さつばつぐらし! (備品猫)
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本編
1話


ゆきちゃんの元気さ以外の癒し要素は無しで、ずっとシリアスでいこうと思います。
そのゆきちゃんの癒しもあるかどうか分かりませんが。
(もう一つの連載の方は……待ってください)


 太陽は沈み、黒い影達はそれを追うよう動き出した。

 人の営みが消えた街。

 灯りの灯らない家々は形骸化した廃墟だ。

 生命の営みを感じないそれは、まさに墓標でもあった。

 そこに向かう影は墓に還る死者達だろうか。

 人間性を失い、生きている者を襲う獣達。

 

「……」

 

 夜になり彼等が学校から離れて行く。

 足立陸は扉をそっと開け、廊下を確認する。

 暗闇の中、確認出来たのは一体。背を向けてノロノロと歩いている。

 得物を確かめて教室から出る。ゆっくりと足音を殺して背に近づく。

 

「……」

 

 心拍数が上がる。口に中が渇く。荒い息を抑える。

 数回した程度では慣れない。結局のところ、これも殺す行為なのだ。

 十分な距離に近づき、棒を構える。

 狙うは足。不安定な片足になるタイミングで力を込めて叩く。

 支えを失い踏ん張りも出来ぬままうつ伏せに倒れた体を、動けないように踏んで抑えつける。そして両手で握った棒でその頭を何度も叩く。

 突き刺すように何度も何度も叩く。

 脆くなった後頭部から黒い液体が出てくる。

 足元のそれは苦しそうな声をあげ、手足をジタバタと動かす。だが足立は止めない。もう人間の常識の通用しない化け物になった彼等には、動きや声が止まるまで攻撃をやめてはいけない。狂気に犯されたように棒を何度も振るう。

 

「……」

 

 何度目かで彼等は動かなくなり、突き刺していた棒は脆くなった殻を破って柔らかな脳を潰した。

 足立は荒くなった呼吸を落ち着けて、屍体を仰向けに転がす。

 服装から三年生の女生徒だと分かった。

 醜くなった顔の面影と髪型から、クラスメイトの何度か話した事のある人だと思い出す。

 

「……ごめんな」

 

 少しだけ黙祷を捧げる。

 どんな人物だったのかよく憶えていない。

 どんな性格で、どんな交友関係を持っていたのか。

 知っていた所で悲しくなるだけだろう。知っていたところでどうしようもなかっただろう。

 ただ、弔うには少し寂しかっただけだ。

 女生徒だったその足首を持つと、足立はそれを引きずって校舎から出た。

 *

 足立が今まで生きていたの単なる偶然だった。

 人が人を襲い始める事件から、無事だった数人で何とか教室で立て籠もっていたが、油断し始めた矢先に一人が犠牲になった。

 次に助けようとした者が。怒りに狂った者が、英雄のように気取ろうとした者が。地獄のような現実に狂った者は自ら命を絶った。

 足立が生きていられたのは、希望に縋っていたからだ。

 生きていれば助けがくるかもしれない。生きていれば自分で活路を見出してここから逃げ出せるかもしれない。

 生きていれば。きっと。

 これは悪夢だと、目が覚めればいつもの日常が帰ってくる。そうも思ったが終わり方も分からず、自殺するにはまだ絶望しきってもいなかった。

 生きていれば。

 孤独な足立の心は少しずつ磨耗していた。

 *

 屍体を処分した足立は一階の生存者を探した。

 彼等を見つければ奇襲を仕掛ける。

 夜になって数も少なくなり、夜目が効かない彼等を一方的に倒すのは簡単だった。

 夜は長い。

 一つ一つの教室を丹念に調べる。

 机、椅子、教卓の下。ロッカー、掃除道具入れ、トイレ。

 しかし何処を探しても誰も居ない。誰も生きていない。無惨な程に食い千切られた遺体に蛆が湧いているだけだ。

(そりゃあ……居ないよね)

 昨日の夜も一階を探索したのだ。遺体の場所から何まで憶えている。

 それでも見落としがないかの確認のつもりだった。だが、結局足立には何も変わらない現実を突き付けられただけだった。

(二階なら……)

 一階に見切りをつけた足立は二階へと続く階段をゆっくりと登り始めた。

 *

「うっ……うっ……」

「……ゆきちゃん? きっと大丈夫よ。生きていれば、きっと」

「……屋上で篭るのも、そろそろ限界だな」

「……そうね。でも、外も学校と同じ状態なら……」

「それでも此処だけじゃあ早死にしちまうよ。……わたしはまだ生きたい」



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2話

一応、グロい描写があるつもりなので注意。


 暗闇の中を進む。

 月明かりが無くても、闇に慣れた目にはよく見える。

 割れたガラス。

 床や天井にまで付いた血飛沫。

 外れた扉や倒れた椅子と机。

 腕や足、原型を留めていない遺体。勿論何の処置も施していないそれらは腐り、蝿が集り蛆が蠢いていた。

 だが足立には鼻が曲がる臭いも、見るに堪えない光景も、慣れてしまえば何という事はなかった。

 

「……」

 

 一階と変わらない二階の状態に足立は憂鬱になる。いや、一階よりも数が多い影を見ると失望すらしてしまう。

 このまま彼等の仲間になってしまえば。

 心が悲鳴をあげる。

 だがまだ希望はある。

 まだ見ていない教室がある。まだ三階や屋上だってある。

 きっと誰か生存者が居るはずだ。たとえ学校に居ないなら町を探せばいい。

 

 もし、最後の最後まで誰もいなかったら。

 生きているのが足立だけだったとしたら。

 その時は絶望して、彼等の仲間になればいいのだ。

 まだやる事は沢山ある。

 *

 遺体は屋上から投げ落とした。

 菜園の空いたスペースに埋めようとも考えられたが、また息を吹き返すかもしれないかと思うと、傍に置いておくのは怖かったからだ。

 だが黒ずんだジャージを着たそれは二度と起き上がらず、落ちた時から変わらずそこにあった。

 

 ゾンビ。

 生ける屍体。動きは愚鈍で力が強い、噛んだ相手が生きていようと仲間にする。余りにありふれ過ぎてチープな存在の彼等が、今日も校庭や校舎を彷徨っている。

 下にあるジャージを着た巡ヶ丘学院の元OBも、この屋上で彼等になった。

 彼の止めを刺したのは皮肉なことに、彼を助けて、彼を慕って、彼に恋い焦がれていた少女だった。

 その少女がは今、その先輩を殺した凶器を背負い、三階へ続く唯一の扉の前で準備を整えていた。

 

「本当に大丈夫なの?恵飛須沢さん」

「もう、めぐねえはホントに心配性だなぁ」

「当たり前じゃない! こんな事は教師の私が」

「めぐねえは出来ないよ。……でも私はもう経験したから、割り切れる」

 

 この優しい女性にそんな事は出来ない。学校で彷徨っているのはこの学校にいた生徒ばかりなのだ。その面影を見ただけでこの人は怖気付いてしまうだろう。

 だから、殺す事を経験した、経験して吹っ切れた自分が行くべきなのだ。汚れ役が増える必要はない筈だ。

 恵飛須沢胡桃は頑としてその役目を譲ろうとしなかった。

 巡ヶ丘学院国語教師、佐倉慈にもそれは分かっていた。

 臆病で心配性で腰が簡単に引けてしまう自分が彼女の役割にかって出るなど無理なことなのだ。

 彼女達の教師として、危険な行為をさせる自分が許せなかった。そう考えているのに何も出来ない自分が、さらに情けない人間に思えてならなかった。

 

「だから、めぐねえとりーさんで頭を捻って考えてくれ。三階の制圧の仕方、今後の事。私はその安全を確保するだけだ。……あいつはめぐねえが居ないと駄目だしな」

 

 胡桃には自己嫌悪する慈の考えが手に取るように分かった。気にするなとは言えない。彼女にしか出来ないことをやって欲しかったからだ。

 あの日から殆ど動いていない丈槍由紀の支えは慈だけだった。あの事件の前なら、持ち前の元気さで胡桃や若狭悠里とも仲良くしたかもしれないが、今の彼女はひたすらに塞ぎ込んでいた。

 置かれた状況を理解出来ずに、辛い現状を受け入れたくない彼女が頼れるのが事件前から慕っていた慈だけだった。

 このままではいけない。このままでは彼女は狂うか自分の中に永遠に鬱ぎ込むかだ。

 この現状を理解して仲間として一致団結するには慈の橋渡しが必要なのだ。

 

「分かったわ。でも、約束して。危険だと判断したらすぐに戻るのよ?」

「わかってるって」

「はぁ……じゃあ行きましょうか」

 

 まずは校舎内の現状把握をする為に、胡桃と慈で探索をすることになった。生存者の救出と、出来れば食料の確保もしたかった。

 

「悠里さん、私達が出たらすぐにバリケードで扉を抑えてね。……それと由紀ちゃんのことも」

「ええ、分かっています。先生も胡桃も無理しないでくださいね」

「じゃあ、行ってくるよ」

 

 事件以来閉じられた扉を開ける。

 血臭と腐乱臭が鼻をうつ。

 

「うっ……」

「どうして……こんな」

 

 暗闇に慣れてきた目で、その場の惨状がようやく理解できた。

 胡桃も慈も目の前の光景に吐き気を堪えるしか無かった。

 乾いた血が、まるで壁に塗りたくられたように付き。人体の一部だったと思われる物が散乱していた。

 屋上に逃げようとした生徒達の無惨な姿。

 地獄はすぐ側に広がっていた。

 *

「ちっ……」

 

 奇襲の大前提として相手は一体でないといけない。

 一体にかかる時間を考えれば複数を相手にするのは不可能だった。ちまちまとダメージを与えて倒すなんてゲームみたいなことは出来ないのだ。

 廊下の一体に奇襲をしかけた時、物音に反応したのか二体が教室から出てきてしまった。

 失敗だ。なるべく校舎内の数は減らしておきたかったが、こうなってはどうしようもない。

 足立は彼等に背を向けるとその場を離れた。

 鈍重な彼等から逃げるのは簡単だった。角を曲がって誰もいない教室に入り、扉を静かに閉める。

 次はどうする。足立は考える。

 二階の惨状をを見ると三階も同じような状況だろう。そうなると三階に生存者がいるとは思えない。

 実際はわからない。分からないなら確かめるしかない。

 三体もいるのでは足立に為す術はない。

 そうそうに二階の探索を諦めて、足立は教室を出ると元来た道を戻っていった。

 *

「……めぐねえ、下がってて」

 

 一体は階段を降りたすぐ先にいた。彷徨い歩く姿に理性はない。食物を求める獣と同じだった。

 だが、それでも制服を着た姿は、どうしようもなく二人に暗い気持ちを持たせる。

 彼等も望んであんな姿になった訳ではない。きっと彼等から逃げたり、誰かを守ったり戦ったした果てにあんな姿になってしまったのだ。

 

「……」

 

 覚悟を決めた胡桃は、素早く近付くとシャベルをその頭に振り下ろす。鈍い音と湿った音が響く。

 倒れた体を踏んで抑えつけ、シャベルの先を向ける。

 彼等となった男子生徒は呻き声をあげ、手を胡桃に伸ばす。

 

「……おやすみ」

 

 その切っ先は正確に顔面を貫き、脆弱な脳髄を破壊した。

 シャベルを伝って、どろりと黒い液体と肉片がこぼれ落ちる。脳を破壊された体は陸揚げされた魚のように痙攣すると、それ以来動く事はなくなった。

 動かなくなった事を確認すると胡桃はシャベルを引き抜いた。

 シャベルから血が滴る。

 彼等は結局、人間と何も変わらない。中枢を潰されれば生命活動は停止する。

 

「……」

 

 どんなに吹っ切れたからと言って、それでも胡桃には人殺しの感覚が残っている。

 どうしようもないのだ。

 どんな相手でも、それが彼等なら殺さなければならない。でなければ無惨に食べられるかその仲間になるかだ。

 殺して殺されて。

 そんな殺伐とした環境から人間を守る社会が壊れただけで、それは自然では当たり前の事だ。

 

「……」

「……めぐねえ、行こう」

「……ええ」

 

 やすらかに眠って欲しい。

 慈にはその祈りが自己満足と分かってはいるが、それでも醜い姿を元の男子生徒が望んでいたとは考えられない。

 せめて、これで彼が解放させるように。

 胡桃と慈は暗闇の廊下を再び進み始めた。



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3話

アニメがバッドエンドじゃなかったんで原作を買わずに済みました。
いやまぁ買うかもしれないけど(どっちだよ)
あと、自分は巡ヶ丘学院の見取り図知らないので、作中の教室の場所とかは深く考えないほうがいいと思います。


 そっと覗いた廊下には黒い影が蠢いていた。

 

「あっ……」

「ちっ……こんなに居るのかよ」

 

 あの事件が起こった時、一階で増える彼等から逃げる様に多くの生徒が上へ上へと三階へ集まった。後から来た彼等に襲われたのか、もしくは逃げていた中にすでに彼等に噛まれた生徒が居たのか。

 三階は慈や胡桃の考えていた以上に彼等の数は多かった。

 

「恵飛須沢さん。一旦引きましょう」

 

 一体ならまだ胡桃の運動神経の良さを生かして倒すことも出来ただろうが、複数を相手にするのは明らかに不利だという慈の判断だった。

 それは胡桃も自覚していた。慣れない内に無理をすれば、どう考えてもやられてしまうのは自分だからだ。

 一体ずつ誘き出して倒すことも出来るだろうが、三階の現状がある程度分かっただけでも慈にとっては収穫だった。

 

「ここから先は諦めるけど、……食料は持ち帰らないと」

 

 屋上の菜園だけでは何時か身体を壊してしまう為、食料を調達するのは死活問題であり、その為に購買部へ食料を調達しに行くというのは最優先事項であった。

 三階の現状さえ把握しきれていないのに、一階まで行くのは危険な行為だ。だが、危険だからと何もしないでいるのでは状況は悪化するだけだ。そう慈も理解してはいるが、胡桃を危険に晒すというのは乗り気になれるものでもなかった。

 

「じゃあ、様子を見ながら進んで行きましょう。なるべく彼等と会うのも……恵飛須沢さん?」

「何か聞こえる……」

「え?」

 

 言われてから慈も気付いた。鈍い音が微かに聞こえる。

 

 

 物を叩く音。

 

「……下からだ。あいつらが何かをしてるのかな」

「分からないけど、一応確認しましょう」

 

 音がしているのは階段からだった。足音を立てずに慈達は来た道を戻っていく。

 どこか規則正しく聞こえるそれを、胡桃は何かの機械の音かと思い始めていた。だが近付くにつれて、鈍い音とともに水が跳ねる様な音も聞こえてきた。

 胡桃には聞き憶えがあった。彼等を殺した時の、シャベルが突き刺さった瞬間の血が跳ねる音。

 悪寒と恐怖が一気に胡桃を襲った。見てはいけない物がすぐそこにある、そう直感が警笛を鳴らす。

 

「……めぐねえはここで待ってて」

「ちょっと……恵飛須沢さん!」

 

 慈を置いてすばやく階段を見に行く。

 それは居た。二階と三階を繋ぐ階段の踊り場。

 巡ヶ丘学院の男子の制服を着て、足で押さえつけた彼等の頭を棒で殴っている少年。

 ひたすら、機械の様に棒を彼等の頭に打ち付けている。

 生存者。彼等になっていない人間。動きが滑らかで、ぎこちない彼等とは明らかに違うと分かる。

 そして、その少年のしている行為も胡桃は分かっている。

 彼等を葬っているのだ。人間の急所を潰せば彼等は倒せる。だから顔を殴っている。

 だが足で押さえつけているそれは既に呻き声をあげず、動きさえしていない。

 それはもう、ただの死体だ。彼等とて、死ねば動かなくなる。

 それでも少年は執拗に、ただひたすらに頭に棒を振るっている。機械のように、命令された事を実行し続けるロボットのように。

 狂気だ。狂ったように規則正しく棒を振り下ろしている。

 殴打の痕でさらに醜くなった顔が潰れていく。目も鼻も口も、骨は折れ形が歪み、血がその顔を濡らしている。

 胡桃は息が出来なかった。

 

 これが人間のすることなのか?

 これが理性ある人間のする事なのか?

 ひたすらに食物を求めて徘徊し人間を食らう彼等と、ひたすらに頭を潰す為に棒を振るうその少年が。

 胡桃にはその少年が、化け物に見えた。

 *

 何回か棒を振っているうちに棒は頭の中に刺さった。

 脆くなった頭蓋を粉砕して、その内側の柔らかな肉塊を潰したのだ。

 

「……ふぅ」

 

 肩の力が抜ける。

 棒を引き抜いて死体から足をどける。

 三階への階段を登っている所を転かせて、いつも通り頭を潰して殺した。疲労で力が無くなって、頭を潰すのも時間が掛かってしまった。

 

「……おい」

「ぁ」

 

 不意に後ろから、懐かしい音が聞こえた。あまりの懐かしさに返事の仕方が思い出せない。

 ずっと聞けなかった、聞けないだろうと諦めかけていた音。

 人の声。彼等が漏らす呻き声ではない。言葉というには少々乱暴だがそれでも意味を持った音が。

 振り向くと踊り場の足立を三階から見下ろす人影。巡ヶ丘学院の女子制服を着ていることからここの女子生徒であること、リボンの色から三年生であることが分かった。顔は見たことがあるが、名前までは知らない。

 生存者だ。彼等じゃない、理性ある人間。

 嬉しい。自分一人だけじゃなかった。こんな時はどう返事すればよかっただろう。久しく忘れていた感情に足立の頭はくらくらする。

 だが、女生徒の表情は足立と同じ感情を持っているとは思えないものだった。その雰囲気でさえも同じ生存者に会ったというよりは、恐ろしい何かに警戒しているようなものだった。

 何かがおかしい。足立は自分とその女生徒の間で認識の違いがあるのを感じる。

 

「お前……本当に人間なのか?」

 

 女生徒は三階から足立を見下ろしたまま、恐る恐る問い掛けた。

 

「……は?」

 

 一瞬その女生徒の質問の意味がわからなかった。

 相手も足立が生存者である事は気付いている。だが、何かが足立を人間だと思わせていない。

 意味がわからない。俺は人間だ。あの事件から生き延びて理性をもった人間の生存者だ。

 叫びたい衝動を抑える。

 だが足立は少し冷めた頭で理解する。

 きっと女生徒は何かを誤解している。何処かが少し可笑しいから、ちょっと混乱しているだけだ。

 手元を見る。

 ずっと使っている得物は血が染み込んでいる。汚い見た目だが、彼等を倒すなら汚れを気にしている余裕はない。

 手のひらや腕も多少汚れてはいるが気にする程度ではない。

 足元を見る。

 彼等は死んでいる。もう頭を潰したから動かないし、脅威もない。何の問題もない。

 あの日からずっと履いている上靴も、返り血で黒く汚れている。何度か彼らの顔を踏みつけたので、ズボンの裾も血で汚れてしまっているが、気になるものじゃない。

 改めて上にいる女生徒を見る。

 手に持っているのはシャベルで、その先は黒く汚れている。その制服も返り血が少し付いている。彼女が彼等を殺して付いたのかは分からないが、血を気にしている風には見えない。

 何が違うというのだ。程度差はあるが、足立も女生徒も何も変わらない。

 彼女は、何に怯えているのだ。足立には全く分からない。

 分からないことは答えようがない。

 胡桃の質問から二人は睨みあったまま……

 

「恵飛須沢さん!誰かいるの!?」

 

 しかし静寂は断ち切られた。

 女生徒の後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

 足立の記憶が蘇る。この学校で授業を受けていた時の記憶。

 彼女をどう呼んでいただろう。

 

「……佐倉先生?」

「……足立さん?」

 

 女生徒の隣へやってきた人物は足立にとって面識がある人物だった。

 足立のクラスの現代文を担当していた若い教師。

 足立の姿を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。その姿があまり大人には見えなかった。

 そうだ。何処か子供っぽい先生で、その親しみやすさが生徒にも人気であったと思い出す。

 

「良かった……生きてたのね。大丈夫? 怪我はない?」

 

 足立は少しくすぐったい気持ちを感じた。身長も慈のほうが小さい為に側からは情けなく見える気がしたからだ。

 だが嬉しかった。佐倉慈が昔と変わらず生徒を心配している姿が懐かしい。

 少し目頭が熱くなる。

 

「はい、これ」

「……ありがとうございます」

 

 足立が泣いている事に気がつくと、慈は純白のハンカチを足立へ差し出す。

 目元をハンカチで軽く拭う。白い生地に赤黒い汚れが付いている。

 返り血が顔まで付いている。ずっと鏡を見ていなかったから酷い顔をしているんだろうな、そう思うと少し笑えた。

 

「これは……足立さんが?」

 

 足立の足元を目で示しながら聞いてくる慈。流石に顔はしかめている。

 

「はい。……頭を潰しましたから、大丈夫だと思います。……生きてるのは二人だけですか」

「いいえ、屋上にあと二人いるわ。恵飛須沢さん?」

 

 女生徒は呼ばれてやっと険悪な雰囲気を引っ込めて、踊り場へ降りてきた。

 

「……さっきは悪かった。私は恵飛須沢胡桃。よろしく」

「足立陸です。よろしく」

 

 何だかよく分からなかったが、険悪な雰囲気を掘り返す様な事はしない。

 これからは生存者同士で協力しなければならない。

 

「急に聞いて悪いが、足立は下の階から来たのか?」

「ああ、一階で立て篭ってた」

「購買部まで食料を調達しなくちゃいけないんだ。そこらへんの現状は分かるか?」

「二回行ったから大丈夫だ。急いでるなら早い方がいい。遠回りになるけど一階を使っていこう。二階よりも一階の方が数が少ない」

 

 夜は彼等に有利に働ける。一階で生き残った足立の経験からそう考えた。

 

「なら行こう。めぐねえ」

「ええ」

 

 三人は素早く階段を降りて行った。

 *

 一階に着いた時、胡桃と慈は目の前の惨状に目を背けたくなった。

 屋上前の比ではない。彼らに食べ尽くされ、中身を晒した死体が至る所にあった。形が人のままである分、死者の壮絶な最期を思い起こさせる。

 そしてその中を黙々と歩く足立を見て、胡桃は理解した。

 足立は狂うしかなかったのだと。

 立っているだけで吐き気を催し、気が狂いそうな場所で、生きていく為にはこの環境を当たり前に思わないといけなかった。

 

「……」

 

 胡桃は自分たちの前を進む男子生徒を改めて見た。

 全身くまなく血に汚れている。元は箒だっただろう武器である棒も真っ黒である。

 奇妙な事に、この場所ではその姿が様になっていた。どれ程過酷な中を生き抜いたのか、慈にも胡桃にも想像はできない。

 

「……」

 

 歩みの遅い二人を見て足立は気付いた。

 二人はまわりの死体を気にしている。その青ざめた顔は吐き気さえ覚えているようだった。

 足立も最初はそうだった。知り合いだった奴が内臓を晒し、腸を散らかし、皮膚を無くして黄色い脂肪と赤い筋肉を見せ、血を流す様をみて吐く事しか出来なかった。吐いて吐いて、胃液だけで何度も嘔吐いているうちににいつの間にか慣れていた。

 慣れなのか頭が麻痺したのかは足立にも分からないが、一階の環境ではそれは正解であった。

 いちいち吐いていたら既に彼等の仲間になっていたかもしれない。

 そこまで考えて足立は胡桃の言葉を思い出した。

 人間なのか。

 なるほど仕方ない反応だ。きっと彼女は一階の惨状は知らず、多分無惨な死体もあまり見ていなかったのだ。だから頭を潰していた自分がおかしく見えた。

 

「……彼等は死体みたいだ。冷たくて、体も腐敗して、たとえ体の一部が無くても平気で動いてる」

 

 言い訳がましいが足立は言っておきたかった。自分は彼等じゃない理性ある人間だと。

 

「死体の横を通った時、急に足を掴まれた。死体だと思っていたのは、既に彼等だったんだ」

 

 慈は急に話し出す足立に驚いたが、胡桃は理解した。

 彼が執拗に頭を潰そうとしていた理由。

 

「……動かないから大丈夫なんて事は無いんだよ」

 

 勿論頭を潰したからと言って本当に死んでいるかは分からない。それこそ死体を燃やすくらいしないといけないのだろう。

 

「……ごめん」

「こっちこそごめん。それに、多分恵飛須沢達が普通なんだよ」

 

 慣れているにしろ感覚が麻痺しているにしろ、あの事件が起こる前の当たり前の日常の中で考えると狂っているのは足立だった。

 例え昔の日常が無くなっても、そうゆう感情は大切なものだと足立は思っている。壊れ始めている自分を思うと彼女達だけでも昔の感覚を残していて欲しかった。

 

「……もうこの先だ。必要な分だけ取ってさっさと帰ろう」

「ああ」

「ええ」

 

 三人は手早く用事を済ませると暗闇の中を戻って行った。



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第4話 (後書きにオマケ有り)

「由紀ちゃんの出番がないんですけど」
「ごみん」


 夜が明け、暗闇に包まれていた空が明るくなってきている。

 だが、光量はまだ校舎内の闇を払う程ではない。

 一階の教室。

 足立は食料や日用品、必要だと思った物をバックにひたすら詰め込んでいた。

 購買部で食料を調達した帰り、慈達と屋上に行く為に足立は今まで拠点として立て籠もっていた部屋に持ち物を取りに寄り道をさせてもらった。

 最初は六人で使っていた教室が、今では足立一人の生活空間だった。

 正午に起き上がりストレッチをし、十五時に食事を摂る。日が沈んだ夜の時間から学校を探索する。朝日が覗く頃に教室に帰り、お昼まで眠る。間の時間は読書をして潰す。

 惰性で生きていた空間。だから思い出はあまりない。一晩で五人が居なくなってしまい、彼等の生きていた跡が少しも残っていないからだ。

 重たくなったバックを背負って教室の扉を開ける。

 

「……じゃあ」

 

 足立は誰にともなく、教室内に向かって言う。

 教室の扉を閉め、足立は教室の外で待っていた慈達の元へ向かう。

 

「すいません。待っててもらって」

「いいのよ」

「用事は済んだか? さっさと行こう」

 

 先頭を足立が、背後を胡桃が警戒しながら屋上へ向かう。一階の道中に居たのは一体だけで、足立が転ばせることで戦闘は回避した。

 階段まで来ればあとは一気に屋上まで上がるだけだ。足が疲れてきているが、止まらず駆け上がる。

 二階に着く。彼等は近くに居たが、そのまま三階へ上る。もう大丈夫だと思ったのか、三人は足音を気にせずに階段を駆け上がっていた。

 だが、三人が油断するのを狙っていたかのように、屋上への階段を塞ぐよう三体の彼等がいた。階段を上る音で気付いたようで、三階に着いた足立達を狙っている。

 

「くそっ……まじかよ」

「ひっ……」

「やばい! 下からも上がって来てる!」

 

 止まっているうちに廊下からも彼等が数を引き連れてやって来た。

 四面楚歌だ。

 屋上へ行くには突破するしかない。だが三体を一度に相手にするのは無理だ。例え立ち向かっても無傷では済まないだろう。

 どれだけ解決策を考えようとしても足立の頭には出てこなかった。無意識に絶望して、諦めてしまっているのかもしれない。

 そうこうしているうちに、三人は追い詰められて行く。

 

「無理だ……」

 

 例え思っていても何とか体は動いただろう。だが、口からでてしまった言葉が力を奪っていく。

 棒を握る力が抜けていく。

 膝が力を失う。

 全身が脱力するのを感じながら足立は思った。せっかく生存者に会えたのに、何と悲惨な最期だろう。今まで生き延びてきたのに、何と残酷な最期だろう。

 崩れ落ちている慈も、彼等を何とか牽制している胡桃も、現状を打破できる策が出てこない。

 もう無理だ。

 しかし、絶望する中で三人は何かを感じた。

 背後から何か温かいものを感じる。

 振り返って分かった。朝日だ。

 窓から陽が射し込む。光が廊下を、階段を照らしだす。

 眩しい。暗闇に慣れていた目を細める。だが、それと同時に、その視界の端で狼狽える彼等の姿が見えた。彼等も突然の眩しさに目が眩んだのかもしれない。

 今しかない。

 足立と胡桃は考えるよりも先に体を突き動かした。

 屋上への階段を塞ぐ一体を足立が棒で突くように倒し、残り二体を胡桃がシャベルで横薙ぎに倒す。一体は体勢を崩しただけだったが、胡桃自身が驚く程の力が二体の首を吹き飛ばした。

 

「めぐねえ!」

 

 胡桃は慈の手を取り階段を上り始める。足立は立ち上がろうとしている一体を階段から蹴り落とすと、引っ張られている慈の肩を支えて階段を上がる。

 

「りーさん! 開けてくれ!」

 

 階段を上る途中から胡桃が叫ぶ。

 扉の前に着く。胡桃がドアノブを握って押しても開かない。バリケードが邪魔で動かないのだ。

 

「くるみっ!? 待ってて! 今すぐ開けるから!」

「早く!」

 

 彼等の呻き声が下からも聞こえてくる。あんなに鈍重な彼等が、待ちわびた獲物を食べる為に登って来ている。

 

「りーさん! 早く!」

 

 胡桃が苦しそうに叫ぶ。

 彼等の姿が見えた。ゆっくりと進んで来る。袋小路の獲物を前に口から涎を垂らし、口を大きく開ける。

 きっとこの数に襲われれば彼等にならずに死ぬだろう。全身を引き裂かれ、食い千切られ、誰か分からない程に無残な死体に。

 

「ああああああああああああああああああ‼︎‼︎」

 

 胡桃がドアをバリケードごと押そうとしている。それに気付いた足立と正気に戻った慈も一緒になって押す。

 屋上では悠里と由紀が園芸部のロッカーを扉の前からずらしていく。内側の三人の力ですぐにロッカーは動き、三人は屋上へなだれ込む。悠里が素早くドアを閉めるが窓から彼等が手を出す。

 

「くそっ!」

 

 胡桃が素早く動いてロッカーを扉の前に動かしていく。つられて悠里と由紀が、慈と足立が一緒になってロッカーを動かしていく。

 彼等の尋常ではない力にロッカーは突き飛ばされそうになるが五人で抑え続ける。

 彼等が諦めて帰って行くまで。五人で抑え続けた。

 *

 彼等が諦めて帰るのを確認すると、足立達はロッカーの周りにダンボールや園芸用の土が入った袋を置いてバリケードを戻した。

 

「あぁ〜……疲れたぁ〜……」

 

 どっかりと屋上の手摺にもたれ掛かるに胡桃が座り込む。

身体中に疲労感を感じた足立も、手摺の近くまで行くと仰向けに倒れ込んだ。

 

「はぁ……」

 

 いつも臭っていた異臭が屋上では殆どしない。

 青い空も、照りつける太陽も、肌寒い風も、校舎からも全くと言っていいほど出ていなかった足立には全てが久しぶりの感覚だった。

 今になってようやく足立は生きている心地がした。

 もう戻りたくない。校舎内の惨状をこのまま忘れてしまいたい程に、今までの日常を大切に感じる。

 

「足立君……よね?」

「あっ……若狭か」

 

 足立は思わず顔をほころばせる。足立と悠里はクラスメイトで特に親しくはなかったが、それでも足立は知り合いが居るのは嬉しかったからだ。

 

「顔、汚れてるわよ。はいこれ」

「ありがと」

 

 若狭はタオルを足立に渡すと足立の近くに座る。足立も体を起こして、背を手摺にもたれかせる。

 悠里から渡されたタオルで顔を拭う。濡れ絞ったタオルが冷たく気持ち良く感じる。

 

「……他に生き残ってる人は」

「……分からない」

「……ごめんなさい」

 

 そう言って悠里は顔を俯かせる。学校の惨状をある程度知っていた悠里も、もう少し生存者がいると思っていたのだろう。

 

「……でも、こんな生きてるなんて思ってなかった。もう俺以外いないって思ってたから。……だから俺は今凄く嬉しい」

 

 素直にそう言えた。勝手だが、悠里達にはまだ希望を捨てないでいて欲しかったからだ。

 

「……ええ、そうね。貴方も生きてるし、まずは喜ばないとね」

「そうそう。せっかく生き残ったのにちょっとは喜んでくれないと」

 

 タオルを顔から外す。

 赤黒い血が真っ白だったタオルを汚している。ずっと一人だった為に外見を気にする習慣が抜けていた。見てみれば制服も下から上まで血に汚れている。

 

「……服も、汚れてるわね」

 

 若狭が足立の視線に気が付く。

 

「こればっかりはどうしようも無いよ。替えなんて持ってきてないから。……いつか衣服を何処かで調達するから」

「でも、衛生的に悪いし……」

 

 そうゆう若狭の視線は屋上に備え付けられた蛇口を見ていた。足立は悠里の考えている事を理解する。

 

「……いやいや女子いるし」

 

「見えないところあるから、そこで洗ってもらうわ。服が乾くまでは……あのブルーシートに包まってもらうわ」

「まじかよ……」

 

 足立の、別の意味で厳しい日常が始まろうとしていた。




ここから少しネタ的なオマケです。
正直面白くはないです。
元ネタはBloodborneです。



 胡桃はゆっくりと角から覗き込む。
 雲の隙間から月が顔を出す。
 夜の灯りが窓から廊下を照らす。
 獲物をひたすらに切りつける男がいる。
 恐るべき膂力で凶器を振るっている。あまりの力に既に動かない獣の体が浮き上がるほどだ。
 深く、深く、体を両断する程深く。
 血がその体から全て流れてしまうくらい深く。
 振るう度に血飛沫が辺りを赤く染め上げる。
 そして最後に大きく振って獣を引き裂いた。
 身に纏った衣服は血に濡れ、月光によって微かに煌めいている。
「……どこもかしこも、獣ばかりだ……」
 男の周りにはには深い傷から血を流し続ける死体が辺りに存在している。
 折り重なったり、体が半分になっていたりしていて。数を数えるのは困難だろう。
「……貴様も、どうせそうなるのだろう?」
 生きていようと、病に罹れば皆彼等になる。
 なら、何処で死のうと関係ない。
 例えこの場で殺されようと。
 腹から空気を吐き出す。新しい空気を体に取り込む為に。
 匂い立つ、血の香りを体じゅうで感じる為に。
 そして皆、血に飢えた獣になる。
 狩りの夜は長い。
 血が求めるままに。


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5話

あぁ……血が……血が足りない……。


 誰かを批難する時に、悪魔という概念を使う。

 残酷で残虐で残忍で、そういった諸々の悪い意味を込めて使われる。

 人間が表す悪を具現化したものが悪魔なら、悪魔は人間と殆ど変わらないのかもしれない。

 では、校庭を彷徨う彼等は悪魔だろうか。

 元が人間である彼等が人間を襲い貪り喰う様は残酷で残虐で残忍であろう。だが、もはや人間の意識が無くなった様な彼等は獣と大差ない。弱肉強食の世界でそれは当たり前の事で、それを悪魔の所業とは誰も言わないように、彼等もまた悪魔ではないだろう。

 悪魔と罵ったところで彼等には関係もないだろうが。

 

 ブルーシートに包まったまま足立は空を見上げた。

 あの日から変わらない青い空が延々と続いている。雲がゆったりと流れ、鳥が飛び回るいつもの空。まるで昔の日常がそのまま続いているように感じてしまう程に爽やかな空。

 崩壊することもなく、かと言って急激な変化が起きるわけでも無く、足立の日常は今まで続いていた。何の不安も無く、空を見上げて翌日の天気を気にするような日々だった。

 だが空の下の街の有様は、日常が崩壊したあの時を思い起こさせるには十分だった。

 道路のコンクリートは割れ、事故を起こしたであろうひしゃげた車はそのまま放置され、電信柱や街灯は倒れている。

 密集した住宅の壁は割れ、汚れている。人間の居なくなった住宅は急速に老朽化する。事件の時に火事が起こったであろう家は、周りの家々を巻き込み、焼け残った残骸を晒している。

 それらを直す人間も、それどころか気にする人間さえも今はいない。いなくなった。

 

「人間のいなくなった世界……か」

 

 テレビやインターネットでたびたび再現映像が流され、人間のいた社会が長い歳月をかけて風化して消えていく様を足立は思い出す。

 全て消えていく。

 人間の社会や営みがどれ程発展しようと、それは自然に還っていく。

 

「うち……大丈夫かな」

 

 ふと呟いてから、今まで家族の心配を一度もしなかった事に気付いた。

 足立の家は一般的な、どちらかと言えば恵まれた家庭だった。両親は足立を不自由のない様に育て、足立自身も両親に感謝しても憎む事は無かった。社会人の兄とも不仲ではなかった。

 何故今まで家族の事を考えなかったのか。

 余裕が無かったからだ。自分の命すら危険な状況で、他の事を気にする余裕が無かったからだ。そう思いたかった。

 自分は我が身可愛さで、大切なものまで忘れてしまう浅ましい人間じゃない。足立はそう思いたかった。

 

「猫は……大丈夫だな」

 

 言ってると不思議と笑みがこぼれた。足立家が飼っていた猫達は勝手に外に遊びに行き、餌と快適な寝床の為に家に帰ってくる強かな猫達だった。家族が消えても何も変わる事無く生きている気がした。

 

「猫を飼っていたんですか?」

 

 慈が後ろから尋ねてくる。近くで胡桃が寝ている為、声は小さい。

 

「二匹いました。あいつらの事だから無事だろうなって……どうしました?」

「疲れてると思うけど、少しいいかしら?」

「ええ、大丈夫ですよ。……ていうか先生の方が大丈夫ですか? 腰とか」

「ごめんね……先生なのに情けなくて」

 

 とほほ、と言いながら足立の隣に慈が座る。先程まで話していた悠里は由紀と共に菜園の様子を見ている。

 

「出来ればで良いんだけど、学校内の様子とか教えてくれないかしら?」

「……分かりました」

 

 それから足立は、自分の今までの成り行きを学校内の様子を交えつつ、彼等の動きや習性のようなものも慈に話した。

 

「……じゃあ一階は、もう誰も居ないのね」

「多分……ですけど。二階や三階はまだちゃんと探してないんで分かりませんけど、正直可能性は低いと思います」

「そう……」

 

 一階で徘徊しているものは日が沈むと共に学校から出て行く。そのまま残っているものもいるが、それでも数える程だった。

 しかし一階の彼等と違い、二階や三階からは段差を嫌って殆ど動かない。その為に足立は二階や三階への探索に踏み切れずにもいたのだ。

 立て篭もるのにも限界があって、食料や水も有限だ。足立の記憶が正しければ食料がある購買部には、足立以外誰も訪れている気配は無かった。

 だが、まだ誰かが生きているかもしれない。

 食料もあって、彼等から運良く逃げ延びた者が二階や三階で生きているかもしれない。

 慈はそう思っても探しに行こうとは言えなかった。

 無闇に動けばどうなるかは今回の探索で嫌という程思い知った。計画や安全性を考慮しなければ、次はないだろう。

 残酷な判断であるが、例え今誰かが彼等に襲われ救助を求めていようと、今の慈達には何も出来ない。今いる者達を危険に晒してまで動くことは出来ない。

 それが今の慈の判断だった。

 

「いつか、三階から彼等を追い出して生活圏にしようと思ってるんだけど。足立君はどう思う?」

「危険だ……ていうのは承知なんですよね」

 

 足立の確認に慈は苦笑を返すしかなかった。

 

「ここでの生活も限界があるからね」

「安全を求めるなら、一体ずつ倒して、長い時間をかけて制圧するしかないですね」

「やっぱりそうよねぇ……」

「あとは道を塞げる……バリケードみたいなものとか」

「それは机と椅子でどうにか出来ると思うわ。有刺鉄線があったの」

 

 どうして有刺鉄線が学校にあるのか。何処からか取ってきた訳でもないだろう。足立は疑問を抱かずにはいられなかったが、有るなら使えばいいと考えるのを諦めた。

 

「なら、早いうちにしないといけませんね」

「焦りは禁物よ」

 

 焦りは禁物だが、臆病になることではない。

 三階の状況がよく分かっていないなら、今は手探りで行くしかない。

 今動かなければ屋上で餓死にするだけだ。

 

「分かっています。……あと恵飛須沢のことなんですけど。あいつって何部だったんですか?」

「え? 陸上部よ?」

「……女子があんな簡単にシャベルを振るえますかね」

 

 どんなに腐った体でも、その首を飛ばすのは相当な力がいる筈だ。足立も彼等に奇襲をかけていたのは安全性の面もあったが、一撃で沈黙させることが出来なかったからだ。

 シャベルは強度も高く、鋭い先は有効だろう。だが、ただの女生徒が振るうには重すぎるはずだ。

 そのシャベルで二体の首を一気に吹き飛ばす胡桃はどこかおかしい。足立にはそう思えて仕方なかった。

 

「まるで私が女子じゃない、みたいな言い方だな」

 

 胡桃が不満顔を向けて足立達に言う。

 

「あ……別に、いや…………すまん」

「いいよ。別に」

 

 そう言いながら胡桃は立ち上がって手摺に頬杖をつく。その目は校庭で彷徨い歩く彼等を見ていた。

 

「……ちょうどそこで、最初に殺したんだ」

 

 胡桃が動かした視線の先、足立のすぐ側の床に完全に拭き取れなかった血の汚れがあった。

 

「その時から何か……体がよく動くんだよ。リミッター解除ってやつだな」

 

 胡桃は色々伏せて足立に話した。まるでゲームで新しい能力を手に入れて嬉しそうな顔で。

 慈にはその場で見ていた当事者であるが故に、胡桃が平気な素振りをしているのが痛々しく感じた。

 彼女がその後どれだけ泣いて、どれだけ後悔していたか。吹っ切れたと言ってはいるが、嘘だという事は慈には分かっていた。

 

「でもそれって、大丈夫じゃないだろ」

「……自分の体なんだ。ちゃんと休んでるし、お前よりはちゃんと体調を把握してるよ。だから大丈夫」

 

 話は終わったとばかりに胡桃は手摺から離れると、悠里の元に向かって行った。

 

「……」

「お節介だって言われるけど、恵飛須沢さん無理してると思うの。……多分これからも無理をすると思う」

 

 慈の苦しそうな告白を足立は黙って聞く。

 

「私じゃ恵飛須沢さんを助ける……というか手伝えない。だから、お願いなんだけど、恵飛須沢さんが無理をしそうになったら助けてくれないかしら」

 

 足立には佐倉慈という人物が生徒に人気なわけが少し分かった気がした。

 

「ええ、わかりました」

 

 誰よりも生徒を心配して、その目線に立って一緒に考えてくれる。まるで友達のような先生。教師として経験が浅いからか適切な助言ができる訳ではないが、その姿勢は生徒達にはやはり好評だったのだろう。

 

「さて。日も傾いてきたし、夕食にしましょうか」

 

 さっきまでの真面目な口調を明るく切り替えて慈が提案する。

 この学校を離れる前に、慈のその人となりを理解できて足立は嬉しかった。

 *

 日が沈もうとしている。

 西の空は綺麗な橙色をしており、暗くなる空からは星の光も現れている。闇がゆっくりと周りを覆っている。いつもなら既に灯っている家々の光も無いため、闇の中で見える光は足立の前にあるライトからだけだった。

 下校の時間。その日の学業を終えて生徒が帰宅する時刻。

 校庭や一階から出て行く彼等を横目で見ながら足立は氷砂糖を舐める。

 

「懐中ライトなんて、どうして持ってるんだよ」

「ん、いや購買部にあったのを拝借したんだ」

 

 購買部には非常用の物資が沢山置いてあり、その中から持って行った物の一つがライトだった。暗い校舎内で使おうとしていたが、彼等を呼び寄せてしまうかもしれなかった為あまり使う機会はなかったが。

 

「まぁ学校なら、それくらい有りそうよね」

「しかし……この学校、設備は本当に充実してるよなぁ。ソーラーパネルまで付けてさ」

「環境に優しい学校なんじゃないか」

「屋上の、野菜にやってるお水も雨水を濾過したのを使ってるって聞いたわ」

「今時の学校は凄いもんだな。ずっと住めるかもな」

「今時って……足立なんか年寄りくさいぞ」

「ああ、よく言われたよ」

 

 ただし足立の年寄り臭い話し方は大体演技である。

 屋上の面々はライトと保存食の乾パンを囲んで質素な食事をとっていた。購買から調達したとは言え、今の状態がいつまで続くか分からない為食料はあまり消費できない。

 

「めぐねえ、これパサパサするね……」

「……サバイバルって感じで先生好きだけどなぁ」

「どうした丈槍。食える時に食っとかないと、体を動かせないぞ」

 

 足立の年老いた声の演技に丈槍は小さく吹き出す。

 

「足立くん……本当におじいちゃんみたい」

「……女の子の一番の化粧は笑顔だって聞くからな。笑っていれば大丈夫だろ、多分」

「うん」

 

 塞ぎこんでいた由紀も慈と話すうちに笑顔を取り戻している。

 良い傾向だと足立は思う。確かに今の状況では塞ぎこむのも無理はなかったが、それでも生き残るなら前を向かないといけない。

 

「多分って……」

「締まらないわねぇ……」

 

 笑う門には福来る。

 辛くても前を向いて進めば、良い事があるはずだ。そうやって希望を持たないと、不安に押し潰されてしまう。

 この全員で生き残る為に。

 

「……若狭。その缶詰くれないか?」

「駄目よ」



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6話

今回も血が足りません。すいません(禁断症状)
最近がっこうぐらし!とBloodborneのクロスオーバーネタがポコポコでるけどストーリー性が無くて辛い。
あと読みにくかったら言って下さいね。改行等で対応致します。


 彼等に元の人間の意識、または記憶のようなものが有るのか。

 何度か考えようと、知識が足りない足立には分からなかった。

 傷口から腐敗していく体を動かし、ひたすらに食物を求める姿は獣かそれ以下の知能しか持ち合わせていないように見える。

 だが、外側だけでは内側を判断できないように。彼等の意識と記憶の有無は判断出来ない。

 分かっているのは、彼等が人間を襲い、仲間を増やしていくだけ。

 最終的に、他人に意識があるのか分からないなら彼等に意識があっても自分には分からない、と足立は自身を無理やり納得させた。それよりも自分が生き残る事を優先したからだ。

 

 屋上と三階を繋ぐ階段の踊り場。

 そこから足立と胡桃は身を隠すように三階を観察していた。

 異臭のする空気と闇の充満する廊下。そこに蠢めく影の数を見て、足立も胡桃も呆れるしかなかった。

 てっきり諦めて彼等の持ち場に戻っていると思っていた。動きもゆっくりで彼等自身に縄張りのような物も無いが、三階の階段近くに群がっている様はあまりに窮屈そうではあった。

 彼等はそこにいる目的はない。彼等は生きている人間に反応して襲うことしかしない。どんなに密集した場所でも関係無いのだろう。

 

「沢山いるなぁ……」

「あの時に騒ぎを聞き付けて集まって来たんだろうな。……多分そのまま動いてない」

 

 足立が溜息をつくように言う。

 あの時、足立と胡桃達が合流して購買部から屋上に帰る途中の彼等の襲撃。二階からも登って来ていたものもいた為、三階の数は前より増えているのかもしれない。

 

「流石にあの数を無双するのは無理だぞ」

「俺は二体いても無理だ」

「情けないなぁ。あんな奴らズパッとやればイチコロだろ」

「そんなゲームみたいにいくかよ……」

 

 胡桃の言葉に足立は苦笑するしかった。

 胡桃の運動能力は今の状況では大切なものだ。彼等の制圧力では足立よりも断然胡桃の方が高いのだから。

 足立は手に持ったシャベルの重さを改めて確認する。振れない事はないのだが、やはり足立には少々扱いにくい。

 

(筋トレするか……)

 

 慈と胡桃だけに無理をさせないと約束したなら、足立が胡桃の足手纏いになるのは避けないといけない。

 長い時間をかけるだろうが、胡桃の負担を少しは肩代わり出来るはずだ。

 

(女子に守られるって言うのも、情けないしな)

 

 そう思う足立の後ろで胡桃がポケットから何かを取り出す。

 

「……石って、それじゃあ倒せないぞ?」

 

 足立の言葉に、胡桃は得意げな表情で答えた。

 

「これで誘き出すんだよ。壁にでもぶつけて気を逸らせようぜ」

 

 なるほど、と足立は感心する。古典的な方法であるが、やはり彼等には効果が見込める方法だろう。

 

「じゃあ。……よっと」

 

 胡桃が下の階に向けて石を投げる。

 コツンと二階近くの階段から音が響くが、二、三体が顔を向けて興味を示す程度で動こうとはしなかった。

 

「……」

「反応が薄いな。もっと大きい音がいいかも……」

「ちょっと何か見繕ってくるか」

「じゃあここで見張っとくよ」

「ああ、すぐ戻ってくる」

「いってらっしゃい」

 *

「りーさんから防犯ブザー貰った。これでいけるだろ」

「防犯ブザーって……まだあるんだな」

「今は大人の女性でも持ってるんだぜ」

 

 特に動きのない彼等を足立が見飽き始めた頃、胡桃が防犯ブザーを指先で振り回しながら戻って来た。

 

「いくぞ……」

 

 胡桃が階段の手摺から下に向けて紐を引っ張ったブザーを落す。それは騒がしい電子音を鳴らしながらは二階に落ちていく。

 

「……」

「……」

 

 まるで誘蛾灯だった。

 彼等は緩慢な動きでブザーに向かっていく。

 蠢めく黒い影は、まるで川のようになって流れていく。

 足立はそれを見ながら、ふと思い出す。

 太陽が西に落ちる時間帯。

 彼等が下校するかのように学校から出て行く姿。その姿を見た時足立は、彼等が生前の習慣を倣っているのかと思っていた。

 だが違う。彼等は結局、沈む夕日のその光に向かっていただけなのだ。

 彼等には音が鳴っているという感覚しかないのだろう。

 その音が何の意味を持っていたのか、もはや彼等には記憶がないだろう。

 ただ刺激に反応するだけの原始的な生物。人間だった頃の名残はその見た目だけだったのだ。

 

「……」

「……」

 

 最後の一体が三階から居なくなるまで、胡桃と足立は黙って見ていた。

 *

 胡桃と足立が三階を見回り、彼等が居なくなったことを確認すると、残り三人がバリケード作りを開始した。

 彼等が来る道は二階から三階へ登る階段と、階段から左右に続いていく廊下がある。そこで、まずは二階への階段をバリケードで封鎖し始めた。左右の廊下には簡易的に机を並べて、彼等が向かってきても物音が鳴るようにしている。

 胡桃と足立はその間、彼等を警戒して階段の踊り場から二階を見張っていた。近くで作業している為、物音に気付いた彼等が階段を上がってくるかもしれないからだ。

 

「足立は部活とかクラブしてなかったのか?」

「うん? ああ、部活はしてなかったよ。週二回くらい夜に小学生の剣道クラブを手伝いに行ってたくらい」

 

 長く変化の無い彼等をみて集中力も切れ始めた頃。胡桃が暇だとばかりに足立に話し始めた。

 

「何で剣道部に入らなかったんだよ」

「ん〜、何て言うかな。……元々剣道は好きじゃなかったんだ。暑いし臭いし」

 

 足立はゆっくりと言葉を選びながら話した。

 

「やっぱり人間性が出ちゃうのかな。皆俺の練習姿を見て、形が綺麗とか体幹がしっかりしてるとか言ってくれるんだけど。……試合になったら途端に動きが悪くなるんだ」

 

 それから足立は他人事のような口ぶりで話し出す。

 

「相手をあんまり考えれないんだ。相手ありきの作戦とか立てれない。相手がこう来るから、こう反応しようとか。相手のここを狙おうとか」

「……我儘みたいな言い方だけど、相手を考えないで好きにやればいいんじゃないのか?」

 

 記録を出す陸上部であった胡桃には全てが理解できる訳では無かったが、試合でもあまり違いがあるようには思えなかった。

 そんな胡桃の言葉に苦笑しながら足立は答えた。

 

「先生にも言われたよ、それ。自分を相手に押し付けて圧倒しろとか云々。……でも、それじゃあ何か格好悪かったんだ」

 

 相手を考えずにした試合を記録した映像を見て足立は自分の動きに嫌悪感を覚えた。

相手の技に反応しない、ひたすらに自分の技を相手に押し付ける。まるで小学生だった。

 

「形を真似することは出来るけど、相手が勝手に動き出したら混乱して何も出来ない。まぁ反射神経とか経験とかもあるけど」

 

 外側しか取り繕えない。内面まで考える事が出来ない。

 剣道をしていて足立は、自分の情けなさを実感したのだ。

 

「だから高校からは剣道部には入ってないんだ。形が綺麗だから見本みたいな感じで小学校に呼ばれて教えてるけど」

「ふうん……」

 

 よく分からないといった風の胡桃の顔を見て足立はそれでいい思う。つい語ってしまったが、結局自分は情けない男だと告白したようなものだったからだ。

 

「でも、日常生活じゃ何も問題無いんじゃないか? まだ少しの付き合いだけど、足立は周りによく気を使ってると思うし」

 

 胡桃はそう言いながらシャベルを担ぐ。

 

「内面なんて誰も分からないだろ? 勿論大切だとは思うけど。でも、やっぱり行動で人は判断するし」

 

 他人と自らの認識は情報量の差や個人の価値観などで変わる。

 情報とは言葉や行動と言った相手の外に出ているものだ。どの言動がどんなに内面と繋がっていようと、二つは同じとは言いきれない。

 

「相手と読み合う試合がしたかったんだろ? それは相手を大事に思ってるからじゃないか? ……うまく言えないけど」

「……何か恥ずかしいけど、ありがとう」

「ごめんな、私もあんまり分からないや」

 

 照れたような表情で頬を掻きながら胡桃は言った。

 剣道で人間性が駄目だろうと、それは日常生活の中の自分とは必ずしも同じではない。

 足立も薄々考えることはあったが、結局割り切れずにいたのだ。だが高校になってからは、その事もあまり考えなくなった。

 自分には結局対人戦は合わなかったと言う事だろう。

 

「……俺も陸上部に入るかねぇ」

「ええ〜……」

「……そんなに嫌か」

 

 そう言いながらバリケードの進行度を見る。まだ重ねた机を有刺鉄線で縛っている所だった。

 

「やっぱ力仕事だし人手いるかな」

「そうだな。じゃあ俺が手伝いに行くよ」

「いや。私が行くよ。あいつら動き無いし、体を動かせないで鈍っちまうよ」

 

 そう言いながら胡桃はバリケード作りに参加し始めた。胡桃が参加すると驚くべき速さでバリケードが組み上がっていく。

 その涼しい顔で机を二個持ちながら往復する姿を見て、胡桃の力が有り余っている事を四人は怖れと供に実感した。




『学園生活部の奮闘』では由紀、胡桃、悠里、慈、オリ主の足立意外出す予定はありません。


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7話

書いてて正直、必要ない話だと思いました。
あとタイトル、その他を変更しました。


 人間の身体はままならない物である。

 思っていても出来ることは少ない。

 鳥のように飛べる訳でも、魚のように水中を移動できる訳でもない。

 それらは体の構造からして無理な話であると言われれば仕方ない。

 だが人は、自分の体でさえも完璧に制御する事は難しい。

 突然の状況下で在っても、訓練も無く意識を切り替えて適切な行動に移せる人間は稀だ。

 環境に適応して、感情や理性を正常にするには少なくない訓練と期間がいる。身体を慣れさせる期間が無ければ、何処かに支障をきたしてしまうからだ。

 一般的な高校生であった丈槍由紀にとっても、今の状況を理解する事は出来ても、受け入れる事は難しかった。

 学校に散乱する人だったものと、赤黒く乾いた血。嗅いだ事もない鼻を刺す様な異臭。

 そして、生徒の姿をした化物。

 堅牢無比である筈の、少なくとも彼女がそう信じて疑わなかった日常の学校に、その様な要素は一つとして無かったからだ。

 悪い事と同じくらい良い事があり、嫌いな物と好きな物が沢山あった学校。

 その思い出が、あまりにも今の光景と違い過ぎて、頭が追い付かない。

 悲しいのか虚しいのか分からずに、ただ丈槍は塞ぎ込み、泣くことしか出来なかった。

 

『大丈夫よ。由紀ちゃん。生きていればきっと……』

 

 だが生きなければいけない。

 それが、屋上で佐倉慈と丈槍由紀の約束した事だ。

 どんなに辛くても生きなければいけない。

 そうすれば、きっとあの大好きな学校に、みんなの笑顔が戻ってくるのだから。

 色褪せない昔の学校を思い出しながら、丈槍は再び机を運び出した。

 *

 電気と水道は使えなかった。というよりも供給が無くなったようだ。

 供給元が運転出来なくなったのか、止められたのか。それとも電線や水道管が壊れただけか。

 慈の考えではおそらく、この学校がある町そのもののインフラが止められている。それはあの日の夜から、光が一つも無い家々を見ていれば分かるだろう。

 あの事件から数日はたっている。

 この町で何かが起こっている事は、流石に周りの町や市、国でさえも把握している筈だ。

 だが、何も起きなかった。

 空にヘリが飛ぶ事もなければ、ラジオで情報が流れる事もない。携帯電話さえ圏外を示したままだ。

 まるで、この町が隔離されているようだ。

 それとも、もしかしたら日本中が今の様な状況なのかもしれない。

 

「うーん……」

 

 三階から二階に続く階段の踊り場三箇所にバリケードを張り終えた翌日。

 慈は胡桃と足立を引き連れ、三階にある職員室を訪れた。

 まだまだ整理の付いてない三階で生活するのは厳しいが、まずは雨風の凌げる部屋と、明かりや飲料水の確保が優先された。

 しかし、三階の職員室にある分電盤は、殆ど全てのブレーカーを落としていた。

 

「電気も水も来てませんね」

「折角シャワー浴びれると思ったのになぁ」

「太陽電池と貯水槽が使えると思うのだけど……」

 

 分電盤に付けられた名前を慈が追っていく。

 

「あった」

 

 太陽電池と付けられたスイッチを入れ、続いて雨水貯留槽のスイッチを入れる。

 

「……まだ使えるといいのだけど」

 

 壊れていれば修理しなけばいけないが、胡桃や足立は勿論、慈も配線や電気機器の知識は殆どない。

 シャワーを浴びたい女性陣はひたすらに無事を祈った。

 *

 女子更衣室に入る男はいない。

 どんなに夢を持ち、どんなに妄想しようと、そこは男子禁制の領域なのだ。

 もし入ろうものなら、社会的に抹殺されてしまう。例えその社会が機能していなくとも、この掟を破れば女性の足立を見る目は厳しくなるだろう。

 しかし足立は今、特別な理由でその領域にいる。

 

「……」

「……」

 

 胡桃も足立も一言も発さずに袋を運んで行く。

 足立が仄かな憧れを抱いていた女子更衣室。そこには廊下と変わらず死臭が蔓延し、腐敗の進んだ遺体が転がっていた。

 二人の顔、その鼻を覆うようにタオルを巻いている。その袋から漂う死臭は間近で嗅げるものではないからだ。

 

「はあぁ……」

「……うっ」

 

 最後の一体を外に運び出した胡桃と足立は、窓から顔を出して深呼吸をする。

 

「……俺は一生あそこに入りたくない」

 

 呻くように足立が言う。

 きっとこの更衣室に近付くだけで、殆ど液状になった遺体の感触や、蛆がびっしりと蠢く塊を思い出してしまうだろう。

 

「……懸命な判断だと思うよ。……ていうか足立は一階のあの状況で生活してたじゃないか」

 

 彼等が食い散らかした残骸が転がる一階の廊下を、慣れたように歩いていた足立の姿と今の姿があまりに違う。

 胡桃と慈が吐き気を堪えるのに必死だった時に、足立はいたって普通の顔をしていたのだから。

 

「……別に近くで見てた訳じゃないから。多分」

「ふぅん……そうか」

 

 曖昧な足立の返事に、納得しきらない様子で胡桃が返事する。

 すると、同じく顔にタオルを巻いた慈が、ブラシ片手に更衣室から出てきた。

 

「二人共ありがとうね。大体洗い終わったわ」

「よっしゃー! やっと体を洗えるー!」

 

 歓喜の声を上げる胡桃を見て足立と慈は頬を緩める。

 太陽電池による発電も雨水貯留槽の利用も出来た。これで更衣室では温水のシャワーが使えると分かった。

 今まで濡れたタオルで体を拭く生活だった女性達には、正直一番望んでいた事だったのだろう。

 

「まぁ、シャワーの前に三階を早く綺麗にしないとね」

「そうですねぇ」

「えぇ〜……」

 

 慈の言葉に露骨に落胆する胡桃。

 廊下には未だに割れた硝子の破片や、黒くなった肉片が転がっている。

 まだ確認しきれていない教室や、その他の部屋の中にも廊下のような惨状が広がっているだろう。

 汚れを全員で掃除するため、今は大きな物を片付けなければいけない。

 胡桃が姿勢を正す。

 

「さっさと終わらせようぜ!」

「……あいよ」

 

 気の抜けた足立の返事を気にする事もなく、胡桃は近くの教室に入っていった。

 *

 環境は人を左右する。

 そして人は、環境に寄り添う事で順応する。

 だが急激な環境の変化に人は順応しきれない。無理な変化を身体に強いれば支障が出てしまうからだ。

 

 三階を掃除する四人を見ながら慈は考えた。

 由紀はあの日を境に笑顔を無くしてしまった。時折笑う事はあるが、その笑みはぎこちない物だと慈には分かっていた。

 数は減ったが、夜に泣いている事もある。まだ今の現実を受け入れきれないのだ。

 悠里は当初は衝撃を受けていた物の、慈のサポートや衛生、食料の管理などをしてくれている。

 現状を受け入れているようだが、時折疲れた顔をしているのを慈は知っている。無理をしているならば、やはりその負担は減らさなければいけない。

 胡桃の場合は、あの日の危機と共に先輩だった彼等を殺すことで異変が起こった。

 身体機能の向上。彼女自身が言ったように、身体の制限が外れてしまったのだと慈も考えている。

 だが、今の彼女の力は必要なものだ。

 慈が自身をどんなに情けないと思おうと、彼女の力は手放せないものなのだ。

 そして足立の場合、それは内面に出たのだと慈は考えている。

 足立は慈達に会うまでの殆どを一人で生きていたという。彼等が彷徨い歩く学校の中で、たった一人でいる孤独感と恐怖感は半端な物では無かったのだろう。だからこそ彼の頭は麻痺したのだ。

 純粋な感情は薬にも、時として毒薬にもなりえる。

 不純物を含まない哀しみは容易く人の内側を抉る。足立はそれを感じない為に頭を麻痺させたのだと慈は思っている。

 これは胡桃も同じだった筈だ。だが彼女は由紀によってそれを感じずにすんだ。

 足立は慈達と合流してから昔の感覚を取り戻しているようにも見える。彼に残っているのは頭を麻痺していた間の記憶の整理だ。

 

(話合わないといけないわね……)

 

 全員で。時には慈と一対一で。

 まだ若い慈に言える事は少ないが、彼女達と生き抜く為に話合わなければならない。

 慈は生活が安定した頃に時期を定めた。



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8話

「どうした! 血が足りんぞ!」
「すいません! バトルも足りません! お陰で正直胡桃ちゃんの力量が把握出来ません!」
「よろしい! 内容も薄いな! 戦争映画の見直しだ!」
お気に入りや評価ありがとうございます。


「……」

 

 重たい足取りで彼等が近付いて来る。

 ゾンビ。生ける屍。人間の成れの果て。

 人間を襲い、噛まれた人間を同じ存在へと堕とす怪物。

 彼等にはもはや人間としての意識は無く、説得や交渉は無意味だ。

 だから、殺さなければならない。

 逡巡もなく、躊躇もなく。

 自分が人間として生きる為には当然の事なのだ。

 それは棒で足を払われると、無様にうつ伏せに倒れる。

 そして、その背中を足で踏み付ける。

 何度とした行為であり、いつも通り体重をかけ動けないようにする。

 そして、手にした棒の先をその頭に向ける。

 振り下ろす。

 何度も振り下ろす。

 彼等は頭を潰さなければならない。

 腕や足、下半身を失ってさえも彼等は獲物を求めるからだ。

 脳を半分以上潰す。それが彼等を葬る方法。

 そうこうしているうちに頭蓋が割れ、その内側の灰色の塊にずぶりと棒が刺さる。

 駄目押しに足でその頭を踏み付ける。

 穴が空いた頭蓋は脆く崩れ、足がその頭の中に侵入した。

 泥を踏んだ様な抵抗感と、水が跳ねる様な音が響く。

 

「……」

 

 後頭部が崩れた頭から、血がとめどなく流れていく。

 綺麗な血溜まりに映る自身の姿を足立はじっと見る。

 いつもの顔。何の変哲もない、いつもの日常の顔。

 彼等を殺した後の足立の顔は、友達と話す時や授業を受ける時、家で家族と話す時の顔と何ら変わりは無かった。

 *

 

「……」

 

 薄暗い部屋の中で足立は目を覚ます。

 首筋に触れると、じっとりと汗ばんだ感触を感じる。

 悪い夢を見ていた、気がする。

 偶に有る。夢の中では別に何とも思わなかったが、目を覚ましてみると奇妙な夢だったというものだ。

 彼等を殺す自分の姿。

 それは別段何の事もない。一階で生きていた頃の日常だ。

 だが最近、それを可笑しいと感じる事がある。

 昔の自分ならあんな事をしたのだろうか、と。

 しなかった。というより、出来なかっただろう。

 彼等の体は四肢が欠損していたり肌に死斑が出ていたりと、確かに生きている人間には見えない。

 だが、その形や輪郭はどうしようもなく人間と同じだ。

 彼等は元は人間。

 当たり前の事過ぎて、つい忘れてしまう。

 彼等を殺した後は元の人間を哀れにも思っていた。

 なのに、どうして彼等を殺す時は何も思わないのか。

 

「……」

 

 硬い床に敷かれた寝袋から這い出る。

 分からない問題は頭の隅に置いておくことで、いつか答えが出てくる。

 18年間で培われた人生経験に従い、思考を止めた足立は欠伸をしながら生徒指導室から出ていった。

 *

 比較的汚れの少なかった生徒会室と放送室、生徒指導室を確保した慈達は、そこを三階での生活の拠点とした。

 放送室は女子の部屋として、生徒指導室は唯一の男子である足立一人に、生徒会室は食事やそれ以外の時間を過ごす場所として当てられた。

 当分はそこで生活し、並行するように二階を制圧しようと慈達は考えていた。

 最終的には学校の校舎内だけでも安全な生活圏にしておきたいと思っているからだ。

 

「電気も無くなるし、節電しないといけないわね」

「やっと昔のような生活に戻れると思ったのになぁ」

「シャワーも使い過ぎは良くないわね」

「うわあああ!」

 

 文明の利器に頼りきった生活の胡桃には、なかなか耐えられるものでは無かったのだろう。

 太陽電池の発電量や雨水の貯留量を確認した悠里達は、生徒会室で今後どのように遣り繰りしていくか考えていた。

 色々な問題は有るが、正直余裕を持って対処出来る。屋上での籠城生活とは大きな違いだ。

 節電節水を心掛ければ、当分は持つことも分かっている。

 

「おはよう……」

 

 生徒会室に挨拶しながら入ってくる足立に、三人も挨拶を返す。

 

「でも足立君……もうお昼よ。流石に寝過ぎよ」

「りーさん、足立は私達が寝てる時に見回りして貰ってんだ」

「あら、本当? ありがとう、足立君」

「……いいよいいよ。女子は何か……美容の天敵なんだろ?」

 

 いいながらパイプ椅子に座る足立。

 

「足立君……眠たいの?」

 

 由紀が心配そうに足立の顔を覗き込む。

 足立の顔は、寝起きらしく目を細めている。

 

「いやぁ……朝は弱くてなぁ」

 

 いいながら大きな欠伸をする足立。

 

「足立お前……女子の前なんだからさぁ。もっとこう……慎みとかないのかよ」

「ん〜……」

 

 返事も億劫なのか、口を開こうともしない。

 

「低血圧かしら」

「女子かよ」

 

 胡桃と悠里は改めて足立が頼りになるのか少々不安になってきた。

 

「……すぐ直るよ。……多分」

「よし足立! 顔洗ってこい!」

 

 とうとう舟を漕ぎ出した足立を立たせ、生徒会室から放り出す胡桃。

 足立はそのまま生徒指導室に戻って二度寝したい気分だったが、素直に男子便所に向かって行った。

 

「全く……」

「……ところで胡桃。めぐねえは?」

「あぁ、めぐねえも足立と一緒に夜見回りして、それから……まだ寝てるのか」

「はぁ……由紀ちゃん。めぐねえ起こして来てくれる?」

「うん、分かった」

 

 それから足立が完全に目を醒まして戻ってきてから十分後に、寝惚け眼の慈が由紀に連れられて来た。

 *

「行けるか?」

「ああ。陸上部を舐めるなよ?」

「恵飛須沢は階段の昇り降りの大会に出るのか?」

「そんな大会ねえよ! 足立も本当に大丈夫かよ」

「大丈夫だよ。……多分」

 

 昼食後の休憩を取り終えた頃。

 胡桃と足立の二人は、踊り場のバリケードから二階の方へ出ていた。

 購買部へまた食料を取りに行く事になり、二階の彼等を一階へ誘き出す準備をしているからだ。

 防犯ブザーで二階へおびき寄せられた彼等は、時間を経てその数を減らしている。濃度勾配に従うようにゆっくりと、彼等は階段から離れている。

 だが、それでも二人で殲滅できる数でも無い。

 

「お前って本当に締まらないな……まぁいいや」

 

 胡桃は呆れた顔を真面目な顔に戻し、足立に目で合図を送る。

 

「行くぞ」

 

 胡桃が階段から駈け出すと同時に足立は、左右の廊下に栓をした丸底フラスコを転がす。

 ガラスの破片やら何やらを入れたそれは、長い廊下を音を鳴らしながら転がっていく。

 その音に興味を引かれたように、彼等は階段から廊下の奥へと体を向ける。

 その間にも胡桃は階段を降り、一階へと着いていた。

 廊下に転がる死体を見ない様にしながら、目的の物を探す。

 

「……あった」

 

 薄暗い廊下の中でも不気味に光る赤い光。

 その周りにも彼等がいる為、足立と同じ様に破片を入れたフラスコを転がして注意を逸らす。

 彼等が自分に気付かないよう忍足で光へ近付く。

 廊下の壁に直接設置されている白い物体。

 あの事件で血や汚れが付いているが、赤い『消火栓』と書かれた文字は胡桃にはハッキリと読めた。

 

「ボタンは……っと」

 

 赤いランプの横、カバーガラスをされた非常ベルのボタンを強く押す。

 けたたましいベルの音が辺りに鳴り響く。

 二階まで聞こえるそれは、彼等の多くをおびき寄せてくれるだろう。

 

「よし」

 

 胡桃は非常ベルが正常に作動していることを確認すると、元来た道を戻り階段を二段程飛ばしつつ駈け登って行った。



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9話

 一階からけたたましい音が聞こえてくる。

 消火栓に付いた火災報知器。

 それは本来、人間に注意を喚起し避難を促すものだった。例え人間でない獣であろうと、その大きく不安を煽る音には近付かないだろう。

 だが、それに気付いた彼等はゆっくりと階下から聞こえる音に向かっていた。

 その音の意味さえ憶えていないのだろう。興味を惹かれた様に彼等は体をそちらに向けていく。

 だが、注意を完全に向けれる訳ではない。その進行方向に獲物がいるならば、彼等はそれに食らいつこうとする。

 

「おらっ!」

 

 襲い掛かってきた一体の足をシャベルで払って倒す。しかし、止めを刺す暇は無い。ぞろぞろと廊下から彼等が出てきたからだ。

 足立は傍に置いてあった消火器を手に取り、安全栓を抜いてホースの先を彼等に向ける。

 そこへ、シャベルを振り回しながら胡桃が階段を駆け上がってきた。

 

「足立!」

「遅いぞ!」

「階段にも来てたぞ! 食い止めとけよ!」

 

 胡桃の怒鳴り声に足立は顔を引きつらせる。

 当初の考えでは火災報知器を鳴らした胡桃が安全に二階まで戻って来れるように、足立が二階で退路を確保しておく手筈だった。しかし、想像よりも多く押し寄せて来た彼等を捌ききれず、そのまま階段へと行かせてしまったのだ。

 

「あぁ……すまない」

 

 足立は階段を駆け上がってきた胡桃を先に三階へと登らせ、消火剤を彼等に吹き付ける。

 火元を吹き飛ばす勢いは生身の人間には痛い程である。彼等は足立から避けるように一階へ降りる階段へと向かって行く。

 

「足立! 上がれ!」

「ああ!」

 

 消火器の噴射が弱くなってきたのを感じた足立は、消火器を階段へと転がす。周りは消化剤で白い煙に満たされているため、視界に頼れなくなった彼等は火災報知器の音のする一階へ向かう。足立はその隙に階段を登り、バリケードを超えた。

 

「ふう……」

「流石りーさん、良い案だよ」

「……全くだ」

 

 胡桃の意見に、足立は強く同意する。

 今回の火災報知器で誘き寄せる考えも、消火器の利用も全て悠里の提案である。三階制圧時の防犯ブザーの利用も、彼女の機転があったからだ。

 悠里は先を見通し幾通りも方法を考えている。胡桃も足立も、彼女の作戦無しでは今頃どうなっていたか分からない。

 

「さ。あいつらが一階に行くまで戻って時間でも潰そうぜ」

「そうだな」

 

 彼等が三階へと上る気配を見せないと判断した二人は、生徒会室へと戻っていった。

 

 *

 

 人間は弱い存在だ。

 それは肉体的な意味であると同時に、精神的な意味でもある。

 個人で思い付いた事を実行出来ないというのは珍しくない。人間は個人の能力を無意識に理解していて、失敗の危険に怯えてしまう事が多いからだ。

 だからこそ、人は集団を作る。

 集団になることで強くなる。

 個人では到底出来ない事を集団になる事で成し遂げる。 純粋な力の量から、精神的な安心感、集団内の勢いというのも有る。

 そして今の巡ヶ丘学院高等学校の状態を考えれば、集団として行動することは絶対である。悠里と慈はそう考えていた。

 

「部活動?」

「はい。そう思って、目的があった方が良いと思って」

 

 慈は学校内を生活圏にする事を目的にしているが、正直今の悠里にはやる気が出る考えではなかった。生活が安定し危険も減ると分かってはいるが、変わり果てた彼等と外の光景を見る度に気が沈んでしまうからだ。胡桃達も健気に振舞っているが、内に溜め込んでいる物は皆同じだろう。さらに外界から何の接触も情報も無いため、救助が来るのかさえ怪しい状況である。

 この先に希望が見えない。

 生活圏を広げた所で状況は変わらず、外の光景も変わらないだろう。

 人は苦痛を無条件では受け入れない。その末に求めたり望んでいるモノがあるからこそ、人は苦痛に耐えられるのだ。

 だから、せめて部活による生活だと意味を持たせ、昔のように過ごせるように思う事。彼等に怯える生活では心も体も、いつか疲弊してしまう。

 

「そうね、良いわね部活! 何て部活にしようかしら?」

「そうですね……学園、生活部」

「学校暮らし、なんてね」

 

 悠里の考えに慈が笑う。

 安易な名前であると悠里も思うが、言った後でもこれ程当て嵌まる名前もないと思った。

 笑顔を浮かべながら慈は立ち上がり、職員室の戸棚から一枚の紙を取り出して来た。

 

「これは……申請書ですか?」

「新しい部活を始めるなら、これからでしょ? 折角なら形から入らないとね」

「ふふっ。そうですね、めぐねえ」

「ふふふ。あっ、悠里さん。めぐねえじゃなくて佐倉先生」

「はい、佐倉先生。あっ、顧問は勿論佐倉先生ですよ?」

「ええ、分かりました。学園生活部部長さん」

 *

「学園生活部?」

「そう。めぐねえと相談して。ただ暮らすのも疲れるだけだから、部活動と思ってこの学校に泊まろうって」

 

 一階の火災報知器が二階の彼等をなるべく多く引き寄せるまで、胡桃と足立は三階の生徒会室にて休憩を取っていた。

 下で鳴る火災報知器を聞きながら胡桃はシャベルの手入れを、足立は文庫本を読んでいる。

 そこへ悠里が一枚の紙を持って来て、慈と話し合った事を胡桃と足立に説明していた。

 

「これは自分達が自主的に暮らしているだけであって、別に彼等がいるから学校にいるんじゃないって。そう思った方が気も楽だと思うの」

「ふーん……私は良いと思うよ。学校生活ならやる事も沢山あるしな」

 

 胡桃は同意を示すように足立へ視線を向けた。

 

「俺も目的意識を持つのは良いと思うけど」

「……けど?」

「何て言うかな……だからって現状を受け入れないのは駄目、じゃないかな」

 

 その言葉に、意味が理解出来ないといった風に悠里と胡桃は顔を足立に向けた。

 

「すぐ下にも、外を見れば彼等はいるんだ。……今置かれている状況が変わるわけじゃないだろ?」

 

 足立には悠里が言っていることは分かる。

 悠里達に会う前の、惰性で生きていた日々。

 その生活を経験したからこそ、足立も目的を作る事は良い事だと思っている。

 だが悠里が語る学園生活部は、今の状況を忘れようとしている。外を見ずに、この小さな生活圏で学校の真似事をする現実逃避の集団になろうとしている。

 どんなに逃げようとも、窓を覗けばそこには現実がある。その足元で彼等は彷徨っている。

 目を背けても、それが無くなる訳ではないのだ。

 

「逃げる前に、現状の打開を目指すべきじゃないかな。……って思って」

「そう……でも。だからって、外を見たって辛いだけじゃない」

「いや、でも」

「友達も皆あんなのになって……家族の安否さえ分からないの……それでも足立君は外を見ろって言うの?」

 

 苦しそうに、自分の内に溜め込んだ物を吐き出すように悠里は話し続けた。

 

「私たちは此処から動けない……助けが来るまでこの学校から出られないの。……貴方はそれでも現実を見ろっていうの? 足立君は、それでも耐えられるの?」

 

 それは一番状況を考えている悠里の言葉だからこそ、重みを持っていた。

 

「……それとも、足立君には、現状を打開する方法があるの?」

「……」

 

 足立は何も答えられない。答える事が出来なかった。

 足立の沈黙をどうとったのかは分からない。ただ悠里は視線を自分の手元に向けて口を開いた。

 

「ごめんね……でも私は耐えられない」

 

 重苦しい沈黙が生徒会室に横たわる。

 今まで鳴っていた火災報知器の音も、いつしか止んでいた。

 *

 深夜ともいえる時間帯。

 慈は手にした懐中電灯で暗闇を裂きながら、足立と共に廊下を歩いていた。

 今では天井の電灯も使えるのだが、彼等が光に反応すると考えられる為、節電の意味も込めて灯りは付けていない。

 三階を制圧した日から、深夜の見回りは慈と足立の仕事であった。バリケードの点検と彼等が侵入してないかの確認。昼夜が逆転した生活になるが、足立は一階で過ごしていた頃と同じ為慣れたものである。ただ、慈は足立のようにはいかない為、一通り見終わった後は足立だけで警戒を続けている状態だ。

 

「胡桃ちゃんから大体の話は聞いたわ」

「……そう、ですか」

 

 慈の言葉に、足立は曖昧に返事をする。

 話とは、生徒会室での悠里と足立の事だろう。あの後、由紀や慈が生徒会室に入ってきた為、二人の話も曖昧に終わってしまった。足立も、その事で煮え切らない気分でいたのだ。

 

「確かに、足立さんの言う事も一理あると思うの」

「……」

 

 現実から目を背けず、現実を見つめる事。足立が悠里へと提案した事だ。

 

「でもね、正直。みんな一杯一杯だと思うの」

「……そうですね」

 

 日常が崩壊したあの日から、慈達は様々な物を失った。

 家族、友人、同僚、生徒、教師。人間関係だけでも、個人で繋がっていたもの殆どが無くなった。勿論、全員が死んだか彼等になったとは断定は出来ないが、現状では希望さえも見出せない。

 

「希望のない中で生きる事は難しいわ。……辛いだけだもの」

「……」

 

 慈の言葉に、足立は黙るしかなかった。一階で一縷の望みに縋り続けた生活を思い出したからだ。

 

「現実逃避だと思う。……でもね、それでしか、もう生きる気力は持てないと思うの」

 

 生きる為の希望。もはやそれは彼等が溢れる外には無い。

 

「三階を制圧してから、由紀ちゃん。どんどん辛い顔をしてるの。昔を思い出してしまうんだと思う。このままだと……」

 

 慈は途中で口を噤んだが、何を言おうとしているかは足立には分かった。

 生きる気力を無くし、絶望した人間は、自分の命に執着しない。明日の心配もしなければ、危険を避ける事も無くなるだろう。運良く生きても惰性の内に死ぬか、もしくは自ら命を絶つか。

 二人は最後のバリケードを見る為に階段を降りる。慈は懐中電灯を切り、踊り場に作られたバリケードを手分けをして点検した。

ふと、足立は二階に目を向ける。

 

「……」

 

 バリケードの向こうに、当然の如く彼等はいる。

 あの日から変わらず制服を着た死体が、階段前で止まっていた。ここまで来たが、階段の段差を前に動けずにいるのだろう。

 彼等の、変わり果てた姿を見ながら足立は改めて思った。

 

(外は、現実は地獄だ)

 

 日常の崩壊したあの日から、道徳も倫理も価値観も根刮ぎ無くなった。

 苦しみは絶えることなく、終わりは誰にも分からない。

 

『足立君は、それでも耐えられるの?』

 

 悠里の言葉が脳裏で響く

 希望のない現実の中で、絶望の続く現実の中で、耐え続ける事が出来るのか。

 

(それでも……生きなければいけないのなら)

 

 希望が外に見出せないのなら、夢を内側で作るしかない。

 悠里達は生きようとしている。生きる為に足掻いている。その方法が正しいかは分からない。間違っているとも言えない。

 点検を終え、階段を登りながら慈は口を開いた。

 

「私はね、足立くん。どうしようもなく辛いなら、逃げるべきだと思ってる」

「……」

「ごめんね。責めるつもりじゃないの。……それに、足立さんの言う通り、逃げてばかりじゃいけないわ。貴方の意見で一旦、冷静に考えられたわ」

「……そうですか」

「本当よ? 足立さんみたいな意見が無いと皆んな可笑しな方向に行ってたかもしれないわ」

「そう……ですかね」

「ええ。……それじゃあ、おやすみなさい」

「……おやすみなさい」

 

 それだけ足立は言うと、踵を返し暗闇の校舎を歩き出した。

 その背後で、ゆっくりと放送室の扉の閉まる音が聞こえた。

 *

 早朝。太陽は出ているが、まだ薄暗い校舎を悠里は歩いていた。

 日課である屋上の菜園を見る為である。

 植物も人間と同じで、水や栄養を欲しがり病気になれば適切な処置を施さないといけない。その為にも毎日の観察は必要であった。

 菜園で育てる野菜は、今の悠里達の貴重な食糧源でもあり、保存食では賄えない食物繊維は健康に大きく貢献する。

 

「……」

 

 大きな汚れしか取れていない為、廊下は今だあの日の惨劇を物語っている。

 日常が崩壊したあの日、悠里が最初に考えたのは家族の無事だった。だが、どんなに祈ろうと、屋上から見える街の惨状が家族の末路を物語っていた。

 だから悠里は考えた。

 今を生き残る術。生き残った者の健康や栄養管理。三階の制圧方法。彼等をどうすれば誘き寄せるか。彼等の安全な対処法や退路の作り方。

 色々な事を何回も何通りも考えた。ただひたすら、他の事を考えないように。家族がどうなったのか考えないように。崩壊した日常を考えないように。

 だから、足立の指摘した通り、悠里が考えたいた学園生活部は現実から目を背け逃避する集団だ。

 だが、今の状態で誰が悠里の行動を批判するだろうか。

 もはや縋るべき希望は何処にも無い。それでも生きたいなら、この空間だけで自分を守るために塞ぎこむしかない。

 

「……あら?」

「おはよう。お邪魔してるよ」

 

 扉を開けると先客がいた。

 菜園の野菜を前にした足立が、悠里に挨拶をする。

 

「……つまみ食いはいけないわよ?」

「分かってるよ、まだ青いしな。手伝うよ」

「ありがとう。じゃあジョウロでそのトマトに水をあげてくれるかしら」

「分かった」

 

 二人はそれぞれの仕事の分担に従って野菜の世話をしていく。

 

「昨日は言い過ぎた。ごめん」

 

 背中合わせの状態で足立は謝罪を口にする。何となく、顔を見合わせて話すには恥ずかしかったからだ。

 

「……いや、足立君の意見はもっともよ」

「……でも、辛いよな」

「……そうね」

「俺は中学まで部活してたけどさ。辛くなって高校からやってないんだ」

「あら? そうなの?」

「ああ。だから、俺は人の事言えなかったよ」

「それは……」

 

 事の大きさが違う。そう悠里は言おうとしたが、その程度差の線引きは何処なのかと思うと言葉に詰まってしまう。

 そして足立は言いにくそうに話し続けた。

 

「あの後で言うのも可笑しいけど、やっぱり部活作ってくれないか」

「……いいの?」

「元から俺一人の意見で決めるもんじゃないしな。……それに、俺も疲れてきたよ」

 

 校庭を見ながら足立は溜息をついた。

 まるで朝練をするように、彼等は朝早くからこの学校へやってくる。

 

「でもな、やっぱりみんなが目を瞑ってる訳にはいかない。……だから、俺はなるべく現実を見るよ」

 

 平和でいる為には治安の維持が必要なように、悠里達が部活動という幻想の中で生きるには現実に目を光らせなければいけない。

 いつ何時、彼等が牙を剥くか誰にも分からないのだから。

 

「若狭達の学園生活部を守る。君達が平和でいられるように、俺が彼等に立ち向かうよ」

 

 学校の部活動。それで悠里達が笑顔で生きる気力を持っていられるのなら、その虚構や幻想を守る。

 

「だから、これが俺の入部するにあたっての目標。……まぁ、当分は恵飛須沢の力も借りるかもしれない。でも、いつかあいつも若狭達といられるようにする」

 

 足立は宣言し終えたように、再びジョウロで水を遣りはじめた。

 

「……足立君がこんな情熱家だったとは知らなかったわ」

 

 悠里は掛ける言葉が見つからず、やっと出てきたのは返事になっていない言葉だった。

 

「惚れると熱いよ?」

「ええ、不覚にもドキッとしちゃったわ」

 

 芝居掛かった口調の足立に、悠里も同じく冗談で返す。そんな無駄なやり取りで二人の顔に笑顔が生まれた。

 こんな風に毎日を過ごしたい。そう悠里は思えた。

 足立の言う通り、厳しい現実に立ち向かう事も大切な事だ。だが、それは今からゆっくりと考えればいい事だろう。

 

「……そうね。私も目標を作るわ」

 

 現実から逃げる為に働くのではなく、足立や慈達の健康を守る為に働こう。自分だけの為ではなく、全員の為に。現実を直視しないのは前と同じだが、そこはもう許して欲しい。

 

「へぇ、どんな?」

「ふふっ、内緒よ」

 

 そう言って、悠里は微笑を浮かべた。




やっとこさ学園生活部設立。
うーん、色々と難しい。


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10話

 バリケードの点検や彼等が侵入していないかの確認など、日が沈んでいる時間帯は慈と足立で見回りをする事が常だった。

 今までは一通り見回ると足立一人で徹夜していたが、彼等に動きもないため最近では足立も慈と同じ頃に眠るようになった。一番の理由は、悠里が昼夜逆転した生活を送る足立を心配していたからであるが。

 

「佐倉先生。おやすみなさい」

「ええ、おやすみなさい」

 

 足立が小さく頭を下げながら生徒指導室に入る。

 それを見送ると慈も学園生活部部室に入った。学園生活部の部室として模様替えをしたその部屋は元は生徒会室として使われていたのだが、当時の物は殆ど撤去されて無くなっている。

 

 机の上に置かれたランプのスイッチをいれると、暖かな光がゆっくりと周りの闇を押し退けていく。

 彼等の気を引かない様に、電力の節約も考えて明かり自体は強く設定していないため部屋全体には届かない。

 そのまま電気ケトルの電源を入れ、湯が沸く間に戸棚から目的の物を取り出す。

 表紙に『部活動日誌』と書かれたそれは、三階を制圧した後から慈が書き始めたものだ。当初は、あの日起こった出来事を書いた手記、誰かに宛てた手紙、今の事態への告発文、もしくは慈達の遺書として書いていたノートだった。

 

「ふう……」

 

 淹れたてのお茶を少し飲んでから、慈は部活動日誌を開いた。眠気がお茶の苦味で払われ、覚めた頭で今日あった事を思い出していく。

 

(今日は何があったかしら……)

 *

 学園生活部が作られて数日。

 慈達の雰囲気は次第に良い方向へと向かっていった。

 まず、悠里の顔付きが変わった。

 いつも深刻そうで思い詰めていた顔は、全員を見守る優しさに溢れた穏やかな顔になった。

 食料、電気や水道、慈達の健康といった生活基盤は全て悠里の管理によって上手く保たれている。

 胡桃は今まで無理に元気を見せていたが、余裕を持った元気を見せるようになった。

 目を離すと相変わらず無茶をしてしまうが、その頻度は確実に減っている。やはり足立の存在が大きいと慈は感じた。

 足立は学園生活部が作られると頼りに出来る存在になった。胡桃との危険な仕事を殆ど一人でこなすようになったからだ。仕事を奪われた胡桃は不満を示していたが、その分は悠里が菜園の力仕事をさせている。

 そして何より、由紀が笑顔になった。

 最初はぎこちなかった笑顔が、すぐに昔のような屈託のない笑顔が見せるようになった。

 元気さも合わさって、由紀は学園生活部を一気に明るくしてくれる。

 一人一人が歯車として上手く噛み合い、そしてさらに由紀は拍車を掛ける。今の学園生活部はエネルギーに満ち溢れていた。

 先日も、『学園生活部心得』なるものを作るために一日中白熱した議論を繰り広げていたのだ。

 前向きに生きていく姿。

 そんな由紀達を見ていると、慈は昔に戻ったような気がした。

 まるで、あの日が無かったように感じてしまう程に。

 そんな穏やかな日々が続いている。

 *

 一通り日誌を書き終えた慈は一旦筆を止めた。

 最初は今の状況に不安を覚え、辛い気持ちで近況などを書いていた。

 だが、部活が始まってからは慈にとって嬉しい出来事が増え、それと同時に、由紀達が不安な思いをしていないだろうかと考え始めていた。

 慈でさえ未だ寝る時は不安に押しつぶされそうになる。

 生徒達がどんな思いをして生活しているのか。辛い思いをしているなら、なるべく相談になり、心の支えとなりたい。そう慈は思っていた。

 

(そうだ、進路懇談なら生徒達と一対一で話すにはうってつけの学校行事だわ)

 

 授業や部活をするようになってから、何かをするにも行事に絡めて考えるようになった。

 そんな昔の習慣に倣おうとする考えが可笑しく思えて、慈は少し笑ってしまった。

 だが――

 

「……雨」

 

 ヒビの入ったガラス窓から、真っ暗な空間の中で雨粒が窓を打つ音が聞こえてくる。

 夕方から降り始めた雨は、強くなる事も弱くなる事もなく今も降り続けている。

 太陽光も発電できず、洗濯物は部屋干ししてもなかなか乾燥しない。日中が暗いのも、気分が上がらない原因になるだろう。

 

(さて、もう寝ましょうか)

 

 慈は悩みを払うように日誌を閉じると、ランプの灯りを消して生徒会室から出て行った。

 *

 潰した頭から得物を抜いて、動かなくなった体から足を退ける。

 原型の無くなった頭から、ゆっくりと紅い泥濘が広がる。それは止まる事なく足元を浸し、何処までも続いていく。

 

「……ぁ……あぁ……」

 

 呻き声で反射的に振り返る。手を伸ばせば触れられそうな所に一人の生徒がいた。

 

「あ……ああぁ……」

 

 女子生徒だ。あの日、一緒に逃げていた。

 

(一緒に逃げて……?)

 

 その後、どうなっただろう。

 何かがあった筈なのだ。だが、足立にはどうしてか思い出せない。

 

「助けて」

 

 ゆっくりと近づくそれは、血に濡れた手で足立の服の袖を掴んだ。

 その手は小指が無くなっていて、肌も血が通っていないと思える程に白い。

 

「お願い。助けて」

 

 悲痛な、それでいて真摯な程の懇願だ。

 だが、その顔は皮膚が裂け血に濡れていて、正常な人間には見えない。

 

「殺さないで」

 

 この女生徒にみえる化物も、彼等であり、生存を脅かす存在なのだ。

 掴んでいた腕を振り払い、得物を掲げる。

 

「お願い。殺さないで」

 

 その口が言葉を話そうと、何も考えない。ただ手に持った得物を振るうだけだ。彼等は脅威であり、殺さなければ自分が殺されるのだ。

 

(いつも通りだ)

 

 頭を潰す。

 それはもはや作業として固定化し、快や不快、高揚感も嫌悪感は何処にもありはしなかった。

 それは当たり前の行動であり、何も感じる必要はないのだから。

 

「助け」

 

 振り下ろした棒に鈍い手応えを感じながら、また振り下ろす。腐った皮膚を潰して、その頭蓋を粉砕する感触を感じながら、それでも振り続ける。

 そうやって、いつも通り頭を潰して、また次の頭を潰す。延々と続く処刑を、飽きもせずに続ける。まるで自分が機械になったように感じる。

 

「忘れるの?」

 

 だが、いつのまにか、割れていた頭が綺麗に戻っていた。さっきまでの彼等の顔ではない。いたって普通の健康的な人間の顔。彼等になって、足立によって止めを刺された生徒の顔。

 その生気を感じさせる口が、歌うように何重にも言葉を紡むいでいく。

 

「何を憶えているんだ」「逃げるのか」「一人で楽になろうとして」「俺たちの事なんて」「あいつらと同じだって」

 

 その顔が、敵意を持った胡桃の顔に変わる。まるで初めて踊り場で会った時のような表情。

 

「お前も、あいつらと同じだ」

 

 悲しそうな悠里の顔に変わる。

 

「何も考えずに」

 

 辛そうな由紀の顔。

 

「殺すの」

 

 慈の顔。

 

「貴方も同じ」

 

 全てが、足立を責める。

 何も感じない足立を。何も考えない足立を。

 その口を黙らせるように、足立はまた腕を振り下ろした。

 *

「……はぁ」

 

 鏡に映る隈の出来た顔を眺めて、足立は溜息を吐いた。

 

(何が現実を見ろだよ。俺が最初にまいってるじゃないか)

 

 彼等を葬る自分。

 足立が三階で生活するようになってから、よくみるようになった夢の内容だ。

 基本的には彼等の頭を潰すだけの夢だ。たまに彼等の顔が普通の人間の顔になったり話し出したりするが、その根本は変わらない。

 彼等を転ばせて、押さえつけて、頭を潰す。

 どうしてそんな夢をみるのか、何となくだが足立は理解していた。

 日常が崩壊したあの日から、学校の一階で生活するようになって足立は何処か昔の感覚を無くした。

 死体を見ても、彼等を殺しても、特に何も感じない。それらの顔が見知ったものであれば感傷にも浸るが、長く続くものでは無かった。

 生きる為に、正気を保つ為に、昔の感覚は足枷になってしまう。

 それは一階で生きていく上で不必要なものだから。いちいち涙を流して悲しむ暇を彼等は与えてくれないのだから。

 

(だからって、ただの高校生に、出来るわけがないか)

 

 昔を忘れられない自分がいて、人間味を失いかけている自分を戻そうとしている。

 家族と一緒に暮らして、友人と無駄に時間を過ごして、喜んだり悲しんだりする日常に戻ろうとする自分が。

 そんなものは、もう何処にも無いと分かっているのに。

 おかげで目覚めも悪く、眠れば必ずと言っていい程にそんな夢を見るため、足立は慢性的な睡眠不足に陥ってしまったのだ。

 

(部長には寝不足ってすぐにバレそうだなぁ……)

 

 何かと小言や世話を焼く悠里を想像して、足立はさらに情けない気分になる。学園生活部設立からというもの、活気付いている悠里達を心配させるのは気がひけるからだ。

 

「……はあ」

 

 もう一度溜息を吐くと、足立は顔を洗い始めた。

 *

「いやぁ、読んでた本の結末が気になってさ。すいませんでした」

「足立君。しっかり寝ないと体調を崩すのよ?」

「すいませんでした」

「ていうか、この頃居眠りも多いけど……もしかして前から……」

「すいませんでした」

「……ねえ足立君?なんだか空返事に聞こえるのだけど?」

「なんだか、二人とも夫婦みたいだね」

 

 狭い室内で繰り広げられる会話を眺めながら、笑顔で由紀は胡桃に言った。

 

「ゆき……あの場面で夫婦にみえるって可笑しくないか?」

「そうかなぁ」

「普通は『足立は馬鹿だなぁ』とか、『りーさんはやっぱり怒ると怖いなぁ』とかだろ」

「うーん……二人とも優しいからねえ」

「……ん?」

 困惑する胡桃に、至極当然といった笑顔の由紀。

 どうして由紀はそんなに嬉しそうなのか。胡桃にはよくわからなかったが、由紀の笑顔を見ていると、不思議と二人の遣り取りが面白く感じてしまう。

 

「まぁ、心配性の奥さんと不真面目な旦那、と思えなくはないな」

 

 悠里に平謝りし始めた足立から目を逸らして、胡桃は皿洗いを再開する。

 本来は悠里がしている仕事なのだが、当の悠里は朝食終了から足立の顔を見てから当人と『お話し』をしている。

 

「本当に分かってるの? あ、だ、ち、く、ん?」

「いや……あの……部長?」

 

 鼻先が触れ合いそうな程に顔を近付けて静かに怒鳴る悠里に、いつの間にか土下座した状態で狼狽する足立。きちんとした返事をするまで動かない、足立にはそう見えて仕方なかった。

 

「……」

「あの……」

「……」

「……これからはちゃんと気を付けます。申し訳ありませんでした」

「……はあ、分かればいいの。分かれば」

 

 足立の返事に納得しきらない様子ではあるが、悠里は溜息を吐くとそのまま椅子に座った。

 

「……まったく、体調崩して辛いのは足立なんだからな?」

「……分かってはいるんだがなあ」

 

 悠里と交代するように、洗い物を終えた胡桃が手を拭きながら正座している足立に向かって言った。

 何とも意地の悪そうな笑みの胡桃に口答えしたかった足立だが、何とかそれを飲み込むと苦笑で返した。

 

「そうだよー足立君。学校は休んでも、部活は休んじゃ駄目なんだから」

「いやいや、ゆき。それは普通逆だ」

「まぁ、ずっと学校いるんだけどな」

「あ! それもそうか!」

「ま、これからはちゃんと気を付ける事だな」

 

 そんな他愛の無い話をしていると、慈が部室へ入ってきた。

 

「あれ、どうしたの? めぐねえ?」

「由紀さん。めぐねえ、じゃなくて佐倉先生」

「はーい」

 

 朝から2回目のやり取りをすると、部室を見回して全員いる事を確認して、国語教師兼学園生活部顧問は笑顔で宣言するように言った。

 

「突然だけど、今日は進路懇談をします」

 一番手の悠里との懇談を終え、次に呼ばれた足立は慈が懇談場所とした放送機器室に入った。

 放送用の機械が置かれたそこも比較的汚れが少なかったが、簡単に掃除するとそれからは物置代わりとして使われていたため、今では部屋の隅に食料や飲料水を入れたダンボールが山積みにされている。

 慈と足立は机を挟んで、それぞれ向かい合うように椅子に座った。

 

「進路懇談と言っても、話す事は違うんだけどね」

「ええ、そんなの分かってますよ」

 

 慈の少しバツの悪そうな顔で取り繕うような言葉に、足立は苦笑して返す。

 今更卒業後の進路なんてものは考える意味もない。

 

「悠里さんから聞いたわ。最近体調が悪いようだけど、大丈夫?」

「……まぁ多分、大丈夫です」

「……理由を聞いても?」

 

 慈から目を離した足立が束の間、思案する。

 言うべきか、言わないべきか。

 現状で、三階での共同生活で一番問題があるとすれば、足立の体調不良くらいしかない。

 だが、慈に相談したところで、足立は自身で対処しなければいけない問題だと思っている。

 

(若狭から頼まれているんだろうなぁ……)

 

 足立の返答が適当に流すものだったという事は、悠里には分かっているのだろう。だからこそ慈に足立の事を相談して、どうにかしようとしているのだろう。

 なら、いつか話さなければいけなくなるだろう。

 

「……なんかこの頃、悪い夢を見ちゃって……なんか子供っぽいですけど」

「そんな事ないわ。先生も寝る前は不安に押しつぶされそうになるの。……どんな夢か憶えているの?」

「……彼等を殺す夢を見るんです。一階でいた時みたいに、彼等を殺す夢」

「……そう」

 

 慈はふと思い出す。

 惨劇を思い起こさせる一階の廊下を、何事もなく歩く足立の後ろ姿。まるで当たり前のように感じているその表情を。

 

「なんか一階にいた時と今の生活のギャップが大きすぎて、気疲れしちゃって」

「……」

 

 あの日から失いかけていた昔の感覚が、三階で生活する内に足立に戻ってきたのだろう。

 彼等も、残酷で殺伐とした日常もない昔の感覚。

 だが、おかしくなった感覚だからこそ生きられていた時の記憶が、まるで負責のように今の足立を襲った。

 一階の惨状。彼等の殺し方。そういった記憶が思い起こされる度に、足立の中に戻った感覚が拒絶反応を示した。

 

「……だから、一人で彼等の相手をしているの?」

「……」

 

 慈の指摘に、足立は黙り込む。

 学園生活部設立からというもの、足立は胡桃との仕事を一人でこなし始めた。生活圏を拡げる時も、見回りも、自ら率先して危険な事に首を突っ込んでいる。

 一階の頃と同じ様な環境に戻れば、夢に怯える必要もないはずだ。

 慈には、足立がそう思えているようで仕方なかった。

 

「一階での自分がおかしく思えるなら、もう戻らなくてもいいじゃない」

「でもそれじゃあ……苦しいんです。彼等を……人間だった彼等を殺す記憶が、殺しても何も感じなかった自分が、思い出すと怖い」

 

 だから、と足立は続ける。

 

「……忘れるしかなかったんです。そうしないと……生きているのが苦しくなる……」

「……」

「忘れれば……記憶を無くせば……心を無くせば、楽になれると思って……」

 

 慈は立ち上がってその震える体を抱きしめた。身長も肩幅も慈より大きい筈なのに、その体が酷く小さく慈には感じた。

 

「……辛かったわね。よく耐えたと思う」

 

 足立の持つ感情がどれ程辛い事なのかは、慈には分からない。きっとそれは足立にしか分からないものだ。

 

「でもね、辛いからって、悲しいからってあんまり逃げてると、大切な事を忘れちゃうわ」

 

 だが、慈には許せなかった。

 忘れることは、楽な道だっただろう。何も考えなかったことが、生きていくのに有利だったのかもしれない。

 だがそれは、何の解決にもならない。誰の為にも、足立自身の為にさえならない。

 

「誰と関わって、誰と喧嘩して、誰と付き合って、誰を嫌いになって、誰を好きになって。そんな全てを忘れたら、その誰かも足立君も、何処にもいなくなっちゃうわ」

 

 日常は滅茶苦茶に破壊され、そんな人々が居たと言えるのは、生きた者達の記憶の中だけだ。

 自分の存在さえ消えて、それでも生きていく事に何の意味があるというのだろう。

 

「だから、悲しい時は悲しくていいの。大丈夫じゃなくていいのよ。……だから、忘れないであげてね」

「……はい……はい」

「泣き叫んで苦しみもがいて、後悔しても自分が憎くても、貴方の記憶の誰かを忘れないであげて」

「うう……ううぅ……」

 

 それでも、足立は歯を食い縛るように泣いた。

 *

 あの日からずっと求めていた様に思う。

 甘く優しく安全な日常。そして、友達や教師と笑って過ごす日常。

 丈槍由紀にとって、求める物とは即ち『昔の日常』だった。

 だが、辛く残酷で危険な日常の中では、耳と目を閉じて生きているしかなかった。

 自分の中に浸り込む事で不安から逃れられた。不安に押しつぶされそうな心を唯一守れる方法なのだから。

 

(楽しい)

 

 だが――想像もしなかった。

 視点を変えるだけで、心の持ち様で、こんなにも世界が楽しく見えるなんて。

 外の惨状を知っているからこそ分かる。

 難しくて眠たかった授業も、何の魅力も感じなかった部活も、こんなに心を踊らせるものだと。

 

(楽しくて仕方ない)

 

 そして由紀は気付いた。

 昔の記憶と今目にしているものが、血に濡れた廊下や教室も、全て同じものだと云うことに。

 悪い事と同じくらい良い事があり、嫌いな物と好きな物が沢山あった学校。

 そして、部室に行けば楽しいことや面白いことがあって。優しい友達と優しい先生がいて。

 

(この学校が、好き)

 

 そう思う度に、楽しい記憶が浮き上がってきて、由紀はさらに胸が高鳴った。

 

(私は、この楽しい学校が好きだ)

 

 だから――

「ゆきー? 次だぞー」

「はーい! くるみちゃん」

「由紀の事だから、勉強の事でこっ酷く怒られるだろうなあ」

「うう……やっぱり行きたくないないよお……」

「そうねえ……ゆきちゃんの為に授業数を増やしてもらいましょうか」

「わあああ! やめてりーさん!」

「ほらほら丈槍、先生が待ってるぞ。部活は休んでも、学校行事は休んだら駄目だからな」

「もう! 足立君まで! みんなの意地悪!」

 

雨雲で暗い空に似合わず、由紀の足取りは軽く、笑顔のまま放送機器室へと向かった。




作中に何となく出しましたけど、電気ケトルって凄い電気食うんですね。サバイバルは何処へ……


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11話

 “日常”は、脆い。

 それは周知の事実ではあるが、当たり前だからこそ思考を放棄してしまい、人は忘れてしまう。

 

(あぁ……どうして……)

 

 ついさっきまでいつも通りだった同僚が、友人が、家族が、自分に牙を剥く。

 そんな非日常で、自分が信じていた日常が崩れ去ったあの日に。屋上で変わり果てた街を見下ろしたあの時に、慈は思い知った筈だった。

 

(どうして……こんなこと……)

 

 自分の信じていた日常が、小さな非日常によって簡単に破壊される。

 そして、それはたった数枚の紙の束でもあり得た。

 落ち込んだ小石が、静かな水面に波紋を広げる様に。白無垢の衣服に付いた汚点が、全てを台無しにしてしまうの様に。

 日常は、悲しい程に繊細で、脆弱で、破綻し易いものなのだ。

『職員用緊急避難マニュアル』

 

 机の上に置かれた、職員室の戸棚に収められていたその薄い冊子の表紙にはそう印刷されていた。

 それは非常時にのみ開封を許され、職員の誰もが中身を知らなかったマニュアル。きっとその誰もが、不審者や防災についてのありふれた避難指示だと思っていたのだろう。

ー感染率の高いものは致死率が低く、致死率の低いものは感染率が高いー

ー研究途中の製品が漏洩した場合は、この限りではないー

 内容は理解は出来た。だが、納得することは出来なかった。

 まるで別の世界の文化を語られている様な、到底受け入れられない内容だったのだから。

 

 思い出すのは手探りでも由紀達と必死に生きようとしていた日々の記憶。

 襲い来る彼等。屋上で立て籠もった日々。生活圏の為のバリケード。

 自分は何も知らなかった。知らないからこそ哀れな被害者でいられた。

 だから、あの日起こった事には何の責任も考えなかった。

 現実は違った。慈は哀れな被害者ではなかった。今の状況を作りだした元凶だったのだ。

 末端だった、何も知らなかったなどとは言い訳にはならない。少なくとも、今頃にマニュアルの存在を思い出すような人間だったのだから言い訳のしようもない。慈自身があの日に思い出せていれば、事態はもっと好転していたかもしれないのだから。

 

(どうすれば……)

 

 何を求めているのか。

 ただの新米教師である自分に何をさせたいのか。

 出来ることなら今すぐに破り棄てたかった。悪趣味でふざけた代物だったと、その存在を忘れたかった。

 だがそんな事は出来ない。今の状況で唯一情報が得られたものが、皮肉にもこの忌々しい紙の束なのだから。

 

(どうすればいいの……どうすれば……)

 

 由紀達に知らせる訳にはいかない。まだ駄目なのだ。

 これは慈一人の問題であり、責任なのだから。

 ぼんやりとランプの光が灯る部屋の中で、慈は一人静かに苦悩するしかなかった。

 

「忘れるの?」

「忘れないよ」

 

 夢の中だというのに、不思議と思っていた事が口に出た。

 

「若狭も恵飛須沢も丈槍も佐倉先生も、全員守る」

 

 足立は目の前の死体に語る。

いつも通り頭が砕かれ、血に濡れた脳髄を晒した死体に。いつも通りの手順で葬られた死体に。

 

「せめて、守ってから死にたい」

 

 死人は普通話したりしないが、足立の夢の死人は生者の様な振る舞いをする。

 言葉を話し、歌を唄い、喜怒哀楽を示す。

 まるで、足立の記憶と同じ様な振る舞い。

 

「ごめんね。あの時守ってあげられなくて」

 

 だが、今回の死体は何も言わない。まるで足立に先を促す様に黙ったままだ。

 

「君を殺して生き延びたけど、やっぱり君がいないと俺は駄目だ」

 

 死体は返事もしない。

 足立は返事が無いことを特に気に留めた様子もなくそのまま続ける。

 

「だからって進んで死ぬ気も無い。それに、彼女達からの恩は踏み倒すわけにもいかない」

 

 足立は得物を掲げる。

 彼等を殺す。彼女達の日常を、学園生活部を脅かす全ての事から守る為に。

 その為に、狙うはその砕けた頭から溢れ落ちそうな柔らかな物体。

 

「だから、ちょっとだけ待ってて」

 

 振り下ろされた得物によって、血と脳梁が飛び散る。もはや頭は回復することも復元することも出来ない状態にまで破壊され、死体は二度と動かなくなる。

 だがーー

 

「すぐそばにいるからね」

 

 ずっと聞けなかった愛しい声が、足立には聞こえた。

 

 日常は破綻しやすい。

 だから、今あるこの三階での日常でさえも簡単に破壊されるだろう。たとえその日常が幻想であろうと、虚構であろうと、思い込みであろうと、それを信じている由紀達の日常は破壊されるだろう。

 もはや後戻りは出来ない。この日常は足立を含めた全員が望んだものであり、永遠に続かせるべき日常なのだ。

 だから、その日常を脅かす要因は全て排除しなければいけない。それは足立が悠里に約束した事でもある。

 誰も欠けてはいけない日常ではある。

 しかし、絶対というのは不可能に近い。

 いつかこの日常に凶器が振り下ろされる時、足立は無事では済まない。そうなれば、この日常は綻びを生じさせる。五人というこの小さな世界で、一人でも抜けていく事がどんな影響を与えるのか想像も出来ない。

 だから――

 

(さて、どう書こうか……)

 

 せめて自分が去った時、彼女達が今まで通りでいられるように。

 せめて学園生活部という彼女達の世界の足枷にならない為に。

 せめて彼女達が悲しまずにいられるように。

 その思いを込めて、足立は紙に文字を連ねていった。

 

 

 生活していれば水も食料も減っていく。昔のような習慣で消費しているのなら、なおさら早く備蓄も尽きてしまう。

 その為、数日置きで胡桃と足立が購買部へ諸々の調達をしにいくことになっている。

 

「準備出来たぞ」

「よっと、さっと行ってくるよ」

「ええ、二人とも気を付けてね」

 

 足立の返事を聞いた胡桃はシャベルを担ぐと、手元の紙を持って立ち上がった。紙には悠里がリストアップした今後の生活に必要なものが記されている。

 

「あ! 購買部に行くの? 私も行くー」

「何言ってんだよ。ゆきはりーさんと三階にいること」

「そんなケチくさい事いわないでよー。ねえ足立君?」

「まだ下は危ないからな、恵飛須沢と同意見で」

「……もー、二人共ユーズーが利かないんだから」

 

 頬を膨らませて拗ねたような顔をする由紀。しつこくしてこない所を見ると、彼女も流石に自分達の立場を理解しているのだろう。

 

「今回はくるみと足立君が行くから。二階制圧したらゆきちゃんも一緒に行きましょう?」

「……はーい」

「わりぃな。お菓子とか取ってきてやるからさ」

「わーい!お菓子だったら何でも大歓迎だよー!」

 

 胡桃の言葉に、さっきまでの気落ちした顔をすぐに綻ばせる由紀。こういった子供のような彼女の純粋さと笑顔に、部員達はついつい彼女に対して甘やかしてしまうのだ。

 

「無理しちゃ駄目だからね」

 

 廊下へ出て行った二人に、悠里は念を押すように声をかける。

 

「大丈夫大丈夫。頼りになる足立もいるしさ」

「ふふ、そうね」

「その言葉、男冥利につきるよ」

「二人共、“相棒”だね!」

 

 由紀の言葉に、胡桃と足立は一瞬顔を見合わせる。

 

「ああ、恵飛須沢の手綱の握り方も分かってきたしな」

「私は犬かよ!」

 

 二人は何かと言い合いながら職員室へと向かって行った。

 

「まったく……めぐねえも人遣いが荒いよ」

「ごめんなさい」

 

 二人は苦笑を浮かべてはいるが、それは余裕を含んだものだった。バリケードを設置してからというもの、彼等に脅かされる事もなくなり、危険な事は三階から離れる事くらいだからだ。

 

「大丈夫、いけますよ」

 

 二階を確認していた足立からの合図に胡桃と慈はバリケードを越えて二階へ降りていく。

 

「よし、さっさと終わらせてランチタイムにしようぜ」

 

 胡桃の言葉に慈と足立は黙って頷くと素早く移動し始めた。

 

 

「ゆきちゃん? 昼食の準備を手伝ってくれる?」

「うん! いいよー!」

 

 悠里の言葉に由紀は笑顔で返す。その笑顔が悠里には眩しくて、ついつられるように笑みを浮かべてしまう。

 まるで子供のよう。明日に希望を持ち、それを心底楽しみにしている子供のようだ。昔の塞ぎ込んでいた姿は、もう見る影もない。

 

「じゃあこれを輪切りにしてくれる?」

「了解!」

 

 悠里は保健の授業で学んだ内容をふと思い出す。

 幼児退行。受け入れがたい状況に直面した時、人は精神の防衛機構としてそのような症状を表すのだという。由紀のこの変化は正にそれなのだろう。

 受け入れ難い現実には拒絶を。悠里達も同じ様なもので、打ち込むべき目標がなければきっと今頃は自殺でもしたいたのかもしれない。

 形を変えた行動は間違いであったのか、正解であったのか。

 だが、悠里にとってそんな事はどうだって良かった。

 今の彼女の底抜けの明るさが有るから、自分達は絶望せずに生きてゆける。彼女の眩しい笑顔が、自分達に生きる気力を与えてくれる。彼女のお陰で明日に希望を持てる。

 この世界で、由紀はなくてはならない存在なのだ。彼女のいるこの日常が悠里達の全てなのだ。

 あの日全てを失った悠里達にとって、この新しい日常だけが縋り付く依り代なのだ。

 だから――

 

「うわっ! ど、どうしたのりーさん? 急に抱き付いてきて」

「ふふっ、ゆきちゃんは良い子だなあって」

「えへへ……もう、子供じゃないんだから」

 

 何があっても守り抜く。

 たとえ何があろうと。

 胸に抱いた確かな温もりを悠里は離さない。

 

 

 購買部にて調達を終えた三人は、慈の要望で図書室に来ていた。

 学園生活部と並行して慈が授業をしているため、その為の教材を取りにきていたのだ。

 

「ん? 何だそれ?」

 

 図書室の入り口で見張りをしていた胡桃は、戻って来た足立が持っている数冊の本を訝しげに見た。

 

「医療関係の本」

 

 足立は一冊を取り出すと表紙を見せる。幾つかのイラストと共に医療にちなんだタイトルが付けられていた。

 

「備えあれば憂いなし。こうゆう知識はあった方がいいだろ?」

「まあ、確かに……」

「そうゆう事だ。……先生はまだ見てるのか」

「めぐねえは国語教師だからな、他の教科までするとなると時間もかかるだろうな」

「なるほど」

 

 そう言うと足立は扉を少し開けて外の様子を確認する。降りる前に近くの彼等は粗方倒したが油断は出来ない。

 

「……なあ足立」

「……ん?」

 

 いつもと違う胡桃の声色に気付いた足立は、扉を閉めると胡桃の横に立って返事をする。

 

「あいつらってさ……意識って残ってるのかな」

 

 人間の意識。ひどく抽象的で哲学めいた事だが、足立には胡桃の言いたい事が理解出来た。

 

「……どうだろうな、俺も最近分からなくなってきた」

「……どうして?」

「ずっと、虫みたいに動いてるって思ってたんだよ。音とか光に反射的に反応してるだけだって。だけどさ……最近あいつらの数が増えてるよな?」

「ああ」

「みんな制服を着てて、学校に登校してるみたいに。ただの虫みたいなもんなら、わざわざ来る意味なんて無いんだよ。なのに……」

「……」

 

 胡桃にも思うところがあったのだろう。だが、まだ肯定も否定も出来ず黙っているしかなかった。まだ信じられる証拠もないが、それ以前に胡桃自身が受け入れられないのかもしれない。

 

「それが意識かどうかは俺にはわからない。……たとえ、あの頭に記憶が残ってるとしても、あいつらは襲ってくる」

 

 生徒の姿をした彼等を殺す事に胡桃は抵抗感を覚えていたのだろう。

 もしかしたら、彼等に生前の意識が残っているかもしれない。

 もしそうだとしたら、彼等は人間と何が違うのかと。もしそうだとしたら、自分はただの人殺しなのではないのか。

 そんな懸念があったのだろう。

 

「……しょうがないよな」

「……」

 

 胡桃の嚙みしめるように言った言葉に、足立は静かに頷くしかなかった。

 

 

 うえにある。

 このうえにある。

 

 雨から逃げる様に校舎に入った彼等の意識が求める。

 もはや彼等の身体と精神は繋がっていない。それどころか精神でさえまともに働いているわけではない。

 記憶は断片化し、相互の繋がりは無くなった。それに伴って彼等の生前の“心”や“想い”といったものは無くなった。

 彼等は、頭に残っている記憶の断片を見ているだけなのだ。そして、身体は強い記憶に従い彷徨い歩く。そして原始的な欲求に従った行動をする。

 

 そう、このうえにある。

 きっとこのうえにある。

 

 何があるかは関係ない。そこへ至る事が目的であって、その道中で欲求に従った行動をするだけだ。

 

 このうえだ。

 このうえにあるのよ。

 

 ゆっくりと、緩慢な動作で彼等は行進する。

 外には出られない。さらに外から入ってくる者達と共に目指すのだ。

 その光景はまるで、彼等の頭の中にある生前の記憶ととてもよく似ていた。




胡桃ちゃんの引き締まっているであろう足で、膝枕したい。


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12話

ゾンビに成る事が死ぬ事と同義でないなら、タグに原作キャラ生存って入れても……あ、駄目ですよね。知ってました。


 あの日、悲鳴をあげる友人達がどんな思いをしながら彼等になったのか、足立には分からない。

 死への恐怖か、後世への未練か、彼等への憎悪か、はたまた安泰か。

 もしこの世界に生き返れるのだとしたら、彼等は元の人間に戻りたいと願うだろうか。

 この、いつまでも続く望みの無い世界に。

 

「……」

 

 屋上から真っ暗な空へ向かって、黒い煙が火の粉と共に昇っていく。

 あたりに広がっていた腐臭も、焼けた臭いで払われたようだ。肉と髪の毛の焼ける不快な臭いに最初は顔を顰めていた慈と足立も、最後の一体を燃やしている今では囲んだ火を穏やかに眺めていた。

 

「……」

 

 火葬。

 この世に魂を留まらせないように、器である遺体を燃やし、魂をあの世へと送る火の葬送。

 勿論そんな理由で三階にあった遺体を燃やしているのではなく、公衆衛生的観点と遺体があると場所を取ってしまうからである。三階の清掃時に隅に集められていた遺体は、放っておけば病原菌の苗床となってしまう。なにより、出来るだけ昔の日常を送ろうとする学園生活部にとっては、死体の近くで生活するというのは、それだけで非日常だからである。

 でなければ、夜の屋上で行われるそれがひどく原始的で、端で見ていればただの焚き火としか見えないことは無かっただろう。送る人間はたった二人だけで、遺体は派手な棺桶ではなく紙屑に囲まれて燃やされている、あまりに見窄らしい葬儀だからだ。

 だが――

 

「……」

「……」

 

 まるで弔う相手を最期まで見ているかのように、二人はその炎を囲んだまま動かなかった。煤が辺りを舞い、炎で身体が熱さを覚えようと、二人は炎から眼を逸らさなかった。

 二人共特別信心深い訳ではない。色々な国の習慣に倣ったりした家庭や社会の生活で、固執している宗教も教えも無い。

 だがそれと同じくらいに、今まで暮らしていた生活の習慣が根付いているのか、死んでしまった者に対する物悲しさが拭えなかったのだ。

 せめて、この死者達には安らぎを。

 望まぬ死でも、徘徊する彼等にならずにこの世を去れた事を死者達が誇れるように。

 

「……よっと」

 

 勢いの衰えている炎に足立は紙屑を追加していく。人体は燃えにくいため、火を消さないためにも空気と燃料を追加し続けなければならないからだ。

 炎の中にあるのは残り最後の遺体だった。

 表面は黒く焦げ、筋肉の収縮によって一回り小さくなり、それが人間だったのかも分からなくなっている。

 元々彼等にならずに三階にあった死体は、総じて凄惨な有様だった。身体を動かす為の脳や頭が無くなっていたり、喰われ尽くされもやは人の形を成していなかったりするからだ。

 よって生前の顔を思い出させる遺体は、一つとして無かった。あるとすれば、身に纏った布切れが辛うじて巡ヶ丘学院の制服だとわかる程度だ。

 だがそれは、二人にとっては不幸中の幸いだったのかもしれない。目前に迫る死の恐怖に歪んだ顔は、常人にとっては悽愴そのものだからだ。

 

「これで終わりですね……」

「……ええ」

 

 燃料の紙屑が無くなり、足立の確認を取るような言葉に慈は頷いた。

 二人の顔には疲労が色濃く表れていた。夜通しの作業は堪えるものがあったのだろう。

 なるべく由紀達が寝ている深夜に屋上へ運んだ遺体は、迅速に焼いていった。焼骨になるまで焼くことは出来なかったが、殺菌と分解をし易くする目的であったので、あとは大まかに解体して土に埋めることにしている。

 足立はシャベルを持ち直して火の消えかかった遺体へ近づく。そして慈がもう一つの空いた畑に穴を掘りに行くのを確認すると、シャベルの切っ先を遺体の関節部分に合わせた。

 

「……っ」

 

 体重を掛け、押し込んだシャベルで脆くなった遺体を分ける。そうやって、大まかにだが解体していく。

 焼く前より一回り小さくはなっているが、なるべくバラバラにしておいた方が埋めやすいからだ。

 

(これは結構焼けたな)

 

 シャベルから伝わってくる感触が、何処か他人事のように感じる。焼いた遺体をわけていくなど、想像した事もなく、現実味もない。

 

「……はあ」

 

 思わず憂鬱とした気持ちに溜息を吐く。

 足立達の今の生活は、さながら延命装置である。

 いつ突然に終わるとも知れず、現状が改善される可能性も低い。

 結局、一階でいた頃と変わりは無く絶望は付きまとっている。

 

「後は自分が片付けておくんで、先生は先にシャワーでも浴びてきてください。臭い、酷いですよ」

 

 分解した遺体をシャベルで穴に入れながら足立は慈に声をかける。

 

「……足立君、悠里さんや胡桃さんがよく言ってたわ。『足立君は気が利くけど、デリカシーが無い』って」

「あはは……いやあ、ただの冗談のつもりだったんですけどねえ」

「もう。……でも、お言葉に甘えさせて貰うわ」

 

 慈は疲れきった顔に笑みを浮かべる。

 最近の授業では担当だった国語以外もするようになり、様々な事を考えて疲れていたのだろう。なにより、慈は元々夜更かしは得意ではないようだ。

 

「はい、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 

 屋上から去った慈を見送ると、足立は再び手を動かして穴を埋めていく。

 

「…………ん?」

 

 ぽつりぽつりと、屋上の床に雫が弾けた。

 それらは熱せられた土に、焼け焦げた煤に、落ちては白い煙となって霧散していった。

 

「また雨か……」

 

 数日降らなかった雨が、また降り出したのだ。次第に勢いを増していく雨が床を濡らし、いつしか床を浸すほど降るだろう。

 

「……」

 

 水は低きに流れ、人は易きに流れる。

 絶望に浸ることで、死は甘い誘惑になる。

 死ねば何も考えなくていい。死ねば何も感じなくていい。死ねば苦しまなくていい。

 なら自分達はどうだろうか。

 

(目的……生きる目的……)

 

 あの頃の日常は今は無く。取り戻す事も出来ない。

 学園生活部という幻想に縋り付いて、それでも自分達は生きていけるのだろうか。

 

(今は……今だけ考えればいい)

 

 いつか直面する問題に、昔の足立なら正面から見据えただろう。どんな絶望的な状況でも、立ち向かっていかなければならないと思っていたからだ。

 だが、学園生活部という日常を過ごすうちに、この居心地の良い空間が消えてしまう可能性など考えたくなかった。彼女達の苦しむ姿など考えたくなかった。

 そしてなにより、学園生活部こそが、現実から眼を背ける為に作られたものなのだから。

 

「……」

 

 素早く穴を埋め終えると、ブルーシートを重しと共に穴の上に被せ、足立は雨から逃げるように屋上から降りて行った。

 

 *

 

 巡ヶ丘学院高等学校は災害時における避難所としての役割を想定して、太陽光や水力による発電と地下水や雨水などの浄水設備が備えている。

 学校施設の説明時にそう言われた事を、当時の慈は素直に受け止めていた。今の御時世、学校にも住めるのだと思いながら。

 だが、マニュアルを読んだ今の慈には、そこに含まれた意味が別のものではないかと考え始めた。

 

『重要なのは確保と隔離である』

『感染対策は初期の封じ込めが重要であるが――』

『――生物兵器も、この例に漏れない』

 

 慈の中で災害とは、地震や津波などの自然災害の事だった。それが一般的な筈だった。

 しかし緊急避難マニュアルに書かれていた内容は、そんな事に一切触れる事なく、慈の体験した事のない状況を想定していた。

 生物災害(バイオハザード)

 しかしながらそれは、慈自身体験した事はないがよく聞く名前でもあった。研究途中の生物兵器が漏洩して大混乱、などは架空の創作物の中ではとても有名な事態だからだ。

 マニュアルの内容は、まさにそんな事態の想定だった。つまりそれは、このマニュアルを作った人間は人に危害が加わる物が作られている、もしくは持っている事を知っていたということだ。

『地下一、二階を本校における非常避難区域とする』

 そんな事態を想定した設備。そんな事態への対処法。

 今慈達が健康に過ごせているのは、皮肉にもそのお陰であった。

 電気も水も基本的に困る事はなく、昔と同じ様に今も慈はシャワーを浴びられているのだから。

 

「…………」

 

 排水口に向かって、慈の身体を伝っていった湯が流れていく。その様子を見る度に、慈はここの清掃時の風景を思い出してしまう。

 排水口へ流れ、乾いて跡になった血。ここも、あの日惨劇のあった場所だったのだ。

 そして、ついさっき足立と共に“処分”した遺体。

 もはや肉塊とも呼べるような遺体。

 頭も無くなり、身体中を食い千切られた遺体。

 無残な程に引き裂かれた巡ヶ丘学院の制服を着た、生徒であっただろう遺体。

 

「……っ」

 

 それらを思い出すだけで、慈は身体中から血の気が失せるのを感じた。

 これも自分の罪なのか。

 無知だった自分の罪なのか。

 マニュアルを読んでから、幾度もした問いだった。

 事前に自分が知っていれば、こんな結末は無かったのだろうか。

 生徒であっただろう遺体のその凄惨さ。彼ら彼女らがどれ程悲惨な最期を遂げたかは、慈の想像出来るものではなかった。

 

「はぁっ…………はぁっ…………」

 

 息をするのも苦しく感じる。

 震える体をつたう温水は、しかし急速に熱を失い、次いで火照った身体の熱を奪っていく。だが、それとは関係なく慈の身体は奥底から冷めていく。

 

(私達大人が…………いや、私が……)

 

 日常を――生徒達の日常を壊した。

 彼等だけではない。足立と共に屋上で焼いた遺体も、そして由紀達も、かけがえのない日常を送っていたのだ。

 色々な繋がりと様々なしがらみを持っていた生徒達の世界を奪っていった事実が、慈の心をゆっくりと締め上げ圧迫する。

 何て罪深いのか。何て卑しいのか。

 被害者面して生きていた自分が堪らなく嫌になる。

 

「…………あ、止めないと」

 

 慈は呟きと共にハンドルを捻り放水を止める。連日の雨で水は溜まっているとはいえ、今後の事を考えると油断出来ない状況なのだから水と電気は節約しなければならない。

 慈は身体に付いた水を拭き取りバスタオルを身体に巻くと、洗面台へと向かう。身体に付いた死臭も洗い落とし、衣服も新しく用意している。

 

(これから……か)

 

 これから。

 由紀達のこれから。

 慈自身のこれから。

 漠然とした未来だが、慈には一つだけ決めている事があった。

 

(せめて、あの子達だけでも……)

 

 由紀達にとっての大人は、今は慈ただ一人だけだ。

 子供を守るのが大人の責任であり、子供の未来の為に命を張るのが大人の義務なのだ。

 だから、由紀達をこの学校――この理不尽な世界から抜けださせる事。

 それがマニュアルを読んだ後、罪の意識と共に誓った事だ。もしかしたら、罪の意識から生まれたものなのかもしれない。

 だがそれでも――

 

(この命は、彼女達のためにあるんだから)

 

 気を引き締めようと髪を拭いていたタオルを退け、顔を冷水で強く洗う。

 

「はぁっ……」

 

 顔を上げると、洗面台の壁に設置させた鏡に病人のような顔が映る。

 まだ年齢としては若い筈なのに、鏡に映った自分の顔は酷く年老いて疲れた人間のように見えた。

 

「酷い顔……」

 

 自嘲気味に呟く。自分の罪に怯え疲弊するだけの人間に、一人の命でさえ守る力があるとでも言うのだろうか。

 だが、それしか慈には残されていないのだ。

 慈は身体に巻いていたタオルを取ると、新しく用意した下着と寝巻き用の衣服を身に付け、廊下へと出る。

 

「あら、また雨……」

 

 夜のひんやりとした空気の中で雨音が静かな校舎内に響く。

 雨は割れた窓から降り込み、廊下の床を濡らしていく。濡れた床で滑らないように、慈はしっかりとした足取りで寝室である放送室へ向かう。

 

「……」

 

 血が染み付いた床や壁。割れたガラスの窓。彷徨う人間だった彼等。

 どこにも逃げる場所はない。慈の罪は消えず、何処までも付きまとってくる。

 目を開けばそれは現実になる。だからといって目を瞑る事も出来ない。慈が居なくなれば、由紀達を守れる大人は残らないのだ。

 もう慈には立ち向かう事しか残されていない。

 

(償えなくても、みんなは守らなくちゃいけない)

 

 放送室の寝室部分に音を立てないように入ると、三人は由紀を挟むように川の字で寝ていた。

 

「もう……」

 

 由紀にずれた布団をかけ直す。その寝顔は安らかで、とても優しい笑みを浮かべている。

 

(ごめんね……みんな……)

 

 今だ由紀達にマニュアルの内容は話していない。きっと伝えれば、慈は糾弾される。何故こんな事態を仕出かしたのか。何故もっと適切な対処をしなかったのか。それは他でもない、慈自身が思っていた事だ。

 そして何より、由紀達の笑顔が、怒りや憎しみに歪む事など考えたくなかった。

 自分達の働きで、由紀のこの笑顔が守られている。それだけで慈には励みになるのだ。

 出来ることなら、由紀にはずっとそのままでいて欲しい。

 

(ごめんね――でも、まだその時じゃないと思うから)

 

 慈は敷いた布団に入り、きつく目を閉じる。

 目蓋の裏にさえ現れる罪の形は、なおも慈を責め立てた。

 

 

『ゆきちゃん、足立君を起こしてきてくれる?あ、男の子だから部屋の外からね』

 

 そう悠里に言われた由紀は、指示通り部屋の外から呼びかけた。だが声だけでは起きないのでドアも叩きながら呼びかけた。それでも起きないので、部屋の中に入って近くまで寄って呼びかけたところで、足立はやっと起きた。

 

「…………ん?」

「おはよう。足立君」

「…………おはよう」

 

 寝起きで頭が働いていないのか、素面で返事をする足立。いつもなら演技くさい言葉を吐くのだが、朝が弱い事は変わっていないらしい。

 

「朝だよー。授業に遅刻しちゃうよー?」

「ああ……ちょっと……着替えるから……外に……」

「うん、わかった」

 

 だんだん頭が回ってきているようだが、まだ呂律の方は回りきっていないようだ。

 それでも由紀は言われた通り部屋の外に出ると、再び口を開いた。

 

「りーさんが言ってたよー?」

「……デリカシーが無いって?」

「いや、そうじゃ……まあ、それもあるけど」

「……やっぱりあるんだ」

「そりゃあそうだよ。気を利かせてくれたのは嬉しいけど、女の子の服を勝手に洗濯するのは駄目だよ」

「……あの時の恵飛須沢のシャベルは痛かったからな……もうしません」

「うん。その方がいいと思う」

「……それとは別の事?」

「うん」

 

 少し間を置いて、思い出したような口ぶりで由紀は話す。

「いっつも疲れた顔してるって。そう言ってた」

「……うん」

「めぐねえもだけど、二人とも一人で全部しちゃうし、私達に頼ろうとしないし……」

「……」

「私達、そんなに頼りないかな?」

「……いや、そんな事は」

「みんな感謝してるけど、無理はしちゃ駄目だよー?」

「……うん」

 

 どうやら会話で足立の頭もしっかり働くようになったらしい。返事もしっかり聞こえ始めた事を由紀は感じた。

 

「めぐねえがね、私の笑顔が良いって言ってんだ」

「……笑顔は大切な事だよ。赤ちゃんが泣いてたらあやすだろ?」

「もう、私は赤ちゃん扱い?」

「あはは、確かに丈槍のお守りは大変だしな」

「……私の笑顔って、元気出る?」

「当たり前だよ。可愛い女の子と笑顔はセットだ。男子はそんな子がいるだけで元気が出る単純な生き物だから」

 

 部屋の中から聞こえる笑い声に由紀は顔を無意識に綻ばせる。いつも通りの足立だという事が嬉しかった。

 

「おまたせ。と言いたいところだけど、顔を洗いにいくよ」

 

 やっと出てきた足立は制服に着替え、肩にはシャベルを担いでいる。胡桃の姿勢がそのまま写ってしまったように思えて、由紀は小さく吹き出す。

 

「……ぷっ」

「なんだ?」

「ごめん、胡桃ちゃんがもう一人いるみたいで……」

「……それは良い捉え方とは言えないな」

 

 洗面所へ向かう足立に由紀も着いていく。

 

「……どうした?」

「いや、まだ言わなきゃいけない事あるから」

「はあ」

 

 足立も由紀が着いてくる事を知ると、歩調を由紀に合わせる。

 

「突然だけど、足立君は他人行儀だよ!」

「本当に突然だな」

「これからは下の名前で私達を呼ぶように!ほら、渾名とかで呼び合うって凄く仲が良さそう」

「いや……それは馴れ馴れしいというか」

「馴れ馴れしくなんか無いよ。私達は衣食住を共にする友達……いや家族だからね!私も今から陸君……いや!りっくんと呼ぶよ!」

「ええ……」

「ほら!私の名前を呼んでみて!」

「………………由紀」

「うーん……まあ合格」

「はあ……」

「じゃあ部室に行くよりっくん!りーさんやくるみちゃんもだからね!」

「いや、あの、顔を洗いたいんだけど」

 

 

 危険性というものは、いつ如何なる時でも少なからず存在する。

 道を歩いて車に撥ねられ事もあれば、通り魔に殺される事もある。階段からうっかり落ちてしまったり、地震によって崩れてきた瓦礫で圧死する事もある。

 だが、その可能性が低いがために人々は平和を錯覚してしまう。自分達が死と隣り合わせで、どれだけ注意しても危険な目に遭う事を忘れている。

 事の起こりで思い出し、全てが終わった後に後悔する。

 だがそれはまた人間の発展の歴史の一面でもある。経験から学び、人間の営みの中の危険性を減らしていく。技術を能力とする人間の進化だ。

 だがそれでも危険性は無くならない。どれだけ可能性が減少しようと零になる事はない。

 だから――

 

 まるで痛みに呻くように、彼等の口から言葉にならない声が溢れる。彼等は身体の何処かに傷を負い、四肢さえ欠損している者が殆どである。生存の必要な器官が大幅に失ってさえ動く彼等を見れば、今更痛覚が働いているとは思えない。

 そもそも、たとえ人間の成れの果てだとしても、彼等と人間の共通点はその輪郭程度だ。言葉も通じず、理性もなく。一切の躊躇もなく、逡巡もなく。彼等は正に反射によって生きる一個の生物だ。

 そう、バリケードの前の者は痛みから声を上げている訳ではない。他の者からバリケードの側へと圧迫され、身体の中から漏れ出した空気が喉を震わせていただけだ。

 狭い空間から広い空間へ。しかし、呻き声を上げる者はそこから動けない。バリケードの周りは彼等で溢れかえっているからだ。

 まるで雨宿りをする生徒のように、彼等は校舎内に溢れかえっていた。濡れれば体温が奪われ、体内の機能も著しく低下してしまう。それは陸上で生活している動物の本能で分かっている事だ。

 しかし彼等は本能で動いた訳ではない。彼等は頭の中の記憶から動いただけに過ぎないからだ。

 生前の記憶。もはや相互の繋がりの無くなった記憶の群れ。彼等の頭に残ったものは、何ら関連性も持たない断片の様な人間時代の残滓だった。

 複雑な思考は不可能になり、そこに付随していた意味も無くなった。彼等は頭に残ったその記録をなぞる事しか出来ない。

 だからこそ、彼等はそのバリケードの向こうに、まだ行ける場所がある事を知っている。

 狭くなってきた二階から、まだ空間があるであろう三階へ。だが知恵も回らぬ彼等はバリケード前で立ち往生してしまう。

 まるで転んでしまった発条仕掛けの玩具のように、彼等はただバリケードに群がるだけだった。

 しかし数の多さには抗えないのか、有刺鉄線で巻かれた机を積み上げたバリケードがゆっくりと歪んでいく。

 どれだけ強く巻き、固定したと思っていても、彼等の力と数は想定以上だったのだ。

 重ねていた机同士がずれ、有刺鉄線が緩んでいく。

 重心が不安定になった慈達の平和の壁は、彼等に押され、ゆっくりと傾いていった。

 

 危険は――死はいつも隣り合わせだ。

どれだけ障害を立てようと、どれだけ逃げようと、それはただの保留に過ぎない。

 それを平和と謳い、その平和の幻想に篭っていれば、いつか手痛いしっぺ返しを食う事になる。

 気付いた時にはもう遅い。

 ずっと前から、安寧の日常などありはしなかったのだ。




がっこうぐらし!の7巻がそろそろ発売されますが同じきらら系列キャラットの芸術科生徒達の四コマ漫画が連載終了してしまう悲しみを胸に秘めて次回からめぐねえには退場してもらおうと思います。

はい、謹賀新年です。
だからといって特に何も有りませんが、ここまで付き合ってくださった皆様ありがとうございます。
出来れば今年度も(構想ではあと2話程度ですが)拙作を宜しくお願い申し上げます。


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第13話

バイバイ、めぐねえ。


「ん?」

 

 大きな物音が聞こえた。

 机や椅子が倒れるような音が、沢山。

 ただの好奇心で、何も考えずに音のした方へと由紀は身体を向けた。本当は直ぐにでも慈の元へ行かなければいけないのだが、優しく甘い慈なら多少の遅れは見逃してくれる筈だ。

 黒く乾いた血の汚れが、床や壁にこびり付き、窓硝子の割れた廊下の惨状の中でも、彼女はまるでそれらを気にする事もなくを歩いて行く。

 

「何だろ?」

 

 人が人を襲い始めた“あの日”に、それまでの由紀の日常は崩壊した。

 楽しかった事も、悲しかった事も全て“あの日”にご破算となってしまった。過去を振り返ったところで、無くなったものを哀しむ事しか出来ない。

 しかし、空白はまた埋めてしまえばいい。

 幸せな記憶で埋めていけばいい。

 例えその幸せな記憶が虚構によって成り立っていたとしても。

 何度も何度もメッキを塗り重ねれば、いつかそれが塊にもなるように。

 虚構さえも本当だと信じ切れるように。

 そう自分を思い込ませる為に、由紀は何度も過去の記憶に今の記憶を刷り重ねた。

 

 だから、階段に何が在ったのかも忘れていた。

 ただ近付いてはいけないという意識だけしかなかった。

 何故なら、丈槍由紀にとっての日常は、今や巡ヶ丘学院高等学校三階での生活だけだったからだ。

 起きるのも、寝るのも、食べるのも、学ぶのも、帰るのも、話すのも、すべて三階だけだ。

 どうしてなのかを、由紀は忘れた。

 その理由でさえも、思い出すには辛いのだから。

 

「――え」

 

 口から溢れる呟きと共に、持っていた課題が手から滑り落ちる。

 床に散らばる筆箱と数学の教材、そして帳面。落ちた拍子に開いた頁を見れば努力の跡は窺えるのだが、解いていた問題は殆ど正解していない。

 高校三年生になっていてもお世辞にも勉強が出来るわけではない由紀は、たまに慈による“補習”を受ける事になっている。多少苦ではあるが、慈は優しく教えてくれるし、時間制限もない。

 そして何より、出来た時に慈達が自分を褒めてくれる事が嬉しかった。

 

 それが由紀の日常だった。

 朝起きて朝食を食べ、午前の授業を受けて、昼食を食べる。眠気に襲われながらも午後の授業を受け、園芸部の手伝いをしたり、他の部活動をしたり。そして夕食を食べて、シャワーを浴びて、胡桃や悠里と話をしながらいつの間にか寝てしまう。

 学校で暮らす部活は変わっているが、楽しい生活だった。

 とても幸せな日常だった。

 

「あ……」

 

 床に散らばる教材など気にも止めず、由紀は一歩後ずさった。

 呼吸は乱れ始め、頭は今起こっている現象を咄嗟に理解する事は出来なかった。

 

 今、由紀の目の前にあるのは――明確な日常の終わり。

 日常を終わらせる存在。

 

「――ひっ」

 

 土色の手が動くと由紀は引き攣った悲鳴をあげる。

 死斑の浮いたその腕は、そのまま先にある階段の一段を掴み、愚鈍な動作で自身の身体を持ち上げた。

 それはバリケードの残骸である机や椅子を押し退けゆっくりと、だが着実に階段を登っている。

 

 その輪郭は、辛うじて人間だった。

 巡ヶ丘学院高等学校の制服を着ていて、頭があって、首があって、肩があって――

 しかし細部をよく見れば、四肢の何処かしらが欠損していたり、頭が割れて本来見えないような中身が見えていたり、腹から溢れた腸を引き摺っていたり、下半身を失っているものさえいた。

 どれだけその身体が人間と同じ物だろうと、それを操っている者が人間である筈がなかった。

 人間であるならば、その身体の状態に痛みで呻き、死んでさえいるはずだ。

 だが、それは動いている。

 それは、その身体で校舎を蠢いてる。

 “あの日”からずっと。

 

「あ…………」

 

 そう、現実だ。

 何て事はない。“あの日”からずっと近くにあった現実だ。

 そして――見て見ぬふりをしていた現実だ。

 

 所詮臭い物に蓋をしていただけで、根本的な解決にはなっていなかったのだ。

 どれだけ記憶から抹消して、見て見ぬふりをしていても、それは変わらず存在していた。

 そして由紀は考えてもいなかった。

 自分達の平和が脅かされる可能性を。自分達の日常があまりにも不安定だということを。

 いや、それもまた信じていなかっただけなのかもしれない。自分に都合の良いようにしか捉えられず、学園生活部という環境が拍車を掛けていたのかもしれない。

 “あの日”までの日常は、簡単に崩壊したというのに。

 

「うあ……ああ……」

 

 由紀は呻きながら首を左右に振った。

 目の前の現実を否定したくて何度も振った。

 あり得ない。

 こんな存在は由紀の世界には有ってはならない。存在してはならないのだ。

 しかし、目の前の存在は由紀の願い通りには消えてくれず、ゆっくりと距離を縮めてくる。

 それどころか、重たげな足音と鼻を刺す異臭を伴って、さらにその存在を確固たるものとしていた。

 

「…………あ……ああ」

 

 口から意味のない声が漏れる。

 由紀は激しく振っていた頭を腕で抱え、まるで身体を守る様にその場にうずくまった。

 その姿は、辛い現実から必死に逃避しようとしていた“あの日”の姿と何も変わってはいなかった。

 記憶はようやく喚び起こされ、思考は“あの日”の記憶と共に彼等に食べられる光景ばかりを想像する。

 

 その死体のような身体で押し倒され、手足を押さえつられる。

 涎を垂らすその口で噛みつかれ、皮膚を、肉を、脂肪を、筋肉を、骨を断ち切られる。

 五臓六腑を引き摺り出され、血を撒き散らし、悲鳴をあげながら、のたうちまわり、生きたまま食べられる。

 そして最後には、彼等と同じ様に――

 

「……ああ……ああああ――」

 

 逃げないと。

 ようやく働き始めた頭が喚き散らす。

 今すぐ逃げないと終わってしまう。

 ここで逃げないと全てが終わってしまう。

 今までの現実が。

 由紀の幸せが。

 “あの日”のように――

 

 だが足は震え、身体は強張り、彼等から眼を逸らせない。

 のしかかる恐怖に身を竦めたままの由紀に、彼等はゆっくりと手を伸ばし、そして――

 

「ゆきちゃん!」

 

 鋭い声が響くと同時に、由紀は倒された。

 慈に一緒になって、抱き締められるように押し倒されたのだ。由紀に襲いかかろうとしていた一体は、目の前の獲物が一瞬だけいなくなり混乱する。

 そして、白い煙が後追いする彼等に浴びせかけられた。

 

「ゆきちゃん!」

「ゆき!」

 

 シャベルを持った胡桃と、消火器を持った悠里が由紀と慈の元へ駆けつける。

 三人の姿を見た由紀の表情から強張りが抜ける。

 

 いつだって由紀を守ってくれる皆。

 皆がこの幸せな日常を守ってくれる。

 その中で由紀は笑顔でいれば良かった。そうする事が良いと慈が言ってくれたのだから。

 だが、都合の良い日常は続かない。

 今、由紀が直面している危機は“あの日”と同じだ。それまでの日常を破壊する人間だった存在がいるのだ。

 だから――

 

「あうっ……!」

「――めぐねえ!」

 

 慈の口から苦悶の声があがる。

 両腕を無くしている一体が、器用にも慈の細い腕に噛み付いているからだ。

 

「こんのっ!」

 

 怒りに顔を歪めた胡桃が、噛み付くその顔にシャベルを振るう。

 直撃したシャベルはぐしゃりと顔面を潰し、噛み付いていた一体は脱力したように慈の腕から口を離した。

 

「うぅ……っ」

「めぐねえ!?」

 

 噛まれた腕を押さえ、うずくまる慈を由紀は抱きしめる。

 顎が食い込んだ傷が深いのだろう。

 二の腕から滲む血の量は増え続け、腕を、脇を、腰を伝い、慈のワンピースを黒く汚していく。

 

「ゆきちゃん! このままめぐねえを放送室まで運ぶわ!」

「う、うん!」

 

 中身が空っぽになった消火器を捨てた悠里が慈の肩を抱く。由紀もそれに倣う様に悠里の反対から慈の肩を抱く。

 慈は痛みに呻くが、今は怪我を気にしている余裕はない。

 胡桃が彼等の相手をしている隙に三人は歩き出す。

 ゆっくりと、胡桃が後を追う彼等を蹴散らしながら、四人は放送室へと向かう。

 慈の腕から伝う血液が、ぽたりぽたりと廊下に跡を残す。

 

「急げっ!」

 

 放送室のすぐ近くまで来ると、胡桃は由紀達の前に出て扉を開ける。

 そして彼女達が放送室へ入ろうとした、その時――

 

「――え?」

 

 由紀と胡桃と悠里の三人は、部屋の中へと押し込まれた。

 

 

 噛み付かれた腕を押さえながら、慈は三人がいる放送室の扉にもたれ掛かった。

 周りは彼等が取り囲み、慈へゆっくりと近付いてくる。

 

(みんな大丈夫かな……)

 

 ひどく間延びした時間の中にいるように感じる。

 今の慈からしてみれば、目と鼻の先にいる彼等の動きは、まるでコマ送りのように遅く感じた。

 もともと彼等の動きはぎこちなく鈍い。しかし今はそれ以上に彼等の動きが遅く見える。

 この感覚が意味するものを、慈は薄々気付き始めている。

 

「駄目だゆき!もう――」

「放してっ!」

 

 もう自分は助からない。

 慈はそう確信していた。

 例え今、この瞬間に奇跡が起きて、彼等が何もせずに此処から立ち去ったとしても、もう慈は助からないだろう。

 彼等に食われれば、噛みつかれれば、その後どうなるかは何となく分かっていた。

 そして、ようやくその事を実感した。

 何となく、噛まれた腕から違和感を感じていた。

 

 燃えているように熱い。

 火傷の様な痛みが内側を遡上している。まるで侵食していくように、そこから身体を喰らっていくように。

 痛みに感覚は麻痺し、まるで自分の腕ではないようにすら感じる。

 出血は止まらず、噛まれた箇所からは血が絶えず流れている。

 これはただの怪我ではない。

 まるで毒だ。

 身体中を侵食し、感覚を狂わし、神経までも狂わす猛毒。

 ただし、これは患者を殺すためだけの毒ではない。

 

「まだめぐねえが外に……! 早くしないと!」

 

 胡桃の制止の言葉を聞かず、叫ぶ由紀の声が扉越しに聞こえてくる。

 出来れば聞きたくはなかった。

 彼女にはずっと笑っていて欲しかったから。

 彼女が悲痛な叫び声があげることは嫌だったから。

 

(みんな…………ごめんね)

 

 しかし、もう遅い。

 この扉は開けられない。開けたら最後、慈だけでなく部屋の中の三人までも犠牲になる。

 助かるには、もう何もかも遅い。

 彼等はもう目と鼻の先なのだから。

 そして慈も、もうすぐそんな彼等の仲間入りを果たす事になる。

 

 ……いや、もしかしたら“あの日”から慈の運命は決まっていたのかもしれない。

 我が身可愛さで生徒も同僚も見捨てた“あの日”に。屋上で立て籠もっていたあの時から。

 もしくはもっと前。あの忌々しいマニュアルを詳しく調べていなかった為に、全てが崩壊してしまったのかもしれない。

 ひょっとして、自分は産まれた時から……。

 そんな途方も無い事を考えてしまう程に、慈の中の時間はゆっくりと過ぎていた。

 

(先生、悪いことしたよね)

 

 力が抜けた身体を床へと下ろし、慈は残ってしまう四人に懺悔する。

 

 結局自分は保身に徹したまま最期を迎えてしまった。

 慈がいなくなった後、マニュアルに気付いた彼女達はきっと怒るだろう。

 何でこんな事を起こしたのか。知っていたのに何故教えなかったのか。どうして相談してくなかったのか。

 いや、心優しい彼女達の事だ。

 そうやって責めてきても、あとでちゃんと話し合えた筈だ。

 

「…………私――」

 

 彼女達は大切な、大切な自分の生徒。

 もう、絶対に失いたくない。“あの日”に全てを失った今だからこそ痛烈に思えた。

 慈は教師だが、この三階での生活で彼女達から様々なものを学んだのだ。

 彼女達がいたから、慈は先生でいられたのだ。

 扉は分厚く、彼女達に聞こえるかは分からない。

 だがそれでも、慈は言わずにはいられなかった。

 

「――みんなの先生でよかった」

 

 言葉で想いを伝える。

 言語を理解しないような彼等ではないうちに。

 せめて、最期には人間らしく幕を降ろせるように。

 

(あぁ――)

 

 ゆっくりと意識が沈んでいく。

 これまで慈の身体を支配していた意識が、ゆっくりと崩れていく。

 せめて彼等が、これから仲間入りを果たす自分を含めた彼等が、彼女達を襲う事の無いように願いながら。

 

「――お…………な……か……が」

 

 そんな言葉と共に、慈の意識は沈んでいった。

 

 

 雨は延々と降り続いていた。

 鈍色の厚い雨雲は、まるで何処までも広がっているかのようである。

 この空の下で、外を出歩く者はいない。

 それは彼等も例外では無かった。

 雨に濡れてはいけないという彼等の中の記憶が、校舎内へと向かわせる事になった。

 だが、校舎内は雨から逃げて入って来た彼等と、元から徘徊していた彼等でいっぱいである。

 まるで濃度勾配に従う様に、彼等は狭い場所から広い場所へと向かって行った。

 すなわち、校舎を上へ上へと登りだしたのだ。

 しかし、三階への階段はバリケードで塞がっていた。

 

「おなか……すい……」

 

 かり……

 

 二階ももう彼等でいっぱいだ。残っているのは三階しかない。

 だから彼等はバリケードに群がった。

 記憶にはその先に階段があるのだ。彼等はひたすら、執拗に記憶に沿って進もうとした。

 その押し合いへし合いで、何体かは潰れてしまった程だ。

 そして根を上げたバリケードは倒壊し、彼等は我先にと三階への階段を登った。

 

「あ……け……て……」

 

 かり……かり……

 

 彼等は酷く貪欲でもあった。

 記憶に沿って三階まで来たが、その途中で感覚をとても刺激する存在がいたのだ。腹を空かせた彼等が喰らい付こうとしないはずがない。

 

「せんせい……みんな…………好き……だから」

 

 かり……かり……がり……

 

 その存在は扉の奥へ逃げ込んでしまった。

 しかし、だからといって彼等はそう簡単には諦めない。

 バリケードにそうしたように、その扉を力任せに壊してしまえばいいのだ。

 爪が剥がれても、指の骨が折れても、腐った傷口が擦れても、何度も何度も扉を叩く。

 扉の前の存在が邪魔だったが、それも今では彼等と同じように扉を叩いている。

 

「どうして…………あけて……くれないの」

 

 がり……がり……がり……

 

 放送室の扉が悲鳴を上げ始めた。

 扉が破壊され、その部屋の中へと彼等が雪崩れ込むのは時間の問題だろう。

 

 細い首を噛み千切り、溢れ出る鮮血を飲み干そう。

 腹を食い破り、詰まっている臓器を平らげよう。

 腕や足を捥ぎ取り、柔らかな肉を頬張り、骨の髄まで食い尽くそう。

 その名の通りの、血沸き肉踊る宴はもうすぐだ。



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第14話

 流石めぐねえ!
 そう簡単にはやられないぜ!
 あと足立君も頑張ります。


 それは、一種の亀裂だった。

 日常という絵の具で幾重にも塗り重ねられ、学園生活という枠に嵌め込まれた、三階の情景に生じた綻びである。

 そこにあるはずのないものがある。

 そこにいないはずのものがいる。

 それによって、まるで洗脳のごとく何度も何度も唱えられてきた日常は、一気に崩壊しつつあった。

 

「……ん?」

 

 鈍重な足音。

 低く洩れる呻き声。

 すえた匂いと、鉄錆の臭気。

 そんな三階では聞くことも無い音と、嗅ぐことの無い臭い。

 昼寝をしていた足立は冷や汗をかきながら飛び起き、努めて冷静に、ゆっくりと部屋の扉を開けた。

 

「なっ……!?」

 

 足立は息を呑んだ。

 

 廊下を異形達が進んでいる。

 それは人間ではない。かつては人間だったのだろうが、その姿形は人間という生物の常識を逸脱していた。

 四肢の何処かしらは欠損しており、骨が見える程肉が削れている部分も多い。

 抉れた胸からは肋骨が見え、これまた抉れた腹からは臓器が溢れている。

 頭皮もなくなり、頭蓋骨さえ無くし、その中身の脳味噌を露出しているものさえいる。

 下半身を失い、脊椎と長く伸びる腸を断面から出して、そのまま引きずって這うものもいる。

 統一感の無い集団は、まるで幼児がこね回して作り上げて泥人形のようであり、それらが歩く様はまるで悪い夢のようだ。

 一階で何度も見てきた、“あの日”からずっと足元にいた彼等だ。

 

(何でこいつら……)

 

 どうして彼等が三階にいるのだろうか。

 三階へと登る階段は全てバリケードで塞いでいた。

 今までの生活で、彼等がバリケードを乗り越えた事は一度もない。そして壁をよじ登り、三階へ侵入してくる事も有り得なかった。

 彼等がバリケードを破ったのか、それとも彼等は自分達が知らない抜け道を使ったのか。

 原因は分からないが、とにかく彼等は何の障害もなく三階まで上ってきているようだ。

 

(まじかよ……)

 

 しかし足立は、扉の隙間から覗いて見える光景に、焦りと同時に不思議な懐かしさを覚えた。

 “あの日”から由紀達と会うまで一階で過ごしていた時。夜は一階を徘徊する彼等を倒すために、扉の隙間からいつも機会を伺っていた。

 ひたすら耐え続け、彼等に気付かれないように、確実に倒せる時をじっと待っていた。

 ただ惰性に生き続け、死ぬ機会もみつけられないまま、彼等を処理し続けていた一階での生活。

 

(こいつら……放送室に向かってるのか……?)

 

 ただし、今はやるべき事がある。

 今は足立一人だけではない。必死に生き延びようとしている者達がいる。

 そして見たところ、彼等はまるで何かに引き寄せられるように足立の前を通り過ぎていく。

 由紀達を見つけた彼等が、彼女達が篭る放送室に入ろうと扉に群がる。そしてさらに、その騒ぎを聞きつけた彼等も寄って来ているのだろう。

 

(早くどうにかしないと……)

 

 放送室の扉も強固ではない。数で押されれば破られる事も十分あり得るだろう。

 足立は枕元に置いてある荷物をズボンのポケットに突っ込み、得物であるシャベルを両手にもつ。

 

「……」

 

 額から吹き出た汗を拭う。

 突然の事態への対処は事前にある程度考えていたが、これ程までの数が現われるとは思わなかった。

 とにかく今は、放送室に群がる彼等を誘き寄せなくてはならない。

 

「ふぅ……」

 

 折りたたんだ寝具の上に手紙を置き、深呼吸をしながら扉に手をかける。

 覚悟は、既に出来ている。

 

「っ!」

 

 部屋から飛び出した足立に気付き、目の前に迫る一体を、足立はシャベルで力任せに殴った。

 鋭い先端が頭部に当たり、頭皮が削れ、黒く汚れた血が飛び散る。

 しかし、どんな体勢を崩しても彼等は起き上がる。その頭を潰さない限り――

 

「おらあ!」

 

 頭を殴られよろめいた一体を蹴り倒すと、足立は放送室の方へと廊下を走る。

 勿論廊下は彼等で溢れかえっているために、足立は彼等の間を縫うように、そして薙ぎ倒しながら進むしかない。

 いくら鈍重な彼等でも、数が増えれば増えるほど、その隙をつくことは難しくなる。彼等が律儀に一対一で向かってくることはないのだ。

 

「はっ……はっ……」

 

 放送室の扉が見えないほど群がる彼等を壁際で避けつつ、さらに廊下を走る。

 そうして放送室からは一番遠くにある階段の踊り場についた足立は、壁に設置されている消火栓の非常ベルを鳴らし、叫んだ。

 

「おらあああああ!!こっちだお前らあああああ!!」

 

 叫びと共に、けたたましく鳴り響く非常ベル。

 走って通り過ぎた足立には注意が向かなかった彼等も、これには流石に興味をつられたらしい。

 彼等の顔がゆっくりと振り向き、白く濁った虚ろな眼が一斉に足立を捉える。

 

「っ……」

 

 彼等の眼窩に埋め込まれた瞳は、もはや何も残していなかった。そこにあった筈のものが――人間だった頃にその瞳を満たしていた意志や理性の光が――全て無くなってしまっている。

 そこにあるのは、空っぽになった死人の眼だ。

 元から無い物を嘆くことはない。

 しかし、ある筈の物を喪うのは恐怖そのものだ。

 

 それが彼等になるという事。

 人間だった頃の多くを失い、空虚を内包したまま動き続ける人間の肉体。

 足立は肝を冷やしながらも、シャベルを壁に打ち付け、腹の底から声を出す。

 

「こっちだ!!こっちに来いっ!!」

 

 彼等は飢えを満たす存在を足立へと移し換える。

 ようやく放送室の扉から身体をはがすと、ゆっくりと足立に向かって進みだした。

 

「そうだ……こっちだ」

 

 だが、これで終わりではない。

 放送室に群がる彼等を引き離すだけでなく、三階まで上がってきている彼等を、下まで降ろさなければならない。

 廊下を埋め尽くさんとする彼等を一人で対処する事は不可能だ。体勢を立て直すためにも、一旦彼等を三階から離さなければならない。

 

(さて……どのくらい凌げるか……)

 

 不快な汗が伝う。

 対峙する彼等を見据えながら、足立はシャベルを強く握った。

 

 

 もういい。

 よくやった。

 

 深い深い意識の底で佐倉慈は、諦念にも似た感情に身を委ねながら、言い訳のように言葉を並べたてていた。

 

 自分は十分頑張った。

 こんな状況で、自分の事でさえ精一杯な状況で、四人を守れたのだ。

 これで駄目なら、最初から無理だったのだ。誰がやっても無理だったのだ。

 精一杯やった。もう自分に出来る事は何もない。

 こんな結末も、あるのだろう。

 慈を批判する者はいない。

 他の人間は、もうこの世界にはいないのだ。

 だから……もう――

 

「めぐねえ!!」

 

(――!)

 

 扉から聞こえた由紀の声が、それまで朧げだった慈の意識を明瞭にした。

 

 悲痛な声だった。

 三階での生活では聞くことは無かった、切羽詰まった、追い込まれた、とても苦しそうな声だった。

 そして、慈が一番聞きたくなかった声でもあった。

 

(ああ――)

 

 意識が戻ると同時に身体の感覚が少しずつ戻ってくる。

 噛まれた腕の痛み。剥がれた指先の爪。

 どちらも身体は痛いと理解しているのに、頭は何処か他人事のようにすら感じている。

 そして、身体を突き動かす感覚を実感すると共に、慈は恐怖した。

 

(――ちがう)

 

 強烈な飢餓感。

 自分は今――彼女達を食べたいと思っている。

 

(ちがうちがう)

 

 自分は頑張った?

 自分は精一杯やった?

 何を言っているのだろうか。今まさに、由紀達を苦しめているではないか。

 自分だけが頑張っていた訳ではない。彼女達が一緒だったからこそ頑張れたのだ。彼女達が頑張ってくれたからこそ、慈は精一杯生きていられたのだ。

 “あの日”から――いや、今までずっとそうだった。

 マニュアルを確認しなかった時も、屋上で生徒達を見捨てた時も、学校生活という幻想を作り上げた時も。

 自分の身が可愛くて、傷付くのが怖くて、死ぬのが嫌で、目の前の事から目を逸らしてばかりだった。

 今もこうして、緩やかな死に身を委ね、何もかも諦めたふりをしている。

 まだやれる事はある筈なのに。

 

(ここじゃだめだ)

 

 扉から身体を剥がす。

 群がる彼等を避けながら、押し退けながら、まるで棒の様になった足を必死に動かす。

 

(おなかすいた……けど)

 

 今は一刻も早く、放送室から離れなければならない。

 でなければ自分は、この動物じみた飢えによって彼女達を襲ってしまう。

 

 願っているだけでは駄目だった。

 どれだけ願おうとも彼等は消えず、悪夢のような世界は変わらなかった。

 このまま自分が彼女達を襲わない保証は――どこにもない。

 

(おなかすいた……から)

 

 言葉だけが、言語だけが人間を人間たらしめる定義ではない。

 理性によって本能や欲求を抑え、自分が優先する大切な事のために行動する。

 それもまた、彼等とは違う、人間としての意識を持った今の慈に出来る事だ。

 

「……」

 

 慈はゆっくりと歩き出す。

 ふらつき、倒れそうになっても、彼等と違う方向へ歩いていく。

 慈を止めるものは何一つ、誰一人としてなかった。

 

 

 一人の英雄的行動によって状況が覆る事は、まず有り得ない。

 多勢に無勢。

 廊下を埋め尽くさんとする数の彼等に対して、全てを倒すつもりはなくても、足立一人で立ち向かう事はどれだけ無謀な事だろう。

 そして何より、足立はただの人間で、彼等は人間の常識が通用しない化物なのだ。

 

「――があああああああああああああ!!」

 

 非常ベルが鳴り止んだ二階の廊下で足立は吠える。

 シャベルを振り回し、彼等の頭を殴り飛ばす。力任せの一撃は彼等を倒すことは出来なくとも、その体勢を崩す事は出来るのだ。

 

「――っらあああああ!!」

 

 蹌踉めく一体の服を掴み、そのままひきずり倒す。

 足立は倒した一体の頭へとシャベルの打ちつける。脆くなった頭蓋骨は割れ、打たれた箇所からは血が吹き出る。

 足立は崩れた部分にシャベルの切っ先を刺すと、引っ掛けた足に体重をかけてさらに深く刺し込んだ。

 彼等の頭が両断され、シャベルの先が廊下の床を叩く。

 それと同時に、脳髄まじりの血飛沫が上がり、足立の顔を血曼荼羅に染め上げた。

 そうして、足元の一体は沈黙した。

 シャベルを引き抜くと、床に広がる血の海へと断面から脳が溢れ落ちる。

 

「はぁ…………はあぁ」

 

 口の中に血の味がする。激しい動きの連続に体は酸素が足りなくなり、筋肉は疲労の色を見せ始めている。

 しかし、息を整える暇は無い。

 足立の周りは、三階から降りてきた彼等で埋め尽くされている。

 一対一なら足立は彼等を圧倒できる。機敏に動けば鈍重な彼等を一方的に殴り付ける事は簡単だ。

 だが、彼等の数はあまりに多い。

 もう止めを刺す暇さえ無いだろう。

 

「――くっ!」

 

 横から襲いかかる一体にシャベルを振るう。

 鋭い先端が彼等の胸を裂く。悲鳴とも聞こえる呻き声が彼等の喉をふるわす。

 しかし――

 

「なっ!?」

 

 シャベルは胸の真ん中で止まってしまった。

 とっさに振ってしまった為に、その胸を両断する程の力はなく、骨などに引っかかってしまったのだろう。

 シャベルを胸に刺したままの一体は、止まらず足立に襲いかかる。

 

「この――うおっ!?」

 

 踏ん張ろうとした足立は足を滑らした。

 床に広がっていた血に、足を取られてしまったのだ。

 頭を潰された彼等が流した血の海に倒れ込む。

 

(やばい――)

 

 後ろから来た一体が、尻餅をつく足立の右腕を掴んだ。がっちりと掴んでいる手は万力の様で、倒れた状態では振り解けるものではない。

 そして、唇が無くなり、歯茎が剥き出しになったその口でかぶり付いた。

 

「があああああああああああああああっ!?」

 

 彼等の強靭な顎は二の腕にしっかりと食い込み、服の袖ごと肉を断っていく。

 ぶちり。ぶちり。

 彼等の歯が、筋肉繊維と神経繊維を破り、断ち切る。千切られた神経から信号が遡上し、痛みが足立の脳を駆ける。

 彼等は腕を食い潰さんとさらに顎に力を込め、腕をへし折りそうな程掴む力を強める。

 そして、肉を食い千切った。

 

「――ああああああああああぁぁぁっ!!」

 

 経験した事もない激痛が身体中を駆け巡り、足立は堪らず叫び声を上げる。

 食われた肉は二の腕のほんの一部分だが、腕全体に痛みが広がり、焼ける様な熱さを覚える。

 齧り取った肉を粗食し終えた一体は、まだ足りないとばかりに、再度喰らおうと紅くなったその口を大きく開ける。

 

「ああうぐぅ――こんのっ!」

 

 激痛に歯を食い縛った足立はシャベルを手放し、噛み付こうとするその顔を殴る。

 ぐしゃりと鼻が潰れ、一体は思わず腕の力を緩めた。足立はその隙に、のしかかるもう一体を足で蹴り飛ばし、一階への階段目掛けて走り出す。

 塞ぐ彼等には肩から全身でぶつかり、そのまま階段を転がり落ちる。

 

「――ぐっ!」

 

 踊り場の壁に背がぶつかり、止まる。

 肺から空気は叩き出され、呼吸をするのも辛い。

 さらに、全身を打ち付けた事で、鈍い痛みと共に脱力感が身体中を襲っている。

 視界は赤黒く染まり、周りが歪んで見える。

 噛まれた右腕から大量の血が流れる感触を覚える。

 

「うっ――ぐうぅ……!」

 

 咄嗟に左手で怪我を押さえつけるが、激痛が走るだけで、出血は止まらない。

 痛い。苦しい。熱い。

 幾つもの感覚に苛まれながら足立は立ち上がり、今度はゆっくりと階段を下る。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 どうにも上手く進めない。気が遠くなりそうだ。

 自分は一体何をしているのだろうか。集中していないと意識が即座が散ってしまう気がする。

 そうだ、非常ベルを。

 彼女達を――

 

 足立のあとを彼等が追う。どちらもゆっくりな歩みである為に、その距離は縮まりもしなければ拡がりもしない。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 ようやく一階に辿り着いた足立は、そばにある消火栓へと近付く。半ば朦朧ととしつつも、非常ベルのボタンをカバーガラスごと押し込んだ。

 

「はぁ…………はぁ…………」

 

 再び校舎内に異常を知らせる音が鳴り響く。

 足立は非常ベルが作動しているのか確認する事もなく、すぐ近くの部屋へと転がり込んだ。



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第15話

 三階と屋上だけが、学園生活部の全てだった。

 “あの日”から数日して、何とか制圧した三階の空間。ここが彼女達の生存圏であり、唯一あの頃と同じ空気の中で居られる場所だった。

 現実を見ているだけでは、不安に押し潰されていただろう。

 学園生活部は、少しでもそんな不安を紛らわせる為の空間だった。

 勿論、彼女達にはそれが“あの日”までの真似事でしかない事は知っていた。何をしようとも現実は変わらず、足元には彼等がいる。

 だが、それで十分だった。

 それ以上は何も望まなかった。

 

 しかし、今の彼女達の世界は、この狭い放送室の中だけだった。

 

「……」

 

 放送室の中は、とても静かだった。

 時折聞こえるのは、嗚咽と鼻をすする音だけ。

 元々由紀達がいる部屋の奥は、録音用の防音設備があるために外の音も入りにくい。部屋の外が多少騒がしくても、ここまで届く事は難しいだろう。

 それに、中にいる三人は一言も話さないのだ。

 

「……」

 

 三人が慈に押し込まれたと気付いた時には、もうどうしようもなかった。

 後ろから部屋に押し込まれ、何があったのか分からず呆然としていた三人。慈がいない事にいち早く気付いた由紀が、急いで扉を開けようともした。

 だが慈が扉を押さえていたのだろう。非力な由紀ではすぐに扉は開かなかった。

 そして、呻き声とともに叩かれる扉。

 彼等が扉のすぐ向こう側にいる。

 胡桃と悠里は、それでも扉を開けようとする由紀を――慈の名前を必死に叫ぶ由紀を押さえつけた。もう遅い。もう助からない。そう叫びながら。

 そのまま三人は、胡桃と悠里が由紀を間に挟み、抱き合うようにして固まっていた。

 扉から聴こえてくる音から、必死に耳を塞いで。

 

「――あ」

 

 静寂の中で、何かが聞こえた気がして、由紀は顔を上げた。

 まるで叫び声の様な何かが、迸るように。

 

「あれ? もう……いない?」

 

 次に気付いたのは胡桃だった。

 ひたすら塞ぎ込み、何も聞かず、何も考えずを徹底していた為に、周りの状況が今になってようやく分かった。

 扉を叩く音が、いつのまにか無くなっている。

 

「ほ、ほんとに……?」

「だって……音が――あっ!」

 

 胡桃の言葉に、悠里も反応を示した。疲れ切った顔に、僅かに希望の色を浮かべて出口へ向ける。

 だがその時、由紀は気が抜けて緩くなった二人の腕から抜け出した。

 突然の事に胡桃も悠里も咄嗟に反応できず、由紀は素早く廊下への扉を掴んだ。

 

「ゆきっ!」

「ゆきちゃん!」

 

 確かに扉を叩く音は無くなっている。

 しかし、だからと言って彼等がいなくなったわけではないだろう。

 扉を開けた瞬間に、待ち構えていたように彼等が部屋の中に入ってくるのかもしれない。

 悲鳴の様な二人の叫びが聞こえても、それでも由紀は扉を開いた。

 

「めぐねえっ!」

 

 扉を開け放つと同時に叫ぶ由紀。

 辺りを見回し、自分が開けた扉の見つめ、また廊下を見渡す。

 

「めぐねえ! 何処にいるのめぐねえ!?」

 

 胡桃達が危惧した彼等は一向に現れる気配を見せず、由紀の呼び声だけが空しく廊下に響く。

 

「ゆきっ! 下がれ!」

 

 駆け付けた胡桃は由紀の前に出ると、素早く周りを確認する。

 廊下に残っているのは、彼等が自らの身体を引きずって作った血の汚れだけだ。

 三階に登ってきていた夥しい数の彼等は、見る影もない。

 そして――慈の姿も。

 

「何で……」

 

 夢、だったのだろうか。

 胡桃の頭の中に一瞬だけ、そんな考えがよぎる。

 しかし――

 

「これ……めぐねえの……」

 

 由紀の視線が、足元の血だまりに移る。

 赤黒い血溜まりの中に沈んでいる、十字架の首飾りと長い紐。

 どちらも、ずっと慈が着けていた物だ。

 だが、残っているのはそれだけだ。

 由紀が探しているのは、これではない。

 

「あ……」

 

 由紀は腰を抜かした様に座り込むと、血が染み込んだその紐を恐る恐る掬い上げた。

 所々に水玉模様に飛び散った血の跡が、凄惨な様子を物語っている。

 一体、これを身に付けていた慈はどんな状態だったのだろうか。

 由紀達を押し込んだ後、廊下に取り残された慈は一体どうなってしまったのだろうか。

 彼等によって血肉の一片も残さず食い尽くされたのだろうか。

 それとも……

 

「き、きっとどっかに隠れてるんだよ!」

「まだ間に合うかもしれないわ!」

「……」

 

 まるで由紀の考えがわかっている様に、胡桃と悠里が励まそうとする。彼女達も、由紀と同じ様な結末を想像をして、それを否定したくて自分に言い聞かせているのだ。

 しかし由紀は何も言わない。

 

「足立もいない……」

「ちょっと待って。何か音が――」

 

 周りを探す胡桃と悠里の会話が、由紀の頭の中には入ってこない。

 ただ由紀は、震える手に持った紐を眺めるばかりだった。

 

 

 少しだけ、意識が飛んでいたらしい。

 意味もなく身体中の神経が刺激を頭に伝え、噛まれた腕の激痛と出血が、大きな疲労として足立に襲っていたのだ。

 

(……あれ?)

 

 身体に違和感を覚えながらも、足立はポケットを探りライターを取り出す。

 薄暗い事務室の中に小さく頼りない火が灯る。屋上での火葬に使い、もしもの時の為に部屋から持ってきていた物だ。

 階段から落ちたり、廊下で転んだりしたせいで壊れているとも思っていたが、問題無く火は点くようだ。

 

「……けじめは、自分でつけないとな」

 

 一階の事務室の隅で、誰にともなく足立は呟く。

 

 足立の目的は達成した。

 一階に鳴り響く非常ベルに、夥しい数の彼等が群がっている。

 これで三階まで登ってきた彼等を一階まで誘き寄せる事が出来た筈だ。後は三階にいる慈達がもう一度バリケードを組み直すなりして、再び生活圏を確保すればいい。

 今回の様な事が無いように対策を考えなければならないが――そんな先の事は、足立にはもう関係が無かった。

 

(ごめんな恵飛須沢。後始末は頼んだよ)

 

 足立はライターの火を消すと、事務室の窓から外に身を乗り出す。

 どちゃり。

 雨水の染み込んだ地面に無様にも身体を落とす。

 

 どうにも片手と両足が上手く動かせない。

 激しい運動の所為だろうか。

 それとも、怪我からの出血の所為だろうか。

 もしくは、階段を転げ落ちた所為だろうか。

 多分、どれも違う。

 

「あ……」

 

 顔を上げると、眩しさに目が眩む。

 どうやら、雨はいつのまにか止んでいたらしい。雲の切れ間からは陽が差し、幾つもの光の筋を作っている。

 

(良かった。雨で消えたら意味がないもんな)

 

 ふと音がして、横に目をやる。

 日の光に誘われた彼等が、校舎の一階から校庭へ溢れ出ている。

 

 なんとか腕で起き上がり、彼等の近くまで歩いて行く。

 ふらつき、倒れそうで、不安定な程ゆっくりと、緩慢な動作で足を動かす。

 

 頭が足に、神経を通して命令しているとは分かっているのだが、その足の感覚や感触がまるで無い。今でさえ、じわりじわりと身体の感覚が蝕まれ、喪ってきている。

 まるでぽっかりと、今まで自分の物だったものが無くなっていく感覚。

 足立はそれに恐怖よりも先に、別の感情を覚えた。

 まるで、望まずとも進んでいく時間に対しての儚さの様なもの。

 諦念の混じった悲しさに似たもの。

 

(ああ……そうか)

 

 足立はふと、一人で納得してしまった。

 もしかしたら、彼等はそれを埋める為に人を襲っていたのかもしれない。

 己の空虚を埋めるために、それを持っている人間を食らう。自分に無い事が寂しくて、それを他者から得ようとする。

 自分以外を必要とする、なんとも人間らしい行為だ。

 彼等も結局は、何処までも人間だったらしい。

 そこまで考えて、途端に彼等が憐れな存在に思えた。

 どれだけ人を襲おうとも、どれだけ人を食べようとも、その飢えは満たされないのだ。

 

(だけど……)

 

 だがそれは、足立の勝手な妄想に過ぎない。

 慈達にとっても、やはり脅威以外の何物でもない。

 今の足立がすべき事は、慈達の今後の為にも、脅威を――彼等になろうとする存在を一体でも多く消しておく事だ。

 それは、自分とて例外ではない。

 

(ちゃんと死ねるかな……)

 

 不思議と恐怖はなかった。

 むしろ、今の足立は奇妙な達成感すら覚えていた。

 惰性で生きてきた自分が、慈達を守る事が出来た。それは、一階では何も守れずに――守るものすら無く生き延びてきた自分にとって、とても意義のある最期に思えた。

 

「……なに、素通りしてんだよ」

 

 校庭を横切る彼等は、足立には目もくれず歩いていく。

 まるで足立など、路傍の石だとでもいうように。

 

「おまえらも、いっしょだ」

 

 後ろから彼等の襟を掴む。

 掴まれた彼等は、苦しそうに呻き声を上げながら手足をジタバタと動かす。

 まるで何かに引っかかっているとでも言うのだろうか。足立には注意も向けない。

 

(ああ……俺ももう……)

 

 一抹の寂しさを感じながらも、足立は火を付けたライターを掴んだ服の裾へ近付ける。

 炎は上手く服に燃え移り、さらに広がり上へと昇っていく。

 襟を掴んでいた足立の腕まで到達するが、足立は手を離さない。

 微かに残っていた神経が、熱さと痛みを足立へ伝えている。それを最後にその反応も無くなったが、『痛い』という意識だけが頭の中に焼き付いている。

 火の回りは、思ったよりも速かった。

 

(よく燃えるな……)

 

 何気なく空気を吸うと、炎まみれになった空気が喉から肺を焼き焦がした。

 襟から火は燃え移り、手は見るも無惨に焼け爛れていく。

 火は身体を、内と外から迅速に炭化していく。

 いくら彼等と言えど、灰になれば何も出来る事はないだろう。

 

(……お腹空いたな)

 

 ぼんやりとそんな事を考えながら、足立の意識は沈んでいった。

 

 

「ねえちょっと! あれ!」

「煙……火事かっ!?」

 

 愕然とする胡桃と悠里。

 立ち昇る黒い煙。

 駆け寄った廊下の窓から外を眺めると、校舎から少し離れた場所で、何かが燃えていた。

 大きさは丁度人間くらいの、黒い影が三つ程。

 悶えているのだろうか。黒い影は地面を転がったり、あっちこっちに歩き回っている。

 

「あいつらが……燃えてるのか?」

 

 遠目からでは、二人には何なのか判断がつかなかった。

 何者かがやったのか、他の原因か。それとも……

 とにかく調べる必要はあった。

 

「りーさん、ゆきと三階に戻っててくれ!二人を見つけてくる!」

「ちょっと胡桃!危険だって」

 

 悠里の言葉など聞く気もなく、胡桃は一階への階段を駆け下りた。

 

 

 人間は万能ではない。

 か弱く、貧弱で、一人個人では何一つ満足に出来ない。

 状況に流され、自分の意見を、意地を、意志を表に出せない事が多い。そもそも自分自身の事でさえ満足に理解出来ていない者が多数だ。

 しかし――

 

「……」

 

 階段を下りていく影がある。

 ロングワンピースの、女性。

 片腕を怪我をしているのだろうか。血が半身にべっとりと付いていて、彼女が通った跡を残す様に点々と落ちている。

 常人からしたら、彼女は尋常な状態ではなく見えるだろう。重症か瀕死か、とにかく普通の人間なら動けない状態だ。

 

 ぐちゃり。

 黒くなった死体を踏んづけた。

 ふらつく足は不安定な足場に踏ん張れず、女性はそのまま前のめりに倒れた。

 受け身もとれず、そのまま階段の角に身体を打ち付けながら転がり落ちていく。

 胸をぶつけて、肋が折れた。

 切れた頭からは血が吹き出た。

 唇は裂け、額は割れ、身体中には紫色の痣が至る所に出来た。

 閉じかけだった腕の傷が再び開き、紅い血が溢れる。

 べちゃりと生々しい音を立てて、女性はうつ伏せに床に落ちた。

 

「……」

 

 女性はしばらくすると身体を持ち上げ、ふらつきながらも再び歩き出した。

 今の彼女は痛みを感じない。その身体が本当に自分の意思で動いているのかも分かっていない。

 考えているのは、ただそこを目指す事だけ。

 彼女の目指す場所。

 非常避難区間。

 巡ヶ丘学院高等学校の地下一、二階に作られた、非常時の拠点。

 

(開いてる…………よかった…………ここなら…………)

 

 机をかまされ、閉じ切っていないシャッターを潜り抜け、また歩き出す。

 水浸しになった床に足を取られながらも進み、夥しい数の箱が納められた地下二階へと踏み込んだ。

 

(ごめんね…………みんな……)

 

 進んでいた足が止まり、一つの棚から箱を取り出した。

 それには『医薬品』と名札が付けられていた。きっとそれには、マニュアルに書いてあった彼女の内側を蝕んでいるモノに対しての抗生物質などが入っているのだろう。

 女性は、箱をゆっくりと床へ下ろす。

 今すぐその箱を開け、中に入っているものを使えば、助かる事が出来るかもしれない。

 

(せんせい…………ここまでだから…………)

 

 だが、女性は血に濡れた手で、腫れ物を扱うように、そっと箱を触った。

 愛おしそうに。心底、大切そうに。

 

(また――あえるかな)

 

 女性は思う。

 彼女達が此処へ来た時。

 自分は彼女達に、どのように映るだろう。

 彼女達の教師か。

 飢えに喘ぐ獣だろうか。

 彼女達と再び会えた時。

 自分は、彼女達をどうするだろうか……

 

「……」

 

 箱を触れていた手が止まった。

 瞳から、何かを求めていた光が無くなる。

 彼女の中の何かが、沈んでいった。

 

 人間の執念が、時に常識や理を超えた結果を生み出す事がある。

 慈も彼等と同じく食欲に駆られ、放送室の扉を引っ掻き続けていた筈だった。

 そして、扉をこじ開け、もしくは壊して、今まで大事に思ってきた三人を彼等とともに喰らっていた筈だ。

 

 彼等になるというのはそういう事なのだ。

 理性も、意志も、意識も、そこにあった筈の何もかもを失い、土台を無くして、人は彼等へ堕ちる。

 ただ欲求に従い、何かを求める渇望者に。

 

 しかし、どうして女性の――佐倉慈の理性が残っていたのだろうか。

 本当に、運良くその部分だけが長い間欲求に呑まれずに残ったのか。

 もしくは欲求を抑える程の強い思いで、それが彼女の行動原理として意識の根本にあったのか。

 

「……」

 

 少しの後。

 避難区画には、呻き声を漏らしながら彷徨い歩く佐倉慈の姿があった。

 階段前で立ち止まり、また来た道を戻っていく。校舎へ足繁く通っている生徒達と同じく、慈も同じ道を行ったり来たりしていた。

 そこに居るのは、ただ人を襲う様になった佐倉慈という人間だ。

 佐倉慈を佐倉慈たらしめていた要素――両親や友人、同僚や生徒、それら他者との関係は変わらず慈の記憶の中に残っている。どれだけ分解され、付箋のようにあった感情の記録が無くなろうとも、それは残り続けている。

 故に、佐倉慈は知っている。

 自分が何者で、何をして、何をしたかったのか。誰と関わり、誰と話し、何が好きで何が嫌いなのか。

 

 だが、今となってはそれらは何の意味もない。

 そうあるように、そうあるだけ。

 意識を無くした彼等には、未来を考える時など有りはしないのだから。

 慈は彷徨い続けるだろう。

 誰かが、その頭を潰す時まで。



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第終話

 西の空が、茜色に染まり始めた。

 影は伸び、あらゆるものを覆っていく。ゆっくりと、世界が暗闇の中におちる時間。もしくは、人ではない魑魅魍魎が跋扈する逢魔時。

 学生達にとっては放課後の時間。

 “あの日”まではライトを点け、遅くまで練習をしていた部活動の面々も、今では仲良く揃って校門から出て行く。

 そのまま直帰で自宅へ。

 少しでも成績を上げるために塾へ。

 小腹が空いたのでコンビニへ。

 友達と遊ぶために駅前やショッピングモールへ。

 各々が思い思いに学校から離れていく。

 

 ――しかし、彼等が目指す先は薄く闇が覆う街だ。そこに灯りのついた住宅など一つもない。

 灯りが点いていないのは住宅だけではない。

 今頃は定時前の仕事を片付けているだろう勤め人達のオフィスビル。

 帰宅で賑わう駅前。

 深夜も閉まらない事が売りのコンビニ。

 道路で点滅する信号機。

 自動車のライト。

 夜道を照らす街灯。

 全てが、“あの日”から暗闇の中で沈黙していた。

 この街を見知った者が見れば、その者は恐らく恐怖するだろう。

 自動車のエンジン音。家族同士の会話。テレビから漏れる音。群れる人間が放出する微かな熱であったり、雑音ともとれる人間の息遣い。そんな『人の気配』とも呼ばれる微弱な刺激。

 この街から、それらは一切感じられないからだ。

 確かに、かつてそこは閑静な住宅街だった。

 だが例え夜であろうと、この街からそれらが失われる事は無かった。それらが無くなる事はつまり、人間の営みが無くなる事であり――人間がいなくなる事であるからだ。

 本来あったものが途端になくなった不気味な街。

 廃墟となった街はその内に暗闇と空虚を抱え、寂寞とした空気の中で沈黙している。

 

 ――ただし、その主人たる人間は今尚動き回り、この街で夜を過ごしていた。

 

 *

 

 部活動で残れる時間も過ぎ、生徒は追い出される様に校門から出て行く。

 今の学校に残るのは残りの仕事を済ませる教師達だけの筈だが――

 

「運動部の皆、帰ってくね」

「放課後だからね」

 

 外を眺める由紀の言葉に悠里が相槌をうつ。いつもの会話である為に、あまり考えずに会話をしている。

 

「ゆきも手伝えよー」

「はーい」

 

 胡桃が皿を並べ始め、由紀がお箸とコップを準備する。

 並べられた机の上にはコンロが置かれ、悠里がフライパンで卵をかき混ぜながら炒めている。

 

「今日も学校でご飯だねー」

「学園生活部だからね」

「……どうしたんだよ。ニヤニヤして」

「いやー、改めて学校で晩御飯を食べるって思うと何だかワクワクして」

「まぁ……確かに」

 

 学園生活部は私立巡ヶ丘学院高等学校で生活する部活動だ。今は晩御飯の時間なので、とある教室を借りてその準備をしていた。

 

「はーい。もう出来るわよー」

 

 大きめのお椀に盛られた温かいご飯に、悠里がふわふわに仕上げた卵をかける。次に胡桃がそこに温められた餡をかけていく。

 

「おー!餡かけオムライスだー!」

「天津飯だよ」

 

 三人分の準備が出来ると、悠里も後片付けをそこそこに席につく。

 二人ともが席に着いた事を確認する。由紀はお預けをくらった犬の様に悠里の言葉を待っている。

 

「じゃあ、いただきます」

「「いっただっきまーす」」

 

 *

 

 街灯や電信柱は倒れ、道路を塞いでいる。

 自動車も走らなくなり、舗装する者もいなくなった道路には生命力に溢れた草がアスファルトを割って生えてきている。

 

「……」

 

 そんな荒れた道を、黒い影がゆっくりと進んでいた。

 真っ黒な、人の形をしたもの。

 まるで地面に映る影が起き上がったかのような、周りの人間と明らかに異なる姿。

 薄暗くなる空間の中でも一際異彩を放つその黒さは、どうやら焼けた痕のようだ。全身は固まったかの様にぎこちなく動き、歩を進める足からは地を踏みしめる度に炭化した皮膚がぐしゃりと音を立てている。

 毛髪は焼け、鼻は爛れて潰れ、その所為で頭はのっぺりとしていている。右目は失くしたのか暗い眼窩を晒し、左目の角膜は白く濁り視力があるのかどうかも怪しい。

 口だったのだろうか。顎の上にある微かに開いた穴の中も真っ黒に焼けている。

 燃えた時に着ていたのだろう衣服も焼け焦げ、微かに残った布の切れ端が張り付いているだけだ。

 

 全身が消し炭になった、焼死体。

 本来であれば動くことのないそれが、ゆっくりと進んでいる。

 

「……」

 

 “あの日”から、人間は人間という型に嵌る事をやめた。噛まれた傷が腐ろうと、手足がもげようと、腸が引き摺り出ていようと、人間は何事も無く過ごしている。

 人間はひたすら鈍感で、鈍重で、痴呆の様に彷徨い歩くようになった。そして、ひたすら貪欲になった。

 ただしその貪欲さは、今の人間にとってはどうする事も出来ないものだった。

 だから、普段の人間は特に何もしない。

 今の人間に出来るのは、頭の中にある記憶の断片を追いかける事だけ。

 道路を歩く黒い人も、今は記憶にある『帰り道』を追いかけているのだ。

 

「……」

 

 その歩が一軒の住宅の前で止まった。

 いたって普通の一戸建て。

 人間の住まなくなった住宅は急速に老朽化する。その家も水まわりがあの日から止まり、壁には黒いカビが広がっている。

 だが、電化製品からの火事が多く、近くの火事で壁を焼かれる場合が多かった事を考えれば、その家は比較的綺麗な状態で残っている。

 ――ただ、玄関や一階の窓硝子は割れており、壁にべっとりと付いている黒い血痕を見ると、この家も“あの日”の惨劇は免れなかったようだ。

 

 ここが『帰り道』の終着点。

 『家』の記憶が色濃く表れる場所。

 

「……」

 

 表札の掛かった門を通りすぎる。きっとここが自宅なのだろう。ゆっくりとした歩みではあるが、慣れた足取りで進んで行く。

 そうして扉が外れた玄関をくぐり抜け、荒れた靴置き場を通り過ぎようとした時――

 

 ひゅー。

 

 音を震わせながら、足元に小さな物体が近付く。汚れた黒い体毛と、靴下の様な足先の白い模様を持った四足歩行の小さな動物。

 

 ひゅー。ひゅー。

 

 猫だ。

 片耳は千切れ、後ろ足の片方は肉が削れ骨が覗いている。鳴き声をあげようとしているようだが、首輪の付いた喉元も喰われているのか、皮とささくれだった肉がぶら下がり、喉から漏れた空気に震えている。

 酷い傷だが、猫はそれを気にした様子もなく、よろよろと足元を擦り寄るように回る。

 真っ黒な人は立ち止まり、足元の小さな動物に一瞬だけ顔を向け――

 

「……」

 

 再び前に向き直り、連れ合うように、共に家の中へと入って行った。

 

 *

 

 

 ただいま。

 

 いただきます。

 

 おやすみ。

 

 

 *

 

「ん……」

 

 身体に染み付いた習慣で、悠里は目を覚ました。

 まだ外は暗く、由紀も胡桃も眠ったままだが、彼女の仕事は早朝から山程ある。

 二人を起こさないよう静かに起き上がると、ロッカーに吊るしてある制服に着替える。寝巻き用のジャージを掛け、上の棚から毎朝つかっているタオルを取り出す。

 

(そろそろ替え時かしら)

 

 糸がほつれ、擦れて薄くなってしまったタオルを見ながら悠里は考える。こういった日用品はなるべく替えずに長く使っているが、それでも限度というものがある。

 わざわざ使い続けるよりは、替えた方が効率的だろう。

 

(これはあとで雑巾に縫い直しましょう)

 

 いくつかの仕事を新たに考えながら悠里は放送室から出る。

 まだ太陽は顔を出しておらず、廊下は薄暗い。だが、前が見えない程ではない。

 悠里は眉一つ歪めるでもなく、汚れた廊下を進む。

 

(シャンプーもそろそろ切れそうだし……胡桃の為に制服の予備も欲しいわね)

 

 三階の廊下は――というより校舎全体が汚い。

 壁には黒い汚れが染み付き、窓硝子は殆ど割れている。掃除しなければならないと分かってはいるのだが、どこから手を付けたらいいのか分からないし、全てを綺麗にしようと思う程のやる気は、今の学園生活部にはなかった。

 

(それから……)

 

 今の学園生活部はとても静かだ。

 由紀の笑顔も、胡桃の活発さも、今ではあまり見られない。

 当たり前だ。今まで五人で生活していたのに、急に二人もいなくなったのだ。寂しさを感じない方がおかしいだろう。

 大きな要素を失うのは、大きな悲しみだ。

 今の悠里達は、自分達の中にぽっかりと空いた空間をどうするか、持て余している状態だった。

 

(他にやる事……)

 

 屋上へと辿り着いた悠里は、菜園の様子を見て回る。早朝の世話は昔からしていたが、今では暇さえあればこの菜園か家計簿とにらめっこする日々を送っていた。

 

 ひたすら、何かをする。何かを考える。

 それが最近の悠里の行動だった。

 他の事は考えたくなかった。いなくなった二人の事も、彼等の事も、外の世界の事も。

 

(ほんと――何て卑怯者なのかしら)

 

 辛い事は考えたくないなんて、とんだ快楽主義者だ。

 だが、仕方なかった。

 そうしないと、悠里の気持ちは落ち着かせられなかった。

 どうしようもない苦境の底で、現実を直視しない事で辛うじて平静を保ってきた。

 そうしないと自分は生きられない。そうしたら自分は生きていられる。そうしないと、『生きたい』とそんな切実な願いさえ聞いてくれない理不尽な世界で自分は窒息してしまう。

 

 人間は弱い。

 生きたい。そんな折れてしまいそうな思いを保つ事は今の世界では難しい。

 いったい、どうすればいいのだろうか。

 ……もしかしたら、いっそのこと

 

「おはよう。りーさん」

 

 そうやってぼーっと考え事をしていると、欠伸をしながら胡桃が近付いてきた。毎日の習慣だ。悠里が起きると、少し後に胡桃が起きる。そして二人で朝食を食べようとする頃に由紀も起きてくる。

 

「おはよう。くるみ」

「何か野菜を睨み付けてたけど……大丈夫か?」

「ええ、大丈夫よ。ゆきちゃんにどうやって食べさせようかと考えてたの」

 

 心配そうに聞く胡桃に、悠里は苦笑しながらそう返す。

 さっきまで考えていた事は、もう忘れていた。

 

「あはは。あいつ好き嫌い多いもんなー」

「野菜はちゃんと摂らないと身体の調子が悪くなるのに」

 

 いや、良くしたところで何をするのだろう。

 結局この学校の中でずっといるだけなのに。

 明日なんて、あって無いようなものなのに。

 

「何か手伝う事ある?」

「水やりも終わったから、虫が付いてないか見てくれる?そうしたら朝食にしましょ」

「はーい」

 

 辛い事実を改めて考えるよりは先の事を考えた方が建設的であるし、過ぎた過去に感傷的になっている場合ではない。

 思い出すのは全部終わってから。

 悠里にはやらなければならない事が山程あるのだから。

 

 *

 

 夜が明ける。

 まだ太陽は顔を出していないが、圧倒的な明るさが地平から溢れ、暗闇を払っていく。

 暗闇の中、刺激がなく殆ど動いていなかった人間達も目を覚ます。

 寝室から出ると、いつもの習慣に沿って自宅を徘徊する。

 顔を洗う為に洗面所に。

 朝食を摂るためにキッチンに。

 そうして身支度を終え、玄関から出て行く。

 会社や――学校へ行くために。

 

 *

 

 

 おはよう。

 

 いただきます。

 

 いってきます。

 

 

 *

 

「おはよー……」

「遅刻だぞー」

「遅刻よ。ゆきちゃん」

 

 寝癖を付けたまま挨拶をする由紀に学園生活部の面々はいつも通りの返事をする。

 時間としてはまだ一限目が始まる時刻では無いが、学園生活部の活動時間は既に始まっているのだ。

 

「えへへ〜……」

「何で嬉しそうなんだよ」

「だってさ、家で寝坊すると学校に行きたくなくなるけど、そもそも学校にいると遅刻も関係ないな〜って思えるから余裕を持って二度寝出来るんだよね〜」

 

 だらけきった言葉に二人は呆れて返す言葉も出てこない。

 由紀は鼻歌を歌いながら朝食であるコーンフレークに水で溶かした粉ミルクをかけ、添えられたドライフルーツと一緒にかきこんでいく。

 

「……ところでゆきちゃん。数学の問題は解けたの?」

「……」

「あとで一緒にしましょうね」

「は〜い……」

「ゆきは誰よりも早く寝るからなー」

「そういえばくるみも、出してた数学ノートの途中式がすっ飛ばされてたんだけど」

「……」

「……二人とも、補習ね」

 

 *

 

「……」

 

 一階の教室を覗く。

 “あの日”に数人で立て籠もった教室であり、すぐに足立の一人部屋になってしまった教室。

 閉めた筈の扉が開いていたのでもしやと思ったが、室内には誰も居なかった。あの後彼等がやって来たのだろうか。もしかしたら、“あの日”に立て籠もっていた足立以外の数人の内の誰かだったのかもしれない。

 あまり良い思い出でもないが、一緒にいた人達がいなくなるのは寂しい。ほんの一晩だけだが、それでも困難を乗り越えようとした仲間だったのだ。

 

「……」

 

 一階は他に用事も無いので、とりあえず足立は二階にある自分のクラスへ向かった。

 教室に入ったが、こちらも知り合いは居なかった。血が床に飛び散り、倒れた机と椅子があるだけだ。

 クラスの思い出は沢山ある。三年間一緒だった仲の良い学友もいた。学校行事にクラス一丸で必死になった事もあった。

 隅の壁にはそんな思い出の写真が沢山貼られている。汚れたり破れたりしているが、思い出の確かな証明にはなっている。

 

「……」

 

 一通りクラスの思い出を堪能した足立は、次は彼女がいるクラスへと向かった。

 “あの日”も確か、こうやって彼女に会いに行っていた気がする。それから一緒に帰って――

 

 だが、彼女のクラスへ向かう途中で、足立は何かにぶつかった。

 おかしい。この先はまだ廊下が続いている筈。彼女のクラスはこの先にある筈だ。

 しかしどんなに進もうとしても、目の前の障害物を押し退ける事は出来ない。

 

「……」

 

 そこでふと、足立は思い出した。少しだけ繋がっている様々な記憶の断片から。

 三階。部活。学園生活部。足立が入っていた部活。

 強い思い出があるわけではないが、真新しい記憶だけに鮮明に浮かび上がる。

 

「……」

 

 戻らないと、部長に怒られてしまう。

 戻らないと、シャベルで殴られるかもしれない。

 戻らないと、笑顔が見られない。

 戻らないと、授業が受けられない。

 戻らないと――

 

 次々と湧き上がる記憶に当てられ、足立は三階へ向かおうとする。

 だが、堅牢なバリケードは、その先へ足立を一歩も進ませてはくれない。

 

「……」

 

 バリケード。

 彼等を阻む為の。

 彼等。

 彼等とは。

 自分は、今――

 

 *

 

「それじゃあ、見回り行ってくる」

「ええ。無茶しちゃ駄目よ?」

「分かってるって」

 

 悠里の小言をあしらって、胡桃はシャベルを軽々と肩に担いで部屋から出て行く。

 

「いってらっしゃーい」

「おう。いってきます」

 

 由紀に挨拶を返し、部室の扉を閉める。

 綺麗な室内から一転、汚れた廊下はまるで別の世界に来てしまったように感じるだろう。だが、そんな感覚はもう胡桃達には残っていない。

 

「……よし」

 

 気を引き締めた胡桃はいつも通り、バリケードを点検しに行く。

 今までは足立の仕事だったのだが、居なくなってしまっては胡桃がするしかない仕事だ。

 

「……ん?」

 

 階段を下りていくと、異臭が鼻についた。

それと共に、ガチャガチャと何かが机にぶつかる音も聞こえる。

 バリケード近付いて見ると、何かが引っかかっている。いや、何かというのはおかしいのかもしれない。

 人である事は形から分かる。だが、真っ黒なのだ。

 身体がぶつかる度に、バリケードを縛る有刺鉄線が刺さっている。胡桃はよく見てから分かったのだが、どうやらその黒さは焼けた痕であるらしく――棘が刺さる度に瘡蓋の様な火傷の痕が捲れ、内側から血の混じった粘り気のある液体が溢れている。

 不快な臭いの原因は、どうやら真っ黒なそれのようだ。

 

「そんなになってまで動くのかよ……」

 

 酸鼻を極めるその体。

 胡桃は不快感を露わにして、それに言葉を吐き捨てる。胡桃は自分の中に、苛立ちと共にどす黒く汚い感情が内から湧き出るのを感じた。

 

 こいつらがいなければ。

 

 彼等を目にする度に、何度も思った事だった。

 どうしようもない事だと胡桃も理解している。

 彼等は人間でなく、人でないものを憎んだところで、彼等は謝罪することも、後悔することも、理解する事さえしないだろう。

 どんなに彼等を無残に殺しても、胡桃のこの感情は洗われることはない。

 

「っ……」

 

 多分、体格からして男だろう。

 そのシルエットに、胡桃は微かに見覚えがある気がしたが、もう確かめる術もない。

 胡桃は黒いそれを睨み付けながら、バリケードを音を立てずに登る。黒いそれはまだ気付いていないようだ。無理もないだろう。視覚が機能しているかさえあの状態では怪しい。

 登りきったバリケードから外側へと飛び降りる。ようやく気付いたらしい。それは胡桃の方へゆっくりと身体を向ける。

 

「ふん!」

 

 胡桃は素早くシャベルを振り、真っ黒なそれの足を掬って転ばせる。ぐちゃりと、それは体液を飛び散らせながら倒れる。起き上がろうとじたばたとしているが、焼けて固まった身体は思う様に動いていない。

 胡桃はいつも通り、足でそれの身体を押さえつけ、シャベルを振り上げる。

 そこまでして、ようやく胡桃の中の激情が冷めていった。真っ黒なそれを見つめていた憎しみのこもった瞳は、哀れみを込めたそれへと変わる。

 

「……」

 

 彼等を殺す事に、もはや抵抗はない。

 たとえ誰であろうと、それが彼等なら、胡桃がする事は決まっている。

 じゃないと、“あの日”の自分がした事も、今までの自分がしてきた事も、何の為だったのかわからなくなる。

 もう胡桃はあとには引けない。

 あとは、この手を振り下ろすだけだ。

 そして、いつかきっと――

 

「……おやすみなさい」

 

 ざくり。

 そんな今までとは違った音をたて、黒いそれは動かなくなった。

 

 *

 

 

 さようなら。

 

 

 *

 

 たまに。

 本当に、ごくたまにであるが。

 普段は呻き声しかあげない彼等が、言葉のような音を発する事がある。

 それはとても途切れ途切れで、空耳であったのかもしれない。

 彼等の口は意識して動いたわけでもないだろう。

 頭の中で蘇る記憶にあてられて、ふと出てきたものに違いない。

 ただ、それは昔の人間とそこまで変わっていない行動だろう。

 頭の中の記憶通りの挨拶、知っているからこそ出てくる会話、無意識に紡ぎ出される言葉。知識と行動の根本部分は、彼等も元が人であるだけに同じだ。

 それらは人として生きていた頃とそこまで変わった行動でもない。

 彼等は意識も無ければ、意思もない。

 ただ其処にあるだけ。

 通ったその跡に爪痕を残して行く、雨や風などの現象と同じだ。

 しかし、彼等に未来は無い。

 時間という概念すら放棄した彼等の頭は、時の流れに囚われない。

 あるのは追いかける為の自らの記憶だけ。

 彼等は己の中で生き続けた。

 

 *

 

「すぅ……すぅ……」

 

 机の上で、少女が穏やかな寝息をたてて眠っている。

 教室のど真ん中だというのに、大した度胸である。見れば、角が生えたような黒い帽子を被ったままである。

 

「……ふぁ〜い。ん?」

 

 まだ眠気が取れていないのか、少女は気怠そうに眠気眼のまま顔を上げる。

 

「……おはようございます」

 

 丈槍由紀は、私立巡ヶ丘学院高等学校の三年生である。

 受験や就職を考える時期に差し掛かり、勉強に身を入れる立場である。

 

「えへへ……。りーさんがなかなか厳しくって。遅くまで勉強してたんだ〜」

 

 苦笑いを浮かべ、周りにそう言い訳する。

 昨晩は、由紀のあまりの勉強の出来具合に、学園生活部全員で勉強会をしていたのだ。

 悠里は普段の甘さを改めたのか、その時は妥協を許さず、自力で問題が解けるようになるまで眠らせてはくれなかったのだ。

 

「じゃあ部活行ってくるから。バイバイ」

 

 挨拶をすると、由紀はさっさと教室から出て行く。

 廊下であるにも関わらず、走って部室を目指す。

 

「――」

 

 ぼかされた景色を、“あの日”に置き換えていく。

 荒れた教室も、割れた窓硝子も、汚れた廊下も。暖かな、“あの日”に代わっていく。

 ここは学校で。由紀はここの生徒の一人で。

 その事実さえあれば、由紀の現実は決まっている。

 

「――ん」

 

 全ては幻想だ。

 だが、由紀はこの幻想を愛している。

 そもそも幻想でないものなどあるのだろうか。

 この頭で認識する事が全てだ。その全てが由紀の現実になる。

 その幻想でさえ、由紀にとっては現実なのだ。

 

「――ちゃん」

 

 もしかして、この世界で夢をみてはいけないのだろうか。希望を持ってはいけないのだろうか。

 いや。

 絶対にそんな事はない。

 だって、夢も希望も無かったら、あんなにも苦しそうな顔をしてしまうのだから。

 だって、夢と希望を持てば、こんなにも笑顔になれるのだから。

 だって、学校は――

 

「ゆきちゃん」

 

 こんなにも楽しく、ワクワクするのだから。




これにて『さつばつぐらし!』本編は終了となります。
作者自身のお話はここに書くと邪魔なので、活動報告のページにでも載せておきます。
ここまで付き合って下さった皆様。
本当にありがとうございました。


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ネタ編
『機動兵器太郎丸』


こうさ……周りの人の作品見てるとさ……こう、何かが湧いてくる訳だよ。
俺としてはそうゆうのを大事にしたいんだよね……うん。
注意
今回の話は本編と関係ありません。ただの一発ネタであり、今後続ける気もありません。
オリメカ注意です。
あと作中の怪物のセリフに深い意味はありません。ただの文字の連なりです。


「……」

 悠里は深呼吸をしながら作戦内容を頭の中で見直す。何度も念入りに話し合い、問題発生に対しても幾通りもの対処法を用意している。

 しかし、正直作戦と呼ぶには危なっかしい賭けの様なものだ。求められるのは柔軟な思考と冷静は判断、そして迅速な行動力。

 悠里は首元の通信機を起動。胡桃と美紀の両機へと繋げる。

「……胡桃、行ける?」

『ああ。レーダーによると大きいのは一体だけだ』

 通信回線から胡桃の返事を聞いた悠里は、一瞬の思考の後返事をする。

「後々の為にも倒しておきたいわね」

『最初からそのつもりだよ。殲滅、だろ?』

 笑いながら返事を返す胡桃の声に、悠里は自身の気が楽になるのを感じた。

 いつも通りだ。あの日から彼女は悠里達を、ただ一人で守ってくれていたのだ。今更彼女を信頼しないというのは可笑しな話しだろう。

「ええ、そうだったわね。……美紀さんは?」

『大丈夫です。いつでも行けます』

 こちらもいつも通り。途中から学園生活部に入部した彼女も、今ではすっかり大事な部員だ。

「由紀ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ! ……って、りーさんこれ3回目だよ?」

 悠里の横で眩しい笑顔を見せる由紀も、いつもと変わらない。佐倉慈の死を受け入れた後の彼女は、相変わらず部に光を齎してくれている。

 悠里は覚悟を決める。

 誰一人欠ける事は許されない。全員でこの巡ヶ丘学院高等学校からーー今日、卒業する。

「……見守っててね。……めぐねえ」

 小さな由紀の呟きを聞きながら、悠里は深く息を吐く。

 全員が悠里の合図を待つ。

「……作戦開始!」

 瞬間――校舎の壁が爆発した。

 校舎の壁、元は玄関だったその周りを纏めて破壊しながら、胡桃が搭乗している太郎丸が校庭に飛び出す。

 初速の勢いを殺さずに突撃。胡桃は機体の両腕に取り付けられた超震動ナイフで群がる彼等を切り倒し、血路を開いていく。

 そして校庭の端、校門から離れた場所に着くと胡桃は機体を方向転換。自らが開いた道を埋める彼等を見据える。

『さぁ! かかって来いっ!』

 壊れかけの超震動ナイフを機体の腕からパージし、両腕に内蔵された連装機関銃を構えながら吠える胡桃。

 対するは、人間の形を逸脱した彼等の群れ。

 *

 人間をゾンビへと変えてしまう事件の後しばらくは、生きた生物を襲う彼等には何も変化も無かった。

 だが、彼等は突然にその人間の形を変えた。

 あるモノは二足歩行から四足歩行へと、人間とはかけ離れた、まるで猫科動物のような骨格を持つ姿へと形を変えた。またあるモノは下半身をそのままに、上半身のその腕を何倍にも大きくさせた姿を持った。その変形は千差万別で、同じ姿は無いとさえ悠里は称した。

 ただ、どんなに人間の形から逸脱しようと、彼等はその顔だけは悪趣味のように何も変えずに備えていた。そして変わらずに脳を持っているその部分が、彼等の弱点でもあった。

 悠里達は彼等の変化が、慈が持っていた緊急避難マニュアルに書かれていたΩ系列の細菌兵器によるものなのか、それともその兵器の突然変異によるものなのか判断しかねていた。

 だが悠里達が地下二階で見つけた物は、それが最初から仕組まれていた事だと証明するものだった。

汎用兵器T R M C(タクティカルライディング・マルチクラフト)

 その見た目は、人の胸部をひたすらに大きくした外見。火器と車輪を備えた腕を左右に付け、柔軟性を考慮した逆関節の車輪付きの足を持っている。その大きな胸部に操縦士がバイクの様に乗り込む有人兵器だ。

 進化した彼等に対する、個人で持てるように開発された兵器。それがTRMCなのである。

 地下二階に用意されていた一機を胡桃が、そしてもう一機を美紀が操縦する事となった。

 そして悠里達はその頭文字に因んで、かつての部員から名前を取り、「太郎丸」と呼んだ。

 *

『りーさん! 今だ!』

 校庭に群れる彼等が自分に向かっているのを確認すると、胡桃は悠里に向けて合図を送る。

「由紀ちゃん! しっかり捕まっててね!」

「了解! うぉっと」

 悠里の乗る側車付き自動二輪(サイドカー)は高々と力強い排気音を響かせながら発進。取り付けられた側車に乗った由紀は慣性によってシートに押し付けられる。

『続きます!』

 後ろで待機していた美紀の搭乗する太郎丸が悠里達を追従する。戦闘時は二本の足で立ち上がるが、移動時の太郎丸は車輪の付いた四肢で伏せたような体勢で走行する。

「まだまだ行くわよぉ!」

「り、りいいいさああああん!」

 叫ぶ由紀の声を無視しつつ悠里はアクセルを捻り、更に加速。

 勢いを付けたバイクは正面玄関の瓦礫によって大きく跳びながらも着地、校庭を疾走していった。

 *

「全く……人気者は辛いな」

 予備の超震動ナイフは早々に自壊し、機体の腕に内蔵されている連装機関銃の残弾数も残り僅かを示していた。

 そして、弱点である頭を潰された怪物達は、胡桃の周りに屍の山を築いていた。彼等の数は大きく減り、残るは一体。

「やっぱり、こっちじゃないとな」

 言いながら胡桃は腕を機体の後ろへ持っていく。

 彼等の中から、太郎丸と同じかそれ以上の、一際大きな体格の怪物が前に出てくる。

 人型ではあるのだが、その手先は長く大きな鎌の様になっている。

「くうううううるうううううみちゃあああああん!」

 意味不明な叫び声をあげながら突撃してくる怪物に、胡桃も突撃。怪物の振り上げたその腕を、胡桃は機体背面から引き抜いた装備で受け止めた。

「かわいっ!?」

 驚いたような声をあげる怪物。

 怪物の腕を止めたのは、特大のシャベル。それは頑強さを追求した無骨な合金の塊。

 両腕で持っているそれは、武器と呼ぶには躊躇われる代物である。

 だが――

「さぁ! お前にシャベルの素晴らしさを教えてやるよ!」

「みいいいいいいずぎいいいいいいいい! かあああああわいかったんじゃあああああああああ!」

 胡桃が彼等を引きつけているお陰で、悠里達はすぐに校門を抜け、町の中を颯爽と走っていた。

『前方に注意! います!』

 太郎丸のレーダーの捉えた情報を、美紀が通信で伝える。

 道の先の角から、それは姿を現わした。住宅と同じ高さの、手足を細く長くしたキリンのような怪物。まだ遠い距離だが、今のスピードではすぐに会敵してしまうだろう。

『悠里先輩!』

 避けるか立ち向かうか、作戦の頭である悠里に美紀は判断を求める。太郎丸に乗っているのであれば彼等と戦うことも出来るがバイク、それも側車付きでは彼等相手に十分な立ち回りは出来ないだろう。悠里は護身用に大口径の回転弾倉式拳銃(リボルバー)を所持しているが、一般的なサイズーー形を変えていない彼等には使えても住宅程の大きさの怪物を相手には出来ない。

しかし――

「突っ切るわ!」

「ええっ!? りーさん!?」

『わ、わかりました!』

 悠里の即決に由紀と美紀は驚くが、美紀はすぐさま了解する。悠里が何も考えずに指示することは無いと信じているからだ。

「美紀さん! 私の合図で牽制を!」

『はい!』

 美紀の太郎丸は走りながら機体を戦闘モードへと移行させ、両腕に内蔵された機関銃の照準を怪物へと定める。

 怪物との距離が縮まっていく。

 悠里は改造されたハンドルを操作。取り付けられているボタンに指を添える。

「にいいいきにきにきにきにきにき!」

「あわわわわわわ! りーさん!?」

 由紀が引き攣った顔で悲鳴を上げる。怪物がバイクを押しつぶそうと、その長い足を持ち上げたからだ。

「今よ!」

 悠里の合図と共に太郎丸の機関銃が連射モードで咆える。5.7ミリ弾は雨のように怪物へと降り注いだ。

「きゃきゃきゃ! きゃらそんよかったよおおおおおおお!?」

 身体中を襲う銃弾に悲鳴のようなものを上げる怪物。その射撃によって注意は完全に足元のバイクから美紀に移った。

 だが、持ち上げられたその長い足は、狙いすましたかのように悠里の運転するバイクへ向かってくる。

「きゃああああああ!」

 由紀の悲鳴が合図とばかりに、悠里は指を添えていたボタンを強く押し込む。

 エンジンが咆哮を上げると同時に、バイクが加速。

 

 二人の視界が、ぐんと狭くなる。

 悠里と由紀はまるで突き飛ばされたような感覚と、視界に写っていた物が後方へと飛んで行くような錯覚を覚えた。

 一瞬の後、二人が居た空間に怪物の足が振り下ろされる。まるで空間をぶち抜く弾丸のように、二人の乗るバイクは怪物の足の間を一瞬で走破したのだ。

 

 亜酸化窒素供給装置(ニトロ・チャージャー)

 通常の空気よりも多くの酸素を手に入れたエンジンはガソリンを激しく燃焼させ、その馬力を一気に上昇させたのだ。

「きゃああああああああああああああ!」

「きゃああああああああああああああ!」

 心底楽しそうな顔の悠里と目頭に涙を浮溜めた由紀を乗せたバイクは、怪物からあっという間に離れて行った。

「みいいいいんくんにののしられたああああああああああああい!」

 怪物はその長い手足を振り回す。細長い見た目に対してその一撃は、家の塀を吹き飛ばす程の威力を持っていた。

 太郎丸は機動力に重きを置いた設計になっており、装甲や防御の面では薄い鉄板と大差はない。怪物の一撃だけでも、太郎丸は潰されてしまうだろう。

「本当に、ノロマですね」

振り回される手足の間を潜り抜け、すれすれで避けながらながら、美紀は呟く。

 どんなに破壊力を持った一撃でも、その遅さは昔の彼等とさほど変わらない。高速演算を備え、操縦者である美紀の意思に反しない程度の動きを自動でする太郎丸に簡単には当たらない。

「みいいいいいくんにふまれたああああああああい!」

 当たらない攻撃に痺れを切らした怪物は、両腕だった足を揃って美紀の太郎丸目掛けて叩きつけた。

 だが、そこにはもう美紀の乗る太郎丸の姿は無かった。

 身軽さと機動力を生かした大きな跳躍。美紀の機体は怪物の高さを軽々と越える。

「みえみえーーないいっ!?

 怪物の上が一瞬陰ったかと思うと、次の瞬間には、太郎丸はその背に乗っていた。

「ありがとうございますっ!?」

 突然の重みに怪物は混乱し、振り落とそうと暴れる。だが美紀は、片腕に装備した超震動ナイフを怪物の背中に突き刺し機体を固定。

「全く……滑稽ですね」

 背中にある小さな物体。あの日から何も変わらない人間の顔がそこにはあった。生首を載っけただけのような、全体として見れば余りにアンバランスな部分。

 美紀は怪物の弱点であるその顔に機体の腕を押して付け、射撃。ゼロ距離で弾丸を浴びた顔が赤い霧となって消えた。

 弱点である中枢を無くした怪物の身体が力を失う。美紀は素早くその背中から飛び退き道路に着地。巨大な遺体は道路を塞ぐように倒れた。

『みーくんっ!? 大丈夫!?』

「はい! 今行きます!」

 由紀からの通信に美紀は返事を送り、機体を走行状態に戻す。甲高い音を住宅街に響かせながら車輪の跡を残して発進。悠里達の元へと急行した。

 *

「ゆううううりちゃんもおおおおおお!いいっ!」

「くっ」

 胡桃は右からくる横薙ぎの攻撃を後ろへ跳んで避ける。怪物の体格は胡桃の乗る太郎丸よりもひと回り大きい為、単純な腕力勝負では胡桃に勝ち目は無いだろう。

 だが、筋肉は付けすぎると速度と柔軟性を損なう様に、彼等の遅く単調な攻撃速度は簡単に見切れる。

「めぐめぐめぐめぐねえもいいいいいいい!」

 叫びながら胡桃に突撃してくる怪物。それを見ながら構える胡桃。大きく振るわれた怪物の鎌が太郎丸の操縦席へと吸い込まれていく。

「ーー陸上部の力、見せてやるよ!」

 だが、胡桃を捉える事無く、怪物の腕は空を切った。怪物はそこにいた筈の胡桃を見失い、一瞬だけ混乱する。

「こっちだぞ!」

 怪物は声のした方へと腕を振るうが、その時にはもう胡桃は居ない。

 胡桃は怪物を中心に弧を描く様に走り回る。突然の太郎丸の機動力に翻弄される怪物。その目は胡桃に追い付いていない。

「ほらほらこっちだ!」

「みみみみみみいいいいいいくんんんん!」

 だが、速い動きも慣れれば捉えやすくなる。予測を付けた怪物は胡桃が通るであろう所にその鎌を振るう。

「遅いっ!」

 だが、それを躱す様に太郎丸は跳躍。

 高く跳んだ機体は校舎の屋上へと登り、もう一度屋上から跳躍。空中で機体を捻り姿勢制御し、シャベルの先を怪物へと向ける。機体はそのまま怪物へと落下していく。

「ゆきちゃあああああんもいいいいいいいい!」

 怪物が構える。落下してきた所を打ち倒そうとしているのだろう。

 太郎丸は空中で移動する事は出来ない。四肢を振って体勢を変える事は出来るが、ブースターの類いは装備されていないのである。

「甘いな!」

 シャベルを構えながらも胡桃は片腕を怪物へ向ける。機関銃の照準を怪物の肩へと定め、連射モードで射撃。

 背中へと腕を回して構えていた肩が撃ち抜かれ、怪物はその動きを止める。

 シャベルを向けたまま太郎丸は怪物に衝突。重力加速によってその一撃は、怪物の体を貫通。怪物は校庭へと縫い止められた。

「でもでもでもぉおおお!?」

「チェックメイトだ」

 胡桃は腕を怪物の頭、血を吐きながら叫び回る頭に押し付ける。

「くる」

 射撃。

 今際の言葉を残せずに、頭を無くした怪物は動かなくなった。

「……やべっ」

 太郎丸が機体内の胡桃に警告。レーダーが捉えた情報が表示される。学校外にいた彼等が校庭へと大量に侵入していたからだ。

 胡桃はシャベルを引き抜くと、機体を走行状態にして発進。校門付近で滑りながら方向転換。両肩に装備された射出機の照準を合わせる。

「汚物は消毒だ!……ってな」

 射出された焼夷榴弾が、放物線を描いて群がる彼等の中に落ちる。

 一瞬の後、轟音と共に激しい発光が校庭を包んだ。爆風によって彼等は吹き飛ばされ、広がった燃焼剤が校庭を火の海へと変える。

「……バイバイ。めぐねえ」

 胡桃は呟くと機体を街へと向ける。炎に焼かれ苦しみもがく彼等と燃え上がる巡ヶ丘学院の校舎を背に、胡桃は悠里達と約束した合流場所へと機体を走らせた。

 胡桃を最後に、学園生活部の面々は無事に卒業した。

 進路を大学進学とし、聖イシドロス大学へと向かう。

 ただ――彼らの顧問は慈愛に満ちた表情を浮かべていた。




作中でりーさんとゆきちゃんの乗るサイドカーはネイキッドをイメージしております。戦争映画なんかでよく観るあれです。まぁサイドカーならネイキッド、みたいなもんだと作者は思ってるんですけどね。
今回の話は様々な元ネタを踏襲しております。
話すと長くなるのでここらで云々。
どうしても気になるようでしたら、感想にてどうぞ。


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『結末』

*注意*
本作品には作者の息抜きのつもりの会話劇であります。あと短い。
また、スティーブン・キング作品『霧』、それを原作とした映画『ミスト』のネタバレが多量に入っているかと思われます。
上記の内容で構いませんようでしたら、お読みください。


結末にパッピーエンドを望むのは当たり前の事だろう。

特に、自分の事ともなれば。

美紀「はあ……」

悠里「どうしたの?」

美紀「いえ……ずっと読んでいた本が、今読み終わったんです。あのモールで買った本なんですけど……思ってたより、早く読み終わっちゃったな」

悠里「ねえ、どんなお話だったの?」

美紀「ええと……。向こうの本で、戦争中の話なのかな。家を焼け出された子供達が犬と一緒に旅をするんです」

悠里「へえ」

美紀「でも、最後が辛くて……」

悠里「……悲しいお話なのかしら?」

美紀「はい。その犬が……。前に翻訳版を読んで、先は知ってたんですけど。やっぱり、原書も同じ結末なんですよね」

悠里「そう。……この作者って、確か色々な映画があったわよね」

美紀「はい。この人の小説を原作にしたモダンホラーが多いですね」

悠里「そうなの。優しい囚人の話しか知らなかったから、感動する話を書いてるのだとばかり思ってたわ」

美紀「ああゆう話もいくつかあったと思いますよ。とは言っても、全部は知らないんですけどね。……当たり外れも激しいらしいですし」

由紀「おはよう! みんな!」

胡桃「おはよー。何の話してたんだ?」

悠里「映画の話をしていたのよ」

 

美紀「はい。この本の作者の作品とか」

由紀「うへぇ……みーくんよくそんな英語だけの本を読めるよね……」

美紀「由紀先輩は少しは勉強しましょう」

胡桃「ふ〜ん……確かによく聞く名前だよな」

美紀「面白い作品も多いですからね。……ただ、映画だと結構原作と変わってるものも多いらしいんですよ」

胡桃「へえ。だから原作を読むのか……。いや、やっぱり私には無理だわ」

由紀「そうだよ! みーくんは活字と結婚するつもりなの! そんなの私が許しません!」

 

美紀「先輩は一体私の何なんですか……あ、原作と違うと言えば」

由紀「?」

胡桃「?」

悠里「?」

美紀「うーうー♩きっとくるー♩ きっとくるー♩」

 

胡桃「やめろー!」

由紀「やめてみーくん!」

悠里「あら、あれも原作と映画で違うの?」

美紀「そうなんですよ。あの映画の最も印象的なテレビから……」

 

由紀「あ!わ、私授業行かなきゃ!」

胡桃「わ、私も! 見回り行ってくる!」

悠里「いってらっしゃーい」

美紀「いってらっしゃーい。ふふっ、本当に二人とも怖いの苦手なんですね」

悠里「ほんとにねえ」

美紀「……先輩」

悠里「なに?」

美紀「……これも、この本と同じ作者の作品の話なんですけど」

悠里「ええ」

美紀「外は怪物で溢れかえってて……それでも外に出るしかなくて……いつ怪物に食べられて死ぬか分からない状況だから……自殺してしまう話があるんです」

悠里「……」

美紀「もしも……もしも、そんな事になったら……先輩は……どうします?」

悠里「……分からないわ」

美紀「……すいません」

悠里「美紀さんなら……どうしたい?」

美紀「……せめて、後味の悪くない結末がいいです」




作者は今の所『グリーンマイル』が好きです。


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『Language of Flower』

ほのぼの注意報&会話劇


「わあ〜……綺麗。ねえねえ、これ何が咲いてるの?」

 

「これは薔薇ですね。外国の庭園みたいです」

 

「へえ……写真じゃなくて生で見てみたいなあ」

 

「それは……ちょっと難しそうですね」

 

「う〜ん……残念。ねえ、この“花言葉”って何?」

 

「花言葉って言うのは、そのまんま花に意味のある言葉を付けるんです。大体は象徴みたいになるんですよ。例えば薔薇なら『愛』とか『美』とか」

 

「へえ、そうなんだ」

 

「薔薇には色んな色があるから、色によっても花言葉が付いているのよ。『情熱』の赤い薔薇から『奇跡』の青い薔薇、とかね」

 

「ほおー、流石園芸部部長」

 

「由紀先輩は好きな花とかありますか?」

 

「好きな花? そうだねえ……じゃあ向日葵で!」

 

「向日葵ですね……花言葉は『私はあなただけを見つめる』『愛慕』『崇拝』ですね」

 

「何処か合わないわねえ……」

 

「私も『元気』とかだと思ってました」

 

「なるほど、太陽に向くからか……。つまり、ゆきにとっての太陽があるのか?」

 

「私の太陽……?」

 

「それよりは、ゆきちゃんが私達の太陽ね」

 

「えへへ、そう? そうだよ、皆私にビスケットが足りないよ!」

 

「だからリスペクトですって……」

 

「これ以上ゆきを甘やかしたら駄目だろ。お菓子が無くなっちまう」

 

「ねえねえ!りーさんは何の花が好きなの?」

 

「そうねえ……私は(すみれ)が好きよ」

 

「菫……ありました。花言葉は『謙虚』『誠実』『小さな幸せ』」

 

「うん、確かにりーさんに似合ってるな」

 

「ふふ、ありがとう」

 

「あ、待って! 色によっても色々あるらしいよ! りーさんはどの色が好き?」

 

「じゃあ、この淡い紫色で」

 

「紫色だね。花言葉は『愛』と……『サダセツ』?」

 

「『貞節(ていせつ)』。結婚した奥さんが旦那さんに尽くすことです。……それにしても愛に貞節ですか。家事も出来ますし、本当に良いお嫁さんになりますね」

 

「もう……褒めても何も出ないわよ?」

 

「もう出てるよ! ボインってね! ああ! りーさんイタイイタイゴメンナサイ!」

 

「……」

 

「……胡桃先輩、凄く羨ましそうですね」

 

「え? あ……い、いや」

 

「くるみの夢は可愛いお嫁さんだからねえ」

 

「うう頭が……それで、くるみちゃんの好きな花は?」

 

「う〜ん、私の好きな花か……」

 

「……胡桃じゃないんですか?」

 

「いやいや、胡桃の花なんて聞いたことないぞ」

 

「私知ってる! カラスが上から落とすんだよね!」

 

「ゆきちゃん、それは胡桃の“実”よ」

 

「……あ、ありました。これが胡桃の花です」

 

「……へえ」

 

「……なんていうか」

 

「くるみちゃんのツインテールみたいだね。はっ! もしかしてくるみちゃん、それをイメージして……!」

 

「してねえし! それに誰の髪形がこんなブツブツしてるかよっ!」

 

「まあまあ。……ええっと、花言葉は『知性』『謀略』『知恵』『野心』……」

 

「……」

 

「……」

 

「……おい、お前ら何か言えよ」

 

「……胡桃は美紀さんに合うわね」

 

「ねえねえ、『筋肉質』とか『無鉄砲』とか無い?」

 

「そーゆーことを言うのはこの口かー」

 

「いたいいたたた」

 

「まったく……好き勝手言いやがって」

 

「あはは……」

 

「暴力反対だよ〜……。でも、なんでこの花から『知性』何て思いつくんだろ?」

 

「多分胡桃の実から由来したんだと思いますよ。胡桃は昔、食べると頭が良くなるって言われてたらしいですし」

 

「へえ、胡桃は体に良いんだ……」

 

「私を見ながら言うな!」

 

「いいじゃない。きっと色んな意味を込めて『胡桃』って付けてくれたのよ。ご両親に感謝しなきゃね。胡桃ちゃん?」

 

「りーさん、それはこっちを見て言ってくれ」

 

「栄養も良いらしいですけど、一番の理由はその見た目ですよ」

 

「ん? どうゆう事だ?」

 

「胡桃を脳味噌に見立ててたらしいです」

 

「……え」

 

「あら……」

 

「胡桃ちゃんが脳味噌……」

 

「……まあ栄養が良いのも事実ですし、ダイエットにも良いとか」

 

「……胡桃ちゃんダイエット」

 

「おいそこ、ボソッと呟くな。あとちゃんを付けるなちゃんを」

 

「いっぱいあるわね……あら、くるみにいいのがあるじゃない。花言葉は『偉大』『燃える心』『暖かい心』」

 

「そんな、別に熱血家じゃないし……」

 

「あと『枯れない愛』。ね? 凄くロマンチック。見た目も綺麗」

 

「へえ……本当だ。……えへへ」

 

「くるみちゃん凄くニヤけてる」

 

「う、うるさい! ……で、でさ。それ何て名前の花なんだ?」

 

「サボテンよ」

 

「なるほど! ツンツンしてるところとかそっくりだね!」

 

「確かに、言い得て妙ですね」

 

「お前ら、ちょっと屋上行こうぜ」

 




作者もサボテンを育ててるんですが、なかなか花が咲いているのは見た事がありません。二回くらいですかね。
メリハリが必要なようで、案外繊細な性格なのかもしれません。


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『怖いもの』

そろそろ怪談の季節なので、ええ。
山無し。オチ無し。意味無し。
それでもいいなら、どうぞ。


 毎晩家計簿を付けている時はキャンプ用のライトを点けていたのだけど、その日は偶々見つけた蝋燭を使ってみた。

 昔ながらの白い洋ローソク。

 小さな受け皿にそれを一本立てて、芯である木綿糸にマッチで火を点ける。

 小さな、橙色の火が灯る。眺めていれば感傷的な気分になる弱い光。

 風のない室内では、火は揺らめくこともなく、ロウを溶かしていく。

 光量は殆ど無い。

 でも手元のノートを照らすだけなら十分。偶にはこういう趣向も良いのかもしれない。

 雰囲気作りの為に室内の明かりは蝋燭以外全部消していたので、夜の見回りから帰ってきた胡桃は部屋の中の光景に一瞬ギョッとした。

 

「おかえりなさい」

「た、ただいま。――じゃなくて、怖いから止めてくれ」

「何で?」

「蝋燭の光で、りーさんの顔が闇の中で浮かんでるみたいだった」

「それは確かに怖そうね」

「他人事みたいに……」

「寒かったでしょ? ホットココアでも淹れるわね」

「……ありがと」

「いえいえ」

 

 ケトルに水を入れ、コンロで温める。

 手持ち無沙汰だったので、ふと悪戯がしたくなった。

 

「……たまにこんな事ない? 風は無いのに……横を誰かが通って行ったような生温い風が」

「あーあー」

「あらあら。冗談じゃないの」

「冗談でも、言って良い事と悪い事があるだろ」

「耐性が無さ過ぎよ。知ってる? 幽霊は怖がりな人の近くに寄ってくるって……」

「あー! あー!」

「だから幽霊の話でも聞いて、少しは慣れましょ」

「りーさんが愉しみたいだけだろ……」

 

 さて、どうかしら。

 ピーっと鳴り出したケトルから胡桃のマイカップに水を注ぐ。棚から取り出しておいた粉ミルクとココアパウダーを入れてかき混ぜれば、出来上がり。

 

「はい、ホットココア」

「……いただきます」

「どうぞ、めしあがれ」

 

 胡桃は両手でカップを持つと、ふーふーと冷ましながら飲み、幸せそうに一息つく。

 私は家計簿を再開する。

 

「……くるみは幽霊っていると思う?」

「いて欲しくない」

「願望じゃなくて」

「……いないと思う」

「それはどうして?」

「見たこと無いから」

「なるほど」

「そう言うりーさんはどうなんだよ」

「私? そうね……いるとは思うんだ」

「どうして」

「だってその方が面白そうじゃない」

「えぇ……」

 

 胡桃の引き気味な声をスルーしつつ、家計簿に書き込んでいく。

 あら、お菓子の量が思ったより減ってる……。

 

「でも幽霊は科学現象だって話があるだろ」

「ええ、沢山あるわね」

「全部幻覚だよ。どうせ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、だっけ?」

「……でも、枯れ尾花と分かるまで、それは幽霊だったかもしれないわ。もしくは幽霊として存在していた。少なくともその当人にとってわ」

「……どういうことだよ」

 

 訳が分からない、と不満気な顔を私の方に向ける。

 そうね……。

 こんな話があるわ。

 

 

「この踏み切りでね、親子が自殺したんだって。若いお母さんと、赤ん坊」

 

 日が落ちた住宅街の暗い踏み切り。

 塾帰り少女は、横でスマートフォンをいじる同じく塾帰りの友達にそう話しかけた。

 会話の話題作りで、少女の即席で考えた冗談だった。

 

「……まじ?」

 

 ここより遠くに住んでいる怖がりな友人は言う。

 

「だからね、たまに赤ん坊の泣き声が聞こえてくるんだって……」

「……」

 

 怖がりの友人の顔が引き攣り始める。

 あまり怖がらせるのも悪いだろう。

 

「なーんてね」

「もう……」

 

 その場はそうして終わらせたのだが、友達の反応が良かったので、少女はその自作の怖い話を度々話した。

 少し肉付けして、いかにもありそうな事件にしてみたり。怨念のこもったオカルトホラーにしてみたり。

 しかし、いつしかその『踏み切りの親子』は尾ひれを付けながら、少女以外から噂として広がっていった。

 その踏み切りで丑の刻に立っていると親子に冥界に連れて行かれる、だとか。

 踏み切りの向こう側で赤子を抱いた女の幽霊が出る、だとか。

 ただ母親と赤ん坊の幽霊、という部分は変わらなかったが。

 

 その後、そんな噂を忘れた少女は地元の大学に入り、女性となって地元で就職をした。

 たまに耳に入ってくる『踏み切りの親子』の噂。懐かしんでいたのだが、どうやらより洗練され、実体験としても拡がっていたらしい。

 踏み切りで親子の幽霊を見た。赤ん坊の泣き声を聞いた。

 遠くからやって来た同僚までもがそんな事を言うので、女性は段々薄気味悪くなってきた。

 勿論それは噂話であり、同僚達の話も嘘だろう。

 だが、自分の元から離れたものが、とんでもない影響を与えていると思うと、申し訳なさより恐怖を感じた。

 

 ある日女性は残業を終えた帰路の途中、踏み切りが鳴り出し立ち止まった。

 かーんーかーんと警報機が鳴り、女性はぼんやりと遮断機が降りるのを眺めていた。

 

 おぎゃあ。おんぎゃあ。

 

 警報機の音の中でも、何故かはっきり聞こえる赤子の声。

 女性はぎょっとした。住宅街であるが、その泣き声はどう考えても家の中からではない。そして深夜帯の時間に、赤ん坊が外に出るだろうか。

 

 おんぎゃあ。おんぎゃあ。

 

 母親を、保護者を求める叫び。

 女性はふと、最近出回っているの『踏み切りの親子』の話を思い出した。

 その赤子は生まれた時から死んでいる。

 死人をあやせる生者などいない。

 だから赤子は、生者を死人に変えたがっている。

 自分だけの理由で勝手に死んだ母親に変わる存在を欲しがっている。

 

 女性には分からなかった。

 こんな歪な存在を生んだのは、一体誰だろうか。

 

 おんぎゃあ。おぎゃあ。

 

 赤ん坊の泣き声が、頭の中で響く。

 

 

「……」

「噂の独り歩きはよくある事だけど、怖いのはそれによる影響なんですって。みんなの記憶の中には、そこに居もしない死人が生まれるの。だから多分、幽霊っていうのは……」

 

芝居臭く、ペンで頭を叩く。

 

「ここにいる……かもしれないわね」

「……変な事言わないでくれよ」

「あらあら。これでもきつかった?」

 

 すぐに口調を崩して冗談めかす。

 こういった話題は本気にするものではない。

 

「もう……」

 

 そう言いながら胡桃は再びカップに口をつける。

 ココアを飲みながらジト目で睨んでくるが、構わずペンを持つ手を動かす。

 そうして少しだけ時間が過ぎた頃。

 胡桃が呟くように喋り出した。

 

「地縛霊って……いるよな」

「ええ、いるわね。未練があるとそこに留まってしまう幽霊、だったかしら」

「なんか、あいつらと似てるよな。毎日学校に来てさ」

「そうね。肉体を持った地縛霊かもしれないわね」

「……あいつらも、何か未練があるのかな」

 

 胡桃はそう言いながら窓を見つめる。

 今は夜だから校庭には数える程しかいないけど、朝になればまた集まってくる彼等。

 彼等は私達目当てで来ている様子ではない。ユニフォームを着たのは校庭でボールと追いかけっこばかりしている。

 未練なのか生前の習慣なのか。ただまあ、記憶が残っているというのは判断出来るだろう。

 

「……どうかしらね」

 

 彼女の言わんとしている事と、その先の想像が怖くて、返事は濁した。

 胡桃は何も気にした様子もなくココアを飲み干す。

 

「ん。ごちそうさま」

「はい。カップはそこに置いといて」

「はーい。んじゃ、先に寝るよ」

「ええ。おやすみ」

「おやすみ」

 

 胡桃が出て行くと途端に静かになる室内。

 何だか、部屋の中がさっきより暗くなった様に感じる。蝋燭の光は変わらず、ぼんやり燃えているのに。

 

「……ふう」

 

 彼等が一体何なのか、考えた機会は多い。

 人間なのか、死人なのか。

 そこで、ふと考えたことがあった。

 もしかしたら、この世界は、いつのまにか地獄に変わっていたのかもしれない、と。

 だから彼等はきっと、地獄で過ごす亡者なのだ。

 地獄なら生も死も関係無さそうだし。

 荒唐無稽で、馬鹿な考えだ。

 でも、私にはしっくり来ていた。それに、あの日から何となくそう理解していた気がする。

 外の世界は、私達にとっては地獄にしか見えないのだから。

 

「……」

 

 書き終えたノートを閉じて、蝋燭の灯りを息で吹き消す。

 さっきまで考えていた事は忘れて、寝室である放送室に向かう。

 こんな考えも、真面目にするものではないのだ。




地獄は頭の中にある。


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