを()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』ってな感じに、杓子定規に見てないか?」

「そんな──っ」

 

 “そんな事ない”そう声を大にして言いたかったハズの俺の口は、他ならぬ俺自身の意思によってさえぎられた。

 だって、それは今年の4月に俺が頸城縁の──前世の記憶を思い出して、この世界が『ヤンデレCD』の世界と同じ(酷似した)世界だと知ってから、最初に止めるようにした()()の考え方だからだ。

 つまり、ヤンデレCDに登場する“野々原渚”とこの世界に生きる野々原渚は同じではないという考え方を持つように、俺はしている。していたハズだ。

 当初、頸城縁が記憶していたヤンデレCDの内容をもとに行動すれば、絶対に渚達との衝突は起きないと考えていた。でも俺の一挙手一投足で、渚は俺の予想とは違う病み方をして、それで夏休み前に一度命の危機に陥った。

 その経験や、改めてみんなと過ごすうちに、あくまでも創作世界の登場人物と、今俺が生身で接している人間は=ではないのだという考え方に代わっていった。

 そう──思っていたのに。

 

「漫画やゲームって言うのはあくまで例えさ。分かりやすく聞いてもらうための素材でしかないよ。事の本質は最後に言った“杓子定規”って所でさ。これは別に珍しい事でもないんだ。仕事や習慣、人がずっと長い間何かに相対してたらいつの間にか陥ってる思考回路なんだよ」

 

 つまり僕の言いたいことは、そう間に一呼吸挟んで悠は続ける。

 

「今の君は河本さんの全てを知った気になっていたのさ。だから君の知らない河本さんの姿や言動を見て、こう思っている『こんな事綾瀬はしない、こんなの綾瀬じゃない』ってね」

 

 待て。

 待ってくれ。

 それじゃあ、まるで。

 

「もちろん、君の中にそんな意識は無かったと思う。この考え方はきっと、関係が深ければ深い程陥りやすい物だろうから。だからこそ、君は自覚できなかったし、指摘されて初めて自覚できたんだ」

「…………」

 

 端的に、言うと。

 

「死にたくなってきた」

「それはいけない」

 

 なんだこれ、つまり俺は、昔の渚と同じ頭で綾瀬を見ていたって事じゃないか? 

 渚は頸城縁の人格が混じって、言動が変わった俺を一度、真っ向から否定した。“お前はお兄ちゃんじゃない”と、自分の判断基準から外れた俺を『野々原縁ではない』と言い放ったんだ。俺はそれに対して怒ったし、そんな考え方を絶対にしないと心に誓った。ハズなのに。

 なのに、俺はそのまんま同じことを綾瀬にしていたって事じゃないか。

 

 最悪だ。最低だ。自分が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実に、ただひたすら嫌悪感と吐き気を覚える。

 本当に死んでしまいたい、そんな思考でいっぱいになりそうな俺に、悠は地獄に垂れた蜘蛛の糸のような言葉を掛けた。

 

「自己嫌悪に浸かって精神的リストカットに耽るより先に、君はしなくちゃいけない事があるんじゃない?」

「お前って結構容赦ないところあるよな!」

 

 チクチク言葉はいけないんだぞ、なんて小言は心の中だけに収めるとして。

 

「君が河本さんに思ってる違和感を、以前彼女や僕も抱いてた。その時、彼女がどういう行動をとったか、忘れる君じゃないよね」

 

 もちろん。綾瀬は俺が今の俺になってから最初に俺の変化を指摘した人間だ。

 俺の言動の些細な違い、本来メリットのない園子を助けようとする行為への疑問、果ては俺が前世の記憶を思い出した事への言及──全部、綾瀬から俺に尋ねてきた事だ。

 つまり、綾瀬は俺が『綾瀬にとっての野々原縁』から逸脱した言動をした時、いつも必ず、ちゃんと正面から向き合って、俺に聞いてきた。

 俺と違って、相手が()()()()()()()をしても、決して否定せずに、受け入れようと歩み寄ってくれていたんだ。

 だったら、悠の言う『俺がしなくちゃいけない事』が何かなんて、もう決まっている。これすら聞かなくや分からないくらいなら、もう今の俺にヤンデレヒロインに殺されるだけの価値すらない。伊藤誠以下だ。

 

 右ポケットからスマートフォンを取り出して、そのまま綾瀬に電話を掛ける。

 俺の行動を見て、悠は『正解だよ』なんて言いそうな笑顔を見せてから、そっと苺オレの入っていた容器を持って席を立ち、店を出て行った。

 一人になった事なんてお構いなしに、向こうが出てこないかも、なんて事も考えず綾瀬が出てくるのを待つ。耳に響くコールは10回目を越えて11回も終わりに差し掛かろうというときに、ようやく止まった。

 

 

『……っ』

 

 無音だが、わずかに漏れる息の音。

 綾瀬が出たのだと、安堵しつつ、いつ切られるかもわからない緊張感のまま、俺は単刀直入に用件を伝えることにした。

 

「綾瀬、今日の夜。10時、公園に来てくれないか」

『……どうして?』

「話がしたい」

 

 駆け引きも後先の事も何も考えない言い回し。普段の俺ならたぶん……いや、案外やるかもな。

 とにかく、今の俺がやるべき事はたった一つ。かつて綾瀬が俺にそうしてくれたように、綾瀬に俺の気持ちをストレートに伝える事。

 

「嫌なら電話越しでもいい。とにかく、綾瀬と二人で話がしたいんだ」

『……』

 

 相手の心を動かせるような言い回しなんて皆無な、青臭いセリフしかない。

 だからこそ、数秒間の沈黙のあと綾瀬から返ってきた言葉に、俺はまるで愛の告白が成功した中学生男児のような躍動と安堵を覚えた。

 

『……分かった。公園は、()()()()?』

「うん」

『10時ね、分かった』

「ありがとう」

『……いつも急なんだから』

「ごめん」

 

 簡単な、本当に簡単な会話で電話は終わった。

 だけど、久しぶりに──しかも、さっきあんな事があったばかりにも関わらず、ちゃんと会う予定を組めたことに、大きな達成感を抱いた。

 

「やった、やったやった、よっしゃ……よかったぁ……っ!」

 

 声をかみ殺して内から込みあがる喜びをかみしめて、じゃあ次に自分がするべき事は何かを考えてみると、もうこんな場所で呑気に残り少ない抹茶ラテのんびり飲んでる暇なんかないと思い至って、ささっとスマートフォンを右……じゃなく、左ポットにしまう。

 

「……ん?」

 

 意識を外に向けたら途端に、なんか周囲の目線がちらほら自分に向かっていることに気づいた。

 しかもそれは何というか、こう、青春してるやつを眺める気ぶりな奴って感じのもので……。

 

「っ!!」

 

 そりゃそうだ。男子高校生がスマートフォンで女の子に電話して、『今夜会えないか?』なんてしゃべってんの見たら、誰だって告白しようとしてるんだって思っちゃうじゃないか。

 実態は告白なんてあったかい物とは真逆の物だとしても、はたから見りゃ分かりっこない。

 

「──ったくもう!」

 

 周囲から晒されている視線の内容を理解して居たたまれなくなった俺は、出来損ないのポーカーフェイスもそこそこに、急いで店を離れたのであった。

 

 最後に急いで喉に流した抹茶ラテは、今まで飲んだ中で一番苦い後味がした。

 もう2度と抹茶ラテなんて飲むもんか──そう固く心に誓った晩秋の夕暮れであった。




モチベに響くので良ければ感想お待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7病 ヒステリックナイトガール

短めですみません


「今日、綾瀬に会いに行くから」

「え?」

 

 夕食時、単刀直入に伝えた。

 

「なんで?」

 

 そう問いかける渚の瞳は澱んでおらず、澄んだ色をしている。

 まだ怒りの琴線には触れていない──ヤンデレ化のスイッチを押してはいない。

 きっと、今日(こんにち)までの渚の様子を鑑みれば、もうこの位で一気にヤンデレ化しないと思ってはいたけれど。

 それが希望的観測ではない事が確立されたのなら、そのまま突き進むだけだ。

 

 

「今日の綾瀬、おかしかったよな」

「うん」

「それよりも前から、綾瀬の様子がおかしかったのは、渚も分かってるよね?」

「……うん」

「だから、綾瀬に何が起きてるのか、聞くんだ」

「それはお兄ちゃんがしなくちゃいけない事なの?」

「俺はそう思ってる。渚は、俺以外に相応しい人間が居ると思うか?」

「…………」

 

 たっぷりと時間をかけてから、渚は答えた。

 

「たぶん……いないと思う」

「だよな」

 

 意地悪な聞き方をしたと思ってるし、あえてそうした自覚もある。

 綾瀬にとっても、俺にとっても、互いが家族以外で一番親しい存在であり、綾瀬に込み入った話を聞ける人間は俺しか居ない。

 それは客観的に──いちばん近い距離で俺達を見てきた渚からしてもそうなのだ。だから渚は否定する事ができない。

 

「10時に公園で会う約束してるから」

「……どうして、わざわざ(あたし)に言うの?」

 

 前にこっそり園子に会いに行った時の帰り、玄関にスタンバイされて心底恐ろしい思いをしたから──なんて言うのは心の中にしまっておくとして、理由は大まかに2つ。

 1つは、渚に真っ赤な嘘は言わないと決めたから。そしてもう一個の理由は──、

 

「綾瀬がおかしくなったのは、俺だけじゃなくて渚にも原因がある」

「……っ」

 

 渚、お前だって責任の一端を担っているんだ。そう宣言してる様なものだ。

 あの日、保健室で、綾瀬を追い詰める言葉さえ言わなければ、最初のすれ違いは生じなかったし、恐らく今日の出来事に繋がる“何か”も起きなかった。

 もっとも、渚の言葉だけが全ての原因だなんて傲慢な事は考えていない。だけど、綾瀬の行動には少なからず渚も関わっているのだと。だから渚も関係者で、同じ関係者かつ最も綾瀬と親しい関係である俺がどう動くのかを、渚も知る義務がある。

 つまりは『俺が今からする行為はお前のせいでもあるのだから決して反対するな』と言う雰囲気を作った。

 

 そして、それを理解できない渚じゃない。

 食事する手を止めて箸を置くと、やや深いため息をついてから、こちらをジト目で柔らかく睨みながら言った。

 

「お兄ちゃん、綾瀬さんの事になるといつもよりちょっとだけ強気になるよね」

「自覚はないな」

「無くてもだよ」

 

 もうっ、と不満の声を素直に漏らすと、今度は子を諭す親みたいな声色になり、

 

「止めないし、反対もしない。でもお兄ちゃん、これだけは忘れないで」

「……」

「今の綾瀬さんは、けっこうおかしくなってるよ。お兄ちゃんにどんな事するか分からないから」

「それは、うん。確かに」

「護身用に何か持っていった方がいいよ? 包丁とか」

「いやいや、護身用でも包丁なんてアウトだから!」

「……そう? 今の綾瀬さん相手なら妥当だけどなぁ」

 

 基本、物騒な考え方は変わってないなあと内心冷や汗を垂らしながら、同時に護身用に何か持っていくという案そのものには同意する。

 何が良いだろう。防犯ブザーなんてこの家にあったっけ。

 

「それと──」

 

 “これだけは”じゃなかったのか? なんて言いかけた口を閉じる。今話の腰を折るのは大馬鹿に過ぎる。

 

「夜、寒いからちゃんと厚着してね。風邪ひかないように」

「うん。ありがとう」

 

 本当に口を挟まなくて良かったと思った。

 

「……ありがとう」

「2回も言わなくて良いよ」

「……そか」

 

 2回目のありがとうは、間違いなく渚にとっては面白くない話だというのに、止めないでくれた事への感謝だ。

 言えば野暮になるから、黙っておく。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 11月の夜はもうすっかり冬のそれと言っても差し支えのないもので、渚の忠告はもっともな話。

 タンスから昔渚からもらったマフラーを引っ張り出して巻き、ちょっと厚めのジャケットを着こんで待ち合わせ場所の公園に向かう。

 ここまでして綾瀬が来ない可能性も充分に考えられたが、それでも来ると信じて、10分くらい早めに到着するつもりで来たのだけど……。

 

「……っ」

 

 公園の入り口にたたずんで、俺の姿を見たとたんバツが悪そうに視線を逸らす綾瀬が居た。

 園子といい、俺が少し早めに着こうとして機先を制すのは止めてもらいたい。

 

「結構早いな、寒くなかったか?」

「ううん、平気」

 

 近づいて声をかけると、電話の時に聞いたダウナーな感じと違い、思いのほか普通の声色で返事が来た。

 とはいっても、俺より先にここで待っていた綾瀬は上着こそ暖かそうなコートだが、下はロングタイプとはいえスカート。夜風が足から身体を冷やす要因になりかねない。

 

「ちょっと待ってて」

「え?」

 

 小走りで近くの自販機まで駆け寄り、2人分のココアを買う。

 そのままササっと綾瀬のもとまで戻って、1つを手渡した。

 

「あ……ありがとう」

「こんな時間に来てくれたから。……あっちで話そう?」

 

 目線で公園中央にある──俺達が昔から何度も会話する場所に使ってきたベンチを差す。これから話す内容が内容だから、少しでも慣れた場所で、落ち着いた気持ちになって話したいと思ったからだ。しかし──、

 

「……ううん、ここで良い。そんなに長く話すこともないから」

 

 綾瀬からの返事は『No』だった。

 

「…………そっか、分かった」

 

 またも出鼻をくじかれた形になってしまったが、こうやって綾瀬とぎくしゃくな感じになるのはここ最近ずっとなので、もうくじけない事にした。決めた、たった今。

 

「でも、まずはココア飲もうよ。耳赤いよ、さっきは平気なんて言ったけどやっぱ寒いだろ?」

 

 そういって、俺の方からアルミのふたを開ける。

 普段ならちょっと熱いくらいに感じるココアは、この寒空の中ではちょうどいい温度に感じた。

 

「……ん」

 

 綾瀬も俺にならってゆっくりとだが、ココアを口にする。

 重苦しいのか、そうじゃないのかいまいち分からない空気間の中、ほんの僅かだけ、2人がアルミ缶に入った飲み物を飲む時間だけが流れた。

 

 互いに飲み終えただろうと思えた頃。まず話し始めたのは当然俺の方から。そう思っていたのだけど、思ったより言葉が出てこない。

 

「今日のことでしょ? 話って」

 

 そうこうしてるうちに、綾瀬から話を始めてしまった。

 

「今日おかしかったもんね、私」

「おかしいっていうか……いつもと様子がおかしかった」

「同じことじゃない、無理に言い換えなくたって平気よ」

「……っ」

 

 ああ。

 また、これだ。

 

「ちょっと、口論しちゃったの」

「口論? どうして──」

「きっかけは全然話すほどじゃなくて、大した事ないんだけど、あの子と考えが合わなくて、嫌な気持ちになっちゃったから、空気悪くなる前に帰ることに決めたの」

 

 カラカラと明るい雰囲気なのに、俺からの追求を避けているのがよく分かる。

 会話をしている様でいて、予め用意したセリフを並び立てただけの、一方的過ぎる言葉たち。

 

「それだけ……ホント、ヤな空気にしちゃってごめんなさい。園子にもあなたから謝ってたの伝えといて?」

「……」

「じゃ、もう私帰るね? 家出る事、お母さんに言ってないから、心配させちゃう」

 

 そう言って、『もう話は終わり』だと平然な風をしつつ、俺の横を通り過ぎる。

 

「おやすみなさい」

 

 昨日までなら、俺も同じ言葉を返して綾瀬を帰してしまった。

 だけど、今日はもう、そういうわけにいかない。

 

「待った」

「……ぇ?」

 

 綾瀬の手を掴んで、ぎゅと握る。

 このまま帰さない、という無言の意思表示だ。

 

「まだ、話は終わってないよ綾瀬」

「……なんで、もう今日の事は」

「今日だけじゃないだろ、綾瀬がおかしかったのは」

「──っ」

「今日だけじゃない、何なら今もだ。そうだろ?」

「なんのこと? いい加減な事言わないでよ、あたし帰りたいんだから手を放してっ」

「そういうところだよ!」

「っ!」

 

 公園とは言え、夜に出すにはいささか大きな声で綾瀬に詰め寄る。

 握った手はそのままに、しっかりと綾瀬の瞳を見ながら、一切目をそらさせないつもりで俺は続けた。

 

「この前、俺と渚の三人で帰った時は、綾瀬は俺に普通に接してくれてた。その前もギクシャクしてたけど、あれは渚の言葉を気にしての事だって分かってたから、俺は綾瀬と仲直りしたくて一緒に帰ろうって誘ったんだ」

「だから、どうしたって言うの? あの後だってあたしは縁と普通に──」

「避けてるだろ!」

「……そんな事、無い」

「嘘だ。自分でも無理ある言葉だって顔してるじゃないか」

 

 そういうと、プイっと顔を公園の電灯が点いてない方へ逸らしだしたが、今更それで顔を隠せる距離感にはない。

 俺が握った手を、ささやかな力で振り払おうとしてるが、そんなの構いやしない。

 

「週が変わってからずっと、綾瀬は俺と会話するフリをしながらいつも俺から離れる事だけを最優先してた。それでいながら、今まで通りの友人ですって顔しながら話しかける時は話しかけてくるもんだから、俺は綾瀬に嫌われたのか愛想尽かれたのか、それとも何か考えがあるのか分からなかったよ」

 

 そうして結局分かったのは1つだけ。

 

「綾瀬は俺を避けてる。俺から離れようとしてる。そうだろ?」

「……手、放して。痛い」

 

 顔をそらしながら、綾瀬は言う。

 

「理由を言ってくれ」

「痛い、の……はなしてよ」

 

 懇願するような声色に変わっていく。

 先ほどまでの拒絶一辺倒なものと違ってきた。

 あと、もう少しで──っ! 

 

「どうしても話せない理由があるのか? だったら尚更教えてくれよ、俺を頼って欲しい」

「だから──、なんで──」

 

 瞬間。

 綾瀬がまた、俺の顔を見る。

 それは──怒りと悲しみの混じった、初めて見る綾瀬の顔だった。

 

「なんで、あなたがそんな事言うのよ!」

 

 握っていた手の力が強く、綾瀬の爪が食い込みそうなほど刺さってくる。

 

「アタシから離れたのは、あなたの方でしょ!!!」

「な……なに?」

 

 本当に、何を言われてるのか分からなかった。

 俺がいつ、綾瀬を──、

 

「アナタは園子と付き合ってるんでしょ! それなのにどうして、アタシまで離そうとしないの!?」

「つき──まさかっ!?」

 

 見ていたのか。この前園子と2人で買い物した時の姿を。

 いや、違う。

 

「アタシはあきらめたのに、何もできなかったアタシじゃなくて、園子なら仕方ないって思ったのに、だから……なのに!」

「…………」

 

 見ただけじゃない。

 

「どうして、アタシを離してくれないの? 心がずっと痛いのに……アナタのそばに居たいのに……、それをやっと諦めたのに! 酷いよ!!」

 

 ──それが理由だったのか。

 誤解しているんだ。俺と園子が恋人同士なのだと、思い違いをしているんだ! 

 

 そうなると、これまでの行動(今日の件以外)の全てに納得がいく。

 綾瀬は俺と園子がこっそり付き合ってるとか、そんな勘違いをして、よりにもよって応援しようなんて考えていた。

 そもそもが勘違いだという事もあるが、まさか、あの綾瀬が『園子なら仕方ない』って身を引くだなんて。

 ヤンデレCDの『河本綾瀬』は主人公と恋人同士になった後ですら、女友達って理由だけで園子を監禁して殺した。

 この世界の綾瀬がヤンデレCDのそれとは違うとしても、まさか病む兆候すら見せずに……お前はそんな殊勝な女か! 

 

 いったい綾瀬の中でどんな想いが交錯して、そんな普通なら思いもしない行動を取るようになったのか。思いつく節は幾つかあるけど、総じて言えるのはこの状況、単に勘違いを指摘して済むレベルではないって事。

 

 ……俺と園子が買い物してたのを見られて、綾瀬が凶行に走らなかったのは、ある意味助かったけどな。

 

「……綾瀬、こう言うと浮気を誤魔化す奴みたいで気が引けるけど」

 

 右手は綾瀬に握り潰されてるから、空いた左手で綾瀬の肩に手を添える。この仕草に心理学的意味なんて含めてないが、話を聞いて欲しいと思ったら自然とそうなった。

 

「この前、俺と園子で買い物に行ったのは本当だ」

「だったら──」

「だけど! それは俺と園子が付き合ってるからじゃない! 別に理由があるからそうしたんだ」

「今更そんな嘘ききたくない!」

「嘘じゃない。今は気が立ってるから何も耳に入らないかもしれないけど、過程から何まで全部説明できるんだって」

「そんなふうに言わないでよ!!」

 

 ああもう、言葉の一部だけ拾って反応するんじゃ無い! 

 

「渚だって、この件は了承してるんだぜ?」

「……渚ちゃん?」

 

 渚の名前を出すと、僅かだが落ち着きを見せる。

 綾瀬が密かに俺と園子を2人だけにしようと画策してたのには、“渚に隠してるんだろう”という推測があったハズ。そうではないと、渚にも明け透けにするくらいの事なんだと、そう気付いてくれれば──、

 

「──嘘言わないでよ、あの渚ちゃんがそんなの認めるわけ無いじゃない」

 

 駄目かぁ! 

 どうしてそう頑固なんだって怒鳴って解決できれば簡単だけど、あいにく俺はそんな性格じゃないし、綾瀬がこの状況でそんな素直に収まる性格じゃない事も今更過ぎる話。

 何度否定されても、冷静に向き合うしかない。ヤンデレ状態になった相手とやる事は変わらない。

 

「噓じゃないし、ホントの事しか言ってない。他の誰に勘違いされたって構わないけど、綾瀬にだけはしてほしくない」

「でも、アタシが見たのは……」

「説明するから。だから、一回落ち着くんだ。ベンチでも、綾瀬の家でも何処でも良い。綾瀬が落ち着ける場所で話そう?」

 

 必死の説得なんて上等なものじゃないけど、さっきよりは相手の心に届いているんだと、右手を握る綾瀬の力が弛んだ事で感じた。

 このまま行けば、今度こそこの間違った流れを変えられる。そんな期待と同時にまだ駄目なんじゃないかって不安が心の中を巣食う。

 そんな事を考えた数秒後、答え合わせのように、やはりこんな時物事はいつも俺にとって、都合の悪い予感の方が的中してしまうんだって思い知らされる。

 

「……だめ、やっぱり何を言われたって信じられない」

 

 まだ何も言ってない。なのに、聞く前から綾瀬は頑なに俺の言葉を、話を聞こうとしてくれない。

 

「どうして」

 

 憔悴しかけた声が喉を震わせながら口から出てきた。

 ふり絞ってようやく出てきた歯磨き粉みたいにちっぽけな声には、もうさっきまであった『説得しよう』なんて気力はこもっていなかった。

 だけど、そんな言葉だったからこそか。むしろ綾瀬は今の問いにこそ、まっとうな返答を返す。

 

「言葉じゃ、あなたが本当の事を言ってるのか、言い包められてるのか、分からないから」

「……そんな」

 

 そんなつもりはない。でも、綾瀬には今の俺はそうするように見えるのだって、信じてもらえない人間なんだって思い知らされて、途中で言葉が潰えた。

 搾りかすの歯磨き粉も出尽くした、チューブみたいなものだ。さながら今の俺は。

 

「だったら、どうすれば良い? 綾瀬にどうしたら、俺は信じてもらえる?」

「言葉じゃ嫌。もし、本当に縁のいう事が本当で、あたしが勘違いしてるだけって言うなら──」

 

 そこで一度言葉を切り、目を伏せて、また俺を見る。

 

「証明……してよ」

 

 そう言い放った綾瀬の瞳は、さっきの怒りや悲しみとはまた違う、むしろ真反対の──縋るような色になっていた。

 

 証明する。俺の伝えたい事を、言葉ではなく、行動で。

 今まで、渚と対立した時も、園子を助けようとした時も、咲夜から園芸部を守ろうとした時も、全部、俺は行動よりも言葉で解決しようとしてきた。

 言葉で解決するまでの過程に、行動を伴った事は何度もあったけど、今回は行動そのものを求められている。

 じゃあ、俺は何をするのが正しいんだ? 俺と園子が密かに付き合っていると勘違いしている綾瀬に、それは勘違いだと行動で証明するには、どうすれば良い? どうすれば伝わる? 

 

 一瞬のような、それでいて10分位はそうしてた様な、初めての事態によく分からない体感時間が流れて行って──、結論が出た。

 確かに()()をすれば、俺は俺の主張の正しさを綾瀬に証明できる。俺がどうしようも無い浮気者ではない限り、絶対に綾瀬を納得させられる確信があった。

 でも、それをしたら最後、俺は()()()()()()()()()()()()()()()()()()必要がある。

 その覚悟が、俺にあるか? 

 ヤンデレCDの知識を持つ頸城縁(前世)の記憶を俺は思い出してから、ずっとそんな事態に陥らないために頑張って来たんじゃないのか? 

 その頑張りを、ここで無為にして良いのか? 

 そもそも、なんで俺はそこまで必死に綾瀬の誤解を解こうとやっきになっている? 原因が掴めたのなら、明日以降また手段を考えれば良いだけじゃないか。

 

 さっきよりもずっと、たくさんの考えが頭の中を駆け巡る。

 だけど、そんな疑問の数々に、一切の解答──どころか、自己正当化のごまかしの一つも思い浮かんでないのに、気が付けば俺の心が、体を動かしていた。

 関われば地雷原に足を突っ込む事になると分かってたのに園子を助けようと一歩踏み出した、あの時みたいに。

 綾瀬の肩に添えていた左手は、彼女の頬へと移り、徐々にだが確実に、俺と綾瀬の間の距離が無くなっていく。

 

「……っ」

 

 頬に触れる手を振り払うことなく、近づく俺から離れる事もせず。

 綾瀬は、ぎゅっと目を瞑りながら、俺のする事を待つ。

 そして、もう互いの顔が残り数センチにまで近づいた──その時。

 

「そうやって、都合よく自分の思うようにしたいなんて。最低ですね」

 

 夜の風よりも更に冷たく、鋭く、刺し込んでくるような声が──渚が居た。




感想お待ちしてます


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 汀の音

クリスマスプレゼントだろ!!!!


「最低ですね」

 

 そう言い切った渚は、言葉の強さとは裏腹にまるで普段通りの雰囲気だった。

 怒りはなく、失意もなく、まるで日常そのままって感じの、そういう渚。

 

「……」

「渚……渚ちゃん、どうして」

 

 当たり前だが、俺と綾瀬もすぐに距離を取った。取ったところで俺がやろうとした事も、さっきまでの距離感も、全部渚には筒抜けではあるが。

 綾瀬は息を呑み、俺は冷や汗が背中を伝る。

 誰にも見られてはいけない行為を、1番見られてはいけない人に見られた。

 その事実が、この後何が起こるのかを簡単に思い起こさせる。

 

 ──終わった。

 素直に、そう諦めるしかない。

 自分のやろうとした事、その結果がコレなのだと。

 隣の綾瀬も、同じ様に思ってるのだろうか。

 

「お兄ちゃん……それに、綾瀬さんも、遅かったから心配になって来てみたら……ふふっ」

 

 後ろ手を組む渚は、一見すると手ぶらの様に見えた。

 だけど、背中に隠した手に何か持ってる可能性は十分にあり得る。

 

「大丈夫? お兄ちゃん、すごく難しい顔になってるよ? 綾瀬さんもだけど」

 

 言いながら、一歩、また一歩と俺達に近づく渚。

 その歩みから、俺も綾瀬も半歩だって退がる事は出来ない。

 蛇に睨まれた蛙の様な。生きたまま標本にされる虫の様な。絶対にその場を動けない、動かせない力が働いている。

 

 あっという間に、渚は俺達の間にまで辿り着く。そうして、ゆっくりと俺の方へと顔を向けた。

 街灯に照らされて映った渚の瞳は──あれ? 

 

「──ぷっ、あはははははは!」

 

 ──本当に“いつも通り”の、明るく澄んだ色をしていた。

 

「もう、お兄ちゃんったら怖がりすぎだよぉ。そんなにビクビクしなくたって平気だって」

 

 笑いながら渚が、口元に手を当てる。その手は何も持ってはおらず、手ぶらだった事が分かった。

 ……てことは、渚。

 

「怒って、無いのか?」

「うん、怒ってないよ」

 

 あっさりと、キッパリと、渚は断言した。

 先程の俺がやろうとしてた事を見た上で、その相手が綾瀬だと知ってる上で、だけど渚は怒っていない。

 

「何で? ……って顔してる。お兄ちゃん、私がそんなに怒りっぽい子だと思ってたの? 酷いなぁ」

 

 それどころか、心外だとばかりに頬を膨らませて、可愛らしく不満をアピールなんてまでして見せた。

 その一挙手一投足から、渚は演技じゃなく本当に怒っていないのだと分かった。

 本気で、からかっているだけ。

 

 であれば、当然疑問が生じる。

 それすら分かってるとばかりに、渚は聞かれるより先に自分から話始めた。

 

「お兄ちゃんは優しいから、その場の空気に流されやすい所があるのは知ってるもん。だから、()()()()()()()()()、綾瀬さんのために動いちゃうんだろうなぁって、簡単に分かるよ」

 

 カラカラと笑いながら答えるその言葉に、一切の嘘は感じられない。

 信じられない話だが、本当に渚は、“しょうがないなぁお兄ちゃんは”なんて雰囲気でこの場を流している。命の危機を感じてる事それ自体が、ちゃんちゃらおかしい事だと笑っている。

 

 でも、それじゃあ最初綾瀬に向けた言葉はどうなる? 

 “最低”なんて言葉、マイナスの感情がこもってなきゃ出てこないハズだ。あるいは、よほど本当に酷い現場を見てもしなきゃ、そんな言葉が口から出てくるワケ──、

 

「何もおかしく無いよ、お兄ちゃん」

 

 そんな俺の考えすら読めている様に、渚はさっきまでの綾瀬と同じくらいグイッと俺に近づいて、下から覗き込みつつ、

 

「言ったでしょ? お兄ちゃんの事を1番理解してるのは私。だからお兄ちゃんが考えてる事なんてすぐに分かるんだから」

 

 そう言って、くるりと踵を返し、今度は綾瀬を見る。

 視線が自分に向かれた綾瀬は、そこでようやく右足を半歩だけ後ろに下げた。プレッシャーに押されるように。

 

「私が、綾瀬さんにも怒って無いのがお兄ちゃんは不思議なんだよね?」

「……あぁ」

「それも簡単だよ。だって──怒る気にすらならないんだもん」

 

 “怒る気にすらならない”。その遠回りしな言い方からは、まるで滑稽なものを見ている時の様な、心底見下している時みたいなニュアンスを感じた。

 

「本当は全部分かってるのに、お兄ちゃんの気を引きたくて、構って欲しいからって分からないフリまでしちゃって。あんな必死な姿見たら、無様過ぎて怒る気にもならないわ。ねぇ綾瀬さん?」

 

 言葉の暴力なんて生やさしい表現じゃすまない、まさしく見下した人間から出る言葉が、容赦なく綾瀬を突き刺していく。

 

「そんな事……そんな事ない! アタシは」

「嘘ですよねぇ? お兄ちゃんがあんなに違うって言ってたら、本当の事だって分からないハズないですよ。だって綾瀬さんは幼なじみでしょ? アタシの次にずっとお兄ちゃんと一緒にいた綾瀬さんが、お兄ちゃんの言葉が本当か嘘かなんて分からないワケがないじゃない。もし分からないなら幼なじみなんて名乗る資格無いわ」

「……違う」

 

 渚は弱々しく反論する綾瀬を、まるで意に介さない。

 

「綾瀬さんがお兄ちゃんの気を引きたいのは構いませんけど……それでお兄ちゃんにキスまで強請るのは、流石におふざけが過ぎますよね?」

「……うるさい」

「お兄ちゃんが断れないのを知ってて、迫られたらそうするって分かってて、そういう事するから“最低”って言ったんです。分かりましたか?」

「うるさいって言ってるでしょ……」

「これで分かったでしょ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは綾瀬さんに何も悪い事してないし、綾瀬さんのためにあれこれ考える必要なんて無いの。だって──」

 

 それ以上言わせちゃいけない。

 そう判断すんのが、遅過ぎた。

 

「最初からぜーんぶ、お兄ちゃんの気を引きたいからやってる構ってちゃんアピールでしかないんだから。調子に乗らせるだけだよ」

 

 直後。

 強烈に乾いた音が、耳朶に響いた。

 

「五月蝿いって言ってんでしょ……何で分からないの」

 

 次に聞こえたのは、綾瀬の声。

 そして矢継ぎ早にもう一度、乾いた音が響く。

 驚きで硬直していた思考が、その音の正体をようやく認識した。

 綾瀬が、思いっきり渚の頬を叩いた。今のはその音だった。

 

「あんたなんかに……何が、何が分かるって言うのよ!」

「ハァ? 正論言われて言い返せないからって逆ギレですか?」

 

 頬を2度も叩かれたにも関わらず、渚の強気な態度は揺れる事が無い。

 黙るどころか更に煽って来た渚に、綾瀬はもう一発──今度は手を拳の形にして振り上げる。

 幾らなんでも殴られる妹をぼぉっと見てるわけにいかない。慌てて綾瀬を止めようと身を乗り出した、その直後。

 

「“アンタなんかに何が分かる”ですって? 何も分かりませぇん。と言うか綾瀬さん、そんな風に怒る資格があるんですか? 自分の事棚に上げ過ぎてません? 私の言葉が正しいって、あの日保健室で言ったの誰でしたっけ?」

 

 まるで横からカウンターでも食らったボクサーみたいに、綾瀬の手が止まる。

 再び綾瀬を言葉のみで圧倒した渚は、止めようとして間抜けな姿勢になり掛けてる俺を背にしながら、トドメになる言葉を言い放った。

 

「お兄ちゃんの優しさに甘えるばかりで、自分の思う通りにいかないと暴力に走るなんて、そんな人がお兄ちゃんの幼なじみだったなんて幻滅するわ。最低を通り越して、お兄ちゃんの人生の汚点ね」

「──っ!」

 

 弾かれた様に、今日部室で見た時よりも更に早く、綾瀬が公園から走り去って行く。

 それはまるで、いやまさに、撤退と言っていい物だった。

 

 急いで後を追いかけよう、綾瀬がここから離れて向かう場所は家しかない。慣れない校舎内ならともかく、親の顔より見慣れた道で見失う事はしない。

 ──そう、思ったが。

 

「あれ、お兄ちゃん。追いかけないの?」

「……うん」

「きっと今の綾瀬さん相手じゃ追いついたって無駄だとは思ってるけど。……ちょっと意外。どうして?」

 

 俺が追いかけようとしない事を不思議がる渚。その渚に、俺はポケットから取り出した物をかざす。

 

「え──これ、ハンカチ?」

 

 前世の記憶を持ってから絶対にCDと同じルートにならないために、と持ち歩く事にしたハンカチだ。

 わざわざそんな物を渚に見せたのは、決闘の申込みをするためでも、降伏の証を見せるためでもない。

 かざしたハンカチをそのまま渚の顔まで動かして──、口元を優しく拭う。拭った後のハンカチに付いていたのは、渚の血だった。

 

「口元、怪我してる。さっき綾瀬に引っ叩かれた時に口が軽く切れたんだ」

「──え? は、本当?」

 

 冷静を装ってるが、やっぱり興奮して気付いてなかった。

 俺が追いかけるのをすぐやめたのは、確かに渚の言う通り今度こそ追いついても無駄だろうって諦観もあったが、渚の口元から血が地面に垂れ落ちるのを見たからだ。

 どんな過程があったとしても、怪我した渚を放置して何処か行くなんて事、それだけはできなかった。

 

「家帰るぞ、消毒しなきゃ」

「……うん」

 

 嵐にも似た激しい時間は、こうしてあっさりと終わりを迎えた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「ん、終わり」

 

 唇のところがちょっと切れただけで、あとが残るような傷ではなかったのが良かった。

 消毒と、傷薬を塗って、絆創膏を貼ったから明日には目立たなくなるだろう。

 

「……ありがとう、お兄ちゃん」

 

 先ほどまで綾瀬を追い詰めていた人間のそれとは思えないほど、柔らかく、穏やかな声で渚は言った。

 俺が貼った絆創膏を指で軽くなでると、クスクス笑いながら、

 

「……なんだか、昔とは逆だね」

「そうだっけ……そうだったかも」

 

 渚の言う昔……小学校低学年のころは、俺が遊んでケガしたら渚が手当てしてくれた事が何度もあった。

 今日は確かに、その逆だ。遊びで怪我した俺と、煽りで怪我を負った渚じゃ、内容が雲泥の差ではあるが。

 

「いつの間にか、お兄ちゃんの手当をするのも綾瀬さんの仕事になってたよね」

「……」

「あ、今『いきなり綾瀬の事を持ち込んでくるのかよ』って思ったでしょ?」

「渚、1ついう事がある」

「なぁに? お兄ちゃん」

「心読むの禁止」

「はぁい。えへへ」

 

 そのものずばり、一言一句同じことを思ってたからびっくりした。

 言い当てた渚ときたら、なんかさっきから妙に浮足立っている様で、さっきあんな事があったというのに、凄くはしゃいでいる。

 気になった。から、聞いた。

 

「なんで嬉しそうなんだ? 怪我したから?」

「その言い方だと、私変態みたいじゃない。違うよ、お兄ちゃんが綾瀬さんじゃなく私を優先してくれたから。だから嬉しかったの」

「──そっか」

 

 臆面もなく、ストレートに。気持ちを示してくれる渚。

 普段から渚はそうだけど、ああいう事があった後は、特にそのまっすぐさが胸に染みる。……最も、それが今みたいにプラスの方向に向いている時だけは、だが。

 

「……まぁ、兄としては人を馬鹿にして痛い目にあった妹をほっとくのも考えたけどな。顔に傷が残ったら父さんにぶっ殺されるし」

「あー、そういう事言うんだ。私は本当に嬉しかったのに。今だってサイコーって気持ちなんだよ」

「大げさだろ、たかが怪我の手当くらいで。照れるからやめろって」

 

 照れるのは本当だったので、さっさと消毒薬やらなにやらを救急箱に詰め戻して、元あった場所に戻そうとする。

 

「大げさなんかじゃないよ」

 

 そんな俺の手を、渚がそっと掴んだ。

 

「……渚?」

「お兄ちゃんは、絶対綾瀬さんを優先すると思ってたから」

 

 そうして、俺の手を自分の頬まで運んでいき、お気に入りのぬいぐるみを頬ずりするように自らの頬を撫でた。

 手のひらに、渚の柔らかくあたたかな肌の感触が伝ってくる。

 

「……やっぱ大げさだって。渚は俺の大事な妹だぞ、そんな簡単にほっとかないよ」

「お兄ちゃんはそう言っても、私は不安だったの。お兄ちゃんはどんな状況でも、最後には私じゃなくて綾瀬さんを優先するから」

「どうして、そんな事言うのさ」

「だって、お兄ちゃん綾瀬さんの事好きでしょ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間が、止まったような錯覚を覚えた。

 渚の言葉に、何も返すことができなかった。言葉も、反応も、呼吸さえ。

 

「……あの時、私が止めに入らなかったら、お兄ちゃんはどうしてた?」

「それは……」

「キス。しようとしてたよね」

「……あぁ」

「普通、信じてもらうためだけにあんな事しないよ、もう。本当に流されやすいんだから」

「……」

「……まぁ、そういうお兄ちゃんが好きなんだけどね」

 

 詰問と茶化しを織り交ぜつつ、渚は俺に問いかけ続ける。

 

「前にも、一回聞いたよね私」

「……何を?」

「柏木さんとお出かけする事。綾瀬さんに言わなかった理由」

「あ──っ」

 

『どうして、この前柏木さんと出かける事を私には事前に教えたのに、綾瀬さんには言わなかったの?』

 

 確かに、そんな質問を以前渚は俺にした。

 その時、俺はいつもと違ってそれらしい理由を思い浮かべる事が全くできなかった。

 渚にはできたのだから、ヤンデレ化を恐れて言わないってのは違うだろう。では何故か。

 今でも、理由は思い浮かばない。

 

「今日の時もそう。ちょっと前に咲夜のせいで綾瀬さんが酷い目にあった時もそう。お兄ちゃんはいつも、綾瀬さんが関わると急にポンコツになっちゃうの」

 

 

「──必死になっちゃう。綾瀬のためには」

 

 心臓がドクン、と鳴るのを感じた。

 自分の根幹にある物を掴まれたような。

 

「ただの幼なじみ相手に、そんな必死になる事なんてないよ。お兄ちゃんが綾瀬のために頑張るのは、いつだって、綾瀬と一緒に居たいから。……綾瀬と離れるのが、死ぬよりも嫌だからなんだよ」

「渚、俺は……」

「お兄ちゃんは、初めて綾瀬さんと出会った日から、いじめから自分を助けてくれたあの時から、ずっと綾瀬が女神だったの」

 

 女神。

 奇妙な表現だが、不思議と胸の内にすとんと落ちてくる言葉だった。

 

「だから、大事に大事に、自分の恋心を曇らせるくらい大事に扱ってた。関係が壊れそうな事は自分から言わないし、綾瀬がお兄ちゃんから離れそうになったら、絶対に距離を戻そうとした」

「なんだか、好きっていうよりも信仰みたいだな……あぁ、だから女神か」

「自覚、無かったんだ」

 

 野々原縁が河本綾瀬に恋心を抱いている。

 それは、前世の記憶を思い出した直後、今より前世の俺(頸城縁)の意識が鮮明で、俺や世界を今以上に客観的に見ていた頃、真っ先に気づいた想いだった。

 だが、当時の俺はヤンデレCDの結末を避けるために、必要以上にみんなとの関係を深める事はしないように、その想い諸共フタをしていた。

 だけど、いや、だから気づかなかった。あまりにも主観の奥底に眠っていて、自覚すらなかったから。

 恋心、そんな甘酸っぱく儚くて、消えてしまいかねない曖昧な物なんかじゃ決しておさまらない。

 

 俺が綾瀬を、自分でも引いてしまうくらいに、信仰していたなんて。

 

 認めたくない、絶対に嫌だけど。

 崇拝型のヤンデレって、こういう感じなんだろうか。

 

「──そっか、だから渚は」

「分かった? お兄ちゃんが私を優先した事がどんなに嬉しいか」

 

 よく分かった、というか、理解させられた。

 そうして同時に、今までの自分の行動すべてが本当の意味でしっくりと嚙み合っていくのが分かった。

 俺が園子のために頑張ったのには綾瀬が関わっていた。これは自覚があったけど、それだけじゃない。

 俺が園芸部を守ろうとしたのは悠を助けたいからって気持ちがあったが、それと同時に綾瀬を苦しめた咲夜たちが許せなかったから。

 そもそも、仲良くし続ければヤンデレ化した綾瀬に殺される可能性があったのを承知で、この街から離れる選択肢を最初から除外してたのも、全部綾瀬が大事で離れたくなかったからだ。

 

「そう、だから──本当に、綾瀬が嫌い」

 

 きっとここからが、渚の本当に伝えたい気持ちだ。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

「うん」

「私、お兄ちゃんが()()お兄ちゃんになって、最初は酷い事言ったと思う」

「……そんな事ないけど、渚はそう思うんだよな」

「うん。お兄ちゃんは綾瀬を女神扱いしてるけど、私はお兄ちゃんを偶像扱いしてた。だからお兄ちゃんを最初否定したし、そんな私をお兄ちゃんも嫌った……」

 

 後にも先にも、あんなにハッキリと互いを否定した事は初めてだった。

 

「でもそれから、お兄ちゃんは私を、私はお兄ちゃんを、それぞれ真剣に向き合うようになって、私はお兄ちゃんのいろんな姿を見るようになったよ」

「……うん。俺も結構、自分を渚に晒してきたと思う」

お兄ちゃんの中にいる人(頸城縁)についても知ったし、お兄ちゃんがどうしたら悠さんを助けられるのか苦しむ姿も見た。お兄ちゃんを真剣に見ないと絶対に分からないお兄ちゃんの顔を、私、たくさん知ったと思う」

 

 間違いない。俺の事を一番知っているのは、理解してくれるのは、きっと渚に違いない。

 親友の悠より、女神の綾瀬より、俺達を生んだ両親より、そして俺自身よりも──俺を理解してくれるのは、渚なんだ。

 

「でも、私とお兄ちゃんがそうなるには、2人だけじゃダメだった。もし2人だけなら、あの日の喧嘩で、私たち終わってたもん」

 

 否定はできない。あの喧嘩で自分を否定されて怒った俺は、渚の言う通り怒りを覚えて、最後は存在まるごと否定する言葉だって言いそうになった。

 でも、それを止めてくれたのが──、

 

「綾瀬だった。今こうしてお兄ちゃんと会話できてるのが、綾瀬のせいだって言うのが本当に悔しい……お兄ちゃんを好きな気持ちは、私だって──ううん、私の方がもっと前から好きだったのにっ」

 

 頬に添えられていた手を、渚が両の手で包みこんで胸の前まで運ぶ。

 

「綾瀬が居なかったら、私、こうして前よりずうっとお兄ちゃんを好きになる事が出来なかった。それが、本当に悔しい……っ!」

 

 さながら教会で祈る信徒のように、俺を見上げる形で、渚は思いのたけの全てをぶつけてきた。

 

「ねぇお兄ちゃん、私お兄ちゃんの事が好き。家族としてじゃなくて、それ以上に、世界中の何よりもお兄ちゃんが大好きなの!」

「──うん」

「お兄ちゃん以外の存在なんて要らない、私の世界にお兄ちゃんさえ居てくれたら、何があったって大丈夫。そのくらいお兄ちゃんの事が好き、ううん、愛してる」

 

 ──向き合え。縁。

 ──これは地雷原なんて俗物的な物じゃない。

 

 一人の、俺の大事な女の子の、一世一代の告白なんだ。

 

「私を好きになって欲しいの。綾瀬じゃなくて、他の誰でも無くて、お兄ちゃんの全部を私にちょうだい? お願い、私だけを愛して、お兄ちゃん……っ!」

「ごめん、その想いには応えられない」

 

 即答。だった。

 

 思いのたけをすべて、渚の中にあるすべて、全部向けてくれたからこそ、余計な間なんて作りたくなかった。

 同じく、全部を懸けて渚の思いに応えよう、そう思ったら自然と口が動いたんだ。

 

「──そっか。やっぱり、お兄ちゃんにとって私はただの……妹でしかないんだ」

「ううん、ちょっとだけ違う」

 

 渚の心が暗闇に沈んでしまう前に。

 いや、俺が今から言いたい事を言いきってから、それでも渚が沈んでしまうなら、それで俺を殺そうと思うなら、それでも構わない。

 渚がそうしてくれたように、俺も、思いの全部を今、渚にぶつけるだけだ。

 

 空いた手を渚の背に回して、そのまま思いっきり抱き寄せた。

 落ちていく渚を抱き上げるように、心臓の音が聴こえるくらい、強く強く、抱きしめる。

 

「渚、俺はお前の恋人にはなれないし、渚を異性として見る事はしない。それは事実だよ」

「……」

「でも、俺を──()()()()()()()()()()()俺を最初に受け入れてくれたのは、渚だった。一度は否定したのに、それでもまた向き合ってくれたのは渚だった。俺が頸城縁の未練に立ち会った時も、咲夜に限界まで苦しめられた時も今の俺がこうして生きてるのは、綾瀬じゃない、渚が居てくれたからだよ」

「……うん」

「だから、渚は俺にとって、世界で一番。誰よりも、何よりも……まぁ、自分の命と同じくらい、大事な存在だと思ってる。それは家族とか恋人とか、好きとか愛とか、女神なんてものも超越した、唯一無二のものなんだ。だから、渚を苦しめる奴が居たらそれが誰だろうと絶対に許さないし、何があったって、俺は渚のお兄ちゃんとして隣に居るよ」

 

 ううん、違う。

 

「居たいんだ。だから、その……ここまでいって渚を振る言い訳みたいになって嫌だけど、俺にとって渚は単なる妹じゃなくてさ……」

 

 思いのたけをぶつけたら、結局渚の告白は受け入れられないという事実が残ってしまって、うまく締められなくなった。

 あーあ、せっかく言ったのに、これじゃあ恰好が付かないな。この後渚に殺されたって文句は言えない。

 そんな風に久しぶりに客観的に自分を見て呆れかえったが──、

 

「──フフッ、何、それ。お兄ちゃん、かっこ悪い」

 

 胸の中に顔をうずめたままの渚が、笑いながら小さく震えている。

 いや──違う。これは……。

 

「うぅ、うう……変なの、もう……ふふっ……」

 

 これは、()()()()()()()()()()()

 だけど、それについて俺がこれ以上何かいう事はしない。

 渚は今、俺の胸に顔を埋めて()()()()()()()。それだけだ、それで良い。

 

「……ねぇ、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「私を傷つける人は、誰でも許さないって言ったけど、本当」

「ああ、本当だ」

 

 今、一番渚を傷つけているのが俺だと分かったうえで、俺は矛盾すら飲み込んでそう断言した。

 

「じゃあ、それが綾瀬さんでも?」

「当然だ」

 

 即答だった。

 

「──そっか、そうなんだ。……うん」

 

 やや間を開けてから、渚は何か納得したように何度も『うん』と頷き、やがて……ゆっくりと顔を離した。

 

「それじゃあ、しょうがないなあ。……もう、本当にお兄ちゃんは、妹の事が大好きなんだからっ」

 

 そういって、はにかんだ渚の顔がどんな風だったのかは──永遠に俺の胸の内にだけしまっておくことにする。

 ただ、俺は当然のように、渚に返した。

 

「当たり前だろ、妹なんだから」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「今日は、別々に登校したい?」

 

 翌日。朝食も終えて『いつも通り』に朝の登校を迎えた俺に、渚はそう言った。

 

「うん。今日だけは、お兄ちゃんが出た後に、行きたいなーって。良いでしょ?」

「反対する理由はないけど、どうして?」

 

 今まで、渚の方から別々に登校したいなんて言った事なかった。それが急にどうして、と疑問に思っていると、頬をフグみたいに膨らせながら、不満げに渚は言った。

 

「……もう、こういう時は変に鈍いんだから。昨日思いっきり振られてちょっと気まずいから、気持ちがちゃんと落ち着くまで一人でいたいの!」

「──あー、そういう……なるほど、確かに」

 

 それを言われるとぐうの音も出ない、思わず条件反射に頷きかけたが、余計な頭が回ってしまう。

 

「あれ、でも朝は一緒に食べたじゃんか。それなのに登校だけは別が良いのか?」

「~~もう! それとこれとは別なの! お兄ちゃんそういう心の機微に疎いと綾瀬さんと仲直りしてもまたすぐ喧嘩しちゃうよ? それもきっとお兄ちゃんの有責で!」

「……はい、分かりました」

 

 今度こそもうぐうの音も出ない。

 

「分かったら、先に行く! でも帰りは一緒に帰ろうね、お兄ちゃん!」

「りょうかい。それじゃあ、行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい。お兄ちゃん」

「……悪くないな」

「もう、余計な事言わないでっ」

 

 今までになかった、登校を妹に見送られるって感覚に、まんざらでもない感覚を抱きつつ、俺は家を出た。

 今年の春、俺と渚はお互いの胸に燻っていた想いを否定という形でぶつけ合った。

 そして昨日、また俺たちはお互いの中で育んだ気持ちを、今度はとけ合わせた。

 恋人には、なれない。だけど、世界で唯一無二の兄と妹になれた。

 

 ヤンデレ化におびえて生きてきた自分が、一番危険視していた渚とそうなれた事に、形容しがたい気持ちを覚える。

 そんな心地に半ば酔いつつ、今までと同じように、だけど確かに違う今日を、俺は学園に向けて歩く。

 

 最後に残った俺のすべきこと。

 つまり、綾瀬との決着をつけるために。

 

「……いや、決着なんて仰々しいもんじゃないって」

 

 自分の考えに自分で突っ込みを入れる。

 そう、大した話じゃない。ただ単に、昨日できなかった『証明』を、今度こそする。それだけだ。

 俺の想いを、渚にしたように、今度は綾瀬にぶつける。

 そこにはもう、ヤンデレにおびえるなんて思考は一切介在してない。

 

「ふふ、そう思うと、ホント変な話だよな」

 

 あんなにヤンデレCDに怯えきっていたハズの俺が、今は自分から女の子に告白しようと決意してるなんて。

 春頃の俺が見たらきっと、間違いなく、呆れ果ててこういってただろう。

 

『死にたくなってきた』 ってね。

 

 

 

 

 ──to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 お兄ちゃんの背中を見送って、ドアのガラス越しにも映らなくなったのが分かってから、あたしはポツリと、決して誰にも聴こえないように呟いた。

 

「……ごめんね、お兄ちゃん」

 

 あんなに、嘘をついたことを怒ったのに。

 あれからずっと、お兄ちゃんはあたしに嘘を言わないように気を使ってきてくれたのに。

 

「嘘をつくのって、本当に、良い気持ちじゃないね」

 

 もう誰の耳にも届かない懺悔を玄関で漏らしながら、あたしはスマートフォンの画面に目を向けた。

 そこに表示された新着のメッセ―ジを見て、満足したあたしは、踵を返してリビングへと戻っていく。

 今日の()()をしないといけないから。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 渚がリビングのテーブルに置いたスマートフォンのSNSにはこう映ってあった。

 

『綾瀬さん、今日、夕方にお話しできませんか?』

『学校を休んで』

『私、今日はずっと家にいますので』

『16時くらいに。待ってますね』

 

 

 

『わかった』

 




次回、第3章最終話です。お楽しみください。
感想待ってます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9病 センチメンタルハートボーイ

「俺、綾瀬に告白するから」

「…………は?」

 

 朝の教室、まだ人の少ない空間に、俺の宣言と悠の困惑が溶け込んだ。

 

「……マジで言ってるのかい」

「大マジよ」

「告白って、つまり告るヤツかい? アオハルって意味の?」

「そうそう、その意味の」

「……はぁー!?」

「うわっちょ、声デカいって!」

 

 時間差攻撃みたいな反応でビックリした悠の声で、チラホラ居るクラスメイトが驚いた顔してこっちを見る。

 やばいやばい、まだこの事はクラスじゃ悠にしか知られたく無いのに。

 苦笑いとごめん、のジェスチャーをすると、幸いな事に誰も追求してくる事なく各々のグループでの会話に戻ってくれた。安堵の息を吐いてから、改めて悠との会話に戻る。

 

「マジで頼むよ、リアクション芸人目指してるんじゃないんだから」

「ごめん、あまりにも昨日までとの展開から急変し過ぎて……って言うか、本気で告白するつもりなんだ」

「だから大マジってさっき言ったろ」

「昨日の今日で、一体何があったのさ」

「それは──」

 

 詳細を話そうとした矢先、綾瀬と仲のいい女子グループが登校して来た。

 万が一でもあの子たちの誰かが俺たちの会話を小耳に挟んだら──、告白失敗のフラグを感じた。

 

「すまん、お昼……ああいや、放課後部活始まる前に話す、あんま他の人に聞かれたくないから」

「えー、それ生殺しじゃないか」

「後生だ、そのかわりちゃんと話すから」

「そこまで言うなら、約束だよ」

 

 何とか悠を宥めて、取り敢えずこの話は一旦終わりにする。

 すると、タイミングを図ったように女子グループの1人が俺たちの方に来た。

 

「おはよー野々原くん、悠くん」

「おはよう」

「牧野さんおはよう、今日もよろしく」

「悠くん挨拶固いって、よろしく」

 

 気さくな挨拶を交わすが、牧野さんが俺らに話しかけてくるのはあまりない。何かあったのだろうか。

 

「あのさ、今日実はアタシらと綾ちゃんで放課後『なでにこ』に行く約束してたんだけど」

「お、おう。初耳だ」

 

 牧野さんが言う『なでにこ』ってのは、正しくは『なでぽとにこぽ』と言う二等身キャラのアニメの略称だ。

 猫ともたぬきともつかない架空のゆるキャラ達が活躍する、女子ウケのいい作品だと、渚が話してたのを覚えてる。

 そのアニメを取り扱ってる専門グッズ店が、この前俺と園子も行ったショッピングモールにあるらしい。

 

 そこに、今日綾瀬は行く予定だったのか……まぁ、昨日の部室から逃げた件があれば、行きにくいのも無理はない。

 でもそれを知れて良かった。素直に部室で待ってるんじゃ、永遠に今日告白するのは無理だったろうから。

 

「どうしてそれを俺たちに話すんだ?」

「うん、それがさ、さっき急に『今日休むからごめん』て連絡来ちゃって」

「──え」

 

 今日綾瀬休むの!??!!!? 

 

「それで、最近ちょっと野々原くん達と色々あったっぽいし、何かあったのかなーって気になって……あれ、野々原くん?」

「──」

「あー、多分それ、僕たちも初耳かな。確かに心配だけど、ちょっと答えられる物が無さそうだ。ごめんね」

「うー、やっぱり? 風邪とかじゃなきゃいいけど……分かった、ごめんね変なこと聞いて、じゃ!」

 

 茫然としかけた俺のフォローをしてくれた悠のおかげで、何とか変な空気にならずに済んだ。

 

「いや露骨におかしくなってたよ今の君」

 

 ならずに済んだ。

 ならずに済んだんだよ。

 黙ってろ、うっさい馬鹿。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……はぁ」

 

 一大決心が無駄になるような時間を過ごし、あっという間に放課後を迎えることになった。

 今日は年末のクリスマスパーティーに関する打ち合わせがあるとかで、高等部は5時間授業。渚達より授業1つ分早く終わったので、早速俺と悠と園子は部室に集まっていた。

 ……本当は集まる前に園子にも声をかけて、空き教室で昨日の事を説明しようと考えてたんだけど、それも綾瀬の休みで必要なくなったから、こうして素直に部室に集まることになったのだった。

 

「あ、あの……縁君のこの憔悴具合はいったい何が」

「ん、あー……本人の口から話すのを待ちたいんだけど、でもなあ」

「…………はぁ」

 

 隣で何か話してる2人も気にならないくらい、めっきり気が滅入っている。

 告白のチャンスが途絶えた事、それも今日こうして休みをとったなら、明日以降も綾瀬は休んだりして、永遠に告白する事なんかできないんじゃ……そう思うと、だんだんネガティブな気持ちばかり心にたまっていって、気づけば何も手につかない状況になっていた。

 昨日、渚に綾瀬が絡むとポンコツになると言われて、その言葉の意味が本当の意味で分かってきた。

 

「……はぁ」

「どうしようもないな縁は」

「ここまで素直に落ち込むのは初めて見たかもしれません」

「もうこうなったら、僕の方から話すけど、いいかい縁?」

「ああ……好きにしろよもう」

「ああそうかい、修羅場になる責任は取らないよ」

「良いよ……ん、なんのことだ?」

「ああそうかい、なら遠慮なく。──部長、こいつ今日ようやく河本さんに告白するんですよ」

「──っ、え?」

「そうそう、そのつもりだったけど──っておぉぉぉいサラッと言うなよお前!!」

「うるさいなあ、君が言って良いと言ったんだろ」

「言った……? 言ったかも」

 

 だとしても、そんなあっさりと言わなくたっていいじゃないか。

 しかも、園子を前にしてまるで大したことじゃない風に言わなくたって……なんて逆恨みっぽい事を考えたって仕方ないのは分かってるが、

 

「……」

 

 唐突に言われた方の園子は、半ば呆然としている。

 その表情からはどんな気持ちを持っているかは伺えず、完全に次の園子の反応しだいって状況になってる。

 

 ……園子には、最初から悠と一緒に話すつもりではあったから、結局は結果オーライと言えるかもしれないが。

 この前一緒に買い物に行ったばかりなのもあるから、こうして明け透けに告白するとかなんとかって話を持ち出すのも、気まずいところがある。

 とは言っても、園子がヤンデレCDのような狂気に走る事は無いと確信しているし、朝にヤンデレ化なんてもう気にしないと心に決めたばかり。

 今更、こんな事でおっかなびっくりしていられないのは確かだ。

 

「告白……するんですか。綾瀬さんに」

 

 園子が平坦な声色で聞いてくる。

 俺は躊躇なく答えた。

 

「うん。する」

「そう、ですか……」

 

 果たして、この後どういう反応を返すのだろうか。一度だけ、つばを飲み込んで続く言葉を待つ。

 すると、園子は両の手をぱちんと鳴らして、平坦だったさっきまでと一転、

 

「──おめでとうございます! やっと決意したんですね!」

 

 底抜けに明るい声で、まるで『それを待っていた人』みたいな風に言った。

 

「だよね、本当。ようやくって所だ」

「はい。縁君このままずっと高校生の間は告白しないのかって心配になりましたから……安心です」

「いや、ノリ軽いなお前ら!? ここまで来るのに俺結構大変な葛藤とかあったんだよ?」

「縁、他人の告白までの葛藤なんて物が好きなのは、青春ラブコメを読んでありもしない共感を感じたりする人だけなんだ」

「え、私は結構好きですよ、物語から人生で得られない経験を感じるって楽しいですから」

「部長がこう言ってるんだ、朝話しそびれた告白を決意するまでの経緯を話そうか?」

「お前なんか今日やけに辛辣じゃない? 泣くよ、チクチク言葉に負けるよ?」

 

 最初から放課後に話すって言ったから良いけどさ……。と不満をたれつつ、俺は今日までに起こった俺と綾瀬についてのすれ違いについて、なるべく簡潔かつ丁寧に説明を始めた。

 昨日、先に悠にも説明した殴り合いの後の保健室であった渚の発言から生じた不和。

 園子との買い物を綾瀬に見られていた事を端に発する綾瀬の思い違い。

 そして、昨夜の公園で交わされた俺と綾瀬と、渚の会話。

 

「──とまあ、そういうわけです」

 

 渚の事は言わなかったが、合間合間で園子はともかく、興味薄そうな反応してたはずの悠がいちいち何かしら質問を挟み込むものだったから、全部話し終える頃には6個目の授業が終わり、掃除も終わりに差し掛かりそうな午後3時半を過ぎていた。

 全て聞き終えた二人は、それぞれ何か思うところがあるのか、暗いとまではいかないが、どこか重苦しい色の顔になっていた。

 

「……展開が、展開が早すぎる」

「まあ、な。でもいずれにせよ昨日の出来事は時間の問題だったから、気にするなって」

「僕はついていけないよ、君と河本さんの居る世界のスピードに」

「大げさだな……園子も言ってくれよ考えすぎだって」

「……私があんなお願いごとしなきじゃ2人の関係が悪化するなんて事無かったのに……」

「ああうん、もう良い俺が言うわ、園子は何も悪くない、悪くないよ」

 

 俺の一大決心とそれに至るいばらの道を話し、2人から応援してもらおうなんて考えてたのが馬鹿になるほど、本当に各々の理由で凹ませてしまった。

 

「──なんか、罪悪感か焦燥感か分からない理由でお腹痛くなってきた、いったんトイレ行くね」

 

 そう言って、悠はトボトボと部室を出て行った。

 後に残るのは俺と園子だけ。時刻は45分を指しており、渚達がここにくるまでもうほんの少し間がある。

 

「改めて、おめでとうございます、縁君」

「いや、まだ告白すらしてないし。というか、今後も告白できるかどうかすら」

「どういう事ですか?」

「今日、綾瀬休みだったから……明日からもずる休みされて永遠に告白のタイミングないんじゃって思うと……」

「じ、重体ですね……」

「我ながら、情けないけどね……」

「……あはは」

 

 やや困り顔で、園子は笑う。

 

「……でも、少しだけ、意外でした」

「ん? 何が」

「縁君は、誰かに恋をするとそんな風になるんですね」

「……」

 

 確かに初めて会った時も、咲夜とバチバチだった頃も、俺は園子の前では前向きな姿しか見せなかった気がする。

 だから、今こうして告白できるかどうかでうじうじしてる俺の姿に、違和感があるのかもしれない。

 

「すまん、情けない姿見せちゃったな。気を取り直さないと」

 

 そう言って、喝を入れるつもりで軽く両頬を叩くと、園子は慌てて言った。

 

「ああいえ、その、何というか……違うんです。情けないって事ではなくて、むしろ」

「むしろ?」

「羨ましい……って言う方が、正しいかもしれません」

「羨ましい? どうしてさ」

 

 少なくとも、朝からの俺に、他人が見て羨ましがる要素なんて何もありゃしないと思うんだが。

 

「だって、普段あれだけしっかりしてる縁君をそんな風に

 させるなんて、それだけ綾瀬さんが縁君に想われてるって事ですから」

「……」

 

 思いもよらない言葉に、声が詰まりそうになった。

 

「私じゃ、縁君をそんな風に悩ます事はできません。きっと渚ちゃんでも。綾瀬さんだから、綾瀬さんにしか、それができないんです。だから、羨ましい……綾瀬さんが羨ましいって、思っちゃいました」

「園子……」

 

 自分の言葉の意味をちゃんと理解してるのだろうか。

 自惚れではなく、鈍感主人公でも絶対に気づくほど真っ直ぐな──、

 

「──うおっ、なんだ、着信?」

 

 俺と園子の間に生まれた沈黙を許さないかのように、スマートフォンの着信音が唐突に鳴り響く。

 画面を確認すると、『15:52』と時刻を示す数字の他に、電話の発信者の名前が表示される。

 こんな中途半端な時間に電話してきたのは──、

 

「え? 渚? 何で?」

 

 表示されてる名前は『渚』。

 もうそろそろ授業も掃除も帰りのHRも終わり、ここに顔を見せるはずの渚だった。

 

「渚ちゃん、ですか? 渚ちゃんから電話が来てるんです?」

「あぁ。なんだ、どうしたんだ」

 

 ──何故か、本当の本当に、嫌な予感が一気に胸の中を占拠し始めた。

 何かもう、なにもかもが手遅れになってると、そう感じてしまう何かを、俺は渚の送る電波を受信したスマートフォンから感じ取る。

 

「ごめん、ちょっと出るね」

「──はい」

 

 同じように異変を察知したのか、少し険しい表情で頷く園子。

 頼むから、全てが杞憂であってほしいと願いつつ、俺は通話を選んだ。

 

「──もしもし、どうした渚、お前まだ教室に」

『ごめんね、お兄ちゃん』

 

 こちらの質問を無視して、聞こえた渚の声は、どこかフワフワとした、それでいて確固たる決意を含ませる、そんな不思議な声色だった。

 それがますます、俺の中に焦りを生ませる。

 

『私、お兄ちゃんに嘘ついちゃった』

「嘘って……どうした?」

『今日ね、私……家にいるの』

「家⁉︎学園にいないのかお前!」

『うん。それにきっと、綾瀬さんもでしょ?』

「──っ!」

 

 パズルの様に、瞬く間に点と点が繋がる。

 渚は今日、俺に嘘ついて学園を休んだ。

 綾瀬は今日、朝急に休む事を牧野さんに伝えた。

 渚と綾瀬は、今どちらも家にいる。

 ──隣同士の、家に。

 

「渚お前……」

『……もし、間に合えば、止められるかもね』

「渚!」

『……待ってる』

 

 そう言って、渚は一方的に電話を切った。

 

「渚ちゃんが、今家にいるんですか」

 

 断片的なワードだけで、事態を察したらしい園子が、俺以上に焦った様子で言う。

 それに頷いてから、俺は荷物を持って行くか一瞬だけ考えて、すぐに捨て置く事に決めてから、

 

「ごめん園子、今すぐ帰る、じゃないと2人が──」

 

 そう言って、急いで部室を出ようとした、その時。

 

「──待って、ください」

 

 弱々しい声で、心底申し訳なさそうに、それでもしっかりと、園子が俺の腕を掴む。

 振り返ると、やはり罰が悪そうにしながら、目に涙を溜めつつある園子の顔があった。

 それだけで、もう今から彼女が言うであろう言葉が、想いが何か、雄弁に伝わってくる。

 

「こんな時に、本当にすぐ急いで帰る必要がある時に、ごめんなさい」

「……っ」

 

 逸る気持ちを必死に宥めつつ、一度だけ、踵を返して園子と向き合う。

 

「でも、それでも──今ここで言わないと、言えないと──2度と、言えなくなるから……」

 

 自分勝手な行為だと、誰よりも分かった上で、それでも園子は言う。

 

「──好き、です。好きなんです、あなたの事が。私を助けてくれたあなたが」

「……うん」

「だから……付き合ってください、お願い……しますっ」

 

 顔を真っ赤にして、崩れそうな体を抑えつつ、精一杯に告白する園子。そこには、初めて会った時に見た弱々しさなどまるで無かった。

 

 きっとこれは、あの日の続きだったのだろう。

 本来、あの場で聞くべき言葉であり、そしてあの場で、決着をつけなきゃいけない想いだった。

 園子は想いを告げる勇気が足りず、俺は園子に恋愛感情は無いと思う事にした、

 互いに踏み込まず、止まった時間が再び動き出せる最後のチャンスが、今だったのだ。

 なら、俺には園子の行為を責める資格は無く。彼女は自身の行いが自分勝手だと反省する必要もない。

 先送りにしていたツケを、今支払うという、それだけの当然な話だった。

 なら、後は俺が責任を取るだけ。

 

「──ごめん!」

 

 頭を下げて、俺は正面から園子の想いを拒絶した。

 

「俺は綾瀬が好きだ。だから、園子とは付き合えない」

 

 言うべき言葉はそれだけ。それだけのシンプルな言葉で、理由で、俺は園子を振る。

 

「──はい……わかり、ました」

 

 震える声で、園子は答える。

 その声を聞いて思わず顔を見ようとしたら、それより早く園子は言った。

 

「ふりかえって、そのまま行ってください」

「園子……」

「大丈夫です、大丈夫ですから」

「……分かった」

 

 大丈夫なはずが無い。

 でも、俺はそんな園子の言葉を甘んじて受ける事を選ぶ。

 自分のわがままにこれ以上付き合わせたく無い。そんな彼女の気持ちを無視すれば、それはもう告白を受け入れない事よりずっと、彼女を傷付けて侮辱する行為になる。

 それが分かってるから、俺はもう何も言わずに、もう一度踵を返して、改めて出口を見た。

 

「──ありがとうございました、告白、聞いてくれて」

「俺の方こそ」

 

 俺なんかを好きになってくれてありがとう──傲慢極まりない言葉を殺す。

 

「頑張ってくださいね、きっと縁君なら、間に合いますから」

「──あぁ!」

 

 誰よりも心強い応援を背に、俺は全速力で部室を後にした、

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──良かったわけ?」

 

 縁君が走り去ってからすぐに、反対側の入り口からひょこっと顔だけ覗かせながら、咲夜さんが言いました。

 どうやら、途中から見ていたようですが……発言の意図が心配なのか、呆れなのかまでは、よく分かりません、

 ですが、私の答えは明白です。

 

「──はい、良いんです、これで」

 

 あの日、言えなかった彼への想いを……そこからずっと心の中で眠らせていた気持ちを、こうして言葉に出して伝えて、終わらせる事が出来ました。

 口に出すタイミングが最悪だったにも関わらず、彼は誠実に、正面から想いを受け止めて、その上で容赦なく否定してきました。

 

「分かってたんです、私。彼の瞳の奥にあるヒトが誰なのか」

 

 始めは、誰かまでは分からなかった。

 渚ちゃんか綾瀬さんか、はたまた全く違う誰かなのか。

 でも、園芸部で彼と共に過ごし始めたら割とすぐに気づいたんです。

 “ああ、この人は本当に綾瀬さんが大切なんだな”と。

 それがわかったから、尚更この想いが表に出る事は無かったけど。

 

「それでも、いざ2度と伝えるチャンスがなくなると分かったら、伝えずにいられませんでした。あのまま宙ぶらりんで終わってしまう事だけは、耐えられなかったみたいです」

「──あっそ」

 

 たいした興味もなさそうに、咲夜さんはテクテクと部室に入り、自分がよく使うパイプ椅子に腰を落とします。

 その容赦ないマイペースさが、今だけは、不思議と心地よくて、ちょっとだけクスリと笑えました。

 

「強がりじゃ、ないんですよ?」

「そうやって聞いてもない事自分から言う方が、強がってるように見えるわよ」

「……かも、しれませんね」

 

 だって、仕方ないじゃないですか。

 

「──初恋ですよ? 振られたら、誰だって辛いです」

「え、ちょっと……泣かないでよ?」

「泣きません、泣いてる暇なんてありませんから」

「どうしてよ」

「私、前から決めてる事があったんです」

「決めてることって? 振られたら廃部するとか?」

「違いますよ」

「なら何よ」

 

 急かしてくる咲夜さんに、もう一度クスッと笑いながら、私はちょっと濡れかけてた右目の端を指で拭いて、“決めた”の事を思い出す。

 

『お願いしますね、彼の想い人さん。 どうか縁君を、幸せにしてあげてくださいよ? さもないと、私──』

 

「縁君に思われて、それなのに縁君を傷付けるような事をしたなら──私、絶対に河本さんを殺してしまうくらい許せないので」

 

 きっと、()()()()()()()だと思います。だから──、

 

「……こわ」

「そうでしょうか?」

「怖いわよ」

「咲夜さんも恋をしたら、そのうち分かりますよ」

「何よそれ、ちょっとウザいわね」

「ふふっ」

「……はぁ、それよりも」

「はい、どうしました」

「また今日も部活は休みなわけ? 私せっかく来てるのに」

「そうですね……それじゃあ」

 

 せっかくですから、

 

「来年に備えて球根を植えていきましょうか。ちょうどチューリップの植え時ですから。人ひとり埋められるくらい、たくさん土に穴を掘りましょう?」

「含み持たせる言い方するんじゃないわよ! やる時は1人でやりなさい!」

「咲夜さん、これは部活ですよ、一緒に頑張らないと」

「絶対共犯になんかならないから!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──はぁ、はぁ、はぁ……クソ絶対間に合わねえ!」

 

 学園から身体一つで家まで走ってるが、多少運動できる程度の俺はアスリートではない。

 当然、長時間走り続ける持久力なんて持ち合わせてるはずもなく、まだ家と学園の距離から見て三分の一程度進んだ辺りで息が上がってしまった。

 

「どだい……無理な話かもしれないけどさっ」

 

 今家に戻っても渚か綾瀬、もしかしたらその両方が死んでるかもしれない。スマートフォンを見れば時刻は15:56。さっきからもうカップラーメン一個できて食べてるくらいの時間が経った。

 今頃、とっくに家には綾瀬が来てるだろうし、前の晩にアレだけの言い合いをした2人が、ただ会話だけして終わるわけがない。

 

「畜生……渚にまんまと騙された、騙されたぁ!!」

 

 渚が家にいると分かって、もしその場に誰も居なかったら、俺はホラー映画で最初に死ぬ奴みたいな絶叫をあげていた。

 それが無かったのは、園子がいてくれて真剣に告白までしてくれたからで、お陰で冷静さを取り戻せたけれど、しかし家には間に合わない! 

 

「もう信じたよー! 絶対大丈夫だって、なのに結局CDと同じ結末なのかよー! クソー!」

 

 歩道に面したブロック塀に右手を付けて、肩で息をする。

 ヘロヘロになりながらも走り続ける中で、体力気力のタンクとは別に沸々と怒りが湧いてくる。ただしそれは渚相手にでは無く、渚を無条件に信じた自分自身に対するものだ。

 こうやって自分の行動に怒りや反省の必要を感じた事が何回あっただろうか。その度に良くなっていくはずが、結局今こうして絶望的距離を走る様になっている。

 

「いや分かるかぁ! 渚とあれだけ会話してわかり合って、それでまた嘘つかれるなんて思うわけねえだろ!」

 

 もう一つの視点で物事を見た自分が、それはそれで真っ当な反論を出す。実際その通りで、アレだけ昨日会話した渚を更に疑う様では、そもそも俺は今日まで生き残ってはいない。

 俺は成長して、渚も成長した。その2人が進んだ結果、今この状況が生まれた。

 つまり、避けようのない未来だったわけで。どうしようもないから“しょうがないだろ”とため息つきながらベットに横なって眠るのが妥当なわけだ。

 

 あぁ、そう思えば、こうして必死に走るのも虚しく────、

 なるわけ、無いわな。

 

 渚は言ったんだ、電話を切る前に。

 

『……もし、間に合えば、止められるかもね』

『……待ってる』

 

 俺の信じた渚のままだとすれば、あの発言が意味するのは一つだ。

 “止めて欲しい”。

 渚は俺が来るのを待ってる。俺が間に合って、渚のやろうとしてる事、綾瀬がやるかもしれない事を止めてくれるのを信じてる。

 なら、“しょうがない”なんて腑抜けた考え、間違っても肯定するワケにはいかないよな。

 

「──で、結局このまま走るのか、諦めるのか、結論は出たのかい?」

「五月蝿いなぁ、もう言わなくても分かるだろ。是が非でも走ってやる。『走れメロス』を書く前の太宰治が見たら、自分の人生経験じゃ無く俺をモデルにしたがる走りをしてやるよ」

「それをするには、些か体力が足らないんじゃないかな」

「分かってるっての、だからもう五月蝿いなぁさっきから。心の声のくせにしつこ──」

 

 ──あれ、俺、そんな事考えてない。

 さっきから語りかける声が、自分の心の声じゃ無いと分かった。

 ふっと声のする方、右側はブロック塀だから、自分の左側を向く。

 

「──やっとこっち見た。独り言が凄いなぁキミ」

 

 ニコニコしながら、悠が俺を見ていた。

 ──見た事もない馬鹿に厳ついバイクに跨りながら。

 

「……え、何それ」

「これかい、僕の愛車」

「愛車」

「ゴールドウィングA・Y・CUSTOM(綾小路悠家出仕様)、長時間・長距離を爆走する鉄の神獣さ。カッコいいだろう? 僕の位置を探知して自動的に来る様にしてある」

「あー頼むから、この情緒乱れやすいタイミングで謎のオーバーテクノロジーを見せないでくれ」

 

 ちょっと分からない話が続きそうだったので遮る。

 

「間に合いたいんだろ。さっき涙目の部長から話を聞いて急いで駆けつけたんだ。乗りなよ」

「……はは、すげえや」

 

 ヘルメットを被りつつ、俺にも予備の分を渡す悠。

 それを受け取り、改めて親友のスペックの高さに打ち震えつつ、“持つべきものは友”という格言のありがたみを思い知る。

 いそいそと後部座席に座り、悠の腹に手を回すと、それを合図に悠がエンジンを掛けてギアを上げていく。

 

「しかし、やっぱ凄えな、お前。こんな高そうなバイク……しかも色々手を加えてるんだろ」

「税込350万くらいだったかな、カスタム代の方が高かったよ。でもその分乗り甲斐がある奴でさ、排気量も1800超えてるから気持ちよくて」

「うぇ、凄えな1800ccもすんのか。そりゃ高いワケ──ん?」

 

 あれ、日本で17歳の高校生が取れる免許って何ccまでだっけ。

 細かい数字は覚えてないけど、確か原付クラスが上限だったと思う。そして原付は125ccだったから、つまり……。

 

「──ねぇ、悠。君、これ乗りこなしていい免許持ってないよね?」

「──はぁ、縁。君、間に合いたいのか間に合いたく無いのかどっちだい?」

「やっぱ無免許運転かよお前! さては今まであの馬鹿でかくて広い敷地の中で乗り回してやがったな!!!」

「そうだが何か⁉︎ 運転スキルに問題はないよ!」

「捕まるだろ警察が見たら! 間に合うけどその前に法に罰せられるわ!」

「法? 免許? そんな道理──お金の力で押し通す! (お金で買えない物は無い!)

「最低だコイツ!」

「ああそうだ、そして君の親友だ! 噛みしめろ、これが、男の、驀進だ!!」

 

 もはや開き直りの極地に至った男の運転は、それはそれは物凄い物だった。

 風を切る音、アスファルトを薙ぐ衝撃、鳴り響くパトカーのサイレン。

 仮に間に合ったとして、その代償の大きさが窺い知れない、そんな刹那の時間に。

 

 ふと、俺達はこんな会話を交わした。

 

「──しかし、縁は罪作りな男だよ、24時間以内に2人に告白されて、しかも振るなんて」

「言うなよ……結構胸にくるんだぞ、コレ。こんな立て続けに2人の想いを壊すなんてさ」

「3人だよ」

「え?」

「さあ、着いたよ!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「マジでありがとう親友!」

 

 違法バイクから降りてすぐにスマートフォンを見ると、時刻は16:01。信じられない速さで家に着いた事で、希望が見えてきた。

 

「しっかり決めてこいよ! 親友」

 

 後ろから聞こえるエールに、拳を突き付けて、俺は玄関の鍵を──空いてあった。

 

 急ぎ扉を開けて、靴を脱ぎ、リビングまで走る。

 

「渚、綾瀬、待て──っ!」

 

 リビングに入ったその瞬間、俺が目にしたのは。

 床に倒れてる渚と、その上に馬乗りになる綾瀬と。

 

 綾瀬が手にした包丁を、思い切り振り下ろす姿だった。

 

 

「やめろぉぉーーーーー!!!」

 

 綾瀬の腕は迷いなく、降り下ろされた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終病 恋獄

第3章 河本綾瀬編 最終話です。
楽しんでいただければ幸いです。


 これ程までに起きるのが億劫な朝があっただろうかと、綾瀬は思った。

 

 ()()()が来た時だって、ここまで酷くはない。

 いっそこのまま消えてしまえばいいのに──そんな気持ちと、今日もまた学園で縁に会わなければならないという気持ちが交錯して、『縁と会う事』をいつの間にか嫌なイベント扱いしてしまってる自分に気づき、最終的にはやはり自己嫌悪で完結する。

 

 ──本当、死んでしまいたい。

 

 そう思いながらもできないのは、綾瀬が俗にいう構ってちゃんなメンヘラだからではなく。

 ここで死んだらまた、『今度は死んで自分を見て貰いたがってる最低な女』と言われそうなのが嫌だったからだ。

 誰に? もちろん、野々原渚に。

 

 想い人の妹、そして恋敵。

 縁とは別の意味で、綾瀬をよく知る人間。

 縁が自分の善い面を見てくれる人間だとすれば、渚は綾瀬の負の側面を見る人間だ。

 縁には見られたくない自身の一面、渚はそこばかりを的確に見てくる。縁と会話する時、常に縁のそばにいる渚の事が、綾瀬は心底苦手だった。

 

 そんな渚が、縁と喧嘩する時があった。

 今年の5月の出来事である。

 

 複雑な理由があったが、あんなに慕っていた兄を真っ向から否定する渚と、それを受けて同じくらいに渚に怒りを向ける縁に、綾瀬は初めてこの2人にも『絶対』は無いのだと理解する。

 血のつながり、両親の不在が多い環境で、この兄妹には揺るがない絆があると思っていた。でも、目の前で互いが互いを否定し合うのを見て、この2人の間にも譲れるものとそうじゃないものがあると知った。

 その瞬間、あんなに苦手意識を持っていた渚に対して、縁に詰め寄られて涙を流す渚に対して、綾瀬は否定以外の気持ちを持ったのだった。

 

 もしかすれば、それは単なる同情だったのかもしれない。

 憐れんだ上から目線の見下しがなせる行為かもしれない。

 でも、その時の綾瀬には、渚は『関わりを持ちたくない女』ではなく、『自分と同じ男に恋をする、自分と同じ人間』に見えてしまい──、

 気が付けば、渚をかばって兄妹の喧嘩を止めた。

 

 渚は綾瀬が自分を庇ったという事実に心底驚いていたが、同じかそれ以上に内心困惑しているのは綾瀬の方だったに違いない。

 とにかく、その日以降、綾瀬と渚の関係は精神的冷戦状況から、互いにほんの少しは歩み寄る関係へと変わった。

 どういう時にどんな事を思うのか、話すのか、反応するのか……一緒にいた時間は長かったハズなのに、5月からの数か月間で初めて知った事は多かった。

 

 だからこそ、綾瀬には分かる。

 

『綾瀬さん、今日、夕方にお話しできませんか?』

 

『学校を休んで』

 

『私、今日はずっと家にいますので』

 

『16時くらいに。待ってますね』

 

 ──今朝、渚から届いたメッセージ、この文章を送った渚の考えが。

 

 きっと、いや間違いなく、渚は『終わらせよう』としている。互いの関係を。

 おもむろにベッドから立ち上がり、いったん部屋を出る。

 母親には嘘の理由で休む旨を伝え、風呂場で顔を洗い、そのまま部屋に戻るのではなく──物置にしている一室に立ち寄る。

 普段、両親がDIYなどで工具を取り出す時くらいしか使われることが無く、薄暗い部屋の奥には、ある物がひっそりとしまってあった。

 

 一か月以上も前──自分の人間関係の失敗に縁が巻き込まれ、綾瀬を妬んでいた卑しいメス豚があてつけに縁を誘惑しようとした際に、脅迫のために使ったもの。

 学園の工具室から拝借した五寸釘、それとこの家に元からあった金槌があった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……まぁ、間に合うわけ、無いよね」

 

 縁との電話を終えた渚は、そんな独り言をこぼしつつ時計を見る。

 時刻は、夕方の15時53分。もうすぐ時間だ。

 

「……緊張してるのかな、私」

 

 妙に心臓の鼓動が強く感じられて、柄にもなく緊張している事に気づく。

 しかし、当然の話でもある。これから自身が行おうとする行為は、自分か綾瀬、どちらかの命が無くなる可能性が大いにあるのだから。

 

「さっきの会話が、お兄ちゃんとの最後の会話だったら嫌だな……」

 

 あんな電話の終わり方で、恐らく愛する兄は今全力で家に向かっているに違いない。そんな兄が家に戻って自分の死体なんて見た日には……。

 

「──や、やっぱりもう一回電話しようかな」

 

 せめて今までの感謝を伝えるくらいは──そんな、ますます死亡フラグにあてはまる行動に走りかけた時、客人の訪れを告げるチャイムが鳴った。

 

「……時間より早い。5分前行動ってこと?」

 

 誰が来たのかなんて考えるまでもない。タイミングが良いのか悪いのか分からない来訪者を迎えるべく、渚はトタトタと玄関に向かう。

 扉を開けた先にいるのはやはり、そして想定以上に険しい顔をする、綾瀬だった。

 

「こんにちはー、綾瀬さん。すみません、わざわざ来てもらって」

「ううん……こっちこそ、少し早く来ちゃったけど、大丈夫だった?」

「大丈夫です。ささ、どうぞ上がってください」

「……ええ。お邪魔するわね」

 

 互いに()()()()()の態度で会話をしつつ、渚は一足早く奥に戻りキッチンに、綾瀬はリビングにそれぞれ足を運ぶ。

 リビングにあるソファに座ろうとする途中、リビングとつながるキッチンの様子が見えた。

 まな板には包丁と野菜、コンロには鍋が乗っており、今日の夕飯の準備が粛々と進められていたことが伺える。

 

 渚は綾瀬がソファに座らずにキッチンの様子を見ている事に気づくと、ジャガイモの皮をピーラーで剥ぎつつ言った。

 

「今日はカレーなんです。最近食べてなかったので」

「そうなんだ、カレー。縁も好きだものね」

「はい。本当は綾瀬さんが来る前に下ごしらえを終わらせたかったのに、すみません。ちょっと待ってて貰えますか?」

「良いけど、どうせならアタシも手伝うわよ、その方が早いでしょ?」

 

 綾瀬の提案に、渚は一瞬ぽかんとした後、すぐに調子を取り戻して慌てつつ答える。

 

「そんな、悪いですよ!」

「気にしないで、アタシも何もしないままってのは手持ち無沙汰だし。渚ちゃんとの()だって、しながらすればいいと思うし」

「……そう、かもしれませんね」

「でしょ? じゃあほら、アタシは何からすればいい?」

「えーっと、それじゃあ──」

 

 そこからは、2人並んで、キッチンでカレーの準備をする時間になった。

 昨夜の出来事なんて無かったかのように、幼いころからの知己である2人は、はたから見ればそれこそ姉妹の様に見えただろう。

 もしかすれば、当人同士である渚は『自分にもし、姉が居れば……』、綾瀬は『妹がいるとしたらこんな……』なんて事をお互い思ったかもしれない。

 嵐の前のような静かで穏やかな時間。しかし、それは文字通り嵐の前なのだ。すなわち、必ず嵐はやってくる。

 そして、それを引き起こしたのは、綾瀬の方からだった。

 

「──ところで、渚ちゃん」

 

 渚から代わってジャガイモの洗いや根菜の皮むきを全て終えた綾瀬が、土の付着した手を洗いつつ言う。

 

「今朝、言ってた話って何?」

 

 綾瀬が用意した野菜──今はジャガイモだ──を包丁で切っていた渚は、横目で一瞬綾瀬を見やった後に、質問に答えた。

 

「いくつかあります、まずは昨日の事……言いすぎました、ごめんなさい」

「……謝るんだ、どうして?」

 

 驚いたふりではなく、本当に意外な言葉が出てきた。

 

「あの後、私が綾瀬さんの立場ならどうするんだろうって考えたんです。私も、あまり変わらない事するって……思ったんです」

「……」

 

 包丁を動かす手を止めて、顔をこちらに向けながら、渚は言った。

 

「お兄ちゃんの事が好きなら、あの場ではきっとああするんだろうなって自分でも気づいたから、綾瀬さんの事最低なんて言う資格ありませんでした。本当にごめんなさい」

「……いいわよ、そんなの」

 

 やや間を開けた後、綾瀬はまた手洗いを再開しつつそう答える。

 ──正直、渚の言葉が本当か嘘かは分からない。しかし、あの渚が『逆の立場ならどうしたか』なんて形で自分に寄り添おうとした、という事実に、綾瀬は先ほどより更に強い驚きを受けた。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。長く信じていた根底にひびが入る気分だった。

 嫌いだったはずの人間にも考えを巡らすほど、渚は成長しているのだと理解した。

『お兄ちゃん』だけを見ていた渚の視界は以前とは比較にならないほど広く、深くなった。きっと、それが縁への深い理解にも繋がっているのだろう。

 こうして横に並んで接すると、納得せざるを得ない。『お兄ちゃんをこの世で一番理解しているのは自分だ』と断言できるだけの資格が、今の渚にはあった。

 

 同時に、綾瀬は思い知らされる。

 自分がいかに停滞していたのかを。渚と違って等身大の縁を見ていたのに、彼の幼なじみとして横に居る事が当たり前になっていて、彼の一番になろうとする気さえ起きていなかった。

 何度も心の中で思ってはかき消していた事実が、渚という人の形を持って目の前に現れた。そんな気さえ、今の綾瀬はしていた。

 ──もっとも、そういう心がマイナスな時は自己嫌悪に耽りがちという点においては、縁とよく似ているという事に、今の綾瀬は気付いてない。

 そういう節々で愛する兄と似た部分を見せる──兄の人格形成に影響を与えた綾瀬に、渚が密かに嫉妬してた事だって当然、知る由もない。

 

 話は続く。

 

「──他には?」

「はい、その前に──ごめんなさい、もっと早く言おうと思ったんですけど、ポケットの物、あっちのテーブルに置いてくれますか?」

「──っ!?」

 

 あまりにも、あまりにも自然な流れで、渚は綾瀬が忍ばせていた五寸釘と金槌(凶器)の存在を言い当てた。

 これにはさすがに動揺を隠しきれず、洗う手も止まって硬直した顔のまま渚を見つめるしかできなかった。

 対して、渚は笑顔を浮かべる──包丁を握ったまま。

 

「やっぱり、何か持ってきたんですね、綾瀬さん」

「……カマをかけたの?」

「半分は。でもやっぱり()()()()()()()()()()()()()()()って思っ──」

「やめてよ、それ」

 

 本当に渚は自分を理解しているのだと、またも思い知らされる。

 何もかもを掌握されているような気持ち悪さが、凶器を言い当てられた事よりも先行した。

 

「──私、告白したんです、昨日」

「えっ……え?」

 

 心が乱れ始めた綾瀬に追い打ちをかけるように、渚が言葉を続ける。

 

「好きだって、家族じゃなく異性として、綾瀬さんよりも私を見てって……でも駄目でした。フラれちゃったんです私」

「……だから、アタシを殺そうって言うわけ!?」

「くく……あはは、そんなワケないじゃないですか」

 

 包丁は離さないまま、渚は綾瀬の言葉を受けてケタケタと笑う。

 その笑顔があんまりにも自然すぎたから、綾瀬はいよいよ持って、渚の考えが分からなくなった。

 

「何が……何が言いたいの? 昨日の事謝って、フラれた話して、アタシにそんな事話してどうしたいのよ!」

「そんな事って酷いじゃないですか。全部綾瀬さんに関わる話なのに」

「それが意味分からないから言ってるんでしょ?」

「なんでアンタお兄ちゃんと向き合おうとしないのよ」

「──っ!!」

 

 唐突に、全てが反転する。

 先ほどまでまな板に向いていたハズの体は綾瀬の方へと向いて。

 口調も、態度も、目つきも雰囲気も何もかも──まるで最初からハイドがジキルの演技をしていたかの如く、渚は表皮の裏に隠し続けていた怒りを一気に面に出した。

 

「お兄ちゃんが好きなら、なんで柏木さんと付き合ってると思ったその時に問い詰めなかったのよ」

「それは──」

「保健室で私に言われた言葉があったから? 私なんかの言葉でおずおずと引き下がる程度の気持ちだったわけ?」

「違う! そんな事ないわよ! ……でも、縁のためにアタシができる事なんて」

「お兄ちゃんにとっては綾瀬、あんたがただ隣に居てくれるだけで十分幸せだったのよ」

「──えっ」

 

 返す言葉に詰まる綾瀬。

 その顔を見て渚の怒りが更に激しく燃え上がる。──()()()()()()()()()()()()()()と。

 

「呆れた、あんたお兄ちゃんの事なんて何も見ていなかったのね。お兄ちゃんがいつもどんなにあんたを大事に思ってたか……好きなんて感情通り越して、女神様みたいに大事にしてたのか、全然気づいてなかったんでしょ」

「……うるさい、やめてよ」

「自分が何もできないですって? 存在してるだけで意味を持ってるくせに──好きだって思ってもらうための努力なんて何もしなくていい『幼なじみ』のくせにふざけた事言うんじゃないわよ!」

「やめてって言ってるでしょ!」

「そうやって都合の悪い事言われたらまた大きな声だして誤魔化すの? 自分からは何もしないくせにそれを指摘されたら怒る? あんたに1個だって怒れる資格なんて無いわよ!」

「──いい加減にしなさいよ!」

 

 言ってしまえば、当然の流れだった。

 言葉で渚に勝つ術を綾瀬は持っていない。渚は綾瀬を糾弾する口を止める気が無い。

 綾瀬は凶器を持っていて、それが届く範囲に渚が立っている。

 そして何より、綾瀬は渚に嫉妬している。

 ──左ポケットにしまってあった五寸釘を渚に刺そうとするのは、至極、当然の流れであったのだ。

 

 鉄と刃物がこすれ合う、鈍い音が室内に重く響く。

 綾瀬の五寸釘は、渚の首まであとすんでのところで、渚が手に持った包丁によって止められた。

 

「……これが、あんたの本性ってわけね」

「何もかも分かったような口するんじゃないわよ……アンタなんか、ただの妹のくせに!」

「ただの妹にも分かるくらい薄っぺらだって言ってるのよ」

「妹のくせに兄に恋とか気持ち悪いのよ! 近親相姦は犯罪だって知らないの!?」

「幼なじみって立場に依存してた女に言われたくないわよ!」

 

 どちらからともなく、2人は空いてる方の手で互いを掴み合う。

 

「……っ」

 

 力は綾瀬の方が上なため、渚を床に倒そうとする力に押し負けそうになる。

 

「──このっ!」

「きゃっ!?」

 

 しかし、家の造りは当然家主の渚の方がよく知っている。

 倒れこむ前にまな板の取っ手部分を掴み、乗っていた野菜を綾瀬の顔に叩きつけた。

 予想外の方向からの痛みで、自分を掴んでいた手と五寸釘から距離を取る事に成功する渚。

 体勢を立て直して、ひるんでいる綾瀬にぶつかっていく。タックルのような姿勢で突っ込んできた渚に対応できず、綾瀬は背中から倒れこんでしまう。

 

「──このっ!」

 

 馬乗りになった渚が、左手で綾瀬の右腕を抑えつつ、右手に持った包丁を綾瀬の顔に向けて振り下ろす。

 五寸釘で防ぐ事は無理だと判断した綾瀬は、とっさに握ってた五寸釘を左手から離し、そのまま渚の右手首を抑える。

 今度は体勢が有利な分、渚が力負けする状況にはならず、膠着状態に陥る2人。

 

「……ずっと、あんたが嫌いだった」

 

 余裕ができたからだろうか、渚は綾瀬を見下ろしながらここまで言えなかった言葉を口にする。

 

「ただの他人が、幼なじみってだけで、お兄ちゃんの心を掴んで……ずっと気に入らなくて、納得できなくて、許せなくて……殺してやりたいって思った!」

「そんなの、アタシだってそうよ! いつもいつも縁の隣に引っ付いて、アタシと縁の邪魔ばっかして鬱陶しい! しかも縁を寂しさを紛らわすための存在にしか思ってなかった最低女じゃない!」

「……そうよ、私はお兄ちゃんをちゃんと見てなかった」

 

 一瞬、渚の力が弛んだ気がした。

 

「私はお兄ちゃんが自分の思うようにならない事が許せなくて、お兄ちゃんを否定した。お兄ちゃんもそんな私に怒って……本当ならもう今頃、とっくに私とお兄ちゃんの関係は壊れてた」

「……渚?」

「それが……なんであんたなのよ!」

「──っ!!」

 

 綾瀬の右腕を抑えていた手を離し、両手で包丁を持ち力を込めてくる渚。

 同じく自由になった手も使って、文字通り必死に渚の手を抑える綾瀬。

 しかし、いくら両手が自由になっても体勢の不利は変わらない。このままでは眼前の包丁が確実に刺さってしまう、そんな焦りが心を覆いつくしてしまいそうになった、その時。

 

 ──ポタっと、何かが頬に落ちたのを綾瀬は感じた。

 それが何なのか、ものの数秒もかからずに綾瀬は理解する事になる。

 

「なんで……なんで、あんたなんかに助けられないと、アタシはお兄ちゃんとやり直せなかったのよ……」

 

 それは、綾瀬を見下ろす渚の涙だった。

 渚は泣いていた。今まさに綾瀬と殺し合いをしているこの瞬間に、大粒の雫を落としている。

 だがそれは、殺し合いという命のかかった行動による恐怖からの涙ではない。

 もっと別の、殺し合いとか殺意とか、そういうのとは異なる感情の潮流がもたらす涙だった。

 

「あんたなんて大嫌いなのに……綾瀬が居なきゃ、アタシはお兄ちゃんを本当の意味で好きになれなかった……」

「……」

「なのになんでお兄ちゃんの気持ちに応えようとしないの? 綾瀬、あんたは最初からちゃんとお兄ちゃんが好きだったんでしょ!?」

「渚、あんた……」

「お兄ちゃんだってずっと綾瀬が好きで……なんであんたみたいな女が、お兄ちゃんの一番なの!? どうしてアタシはお兄ちゃんの妹なのよ、あんたが居なきゃ本当の意味でお兄ちゃんを好きになる事すら出来なかったの!? なんで? ねぇなんで!?」

 

 慟哭。もはや渚の感情は誰に向けたものであるのか、その方向さえ分からなくなる程の、激しい感情のうねり。

 

「答えて、答えてよ! 答えなさいよ!!」

 

 そこには、先日からずっと見せつけられてきた、()()()()()姿()なんてものはまるで無かった。

 自分への絶望と、綾瀬への怒り、嫉妬、助けられたという否定しようがない事実への葛藤、それら全てに呑まれた少女の姿しかなかった。

 そんな感情をぶつけられて、思わず綾瀬は渚の手首を抑える力を弱めてしまう。そうなれば、たとえ感情が爆発したとしても、その隙を逃す渚では無い。

 

「あんたなんて──綾瀬なんて、死んじゃえっ!!!」

 

 すぐに両手を頭上に掲げなおし、先ほどより勢いよく、包丁を綾瀬の顔めがけて振り落とそうとする。

 だが、渾身の力であるがゆえにその動きは大きく、素人の綾瀬でも渚がどこを狙っているか、どこに刺そうとするか、その軌道まで容易に分かった。

 馬乗りになっても何とか動かせる上半身の一部ごと、顔を思い切り右に捻り、ギリギリのところで包丁を躱す。振り下ろし切った包丁は刃先が床に突き刺さり、すぐに抜く事はできなかった。

 綾瀬は戻る力を利用しながら、隙だらけになった渚の頬に思いっきりビンタを叩きつける。

 

 動ける部分のみとは言え、全体重の乗った平手をまともにくらった渚が平気でいられるハズなく、ゴロゴロとリビングの方まで吹っ飛ばされてしまう。

 

「はぁ……はぁ……」

「ぅ、ぅ……」

 

 息も絶え絶えの綾瀬、叩き飛ばされた衝撃で床に頭を打ったのか、意識がもうろうとしている渚。

 どちらが有利かなんて、もはや考えるまでも無い。

 綾瀬は先ほど渚が床に突き刺してしまった包丁を難なく抜き取り、呼吸を整えながら渚の前まで立つ。

 渚にとっては絶体絶命と言える状況だが、受けたダメージがでかく、未だ抵抗もできない状況。

 ──勝敗は決した。殺す側と、殺される側が決まったのだ。

 

「……ぶざまね、ほんと」

 

 そう呟きながら、綾瀬は先ほどの意趣返しの様に渚の上に馬乗りになる。

 もはや抗う意思も失せたのか、自分を冷たく見下ろす綾瀬に、おぼろげな瞳を向けるだけだった。

 

「アタシ、これでもうアンタ殺せるわよ……何か、言いなさいよ」

「……さいしょに、うるさいって言ったのは綾瀬でしょ」

「そう……そうね。そうだった」

 

 包丁を構える。間違いの無いよう、多少躱されても致命傷になりやすい胴体を狙う。

 

「──アタシだって、アンタみたいに、縁の事全部分かるようになりたかったわよ」

 

 最後に、それだけ呟いて。

 

 

「やめろぉぉぉぉぉぉー!!!」

 

 縁がリビングに入ってそう叫ぶのと、綾瀬が振り下ろすのは同時だった。

 声は届いても届くだけ。声には物理的に人を止められる力はない。

 だから、もしこの状況であとコンマ数秒後、仮に渚の命が消えなかったとするならば、それが起こりうる条件は1つしかない。

 それは──、

 

「……っ」

 

 それは──綾瀬自身が、包丁をすんでのところで止める事。

 

「え──綾瀬?」

「なに……してるの?」

 

 野々原兄妹の問いは同じものだ。

 綾瀬は、もう少しで渚の心臓に刺さるであろう包丁を、刃先が服に当たるかどうかの所で止めたのだ。

 何故止めたのか、縁が来たからではない。では、何故か。

 

「綾瀬……あんた、泣いてるの?」

 

 理由は、綾瀬自身に最初からその気がなかったからだ。

 先ほどの渚と同じく、綾瀬は馬乗りの姿勢になったまま、渚を見下しつつも瞳に涙をためていた。

 その様子を、渚も縁も、ただ茫然と見つめる事しかできなかった。

 

「殺せない……殺せるわけない」

 

 憎しみしか向けられていないと思っていた、あの生死の境目で。

 渚は、綾瀬が居なければ自分は兄を本当の意味で好きになれなかったと言った。

 渚自身にその気があったかは分からないが、それはつまり、婉曲で歪ではあるが、渚が今の渚になれたのは、綾瀬のおかげだという事。

 あれだけ渚の成長にコンプレックスを抱き、無力だと自己嫌悪した自分が居なければ、渚は成長しなかったのだ。

 それをハッキリと言われて、自分が憎しみ以外の感情を渚に持たれていると分かってしまったら最後、もう綾瀬に渚を殺せる理由が無くなってしまった。

 

「ここで殺しちゃったら、もうアタシ、何がしたいのか、本当にわけわかんなくなる……。縁にだって2度と向き合えない、好きだって言ってもらえなくなる……そんなの、絶対に嫌……嫌よ」

「……はぁ、だったら、それを最初からちゃんとお兄ちゃんに伝えたら良かったんじゃないですか?」

 

 いつもの口調に戻った渚が、トンっと綾瀬を突き飛ばす。

 もはや力のない綾瀬はそのまま後ろに軽く転がり、偶然直線状に立っていた縁の足にぶつかって止まった。

 また急な展開になり涙目のまま、きょとんと渚を見つめる綾瀬を、呆れ顔のまま見返しつつ、渚はゆっくり立ち上がり……、

 

「ほんと、最悪な気分。これで綾瀬さんに殺されたら、お兄ちゃんは一生綾瀬さんを許さないし、私はずっとお兄ちゃんの心の中に居られた……お兄ちゃんの一番になれると思ったのに、何最後の最後で日和ってるのよ」

 

 どこまでが本当の話なのか、あるいは全部本当か。

 そんな恐ろしい事を口にした後、縁に笑顔を向けた。

 

「お兄ちゃん、本当に間に合って良かったね!」

「間に合った……のか? これ」

「うん。間に合ったよ。私も綾瀬さんも死んでない。でも……」

 

 兄の足元にたたずむ綾瀬をもう一度見やり、渚は言葉を続ける。

 

「そこにいる綾瀬さんは、だいぶ駄目になってるからお兄ちゃん、ちゃんと見てあげて?」

「な──っ」

「もう逃げる、なんてことしないでくださいね、綾瀬さん?」

 

 笑顔でそう話す渚。しかし、その圧は先ほどの殺し合いの中ですら見せないほどの、有無を言わせないものだった。

 

「私はちょっと買い物行ってくるから、じゃあよろしくね」

「ちょ、渚……お前もしかして、最初からこうするために?」

「どうかなぁ、ふふ、お兄ちゃんの想像にまかせるね。それじゃあ行ってきまーす!」

 

 もうこれ以上この空間に居る気はない、言外にそう伝えつつ、渚は素早くリビングに()()()()()()()()()()()買い物用財布を手に取り、有無をも言わせない素早さで家を出て行ってしまった。

 

『……』

 

 後に残るのは、こじれに拗らせた2人の男女。

 言ってしまえば、縁にとってはここからが本当の頑張りどころである。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……はぁ、本当に何やってるんだろう、私」

 

 恋敵と殺し合いをした直後に、本当に間に合ったお兄ちゃんにとっさに綾瀬を押し付けて、逃げるようにリビングを後にした。

 まあ、本当に逃げたようなものだけど……でも、あのままお兄ちゃんと綾瀬さんの会話を聞くのは、さすがに死にたくなるから仕方ないよね。

 

 ……本当は、私が死ぬか綾瀬が死ぬかのどちらかだと思ってた。

 立ちあがって最初に言った言葉は嘘じゃなかった。私がお兄ちゃんの一番になるには、もうそれしか方法が無いと思ってたし、あそこで綾瀬が殺すのをやめるなんて思いもしなかった。

 

「なんか……本当に負けた気分」

 

 出来る事ならこのままどっか消えてしまいたい気持ち。でも、それは私が自分を許せなくなるからしない。

 でも、さすがにあと3,40分は家に居たくない。方便だったけど本当に買い物に行く事にしようっと。

 …………ちょうど、包丁が一本、使えなくなっちゃったし。

 

 そう思って、家の扉を開けた、その瞬間。

 私は、世にも奇妙な光景を目の当たりにした。

 

 

「いや、だから免許はあるじゃないですか、ほら」

「免許って、これ日本のじゃないだろ君!」

「これはバル・ベルデで取った免許ですよ、日本では特例でバル・ベルデの免許が通用するって知らないんですか?」

「そんな法律あるわけないだろ! いい加減にしろ!」

「せ、先輩、署長からお電話です!」

「署長? このタイミングで……はい、はい、今まさに……えっ、本当ですか!? しかし……かしこまりました」

「先輩、署長はなんと……」

「──この少年の主張は正しい、帰るぞ」

「ええ!? でもバル・ベルデなんて国、聞いたことも」

「いいから!」

「お勤めご苦労様です~」

 

 明らかに学生が乗っちゃいけないバイクに乗った悠さんを、警察が捕まえようとしたけどおずおずと帰っていく一部始終を、目の前で見せられた。

 ……これ、お兄ちゃんが突っ込み役しないと収まらないよ。

 

「──ああ、渚ちゃん。見苦しいところを見せちゃったね」

「いえ。大丈夫です」

 

 今更恥ずかしそうにする悠さんにそう答えつつ、バイクを見る。

 ……そっか、こんな怪物みたいなものに乗ってきたら、間に合うよね。つくづく、お兄ちゃんは凄い人を友人にしたと思う。

 

「その様子だよ、縁は間に合ったようだね」

「……はい。おかげさまで」

「それで、君は買い物って所かな」

「はい……家に居ても気まずいので」

 

 思わず本音を少しこぼしてしまったが、悠さん相手なら良いだろうと思う事にする。

 

「良かったら乗っていくかい? 道路交通法に則った安全な運転でお望みの店までお連れするよ?」

「い……いえ、悪いですよ」

 

 遠慮以前に、あんなのに乗ったらすぐに酔っちゃいそうで怖い。

 というよりも、あのバイクに乗ること自体がもう道路交通法違反のような……。

 

「まあそういわずに、お互い()()()()()()()()()()()()()()()

「いえ、でも──えっ?」

 

 今、悠さんはなんて言ったの? 

 同じ、失恋? 

 悠さんは綾瀬に恋をしてたって事? 

 ううん、違う。それならわざわざ『同じ』なんて言わない。私と同じ人を相手に失恋したって話じゃなきゃ日本語がおかしい。

 それって、つまり──っ!? 

 

「え、あの、悠さん……もしかして?」

 

 私の言わんとすることを察してなのか、悠さんは人差し指を口元に置いて、茶化すように言った。

 

still in your heart(内緒だよ?)

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……」

「……はぁ」

 

 渚と綾瀬が乱闘した結果であろう荒れたキッチンを片づけて、綾瀬をソファに座らせて、冷蔵庫にあった麦茶を2人分のマグカップに入れて片方を渡した後、俺は綾瀬の左隣に座ってひとまず息をついた。

 

 最悪の結果だけは回避できたと思う。俺が間に合ったのかは怪しいところだが、とにかく渚と綾瀬どちらも死ぬ事なく済んだ。済んだんだ。済んだんだよ。

 あの2人が真っ正面から対立して、包丁と五寸釘や金槌(片付けてる途中に見つけた。見つけた瞬間は本当小さな悲鳴が出た)が使われたのにも関わらず、どっちも生きてるんだ。

 

 これがどれだけ信じられない事か分かるのは、この世界じゃきっと俺だけだろう。ハッキリ言う、奇跡だ。本来あり得ない事が起きてくれた、どんな理由が偶然かは分からないが、とにかく誰も死んでない。

 さっき吐いた息は呆れとか疲れとかのため息じゃない。この世界で俺にしか出せない安堵の息さ。

 

 本当なら、今すぐにでも綾瀬に話しかけてこの空気を進める必要があるのは分かる。

 だけど、あと数秒だけでも良い。この安心感を味わっていたい。

 

「……無様だって、思ってるでしょ。アタシのこと」

 

 麦茶を一口してから、綾瀬は言った。

 

「渚ちゃんの言う事に言い返せないで、殺そうとして、でも結局あなたに嫌われるのが怖くなって何もできなった。ブスのイキり屈伸みたいでどうしようもないじゃない、アタシ」

「……」

 

 あえて、俺は口をはさむ事をしなかった。

 きっとこれは大事な時間なのだと、綾瀬の独白を静かに聞く事に決めた。

 

「あなたに自分の嫌な気持ちを話すのだって、これで何回目になるの? もういや、嫌なのよ……こんなメンドクサイ女、嫌いになってよ……」

 

 ああ……ホントにめんどくさい奴だな。

 でも、それを口にするなんて事はしないし、嫌いになる予定も無い。

 

「悪いけど、その気はないよ」

「どうしてよ……」

「惚れちゃってるから。綾瀬のそういう暗い面も含めて全部」

 

 一瞬、綾瀬が息をのむ。

 俺に言われた言葉の意味を咀嚼するように間を開けてから、こちらを見ないまま言った。

 

「……嘘よ」

「嘘じゃない」

 

 そもそもの話、ヤンデレ属性がある時点で河本綾瀬って女の子は既にもう充分すぎるくらい面倒な女なんだ。

 綾瀬がヤンデレだと認識してるのは前世の記憶があるからだが、そんなの関係なしに俺って言う人間は綾瀬が好きだ。今更めんどうな部分がひとつふたつ増えたところでなんてことも無い。

 

「綾瀬の良い部分も悪い部分も、全部ひっくるめて綾瀬の事が好きなんですよ、野々原縁さんは」

「…………好き? アタシを? ほんとに?」

「ああ好きだ、大好きだ、昨日からもうこの事だけをとにかく綾瀬に伝えたかった。俺はな、もう幼なじみって関係だけで居たくない。綾瀬と恋人になりたいんだ」

「……っ」

「もう『嘘だ』は聞きたくないからな。フラれるよりキツいぞ」

 

 綾瀬の言いそうな言葉を先読みしてつぶしながら、俺は小さく震えだした綾瀬の両肩を掴み、グッとこっちに体ごと顔を向かせた。

 とっさの事で『きゃっ』なんて可愛い小さな悲鳴を聞きつつ、ダメ押しとばかりに畳み掛けていく。

 

「嘘でも夢でもないって分かってもらうまで何回でも言うぞ。俺は河本綾瀬が好きです、付き合ってくださいお願いします!」

「…………」

 

 生まれて初めての真剣な告白。声が震えてないだろうか、変なところで嚙まなかったろうか、余計な心配が頭の中を駆け巡る。

 だがそんなものより。こうして綾瀬にはっきりと想いを伝えられた達成感の方が大きい。

 俺が園子と付き合ってない事なんて、もう今更話に出すまでも無い。俺の誤解は綾瀬の尊厳ごと昨日渚が壊してくれた。だから後は、

 

「返事を聞かせてほしい。ここで、綾瀬の気持ちを聞きたい」

 

 ここまで来て話は後日──なんて展開はやってられない。俺が綾瀬に告白するって決意するまで、告白しても死の危険が無くなるこの状況に辿り着くまで、信じられないほどの時間が掛ったんだ。もうケリをつける。

 もっとも、事ここに置いて綾瀬の気持ちを聞きたいなんて言っても、期待してる答えは1つだけ。ここで綾瀬にフラれるなんて展開はみじんも想像しちゃいない

 ていうか、今日までの日々を踏まえてフラれるなんてありえない、もし仮に万が一でもフラれたなら、俺は自分から園子の家の花の養分になってやるさ。

 

 そんな不退転の覚悟でいる俺の心中を知らないでいる綾瀬は、視線を俺に合わせたあと瞳を左右に揺らし、最後に俯いて言った。

 

「や──やっぱり信じられない! 

「ああ、ありが──ってええぇ!? 

 

 答えは予想を裏切る『No』だった。

 野々原縁、人生初の告白を盛大にフラれたのである。

 なんか思いだすな……テーマパークで衆目の前で大胆にプロポーズしたら思いっきりフラれた外人男性の動画。そう言えばあの手の大勢の前で告白って男側はロマンチックに思うけど女子は『公衆の面前で断れないから迷惑』って思うみたいな話を聞いた事あるな。

 はは、俺の告白の仕方もだいぶ迷惑な奴じゃん。ブスのイキリ屈伸よりひでぇやへへへ……。

 ──さぁてと、楽に死ねる方法を検索しようかしら。悠に安楽死できる国まで運んでもらう? 

 

「いや待て待て待て、メンをヘラさせるのはもう少し我慢しろ俺」

 

 綾瀬は『ごめんなさい』とか『無理です』とかは言ってない。あくまでも『信じられない』と言ったんだ。まだだ、まだ終わってない! 

 

「信じられないってどうして?」

「だって、あなたいつもアタシ以外の女の子と話すじゃない!」

「……ん?」

「園子や渚、咲夜とだって仲良さげだし、他のクラスメイトとも楽しそうじゃない!」

「……それが理由?」

「そうよ、おかしい!?」

「……………………はぁ」

 

 この──独占欲の塊が!! 

 ああそうだ、『殺される』って要素ばかりにずっと頭が行ってたけどヤンデレって元来物凄く、それこそ極端すぎるくらい『独占欲』がある物だった。

 今までは全員に等しく接する事で『あの人とばっかり』って思われる状況(ないしそこから生じる修羅場の可能性)を潰してきたワケだが──今こうしてただ一人だけに想いを伝えようとなると、一般女性ならともかくヤンデレ属性な綾瀬には俺が『色んな女と仲良くする浮気性な男』に映ってしまうワケだ。

 

「──日頃の、行いが……っ!」

 

 確かにヤンデレ発動させないためには有効的かつ必要な行動ばかりだったけど、事ここに至って一番足を引っ張るのが今日までの自分自身になると、誰が予想しただろうか。

 駄目だ、打ち破らないと。今までの俺がした事のない行動で綾瀬に気持ちを示さなきゃ。

 抱きしめる? それもうだいぶ前にやってる──やってるのに何で告白とかしなかった過去の俺! いやするわけないか当時は。

 殴る……お前は自分から破滅に向かいたいのか。こんなの選択肢として思い浮かべること自体あり得ないっての。

 それなら、やっぱり──正直チャラ男のやりそうな行為にも思えるけど──とにかくコレしかない! 

 

「……縁、どうしたのさっきから黙って……何か言ってよ」

 

 ほんの少し考えすぎたらしい。俯いてた顔をあげて、心配そうに俺を見ている。

 ちょうどいい、肩を掴んでる手を放さずに済んだ。

 

「綾瀬」

 

 ほんと何も言わずにいきなりは嫌だったので、ことわりの意味を込めて名前を呼ぶ。そうして、

 

「なに──ん……っ!」

 

 自分と綾瀬の唇の距離をゼロにした。

 

「……」

「……」

 

 俺は動かないし、綾瀬も動かなかった。

 ただ、綾瀬の呼吸する息がそっと当たって、自分から始めたのに今している行為がどんなモノかってのを改めて自覚した。

 たっぷり10秒間くらい、もしかしたらほんの数秒だったかもしれないが、俺が自分の気持ちを示すのに適したと思うくらい経ってから、また綾瀬との距離を作る。

 

 俺は気が付くと綾瀬にも聞こえてしまうんじゃないかって程に強く鳴る心臓の鼓動に耐えながら、綾瀬に言った。

 

「いちおう、ファーストって奴だけど……これで、信じてもらえるでしょふか」

 

 駄目だ、この土壇場で噛みやがった俺。

 

「……」

 

 自分の間抜けな活舌にヘイトを生む俺とは違い、綾瀬はどこか呆然とした顔とまん丸に広げた瞳で俺を見ている。

 そうして、そっと左手の指を唇に添えた。

 

「……さいてい、アタシだって初めてだったのに」

「うっ、ごめん……」

 

 女の子のファーストキスを強引に取ってしまったという罪悪感と、綾瀬と初めてキスしたのが自分だったっていう嬉しさが同時に、悪いけど後者の方が圧倒的だが、とにかく弁明するしかない。

 

「どうしてもこれしか、綾瀬に信じてもらう方法が──」

「タイミングも急だし、なんかこれじゃあキスして誤魔化そうとしてるだけみたいよ」

「そんなつもりじゃないって!」

「だめ、やっぱ信じられない」

 

 そんな……これでも駄目なのか? 

 いよいよもって俺が強引に女の唇奪ったカス男になってしまった事に、未体験の頭痛が側頭部あたりから生まれる。

 いたたまれなくなり、綾瀬の肩を掴んでいた手を離す。

 するとその直後──、

 

「だから──」

 

 俺の手をそっと掴んで、綾瀬が言った。

 

「まだ足りないから、もう一回して」

 

 ──何も言葉が出てこなかった。

 

「ん──」

「……っ~~!」

 

 唇を合わせて、離す。

 

「……はぁ、だめ、もう一回」

 

 それが、スイッチだったのかもしれない。

 

 

「もう一回、ねぇ」

 

「……みじかい。もっと」

 

「まだやめないで、おねがい」

 

 ──ファーストキスの後、何回キスをしたのか数えるのもできないくらい、俺と綾瀬は何度も何度もキスをした。

 心臓は破裂しそうだったけど、途中からはもうそんなのどうでもよくなった。

 

「ねぇ、抱きしめて。ぎゅって」

「先に言われた」

 

 唇だけじゃ足りなくなった俺たちは抱き合って、体の距離も無になる。

 互いの身体の温度や柔らかさ、匂い、心臓の高鳴り──全部が共有の物になっていく。

『幼なじみ』の距離感じゃ一生分からなかった『綾瀬』が膨大な情報量で俺の中に入っていく。

 

「綾瀬、もう一回キスしていい?」

「ふふ、なにそれ……さっきは無理やりしたのに」

「──でもさ、なんかこう、聞きたくて」

「良いわよ。──んっ」

 

 許可をもらった直後、俺から綾瀬にキスをする。

 さっきまではするたびに目を閉じていたが、今度はちゃんと綾瀬の目を見てしたかった。

 同じことを思っていたのか、綾瀬も俺をしっかりと瞳の中に映している。

 

「……」

 

 ──が、何かを決めたように瞳をきゅっと閉じた。

 

「──!?」

 

 ゼロからマイナスに、口を通じて俺達の距離が更に狭まった。

 いきなりの事に戸惑いと喜びと興奮がないまぜになりつつ、俺も綾瀬に同じことをして応える。

 今までにない多幸感でいっきに脳が壊れてしまいそうな感覚に包まれる。が、それはあまり長く続かなかった。

 

『──ぷはっ!』

 

 お互い、息が続かなかったからだ。

 

「ふふ……舌を絡ませちゃうと、あまり呼吸できないわね」

 

 いたずらっ子の様に微笑みながらさっきまで重ねていた自分の舌に軽く触れる綾瀬。その仕草があんまりにも淫靡で、わずかに口端からこぼれている唾液に背中が浮くような感覚を覚えてしまう。

 

「アタシたち、さっきまで幼なじみだったのに……一気に進んじゃったわね」

「……ホントにな」

「ねぇ、縁」

「ん?」

「好き。アタシもあなたが好き、世界中の誰よりもあなたが大好きなの」

「──うん」

「アタシを、あなたの彼女にして」

 

 キスの後の、告白。

 

 もう少し理性が残ってれば、『順番が逆だな』なんて茶化す余裕もあったが。

 今の俺には、ただ純粋に切望していた返事が来た事への喜びしか無かった。

 

 さっきよりもっと強く、綾瀬を抱きしめる。

 それに綾瀬も応えるように、俺の背にそっと手を回し、耳元にささやいた。

 

「ねえ縁……もっと先の事も、しない?」

 

 その言葉は、俺の最後のためらいをぶっ壊すのに充分過ぎた。

 抱きしめていた手を離し、少しだけ、綾瀬との間に余計な空間を作る。

 そうして改めて向き合う形になった俺たちは、今までないほど真っ赤な顔で見つめ合い。

 

 小さく綾瀬が頷いたのを見て、ゆっくりと綾瀬の服に手を伸ばす。

 震える指先が綾瀬の服に触れる。綾瀬は潤んだ瞳でそれを見る。そして──、

 

いつまで発情してるのよアンタたち

 

 ひょっこりと現れた咲夜が、いきなりそんな事を言い出した。

 

『────っッッ!?!??!??!?!』

 

 まるで思いっきりぶん殴られた様に俺と綾瀬は互いの背後にぶっ飛び、それぞれがソファの端から転げ落ちた。

 

「な、なな、な……何で」

「ふん、なんて情けない顔。あたしの皮膚が汚れるわ、庶民が見るんじゃないわよ」

 

 懐かしい蔑称をしてくる咲夜だが、俺も綾瀬も何故このタイミングで、しかも咲夜が現れるのかが理解できずに狼狽と困惑を繰り返すばかりだった。

 

「咲夜、待てって──ああもう、やっぱりやらかした!」

 

 ついで、いつの間にか空いていたリビングの扉の先から悠が現れる。

 現状を見て何かを察したのか、来て早々頭を抱える親友。

 

「何よ、やらかそうとしたのはこいつらじゃない」

「そうだけどそうじゃないだろ!」

「何よ、今から全員ここに来るのにナニしようとしたのを止めたのよ? 感謝してほしいくらいなのに」

「ナニって……何しようとしてたのさ縁!?」

「そりゃナニじゃない」

「黙ってろ咲夜!!」

 

 もう、なんだこれ。

 さっきまでと空気の高低差が酷すぎて死にそう。

 っていうか、親友と後輩に自分たちがやろうとしてた事赤裸々にされてホントに憤死しそうなんだが……綾瀬もこの世の終わりみたいな顔してるよ。

 

「──もう、2人とも騒ぎですよ。2人とも状況が分からなくて呆然としてるじゃないですか」

「いいんです、柏木さん。お兄ちゃんも綾瀬さんも、どうっせこの先人目も憚らないバカップルになるんですから。今のうちに恥を感じれば」

 

 そんな事言いながら、最後に園子と渚が、互いにスーパー『ナイスボート』のロゴがあるビニール袋を引っ提げて現れる。

 

「ごめんなさい、縁くん。さっき悠君と渚ちゃんから連絡もらって、今日はここでみんなカレーを食べようってお誘いを受けたんです」

「カレー……」

 

 ああ、そういや片づけてる時に食材やルーを見たな。

 

「どうせ2人とも痴話げんかみたいな事やってると思ったから、買い物の時間を多めにとったのに……お兄ちゃん、ほんとに流されやすいんだから」

 

 呆れた声で言う渚が指をさしたのは、リビングに掛けた時計。

 見れば、俺が急いで駆け付けた16時頃から時計の針は進み、とっくに17時半になっていた。

 え──俺ら、1時間半くらいもああやってたのか!? 

 

「か、かがぁ……ぁがぎぃ」

 

 我ながらほんとに恥ずかしくなって頭を抱えそうになるが、綾瀬はそれ以上に恥ずかしいだろうから我慢した。

 見れば、もう綾瀬は顔を覆っている。

 

 そんな俺達を見やり、渚はもう一度深いため息をこぼした後。

 一転してわが子を許す母親みたいな笑顔になった。

 

「──まぁ、でもこれで、晴れて2人とも恋人同士になったのね。……おめでとうっ、お兄ちゃん!」

 

 その言葉を皮切りに、悠たちも続いて言う。

 

「ようやく、こじれてた2人がくっ付いたか。長かったなぁ……」

「おめでとうございます、綾瀬さん。想いが叶いましたね」

「あたしは別にどうでも良いけど……あたしの見る場所でギスギスされちゃ迷惑だったから、やっとこれで静かになるわね!」

 

「みんな……咲夜は除く」

「ちょっと、なんでよ!」

 

 咲夜をからかえた。うん、心にちょっと余裕が戻ってきた。

 じゃあ、俺があとやるべき事は何かって言えば──、

 

「綾瀬、ほら立って」

「え、ええ?」

 

 顔を覆ってた指の間からみんな見てた綾瀬の手を取り、立ち上がらせる。

 そのまま有無を言わずに綾瀬の腕に自分の腕を絡めた。

 

 園子が気持ちを押し殺し、渚が場を用意してくれた。

 だから、堂々と宣言する。そして綾瀬を安心させよう。

 

「今日から、俺の彼女の綾瀬です。よろしくお願いします!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それから、数日が経った。

 

「ごめんね遅くなって! 今すぐ夕ご飯の準備するから、テレビでも見ながら待ってて!」

 

 トタトタと急いだ様子で、綾瀬がリビングに姿を見せた。

 今日は綾瀬が夕ご飯を作りたいとのことで、家に来る事になっていた。

 

「今日はね、八宝菜にしようと思ってるの。中華好きでしょ?」

 

 そういって、両手に持ったエコバックの中にある食材を見せる綾瀬。

 以前から見ていた仕草が、恋人になってからは一層可愛く映るから不思議なものだ。

 

「渚ちゃんは……やっぱり居ないか」

 

 八宝菜に使う白菜をザクザクと切りながら、綾瀬は少し控えめに言った。

 

「ああ。今日は園子と外で食べるってさ。なんか悠や咲夜も一緒するらしい」

「えぇー、アタシたち以外部員全員じゃない」

「な? しかも悠の奴だけ野郎だ」

「……うらやましいの?」

 

 料理の手が止まる。

 

「悠君が女の子に囲まれて、うらやましい?」

 

 じっと、肩から上だけを俺に向けて、綾瀬がまっすぐ俺を見る。

 先ほどまでの和気あいあいとした空気とは一変し、重苦しい気配が立ちこみ始める。

 

「ねえどうなの、答えて。うらやましいの? 彼女といるよりみんなと居たかった?」

「……綾瀬」

 

 質問にはすぐ答えることはせず、俺は綾瀬の前──包丁を握ったままの綾瀬の前まで近づく。

 そして──。

 

「わざと怖い声出すのやめぃ」

「──ぁは!」

 

 ていっ、と軽く頭のリボンにチョップした。

 やられた綾瀬も、期待してたとばかりに小さく笑う。

 

「この声で迫るとあなた、一気に緊張するんだもん。可愛くてついやっちゃう」

「そんなの求めなくていいから」

「彼女としては色んな顔の縁をみたいの」

「ああそうですか、じゃあ」

 

 そこで言葉をいったん止めて、綾瀬の隣……まな板の前に立ち、まだ綾瀬が手を付けていない食材を持つ。

 

「どうせ見るなら、彼女の横で料理を一緒に作る彼氏の顔を見てください」

「……あはは、台所狭くなっちゃうのにぃ」

「くっつくからいいじゃん」

「もう、そんな事言って……ねぇ」

「ん?」

「……好き」

 

 食材を思わず手からこぼしそうになったのを誤魔化して、俺も返す。

 

「ありがとう、俺も好きだよ」

「──あはっ!」

 

 頭のリボンを揺らして、はにかむ綾瀬。

 その横顔を、この幸せを、どうかこれからもかみしめて、生きていきたい。

 

 ──でも、

 

「これからも、よろしくね。縁」

 

 あまりにも幸せ過ぎて、もう死んでもいいかな。

 なんて、思っちゃったりするのだった。

 

「──あぁ。死ぬまで大好きだよ」

「そう。ならアタシの勝ちね、だって──」

 

「死んで体が滅んで、幽霊になったって……あなたを想い続けるから」

 

 

 

 

 END





第3章完です。
ご拝読いただき、ありがとうございました。
よければ感想よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編 Ⅲ
Love's Only You


番外編その1
第三章最終話からすぐの話です。

よろしくお願いします。


 拝啓。父さん、母さん、いかがお過ごしでしょうか。

 そちらは今頃ヴェネツィアで商談中かと思われますが、西洋の風が運ぶ香りは日本と違うものなのか、気になるので今度教えてください。

 こちらは夏休み以降、いろんな事がありました。

 

 親友のいとこが学園にきて、大ピンチになりました。

 親友と講堂で殴り合いのけんかをして、負けました。

 渚と綾瀬が喧嘩して、大ピンチになりました。

 

 なんか大ピンチになってばっかりだって思うかもしれませんが、その通りです。

 ですが、悪い事ばっかりじゃありません。

 驚くかもしれませんが、俺に彼女ができました。綾瀬です。

 知ってた。とか思わないでください、こうなるまでにも小説一作分くらいは書けるくらいの紆余曲折があったんです。

 

 ここ最近は学園でも休みの日でも、ずっと彼女と一緒です。

 幼なじみとして長い間一緒にいたけど、恋人同士になってからは今まで見えなかった新しい一面をたくさん見るようになりました。

 

 のろけ話は要らないって? まあそう言わずに聞いてください。

 

 綾瀬は、凄く心配性なところがあります。

 俺が授業の班活動とかで、班の女子と会話する事があるんですが、その授業が終わった後にいつも綾瀬は俺に何を話しているか尋ねます。

 俺が変な事をくっちゃべってないか心配みたいです、かわいいでしょ。

 

 他にも綾瀬は、けっこう寂しがりな部分もあります。

 夜、綾瀬とはベッドで横になりながらスマートフォンで通話する事が多いんですが(寝落ち通話って言うんです、父さんの頃はありましたか?)、日付が変わる頃にはたいていどっちも眠くなって自然に寝るんですが、たまに俺が疲れてて22時くらいに寝落ちちゃうと、翌朝物凄く暗い顔になって「アタシと話すの嫌だった?」って聞いてきます。

 自分との会話で退屈にさせたんじゃないかって心配になるみたいです。チャーミングでしょ。

 

 それとそれと、綾瀬はああ見えて意外と知りたがりなんです。

 休みの日、何となく朝から自転車で街をサイクリングしたくなってペダルをこいでたら『今どこにいるの?』ってメッセージや電話が来るし、俺がSNSとかクラスメイトとの会話で得た情報や知識を話すと『誰に教えてもらったの』と必ず聞いてきます。

 俺と色んなものを共有したいんでしょう。インテリな面も素敵です。

 

 拝啓。父さん、母さん。

 これはのろけ話じゃないんです。

 じゃあなんだ、と聞かれたらこう答えます。

 

 親友のいとこが学園にきて、大ピンチになりました。

 親友と講堂で殴り合いのけんかをして、負けました。

 渚と綾瀬が喧嘩して、大ピンチになりました。

 

 そして──

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「あ、綾瀬……」

「なに、してるの……?」

 

 地面に尻もちをつく俺を見下ろしながら、綾瀬は手に持っているシャベルを振り上げる。

 

「ま、待て綾瀬、これは……」

 

 弁明をしようとする俺の事なんてまるで意に介さず。

 

「また──そうやって……っ!」

「あや──」

 

 勢いよくシャベルを振り下ろす。

 体力を消耗していた俺には、もうその刃先から逃れる術など無かった。

 

 親友のいとこが学園にきて、大ピンチになりました。

 親友と講堂で殴り合いのけんかをして、負けました。

 渚と綾瀬が喧嘩して、大ピンチになりました。

 

 そして──今度は、彼女ができて大ピンチになっています。

 

 

番外編『Love's Only You

 

 

 

 

「想いが、重いんじゃ!!!」

 

 魂の叫びが、カラオケルーム内に響いた。

 

「うーん、2点」

「駄洒落じゃないし採点もするな!」

 

 テキトーなノリで返してきた悠にすかさずつっこむ。

 今日は事前に綾瀬に伝えたうえで、悠と2人、カラオケに来ていた。

 どうしてかって? それは──

 

「まぁまぁ、ちゃんと相談に乗るからさ」

 

 とまぁ悠の言う通り、今日は俺の悩みの相談相手になってもらいたくて、悠を誘った。

 最初はもう、ものすごく──初めて出会った頃見たようなクッソ渋い表情になって断られたが、俺が真剣(マジ)トーンでお願いしたら事の異様さを察してくれた。

 

「──それで? 君は晴れて綾瀬さんと恋人同士になれたっていうのに、まだ1週間もしないうちから何が不満なんだい。えぇ?」

「不満って言い方は語弊あるからやめてくれ」

「語弊も三郎もないよ。早いんだよそういうの。そりゃ僕だってそのうち恋人関係に悩む君に対して気ぶりして相談相手になろうかなって心づもりはあったけどさ。まだ1週間前だよ?」

「う……チクチク言葉良くない」

「正論だよ」

「正論で救われる奴なんていないんだ!」

 

 いつもの何倍も辛辣な悠に早くも心が折れかけてるが、確かにあんな大変な事があってから5日後に相談を持ち掛ける俺にも非がめっちゃあるので、あまり強く言えない。

 ぐぬぬってなってる俺を見て多少すっきりしたのか、ちょうどよく店員さんが俺たちの注文したドリンクを運んできたので、それからは責めるのは止めてくれた。

 

「改めて、現状に何の問題が? 想いが重いって言うのを説明してほしい」

「俺がどっか一人で行こうとすると何処にいるか聞いてくる。俺が女子と会話してるとすぐに不満になる。俺が綾瀬の目の届かない場所で知った事を話すと誰に聞いたか尋ねるし、それが女子からだったら機嫌悪くなる……って感じなんだ」

「……君って結構綾瀬さんと一緒にいる時間増えてるよね?」

「そうだよ」

 

 付き合ってからは朝の登校時間以外──綾瀬なりに気を使ってるのか、そこだけは渚に譲っているらしい──のほとんど、俺と綾瀬は一緒にいる。別に公表してないのに、あっという間に俺たちが付き合い始めたってクラス全員が分かってしまうほど。

 クラスメイトの男子からはちょっとからかわれたけども、おおむね『やっとか』『もともとくっつく寸前みたいな距離感だったし』みたいな反応で問題は無かったが、女子は綾瀬に気を使って以前より俺に話しかけてくる事が無くなっていた。

 それなのに、ほんと学生生活を過ごすうえで必要最低限な会話すら危ういって言うのはかなりやり辛い。

 

「綾瀬さん……本人の前じゃ言えないけど、そっか……そういうタイプだったんだね」

「そういうタイプって?」

「ヤンデレ気質」

「……だよねぇ」

 

 初めて、ヤンデレCDの知識を持つ俺以外の人間が綾瀬をヤンデレ属性だと認識した瞬間である。

 よく分かんない感慨深さを感じたが、それ以上に『ああやっぱりかぁ』という諦観じみた気持ちも生まれる。

 ……あれだけの過程を経て付き合っても、結局、綾瀬がヤンデレになる可能性は消えなかったのだから。

 

 ただし、これについては最初から俺にも覚悟はあった。

 もとより、ヤンデレCDの中で『河本綾瀬』しかり『柏木園子』しかり、ヤンデレを発動したのは主人公と交際し始めてからだ。

 それまでが果たしてまともだったのかは分からないが、こうして明確に綾瀬と付き合い始めたなら、俺は今まで以上に綾瀬がヤンデレ状態にならない事を考えて行動しなきゃいけない。

 

「事前に話すりゃ悠ともこうして時間作れるし、話せば分かってくれるんだよ。だから漫画やゲームみたいに理不尽なヤンデレとは違うんだ」

「うん、さすがにそこは分かってるよ。それに君だって、綾瀬さんと一緒に過ごすこと自体は全く嫌じゃなさそうだしね」

「当然。だからまぁ一番思うのは」

 

 綾瀬がヤンデレ気質なのはこの際構わない。俺が言いたいのは──、

 

「──俺、そんなに信用されないんだなって情けなくなっちゃてさ」

 

 ヤンデレCDの主人公はデリカシー皆無で浮気性なところが所々に見えた。

 CDでは猟奇的な行動をする彼女らだが、言ってしまえば根本的な原因は彼女らを不安にさせて、病ませた主人公が悪い(渚編は違う、アレは以前にも言ったが理不尽だから)。

 俺自身、前世の人格やら記憶やらを思い出さなきゃ、たぶん同じように軽率な言動で綾瀬や渚の怒りの琴線に触れまくっていたに違いない。

 いいや、今だって俺は『前よりはまともになった』と思ってるだけで、ひょっとしたら綾瀬から見てかなり、いい加減な男に見えてしまってるのでは? そう思うと、やるせなくなる。

 

「あんなに綾瀬が色々聞いたりするのは、俺がそれだけ浮気しそうな男に見えるからなんじゃないか。綾瀬に対して好きだって気持ちを伝えられてないんじゃないか……って思ってさ」

「……」

「俺がこんなんじゃ、きっと来年の今頃にはもう綾瀬に愛想尽かれてるんじゃないかとか、そのうち綾瀬を悲しませる事すんじゃないかとか、だったらもう今のうちに綾瀬と交際するのは止めた方がむしろ綾瀬のために良いんじゃないかとか……そういう事考えるようになっちゃって」

「……」

「なあ、悠から見て俺はどう映ってる? ちゃんと綾瀬の彼氏としてやっていけてるかな?」

「…………」

「悠? どした?」

 

 メロンソーダの入ったグラスに刺したストローを口にくわえて、悠は何とも言えない目で俺を見ている。

 

「えっと……割と真剣な悩みなので、何か言ってほしいんだが」

 

 そう言うと、悠は返事代わりなのか知らないが瞬く間にグラスのメロンソーダをストローで飲み干し、小さくげっぷしてから、ようやく答えた。

 

「……まだ1週間経ってないよね?」

「え、あ……そうだけど?」

「だから早いんだって」

「早いのは分かる、だからこそ」

「そうじゃなくて、君の悩みはまだ1週間もしない彼氏が抱くものじゃないってコト」

 

 俺の言葉をさえぎって、悠がぴしゃりと言う。

 

「想いが重いのは君もだよ」

「マジ……か」

「ま、もっとも君が綾瀬さんの事になったらゲキ重感情爆発させるのは前からだったけどさ」

 

 そういってカラカラ笑って見せた悠。俺は過去の行いを思い返して、それが誇張表現でもなんでもない事を自覚する。

 確かに、俺は付き合う前から綾瀬の事になったら行動も気持ちも前のめりになる所があった。渚には『女神様扱いしてる』とか言われたっけ。

 崇拝型ヤンデレ──は違う、俺はそういうのじゃない。

 

「ふふ──その様子だと過去の行いに思い当たる節がたくさんあるようだね」

 

 ひとしきり笑うと声のトーンを落とし、真剣な口調で続けた。

 

「綾瀬さんは君が信用できないわけではないと思うな」

「不安じゃないなら、どうして」

「怖いのさ。君と別れる未来が」

「別れるって、なんでそんな事」

「君が綾瀬さんを好きな時間、綾瀬さんが君を好きな時間、どっちも年月は同じくらいだと思う」

「……まぁ、そうだな」

「そうやってようやく結ばれた2人だ。君が思うよりもずっと、綾瀬さんはこの時間を愛おしく感じてるに違いない。そしてそれ以上に失う可能性を恐れている」

「……失う、可能性」

「君もさっき『これなら分かれた方が綾瀬のために』なんて言ったろう? 別れる可能性っていうのは簡単には消せない。だから綾瀬さんは失う事を極端に恐れてるんだ。君が浮気性のチャラ男だからじゃない……きっとね」

 

 そこは断言してほしかったところだが、まあいいや。

 とにかく、悠の言葉は物凄く俺の心にストンと落ち着いた。

 

「綾瀬が安心できるものがあれば、良いんだな」

「そうだけど、これは心の問題だろうし、ものですぐ解決できるものでもない気がするなぁ」

「……うん、でも、1つ心当たりはある」

「あるのかい? それならさっそくそれを綾瀬さんに──」

「いや、問題があるんだ」

「問題?」

 

 悠とこの話をしたからこそ、思い出したものがあった。

 アレさえ綾瀬に渡せば、完璧とは言わないまでも今の綾瀬が抱えている不安だけは解消できるかもしれない。

 正直……正直、アレを綾瀬に渡すのはこの上なく恥ずかしいし、過去の自分に対して何やってんだお前って言いたくなるし、そもそもアレの事を忘れている所に俺のいい加減な性格の片鱗が見えてしまったのだが──いや、まあそれは今更良いとして! 

 

「問題は──何処にやったのか、全然覚えてないんだよなー……ははは」

「えぇ……」

 

 アレは小学生時代のモノだから、探せば家にあるかもしれない。だけど、毎年年末に大掃除をする際、アレを見た記憶が一回も無い。

 ほとんど毎年俺達兄妹で家の掃除や整理整頓をしてる上で、一回も見た事が無いのなら、現状家にある可能性はゼロだと思える。

 

「渚ちゃんがどっかに片づけたとかは?」

「いや、その可能性は絶対にない」

「絶対に? 断言するね、理由は?」

「アレを渚が見たら、間違いなく焼却して捨てる」

「……ほう。そういうモノか」

 

 やや引き気味に頷く悠。

 

「で、いったい何なんだいそれは。モノを教えてくれたら、どこに置いたか想像もできるじゃないか」

「えー……言わないと駄目?」

「まさか君、僕に何か言わないまま探すのを手伝わせる気かい?」

「それは……まぁ」

 

 そもそも言っても無い内から一緒に探してくれる気だった事にありがたみを感じるが、アレについて説明するのは俺にとってかなり……うーん。

 

「なんだよー。親友の僕にも話せないなら最初からいうなよー。君のためにG・D・AYC(バイク)だって駆り出したのに」

「う……分かったよ、言う。言うから……その詰るような眼で見るのは止めてくれ」

 

 あの違法バイクの件は色々思うところがあるが、結局間に合ったのは悠のおかげである事に変わりはない。

 それに思わせぶりに発言しちゃった俺も悪いし……ここは恥を忍んで話す事にしよう。

 

「──他言無用で頼むな?」

「もちろん」

「……これは、俺が小学校4年生の頃なんだが──」

 

 

 

「──というわけでさ」

 

 説明を終えた頃には、俺は羞恥心で顔が赤くなっていた。

 

「……はぁ」

 

 聞き終えた悠も、何故か頬を赤くしながら頭を抱えていた。

 

「ど、どうだろ……何か俺が置きそうな場所に心当たりは」

「その前にさ」

「ん?」

「忘れるなよ君、そんな大事な物」

「ちくちく正論いくない!!」

 

 結局この後、置いた場所の考察より説教が始まり、カラオケの時間を1時間延長した(延長分の料金は俺が払った、理不尽)。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──アタシ、重すぎるのかな……」

 

 偶然にも縁が悠に相談しているのと同じくらいの時間に、綾瀬は縁と似たような悩みを相談していた。

 

「ど、どうしたんですか?」

「──え、これ私も聞かなきゃいけないんですか?」

 

 今日は彼氏の縁が親友の悠とカラオケなので、部活も終わった放課後に綾瀬は園子と──何故かどういうわけか、本人もよく分からないうちに同行するハメになった──渚の3人でファミレスに集まり、プチ女子会となった。

 女三人寄れば姦しいと言う諺があるが、ふとした話の流れで綾瀬の最近の恋愛事情に話が移ってしまった時点で渚はもうハヤテの如くその場から立ち去りたくなったが、もはやこれまで。手遅れである。

 

「自分でも分かってるんだけど、彼が他の女の子とはなしてたり、アタシの知らないところで知った話を楽し気に話されたりすると、凄く寂しくなるの……」

「そうなんですか……」

「ヴォエ」

「そうなるとどうしても辛く当たっちゃったり、誰から聞いたの? とかついつい聞いちゃって……」

「え、私の反応聴いてて平気で話続けるんですか綾瀬さん?」

「彼がやさしいって分かってるから、毎回そうやって優しさに甘えちゃって──でも、やっぱりこういうのって良くないわよね……どうしたら良いんだろう」

「あっそうなんだ、そういうスタンスでいるんですね綾瀬さん」

 

 ぶっちゃけた悩みを明け透けに話す綾瀬に対して、我が事のように話を聞く園子と殺意を静かに迸らせる渚。全くもって話を聞く態度は違うが、綾瀬が色ボケモード全開であった事、ここが3人以外にも大勢人がいるファミレスだった事が幸いし、血みどろの修羅場になる事だけは絶対に起きない空気感であった。

 それゆえに、渚は呆れ果ててウンザリしてむしろ殺してくれという気持ちであったが、縁の幸福を何より願っている園子は、真剣に綾瀬の相談(の体裁をした実質ノロケ)に耳を傾け、率直な意見を述べた。

 

「綾瀬さんは、昔から縁君を好きだった分、想いが通じた今の状況に不安があるんですね」

「……うん。ふとした瞬間に、ぽろっと無くなってしまうんじゃないかって考える時があって、そんなハズないって分かってるんだけどね」

 

 本当に無くしてやろうか、なんて内心思いつつ、渚も話の流れに乗る事を決める。

 

「お兄ちゃんが綾瀬さんと別れようと思う事は絶対にないですよ、家に居ても前より楽しそうな顔ですから」

「そ、そうなの? 良かったぁ……」

 

 渚からお墨付きを貰った綾瀬の顔がパッと綻ぶ。だが、渚が素直に綾瀬に都合のいい発言をするハズもなく。

 

「だから、別れるとしたら綾瀬さんがお兄ちゃんを信じられなくなって別れを切り出す以外ないでしょうね」

「な、渚ちゃん──」

 

 急な火の玉ストレート発言に固まる綾瀬と、冷や汗をかく園子。

 園子の控えめな制止には頓着せず、渚は言葉を続ける。

 

「聞いてくださいよ園子さん、お兄ちゃんと綾瀬さん、最近いつも夜に通話しながら寝てるんですよ? どっちかが寝落ちするまで」

「……凄いですね、それは」

「凄いなんて話じゃ収まりませんよ。夜中にいつまでもボソボソ会話してる声が部屋から漏れ聞こえて、段々イライラするんですから」

「ご──ごめんなさい」

 

 思わぬタイミングでクレームを突き付けられた綾瀬は、さりげなく恋人同士のふれあいを暴露された恥ずかしさや怒りより先に、申し訳なさで思考が埋まってしまった。

 園子も毎日寝落ち通話するレベルだとは流石に思ってなかったようで、先ほどまで渚を止めようとしていた気持ちもすっかり消えてしまった。

 

 ──と、ここで終わってしまえば小姑の嫌がらせで終わってしまう話だったが、あいにく渚は意地の悪い小姑で終わる人間ではなかった。

 

「──綾瀬さん、私の言いたい事分かります?」

「え……?」

 

 責める口調から一転、問いかける口調に変わった渚に面食らう。

 ここまでの会話は、一貫して渚にとってある意図があったようだが、果たしてそれが何なのか、すぐには綾瀬に思い浮かばなかった。

 うんうん考えて、やや間を置いた後、綾瀬はダメ元で答える。

 

「幾ら相思相愛の幼なじみカップルだからって、いちゃらぶし過ぎってこと……?」

「全然違いますよ煽ってんですか、綾瀬さんのそれはいちゃらぶ通り越して常時発情でしょ」

 

 猛烈に切れ気味な返しをされ、綾瀬はいよいよ何を伝えたいのか分からなくなる。

 一方、園子は何となく察したのか、しかし何もいう事はしないといった表情で2人の会話を聴くだけ。

 これ以上時間を作ってもまともな答えは来ないと思った渚は、ため息を吐きつつ、人差し指でビっと綾瀬を指しつつ言った。

 

「綾瀬さんはお兄ちゃんに気持ち悪い程発情して、お兄ちゃんだって綾瀬さんの想いに応えて時間も作ってるのに、なんで最後の最後に信頼してあげないのって事──です」

「信頼……」

「そうよ、お兄ちゃんは今まで私や友達に割いてた時間も、綾瀬さんに使ってるのよ? それって、お兄ちゃんも綾瀬さんとの時間を大事にしたい、無くしたくないって事でしょう?」

「──っ、そう……そうね」

「お互い同じ事考えてるんだったら、少しはお兄ちゃんを信じなさいよ。付き合う前からウジウジしてたのに、付き合って更にめんどくさくなってどうするんですか」

 

 容赦のない言葉ばかりが襲い掛かるが、不思議とすんなり胸に入っていくのを、綾瀬は感じた。

 

(──やっぱり、この子はちゃんと見てるんだ)

 

 本来、恋敵を通り越して想い人を奪った女の恋愛相談なんて耳にしたくもないはず。

 それでもなお、こうしてこの場に留まり、綾瀬に辛辣ながらも忠告をするのはどうしてか。決まっている、愛する兄の幸せのためである。

 渚は今でも変わらず兄の縁を好きでいる。それは告白してフラれても変わらない。恋人として縁を幸せにする道は無くなったが、唯一無二の妹として、兄の幸せのため生きている。

 そんな渚にとって、兄の幸せを苛む要素になりかねない今の綾瀬の体たらくは、到底見過ごせないのだ。

 

 だからこそ、こうして聞きたくもない話に耳を預け。

 言いたくもない言葉を、綾瀬に発している。

 

「──うん、ありがとう渚ちゃん。アタシももっと、彼の事信じてみる」

「……綾瀬さん」

 

 綾瀬の言葉を聞いて、まるで自分の事みたいに喜ぶ園子。

 園子にしたって、縁に恐らく恋愛感情を抱いていたハズであり、それでも親身になってくれてる事にも、綾瀬は内心感謝する。

 

「この位、言われなくても自分で気づいてくれませんか? ……まぁ、もっとも」

 

 最後まで小言を絶やさず、しかし言葉終わりにはそれまでと違う雰囲気の口調を漏らす渚。

 

「──()()()()()()()()()()()()点については、お兄ちゃんもあまり違わないかもだけど」

「渚ちゃん、それってどういう──」

 

 渚の意味深な発言の意味を訪ねようとした矢先、綾瀬と渚、そして園子のスマートフォンにそれぞれ通知のベルが鳴った。

 3人同時に鳴るという珍しい状況に、つい全員直前までの会話も忘れて画面を確認する。

 

「──ん?」

「あれ……?」

「これって……?」

 

 画面を見て、3人は互いに来たメッセージを確認し合う。

 それぞれが持つ端末の液晶には、それぞれこのように書かれていた。

 

『綾瀬、本当に悪いけど、今日夜通話できないかも……すまない!』

『渚、今日帰り遅くなります。夜ご飯は先に食べててください、ごめんね』

『部長、縁と一緒にやりたい事があって、部室のスコップとシャベル借ります。理由は後日話すのでご容赦ください』

 

 何かを始めようとしている縁達。

 不穏な空気が立ちこみ始め、唯一違う人物からのメッセージだった園子だけがあわあわするのだった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──っし、メッセージ送った。そっちは?」

「うん、僕も送ったよ」

「じゃあ行くか」

「あぁ、こうなったらとことんだ」

 

 スマートフォンをしまって、俺達はさっそく学園に戻る。

 時間は16時50分。日が短くなってるから空は既に薄暗いが、まだ走れば、生徒が入れる時間内に学園に戻ってシャベルとスコップを確保するのは可能だ。

 途中何度か休みを挟みつつ、難なく得物を確保した俺達は、次の目的地へと向かう。すなわち──。

 

止雨(やまあめ)公園。ここ俺は『アレ』を埋めたんだ」

 

 俺と綾瀬が出会った公園や、前に園子と夜語り合った公園とも違う、街のはずれにある公園。それが止雨公園だ。

 一年中雨の降る町に生まれ育った前世の俺が聞けば、笑いたくなるような名前の公園だが、敷地面積は街どころか県内でもトップクラスの広さを誇り、山に面した西エリアは軽いウォーキングに使える登山道があって、入口周辺の東エリアには立派なアスレチックなんかもある、休日の家族団らんに最適な場所。

 

 そんな止雨公園に、既に時刻も17時を越えてすっかり暗くなった今こうして来た理由は以下の通り。

 

 

 カラオケでの説教後、ようやく真面目に俺が『アレ』を保管しそうな場所について考えた結果──、

 

 ①家に無いのなら誰かに預けたのではないか

 ②いや他人に見られて良い物じゃない

 ③なら自分だけが分かる場所に置いたのでは

 ④でも何年経っても変わらず置きっぱなしにできる場所は思い浮かばないし、外に置きっぱなしでは雨風で駄目になってる可能性がある

 ⑤長時間保管しても環境の影響を受けにくく、他人の目が入らない保管場所、土に埋めたのではないか

 

 という所まで考えが進み、ふと思い出したのが、当時担任の先生が道徳の授業で行った『タイムカプセル』だった。

 他に思いつく手がかりもないし、当たって砕けろの勢いでこのままタイムカプセル探しを決行したのである。

 タイムカプセルを埋める場所は子どもたちに一任されており、殆どの子が自宅の庭やマンション近くに埋めたが、俺は当時だだっ広いこの公園に埋めた事を覚えている。

 

「で、問題は……この広い公園のどこに埋めたのか、肝心の場所をハッキリ覚えてない事だな、うん」

「はは──はぁ!? ホントに言ってるのか君!」

「……すまん」

 

 タイムカプセルを思い出してすっかり気分がノッてたせいで、肝心な事を忘れていた。

 悠も事の重大さは十分理解してるから、今日何度目かのため息をこぼす。

 

「なんて見切り発車……君ってたまにそういう所あるよなぁ」

「流されやすい所があるって渚にも言われた……ホントごめん、俺だけで探すから悠は帰ってだい──」

「馬鹿言うなよ。ここまで来たらもう僕だって腹をくくるさ」

「悠……っ!」

「貸し1、だからね」

 

 そういってウインクする親友。

 ホントなら今頃貸し600くらいあるのに、こいつには一生頭が上がらない。

 

「うっすらでも記憶は残ってないかな?」

「えっとな……近くに電灯が立ってて、木の下に埋めたってのはギリ覚えてる。木登りができる、結構高い木だった」

「電灯が近くにある大きな木……少しは絞れそうだ」

「俺は西エリアから調べてみる。悠はこの辺りから頼めるか?」

「うん、わかった、見つけたらスマホで連絡するね」

「よろしくな!」

 

 それを皮切りに、俺達はそれぞれ別行動を取った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……ふう、ここでもない、か」

 

 それから約50分後、汗が首筋を流れる程度には目ぼしい場所を掘っては埋め、掘っては埋めを繰り返していた悠は、いったんベンチに腰を付けて一呼吸入れていた。

 スマホを見ると、縁もまだ見つけてはいないようだ。

 こちらの進捗を伝えると、体調や寒さに気を付けてという旨の返事が来た。

()()()()()で身体能力には密かに自信があった悠は、『君の方こそ汗で風邪ひくなよ』と内心クスっと笑いつつ、改めて現状を確認する。

 既に東エリアの9割でそれらしい場所を掘ったが、当たりは無かった。

 

「ノンストップで動いてるけど、中々見つからないなぁ……」

 

 東エリアにはないのかもしれない。こうなればさっさとこちらは終わらせて、自分も西エリアに行こうかな。

 そう考えついた時、ふと声がした。

 

「何が見つからないの?」

「何がってそれはもちろん、縁の──って、え?」

 

 つい返事してしまったが、今は18時を過ぎた夜の公園。

 こんな場所には、自分以外誰もいない。

 なのに返事が来た事に、遅ればせながら悠は事の異常さを察知する。

 

 ──誰かが、ベンチの後ろに立っている。

 それが分かった悠は、恐る恐る、ゆっくりと振り返り──。

 

「君は──っ!」

 

 驚きに顔を染める悠。

 

 近くの木に止まっていたカラスの群れが、一斉に飛び立った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「あー、疲れた……」

 

 いったい過去の俺はどこに埋めたんだろう。

 なぜもっとこう、分かりやすい場所に埋めなかったのだろうか。

 いや当然か、当時の俺は『アレ』を絶対見つからない場所に埋めたい一心で埋める場所を決めてた。だから簡単に見つからないのは当時の本願である。

 

「だけど自分も忘れちゃ意味ねえよなぁ」

 

 ぼやきながら今さっき掘った場所を埋め直す。

 単純に掘るって言っても、ある程度の深さで木の周囲を掘らなきゃいけないわけだから、中々の重労働だ。

 日頃園芸部で土掘りに慣れてなきゃ、今頃嫌になってたに違いない。

 

「うし、じゃあ次は……」

 

 埋め終えたので道具を持ち、次の場所を見つける。

 山に面してる分、こっちは東エリアよりもこの時間は暗い。安全のために電灯は多いが、それが逆に候補地を絞るのに足を引っ張っているんだ。

 初めてからもう50分以上は経ってるが、事ここに至って、是が非でも思い出す必要があると思い知る。

 仕方ないので一旦足を止めて、俺はたまたま目に映ったベンチに腰掛ける。思い出しタイムの始まりだ。

 

「あ、その前に一旦悠に連絡っと……」

 

 “まだ見つかってない”とメッセージを送る。するとすぐに返事が来て、やはり向こうも苦戦中らしい。

 季節が季節なので、夜は急に冷え込む。“風邪ひかないように気をつけてくれ”と再度送って、俺は改めて当時を振り返る事にした。

 

 あの時、電灯が側にあった。埋めたのは大きな木の周りで、当時小4だった俺でも木登りができる形をしてた。

 その他に、何か……特徴があったハズなんだ。当時の俺が『ここにしよう!』と決めるだけの何かが。

 それを思い出したいのだけど……。

 

「うーだめ! 思いつかん!」

 

 東西エリアどこを思い返しても、俺が決めようとする特徴げある木なんて思いつかない。

 

 それでもあるハズなんだ、この公園に。絶対に見つけないと……、

 

「あっ」

 

 ほんのちょっとだけの発想、ふとした気づきだった。

 そもそも、どうして俺は埋める場所にここを選んだ? 

 

 そう、そうだ。そこにヒントがあるハズ。

 当時の俺にとって、『アレ』は人に見られたくない、けど大事なものだった。それを埋めるなら、大事な物を埋めるに足る要素をこの公園のどこかに見出してたって事になる。

 当時ワンパク少年だった縁君の気持ちになって、再度当時を振り返る。

 すると、天啓と言っても過言じゃない、確信的な思い出を掘り起こせた。

 

「──山のてっぺん!」

 

 山岳コースのゴールには、当時俺や友達の間で『マチュピチュ』と呼んでた、普通の公園よりちょっと狭いけど展望台や遊具のある場所があった。以前俺が咲夜を連れて行った山ほどじゃないが、そことは違う角度で街を見渡せる場所で、当然公園の敷地内だから電灯があって……そうだ大きな木もあった! 

 あの頃、俺は友達と探検とか競争とか言いながら、頻繁に『マチュピチュ』で遊んでいた。実際は違ったけど、当時は街で1番高い場所だと思ってて、そんな『マチュピチュ』にはどこか特別な思いがあった。

 

 もう絶対そこしかない。俺は急いでスマホを出して、悠に『マチュピチュ』に向かう事を伝える。

 悠は『マチュピチュ』を知らないから具体的に何処を指すかも説明して、返信は確認せずそのまますぐに『マチュピチュ』に向かう事にする。

 

「今からプチ登山か……本当よくやるよ俺も」

 

 とても平日の夕夜にやる事じゃない。

 でも、綾瀬を安心させられるなら──、

 

「うし、行くかっ!」

 

 頬を軽く叩いて気合いを入れた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 正直、ここまでの事になるならもっと防寒着とかも着てけば良かったと思いつつ、俺は軽い斜面を登っていく。

 何度も言うように、子どもでも楽々に歩ける山道だ。明かりは随所に用意されてるし、熊なんて居ない静かな道は、歩く上では問題ない。

 ただ制服で出歩くにはちょっと、肌寒さを感じる。さっきまで穴掘りして流れた汗も冷えて背中がつめたいし……悠に言う前に、俺自身が風邪ひかないように気をつけなきゃな。

 

 帰ったら即、シャワー浴びて、そこからご飯だな。そう思っていると、遂に目的地の『マチュピチュ』広場に到着する。

 

「──すぐに見つけちゃった」

 

 おそらく俺が埋めたであろう木は、ものの数秒で視界に入った。

 展望台のすぐ側。電灯に照らされた枝葉の茂る、立派な木だった。

 間違いない、俺はここに『アレ』を埋めた。

 

「よし、じゃあやるか!」

 

 もう一度、頬を叩いて気合い入魂。俺はシャベルを持って意気揚々と木の周りを掘り始めた。

 山の土は平たい公園の土よりも少しだけ硬く感じる。成分が違うんだろうか。

 冷え始めていた体も、再び熱が入って寒さも感じなくなって来る。手応えはまだ無いが、掘り進めれば進めるほど、絶対見つかるって予感がひしひしと感じられた。

 

「──あ、そう言えば悠から返事来てるかな」

 

 掘り進めて10分程度だった頃、一息つく理由としてはちょうどよく、悠の事が頭に浮かんだ。

 あれからこっちに向かってるだろうし、そろそろ着くとかの連絡があってもおかしくない。あるいは、もしかしたら迷ってるかもしれない。

 俺は一旦手を止めてシャベルを土に刺し、ポケットからスマホを取り出す。

 自動で画面を明るくしたスマホの画面には、やはり悠からの返信が来た事を告げる通知があった。さっそくSNSを開いて内容を確認する。

 そこに書かれてあったのは──、

 

『ごめん、よすが』

 

 ──という、ひらがなだけの不穏極まりない文章だった。

 

「え、何これは……」

 

 今までアイツがこんな文を送って来た事なんて一度もない。

 性格的にもふざけて送ったとは思えない。

 であれば、考えられるのは悠の身に何か起こったと言う事だ。

 男子高校生とは言えアイツは化粧すりゃあ余裕で女装もイケるレベルの中性的(よりも女寄り?)な顔立ちだ。今の時代、女子でも男子と同じ制服着てる奴はうちの学園にもチラホラいるし、この暗さだ。

 不審者からすりゃあ初見で悠を女の子と誤認する事は十分にあり得る。

 だとしても、悠はああ見えて実は何故か腕っぷしが強い。この前の講堂の殴り合いだって俺が負けたし。悠と喧嘩はアイツが来たばかりの頃やったが、その時だって負けたのは俺。

 俺が喧嘩慣れしてないのもあるが、悠はそこらのチンピラ相手になら負けないくらい強いんだ。

 

 そんな悠が『ごめん』なんてメッセージ送るハメになるとは思えないし……て言うかそもそもこのごめんは、何に掛かってるごめんだ? 

 もしかしたら、これはアイツに何か起きたんじゃなく、今から俺に何かが起こる事について謝ってるんじゃ──、そんな背筋がゾゾっとする可能性に思考が辿り着いた瞬間、

 

「──居た」

 

 幽鬼すら裸足で逃げ出す様な低い重い声が、俺の背後から聴こえた。

 

「うぉっ!?」

 

 余りにも唐突に、しかもまるで耳元で囁かれた様な錯覚すら覚える声色だったから、スマホを手から転げ落として、情けなくも尻もちをついてしまった。

 そこから後ろを振り返ると、そこには何と──いやほんと、何でいる!? 綾瀬の姿があった! 

 

「あ、綾瀬……」

「なに、してるの……?」

 

 地面に尻もちをつく俺を見下ろしながら、綾瀬は俺のそばに刺さってあるシャベルを手に取り、振り上げる。

 ヤバい、何故綾瀬がここにいるのかって疑問よりも、綾瀬が怒っている事の方が遥かにヤバい! 

 怒ったのだろうか、俺が今日綾瀬と通話できないと言った事を。

 あるいは、俺が悠とカラオケ行くと言っておきながら、今公園にいる事が。

 ──まずい、思い付く節がいくつかあるけど、どれが理由か分からない! 

 

 かと言って何もしないわけにもいかないので、とにかく今の行動は浮気とかとまるで関係ない事だけは言おう! じゃなきゃ死ぬ! 

 

「ま、待て綾瀬、これは……」

 

 弁明をしようとする俺の事なんてまるで意に介さず、綾瀬は冷たい目でじっと俺を見る。

 その視線が、俺の口を無慈悲に止めた。

 

「また──そうやって……っ!」

「あや──」

 

 勢いよくシャベルを振り下ろす。

 体力を消耗していた俺には、もうその刃先から逃れる術など無かった。

 

 嘘だろこんなとこで死ぬのか!? 

 しかも五寸釘で壁に磔にされるんじゃなく、いきなりシャベルで刺し貫かれるって、ヤンデレCDの主人公より酷い最期じゃないか! CDじゃ唯一死んでないストーリーなだけ、俺の方が更に悪い! 

 あまりにも予想外過ぎる事に、『ああでも、死体を埋める穴はこっちで用意できたな、まさしく墓穴を掘るか』などと間抜けな事を考えてしまう。

 

 そうして、綾瀬は躊躇いなくシャベルの切っ先を、俺に──ではなく、俺の掘っている穴に突き刺す。

 

「──えっ?」

 

 土でもぶっかけて来るのか? なんて事も一瞬考えたがそんな事もなく、綾瀬は何と俺がさっきまでやってた様に穴掘りをし始めた。

 

「あのー、綾瀬さん……一体何を」

「見て、分かるでしょ……手伝ってるの!」

「え? なんで?」

 

 素で聞いてしまった。

 それには答えず、むすっとした具合でシャベルを動かし続ける綾瀬。

 だって本当に分からない。怒ってるのかと思ったら……いや雰囲気や口調は明らかに怒ってるんだけど、怒ってる割には俺に対する態度が何かこう……違う! ヤンデレCDでよく聴いたあの雰囲気とはかけ離れている。

 前世の知識がまるで役に立ちやしない現状に困惑するが、目の前で彼女がせっせと動くのに何もしてない自分、と言う図式に遅まきながら気づき、慌てて俺もスコップを取って穴掘りを再開する。

 理由は分からないが、まずは綾瀬が話したくなるまで俺も動こう。

 

「……ふぅ、大体掘り終えたな。あと少しだけ」

「慣れてるつもりだけど、制服でやると結構疲れるのね」

 

 今まで、軽い作業ならまだしもこのレベルの作業を学園でやる時はジャージに運動靴って組み合わせだった。今は制服にローファー、やりにくさってのはどうしても出てくる。

 綾瀬についてはスカートだから、暗くてもチラチラ脚が見えて……っていや今はそんなの考える時じゃないから。

 作業をするうちに、自然と綾瀬の雰囲気も柔らかくなっている。

 改めて、俺は綾瀬に尋ねる事にした。

 

「綾瀬、どうしてここに俺がいるって分かったんだ?」

「……あなたはどうしてだと思う?」

 

 まさかの質問返し。

 答えが分からないから教えて、と急かすのもできるが、これは綾瀬なりのコミュニケーションの取り方だ。俺もちゃんと考えてみるべきだろう。

 

「俺が送ったのを見て、変な感じがしたから? いやでもそれじゃここが分かる理由にはならないもんな……」

「少しだけ合ってる……あなたから連絡きた時、アタシ渚ちゃんと園子と一緒に居たのよ」

「うわ、マジで……知らなかったよ。あちゃ〜」

 

 そりゃ即怪しむに決まってる。

 

「悠君も絡んでるってなると、絶対今から何かやろうとしてるって思ったから、急いで学園に戻ったの。そしたら」

「道具持ってここまで向かう俺らを見つけた、と」

「そういうこと。一体何するのかと思って後ついたらここでしょ、最初は宝探しでも始めたのかって思っちゃった」

 

 まあ、あながち間違いでもない。

 

「途中休んでる悠君に声をかけて何をしてるか聞いたけど、彼、あなたのために『何も言えない。本人に聞いてくれ』の1点張りで」

「もしかして、その時俺がどこに行くかを?」

 

 そう言うと、こくんと頷く綾瀬。

 色々と納得した。ごめんって言うのも『バレちゃった』って意味ね。ならそう書けばいいものを。

 

「それで? あなたの質問には答えたけど。あなたはここで、アタシに隠れて何しようとしたの?」

「……探し物」

「それは分かってるわよ。何を探してるのかって聞いてるの」

「それは……見つけたら話す。見つからなかったら、帰りながら話すよ」

 

 綾瀬に内緒で事を進めようとしたが、決して後ろめたい事をしているつもりはない。俺は綾瀬の目をまっすぐ見て答える。

 

「……分かったわよ。もう」

 

 不誠実な事はしていない、という気持ちが伝わったのか、綾瀬は折れてくれた。

 

「見つかっても見つからなくても、渚ちゃんと園子にもちゃんと説明するのよ? 特に渚ちゃんはご飯作らなきゃだから帰ったけど、心配してたんだから」

「うん、分かった。でもきっと渚からはもっと怒られるんだろうな」

「その時は一緒に怒られてあげるから」

「お母さんかよ」

「お姉さんよ」

「なんだそりゃ」

 

 少し先の未来に苦笑いしつつ、俺達は作業を再開した。

 

「──おっ、おお!」

 

 すると、今までが嘘のようにあっさりと、まるで神様が『もういいだろ』と先延ばしていた結果を明け渡したかのように、今までと明らかに違う手ごたえをスコップから感じた。

 

「あった? あったの?」

「うん、たぶん」

 

 やや興奮気味に答えながら、俺は手ごたえがあった場所を中心に掘り進める。

 すると出てきた、ちょっと高いクッキーなんかに使われてるような、四角い缶の──いわゆる『カンカンの箱』! 

 

「間違いない、これだ」

 

 掘り出して箱にかかってる土を払うと、うっすらと『10年後の自分へ』とマジックで書かれた俺の文字が読めた。

 

「やったぜ、タイムカプセルだ! やっと見つけた!」

「探してたのってこれの事だったの?」

「そう! 綾瀬もやっただろ? 10年後の自分にタイムカプセルを送るって道徳で! これだよ! まだ10年経ってないけどやったぁ!」

「確かにやったけど……それが、わざわざこの時間まで探す必要あったモノなんだ……」

 

 困惑してる綾瀬の言葉をバックミュージックにしながら、俺は恐る恐る箱のふたを開けて中身を確認する。

 すると中には封筒が2つ。そのうち1つには『10年後の自分へ』と書かれてあり、もう1つには──、

 

「……うし」

 

 腹を、くくる。

 

「綾瀬、これを君に渡したくて、今日俺はここまで来たんだ」

 

 そういって、もう1つの封筒を渡す。

 

「あなたのタイムカプセルなのに、アタシ?」

 

 驚きながらも受け取り、封筒に書かれてある文字を見る。そこには『10年後の綾瀬へ』と書かれてあった。

 

「アタシに?」

「当時の俺は綾瀬にも渡したい物があって、いっしょに埋めてたんだ」

 

 そしてそれこそが、悠との会話で思い出した、綾瀬を安心させるに足る物だ。

 

「中、見てくれるか?」

「……うん」

 

 息を吞みながら、綾瀬はゆっくりと封筒から中に入ってある1枚の紙を取り出す。

 丁寧に4つ折りにされた紙を開いて、そこに書かれてある物を見る。

 そこにあったのは──、

 

「え……そんな……これって」

「──はい」

「『こん約届』って……アナタの名前書いてるの、これ、あなたがアタシにって事?」

 

 そう、綾瀬に過去の俺が渡したかったのは、手書きで書かれたお手製の婚姻届けだった。

 漢字が分からなくて『こん約届』なんて拙く間違ったものになっているが、そこには結婚式で神父さんが詠むような文と、俺の名前、そしてもう1人分の名前が書ける空欄があった。

 当時、今の俺よりもっと素直で、面倒な事なにも考えてなかった思春期入る直前の俺が、今よりもっと素直に綾瀬への好意を形にしたものが、これだった。

 

「まぁ、そのなんだ、若気の至り極まれりだけどさ、あの頃の俺は綾瀬と結婚したいって本気で思ってたのな」

「──っ!」

「だから、こうして付き合えて、綾瀬にはこれから不安な思いとかして欲しくなくて、『俺はあの頃からお前が好きだったんだ!』って証明になればなー……とか、思って探そうと思ったんですよ」

「……そう、だったんだ」

「色々、不安とか掛けるかもしれないけど、こっからもよろしくな。うん、やっぱ恥ずかしいわこれ! あはは!」

 

 真剣な想いを口にするが、最後の最後に羞恥心に負けてしまい、照れ笑いで誤魔化してしまった。

 でもいいだろ、これで想いは伝わったはずだから。

 

「じゃあ、土埋めて帰ろうぜ、綾瀬」

「……ねえ、縁」

「ん──っ!」

 

 手首をくいっと引き寄せられて、気が付いたら綾瀬からキスしてきた。

 

「……あはっ、今日やっとキスできた」

 

 意地悪そうに唇に指を当ててなぞりつつ、綾瀬は言う。

 俺はもう何度目かのキスではあるが、不意打ちだったのもあって、真っ白になってしまった。

 

「ね、片づける前に、ぎゅってして?」

「お、おう!」

 

 甘えるような声に抗えず、汗のにおいとか気にせず要望通り強く抱きしめる。

 

「~~!」

 

 綾瀬は声にならない歓喜の声をあげつつ俺の背中に腕を回して、胸元に顔を埋めて小さく左右にこすらせる。

 なんか犬みたいだな、とか思ってると、

 

「ねぇ、アタシ嬉しい。今とっても幸せ」

 

 少し涙ぐんだ声で、綾瀬が言う。

 

「アタシ、あなたの言う通り不安だったの。今この幸せな時間が、消えちゃうんじゃないかって」

「綾瀬……そっか、やっぱり」

「渚ちゃんに言われた。もっとあなたを信じろって」

 

 渚がそんな事を綾瀬に言うなんて。

 さりげなく、俺の知らない場所で行われていたやり取りに驚いた。

 

「アタシ、これからはもう暗い事なんて考えないから。もう、不安であなたに迷惑かけないように頑張るね。今までごめんなさい」

「そんな事、迷惑なんて一回も思っちゃいない。俺も悠に言われたんだ『重く考えすぎてる』って」

「……一緒だね、アタシたち」

「だから恋人になれたんだろ?」

「うん。……ねぇ」

「なに?」

「アタシが──ううん、アタシたちがいつか、ちゃんと大人になって、2人でちゃんと生きていけるようになったらさ……」

 

 そういって一度言葉を止めて、綾瀬は俺から名残惜しそうに少し離れ、『こん約届』を見せつつ言った。

 

「その時は、アタシがここに名前書いて、あなたに返すね!」

 

 そういってはにかむ彼女の顔は、儚い電灯しかない公園の中でも、1等星より眩しく、俺の瞳には映った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──1つだけ、お願いがあるけど、きいてくれる?」

 

 全部の片づけが済んだ帰り道、2人並んで手を繋ぎながら歩く途中、綾瀬は言った。

 

「今日は仕方ないけど、これからは──何か大きなことをするって時、アタシにも相談して」

「綾瀬……」

「ずっと不安だったのには、あなたがいつも、何か問題に直面すると、危ない事を平気にしてきたからって事もあったの」

 

 園子のいじめを解決しようと決意した時

 咲夜から園芸部を守ろうと行動した時

 

 確かに、過去に俺が綱渡りみたいな行動をとった時、そこに綾瀬の判断や意思が介入する余地はなかった。

 それはやっぱり、俺が渚の指摘通り『女神様』扱いしてたのが理由であって。

 でも、今綾瀬は女神様じゃなく、俺の恋人だ。

 崇めるんじゃなく、同じ立場に立つ、平等な関係にある。

 

 ──最後のピースがはまった。そっか、綾瀬は一人ぼっちにされるような感覚になっていたんだ。

 

「分かった。これからは、まず何より先に綾瀬に頼るよ」

「うん……うんっ!」

 

 俺の返答に、嬉しさを隠すことなく、腕を絡めて喜びを伝えてくる綾瀬。

 幸福感が際限ないなぁ、ホント。

 

「……課題分からない時も、真っ先に頼ろうかな」

「だめよ、そこはまず自分だけで頑張って」

「あちゃ、ダメか」

「ダメ」

 

 そんな会話を交わして、俺達は2人だけのかえりみちをゆっくり歩く。

 綾瀬の左手には、俺の『こん約届』が優しく握られていた。

 

 

 

 

「で? 2人いちゃつきながらダラダラ帰って、アタシは1人夜ご飯作って待ってたわけですか」

 

『はい……』

 

 本当の地獄は、帰ってからが始まりだった。

 

「そっかー、綾瀬さんお兄ちゃんからプロポーズされたんだー、あたしお兄ちゃんがそんなの作ってたの知らなかったよ……それは良かったねぇ! 

 

 ドンガラガッシャーン! という幻聴が脳裏にガンガン響く。幸いにも渚は怒ってはいるがモノには当たらず、2人仲良く正座している俺達の前で血管を浮き立たせているに過ぎない。いやコレもうヤバいって! 

 

「ごめん、渚……償いはなんでもするから」

「なんでも? なんでもするって言ったの今?」

「あ、あぁ……でも! 綾瀬と別れろってのだけは無しで頼──お願い……します」

「……チッ。やだなぁ、お兄ちゃん、今更そんな事言わないよ。でもぉ、それならぁ……」

 

 最高にかわいく、恐ろしい笑顔で渚が提案したものは──、

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

『……もしもし?』

「ああ、聞こえてるよ綾瀬」

『あはっ、良かった』

 

 翌日。いつも通り夜の通話時間だ。

 ただし、1つだけ違うのは──。

 

「はい、私も聞こえてますよ~綾瀬さんこんばんは」

『……渚ちゃん、こんばんは』

 

 違うのは、渚が俺の隣でピッタリくっついている事。

 

「ん~お兄ちゃんあったかい」

『ちょ、ちょっと渚ちゃん!? 何してるの?』

「何って、兄妹のいたって健全なスキンシップですよ? ねぇお兄ちゃん?」

「……はは」

 

 これこそが、渚の提示した条件。『夜、渚が俺と一緒に寝るのを黙認する』というもの。

 ──まさに、悪魔のような提案だ。綾瀬にとっては。

 

『ちょっと縁、あなたも何受け入れてるの?』

「お兄ちゃんは妹に当然の対応をしてるだけですよ? 私たち兄妹ですから。恋人とは言えまだ他人の綾瀬さんができなくても仕方ないですよね?」

『あなたもちゃんと止めなきゃダメでしょ? 近親相姦は犯罪だって言ってるじゃない!』

「たかだか抱き着いてるだけで近親相姦なら、綾瀬さんはとっくにわいせつ物陳列罪で極刑ですよ? っていうか前から思ってましたけど、近親相姦は犯罪じゃありませんから」

『~~もう、縁!』

「んふふ、お兄ちゃ~~ん!」

「~~っ、あぁ、ったく……」

 

 

 

 ──あれ。なんかこれデジャヴ? 

 ──こんな、ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて俺は、もうこの言葉を呟かずには居られなくなってしまった。

 

「死にたく──いや、やっぱ死にたくないなコレ」

 

 拝啓。父さん、母さん、いかがお過ごしでしょうか。

 やっぱり、今回の話は、ただののろけ話だったかもしれません。

 

 

 END




感想お待ちしております。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ボクが僕になれた日

最後の番外編になります。
今回は陰の主役(と勝手に思ってる)綾小路家の良心、悠君の物語です。
これをもって、第三章は本当に終わりです。

番外編の例にならってヤンデレCD要素は薄いですが、楽しんでいただければ幸いです。
なお、今回はヤンデレCD作者のオオシマPの手がけたヤンデレCDと同じ世界観を描いた「らぶバト!」という作品と、氏がハーメルンで投稿してる作品の設定を含めています。
良ければそれぞれ追って読んでみてくださいな。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


 これは、物語の主人公が知り得ない──知るよしもない──知る必要のない、彼の親友の過去語りだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 綾小路幽夜。

 それが最初、この世に生を受けた僕に与えられた名前だった。

 生まれる子どもに、幽霊の漢字を使うなんて酷い物だと思うが、奇しくも名は体を表すって言葉がある様に、僕は生まれた瞬間から死んでいる様なものだったんだ。

 

 綾小路家。

 日本のみならず世界でも有数の富豪で、綾小路重工を中心にあらゆる業界に根を張り成功を収めている、まさに現代の貴族。

 僕は、そんな華々しい一族の1人だった。

 

 綾小路家の人々は皆、それぞれに使命を持っていた。

 従兄弟にあたる『綾小路 桐夜(きりや)』は、医学を学び、人類の更なる可能性と発展に情熱を燃やしてたし、その兄にあたる『綾小路 凍夜(とうや)』も、次期総帥として相応しい振る舞いや実績を積み重ね続けていた。

 その他にも、綾小路家に名を連ねる者達は皆、『綾小路家のため』に生きていた。

 何もせず、ただ生きているだけで現総帥『綾小路 錬蔵(れんぞう)』から愛されてるのは、直系末妹に席を置き、先に紹介した2人の義妹でもある『綾小路 咲夜』だけだろう。

 

 当然、僕にも綾小路家から求められた、成さねばならない使命があった。それは何かを説明する前に、少しだけ、この世界の裏の事情──あぁ、こんな言い方はしたく無いけど、『一般庶民』が知るよしも無い世界の裏を説明させて欲しい。

 

 綾小路家は世界的な富豪、と言うのは最初に述べた通り。

 だがしかし、綾小路家がこの世界の支配者なのかと言えば、実は全く──呆れるほどに全く、そんな事は無い。

 

 それは何故か。単純な話、綾小路家よりも長い歴史を持ち、常識をはるかに超えた力を持つ存在がこの世界には割と居るからだ。

 あまりそっちの話を深掘りすると別の話題になってしまうので、かいつまんで説明すると、少なくとも日本においてすら、綾小路家は支配層の中で『中の上』、もしかしたらそれ以下かもしれない。

 それほど、この日本には綾小路家すらマトモに相手すれば敵わない存在がいるんだ。

 

 頂点に神様みたいな一族が3つあって。それらをそれぞれ守護する役割を持つ一族が3つずつある。単純に考えて12族が綾小路家の上に巍々と鎮座していると言える。

 経済力、財力で越えてしまえばいい! と思うかもしれないが、この12族は皆揃って綾小路家に引けを取らない財力持ち、或いは裏社会に潜んでて実態が掴めないものばかり。

 それだけじゃなく、彼ら(形式的にそう呼称するが)は皆等しく、綾小路家の人間には無い特別な力を持っていた。

 

 何かって? ああ、こんな事言うの厨二病みたいで恥ずかしいけど……超能力だ。

 そう、漫画やアニメや映画でよく見るあの超能力だ。魔法でもサイキックでも召喚術でも何でも良い、そう言ったフィクションの世界でしか存在を許されないハズの力を、彼らは持っているんだよ。

 

 ……分かるよ。初めてこの話を両親から聞いた時は、僕も『何言ってるんだ?』と呆れたものさ。

 でも、それが事実なんだから仕方ない。だから諦めて受け入れて欲しい。僕や縁達が平和に暮らしてるこの世界は、魔法と超能力に溢れたバトル物染みた世界でもあるってね。

 

 ため息をこぼしつつも受け入れてくれたら、次に何で僕が『事実なんだ』と断言するか違和感を持っただろう。

 良い着眼点だ、それこそが『綾小路幽夜が生まれて来た理由』そのものなんだから。

 話を綾小路家に戻そう。

 

 綾小路家──ひいては現当主である綾小路錬蔵は、超能力や魔法を持ち、現代の科学力では到底敵わない圧倒的な力を持つ存在を相手にただ平伏すだけの大人しい老人では無かった。

 彼は科学力と財力を駆使して、彼らを相手に戦えるだけの戦力を手にしようと研究を進めていた。

 その結果、戦闘用アンドロイドとか街一つ簡単に壊滅できる威力を持った『携帯兵器』とかを作り出せちゃって、まぁまぁ超能力者と引けを取らない『結果』を生み出してはいるけど──やはり、足りない。届かない。

 

 そんな中、プランBが考案された。

 超能力者に勝ちたいのなら、同じだけの力を持つ存在を『綾小路家の中から生み出せば良い』、そんなメチャクチャなプラン、誰が考えたんだろうね本当。僕の父だよふざけんな。

 

 はい、もうこの辺でお察しがついたかと思うけど、そのプランB、正式名称は──いや、もう口にするだけで羞恥心で焼死しそうだから言わないけど、それで生まれたのが綾小路幽夜ってワケ。

 母体の中にいるときから、海外の『超能力を扱う研究機関』と秘密裏にバレたら確実に消される取引を行なって、綾小路家には無い『超能力の因子』を埋め込まれた幽夜は、文字通り綾小路家の希望として産声をあげた。

 

 ──の、だけど。

 

 幽夜が手にした能力は、錬蔵の期待に応えるものでは、到底無かった。

 母親から聞くところでは、生まれてすぐには瞳が左右で違う色をしてたとか、時々光ったとか言うけど、1週間くらいでそれも無くなり、母親譲りの青い瞳に落ち着いた。

 もはやその時点で錬蔵の期待外れだったが、極め付けは物心ついた頃に明白となった僕の力の内容。『触れた物の質を変える』力だった。

 

 そう、実は僕も超能力者だったんです、縁にだって一回も話してない、本当の意味での秘密さ。

 簡単に言えば、錆びた鉄釘を新品同様にしたり、弱った内臓を健康体にしたり、モデルガンを元になった実銃に変えたり、そんなことができる。

 僕が縁を乗せて爆走した時に使ったバイクにも、この力を使って生み出したパーツが多く使われているし、警察に免許の所持を問われた時も、咄嗟に生徒手帳を免許証に変えて渡した。

 その気になれば、せんべいや餡子のかけら一つでもあれば、手の中で和菓子に変える事だってできる。カロリーの消費も無しにね。

 こんな風に使い方次第で色々できる力ではあったけど、分かりやすく最強な力を求めていた錬蔵は、容赦なく僕に『失敗作』の烙印を付けて、あえなくプランBは消滅。綾小路家は科学力に舵を振り切った。

 

 ──と、まぁそんなワケで、綾小路幽夜は早々に綾小路家からは見放されちゃったのです。

 期待も注目もされず、それでいて追放とかは無かったから、もはやただ生きて食事をするだけの、消費しかできないお人形さんみたいな幼少期を過ごす事になりました。

 

 “あぁ、ボクは誰にも必要とされてはいないんだな”。幼い幽夜少年がそう思って心を閉じてしまうのも、致し方ない話だったのでした。

 実際は両親は僕を1人の人間として尊重してくれてたし、金に不自由ない暮らしができる時点で人生勝ち組だと割り切れば良いだけだったが、綾小路家の一族という重責と、その末席を汚している自分が惨めで、とにかく僕はあの頃、消えてしまいたかった。

 

 そんな人生にある日、転機が訪れる。中学2年生を迎える春だ。

 両親が直系と協働で行なっている、首都圏に位置する地方都市の開発計画。

 その一環で作られた学園に僕を転入させると父が言った。

 その頃にはとっくに塞ぎ込んでた僕は、『あぁとうとう追い出されるのか、島流しだ』なんて不貞腐れながらも父に従い、行きたくもない学園に転入、引っ越しする事となった。

 

 そうして転入初日、クラスの皆に挨拶をするが、周りがどうでも良かった僕は、金髪ロングヘアーの転入生(当時の僕は髪を伸ばしてたんだ)ってシチュエーションでにわかに騒ぎ立つクラス全員の前で、こんな挨拶をした。

 

「綾小路幽夜、もういい?」

 

 良くない。

 本当、これは良くなかった。

 ワードがダメなのに、言い方も酷かった。もう本当心の底から面倒臭そうな声色とイントネーション、オマケに表情だって酷かったハズ。

 愛想の悪さなら、どこかの服屋の店員にも並ぶものだったに違いない。

 

 当然、クラスは一瞬で凍りついた。先生も困惑してて、無言で圧を放つ僕にもあたふたしつつ、用意した席に座るよう言った。

 そんな周りの様子なんて心底関心のなかったバカは、スタスタと空いてる席に向かい、自分が何をしたのか全く気にもせず着席する。

 

 そして──、

 

「お前さ、お前さ──今のヤバかったな!」

 

 綾小路幽夜(ボク)は彼に出逢った。

 

「俺、野々原縁。『合縁奇縁』の縁でヨスガって読むんだ、珍しいっしょ? ユウヤってのはどう書くんだ?」

 

 初っ端から距離感のおかしい会話を持ちかけて来た、終生の親友。野々原縁に。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ──ここからは、少し当時の僕の視点で見てみよう。

 

 

「……は?」

 

 いきなりなんだ、コイツ。

 会って数秒で自己紹介、聞いてもないのに名前自慢、挙句はボクの名前の綴りを知りたいって……話の流れが早すぎる。ついていけない。

 

「だから、ユウヤって良い名前してるじゃん? どう言う漢字なのか聞きたいんだよ」

「知ってどうする」

「知りたいだけだよ、これから友達なるのに名前どう書くか分からないんじゃ変じゃん」

「はい? 友達?」

 

 このノノハラ縁って奴が人間関係の作り方を大きく履き違えてるのか、庶民はどれもこんなものなのか、どっちかは分からないけど、ボクはコイツとは馬が合わない事だけは理解できた。

 

「──はぁ、くだらない」

「え?」

「くだらない、そう言ったんだ。ボクと君が友達? 分不相応だ」

「ブンフソーオー……強そうだな」

 

 それは文武両道だ……と言いそうになった口を閉じた。これ以上隣の変な奴につきあう意味がない。

 

「とにかく、君と仲良くする気は無いから、話しかけないで」

「おー……カラ辣」

 

 それは辛辣と読むんだ、また余計な事を言いかけた口にブレーキを再度かけて、ボクは無視した。

 

 いきなりの事で調子が崩れたが、これで隣の変な奴が話しかけてくる事は無くなる。そう思っていたのだけど──、

 

「おはよーユーヤ! この挨拶ってヤ行コンプしてるな」

 

「ユーヤ、教科書見せてくれない? 忘れちゃってさ……」

 

「そう言えばお弁当の日ってユーヤは何持ってくんの? 普通にお弁当?」

 

 ──と、このように毎日毎日、何かしら話しかけて来た。

 他の生徒は遅くても3日後にはボクと会話する事を諦めているのにも関わらず、この隣にいる縁という男だけは、ボクがどんなに雑に返答したり無視をしてもまるでめげずに、関わりを持とうとしてくる。

 

 その内、無視しても無駄な上に、全く反応しないでいると逆に向こうから話しかけてくる時間が増えていく事に気づいたボクは、無視するのはやめて最低限の返答を返す方向にシフトした。

 そのおかげで、縁は無視をやめる前よりは大人しくなったが……ボクが唯一コミュニケーションを取る相手、と他のクラスメイトや教師に認識されたのがマズかった。

 

「じゃあ、今から2人一組でマット運動をしてください。綾小路さんは野々原さんとペアを組んでね」

 

 ──と言うような感じで、2人一組で何かをする時は必ず縁と組まされるハメになってしまったからだ。

 

「俺、最近プロレス見るのにハマっててさ、俺もムーンサルトやりてぇなぁ……ユーヤはできる?」

「ムーンサルトなんてやった事ないから知らないよ」

「だよなぁ、まずはバク転から覚えないとだし……」

「やってみれば良いじゃないか、バク転」

「──だな、やってみるわ。見てて」

 

 テキトーに会話に合わせて話してたら、何と本当に目の前でバク転を試み、見事頭からマットに沈んだ縁。

 それがあまりにも滑稽だったから、思わずクスッと笑ってしまったら、マットに沈んだ姿勢のまま縁がボクをじっと見上げているのに気づいた。

 

「──何だい? 今笑ったのは君が無様だったからだが、文句でもあるのかな?」

「いや──別に」

 

 そう答えて、何故か静かに立ち上がった縁は、次に驚くべき行動に走った。

 

「みんなー! ユーヤ笑ったぜ! 初めて笑顔見せた! 激レア!」

「──んなっ!?」

 

 あろう事かボクが笑った事を──笑われたのは自分なのに大ニュースのような体でクラス全員に教え始めた。

 そのせいで『最低限のコミュニケーションを取る相手』から、『普通に仲のいい関係』なんて認識に変わってしまい、ますますボクは縁と離れられなくなってしまった。

 

 下手に相手をして関わりを増やし過ぎたせいだ。

 反省したボクは今度、今までより辛辣に縁に接するよう心掛けたが──、

 

「なぁユーヤ」

「うるさいなぁ、話しかけないでくれ」

「お前の髪凄えよな、男なのに下手な女より綺麗じゃん」

「……」

「改めて見ると目鼻立ちも凄え整ってるって言うのかな。化粧とか髪のケアとかしてるの?」

 

 今まで誰にも言われた事の無い、容姿を褒める発言をされて、思わず口が止まってしまった。

 

「──別に、何もしてない」

「──えぇ! 綾小路君何もしないでそれなの!?」

「っ!?」

 

 つい素直に答えてしまうと、縁の近くに居た女子生徒──別のクラスにいる子で、たまたまクラスに居た──がなれなれしく会話に混ざって来た。

 

「綾瀬、いきなり話に入るなよユーヤがビビっちゃうだろ」

「え、あぁそうね。ごめんなさい綾小路君、アタシ河本綾瀬、コイツの幼なじみなの、よろしく」

「──はぁ、どうも」

 

 初めて縁と会った時と同じテンションやノリを感じる女子は、縁の幼なじみと自己紹介して来た。なるほど、何処となく似てるワケだ雰囲気が。

 

「それより、あなたの髪って本当にノーケア? なのにサラサラで長いって凄いわね、ねぇもっと良く見せて?」

「な、なな、ちょっと……」

「うわー、枝毛も無い……アタシちょっと自信無くすかも」

 

 な、何なんだコイツらは! 

 2人してソーシャルディスタンスやパーソナルスペースって概念を知らないのか!? 

 

「──くっ!」

「あ、待ってもう少し──行っちゃった」

「そりゃ行くよ、お前容赦なく触り過ぎ」

「だって、あんなにサラサラな男の子って見た事なくて……」

 

 後ろで聞こえる会話に辟易しつつ、ボクはその場から逃走した。

 この後、何故か縁だけじゃなく河本綾瀬までボクの友人の1人という認識が広まり、不愉快な交友関係が勝手に構築されていくのだった。

 

 また、ある時の放課後には。

 

「なぁユーヤ、プロレス見ないかね」

 

 帰る生徒たちの喧騒を聞き流しつつ、ボクもカバンを取って席を立とうとした矢先、縁が話しかけてきた。

 

「またプロレスの話か、もう飽きたよ」

「そう言うなって、今度総合体育館で興行あるんだよ、俺の好きなレスラーも出てくるからさ! チケット買って行こうぜー!」

「興味無い、プロレスなんてブックありきのショーだろ」

 

 少し言い過ぎな気も──別に、しないがとにかく、プロレスは他の格闘技と違って結末が決まってるから見る気が起きない、そう言って断ると、縁はこんな事を言い出した。

 

「ふーん、お前って漫画原作のアニメは見ない派か」

「──なんて?」

「漫画原作のアニメは結末が決まってるけど、面白いだろ? それならプロレスだって見てもいいんじゃねって思ってさ」

「……なるほど」

 

 確かに、縁にしては割と説得力のある事を言ったな。と感心した自分にウンザリしてしまう。

 

「でも、アニメは漫画と違って動くじゃないか。声優の演技も入る、漫画と違う楽しみ方がある分プロレスとは違うさ」

「そうかぁ? プロレスだって見てるうちにブックの事なんて忘れちまう位熱くなるもんだぜ。特に今度興行でやるタイトルマッチなんて、見たら絶対ブックの事なんて忘れて『だったが勝つんだろう!』て興奮しちゃう事間違いなしだ」

「──でも、ボクは」

「それにさ」

 

 言葉を遮って、縁は続けた。

 

「結末が決まってたって、それで見ないどうでも良い、なんて不貞腐れるのはもったいないよ。たとえ負けたり期待はずれな終わり方になっても、その後に続くストーリーがあるんだから」

「……っ!」

 

 その言葉が耳に入った途端、思わずがたっと勢いよく席を立ってしまう。

 

「ん、えっと、どした?」

 

 急な行動にさしもの縁も驚いているが、ボクはボクで急に荒れすさみ始めた心をじっと抑えるのに大変だった。

 縁の言った言葉が、まるでボクの生き方を批判しているように聞こえてしまって、そんなハズが無いと分かっているのに、ボクは苛立ちを覚えてしまった。

 

「──期待外れになったやつに、『次のエピソードがある』なんてどうして分かるんだ」

「え?」

「──帰る」

 

 こらえ切れず、どうしても口から洩れてしまった言葉を誤魔化すように、ボクは駆け足で教室を出て行った。

 家に帰るまでの間……いや、家に帰ってからも、縁の言葉がずっと頭の中でリピートし続けて、それが無性に悔しい。

 初めて他人の言葉に心を乱されたと思う。あんな衝動的な行動をとってしまう事も。

 

 この日の夜、ボクは初めての感情に対する向き合い方に答えが出せず、すっかり夜更かししてしまったのだった。

 そして翌日、ボクにとって一番の大きな出来事が起こる。

 

 

「……なぁ、ユーヤ」

 

 朝教室につくや否や、いつもよりしおらしい態度で縁が声をかけてきた。

 

「何」

「昨日はごめんな、俺何かお前の嫌な事言っちゃって……」

「……」

 

 謝るんだこの人。まずそう思った。

 

「……別に、謝る必要なんて無い」

「でも……」

「何が悪いのか分からないまま謝られても、何の意味も無いだろう?」

 

 あくまでも自分の心の問題だから謝らなくても良いというのは本心なのに、昨日言われた言葉がどうしても引っ掛かって、自分でも少し驚くほど強い口調で縁の謝意を跳ね除けてしまう。

 気が付けば周りの生徒たちもボク達に視線を向けていて、それが更に癪に触ってしまい。

 

「そもそも、ボクと君みたいな庶民じゃ何もかも違うんだ。謝ろうと思う事がそもそも烏滸がましいんだ」

 

 あっさりと、最後の一線を越えてしまった。

 言ってからしまったと思っても、既に遅い。

 

「──なんだ、それ」

 

 縁はさっきまでと雰囲気が一変し、もう明確に怒っているのがひしひしと伝わった。

 

「じゃあ、聞くけどさ」

「……なんだい」

「そんなに自分は庶民と違うって言うなら、なんでお前は俺達と同じ学園に通ってるんだよ」

「それは……君には関係ない事だよ!」

「関係ない? なら関係ない人間にイライラぶつけるなよ、自分から吹っ掛けといておかしいだろ」

 

 それは痛恨の一撃に等しい発言だった。

 その通りだと素直に謝るべきなのは分かってる。けど、どうしてもコイツ()相手に素直に謝るって言うのができない! 

 

「……っ! うるさいなあ、庶民のくせに!」

「困ったらすぐそれかよ、同じクラスメイトで庶民も貴族も関係ない、どっちも同じだっての!」

「同じなワケないだろ! お前にボクの何が分かる!」

「何も知らねえよ! お前が言わないんだから知るハズないだろ!」

「──っ、~~~!!」

 

 とうとう言い返す言葉が無くなったボクは、それでもこの気持ちの収めどころが見つからず、

 

「お前に──」

 

 縁の胸元を思いっきり掴み、叫んだ。

 

「本家の期待に生まれた時から答えられなかった奴の気持ちなんて分かるのか!? 自分じゃどうしようも無い部分で見放された奴の気持ちが!」

 

 それは、今まで誰にも──両親にすら言った事のない、生まれてから14年間ずっとずっとずっとボクの中を駆け回っていた気持ち。

 何で出会って少ししか経ってない、こんな奴にぶつけてしまったのか。自分でも分からないけど、もうボクはこれを縁の前で抑えることができなかった。

 

 縁は少しの間、ボクの言葉を受けて放心するように黙っていたけど、やがてニヤッと笑い出した。

 

「──やっと自分の事、話したじゃん。でもなんだ、ただの八つ当たりかよ」

「……は?」

「お前も結構、感性が庶民的じゃん。不貞腐れんなよ」

 

 何を言われたのか、一瞬理解に苦しんだ。

 いや、言われた言葉は分かるけど。自分が今まで苦しんできた想いを、なんて言葉で形容した? 

 八つ当たり……そういったのかい? 

 

 ──ああ、本当に。なんてことだ。

 

 ──その通りじゃないか! 

 

「ウラァ!」

「わぶ!?」

 

 無意識でも衝動的でもなく、ボクは縁を殴り飛ばした。

 

「八つ当たり? 不貞腐れ? ああそうかもね、そうだよ、そうだ。ボクは不貞腐れて八つ当たりしていた!」

 

 自分の今まで苦しんできた想いを、そんなあっさりとした言葉で片づけられて、もう人生を否定されたとか通り越して、今まで悩んでた自分が馬鹿みたいに感じてきた。

 だけど、このまま言われてハイ終わり、じゃ到底我慢できない。

 

「だから、もう少しボクの八つ当たりに付き合ってよ! 縁!」

「ああ……いい、ぜぇ!」

「ウ”ィ”エ”!」

 

 殴り飛ばされた縁が、凄い勢いでこちらに向かって走ってきた──と思ったらドロップキックをしてきた。

 想像以上の攻撃に対処が遅れて、顔面をしたたかに蹴られた僕が、今度は真後ろに吹っ飛ぶ。

 

 巻き込まれて音を立てながら倒れる机や椅子。

 当然、突如朝の教室で始まった喧嘩を、黙ってスルー出来るクラスメイトはいない。

 悲鳴をあげる者、先生を呼ぼうとする者、呼べという割に自分は動かず野次馬する者、煽り始めるもの多種多様だ。

 そのうちの一人、縁と仲のいい男子が縁に声をかけた。

 

「おい野々原! 喧嘩か?」

 

 それに対して縁が笑いながら答える。

 

「ちげーよプロレスだ! 七宮お前レフェリー頼むわ!」

「任されて!」

 

 ノリノリで答える七宮と呼ばれた男子が、勝手に『ファイ!』とか言い出し、その隣に居た他の男子は筆箱と筆箱をぶつけながら口で『カーン!』とゴング音を演出する。

 

「そういうわけだ、ユーヤ! 見に行く前に俺らでプロレスしようや、不貞腐れ坊ちゃん!」

「言ってろ馬鹿庶民!」

 

 こうなると、もはや何が何だか。

 今まで自分がしてきたクラスでのふるまいとか、この後に絶対起こる教師からの説教とか、もうどうでもよくなっていた。

 もしかしたら、今までのフラストレーションを発散できるこの状況に、ボクは酔ってしまったのかもしれない。

 

 それからは、お互いに知ってるプロレス技の掛け合いが始まった。

 

 さっきのお返しに低空ドロップキックを縁の右足に決めると、よろけながらも姿勢を立て直した縁が床に受け身を取ったばかりのボクの足首を掴んで、アンクルホールドを決める。

 足首の関節を的確に極める技に、筋肉で押し通せる余地はない。縁はギブアップしろと言ってきたが、彼に3カウント取られるどころか負けを認めるのなんて絶対嫌だったボクはボクにしか分からない反則をする。

 

 ──極められている足の靴紐、そこにボクの能力で結びの質を変えて弛くして、靴から足をスポッと抜かせた。

 

 前に縁に無理やり見せられた海外のレスラーの試合で、同じくアンクルホールドを掛けられていた側がした行為を、能力を使って再現。当然縁の技は崩れてしまい、ボクは自由に動けるようになった。

 縁はなおもボクに組みかかろうとしたが、また関節技をされたらマズい。かくなる上は──思いついたのは別の動画で見た日本のレスラーによる空中殺法だ。

 

 ここにはロープやコーナーは無い。

 その代わりにできるものを見つけたボクは自分の両足に能力を使って強化し、くるっと後ろを向いて教室の壁まで走る。

 急な行動に戸惑う縁や聴衆。それを横目で見つつ、ボクは軽くジャンプしてから教室の壁を蹴り、その反動で大きく空中バク転を決める。

 

 三角飛びのラ・ケプラーダ。有名な言い方で言うならムーンサルト・プレス。

 初めてする技だったけど見事に成功したボクは自分の身体を勢いよく縁に叩きつける事に成功した。そのまま動画で見た見様見真似の片エビ固めでカウントを取らせる。

 背中から落ちた縁にはもう返す力は残ってなく、レフェリーの3カウントが野次馬生徒全員の合唱とともに教室内に鳴り響いた。

 

「はは……なんだ、できるんじゃんムーンサルト」

 

 負けた縁は負けたのになぜか嬉しそうな声で、そうつぶやいていた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その後は……まぁ、やっぱり教師に怒られた。

 反省室にしばらく居ろと言われて、さっきまでの喧騒とは真逆の、静かな空間に2人きりとなってしまった。

 

「……なぁ」

 

 教師が部屋を出てすぐ、縁は言った。

 

「楽しかったな、さっき」

 

 それが、あまりにも悪びれちゃいない発言だったから。

 

 

「──うんっ」

 

 つい、笑いながら答えた。

 

「あ、珍しい笑い顔また見れた」

「もう一回見てるんだ、今更だろう?」

「んな事ないさ。お前の笑顔、優しいんだから、もっと見せてけよ、その方が友達増えるぜ?」

「わざわざ増やす気は無いよ」

「またそういう事言う~」

「たくさんいても持て余すだけだよ、少しでも、ボクが笑いたいと思う相手とだけいれば良い」

「お、それってつまり、俺の事か~?」

「──どうかな」

 

 そう言って、2人して一緒にカラカラと笑い合った。

 

「……あのさ、さっきの話」

「ん?」

「期待されてないって言うの。あれさ思ったんだけど、言っていい?」

「……いいよ、なんだい?」

「良いのか、じゃあ言うけどさ……」

 

 そうやっていったん言葉を止めて、縁はその先のボクの人生に大きな影響を与える言葉をくれた。

 

「期待されてないなら、逆に好き勝手すりゃいいんじゃね」

「──好き、勝手」

「そ。だって、変わらずお前ってお金持ちの貴族だろ? どういうワケか俺らと一緒の学園に居るけどさ」

「まぁ、そうだけど」

「じゃあ、俺らよりもできる事の幅が広いわけじゃん」

「……うん」

「それでいながら、本家? っていうのには感心向かれてないなら、もう自分がやりたい事のために生きちゃってもいいじゃん」

 

 綾小路家のためではなく、自分のやりたい事のために生きる。

 今までのボクの価値観・世界観に決して存在しない言葉だった。

 

「──はは、そうか、なるほど」

 

 確かにそれは、ものすごく魅力的な提案だった。

 それはきっと、桐夜兄さんや凍夜兄さん、他の綾小路家の人間──咲夜にだってできない生き方だから。

 ボクにしかできない──期待されずに見放された『綾小路 幽夜』だけの生き方。

 

「──ふふ、ははは、そうか、そういうのもアリなんだ」

「んー、なんかよく分からないけど、納得した感じ?」

「した。したよ、縁」

 

 もう一度、ボクは彼に笑顔を見せて答える。

 それを見て、ボクが悩みを吹っ切れたのが彼にも伝わったらしい。

 

「なら良かった」

 

 そう言って、もう見飽きるくらい見た──太陽みたいな笑みを浮かべた。

 

 

 後日、ボクは縁の誘ってくれたプロレスの興行を見に行った。

 そこには以前会った縁の幼なじみである河本さんや、縁の従妹で、2人の家の向かいに暮らしてるという小鳥遊夢見って子も来た。

 その日は、縁が言った通りブックなんて頭から抜けて、気が付けば周りの観客と一緒にボクも大声でレスラーを応援していた。

 

 心から叫んで、笑って、楽しんだ。

 14年間生きてきて感じなかった事を、ボクは縁に出会って初めて体感できたんだ。

 そうして、見つけた。他の誰にもできない『綾小路 幽夜』だけの生き方を。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 プロレスの大会を見た翌週。

 綾小路幽夜は、学園を去った。

 

 なんの通知も無いまま、突如として消えた転入生に、大なり小なり動揺を隠せないでいるクラスメイト達。

 そんな生徒たちをなだめつつ、先生は次に、新しい転入生が来る事を告げる。

 立て続けて起こる特殊な出来事に、いよいよクラスは騒然とするが、先生が入ってこいと言って姿を見せた転入生に──皆言葉を失った。

 

 そこにいたのは──、

 

「改めまして、今日から皆さんとクラスメイトになる、()()()()です。よろしくお願いします!」

 

 長い髪をバッサリ切って現れた、()だった。

 動揺するクラスメイト達を見てクスクス笑いながら、僕は自分のために用意された席──縁の隣に座る。

 

 ぽかんとしながら僕を見る彼に、ウインクしながら挨拶をする。

 

「改めてよろしく、縁」

 

 声を掛けられて、ようやく僕が誰か確信を持てたのか、縁はようやく口を開く。

 

「あぁ……突然イメチェンしたから、分からなかった」

「これが僕の答えって事」

「答えって……もしかして?」

「うん、僕はもう綾小路家が求めて見捨てた『綾小路幽夜』としては生きない。これからは──」

 

 この世界に宣誓するように、僕は言った。

 

「君の友達──『綾小路悠』として、好き勝手に生きていくよ」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

12月初頭

 

「──ふふっ」

「んー急にどうした悠」

 

 帰り道の途中、不意に昔の事を思い出した僕は、つい一人で思い出し笑いをしてしまった。

 今日は縁の家で鍋パーティをやろうって話になり、僕と縁、綾瀬さんと渚ちゃんの4人で珍しく一緒に帰っている。

 部長と咲夜は追って家に来る予定だ。

 

「──珍しい、悠くんが思い出し笑いなんて」

「そうかな?」

「おう、あんまそういう事しないじゃん。渚も見た事ないっしょ?」

「うーん……そうですね、普段から笑顔って印象ですけど、今みたいに一人で楽しそうに笑うのはあまり見ないかも」

 

 渚ちゃんに言われたら否定しようがない。

 

「昔の事を思い出したんだ。君にプロレスで勝った時の事をね」

「あー懐かしいなおい、あん時は大変だったな」

「プロレス……お兄ちゃんがたくさん先生に怒られた時の?」

「あったわね、アタシも騒ぎがあったから観たらびっくり、縁は床にのびてるし、悠君はクラスのみんなに揉みくちゃにされてたんだもん」

「当時は荒んでたからなー悠は。そんな奴がかっこよくムーンサルトしたらそりゃ、一気に人気者さ」

 

 そうやって、みんなで当時の思い出を共有しながら歩くうちに、縁と綾瀬さんの家の前にまでついた。──のだけど、

 

「あれ、引っ越し屋さんの車が止まってる」

 

 普段と違う事に気づいた縁がそう言うと、綾瀬さんも追随する。

 

「誰か引っ越してきたんだ……って、あれ、向かいの家に荷物運んでない?」

 

 綾瀬さんの言う通り、業者は2人の家の向かいにある一軒家に荷物を運んでいる。

 その家は、かつて別の人間が生活を営んでいた家だ。

 そこに荷物が入るってことは──引っ越してきたのは、つまり。

 

「あーすみません! その段ボールはアタシが運ぶので大丈夫です!」

 

 急に、朗らかで愛らしい声が家の中から聞こえてくる。

 声の主と思われる人物──丈の短めなサロペットスカートを着た、ピンク髪の女の子が、大の大人が重そうに持っていた特大の段ボールを受け取り、事もなげに持ち運ぼうとする。

 

「──あ!」

 

 縁が声を挙げた。

 その声を聴いた少女も、縁の方に顔を向けて、驚きの表情を見せる。

 いそいそと、段ボールを丁寧に一度家の敷地の地面に置いてから、1年ぶりに主に再会する愛犬よりも早く、縁に向かって駆け出した。

 そうして、残り1mかという距離になったら、勢いよく縁に向かって飛び込んだ。

 

お兄ちゃん、久しぶりぃ!!! 

 

 受け止めた縁はよろける事も無く、自身を『お兄ちゃん』と呼ぶ少女に喜びの声をかける。

 

「夢見ちゃん、お久しぶり! 大きくなったな!」

 

 ──そう、少女の名前は小鳥遊夢見。

 縁の、そして渚ちゃんの従妹。

 かつてここで暮らしていたが、家庭の事情でこの街を離れていた女の子だった。

 

「アタシ、今日からまたここで暮らせる事になったの! だからまた──よろしくね、お兄ちゃん!」

 

 心の底から嬉しそうにそう話す夢見に、縁も同じ笑顔を返す。

 

 ──ああ、どうか、願わずにはいられない。

 小鳥遊夢見の真の姿を知らない彼が、彼女に全て呑まれない事を。

 

 

 ──この瞬間、『綾小路悠』の人生に、もう1つ目的が生まれた。

 唯一彼女の裏を知る自分が、彼と──彼が大切に思っている人全てを、守る。

 咲夜と査問委員会にしてやられた時とは違う。

 

 もう二度と、彼の幸せな世界を、第三者に奪わせはしない。

 ──させる、ものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

END

 







目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あとがき

※このあとがきは第三章までの内容を含んでいます。

 良ければ全話見た後に、気が向いたら読んでください。

 

 

 

 ヤンデレCDの知識を手に入れて、わちゃわちゃする内に園子のために頑張ったり、渚と正面衝突する第1章

 

 平穏にかまけて、気がついたら親友や自分の居場所がヤバくなってわちゃわちゃする内に人間関係に拗れが生じるけど何とか咲夜を言いくるめた第2章

 

 そして、1〜2章にかけて全体的に出番が少なくて空気気味な事から目を逸らせなかった作者がわちゃわちゃする内に綾瀬といちゃいちゃする第3章

 

 ヤンデレCDを題材にしたこの二次小説は、大まかにこんな流れになってます。

 当初は本当に第1章で話を終わらせるつもりでした。なので2章以降は個人的に本編の続きではなく、一個隣にある並行世界の出来事みたいなノリで書いてました。

 

 とにかく、咲夜を出したくなったが、途中からオリキャラの悠くんに愛着湧いちゃった結果色々青春っぽい事した2章ですが、正直ヤンデレCDの二次小説としてはどうなんだ、と思うところがありました。

 ですが、何となく思い描いてた綾瀬を主軸に据えた話を書く上で、2章で発生する人間関係のもつれは大事な物だと思ってたので、あまり後悔はないです。……いや、いつか少し描き直したいですね

 

 第3章を書くにあたって、当然綾瀬を主軸にというものがありましたが、それ以上に心掛けたのが「1章から先伸ばしてた物にケリをつける」「ヤンデレCDっぽくする」の二つでした。

 その結果、渚と園子を振ると言う行動に走った縁君です。

 1章で園子が気に入り、2章後半で渚スキーになってたので、この辺りは凄く書いててしんどかったです。

 

 そして、なにより「ヤンデレCD」っぽくする。

 あくまで「っぽく」なので、まんま同じテイストにすると全員死ぬので、いかに原作をリスペクトできるか、原作の雰囲気を残せるかで展開を考えました。

 ヤンデレCDのプロデューサーだった方が今行ってるサークルの作品で出されたヤンデレCDの直系であるヤンデレASMRとかも、参考にさせてもらいました。

 

 果たして本当に読んでいただいた方々がヤンデレCDの二次小説らしさを感じたかはわかりませんが、作者としては1番ヤンデレCD、ひいてはヤンデレを題材にした話を書けたなって思います。楽しかったです

 

 兎にも角にも、ハーメルン黎明期から細々と書いてたこの作品も10周年を迎える年にようやく終わりらしい終わりに辿り着きました。

 今まで応援していただき、ありがとうございました! 

 この続きは……縁君を不幸にしたくなったら考えたいと思います!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終章 小鳥ハ遊ブ夢ヲ見ル 第一幕
プロローグ。あるいは、凄惨なる蛇足


終章プロローグです


本編は全話書き終わり次第、週1で投稿予定です。
2月後半から更新の予定ですが、進捗はTwitterまたは活動報告に書いていきます。
それでは、いつか本編でお会いしましょう。


 ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないお兄ちゃんの物語は、ここまでもの凄く頑張ってきたと思う。

 周りにいるのは、面白くないとすぐキレて暴力に走ったり、心を病んじゃう頭のおかしい女の子ばーっかりって環境で、誰も死なせないまま12月を迎えるだなんて、普通はできない。

 

 さすがに途中、何回か渚ちゃんや綾瀬ちゃんと危なくなったときもあったみたいだけど、それでも頑張って逃げないで、最後はみーんな納得した状態で、綾瀬ちゃんとは恋人にまでなっちゃった。

 

 だれが見たってHAPPYEND。

 ヤンデレの女の子にビクビクする物語は気が付いたら終わって、あとは幼なじみカップルが結婚するまでのラブコメが続くだけ。

 もう、この先、2人の未来を脅かすものなんて何もない、そんな終わり方だったでしょ? 

 

 

 ──だから、もうこれで良いんじゃないかな? 

 

 

 “この先”なんて求める必要、あると思う? 

 

 幼なじみの2人は『みんな』に祝福されて、それからも幸せに過ごしました。

 そんな、昔話でもよくある幸せな終わり方のまま、終わらせた方がいいじゃない。

 

 ──だから、これは提案。

 

 ここでもう、さよならにしちゃお? 

 読みかけの本を棚に戻すように、『この物語は終わったんだ』と思う事にしよう? 

 そうすれば、もう何も見なくて済むから。

 この先、何があったとしても、アナタには何の関係もない事だから。

 

 何も無かったようにページを閉じて、また新しい物語を見に行こう。

 もし名残惜しいと思ったら、はじめから見直すのも良いと思うけど……それでも、やっぱり最後はここでお別れ。

 大丈夫、ここまでの物語が無くなる事なんてないから、アナタは安心して居なくなって良いの。

 それが良いの。それが一番幸せなの。

 

 ぜんぜん、難しい事なんて言ってないでしょ?

 だから……じゃあね。

 ほんのちょっとだけの時間だったけど、さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あーあ。

 

 

 ここまで来ちゃったんだ。

 

 

 せっかく忠告したのに。

 せっかく、見ないで済むようにしてあげたのに。

 

 分かった。

 それじゃあ、言う通りにしてあげる。望み通りにしてあげる。

 もう戻ろうと思っても、今更遅いから。

 この先、どんな事が起きても、それは全部“続き”を求めたアナタのせい。

 

 だから、きっとあたしを恨まないでね? 

 それは全部、アナタが悪いんだから。

 

 

 ──ふふ、ふふふ。あはは! 

 

 

 なーんてごめんね、本当は感謝してるの! 

 ありがとう、ここまで来てくれて! 

 

 アナタが求めてくれたから、あたしはあたしが思うように……好きなようにできるんだもん! 

 もう本当に……感謝感激、感動です。

 

 アナタが見たいと思ってくれるんだもん、あたし頑張っちゃいます! 

 だから、ちゃんと見ていてね? どんなに大変な事があっても、目を逸らさずにあたしを応援してね? 

 アナタが望むままに、あたし、自分の恋を叶えるための障害は、何だろうと誰だろうと、ぜーんぶ、排除しちゃうから! 

 

 妹も、親友も、幼なじみも同級生も、何もかも関係ない! 

 正ヒロインがいつだって最後に勝つなんてルールが存在するのは、フィクションだけのお話だもん! 

 

 それじゃあ、そこで見ていてね? 

 これから始まるのは、ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないお兄ちゃんの物語じゃなくて──

 

 ──そんなお兄ちゃんの心を射止めちゃう、可愛い女の子の恋物語なんだから! 

 

 ふふ、ふふふ! 

 あははは! 

 

あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!







やっと会えたね、お兄ちゃん


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1病 こんにちは! 小鳥遊夢見です!

ハッピーバレンタイン!
第一章の最終話を投稿したのは2015年のバレンタインデーでした
まだ最後まで書き溜めていないですが、終章の出だしにぴったりなのでフライングで更新します

1~2週間以内に、続きを順次投稿していくのでよろしくお願いします
最後だけ最終回+後書きなどが入るので、その時だけは目次から入ってください

それでは、はじまりはじまり


 小鳥遊夢見という少女は、俺の母方の従姉妹にあたる人物で、つまりは夢見の母親は俺の母さんの妹だ。

 俺が小5の頃に、小鳥遊家は我が家の向かいにある貸家に越してきた。

 歳が一歳違いだった事もあってか、仲良くなるのにそんなに時間はかからず、気が付けば休みの日に綾瀬や渚と合わせて一緒に遊ぶ事もあった。

 渚と同じように俺を『お兄ちゃん』と呼び、一時は渚が妹ポジションを奪われるのでは的なヤキモチを焼く事もあった(今考えればこの時かなり危険な状況だった)が、当時まだ小学生だった渚に対して夢見は、丁寧にコミュニケーションを重ねて行って、『本当の妹は渚ちゃんだけだよ』なんて上手く納得できることを言ったりして、喧嘩も起こす事は無かった。

 

 また、これは本当に恥ずかしい話になるけれど、夢見が来た頃から両親の不在が多くなってきて、当時は渚も小学生で今より家事スキルが低く、俺もずぼらだったので、料理や洗濯などだいぶ助けられた事もあった。

 

 そういった事もあって、小鳥遊夢見という少女は、俺にとっては世話焼きな面があり、器用で気が利く、可愛らしい女の子……という印象だった。

 

 そんな夢見だけど、唯一、気になる事がある。

 それは、あの子の父親についてだ。

 俺はあの子の父親の姿を、ただの一回でも見た事は無かった。

 それだけじゃなく、彼女の父親にまつわる話を、小鳥遊親娘はおろか、俺の両親からも耳にした事が無い。

 かといって疑問を親子に直接聞いてしまうほど俺は馬鹿じゃなかったし、同じく疑問に思っていただろう渚や、一緒に遊ぶ事が何回かあった綾瀬も、誰一人夢見の家庭事情について聞く人はいなかった。

 

 そんな些細な疑問を抱えつつ数年間、夢見は俺のご近所さんとして一緒に過ごしたが、俺が中学2年だった時の夏頃に急な引っ越しが決まり、そのままロクな挨拶もなく離れ離れになってしまう。

 

 後になって、夢見に父親が居なかったのは両親が酷い喧嘩別れをしたからで、その後急に引っ越しが決まり街を離れたのも、再婚相手が見つかったからだと教えられた。今になって思えば、あの子がすぐ俺に懐いたのも、お兄ちゃんと呼んできたのも、父性──頼れる男性や心の寄す処になり得る存在に飢えていたからなのではないか。そう思ってしまう。……少し烏滸がましいけどね。

 再婚の話が急だった事に加え、どうやら母さんは夢見の母親が再婚する事に大きく反対していたらしく、以後は音信不通となっていた。

 そんな夢見が『もうすぐこの街に戻ってくるかもしれない』という話を受けたのは、綾小路家とのイザコザが住んだ後くらいだったが……何故こんな急に姿を見せる事になったのかについては──

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

『ごめんなさい、伝えるのが遅くなって』

「ううん大丈夫、ちょっと驚いただけ」

 

 みんなをリビングに預け、2階の渚の部屋に移動した後、スマートフォンのスピーカーをONして、渚と母さんが会話してるのを、すぐ隣で俺は聴いていた。

 どうやら、元居た貸家に再度引っ越すのは決まっていたらしく、それを俺達に伝えるのが仕事の忙しさもあって後回しになってたようだ。

 両親は2人で輸入雑貨商を営んでいて、国内だけじゃなく海外に出る事も頻繁だ。商売相手によっては情勢の不安定な国に赴く事で連絡が全くできなくなる時もあるから、今回もそのパターンだったのだろう。

 

『これからまた、街で暮らす事になるから、力を貸してあげてね』

「……うん、分かった。任せて」

「母さん、一つだけ聞いて良い?」

 

 このままだと電話が終わりそうだったので、すかさず横から入った。

 

「どうして夢見ちゃんだけが来たの? 叔母さんは一緒のハズじゃないの?」

 

 同じ疑問を渚も抱きつつ聞けなかったのだろう、質問した俺に『聞いてくれてありがとう』と口パクで言ってきた。

 母さんはやや間を置いてから、少し言いにくそうにしつつ答えた。

 

「……行方不明になったのよ、少し前、あなたに電話した頃ね」

「行方不明? もともと音信不通だったんじゃ」

「どこに居るのかは分かってたの。今まで何度か向こうから連絡が来た事もあったわ……でも……」

 

 そこでまた言いにくそうにして言葉を止めるが、次に渚が様子を伺うと、意を決したように母さんは言った。

 

『連絡は忙しいから返事しなかったの、それでも留守電のメッセージは聞いてたんだけど……『あの子をお願い』って連絡があって。今まではお金の催促だけだったのが急に違う事言いだすから、気になって後で電話したら、夢見ちゃんに『数日前から帰ってきてない』って言われてね』

「……マジかよ」

「じゃあ、叔母さんは今どこにいるかも分からないって事?」

『えぇ。再婚したハズの夫も一緒に居なくなって……夢見ちゃんは自分の学校の事もあって中々引っ越しできないって言うから、最近まで向こうにいたんだけどね。流石に、いつまでも一人にさせるワケにもいかないでしょう?』

 

 母さんの話す内容は俺ら兄妹がそろって口を閉じてしまうには十分な内容だった。

 2人して顔を合わせて、今頃悠や綾瀬と再会の会話をしてるだろう夢見の現状を思い、重苦しい雰囲気になっていく。

 さっきからたまに夢見の笑い声が聞こえてくるが、とても両親が消息を絶った娘とは思えない。いったいどれだけの不安を押し殺して俺達の前で明るく振舞っているんだろうか。

 

「分かったよ母さん、できる範囲だけど、夢見ちゃんの力になるようにするから」

「うん……叔母さんの事で何か分かったら、教えてね」

『ありがとう……2人だけで生活するだけでも大変なのに、親の世代の都合に合わさせてばかりでごめんね』

「気にしないで、母さんも叔母さんの事気になるだろうけど、仕事や体調の事を優先してな」

「こっちの事はあたしとお兄ちゃんに任せて。ね」

 

 そう言って、つかの間の親子の電話は終わった。

 

「……予想外に、重い話だったな」

「夢見ちゃん、全然そんな素振りも見せてないのにね」

 

 これからどんな協力ができるのか、模索しそうな流れになったが、下から『2人ともまだ~?』という綾瀬の声が聞こえてきたので、一旦はこの件について考えるのをやめようという結論になった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 リビングに戻ってからは、元々予定にしていたカレー作りに渚と綾瀬が取り掛かり、残ったメンバーのうち悠は電話するところがあると言って一度外へ出たので、必然的に俺と夢見の2人で会話する事になった。

 

「それにしても、やっぱ何年も見ないと一気に大人になったって雰囲気出るよな、夢見ちゃん」

「そんな事ないよぉ、それを言うならお兄ちゃんだって……前よりずっと大人な男の人って感じがして、素敵」

「ははは、それこそ言い過ぎだよ」

「ううん、そんな事ない! お兄ちゃんまるで恋を知った男の人みたいよ? もしかして彼女できた?」

「──っ!?」

 

 思いもよらないタイミングで彼女ができた事を言い当てられて、思わず驚いてしまった。

 そんな雰囲気、俺に出てるのか? 

 

「……ぇ、その反応、やっぱりできたの? 誰、誰?」

「えっと……今あっちでカレー作ってる方の、右側」

「きゃー! やっぱり綾瀬ちゃんと付き合う事になったんだ! 前からお兄ちゃんの事好きだったもんね綾瀬ちゃん!」

 

 声こそ抑えめだが、黄色い歓声を上げながら、夢見の追求は続く。

 

「え、え、どっちから告白したの? 綾瀬さん? 向こうから迫られた?」

「いや……どっちかというと、俺」

「お兄ちゃんから? ……へぇー! お兄ちゃん、女の子に告白する度胸あったんだぁ!」

「そりゃあるよ、なんだお前、俺がヘタレだって思ってたのか?」

「どうでしょう~、黙秘権を行使しまーす!」

 

 ニタニタと笑いながら、夢見は俺をからかう視線をやめない。

 どうやら、年頃の女子高生にとって最高のオモチャになってしまったらしい。

 

「それで~? お兄ちゃんはなんて告白したの?」

「なぁもういいだろ、そんな根掘り葉掘り聞いてくるなって」

「でも気になっちゃうじゃない、お兄ちゃんが好きな人になんて言うのか」

「なんでだよ、別にいいだろ何を言ったって」

「そんな事ないよ!」

「なんでだよ」

 

 やたら食い気味に聞いてくるので、恥ずかしさもあって笑いながらそう聞くと、夢見はさっきよりも少しだけ真剣な口調で言った。

 

「だって、私もお兄ちゃんが好きだったから」

「……え?」

 

 声のトーンが下がり、夢見は俺にしか聞こえない声量で続ける。

 

「本当はね、あの頃私……お兄ちゃんが好きだったの。告白とかはできなかったけど」

「──えっと、そう、だったのか」

「うん。あたし……昔から頼れる男の人がいなくって、そんな中でもお兄ちゃんはいつもあたしに優しくしてくれたから」

「優しく……まぁ、そうだったかもな」

「『かも』じゃないよ。あの頃からずっとお母さんもピリピリして、あたしに優しくしてくれるのはお兄ちゃんだけだったんだから」

 

 懐かしむように目を細めながら当時を語る夢見。

 そんな彼女の顔を見て、俺は何を言えば良いのか分かりかねていた。

 

 

「ああごめんね、急にこんな事言って。別にだからって綾瀬ちゃんと別れてなんていうワケないから!」

 

 重い空気になりそうな雰囲気を誤魔化すように言って、夢見はカラカラと笑う。

 

「今のお兄ちゃんが幸せそうだから、つい気になっちゃって色々聞いちゃった、ごめんね!」

「いいよ、別に」

「それに、私のお母さんの事でも、結構お兄ちゃんや伯母さんに迷惑かけちゃって、それもごめんなさい」

「……夢見ちゃん」

「さっき、電話で聞いたんでしょう? 降りて来た時の顔見たらすぐ分かっちゃう」

 

 そんな一瞬で、分かってしまうものか。

 俺が思ってるより、ずっとこの子は洞察力が高いのかもしれない。

 

「なるべく迷惑かけないようにはするから……またよろしくね」

「迷惑かけるなんて考えなくていいよ。今日からまたご近所のイトコ同士なんだ、持ちつ持たれつで行こうよ、なっ!」

「……お兄ちゃん」

 

 そう言って、暗い話はここでおしまい、とばかりに両手を軽くたたき、俺は言葉を続けた。

 

「もうすぐカレーも出来上がるし、園子や咲夜も来る。俺達もそろそろ器やテーブルの準備しようぜ。──あ、今言った2人については後で説明するよ」

「……ねえ、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「ありがとうね」

 

 そう言ってほほ笑む夢見は、さっきまで見せた『人生に憂いのない明朗快活な少女』では無く。

 その両肩に乗った重圧に疲弊している、年相応の女の子って雰囲気だった。

 

 ──それが、彼女の素顔だったのか、はたまた、演技だったのか。答えは分からない。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日。

 俺達はいつも通りに授業をこなして、いつも通りに放課後を迎える。

 だが、ここからがいつもと違う。

 

「良いの? みんな部活動あるのに、学園の案内なんて」

 

 高等部校舎の昇降口前で困り顔にそう尋ねるのは、まだ学園指定の制服が無く、昨日と同じ組み合わせだが色違いの私服を着ている夢見だ。

 

 俺はてっきり今日から夢見も授業を受けるのだとばかり思っていたが、彼女はまだ編入手続きが終わっていなかった。

 それどころか引っ越し作業も終わり切ってないので、昨日はカレーパーティの後、借りてたビジネスホテルに泊まって、今日も日中は残ってた作業を済ませたり、市役所に行って住民票の手続きをしたり、アレコレ忙しい日だったのだ。

 

 やらなきゃいけない事を済ませて、ようやく編入手続きも終えたのが、俺たちが部活動を始めるのと同タイミング。

 そこにすかさず『せっかくだから庭の植え替えと一緒に、学園の案内もしよう』と提案したのは園子で、反対する人は誰も居なかった。

 

「もうすぐ同じ学園の生徒になるんですから、今から知っておいた方が便利だと思うんです」

「でも……部活動があるんじゃないんですか?」

「それについては気にしなくていいよ、今日は何人かいなくても手が回る事をするから」

 

 園子に続いて俺からも言うと、夢見は納得したように頷いて答える。

 それなら、案内役は俺がやろう──そう言おうとした矢先に、意外な奴が名乗りを上げた。

 

「じゃあ、案内役は僕が務めるよ」

 

 悠だった。

 何が意外かって、悠は夢見と中学時代に面識こそあったけど、別にこの状況で自分から名乗り上げるほど夢見と交流があったわけじゃないって所にある。

 昨日のカレパでもあまり夢見と会話する場面を見なかったので、やや違和感とまでは言わなくてもおかしな感じがしたのだが──、

 

「本当ですか! それじゃあ、よろしくお願いします」

 

 当の夢見はあまり親しくも無い男が案内役を申し出た事に何の疑問も問題も抱かず、むしろ好意的に受け入れている。

 その様子から、実は俺の知らないうちに2人は仲が良かったのか? なんて思った。

 

「どうでも良いけど、今日は何をするわけ?」

 

 そんな風に今日も我道邁進とばかりにマイペースな事を園子に聞くのは、咲夜だ。

 仮にも昨日、遅ればせながらもカレパに来て顔見知りなハズの夢見を前に『どうでも良い』は無いだろう。……と説教したところで、馬耳東風なのは分かっている。

 咲夜からすれば、昨日から急に現れた夢見は本当に関心の薄い相手だろうしな。昨日だって悠以上に夢見と会話した場面が少ない──を、通り越して無かったくらいだ。

 コミュ障って呼ばれる類の人間とはまた趣が違うが、咲夜はたいがいコミュニケーションを取れる人間が限られる子だよ。

 そう思うと、改めてこの子が今、部員として俺達と一緒にいる状況が異質な感じだ。

 

「今日は校舎西側の花壇植え替えですね、場所も数も限られてるので、ゆっくりできます」

「はぁ!? また土臭い作業をアタシにさせる気なワケ? そんなの用務員にさせれば済む話じゃない!」

「まぁそう言わずに、私たちがやる事に意義があるんですよ?」

「そんな意義なんてお断りよ! 働き手が無いわけでもないでしょう。こうなったらアタシが直接言って」

「これについては私から申し出た事なので、先生に直談判するのは別の機会にお願いします」

「アンタのせい!? 何てことしてんのよ!」

「ふふ、今年は秋ごろに色々あって学園にご迷惑をおかけしたので、少しでも印象を良くしたくて」

「…………そう、そうなの、そうなのね」

 

 完全に、咲夜と査問委員会のせいだ。

 それが分かってしまったから、咲夜もそれ以上強く言えなくなってしまった。

 まあそうだよな、完全に自分の蒔いた種が芽吹いただけの話だし。

 

「というわけで、縁たちは部活動に励んでくれ。僕も小鳥遊さんに案内が済み次第、合流するからさ」

「悠アンタ、案内にかこつけてサボろうとするんじゃ無いわよ?」

「それは君の専売特許だろ? あんまり素行が悪かったら桐夜兄さんにチクるからね」

「んなぁ! あ、アアアアンタ! それやったらマジで消すわよ!」

 

 なにやら綾小路家の者でしか伝わらない脅しを悠が繰り出して、見事に咲夜にブッ刺さったみたいだ。

 荒ぶる咲夜を小馬鹿にしつつ、悠は夢見を連れてさっそく案内に回って行った。

 

「そういえば、だけど」

 

 2人の姿が見えなくなって、俺達も本格的に行動を開始しようと歩き始めてから、咲夜が言った。

 

「悠が連れて行ったアイツ、アンタの何?」

「お前……昨日俺が最初に説明したじゃん……従妹だよ、俺が中2の時までこの街に居て、3年ぶりに帰って来たんだ」

「3年……あぁ、そういえばそんな事言ってたわね」

「健忘症になるには早すぎるぞ」

「黙りなさい、埋めるわよ」

「どこにだよ、おっかないなあ」

 

 自分の事を棚に上げて無茶苦茶な事を言う咲夜だが、悲しいかなこれも気が付けばとっくに慣れてしまった自分がいる。

 

「アタシが聞きたかったのは、なんで従妹なのにアンタをお兄ちゃんって呼んでるのかって事よ。アンタが呼ばせてるの?」

「違う違う、夢見ちゃんの方からそう呼ぶようになったんだ」

「なんでよ」

「なんでって……」

 

 理由はあんまり覚えていない。確か何回か遊んでから、不意にこれからそう呼んでいいかと聞かれた記憶がぼんやりとある。

 そう呼びたかったから、と彼女は言ってただろうか。

 

「それは切っ掛けじゃない。呼びたがる理由はどうなのよ」

 

 やけに食い下がってくるが、何か引っかかる所でもあるのだろうか。

 思い当たる節はあるにはあるが、それはおいそれと夢見の許可なく口に出していい内容でもない。

 思春期に突入する年齢に父親を失い、父性や頼れる男性ってのに焦がれてたからでは──なんていうのは俺の烏滸がましい憶測な上に、彼女の家庭事情を晒すものだからだ。

 

「──分かんねえな。今度咲夜が聞いてみてくれよ、俺から聞くのは今更感あって恥ずかしい」

「嫌よ」

 

 にべもなく断られた。

 

「それに何よ『恥ずかしい』って。アンタそういうキャラじゃないでしょ」

 

 しかも毒づかれた。

 

「そんなズバズバ言わなくてもいいだろ、夢見ちゃんと仲良くなる切っ掛けになるじゃないか」

「それこそ本当にお断り。アタシ、あの女と仲良くする気は無いから」

「……いくら本人居ないからって、イトコの前でいう事か?」

 

 流石に行き過ぎだと思い、無駄は承知で諫める口調になって言う。

 ところが、咲夜は意外な返答をした。

 

「悪いとは思ってるわよ、言い方を変えるべきだったわね」

「……」

 

 素直に非を認める咲夜という、世にも珍しい瞬間を目にした。

 

「でも、どう言い繕っても変わらないの。アタシ、あのおん……アンタの従妹とは仲良くできる気がしないから」

「……理由を聞いても?」

「──分かんないわよ。でも、初めて顔を見た時からそう感じたの」

 

 生理的に無理、という奴だろうか。

 俺にも顔を合わせるだけでウンザリする奴と、この秋に出会ったからその気持ちは分からなくもない。

 ただ、それが俺の従妹と後輩の間で起きてしまったのだけが、正直残念だった。

 

「……まぁ、無理に仲良くしてくれとは言わないよ。ただ」

「分かってるわよ。アタシからも何かするって気は無いから」

「……そこまでか」

 

 嫌いなものは排除したがる咲夜が、そういう形での関わりすら持とうとしない。

 どうやら、本気で夢見を嫌悪しているらしい。嫌いの極致は無関心と昔教わったが、悪感情を抱いたまま咲夜はその領域に到達している。

 関係を修復させる事は人間そう容易くはなくとも可能ではあるけど、修復以前に断絶してたらどうしようもない。

 俺は咲夜と夢見の間にある、正体不明の溝について、これ以上考える事は止める事にした。

 

 そうこう話をしている内に、今日の活動エリアに到着した。

 先を歩いて会話していた綾瀬達3人に合わせて、俺も用具を手に取る。

 

「それじゃあ、今日も健全に部活動と行こうか」

 

 さっきまでの嫌な会話を忘れるように俺は言った。

 

 あぁ、そういえば。

 忘れるついでに一瞬だけ頭を過った事がある。

 

 果たして、今年の秋に唐突に現れ、颯爽と去って行った、塚本千里と名乗った少年。

 あの学生服着せ替え人形みたいな自称情報屋はいったい、今はどこで何をしているのだろうか。

 ──やめた、こんな事を考えてるとひょっこり現れてしまいそうだ。

 俺はもうそれ以上、奴についても考えないようにした。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 部活動も無事に終了して、今日は俺と渚と綾瀬の3人に加え、新しく家が同じ方向の夢見も混じっての帰宅になった。

 これからは4人での下校が基本となっていくのかは分からないが、女3人集まれば……というように、元より顔なじみだった3人は俺抜きでも充分なほど会話に事欠かない帰り時間だった。

 やがてお互いの家が見えた頃、夢見は思い出したように声をあげる。

 

「あっ! 電気屋さんに電話するの忘れてた!!」

「え……夢見ちゃん、それってつまり」

 

 渚が驚きと呆れが半々に混じった顔で夢見を見る。

 綾瀬も事の重大さに考えが至って、『あちゃー』という顔をして苦笑いした。

 

「最低でも今日は真っ暗ね……ガスや水道は大丈夫なの?」

「うん、それは連絡したんだけど……どうしよう、今から連絡すれば明日には通電されるかな?」

「それは聞かなきゃ分からないな……確かまだ電話受付時間のはずだし、今から聞いてみたらいいよ」

 

 電気代の支払いとかは当然俺と渚でやってるので、このエリアの電力会社が何時まで電話対応をしてるかはおぼろげながら覚えている。

 

「うん。それじゃちょっと聞いてくるね!」

 

 そう言って、何故か来た道を戻って行こうとする夢見。

 

「おおい、なんで、どこ行くのさ」

「スマートフォン、あんまり使いたくないから公衆電話で聞いてくる!」

「あたしが代わりに電話する?」

「綾瀬ちゃんありがとう! でも大丈夫だから! 先に帰ってて?」

「なら夢見ちゃん、電話終わったら今日は俺らの家で寝なよ」

「……良いの?」

 

 返答する前に、渚に確認を取る。

 急な提案だったにも関わらず、渚は不満なく笑顔で頷いてくれた。

 今までの渚だったら、ここで不穏な空気になってもおかしくはないが、前提として夢見の状況を知ってるならば、きっと応じてくれると信じていた。

 

「綾瀬も、そういう事だけど、良いかな?」

「しょうがないわよね、あたしだって真っ暗な家に夢見ちゃんが一人でいるのは心配だし」

「……ありがとう」

 

 彼氏の家に年の近い女の子が寝泊まりする。これも過去の綾瀬なら地雷の一つだったに違いないが、今の綾瀬なら問題なかった。

 これまでの時間と行動の積み重ねが如実に感じられて、静かに喜びつつ、改めて夢見に言う。

 

「この通り問題ないよ、最低限の準備したらおいで」

「──あはは、お兄ちゃんと渚ちゃん、綾瀬ちゃんも……ありがとう!」

 

 笑顔でそう言って、夢見は急いで公衆電話がある場所──おそらく公園だろう──に駆けて行った。

 

 

 それから少しした頃、夢見は俺の言った通り最低限の着替えとアメニティ一式を持って家に来た。

 今日は料理当番が俺だったので、渚には野々原家で以前から客間として用意してた空室に布団を敷いてもらった。

 

「電気屋さん、明日には通電してくれるって! お兄ちゃんの言う通りすぐに電話してよかったよー!」

 

 そう言って安堵する夢見だったが、夕飯の時間になって俺が作った渾身の酢豚を披露すると、

 

「──お兄ちゃん、酢豚にパイナップル入れる派なんだ……」

 

 どこか不満げな雰囲気で、そんな事を言ったりした。

 

 どうして人類は酢豚にパイナップルを入れると否定的な反応する奴が多いんだ、俺もシチューにご飯合わせる奴を否定してやるぞ? 

 心の中で1人、勝手に争いの種を撒き散らしつつ、表面上は冷静なふりをして、俺は気を紛らすためにテレビを点ける。

 時刻は丁度19時前を指してたからか、チャンネルは天気予報を映していたが、やがて時刻が更新されると同時に今日のニュースを報道し始めた。

 株価がどうとか、政治家の失言がどうとか、海外で日本車のメーカーが新事業展開とか、イマイチ関心の向かない内容が続き、そろそろ別のチャンネルに変えようかと思ったその時、

 

『──次のニュースです、K県良舟町で17時半ごろ、大きな爆発が起き、複数の負傷者が出ました』

 

 聞き逃さないニュースが唐突に出てきた。

 

「ついさっきじゃねえか……」

「そうだね……」

 

 渚も息を呑みながら、俺の言葉に頷く。

 ちょうど、俺たちが家に着いた頃。夢見が急いで公衆電話に向かうかどうかって時間帯だ。

 映像は、この夏に新築された──以前園子と行ったショッピングモールから少し離れた、川沿いの散歩道を映していた。

 

「ここ、近いの?」

 

 夢見が心配そうな声色で俺に聞く。

 

「近くはないよ、でも、この街でこんなニュース初めてだ」

「アタシが前にいたところでも聞いた事ないよ……物騒な話ね」

 

 夢見の言葉に頷きながら、俺は事件がこの付近で起きなくて良かったと、負傷した方々には悪いがそう思った。

 それに、悠や園子……当然咲夜の帰るルートとも被らない道だったから、取り敢えずそれについては安心する。

 それしたって爆発なんて怖い話だ、果たして原因は何か判明してるのか──より詳しい情報を求めてニュースに集中する。

 

 そうして、テレビに映るニュースキャスターはそんな俺らの気持ちに応えるまでもなく、淡々と原稿を読み続ける。

 

『また、爆発が起きた箇所の近くでは、男子高校生が血を流して倒れているのが発見され、すぐそばに全身に火傷を負って倒れている身元不明の男性がナイフのようなものを持って立っており、警察は男を殺人容疑で現行犯逮捕しました』

 

「──え?」

 

 何故だろう、根拠も無いのに、嫌な予感がした。

 ニュースキャスターは変わらず、画面の先にいる一視聴者に過ぎない俺の心情なんぞ知る由もなく、横から誰かが差し出してきた新しい原稿を受け取り、先程より少しだけ重苦しそうな表情になって言葉を続ける。

 

『ただいま入った情報によりますと、男性に刺されたと思われる少年が先程、搬送先の病院で亡くなりました。刺された少年は先程、意識不明の重体で搬送されましたが、病院で死亡が確認されたとの事です』

 

『少年の身元も先程判明しました、少年は綾小路財閥の──』

 

『綾小路幽夜さん、17歳である事が、先程判明しました』

 

 

「────────は?」

 

 

 

『繰り返します、先程爆発が起きた場所の付近で、身元不明の男性に綾小路幽夜さんが刺され、先ほど亡くなりました。警察は直前に起こった爆発もこの男の犯行であると見ています、男は重度の火傷を負っており、現在は病院で緊急治療を──』

 

 

 

 

 

 ──to be continued




オリキャラなんて鬱陶しいだけだし、死んじゃったって誰も悲しまないからどうでもいいよね、お兄ちゃん★


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 あなたは何にも悪くない

 棺の中で瞼を閉じている悠の顔は、陳腐な言い回しになるけど、それはそれはきれいなモノだった。

 爆発に巻き込まれたことによる重度の火傷と、包丁でめった刺しにされ出血多量による死亡……死因からして目も当てられない状況なのを覚悟していたが、『納棺師が頑張った』と殆ど顔を見た事の無かった悠のご両親に言われた。

 ただし、それは首から下までの話。そこから先の身体は……見せられるものではないとも。

 

 だからだろうか。

 たまにこの手の場面を描写する際に見られる『今にも目を覚ますんじゃないか』という感覚はまるで無く。

 俺は、棺の中にいるそれがもはや命の尽きた悠の肉体でしかない事を、この上なく理解するばかりだった。

 

 葬儀には当然俺以外にもたくさんの人がいたから、すぐに俺は会場の端に追いやられてしまう。

 全員の顔や名前を知るわけもないが、この街の町長や県知事など、市民がよく知る人間なんかも居て、改めて自分の友人がどんなに大きな家の人間だったのかを思い知る。

 

 大人たちの中で一人、俺が悠の友人だと把握していた男性に声を掛けられた。

 その人は悠が幼少期の頃から関わりのある方だったらしいが、『彼は私たちの前では表情が崩れることが無かった』と言われて、少し驚いた。

 表の顔──俺にとっては裏の顔になるのかもしれないが、悠が社会人を相手にどんなふるまいをしていたかを、初めて知ったからだ。

 こうして穏やかな表情を見たのが死んでからで、それがとても残念で仕方ない、と。

 

 あいつは、自分よりずっと年齢も人生経験もある大人たちと付き合いながら、俺たちの前では等身大の姿を見せてくれてたんだと、こんなタイミングで知ることになった。

 

 式には咲夜も来ていた。彼女の両親と思わしき人物は見えなかったが、それを尋ねる気には到底ならない。

 全てが終わり、棺が霊柩車に運ばれる前、悠の両親に声を掛けられた。最後にもう一回、彼の顔を見てくれないか、と。

 断る理由は無い。俺は頷いてもう一度、親友の顔を見る。

 

 ああ、やだなぁ。

 

 そんな言葉が脳裏にふっと浮かんでしまった。

 

 悠の顔を見たくないからではない。似たような経験と記憶を、俺の意識は記憶しているからだ。

 俺ではない、俺……前世の自分(頸城縁)が幼なじみだった女の子の死に顔を見た時と、今の自分が重なってしまう。

 頸城縁は女の子の葬式には行かなかった。俺はこうして来たが……悠のきれいな死に顔を見て、これが今から骨と灰だけになってしまうのだと思ったら、どうしようもなく嫌になった。

 

『悠の友人で居てくれてありがとう』

 

 彼の父親に、言われた言葉だ。

 

『悠には自分たちの都合で昔から窮屈な想いをさせ続け、自分たちにはそれをどうすることもできなかった』

『この街に来て、君と出会ってからは、まるで彼が綾小路の人間じゃなく、ごく普通の家庭の男の子のように見える時が何度もあった』

『それは綾小路家の人間にとっては許せない事だったかもしれないが、純粋にあの子の親としては、ある意味で救いの様にも見えていた』

『だから、彼を幽夜ではなく、悠にしてくれたことを本当に感謝している』

 

 そんなことを言われて、俺は返す言葉なんて持ってるはずも無かった。

 ただただ頷いて、受け入れるしかなかった。

 その後すぐに、出棺されて棺は今時珍しく豪勢な造りの霊柩車に乗せられていき、俺もつつがなく帰宅する運びに。

 

 出棺直前、悠に言った言葉はありがとうでもさようならでもなく、誰にも聞こえないくらいの小声で呟いた『もう、いたくないよな』だった。

 

 帰り際、葬儀中には会話しなかった咲夜とすれ違って、『悠を刺した犯人は火傷のせいで死んだ』と教えられた。

 全身が損傷しており、顔も指紋も焼けただれて、詳しい身元を判明できるモノがないとも。

 そんなことを伝えられても、もはや俺にはどうしようもない。

 生きてれば殺せたのに。そう思うしかなかった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その後、俺は帰宅した……はずだったのだが、何故かその記憶があいまいで、気が付けば体は真っ暗になった俺の部屋のベッドの上で、そばには渚が寄り添うように寝てた。

 あんまりにも急な展開で頭がこんがらがるが、状況から察するに俺は帰ってからすぐに、塩を撒くことも忘れて眠ってしまったらしい。

 それにしたって、なんで渚が横にぴったりくっ付いてる……? 

 

 眠りが浅かったのか、気を張り続けていたのか、はたまた俺の疑問に答えるためか、起きたのを察して渚もすぐに目を覚まし、暗い部屋の中でも俺と目が合う。

 渚は安心したようにため息と小さな笑顔を浮かべた。

 

 そこから、暗い部屋のまま、俺は渚に改めて起きたことを伝えられる。

 

 

 俺が帰ってきたことを玄関が開く音で渚は気づいたけど、ただいまという言葉が聴こえず、中々リビングに入ってこないのがおかしいと思い、渚が様子を伺おうと玄関まで行くと前のめりで倒れている俺が居たとのこと。

 急いで医者を呼んで見てもらったところ、過度の心労によるものだと分かり、そのまま部屋で寝させることになったという。

 さすがに医者に運ばせるわけにもいかず、仕方なく綾瀬や夢見に手伝ってもらい、男の俺を部屋まで連れて行ったと言われた時は、申し訳なさよりも起きない自分に恥ずかしさを抱いてしまった。

 

「綾瀬さんにはお兄ちゃんが起きたらすぐ伝えるからって宥めて帰ってもらったけど……居てもらった方がよかった?」

「……いや、ありがとう」

 

 全部聴き終わった俺は、枕元に置いてあったスマホの着信履歴に綾瀬から何件も来てたのに気づきながら、渚にそう言った。

 そうして、話を聞く間起こしていた半身を倒して、枕に頭を深々と預ける。

 

「葬式行ったくらいで倒れるって、案外俺のメンタルって脆かったんだな」

「……そんな事ないよ、お兄ちゃんにとって悠さんは……本当に仲のいいお友達だったんだから」

「……俺さ、いまだに、ああして死に顔も見たのに、まだ無いんだよ」

「無いって、何が?」

「泣いて、無い」

 

 そうだ。

 悠の両親に声を掛けられても、悠の死に顔を見ても、心が苦しむことがあったって涙だけは出てこなかった。

 あんまりにも涙腺が反応しないから、ひょっとして俺はあいつの事を心の奥底では友人とは思ってないんじゃないかと焦りだしたし、でもだからってそうやって無理やり出した涙なんかに価値はあるのかと思うと、更に涙が出る気配を感じなくなる。

 

「あいつは、死ぬ前に涙流したのかな。流すよな、痛いかったんだから。苦しかったんだから」

「……」

 

 渚は敢えて何も言わず、俺に喋る時間を作ってくれる。

 

「頸城縁が、瑠衣の死に顔見た時はすぐ泣いたんだよ。泣いて泣いて、心が壊れてさ」

 

 なのに、頸城縁の来世に当たる俺は泣かない。

 片や幼なじみ、片や親友。失ったのはどちらも同じ、かけがえのない大切な人。

 ならどうして、頸城縁は涙を流し、俺はそうじゃない? 

 

 薄情な人間だからか。

 かけがえないワケではないからか。

 幼なじみと親友とはいうが女の子と男の子で性別が異なるからか。

 

 違う。

 

「俺はさ、これが初めての死別だったら泣いてと思う。どうしようもなく」

「初めてじゃないから……お兄ちゃんの頭の中に、頸城縁さんの記憶があるから、泣けないの?」

「……っ」

 

 果たして、そうなのだろうか。

 実のところ、渚に先に言われるまではそれを理由にしようとした。

 けれど、先に言われたことで掃除したくなくなる小学生じゃないが、いざ考えてみたらそれにも疑問が生じる。

 

「たぶん、違う」

「じゃあ、なんで?」

 

 思い出す。俺ではなく頸城縁の記憶を、自分と近しいが限りなく遠い心の隣人の記憶を掘り起こす。

 初めて彼が死別したのは実の母親。自殺だった。

 その次が瑠衣。

 最後が堀内……まあこの場合はこっち側が死んでの死別だったが。

 

 そして、今の俺が死別した、親友の悠。

 

 それらを並べて、比べて、当時と今の心の模様を見る。

 そこまでしてようやく、少しだけ分かった。

 

「俺は、瑠衣が死んだときはすぐに泣いた。もちろん悲しかったってのもあるだろうけど、それだけが理由じゃない。……死ぬまでの過程に、俺が関わってた事が分かったから。俺のせいで死んだってのがすぐ分かったから、罪悪感が涙を出させた」

 

 俺の記憶にある頸城縁のみみっちい人生についてはとっくに渚に説明している。

 だから渚も、何か言いたげではあるが、否定の言葉を言うのをグッと我慢した。

 

「逆に、頸城縁の母親が自殺した時は、俺が死因に関わってないのが分かって、涙は流したと思うけど、それ以上に呆然とした。何やってんだろこの人って」

 

 じゃあ、今回はどうだ? 

 

「そこが問題なんだ」

「どう問題なの?」

「俺、最後にあいつとどんな会話したっけ」

「会話……ごめん、覚えてない」

「ああ、俺もだよ」

 

 思い返すが、夕焼けに照らされたアイツの笑顔は思い出せても、交わした言葉が何だったのかまでは、思い出せなかった。 

 

「どう頑張ってもさ、大した会話してないんだよ。また後でとか、また明日とか、じゃあなとか、そんなありふれた言葉だけしか交わしてなかった」

「……しょうがないよ、だって、こんな事になるなんて分かるわけないもん」

「そうだよな。俺たちの最後の会話に、この後あいつが爆発に巻き込まれたうえに刺されて死ぬような未来が分かる事、無かったよな……」

 

 声が震えだすのが分かってきたが、抑える事なんて出来ない。

 

「俺、あいつにひどい事言ってなかったよな? 悠に、悠があんな場所に行くような切っ掛け与えることなんて何一つ言わなかったよな?」

 

 そう、それが理由だ。

 自分の行動に、悠を死に繋げる何かがあったんじゃないか。

 それもはっきりしないうちに、ただ悲しみの涙を流すなんてことは、悠の命に対する侮辱なんじゃないか。

 考えすぎかもしれないけど、いざそう思うと最後、俺が俺の涙を許さなかった。

 もし……もし、俺の覚えてない言動や所作の一つで、あいつが死ぬ原因を作っていたのなら……俺は……それすら分からないのが、悔しいっ! 

 

「ちくしょう……ちくしょう、こんな事になるなら、もっといろいろ話したかった。話して、1分でも長くいたなら、あいつが死ぬことも無かったかもしれなかったのに……なんで、どうして、あんなアッサリさよならしたんだよ俺は……」

「お兄ちゃん……」

 

 渚が俺の頭を自分の胸元に寄せて、優しく頭をなでる。

 子どもをあやすような仕草に、普段なら跳ね除ける俺の手は、そのまま渚の背中に回っていた。

 いつかの……俺が頸城縁の生まれ故郷から帰った電車の中と同じように、渚の胸に顔を預けて、抱きしめながら、俺はとうとう、そしてようやく、悠の死に──悠の死を前にした、自分の心に、真正面から向き合う。

 

「死んだ……死んじゃったよ悠が……悠がぁ……」

「いいんだよ、お兄ちゃん。ちゃんと泣いて、言いたい事も涙も全部、吐き出そう? お兄ちゃんは何も悪くない……お兄ちゃんは、純粋に悠さんのために泣いて良いの。ここには私しか居ないから、ね?」

「──っ!」

 

 その言葉が最後の堰を切って、俺は暗い部屋の中、ようやく、やっと──ひたすらに泣いた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──それじゃあ、行ってくるね、お兄ちゃん」

「……あぁ」

 

 翌日。玄関で靴を履きながら話す渚に、俺はそう答える。

 恥ずかしいが、昨夜は泣き疲れてそのまま寝てしまった。

 悠の訃報を聞いてからずっと登校していないのだが、葬式を終えたとはいえ、今日も登校する気にはならず休みにした。

 

 渚は一緒に休もうと提案してくれたが、俺のことは良いからと半ば無理やり学園に行かせることにした。

 起きて早々に綾瀬にも同じことを伝えて、当然綾瀬からもかなり心配されちゃったけど……明日にはとりあえず登校すると約束。守れるかは分からないけどね。

 

「渚」

「なに?」

「気を付けてな。あと」

「あと?」

「いや……うん、それだけだ。いってらっしゃい」

 

 そう言って、笑顔で渚を見送る。

 最後、渚に言おうとした言葉はこうだ。『渚は俺の前から消えないでくれ』。こんな気持ち悪い言葉、普段なら絶対言わないし考えもしない。

 やっぱり、まだ心が本調子とは程遠いらしい。今日も休みにして正解だ。

 

「……自習でもするか」

 

 授業を何日も受けてないってことは、それだけ勉強に遅れが生じてるワケで。

 悠の死に心を痛めても、世間はそれを同情しても考慮してくれやしない。

 授業のスピードに追い付けるかは分からないけど、来年は俺も受験生になるんだし、勉強しないとな。

 それこそ……浪人にでもなったら、悠に怒られそうだ。

 悠に──悠だって、本来は進路があったはずで……あいつとどんな進路にするか、そんな会話もしたかったのに。

 

「あぁ、ったく。止めろ俺、考えるな」

 

 気を抜くと──気を張りすぎても、思考が悠のことに繋げてしまいがちだ。

 やっぱり、本当に今日も休みを取って良かった。もしこんな調子で学園に行ったら、教室のあいつが居ない席を見ただけで──ああ止め止め! 考えただけで情緒が崩れる。

 

「……シャワー浴びてさっぱりさせてから勉強するか」

 

 思考回路のスイッチを切り替える意味も込めて、俺は今日最初のアクションを勉強から朝シャワーに変更した。

 

 

 

 その甲斐はあったのか、着替えて頭を乾かした後、勉強机に向かってからはずっと自習だけに意識が向いてくれた。

 普段なら間違っても味わいたくない勉強時の刺激が、今回ばかりは鬱屈した脳みそに良い意味で新鮮になったらしい。

 まるで文豪が締め切りに向けて怒涛の追い上げをするときみたいに、途中トイレに行くのも忘れて勉強に没頭できた。きっと、俺の理性も心も、何か別の集中できるものを求めていたんだろう。

 

 殊勝な学生らしい熱心な自主学習に、休憩を与える切っ掛けになったのは、俺の集中力に訪れた限界──などではなく、枕元に置いてあったスマートフォンが鳴らした着信を告げるメロディだった。

 ただの着信音ではない。特定の人物からの着信がなったときにだけ設定した曲のモノだ。

 しかもとびきり親しい人物からの着信──つまり、彼女の綾瀬からの着信ってこと。

 

 急いでシャーペンを置いて、俺は椅子から立ち上がるとベッドまでの数歩を早歩きで詰めていく。

 掛け時計の針を見たら、勉強を始めたのが8時半過ぎだったのに、もう12時45分……学園では昼休みの時間になっている。

 おいおい、普段からこれくらい集中して勉強してみたいもんだ。そう自分を揶揄しながら、俺は綾瀬からの電話に出た。

 

「もしもし?」

『あ、出た。良かった……出るのが遅いから寝てたのかと思った』

「さっきまで勉強してたんだ。──おおっと、俺がこんな時間まで勉強してることに驚くなよ?」

『そんな無理なこと言わないで。もうとっくに驚いてる』

「酷いなぁ」

 

 電話越しでも、面と向かったときと変わらない会話を交わす。

 この他愛のない時間が、過集中気味に脳を使った俺を癒してくれる。

 

『──うん、でも良かった。調子は戻ってきたみたい』

「うん。まぁ……こうして綾瀬と話ができる間は、何とかね」

『ふふ……なら、電話して正解』

「本当その通りだよ。……いや本当に、ありがとう綾瀬。声を聴けて嬉しい」

『ちょっと……そう言ってくれるのは嬉しいけど、少し大げさだって』

 

 そう言う綾瀬の声は、たぶん照れ隠しから少し上擦っていた。

 

「大げさじゃないよ。ここ数日はほとんど文字だけのやり取りだったから……まぁ、俺が悪いんだけど」

『縁……違うわ。あなたは何にも悪くない』

「ありがとうそう言ってくれると、心が軽くなる。……なぁ、綾瀬」

『なに?』

「会いたいな。こうして電話じゃなくて、ちゃんと目で君を見て、手で触れたい」

『縁っ、え、ちょっと……急にそんなこと』

 

 電話の向こうでガチ照れしてるのが分かる。

 おそらく、トレードマークのヘアリボンを弄って動揺を抑えてるんじゃないか、そんな姿を想うだけで、一層会いたい気持ちが強くなってしまう。

 

「急にごめん、やっぱまだセンチメンタルな状態みたいだ」

『……本当驚いた』

 

 驚く姿も可愛いから見たかった──そう言いかけた口を押さえて、小さく笑うだけにする。あんまり本音でも言い過ぎは毒になる。

 

「明日には必ず登校するよ、そしたらもう一回、同じことを今度は目の前で言うから」

『そんなことしたら、恥ずかしくなってあなたの方が倒れるんじゃない?』

「確かに」

『調子よくなったと思ったらこれなんだから……ねぇ縁』

「ん?」

 

 説教モードに入るかな? と心構えしたが、綾瀬はやや間を置いてから、予想とは違うことを言った。

 

『会いたいのは、アタシも同じだから』

「……うん」

『アタシも、できるなら今すぐあなたに会って、話して、触れたい』

「──いざ言われると、嬉しいけど恥ずかしいな」

『茶化さない』

「はい」

『もう──……だから、今日、授業終わったら、すぐに会いに行っていい?』

 

 そんな提案、断る方がどうかしている。

 

「ああ、もちろん。待ってる」

『……うん、待ってて。会えるのが楽しみ』

「俺も」

 

 予定を前倒しして今日会う約束を結んだ矢先に、綾瀬の方から昼休み終わり5分前を告げるチャイムがうっすら聞こえてきた。

 さっきも見た掛け時計を見ると、確かにもうそんな時間だ。

 

「じゃあ、名残惜しいけど」

『えぇ。また後でね』

「ああ。また後で」

 

 そう言って、どちらからともなく電話を切った。

 

「──さて、俺も遅まきの昼食、するか」

 

 言葉にしたら、待ってましたと言わんばかりに腹の虫が鳴る。

 今日は色々素直だな、なんて思いながら、俺は1階に降りた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 そこから、どうせやることも無かったので、勉強を再開すること3時間後。

 さすがに脳みそが慣れない長時間自主学習に疲れを訴えだして、そろそろやめようかと思い始めた頃、示し合わせたようにまたスマートフォンから着信が来た。

 

 次は渚からの着信音で、さては授業が全部終わったから心配で掛けてきたのかな、と思いつつ電話に出る。

 

「あぁもしもし、どうした渚」

 

 昨日……というかここ最近ずっと暗い姿しか見せてこなかった分、電話で少しは明るい声を聴かせようと、ちょっとだけ元気な雰囲気で電話に出たが、

 

『お兄ちゃん……お兄ちゃん、どうしよう……』

 

 返ってきた渚の声は、恐怖と混乱に満ちたものだった。

 否が応でも、何か悪いことが起きたのだと理解する。

 

「どうした、何かあったか? 落ち着いて話せ、な?」

『どうしよう、綾瀬さん……』

「!?」

 

 綾瀬の名前が出た瞬間、スマートフォンを握る手に力が入り、心臓がギュッと締め付けられる感覚に襲われ、全身にわたって寒気が走る。

 駄目だ、渚に落ち着けって言ったばかりなのに。俺が落ち着かないと。

 

「渚。綾瀬が、どうした……?」

 

 ともすれと震えてしまう声。

 できる限り平静を装って渚に話の続きを促した。

 その先を聞いたら、絶対後悔してしまう未来を分かっていながら。

 

『綾瀬さんが……綾瀬さんが、階段から落ちて──』

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 渚の電話を受けて、吐きそうになる自分を必死に堪えて、悠が搬送された日と同じ病院に向かう途中、俺の脳裏に浮かんだのは頸城縁の記憶だった。

 幼なじみの、大事な女の子が送られた病院に向かう。

 初めての経験であり、もう一度味わう地獄。そんな誰にも共感してくれやしない苦痛が綾瀬の病院に、病室に近づくにつれ強くなっていった。

 

 頭がちゃんと働いてくれたのは、渚が言った『まだ生きてる』という言葉があったからに他ならない。

 頸城縁の記憶とは違う。彼の幼なじみは死んだが、綾瀬は生きている。死んでないんだ。

 それだけ、本当それだけが、俺が『最後の一線』を越えてしまうのをギリギリ踏みとどめてくれた。

 

 そうやってなけなしの理性を総動員して辿り着いた先に俺が見たのは、全身にチューブが刺さって、口には酸素マスクがされている恋人の姿だった。

 

『頭を強く打って、このまま目を覚まさない可能性もある……先生はそう言ってた』

 

 先に職場から駆け付けていた綾瀬のお父さんから告げられた言葉が、頭の中に深々と突き刺さる。

 綾瀬は『死んでいない』だけで、もう植物人間と同じ状態になっていた。

 頭部を強打して、脳内出血も起きたから、今は大丈夫な脳の血管も、破れて出血を起こす可能性が高く、今は生きてるけど、この先死ぬことも十分にあり得る。そう言われた。

 

 死ぬ? 

 綾瀬が、死んでしまうって? 

 信じられない。

 今日のお昼、俺に元気な声をかけてくれた彼女が──放課後に会う約束をしていた彼女が、今は病院のベッドで、いつ目が覚めるか──いや、二度と目が覚めないかもしれないだなんて。

 

 なのに、どうしようもなく現実は、事実を淡々と見せつけてくるばかりで、世界を変える力なんて無い俺は、理不尽に押し付けられた現実をただひたすら受け入れるしかなかった。

 結局、病院にはほんの数分しか居られなかった。ご両親が居た手前もあるし、医者が再度綾瀬の容態を調べるために検査をするという話で、別の部屋に運ばれたからだ。

 

 結局、急いで向かった俺にできたのは、おとぎ話の王子様なんかとは違って、眠る綾瀬がただベッドごと運ばれていくのを見届けることだけ。

 ご両親はその後も病院に残り、恋人とは言え家族ではない俺は、未練がましくも家に帰ることになった。

 

 

 行きはタクシーを使ったが、帰りは歩き。

 理由は簡単で、俺は焦って行きの駄賃分しか財布に無く、渚も救急車に同行して病院に来たので運賃なんて財布になかったから。

 それに合わせて、もう1人──同じく渚と救急車に乗ってきた、夢見もまた、俺と渚と一緒に帰った。

 

「……あの、お兄ちゃん」

 

 終始無言、というか何も話す気力の無い俺に、困り顔で夢見が言った。

 

「こんなことになって、お兄ちゃんも渚ちゃんも、つらいよね……。あたしも、綾瀬ちゃんと久しぶりに会って、これから前みたいに仲良くしていきたいって思ってたのに……」

「……夢見ちゃんこそ、大変だろ。引っ越してそうそう周りでこんなことが立て続けに。災難、だよな」

 

 皮肉でも何でもなく、心からそう思った。

 夢見の面倒を見てあげて、と母さんから言われてすぐ、こんなに参る出来事ばかりが起きたのは、確かに辛い。

 でも、それを当事者より半歩後ろから見させられている夢見だって、居心地が悪いに違いないだろう。

 しかもタイミングがタイミングだ、人によっては『自分が来たせいでこうなってるんじゃないか』と自分を責めてしまう可能性だってある。

 もちろん彼女に対してそんなことは微塵も考えてはいない。だけど、ただでさえ不安定な環境からこっちに越してきたばかり。落ち着く前からこれじゃ、彼女にしか分からない心労だってきっとあるだろう。

 

「夢見ちゃんが気にする必要なんて全然ないぞ。確かに悲しいことが続いてるけど、それにめげてしまうと2人に怒られるからな」

「でも……」

「大丈夫……に、するから。むしろ、情けないトコばっか見せてかっこ悪いな、ごめん」

 

 まずは何より、夢見を安心させたい。

 そう思って口にした言葉だったが、

 

「そんなことない、そんなことないよお兄ちゃん!」

 

 思ったより強い口調で反論されて、つい足を止めて夢見を見た。

 夢見の目にはうっすらとだが涙が浮かんでいて、俺も渚も、少しだけたじろいだ。

 

「お兄ちゃんは情けなくなんかない。むしろ、自分の気持ちを我慢してあたしに気を使ってくれるなんて……変な言い方だけど、凄いと思う」

「凄いって……確かに変な言い方だ。なぁ渚?」

「……うぅん、凄いとは違うけど、夢見ちゃんがお兄ちゃんに伝えたいことが何かは伝わるよ」

「おいおい、渚まで」

「お兄ちゃん!」

 

 渚まで妙なことを言い出して、どうしたものかと思った俺の手を、夢見がぎゅっと握る。

 ちょっとだけ、渚の視線が冷たく鋭いものになった気が絶対するが、それには敢えて触れないでおく。

 

「今は素直に、自分のことを優先して良いの。むしろ逆、あたしがお兄ちゃんの力になるから」

「いや、そんなこと考えなくったって──」

「考えるの! お兄ちゃんには引っ越す前からずっと助けられてきたの、だから……綾瀬さんに比べたら頼りないかもだけど、頼って! ね?」

 

 俺を見つめながら話す彼女に、俺の中でこれ以上反対する理由も言葉も、出てこなくなった。

 こんなにまっすぐな気持ちを向けられて、その厚意を厚かましく思えるほど、俺は不貞腐れちゃいない。

 

「……分かった。ありがとう」

 

 そう返すと、握っている手の力をもう少しだけ強くして、夢見は確信しているかのように言った。

 

「きっと今は苦しくても、これから絶対いい出来事が起きるはずだから。一緒にがんばろうね」

「……あぁ」

 

 重く苦しい心が、ほんのちょっぴりだけ、軽くなった気がした。──その矢先。

 

「あのー? 私のこと忘れてない?」

 

 俺たちの手に自分の手を覆うように重ねて、『笑顔』の渚が全然笑ってないテンションで間に入る。

 

「うぉ!?」

「きゃ! 渚ちゃん急にびっくりさせないでよー!」

 

 思わず互いに手を振り払って、数歩後ろに後ずさりしてしまう。

 そんな俺たちに呆れたようにため息をこぼしつつ、場の空気をまとめる様に渚が言った。

 

「もう……夢見ちゃんさりげなく私を仲間外れにしないで。お兄ちゃんも、夢見ちゃんに頼る前にまず、同じ家に住んでる私を頼るのが先でしょ?」

「うー、ごめんなさい渚ちゃん……つい」

「『つい』で存在消さないで」

「ごめんってー!」

 

 年下の渚に対して本気で謝ってる夢見と、そんな夢見が面白くて内心そんな怒ってないくせに怒るふりをする渚。

 そんな2人をみていたら──、

 

「──はは、あはは!」

 

 自然と、本当に自然と、いつもみたいに笑い声が出た。

 あぁ良かった。この2人が居てくれて。おかげでまだ心は死んでいない。

 

「はっ! そう、こういう風に笑いを誘うためにわざと渚ちゃんを忘れたふりしてたの」

「さすがにその嘘に騙される人はいないと思いますよ、夢見さん」

「敬語になってる……!?」

「もういいって、そこまで」

 

 そう言って、2人の頭をわしっと掴む。

 びくっとしながらも手を振り払ったりはしないので、そのままワシャワシャと頭を撫でまわした。

 女の子の、セットしてるだろう髪の毛を不格好に撫でまわすのは普段ならしない行為だけど、今だけはすっごくしたくなったから仕方ない。

 

「……ありがとう、元気出た。早速2人に助けられちゃったな」

「もぅ……でも、うん」

「良かったぁ……お兄ちゃんの笑顔、久しぶりに見たから安心」

 

 

 確かに、苦しい現実は変わらない。

 悠は死んで、綾瀬だっていつ目が覚めるかも分からない。

 きっと頸城縁の時にこうなったら、耐えられなかっただろう。

 でも、俺には彼と違い、まだ心の支えになってくれる存在が──妹と、妹分のイトコがいる。

 

 だったら、まだ──心を折るには早すぎるよな。

 

「帰ろう、明日からも頑張るためにも、晩ご飯作らなきゃ」

 

 今日は簡単に作れる鍋にしようかな。それとも渚と夢見と一緒に黙々と餃子でも作っちゃおうか。

 勝手に脳内で今日の献立を考えながら、俺は先頭に立って家までの歩みを再開した。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 帰りはじめとは打って変わって、途中何度も会話を挟みながら帰っている途中、大通りの交差点で赤信号に捕まった。

 車の通りが少なければ、点滅中に小走りで向こう側まで行くのも考えたが、ここは病院と家までの道で一番人も車も交通量が多い十字路。そんな真似はできない。

 若干もどかしい思いをしながらも、素直に青信号になるのを待っていたら、頬に何かが落ちる感触がした。

 

「──雨、小雨か」

「えー。傘持ってきてない……渚ちゃんは?」

「カバンに折り畳みがあるけど……夢見さんには貸さないですよ?」

「あたしは大丈夫……って、まだ敬語続けるの? 渚ちゃん酷い~!」

 

 後ろでそんな会話をしてるのを聞いて、内心小さく笑いながら、俺は反面で急に湧いて出てきた別の感情──恐怖感から目を逸らす。

 

 雨。

 雨が降る日、頸城縁の人生では常に最悪の事態が起きていた。

 母が死に、幼なじみが死に、自身も死んだ。

 まるで命を洗い流さんとばかりに、彼の人生において『雨』と『死』は密接だった。

 

 当然、それは前世の話。

 今の俺に、今日まで雨とつながる不幸なジンクスは存在しない。

 でも、立て続けに起こった不幸と、頸城縁の幼なじみが無くなった時と重なる今の雨が、しきりに心を揺さぶる。

 

 もし、最悪の場面で必ず雨が降るというならば。

 悠が亡くなり、綾瀬が意識不明の状況でなお、俺にとって『最悪の場面』では無かったのだとしたら。

 雨が降り始めた今から、ソレが起こるのではないか。

 そしてそれは、俺からもっと大事なものを無残に奪って────

 

「お兄ちゃん?」

 

 渚の心配する声が、思考の袋小路に陥りかけていた俺を正気に戻す。

 

「……ん?」

 

 なんとか平静を保ちつつ、俺があいまいに答えると、渚は優しく答えた。

 

「青信号だよ、いこう?」

 

 渚の言う通り、信号はいつの間にか青に変わっている。

 俺ら以外にも周りにいた歩行者がスタスタと歩くのを見て、俺もようやく、余計な恐怖心に縛れるのではなく、歩みだすことに意識を向けられた。

 

 そうさ、雨の不幸なんてものは今の俺には関係ない。

 気にするな、馬鹿らしい。……半ば言い聞かせてる自覚をしつつも、俺は改めて今日の献立を何にするか考える方向に、脳のリソースを割こうとした。

 そう、『した』。何故『する』ではないのか、理由は単純で、ポケットに入れていたスマートフォンが微振動を起こしたからだ。

 

 取り出して画面を見ると、表示されているのは綾瀬のお母さん。

 ──たぶん、この時点で俺は、もう確信してしまったんだろう。『嫌な予感』なんてあいまいなモノではなく、その先に絶望があると分かったうえで、電話に出た。

 

「──縁くん……綾瀬が、あの子が……今……」

 

 横断歩道の真ん中で、足が止まった。

 

 ──ああぁ、やっぱりか。という諦観と。

 ──雨の不幸はやっぱりあったんだという絶望と。

 ──『こんなもので終わるわけがない』という確信が、ごちゃ混ぜになる。

 

 頸城縁の時と同じ、雨が降る中、最愛の女の子を失う。

 なら、この次にあるのは──、

 

「お兄ちゃん! 避けて!」

 

 また渚の言葉が、今度は殴りかかるように俺の意識を無理やり現実に引き戻す。

 そうして、次に俺が認識したのは、まだ青信号のままなのに、車道からまっすぐこちらに向かってくる乗用車だった。

 スピードが弛む気配はなく、きっと瞬きするよりも早く、これが俺を跳ね飛ばすだろうことが、そんな中指立てたくなる未来が、やけにリアルに想像できた。

 

 死ぬ瀬戸際の集中力がなせる業なのか、正面のガラスにうっすら映る男性は、俯きながら片手でハンドルを握っている。

 ……なんだ、スマホでも弄ってよそ見運転してるのか。そんな馬鹿に、今から俺は撥ね殺されるんだ。

 あーうん、確かにそんな人生の幕切れは『最悪』だね。

 そんな風に、避ける仕草なんかせずに、眼前に迫った死を受け入れようとした、その時。

 

 車がぶつかるよりほんのちょっとだけ早く、何かが俺に当たった。

 それは俺を車が当たる正面コースから少し逸らし、正面からミンチになるのではなく、車体のわきに僅かにぶつかる程度のものにしてくれた。

 それでもスピードが出てる車にかすってるから、当然コロコロとアスファルトを転びまわったが、その痛みなんてまるでどうでも良い。

 

 死ぬはずだった俺を、内出血と骨折程度にしたのは何なのか、それを確認する方が先だ。

 俺はいま、誰に助けられた? 

 もっと厳密に言えば。

 誰が、俺の代わりに死んだ? 

 

「夢見ちゃん! 夢見ちゃん、なんで、嫌ぁ!」

 

 渚のそんな絶叫が、渚は無事という安堵と共に答えをくれる。

 寸前のところで俺を突き飛ばしたのは、夢見だったのだ。

 その夢見は、人を跳ね飛ばしてようやく事態に気づき、急ブレーキをかけた車の数メートル先で、血だまりを作りながら壊れた人形みたいにグッタリしていた。

 

「夢見……夢見ちゃん。いや、だめだ、ダメだろおい! ふざけんな!」

 

 右足がうまく動かない、骨折してるようだ。

 でも肉は繋がってる。俺は動かない足を引きずりながら、騒然としてる野次馬をかき分けて、夢見のもとに向かう。

 

「夢見ちゃん、なんで……ああもう、そんなことより、救急車に……」

 

 倒れている夢見の身体を上半身だけ抱きかかえて、俺は救急車を呼ぼうとして──スマートフォンが無いことに気づく。

 すぐに、視界の端にぐしゃっとなってるそれが見えた。

 今頃、電話していた綾瀬のお母さんも何が起きたか分からずにいるだろう。

 

「──渚、救急車を呼んで、早く!」

「う……うん、うん……!」

 

 大声で少し離れた場所にいる渚に指示をすると、パニック寸前ながらも渚は何とか理性を振り起し、自分のスマートフォンで電話をし始める。

 

「──お、にいちゃん?」

「夢見ちゃん、大丈夫だ、すぐに救急車が来るから」

 

 良かった、即死じゃない。死んでない。

 まだ大丈夫だ、助かる、そうに決まってる。

 強くなっていく雨足に焦燥感を強めながらも、俺は自分に言い聞かせるように夢見に大丈夫だ、と言い続ける。

 

「──けが、してない?」

「俺の心配なんてするな……なんで、どうして俺の代わりになんて……」

「そっか……よかったぁ」

「良くなんてねえよ、お前が死にそうになってんじゃダメだろ!」

「……えへへ」

「……夢見ちゃん?」

 

 返事をしなくなった。心なしか、さっきより少しだけ、腕に感じる重みが増えて──命を抱いてる気がしなくなった。

 

「夢見ちゃん、なんかしゃべってくれ。うんでもすんでも良いから……返事してくれ」

 

 どんなに声をかけても、夢見は目を開いたまま、何も言わなくなった。

 思い知る。理解させられる。夢見は、今俺の腕の中で──、

 

「ああ、なんで……どうして」

 

 これなら、素直に車にひかれた方が──そう思って、ああこれが『最悪』かと、思い知らされる。

 同時に、さっきまで呆然と停車していた車が、唐突にエンジンを吹かす音が耳に入った。

 雨と、頭から流れ始めた自分の血でさっきみたいにガラスの先は見えないが、何となく運転手は、慌てているんだと分かった。

 

 ──慌てて、もう一度俺たちを轢こうとしているんだと。

 

 そういえば、そんなひき逃げ事故が報道されたこともあったなぁ。

 走馬灯代わりにそんな些細なことを思い出して、俺は今度こそ、迫ってくる馬鹿の車から逃げることを放棄する。

 渚が間に合う距離でなく、右足が動かない俺にとっさに避ける余力なんて無く、何より──もうこれ以上、夢見の身体をぐちゃぐちゃにされたくなかった。

 

 妨害するものが皆無な車は、迷いなくよどみなく、俺と夢見に迫る。

 

 ずっと昔、どっかの宗教の偉い方が、こんなことをテレビか何かで言っていた。

 神様は、人間とは違う目線で人々を見ており、ひとりひとりに試練を与える、とか。

 もし、俺にこんな人生を与えるのが神様なりの試練だとしたら、うん。

 

 ──お前、相当いかれてるよ。

 

 

 人々の──渚の悲鳴が耳朶に響き、鋼鉄の塊が俺を肉塊に変えた、その前後で。

 

 初めて嗅いだ(とても懐かしい)、香りがしたような気がした。

 

 

 

 ──to be continued



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3病 『夢』と『既視感』

前回までのあらすじ

死んだ


「──お兄ちゃん、お兄ちゃん?」

「……んんっ」

 

 肩を揺らす小さな刺激で目が覚める。

 視界に映ってるのは、見慣れた部屋の天井と、心配そうに俺を見つめる渚の顔。

 雨音は聞こえず、部屋のにおいが優しく鼻孔を包む。

 

 まるで──いや、まさに。

 悠の葬式があった次の日の朝、そのものだ。

 

「……病院じゃ、無いんだよな?」

 

 そんな当たり前のことを、口にしてしまうくらい、今の俺は困惑している。

 

「病院? どこか体調悪いの?」

 

 当然の疑問を抱く渚に、ああやはり、俺の認識がおかしくなっているのだと理解する。

 

「いや、大丈夫だよ。変なこといってごめん」

「お兄ちゃん、うなされてたよ? 悪い夢でも見た?」

「夢……」

 

 さっきまで自分が見てたものを、夢だと言い切ってしまうのは簡単だ。

 でも、そうするにはあまりにも──あんまりにも、リアル過ぎる。

 まぶたを閉じれば今でも鮮明に思い出せるくらいに。

 

 体をかすった車の衝撃、だらだらと流れる血液と、その熱と臭い、刻一刻と死んでいく夢見、そして──真っ正面から車に当たって肉の塊になろうとする自分自身。

 

「うぅ……」

「お兄ちゃん!?」

 

 フラッシュバックて現象をはじめて体感する。あまりの気持ち悪さに胃液が逆上するのを必死にこらえた。

 

「やっぱりどこか悪いんだよ、病院にいこう?」

「いや──大丈夫、もうおさまったから」

 

 慌てる渚をなだめながら、口元を腕でぬぐう。

 

「でも──」

「悪い夢を見たんだ、きっと……悠が死んでけっこうメンタルに来てるんだな」

「それは、そうだと思うけど……」

「とにかく、俺は平気だから。な?」

「…………分かった」

 

 弱々しい表情ではあっただろうが、俺がそう言うことで渚も渋々ながら納得してくれた。

 

 

 朝食を済ませて、今日も渚だけが登校する。

 昨日までは俺から休むと言ってたが、今日は今朝のこともあって、渚からしっかり休むように言われた。

 あんまり酷いようだと心の調子も見てもらう必要があるかも、と過激に心配する渚をまたもなだめながら、俺は『怪我に気をつけていってこい』と無理やり送り出した。

 

 それからは特にやることもなくなり、リビングのソファでテレビを無作為に垂れ流すくらいしか無くなった。

 とはいえ、今日一日ずっとそうして過ごす気は無いわけで。

 

「……なんかしないとなぁ」

 

 今朝見た夢の事もそうだが、悠の死に顔をハッキリ見たので、メンタルに自覚できないストレスが掛かってるのは間違いない。

 こんな心境で、一日中何もせず塞ぎ込んでちゃ、きっと心を本格的に病んでしまうだろう。

 そうなったら益々、渚に心配をかけてしまう。

 

 ……ああいや、そういう『心配かけちゃダメだ』って考えがそもそも駄目なんだっけか。

 無理にでも健全な精神状態を目指すんじゃなく、あくまでも自然と良い方向になっていくような行動をとるべき。

 だからまぁ、そういった閉塞的な気持ちを一新させるために、今俺ができる行為は何かというと──、

 

「……勉強でもすっか」

 

 ちょうど、悠の訃報を受けてからここ数日、全く勉強に手を付けていなかったのもある。

 たとえ親友が亡くなっても、俺が来年受験生になるという現実は変わらないし、世間も同情こそすれ試験に加点なんてしてくれない。

 辛いとはいえ『現実』に戻っていく足がかりとしても、勉強するのはピッタリだ。

 

 それじゃあまずは、メンタルスイッチを切り替えるって意味でも、昨日帰ってから洗ってない体にシャワーを浴びせて、スッキリさせよう──と……、

 

 

「……?」

 

 酷い既視感がした。

 

「……なんだ、え?」

 

 前にもこうやって、同じことを考えて。

 シャワーを浴びた後、たくさん勉強しなかったっけ? 

 

「──うっ……」

 

 前頭葉が酷く痛む。ゲームを長時間やった時や、ソフトボールが額に直撃した時だって感じたことの無い痛みが、頭の中をぐりんぐりんと捩じり込むように弄っていく。

 思わず膝から崩れてしまったが、辛うじてテーブルに手を付けて支えにすることで、ぶっ倒れるのだけは避けられた。

 こんな姿をもし渚に見られたものなら、それこそ問答無用で病院に引っ張られるに違いない。

 

 だが、今の自分が普通とはかけ離れた精神状態にいるのも、疑いようがない事実だと思う。

 以前、パニック障害に悩む人物の体験談をニュースで見たことがある。家に出る時は大丈夫だったのに、レストランで注文を待ってる間、急に具合が悪くなってしまったというものだ。

 今の俺もまた、行動を起こすのはまだ無理ってコトなのだろうか……。

 

「──素直に、寝るか」

 

 今日は……いや今日も、俺は自室のベッドで寝ることにした。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 微細な振動と、聞きなれたメロディが、不本意な睡眠から俺を起こす。

 枕元に置いてたスマートフォンが、着信音を鳴らしていた。

 寝ぼけ頭のままスマートフォンを手に取り、画面を見ると、そこには綾瀬の名前が表示されてある。

 

「──っ!?」

 

 はっきり綾瀬から電話が来たと脳が認識した瞬間、()()()()()『既視感』が寒気を伴って背中を擦る。

 そう、朝も感じた『既視感』だ。俺は何故か、二度目の睡眠から起きたばかりというのに、今が『もうすっかり日の登っている時間だ』と分かっている。

 画面の端に映ってる時刻は12時45分。それを見る前から、そのくらいの時間だという無根拠な確信があった。

 

「……っ、電話に出ないと」

 

 今俺が感じてる様々なモノは、俺が電話に出るのを待ってる綾瀬には何ら関係のない。

 無根拠で不快なモノを理由に、綾瀬の電話をこれ以上無視することなんて、それこそあり得ない行動だ。

 後ろ髪を掴む一切合切を無視して、俺は綾瀬の電話に出た。

 

「もしもし、ごめん寝てた」

『あー、やっぱり? ごめんね起こしちゃって』

「いや、良いよ。むしろ最高のモーニングコールだ」

『ちょっと、アタシをホテルマン代わりにするのやめてよね』

 

 軽い冗談を交わして綾瀬の声を聴くと、先ほどまでの感覚が嘘のように消えていく。

 

『でも良かった、その様子だと、少しは元気になったみたいね』

「…………少しはね、でも」

 

 一瞬、朝から続く『既視感』を相談しようと思ったが、あまりにも主観的かつ、聴いても『メンタルクリニックに行こう』と本気で提案される未来しか見えなかったのでやめる。

 それでも、綾瀬に全くの嘘を言うのは嫌だったから、部分的にかいつまんで話すことにした。

 

「……正直なところ、自分で思ってる以上にメンタルがやられてるみたいでさ。昨日もちゃんと寝たのにさっきまで二度寝してたのも、それが理由」

『そうなの……ご飯はちゃんと食べられてる?』

「朝ごはんはね。お昼は当然まだ」

『お風呂に入ろうって気持ちは出てくる? もしそれが億劫に感じてたら──』

「あぁ、精神が病んでるときのサインって奴だよね。まだ昨日から寝っぱなしだけど、ちゃんと入る気はあるよ。そこは大丈夫」

『なら良かった。……なんとなく、あなたが今、凄く無理してるんじゃないかって気がして、それが気になって電話したから』

「……綾瀬」

 

 返す言葉が見つからず、電話越しに僅かな沈黙が生まれる。だがそれに気まずさを感じるようなことは無く、むしろ逆だ。

 ここ数日、チャット越しの文字を使ったやり取りばかりだったにも関わらず、こうして俺が電話に出られるようになった頃を見計らって、心配の電話を掛けてくれること。それが本当に嬉しくて、ありがたくて、愛おしい。

 

『あなたってどうしても渚ちゃんのために頑張ろうとする所あるから。渚ちゃんもその辺分かってるけど、あなたのために止めようとしないし……こうして弱い所しっかり指摘してあげるのはアタシだけなんだからね?』

「うん、感謝してる。綾瀬が俺の幼なじみで、俺は果報者だよ」

『果報者って……そういうお爺さんみたいな言い方しない。それに、幼なじみじゃなくて今は恋人でしょ?』

「……そうだな。綾瀬は最高の恋人だ」

『なら、そんな恋人との数日ぶりの会話なんだから、もっと他に言うべきことがあるんじゃない?』

「いや、えっと……あはは、それ、すっげぇ恥ずかしいんだけど言わなきゃダメ?」

『何よー、言いたくないの? 大好きな幼なじみ兼恋人に大好き、はやく会いたいって言うのがそんなに恥ずかしい?』

「もう自分で言ってるじゃん……」

『そう、アタシは言ったけど恥ずかしくない。あなたは?』

「……ずるいなあ」

 

 とはいえ、確かにそうだ。

 綾瀬が恥もためらいもなくそう言ってくれるなら。俺だって今の気持ちをちゃんと伝えないと。

 

「綾瀬は俺なんかにはもったいないくらいの──なんて言わない。俺の、俺だけの恋人だ」

『~~~っ!』

 

 電話越しでも、綾瀬がどういう顔でどんなリアクションをしてるかがよく分かる悶え声だった。

 

「──明日、次はちゃんと面と向かってこれ言うから。待ってて」

『……うん、待ってる』

 

 そうやって約束を交わした直後に、綾瀬の方から昼休み終わり5分前を告げるチャイムがうっすら聞こえてきた。

 どうやら、この時間も終わりにせざるを得ないようだ。心の底から名残惜しいけど。

 

「じゃあ……時間だろうから、一旦切るな」

『えぇ。また明日ね』

「ああ。また明日」

 

 そう言って、どちらからともなく電話を切った。

 

「──さて、俺も遅まきの昼食、するか」

 

 綾瀬から食事の心配もされてたし、健康な精神のために、俺が確実に無理なくできるのは、食事くらいだろう。

 さっそく1階に降りてご飯の用意をしよう。そう思ったが、俺の視線は自然とスマートフォンに向けられて固まる。

 

「……早く会いたいな」

 

 電話を終わらせたのは自分なのに、それがとても口惜しい。

 できるなら、もう今日のうちに会いたいという気持ちすらあった。

 それを言わなかったのは、直前に物凄く胸がいっぱいになるやり取りをしたのと──、

 

 前にもそうやって、会う約束をしたのに、結局会えなかったから。

 

「──あぁぁぁもう、またかよ!!!」

 

 せっかくの幸せな気持ちが、またも降って湧いた『既視感』に蹂躙し尽される前に、俺は怒声と共にそれを薙ぎ払う。

 電話の前と後、綾瀬に関する行動にこの不快なモノが出てくる、それ自体がもはや許容できることではない。

 

 朝の様に、ただ振り回されるような精神状態では無くない。

 だからこそ、冷静では無いけどもいくらか客観視して、自分の中に度々生じるモノを見やることにした。

 むろん、昼食の用意もする。綾瀬との会話の余韻に泥を塗るような不快極まりない感覚に、俺の食事時間まで割いてやる価値なんて無いからだ。

 

「ながら作業で相手してやる! 片手間感覚でな」

 

 我ながら虚勢を張ってるなあと自覚しつつ、俺は今度こそ、スマートフォンを寝巻のポケットにしまいつつ1階に降りたのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ニンニクとオリーブオイル、それとベーコンを2枚使ったお手軽ペペロンチーノをモグモグと食べながら、俺は改めて今朝から続く『既視感』について考える。

 

 最初に起きたのは、朝勉強しようと決めたとき。シャワー浴びてスッキリしようと思い至ったら、強烈な『既視感』と、それにつられて頭痛が起きた。

 次に出たのは綾瀬の電話を受けとるとき。電話が来ると言う事実だけじゃなくて、電話が着た時間すら、俺は眠りから起きたばかりなのに分かっていた。

 そして、最後……現状の最後は、電話を終えたあと。つまりさっき。綾瀬と今日中に会いたいと思った矢先に、それが叶わないと、何故か俺は思った。

 

 先の2つは気のせいで済む話かもしれない。だけど3つ目もそれで片付けるには、あまりにも変だ。

 俺はただ『どうせ会えやしない』という気持ちで綾瀬と今日は会えないと思ったんじゃなく、明確に会えない理由があって無理だと思っている。

 それは何故だ? この考え方は、それこそ過去に一度でも、綾瀬と会おうと試みた経験がなければ出てこない類いのものだ。

 だがそれはあり得ない、俺がそう思うためには、今日を最低でも1度は繰り返さなきゃならないからだ。

 

「それはねえだろ……」

 

 突拍子もない考え方……なのに、何故かそれがものすごく自分の心のなかでしっくりと来てしまった。

 最初の2つの『既視感』と言い、俺は今日を繰り返してるとでも? 馬鹿な。

 

「何なんだ今日は……」

 

 思えば朝から俺は変だった。起きてまず口に出たのが『病院か?』だなんて、昨日は確かに気絶するように寝てしまったけど、渚と会話してから寝たんだ。病院にいくようなことは何もなかったと分かるだろうに。

 

 ……それなら、何で俺は病院に自分がいるのか、なんて疑問を持ったんだ? 

 パッと思い付くのは、そう言う夢を見ていたからだ。夢の中の出来事を、起きたはかりの寝ぼけてる自分が現実とごちゃ混ぜにしてしまった、というもの。

 

 であれば、それはどんな夢だったのだろう。

 起きた直後は、ものすごく鮮明に覚えていたのに、今は大まかな輪郭だけしか思い起こせない。

 

「確か……大怪我するような夢だった」

 

 口に出すことで、思い出すきっかけを作ろうと試みる。

 それが功を奏したのか、連想ゲームのようにその原因が頭から出てきた。

 

「そう、そうだ、車に牽かれたんだ、思い切り、2回も」

 

 2回目に牽かれる直後、俺は起きた。

 最初に病院かと渚に訪ねたのは、俺が車に牽かれたと思ってたから、ということになる。

 

「……っ」

 

 思い出してきたら、鳥肌が立ってくる。

 夢だった……ハズなのに、思い出そうとすればすぐにあの瞬間の質感がリアルに甦ってくる。

 もうここで考えるのをやめにしたかったが、そうもいかない。俺は更に『夢』を思い起こす。

 

 車に牽かれたんだって言うのは、つまり、俺が外に出たってことになる。

 じゃあ、俺が外に出るきっかけは何だろうか。綾瀬と会うのなら家で済む話で、わざわざ『夢』のように車の行き交う大通りに行く必要がない。

 どこかに行こうとしてた、あるいは、行った帰りか? 

 

 じゃあどこに行ったんだ。

 曖昧だが、服は制服じゃなかった。つまり学園ではない。

 もう少しで答えが出てきそうなもどかしさがこめかみを痒くする。それでも答えが出てこなかったので、ヒントがないかと今日の出来事も振り返ってみたら、綾瀬との電話の部分で引っ掛かるものがあった。

 

 電話の内容そのものではなく、電話だ。

 そう、たしか『夢』で俺は、牽かれる前に誰かと電話をしていた。相手は綾瀬ではなく、たしか……、

 

「……綾瀬のお母さん」

 

 言葉に出して見ると、その通りだという確信が持てた。

 間違いない、俺は綾瀬のお母さんと電話をしている。なら当然次の疑問は、その内容だ。

 またそれを思い出す必要があるのかと思ったが、今度はまるで芋づる式に思い出してきた。

 

 綾瀬のお母さんは病院にいて、俺にあることを伝えようとしていた。

 それは、病院にいる綾瀬が、死んだってことで。

 そもそも、綾瀬が病院にいる理由は、確か綾瀬が放課後に学園で頭を強く打ったからで。

 

「……………………嘘だろ?」

 

 じゃあ、俺が何故か今日綾瀬と会えないって思ってるのか、その理由は。

 綾瀬が今日死ぬことを、もう知ってるから? 

 

「──ふざけんな、冗談じゃない……」

 

 きっと心が疲れてるだけだ。

 急に親友を失って、前世でも大切な人が死ぬ経験してるから、記憶や過去や経験がない交ぜになった結果、そう言う想像ばかりをしてしまうだけに違いない。

 だってそうだろう? さっき電話で元気に受け答えしてた綾瀬が、今日の放課後いきなり死ぬって? 

 これが有名な占い師や予言者だのが言うならまだしも、親友が死んで精神がまともじゃなくなってる男の夢がそう言ってるだけの話。

 そんなもの、マトモに受けとる方がおかしい。

 

「…………駄目だ、病院にいこう」

 

 抵抗があるが、予約を取って早い内にメンタルクリニックに行くしかない。

 渚が帰ってきたら相談する。決まり。

 

 自分のなかでそう結論付けて、食事を再開する。

 だが、量は多く作らなかったはずなのに中々手が進まず、食べ終えるのにすっかりスパゲッティが冷え切ってしまうくらいの時間をかけてしまう。

 何とか食べ終えたら食器をさっさと洗って、今度こそ俺は、心のスイッチを切り替えるためにシャワーを浴びることにした。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 いつもなら長くて20分程度の所を、普段の倍以上時間を取って体の隅々まで洗って、上下の下着だけ付けた俺は、横着してドライヤーを使うことだけ渋り、タオルで雑に頭をふきながら部屋に戻った。

 

「……はぁ」

 

 結論。ダメだった。

 

 昨日から肌にまとわりついていた汗っぽさや怠さがシャワーのお湯に流されて、確かにスッキリした。

 なのに、肝心の心のスイッチの切り替えができない。

 シャワーの間、頭の中で別のことを考えようとしたが、『既視感』と『夢』の内容がどうしたって拭えなかった。

 それ以外を考えようとするって思考回路が、ふさがれているみたいに。

 

 こういう状態になってしまったら最後、選択肢は2つしかない。

 

 1つは、引き続きこの強迫観念じみたモノから何とか目を逸らし続けて、病院に行くまで耐える。

 もう1つは、行動を起こす。つまり……。

 

「要は、今日を乗り越えれば全部気のせいってことになるんだろ?」

 

 『既視感』も、『夢』も、今日に限った話だというなら、いっそのこと今から学園に行って確かめれば良い。

 綾瀬が病院で死んでしまうようなことになるって言うなら、そうなる可能性を一切合切排除する。そうやって万が一でも『夢』と同じ状況にならなければ解決って話だ。

 

 壁に掛けられている時計を見る。

 綾瀬との電話の後、遅々とした昼食と長風呂ならぬ長シャワーをしたので、気が付けば3時を過ぎていた。

 今から着替える時間を計算して家を出れば、学園に着く頃には最後の授業が終わった直後って所か。

 それなら帰りのHRがあるし、教室に行けば綾瀬がいるはず。見つけたらとにかく一緒に行動して、少しでも危ない物があれば遠ざける。

 

 それでお終い、朝から俺を苛むモノから晴れて解放されるワケだ。

 

「──じゃあ、さっさと出る用意するか」

 

 ダラダラと乾かしてた髪をドライヤーで乾かし、いそいそと制服に着替え、一応補導されないために中身は空っぽの鞄を手に家を出た。

 

 

 学園に着いて教室に入ると、ちょうど帰りのHRが始まる前だったらしい。廊下を歩く途中に帰る生徒がいたから、もしかして遅かったのかと少し焦った。

 

 一瞬、扉を開けた瞬間に今まで何度も見てきた柔和な笑顔と『やぁ縁』という声が幻と共に脳裏に浮かんだが、視界に映った現実が、ありありと『悠のいない教室』を見せつける。

 

「──ん、ぇえ、野々原!?」

 

 俺の情緒がまた歪み始めるより前に、いち早く俺の存在に気づいた七宮が、お化けを見たような顔とリアクションをした。……まぁ、分からなくもない。

 途端に、クラスのみんなが俺に気づいて、会話が止まってしまう。

 

「……いや、会話続けていいから」

 

 苦笑い気味の笑顔を無理やり作って、凍った空気を砕く。

 それだけですぐにみんなが元通りになるわけじゃ無いが、元々付き合いの浅いクラスメイトから、自分たちの会話を再開し始める。

 

「お、おいおい……今日まあまあ休みだったんじゃ」

 

 七宮が心配した口調で、オロオロしながら言う。

 だけど、腫れ物を扱うような感じでは無かったから、少し心待ちが軽くなる。

 

「ちょっと用事があって来た。綾瀬は……あれ、居ないのか?」

 

 教室の中をぐるっと見回して──途中に見えた悠の机と、その上に添えられた花に心をかき乱されるのを必死に抑えつつ──、綾瀬の姿が見えないことに気づく。

 というか、綾瀬が居れば七宮が俺の名前を大声で口に出した時に駆け寄ってくるはず。ということは、今綾瀬はどこか別の場所に……。

 

「七宮……綾瀬、見てない?」

「んぇ、河本? そういやさっき教室出てったような……すぐにHRだし、トイレじゃね」

 

 居ると思っていた綾瀬が居ない。

 それだけのことなのに、急激に背中を冷たい汗がつぅっと流れる。

 

「──っ!」

「ちょ、おい縁!」

 

 七宮の言葉には応えずに、俺は教室を飛び出した。

 教室からいちばん近いトイレには、途中の廊下で通り過ぎている。つまり綾瀬が教室を出たのはそれ以外の理由ってことになる。

 そうなると、綾瀬が向かったのは校舎の中央側、俺が通ってきた道とは違う方向だ。

 その方向にあるのは──。

 

「……落ち着け。勝手に決めんな」

 

 飛び出してすぐに走り気持ちを抑えて、まだ人の多い廊下を早歩きで通り抜けていく。

 この先にあるのは、校舎で唯一屋上まで繋がっている階段だ。

 そして、ここに来るまでにおぼろげながらも思い出した『夢』の中で、綾瀬が死ぬ原因となったのが、学園で頭を強く打ったこと。

 

 肝心の『どうして頭を打ったのか』についてまでは思い出せなかったが、仮に『夢』が本当に起きてたとして、『夢』の中の俺が経緯を説明されてたとしても、綾瀬が死にそうってショックで何も頭に入っていないだろう。

 

 それでも推測くらいならできる。

 学園の中で死ぬレベルの頭の打ち方をするなら、方法ないし過程は限られている。

 

 家庭科室にある大きめのフライパンや鍋で思いっきり叩きつけられる。

 教室の出入り口の引き戸でギロチンみたいに挟む。

 会議室にあるパイプ椅子の金属部分を豪快に振り下ろす。

 

 その他にも、剣道部に置いてる木刀や野球部のバットとか、その気になれば凶器になるものは結構多い。

 だけど俺が考えたのは、それよりもっとシンプルで、かつ確実に死ぬもの。

 

 つまり、屋上からの飛び降り。

 

 無論、綾瀬が自分から飛び降りるなんて可能性は万に一つも無い。

 それに屋上は咲夜の圧力で全校舎が解放されたとは言え、授業時間中は施錠されている。放課後に用務員さんが鍵を開けるまでは基本立ち入ることは不可能。

 だけど、綾瀬が何らかの理由で屋上にいて、何かのきっかけで落ちてしまう可能性は0じゃない。

 そんな馬鹿な話があるわけないだろう、と自分でも思うが、今の綾瀬がそれ以外の理由で──つまり、綾瀬の自損ではなく、誰かが綾瀬を殺そうとしたってシチュエーションが考えられない。

 

 昔の渚なら、あるいはあり得たかもしれない。

 兄に依存し、幼なじみの綾瀬を内心で嫌悪していた渚なら。

 だけど、今の渚は俺や綾瀬との衝突や和解を経て、ともすれば俺なんかよりずっと精神的に成長している。

 そんな渚が、今更になって綾瀬を手に掛けようとするのは、絶対にあり得ないんだ。

 

 園子にしたってそうだ。

 柏木園子というキャラクターに、ヤンデレの可能性があるのは事実。

 でも、俺と悠と綾瀬の3人で助けて、一緒に過ごしてきた園子はヤンデレじゃない。

 綾瀬とも正真証明の友情を育んでいる彼女に、綾瀬を殺そうとする理由があるのなら教えてほしいくらいだ。

 

 つまり、綾瀬を殺す可能性がある『ヤンデレCD』の人物はもういない。

 なら、綾瀬が何かしらの理由で自分から頭を打った。という結論になるしか、俺には考えられないんだ。

 

 HRの時間を告げるチャイムが鳴り、廊下をうろついてた生徒たちも続々と教室に戻っていく。

 人が減っていく廊下をさっきよりも早い足取りで通り過ぎると、階段の踊り場が見えてくる。

 そこまで行ったら、思い切り階段を駆け上がり屋上へ向かおう。

 扉が開いてたら綾瀬が居るのは確定。開いて無ければ──きっと教室に綾瀬は居て、全部が杞憂だったってオチ。『夢』のことも『既視感』も、全てが完全に吹っ飛ぶ。

 

 後者であることを心の底から願いつつ、俺はまっすぐな廊下から踊り場に足を進める。

 そして──────。

 

 

 

 音は無く。

 声も無く。

 とても綺麗な放物線を描きながら、踊り場の上から落ちてくる。

 綾瀬が、見えた。

 

 放物線の終着点、俺の1メートル前方の床に後頭部から叩き落ちた綾瀬の身体は、そのまま、まるでピンボールの玉みたいにもう一度空中に飛びあがり、今度は廊下の壁にぶつかり、そこからまた2、3度バウンドして……顔だけ俺の方を向いた俯せの状態で、ようやく止まった。

 途中、何度も肉や骨がしたたかに打ち付けられて壊れる音を廊下に、俺の耳朶を通して脳の海馬に鳴り響かせつつ。

 

 

「……は?」

 

 その全部を見た俺は、そんな間抜けな声を出したと思う。

 

「……綾瀬? 何してんだ、お前……? なんで? なんで落ちてんの?」

 

 続く気の抜けた疑問に、綾瀬は当然答えることはなく。

 代わりに、頭からこぼれ出る綾瀬の血液が、まるで縋るように俺の方へと流れてきた。

 光彩の消えた瞳は人形のガラス玉のように無機質で、さっきまで河本綾瀬だった命が、ここにもう無いことを口以上に語っていて……。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 数時間後。日はとっくに沈み、冬の空気が肌にしみこむ時間。

 

「災難続き、なんて言葉じゃ足りないわね」

 

 病院の一角にある休憩室。

 そこで手術中の綾瀬を待ちながら呆然と佇む俺に、見知った金髪の少女──綾小路咲夜が声を掛けた。

 どうして咲夜が居るのかというと、ここが綾小路家お抱えの病院だからだ。

 

「アンタから急に連絡が来たときはどうしたのかって思ったけど、まさかアイツに続いて河本綾瀬まで、こんなことになるなんてね」

「……悪いな、無理言って」

「──別に、この程度なんてことないわよ」

 

 綾瀬が血だまりになって倒れている姿を見て、最初に俺がしたことは、取り乱す事ではなく──いや、既にこれでもかと言うほど取り乱してはいたが、ひとかけらの理性が起こした行動は『咲夜に連絡する』だった。

 必要最低限の情報で、事の重大性と、やって欲しいことを伝えたら、咲夜は困惑しつつも迅速に行動してくれた。

 その結果、救急車が運ぶ一般の病院ではなく、綾小路家の人間が最優先に運ばれる病院──数日前に悠の死体が運ばれた場所でもある──に緊急搬送され、そのまま手術の運びに。

 今はその結果を、同じく病院に来た綾瀬のご両親と一緒に待っている。

 お二人からは先に家に帰るよう勧められたが、それすらも『既視感』があったので、無理を言って残らせてもらった。

 

「アンタの妹と、イトコは?」

「帰ってるよ」

 

 俺が綾瀬の乗る救急車に同行するときに、一緒に来てくれた渚と夢見は帰らせたが、その際に念のため家の生活費から削っていいからとタクシーに乗らせている。

 

「そ、なら都合がいいわ」

「え?」

「アンタ、だいぶ意気消沈してるみたいだけど、人の話を聞く気力は残ってる?」

 

 咲夜の発言の意図がわからな……い、わけではないが、何を話そうとしてるのかが分からない。

 確かに、悠の死に続いて綾瀬まで生死の境を彷徨っている現状に頭がいっぱいだ。

 だけど、それにも関わらず、咲夜の言う『気力』とやらがまだ俺の中に残っている。

 皮肉にも、今日1日俺を悩ませていた『夢』と『既視感』が、一種の耐性みたいなものを生み出しているみたいだ。

 

「残ってるっていうか……内容によるかな」

「じゃあ問題ないってコトよね。来なさい」

 

 こんなときでも傍若無人な強引さは変わらない。

 不思議だが、それが逆に今は安心感すら覚える。

 

「話はここじゃダメなのか?」

 

 とっくに一般の利用者が居なくなった休憩室なら、誰にも聞かれる心配はないはずだ。

 しかし咲夜は答えず、スタスタと歩いていく。

 仕方ないので、急いでそのあとを追うと、普段患者も入らない、中にテーブルと椅子があるだけの狭い部屋に入る。

 入るや否や鍵を閉めるように言うのでその通りにすると、珍しく『はぁ……』と疲れた色のため息を咲夜が吐いた。

 

「ここなら、防音だから誰にも聞かれることは無いわ」

「いったい何の話をするっていうのさ」

「誰にも聞かれたくない話よ。まずは椅子に座りなさい、落ち着いて聞けないでしょ」

 

 これまた珍しく、咲夜が諭すような口調で言うものだから、引っ掛かりはするが素直にいうことを聞くことにした。

 たぶん、咲夜がこういう態度になるってことは本当に大事な話だ。逆張りして逆らう理由は無い。

 それに、こんなこと絶対に言えないけど、諭すときの雰囲気が悠に似ていたってのもある……絶対に言わないけど。

 

「まず、最初にアタシに連絡したことは本当に正解だったわよ、じゃなきゃ河本綾瀬は今頃庶民向けのやっすい設備に繋がれて死んでたでしょうね」

「……今も、死ぬかもしれない状況には変わらないだろ?」

「彼氏なんでしょう? もう少し庶民らしく都合のいい方に考えを向けたらどう? それに、綾小路お抱えの病院(ここ)と他所を一緒にされたら困るわ」

「そんな凄いのか……庶民には立派な病院としか分からないや」

「死にかけだったらどんな状態でも死なせないだけの医者と設備を用意してるの。ここに綾小路家の名前で運ばれて助からないのは……」

 

 そこで一度言葉を止めて、やや間を開けてから。

 また、ため息を吐きつつ言葉を再開する。

 

「……助からないのは、来る前にとっくに死んだ奴だけよ」

「……そっか」

 

 それ以外、反応のしようがない。

 

「とにかく! ここに運ばれた以上、アンタの彼女のことはひとまず安心しなさい。それよりも、今後の話よ」

「今後って言うと……リハビリや治療費か?」

「違うわよ、ていうか、そんなのアタシの方で出しとくっての」

「は、ええ? マジで言ってるのか」

「『マジ』よ。河本綾瀬の親にもとっくに説明済みなんだから」

「──ありがとう! 何から何まで!」

 

 信じられない大判振る舞いだ。さっきここが凄い病院だって言うからどうなるんだろうと内心少し焦ったが、その心配もなくなった。

 

「きゅ、急に元気なるんじゃないわよ! 別にあんたのためってだけじゃ──ああもう、話の腰折らないで!」

「ん、すまない……続けて」

「もう、これだから……。さっきも言ったけど、これはアンタのためじゃない、アタシにもあいつに死んでほしくない理由があるの」

「理由……それが、お前の言う『今後』につながるのか」

「そういうこと。……少し調子戻ってきたみたいね」

 

 調子が戻ってきたわけでは無いが、今この会話に『既視感』を抱いてない事が関係してるかもしれない。

 結局、俺が見た『夢』の通りに綾瀬は学校で頭を打ち、生死の境を彷徨うことになった。『夢』も『既視感』も、決して無視できないものだと理解した。

 だが『夢』ではとっくにこの時間、綾瀬はおろか俺と夢見も車に轢かれて死んでいる。しかし、綾瀬は手術中とはいえまだ生きており、少し前に渚と夢見両方から帰宅したとSNSでメッセージが来ている。

 あの『夢』の続きに、俺はいるんだ。

 

「話してくれ、今後するべきことって言うのはなんだ?」

「それは──」

 

 次に咲夜が放った言葉は、俺の想定から大きく外れる、思いもしないモノだった。

 

「犯人探しよ。河本綾瀬を階段から殺そうとして──」

 

 

 

「悠を殺した犯人のね」

 

 

 

 ──to be continued



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4病 何か隠してることあるよね?

前回までの登場人物まとめ

縁:主人公。親友が殺されて恋人(幼馴染)は死にかけ。メンタルがしんどい。夢で似たような展開を見た……?

渚:妹。兄の親友と恋人が相次いで不幸な目に遭い、兄の容態を気にしている。病んで無い

園子:出てきてない。病んで無い

咲夜:因縁浅からぬ奴が無様に死んで何を思ってるかは本人しか知らない。多分元から病まない

夢見:引っ越したら早々にいとこの親友や彼女が大変なことになり、とんでもないタイミングで来てしまった。病んで無いと思う

悠:死んだ


「は、犯人?」

 

 思いもしなかった発言に、オウム返しみたいな反応をしてしまった。

 

「そうよ、アンタ河本綾瀬が一人であんな大怪我すると思ってたの?」

「……まぁ、思ってた」

「どうしてそう考えるのよ。ちょっと躓いて転ぶ程度でこんなことになるわけ無いでしょ? 誰かに押し飛ばされたって考える方が自然じゃない」

 

 確かにその道理は正しい。

 だけど、あの綾瀬を殺そうとする様な奴がいる。なんてことを考えたくなかった。

 誰かが誰かを殺すには、そう思わせるだけの経緯や理由がある。近年は『誰でも良かった』と言う犯人もいることは確かだが、いずれにせよ、綾瀬がそんな恨みを買う様なことするわけない。

 

 ――と、本来なら声を捲し立てて咲夜に言いたいところだったが。俺はその気持ちをグッと抑える。

 そんな会話に現状を改善する効果なんて全く無いのは明らかだし、何よりも、理由なき悪意に親友が殺されたばかりの俺自身に、そんな言葉は何の意味も持たないからだ。

 

 それだけじゃない。今の咲夜の話には聞き逃しちゃいけない言葉があった。

 

「……悠を殺したのも同じ人間の仕業だって言うのか?」

「そういうことになるわね」

「待てよ……悠にあんなことしたクソ野郎はもう居ないだろこの世に」

 

 そう。悠を殺したイカレ男は、同じ日に自ら負った重度の火傷で身元不明のままおっ()んだ。

 身元を明らかにするという意味ならまだしも、死んだ奴が綾瀬の件にまで関わっているワケがない。

 その上で綾瀬の件と悠の件が繋がっているとすれば、つまりは──。

 

「悠の死には別の人間が関係してて、そいつが綾瀬を階段から突き落とした……」

「アタシはそう思ってる。少なくとも、(アイツ)の死には他に指示した奴が居ると、綾小路家(こっち)では考えてるわ」

「……っ」

 

 もし本当に、そんな奴がいるんだとしたら。

 悠を裏で指示して殺し、綾瀬も殺そうとした奴がいたとすれば。

 絶対に許せない。警察に捕まってお終いにするんじゃなく、逆に俺が罪に問われても構わないからぶっ殺してやりたい。

 

 ──だけど、その前に危惧するべきことがある。

 

「渚たちが狙われるかもしれないってことだよな? それにこの街に来たばかりとは言え夢見だって」

 

 最初に悠を殺して、次に綾瀬だとすれば、順当に考えて近しい関係の者が標的になる可能性が高い。

 ここは綾小路家のテリトリーだし、夜とは言えそこかしこに防犯カメラが設置されてるだろう。

 問題は、何の変哲もない自宅に帰ったあの2人だ。厳重な施設と簡単に侵入できる住宅、どちらを選ぶかって言えば言うまでもない。

 

 更に言えば、危険なのは2人だけじゃない。

 

「園子だってそうだ。向こうは家族と暮らしてるけど、悠を殺した奴と同じ犯人だって言うなら家ごと爆発とかやってもおかしくない」

「ふぅん、意外と冷静なのね。普通こういう場合って犯人に怒る方が先に出ると思ったのに」

 

 急に浮上してきた懸念に心が騒ぎ始める俺とは逆に、咲夜は感心するような口調で俺に言う。

 

「でも安心しなさい。そんなのとっくに考えてるから。アンタが返した2人も、柏木園子にも、こっそりウチのSP付けてるから。何かあっても大丈夫」

「本当か!?」

「んっ……いきなり大きな声出すのやめなさいよ、ここ狭くて響くんだから」

「あっごめん、つい……でも、本当に?」

「こんな事で嘘ついてどうするのよ」

「──ありがとう咲夜、本当にありがとう!」

「別に、こんなの簡単──きゃ!?」

 

 綾瀬の治療に、帰る渚たちや園子の安全。悔しいが、どっちも俺じゃどうにもならなかった。

 そのどちらにも手を回してくれたことが嬉しくて、衝動的に咲夜を抱きしめてしまった。

 

「ちょ、だ、だだだ……!」

「ありがとう、本当にありがとう!」

 

 頭の片隅でまずい行動だと分かっているけど、喜びの伝え方でこれ以上のものが今は思いつかない。

 

「は、離れなさいよー!」

「うおっ、ふっ……」

 

 思いっきり両手で押しのけられて、ちょうど手の位置がみぞおちだったから軽く呻いてしまう。

 

「ごめん、分かってはいたけど、つい……」

「い、いかがわしい言い方するんじゃないわよ! あんな風に強く抱き、……抱きしめるなんて……」

「下心からの行動じゃないんだ! 信じてくれ!」

 

 顔を真っ赤に、うっすら涙も浮かべて俺をキッと睨む咲夜に、社会的な死の危険を感じて本気の謝罪をする。

 

「もう……次同じことしたら絶対に許さないんだから!」

「肝に銘じます……」

「だいたい、さっきも言ったわよね? 別にアンタのためにやったんじゃないんだから!」

「あぁ、分かってる。犯人を捕まえるためだよな」

 

 綾瀬を助けてくれたのは、自分を突き飛ばした奴が誰かを話してもらうため。

 渚と夢見にSPを付けたのは、犯人が来たら取り押さえるため。

 後者については、見方によっては囮と捉えることもできるが……それが気に入らないなら危ないのでどっかに隔離しろ、なんて話にするしかない。そっちの方が嫌だ。

 

「分かってるなら良いけど、次同じことしたら、犯人より先にアンタを消すからね!」

 

 冗談抜きの死刑予告に、何度も頷いて答える。

 それで何とか気持ちを収めてくれた咲夜は、とはいえまだプンスカしつつも腕を組んで話を再開した。

 

「──とにかく! お爺様は何もしなくて良いって言ったけど、アタシとしてはこのままじゃ気が済まないの。アンタも手伝いなさい」

「もちろんだよ、だけど犯人探しと言っても何をすれば良い?」

 

 俺は探偵って柄じゃないし、さすがに咲夜もそう言うのはハナから期待していないハズ。

 そのうえで協力を申し出るとすれば、何かプランがあるんだろう。

 本当は自分ができる事を少しでも考えるべきなんだろうが、この状況下だ。下手なことは考えずに、素直に聞いた方が話も早い。

 そう期待して、咲夜の次の言葉を待っていたのだけど。

 

「特にできる事は無いわ。いつも通りにしなさい」

「え? それだけ?」

 

 咲夜のプランは、あんまりにも拍子抜けなものだった。

 もっと何か、画期的なモノだと思っていたのに……そう思ってる俺の心が読めているかのように、咲夜は俺が何か言い出すより先に言葉を続けた。

 

「良い? アタシは『いつも通り』にしなさいって言ったの。今のアンタは『いつも通り』にしてる?」

「そりゃ……いや、してないな」

 

 咲夜の言ういつも通りってのは、朝起きて登校して、下校するまでのサイクルを指している。

 つまり、普通の高校生の過ごし方だ。

 

「辛いっていうのは分かるけど、明日からは学園に行くの。そして犯人が次に行動してもすぐ動けるようにしなさい」

「……分かった。でも、それだけで本当に犯人探しにつながるのかな」

「他に、庶民のアンタにできる事はないでしょ? それに、犯人の狙いにアンタがいるなら、アンタが普通に学園にいた方が囮になるわ」

「そっか……そうだな。その通りだ」

 

 渚たちが囮になるよりも俺が登校することで矛先がこっちに向くなら、願ったりかなったりだ。

 

「色々ありがとうな。咲夜。悠が死んで辛いのはお前も同じなのに、咲夜は強いな」

「べ、別に悠が死んで辛いなんて思ってないわよ!」

「はは、そうか。俺は辛いぞ、すっごく辛い」

「知ってるわよそんなの。葬式の時も死んだ顔してたし」

「見られてたか」

「でも……」

 

 そこで一度言葉を止めて、咲夜はじっと俺を見つめて言った。

 

「もう、辛い辛いって塞ぎ込むのは終わり。今回の犯人の考えは分からないけど、コイツは傍系とは言え綾小路家に手を出したの。絶対に許さない、警察に捕まっておしまいになんてさせないんだから」

「──あぁ、分かってる」

 

 

 かくして、急ごしらえではあるけれど俺と咲夜、2人だけの犯人探しが始まった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 咲夜との話が終わった頃を見計らったように、手術は終了した。

 結果は成功。咲夜の強気な発言は虚言にならず、あの絶望的な状況から綾瀬はこの世に留まることができた。

 

 ただし、すぐに目が覚めるかと言えば話は別だ。

 当然の話にも思えるが、麻酔に関係なく向こう数日は寝たきりになるだろうとのこと。

 それでも綾瀬が生きてくれてるだけで、俺にとっては何よりも朗報だったし、それは当然綾瀬のご両親についても同じ……いや、俺の何百倍もだろう。

 3人で一緒に医者の報告を聞いた直後、誰からともなく涙を流してしまったが、全く恥ずかしいとは思っていない。

 

 とりあえずまだ面会も無理な状況なので、後ろ髪を引かれる気持ちだが帰ることになり、時刻はとっくに日付を越えていたのもあって俺は綾瀬のお父さんの車に乗せてもらった。

 家の前に着いて、ご両親に乗せてくれた礼をすると、逆に『助けてくれてありがとう』と言われてしまったが、本当の意味で綾瀬を助けたのは咲夜たちの方だ。

 むしろ、俺がもしかしたらもっと早く行動さえすればこんな事にならなかったんじゃないか。そう思う自分もいる。

 

 そういったごちゃごちゃした感情を全部ひっくるめて心の奥底にしまい込み、俺は極力自然な表情で、ご両親におやすみなさいと告げた。

 後悔先に立たず。だけども後からするからこそ後悔。そして今この瞬間、これから先の時間においてその後悔に心を蝕まれる事ほど、タイムロスな行為は無い。

 咲夜の考えが本当だとすれば、こんな事を引き起こした奴が居る。なら本当に悪いのはその犯人こそであり、俺がしそうになっているこの後悔は、本来そいつがするべき。

 何で俺が本当に悪い奴の代わりに後悔しなきゃいけないのか。それは道理がおかしいだろ。

 

「絶対に……絶対そいつに後悔させてやる」

 

 咲夜との会話、綾瀬の手術成功の報告を経て胸の中に生まれた決意を、改めて言葉に出して確固たるものにする。

 そうだ。俺がしそうになった分も上乗せして、綾瀬を……そして恐らくだが悠を、俺の大事な人間を2人も傷つけた奴に、相応の報いをくれてやる。

 

「……そのためにも、まずは寝るか」

 

 家の明かりは外からはついてる様には見えない。渚が俺の帰りを起きて待ってるんじゃないかと心配したが、どうやらちゃんと寝てるようだ。

 もしメッセージを見たら寝ないんじゃないか、と思って俺が帰ることも伝えてない。

 悠が死んでからこっち、ずっと渚には心配をかけ続けたからな。

 

「ただいま……」

 

 鍵を開けて、ゆっくりと玄関の扉を開き帰宅する。

 今年の春頃、園子がいじめを受けている事を認めさせるために夜の公園で会話した帰りも、こんな風にこっそり帰ったっけ。

 あの時はまさかの玄関での待ち伏せに会い、心の底から動揺したが。

 

「……うん、居ない」

 

 今日は流石に渚もそんな事はせず、部屋で寝ているようだ。

 ──と、思ってたのだが。

 

 玄関から続く短い真っ暗な廊下に、リビングからの明かりが扉の隙間を通じて差し込んでいる。

 テレビの音は聞こえてないが、渚はこういう時に部屋の明かりを点けっぱなしで寝るような性格ではない。

 つまりは……。

 

「はぁ……やっぱり」

 

 ゆっくり廊下を歩いて、静かにリビングに通じる扉を開けると、そこにはソファで寝落ちている渚が居た。

 どうやら部屋で寝たんじゃなく、リビングの明かりを最小にして待ってたらしい。

 12月の底冷えする夜に、冬用とは言えパジャマと薄い毛布だけで寝るなんて、風邪ひいたらどうするんだ。

 

「……なんて、思うわけないよな」

 

 出来るだけ足音を出さずに、俺は渚の前まで歩み寄り、その寝顔を見つめる。

 いつも俺のことを考えて、俺のために力を貸してくれる、世界で一番大事な妹。

 ここ数日はいっつも俺を心配する表情ばかり出させてたが、こうして寝てる顔は、なんの苦悩も無い無邪気で可愛らしいものだ。

 

「……さて、と」

 

 本当はこのまま渚を部屋まで運んであげたいが、それじゃあきっと間違いなく、渚を起こしてしまう。

 せっかく寝てるのにそれは嫌だ。

 かといって、このまま薄い格好でリビングに居させるわけにもいかない。

 

 ほんのちょっぴりだけ考えた俺は、一旦リビングから離れて、細心の注意を払いつつ自室に戻り、着替えて、自分のベッドに使ってるタオルケットと毛布を引っさげながら戻ってきた。

 起こしたくないなら、暖まる用意をしてここで寝ればいい。ついでに俺もソファで寝よう。

 おんぶやだっこは起こしちゃうが、熟睡する妹を俺の膝枕に寝かす事くらいは造作もない。

 渚をソファで横にならせて、頭は俺の膝枕、体は持ってきたタオルケット&毛布。これで完璧だ。

 

 心なしか、渚も目を覚ます事は無く、それでいてさっきよりもちょっと寝心地よさそうな雰囲気だ。

 

「おやすみ、渚」

 

 小さくそう呟いて、俺はソファ目の前にある長テーブルに置いてあった照明のリモコンで、リビングの明かりを完全に消した。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「お兄ちゃん、もう少しで朝ごはん出来るから待っててね」

 

 今朝の食事当番は本来俺だったが、機嫌のよかった渚が自分からやると言いだしたので厚意に甘えることにした。

 最近ずっと渚に任せっぱなしだったし、今日こそはと思ったけど、昨日帰ってから着の身着のままだったので、軽くシャワーを浴びて着替える。

 1時間近くも掛けた昨日とは違って、今朝はカラスの行水。最低限の身だしなみを整えて、もう一度制服に着替え直してリビングに戻ると、同タイミングで料理をテーブルに並べていた渚が驚く顔で見た。

 

「お兄ちゃん、今日は行けるの……?」

「うん。もういい加減、渚に心配させたくないから」

「そっか……もうお外に出られるくらい元気になったんだね、良かった」

 

 久しぶりに見る安心した笑顔を見せる渚。

 本当のことを言えない事に、ほんの少しだけ後ろめたさを覚えながらも、俺は早速渚の作ってくれた朝食をいただく。

 もっとも、渚を安心させたいという気持ちは嘘ではない。

 そして、だからこそ渚に『また俺たちの中から、誰か狙われるかもしれない』と伝える事はできない。

 

「でも今日は驚いちゃった、起きたらお兄ちゃんの顔があったんだもん」

「膝枕で首、痛めてないか?」

「全然問題ないよ! むしろ、いつもより調子良いくらい」

「そっか、なら良かった。でも渚、これからの季節は風邪ひいちゃうから、もうリビングで寝るのはダメな」

「はーい……」

 

 小気味いいテンポの会話が、なんだかもう懐かしい。

 こんなに箸が進む食事は久しぶりだというくらい、あっという間に朝ごはんを食べ終えて、片づけは一緒に行う。

 そしてこれも久しぶりになる、2人そろっての出発。

 あの『夢』みたいに途中車に轢かれないように気を付けよう、そう思って玄関を開けると。

 

「あ……おはよう、渚ちゃん、それにおにいちゃんも!」

「夢見ちゃん、おはよう。どうした?」

 

 家の先に、夢見が居た。

 どうやら俺……が登校することは知らなかったはずなので、渚を待っていたようだ。

 

「今日から登校できるようになったんだ、良かったぁ」

「夢見ちゃん、(あたし)を待ってたの?」

「うん、昨日の事もあって、1人で行くのが不安になっちゃって……良かったら一緒にって思ったんだけど……」

 

 そう言って、チラッと俺を見ると、苦笑しながら夢見は言葉を続ける。

 

「おにいちゃんが一緒だったら、2人で行きたいよね。邪魔するのも悪いから先に行──」

「いや、夢見ちゃんも一緒で良いよ」

「──って、良いのおにいちゃん?」

 

 言いたい事を先読みして答えると、驚きと喜びが半々の器用な表情を浮かべる夢見。

 

「私も一緒の方が良いと思う。私だって不安なのに、引っ越してきたばかりだから夢見ちゃんは尚更でしょ」

 

 いやいやながらではなく心から、当然のことの様に渚も俺の言葉に追随する。

 俺自身、可能なら最初からそうしたいと思っていたことだ。

 悠や綾瀬を狙った“犯人”がいつ、どのタイミングで俺らに手をだすか分からない現状、たとえ周囲に咲夜のSPが居たとしたって、固まって動く方が良い。

 

「本当に? 本当にいいの? 兄妹水入らずの空間に余計なモノがって思ったりしない?」

「思わねぇよ、なんだよそれ」

「夢見ちゃんがそう思ってほしいなら、遠慮なくそうするけど」

「もう、意地悪言わないでよ渚ちゃん! ……ありがとう」

 

 そう言って笑う夢見の表情からは、安堵の色が見えた。

 そもそも渚と一緒に登校したがった位だ。からかう渚に対して元気そうに振舞っても、やっぱり心の中ではかなりの不安があったんだろう。

 

「それじゃあ、行こうや」

 

 こうして、急な話ではあったが夢見が転校する前はよくあった3人での登校となった。

 

 

「……ねぇ、おにいちゃん?」

 

 途中、渚と仲良く会話してるのを聴いてるだけだった俺に、夢見が声を掛けてきた。

 無言で先頭を歩いてたので、会話に混ざってない事を気にしちゃったのだろうか。

 

「どうした?」

「すっごい周りを……特に車を気にしてるけど、何かあった?」

「あぁ……そう見えるか」

「うん。すっごく。渚ちゃんもそう思うでしょ?」

「確かに、横断歩道わたる時も青信号なのに赤信号を横切ろうとしてる人みたいにキョロキョロしてると思ってたけど」

 

 渚にまで言われたら間違いない。そこまで挙動不審な行動に見えてたのか……と反省。

 

「おにいちゃんも……うぅん、おにいちゃんが一番気が張ってるのは仕方ないけど、それだと教室に着く頃にはヘロヘロになっちゃうよ? もう少しだけ気楽になろう?」

「言いたいこと全部言われちゃったけど……私も同感」

「んー……分かった」

 

 年下の女の子2人にそろって諭されるのは情けないが、神経過敏になってたのは事実だから、素直に言われた言葉を飲み込むしかない。

 もっとも、こうなるのも仕方ない話だ。『夢』の中で死んだのは綾瀬と俺だけじゃなかった、今こうして一緒に居る夢見もそう。

 昨日は奇跡的に綾瀬の命を救えた事の印象が大きくて、その後の“犯人”の事もあり意識しなかったが、夢見の死だって回避できたんだ。

 それも綾瀬と違って傷一つなく。なら絶対に死ぬような危険から守らなきゃってなるのは、ある意味当然の心の動きだろうよ。

 

「はぁ……うん、肩の力抜いていきます」

「それでいいよ、もっと元気にいこ」

 

 そう笑顔で話す夢見。

 自分の不安を押しのけて、人の心配なんてしちゃってさ。

 本当、強い子だな。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「それじゃあ、お昼にまたね、お兄ちゃん。夢見ちゃんも気を付けて」

「うん、2人ともまたね!」

「気を付けろよ」

 

 学園に到着し、3人がそれぞれの昇降口に向かって別れる。

 俺は数日ぶりの朝の学園の雰囲気にやや呑まれながらも、ここからは万全の注意を払って行動する。

 昨日、咲夜は学園内の警備についてこう語っていた。

 

 

『学園の中にはアタシの指示で動く生徒が各学年に居るわ』

『それで大丈夫なのか?』

『あえて警備の手を薄くするの。その方が“犯人”も行動しやすいでしょ?』

『確かにそうだけど、また綾瀬の時みたいになったら』

『その心配は不要よ。今言ったのと別に、アタシなりに対策があるから』

『対策? 具体的には?』

『秘密』

『えぇ……』

『切り札って言うのはね、隠すから切札足り得るの。覚えておきなさい』

 

 

 咲夜の言う『対策』とやら何かは点で見当もつかないが、ここは素直に信じるとしよう。

 それより目下のところ問題なのは──。

 

「おはよー」

 

 なるべく気楽な声を意識して教室に入る、すると。

 

『──っ!』

 

 一瞬で静かになる教室。昨日もだったが、今日はそれ以上。

 ああ、やっぱり。という諦観が脳を過る。

 悠の件に続いて、昨日の綾瀬の件と不幸……しかも俺と仲の良い人間の不幸が立て続けに起きてしまい、すっかりクラスの中で俺は『可哀そうな奴』となっていた。

 

 同情してくれるのは不快にはならないけど、できれば普通に接してほしい。

 

「えっと……改めて、おはよう」

「お、おはよう……てかお前、今日これるのすげえな」

「ありがとう、七宮。お前がいつも通りのテンションで居てくれるのが何よりの救いだよ」

 

 慄きつつも、やはりクラスで仲のいい友人の七宮は応えてくれた。

 おかげでどうにか最大の懸念である、クラスの孤立は避けられそうだ。あとはできるだけ、俺の元気な姿を見てもらえば、段々と全員が普段通りの接し方に戻ってくれるだろう。

 じゃあ、まずは──。

 

「えっとさ……悠の花瓶の水、入れ替えた?」

 

 机の上にある花瓶を指差して聞いてみる。

 

「いやー、分からん。いつも日直がやるんだけど、誰だっけ今日は」

「あ、わたしだけど……ごめんまだやってない」

 

 七宮がクラスのみんなに尋ねると、ちょうど黒板を綺麗にしてた葛西さんが申し訳なさそうに言ってきた。

 責めるつもりで聞いたんじゃないので、両手で問題ないとジェスチャーを送る。

 

「むしろその方が良かったって言うか……差し支えなければ今日から俺にやらせてくれる?」

「えぇ……それは良いけど、野々原君大丈夫?」

「お気遣いありがとう。でもそろそろ現実受け入れないとね」

 

 了承を得たのでササっと花瓶を手に取る。

 

「なぁ、野々原。お前無理してないか?」

 

 七宮が普段よりも真剣な口調で聞いてくる。

 

「悠の事があって、昨日は河本だろ? なのにさ──」

「無理はしてるよ、その通り」

 

 七宮の言葉をさえぎって、俺は言った。

 

「でもさ、(あいつ)が死んで塞ぎ込んでる間、何も良い事なかったからさ。たぶん今はある程度無理しなきゃいけないんだと思う」

「……そっか。お前がそういうんならしゃあねぇわ。なら頼むから、今度はお前がケガするって事だけはやめてくれよな」

「縁起でもねぇこと言うなよ馬鹿」

 

 冗談と懇願の境目みたいなことを言う七宮のおでこを軽く小突いて、俺は廊下の水飲み場に向かった。

 果たして今の会話で少しでも俺に持たれてるネガティブなイメージを払拭できただろうか。

 少なくとも、カラ元気と虚勢で無理してるんじゃないって事だけでも伝わればと思う。

 

 昨日と同じ、屋上に続く階段の踊り場に向かう廊下を歩く。

 途中、他クラスの生徒が俺を見て何か気づくような表情を見せるが、それらに構わずスタスタ進んで水飲み場に着くと。

 

「……縁くん!? 今日から来てたんですね!」

 

 聞き覚えのある、ていうか聞き覚えしかない女子生徒の声が横からした。

 振り返る先には、俺と同じようにクラスの花瓶──当然向こうは普通に教室に飾ってる物だ──を手にこちらをまじまじと見る園子の姿。

 そういえば園子には伝えて居なかったな、と朝のタスク漏れに内省しつつ、俺はクラスの皆を相手にする時よりは少しだけ素の──参ってる自分を隠さないテンションで応える。

 

「お久しぶり、園子。今日くるって言い忘れてた。ごめんな」

「ごめんだなんて、そんな事ないですよ! それよりすみません、昨日は私だけ病院に付き添えなくて」

「それこそ、謝らなくて良いよ」

「でも……ううん、それより、綾瀬さんの容態は?」

「眠ったままだけど、ヤマは越えたって所。そのうち目が覚めるよ」

「そうですか……良かったぁ、本当に……良かった」

 

 そう言って、花瓶を持ったまま涙目になる園子。

 慌てて悠の花瓶を目の前の水飲み場に置いて、ハンカチを取り出して渡す。

 

「泣くなって、死んだわけじゃないんだから」

「ごめんなさい……でも、彼の直後だったから、もし綾瀬さんまでって凄く怖かったから、安心してつい……」

「……っ」

 

 俺のハンカチは大丈夫と手振りで応え、自分の物で涙を拭きつつ、園子は言った。

 

 確かに、そうだった。

 俺にとって、親友と幼なじみ兼恋人が死んだり大けがをしたのと同じように。

 園子にとっても大切な友人を失い、更にもう1人の友人も失ったかもしれない状況だったわけで。

 辛いのは、本当に俺だけじゃない。

 そんな当たり前のことを、改めて理解できた。

 

「……園子、ありがとうな」

 

 自然と、そんな言葉が口から出た。

 

「ありがとう、ですか……? お礼を言われるようなことは何も」

 

 涙を拭ってもまだ赤みのある目をパチクリしながら、園子は首を傾げる。

 確かに今の会話から不自然な言葉には違いない。でも、園子が泣いてくれて、不思議と心が軽くなったんだ。

 この短い時間で、身近な人が2人も傷ついて、ともすれば俺はこの世界で1番不幸な人間なんじゃないかって思いそうにもなった。

 でもそうじゃない、俺だけが不幸じゃなく、同じくらい悲しみを抱いた人が居るんだと、それくらいあの2人を大事に思ってくれる人が俺以外にもいるんだと、園子が教えてくれた。

 

「言いたくなったんだ。気にしないでくれ」

「そうですか……ふふっ、分かりました」

 

 そんな俺の心中を察してか否か、園子は深く聞いてくることはなく、ただ笑って受け止めてくれた。

 直後に、朝のHR開始5分前を告げるチャイムが、廊下に鳴り響く。

 

「あぁ、いけないいけない。早くやらなきゃ」

「わ、私も……っ!」

 

 互いに慌てて花瓶の水を入れ替える。

 ものの数秒で終わる作業だ。蛇口をしめて、持ってきてたふきんで花瓶についた水滴を拭き取ってると、隣で同じ事をしてる園子が、ぽつりと言った。

 

「縁君……あなたの苦しさを私は完璧には理解できないと思います」

「……ん?」

 

 急な発言に一瞬面食らいながらも、話す園子の表情が真剣なものだったので、黙って続きを促す。

 

「私なんかじゃ、あの2人の代わりには到底なれませんし、なれるとも思ってませんけど……縁君はひとりじゃありません。だから、何かあったらいつでも声を掛けてくださいね。頼りないかもしれませんが、力になります」

 

 隣に立つ俺にしか聴こえないほど小さい声。

 それでも、確かな意志の強さを感じた。

 

「あぁ。もしもの時があったら、すぐに頼りにさせてもらう」

 

 “犯人”の可能性も含めて、危険が残ってる今、本当に園子を巻き込んでしまう行動をとるワケにはいかない。

 それでも、こんな事言われて嬉しくならないハズが無いし、心が暖かくなるのも当たり前の話で。

 あの日、その後に起こるあらゆる修羅場を理解しつつも、園子を助けるために図書室に踏み行ったあの一歩は決して間違いじゃなかった。

 改めて、心の底から、そう思った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 仕方ないとはいえ多少の気まずさが漂いながらも、久方ぶりの授業を受けていく。

 1〜2時限目が過ぎ、3時限目は理科室への移動があった。

 

「──あっ、やべ」

 

 七宮の他、数人と一緒に理科室までの廊下を歩いてる途中で、ノートが違う教科のものだと気づいた。

 

「めんどくせえ、ちょっと取りに戻るわ」

「うっわ、やらかした!」

「おー、久々の移動教室あるあるだな」

「ルーズリーフ一枚やるか? その方が早いっしょ」

 

 三者三様の反応を返してくる友人らに『すぐ戻るから』と返して、小走りで教室に戻る。

 教室までは距離こそ大した事無いが、時間が心許ない。教師に咎められるギリギリの速さで廊下と階段を通り、すっからかんの教室に入る。すると──、

 

「あっ! おにいちゃん!」

「夢見ちゃん、どうした?」

 

 教室の教壇に、夢見がポツンと立っていた。

 

「おにいちゃんに話したい事があって来たんだけど……そっか、移動教室だったんだ。タイミング悪かったかも」

「そうか、でも、誰も居ない他学年の教室に勝手に入っちゃダメだろ? 何か無くしものが出たら真っ先に疑われちゃうぞ」

「あはは、ごめんなさい! 許して、ね!」

 

 そう言って両手を合わせて、可愛く謝る夢見。

 元より怒ってなんか居ないので、教室の時計を見て5分ほど余裕があるのを確認し、忘れ物のノートを机から取り出しつつ言った。

 

「別に良いけどさ、話って何だい? 長くなきゃ言いなよ」

「あ、良いの!? 流石おにいちゃん、優しい! でも……ちょっと長くなるかも」

「そうなのか? なら、大まかな概要だけ言ってくれよ。お昼休みの時に話そう」

「分かった。じゃあ言うけどね……」

 

 そう言って、机からノートを取り出したばかりの俺の前までトコトコと歩み寄り、夢見は下から覗き込むような姿勢で俺の正面に立ち、

 

「おにいちゃん……何かあたしに隠してる事あるでしょう? それもきっと──綾小路さんや綾瀬ちゃんに関わってることで」

「──!?」

 

 いきなり心臓を後ろから鷲掴みされた様な感覚がした。

 

「──あははっ、やっぱり。おにいちゃんったらすぐ顔に出るんだもん、見たら分かるよ」

 

 カラカラと笑う夢見に相反する様に、俺はなんとも言えない表情で冷や汗を垂らす。

 

「何を隠してるのか、あたし気になるなぁ。きっとそれっておにいちゃんだけじゃなく、あたしや渚ちゃんにも関係することだと思うけど、どうかな?」

「──そう、だね」

 

 隠し事をしてることを、誤魔化す気は毛頭無い。

 洞察力の高さに激しく動揺しつつ、俺は夢見の言葉を肯定した。

 

「そっかぁ。……ふふふっ、ねぇ? おにいちゃん。あたしの言った通り」

「……言った通りって、何が?」

 

 俺の問いかけに、満面の笑みを浮かべて夢見は返した。

 

「長い話になりそうでしょ?」

 

 

 

 ──to be continued




少なくとも5分じゃ足りないのは確かだよね★


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5病 やっと、未来が見えたのに

 4()()()の終わりを告げるチャイムが、講堂に鳴った。

 今日は3限が理科室、4限が体育と、学生にとっては嫌がらせの様な授業の割り当ての日なので、せっかくの昼休みも移動と着替えで時間が減ってしまう。

 

 それが分かってるので教師もささっと授業終わりの号令を掛けさせて、俺達はそれぞれの更衣室に向かった。

 

「野々原、お前昼はどうすんの?」

 

 七宮が着替え途中の俺に聞いてきた。

 

「えっと、妹と食べる予定」

「あぁ渚ちゃんと。相変わらず仲良いなお前ら、俺んとこの妹はまだ小6なのにもう生意気言い出してさ、羨ましいよ」

「羨ましいのか? 本当に?」

「おう。俺もそのくらい慕われたいもんだぜ」

「隣の芝生って奴だよそりゃ」

「そっかなぁ」

「そうだって」

 

 渚は確かに最高の妹だけど、俺と渚が今の関係に落ち着くまでに起きた出来事を赤裸々に話したとしたら、果たして同じように羨ましがるのか……気になるけどやめとこう。

 

「ま、今日は良いけどよ。久々にちゃんと登校するようになったんだし、明日とかは一緒に食べようや。な?」

「うん、ありがと」

 

 友人の素直な厚意に礼を言って、一足先に着替え終えた俺はそのまま食堂に向かう。

 いつもならお昼は俺か渚の作ったお弁当なのだが、今日は流石に用意していないので、こちらも久しぶりの学食となる。

 生徒数が多いから、当然券売機で食券を買うのにすら時間が掛るため、あまりタラタラして居られない。かと言って走れば生徒にぶつかるかもしれないので、例によって小走りと競歩の間みたいなペースで動く。

 

「お、案外まだスカスカじゃん。やった」

 

 到着すると、酷い時は出入り口にすら渋滞の列が形成されている券売機の並びが、今はまだ7~9人待てば済む程度。

 どうやら、本格的な人の波が来る前に着けたらしい。更衣室の場所が教室よりも若干近い位置関係だったことも幸いしたか。

 安堵のため息をしつつ、列の最後尾に立った俺は、ほんのわずかなモラトリアムと化したこの時間に、先ほど夢見と交わした僅かな会話を思い出す。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「長い話になりそうでしょ?」

 

 そう言って上目使いのまま薄く笑む夢見は、どことなく普段と違う雰囲気で、油断したら呑まれてしまうんじゃないかって気すらした。

 

「……そんなに表情に出てるか? 俺」

 

 そう一言返すのに、何秒くらいかかったのか。

 

「うん。と言うよりも、だよおにいちゃん」

 

 そう言って半歩下がり、右手の人差し指をこっちにビシッと向けて夢見は言う。

 

「今朝の様子を見たら、何かあったんじゃないかって誰でも思うよ? 渚ちゃんはおにいちゃんがただ神経過敏になってるだけって思うかもだけど」

「ん……まぁ、そう思われてもおかしくない挙動だったか」

 

 今朝、登校中に車や信号、横断歩道を注視したのは“犯人”絡みと言うよりも、『夢』で車に轢かれたからなのだが。

 いずれにせよ、夢見や渚に言えない秘密を抱えてる事は同じだ。

 

「お昼に話すのはいいけど、食べた後の方が良いよね? たぶんおにいちゃんが抱えてるコトって、ご飯が美味しくなくなりそうな内容っぽいし」

「そう提案してくれるのは助かる」

「気遣いもバッチリな小鳥遊夢見です」

 

 ウインクしながら話す姿からは、さっき感じた雰囲気は消えてなくなっていた。

 

「夢見ちゃんが提案してくれた通り、食べ終わって渚と離れてから話そう」

「うん、そうしよう! ……それじゃあ、それはそれとしてお昼はよろしくね!」

「食堂は混むから。早めに行くんだぞ」

「はーい!」

 

 元気に答えて、パタタっと帰っていく夢見。

 その後ろ姿を遠目に見つつ、俺は()()と気付く。

 

「そういや、結局あいつは俺にこの話をするためだけにわざわざ来たのか?」

 

 それこそ、お昼時間の合間に聞いてくるだけでも良かったはずだが。10分足らずの間に階違いの教室に来るまでの事だったか? 

 何となく引っ掛かる疑問が生まれたけど、時計の針も良い具合に進んでいたので、それ以上は考えることをやめて、俺は理科室に向かったのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 思い返してる間に、券売機の並びはどんどん進んでいき、あっさりと自分の番になった。

 久方ぶりに対面する券売機には和洋中様々なメニューが書かれているが、その中でも和食系のものが少し種類が多い。

 味の濃い物が好きな男子生徒からは、よく中華系のメニューを増やしてくれって要望が出てるけど、中華は食材も調味料も油も多く使うからそう簡単にはいかないよな。八宝菜なんて一人暮らしじゃ絶対やらねえもん俺。

 

 他の家庭よりも少し早く自炊生活をしてる故の視点で調理員の皆様の苦労をおもんばかりつつ、俺は事前に決めていたメニューの書かれたボタンを探す。

 この学園の券売機にはメニューの豊富さの他に、どのメニューでも二つずつボタンが用意されてるって特徴がある。

 一つはこの食堂スペースで食べる学生用で、もう一つは弁当の容器に入れて外で食べる生徒用だ。

 

 生徒数が多い良舟学園なだけあって、食堂の広さは大した物だけど、それでも全生徒が収容可能な箱ではない。

 そんな席が無い生徒のために、教室や中庭などの飲食可能なスペースに持ち運べるための措置として用意されてる。

 元より学食でお昼をまかなうけど食堂で食べる気の無い俺みたいな生徒には、まさにうってつけの配慮ってわけだ。

 まあその分、それこそ俺の様な久しぶりに使う生徒が目当てのメニューを探そうとするときには、ボタンの多さに苦労しちゃうんだが。

 

「えっと……ここかよ、分からないって」

 

 券売機の下から二つ目の段に、俺が食べたかった『ポークジンジャー(弁当)』のボタンを見つけた。言ってしまえば生姜焼きなんだから、人気あるハズだしもっと選びやすく見つけやすい場所に配置してほしいもんだ。

 

 内心で小さなクレームを出しつつ、出てきた食券を手に受け渡し口に向かう。

 担当のおばちゃんに券を渡すと、1分もかからずに弁当に詰まった出来立てのポークジンジャー弁当が出てきた。受け渡し口に常備されてる割り箸を一膳手に取り、にわかに混み始めた食堂から出て行く。

 

「あ、おにいちゃん。お弁当買ったんだ」

 

 ほんの数分の間に券売機にそこそこの列が形成されてたが、その中に夢見がいた。

 

「おお、もう少し早く来たらすぐに買えたな」

「これでも結構急いだつもりなんだけど……」

「でも十分早い部類だよ、俺は並びで15分くらいかかった時あったし」

「……券売機の数が合ってないだけじゃない、それ?」

「今度生徒会に頼んでみようか」

「そうしよう? ……あっでも、おにいちゃんが生徒会長になって一台増やすのも良いんじゃないかな?」

「馬鹿言うなよ」

 

 他愛もない話が突拍子もない方向に行き、クスリと笑う。

 すると、意外にも本気の発言だったのか、少しムキになりつつ夢見が言った。

 

「え〜? あたし全力でおにいちゃんの応援するけどなぁ。おにいちゃんカッコいいし、絶対当選するよ!」

「はいはい、ありがとね」

「あ〜聞き流してる! ……本当にそう思ってるのに」

 

 そんなふうに慕ってくれてるのは素直に嬉しいと思う。

 だけど他にもたくさん生徒がいる中で堂々と言われるのは、普通に恥ずかしいからやめて欲しい。

 

「先に外で待ってるよ。渚が席を確保してると思うから、見つからなかったら電話かけてくれ」

「はーい、遅くなりそうならこっちから連絡するね」

 

 そんなやり取りを皮切りに、改めて俺は食堂を出て中庭の方へと向かった。

 食堂には当然お昼を食べようとする生徒は多いが、中庭もソコソコだ。中等部校舎と高等部校舎に挟まれて、校庭に続いてるのもあって、人通りが最も多い場所。

 さっきも言った通り、ここでお昼を過ごそうとする生徒が、中等部と高等部両方で居る。

 

 当然、ベンチやテーブルなども陣取り合戦が静かに繰り広げられてるのだが、基本お弁当を持参してる野々原家においては高みの見物であった。

 今日は俺が突発的に登校する事を渚に伝えた事もあり、俺だけは学食だが、渚は別だ。

 

「あ、お兄ちゃーん、こっちだよ」

 

 やっぱりいた。既に弁当箱をテーブルに置いた渚が、ヒラヒラと俺を見つけて手を振っている。

 なんだか今日は『お兄ちゃん』と言われることが多いな。と思いつつ、俺は小走りで渚の元に向かった。

 

「早かったね、もっとかかると思った」

「俺も予想外。案外更衣室って学食に近いんだな。今更だけど」

「夢見ちゃんは、まだ並んでる感じ?」

「そゆこと。少し待つけどいいか?」

「うん。(あたし)達だけ先に食べたら、夢見ちゃん不貞腐れちゃうよ」

「だな」

 

 あの並びなら長くても7〜8分だろう。待つのに苦労はしない。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?」

「今日は、ちゃんと授業受けられた?」

「……あー」

 

 どうやら、渚は俺がクラスで上手くやれてるのかを心配しているみたいだ。

 登校できるようになっても、クラスメイトから変な目で見られてないか、距離を取られていないかが気になったんだろう。

 駄目だなぁ。どこまで行っても渚に心配をかけてしまってる。それだけここ暫くの間の俺はダメダメだったわけだ。

 

「やっぱ最初はみんな『うわ、こいつ来たのかよ』みたいな反応あったよ」

「やっぱり……中等部(こっち)でも悠さんや綾瀬さんのことは話題になってたから……もしかしたらって思ったけど」

「仕方ないよな。俺だって他人事だったら同じ反応するし」

「変なこと、言われたりしてない?」

「流石に大丈夫。驚いたみんなも純粋に心配して……って感じだし。いじめとかは全然無いよ」

「……本当?」

「ほんとホント。何ならお昼に誘われたくらいだから、渚と食べるからって断ったら羨ましがられたよ」

「そっか……なら良かった、ちょっとだけ安心」

 

 俺が嘘をついてないと分かった渚は、言葉通り安堵のため息をつく。

 少しは不安を拭えただろうか、俺もその様子を見て心の中で安心した。

 

「ちょっとじゃなく、ちゃんと安心して欲しいけどな」

「それは無理。お兄ちゃん鏡見てる? 結構目のクマ濃いよ? それが無くなるまでは安心できません」

「うぇ、マジか。目のクマ……」

 

 そこは意識してなかった。確かにそこが濃かったらどんなに気丈に振る舞っても見てる側はキツいよなぁ。

 

 

「何かしらケアするか。渚にはバレてても、クラスのみんなは誤魔化せるだろうし」

「私のアイクリーム使う? 予備もあるからひとつあげるよ?」

「……あいく・りぃむ?」

 

 未知の言語が急に降りてきて頭が『?』で埋まった。

 

「お兄ちゃん……はぁ」

 

 俺が何言われたか分かってないのを察した渚は、やれやれと言わんばかりにため息をつく。やめてくれ、そんな『彼女持ちのくせにその態度もわからないのか』みたいな目で見るのは。

 

「コスメのことだよお兄ちゃん。あいく・りぃむじゃなくてアイクリーム。分かる?」

「コスメ……コスプレの一つか?」

「あちゃー、そこからかぁ……」

 

 やめてくれ。頭を抱えるのは。

 いや本当にごめん。女子のその辺の話は耳にしないから分からないんだ。

 

「コスメは化粧品と同じ意味で覚えて。アイクリームはお兄ちゃんみたいに目のクマに困ってる人が使うの」

「へぇ、知識が増えたよ。教えてくれてありがとう」

「お兄ちゃん、綾瀬さんだってお兄ちゃんと会う時は色々オシャレしてるんだから、ちゃんとその辺も覚えようよ」

「確かに……休日会う時は心なしか学園にいる時より目元やまつ毛がパッと輝いてる気がした」

「学園は規則でナチュラルメイクしか出来ないから。お兄ちゃん、違いを感じたらその時にちゃんと言ってあげなきゃダメだよ」

「う、ぐうの音も出ない」

 

 服装のオシャレについては気づいても、そうか、メイクかぁ。そこは完全に見落としてたな……。

 今までだって、俺が気づかないだけで綾瀬は俺によく見てもらおうと見えないところで色々頑張ってくれてたんだと思うと、自分の教養のなさに呆れてくる。

 今月はあと2週間でクリスマスだし、化粧品……コスメっていうんだよな、それをプレゼントにしてるのもありか。何を買えば良いのか分からないが、渚に聞くのだけは絶対しちゃいけない。後で折を見て調べてみよう。

 そのためにも、綾瀬には1日も早く目を覚まして貰わなきゃな……今日もお見舞いに行こう。

 

「勉強になったよ、渚」

「なら良いけど。もし綾瀬さんがこの会話聞いてたら絶対呆れてるからね」

「だな。……ところで、渚はどうなんだ?」

「──? どうって、何が?」

「いや、ほら。渚はメイクとかするのかな……って。もしやってたらこの質問自体凄えデリカシーなくて悪いんだけどさ」

「私は……えっと」

「あ、言い難いことなら無理に言わなくて良いぞ」

 

 よく考えればこれってソコソコ女子のパーソナルな部分に触れる話題かもしれないと思ったが、渚は気恥ずかしそうに頬を掻きながら答えた。

 

「言い難いって事はないんだけど……私はまだそういうのは早いかなって」

「早い、か」

「うん。まだ中学1年だし先生も厳しいから……周りには薄くメイクしてくる子も居るけど、私はもっと大人になってからにしようかなって」

「なるほど……そういう考え方もあるのか……」

 

 確かに、校則で明確に禁止されてたかは覚えてないが、ハッキリ分かるくらいお化粧して来たら教師からの生活指導とか入りそうだもんな。

 それにしても、渚がそういう考え方してるってのは意外だった。中1といえば男なら厨二病の始まりだが、女の子はみんなオシャレにがっつくと思ってたのに。

 

 あぁいや、待て? 

 もしかして渚の場合、他の子が朝スキンケアやら髪のセットに掛けられる時間を朝ごはんや弁当の用意に使ってるから、というのもあるんじゃないか? 

 考えてみればそうだ。朝の渚からはとてもそんな余裕あるとは思えない。寝癖は無いから洗顔の時に髪型セット位はしてるだろうが、顔の手入れまでちゃんと出来るはずも無いだろうし。

 

 今まではともかく、これから思春期真っ盛りになる年頃の妹に野々原家の環境は、今更だが少し不健全なのは否めない。

 渚はまだ早いと自分で言うものの、こういうのって大人になったら急に出来るものでも無いだろう。

 となれば、渚の将来のためにもこれからは俺が少し──、

 

「お兄ちゃん、ひょっとして今、私のために『朝もっと早く起きてご飯の用意しよう』なんて思ってない?」

「──っ!?」

 

 まさに『ギクッ』という効果音がピッタリの反応で長さに質問の答えを返してしまう。

 

「やっぱり……あのね、お兄ちゃん。私、本当に今は無理にそう言うの覚えようってつもりは無いんだよ? 私が朝ごはんの用意するのも、お弁当作るのも、お兄ちゃんと一緒にいたいからしてるんだもん。今はそれで良いの、分かった?」

「……んー、分かった」

 

 まだ引っかかる部分はあるものの、本心だと言う渚の言葉に嘘偽りは無いだろう。

 なら、取り敢えず今は。渚の気持ちを尊重しようと思った。

 

「──あ、でも、休みの日とかは」

「お兄ちゃん」

「あっはい。何でもないです」

 

 これ以上この話をするのはやめよう。と思うのと同時に、あとでこっそりと、クラスの女子から女子中学生が出来るメイクについて、色々聞こうと決めたのだった。

 

「また変なこと考えてそうだけど……あ、夢見ちゃん来たよ」

 

 渚が再度俺の思考を読もうとしたが、タイミングよく夢見がこっちに来たので、一旦この話はここでお開きとなった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「それじゃあ、次は放課後にね!」

 

 お昼を食べ終えた俺たちは、それぞれの容器を手に中庭を離れる。

 渚は中等部校舎へ、俺と夢見は食堂の弁当を捨てるゴミ箱に向かいつつ、午前中に約束してた件について話す。

 

「良いなぁ、おにいちゃんと渚ちゃん。あたしも園芸部入ろうかなぁ」

「今は顧問の幹本先生も忙しいからなぁ。入部手続きはもう少し待ってくれた方が良いかも」

「忙しいの? どうして?」

「……部員が死んだり大けがすれば、そうなるだろう」

「あ……ごめんなさい、そうだよね」

 

 意識したつもりでは無かったけど、強い口調で言ってしまった。

 

「いや、こっちこそごめん。夢見ちゃんが謝ることじゃないよ」

「でも、考えたらすぐに分かる事だったし……」

「そんなこと無いって。そんなことより、本題を話そう」

 

 やや強引だったけど、気を取り直すように本来の目的に話を運ぶ。

 夢見もそれ以上何かいうことは止めて、素直に乗ってくれた。

 

「それで、俺が何を知ってるのかってことだよな」

「うん。教えてほしいな」

「まず大まかに言うと……」

 

 一旦話すのを止めて、辺りを見回す。

 ゴミ箱に向かう途中なので、周囲には当然生徒たちがぞろぞろ居る。その中に“犯人”が居る可能性も0では無い。

 

「夢見、ちょっと耳かして」

「耳? うん、良いけど……こう?」

 

 この言い方で伝わるかな、と言った後に思ったが、発言の意図を汲んだ夢見がこちらにそっと耳を向けてくれた。

 そのまま内緒話をするように俺も夢見の耳に手を当てて、やや小声で言った。

 

「綾瀬は誰かに殺されかけたかもしれない」

「…………へ?」

 

 やや気の抜けたリアクションを返す夢見。

 言葉の意味が分からない、と言うわけでは無いみたいだが。飲み込むのに時間が掛ってるのかもしれない。

 耳から離れて続く反応を待つと、数秒置いてからやっと夢見がこちらを見て言った。

 

「じゃあ、渚ちゃんも狙われるかもしれないってことだよね?」

 

 こちらが言おうとしてた内容に、言われる前から辿り着いたらしい。

 頷くと、夢見は『そっか。やっぱり、そうなんだ』とつぶやいてから、俯いてしまう。

 やはりショックを受けてしまったか……。こうなる姿を見たくないから黙っていたんだが、きっと遅かれ早かれこの話をせざる得ない時が来ていたに違いない。

 夢見は複雑な事情でこの街に戻ってきても、笑顔と気遣いを忘れない強い子だ。下手に隠して不安を募らせるよりも、むしろ今しっかり話す方が正解という見方もある。

 

「咲夜がその可能性が高いって言ったんだ。悠の死にも関係してるかもしれない」

「……何か、関係してるって証拠は出てるの?」

 

 夢見は俯いたまま訪ねてくる。その表情は読み取れないが、まずは事実確認を優先している辺り、比較的冷静なのが分かる。

 

「いいや、何も。俺が知らされてないだけかもしれないけど」

「じゃあ、今のところは咲夜さんの憶測ってだけかもなんだ」

「客観的にはな。でも、俺は悠の死と綾瀬のことが絶対繋がってると思う」

「……どうして?」

「そうじゃなきゃ納得ができないから」

「納得?」

 

 俺の答えが意外だったのか、夢見は俯いてた顔を上げて俺を見た。

 薄いグリーンの澄んだ瞳が、俺の発言の意図を知りたくてジッと見つめている。

 夢見はよく『顔を見れば分かるよ』と言って俺の考えてることを当ててくるが、今まさに、俺の目を見て何を考えてるのか知りたいんだ。

 目は口程に物を言うと言うが、素直に今は想いを言葉に出す方が早い。

 

「悠の人生があんな惨い終わり方で良いワケない。綾瀬が死ぬような怪我を負うのが運命なんてありえない。2人とも何もなければ、きっと今日も元気にここにいたんだ」

「だから、誰かがあの2人に……って思ったんだ、おにいちゃんは」

「最初は違ったけどね。あの2人を強く恨むような人間が居るわけない。恨まれるだけの事なんて2人はしてない。そう思ったけどさ」

「でも、今は違うんだ。どうして考えを変えたの? 咲夜さんがそう言ったから?」

「それだけじゃないけど、俺以外にも同じように思ってた人がいたのは結構大きいかな」

「そっかぁ……」

 

 そう答えたあと、夢見は何を思ってるのかよく分からない顔で手に持ってた空の容器を見る。

 夢見にとっては拍子抜けな話だったかもしれないな。何か重大な事を俺が隠してるかと思ったら、言ってしまえばお気持ち表明みたいなものだったわけだし。

 

「変な話ちゃったな。とりあえずこれは渚には内緒で頼む。それと、一応用心はしといてくれ。怪しい奴がいたらすぐに逃げるんだぞ」

 

 そう言って話をまとめようと思ったが、これに対して夢見が意外な返答を返してきた。

 

「変だなんて、思ってないよ。安心して」

 

 小さく笑みを見せつつ、そう答える夢見は嘘をついてるようには見えなかった。

 

「むしろ、なんだろ……うーん、カッコいい? って思った」

「か、カッコいいってなんだ……そういう話じゃないだろ今の会話」

「そうなんだけど! でも、おにいちゃんが本気で怒ってるんだって言うのが伝わって、こう……あたしも頑張らないと! って思ったの」

「な、なるほど……」

 

 正直、聞いてる俺はいまいち要領がつかめてないが。

 とりあえず、疑わずに聞いてくれたようだ。

 

「それでおにいちゃん、これからはどうするの? 犯人探しするの?」

「そうしよう、とは思ったんだけど、できる事が無くってさ。俺は探偵じゃないし」

「あ~……そうだよね。それに探したってすぐ見つかるほど簡単じゃないのは間違いないと思う」

「それな。だから、俺にできるのは普段通りに過ごすことくらいなんだ」

「それで、犯人見つかるの?」

「見つかるって言うよりも、向こうから来てもらうのを待ってる感じ。いわば囮だよ」

「ちょっと待って、それっておにいちゃんが危ない目にあうって事じゃない!?」

 

 声を大きくして夢見が驚いた。

 少し離れた距離にいる生徒らが驚いてこっちを向いたので、慌てて声を抑えるようジェスチャーをする。

 

「あ、ごめんなさい。つい出ちゃった」

「あとは歩きながら話そう」

「うん」

 

 ごみを片づけるのと、場所を移す意味で俺たちは止めてた足を動かして、再度ゴミ箱に向け歩きながら話を進める。

 歩き始めると同時に、さっそく夢見は比較的小声で言った。

 

「あたしは反対。おにいちゃんが危ない目に遭うのは渚ちゃんだって納得しないよ」

「危ないのは重々承知。でも、結局学生が学園に登校するのは必要な行動だし、何よりも俺が引きこもってる間に渚や園子、それに夢見ちゃんが襲われて何かあったりしたら、死んでも死にきれない」

「おにいちゃん……そっか。そうだよね。あたしがおにいちゃんの立場でも同じこと考えるもん」

「納得してくれた?」

「うん! ……あ、でも咲夜さんは平気なの? 今の話に出てこなかったけど」

 

 重箱の隅を楊枝でほじくるような質問が来たな、と苦笑しつつ、俺は答える。

 

「咲夜はきっと今この街で一番安全な立場だよ。悠の事もあってガードが固くなってるのは間違いない」

「確かに。今の咲夜さんに何かするのは難しいって思うよね」

「“犯人”が居るって俺に話したのは咲夜自身だからな。当然警戒もしてるだろう。それに、俺たちにもこっそり人を付けてくれてるんだ。おかげで家に居ても安全だから、そこは安心してな」

「え…………そうなの? 学園でも?」

「学園ではあえて人を付けないでいるんだと。“犯人”が学園関係者なら、その方が炙り出しやすいからって」

「でもそれじゃあ、いざっていう時に意味が無いんと思うんだけど」

「その代わり、咲夜の指示で生徒が学園中で監視してるんだってさ。……今思えば査問委員会の時もそうやって監視網作ってたんだろうなぁ」

「査問委員会?」

「あぁなんでもない、こっちの話」

 

 あやうく脱線しかけた話をもとに戻そうとしたが、ちょうどゴミ箱が見えたので話もこの辺で終わらせようか。

 

「とにかく、ホントに気をつけてな。夢見ちゃん」

「ありがとうおにいちゃん」

 

 俺の言い方から終わりの雰囲気を察して、夢見もそれに乗る。

 2人でゴミ箱に空の容器を入れる。あとは各々の教室に戻るだけだが……。

 

「──ねぇ、おにいちゃん。最後に一つだけ聞いても良い?」

「ん?」

「咲夜さんは他にも、何か対策とかは話さなかったの?」

「対策、うーん……」

 

 パッと思い浮かんだのは、咲夜の言う『切り札』だ。

 そのまま素直に夢見に伝えようかとも考えたが、俺はその内容をろくに知らされていないので、話しても意味がないのではと思った。

 それに、咲夜が俺にも詳細を伝えないってことは、そもそも咲夜が『切り札』を用意してるって事実も誰かに知られたくないって意味だと思っている。

 なら、たとえ夢見が相手でも存在をほのめかす発言すらしない方が良いに違いない。

 

「何かしら案は持ってるとは思うんだが……。うーん、分かんないや」

 

 これが、ギリギリのライン。

 すっかり『真っ赤な嘘』をつく事に拒否感を覚えるようになった俺が、それでも本当の事を言うわないで済ませる方法。つまり嘘の中に少し事実を混ぜる。

 今回で言えば、何かしら咲夜が他の対策を用意してるのは事実だが、それを明確にはせず、知らないという嘘で包み込む。

 

「そっかぁ……分かった!」

 

 そんな俺の言葉に、今度は目をじっと見る事は無く、夢見は何の追及もせずに納得してくれた。

 

「じゃあ、そろそろ時間も近いし、戻ろう」

「はーい、おにいちゃんも気を付けてね!」

「おう」

 

 そう言って、今度こそ俺たちは5限に向けて教室に戻ったのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 4限の体育によるそこそこな疲労と、食後の満腹感から平時なら眠くなる5~6限目だが、今日に限っては緊張感からそんなものは微塵も感じなかった。

 気まずさがあったクラスメイト達も、いい加減なれたのか俺に気を遣う様子も見えなくなり、渚の心配する要素も無くなりそうだ。

 

「~~なので、ここで『私』がKの言葉を使ったのは、恋敵を──」

 

 6限になり、現国の教師が教科書の内容について説明をしているのを聴きながら、俺は改めて現状整理に思考の4割を割く。

 と言っても、シンプルな話だ。

 ①悠と綾瀬の件には“犯人”がいるかもしれない。

 ②そいつは残る俺らを標的にするかもしれない

 ③咲夜は俺たちにガードを付けてくれる

 ④現状できる事は、普通に生活することで“犯人”の動きを待つことだけ

 ⑤咲夜は俺にも分からない何かしらの『切り札』を用意している

 ⑥上記④までは、夢見と情報共有した

 

 ……うん。ノートの端っこに書いて見える化してみたが、全然進展が無くてもどかしさを覚える。

 だけど、この話を咲夜から聞いてま24時間も経っていない。綾瀬が昨日階段から落ちた時間からもだ。

 ここから急に事が動く方がどうかしているのであって、更に言えば事が動くって言うのはつまり、俺や渚、園子や咲夜、そして夢見……この中で誰かが襲われるって事になる。

 俺が狙われるならまだ良いが、それ以外の誰かが狙われる展開を望むのは本意じゃない。

 

 駄目だな、矛盾してきた。

 悠を殺し、綾瀬を半殺しにした“犯人”の存在を望んでる自分。

 “犯人”なんてものは居なくて、この先みんなが狙われる可能性なんて無いことを望んでる自分。

 どちらも本音で、客観的に望ましいのは後者。前者は言わばこんな目に遭わせ誰かをぶん殴りたいっていう私怨じみたものだ。

 嫌になるな。こういうの。

 

「──ん?」

 

 これ以上の現状整理に健全なモノが見えなくなりかけたタイミングで、隣の席に座る今間(こんま)さんが折りたたまれたメモ帳の切れ端を手渡してきた。

 今間さんを見ると、窓際に座ってる七宮の方を指さす。どうやら七宮が俺に向けて渡すように言ったらしい。

 メモ帳を開いてみると、中に書かれていたのは『調子悪いなら保健室言ったらどうだ?』という一言。

 

「……ありがたいな」

 

 小声でそうつぶやきつつ、改めて七宮の方を見る。当人は真剣に授業を聞いてる様子なので俺に気づいてない。

 内容から察するに、俺が現状把握してウンザリしてる様子を見て心配したんだろう。普段はこんな気を遣う奴じゃないのに、嬉しくなることするじゃないか。

 まぁ、保健室に行く事は無いけれど、袋小路に陥りかけた頭をリセットさせることはできた。

 

 悠や綾瀬は俺にとって掛け替えのない存在だけど、俺にはそれしかないわけじゃない。

 渚たちはもちろんだし、七宮みたく何かあれば見てくれる奴もいる。

 俺は別に袋小路に居るわけじゃない。だったら、強気な心持ちで行こう。“犯人”の居る居ないに関係なくね。

 些細な切っ掛けだけど、メンタルリセットできた。その直後。

 

 地震とは違う、全身が一瞬ふわっと浮かぶような衝撃がクラス全体を包み、

 

 

 ──ジリリリリリリリリリ!!! 

 

 学園中にサイレン音が爆音で鳴り響いた。

 

 

『うわ、なんだよ今の!?』

『え、地震? でも違くない今の?』

『揺れたけど何?』

 

 一瞬にして騒めき立つ教室。咄嗟に現国教師の顔を見ると、そっちも何が起きたのかという表情。

 高速で鐘を打ち鳴らしてるような音は火災が起きた時に出る火災報知機の物だ。

 教師の様子から、今の状況があらかじめ用意された避難訓練じゃなく、本当に起きている緊急事態だと否応なく理解してしまう。

 直後に、職員室からであろう放送が流れてきた。

 

『本校舎の家庭科室で火災が出ました、至急、先生の指示に従って校庭に避難しなさい。これは避難訓練ではありません。本校舎の──』

 

 そのアナウンスで、一気に静まり返るクラスメイト達。

 思いもよらない事態に動揺はしているが、一歩間違えたら死に直結しかねない事態に、避難訓練時のような気軽さは一切出てこない。

 

「全員すぐに廊下に並びなさい! 騒がないで早く!」

 

 教師の緊迫とした声に全員が素直に従う。当然俺も急いで廊下に出て、自然と形成された列に並び校庭に向かう。

 階段を降りて、本来なら履き替えるところを上履きのまま校庭に出る。避難訓練の時と同じ場所まで移動し終わって校舎を見れば、確かに1階から黒々とした煙が立ちこもっていた。

 

「しばらくここで待ちなさい」

 

 教師がそう言うのを耳にしながら離れていく。きっと他のクラスの生徒を誘導しに行ったんだろう。

 残された俺たちはと言えば、教師の指示通り静かにする者、やはり前後の人と何が起きたのかと話し始める者、純粋に恐がる者と様々だ。

 

 続々と他の生徒らも校庭に集まってくるのを見て、いよいよ事の重大さを実感し始めた頃。ふと、恐ろしい可能性が頭を過る。

 つまり、この事態は“犯人”が引き起こしたものではないのか、ということ。

 綾瀬が殺されかけた翌日に行動を起こさないだろうというのは俺の勝手な憶測にすぎない。いつどんなタイミングで動くかなんて当人にしか分からない事だ。

 

 そんなことを考えた矢先に、ポケットにしまってたスマートフォンが微振動をしているのに気づく。

 取り出して画面を見たら、咲夜からの着信が表示されている。

 本来ならこの状況で電話なんて怒られる行動だが、相手が咲夜なら話は別だ。俺は周りの目も気にせず電話に出た。

 

「もしもし、どうした」

『出た、良かった……じゃなくて! あんた、今起きてる状況は分かってるわよね?』

 

 電話先の咲夜からも、周りがガヤガヤしているのが伝わってくる。どうやら中等部校舎の生徒も避難しているらしい。

 

「ああ、こっちで火災が起きた。今みんな避難してる」

『アタシ達も避難中。それで縁、今アンタの近くに柏木園子や小鳥遊夢見は居る?』

「まだ見てないけど……どうして?」

『良い? 落ち着いて聞きなさいよ。今確認したけど、渚──アンタの妹が校庭に居ないの』

「!?」

 

 想いもよらない言葉に、心臓がドクンと強く波を打つ。

 しかし驚愕や動揺の間も許さず、咲夜の言葉は続く。

 

『確証は取れてないけど、急に列から離れて高等部校舎に向かったって報告も来てるの。だからそっちで見てないか、確かめたくて──』

「──っ!!」

 

 その言葉を聞いて、もはやここに留まることはできなかった。

 咲夜の電話もお構いなしに、俺は周りの目など一切気にせず校舎に戻っていく。

 当然他のクラスに同伴してた教師が呼び止めるが、そんなの聞くわけがない。

 

 校舎の中に戻り、既に昇降口にすら立ちこもっている黒煙にせき込みつつ、俺は家庭科室に向かう。

 

『──ちょっと!? 話を聞きなさいよ! そっちは』

 

 スマートフォンから漏れ出る咲夜の声を無視しつつ、ハンカチを口に添えて煙の中を進む。

 もしこの事態が“犯人”の仕業だとすれば──なんて過程はとっくに俺の中で通り過ぎ、今は確信している。

 この事態は、“犯人”が引き起こしている。そしてソイツは、渚を狙っている。もしかすれば園子や夢見すら一気に殺そうとしてるかもしれない! 

 

 進むごとに当然濃くなっていく煙と、炎の熱に怯みそうな体を無理やり動かすうちに、家庭科室が見えてきた。

 そして、同時に俺の視界に見えたのは、家庭科室の入り口で仰向けに倒れている生徒の姿。長い黒髪を廊下の床に散らして、周囲に真っ赤な水たまりを張らした……よく知る、女子生徒の姿。

 

「──園子? ……園子なのか!?」

 

 間違いなく、血だまりの中に倒れているのは柏木園子だった。

 黒煙をかき分けてそばにより、体を抱きかかえる。すると──、

 

「──っ、そんな……」

 

 園子は生気を失った真っ白な顔で、首から血を流していた。

 何者か……きっと“犯人”に首を切られたのだ。

 

「……よす、が……くん?」

「──園子! 良かった、まだ意識が」

 

 死んでいないのが分かり、急いで咲夜に伝えようと思ったが、掠れた声で園子が言った言葉が、それを止めた。

 

「なぎさ……ちゃん、が……」

「──渚が危ないのか!?」

「はや、く……にげ……」

「園子、園子!! あぁくそ、ダメだ園子、ダメだって!」

 

 必死に呼びかけるが、腕の中で園子の身体から力が無くなるのを如実に感じ、否応なしに理解してしまう。

 

「園子……あぁぁ……何で……」

 

 黒煙がどんどん立ちこもっていく中、園子はたった今、目の前で死んだ。

 あの『夢』の中で夢見がそうであったように、また目の前で、腕の中で、大切な人間が死んだのだ。

 

 だけど、その悲しみに心を砕かせるわけにはいかなかった。

 

「……渚が、この先にいるのか」

 

 園子は言ったのだ、『渚』の名前を。

 つまり、この家庭科室の扉の先にいるのだ、渚が。

 園子は逃げろと言ったが、どんな理由があってもそれだけはできない。

 

「……ごめん」

 

 園子をその場に()()()、俺は意を決して家庭科室の扉を開く。

 せき込みそうなのを我慢しつつ入った先に居たのは──。

 

「──おにいちゃん!? どうして?」

 

 入口のすぐ前に夢見は立っていた。だけどその足からは血が流れていて、負傷していることが分かる。

 そして──、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ? また誰か出てきたよ、ナナ」

「本当ね、お仲間さんかしら?」

 

 小学生ほどの背丈をした、ゴスロリ調の服とタキシード姿の、見たことも無い2人の子どもが居た。

 

「なんだ……え、誰だよ、お前ら」

 

 仮にここに“犯人”が居たとしても、それはきっと屈強な男性か、見るからに不気味な人物だと思っていた。

 なのに、いざ家庭科室に入ったら、そこにいたのは年端も行かない、秋葉原か池袋で見るような格好の少女ら

 あんまりにも想像と違いすぎる状況に、思考が混乱する。しかし、視界の隅に映ったそれを見た瞬間。そんな困惑が全て上書きされた。

 

「──なぎさ?」

 

 夢見と2人の少女の間に倒れている、もう1人の女子生徒。

 俯せに倒れて顔が見えないでいるその少女が誰かなんて、俺にはすぐに分かった。

 

 

渚が、園子と同じように血だまりの中に倒れていた。

 

 お昼まで一緒にいた渚が、元気だった渚が、まるで糸の切れた人形の様に、力なく──

 

「──おにいちゃん、こいつらだよ!」

 

 絶望に全てが染まりかけた俺の頭に、夢見の声が鳴り響く。

 

「こいつらがあたしや渚ちゃん達をここに呼んで、殺しに来たの! こいつらが“犯人”だよ!」

 

 今まで聞いた事の無い語勢で、夢見が言う。

 それに対して、二人組の少女は笑いながら答えた。

 

「らしいけど、どう思うナナ?」

「どうだったかしら、ノノがやったんじゃないの?」

「違うよぉ。でも、関係ないよね?」

「そうね。だって……」

『お姉ちゃんを殺せば良いだけだから』

 

 笑いながら言う2人。

 辺りに立ちこもる炎と煙がまるで存在しないモノの様に、少女らは一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。

 いつの間にか、ナナと呼ばれた少女の手には斧が、ノノと呼ばれた少女の手にはナイフが、それぞれ握られている。

 

 そうか。

 つまり、それで殺したのか。

 園子を、そして渚を──それで殺したのか!! 

 

「それじゃあ、さっさと終わらせましょう。ここもいい加減煙ったいから服に匂いが付いちゃうわ」

「そうだね、仕事を終わらせよう」

「…………っ、おにいちゃん、はやくここから逃げて! あたしの事は良いから!」

 

 夢見が今まで聞いた事の無い声色で俺に逃げる様に言う。

 それとは真逆の温度で、二人組は、まるでワンサイドゲームのような優越感しかない雰囲気で話し合う。

 

「どっちで終わらせようか。ナナの斧? それともナイフ?」

「そうね…………どうせなら一緒に投げてみない? 斧とノノのナイフ、どっちが先にあのお姉ちゃんを殺せるか、勝負しましょう?」

「あはは! それ面白いかも!」

 

 まるでダーツや射的のような感覚で人を殺す算段を話している。

 聞いてるだけでも怒りがこみあげてくるが、俺にはあの2人に対抗できる手段なんてものは無い。

 見た目は幼くても、あの2人は渚と園子を殺した2人。きっと夢見の言う通り悠と綾瀬に手を掛けた“犯人”に違いない。あんなに殺したかった相手なのに、その二人組に対して俺は武器を持ってない。できる事と言えば、園子や夢見が言った通りこの場から逃げるだけだ。

 スマートフォンはいつの間にか電話が切れていたから、リアルタイムで状況伝えることはできない。それでもここから一目散に逃げて、咲夜に事の詳細を伝える。それだけが俺に許された行為だろう。

 

「じゃあ、いせーので投げましょう?」

「うん! じゃあ掛け声はこっちから行くね? いっせーの──」

 

 二人組が慣れた仕草で各々の武器を構えて投擲の準備に入り、瞬きもしない内に夢見に向けて投げつけようとする。

 

『──せっ!』

 

 掛け声と共に、斧とナイフがまっさぐ夢見に向けて投げられた。

 まっすぐに飛ぶナイフ、回転しながら向かってくる斧。そのどちらもが寸分の狂いもなく、夢見の命を終わらせようとする。

 足を痛めた夢見にそれを避ける力はもう無い。このまま瞬きをする間に、目の前でまた大切な人が殺されてしまう。

 

 それだけは──もう我慢できなかった。

 

 

「……え?」

「あら?」

「あれ?」

 

 轟々と燃え盛る炎の熱と音が支配する空間の中に、一瞬だけ静寂が訪れる。

 

「……ごふっ」

 

 それを破ったのは、他でもない俺。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、俺の吐血する音だ。

 

「外してしまったわ、ノノ」

「ナナ、違うよ。あれはあっちのお兄ちゃんが盾になったんだ」

「なんでそんな事したのかしら。おかげで斧がひとつ無駄になったわ」

「まだあるから大丈夫だよ。もう一回勝負しよう」

 

 急速に薄れていく意識が、二人組の会話を耳に入れる。

 どうやら、ちゃんと夢見を守ることができたみたいだ。

 

「おにいちゃん、おにいちゃん、どうして……なんで!」

 

 夢見が倒れる俺の身体を正面から抱きかかえて、半狂乱になっている。

 そんな彼女の頬を、残った力と血と酸素を振り絞って優しくなでる。

 

「逃げるんだ、夢見ちゃ……外に出れば、きっと咲夜が助けて……くれる、から」

「いや、おにいちゃん、死なないで! お願いだから!」

「……ごめん、それ、むりだ……」

「そんな事言わないで!」

 

 ああどうしよう。

 この状況で夢見にちゃんと逃げてもらうには、なんて言えば良いのか。

 もう思いつくだけの時間も、命も無い。

 

「生きて……にげ、て……」

「いや……いやぁああ! やっと未来が見えたのに! おにいちゃんと一緒に暮らせるようになったのに! 嫌ぁあああああ!」

 

 耳元で叫んでるはずの夢見の声も、まるで遠くの方から聞こえるように小さくなった。

 熱さも、痛みも、寒さも、恐怖も、全部がとけて消えていく。

 

 ──結局、あの『夢』と同じように、俺は死んでしまう。風前の灯火になった命が思ったのは、それでも綾瀬が生きててくれて、良かったということだけだった。

 

 

 

 そうして、最後に。

 

 

 初めて嗅いだ(とても懐かしい)、香りがしたような気がした。

 

 

 

 ──to be continued




絶対にあきらめないから


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6病 繰り返される“最悪”

2週間更新が遅れてしまいすみません。
その分、量は2週分になっております。


今回から終章の中編が開始です。
感想お待ちしております。




「──ああぁ、どうして、どうしてこうなるの…………ッ!」

 

 真っ暗な、深い深い闇の中。

 誰かの、声が聴こえた。

 

 それは、とても悲しんでいるように聴こえる。

 

 

「何度やっても、何回戻っても、この結末を変えられない……神よ、これがあなたの意思なのですか?」

 

 心の底から絶望しているのが分かる。その理由が何なのか、分からないのが当然なのに、不思議と胸が苦しい。

 どうにか手を貸したい、力になりたい。悲しみに打ちひしがれている誰かを助けてあげたい。

 そう思って手を伸ばそうとしたが、何故か体は動かない。そもそも、自分が今どこに居て、どんな状態なのかすら、分からない。

 

「お願いします……お願いですから、次こそは、どうか彼を……縁くんを──」

 

 何か──その神と呼んでいる存在に縋るように、その人は言う。

 身体が動かないのなら、せめて言葉だけでも掛けたかったが、それすら叶わない。

 結局、俺は俺のために嘆くその誰かに、何もすることができないまま、意識は闇の中に吸い込まれるように薄く消えていく。

 誰かの声も遠くなっていき、次第に聴こえなくなった。

 

 最後、俺が知覚したのは。

 茹だる様な暑さと、けたたましいセミの声だった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──ハァ……、ハァ、ハァ……ゲホッ、ゲホッ!!」

「お兄ちゃん!? ど、どうしたの、大丈夫!?」

 

 いつの間にか止まっていた呼吸。酸欠一歩手前でようやく自分の機能を思い出した肺が急速に酸素を取り込み、盛大にむせてしまう。

 隣に居た渚が、驚いて心配しつつ俺の背中を擦る。

 数秒間の間、咳き込みつつ呼吸を整えて、ようやく落ち着いた頃。俺は今の自分が置かれている状況を急速に確認した。

 

 ここは爆発が起こった学園の家庭科室ではなく、住み慣れた俺の部屋で。

 立ちこもる黒煙と炎と熱は無く、12月の冷たい早朝の冷気が部屋を包んでた。

 死んだ園子も、負傷した夢見も居らず、目の前には──、

 

「……お兄ちゃん? 大丈夫?」

 

 ──目の前には、血の気が充分に通った、しっかりと生きてる渚の顔がある。

 

「渚……なぎ、さ──っ!」

「え、ぇえ!?」

 

 それが分かった瞬間、涙が一気に目から流れた。

 両手で顔を覆って、渚が生きている現実に自分が居る、という事実に咽び泣いた。

 

「お兄ちゃん、どうしたの? 何か怖い夢でも見た?」

「夢じゃないよな、死んでないんだよな……っ!」

「うん、生きてる。私は生きてるよ? 大丈夫だから……ね?」

 

 慌てふためきつつも俺を安心させようと言葉を掛ける渚。

 その優しさが、今の俺の置かれてる状況が明晰夢の類では無いと確信させる。

 

 結局、この後俺が泣き止むまでに5分かかった。

 

 

 

「──もう、どんな夢を見たの?」

 

 朝ごはんの用意をしつつ、渚が聞いてきた。

 

「……あんま言いたくない類の夢」

「そっか……お兄ちゃんがあんな泣き方するの初めてだから、よほど酷い悪夢だったんだね」

「……そうだな」

 

 悪夢。

 その通りだ。

 あんなの、現実として受け入れるには許容範囲を超えすぎている。

 

 だけど、俺は『夢であってほしい』と願う感情的な自分以上に、アレがただの『夢』では無い事を知っている。

 スマートフォンの電源を点けて、表示された日付は、悠の葬式の翌日を示している。

 また、俺はこの日に目を覚ましたのだ。綾瀬、渚、園子、夢見……立て続けに俺の周りの人間が──そして俺自身が殺されていく『悪夢』のような日々のスタートラインに。

 もう俺は、これがただの気の迷いだとか、疲れてるだけだなんて思わない。

 

 間違いなく、俺は戻っている。

 1度目は、車に轢かれた後に。

 2度目は、夢見を庇った後に。

 俺が死ぬと時間が戻り、CDをリピート再生してるかのように俺の意識は惨劇の直前から再スタートする。

 

 何故、こんなあり得ない事が起きているのかまでは知らない。

 だが、理由なんて心底どうでも良い。あり得ない出来事を上げるなら、最初に俺の存在がそうだろう。

 肝心なのは、この状況で何ができるのかだ。俺は2回死んで、今この時間に戻っている。その2回は結末こそ同じだが、過程には大きな違いがある。

 

 1回目は綾瀬の救助が間に合わず、病院で死んだ。それに連なるように夢見が、俺が死んだ。

 しかし、2回目では俺が咲夜に助けを求めたことで、すんでの所で間に合い、目は覚めないながらも綾瀬は死ななかった。それだけじゃなく、その日のうちに俺も夢見も死ぬ事は無かった。

 更に言えば、その後1回目では無かった咲夜との会話で“犯人”の存在を知り、そいつを咲夜と協力して捕まえるという展開に話が進みもした。

 そして、2回目の俺の直接の死因になった、あの互いを『ナナ』『ノノ』と呼び合う二人組との遭遇。暑苦しいゴスロリと、ボーイッシュなタキシード姿の少女たち。

 タキシード姿の方は少年かもしれないが、あの2人は炎上する家庭科室の中で涼しい顔をしながら園子を、渚を手にかけ、夢見も仕留めようとした。

 

 1回目では影すら見えなかった、“犯人”の姿を、俺は見たんだ。

 

 つまり、俺の行動しだいでこの後に起こる惨劇を避けることは不可能ではないって事になる。

 絶対に死の運命から逃れられないのなら、俺や綾瀬たちは何があっても今日のうちに死んでいるはずだ。

 それなのに2回目は今日のうちに死ぬ事は無かった。それは俺の行動が未来を変えた事の証左。

 

 なら、変えて見せる。

 俺は何も知らない男じゃない。この後に誰がどこにいるか、何時頃に何が起こるか、そして“犯人”が誰か──それらを知っている。

 その記憶を全てフルに使ってやる。

 4月当初、俺が前世のヤンデレCDの知識を全部使って惨劇を避けたのとやる事は同じだ。できない道理が無い。

 

「──っ?」

 

 一瞬だけ、何故か今の考え方に引っ掛かりを覚える。

 のどに刺さった小骨以下の微小な違和感だが、正体を突き止める前にそれは雲散霧消してしまう。

 その程度の違和感なら、考えることもないはずだが、この状況下で引っ掛かることがあれば完全にスッキリさせたいという気持ちも大きい。

 だが、タイミングが良いのか悪いのか。

 

「お兄ちゃん、ご飯できたよ。たべよう!」

 

 渚が手際よく用意してくれた朝ごはんが出来上がり、もうそれ以上に先ほどの違和感について考えることができなくなった。

 

 

「お兄ちゃん、今日はどうする?」

「登校するよ」

「……大丈夫なの?」

「うん。葬式は終わったし、やらなきゃいけない事もあるから」

「やらなきゃいけない事って、何があるの?」

 

 もう何度目かになる、心配してくれる渚との会話。

 当然のことだが、今俺がやろうとしてる事を赤裸々に話すわけにはいかない。知ればきっと渚は俺の精神を疑うんじゃなく信じてくれるって確信がある。だからこそ、言えない。

 何も知らなかった渚は、数日後に“犯人”に殺された。だけど、知ればきっともっと早く殺されるに違いない。

 俺がそうしたいと思うように、渚もきっと自分にできる事をできるだけやろうとするはず。そうしたらより早く“犯人”に──あの二人組に出会ってしまう可能性が高まるだろう。

 

 だから、俺から渚に言えることは1つだけ。

 

「俺がやらなきゃいけない事は……渚を安心させる事だよ」

「そっか……じゃあ、まずはちゃんと朝ご飯食べてね! じゃないと久しぶりの授業にお兄ちゃんが耐えられるか心配だから」

 

 何か引っかかる所は感じたに違いない。これが4月頃の関係なら間違いなく渚の心にしこりとなって不穏な影になってたが、今の俺と渚の関係なら問題ない。

 俺の中で渚に全部言えない事があると察して、その上で聞かずに飲み込んでくれる。その程度で俺らの繋がりにヒビができるワケが無いと分かっているからだ。

 

「それなら任せてくれ、早食いは実は苦手じゃないんだ」

「ダメだよお兄ちゃん、早食いは太る原因なんだから」

「ここ数日はやつれてたから、むしろちょうどいいだろ」

「ダメです」

「そっか、分かった」

 

 “嘘”が許されない関係は終わり、互いを想う方便を交わす。

 緊張感は無く、安心感だけがある。

 ──こんな時間を、もう俺は失いたく無い。

 

「あぁそうだ、ねぇ渚」

「なに?」

「俺、目のクマ濃いだろ? アイクリーム使わせてくれないか」

「……お兄ちゃん、そういう物の知識あったんだね」

「教えてもらったんだよ」

 

 お前にな。

 

「ふぅん。お兄ちゃんも彼女ができてそう言うの気にするようになったんだ。それは良かったね」

「渚、この話とは無関係だが、今後は“それは良かったね”って言い回しだけは控えてくれないか」

「──? どういうこと?」

 

 ドンガラガッシャーン! という音がパブロフの犬みたいに勝手に脳裏を過ってしまうから。

 ……とは流石に言えず、渚の当然の疑問には苦笑いを返すのみで応えない。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 今日のうちに必ず成し遂げる必要がある。

 言うまでも無く、綾瀬の事だ。

 俺が今日何もせずに放課後までボーっとしてたら、たとえ学園に身を置いてたとしても綾瀬は殺される。

 そのため、今日は絶対何があっても綾瀬の身を守らなきゃいけない。

 1回目と2回目の事を振り返るに、綾瀬が“犯人”からの襲撃を受けるのは6限目が終わってすぐの、HRまでのわずかな時間に固定されている。だからその時に綾瀬のそばに居れば、綾瀬を殺そうとする“犯人”から守ることが──出来ない。無理だ。

 

 記憶の中に焼き付いたあの二人組の姿をもう一度思い出す。

 どちらも渚や咲夜より幼さの残る顔をしてるのに、ゴスロリを着た方は丸太すら難なく斬り倒せそうな斧を、タキシードを着た方は分厚い肉の塊も容易に刺し貫けそうなナイフを持っていた。

 

 無理だ。

 あんなの相手にして、綾瀬の事を守れるわけが無い。自分の身すら危ういだろう。まず追いかけられでもしたら、絶対に逃げられない。学園で遭遇でもすれば、俺も綾瀬もまとめて殺されて終わりだ。

 ヤンデレの女の子も殺意を向けてきたら恐ろしいが、向こうはあくまでも一般人。でもあの二人組は絶対に一般人じゃないだろ。

 殺し屋とか、その手の依頼を受けて殺人を請け負うような類の奴らだ。勝てる勝てないの土俵にすら、俺は立ってない。

 

 だがしかし、だがしかしだ。これは俺たちが学園に居るって言う場合に限った話。

 1回目は俺と夢見が学園外で死んだから分からなかったが、“犯人”は必ず学園内で犯行に及んでいる。

 何故か。恐らくもう既に、咲夜が俺や夢見、園子の周辺を警備してくれてるからだ。

 2回目の時にした会話で、咲夜は既に今日の時点で“犯人”の存在を疑っていた。俺たちの周辺に人を付けているとも。

 そして、わざと学園内では警備を最低限のものにして“犯人”を炙り出そうとしているとも。

 

 そういう意味では、ある意味では咲夜の計画通りに2回目は事が進んでいたと言える。

 不運だったのは、恐らく咲夜も“犯人”の正体を『猟奇的な殺人鬼』程度にしか思っていなかったという点だ。まさか悠や綾瀬を狙った奴が、漫画みたいな格好と武器をした奴らだなんて思う人間はいない。

 でも逆に言えば、そんな奴らも、警備の厚い学園外では決して動いていない。

 つまり、暫定的ではあるが、綾瀬を学園の外に連れ出しさえすれば襲われる可能性はグッと減る事になる。

 

 

「……」

 

 まだ何も起きていない今日は夢見が家の前で渚を待っている事は無く、渚と一緒に登校し、校門前で別れて校舎に入った俺は、この後に自分がやろうとする行動と、その結果周囲からどう思われるかを想像して、一瞬だけ胃が痛くなる。

 そんな自分を強く律しながら、俺はスタスタと教室に向かい、がらりと入口の戸を開く。

 悠が死んで以降、登校してこなかった俺が急に姿を見せたことに、クラスメイト達の空気が一瞬固まる。既に2回は経験した空気感に浸りつつ、俺は教室の中を見渡す。

 その中には──。

 

「……縁。今日、来れたの? え、大丈夫なの?」

 

 他のクラスメイト達と違い、純粋に俺の心身を心配して驚いてる、綾瀬が居た。

 そう。電話越しじゃない、昏睡もしてない、生き生きとしている綾瀬が。

 

「……」

「あれ? ちょっと、どうしたの、黙ったままで……おーい?」

 

 もしかしたら、と思ってる自分が居た。

 教室の中には綾瀬が居なくて、もうとっくに“犯人”に殺されそうになってるんじゃ……思う自分が。

 俺はこの最悪な繰り返しの中で、二度と生きてる綾瀬に会えないんじゃないかって。

 

 そんな恐怖と諦観のどっちつかずな想いは、たった今、こうして生きる綾瀬の姿を目の当たりにしたことで消え去った。

 生きてる綾瀬に、まだ救える状況の彼女に、俺はちゃんと会えたんだ。

 それが心の底から理解できた瞬間、

 

「──っ!」

「え、ええ!?」

 

 俺は人目も気にせず綾瀬に駆け寄り、その顔を思い切り自分の胸に抱き寄せた。

 当然、そんな行動を取れば綾瀬だけじゃなく周りの生徒らも騒ぎ出す。きっと綾瀬の顔はあっという間に真っ赤っかだろう。

 

「ちょ、ちょっと、どうしたの? こんな場所で──」

 

 羞恥心で頭がうまく回らないながらも、小さく腕の中でもぞもぞ動く綾瀬。そのたびに髪からふわっとシャンプーの香りがする。

 階段から落ちて廊下の床や壁にぶつかった『2回目』では、その髪からは鉄臭い血の匂いがしたのに、今は違う。

 その違いがより一層、今目の前にいる綾瀬がしっかり『生きている』と実感させた。

 

「よかった。綾瀬もちゃんと生きてる」

「……縁?」

 

 今朝の様に泣きはらすような事は無く、静かに俺は呟く。

 囁きよりもか細い声を、この場でただ一人聴きとれた綾瀬が、もがくのを止めてチラッとコチラを見上げた。

 腕の中で見せる小動物のようなその仕草に愛おしさが胸をこみ上げるのをグッとこらえ、俺はそっと腕の力を解く。

 終始俺のなすが儘にされた綾瀬は、やや乱れた襟元を直しながら、きょとんと俺を見るばかり。それと反比例するかのように、クラスは俺が朝から恋人に熱い抱擁をしたと騒ぐ奴と、悠の件でナーバスになってるんだろうと気を回してか、それを宥める奴に二分していた。

 

 そんな喧騒の中で、俺は綾瀬に言った。

 

「唐突な話で悪い、荷物も全部置いたままで良いから、一緒に帰ってくれ」

「……さっきからずっと唐突なんだけど」

「……ですよね」

 

 至極まっとうな意見を前にぐうの音しか出ない。

 でも決して視線はそらさず、じっと綾瀬を見つめ続ける。それが功を奏したのか、綾瀬はそっとため息をつくと、

 

「……ちゃんと説明してくれるんでしょ?」

 

 そう言って、自分の席に戻りいそいそとカバンに荷物を入れて戻ってきた。

 

「さすがに、荷物置きっぱなしなんて出来ないから」

「──良いのか?」

 

 自分でお願いしておきながら何だとは思うが、こんな素直に話に乗ってくれるとは思ってなかったので許してほしい。

 綾瀬は俺の問いには答えず、しかしサッと俺の右手を握って、出入り口に向かって歩き始めつつ言った。

 

「良いから、行きましょ? ──まきのん、悪いけど今日体調不良で帰ったって伝えといて!」

 

 友人の牧野さんにそう言って、綾瀬はむしろ自分がここから出たがってるかのように俺をグイグイ引っ張って教室を出ていく。

 後ろからは、俺らが出て行ってからキャーキャー騒ぐみんなの声。

 登校時間で続々と生徒が入ってくる中、俺と綾瀬だけが川の流れに逆らうように学園を離れていった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「──それで、どういう事か話してくれる?」

 

 学園を出て家までの道を歩きつつ、隣で歩く綾瀬が満を持したように問いかけた。

 

「今日のあなたが普通じゃないって言うのは、すぐに分かった。悠君の事で敏感になってるってだけじゃ無いんでしょ?」

 

 俺が何か言うまでも無く、悠の死でナーバスになってるだけじゃないと理解してくれてる様子だ。正直、そこを分かってもらうのにどうすれば良いかで困っていたから、非常に助かる。

 それなら、と。俺も綾瀬になんて思われるかなんて考えず、話せる範囲で打ち明けよう。

 

「まだ証拠は無いんだけど、悠が死んだのは、そう仕向けた奴がいるんだ」

「……ニュースで死んだって言われた人以外にってこと?」

「そういうこと。理由は分からないけど、そいつが狙ってるのは悠だけじゃない。俺や綾瀬、他の皆も殺そうとしてる」

「ちょ……ちょっと待って。なんでそんな事が分かるのよ」

 

 当然の疑問をぶつけてくる綾瀬に、今度こそ俺はどう返答すべきか悩んでしまう。

 あの恐ろしい二人組の存在を、綾瀬にどう伝えれば良いのか。まさか『お前が階段から突き落とされて死んだり死にかけたりしたのを見てきた』なんて言えるはずもない。

 

「それは……えっと」

 

 学園から連れていくまではできたが、肝心の事についてはほぼほぼ無計画だった自分に、遅まきながら呆れつつ、上手い理由付けを考えていると。

 

「──ん、ちょっと待って。電話だ」

 

 胸ポケットにしまってたスマートフォンがバイブレーションの振動を出しているのに気づいた。

 ちょうどいい、言い訳を思いつけるだけの時間稼ぎができた。そう思いつつ電話先を確認したら、思いもしない相手──いや、ある意味納得の名前が表示されていた。

 

 “綾小路 咲夜”

 

 本来なら、現状ただ一人“犯人”の存在に気付いており、学園にいる俺たちをある種のおとり捜査に使ってもいるキーパーソン。

 俺に“犯人”の存在を示唆してくれたその本人からだった。

 

「咲夜からだ。出るね」

「ええ……もちろん良いけど、このタイミングで電話が来るってことは……理由って咲夜さんがそう言ってたからってこと?」

「電話の後に話すよ」

「──分かった」

 

 綾瀬にいったん納得してもらい、俺はスマートフォンのスピーカーをオンにして、綾瀬にも電話が聴こえるようにしてから咲夜の電話に出た。

 

『アンタ、どういうつもりなの?』

 

 開口一番、咲夜の声色は険しいものだった。スピーカー越しの怒鳴り声に隣の綾瀬の肩が小さくビクつく。

 俺の想定外の行動に、咲夜が驚いたのは容易に想像できる。もしかしたらこれによって、俺も“犯人”の候補に入ったのかもしれない。

 悠と親しく、悠の油断を突ける人間と想定される可能性はありそうだからだ。もっとも、そんなのは第三者の目線だからこそで。喧嘩でまっとうにあいつに勝てたことがほぼ無い俺がそんな芸当できるわけもないが。

 

「学園に綾瀬を置かせるのが危ない。そう思ったんだ」

『どうしてよ』

 

 ここだ、直感的に俺は思った。

 綾瀬に俺の行動理由を伝えると共に、咲夜と『今回』も協力関係を結ぶために、今この電話を最大限に活かす他はない。

 

「悠があんな身元不明な奴に簡単に殺されるハズが無い。俺は他に誰か手を引いてる奴がいて、ソイツは俺たちの事も狙ってると思う」

『……そう』

 

 短い返事の後、俺の発言を値踏みする様な沈黙が少し続く。

 咲夜が何を考えてるかを踏まえた発言をしたが、果たしてそれが彼女の心理にどう作用するか──もしかしたら逆に怪しまれたかもしれない、そんな不安が頭をもたげ始めた所で、

 

『……まぁ、アンタだけは違うわよね』

 

 ボソッと、そう呟いたのが聴こえた。

 

『話が早くて助かるわ。偶然だけどアタシも同じ事を考えてたの』

 

 続けて咲夜がそう話した瞬間、俺は信頼を勝ち取ったと内心でガッツポーズを決めた。

 これで今回もまた、咲夜と協力関係を結ぶ事ができる。問題解決に一歩前進した。

 だが、これはまだスタートラインに立っただけに過ぎない。『2回目』はここまで同じ状況の中、呆気なく学園内で爆発が起こり、その騒動の中で俺達はみんな殺されたのだから。

 浮かれそうになる心を律して、俺は改めて電話に意識を向ける。

 

「──そうだったのか。それじゃあ、もう何か手は打ってるのか?」

『だからアンタらバカップルが帰ったのを知ってるの』

「なるほど、どっかで俺たちを警護してくれてるんだな」

『……やけに話がわかるじゃない。説明の手間が省けて楽だけど、なんかつまらないわね』

 

 なんでだよ、とツッコミそうになったが寸前で言葉を飲み込み、俺は話を続ける。

 

「学園の中の警備はどうしてるんだ?」

『学園の中は敢えて手薄にしてるの。普段から生徒の目が多いし、炙り出すのに丁度いいから』

 

 ここまでは俺の知ってる通り。前はこの説明を受けて素直に納得した。

 が、今回はそうもいかない。それで失敗するのを俺は身を持って学んだからな。

 

「いいや、それじゃ逆に相手の思う壺だよ」

『何、文句でもあるの?』

「あぁ、大有りだ」

『な──っ!』

 

 電話越しにムカッとした顔が伺える。そうなるのを分かった上で、あえて真っ正面から否定した。

 

『理由……理由を言ってみなさい、納得できる理由も無いくせにアタシに文句言うなんて許さないんだから!』

 

 予想通り、咲夜はムキになって俺に理由を求めてきた。

 こうすればただ俺から提案するよりも、一層咲夜は注意して俺の言葉を耳に入れる。否定してやろうと思えば思うほど、人の言葉を聞く必要があるのだから。

 ひょっとしたら逆に完全シャットダウンされる可能性もあったが、この会話の流れならそうはなりにくいと判断した。平常時の咲夜に言っても、それこそ右から左に流されて終わるだけだ。

 

「学園の中は確かに人の目が多い。咲夜の言う通り簡単には変な事できないし、だからこそ隙を見せて動きを誘うのも狙えると思う」

『それが分かるならなんで──』

「ただしそれは、通常時の学園ならって前提の話だ」

『……どう言う意味よ』

「たとえばこれは、生徒も教員も一斉に移動する全校集会や避難訓練みたいなシチュエーションになれば簡単に破綻する。人の目は集中するし、その間に“犯人”が何か仕掛けようとしても気づかない」

『それは……そうかもしれないけど、でもだからって簡単には』

「咲夜、忘れないで。相手はよく分からない奴を駒にして、公園のトイレを爆発までさせた奴だ。全校集会みたいな隙だらけの時間があれば、なんだって仕込めるはずだ」

 

 今にして思えば、『2回目』で大きな爆発が家庭科室に起こったのは、悠が殺された時の状況と酷似していた。

 あの二人組はぱっと見だと爆発物を持っていなかったが、家庭科室だ。道具が無くても下地はできていた。少なくとも公園のトイレを爆発させるよりも簡単だろう。

 

『そっか……確かに、一理あるかも』

 

 咲夜も悠の件を改めて思い出し、その可能性を否定できなくなった。

 

『でも、だったらどうするの? 堂々と警護の人間を学園に入れたりなんてしたら、たちまち騒ぎになるわよ。そしたら警察だって介入するわ』

「咲夜の方で抑えるってのは、難しいか」

『できるに決まってるじゃない。……と、言いたいところだけど、アタシは今回そこまで大きく動けないの。庶民のアンタにこんな事言うのも屈辱的だけど、学園にかん口令を敷いても、警察に垂れ込まれたりしたら大っぴらに止めるのはできない』

「……そっか」

 

 確か『2回目』でも咲夜は本家のお爺さんから動くなと言われてると話してた。

 咲夜のお爺さん、つまり現綾小路家のトップの人は咲夜を溺愛してると悠が教えてくれた事がある。傍流とはいえ同じ孫にあたる悠が殺された今、咲夜に何かがあってはいけないと思っての事だろう。

 それでも咲夜がこの町に留まり、自分を可愛がってくれる祖父の言いつけに隠れて逆らってるのは、やっぱり咲夜なりに悠への思い入れがあるからだ。

 

 絶対に警察じゃなく、自分の手で綾小路家に──悠に手を出した報復をする。

 その決意を俺も尊重したい。同時に、学園を今のまま警備を手薄なままにもできない。

 最悪の手段は学園に行かず、家に籠ってもらうことだが、これは俺たちだけじゃなく綾瀬や園子のご両親も納得させなきゃできないプラン。

 当然良識と常識を持つどちらのご両親も、素直に警察を頼ろうとするハズ。そもそも俺たちの主張する“犯人”を、彼らも同じく信じるかも分からない。

 

 そうなれば、やっぱり学生生活そのものは継続させなきゃならないワケで……どうすればそれを両立できるのか、いい案が思い浮かばない。

 

「ねぇ……ちょっと、ちょっと」

 

 綾瀬が耳元でささやきつつ、俺に自分のカバンの中身を指さした。

 急にどうしたんだろうと思いつつ、視線を向けると──『答え』がそこにあった。

 

「そうだ、咲夜。『支援員』の体裁で人を入れるんだよ」

『支援員? どういう……あぁ、そういう事ね! それなら確かに違和感なく人を入れられる!』

 

 綾瀬が見せたのは、12月の初め──悠が殺される数日前に学園から一斉に支給されていた学習用タブレット端末だ。

 

 国の教育指導案の路線とやらで、全生徒に1台ずつ端末が渡されて、それを勉強に活かすのを目的としているものだが、俺は端末の設定を操作する前に悠が死んだショックで数日間引きこもってたので、完全に意識の中から外れていた。

 

 支援員と言うのは、業者が中等部と高等部に数名ずつ送っている人の事だ。

 今回俺たちが暮らす県で初めての試みと言うのもあって、教師のサポートをするために業者からタブレット操作の支援をするために来ている。

 実態はあまり知らんが、直接的なサポートの他にも、先生の授業を見てタブレットを使った授業の提案をするとか。つまり──、

 

『支援員は学園の中を歩き回っても生徒から怪しまれない。全校集会や避難訓練の時も同行する必要も無いから学園に何かを仕込む隙も作らせない……業者を抑えさえすれば明日……いいえ、今日からでも出来るわ──庶民にしては良いアイデアじゃない!』

「ああいや、思いついたのは俺じゃなくて──」

 

 隣で誇らしげな顔で綾瀬がこちらを見ている。

 

『誰でも良いわよ! じゃあさっそくアタシは手配させるから、アンタはさっさと家に帰るなり隣の彼女とイチャイチャしてなさい!』

「おい、言い方をもう少し──って切りやがった……ったく」

 

 本当、これと決まったらもう他人の言葉を聞こうとしない奴。

 まぁ、現状はその牙突猛進がこの上なく心強いのも事実だが。

 

 これで事態は『2回目』よりも更に良くなったはず。

 あとは、咲夜に俺が見た『二人組』の情報を伝えるのみだが、それは綾瀬達のいない時にした方が良いだろう。

 この話をしたら最後、俺は綾瀬や渚たちが殺される未来についても話すしかなくなる。そうなったら綾瀬の心にどれだけの不安と恐怖を与えてしまうだろうか。

 

 信じるにせよ信じないにせよ、自分が明確に殺された/殺されかけた話なんて負担にしかならない。

 綾瀬にとって『自分たちを狙う存在が居るかもしれない』という可能性で留まってる現状が、緊張感と理性と冷静さを保ってもらえる限界域だ。

 

 

 ──さて、とりあえず現状はこれ以上進展は無いとしてだ。次は今の会話を聴いてもらった綾瀬に、今日の俺の行動について改めて説明しなきゃいけない。

 

「取り敢えず綾瀬、一旦俺の家に上がってくれるか。色々説明が必要だから」

「あなたが言い出さなかったらこっちから言うつもりだった」

「よし、なら少し急ごう。そろそろ外を歩いてたら警察に声をかけられる時間だ」

 

 こんなタイミングで補導なんてされたらたまったモノじゃないからな。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 体感時間、実際の時間の両方で1週間以上ぶりに綾瀬を家に入れて、リビングのソファに座る。

 お茶とお茶請けのお菓子を、目の前のテーブルに置く。そうして俺好みの濃くて苦めの緑茶を啜り、ほうっと息をついた。

 

「……」

「……」

 

 互いに沈黙が流れる空間の中、焦りからか、暑くも無いのにこめかみから汗がつぅっと流れる。

 情けない話だが、いざ改めて話すとして、何をどう言えば良いものか分からなくなってしまったのだ。

 電話の会話は一部始終を聴いてもらったから、俺が何をどう考えて動いたのかは分かってもらったし、今後どうしたいのかも分かってくれてると思う。だからこそ、この状況で改めて何を言えば良いのか悩んでしまう。

 

 じゃあ初めからこんな場を設けなきゃよかったんじゃないかって後悔も当然出てきたが、そういうワケにもいかない理由が2つある。

 1つは、この場を俺だけじゃなく綾瀬も望んでいるから。俺が言い出さなきゃ綾瀬から切り出すつもりだったという事はつまり、綾瀬も俺が説明する事を強く求めている事。最初からこの状況は避けられないかった。

 

 そして、2つ目の理由は……何てことない、俺が単純に綾瀬と離れたくなかったからだ。

 ようやく、触れ合える距離で生身の声を聴けてるというのに、固執する理由は星の質量ほどあれど終わらせる理由は皆無。無い。あり得ない。

 咲夜の言葉じゃないが、こんな切迫した状況下じゃなければ言われなくても恋人らしい付き合い方をしたかった。

 

 でも、今はそんな色ボケにかまけてる余裕なんて、それこそ皆無だ。

 咲夜との会話で状況にまた変化を生み出せたとは言え、ここからまた『2回目』のような最悪の結末が待っている可能性は大きい。

 咲夜の警備だけじゃ足りない。俺たち自身も十分に──いやそれ以上に、現状を把握して用心する必要がある。

 

「……よし」

 

 そこまでに考えが至ったら、こんなチンケなタイミングでウジウジ悩む時間なんて無い事を理解した。

 たとえ焼き直した説明になっても構わない。必要な説明は何度だってするべきだ。某有名なミステリー物の主人公もドラマの冒頭で言っていた。『説明書は最低でも3回は読め』と。

 なら、命に係わる話は4回したって構わんだろう。

 

「綾瀬、じゃあまず、どうして綾瀬を学園から連れてきたかだけど──」

「その話はさっきの電話で分かったから大丈夫。悠君を殺すように仕向けた人が学園にいるかもしれないんでしょ?」

「ああぁ……そうだね」

「あなたと咲夜は同じ考えを持ってて、これからは家と学園で警備を付けてくれる、そうよね?」

「うん、その通り……」

「なら、その説明はしなくて良いの」

「……そっか」

 

 意気込んだ矢先、その説明は要らないとバッサリ切られてしまった。

 我が彼女ながら、特殊な状況なのにも関わらず理解力と肝のすわり具合はピカイチだ。

 だが、それなら果たして綾瀬は、俺から何を聞こうと思っているんだろうか──その疑問は、直後に綾瀬自身の口から解かれた。

 

「あたしが聞きたいのは──縁、あなた、咲夜にもまだ話してない事あるわよね?」

「──っ!」

 

 久しぶり、という感情をコレに抱きたくはないが、久しぶりに心臓をぎゅっと握られる感覚が俺を襲った。

 ここしばらく物理的ダメージと精神的ダメージを受けてきたが、こうやって何も言わないうちからすべてを掌握されてるんじゃないかってストレスは全く趣が違う。

 それでも俺は、沈黙と言う名の肯定をするのではなく、出がらしのお茶みたいな枯れかかった声色で、綾瀬の問いに問いで返した。

 

「……どうして、そう思った」

「簡単よ。あなたと咲夜の会話で“犯人”が居るのは分かるけど、それだけだとあなたがあたし──あたしだけを学園から離した理由の説明になってない」

 

 言われてみれば、確かにその通りだった。

 咲夜は俺が“犯人”の存在を疑ってることを伝えたらすぐそっちに食らいついて追及して来なかったが、確かにそんな危険人物がいるなら、渚も園子も、当然咲夜や夢見にも声を掛けてしかるべきだったはずだ。

 それをせず、俺が綾瀬だけを連れて行った事実に、当の綾瀬自身が疑問を呈していた。

 

「そんなにあたしだけを大切に思ってくれてるなら嬉しいけど……あなたはそういう人じゃないでしょう? あたしと恋人になってくれたけど、それでもあなたは渚ちゃんが世界で一番大事な妹だし、園子や咲夜、夢見ちゃん皆を大切にしてる。わざわざあたしだけを連れていくような事は、あなたが一番許せない行動だと思うけど、どう?」

「…………あぁ、その通りだと思う」

 

 否定できるはずもない。

 確かに、もし俺が“犯人”の事だけを知ってるなら、今日は是が非でも学園に行かせないよう行動していたハズ。

 それをせず、綾瀬だけを助けようとしたのは、つまり俺が──、

 

「今日その“犯人”があたしだけを狙う事を、あなたは知ってた。それもきっとあなた()()が。その理由が聞きたいの」

 

 ……俺の彼女は、本当に凄い。

 インパクトのある情報に呑まれる事なく、僅かなヒントから違和感を見つけ出して、こうして今、俺が最も言いたくない事を言わざるを得ない状況に持ち込んでいる。

 

「……それは」

 

 どうすれば良い? 

 素直に話すべきだろうか。そうすれば綾瀬は事情を全て察して飲み込んで、平然としてくれる? 

 

 ──そんなワケない。

 

 綾瀬は俺が確実に何か他の情報を持ってる所までは分かったが、それが果たして『現状の生き残ったメンバーでまず真っ先に殺される』なんて事とは知らない、予想できない、考えつけるわけもない。

 話せば、きっと綾瀬の心と精神は傷つく。恋人だから分かる、幼なじみだから理解できる。綾瀬は強いけど鉄の女ではない。今日殺されるかもなんて言われたら最後、事態は悪化していく。

 でも、この状況で何も言わないまま場を終わらせられるわけもない。何か、何か少しでも綾瀬の疑問を消せる話をしなければ──たとえそれが全く思いつかないとしても。

 

「えっと……それはだな……」

 

 誤魔化すような言葉を口からこぼせばこぼす程に、ぼろが出ていく。

 いよいよ本当に言うしかないのか、そう観念しかけた直後。

 

「──うん、分かった」

 

 まだ何も具体的な話もしてないのに、綾瀬はそれ以上聞く事を突如止めた。

 

「まだ話したくない──ううん、話せないことなのね」

「綾瀬……」

「分かるわよ、いまの縁、言いたいけど言えない時の──昔の困った顔した時の縁みたいだもの」

「そ、そんな顔してるのか俺!?」

「してるわよ……それに、さっき咲夜と話してる時は『思ってる』時じゃなくて『確信してる』時の顔つきだった。だからあなたが誰にも言えない、でも“犯人”がいるって確信できる何かを知ってる──うぅん、経験してるんだって思った」

 

 恐怖とは違う意味の畏れが俺の中を支配する。

 あの電話の中で、隣に居たとはいえ、そこまで俺の事を理解して見せるのか、と。

 

「でも、きっとそれはあなたにとって言いたくない……言えないことなんでしょう?」

「……それも顔見て分かった感じ?」

「うん」

「ちなみに、どんな顔してる?」

「あたしと出会った頃の、まだ虐められてクラスの同級生に怖がってた頃の……あたしに泣いてくっ付いてた頃の顔」

「……そっか」

 

 間違いない。これでもかと言うほどに正解な言葉だった。

 

「ごめんな、色々言えないのに、そっちばかりに気を遣わしちゃって」

「ごめんなんて思わなくて大丈夫だから。あなたがそんな顔するって事はそれだけ理由があるんだって、それくらいは分かるから」

「それくらいじゃないよ。凄い、なんだろうな、うまく言葉が出てこないや。ありがとう」

 

 綾瀬が幼なじみで、彼女で本当に良かった。

 そう思った矢先に。

 

「なんか懐かしいなぁ。こういうの」

「こういうのって?」

「あなた、いつの間にかあたしより背も伸びて、性格も明るくなって、すっかりあたしに弱い所見せ無くなってたから。こうやって何かに怖がってたり、弱ってるの見てると、昔の弟みたいで可愛いあなたを思い出して、なんか安心しちゃう」

「……綾瀬さん?」

「また昔みたいに甘えて良いのよ? あたしもお姉さんみたいにしてあげるから、どうかな?」

「おい、綾瀬。母性本能かお姉ちゃん本能かしらないけどそのくらいにしといてくれ。なんかこれ以上は俺の尊厳にかかわりそうだ」

「えぇ~、今のあなた、すっごい可愛くていいのに」

「冗談で言ってるんだよな……?」

「──あははっ!」

 

 こんな形で、改めて思い出すとは。

 そうだった。

 俺の彼女は、ヤンデレ属性持ちだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「もう、驚いちゃったよ。帰ったらお兄ちゃんと綾瀬さんが居るんだもん」

「ねー。おにいちゃんが朝から居ないと思ってたけど、まさか来て早々に帰っちゃうなんて……しかも綾瀬ちゃんと!」

 

 リビングでそんな会話をしてるのは、渚と夢見の2人だ。

 俺と綾瀬が早退することは、園芸部のグループチャットと、夢見個人には連絡済みだったので、帰ったら俺と綾瀬が何故か家にいる! なんてメンドクサイ誤解や修羅場の芽は潰しておいた。

 とは言え、あの2人にとっては話題のネタには打ってつけだったらしく、キッチンで夕飯を作っている俺の耳には渚たちのきゃいきゃい騒ぐ声が聴こえてくる。

 綾瀬は自分の家の食事があるので、夜になる前に帰ってもらってる。今日この場に夢見が居るのは、河本家と違い一人暮らしの夢見が危険に陥るリスクを減らすために呼んだ。

 

「2人とも、そろそろできるからお皿の用意頼むよ」

 

 そう呼びかけると、素直に会話を中断してくれた2人が食器棚から大皿や取り皿を取り出してくれる。

 夢見はご飯をよそったお椀と箸を食卓に並べて、渚は俺が作った料理のエビマヨとわかめスープをそれぞれ容器に移して運んでいく。

 てきぱきと夕飯の用意が出来上がると、さながら小中の給食の様にいただきますの掛け声で食事を始めた。

 

「ん……おにいちゃん、このエビマヨお店で食べるのとちょっと味違うけど、何か入れてる?」

「いれてるよ、なんだと思う?」

「えーそこでクイズ始まるの? ……渚ちゃん、答え知らない?」

「うーん、(あたし)も今日の味付けは初めてかも……なんだろ」

「渚ちゃんも初めてなの!? 渚ちゃんに聞けば分かると思ったのに……えーっと、それじゃあ、おにいちゃんヒントちょうだい?」

「じゃあ3択な。醤油とソースとコチュジャン。どれだ」

「コチュジャンは辛くないから絶対違う……でも隠し味って言うくらいだし……」

 

 他愛のない会話を挟みつつ、夕飯はまるで平時の様な明るい雰囲気のまま終わり、3人分より多めに作ったエビマヨはクイズの解答でもある隠し味のソースが好評だったのか、あっという間になくなった。

 食べてる2人の姿はあまりにも平和で、家庭科室で血だまりの中に倒れていた渚や全身から流血してた夢見が本当にただの夢だったんじゃないかと疑ってしまいそうになる。

 

「渚、それに夢見ちゃんも。少し真剣な話があるんだ、良いかな」

 

 食器も洗い終えて、夢見もあとはもう帰るだけになったところで俺は食卓の椅子に座り直し、話を持ちかける。

 リビングのソファに座ってテレビを見ていた2人は、俺の急な発言にも怪訝な顔をせず、同じように椅子に座ってくれた。

 

「どーしたの、おにいちゃん。何か嫌な事でもあった?」

「うん。2人にも知っておいてほしい事があってさ」

「……もしかして、今日一日思いつめたようにしてたのと関係あるの?」

「えっ、おにいちゃんそんな顔してたの?」

 

 渚の言葉に横で驚く夢見。

 少しでも元気な姿を見せようと振舞ってたつもりだが、夢見は誤魔化せてもやはり渚には通じない。

 まぁ、そもそもの話、朝に泣き顔見せてる時点で誤魔化すも何も無いんだが。

 

「俺が今日、綾瀬を連れて早く帰ったのにも関係してるんだ」

「……あれ、もしかして本当に深刻な話だったりする?」

「話して、お兄ちゃん」

 

 思ったより深刻な雰囲気を遅まきながらに察し始める夢見と、対照的に既に聞く体勢に移った渚。真反対な2人の反応を受けて、俺も今日の本題を口に出す。

 

「悠が殺された件について……たぶん、いや必ず、犯人が他に居る。そいつらは悠だけじゃなく俺たちも狙ってる可能性が高いんだ」

『…………』

 

 聞く前は正反対の反応を示したが、聞いた後は同じ沈黙を見せる2人。

 沈黙の理由は困惑か、驚愕か、はたまた頓珍漢な事を言い出したと呆れたか……幾ばくかの時間を経てまず口火を切ったのは夢見だった。

 

「つまり、おにいちゃんは今日、綾瀬さんを守るために早く帰ったって事なの?」

「うん。そうなる」

「えっと……おにいちゃんの言う事が本当か嘘かは別として、どうして次に狙われるのが綾瀬さんだと思ったの?」

 

 実際に襲われたから──なんていうワケにもいかないので、このタイミングになるまでにもう()()()()()理由は考えておいた。

 

「ハッキリとした理由は無いけど」

「無いんだ!?」

「そうだな。でも、悠と俺と綾瀬は歳もクラスも同じだろ? 犯人の狙いが何かは分からないけど、悠が殺されたなら、次に狙われそうなのは同じ学年でも他クラスの園子や、他学年の渚、悠が死んで警備が厚くなってるはずの咲夜、最近街に来たばかりの夢見ちゃん達じゃなく俺たちのどっちかだと思ったんだ」

「……そうなるとおにいちゃんとしては、彼女の綾瀬ちゃんを優先的に守りたくなっちゃうね」

「そうだな……決して2人や他の皆を軽視してるわけじゃないんだが……現状は可能性の話に綾瀬以外を巻き込むのも憚れて……ううん、ごめん」

 

 未来……未来って感覚が薄いが、俺がしているのはどれも、この後に起こる事を知ってるからこそ取れる行動ばかり。

 それを知らない渚たちにとっては、自分たちの身の安全を後回しにされたと思ってもおかしくない。

 それどころか、もしかすれば、綾瀬が居ない事で標的を変えた可能性もある。そうなるとますます軽率な行動だったと言える。

 

「ごめん、俺は──」

「お兄ちゃん」

 

 重ねて謝ろうとした矢先、渚がそれを止めた。

 

「お兄ちゃん今、自分が綾瀬さんだけを優先しちゃったって思ってるでしょ?」

「……そうだね」

「なら、その考えはすぐにやめて。お兄ちゃんがそんなつもりない事、今更分からない(あたし)じゃないし、そんなつまらない事でお兄ちゃんに悩んでほしくないから」

 

 ぴしゃりと、慰めるような言い方ではなく、本当に『そんなどうでも良い事で今更悩むな』という口調で渚が言いきる。

 

「夢見ちゃんも、そんなこと思ってないよね」

「えっ、うん……もちろん思ってないけど」

 

 そう答える夢見も、渚の発言に驚いている様子だ。

 俺はと言うと──正直、助かった。

 夢見は渚の雰囲気に流された感が少しあるけど、両者から俺の考えが杞憂だと言ってくれた事はありがたい。

 思いやりに礼を言いたいけど、そんな事言ったら今度は『さっさと話の続きをして』と言われるのが目に見えてるので、止めておく。

 

「俺が他に犯人が居ると思ったのには、さっきも言ったけど明確な証拠は無い。でも俺は悠がどこの誰かも分からない不審者相手に殺される程度の奴じゃないと知ってる。他にあいつを死に追いやった要因が無きゃおかしいんだ」

「それが、おにいちゃんの言う“犯人”ってこと?」

「俺だけじゃなくて、咲夜も同じことを考えてた」

「お兄ちゃんと同じくらい悠さんを知ってる綾小路さんも……じゃあ、本当にいるかもしれないんだ、犯人」

 

 ここで咲夜の名前を出したことで、俺の『主観的な意見』が現実味を帯びる。

 それと同時に、渚の表情に僅かな陰り──恐怖の色が映ったのが分かった。

 

「でも、安心してほしい。咲夜は俺がそう思うよりも早くこの考えに辿り着いてて、実は悠が殺された後から俺たちの身辺警護をしてくれてたんだ」

「ええ、そうなの!? アタシ全然気づかなかった!」

「俺も今日教えてもらったよ。それに明日からは学園にも学校関係者の()()で人を入れてくれるから、そう簡単には犯人も俺達に手を出せなくなる」

「じゃあ、明日からも普通に過ごしてて大丈夫なの?」

「もちろんだよ渚。でも念のため園子にもこの話をして、もうしばらくは部活を休止させてもらう。下校も一緒に帰ろう。夢見ちゃんもな」

 

 そこまで話して、ようやく安心したように小さく笑みを見せる渚と、なんの迷いもなく頷く夢見。

 

「うん……話はここまで。重い話になってごめんな。とにかく、まだ本当に“犯人”がいるとは限らないし、用心しながら日常を過ごそう」

 

 両手をパンっと軽くたたき、話に区切りをつける。

 それにならって夢見は席を立つが、渚は俺をじっと見つめて言った。

 

「お兄ちゃん。1つだけ約束して」

 

 今日一日で一番真剣な面持ちと声色。

 

「……何を?」

 

 渚が提示しようとする約束に応じなければ話は終わらせない、と言わんばかりの気迫に押されつつ、俺は言葉の続きを促した。

 

「もし、お兄ちゃんの中で犯人が誰なのか分かっても、絶対に1人で捕まえようとはしないで。必ず他の人を頼って」

「……っ」

 

 俺を世界で一番理解している渚だからこそ、言える言葉だった。

 他の誰も──綾瀬だって知らない俺を……あの日、悠を助けるために心が限界に達して誤った道に進もうとしてた俺を見ている渚だからこそ。

 

「お願い、約束してお兄ちゃん。お兄ちゃんが1人だけで出来る事なんて、そんなに多くないの。だから……」

「うん、約束する」

 

 言葉を選んで、尽くして、どうにか俺に分かってもらおうとする渚に、さっきまでの意趣返しと言葉を被せた。

 “もうそれ以上悩まなくて良い”と、食卓の向かい側に座る渚に向けて腕を伸ばし、優しく頭をなでる。

 

「っ!」

 

 最近はこういうスキンシップをしていなかった事もあって、渚も体をビクッと反応させたが、数回撫でるうちにすぐ緊張が解けていくのが手のひらから伝わった。

 

「約束するよ、絶対に1人で“犯人”をどうにかしようなんて思わない。まずは大人の人を頼る」

 

 俺が悠を殺した“犯人”をただ見つけるだけじゃ絶対に気が済まない事を理解してるからこそ、渚は先に言ってくれたのだ。

 事実、俺しか知らない“犯人”の正体──ナナとノノと名乗るあの2人組には、どう転んだって俺じゃ勝てそうにない。

 普通の警察だって殺されるだろう。真っ先に咲夜の力を頼るしかない。

 だから、今俺が渚に言った言葉は、それだけは、今日の会話の中で唯一本当の本当に嘘の無い言葉。

 

「もー! おにいちゃん、いつまで渚ちゃんの頭撫でてるの?」

「うぉ、そうだったな、髪型崩れるか、ごめん」

 

 久しぶりに感じる渚の柔らかな髪の毛の感触に、安心させるつもりが俺も癒しを感じそうになったところを、すかさず夢見が間に入った。

 

「ぁ……うん」

 

 渚は、たぶん思い過ごしじゃなく本当に一瞬名残惜しそうな顔をしながらも、瞬きより少しだけ遅いくらいの速さでいつもの表情に戻った。

 

「おにいちゃんの話も、“犯人”についても気になるけど、とりあえずできる事は無いみたいだし、ならアタシも今日は帰って寝ようかな」

 

 緊張の糸が切れて気が抜けたのか、あくびをして時計をみた夢見がそう言った。確かに時計の針は午後9時を過ぎている。そろそろ夢見も自分の用意をしなきゃいけないだろう。

 

「なら、送ってくよ。すぐ近くだから良い、なんて遠慮するなよ」

「え、良いの!? ありがとうー! 遠慮なんてしませんです……っ!」

 

 散歩と口にした主人に反応する犬みたいな喜び方をする夢見。

 リアクションが派手だなと苦笑しつつ、椅子に掛けてたジャケットを着て夢見と一緒に彼女の家まで歩く。

 渚はお風呂に入ると言ってバスルームへ向かった、無意識か分からないがそっと頭に手を添えて。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「わざわざありがとうね、おにいちゃん」

 

 向かいの家なので本当に数歩の距離だが、それでも玄関の明かりに照らされた夢見は嬉しそうにそう言った。

 

「どういたしまして。明日は登校する時にチャイム鳴らすから、それまで待っててくれ」

「うん、分かった。……あ、そうそうおにいちゃん」

「どした?」

「おにいちゃん、嫌じゃないの?」

「え?」

「嫌じゃなの、今の状況」

 

 唐突な事を言い出す夢見に困惑しそうになったが、その指先が小さくだが震えている事に今気づいた。

 そうか。ずっと夢見がオーバーリアクションをしてたのは、つまり。

 

「あたしはね、ちょっと嫌かな。“犯人”が今もあたし達を殺そうとしてるって状況。相手が誰なのか分からないって、凄く不安だよ」

 

 この発言に対して、『咲夜の警備があるから安心して良い』と返すのは間違いだろう。

 夢見は安心できる言葉を返してほしいんじゃない。俺がどう思ってるのか、それを聞きたいんだ。

 

「──そうだな、俺も心底嫌だよ」

 

 だから、夢見と同じ“嫌”という言葉の袋の中に、いくつもの感情を詰め込んで、固く結んで返した。

 

「うん……やっぱりそうなんだ。おにいちゃんも渚ちゃんの前だとカッコいい男の人を見せなきゃだから大変だね」

「夢見ちゃんの前でもそうしようと思ってるよ。それに、渚も俺が虚勢張ってることくらいはお見通しさ」

「あーあ。あたしが居ない間に、すっかり仲良しさんになっちゃって、妬いちゃうなあ」

「兄妹関係に妬いてどうするんだよ」

「…………ねぇ、これはちょっとだけ、おにいちゃんには嫌な質問だけど」

 

 そう言いながら、夢見の中でスイッチが切り替わるのが分かった。

 俺達を包む12月の冷気にも引けを取らない、重く冷えた声色で夢見は言う。

 

「綾小路咲夜さん。悠さんのイトコだよね」

「そうだけど、どうした?」

「信用できるの?」

「……どうして、夢見ちゃんは咲夜を信用できないんだ」

 

 平静さを保ちつつ質問をしたが、内心ではまさかの発言に驚いている。

 まさか、ここで咲夜を疑うとは思わなかった。

 

「おにいちゃんはあの子と一緒に居る時間があるから、見え方が違うんじゃないかな。最近あったばかりのあたしにとって、一番怪しいのはあの子だよ」

「……見え方が違う?」

「うん。悠さんとあの子、同じ綾小路家の中でもたぶんあまり仲良くないでしょ? 悠さんが殺されたのに全然目立った動きしてないもん。きっとお金持ちのお家特有のみっともない身内争いでもしてた関係だったと思うけど、どうかな?」

「それは……そうだった」

「やっぱり」

 

 夢見の推測は正しい。確かに咲夜がこの街に来た当時、2人は明確な敵対関係にあった。

 その頃の話は夢見が引っ越してきた日に、今までの思い出話を語り合う際少しだけ触れたので、そこから悠と咲夜の家の不仲を察したんだろう。

 

「でも夢見、今はもう咲夜は悠と仲良しじゃないにしても和解して──」

「子どもの2人が仲直りしても、大人もそうじゃないって可能性は十分あるよね?」

「──っ!」

 

 それは、ある意味で盲点だった。

 確かに、あながちあり得ない話でもない。

 俺は咲夜が園芸部に入り、査問委員会による圧制が消えた事ですっかり、綾小路家間の抗争が収まったと思っていた。

 事実、あれ以降2人の口からその手の話題が出ることも無かったのだから。

 

「子どもの都合に、親が従う理由なんて無い。悠さんの事が邪魔な咲夜さんの側の綾小路家の誰かが、“犯人”を使って悠さんを殺した……そう考える事も出来るんじゃないかって、あたしは思う」

「でも、咲夜は悠を殺した犯人を許さないって言ったんだぞ? それなのに」

「咲夜さん本人は何も知らない可能性だって十分ある。ううん、むしろ何も知らないから、そう言ってるんじゃない?」

 

 夢見の言葉で思い出すのは、『2回目』に咲夜が言ってた言葉。

 

『──とにかく! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、アタシとしてはこのままじゃ気が済まないの。アンタも手伝いなさい』

 

 そうだ。綾小路家のトップである咲夜や悠の祖父は、咲夜に『何もしなくて良い』と言った。

 俺はそれを咲夜が死ぬリスクから離したい故の発言だと思ってたが、もしそれが『自分の手引きで悠を殺した事に気づかせたくない』からだとすれば? 

 ……あってはいけない疑念が、心の片隅で生まれつつあるのが分かる。今もっとも頼れる存在を、疑心暗鬼で自ら切ってしまいかねない考えを払拭したいのに。

 

「咲夜さん本人は信じられる、でも綾小路家が“犯人”と関わってたら? おにいちゃんが言ってた『警護』だって、ホントに警護だけしてくれると言い切れる?」

 

 夢見の言葉が、更に俺の中にしみこんでいく。

 片隅で頭をもたげる疑念が、瞬く間に大きくなっていくのが分かる。

 それを──、

 

 

 

 

「いや、それは一方的過ぎる見方だよ」

「えっ?」

 

 それを、俺は無理やり薙ぎ払う。

 

「綾小路家が関わってる可能性は0じゃない。夢見ちゃんの意見も俺の頭には無かったが、説得力のある視点だった」

「それなら──」

「でも、俺は悠を殺した“犯人”が綾小路家とは無関係だと思う事にする」

「どうして? 何か理由でも」

「信じてるからだ。咲夜を、それに綾小路家も」

 

 咲夜は『2回目』の時、“犯人”に殺されかけた綾瀬を綾小路家お抱えの病院で治療してくれた。

 咲夜お抱えではなく、綾小路家が関わってる医療施設で、仮に綾瀬を殺そうとしてるならわざわざ長時間の手術までして命を救おうとはしないハズだ。

 だって意味が無い。わざわざ殺そうとして助ける奴がどこにいる? 

 

「俺は綾小路家もろとも、咲夜を信じる。これだけは絶対に譲れない。でも、咲夜に明日直接聞いてみるよ」

「聞いてみるって……それでもし本当に“犯人”ならどうするの」

「俺がその場で殺されるかもな。でも、信じてるから杞憂だ」

「……おにいちゃん、結構強情だね」

「咲夜は悠の──親友のイトコだ。そしてあいつは曲がりなりにも悠を殺した奴を許さないでいる。なら、それを疑うなんて事俺にはできない……そこだけは絶対に譲れない」

 

 俺がここまで強気になれるもう1つの理由。

 それは、現状もっとも“犯人”と思わしきナナとノノだ。

 学園で爆破火災を起こして、弄るように殺すあのスタイルは、到底富豪の綾小路家が雇える殺し屋とは思えない。

 咲夜もあの時何が起きたのか分からないでいた。夢見視点なら『俺を家庭科室まで導くための演技』と見る事も出来るが、俺は信じると決めたのだから関係ない考え方だ。

 

「…………そっか、分かった」

 

 俺が頑なに咲夜を信じる姿勢を貫くと理解した夢見は、長い沈黙の後にそうつぶやくと、また声色を普段の物に戻した。

 

「──ごめんね、変な事言って! あたしもおにいちゃんと仲の良い後輩を疑うようなこと本当はしたくないから、はっきり否定されて逆に安心できた」

「謝らなくて良いよ、綾小路家の誰かが関わってる可能性は0じゃないんだから。俺は無根拠に信じてるだけだから、明日ハッキリさせるね」

「うん、分かった。それも止めないけど──本当に気を付けてね」

「ああ、もちろん」

 

 みじかく、しかし力強く答えた。

 夢見はその返事に満足したのか、柔らかく微笑みを返したのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──それで、このアタシをわざわざ屋上まで呼び出してなんの用よ」

 

 翌日、本当なら渚や綾瀬達とお昼ご飯を食べてる昼休みの時間。

 俺は咲夜に中等部校舎の屋上に来てもらった。

 

「悪いな、貸し切り状態にしてもらって」

「別にこの程度、造作もないってアンタなら知ってるでしょ」

 

 普段なら開放されて生徒が雑談やご飯を食べる場としても機能している屋上に、今日は俺と咲夜以外の人影は全くない。

 これも咲夜にお願いして、急遽中等部校舎の屋上を今日だけ立ち入り禁止にさせてもらったからだ。

 

「それよりさっさと話しなさいよ。このアタシにここまでセッティングさせたんだから、つまらない話だったらただじゃ置かないわよ」

「あぁ……そうだな」

 

 ゴクリ、とつばを飲み込んでから、俺は速く鳴り始めた心臓を落ち着かせようと深呼吸する。

 信じる、と夢見に力強く言ったのに、いざ『本当は綾小路家が関わってないか』と問い質そうとすると、どうしても恐怖感が背中を撫でて震わせる。

 

「俺は──お前に、聞きたい事が……」

「聞きたい事? 言ってみなさいよ、特別に聞いてあげるわ」

「……お前は」

 

 ──本当は悠を殺した奴を知ってるんじゃないのか? 

 そう聞いた瞬間、今はつんけんしている咲夜が、瞬時に冷酷な眼差しになったら──、

 今は閉じている屋上の出入り口から咲夜の息のかかった大人たちがなだれ込んできたら──、

 そんな余計な恐怖が、昨日跳ね除けたはずの夢見の言葉と共に頭の中を染め上げようとする。

 

 

「……ちょっと、どうしたのよ。震えてるじゃない」

 

 咲夜の──生まれて初めて聞いた心配する声が、俺の耳朶に優しく響く。

 気が付けば、咲夜は俺の目の前に駆け寄って、本当に心配そうに顔を覗かせていた。

 

「──っ」

 

 そんな咲夜の表情は、生まれて初めて見るハズなのに、どこか既視感があった。

 そうだ、アイツの──悠が俺を心配してくれた時に見せたモノと、どこか似ている。

 本人に言ったら、どっちからも否定されてひんしゅくを買いそうだが、それに気づいたとたんに、背中を撫でまわしていた恐怖感はすっと溶けて消えた。

 

「心配させてごめん、話すよ」

「……心配なんてしてないわよ、馬鹿。良いからさっさと話しなさい」

 

 言葉は普段通りのキツい物に戻ったが、口調は柔らかいまま。

 咲夜が初めて見せる、彼女なりのやさしさに感謝しつつ、俺は改めて咲夜に本題を話す。

 

「咲夜、悠が死んだ件について、綾小路──」

 

 

 

 

 

 

「あー、“ふしんしゃ”はっけーん!」

 

「──ッッ!!!!」

 

 無邪気な、この場にそぐわない幼い声が聞こえた瞬間、思考はパニックに陥り、体は羽交い絞めにされて地面に叩き伏せられた。

 いつの間に空いていたのか、屋上の扉から飛び出してきた声の主は信じられない様な速さで俺を拘束した。

 したたかに顔面を打ち付けた痛みで目に涙を浮かべながら、屋上の扉に向かって固定された視界には、更にもう1人の姿が映る。ソイツはこちらを見やり、まるで日常の一コマを語る程度の気楽な声色で言った。

 

「あら、ノノったらはしたない。我慢できないで飛び出すんだから」

「だって、ナナがいつまでも焦らすから待ち切れなくなったんだもん」

 

 そんな会話が頭の上で交わされる。

 コイツらが誰かなんて、考えるまでも無い。

 斧とナイフの痛みがフラッシュバックの様に思い出される。ゴスロリとタキシードを着た2人組。コイツらは──ナナとノノ!俺を、綾瀬を、渚を、園子を殺した奴ら。

 

「――咲夜、はやくここから」

 

 ノノは俺を押さえ付けているとは言え目と鼻の距離。更にはナナも居る。こうなってしまってはもう間に合わないと分かっていても、咲夜に『逃げろ』と叫ぼうとした。

 その最中に、俺は信じられない言葉を耳にする。

 

「ちょっと待ちなさいアンタ達! 何やってるのよ!」

 

 困惑する咲夜の声。だがちょっと待ってほしい、なんで咲夜は()()()()()()()()()()()()()()()()()調()で話しかけているんだ? 

 

「えー、だってそうしろって言ったのはサクヤだろ?」

「そうね、きちんとお嬢様の依頼通りの事をしてるだけだわ」

「アンタ達ねぇ、時と場合ってものがあるでしょ!?」

 

 陽気な雰囲気で交わされる会話の一つ一つが、

 

「待てよ……なんだよ、それ……」

 

 

 俺の心を、打ち砕いていった。

 

 

 

 ──to be continued



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7病 “最悪”の真相

「どういう……これは何だよ、何でお前がコイツらを──ナナとノノに依頼をしたってどういう意味だ咲夜!」

 

 動揺、混乱、悲しみ、怒り、絶望……それら全てがない混ぜになった俺は、今の俺が知り得ない事だと分かりつつも2人組の殺人鬼の名前を声に出して咲夜に糾弾した。

 

「あれ、ふしんしゃおにーちゃん、なんで名前知ってるの?」

「どこかで会った事あったかしら……見た事ない顔だけど」

 

 俺な名前を知ってたことに驚いた2人が小さく驚く。

 だがそんな事今はどうでも良い、問題は咲夜が“犯人”を動かした本当の意味での黒幕なのかどうか、その一事のみだ。

 

「答えろ咲夜! お前……お前が悠を殺させたのか、そのくせ“犯人”がいるなんて嘯いて俺を騙したのか! どうなんだよ!」

 

 怒りに身を任せて言葉を発した事は何度かあるが、今回のはそれらと比べても異質。

 ナナとノノが居る時点でもはや死ぬ事は確定事項。ならせめて、この『3回目』の内に真相だけは知りたい。そのために何が何でも咲夜から答えをもらわなきゃならない。

 次があるなんて分からないし、理由の不明確な巻き戻しは今回が最後で、死ねばそこでお終いの可能性も十分にある。

 それでも次があるのなら、そのためにできる事は何でもやる。そんな──もはや縋るような心持ちにも似た叫びだ。

 

 それに対して咲夜は、目をパチクリさせつつ言葉を返してきた。

 

「……なにか誤解してる?」

 

 その言い方が、あまりにも気の抜けたもの過ぎたから。

 スイッチがオフになった様に、さっきまで荒ぶってた俺の思考も停止した。

 一瞬……いや、何秒過ぎようと咲夜の言葉を理解できない。

 

「誤解……? 何の話だ」

「些細なすれ違いよ。とは言え、説明は必要よね……ノノ、ソイツを離しなさい」

「いいの?」

「いいの。最初からソイツは“犯人”じゃ無いんだから……ったく、最初にそう言ったじゃない。ナナ、アンタも止めなさいよ」

「ふふふ、ごめんなさい」

 

 咲夜の言葉に、ノノはその華奢な身体からは想像出来ない膂力で拘束してた俺をあっさりと解放した。

 

「ふふ、ごめんねふしんしゃお兄ちゃん。最初はお兄ちゃんが悪い人だと思っちゃった」

 

 何も悪びれない態度で、口だけの謝罪をしてカラカラ笑うノノ。

 顔や服に付いた砂や埃を払いながら膝立ちになり、改めて今の状況を理解しようとするが……いや、分からん。

 目の前に居るナナとノノからは、家庭科室で俺達を襲った時に見せたあの邪気に満ち満ちた姿はない。その代わりに、こいつら相手に感じるなんて絶対におかしいが、無邪気な子供が出す可愛らしさがある。ほんのさっきまで地面に組み伏せられてたのに、それすら遊びでじゃれつかれた様な感覚に陥ってしまいそうだ。

 

「この2人はナナとノノ、アタシが雇った、アタシだけに従う用心棒よ」

「お前が雇った……じゃあ依頼って言うのもつまり」

「そういうこと。アタシの周りで不審な奴や人殺しをした奴を見つけたら拘束しろって命令したの。歯向かうなら半殺しにして連れてきなさい、ともね」

「え、えぇ……!? はぁ??」

 

 咲夜の言った事が衝撃的過ぎて、もう理解できないとか驚くとかを通り越して、慄くしかできない。

 ナナとノノに視線を向けると、2人は何故か嬉しそうに笑いながら小さく手を振ってきた。

 止めろ、渚や園子を殺した手で愛嬌のある行動をするな。そう言いたいのに、声帯も麻痺したように言葉らしい言葉を出せない。

 そんな俺を、理由を知らない咲夜は純粋に驚いているだけなのかと思ったのだろうか。声色に少しだけ自慢げな雰囲気を乗せて話を続ける。

 

「あんたが驚くのも無理ないわ。こいつらどう見ても子供だけど、真っ当な奴らじゃない。下手な暴力団やマフィア相手にも戦えるくらいだから」

「子供だってさ、自分だって小っちゃいのにさ」

「ナナ達と殆ど変わらないのに、おかしいわね」

「ちょっとアンタ達黙ってなさい!」

 

 何で咲夜みたいに小っちゃいのにそんな怪物みたいな力があるんだって疑問は、すぐにどこかに消し飛んだ。

 理由なんてどうでも良い、この2人の実力が本物だってことは、体で学んでいる。

 

「相手はアイツを大衆の中で殺した殺人鬼。殺人鬼には殺人鬼を、しかも双子をぶつける。つまりアタシの“切札”って所ね」

「切札……っ!」

 

 同じワードを『2回目』の咲夜も発言していた。

 あの時、既にナナとノノは咲夜の命令で動いていたって事になる。

 そして今、咲夜の命令で動いているナナとノノは俺に対して殺意を全く抱いていない。殺そうとする素振りなんて全く見えない。

 

「ちょ、ちょっとだけ、待ってくれ。頭を整理したい」

「庶民にはスケールが大きすぎたかしら。まぁいいわ、少し落ち着くくらいは待ってあげる」

 

 自慢できて少し得意げな咲夜の厚意に甘んじて、俺は言われた通り落ち着かせるべく思考を回す。

 俺はナナとノノが“犯人”だと確信していた、ついさっきまで。

 理由は『2回目』で渚と園子が殺され、夢見も襲われ、2人が投げた斧とナイフを代わりに受けた俺も死んだからだ。

 だから、そんな2人を雇っていた咲夜が、悠を殺して俺たちも殺そうとした本当の“犯人”なのだと思った。

 

 だが、そうでは無かった。

 咲夜は確かに2人を雇っていた。しかしそれは咲夜もまだ分からない“犯人”に対する“切札”としてであり、決して俺達を手に掛けようとしたからじゃない。

 悠が殺された後に雇ったから、悠の死にナナとノノは無関係。

 現に今、こうして俺は咲夜とナナとノノの前で隙だらけな姿をさらしているのにも関わらず、一向に襲われる気配が無い。それどころか。

 

「ねぇナナ、ふしんしゃお兄ちゃんが凄い難しそうな顔してるけど、何を考えてるんだろ」

「ノノが押さえつけたから怒ってるんじゃないかしら」

「え~、ちゃんと謝ったじゃないか」

「じゃあ、この後何をして遊ぶのかについて悩んでるのかも」

「それなら、あとで何をするのかふしんしゃお兄ちゃんに聞いてみよう」

「関係ないけどノノ、もう『ふしんしゃ』じゃないからその呼び方は変よ」

「あっそっか。普通のお兄ちゃんだね」

 

 ──それどころか、俺を話題にして勝手な会話の花を咲かせている始末。

 

 ここから分かる事は、つまり咲夜は俺が一瞬疑ったような“犯人”などでは無いし、ナナとノノは俺達を殺す理由が全くない。という事。

 じゃあ、どうして俺は、渚は、園子は、2人に殺された? たとえ今、こいつらに殺意が無かったとして、咲夜も殺せと命令していないとして、俺達が『2回目』に殺された事実だけは、確固たる事実だ。それだけは絶対に揺らがない。

 

 なら次に考えるべき事は、これだ。

 “何故、ナナとノノは俺達を襲ったのか”

 

「──どう、そろそろ落ち着いたかしら」

 

 俺の中で思考のベクトルが決まったのと同じタイミングで、咲夜が声を掛けてきた。

 

「あぁ。まだ分からない事があるけど、少しは整ったよ」

「ならいいわ。これ以上アタシの時間を浪費させるなんて許されないんだから。なら本来の話に戻るけどアナタ、アタシに何を聞きたくてここに呼んだの?」

 

 ナナとノノが居る前で、話は本流に戻った。あまりにも想定と違いすぎるシチュエーションだが、これから始まる話は間違いなく容疑者が白紙化された“犯人”の正体を突き止めるために必要なモノになる。

 慎重に、順序を間違えず、確実に知りたい事を脳内で箇条書きにまとめて、俺はまず1つ目の疑問を投げかけた。

 

「現状で、お前がナナとノノ(2人)を雇ってる事を知る人間は居るのか?」

「えぇ。でも少ないわ。アタシ達を警護してるSPは知らない。知ってるのはアタシの()()()と、さっき知ったアンタだけ」

「どうして、他の大人には教えないんだ? 反対されるから?」

「それもあるけど、SPはアタシの命令に基本忠実だけど、アタシ直属の人間じゃない。お爺様が回してるのが殆どなの。だからよ」

 

 なるほど、これで1つ目に知りたい事は分かった。

 ナナとノノの存在を把握している人間はごく少数。咲夜は本家の──綾小路家の中で咲夜よりも序列が上の存在の息がかかった人には、秘密にしている。

 なら、2つ目に知りたい事を聞いていく。

 

「どうしてそこまで頑なに秘密にしてるんだ? 知られたらマズい人が……咲夜の中で怪しいと思ってる人が居るから?」

 

 これは俺の中である意味最も重要な質問だ。

 何故ならこの質問に対する咲夜の返答次第で、3つ目に聞く内容が変容するから。

 

「……なんか回りくどい聞き方ね。もっとわかりやすく言いなさい」

「分かった、じゃあ率直に。綾小路家の中で悠を殺したいと思った奴は居るのか?」

 

 夢見が投げかけ、今日俺が聞こうと思っていた、ある意味で本題の中の本題。

 ナナとノノの登場と、そこから明かされた事実で霞みそうになったけど、今こうして改めて、俺は咲夜に投げかけた。

 

「“犯人”は、綾小路家の中に居るんじゃないのか?」

「…………」

 

 今度は咲夜が沈黙した。

 もしかしたら聞いた途端に『ふざけるな』と激昂されるんじゃないかとも思ったが、意外というかなんというか、咲夜は表情は険しくなりながらも、ため息をこぼして額に右手を当てるだけ。

 決して怒るとか、呆れるとか、そういう事とは程遠い静かな感情を保ちつつ、数瞬の後に答えを返す。

 

「もしかして今日、一番聞きたかったのそれでしょ?」

「そうだな」

「当てるわ。アタシの事も疑ってた。そうよね」

「……そうだ」

「やっぱり……」

 

 そう言ってもう一回ため息を吐く。

 

「アンタの質問に答える前に、アタシの質問に答えなさい。昨日電話した時は、全然アタシを疑ってる様には感じなかった。それがどうして急に怪しいと思うようになったの?」

「……それは」

「誰かに言われた?」

 

 俺が答える前に言い当てる──いや、形式的に質問の形を取っただけか。

 恐らく咲夜の中では、俺が誰かに言われて自分に疑問を持つようになったのだという確信があったらしい。

 夢見の立場が悪くなるので答えるべきか一瞬悩んだが、そこで沈黙する時点で肯定するようなものだ。

 

「やっぱり。……誰に言われたのかは聞かないであげる。それよりもアンタの質問に答える方が先ね」

 

 何故かそこで追及を止めた咲夜は、腕を組みはっきりと答えた。

 

「綾小路家の中はとっくに調べたわ。アンタに言われるまでも無く、一番疑わしかったもの。それこそ()()一番にね」

「そ、そうなのか……でも待て、それで今こうしてるって事は」

「そう。目ぼしい人間は居なかった。アイツより序列が下の人間も含めて、末端の枝葉まで隅々とね。そのために気に入らない千里塚にまで依頼して」

「千里塚って、前にお前が言ってた情報屋のか?」

「アンタにアタシのプライベートを垂れ流したあの千里塚よ。見たくない顔も見る羽目になって最悪だったわ。……でも、そこまでやった上で綾小路家はシロ。アイツを殺す動機がありそうな人間は誰も関わってなかったの」

「…………つまり、悠は本当に綾小路家と関わりのない人間に殺されたって事に」

「なるわね。証拠を出せと言われたら無いけど、今こうしてアタシが本家に知られたら絶対反対される双子を雇ってるこの状況そのものが証拠にならないかしら」

「そう……だな、うん」

 

 ナナとノノが俺たちを襲ったのは、綾小路家の中で咲夜よりも序列が上の人間が、裏で2人を動かしたからなのではないか。そう思ったのだが、その線は消えてしまった。

 千里塚……俺も土壇場で助けられたあの情報屋の仕事は本物だ。そこが俺みたいな庶民じゃなく、綾小路家の咲夜から依頼を受けた上で“犯人”と思われる人間を見つけられなかったと言うなら、間違いなくそれは本当なのだろう。

 つまり、『2回目』のナナとノノも、俺を殺すあの瞬間までずっと、本人達にとっては咲夜の命令通りに動いてただけ。依頼通りの行動をとっただけの話。

 そうなると、いよいよもってあの時俺達が殺されてしまったのか、説明が付かない……。

 

「聞きたいことは終わった?」

 

 咲夜の言葉で思考の海に沈みかけてた意識がパッと現実に戻った。

 本当なら2回目の質問に対する答えについて『綾小路家の誰が怪しいと思ってるのか』を聞くつもりだった。でも綾小路家に全く容疑が掛からなくなったのなら、それは聞く意味のない問いになる。

 なら、もういっそのこと別の質問をしよう。今俺が新たに抱えた大きな疑問について。

 

「仮に、なんだけど」

「まだあるの? ……もう、何よ」

「ごめん。それで、仮に……ナナとノノが俺や渚を襲うような事があるとすれば、それは何故だと思う?」

「はぁ? アンタ人の話聞いてなかったの? コイツらは」

「ちゃんと聞いてる。その上で聞いてるんだ、この2人が俺達を襲うとすれば、それはどんな時だ」

「……どういう質問よ、それ」

 

 困惑する咲夜。その気持ちも分からなくは無い。

 “犯人”に対するカウンターとしてそばに置いてるナナとノノが、俺達を襲うなんて事になればそれは“犯人”と同じ立場になるのを意味する。まるで意味のない話だ。

 それでも、俺が真剣に聞いてるのだと分かったら咲夜は顎に手を当てつつ考える。たっぷり30秒ほど考えた後に、咲夜は言った。

 

「アタシはナナとノノを“切り札”として用意してる。つまり、コイツらが武器を取る状況はただ一つだけ。さっきも言ったでしょ? アタシの周辺で不審な行動や人殺しをした奴を見つけた時、そいつを拘束しなさいって」

「あぁ。確かに言った。それでもし抵抗するなら──」

「殺しても良いってね」

 

 つまりあの時、家庭科室でその条件が揃っていた事になる。

 ナナとノノが『不審』だと判断──または『人を殺した』と判明した奴が、あの場にいた。

 その内、園子と渚は違う。あの2人のどちらか、または両方が殺人行為をしていたのなら、どちらも死んだ後にまだ夢見が襲われ続けてる理由にならない。

 たとえ殺人はしてないが不審者として拘束されそうになったとしても、男の俺でさえ瞬く間に地面に組み伏せられるノノに、そもそも“抵抗”すら出来ないだろう。

 

 であれば、やはりあの時ナナとノノが見たのは不審者の姿じゃなく、殺人が行われてる場面だった事になる。

 そして、園子と渚が死んでいたあの場でまだ生きていて、かつ、ナナとノノに襲われていたのは──ただ1人。

 

「そんな……そんなまさか」

 

 浮かび上がる一つの可能性。それも、信じられない……信じたくない可能性が頭の中で確かな存在感を放ち始めた。

 “それ”をどうにか払拭したいがために、もう一度『2回目』の時起こっていた事を整理しようとしたが。

 

「次はアタシから聞くわよ」

 

 そんな暇なんて与えないとばかりに、咲夜は俺に問いかける。

 

「もうここまで話したから言うけど──アンタのイトコ、一番怪しいから」

「──ッ!」

 

 奇しくもそれは、俺が思い至ってしまった可能性と同じ物だった。

 あの家庭科室で死んでいたのは園子と渚。俺は負傷してた夢見と無傷なナナとノノを見て、渚達があの2人に襲われたのだと思っていた。俺自身、ナナとノノの武器で死んだから、同じように殺されたのだろう、と。

 だけどもし、渚と園子は夢見に殺されて、その場面を見たナナとノノが依頼通りに夢見を拘束しようとしたのなら。それに対して夢見が抵抗して、結果ナナとノノが武器を持つ事になったなら。

 

 合う。

 合ってしまうのだ、辻褄が。

 

 でもそんなの無理がある。夢見が渚を、園子を、綾瀬や悠を殺すなんて事、理由を考える事すらできない。

 

「冷静に考えてみなさい。綾小路家の中でアイツを殺そうとする奴は居ない。プライベートの人間関係でもアンタは当然として園芸部の部員もあり得ない。それ以外の庶民なんかがアイツを殺せるワケも無い。でしょ?」

「……うん、その通りだと思う」

「なら、もう1人しか居ないのよ。アイツと関わりを持っててかつ、殺さない理由が無い奴は」

「待ってくれ! それだけで夢見が──」

「そもそも、アンタのイトコが来た次の日にアイツは殺されたのよ? 怪しむなって思う方が無理な話じゃない!」

「夢見がどうやって公衆トイレを爆発させたり、身元不明の男を悠に襲わせるんだよ! 夢見はただの女子高生だぞ?」

「そんなの、拘束した後に聞けば分かる事よ」

「横暴だ、そもそも殺す理由が無い! 俺や綾瀬達を狙う理由だって」

「アンタは最初から狙われてないかもしれないわよ」

「……え?」

 

 怒涛の応酬の中、まさかの返答に言葉が詰まった。

 俺は最初から狙われてない? 

 

「小鳥遊夢見、アイツは初めからアンタの周りの人間を殺そうとしてるのよ。まず手始めにアンタの親友だった悠、次はきっと彼女の河本綾瀬を狙う予定でしょうね。そこからは渚が部長……この辺は優先度特に無さそう。いずれにしてもアタシは最後のハズ。悠が死んだ時点で簡単に手を出せる状況じゃなくなるから」

 

 咲夜の言う順番は、まさに俺が繰り返しで見たのと同じだった。本当は咲夜が計画してるんじゃと疑うほど、その通りに襲われて、殺された。

 ただ、それでも信じたくない。納得出来るわけがない。母親が失踪して頼るあてが無くなってこの街に戻ってきた夢見が。屈託のない笑顔で慕ってくれる夢見が、人殺しなんて納得できるわけがないだろう。

 

「そりゃただの予想だろ、殺意とは別の話だ、アイツが俺を殺す理由が無いように、他のみんなを殺す理由だって持ち合わせて無い」

「アンタのことが好きなんじゃないの? だからでしょ」

 

 夢見が俺に好意を持ってた事は、本人の口から明かされている。確かにそれは事実だ。

 同時に夢見はそれを『昔の話』だとも言っていた。今更俺と綾瀬の関係に何か言うつもりもない、と。

 百歩譲ってそれがその場限りの嘘だったとしてもだ。

 

「夢見が俺を好きだとして、そんな理由で人を殺せるワケが無いだろ!」

「今更何言ってるのよ、アンタをめぐって殺し合いをしたのは誰だった? アンタの妹と幼なじみでしょ?」

「────それ、は……」

 

 痛恨の一撃だった。

 言葉通り今更過ぎる発言だと、自分自身思ってしまった。その位にぐうの音も出ないものだった。

 他ならぬ俺の周りに、恋のために人殺しも厭わない人間がいたのだから。園子ですら、時と場合によっては恋敵を殺す上に、彼女の場合は最悪の場合俺も殺してしまう可能性がある。

 

「……でも、それは」

「まだ反論の材料があるの?」

 

 ある。

 あるが、それはこの場では言えない物。

 渚も、綾瀬も園子も、人殺しを厭わないのは『ヤンデレCD』の登場人物だからだ。

 もうこの世界を、そして周りの人間を『創作物の世界とその住人』として見なくなって久しいが、この世界の人間全てが恋のために人を殺せるワケじゃ無い。

 彼女達が人殺しも手段として選べるのはあくまでも、ヤンデレだから。『ヤンデレCD』の登場人物はもう居ない、夢見が俺に恋心を抱いてたとしても、この世界の一般人でしか無い彼女が『ヤンデレCD』の登場人物みたいな事をするワケが────、

 

 

「…………?」

 

 何か、本当に些細な何かが引っかかる感触が胸の奥でした。

 些細な、それでいて致命的になりそうな予感のする何か。

 

 テストのマークシートを1問分ズレたまま回答した時の様な。

 ズボンのチャック全開にして人通りを歩き続けた時の様な。

 真夏に冷房を付けっぱなしにしたまま旅行した時の様な。

 

 気づく前までは何でもないのに、気づいた瞬間に前提が全て狂い、ひっくり返り、激しい後悔に襲われる時──その寸前の、何かに気づきかけてる感触が、俺の心中を包み出す。

 

 え、待ってくれ。違うのか? 

 頸城縁の記憶を前提に俺は今日までヤンデレの女の子に殺されないための立ち回りをしてきた。それは全てとは言わないが功を成して、今の時間があるハズ。

 

 “野々原渚”、“河本綾瀬”、“柏木園子”。3人の『ヤンデレCD』に出てきた女の子との幸せと生存をかけた俺だけの戦いは、無事に終わったハズなんだ。

 頸城縁が覚えていない『ヤンデレCD』の登場人物が居たのか? ……いや、そんなワケない。頸城縁が生前に親友の堀内から押し付けられて聴いたCDは一つだけ。それ以外は何も──、

 

 

「ちょっと、急に黙んないでよ。話はまだ続いてるんだけど?」

「──今、なんて?」

「はぁ? だから、続きが」

 

 カチリ。 と何かが完全に噛み合った音が幻聴として聴こえた。

 同時に、思い出す。

 頸城縁の記憶の奥底。彼の幼なじみである瑠衣が殺された日──後悔と怨嗟に塗り潰されて虫食いだらけになっていた記憶が。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「なぁ縁、どうだったそろそろ感想言えよ」

 

 2限の情報の授業。PC室で隣同士の席に居た親友の堀内が、急にそんな事を言い出した。

 

「何の話だよ」

「ヤンデレCDの感想だっての、お前に貸してからまだ感想聞いてないじゃん、瑠衣ちゃんみたいな幼なじみ兼妹分持ちのお前にとって、誰が1番グッと来た?」

「別に……妹キャラは兄妹なのに浮気とか言い出すし、幼なじみは釘で刺したら絶対病気なるだろ傷口から」

「ばっかお前、そう言う、狂気的な愛ってのにグッと来るもんだろあの作品は〜」

「まあ、珍しいとは思うけどさ。園芸部のキャラは終わり方が意外だったし」

 

 何の気なしにそう答えると、堀内は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になって言った。

 

「お、お前柏木園子が好きなのか……えぇ意外だわ、案外そう言う欲望あるの?」

「好きって何だよ、一番印象に残っただけだし……つーかどんな欲望?」

「花の養分になりたい欲望」

「お前を雑草の肥料にしてやろうか」

「まぁまぁまぁ」

 

 至って平和な、数時間後には地獄が待ってるとは思いもしない2人の会話。

 そんな会話の中で、堀内はふと、PCの検索ブラウザを開いて、とあるブログ記事を出した。

 

「ほら、見ろよ縁君。これ次のキャラ達だってさ」

「は? 次って何の」

「ヤンデレCDのだよ、キャラも増えてるんだけどさ、俺が気になってるのはこの子、声優も前作と同じ人でどー演じ分けるのか楽しみでさ」

 

 そう言って無理やり見せて来た画面に映っていたのは。

 ピンクの髪に、ピンクのスカート、ハサミを持って猟奇的な笑顔を見せた──、

 

「このキャラ、絶対可愛いぜ、今から楽しみだよ」

 

 そう話す堀内の言葉を半分聞き流しつつ、俺の目は画面に映ったキャラの瞳に吸いつかれる様に、不思議と釘付けとなっていた。

 不思議な魅力を持つキャラクターのそばには、その名前を示す文字が書かれていた。

 そう──()()()()()と。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「あぁあぁあああああああああああ!!」

 

「きゃ、どうしたのよ突然!」

「あぁ、なんで──何でどうして、クソ、クソクソ!」

 

 前提が狂った。

 ひっくり返った。

 終わったと思ったものが終わってなかった。

 気がついた瞬間に後悔ばかりが全てを統べた。

 

「何で忘れてた! どうして思い出せなかった! 瑠衣の死で埋もれてた記憶だというのなら2度と思い出すな! 思い出せる余地があったなら最初から忘れるな!!! ふざけるなふざけるなふざけるなぁぁあ!!」

 

 頭を抱えて言葉に吐き出して、今すぐにでも死にたくなる衝動を()()になって追い出そうとする。

 でも、吐き出せば吐き出すほどに、それ以上の後悔が湧き出て来て止まらない。

 

「俺が思い出してれば、見た瞬間に分かってれば、悠は死ななかった! 死なせなかった! 2人きりにさせるなんて事しなかったのにぃぃぃぃぃいいいい!!」

 

 俺が悠を殺した様なものだ。

 俺が綾瀬を殺した様なものだ。

 渚も、園子も、俺のせいで殺されたなと同じだ。

 手段も、凶器も、理由も知らなくたって、小鳥遊夢見が『ヤンデレCD』の登場人物だと知ってさえいれば、できる事は幾らでもあったハズだろう! 

 

「ねぇねえ、どうしたのお兄ちゃん。急にお腹痛くなった?」

「それとも頭が痛いのかしら、大丈夫?」

 

 涙と吐き気が同時に襲ってくる俺の背中を、いつの間にかそばに来たナナとノノが優しくさすっている。

 あんな目に遭わされた相手にまで心配されているという、自分が置かれている状況の異常さに否応なしにでも気づかされてしまう。

 そのおかげで、とは言いたくないけれど、少しだけ冷静な自分が顔を覗かせてくれた。

 

「あぁ……大丈夫だ。ありがとうな」

 

 よりにもよってこのナナとノノに対して『ありがとう』なんて言う事があるなんて……と思ったが、この2人は渚も園子も殺してはおらず、俺が2人に殺されたのは夢見をかばったからなので、この2人を恨む道理は俺には無いのだ。──もはやそれ自体が果てしなく意味不明な事だが。

 

「さっきからどうしたのよ、少しおかしいわよアンタ」

「……ごめん。だけど、確証はないが咲夜の言う事は間違ってないかもしれない」

「いきなり絶叫した後は急な心変わり?」

「だよな、自分でもそう思うよ。でも説明が難しいけど夢見には動機になりえる物がある事を思い出したんだ」

 

 ナナとノノが夢見を襲っていたという事実は大きな判断材料になるが、あくまでも状況証拠。実際に夢見が手を出した場面を見ていない。

 だが、夢見が『ヤンデレCD』の登場人物だったと判明した今、俺の見てない場所で渚や綾瀬達に近づかせる行動は危険でしかない。つまり──、俺抜きで昼食の時間を共にしているだろう渚たちの身が、現在進行形で危険極まりないって意味だ。

 

「咲夜悪い、渚に電話したい。ちょっと待ってくれ」

「何なのよもう……」

 

 俺の目まぐるしい言動に困惑しつつも、俺の邪魔をしないでくれる咲夜に『すまん』と片手でジェスチャーしつつ渚に電話を掛ける。頼むから出てくれよと思いつつ、コールを待っていると5回目で渚が出てくれた。

 

「もしもし、渚、無事か?」

『お兄ちゃん、どうしたの? 無事って……何かあった?』

 

 電話の先から聴こえる渚の声色は普段と同じ。焦りが隠しきれない俺とは真逆で、いたって平穏な雰囲気だ。

 

『もう、いくら何でも心配し過ぎだよ。今は中庭でお昼ご飯食べてるから周りに人も多いし平気だよ?』

 

 渚は俺が心配になって電話を掛けてきたのだと思ってるようだ。それは大きく見ればその通りだが、その実は全く違う。

 

「渚、今近くに誰が居る? みんな揃ったままか?」

『今? 今いるのは(あたし)と園子さんだけだよ』

「──ッ! 他の2人、綾瀬と夢見ちゃんは!?」

『ちょうどさっきお手洗いに行ったばかりだけど、それがどうしたの? お昼休み時間だからどこも生徒や先生が居るし、問題ないと思うけど』 

 

 最悪だ。よりにもよって、あろうことか事もあろうに、最悪の組み合わせが二人っきりで行動している。

 

「──渚、今すぐ2人を追いかけてくれないか! 園子が近くに居るなら一緒に、できるだけ自然体で!」

『ど、どうしたの本当に? もしかして犯人が誰か分かったの?』

「詳しくは後で話す、とにかく綾瀬が危ない──!」

 

『──きゃああああああああ!!!』

『う……うわあああああああ!』

 

 渚に簡易的な説明をしてる途中に、渚の電話から悲鳴が聴こえてきた。

 渚からのモノではない、しかし男女含めた大勢の生徒が何かに対して怯えている事が分かる。

 中等部校舎の屋上にも悲鳴が届いている所から考えるに、おふざけで生じた騒ぎではない。非常事態だ。

 

「渚、何が起きてるか分かるか?」

『ううん、分かんない。でも高等部の校舎から皆走って出て来てる……何かから逃げてるのかな?』

 

「──何ですって!?」

 

 俺と渚の会話に挟むように、咲夜の驚きと怒りが混じった声が空いた耳に突き刺さる。

 何が起きたのかと視線を向けたら、いつの間にか自分のスマートフォンを片手で握りつつ、咲夜が険しい表情を浮かべていた。

 

「咲夜、その電話、今高等部の校舎で起きてる事についてか?」

「その通りよ。一階で見回りしてた支援員が殺されてたわ。3人も!」

「──マジかよ」

 

 背筋が凍る。変わらず夢見の行動かは分からないが、状況は『2回目』と酷似している。

 大衆がパニックを起こして混乱している最中に、次々とみんなが殺されていったあの終わり方と。

 

「渚、前言撤回! その場から離れないで園子と一緒に居るんだ。誰かに呼ばれても人目の着く場所から離れないように。特に夢見ちゃんから電話とか来ても絶対に動かないでくれ」

『夢見ちゃんから? ……もしかして、夢見ちゃんが犯人なの?』

「まだ分からない、でもとにかく頼む!」

『う、うん……分かった』

「またすぐに掛け直す! ううん、そっちに行く!」

 

 そう言って電話を切り、急いで屋上の出入り口に向かおうとする俺に、咲夜が言った。

 

「待ちなさい。今はここの方が安全よ」

「──でも中庭に渚と園子が居るんだ、はやく行かないと!」

「行ってどうするの、相手は大人を3人殺せるのよ、アンタ一人で立ち向かっても死体が増えるだけ。無駄だって分かるでしょ?」

「でも、綾瀬が夢見と一緒に居たんだ! 夢見が本当に“犯人”だとしても違うとしても、綾瀬が危ないんだよ!」

「……そう、河本綾瀬が一緒に居たのね」

 

 途端に、咲夜が何かをあきらめたような顔と声色で言った。

 止めてくれ、そんな『もうどうしようもない』なんて顔をするのは。やっと綾瀬を助けられたと思ったのに、今から向かえばどんなに絶望的な確率でも綾瀬を助けられるハズなんだから。

 

「アンタの妹と部長の所にはもう人を回してる。すぐに確保して保護するわ。だからアンタもここに居なさい。ナナとノノが知覚に居るここが、今この街で一番安全よ」

「それじゃあ綾瀬がどうなる!?」

「今急いで校舎を探させてる、アンタの言ったトイレにもどこにも、2人は居ない。この意味が分かる?」

「……っ、そんなの……」

 

 分からないわけが無い。

 どんなルートを使ったのかなんて分からないが、夢見がこの騒ぎに乗じて一瞬で消えたんだ。……綾瀬を攫って。

 今から俺がどんな行動を取ったところで、もうこの学園の中から綾瀬と夢見を見つけ出す事はできない。綾瀬が殺されたか生きてるのか今から殺されるのか、それも分からない。

 どうにかしたいのにどうにもならないと嫌でも理解し、さっきまですぐにでも駆け出そうとしていた足はすっかり動かなくなった。

 

「完全にやられたわ。アンタとアタシがここで話をする事で、ナナとノノ(この2人)が小鳥遊夢見の周辺に居ないタイミングを見計らったのね。まさかここまで行動的だなんて」

 

 悔し気に『いざ動くと決めた時の行動力は、アンタと似てるわね』と言う咲夜に、俺は何も返す言葉が出てこない。

 

 あっという間に、事態が変動した。

 疑いの目を向けていた相手は最も信頼すべき存在だった。最も“犯人”だと思っていた相手は最も安全を確保してくれる存在だった。信頼していた相手は誰よりも“犯人”に近い存在だった。それらが判明した矢先に、さっきまで手の届く範囲に居た愛しい存在が、消えてしまった。

 

「……畜生」

 

 様々な感情がごちゃごちゃに混じり、ようやく絞り出せた言葉は、いよいよ事態を知った生徒たちによって大きくなった悲鳴にかき消され、厭味ったらしく晴れ渡った青空に影も残さず吸い込まれていった。

 

 

 ──to be continued



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8病 来ちゃった♡

前回更新が1週間止まった分をここで補填。普段より短めですがよろしくお願いします。
感想お待ちしております。


 その後、事態は否応なく、そして容赦なしに流れた。

 校内で殺人事件が発生した事で学園は一時的に閉鎖。

 有事の際にオンライン授業が可能なのを売りにしてたタブレット端末の全生徒配布も、流石に人死の前では形なし。

 俺達はみんな、自宅待機を余儀なくされた。

 

『最悪よ』

 

 綾瀬が夢見と共に消息を絶った日。パニックに陥る生徒達の悲鳴を背景に、咲夜は言った。

 

『アタシが通う学園で、アタシのSPが殺された。お爺様がこれを知るのなんてすぐ。知れば明日にでもここを離れろって言うわね。……そうなったら今回はもう、無視できない』

『……そうだろうな』

 

 咲夜の命が著しく脅かされた現状、咲夜を溺愛してる──いや、溺愛していようとなかろうと、この状況で自分の子や孫を離したいと思うのは当然だ。

 

『咲夜、ノノ達はどうなるの?』

『ナナ達はここに残るのかしら』

 

 そう尋ねるナナとノノは心なしか声が浮ついている。俺と咲夜が最悪な気分に染まってるのとは対照的に、往来の人殺しであるサイコな双子は、この状況に面白みを感じているらしい。

 

『アンタ達もアタシと一緒よ。当然でしょ』

『えー! せっかく面白そうな事が起きたのに、咲夜は大人の人たくさんいるから良いじゃないか!』

『その大人が殺されてるのよ、アンタ達は確かに“犯人”──いいえ、小鳥遊夢見対策で雇ったけどあくまでもアタシの護衛なの。分かった?』

『……ちぇ、つまんないの』

 

 本当に不満そうなノノを見て、本来なら俺は怒りを覚えるべきだった。あまりにも不謹慎過ぎる発言に、度が過ぎるだろと。

 でもそうはならずにただ淡々と聞き流すだけに留まったのは、歴然過ぎる力の差からか、心にそんな余力がもう残ってないからか。

 

『お兄ちゃんともサヨナラなのね。今起きてる事もだけど、お兄ちゃんも不思議な人だから離れるのは残念だわ』

 

 咲夜に絡んでるノノとは違い、不満気ながらも何処か納得してる様子のナナが、てくてくと俺の前に寄って来た。

 

『ねぇお兄ちゃん、意気消沈してる所申し訳ないのだけど、聞いてもいいかしら? いいわよね?』

『質問じゃなくて詰問だろそれ』

『まあ、面白い言葉を知ってるのね。それでなのだけど……お兄ちゃん、どうしてナナ達のこと知ってたの? やっぱり前にどこかで会ってたかしら』

 

 マイペースに話を進めるナナ。もはや何も思うまい。『会っていたか』と聞かれれば“そうだ”と言えるけど、そう言ったら最後、非常に面倒な事にしかならないのは明らかだ。

 かと言って俺が2人の名前を先に発言したのは事実だし……どう答えたモノかと悩んだ結果。

 

『どうだと思う?』

『え?』

『会ってたかもしれないし、会ってないかもしれない。君の好きな方を選べばいいよ』

 

 茶化す事にした。

 後から思えば、曲がりなりにも自分を殺した存在相手にそんな態度を取るなんて頭がどうかしてる。半ば自暴自棄にもなっていたと思う。

 

『むぅ、意外と意地悪なのね、拗ねちゃうんだから』

『……』

 

 もっと狂気的な反応をしてくるのかと思ったが、頬を膨らまして不満げに俺を見上げるナナ。

 それがあの『2回目』で見せた姿とはかけ離れていて、こっちの調子が崩されそうだよ。

 まるで狩りみたいに楽しみながら人を殺すのと、こうやって年相応の子供じみた反応と、どちらがこの子の素の姿なんだろう。……いいや違うか、どっちもナナとノノ(この子達)にとっては素なんだ。無邪気に拗ねて、無邪気に殺しを楽しむ。小さい頃に虫を楽しんで殺す子供の様に、人を殺すんだろうな。

 

『次……』

『え?』

『次にまた会う事があったら、その時は教えるよ。どうして俺が君達を知ってるか』

 

 何でそんな事を言ってしまったのか。この時の自分の思考回路はよく分からない。

 ただ、血も涙も無い殺人鬼だと思ってた相手が子供らしい一面をのぞかせて、更にそもそも敵では無かったという事実に感覚がおかしくなってたのかも。

 下手に関わりを持って目を付けられたら、今はともかくこの先どうなるかなんて分かったモンじゃないのにな。もっとも、ここしばらくは『この先』ってのがろくなビジョンばかりなのだが。

 そんな俺の考えてる事なんて知らないナナは、膨れっ面をパッと輝かせて言った。

 

『本当? “やっぱり嘘”なんて言ったら許さないんだから』

『約束するよ。まぁ、君達はここから離れるんだから、もう会うことはないだろうけどね』

『……やっぱり意地悪な事言うのね』

 

 また表情を曇らせるナナ。気が付けばそのコロコロ変わる表情を面白がってる自分が居た。

 まあ。これは純粋に可愛がってるんじゃなくて、『2回目』に殺された事の仕返しだったりするんだが。

 

『そうだ、こうしましょう!』

『ん?』

 

 何かを思いついたナナが、自分の髪に付けているゴスロリカチューシャをスッと外し、左右に結ばれている赤いリボンを1つ解いた。

 

『はい、お兄ちゃん。こちらを受け取ってくださる?』

『え?』

『これをお兄ちゃんが持ってたら、いつか会いに行くときに目印になるわ。そしたらすぐに見つかるでしょう?』

『なるほど……ただ、男の俺がリボンってのはなぁ』

『ただ持ってるだけでも大丈夫よ。それに』

『それに?』

『きっと、お兄ちゃんのお守りにもなってくれるわよ? フフフ……』

 

 最後の笑い方だけは、どこか含みを持った怪しいものに感じたのは、きっと気のせいでは無い。

 

 

 そんなワケで、現状、俺は何もできないまま部屋でナナがくれたリボンを眺めてるばかりだった。

 はじめは是が非でも綾瀬を見つけ出そうとして、渚の反対も無視して夢見の部屋を調べたり、街を出回ったりした。でも夢見の部屋には綾瀬の行方につながりそうなものは何も無かったし、街を歩いてると学園が閉鎖されてる事を知ってる警察に補導されかけたりで、何も成果が得られないまま終わった。

 

 咲夜は祖父に厳重に匿われているらしく、表立って夢見を探すために行動する事は難しいと、学園閉鎖がされて以降に初めて来た電話で言っていた。

 それでも末端にこの街を隅々まで調べさせていたが、痕跡1つ見つからず、それすらバレて咎められた今は『完全に手詰まりだ』とも。

 頼みの綱とも言えた咲夜は動けず、この街には夢見が綾瀬を連れて行動した痕跡はない。それなら夢見はきっと、既にこの街から去っているんだろう。そこに綾瀬も一緒なのかは分からない。居るなら最悪だが、居なければつまり殺されているかもしれないのでもっと最悪だ。

 どうにかして、夢見が今いる場所を突き止めて、綾瀬を助けなきゃいけない。

 そのためには、この街以外で夢見の痕跡が突き止められそうな場所に行かなくちゃならない。

 

 だけどそんな場所、どこにも無い──ワケではなかった。

 俺の思い着く限り1つだけ、候補がある。それは夢見がこちらに引っ越す前まで生活していた家だ。

 今はもう空き家になっているだろうが、この街から離れた場所で、更に夢見が地理に明るい地域と言えば、以前住んでいた場所にほかならない。

 空き家だからもう誰かが新しく住んでいる可能性も考えたが、もし空いたままだったら夢見の隠れ場所や拠点には打ってつけ。調べる価値は十分にある。

 

 当然、それは思いついた直後に咲夜へ伝えた。夢見の行方が見つかる可能性に掛けて、一緒に確認しようと話も持ち掛けた。

 しかし結果はダメ。既に言った通り本家によって半分軟禁状態にされ、監視の目が強化。もはや木っ端の部下1人すらも動かせないという。

 “あと少し、事態が動かなかったらお爺様の態度も軟化するの。それまで我慢しなさい”と咲夜は言った。そんな猶予は無いって言うのに。

 

 ならば、と警察にも話した。この街で1番大きな学園で起きた殺人事件は当たり前のことだけど警察沙汰になり、調査が行われている。俺が補導されかけたのも、巡回パトロールが増えたからだ。

 もちろん行方不明になった綾瀬と夢見の捜索も行われている。だから話せば動いてくれると期待したのに、警察は俺を恋人とイトコが居なくなった男子高校生として同情こそしても、その言葉に信憑性を感じてくれる事は無かった。

 夢見を“犯人”だと見ているのは俺達だけであり、公的には夢見も被害者の1人として扱われている。容疑者なら昔住んでた家を調べる事もしただろうけど、被害者を相手にそうはならない。

 何より彼らにとって、俺みたいな“被害者側”の発言は、焦りや怒りなどの個人的感情に則った参考にならない意見にしかならない様だ。

 その考え方は分からなくも無いが、今の俺にとってはこの上なく残酷なものでしか無い。

 

 結果、今動けるのは俺しかいないって事を、否が応でも理解したし、もっと言えば思い知らされたよ。

 

「……あぁクソ、でも恐ぇよ」

 

 机に突っ伏して限り無く本音に近い言葉を漏らす。外に吐き出さないと、それに全部呑まれてしまいそうだ。

 夢見が悠を殺して、綾瀬や園子、渚を手に掛けたのは間違いないだろう。確かな証拠がないままではあるが、現状を振り返れば疑いようが無い。

 もし、俺の推察通り前の家に夢見が隠れ潜んでたとして、俺が行くのは人殺しの巣だ。そんな場所に1人で行くのがどれだけ無謀な行為か、分からないほど馬鹿じゃない。

 ナナとノノの様な非日常の世界に生きる殺人鬼とは違い、夢見はあくまでも一般人。その分一方的に殺される可能性は低くなったけど、忘れてはならない、彼女もまた『ヤンデレCD』の登場人物。

 理由やヤンデレ化する経緯は全く分からないが、その事実だけで本来ならもう、どうしようも無く恐ろしい。

 

「それでも……やらなきゃダメだ」

 

 自分自身に言い聞かせるように、俺は言う。

 咲夜は動けない、警察は動かない。夢見の行方を突き止めるために、綾瀬を助けるために動けるのは俺だけ。

 調べに行ったら、俺も殺されるかもしれない。それを百も承知の上で、恐くても行動するべきなんだ。

 

 それに……本当に、こんな事馬鹿だと思うけど。

 ほんの少しだけ、未だに夢見を信じたいと思う部分が、俺の中に残っていた。

 証拠が無いから、では無い。

 この繰り返される“最悪”の中で見た、彼女の姿がそうさせている。

 

『──お、にいちゃん?」

『──けが、してない?』

『そっか……よかったぁ』

『……えへへ』

 

 よそ見運転で信号を無視して突っ込んでくる車から、俺助けてくれたのは夢見だった。

 

『いや、おにいちゃん、死なないで! お願いだから!』

 

 ナナとノノの武器が刺さって死ぬ寸前の俺を抱きかかえて、泣きながらそう言ったのも夢見だった。

 

 俺だけが見てきた過去において、夢見が俺自身に危害を加えた事は無く、むしろ身を呈して助けてくれるまである。

 俺が知ってる『ヤンデレCD』に出てきた3人のうち、主人公を殺さないのは『河本綾瀬』だけ。それでも殺さないだけで五寸釘で磔にするなど、危害は加えている。それを踏まえて夢見の行動を振り返ると、CDに登場する『小鳥遊夢見』は元から主人公に危害を加えないタイプである可能性が高い。

 つまり、この世界の夢見と『ヤンデレCDの小鳥遊夢見』がどこまでパーソナルを一緒にしてるかは分からないが、彼女は俺を殺すつもりがそもそも無いかもしれない。

 

 そうだとしたら、夢見にはまだ説得できる余地がある。

 俺の中で僅かに残ってる、夢見を信じている部分とはそれだ。『夢見は誰も殺してない』と信じてるんじゃ無い、『言葉を交わせば凶行をやめてくれる』と信じてるんだ。

 今までだって、渚や綾瀬、園子と真剣に向き合って言葉を交わし続けたから、俺は死なずに生きてこれた。

 もっとも、咲夜に対しては追い詰められた反動もあってかなり酷い事をしてしまったし、悠を殺された恨みが夢見に無いと言えば嘘にもなるから、夢見を説き伏せるだけの自信なんて、まるで無い。

 けど、それでも言葉が通じるかもしれないなら……。

 

「……よし」

 

 頬をパチン、と軽く叩いて気合を入れた。

 部屋の時計は夜の9時をさしている。この時間から動けばまたパトロール中の警察に見つかっても、声を掛けられる事はないだろう。やるなら、行くなら今からだ。

 夕飯を食べ終えて、渚と俺はそれぞれの部屋にいる。音を立てたら渚に俺がやろうとしてる事を察知されるかもしれない。渚にバレたら流石に俺も動けないので、静かに部屋着から着替えて、ゆっくりとドアノブに手をかけ扉を開ける。そして、

 

「どこに行こうとしてるの、お兄ちゃん」

 

 部屋の前で腕を組みながら立っていた渚に出くわした。

 

「!?!!!?!」

 

 声にならない声をあげてビックリする俺と、そんな俺を見て呆れた顔の渚。

 

「やっぱり……今日辺りでお兄ちゃんは我慢出来なくなると思ってた」

「なんでそんなピンポイントで的中できるのさ!」

 

 俺が行動しようと決意するより先に、俺がそうする事を察知していた渚。

 俺を理解してくれてるったって、ここまで完全に見透かされてると、むしろ俺がそれだけ分かりやすいだけな気もしてきましたよ。

 

「夢見ちゃんの住んでた家に行こうとしてるんだよね、お兄ちゃん。警察にも怪しいって言ってたし」

 

 俺が警察に掛け合ってる所は渚も知ってる、だから俺がどこに行こうとしてるのかを予想してるのは問題無いのだが。

 

「そうだけど、渚、お前その格好はまさか」

 

 渚はただ突っ立ってたんじゃない。俺と同じ様に外に出られる格好をしていた。

 

「もちろん、私も行くから」

「バカ言うな! どれだけ危険なのか分かってるだろ!? お前はここで待ってるんだ」

「危ないのはお兄ちゃんだってそうでしょ!?」

「──ッ」

 

 強い口調で反対すると、それ以上の気迫で渚に言い返され、たじろいでしまった。

 

「お兄ちゃんが何を考えてるかなんて分かる。お兄ちゃんは優しいから、まだ夢見ちゃんを止められるかもって思ってるんでしょう?」

「──無謀な事だってのは分かってるよ、でも俺はまだ、夢見が本当にただの殺人鬼だって思いたく無いんだ!」

「私だって、同じだよ。だから一緒に行くの」

「ダメだ、もし夢見が本当にただの殺人鬼だったらどうする」

「それを言うなら、夢見ちゃんがもしお兄ちゃんをたまたま最後に殺そうとしてただけなら、どうするの?」

「……俺が戻って来なかったら、夢見が犯人だと確定するだろ。そしたら警察も咲夜も、今度こそ動いてくれる」

「その後は? お兄ちゃんが夢見ちゃんに殺されて、その後1人残った私はどうなるの?」

「それは──」

 

 俺が死ねば、渚はひとりぼっちになる。

 答えるまでもなく分かりきった事に、言葉が詰まった。

 そんな俺にたたみかけるように、渚は言う。

 

「お兄ちゃんが殺されたら、私も死ぬから。後で夢見ちゃんが捕まったって関係ない。夢見ちゃんをぶっ殺して私も死ぬ」

「ば──滅多な事を言うな! お前まで死んじゃったら父さんと母さんがどうなるんだよ」

「そんなの関係無い、お兄ちゃんが居ない世界で生きたって死んでるのと同じなの!」

 

 そう言い切って、渚が俺の胸元にしだれかかる様に抱きつく。肩に手を添えると、僅かに震えているのが分かった。

 

「本当はお兄ちゃんを行かせたくない。死なせに行く様なものだもん。でもお兄ちゃんは何を言っても絶対に行くから……だから私も行きたいの。お兄ちゃんを死なせたくないから」

「……渚」

「お願い、お兄ちゃん。私を1人にしないで……っ!」

 

 ……無理だ。

 

 断れる、わけがない。

 渚を死なせたくないからって突き放しても、俺が死んだら渚まで後を追うんじゃ意味がない。

 それに何より、こんな風にただ純粋に思いのたけをぶつけられて、突っぱねる事は出来ない。

 

「……2人で行った方が、綾瀬が動かなくても引っ張って連れて行けるもんな」

「お兄ちゃん──っ!」

 

 渚の顔がパッと明るくなる。

 

「ただし、2つ約束してくれ」

「2つって、なに?」

「1つ、俺が逃げろって言ったら絶対に何があっても逃げること」

「……あとは?」

「俺が死んでも、絶対自殺しないこと」

「お兄ちゃん……」

「これは絶対守れ。じゃなきゃ連れて行かない。お前を縛って自殺できないようにしてから家を出る」

 

 先ほどまでとは違って静かな声で。だけど絶対に譲らないという意思を込めた。

 

「…………うん、分かった。お兄ちゃんの言う通りにする」

「……ありがとう」

 

 みじかい時間の中でたっぷり間を置いてから納得してくれた渚。わずかな間にたくさんの葛藤があっただろうに、最後は俺の言葉を飲み込んでくれた事に礼を言いながら、頭を撫でる。

 抵抗せずに受け入れている渚の髪の感触を指に受けながら、これが最後の触れ合いになるかもしれない事実で背中に冷たい汗が流れた。

 その一瞬だけ、『やっぱり咲夜が動けるようになるまで待った方が良いんじゃないか』と日和る自分が顔を覗かせて、それを意識の奥底までしまい込み。

 

「よし、行こうか」

「うん、行こう」

 

 泣顔のような笑顔を見せあいながら、最後にもう一回、互いに強く抱きしめ合った。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「──それ、持ってくのか?」

 

 玄関で靴を履きつつ、俺は渚が出掛け用のカバンにしまおうとしてる物──渚が料理当番の時に愛用している包丁を指して言った。

 

「うん。夢見ちゃんが何か危ない事をしてきた時の対策。お兄ちゃんは何も用意してないの?」

「警察に声掛けられたら困るから、何も用意してないよ、防犯ブザーしか」

「それだけ? もう、お兄ちゃんは不用心なんだから」

 

 平然と武器を所持する選択を選ぶ渚もどうかと思ったが、今から命の危険が伴う場所に向かうにあたり、渚の主張の方が正しい事は明白だよな。

 

「じゃあ確認、警察にもし声をかけられたら、俺達は隣の県に暮らしてる親戚の家に行く事にしたって言う事。良いな」

「うん。分かってる」

「間違っても、夢見の事は口に出さない。包丁が入ってるのバレたら一巻の終わりだからな」

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?」

「そんなに警察のパトロールが気になるなら、駅までタクシー使えば良いんじゃないかな」

「……それもそうだな」

「……お兄ちゃん」

 

 やめろ、本当の本当に呆れる時の目つきで俺を見るな。

 

「と、とにかく行くぞ!」

「はーい……ふふっ」

「もう笑うなよ……」

「ううん、違うの。なんか私たち、今から本当に危ない所に行くのにいつも通りだなって思って」

 

 そう言って小さく笑う渚。

 自然と、俺の頬も弛んでしまう。

 

「かもな。なんていうか、良くも悪くも緊張感が続かない」

「……夢見ちゃんを説得できるか、分からないけど。きっと私たちなら大丈夫だよ、お兄ちゃん。綾瀬さんを助けよう」

「──おうっ!」

 

 まるで戦場の一番槍を担う猛き武将のように、渚の言葉を発破にして俺は左手で玄関を開けた。次にこのドアノブを手に掛ける時は、俺と渚、そして、綾瀬の姿も一緒なのだと心に固く誓って。

 そして──、

 

 

 

 

 

「こんばんは、おにいちゃん!」

 

 ──玄関の外灯に照らされた夢見に、底抜けて明るい声色でそう声をかけられた。

 

「……は?」

「──お兄ちゃん、避けて!」

 

 なんでここに居るのか、いつから居たのか、困惑も驚愕も追いつかず、現実を認識できないでいる俺に、背後の渚が必死な声をあげる。

 しかし、もはや遅かった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何かが──いや夢見の手が、何かを持って勢いよく顔のそばを走ったのが、首を冷たくなぞる風の感触で分かった。

 “やられた”と思った。渚のように包丁のような刃物で刺されたのだと。

 

「……?」

 

 しかし、『2回目』の時にナナの斧とノノのナイフに刺された時感じた様な熱く、冷たくむせ返る様な吐き気と痛みがいつまでも来ない。

 

「……渚ちゃん、ちょっと五月蠅い」

 

 そう夢見が呟いてようやく、夢見の狙ったのが俺ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「おに……ちゃ……」

 

 掠れた渚の声が背後から耳朶に届く。その声色から、俺の背後で最悪の事態が起きて、完了してしまったのだと否が応でも理解してしまう。

 ゆっくりと振り返り、渚の姿を視界に映すと──、

 

 ほんの十数秒まで笑みを浮かべていた顔は苦悶に染まり、夢見の手から伸びた()()()()()()()()()()()()()()()()

 ぷしゅ、と渚の首から血が噴き出る音が鳴って、

 

「──死んじゃえ」

 

 夢見の鋏が引き抜かれ、塞き止められていた渚の血が玄関に、俺の全身に、噴きかかる。

 渚は虚ろに眼球を躍らせながら、力なく後ろに倒れていった。

 

「────ッッ!!」

「大声出すのはだめだよ、おにいちゃん」

 

 絶望と、遅れてやってきた恐怖が思考の全てを染めてしまう寸前、強烈な音が短く鳴り響き、俺の意識が強制的にブラックアウトされる。

 悲鳴すらあげる間もなく玄関の床に倒れ、何もかもが分からなくなっていく中、最後に脳が拾ったのは。

 

 

「驚かせてごめんね、おにいちゃん。でも会いたくなっちゃって──来ちゃった♡」

 

 心の底から嬉しそうに、楽しそうに話す、夢見の声だった。

 

 

 

 

 ──to be continued





来るなって言っても、来ちゃうんだから


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 悠の章 悠遠の思幽

私的な理由で更新を早めます。
次回更新は4/16の予定です。

お気に入り、感想、誤字のご連絡など、大変助かってます。
終章も折り返し地点に到達したので、このまま頑張ります。


 小鳥遊夢見。

 彼女と初めて会った時に懐いた印象は、『あぁ、似てるな』だった。

 イトコだからなのか、一緒にいる時間が多いからなのか、理由はともかくとして、彼女はふとした時に見せる所作や仕草や表情が、同性の渚ちゃんではなく、縁と似ていた。

 

 特に似ていたのは、笑い方だろうか。

 縁は感情が顔に出やすいから、特に嬉しい時の笑顔は、本当に嬉しそうに笑う。それが、彼女にも見て取れた。

 本当に、彼女も、良い笑顔を見せていた。

 なのに……。

 

 そんな彼女の裏の姿を知ってしまった経緯は、あまり誉められるモノでは無かった。

 何故なら、見方によっては僕も彼女と同じだと言われてしまうような行動が、全ての始まりだったから。

 ことの発端は、綾小路悠と名前を変えて転校し直し、新しい生き方を始めてから数週間後の、とある夜にまで遡る。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「どうぞ、これを」

 

 僕の家の一室で男はそう言って、簡素なマイクロSDを僕に差し出した。

 受け取った僕は手に持っていたタブレットに差し込み、中に保存されているファイルを読み取り開く。

 

 中には、とある人物に関する情報があった。

 

「いやはや、しかし、まさか綾小路家の者から……しかも貴方のような若い方からの依頼が来るとは思いませんでした」

 

 心の底からそう思ってるように、心にも無い事を平然と口にするように、男は平坦だが朗らかな声色でそう言った。

 敢えてその軽口に答えることは無く、僕は一つ一つのドキュメントファイルを開いて、記載された情報を読み込む。

 

「──うん、ありがとう。依頼通りだ」

 

 全部読むのにたいして時間はかからなかった。

 男はその間、退屈そうな目をしながら口元は僅かに楽しそうでもある、掴みどころが無い表情でいた。

 

「それは何よりです。しかし、一体何故このような瑣末な情報を我々に依頼したのです? “学友の経歴”など、市井(しせい)の探偵程度で事足る話では──」

「そうやって顧客の内情に付け入るのも仕事のウチですか?」

 

 言葉を遮って、僕は言った。

 話す気はない、という言外のアピール。それを理解できない男では無く、男は『失礼しました』と平謝りする。

 とはいえ、彼の疑問も仕方ないところではある。事実、僕が彼に──七罪が1つ『千里塚インフォメーション』に頼んだ事は、確かに町の探偵に頼めば済む話であったからだ。

 

 依頼の内容は──『野々原縁の過去と今』。

 幽夜(ボク)()にするキッカケをくれた友達。彼の経歴と、現在の彼と周囲との人間関係についてだ。

 

 僕がそんな事をわざわざ、大金を叩いてまで知りたかったのには2つ理由がある。

 1つは、今まで出会った事の無かった野々原縁という人間がどういった経緯であのような人格になったのかを知りたかったから。

 これから彼と共に過ごす上で、それはおいおい知っていく事もできるだろう。でも僕は今すぐにでも、友人の全てを知りたかった。少なくとも“書面に書き起こせる範囲”の事を全て知って、その上で直接触れ合わないと分からない彼を感じたかった。

 

 ……やや、ストーカーじみた行為である事は否定できない。

 でも、僕だって仮にも綾小路家の末席だ。その人間が友人とする相手の素性を知らないままと言うのは、ある意味危険な事でもある。

 だから、これは正当な行いで……いいや、ダメだよね。

 分かってはいるけど、なまじ正当化できる理由があるから、それに託けて彼のプライベートを覗くようなマネをしている。

 でも仕方ないじゃないか! 僕は彼を知りたいんだから。

 

 ──いけない、話が脇道に逸れてきた。もう一つの理由の説明が残っている。

 

 2つ目は、友人である彼の身の回りで、今現在または今後、彼を脅かす可能性を持つ人物や組織がないかを知りたかったからだ。

 彼が誰かにいじめられてないか、脅されてないか、反社会的な組織が彼を狙ってないか、または彼の家族を標的にしてないか……ありとあらゆる視点で彼を脅かす芽を取り除きたかった。

 ただ腐って消費を繰り返すだけしか無かった僕の人生に、色彩をくれた彼への恩返しという意味もある。

 

 ……まぁ、いずれにせよ、この行為を彼に明け透けと打ち明ける事はできない。墓まで、とは言わなくてもいつか必要になる時が来ない限り、正直に打ち明けるつもりは無い。

 本当の事を言った方がいいんじゃないか、隠し続けていつかバレてしまったら嫌われるんじゃないかと思うと、少し怖いけどね。

 

 

「全部見させてもらったけど、彼の現状は安全って認識で良いのかな」

 

 どのファイルにも縁に危害を及ぼす可能性については書かれていなかった。

 それはすなわち、彼が安全で、むしろこんな事してる僕が1番危ない事をしてるという証左に他ならない。

 ところが、僕の問いかけに対して男は頷くのでは無く、代わりに懐からもう一個、マイクロSDを取り出した。

 

「これは?」

「危害を及ぼす、とは微妙なラインですが……ご確認を」

「……」

 

 わざわざ別媒体でファイル分けしたという事はつまり、そういう事だろう。

 “微妙なライン”という言い回しに違和感を覚えたが、僕は彼の促すままにマイクロSDを差し替えて、中身を確認する。

 そして──、

 

「…………これ、は」

「はい。偶然……本当に運良く見つけられたというくらい、見事に隠れていましたが、居ました」

 

 中にあったのは、全て画像ファイルだった。

 写っているのはどれも同じ人物。そしてそれは、僕も知る人物だった。

 

「小鳥遊夢見……彼女が、これは何を……してる?」

 

 カメラやスマートフォンなど、機器は異なるが、画像の中の彼女は常に何かを撮影している。

 これは、まるで──、

 

「盗撮。ストーキングをしています。対象は当然、野々原縁です」

 

 ああそうだ。分かってる。分かりたく無かっただけで、実際は一目で理解できたさ。

 

「いやはや、見事な腕前ですよ。スキャンダルを狙うマスコミよりも隠れるのが上手です。スカウトしたい程でした」

「……それは、大したもので」

「あくまでも隠れる対象が野々原縁だから見つけられたような物です。もし彼女が本気で社会の目から隠れたら──どうでしょうね」

 

 男の示唆する危険性、彼女のスニーキング能力の高さ、どれも驚くに値する情報だが、今重要なのはそこじゃ無い。

 縁の身近にいる彼女が、常に縁をストーキングし、盗撮をしている。その行為がどれだけ危険であるかは、考えるまでも無いだろう。

 

「──ありがとう、依頼料は玄関で使用人から受け取ってください」

「はい。では、またのご贔屓を」

 

 僕の言葉に素直に応じて、男は部屋から出ようとする。

 その後ろ姿に、僕は唯一、依頼とは関係のない事を聞いた。

 

「……思ったより若いんですね、僕と同じか少し上くらいに見えて驚きました」

 

 男は、振り返る事はせず、ただ肩越しに答えた。

 

「──そうでしょう?」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日、良舟町の川沿いにある散歩道に、僕は彼女──小鳥遊夢見を呼びつけた。

 

「えっと……お話って何ですか、綾小路先輩?」

 

 急な呼びつけにも関わらず、彼女は縁によく似た明るい雰囲気で、特に不快感も見せずその場に現れた。

 辺りには誰もいない、SPに人払いをさせているから。

 僕は、単刀直入に切り込んだ。

 

「縁に対する盗撮行為をすぐ止めるんだ」

「──はい?」

 

 やや間を空けてから、彼女は首をかしげる仕草をする。

 はたから見て可愛らしい仕草も、今の僕には胡散臭い行動にしか見えなかった。

 手に持っていた鞄から、印刷した件の画像を取り出す。

 

「──それ、どうやって」

 

 “変わった”と確信する。

 口調や声色はそのままに、彼女の纏う雰囲気だけが反転するのが分かった。

 

「お金持ちにはできる事が多いんだ」

「ふーん……盗撮ですか、最低ですね」

「君がね。これが何をしてる瞬間のものか、僕はもう知っている」

「──そうなんだぁ、そっかぁ」

 

 惚けても無駄だと言う事を理解したらしい夢見は、諦観にも似た雰囲気の声で聞いた。

 

「おにいちゃんは、この事を知ってるんですかぁ?」

「いいや、まだ」

「あたしだったらすぐ伝えるのに」

「縁はキミを大事にしてる。たとえ盗撮行為をしてる相手でも、彼にとっては大切ないとこだからね。だから、こうして君に止めて欲しいと頼んでるんだ」

「…………はぁ」

 

 ため息をこぼして、夢見はうなだれる。

 そこから少しして、彼女は答えた。

 

「……うん、綾小路先輩の言う通りにします」

 

 降参したように両手を頭の所まで上げて、彼女はほとほと困ったように笑った。

 

「参ったなぁ、ちゃんとバレないようにしてたつもりなのに、こんな簡単にバレちゃうんだもん、焦っちゃった」

「見つけてくれた人も偶然だって言ってたよ」

「偶然、かぁ……それなら、仕方ないかなっ!」

 

 カラカラと笑いながら、彼女はくるっと踵を返す。

 その背中に、念を押す意味で僕は言う。

 

「君が本当にストーカー行為をやめてるかは、チェックさせてもらうよ。もし本当に好きなら、ちゃんと正面からアタックすれば良い。君は彼の周りにいる女の子の中でも負けないくらい可愛いんだから」

「ありがとうございます、先輩。でも」

 

 そう言って言葉を止めて、辺りをくるっと見回してから、改めて肩越しにこちらを向いて、夢見は言った。

 

「今回、こうやって止めてくれるだけ済ませてくれたのは助かりましたが──」

 

「──後悔、しないでくださいね?」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 あの会話の数日後、彼女は母親の急な再婚によって、瞬く間にこの街を離れていった。

 物理的に離れた事で、実質ストーカー行為は不可能となり、僕もそれ以来敢えて彼女の身辺調査をする事は無かった。

 彼女を信用したかったと言うのもある、だけど──もしかしたら、最後に言われた言葉に内心、恐れを抱いていたのかもしれない。

 

 そうやって3年してから、彼女は去る時と同じく、唐突に街に帰ってきた。

 3年と言う時間に相応しい成長度合いを見せた彼女は、あんなやり取りをした僕に対しても、あまりにも普通の対応をしてきた。

 もしかしたら、あれから成長して彼女は本当に真っ当になってるんじゃないだろうか。僕だけが知ってる彼女の本当の姿はしかし、もはや意味を持たないただの過去でしか無いのでは。

 

 そんな期待と不安の混ざった気持ちをスッキリさせたくて、僕は彼女が帰ってきた翌日の放課後、学園を案内させようという園子部長の提案に自ら乗って案内役を申し出た。

 僕が率先して名乗り出る事を、縁は少しだけ不思議がったが、僕の意図を察してか否か、彼女も躊躇いなくそれに応じたので、何の問題もなく、僕は彼女と2人だけで行動する時間を持つ事ができた。

 

 彼女が今、どんな考えを持って居るのか早く知りたい気持ちはあったけれど、名目上は部長の提案に乗って案内をする事になっている。

 園芸部に入るかは分からないけれど、ここで僕がなんの案内もせずにさっそく詰問なんてしたら、僕の方がおかしい奴になってしまうので、始めはちゃんと学園を案内する事にした。

 高等部校舎、中等部校舎、それとそれぞれの間に立ち、運動部と文学部両方の施設や部室がそろっている部室棟、それらの建物を結ぶ廊下に中庭、講堂と食堂も……こうして考えるとやっぱ僕と咲夜の両方の家が出資しただけあって、敷地は広いし案内するだけでも結構な時間になると思った。

 

 スタートしてからだいたい40分くらい経った頃だろうか。ようやく全部案内し終わると、彼女は心底疲れた声で言った。

 

「この学園、外から見た以上にすっごい広い~! 先輩よく迷わないで案内できましたね!」

「1年もいれば自然と覚えるよ、学園自体は広いけど、ロの字に建物があるから順当に覚えていけば簡単さ」

「とりあえず、校舎と教室までの道のりだけは覚えないと……うーん」

 

 そう言って道中ちょくちょく道順を覚えるために書き込んでいたメモ帳を見つつ、うんうん唸る姿は、まるで普通の女子高生と言ったところだ。

 そう……とても3年前、縁を盗撮していた子とは思えないような……。

 

「……先輩、最後にもう1か所だけ、案内してくれます?」

「良いけど、どこに?」

「誰にも会話を聴かれないような場所」

「──っ」

「……あたし、先輩に話したいことがあるんです。先輩も、あたしに色々聞きたい事、あるでしょ?」

 

 向こうから切り込んできた、とすぐに理解する。

 こっちから話を切り出すつもりだったけど、逆に手間が省けたと見るべきだろう。

 学園の敷地内なら、放課後のこの時間で思いつくのは1か所だ。

 

 

「へぇー、ここは屋上解放してるんだぁ」

「もとは閉鎖されてたんだけど、色々あってね」

 

 連れてきたのは高等部校舎の屋上だ。

 全く生徒の数が居ないってわけでは無いけど、最近まで立ち入り禁止で施錠されてた場所というのもあって、この時間あんまり足を運ぶ生徒はいない。

 秘密の会話ってのをするのには打ってつけの時間・場所だと言える。

 

「色々、か……あたしが居ない間も、お兄ちゃんや先輩は退屈しない生活だったんだ」

「まぁ、それなりにね……でも」

「でも?」

「君が戻ってきたことで、それが崩れるんじゃないかって危惧はしているよ」

「──っ」

 

 唐突に、そして直入に、僕は本題を持ち出した。持ち出して、彼女に突き付けた。

 退屈しない生活が壊されるか否かを確かめるために、僕はここに彼女を連れてきたのだから。

 

「君は──、どうして戻ってきた? また、彼のストーカーをするっていうなら、もう見ないフリはしないよ」

「……」

 

 俯いた彼女の顔がどんな表情を見せているのか、夕焼けに染まった髪の毛ばかりが見えて、伺えない。

 敢えて答えをせかすことはせずに、僕は時間の許す限り、彼女の発言を待つ気持ちでいた。

 1分が10分にも感じるほどの濃い空間。それを割いたのは、あまりにも予想外な物だった。

 

「──ごめんなさい、先輩」

 

 出てきたのは謝罪の言葉、それと──俯いていた顔がこちらに向いて分かった……涙だった。

 

「……は?」

 

 泣いている。小鳥遊夢見が泣いている。

 3年前、あんなに末恐ろしい気配を見せていた彼女が、年相応の女の子のように、涙目で僕に謝っているのだ。

 

「ま、待って……何で泣いて……」

「3年前先輩に、お兄ちゃんを隠し撮りしてた事を責められた時、あたし先輩に失礼な事言いましたよね」

 

 両の手で涙をぬぐいながら彼女は言う。

 

「あの時、確かにあたしは間違った事をしてたのに、逆切れみたいな態度であんな事言って……本当なら警察に突き出されてもおかしくなかったのに」

「……反省、してるんだ」

「もちろん! ……です。お兄ちゃんが今も普通に接してくれてるから、先輩が本当にお兄ちゃんには内緒にしてくれてるんだって分かって、本当は昨日にもすぐ謝りたかったくらいで……」

 

 これはいったい、どういうことなんだ。

 僕があの日、彼女から感じた恐怖感がまるで嘘のように、小鳥遊夢見は心から僕に謝っている。

 そう、嘘じゃない。彼女の言動からは、嘘を感じない。

 だからこそ──心底不気味だ。

 

「ずいぶんな、心変わりだね。最後に僕を脅した人間と同じとは思えない」

「……あたしも、色々あったってことです」

 

 目を伏せながら、とても言いづらそうに彼女は答える。

 色々あった……その言葉の内容は分からないが、察するに彼女の人生観や性格に何かしらの影響を与えるほどのものだったというワケか。だとしてもだ、

 

「悪いけど、君をすぐに無害な存在だと思うことは難しいな」

「……ストーカーされる側の気持ちが、分かったの」

「え……まった、君、転校してから逆にストーカーされたの!?」

「『されてた』じゃなくて……今も」

 

 そ、そういうことか……色々の意味も、言いづらそうなのも、腑に落ちてしまう。

 

「前にいた場所からここに戻ってきたのも、それが理由?」

「うん……あたしがここにいたことを向こうは知らないから、大丈夫だと思ってきたの。なのに……」

「もう、この街に来ているのかい?」

「……今日、市役所に行く途中に、カーブミラーに映ってたのが見えて」

「……はぁ」

 

 カーブミラーまで注意を向けてしまうってことは、よほど長い時間被害を被っているらしい。

 

「もしかして、君が僕に話したかったことは、それについてか」

「そう! そうな……そうなんです」

「もう無理やりな敬語は使わなくていいよ、違和感しかないから」

「……ありがとう。こんなこと、お兄ちゃんに相談できなくて、どうすれば良いか分からなくて……お願い、一緒にストーカーを捕まえてほしいの!」

「…………んぅ」

 

 僕は考える。

 

 彼女の過去の姿を思い出し、

 彼女の過去の行いを想起し、

 彼女の今の言動を振り返り、

 彼女の今の涙と心境を慮り、

 

 彼女を大事な親戚として見ている、親友の事を考えた。

 

「正直、僕は君をまだ信用していない。君がストーカーの被害を受けているとしても、それは自業自得だと切り捨てていいとすら思っている」

「……っ」

「でも、そんな君を、何も知らない縁はあの頃と変わらずに家族の一員として、大事に思っているだろう。君が困ったら、何かあれば、間違いなく彼は君のために心を砕く。力になろうと無茶をする。だから──」

 

 それは、僕の望む未来ではない。

 もう、僕のためにやったような無謀な行動を、彼にさせたくない。

 小鳥遊夢見のことを信じていないし、彼女のために力になるなんてこと、絶対にしない。

 でも、縁のためなら。彼女の従兄で、彼女と3年前から変わらずに接し続け、今も力になりたがる親友のためになら──、

 

「力を貸すよ。僕にできる範囲で」

「本当!?」

「ああ。具体的に何をすればいいか教えてくれ」

「……ありがとう、悠先輩!」

 

 そう言ってはじけるような笑顔を見せた彼女は。

 本当に、癪だけど。

 やっぱりどこか、縁に似ていた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

『放課後、ここで会ってこれからどうするか相談させて! 先輩が協力してくれたら、どうしようかって考えてた事があるの!』

 

 そう言って彼女が指定したのは、街の中心街から少しだけ外れた、川沿いにある散歩道だった。

 彼女は事情を隠すため、縁たちに適当な話をしてから、遅れて合流するとのことだったので、僕は一足先に到着し、目印にしてる公衆トイレのそばにあるベンチに腰掛ける。

 

 夕暮れ時なのもあって人通りは少なく、すでに日が沈み暗くなるのを待つだけの外気は、そよ風すら肩を震わせるくらいに冷たくなりつつあった。

 はたして、あの子はどんなプランを用意しているのだろう。僕が協力するからこそ可能な内容だと言うなら、つまりは財力に物を言わせた手段になるのかな。

 あるいは、恋人のフリとか? 

 

 何にせよ、何にせよだが、用心と心構えをするに越した事は無いと思っている。

 協力するとは言ったが、まだそれでも、僕は彼女を心から信頼してるわけでは全くない。

 今だって、ここから少し離れた場所にSPをつけている。もし、彼女が化けの皮を被っていて、ソレを僕の前で剥がす様なことが起きたとすれば……。

 

 僕はすぐに、彼女をだいの大人数人がかりで捕まえて、警察に突き出すつもりだ。

 縁には悪いけど、彼のためにこそ、嫌われたって僕はやる。

 それに、本当のことを知らないだけの彼に真実を伝えれば、きっと分かってくれるはず。

 

 いや、何ならもう今からすぐに彼に真実を伝えるべきなんじゃないか? 

 ストーカーのことは隠しておくとしたって、彼に彼女の危険性を認知させることは、また別の話なんじゃ──

 

「──あぁ、やめやめ」

 

 やだなぁ、思考がさっきから循環してるよ。

 彼のため、小鳥遊夢見を助けると言いつつ。

 彼のため、小鳥遊夢見を排除しようとする。

 

 彼女を待つ間、こうやってずっと思考がグルグルしてるのは、きっと自覚してる以上に僕が彼女を警戒してるからだ。

 まるで初めてのデートにドギマギする男のようだ。何か変なこと言えば彼女の逆鱗に触れるんじゃ、変な行動を取れば彼女のうちに潜む狂気を起こすんじゃ、そんな自分にウンザリする。

 

 こうやって過激な排除思考に至るのだって、結局は恐怖の反動。

 

「気分を一新しなきゃ。これじゃあ会っても力になれない」

 

 スイッチを入れるためにもそう言葉に出して、僕は一旦ベンチから立ち上がり、近くのトイレに向かうことにする。

 

 たいして水分は取ってないのに、緊張に加えてこの寒さも悪い。

 無風ならともかく、少しでも風が吹けば、それは冬の匂いと共に冷たさまで運んでくる。

 そう思っているうちにまたびょう、と風が吹いた。

 

「うぅ、何で屋外で集合なんだ」

 

 そう軽く文句を言わずには居られない。

 しかも今吹いてるのはそよ風じゃなく、普通に木の枝も揺れる勢いのもので、落ちた葉はくるくると宙を舞い、道の砂利が軽い砂埃すら見せている。

 さっさとトイレに行こう、そう思い駆け足で向かった。

 

 その時だ。

 

 風が、それまでとは違う何かを乗せてるのに気づいた。

 そう、これは……これは匂いだ。

 トイレが近いから、そこから出る不衛生な匂いだろうか。僅かにそう思ったけど、違う。

 どちらかと言えばこれは、トイレではなく別の施設から匂う類のもので──それは何処だったろうか。

 

 一瞬の逡巡。降って沸いたような違和感。

 地面から離した足が、再び地面を踏むまでのごく短い時間。

 答えが出た。

 

 そう、これはまるで──ガソリンスタンドでよく嗅ぐ、

 

「──ガソリンの臭い!!!!」

 

 ──カチッ。なんて音が耳に入った気がする。

 

 答えに至ったのと、気がするのは全くの同時で。

 そこから激しい爆発が起こるのも、全くの同時だった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──うぅ、う……」

 

 痛みより、炎とガスの酷さで意識が戻った。

 目を開けて、最初に見えたのは、黒煙が立ち上るさっきまでトイレだった場所と、燃え盛る周囲の木々。

 次いで五感が捉えたのは、驚き恐怖し、叫び散らす人々の声だ。

 何が起こったのかはすぐに理解できた。過程は分からない。

 可燃性の液体か何かが、僕の向かおうとするトイレにあって、ソレが爆発した。

 

「ぁ、ああ゛っ、痛い……」

 

 そこまでどうにか事態を飲み込んでからやっと、僕は自分が酷く地面に打ちつけられて痛がってることを自覚する。

 顔も体も、砂利と火傷と傷だらけだ。軽く咳き込んだら血まで出てきた。

 目を開けるのさえやっとで、左目は触るのも無理なくらい激痛が走るから、右目だけが頼りだ。

 幸い手足が折れてるってことは無いみたいだが、筋肉を動かすのすら、まるで何年間も寝たきりだったように困難。ままならない。

 

「はやく、離れない、と……」

 

 何が爆発を起こしたのかは分からないが、再度大きな爆発が起こる可能性だって十分にある。

 それだけじゃなくても、今も周囲に立ち込める煙をこれ以上吸えば、それだけで死ぬ、死んでしまう。

 

「うゔっ、ぁあああ……っくそ!」

 

 無理やりなんて言葉すら生ぬるいほど強引に、体を起き上がらせる。

 途中また何度も咳が出て、その度に血と胃液が勝手に漏れる。これは多分、内臓もやられてるんだろう。

 

 早く、SP達のところに行かないと……そう思って、煙の薄い方を見回す。

 その途中、僕からほんの数メートルだけ離れた地面に、倒れてる男の姿を見つけた。

 僕と同じように爆発に巻き込まれた人間に違いない。違うのは、僕は目を覚ましてるけど、その人はまだ気絶してると言うことだ。

 火の手はまだ盛んで収まる気配は無く、煙もこうしてる間にどんどん濃くなっていく。

 放っておかない、助けないと死んでしまう。

 

「──あの! 大丈夫ですか!!」

 

 声を出すのも精一杯だけども、僕はできる限りの声を張り上げながら、痛む体をおして倒れている人物に駆け寄る。

 もし意識を取り戻してくれれば、無理やり引っ張るより確実にここから逃げ出せる。

 

「起きてください、早く逃げないと!」

 

 倒れている人の肩を揺すり、なんとしても目を覚まさせようとする。すると、

 

「……が……」

 

 弱々しいがたしかに、男が声を漏らした。

 まだ生きている、助けないと! 

 

「爆発が起きたんです、早くここから離れないと」

「爆発が……」

「そうです、だから」

「──あぁ、そうか。そうだった……早く、しないと」

「起きられますか? 早く逃げましょう、ここから──」

 

 言葉が、途中で止まってしまう。

 いや、違うな。止められた。

 止まらざるを、得なかった。

 

「……はい?」

 

 だって、当然だ。僕は今、死にそうな体で、死にそうな人を助けようとしてるのに──、

 

「何で……何、これ、え?」

 

 ──何で、助けようとした死にそうな男に、急に刃物でお腹を刺されてるんだ? 

 

「え、えぇ、あの、え……」

「──ごめんな、でも、そうしないと」

 

 男は弱々しい口調とは裏腹に、とても力強く、何処に仕込んでたかも分からない包丁を、より深く僕の中に──、

 

「ぁあああああ! あつ、熱い? 熱い──痛いいたい、ぁああ!」

 

 熱さの後に、酷い痛みが体のあらゆる感覚を支配する。

 だめだ、こんなの無理だ、死ぬ、死んじゃう、殺される? 殺されようとしてるのかぼくは、何で、なぜ? 

 

「う──ぅああああああああ!」

 

 男は、のたうち回る僕に馬乗りになって、包丁を何回も何回も刺してきた。

 逃げ出す力なんて残ってるはずもなくて──あっという間に僕は蜂の巣みたいに穴だらけになっていく。

 そうやってできた穴からは、僕の命を司る色んなものが垂れ流れていき、代わりに入ってくるのは炎の熱と煙、それと避けられようも無い死の足音だった。

 

「なぁ、なぁ――ちゃんと殺してるぞ!やったぞ!見てるか?みてくれてるよな?だから、もう許してくれ!俺が悪かったから許してくれぇえええ!!」

 

半狂乱に、ワケの分からない言葉を撒き散らしながら男は僕を刺し続ける。

 

「なに……を言って」

「まだ生きてんのかお前死ねよぉ! 死ねえええええ!」

 

 男が両手で大きく包丁を振り下ろそうとした直前。

 さっきより大きな爆音と炎が、僕と男を呑み込んだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 どのくらい、そこから経ったのかな。

 

 僕より爆発をモロに受けただろう男は、『熱い熱い』と顔に燃え移った炎にのたうち回りながら、視界からいなくなってた。

 

 僕の命も、もうすぐ居なくなる。

 

 あぁ……どうして、なんで。

 落語の『死神』だったろうか。消えかかる己の命の灯火を前にただ呆然とする他ない男の噺。

 あの男のようにとは言わないが、僕も今まさに、消える自分の意識と命を感じながら、ただ、どうにもならない思考を張り巡らせるしかなかった。

 

 もう助からない、このまま僕は死ぬ。

 死ぬのか、本当に死んじゃうのか、ぼくはここで、こんな唐突に、簡単に死ぬのか? 

 それでいいのか、良いわけない、おかしい、納得なんて到底できない。何か理由があるはずなんだ。何もないのに、こんな死に方、いやだ……。

 

「──?」

 

 死にかけた体に、ほんのちょっぴり残ってる神経が、胸元に微細な揺れがあるのを感じ取った。

 たしか、その辺りにはスマートフォン、あったっけ。

 腕、動くかな……あぁ、動いた。きっと最後の力ってやつなんだろう。

 ぼくは、いつこと切れるかも知らないまま右手でスマートフォンを取り出して、ひび割れと自分の血でメチャクチャだけど、どうにか着信を告げてることが分かる画面をタッチした。

 

「──だれ、だい」

『もしもし? あれ、生きてる!?!』

 

 スマートフォン越しに聞こえた言葉で、僕は、否応なく全てを理解した。

 この状況を作ったのは、君だったのか。

 

「小鳥遊……夢見、君が……!」

『正かぁい! でも驚いた、まだ生きてるなんて、お父さんも中途半端なんだから──これだから反グレは嫌いなのよ』

 

 お父さんだって? 確か夢見の両親は行方が分からないままで──僕を刺した男が、そうだって言うのか? 

 

『お父さんまだ生きてます? そんなわけ無いか。それよりどうでした、あたしのドッキリ企画、題して『おにいちゃんとの恋を邪魔するゴミを爆死させてみた〜!』驚きました? 驚きましたよね? 反グレも本物の爆弾くらいは用意できるんです、小鳥遊親子の命を張った企画楽しんでくれました?』

「……そういう、最初から僕を……殺すつもりで」

『あぇ……今更そんな事聞くの?』

 

 “何当たり前のこと言ってるんだコイツ”とでも言いたげな雰囲気でそう言った後、

 

『そんなの──当たり前じゃない!! あたしとおにいちゃんの間に立って邪魔しやがって! お前なんてそうやって死ぬのがお似合いなのよ! あはははははは!!』

 

 きっと、ず────っとそう言いたかったんだろうな。

 文字通り心底楽しそうに、夢見は笑う。嗤う。嘲う。

 

『死ぬ顔が見られないのだけがほんとーに残念! できるならあたしが直接ぶしゃ──! ってしてあげたかったのに〜!』

「──そうかい」

『……スカしてんじゃ無いわよ、もう死ぬだけのくせに! 残り数分の命を後悔しながらみっともなく死ねぇ!』

「きみ、は……縁と恋人になりたくて、僕を殺すんだよな?」

『“なりたい”じゃなくて“なる”の。綾瀬も渚も、邪魔な女はみーんな殺して、あんたと同じ所に送ってあげる!』

「なら……ひとつだけ、アドバイスしてあげるよ」

『は?』

「電話越しに臭うほどクサいんだよ!! 口臭のケア位してから日本語使え!!」

『──ッ、まだそんな』

 

 電話を切った。

 その瞬間、僕の中に残ってた最後の“線”もまた、ぷっつりと切れた気がした。

 

 あぁ。

 嫌だ。

 死にたくない。

 

 だめだ、このまま終わっちゃうのだけは、ぜったいにだめだ。ダメ、なのに。

 夢見にわざわざ言われるまでも無い。後悔が、恐怖が、とめどなく溢れてくる。

 

 でも──だけど。

 

 もう、どうしようもない!! 

 気がつけばスマートフォンを持っていた手の力も消え失せた。

 血が足りない、酸素も足りない、時間も命も何も無い、全部ない! 

 お金なんていくらあったって、このまま死ぬ自分を止めることなんてできやしない、命も時間も、買えやしない。

 

 死ぬ、僕は死ぬ。夢見の策に乗せられてここで無様に死に果てる。

 でもそれじゃあ、何もかも壊される。

 これから夢見によって、僕の大事な人たちの居場所も、時間も、命も、僕がこのまま死んだらその後に全部殺される。

 残さなきゃいけない、伝えなきゃいけない、こうなったらもう僕が死ぬ事じたいはどうだって良い。ただ何もせずに死ぬこと、それだけがダメなんだ。

 

 それが分かってるから、分かってるのに、何もできることが浮かばない! 

 ただ終わるだけなんてあっちゃいけないんだ、何でも良い、今からみんなに伝える手段があれば何でもするから……たのむから、お願いだ……。

 

「……あぁ」

 

 ──そんな死に際のなけなしの願いだって、もう叶いやしない。

 

「よす、が……」

 

 ──最後になるんなら、もっと、みんなと……縁と、一緒にいたかったな。

 ──最期になるくらいなら、フラれても、気持ち悪がられても、好きだって言えば良かったな。

 ──さいごに、なるくらい、なら……。

 

「……ごめ……ん……」

 

 きっとこれが、綾小路悠の末期の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 うん、やっぱり僕たちの家訓は間違ってるよ、咲夜。

 

 世の中、お金で買えない物ばかりじゃないか。

 

 本当に必要なもの限って、ね。




まずこの世が買えない


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 これまでと、これから

仕事でゴタゴタ、新型コロナでゲホゲホ、モチベがボトボト
以上が数か月更新が止まった事の言い訳です、すみません

あまりにも長い間更新止まってたので、今回は直接の続きではなく、総集編みたいな回です。
ここまでの流れを忘れてしまった方が思い出してくれればな、と願ってます。

9月中に本編の続きも更新するので(絶対)、お待ちください


 俺の名前は、野々原縁。

 

『緑』は『みどり』ではなくて、『よすが』って読む。

 他人が見たら、まず一発でそう読んでもらえる名前じゃ無いって自覚はある。

 だが断じてキラキラネームの類ではない。

 一応、昔からある読み方の範疇に収まった名前だ。

 ……まぁ、それにしたって義務教育の範囲では基本教わらない読み方だから、まず読み間違えられる(またはどう読むか聞かれる)名前だけどね。

 

 両親は海外で物を売る仕事をしてる都合、よく家を空けがちだ。

 小学生の時は母親が家に居てくれたが、俺が高校生になる頃にはもう家に居ないのが当たり前になっていた。

 思春期の多感な時期に、親の温もりを感じられない。当然寂しさはあった。幸運な事に両親は毒親ではなく子供が素直に愛情を求めたくなる人間だったから、尚更ね。

 それでも俺がグレたり病まないで居られたのは、妹の渚が居たからだろう。

 俺に懐いて、信頼と愛情を無条件に向けてくれる渚は、兄にとって大事な存在だった。

 それだけじゃなく、幼なじみの綾瀬とそのご家族、親友の悠と、周りの人間関係にも恵まれていた事も大きい。

 これからも、みんなと一緒に何事もなく日常を過ごしていくんだ。なんの疑いも無く俺はそう思い、生きていた。

 

 4月某日。

 突如、俺のそんな考えは、常識では図れない状況に身を置かれると共に崩れ去る事になる。

 オカルトの範疇で収まっているはずだった『前世の記憶』を思い出したその日、俺を取り囲んでいた『恵まれていた人間関係』のすべてが、俺を脅かす存在に豹変した。

 

 自分ではない人間の記憶なんて、通常なら信じるわけもない。やけにリアリティの高い夢を見たか、自分に統合失調症の疑いがあるか心配するか、いずれにせよまともに受け入れるのはあり得ない。

 だが、そんな『記憶』の中にあったとある情報が、俺に『これは夢だ』と跳ね除ける事をさせなかった。

 渚や綾瀬の存在が、記憶の中に出てきた。それもとある会社から発売されていた『ボイスドラマCDのキャラクター』という形でだ。

 

 俺が──野々原縁が生まれて育ってきたこの世界は、ある創作物の世界だったのだと、無理やり理解させられた俺が、どんなにパニックになったのかを他人に理解させるのは不可能に近い。

 妹が、幼なじみが、クラスメイト達が、みんな人じゃなくてキャラクターだったなんて、どうして『はいそうですか』と納得できるだろうか。

 だが残酷な事に、世界は俺にアイデンティティやレゾンデートルについて思索するための余裕を与えてくれなかった。

 何故なら、前世の俺が記憶していたこの世界を形作っている作品の主人公──渚の兄であり、綾瀬の幼なじみである男は、その作品内で死ぬ(ないし生きる上の尊厳を失う)ことが確約していたから。

 そう、その作品の──『ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD』の主人公のポジションに、俺は居る。つまり、このまま何も考えず呑気に生きてたら、まず確実に俺も死を迎える事になるわけだ。

 

 何処の世界に、病気じゃないのに死を約束された人間が居るだろうか。それも、人ではなく世界そのものから。

 前世の記憶を思い出してしまったその瞬間、俺はこの世界とそこに生きる人たちを『人間』か『キャラクター』かを悩む間もなく、生きるためにどうするべきかを考える戦いに投じられたんだ。

 

 それが、今日まで続く苦難の日々の始まり、第一弾だった。

 死なないため──ヤンデレヒロインである渚や綾瀬に殺されないための立ち回りや、活路を見出すために今までした事のない行動を取っていく中で、同級生でありヤンデレCDヒロインの一角でもある柏木園子と出会ってしまい、彼女がいじめられている事を知って助ける事になった。

 渚と綾瀬は知らない女の子のために、自分が行動するリスクは計り知れないものだと分かっていたが、それでも園子の力になろうと、悠の力も大いに借りて頑張った。

 その甲斐もあっていじめは根本の原因を消し去ることに成功して、ついでに園子が所属してて廃部寸前だった園芸部に入部した。

 それでもやっぱりうまく立ち回りきれず、園子のいじめは何とかなってもその直後に、渚とあわや大惨事になりかけた大兄妹喧嘩をした。

 

 本当に、いつどのタイミングで死んでもおかしくない綱渡りな日々だったよ。

 

 しかし今になって思えば、この頃はだいぶイージーモードだったなって思ってしまう自分が居る。

 なんでそう思ってしまったのか、主な原因は夏休み明けに現れた少女の存在が大きい。

 

 綾小路咲夜。親友の悠の従妹であり、この世の中で1番ワガママな女の子。

 そもそも、綾小路家って言うのは日本はおろか世界でも有数の金持ち一族で、咲夜はそこの中でも1番現当主に愛されてる箱入り娘だ。

 そんな咲夜の目的は、家族関係的に政敵である悠を貶めて学園──ないしこの街から追放する事。

 実は俺が生まれ育ってるこの街は成り立ちから綾小路家が絡んでいて、都市開発の利権やら実績やらを巡り、咲夜の家族と悠の家族は対立していたらしい。

 

 学園に来たばかりの頃は音沙汰無く、何も無いまま平和な学園生活が続くのかも、なんて思ったりしたけどそんな事は無かった。

 咲夜は知らず知らずのうちに学園の管理者や教員、生徒の中に自分の息のかかった人間を用意して、『査問委員会』なる物を作り出した。

 学園内の生徒が校則に反した行いをした場合、その生徒に対して罰を与えるかを全校生徒による多数決で決める。そんなでたらめな組織。

 普通の学校ならまずありえないそんな組織も、綾小路咲夜という存在は作り出せてしまう。しかもこの組織の恐ろしい所は、生徒が何かしらの部活動や委員会に属してる場合、それらの活動停止や廃部まで可能という事。そして、誰が何をしていたかは査問員会の監視以外に、生徒の密告も情報源になるという事だ。

 

 いきなりスケールがデカい話になって当時の俺はワケも分からず、困惑するばかりだった。

 それまではヤンデレの女の子を病ませない様に、殺されない様に気を配る事にだけ意識を向けてたが、今度は咲夜の手によって危機を迎えた悠や、園芸部のみんなを守る為にどうするべきかを考える必要も出てしまう。

 

 ……うん、無理だろそんなの! 笑っちゃうよ。別ジャンルの話を急に持ち出さないでくれ。

 さっきも言ったように、あまりにもスケールが違い過ぎる話に、巻き込まれるばかりだった俺だが、咲夜は俺にまさかの発言をした。

 

 咲夜がこの街に来た原因を作ったのは、俺なのだと。

 園子のいじめをどうにかしようとした時、悠の力を借りたと言ったが、実は園子のいじめの裏には綾小路家の息がかかった人間が関わっていた。いじめを無くすにあたり、悠の力を借りてその人物を学園から追放処分にしてもらったのだけど、その人物が咲夜側の人間だった。

 経緯はどうあれ、学園にいる咲夜派側の人間を悠が追放したという事実は変わらない。今までは目立った対立や行動が無かったから静観されてたが、もうそういうワケにもいかない。

 俺に協力した悠の行動を政的行為だと判断した咲夜は、この街に来て悠を潰し、そこからこの街の都市開発利権も掌握しようと画策したのだという。

 

 意味が分からないよ。

 巻き込まれた被害者だと思ってたら、元凶は俺自身にあった。そんな話ってあるかよ。

 

 学園を支配した咲夜は裏工作で園芸部に対するヘイトを作り出し、悠は為す術もなく学園に居られなくなった。俺達も悠側に着いたままでは次第に学園内での立場を失い、新しいいじめが始まるかもしれない。

 だからと言って悠を裏切るなんてありえ得ない。でも庶民にすぎない俺にできる事は限られてる。袋小路に陥った俺は僅かな間、咲夜を殺す事すら考えてしまった。

 そんな俺を止めてくれたのは、他ならぬ渚だった。俺が苦しんでいる事を察した渚は、俺に別の視点で咲夜に対抗する手段を見つけようと提案する。

 

 渚の言葉を受けて俺が協力を仰いだのは、咲夜がこの街に来たのと同時期に俺の前に現れた、『塚本せんり』と名乗る自称情報屋。

 俺が一人でいる時に限って、決まって現れては馴れ馴れしい態度と人を食ったような言動を見せていたこの男を俺は嫌っていたが、こいつは情報屋を自称するだけあって俺じゃ絶対に知り得ない咲夜の情報を集めてみせた。

 その中には、咲夜のプライベートを侵害する物も多々含まれており、ぶっちゃけ犯罪行為そのもの、罪悪感もかなりあったモノの、コイツに追い詰められて苦しんだ分の仕返しだと正当化。

 最後には、俺を含めた園芸部員全員を弾劾するための査問委員会主導による全校集会の場で、俺は園子と協力して咲夜を集めた情報を人質にして文字通り脅迫……うん、脅迫。最低だな俺。

 

 ──手段はともかく、最終的に査問委員会の解散、悠との和解、綾小路家の問題を学園に持ち込ませない事、そして咲夜の園芸部への入部。これら4つを全校生徒の前で約束させた。

 咲夜を入部させた理由だが、これは咲夜に恨みを持つ生徒が、裏で咲夜に手を出す可能性を減らすためにある。

 あの咲夜に正面から対立した俺は、その時点で一定数の生徒から支持を受けていたし、何より『関わったら何しでかすか分からない奴』という一種の腫物扱いされる様にもなった。そんな俺が咲夜を園芸部に入れる=身内扱いにすれば、咲夜を恨んでも下手に手は出せなくなる。

 かくして、ヤンデレの女の子に恐怖する日々とは全くタイプの違う恐ろしい日々は、解決したのだった──のだが。

 

 

 一難去ってまた一難。……いや、次に起きた出来事を『一難』とは言いたくない。

 ここまで俺はヤンデレの女の子を病ませないように生活するのに加えて、身の回りで生じるトラブルに悪戦苦闘しつつも、親友の悠や妹の渚、園芸部に入ってからは仲間になった園子の力を借りて解決してきた。

 心と胃壁が擦り切れるような生活をそれでも送っていけたのは、俺がヤンデレとか関係なく、みんなを好きだったからだ。

 その中でも、幼なじみの綾瀬と過ごす時間を、俺は愛しく感じていた(……と、はっきり自覚したのはつい最近だったけど)。

 自分を殺すかもしれない存在だって言うのに、変な話に聴こえるかもしれないが、俺にとってみんなは──特に綾瀬は、居てくれるだけで意味があった。

 

 しかし、綾瀬は同じようには思っていなかった。

 周りの人間と違って、自分は何も力になれていない。そんな事を考えていた。

 当然俺は否定したけれど、綾瀬とわだかまりのある渚が、綾瀬を煽るようにその通りだと言った。

 

 そこから、今まで俺と一緒にいるのが当たり前だった綾瀬は、露骨に俺を避けるようになっていく。

 更にはそこに拍車を掛けるような出来事も起きて、パンク仕掛けていた俺達の関係は一気に破裂する。

 ヤンデレCDでは互いに殺意を向け合っていた渚と綾瀬。この世界では園芸部と言う一種の中立地帯で共に過ごすうちに、ある程度真っ当な関係を築けていたのに、いつ血が流れてもおかしくない状況になっていく。

 

 だけど、そんな中だからこそ、俺も自分の中で膨らんでいた綾瀬への恋心を、はっきり自覚していった。

 そんな俺の心境を誰よりも理解していた渚が取った行動によって、話は一気に進んでいき……。

 最終的には、俺と綾瀬が付き合うって形になりつつも、死者が出ないと言う奇跡的な結末を迎える事ができた。

 

 俺1人じゃとてもこうはならなかったと思う。

 みんなと園芸部と言う括りの中で過ごしてきた時間が、綾瀬と渚、互いの間に情を生み、ヤンデレCDの様な悲惨な結末を避ける事が出来たに違いない。

 

 兎にも角にも、もう渚が綾瀬を、綾瀬が渚を、互いに殺し合う様な未来は消えて無くなった。

 俺が不誠実な事さえしなきゃ、血が流れる事なんて無いだろう。

 

 

 そんな風に、人間関係の不安要素も消えて、とうとう俺の人生にも普通の高校生らしい日々が来るんだろうと思うようになり。

 

 彼女──小鳥遊夢見が現れた。

 

 元々、中学生の頃まで向かいの家に住んでた俺と渚の従妹。

 12月に戻って来た彼女を、俺は当然の様に家族として迎え入れた。

 それが、全ての破滅の始まりだとつゆにも思わないまま。

 

 何が起きたのかを、克明に思い出す事は苦痛でしか無いので、端的に述べていく。

 

 悠が殺された。

 渚が殺された。

 綾瀬が殺された。

 園子が殺された。

 

 そして、俺自身も死んだ。

 

 死んだ奴がこうやってピンピンしてるのはおかしいって思うかもしれないが、もっとおかしい事が俺の身には起きた。

 

 俺自身が死を迎えた時──何故か、次に目が覚める時には自分の部屋のベッドに居る。

 日付は悠が死んで葬式をした翌日。

 俺は、何かしらの理由で死んだらその数日前にタイムリープしていた。

 あり得ないと思った。信じられなかった。自分は何か嫌な夢を見たのだと思う事にした。

 

 だけど、同じ様なタイミングで綾瀬は死ぬし、そこから何度も周りの人達が殺されるのを見た。

 綾瀬がゴム毬みたいに階段から転げ落ちて、頭から流す血の匂いを嗅いだ。

 園子が首を切り裂かれて、滴り落ちる血の熱さを感じた。

 渚が物言わぬ人形の様に崩れ落ちる様を見た。

 そうして、最後に俺の体に刃物が突き刺さる異物感を、この上なく思い知った。

 

 死んでは生き返り、生き返っては死ぬ。

 そんな地獄の繰り返しを経て、俺は最初、咲夜が俺達を殺そうとしたんじゃないかと思っていた。

 咲夜にはそういう事を考えるだけの理由が無いワケでもないし、何より咲夜が用心棒として連れてきた2人の人間──ゴスロリや執事服を着た双子の姉妹、ナナとノノ──に、俺は一度殺されていたから。

 だが直接咲夜と会話する事で、それは誤った推理だと判明する。それと同時に俺は、咲夜との会話の中で最悪の事実を思い出した。

 

 小鳥遊夢見。

 彼女もまた、ヤンデレCDの登場人物として前世の俺の世界にいた事を。

 1作目にあたる渚達と違い、前世の俺がろくに触れてない2作目のキャラクターに、彼女は居た。

 こんな状況になってようやく思い出す無様さを呪ったが、2作目の──夢見の情報を得た日に前世の俺は、とある理由で人生最悪の目に遭っており、それ以外の事を記憶から消していたのだから、仕方ない。

 

 繰り返す方の原因は不明なままだが、身の回りで起こる死は全て夢見が原因だと分かった。

 でも、分かったところでもはや手遅れ……と言うよりも、夢見の行動力を理解しきれていなかった。

 

 今まで俺が相対してきたヤンデレ達──つまり、渚や綾瀬、園子達の事だが。彼女たちは『ヤンデレCD』の中で殺人行為を働いているが、いずれも恋敵を相手にした場合のみに限る。つまり、文字通り恋の敵とみなした相手にだけ手を出して、無関係な人たちにはノータッチだ。例を挙げるとするならば、園子はCDの作中では渚や綾瀬はおろか主人公すら殺しているけど、自分をいじめていたクラスメイトには無抵抗だった。

 ところが、夢見は違う。俺が何度か繰り返した死の中で、夢見は恐らく恋敵達を一掃するために校内にで大規模な爆発を起こして渚たちを殺そうとした事がある。その企み自体はナナとノノの乱入によって失敗し、あわや自分も殺されそうになっていたが(とどめを刺そうとした2人の攻撃を俺が庇って死んだ。もっとも、その後あっさり夢見も殺されていただろうけど)、何を言いたいのかというと夢見は目的を果たすうえで障害となる人間が居れば、それが恋敵じゃなくても殺すのを躊躇わない思考の人間だという事。

 

 俺が夢見をヤンデレCDの登場人物だと思い出したのは、咲夜と中等部校舎の屋上で話をしていたお昼休み。

 まだ夢見が犯人だと分からずにいて、それでもお昼休みという学園内で多くの生徒が自由に行き交う時間帯なら、犯人も行動しないだろうと思っていた俺は、お昼ご飯もそこそこに渚や綾瀬達と別れて行動していた。そこには当然、夢見もいる。

 俺が繰り返してきた中で、何度も夢見が標的にしてきた存在が目の前に居て、犯行を隠したい対象である俺が別校舎に居る。そんなタイミングを、夢見は見逃さなかった。

 

 夢見は、学園内の無関係な人間──咲夜が犯人探しのために学園内に配備していた人員──を殺害し、その死体を敢えて一般生徒らの目に晒す事で、パニックを引き起こして見せた。

 学園の昼休み、もっとも生徒が出歩くタイミングで突然起きた殺人事件。異常事態の中で咲夜が用意した監視の目など、機能するはずも無かった。

 混乱に乗じて夢見は綾瀬を、繰り返しの中でいつも必ず最初に殺そうとした綾瀬を誘拐して、自身も消息を絶つ。

 

 学園内で自衛のため手配した人間を殺された事が綾小路家の当主(咲夜を溺愛してる祖父)に伝わった結果、咲夜は強制的にこの街から離れる事になり、ナナとノノという武力面で夢見に勝てる2人もいなくなった。別れ際にナナから『お守り』と称した自身のリボンを渡されたが、気休めにしかならない。

 夢見による殺人と誘拐に、警察も当然のことだが動き出す。学園は機能しなくなって俺達はオンライン授業すらしない自宅待機となり、文字通り袋小路となった。

 

 だけど、そう素直に黙っていられるハズが無い。

 このタイミングで仮に自殺でもすれば、また夢見が行動を起こす前まで戻れるかもしれないが、繰り返しが起きる理由が不明な以上、そんな暴挙に走る気にはなれない。

 綾瀬は今もどこかで生きている可能性がある、それなら何があっても助けようとしなきゃダメだ。綾瀬の命は死んでも巻き戻らない、リセットすれば良いなんてゲームだけの話なんだから。

 必要なのは夢見が潜伏していると思われる場所の心当たり。それは既に1つ思い当たる場所があった。

 問題はいつ行動するか。日中は警察に補導されるので不可能、ならば夜に動くしかない。それも大人数では目立つので、少人数──というか、俺だけで向かうしかない。

 我ながら無謀にしか思えないけど、夢見はどの繰り返しの中でも決して俺を殺そうとはしなかった。つまり、大人でも殺せる夢見に対して対話するチャンスを持つのは、この世界で俺だけ。

 もしかしたら、夢見を説得できるかもしれない。そんな淡いなんて言葉じゃ足りないほんのちょっぴりの希望を抱いて、俺は夜中にこっそり家を出ようとした。

 

 そんな俺の行動を先読みしていた渚は、俺が部屋を出ようとした矢先に待ち構えて、自分を連れて行けと言い出した。

 危険な事を充分に理解している渚は、それでも一緒に行くと言って聞かない。

 渚の中にも、俺と同じくほんの少しだけ夢見を信じたい心があった。そしてそれ以上に、俺が万が一帰ってこなかった時に迎えるだろう孤独の方が、夢見よりも怖かった。

 

 悠から始まり、繰り返しの中で何度も何度も失う恐怖を味わってきた俺に、渚を突っぱねる事は出来なかった。

 次にこのドアノブを手に掛ける時は、俺と渚、そして、綾瀬の姿も一緒なのだと心に固く誓って、俺は渚と一緒に家を出た。

 

 そして──玄関の外灯に照らされた夢見に、『こんばんは』と底抜けて明るい声色で声をかけられる。

 

 俺が状況を読み込む前に、何か見覚えのある物を持った夢見の手が伸びて……それが俺では無く、背後に立っていた渚に向かっていたのだと気づいた時には、もう全部手遅れだった。

 ぷしゅ、と渚の首から血が噴き出る音がした。夢見が持っていた鋏の切っ先が渚の首を刺し貫く。

 その瞬間、渚は死んだ。俺の背後で、俺のすぐそばで、驚くほど呆気なく肉と骨の塊と化した。

 

 俺もまた、夢見が用意していた何かで意識を失い、野々原兄妹はものの1分足らずで夢見の手に落ちたのだった。

 

 

 

 ……とまぁ、以上が俺の、野々原縁のこれまでだ。

 いかがだったろうか。自分から見ても波瀾万丈に満ちた人生を過ごしてると思うが、代わりに誰かやってみたいと思ったりする人はいたりしないかな? 

 もし、いるとするなら。どうか、本当に代わって欲しい。

 もう、こんな風に目の前で何度も何度も何度も何度も大切な人が死んでいくのを見るのは、無理だ。無理なんだ。キツい、苦しい。やってられない。

 夢見が来て何もかもが崩壊した、仮に今回また死んだとして、次の繰り返しで夢見を止める事に成功したとしても、繰り返しの起点になった日より前に殺されてる悠は帰ってこない! 

 もう既に、終わっているんだ! 俺が前世の記憶を思い出して、綾瀬と付き合うまでにあったすべての時間と培ってきた関係や思い出、全部がめちゃくちゃになって、今にも頭がどうにかなってしまいそうになる。なんで俺がこんな苦しい目に遭わなきゃダメなんだ。俺が今受けている苦しみは、相応の報いなのか? もしそうだとしたら教えてくれ、俺は何をした。なんで夢見はここまでためらいなく誰もかれも殺せる? なんで夢見は俺を殺してくれない? 

 頼む、誰でも良いから、もう俺を楽にしてくれ、何もかも無かったことにしてくれ、ヤンデレでも良いから、夢見に壊される前の渚や綾瀬達と過ごしたあの日々を返してくれ! 

 それが出来ないならもういっそ、俺を殺してくれよ!!!! 

 

 

 ……なんて弱音も、意識を失ってる泡沫の中でしか吐き出せない。

 きっとこれから目を覚ませば、その時に自分がどんな状況・状態だとしても、きっと打開しようと足掻くんだろう。

 それが野々原縁の──生まれ変わったオレの、数少ない美点であり同時に馬鹿なところだからな。

 

 もはやオレが持ち得る知識ではどうしようもない領域に達してる今、オレにできるのは最後までコイツの味方で居続ける事だけ。

 だから、ここまでオレの長い回顧に付き合ってくれたアンタも、同じように見てやってくれ。よろしく頼む。

 

 ……ん、急に語り部が変わってないかって? 

 別に代わっては無いよ。オレは俺だし、その逆もしかりだ。

 ただ、これだけ最後に。自己紹介を。

 

 オレは、野々原縁の前世をしていた、頸城縁だ。

 どっちも同じ縁でヨスガって読む名前だが、ご縁に恵まれない点も同じらしい。

 いや、本当……笑えないよ、全くね。

 

 

 ──to be continued





新型コロナで苦しんでる間、0年代アニメを見漁ってました
主に目の大きさが今と違いますが、やっぱ良いですね0年代アニメ
とらドラ!とefは人生のバイブルになったかもしれません
今度、true tearsを見ようと思います。おすすめ0年代アニメあったら教えてください

ではでは


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終章 小鳥ハ遊ブ夢ヲ見ル 第二幕
第9病 小鳥は遊ぶ夢を見る


実はヤンデレCDのキャラクター達の誕生日が、つい先日決まったって知ってましたか?

詳しくは⤵︎のURLで紹介されてます。URLの先は平気ですがサイト自体にはR18の情報も見れちゃうので、17歳未満の方は見ない様にしてくださいね。
頭のhだけ外してるので、ご自分で加えて検索してみてください。

ttps://ci-en.dlsite.com/creator/4401/article/659122


 例えば、これが全部夢だったらどんなに良いだろう。

 

 妹は、やきもち焼きだけど、危なっかしい所のない、素直な良い子。

 幼なじみの彼女は、独占欲が強めだけど、愛情の深い、料理上手。

 同級生は、虐められてた過去なんて嘘の様に学校生活を楽しむ、園芸部の部長。

 親友は、大金持ちな家庭に育ち時折ズレた感覚を持つけど、機転と地頭の良さを活かして、庶民ライフを満喫する男子学生。

 そんな親友の従妹は、高飛車で気性難ながらも、ノリが良くて可愛らしい、可愛らしいお嬢様。

 そして──最近戻ってきた俺の従妹は、複雑な家族関係に苦しむ事がありつつも、そんな過去にもめげずに笑顔を浮かべる、強い心の持ち主。

 

 そんな人達に囲まれながら、高校2年生の終わりが近づく中、曖昧な進路を少しずつ固めていく。

 命の危険なんて微塵も感じずに、毎日をありのままに享受する。

 

 そうやって、俺を悩ませる事なんかと無縁な日々が、本当の人生だったならば、どんなに良かった事だろうか。

 

 現実は──

 

 

「あ、おにいちゃんやっと起きた」

 

 薄く開かれた右のまぶたの向こう側から、屈託のない笑顔を浮かべてそう語る夢見が居る。

 夢見の顔……そして衣服は、おびただしい程の赤黒い何かで汚れていた。

 いいや。それが何なのかを、俺は知っている。

 その赤黒いのが──誰の血なのかを、俺は理解している。

 

 玄関ドアを開いた、すぐ先に立っていた夢見。

 呆気にとられる間もなく首元を横切る、大きな鋏の切先。

 その刃先に喉を切り裂かれて、糸が切れた人形みたいに死ぬ渚。

 

 あぁ……やっぱり、これが現実なんだ。こんなのが、現実か。

 目から涙がこぼれ落ちるが、もはやそれが精一杯。

 

 渚が、死んだ。

 余りにも唐突に、呆気なく、夢見に殺された

 

「……っ」

 

 声にならない声で、辛うじて嗚咽まがいの音を口から零す。

 怒りたい。殴りたい。本当なら今すぐ夢見を殴り殺すだけの行動を取るべきだろう。

 だが、それは出来なかった。

 俺の手足は、椅子にキツく縛られていて、身じろぎすらろくに出来ない状態だった。

 

 でも、たとえ俺が何一つ拘束を受けて無かったとしても、何もできない事には変わりない。

 渚を殺し、綾瀬を誘拐し、悠を殺した夢見に立ち向かうのが恐ろしいから……では無い。

 もっと単純な話。

 

 これまで重ねて来た多くの絶望と恐怖、それらに立ち向かいつつも確かに疲弊し続けた俺の心が、手の届く範囲──守れる距離に居たはずの妹を目の前で失ったという事実を前にして、もはや嘆き悲しみ泣き叫ぶだけの気力を持ち合わせて居なかった。

 

 詰まるところ、目を覚ましたこの瞬間に、俺の心はもう折れていた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ごめんね、本当はあたしの部屋に連れて行きたかったんだけど……もう無理みたいだから、あたしの秘密基地に招待しちゃった、えへへ」

 

 タオルで顔の()()を拭き取りながら、夢見は恥ずかしそうにそう言った。

 夢見にここまで運ばれたから何日経ったのかは知らないが、目覚めたばかりでモヤがかかってる意識に加えて、照明らしい照明も無いから全貌は把握出来ないが、どうやらここはだいぶ前から使われなくなった廃屋の一室らしい。

 なるほど確かに。ややカビ臭さはあるが、重苦しそうな扉一つと古びたコンクリートの壁で囲われてるこの部屋は、秘密基地と呼称するのにピッタリだろう。

 肝心なのは、ここが何処に建てられた建物の部屋なのかだが、皆目検討は付かない。

 前述の通り部屋に文明的な照明機器は一切無く、部屋の天井部分にある小さな小窓から月光が差し込むだけの部屋に、位置情報を特定できるヒントなんてあるわけも無く。

 部屋の奥はカーテンで敷居がされているので何があるのかは分からないけど、きっと外が良く見える窓なんてのは無いんだろう。

 

「ちょっと寂しいお部屋だけど、これから綺麗にするから、ちょっとだけ我慢してね」

 

 そう言いつつ、部屋中に積まれてある段ボール箱の中をゴソゴソする夢見。

 

「どこかなどこかなぁ……あ、これだ!」

 

 

 探していたものを見つけたらしい夢見が取り出したのは、一冊の大き目な本。開いて中身を見ながら何やら恍惚の笑みを浮かべると、それを手に持ったままこちらに向かってきた。

 

「みてみて、あたしのお気に入りなの」

 

 そう言って見せてきた中身は写真、夢見が持っていたのはフォトブックだった。夢見が今まで撮影してきた写真の中でも特にお気に入りの作品を収めているのだろう。

 それ自体は特に問題ない。スマートフォンが普及して、端末内に幾らでも写真を保存できる現代ではやや珍しいかもしれないが、ありふれた趣味の範囲。

 ……ただし、その被写体がどれも全て一様に、俺を撮影したものでさえなければ。

 

「……っ」

 

 疲弊しきったメンタルでさえなければ、もっと大きな反応をしたんだろうが、今の自分にはこれが最大の反応だ。

 それでも背中から全身に掛けて鳥肌が立ったが、それも当然の話。夢見が見せた写真はそのどれもが、俺が撮ってもらった覚えのないモノばかり……つまり、完全に盗撮写真ばかりだったんだから。

 いつのまに、こんな写真を撮っていたのか。中にはつい最近の……つまり、夢見は綾瀬を誘拐して失踪してからの俺だと思われる物まである。

 一方、戦慄している俺とは真逆にご自慢のコレクションをようやく紹介できるとばかりに、夢見は底抜けに明るい普段通りの口調のまま頼んでもいない説明を始めた。

 

「これが昨日の写真、これが一昨日のお昼にあたしを探してた時の写真。やっぱりどれもカッコいいよね!」

「どうやって、どこから撮影できたんだよ、これ……」

「それは秘密~。恋する乙女には秘密がたくさんあるんだから。……あ、見てみて懐かしいなぁこれ。おにいちゃんが中学生の時にテストで赤点取った時の帰りだよ。おにいちゃん凄く落ち込んでて……背中から漂う哀愁が、もうたまらなかったなぁ!」

「そんな昔から……!?」

 

 つい最近の話じゃない……夢見がかつて一緒に居た頃から既に、この盗撮行為は行われていた。

 気持ち悪い。怖い。意味が分からない。つま先から頭のてっぺんまで夢見の行動が理解できない。正直、今すぐにでも吐いてしまいたい程の怖気が走ったが、その衝動のままに行動すればどんな未来が訪れるか考えもつかないほどの馬鹿ではない。逆流したがってる胃を根気だけで抑えて、喉元まで登ってきたモノを無理やり飲み込む。それでも湧き上がってくる恐怖をひたすらにこらえて、ただ夢見が嬉々として説明する写真の紹介を聞くに徹する。

 そんな時間がどれくらい経っただろう。体感では何時間も聞いてるような気分になりながらも、実際は数分間の出来事だったかもしれない。ともかく、ここで目が覚めた時には天窓からまっすぐ差し込んでいた月光がやや傾き始めた頃、ようやく夢見は自分が一方的にしゃべり続けていた事に気が付いた。

 

「あ、いっけない。あたしばっかりはしゃいじゃって。おにいちゃんも急にここにきて何が何だかって感じだよね」

 

 それは本当にその通りだったが、言葉にする気も失せてるので頷くだけで返す。

 

「そうだよね、ごめんね。おにいちゃんとこうして一緒に居られるのが嬉しくて、つい本題から話すの忘れちゃった」

 

 こういう所がだめなんだよねぇあたし。そうはにかみつつ話す夢見は、近くに置いてあった椅子を引っ張って俺の前に座ると、おもむろにようやく俺が聞きたかった内容の話を始めた。

 

「ここはさっきも言ったけどあたしの秘密基地。いつかこうしておにいちゃんと一緒に暮らせるようになった時、住む場所の候補として見繕ってた場所の一つなの」

「ってことは、もう俺達の住んでた街とは」

「うん、そう。具体的な場所はまだ言えないけど、あんな街とはとっくにおさらばしてるよ。嬉しいでしょ?」

「嬉しいって、何でさ」

「だっておにいちゃん、もうあんな頭のおかしい女ばかりの場所で苦しまないで済むんだよ?」

「……は?」

「だって渚ちゃんは妹なのに、おにいちゃんを異性として見てて異常じゃない? 綾瀬ちゃんは綾瀬ちゃんで彼女なのにおにいちゃんに対してすぐに嫉妬するし、自分のことばっかり優先で全然お兄ちゃんの事考えてる様に思えない。おにいちゃんはいつもそんな2人が怒って喧嘩しないように気を張ってたでしょ? あたしちゃんと知ってるよ。それと柏木さん、普段は大人しいけどあの人も何かあったら簡単に人殺しちゃいそうだし、なんかいる世間知らずのお嬢様は何でもかんでもお金で解決できると思ってる所がふざけてるし……おにいちゃんの周り、変な女ばっかりだったじゃない。だからみんな殺してあげたの! ……まぁ、今回はまだちゃんと殺せたのは渚ちゃんだけだけど、こうしておにいちゃんを解放できたから結果オーライね!」

「お前……いつもそんなこと考えながら、みんなと一緒に居たのか」

「いつも? そんな事ないよ。でもおにいちゃんの事はいつも考えてるかなー……なんて、きゃっ言っちゃった!」

「…………」

 

 こいつの脳みそはどうなってんだ。

 夢見の口からとめどなくあふれ出た真っ黒で悪意に満ちた言葉の一つ一つが、同じ人間の口から発せられるものだとは思えない。

 

 分かっていたハズだった、思い知らされたハズだった。夢見はヤンデレCDのキャラクターに居て、この世界の夢見も殺人を厭わない危険なヤンデレなんだと。頭では十分に理解していた。

 だけど、現実の夢見はそんな理解を鼻で笑うような、あまりにも悪辣な精神を持っていた。

 俺が今まで経験してきた繰り返しの中でも、きっと夢見は今俺に話したのと同じ事を考えて、渚や綾瀬達を手に掛けていたんだろう。園子を何かあったら簡単に人殺しちゃいそうだって? 今まさに殺人鬼をしてる人間が何を言ってる。

 しかも、それら殺人行為の理由が俺を解放して一緒に暮らすためだと言う。到底受け入れられない理屈。殺人の供述と自分への愛を同時に聞かされた際のマニュアルでもあるなら今すぐ欲しい。

 

「そうやって、そういう理由で、お前は悠も殺したのか」

「うぇ? ……うん、そうだよおにいちゃん。それに、あいつは誰よりも早く殺すって決めてたの。どうしてか分かる?」

「お前を一番止められる人間だったから」

「ブッブー、ハズレー。正解はね、アイツが一番おにいちゃんに要らない人間だったから!」

 

 駄目だ、この先の言葉を俺は聞いちゃいけない。本能がそう察知して警告するけど、耳をふさぐ手段は無い。

 

「だってアイツ、男なのにおにいちゃんの事好きだったの、恋愛対象として見てたって信じられない、気持ち悪いったら無いわホント。それに何よりも……」

 

 そこで一度言葉を止めて顔を俯かせる。

 ペラペラと語り続けていた夢見が生み出した、沈黙の時間。しかしそれはそう長く続くものでは無く、嵐の前の静けさと同じ物だと理解するのに時間はかからなかった。

 それを証明するように夢見の身体がにわかに震えだし、次に顔を上げた瞬間には、直前までの笑顔が嘘のように怒りに満ちた面持ちになっていた。

 

「あたしとおにいちゃんを引き裂いた奴なんて生かしておけるワケ無いじゃない!!!」

 

 呼吸を、ともすれば心臓すら止まってしまうほどの威圧感。今まで一度だって俺に見せた事のない本気の怒りを、夢見は今露呈している。

 

「あのカマホモ野郎、あたしがおにいちゃんコレクションを集めてる事を突き止めて脅して、あまつさえあたしをおにいちゃんの住む街から追い払いやがって! そのせいでおにいちゃんとの時間は失うし、あたしの人生めちゃくちゃにされたんだから!!」

 

 一度噴き出した怒りは留まる事を知らず、目の前に俺が居るのも忘れたかのように夢見は言葉を続けた。

 

「それだけじゃないわ、渚はあたしの事理解したつもりで接してくるのが最悪だった。あたしを理解(わか)ってくれるのはおにいちゃんだけなのに、勝手に理解した気になってんじゃないわよ!」

「もういい、止めろ、聞きたくない」

「だから今回は一番最初に殺してやる事にしたの! おにいちゃんと一緒に呑気に外に出て来て、あっさり殺されて、ホントバカみたい!」

「それ以上話すな……」

「おにいちゃんはちゃんと見た? 渚の死に際の顔。……もう、思い返すだけで軽く絶頂()ッちゃう位マヌケな顔だったんだから、おにいちゃん以外の写真は死んでも撮りたくないけど、あの顔だけは残しておきたかったわ!」

「黙れって言ってんだろ!!!!」

 

 気が付けば、夢見の声を搔き消すような怒声が自分の口から出ていた。

 この状況で夢見にたてつくような事を言えばどうなるかなんて事、完全に頭から消えている。

 折れ切っていた心は燃え滾る怒りで接合され、今俺の中にあるのはただひたすらに目の前の悪魔じみた女を殺したいという激情のみ。『たとえ敵わなくても』なんて投げやりな思考すら無い、是が非でもコイツの喉元を引き裂いて、二度と何も発する事の出来ないままに殺してやりたい。

 椅子に縛り付けられた手足を、死にかけたセミの様にジタバタと動かす。縛り付けている椅子がバランスを崩し、俺は前のめりに倒れてしまう。

 反抗するどころかひれ伏す様なザマだが、それで少しでも拘束が解けるなら、どんなに惨めに見えても構わない。

 顔だけは無理やり夢見の方を向け、怨嗟の声を漏らしていく。

 

「許さない、絶対お前は許さない……お前なんかにみんなが殺されたなんて、あっていいワケねぇんだ、お前なんかにぃぃぃ!」

 

 夢見がそうだったように、俺もまた今日まで積み重ねられた負の感情を露出する。

 今年の4月、渚と大喧嘩したあの時以上の怒り。

 しかしそれを真正面から受け止めた夢見は、またしても信じられない言葉を返してきた。

 

 

「────嬉しい♡」

「────は?」

 

 一瞬で、先ほどまで自分を迸らせていた感情の一切が冷却された。

 なに、何を言ってる? 自分は何を言われた? 

 

「……あ、だめっ、無理」

 

 そう小さく呻きながら、夢見は両足をガクガクと震わせて、両手で自分を抱きしめる。

 月明かりの乏しい光源しかない部屋の中でもはっきりと分かるように、その顔は──紅潮している。

 ぴちゅん、と何かがしたたり落ちる音が聴こえた。

 

「おにいちゃんが──おにいちゃんがあたしを見てる♡ あたしだけを見て、あたしだけを想ってくれてる♡♡ 誰でもないあたしだけに、誰にも向けた事が無い殺意(想い)を向けてくれてる♡♡♡ ……ああもう、さいっこう……!!!」

 

 悶えながら、ドス黒い瞳を大きく見開かせて、夢見は快感に打ちひしがれていく。

 “本物”だ。この小鳥遊夢見という少女は、本当に……正真正銘のヤンデレだ。

 想い人に見てもらえる事が、思いを向けられる事が、何よりも至上の喜びとなる。たとえそれが好意と対極に位置する感情だとしても、自分に向けてくれるものならばすべてが快楽に変わる。下手な純愛よりも純度の高い狂気に満ちた、正気とは程遠い(病みきった)愛。

 

「……死にたくなってきた」

 

 思わず、そう呟いてしまった言葉。

 

「ダメだよ、おにいちゃん」

 

 それを聞いた夢見は、まるでスイッチを切り替えたように急に真顔となり、膝立ちになってから倒れている俺の顔を両手で掴んで、自分の眼前まで引き寄せる。

 

「うぐっ……」

 

 顔から無理やり起こされ首に痛みが走るのを我慢しつつ、夢見から視線だけは離さないようにする。

 夢見は生気の感じられないドス黒い瞳で至近距離のまま、命令とかじゃなく既に決まり切った事を宣言するかの如く言う。

 

「おにいちゃんは死なせない。おにいちゃんはこれからあたしと一緒に暮らすの。一生ここから出られないの。そのためにあたしは今日までずっと我慢して来たんだから。死んでおしまい、なんて絶対にさせないんだから」

「……ッ!」

 

 生殺与奪を超えた、存在そのものを奪おうとする夢見の剣幕に呑まれそうになりつつも、決して視線は逸らさない。

 夢見に屈してはいけない。夢見の望む通りに全てを受け入れてしまったら、俺はコイツに殺された悠と渚にあの世で合わせる顔が無い。このままここで夢見と暮らす事、それだけは断固として拒否しなきゃダメだ。

 そうなると、今ここで俺が自ら命を失う行為は夢見に対する最大の反逆になるのでは無いか、そう思い始めてきた。今までと違い、自殺となったら繰り返しが起きないかもしれない、それでも夢見が今日まで積み重ねてきた時間と努力と行動を全て台無しに出来るのなら、俺には躊躇う理由が無い。

 

「今、ここで死ねばあたしから逃げられるって思ってる?」

 

 ──見透かしたように、いやまさに、夢見は俺の思考を見透かした。

 

 何なんだコイツは、人の心を読む力でもあるのか? 

 

「別に特別な事なんて、何もしてないよ。好きな人が何を考えてるかなんて、分かって当然でしょ?」

「……何が、当然だ」

「ふふ、確かに今ここでおにいちゃんに死なれちゃったら、あたしの頑張りもぜぇーんぶパァになっちゃうね」

「それを直接聞けて良かったよ、だったら──」

 

 舌を歯の間に差し込む。このまま噛みちぎって目の前で死んでやる、そう意を決した直後。

 

「でも、ここまで頑張ってきたあたしがその対策を取って無いと思ってる?」

「──え?」

「あはは! もうおにいちゃん、あたしだって馬鹿じゃないもん。()()()()()()()()()()んだから」

「……?」

 

 本来なら、夢見の言葉なんて耳に入れずにさっさと噛みちぎるべき。それは理解している。

 だけど、この状況でまだ余裕を保っている夢見の態度と──何より、言葉の端々から感じる違和感に気づいてしまい、それが夢見の思う壺だと分かっていても何をしようとしてるのか気に掛かった。

 

「ねぇおにいちゃん、あっち向いて」

 

 そう言って掴んだままの俺の顔を、部屋の奥へと向ける。

 視線の先には、変わらず敷居代わりに天井から敷かれたカーテンのみ。その先に何があるのかなんて、何も分からな──っ!? 

 

 いいや、待て。

 気に掛かる理由として挙げた、夢見の言葉から感じる違和感。それを覚える箇所は複数あったが、最初に違和感を覚えたのはどの発言についてだった? 

 

『まぁ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、こうしておにいちゃんを解放できたから結果オーライね!』

 

 そう、ここだ。

 夢見は悠以外でちゃんと殺せたのは渚だけだと言っていた。本来は無関係な咲夜のSPを除いて、殺す対象の中で殺したのは、渚だけだと。

 

 ……それなら、既に誘拐してた綾瀬は、どうなった? 

 

「──まさか……まさかお前!」

 

 思い浮かんでしまう最悪の想定。震える声で問いかける俺に、夢見は満面の笑みで答えた。

 

「ピンポーン、今度はマルだね、さすがおにいちゃん」

 

 そう言って、俺を椅子ごと起き上がらせて無理やり部屋の奥を直視する様にしてから、夢見はスタスタとカーテンに向かい。

 

「はい、ご開帳でーす!」

 

 勢いよく開き、隠していたものを見せつける。

 そこにあった──いや、居たのは。

 

「──うぁああああああ!!!!」

「アハハハハハ!!」

 

 絶叫する俺と、そんな俺を見て高笑いする夢見。

 カーテンで遮られた先に居たのは、俺が想定した最悪そのもの。即ち、誘拐された綾瀬のあられも無い姿だった。

 見たくないのに、皮肉にも月光の傾きは静かに部屋奥の綾瀬を照らす。だからハッキリ見えてしまった。

 衣服はズタボロにされ、体の至る所が傷と打撲で赤黒く、内出血で青黒い肌もある。顔だけは傷ひとつ無いが、血色は悪くその瞳は廃人のソレだ。最早それだけで俺を絶望させるのに事足りるが、夢見の所業はまたしても俺の想像をゆうに超えていった。

 

 綾瀬は俺と同じように椅子に縛り付けられている。ただし拘束部位は胴体と両腕だけ。

 両足は──切断されて、真っ白な包帯に巻かれた太腿が僅かに残るのみだった。

 

「ぐ──うぇ……ぐぅぅぅう!」

 

 吐き気が込み上げて──それを全部再度飲み込む。

 夢見が吐いていいんだよ、とのたまうが絶対にしない、するものか。

 綾瀬を見て、綾瀬に関わる事について、ゲロなんて吐いてたまるか!! 

 涙をこぼして、気持ち悪さに必死に抗いつつ全て飲み干す。すると夢見は感心するような声色で言った。

 

「凄いおにいちゃん、本当に綾瀬の事好きなんだね……本当は気持ち悪くてこの上無いのに」

「どこまで……どこまで酷い事が出来るんだお前」

「どこまでもだよ。おにいちゃんと、だいすきなおにいちゃんと一緒に暮らすためなら何処までも」

「これも好きだって理由だけでやるのかよ、お前は……こんな最悪な事も!?」

「当たり前でしょ? おにいちゃんだって愛のためならさっき命を捨てようとしたじゃない。本当に最初はビックリしたんだから……あたしも同じ。おにいちゃんの愛を手に入れるためなら、どんなに時間がかかってもあたしはやるの。だって……それがあたしの望んでる事だから」

「……」

 

 また、違和感があった。

 そうだ、夢見はずっと言葉の端々からこの状況になるのは初めてでは無い様な事を口にしていた。

 “最初は、”“今回は”……いずれもまるで何度も繰り返して来たような口ぶりだ。

 ……いいや、ようなじゃ無いんだろう。もう今更、不思議じゃ無い。

 

「あ、もしかして……やっとおにいちゃん気づいた?」

「夢見……お前も繰り返してるのか?」

「うん、そうだよ。おにいちゃん」

 

 ニコッと目を細めて、夢見はアッサリと肯定する。

 

「だから、こうして綾瀬を生かしてここに連れて来たの。本当はあたしとおにいちゃんの空間にこんな糞虫を入れたく無いけど、おにいちゃんって強情だから、すぐに死のうとするんだもん」

「だから……綾瀬を半殺しにして人質にしようってのか!」

「またまたピンポーン! あたしはここに綾瀬を連れて来てから、傷口の処置はしたけど何にも食べさせて無いの。この女にご飯を食べさせるのは、おにいちゃんの役割」

「……つまり、俺がここで死んだら」

「そうだよ。綾瀬はご飯がもらえなくて餓死しちゃう。綾瀬を死なせないためには、おにいちゃんは生きてここで暮らしてく必要があるのです」

「……もう、人じゃねえよ、その発想」

「えへへ、照れちゃう」

 

 そう言いながら、綾瀬の顔をツンツンと突っつく夢見。

 僅かにびくんと反応する以外に何もしない綾瀬。

 言葉通り確かにまだ生きている。ここで俺が自殺なんてしたら、それは綾瀬を見殺しにするのにも等しい行為になる。

 

「……畜生っ」

 

 悔しいけど、もはや何も出来ない。

 人の心を持ってないのに、俺の心を完全に把握している夢見の対策は完璧だ。たとえ人の尊厳を極限まで凌辱された状態であろうと、俺が綾瀬を見捨てるなんて、絶対に有り得ない。

 もう、目の前で死なれるのは嫌だ。

 

「分かった……ここで、暮らす」

「──本当!? やったぁー! ありがとうおにいちゃん!!」

 

 幼子がそうするように、夢見は体全体で喜びを表現する。そしてそのままの勢いで俺に抱きついたあと、『解いてあげるね!』と俺の体を縛っていたロープを解き始める。

 その無邪気な仕草に今日何度目かの悍ましさを感じるが、同時に全く別の疑問が頭をよぎった。

 

「……待てよ」

 

 夢見は俺が前にも今回と同じ状況になって、その時は躊躇いなく自殺したと言っていた。だけどそれはおかしい。

 

「俺は、今までお前の前で自殺した事は無いはずだ」

「覚えてないだけじゃ無いかな? あたしは全部覚えてるよ、と言うよりも、分かっちゃうの方が正しいのかも」

「は?」

「んー、今まで何回か言わなかったっけ?」

 

 解く手を止めて、夢見はまた俺の目をじっと見つめる。

 

「あたし、おにいちゃんが好き。好きです」

「……それと、この話がどう関係してるんだ」

「好きだから、おにいちゃんを知りたくてね。いつからかおにいちゃんをいつでも感じたくて、写真に撮る事にしたの。それがおにいちゃんコレクションの始まりなんだけど」

「……?」

「だんだん、レンズ越しに映るおにいちゃんが、どんな気持ちなのか理解しようって思うようになったの。今日は機嫌良いんだなとか、逆に落ち込んでるなぁ、とか」

「……っ」

「そしたらね、いつからかな。おにいちゃんの目を見るだけで、気持ちがわかるようになったんだ。愛の成せる技かな。ふふっ……それでね、おにいちゃん達の所に帰ってきたある日、おにいちゃんとお話して、いつも通り目を見た時に、おにいちゃんの気持ち以外にあたしの中に流れ込んでくるものがあったの」

「流れ込んでくるもの……? それ、もしかして」

「ピンポーン……繰り返してるあたしの記憶。始めはただの強い感情だけだったの、悔しいとか悲しいとか、おにいちゃんを手に入れられないまま終わったあたしの執念。それが段々ハッキリと具体的になって来て、今まで何回繰り返してきて、おにいちゃんがどう死んだのかとか、あたしの失敗した理由とかが、おにいちゃんの瞳からあたしに流れ込んでくるようになった」

「じゃあ、つまり……俺と同じように繰り返してるんじゃなくて」

「そう。おにいちゃんが忘れても、繰り返しの中でおにいちゃんの無意識に刻まれた、たくさんの失敗したあたしの執念……違うかな。おにいちゃんへの情念が、あたしの中に入って来てるの」

 

 そんな馬鹿な話があり得るのか。あまりにも都合の良すぎる夢見の論調だが、しかし夢見は間髪入れず言った。

 

「おにいちゃん、死んでも意識だけ時間が巻き戻るのだって、充分過ぎるほど馬鹿みたいで都合の良すぎる話なんだよ?」

「──それは、そうだけど」

「あたしはね、おにいちゃんが繰り返す理由も、無数のあたしの想いがそれについてくるのも、理由は分からないけど、でもこれだけは分かるよ?」

 

 そう言って、俺の胸元に顔を寄せる夢見。

 そのまま上目遣いになって俺を見上げながら、確固たる意志を持って断言する。

 

「これはね、愛なの」

 

「愛に不可能は無い。どんなに挫けたって、失敗したって、邪魔があったって、最後に勝つのは──愛なんだから。ね?」

 

 

 

 ──to be continued




9月は最低でもあと一回は更新できるので、お待ちください。

感想お待ちしてます、ではではー


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10病 鳥籠の中の幸せ

最近、アルコールの摂取を控えたら更新頻度が上がりました。
お酒のせいで更新途絶えてる説が濃厚になってきました。ストゼロを飲みたい


「籠の中の鳥は、外が今よりも自由で幸せだと勘違いしてるの」

 

 綾瀬の切断された足を処置しながら、夢見は聞いてもいない自論を述べ始めた。

 

「あたしの名字になってる小鳥遊、由来は聞いた事ある?」

 

 振り返って俺を見ながら問いかける夢見に、俺は首を横に振ってこたえた。

 そっか。じゃあ教えてあげる。そう言って新しい包帯をぐるぐると綾瀬の足に巻きつけて、夢見は言葉を続ける。

 

「元々は言葉遊びなの。“四月一日”で‟わたぬき”って呼んだり、“月見里”で“やまなし”って呼んだりするのと同じ」

 

 そもそもの話、そういう名字がある事すら今知った。

 

「どれも文字と読み方だけじゃ意味が繋がらないけど、四月一日は昔の人が着物から防寒用の綿を抜くからわたぬき、月が見える里には月を隠しちゃう山が無いからやまなし、こんな風に言葉遊びがあるの。それじゃあ小鳥遊はどんな言葉遊びがあると思う?」

「……さぁ」

「正解はね、小鳥が空を飛んで遊べる……つまり、天敵の鷹が居ない状態。自分を苛む存在が居ない、自由な姿。それが小鳥遊」

 

 分からない。どうして夢見は急にそんな話をし始めたのかも、最初に言った籠の中の鳥とどう関係してるのかも。

 話の繋がりと夢見の意図が掴めないでいる俺を一瞥しながら、夢見は引き続き慣れた仕草で綾瀬の足に包帯を巻く。……綾瀬はずっと虚ろな目で空を見つめたまま。

 

「あたし、この小鳥遊って名字がずっと気になってたの。だって、空に鷹が居ない状態なんていつまでも続かない。そのうち必ず鷹は頭上に現れて、幸せそうに遊んでる小鳥は簡単に食べられちゃうに決まってるから」

 

 包帯を巻き終えて、処置に使った道具や古くなった包帯をゴミ袋に詰めつつ、まだ夢見の述懐は終わらない。

 

「自分がどんなに“今”だけを欲しがってても、外の世界は勝手に変わっちゃう。嫌いな人や怖い人が勝手に現れて傷つけてくるの。だけど生まれた時から籠の中に居る鳥はそんな事知らないから、ふとした時に自分から大空に飛んでッちゃう。飛んで行って──あっけなく喰われて死んじゃうの、馬っ鹿みたい」

 

 不穏な内容とは裏腹に、夢見は面白おかしそうな表情で話している。やがて全部のごみを掃除し終えた夢見は、スタスタと俺のいる方へ歩み寄る。

 

「本当に幸せであり続けたいなら、大きな世界なんかに居ちゃいけないの。小さくて狭い鳥籠の中にこそ、本当の幸せがあるんだから」

「だから、俺をここに?」

「そう! さすがおにいちゃん、理解力抜群ね! ……自分の大切なモノ、好きな人、それだけを集めて、嫌なモノや苦しめる物、邪魔な奴が存在しない、甘くて幸せな生活だけが続く世界。あたしが欲しいのはそれだけ」

 

 俺の──足だけ椅子に縛り付けられている俺の正面まで来てから、夢見は膝にまたがる。

 自由を奪われた両足に座りつつ、至近距離で対面する俺達は、そこだけ切り取れば恋人同士の戯れにも見えたかもしれない。

 愛する人を目と鼻の先で見つめる夢見は、俺が今ここにいるという事実に勝手に恍惚し、その両手で頬に触れる。……ここにきて、もう何度もやられた仕草だ。

 

「ここが、あたしにとっての全て。あたしの世界、あたしの幸せ。これからずっと、おにいちゃんと一緒に暮らすワンルーム。あぁもう、口にするだけで本当にサイッコー! あたし、幸せです」

「……どうして、急にこんな話をするんだ」

「知って欲しかったから。あたしが邪魔な女とホモ野郎を殺した理由。全部あたしとおにいちゃんのためだって」

 

 両頬にあてていた手を伸ばして、俺を抱きしめる夢見。互いの胸が密着し、心臓の音さえ伝わってくるほどのゼロ距離で、夢見は耳元で囁く。

 

「愛してる、おにいちゃん……今はまだおにいちゃんの中にあの女(綾瀬)への未練があるのは分かるけど、すぐにあたしだけを愛するようにしちゃうんだから」

 

 激しく、それでいてどこまでも純粋な愛の言葉。

 その一言一句を耳に入れて脳が認識するたびに、心が壊れそうになる。

 

「やっと、ここまで来れたの。だから、絶対、絶対に、離さないんだから……ね?」

 

 

 改めて、思い知らされる。

 小鳥遊夢見は、完成されたヤンデレだと。

 そして、そんなヤンデレの女の子に死ぬほど愛されているのだと。

 死にたくなってくるが、まだ駄目だ。

 

「……っ」

 

 夢見の愛の囁きを聞き流しつつ、俺は視線の向こうにいる綾瀬を見る。

 果たしてどれだけの地獄を味わったのか。ここに連れられてから数日経っても、綾瀬が生者らしい反応を見せる事は一度も無い。俺がここに来た時すでに、彼女の心は死んでいた。

 ……だが、それでもまだ綾瀬は死んだわけじゃない。両足を切断され、俺に日々の食事と排便の世話を受け、虚ろな眼に光が差し込む事は無くとも、まだ綾瀬の命はここにある。

 

 

 まだ、死ねない。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「今日はね、おにいちゃんとお喋りをしようと思います!」

 

 何処からか運んできた小綺麗なテーブルを挟んで向こう側に座る夢見は、手に持った『彼氏ともっとうまくいくための99』という本を見せてそう言った。

 正直、うまくいくために99も何かしなきゃいけない関係性は恋人同士ではないと思ったが、そう言えば今の俺と夢見の関係はまさにその通りですから、変に納得してしまう。

 ふざけるな。

 

「お互いの事を知る事で、おにいちゃんにもっとあたしを好きになってもらいたいんだ。あたしがここにおにいちゃんを連れてきた理由はさっき言ったからぁ、次はあたしがおにいちゃんをいつ好きになったのかを言うね」

 

 聞きたくも無い。黙れ。

 ……なんて言えたら、本当にカッコいいんだろうな。

 

「ズバリ! 一目惚れです!」

「……そっか、どうも」

「え~反応冷たいー!」

 

 速攻で終わった。もう帰らせてくれ。

 

「あっでもでも! そのあとちゃんと好きになる所はあったんだよ? 優しい所とか、いつも明るい所とか。焦っちゃうとすぐバレるような嘘ついちゃうところとか!」

 

 指折り数えながら俺の好きなところを挙げていく夢見。

 

「あとはあとは……あぁだめ、両手の指じゃ全然足りない。どうしよう、これじゃあおにいちゃんをどれだけ好きなのか説明しきれない!」

 

 非常にどうでも良い悩みだったが、このまま好き放題言わせててもらちが明かないので、助け船を出す事にした。

 

「……じゃあ、一番好きな理由だけ挙げてくれればいいよ」

「え、本当? それなら答えはもちろん──」

 

 ここで俺は、次の夢見の言葉はどうせ『カッコいい』だとか『全部』とか、中身の無い答えになるんだとばかり思っていた。

 だが、実際に夢見の口から出た言葉は、そんな俺の予想を覆すものだった。

 

「──あたしの心の寄す処になってくれた事かな……なんて」

「……俺が?」

「心当たりが無い? でも分かるよ、きっとおにいちゃんにとっては当たり前の事をしてくれただけなんだって。でもね……あたしにとっては特別なの。特別な事を、おにいちゃんはしてくれたんだよ」

 

 そう言って、夢見が懐から取り出したのは──渚の命を奪った“あの”鋏だ。

 

「──ッッ!」

 

 当然のこと、それを視界に収めた瞬間に体は強張っていく。自分の命が脅かされる事への恐れもあるがそれ以上に、もしかしたらこのまま綾瀬を殺そうとするのではという不安が脳裏に過る。

 そんな俺の心情を読み取ってか、夢見はチラッと俺の目を見てから小さく笑い、あやすような口調で言った。

 

「もう、そんな心配しないでおにいちゃん。別に何もしないから。……でも、そっか。これも覚えてないかぁ」

「覚えて……? 何の話だ」

「あたしにこの鋏くれたの、おにいちゃんなんだよ?」

「え……っ!?」

 

 思いもよらない発言に一瞬頭が真っ白になり──その僅かな間で、思い出した。

 夢見が初めて俺達の住む街に、引っ越してきた頃の話だ。

 奇しくもその時、今と同じようにお互いの紹介をし合う場があって、その時夢見が将来の夢で『美容師』だと答えた。

 夢を目指して前の家ではよく家族の髪をカットする事もあった。と同席してた夢見の母親が話したので、話の流れで俺の髪の毛をセットしてもらおうって事になって……その時家にたまたまあった散髪用の鋏を俺が持ってきて、夢見に渡していた。

 その後に鋏がどうなったのか、当時の俺は全く意に介さずに居たが……じゃあつまり。

 

「あの時の鋏が、それなのか……?」

「思い出してくれたんだ、嬉しい! そうだよおにいちゃん。これはおにいちゃんが初めてあたしにプレゼントしてくれた、世界で一番大事な物。……あたしとおにいちゃんを繋いでくれたお守りなの」

「…………そんな、事が」

 

 じゃあ、つまり。

 俺は、渚や綾瀬、それにみんなを殺すのに使われた武器を、当の本人に渡していたって事か。

 

「はは……なんだよそれ、あり得ねぇ」

「えぇ!? 本当だよ、嘘じゃないんだから! この鋏があったからあたし、おにいちゃんと離れてからも今日まで生きてこられたんだもん」

 

 俺が言ってるのは、夢見の事じゃない。

 みんなの死因に俺が深く関与しているのだと、思い知らされた事についてだ。

 結果論だと自己弁護するのは容易だ。しかし、結局夢見が武器として使い、俺の目の前で渚を殺めたのは、俺がかつて何の気なしに夢見に渡した鋏で──俺はみんなの死に、加害者側としても立っていたんだ。

 

「おにいちゃん……なんでそんな悲しそうな顔してるのかな?」

「──っ、いや……何でもない」

 

 マズい、この状況で夢見の機嫌を損ねるような事になったら、それこそ本当に綾瀬に危害が及びかねない。

 泣きたくなりそうな心を必死に抑えろ。もうこれ以上、俺が与えてしまった凶器(狂気)で誰も死なせるわけにはいかないんだから。

 

「……まぁ、でも、おにいちゃんも急にこんな事言われたってビックリしちゃうよね。……本当はもうちょっと後で話すつもりだったけど、せっかくだから言うね」

 

 鋏をテーブルの上──互いの中間地点──に置いてから、

 

「おにいちゃんが、あたしに何をしてくれたのか。おにいちゃんと離れ離れになった後に、あたしに何があったのか」

 

 夢見は穏やかな表情で語り始めた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 自分の人生を振り返ると、あたしはとっても我慢する人生だったなって思う。

 家族に対しても、友達に対しても、好きな人に、嫌いな人に──色んな我慢をしてきたから。

 

 でも、しょうがなかった。

 あたしが我が儘を言ったら、すぐにあたし自身が酷い目に遭うから。

 嫌な思いをしないためには、いつも我慢しなきゃいけなかったの。

 

 最初に我が儘を言ったのは、小学生の時。

 あたしの誕生日に旅行を計画してたのに、当日急に入ったお父さんの仕事のせいで無かったことにされた。

 せっかく楽しみにしてたのに、大人の都合なんかで台無しにされるのが我慢できなかったあたしは、申し訳なさそうに家を出るお父さんにこう言ったの。

 

『大っ嫌い、死んじゃえ』

 

 当然、本当に死んじゃえなんて思ってはいなくて。

 こうでもしなきゃ気持ちが収まらなかったのと、こういえばお父さんが考えを変えてくれるかも、なんて望みがあった。

 今にして思えば、本当に幼いなぁ。なんてクスクスしちゃうけど。

 

 神様は、そんな優しくなかった。

 

 その日の夕方、お父さんは運転してた車の事故で、あっさり肉の塊になって死んじゃった。

 急な仕事を急いで終わらせて、猛スピードで家に帰ろうとしたんじゃないかって、警察の人が言ってたのを覚えてる。

 幸い誰も巻き込まれていない事故だったからあっさり話は進んで、お葬式も遺産の話も生命保険のお金とかも、あたしの目の前で問題になる事は無かった。

 でも、誰も言わなかったけど、お父さんが仕事を急いで終わらせて、事故を起こした原因は、あたしの誕生日を祝いたかったからだと思ってる。あたしが仕事に行こうとするお父さんを責めたから、その罪滅ぼしをしたくて、無理をした。

 

 つまり、あたしの我が儘で、お父さんは亡くなった。

 

 お母さんはその事について、当時のあたしを責めなかった。

 

 

 ──次に、我が儘で痛い目にあったのは、そこから数年後。

 

 お父さんが亡くなってから、お金とお家は生活出来るくらい余裕があった。

 でも遺産だけで暮らしていくわけにもいかないから、専業主婦だったお母さんが働くようになって。

 

 でも働いてすぐにお父さんと結婚したお母さんが、まともな職場にありつけるはず無い。

 やっぱりというか、当然と言うか、何回も職についてはやめてを繰り返して不安定な状態だったのを、お母さんの姉が見かねたのがきっかけで、あたし達は引っ越すことになったの。

 お母さんはお父さんとの思い出がつまった家を出て行くのに躊躇ってたけど、あたしがまだ子どもである事、ちゃんとしたお仕事に就くためにお勉強や資格を取る時間が必要って事で、引き払うことにした。

 

 あたしも引っ越しは寂しいけど、お父さんが映った家族写真を見て泣いたり、仕事のせいで日に日に病んでいくお母さんが嫌だったから、何か変わる事を期待して──その人と出会った。

 

『小鳥遊ってこれでそう読むんだって苗字だなぁ』

 

 お母さんの姉が暮らしてる家の向かいに建つ貸家に越した日、互いの家族紹介の場で、その人は感心した口振りでそう言った。

 変なこと言わないの、と親に小突かれて笑ってから、笑顔であたしに手を差し伸べながら自分の名前を口にする。

 

『俺は縁、よろしく! 夢見ちゃん!』

 

 あとで名前の漢字を聞いたら、そっちも『こう読むの?』て漢字だったけど。

 あたしは、あんなに善意しか無い笑顔を向けてくれる人に、初めて出会った気がした。

 

 そして、この日からあたしは、縁──おにいちゃんと、その妹の渚ちゃんと、過ごすことが多くなった。

 それからの時間は、楽しかったなぁ。

 おにいちゃんは優しくて、複雑な理由で引っ越してきたあたしを寂しがらせないように、街の楽しい場所を教えてくれたり、祭りやイベントに連れてってくれたり、学校で片親なあたしを揶揄うヤツらからかばってくれた。

 たまに幼馴染の綾瀬ちゃん(邪魔なヤツ)も一緒になって遊ぶ事もあったけど、いつもあたしのことを考えてくれるおにいちゃんを、気がついたら大好きになっちゃった……仕方ないよね? 

 

 血縁関係なんてどうでも良かったけど、面倒臭い奴が湧いてきたらウザいから、一応調べてみた。そしたら最高、いとこ同士なら結婚したってなんの問題もないの! そんなのもう、躊躇う理由が無い。

 日に日にあたしの中でおにいちゃんを求める気持ちが強くなる。もっと知りたい、もっと見たい、あたしの知らないおにいちゃんを、あたししか知らないおにいちゃんを。

 

 おにいちゃんの全部を知って、あたしだけのおにいちゃんにしたい。

 それが、あたしの2度目の我が儘だった。

 そして、そんな我が儘を抱いたあたしに世界は容赦なく邪魔をしてくる。

 

『縁に対する盗撮行為をすぐ止めるんだ』

 

 綾小路悠、お兄ちゃんが中学二年生になったすぐ後に転校して、いつの間にかお兄ちゃんのそばを飛び回るようになった虫。

 ある日、その虫に急に呼ばれたと思ったらあたしの姿が映ってる写真を何枚も見せられる。

 そのどれもが、あたしのある行動──『おにいちゃんの事をもっと知りたい』ただそれだけの気持ちから、おにいちゃんの日々の姿を集めた“おにいちゃんコレクション”撮影中の姿を捉えていた。

 

『──それ、どうやって』

 

 本当に、この時ほどこの世の終わりを感じた事は無かったかも。

 おばさん達(おにいちゃんの両親)やお母さん、おにいちゃんや渚ちゃん達にこの事が知れ渡ったら、もう2度とおにいちゃんコレクションを集めることができなくなる。それどころか、おにいちゃんの近くにいる事も難しくなるかもしれない。

 それどころか、あたしの部屋にある今までのコレクションも全部捨てられちゃう……そんなの絶対に耐えられない。

 ……というより、そもそもあたしのしてる事を『盗撮行為』なんて言い出すコイツが信じられない。最近ぽっと現れたばかりの奴がなんでおにいちゃんの味方ヅラしてこんな事してくるの? 

 

『お金持ちにはできる事が多いんだ』

『ふーん……盗撮ですか、最低ですね』

『君がね。これが何をしてる瞬間のものか、僕はもう知っている』

『──そうなんだぁ、そっかぁ』

 

 焦りよりも怒りの方が湧き出て、どうにかなりそうだったあたしは、それでも何とかそれを表に出さない事に徹した。

 この虫の事は転校した日からお兄ちゃんの話に出てきて分かってた。よく分かんない、金持ちのお家の子だって。そんな人生お手軽モードで生きてきたようなのを相手に何かしたら、それこそあたしが潰される。

 それに何よりも、こんな虫でもおにいちゃんの友達。……腹立たしいけど、今のあたしにできることは限られてる。

 

『おにいちゃんは、この事を知ってるんですかぁ?』

 

 どうしても気になってしたこの質問に、虫は『まだ伝えてない』と答えた。

 その後もごちゃごちゃうるさい事を話してたけど、あたしの返答次第で全部が決まるわけで。

 

『……うん、綾小路先輩の言う通りにします』

 

 はらわたが煮えくり返って、脳みそが沸騰してどうにかなってしまいそうな自分を堪えて、あたしは虫の要求を無条件で受け入れる。

 

「君が本当にストーカー行為をやめてるかは、チェックさせてもらうよ。もし本当に好きなら、ちゃんと正面からアタックすれば良い。君は彼の周りにいる女の子の中でも負けないくらい可愛いんだから」

 

 調子に乗った虫が更に耳障りな羽音みたいな言葉を放つ。

 この後どうなっても良いから、衝動のままに動いてしまおうと思った。

 

『ありがとうございます、先輩。でも』

 

 せめて、これくらいは言っても良いでしょ? 

 

『今回、こうやって止めてくれるだけ済ませてくれたのは助かりましたが──後悔、しないでくださいね?』

 

 全身全霊で作り上げた笑顔と共に送った言葉を、虫がどう受け取ったのかは分からない。

 ただ、その日の帰り。帰宅して自分の部屋に戻った後、あたしは自分のベッドに仰向けで倒れこんで枕に顔を埋めると。

 

『──殺してやる』

 

 もう、誰の目も気にする必要が無いのを確認してから。

 

『殺してる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!』

 

 膨れ上がって、とっくに許容量の限界を迎えていた激情を、外に吐き出した。

 あたしがおにいちゃんのもとに帰ってきて、最初に殺す相手があいつだったのには、こんな理由があったのでした。

 

 この時のあたしにはまだ、本気で殺意は芽生えたとしても行動に移す事はできなかった。

 殺したくなるくらいの感情を抱く相手が居ても、本当に自分の手で殺してしまう事に躊躇いがあったから。

 でも、そんなあたしを今のあたしに変えた出来事が起きた。……細かく言えば、出来事は1つじゃなくて幾つもあるんだけどね。

 

 あたしがおにいちゃんに出会って幸せな時間を過ごしている間、お母さんは再就職先を見つけるためによく家を出ていた。

 お父さんが残した遺産で生活をして、そのうち見つけた仕事で生きていくんだと。あたしはなーんの疑いも無いまま、そう思ってた。

 でも、ある日──というかあたしが綾小路悠に屈辱的な想いをした日──の夜に、お母さんは信じられない事を口にしたの。

 

『夢見、お母さん再婚するから。来週にはこの街を出るわよ』

 

 ──は? って感じよね、本当。我が親ながら本気で何言ってるのか理解できなかった。

 

 動揺しちゃって思ったよりリアクションが取れなかったあたしに、お母さんはつらつらと説明を始めた。

 再婚相手はホストの人で、街を出る理由は先に結婚の報告をした伯母さん(おにいちゃんのお母さん)から猛反対を食らったから。

 信じられないけど、お母さんは家を出て仕事を探してるんじゃなくて、ずっとその男とデートしていた。夜は店で、日中は市街で。移動費もご飯代も娯楽費も、全部お母さんが払っていた。お父さんの残したお金を切り崩しながら。

 急いで通帳の残高を見たら、信じられない頻度で高額の引き落としがされていた。

 あんなにあったお金が、ホストへの貢ぎ物になっていたなんて。……どうしてこんな事をしたのかと、当然あたしはお母さんに詰め寄った。このお金は家族で再出発するためのお金だったんじゃないの? って。

 

 そしたら、お母さんの目の色が急激に変わった。

 気が付いたらあたしの視線は天井を向いていて、尻もちをついてた。

 頬は鈍い痛みに加えて熱も発してて……あたしは今お母さんに殴られたんだと理解するのに、少しだけ時間を要してしまった。

 

『あんたが……あんたが壊したんでしょ!?』

 

 今まで聞いた事の無い声色で、お母さんはあたしの胸ぐらをつかんで無理やり起こすと、目を見開いてこう言った。

 

『あんたがあの時、あの人に死んじゃえなんて言わなきゃあの人は今も生きてたんだ! くだらないガキの我が儘のために事故死する事は無かったんだ! お前のせいであたしがやりたくも無い転職活動や、下げたくも無い相手にペコペコしてるんじゃない!! アタシから大切な家庭を奪っといて、その上新しい幸せまで否定する気なワケ!?』

 

 口端に泡を吹かして、今にもかみついてきそうな剣幕。

 そして、今まで言われた事の無かった──でもずっとお母さんがあたしに対して抱いていた本当の気持ち。何もかも初めて尽くしな状況で、思わず口に出して言ってしまった。

 

『怖いよ、やめて』

 

 今まで優しい姿しか知らなかった子どもにとっては当たり前の言葉。

 でもこの状況では、火にガソリン撒いちゃうのと同じ意味だった。

 

『怖い!? 誰が怖いって言うのよ!? 今日まであんたを育ててやった人は誰だと思ってんの!? ふざけてんじゃないわよ!!!!』

 

 殴られて、蹴られて、存在を否定される。

 実の母親から数年間ため込んでいた本音を、文字通り叩きつけられた。

 鬱憤が晴れた後、散々痛めつけてから、お母さんは人が変わった様に床に倒れたあたしを抱きかかえて謝って来たけど、何言ってるか全然分からなかった。

 

 寝る前、身体中の痛みで泣きながら、あたしはとっくに壊れ切った家庭の中で生きていたんだと思い知って……これから更に壊れていくしか無い事を理解して……笑うしかなかった。

 

 結局、反対なんて意に介さないお母さんは言った通り数日で無理やり街を出た。

 貸家の家賃や手続きは野々原家も負担してたのに、何もしないで必要最低限の荷物だけを再婚相手の持ち出した車に詰めて、何処に行くかも告げないまま真夜中に出発。なにソレ夜逃げ? 

 当然そんな事したから、伯母さんや野々原家とは実質絶縁関係になる。

 あたしはお母さんについていくしかなかったし、お母さんはあたしが野々原の家族と接触を持つことを許さなかったから、それ以降おにいちゃんとのつながりまで消される事になっちゃって。

 おにいちゃんと出会って手に入った幸せが、あ──っという間に音を立てて崩れていった。

 

 大好きな人と離れ離れにされて、家族関係は崩壊してて、あたしはもうお腹いっぱいになるくらい酷い目に遭ったつもりでいた。

 だけど残念。あたしの苦難はむしろここからが本番。あたしがおにいちゃんの前に帰ってくるまでの数年間が、最後の受難だったのです。

 

 再婚相手の男はホストだって聞いてたけど、実態はそれどころじゃないもっと危険な人だった。

 半グレとか愚連隊とかって呼ばれたりする、暴力団とは違うけど充分に反社会的な人。当然そんな人が心からお母さんを好きになっているわけも無くて、お母さんが持ってるお金目当ての結婚だった事はすぐに分かった。でも今更『こんな危ない奴からお母さんを助けないと!』なんて思うわけも無かったし、馬鹿なお母さんは自分が単なる金づるにされてるのにも気づかないで、自分より若い女のあたしが『誘惑するんじゃないか』なんて本気で警戒してたから、極力かかわりを持たないようにするだけに留めた。

 

 娘相手に本気で嫉妬して警戒するのは、馬鹿を通り越して憐れみすら感じちゃうけど、その気持ちは分からなくも無かったりする。

 実際に再婚相手の男は『早く打ち解けて家族になりたいから』って事あるごとに、あたしをお出かけや食事に誘ってきた。これだけなら一見打ち解けるために頑張ってるようだけど、日ごろ風呂上りや部屋着を着てる時に“アレ”な視線を向けてるのは分かってたから、そんなの体のいい建前でしかないのはバレバレ。

 だからって誘いを断っていくと、今度はお母さんが家を空けてる時にお酒を一緒に呑むように誘ってきたり、あたしに飲ませようとした飲み物に隠れて錠剤(たぶん睡眠薬)を混ぜたり、段々節操が無くなる始末。

 そんな事だから、お母さんは女の勘であたしが再婚相手に性的対象として見られてるのを察知するのは無理も無かった。

 かと言って実の娘に手を出そうとしてる男からあたしを守るんじゃなくて、むしろあたしを敵扱いするところが、どうしようもないんだけどね。

 

 日に日に当たりの強くなっていく母親と、いつレイプしてくるかも分からない男との生活に安心できる時間なんてあるワケが無い。

 もういっそのこと、世間からどう思われても構わないから、家から出ていこうかな。そう思う事が増えてきた中──決定的な出来事が起きちゃったのでした。

 

 11月27日、他ならぬあたしの誕生日。

 お父さんが死んで、お母さんに恨まれて、いろんな物が壊れて崩れるキッカケにもなった運命の日。

 この日、珍しく機嫌のよかったお母さんは、なんとあたしのために誕生日ケーキを買ってきてくれた。

 引っ越してからずっと、そんな親っぽい事なんてしてくれなかったお母さんから、思いもよらない行動をされたあたしは、不覚にも油断してしまった。

 再婚相手の男も交え、夜にささやかな誕生日会を開くと、ケーキもそこそこに大人2人はお酒を飲み始めた。その時にまた、男が性懲りも無くあたしにお酒を飲ませようとして……久しぶりに親の愛情を受けて警戒心が弛んでいたあたしは、お母さんもいるから何もされないハズだと思って、シャンパンの入ったグラスを受け取って、その中身を飲む。

 

 次にあたしが目にしたのは、うす暗くなったリビングのソファの上で、半裸の状態になったあたしの上でサルみたいに腰を振る男の姿だった。

 

 お母さんは、あたしが男に盛られたものと同じ薬で寝ていて、すぐそばで夫が娘を犯している事実に気づけずにいる。

 こうして、あたしはよりにもよって誕生日に、処女を失ってしまったのでした。

 初めては大好きな人と、なんていうのは別にロマンチストじゃなくても考える、当たり前の夢。だけどあたしは、『好き』とは対極の位置にいる男に汚された。

 

 さすがに死にたくなった。

 行為が終わってナカで果てて、疲れた男がたばこを買いに外に出た後、乱れた服のままあたしは自分の部屋に戻って、自殺するための道具を探した。

 できるだけ楽に、なんて考えない。むしろ派手に苦しく死んだ方がアイツらの人生をめちゃくちゃに出来てお得。

 そんな事を考えつつ部屋の中を漁ってると、机の引き出しから出て来たのは、おにいちゃんが以前あたしにくれた鋏だった。

 大きくて鋭い形状をした鋏で自分の体や喉を突けば、きっと出血多量で死ねるに違いない。今最も望んでる死に方を与えてくれるかもしれない物を手に持った時、あたしは──泣いた。

 

 おにいちゃんが、死のうとするあたしを止めてくれた。そう思えてならなかったから。

 気持ち悪くて悍ましくて虫唾が走って吐き気が止まらなくて嫌で嫌で嫌で嫌で仕方なくて、そんな負の感情に呑み込まれそうだったあたしを、おにいちゃんが助けてくれた。

 冷たくて無機質な鋏は、あたしにとっては温かくて優しい、世界一大好きな人とのただ一つの繋がり。

 

 それから、この鋏はあたしにとってお守りのような存在に変わった。

 男は一度あたしを犯してから躊躇いが無くなり、誕生日以降お母さんの目を盗んではあたしに行為を迫るようになった。

 お母さんの気まぐれな愛情もあの日限りのもので、むしろそれ以降はより一層、あたしを怪しむようになり冷たい態度になった。

 

 地獄はその濃度を増して、常人ならとっくにドアノブにヒモを垂らして自殺しててもおかしくない環境の中。あたしはおにいちゃんのくれた鋏を懐や学校のカバンに入れて常に持ち運ぶ事で、耐えていく。

 どんなに苦しくても、おにいちゃんの温もりがあたしを包んでくれる。もしどうしても我慢できない時が来たって、その気になればいつでも命を絶てる。どこまでも優しくて、救いをくれる鋏は、あたしの心と体の生きる寄す処。

 

 おにいちゃんをいつでも感じられるようになったあたしは、お母さんの顔色を伺ったり、男からいつ迫られるか気を張る事が無くなり、今までと比べて明らかに明るい雰囲気になっていった。

 もう何を言われても、何をされても構わない。どんなに汚れてしまっても、あたしにはおにいちゃんがいる。おにいちゃんへの愛は何も変わらない。それどころか月日を重ね、時間が経つごとにどんどん深く大きく、濃密になっていく。

 どんなに汚れても決して歪まない愛。自分はそんな愛を抱いているんだって思えば思うほど、他人には理解できない、出来るはずのない、あたしだけが分かる幸せが心を満たす。

 

 

 ──だけど、それを許さない奴がいた。お母さんだ。

 

 あたしが誕生日以降、雰囲気が変わった事を訝しんでいたお母さんはある日、男のスマートフォンを開いてアルバムを見た。

 そこには、何度目かの行為の時に男が撮影した、あられも無い姿のあたしを映した写真や動画が入ってたワケで、案の定お母さんはあたしの態度が変わった理由は『夫と浮気してるから』という盛大に滑稽な勘違いをし始めた。

 男が外出して、あたしが家にいる時を見計らって、お母さんは鬼の形相であたしの部屋に来て詰め寄って来た。

 思いもしなかった展開にあたしもたじろいだけど、あたしはここがお母さんの目を覚まさせるチャンスだと思って、今まで自分があの男にされていた事を告白してみた。

 

 そしたら、どうなったと思う? 

 

『……やっぱりお前が誘惑したんじゃない! ふざけんじゃないわよこの売女!!』

 

 お母さんはあたしの話をまるで聞いてない事が分かりました、ちゃんちゃん。

 

『許さない、許さない許さない許さない! アタシの家庭を、2度も壊すなんて──お前なんて産んだのが間違いだったんだよ!!』

 

 頭を掻き乱して、髪の毛を揺らして、ヒステリックに狂った表情のまま、お母さんは素早くあたしの首に手を掛けた。

 

『死ねよ、死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ! あたしは今までアンタにずっと母親として愛情注いできたのに、全部裏切りやがって! ここまで育ててやったのによくも裏切りやがったなァ!?』

『お、お母さん……やめて、苦しい……』

 

 手を振り払おうとしても、怒りで力のリミッターが外れたお母さん相手にそんな事は無理。

 

『……お母さん許して……死にたくない……』

『許す? 何馬鹿言ってんのよ、許すわけないじゃない。良い? アンタはここで死ぬの、ここで、アタシに殺されるのよ! どうしてか分かる?』

『……っ』

 

 もう、あと何秒かで息もできなくなるあたしには、お母さんの問いに答えるだけの余裕なんて無い。

 最初からそれが分かってるお母さんは、首を絞める力をいっさい弛めないまま、笑いながら答えを言った。

 

『それはね、アタシが望んでるから! アンタがあの日、あの人を死なせたあの日から、ずっとずっとず──っとアタシはアンタが不幸になって無様に死ぬ事を望んでたの! だから世界は望む通りにアンタを死なせるのよ!』

 

 ──あたしが不幸なのは、お母さんが望んでたから? 

 ──世界はあたしが不幸になって、苦しんで、死ぬ事を望んでる? 

 

 何かが、ストンと胸の内に落ちた。

 それは『納得』。

 あたしが今までわがままを言ってその度に痛い目にあって来た事や、今受けている苦しみ、それら全てに対する納得。

 

 あたしが『死ね』と望んだから、世界は応じてお父さんを死なせた。

 お母さんが『苦しめ』と望んだから、世界は応じてあたしを苦しめてる。

 そして今も、お母さんが『死ね』と望んでるから、世界は応じてあたしを死なせようとしている。

 

 全ての出来事は、誰かが望んで、世界がそれに応えてくれた結果なんだ。

 それならきっと、お母さんが急にホスト狂いになってあんな男とくっ付いた挙句、引っ越す事になったのは。

 おにいちゃんのそばに居たあの男──綾小路悠がそうなるように望んだからに違いない。

 

 何も理不尽な運命とかじゃ無いんだ。

 全部、誰かの意思から生まれるモノ。

 だったら──それなら、それより強くあたしが望めば、きっと世界はあたしのために動いてくれる! 

 

 

『ほら良い加減に死になさいよ、さっさとくたば──』

 

 お母さん──ううん、()鹿()()の言葉が唐突に途絶える。

 同時に、あたしの首を絞めていた手の力も弱々しくなる。

 その代わり、馬鹿女のお腹に深々と刺さった鋏から、赤黒い汚れた液体がタラタラと滴り落ちた。

 

『い──痛い痛い痛い!! なによ、何なのよこれ!』

『五月蝿い』

 

 もう何も、呻き声ひとつすらこの女の口から発せられる音を耳にしたく無かったあたしは、お腹に刺した鋏を勢いよく抜いて、そのまま声帯のある喉を刺し貫いた。

 目を見開きながらも、苦痛と驚愕で馬鹿みたいな顔を浮かべた女は、そのまま力なく後ろに仰向けで倒れる。

 

『──ありがとう、あたし、お母さんから最後に教わったよ』

 

 自分の服で鋏に付いた女の血を拭き取って、あたしは足元に倒れた、まだ息がある女に向けて、最後の言葉をかける。

 

『この世界は誰かの望みに応じて、簡単に人を苦しめたり、死なせたりするんだね。でもあたしはそんな理由で死にたくないし、幸せになりたいの。なら……あたしを苦しめる奴がいない世界を作れば良いんだよね』

『──っ、──っっ!!!』

『うん、決めた。大きくなくて良い、たくさん人がいたら、誰があたしの不幸を願うか分からないもんね。……だから、あたし頑張って作る。あたしの好きな人、大事なモノだけがある、あたしだけの小さな世界』

 

 そのための第一歩として。

 

『まずは、世界一……ううん、2番目かな? 邪魔なあんたを殺すから』

 

 一方的にそう告げて、あたしは泣きじゃくる馬鹿女の息の根を止めた。

 

 

 それからは、もうあんまり語る所も無いかなぁ。

 外から帰って来た──まぁ普通に女と楽しんできた男を、背後から襲って監禁。最初の頃は半グレらしく荒々しい態度で刃向かって来たけど、あたしが男に犯された回数の二乗分の拷問をして、食事には馬鹿女の死体を解体して作った肉料理を食わせ続けたら、簡単に心も人格も壊れて、“あたしが望んだ通り”に動く人形になった。

 

 そして、あたしの本当の望み──おにいちゃんと再会して、2人だけの世界を作る──のために、まず邪魔な綾小路悠を殺す算段を立てた。

 次に絶縁状態だった野々原家にあたしだけ迎え入れて貰える様に、馬鹿女の声を真似て伯母さんに電話をかけて、あたしを心配する様に仕向けた。

 

 馬鹿女が言った通り、あたしが望む通りに世界は応えていく。

 

 女の残骸を乗せた車を遠くの山奥まで走らせて、夫婦の失踪を偽装した上で、男には浮浪者の格好で先におにいちゃんの住む街へ行かせた。もちろん歩きで。

 あたしの声真似電話を信じて姪を心配した伯母さんは、かつて住んでた貸家に戻るよう言ってくれた。

 

 悠は男に半グレのコネで用意させた爆薬で諸共死なせたし、おにいちゃんの周りにいる邪魔な女どもだって、全員殺したわけじゃ無いけど、2度とあたしたちを見つける事はできない。

 

 まだ邪魔な綾瀬が居るけど、秘密のワンルームで、今はおにいちゃん一緒に暮らしている。

 

 あたしの望みは、まさに叶う寸前まで来ているんだ。

 この小さな、しあわせに満ちた世界を、あたしは永遠にするの。

 そのためなら、何だってするし、何もさせない。

 

 おにいちゃんは私の物。誰にも渡さないわ。

 もう、死んでやり直すなんて事もさせない。

 絶対に──逃さないんだから。

 

 

 

 ──to be continued

 




※注意
今回はセンシティブな表現が一部あります。
心の準備をした上で読んでください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11病 死んだ方がマシだ!!!

「……かくして、あたしは晴れておにいちゃんのもとに帰ってきて、今に至るのでしたぁ〜パチパチ〜」

 

 長く、重い過去語りが終わり、反動とばかりに夢見は底抜けに明るい声で茶化すような拍手をする。

 

「……」

 

 待って、待ってほしい。じゃあ母さんと電話してたのは叔母さんじゃなく夢見で……あの時既にもう、叔母さんは死んでた? 

 って言うか、再婚相手に普通にレイプされてるじゃん、ヤバいだろそれ、警察が出てくるレベルだって。それなのに叔母さんは夢見を殺そうとしてた? はぁ? そこまで倫理観終わってたのかよ、嘘だろ? 

 それと全く関係なく夢見は俺をストーカーしていて、悠はそれを知ってた? 知ってたのに俺には何も言わなかったのも何でだよ、言ってくれたらもっと何か変わったかもしれないじゃないか。

 

 あまりにも情報量が多くて、感情の優先順位が分からない。怒るべきか同情すべきか、泣くべきか知った事かと突き放すべきか。

 

「……っ」

 

 落ち着け、どんなにショッキングな内容だからって、心を乱しても意味はないんだから。

 夢見の話は全て終わり切った過去。同情しても悲しんでも変わる事も無いし、改善する事も無い、ただひたすらに『そういう事があった』という事実の陳列にすぎない。

 だから俺も、同じスタンスで向き合うのがベスト。何より俺に話す夢見自身が、単なる昔話としか自分の過去を扱っていないのだから。

 

「どうどう? これで少しはあたしの事、分かってくれたかな?」

「……たぶんな」

 

 夢見は、俺と再会する時には既に──もっと言えば、俺と初めて会った時から、既にヤンデレとして完成されていた。

 家庭や環境が夢見に与えた影響は大きいだろう、もし叔母さんが少しでも夢見に寄り添ってれば、再婚相手がほんのちょっぴりまともなら、夢見が受けた悲劇は無かったかもしれない。

 それでも、夢見が俺をストーカーしてたのは再婚なんか話に上がらない時からだったし、悠を逆恨みで殺そうと決意してたのも、渚や綾瀬達を邪魔もの扱いしてたのも夢見が自発的に思った事。

 

 とは言え、叔母さんが夢見に『お前が苦しむのはそうなる事を望む人がいるから』とか『自分が望む通りに世界は応える』とか、極端な事を言わなければ、夢見が実際に殺人まで犯す事は無かっただろう。

 それと再婚相手のクズ野郎。こいつがこの世に生を受けてさえなけりゃ、少なくとも叔母さんが歪む事だって無かった。母娘の間に亀裂はあったけど、それだってもっとまともな形で修復される事もあったに違いない。

 

 

 

「良かったぁ、これでおにいちゃんは前よりもあたしを好きになってくれる。嬉しい……」

 

 一方的に喜ぶ夢見を見つつ、俺は少し冷静になった思考で結局今の話が何だったのかを総括する。

 

 1つ、夢見は最初から夢見だった。

 2つ、夢見のいる環境は詰んでいた。

 3つ、夢見が苦しい時に助けとなったのは、俺との思い出だけだった。

 4つ、これは総括よりも感想に近いけど──夢見と叔母さんは、よく似ていた。

 

 “家庭”という安息の地に執着し、それが壊れる事を極端に忌み嫌った叔母さん。

 “小さな世界”という空間を作るため、障害となる者を徹底的に排除する夢見。

 どちらも自分の幸せのため、自分が主となるコミュニティを作る(維持する)という点で同じ。

 

 誰だってみんな、多少はそういう事をする。自分の心が休まる集団や環境に身を置きたいのは当たり前の話だ。

 だけど、小鳥遊母娘はその度合いが違った。自分の安寧を壊す存在はたとえ娘でも否定し、阻む者は友人知人でも殺す。

 

 そして夢見は今、この小さな部屋で自分の好きな人とモノに囲まれた世界を作り上げた。この世界を壊す事は、夢見に殺されるリスクを背負う事に直結する。

 俺は両腕こそ自由だが、綾瀬に食事を与える時や夢見の“相手”をする時しか、両足の拘束は解かれない。

 綾瀬は両足を失い、夢見によって心も廃人にされてる。

 夢見に説得なんて絶対通用しない事は、今回で夢見の在り方を理解してしまった事で明確化した。

 ……無理だ。もう、無理だ。

 

 俺は夢見から逃げられない。俺一人が逃げるならまだしも、綾瀬を連れて逃げるのは不可能だろう。

 想いの桁が違う。俺が綾瀬とここを脱出したい気持ちよりもはるかに、夢見の想いは強い。

 それはここまで夢見が語ってきた経験から生まれた人生観と、俺が記憶している以上に繰り返したであろう夢見の蓄積された執念によるものだ。

 果たしてどれだけの回数、俺は死んでやり直しをしてたんだろう。夢見の言動の端々から察するに、10や20では到底足りなそうな数っぽいが……いずれにしても、それだけの数“失敗”してきた夢見にとって今回は待ちに待った瞬間である事は間違いない。

 最初に俺がここに来た時考えた事の繰り返しになってしまうが……俺にできる事は結局、夢見の機嫌を損なうことなく、綾瀬が殺されないように、死ぬまでここで暮らす事だけなのかもしれない。

 

 諦めよう。受け入れよう。俺はここで一生暮らしていくんだと。夢見と一緒に生きるしかないのだと。

 

 

 渚を、悠を、園子や咲夜、両親を、そして部屋の奥にたたずむ綾瀬を想って──俺は、自分の運命を受け入れた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その日から、どんくらい経っただろう。

 

 天井の窓から差し込む光以外に外からの刺激が無いこの空間では、時間が経つ程に感覚がマヒしていく。

 もはや、渚が殺されてから何日目なのか、今日が何曜日なのか、俺には分からなくなっていた。

 毎日夢見と会話して、夢見と一緒に過ごして、綾瀬にご飯を食べさせて、綾瀬の排泄を処理して、夢見の愛を受けて、眠って起きる。その繰り返し。

 たまに夢見は何かをするために部屋を出る。その間、夢見はあえて俺の拘束を完全に解いて出ていく。俺を逃がさない自信の表れか、なんにせよ夢見が居ない時間だけが唯一、俺が俺らしさを失わずに済む時間だった。

 

「……なぁ、綾瀬」

 

 今日もまた、夢見は外に出て行った。

 綾瀬の隣……固い床に座り、声をかける。綾瀬は瞬きや呼吸、口に入った物を飲み込む程度の反応は示すが、それだけ。俺の言葉にも、一言だって返さない。

 人形に独り言をするのと何も変わらない。心が死んで耳も機能しなくなったのだろうか……いや、もしかしたら聴こえてるのかもしれないが、俺の事を怒ってるかもしれないな。

 ここに来てからすぐに、俺は夢見に迫られて断れないまま、夢見と“一線”を越えた。それ以降何度も、俺は綾瀬の目の前で夢見と重なっている。綾瀬の意識が僅かでも残っていて、俺がしてることを認識できるのなら、俺の行動は裏切りと思われても言い訳のしようがない。

 

 それでも、俺は綾瀬に語り掛ける。それが自己満足の類であったとしても、綾瀬への想いだけは濁らずにいるのだと、彼女に伝えるため。

 ──同時に、それしかもう、俺の正気を保つ術は無いのだから。

 

「どうして、こうなっちゃったんだろうな。俺達ほんの少し前まで、普通に高校生してたのに」

 

 もっとも、もっと前までは全然普通じゃなかったんだけど。

 

「朝起きて、学園で会って、授業受けて、放課後に園芸部の活動して……悠と咲夜が言い合いしてるのを園子が宥めたり、渚がお前と嫁姑みたいなやり取りするのを俺が間に入って、逆にややこしくなったり……」

「──────」

「お前と恋人同士になるまで、凄く色々あってさ。でもいざ恋人同士になったら、今度はあっという間に滅茶苦茶にされたな」

「──────」

「俺、これから先も綾瀬と一緒に大人になってくんだと思ってた。渚や悠たちと笑ったり喧嘩したり、あわや別れる寸前の状況になって、それでもやっぱり仲直りするとか……」

 

 胸ポケットに入っていたリボン──ずいぶん前に、ナナから別れ際に貰ったものを指で転がしつつ、俺はもはや二度と現れる事のないifの未来を夢想する。

 高校を卒業して、大学に行って、就職して、いつか綾瀬にプロポーズして……そんな幸せな夢物語は、正真正銘夢の様な話になってしまった。

 今ここにあるのは、そしてこの先俺に待っているのは、二度と口を開く事のないだろう綾瀬の前で、夢見と共に生きる日々だけ。まだ非日常だが、それが時間の経つ毎に日常にさし変わっていき、いつか当たり前の様になる。

 そうなったら綾瀬への想いもまた、段々と薄れて行ってしまうのだろうか? 今はまだ大切な恋人でも、綾瀬を生きる上で単なる足かせや負債だと感じてしまう時が来るんだろうか? 

 

 考えていくうちに、段々の胸の奥から感情が込み上げていくのが分かった。

 

「……っ」

 

 いけない、この感情はこれ以上外に吐露しちゃダメなものだ。そう分かっていても、今日まで積み重なっていた精神的疲労で感情の抑えが効かない。

 綾瀬を好きじゃなくなってしまう、邪魔に感じて──いつしか夢見を心から受け入れてしまう時が来るかもしれない。否が応でも考えてしまう。

 

 “そんな事はありえない”と声高に断じる自分。

 “既にこうして心の片隅にその可能性を感じている時点で、もう自分は綾瀬を邪魔だと思い始めている証拠じゃないか”と反駁する自分。

 

 説得力を感じてしまうのは、よりにもよって後者の方だった。

 そんな自分を認めたくなくて──ついに、口からポロっとこぼれ落ちてきた。

 

「……こうなっちゃうんなら、恋人なんてならなきゃ良かったかもな」

 

 これまでの日々の否定。

 自分の人生の選択、積み上げた過去と築き上げた人間関係。それら全てを否定してしまう自暴自棄の奔流。

 殺されていった悠や渚の想いさえ、ともすれば踏みにじってしまうかもしれない、負の感情の坩堝(るつぼ)

 

「昔、泣いてる俺と出会わなきゃ……幼なじみなんかにならなきゃ、俺達が赤の他人だったら、少なくとも今お前はこんな場所で、こんな目に遭ってなかったのに」

 

 きっと意識があれば綾瀬が一番聞きたくないハズの言葉ばかりを、綾瀬の手を握りながら、半ば縋るような思いで口にしてしまった。

 

「ごめん……ごめんな、綾瀬ぇ……俺と一緒に居たせいで──俺が綾瀬を好きになったせいで、綾瀬の人生を何度も、何回も壊して」

 

 今回だけじゃない。俺が記憶してるだけでも2回──記憶していない繰り返しの中ではもっとたくさん、綾瀬を傷つけてしまった。

 綾瀬だけじゃない、渚も園子も繰り返しの中で命を落としている。俺が記憶していない中で皆が何度夢見を原因とした運命に殺されたのか、考えるだけで頭がどうにかなりそうだ。

 そして今、俺は綾瀬を死なせないためという名目で夢見と一緒に暮らす事を受け入れてるが、同時に綾瀬の人としての尊厳を跡形も無く蹂躙している。確かに綾瀬を死なせたくなくて夢見の執念に屈服した。でも、今の綾瀬は生きてると言えるのか? 心は死んで意思も無く、今後自由に動く事も叶わず、俺が居なきゃ食事も排泄の処理もできない──これが生きてるって言えるのか? 

 

 違う……こんなのは生きてるんじゃない。生かされてるだけだ。

 それも、他でもない俺の“綾瀬を死なせたくない”という一方的で自己満足な想いのために、綾瀬は生かされている。

 夢見が自分の恋心と幸せのためだけに皆を殺して俺を監禁した事と、何が違うだろうか。何も違わない、何も! 

 

 無理やりご飯を食べさせて、見られたくないだろう糞尿を晒され、俺と夢見の行為を見せつけられ──それでどうして生きてる方がマシと言えるだろうよ。下手に殺すよりよほど残酷な事を、俺は悪意無く今日まで続けている。俺は綾瀬を生かしてるんじゃない、殺し続けているんだ。

 そんなの、もう夢見となんら変わりゃしない。

 いいや、人を殺めずに綺麗な人間のつもりでいる分、俺の方がはるかに邪悪だ。よほど汚らわしい。自分が善だと微塵も疑わず、被害者意識に酔ってる加害者でしかない。綾瀬を恋人でも幼なじみでも無く、自分の心を満たすための玩具扱いしてるのだから。

 

 ──そんな俺が、自己満足では無い方法で今の綾瀬にできる事があるとすれば、なんだろう。

 ──答えは、思いのほかすんなりと出てきた。

 

 

 あるいは、心の奥底ではとっくにそうしたかったのかもしれない。

 

 

「なぁ、綾瀬。俺達ここで死ぬまで生きるくらいならさ」

 

 だから、ほんの数分前まで考えすらしなかった言葉を、ぽろっと口に出す。

 

「もう……終わりにするって言ったら、駄目かな」

 

 殺し続けた綾瀬を、今度こそ本当に殺す。この地獄でしかない空間と、俺みたいなクズを、綾瀬から切り離す。そうすればもう二度と、綾瀬が苦しむ事だけは無くなる。それだけが、綾瀬を人として扱う唯一の手段だ。

 綾瀬を殺して、俺も死ぬ。俺は死んだらまた巻き戻るのかもしれないけど、その時はもう、すぐに自殺しよう。そこからまた巻き戻ったら、また自殺する。そうやって巻き戻しが終わるまで──終わらなきゃ永遠に、俺は夢見どころか誰にも何もせずに死に続けるんだ。

 それが、綾瀬に犯した罪を……今日まで俺のせいで死んでしまった皆にできる、数少ない粛罪に違いないから。

 

「綾瀬、じゃあな……すぐに俺も死ぬから」

 

 そう言って、綾瀬の首にナナからもらったリボンを巻き付けた。

 まだほんの僅か自分に残る躊躇いを飲み込んで、リボンの端を掴む指に力を入れる。そして────、

 

「さようなら、大好きだよ、綾瀬」

 

 今生の別れになる言葉を手向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「駄目だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────ッッ!?」

 

 重力が真横に変わったのかと錯覚するほどの膂力で、俺は強引に綾瀬から引き離される。

 何が起きたのかという戸惑いは一瞬で、理解は瞬きより早かった。

 背中から床に落ちて視界の隅に映る、あけ放たれた扉。そして、自分と綾瀬の間に立つ夢見の後ろ姿。

 

 考えるまでも無い、いつの間にか帰ってきた夢見が俺を引きはがしたんだ。

 俺を掴んだだろう左手とは逆の右手には、どうやって入手したのかレトルト食品や野菜が詰まった袋を持っている。

 

「……もう、おにいちゃんったら。そろそろかな~とは思ってたけどさぁ」

 

 その声からは、思いのほか怒りの匂いは嗅ぎ取れなかった。未遂に済んだので問題と見てなかったのか。

 ……などと思っていた俺の甘い考えは、こちらを振り返った夢見の表情から瞬く間に雲散霧消する。

 

「本当……本当に、分かりやすいなぁ、おにいちゃんは。あたしがそんな勝手な事、させるワケないのに」

 

 そう話す夢見の表情は、朗らかな声色とは裏腹に、一切の感情を乗せていなかった。

 光彩の澱んだ瞳は、俺をジッと捉えて離さず、俺もまた目を逸らせなくなる。もしホンのわずかでも逸らせば──夢見に殺される、そんな確信がある。

 

「殺す? そんな事するわけないじゃない。やだなぁ」

 

 また俺の考えてる事を見破って、夢見は相も変わらず無色の瞳のまま、口元だけ笑みを形作る。

 

「……でも、反省はしてほしいかも」

「うっ……」

 

 言いながら俺の真正面まで近づいて、流れるような仕草で俺の足に足錠(レッグカフ)をかけて自由を奪い、倒れている俺の上に四つん這いになりながら、顔を鼻がこすれるほど近づける夢見。

 そのまま何も出来ないでいる俺の唇に、軽くキスをしてから、諭すように言った。

 

「おにいちゃん、ここで綾瀬を殺したら自分も死のうと思ったんでしょう? その後は巻き戻ったら……あたしに会う前に自殺でもする気だったかな?」

「……あぁ、そうだよ。そうすればもう、お前が皆を殺す理由も無くなるからな」

「やさしいなぁおにいちゃん。あたしのためにそんな事まで考えてくれるなんて」

 

 お前のためなワケが無いだろう。と否定するのは無駄な事だと、いい加減俺も理解している。

 

「でもね、おにいちゃんはそれで良いかもしれないけど、残された皆はどうなると思う?」

「残された……?」

「あ、おにいちゃんの視点だと死んだらそれっきりだもんね、分からないか……」

 

 にわかに、嫌な仮定が頭の中に浮かび上がる。

 まさか──俺が死んだ後も、その世界は続いている? 

 

「正解~! 当然、おにいちゃんが死んでも世界が消えてなくなるなんてありえないよ~! おにいちゃんの意識は元に戻るけど、生きてる皆はそのままだよ!」

「じゃ……じゃあ、お前も今まで何回も?」

「うん! ……あっ、そう言えばこういう話ってまだあんまりして無かったかも。失敗した~」

 

 今ここに居る夢見は、何度が巻き戻るそのたびに俺を逃し続けてきた過去(正しくは違うが敢えてこの表現を使わせてもらう)夢見たちの執念によって、巻き戻りが起きてる事を認知している夢見だと聞いた。

 同時に、過去の夢見たちがどう過ごしてきたのかも、記憶していると。その記憶は俺が巻き戻った回数と同じであり、更に俺には自分自身が覚えていない巻き戻りもあったという。

 その中には、俺の記憶にある様な車に轢かれて死んだり、ナナやノノに殺されるってパターンもあるが、死なずに済んだパターンもあったに違いない。その何十年にもわたる人生の記憶を、全部夢見は覚えているのか? 

 

「流石に全部は覚えきれないよ、やだなぁ。……あっでも、おにいちゃんとの時間は全部全部ぜ──んぶ、覚えてるからね」

「……っ」

 

 つまり、この夢見は肉体こそ俺より年下でも、精神はもう遠いご先祖様レベルで年上って事だ。

 そんなに長い時間の記憶を保持していながら、夢見はずっと俺を想い続けて、今日まで生きてきたのか。

 苦しい時に、俺に出会って、俺との思い出に救われたから──ただそれだけのキッカケで。

 

「あたしの愛の深さ、分かってくれた? 嬉しい……またお互いを理解できたね! ……でも、今言いたいのは違うよおにいちゃん。話を本筋に戻しまーす」

 

 そう言って体を倒れこませて、俺の上に犬や猫の様に上からもたれかかる。抱きしめ合う様な格好になるが拒絶する余裕なんてあるワケも無い。

 

「んん──、数時間ぶりに嗅ぐおにいちゃんの匂い……サイッコー!」

 

 本筋に戻すと言いつつ、鼻を俺の胸板に押し付けて、しばらくの間もぞもぞとじゃれついた後に、夢見はようやく話を続けた。

 

「……おにいちゃんが自殺して巻き戻っても、周りの皆は巻き戻らない。するとどうなっちゃうと思う? 周りからは急に命を絶った様にしか見えないの。渚ちゃんも、叔母さんやおじさん、まだ生きてる綾瀬や他の全員──おにいちゃんが急に自殺して物凄く悲しむ事になるんだよ? ……それでも、良いの?」

「良いわけ無い! ……最悪だ、そんなの」

 

 思わず駆け引きも躊躇いも全く考慮せずに、夢見に思ったまんまの言葉で返してしまう。

 だけども、確かにそれ以外の答えは無いのだし、仕方ない事でもある。

 

 俺が死ねば、俺にとっては時間が巻き戻るけども、周りの人物はそのままの時間を生きていく。そんな事を言われたらもう、仮にこれが夢見の嘘だとしても安易に自殺なんて出来ない。

 本当の話だった場合、俺はそれこそ能動的に渚や綾瀬達はもちろんのこと、両親までも悲しませる事になる。それを何度も繰り返したら、もはや俺は周りを苦しめるためだけに自殺する狂人でしか無い。

 

 なんて事だろう。巻き戻り後は皆が夢見に殺されないために自殺を考えてるのに、それでも今度は俺のせいで皆を……こんなのどうすれば良い? どうすれば少しでもマシな結果に辿り着けるんだよ。

 

「答えは簡単だよ、おにいちゃん」

「簡単?」

「うん、このまま何も変わらずに、あたしと暮らせば良いの」

「それの、何処が……」

 

 それが嫌だから足掻こうとしてたんじゃないか、それが嫌だから綾瀬も自分もまとめて死のうとしたんだ。

 もはや俺を煽ってるとしか思えない。──そう考えている事は当然夢見に筒抜けだろう。

 そして、俺がそのように考える事それ自体も。それを証明するかのように、夢見はクスクスと笑う。

 

「巻き戻っても、あたしは諦めないよ? そしたらおにいちゃんの周りにいる邪魔な女どもは当然、またあたしに殺されちゃう。今度はあの金髪お嬢様から殺すかな。そうすればあの双子も出てこないだろうし」

 

 ──でも、と一旦言葉を区切って一呼吸置く夢見。

 

「おにいちゃんがここに居続ければ、あたしはもう誰も殺さないよ? まだ邪魔な奴は残ってるけど……あいつらが此処を見つけるなんて無理だもの」

「…………っ」

 

 その通りだから、もう何も言えない。咲夜が綾小路の当主に守られている状況で、夢見を探すための人員なんて回せるわけもない。父さんや母さんは今頃失踪した俺を探してくれてるだろうが、あてにはならない。

 誰も自分達を見つけられないというなら、わざわざ自分から姿を見せる事はしない。夢見はそう言っているんだ。

 

「だから、おにいちゃんはもうあたしを受け入れるべきなの。巻き戻って自殺して、皆を傷つける事より、もうこれ以上誰も傷つける事のない、あたしが誰も殺そうとしない、この世界で生きる。素敵でしょ?」

 

 ……本当にそっちの方が良い気がしてきた。

 ──なんて思うワケがねえだろ。

 

 確かに夢見を受け入れるって言うのは、悠を殺して、渚を殺して、綾瀬を廃人にして、巻き戻る前は園子すら手に掛けた女を受け入れるって意味で──それら全てを水に流すのと同義だ。

 ──冗談じゃない、反吐が出る。

 

 普通だったらあり得ない。でも、今俺が置かれてる状況は普通とは程遠い。そもそもの話、夢見から提案を受けている体ではあるが、俺に本当の意味での選択肢なんて無い。

 ──受け入れるなんて選択肢はそもそも無い。

 

 だいたい、俺が“普通”だった時なんてあっただろうか。前世の記憶を思い出して以降、ヤンデレの女の子達に殺されないよう日々を生きて、悪質ないじめや学園を巻き込んだお家騒動、一触即発の恋愛に、ストーカーヤンデレ従妹による皆殺しと監禁。これだけ異常な出来事ばかり続いたのに、今更俺に“普通だったら”なんて尺度を求めるのがおかしいだろう。

 ──その“異常”な日々の中にこそ、野々原縁は幸せを求めて、だから今日まで生きてきたんだろう? 

 

 その点、夢見を受け入れてしまえば、もう俺はそんな日々から解放される事になる。夢見もヤンデレだけど俺を好きな気持ちは本物で純粋だし、料理は上手だし、声もどことなく綾瀬と似ている。俺が変な事をしなければ、これ以上誰も殺さないとすら言ってる。園子達の心配をする必要も無くなるんだから、楽になれる事の方がはるかに多い。

 ──それは同時に、野々原縁が己が持つすべてを投げ捨てるという事。

 

 それで良いのか? 確かに巻き戻ったとしても夢見はまた渚や綾瀬を殺そうとするだろう。でも、それだからって今お前が夢見を受け入れたら、たとえ何度巻き戻っても、来世に生まれ変わったとしても、二度と拭えない後悔になってしまうんだぞ? 

 本当に、お前はそれで良いのか? 

 

「……あぁ、そうだな」

 

 既に十分苦しいこの状況で、今よりもっと楽になれるのなら、意地を張る必要なんて無いんだ。

 

「そうだなって言う事は……おにいちゃん、やっと分かってくれたのね?」

「あぁ。決めたよ。もう」

「本当!? 良かったぁ~もしこれでも分かってくれなかったら、さすがにおにいちゃんでもちょっとやり方変えなきゃいけないと思ってたから」

 

 心底嬉しそうにそう語りながら、抱き枕の様に俺に抱き着く夢見。そんな夢見に俺は頼みごとをする。

 

「なぁ夢見、できればこの足の足錠(やつ)、外してくれないかな。もう良いだろ?」

「あ……うーん」

 

 俺が足をぴょこぴょこさせながらそう言うと、夢見は俺の目をじぃ~~っと見つめた後、にっこりと笑いながら答えた。

 

「分かった、確かにこれからは本格的に一緒に暮らすんだもんね。本当はあたしもおにいちゃんにこんなの付けたくなかったし、外すね!」

 

 そう言って、ポケットからジャラジャラと音を立てる鍵束を取り出すと、簡単に足錠を外してくれた。今までは外した後すぐに左右どちらかの足に噛ませていたが、今回は完全に取り外してもらい本当の意味で拘束が解かれた形になる。

 

「ありがとう、夢見。これでやっと足から金属の感触が無くなってくれたよ」

「ううん、あたしの方こそごめんね、今まで嫌な思いさせて……」

「とりあえず、起き上がろうよ」

「うん!」

 

 2人そろって起き上がり、服のしわを伸ばしたりしながら、俺は夢見の持っている鍵束を見ながら言った。

 

「それにしても、かなりの数だな、その鍵」

「あ、これ? うん、無くしちゃったら大変だから、全部まとめて持つことにしてるの。地味に重くて大変だけどね。でもこれからはおにいちゃんの分の鍵は要らなくなるから、少しは楽になるね!」

「確かに。もう使わないからな」

「これからはこんな物使わなくても一緒に暮らせるんだね……幸せ。もうあたしとおにいちゃんを邪魔するモノは何も無いんだ。これからずっと一緒に居ようね、おにいちゃん」

「……なぁ、夢見」

「なに?」

「お前と一緒にここで暮らせば、俺はもう苦しまなくて済むんだよな?」

「そうだよ、この小さな、嫌な事がなぁんにも無い世界の中で暮らせば、おにいちゃんは何も困る事なんて無いんだから」

「そうか……そりゃあ、凄い楽だな」

 

 はぁ、と息を吐いて。俺はこれから先自分が迎える事になる日々に想いを馳せる。夢見が言うように、誰も見つける事の出来ないこの鳥籠の様な世界に居れば、俺は一生気を患う必要も無くなる。夢見を受け入れた事で何もかもが楽になるんだ。

 それは──本当に素敵な話だと思う。

 

「夢見、ちょっとクイズだ」

「クイズ? お題はなに?」

「お題はオレだ。目を見るだけで何を考えてるか分かっちゃう夢見には簡単なお題だろ?」

「あ~さっそくあたしの愛を試そうって魂胆だ、おにいちゃんったら~試す男は嫌われちゃうよ?」

「そういう話も聞くけど、夢見は試すタイプの男は嫌いか?」

「おにいちゃんならどんなタイプでもOKです……なんて!」

「ははは、それじゃあ行くぞ。ズバリ、今オレは何を考えているでしょう?」

 

 そう言って、俺は夢見の目に左の手のひらを被せて、俺の目を見せないようにする。

 得意の読心術が使えない事に夢見は軽く文句を言いつつも、素直に自分の勘だけで応えようとする。

 その健気な仕草に、クスっと笑うそぶりをしながら、俺はあまり間を置かず回答を伝える。

 

「正解を言うぞ」

「え~まだ早くない?」

「駄目だ。俺が好きなら即答してくれなきゃなぁ。次に期待だ」

「うん……分かった。答えは何?」

「答えは……」

 

 

──ここで楽になってしまうくらいなら、死んだ方が600倍マシだ! 

 

 

「──こうだよ!!」

 

 言葉では無く空いた右の拳で、耳朶ではなく頬に、俺は“答え”を告げた。

 油断しきって吹き飛ぶ夢見。手からこぼれ落ちる鍵束。俺を引きはがす事に夢中で開きっぱなしの扉。

 躊躇う必要なんて、何処にも無い。

 

 鳥籠から逃れる、最初で最後のチャンスが訪れた。

 

 

 ──to be continued



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12病 『大好き』

 瞬間、夢見は自分の身に何が起きたのかを理解できなかった。

 本来、縁が自分の視界を塞ぐ仕草をした時に何か狙っているのなら、夢見はすぐ把握して対処する事が出来た。縁を愛している夢見は、彼が何を考えて、何を行おうとしてるかは自分の事よりも分かるから

 にもかかわらず、夢見は自分を殴り飛ばす縁の行動を、その意思を、全てが完了したその後にしか把握できなかった。

 彼が自分に対してこれ程まで強烈で明確な敵意を抱き、それを行動で表そうとしたのに、まるで急に別人が乗り移ったかのように全く感じ取れなかった。

 

 だが、それはある意味当然ともいえる事だと、夢見は知らない。知る由も無い。

 今回と、縁が記憶している2回、それらを含めた夢見が記憶している全37563回の繰り返しの中で、彼女は一度も縁から聞いた事が無かったのだから。

 

 野々原縁の意識の中に、全く別の人間の人格が潜んで居た事を。

 

 これは同じく夢見が知り得ない過去だが、今起きた事と似通った話が、今年の6月にもあった。

 野々原縁はとあるキッカケから、この世界の頸城縁が生まれ育ち死んだ街へ赴き、そこで頸城縁の幼なじみと親友に出会った。

 

 亡くなった頸城縁に対して、自責の念を強く持っていた2人。頸城縁の意識は後悔してほしく無いと強く願う意一方で、自分はあくまでもこの世界の頸城縁ではない事を理由に、その気持ちをぶつける事に躊躇いを持った。

 大切な幼なじみを突き放して、死ぬ原因を作った自分。対して、文字通り命を懸けて幼なじみを守ったこの世界の頸城縁。

 たとえ同じ頸城縁の心を持っていたとしても、全く違う結果を生み出した彼の代わりに2人へ言葉を掛ける行為に、烏滸がましさを感じたのだ。

 

 しかし、それに待ったをかけたのが、野々原縁の意識だった。

 黙って2人の前から去りたかっていた頸城縁の意識に真っ向から反対し、野々原縁の意識は2人に自分の声を届けるべきだと働きかけた。

 その結果どうなったのかは、今更語る事では無いが──。

 

 今、この場で起きたのはその時とよく似ている。

 同時に全く逆の事象とも言えた。

 

 野々原縁は小鳥遊夢見の執念に敗れ、諦め、夢見の提供するすべてを受け入れようとした。確かに野々原縁1人ではもうどうしようもなく、夢見に屈服する以外は道が無い。

 そんな彼に、頸城縁の意識が強烈な待ったをかけたのだ。

 

 それは、野々原縁自身にとっても、思いがけない出来事だった。

 先述の6月に別世界とは言え未練を持っていたかつての幼なじみと親友達に別れを告げて、一夏の泡沫に誰の記憶にも残らない恋を交わし、ヤンデレCDの知識も要らなくなっていく中、頸城縁の意識は知らず知らずのうちに薄れたはずだった。

 だがそれは大きな誤認。確かに4月当初の様に、両者の意識がない交ぜになる事は無くなっていたものの、彼の意識は決して薄れる事なく、野々原縁の中に残っていた。

 そんな彼だからこそ、疲弊して弱まっていく野々原縁の意識の奥底から、夢見がもたらすモノ全てに絶対的な拒絶を示して見せた。

 

 常に野々原縁の側で共に喜び、怒り、哀しみ、苦楽を共にした──いわば野々原縁という物語の読者であり視聴者であり当事者であり続けた彼は、野々原縁が諦める事を決して許さなかった。

 言ってしまえば、頸城縁にとって小鳥遊夢見などどうでも良かった。

 確かに過去は悲惨だろう。寝てる間に義父に襲われ処女を失う所か実母に殺されかけるなんて、自殺したっておかしくない。

 

だが、知った事か。

 

 辛い日々の中で、唯一自分に暖かくて居心地がよく、優しい時間をくれた野々原縁に恋をするのも自然な話だろう。そんな彼との思い出に縋り、辛い現実を生きるよすがにするのも仕方ない。

 

だが、知った事か。

 

 野々原縁をストーカーしたのは、母親の再婚が発覚する前の話だ。

 破格の譲歩を見せた綾小路悠に対して、殺意を抱いたのもそうだ。

 表面上は仲の良いふりをして、野々原渚や河本綾瀬を邪魔に思っていたのもそうだ。

 

 確かに義父に凌辱された過去は大きいだろう、実母に言われた言葉も大きなキッカケに違いない。

 

だが、知った事か。

 

 頸城縁は思う。

 綾小路悠は良い奴だった。金持ちの息子というのが過去のトラウマに直結したが、優しく、気立てもノリも良く。いつだって自分や野々原縁には無い視点を提供してくれた、唯一無二で最高の友人。

 河本綾瀬はまっすぐな女だった。情緒の揺れや感情の乱れがあっても、それらは全て野々原縁を想う心から生じるもの。縁以外の人たちとのかかわりを経て知らず知らずのうちに成長し、殺人という一線を越えなかった最愛の恋人。

 野々原渚は──愛の深い人だった。きっかけは寂しさを埋めるための依存。しかしその事実を認め、飲み込み、改めて兄を見つめ直して本当の意味で愛を得た。

 頸城縁がこの世界で最も驚いた出来事の一つが、野々原渚の成長だ。恋人にはなれなかったが、間違いなくこの世界で一番野々原渚を分かっているのは渚だったに違いない。

 

 そんな3人を──いや、3人に飽き足らず場合によっては園子や他の皆も、夢見は自分の望みを叶える為だけに殺した。

 何度も、何度も何度も何度も、何度も

 その挙句に、自分を受け入れて一生一緒に暮らそうだと? 

 

ふざけるな! 

 

 過去が過酷だろうと、野々原縁への想いが本物だろうと、そんな事は知った事じゃあない。夢見は野々原縁が必死に作り上げた今を、何もかもぶち壊した。夢見にとってはカスの様なものでも、野々原縁にとっては宝石すら霞む幸せの権化だった。それらを踏みにじられて、夢見を受け入れるなんてのは、人間の尊厳を徹底的にぶち壊す行動に他ならない。

 そして、頸城縁にとってはそれこそが最も何よりも、受け入れがたい事だ。

 何故ならば彼の人生こそまさに、そうやって踏みにじる人間によって大切な人も時間もぶち壊された人生だったのだから。

 

 だから、野々原縁がくじけたのなら、代わりにオレが動いてやる。オレがあいつに言ってやる。

 誰が──────、

 

「誰がお前なんかを好きになるもんか! 一生鋏でオナってろこのサイコ女!」

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 言った、言った。内なる衝動──頸城縁の怒りに任せて、今まで言えなかった事を言ってしまった! 

 だけど後悔は無い、あるワケない。そもそもそんな余裕はない! 

 

「──っ!」

 

 殴り飛ばされた夢見は壁に衝突して動かない。気絶してるのか痛みに悶えてるのかは知らないが、とにかくい俺は夢見が手から落とした鍵束を急いで拾い、綾瀬のもとへ駆け寄った。

 扉は空いている、この建物の構造は分からないけど、この世に出入り口が無い建物なんか存在しない。ここから逃げるチャンスは今しか無いんだ! 

 

「どれだ、どれが鍵なんだ……」

 

 綾瀬の両腕と胴体につけられた拘束具の鍵穴に合った鍵が分からず、焦って冷静さが失いそうになる。

 落ち着け、と心中で呟けば呟くほど心が逸るから、とにかく無心になって鍵穴に鍵を差し込む動きを繰り返す。

 ものの数秒の話かもしれないが、体感時間では2分も3分も経ったように感じたその時、何本目かの鍵が穴の中でカチリ、という音と共に回った。

 

「よし、よしよしよしっ!」

 

 ようやく正しい組み合わせに巡り会えた自分を褒める。するとさっきのでスイッチが切り替わったかのように、残る鍵穴にも次々と正しい鍵が一発で入り始めた。

 瞬く間に綾瀬の拘束が外されていき、俺は綾瀬を椅子から持ち上げる事に成功する。

 

「──クソッ!」

 

 抱きかかえた綾瀬は、信じられないほど軽かった。必要最低限の食事しか与えられていなかったのもあるが、何よりも両膝から下が無い事が大きい。

 

「待たせてごめんな綾瀬、行こう、こんなクソみたいな場所さっさと出よう!」

「……」

 

 抱きかかえて語り掛けても、やはり綾瀬は何も反応を示さない。今この瞬間、逃げるチャンスだという認識も無いだろう。

 ひょっとしたら本当に、この後無事に逃げおおせても、綾瀬の心が戻る事は無いかもしれない。だとしても、ここに居る限りはそれこそ永遠に可能性は0のまま。躊躇う理由なんて微塵も無い。

 幸い夢見はまだ倒れたまま。瞬きする間も惜しい、自分に今一回喝を入れて、数日間俺達を閉じ込めた部屋を出る。

 

 扉の外はどんな迷宮になっているのかと思ったが、意外にもシンプルなモノだった。

 積み上げられて放置された木製のパレット。規則正しく立ち並ぶ柱。天井を所狭しに這う大小さまざまなパイプ。そして何かをプレスするために使われてただろう、大型の機械。

 それらの情報から、ここが廃工場であり、先ほどまで閉じ込められてたあの部屋はこの廃工場の最奥にある一室だと推察できる。

 そして、そんな広々とした空間の先に、シャッターに閉じられてる出入り口が見えた。完全には閉まっておらず、大型トラック一台が通れる程度に開かれている。

 出口から差し込む陽光は、神様が差し伸べてくれた救いの手にも見えた。

 

「綾瀬、もうすぐ出られるからな」

 

 抱きかかえてる綾瀬をより走りやすくするため、背中におんぶする。

 背中にかかる体重の軽さで何度目かの胸の痛みを感じつつ、俺は足に力を入れて出口まで駆ける──のだが、

 

「はぁ、はぁ……っ!」

 

 長い間狭い部屋に閉じ込められて、ロクに体を動かせていなかったせいもあってか、綾瀬は軽いのに足が重い。

 認めたくないが、もう体力が尽きようとしている。

 

「冗談じゃない、あと少しなんだぞ、ここにきて!」

 

 水中で走る時の様な、夢の中でうまく走れない時の様な、本来の自分の脚力から見れば驚くほどふがいの無い脚力にもどかしさすら覚える。

 もう出口は見えてるのに、足はもう走る事を拒否している。歩くのさえ精一杯で、気を抜いたら転んでしまいそうなほどだ。

 

「あぁクソ! 情けない事言ってんじゃねえよ!!」

 

 情けない自分への怒りを口に出して、無理やり鼓舞していく。

 

「ダラダラ歩いてみろ、俺が俺を殺してやるからな」

 

 何ならさっきまで綾瀬と心中考えてたくらいだ。今の俺は人生で一番自殺に躊躇の無い状態なんだからな。

 などとまぁ、気休めにもならない脅しをセルフでやったのが功を奏したのか、尿酸のたまったふくらはぎの重さが心なしか軽くなり、駆け足程度はこなせるようになる。

 

「もう少しだ、もう少しでここを出られるからな綾瀬」

「……」

「ここを出たらすぐに人のいる場所に行こう、そしたら助かるよ。また良舟町に戻れるんだ」

「…………」

「まずは病院だけどな。こんな埃臭い場所じゃなく清潔な病院でちゃんと治療してもらおうな。脚だってきっと、咲夜がピッタリな義足を用意してくれるはずさ、お願いしたら」

「………………っ」

 

 徐々に、しかし確実に出口が近づいていく。同時に薄ぼんやりとしていた『希望』という言葉がはっきり現実味を帯びてきた、その矢先。

 突如『ビー』という機械音と共にシャッターが動き始めた。

 どうして、なんで考えるまでも無い。歩みはそのままに後ろを振り向くと、やはり夢見が部屋の扉の前に立っていた。

 

「おにいちゃんったら……そんなの背負ったまま逃げられるわけないじゃない」

 

 距離があるのに、まるですぐそばで話しているかと錯覚するほど、夢見の言葉が耳に響く。

 右手にはあの鋏を持ち、左手は壁に手を付けて──いや、俺が部屋から逃げ出す時に気づかなかったが、壁に何か設置されている。恐らくそこに出入り口のシャッターを開閉させるスイッチがあるんだろう。

 

「シャッターが閉まる前に出られるかな? それとも……あたしに追いつかれてお終いかなぁ!? あははははははは!!」

 

 悪鬼の様な笑い声をけたたましく響かせながら、夢見も俺に向かってくる。

 

「急げ、急げ急げ間に合え……っ!」

 

 シャッターの閉まる速さは緩やかだが、駆け足のペースでは到底間に合わない。それどころか手ぶらな分夢見に追いつかれるのが関の山。

 冗談じゃない! ここまで来て出られなかったら、死んでも死に切れるもんか! 

 筋肉がズタズタになるのも構わずに、無理やり走る。この後の疲労なんてはまず後回し、シャッターが閉まる前に出たらむしろ夢見の追跡が遅くなるんだ、絶対に間に合え! 

 

「──ッッッ!!」

 

 こういう時、映画や漫画なら『うおおおおおお!!!』なんて絶叫しながら走るんだろうけど、実際に同じシチュエーションになると何も声なんて出せやしない。声を出すのに使うエネルギーも全部走りに回して、とうとうあと数秒で出口を抜けられる距離まで詰めた。

 シャッターが閉まり切るまでギリギリだが、俺が出た後じゃ夢見はシャッターに間に合わないはず。

 肺から吐き出る空気は血の味がするし、心臓も締め付けられる様に苦しいけど、夢見はまだ追いついて無い。出られるんだ間に合うぞ! 

 

「やったぞ綾瀬、俺たちの──」

 

 遂に出口が目と鼻の距離になり、あと一歩で出られる……その一歩を踏み込もうとした右足のふくらはぎに、激痛が走った。

 攣ったのかと一瞬思ったが、そんな痛みじゃ無い。まるで何かが刺さった様な──、

 

「ぐぅ、あぁあああ……っ!」

 

 既に限界を超えていた身体が、そんな痛みに耐えられるわけもない。

 張り詰めていた糸が切れて、バランスを失った人形の様に俺は前のめりに倒れてしまう。咄嗟に出来たのは、背負ってる綾瀬を地面にぶつけない様に転びながら抱きかかえる事だけだった。

 

「〜〜〜!!!」

 

 右手で綾瀬を抱きしめて、左手で受身を取ろうとしたが、無理な動きだったため思い切り捻ってしまう。

 それでもすぐに立ち上がろうと足に力を入れたら、右足のつま先が何かで滑ってしまい、うまく立ち上がれない。

 

「何がなんだって……うっ、嘘だろおい」

 

 足元を見て、自分の身に何が起きてるのかをようやく完全に理解する。

 

「あははは、あたしダーツも得意なのかも!」

 

 高笑いしながらこちらに追い付かんとする夢見……が手に持っていたハズの鋏、それが深々と突き刺さっていた。転んだ原因は、自分の足から流れる血で滑ったからだった。

 嘘みたいな話だけど夢見は走りながら鋏を投擲して、まだ距離があるってのに器用に俺の足に命中させたんだ。馬鹿じゃねえのか、ヤンデレだったら何でもできるのか? 

 あまりにも理不尽な攻撃に怒りすら覚えてきた。よくもここまで踏んだり蹴ったりな状況に陥る事が出来るもんだよ! 

 

 だがそれ以上にマズいのは俺の転んだ位置。勢いよくすっ転んだのもあって、シャッターが閉まる真下にいる。このままじゃ上から押しつぶされて、俺も綾瀬もまとめて真っ二つになっちまう。

 それでも夢見に捕まるよりはまだマシかもしれないけど、目糞鼻糞を笑うって奴だよ! 

 

「クッソォォォ……痛いぃぃ」

 

 捻って手首を曲げようとするだけでも激痛が走る左手で、右足に刺さった鋏に手を掛ける。それだって地獄の様に苦しいけど、涙をボタボタ零しながら何とか抜き取る事ができた。

 そのまま鋏はぶん投げて、俺は勢いのままに再度両足に力を込めて立ちあがる。

 満身創痍なんて言葉がピッタリのザマだけど、構いやしない。前世の俺(頸城縁)が死ぬときなんかは全身骨折やら殴打されたうえに頭からもダボダボに出血してたんだ、これくらいは間接的に経験済みだ。

 

「逃げるんだ、綾瀬とここを出てやるんだ、諦めっかっての!」

 

 右足を半ばすり足の様に引きずり、真上から迫るシャッターの圧を感じつつも、遂に廃工場の外へ出る事に成功した。

 やったぞ! という達成感に身も心もゆだねたい衝動を即座に押し殺して、背後を振り返る。そこには、

 

「凄いねおにいちゃん。でも駄目だよ」

 

 閉まりつつあるシャッターの隙間から、こちらを覗く夢見の瞳があった。

 直後に『ガン!』という音を立てながら、夢見の腕がシャッターから伸びる。

 まさか……もうシャッターは人ひとり這っても出られないほどに狭まってるのに、まさかコイツ出るつもりなのか!? 

 

「嘘だろ馬鹿、やめとけって……マジで」

「逃がさない、離さないんだか……らぁ……っ!!」

 

 そこからはまるで、ホラー映画に出てくる怨霊でも見ている気分だった。

 シャッターは閉まっていくというのに、夢見は固く重い金属のカーテンが自分の背骨や手足を圧し潰そうとするのをまるで意に介さず、僅かな隙間から『ゴキッボキッ』と音を立てて外に這い出てくる。

 俺を追いかけるためにシャッターを上げるんじゃなく、無理やりでも隙間から抜け出そうとするなんて、いくらヤンデレだと言っても自分の命をどう思ってるんだコイツは? 

 

「はは……あははは、おにいちゃんに追いついたぁ」

「……っ」

 

 立ち上がってそう呟く夢見の姿は、数秒前までとは別人の様だった。

 額や腕からは赤黒い血が滴り、最後出るのに手こずったせいでまともに押しつぶされた左足はハッキリと折れている。背骨も折れたか損傷してるんだろう、明らかに歪な立ち姿になっている。

 右手にはさっき俺が刺されて投げ捨てたハズの鋏をしっかり握っていて、腕から流れ落ちる自分の血で真っ赤だ。

 ふらふらと揺れる姿は、もはや怨霊ではなくゾンビだ。……それなのに、今なら俺の方が身体が動くはずなのに、まるで夢見に敵う気がしない。

 

 ──などと、怖気ついてしまってたのがマズかった。

 

「なぁにぼうっとしてるのかーなぁ!?」

「ッ!? ヤベェ!!」

 

 フラフラから急に身を屈んで、勢いよく右手の鋏で切りかかってくる夢見。『ヤベェ』じゃない、完全にアウトだった。

 咄嗟に半歩後ろに下がったのと同時に、鋏が右目を縦一文字に走る。直後、間欠泉の様に噴き出す血潮。

 

「うあああああ!?」

「えっへへへ、右目使い物にならなくなっちゃったね、おにいちゃん!」

 

 今までとはまた異なる痛みで悶える俺を、心底愉快そうに笑う夢見。

 

「痛い? 苦しい? 嫌だよねぇ、こんな目に遭うなんて。でもおにいちゃんが悪いんだよ? あたしの事拒絶して、そんな女と出て行こうとするから──それにぃ!」

「ぅ、ぁ! ……ぁぁあぁ……っ」

 

 腹部に衝撃が来たと思ったら、それが冷たさに変わり、瞬時に熱さを伴った激痛へと切り替わる。目まぐるしく変化する感覚の正体が何かなんて今更考える必要もない。

 “避けなきゃ”と思う暇もない程の、とても足が折れてるとは思えない俊敏さで、夢見が俺の腹に鋏を突き刺した。

 もはや立ってられるワケも無い。綾瀬を抱きかかえ続ける力も無い。俺はその場に膝から崩れ落ちる。今度はもう流石に、立ちあがれる気がしない。

 

「それにあたし、おにいちゃんを傷つけるつもりは無かったけど……おにいちゃんの苦しんでる姿を見るのも、結構好きかも」

「……イカレ女郎(めろう)

「きゃ~お腹に穴空いたのにまだそんな事言えるおにいちゃんカッコいいー! ……でもぉ」

 

 言葉を途中で止めて、夢見は倒れこんだ俺を無理やり仰向けにして、股の上に腰を落とす。

 

「こうしてるとシてる時みたいだね……もっとも、今回はあたしがおにいちゃんに入れる側だけどぉ!」

「──ッッッ!!!!!!」

 

 そう言って、夢見は更に俺の腹部に鋏を突き刺す。

 何度も、何度も。

 意識が遠のきそうになるたびに、別の痛みのせいで現実に引き戻される。

 

「安心、してぇ! ちゃんと致命傷になる所は避けてる、からぁ! こうして痛い想いしたら、きっと分かってくれるよね!? お外の世界は、怖い物しか無いんだって! 怖くないのはあたしだけなんだって!!!!!」

 

 痛みでもだえ苦しむ力も枯渇しきった。致命傷にならないなんて大嘘つくな。

 ハチの巣みたいに穴だらけにして、死なないわけが無いだろう。

 なんなら、痛いという感覚さえもう無くなってきた。意識すらもだ。

 

 朧げになった意識の中で、想い起すのは頸城縁が死ぬ時の情景。

 頸城縁も、全身ズタボロで仰向けになって死んだ。今の俺みたいに鋏じゃないけど、大嫌いな雨に打ち付けられながら死んだんだっけな。

 ……ごめんな、頸城縁(オレ)。せっかく夢見に立ち向かう勇気をくれたのに、せっかく逃げ出すチャンスを掴んだのに、全部パァになってしまった。

 

「そろそろ気絶しちゃうかなぁ、それじゃあ最後に、もう一回だけ思いっきりぶしゃ────―! ってやっちゃおうかなぁ!!」

 

 そう言って、夢見は鋏を両手で持ちながら高く高く構えて、

 

「目が覚めたらまたあの部屋で会おうね、あは、あはは、あっははははは!!」

 

 嗤い声を狂い咲かせながら、渾身の力で振り下ろした。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……?」

 

 瞳を閉じて、夢見のなすがままで居ると、何かが頬に当たる感覚がした。

 

「……なに、してんの」

 

 ぼうっとした頭の中に、夢見の震えた声が聴こえてくる。

 何が起こったのか、血の足りなくなった頭では想像するのも難しい。

 そう言えば鋏が自分の身体を貫く感覚も無い。

 

「……?」

 

 理解も把握もできない俺の頬に、また何かがぽつぽつと当たる。ひょっとして雨だろうか、頸城縁の事を想い返したら都合よく降ってきたのかもしれない。

 とにかく、頑張って瞼を開けてみよう。

 そう思って、うっすらと開かせた瞼の合間から、瞳に映ったモノを認識した瞬間──途絶えそうだった意識が強制的に覚醒した。

 

 頬に当たっていたのは、雨では無く血。

 

 夢見の振り下ろした鋏から、俺を庇って代わりに刺された──綾瀬から滴り落ちる血だった。

 

「──綾瀬!? 何で……何してっ!?」

 

 膝から下が無い足と腕で、俺と夢見の間に挟まるように四つん這いになって、俺を見下ろしていた。

 それはあらゆる意味であり得ない事のはずだった。こんな状況で間に入ったら、夢見の怒りを買うだけというのはもちろんだが、綾瀬が動ける事それ自体が信じられないからだ。

 俺が来る前に既に拷問を受けていた綾瀬は、何度も言うように心が死に切っていた。俺が夢見の望むまましていても、あんなに嫉妬深かったハズの綾瀬はまるで動かなかった。俺が食事を与えても、声をかけても、心中のためにナナから貰ったリボンで絞殺しようとしても、ピクリともしなかったのに! 

 そんな綾瀬が今、俺を庇うように──いいや違う、正真正銘、俺を守ろうと無理やり体を動かして、代わりに鋏に刺されている。

 

「駄目だ、どけろ綾瀬、殺されちゃうよお前が!」

「退きなさいよクソ虫が! あたしとおにいちゃんの間に入るなぁあ!」

 

 奇しくも同じ言葉を、まるで逆の意味で言い放つ俺と夢見。

 しかし、綾瀬は決して退こうとしない。無理やり退かせたいけど、腕に力が入らず押しのける事が出来ない。

 

「邪魔だって言ってんでしょ、分かんないならもう死になさいよ!!!」

 

 夢見が怒りに任せて鋏を振り下ろすのが音で分かる。

 それも、先ほど俺に対してしたのとは比べ物にならない殺意で。

 同時に、ろうそくの様だった綾瀬の命が一気に消えていくのを感じる。間違いない、もう今更綾瀬を退かせたって、とっくに助かりはしない。

 それでも、綾瀬は決して俺に鋏が振り下ろされないようにと、俺を庇い続けている。

 

「だめだ、止めてくれ、綾瀬……」

 

 もう助からないと知ってても、それでもこんな死に方は嫌だ。

 今までだって、何度も何度も綾瀬を失った。悠も渚も園子も殺された。

 でも、だからってそれで心が慣れるわけない、馴染むハズもない。

 まして、こんな風に目の前で俺を庇ったために死んでいくなんて、耐えられるわけが無い! 

 

「止めて……やめてくれ、夢見ぃぃ! もうやめてくれ!」

「止めるわけないでしょー!? おにいちゃんに最後まで色気づきやがって、あたしと声も似てるからトコトン不愉快なのよ!!」

「もういいだろ……もう、なら俺を先に殺せよ、頼むから! 巻き戻ってもお前の言う通りにするから!」

「あはははは! おにいちゃん必死! でも駄目! 巻き戻った先でまたコイツが居るのも流石に飽きちゃったもん! おにいちゃんは()()で一生一緒に暮らすの! そうしなきゃいけないの!!」

 

 懇願してもどうにもならない。

 そうしてるうちに、ガクリ、と綾瀬の力が抜ける。完全には倒れずに、肘で体を支えながらなおも俺を守ろうとし続けている。

 顔がさっきよりも近くなって、より綾瀬の瞳から光が消えていくのが分かって、俺はもうただ情けなく涙を流す事しかできなかった。

 

「綾瀬、ごめん……本当にごめん、助けられなかった……ごめんなさい……」

 

 もはや罪滅ぼしにもならない謝罪。

 自己満足にすらならない、一方通行の想い。

 

 ──そのはずだった。

 

「……だい、じょうぶ」

 

 ──ひどく懐かしい声が、耳朶に優しく響いた。

 

「だいじょうぶ、だからね……よすが」

「──っ! 綾瀬……綾瀬!」

 

 あるいは、綾瀬は最初からずっとそう呟いていたのかもしれない。

 俺を庇い、鋏に刺されて、泣きじゃくる俺を安心させるために。

 “大丈夫”と。

 

「もう、またそんな風に泣いて……昔から変わんないんだから」

「だって……だってもう、綾瀬は」

「あたしが守って……あげる、からね。あなたを、いじめる悪い……子から」

 

 ずっと聴きたかった、最愛の人の声。

 ようやく聴けたのに、今はもう悲しみしかない。

 

「良いんだ! もういいんだよ綾瀬! 俺を守らなくて良いから……だから!」

「ごめんね、わたし……のせい、で……いっぱい、くるしめちゃった」

「そんな事言ない! ……げほっ、げほ……違うよ、綾瀬!」

 

 喉から逆流してくる血でむせながら、俺は言葉を続ける。

 

「綾瀬は俺を苦しんでなんかない! 今だって、今までだってずっと……俺を助けてくれて……」

「そっか……よかったぁ……えへへ」

「ウダウダ喋ってんじゃないわよ!」

 

 夢見は更に綾瀬に鋏を突き刺していく。

 傷口から落ちる血はもう、雨では無く滝の様だ。

 

「ねぇ、よすが…………」

 

 綾瀬は最後まで俺を安心させようと、血だらけの顔で、それでも俺が大好きな笑顔を浮かべて、今までと異なるハッキリとした語勢で、言った。

 

「──大好き」

 

「もう喋るなあああああああああ!!!」

 

 

 瞬間。

 夢見の鋏は、背中では無く首の骨を貫通し、綾瀬の喉を刺し貫いた。

 喋るなという叫びの通り、喉ぼとけのある位置から、まるで花が芽吹くかのように、真っ赤な鋏の切っ先が、綾瀬の喉から生えた。

 

 そして、同時に。

 パサリと、綾瀬の首に巻いていたナナのリボンが頬に落っこちて。

 俺の返事も聞かないまま、綾瀬はガタリと崩れて──2度と動かなくなった。

 

「あはは、あはははははは! 手こずらせやがって……やっと死んだわね。ゴキブリよりしぶといんだから」

 

 仕事をやり切った職人の様なさわやかさで、夢見は綾瀬だったものを押しのける。

 そして、再度鋏を俺に向け──、最後通告の様に聞いてきた。

 

「ねえ、おにいちゃん? これでもう本当にあたしたちをの邪魔をする奴はいなくなったけど。まだおにいちゃんから聞けてない言葉があるよね?」

「…………」

「あたしのこと、好き?」

 

 恋する乙女の言葉が、血と体液の匂いにまみれた空間の中を踊るように飛び回る。

 

「おにいちゃんの口からハッキリききたいな……ダメ?」

「……俺は」

 

 身体の痛みはとうに分からなくなった。

 綾瀬をまた失った哀しみも、許容量を振り切ってしまった。

 そのくせ、消えかかっていた意識は嘘の様に鮮明で、夢見が何を望んでいるのかがよく分かる。

 愛の上書きをしたいんだ。綾瀬の告白を、俺から夢見に愛を囁く事で消したいんだ。

 

 夢見のいう事が本当なら、信じられないけど俺はまだ死なないんだろう。

 夢見の望みに応えた後には、きっと適切な治療で生き延びて、明日以降もあの小さな部屋で一生死ぬまで暮らす事になる。

 

 このまま死んでも、また失うだけ。

 このまま生きれば、もう誰も死なない。

 それなら、もう俺が言うべき言葉は決まっている。

 

「俺は……お前を」

「うん……うん!」

「──好きになるワケないだろ」

「……ぅえ?」

 

 もう、何も考えない。

 ただひたすら、俺は目の前に居るこいつを否定する。

 否定して、否定して否定して、否定して否定して否定して、否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して、

 

 ──徹底的に拒絶してやるだけだ! 

 

「誰がお前なんか好きなるもんか! お前みたいな恐い女!」

「お……おにいちゃん? なに、言って……」

「お前なんて大っ嫌いだって言ってんだよ! お前を好きになる人間なんてこの世に1人だって居やしないんだ! 一生孤独に生きるのがお似合いなんだよ!」

「ふざけてるのかな……冗談が過ぎると、おにいちゃんでもただじゃ──」

「真剣だよ。残念だったな! 俺はたとえ死んで幽霊になったって、綾瀬が好きだ! 綾瀬を愛してるんだよ! 仮に綾瀬以外を好きになれって言われたって、渚や園子や、悠を選ぶね! お前なんてアウトオブ眼中だ! ざまあみろ! ハハハハハ!!」

 

 今までと毛色が違う、正真正銘の拒絶。

 たとえ殺されたって構わない。巻き戻る事があっても、その先で誰が殺されても、『小鳥遊夢見を愛する未来だけは絶無』だと思い知らせる否定の言葉を、思いつく限り俺は夢見に浴びせた。

 

「あは、ハハハハハ……」

 

 自分のこめかみを掻いて、掻いて掻いて血が出るまで肉を削り、夢見は自分の身に起きた受け入れがたい事実を処理しようと足掻く。

 そうして、最後にもうどうしようもなく自分が望む未来は訪れやしないのだと、理解して。

 

「誰が怖いって? ねぇ……誰が怖いって言うのよぉ!!!」

 

 初めて本当の怒りを、俺にぶつけた。

 

「あたしが怖い!? ここまでおにいちゃんを愛して、おにいちゃんのためならなんでもやってきたあたしが? ──そんなワケないじゃない!!」

「そんなワケがあるんだよ! 馬鹿じゃねえのお前!」

「おにいちゃんはあたしのモノ、おにいちゃんはあたしを好きにならなくちゃいけないの! おにいちゃんはあたしから逃げちゃいけないの!!」

「お前の母親が言ってた理論か。自分が望めばその通りになるって? だからお前が望むなら俺はお前を好きにならなきゃいけないと? まして怖がるなんてあり得ないってか」

「うん、そうよ? ちゃんと覚えてたんだぁ、じゃああたしの言ってる事の正しさも分かる? 分かるでしょ? 分かるよね?」

 

 今思えば、夢見を狂わせた最後のトリガーだったな。叔母さんの戯言は。

 

「なんで黙ってるの──分かったら返事ぐらいしなさいよ!!!」

「呆れて言葉も出ないんだよ! 今時引き寄せの法則でもあるまいし、お前が望んだ程度で世界が思う通りになるワケねえだろ!!」

「──っ!?」

「お前の父親が事故で死んだのは危険運転したからだ! お前の義父がクズなのは叔母さんがアホだったからだ、お前が叔母さんに殺されそうになったのはお前らの親子関係が終わってたからだ、お前が俺に嫌われて怖がられてるのはお前がそう言う行動ばかり取ってたからだ!!」

「うるさい……うるさい、うるさい!」

「世界は望んじゃいない、誰か一人の都合のいいようになんてなりゃしない! お前の家族は終わるべくして終わって、俺は嫌いになるべくしてお前を嫌うんだよ! 世界や意味不明な理論のせいにするんじゃねえ!!」

 

 この言葉が、夢見の中の最後の自尊心を破壊したのだろう。

 もはや恋も病みも何もない。ただ純粋な殺意のみで鋏を握りしめた夢見がその手を掲げて突き刺さんとする。

 

「黙りなさいよおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!」

 

 これで死ぬ。

 死んだ後にどうなるかは分からないが、俺と夢見は()()で明確に決別した。恐らくもう俺と幸せな世界を築こうなんて思わない。

 きっと、今までより地獄と言える展開が待ち受けているの違いない。だが知った事か。

 夢見を拒絶する。恋心を破壊する。

 それだけが、唯一小鳥遊夢見という完成されたヤンデレを打ち砕く方法だったのだから。

 

 そうして、俺は自分の死を──何度目かの死を、受け入れて。

 

「そぉ─れぇ!」

 

 この場にあまりにも似つかわしくない、童女の声と共に、夢見の右手がスパッと切られるのを目の当たりにした。

 

 

 

 ──to be continued




話の展開が重い事に今更気づく。
先週が更新無かったので、今週はもう1回分(おそらく短いですが)更新予定です。

いつも感想やお気に入り等、大変ありがとうございます。
暗い展開続くので真面目にモチベなってます。


おそらく、あと長くて3~4話で終わると思うので、気長にお待ちください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13病 尽きる

最終章第二幕、今回で終わり

11月にヤンデレCD(の系譜)続編出るから楽しみです。


 

 良舟町の一角にそびえ立つ、病院の屋上。

 午後の一定時間だけ限定的に開放されており、俺はそこでベンチに座っていた。

 

「──傷、痛みますか?」

 

 そう尋ねるのは、園子。

 

「痛み止めが効いてるから、今は平気。……夕方になるとちょっとだけね」

「そうですか……でも、良かったです。ちゃんと治るって聞いて安心しました」

「咲夜にちゃんとお礼言わなきゃなあ……」

 

 腹部の10箇所以上に及ぶ裂傷は、奇跡的に臓器や重要な血管を避けてあったので死に至る事は無かった。

 切り付けられた右目も、あの時半歩後ろに下がったおかげで表面だけが切れて、失明はせず視力が多少低下する程度に収まってる。

 ただし神経の一部がダメになったらしく、涙腺が機能しなくなったらしい。

 それに、最初に刺されたふくらはぎは骨まで貫かれてるから、移動には松葉杖が必要だし、捻ったと思っていた左腕も実は骨にヒビが入っててギプスに固定されてるから、生活にしっかり支障が出てる。

 

「咲夜さん、あれから連絡は来てますか?」

「いいや、多分勝手に動いたらしいし、かなり怒られてるんじゃないかな」

「そうですか……学園も辞めていったから気になって。もし次お話しする機会があったら、よろしく伝えてくださいね」

「うん。そうする」

 

 そう答えて、俺は一度空を見上げる。

 12月23日。冬真っ盛りの空は、青空の上に1枚薄暗いフィルターが掛かってる様だ。

 同じ12月の空でも、あの時見上げた空とはまるで違う。

 

「──本当、よく生きて帰ってこられたよな、俺」

「……えぇ、そうですね。痕跡も何も残ってなくて、警察も追跡出来ないと言ってましたから。……渚ちゃんのご遺体だってまだ見つかってないのに、縁君の居場所を見つけちゃうなんて、流石綾小路家、ですね」

「あぁ……見つけた理由はコレなんだよ」

 

 そう言って、俺は動く右手でポケットをまさぐり、ナナから貰ったリボン──今はもう血で真っ赤な布の切れ端にしか見えないそれを取り出した。

 リボンを見て、付着してる血に気づいた園子は一瞬息を呑んだが、すぐに平然を取り戻して聞いてきた。

 

「それが……どうして見つかる理由なんですか?」

「うん、俺には分からないし、多分もう無理だと思うけど。このリボンをくれたのは、咲夜がボディーガードに雇った人でね。どうやらその人らにしか分からない香料が染み込まれてたらしいんだ」

「じゃ、じゃあ……その匂いを辿って?」

「そう。……もっとも、夢見は警察犬対策もしてたから、例えリボンのことを知らなくても、匂いを辿るのにかなり苦戦したらしいんだけど……俺らが監禁されてた近くにまできた所で、匂いが強くなったから間に合ったんだとさ」

 

 そう話しながら、俺はあの時の出来事を振り返る。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「そぉーれぇ!」

 

 軽快な声が急に聴こえたと思った矢先、勢いよく回転する斧が、夢見の鋏を握る手を切断した。

 

「いぃ──痛い! 痛いい!!!」

 

 今まで聞いたことのない類の、つまり痛みに悶え苦しむ夢見の声が、手首からとめどなく溢れる血と共に俺に降りかかる。

 

「やったわ、ノノ。命中よ」

「やったね、ナナ。流石ぁ」

 

 対照的に楽しげな会話をしながらこちらに歩み寄って来たのは、咲夜と一緒に綾小路本家へ行ったはずのナナとノノ、そして。

 

「そんな呑気な事言ってる場合じゃないわよ! 重症じゃない!!」

 

 血相を変えて俺の元に駆け寄る、咲夜だった。

 

「さ、咲夜……それに双子も……どうしてここに」

「お兄ちゃん、久しぶりね。随分と面白い事になってるけど、まだ生きてるなんて凄いわ」

「お兄ちゃん! ちゃんとナナから貰ったお守り持ってたんだ。えらいえらい!」

「ナナがアンタにあげたリボンに付いた匂いでここを見つけたのよ、途中から血の匂いもしたって聞いたから最悪の予想もしたけど──ってそんな事よりも、アンタの体の方が不味いじゃない!」

「大丈夫だ、まだ生きてる、それより……それより、綾瀬は?」

「綾瀬は……ダメ。もう、遅いわ」

「……そう、か」

「まずは生きてるアンタ優先、待ってなさい、すぐに救護班が来るから!」

 

 そう言って肩に掛けてたポーチから取り出したスマホ……無線機? を取り出して、咲夜は電話先の相手に指示を飛ばす。

 

「うぅ……ふざけやがってぇ……!」

 

 一方で、のたうち回ってた夢見が、鬼気迫る声で咲夜を睨め付ける。

 しかし、咲夜はまるで微風にでも当たってるかの様に表情一つすら変えずに、逆に夢見を睨み返して言った。

 

「ふざけてるのはアンタの方よ、小鳥遊夢見。……もっとも、流石におふざけが過ぎたけど」

「咲夜、この子どうするのかしら」

「好きにしてもいい?」

「ダメよ、コイツはアタシの、綾小路家の顔に泥を掛けたの。だからその報いを徹底的に受けさせてやるわ。……警察なんかにくれてやらないわ」

「──この、金さえあれば何でも出来ると思ってんじゃないわよぉおおお!! アンタもアイツも、イラつかせる事ばかり言いやがってぇええ!」

 

 今にも噛みついて来そうな夢見を、ナナとノノがあっさりと拘束する。

 咲夜は先程から使ってる無線機っぽいのでひたすら人を呼んでるらしく、それも全て終わった後に最後、夢見を見下しながら言い放った。

 

「そっちこそ、愛さえあれば何してもいいと思ってんじゃ無いわよ」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 そこから先の記憶は無い。助けが来たという事で緊張が弛んだ俺はすぐに気を失ったらしく、気がつけば病院のベッドで包帯だらけになっていた。

 側には、海外にいるはずの両親が居て、望まない形での再会を果たした。

 

 命に別状は無かったため、手術を受けた後は快方に向かっており、医者曰く『驚くような生命力の高さ』とやらで、今はこうして病室から移動することも出来ている。

 

「──結局さ、俺だけ生き残っちゃった」

 

 これは愚痴だ。そう自覚した上で、俺は聞いて誰も幸せにならない言葉を吐き出す。

 

「ううん、違うな」

「……何がですか」

「俺が余計な事したんだよ、そのくせ、俺だけが生き残った」

「それは……」

 

 それは違う、と園子は言いたい事は知ってる。きっとそう言いたくなる事を。

 でも、園子はそれを言わなかった。たとえ否定しても、それが何の気休めにもならないと理解してるから。

 

 実際、俺は本当に余計な事をした。

 もしあの時、逃げようとしなければ、あの日既に廃工場の近くまで来てた咲夜達が自発的に俺たちを見つけたかもしれなかったのだから。

 そうであれば、俺はもちろん、綾瀬も死ぬ事は無かったんだ。

 いや、もっと言えば、咲夜の言う通り最初から夢見を追おうとするべきでも無かった。従ってれば渚は死ななかった。

 

 もちろん、全て結果論でしか無い。

 仮に全部咲夜の言う通りにしてたとしても、渚や綾瀬を失ってたかもしれない。もしかしたら園子や咲夜だって……。

 

 だからこそ。確かな事がただ一つある。

 

「君がちゃんと生きててくれて……本当に良かった」

「……縁、君」

「こうして君と話せるだけで、多分俺は幸運なんだ」

「……はい。はい! 私も──そう思います」

 

 互いに泣きながら──俺は左目だけだが、泣きながら、しばらく笑い合った。

 それは側からみれば奇妙に映るだろう。けど、俺と園子にしか分からない世界の話だ。

 この数週間で、俺たちはあらゆる物を失った。

 悠を、渚を、綾瀬を──俺にとっては家族や恋人、親友で──園子にとっても掛け替えの無い友人達。

 それらは2度と戻って来ない。そして、その代わりになる存在だってありはしない。

 

「縁君は、この街を離れるんですよね」

「あぁ、親がそうしようって」

「いつ、行くんですか?」

「明日」

「明日……じゃあ、こうしてお話しできるのも今日が最後なんですね」

「そうなっちゃうな」

 

 夢見は綾小路家が秘密裏に連れて行き、世間的には行方不明になっている。

 当然、それを両親は知らないし、俺も言う気にはならなかった。

 警察に委ねて、真っ当な罰を与えられるべきかもしれないが、まだ少年法が適用される年齢では十数年檻にぶち込まれるのが関の山。

 それだったら、たとえ不法であっても、綾小路家が本当に『ふさわしい罰』を与えてくれる方を選ぶ。

 

 とにかく、何も知らない両親にとって夢見はいつまた現れるかもしれない存在。

 なのに、いつまでも同じ場所に俺を住まわせるわけには行かないと思うのは、当然の話だろう。

 

「それに……俺にとっても、もうこの街は毒だ」

 

 思い出が、多過ぎる。

 きっと何処を歩いても、死んだ3人との思い出がチラつく。

 それは、生き残ってしまった者にとっては何よりも苦しい毒になる。

 

「……いつか、色々乗り越えて大人になったら、また会おうよ」

「きっと、会えると信じてます」

 

 そう言葉を交わして、園子は病院を去っていった。

 

 それから数分後、誰かがベンチの反対側に立って、背もたれに腰を掛けるのが分かった。

 わざわざ幾つもあるベンチの中から、俺が座ってるのを──しかも、隣に座るんじゃなく、背もたれ越しに背中合わせみたいな状態を選んだその何者かは、俺が不気味がる暇も与えずに間髪入れず話しかけてくる。

 

「お久しぶりぶりですね」

「……本当だな」

 

 胡散臭い声、聴くだけで敵愾心を煽るような口調。

 間違いない、俺の背中に立ってるのは、2度と会う事ないと思っていたアイツだった。

 

「本当はこうして話すのは約束違反なのですが……まぁ、もうその約束も無くなってしまった様なものなので」

「手短に話せよ、傷口が開く」

「相変わらず、キミの方は辛辣ですね」

 

 くっくっ、と笑うのが聴こえる。

 苛つくのは変わらないが、こんな奴でも夢見よりはマシだと思うと、以前よりは耐えられる気がした。

 

「貴方と小鳥遊夢見の間に起きた事は把握しています、その顛末も」

「そうか、流石情報屋さんだ」

「恐らく貴方は彼女から、過去を聞いてると推察しますが、どうですか?」

「お前探偵だったか?」

「情報を得るとは、人となりを知る事に繋がります。きっと小鳥遊夢見なら、彼女なりに相互理解を深めようと話すと思ったんです」

「……まあ、その通りだよ」

「やはり、そうでしたか」

 

 推理が当たって満足したのか、少しだけ間を置いて、言葉を続ける。

 

「貴方は、どうすれば彼女を止められたと思います?」

「どうすればって、止まらないだろ、夢見は」

「いいえ、彼女の過去を知ってる貴方なら、考える事はできるハズです。彼女は何もなくたって歪んでいましたが、あくまでも貴方の周りに居た数々の女性陣と同じ──か、些か強めの『ヤンデレ』でしか無い。そんな彼女がああも成り果てるのには、外的要因が必要なんです」

 

 ……それはそうかもしれない。でも、それを考えてどうなる。

 

「考える必要があります。たとえ『今』になっては意味が無くても、貴方にとっては有意義なハズです」

「……お前、もしかして」

 

 まさか、俺が巻き戻ってる事すらも知ってるのだろうか? 

 あり得ないけど、コイツなら不思議と納得してしまう。

 

「──だとしても、無理だ。考えつく物はあるけど、どれも、手に負えない所にある」

 

 挙げるとすれば、母親に殺されそうになった時。

 または、義父に犯された時だろう。

 致命的なのは後者の方だろうか。

 俺が巻き戻ったとしても、既に過去の出来事になっている。どうにもならない。

 

「どうにもならない。しかし、貴方の中で答えがある事に意味があるんですよ」

「はぁ……本当、お前の言う事はいつもワケ分からないな」

「そうでしょうとも。……ですが覚えておいてください。僕は決してキミには無意味な事を言わない」

 

 声が遠くなり始めた。

 

「きっと、キミと会えるのもこれが本当の本当に最後だと思うから……さようなら、ヨスガ。──彼女にもよろしく」

「──お前、何を」

 

 口調が今までと変わって、まるで友人に話しかけるようだったから、思わず振り向いたけど。

 視線の先に、そいつの姿は無かった。

 まるで、最初から誰も居なかった様な、幻を相手にしてる感覚すら覚える。

 

「……寒くなってきたな、部屋に戻るか」

 

 風が一つ、冷たく吹き付ける。

 傷口に染みても良く無いので、松葉杖を手に俺は屋上の出入り口に戻る。

 階段とエレベーターがあって、流石にエレベーターを選ぶけど……どうやら最下層にある様だ。ボタンを押してしばらく待つとしよう。

 

「──ん?」

 

 待ってる間、ポケットから振動が。

 スマホの着信だ。誰からのものか確認するため、壁に寄り掛かって松葉杖を置き、スマホを取り出す。

 画面には、咲夜の名前があった。

 

「もしもし、咲夜? ようやく電話出られる様になったんだな」

『アンタ、今何処にいるの!?』

 

 なにやら慌ただしい。焦っているようだ。

 

「何処って、病院だけど。屋上にいて今から戻る所」

『屋上!? なんでそんな所に──ああもう、とにかく聞きなさい! 小鳥遊夢見が逃げ出したの!』

「えっ……?」

 

 思いもよらない言葉に、一瞬息が詰まる。

 

『どうやって逃げたのかは分からない、でもアイツはまたアタシの部下を殺して、今日消えた。きっとアンタの事を探してるハズだから、早く病室に戻りなさい! 急いで!』

「──あ、ああ!」

 

 返事した直後、タイミングよくエレベーターが到着して。

 

 ──その中に、ピンク髪をした人間が入ってるのを見た。

 

「────っ」

 

 気がついたら、俺の身体は宙を舞っていて。

 視線の先で、こちらを見ながら嗤う夢見が居た。

 

 鈍い音を立てて、後ろの階段を頭から転げ落ちる俺。

 その音をスマホ越しに聴いてた咲夜が、何かしら叫んでいる。

 

「──おにいちゃん、安心して?」

 

 コツ。コツ。ゆっくり階段を降りながら、夢見は言う。

 

「あんなに酷い事言われたって、あたしはおにいちゃんを嫌ったりなんてしないわ」

 

 そして、踊り場にぶっ倒れてる俺の前に立つと。

 

「これから先、何度だって──おにいちゃんがあたしを好きになるまで」

 

 

「ずっと──()し続けてあげるから」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 あぁ。

 これで、今回も終わりか。

 結局、最後には俺も死んでしまった。

 

 出血多量で死ぬ直前、何度も嗅いだあの、何処か懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。もしかしたら俺が巻き戻るのと、この香りは関係してるのかもしれない。

 

 けれど、もう良い。

 もう、繰り返さなくて良いんだ。

 この先、どう足掻いても俺が幸せになる可能性は無い。

 目覚めた時点で、もはやどうにもならないのだから。

 

 だから、叶うならば、このまま眠らせて欲しい。2度と目が覚める事無く、本当の死を。

 

 それだけで、良いんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……?」

 

 そこからどれくらい経ったのか。

 何か、違和感がある。

 目は閉じてるが、強烈な光が瞼の先から眼球を刺激してる。

 耳からはせわしなく虫の音が聴こえるし、何より全身が暑い。

 死ぬ間際に感覚神経がおかしくなったのかと思ったが、それにしたっておかし過ぎる。

 

 それに何よりも、身体中の痛みがまるで無くなった。

 あまりにもおかしいから、2度と開ける気もなかった瞼をつい開いてしまう。すると、更にワケのわからない景色が広がっていた。

 

 

「は? ここ……病院ですらない」

 

 白一色の無機質な病院では無く、緑に囲まれた厳かな古式ゆかしい建物が見える。足元は砂利で、コンクリートでは無い。

 パニックになりそうな頭を堪えて、俺は何処にいるのかを考える事にした。

 幸い、答えはすぐに出た。

 

「七宮神社……だよな」

 

 七宮神社、俺が夏休みの間、バイトで祭りの手伝いをした所。

 そこの巫女さんには何度か相談に乗ってもらう事があって、あの胡散臭い情報屋と出会ったのも、ここだった。

 

「え、なんで? てか仮説もおかしいだろ? 俺の格好もは? 夏服?」

 

 気候は明らかに夏。

 虫の音はセミとひぐらしのそれ。

 俺の衣服も包帯にギプスじゃなく夏服。怪我一つない。

 

「……夢でも見てるのか?」

「いいえ、夢ではありませんよ。ヨスガ君」

「!?」

 

 後ろから声をかけられて振り向くと、そこに居たのは七宮伊織さん。

 先述したこの神社の巫女さん。だからここにいるのはある意味当然。

 

 だけど、問題はそこじゃない。

 

「何がどうなってるんですか、これが夢じゃないなら、これは一体!」

「落ち着いて……というのは無理があるかもしれないけど、出来れば落ち着いて欲しいの。ちゃんと説明もするから」

「……はぁ、ちょっとだけ時間ください」

「ありがとう」

 

 にこりと微笑む伊織さんは、そこから神社の縁側に行こうと提案した。

 それに従って、猛烈な日差しの無い日陰に座って、改めて俺は話を伺う。

 

「ここは夢じゃ無い、でも俺は死んだハズ、そうですよね」

「えぇ、そうよ。貴方は死んだ」

「それじゃあここは、あの世とこの世の境目、とかですか?」

「ちょっと違うわ。でも、貴方にとって大事な場所であるのは確かよ」

 

 続けて、伊織さんは俺に思いもよらない言葉を言い放った。

 

「聴いて欲しいの。一つだけ、貴方が未来を変えられる方法がある」

「──それって」

 

 

 全てが終わった延長線で。

 何かが始まろうとしていた。

 

 

 Life is over, to the……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 Re-Awake

「い、今なんて?」

 

 一つだけ、貴方が未来を変えられる方法がある。

 未だに自分の置かれてる状況が理解できないのに、今度は未来を変える方法? 

 

「混乱する気持ちは分かるわ。でも聞いてほしいの、アナタを」

「待ってくださいって、その前に、俺がここに居る理由をちゃんと教えてくださいよ」

 

 頭を冷静にして話を聞こうとしたが、流石に無理だ。

 この状況を、俺の頭の中にある知識だけで理解しようとする方が間違っている。

 

「夢見に殺されたはずの俺が何でここに居るのか、どうして夏の気候になってるのか、七宮さんが居る理由も……そこからじゃないと何も頭に入りません」

「……そうよね。そうだった、アナタにはまずそこから話す必要があった。落ち着いて説明するつもりだったけど私も焦ってた。ごめんなさい」

「あ──いえ、すみません、こっちも」

 

 気が付いたら語勢が荒くなっていた。

 お互いに一度呼吸を置いてから、改めて七宮さんに説明を促す。

 

「言うまでも無くアナタは察してると思いますが、ここは現実の七宮神社ではありません」

「それはまぁ、流石にそうだと思ってました。ならここは、いわゆるあの世なんですか?」

「いいえ、少し違うわ。ここは私の術で作った、死者の魂を繋ぎとめる空間よ」

「はぁ!? じゃ、じゃあここはアナタが作ったって事──って今そう言ったんですよね。えぇ、はい、国語は得意なので言ってる意味は分かりますけど……」

 

 まず『死者の魂を繋ぎとめる空間』なるモノを生み出す事が出来る人間や、そういった技術がある事に驚くばかり。──ん、待てよ? そうなると、

 

「え、じゃあ七宮さんも死んでここに居るんですか?」

「話の流れからそう思うかもしれないけど、そうじゃないの。七宮伊織はまだ生きてる。現実で生きてる七宮伊織と、この世界にいる私は、別の存在」

「……?」

「簡単に説明すると、この世界を生み出すために、私は神に2つの供物を差し出したの」

「供物って、そんな物騒な……」

 

 古代のアステカ文明みたいな血なまぐさいモノを想像したが、そんな心中を察した七宮さんはクスっと笑い、話を続ける。

 

「供物に捧げるのは人や動物では無くて……だけど、ある意味では命よりとても大事なもの」

「それは、何です?」

「1つ目は“記憶”。世界を形作るために必要な、本人にとって一番大事な思い出。2つ目は“心”。この世界に繋ぎ留めたい人をここまで導くための存在として、本人の失いたくない感情……心の一部を捧げる」

「“記憶”と“心”……はぁ」

 

 つまり、この世界を生み出したのが七宮さんだと言うなら。

 

「ここが七宮神社なのは、七宮さんの大事な思い出が詰まった場所だからって事ですね」

 

 俺の言葉に言葉ではなく首肯で応える七宮さん。

 成程、相変わらず凄い話ではあるが、とりあえず俺が七宮神社に居る理由はある程度納得した。

 彼女の中で一番大事な思い出になる何かが、夏の七宮神社で起きたんだろう。それが何かまでは分からないけど、彼女は神社の巫女だし祭りが夏には行われてるし、何かしら神社の祭事や神事で嬉しい事があったんだろう。

 

「そして、ここに居る七宮さんは、俺が現実で出会った彼女がこの世界を生み出すために切り離した、心の一部……って解釈で合ってますかね」

「…………えぇ。そう、その通り」

 

 何故かえらく間を開けながらも、七宮さんは俺の言葉にまたも頷く。

 

「オッケー、オッケー……疑問の第一段階はクリアしました。それなら次です、これが一番大事」

 

 ようやく、俺が最も答えが欲しい事について聞く段階に入った。

 

「今の話の流れから考えると、俺がここに居るのは七宮さんがここまで導いたから、そういう事ですよね」

「それで間違いないです」

「何で俺なんですか。……俺が何回も死んでから過去に戻ったのと、関係してるんですか」

 

 一気に聞いてしまったのは、それだけ気になってる証左だと思ってほしい。

 原因不明の巻き戻りが、この空間と無関係なワケが無い。絶対に繋がりがある。

 であれば、何故現実の世界でこれといった深い関わりも無かったハズの彼女が、自分の思い出や心を代償にしてまで、俺を過去に飛ばそうとしたのか知りたい。

 

「……死んだ野々原君の魂を、命に危険が及ぶ前の時間に戻す事で、迫る未来を回避させる。そのために私はここに居ました」

「それは、あくまでも俺自身の命が危機に陥る未来より前?」

「えぇ」

「……そうですか」

 

 であれば、悠が殺される前に戻れなかったのも当然か。

 あくまでも当時の夢見は、俺を殺す気なんて無かった。悠が殺されたあの日、俺自身には全く死の危険が無い。

 だから、巻き戻るのは俺が死ぬ可能性の高い、悠の葬式に行った翌日になるワケだ。成程、よくできている、その程度融通して欲しかったが。

 

「理屈は分かりました──でも」

 

 俺は一歩踏み出して、衝動のままに言う。

 

「どうしてそんな()()()()をしたんですか」

「──っ!!」

「あなたがそんな事しなければ、皆は何度も夢見に殺される事は無かったのに……苦しむ事は無かったんです」

 

 勿論、死ねばその命は本来それまでだ。あの世の概念があったり、生まれ変わる事もあるだろうが、何度も死ぬのはあくまでも俺の主観に限る話だろう。でも、だからこそ。

 

「あなたのせいで俺は……渚も、綾瀬も、目の前で死ぬのを見させられたんだ」

 

 当然、一番悪いのは夢見だとは分かってる。こんな言葉は利己的な逆恨みだとも自覚してる。

 でも、それでも言うのを抑えられなかった。繰り返される巻き戻りの中で、夢見は確実に狂気を膨らませて行った。その結果、俺は最悪の想いをする事になって、それに抗っても無駄な結果に終わった。

 原因不明だったこの現象の原因が分かったら、分かってしまったら、糾弾するなという方が無理だった。

 

 そんな、言い訳のしようがない“お気持ち”に対して七宮さんは一切表情や視線を変える事なく、正面から受け入れて──、

 

「ごめんなさい」

 

 そう、端的に──真摯に言った。

 

「野々原君をここに導いたのは、私がそうしたかったから。アナタを死なせたくない、それだけの我が儘だった。……それがこんな未来を招くなんて、想像もしてなかったの。本当にごめんなさい」

「…………」

 

 そう言われたら、もう何も言えない。

 本当はまだ幾らでも言葉は出る、暴力的な言葉や心を傷つけるためだけの言葉は幾らでもある。

 だけど、七宮さんの言葉から彼女の中に悪意が無いのは充分伝わった。それならもう、良い。

 人を否定する言葉を口にするのは、物凄く疲れるんだから。

 もう良いんだけど。

 

「一つお願いがあるんです。聞いてくれませんか」

「お願い……、なにを?」

「もう、俺を過去に戻すのはやめて欲しいです」

 

 せめて、それくらいはして欲しい。

 

「このまま、死なせてください」

「……アナタが諦めたら、それで全員の死は覆らなくなるのよ。それでも死にたいの?」

「変わらないです。俺には夢見を止められない。例えこれから何十回、何百回……何億回繰り返したって夢見からみんなを守る事なんか出来ません。それに」

 

 思い出す、すぐ後ろに居たのに守る事も出来なかった、渚を。

 思い出す、目の前で死んでいくのを眺めるばかりだった、綾瀬を。

 廊下で喉を切り裂かれて、腕の中で死んだ園子を。誰にも看取られずに孤独に死んだ悠を。

 思い出す、思い出す、思い出す、思い出し続けて……。

 

「…………もうっ、覚えていたくも無いんです」

 

 目から涙が……右目からもちゃんと、零れ落ちた。拭っても拭っても、とめど無く溢れ続ける。

 この世界では、心も体も健康そのものだ。病院で死ぬ前の満身創痍な心身では無い。感情も精神も全てが健全な状態。

 だから喪失と絶望に浸り切った心なら既に感じなくなっていた、あらゆる悲しみと苦しさが、今では満遍なく心の中を染めていく。

 

 病院の屋上で、俺は良舟町の思い出が毒だと園子に言った。

 改めてその通りだと思う。喜怒哀楽の受容器がマトモになってる今、もはや俺の人生の思い出、全部が毒そのもの。

 

「渚の事も、綾瀬の事も、園子や悠も、全部もう覚えてるだけで辛いんですよ……。絶対に救えない事が分かってるのに、もうこれ以上生きてる事に──いや、俺と言う意識が残り続けてる事に耐えられない!」

 

 だから願う。

 

「お願いします、お願いします。俺を終わらせてください、もう楽にしてください!」

 

 死にたいから死にたいんじゃ無い。

 楽になる道が死ぬことしか無いから、死にたいんだ。

 

「…………」

 

 泣きじゃくりながら懇願する俺に何を思ってるのか、七宮さんは少しだけ沈黙してから、答えを返した。

 

「それは、できないわ」

 

 優しい口調。でも、どうしようもなく残酷な言葉。

 

「……何故ですか」

「まだ、アナタにはできる事があるから」

「──っ、出来ることなんか無い! やり尽くしました、俺なんかが出来ることは全部! それでも死んだんだ、終わったんですよ俺は!」

「いいえ、まだアナタは終わってないわ。……終わらせない」

「終わってないって、何が? 何度も過去に戻って……俺が記憶してる以上の数を失敗してきたんでしょう? それなのにもう、今更何が出来るって言うんですか!」

 

 夢見と徹底的に対立した上で死んだとあれば、次に巻き戻ったって、より過酷な状況を潜り抜ける必要がある。それはもう、ロープ無しでバンジージャンプを成功させる様なモノ──不可能な話だ。

 

「無理なんです、俺は夢見の過去を聞きました。俺が何度、過去に巻き戻っても、その時点で既に夢見は対処しようの無い存在として完成している」

 

 いいや、そもそもの話。

 

「夢見が良舟町に戻って来た時点で、こうなる事は避けられない運命だったんです! それなのに今更数日前に戻った所で、何になるって言うんですか!」

()はアナタに、何か言ってなかった。大事な事を」

「彼? 彼って誰の事……」

 

 唐突に話が変わって困惑するが、言われた言葉を飲み込む。そして考えた。

 彼、と三人称だけで言われても候補はたくさんいるが、すぐに思い浮かぶのは、死ぬ寸前に会話したあの男。『どのタイミングなら夢見の狂気を止められたのか』を考えろとしきりに言っていた、胡散臭い情報屋。

 そう言えばアイツも、去り際に『彼女によろしく』とか意味不明な事をのたまったけど……もしかして? 

 

「知ってるんですか、アイツを?」

「知ってるわ……少しだけ、話した事があったから」

「少しだけで正解ですよ、あの男、いつも人を食う様な事ばかり言いますから。ホント、友達いないだろって……」

…………そうでも無かったわよ

「え?」

「それで、彼はアナタに何を言ってた?」

 

 話を戻された俺は、アイツと交わした僅かな時間の会話を反芻する。

 

 

『貴方は、どうすれば彼女を止められたと思います?』

『どうすればって、止まらないだろ、夢見は』

『いいえ、彼女の過去を知ってる貴方なら、考える事はできるハズです。彼女は何もなくたって歪んでいましたが、あくまでも貴方の周りに居た数々の女性陣と同じ──か、些か強めの『ヤンデレ』でしか無い。そんな彼女がああも成り果てるのには、外的要因が必要なんです』

 

 

 そう。アイツは夢見が歪んだ外的要因が何かをハッキリ考えろと言った。

 考え付くのは母親に殺されそうになった時と、誕生日に義父に犯された日。それで結論としては、後者の方だとした。

 だけど、それを考えたところで意味はない。何故ならそれは今から3年も前の出来事で、巻き戻った時間軸ではとっくに終わった話だから。

 

「アイツは、夢見がおかしくなった──ああいや、最初からストーカー気質のヤンデレだったけど、本格的に狂ってしまうキッカケを考えろと言いました」

「そう。アナタはいつなのか思い浮かんだの?」

「一応は。でも無理ですよ、今から3年も前に起こった出来事ですから。たとえ巻き戻っても、その時点で過去なんですから」

「もっと前の時間に戻れるなら、どう?」

「あぁそれなら確かに話は変わるでしょうけど、そんなのは仮定の話であって──」

 

 ちょっと待て。

 

「未来を変えられる方法があるって話は、もしかしてそういう事?」

「……話が本題になって安心したわ」

「戻れるんですか。今までよりも前の時間に」

「えぇ。ただし一回だけ。やり直しは聞かない」

「一回だけ? 何故です、今まで見たいに巻き戻せないんですか?」

「この世界の役割、機能から逸脱した事をするから。アナタをより過去に送れば、この世界は消えてなくなるわ」

「じゃあ、七宮さんも消えてしまうんじゃ」

「その通り。そして、私はそのためにこそ、今ここに居る」

「正気ですか、自分が死ぬ前提で話を進めてるなんて」

「……心配してくれるのね、ありがとう。アナタはどちらでも優しいことには変わらないみたい」

「……?」

 

 言われる通り心配しているのに、七宮さんはいまいち要領の得ない事を言ってクスクス笑うだけだ。

 それも、どこか懐かしいものを見た時の様な雰囲気で。

 

「──私の事は気にしないで大丈夫よ。元から“この”七宮伊織は存在して居ないのと同じ物。夏の幻だから」

 

 自身をそう形容して、伊織さんは木の葉の間から映る、再現された夏の空を見上げる。

 その姿を見ていると、もうそれ以上何も言えなくなってしまった。

 

「それに、私よりも覚悟が必要なのは野々原君、アナタの方」

「覚悟……確かに、一回限りだから」

「それだけじゃないの。……仮に成功しても失敗しても、アナタの意識がもうこの時間軸に戻る事は出来ない」

「え……」

「私ができるのは送る事だけ。さっき言った通り、送ったら私はこの世界ごと消えるからその後はどんな結果になっても、アナタは行った先の時代で生きる事になる。だから──」

 

 視線を空から俺に移す。

 もう、その後に彼女が何を言い出すのか、俺は分かってしまった。

 

「だから──アナタが今まで積み上げてきた思い出や人間関係、アナタが生きてきた証の全てが、無くなるの。もちろん、全てではないけど、3年前から今日までの出来事は全て消える」

 

 あー……やっぱり、そうか。そういう事になっちゃうのか。

 

「いやぁ……ちょっと、キツいなぁ」

 

 思わず、砕けた口調で茶化してしまう。でも仕方ないじゃないか。3年分の人生が消えるだぞ。

 今年の4月から起きた出来事も全部、無かったことになる。

 兄を自分の寂しさを埋める存在としか見ていない頃の渚に戻り、紆余曲折を経て恋人になった綾瀬とは幼なじみの関係に戻り、園芸部で毎日楽しくしていた園子の日々は幻に消える。

 思い出が全部消えてなくなる、夢見に殺されても殺されなくても、結局俺にとっては同じ事じゃないか。

 そう言えば、七宮さんはずっと『未来を変える方法』とだけで、何も『夢見に勝つ方法』だなんて言ってなかった。何も違う事は言ってない。

 

 嫌だ。

 

 そんなの、受け入れられるワケ無い。

 あの日々を、時間を、会話を、ここまで重ねてきた何もかもを0からやり直すなんて、我慢できない。

 

 俺はみんなと一緒に過ごした時間を守りたかったから、夢見と対立した。

 それでも守れなかった人が居て、だけどまだ生きてる人を死なせたくないから、頑張って来た。

 それなのに、結局みんな無かった事になるなら、俺が頑張る理由が無いじゃないか。死にたくなってしまう様な気持ちを抑えて、頑張る意味が無いじゃないか。

 

「……ううん、それは違うな」

 

 どんどん深く沈みこんでしまいそうになる気持ちを、無理やり鷲掴みして引きずり上げる。

 

 “夢見の愛に屈服する未来”

 “過去を変えて夢見の狂気を止める未来”

 

 どちらも最終的には『俺と思い出を共有する相手が誰も居ない』という()()のみは共通してるだろう。

 だけど、決して同じ未来なんかではない。

 夢見の狂気の引き金を止める事が出来れば、みんなは生きて明日を迎える事が出来る。死なないんだ、殺されないんだ。

 確かに、夢見の危うさは彼女の内側に元々秘められてる物だが、少なくとも今年の12月に起こるすべての惨劇を無かった事にできる。

 

 思い出は愛しいけれど、無くなればまた積み上げればいい。

 記憶も時間も関係も、やり直せばいいだけなんだから。

 そして、命は一度無くなればもうやり直せない。……本来はね。

 

「──決めた。俺やります」

「……良いのね」

「……それ以外に、最初から選択肢が無かったから」

 

 そう言って、俺は強がりの笑顔を浮かべて見せた。

 暗い空気を払拭しようと思ったのだが、七宮さんは逆に表情に影を落としてしまう。

 

「ごめんなさい……アナタに辛い選択をさせてしまって」

「滅相も無いです。むしろここまでしてくれてありがとうございます。むしろ謝るべきなのは俺の方で……さっきは余計な事なんて言ってすみませんでした」

「……本当に、そっくりなのね」

「……?」

 

 誰とそっくりなんだろうか。引っ掛かるけど何故だろう、それについては聞かなくて良いという気持ちの方が大きかった。

 もしかしたら、俺の知ってる人を指してるのだろうか? ……まぁいいや。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 話が決まってから、七宮さんは場所を移そうと言って、本殿の裏にポツンと建てられた蔵に来た。

 細かい理由は教えて貰えなかったが、『ここが最も力のある場所』なのだとか。……何か思い入れでもあるんだろうな。

 

「それで、俺はここで何をすればいいんですか?」

「何もしなくて平気。私がいつも通りアナタの魂を運ぶだけだから。だけど……背中を私に向けて」

「分かりました」

「……」

 

 言われた通りに背中を見せて、俺は蔵の入り口から覗く外の風景を見る。

 七宮さんはその後黙ったまま、俺の背中にそっと手を添えて何やら呟き始めた。何を言ってるんだろうと耳を澄まして──気が付いた。

 さっきまであんなにけたたましく鳴いてたセミの声が、全くしなくなっている。

 それどころか、外の景色も段々と薄暗いものに変わっていく。日没の概念がこの世界にもあるのかと思ったが、そうではない事が直後に判明した。

 

「──っ!?」

 

 急に地震のような揺れが俺達を包む。震度5か6くらいの強い揺れと共に、轟音が辺りから鳴り響きだした。

 だがわざわざ『ような』と形容するように、奇妙な事だが蔵のあちこちに置かれてる棚や、そこに収納されてる書物は全く動いていない。

 これじゃ俺が勝手に揺れてるみたいだ。俺も動いてないのに! 

 

「な、七宮さんこれって!?」

「落ち着いて、大丈夫。アナタを過去に送る過程で、この世界が壊れようとしてるの。かまどに火をつけるようなものだと思って」

「は、はい……!」

 

 発射前のロケットみたいなものだと思う事にしよう。

 つまり、もうすぐ、俺は過去に飛ぶわけだ。数日、数週間前なんかではなく、もっと前に。

 だったら、最後にこれだけは聞いておきたい。

 

「七宮さん、忙しい所聞いて良いですか!」

「何?」

「どうして、俺を死なせたくないって思ったんです? 俺、あまり七宮さんと接点無かったと思うんですけど!」

「────っ!」

 

 そもそもの動機。俺を死から救おうと思ってくれた理由は何なのか。キッカケを聞いておきたかった。

 だって、俺が過去に行って未来を変えるのなら、七宮さんとの面識も無くなるんだから。

 だがしかし、七宮さんは沈黙したまま答えず、その代わりに。

 

「──ごめんなさい」

「う、うぇ!?」

 

 添えていた手を俺の胸元まで回して、背後から抱きしめる姿勢に変わった。

 

「急にどうし──」

 

 どうしたのかと聞きたかったが、言えなかった。

 七宮さんは俺の背中に顔を埋めて……泣いていたから。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……野々原君にこんな事しても、困るだけなのは知ってる。……でも、これでもう二度と、あなたとの縁が無くなるから……最後に我が儘、させて?」

「…………はい、分かりました。オレなんかの背中で良ければどうぞ」

「ありがとう……」

 

 理由は、最後まで知らなくて良い事にした。

 きっと、俺の知らない──知らなくていい物語があったんだろう。

 

 そして、そんな風に結論付けた俺に呼応すかのように周辺が真っ白になる。

 いよいよ、なのだろう。もはや視界に何も映らず、瞼を閉じないと目がやられそうになるほどの光の中。

 

 

「ここから先は、本当にあなた達だけになるわ。本当の意味で最後の機会。やり直しはできない、死んでしまったらそれまで」

 

 七宮さんの優しい声だけが、はっきりと耳朶に響いた。

 

「でも、きっとあなた達ならやり通せると信じてる。だから、もう私は消えるけど、それでも、心配しないわ。……さようなら、縁君。もうあなたには会えないけど、私ずっと、あなたを愛していました」

 

 

 

「さようなら、伊織さん。オレも……あなたを愛してました」

 

 最後にそう言ったのは、誰の言葉だったのだろうか。

 曖昧になっていく自我はそれ以上の事を認識できなくなり、俺はまるで渦潮に飲み込まれるかのように、意識を手放した。

 

 

 

 

 END.




夏の名残も終わりが見えてきました。
彼と彼女の恋の残滓も、尽きました。

問題.1
 今回の作中で七宮伊織が『このままこの人の魂をここに留めれば永遠に一緒に過ごせる』と思い、実行したい衝動に駆られつつも必死で堪えた回数を答えなさい。
 
問題.2
 また、必死に堪えてもどうしても抑えきれず、最後に抱きしめてしまった結果、彼女が信仰する神の怒りに触れてしまい、消滅するだけだったハズの彼女の残滓がこの後、神の手による制裁で苦しみ続ける末路を迎える確率を答えよ。


次回の更新は来週になる予定です。
モチベなるので感想ばんばんお待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終章 小鳥ハ遊ブ夢ヲ見ル 終幕
第14病 かなしみの向こうから始まるプロローグ


「おーい、縁ー」

 

 誰かが、俺の名前を呼んでいる。

 

「縁、ここで寝てたら風邪ひくよ。もう夏も終わるんだから」

 

 そうだな。確かに夏はとっくに終わった。季節は12月を迎えて真冬そのものだ。

 あれ? でも変だ。真冬にしては随分と、肌に伝わる温度が暖かい。真夏とまでは言わなくとも、残暑の時みたいなちょうど良い暖かさがある。

 

「参ったな、全然起きない……こんなに眠りの深い人だったっけ、君?」

 

 それに気温だけじゃ無い。さっきから何となく耳に入ってきてるこの声。

 これも、何故か聞いてるだけで胸が温かくなる感じだ。

 声質は女とも男とも取れるけど、口調から考えて男のはず。俺には男の声で癒される趣味は無いので、こんな事ありえないんだけど。

 

「おーい、いい加減起きないと、実力行使するけど良いのかい? 河本さんも待ってるんだから」

「──あ、いたいた。2人とも遅いから探しにきちゃった」

「河本さん、噂をすればっていうやつだね」

「噂? 誰の? ……ていうか、え、縁寝てたの?」

「そうなんだよ。さっき僕より早く教室出たのに、何故かここでスヤスヤとね」

 

 何やら声が増えた……のだが、こっちの声も聞くだけで胸が温かく──違う、何だこれ。苦しい? 切ない? とにかく嫌な感じでは無いのにどうしてか、泣きたくなる様な感じがした。

 

「全然起きる気配が無くて、困ってたんだ。どうしようか」

「うーん……もう仕方ないから無理やり起こしちゃいましょ? こう、いい感じに頭をポカーンと」

 

 ──ん? 今もしかして暴力の話をしてる? 

 

「そうだね。ちょうどこの前見た昔の試合の映像でやってみたいチョップがあったんだ。脳天から竹割りって言うんだけど、試してみるよ……全力で」

 

 おいおいおい、ちょっと待て!! そんな全盛期のジャイアント馬場が『人殺しなりたく無いなら手加減して打て』と言われた大技を気軽に試すんじゃない! 

 心地いい微睡にもう少し浸っていたかったけど仕方ない。俺は現状がよく分からないまま、無理やり目を覚ます事にした。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「んぅ……」

「あ、起きた」

「タイミングバッチリね。もしかして起きてたんじゃない?」

 

 起こされたんだ。うるさいし物騒だったから。……そもそも、どうして寝てたのかも分からないが。

 ともかく、俺は意識をハッキリさせてから、さっきから会話してるだけでやけに俺の情緒を掻き乱す2人の正体を明らかにするべく、瞼を開けて──。

 

「おはよう、午後4時に何してるんだい?」

「もしかして、お昼食べすぎたりしてた?」

 

 ──思考が停止した。

 

「あれ? 今度は目をまん丸に開けたっきり固まったね……」

 

 そう言って、困った様に笑うのは、綾小路悠。

 

「まだ寝ぼけてるの? あ、さては昨日また遅くまでゲームしてたんでしょ?」

 

 そう言って、呆れながら嘆息するのは、河本綾瀬。

 

 永遠に、二度と会う事が叶わなかったはずの2人が、今目の前にいる。

 幻や亡霊なんかじゃ無く、生身の人間の姿で。

 

「2人とも……生きてる」

「生きてるって、それどう言う意味だい縁? 僕が死んでる様に見える?」

「……怖い夢でも見たの?」

 

 俺の些細な呟きに、揶揄う悠と、ちょっとだけ心配する綾瀬。

 あぁ、間違いない……中学の制服を着ているけど2人とも、俺の妄想なんかじゃ無くて、本当に本物の2人だ。

 

 俺は──戻ってきたんだ。

 まだ誰も死んでいない、3年前に。

 

「……はは、ははは」

 

 全てを明確に思い出す。

 夢見に殺される前に交わした、塚本せんりとの会話を。

 死んでから辿り着いた幻の七宮神社で過ごした、七宮さんとの時間を。

 

 俺が、全てを賭けて最後の勝負に出た事を。

 そして今、俺は3年前の良舟学園に居る。

 中等部校舎の中庭──多くの生徒が帰ろうとする夕暮れ時。

 大好きな2人に、再会したんだ。

 

「あははははは!」

「……縁?」

「え、ちょっと、本当にどうしたの?」

 

 中庭に居るから当然笑い声は鳴り響く。部活中の生徒や下校しようとする生徒が何事かとこちらを見ているけど、知ったこっちゃない。

 2人にも気が狂ったように映るかもしれないが、しょうがないだろう。

 あぁ──本当に、こんなに愉快な気持ちになるのは久しぶりだ。

 嬉しい、またこうして2人に会えたのだから。幸せだ。

 そして、だからこそ──、

 

「……くっ、うぅ」

 

 これで、もう二度と()()()()は戻ってこない。

 あらゆる思い出、記憶、想い、全てを俺が切り離した、見捨てた、諦めた、無かった事にした。

 

「く、くくく……くははは!」

 

 今なら、誰も俺の慟哭には気付かない。きっと笑い泣きしてると思うだろう。

 だから、泣け。泣いて良い。後悔も懺悔も、幸せを感じてしまった自分への自己嫌悪も、今この時だけは好きなだけすると良い。

 そうして、思いっきり泣いて、泣き終えたら──今を生きる事に全て費やそう。

 

「縁、君の中で何がそこまで面白いのか。いまいち分かりかねるんだけど……もしかして病院とか紹介した方が良い流れかな?」

「……悠?」

「ん、ようやく僕の言葉に返事したね。少しだけ安心したよ……なんだい?」

「ふふ、ふふふ……悠だ、本当に悠が居る。声掛けたら返事してらぁ」

「どうしたって言うんだい、君さっきから本当に──!?」

 

 悠の言葉が驚愕と共に詰まる。まぁそれもそうだろう。

 だって、感極まった俺が悠を正面から思いっきり抱きしめたから。

 

「はははは、その口調本当に変わらねえ! っていうか運動神経良いのに華奢な体してるなお前! 女みてぇだ、ちゃんと飯食ってる?」

「な──なな、なん、なに──くぁぅせでるふとじーふじこるぴー!???!?」

 

 ふふ、テンパってやんのコイツ、喧嘩したら絶対俺より強いくせに。

 

「縁、貴方何してるのよ!?」

「──うわっぷ!」

 

 綾瀬が慌てて俺と悠を引き剝がす。その顔は驚きと怒りが半々になっているものだ。

 普段なら綾瀬を怒らせるのが恐ろしい行動だと分かってるが、今回ばかりはその表情もまた愛おしい。

 ──なんて気持ちが勝ったのか、

 

「だいたい貴方ね──っ!?」

 

 気が付くと俺の右手は綾瀬の頬に触れていたし、綾瀬がそれで硬直するのを良い事に手を下の方へと滑らせて──喉を軽く親指で撫でたりしていた。

 

「よ、よすが……?」

 

 そう声を漏らす綾瀬に合わせて、声帯が僅かに動く。

 そこから鋏が生えてくるなんて可能性は、微塵も無い。

 

「良かった……綺麗だ」

「──っ!?!?!??」

 

 あ、もしかして今の俺、本当に駄目な行動ばかりしてないか? 

 男友達に抱きついて『女みたいだ』とか、幼なじみの顔やのどに触れながら『綺麗だ』とか。端から見て……端から見なくてもアウトだよこれ! 

 その証拠に、悠も綾瀬も顔が茹でた蟹みたいに真っ赤になって、鯉みたいに口をあわあわさせている。

 悠はまだしも、綾瀬にこれをするのは幾ら何でも衝動に身を任せすぎた。つい恋人同士になってからのノリをしたが、今の綾瀬は3年前の綾瀬……まだ幼なじみでしか無いんだから。

 この状況の中、果たして俺が取れる行動といえば、ただ一つだけ。

 

「……ふぅ。さて──じゃあ俺、帰るわ!」

 

 すなわち、この場から急いで退散する事である。

 颯爽と駆け抜けて、校門を出て行った頃。ようやくあの2人の物だと思われる怒声がはるか後方から響いたのであった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 さて、3年前の自分がどういう環境に居て、どう過ごしていたかを克明に記憶している人間はどの程度いるだろうか。

 俺は記憶力にはそこそこ自信があるつもりでいるけど、その時どんなニュースがあったのかはあまり覚えていない。ましてや──今が何月何日なのかなんて。

 

 そのため、俺は家までの帰り道に、途中にあるコンビニに立ち寄った。

 何のためかと言えば新聞を買うためだ。

 高校生になった俺にはスマートフォンがあるが、まだ中学生の俺には無い。周りは持ってる人多いし、何なら小学生の時から待たされてる子だっているのにな。

 なので、手軽に日付を確認する手段としての新聞というわけだ。

 

 俺がまだ夏服を着ている事と、悠曰く午後4時を過ぎてるのにまだ夕陽が沈んでいない事から、なんとなく秋だと推測できるが、推測はあくまでも推測。3年前のいつなのかは分からない。

 夢見が義父に襲われるのは誕生日である11月27日。今日がいつなのかはっきりさせて、Xデーの対策を取る必要がある。

 

 という事で、さっそく財布の小銭をかき集めて買った夕刊の日付を確認した。

 

「9月30日……なるほど」

 

 長すぎず、しかし短くも無い。

 仮に前日とかだったら、今すぐ慌てて下準備するハメになっていたから、助かった。

 

 なら問題は当日どうやって小鳥遊家に侵入して、義父の蛮行を止めるかだ。

 家の住所はもう知ってるから、家に着いたらカレンダーで当日が何曜日なのか確認して、プランを立てなきゃ。

 あぁ、その前に念の為現地に行ってハッキリと場所を覚えておくべきかな。ぶっつけ本番で迷ったりしたら目も当てられないし。

 あと2ヶ月弱の日々で、どれだけの準備と覚悟をしていけるかで、未来の形が決まる。手抜きも横着もして居られない! 

 

「……っと、もう家か……家、か」

 

 考えを煮詰めながら歩いてたら、自宅の玄関の前だった。

 幸い、怒りの綾瀬に追いつかれる事は無かったが……ドアノブに手を掛ける事に、躊躇いがある。

 最後にこのドアを開けた時、今と逆で家から出る時だったけど、俺はすぐ後ろで渚を殺された。

 まさに今、俺が居るこの位置に立ってた夢見の手で。

 

「──っ」

 

 駄目だな……駄目だ。思い出すだけで身体が強張る。

 もし今このドアを開けたら、その先にまた夢見がいるんじゃ無いか……そんなあり得ない事をつい考えてしまう。

 

「はは、トラウマになってるよ、俺」

 

 綾瀬と悠に再会できた喜びで高まっていた気分が、ストンと綱が切れる様に沈んでいく。

 でも、考えてみれば当たり前の事だ。あれだけの経験をして、最終的に殺されたんだ。その時の記憶や感触を明確に思い出せてしまうのに、トラウマにならない方がおかしいって。

 

 だから、今俺があらぬ想像で自分の精神を擦り減らすのも仕方ない。

 仕方ないと受け入れて、それでも言い聞かせよう。

 

 今、ここに、夢見は居ない。

 そして、夢見は今、苦しんでいる。

 

 確かにストーカー行為をしていたが、夢見はそれだけ。実害らしい実害は出してない。

 今の彼女はまだ、ギリギリ被害者の側に居る。素直に同情すべき立場。

 そんな夢見が、この時代の俺の前に現れるのは、物理的に不可能なんだ。そんな自由をこの時代の彼女は持ち合わせていない。

 

 大丈夫、大丈夫……俺は夢見を助ける側なんだから。大事なのは距離感、トラウマと生活して行くこと。

 トラウマを抱えてしまう事を受け入れるんだ。下手に打ち消そうとしたって反動が大きくなるだけ。

 俺はトラウマを拒絶しないから、そっちも下手に俺を刺激しないでくれ。上手に付き合っていこう。

 

「よし──よし、よし……大丈夫、いける。行ける」

 

 乱れかけた呼吸を整えて、気がつけば冷や汗まみれの手を制服でぬぐい、俺は改めて、玄関のドアノブに手を掛けようと思った。

 その直後。

 

「あれ、どうしたの縁、そんなとこで」

 

 背後から聴こえる聴き慣れた声。振り返ると、家の敷地と公道を隔てるブロック塀の間で、両手にたくさん食材を詰めたビニール袋を持って立つ、母さんが居た。

 ああそうだった、この当時はまだ父さんと一緒に海外に出るんじゃ無くて、まだ義務教育受けてる俺達のために残ってたっけ。

 

「鍵忘れてた? また机に置きっぱなしだったんでしょ?」

「え、あぁいや……違うよ。ちょっと昔の事思い出してただけ」

「玄関の前で?」

「あー……まぁ、人生の転機はドアを開け閉めするのと似た様な物だしさ」

「何言ってるのか自分でも分かってないでしょ?」

「ははは……」

 

 苦し紛れな言い訳をしていると、後からひょこひょこと小さな袋を両手で抱えながら、もう1人ブロック塀の端から現れた。

 

「あ、お兄ちゃん! おかえりなさい!!」

 

 俺が見慣れた姿よりまだ幼い、小学4年生の渚が、俺を見つけるや否や、笑顔で駆け寄ってくる。

 

「……」

「お兄ちゃん?」

 

 ジッと見つめる俺を不思議がって、大きな瞳をまっすぐ向けながらキョトンとする渚。

 その姿は、愛らしくて生き生きとしてて、最後に見た事切れる人形の様な姿とはまるで違った。

 それが嬉しくって、本当なら思い切り抱きしめたかったけど。袋の中に卵が入ってたし、学園でそれをしてやらかしたから我慢だ。

 

「……荷物持つよ、重いだろ?」

「え、良いの? ありがとう!」

「あら、急に優しいところ見せるじゃない。今日は機嫌が良いのね」

「そうだね。とても良い気分かも」

「それなら、今日は夕飯作るの手伝って貰おうかしら」

「任せて」

「……本当に機嫌が良いのね?」

 

 この頃の俺は──というか頸城縁の記憶を思い出すまでは、料理の手伝いすらしなかったもんな。母さんがたじろぐのも仕方ない。

 

「あ、アタシも! アタシもやる!」

「あぁ。一緒に母さんの手伝いしような」

「うん!」

「何か悪いものでも食べた……?」

 

 母さんから見て急変した俺を胡乱な表情で見ながら、玄関の鍵を開けて家に入ってく母さん。

 俺もそれに追随して、渚と手を繋ぎながら『ただいま』を言った。

 

 この日、渚と母さんの3人で作った夕飯は涙が出るほど美味しかったのは、言うまでもない。

 

 

 

 ──to be continued





今回から最終章の最終幕、正真正銘終わりに向けて突き進みます。
プロローグなのでかなり短めな内容に収まりましたが、更新頻度が上がるなら今後も5千〜7千文字程度での更新もアリなのかな?と思う所もあったり。

久々に出てくる奴が居て、少し台詞回しがどうだったか忘れちゃってました。
暗くない話を書くのもまた、何話ぶりでしょうか……。
とにかく、引き続き終わりまで頑張ります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15病 助けなきゃ/ざまあみろ

「さて──縁?」

「昨日のことについて」

 

『しっかり説明してくれる(の)よね?』

 

 3年前の9月30日に戻った翌日。

 つまり10月1日。

 俺は登校して教室に着いてから早々に、親愛なる2人に教室の隅まで追い詰められていた。

 理由はもちろん、俺が前日の午後4時過ぎ……つまり俺がこの時代に飛んだ直後にやらかした行為に他ならない。つまりその……抱きしめたり気障な事言ったりだな。

 もちろん俺なりに理由はあるとは言え……あるとは言えだ。高校2年生よりもっと多感で思春期最高潮な感じの2人相手にそれをするのは、大いなる過ちだったと認めざるを得ない。

 

 金曜日なので朝から浮足立ってるクラスメイト達が、野次馬感覚で俺たちを見てる。

 俺と悠はこの当時、教室で派手なプロレスをして先生にこってり叱られた事があるので、また何かやらかすんじゃないかと期待してる奴もいるんだろうが、今回はただ俺がなじられるばかりだぞ。

 もっとも、2人ともみんなが見てる前で暴力的な行為はしないはずだから、うまく言葉を尽くせば誤魔化せる──、

 

「縁、君の言い訳次第では僕は殴る事も辞さない」

 

 駄目だコイツ、3年分物事の判断が幼い。

 え、高2と中2ってこんなに判断力が違うものだっけ? そりゃ俺も本来はこの頃だいぶガキンチョで、小学生と変わらない精神年齢だったかもしれないけどさ、悠もそうなの? お前綾小路家の人間じゃん? 

 金持ちのご令息がそんな直接的な思考で良いと思って──あぁそうだ、コイツあの咲夜の従兄だったわ。

 

「……実は似た者同士だったかぁ」

「似た者同士?」

「あー、何でもない」

 

 恐らく、この先何度も咲夜と会ってあの我が儘な姿を見ていくうちに、悠の性格はマイルドな方向へ矯正されたんだろう。

 そういや、この頃は悠が転校したばっかの年だし、なんか頻繁にヤンチャしたっけなぁ。

 懐かしいなあ、『今の時代の話』なんだけど。

 

 

「まず先に言うが悠、暴力は良くない。話し合おう。特に最近の俺はその手の痛い想いをかなりしてきて、だいぶ参ってるんだ」

「……そんな事ここ最近の君にあったっけ?」

「一昨日のクラス別のドッジボールで顔面に当たった事?」

 

 そんな事あったっけ俺。

 いや、あった気がする。確か俺が最後の1人になってピンチだったけど、顔面セーフのルールでボール確保してから、外野と協力して逆転したんだっけ。

 あの時はヒーロー扱いされたっけなぁ。懐かしいな、『一昨日の話』なんだけど。

 

「そう、それ。実は言わなかったけどあの後首を痛めてる事に気づいてね。お陰で夜もぐっすり眠れなくって」

「それ本当? 昨日は貴方、全然そんな素振りじゃなかったのに」

「強がりだよ強がり。しかも昨日なんて眠気も凄くってさぁ、放課後まで我慢してたけど、つい中庭で悠と合流するの待つ間に寝ちゃって……」

「……じゃあ昨日君が変だったのは」

「眠気と寝ぼけから来る奇行だったと思ってほしい。正直すまなかった」

 

 両手を合わせて謝る。話の9割は嘘っぱちだが、謝意は本物だ。

 とは言っても、だいぶ無理がある言説だけど、この頃の2人には何とか通用したみたいだ。

 みるみるうちに、剣幕が薄らいでいくのが分かる。

 

「……まぁ、そういう事なら」

「ちょっと納得できない所もあるけど、そういう事にしてあげる」

「んー! ありがとう2人とも! 優しくて大好きだ!」

『そういう所(だ)よ!』

 

 息の合った突っ込みを披露してくれる2人。

 3年前の2人といえど、未来の2人と変わらない──いやむしろ、幼さを残してる分未来よりノリが良い姿を目の当たりにできて、またまた嬉しくなっちゃうな。

 

「あははは、悪い悪い、今のはわざと」

「知ってるよ、でも悪乗りはこれっきりで最後にしなよ?」

「うん、分かってる。……あーでも、朝からホント楽しいなぁ」

 

 ほんのちょっとまで灰色だった日々が、急に多彩になったみたいだ。

 こんなに柔らかくて、暖かくて、優しい気持ちになるんだったら──、

 

「もう、今死んじゃっても良いなぁ」

「──え?」

「……ん、あ、えぇっと」

 

 衝動的に出た言葉だった。

 なんというか、心の底から今一瞬、そう思った。

 2人とも、俺が満面の笑みで不穏な事を言い出すものだから、少し顔がこわばってしまう。

 

「死んじゃっても良いくらい……面白かったってだけだよ! そんなマジに受け取るなって、もう!」

「んー……本当? 貴方昨日からやっぱりなんか変よ?」

「そんな事ないって。いや少しはテンション変かもだけど、気圧のせいさ気圧の!」

「何か怖い夢とか見てない? 嫌な事があったら、ちゃんと言わなきゃだめよ?」

「……大丈夫だって、本当に」

 

 悪夢より怖い現実を見たし、それはもう無くなったから。

 

「あぁそれよりほら! もうすぐHR始まるよ、準備しよう」

 

 そう言って教室の時計を指さすと、タイミングを合わせたかのようにHR開始5分前の予鈴が鳴った。

 こうなっては追及もしようがない。綾瀬は渋々と言った様子だが納得して自分のクラスに戻っていった。

 残るは同じクラス……というか隣の席の悠だが。

 

「…………」

「悠? そんなじっと見たって俺は照れもしないぞ?」

 

 急に静かになって、じ~~っと俺を見るばかりだった。

 コイツは俺の周りの中でもいちばん、ずば抜けて察しが良い奴だからな。3年後でも俺の中に頸城縁の人格が混ざってるのに、何となく気づきそうだったし。

 とは言え、とは言えだ、俺が未来から意識だけ戻ってきた状態だ。なんて発想が出てくるワケも無い。その辺は安心だ。

 

 ……それにしたって、さっきのは軽い失言だったなぁ。

 “死んでもいい”なんて言葉、この頃の俺は言わないしな。2人が違和感を抱くのも無理はないって言うか、当たり前だ。

 それでも、気が付いたらそう口から出てきたワケで。……今後もこの手のぽろっと出る言葉には注意しないとな。

 

 前世の記憶を思い出した当時に似た、独特の緊張感を感じつつ、俺は3年ぶりの中学ライフに身を投じるのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 タイムスリップした場合、知識で無双できるのか問題。

 俺の中の結論。

 

 そうでも無い。

 

 厳密に言えば、教科による。

 

 例えば国語とかは、正直高校とやってる事はあんま変わらないって言うか、古典が無い分だいぶ楽だ。

 でも、教科書の内容なんてあんま覚えてないから『この時のこいつは何を想ったか』なんて問いで先生から指名されても、ちょっと考えたりする。

 数学は高校数学の地盤が中学数学なワケだし、出来ないわけが無いんだが、所々でこの当時の単元でしかやらない考え方や解き方があるので、そこで躓く。

 理科や社会も似たようなもの。とにかくどれについても共通して言えるのが、分かる部分もあんまりやりすぎると、急に頭良くなったみたいになるから危ないという事。

 

 それと、分からなかったり答え思いつくのに若干時間かかった所あるのが地味に恥ずかしかったりもする。

 ここ、中高一貫とは言えちゃんと試験はあって、俺それを受かったハズなのに……。

 

 まぁ、学力については夢見に監禁されてた数週間のうちに、尊厳や血液と共に落ちていたと思う事にしよう。

 問題は、授業中でもお昼の時間帯でも、とにかく悠が隙あらば俺を怪しげに見てる事があった、という1点に尽きる。

 朝の一瞬の発言がそんなに引っ掛かるものか? というくらい、もう露骨にコイツ俺に何か変化が起きたと思ってる。ヤバい。

 高校生の悠ならアレで流してくれたりするのに、何で中学生ってだけで──、

 

 あ、いや、待て。中学生? 

 それって、つまり……。

 

 納得する。あぁなんだそう言う事か。

 それならそれで、ちょっと対策も見えてきた。

 精神のリストカットみたいな事をしなくちゃだが、下手に怪しまれる時間が増える余暇マシだ。

 俺はさっそく、この天才的ひらめきのもと思いついたプランを、放課後に実行しようと考えた。

 

 

 

「ぅあー、やっと休みが来るー」

 

 昨日とは違い、今日は悠と綾瀬の3人で下校。

 明日は土曜なので、まっすぐ家に帰るのではなく途中の駄菓子屋(3年後の時点で閉店した)に寄る。

 その途中、俺は早速行動に移した。

 

「ところで、2人とも。聞きたい事があるんだが」

「なに?」

「……」

 

 素直に反応する綾瀬(可愛い)と、無言ながらも首を傾げて反応する悠(女子ウケしそうな仕草)。

 そんな両者の反応を見てから、俺は出来るだけドヤ顔ってのを意識しつつ、言い放った。

 

「昨日からの俺……どうだった?」

「……へ?」

「どう、とは?」

 

 へんてこな質問に困惑する2人。

 良いぞ、その反応が欲しかった! 

 

「なんていうか、こう……普段よりミステリアスって言うか、雰囲気違ってカッコいい~みたいな所感じなかった?」

「……え、もしかしてそれ」

「昨日から、君の様子がおかしかったのって」

「あーそうそう!? やっぱり不思議なオーラ醸し出せてた俺? イメチェン出来てるっぽいかな!?」

『……はぁ』

 

 1人はしゃぎながら言う俺と、呆れてため息をこぼしたり、首を振る2人。

 そう──まさにこの感じ! これが欲しかったんだよ俺は! 俺だけが盛り上がって、他2人が冷めた目で見てくる状況をな! 

 

 今、2人には俺がへんてこな発想で奇行をしてた痛々しい奴に見えているだろう。

 そう、つまり俺が演じているのは──厨2病! 

 中学生男子の多くが発症する、薬の無い病。あり得ない想像や妄想を現実に起こりえると思い違ったり、カッコいいの意味を履き違えた愚かな行動に自ら手を染める、黒歴史生産シーズン! 

 本来、自分の首を絞める恥ずかしい言動ではあるが、俺の変化を全て厨2病のせいにしてしまおうという発想に至れたのは流石俺。伊達にヤンデレの地雷から逃げてきただけはある。

 

 そして、この思惑は見事に功を奏したのだと、2人の──特に悠の反応から分かる。

 

「縁、友人としてこれは敢えて言わせてもらうけど……だいぶ! 痛々しいよ!」

「なん──だと……?」

「アタシも同じ意見。なんか普段より少し大人だなって思ったけど……今すぐにやめるべきね」

「……そんな」

 

 あからさまにショックを受けたふりをする。

 内心は某少年漫画の主役よろしく『計画通り』と邪悪な笑みを浮かべているのだが。

 

「はぁ……僕の考えすぎだったか」

 

 そうポツリとつぶやく悠の言葉を俺は聞き逃さない。

 やっぱりな。悠もこの頃はお年頃、俺に厨2病的理由で人格に変化が起きてるのではないかと、少し疑っていたようだ。

 例えば、第二の人格が目覚めたとか、前世の記憶を思い出したとか、未来からタイムリープしたとか。その手のこっ恥ずかしい想像だ。

 まぁ、その内2つが正解なんだけどな! 本当にどうなってんだ俺の人生、フィクションじみた出来事は1つだけでお腹いっぱいだよ。

 

「お前らがそういうなら、ちょっと気をつけるわ……」

 

 あくまでもショックを受けた体裁で、俺は肩を落としつつ言って、この問題に決着をつけた。

 多少の恥ずかしさは残るものの、今後起こりうる面倒な展開を回避出来たと思えばまあ、安いもんだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ねえ縁、明日は空いてる?」

 

 引き続き駄菓子屋に向かう途中、綾瀬がそんな事を聞いてきた。

 

「ん、どうして?」

 

 この手の質問にはすぐ答えるより、理由を先に聞きたくなる。

 尋ねると綾瀬は『えっと……』とやや口ごもりつつ、カバンから2枚の細長い紙、チケットを取り出した。

 

「今日、クラスの子から押し付けられちゃって……何かデートの約束してたっぽいけど、予定合わなくなったからあげるって」

 

 見ると、駅前のビルでやってるスイパラのチケットだ。

 土日限定で学生がただで楽しめるもの、らしい。

 

「ア、アタシもたまたま休みだし、やる事無かったから……他に行く人も居ないから、あなたが暇してるならどうかなーって……」

 

 あぁ……なるほど。

 こんな事、俺の記憶にあったっけ、いや多分ないな。

 でも、似たような誘いは今まで何度も綾瀬からあったのは、思い出した。

 当時は普通に誘ってるだけって認識だったけど、今の俺なら分かる。普通にこれデートのお誘いじゃん。

 全然意識して無かったな……日によっては男友達と遊ぶから無理って断る事も多かった気するし。

 

「え、えっと……どう、かな?」

 

 顔が赤いのは夕焼けのせいだけじゃない。

 照れ隠しなのか、頬を人差し指で軽く掻きながらこちらを見る綾瀬は、とてもいじらしい。

 

 ん〜〜〜〜可愛い。滅茶苦茶可愛い、3年前の俺の彼女本当に可愛い。

 

 もう本当、ヤンデレ属性あるの分かってても本当たまんない。好き。

 そもそもヤンデレって病まなきゃ凄く可愛いし、何なら病んでも可愛らしい所があるんだって事、今の綾瀬を見て思い出したかもしれない。

 夢見という怪物と一緒にいる事が多過ぎたせいで、感覚が世間ズレした事を認める他ないな。

 

 とは言っても、抱きしめて愛を囁くような馬鹿な真似はしない……そんな事3年後の綾瀬にだってしないけど。

 この綾瀬はまだ幼馴染であって彼女では無い上に、3年前の姿だから、今俺の心に吹き荒れてる気持ちはなんかこう……姪っ子とか後輩を愛でるような気持ちに近い。

 この頃からしっかり『野々原縁』に好意を示してくれてたんだな……そりゃこんな健気なのに、全く振り向かないどころか他の女のために頑張ってたりしたら、ヤンデレになるのも仕方ない気がする。

 結局、ヤンデレがヤンデレになるのは男側のせいって事になるのか。

 いや待て、それで言ったらやっぱり夢見って異常過ぎねえか? 本当なんなんだアイツ。恐いよマジで。

 

 ──っとと、いけないいけない。久しぶりに長々と余計な事を考えてしまった。綾瀬も返事を待ってるし、早く答えないと。

 

 という所で、問題となるのが、俺明日予定入れてるんだよね。

 さっそく夢見が住んでる場所に行って、迷わないように現地調査をしようと思っていた。そのために渚からの遊びの誘いも断って、昨日は涙目の渚を慰める(病ませない)ために一緒のベッドで寝たんだから。可愛かったなあ。

 

 という事で、渚を振ったのに綾瀬といるわけにもいかない。

 ハッキリ言って物凄く口惜しいし、何なら偵察は明後日にズラそうかと思った位だけど、心を鬼にしよう。

 

「ごめん綾瀬、実は明日──」

 

 ──いや待て!? 

 

 瞬間、頭の中で警告が鳴り響く。

 渚を病ませないために、俺は昨日一緒に寝た。それで最低限のケアはした。だからってわけじゃないが、渚についてはまだ心配は無い。

 だが、綾瀬の誘いを断ったら、綾瀬の中に蓄積されるだろう病みゲージの処置はどうすればいい? 

 ここで綾瀬の誘いを断るのは簡単では無いが不可能でもない、だけどアフターフォローになる行動は無いって言うなら、それは綾瀬のヤンデレ化を闇雲に促進させるだけじゃないか? 

 

 父さんが以前、こんな事を話した事がある。

 

『いいか縁。クレジットカードやPayPayは便利だし、支払いはその場その場では些細な物に感じるだろう。でもそうやって“些細な額”が積み重なって、最後には馬鹿にならない結果をもたらす。俺はそうやってウン百万も借金をする奴を、若い頃たくさん見てきた』

 

 俺が今やろうとしてるのも、その“些細な支払い”では無いのか? 

 何か理由が必要だ、俺が今この場で綾瀬を完全に納得させるだけの、完璧な理由が……だけどもう俺は口を開いてしまった、言葉を発してしまった、もうこのまま話を続ける他ない! 

 というか何だか懐かしいなこの葛藤! もう2度と味わいたくなかったよ! 

 

「……ダメなの? もしかして、他に誰かと行く予定でもあるの……?」

 

 ああほらやっぱり、そういう方向に考えが向き始めてるよ綾瀬! 

 駄目だ、最悪の場合このまま断っても『じゃあ何処に行くの』『何のために行くの』『誰と会いに行くの』と根掘り葉掘り聞かれる事になる可能性が高い! 

 そうなったら夢見の所に行くなんて言えないし、でも言わなきゃ絶対嘘だとバレるし、かと言って言えば綾瀬が一気にヤンデレ化して何し出すか分からない……。

 

「えっと……」

「答えて。ダメなの? どうなの?」

 

 ヤバい、完全にやらかした。地雷思い切り踏んじゃった。

 もうこうなったら、一か八か明日の予定を素直に話すしかない、そう覚悟を決めた直後。

 

「──ごめん、河本さん。僕と先約があるんだ」

 

 救いの手は、隣の親友から差し伸べられた。

 

「え、そうだったの?」

 

 綾瀬も直前までの剣幕が嘘のように雲散霧消し、驚きつつ悠に尋ねる。

 

「実は、母さんに贈り物をしたくてね。最近は仕事で海外に出てることも多くて、久々に帰国するから。……それで、縁に一緒に選んで貰おうってお願いしてたんだ」

「そっか……それなら仕方ないか。でも縁、それならそうとハッキリ言ってよ、口ごもる様な事でもないでしょう?」

「そ、そうだな、スマン……」

「お母さんに贈り物なんて、今どき恥ずかしいから、気を遣って隠そうとしてくれたんだよね。ありがとう縁」

「いや、礼はいいよ……ハハ」

 

 こ、こいつ……純度100%の嘘をここまでスラスラ言えちゃって……! 

 助けられた立場でこんな事思うのは失礼だと百も承知の上で、あえて言わせてくれ、恐い。

 っと、いけねえ。俺からもアクションかけないと。

 

「そゆことで、本当にごめん! 日曜なら空いてるから、それでダメか?」

「日曜は家族と出かける予定なの……」

「スイパラはそのチケットの店だけじゃ駄目かい? もし良かったら銀座に来週、父さんの会社の系列で新しく開く店が同じような催しをするから、僕の方で席を用意しておくけど?」

『え!』

 

 またも予想外な援護射撃に、今度は俺と綾瀬の両方が驚きの声をあげる。

 それを見てクスクスと笑いつつ、悠はなんて事もない様に返す。

 

「せっかく河本さんが勇気振り絞って誘ったのに、僕が彼を奪っちゃったからね。その穴埋めとしては当然さ」

「ゆ、勇気とか別にそういう訳じゃ無いけど……ありがとう」

「悠……お前」

「ふふっ」

 

 微笑みつつ、俺だけに分かるようにウインクする悠。

 今ほど悠が味方で良かったと思った事は無い。というか、悠が隣にいる事が久しぶりだから、こいつがこんなに気が利いて機転もいい奴だって忘れてた。頼り甲斐しかねぇよ……。

 

 その後、悠が紹介するお店の凄さに興奮する綾瀬と当日どんなタイムスケジュールにするか決めつつ、俺たちは駄菓子屋で買ったリングドーナツとブタメンを食べて帰ったのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その日の夜。

 部屋で渚とゲームしつつお喋りしてたら、母さんが俺宛に電話来てると言ったので、一階のリビングに向かう。

 俺にまだスマートフォンが無いから、電話のやり取りは家の固定電話でするしか無い。不便だがどことなく懐かしい気持ちで待機中の受話器を取る。

 

「はい、縁です」

『こんばんは縁』

 

 電話の先は、本日俺を救ってくれた悠だった。

 まあ、電話してくるだろうなと思っていたので、それ自体は驚かない。

 電話の目的についても、当然察しついてる。

 

「今日はありがとう。正直どう言えばいいか困ってたから」

『気にしなくて良いよ、ああでも言わなきゃ河本さん、根に持つだろうと思ったからね』

「ホントすまん……」

 

 綾瀬がヤンデレなのかはともかく、結構重いタイプなのはこの当時から悠も察してたらしい。

 ますます、頭が上がらない。

 

「それで、電話してきたのは理由を聞くためだろ?」

『まあね。今日の狼狽え方はあまり見ない物だったし、何か特別な理由があるなら、また同じ場面になっても僕がフォロー出来るように把握したくてね。……女の子に会う約束だとしても、僕になら話せるだろう?』

「ははは……本当お前凄いな」

 

 完全的中とまではいかずとも、俺がみんなに話しにくい事情を持ってる事までは言い当ててる。

 だけど、どう説明したら良いのか問題は悠にも当てはまる。俺が未来から来たって話してすんなり収まるワケが無い。

 一度厨二病を装った手前、逆に素直に話すのが難しくなってしまったからだ。

 かと言って『夢見の住んでる家が何処にあるか確認しに行く』とだけ話したって、それはそれで悠にとっては違和感しか無い行動。

 いっその事、今回も厨二病装って『自分探しの一人旅をしたい』なんて理由にしておこうか? ……案外その方が疑惑持たれずに済みそうだな、よし決定。

 

「実は……」

『あ、もしかして君の口調が変わったのと何か関係してるのかな』

「っ!?」

 

 俺の言葉に被せて、悠がまた爆弾発言をしてきた。

 思わず身体がビクッと動いてしまうが、出来る限り動揺を表に出さない事を意識しつつ、俺は悠の揺さぶりに平然を装い答える。

 

「口調? そんな変わってないと思うけどな、お前らに散々やめろって言われたし」

 

 確かに未来の俺とこの頃の俺で3年の開きはあるが、その中で口調に露骨な変化が起こるなんて事はそう無いだろう。

 悠達に厨二場の演技と誤魔化した部分以外で、何か大きく違和感や差異が見られる点は無いはず。

 

 そう思っていたが──、

 

『確かに、君自身の口調は普段通りだよ。多少変わった所で、それが何処かなんて言い当てるのは無理だ。でも──僕に関わる変化を、僕自身が見逃すわけが無い』

「ゆ、悠に関わる変化?」

 

 そんなのあったか? 

 悠の言ってる事が分からずにいると、楽しそうに声を転がしながら悠は答えた。

 

『そう、それだよ縁。君、昨日中庭で起きてからずーっと、一貫して僕を“悠”と呼んでるだろう?』

「それが何か──あっ!」

 

 そこまでヒントを出されて、ようやく思い出す。

 そして、自分が致命的な部分でミスを犯した事に気づいた。

 しまった! この頃確か、俺は──、

 

『君は昨日の放課後まで、僕を“悠”では無く“ユーヤ”と呼ぶ事の方が多かったんだ。僕が別の名前で呼ぶようにお願いしたけど、“ユーヤ”と呼ぶ事にすっかり慣れてた君は、両方で僕の名前を呼んでいた』

 

 そう、その通り。

 今だからこそ俺は悠を“悠”としか呼ばないが、俺は中3の春頃までよく2つの呼び方を混ぜて使ってた。すっかり忘れていた……やらかした。

 今回ばかりは流石に厨二病で押し切るのも難しいだろう。指摘される前に自分から言えばまだ弁解の余地はあったが、すっかり動揺した今では無理だ。

 

『……反論の余地はない様だね?』

「やるだけ無駄かも」

『となると、昨日からの変な行動も素かな?』

「それは演技」

『……そっか。まだ言えない事があるんだ』

「君の様な感のいいガキは──」

『好きだろ?』

「正直大好き、でも今は発揮して欲しくなかった」

『あはははは!』

 

 観念する。せざるを得ない。

 馬鹿正直に話すのは無理だけど、悠に何もかも隠したままってのは、どうやら無理な様だ。

 

「……明日、何処に行くのかは話すよ。でも、どうして行くのかは言えない」

『それは……』

「言っても信じて貰えない、とかじゃ無くて。言いたくない」

 

 言ったら、まだ未確定の未来が、俺がこれから何をしたって確定されてしまう様な気がするから。

 

『……うん、分かった。君が何処に行くか聞けるだけで、良しとするよ。君の変化についてはこれ以上聞かないことにする』

「ありがとうな親友、助かるよ……いつも」

 

 絶妙な距離感を尊重してくれる事に、心からの感謝を述べる。

 すると悠は5秒くらい黙ってから、何か納得した様な口調で言った。

 

『親友、か……君にとっての僕はそうなれてるんだね、良かった』

「何言ってんのさ、今更」

『ふふ、そうだね』

「だろ?」

 

 そう言って、お互いに笑い合ってから、改めて俺は明日の予定について簡潔に話すのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ガタンゴトン、というオノマトペは電車に乗ってる時に使われる物だけど、最近の電車は言うほどガタンもゴトンもしない気がする。

 少なくとも、俺が夢見の住む場所に向かう3時間50分弱の間、それらしい大きな揺れは無かった。……その分、途中で眠ってしまい危うく乗り換え駅を過ぎそうになったりしたけど。

 

「ふぁ〜……やっと着いたか」

 

 変装用のキャップとマスクを付けながら、俺は電車からホームに降りる。その後ろから、トコトコと着いてくるのがもう1人。

 

「長かったね。わざわざ電車に拘らなくても良かったのに」

 

 俺と同じく、変装用にサングラスと目深のパーカーのフードを被る悠。

 普段のカジュアルな格好と違い、どっちかと言えばアウトロー寄りの服装だがよく似合ってる。

 

「元々、電車で行く予定だったからな……」

 

 悠の姿を見てきゃーきゃー言ってる周りの黄色い声を聞きながら、俺は改めてキャップを深く被り直す。

 

 電話の中で俺が今日、夢見の住む町に行くと白状したら、まあ案の定反対された。

 それでも行く必要があるから、と譲らないでいると、折れた代わりに出した条件が、今回の同行である。

 

「言ったろう? 君は彼女の事を単なる従妹だと思ってる様だけど、本当は危なっかしい所があるんだって」

「知ってるよ、ストーカーしてるし、盗撮もしてるんだろ」

「……それ、どうして知ってるんだい?」

 

 サングラス越しにも、悠の目が驚きでまん丸に開いてるのが分かる。

 知らないと思ってて当然だろう。悠は基本的にこの事を、死ぬまで誰にも言わなかったから。……夢見との約束を守って。

 

「聞いたんだよ、夢見から」

「いつ?」

「……ここに来る前に」

「そうだったんだ……話してたのか、彼女」

 

 察しの良さが空回って、今回は都合のいい様に勘違いしてくれた。

 

「じゃあ行こう。会うつもりは無いから、さっさと家の場所だけ把握して帰るよ」

「了解、道は分かるの?」

「住所は知ってるから、あとは看板頼り」

「……スマホ、無いんだっけ」

「ないよ」

「……やっぱ僕来て正解じゃないか」

 

 そう言ってポケットから悠が取り出したのは、俺には無い文明の機器。携帯用薄型液晶通信端末……まぁスマートフォンだな。

 

「地図アプリあるから、住所を入力しなよ。あ、使い方はわかる?」

「分かる分かる、ありがとうな」

 

 そういえば中2で持ってないの俺くらいで、悠は普通に持ってたな。

 来てくれたなら最初から頼めば良かった。抜けてるところ多いぞ俺、気をつけろ。

 

「──よし、これで迷わず行ける」

 

 住所を入力して、駅から目的地周辺までの道行が明確になった。

 これで右往左往して時間を浪費する心配も無くなった、いい感じに事が進んでて助かる。

 

 スマートフォンに表示されてる時刻を見ると13:30。

 帰りのことを考えると、1時間も居られない。

 俺達は足早に駅を出て、夢見の住む家に向かった。

 

 

 

 今更なことだが、俺の今回の目的は夢見に会う事では無い。

 

 夢見の住む場所と俺の家まで、移動距離が何時間掛かるのか。

 駅から家までの道はどうなってるのか。

 家の作りはどうなってて、仮に侵入するなら何処から行けばいいのか。

 

 これらを把握するのが目的だ。

 なので、家にたどり着く事それ自体よりも、過程の道のりをしっかり覚える方が大事。

 何処の看板がある道を右に曲がるとか、あの屋根の家を左にとか、次ここに来る時はもうスマートフォン無しで行けるように特徴を把握しつつ進んだ。

 

 そのせいで──とは言わないが、地図アプリでは17分で辿り着くところを、大幅に過ぎた31分掛けて、俺達は夢見の家が見える所まで辿り着いた。

 

「あそこなの?」

 

 悠が曲がり角から顔だけ出して、家を見つつ聞いてくる。

 

「そうらしい」

 

 俺が答えると、悠はやや腑に落ちない様に言った。

 

「それにしては、随分と人が暮らしてる家って感じしないね……廃屋って程じゃないけど」

「それは、確かにな……」

 

 俺も曲がり角から顔を出して家を見ると、同じ感想を抱いた。

 ボロいとか、安っぽいとかじゃ無い。何となく暗い。よく見ると家の前に花壇とか置かれてるから、無人じゃ無いのは確かだが……生活感が無い。

 夢見の話を思い出す限り、確かに華やかな暮らしとは程遠いが、それにしたって──ッ! 

 

「悠、隠れろ」

「え、何──うわっ」

 

 俺は悠を無理やり曲がり角の奥へ、家が物理的に見えない位置まで引っ張った。

 

「危ないじゃないか、急にどうした……どうしたの?」

 

 文句を言おうとした悠は、言い切る前に俺の様子を見て怪訝な表情になる。

 それもそうだろう、だって、

 

「……っ」

 

 俺は自分でも分かるくらい顔を青くして、体を震わせているのだから。

 

「……いた、夢見が」

「えっ、ホントかい?」

「あぁ。もう少しで多分家に入ると思う」

 

 俺が曲がり角から家の雰囲気を見て不思議に思ってると、見てる方向の先から、見慣れた姿が視界に映った。

 ピンク髪の、スカートを着た3年前の夢見。それが両手に袋を抱えて帰宅しようとしていた。

 

 この時代の夢見は、まだ被害者。それは分かってる。

 俺をストーキングしてた事はあったが、それはまだ人が死ぬとかって話では無いレベル。

 むしろ、これから彼女は更に酷い目に会うわけで、あくまでも俺を監禁して恋敵全員を殺そうとした、あの狂気に塗れたヤンデレ女とは違う。

 だから、姿を見ただけでこんなに身体が強張る必要も無い。

 

 ──全部分かってる! 

 

 分かった上で、それでも、身体は夢見への恐怖に染まった。ものの数瞬で。

 

「……無理だ、帰ろう」

 

 家の作りとか、侵入経路とか、もうそんなのは後回しで良い。後日にしよう。

 このまま此処に居続けたら、せっかく覚えた経路も全部忘れてしまいそうだ。

 

「……うん、そうしよう」

 

 何か尋常では無い事が起きてると分かった悠も、深く尋ねる事はせず賛成してくれた。

 

「ちゃんと歩けるかい?」

「歩ける……歩く。大丈夫」

「よし、それじゃあ早く──」

 

 悠が俺の背中を軽く支えつつ、2人で踵を返して帰ろうとした、その直後。

 

 

『遅いのよこの馬鹿女!! たかが買い物にいつまで掛かってんのよ!!』

 

 そう怒鳴り散らす女の声が、遠くから耳朶に響く──なんて物じゃない、叩きつけられた。

 

 思わず後ろを振り返る。しかし当然俺たちの背後には人なんていなくて──じゃあ何処から今の怒声は? そう思った矢先に、答えが分かった。

 

『ごめんなさい、ごめんなさい!』

 

 聞き覚えのある──しかし、聞いたことも無い謝罪の声。

 それは、紛れもなく夢見の声だった。

 

「よ、縁……あの声って」

「……あぁ。そうだろうな」

 

 曲がり角からもう一度顔を出して、遠巻きに家を覗く勇気は無い。

 だが、その必要も無いほど、2人の声は家から離れたここまで聞こえる。

 

「虐待……誰がどう見ても、アレは良くない会話だよ。縁……君はこれを知ってて今日ここまで──縁?」

 

 悠が真剣な面持ち俺を見るが、俺はもう、何をどう思えば良いのか分からなくなっていた。

 

「……聞いた話と、少し違うぞ」

 

 確かに酷い目に遭うとは聞いていた。

 だが、実際に俺がこうして耳にしてるのと、夢見があの日々の中、まるで些細な事のように話した過去は、印象に大きな隔たりがあった。

 

 納得する。せざるを得ない。

 大きな悲劇が2つ、彼女を歪ませたのだと思ってた。

 だけど違う、彼女は恒常的に追い詰められて、丁寧に歪んでいったのだ。

 

 恐がってる場合じゃない。トラウマに屈してる猶予が無い。

 とは言え、無策のまま今すぐあの家に駆け込んでも、事態が悪化するだけ。

 

 助かる必要がある、助けなきゃいけない。

 

 でも──苦しんでる夢見の声を聞いてると、胸がすくような気持ちになってる自分もいる。

 苦しめられた、みんな殺された、ろくに仇も取れなかった。そんな夢見が今、母親に虐待されてると知った。

 

 同情すべきか? 

 それとも、ざまあみろと歓喜すべきか? 

 分からない、自分の気持ちが分からない。

 俺は、この事実を知って本当はどうしたいのか──、

 

「縁、帰るよ!」

 

 混濁とした意識を、悠の声が現実に引き戻す。

 

「……あぁ、そうだな」

 

 額に溜まった汗を拭いつつ、俺は今この瞬間に置いては、帰ること以外の思考を放棄した。

 

 今度こそ踵を返して、帰る俺たちの背中には、延々と夢見の泣きながら謝る声が響いていた。

 

 

 ──to be continued




悠くんとの会話が楽しくて仕方ない奴いる?
A.作者です…

今週はあと一回更新できると思います。平和パート久々すぎてもっと書きたくなる自分との戦いですね

感想お待ちしてます〜


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16病 moratorium【1】

法事や体調不良で遅くなりました。


「……」

 

 帰りの電車の中、俺も悠も黙ったまま、何も言えずにいた。

 それもそうだろう、あんな離れた所から聞こえてくる程の怒鳴り声と、泣きじゃくる声を聞いた帰りで、平然とお喋りできる方がおかしい。

 

 俺はガラガラの座席に座り込んで、右手で顔を覆いつつ、頭の中を整理する。

 

 普通じゃない。尋常じゃない。異常過ぎる。

 毒親とかネグレクトとか、そういうジャンルの中でも特に暴力的な環境に、夢見はいた。

 

「ひとつ、聞いていい?」

 

 俺の隣に座って、正面の車内広告を見上げながら悠が言った。

 

「君、アレを知ってた?」

 

 アレが何を指すのかは、明白だ。

 そして俺の答えはも、シンプルだ。

 

「予想は、してた」

「でも予想以上だった、と?」

「……叔母さんはイカれてる」

 

 “家庭”と言う名の、自分が愛されて、常に上位に立ち続けられる居場所に固執した人。

 “家庭”が築けるのなら、相手が善良で真っ当な人間でも、自分を金蔓扱いしてる元半グレのホストでも、自分を愛してくれるなら構わない。

 

 それが、夢見から聞いた話で構築した叔母さんへのイメージだった。

 夢見にとっては叔母さんは母親だが、叔母さんにとって夢見は叔父さんの死の遠因──自分から(自分を)愛する夫と“家庭”を壊した忌々しい存在だったに違いない。

 そんな叔母さんにとって、夢見はもはや娘というよりも、新しい夫と“家庭”を脅かす危険な存在、夫を若さで誘惑するかもしれない恋敵にも見えたんだろう。

 

 事実、最終的に叔母さんは夢見を殺そうとした。亡き前夫の形見とも言える実の娘を、邪魔に思った。

 

「予想はしてた。叔母さんは夢見をもう、家族扱いしてないんだろうって。だけどあんな、誰が聞いても虐待してると分かるような怒鳴り声を出すなんて……それに」

「それに?」

「……夢見が、泣きながら謝るなんて想像すらしてなかった」

 

 結局、1番信じられないのはそこだった。

 俺がどんなに拒絶し、否定しても、最後まで怒りこそすれど泣くとか謝るとか、そんな感情は見せなかった夢見。

 過去語りの中でも、まるで母親にされた事は些細な事のように淡々と話していた。

 だから、叔母さんのする事に感情を押し殺して耐えてたか、あるいは本当に全く気にもしてなかったのどちらかだとは思ったけど。

 

「あんなに“ごめんなさい”を必死に連呼する夢見なんて、俺は知らない」

 

 俺を監禁して、笑顔でみんなを殺しまくった3年後の小鳥遊夢見。

 母親に虐待され、泣きながら許しを乞うこの時代の小鳥遊夢見。

 まるで別人の様だが、紛れもなく同じ人間。

 この時代の苦痛と絶望があるから、3年後の怪物が居る。

 その事実を、俺はゆっくりと自分の頭に染み込ませた。

 

「知らなかったけど、もう知った。知ってしまった」

「知ったら、君はどうしたいの?」

「それは……」

 

 もちろん、助けなきゃいけない。

 そもそも、俺は夢見が狂う原因になった出来事を止めて、未来を変えるために今ここにいる。

 未来のみんなが夢見に殺されないため。あくまでもそれが最大の理由であり、目的地。

 今回判明した事実は、今までの理由に加えて夢見を助けるためってのが増えただけの話に過ぎない。

 

「助けたい? 助けなきゃと思ってる?」

「あぁ、もちろんだ。見て見ぬ振りはできない」

「それが君の本心だと、心の底から言えるかな?」

「……もちろん、そうだ」

 

 俺やみんなが3年後の夢見にやられた事と、この時代の夢見には、何の繋がりも無い。

 俺がやらなきゃ、今この世界であの夢見を──純全な被害者でしか無い夢見を助けられる人間は居ないんだから。やらなきゃダメなんだ。

 

「──そう、そうかい。なら一つだけ、君に伝えておくよ。君自身の為にもね」

 

 そう言うと、少し長めのため息をする。

 そうして、視線を広告から俺に移した悠は、真っ直ぐ目を見つめながら言った。

 

「君は、嗤ってた」

 

 ──え? 

 

「さっき、小鳥遊夢見が泣いてる声を聞いた時。君は嗤っていたよ……マスク越しでもハッキリと分かるほど、嬉しそうに嗤っていたんだ」

「……なっ」

 

 言われて思わず、口元を手で隠してしまう。今隠しても意味ないのは分かってるが。

 

「あの笑い方を、僕は知ってる。というより見てきた。綾小路家の大人達がお互いを貶して、陥れようとしていく中で、何度もね」

「……悠、俺は──」

「あの嗤い方、そして目はね……憎い相手が苦しんでるのを見て、心底喜んでる時に見せる物なんだ。そしてそれは、ボクを僕にしてくれた君が見せる様な表情では無い」

「──ッッ!」

「なぁ、縁。僕は君が変わった理由については、聞かないと言ったけど……それでも聞くよ。答えなくて良い」

 

 

「君は──何を見た?」

 

「何が──君を変えた?」

 

 

「君は本当、心の底では、彼女をどうしたい?」

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日、日曜日。

 外は生憎の雨模様で、俺は何処かに行く気力も湧かず、部屋のベッドに寝転んでいる。

 

 悠の問いに対して、俺は答えが出せなかった。

 それは今も同じで、俺は自分がどうしたいのか、分からずにいる。

 

『ハッキリと定めた方がいいと思うよ』

 

 悠は沈黙する俺に対して、責めるのではなく諭す口調で言った。

 

『何をするべきかは、君の中で結論が付いてると思う。でもそれは頭の中の話だろう? 心の中の意見もハッキリさせなきゃ、きっと君がやろうとする事は失敗するから』

 

 その通りだと思ったし、だから結論をつけたいとも思ってる。

 幸いにも、選択肢は2つしかない。

 夢見を本心から助けたいと思ってるか、本心では苦しめたいと思ってるか、この2つ。

 

 あとは自分の心と向き合って、答えを定めるだけ。なのは分かってるけど……。

 

「そんな簡単に済むなら、昨日のうちに答えてるって……」

 

 重いため息を吐きながら、俺は身体をクルっと反転させて、枕に顔を埋める。

 そうする事で何か閃く様な事も無いが、些か気分はマシになる。

 

「────っ、〜〜!」

 

 ダメだ変わらん! 

 ぷはっ、と顔を上げて仰向けに向き直した。

 

「……わらってたかぁ」

 

 悠にそう言われて、俺は驚きこそすれど、否定する気にはならなかった。

 だって、夢見が泣きじゃくる声を耳にした時、確かに喜んでる俺が居たからだ。

 悠の言う『憎い相手が苦しんでるのを喜ぶ顔』て言うのも、その通りだと思う。

 

 認めよう、俺は夢見のああ言う声を聞きたかった。

 むしろ、俺が夢見にああ言う声が出る事をしたかった。

 夢見が苦しんでる事を喜んで、俺こそが苦しめたいと思った。

 

 だって、俺はあいつを殺したいほど憎んでいるから。

 悠を殺され、渚を殺され、綾瀬を殺され、園子を殺され──そんな経験を何度もして、最後には俺も殺された。

 “殺したいほど憎い”と思ったって、当然の話だろ。

 

 

 ──だけど、それは3年後の未来における夢見の話だ。

 

 今の夢見に対して、この感情を抱くのも向けるのも、間違ってる。

 だから俺は割り切らなきゃいけない。割り切って、夢見を助ける事だけを考えなきゃダメなんだ。それだけの話だと思えばこの葛藤はすぐに済む。

 

「なのに、それが出来ねえんだよな〜!!」

 

 どーしても、その割り切りが出来ない。

 頭の中では分かってても、心がその考えを受け入れる事に嫌悪してしまう。理屈じゃなく完全な“お気持ち”が、頭と心の一致を妨げてしまう。

 

「……やめよう、答えが出てこない」

 

 しょうがないので、考えるのをやめる。

 というか、今の俺は答えを見つけたいってよりも、悩みたいんだろう。

 何度も言うように頭では分かってるんだから。夢見を助けて、未来を変える。それ以外の選択はあり得ない。

 それでもこうやって延々と思考をループさせてるって事は……きっと、この悩む時間こそが自分を納得させるために必要な、心の処理なんだろう。

 据え置きのゲーム機が、初めて遊ぶゲームをダウンロードするのにかかる時間……そんな風に思えば良い。

 

「……ゲームするか」

 

 たとえとしてゲームを出したら、遊びたくなってきた。

 ちょうど気分転換にもなるし、それも悪く無いかな。

 

 そう思ってベッドから降りると、同じタイミングでコンコンとノックする音と共に、ドア越しに渚が話しかけてきた。

 

「お兄ちゃん、今入っていい?」

「いいよー」

 

 ゲームよりも渚とお喋りする方がよほど気分転換にもなるしな。

 控え目に扉を開けて、渚はトタトタと俺のベッドに上がってきた。

 

「どした?」

「あのね、実は今日お母さんと映画を観に行く約束してたんだけど……」

「母さん、仕事でオンライン会議しなきゃいけなくなったか」

「……うん」

 

 この時期の母さんにはよくある事だった。母さんは俺達がまだ両方とも義務教育の年齢だから日本に残っているけど、海外のお客さんや仕事仲間とオンラインで仕事の話をする。

 時差もあるし、仕事の形態が特殊なのもあって、今日みたく事前に予定があっても急な会議が必要になる事もあった。

 ……思えば、こういう事も渚の中の孤独感を強めて、寂しさを埋める存在に依存・固執する理由になってたんだろうな。

 更に言えば、俺はこの頃とっくに男友達や、仲良くなった悠との遊びに時間を使って、渚の相手をする時間は減っていた気もする。

 

 そんな中、渚がどんな事を想って俺の部屋に来たのかは明白だ。こうして渚が控え目ながらも寂しさから甘えて来てくれるなら、応えてあげたくなるのは当たり前の話。

 

「……ちなみにそれ、男の俺が一緒でもいけそうなやつ?」

「──!」

 

 俺の言わんとしてる事を理解した渚の顔が、パッと明るくなる。

 

「うん──うん、きっと大丈夫! だから」

「あぁ。行こうか、雨だから濡れない用意だけはちゃんとしてな」

「やったあ!」

 

 全身で嬉しさを表現しながら、渚はいそいそと自分の部屋に行き出かける準備をし始める。

 俺も部屋着から外着に着替えて、階下の母さんにメモ帳で渚を連れてくことを伝えると、ちょうど取引先相手の話が長かったのかパソコンのカメラとマイクをオフにして、

 

「ありがとう、助かるわ! ──これ、映画代ね」

 

 そう言って、財布からご立派な諭吉さんを2枚手渡して来た。

 

 子ども2人の映画代なら、ポップコーン付けても1枚ですらお釣りが出る。返そうとしたけど『珍しく優しいお兄ちゃんしてるからおこづかい』と突っぱねられてしまった。

 そう言われたらもう仕方ないし、渚も出かける用意が済んだから早く出たがってる。

 長々と押し問答する時間も無いので、正直助かる話だから、素直に受け取る事にした。

 

『行ってきまーす』

 

 声を揃えて家を出ると、雨足は少し弱くなっていた。

 

「渚はレインコートなんだな」

「うん、この方が楽だから」

「確かに。傘だと片手塞がるのが億劫なんだよな」

「おっくうって?」

「めんどう、みたいな意味」

「ふぅん」

 

 他愛もない会話を交わしながら、2人並んで歩く。

 特に面白味があるわけじゃない。でも、こうして生きてる渚と話しながら歩けるだけで嬉しい。

 

「なぁ、渚」

「なに?」

「俺、普段こうやって渚と一緒に出かける事、あまり無かったっけ」

 

 横断歩道の信号待ちの途中、ふと気になった事を聞いてみた。

 というのも、母さんが『珍しく優しいお兄ちゃん』だと言った言葉が頭に引っかかったからだ。

 俺がこの頃から、渚に構う時間が少なくなってヤンデレ化が進む原因となったのは、既に分かってる事だけど。

 

 実際のところ、渚がこの頃どれだけ俺に構ってもらえないと思ってたかを、聞きたくなったんだ。

 

「うーん……」

 

 渚は俺の急な質問に、少しだけ迷ったように間を置いてから、もじもじしつつ答える。

 

「……あんまりじゃ無くて、全然」

 

 控えめながらも、不満がハッキリと込められた口調だった。

 

「お兄ちゃん、中学になってから友達と遊んでばっかりだし……そうじゃない日は、綾瀬さんか、最近友達になった綾小路悠さん? って人の話ばかり……」

「んんっ……そっか……」

 

 チクチクと刺さるようだ。ジトーっとした目つきも心臓に悪い。

 でもお陰で、今頃になってやっと、ちゃんと渚の抱いてた寂しさに寄り添えた気がする。ほんの少しだけど。

 この時代の俺だって、別に渚を蔑ろにしていたわけじゃない。でも学年が上がるにつれて増えてく交友関係や、悠みたいに面白い奴が出てきて、家族に向けていた関心や時間の多くを外に向け始めていたのも事実。

 

 渚は自分が日に日に兄から見捨てられるんじゃないか、そう思ったんだろう。

 もちろんそんなわけ無いけど、俺の主観と渚の主観が大きく異なってるのは、それこそ頸城縁の記憶を思い出したあの4月にした大喧嘩の中で、身をもって学んだ。

 ちゃんと『渚の事を気にかけてる』と、俺からもアピールする必要があったんだよな。家族の中で唯一『居て当たり前』な存在だったから、意思表示の大切さに気づかなかった。

 

 ……まぁ、その結果、渚の求める存在が『野々原縁』から『寂しさを埋めるお兄ちゃん』に変わった挙句、放置してたら殺されたかもしれないって言うのは、ちょっと勘弁して欲しい流れなんだけど。

 

「……ごめんなぁ、渚」

 

 信号が青に変わる。周りの人に合わせて、俺たちも歩み始めた。

 

「お兄ちゃん、前より人付き合いが良くなってさ、学校は新しい刺激が多いから、つい家族と接する時間減らしちゃうんだ」

「……うん」

「でもな、あんまり伝わってないと思うけど、渚の事は今も昔も、世界一大切だと思ってるんだぞ、俺」

「……ほんとう?」

「あぁ、本当だ。お兄ちゃん渚に嘘つかない」

「…………綾瀬さんより?」

「もちろんだ」

「ふふ……即答だね」

 

 同じ事を、3年後の渚から問われた時も、俺は同じ即答で答えてる。

 これだけは変わらない。渚とは確かに一度大きな喧嘩をして、決裂しそうだった。

 それでも、いやだからこそ、俺達の関係は修復して前より強固な物に変わった。それは恋愛感情には結び付かなかったけど、この世界で一番大切な人は、俺を一番理解してるのは、渚に他ならない。

 

「だからまぁ、なんだ。アレだよ。寂しいかもだけど、時間合えば今日みたいに出かけるからさ、ちょっとだけ俺の学生生活、自分のために使わせてくれないかな」

「……うん、分かった」

「ありがとう」

「綾瀬さんより大事なんだもんね?」

「本人の前で自慢とかするなよ? 聞かれたら拗ねるから」

「えー」

「えーじゃない!」

「──あははは、冗談だよお兄ちゃん!」

 

 お互いを理解しあっていたあの頃の渚は、もう戻らない。

 今俺の隣に立つのは、幼いけどまだ危険性の高い渚。

 それでも、今からでも、こうして共に過ごす時間を作っていけば、あるいは──。

 

 出かける直後より更に弱まりつつある雨の中、俺と渚は映画館がある建物に着くまで、朗らかに進んでいった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 結局のところ、渚が見たい映画は男でも見れる物だった。

 ただし、高校生が見るには……肉体的には中学生だが、いずれにせよ、幼い子向けの物でもあった。

 そのせいもあって、映画はまだストーリーが中盤なのにも関わらず猛烈に眠い。何度もあくびをこらえても、ちっとも覚めない。

 

 だけど、ここで寝てしまったら隣で楽しんでる渚の気分が損なってしまうかもしれない。せっかく一緒に見にいったのに『俺はお前の好きな映画興味ないぜ』と言ってる様な物。

 

 仕方がない──映画の内容について語り合う事が難しくなるけど、一旦お手洗いに行って目を覚ましてこよう。

 

「渚、悪いけどトイレ行ってくる、ちょっとしたら戻るよ」

「うん、良いよ」

 

 お互いに小声で話して、俺はいそいそと劇場を出た。

 映画の半券を受付の人に見せてから、チケット売り場横にあるトイレに向かう。すると予想外な事が待ち受けていた。

 

「うっそ、掃除中?」

 

 入り口にさりげなく、しかし確かな存在感を放って設置された『清掃中』の立て看板。

 これを無視して中に入る暴挙を選ぶ俺では、当然無い。

 幸い、ここは映画館も内蔵されてる街で1番大きな複合商業施設(3年後の夏に咲夜を連れて歩いた所。後に新設されるモールに街1番の座は奪われる事になる)だ、トイレはいくらでもある。

 ちょっと映画館から離れるのは嫌だけど、背に腹は変えられない。

 

「えっと、案内板は……あった、向こうか」

 

 丁寧に数メートル間隔でトイレまでの道が表示されてるので、迷わずに向かう事ができた。流石に連続で清掃中なんて事は無かったので、難なく──というわけでは無かったが、目的は達成できた。

 

「さて、戻らねえと……」

 

 来た道を、同じく看板見ながら戻っていく。

 頭はすっかり冴えて、今からなら映画の内容で眠くなる事も無いだろう。

 早く戻らなきゃな、そう思いつつ早足で映画館まで向かっていると──、

 

「ん……んん?」

 

 ふと視界の隅に、気になる人影が映った。

 3メートルほど離れたところにある円形のベンチの周りで、髪の長い女の子がやたら低い姿勢で辺りをキョロキョロしている。何か探し物らしい。

 見るからに困ってる風だが、いかんせん無関心が幅を利かせる現代社会。道ゆく人らは特に気にかけるでも無く、横を通り過ぎていく。

 そんな事言ってる俺も、本当ならさっさと戻らなきゃいけないんだが、時折見える横顔がどうも知り合いのそれに見えてならない。

 

 髪型的に夢見はあり得ないので、もしかして……という思いからつい、女の子方へと向かうと──やはり、予感は的中していた。

 

 

「そ……柏木さん?」

 

 つい慣れ親しんだ名前呼びしてしまいそうになるのを寸での所で堪えて、件の人物の名前を口にすると、ベンチの下を屈んでみてた女の子が姿勢を直して、ゆっくりとこちらを振り返る。

 

「えっと……以前どこかでお会いした事、ありましたか?」

 

 緊張した面持ちで、露骨に警戒心を見せつつそう尋ねる園子。

 まぁ、向こうからすれば当然の態度だ。俺も園子も、この時代ではまだ全然関わりが無い人間なんだから。

 

「ごめんなさいごめんなさい、驚かせる気は無くて。学園で見た事ある人が困ってそうだから、思わず声かけちゃいました」

 

 本当はまた知ってる人に会えた嬉しさが先行して、警戒されるの分かった上で声かけたのが真実だけど。

 困ってそうなのは本当だから、言い訳としては充分だろう、うん。

 

「あ、同じ学園の人だったんですね。すみません……私の方だけ知らないで」

「いや気にしないで! 本当に!」

 

 こちらが一方的に知ってるだけの話だから、謝られると逆にバツが悪くなる。

 あぁでも、思い返せば俺が前世の記憶思い出してから初めて園子に出会った時も、俺だけが一方的に知ってて、変な空気になったよな。

 どうも俺と園子については、何度やってもファーストコンタクトだけは上手くいかない関係らしい。

 

「ずっと辺りを見てるけど、何か落とし物でも?」

「……はい、その、携帯電話をどこかに落としてしまって」

「うわ、やばいですねそれ」

 

 スマホを落としたら個人情報あけすけにされて、酷い目を見る人は少なくない。特にこんな人の多い施設内でとなると、拾って持っていかれる以外にもシンプルに踏まれて壊れる可能性もある。

 

「ここで少し座ってて、その後ホームセンターに行ったら気づいたので、あると思ったんですけど」

「忘れ物預かってる所には確認しました?」

「はい。でもまだ届いてなくて」

「そっか……あっ、ちゃんと画面ロックとかは掛けてます?」

「それも、はい。大丈夫です」

「良かった、取り敢えず個人情報すっぱ抜ける事は無いね。なら後は……」

 

 正直、時間的にそろそろ戻らなきゃ渚が心配する頃だ。

 だけど、ここでサヨナラなんて出来るわけも無い。

 

「入口からここまで、来た道を戻ってみましょう。気づかないうちに落としたかもしれないし、俺も一緒に見てみますから」

「え、そんな、悪いです。それにあなたも何か用事があるんじゃ」

「大丈夫です! それより早く動きましょう、ね」

「……すみません、ありがとうございます」

 

 やや強引だけど、ここで押し引きしてたら見つかる物も見つからない。

 心の中で渚に謝りつつ、俺は園子が歩いてきた道を戻りつつ、一緒に探し始めた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──無いなぁ」

「はい……もう誰かが持っていってしまったんでしょうか」

 

 その後、3回くらい往復して探したけど見つからず、もっかいベンチ周りを見たけど見つからず、一縷の望みを掛けてもう一回落とし物センターに聞いたけど届いておらず、完全にお手上げ状態になってしまった。

 

「家から店までの間は持ってたんですよね?」

「はい。今日初めて来たので、ルートを確認しながら来ましたから」

「んー、最悪外で落とした事も考えたけど、その線は無さそうか」

 

 1番面倒な状況は避けられたけど、結局見つからないんじゃ仕方ないよな。となると、もう親と携帯電話屋さんに行って事情説明するしか無い。

 ……ん、いや、最後にもう一箇所だけ、可能性が残ってる場所を思いついた。

 

「ちょっと聞きにくいけどさ、柏木さんこの店入ってから、トイレは行った?」

「え、トイレですか……はい。ですけど、それが何……あっ!」

「そう、もしかしたら、置きっ放ししてません、個室に!」

 

 園子の確認しながら店まで来たって言葉から、紆余曲折を経て思いついたのがそれだった。全員がそうだとは思わないが、いま何時なのかや、この後の予定とかをトイレの個室でふと確認する事はあるだろう。

 そんなふとした拍子に取り出した携帯電話を、荷物置ける棚とかに一瞬置いたまま出てしまう……あり得なくも無い話だ。

 

 そりゃまあ、衛生的には良くないシチュエーションだが、ここまで丁寧に探しても無いんだから、確認するくらいはしても良いだろう。

 

「み、見てきます……っ!」

 

 そう言って早足でトイレに向かう園子。

 俺まで女子トイレ行くわけにもいかないので、その背中を見失わない程度のペースで後を追う。

 最終的には、最初に会ったベンチの近く……まぁつまり俺も使った場所の女子トイレに入って行った。

 

 そこから1分も掛からずに、園子はスタスタとトイレから戻ってきて、入り口近くで待ってた俺に、緑色のカバーケースに収まってるスマートフォンを見せた。

 

「ありました……」

「あーやっぱり! たまにやっちゃいますよね置きっぱ!」

「あんなにお付き合い頂いたのに、こんな所にあったなんて、恥ずかしい所を見せてしまって、すみません……!」

「全然構いませんよ、それよりちゃんと見たかった事を喜びましょう!」

 

 顔をほんのりと赤くして、羞恥に揉まれる園子をどうにか宥めつつ、問題が解決したので早く渚の元に戻らないとダメな事を思い出す。

 

「──じゃあ見つかったので、俺そろそろ行きますね。帰りは失くさないように気をつけてください!」

 

 既に20分近くは離席してるよな……事前に確認した上映時間的に、まだ終わっては無いけど、急いで戻らなきゃ。

 そう思いつつ、早足で映画館に向かう俺の背中を、園子が慌てて呼び止める。

 

「あ、あの!」

「はい、なんでしょう?」

 

 距離はそのままに、振り返る。

 

「今日は本当に助かりました、それで、その……私まだ、あなたのお名前を聞いてなくて」

「……あー」

 

 今の今まで俺だけ名前知ってる状態だった事に、ようやく気づいた。

 不気味だったろうに、むしろ自分の方が悪い事したみたいな感じの表情で俺を見る園子。

 その顔と、3年後の未来で俺が最後に見た園子の顔が一瞬だけ重なる。

 

「野々原です、自己紹介遅れてすみません」

「野々原さん、ですね。改めてありがとうございました」

「どういたしまして。学園で会ったらまたお話しましょう」

「……はい、また今度」

 

 そう言って、互いに軽く手を振ってわかれた。

 

 今更だが、この時代の俺は本来、園子と会ったことが……あるかも知れないけど、少なくとも会話した事だけは絶対ないにも関わらず、過去には無かった事をした。

 それによって、もしかしたら俺の経験してきた未来に変化が起こるかもしれない。散々関わった後にこんな事を懸念しても遅すぎるけど。

 それでも、後悔はしないし、する必要も無いと思ってる。

 

 この時代の俺ならやらない行為なんて、もう既に何度もしちゃってるし、それに何より──最期に見たのが涙を流して悲しんでいた顔だった人と会ったんだ。

 

 それよりも、今俺が最も心配しなくちゃならない事は別にある。

 つまり──この後絶対に怒ってるだろう渚を、どう宥めるかについてだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「お兄ちゃんのバカ」

 

 はい、やはり完璧に怒ってました。

 

 ただいま、雨が上がって雲間から僅かに陽が差す帰り道。

 頬を膨らませつつ、ツンケンとした態度を全く軟化させる事なく渚は、テクテクと俺の前を歩きつつ文句を言い続けていた。

 

「お兄ちゃんのバカ、女たらし、浮気もの、ふしだら」

「ごめん、わざとじゃ無いのは本当なんだって……罵倒する語彙力ヤケに豊富だなおい……」

「アタシを映画館に置いて、デートしてたくせに」

「デートじゃ無いってば、落とし物一緒に探してたって何度も言ったじゃんか……本当だよ、マジだってば」

「でも、女の子と一緒だってんでしょ」

「そりゃあお前、結果的に女子だったってだけだってば……」

 

 事情を説明しても、放置された側としては当然納得するのは難しいだろう。だから何度も同じ事を繰り返し説明して、怒りが収まるまで感情のサンドバッグになるしか無い。

 でもこれが出来るっていうのは、それだけ今の渚は安全だって事。本格的にヤンデレ化する前の渚で良かった。もし中学生の渚だったら、自分も映画館から出て俺と園子が2人でいる所に現れて修羅場を生み出してたのは間違いないから。

 

「……今度綾瀬さんにも言いつけるんだから」

「それはやめて欲しいな!?」

 

 訂正、まだ幼い分やる事がエゲツないかもしれない。

 

「なぁ渚……どうにか機嫌を直してくれないか? 本当に探し物を手伝っただけで、デートじゃ無いんだ……」

「……むー」

 

 俺の懇願が届いたのか、渚は歩みを止めてチラッと俺に振り向く。

 突き刺す様な目でジーッと睨みながら、時間にして10秒ほどしてから。

 

「……今日も一緒に寝る」

「分かった」

「明日も、来週まで」

「来週な……オッケー」

「学校も一緒に行く」

「途中で通学路変わるんだけど」

「一緒に行くの!」

「……ウス」

 

 つまり、一緒にいる時間を増やしたいって事か。

 本来、この時代が抑えていた寂しさのふたが、今回の件で外れたらしい。

 

「出来る?」

「もちろん」

「なら……許してあげる」

 

 そう言って、今度はしっかり俺の方を振り返ると、テクテク俺の隣に立って、スッと右手を差し出す。

 

「……手ぇ」

「ん」

 

 しっかり左手で握り返して、今度は並んで歩き出した。

 

「──っくしゅ!」

 

 時刻は夕方の6時過ぎ、流石に空も暗くなって、冷たい風が流れたと思ったら、渚が小さなくしゃみをした。

 

「寒いのか?」

「うん、ちょっとだけ」

「……今年は寒くなるからな」

「そうなの?」

 

 おぼろげだが覚えてる。この年か、来年か、渚はインフルエンザに罹って大熱にうなされた。秋から冬へと移る季節の変わり目で急激に寒くなって、調子を崩したのがキッカケだったと思う。

 3年後、とは違うけど……それだって避けられるなら何とかしたいな。

 

 そんな事を考えた直後、俺達が歩く道の先に、服屋があるのに気づいた。

 そうだ、母さんからのお小遣いと元から持ってる財布の中とで金はあるし……。

 

「渚、ちょっと寄り道しよう」

「寄り道?」

 

 繋いだ手をそのままに、俺達は服屋に入る。

 店内では秋冬物の衣類が、期待通りたっぷりと売られている。それらを見回しながら、俺はある物に目を付ける。

 

「渚、これとかどうかな」

「マフラー?」

「うん、似合うと思う。巻いてみて」

 

 俺が選んだのは、赤いマフラー。

 コートなどのアウターも考えたが、女物の服だと母さんの方がセンスあるので、俺でも選びやすい種類のものにした。

 

 それに……これはもうただの後悔や郷愁の様なものだけど、もし()()()、渚の首にマフラーやチョーカーみたいな何か一つでも遮る物があったなら、渚は夢見の鋏に刺されて死ぬ様な事は無かったんじゃないか……そんな理由もある。

 

「──どうかな、似合う?」

 

 巻き慣れてないのか、少し手間取りながらも、渚はマフラーを巻いた姿を俺に見せる。

 まだちょっと大きいから、顔が埋まってるけど……これから先何年もかけて成長すれば、ちょうどいいサイズになるだろう。

 それに、何よりも、

 

「うん、似合ってる。渚のために作られたマフラーみたいだ」

「そ、そう? 良かった……」

「じゃあ、それ買うか」

「良いの?」

「そのために店入ったんだから」

 

 値段は少し張るけど、問題無い。

 お店の人にすぐ使う事を伝えて袋に入れずに、会計を済ませて店を出る。

 

「どうだ渚、寒く無い?」

「うん、あったかいよお兄ちゃん……すごくあったかい」

「そっかぁ、良かった」

「お兄ちゃん……あのね?」

「ん?」

 

 渚は俺の顔を見つめて、空いた左手をマフラーに添えながら言った。

 

「アタシ、このマフラー大事にするね。お兄ちゃんが買ってくれたマフラー、これから先ずっと、ずぅっと……」

「そう言ってくれると嬉しいな」

「アタシも嬉しい! だから毎日付けるね!」

「いや、夏とかは外そうな……」

 

 本当に365日季節問わず付けそうで怖くなったので、そこだけ苦言を呈した。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ──気がつけば、帰宅する頃には俺の心に染み付いてた葛藤は消え失せていた。

 

 何か特別な言葉を掛けられたわけじゃない。

 劇的な出会いがあったのでも、無い。

 

 俺の買ったマフラーを、生涯の宝物の様に喜んでくれた、渚の笑顔。

 その笑顔が3年後も、その先も、ずっと続いてくれるのなら──たとえ夢見だって助けるのに躊躇は要らない。

 そう、思える様になっただけだ。文字通りの心からね。

 

 多分これからも、夢見を──夢見という存在を俺が許す事はない。

 それがたとえ、まだ何もしてないこの時代の夢見が相手だとしても。

 それが出来るだけの割り切りは、死ぬまで無理だろう。

 

 でも、いや……だからこそ──憎む事はもうやめだ。

 彼女は憎まれていた、疎まれていた──殺されかかるほどに、充分すぎるほど、既にそれらの感情に塗れている。

 だから、もう俺までその感情をぶつけなくて良い。

 

 許さない──だけど憎まない。

 

 そんな気持ちでやって行こうや、野々原縁。

 

 

 

 ──to be continued





作者マル秘情報
今作の縁は高二の17歳、渚は中一の12歳(誕生日が1/11なので早生まれ扱い)
3年前にタイムスリップしたので14歳と9歳
縁の精神年齢はそのままなので、17歳と9歳

縁は約8歳差の妹を、作中で過去最高に可愛く思ってます。
言うなれば――そう、“妹萌え”


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17病 moratorium【2】

久々に2万字行きました。暇がある時に読んでください


 

 渚と映画館に行った翌日。週が明けて月曜日。

 今週は水曜まで学園のテスト期間だ。

 4時間ぶっ通しでテストがある代わりに、午前中で終わる。

 

「野々原ー、帰りカラオケ行こうぜ」

「おー、良いね。駒澤と俺と、あと誰行くの?」

「山菱と七宮」

「七宮……七宮かぁ」

「え、嫌だ?」

「あぁ違う違う、別の人思い出してただけ。行くよ、久々に歌うべ」

 

 となるとまぁこの通り、普段は部活動で時間が合わない友達とも、この期間は一緒に遊んだり、帰りに寄り道が出来る。

 ……まぁ、学園側は絶対この時間をテスト対策に割り振らせたいんだろうけどね。

 

 そんな都合、今目の前の楽しさを満喫する事だけに全力な男子中学生に通るわけもなく、俺は遊びの誘いを素直に受けてカラオケに向かった。

 

「……」

「……」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌週、水曜日。

 

「なあ野々原、今度の休みどっか行かね?」

「日曜は妹と遊ぶ約束してるから、土曜なら良いけど……どっかって何処よ」

「今計画中。崎山が中華街、伯方は箱根の温泉行きてえってさ」

「伯方、アイツ渋いなぁ……温泉好きなんだっけ?」

「さぁ? アニメの影響か何かじゃね」

「あー、ありそう」

「お前も行きたいとこある? 正直温泉は避けたい」

「ん……あんま候補増やしても決めるのだるいし、行くなら中華街かな。あ、日程合えばそのままスタジアム行って野球観戦とかどうよ」

「野々原それアリ。今年優勝あり得るし、行きたかったんだわ」

「ちょうど良いじゃん、それなら決まりで良くね? 俺あとで日程調べるよ」

「最高、んじゃ放課後にアイツらにも伝えるわ」

「おーう」

 

 ちょうど予定空いてたし、チケットに余裕あるかだけ確認しないとな。

 ちなみに俺の記憶が間違ってなければ、今年は地元の球団が10数年ぶりに優勝する年なので、多分勝ち試合が見られるだろう。

 

「ふふ、ちょっと楽しみ」

 

 

「……」

「……」

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 そのまた翌週、金曜日の放課後。

 今週の土日は何も予定が決まって居ない。大人しく勉強か、夢見を助ける計画の確認をして過ごす事にしよう。

 あぁ、もしくはちょっと東京まで行って神保町で本屋巡りとかもアリかな。せっかくだし渚を誘ってみるのも良いよな。

 

 そんな事を思いつつ、校門を出てまっすぐ家まで帰ろうとした矢先、

 

「縁、待ってたよ」

「……」

 

 綾瀬と悠の2人が、立ち塞がる様に俺の前に現れた。

 何故だろう、少し2人とも怒ってる様に見えるけど……。

 

「えっと、どうした2人して……」

 

 綾瀬は部活動、悠は通学路が違う(というか迎えの車で帰る)都合上、この前までのテスト期間以外は一緒に帰る事が少ない。

 特に綾瀬は運動部だから地区大会もあるので、この時期に既に帰る用意してるのは珍しい。

 

 そんな綾瀬。数歩詰めよって目の前に来てムッとした表情のまま、

 

「この後、予定空いてる? 空いてるわよね? 空いてないなんて言わないわよね?」

 

 有無を言わせない勢いで詰問して来た。

 ここで敢えて「空いてない」なんて答えたらどうなるんだろう、滅茶苦茶怒るんだろうなぁとか余計な事を考えてみるが、絶対に口に出してはいけない。

 

「あ、空いてるよ……大丈夫」

 

 そう答えるや否や、綾瀬は俺の左手首をぎゅっと掴んで、ずいずいと歩き始めた。

 当然、それに引っ張られて俺も強制的に綾瀬の後ろをついて行く事になる。

 

「うわわ、ちょっと綾瀬、逃げたりしないから引っ張るのやめて」

「やだ」

「やだぁ!?」

 

 いつになく直情的な言動に動揺しつつも、高校時代の綾瀬とは少し違う姿に新鮮味を覚えてしまう。

 

「諦めて連行されるんだね」

 

 隣を歩く悠も、普段より少し冷徹な雰囲気だ。

 なんだろう、俺、気づかないところで2人の逆鱗に触れる事言ったり、行動したのだろうか。

 

 自分の今日までの行動を振り返って地雷踏んだ事が無かったか思い出しつつ、綾瀬の意のままに歩き続ける。

 途中、周りの人から変な目で見られたりして大変恥ずかしかったが、手首を振り払ったりすれば最後どうなるか分かったものでは無いので我慢した。

 

 そうして約15分程経過した辺りで、ようやく綾瀬は歩みを止める。

 目的地に到着したのだろう、辿り着いた先を確認すると──、

 

「え、カラオケ?」

 

 意外にも……というか、予想なんて無理だろうが、綾瀬の目的地はカラオケだった。2週間前に俺がクラスメイトの駒澤達と行った場所である。

 そのまま店内に入り、悠が受付でやり取りをして、俺たち3人は1時間のコースで部屋に案内された。

 

 部屋の扉を閉めて、照明を付けると、ようやく綾瀬は掴んでた手を離してくれた。ここならもう逃げられない、と言う判断だろうか。

 

「さて、じゃあ座ろうか」

 

 悠が促すのに対して、先に色々説明する事があるだろうと問い詰めたかったが、それをグッと堪えて椅子に座る。

 悠はテーブルを挟んで俺の向かい側の椅子に、綾瀬はピッタリ俺の隣に、それぞれ腰を落とした。

 

「さて──流石に君もなんでこんな状況になってるのか、分からないと思うから……まず単刀直入に理由を話そうか」

「頼む、切実に頼む」

「ちなみに、君の中で思い当たる節はあるかい?」

「それを考えながら来たけど、特に2人を怒らせる様な行動に思い当たらない」

「うん……そうだね、確かに君は何もしてない。そして、まさにそれが理由だったりするわけで」

「……?」

 

 何もしてないのが理由? 

 え、もしかして──俺が解答らしきものに思い当たるのと同時に、悠が言った。

 

「ズバリ、ここ最近の君──僕らを蔑ろにしてないかい?」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「2週間前は駒澤君達とここでカラオケ。1週間前は同じく駒澤君、それにカラオケとは違うメンバーで横浜。……君の交友関係が広いのは好ましい事だ。明日からの休みも、何か予定はあるのかな?」

「いや、無いから家で勉強するか、渚を連れて神保町まで本探しでもしようかなって──」

「どうしてそこで僕や綾瀬さんを誘おうって選択肢にならないのさ!」

「そうよ、渚ちゃんとは毎週遊んでるのに!」

 

 あー、やっぱりこう言うことか〜! 

 俺は何もやってない。むしろその『やってない』のがダメだったわけだ。

 

 め、面倒くせぇ〜〜〜! 

 

「貴方今、絶対面倒臭いなこいつらって思ったでしょ?」

「いや、そんな事はない」

 

 嘘だ。

 

 だけど、疎ましくは思わない。

 面倒かもしれないが、この面倒さは同時に猶予とも言えるからだ。

 

 悠はまだしも、綾瀬がこうやって素直に寂しさをアピールしているのはまだ彼女が十分にヤンデレ化してない事を意味している。

 もし、これが3年後の──まだ俺と正式に交際する前の綾瀬だったなら、こんな可愛げのある行為には収まらないのは、想像に難くない。

 

「……まぁ、確かにこの3週間、2人とは業間や昼休み以外で深く接する事は無かったと思う」

 

 だけど、それには大きく理由が3つある。

 

 1つは、3年前と3年後の交友関係で違いがあった事。

 具体的に言えば、俺は中学生の頃、色んな奴らと幅広く仲良しで居ようと思う節があった。友達100人とは言わずとも、クラスで良くある大きなグループと小さなグループのどちらかに属すのでは無く、誰とでも仲良くしたい、そんな感じだ。

 ここだけの話、転校したばかりのバチバチしてた悠に積極的に関わろうとしてたのも、当時(この時代では数ヶ月前)の俺がそういう人間だったから、て所がある。

 

 そこから時間を掛けて、高校生から俺は自然と友人の輪を狭めていった。仲が悪くなった訳じゃない。意見の対立とかでも無いが、誰かれ構わず皆と仲良くしたいって気持ちより、俺の中で『コイツともっと一緒に居たいな』と感じる奴との付き合いを重視し始めたんだ。

 その結果、交友関係は中学時代の5割以下になって、その中でも1番一緒に居てしっくり来るし楽しい悠と過ごす時間が多くなった。

 

 そうやって狭まった交友関係に慣れきっていた俺だが、またこうして幅広く色んな奴と遊んでるうちに、3年後の俺が忘れていた一人一人の面白い所や、そいつらと遊んでるからこそ味わえる楽しみとかを再発見してしまった。

 

 結果、俺は自覚しないうちに2人との時間を削ってしまった。

 

 それと、特にこの状況になって思ったが、3年後と今で最も違うのが園芸部の有無だ。

 園芸部自体はこの時代からあるものの、そこに俺と悠と綾瀬(それに渚)が一堂に会する事で、俺達は毎日コミュニケーションを交わす事ができた。綾瀬と渚が最終的にどちらかを殺す様な結末にならなかったのも、園芸部で積み重ねた時間が関係してるハズ。

 

 ──とまぁ、ここまで長々と講釈垂れたのは自分に責任がある理由についてだ。

 

 残りの2つについては、正直俺に悪い所は無い。

 なので、素直に言わせてもらう。

 

「だけどな、まず悠、俺はお前を誘おうと思う事が普通に何回もあったけど、ここ最近は家の都合か何かで平日も忙しそうだったじゃないか。放課後にすぐ帰る事なんてザラじゃなかったろ」

「ん……それはそうかもしれないけど」

「休日だって、寂しいなら俺が他の奴と遊ぶ約束してる時に『僕も混ぜて』とか言えば良くないか?後は、俺以外にも男子はいるんだから誰かと遊ぶ約束すれば良いだけじゃないか」

「ぼ、僕はまだ学園に来て半年も経って無いんだ、まだ友達と呼べるだけの関係になってる相手は君しか居ないし……混ぜてなんて気軽に言えないよ……」

「あのな、普通半年じゃなくて2ヶ月も同じ教室に居れば、自然と交友関係は広がるの。お前が俺以外に親しい奴できないのは、転校したばっかの頃に自分から貴族ムーブして壁作ったからじゃねえか」

「うぐっ!? ──君、僕が1番気にしてる事を……!」

 

 言ってしまえばコイツの交友関係の狭さは自業自得だ。

 転校した頃と比べたら今は物凄く性格は丸くなってるし、面白いところがある奴ってのは知れ渡ってる。

 けど、それでも第一印象で刻み込まれた……と言うか悠が自ら刻み付けた庶民と貴族の溝を飛び越えて、仲良くしようと声を掛ける勇気がある人は、この時代ではまだかなり少ない。

 何なら3年後でも、今と比べてだいぶ周りに馴染んでこそいるが、まだ貴族相手だから、と話しかけられない奴がいる。特に女子で。

 

 だが、飛び越える勇気が無いだけであって、実際のところ嫌われてるのかと言えば、全くそんな事は無い。むしろ――、

 

「お前の事気になってる奴、結構多いんだぞ男女問わずで」

「そ、そうなのかい?」

「そうだよ、特に女子なんて『普段の綾小路君ってどんな感じなの?』とかよく聞いてくるし……アイツらも俺に聞くんじゃなくてお前に直接聞けばいいのにな」

「……そうだったんだ」

「とにかく、お前はもう少し俺以外の友人作る事も考えようぜ。俺はお前の事一番の親友だと思ってるけど、だからこそ言わせてもらう、俺の友人はお前だけじゃ無いんだ」

「う……うん、そうだよね」

「これからは気にせず声かけて行こうぜ。あと、俺も誘われた時に悠も混ぜて良いか聞くからさ」

「……ありがとう」

 

 ちょっと最後は突き放す様な言い方になって申し訳ないが、良い機会だから言わせてもらった。

 思い返せば、悠は3年後の時点でも俺以外に積極的に遊ぶ相手がどれだけ居ただろうか。もしかしたらこの当時から俺ばっかり一緒だったから、高校2年生になってもあまり変わらない交友関係になってたかもしれない。

 

 それなら、これを機に悠がもっと色んな奴と関わって、皆がもっと悠の良さを知って欲しい。

 その結果、悠が俺以外の奴と俺以上に仲良くなったりしたら──まぁ、その時は今回の面倒臭いムーブを真似させてもらうさ。

 

 さて、悠を納得させる事は出来た。

 お次は綾瀬だが……正直、綾瀬の方がより正論をぶつけやすい。

 

「綾瀬、平日部活終わって17:30過ぎにやっと下校するお前を放課後に遊びに誘うなんて、逆に出来ると思うのか? いくら幼なじみで隣の家同士と言っても、絶対俺綾瀬の両親に怒られるぞ」

 

 高校生ならまだしも、中学2年生じゃ絶対無理だ。

 特に今は10月中頃、5時過ぎたらあっという間に日が暮れる。そんな中中学生2人で遊ぶなんて非常識だろう。

 

「……なら、休日はどうなのよ。あたしはクラスも違うから貴方が普段誰と約束してるかなんて知らないから、混ぜてなんて言えないわ」

「土曜日だってお前部活あるじゃんか……」

「日曜日は無いのよ? それなのに貴方、ここ最近はいっつもいっつも渚ちゃんとばかり出かけて……いくら妹だからって特別扱いし過ぎじゃないの!?」

「あー……なるほど」

 

 綾瀬の場合、不満の本質はソコか。

 平日休日の時間じゃない。同じ時間を共有するのに都合が悪いのは綾瀬も理解している。

 問題は数少ない一緒に過ごせる時間……つまりは部活のない日曜日を、自分ではなく渚と過ごしてる事に不満を持ってるんだ。

 

「渚とは意識して一緒に過ごす時間を増やしてる。実をいえば最近は毎日夜一緒に寝てたりもする」

「──っ、なんでよ……妹だからって甘やかしてたら、兄離れできないでしょう?」

「いいや、むしろ兄離れを起こすためにこそ、一緒の時間を作ってるんだよ綾瀬」

「どう言う事? 意味がわからない」

「例えば、物凄くどら焼きが好きな人が居たとして、親が無理やりどら焼き食べるなと言って食わせないで居たら、その人はどら焼きを食べなくなると思うか?」

「……食べなくなるんじゃないの?」

「そうだな。だけどあるいは、親が期待する方向とは違う行動を取る可能性がある」

 

 親の言う事を嫌だけど聞いて、そのまま食べない様になる子はいる。

 だが、中には親の前だけでは食べない様に振る舞って、隠れて食べる様になる子も居るだろう。

 または、独り立ちして親の目が無い環境になってから反動で馬鹿喰いするかもしれない。

 

 逆に案外、好きな物を取り上げるより与えてる方が、勝手に食べなくなる事もある。

 幼い頃、好き好んで食べていた物を今も変わらず全部好きだって人がどれくらい居るか。

 

 これらは別にどら焼きに、ましてや食べ物限った話でも無い。

 好きな物はそのうち普遍的な存在になり、特別な時間はありふれた日常に変わる。

 渚が兄を求めるヤンデレになったのは、両親が不在な家庭環境と、唯一頼れる肉親である兄が自分との時間を蔑ろにしたから。

 それなら、今のうちに飽きる程一緒に過ごして、兄がいるのは当たり前だと言う認識に促す方が良い。

 

 北風と太陽の逸話にもある様に、何事も無理やりより促す方が上手くいくものなんだ。

 

 ──と言う事を、そのままでは無いにしろかいつまんで綾瀬に説明した所、不承不承ながら一応の理解は示してくれた。

 

 それはそれとして、綾瀬との時間が少なくなってる事それ自体はそのままだ。

 とは言え、ここまで来たら後はシンプルだ。

 

「最初に言った通り、土日のどっちかで神保町行こうと思ってるけど、まだ渚には声かけてないんだ。古本屋と美味しいカレー屋さんしか連れて行ける場所無いけど、良ければ日曜日行かない?」

「……渚ちゃんも一緒にってのは無しね」

「うん」

「他に誰も誘わないこと」

「誘わないよ、2人だけだ」

「……駅に11時集合。遅れたら許さないから」

「オッケー、30分前に待ってるから」

「10分前で良いわよ……約束だからね」

 

 ――解決!

 

 つまるところ、綾瀬と2人きりの時間を作れば良い、それだけの話である。何も特別な事は必要ない。

 

 これでどうにか、突発的な2人の不満に対してのケアは終わった……のだけど、これでお終いにするのはダメだと思う。なので……。

 

「それじゃあ、2人の主張は終わったんだし、せっかくカラオケに来たんだから、歌おうか」

 

 マイクとタッチパッドを手に取り、2人に二ッと笑いかけながら言った。

 実の所、駒澤達とカラオケ行った時も、2人が居れば何を歌うかなって何度も考えたし、誘えば良かったと何度も思った。

 

 それに面倒だなんだと言ってはいるが、こんな風に行動で気持ちを示してくれたのが物凄く嬉しかった。

 だから俺も、ここぞとばかりにちゃんと思ってた事を言おう。

 

「言っとくけど、寂しさを感じてたのがお前らだけだと思ったら大間違いだ! 今日は最近遊べなかった分まで、しっかり付き合って貰うから!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──あー、歌った歌った。もう喉ガラガラ」

「凄いしゃがれ声。絶叫みたいな歌ばかり選びすぎよ」

「JAMプロの曲は無理だよ僕には……」

 

 楽しかった。普段は聴くだけで歌ったことのない曲だけを徹底的に選んで、悠も巻き込んで熱唱した。

 その結果見事に男2人は声帯がボロボロになったが、まるで悪い気はしない。

 

「あははは、こんなになるまでデカい声出すの久しぶりだったなぁ」

「この前行った時はどうだったの?」

「流行の曲ばかり歌ってたから、人数も多いしそこまで喉痛くなる事はなかったよ。それに」

「それに?」

 

 首を傾げる綾瀬に、俺は続けて言った。

 

「それに、やっぱりさ、全然違うよな。綾瀬と悠相手にする時と、それ以外ってなると」

「えっと……つまりどう言う事?」

「駒澤達とも当然仲はいいから自由に歌えるけどさ、それでもやっぱり“これはやめとくかな”とか“ある程度テンションは抑えとこう”みたいな事は考えちゃうんだよな」

「ふんふん。それで?」

「たぶん俺の中で“まだココまでしか自分を見せない”てセーフラインがあるんだよ。んで──」

「僕たち相手ならそれが無い、という事だね」

 

 間に入ってきた悠が、何故か誇らしげに、しかし俺の言いたい事をまとめてくれた。

 

「そゆこと。だからつまり──」

「今日、アタシ達と歌った時間の方が楽しかったって事ね」

「……はい、そゆことです。──ていうかお前らそれを言わせたいだけだろ!?」

 

 これ以上誘導尋問の様な会話の流れが続くと、もっと恥ずかしい事までツラツラと言わされそうだ。

 でも良かった。俺は恥ずかしい事を言ってるけど、歌う前までの綾瀬と悠が溜めていたフラストレーションはすっかり消えている。

 あとは、俺が決して2人を蔑ろにするつもりは無いって明確にアピール出来ればベストなんだけど。

 

 ……そうだ、一つ閃いた。

 

「悠、今何時?」

「16時42分だね。どうして?」

 

 腕時計を見て即答してくれた悠の疑問には答えず、俺は続けて2人に問い掛ける。

 

「この後、まだ2人とも時間ある? 行きたい場所があるんだ」

「アタシは全然平気」

「僕もだよ」

「そっか。ならちょっと早歩きで移動しよう。日がまだ沈まないうちに行きたいんだ」

 

 そう言って早歩き──やや駆け足で、俺は2人を目的の場所まで案内し始めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「さあ、着きました」

 

 街外れにある高い丘の頂上。やや急な坂を登った先には自販機1台とガードレールに囲まれた駐車場だけ、後は樹々に覆われて何も無い。

 時間が時間だったので、途中から走って来たのもあり、俺達全員が肩で息をしている。

 

「着いたって言うけど……縁、まさか君の目的地がまんまこの場所ってわけじゃないよね?」

「もちろん」

「……日が登ってる内って言うから、走ったけど……ここ何もない様にしか見えないわよ?」

「ここからすぐ先にあるんだ」

「先? 周りは木しかないじゃない」

「その木の先って事さ。ほら、着いてきて」

 

 有無を言わせない勢いで、俺はガードレールを跨いで木々の奥へと進む。

 2人も、色々言いたい事はあるのを我慢して、素直に後ろに続く。

 

 “最後”にこの道を歩いた時には面に落ち葉が絨毯の様に敷かれていたが、秋の深まる季節なのもあって、足元にはどんぐりや松ぼっくりの方が多くなっていた。

 陽光を遮る様に樹の枝葉がうっそうと茂る、手つかずの道なき道。以前は後ろにガミガミ文句を言う女の子が居たけど、今回は特に文句なく着いてくる親友と幼なじみ。

 

「……色々印象変わるな」

「え、なに?」

「んーん、何にも……あっほら綾瀬、見えてきた」

「見える? なにが──うそ」

 

 前回と同じく約3分程歩き通し、本当の目的地にたどり着く。

 沈みかけの、一際強い夕焼けに染まる街並みが、薄暗い木々の先で俺たちを迎えてくれた。

 幼少期に、ひとりで何度も見てきた茜色。3年後の未来で『街を案内しろ』と駄々をこねた咲夜にしか見せた事が無くて──当然この時代には誰とも共有しなかった、野々原縁の特別な場所。

 

「綺麗……街がぜんぶ見える」

「ここだけ木に覆われて無いんだね。偶然にしてはできすぎてる」

「だろ? 俺の今まで誰にも見せたことが無い、お気に入りの場所なんだ。……あ、一応ここ崖っぷちだから気をつけてな」

 

 軽い注意喚起をしつつ、俺もひさしぶりの景観を眺める。

 家やビル、移動する車、歩く人──生きてる人間の営みが、斜陽の中で活き活きと映っている。

 その景色をもっと近くで見たくなって、気がつけば足が一歩、また一歩と、崖の手前まで歩みを進めていた。

 

「お、おい、君が危ないって言ったんじゃないか」

「はは、大丈夫だって」

 

 慌てて悠が止まるように言うのを、笑いながら聞き流す。

 あと一歩で足の踏み場が消える、そんなギリギリまで近づいて、俺はくるっと振り向いて、景色ではなく2人を見た。

 

「ここを、この景色を、2人にも見て欲しくなったんだ。誰にも見せた事の無い景色。俺だけが見ていたものを」

「……それって、今日アタシ達が詰め寄ったから?」

「うん。俺はこれから先、色んな人と出会って関わりを持つ事になっても、この景色を見せようとは思わない。きっとこの先見せるのは、渚と……」

「……縁?」

 

 ふと、考えて言葉が止まった。

 渚と、園子と、咲夜──もし彼女達に見せる様な機会があるとすれば、それはきっとこれから何年も先の話だ。

 夢見を助けて、3年の時を過ごし直して、また園芸部に入って──。

 

 ──でも本当に、そんな時間を過ごせるのかな。

 

 夢見を助けて、3年後の未来を変える。──つまりそれは、夢見にみんな殺されるだけじゃなくて、もう園子や咲夜との縁も尽きるって事になるんじゃないかな。

 

 本当に、またみんなと楽しく過ごせる未来なんてあるのか? 

 

 今は楽しい。間違いなく楽しい。

 歌って、走って、綺麗な景色を共有して──今日だけじゃ無い。俺がこの時代に戻ってから過ごす時間の全てが、たったの3週間の全てが、泣きたくなるほど幸せな時間だった。

 

 でもそれって来年も続く幸せなのか? 

 

 前世の記憶を思い出して、渚と喧嘩したけど仲が深まって、園芸部と言う居場所が生まれた。

 ──辛かったけど幸せだった。

 

 咲夜が来て、学園がめちゃくちゃになって、園芸部も悠も失いそうになったのを何とか止めた。

 ──辛かったけど何とかなった。

 

 綾瀬と渚が殺し合って、自分の感情と向き合って、誰も死なせないまま綾瀬と恋人になれた。

 ──辛かったけどもうこれから先は幸せしかないと思った。

 

 夢見が来て、みんな死んで、死んで、死んで、死んで殺されて苦しくて悲しくて辛くて憎くて泣きたくて嘆いてもがいて絶望して死にたくなって、それをどうにかしたくて過去に戻った。

 

 ──そこから夢見を助けたあと、俺に待ってるのは幸せなのか? 

 

 ──また、俺は幸せのために辛い思いを繰り返さなきゃダメなのか? 

 

 もし、俺の幸せが何か大きい苦しみの果てにしか生まれないのなら。

 辛い思いをしなきゃ幸せになれないと言うのなら。

 

 俺、夢見を助けた後、わざわざ生き続ける必要なんてあるのか? 

 だって、今が幸せなんだ。今が優しいんだ。今が楽しいんだ。今が暖かいんだ。

 

 夢見は助けなきゃいけない。俺はそのためにここに来たんだから。

 だからそれはやるつもりだけど、じゃあその先は? 夢見を助けて変わってしまう未来で待ち受ける辛い出来事を、どうして俺は無条件で受け入れなきゃいけないんだ? 

 その先に『今以上の幸せ』があるなんて、何の保証も無いのに。

 

 それだったら──確実に幸せと楽しさしか無い“今”のまま、この幸せの絶頂の中で死んでしまった方が──、

 

 

「縁」

 

 ふと、手に暖かい感触が伝わった。

 ハッとして見ると、綾瀬が泣きそうな顔で俺の前まで来て、右手首を握っている。

 

「ど、どうした?」

「……」

「お、おい……」

 

 綾瀬は何も言わずに、俺をぐいぐいと雑木林の方へと引っ張るばかり。

 悠もやや困惑してるようで、俺と綾瀬を交互に見つつ、最後尾をついて行く。

 手を振り払う事は簡単だけど、ひたすら前を歩きながら俺の手首を握る綾瀬の手が、小刻みに震えているのに気づいて出来なくなった。

 

 駐車場のところまで戻ったところで、ようやく綾瀬は俺の手を離す。顔は前を向いたまま、こちらを振り返らない。

 

「──ごめんなさい。でも、ああしないと貴方が……」

 

 綾瀬はそこで一度言葉を止める。

 続きを話すのを待つけど、全く話そうとしない。

 

「……綾瀬?」

 

 促す様に名前を言うと、綾瀬はやっとこちらに振り返って、声を少し震わせながら言った。

 

「ああしないと、貴方がどっかに消えてしまう様な気がしたの」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ──ひとまず場所を移そう。

 

 悠の一声で俺達は一旦街中に戻ることにした。

 丘から降りて住宅街に入る頃には太陽も完全に沈みきっていて、茜色の空は僅かな光の残滓が生み出すブルーモーメントの空に模様替えして、下弦の月が煌々とその存在を主張し始めていた。

 

 月光と街の照明が照らす道を、俺たち3人はトボトボと歩く。

 

「縁……あなたさっき、死んでもいいって考えてた?」

 

 隣を歩く綾瀬が、急にそんな事を聞いてきた。

 

「……そんな事、思ってないよ」

 

 嘘だ。

 顔は平然を装うが、心臓がばくばくと強く鼓動を打つ。

 綾瀬の言う事は正しい。俺はたぶん綾瀬に手を握られるまで本気で死んでもいいって頭になっていた。今は違う……違うと、思う。

 

 同じ事が前にもあった。

 ごく普通の会話、楽しい時間、幸せを感じる1秒と1秒の刹那、そのほんの僅かな思考と思考の縫い目に、抱いてはいけない感情が──強烈な自殺願望の様な物が、頭と心を支配しようとしていた。

 

 景色を見ながら崖の方へ歩いて、振り返ってから2人の他にこの景色を見せたい相手は誰かを考える、その時までは平気だった。

 だけど考え始めて、未来がどうなるのかを考えて……将来どうなるか分からなくなって、今死んだ方が幸せなんじゃないかって考えが頭をよぎった。

 

 あり得ない、あっちゃいけない。この前も渚の笑顔を何年も見ていきたいと思ったはずの自分が、抱くわけもない思考。

 だけどあと1秒でも綾瀬の手が握られて居ないまま、あの思考が続いて居たら、俺は躊躇いなく足を半歩下げて崖から落ちる事を選んで居たに違いない。

 

 それもきっと、満面の笑顔で。

 

 否定したいけど、出来ない。今の俺は看過できない問題を抱えている。

 夢見を助けるか助けないかの葛藤は、頭と心の不一致から起こる物だった。

 だけど今やっと判明出来たコレは違う、これはきっと……精神的な問題だ。根性とかじゃ無い、突発的な自殺衝動……希死念慮がいつの間にか俺の中に巣食っている。

 

 未来を変えてみんなと生きていく為に頑張ろうとする、そのすぐそばで、幸せなうちに死にたいという考えが徐々に大きくなっているんだ。

 いつの間にこの希死念慮が生まれたのか、明確なタイミングは分からないが、原因はどう考えても3年後の夢見から受けた仕打ちに違いない。

 

 嫌になっちゃうなぁ。

 俺はここにきて、また煩わしい心の問題と向き合わなきゃいけないのか? 

 そうまでして生きなきゃ──あぁ、これだ。またいつのまにか顔を覗かせてくる。

 

 ダメだ、きっとこのままだと、俺は夢見を助けた後に──いや、あるいはそれを待たずに、自殺する。

 

 吐き出さなくちゃ、誰かに聞いてもらわなきゃ、器から溢れるんじゃなくて、器が壊れてしまう。

 

「──っ」

 

 だけど、そのまま俺が未来で起こった事をこの2人に話すのはダメだ。

 誰かにそう言われたわけじゃないが、未来に起こる事を詳らかに話すのは恐い。

 

 信じて貰えなきゃ、精神的におかしくなったと見做されて病院送り。

 信じて貰ったとして、将来どれほどのリスクが生じるかまるで分からない。

 

 “輪廻転生って信じてる? ”とかつて俺は何度も渚や綾瀬達に“頸城縁”の事についてカミングアウトした事はあったが、あれは話した所で実害が生じるのは俺だけだから可能な行為だった。

 でも、未来は俺の周りの人間関係全体に響く物。明確に未来の事を伝えた結果、俺の知らない未来に変わってしまうのは嫌だ。

 

 悠はまだ平気かもしれない。

 だけど綾瀬や渚にまで未来の事を話してしまうとなれば、前世の記憶を思い出してから過ごした、薄氷の上に設置された地雷原を突破する様に走り抜いたあの日々が、完全に消えてなくなる可能性が大いにある。

 

 誰も死ななかったあの奇跡の様な日々をなぞる事が出来ないとなったら……夢見を助けても意味が無い。そんな事は耐えられない。

 

 俺は3年後に夢見によってみんなが殺されるのを止めたいだけであって、3年後を何もかも別の世界に変えたいわけじゃないんだ。

 

 しかし、一度俺の中に強烈な希死念慮があると自覚してしまったからには、もうずっと言わないままになんて居られない。

 

 ならどうするか──、

 

「……なぁ、2人とも。今日この後夜まで時間くれないか。俺の部屋に来て欲しいんだ」

「え?」

「な、なんだい?」

 

 全てを詳らかに話すのは無理。

 このまま胸に抱えるのも無理。

 なら──出来る事は一つしかない。

 

 嘘と真実を織り交ぜて、話す。

 今まで渚や綾瀬の追求から逃れる為に俺がやってきた事だ。

 

「2人に、相談したい事があるんだ」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 流石に時間が時間だったのもあり綾瀬はご両親に、悠は電話で世話役の人に、そして俺は母さんと渚に、それぞれが許可を得た上で夕飯を食べてから、俺の部屋に集まる事になった。

 

 綾瀬は自宅で食べたが、悠は母さんがせっかくだからと一緒に食べる事になり、母さんが学園の俺の様子を根掘り葉掘り悠から聞こうとしたので焦った。

 ちなみに部屋に集まる理由としては“俺の進路についての相談”としている。まんまその通りではないが、あながち嘘でもない。

 

 渚が自分も話を聞きたいと主張するので宥めるのに苦労したが、母さんが『渚の進路についても話す事にしましょうか?』と助け舟を出した事で、自分の学校の成績について聞かれる事を嫌がった渚は渋々諦めてくれた。

 

 

 とにもかくにも、急な俺の要望にも関わらず、柔軟に対応してくれた2人に感謝したい。

 食事も終わり2人が部屋に集まる。俺は椅子に腰を掛けて、ベッドの端に座ってもらった2人に言った。

 

「この前から、同じ内容の夢ばかり見るんだ」

 

 夢、俺の経験をそう表現して2人に伝える事にした。

 高校生になった自分達が、街に戻ってきた夢見に殺される事。

 何度も、何度も何度も、殺されるまでの経緯は違うけど最後は必ず殺される。抗っても逃げても変わらず、繰り返しが重なるほどに残酷な結末になる事。

 夢見から街に戻るまでの過去を聞かされて、それが殺人鬼になる原因になっている事。

 

 園子や咲夜、園芸部関連、そして何よりも綾瀬と恋人になった事については当然言わないが、とにかく夢見がヤバい奴になって帰ってくるから、そうなる前に止めなきゃいけないって事を、夢という形で話す。

 

 話の間、2人がどんな顔で俺の言葉を聞いてたかはあえて見なかった。

 

「──そんな感じの夢を、毎日見てる。最初は気のせいだと思う事にしたけど、あまりにもリアル過ぎて、ずっと頭から離れないんだ」

「それじゃあ、さっき急に変になったのも、最近ずっと様子がおかしかったのも、本当はその夢が理由なのね」

「うん。夢があんまりにも酷過ぎて、目が覚めた時みんなが普通に生きてるのが奇跡みたいでさ。……幸せ過ぎると中毒起こしちゃうんだね、人って」

「悪い夢を継続的に見てしまう事で生じる心の病は確かにあるね……悪夢障害ってまんまな名前だけど。あとは君の場合、夢があまりにも現実味を帯びてたからPTSD……極端なストレスを原因に起こすものだけど、それに似た物にもなってるかもしれない」

「詳しいんだな」

「にわか知識だよ、でも少なくとも君が見てる夢が、君の性格や言動に異常をきたしてるのは間違いないよね」

「夢が原因って言うなら、どうすれば夢を見なくて済むか考えないと! ……どうすれば良いか、分からないけど」

 

 頭をうんうん唸らせる綾瀬と、冷静に話を聴く悠。

 とりあえず初っ端から精神病院に行けとか言われないで済んだのは安心だ。

 

「俺なりに考えて、まずは夢の中で聞いた話が現実ではどうなのか、試しに夢見が今どう暮らしてるのか見に行ったんだけど」

「見に行ってたの?」

「うん、実は」

「どうして黙ってたのよ」

「言ったら納得してくれるか? 夢の中で将来何度も自分やみんなを殺す相手が今どんな暮らししてるか気になったなんて言って。綾瀬が俺の様子おかしくなってると思わないうちに話したって、絶対頭おかしいと思われるだろ?」

「……それは、うん、確かに」

 

 我ながら言ってて心にグサグサ刺さるし、否定しない綾瀬の素直さにも追い討ちを掛けられた。

 

「それで、君はわざわざあんな遠くまで行く事にしたのか」

「え、綾小路君もしかして一緒に行ってた?」

「うん、実は」

「何で綾小路君はよくてアタシはダメなの!?」

「それはまぁ……成り行きで行くのバレたから」

「成り行きって……そんな理由ある?」

 

 自分だけ省られたように感じたのだろう。綾瀬は肩を落として意気消沈する。

 悠が俺に同行するようになったのは本当に事の成り行きからだったが、今になって俺にプラスの効果を与えてくれた。

 何故なら、この後俺が説明しようとする内容に説得力が付いたから。

 

「話を戻すけど、俺は悠と一緒に今夢見が暮らしてる家を見に行った。そしたら夢見が家に帰る場面をたまたま見かけたんだが、その後に家の中から叔母さんがあの子を酷く痛めつけてる声が聞こえたんだ」

「これは本当だよ。僕も聞いたからね」

 

 そう、この話こそが、俺の“夢”に現実味を与えてくれる唯一の根拠になる。

 俺だけが夢見の虐待を知ってるんじゃ、説得力に欠ける。

 気の狂ったような事を言ってる俺と、真っ当な判断が出来る悠の両方で同じ経験をしたと言ってようやく、綾瀬も納得させられる。

 

「ちなみに、あの時縁は最初から彼女が親からネグレクトを受けてる事知ってた風だけど、知ってた理由も夢からかい?」

「うん。夢の中であいつから聞かされた中で、サラッと話してたからあんなに酷いとは思わなかったんだけどね」

「……綾小路君も一緒になってアタシを揶揄ってる、とかじゃないのよね?」

「河本さんと僕は同じ立場だよ。ただ、僕は少しだけ彼の言葉を信じる値する出来事に遭遇してるだけだ」

「貴方は、夢見ちゃんが今虐待されてるのを、夢の中で聞かされてたのよね? それで実際に確かめに行って……夢の通り──ううん、それ以上だった」

「そういう事になる」

「──じゃあ、このままだと本当に将来アタシたち殺されちゃうの!?」

 

 情報を飲み込んだ──飲み込み過ぎてパンクしちゃった綾瀬が露骨に動揺してしまった。

 

「ああいや、だからそれをどうにか止めたいって思ってるんだ」

「止めるって具体的には? 叔母さんを警察に突き出すとか?」

「いや、それじゃあ足りない。それ以上に対処しなきゃダメな男が居る」

 

 そこから、また“夢”の体裁で夢見から聞いた話の詳細──夢見が大きく歪む原因になった2つの出来事の中で最も重大な、今年の誕生日に義父に犯された出来事について説明した。

 夢見の義父が明確な犯罪行為を行うのは、知る限りではこの日が最初。これ以降は頻繁に夢見を抱いたらしいが、そうなってしまった後の夢見を助けても遅すぎる。

 夢見をクズの義父から助けて、ついでに叔母さんの目を覚まさせるには、義父が初めて夢見に手を出してかつ、まだ夢見が歪んでいない今年の誕生日の夜しか無い。

 

 本当はもっと楽に助けられるタイミングがあるのかもしれないが、俺の情報は夢見が話した分しかないので図りようも無い。

 

「夢見ちゃんの誕生日しかないっていうのは分かったけど、それで貴方、どうやってその人を止めるの?」

「当日、夢見の家に入って、直接止めるつもり」

「相手は元とは言え半グレだろ? 無謀じゃないか?」

「簡単にはいかないよな。もちろん武器は用意するけど」

「普通に、警察呼ぶだけじゃ駄目なの?」

 

 もっともな指摘だが、これについてはちゃんと考えがある。

 

「単に止めると言っても、ただ義父を拘束するとか、警察に突き出すとかじゃ駄目だ。それだと罪は軽くなるし、数年間懲役を受けたあと戻ってくる可能性も高い」

「確かにそうだね。だけど未遂のうちに止めないと意味が無いって言ったのは君だろう?」

「夢見についてはな。だから、別の罪をかぶせる必要がある」

「ちょっと待って、嫌な予感しかしないんだけど……」

「ははは、さすが綾瀬、勘が良い!」

 

 俺の言わんとすることを、悠より先に気づいたみたいだ。

 

「俺が普通に立ち向かっても勝てないし、やり返されるだろ? だからちょうど良い具合にボカされてから、警察に駆け込んでもらおうって算段だ」

「やられる前提かい!?」

「ダメよそんなの、もし本当に殺されちゃったらどうするの? 警察だってそんなタイミング良く来てくれるなんて限らないでしょ?」

「そのために、2人に“相談”してるのさ」

 

 当然のように猛反対する2人を制して、俺は話を続ける。

 

「確かに俺1人じゃ無理がある。でも、2人が協力してくれたら、無理じゃない」

 

 思い出すのは、園子をいじめから助けようとした時。

 あの時も、こうやって3人で計画を立てて、綱渡りだが大胆に動いた。

 だからきっと、今回も上手くやれるはず。

 

「まず役割からな。俺は『偶然夢見の新しい父親が危ない男だと知って、本当か確かめに行った無謀な若者』。そして2人は『暴走気味な俺を心配してついてきた友人』だ」

「うん、絶妙にその通りではあるね」

「俺は2人が止めるのを聞かずに、無理矢理夢見の家に入って男を問い詰めようとする。2人は俺が家に入ってからすぐ乱闘の様な音が聞こえたと、警察に慌てて連絡する」

「……それで?」

「駆けつけた警察は、夢見をレイプしようとした痕跡と、ボコボコにされた俺を見つけて“強制わいせつ未遂”と“暴行”の現行犯で逮捕……上手くいけば殺人未遂まで持っていくつもり」

「そのあと、君はどうなる? ボコボコにされておしまいかい?」

「そこはほら……事前に綾小路家お抱えの病院とかで治療して欲しいなぁ……なんて」

「やれやれ……」

 

 最後は綾小路家のマネーパワーに頼る。こんな所も園子を助けた時と同じで内心苦笑する。

 

「確かに、君のプランが上手く回れば、彼女を助ける事は出来るし、男に明確な罪を課す事も出来るね」

「だろ? だから──」

「でも」

 

 ぴしゃりと俺の言葉を遮って、悠は言った。

 

「そもそも、そんな危な過ぎる話を、僕や河本さんが許すと思う?」

「……それは、うん、まぁ……」

 

 普通は無理だ。俺が逆の立場なら断固反対する。

 

「そもそも、君の行動の根拠は全て夢の内容だ。確かに、一部現実と合致する点はあるけど、でも夢だ。3年後本当に僕達を殺す様になるかは分からないし、そもそも今年の誕生日に彼女が義父に襲われるのだって分からない」

「──っ」

「全部徒労に終わるかもしれない、ただの現実的な夢なだけかもしれない。君が痛い目を見るだけで──何なら君だけが警察の世話になる結末もあり得る。それでも、やる必要はあるかい?」

「ある」

「……即答だね、驚いた」

 

 悠の言葉は正しい。だけど間違ってる。

 俺だってこれが本当にただの夢であれば、どんなに良いかと思う、思ってきた。何度も何度も。

 それが全て夢じゃなく現実だったから、俺は今ここに居るんだから。

 

 悪夢の様な現実を、現実味のあるただの夢にするために、俺は絶対夢見を助けなきゃいけない。

 

「心から信じてくれとは言わない。でも力を貸して欲しい、頼む」

 

 2人の目をじっと見つめて、そらさない。

 綾瀬と悠も同じく俺を見つめ返すが……すぐに綾瀬が視線を落とした。

 

「……はぁ。不思議な気持ち。そんなに真剣な顔でお願いする貴方、初めて見る」

 

 次いで、悠がやれやれと肩をすくめた。

 

「“夢”の内容を信じる人の目をしてないよ、君。どちらかと言えば経験の──まぁいいや」

「諦めましょう、もうこうなったら絶対止まらないし、1人でも動くからきっと」

「そうだね。こうやって僕達に協力を申し込むってだけでも、マシか」

「えっと、つまり2人とも協力してくれるって事で……良いのか?」

 

 柔和した2人の雰囲気から、すでに解答は出ているとも言えたが念のため聞くと、2人とも苦笑しながら答えた。

 

「協力してあげる。こうなったら絶対夢見ちゃんを助けよう!」

「やるからには徹底的に、ね。君の計画に則るけど、それなりに準備をしてもらうよ」

「じゅ、準備って?」

「一歩間違えたら死ぬ様な危ない事をするんだ、何の対策も無しに行くのは馬鹿だろう? だから護身術程度の動きは覚えて貰わないと」

「えぇ、イヤそんなの教えてもらうにしても、講師を雇う金なんてねえよ俺!?」

「問題ないよ、講師は僕だから。これでも金持ちの家に生まれてるからね、体術は一般教養さ」

 

 俺が昔から喧嘩でどうしても勝てなかった理由の一端が垣間見えた。

 

「……ありがとう、ありがとうございます!」

 

 だけどそんな事今はどうでも良くて、こんな無茶な要望に苦言を呈しながらも承諾してくれた事が嬉しい。

 嬉しさのあまり、椅子から立ち上がり2人に頭を下げた。

 

「ありがとう“ございます”? “ございます”ってなんだよ君らしくもない!」

「か、からかうな、感謝の気持ちをちゃんと伝えるのは当たり前の話だろ、なぁ綾瀬?」

「ごめんなさい、アタシも貴方の“ございます”は違和感すごい」

「おーい!!」

 

 緊張の糸が切れたのか、これ以降はもう暗い話は終わりになって、お互いに笑い話に花を咲かせて、20時を過ぎた頃解散になった。

 俺も夢見を助ける事についてはそれ以上考えずに、この日を終わらせた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌週から、俺は出来るだけ悠と綾瀬との時間を多く作る様にした。

 また2人から文句を言われたくないから……ではなく、俺自身がそうしたいと思ったから。

 

 希死念慮はその後も時折顔を覗かせたが、綾瀬達と一緒に過ごしてる間にそれが起こる事は無くなった。

 

 渚は俺がプレゼントしてマフラーを本当に気に入ってくれて、家でも学校でも休みの日でも、積極的に巻いてくれてる。

 たまにマフラーが要らない暖かい日の時も巻いて汗をかいていたので、暑いなら取ればいいと言ったけど、頑として聞かないから諦める事にした。

 

 

 11月に入って夢見の誕生日である27日まで残り1ヶ月を切ってからも、不思議と俺の中で恐怖や緊張と言った類の感情が湧くことは無く、ニュートラルな状態でいられた。

 

 自分がその日何をしたいのか、そのためにどうするのか、それらがハッキリと固まってる上で、綾瀬と悠が協力してくれる。その安心感が平常心を保たせているんだと思う。

 

 希死念慮も、27日に近づけば近づくほど出てこなくなった。

 

 毎日、登校して、授業受けて、悠や他の男子と喋って遊んで、綾瀬と話して、それを男子にからかわれて、逆に“仲良い女子居ないから嫉妬するなよ”と煽ったらキレ散らかされて。

 

 放課後に公園や空き地、あるいは悠の家にお邪魔になって、悠指導のもと護身術や拘束術、最低限の動きと筋力で相手を倒す方法なんかをみっちり仕込まれてたりして。

 

 笑って、楽しんで、幸せで……心の底から生きてると感じる時間を、堪能した。

 

 そうして、心置きなく野々原縁の人生を生きて──27日を迎えた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……はぁ、意外と効き悪かったなこれ」

 

 男──夢見の義父は、テーブルに体を突っ伏している妻と、その連れ子である夢見を見たあと、自身の手のひらに乗せた粉末の入った袋を見て、誰に言うでもなく呟いた。

 寝ている2人の手には、液体の入ったグラスが握られている。

 

「混ぜても色は変わらないし、よく効くって言うから買ったのに、ばったもん掴ませやがってあのカバチタレが……次会った時しめるか」

 

 雑にポケットにしまい、反対のポケットからはタバコを取り出し、テーブルの真ん中にあったケーキ──夢見の誕生日ケーキのそばに置いてあるチャッカマンのスイッチを押して、タバコに火をつける。

 身体中で味わう様にしばらく吸ってから、長々と煙を吐き出して、男はまだだいぶ残ってるタバコを胸ポケの携帯灰皿の中に突っ込んだ。

 

「さて、と……それじゃあ久々の生JC、味わうとしますか」

 

 寝ている夢見を抱き抱えて、リビングのソファに運ぶ。

 これから自分が何をされようとしているのか、薬で強制的な眠りについてる彼女は知りようもない。

 男は夢見の母親と結婚──厳密には籍を入れない内縁だが──して以降、夢見をいつか自分の手で穢す事を楽しみにしていた。

 もとより夢見の母親は金蔓としか見ておらず、歳の割には発育が良く容姿も良い夢見の方を性的な対象として見ていたが、そんな自身の黒い欲望に気づいていたのか、夢見は頑なに男と2人きりになろうとしない。

 

 仲間を使って無理やり襲う事も考えたが、万が一の事もある。仲間内には過去に懲役を受けた者も居るので、下手に捕まる様な事があれば厄介だ。

 そこから関係が拗れるとなると面倒なのもあり、誕生日で流石の夢見も緊張が緩むタイミングを見計らって、“その手の目的”でよく使われる催眠薬を使う事にした。

 買っておいたノンアルコールシャンパンの蓋を開けて、事前に薬を混ぜておき、ケーキの蝋燭を消した後の乾杯で2人を昏睡。

 

 流石の夢見も、母親がいる前では何もされないと油断していたのか、自分が渡したグラスに対しても全く警戒せず、やや時間は掛かったが眠った。

 今はあんなに拒絶していたのが嘘の様に、無抵抗な姿を晒している。

 

「手に入りにくい物ほど、自分の物になったら嬉しいもんだよな」

 

 1人興奮しながら、男は夢見の服を一枚ずつ丁寧に脱がしていく。

 スカートを下ろし、部屋着のパーカーを脱がせて……段々とあらわになる瑞々しい少女の肢体が、下衆の性の情動をこの上なく掻き立てる。

 

「……ぁ? んだこれ……?」

 

 パーカーの下に着ていたシャツのボタンを外して、いよいよキャミソールが見えてきた所で、服の中から顔を覗かせる異物に気づく。

 手に取ってみると、それは髪を切る時などに使われる鋏だった。

 

「こんな物騒なもん隠してたのかよ、コイツ……ま、寝てりゃ何持っても意味ねえよ」

 

 護身用に持ってたのだろうが、最早何の役にも立たない。男はすぐに鋏への関心を失い、それを雑に床へ投げる。

 

「さて、と……やっぱ胸あるなコイツ。母親よりあんじゃん、ウケる」

 

 そう呟いてから、いよいよキャミソールも脱がそうと手にかけた、その直後──、

 

 

「──は?」

 

 男の体が、宙に浮いた。

 厳密には、何かに引っ張られて思いっきり後方へと吹き飛んだ。

 完全に意識の範囲外から生じた出来事に対して、咄嗟の反応なんて取れるわけもなく、男はゴロゴロと転がり強かと部屋の壁にぶつかる。

 

「何だよ、急に……っ!?」

 

 何が起きたのか全く分からず、後頭部の痛みに耐えつつ前を見ると、いつの間に家の中に入っていたのか、見た事のない男が自分と夢見のちょうど中間の位置で立っていた。

 

 事態は掴めないが、自分を夢見から引き剥がして後ろまで投げ飛ばしたのはコイツだとのは間違いない。

 男は膝立ちの姿勢になりながら、不法侵入者に対して怒りをぶつける。

 

「オメェどっから入っ──ブッ!?」

 

 言葉を言い切るより先に、相手は手に持っていた何かを思い切り投げつけてきた。

 投げ飛ばされたものは一切の迷いも無く、男の鼻面に叩きつけられる。

 

「玄関の前に鍵落ちてたから、それで入りました。ダメじゃないですか、大事な物落としちゃ」

 

 相手はまだ声変わりしたばかりの様な声で、まるで何事もなかった様に語り始める。

 

「世の中物騒ですから、何されるか分かりませんからね……例えば」

 

 着ていた上着のコートをゆっくりと脱いで、床にパサっと落とす。中に着ていたのは、どこの学校のものかは知らないが男子学生が着る制服だった。

 相手の正体──はまだ不明だが、とにかく自身を後ろまで引っ張ったのは、まさかの夢見とそう歳も変わらなそうな少年だった。

 “ガキに不意打ちされたのか? ”という驚きと、“ガキになめた事された”という不快感がない混ぜになる男の耳朶に、そんなのお構いなしとばかりに少年は話を続ける。

 

「例えば──純真無垢……でも無いか。それは違うな、まぁ良いや。取り敢えず、薬を使って無理やり催眠レイプ! なんてやろうとする人間が居たりしますからねぇ」

「……は?」

 

 背筋に冷たい汗がつーっと流れるのを男は感じた。

 今まで、反社会的なグループの中で生きてきた経験から、男はその手の感情とは一般人より何倍も慣れ親しんでいる。

 むしろ、一般人にそういった感情を与える側。誰かに嫌な思いをさせるとか、恐ろしい目に合わせるとか、一時の快楽やその場のノリで人を傷つける事を厭わない、そんな他者を踏み躙るのが特別でも無い環境にいる事が多かった。

 

 そんな自分が、目の前の、いきなり現れたよく分からない男子学生相手に、今まで感じたことの無い異様な感情を抱いている。

 その事実に、男は困惑した。

 

 まるで、自分が今見て、相対してる少年が、少年の形をした全く別のナニカに見えたのだ。

 

「……お前、誰なんだよ」

 

 ビビってる自分を否定しながら、男は問いかける。

 

「あー、はい。すみません自己紹介が遅れて」

 

 対照的に、朗らかな口調で少年は答えた。

 

「俺の名前は野々原縁。野原の間にノマが入って野々原、ヨスガは合縁奇縁の縁です、よろしくお願いしますね。まぁ、尤も……」

 

 そこで一度間を入れて、少年は先程男が投げ捨てて床に落ちていた鋏を拾う。

 まるで因縁の相手を見るかの様に数秒間、持った鋏を見つめたあと、男に視線を戻し、

 

「覚えて貰わなくても結構です。俺はただアンタに敵討ちと逆恨みを、一方的にするつもりで来ましたから」

 

 先ほどまでの明るさが皆無の──底冷えする様な冷たい声で、言い放った。

 

 

 

 ──to be continued




とうとう長々と続いてきたこの作品にも、本当の終わりが見えてきました。
感想お待ちしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第18病 Happy 《self bad》 End

 

 始める前は、きっと自分は恐くなるんだろうと思っていた。

 相手は反社会的なグループに属してる人間で、暴力に慣れてて、自分より歳上の男。もしかしたらいざという時、体が震えて何もできなくなるんじゃないかって。

 

 返り討ちにあったらどうしよう。半殺しにされるんじゃないか。

 いや半殺しに遭うだけならまだ良い、最悪殺される様な事になれば、七宮さんにこの時代まで送ってもらったのが台無しになる。

 

 そんな不安を抱えながら、どんなルートで入手したのか分からないが(知ったらダメなんだろうけど)悠が用意してくれた合鍵で静かに家に入り玄関の廊下を通って、リビングの入り口から今まさに夢見に手を掛けようとしてる男の背中を見た瞬間。

 

 自分の胸中から顔を覗かせたのは、恐怖とは全く別の感情だった。

 

 怒り、と形容するのが1番近いが、妙に異なる。

 燃え滾る憤怒の様に攻撃的な雰囲気はあるが、その中には鋼鉄の様に冷たくて硬くて動じない、芯のような物がある。

 

 他に類似した感情を想起する。強いてあげるなら復讐心だが、そうだと形容するには自分の感情は少し落ち着き過ぎる。

 

 冷静の様でいて攻撃的、じゃあこの気持ちは何だろうと考えたが答えが分からない。

 考えるだけで時間を浪費するだけと思い、俺はそれ以上同じ思考を続けるのをやめて、目の前で繰り広げられてる光景だけに集中した。

 

 今、俺と数メートルしか離れてない距離で、夢見の義父が彼女の衣服を剥いでいる。丁寧に、丁寧に、丁寧に。

 時折独り言を呟きながら。愉快そうな鼻歌を交えながら。

 夢見の身体を見て妻とのそれを比べたり、年相応では無い発育具合に喜んだり。

 

 あと数分後には彼女の人生を大きく歪ませる行動を取ってるとは思えないくらい、あまりにも慣れた仕草と、あまりにも罪悪感の無い態度。

 

 何より、背後に全く知らない人間が近づいてる事にすら気づかない視野の狭さ。自分のことに集中すると周りに全く関心が向かないのがよく分かる、自己中心っぷり。

 

 ああ、夢見はこんな男に純潔を奪われたのか。

 夢見は、こんな男に惚れた母親に殺されそうになったのか。

 こんな男のせいで、夢見は人生血塗れになるしかなかったのか。

 

 そんな事を考えると同時に、気づいてしまった。

 

 そうだ、この男に狂わされたのは夢見だけじゃない。

 別に今初めて気づいたわけじゃ無いが、あまりにも目の前に繰り広げられてる光景がお粗末で、再確認が遅くなっただけだが。

 

 俺の──俺達の人生も、この男によって狂わされた。

 

 夢見を殺人鬼に変えるきっかけになった、だけの話じゃ無い。

 黒幕が夢見なだけで、悠を刺し殺したのは間違いなくこの男だし。

 考えてみれば、監禁されてる時夢見に何度も求められたから、俺はこんな男の穴兄弟になってるわけで。

 

 ははは……そっか、そういう事か。

 

 俺の感情は、怒りでも復讐心でも無かった。

 これはその先にある感情、いや決意……または、結論と呼べるもの。

 

 自分の全てを破綻させた存在の正体が、こんなチンコの事しか頭に無い低俗なカス野郎だったという現実。

 そして、俺にとって大切な人達や思い出や時間は、こんなチンカス野郎でも簡単にぶっ壊せてしまえる程度の物でしかない、という事実。

 

 それらが合わさって、俺の中でもうこの男のために怒るのも、嘆いたり哀しむのも、全てが馬鹿らしくなった。

 ましてや、恐れを抱くなんて事が起こる筈も無い。

 

 俺の目の前でウキウキしながら女子中学生の身体に触れているのは、ただの害虫だ。

 家に巣食って卵を産むゴキブリや、梁や柱に住み着いて増えるシロアリの様に、放置しておくと将来自分が不利益を被る害虫。

 それが、人の形をして、人の言葉を使っているだけに過ぎない。

 

 人は、害虫相手に初めは驚くだろう、恐がるだろう、居るだけで不快感を覚えて怒りに転じる事もある。

 だが、何度も見ていたら次第にそんな感情は鳴りを潜め、いずれは“事務的”に殺す様になる。

 いや、殺すというよりも“処理”と言った方がより適切か。

 

 つまり俺はこの男に対して今から“怒りで恐怖を振り払い、みんなの仇を討つために夢見を助ける”のではなく。

 ただひたすらに“目の前の害虫を徹底的に終わらせる”のだ。

 

 厚生の余地なく、挽回の機会も無く、地獄に垂らされる蜘蛛の糸があるとすればそれすら燃やし尽くす──それ程の終わりを、この男に与える。

 

 それはもはや感情では無く、故に結論。

 俺は今から、事務的にこの男と相対する。

 

 尤も、相手からすればそんなの、単なる逆恨みにしか映らないだろうけどね。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……野々原? それって……アイツの姉のとこのガキかよ」

 

 男は自分を急襲した存在が何者であるか、すぐに思い至った。

 野々原は自分の妻の姉の苗字。やたら妻に自分との交際を反対してきた、鬱陶しい女だったのを記憶していたからだ。

 確かに野々原家には子供が2人居たが、ヨスガと名乗ったコイツは兄の方か、と結論付ける。

 

 そうして同時に、もはや男の中で数秒前まであった警戒心は雲散霧消する。

 恐れや警戒はそれが未知の対象であるか、自身を凌駕する存在だという情報を持っているからこそ生まれるモノ。

 

 相手が野々原ヨスガであると分かった瞬間、未知ではなくなり。

 ただの中学生が、自身を脅かす存在には到底なり得ない事を、知っている。

 

 それがどうしてこの家に、このタイミングで現れて、自分のしようとした事を知ってるのかは分からない。

 だが、そんな事を考える必要なんて無い。どうせ、あの口うるさかった女に言いくるめられて心配で見に来たんだろう。

 もし、そうじゃ無かったとしても、だからどうだと言うのか。

 

「従妹のためにヒーローごっこでもしに来たか?」

「……」

「逆恨みとか意味わかんねえ事言って、頑張ってカッコつけてさぁ」

 

 殺してしまえば良い。それしか男は考えていない。

 膝立ちから、ゆっくりと立ち上がり、ヨスガの全身を見る。

 手には夢見の持ってた鋏──何故か持ち手の部分では無く閉じてる先の方を握ってるが、そんなモノは男にとって恐るべくもない。

 視線だけは一端に自分を見て逸らさず、一切隙を感じさせずに待ち構えてる様だが、それだって事が始まれば崩れる程度の構えだ。

 

 総じて、喧嘩慣れしてる自分が負ける道理は無い。

 一歩二歩、こちらが踏み込んで、フェイントを仕掛ければあっという間にヨスガは床に倒れているだろう。

 男の脳裏には、自分が相手の鳩尾に深々と拳を沈めて、その痛みでゲロを吐きながら床で悶えるヨスガの姿が、感触付きで容易に想像出来た。

 

 ハッキリ言って、脅威では無い。幸い薬は2人に効いてるのだから余程大きな音でも出ない限り目が覚める事もない。

 夢見を抱くのはヨスガを殺してからでも遅くないだろう。

 いや、むしろ死にかけのヨスガの前で、目が覚めた夢見を犯すのも気持ち良いかもしれない。

 

 卑劣な妄想で下卑た笑みをチラつかせる男。

 対照的にヨスガはまるで表情を動かさずに、一瞬だけ手元の鋏を見やってから、男に問い掛けた。

 

「あの、先に一つだけ聞きますけど」

「あ?」

「この鋏、あなた持ちました?」

「……は?」

 

 質問の意図が掴めず、男は思わず素っ頓狂な声を上げる。

 するとヨスガは、空いてる手で鋏の持ち手を指差しながら、もう一度尋ねた。

 

「ココ、一回でもさっき手で触れましたかって聞きました。どうです伝わります? 言ってること分かる?」

「んなの何だっつんだよ、持つに決まってんだろ」

 

 むしろ何故さっきから先の方で鋏を持ってるのか、そっちを逆に聞きたいくらいだと言わんばかりに、男は答える。

 すると満足したのか、ヨスガはここに来て初めて表情に明るさを見せて言った。

 

「そうでしたか! やっぱさっき床に投げ捨てる時持ってた様に見えたんですよ。念のため聞こうと思ってましたが、いや良かったぁ」

「……あのさぁ、お前なめてる?」

「はい?」

「鋏がどうとかどーでも良いんだよ、馬鹿じゃねえのお前」

「何故ですか?」

「何故って……殺すぞお前!?」

「鋏持ったの聞いたら殺されるんですか俺?」

「あーもいい、もういい気持ち悪いからいいよお前、もう殺すわ」

 

 今までどんな関係性でも関わってきた人間の中で、ここまで会話の成り立たない相手は居ないと男は思った。

 半殺しにしてからヒロインの夢見を目の前で犯す事も考えたが、これ以上は面倒くさいのでさっさと殺す事に決める。

 

 男から発せられる殺意を感じたからか、ヨスガも鋏を持つ方の手を胸の前まで上げて構えを取る。

 

「ははっ、やっぱお前馬鹿だろ。そんなもんでどうにかなるって思ってるのかよ。漫画じゃねえんだぞ」

「……」

「死体残んの怠いから、コンクリに詰めて海か山に捨ててやるから安心して死ねな?」

 

 この後自身の身に降りかかる恐ろしい出来事を事前に予告して、恐怖と動揺を煽る。男の常套手段だ。

 しかし、先ほどまでオウム返しの様に何故何故と繰り返してたヨスガの口は、この脅しについてはまるで反応を示さなかった。

 眉ひとつ微動だにせず無反応のまま。

 

「おい、今更ビビんなって。もう遅いから諦めとけ」

 

 男はそれを、ヨスガが単純に遅過ぎる後悔に身を包まれているだけだと判断した。

 しかし、それが大いなる思い違いである事に、男はすぐ気付かされる──否、思い知らされる事となる。

 

「……確かに、そうですね」

 

 男が一歩踏み込んだのと同時に、ヨスガはぽそりと呟く。

 

「確かに、この世界は漫画じゃない」

「……あ?」

 

 今更何を──そう言おうとする男より先に、ヨスガは鋏の切っ先を自身に向けたまま頭上に掲げて、

 

「CDの世界だ」

 

 一切の躊躇いもなく、()()()()()に突き刺した。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──は? え? はぁ!?」

 

 男が露骨に動揺してるのが、声で分かる。

 そりゃそうだろう、鋏で自分に立ち向かってくるのだとばかり思ってたのが、まさか自分自身を刺すだなんて思いもしない。

 

「──っ……」

 

 刺す時とは違い、ゆっくりと腹部から鋏を抜き取る。

 途端に腹部から全身に流れる、熱と痛みと嘔吐感。

 それらの一切に蓋をして──俺は再度、自分の腹に鋏を突き刺す。

 

 突き刺したらまた抜いて、また腹の違う所に刺す。

 何度も、何度も、何度も何度も何度も、俺は自分の身体がどんどん蜂の巣になってくのを自覚しながら、鋏を突き刺していく。

 

「な、何やってんだお前!? マジで気ぃ狂ってるかよ!?」

 

 もはや一周回って心配──じゃないな。この声色は。

 意味の分からない存在に対して抱く、恐怖だ。

 自分自身をひたすら刺し続けるという、意味の分からない行動を前に恐怖している。

 分かるよ。理由が分からない、理解はおろか想像すら困難な存在を前にしたら、驚くのと同時に恐くなるもんだ。

 

 俺も夢見に同じ感情を抱いたからさ……今度は俺がそれをアンタに与える番になった、それだけの話。

 

「ふー、ふー……」

 

 全身から冷や汗が止まらない。

 ぼたぼたと流れる血はその勢いを止むことなく、ともすれば立つ事すらかなわなくなりそう。

 だけど構わない、これで良い。

 

「俺が……鋏の切っ先を持ってるのは……俺が抵抗したから」

「はぁ……?」

「鋏を持って、俺を刺そうとしたお前に抵抗したが、力の差で敵わず俺はお前に刺される。何度も、何度も何度も……だから、お前の指紋がこの持ち手にびっしりある」

「──!? お前、そのために……?」

 

 そう。

 初めから、俺は力でコイツに勝つ気なんて無かった。

 悠が色々気を利かして、格上相手に通用する体術やら何やらを仕込んでくれたけど、元からそれらは全て日の目を見ないスキル。

 

 俺はコイツを叩きのめすんじゃなく、人生を終わらせに来た。

 薬物による昏睡、未成年女子中学生への性的暴行、それらに加えて“殺人未遂”。

 この3つの罪を持って、コイツを一生豚箱にぶち込む。そのために俺の身体を犠牲に出来んなら、それが一番確実なら、何も躊躇う事はない。

 

「ふざけてんのか!? そんな事して死にかけてんじゃねえか!」

「大丈夫です……ちゃんと場所は考えてるので」

「は、はぁ……?」

 

 俺だって無闇矢鱈に刺してるわけじゃない。

 刺された場所は全部──夢見に刺された場所をなぞっている。

 あの日、俺に跨って何度も何度も刺した夢見だが、致命的な傷は避けてると言った通り、俺はどうにか死なないで病院のベッドで目覚めた。

 なら、今回も同じ場所を刺せば、まぁ死にかけはしても死なないだろう。そう思った。

 

 場所については問題ない。

 あの日の……いや、あの日々の出来事はこの時代に戻ってきてからずっと、毎日夢に見ていたから。

 熱さと痛みと吐き気だって、最初に言った通り人は慣れれば全てに置いて事務的になれる物。

 生憎自慢じゃないが、腹を刺される事も、それによって生じる様々な影響も、俺は初めてじゃ無かった。

 

「……別にどうでも良い、勝手に死のうとしてんなら逆に都合良いわ、このまま楽にして──」

 

 動揺しながらも、まずはこの状況を終わらせる事に思考を集中させた男は、改めて俺に詰め寄ろうとする。

 だけど遅い。もう今更過ぎる。

 ここまで、何もかも俺の理想通りにだった。

 

 隙だらけの後ろ姿を晒してた男。

 男が夢見の服の中から取り出して、しっかり指紋を残した上で床に投げた鋏。

 すぐに襲い掛からず、俺の言葉に付き合って経過された時間。

 

 ここまで何もかも俺に都合良く事が運んだのに、今更逆風が吹くわけもない。

 

『小林葉月! 殴り合う様な声と音がしたと通報が来ている、扉を開けなさい!』

 

「──ッ!?」

 

 突如、玄関から聞こえてくる男の声と、ドアを叩く音。

 それがどこに属する人間からの物か、分からないほど致命的な馬鹿ではなかった様だ。男の顔がみるみる青ざめていく。

 

「警察……テメェこうなるのを分かって呼んでたのか!」

「当たり前……でしょ?」

「ふざけんじゃねえぇ──!!」

 

 逆上する男が、衝動のまま俺をぶん殴る。

 もちろん抵抗せずに、俺は顔面を強かに撃たれるが、決して倒れる事はしない。

 

「はい、暴行の証拠もいただきました」

「ッ!? てめえどこまで……」

 

 腹だけじゃなくて、新しく鼻からも血を垂れ流しつつ、俺は初めて男にニヤリと──どっかの情報屋の真似で笑って見せた。

 

「ザマァ見ろ、お前はこれで一生檻の中だ。どうせ叩けば埃しか無いだろお前、死ぬまで税金生活出来るよおめでとう!! ハッピーエンドだなぁ!?」

 

 俺の言葉にまた懲りずに拳を振り上げる男だったが、それが俺の身体に触れる事はもう無かった。

 

「貴様何をしてるんだ!!」

「──離せ! デコが邪魔すんじゃねえぇ!!」

 

 間一髪……と言って良いかは微妙だが、ドアが開いてる事に気づいたであろう警察が2人、タイミングよく俺を殴ろうとする男に飛び掛かり、瞬く間に動きを拘束した。

 悠と綾瀬は……一緒には居ない様だ。まぁ初めからその予定だから問題ない。むしろ今の俺の姿を見せないで済んで良かった。

 

 ていうか、葉月なんて名前してるのなコイツ。無駄に良い名前してるの腹立つわ。立つってより穴だらけだが。

 

「おいテメェ! 殺してやるからこっちこいこの野郎! 来いって──うぶっ!」

 

 どんどん墓穴掘る発言ばかりする葉月は、頭を床に叩きつけられてそれ以上喋るのが出来なくなった。

 誰がどう見ても現行犯なので、ちゃんと後ろ手に手錠も掛けてくれたので、まかり間違ってもこの状況から葉月が逆転できる可能性は、これで消えた事になる。

 

「君、血だらけじゃないか!?」

 

 ついで、警官は俺の惨状を目の当たりにして驚く。鋏はさりげなく床に置いたので、今リビングに来たばかりの警官2人にはちゃんと俺が刺されただけに見えるだろう。

 

「来てくれてありがとうございます、助かりました」

「助かってるもんか! すぐ病院だ! 待ってなさい救急車を呼ぶから──」

「な、何よこれ!!!???」

 

 慌てて救急車を呼ぼうとする警官の声を遮って、一際甲高い声が部屋にこだまする。

 

「何で私の家に警察が……ちょっと、アンタたち人の夫に何してんの!? 離せよ!?」

 

 デカい声が続いたものだから目が覚めてしまったのか、叔母さんが頭に手を添えて痛みに耐える様に起き上がるやいなや、目の前で繰り広げられてる状況にパニックを起こした。

 

 拘束してる警官に掴みかかる叔母さんだが、俺のために救急車を呼ぼうとしてた方の警官が慌てて押さえにかかる。

 2人で口早に叔母さんが葉月の内縁の妻だと確認してから、続けて説得する。

 

「落ち着いてください奥さん、彼は今──」

「離せって言ってるのよ!! 離せよ!!」

 

 まるで話を聞こうとせず、必死になって警官を突き放そうとする叔母さん。警官の顔に猫みたいに爪を立てて引っ掻こうとしてる。

 そんな喧騒の中、とうとう眠らされていたもう1人……夢見も目を覚ましてしまった。

 

「んぅ……頭痛い……どうしたの、お母さん」

「夢見、アンタも一緒に──、何よ、その格好……」

 

 いつの間にかソファに寝てた事自体には無関心なまま、夢見に協力する様に命令するため振り向いた途端、叔母さんの表情が固まり……やがて真っ赤になる。

 

「格好って……え、何これ……あたしどうして!?」

「ふ……ふざけんなお前ぇー!!」

 

 夢見の肌が露わになった下着姿を見て、叔母さんはみるみる目付きを鋭くして、葉月を助ける事なんて頭から抜けたかの様に夢見へ掴みかかった。

 警官が止めるのも間に合わないほどに素早く、夢見にのしかかり、ソファに体重を預けたままその両手で首を絞める。

 

「お前がやったんだろ!? お前がアタシの夫に手出させて警察に突き出しやがったんだな!?」

「お、お母さん……ちが、あたし、知らない……」

「と、ぼ、けてんじゃねえよビッチが!! またアタシの幸せを邪魔すんのかよ!」

 

 後ろから警官が引き離そうとしてるが、怒りで力のリミッターが外れてるのか引き剥がす事が出来ない。

 夢見も必死に抵抗しようとしてるが、酸欠が近くなるごとにその力も弱々しくなる一方だ。

 

「お、おい……お前何して……」

 

 見てみると手錠されて床に倒れたままの葉月も、ドン引きしながら母娘の様子を見ている。

 いや、お前もドン引くのかよ。……いやまぁ、当然の話か。自分の女がこれだけの危うさを持ってる人間だと想像できるだけの頭があれば、絶対金づる扱いでも近づこうとなんてしなかっただろうしな。

 

「おいアンタ! それ以上やると本当に死ぬぞ!」

「お母……苦しい……」

「うっせえよ、苦しんでんじゃあねえ死ねって言ってるでしょ!?」

 

 いよいよ夢見も限界が近くなってるのが顔色で分かる。

 正直なところ、このタイミングで叔母さんが起きて、しかもこんな事態を引き起こすなんて事は想定外も良い所だったけど……逆に好都合かもな。

 “このまま放置すれば夢見も死んでくれるんじゃないか”という黒い考えを振り払って、俺は血が足りなくなってきた体に鞭を入れる。

 

「叔母さん、それ以上はダメだよ」

 

 警官の様に引き剥がすのではなく、夢見の首絞めているその手にそっと触れて、俺は注意を引き付ける。

 

「今度は誰……え、縁君?」

 

 新たな邪魔者の登場に殺意の籠った視線を向ける叔母さんだったが、相手が思いもよらない人だったのもあってか、一瞬だけその表情に理性が戻った。

 

「どうして君がここに……」

 

 よほど驚きだったのか、それでも頭のねじが半分抜けてるだけあって俺が血まみれな事には気付いているの居ないのか、まるで無頓着だ。

 それでも夢見の首を絞める手を弱めるのには成功できた。警官がようやく叔母さんを夢見から引き剥がす。

 

「げほっ……ごほっ!」

「大丈夫か、夢見」

 

 咳き込む夢見に声をかけると、こちらもようやく俺が来ている事に気が付いて、咽て涙を浮かびながらも驚きの表情を浮かべる。

 

「お、お従兄ちゃん!? どうして……それに、血だらけだよ!? なんで? どうしたのそれ……」

 

 あぁ、こちらはちゃんと気づいてくれたのか。

 とにかく死ぬような状態ではないのが分かればソレで良い。

 メインの目的は達成されたし、早く病院にもいきたい。脳内麻薬がいつの間にか仕事して痛みや熱や吐き気は沈静化してる内に、このヒステリック・レディにも収まっていただくとしよう。

 

「叔母さん、夢見は本当に何も知らないんです。叔母さんと同じように葉月(コイツ)に薬を盛られて眠らされて、そのうちにコイツが夢見を襲おうとしたんですよ」

 

 淡々と、しかし的確に事実だけを述べる。

 

「そんな……そんな事……」

 

 警官2人に抑えられながら、瞳をまん丸に見開いて俺の言葉を受け止める叔母さん。

 一見、誤解が解けたようにも見えるだろう。だけどそんな言葉が通じる様な相手ではない事を、俺はもう知っている。

 

「──あんたもソイツもそう言うように誑かされてんでしょうが!?」

 

 ほらね、あっという間に豹変した。

 知ってたよ、こうなるの。だってこの人夢見の母親だぜ? 

 再び暴れだした叔母さんを、警官たちは必死になって押さえつけている。俺はつばを吐き散らかす狂乱女を前にしても冷静に、しかし煽るように、わざと正論をぶつけ続ける。

 

「どうしてそんな酷い事を言えるんですか。自分の娘でしょう? 夢見はただの被害者ですよ」

「あたしが被害者よ! こんな若さで男を誑かすしか脳の無い売女、さっさと風俗にでも行かせればよかった! そうすれば夫はアタシだけを愛したのに!」

「……本気で言ってるんですか?」

「本気も何も事実そうだから言ってるんじゃない! アタシの幸せはいつもソイツに壊されてるの! アタシが幸せになるにはソイツが死ななきゃダメなの! 分かる? 分かるわよね!?」

「お母さん……そんな……」

 

 後ろで絶望する夢見の声が聴こえた。ああ、こんな母親でも一端に絶望出来るんだ。こいつも人の娘なんだな。

 ……ホント、つくづく呆れ果てる。脳みそがチンコにある男と、自分が愛される事しか頭にない女。

 こんな2人に夢見は壊されて、俺の人生は狂わされたんだから。……もう何度も反芻してる思いだが、何回も思い返してしまうほど悲惨なんだから、仕方ない。

 

「はぁ……アンタ、本当に人の親かよ」

 

 言わなくても良い言葉だったが、言わずにはいられない言葉でもあった。

 

「何よその言葉、それにその顔……姉さんとまんま同じ……」

「あー、話がややこしくなりそうな姉妹間コンプレックスは他所で話してください」

「──分かった! お前アイツにここに来いって言われたんだろ!?」

「はい? なんて?」

「とぼけんな! 姉さんがここにきてアタシの家庭を壊して来いって命令したんでしょ!? あの人はいつもそうやってアタシのやることなす事全部否定するんだから!」

「……実の娘否定してるアンタが言える言葉かよ」

 

 思った通りの発狂具合で、もはや自分で何を言ってるのかも分かっていないのがありありと見てとれる。

 ……うん、もうこの辺で良いかな。

 

「俺はね、夢見に前から相談されてたんですよ。母さんが結婚した男は普通じゃない、怖いって」

「え、お従兄ちゃん……?」

 

 困惑する背後の夢見を無視して、俺は話し続ける。

 

「夢見は今日まで、そこで倒れてる男を避けて生活してましたが、今日は誕生日で何されるか分からなかった。だから俺がお邪魔してけん制しようって提案したんです。でもここに来る途中で迷って遅くなって……それでようやく来たと思ったら、夢見は襲われる寸前だったんですよ」

「でたらめ言ってんじゃ無いわよ! ……夢見、アンタ本当にそんな事してたっての!?」

「あぁ、そうですよ」

 

 夢見より先に俺が答えて、そのままくると振り向き、背後のソファで横たわりながら俺を見上げていた夢見に視線を合わせる。

 

「そうだよな? 夢見……」

「お従兄ちゃん……あたし……あたしはっ」

 

 もちろん、今話した事は全て真っ赤な嘘だ。血だらけで真っ赤な俺が言うので物理的にもその通りである。

 夢見はそれを分かった上で、俺の言葉に頷けばどうなるのか──両親、特に母親が捕まってしまう事を理解している。

 こんなに好き放題言われても躊躇ってしまうのは、本当に母親を家族として思っていたからか、あるいは毒親のDV教育による服従精神故か……いずれにせよ、俺に夢見の決断を待つ暇は無い。

 

「夢見。()()()()()()

「──っ!」

 

 ジッと夢見の瞳を見ながら俺は言う。

 それに合わせて、夢見もおずおずと俺の目を見返す。

 

 夢見は言った。俺を追いかけていくうちに、目を見るだけで俺の感情や気持ちを理解できると。

 そしてそれは、あの街で暮らして俺のストーカーをしている間に身に着いたものでもある、と。

 

 ならば、今の夢見にも分かるはずだ。俺の考えてる事、俺の気持ちが。

 もう、この家に固執して夢見のためになるモノは何もない。切り離すべきであり、その最後の決断を選べるのはこの状況で夢見だけ。

 

「──うん、分かった」

 

 ジッと俺の目を見た夢見は一瞬俯いて、次に顔を上げた時には決意に満ちた瞳になった。

 

「お従兄ちゃんの言う通りです。あたしがお従兄ちゃんに助けを求めました」

「──夢見、アンタ!」

「あたしをレイプして、お従兄ちゃんを殺そうとしたんです! 2人が!」

 

 夢見自身の口から放たれる嘘の証言。

 それがこの場の流れを決着させるのに相応しいものであるのは、疑いようも無かった。

 

「やっぱりアタシ達を──ふざけんなぁああああ!! 殺してやる! 殺させろ!」

 

 あんなに自分達をハメたのかとキレてたくせに、いざ本当の本当にはハメられた途端、悲痛な叫びをあげる叔母さん。

 そんな落ちるところまで堕ちた人間を前に、俺から言える事があるとすれば、ただこれだけだった。

 

「ハッピーエンドだね、叔母さん」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 今まで一番の狂乱を見せた叔母さんだったが、流石にこれ以上好き放題暴れさせるワケも無く、警官達に今度こそ完全に取り押さえられた。

 応援の警官がパトカーのサイレンを鳴らしながら現れて、暴れ続ける叔母さんと、そんな叔母さんの姿を見て無気力になる葉月を連行して、ようやく救急車が呼ばれる。

 それまでの間、夢見はいそいそと服を着直して、俺の容態を心配してくれた。

 

 事情を聴きに来た警官に尋ねたが、今回の話が全て事実なら、計画性を持った醜悪な犯行で、かつ葉月は半グレだから余罪も多く、無期懲役の可能性が大いにあるだろうとの事。

 あくまでも警官の経験則による発言だが、あとは悠にお願いしてこっそり手を回してもらおうかな。

 

 なんにせよ、これでとうとう終わった。

 夢見がこれで歪んでしまうことは無くなって、3年後の惨劇の引き金も消え失せた。

 何か大きな実感があるワケではないが、変わったんだ、未来は確実に。

 

「あぁ……やっと、やっと終わった」

 

 口に出して、耳朶に響かせて、脳で認識させて──ようやく、俺は夢見が戻ってきてから続いてきた悪夢から解放されたのだと、心から思う事が出来た。

 

 だから、なのだろう。

 

 

「──ッ!!??」

 

 途端に、現実が俺を包み込む。

 

「──お従兄ちゃん!?」

「どうしたんだ君!? ……なんて出血量だ、マズいぞ! 君今までこんな怪我を我慢して……!?」

「救急車を急がせろ! 間に合わないぞ!」

 

 パニックが戻ってきた周りの喧騒が、やけに遠くから聴こえる。

 それも仕方ないか。だって、俺の意識が薄らいでるんだから。

 

 いつの間にか俺は倒れていたらしい。

 お腹から、ものすごい量の血が流れてるのが薄ぼんやりと見える。

 

 ──身体が、重い。

 

 鉛のようになった身体をくるっと回して、仰向けになる。

 隣で夢見が泣きながら俺の名前を連呼しているが、何も答えられないのがもどかしい。

 

「なんだ君達は、ここは今入っては──」

「縁の友人です! いったい何が──おい、嘘だろ!?」

「縁! いやぁあああ!」

 

 ──おいおい、なんでこのタイミングで悠と綾瀬まで来ちゃうかな。

 

 必死に俺に声をかける3人。はは、申し訳ございません。駄目ですこれ。

 何度も死んで来たから分かる。この感覚は“死ぬことが決まった”時のモノだ。

 おっかしいなぁ。夢見が刺した場所と寸分違わぬ場所を刺したつもりだったけど、アイツのいう事がそもそもいい加減だったかな? 

 いや、違うか。そういやアレは3年後の俺の身体の話で合って、中2の今の俺の体系では成り立たない話だもんな。

 

 なぁんだ、結局俺は自業自得で死ぬのね。

 せっかく、ここまで来れたのに。

 やっと未来が見えたのに。

 

 はは、本当に、本当に、くだらない。

 

 

 

 ──でも

 

 

 

 ああ。

 死にたく無い。

 

 

 

 ──これで、死んだみんなの所に行けるなら、良いかな

 

 

 

 ――to be continued




次回、正真正銘の終章最終回です。


厳密には最終回、エピローグ+あとがきの順で更新予定です。

事前の通知ですが、エピローグとあとがきについては同時に更新するので、目次から見て頂くようにお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終病 ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄として生きていく

本編の最終回です。
エピローグと後書きは後日同時に投稿しますので、お気をつけください。

一応エピローグはありますが、今回を持って今作……野々原縁の物語は本当の本当に最終回です。
後書きでも書きますが、ここでも先に。

今まで読んでいただき、ありがとうございました。


 

 結局のところ、俺は最後の最後に、希死念慮に負けたらしい。

 

 鳴りを潜めていたから、すっかり消えたのだと思ってたが、自分を刺すなんて狂った行動を取るうちに、自然と本気で死のうとしたんだと、今になって自覚した。

 

 こんなに頑張って、やる事やりきって、その結果この結末ってのは、もう何というか……救いようが無い。

 夢見はちゃんとあの家族から離れられただろうか。俺が死ぬのを目の前で見てしまった綾瀬と悠は、気を落としすぎて無いだろうか。自分の全く知らない場所で起きた兄の死を、渚は受け止めてくれるだろうか。

 

 分からない、死んでしまった俺にはもう、それを知る術はない。

 悔いは残るばかりだが、先立たないから後悔なわけで……死んでしまったらそれでおしまいなのも、本来の在り方だ。

 

 それに、少なくとも俺が死ねば夢見が俺を想ってヤンデレに転化する事も無くなる。

 それは夢見に限らず綾瀬や渚達にも言える話で、つまりもう彼女達が誰かを殺したり、互いに殺しあう事も無くなるのだから……俺が死ぬのも悪い事ばかりじゃない。

 

 だから素直に受け入れよう。俺は加減し損ねて本当に死んじゃった馬鹿だけど──それでも、目的は果たせたんだから。

 

 何より──これでようやく、死んだみんなの所に俺も行けるんだから。

 

 

 

 

「いや」

 

 

 

 

 

「──行けるわけねぇだろボケ」

 

「ぁ痛あ!?」

 

 急に頭をド突かれた痛みで意識が目覚める。

 今まで足刺されたり、腹刺されたり、ナイフ突き刺さったり、車に轢かれたり、色んな痛みを経験してきたが、こんなどストレートにゲンコツされたのは初めてだ。頭蓋骨を通して脳が揺れる感覚で涙目になりつつ、俺は周りを見渡した。

 

「……何だここ」

 

 頭をささりつつ、出てきた言葉はそれだった。

 無理もない。辺り一面、自分が今腰を落としてる地面と思わしき場所まで、全部が灰色なのだから。

 オープンワールドのゲームでフィールドのテクスチャがバグってる時みたいに、どこまで続いてるか分からない虚無感溢れる空間。

 立ち上がってみるが、視線の高さが変わった気すらしない。

 

「……ここが、死後の世界って言われるものですかね」

 

 そうだとすればあまりにも味気なさ過ぎる。

 

「まあ、半分正解で半分間違いってとこだな」

「──!?」

 

 誰に言うでもなかったはずの独り言に、背後から返す声が聞こえた。

 そうだ、そもそも俺はさっき頭を拳骨されてるんだった。

 自分で自分を痛めつける行動なんて2度としたくないし、する気もない。であれば当然、俺以外の人間がこの空間にいると言うわけで──それが、背後から俺の独り言に返事をしたのは間違いない。

 

 果たしてどんな人が俺の後ろにいるのだろうか。いや、死後の世界なら死神とかになるのか? 

 黒装束に鎌を持ってたり? あるいは、やたら和装で日本刀携えてる可能性もある。

 声の感じからして男だろうけど、拳骨するくらいだから粗暴で野蛮な性格かもしれない。

 

 あらゆる想像を織り交ぜ戦々恐々としながら、俺はゆっくり後ろを振り向いた。そこには──、

 

 

「よぉ」

「……どうも」

 

 俺よりやや身長高めなだけで、あとは何の変哲もない、黒髪の高校生が居た。

 何故高校生と断定出来るのか、それは高校の制服を着ているからだ。

 とは言え、全くもってこの人が誰なのか俺には分からない。

 

「えっと……あんた、誰?」

 

 また拳骨されるかな? と思いつつも恐る恐る聞いてみたら、高校生さん(仮称)は目と口をぽかんとした後に、クスクス笑い始めた。

 

「おいおい、オレが誰か分からないか? 本当に?」

「えぇ……はい。すみません」

「もっとよく見ろって、オレの特徴とかさ」

「あーっ、その、何だろ。高校生ですよね、その制服」

「おう。少しは正解に近づいたな。それで?」

「それで? って……あとはもう何も」

「もうちょっと考えてみろって。どうしてお前はオレの格好が高校生の制服だってハッキリ分かる? お前の通ってるトコと違うのに」

「どうしてって、そりゃ見た事が──」

 

 いや、待て? 

 見たことがあるって、いつよ? 

 塚本せんりが会う度に変わってた制服の中にあったか? いや違うな、俺はあいつのキャラの濃さだけは覚えてるけど、服装に関しては細かく記憶してない。

 なら、あと俺が制服を見る機会なんてのは……駅前とかで良舟学園以外の学校に通ってる学生を見た時と、高一の時に友達と女子校の文化祭見に行った時くらいだ。

 

 それだって、駅前で見る他学校の制服なんか基本覚えてないし……ましてや女子校の制服を男が着てるわけもない。

 

 となれば、あと俺の記憶にあるのは──、

 

「あっ……俺の記憶じゃなくて」

 

 そうだ、この制服が見慣れてる感じしたのは、俺じゃなくて頸城縁の記憶で見ていたからだ! 

 

「さっきよりも正解が近くなってきた感じ?」

「えぇ、まぁ。だからその、俺であって俺じゃない……みたいな? ちょっと説明が難しいんですけど」

「〜〜あぁもうまどろっこしいな、散々オレの記憶の中で見てきた奴と同じって良いんたいんだろう?」

「そうです、その通り……です。って、はぁ!?」

 

 今なんて言ったこの人!? 

 俺の秘密を普通に知ってるっていうか、むしろ当事者みたいな言い方してたよね!? 

 

「今、オレの記憶っておっしゃいました……?」

「あぁ、言ったよ。オレの記憶であり、お前のものでもあったよな」

「あったよなって……えっと、もしかして、つまり君は……」

 

 俄には信じられ……いや、散々今まであり得ない経験してきた上で言うのも何だが、今回のはとびきりだ。

 だって、いくらなんでもこんな事が起こるなんて思うわけ無いじゃないか! 

 

「君、頸城縁か!?」

「あぁ。こうしてツラを合わせるのは初めてだな、野々原」

 

 やけに馴れ馴れしい割に、違和感なかった理由に納得した。

 この男は、今までずっと俺の中にいた、変な言い方をすれば相棒みたいな奴だったんだから。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「改めて見ると、全然似てないなオレら」

「確かに……そうですね」

 

 髪色や身長だけじゃない。声も向こうの方が低いし、目つきも心なしか悪そうだ。

 

「って、なんでさっきから敬語調なんだよ」

「いやだって、記憶が正しければ高3ですよね? 先輩相手にはちょっと……」

「──あははは! お前ヤンデレCDの主人公なくせに真面目かよ!」

「んな、どういう意味ですかそれ!」

「誰と付き合ってもいい加減な態度で、女の子を病ませる奴じゃないか本来のお前」

「うぐっ……それは」

 

 確かに、俺がこの人の記憶を思い出したり意識と同化しなかったら、今頃俺はとっくにこの世からオサラバしてたに違いない。

 でも、それを今更このタイミングで言うかなぁこの人は!? しかも一緒になってそうならないように頑張った仲なのに! 

 ……まぁ、だからこそ言える関係って言い方もできるかもな。とは言ってもだ。

 

「人間性の問題を言うなら、こっちだって言わせてもらいますけどね、自分の味方してくれてた幼なじみをあんな突き放し方したのは最低でしょうが!」

「……………………はい」

「速攻でメンタルつぶれるなよ煽って来たくせに!?」

 

 俺の世界の幼なじみさんと親友さん相手に言葉を伝えられたから、ある程度は乗り越えたのかなと思ったが、どうやら未だに当時の行動は地雷の様だ。

 

「……お互い、この手の話はしない方が無難ですね」

「だな……すまなかった」

「いえ、こちらも」

 

 気まずい空気が両者の間を流れて数秒。

 咳払いと共に改めて頸城さんが話を続けた。

 

「とりあえず、オレに対して敬語は無しで良い。というか使うな。なんかもどかしい」

「んー、じゃあ分かり……分かった。そうさせてもらう」

「んん、その方がやっぱ自然だ」

「それで、結局ここはどこ?」

 

 あの世が半分正解って事はまあ、ありきたりな発想で境目とかになるんだろうけど。

 

「あの世とこの世の境目だな」

「あ、まんまそうなんだ」

 

 もう少し捻ったオチが待ってるかと少し期待したのに。

 

「そりゃそうだろう。だって俺たちこのままだと死ぬし」

「……やっぱそうなのか」

 

 サラリと、しかし何の疑いも持たせない確信を持った言い方でハッキリ言われてしまった。

 

「やり過ぎだよお前、あんな深々と刺しまくったらそりゃあ死ぬさ」

「だって、半端な刺し方じゃ疑われると思ったし……夢見に刺された所を参考にすれば、死なないかなって」

「んで、死んだと……まあ疑われないためにってのは分からなくも無いがさ。……死んだら楽になれるとか、その辺の事も思ってたろ」

「……」

「思ってたな?」

「……いちいち聞くなよ、答え知ってるくせに」

 

 俺の希死念慮は、頸城だって分かってる事。

 沈黙も否定も、無駄な事だって分かってるけど、いちいち揶揄うように言われるのも恥ずかしい。

 

「まぁ、な……お前の気持ちは分からなくもない……と言うのは嘘だ」

「分からないのかよ、俺だったのに」

「そう。お前と意識が混じってたから、お前が大好きなみんなのいる所に行けるって考えるまでの過程や事情は分かる。でもそれは共有した情報ってだけで、オレ自身は別にそういうセンチメンタルな事思わねえから、分からんッてコト」

「……そっか。そう言えばあんた死ぬ時はひたすら後悔してたもんな」

 

 思い起こすと、頸城は死ぬ前に雨に打たれながら最後まで悔しさを口にしていた。

 俺みたいにやっと楽になれるとか、死んだ奴らとまた会えるとか、後ろ向きだけどプラス方面な思考にはならずに、最後までずっと歯を食いしばってたんだ。

 そういう意味でも、やっぱ俺と頸城は色々違うんだろう。

 

「オレはお前と違って親も周りの人間とも上手くいかなかったからな。死んだ後に会いたいって思える奴が居なかったよ。その点で言えば無様なのはオレで、恵まれてるのはソッチだな」

「でも、幼なじみには──」

「会いたくなかったなぁ」

「──そっか、悪い」

 

 そうだった。また俺は地雷を踏んでしまった。

 結局、頸城は今も幼なじみの死は自分のせいだと思ったまま。

 俺の世界の彼女が幸せに生きているとしても、頸城の世界の彼女は永遠に死んだままなんだから、後悔が消える事は無いのか。

 

 なのに、また安易に幼なじみの事を話に出してしまった。

 認めたく無いけど……こういう、人の心のデリケートな部分に不用意なのが、本来の俺なのかもしれない。

 頸城と混じってる時はその辺の配慮も出来てたけど、多分離別してる今、この状態の俺が本来の──女の子を病ませて殺される野々原縁の人間性。

 

「あんま気にするなよ、勝手に後悔してるのはオレだ。お前が気に病むことねえって」

「いや、そう言ってくれるのはありがたいけどさ……」

「ん?」

「俺、思ってたよりずっと、お前の性格に助けられてたんだなって実感したよ」

「……ははは、何の事か分かんねえけど、そう言ってくれるのは嬉しいよ」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……でもな、実のところ、オレもお前から貰ったものがあるんだ」

「というと?」

「家族、クラスメイト、親友、それに幼なじみ……そのどれとも関係が破綻しないまま続く日々。どれもオレが生きてる時に切望して、でも無理だと絶望してたものばっかだった」

 

 幸せを指折りで数えながら、頸城は穏やかな表情で言う。

 

「オレがお前の中で目を覚まして、お前に混じってから、オレが幸せだと感じるものが沢山あった。それこそ指が足りなくなってしまうくらい」

「……その分、大変な目にも遭ったのに?」

「それでもさ! オレはお前と駆け抜けた日々の全部、良い事悪い事全部引っくるめて、楽しかったよ」

 

 屈託の無い笑顔を、頸城は見せた。

 それはきっと、彼が生前ごく僅かな人間の前でしか見せなかったであろう物に違いない。

 

 園子に依存されずにいじめ問題を助けようと懊悩した事も。

 渚と正面から対立した日も。

 咲夜と悠のお家争いで大切な関係が崩れてしまいそうになった事も。

 綾瀬と恋人になる覚悟を決めて奔走した事も。

 夢見に全てを壊されて……それでもなお諦めずに未来を変えようとした事も。

 

「全部、オレにとってはかけがえの無い……掛け替えが出来る筈もねえ時間だったよ。ありがとな」

「……それこそ、そんな風に言ってくれて嬉しいよ」

 

 苦しい事も多く……いやだいぶ苦しめられたけれども、その中にある平穏な日々と幸せは間違いなく、野々原縁という人間が本来なら辿り着けない、手に入らない物だった。

 

 寂しさを拗らせた妹に監禁された後に殺されるか。

 独占欲が暴走した幼なじみに磔にされてしまうか。

 失う事を恐れて殺され植物の養分と成り果てるか。

 

 そんな未来しか無かった俺がここまで生きてこれたのは全部、頸城縁が一緒に居てくれたからに他ならない。

 

「俺にも言わせて欲しい。本当にありがとうございました」

「──なら、お互いにありがとって事で良いか」

「うん、そうしよう」

 

 そう言って互いに笑い合う。

 それはまるで、今日まで一緒になってヤンデレと理不尽な世界に立ち向かってきた者同士だけが出来る、ささやかな祝賀会の様だった。

 

「……だからさ」

「ん?」

「オレ、お前にお礼がしたいんだ」

「お礼って、今更何を?」

 

 制服のプレゼントとかなら結構だ。サイズ合わないし、欲しくない。

 他に見たところ所持品なんて無さそうだし……そもそも死にゆく時にさしあたって、物なんか貰っても意味は無いだろう。

 もしかして三途の川を渡るための船賃を貸してくれるのだろうか? 

 

「何考えてるのかは予想つくけど、たぶん違うぞ」

「心読むなよ」

 

 ほんのさっきまで一緒だった分、俺の思考回路は分かるだろうけど。

 

「……オレは、お前から色んな物を貰った。それは生前のオレが持ち得なかった物ばかりだったけど、実はいくつかオレにもお前と同じ物があったんだ。何か分かるだろ?」

「……ん、まぁ、分かる」

 

 幼なじみと、親友。

 

 どちらとも不幸な別れ方にはなったが、この2つだけは確かに頸城にもあった。

 

「そう。お互い、安寧と平和な日々ってのには縁がない人生だったけど、身近に自分を想ってくれる人との縁はあった」

「……だな」

 

 頸城が俺の思考を読めるのと違って、向こうが何を言おうとしてるのか分からず、黙って続きを促す。

 

「オレとお前には相違点が沢山あって、性格やガタイだけじゃなくて、オレにはあった悪いものがお前には無かった。オレは瑠衣や堀内を拒絶したが、お前は綾小路や河本を頼った。だからオレとお前は違う人間だった。なのにさ」

 

 俺の肩に手を当てて、頸城は親が子を諭す様な、真剣な面持ちで言った。

 

「死に方がオレと同じじゃ、駄目だろ?」

「……っ」

 

 頸城縁の死に方。

 幼なじみの瑠衣さんを死に追いやったクラスの男子数名相手に1人で対峙して、再起不能に追いやった代わりに受けた傷で死んだ。

 瑠衣さんの仇打ちという点で言えば確かに、俺が葉月や叔母さん相手にした事と繋がってると言えるけど──、

 

「違う」

 

 俺の思考を遮って、頸城は言葉を続けた。

 

「オレと同じってのは、大切な人達を目の前にして死ぬって事だよ」

「あ……そ、そうだな……うん」

 

 そうだった。頸城が死ぬ前、本当の本当に命が尽きる直前。唯一頸城の味方をしていた堀内さんが駆けつけたくれていた。

 無茶な事をすると分かってて、死に物狂いで頸城を探して、ようやく見つけた時には全てが手遅れになった後。

 彼は、必死に頸城に呼び掛けてくれた。

 

「お前がやったのはもっと酷い。あんなにお前の事が大好きな幼なじみの河本まで居たんだから」

「……ほんとにな」

「あの後、お前が死んでしまったらあの2人はどうなると思う? 多分一生のトラウマになるぜ。自分達が止めなかったから死なせてしまったってな……それこそ、お前の世界で生きててくれた瑠衣達と同じになる。引きずるぞ、一生」

「それは──っ、困る! そんなの!」

「そういう事をしたんだろうが。……まぁ、オレも一緒にやった事だけど、ちょっと強引過ぎたよな。死にたがってたお前の思考がその辺の判断歪ませたんだろう」

「だけど、でも……アイツらがそれで後悔し続けるのは、嫌だ……」

 

 我ながら勝手だと思う。

 そもそも、その程度の予想は出来たはずなのに、死んだ後にいよいよ嫌がるなんてふざけてるとしか言えない。

 考えが浅かった。死ぬ予定は無かったとはいえ、一歩間違えたら死ぬ作戦ではあったんだから、もっと別の事を考えるべきだった。

 何が死ねばみんなのところに行ける、だ。自分勝手にも程がある! 

 

「あの2人だけじゃなくて、渚だって悲しむよな?」

「あぁ、そう思う」

「家族だって」

「分かってる! いや、分かってなかったけど!」

「そうなって欲しくないよな」

「無いよ! でも今更──」

 

「だから、ならない様にしてやるよ」

「──は?」

 

 今、なんて? 

 ならない様にするってどういう事だ? 

 

「最初に言ったよな、ここはあの世とこの世の境目だって」

「あ、あぁ……」

「正直、何でオレがそんな事分かってるのかは自分でも分からないんだ」

「え、えぇ?」

「えー? って思うよな。でもなんかこう、そうだっていう確信だけはあるんだよ」

「……はぁ」

「話が逸れたな──つまりオレはここが“そういう場所”って事を知っていて、ここに来てしまったからには、ちゃんと死ぬ必要がある」

「まぁ、そのための境目なんだろうし……当然だよな」

 

 不思議と、俺も頸城の言う事に心から同意している。

 だからこそ、この後俺たちは境目からあの世に行かなきゃ駄目なわけで──、

 

「でも、ここには今2人いる。そして現実で死んだのは1人、お前だけだ」

「……ん?」

「本当に死んだのは1人だけ、野々原縁だけなのに、今ここには野々原と頸城の2人がいて、どっちもあの世に行こうとしてる。これじゃあ数が合わないし、おかしいよな?」

「ま、待って……いや待って?」

「特に待たない」

「そうじゃなくて! じゃあ何だ、あんたの言いたい事ってつまり……」

 

 死んだのは1人で、ここには2人。

 あの世に行くのは本来、1人で良い? 

 そうだとしたら、残る1人は──、

 

「そ。戻れる……黄泉返りって奴だ」

「う、うぅ嘘だろ!?」

「さあ、嘘か本当かは知らん」

「なんだよそれ、そんな屁理屈まかり通るのかあの世って!?」

「知らないよ、神様に聞いてくれ」

「聞けねえよ!」

「だったらそう思う事にしとけ。だからまぁ、あの世にはオレが行って

 ……お前はお前を大好きな人達の居る場所に帰れよ。それがオレに出来るただ一つのお礼だ」

 

 衝撃的な告白に頭がポカンとなりそうなのを堪えて、俺は改めて自分が言われた事を脳みそに叩き込んだ。

 つまり、理屈は理解出来ないけど、俺は生き返る事が出来るってわけで……でもそれはつまり、頸城だけはあの世に行く。俺達が離れ離れになるって意味だ。

 俺だけが生きて、頸城だけは死ぬ。

 

「あんたはそれで良いのか?」

「オレは元から死人だよ! どう言うワケか生まれ変わり先のお前に、意識と記憶ごとお世話になってただけで、本当ならとっくに向こう側の住人だった。本来の場所に収まるだけだよ」

「だけど、俺だけが助かるなんて、お前だって一緒に頑張ってきたのに」

「違うよ。オレはあくまでお前の中でヒントや別の見方を提供してただけ。どんな言葉も行動も、最終的に選んだのはいつだってお前だろ。だから頑張ったのはお前だし、お前だからオレはもう少し生きて欲しいと思うんだ」

「でも……それじゃあ」

「だぁー! もうまどろっこしいなぁお前!」

 

 頭をかきながら、心底めんどくさそうな顔をして、人差し指をピンと俺に向けた頸城が言う。

 

「お前、死にたいのか?」

「いや、死にたく無い」

「じゃあここに残りたい理由があるのか?」

「そんな……特には、無い」

「現実に戻りたくない理由は?」

「もっと無い!」

「じゃあ素直に生き返ればいいだろう!? 何躊躇ってんの」

「それは…………」

 

 何もかも頸城の言う通りだし、反論の余地は無い。

 それは、そうなんだが……。

 

「あっ、分かった」

「……分かるなよ」

 

 すぐに俺が躊躇う理由に勘づいた頸城は、ニヤニヤ笑って揶揄うように、

 

「お前……オレと離れた後、1人で上手くやっていけるか不安なんだろ?」

「……うっ」

 

 ズバリ、その通りだった。

 こうして2人で話してる中でも、彼の地雷を踏んでしまうような俺だ。

 仮に生き返ったとして、無意識に渚や綾瀬の神経を逆撫でする様な行動を取ってしまうかもしれない。

 未来は変わって、俺が過ごした日々をただなぞらえるだけじゃ行けなくなる。そんな中俺がヤンデレの素質を持った女の子達相手に、今まで通りの立ち回りが出来るかは甚だ怪しい。

 

「そんな事気にして生きる躊躇ってんのかよ、馬鹿だなお前」

「うっさいなあ、分かってるけどさ……」

 

 それでも不安はあるんだから仕方ないだろ。そう言おうとした俺に、

 

「大丈夫だ、今のお前なら」

 

 頸城はまた確信を持った声で、宣言する。

 

「確かに危うさは残ってる。でもそれは今日まで色んな経験をしたお前なら乗り越えられる程度のものだ。だって、何回も死んで殺されてを繰り返してきたんだぜ?」

「……そうかな」

「おう、俺が保証する。お前は俺と違って、頑張ればちゃんと幸せに生きていける人間だし、それが叶う環境にいるんだから」

 

 不思議……というか、単純な物だが、頸城にそう言われるだけで本当に大丈夫だという気持ちになってきた。

 

「……きっと、今後も胃が痛くなる日々になるんだろうな」

「間違いない。まずは渚が難敵だな」

「綾瀬とも、しっかり向き合わないとだし」

「園芸部って空間無しでみんなの仲が良好なるのも難しいなぁ」

「園子のいじめは、できれば起こる前に止めたいかな」

「わぁ、やる事沢山あるじゃねえか。ならここで立ち止まってる暇なんか無い」

「……うん、そうだね。その通りだ」

 

 躊躇いも不安も、まだまだ余裕であるけど。

 それ以上に、やってやろうって気持ちの方が強くなってきた。

 

「やってみるよ、またあの死にたくなる日々を、今度こそ死なずに生ききってみる」

「あぁ。じゃあそのために一つ約束だ」

「約束? ここから離れるためのルールか? 振り向かないとか?」

「それもあるんだろうけど、俺が言いたいのは生き返った後の事」

 

 生き返った後の? 

 また瑠衣さんの所に行って欲しい、とかだろうか。

 3年戻ったので、またあの夫婦も頸城の死に引き摺られてるままだ。それを払拭してくれって言うなら喜んでするつもりだが。

 

 そんな予想と、頸城が言った言葉はまるで違っていた。

 

「オレと約束して欲しいのは、簡単だ。もう2度と“死にたくなってきた”なんて思わない事、それだけ」

「……それだけ?」

「あぁ。それだけだ。どんなに辛くても、逃げていいから死ぬ方向に考えを向けるな。ちゃんと生きて、生きて生きて──幸せになれ」

 

 それは俺の世界で頸城が、俺の体を通して瑠衣さん達夫婦に向けた最後の言葉と同じだった。

 どこまで行っても、自分の幸せは考えず……コイツは、本当に。

 だけど、仕方ない。もう頸城縁の人生は完結してしまった。スピンオフもifストーリーも起こり得ない。

 いや、そもそも俺と一緒にいた日々こそが彼にとってのソレだったんだから。

 

 生きる事を決意した俺に、死にゆく事が決まってる頸城の性根を変える事はもう出来ない。

 だから、せめて俺に出来る事──頸城との約束だけは、ちゃんと守ろう。

 

 

「分かった。任せてくれ。幸せになりたさは人の倍はあるんだから」

「オレの分までな。ふふっ……頼んだぜ」

「あぁ」

 

 そう答えると、途端に頸城は俺の両肩を掴み、くるりと体を反対向きにさせた。

 唐突な行動に面食らいながらも、これが何をさせたいのかをすぐに察知する。

 

「じゃあ、話はここまでだ。もうオレの顔を見る必要もない。このまままっすぐ向こう側に向かって、走れ」

「急なんだから……だけど、いよいよお別れか」

「あぁ。しっかり人生を楽しめよ? あ、あと万が一出会うような機会があれば、七宮伊織さんによろしく伝えといて……やっぱいいや、お前が拗れるだけだし」

「……おう」

 

 やっぱりコイツ、俺の知らない所で何か七宮さんとあったんだな。

 問いただす時間もないこのタイミングで言うなんて、本当に厭らしい真似をする。お陰で、永遠に俺の知らない物語になってしまった。

 

 まあでも良いか。これから先俺が過ごす日々だって、コイツが知らない物語になるんだから。お互い様だ。

 

「じゃあな、野々原縁。心置きなくヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない日々を過ごせ!」

「ちょっ……お前なぁ……」

 

 最後の最後に、呪いの言葉みたいな激励を受けて、俺は笑いなのか涙なのか分からない感情を呑み込み──背中にいるもう1人の自分に、今生の別れを告げる。

 

「ありがとう、頸城縁。さようなら」

 

 シンプルな言葉と同時に、俺は目の前の道なき道を駆け抜ける。

 地面の感触も無いまま、本当に走ってるのか分からないけど、確かに、自分がこの空間から離れていくのだけは理解できる。

 次第に視界が真っ白になっていき、まるで明晰夢から目が覚める直前のような感覚が体を包み──。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……んぅ」

 

 次に瞼を開けた時には、見慣れた学園の天井が見えた。

 あれ? と思い首を左右に動かすと、間違いない学園の保健室だ。

 

「何で……学園にいるんだ? って、痛え……」

 

 てっきり、ガチガチに繋がれた病院のベッドの上だと思っていたのに何故? と思う矢先に、頭がじんじんと痛むのに気づく。

 痛む所に手を当てると、まるで何かに強く打たれた様なたんこぶが出来ていた。

 

「何が、どうなってる……?」

 

 半身を起き上がらせて窓を見ると、あろう事か外ではチラチラと舞う桜の花びら。

 部屋の気温も11月や12月のそれとは違い、ポカポカとしたまるで春模様そのもの。

 

 壁に貼られたカレンダーを見てみれば、まさに4月30日! 

 しかも西暦が3年後の──俺が高校2年生つまり巻き戻る前の時代になっている!! 

 

「これは……まさか」

 

 初めて俺が頸城縁の記憶と意識を思い出した日と重なる、違和感。

 その正体がうっすらと見え始めた直後、部屋の出入り口から1人の少女──この季節にはあまりにも似つかわしく無いマフラーを巻いた渚が入ってきた。

 

「……お兄ちゃん、起きてる?」

 

 奇しくもCDと同じセリフと共に、渚は固まってる俺を見ながら数秒間黙ったあと──一目散に駆け寄ってきた。

 

「良かったぁ! もう目を覚まさないかと思った! 本当に良かった……」

 

 喜びと安堵の混じった声で、思い切り抱きついてくる渚。

 心配してくれてたのは十分に伝わったが、力が強くて痛い……。

 

「う、分かった、分かったから一旦離れて……苦しい」

「あ、ごめんね……安心してつい」

「いや、心配してくれたのは嬉しいよありがとう……」

 

 すぐにパッと離れてくれた渚を見ると、やはり最後に見た幼い姿から成長している。

 制服も学園のものを着てるし、間違いなく3年分成長しているのが分かった。

 

「お、お兄ちゃん……? 急にそんなまじまじと見てどうしたの? (あたし)どこか変?」

「いや、大丈夫だ……いや、変というか、何でマフラー巻いてるんだ?」

「え?」

「──っ!?」

 

 何気なくした質問。だが、渚の周りの空気が瞬時に冷たいものへと切り替わるのが分かった。

 嘘だろ、いきなりか!? ……いや待て、焦るな俺。

 流石に渚の顔を見ればそれが怒ってるのか、それ以外かの判別は付く。付く様になってきた。その上で今の渚を見る限り、伺えるのは怒りではなく動揺──より厳密に言えば、焦りだ。

 

「お兄ちゃん……もしかして()()忘れちゃったの? マフラーのこと……」

 

 やはりと言うべきか、渚は自分が巻いてるマフラーに手を添えながら、恐る恐る聞いてきた。

 

「いや、忘れてない! 俺が買ったんだよな、前に……映画を観に行った帰りで」

「うん……そうだよ、お兄ちゃん。良かった……頭強く打ったって聞いたから、もしかしてあの時みたいに分からなくなっちゃったのかと思ったよ」

 

 頭を強く打ったらしい。通りでたんこぶが出来てるわけだ。

 納得すると同時に、疑問も湧いてきた。

 

「えっと渚、分からなくなるって、前にそんな事あったかな俺」

「もう、ひょっとして寝ぼけてるの? お兄ちゃん3年前にあんな事あって、ちょっとだけ記憶喪失になったんでしょ?」

「……え?」

 

 記憶を失っていた? 

 思わぬ情報に動揺する俺と、逆に至極聞きなれたことの様に感じる自分がいる。

 

「本当、あの時はお兄ちゃんが私にマフラー買ってくれたこと忘れててビックリしたけど……あんな酷い怪我したんだもん、仕方ないよね」

「……怪我。夢見の家に行った時に、刺された事だよな?」

「うん、そうだよ。犯人は捕まったあとすぐに死んじゃったんだよね。無期懲役が決まったすぐ後に」

 

 渚の口から次々と出てくる情報に翻弄されながらも、俺は段々とこの3年間に何があったのかについて、思い出し始めてきた。

 

「──っ!」

 

 シャツを捲って、自分のお腹を見る。隣で渚が驚いて可愛い悲鳴をあげているが、気にせず自分がかつて刺した場所を確認した。

 

「……ずいぶん、綺麗になってるな」

「ふぇ? ……う、うん。悠さんがすごいお医者さん紹介してくれて、何とか綺麗にして貰ったんだよ? それも寝ぼけて忘れてるの?」

 

 お腹は多少の手術痕こそあるが、俺が蜂の巣みたいにブッ刺したとは思えないほど見事に元通りになっていた。

 その僅かな痕を指でさすり、俺は今度こそ明確に、この3年間の事を思い出す。

 

 夢見の家で倒れた俺は、激しい臓器の損傷と大量出血でまさに意識不明の重体になる。

 案の定、綾小路家お抱えの病院に悠が無理やり運び込んで緊急手術をしたものの、意識は戻らずこのまま植物人間になる可能性すら大きかった。

 

 ところが手術から3日後、俺は2度と目が覚めないだろうと言われるほどの状況から意識を取り戻し、無事にこの世に戻ってきた。医者も驚くばかりで、まさに奇跡だと話したらしい。

 

 ──ところが、だ。

 

 俺が目覚めてから治療やリハビリを経て、ようやく家族の面談や会話を十分に取れる様になり、警察の事情聴取も可能になった時、俺が事件の起きた前後の記憶を完全に失っていることが発覚する。

 完全な記憶喪失ではなく、1ヶ月程度の──まさに、俺が3年前に意識だけタイムスリップしてから夢見の家で倒れるまでの間の記憶だけ、都合よくすっからかんになった。

 

 家族や友人全員驚いたが、警察も困った。医者は精神的なショックが引き起こした物だと判断して、時間が経てば思い出すと言ってたが、1番驚いたのは、いつの間にか腹が穴だらけになって重体だった当時の俺だったのは言うまでも無い。

 

 無事に日常生活を送れる様になってからは、そんな大変な目にあった事なんて嘘の様に今まで通りに過ごして、俺は高校生になり、今日この日まで平和に過ごしてきたわけだ。

 ……綾瀬や渚がヤンデレの素質を持ってる事を忘れて、2人の心情をまるで意に介さない本来の俺のままで。

 

「やっちまった……馬鹿野郎が……忘れる事ねえだろ、よりによって……!」

「お兄ちゃん大丈夫? もしかしてどこか怪我してるの!?」

 

 頭を抱えて懊悩する俺を心配する渚。

 怪我はしてないが、今後怪我以上の痛い思いをする布石がどれだけ自分によって敷かれているのかを考えると、頭を打った事とは別に頭痛がしてくる。

 

 ちなみに頭を打った理由は、学園の中庭の木に登って降りられなくなった子猫を助けようとしたら、足が滑って落下したからだ。馬鹿だね。

 

 もう一つ、ついでに言えば──これはついでで済む内容では無いけど、葉月と叔母さんの内縁夫婦について。

 

 葉月は捕まってから刑が決まるまでは俺の自演だと必死に反論したが、俺の腹部の傷の深さと刺し方が、明らかに殺意を持った人間の手による物だと判断された事、葉月自身に過去似たような犯罪歴があった事、また今回の件とは全く別に葉月が半グレ仲間と暴行事件に関わっていた事など複数の点と点が重なり、無期懲役が確定していた。

 

 俺は我ながらやり過ぎたと反省した刺しっぷりだが、逆にアレくらいしたから説得力になったというから複雑だ。

 だがしかし、その後は先程渚がサラッと話した通り、刑が確定して拘置所から刑務所に移ったあとすぐに、自殺した。

 直前まで死のうとするそぶりなど見せなかったため、彼が過去に関わっていた暴力団員も同じ刑務所に居た事から、それらの人物が自殺に見せかけた可能性も考えられたが、“刑務所で囚人が精神を病んでしまうのは珍しくも無い”という事で、半ば強引に自殺と処理されたらしい。

 

 ここまでの話は、当時に悠からものすごく丁寧に説明を受けた。

 俺は覚えても無い人間の事だったので、取り敢えず安心したのだが……今の俺が思い返すと、もしかしたら──いや、良いや。考えないでおこう。

 

 そして、母さんからは叔母さんの──自身の妹についての顛末を聞かされた。

 

 あの時現場にいた警官の証言や、夢見自身の言葉で叔母さんのネグレクト行為は表沙汰になり、更に葉月と共謀して俺や夢見に危害を加えようとした事も罪に問われた。

 これについては、俺がそう思わせる様に咄嗟に嘘をついたのもあるが、何よりも警官の前で「お前ら一緒に殺してやる」とヒステリックに発言してしまった叔母さんが墓穴を掘ったのが大きい。

 

 結局、精神鑑定やら何やらを受けた後、彼女も実刑判決を受けた。

 姉である母さんはもちろん、野々原家から勘当されて、刑務所から出た後も精神病院にぶち込まれるのが関の山、との事だ。

 この判断は、明確に母親を拒絶した夢見の行動によるものが大きいらしく、夢見はその後野々原家にお世話になるのではなく、父方の小鳥遊家が引き取る事になった。

 

 大丈夫か? と不安になったが、どうやら元々小鳥遊家は叔母さんはともかく孫の夢見を心配していたが、叔母さんが連絡を拒絶していたから途方に暮れていたらしい。

 今は遠方で、穏やかに暮らしているとのことだから、もう彼女がヤンデレになる事はそうそう無いだろう。

 

 ちなみに、文面と電話だけのやりとりだが、この3年間で何度か俺もあの子と交流を続けている。

 記憶を思い出した今、それをやるのは正直怖いところがあるが……まあ、必要になればやるだけだ。

 

 

 とにかく、俺が倒れてからの3年間はそんな感じ。ほんっとに、俺が記憶喪失になる事を除けば理想通りの展開だ。

 

 ──と思っていたのだが、それが甘い考えだと言うのが直後に判明する。

 

「──どうして、半裸になってるの?」

「ひぃっ!?!」

 

 底冷えする様な恐ろしい声が耳朶に響き、小さな悲鳴が口からこぼれる。

 声のする方を見ればそこには、渚が開けっ放しにしていた入り口からこちらを見る──いや、物凄くハイライトの無い恐ろしい瞳で俺たちを凝視する、綾瀬の姿があった。

 え、あれ? なんかもう既にヤンデレ化してませんか? 

 

「ちっ、うるさい奴が来た……」

「渚……?」

 

 今小声で、でもハッキリと怖いこと口にしたよね? 

 

「ねぇ、どうして無視するの?」

「んひぃ!」

 

 ほんの一瞬、渚の発言に気を取られただけなのに、いつの間にか綾瀬は俺の前に立って、その仄暗い瞳をこちらに向けている。

 

「どうして、渚ちゃんと2人きりの状況で、服を脱ごうとしていたの?」

「いや……これは、ですね……」

「そんなに難しい質問してるかな、あたし。ただ理由を聞いてるだけなんだけど」

 

 こ、こここここ恐い!! 

 巻き戻る前だってここまで露骨に恐い綾瀬を前にした事は無かった。

 付き合ってからなら一回だけ怒らせた事があるが、今はあの時と同じか、それ以上だ。

 

「古傷が開いてないか心配になって調べただけですよ、綾瀬さんこそ何をそんなに焦ってるんですかぁ?」

 

 たじろぐ俺を助ける様に、渚が言葉を挟んでくれた。……のだが、こちらもやたらめったら攻撃的な口調だなおい!? 

 

「渚ちゃんは黙って、あたしは今彼と話してるから」

「黙れません、そんな風に私のお兄ちゃんを恐がらせてるのを見て、黙っていられるわけないじゃないですか」

「だいたい、なんで渚ちゃんが今ここにいるの」

「お兄ちゃんが怪我したから心配になって見に来たに決まってるじゃないですか。綾瀬さんこそ、クラスも違うのになんで来てるんです?」

 

 え、クラス違うの!? 

 

 驚愕しながらまだ処理しきれてない自分の記憶を思い返すと、確かにそうだった。

 しかもそれだけじゃない。巻き戻る前と後で、綾瀬の雰囲気だけじゃなくその他諸々、色々細かいところが変わっている。

 

 綾瀬は確かにクラスが違うが、その代わりとでも言うのだろうか、まさかの園子がクラスメイトになっている。

 記憶の限りでは園子と俺が2人で会話する様な事は無かったみたいだが……先日、委員会を決める中で俺と彼女が図書委員会に決まっている。委員会ごとに集まって話し合う時間が今度行われるから、その時になると否応なしに会話が必要になる。

 悠は変わらず同じクラスで親友だが……昨日の記憶だと『近いうちに従妹が転校しそうだ』と頭を抱えていた。

 

 ちょっと待ってくれ、横で渚と綾瀬がバチバチに言い合いしてるのを放置してるのもマズイが、俺かなりヤバい状況になってるんじゃないか? 

 

 綾瀬はどういうわけか凄いヤンデレモード入ってるし、綾瀬を前にした渚も巻き戻る前より露骨に対立的だ。こんな2人がいる中で、俺は園子と委員会活動しなきゃいけなくなるの? 

 それに、もし悠の言う通りアイツの従妹──つまり咲夜が転校してくるとなれば、また査問委員会とか綾小路家のお家争いに巻き込まれる事になる可能性があって……こんな状況で塚本の助けも見込めないのに無理だろそんなの!? 

 

 

「あ、縁! 良かった……目を覚ましたんだね」

「──悠!」

 

 まるで救世主の様に姿を現したのは悠だった。

 今後の予測される騒動についてはともかく、悠ならこの2人の言い争いを止めてくれるんじゃないか。そう期待したのも束の間──、

 

「あぁ、2人はいつものだね」

 

 ニコニコして完全にスルーしながら、スタスタと俺の前に来た。

 

「ちょっと悠、お前から2人を止めてくれよ」

「どうして? 今更じゃないか。あの2人を鉢合わせた時点で諦めるべきだね」

「えぇ……そのレベルの諦観かよ」

「というか普段から君も気にしてないだろ? 相変わらず2人は仲が良いなぁとか、息が合うんだなぁとか言ってさ」

「…………はぁ〜〜〜」

 

 言ってた。記憶思い出す前までの俺そんな暢気すぎる事言ってました! 

 信じられない、このバチバチした空気感を前に、俺は全く危険性を感じなかったのだから。

 この危機意識の薄さ……これが本来の俺、ヤンデレCDの主人公のポテンシャルって奴なのかよ……! 

 

「ちょっと、大丈夫かい? ヤケに顔が青くなってるみたいだけど」

「ああいや、うん……色々あってな」

「そっか……。あ、それより聞いてくれよ、僕の従妹が昨日変な事言い出したんだ」

「へ?」

「この学園に、生意気な庶民が在籍してる筈だから誰か教えろって言うんだよ。どうもアイツ、この前勝手に家を抜け出して東京でブラついてたらしくて、途中で迷った時に助けてくれた人がこの学園にいるって話したらしいんだ。自分に対して凄く生意気でムカつくから、直接会って懲らしめたいんだとさ。僕はてっきり綾小路家の覇権争いとかで来るのかとばかり──あれ? 縁、今度は汗がすごいよ?」

「………………」

 

 

 会ってました!!!!! 

 先週の土曜に1人で神保町行った時に、裏通りで困ってた金髪ツインテールの女の子と俺、一緒に過ごしてましたよ!!!! 

 え、じゃあ何原因俺じゃん!? 咲夜が探してるのって(記憶思い出す前の)俺じゃん完璧に!! 

 

「ぐぁぁぁ……この男は、どこまで馬鹿なんだ……っっ!」

「な、何がどうしたんだい……?」

 

 願うならば、これらが全て夢であって欲しい。あるいは全く別の人間の仕業だと。

 じゃなきゃ馬鹿だろ本当に、ヤンデレCDの知識をせっかく、せっっかく頸城からもらってるのにそれを忘れて今日まで生きて、ただでさえ巻き戻る前より危うい2人がいる側で新しい女の子との出会いの種を撒いて育ててるんだぞ? 

 

 誰かのせいにして顔面をぶん殴りたいが、生憎自分の顔しか思い浮かばない。

 

 

「だいたい渚ちゃんは中等部でしょ? さっさと校舎に戻ったら?」

「先生から許可は貰ってるのでお構いなく。私は家族として側に居ますから。クラスも違う綾瀬さんこそ、早く帰って方が良いですよ?」

「……いい加減に──」

 

 まずい、放置してる間にそろそろ綾瀬の方が我慢出来なくなりそうだ。

 自分を責めるのは後回し、まずは鎮火作業をしなきゃ地雷どころじゃない爆発が起こる! 

 

「あ、綾瀬、そろそろその辺にして」

「私じゃなくて渚ちゃんを庇うの?」

 

 あー言ってるそばからつい渚を庇ってしまった結果かえって綾瀬を怒らせてるよこの馬鹿! 

 いや違えよ、もうこの状況だとどっちを庇ってたとしても、もう片方から顰蹙買うのが目に見えてるんだ。

 そしたらどっち選ぶか、家族だから家でも怒った状態の渚と対峙するより、綾瀬の方がまだマシってそれだけの話だよ。最悪だな。

 

「まあまぁ綾瀬さん、お兄ちゃんもこう言ってる事だから」

「黙ってて。──ねぇ縁、あたし貴方のこと心配してるだけなのよ? それなのに邪魔だった?」

「邪魔なんて思ってないよ。むしろ嬉しい」

「本当に?」

「本当さ、だから渚と喧嘩は──」

「お兄ちゃん? 私が来たのは嬉しくなかったって事?」

 

 誰か俺をもう1人手配してくれませんか? 

 

「──悠、助けて」

「はは、ごめん無理」

 

 親友ぅ──! いつもの頼り甲斐ある姿はどうした!? 

 

「ねぇどうして悠くんに話を振るの? 今はあたしと話してるんだよ?」

「お兄ちゃんどうなの? 私の質問に答えてよ」

 

「お兄ちゃん!」

「縁!」

「〜〜っ、あぁ、ったく……」

 

 ──こんな、ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて俺は、もうこの言葉を呟かずには居られなくなってしまった。

 

「──死にたく」

 

 いや、違うな。

 これから先どんな事があっても、それだけは違う。

 だってそれが、辛くて苦しい日々を共に乗り越えて、俺にもう一度生きるチャンスをくれた頸城縁(あいつ)との、最後の約束だからな。

 

「渚。それに綾瀬も、よく聞け、俺はな──」

 

 たとえ、ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない人生だとしても、その先に確かにある幸せと平穏な日々を求めて──、

 

「お前ら2人とも、大好きだぞ」

 

 俺は、最後まで生きていこう。

 

 

 

 

 

 ─―THE・END

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蛇足。あるいは、安穏たるエピローグ

 

 駆け抜けていく背中が、遠ざかっていくと共に薄らいでいく。

 何の躊躇いも迷いもなく、振り向く事なく走り抜けて──やがてその姿は完全に消えていき、芒洋とした空間には頸城縁1人だけになった。

 

「はぁ……行ったか」

 

 浅く、長いため息をこぼす縁。

 その表情は肩の荷が降りた様な、安堵に満ちている。

 一緒に生きた時間は1年にも満たないが、まるで10年以上共に過ごした様な相棒は、本来在るべき場所に帰っていった。

 

「……にしても、本当これからどうなるんだろうなアイツ」

 

 野々原渚も、河本綾瀬も、0から相手するにはあまりにも大変な存在なのは今更言うまでもなく、この先が波乱に満ちたものであるのは容易に想像できる。

 

「柏木園子を見捨てれば、だいぶ楽にはなるんだろうけど……無理だろうなぁ」

 

 野々原縁はいい加減なところや流されやすい所もあるが、こと恋愛に絡みさえしなければ善良で優しい心を持ち合わせている。

 たとえ巻き戻る前の日々が無くなったとしても、野々原縁の思い出は無かったことにならない。きっとまたいじめから助けようとするだろう。そうなれば必然的に渚や綾瀬を納得させる必要が出て来て、よほどうまく立ち回らなければ渚との大喧嘩の再演も避けられない。

 逆光物と似たようなシチュエーションが待っているのにも関わらず、全く楽になってるとは思えない彼の状況を鑑みて縁は苦笑する。

 全く、笑えるほど平穏とは縁の無い人生だ。

 

 それでも頸城縁として、彼が野々原縁に出来る事は全て果たした。今から新たに出来る事は何も無く、彼自身やろうとも思わない。

 精々、野々原縁の未来に幸が在らんことを祈る、それだけ。

 

「さて……どうしようか」

 

 残る問題はただ一つ、自分自身のこの後。

 野々原縁は生者故に、生きとし生けるものの世界へ帰った。

 では、死んだ頸城縁は何処へと向かうのか。これが分からない。

 

「神も仏も天使もへったくれもねぇしなあ。誰か迎えに来るわけでもねえし、三途の川すらありゃしない」

 

 仮にこの後自分に死後の世界が用意されていて、そこに神様と呼べる存在が居るならば、自分の運命を散々なものにしてくれた“お礼”をしたいと思っている縁だったが、生憎その手の物が待ち受けてる気配も感じない。

 

「もしかしたら、永遠にこのままってオチはねえだろうな。実はここが狭間とかじゃなくて、正真正銘のあの世でした、とか」

 

 だとすれば、間違いなくここは地獄の類だろう。仏教や西洋の宗教で描かれている様な身体に苦痛を伴う物では無いものの、何もない空間で孤独な時間を過ごすのは、いずれ精神を苦しめるものに違いないのだから。

 

「そういえば一応、初瀬川とか殺してるんだっけ俺……殺す気で叩きのめしたけど、動かなくなっただけで死亡確認してねえからなあ、死んだのかなアレ。それなら地獄行きもやむなしか」

 

 過去の行いを想起して、どうせ誰も聞いていないのだからと独り言を延々と続ける縁。

 事実、ここは足音すらしない無に満ちた誰も居ない世界。

 いや、世界と呼べるかも分からない泡沫(うたかた)泡沫(ほうまつ)な、寄す処無き場所。

 

 そんなところで何を言おうが構いやしない。

 むしろ、文句を言える奴がいるなら出て来てみろ。

 そんな気持ちで、彼は言葉を続ける。

 

「それにしたってさ、もったいねえよな。あーんなに頑張ってさぁ、誰も死なせないで河本綾瀬と付き合う所まで行きつけたのに、それがぜーんぶリセットって。今までの時間が全部無駄になってるような物じゃん」

 

 野々原縁と同化してる間は口にできない事を、もはや当事者では無くなった故に、心の底から言い放つ。

 しかしそれは、単なる暴言ではない。かつて当事者であり、そして誰よりも傍で野々原縁の行動を見てきた視聴者/読者であった彼にしか言えない言葉でもある。

 

「あぁ、本当に惜しい、口惜しいよ。よくアイツは小鳥遊夢見を助けようなんて思ったもんだ。俺だったら──」

 

 俺だったら、その先の言葉が喉から先まで出かけたが、すんでの所で押しとどめた。

 

「……そうだよな。それが出来るから、アイツはきっと最後には幸せを掴めるんだ」

 

 最終的に他人の不幸を望むか、助けようとするか、その違いで人間の行く末も大きく変わる。

 頸城縁には他人のために最後まで何かを貫けるような気概が無かった。あらゆる理由や理屈を付けてそれらしい言い訳をこしらえても、奥底には自分が楽になる事を考えた。だから大切な人だと思っていた幼なじみを失った。

 当然、そのような考え方に至るまでの人生における障害や過程は幾らでもあった。自分は不幸な人間だと言う自覚は強く持っているし、それを他人に否定される謂れは無い。

 

 だけど、そうだとしてもきっと。

 自分は世界に対する不平ばかりを訴えすぎて、人として、他者とのつながりを持つために必要な──致命的な何かを失ってしまったのだ。

 

「だったらやっぱり、俺にはここがお似合いかもな」

 

 他者を拒絶してしまった者は、何もない所で永久に。

 誰が決めたかは分からないが、呆れるほど有効な罰だ。

 

 そうやって、彼が自分の在り方を受け入れたその時。

 ()()に、変化が起きた。

 

「おいおい、マジで……?」

 

 唐突に頬に感じた、冷たい感触。

 それが何なのか、縁はすぐに理解して──苦笑した。

 

「おいおい、死んでまで雨に濡らされるのかよ」

 

 その言葉を肯定するかのように、音の無かった世界に、雨音が敷き詰められる。

 当然、縁には傘など無い。

 生前の彼にとっては不幸の前触れの様であり、死ぬ時も降った雨に、着の身着のまま死んだ後も濡らされる。

 

「くは、ははははは……なんだかなぁもう。こんな時までお前だけは俺に付きまとってくれるのか」

 

 本当なら悪態をつくところだったが、

 

「いいさ、降り続けろよ。それで一生晴れるな。死ぬ時も死んだ後も、俺をそうやってずぅっと水浸しにすりゃあ良い」

 

 忌々しい雨も、相応しい罰だと受け入れた。

 そうだ、いっそ死んだ時と同じように大の字になって、本当に溺れてしまおうか──そんな自暴自棄な事すら思いついたその時。

 

 耳朶に響く音が、変わった。

 

「……?」

 

 最初は、何が起きたのか分からなかった。

 だけど自分が濡れていない事、そして頭上でささやかだが確かに、何かが雨を弾く音がしてるのを認識して、彼は空を見上げて──言葉を失う。

 

 視界には、色があった。

 この世界を満たしていた灰色ではない、ドーム状の水玉模様。そしてそれを支えるかのように伸びた幾本の金属製の骨。

 それが何なのかは分かっても、“傘”だと脳が理解するのは困難だった。

 当然だ、この世界は自分しか居ないハズで、先述の通り傘なんてものは持ち合わせていない。だからここに傘があって、しかもそれが自分を雨から守ってくれているというならば。

 それは誰かが、自分に傘を差し伸べてくれているからに他ならない。

 

 そんなはずは無い。野々原縁はとっくに帰って行った。だから、この世界にはもう誰も居ない。居ないハズ。

 でも、確かに今自分は誰かが持ってる傘の下に居る。

 じゃあ、いったい誰が──その疑問に答える様に、優しい声が彼の耳朶に届いた。

 

「もう、風邪ひいちゃうよ? おにいちゃん」

 

 あり得ない。

 誰の声なのかはすぐに分かった。分かったからこそ、あり得ないという言葉しか出てこない。

 だってこんな場所に、自分なんかの所に、その声の持ち主が居るわけが無いのだから。居ていいはずがないのだから。

 

 だが、そんな否定の言葉を幾ら並び立てて城のように積み上げても、脳が聴きとって認識したその声は紛れも無く、自分が否定しようとしてる人物の声に他ならなかった。

 野々原縁ではない、頸城縁である自分を“おにいちゃん”と呼ぶ人間は、後にも先にもたった一人しか居ない。すなわち──。

 

「……お前、なのか」

 

 震える声で縁は問いかける。

 

「うん、そうだよ」

 

 太陽のように明るい声で、彼女の声がすぐそばから聴こえる。

 

「何で、ここに居るんだ」

 

 頭上を見上げた視線をそのままに、縁は尋ねた。

 

「ずっと待ってたから」

 

 当然のように、彼女は答えた。

 

「……待っててくれたのか。俺を?」

「うん、待ってたよ」

「……どうして」

「きっと、おにいちゃんは此処に留まっちゃうと思ったから」

「あんな酷い事をしたんだぞ、俺は。お前を拒絶したのに」

「拒絶しなかったから、ずっと後悔してくれてたんでしょう?」

「──っ」

 

 思ってもいなかった。そんな言葉を、本人から言われるだなんて。

 

「ずっと。ずっとずっと、後悔し続けてたんだよね。自分を責めてたんだよね……苦しめちゃったんだよね、アタシが」

「──違う!」

 

 衝動的に声のする方へ顔を向けようとして、しかし理性がそれを拒み、縁は顔を伏せて悲痛な叫びを上げる。

 

「違う、お前は何も悪くない。全部俺のせいなんだ、俺がちゃんとお前と向き合う事をしなかったから、だからお前を……」

「だったら、今度はちゃんとアタシを見てくれる?」

「……っ」

 

 そっと、自身の右手を優しく握る感触が縁に伝わる。

 

「おにいちゃんが自分に責任があるって、罪があるって思うのを否定しない。でも、アタシはそんなおにいちゃんでも一緒に居たい」

「……ろくでもない奴なんだぞ、俺」

「アタシはそう思わないかな」

「他の女の子に恋もしたんだぞ」

「……ちょっとイヤだったけど、いいもん。これからアタシが惚れさせて落とすから」

「そいつぁ、凄いな……」

 

 本当に、何から何まであの時と変わらない。

 自分が拒絶し、失った幸福の形がそのままで、今自分のそばに居る。

 その事実が嬉しくて、ただひたすら嬉しくて、気がつけば縁の瞳には溢れるほどの涙が溜まっていた。

 縁が泣いてる事に気づいてもその事には触れず、少女は言う。

 

「そうだよ。アタシはおにいちゃんが思ってるよりずーっと凄い女の子なんだから。だから……」

 

 元気溌剌な声から一転、少女は懇願した。

 

「そろそろアタシ、ちゃんとおにいちゃんの顔みたいな」

「……ちょっと泣いてるから、不細工だぞ」

「良いの。泣いてるおにいちゃんでも」

「……分かった」

 

 彼女が良いと言うなら、それで良い。

 もう縁が彼女の願いを、言葉を、想いを拒絶する必要は無い。

 とは言え、ほんのちょっぴりだけ顔を覗かせた自尊心に従い腕で軽く目元を拭ってから俯いていた顔を上げて、彼は隣に立つ少女──瑠衣を見た。

 

 縁の瞳に映る幼なじみは、縁と同じ様に目に涙をためながら、それでも満面の──生前彼が1番好きだった笑顔を浮かべて見せた。

 

「お久しぶり、おにいちゃん」

 

 そんな彼女に対して縁も、これまでの日々を経てようやく見せる事が出来た、彼なりの笑顔で返す。

 

「久しぶり、瑠衣」

 

 

 雨は降り続いている。

 灰色の世界を埋め尽くさんとするばかりに、雨は2人に降り注ぐ。

 だが水玉模様の傘はしっかりと2人を覆い隠して、ただの一雫も当たる事は無い。

 

 やがて2人は一つの傘の下、並んで歩み出す。

 言葉を交わして、想いを伝え合って、笑みを見せながら、ゆっくりと歩く。

 

 灰色の世界が何処まで続いてるかは2人にも分からない。

 だけど、たとえ終わりが那由多の彼方まであったとしても、逆に目と鼻の距離だとしても、2人にとっては変わらない事だ。

 生きてる時には運命の悪戯で交わる事の無かった2人の時間は、今ようやく繋がり、重なって、紡がれていくのだから。

 

「ねえ、おにいちゃん?」

「なんだ?」

「こうやって相合傘するの、初めてだね」

「……そうだったか?」

「そうだよ、おにいちゃんいつも恥ずかしがってたもん。アタシはいつでもしたかったのに」

「雨が嫌いだったからな。濡れるのも」

「じゃあ、今もこうして歩くのは嫌い?」

「いいや……悪く無い」

「本当?」

「雨が降る日はいつも、嫌な事ばかりあったけど、初めて良い事があったよ」

「そっか、そっか……あたしも!」

 

 雨は降り続いている。

 空白ばかりだった2人の時間を埋める様に。

 離れ離れだった2人の距離を縮める様に。

 

「ここに来るまでの話を聞かせてよ。どんな人達と、どんな事をしたのか。おにいちゃんが好きになっちゃった人の事も」

「最後のはちょっと恥ずかしいけど……結構長いぞ、退屈しないか?」

「うん、大丈夫。聞きたい」

「オッケー。最初は4月の中頃なんだけど、俺が目を覚ましたら──」

 

 雨は降り続いている。

 2人を優しく包む様に。

 2人を引き裂くものを阻む様に。

 

 やがて雨が晴れた後、そこに2人の姿はもう見えず、てらてらと雨粒が付いて光ってる傘が、丁寧に閉じられて灰色の床の上にあるだけだった。

 

 ──もう、雨が降る事は無い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本当の後語り

 2013年の1月下旬、当時受験生だった自分はストレスの発散にこの作品を、衝動のまま書き連ねて、マトモにプロットも練らないまま投稿しました。

 

 そこから紆余曲折を経て、2022年の10月下旬に、こうして本当の本当に終わりを迎える事になりました。

 

 それまでの拙作に対する想いなどは、3章完結時の後書きに書いたので省略しますが、書かれてない部分で言えば、自分との戦いが多々ありました。

 エタる、という意味はもちろんですが、何よりもこの物語を書き始めた頃の……つまり野々原縁(頸城縁)を作った時の自分との乖離を如何に埋めるか。これが本当に大変でした。

 

 同じ人間でも、まだ学生で未成年だった自分の感性と、社会人になった自分の感性は、所々食い違うところがありました。

 そのせいでプロットは出来てても、他のキャラたちの言動はイメージ出来ても、作中一番作者の投影になってしまう、主人公を動かせなくなってしまい、書けなくなる事が多かったです。

 

 それでも最後まで終わらせる事が出来たのは、ヤンデレCDというコンテンツが好きだと言う気持ちと、このコンテンツがCDからASMRと形を変えてはいても、続いた事でモチベーションが途絶えなかったからだと思います。

 また、同じヤンデレCDが好きな仲間が出来て、彼らと作品について語り合ったり、彼ら自身が書いた物語を読んだりしたのも、創作意欲の原動力になりました。

 

 まさかのヤンデレCDを生み出したオオシマPともTwitterで繋がりが出来て、この作品に感想を書いていただく事もあったり(現在は諸事情で消えてしまってて悲しい)、本当に退屈とは無縁の時間ばかりでした。

 

 そんな、大変だけど楽しかった時間ですが、最終的には1〜3章までの物語が全部無かったことになって終わります。

 

 別にBADENDが好きでこんな終わり方にしたのではありません。

 しかし続きを考えていくうちに、どうしても夢見にだけは勝てるビジョンが浮かびませんでした。

 他のヒロインなら勝てる、という事では無いですが、小鳥遊夢見というキャラの心情や言動に、野々原縁のスタイルはあまりにも、合わないと思ったのです。

 

 だから、夢見を出してしまった時点でもはや何もかもお終いになる。

 3章まで頑張って積み上げたものも、全部台無しになる。

 どうにかしたいなら、過去からやり直すしか無い。まだ野々原縁のスタイルが通用する時代に戻って何とかするしかない! 

 そんな理屈で、こういう終わり方になったのです。

 

 ここまで読んでくれた読者の皆さんがどう感じたかは分かりませんが、私自身の心情で言えば、正直寂しかったです。

 あんなに縁は頑張ったのに……でも綺麗なものを壊すのも美しいからやっちゃうね! と心を鬼にして書きました。正直楽しかったです。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ここからは、本編最終回時点での作中キャラの簡単な解説と、この後どんな展開が起こるかについてサラッと書いていきます。

 

 実は“2週目”として続きの構想自体は今もあります。勝手に頭の中で想像して、書いて見たい気持ちもあります。

 ですが、最終回と決めたのでもう書く事は2度と無いため、この場で供養させていただきます。

 

 

 ・野々原縁

 基本的に性格や言動は作中と変わらない。しかし頸城縁の人格が無くなったので、以前より不用意な発言が出やすくなっている。

 最終回で記憶が戻るまでは、ヤンデレCDの主人公らしく優しくて流されやすい性格になってたので、渚や綾瀬のヤンデレポイントをしっかり稼いでいる模様。

 また、2週目ではクラスメイトになってる園子とは図書委員になってたり、東京で咲夜と出会って図らずも神保町デートしたり、以前は無かったフラグが立っている。

 今更だが、彼の性格というか立ち振る舞いには、うっすらイメージ元の作品があります。【嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん】という作品の主人公ですね。

 

 かなりヤバい状況だが2週目でも変わらず頼れる仲間の悠と、諸事情で2週目では仲間の夢見と協力した上で、1週目で得た経験や度胸を武器に、ヤンデレ地雷を撤去する日々を過ごす事になる。

 綾瀬の事は好きだったが、自分が好きなのは1週目の綾瀬なので、2週目の綾瀬とは切り離して見ている。

 誰とも付き合うつもりは無く、最終的には東京の大学に一人暮らしをしようと考える様になる。北海道に旅行して現実逃避もアリかな、とか思ったりもしてる。

 

 

 ・野々原渚

 実は縁が危惧するほど縁に対してはヤンデレ化していない。

 買ってもらったマフラーが彼女の孤独感を癒やして、1週目の様な寂しさを埋めるための存在としてでは無く、純粋に愛する兄として縁を見ている。3年前に死にかけた事で強く兄の存在を意識した事も大きい。

 兄が死にかけてる時に、兄を感じられる物だったマフラーを大事にしており、季節感無視して首に巻いている。

 総じて、ヤンデレCD4の野々原渚に近い性格になった。

 

 

 ・河本綾瀬

 自分が協力した結果、自分の目の届かない場所で縁を失いそうになった事が強烈なトラウマになり、1週目よりヤンデレ化の進行が早い。

 2週目では高2の時点でクラスが変わってしまい、一緒に居られない時間が増えた事も影響して、縁が自分から離れる事を恐れている。

 普段は表に出ないけど、縁が自分の知らない女と仲良くし始めてるのを知った時は、1週目では働いた理性があまり仕事しない。常に縁を守れるために、カバンには五寸釘を忍ばせている。

 

 縁が頭を打って以降、失っていた記憶を戻したのだと直感で分かる。

 またあの危うい縁に戻ってしまったのではと危惧する中、案の定縁は柏木園子を助けようと動き出す。

 そんな縁を結構ガチで止めようとする。1週目は渚と対立した縁だが、2週目は綾瀬と対峙する事になる。

 最終的には縁は在学中誰とも付き合わない事を宣言して、どうにか綾瀬も我慢するが、次第にそれも──という所。

 

 

 ・小鳥遊夢見

 遠方の小鳥遊家に預けられてたが、途中から参戦する。

 縁の事は変わらず好きだが、助けられた事もあって感謝しているため、迷惑行為とハッキリ言われたストーキング行為はしていない。

 そのかわり、事あるごとに縁の写真を撮影しようとする。

 スニーキング力は健在で、事あるごとに縁の行動のサポートや、他のヒロインが何処にいるかの連絡を入れてくれる。

 実は3年前に縁の目を見た時、彼の中にある自分への怒りや憎しみ、拒絶を感じ取ってしまい、理由は分からないが自分の恋は実らない事を悟る。そんな気持ちを抱えても必死に助けてくれた事が嬉しいので、まあ良いのだ。

 

 

 ・綾小路悠

 キャラの変貌はあまり無い。

 悠もまた、縁が非日常的な経験をしてると確信しており、いつか聞きたいと思ってるけど、現状はヤンデレに苦戦する彼を助ける事を優先している。

 悠の容姿についてたまに聞かれる事があります。見た目は昔のエロゲーの【ダ・カーポ】に出てくる、工藤叶みたいなのをうっすらと考えて幾星霜。

 コイツは本来、1話の時点で出てこないキャラでした。

 ヤンデレヒロインから生き抜くには、主人公だけじゃ足りない。理解ある親友が必要だと考えて、ついでに物語動かしやすい金持ちキャラにした方が便利だなと思って、2話以降のプロットを練る中で作られた追加発注キャラだったんです。

 その結果、確かに色々凄く活躍してくれて、そこそこコイツを好きな人もいたみたいで、嬉しいです。

 

 ……便利すぎて駄目だから、オリキャラなのもあって最終章でいきなり死んだのは、ここだけの話。

 

 

 ・塚本せんり

 2章(とその他ちょいちょい)で主に野々原縁を苛立たせるために生まれた男。

 その正体はヤンデレCD惨の番外ストーリーや、世界観を同じにする【らぶバト!】の設定で語られてる裏の世界のやべー奴(の中で1番情報戦に長けてる)【千里塚インフォメーション】に属する人間。

2章の活躍だけだと本当に嫌な奴で終わったけど、その次の番外編では何故か頸城縁と仲良くなってた。

 最終的には頸城縁と七宮伊織の、誰も知らない(記憶に残らない)恋物語の観測者になるが、2章で死んでるので本当に作中では無かった事になってしまった。

 

 2週目では多分出番はない。というかこいつが出ても喜ぶ人が居ないと思う。皆さんはコイツ好きでした?

 

 

 ……と、まあこんな感じです。園子や咲夜は性格に大きな違いはなく、強いていうなら咲夜は2週目だと縁に惚れるため、2章(2週目)は縁を監禁しようとする咲夜vs縁を守ろうとする悠(+α)な構図になるくらいです。

 正直、1週目より面白い話書ける土台が作られた様な気もします。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 最後に。

 

 しばらくは、小説も二次小説も、書く事はしなくて良いかなと思ってます。ヤンデレCD原作の二次小説も、現状はもう書ける気力もありません。完全にすっからかんになりました(笑)

 

 どの話もその時その時の自分なりに頑張って書きました。

 番外編も好き勝手書きました。『雨が晴れた後』とかは多分今の自分には書けないタイプの話ですね(笑)

 

 野々原縁と、頸城縁は、自分の10代の最後の名残、繋がりとも言える存在でした。

 そんな主人公の物語を明確に終わらせる事は、自分にとってやっぱ寂しい物ですが、ちゃんと終わらせられた事の方が嬉しいです。

 

 彼らの物語に最後まで付き合っていただき、本当にありがとうございました。

 色々とオリジナル要素が多かった拙作ではありますが、少しでも楽しんで、そして何よりも、ヤンデレCDというコンテンツに興味関心を抱いてくれたのならば、1ファンとしてこれほど幸せな事はありません。

 

 ヤンデレCDは先述の通り、今はR18のASMR作品にステージを変えて、続きが出ています。

 2022年11月には、ヤンデレCD惨の桜ノ宮姉妹をリブートしたキャラが登場する、【ヤンデレCD 桜襲】も発売されます。

 年齢制限を突破してかつ、興味のある方は、買ってみてください。体験版もいいぞぉ! 

 

 

 ……とまぁ、最後の最後に宣伝みたいな事を書きましたが、続いて欲しいので宣伝みたいになってしまうのは御了承ください。

 

 

 では、今度こそ本当に、おさらばです。

 

 皆さんの人生に、どうかヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない日々が有ります様に!! 

 

 

 ──でも、死にたくなってきたとか、思っちゃダメですよ? 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蠖シ譁ケ縺ョ髻ウ

 欲しかったのはハッピーエンド。

 

 手に入れた結末は、それとはあまりにもほど遠いもの。

 

 それでも、決まった結末の続きを俺は生きる。

 

 今はもう名残すらない、彼との約束があるから。

 

 何もかも無かった事にされた世界で、俺の中だけにある思い出を引きずりながら。

 

 …………幸せになるために。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ふぅ、お腹いっぱいになっちゃった」

 

 先頭を歩いてそう語るのは、もうすぐ春も終わって初夏に差し掛かる季節にもかかわらず、首元に赤いマフラーを巻いた少女、野々原渚。

 お腹いっぱいという言葉の通り、自身の腹部を擦りつつ、満足そうな笑みを浮かべている。

 

「ふふ、そう言ってくれると僕も嬉しいよ」

 

 渚の言葉に満足そうに頷いたのは、小柄で中性的な顔立ちと声色をしたブロンドヘアの少年、綾小路悠だ。

 彼は今日、渚も含めて普段付き合いのある人たちを、自身の父が関わっているグループの系列であり、この春新たにオープンした焼き肉店に招待していた。

 

「ふん、庶民はあの程度の物で満足してあぁだこうだ騒ぐなんて、貧乏舌過ぎて憐憫(れんびん)の情すら湧いてくるわね」

 

 団らんな空気を一気にぶち壊す否定厨じみた発言をしたのは、綾小路咲夜。

 悠と同じ綾小路家の人間で、歳は渚と同じ13だが、綾小路家内の序列は悠を越えている。

 

「咲夜、また君はそういう事を言う」

「何よ、文句でも言いたいわけ?」

「招待してないのについて来た上に文句まで言うのかって話であって──」

「うるさいわねー、仮にも綾小路家内で格上のアタシを呼ばないってのがそもそも無礼千万なのよ。むしろ忙しい中わざわざ足を運んであげたアタシに感謝するべきじゃない」

 

 1つ言えば10も20も言い返してくる咲夜に、基本弁が立つ悠も辟易してしまう。

 険悪な雰囲気になりかねない会話だが、端から見れば割とよく見る光景だったため、全員立ち止まる事は無く歩みを続けている。

 

「──でも咲夜ちゃん、誰よりも目を輝かせてお肉食べてた気がするけどなぁ」

 

 ポツリと渚が呟いた言葉を、耳ざとい咲夜は聞き逃さなかった。

 

「ちょっとアナタ! 今の聴こえたからね!」

「うぇっ……地獄耳だ」

「誰がなんですって?」

「な、何でもないですー……」

 

 ずんずん詰め寄ってくる咲夜に困り眉で言う渚だったが、遂には駆け足で列の最後方──集団の中で未だに口を開かず、全員の様子を見ていた人物のものに駆け寄った。

 

「お兄ちゃん、咲夜ちゃんのことどうにかしてー!」

「あっちょっと! 庶民、アナタもさらっと庇うんじゃないわよ!」

 

 渚が助けを求め、咲夜がやり辛そうに指をさす。

 渦中の人物は急に自分に話題が振られた事に困惑しつつも、渚を庇うように2人の間に立った。

 

「咲夜嬢、あんまり妹をいじめないでくれ。別に悪い事言ったわけじゃないんだから」

「何よ縁! アタシよりも渚を庇うって言うの!?」

 

 縁──野々原縁。渚の兄であり、悠の親友であり、今年から咲夜と知り合った、今回の集まりの中心的な人物だ。

 

「渚庇うに決まってるんだろ……妹だぞ」

 

 呆れつつそう答えながら縁は、咲夜に歩み寄るとおもむろにその頭を撫でる。

 

『なっ!?』

 

 唐突に撫でられる咲夜と、撫でる兄を見る渚、共に同音の短い悲鳴を上げた。

 当然、それぞれの悲鳴に籠った意味合いは全く異なるモノではあるが。

 

「お、おぉぉお兄ちゃん! 何やってるの!?」

「アアァァァ、アナタ……あんた、頭……」

 

 背後で渚が固まってるのを察しつつ、縁は渚よりも幼い妹をあやす様な口調で言う。

 

「たくさんお肉食べるのは良い事だから、あんま怒るな。食えば食うだけ成長するし、美人さんになれるからな」

「こ、子ども扱い!? アナタ庶民の分際でこのあたしを子ども扱いするんじゃないわよ!!」

 

 顔を紅潮させながらジタバタ暴れるが、身長差があるため縁は余裕を持って頭を撫で続ける。咲夜も暴れる姿こそ見せるが、直接手を振り払うような事はしない。

 次第に暴れる力も弱々しくなり、恥ずかしさともう一つ別の感情で頭がいっぱいになっていく。すっかり真っ赤な顔になった咲夜は、辿々しく何かを呟くばかりだ。

 

「──よし、落ち着いたな」

 

 程なくして、先ほどまでの渚に対する怒りが無くなったのを確認すると、縁は手を離す。

 一瞬物寂しそうに“あっ”と小さく声を漏らしたのを隣で聞いた悠は、信じられないものを見る目で咲夜を見る。これが本当に、あの咲夜なのかと。

 

 それとは別に、全く違う理由で縁と咲夜のやり取りをジロッと見るのが渚だ。

 確かに兄に助けを求めた。兄はすぐに自分を庇ってくれた。そこは問題ない。

 だが、自分を差し置いて、まるで本当の妹を相手するように頭を撫でて(なだ)めるのは想定外過ぎた。

 

 とは言え、なまじ咲夜が怒る原因が自分にある以上、かばってくれた兄を責める資格も無い事も、渚は理解しているつもりだ。

 だが、兄を溺愛している妹としては到底見るに耐えられない。渚は相反する二つの気持ちで曇る素顔を隠す様に、兄のくれた季節外れのマラーを口元まで上げる。

 ──こんな顔、お兄ちゃんに見られたら嫌われちゃう。

 かつて、自分の手の届かない場所で失いそうになった兄を、こんな理由でまた失うような事は嫌だ。そう思って渚は視線を2人から外す。

 

 そんな妹の姿を、見逃す縁では無かった。

 

 さっきまで自分が立っていたポジションで、寂しそうな子犬のようにうな垂れている渚。

 自分が咲夜を撫でればきっと、渚はそうなるだろうと分かっていた。にも関わらず咲夜をこの手段で宥めたのは、それだけ咲夜の方が聞き分けない人間だったからだ。

 妹が嫉妬深く、それでいて我慢もする性格なのを、縁は誰よりも分かっている。

 この世界が『ヤンデレCD』の世界であり、自分もまたその登場人物である事を自覚している彼は、だからこそ、渚の心のケアも忘れない。

 

「渚」

「ん? なに──ふぇっ!?」

 

 声をかけられて、視線がパッと縁に向いたのと同時に、彼は咲夜を撫でたのと別の手で、同じように渚の頭を撫で始めた。

 ただし、込めた力は咲夜よりもやや強め──家族であり信頼できる人間相手にこそ出せる加減で。

 

「咲夜は耳が良いんだ、あまり怒るような事言っちゃダメだぞ」

 

 そう言ってワシワシ、柔らかくて暖かい渚の頭を堪能するように、縁は髪型が崩れるのも厭わず撫でる。

 

「お、お兄ちゃん、分かった! 分かったから! 頭揺らすのやめて〜!」

 

 字面こそ文句を言ってる様だが、マフラーで隠れた口元はハッキリと弧を描がき、縁の腕で綾小路家の2人は見えないが、目も嬉しそうに閉じている。

 あっという間に、渚の心に溜まりかけていた黒いモヤは雲散霧消していった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ひと騒動おさまった後、再び歩き出す4人だが、さっきまでと異なり先頭を歩くのは縁と悠の2人。

 悠が後ろで何かしら会話してる渚達をチラッと見て、次いで縁に視線を移してから言う。

 

「相変わらず、君はすごいな」

 

 その声は文字通りの尊敬と、若干の呆れが混じった声色だった。

 縁は怪訝な顔で答える。

 

「すごいって、さっきのが?」

「うん。咲夜と渚ちゃん、両方とも角が立たない様に宥めてたじゃないか」

「凄くは無いだろ。片方だけ庇うなんて事したら、後々面倒になるのは目に見えてるし」

「……そう言うところだと思うけどな、凄いのは」

「え?」

 

 親友の言わんとすることがイマイチ掴めないでいると、“そこは自覚してないんだ”と呟いて、悠はクスクスと童話の少女の様に笑う。

 

「そうやって全体を見て、先の事も考えてコミュニケーション取る事が最近増えただろう? なんだか、君だけ他の人より少し大人って立ち振る舞いに見えたのさ」

「何だよそれ、俺はお前と同い年だよ」

「それはそうなんだけど……うまく伝えにくいな。とにかく、君からはたまに一年くらい人生経験豊富て感じの雰囲気が、所々で垣間見えるのさ。良い意味で言ってるから安心してほしい」

「……老けて見えるって意味じゃないなら、別に良いや」

 

 それだけ答えて、縁は何も言わなくなった。

 否、“言えば何かボロが出そう”だから言えなくなった。

 図らずも、悠の指摘は半分近く当たっていたのだから。

 

 確かに、野々原縁の経験した人生の長さは、隣を歩く同い年の悠と異なっていた。

 野々原縁が今日、今現在この場所に存在するまでの過程で、彼は一度“巻き戻って”いる。

 この世界がヤンデレCDで描かれた世界とほぼ同じだと知り、CDの主人公と酷似してる自分が死の危険に晒されていると分かり、身の回りにいるヤンデレ化する危険を持つ女の子達に殺されないため、必死にいきてきた約8ヶ月間。

 

 その間に積み重ねてきた出会いや思い出は全て、今の彼が生きてるこの世界において無かった事になっている。

 同じ時間、同じ経験を共有出来る存在はおらず、それらを経て成長した彼の過程を知る者も当然居ない。

 だが、たとえ世界や人々の中から消えた時間だとしても、縁の中で消え去ったワケでは無い。

 それらは彼の精神、記憶の中で今も残っている。

 

 2度と、ヤンデレの女の子に殺される様な事はないように。

 絶対に、ヤンデレの女の子同士が殺し合う事が起こらないように。

 そして、自分をこの世界に送ってくれた“もう一人の自分”との約束を守るために。

 

 そのために、渚や咲夜、今日この場には居ない幼なじみの河本綾瀬の他に、同じクラスの柏木園子など、『ヤンデレCD』において自身を殺す、あるいはお互いに殺し合う関係の人々と、健全で適切な付き合いをする努力を続けている。

 

 悠が彼をたまに先輩の様に見えると語ったのも、そんな縁の姿を見てるから出た言葉だろう。

 事実、さっき渚と咲夜の些細な喧嘩の芽を紡いだ様に、消え去った8ヶ月で培った経験や、知り得た彼女らの性格に則った行動は今のところ報われていて、幸いな事にまだ誰も傷ついて居ない。

 もっとも、それは彼女達がお互いに傷つけ合わなかったという話であり、縁が全くの無傷で事なきを得たワケでは無いが。

 

 いずれにせよ,彼は今も“幸せ”になるため、生きている。

 しかし──いや、それ故に、彼はたまにこう考えてしまう。

 

『今の生き方で、俺は幸せになれるのかな』

 

 ヤンデレヒロイン達をヤンデレ化させず、殺し合いさせず、生きていく。

 それが幸せに繋がる事。そう思って日々生きてはいるが、言うなればそれは消えた8ヶ月間と何も変わらないではないか。

 

 同じ事をした8ヶ月間は、そんな努力が実を結び、恋人ができた上で誰も死ぬ事が無かった。

 これから先、みんなと楽しく幸せに生きているんじゃないか──そう思った矢先に、何もかも木っ端微塵に消え去った。

 じゃあ、自分が今焼き直しの様に生きてるこの時間も結局のところ、上手くいったところで最後は無駄に終わるんじゃないか。

 

 今の生き方は単に、自分のミスで死なないために生きてるだけ。

 幸せになるための生き方とは、違うのかもしれない。

 

 そもそも、今の自分はどんな未来を幸せだと考えているのだろう。

 幸福の定義すら曖昧なまま、漠然と消えた世界と思い出をなぞって生きてるだけ、そんな男に幸せなんて来るのだろうか。

 

 そこまで考えて、いつしか最終的に辿り着いてしまう、一つの考え。

 

『もしあの時、3年前に巻き戻るのでは無く、別の選択をしていたなら』

 

「──ッ」

「おや、舌でも噛んだかい? ずいぶん険しい顔になってるよ」

「……いや、そんな顔してたか俺?」

 

 はぐらかす様に苦笑すると、悠はやや沈黙してから“気のせいかも”とそれ以上の追求をせずに、前を向く。

 恐らく何か思うところはあったに違いないが、踏み込むタイミングではないと思ったのだろう。親友の些細な心遣いに感謝しながら、縁は軽く息を吐いた。

 

 思考はいつもあそこで遮断され、それより深い事を考える事は無い。

 当然だ、縁はあの決断をする前に多くの絶望を経験してきた。その上でなお、決断するのに苦しみ、全員が死なない未来のため、愛しい人々と思い出を生贄に捧げたのだ。

 そんな決断と、その結果勝ち得た未来──つまり今の世界を否定する様な事を、考えて良いわけがない。

 

 だがそれでも、どうしたって、人間である縁の心と頭の片隅でいつも、思ってしまうのだ。

 

『もう一度だけでも良い、あの世界のみんなに──』

 

「お兄ちゃん、これあげる」

「ん?」

 

 横断歩道手前で信号が赤になり止まってる間、渚が袋に包まれた飴玉を差し出す。

 

「お店を出る時にもらったの。とっても美味しいから、お口直しにお兄ちゃんも、ね」

 

 笑顔で手のひらに乗せた飴玉を自分に向ける渚。

 きっと、悠が気づいたのと同じ様に、縁の僅かな表情の変化を察していたのだろう。

 先ほど縁が渚の曇りかけた心中に気づいていた様に、渚もまた、兄が何か心を苛ませていると、分かったのだ。

 

 自然と、縁の心も暖かくなる。

 少なくとも、この些細な思いやりに幸せを感じるのだけは確かだった。

 

「ありがとう渚、いただくよ」

 

 受け取って、ちょうど信号が青になる。

 横断歩道をよそ見しながら歩くのを避けるため、飴玉はズボンのポケットに飴をしまった。

 万が一でも、よそ見運転で歩道に突っ込む馬鹿がいるかも分からない──消えた8ヶ月間の中で車に轢かれた経験から来る警戒心で、歩き出すより先についつい左右だけじゃなく、斜め向かいの車にも視線を向ける。

 

 側から見れば神経質にも思われそうな、忙しなく動く視線。

 すると視界の端に何か──車では無いが、意識に引っかかるモノが見えた。

 

「──は?」

 

 歩みは止めないまま、しかし視線だけは映り込んだモノに釘付けとなる。

 

 それは、白く光って見えた。

 それは、背中に天使のように翼がある様に見えた。

 それは、人の形をしていて──、

 

「なん、で?」

 

 それは、

 綾瀬に見えた。

 

「縁、どうかした?」

「お兄ちゃん?」

 

 心配する悠と渚の声も、今の縁の耳には届かない。

 視界の先にある翼を生やした綾瀬は、彼にしか見えていないのか、誰も縁が何に反応しているのか分からないでいる。

 

 幻覚を見てるに違いない。縁は客観的に自分を判断しようとするが、それ以上に、猛烈なまでの懐かしさを感じてしまう。

 綾瀬は()()()()()今日この集まりには居ないが、決して死んだワケではない。今だって家にいるか、友人と何処かで過ごしているに違いない。

 だから、こんな所にいるワケ無いし、ましてや背中に天使の様な翼を持っているなんてあり得ないのだ。

 

 だが、彼にしか見えないそれは、間違いなく綾瀬だった。

 それが縁に向ける表情が、彼女は綾瀬だと、縁に確信を抱かせるのだ。

 何故ならば、その表情は彼が消えた8ヶ月間の中で見た──、

 

 “恋人の綾瀬”が自分に向けてくれた、愛おしい笑みと同じだったのだから。

 “そう”思った瞬間、天使は縁に向かって右手を差し伸べた。

 まるで、この手を掴んで欲しいとでも言う様に。

 

 “そう”認識してしまったら最後、縁は自分の奥底から湧き出る衝動に抗う術を持てなかった。

 

 ──綾瀬!

 

 心中で彼女の名を叫び、一目散に駆け出す。

 もはや周りの目など意識の外だ。

 長めの横断歩道を突っ走り、その先で佇む天使の彼女に一歩、また一歩と近づいて──、

 

 確かに、その手を掴んだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「わっ、なに!?」

 

 次に縁の目に映ったのは、驚いて目をまんまるに開かせた渚と、見慣れた自室の天井だった。

 綾瀬の姿は微塵もなく、掴んだはずの手は、渚の右手を握っていた。

 

 は? え? なに? なんで渚が? あの綾瀬はどこに? 

 当惑する縁だったが、そんな彼を見て、渚は呆れた様に言う。

 

「お兄ちゃん、寝ぼけてるでしょ」

「寝ぼけて……?」

 

 あれ、じゃあさっきまで見てたのは夢? 

 咄嗟に枕元に充電しておいたスマートフォンを手に取って、画面に表示された日付や時間を見る。

 画面に表示された時刻は朝の7時半。先ほどまで縁が過ごしていた時間とは、かけ離れた時刻だった。

 それが、先ほどまで悠や咲夜達と共にいたのも含めて、全部夢だったのだと教えてくれる。

 さっきまでの出来事も、あの天使の様な綾瀬も、夢の中の出来事でしか無かったのだと。

 

「……夢? 夢見てたのか?」

「はい、夢です。どんな夢だったか知らないけど、こんな時間まで寝てるなんて、遅刻しちゃうよ?」

「う……うん、すぐに着替えるよ」

 

 そう言って身体を起こして背を伸ばす。

 渚は兄が完全に目を覚ましたと分かると、朝ごはんの準場をするために部屋を出ようとする。

 その後ろ姿を見て、縁はふと違和感を抱き──すぐその正体に気づいた。

 

「あれ、渚。今日は巻かないのか」

「巻く? 何を?」

「マフラーだよ、今日は洗濯に出したのか?」

 

 3年前に巻き戻った時に自分が買ってプレゼントしたマフラーを、渚はそれ以降季節を問わず巻き続けている。

 死にかけた時も渚の心を支えてくれたお守りの様なマフラーだが、今日は平日にも関わらず、渚は首に巻いてなかった。

 

 洗った後に忘れたのか、あるいは何かで汚してしまったのか。簡単な答えを期待してた縁だったが、渚の答えはまるで違うものだった。

 

「お兄ちゃん、今の時期に、しかも家の中でマフラーなんてするワケ無いでしょ?」

「…………は?」

 

 それはあまりにも当然の答えで、だからこそ、あり得ない答えでもあった。

 

「……もう、まだ寝ぼけてるの? ちゃんと顔洗ってね」

 

 縁がまだ夢うつつの状態にいる──本気でそうとしか思ってない渚は、その後すぐに下の階に降りていった。

 そのタタタタっと鳴る足音を耳にしつつ、縁は着替え始め、自分の心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。

 

 おかしい、何かが、確かにおかしい、

 

 おかしさの正体が分からないまま──考えるのを無意識に避けて──縁は制服に着替えて、ゆっくりと階段を降りていく。

 そうして、リビングにまで行くと──、

 

「あ、おはよう縁。なんかずいぶんと寝ぼけてたんだって?」

「そうなんですよ綾瀬さん。お兄ちゃんったら、夢の中でまで()()()()()叫んでたんですから。本当……どんだけ綾瀬さんの事好きなの」

 

 台所で朝ごはんの用意をする、渚と綾瀬の姿があった。

 その光景があまりにも自然に見えて、縁はまだ、自分が夢の中に居るんじゃないかって気になった。

 

 だってそりゃそうだろう。俺が今生きてる世界の2人は、決してこんな風に2人並んで料理をするような関係では無いんだから。

 

「ねぇ、夢に見るまで大好きな彼女に朝から会えて嬉しいのは分かるけど、ぼーっとする位手が空いてるなら、手伝ってほしいんですけど~?」

 

 ニヤッとしながら話す綾瀬も、そんな綾瀬や縁を交互にジトっと見て“バカップル……”とため息を漏らす渚も、“今の”彼にとっては現実とかけ離れた物だったのに。

 他ならぬ自分自身の五感が、ここは夢では無く現実だと教えてくる。

 

 そんな事あるのか。縁は自分が置かれている状況を認識すればするほど、ワケが分からなくなっていく。

 

 今、彼は。

 失ったはずの時間の中にいるのだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ねぇ、本当に熱とか無いの?」

 

 心配して顔を覗き込んでくる綾瀬に、縁は困り笑顔で平気だと返すが、綾瀬は全く納得する様子を見せない。

 

「平気って言われてもね、あんなに真顔で泣くような貴方、見た事ないんだから、心配なのよ。……ねぇ、本当に何もないの?」

 

 綾瀬の言う通り、縁は朝、泣こうと思う暇も無く、勝手に涙腺が崩壊したように涙をこぼした。

 自分が本来あり得ない状況に身を置かれ、あまりにも2人が自然に居て、パニックする間もなく感情すら置き去って、気が付けば泣いていたのだ。

 

 3年前に巻き戻った際も、死に別れた悠や綾瀬をみた直後に、似たような感覚を覚えたが、あの時よりも縁の心はぐちゃぐちゃになっていた。

 それもそうだろう。

 小鳥遊夢見に壊されて、自らの意思で切り捨てた、二度と戻らない日々の中に、今自分は居るのだから。

 

「もう、大丈夫だからって何度も言ってるじゃん。ホント平気だから、な?」

 

 自分たちが泣かせてしまったのかと焦った2人を誤魔化して、朝食をとって3人で登校する間もずっと心配された。

 学園に着いて渚と別れた後も、昇降口から教室に行くまでの廊下で散々気に掛けられて、教室についたって健康状態を疑われている。

 

「覚えてないけど、たぶん怖い夢を見たんだ。寝ぼけて泣いちゃっただけだからさ。安心してよ」

 

 嘘八百も良い所だが、そう言うと取り敢えず綾瀬は不承不承ながらもそれ以上詰め寄っては来なかった。

 一旦縁の席から離れて、女子たちの方に綾瀬が行った後、見計らうように悠が声をかけた。

 

「今日は朝から随分過保護気味だったね。何かあったんだ」

 

 “あったのか”という疑問形では無く、既に何かあったのだと確信している悠。

 

「ちょっとな。別に喧嘩じゃないよ」

「だろうね。それなら君はもっとこの世の終わりみたいな顔してるはずだし」

 

 その察しの良さ、発言の的中具合、いずれも本物の悠としか思えない。

 だからこそ、縁は尚更自分が置かれている状況が分からなくなってしまう。

 

 自分の家から学園までの道、そして教室についてからも、一切合切が明晰夢などで納得できるレベルを超えたリアリティに包まれていた。

 天使の姿をした綾瀬を見るまでの日々が全部嘘で、自分は長大な夢を見ていただけに過ぎない。そう納得するしか無い現実。

 

 だからこそ、どうしてもすぐに、確認すべき事がある。

 

「な、なぁ悠。一つ聞いて良いか?」

「何だい。答えられる範囲なら」

「……夢見って今どこにいるか、知ってる?」

 

 軽い言葉だが、彼にとってそれは余りにも大きな質問だった。

 当然だろう、小鳥遊夢見は彼の8ヶ月間を()()()()()()張本人とも呼べる存在。

 この世界があの日々と同じ世界であるならば、彼女が既にこの街にいるはずなのだ。

 にも関わらず、登校中縁が確認した時、彼女が暮らしていた野々原家の向かいの家には、人の気配がまるで無かった。

 渚も綾瀬にも聞いてみたが、直近では夢見と会ったことが無い様子だ。

 学園に到着してから、途中一年生のフロアに行って確かめる事も考えたが、綾瀬がいたのと、仮に居たらマトモに顔を見る事ができないだろうから、諦めた。

 

 だが渚や綾瀬とは違って、彼女の危険性を誰よりも知っていた悠ならば、夢見がこの街にいる場合、今どこにいるのか把握してるはず。

 もし彼が全く知らないと答えたならば、それは本当に小鳥遊夢見がこの街に引っ越していない事の証明になる。

 

 仮に何かしらの意図で嘘を吐いたとしたら、それこそこの世界も、嘘を吐く悠も偽物──自分の見ている夢に違いない。

 渚が綾瀬と和解して、綾瀬が恋人で、悠や園子が生きている。──どこまでも同じなのに、夢見だけが街にいないなんて、縁が何かの拍子に見ている、自分に都合の良過ぎる夢や幻覚に決まっている。

 

 

 あぁ、そう言えばお医者さんに出された薬、効果薄くなってきたもんな。

 

 縁は今、周りには隠して(家族の渚は当然把握しているが)、病院に通って軽い抗うつ薬や、抗精神薬を飲んでいる。

 きっと、それらの薬が切れて、脳が幻覚を見せてるんだろう。

 あの天使のような綾瀬だって、そうに決まってる。

 街中でおかしくなったから今頃現実では、渚達がアタフタしてるに違いない。

 困ったなぁ。隠してるのにバレたら面倒な事になる。

 次行く時はもう少し強い薬に変えてもらわないと、渚にだって迷惑かけてしまうよ。

 

 もはや答えを聞く前に結論付けた上に、次々考え込んでいる縁だが、そんな彼の心中を知る由もない悠は、縁の質問に数秒間を置いてから、

 

「縁、ちょっとこっち来て」

 

 そう言って、彼の腕を掴み廊下まで歩き始めた。

 

「うぇ、お、おいちょっと……」

 

 有無を言わせない力と勢いで引っ張られた縁は、初めからその気が無いとは言え、無抵抗で悠に連れられていく。

 朝のHRが近づきまばらになった廊下の奥、誰もいない空き教室の前まで歩いてからやっと止まった悠は、周囲に自分達しか居ないのを確認してから、険しい顔になって縁に問いかけた。

 

「君、さっきの質問はどう言う意味かな」

「え、いや、言葉通りなんだけど……?」

「彼女をどこに埋葬したのかって意味なら、聞きたくもないと言ったのは他ならぬ君だろう? 今更どうしてそんな事聞くのさ」

「──は???」

 

 それは、あまりにも予想していない、そしてこの世界があの8ヶ月と違う世界だと言うのを証明する言葉だった。

 思い切り背中を伸ばした時に起こる、きゅうくらりんとした目眩に似た感覚が縁を襲う。

 

「なぁ、悠……変な事を聞くけど、頼むから何を思ってもただ答えるだけにして欲しい」

「……うん、なに?」

 

 縁が尋常な状態では無い事を、理解できない悠ではない。

 きっと何か──縁にしか知り得ない大きな事が今朝から続いてるのだと、彼は察して……だからこそ、縁の頼みに応じた。

 そんな親友の言葉と表情を見て安堵しつつ、縁は聞いた。

 

「俺達、どうやって夢見を止めたっけ?」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……はぁ」

 

 時は変わり、夜8時の自室。

 人生において最も長い間留まる場所であり、自我のリスポーン地点とも言えるベッドの上に寝転びながら、縁は今自分がどうなっているのかを、改めて考える。

 

 悠は答えた。

 

『君が急に夢見がこの街に来るから、その前に殺したいって頼んだ』

『本気で彼女を殺そうとしていたから、僕は止めようとした』

『それでも君は頑なに意思を変えようとしなかったから、再三覚悟を確かめた後に、力を貸した』

『引っ越してくる前夜、彼女の住んでいた家に夜中忍び込んで誘拐した後、山奥の廃工場に連れて行った』

『そこで彼女の視覚と嗅覚と聴覚を潰してから、怨嗟の声を吐き出す口に拳銃を突きつけて』

『僕たち2人で、引き金を引いたんだよ』

 

「……ははっ、はははは」

 

 理解した。

 そして納得もした。

 

「そりゃそうだ。殺したくもなるさ。それをするには悠に頼むのが1番手っ取り早い」

 

 縁の知らない場所で、誰よりも早く夢見の危険性を知っていた悠に──彼が死ぬ前の時間に巻き戻れば、夢見がこの街に来て凶行を働くより先に、殺す事ができる。

 縁と同じ回数の繰り返しを経た『取り返しのつかない小鳥遊夢見』に変貌する前の彼女を、綾小路家の力を借りれば封じ込められたのだ。

 

 分かっていた。それが1番楽な方法だった事くらい。

 それが1番、()()()()()()()()()()()だったくらい。

 

 だが縁がその道を選ばなかったのは、ひとえにそれが()()()()()()()()()()()()では無かったからだ。

 

 でも、この世界の縁はそのセオリーをぶち壊した。

 どんな事を考えたのか、あるいは考える事を放棄したのか。

 いずれにせよ、結果としてこの世界は小鳥遊夢見の死をもって、甘いハッピーエンドになった。

 

『もしもあの時、3年前に巻き戻るのでは無く、別の選択をしていたなら』

 

 何度も考えて、その度に思考を遮断していた『もしも』。

 それが、この世界の正体だったのだ。

 

 ここでは、猟奇的な殺人鬼に殺される人間は誰も居ない。

 ただ、理不尽な運命と環境に歪まされて、殺人鬼に成って果てた少女が救われないまま、無様に朽ちただけ。

 本来の縁(あえてそう呼称する)が、決して切り捨てようとしなかった、たった1人を見放して生まれた結果が、これなのだ。

 

 だが、それが縁の心を蝕むかと言えば──確かにその通りだ。

 しかし、それが罪悪感となって彼の心を苦しめるかと言えば──必ずしもそうでは無かった。

 

 今日、縁は楽しかった。

 夢見の死の上で成り立っている世界だと分かっていて、その上で楽しいと感じてしまった。

 

 朝に渚に起こされ、

 綾瀬に揶揄(からか)われ、

 3人で登校して、悠もいる教室で授業を受けて、

 放課後に園子や咲夜がいる園芸部で活動をした。

 

 ヤンデレの女の子を警戒する必要が一切無い、彼が8ヶ月の努力の先で本来得ていたはずの時間を、満遍なく過ごしたのだ。

 

 奇しくもそれは彼が今、定義すら分からないまま見つけようとしていた、“幸福”そのものに違いなかった。

 

「……はぁ」

 

 だからこそ、今の彼は落ち着かない。

 この状況を甘んじて受け入れたまま、身も心も意識も、何もかもを委ねてしまう事が、怖かった。

 

 自分がこの世界に移動した理由が分からないまま、もしこのまま寝たら、次に目を覚ました時には元の世界に戻ってるかもしれない。

 

 それが怖くて──怖いと思う自分が、既にこの世界を受け入れ始めてる事に気づいて、それが無性に気持ち悪くて、居ても立ってもいられなくなった。

 

「……散歩でもするか」

 

 わざわざ声に出して耳に聞かせる事で、それを行動開始のトリガーにする。

 部屋着を脱いで、クローゼットからテーラードジャケットとスキニーパンツ──無意識か意図したものか、それはみんなで焼肉屋に行った時と同じ服装だ──に着替えて、縁は渚にコンビニ行ってくるとスマートフォンでメッセージを送ってから、夜の街を歩き出した。

 

 特に目的地もなく、本当にコンビニに寄りもしたが特別何か買う事もせず、最終的に行き着いたのは、彼の人生において何かと()のある、家から近い公園だった。

 外灯に照らされたベンチに座り、中途半端に明るい地上のせいでろくに星の見えない夜空を見上げる。

 初夏の夜は真夏ほどの暑苦しさはなく、たまにそよぐ風やささやかな虫の音が、少しずつではあるが、ザワついていた縁の心を落ち着かせていく。

 

 そう言えば、この世界に来てから、全く心や頭がざわつかない。

 薬を全く飲む事無く(そもそも薬が家に無かった)、精神が健常な物になっている事に、縁は遅まきながら気づいた。

 

 元の世界に戻ったらどうなってしまうのか。

 その不安こそあるが、薬に頼らないまま、ここまで落ち着いてる自分になるのも久しぶりだった。

 

 とは言え、分かったのは自分の精神状態のみであり、それ以上の気づきや閃きなどは、その後10分近く経っても出てこない。

 

「……そろそろ、帰るか」

 

 これ以上ここに居ても仕方ない。そう思ってベンチから立ち上がると、縁はポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認しようとした。

 

 その時だ。

 スマートフォンの入ったズボンの右ポケットの底に、何か入ってるのに気づいた。

 

「ん?」

 

 部屋を出る前にこのズボンに着替えて、外をぶらついて公園に着くまでの間、縁はスマートフォン以外の物をポケットには入れてない。

 着替える前……クローゼットの中にしまってた時既に入っていた物だろうか、気になってポケットから取り出した。

 

「これって……」

 

 可愛らしくシンプルな柄の袋に包まれた、見覚えのある形状。

 間違いない、渚が──あの世界の渚が縁に手渡した飴玉だった。

 

 どうしてこの世界にこれが? 当然湧き出る疑問に頭を巡らそうとした矢先、公園の奥から、何かが軋む音がした。

 

 パッと音の鳴る方へ視線を向けると、それがシーソーの動く音だというのが分かった。

 だがそれを見て『なんだ、シーソーが動いてるだけか』なんて呑気な事を考えるワケも無い。

 わざわざ夜の公園に来て、物思いに耽る縁の様な人間はそう多くない。ましてや遊具で遊ぶような人間など、まず居ないはず。

 

 風が強ければ動く事もあり得るだろうが、それほどの強風が吹いてたなら、シーソーだけじゃ無く他の遊具も、何なら縁だって風の影響を受けるはずだ。

 強い風も無いのに勝手に動き始めたのなら、ホラー映画や番組で見るような心霊現象が起きてる事になる。

 生半可な幽霊よりも余程恐ろしい目に遭ってきた縁だが、それにしたって呪いや怪現象は恐いだろう。

 

 しかし幸いな事に、シーソーにはちゃんと片方ずつ人が乗っていた。

 そしてだからこそ、縁はシーソーに乗ってる人間が、普通では無いと判断して──すぐに誰か分かってしまい、背中に寒気が走った。

 

 街灯の灯りがわずかしか届かず、月明かりも雲のせいでまばらな公園の奥においてもなお、その2人の格好は余りにも特徴的だった。

 そして何より縁は、シーソーに乗る2人が時折出す笑い声に、余りにも聞き覚えがあった。

 

「何で、ここにいるんだ……」

 

 思わずそう呟いてしまった、その瞬間。

 シーソーが止まった。

 

「──っ!?」

 

 薄暗いから見えるはずのない2人の顔。その瞳がこちらを向いて、口元はニヤリと笑ったように感じた。

 

 ダメだ、すぐに逃げないと。

 そう頭が理解する時にはもう、手遅れだった。

 

「見つかっちゃったわね、ノノ」

「見つかっちゃったねぇ、ナナ」

 

 残念そうな言葉とは裏腹に、2人は楽しそうに会話しながら、シーソーを降りる。

 そうして、ゆっくりと縁に歩み寄り──遂に街灯の真下に現れて、ゴシックロリータの服装に身を包んだその姿を露わにした。

 

「……嘘だろ」

 

 見間違えなどでは無かった。気のせいでも無かった。

 ましてやこの後に及んで他人の空似なんて事もあり得ない。

 間違いなく、そこにいるのはナナとノノ。

 巻き戻る前の世界で出会っていた、咲夜に雇われた双子の少女達だ。

 

「お久しぶりね、お兄ちゃん。怖いハサミのお姉ちゃんを捕まえて以来かしら」

「また会えて嬉しいなあ! ねぇねぇ、ノノ達に会えてお兄ちゃんは嬉しい?」

「……何だって?」

 

 今、2人はなんて言った? 

 久しぶり? 会えて嬉しい? 

 そう言ったのか、俺に? 

 

 恐怖心を塗り潰す勢いで、困惑が脳みそのシワを埋め尽くしていく。

 無理もない。縁がこの2人に出会ったのは、夢見が手始めに悠を殺して、身の危険を感じた咲夜がボディガードとして雇ったからだ。

 

 すなわち、事前に夢見を殺して悠の死が回避された結果であるこの世界においては、縁がナナとノノに出会うキッカケすら無い。

 当然、双子が夢見に出会う事も無いのだ。

 

 しかし、双子はどちらも縁を既に知っている。

 それどころか、この世界でも縁しか知らないはずの、夢見が捕まった時の事すら分かっている口ぶりだった。

 

 おかしい。それでは辻褄が合わない。

 だってこの世界は、惨劇が起こらなかった世界のハズじゃ──、

 

「そんな都合の良い展開、本当にあると思ってるんですか?」

「──ッ!?!?」

 

 またも聞き慣れた人の声が、ねっとりと耳元で囁く。

 驚いて後ろを振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ制服を着た黒髪の少年──のように見える、胡散臭い男。

 

「塚本、お前まで……」

「ハイ、お元気そうで何よりです、野々原縁さん」

 

 親しげに名前を呼ばれたのに、ここまで嬉しくない人間はそうそう居ないだろう。

 縁は前方にナナとノノが居て近づいてきてる事よりも、背後に塚本がいる事の方が不快極まりなかった。

 前方の虎、後方の狼……狼というより蛇蝎の類ではあるが、どちらも出会いたくない人間である事には変わらない。

 そんな2人に挟まれてしまった今、縁に出来る行動は限られている。

 会話が通じる気のしない双子と、会話すらしたくない男から急いで逃げる事だ。

 

 幸い、辺りに家が多い場所だ。大きな声を出せば不審に思った住人が警察に通報してくれる可能性がある。

 それじゃなくてもこの辺りは入り組んでいて、勝手知ったる縁にとって逃げるのに適している場所だ。

 躊躇う理由なんて無いとばかりに、縁は利き足にしてる右に力を入れて、すぐに走り出そうとした。しかし、

 

「死にたいんですか、あなた」

「……っ」

 

 普段とまるで同じ口調──しかし、明らかに言葉の重みが異なる塚本に、あっという間に行動を封じ込められた。

 

「今この場を離れたらどうなると思うんです。そこの双子は鬼ごっこが始まったと思って、喜び勇んであなたを追いかけますよ。ただ追いかけるだけならまだしも、ナイフやら斧やら品のない物を、的当てのように投げ飛ばして、楽しむでしょうね」

「あっ……」

 

 言われて確かにその通りだと、縁は納得してしまった。

 そして指摘は正しかったらしく、せっかくあと数秒で遊びが始まると思っていたのに邪魔された双子は、頬を膨らませながら塚本に抗議し出した。

 

「むー! せっかくお兄ちゃんと遊べると思ったのに、なんて無粋な人なのかしら」

「こーいう人、動画だと出てきただけで、画面が真っ赤なアンチコメントで埋め尽くされちゃうタイプだよナナ」

「あら、変な事に詳しいのね。ノノったらいつのまにそんな事覚えたの?」

「へへー凄いでしょ」

「凄いのかは分からないけど、普段は何もしないけど本当は何でも出来るって思い込んでる痛い人っぽいとは思うわ、この人」

「あっ分かる。そーいうの、オタクって人たちが憧れてるんだってー。グンシ? とかサンボー? とか」

 

 好き勝手言いまくるナナとノノ。

 それを聞いて内心深く同意してしまう縁。

 一方、急に直球どストレートでヘイトスピーチを浴びる形になった塚本は、普段通りの笑みを浮かべて、右手で前髪をかきあげつつ言った。

 

「ふ、ふふ……好き勝手言いなさる。弐双の劣化品風情が」

 

 口調はやはりいつも通り。しかし今まで散々、聞きたくないのに塚本の声を聞かされてきた縁には分かった。

 声が若干怒りで震えている。どうやらこの男も、人並みの感情はあったらしい。

 

「と言うよりも、野々原さん。曲がりなりにあなたの自滅行為を止めたのに、庇うそぶりすら見せないの酷すぎませんかね」

「いや……それはほら、日頃の行い……」

「……はぁ、もう良いです」

 

 自身が孤立無縁だと分かった塚本は、短く大きなため息を吐くと、気を取りなおすように咳払いをしてから、縁に右手の人差し指を向ける。

 

「今あなたが置かれている状況について、もう少し真剣に考える事を強くお勧めします」

「……それは、分かってるよ」

「いいえ、きっと間違いなくあなたは自分に都合の良い解釈に逃げようとしている。私やそこの劣化品がこの場に──野々原さんの目の前に現れた事の意味をちゃんと考えるべきです」

 

 そう言うと、踵を返して縁の返答も待たずに公園の外へと歩き出す。

 おい待て、幾ら何でも抽象的過ぎだろ。せめてヒントになるような事でも言えよ! そう言おうと口を開こうとしたが、

 

「じゃあまたね、お兄ちゃん!」

「すぐに会えるわ。その時は遊びましょうね、フフッ」

 

 塚本の後を追うように、縁の両脇をノノとナナが風を切って過ぎ去り。

 

「……何なんだよ、もう」

 

 驚いたので一瞬深く瞬きした後、既に縁の周りには誰の影も形も無かったのだった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日。

 お昼ご飯を綾瀬達と一緒にした後、1人だけ高等部校舎の屋上に来た縁は、塚本の語った言葉の意味をひたすら思い返していた。

 

『きっと間違いなくあなたは自分に都合の良い解釈に逃げようとしている』

 

 なんて容赦の無い、目を背けたくても出来ない言い回しをしてくれたのだろう。

 お陰できっと塚本の狙い通り、縁は朝起きてからずっと考え込んでしまい、満足に渚や綾瀬達との時間を楽しむ事が出来ずに居た。

 

 この世界は縁が本来選ばなかった選択によって出来た、縁の望んだ物に満ちた世界だと思っていた。

 だが、昨日彼が遭遇してしまった3人の内、少なくともナナとノノは、縁しか知り得ないハズの情報を知っていた。

 

 あの双子が特別な存在だから、という可能性はゼロではない。

 例えば七宮伊織という、最後まで理由は分からないままだが、縁が死んだ時何度も縁の意識を過去に巻き戻してくれた巫女がいた。

 また縁自身、特異な存在だった時期があったし、その頃の名残が今も残っている身だ。

 

 超常的な現象や、そういった事を可能にする力を持つ存在が、この世界には少し居る事を、縁は身をもって体感している。

 

 だが、不思議とあのナナとノノにはその手の力がある感じはしなかった。

 と言うのも、双子の言葉からは実際に経験した事を語る時の様な、実感が備わっていたからだ。

 

 どんなに知恵や情報を蓄えて詳しい人間でも、実際に体験していない事柄について語る際、どうしても僅かに『自分自身』と語る『出来事』との間に隔絶が生まれてしまう。

 息遣いや肌感、空気の流れ……その瞬間、その場に居るからこそ語りで再現できる雰囲気というものがある。

 わずかな言及とは言え、双子からはそれが強く感じられたのだ。

 

 そんな主観に依存しきったものを、参考にするなど間違ってる!

 第三者ならそう思うだろうが、縁は一歩間違えればヤンデレの女の子に殺されるかもしれない環境の中、何度も人の顔色や声色、語勢や雰囲気を伺い、失敗と成功を重ねて来た人間だ。

 少なくとも彼は、この手の感覚だけは、外さない自信をこれまでに培っていた。

 

 だからこそ強い言葉で断言する。

 あのナナとノノは、間違いなく巻き戻る前に縁が出会ったナナとノノと同一人物だと。

 

 つまり、縁が思っていた『本来選ばなかった選択によって出来た世界』では絶対存在するハズが無い人物。

 なのに、あの双子は確かに存在して、縁の前に現れた。

 

 この矛盾が指し示す答えは、すなわちこうだ。

 

「ここは、俺の妄想や夢の様な世界なのか」

「やっと能天気なアナタでも分かったみたいね」

 

 縁のポツリと漏らした残酷な独白に、何者かが即座に答えた。

 何者か、と考えたのは1秒足らずで、すぐに誰の声なのか分かったが。

 

「……咲夜嬢か」

「何よ、その呼び方。アナタ“向こう”ではアタシの事そう呼んでるの?」

 

 綾小路咲夜、昨日も放課後の部活中に会った、悠の従妹。

 昨日の時点では全くそんな素振りも無かったが、口ぶりから彼女もまた、ナナやノノ、それに塚本達と同じ枠の存在だったらしい。

 そして、この場に姿を見せたのは咲夜だけでは無かった。

 

「こんにちはお兄ちゃん!!」

「やっぱりすぐ会えたわね。ごきげんよう、お兄ちゃん」

 

 咲夜の後ろからぴょこっとノノ、ナナが姿を見せる。

 昨日はビビり散らかした縁も、既に2人に恐怖や驚愕の類を抱く事は無い。

 むしろ、居て当たり前だという気持ちすら彼の中にはできていた。

 

 想い起すのは巻き戻る前の、中等部の屋上の記憶。

 全ての元凶が夢見だと分かった──真実に至った時と、校舎の違いこそあれど、屋上という環境と人間が一致している。

 

 偶然では無いだろう。

 つまり、自分の考えに対する答え合わせのために用意されたシチュエーションなのだと、縁は解釈する。

 全くオカルトじみた解釈だが、ここはそう言う世界なのだ。そう思う事にした。

 

「咲夜、教えてくれるか。ここは一体何なんだ」

「今アナタが独り言で口にした通りよ。この街はアナタの強烈な想いがキッカケで生まれた、本物みたいな偽物。明晰夢よりも明晰な夢みたいなものね」

「……そっか」

 

 偽物。

 偽物か。

 

 そうだと考えていたが、いざ言われたら、哀しくなるのは我ながら勝手な生き物だと縁は思う。

 今朝も感じた渚や綾瀬、悠や園子、皆の言葉や温かさが全部、縁の頭の中だけの偽物なのだから。

 

「強烈な想いって言うけど、俺そんなの覚えがないよ」

「分からない? この世界も、今こうして話してるアタシも全部、アナタが作ってる様な物なのに、本当に思い浮かばないの?」

「……分かってたら聞かないだろ」

 

 幾許かイラつき──咲夜では無く分からない自分自身への──を込めて、縁は吐き捨てる。

 

「まぁ、その通りね」

 

 あの咲夜にしては珍しく、縁の弱々しい発言を責める事も無いまま肯定する。

 

「特別に教えてあげても良いけど、聞きたい? 知りたい? この世界の──アナタの根幹にある気持ち」

 

 もったいぶる様に問いかける咲夜。

 ナナとノノもそんな彼女の真似をしてか、縁の前まで詰め寄ってニヤニヤと笑いながら。

 

「お兄ちゃん、そんなつまらない事、知らない方が幸せだと思うよ!」

「知ったって楽しくないもの。知らないままの方が幸せよ?」

 

 昨夜に塚本を揶揄った時と同じ口調で話す双子だが、縁に不快な感情は生まれない。

 基本何も考えて無い(あるいは楽しいと感じる事にしか興味が無い)ナナとノノだが、不思議と今の言葉からは、本当に忠告してくれてる様なニュアンスを感じたのだ。

 

 この双子もまた、縁の意識が生み出した存在だとすれば、つまり自分自身、知りたくないと思っているのではないか。

 

「あれ、お兄ちゃん急に黙っちゃった。どうし──あぅ」

 

 無反応なのをつまらなそうにしていたノノの頭を、縁は愛犬の頭をそうするように、唐突に撫でる。

 巻き戻る前の世界では怖い想いを沢山されたが、同時に助けてくれた存在でもある。

 切羽詰まっていた当時は全く意に介する暇も無かったが、こうして平時に会話をするだけなら、愛らしさを持つただの子どもだ。

 

 ましてや、彼女なりに自分を案じてくれてるのなら。

 

「心配してくれてありがとう、でも知りたいんだ」

「あはははっ、お兄ちゃんくすぐったいよ!」

 

 多少乱暴なくらいの撫で方だが、ノノは不快どころか逆に喜ぶ反応を見せる。

 そうなると今度、隣にいるナナも黙ってはいない。

 

「お兄ちゃん、ノノばかり構って不公平じゃないかしら」

 

 空いてる方の腕を掴んで、眉を寄せながらナナが言う。

 それに応える様に、縁はもう片方の手で、お望み通りにナナの頭も撫で始めた。

 

「な、何してんのよアンタ達!?」

 

 唐突に始まった脈絡もへったくれも無い出来事を前に、情報量でマウントを取っていたつもりの咲夜は困惑した。

 この後、必死に知りたがる縁を少しだけいじわるして、可愛い──困った顔を見て楽しむつもりだったのに。

 さながら散歩中に出会った人に、愛犬2匹が目の前で撫でられてる所を見てる飼い主。当事者なのに蚊帳の外だ。

 

 会話の主導権を握ってるはずが、蔑ろにされている事に耐えられない咲夜は自身も縁の前に詰め寄る。

 

「ちょっとアンタね! 自分が今どんな状況にいるのか分かってるワケ!? このアタシを差し置いてこんな子ども2人と和んでるんじゃ無いわよ!」

「あら、貴女だって十分子どもだと思うけど」

「胸だって咲夜の方が小さいんじゃないかな」

「ちょっと黙ってなさい!」

 

 銀髪の双子の間でキーキー騒ぐ金髪少女。

 見た目的にも聴覚的にも華やかで喧しくなってきた所で、縁はおもむろに双子の頭から手を離し、代わりに咲夜の両手を包む様に握り始めた。

 

「なっ、何──」

 

 またも急な出来事、しかも今度はちゃんと当事者の立場になった咲夜が、たちまちパニックになりかける。

 その前に、縁はジッと咲夜の目を見て、真剣な面持ちで言った。

 

「頼む咲夜、君の知ってる事を教えて欲しい。話してくれ」

 

 恋の告白をする月曜9時ドラマの主役の様に、緊迫感と答えを言うまでこの手を離さないと言った雰囲気を醸し出す。

 咲夜は気を許した相手から、真剣な思いを突きつけられると弱い。

 現実の世界で咲夜と触れる機会が増えたからこそ縁が知った、彼女の性格を突いた行動だ。

 俗に『チョロい』という単語でくくれる性格だが、咲夜の場合は気を許してもらえるまでのハードルが特殊なので、決して彼女がチョロいワケではない。

 

「あ、あぁ……ぁぁぁ」

「あはは、咲夜タコみたいに真っ赤っかだー!」

「カニみたいに赤いわね。蟹味噌はそんなに無さそうだけど」

 

 口をパクパクして思考がショート気味の咲夜の頬を、左右から指で突っつくナナとノノ。

 

「──ハッ!?」

 

 その僅かな刺激でようやく意識が戻ったのか、正気に戻った咲夜。

 

「話すから、離しなさぁぁぁーい!!!」

 

 キッと縁を睨むと、一際大きな声で叫んだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「もう、信じられない! 庶民如きがアタシの手を握って……あんな、情熱的に、ぁぉぉぁ」

「咲夜ー、話が進まないよー」

「──っ、とにかく! 次あんな事したらタダじゃおかないわよ! 分かった!?」

「はい」

 

 そう短く答える縁の左頬には、咲夜から喰らったビンタの跡がくっきり付いていた。

 めんどくさいモードに入っていた咲夜から、迅速に情報を引き出そうとした結果、無駄にダメージを受ける事になった。自業自得といえばそれまでだ。

 

「それで結局、答えは何なんだ。教えてくださいな」

「もう……分かったわよ」

 

 縁がイマイチ反省してる様に感じられないが、これ以上は言っても仕方ないと、咲夜はため息混じりに気を取り直してから、縁の心臓辺りに人差し指を向けて言った。

 

「“未練”よ」

「……未練って、俺の?」

「バカなの? 理解力ゼロなの? ここまでの話の流れでアンタ以外誰がいるのよ」

 

 確かにその通りではある。

 あるが故に、素直に言われた事を受け入れたく無いという気持ちがあった。

 だが尋常ではないほどの『納得』が、彼の胸の中を満たしているのも事実。

 その通りだと、もはや認める他に無いほどに。

 

「そっか……未練か。俺そんなに未練がましい性格じゃないと思ってたけどな」

「嘘ね」

 

 その通り、嘘だ。

 現実の中で何度、縁が失った8ヶ月を想った事か。

 何度想い返して、喪失感に苛まれて、あの日々の続きを、虚しさと隣り合わせで考えてきたか。

 

 未練がましくて当然だ、その気持ちがこの世界を作り出して、その中に自分がいるのだとすれば、これ程までに納得出来る話は無い。

 

「現実の俺は、どうなってるんだろうな」

「さぁ、知らないわよ」

「そうだよな……その通りだ」

 

 未練と対極に位置する世界──現実の事なんて、ここに居る誰も知りはしない。

 それを知るためには、縁がこの世界から消えるしかないのだから。

 

「とにかくっ! アナタは何を未練に思ってるのか、それをハッキリさせるコトね! そうしないといつまでもこの世界から出られないんだから」

「……心配してくれてるのか?」

「ば、バカ言ってんじゃ無いわよ! アナタの心配なんてするわけないでしょ! 自分の事なのに何にも分かってないから、教えてあげてるだけなんだから!」

「ノノ、こーいうのをツンデレって言うのよね?」

「うん、他にも『てんぷれ』って言うんだって」

「うっさいのよアンタ達ー!」

 

 

 屋上での一騒ぎは、5限開始10分前を告げる学園のチャイムで一度お開きとなった。

 最後まで顔を真っ赤にしていた咲夜と、そんな咲夜を揶揄う双子は屋上から去り、残った縁も、新しく得た情報を頭の中で整理してから教室に向かう事にした。

 

 そのタイミングを見計らう様に、ポケットにしまっていた彼のスマートフォンが小さく揺れた。

 取り出して見ると、知らない番号からの着信だった。

 不審に思いながらも、これまでの出来事を踏まえると、決してこの電話がどっかの営業や間違い電話の類ではない事を確信する。

 いや、それ以上に誰からの電話なのかすら、うっすら予想できていた。

 

「……もしもし、どなたですか」

『綾小路咲夜から、話は聞けましたか』

「やっぱか……お前だと思ったよ」

 

 予想的中、と素直に喜べる縁では無い。

 ましてや相手が塚本であるなら、尚更だ。

 

「色々教えてもらったよ。確かにお前の言う通り、ここは俺が思ってた様な世界とは違ってた」

『はい、その通りです。ここは貴方にとって夢の様な世界……色んな意味でそう呼べますね』

「その割には、皆の言動がずいぶんと本物みたいだけどな。お前も含めて」

『本物ですからね』

「は?」

 

 電話しながら思わず、首を傾げてしまう縁。

 どう言う意味だ? 縁の未練から作り出された世界だと言うのなら、登場人物は全て縁の想像ないし妄想に過ぎないはずだ。

 それを本物だと断言する塚本の言葉は、間違いなく矛盾している。

 

『電話したのはこれが理由です。綾小路咲夜からの説明だけでは、不十分ですからね』

「……話してくれ」

『はい。端的に申し上げれば、この世界は野々原さん1人の未練で作られた世界では無い、と言う事です』

「……じゃあ、他にも俺と同じ様に、未練を感じた奴がいるのか」

『他にもいる、と言うよりも、あなたが関わってる人全員がそうじゃないかと』

「はぁ!?」

 

 流石にこれは予想外で、縁は素っ頓狂な声を出してしまう。

 

「ぜ、全員って、誰も彼もって意味か!?」

『はい。と言っても先生だったり、道ゆく人たちだったり、あなたと関わりの薄い人達までは関与していないでしょうが、少なくとも……』

「渚や綾瀬達は、本人達って事か?」

『より細かく言うと、本人達の未練、ないし意識のかけらでしょう』

「渚や、綾瀬達の未練……」

 

 縁が巻き戻る前の世界を惜しむ様に。

 あの世界に取り残された人々の意識が、縁を惜しんでいたのだろうか。

 

『あくまでもこの世界を成り立たせてるのはあなたの未練ですが、その世界で役割を与えられた、“あの8ヶ月間”の、特にあなたと繋がりの深かった方々は、本物と何ら遜色無いと言えますね』

「その、役割って言うのは?」

『基本的にはあなたと日常を過ごす役割です。この世界に来てまだ日は短いですが、あなたは基本、平和な日々を過ごして来たでしょう?』

「あぁ、そうだけど……それが、役割って事か」

『はい。もっとも、周りがそれを自覚してるかは不明ですが。あとそれに加えて、あなたをこの世界に留める役割、もしくはあなたが未練を断ち切って現実の世界に戻る手伝いをする役割。このどちらかに属していると思われます』

 

 頭がパンクしてしまいそうなのを、縁はどうにか抑える。

 落ち着け。こんな事、夢見に監禁されてた時に比べればなんて事無いだろう。……いや、起きてる事の質が違うが。

 

『妹さんや河本綾瀬さん、それに恐らく綾小路幽夜さん達は前者の役割を担ってるでしょう』

「それなら、咲夜や双子、それにお前は後者の役割ってことか」

『ご明察です。更に言えば、何度も言う通りこの世界の根幹はあなたの未練。つまり、前者の方々はあなたの中にある“この世界に居続けたい”という気持ちの為に居ます』

 

 縁が愛した人々はみんな、縁にとって都合の良いこの世界を守り、縁がこの世界で生きていく事を望んでいる。

 

『後者は“この世界から出なければならない”という、あなたに取って優しくない気持ち、理性とも呼べる物に与しています』

 

 それが出来るのは彼との繋がりを持つが、敵としての振る舞いが出来る人達。つまり彼の記憶の中で、何かしら強烈なストレスや不快感、恐怖を与えた事のある存在だけ。

 

 渚や綾瀬、悠や園子。縁を大切に思っている人達はそれ故に、縁を傷つけるかもしれない、厳しい選択を選ぶ側には寄り添わない。

 

「……なるほどな」

 

 理屈を理解するのは無理だが、少なくとも役割分担の理由については、飲み込めた。

 咲夜が後者の役割を担ってるのは意外だったが、自分からは絶対関わりたく無いと考えていた塚本が、詳しく説明出来るレベルなのは納得だ。

 

 であれば、次に知りたい事は当然、どうすればこの世界から出られるのかだ。

 咲夜や塚本が縁の理性側として存在してるなら、必然的にこの世界は脱出する方法が用意されているはず。

 それをきっと、塚本は知っているに違いない。

 

「元の世界に戻るには、どうしたら良い?」

『戻りたいんですか?』

「……そう言う問答は今したくない」

 

 塚本は縁が『出なければならない』と考えていると言った。

 あくまでも義務や責任から生まれる『出なければならない』であり、『出たい』という願いでは無い、と。

 であれば、彼自身の本音は──そこを考えるのは嫌だった。

 

「良いから、知ってる事だけ話してくれ」

『分かりました。方法はシンプルです、“未練の正体”を見つけて、それを断ち切る。それだけです』

「正体……」

『失われた8ヶ月の続きとも言えるこの世界に来た理由を、見つけてください。幽霊が成仏できない理由を見つける様にね。そうしなければあなたはきっと、いつまでもこの世界から出られません』

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 電話の最後に、塚本は言った。

 

『気をつけてください』

 

 何を気をつけろと言うのか、尋ねる間を与えずに言葉は続く。

 

『あなたをこの世界に留めたい人達は、皆んな等しく“野々原縁と一緒にいたい”という未練を持ってるはず。あなたがこのまま普通に生活する限りは、特に何も無いでしょうが──』

 

 もし、縁の意思が代わった場合。

 

『──あなたがここを出ようと行動すれば恐らく、あなたの敵になります』

 

 締めの言葉がどうにも頭から離れなくて、縁は午後の授業もろくに頭に入ってこなかった。

 ホラー映画や心霊写真は好きな部類だが、ヒトコワ系は話が別だった。

 一歩間違えれば、慣れ親しんだ人が豹変するかもしれない。そんな怖い事を言われてしまったら、未練の大元を探すなんて行動も簡単に出来やしない。

 

「どっちにしろ、そもそも何をすれば良いかわかんねぇけどさ」

 

 放課後の園芸部。

 敷地内の花壇の植え替えをしながら、縁は愚痴る。

 

「分かんないって、何が?」

 

 グループになって同じ作業をしていた渚が、ジャージ姿で土の袋を持ちながら尋ねてきた。

 塚本の言葉が本当なら、詳しい説明をするわけにはいかない(そもそも言えるわけない話だ)が、今の言葉だけなら幾らでも誤魔化しがきくので、特に慌てる事もなく縁は答えた。

 

「んー、課題があってな。どこから手をつければ良いかわからないんだ」

 

 本当の事を情報量削って説明しているだけなので、嘘では無い。

 嘘を嫌う渚に言いにくい事を話すために習得した処世術であり、事実、兄の言葉から嘘をついた雰囲気を感じない渚は、『そっか、やっぱり高校生は大変だね』とすんなり受け入れた。

 

 縁の隣に座り、彼がしてるのと同じ様に、沢山ある植え替え待ちの鉢をひっくり返して、新しい鉢に植え替え始める。

 

「そんなに複雑な内容なんだ、お兄ちゃんの課題」

「うん。道徳みたいな内容でさ、思い切りぼんやりしてる」

「ヒントとかは無いの?」

「あるにはあるけど、当たり前って言うか、普遍的過ぎて、何がどう答えに繋がってるのかわからないんだ」

 

 縁が抱いてる未練。

 その正体を見つけなければならないが、この世界そのものが縁の未練から生まれてるなら、もう世界を破壊する位しか答えが無い気がした。

 

 あるいは、今こうして園子が部長をしてる園芸部員の一員として、渚や綾瀬達とも一緒に活動してる時間は、現実の縁にはもう無いものだが。

 これこそが未練の正体だと言われれば、納得できてしまう。

 仮にそれが正解だとしても、じゃあ今度そこから何をしろと言うのか。部活を辞めるだけで良いのか、サボって終わりなのか、あるいは廃部か。

 

 違うだろう、きっとこれだけの世界を作ってしまう自分の未練は、もっと分かりやすくかつ、解決法も明確なものであるはず。

 それが分からないから、こうして悩んでいるのだが。

 

「うーん、(あたし)にはよく分からないけど……たぶんお兄ちゃんでもすぐに思いつかない事なら、無理に見つけようとしなくて良いんじゃ無いかな」

「え?」

 

 植え替えする手はそのままに、渚は話を続ける。

 

「“見つけなくちゃいけないんだー”って思いながら考えてたら、きっと間違ってる答えになると思うんだ。お兄ちゃんってただでさえ変な所で真面目だから、無理やりこぎつけて考えそうだし」

「そうかな……でも、渚が言うなら本当なんだろうな」

 

 事実、今の縁は責任感の様な気持ちで答えを求めている。

 それでは、正しい“未練の正体”を見つけられないかもしれない。

 まずは素直にこの世界で生活して、自分の中でこれだと思う事が出てくるのを待ってみよう。

 縁の中でそんな考えが大きくなった。

 

「焦らないで、ゆっくり探して見るかな」

「それが良いよ。ただでさえお兄ちゃん、今までたーっくさん我慢して、みんなのために頑張ってきてんだもん」

「ははは、そんな事ないよ」

「あるよ。私はそう思ってる」

「……渚?」

 

 縁に語りかける渚の声が、いつもより心なしか真剣な雰囲気だったのに気づいた縁は、作業する手を止めて渚の方を見た。

 それに合わせて渚も手を止めて、兄の方へ視線を向ける。

 

「柏木さんの事、悠さんの事、私と綾瀬さんの事……お兄ちゃんはずぅっと周りの人のために頑張ってきたんだよ? だから、これからは自分のために時間を使わなきゃダメだよ」

 

 そんな事を渚が言うとは微塵も考えて居なかった。

 確かに今思えば、綾瀬と付き合った日から夢見が現れるまでの僅かな期間しか、周りを気にせず自分のしたい事をする時間は無かった。

 あるいは、それこそが縁の未練だったのかもしれないが、そう結論付けるのも、今じゃ無くていい。

 

「……っ」

 

 しかし、渚からそんな大人びた事を言われるとは思わなかった。

 もしかして、縁の未練が渚に言わせてるのだろうか。

 あるいは、渚の未練? 

 

「な、なーんて! 綾瀬さんと喧嘩して迷惑かけた本人が言っても、説得力無いよね、アハハッ!」

 

 気にはなったが、お互いに黙って見つめ合う時間に、先に耐えられなくなった渚が誤魔化すように笑いながらそう言ったので、あやふやなまま縁も作業を再開するしか無くなった。

 

「ねぇお兄ちゃん。私たち、毎日こうして園芸部で一緒に色々して来たよね」

「そうだな。花は華やかだけど、活動内容は思ったより力仕事が多かったり、地味な活動の積み重ねだったり」

「お兄ちゃんも私も、植物育てるのは素人だから、何回か枯らしちゃった事もあったよね」

「そうそう。水やりすぎたら根腐れとか、マジかって思ったし」

 

 地味な作業を今まさに行いながら、気を取り直して2人はこれまでの活動を振り返っていく。

 

「今更だけど……私、こういうのあんまり好きじゃなかったんだ。土臭いし、疲れるし、あんまり可愛くない事もやらなきゃだし。……意外だった?」

「知ってたよ」

「だよね」

 

 クスっと笑って、渚は小さく肩をすくませる。

 

「本当、最初はお兄ちゃんが綾瀬さんと放課後も一緒に居るのが許せなくて入っただけだったもん」

「でも育てるのは俺より上手だったよな。渚の方が素質あったんだよ」

「…………」

「……渚?」

「うん。私の方が()()()()()()()

「──? あぁ、ガーデニングがどっちかというと女性寄りの趣味扱いなのも、何となく納得しちゃったよ」

「うーん、お兄ちゃんがガサツなだけかもよ?」

「それは言いっこなしでしょ」

「あははは!」

 

 あぁ。

 静かだ。

 兄妹以外、何もない。

 

 現実では絶対に感じられない心の平穏──何を言っても渚が病む事は無い、という安心感から生まれる会話の弾みが、縁を満たしている。

 考えてみれば、巻き戻る前にこうして、渚と今までを振り返る様な会話を一回もしなかったかもしれない。

 

「お兄ちゃん。お兄ちゃんは園芸部、()()()()()?」

()()()()()()。途中咲夜に苦しめられた事もあったけどさ。失いたくないと思うから苦しむワケだし、そのくらい園芸部は大切だっ──大切だよ」

「そっか。よかった」

 

 何でそんな事を聞いてくるのか、理由が気にはなったが。

 よかったと喜ぶ渚の横顔が、あんまりにも嬉しそうだったから。

 なんだか満足してしまったのだった。

 

「──よし、俺はこれで終わりだな」

「私もこれで終わり! 思ったより早く終わったね」

 

 植え替え作業が全部終わったが、渚が言う通り集合時間よりも30分ほど早く終わった。

 ジャージと手袋に付いた土埃を払い、制服に着替えてから兄妹揃って部室に戻ったが、まだ誰も居なかった。

 仕方ないので部屋の椅子に座り、他の部員が戻ってくるのを待つ中、渚がポツリと言った。

 

「……さっきの話なんだけど」

「さっきのって、園芸部が楽しかったって話か?」

「その前。お兄ちゃんの課題」

「あー……うん、なんだ」

「課題の期限って、近いの?」

 

 実際、どうなのだろうと縁は考えた。

 この世界に自分が居る間、果たして現実の自分はどうなっているのか。

 この世界で過ごす1日が、もし現実において数か月も経つのだとしたら、1日だって待っていられない。

 しかし、実際に現実の縁がどんな状況になっているのかは、縁自身にさえ知りようがない。ひょっとしたら何年も経ってるかもしれないし、逆に全く時間が経っていない可能性もある。

 つまりは、何も分からないのだ。判断材料が皆無なのだから仕方がない。

 

「いやぁ、近くは無いかな」

 

 それゆえに、曖昧な返事しかできなかった。

 

「だったらさ」

 

 心なしか声を綻ばせながら、渚が言う。

 

「やっぱり、答えはゆっくりでいいと思うな」

 

 

 

「お兄ちゃんがやりたい事、たくさんしてから探そうよ」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「決めた」

 

 渚と綾瀬と一緒に帰る途中、縁は唐突にそう言った。

 

「どうしたの急に。決めたって何を?」

 

 右隣を歩く綾瀬がキョトンとした顔で尋ねると、縁は左手の指を2本立てて答えた。

 

「今日は渚と2人で晩御飯作る」

「え、(あたし)?」

 

 いきなり話題の当事者にされて、縁の左隣に並んでた渚が驚いた。

 

「えっと、2人は普段、当番で交代してるわよね?」

「そう。それを今日は一緒に作る、てか作りたい」

「お兄ちゃんがそうしたいなら全然良いけど、どうして急にそんな事決めたの?」

 

 当然浮上する疑問、縁は左隣に並ぶ渚に答える。

 

「今朝、渚と綾瀬がキッチンに並んでたろ?」

「同じ事をあなたもしたくなったのね」

「さっすが綾瀬、正解です」

 

 実際にはもうひとつ理由がある。

 縁は巻き戻る前の8ヶ月間で、渚と並んで料理する事がついぞ無かった。

 やりたい事をたくさんしようと渚に言われて、考えてみたら『そう言えばした事なかった』と思い至った。

 これもまた未練と呼べるのかもしれないが、たとえ“未練の正体”では無かったとしても、この世界だからこそ出来る事には変わらない。

 

「色々作ろう。オムライス、トンテキ、八宝菜……後は」

「家の冷蔵庫、今そんなに食材無いよ?」

「そういや確かに。じゃあ今から買い物に行こう」

「落ち着いて、お兄ちゃん。生活費のお財布は家にあるんだから、帰らないと」

「おっと、ごめんごめん。ちょっと気が逸ってたな。ありがとう渚」

「もう、お兄ちゃんったら慌てん坊なんだから」

 

 そう言って笑い合う2人。側から見れば仲睦まじい兄妹として映るだろう。

 しかし、すぐそばにヤンデレ適正の高い彼女が居るのを、忘れてはいけない。

 

「ちょっと、隣の恋人を蚊帳の外にし過ぎじゃない?」

「いででででっ──ヒェッ!?」

 

 綾瀬は耳を掴むと、爪を立てながら引っ張り、渚に向けていた顔を無理やり自分の方へ振り向かせた。

 文句を言おうとしたが、夕陽を浴びてるはずの綾瀬から、瞳のコントラストが消えていて思わずビビる縁。

 

「綾瀬さん、こんなの兄妹がするごく自然な会話ですよ? この程度で嫉妬してるくらいじゃ、余裕無さすぎませんか?」

 

 ごく自然に煽る渚。縁の耳を掴んでる指の力が強くなっていく。

 

「千切れる! 耳朶が千切れます綾瀬さん!」

「安心して? たとえ耳なし芳一みたいになっても、あなたの事は好きだから」

「その告白は嬉しくない──いだだだだっ! そういう意味じゃないから! 許して!!」

「ちょ、ちょっと綾瀬さん、爪食い込みすぎですから!」

 

 その後、多少力を弛めはしたが家に着くまでずっと、綾瀬は縁の耳を離さなかった。

 

「ひぃ……凹んでる」

 

 家の前でようやく解放されて耳たぶを確認すると、綾瀬の爪の形がくっきりと残っている。

 

「大袈裟なんだから。本当に千切ったりなんてしないわよ」

「でもさっきまでの綾瀬さん、目が本気にしか見えなかったけど……」

「なぁに、渚ちゃん?」

「いえ、何でもないです」

 

 さしもの渚もこれ以上は危ないと、口をつぐんだ。

 

「でも良いなぁ、私も一緒にご飯作るんじゃダメ?」

「3人並んだら流石に渋滞起こるよ」

 

 凹みが治るように耳をさすりながら縁は言うが、綾瀬はまだ少し諦めたくない様子だ。

 

「でもでも、八宝菜作るなら渚ちゃんより私の方が上手だし、その時だけでも」

「私とお兄ちゃんは家族だけど、綾瀬さんはまだ河本家ですから、自分の家でご飯食べてくださいね」

「うぅ、渚ちゃんの意地悪……いつか覚えてなさいよ」

「不穏な影を落とすな!!」

 

 なかなか諦めない綾瀬をどうにか宥めて、ようやっと家の中に入ると、渚は生活費の財布を取るためリビングの奥の棚へ、縁は何があるのか確認するため冷蔵庫へ、それぞれ向かう。

 それぞれ一分も掛からない事なのですぐに買い物に行く用意はできたが、渚の『せっかくだから着替えて行こう』と言う提案に乗って、2人は制服から私服に着替えてから買い物に向かった。

 

 スーパーは複数あるが、2人は自分達の徒歩圏内で1番遠いが、最も品揃えが豊富な店を選んだ。

 肉、野菜、海鮮、調味料……縁が作りたいと思った料理に使う物を手当たり次第にカゴに入れていき、買い物はつつがなく完了した。

 両手に品物が詰まったレジ袋を持ちながら兄妹は2度目の帰宅をして、早速料理を始める。

 

 縁がジャガイモの土汚れを洗って、洗い終わった物から渚が皮を剥く。

 渚がイカの下ごしらえをして、縁は八宝菜に使わないイカのワタを塩辛にする。

 鳥のもも肉を煮込んでアクを取ってる間、野菜を一口大に切り揃える。

 オムライスを作る時には、卵をクルンと包む行程をお互いにやってみたが、渚が綺麗に出来たのに対して、縁は所々破れてしまった。

 

 かちゃかちゃ、ぐつぐつ、ジュージュー。キッチンは2人が作る音と、時折交わされる会話、笑い声で満ちている。

 やがて全部の料理が出来上がって、それらを皿や容器に乗せて、テーブルいっぱいに配膳すると、渚がやり切った笑顔で縁に言った。

 

「お兄ちゃんの思いつきで始めたけど、楽しかったよ」

「本当にな。何でもっと早くやらなかったんだろうって後悔してるよ」

 

 どれも上手くいったので(漬ける必要がある塩辛は別だが)、達成感もひとしおだ。

 

「それで、お兄ちゃん。この後だけど」

「うん、言いたい事分かるよ」

 

 笑顔のままなのは変わらないが、こめかみの辺りから、ツーッと汗が流れる2人。

 渚は今一度テーブルに置かれた料理達を見て言った。

 

「……この量、2人で全部消費するの?」

「そう言うことに、なるなぁ」

 

 既に何度も言う通り、テーブルいっぱいに料理は置かれている。

 当然、その量も、いかに育ち盛りの兄妹が暮らす家とは言え多過ぎる。

 

「作るの楽しすぎて、量とか考えないで作っちゃったぜ」

「うん、私も結構夢中になってて……どうしよう、食べきれないのは冷凍するしかないよね」

「まあ、この量なら3日は困らないし、作り置きしたと思う事に──」

 

 今後のことを考えて少し頭を悩ませていると、玄関のチャイムが鳴った。

 

「誰だろう、この時間に」

「モニター見てみるね」

 

 渚がリビングにある来客を確認できるモニターに向かうので、縁もその後ろを付いていく。

 

「はい、誰で──えっ」

 

 画面を見るとすぐに渚が露骨に嫌な反応を見せるので、気になった縁も見てみると、そこに映っていたのは、

 

「綾瀬? こんな時間にどうした?」

 

 先ほど──料理で1時間半掛かっていたのでもはや2時間以上も前だが、帰宅したハズの綾瀬が立っていた。

 

『あ、2人とも? ごめんね、こんな時間に』

 

 マイク越しに綾瀬の気恥ずかしそうな声が届く。

 

『あのー、実は今日って私の親、どっちも仕事遅くなっちゃって。ご飯作ろうにも冷蔵庫空っぽでさ……その、もし良かったら何だけど……』

 

 綾瀬の言わんとする事が分かった2人は、互いに顔を見合わせる。

 “お兄ちゃんの彼女でしょ、何とかしなさいよ”と言いたげにジロッと睨む渚と、“許せ渚”と苦笑する縁。

 どちらも軽いため息を吐いてから、クスッと笑い合った。

 

「綾瀬さん、お兄ちゃんのご飯食べたいからって無理やりそんな嘘付けなくても良いんじゃないですか?」

『嘘じゃないって!? それは確かに、縁のご飯って食べた事なかったなぁとか、2人並んで料理って夫婦みたいで羨ましいなぁとかは考えたけど、親が残業で帰ってこないのは本当なの! 信じてぇ……』

「……ふふっ、分かってますよ。待っててください、今鍵開けますから」

 

 モニターの電源を落とすと、後ろで見てた兄に顔を向けて言った。

 

「さ、お兄ちゃん。開けにいってあげて?」

「うん。……でも、良かったのか? 綾瀬も一緒で」

「せっかく作った料理だもん。残して冷蔵庫に入れちゃうよりも、全部食べたいから」

「……分かった」

 

 その日の夕食は、普段よりもずっと賑やかな物だった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日、金曜日。

 この日も異常事態は皆無のまま授業を終え、部活動が始まったのだが。

 メンバーが全員部室に揃うと、園子は何やら見慣れない透明なチャック付き袋を手に取り、部員達に見せた。

 

「みなさん、これが何か分かりますか」

 

 袋の中には種が入っていた。

 つまり、何かしら植物の種なのは間違いない。

 恐らく園子が聞いてるのは、何の植物なのかだ。

 

「うーん、流石に種の形だけで種類を当てるのは……」

「あら悠、アンタこんなのも分からないワケ?」

「むっ、なら咲夜はどれが何か全部分かるのかな?」

「当たり前じゃない、本物の貴族なら当然の嗜みね。……まぁ、支流のアンタには分からなくても仕方ないかもしれないけど?」

「なんだとぉ……」

 

 綾小路家の醜い争いが密かに始まろうとしてるのを見て苦笑いしつつ、園子が言う。

 

「今回、私だけじゃどうしても手に入らない種類の物を何個か咲夜さんに手配して頂いたんです」

「ちょっとソノコ! 何余計な事言ってるのよ!」

「ふん、通りでおかしいと思ったら。本流のマウントの取り方は流石だねぇ」

「なんですってぇ……っ!?」

「お前らいい加減にしろ、部長の話が進まないだろ」

 

 放っておくといつまでも続きそうな貴族の戯れを、庶民代表として縁が止める。

 ようやく場が落ち着いたので、園子は改めて話を再開した。

 

「これ、実は皆さんの誕生日に合わせた花の種なんです」

「へぇー! 誕生花って言うんだっけ。わざわざ私たち全員の用意してくれたんだ!」

「聞いたことあるけど、そう言えば(あたし)の誕生花って何だろ」

「渚さんは1月11日なので、花も幾つかあるんですよ。セリ、ミスミソウ、それに白い梅やピンクカーネーションもです」

「4つも? 一つの誕生日に一つの花ってわけでは無いんですね」

「はい。それに色が数種類ある花だと、色ごとに違う誕生日って場合もあるんです」

 

 新しい知識に、思わず素直に感心してしまう渚。

 

「それで今回は皆さんに、それぞれ自分の誕生花を植えてもらおうと思ったんですが、ただ渡すのも味気ないと思ったので、クイズも用意してみました!」

 

 そう言って、自分の鞄からA3サイズのパネルを何枚か取り出した園子。

 パネルにはピンク色の花の写真が貼られてあった。

 

「これは先ほども話した、渚さんのピンクカーネーションです。種も同じですね」

 

 園芸品種の王道な上に、ピンク色をしてるだけあって、可愛らしい花。

 渚にピッタリな誕生花だと、縁は内心思った。

 口に出さなかったのは、綾瀬がヤキモチを妬く可能性があるからだ。

 

「そこで問題です!」

「急に始まったわね……」

「おっ、何だなんだ?」

「このピンクカーネーションの花言葉は何でしょう? 当ててみてください」

 

 なるほど、そう来たか。

 園子にしては珍しくテンション高めなのもあって、面白くなってきたと、縁の口角がニヤッと上がる。

 

「ふふふふっ、本流のお嬢様。今こそ支流の私めに本流の教養の高さをご披露なさる機会では?」

「ウッサイわねぇ……何よ、花言葉なんて見た目っぽい言葉を言えば大抵当たるんだから」

「では咲夜さん、回答をどうぞ」

「……か、可愛いとかでしょ、どうせ」

 

 咲夜が答えると、一瞬で部室内が沈黙に染まった。

 どちらかと言えば顔を赤らめながら答えた咲夜の方が可愛かったなんて事は、縁は口が裂けても言えなかった。

 言えばむしろ口を裂かれるからだ。

 

「違いますね」

 

 園子の容赦ない答えが、沈黙を破壊する。

 

「──な、何でよ!」

「ふぅん、咲夜きみ、あの花に『可愛い』なんて思うくらいには素直な乙女心あったんだね、くくっ……くくく」

「悠、アンタ殺すわ。絶対殺す。骨まで砕いてやるんだから」

「他に回答したい人は居ますか?」

「はいはい!」

 

 矢継ぎ早に手を挙げたのは綾瀬だ。

 普段から快活な彼女だが、普段以上に自信ありげな表情をしている。

 

「それでは綾瀬さん、答えをどうぞ」

「“愛”ね!」

「正解です。ピンク色の場合は特に“女性の愛”や“熱愛”と言う意味になります」

「綾瀬さん、知ってたんですか?」

 

 一発で当てて見せた綾瀬に、渚が感心しながら聞くと、綾瀬は照れくさそうに頬を掻いた。

 

「カーネーションの花言葉だけはね。でもピンクだとそう言う意味になるんだ……ふぅん」

 

 そう言って、渚を見る綾瀬。

 急に自分をジロジロ見始めた綾瀬に怪訝な表情を見せる渚だが、そんなのお構い無しに綾瀬は笑った。

 

「あははっ、確かに渚ちゃんにはピッタリね、納得したわ」

「……はぁ、そうですか」

 

 言い方に引っかかるところはあるが、確かに渚は兄に尋常では無い深い愛を持っている。その事を指したのだと分かったので、それ以上何か言い返す気にはならなかった。

 

「それではどうぞ、渚さん。育て方は後で説明しますね」

「はい、ありがとうございます」

 

 園子から種の入った袋をもらうと、少しそれを眺めてから、小さく微笑む渚だった。

 

「それでは次、これは悠さんの誕生花ですが──」

 

 

 その後も誕生花の花言葉当てクイズは盛り上がりを見せ、全員の問題が出た後はそれを小さな鉢に植えて、園芸部の活動としては珍しく全く外に出ないまま活動時間が終わった。

 下校を促す放送とチャイムが鳴って、全員が帰る用意をした時。

 

「あっ……!」

 

 何かマズい事を思い出した時の人間が出す声色と表情で、園子が短く小さな叫び声をあげる。

 

「え、何。どうしたよ」

 

 いちばん近い距離にいた縁が咄嗟に聞くと、園子は心底申し訳なさそうな顔を浮かべて言った。

 

「この前頼んだ腐葉土と軽石が届く予定だったんです……搬入口に業者の方が置くので、今日倉庫に運ぶつもりだったのに……忘れてました」

「あちゃー……それって量多いのか?」

「はい。昨日学校中の植え替えに使ったので、その補充もかねて多めに頼んでいて」

「あー、じゃあ結構あるな。土だけでも10袋は頼んだでしょ?」

 

 昨日の植え替えで10キロ入りの土袋をだいぶ消費してしまったので、その補充も兼ねてるなら恐らくそれ以上が届いてるに違いない。

 古い土も枯葉や根っこ等を掃除して消毒した後、リサイクルして使いまわしてはいるが、消毒には2週間程度時間が居る。

 

「土日ずっと置きっぱなしにするワケにもいかないな。絶対怒られる」

「はい……すっかり忘れてました。迂闊です」

 

 学校の搬入口には荷物を仮置きできるスペースがあるが、基本的に荷物が届いた当日か、遅くとも翌日までに移動させるルールになっている。

 今日は金曜日なので月曜日に移動させれば良いかもしれないが、学園は生徒が休みなだけで基本的には土日も何かしら動いてる。

 そうなれば当然何かしらの資材搬入はあり得るので、本来当日中に動かす約束の荷物を──それも大きく場所を取る土や軽石を置きっぱなしには出来ない。

 

 そうなると、縁が予想する次の園子の発言は、

 

「皆さんは気にしないでください、私が──」

「自分だけ残って片づけるからって言いたいんだろ? そりゃダメでしょ」

 

 予想的中。縁の思った通りに、園子は1人で全部運び出すつもりでいる。

 以前、咲夜が転校してきた頃にも同じように一人で全部やろうとした事があったため、今回も同じ事をするんじゃないかと思ったらその通りだった。

 

「──えっ、でも」

「断る理由は無いだろ? そういう力仕事は男の出番だし」

 

 そう言うと、縁は座っていた椅子からスクっと立ち上がると、手をパンパンと叩いて場の空気を動かす様に言った。

 

「渚と綾瀬、悪いけど先に帰っててくれ。俺は園子とパパって運び出してから帰るから。美味しいご飯作っといてくれ、頼むぜ渚」

「……うん。重い物運ぶんだから、気を付けてね」

「帰りは道草食うんじゃないのよ?」

 

 こうなった縁は絶対に譲らない。それが分かってるからこそ、2人とも下手に言い返すような事はしない。

 

「というわけで、さっさと行こうや園子さん」

「……本当に、こういう時は強引なんですから」

 

 ありがたさと申し訳なさが交互に入り混じるが、素直に助かる提案だった。

 

「綾瀬さん、それに渚さんも。縁君少しだけお借りしますね」

「いーの、しっかり扱き使っちゃって」

「怪我だけは気を付けてくださいね」

 

 渚が心配してくれているのに対して、綾瀬がさっきから自分に対してだけヤケに冷たくないかと思ったが、胸の中にしまっておく。

 綾小路家の2人についても、咲夜はそもそも手伝うワケが無く、悠も協力したいが用事があったため、最終的に2人で職員室に行き、顧問の幹谷先生に了承をもらった。

 

 袋に入ってるとは言え汚れる事は確実だったので、2人はジャージに着替えてから搬入口に向かうと、やはり仮置き場には土と軽石の袋、それと栄養剤など細かな道具がびっしり置かれていた。

 これを全部運びきるには、真っ当に──1回の運び出しで1袋ずつ持ち運ぶようでは30分近くかかってしまうだろう。

 

「時間かかりそうだなぁ。園子は軽石の袋とか軽いのを持ってくれ。土の方は俺が持っていくから」

「分かりました、気を付けてくださいね」

「了解、よっと……」

 

 心配してくれる園子に軽快な返事をしてから、土袋を2つ重ねて持ち上げる。

 思ったより重かったので一瞬ヒヤッとしたが、部室棟近くの倉庫までの距離を持ち運べないほどでは無かったので、そのままギックリ腰にだけ警戒しながら歩き出す。

 途中、足元が見えにくい事もあって転びそうになった時もあったが、段々慣れてきて土を持ち上げて運ぶ足取りも軽快になっていく。

 

 そうして15分ほど経つと、仮置き場を埋め尽くしていた土袋は半分近くが倉庫に運ばれた。

 予想よりも早く事が進み、ペースを上げようと縁が思っていると、軽石の袋を倉庫に運んでいた園子が言った。

 

「縁君、軽石は全部運び終わったので、私も土運びます」

「え、大丈夫か? 重いぞ」

「ふふっ、平気です。力は男の子の縁君よりは無いですが、私の方が慣れてるんですから」

「それもそうか。じゃあお願いしますわ」

 

 2人で運べば効率も上がって、10分もかからず終わるだろう。

 引き続き縁は2つ重ねて、園子は1袋持って共に倉庫まで歩く。

 

 長いとも短いとも言えない倉庫までの道は、縁と園子の足音以外は一切の音が消えていた。

 

「改めてありがとうございます。私のミスなのに、時間を取っていただいて」

「別にミスってワケでも無いでしょ。園子は俺らの部長なんだから、この位の力仕事やって当然だって」

「……そうだとしても、嬉しいです」

 

 そう言ってはにかむ園子の横顔を、縁は横目で見る。

 初めて出会った頃と比べて、園子の表情は明るくなった。

 いじめが無くなったのだから当然ともいえるが、園芸部という空間の中で縁や綾瀬、悠と言った同学年の友人ができた事が、彼女を成長させただろう。

 本来の──ヤンデレCDの登場人物としての『柏木園子』では絶対にこうはならなった。

 

 現実の、今の縁が生きてる世界の園子は、目の前に居る彼女ほどの笑顔を見せない。

 

「私、綾瀬さんが羨ましいです」

「……どうした、急に」

「だって、縁君が恋人なんですから。部員だからって理由でこんな時間まで助けてくれる縁君です、きっと綾瀬さんの為ならどんな事だってするんだろうなぁって思ったら……羨ましくなっちゃいました」

「そんな事ないさ、出来る事しか出来ないよ」

 

 そうだ、たとえ恋人の為だとしても、ヒーローの様には出来ない。

 何度巻き戻っても、夢見から守る事は出来なかったのだから。

 

「でも、どんなに無理な事だと分かってても、頑張れちゃうのが縁君ですよね」

 

 そう語る園子の瞳は、一切の疑いが無い。

 あまりにも純粋に信じているものだから、縁は否定の言葉を口に出来なくなった。

 

「……そうありたいとは、思ってるよ」

「ですよねっ! あぁ、やっぱり綾瀬さんが羨ましいです」

 

 そう言うと、園子は少しだけ歩くペースを早くして、縁の前に立った。

 

「あの、縁君。1つだけ聞いても良いですか」

「ど、どうした?」

「私ずっと心の中で思ってる事があるんです。あの日──縁君が急いで家に帰ろうとした時」

 

 それは園子が縁に咄嗟の告白をして、恋を手放してしまった時の事だ。

 

「あの時は、“今言わないと一生あなたに好きだと伝える事も出来なくなる”、そう思って告白したんです。それ自体は後悔していませんが、どうしても考えちゃうんです。もし違う状況で、しっかりと告白できていれば、私は縁君の恋人になれたのかって」

「…………」

 

 今、縁は柏木園子というひとりの少女が抱いていた未練を聴いている。

 あの日の告白と縁の答えは、終わった出来事では無く、今もなお彼女の中で渦となっていた。

 

「もし、私が勇気を出して、縁君の事を誰よりも愛していて、誰にも渡したく無い綾瀬さんと殺し合う事も覚悟していたら──縁君にちゃんと告白できていたら、私を恋人にしてくれましたか?」

 

 これは彼女の、2度目の告白。

 叶わない恋を、そうだと判った上で、敢えて口にした。

 であれば、縁もその想いに真正面から向き合う他ない。

 

「──いいや、俺は綾瀬が好きだ。だから、園子とは付き合えない」

 

 あの日、園子の想いを拒絶した時と同じ言葉。

 

「……はい。きっと、縁君ならそう言うと思っていました」

 

 振られたにもかかわらず、園子は演技ではない本当の笑みを見せる。

 

「やっと私、縁君にちゃんと振られました」

 

 それこそが、彼女の未練の正体。根幹だったのだろう。

 

「園子、俺──うげぇっ!?」

 

 何か言葉を掛けようとした縁だったが、それを許さないように、園子は縁が持っている袋の上に、自分の分を乗せた。

 

「ちょ、園子!? 流石に3つは重いって!」

「知りません。女の子の告白を2回も振ったんです。その位持って行ってください」

「……りょうかい」

 

 前かがみに倒れそうだった体にグッと力を入れ直して、顔の高さまで積み重なった土袋を持ち上げた。

 

「ふふっ、頑張ってくださいね」

 

 視界を埋める土袋越しに、園子は楽しそうに笑った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 全部運び終えて、園子と別れた縁が校門を抜けると、思わぬ人物の姿があった。

 

「綾瀬、えっどうした?」

 

 校門を出てすぐの所にある自販機に、綾瀬が寄りかかって居た。

 縁が声を聴くと、綾瀬は表情も無くスタスタ縁の隣に来てから、短く端的に言った。

 

「帰りましょ」

「? お、おう……」

 

 有無を言わせない謎の圧力を感じつつも、縁は綾瀬と並んで家路を歩き出す。

 

「……待ってくれたんだ。ありがとな」

「ねぇ。園子とどんな話をしたの?」

 

 あぁ、()()が目的か。縁は内心密かに警戒レベルを上げる。

 怒っているわけでは無いだろうが、綾瀬が嫉妬しやすい性格なのは今に始まった事では無い。恋人関係になった後はそれに拍車が掛かった気もするが、とにかく、今綾瀬は縁が園子と2人きりで何かあったんじゃないかと心配している。

 

「普通の会話だよ。今日の部活はどうだったーとか、昔の事とか、綾瀬が心配するような事は無いから、安心して」

「……本当?」

「もちろん」

 

 嘘だ。

 

 嘘だが、たとえ綾瀬を騙す事になるとしても、園子が自分だけに向けてくれた想いと言葉を、縁は他人に伝播したくなかった。

 

「……そっか、じゃあ分かった」

 

 本当に納得してるのかは分からないが、綾瀬はそれ以上追及する事は無かった。

 その代わり、という事では無いが、縁の腕に自分の腕を絡め、くっ付いて歩く。

 先ほどまで出ていた威圧感はあっという間に消えて、恋人に甘える女の子に戻った。

 

「ごめんね、いちいちこんな事聞いたりして」

「良いよ、心配してくれてる内が何事も華だからね」

「それって、私が嫉妬深い女だって諦めてない?」

「実際、そうじゃん?」

「そうだけどー! もっと何か優しいこと言ってくれても良いじゃない」

 

 上目づかいで可愛く睨む綾瀬。そんな恋人の愛しい仕草を見ながら、縁は自分が今、間違いなく幸せだと感じている事を自覚する。

 あの現実で手に入れようと奮起して、結局手に入れられないままでいる、幸せがこの世界ではあまりにもあっさりと、向こうから寄ってくる。

 

 これが自分と、自分が関わった人達の未練で作られた世界で。

 どうしようもなく、自分にとって都合のいい世界だと分かっていても。

 考えてはいけない事が、願ってはならない想いが、頭の片隅から理性を崩そうとする。

 

「……私だって、ただ嫉妬してるだけじゃ無いんだから」

「ん?」

 

 先ほどと少し声色が変わったのを感じて、縁は意識を綾瀬だけに集中させる。

 

「心配してるの。昨日何も無いのに急に泣き出したりするし」

「あれは、その……」

 

 どう誤魔化せばいいか、出す言葉に困ってしまう。

 

「今まで、あなたが大変な時にいつも、私は何も出来なかったでしょう? 渚ちゃんも、園子も、悠君も、みんな大変な時あなたの助けになってたのに、私だけいつも……」

「そんな事無いって! 綾瀬が居るから俺は──」

「居るだけで良いなんて存在じゃ嫌なの。私はあなたの彼女なのよ? だから、これからはもう同じ事はしたくない、あなたが辛い時に誰よりも早く助けてあげられる様になりたいの」

「……綾瀬」

 

 この綾瀬の言葉は、本人が本当に思っている事なのか。

 あるいは、縁の願望が言わせているだけなのか。

 もし、仮にこれが綾瀬の本当の気持ちで、縁と付き合ってからずっとそう思い続けてたのだとしたら。

 

『ごめんね、わたし……のせい、で……いっぱい、くるしめちゃった』

 

 あの日、夢見に殺される寸前、縁にそう語りかけた綾瀬は、どんな気持ちだったのだろうか。

 そう思うだけで、また涙が出てきそうになって、縁はぐっとそれを堪えた。

 

「綾瀬、明日は時間空いてるか?」

「えっうん。開いてるけど?」

「じゃあさ、デートしよう。行きたい場所、どこでもいいから」

「本当!? うんっ!」

 

 重暗い空気がパッと晴れていくように、綾瀬の表情が華やいだ。

 

「あなたの方からそうやって誘ってくれるの初めてじゃない? 嬉しいなぁ」

 

 もし綾瀬に耳と尻尾があれば、間違いなくフリフリと揺れているだろう。

 それを狙っていったわけでは無いが、嬉しさを隠す事無く全面に出していく恋人を見て、自然と縁の心も温かくなる。

 

 あの時、あと数秒で自分の命が奪われると分かっている中、それでもなお縁の事だけを想い、悔恨と共に死んでいった綾瀬。

 その時の綾瀬と、今自分の腕を抱いている綾瀬は完全には同じではない。

 だが、それでも、

 

「どこに行こうかな、映画も良いけど買い物も行きたいし、ちょっと遠出して遊園地なんてのもアリかも! うーん悩むぅ……」

 

 今、目の前に確かに存在している綾瀬が幸せであることで、死んでいった彼女が少しでも報われるなら。

 

 いつか必ず、現実に戻らなくちゃ行けないと分かっていても。

 

 今だけは。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「いらっしゃい! さぁ、入って入って!」

 

 チャイムを押すと勢いよく玄関から出てきた綾瀬に腕を取られながら、縁は河本家にお邪魔する。

 昨日の帰り道に縁が提案したデートだが、さんざん悩んだ結果、綾瀬が選んだのは自分の家だった。

 “一回やってみたかったの、お家デート! ”とは綾瀬の談。

 

 先に座って待ってて、と言われて通された綾瀬の部屋。

 昔は何度も出入りしていたが、恋人同士になってからは一度も入った事は無く、部屋に置かれた電子ピアノや本棚の位置が昔のままなのに、初めて来た場所の様に心がそわそわしてしまう。

 

 取り敢えず立ったままだと変に思われるので、縁は部屋の丸テーブルの椅子に腰掛けて綾瀬を待つことにした。

 それでも、ちょっとしたら落ち着かなくなったので、スクっと立ち上がって今度は電子ピアノまで行き、無意味に鍵盤を軽く叩いてみたりする。

 電源の入らない鍵盤からは無機質な音が僅かにするだけで、すぐに関心が薄くなった縁は、次に本棚を見てみた。

 

 ちょっと悪い気もしたが、恋人が今どんな本を読んでるのか、気になったのだ。

 4段ある本棚には、文庫本やファッション誌、料理本や参考書など、多様なジャンルの本がキレイに整って並ばれていた。

 その中に、幾つか気になる背表紙を見つけると縁はそれらに関心が向いた。

 

『好きな彼に振り向いて貰うための方法』

『恋人関係を進展させる24のアピール』

『恋敵を排除する手段・後始末』

 

 付き合う前の綾瀬の苦労や努力や、恐ろしさが垣間見えるタイトル。

 前2つはともかく、3つ目の本の内容が活かされる機会が無くて良かったと、心から安堵するのだった。

 

 そうこうしている内に、部屋のドアがトントンとノック音を鳴らした。

 リビングで飲み物やお菓子を持ってきた綾瀬が戻ってきたのだろう。すぐにドアノブを回して開けると、やはりトレーを持った綾瀬がそこに居た。

 

「ありがとねっ、缶のジュースしか無かったから、好きなの飲んじゃって」

「あぁ。それじゃソーダ貰うよ」

 

 テーブルにトレーを置くと、綾瀬はすぐには座らずに机まで向かった。

 一番下の引き出しを開いて、中から大小の本の様な物──アルバムブックを持ってくる。

 

「最近部屋の片づけしたら、昔のアルバム見つけたの。一緒に見ましょ!」

 

 どうやら、部屋デートを提案したのはそれが理由だったらしい。

 可愛らしい理由と、懐かしい思い出に触れる良い機会だったので、縁も俄然乗り気になった。

 

「恥ずかしい写真とか無きゃ良いけどな」

「大丈夫じゃない? たぶん」

「たぶんじゃ分かんないなぁ」

 

 期待と若干の不安を抱きつつ、2人は小さなアルバムから開いていく。

 

 珍しく雪が降り積もった時に2人で作った雪だるまの前で撮った写真。

 夏にタイムカプセルを埋めた事もある自然公園で、虫取り網を持ってはしゃぐ縁と、若干暑さにやられてそうな綾瀬を遠巻きに写した写真。

 桜の花びらが舞い散る中、渚やお互いの両親なども交えた集合写真

 小中の校外学習で、記念に撮った写真などもあった。

 

「うっわぁ、懐かし過ぎるなこれ! いつ撮ったんだっけ?」

「小5くらいかなぁ、あなたこの時からプロレス好きになって、着てるシャツが好きなレスラーのグッズでしょ?」

「本当だ、へぇー、俺この時から好きだったか」

「何で自分の事なのに忘れてるのよ、もう」

 

 写真に映る自分達がこの時、何を思っていたか。どこを見ていたか。どんな会話をしていたか。

 ページをめくればめくるほど、本人達さえ忘れかけていた出来事が鮮明に思い出される。

 

「この時は、あなたとこういう関係になれるとは思ってなかったなぁ」

 

 小学6年生の修学旅行で撮った2人の写真を見ながら、綾瀬は当時と今、時間の流れを噛み締める様に呟く。

 

「──あっ」

 

 綾瀬が持って来たオヤツやジュースが殆ど無くなり、アルバムも半分以上を読み切った頃、綾瀬が何かを見つけて、今日初めて聞くような甲高い声を上げる。

 

「どした……おい、何を隠した?」

 

 写真から綾瀬に目線を向けると、咄嗟に何かを後ろに隠したのが見えた。

 アルバムの中から一冊抜き取った様だが、何か不都合な物でもあったのだろうか。

 

「綾瀬、今何を」

「ききっ、気にしないで!? 間違って混ざってただけだから!」

「いや、だから、何が混ざって」

「あー、お菓子なくなってるわね! 待ってて今新しいの持ってくるから──きゃっ!」

「うおっと!?」

 

 あからさまに動揺しつつ、露骨な誤魔化しで空になったトレーを手に取り立ちあがろうとした綾瀬だが、足をつまづかせてしまい、ぐらりと倒れた。

 床に落ちる前に縁が慌てながらも、綾瀬を受け止める事には成功したが、姿勢が悪かったためバランスを崩す。

 そのまま、綾瀬を抱きしめる形で後ろに倒れてしまった。

 バタン、と椅子が倒れる音がした後に、綾瀬がおずおずと尋ねる。

 

「うぅっ……、大丈夫、平気?」

「……」

 

 綾瀬は完全に縁に守られる形で、つまづかせた足以外は何も無い。

 縁は後頭部を打つ事にはなったが、床にはフローリングの上に柔らかいマットが敷かれていたから、特に痛みが走る事も無かった。

 だから怪我も痛みも無い。その代わり、受け止めて倒れる際に、綾瀬の胸が縁の顔面に乗り掛かる状態になり──端的に言えば、豊満な胸が縁の呼吸を遮っていた。

 およそ5秒ほどしてから、自分が縁を押しつぶしてる事に、やっと気づいた綾瀬が慌てて身体を立ち上がらせる。

 

「わ、ごめんなさい! 苦しかったよね!?」

「いや、苦しいっていうか……」

「……?」

 

 曖昧な返答をする縁。対して綾瀬は別の懸念を抱き始める。

 

「……まさか、重かったとか思ってないでしょうね?」

「うーん、重いと言いますか、柔らかいと言うか……」

「はい?」

「──はっ、いやそれより、綾瀬一旦どいてくれ、立ち上がれない」

 

 今、自分達が凄い体勢になってる事を、思春期全開の男子故に気づいた縁。

 相手は彼女なのでむしろ万々歳な状況だが、先ほどまで顔面を支配していた服越しの柔らかさや良い匂い、更には馬乗りになってるからギリギリ見えそうな綾瀬のスカートの内側など、刺激が強過ぎる。

 

「綾瀬、すぐに降りるんだ。良いから早く」

「ちょっと待って。私最近むしろ痩せてるんだからね? 太ってる様な言い方されるのは心外なんだから!」

「分かった! 分かったから頼む!」

「分かってなーい!」

 

 自分の体重を押し付ける様に、グイグイと縁のお腹の上で不満をぶつける綾瀬。

 

「馬乗り! 馬乗りになってるから!」

「う、馬!? 馬並みに重いって言いたいわけぇ!?」

「うぅーん、国語力ゼロかなぁ???」

 

 動くたびに目の前で上下に小さく揺れる大きな胸や、スカート越しに感じる綾瀬の下半身の熱が、猛烈な速さで縁の理性を溶かしてくる。

 

 というか、無意識でそんな事してんの!? エロい事嫌でも連想してる俺が猿なだけ!? 

 

 そう叫びたい気持ちを必死に堪えつつ、いよいよ抑えるのも無理になって来た時。

 ぱさり、と静かに本が落ちる音が、救済のように部屋の中に響いた。

 

 音のする方を見ると、一冊のノート……恐らく綾瀬が隠そうとしていたそれが、縁が倒れてるすぐそばで、開いて落ちていた。

 瞬間、パッと手に取り、顔の前まで持ってくる縁。

 

「あっ待って──!」

 

 綾瀬の静止も虚しく、縁にまざまざと開かれているページを見られた綾瀬。

 

「……綾瀬、これって」

 

 そう言って、罰が悪そうに自分が読んでたページを綾瀬に向けて、言葉を続けた。

 ページには、真ん中で横に線が引かれてちょうど4等分にされた枠の中びっしりに書かれた文字と、チョコンと少女漫画のタッチで挿絵が挿入されている。

 書かれているのは、一人称で綴れてる日記……と言うよりも、小説の様な物に見えた。

 

 つまり、これは昔綾瀬かが書いた──、

 

「──自作の、恋愛小説?」

「────ッッ!!」

 

 次の瞬間、形容し難い乙女の悲鳴が、ピアノ用に防音がされた室内に可愛く響いた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「あの、綾瀬さん……」

「…………」

 

 ベッドの上で壁に背をつけて三角座りになり、膝に顔を埋めている綾瀬は、縁の声掛けに全く反応を示さない。

 真っ正面から見たらそれこそショーツが見えてしまいそうだったので、ベッドの端から何度も機嫌を伺ったが、反応は芳しくなかった。

 

 綾瀬が小学生の時に書いていた、ノートいっぱいの恋愛小説。

 恐らく、綾瀬が当時自分にとって理想の恋愛を想像して、アウトプットした物に違いない。

 かつて縁がタイムカプセルに入れた『婚姻届』と似た様な物で、彼にとっては微笑ましい物だが、綾瀬自身にとっては絶対に知られたくない過去だった。

 

 それを、成り行きとはいえ本人の目の前で、きっと本人にとって1番隠しておきたかった筈の相手に、明け透けにされてしまった。

 恋人の乙女心が今どんな情緒になってるのか、140文字以内で書きなさいと言う問題を仮に出されたら、国語の成績に自信のある縁でも上手く書けないだろう。

 

 それでも、何もしないと言うわけにはいかない。

 声をかけても頑として無視するが、掛けないでいたら10秒も経たずに涙を浮かべて赤らんだ目でチラッと睨んでくるのだから。

 

「なぁ綾瀬さん、俺が悪かったのは間違いないけど、無視されるのも悲しくなるから、そろそろ反応くらいして欲しいんだけど……だめ?」

「……ふん、あなたなんて知らない。ばか」

「あぁよかった、返事くれた」

「ばか、ばーか、ばかよすが。シスコン」

「シスコンは今余計だよね?」

「人たらし、さっきから私の胸とスカートばかり見てる、えっち」

「見てないよ今は! 流石に弁えてるからね!?」

「綾瀬さんってさっきから呼ぶのは、こんなの書いてる私に引いてるからでしょ? ……嫌われたんだ私、ううっ」

「違うって……」

 

 ダメだ、羞恥心のせいで幼児退行している。

 完全に拗ねてしまった。取り敢えず呼び方は元に戻そう。

 

「知られたくなかったのに。私が死ぬまで墓場に持っていくつもりだったのに……」

「そ、そのレベル秘密だったのな……ごめんなさい本当に」

「……こうなったら、もうあなたを殺して私も死ぬしか」

「そんな理由で心中を図って欲しく無いかな……」

「うぅ……数分前にタイムスリップして全力でなかった事にしたい」

 

 再び膝に顔を埋めてさめざめと嘆く綾瀬。これはもう埒があかないと思って、縁は言い出せずにいた話をする事に決めた。

 

「あの、実はね。綾瀬がそういうの書いてた事は、俺知ってたんだ」

「……しってた?」

 

 ポカンとした顔で、綾瀬が縁を見る。

 

「小5か、6の時か? たまたま綾瀬のノート見ちゃった時があって。さっきのとは別のノートだったけど、小説書いてるのは知ってた」

「……読んでたの?」

「ちょっとだけ」

「知ってたのに、知らないフリしてたの?」

「……ちょっと過激な内容だったからな。少女漫画とかも恋愛描写は大人びてるもん、そう言うの書けちゃうよな、あはは……はは」

「〜っ!!! 嘘でしょぉー!」

 

 今日1番の悲鳴をあげてから、綾瀬がドタドタとベッドの上を四つ足で動き、端にいる縁の元まで詰め寄る。

 

「何で見たの!? 机からわざわざ取ったの!? 最低!」

「ち、違うんだって! マジで本当に偶然! 運命の悪戯的なのだから!」

「じゃあ、私があなたのこと好きだってその時もう分かってたんじゃない!? なんで普通に友達感覚で接して来たの? 全然意識してなかったわけ??」

「いや、むしろ『友達の距離感が正しいんだな』とか思ってたかも」

「どうしてそうなるの!?」

「小説の男が凄え大人びてて、当時‟綾瀬の好きな人がこの人なんだ”と思って……綾瀬と恋人なるの逆に諦めてた」

「え……嘘……えぇ……?」

「中学生になった頃には、もうノートの事や今言った事も忘れちゃっててさ……正直、今このタイミングで思い出したレベル……はい」

 

 目をまんまるに大きく開かせて驚く綾瀬。恋愛小説がバレた事よりも、縁にそんな勘違いされていた事の方がショックが大きかったらしい。

 恋愛感情を自覚してから、小中高の10年近く、綾瀬をモヤモヤさせていた縁との距離感。

 友達以上恋人未満の関係が長く続いた理由が、まさかの勘違いやすれ違いだった……その事実に、ぐらっと目眩を感じた。

 

「そんなカミングアウト、今日はいらなかった……私てっきりあなたが……ううん、もう良いけど、でもそんなのって……」

「まあ、その、両片思いだったからセーフって事で?」

「ならない!」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ひとしきり騒いである程度は落ち着いた綾瀬だが、まだベッドから降りるつもりは無いらしく、縁から離れたらまた三角座りしてしまった。

 これは今日のうちにどうにかしないと後々に響くな。そう確信する縁は、思い切って動く事に決める。

 

「隣いくよ、ベッド上がっても良いか?」

「……好きにしたら」

「じゃ、遠慮なく」

 

 言葉通り躊躇いなくベッドに上がって、綾瀬の右隣に同じように三角座りする。

 綾瀬の息遣いや体温が感じられそうなくらいに寄り添って、少しだけ黙り込む。

 そうすると、最初は縁が何か話すのだと思ってた綾瀬が、ソワソワして始める。

 それでも、あと少しだけ喋るのを我慢して、いよいよお互いに何か話した方がいいかな、そんな雰囲気が流れ出した所を見計らって、閉ざしてた口を動かした。

 

「小説について、いっこだけ聞いて良い?」

「っ、な、何……?」

「昔綾瀬が理想像として書いた小説の男の人って、昔の俺をモデルにしてくれてた……んだよな?」

「そんなの、あなたに決まってるでしょ。ずっとあなたの事だけが好きだったんだから」

「本当? 良かった……もし別にモデル居たら嫌だったから」

 

 本当はもっとドス黒くてネットリした独占欲の様な物が這いずり回りそうになるのだが、それを決して悟られまいと意識しつつ、縁は安堵のため息を大きく吐いた。

 

「そうやって誤魔化そうとしてるでしょ」

「いや、そう言うわけじゃ無いって」

「そもそも、私は勝手に勘違いして、私を好きになるの諦めてた誰かとは違うの」

「うっ、それは本当に若さゆえの過ちというもので……」

「私が逆の立場だったら、絶対に諦めない。どんな事でもして、相手を自分に振り向かせるもの」

 

 それが誇張でもビッグマウスでも無い事を、縁は理解している。

 綾瀬は恋した人と恋をするために、恋し合う人と恋し続けるために、躊躇う事を知らない人間だ。

 だから渚を殺せなかったし、だから自分の命すら厭わずに、夢見の凶刃から文字通り身を呈して縁を守ったのだから。

 一歩間違えれば恋敵を全員殺し、恋した相手を磔にしてしまう危うさと表裏一体ではあるが、いずれにせよ彼女が縁以外を好きになる可能性など、たとえ小学生の時だろうとあり得なかったのだ。

 

 それを、当時の縁に理解しろと言うのは無理がある話ではあるが。

 そもそも、“彼”の記憶と魂が無ければ、縁もヤンデレCDの主人公と同じ末路を辿っていたハズの人間なのだから。

 言うなれば今の状況は、そんな“本来死ぬはずの男”がしでかした出来事のツケ──つまり結局は自業自得だ。

 

「私はそのくらいあなたが好きだったのに、あなたは簡単に諦める程度でしか、私の事好きで居てくれなかったんだ。渚ちゃんの事はいっつも大事にしてたけど」

「渚は妹だからね? 好きって意味でも質が違うっていうの、分かるだろ?」

「私、本当にショックなんだから。そんな理由でずっとあなたと恋人になれなかったなんて」

「だ、だよな……。しかも勘違いしてる事すら忘れてたし……信用失ったよな……」

 

 全くそんなつもりは無かった。むしろ秘密がバレて羞恥心に悶えてる綾瀬の気を紛らわそうと、自身の恥ずべき過去を明かしたのに。

 結局それが、綾瀬にとっては縁が向ける好意への疑惑に繋がってしまった。

 

「秘密バレて恥ずかしかった。勘違いされて傷ついた。もう何言われてもあなたの“好き”なんて信じられないんだから」

 

 子どもの様に拗ねる──いや、まさに子どもなのだ、綾瀬はまだ17なのだから。

 それに、縁は分かっている。

 こんな事を言っても五寸釘で磔にしようとしない時点で、綾瀬は本当に縁に対して愛想が尽きたワケでは無い。

 甘えている、そして求めているのだ──言葉以上を。

 

「……好きって言葉だけじゃ、足りない?」

「聞かなきゃ分からないの?」

 

 体育座りして別方向を向いていた2人の視線が、近距離で交じり合う。

 

「……言葉以上で伝えれば、証明できるかな」

「知らない……」

 

 突き放す様な言葉を言ってるが、綾瀬の右手は膝から離れて、縁の左手に伸び、指を絡める様にして握る。

 

「……証明、してみて」

 

 握った手から伝わる綾瀬の体温と、僅かな震え。そして自分を見つめる綾瀬の期待と不安、熱を燈した瞳に縁はまたも思い知らされる。

 あの日、いじめられていた自分を守ってくれた時と同じ、優しく暖かく、美しいその瞳に、ずっと自分は心を──全てを奪われていたのだと。

 

「分かった」

 

 短く端的──何かを決意した時にする答えを返して、縁は綾瀬の手を握り返した。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌週の月曜日は、職員の会議があるとかで午前授業だけになり、部活動も無かった。

 いつも通り綾瀬や渚と帰ってから、縁は私服に着替えて街の中央まで自転車で向かい、駅前通りにある喫茶店に入る。

 店員に名前を告げると、店の1番奥に隠れた様にある席へと案内された。

 

「やっと来た。遅いのよ」

「お疲れ様です、野々原さん」

『お兄ちゃーん、こっちこっち!』

 

 そこには今日縁が連絡を入れていた2人──咲夜と塚本が先に居た。

 この時点で縁は苦笑いになる。おかしい、今日は咲夜と塚本だけを呼んだはずなのに。

 

「咲夜、何故ナナとノノが居る?」

「知らないわよ、アタシが来る途中に勝手について来ただけだもの」

「退屈してた所で、咲夜とばったり会ったの」

「そしたらお兄ちゃんと待ち合わせだって言うから来ちゃった」

「そー言うことよ。コイツら一度決めたら言う事聞かないし、しょうがないじゃない」

 

 そう言われると確かに、と縁は納得するしかない。

 幸いにも、この双子もこの世界の仕組みを認知して、現実に戻るのをサポートしてくれる側(のはず)だ。話を聞くだけなら居ても問題は無い無い(と思いたい)。

 

「それよりアナタ、こんなに待たせといて謝らないつもり?」

「いやそれは悪かった、向かってる途中自転車の空気入れたりして遅くなっ……ちょい待て、待ち合わせ時間10分前だぞ、全然遅く無いじゃん」

 

 途中トラブルがありはしたが、店内に掛けられた時計を見たら全く遅刻では無かっので、縁はすぐさま謝罪を取り消した。

 

「このアタシを待たせてる事そのものが間違いなの。本当にアナタって言わないと分からないのね」

「ちなみに彼女は30分前には付いてました。途中入念に鏡の前でチェックしたり、香水を掛けてあなたに会う準備を──」

「ちょっと千里塚! アンタ誰からもお金貰ってないのにベラベラと人の事言うんじゃないわよ!」

「このくらいはサービスですよぉ」

「いい迷惑の間違いでしょ!」

 

 中々の声量で咲夜が話すから、周りの客から見られてないか気が気でなかったが、幸いにも午後の混み時で他の店員もワイワイ話しており、店内BGMも流れてるので、心配する様な事は無かった。

 

「ねぇお兄ちゃん、照れ隠しで当たり散らかしてる咲夜なんか良いから、席に座りましょう?」

「そうだよ、みんなお兄ちゃんが来るの待ってたんだ。そろそろメニュー頼みたいし!」

「んぉ、おう、そうだな」

 

 通路に座るノノが縁の腕を引っ張り急かすので、促されるままに、ナナとノノの真ん中に座る。

 その後、おしぼりを持って来た店員にコーヒーを頼んだ。他の4人も各々決めていた物を頼み、全員の分が運ばれて来た後に、自分のコーヒーに砂糖とミルクを入れながら、縁は話を始めた。

 

「2人を呼んだのは、報告したい事があるからなんだ」

「でしょうね」

「それ以外で呼ばないでしょ、あたしだけならまだしも、この男まで」

 

 ましてや今は縁と綾瀬が恋人関係。2人がくっ付くまでにどんな過程があったのか見て来た咲夜は、縁が浮ついた理由で自分を呼ぶワケが無いことを知っている。

 

「それで、何を伝えに来たの? 未練の正体でも掴めた?」

「うん」

「そう、良かったわね」

「お疲れ様です、案外早かったですね」

 

 あれ? 縁は訝しんだ。

 今、自分はそんなサラッと流される様な話題を口にしていただろうか。

 パンケーキを楽しんでる両隣の双子はともかく、自分にこの世界のあらましを説明してくれた咲夜と塚本が、あまりにも淡白な反応だったので拍子抜けになってしまった。

 そんな縁の気持ちがよほど顔に出ていたのだろうか、咲夜はクスッと笑って、自分が頼んだカフェオレをスプーンでかき回す。

 

「アナタが自分の未練の正体を見つけるのなんて、当たり前の話なんだから驚くわけないわよ。やって当然の事をしただけなんだから」

「右に同じくです。さっき言いましたが、思ったよりも早かったのだけは驚きましたが」

「そ、そっか……」

 

 別に派手なリアクションを求めていたワケでは無い。

 無いのだが、こうも自然に返されると、多少もったいぶってここまで引っ張って来た自分を滑稽に感じてしまった。

 

「あれ? お兄ちゃん顔赤くなってるよ? 熱でもあるのかな」

「本当ね、何かあったのかしら」

「気にしなくていいよ〜。心配してくれてありがとね」

 

 無邪気か、分かっててワザとなのかは分からないが、絶妙なタイミングで茶々を入れてくる双子を丁寧に宥めると、塚本の方から話を続けた。

 

「問題はです、野々原さん。原因が分かったのに何故、貴方がここに居るのかと言う事です」

「コイツが言ってる意味、分かるわよね?」

「意味って分かる? ナナ」

「いいえノノ、全然分からないわ」

「アンタ達には聞いてないわよ! 次余計な口挟んだら、頼んだ分は自分で払いなさいよ」

『はーい』

 

 どうやら咲夜は勝手についてこられた上に、喫茶店のお金も負担しているらしい。人は平気で殺せるくせに、無銭飲食は嫌なのか、言われた通りに食事に集中し始める2人。

 

 一方で縁の表情は穏やかでは無かった。

 話題が自身にとって突かれたくない──しかし、この2人と会話するならば高確率で指摘されるだろう内容にシフトしたからだ。

 

 確かに、縁の目的はこの世界から抜け出し、現実に戻る事。

 それは誰かと一緒にやる事ではなく、自分1人だけが成せばいい事なのだ。

 つまり、本来は原因──縁の中にある“8ヶ月”の未練が分かったその時、さっさとソレを無くせばいいだけ。

 この時間の様に、わざわざ報告する意味なんて無い。

 にも関わらず、こうして喫茶店にいる事それ自体が、咲夜と塚本にとってはおかしな事に映るのだろう。

 

「未練の対象は、妹さん、または彼女さんですか?」

「……綾瀬の方だ」

「なるほど。では彼女にまつわる何かが未練の正体として、その未練を打ち消す為の行動は、野々原さん1人では困難な物で?」

「それは……無い。俺1人で出来る事だ」

「何よそれ、だったら尚更躊躇う意味があるわけ? 一体何なのよ未練って」

「……っ」

 

 言葉が止まった。

 言えないのか、言いたくないのか、言ってはいけないのか。

 いずれにせよ、縁は未練の対象は明かしても、何をすれば未練が無くなるのかまでは話す気がない様だ。

 

「……アナタ、まさかとは思うけど」

 

 そんな縁を見て、咲夜はすぐさま一つの可能性に行き着いた。

 

「ここから離れたく無いとか、思ってる?」

「──ッ」

 

 縁の口元がキュッと歪むのを、2人は──いや、両脇でワチャワチャしてたはずのナナとノノも、見逃さなかった。

 空気が一気に凝り固まり、冷たくなっていく気がした。

 何を思ってるのか素直に吐け。誰ともなくそう言われてる気がしながら、縁は口を開いた。

 

「……咲夜の言う通りだよ」

「やっぱりね」

「お兄ちゃん、戻りたく無いんだ?」

現実(むこう)は楽しくないのかもしれないわね」

「ナナ違うよ。そんな事は無いんだ」

 

 そう。確かに現実は辛くて大変な事が多いが、決してそれだけでは無い。楽しい事だって確かにあるのだ。

 それでも、現実には無くてこの世界にはある物が、致命的な違いが1つだけある。

 

“幸せ”

 

 現実で縁が今必死に手に入れようとしているもの。

 どうすれば手に入るのか分からないでいるもの。

 消えた“8か月”で一度は確かに手に入れていたはずのもの。

 消さざるを得なかった“8か月”と共に失ってしまったもの。

 

 それがこの世界では、それこそもう泣いてしまいたくなる位、そっくりそのまま残っている。

 頑張って現実(むこう)で幸せになるんだという、幸福の定義すら覆されそうになる。

 

「でも、アナタだって分かってるでしょ? ここで幸せになっても意味なんか──」

「やめろ! やめて……くれ」

 

 その先の言葉を聞きたく無くて、縁は声を荒げて遮った。

 どんなに正しくても、非の打ち所がない正論だったとしても、それは耳に入れたくなかった。

 

 全くその通りだ。何も間違ってないし、間違っているのは自分だけだ。

 でもしょうがないじゃないか! 俺だって思いたく無かったさ、さっさと戻るべきだと分かってるのに! 

 

「もうちょっと居たいなって、思ったんだよ」

 

 限界まで絞り切った雑巾を、それでも更に捩じったらようやく垂れ落ちた水滴の様に、その言葉は乾ききっている。

 どれだけ愚かな考えだとしたって、一回でもそう思ってしまえば、止める事が出来なかった。

 

「……そう思っても、仕方ないでしょう」

 

 こくっと飲んだカップを口から離して、胸のあたりで揺らしながら塚本がため息交じりに言う。

 

「こればかりは、野々原さんにしか分からない感情です。理性のアバターとしての役割を担ってる立場としてはいただけない主張ですが」

「……まぁ、それもそうね」

 

 塚本の言葉で多少は納得したのか、咲夜も肩をすくめながらではあるが、縁の主張を残っていたカップの中身と一緒に飲み込んだ。

 

「んーと、つまりお兄ちゃんはここに一生残る事にしたの?」

「違うわノノ、答えを先送りしたのよ。大人のよくやる事ね」

「ケント―って言うのだ!」

 

 無邪気(だと思う事にする、煽りなら中々に遠回しかつ厭味ったらしい)に話すナナとノノの言葉が、この場では一種の緩衝材として働いた。

 

「取り敢えず、野々原さんが次にするべきなのは、踏ん切りをつける事でしょう」

「踏ん切り……この世界との」

「もっと言えば、この世界に留まりたいというあなた自身とのね。全くお笑いですよ、未練で生まれた世界の中で新しく未練を作るなんて。野々原さんは物事を厄介にさせる才能があるのかもしれませんね」

「……そうかもな」

 

 初めて会った頃を思い出す様な容赦のない塚本の言葉だが、今だけはそのまま素直に受け取るしかなかった。

 

 これ以上はもう話す事も無いので、5人は喫茶店を出て解散する事になった。

 

 ナナとノノはあの会話の中に居たにもかかわらず、最初と変わらないペースのまま、縁に“また会いましょう(会おう)ね”と元気に手を振り群衆の中に消えていった。

 咲夜は迎えの車に乗り、不機嫌そうに縁をひと睨みしてからドアを閉めたが、発進する前に窓を開けて顔だけ覗かせて言った。

 

「縁。アナタが何を思っていても、まだここにアタシ達が居る時点で、アナタの“本心”はどっちを選んでるのかは決まってるんだからね」

 

 “アタシ達が居る”事の意味──縁の心から“この世界から出なければならない”と思う心が、仮に少数派ないし消えてしまってたなら、咲夜も塚本も、とっくに消えているのだと、咲夜は言っている。

 

 ましてやナナ&ノノは『3年前に巻き戻る以外の選択を選んだ世界』というカタチを成しているこの世界において本来登場するワケの無い存在。

 縁が“もうちょっと居たい”と思ってるのは事実に違いないが、あの双子が居る事がつまり、縁が何を望んでいるのかを示しているのだ。

 

「こんな事聴きたくないでしょうけど、敢えて言ってあげる。夢は終わりにしなさい」

 

 そう言い捨てて、咲夜は車を発進させた。

 

「ははは、相変わらず彼女はアナタ思いですね」

 

 残った最後の理性役。塚本が咲夜の乗っていった車を見ながら笑う。

 これも縁はその通りだと思って、だから反応しなかった。

 咲夜は敢えてと前もって言った通り、縁のためにこそ嫌われるかもしれない言葉を平然とぶつけていた。

 次に会えたら──会う機会が自分に用意されていたとしたら、しっかりお礼を言わなくちゃな。心の中で縁は思った。

 

「さて、それじゃあさようならをする前に、一個だけ野々原さんに、今までと全く無関係な事を聞いても良いでしょうか」

「え? 無関係? ……良いけど、何だ?」

 

 無関係な内容というのも気になったが、それ以上に“なんでも知ってる”の擬人化みたいな男が、質問してくるという状況が珍しかった。

 

「ありがとうございます。それでは質問ですが、野々原さんはこの世界で一回でも、七宮伊織さんに会いましたか?」

「七宮さん? 七宮神社の?」

「──っ、はい。その()()()()です」

 

 そう言えば、七宮伊織と塚本せんりは何かしら繋がりがある気がした。

 塚本が初めて縁の前に現れたのは七宮神社だし、縁が病院で夢見に殺される前に塚本と会話した時に、七宮を指すような発言をしていた。

 また、あの不可思議な七宮神社で出会った七宮も、塚本の事を間接的に言及していた。

 きっと間違いなく、彼女と塚本は何かしらの(えん)があるのだろう。それが何かまでは、流石に縁の知る由も無いが。

 

「いいや、会ってないよ」

 

 端的に答えるたが、余りにもきっぱりとした言い方をしてしまったので、続けて何か聞かれるかもしれない。

 縁のそんな予想とは裏腹に、塚本は数秒だけ考える様に押し黙った後、

 

「そうですか。分かりました」

 

 縁に負けず劣らず端的に納得したのだった。

 え、もうそれで良いの? と何故か縁の方が思ってしまったが、こちらとしては本当に会ってないので、下手に追及されるよりはまだ良いと考え直した。

 

「それではまた。……良い選択が出来る事を祈ってますよ」

 

 良い選択の意味を縁の想像に任せて、塚本も雑踏の中に消えていく。

 本当の意味で1人残った縁は、スマートフォンで時刻を確認して、まだ16時になったばかりなのを確認してから。

 

「……さて、どうしようか」

 

 空を見上げて、呟いた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「何してんだろうなぁ、俺」

 

 素直に帰る気分にもならず、駅前のカラオケ店で1時間ヒトカラをした。

 気分転換と今後自分がどうすべきかを考える時間にしたかったが、咲夜に言われた言葉がどうしても頭から離れず、無駄に時間を浪費しただけで、虚しさだけが残る羽目に。

 その後も、いまいち自転車に乗る気にもなれず、手で押しながらダラダラと街を歩き、気が付けば学園の前に来ていた。

 

 茜色だった空も、日が沈みブルーモーメントに染まっている。

 校舎というのは、学生が最も脳を使い、問いに対して解を見出す機会が多い場所だ。

 意識せずにここまで来てしまったのも、ひょっとしたら自分がどうしたいのか解を見出いしたいと思う縁の心が無意識に足を運んでしまった結果かもしれない。

 無論、学園に来ただけで答えが見つかるなら、これほど楽な話は無いだろう。しかし生憎、縁の悩みはそれほど簡単に解決できる安い悩みではない。

 

 すっかり影が差して暗くなった学園を眺めるが、それもすぐに飽きて、縁は今が何時か確認しようと、スマートフォンを取り出そうとする。

 

「……あれ?」

 

 しまっていたはずのアウターのポケットには何も入っていない。

 ズボンの方のポケットだっけ? そう思いつつ両方のポケットに手を入れると、幸いな事に右ポケットから触り慣れた物の感触があった。

 どこかに落としたのかと一瞬焦ったのが杞憂になり、安堵するのも束の間。左ポケットの方にも何かが入っているのに気づく。

 

 両方とも取り出してみると、右手にはスマートフォン。そして、

 

「なんであるんだ、これ」

 

 左手には、この世界で唯一現実と繋がりを持つ、渚が縁に手渡したあの飴玉があった。

 この世界に来た日の夜にも、飴は縁のポケットに勝手に入ってあったが、今日彼が履いてるのはカーゴパンツだ。

 全く違う物を履いてるのに何故、そもそも何時ポケットに入ってたのか。

 もっと言えばあの夜も、塚本や双子が出て来てから、飴をどこにしまったのか。

 

 疑問は尽きないが、それら一切を思考の隅に追いやって縁が思う事はただの一つだった。

 

 このまま自分がこの世界に留まれば、自分にこの飴をくれた、現実の渚を悲しませる事になる。

 

 既に何度か考えていたが、この瞬間──縁の中で“この世界に留まりたい”という気持ちが強まった今だからこそ、その言葉に強烈な()()()が帯びた。

 

 渚だけではない。綾瀬、悠、咲夜、それに縁の両親──現実世界で今の彼に行為や親しみを持っている全員との繋がりを、この世界に居る限り縁は失うと同時に、奪う事になってしまう。

 自分だけが幸せで居られる代わりに、自分に関わる人たち全員を不幸にしてしまうのだ。

 

 唐突にこの世界に来てしまい、どうすれば戻れるのか模索する時とはもはや違う。

 今の縁は、この世界に居ればいるほど、不幸を与える加害者だ。

 

「……駄目だ、それだけは」

 

 そうだ、思い出せ。どうしてお前はあの日々を失う事になってまで3年前に巻き戻り、全部をリセットさせたのかを。

 渚を、綾瀬を、悠を、園子を──夢見すらも。自分と繋がりを持つ人が誰一人不幸にならず、不幸を呼ぶ存在にもならないために、その選択をしたんじゃないか。

 それなのに、自分が全員を不幸にさせるのでは、まるで馬鹿みたいな話だ。

 

 この世界は確かに、縁と、縁の記憶だけに存在する皆の未練から構成されている世界なだけあって彼に優しい。

 自分の恋人になっている綾瀬。綾瀬と和解している渚。園芸部という居場所を持つ園子。誰かに殺される事も無く、咲夜と年相応の言い合いをしている悠。

 どれもこれも、縁が頑張った結果の延長線だろう。それは間違いない。

 

 だからこそ忘れてはいけない。

 それらはもう、過去()()()()()のだ。

 

 過去に縋るのは分かる。人間誰だって一度ならず何度でも、今と過去を比較して楽しかった頃を懐かしむもの。ある程度の理解は出来る。

 しかし、過去ですら無くなったモノに縋るのは──ましてやそれが自ら手放したモノだったというならば、それは理解を得られる行為ではない。

 眠って見た夢があまりにも素晴らしいから、夢から目覚めたくないと駄々をこねるのと同じだ。過去に縋る人間は居ても、夢に縋る人間はただの愚か者でしかないのだから。

 

 夢は縋るモノでは無い。現実を生きる人間が、未来へ進む原動力にするためのモノだ。

 たとえ現実と著しく乖離していようと、自分の理想そのものだろうと、だからこそ、前に進む力になるのが夢。

 もし夢と現実の差異に心を苛まれてしまうようでは、それはもう夢とは言わない。呪いだ。

 

 そこまで考えが届いて、ようやく縁は自覚した。

 今の自分がしている事が、どういう行為なのかを。

 

 こんな世界を作ってしまうほどに、愛した“8ヶ月間”。

 そして何よりも──、

 

『どんなに辛くても、逃げていいから死ぬ方向に考えを向けるな。ちゃんと生きて、生きて生きて──幸せになれ』

 

 その日々を自分と一緒に駆け抜けた唯一無二の存在だった男、頸城縁との約束。

 それら全てを、呪いにしてしまう所だった。

 

「ああもう、ホントに居なくなってからもお前にはお世話になりっぱなしだな」

 

 乾いた笑いを発しながら、手のひらの飴玉を優しく握りしめる。

 もしこの場に彼がいたなら、思い切り容赦なく自分の頬を殴り飛ばしていたに違いない。

 当然だ。今の現実は野々原縁1人で辿り着いたものでは無い。彼が居なければ、3年前に夢見の家で死んでいたのだから。

 縁は自分だけのために幸せを目指しているのではない。彼との約束を果たすために、彼が出来なかった“幸福な人生”を生きるために、目指しているのだから。

 

 ──それを、決して呪いなんかにして良いわけが無いんだ。

 

『じゃあな、野々原縁。心置きなくヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない日々を過ごせ!』

 

 ああ、分かってるよ。お前の分までたっぷりしっかり、前を向いて生きてやる。

 だから、お前や、お前と一緒に駆け抜いた日々をこれからも俺の心のエンジンにさせてくれ。

 そのためにも──、

 

 飴玉とスマートフォンをポケットにしまい、サドルに跨る。

 もう縁の瞳には、躊躇いは消えていた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「やぁ、縁」

 

 普段は歩いて帰る通学路を自転車で走り、家まで向かう途中。

 不意に、愛すべき友の声がした。

 

「……悠?」

 

 そう口にした矢先、縁の前方約10m先の位置。

 人も車も通る気配がしない通路の真ん中に、季節外れのロングコートを身に纏った綾小路悠が居た。

 その姿を認識した瞬間、縁は急ブレーキをかけて自転車を止める。

 

 親友とのエンカウントに、普段なら顔を明るくするシチュエーションだったが、今の縁の表情はとても険しい。

 

 それも仕方ない話だ。

 何故なら彼の背後に、彼と同じ様なコートを着て、金属質なフルフェイスのマスクを被る不気味な様相をした大人が十数人も居たからだ。

 通路の街頭に照らされ、不気味な雰囲気を出している。

 この明らかに異常な状況に際して、たとえ親友だろうと、警戒心を持たない浅慮な縁では無かった。

 

「どうしたんだ悠? 随分、その……大所帯じゃないか」

「うん。緊急事態でさ。人手が要る事態があってね」

 

 縁にそう言葉を返す悠からは、普段感じられる温かみなど微塵も感じない。

 

「へぇ、こんな時間に? 大変だな」

 

 能天気を装いつつ答えながら、縁は脳裏で、塚本の言葉を思い出した。

 

『気をつけてください』

『あなたをこの世界に留めたい人達は、細かい内容はともかく、皆んな等しく“あなたと一緒にいたい”という類の未練を持っています。あなたが普通に生活する限りは、特に何も無いでしょうが──』

 

『──あなたがここを出ようと行動すれば、きっと、あなたの敵になります』 

 

 まさに今がそれだと縁は理解して、同時にこめかみに一滴の汗を流す。

 

 ──なんてこった! 

 

 よりによって悠が──縁の人生で一番頼れる、最愛の親友が、この世界からの脱出を果たそうとしている縁の“敵”として、現れるなんて。

 周りの男たちはさながら、確実に縁を止めるための兵隊だろうか。

 悠含めて全員が着ているロングコートの下に、何を忍ばせているか分かったものではない。

 

「まいったな、これは……」

 

 数が多い、たかが高校生男子1人を捕まえるのにはあまりにも過剰な人数が今、縁の眼前に居る。

 まだ本人から何も聞いてないが、既に“絶対に逃がさない”という決意を、縁は否応なく肌身で感じた。

 

 今縁が居るのは、両端にブロック塀がある、車2台すれ違う程度の幅しか無い通路。

 広すぎず、狭くも無いが、必要最低限のスペースしか無い空間だ。

 そんな場所に目算で20人近くもいる大人たちを、自転車で無理やり通り抜けるのは不可能に近い。

 必然的に、この状況から逃げるなら反対方向へ走るしかない。だが、そうなると当然、(きびす)を返して悠に背中を見せながらペダルを漕ぐ事になる。

 

 そこで問題となるのが、縁の乗っている自転車だ。

 縁が乗っているのは大きなタイヤが特徴のファットタイヤタイプ。

 これは悪路を走破するのにはこの上ないパフォーマンスを発揮する代物だが、トップスピードを出すまでに幾許かの時間が求められる。

 そうなると自転車が速くなるまでに2~5秒も、悠とその取り巻き相手に背中を向ける事になってしまう。

 

 10mなど、仮にアスリートレベルの走者が悠の取り巻きに居ればあっという間に詰められる距離だ。

 簡単に捕まるのが容易に想像できるのに、最大5秒も無防備に背中を晒すのがこの上なく恐ろしい。

 

 万が一にでも悠達がコートの中に拳銃の類でも忍ばせていれば、もれなく縁は射的の得物と化すだろう。

 幾ら何でもそこまでは──と思いたいが、かつて小鳥遊夢見という化物に散々殺されてきた経験上、何があってもおかしくない。

 ましてや金で国家権力すら黙らせられる綾小路家の人間が相手なら、尚更だ。

 

 この時ばかりは、ロードタイプを推しておくべきだったと心底後悔した。

 

 正面突破も後方への逃走も、非常に困難な状況。

 ならば、説得でどうにかなるだろうか。

 否だ。悠に対しては、縁の言葉なんて一切通じないだろう。

 親友だからこそ、発言の狙いや言葉の裏にある意図を容易に察して、聞く耳を持とうとすらしない。

 

 ──さて、これは何をするのが正解なんだ? 

 

 いっそのこと、塀をよじ登ってよそ様の敷地に入ってしまおうか──半ば自棄になっていると、縁の焦りを察した悠が言った。

 

「縁、僕が何でここにいるのか、もう分かっているんだろ?」

 

 分かってなかったとしても、今の悠の発言で否応なく察してしまうだろう。

 

「あー……まぁ、ね」

「なら良いんだ。それじゃあ僕から提案──というよりも、頼みがあるんだ」

「……なにさ。藪から棒に」

「今君がやろうとしている事を、考え直して欲しい」

 

 数的有利という状況下だからこそ生まれる余裕を持った提案、しかしその声には確かな必死さが滲み出ていた。

 もしかしたら、可能性は低くても、説得のやり方次第で悠は自分を見逃してくれるかもしれない。

 そんな頭の片隅にほんの少しだけ残っていた楽観的希望が、この瞬間消え失せた。

 

「手荒な真似はしたく無いんだ。考えを改めてくれるなら、僕は君が帰るのを邪魔しない」

「もし、俺が頑固者だったら?」

「……マインドコントロールは貴族の嗜みって、知ってたかい」

「はははっ、親友に言う言葉じゃねえ」

 

 強気に笑って見せるが、喉はとっくにカラカラで、笑い声も若干震えている。

 

 縁の人生においてここまで圧のある提案を受けた事が、今まであっただろうか。

 というよりも、これはもはや脅迫そのものだ。

 恐らく縁が意地を張ったり、嘘をついて通り抜けようとすれば、悠はすぐに見抜いて縁を捕まえて、無理矢理にでも考えを改めさせるだろう。

 それこそ、口にした通りのマインドコントロールだって辞さないはずだ。

 

「君は彼処に戻るべきじゃ無い。此処にいて何か問題でもあるかい? 無いだろう、君は此処に居続けた方が良い、そうするべきだ」

「それを決めるのは俺だろ。悠じゃない」

「でも君自身、此処にいた方が幸せだと分かってるだろう?」

「それは……」

「此処には君の恋人としての綾瀬さんがいる。失恋を経て成長した渚ちゃんがいる。いじめが解決してみんなと楽しんでる園子さんも、他人に心を開いてきた咲夜も、僕だっている。それは彼処には居ない人達だ、そうだろう?」

 

 その通りだ。何も間違っていない。

 だからこそ──、

 

「俺は捨てなきゃいけないんだよ。振り払わなきゃダメなんだよ。思い出はたまに振り返って懐かしむだけの物だろ? 思い出に縋り続けて停滞してるんじゃ、話にならない」

「じゃあ君はまた彼処に……君にとって何も優しくない場所に戻るのが正しいと思ってるのか? 死ぬかもしれないのに」

「世界が俺に優しかった時なんて一瞬でもあったかよ。俺もお前も夢見に殺されたんだぜ」

「……それでも、彼処の綾瀬さんは君の恋人では無いんだ。その事実に君は耐えられるか。此処と彼処の綾瀬さんを比べる事無く、何も無かったかのように振る舞えるのかい?」

「……努力するさ」

 

 痛いところを突かれた。素直にそう思った。

 悠の指摘は正しい。今の綾瀬や渚を、思い出の中の彼女と比べてしまい、その度に自分を戒めてきた事は何度もあった。

 現実に戻ってから、また同じように比べてしまう可能性は否めない。

 

「“努力する”ぅ? 無理だね。君は必ず比較する。比較して、現実に戻るんじゃ無かったと後悔するに違いな──」

「それは違うぞ」

 

 悠の言葉を、縁は遮った。

 

「悠、確かに俺は現実に戻っても綾瀬達を比較するかもしれない。この世界と、“8ヶ月間”を何度も思い出す事もあるだろうな」

 

 そればかりは、仕方ない。

 それくらい、大切な日々だったのだから。

 

「だけど、後悔だけは絶対にしない」

「……なんでそう言い切れるのさ。君は未練があったから、今此処に居るんじゃないか!」

「そうだ、未練があったさ! でもな、お前の言う通り此処とは違うけど、渚に綾瀬、園子に咲夜、それに──お前だって現実(あっち)には居るんだよ」

「それは此処だって同じ──」

「同じじゃない! あいつらも俺も、現実で生きてるんだ、5年先も10年先も、大人になって成長して行くんだよ。この世界よりもずっと幸せな未来になる可能性があるんだ」

「そんな有るかどうかも分からない幸せが何だっていうんだ……、目の前に確実にある幸せの方が大事じゃないか」

「俺はそう思わないって事だよ! 価値観の相違だな親友!」

「だいたい、君だってどうせ彼処でどう生きれば幸せになれるのか、分かりっこ無いに決まってるんだ。じゃなきゃ此処に来るはずがない」

「──っ」

 

 悠の指摘は、何から何まで嫌になるくらい縁の図星を突いてくる。

 縁自身、結局その悩みについての答えを見出せないまま、この世界から抜け出そうとしているし、答えが現実で見つかるかも分からない。

 

「どうせ君はそのまま幸せになる方法も見出せず、時間と命を浪費して生きていくしかないんだ。一生当たりの出ないスロットマシーンの前でジャックポットを期待してるだけの人生にこだわる理由が何処にある?」

 

 図星を突くし、正論しか言い。

 恐らく、もはや縁に悠を納得させるだけの言葉は無いだろう。

 そもそも縁より地頭が良くて、弁も立つ悠を論破なんて出来るわけがないのだ。

 

 ──だが、そもそもの話。

 ──縁は最初から悠とディベートも議論も、していない。

 

「五月蝿えんだよ言い過ぎだろテメェこの野郎!?」

「──ッ!?」

 

 そもそもの話、縁はこの世界から抜け出したくて、悠はその邪魔をしているに過ぎない。

 最初から縁がやりたいのは悠を論破する事ではなく、前方の邪魔者連中を突破する事だ。

 親友の悠だから聞く耳を持ったが、そもそも彼の言葉を耳に入れて足を止める必要が、縁には無かったのだ。

 

「あー頭きた! さっきから好き放題言ってくれてさ! 黙って聞いてりゃあ、絶対に俺が人生失敗するって断言かよ。あー良いよ良いですよ、こうなりゃ絶対幸せになってやる、あの“8ヶ月間”でもこの世界でも、絶対に到達出来ないようなハッピーエンドになってやるわ」

 

 皮肉というべきか、縁を止めようとした悠の容赦ない言葉の花束が、縁に残っていた最後の躊躇いを木っ端みじんに消滅させてしまった。

 現実でどう生きたら幸せになれるのか、そもそも本当になれるのか、分からないままではあっても、この世界しか縁に幸せは無いと言われたら、腹に据えかねる。

 つまり縁が幾ら頑張っても頑張っても、得られる幸福の上限は()()()()()と言われてるのと同じなのだから。

 

「冗談じゃねえ、俺は()()()との約束もあるんだ、ここが俺の幸せの終着点だなんて認めるもんか」

「……なんで、そういう考えになるんだ君は」

「さっきも言ったろ親友、価値観の相違だよ」

「どうかしてるよ、自分から不幸になろうとするなんて」

「だから、人の未来を勝手に不幸だと断言するなっての」

 

 会話は完全に平行線。

 縁の瞳と言葉に、先ほどまで無かった固い決意が宿ってしまったのを感じた悠は、それを引き起こしたトリガーが自分の言葉だと理解し、苦虫を嚙み潰したように表情を歪ませる。

 そうして、もはや自分の言葉ではどうあっても縁を自主的に納得させる事は無理だと、理解した。

 

「……そうかい。君は、僕が思ってたよりもだいぶ馬鹿なんだな。理解したよ」

 

 “気づくの遅すぎないか”そう言い返そうとした縁だったが、喉から出かけたところで言葉が止まってしまう。

 

「僕は言ったよね、手荒な真似はしたくないって」

 

 そう言って悠がコートの内側から取り出したのは、縁が万が一と懸念していた物──即ち銃だ。

 しかも悠が持っているものは一般的に『拳銃』と聴いて連想される、映画やドラマで警察が使う様な物と違い、バレル部が細長い、あまり見ない種類だ。

 

 モーゼルM712、旧ドイツ帝国で開発された自動拳銃。

 モデルガンでしか見ないような骨董品レベルの実銃を改造して、特徴的なバレル部を更に長くしたものを使っている。

 

 もっとも、銃の知識なんてものはゲームでかじった程度の縁から見ればそんなこだわりなど知った事では無く、単純に銃が出てきたという事実が恐ろしい。

 

「ライン越えてないかね、悠さん……」

「君が悪いんだよ。僕に引き金を引かせるのも全部、君が悪いんだ」

 

 そんなテンプレみたいなヤンデレのセリフを、よりにもよって悠の口から聴きたくなかった。

 

「安心してくれ。殺したりなんてしないからさ。痛みは伴うけど、次に君が目を覚ます時は、もう此処から出て行こうなんて考えもしないだろうから」

 

 黒く澱んだ瞳を細めて、ニッコリと微笑みながら悠はモーゼルの銃口を縁に向ける。

 いよいよ持って打つ手が無い、億が一銃弾を外してしまう可能性に賭けて今からでも自転車を走らせて逃げようか──そう縁が思ったその時。

 

 突如、縁の後方から強烈な光と轟音を鳴らしながら、何かが猛スピードで近づいてきた。

 縁は自分が銃口を向けられている事も忘れて、音と光のなる方へ振り返ってしまい、それが何なのかを理解する。

 乗用車──それも一台ではなく何台も──が、縁目がけて突っ走って来てるのだ。

 

「ちょ、嘘だろおいおいおい!!!」

 

 思い出すのは、車に轢かれた時の記憶。

 まっすぐ向かってくる鉄の塊には流石に対処しようが無く、咄嗟に出来たのはその場で身を屈めるという無意味な行為くらい。

 

「──まさかっ!?」

 

 パニックに陥り思考が止まった縁と対照的に、悠はあと数秒で自分たちの所まで到達する車の群れの狙いに気づいた。

 

「くっ!」

 

 悠が急いで照準を縁に向き直して引き金を引いたのと、車が縁を通り越しながらドリフトして、2人を遮るようにして止まったのは全くの同時だった。

 銃口から吐き出される銃弾は車のサイドドアに命中し、発砲音と衝突音が夕暮れの街に鳴り響く。

 しかし、本来ならハチの巣になっているはずの車体は僅かな凹みを見せるだけで、まるでダメージが無い。

 

「やっぱり防弾仕様か!」

 

 舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、悠はモーゼルから空になった()()()のマガジンを取り出し、実弾が入った物に再装填する。

 その間にも後続の車がドンドンと押し寄せて、縁を守る壁の様に立ち塞がっていく。

 

「……へ?」

 

 完全に轢かれたと思っていた縁は、目に涙を浮かべながら自分の周りを見渡した。

 車が来たのと同時に悠が発砲したのは分かったので、自分を守ってくれた事だけは辛うじて理解できたが、何故そんな事をしてくれたのかは分からないでいると、最後にゆっくりと走って縁の前で停車した車から、見知った人間が姿を見せて言った。

 

「なんて顔してるのよ、アナタ」

 

 高飛車な声、ツンとした瞳、車のヘッドライトを後光の様に輝かせて立つのは間違いなく、綾小路咲夜。

 

「……えっと、さっきぶり」

「最初に出る言葉がそれ? 感謝の言葉は無いのかしら」

「そ、そうだった。ごめん、助かった、ありがとう」

 

 辺りを見渡し、縁は自分が咲夜の用意した車に囲われて、悠から守られているのを理解する。

 

「助けてくれたんだな。嬉しいよ。俺1人じゃどうにもならなかった」

「どうせアイツに上手い事言いくるめられると思ってたから、特別に来てあげたのよ。……でもまぁ」

 

 縁の顔をまじまじと見つめて、咲夜は少しだけ柔らかく微笑む。

 

「……喫茶店の時とは、もう違うみたいね。少しは良い顔になってるもの」

「あぁ。もうここに残りたいなんて言わない、俺はここから旅立つよ」

「最初からそう言いなさいよ、もう……」

 

 形勢逆転の雰囲気が立ち込める中、悠は想定外な邪魔者の妨害にハッキリと苛立ちながら、車体越しにいる2人に届く様に声高に言った。

 

「咲夜! 出しゃばるなよ、僕と縁の問題だ!」

 

 名指しで批判を受けた咲夜だが、待ってましたとばかりに口角を上げて、同じくらい大きな声量で言い返す。

 

「出しゃばってるのはそっちじゃない! 縁がやろうとしてる事に野暮な真似してるんじゃないわよ!」

「縁を不幸にしたいのか!? ずっと幸せに暮らせるのは君だって分かるだろ!」

「知らないわよそんなの!」

 

 言いながら、咲夜は敢えて車の陰から身を出して、悠を視界に入れる。

 モーゼルを握ったままの悠を恐れる素振りも無く、右手で指差しながら、

 

「見損なったわ、日頃あんなに親友ヅラしてるのに、こういう時には縁をまるで信じようともしないのね。それで友達なの?」

「──な、何をっ」

 

 露骨に狼狽し出す悠の心の隙を見逃さないように、咲夜は立て続けに言った。

 

「この街にアタシが来た時も、小鳥遊夢見が来た時も、何の役にも立たないで縁が苦しむのを眺めてたダケの癖に、最後の最後で邪魔するとか、馬鹿じゃない? こういう時くらい素直に見送るぐらいしなさいよ!」

 

 すぐ側で聞いている縁も思わず“いや言い過ぎだろ”と思ってしまう程、咲夜の言葉は容赦が無かった。

 後者はともかく前者の件については、完全に咲夜が当事者なので自分を棚に上げてるにも程がある。

 そして当然、咲夜の言った事は当人にとって1番気にしていた内容でもある。

 言われたくない事を、ここまでハッキリと言われて、頭に来ない人間などこの世に居るだろうか。

 

「──咲夜ァァッ!!」

 

 怒り──では無く、殺意の込められた咆哮と共に、悠は躊躇いなど一切なく咲夜に向けてモーゼルの引き金を引く。

 10mの距離などものともせずに、実弾は轟音と共に発射され、まっすぐ咲夜の眉間に向かう。

 

 そのまま棒立ちしていたら、絶命は避けられない。

 しかし咲夜の表情は、眉ひとつピクリともしなかった。

 瞬間、咲夜が立っているすぐ隣の車のドアが開き、盾のように咲夜を守る。

 

 全弾撃ち尽くしてもなお、車体にのみダメージがあるばかりで、咲夜は髪の毛一本すら傷つかない。

 

「撃ったわね。アンタの方から」

 

 そう話す咲夜の声は、僅かに震えていた。

 だが決して、実弾を撃たれた恐怖による物ではない。

 思った通りの展開に興奮した、歓喜による物だった。

 

「これで正当防衛が成り立つわね! 堂々とアンタを痛めつけられるわ!」

 

 そう言い放ち、咲夜が指を鳴らすと、それが合図となって一気に車の中から咲夜の部下たちが現れる。

 悠の引きつれた私兵と違いスーツ姿だが、人数は倍近くいる上に全員拳銃を手に持ち、武装している。

 最初から咲夜は戦争する(その)つもりで、縁の下に駆けつけていたのだ。

 

「過剰防衛も銃刀法違反も知らないのか! ……いや、それは僕も言えたものじゃ無いが!」

 

 咲夜と自分両方にツッコミを入れながら、悠も背後の男達に合図をすると、彼らもコートを脱ぎ捨てる。

 季節外れの分厚いコートの下には、漫画でしか見た事の無いようなメタリックなアーマーと、小サイズの盾。

 更に悠の改造品とは違い正規のサイズのモーゼルを、全員が手に持っていた。

 

「何よ、アンタもすっかりそのつもりだったんじゃない」

「念には念をと思って用意してたけど、正解だったようだね」

 

 一触即発の空気。

 睨み合う2人が指示を出すのは全くの同時だった。

 

「やりなさい!」

「撃て!」

 

 それらの言葉と同時に、平和な街の通学路は抗争の舞台と化した。

 悠と咲夜は共に後方に引き、互いの部下達が引き金を引く。

 激しい銃撃戦の音に耳を痛めてる縁に、咲夜が言った。

 

「今のうちよ、アナタは違う道から行って!」

「大丈夫なのか!? 他にも悠の部下が」

「良いから! 気にしないでやる事やりなさい」

「──分かった!」

 

 咲夜の言葉を信じて、すぐにここを離れる事にする縁。

 流れ弾に当たらないのを祈りつつ、自転車を押して車から離れてから、サドルに跨る。

 そうして、ペダルに足をかけてすぐにでも漕げる様にしてから、最後に縁は咲夜に言った。

 

「本当に今までありがとう咲夜! 夢見の時も、今も、凄い助けられた!」

「当たり前でしょ! アタシは綾小路家の本流なの、あっちでヒスッてるアナタの親友とは違うんだから!」

 

 腕を組み、ツンとした言動は、背後で派手な銃声音がしてる中でも変わらない。

 だが、ほんの僅かに、咲夜はその頬を赤くしつつ、縁に別れの言葉を告げる。

 

「本当は……本当はアタシ、もう少し別の形でアナタと仲良くなりたかった。この街に来た時はもうそれが出来なかったけど……でも、アナタと一緒に居て、たの……たの──つまらなくも無かったわよ!」

「…………っ!」

 

 思いもよらない咲夜の本心。

 それがギリギリまで言えなかった彼女の心からの言葉──あるいは言えなかった未練の結晶なのだと理解した縁は、2秒とも時間を取らずに、

 

「あぁ! 俺も楽しかったよ! また現実(あっち)で会おうな!」

 

 笑顔でそう言って、自転車を走らせた。

 

「──あと、全校生徒の前でパンツの色バラしたのもごめんなさい!」

「最後の最後で何言ってんのよこのバカ! あとそれだけは本当に反省しなさいよ!?」

 

 

 あっという間に遠くなっていく背中を見ながら、咲夜は誰に言うでもなく、ポツリと優しく呟いた。

 

「頑張りなさいよ、バカ縁。それと……向こうのアタシとは、もっとちゃんと仲良くしてよね」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 情報化社会極まり、あらゆる疑問や問題がネットで解決できる時代。

 生まれ育った街の土地勘ほど、検索に頼らずに済むモノは無い──少なくと今この瞬間だけは、縁はそう確信しながら、自転車のペダルを必死に漕ぐ。

 

 咲夜は問題ないと言っていたが、不安はどうしても残るため、覚えてる限り最も遠回りかつ、地元民しか知り得ない道を通りながら家まで突き進む。

 最終的には悠に邪魔された道と真逆の方角までぐるりと回って、反対方向から家まで向かう事にした。

 

 本来より20分以上掛かる遠回りをした甲斐もあってか、道中で悠の追手らしき人間とは全く遭遇しなかった。

 不安と警戒で角張っていた心も少しだけ和らぎ、この角を曲がればいよいよ目的地まで一本道という通路に差し掛かった、その時。

 

「──え?」

 

 パァン、という空気が漏れた音が縁の耳に届くのと共に、急激に自転車がガタつき始め、瞬く間にまともな走行が不可能になった。

 前後のタイヤが一瞬で駄目になり、自転車がぐわんぐわんと左右に大きく揺れる。

 あわや転倒しそうになるのをどうにか堪えて降りると、縁は自分が過ぎ去った道を振り返って、この異常の原因が何かをすぐに理解した。

 

 今しがた自分が曲がった角に、びっしりと何かが敷き詰められている。

 自転車のタイヤにも無数に突き刺さっているそれを一個抜くと、漫画や映画でしか見ない、いわゆる『まきびし』と非常に酷似していた。

 そんな物騒なものが都合よく撒き散らされているワケも無い。すなわちコレがあるという事は──既に数十分も自転車を漕いで汗だくの縁の背中に、全く違う質の汗が流れる。

 

「──ターゲットを発見。想定通り反対側の通路から来た」

 

 最悪の予想通り。縁の背後から悠の部下と思われる男が5人、連絡を入れながら姿を見せた。

 

 連絡をするためにフルフェイスマスクを外していた男と、その後ろに4人。武装した出で立ちであり、縁に勝てるはずも無い。

 かと言って逃げようにも、自転車が使い物にならなくなった今、それも難しいだろう。

 一周回って自転車を武器に使うプランが頭に浮かぶほど追い詰められる中、いよいよ先頭を歩く男が残り2m程まで詰め寄ってきて、縁を捕まえようと右手を伸ばしてくる。

 

 ──その、瞬間だった。

 

 何か──黒っぽい塊が縁の目の前を横切ったと思った直後、男の右手が宙をくるくる舞っていた。

 瞬き一回分程度のタイムラグの後、地面に何かが突き刺さる音が耳朶に響く。

 

 視線だけ音のした方へ向けると、そこには地面に深々と埋まった、嫌な意味で()()()()()があった。

 

「──ぐぁあああああ!?」

 

 肘から先を切断された男が絶叫するのと同時に、後ろの男たちが周囲を見渡して警戒態勢に入る。

 その直後、音もなく飛び出した5本のナイフが、男達の眉間に吸い寄せられるように真っ直ぐと向かい、深々と突き刺さっていった。

 一瞬の出来事過ぎて断末魔の叫びどころか、自分が死んだという認識を持つ暇すら無く、悠の部下達は絶命して崩れ落ちる。

 

「あははははは! やったぁペンタキル! 見たナナ? かんぺきだったよね」

「久しぶりだから腕が鈍ってると思ったけれど、そんな事無かったわね。お人形さんみたいに倒れちゃったわ」

 

 背後から聴こえる無邪気な──それでいて悍ましい会話。

 人の死ぬ瞬間を久方ぶりに目の当たりにした縁は、これら一連の見事なまでの殺人が誰の仕業なのかを、すぐさま理解した。

 

「……相変わらず、命中率が半端ないな」

 

 関心と呆れ、恐怖と安堵がない交ぜになった縁の言葉は、死んだ悠の部下達ではなく、これら一連の芸術的ともいえる殺人を完遂した2人へ向けたモノだった。

 

「えへへへ! やったぁ、お兄ちゃんに褒められた!」

「ありがとうお兄ちゃん……でも、正直物足りないの。美味しいところを全部ノノに取られちゃったから」

 

 ナナ、そしてノノ。

 縁が出会った人間の中で数少ない、人殺しを厭わないどころか娯楽にすら感じている、殺し屋の双子。

 たった今、5人の命を終わらせたとは思えないほどに、無邪気な声と笑顔で縁の前に姿を見せた。

 

「さっきぶりだねお兄ちゃん、高そうな自転車はダメそう?」

「やあノノ。……そうだね、ご覧の通りだよ」

「わぁ本当だ、タイヤがふにゃふにゃだ」

 

 後輪を指で突っつきながら笑うノノ。

 人を殺した後に出来る言動では無いと心中でツッコミつつも口には出さず、縁は自分の窮地を救ってくれた双子に頭を下げた。

 

「危ないところだったよ、助かった……ここには咲夜が来るように言ったのかな?」

「正解っ! “アイツは真反対の道から家に行こうとするだろうから、アナタ達先に行って待ってなさい”って言われて来たの。待ってる間はちょっと退屈だったし、来なかったらどうしようと思ってたけど、お兄ちゃんが本当に来てくれたから良かったわ」

 

 咲夜の声マネをしながら説明を入れるナナに、縁はこんな状況だがクスっと笑ってしまった。

 そんな縁に、ノノが先を急ぐように言った。

 

「ほらお兄ちゃん! 早く行かなきゃ、さっき人呼んでたし、どんどん怖いお兄さん達がここにやってきちゃうよ〜?」

「それとも、お兄ちゃんも一緒に()りたい? 斧なら貸すわよ? うふふっ」

 

 冗談とも本気とも言えない、怪しい笑みを浮かべながら話すナナ。

 ノノの言う通り、これ以上縁がここに止まっても、リスクが増えるだけだ。

 

「急いで行きます!」

 

 本当に斧を寄越されて戦う羽目になるワケにはいないので、慌てて自転車を道の端に置いて、縁は家に続く道へと走り出す。

 そんな彼の背中に、ナナとノノが言った。

 

「じゃあね、お兄ちゃん! 他の人より変わってるから、面白かったよ、本当はもっと一緒に遊びたかったよ!」

現実(むこう)ではもう会えないでしょうけど、もし会えたなら、その時はたくさん遊びましょうね、お兄ちゃん」

 

 もちろん、会うか会わないかなら圧倒的に後者を選ぶ相手だ。

 言霊というのもあるから、下手な口約束などしない方が良い。

 それでも、ここで明確に拒絶の言葉を吐けるほど、薄情な人間でも無い。

 足を止めて振り返り、苦笑いを浮かべながら縁は応えた。

 

「あぁ、また会おう──武器を持ってなかったらな!!」

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 咲夜とナナ&ノノのお陰で、更なる追っ手が出てくる事は無くなり、遂に家まで数分の所まで来た。

 ここまでずっと自転車と足で走り通しだったため、足は溜まった乳酸のせいで重りでも付けたように重く、痛みすら発している。

 それでも家に着くまで歩みを止める気の無かった縁だったが、強制的に足を止めざるを得ない状況がまたも出てきた。

 

 縁の前方に、金色に塗装された馬鹿みたいに厳つい見た目と大きさをしたバイクが、立ち塞がるように立っている。

 車やバイクについて、ほとんど知識が無い縁だが、いま眼前にある車体についてだけは、それが何なのかハッキリと分かった。

 

 ゴールドウィングA・Y・CUSTOM(綾小路悠家出仕様)

 

 かつて、殺し合い寸前の渚と綾瀬を止めるために、今日と同じように必死に家まで帰ろうとした縁が乗った、思い入れのあるバイク。

 当時は頼もしさしか無い鉄の獣だったが、今は淡々とこちらを狙う怪物のようだと、縁は思った。

 

 そしてもちろん、そのバイクが目の前にあると言うことは、乗り手も居ると言う事。

 

「またかよ、もう」

 

 ゴールドウイングに跨っている悠を見て、縁は普段なら絶対に親友相手に出さない声色と顔になった。

 そんな縁を見て何を思ったのか、悠の表情からは伺えないが、少なくとも声だけは普段の調子のまま、バイクからゆっくりと降りて言った。

 

「他の人は居ない。みんな()()()よ」

「……そうかい」

「さっきは済まなかった。僕は君に、言ってはならない事を口にしたと思う。本当に、ごめん」

「お……おう?」

 

 普段の悠と異なり、目を伏せて縁に表情を見せないまま話す悠。

 さっきまで見せていた苛烈な姿と、大きく様変わりしている。

 

「分かっているつもりだし、言われる筋合いも無い筈なのに、アイツに──咲夜に言われたら、初めて指摘された様に動揺してしまった。僕は君の力になろうと思ってるのと比べて、その実君を苦しめるばかりだったって」

「いや、そんなわけ──」

「分かってたんだ。僕だけじゃ咲夜を止められなかったとしても、やり方次第で君が苦しむ時間や過程を無くす事は出来たはずだった。小鳥遊夢見がこの街に来た直後、すぐに彼女を監視するなり対策を取れば、凶行を止める事も出来た」

 

 悠の言葉は間違っていない。他の人に出来なくて悠なら出来る事が多くあった。

 

「でも、現実はまるで違った……僕はただただ君を苦しめたし、笑えるほどあっさり死んで……君は“8ヶ月間”を捨てる結末を選ぶしかない程追い詰められた」

「何言ってんだよ、お前は被害者だろ? どうして自分を責めるような事言うんだ」

「被害者……君はそう言ってくれるんだね。でも、僕は僕が死んだ後に何度も何度も何度も何度も殺されて苦しみ続けた君を知って、自分をそうだと思う事が出来ないんだ!」

「……っ」

 

 慟哭と共にようやく縁の目をハッキリ見つめた悠の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

 

「分かってるさ、君は此処に居続けるべきではない事くらい! でも、2度と無いと思っていたチャンスが来たのに、君をまた辛い現実に戻さなきゃ駄目なんて、そんな残酷な事があるか!?」

 

 それは──それこそが、悠の持つ未練。

 いや、これはもう無念──それすら通り越して、怨念とすら呼べる物だった。

 

「君が完全に吹っ切れて、もう僕達のことを振り返らないなら、構わなかったさ。でも惜しんでたじゃないか、君は失った日々にずっと未練を持ってたじゃないか! だから君を現実に戻したく無かった。君が何かを失うかもしれない世界なんて、もう考えたくも無かったんだよ!」

 

 友の叫びを、縁はもう言い返す事はせずに黙って聞いた。

 悠が死後どの様に縁やみんなの死を目撃したのかは分からない。

 だが、どんなに悔やんでも時計の針は逆には動かない様に、悠は“自分があの時、こうしていれば”という後悔こそ積もれど、払拭するチャンスなど有りはしなかった。

 そのまま縁が“8ヶ月間”を無かった事にしたのと同時に、彼も消えた──ハズだったが、この世界が作られるのと同時に、彼にチャンスが訪れてしまう。

 

 きっと縁だって、幸福しか無いこの世界を選ぶハズだ。

 もう辛い事しかない現実なんて、見捨てるだろう。

 そう、思っていたのに。

 

「でも、君は現実を選んだ」

 

 渚も綾瀬も園子も、咲夜だってどうするかわからず、夢見まで生きている。

 そんな不安定で、危うくて、どうなるか分からない現実で生き続ける(to be continue)事を、決めた。

 あり得ない、あってはならない、考え直すべき。そう硬く信じて、無理矢理にでも止めようとした。だが、いざ正面切って対峙した時に、縁は悠の言葉を真っ正面から否定してみせた。

 

『あー良いよ良いですよ、こうなりゃ絶対幸せになってやる、あの“8ヶ月間”でもこの世界でも、絶対に到達出来ないようなハッピーエンドになってやるわ』

 

 売り言葉に買い言葉的な言い回し、あまりにも幼稚だし、根拠も無い杜撰な言葉。

 

 だが、そう言い切って見せた縁を見て、悠は思わずこう考えてしまった。

 “誇らしい”と。

 

 そして、そんな事を思ってしまった自分を無かった事にすべく、麻酔弾を撃ち込もうとした矢先に現れた、彼の味方(咲夜達)

 縁の危機を救う──自分が散々願った立場を、よりによって咲夜に簒奪され。

 縁の未来を阻む──自分が忌み嫌った存在に、他ならぬ自分自身がなっている事実を、思い知った。

 

「だから、もう僕は君を無理矢理止める、なんて事はしない。でも、君が現実に戻るのを見送るなんて事も、許容出来ない」

「……だったら、どうするってのさ」

「……そうだね」

 

 涙を腕で拭い、悠は縁に一歩、二歩、腕を伸ばせば届く距離にまで歩み寄る。

 そうして、コートの内側にしまっていたモーゼルを取り出して──グリップ部分を縁に向けた。

 

「殺してくれないか、君の手で」

「──ッ、馬鹿野郎! 何とんでもない事頼んで来るんだよお前は」

「嫌ならそのまま僕を無視して通り過ぎてくれ、勝手に1人で死ぬから」

「だから、その死ぬとか殺すってのをやめろっての!」

「同じ事だよ、君が現実に戻れば、此処に残ってる人々は消え去る。僕はそうやって消えたく無いだけだ。そしてどうせ消えるなら、君の手で消えたいんだよ」

「……本当に、どうしてそう極端なんだよお前」

 

 世界の消滅と共に消えるのは、縁の選択を受け入れた事と同じ。

 それだけは受け入れられない悠は、せめてもの抵抗として、世界が消えるより先に死にたい。

 悔しいが、悠の想いを、縁は理解出来てしまった。

 

 かつて夢見に監禁されて、どう足掻いても死ぬしか無い中、せめて少しでも相手の意にそぐわない事を言ってやろうと、夢見を否定する言葉を並べ立てた事があるから。

 だからこそ、悠は本気で縁に殺されたいし、それが出来なければ自殺する事も、確信出来る。

 

「……俺に爪痕残すにも、程があるだろ」

 

 そう吐き捨てて、縁はグリップを掴み、初めて持った銃の重さに戸惑いつつも、両手で構えて悠へ銃口を向けた。

 

「……ごめんね」

 

 縁が自分の願いを受け入れてくれた事。

 それが最低最悪の願いだと自覚してる事。

 これで一生縁はこの世界を捨てた選択を思い出すたび、心を痛めるだろう事。

 

「それと、ありがとう」

 

 全てが混ざり合って、悲哀と歓喜の混ざった笑顔を浮かべて、悠は笑った。

 

 そんな親友の想いを察しつつ、縁は引き金を指を掛けて。

 

「どういたしまして、バカユーヤ」

 

 今生の別れを告げた。

 その直後。

 

 ──ぱんっ。

 

 とても小さく、乾いた音が、縁の握るモーゼルとは違う所からした。

 

「……え?」

「あ……あぁ」

 

 呆然とする縁と、絶望に染まる悠。

 縁には分からなかったが、向かい合ってる悠には見えた。

 縁の後ろで、サイレンサー付きワルサーP99を構えた塚本せんりが。

 

「この──」

 

 その先の怨嗟の言葉を吐き出す前に、悠は撃ち込まれた麻酔弾によって意識を失い、縁に向かって倒れ込んだ。

 

「悠!? おい、どうした、俺撃ってねえぞ!」

 

 驚きながらも咄嗟にモーゼルを手から離して抱きかかえた事で、悠が顔面から地面に突っ伏す事は避けた。

 

「そうですよ。撃ったの、こっちでしたから」

「──塚本っ!?」

 

 塚本が言葉を発して、ようやく縁は自分の後ろに居たことに気づいた。

 続いて塚本の手が拳銃を握っているのに目が行くと、慌てて悠の身体を手当たり次第に確認する。

 縁にサプレッサーの知識が無くとも、状況から先ほどの乾いた音が塚本の銃から発せられたのは間違いない。しかし、悠の身体を手当たり次第に見ても目立った出血が見られなかった。

 

「ご安心を。麻酔銃ですから」

「……はぁ、良かった。マジで焦った……」

 

 よほど強力な物を撃ち込んだのだろう。死んだ様に眠っている悠だが、とにかく死ぬ様な事はないと分かって安堵する。

 

「今更殺す様なマネしませんよ。もしそんな事したら、こっちが君に殺されるでしょうし」

「……それについてはノーコメント」

 

 実際、塚本が実弾を撃っていたとすれば、縁は何の躊躇いも無くモーゼルを彼に向けていただろう。

 

 完全に力の抜けた悠を抱きかかえたままでは居られないので、縁は塚本に手伝う様に言ってから、微妙に嫌がる塚本と2人でゴールドウィングを道の脇に置き、そこに悠を乗せた。

 

「はぁぁ………………ちょっとだけ、休憩」

 

 本当ならそのままこの場を去りたい所だ。

 しかし、元々身体が疲れ切っていた所に、立て続けでビックリする事が起きて、いよいよ心身ともに疲労が限界を迎えた今、流石に休まないと動けなくなってしまった。

 縁は汚れる事も気にせずアスファルトの地面に座り込み、ゴールドウィングにもたれて、深く呼吸を繰り返す。

 

 そんな縁を見て、塚本は揶揄う様に笑いながら言った。

 

「しかし、彼には困りましたね。この土壇場で君に殺されたがるなんて。普段では予想もつかない行動ですよ」

「……そうだな」

「君が本当に殺してしまったら、たとえ現実の綾小路悠には無関係でも、一生残る傷になってたでしょう。それを見越してこんな事したんですから……やれやれ、呆れてものも言えません」

「もう十分に口に出してるよお前」

 

 親友を揶揄されても、疲れてる以上に自分が思ってる事をそのまま言われてるので、縁は強く否定出来なかった。

 そんな彼の具合を察してか、塚本もそれ以上は悠を責めない。

 

「それでもまぁ、彼なりの、つまり君の親友という立場なりの葛藤はあったのは確かでしょう。その上で君の未知なる可能性よりも、手堅い幸福を選んだ」

「…………そうなんだろうな」

 

 答えながら、縁はかたわらで眠る悠の顔を見る。

 麻酔が効いて眠っているその顔は、目に涙を滲ませたまま。

 

「何にせよ、もう君の邪魔をする人は居ないはずです。ここから先はどんなにゆっくり歩いても、問題はありませんよ」

「渚は、邪魔しないのか?」

「ふふっ、現実の野々原渚はともかく、()()があなたを害する存在であるはずが無いでしょう?」

「……よく分かってるじゃねえか」

「情報屋ですから」

 

 そう言えば、塚本は千里塚インフォメーションとかいう組織の人間のだったか。

 結局、千里塚とか『ナナツミ』とやらが何なのか全く分からないままだったが、もはやそれらに対して微塵も知的好奇心が働かない縁は、膝に力を入れて立ち上がり、お尻に付いた土汚れを手で払いながら、塚本に言った。

 

「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ……悠を任せてもらえるかな?」

「はい、もちろん。と言っても向こう7時間は眠ったままでしょうが……流石にそれまでには()()()()()()()()()?」

「ああ、当然だ。……こんな別れ方でごめんな、悠」

 

 最後にもう一度、親友の顔を目に焼き付けてから縁は、少しだけ重い足を動かして、残り僅かな家までの道のりを歩き始める。

 

「それじゃあ、さよなら。向こうでは合わない事を祈ってるけど──」

 

 意味深な発言や行動ばかり目立って、気に入らない奴だった。

 だが、思い返せばいつも、助かれていたのは自分だった。

 それなら最後の最後くらい、礼を言ったって良いだろう。

 

「俺が悠を殺すのを止めてくれて、本当にありがとう」

「────っ」

「お前に会えて良かったよ。じゃあな、せんり」

 

 何だかんだ言って、きっとコイツは味方だったのだから。

 末期の刹那くらい、親愛を抱いたって、良いじゃないか。

 

 二度と無いだろう縁の言葉にしかし、塚本は最後まで何も応える事はなかった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「──驚きましたよ」

 

 彼の背中が完全に遠のいてから、せんりはかたわらで眠りかける悠にではなく、独り言としての言葉を宙に転がせる。

 

「まさか、君からそんな言葉を貰えるなんてね」

 

 最後の最後で、絶対に2度と見られない、得られない経験をした。

 それだけでも、この世界に()()()()留まり続けた甲斐があった物だ。

 

「その声で名前を呼ばれる事なんて、二度と無いと思っていました」

 

 思い返すのは、失われた“8ヶ月間”の中ですら、無かった事にされた一角の思い出。

 もはや誰1人として記憶していない日々の中で、せんりだけが知っている声とイントネーションで、自身の仮初の名前を親しげに呼んだ友人。

 それと、まんま同じ声色と質量で、最後の最後に野々原縁は自分を呼んでくれた。

 

 あぁ、もはやそれだけで、彼には充分に過ぎた。

 

「結局、君も、()()も、ここには居なかったんですね」

 

 もしかしたら。

 そんな事を考えなかったと言えば嘘になる。

 何故ならそれこそが、せんりにとっての未練だったのだから。

 

「でも、君達は此処に居なかった。それはつまり──未練など無い、終わりを迎えられたんでしょう」

 

 それが幸福な終わり方なのか、はたまた未練を抱く余地すら与えられない絶望的終焉だったのか。推し量る材料なんて無いけれど。

 知らなくても良い事だって、世の中にはあるのだ。

 

 きっと、それぞれにとってのハッピーエンドなのだと、せんりは硬く信じて──口元を柔らかく歪ませながら、瞳を閉じた。

 

()()()()が乾いた地面に音もなく落ちて弾ける頃には。

 

 その場にはもう、何も無かった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「おかえり、お兄ちゃん」

 

 塚本の言葉の通り、もはや誰一人の妨害も無いまま、縁は自分の家にたどり着く。

 玄関を開けると、縁が帰ってくるのを分かっていたように渚が待って居た。

 

「ただいま、渚」

 

 縁は特に驚く事もなく、額の汗を拭いつつ答えると、渚はクスりと微笑む。

 

「お兄ちゃん、汗凄いよ? お風呂できてるから先に入って」

「はい、了解」

 

 ごく普通の、当たり前の様な会話を終えて、縁は着替えの服を部屋から用意した後に風呂に入った。

 

 全身と頭を洗い終えてから、渚があらかじめバスミルクを入れていた暖かい湯船に肩まで浸かり、爪先までピンと伸ばす。

 ミルクの質感を伴う心地良いお湯の感触と、とろみのある香りが体と心に染み込み、散々走り回って疲れ切った身体から、悪い物が流れ出ていく様な感覚に包まれた。

 そのまま10分ほど湯船から出ない時間が続き、ともすればこのまま寝入ってしまいそうだったので、縁は惜しむ気持ちを抑えながら身体を起こして、風呂を出た。

 

「お風呂ありがとう渚、気持ちよかったよ」

「ホント? 良かったぁ。奮発してちょっと良いの買ったの。後で(あたし)も入るの楽しみ」

「先に入っても良いんだぞ?」

「ありがとう。でもお腹空いてるから、ご飯にしよ?」

「……うん、そうだね」

 

 今日のメニューは、縁の好物のトンテキ。

 相変わらず彼好みの味付けで、風呂に入り元気と食欲が湧いてきた縁の意と心をこの上なく満足させた。

 

 だが食事の時間そのものは、普段の兄妹の時間としては珍しく無言で進んでいく。

 縁はこの後自分がどう渚に言葉を出せば良いか、分からなくなっていた。

 渚もまた、そんな縁から何かを感じてるのか、敢えて自分から声を掛けようとしない。

 

 これがこの世界の渚との最後の晩餐なのに、それが無言で終わってしまう。

 それだけは避けようと縁は、話題も思い浮かばないまま声を掛けようと口を開いた。

 

 ──そのタイミングを待っていたかの様に。

 

「ねぇ、お兄ちゃん」

 

 渚が先に、縁に言葉を掛けた。

 

「ん、んん……どした?」

「私、お兄ちゃんが凄く悩んでた事、分かってるよ」

 

 心の中を明け透けにされた様な感覚が、縁を包む。

 

「──そっか」

 

 しかし、動揺はしなかった。

 悠がそうだった様に、渚も縁の決断を悟っていた。

 その上で、普段通りの渚として、縁に接している。

 

「……止めようって、思わなかった?」

「なんで? お兄ちゃんは私に止めてほしいの?」

「いや、そういうわけじゃ無いけど」

「ふふっ、冗談だよ。そもそも、私がお兄ちゃんの嫌がる事、するわけないもん」

 

 食べる手を止めて笑いながら話す渚。

 

 塚本の言葉はここでも正しかった。

 渚は最初から縁の決断を尊重し、止める気など皆無だったのだから。

 

「いつも言ってるでしょ? お兄ちゃんの事を世界で1番理解してるのは私だって」

 

 ウインクしながら断言する渚に、異議を唱えられる人間なんて1人もいないだろう。

 

「お兄ちゃんの事だから、最初は嬉しかったよね。綾瀬さんが恋人に戻ってて、私もお兄ちゃんと綾瀬さんのお付き合いを認めてて、楽しかったから、離れたく無い・戻りたく無いって思った。でしょ?」

「……うん、正直本当、この世界に居続けたいって思いかけてた」

「……なのに、お兄ちゃんが元の世界に戻ろうって決めた理由、教えてくれる?」

「……これかな」

 

 そう言って縁がポケットから取り出して見せたのは、現実の渚がくれた飴玉。

 

「渚が……現実の渚が俺にくれた、ただの飴」

「……うん、やっぱりそうだと思ってた」

 

 飴玉を縁の手のひらからつまみ取り、宝石を眺める様に見つめる。

 

「お兄ちゃんは優しくて、カッコよくて、でもちょっと雰囲気に流されやすいけど──世界で誰よりも野々原渚(あたし)の事を大事に思ってくれてる」

 

 渚の思い上がりでは無い。かつて縁が渚にそう言った。

 渚は恋人では無いが、綾瀬よりも大事な、世界で1番大切な人だと。

 その気持ちは今も、縁の中では変わらない。

 

「だから──現実(むこう)の私を悲しませる事なんて、お兄ちゃんには出来ないもんね」

「…………うん。渚の言う通りだよ」

「良いなぁ……向こうの私は」

 

 飴玉を縁の手に返して、笑いながら言った。

 

「お兄ちゃんに、こんなに想ってもらえるなんて。羨ましいよ」

「渚、俺は──」

「良いの。お兄ちゃんはもう、現実の私(あの子)だけのお兄ちゃんだもん。当然の事だよ」

「……っ」

 

 そんな事ないと、否定するのは簡単だ。

 縁は今目の前に存在する渚を偽者だと思ったことは、一回だって無い。

 だがそれを口にして、渚が喜んだり満足したりする事はない事も、縁は分かっている。

 どう足掻いても、どんなに願っても、この渚は既に無かった過去の再現であり、現実では無いのだから。

 

 この場で渚を慰める言葉を言っても癒されるのは彼の気持ちだけであり、渚では無い。

 自分の気持ちを必死に抑えて、渚は縁を送り出そうとしているのだ。

 ならば、その気持ちにこそ、縁は応えなければいけない。

 

「……ありがとう、渚」

「……うん、どういたしまして」

 

 誰にも譲りたく無い縁の妹(野々原渚)と言う在り方を、現実の渚に返そうと決めた彼女に掛けることが許される言葉は、それだけだった。

 

 

「……じゃあ、行ってくるよ」

 

 食事を終えて、食器を洗い、縁は玄関に戻る。

 

「いってらっしゃい……あと」

「ん?」

「向こうの私のこと、大事にしてね」

「……当たり前だろ。任せろ」

 

 玄関で見送ってくれる渚にそう言ってから、踵を返して縁は玄関の扉に手を掛けた。

 この扉を開けて外に出て、扉を閉めたら、それでお終い。

 一度は縁を否定したが、その後何度も縁の心を救ってくれた最愛の妹は、思い出の中へと消えていく。

 

「……さよなら、渚」

「さよなら……お兄ちゃん」

 

 末期の会話としては、あまりにも単調。

 こんなのあんまりだ、別に映画の様な感動の別れを望んでるつもりは無いが、もう2度と会えない──自分の妹との別れの言葉としてはあまりにも相応しく無い。

 

 振り返りってもう一度、その顔を見たい。

 壊れてしまう程に抱きしめて、今までの感謝を伝えたい。

 夢見に襲われた時、助けられなかった事を謝りたい。

 もっと、もっと、もっと、ずっと一緒に生きて──、

 

 大人になった君が見たかった。

 

 そんな気持ちの全てに蓋をして必死に抑えつけながら、縁はドアノブに手を掛ける。

 ゆっくりと回して、それでも扉は開くから、出て行こうとした──その時。

 

「──待って!」

 

 叫ぶ様な声と共に、

 

「お願い……待って」

 

 渚が後ろから、縁を抱きしめた。

 

「……渚?」

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 縁の耳に届いたのは、渚の嗚咽。

 兄の背中に顔を埋めて、渚は泣いていた。

 

「こんな事したらダメなの分かってるけど……けど、あたし……離れたくない! お兄ちゃんとさよならなんて嫌だよ!」

 

 理性で必死に縛り付けていた想い。

 兄を迷わせてはいけないと、ただ静かに、淡々と見送るつもりだった。

 だが、無理だった。野々原渚は、野々原渚が兄に向ける情感(おもい)は、そんな簡単に殺せる様な物であるはずが無い。

 

 たとえこの世界も、自分も、現実では無いとしても。

 現実にはちゃんと自分が居て、兄と一緒に暮らしているとしても。

 決してそれは、()()では無い。

 細胞も血液も、声も顔も、心と身体の何もかもが同じだけで、全くの別人なのだから。

 

 だが兄が居るべきはそんな別人(げんじつ)の側であり、自分(おもいで)の隣では無い。

 縁はこれから先もずっと生きていく。そうして段々と、彼の中で野々原渚という人間は、現実の彼女に染まっていくのだ。

 それと同時に、自分は確実に、縁の中で薄れていく。

 

「あたし消えたく無い! お兄ちゃんの中から、あたしが居なくなるなんて嫌だよっ! ごめんなさい、でも忘れられたく──」

「忘れるわけ無い!!」

 

 縁は渚の言葉を断ち切った。それ以上は言わせないとばかりに。

 

 良かった──別れを惜しむ気持ちが渚の中にあると分かっていたけれど、それを渚が自分の中に留めずちゃんと口に出してくれた事が、縁は嬉しかった。

 だからこそ、少しだけ──本当にちょっぴりだけ、縁は憤った。

 

「忘れるわけ無い、俺は引き摺るよ。現実の渚と会話する時、笑顔を見た時、喧嘩した時、笑ったり泣いたりする時、絶対に()と重ねる。それが良くないことだとしたって、一生死ぬまで俺は、君を引き摺って生きてくに決まってる!」

 

 それこそ、未練がましいと誰に言われようが構わない。

 

「でもそれで良いんだ。だって俺にとって、君も正真正銘の渚なんだから」

「……嬉しいけど、そんなのお兄ちゃんが辛くなるだけだよ?」

「辛くなんて無いさ。妹の事を想って辛くなんて──もうならない」

 

 確かにこの世界に来る前まで、縁は消えた“8ヶ月間”と現実の差に心を苛む事もあった。

 きっとこれからも、悠が言った通りその“差”を比較する事は出てくるだろう。

 

 だがそれを辛いとはもう、二度と絶対、思わない。

 何故ならば──、

 

「俺は()()()()()()()だから。これからもずっと、現実もうつつも関係なく、野々原渚(いもうと)が大好きで大切なお兄ちゃんだよ」

 

 別れを惜しんでいたのが、自分だけでは無いと分かったなら。

 世界は変わっても、気持ちは交差しているのなら。

 もう、縁は現実でも1人では無い。

 縁の中に半ば呪いとして刻まれていた“8ヶ月間”と“約束”は、正真正銘彼にとっての生きる原動力として、この先の人生を支えてくれるだろう。

 

「これからも渚は俺と一緒だ。誰かの記憶や印象に溶けたり、薄まったりなんてしない。ずっと一緒にいるよ」

「……そっか。そうなんだ」

 

 呟く渚は、まだ声が震えているが。

 その声に、確かな安心が芽生えたのが分かった。

 

「それなら……うん、うん。だったら、寂しく無いよね」

「あぁ。当たり前だろ」

「……良かったぁ」

 

 妥協でも諦めでも無い、心からの納得を、渚は得た。

 だったらもう、彼との別れを哀しむ必要は無い。

 直接言葉を交わすのはこれが最期になるとしても、それが別れの言葉である必要もまた、無いのだ。

 

「ごめんね、お兄ちゃん。最後まで我儘に付き合ってくれて」

「また、いつでも付き合ってやるよ」

「……ふふっ、ありがとう」

 

 鈴を転がすように笑って、

 

「ずっと一緒に居させてね、お兄ちゃん」

 

 

 ──その言葉と共に、縁を抱きしめていた温もりと感覚は、世界から消えた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……縁? どうしたの、こんな時間に」

 

 玄関のチャイムが鳴ったので、室内のモニターを確認した綾瀬は、来客者が自分の恋人であると分かった。

 家族が揃って家を空けているので寂しかったので、来てくれて嬉しい反面、普段と違う行動を取る事が少しだけ不思議だった。

 軽い足取りで玄関まで向かい、扉を開くとすぐに、綾瀬は恋人の異変に気づく。

 

「どうしたの、目赤いわよ?」

 

 真っ赤という程ではないが、普段の縁と違い明らかに赤らんだ瞳をしている。

 

「ちょっと目が痒くなっちゃって、擦っちゃった」

 

 聞かれた縁が、はにかみながら言った。

 

「もう、子どもみたいな事するんだから。目薬……は人に使うのはダメよね……」

「気にしなくて良いよ、もう痒くないし、痛くも無いから」

「本当? なら良いけど……取り敢えず上がって。ここで話してたら、虫が入ってきちゃう」

「うん、お邪魔するね」

 

 靴を脱いで、慣れ親しんだ彼女の部屋までまっすぐ向かう。

 綾瀬が口にした通り、今夜も彼女の両親は家を空けている。

 

「おじさんも、おばさんも、最近帰りが遅いんだな」

 

 先日も2人でアルバムを見たテーブルにつきながら、縁が尋ねる。

 綾瀬は持ってきたココアの入ったマグカップを一口してから、少しだけ寂しそうに答えた。

 

「2人とも、職場でそれぞれ問題が起きたみたい。お父さんの所は上司が病気で休んじゃって、お母さんの場合は……お客さんが増えて人手が足りなくなってるみたい」

 

 もっとも、海外に出てる縁の親とは異なり、あくまでも仕事が長引いてるだけなので、どんなに遅くとも日付が変わる前には帰ってくるだろう。

 それが分かっているから、すぐに綾瀬は小さく笑いながら続ける。

 

「お父さんとお母さん、この位仕事長い日はいつもね、終わった後に2人でご飯食べてから帰るの」

「へぇ、相変わらず夫婦仲が良いんだな」

「もうホントよ。休みの日なんて2人ともべったりなの。いまだに学生時代の恋愛が続いてるみたいで、見てる方が恥ずかしくなってきちゃって……」

 

 呆れた口調で言いつつも、同時にそれが誇らしく、また羨ましいと想っているのがよく分かる。

 ほんのり頬を紅潮させながら、再度マグカップを持つと、口元まで運んでから上目遣いになって綾瀬は言う。

 

「あたし達も、そんな風になれるかな……?」

 

 想い()の込められた視線と言葉を真っ直ぐに受けながら──ヒビ割れそうな心をそのままに、縁は応える。

 

「それなら、俺ももっと、男を磨かないとな」

「……30点、その返し」

 

 もっとロマンチックな返事を期待していた綾瀬は、少し頬を膨らませつつ、縁の右頬を優しくつねった。

 

「いてて……頬がちぎれる」

「そんな強くしてないでしょ」

「……100点満点の答えを言うには、まだ俺は足りないよ」

「そんな事無いわよ。……それに、そうだとしたって、女の子は好きな子男の子にはかっこいい事言われたいの」

「分かった、覚えとく。忘れない」

 

 頬に残る感覚、耳朶に響く言葉、向けられる想い。

 その全てを魂に刻みながら、縁は言った。

 

「……ちゃんと、覚えておいてよね」

 

 やや間を置いてからそう返す綾瀬に、縁は察する。

 綾瀬もまた、()()()()()()のだと。

 

「ねぇ、綾瀬。急な事だけど、お願いがあるんだ」

「え、なに?」

「綾瀬のピアノ、久しぶりに聴かせてくれないか」

 

 右手で部屋のピアノを指差して縁が言うと、綾瀬はすぐに笑って答えた。

 

「オーケー! ……と言っても、あたし最近弾いてないから、ちょっと上手くできるか分からないけど」

「問題無いよ、間違って弾いたって可愛いから」

「……45点」

「採点続いてるの!? 手厳しいなあ」

「そこは“きっと間違えたりなんてしない”て言って欲しかったの、もう……本当に乙女心が分からないんだから」

「な、なるほど……」

 

 複雑なのか、自分が疎いだけなのか。

 とにかく、綾瀬が満足する答えをすぐに出せる様になるには、今の彼には()()()()()時間が足りないのは間違いない。

 

「全くもう……それで、何を聴きたい?」

 

 先ほど両親の話をした時とは違い、純粋に呆れながらもピアノの電源を入れてから、気を取り直す様に綾瀬が尋ねる。

 少しだけ──この時間をほんのちょっとでも長くできる様に考えてから、縁はリクエストする。

 

「やっぱり、昔から聴いてるの、頼むよ。綾瀬の弾く曲でアレが1番好きだし」

「1番好きって言う割に曲名で答えないのね……まぁでも、分かるから良いか」

 

 そう言って、綾瀬は楽譜を思い出す様に瞳を閉じて──瞼を開いたのと同時に、指を動かし始めた。

 

 瞬間、綾瀬の奏でるピアノの音色が部屋中に広がっていく。

 防音が施された部屋は一切を外に漏らさず、綾瀬の音の一つ一つが、縁に届いた。

 

 ピアノを奏でる綾瀬の身体は僅かに揺れていて、その手は寸分の狂いもなく鍵盤を叩き、その足は適宜ペダルを踏み込み音色に彩りを与える。

 

 その姿を──その四肢を、縁は瞬きも忘れて見つめる。

 真剣に、それ以上に楽しそうにピアノを弾く綾瀬の姿は、縁の目には輝いて見えて。

 まるで、天使の様だった。

 

「そうか……俺をここに連れてきてくれたのは……」

 

 ポツリと漏らした縁の気づきは、ピアノの音の中で瞬く間に溶けて消えた。

 

 それから数分後、全くミスも無いまま曲を弾き終えた綾瀬は、少しだけ滲んだひたいの汗を手の甲で拭ってから、縁に言った。

 

「どうだった? あなたのリクエスト。久しぶりにしては、中々の物だったと思わない?」

「最高だった。本当に……ごめん、言葉が出てこないや。これじゃまた赤点かな」

「……ううん、100点満点の反応」

「そっか……はは、良かった」

 

 そう言って縁は椅子から立ち上がると、スタスタと綾瀬の隣に座る。

 恋人の急な行動に戸惑いながらも、隣り合った状態からは離れずに、そのまま聞いた。

 

「どうしたの? くっ付きたくなった?」

「それもそうだけど……ほら、俺昔この曲教えてもらったじゃん」

「あぁ……そんな事もあったわね。あなたったら、もう少しで覚えられそうな所で飽きちゃって」

「うん。だから改めて、教えて欲しいな。簡単な……連弾の引き方」

「……うん、分かった」

 

 疑問も質問も無く、綾瀬は頷いた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それからどのくらい経ったのか、時間の感覚溶けた2人の空間は何者の邪魔も入らずに、優しく2人を包んでいる。

 人並みの音感と、昔僅かに培った基礎を思い出しつつ綾瀬に教わった縁は、拙いながらも綾瀬と連弾できる様になった。

 

「それじゃあ、やってみる?」

「うん、行こうか」

 

 短い会話の後、今度は2人の連弾が、部屋を染めた。

 綾瀬の音に併せて、自分の音を重ねていく。

 綾瀬もまた、そんな縁の音に自分の音を織り交ぜる。

 別々の指から奏でられる旋律は、一つの音となり、2人を包み込む。

 

 まるで、2人だけの天国にいる様で。

 自然と、2人は笑った。

 

 やがて曲が終わり、2人は息を整えてから、肩を寄せ合う。

 

「……凄い良かった。こんなに楽しく弾けたの久しぶり」

「綾瀬が教えるの、上手だからだよ」

「ありがと……これで覚えたわよね、もう忘れないでしょ?」

「うん。2度と忘れない」

 

 2人で奏でた時間を。綾瀬に教えてもらった弾き方を。

 現実から手を伸ばして、この世界に連れて来てくれた彼女が、この部屋で与えてくれた全てを。

 

 未練と思い出が生み出した世界の中で、ただ一つ新しい物を、縁は現実に持ち帰るのだ。

 

「じゃあ、平気ね。これからは……あなただけで、大丈夫」

「……あぁ、もう大丈夫だ」

 

 声が震えるのを、涙が溢れるのを、縁は我慢出来るわけも無かった。

 この瞬間に至るまで、何人と別れてきたと思う。

 咲夜、ナナ、ノノ、悠、せんり──そして渚。

 積み重なった惜別の最後を前に、壊れない涙腺など縁は持ち合わせていない。

 

「……もう、またそんな風に泣いて。昔から変わんないんだから」

 

 それは偶然か、あるいは。

 あの時と同じ言葉を、綾瀬は言った。

 

「ほら、顔こっちに向けて?」

「──え?」

 

 クスッと微笑んで、綾瀬は半ば無理やり縁の顔をぐいっと引っ張ると、胸元に寄せて──そのまま抱きしめた。

 

「泣いてるあなたも好きだけど、きっとあたしが守ってあげるから安心して。何も不安になることなんて無いの」

「……っ!」

 

 あぁ、何度こうして優しい綾瀬の胸で泣けたらと、夢に思っただろう。

 最後にそんな所まで、彼女にすくわれた。

 ──だったらもう、こちらが安心させてあげなくちゃ。

 

 お別れの曲はとうに流れ終わった。

 旅立ちの時が──縁自身の未練を、消し去る時が来たのだ。

 

 綾瀬の背中に手を回し、同じ様に抱きしめる。

 それに応える様に、そして嬉しそうに、綾瀬はいっそう力を込めて、縁を優しく抱きしめる。

 

 お互いの瞳に相手の顔を写して、最後の言葉を交わし合う。

 

「ねぇ、縁──大好き」

「あぁ──綾瀬」

 

 あの時、言えなかった言葉。

 

「愛してる」

 

 もう一度だけ会って、そう言いたかった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……お兄ちゃん? どうしたの?」

 

 気がつけば、縁は交差点の──とっくに青信号になっている横断歩道の前で立ち惚けていた。

 

 右隣で心配そうに自分を眺める渚の言葉で我に返ると、取り繕う様に手振りを加えながら、縁は応える。

 

「あぁ、ごめんごめん。ちょっと考え事してた」

「信号が青になっても気づかない様な考え事? 気になるわね、言ってみなさいよ」

 

 渚と反対の左隣から、呆れた声で言うのは咲夜だ。

 

「それよりほら、渡る方が先だよみんな」

 

 急かすように手を叩きながら悠が言うと、慌てて3人も歩き出す。

 青信号が点滅し始めた所で渡りきった後、改めて咲夜が尋ねた。

 

「それで? 何考えてたの?」

「ヤケに引っかかってくるな、君……そんな気になる?」

「当たりま──じゃ無くて、いいから聞かれたことに答えなさいよね!」

 

 一つの発言の中で簡単にコロコロ表情を変える咲夜が面白くて、つい揶揄ってしまう縁だが、これ以上やると咲夜は不貞腐れるし、渚もヤキモチを焼き始めるので我慢する。

 

「受験のこと考えてた。もうすぐ夏が近いし、夏期講習とかやっとかないとなぁって」

「はぁ!? アナタまだ2年生じゃない、来年考える事でしょうそんなの」

「いやぁ、大学受験は高2の夏で差ができるって言うからさ」

「そんなの、志だけ無駄に高いの押し付けてくる自称進が言ってるだけよ。庶民らしく素直に夏を楽しむとかって考えにならない方がおかしいわ」

「……君ってタマに変な所から知識持って来るよな」

 

 まさか『自称進』なるセンシティブワードを、咲夜の口から耳にするなど、縁は思いもよらなかった。

 

「だけど、次からはそう言う言葉使うのやめような。敵しか作らないから」

「ハッ、この程度で生まれる敵なんて相手にならないわよ。それよりアナタ、ちゃんと夏は遊ぶ事を考えなさいよね! じゃなきゃ……」

「……ん?」

 

 言葉が途中で止まり不思議がって咲夜を見ると、自分の口に手を当てていた。

 何やら言ってはいけない事を口走ろうとした事に咄嗟に気づいたのか、どこと無く慌てた雰囲気を漂わせている。

 藪蛇な事も分かっていたが、気になってしまった縁はつい、先を促してみた。

 

「……じゃなきゃ〜?」

「──な、なんでも無いわよ!」

 

 案の定、顔を真っ赤にさせて騒ぐ咲夜に、縁は心底楽しそうに笑うのだった。

 

 その後、事前に綾小路家の2人が手配していた帰りの車がある場所まで辿り着いた一行は、それぞれ帰る事に。

 本来なら、焼肉を食べた店の前に手配させる事も出来たのだが、食後に少し運動するのも兼ねて、街をぶらりと散歩していたのだ。

 

「それじゃあ僕たちはこれで。ほら、咲夜も挨拶」

「ふん、知らないわよバカ。バーカ」

「あぁもう……すっかり不貞腐れて。縁も揶揄い過ぎだったよ今日は」

 

 すっかりヘソが曲がり、咲夜は迎えの車に1人先に乗り込んでしまった。

 咎めるように話す悠に苦笑いしつつ、縁は小さく頭を下げる。

 

「ごめん、反応が派手だからついつい」

「君ねぇ……あんまりそう言う事してると、渚ちゃんもヤキモチ焼くし何よりも──その内取り返しの付かない事になるかもだよ?」

「……ハイ、気をつけます。でもその時が来たら助けてな?」

「ばか。ちゃんと節度持って揶揄うコト、良いね?」

「了解、親友」

 

 サムズアップしながら答える縁に、本当に分かっているのか不安が過ぎりながらも、悠は取り敢えず今日はここまでとこれ以上の追求はやめた。

 

「それじゃあまた学園で。今日はまだ陽も長いし、楽しい休日を、親友」

「おう。……またな」

 

 グータッチの後、悠も車に乗り込み、2人を乗せた外車が遠く離れるまで見送ってから、残った兄妹も家路に向かい歩き始める。

 

「……お兄ちゃん、ちょっと良い?」

「ん? ……あぁ、今日は咲夜ばっかり相手しててごめんな。つい」

「あっううん、それは良い──ってわけでも無いけど、言いたいのはそれじゃ無くて」

「?」

 

 渚が何を聞こうとしてるのか、見当が外れた縁は下手に口を開かず、素直に続きの言葉を待った。

 

「さっき、受験のことを気にしてたって言ったけどあれ、嘘だよね?」

「あー、うん。全然違うこと考えてた」

 

 特に否定や誤魔化しをするまでも無く、縁はすんなりと認める。

 何となく、渚なら普通に気づくと思ったからだ。

 特に驚きもしなかった渚は、その後に当然続く問いを兄に向ける。

 

「じゃあ、何について考えてたの?」

「うーん……」

 

 これには、先ほどの様に即答とはいかなかった。

 どう言えば伝わるか。会話が成り立つのか……少しだけ考えて、縁は答える。

 

「色々複雑、だけどざっくり一言で表すなら」

「なら?」

「未来のことかな」

「……それって、結局夏休みの過ごし方と同じじゃない?」

 

 訝しげに縁を見る渚に、軽く笑いながら、内心確かに言ってる事同じかもと思いつつ、言葉を続けた。

 

「そんなすぐ先の話じゃなくてさ。これから一年、十年、二十年……ずっと続く人生をどうすれば、幸せに生きていけるのかなぁって。そう言うの考えてた」

「そんなスケールの広い事、考えてたの?」

「うん。今のままじゃ幸せってのもママならないからな。どんな努力が必要なのか〜とか。ほら、アニメの主題歌でもあったじゃん、努力・未来──」

「お兄ちゃん、そのアニメ3話まで見て嫌って無かった?」

「アニメはな。でも原作漫画は好きだから。主題歌も良いぞ」

「……なんかお兄ちゃん、面倒臭いオタクみたい」

「ばっか、何事も原作に勝る物はそうそう無いんだから。本当だぞ」

「ちなみに、原作より良い物ってなに?」

「うぇ!? うーん……」

 

 ある意味、先ほどの問いより更に難しい事を聞かれた縁だったが、パッと閃いたのは一つだった。

 

「実写版20世紀少年、とか?」

「……あたし、見た事ない」

「だよな! あははは!」

 

 分かりきっていた答えが返って来たのでひとしきり笑った後に、改めて縁は話を締めるように言った。

 

「とにかく、お兄ちゃんは色々これから考えていかなきゃ駄目なわけです。この先ずっと、今のままの生活なんて無理なんだから」

「でもそうなると、あたしとお兄ちゃんもいつか、離れなきゃいけなくなるんだよね」

「……どうしてそう思った?」

「だって……お兄ちゃんはいつか、この街を出ていくつもりなんでしょ? 例えば大学生になったら、東京とか」

「その可能性はあるかもな」

「だったら、そのときどう頑張ってもあたしはまだ中学生だもん。一緒には居られないもん」

 

 その通り。確かに縁が地元ではなく東京への進学を決めて、向こうで一人暮らしを決めた場合、渚は一人で暮らす他ない。

 無論、東京までついて行き、電車で通学する手段も渚は厭わないだろう。だがそんな強行軍を、両親が許すはずが無いだろう。

 早くて2年後には、渚は兄との別れを覚悟しなければならないのだ。

 

 もっとも、渚の想像通りならの話だが。

 

「別に、俺が東京に引っ越すとも限らないじゃん。そもそも東京の23区内だったら、家から電車で行ける距離ばかりだし」

「えっ、そうなの!?」

「大学って自分でどの講義受けるか決められるから、わざわざ朝イチのさえ履修しなきゃ、遅めでも構わないワケです。だから実家通いも大学次第で可能ってわけ」

「じゃあ、お兄ちゃんが卒業してもずっと一緒に居られるの!?」

「……そう言う未来も、可能性としてアリだって話」

 

 暗い未来予想図が一転、明るい希望が見えてきて、渚の顔が綻ぶ。

 

「それだったらお兄ちゃん、頑張って家から通える良い大学を目指そうね! あたし、応援するから!」

「だからまだ可能性の──まぁ、良いか」

 

 喜ぶ妹の気持ちを損なってまで、わざわざ否定する様な話でも無い。

 それに──、

 

「ずっと一緒だって、言ったもんな」

「え?」

「いいや、こっちの話」

 

 そう言って縁は、自分のポケットからあるものを取り出す。

 

「あ、さっきあたしが渡した飴。まだ食べてなかったんだ」

「うん、今食べるよ」

 

 自分をここに繋ぎ止めてくれた、妹との絆。

 特別な包装も何も無い、ありふれた飴玉を、縁はやっと口に含めた。

 

「パインドロップだ」

「お兄ちゃん、その味苦手だった?」

「いいや、慣れてないだけ。ハッサクと同じくらい好きかな」

「それ、好きなの?」

 

 柑橘系とはまた違った趣のあるすっぱさと、ほんのりとした甘い後味が口内に広がる。

 だんだんと溶けていくパインドロップが全部無くなった後、彼の未来にどんな出来事が待ち受けているのかは、誰にも分からない。

 

 幸せの定義も、どんな未来を生きたいかも、結局答えは出てこないけれど。

 まだたったの17歳に、そんな大それた事が見つかるはずもないんだから、気にするな。

 

 取り敢えず、今縁が決めるべき事は、すぐ目の前にある。

 

「まだ時間あるし、2人でどっか寄って帰るか?」

「うん、ご飯は要らないから、それ以外で行こう!」

「じゃあ服屋にしよう。渚に新しくマフラー代わりのもの買うよ。通気性の良いやつ」

「あたし、マフラー(これ)でも充分だよ」

「俺が買いたいんだ、駄目かな」

「……ううん、ありがとう。それじゃあ行こう! 善は急げだから」

 

 縁の手を掴み、急かす様に前を歩き出す渚。

 引っ張られる様に歩きながら、縁はついでとばかりに言った。

 

「あ、あとさ……良い加減綾瀬とも仲直りしたいんだけど……何か仲直りに渡すべき小物とかも、教えてくれたら嬉しい……」

「お兄ちゃん……??」

「……なんて、だめかな、ははは……はは」

 

 繋いだ手の温度が、こちらを見る渚の視線が、みるみると冷えていくのが嫌でも分かった。

 

「もしかして、そっちは本命なの……?」

「いやまさか! そんな事ないよ! ただ」

「ただ、なに?」

「俺、どうもその辺の乙女心がどうしても赤点みたいでさ……なりふり構ってられなくて」

「……はぁ、確かにお兄ちゃんは女の子の気持ち、全然分かってないね。誰がお兄ちゃんにそう言ったのかは分からないけど、気が合いそう」

「……うん、たぶん合うんじゃないかな」

「あのね、お兄ちゃん。こう言うのは物で釣る事じゃ無いの。綾瀬さんのために言いたくなんて無いけど、もし仲直りしたいなら、言葉で伝えなきゃ意味ないよ?」

「じゃ、じゃあ──直接、だよな。もちろん」

「答え言わなきゃ分からない?」

「分かります!!」

 

 あぁ、今己が身をもって、縁はよく理解した。

 彼の記憶や思考に触れない本来の野々原縁──ヤンデレCDの主人公とは、これほどまでにクソボケだったのだと。

 ヤンデレよりも最大の敵は、女心に無神経な自分自身だと言うのだからこれは、幸せな未来になる上で大きな課題だと感じた。

 

「……はぁ、しょうがないなぁ。敵に塩を送るみたいで嫌だけど、ここ最近のウジウジしてるお兄ちゃんも見てて嫌だったし、今から綾瀬さんに会いに行って、仲直りしてきたら良いよ」

「……ごめん。絶対今度埋め合わせするから、約束!」

「絶対だよ?」

「もちろん!」

「じゃあ……行ってらっしゃい、お兄ちゃん」

「あぁ、行ってきます!」

 

 野々原渚史上最大の譲歩をもらい、縁は慌てて綾瀬の家に(進路上渚も同じ道を歩くが)駆け足で向かいつつ、スマートフォンを手に、彼女の電話番号を表示する。

 通話を選べばすぐに綾瀬と連絡が取れる。

 問題は、彼の覚悟だけ。

 

 複雑な事情が拗れに拗れた結果、先日に大きな喧嘩をして以降、クラスも違う綾瀬とは、全く会話をしていなかった。

 その上で、自分から連絡を入れると言うのは、やはりそう簡単な事では無い。

 

 だけど、縁は決めたのだから。

 たとえこの先失うとしても──いいや、失わないためにこそ。

 こんなちっぽけな理由で、臆するわけにはいかない。

 

 走り続けて、後ろを振り返っても渚が見えなくなるくらい進んで、それでも走り続ける。

 その間もパインドロップは、タイムリミットの様に溶けていく。

 

 やがて綾瀬の家が見えてきた縁を止め、彼女が居るだろう2階を見上げてから。

 縁はスマートフォンに表示させていた『通話』に指を置く。

 パインドロップは──あの世界との最後の繋がりは、とっくに全て溶けていた。

 

 2コールを待たず電話は繋がり、()()()()の声がスマートフォン越しに届く。

 

『……もしもし』

 

 困惑と喜び、それらが混ぜこぜになった綾瀬の声を聴いて。

 縁は幸せな未来に進むための第一歩を、()()()()踏み出した。

 

 

 欲しかったのはハッピーエンド。

 

 手に入れた結末はまだどうなるか分からない、絶望と希望の紙一重。

 

 だからこそ、未知と可能性に溢れた世界で俺は生きていく。

 

 今際の際で交わした、約束があるから。

 

 俺の中で今も燦々と輝く、愛しい人々の思い出と共に。

 

 幸せになりたいからね。

 

「あのさ、綾瀬──」

 

 

 

 The end

 To be continued.

 However, only he knows what lies beyond.

 







活動報告にて後書きを書きました。
バイバイ


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。