そうして、一色いろはは本物を知る (達吉)
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■Prologue 歳のわりにけっこうなモノ

いろはすが可愛すぎて、気が付いたらやらかしていました。

始める前にいろはす視点のウォーミングアップとして書いたパートですが、
本編オマージュの短編みたいになっちゃいました。おっかしいなー。

原作読み直してまでチェックする根性がないので、一部想像で書いている箇所があります。
矛盾するようでしたら、ご指摘頂けるとありがたいです。

女の子を主人公にして書くのって、とても難しいものですね。


「はぁ~、なんだろな~」

 

 着替えもせずにベッドに突っ伏し、お気に入りのクッションに顔を埋める。

 

「あ~…もぉ!」

 

 出掛けに一時間掛けてセットした髪を、なかった事にでもするかのように、わしゃわしゃっとかき回す。

 

「わたし、どうしたいんだろ~、ほんと」

 

 今日は先輩との初デートだった。

 

 わざわざ葉山先輩の名前を出して、断りにくくして、逃げ道をふさぐために、まくし立てるように念押しして。

 自分でもちょっとおかしいな、と思うくらい必死になってまで取り付けた約束。

 葉山先輩の代役が先輩というのは、たぶん誰に説明しても納得してもらえないだろうなぁ。

 

「てか、そんなの、自分だって騙せていないんだけどね…」

 

 けど、そこまでしてでも、どうしても先輩とお出掛けしてみたかった。

 

 予想通り──ううん、予想以上にデートっぽくないデート。

 なら楽しくなかったのかと言えば、そんなことはないんだから、よく分からない。

 

『映画館に行って、見るのをやっぱりやめて、卓球して、ラーメンを食べて、喫茶店でお話して、帰ってきた』

 

 文字にして並べてみるとすごくダメダメだし、事前に知っていたらドタキャンしたくなるレベル。

 本人を前に、100点満点の10点だと告げて帰ってきた。

 赤点どころか即退学レベルの採点だ。

 

 それなら、鏡に映ったこの顔はどういうことだろう。

 

 葉山先輩を追っていた頃のわたしは、なんというか、もうすこし、その、勢い? そう、勢いがあった気がする。

 いっぱいお話できた日の夜はすごくテンション高くて、興奮して眠れなかった。

 

 今の私も確かにニヤけているんだけど、あの頃とちょっと違う気がする。

 えっと、これは──。

 

 そう、『ユルい』だ。

 

 ふにゃっ、とか、ほにゃっ、とか、そんなカンジ。

 真冬のコタツで眠くなってきたときのような。

 み、認めたくないけど、この顔は…その、幸せそう…にも、見える…かも。

 

 ふかーーーーーーっ!!

 

 

* * *

 

 

 お風呂から上がってパジャマに着替え、さっきメチャクチャにしてしまったシーツを直しつつ、改めて今日の事を整理してみる。

 

 自慢じゃないけど──ううん、自慢かなぁ、わたしはこれまで、かなりの数の男の子とお出掛けしている。だからわたしのデート経験値は、歳のわりにけっこうなモノのはず。

 

 小学生、中学生、そして高校生。

 

 たいていの相手は、さも気軽に選んだようなそぶりで、じっくり検討したであろう場所へ連れて行ってくれる。

 年相応に、あるいは不相応に背伸びをした男の子が、いろんなところにエスコートしてくれた。入念な下調べをして、ともすれば待ち時間の話題まで事前に用意してくれてて。

 そんな風に自分のために四苦八苦する姿が見たくて、わたしは笑顔でこう言ってきた。

 

「どこでもいいよ」、と。

 

 そんなわたしにとって、今日は開幕から調子が狂いっぱなし。

 

「で、どこ行く」だなんて。

 

 ほんとそれ、わたしのセリフなんですけど…。

 

 けど、今まではいつも誘われる側だっただけで、今回に限っては、わたしから誘ったみたいなものなんだよね。それに相手は先輩なわけで、二重の意味でエスコートを期待したわたしが間違いだったのかも。そういう意味ではわたしにとっても初デート、なのかな。

 葉山先輩にもいろいろ声掛けたけど、結局一度も二人でお出掛けしたことはなかったしなぁ…。

 

 それにしても、映画館に二人で行って、別々の映画を見るとか、ほんとないよねー。発想から斬新過ぎて、あれには怒る気力も失せちゃった…。先輩って、映画館でのシチュとか想像したことないのかな?

 

 今日は久しぶりにヒールだったけど、先輩が意外と身長あったことには驚いちゃった。なんだかんだで、時々年上って実感なんだよね。あれで姿勢も直せば、わりかし様になってるっていうか。

 でも、今くらいの身長差なら、隙を付けば簡単に──

 

「いやいや! ありえないから! 先輩ととか!」

 

 じたばたとベッドの上で大暴れ。

 

 誰に言い訳してるんだろ。

 棚の上のぬいぐるみと目が合って、急に我に返った。

 なんか、見透かされてるようで恥ずかしいなぁ…。

 

 

 今日の卓球勝負には負けてウヤムヤになっちゃったけど、もしも勝ってたら、文句言いつつも律儀に約束守ってくれそう。そういうとこ、あると思う。

 だってわたしが負けた時の言い分、我ながらめちゃくちゃだったけど、やれやれって顔で許してくれた。勝負は譲らないけど、ワガママは聞いてくれるってところ、いかにもお兄ちゃんっぽい。

 

 先輩がお兄ちゃんか…。

 わりかしハマってるかも。

 うんうん、意外と…。

 

 無意識に弄っていたスマホにふと目をやると、そこには「先輩」のメールアドレスが表示されていた。

 

 えー、なにやってんのわたし。

 ちょおキモいんですけど。

 

 ホーム画面へと戻し、スマホを充電スタンドへ返す。

 

 おっかしいなぁ、いまちょっとだけ、待ち受けに先輩の写真ほしいとか思った自分がいる。デートに女の子をラーメン屋へつれていくような、あの先輩のを…?

 

 でも、今日の私は、ほんとうに先輩が好きなものを知りたかった。仮にそれが自分にとって美味しいと思えなくても、たぶん良かったんじゃないかな。じゃないと、わざわざ無難なパスタというチョイスを却下した理由が説明できない。

 そして実際、ラーメン屋に連れて行かれたとき、わたしの満足のほうは半分諦めモードだったわけだけど。

…ついでにかなり文句言っちゃった気がしないでもないわけだけど。

 

 でもでも、考えてみると、あの先輩と和やかにトークしつつ食事するって言うのはそもそも違うって言うか。お洒落なお店でお通夜ムードはカンベンしてほしいけど、あのラーメン屋なら、むしろ軽口を叩いたらNGって空気だったし。

 何より、あの無駄に美味しいラーメン屋さんの敷居は、わたし一人じゃ絶対にくぐれない…。

 

 つまり先輩は、彼の身の丈にあった、ベストの選択肢を選んだ──と言えないことも、ない。…かもしれない。

 

 それにしても──。

 ふふっ、思い出しただけで笑っちゃうなー。

 

「ラーメンとか。デートでラーメンとか…ぷふっ」

 

 先輩の前、最後にデートした相手は誰だっけ。

 そのときは、いったい何を食べたっけ。

 さらにその前は?

 

 あはー、まいったなぁ。

 …ぜ~んぜんまったく、覚えてない。

 わたし、けっこうヒドい女かも。

 

 けど、これだけははっきりしてる。

 

「ほんと、忘れられそうもないなぁ…」

 




さてさて。
本編は真面目な話なので、こんなにほにゃほにゃしてないかもしれませんが、
興味のある方は応援してくださると頑張ります。


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■1話 世界に八幡ただひとり

いろはすが使いそうにない表現がしばしば混じってしまいますが、彼女の国語力を上限にすると、頭軽い文章にしかならないので(酷
この辺のバランス感覚が難しいです。

キモ男の名前は適当に路線から。
同姓の方、他意はないので何卒ご勘弁下さい。


 休み明けっていうのは、いつだって気が重い。

 

 総武高校は県内でも有数の進学校。ただでさえ高い授業のレベルはわたしの身の丈に合っているとは到底言えなくて、おまけに生徒会の仕事なんてものもある。

 

 あ、一応わたし、この学校の生徒会長さんなので。

 うんうん、よく言われるんですよー、信じられないって。

 まーそうですよね、わたしも未だにちょっと信じられませんし。

 

 そんなわけで、クラスの女子が雑誌片手にネイルの話で盛り上がってるのを横目に、次の朝会で披露するトークのネタを必死に搾り出している月曜日。

 

 …おっかしいなー、わたしもあっち側のはずだったんだけど。

 どうしてこうなったんだっけ? ちょっと整理してみよう。

 

 ん。どっかの先輩のせいですね。整理おわりー。

 

 

 この状況を勧めてきたすべての元凶。

 あのひとのこと、逆恨みしかけたりもしたっけなー。

 けど、カッコつけて「自分から乗せられてあげます」なんて台詞を吐いた手前、引くに引けなくて…結局そのまま今に至るって感じ。

 

 でも…最近はまあ…そこまで気が重いってことはない、のかな。何ならむしろ楽しんじゃってるかも。たぶん、仕事内容とか、メンバーとの距離感とか、そういうものにやっと馴染んできたんだと思う。

 

 

 一年の女子が会長という事実への風当たりは、まだまだ弱いとは言えなくて。

 

 クラスでも、うまく溶け込めてるとは言い難い。

 

 難問だらけ、ハードな毎日。

 

 だけど、学校に来ればあのひとが居るんだと思うと、仕方ないから覚悟決めて行こうかな、なんて思ってしまう今日この頃なのでした。

 

 

 さってと! 今日はなんて声掛けようかなー。

 いやいや、まずはあの部屋に顔出す理由を考えないとだよね。

 

 浮ついた思索に耽っていると、今日も頭のどこかからか、冷ややかに蔑むような声が聞こえてくる。

 

(葉山先輩にフラれたばかりで、もう他の男の子に夢中なんだ?)

 

「う~・・・」

 

 そう、最近の悩みはコレ。

 

 いくらなんでも、切り替え早すぎじゃない?って話ですね。

 

 そりゃまあ、うじうじ悩んで引きこもるよりかは健全かもだけど。それにしたってどうなんだろ、この軽さ。今となってはフラれたショックより、大して気持ちが塞がなかった事の方がショックなくらいだよ。

 

 ま、そっちはあんまし深く考えないようにはしてる。

 

 先輩と居ると楽しい。

 好きか嫌いか聞かれれば、それは迷わない。

 でも、それなら、わたしは新しい恋をしているのだろうか。

 

 ──わかんない。

 

 今まで惹かれてきた男の子とは、何もかもが違って。

 感じている気持ちだって、全然違って。

 これが何なのか分からないけど、少なくとも今までとは違うってことだけは分かってる。

 

 ──よくわかんない。

 

 ──ただ、消してしまいたくない。

 

 だから分かるまで、わたしはやりたいようにやろうと思う。

 

 

* * *

 

 

 野暮ったい、けど待ちに待ったチャイムが鳴り響く。全ての生徒を祝福する、授業の終わりを告げる音だ。本日の授業、これにてオールクリア。

 

 うう…今日もついていくのがやっとだった…。一年の今からこんなんで大丈夫なのかなあ。生徒会長なんてやってる場合じゃなくない?

 あんまり勉強も得意くないし、いっそ先輩に教えて貰えばいいかなぁ。

 

 …あ、意外と名案?

 うんうん、それなら勉強も悪くないかも。

 

 身体と頭はクタクタに疲れているけど、わたしにとってのお楽しみは正にこれからが本番なのだ。荷物をカバンに詰め込む手捌きさえも、心なしか軽やかに感じる。

 

「昨日の残りは…まあ副会長にでも押し付けてっと」

 

 例の部室に遊びにいくための算段をしていると、不意にわたしに向けられる視線を感じた。

 

「い、一色さん」

 

 顔を上げると、見覚えのある男子が目の前に立っている。

 

「うん?」

 

 この人、たしか夏の終わり頃に、帰り道で待ち伏せしてて、急に告白してきた男子だ。たしか…中原くん…だっけ?一応同じクラスのはず。

 

 その手の経験は初めてじゃなかったけど、あれはけっこう参っちゃったなあ。だって同じ教室で毎日顔をあわせる相手だよ? いくら特別な感情が無いっていっても、やっぱりやりにくいじゃん。

 

 そんな相手にも関わらず名前がうろ覚えなのは…えへっ☆ 察してほしいなー、なんて。

 

 んでね、ついでにもう一つだけ言わせて貰うと──

 

 ものすんっっごく、キモいんだよね、目つきが。

 

 特別フケツっぽいとか、ちょおブサメンだとかいうんじゃないんだけど。あれかな? 生理的にナイっていうやつなのかな。見られてるだけで気分が悪くなるし。

 

「気持ちは嬉しいんだけど」なんて決まり文句を言わなければ良かったのかなー。

「気持ちが悪いんだけど」って言えたら楽だったんだけどなー。

 

 あれっ? そう言や、そんな罵声を素で浴びせまくってる相手も一人いたっけ。あはは、酷いなーわたしも。

 

 ま、先輩にはあれだけ言っちゃってるけど、実際のとこガチでキモい相手に直で言ったり出来ないんだよね。言ってもあの人のゾンビちっくな目つきは(ギリギリ)笑って許せるレベルだし、そもそも先輩って、あれで根っこは熱い人情家っぽいんだよね。

 

 そういうネタ的な意味じゃなく、目の前の彼のは根本的に「アブない」目つきってヤツなんだと思う。

 

「ちょ、ちょっと聞きたいんだけど」

 

 話したくない。

 というか、近くに居たくない。

 よーし、奉仕部に避難しよ! そーしよ!

 

 背筋を走りまわる嫌悪感を隠して、にこぱーっと営業スマイル展開。

 

「ごめーん、ちょっと用事があってー、すぐ生徒会室いかなきゃなんだー」

 

 これでたいていの男の子は引き下がってくれる。

 

「あ、あいつと、その、つつ、付き合ってんの?」

 

「え?」

 

 あなたと話をする気がない、という言外のアピールは、残念ながら通用しなかったみたいです。

 それどころか、彼はとんでもないモノをわたしに投げつけてきた。

 脈絡も主語もない──けれど威力だけは無駄に高い──好奇心という火が引火したバクダンをだ。

 

 あちこちに散らばりざわめきでしかなかった教室内の視線が、わたしという一点に縛られるのを肌で感じた。

 

 うわ…一瞬で教室の中が変な空気に…。

 

 あーこれ。対処間違えたらヤバいヤツだ。

 

「急にどうしたの? だれの話?」

 

 きょとん、とした顔。こんな感じでどお?

 

 じょぶじょぶ。ちょっと驚いたけど、この程度のトラブルはぼちぼちあるレベル。ぜんぜん対処できる範囲だ。

 

「あいつだよ、2年の。最低野郎って有名じゃん」

 

 あーはいはい。なるほどなるほど。だいたい分かりましたよー。

 

 こないだの先輩とのデートのことか。

 

 別にお忍びって意識じゃなかったし、誰かに見られたんだなー。この、友達少なそうな男の子の耳にも届いてるってことは、もうかなり拡散しているって考えるべきかな。

 

 まーね。それはいいよ。

 

 ウワサになっちゃいましたねー。てへり☆

 そう言って片目を瞑れば、先輩はどうせ苦笑いひとつで済ませてくれるから。

 

 それはいいけどさ。

 

「…最低野郎ってなに」

 

 っとぉ! かなーりフラットな声でちゃった。

 貼り付けてる営業スマイルとのギャップでエライことに…。

 

 だってさー。悪意隠そうともしないからさー。

 ついつい反応しちゃった。てへりこ☆

 

 やははー。

 でもでもー、ちょーっとだけ、マズったかなー。

 

 くーるだうん。くーるだうん、おーけー。

 

 辛うじて顔まで強張ってないのは、日ごろの鍛錬の成果だね。面の皮が厚いって陰口は、なかなか良いとこ突いてるかもです。

 

「だってその話、有名じゃん。一色さんも聞いたことあるだろ?」

 

「あー、まあ。あのひと、悪目立ちするしね」

 

 中原くん(仮)はわたしの声色の変化に気付かなかったみたいで、一歩踏み込んでまくし立ててくる。

 

 この強気な物言い…もしかして、写真か何かが出回ってるのかな。

 ならリスクを考えると、ここで下手に否定するのは逆効果になるかも。

 

 だったら──

 いっそ肯定しちゃって、その程度なんでもないってアピっておこう。まーた同性からの好感度が下がりそうだけど…。

 

「でもでもー、こないだのはそういうんじゃないしー。だいたい、一緒に外歩いただけでそう言われたら、戸部先輩まで彼氏候補になっちゃうしー」

 

 『あはは! とべっちととか超ウケる! 絶対ないしー!』

 

 『それは流石に同情を禁じえない、辛辣な誤解ね』

 

 一瞬、よく知る二人の声が聞こえたような気がした。

 

 こういう時、女の子同士のチームワークがあれば、そんな風に笑い話に流せるんだろうけど…。今の状況に介入してくるような物好きは、もちろん我がクラスに居るはずもありませんよーっと。

 

 はぁ…。あの二人がいたら余裕なんだけどなぁ…。

 

 しっかし、わたしってほんと、泣けてくるほど友達少ないよね。誰一人としてフォローしてくれないし。

 

 ──ってか、まさかとは思うけど、戸部先輩にも手を出してるとか思われてないよね? 今のもジョーダンに聞こえない、とか?

 

 え。待って、ちょっと待って。

 それだけは許せない勘違いなんだけど。

 何をおいても正しておきたいんですけど。

 

「いや、付き合ってないにしてもさ。あ、アイツだけは関わらないほうがいいって言うか」

 

「えっと…」

 

 噂だけ聞いていれば、確かに先輩は極悪非道のクズ男かもしれない。それくらい、ご大層な噂が一人歩きしているのは分かってる。そしてその一部──いや大半が事実であろう事もだ。

 

 それでもわたしは実際に知っている。

 あのひとは、理由も無くそんなことをしない、と。

 きっと噂になるくらい酷いことを、しなければならない状況だったのだ。

 

 それに何より、噂というレベルで言うんなら、わたしの噂だって相当のものだ。彼に負けず劣らずのレベルで構内を闊歩しているに違いない。

 

 あ、そうだ。

 生徒会長で、しかもルックスもそれなりのわたし。

 わたしがいま彼を上手いこと庇えば、先輩の評価をひっくり返せるんじゃ──

 

 そんな考えがふっと浮かんで、けれど次の瞬間には笑い飛ばした。

 あのひとは図太くて、孤独で、自分の評判を気にしない。またどこかで誰かのために、もっともっと凄いことをやらかしてしまうかも。

 だったら、ここでわたしが騒ぎ立てるのは筋違いだ。

 

 先輩は気にしていない。

 わたしも噂は気にしない。

 

 おっけー。この場はスルーしちゃおう。

 

「とにかく、特別なことはなにもないよー」

 

「だ、だったら、もう、あ、アイツには近づかないって、約束してくれ!」

 

 ──は?

 

 なんでだよ。

 なんでお前にそんなこと約束しなきゃいけないんだよ。

 

 おっとっと! 一瞬素に戻りかけちゃった、いっけねー☆

 

 しかし中原くんとやら。これまたイヤな暴走の仕方してくるじゃん。

 ここでわたしが「実はいま先輩に興味津々なんです☆」なんてカミングアウトした日には、何しでかすか分かったもんじゃないよ。

 

生徒会と奉仕部の関係知らないくせに(テメまじ関係ねーだろ)酷い事言わないで(すっこんでろボケ)

 

 ふーむ…。理屈から言ってこの一言は通るハズ。

 

 けど、こういう興奮状態にある相手に対して正論で対処すると、ロクでもない居直りや更なる状況の悪化が起きうるのだという事を、わたしは実体験から知っている。

 

 とりあえずは感情論が入らないよう、事務的な側面からやんわり拒否ってみよっと。

 

「あのね? 先輩には生徒会でお世話になってるし。多分これからも一緒にお仕事するだろうから、しばらく付き合いはあると思うよ?」

 

「でもさ! し、心配なんだよ! 俺、まだ一色さんのこと諦めたわけじゃないし!」

 

 うえぇ…。

 さすがにこれには作り笑顔も曇るわー。

 

「…えっと。でも、そういうの、困るっていうか──」

 

 マジでキモいっていうかー。

 

「なんかアイツと関わってから帰るのも遅くなったよね。クリスマスの前くらいから。さすがに海浜とのイベント中は仕方ないと思って黙ってたけど」

 

「ちょっ…なんでそんなこと知ってるの?」

 

 別に隠していたわけじゃないけど、いちいち行動を把握されてるのは気味が悪い。

 

「だって俺、いつも一色さんが帰るの玄関で待ってて、家まで見送ってるから」

 

「…え」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そして彼が言ったことの意味を理解したとき、わたしの身体に鳥肌がざぁっと立つ音を聞いた。

 

 無意識に、あるいは意識的に。

 少しでも彼から距離を取ろうとして、身体が後ろに反っていく。

 

「や、やだ…っ! じょ、冗談、だよね…?」

 

「いや、ホントだって。あ、雨の日だって頑張ってるぜ!」

 

 誇らしげに主張する姿は、まるで憧れのお姫様のナイトにでもなったかのよう。

 一方わたしの頭の中では、真っ赤なサイレンが警報と共にぐるぐる回っている。

 

 毎日、見張られてた…?

 家の前まで…?

 じゃあ、家の場所も知られてる?

 一日中、家でも学校でも、見張られてる!?

 

 もう気持ち悪いなんて生易しい次元じゃない。

 

 単純に「怖い」。

 

 青ざめて言葉を失ったわたしを見かねたのか、クラスの男子が割って入ってきた。

 

「中原ー、おま、マジそれストーカーっしょ。通報したら冗談抜きで逮捕されるレベル」

 

「ああ? んだよテメー。出来るもんならやってみろよ! 俺の父さん県警のお偉いさんだから余裕だし?」

 

 注意した男子に対して歯をむき出し、唾を散らして怒鳴る。その態度も口にした内容も、どちらも正常とは思えない。

 

「い、いや、そういう問題じゃねーし…。つかコイツ、目ェヤバくね?」

 

 周りの空気も、傍観から警戒へと色が変わってきた。

 

「んだよ、どうせおまえも一色さんのこと狙ってんだろうが!」

 

 中原くんはわたしとその男子の間に立ち塞がるようにすると、こちらを振り返って言った。

 

「い、一色さん、大丈夫、俺が守ってあげるからっ」

 

「―――っ!」

 

 粘着質なその声を聞いた瞬間、わたしは机の上のバッグをひったくると、声も上げずに廊下に飛び出した。

 

 怖い──

 怖い──

 怖いッ──

 

 助けて、先輩ッ──

 

 

 気が付けば、わたしの身は凍てつく空気に満ちた廊下にあった。

 その冷たい風を切って、息を荒げて駆けていく。

 

 後ろからさっきの声が追いかけてくるような気がして、何度か振り向き、つんのめった。

 

「…っ!」

 

 踏ん張って体勢を立て直し、固まりそうな脚を更に動かす。

 すれ違う、事情を知らない生徒たちの好奇の視線が、わたしに無遠慮に突き刺さってくる。

 

(なにあれー、超必死っぽい)

(生徒会長様が廊下を全力疾走とか)

(まじウケるし)

 

 うるさい! ばか、ちっともウケない。

 ううん、それどころじゃない。

 

 あの部室へ。

 奉仕部へ。

 

 もう、それしか頭には浮かばなかった。

 

 

 ちなみに──。

 これは、後で気付いたことなんだけど。

 

 その時間、間違いなくグラウンドで部活に励んでいるであろう葉山先輩に助けを求めようという考えは、なぜだか一瞬たりとも浮かばなかった。

 

 

* * *

 

 

 ノックも忘れ、スライド式のドアを力いっぱい引いた。

 

「せっ、先輩、せんぱいっ!!」

 

「んぉっ!」

 

 相変わらず澱んだ目つきでこちらを振り返る先輩。

 …ええと、これは驚いてる──で合ってるんだよね?

 

 死人が間違って起き上がってしまったような、そんないつも通りの彼の姿を見て、急に肩の力が抜けるのを感じた。戸を握り締めた手に、べっとりと冷や汗をかいているのに気付く。

 

「な、なんだ、どした?」

 

「や、やっはろーいろはちゃん。何かあったの?」

 

 見知った先輩たちの顔。

 聞きなれた声。

 

 あ、ヤバ…。

 安心したら、急に脚が震えてきた…。

 

「……あ、その…」

 

「…とりあえず中入れよ。そして閉めろ、寒い」

 

「…あ、ども、です。えと、お邪魔、します…」

 

 ハンカチでこっそり手汗をぬぐいつつ、暖房の効いた部室へと身体を滑り込ませた。

 

 ゾンビに追われて建物に逃げ込んだ人の気持ちって、こんな感じかな。逃げ込んだ先にもゾンビが居るって、なんか映画みたいで可笑しいな、なんて。

 

「…随分と慌てていた様子だけど。何事?」

 

「えと、はい、まぁ、あの、その…」

 

 何といったらいいのか。

 何から説明したらいいのか。

 

 この部屋に入って安心はしたものの、まだ頭がパニックから抜けきれていないみたい。

 声を掛けてくれた雪ノ下先輩はじっとこちらを見ていたけれど、ふと手にした文庫本を閉じると、静かに席を立った。

 

「まあ、お掛けなさい。お茶くらいはご馳走するわ」

 

 その言葉はいつもより一回りほど優しげで、わたしが平常ではないことを見抜いているみたいだった。

 さすがです、雪ノ下先輩。

 

「その。いつもすみません…」

 

「そう思うなら少しは遠慮しなさいよ」

 

 あんまり興味なさそうな声の先輩。こんな慌ててるわたしを見てもぜんぜん動じていないのにはちょっぴりショック。

 あ、でもよく見たら、本を閉じて読書を中断してた。やっぱり、気にしてくれてるんだ。

 

「ぶう。べつに先輩、お金も手間も掛けてないじゃないですかー」

 

 言いながら、空いている椅子をずりずり引っ張ってきて、先輩の左隣──教室の入口の反対側へと陣取った。

 

 わたしの定位置はここじゃない。

 けど、様子がおかしいことを察してか、その事を指摘する人は居なかった。

 

「…手間は元より、金を掛ける理由なんて微塵も思い当たらんし」

 

「そんな事ないです。ちょっとのお金で可愛い後輩の歓心が買えるんですよ? ちょおお買い得じゃないですか」

 

「あら、比企谷くんにおもてなしの心を期待しているのなら、それは無駄というものよ。彼の世界には彼ひとりしか存在していないの。他者の存在が無いのだから、歓待という概念だって成立しようがないのよ。悲しいわね」

 

 コト、と丁寧にわたしの前におかれた紙コップ。

 あったかい琥珀色の液体が湯気を立てている。

 

「あ、いただきます」

 

 カップに触れると、手がかじかんでいた事に気付いた。

 両手で持って一口含む。

 

 はー。おいし…。

 

「世界に八幡ただひとりってどんな実話だよ売れねーよ。つか、ちゃんと俺以外も居るからね。ほら、戸塚とか小町とか。あと戸塚な」

 

「ぜんぶで四人しかいないんだ…。しかもさいちゃんが二人…」

 

 相変わらず先輩を弄ることで成立しているこの空間。わたしにとってもすごく居心地がいい。

 

 それにしてもこの…ね。弄られている先輩を見つめる、結衣先輩の目がね。

 足を滑らせてひっくり返った子犬でも見てるっていうか…同情一つとっても、彼女が先輩に向けるそれは、根本的に温度が違うんだよね。分かっちゃうとこれ、もうすっごい露骨なの。

 

「あら、それって四捨五入したらゼロじゃないの。ごめんなさい、最初から誰も居なかったのね」

 

「俺の世界なのに俺まで居なくなっちゃうのかよ。まぁその方が良いかもな。世界に人なんぞ居なければ、悲しみもまた生まれてはこない」

 

「いえいえー、わたしは悲しいですよ、先輩が居ないと」

 

 いちいち俺にまでアピらなくてもいいから、と雑に手を払ってみせる先輩。

 

「もー、だから素ですってばぁ」

 

 わりと本音ですし。

 昼間のこともあって、今はあんまし先輩の自虐ネタは聞きたくないかんじなので。

 

「あ、あたしも悲しいし!」

 

 いやー結衣先輩のそれは、アピール通り越して好き好きオーラにしか見えないんで。も少し遠慮してくれないと、勘違いっていうか先輩が暴走しちゃいそうで心配です。

 いちおう年上なんだけど、なんか微笑ましいなー。

 

「っていうか──」

 

 むーっと可愛くむくれた結衣先輩が、不満げに豊かな胸を揺らす。

 

「あたしやゆきのんも入れてくれたっていいじゃん。ヒッキーワールド」

 

 ねぇ?と振られた雪ノ下先輩はというと

 

「別に…。私は遠慮しておくわ。何だか空気が悪そうな世界だし」

 

 とそっぽを向いていた。

 先輩の世界に入れて貰えなかったのが寂しかったのかも。まるで、構ってもらえなくて拗ねちゃった猫みたい。

 

 

 そんなこんなで、コップの紅茶が半分ほどになったところで「こほん」と雪ノ下先輩が小さく咳払いをした。

 

「それで──この世に比企谷くんの居場所がない件はさておき」

 

「さておくには致命的過ぎる議題じゃねえの、それ」

 

「そろそろ一色さんの用件を伺おうと思うのだけれど」

 

「何があったの?」

 

 思い出すだけで身震いしそうだけど…。

 うん、今は充分落ち着いてる。

 これなら話せそう。

 

「実は…」

 

 わたしは姿勢を正して、教室での出来事を報告したのだった。




適度な量で話を区切るってのは、案外と難しいものですねー。
何文字くらいが読みやすいのでしょうか。


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■2話 一色さんのが染みたソレ

女子の心理描写をおっかなびっくり書いています。
モノローグでボケないキャラを語り部にすると、本人のセリフが激減するのね(困


「サイアク!それって、まじストーカーじゃん!?」

 

 一通り話を終えて、真っ先に激おこ表明してくれたのは結衣先輩。

 

 ああ…クラスの女の子は誰もこの反応をしてくれなかったっけなぁ…。

 

 改めて、この場所はわたしにとって特別な空間だと実感した。溜め込んでいた不安も、吐き出してみるとずいぶん楽になったみたい。

 何より、このひと達はわたしを助けてくれる「味方」なのだ。彼らのテリトリーたる部室に逃げ込めた事で、保護されていると感じることによる安心感が、何よりも大きいんだろう。

 

「その、答え難い事かも知れないけれど…。、何か、おかしな事をされたりというのは?」

 

 気遣わしげな雪ノ下先輩が声を掛けてくれる。

 

 聞き辛くても大事なところをぼかさない、本当に芯の強いひとだと思う。やっぱり、ここに相談しに来たのは間違いじゃなかったんだ。

 

「いえ、今のところ直接というのはまだ…。なんか、見張られたりしてるだけみたいです」

 

「そう。それならよいのだけれど」

 

「…にしても雪ノ下、やけに親身だな」

 

 そう言えば、意外にも一番熱心に話を聞いてくれているのは雪ノ下先輩だった。先輩じゃないけど、失礼ながら、一番信じてもらえなさそうなイメージがあったかも…。

 

「それは…。まぁ、私も似たような経験が無い訳ではないし」

 

「なるほどな…」

 

 微かに憂いを含んだ表情の雪ノ下先輩はとても綺麗で、それこそストーカーの一人や二人が居たとしても、ちっともおかしくないと思える説得力がある。先輩も思わず納得したようだけど、一人だけ納得していないひとも居た。

 

「あ、あたしだってあるよ!」

 

「あのな由比ヶ浜。別に張り合うようなことじゃないんだ」

 

 無駄に優しげに諭すような先輩の物言いに、さらにムキーっとなる結衣先輩。

 

「ばっ、バカにすんなし! こないだもちゃんと、電車でお尻触られたし!」

 

 ドヤ顔でチカン被害を自慢する彼女に、二人は頭を抱える。

 

「ちゃんとってなんだよ…」

 

「それはそれで聞き捨てならない問題なのだけれど…まずは一色さんの方ね」

 

 

* * *

 

 

 では実際、どうしたらよいかという話の段になって。

 

「高校生の片思いが拗れただけなのだし、時間が解決する可能性はないのかしら」

 

 放っておけば卒業してもう会わないのだから、と雪ノ下先輩。

 下手に刺激しない方がよい、という考えも間違いじゃないと思う。しかし先輩は違う考えのようだ。

 

「思春期男子の闇は深いからな。あんま楽観視しないほうがいいんじゃないか。縦笛舐めるレベルなんてそれこそガキのお遊びだ。例え今はセーフでも、放っておけばエスカレートする可能性もある」

 

 先輩の顔からはいつものうさんくさい雰囲気が消えて、どちらかといえば凛々しい──と言えなくもない表情に切り替わっていた。

 

「あの…わたしの、その…自意識過剰とか、そういう風には、思わないんですか…?」

 

 どんだけ自分に自信があるんだ、と笑われるかもしれない。

 もし先輩にそう言われたら、その場で泣き出してしまう自信が今のわたしにはあったのだ。

 

 恐る恐る不安を口にしたわたしに、先輩は──

 

「お前のルックスとあざとさなら、むしろダース単位で発生していないとおかしい」

 

「酷いです先輩!?」

 

 はうぅ…。違う意味で泣きそう…。

 

 いやでも! それって逆に返すと、先輩も私のこと、可愛いとは思ってるってことだよね!

 そんな場合じゃないんだけど、やっぱり嬉しい。

 っやば、顔ニヤけてるかも!

 

「比企谷くん…」

 

「悪い。茶化すような状況でもないな。スマン」

 

 表情を隠すために下を向いていたら、ショックを受けていると勘違いして気遣われちゃった。

 えへへ、ラッキー☆

 あー、こういうのがあざといって言われるのかな…。

 

「それで、先生や親御さんには相談したのかしら」

 

「いえ、まだです。そういうのも含めて、信用できる人に相談したくて」

 

 そう自分で言って、少し驚いた。

 

 計算高い性格だと自覚があるし、基本的にあまり他人を信用していない。だから「信用している」という表現は、相手の好感度稼ぎ以外で使った覚えがない。

 

 なのに、今の言葉は自然と口から零れていた。

 

 奉仕部の先輩方には今までさんざんお世話になっているし、迷惑ばかり掛けている自覚もある。

 だけど、頼りになるのも、頼れるのも、わたしにはこのひと達しかいない。

 

 このひとしか、いない。

 

 先輩、怖いんです──

 先輩、一緒に居てください──

 先輩、いつもみたいに助けてください──

 

 言葉に出来ない気持ちの代わりに、知らずわたしは歩み寄り、彼の袖を掴んでいた。

 

 ああ、そっか。

 

 優しい先輩が、文句を言いつつもわたしを拒絶しない理由。

 これは縋りつく弱者の姿だ。本当は優しい彼が振り払えないのも当たり前。

 

 普段のわたしは、随分と恥知らずな真似をしていたんだなあ…。

 

 そう考えるとかなりみっともないな気がしたけど──。

 それでも今のわたしは、心の底から救いを求めている、正真正銘の弱者だった。

 

 体裁や恥じらいを捨てて、先輩の袖をきゅっと握り締める。

 

 彼は取り(すが)られた感触に何か言いたげだったけど、私の顔を見るとその口をつぐみ、やっぱり袖を払おうとはしなかった。

 

「…ねぇ、助けてあげよ? 断る理由ないでしょ、ゆきのん。ヒッキー」

 

「どう思う、比企谷くん?」

 

 二人の視線が一点に集まる。

 何だかんだで奉仕部の中心は先輩なのだ。

 そして、「まぁ」と彼は応えた。

 

「わりかし難しい問題だが、一色独りで抱え込むよりはマシか」

 

「ヒッキー!」

 

「確かに、当事者が冷静で居るのは難しい状況だし…。客観的な助言を与えるのは、奉仕部の目的にも沿っていると言えるわね」

 

 二人の先輩方の声も明るい。

 先輩がやるといっただけで、もう解決したような空気だ。

 

「わ、わたしのこと、また、たすけてくれますか?」

 

 自然、目頭が熱くなり、声に涙が混じる。

 

「大丈夫よ。貴女の依頼、ちゃんと受けるから」

 

 冬の雪のように冷ややかで涼しげな先輩の言葉は、けれども雪融けのような暖かみを内包していた。

 

「まっかせてー!」

 

 春の陽だまりのような先輩の笑顔には、不安が吹き飛ぶような朗らかさがあった。

 

「…ま、あんま心配すんな」

 

「ひぐっ…!」

 

 最近は真面目にしてると結構カッコいいとも思えてしまう先輩の声。

 

 弱っていた心にはちょっと酷だったみたい。

 顔を隠す前に、ポロッと涙が零れてしまった。

 

「ん」

 

 素っ気なく差し出されたハンカチは、無駄に可愛いワンちゃんのプリント。

 

 それがとどめとなって、わたしは弾かれたように先輩の胸に飛び込んでいた。

 

 

* * *

 

 

 ……よし、と。

 

 とりあえずこんなものかな。

 コンパクトを閉じて頬を軽くタップ。

 うし、オッケー。

 

 はー、やらかしちゃったなー。

 ウォータプルーフ? 何それ? ってくらい、アイラインがボロボロになっちゃった。

 

 わたしは基本ナチュラルメイク派だけど、あれだけ派手に泣くとさすがに厳しい。もちろん、死んでもその顔だけは先輩に見せないようにとお手洗いへ逃亡してきたわけ。

 

 崩れたメイク顔なんて、すっぴん以上の禁忌(タブー)なんですから。

 ともすればストーカー問題よりも重い、乙女のプライド問題。でもメイクを直して安心したら、まだ不安の種が顔を出し始めた。

 

 早く戻ろう、あの場所に。

 

 

 涙の後始末を終えて、奉仕部の部室へと向かう。

 すっかり冷え込んだ廊下は、胸の内の不安と一緒になって気を滅入らせようとするかのよう。小走りに廊下を進むと、薄暗い廊下に漏れる部室の明かりが見えた。

 

 ホッとして駆け寄ると、中から話し声が漏れ聞こえてくるのが分かった。近づくに連れ徐々に大きくなるその声は、なぜか非難めいた感情を含んでいるように感じた。どんな話をしているのか気になって、聞き耳を立ててみる。

 

 

「──仕方ないわ。だって比企谷くんみたいな目をした人が女子を拘束していたら、誰だって通報するもの。それが市民の義務というものでしょう」

 

「拘束されてたのは俺の方だっただろ。あいつ意外と力強くてビビったわ」

 

「でも、貴方は見える高さに両手を挙げていなかった」

 

「…満員電車のあのルールも、男の立場としてはおかしいと思うんですよ?」

 

「なら、貴方は自身の無罪をどのようにして証明してくるのかしら」

 

「悪魔の証明っての知ってるか? 一般に"ない"事を証明するのは困難であり──」

 

「でもいろはちゃん、ガチで抱きついてたじゃん。ひしーってカンジで! あれさ、あ、当たってたでしょ?」

 

「いやハナシ聞けよ。てか当たってたって何が」

 

「そ、そりゃその…む、胸とか…。きゃー! ヒッキーやらしー!」

 

「自己完結でおディスりになるんでしたら、どうぞ俺抜きでやってくれませんかね」

 

「ストーカー被害を訴えたらどさくさに紛れてセクハラされるなんて、不憫でならないわ。泣きっ面にハチマンとは正にこの事ね」

 

「それだと俺が蜂人間みたいだから。つかそもそも当たってなんか…」

 

「あの程度なら当たらないとでも? 一色さんのサイズで不足というのは世界的に見ても比較的慎ましやかな方である日本人女性全てに対して失礼極まりない発言じゃないかしら。無論、平均というくらいだから数値を上回る者も居れば下回る者も統計上同程度居る筈で、つまり今の発言は世の女性の半分を批判したと見なさざるを得ない訳だけど」

 

「ねえこれ何て魔女裁判? 逆転したくても発言チャンス無いんだけど。ずっとユキのターンなんですけど」

 

「──由比ヶ浜さん、何故そこで自分の胸を見るのかしら」

 

「うえっ、み、見てないし!?」

 

 えっ、今のちょっとホラーですよ!?

 

 あのね、今ね、結衣先輩がちらっと自分の胸元を見た瞬間、完全に死角だったはずの雪ノ下先輩が、急に振り向いたの。

 こわ…。なんであれに反応できるの…?

 

 っていうか──

 

 うーん、そっかー。当たってなかったかー。

 ちょっとテンパってたから、当てる事まで気が回らなかったなぁ。しっぱいしっぱい。

 

 まぁ、結衣先輩レベルに至るはともかく、わたしもまだまだ成長期ですし? 雪ノ下先輩にはすでに勝ってますし?

 

「──あら、戻ったようね」

 

 え"っ…ドア開けてないのに気付いた…?

 いま何に反応したの? わたしの心の声!?

 このひと怖い。ストーカーとは別方向で怖い。

 

 少し大きめに音を立ててドアを開け、いま来たばかりですアピール。

 

「お、お待たせしましたー。すいません、お見苦しいところを…」

 

 もう寄り添うといってもいいくらい、思い切り先輩の側に寄せた椅子によいしょっと座る。時間を置いて熱が冷めたせいか、先輩が少しだけ居心地悪そうにするのがちょっと可愛かった。

 

「先輩もゴメンなさい。制服、濡らしちゃって…」

 

 思い切り顔を埋めてたから、ワイシャツは濡れた上にクシャクシャ。自分の涙が先輩の胸元を濡らしていると思うと、これはかなり恥ずい…。

 

「あの、クリーニングしてお返ししますので…」

 

「その心配は無用よ。彼の服が多少濡れていたところで不都合はないわ。何しろ服以前に本人を気に留めている人が居ないのだから」

 

 先輩が何か言う前に雪ノ下先輩がピシャリと言い切った。やっぱりまだ胸の話を根に持っているのかも…。

 

「全くもってその通りだけど、今日はやけにトゲあるのな」

 

「仕方ないでしょう。外敵から花を身を守るためには必要なものだし」

 

「そこで自分を薔薇に例えちゃうハートの強さには感服するしかないわ」

 

 そう言えば、雪ノ下先輩って控えめな見た目のわりに、自己評価には遠慮しないんだよね。確かにこの人にケンソンされても、同じ女子としてはむしろイラつくかもしれない。ひょっとしたら以前、そういう揉め事の経験があるのかも。

 

「むしろ、一色さんのが染みたソレを不純な目的で再利用されないかが心配ね」

 

「わざと言葉省いて俺を変態に仕立てるのやめて下さいね」

 

「いっそ比企谷くんを焼却処分したほうが安心かしら」

 

「シャツじゃなくて俺が焼却されちゃうのかよ」

 

「だってリサイクルできるとは思えないし、仕方が無いでしょう」

 

 流れるような応酬に、結衣先輩はころころ笑う。

 これはなかなか、いつも以上に割って入りにくい空気。

 ま、わたしはそーいうの、遠慮しないけどね。

 

「先輩せんぱい、わたしの涙で濡れたシャツ、何に使うんですか?」

 

「正直、早いトコ脱いで洗濯したい。涙はともかくその他諸々がな…」

 

「あ、メイクでもついちゃった? あたしのクレンジングオイル貸そっか? すぐ落ちると思うよ」

 

「いや、そうじゃなくて、よだれとか鼻み──」

 

「ちょおちょおちょおぉー! 先輩何てこと言うんですか! 死んだ方が良いんじゃないですか!?」

 

 ヒド過ぎます。

 バカ正直な先輩も、男子の胸でマジ泣きしたわたしも。

 

「ヒッキーさいてー」

 

 えっとー、女子ルールに則ってちゃっかり裁く側に回ってますけど、最初に話振ったの結衣先輩ですからね?

 

「まったく…。先輩はデリカシーって言葉、知らないんですか?」

 

「知ってるに決まってるだろ。国語だけなら学年3位なめんな」

 

「実践が伴わない知識がいかに無用の長物であるかという、悪い見本ね…」

 

 先輩があんまり馬鹿なこと言うから、しんみりした空気までどっかいっちゃったじゃないですかー。

 

 ──あ、そっか。

 みんな気を遣ってくれてるのか。

 

 ちらっと先輩を盗み見ると、こちらを伺う視線と一瞬だけぶつかり、すぐに逸らされた。

 …ほんっと、あざといです。

 嬉しくて、恥ずかしくて、なんかわたしも目を逸らしちゃった。

 

 そんなわたしを見て、雪ノ下先輩が綺麗な笑顔で告げた。

 

「比企谷くん、一色さんはストレスで心が弱っているのだから、これ以上ショックを与えないように。具体的には顔を隠して口も開かないでね」

 

「ちょいと雪ノ下さん。俺の心ももう少しケアしてくれても良いん…です…よ……」

 

「あのね。ケアっていうのはベースが正常だという前提があって初めて──比企谷くん?」

 

 なにやら訝しげな雪ノ下先輩の声につられて、わたしは紅茶に落としていた視線を上げた。

 見れば、いつの間にか椅子から立ち上がった先輩が、なんともヘンテコなポーズで蠢き、こちらに何か伝えようと口をバクつかせている。

 

 先輩それ気持ちわるいです──じゃなくて。

 

 えっと…なになに…。

 このヘンテコダンスは…『そのまま会話を続けろ』ということ?

 

 ちらりと雪ノ下先輩を見る。

 彼女は鋭い視線で先輩を睨みつけ──ああこれアイコンタクトね──を交わして、何かを了解したご様子。

 

 すると彼はそのまま足音を殺し、扉の方へぬるりぬるりと近寄っていく。

 雪ノ下先輩は、こちらを向くと

 

「一色さん。紅茶、もう一杯いかがかしら」

 

 立てた人差し指を唇に当てながら、何のことはない会話を振ってきた。

 

「あ、ありがとうございますー」

 

 こちらも努めていつも通りの声で答えつつ、雪ノ下先輩と揃って、先輩が忍び寄る扉の方へと目を向ける。

 

 ま、まさか…。

 これ、そういうこと…?

 

「えっ? なになに、どしたの? ヒッキーどっか行くの?」

 

 あうちっ!

 

 ひとり状況についていけなかった結衣先輩が、扉へ向かう先輩に向って、良く通るその可愛らしい声を掛けちゃった!

 

「ちょっ由比っ──バカ!」

 

 瞬間、タタタッと廊下を駆けて行く、ひと一人分の足音。

 

 みんな固ったまま、足音の主が逃げていく音を聞いていた。

 先輩も、苦虫を噛み潰したような顔で動かなかった。

 

 

 すっかり足音も遠ざかり、それから最初に動いたのは雪ノ下先輩だった。

 

「ふぅ…。由比ヶ浜さん、貴女ね…」

 

 彼女はこめかみに手を当て、呆れ顔でため息をつく。

 

 ううん、そんなことよりも…。

 ほんとに、見張られてたんだ。

 

 ずっと気付かなかった自分が恨めしい。

 せっかく止まった震えが、また私の身体を覆いかけた。

 

 ──でも。

 そうだ、先輩。

 

 先輩は、彼──ううん、アイツが隠れているのを見抜いてくれた。

 わたし、やっぱりここに来て良かった。

 

 恐怖よりも、それを跳ね除けてくれた感謝と感動が上回ったのか、それ以上わたしの身体が震えることは無かった。ただしその代わり、ちょっぴり顔が赤くはなってるかも。

 

「先輩、助かりました…」

 

「いや、微妙にミスったわ。入り口に近寄ったはいいけど、そっから先を考えてなかった。今回は逃げてくれて良かったな」

 

 バツが悪そうな顔で、彼がこちらへと戻ってくる。

 失敗したって言ってるけど、追い払ってくれただけで十分だ。わたしにとっては優秀なナイトそのものだった。

 

 思わずさらに一歩分ほど、自分の椅子を彼の椅子へと近づけた。この距離は、さすがに近すぎるかな。

 

「相手を追いかけないの?」

 

 不満そうな雪ノ下先輩に対し、先輩は椅子にどへっと腰掛ける。

 

「やめておくわ。状況がよく見えない今、無暗に追い詰めたくない」

 

「成程。一理あるわね」

 

 先輩の言葉を聞いて、雪ノ下先輩はようやく身体の力を抜いたようで、

 

「まずは一旦、落ち着いて状況を整理しましょう」

 

 と、大きく息を吐き、それから落ち着いた様子で再び紅茶を入れ始めた。

 

 目まぐるしく移り変わった、一瞬の出来事。

 完全に置いてけぼりを食らった形の結衣先輩は

 

「ね、ねぇ、どゆこと? 今のなに? あたし何で怒られたの?」

 

 何か失敗した事だけはわかったらしく、眉を下げてしょんぼりしていた。




普通のJKって、何考えて生きてるのかなぁ…想像付かんです。
作者のDK時代はといえば…たぶん部活とゲームとエロいことしか考えてなかったでしょうね。


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■3話 オツムの足りない犬

ご感想ありがとうございます!すごーくモチベあがります!
おかげで夜更かしが止まらない!眠い!


「えええええぇっ! さっきのがストーカーだったの!?」

 

 はい、そうです。

 なので、あんまり大声で言わないで下さいね、結衣先輩。ものっそい外まで聞こえてますから。

 

「キモいキモい! まじキモすぎ! ヒッキーの100倍キモい! うわーんいろはちゃんかわいそーっ!!」

 

「ねぇ、俺をキモさの基準にすんのやめてくんない? 100ハチマンてことなの? キモさ108万とかすげえな」

 

「駄目よ由比ヶ浜さん。基準にするならマイナスではなくゼロを用いないと」

 

「曲がりなりにも活躍した直後ですらこの扱いってどうよ」

 

「貴方の評価ならさっきの件で確かに上がったわ。ただ時間と共に常に低下しているから、元に戻っただけで」

 

「何それ無理ゲー過ぎるだろ。ちょっと人生返品してくるわ」

 

 小芝居を始めた二人を尻目に、ようやく事情を理解した結衣先輩があつーいハグで慰めてくれた。

 

「おーよしよし。いろはちゃん、もう大丈夫だよー」

 

 ゆ、結衣先輩の、おっきいからちょっと苦し…むぎゅ。

 うーん、これが女の包容力…。

 

「いえ、せんぱ…むぐ、わたしはちゃんと…むぎゅ、感謝、してまっ…むぎゅう」

 

 あっ、先輩が赤くなった。

 意外とキモかわいいな、ちゃっかり照れて――るワケじゃなさそうですね、これは。

 

 わたしのことを圧迫しながら自在に形を変える、結衣先輩のバストが目に入っただけでした。ハシビロコウ並みに動きたがらないあの腐った目ですら引きつけるなんて…巨乳のチカラ恐るべし。

 まったく、大きければいいってもんじゃないんですよー、これは。大事なのは形──もいいじゃん結衣先輩。チッ。

 

「でもヒッキー、なんで追っかけて捕まえなかったの?」

 

 潰れてやさぐれていたわたしを解放し、かわいい握りこぶしをかざす結衣先輩。そんな彼女に対して、ちょっとオツムの足りない犬を相手にするような口調で

 

「いいか、よく聞け由比ヶ浜。まず、さっき逃げたヤツが一色の話に出てきた相手だという証拠が無い。そして、ヤツが俺たちの話を立ち聞きしていたという証拠、これも無いよな? 通りすがりだと言い張られたらそれまでだ。んで最後に、もしも首尾良くそれらを証明できたとして、けれども立ち聞きしていた程度では犯罪として扱われない。分かるか?」

 

 と、先輩は説いて聞かせた。

 

「えぇー!? 100パー盗み聞きしてたじゃん! いろはちゃんのストーカー以外ありえなくない?」

 

 今の話を聞いていたとは思えない、じつに小学生のような素直なご意見。でも、わたしもどっちかって言うと、彼女寄りの頭の構造だったりする。

 ただ、この感情論では大人を説得出来ないってことくらいは、わたしでも分かってるのだ。

 

「由比ヶ浜さん、残念ながら彼の言う通りよ。仮にそれらの証拠があったとしても、全て状況証拠に過ぎない。どれも一色さんのストーカーであるという直接証拠にはならないわ」

 

「…そ、そっかぁ。そーだよね」

 

 へらっ、と愛想笑いを浮かべて引き下がる結衣先輩。

 ぜったい分かってないなぁ。わたしも良く分かんないもん。

 

「そういうことだ。そしてアイツを見逃した一番の理由だが――」

 

 先輩は、びしりと人差し指を立て、そしてキメ顔でこう言った。

 

「間違って肉弾戦にでもなってみろ。絶対に俺に勝ち目は無い。ゆえに、最初からこの場での捕縛は不可能だったわけだ。以上、証明終了( Q . E . D . )

 

「ヒッキーかっこわるい…」

 

「予想を裏切らない頼りなさね」

 

「先輩ちょーダサいです」

 

 安定のクオリティだった。

 

 そりゃそうですよねー。

 葉山先輩ならともかく、先輩が悪者をボコボコにして追い払うとかね…。そんなの、ミスキャストにもほどがある。このひとのやり口って、犯人を逆に脅迫して動けなくするような、絡め手のタイプだし。

 

 なんて、みんな口では散々先輩を罵っていたけど、一難去ったことにホッとしていたみたい。部室に広がる空気から、それが伝わってきた。

 

 

* * *

 

 

「さっきは言いそびれたけれど──やはり担任には報告するべきじゃないかしら」

 

 長机を囲んで一息つくと、背筋をすらりと伸ばした雪ノ下先輩が言った。

 

「私達が考えているよりずっと、事態は切迫していると思う。まず彼女の担任教師に相談して、その後で警察にも連絡するかを検討すべきだわ」

 

 遅れて恐怖感が襲ってきたのか、かなり事態を重く扱っているようだ。色白の顔が、さっきよりも少し強張っている。

 当然だろう、わたしなんてさっきから怖がりすぎて少し麻痺してきてしまった。事の深刻さを考えると、笑っていたさっきまでの方が異常かもれない。

 

 もちろん、彼女の言うようにすべきなのは確かなんですけど──。

 

「それはそう、なんですけどね? ええと…あの…何といいますか…」

 

 さっき教室から逃げ出したとき、実は一瞬だけ、わたしの頭には二つ目の選択肢がチラついた。

 

 一つ目はもちろんここ、奉仕部。

 そしてもう一つは──えっ? グラウンド? いや何でそんなトコ行かなきゃいけないの? 職員室に決まってるでしょ。

 

 けれどその二つ目の候補は、逃げ込んだその先を想像した瞬間に、すぐさま却下されてしまったのだ。

 

「待って、ゆきのん」

 

 気がつくと、結衣先輩が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。その表情は、わたしの考えを見越した上での気遣いに溢れている。

 このひとホントよく気がつくなぁ、なんかママみたい。きゅっとわたしの手を握って、彼女は雪ノ下先輩に向き直る。

 

「ストーカーに遭ってるとか、そんなの簡単に言えないよ。確かいろはちゃんの担任って男の人だし」

 

「なら別の女性教諭か、養護教諭にすればいいでしょう」

 

「それも一緒だよ。先生に言うって事は学校に言うってことでしょ? そんなんすぐ噂になっちゃうに決まってるし」

 

「それは…実際に問題行為なのだから、校内に広く認知されるのは当然でしょう?」

 

「や、だからさ。先生に言ったら結局、みんなにバレるじゃん? そしたらホラ、女子的にさ、周りの目がさ…いろいろアレなかんじ? 絶対そんなんになるじゃん。そしたらさ、ストーカーを退治できても、いろはちゃんが後で大変かもって…」

 

 そう、それが怖かった。

 

 教室であれだけ騒いだのだ。わたしにストーカーがついたという認識は、既にされている。重要なのはそっちではない。()()()()()()()()()()という認識の方だった。

 

 女子のネットワークは強固で複雑で、何より陰湿な面が強い。安定したグループに属さないわたしが一年生女子というカーストにおいて既に若干危うい立場に居ること──これは選挙の件を通じて、先輩方も良くご存知のところだと思う。

 それでも何とか上位グループ所属の子とも対等でいられるのはなぜかと言えば、先輩に推してもらった生徒会長という強力な役職と、同性のやっかみにも動じない図々しいキャラクターという仮面のおかげ。

 

 さてさて、そんなわたしに"ストーカー被害者"というオプションが付いたりしたら、一体どうなるだろう。そんなの「降りかかる火の粉を払いのける力がありませんよ」と公言するようなものだ。好意的でない人間にとって、おそらくこの情報はわたしの弱点として認識される。

 ちなみにこの場合、わたしが実際に弱い人間かどうかはあんまり重要じゃない。周囲がそう思う事──バランスが崩れる事が問題なのだ。目障りだったわたしに弱点が出来れば、その後どうなるかはもう想像に難くない。

 

 そんなわけで、おおっぴらにするのはわたし的にNG、という次第なのだった。

 

「…被害者扱いされるのが屈辱的という意味かしら。確かに、その気持ちは分からないでもないわ。だけど、取り返しの付かない事態になってからでは遅いでしょう?」

 

 せっかく気持ちを汲んでくれた結衣先輩だったけど、表現がフワフワすぎて、雪ノ下先輩には伝わらなかったみたい。いやいや、援護射撃としては充分です、あとは自分できちんと伝えますね。

 

「それもなくはないんですけど、もうちょっと違う事情もありまして。ぶっちゃけわたし、すでに敵だらけの身分じゃないですか。だから。そんな弱みを見せると、たぶんあっという間にやられてしまうかなー、と」

 

 テヘヘ、と苦笑いして見せると、この部屋唯一の男性が小さく「怖ぇ…」と漏らしていた。

 女子の世界は花園なんかじゃありません。毎日が戦場なんですよー、先輩?

 

「下種な連中に怯えて、目前の犯罪行為に口を噤むのはいかがなものかしら。ましてや、差し迫った身の危険があるかも知れないというのに」

 

「それ、ゆきのんが強いから言えるんだよ…。そゆとこ、すごい尊敬するけどさ、みんながみんな、出来ないよ…。それが難しかったから、あたし達のとこに来たんじゃないかな?」

 

「……」

 

 切々とした訴えがわたしの気持ちを代弁し、雪ノ下先輩の正論が止まった。結衣先輩、なんでわたしがここに来たのか、ちゃんと分かってくれてたんだ…。

 

 それにしてもこの、子犬が雌豹を止めるような番狂わせはどういうわけだろう。さっきまで明らかにダメな子扱いされていた結衣先輩なのに、今の彼女は雪ノ下先輩にも負けないくらい、目にチカラが篭っている。

 

 この世にも奇妙な光景を同じように目の当たりにして、しかし先輩は、それほど驚いていないように見えた。やっぱり、結衣先輩も奉仕部にいるだけのことはある、ということなのかな。

 

「…ならこのまま、私達だけで何とかすべきだと?」

 

 こわっ!

 雪ノ下先輩、こわっ!

 

 海浜との会議でも目にした、雪ノ下先輩の真剣な顔。

 真面目に心配してくれてるからこそのこの表情なんだろうけど、整いすぎた顔が浮かべる本気顔は、控えめに見ても完全にキレているようにしか見えなかった。

 

「ううん、あたしも、ちゃんと大人に言っておいた方がいいと思う」

 

「それだと貴女の主張と矛盾していないかしら?」

 

「っと、えっと…うぅ~んと」

 

 徐々に鋭くなり、もはや射殺すような視線が刺さっていることに気付いているのかいないのか、文字どおり頭を両手で抱えて可愛らしくウンウンとうなる結衣先輩。

 

「あーもぉ、あたしバカだからいいアイディア出てこない! でも、何とかなるような気がするっ! ね、何とかなんないかな?」

 

 結衣先輩の請うような視線は、ひっそりと壁際に避難している先輩を捕らえていた。いつの間にこんな所に…ほんっと幽霊みたいなひとですね。

 

 自然、雪ノ下先輩もそちらへ鋭い視線を送る。その目は甘やかすべきではない、と己の強い意志を語っているように見えた。

 

 雪ノ下先輩の正論と、結衣先輩の感情論。

 

 矛と盾から射すくめられた先輩は、どちらとも目を合わさずにそのまま閉じた。

 

「ヒッキー…」

 

「これは私達で対策を練る、それ以前の問題だと思うけれど」

 

 何も言わない先輩に向けられた視線から、徐々に期待の色が薄れていく。

 

 あー、なんかこれ、妙案が出せない先輩が悪いみたいな流れに…。

 いくら何でも申し訳なさすぎる空気ですね。

 

 さっき雪ノ下先輩も言ったじゃん、矛盾してるって。やっぱりわたしがちょっと我慢すれば済むことなんだよ。それこそ、恥ずかしい目に遭ってからじゃ遅いんだし。

 

「あの! いいんです、わがまま言ってごめんなさいでした。わたしやっぱり、職員室に──」

 

「折衷案ならどうだ」

 

 先輩がぼそりと、しかし明らかにわたしを遮って発した言葉は、重い空気に低く響いた。

 

「…具体的には?」

 

 雪ノ下先輩が先を促す。

 

 なんだかんだで期待しているのだろう。

 先輩に向けられる視線は99%が氷ような冷徹さ。

 しかしその奥には、僅かながら確かな熱を感じる。

 

「女子に対する気配りが出来て、権力に通じていて、こちらの事情を酌んでくれる 可能性がある──」

 

 にやりと、悪の親玉のように、先輩は笑った。

 

「そんなの、あの人しかいないだろ」

 

 

* * *

 

 

「──で、教師をわざわざ呼びつけたお偉いさんは、どこの比企谷かね」

 

 10分後、部室には白衣を颯爽とたなびかせ、眉間にしわを寄せた格好の良い女性の姿があった。生徒会でわたしもよくお世話になっている、平塚先生だ。

 

「最初から俺を決め打ちして疑うってのは、些か平等さに欠けませんかね」

 

「見たまえ」

 

 いきなりのお説教ムードに反論する先輩に対してついっと差し出されたのは、シックなワインレッドが大人っぽい、スマートフォン。

 顔を寄せてみれば、先ほどこの部屋から発信されたメールの文面が表示されていた。

 

 

──────────────────────

From  : 由比ヶ浜 結衣

Subject: 緊急事態です(>o<)/

 

 ヒッキー先生が呼んでます( ̄^ ̄)

 すぐ奉仕部までおいで下さいε=┌(; >∀<)┘ダッシュ!!

 

   。.:*・゚ ゆい゚・*:.。

──────────────────────

 

 

「知らない間に随分出世したようだな比企谷先生。私も鼻が高いというものだ」

 

「なにこれ俺様マジ何様ですよねすんませんってか由比ヶ浜ぁ!」

 

 先輩の胸元をねじり上げ、いい笑顔でねめつける平塚先生。

 白衣が無ければぜったい元ヤンにしか見えないと思う。

 

「あーなんかね、最近あたしのスマホ、タッチの調子悪いんだー。ちなみに正解は、ヒッキーが先生を呼んでまーす。でしたっ!」

 

 でも通じたから結果オーライ! と結衣先輩。

 

「てかダッシュで来いってのも、なかなかいい根性してますよね…」

 

 すぐ来て欲しくて気を利かせたつもりなんだろうけど、おかげで完全にパシりへのメールと化していた。

 

「そもそも生徒が呼んでいるから教師が来いという態度こそが、根本的に問題なのだけれど…」

 

 雪ノ下先輩が追加の椅子を用意しながら、苦笑いを浮かべていた。

 

「それで、どういう話かね」

 

 足を組んで椅子に座り、ため息混じりに覚悟を決めた様子の平塚先生。

三人の先輩の目線が私に集まり、わたしは促されるようにして口を開いた。

 

「実はちょっと困ったことになっていまして…」

 

 

* * *

 

 

「──難しいな」

 

 わたし達の話を聞いた上で平塚先生が出した答えは、落胆せずにはいられないものだった。けれど同時に、やっぱり、という気持ちもあった。

 

「一色への配慮を前提にした場合、私が教師であるが故のアドバンテージが働かなくなる。それらは学校という組織の経由なくしては成立しないからな。個人という枠であれば、存分に協力してやりたいところではあるが…」

 

 コキリ、と片手のこぶしを鳴らす平塚先生。

 結衣先輩のそれと比べると、纏った迫力があまりにも違う。

 

「責任ある社会人としては、腕力に訴えると職を失う可能性もあってだな…」

 

 君たちの同級生だったのなら悩む必要もなかったのだが、と苦笑する。未成年の特権さえあれば、悩む必要も無くそのこぶしが振るわれるらしかった。

 

「前科なんぞついたらただでさえ低い結婚の可能せ──」

 

 深くみぞおちに刺さった平塚先生のこぶしが、先輩の言葉を強引に飲み込ませる。

 

「とは言えこうして話を聞いてしまった以上、然るべき報告をしないというのは、それだけで私には大きなリスクなんだが…」

 

「いや、その方が真剣に考えてくれるかと思いまして」

 

「いい度胸だな比企谷…」

 

 冗談も言うけれど、根っこの部分では尊重しあっている──この二人の関係は、教師と生徒というより、先輩後輩と言われた方がしっくりくるかも知れない。

 同じ事を感じたのか、雪ノ下先輩の顔にも笑みが浮かんでいた。

 

「酷い人ね、それも含めて計算ずくというわけ?」

 

「任せろ、他人を不幸に巻き込むのには自信がある」

 

「本当に酷い顔ね…失礼、酷い人ね」

 

「最初んとき思いつかなかったネタならやめてくんない?」

 

 パンパン、と平塚先生が手を打って場を律する。

 

「大事にはしたくない、という君達の意思は理解した。何らかの対策が必要だという状況も把握した」

 

 胸元を探ってタバコを取り出す。いきなり室内で何をしているのかと思ったが、火をつける様子は無い。咥えたタバコをルージュの映える唇で弄びながら、先生は言った。

 

「それで、君達はどう動くつもりかね?」

 

 いま気付いたけれど──色々あったせいで、具体的な話は全く出来てなかったんだっけ。

 

 この問いにすぐさま答えを返せるひとはいないだろうと思ったけれど、美しい姿勢で挙げられた一本の手が、場に広がった沈黙を引き裂いた。

 知性の塊こと、我らが雪ノ下先輩である。

 

「これだけ状況証拠が揃っているのだから、有無を言わさず制裁を加えるというのも一つの選択だと思うけれど」

 

 まさかの力づくだった。

 

「どーゆーこと?」

 

「閣下は今すぐ中原とかいう一年を処刑しろ、と仰せられた」

 

 逆らったら消されるぞ、とこちらに小声で呟く先輩と、それを軽く睨む、雪ノ下将軍閣下。

 

「別にそこまでしろとは言っていないわ。二度と馬鹿な気が起きなくなる程度で充分よ」

 

「ゆきのん怖い…」

 

「マジでパないですね…」

 

 確か似たような経験があると言っていたけれど、その時どうやって解決したのか、聞いてもあまり参考にならないに違いない。でも少しだけ、制約のない自由なキャラクターを羨ましく思った。

 

「個人的にはいいアイディアだと思うが、一応、教師の立場として止めざるを得んな」

 

「まあそっすよね」

 

 正攻法…というか力押しは最後の手段にしよう、と先輩が諌める。

 

「由比ヶ浜、なんかないか」

 

「ほえっ?」

 

 期待されていないと思っていたのか聞き専に徹していた結衣先輩。急に意見を聞かれ、お団子髪をつんつんしながら頭をひねる。

 

「比企谷くんはどうかしら。この場でパーソナリティが最も犯人像に近いのだし、期待してしまうわ」

 

「その期待の仕方には悪意しか感じられないんだが」

 

「…あっ、いいアイディア閃いちゃったかも!」

 

 はいはーい! と当ててアピールをする彼女を「どうぞ」と雪ノ下先輩が促す。結衣先輩とおつむの程度が似通っているわたしは、なんとなくだけど、彼女が発表しようとしている内容に想像がつくような気がした。

 

 自信満々にたわわな胸を張って、元気に立ち上がった彼女の意見は──

 

「もう彼氏がいるってラブラブアピール! これでしょ!」

 

 聞くだけで恥ずかしくなるような、恋愛脳全開の王道作戦だった。

 




ちょっと地文を増やしてみましたが、語り部がいまいち安定しませんね。


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■4話 にゃー、にゃー、てすてす

「いや、ないだろ」

 

 結衣先輩の提案は、澱んでいるのに慈愛が滲むというなんとも複雑な目をした先輩によって、鮮やかに一蹴された。

 

 彼氏が居ますアピール──

 つまり、漫画やドラマでよく見るあの展開のことですよね?

 

 実はそれ、わたしの頭にも真っ先に浮かんだんですよ。けど、こう言われるのが分かってたんで密かに封印していた禁断かつ最強のテンプレだったりします。こんなのをドヤ顔で提案できる結衣先輩、まじパないです。

 

「なくないよー! あるよ! 超あるよ!」

 

 食い下がる結衣先輩だったが、雪ノ下先輩を見ると、彼女も助け舟を出す様子は無い。

 それはそうだろう。この二人が一番嫌いそうな類の作戦だし…。

「あるもん…」と膨れていた結衣先輩だったけど、理論派の先輩方を納得させるだけの確固とした理由がないわたしに、援護が出来るわけもなく。

 

 まさか、わたしも一度やってみたかったんでー、なんて言える空気じゃないしね…。

 

「ふむ。…ありきたりな案だが、私はまあ悪くないと思うぞ」

 

 なんと、予想だにしない言葉が、意外な人物の口から飛び出した。

 

 思いもよらずこのアイディアに乗って来たのは一番年上──もとい、幼稚さからは最も縁遠いはずの、平塚先生そのひとだった。

 

「は? まじっすか。つかベタすぎでしょ」

 

「しかし奇をてらえば良い、というものでもなかろう。それなりの地力があればこそ、王道と呼ばれているとは考えられないかね。それにそのプランであれば、当事者の承諾のみで事に当たれるのも大きい」

 

「ですよね! ですよね!」

 

 説得するに当たって一番の難関と思われた人物が賛同してくれたことに気を良くした結衣先輩が小躍りし、お団子から垂れた尻尾がピョコピョコと跳ねた。

 

 あれれ? なんかほんとにこの案になっちゃいそう…。

 

 でもいざ真面目に考えると、それって相手が必要なことだよね。彼氏彼女って、何をすればそう見えるんだろう。男の子と一緒にお話したり、出掛けたりすればいい? いやいや、それじゃいつもとおんなじだ…。

 

 うわ…。よく考えたら、わたしってば今までちゃんとした彼氏が居たこと、なかったかも…。

 

「でねでね、彼氏役は隼人くんがいいと思う! みんなでお願いすれば手伝ってくれるんじゃないかな!」

 

 恥ずかしい冗談だと思っていたものが現実味を帯びてきたことに慌てるわたしを置いて、結衣先輩のイチ推しとして挙がった名前は、鉄板中の鉄板である葉山先輩だった。仲のいい彼女の頼みであれば、なるほどやってくれる可能性はありそうだ。

 

「ま、葉山ならそういうのは上手くやるだろうな」

 

 葉山先輩と彼はまるで水と油のように対照的な性格をしているけれど、その言い草は相手の実力を確信しているヒーロー…いや悪者のような響きを含んでいる。そして彼女の提案を肯定してみせた先輩は、目立たないような角度からこちらへ向ってくいっと顎をしゃくって見せた。うまくやるチャンスだと、おそらくそう言いたいのだろう。

 

 確かに少し前のわたしなら、このプランに一も二も無く飛びついたと思う。お芝居でもあの葉山先輩が彼氏になってくれるなら、ストーカーも悪くない──そんな風にさえ、思ったかも。

 

 だけど。

 なぜだか分からないけれど。

 

 今は、葉山先輩と並び立つ光景を想像しても、ちっともときめかないのだ。

 夢の国の夜に、豪快にフラれちゃったからかな。

 もうあのひとのことは諦めちゃったのかな。

 うーん、どうだろ。

 

 あの時、先輩と帰った電車の中では、リベンジする気まんまんだった。これからも頑張ると彼に言って見せた時の気持ちは、少なくとも嘘のつもりはない。だから、諦めたとかいうのとは、ちょっと違うような気がするんだけど…。

 

 しかし、わたしの心中がどんな複雑なことになっていようと、葉山先輩という人物が爽やかイケメンスポーツマンという看板を掲げた適任者であることは疑いようもない。彼が撃退作戦の主力として申し分ないのは明らかなのだ。

 このまま黙っていると、結衣先輩の意見が採用されてしまいかねない。かと言って、それ以外の…例えば誰とは言わないけれど、別の男子を採用してもらえるような説得力のある反論は、わたしの頭では思い浮かびそうに無かった。

 

 そんな時、その抗い難い流れに「待った」を掛けたひとがいた。

 

「それはどうかしら」

 

 このまま決まりそうな場の空気をものともせず、己の意見をぴしゃりと言い放つ。

 その発言に、で背中を刺されたかのような表情になった結衣先輩を見て、雪ノ下先輩は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げる。

 

 だって、と彼女は続けた。

 

「彼は人気があるけれど、特定の女性と(ねんご)ろにはならない──それがうちの生徒の間における共通認識なのでしょう? つい先日、そう教えてくれたのは貴女達だったと思うけれど」

 

 葉山先輩が誰かと付き合っているという類の噂は、先日の雪ノ下先輩の時を除けば基本的には全く無いと言っていい。その例外的な噂も、結局はうまく掻き消してしまった。だから、彼に対する周囲の認識は、これまで以上に「みんなの葉山隼人」となっていた。

 なるほど、そんな葉山先輩を恋人役に配置したとしてもストーカーはもちろんのこと、事情を知らない第三者さえ納得しない可能性が高いだろう。

 

 これだ。

 乗るしかない、このビッグウェーブに。

 

「提案していただいた結衣先輩には申し訳ないですけど、それについてはわたしも雪ノ下先輩に賛成です」

 

 降って沸いたチャンスに、ほんのわずかでもと言葉を繋ぐ。

 

「アイドルの一日所長、みたいなカンジっていうんですかね。さすがにちょっとリアルぽくないかなーって。これがわたしじゃなくて雪ノ下先輩なら、お似合いかもしれませんけど」

 

 必死になって主張していたら、わたしの口は要らないことまで漏らしていたようだ。

 「一色さん?」と凍てつく笑みを浮かべる雪ノ下先輩に、なんでもありません気のせいですと、愛想笑いで己の失言をねじ伏せる。

 

「しかし、一日署長…ね。なかなか言いえて妙だわ」

 

 こくこくと頷く雪ノ下先輩。よかった怒ってないや…。

 

「これは葉山くんにも言えるのだけど、そもそも由比ヶ浜さんの案を採用した場合、無関係な男子をトラブルに巻き込まなければいけなくなるでしょう」

 

 ここで、わたしも心配していた本作戦における一番の問題点が指摘された。

 

 ストーカーに狙われた女の子の彼氏役というのはとどのつまり、冷静な判断力を失った相手方の男子の膨れ上がった嫉妬を、たった一人で引き受ける事を意味する。

 わたしの為に身体を張ってくれそうな男子に心当たりが無いわけではなかったけれど、事が済んだ後でハイさようなら、と捨ててしまおうものなら、そのまま第二のストーカーになりかねない人物ばかりだった。

 

 けれども平塚先生はしれっとした様子で、隣に座った無関心顔の人物の肩を叩いた。

 

「そこは比企谷なら問題あるまい」

 

 暇つぶしにネット生中継でも眺めていたかのごとく油断していた先輩は、まるで画面の中から流れ弾が飛んできたかのように、突如発生した緊急事態に笑えるくらい取り乱していた。

 

「い、いやいやいやいやいや。問題ありますよ何いってんすか! つか迷惑以前に俺がこいつの、か、彼氏に!? 正気で──」

 

 脊髄反射のように素早いアイアンクローの反撃を受けて、「ほんきですか…」と言い直す先輩に対し、先生はニカっと男前な笑みを返した。

 

「中原とかいったか? その生徒は一色と比企谷の仲を疑っているという話だったな。なら既に君は無関係とは言い難い。何なら嫉妬心から狙われる可能性もあるだろう。ならば、積極的に解決に向けて動いた方が、自身の安全にも繋がるのではないかね」

 

 言われてみればなるほど、先輩は既に無関係ではなかった。

 例の噂を根拠に、わたしの彼氏候補として既に強い逆恨みを向けられていることは、残念ながらほぼ確定的だろう。

 自分が嫉妬心から狙われることなど想像もしていなかったのか、それ以上騒ぐ事なく、先輩は黙り込んでしまった。

 

「え、えと、どーかなぁ。それ、どーだろうなぁ。ヒッキーキモいしさ、彼氏なんてさ、いろはちゃんが泣いちゃうかもじゃない?」

 

「その前に俺が泣いちゃいそうなんだけど…」

 

 先輩にとどめを刺す…つもりは無かったと思われる結衣先輩が、なんとも中途半端な言い回しで抵抗する。

 特別な感情を隠しきれない彼女の心中は、言及するのも野暮なほどには明らかだ。その立場からしたら、確かにこれは相当に歓迎しかねる展開だろう。…それにしたって、もう少し言葉を選んでも良さそうなものだけど。

 

 ところで、先輩と恋人同士の演技が出来るかどうかと問われれば──

 

 わたしとしては、実のところ、それこそが第一希望だったりする。

 先輩をキモいといって弄るのは、最近はもはや単なる様式美であって、目つきがすこぶる悪いと思うことこそあれ、気持ち悪いと感じることなんて何もない。

 先輩が分かっているかどうかは定かではないけど、そもそもほんとうに気持ち悪いと思う相手に対して、女の子はたとえ冗談でもベタベタ甘えたり出来はしないのだ。

 そしてこれまで積み重ねてきた交流から、こういった切羽詰った状況ではとても頼りになる年上の男のひとであるとも認識していた。

 

 つまるところわたしの方は、手を繋ぐのにも、腕を組むのにも、二人きりで居ることにも、ぜんぜん全く抵抗がないのであった。

 

「ヒッキーといろはちゃんとじゃ、彼氏彼女っていうの、ちょっと無理くない? ほらほら、月とヒッキー、みたいな」

 

「比喩じゃなくて俺がイケてない方の象徴になっちゃってるんだけど」

 

必死になって止めに入っている彼女の想いは、心配半分、やきもち半分といったところか。彼女のように自分の考えに対して正直に動ければいいのに、心の中のよく分からない(もや)が邪魔をして、素直に口にできない。

 

「いえ、平塚先生の仰る通りかも知れない。客観的に見て釣り合いが取れ…全く取れていない…甚だ不自然極まりない組み合わせなのだとしても、そこに本人の激しい思い込みが介在するのであれば、二人を恋人だと誤解する可能性は高いんじゃないかしら」

 

「ねえそれ二度も言い直す必要あった? ねえ?」

 

 情けなくまごついていたら、場の流れはなぜだかわたし有利の方向に動き出していた。

 頭脳派二人の意見にはさすがに適わないと感じたのか、結衣先輩はさっきからあまり意見を言っていないわたしに援軍を求める。

 

「い、いろはちゃんもヒッキーじゃちょっとアレじゃない? だよね?」

 

「ひょっとすると死にたくなるかもだから、アレの詳細は絶対言わないでな」

 

 もう充分死にそうな顔をした先輩が、疲れた息を吐く。

 わたしや結衣先輩にとってのアレと、先輩のとでは、大きな違いがありそうだなぁ…。

 

 アレの中身に想像を巡らせていると、わたしが迷っていると思ったのか、彼女はここぞとばかりにこちらへ身を乗りして畳み掛けるように弁舌を振るった。

 

「ヒッキーと、こ、恋人の役だよ? ちょーベタベタするんだよ? 無理くない?」

 

「それは俺の手が、ですか…」

 

「や、ちがっ!? イチャつくって意味だし!」

 

 あわあわと落ち着かなく手を動かして、フォローに勤しむ子犬な先輩。

 その微笑ましさには、これまで多くの同級生の恋愛事情を踏み荒らしてきたこのわたしでさえ躊躇を感じる。いえ、わざとじゃないんですよ、わざとじゃ。

 

 でも、すみません結衣先輩。

 ここはわたし、勝ちに行きます。

 …何にかは、わからないけど。

 

「…えとー、先輩でも大丈夫だと思います。ほら、わたし演技とかちょお得意ですし」

 

 結衣先輩が「裏切られた!」って顔をしてるのには、ほんと申し訳ない気持ちになる。けど、理屈の面でも感情の面でも、「先輩()()大丈夫」と思う部分が譲ろうとしないのだ。さすがに恥ずかしいから、少しだけ言葉を変えさせてはもらったけどね。

 

「演技が必要なくらい不快なら素直に別のヤツにしろよ。戸塚とならともかく、俺だってそんな面倒ごとはお断りだ。戸塚ならともかく。てか戸塚こそストーカーとか付いてるんじゃねえか?言ってて心配になってきた」

 

 むー。

 面倒って言い方は酷いんじゃないですかね。

 

 だいたい、先輩はわたしの価値ってものを正しく理解してません。

 付き合って欲しいって言ってくる男子は大勢いるんですよ。わたしが恋人だなんて、先輩だってぜったい鼻が高いはずなのに…。

 

 ここで別の人に妥協するのもなんか負けたみたいな気がするからイヤだし…ならばひとつ、わたしの特技をご覧に入れましょう。パパならお財布を取り出すのに10秒と掛からない、とっておきです!

 

 んっん…にゃー、にゃー、てすてす。

 

「せんぱぁい、いいじゃないですかぁ、ちょお役得ですよぉ? こーんな可愛い年下の彼女ぉ、人生勝ち組の気分が味わえますよぉ? これ逃したらぁ、二度とこんなチャンスないかもですよぉ?」

 

 きゅっと腕を絡めてボディタッチ…というよりアタック。

 日ごろからこういうベタベタしたの、慣れてるって思われてるみたいだけど、例え冗談交じりだとしても、さすがにそうそう腕は組めないものだ。ここまでしているのは、実は先輩だけだったりする。

 

「いらん。うざい。あざとい」

 

 はい。清々しいくらいにバッサリ切られました。

 

 うぐぐ…先輩って、この手のモーションがぜんぜん通用しないんだよね…。可愛い妹がいるって話だから、もしかして年下のおねだりに耐性があるのかも。なんて厄介な…。

 

「冗談はこのくらいにしてだな」

 

 伝家の宝刀を簡単に受け流されて困っていると、今まで様子を見ていた平塚先生が「しかし比企谷」と急に真面目な声を上げた。

 

「相手もフェイクを用意する可能性くらいは考慮していると見るべきだ。いま君以外を立てたところで、偽装だと見破られる可能性は高いと思うが」

 

「いざという時に遣い捨てが可能という意味でも、適切な人選ね」

 

「せんぱーい、お願いです…」

 

「……ん」

 

 姦しい三人娘──ひとりは娘というには厳しいかもしれない──の口撃に晒され、先輩はふっと抵抗する素振りを引っ込めた。説得されたというよりも、何か気になることができたというような表情だ。

 思い悩むような、何か考えを巡らせているようなその真剣な目つき。どこかで見たようなことがあるようなその表情は、見過ごすには少し気になるものだった。

 

「…あの、どうしてもおイヤでしたら、別の方法でも──」

 

「仕方ない、速攻でケリつけるか」

 

 吹っ切れたような先輩の言葉は役目を引き受けることを意味したもので。

 ストーカー対策の基本方針が、めでたく決定した瞬間だった。

 

 ところでその反応、あんまりじゃないですかね?

 

「…ちょっと先輩。お芝居とはいえ、このわたしが彼女なんですよ? もっと嬉しそうにしてくださいよー!」

 

「何言ってんだ。成功しても失敗しても使い捨てられるのに嬉しいわけあるか」

 

 それはつまり、使い捨てられないほうが嬉しい、ということだろうか。

 いつもおざなりに流されているから本心がぜんぜん見えないけれど、先輩はわたしと付き合うのも悪くないと、思ってくれているのだろうか。

 一瞬頭をよぎった考えに驚き、わたしは慌てて"いつもの"を取り繕った。

 

「なんですか成功したらそのまま付き合えるとか思ってるんですか女の子が弱ってるとこにいいとこ見せようとか露骨すぎて無理ですごめんなさい」

 

 ふー。

 

 なんか顔、あっつ…。

 いくらなんでもわたし、雰囲気に流されすぎてる。

 なんなら、そのまま付き合っちゃうのも面白そう、だなんて。

 

 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

 職員室へ戻るという平塚先生を見送る為に、俺は廊下に続くドアを滑らせた。

 

 ここに不審者が潜んでいたのかと思うと、嫌な臭いが燻っているような気分になる──。

 そんなニヒリズムで隣の女性から香るフレグランスへのドキドキを誤魔化していると

 

「比企谷。分かっているとは思うが、あまり危ないことはしてくれるなよ」

 

 一緒に廊下に出た俺にだけ聞こえるボリュームで、平塚先生が囁いた。

 

 だから耳は弱いっていってるじゃないですか俺落としてどうするんですか。こんなに色っぽいのに結婚できないのは、それ以外の部分がこの魅力を帳消しにするくらいアレなんかね。

 

「あまり役に立てなくてすまんな」

 

「いえ、要らん手間かけてしまって申し訳ないです」

 

 そんなことはない。少なくともこれで雪ノ下の義務感は誤魔化せた。結局俺たちは、この人に相談することで報告義務を果たしたつもりになっている。それでいて学校には報告するなと要求しているのだから、実に性質が悪い。

 

「なに、君がこうして人を頼りにしてくれたことは素直に嬉しく思うよ」

 

「頼れる人少ないもんで」

 

 むしろ会話できる相手自体、両の指で足りる。どころか、つい最近まではアドレス帳が無くても必要な番号を全て暗記できていたまである。

 ともだちひゃくにんよゆうでできる、と思っていたのは、果たしていつの時代のことだったろうか。

 

「その数少ない一人に選ばれたこともな。まあ期待には応えて見せよう」

 

 平塚先生に期待する事。

 それは俺達が責任を負いきれない何かがあった際、それを肩代わりしてもらう事だ。何もするなと言いながら、責任だけは押し付けようという、あまりに利己的な考えに吐き気がした。当然、それに気付かない筈もなく、知った上で彼女はこう言った。

 

「社会的責任については私が必ず何とかしてやる。君は、君達の心と身体を守ることだけ考えていればいい」

 

 すみません、という言葉が喉まで出掛かる。

 が、どう言い繕ったところで担いだ神輿から降ろすつもりはないのだ。ならばその言葉もまた、自分を慰める以上の意味はない。謝罪という行為は少なくとも、謝ってこれ以上罪を増やすことではなかったはずだ。

 適当な言葉が見つからず、さりとて謝辞を述べる習慣の無い生意気な口からは、いつも通りの世辞しか出てこなかった。

 

「格好良過ぎでしょ」

 

 なに、と白衣にかかった長い髪を細い指でゆっくりと流す。その顔に浮かべた笑みは、後悔の色を微塵も含んではいないように思えた。

 

「その言葉が聞きたくて、私は教師をやっているのだよ」

 

 冷え切った廊下に良く響くヒールの音を、俺はせめて目礼しながら見送った。




いろはすが一番雰囲気でてないなーと思ったら、静か過ぎるんですね。
まあ今はビビってる状況なので仕方ない。次くらいからまた動いてくれます。
ちょっとだけ八幡視点入れましたが、語彙少ないからしんどい…。


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■5話 いろんな男の子としてきた

遅くなりましたー。
モチベとか仕事とか、色々ありましてん。


<<--- Side Iroha --->>

 

 平塚先生を見送った先輩が部屋へ戻ってくる。

 

 彼の肩越しに見えた廊下は随分と暗い。教室側の窓に目をやれば、冬の太陽はとっくの昔に沈んでしまっていた。校庭にはライトが灯り、残っているのは熱心なクラブに所属している生徒くらい。

 

「すっかり話し込んでしまったわね。今日はもうお終いにしましょう」

 

 カップを片付け始めた雪ノ下先輩を皮切りに、各々の荷物に手が伸びる。

 

 コートに袖を通している雪ノ下先輩に、残ったお茶菓子をリスのように詰め込む結衣先輩。先輩はというと、ストーブのそばで温めていたマフラーを手早く巻いて、ひとり帰り支度を終えた顔で部屋の戸口から声を掛けてきた。

 

「──んじゃ、お疲れさん」

 

「待ちなさい」

 

 撤収を認めない凛としたその声に、半身を既に廊下に晒した先輩がしぶしぶ足を止めた。

 

「…なにか?」

 

「忘れ物があるでしょう」

 

 帰宅準備が整ったわたしの肩を両手で抱いて、先輩の前へついっと押し出す。

 

「カノジョ置いてくとか、さっそくありえないよね。はいマイナス100点!」

 

 ぴっと人差し指を立て、試験官のような顔つきでダメ出しをする結衣先輩。先輩を彼氏役にすることに対していつの間にやら静かになったと思っていたら、今度は赤点で落第にでもさせるつもりなのだろうか。

 とは言え、先輩があまりに自然に帰ろうとしたため、わたし一人だったら返事も覚束ないまま逃がしてしまうところだ。捕まえてもらったことには感謝しないと。

 

「先輩、ひとりで帰る気マンマンでしたよね?」

 

「…トイレですよ?」

 

 にじり寄り、問い詰めるわたしの言葉に目を泳がせる先輩。姿勢も美しく歩み寄った雪ノ下先輩が、とても優しい笑顔で告げる。

 

「日頃から住人扱いされているからって、そこまで卑屈にならなくても良いのよ?」

 

「トイレに帰るって意味じゃねえよ」

 

 冗談よ、と漏らす彼女の口元には、よく見ないと分からない程度に微笑が浮かんでいた。

 いつか、こんな風に軽口を言い合える仲になれるだろうか。そもそも、あんなに手を替え品を替えネタが飛び出すほどの頭の回転は、わたしには期待できそうも無いけれど。

 

「やるからには責任を持ちなさい」

 

「セキニン…うー…」

 

 "責任"という言葉に過剰に反応する結衣先輩。

 この単語が出てしまうと、やはり乙女としては多少思うところがあるのだろう。もちろんわたしも聞き捨てなら無い単語だったけれど、ここで反応してしまうとまた槍の様な視線の責め苦に晒されかねないので、徹底して知らんぷりを通す。

 

「とりあえず、今日は一色さんの家まで付き添ってあげること」

 

「…マジで?」

 

 いやいや。マジで? はこっちのセリフですよ。

 わたしを置いて帰るつもりだったんですか?

 彼氏役を引き受けておいて、一体どういうつもりなんですかね、このひと。

 

 けど、よく考えてみたら先輩はそういう経験、ないんじゃないかな。いやないはず。あるわけないよね、うん。

 

「あのですねー先輩。彼氏っていうのはですね、彼女をお家まで送るという決まりがあるんですよ?」

 

「そんな条例、聞いたことないんだが…」

 

 この世の終わりみたいな、失礼極まりない顔の先輩。

 この際、積極的に役目を果たしてくれることは期待しないほうがいい。彼は基本的に押しに弱いから、わたしがリードすれば済む話だ。言い合っているうちに逃げられないよう、するりとその腕を絡めとろうとして――

 

「っ!?」

 

 ピリリと、身体に電気が走ったような()()を感じた。

 

 冬によくある衣類の静電気のような、明確な感覚じゃない。不思議と自分でも錯覚とわかる、それでいてはっきりと感覚に残る、小さな衝撃だった。痺れるようなそれは、手を、腕を伝って、胸の鼓動の速度を引っ張りあげる。

 

 な、なに?

 まさかいまさら、恥ずかしいなんてことはないよね?

 手を繋ぐくらい、今までだっていろんな男の子としてきたんだし。

 でも、なんか…あれ? 手に、汗が。

 廊下から吹き込む風はこんなに冷たいのに、身体が、熱い──。

 

「どうしたの?」

 

 ステージに出るタイミングを間違えた芸人のように赤面し、戸惑っているわたしを見て、結衣先輩が怪訝そうな顔をする。

 

「いえ、ちょっと、身体が…」

 

「きっと拒絶反応を起こしたのね。アナフィラキシーショックには気をつけなさい。二度目は無いわよ」

 

「二撃必殺とかどこの隠密機動だよ。どこ触ってもNGとか最強すぎんだろ」

 

 ふー。

 ほんと、なんだったんだろ…。

 

 一方的な舌戦をよそに、わたしはこっそりと、熱の篭った吐息を吐き出した。

 

 

* * *

 

 

「はぁ……」

 

 冬の寒空に、弱々しい息が白く霞んで溶けていく。

 

「どうしてこうなった…」

 

 情けない声を出してる先輩の背中は、いつも以上に丸くなっていた。

 

 あのあと彼は、「せめて二人も付いてきて欲しい、間が持たない」と主張した。けれど二人きりでないと恋人同士に見えないという雪ノ下先輩の主張に押し切られてしまい、今日のところはひとまず先輩がひとりで送ってくれることになったのだ。

 

 自転車置き場へ向う彼に、てこてこと付いていく。あれだけ嫌がっていた彼だったけれど、その歩幅はわたしの速度にきっちり合わせてあった。そのことに気付いた瞬間、嬉しいのか悔しいのかよく分からない感情が、胸の中にわだかまる。

 

「お前は校門のとこで待ってて良いんだぞ」

 

「はぁ…。あのですねー先輩…」

 

 このひとは頭いいくせにバカだなー。

 恋愛オンチだからなのかなー。

 先が思いやられるなー。

 

 そう顔で語っていると、わたしの言外の罵倒を敏感に察したらしく、先輩の顔に苦々しさが広がった。努めて呆れたような声色で、わたしは先輩を教育する。

 

「あんな暗いところにひとりで立ってたら、何のための彼氏作戦かわかりません」

 

「ん、まあ…確かに」

 

「影に日向に、襲いくるワルモノから身体を張って、愛しいわたしを守りきらないと」

 

「先祖代々おまえんちに仕えてそうな設定だな、それ」

 

「なのでずっと、わたしから目を離さないで下さいね♪」

 

「あざとい…」

 

 なんと言われようと、今の先輩はわたしの彼氏。要求を突きつけることに遠慮なんてしない。まあ、彼氏でなくても遠慮なんてした覚えはないような気もしないではないけれど。

 だいたい、先輩がわたしをあざといと評するときは、わたしの仕草に魅力を感じているという事実の照れ隠しでもあるのだ。それが思い過ごしでないことは、ふっと目を逸らす彼の横顔を見れば一目瞭然。

 

「ほれ」

 

 すっかり人気のなくなった──自転車だから自転車気というべきか──利用者が去ってガラガラになった駐輪所にて。

 

 所有者よろしく所在無さげな風に置かれていた自転車を引っ張り出すと、彼はサドルにまたがって後部をぽんぽんと叩く。

 

「なんですか」

 

「乗れよ」

 

「ムリです」

 

 即答したわたしに心折れたような顔をした先輩は、重苦しい息を吐きつつ肩を落とした。

 

「まーそりゃ俺の後ろとか無理に決まってますよねすみません」

 

「いえ、そこは座席じゃなくて荷物置きです。クッションも無いんじゃ、わたしおしり痛くて乗れません」

 

 そもそも二人乗りは交通ルール違反ですし、と付け加える。

 

「小町には尻が痛いなんて一度も言われたことないんだが…」

 

「ヒップの肉付きに余裕がある方ならそうかもしれませんけど」

 

「テメエうちの小町のスタイルにケチ付けようってのか?」

 

 いきなり目の色を変え、やくざの下っ端のごとく「ああん!?」と絡んでくる先輩。妹さんを溺愛しているとはよく聞くけれど、どんな子なんだろう。先輩の妹がかわいいっていうのが、全く想像できない。

 鋭い目つきが魅力的っていうなら、かわいいと言うよりクール系なのかもしれない。そういう系統ならわたしと被らないし、どっちがかわいいと思うのか、いつか聞いてみたいなー。

 

「まあまあ、今日は寒いですし。自転車だと余計風が辛いですし」

 

 二人乗りにはかなり心惹かれるものがあったけれど、寒くて辛いというのもウソじゃない。ついでに、すぐに家についてしまうのはもったいないと感じたのもあるんだけど、自分でもどうしてそう思うのか分からなかったから、そっちのほうは単なる気のせいかも。

 色々あって疲れたし、まだちょっと怖いから、なるべく早く家に帰りたいはずなんだけどな…。

 

「はあ、わかったわかった。押していきますよ」

 

 諦めて自転車のスタンドを上げる。

 続けてすっと、差し出される手。

 

「?」

 

「カバン。カゴに入れっから」

 

 …っ。

 

 うー、またやられた。

 油断したところに急にくるから、やけにドキッとする。

 もしかして普段ぶっきらぼうなのは、このギャップを狙ってやってるの? だとしたら、ぼっちどころかとんでもないタラシだよ…。

 

 手渡したカバンを丁寧にカゴに入れると、先輩は膨れっ面のわたしを伴って歩き出した。

 

「なんでちょっと不満げなの」

 

「…べつに」

 

 すっかり暗くなったこの時間、正面玄関前の人通りはほとんどない。

 噂の二人が…このフレーズは言ってて恥ずかしいけど、そんな二人が連れ立って歩いていても、黄色い声や煩わしい視線を感じることは無かった。

 

 校門を抜け、禿げ上がった並木に彩られる通学路へ。いつもは生徒会の仕事で疲れた身体を引きずるだけのつまらない道だったけど、今日はなんだかドラマの撮影現場か何かのように感じられた。

 

 先輩が自転車を押しているせいで、体勢的に腕が組みにくい。半歩分の距離を開けたまま、わたし達は会話もなく歩いてゆく。すれ違う自動車のライトに照らされる先輩の横顔を、わたしは横目でじっと見続けていた。

 

「寒くないか」

 

「へぁっ」

 

 突然声を掛けられて、おかしな返事が出てしまった。

 だから急に優しくするのはやめてって言って…ないけど、やめて欲しい。今日のわたしの心臓は負担が掛かりっぱなしだ。

 

「もー、なんですか急に…」

 

「いや、寒そうに見えたから」

 

 薄いピンクのマニキュアできっちり決めているわたしの手は現在、寒空の下で裸のまま夜風に吹かれている。実は昨日、腹立たしいことに、わたしはお気に入りの手袋をなくしてしまっていた。たぶんカバンに入れたつもりで落っことしたのだろう。気が付いたら無くなっていて、どこでやってしまったのかも見当が付かない。

 寒さに耐え切れず時々すり合わせていたそれを見咎めたのだろう。先輩はカバンを漁ると、可愛らしいファーに縁取られた白い手袋を取り出した。

 

「妹のだけど、使うか?」

 

 期せずして取り出された優しさには、非常に残念なことに、少なくないシスコン的な要素が含まれているらしかった。

 

「妹の手袋を持ち歩いてる点と、それを他の女の子に貸そうとしている点で、二重にドン引きなんですけど…」

 

「そう言うな。四次元ポケットの中身だって実は訳アリ品ばっかりなんだぞ」

 

 カバンから出てきた便利アイテム(アウトレット品)を見て、ドン引き×2でドドンと身体を引いて見せたわたしに、しかしあまり慌てた様子も無く、先輩は答える。

 

「たまに朝チャリに乗せて送ってんだけど、あいつ最初は寒いって言うくせに、学校付く頃には暑がって俺に預けていくんだよ」

 

 若い子はいいねー、と心なしか枯れた声を出して見せる。

 

「それ訳アリっていうか単なる使用済みですよね?」

 

「そうとも言う」

 

 そうとしか言わないと思います。

 

 たしか妹さん、中三って言ったよね? わたしと一つしか違わないのに、随分お兄さんと仲がいいんだなあ。このくらいの女の子って、男家族とは距離を置きそうなものなんだけど…。

 

 自転車を操る先輩の後ろから腕を回して抱きつく、見た事もない妹さんの姿──。

 

 考えていたら、なぜか胸につかえるものがこみ上げてきた。このまま貸してもらうのは、なんだか、気に入らない。

 

「いえ、お気持ちだけ。妹さんにも悪いですし」

 

「そうか」

 

 それ以上食い下がりもせず、あっさり手袋をしまう先輩。せっかく気を遣ってもらったのに、このままではなんだか失礼ではないだろうか。それに、せっかく始まった会話をこのまま終えてしまうのはもったいない。やせ我慢をしているけれど、痛みさえ感じる冷え切った手も、そこそこ切実な問題だったりする。

 

こうなったら──

 

「…えいっ♪」

 

 最近ドラマで見たシチュエーションを参考にさせてもらうことにした。

 

「んほっ!?」

 

 ズボンの左ポケットに凍えた右手を突っ込まれた先輩は、突っ込んだわたしの方が逆に驚くような奇怪な声を上げた。

 中に篭った体温がわたしの指先に伝わり、じわじわと血液が巡る。確かめるように指を動かすと、ポケットの布地越しに女の子とは違う固さの肉感と、確かな熱が感じられた。

 

「やめっ、くすぐってぇ! ……って指動かすな!」

 

「だってかじかんで痛いです。わたしが凍えて死んじゃったら先輩、責任取れますか?」

 

「それはまずいな。凍死者なんか出したら、千葉がディスられるネタが増えちまう…」

 

 むずがっていた先輩も、実際に冷え切ったわたしの手に同情したのか、あれこれ言い訳をしながらも、無理に引き剥がそうとはしなかった。

 

「…せめて上の方にしてくれ、色々危ないから」

 

「は?」

 

 主に見た目とか、とボソボソこぼす先輩。

 何を言っているのかと思って彼の顔を見ると、その視線は地面を向いていた。

 

 まばらに並ぶ街灯に照らされ、地に落ちた二つの薄い影。

 小さい方の影は、大きい方の影の下半身に向って手を伸ばして――。

 

「やっぱいいです気持ち悪いので!」

 

「これでも訴えられたら俺が負けるんだろ? この辺はほんとにおかしいと思うわ…」

 

 慌てて手を引っこ抜いたわたしの言い分は我ながら酷いもの。

 それを聞いてなお、先輩は特に表情も変えず、いつも通り社会の仕組みに愚痴をこぼすだけ。

 

 いやいや、さすがに今のは狙ってないですからね?

 あざといとか通り越して、あんなのまるっきり痴女だし。

 バタバタしてたら、なんだかあったかくなってきちゃった。…顔だけ暖かくなってもしょうがないんだけどな。

 

「──そいや知ってるか、あの青いコ○助のことなんだが」

 

「え、待ってくださいコロちゃんの方が後ですよね…?」

 

 空気を変えようと思ったのか、珍しく先輩から話が始まった。

 

 知能のレベルが大学生並という設定のわりにサインでカタカナが全部書けず、だからこそ後ろだけひらがなになったとかいう、自称猫型ロボットに関するトリビア。

 ネコかタヌキか、それ以前にどっちにも見えないというのはなるほど確かにその通りで、体型的にもちょんまげくんの方が先だと言われたら信じてしまいそうな話だった。

 

 さっきの妙に落ち着かない薄桃色な空気は雑談の声に薄まって消え去り、あとには少し饒舌になった先輩と、飾らない相槌を打ち続けるわたしが残った。

 

 

* * *

 

 

 のんびり住宅地を縫って歩いていると、先輩が急に立ち止まった。傍にはどこか寂しげな明かりを放つ自動販売機が二台。何を選ぶのかと黙って様子を見ていると、小銭と引き換えに二つの缶を携えて、彼はこちらに向き直った。

 

右手には、某所のごくごく一部の女子にブームを起こしかけているらしい、MAXコーヒーの缶。

左手には、対照的に何もかもが無難な、ホットのミルクティー。

 

「ほれ」

 

「…!」

 

 左手を差し出すその表情は相変わらずの仏頂面で、気取っても照れてもいなかった。

 

 デートの相手が押し付けてくる厚意という名の下心とは違う。

 パパがわたしのおねだりに頬を緩めて買い与えるのとも違う。

 

 寒そうにしているのを見ていられないから、面倒だけど仕方ない──。

 

 いつもの死んだ様な目がなりを潜めたその表情は、見たことがない、しかしながら素朴な温かみに溢れていた。

 

「…明日はポップコーンでも降るんでしょうか」

 

「俺が人に奢ると浦安で竜巻でも発生するのかよ…。組織も雪ノ下も敵に回したくないから、そんなら持って帰るわ」

 

 わたしの減らず口に、ミルクティーをカバンに突っ込もうとする先輩。

 

 ごめんなさい、今日は驚きすぎて素直になる余裕がないんです。

 

 ヤンチャなこの口を使いこなすのは諦めて、もう少し正直に言うことを聞くボディランゲージの方へと切り替える。

まだ冷たい指先で先輩の右手の袖を掴み、せめてもの自己主張をした。

 

「…わたしその黄色いのが良いです」

 

「ホットは素人向けじゃないからやめとけ。下手すりゃ気分悪くするぞ」

 

「でもそっちがいいです」

 

 素人向けじゃない缶ジュースってなんだろう、とは思ったけど。もっと先輩が好きな味を知っておきたいから、選択肢は他になかった。それに、ちょっと思いついたことがある。

 

 仕方ないな、と先輩はプルタブを開けてからこちらに差し出した。

 

 …っ!

 だから、そういうさりげないのが…!

 もういい、いちいち反応してたらもたない。

 

 受け取ったMAXコーヒーを一口含むと、軽く酩酊するような甘さに襲われた。女の子が甘すぎて引くって、一体どうなってるのこれ。コーヒーに練乳じゃなく、練乳にコーヒーが入ってるんじゃない?

 

「…ちょお甘いですね」

 

「変えるか?」

 

 自分でもどうかと思うくらいわがままな言い分にもかかわらず、ミルクティーとハンカチを差し出してこちらを心配している先輩。こうなる展開を予想し、いつの間にやらケアの準備まで完了していたらしい。

 ほんとなんなんだろ、この世話焼きは。どんなに甘えても、ちゃんと受け止めてくれそう。包み込まれるような安心感? みたいなのが。

 

「…いえ」

 

 せっかくの申し出を辞去し、もう一口。

 まあ、慣れると美味しい、かもしれない。

 怖いのはカロリーくらいだ。

 

 それに──。

 

 甘いものがきらいな女の子なんていない。

 甘やかされるのがきらいな女の子なんていない。

 

「きらいじゃないですから」

 

 なにが、とは言わない。

 分かって欲しい気もするし、分かって欲しくない気もする。

 ついでに言うと、わたしもよく分からない。

 分かりたい気もするし、分かりたくない気もする――。

 

 ちびちびと飲み進めるわたしを見て安心したのか、先輩も予備に備えていたミルクティーに口をつけた。それを横目で見計らって、さっき思いついた些細なイタズラを敢行する。

 

「やっぱそっちにして下さい」

 

「おい、口つけた後で言うなよ…」

 

 さっき言えばこれやったのに、と渋る先輩。

 迷惑そうな顔をしながらも、その手はポケットの財布をまさぐる。わたしのために新しいものを買おうとしているのだ。

 

「…ほんと激甘ですね」

 

「だから言っただろ。これでいいか?」

 

「はい」

 

 先輩が掲げたミルクティーの缶を素早く奪い取る。そのまま彼が言葉を発するよりも先に、飲み口に唇を添えてしまった。冷えた金属と、一口目にはあり得ない濡れた感触を得て、触れた唇にぴくりと震えが走る。

 

「お、おい…」

 

 こくり、こくり。

 

 素知らぬ顔で缶を傾けると、甘いベージュ色の液体が喉を伝って体の中心へと流れ込む。

 

 ぜったいに分かるはずも無いのに、ミルクティー以外の何かを舌に感じるような気がする。耳が燃えるように熱くなるのが分かり、髪で隠れているはずの耳へと思わず手が動いてしまったけれど、なんとか髪の毛を軽く払うような仕草に変えて誤魔化してみせた。

 

「…こっちもけっこう甘いですね」

 

 凍えていたはずの指先まで駆け巡る体温を感じながら、両手で缶を包み込み、再度口をつける。飲みながら舌先で飲み口をちろりとやってしまうのはただのクセだ。そこに深い意味なんてない。

 

「はー…」

 

 温くなったはずのミルクティーから受け取った胸を焦がすほどの熱を、長い溜息に乗せてゆっくりと吐き出し、これで作戦(ミッション)完了。

 大丈夫、全く動揺していない!…ように見えた、よね? 先輩のリアクションを見るためには、こっちが動揺しないのがマスト。

 

「一色さんなに飲んでんすか…」

 

「これでいいかって言ったじゃないですか」

 

 すっかり蹂躙されたミルクティーを痛ましげに眺め、先輩は財布の小銭を鳴らして言った。

 

「同じの買えばいいのかって聞いたんだけど…」

 

「なーんだ、そうだったんですかー」

 

 こういうとき、演技と素の両面を知っている先輩が相手だと、実にやりやすい。わたしの目的が何だったのか、このやりとりだけでもう分かったはず。

 

「もったいないのでいいです。先輩もこれ、どうぞ」

 

 油断したところにもう一本の仕込みである、飲みかけMAXコーヒーを差し出す。濡れた飲み口が街灯の明かりを反射して暗がりの中できらりと光り、先輩は息を飲む。

 

「まだぜんぜん暖かいですよ?」

 

 どぞどぞ、と差し出された缶に彼はしばらく目を泳がせていた。けれどもわたしが平気そうな顔をしているのにひとり意識するのが情けないとふんだのか、結局は手を伸ばした。

 

「…マッカンを捨てるなんてとんでもないからな」

 

 それは大事なものだ、と誰かに言い訳しつつ、その黄色い缶をおそるおそる手に取る。

 口をつける様子をじっと観察していると、わたしの視線に気が付いた先輩は動きを止め、こちらに背中を向けてしまった。

 

「なんでそっち向くんですかー」

 

「飲み辛いんだよ…」

 

 なむさんっと唱え、天を向いて缶をあおる。

 黒髪の隙間に見える先輩の耳が真っ赤になっているのを見て、わたしの中の小悪魔が黒い尻尾を振りつつもう一声!と欲張った。

 

「あ、リップの味混じってたらごめんなさい♪」

 

「ブッ! …げほ、げほっ!」

 

 派手にむせる先輩をくすくす笑いながら思う。

 

 たのしいな。

 あったかいな。

 

 恥ずかしそうなその顔を見てると、心がほっこりする。

 ぶっきらぼうなその声を聞くと、心が弾んじゃう。

 先輩と付き合うって、毎日がこんなかんじなのかな。

 これだったらぜんぜんあり…ううん、いいかも。

 

「ったく、お前の彼氏になるやつは大変だな…」

 

「あ…」

 

 苦笑いを含んだ先輩の言葉に、広がりかけた妄想の翼が溶けて消える。

 

 そうだった。

 先輩はわたしの彼氏じゃないし。

 わたしは先輩の彼女じゃない。

 事が済んだら、わたし達は今までどおりの先輩と後輩に戻る。

 だからあの二人も、なんだかんだでこの状況を許してくれている。

 

 もしもわたしが返したくないなんて言ったら、どうなるのかな。

 あの二人はなんて言うのかな…。

 この先輩はなんて言うのかな…。

 

 肩をいからせ缶の残りと格闘している先輩の背中をじっと見つめてみたけれど、その答えが返ってくるはずも無かった。




遅くなった分、今回はいつもより大盛りでお届けです。
ウソです、キリが悪かっただけです。
個人的にお待ちかね八色シーンですが、いかがだったでしょうか。
小悪魔ないろはすに翻弄されたい。むはー。


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■6話 悔しいけど、気持ちいい

拙い作品ですが200お気に入り突破しました。ありがとうございます。

モノローグを取り除くと、なかなかキモい独り言に。
それと葉山スキーの方には前もって軽く謝罪しておきます。
でも八色SSって時点で彼の扱いは決まってきますよね。南無。


「こんなこっといっいなー…でっきたっらいっいなー…」

 

 熱いシャワーと張ったばかりのお風呂は外せない冬場の楽しみの一つ。浴室に響く鼻歌と共に冷え切った身体の疲れと一日の埃を洗い流すと、真っ白なバスタブへと身体を沈める。

 

 今日はとっておき、先週千葉で手に入れたLUSHのバスボムを使ってみた。雑誌で話題の品だけあって、見た目もお洒落、置いておくだけで良い香りのするお気に入りのそれが、次第にお湯に溶けていくのをじっと見守る。

 花の香りと細かな泡が肌を滑るのを感じ、これはアタリかも、と口元を緩めた。

 

 いいことがあった時は、こうやって自分でささやかなお祝いをすることが多い。褒められて伸びるタイプだから、テンションは高めに維持しておきたいのだ。

 

「って、わたしアホかも…」

 

 我ながらあまりの鳥頭ぶりにうんざりする。今日は思い出すのも恐ろしいような体験をしてきたというのに。

 ともすればトラウマやら登校拒否やらになってもおかしくない程のもの。にもかかわらず、わたしは先輩と話を始めてから今この瞬間まで、今日この身に降りかかった人生最大級のトラブルのことを、すっかり失念していた。

 

「いやいや、でもだって、ちょお面白かったし…」

 

 缶コーヒー…あれをコーヒーと呼ぶのは許せない…ああ、だからマッ缶なのか。マッ缶を飲んだ後の先輩の顔は暗闇でも分かるくらい赤くなっていた。

 あのネタはさすがに誰にでも出来るものじゃない。自分自身、少なくない代償を支払う諸刃の剣だから。それでもあれだけ良い反応をしてくれれば、こちらも身を切ってまでやった甲斐があるというもの。

 

 それにしても…。

 

 例えば葉山先輩なら、あんな時、何と言うだろう。

 気にしていない、と爽やかに笑って見せるのだろうか。こちらが意識しているのが恥ずかしくなるくらいスマートかつ紳士的に、何事も無かったかのように場を収めてしまいそう。

 

 それはきっと、女の子のあしらいに慣れた、実に格好のいい対応なんだと思う。わたし達くらいの女の子が年上の男性に惹かれるのは、そういった余裕を求めているからなのかも。

 

 でもわたしが今日見たかったのは、まさにあの反応であって。見事に型にハマってわたしを楽しませてくれた先輩は、どう言い繕っても格好いいと言える要素はなかったけど。それでも一緒の時間を過ごせてとても楽しかったと、心から思えた。

 

「うーん、なんか、これだと…」

 

 おかしい。

 

 これだとまるで、葉山先輩よりも彼と一緒に居た方が楽しいのだと、そんな風に聞こえてしまう。

 

「ない、それはないよね! ないよー」

 

 口までお湯につかり、ぶくぶくと泡を立てる。

 こんなことをしているからのぼせるのだ。

 のぼせているから、こんなに顔が熱い。

 

 浴槽から出て、お風呂の操作パネルに指を伸ばす。

 ボタンを何度か押すと、設定温度が34℃になったことを告げる声。

 頭から被ると、数字の上では体温より少し低い程度のその温水は、しかし随分と冷たく感じた。

 身体の芯に、冷めない熱の塊が篭っている。

 

「だって先輩、目つき悪いし? 姿勢悪いし? あとモテないし?」

 

 とりあえず当たり障りのない…本人が聞いたら当たりも障りもするであろう特徴を列挙しつつ、自分の認識を再確認してみる。

 でも最近は、あのダウナーな感じもゾクゾクするというか。慣れるとクセになる玄人の味、みたいな?むしろあの味を分からないとまだまだお子様、みたいな? あれで真顔のときは結構かっこよく見えることもあったりなかったり…。

 

「いやいやなに言ってんのわたし…」

 

 目をつぶってシャワーの放水に正対する。

 気持ち良いをギリギリ通り越した、強すぎる刺激に眉根が寄る。

 そのまましばらく温水の滝行を続けた。

 

 シャワーを止めて、フェイスタオルで顔の水滴を拭う。

 ふんわり花の香りが立つお気に入りだ。乱れる感情に任せてゴシゴシとやってしまいたい気分だけど、そこを堪えて極力丁寧に扱う。女の子のお肌は桃と同じくらい丁寧に扱うべし。まだまだ若いとは言え、力を入れて擦るなど以ての外だ。

 

「ま、まぁわりとお世話になってるし? 無理に嫌う理由とかないし?」

 

 口先でなんと言おうと、どうしてか彼を擁護する方向に思考が傾いていく。やっぱり、今日の件で助けられたことが強く影響しているのかな。今のわたしが先輩に抱く感情は、困ったことにどう見積もってもマイナスとは言えないようだった。

 

 これは別に、葉山先輩から気持ちが移ってしまったという話じゃないはずだ。そう、単にお気に入りの先輩がひとり増えただけ。

 好きな人以外に、仲が良い異性の先輩がいたらいけない? さすがにそんなことは無いよね。

 

 自分が一人の男性に尽くすタイプかどうかは今のところ定かではないけど、生涯ただ一人の男性とだけしかお話しない、みたいな制約を課して生きるつもりもない。お話したり、遊んだりするくらいならセーフでしょ。

 

 だったら、どこまでするとアウトなのかな。

 逆にセーフなら、どこまでしたいのかな。

 

「別に、そういうんじゃ、ないんだけど…」

 

 頭を悩ませつつ、身体はお風呂上りの工程を着々と進めていく。

 乾いたバスタオルを頭に巻きつけ、ボディローションを滑らせる。16歳の肌にはまだここまで入念なケアは要らないのかもしれないけれど、肌がぷるんとしていると自分でも嬉しくなるし、嫌いじゃない作業だった。

 

 ローションが馴染んだら、髪の水気も適度に抜けた頃合。トリートメントを含ませ、ドライヤーを手に取ると、スイッチを入れた。鏡に自分の姿を映しながら、ぼんやりとした頭で髪を乾かしていく。

 

 女子からの嫉妬を受け流し、男子を上手くあしらい、楽しい学校生活を過ごす──

 

 そんな刹那的な考えで、わたしは日々を生きている。

 ピュアとか清純とか、そういう白さとは離れたところにいるのかもしれない。けど、心の底から腐っていると揶揄されるほど、ねじくれているつもりもないのだ。

 

 つまり、見返りもなしに親切にされ続ければ、わたしだって感謝と親愛の情くらいは抱くのである。とは言え、ウラのない施しなんてものは、あの先輩が一番嫌いそうなものだけど…。

 

「ま、でもあのひとって、悪いの口ばっかりだからなー…ふふっ」

 

 温風を吐き出す機械音が、そう広くない脱衣所を埋め尽くしている。この瞬間は、ついつい独り言が大きくなってしまうので注意が必要だ。口から零れる言葉のボリュームはもう会話におけるそれの域に達している気がする。

 

 思い返せばわたしと先輩の関係は、打算とか利用とか──言うなれば腹黒さの象徴みたいな単語に満ち満ちた始まりだったと思う。

 

 わたしは保身のために先輩方を利用することしか考えていなかったし、先輩は先輩で、奉仕部が崩壊するきっかけになりかけた生徒会選挙を丸く治めるために、自らのテリトリーに近づいてきたわたしを逆に利用した。

 

 こういった腹の探り合い自体は、これまでのわたしの人生において、さほど珍しい体験ということもなかった。毛色こそ違えど、男女入り混じる三角四角の多角形な関係性において、爽やかとは言い難い感情が飛び交う諍いは、度々あったのだ。そして、揉め事に決着が付くと、勝敗──何をもってそう判じるべきかはわからないけれど──その如何に関わらず、決まってその関係は崩壊した。お互い、「友人」から「因縁のある知人」へと肩書きを変え、彼らとの距離は時間に比例して広がっていった。

 

 それなら、先輩との出会いはどうだろう。

 

 少なくともわたしにとって、あの結果は「敗北」と言って良いものだっただろう。押し上げられた玉座から穏便に下りたいと持ちかけたのに、最終的にはそのまま祭り上げられてしまったのだから。

 それは結果的に、当時わたしが抱えていた問題の解決に役立った。でも、概ね先輩の一人勝ちだったと思う。でもわたしと彼との関係は、そしてあのひとの行動は、そこで終わらなかった。

 

「てか、わたしから行っちゃったんだよね。なぜか」

 

 お風呂から上がったわたしは、パジャマを着崩した状態で冷蔵庫を覗き込んでいる。フルーツのミックスジュースをカップに注ぐと、それを片手にカーペットの上に腰を下ろした。

 

 カップの中身を一口飲むと、大きく息を吐きながら両足を開いて身体を倒していく。サッカー部から足が遠ざかったため、何となく始めたお風呂上りのストレッチだ。運動部と言っても立場はマネージャーだったんだから、運動量が減ったって事もないはずなんだけど──生徒会に入ってからはストレスのせいか、毎晩の眠りが浅くなっている感覚があった。

 最初はダメもとで始めてみたんだけど、意外なことに少なくない効き目があった。今では美容効果なんかにもちゃっかり期待しつつ、そのまま続けている。

 

 前屈のためか、それとも心理的なものなのか。判断が付かない色合いの吐息が、圧迫された肺の中から押し出されていく。

 

「はーーーぁぁ……ぁ」

 

 会長を引き受ける際に先輩が提示したプランは、「何かあれば葉山先輩を頼れ」というものだった。なのに、わたしは事あるごとに先輩を頼っている。憧れのひとではなく、身近な頼れるひとを求めてきた。彼も、きっと負い目を感じているのだろう。求めれば、文句を言いつつも必ず応じてくれた。

 でも、依頼のアフターケア──この場合は選挙後のフォローのことだけど──彼がそんな労力を幾度となく費やしているというのは、結衣先輩や雪ノ下先輩から見ると、とても珍しいものだったらしい。

 

 先輩はわたし達の関係について「上手く使われているだけだ」と言い張っているけど、こっちからしたら、常に手の上で踊らされているような感じがする。悪い意味じゃなくて、あくまでわたしを主役とした舞台の上でだ。

 

 わたしが動きたいように、動けるように。

 悔しいけど、気持ちいい。

 

「あれ、なんかエロい言い方だーこれ…」

 

 そもそも、初めてなのだ、あんなひとは。

 今まで出会ってきた男子はみんな、「気にしないで」とか「俺がやりたいだけ」とか。内心で失笑するわたしに微笑みかけて、表向きはさりげなさを装いながら、必死になってご機嫌をとろうとしていた。

 そして決まって最後に「どう?」と言わんばかりのドヤ顔をみせる。そんな彼らに、わたしも用意していたお決まりの言葉を返すのだ。「ありがとう、嬉しいよ」と。

 

 先輩はどうだろう。

 面倒くさい、嫌だ、仕方ない──そんなのばっかりだ。

 

 せめてもう少し着飾った方がいいんじゃないかと言いたくなるくらいの、剥き出しの不満。彼はいつだってそんな言葉をぶちまけてくる。そんな風に(うそぶ)きながらも、本当に困難な状況の中からは、きちんと助け出してくれるのだ。挙句、最後の締めは「やれやれ」という苦笑い。

 

 見た目や調子ばかりが良い男の子とは、何もかもがちょうど真逆だった。

 

 だからだろうか。

 いつもは男子に"やらせてあげてる"わたしの相手。それをこのわたしが、自分から何度もお願いしてまで、彼に求めている。ううん、もうおねだりと言った方が良いかもしれない。

 

 これは──

 

「…なんか、ちょお悔しいんだけど」

 

 ストレッチを終え、カップに残ったジュースで体内に篭った熱を冷ますと、ごろんとソファに身体を預けた。手の届くところにあったロングピローに手足を絡め、ぎゅうっと抱き締めてみる。

 

「もしかしてわたし、甘えてる…?」

 

 "甘えてみせる" と "甘える"。

 

 は傍から見ると、どちらも相手に甘えているようにしか見えないだろう。けど、本質は全くの逆だとわたしは思う。

 

 甘えてみせるのは、言ってしまえば相手──男の子を喜ばせるためだ。

 様々な手法が氾濫し、ネットや女子向けの雑誌には具体的な実践例さえ載っている。あまりに奇抜な記事は流石にネタなんじゃないかと思えるけど、どれにも共通していることが一つだけある。

 

 それは「本心からの行動ではない」ということ。

 

 どんな表現方法であっても、本質的な狙いは男の子の自尊心をくすぐってコントロールし、実際の主導権を握ることだ。カテゴリとしてはお世辞や愛想笑いと同類と言っていい。

 たとえ好きなひと相手であったとしても、自分の言うことを聞かせたいときに女の子が狙って取っている行動は、あくまでも"甘えてみせる"と表現すべきだと思う。このアクションはわたしの得意技でもあって、今までも、それこそ息をするような感覚でやってきた。これが同性から疎まれる一番の要因だということだって、自覚した上で。

 

 だけど、最近のわたしが先輩にしているのは、ちょっと違うんじゃないだろうか。

 

 自分の要求を、相手の意を汲まずにぶつけること。これが"甘える"ということだと思う。つまりは「わたしがしたい事、やって欲しい事」そのものだ。

 "かわいい"の計算をすっ飛ばして、純粋な本心をオブラートなしにぶつける。相手の好感度を消費して願いを叶える仕組みだから、日頃から愛されポイント稼ぎに余念のないわたしとしては、完全にポリシー違反のはずなのだ。

 

 そのような変則的な行為を、よりにもよって特技が通用しない──好感度を稼ぐ目処の立たない人物に対して濫用しているこの状況。やっぱりこれは相当におかしいと思う。大体、あのひとにワガママを叶えて貰えるだけのポイントを、わたしはまだ稼げていないはずなのだ。

 

 だったらなぜ、彼はわたしに優しくするんだろう。

 

 最初からわたしを好きだった、とか…?

 

「ん。それは、違うな…」

 

 初めて会った時の彼の目は、実にハッキリ語っていた。

 うっわぁ、と。

 

 普段であれば、女の子から頂く類の視線。それを男の子から向けられたという驚きと相まって、しっかり記憶に残っている。あの視線から察するに、ゼロかマイナスからのスタートだったはずだ。

 

 そんなわたしが、しかも好きな男の子に迷惑をかけたくないという、男子的にはモチベーションが墜落して地面にめり込んじゃいそうな理由で、厄介ごとを持ち込んできた。

 こんな女の子を好きになる理由なんて、どこを探しても見つかりそうもない。っていうか客観的に見ても、この女の子は相当に「ウザい」輩ではないだろうか。

 

「あー、そういや実際に何度か言われた気が…」

 

 あのひとはわたしに対してビックリするくらい遠慮がない。あざとい人物を指差して真っ向から「あざとい」と指摘できるひとなんて、一体どれだけ居るだろうか。少なくともわたしは、面と向って言われたのなんて初めてだ。

 

「男子もひとそれぞれってことかな」

 

 例えば葉山先輩。

 

 あの人も、わたしの演じるタイプのキャラクターが好きなようには見えない。ううん、彼に関してはどんなキャラでアピールしたところで、当たりを引くビジョンがちっとも見えてこない。

 今までずっと、気に入られようと四苦八苦する女子の姿ばかり見てきただろうし、ひょっとすると「相手によって接し方を変える」というスタンス自体が気に入らない、という感じなのかもしれない。

 

 でも、女の子としては、そんなの仕方のないことだ。それに相手を見て態度を変えるなんて、なにも恋愛に限ったことじゃない。もしそう考えているのなら、少し潔癖過ぎるんじゃないの? と今なら思う。

 

 女の子に夢、見過ぎないで欲しいんだけどな。

 

「てか、葉山先輩をディスるっていうのがもうね…」

 

 少し前なら、彼に対する否定的思考そのものが、絶対に浮かんでこなかったと思う。恋は盲目とはよく聞く表現だけれど、ならば冷めた目で葉山先輩を見ることの出来る今、やはりわたしは失恋してしまったのだろうか。

 

 そして今、先輩に対して盲目的になっているかと言うと──

 

「ところが悪いとこはちゃんと見えてるんだよねー、なぜか」

 

 目つきとか姿勢とか覇気の無さだとか。極めつけにあの、都会のスーパーに並ぶお魚のような、ほの暗い目つきとか。その辺りはこの際諦めるとして、猫背が酷いのは注意すれば直せるだろうし、いざと言うときはあれで気合の入った表情も見せてくれるので、普段のガッカリ感も許せないというほどじゃない。

 

「えー。なんだこれ…」

 

 あれを許して、ここを直して。

 

 そうして気に入らないところがすっかり無くなったとき、わたしは彼をどうしたいのか。

 

 ほっぺたを指で摘んで、ぐいーっと左右に引っ張ってみる。理不尽な仕打ちに我が身が訴える痛みも、この胸のモヤモヤを吹き飛ばすには至らない。

 

 よし。ここはひとつ、言葉に出して整理してみよう。

 

 先輩の良いところはどこか──。

 

「見た目と違って面倒見はいいよねー、あと頭も良いかな。実は顔も意外と」

 

 先輩の事が好きか──。

 

「さすがにそれは…ないんじゃないかなぁ、と」

 

 先輩の事が嫌いか──。

 

「それもないかな」

 

 先輩と手を繋いでみたいか──。

 

「それ、は……」

 

 強くかき抱いていたせいでへにょんとしなびたロングピローを開放し、ソファから立ち上がる。

 

 「それもない」とスムーズに答えて笑うつもりだったのに。

 一通りの自問を終えても、自分が望んだ結論は出なかった。

 

「あーもう! わかんない!」

 

 お風呂上りのリラックスタイムに、いつの間にか癇癪を起こしている。これはいけない、ストレスは美容の天敵だ。問題があれば即座に回避、これがわたしの処世術。

 

 時計を見ると、時刻は22時を回っていた。

 

 お風呂に入る前は確か20時台だったはずだから、随分と時間が経過していたわけだ。わたしにとって、この問題は思った以上に重要な案件なのかもしれない。

 

「このままじゃ、ぜんぜん収まんないよー…」

 

 自室に戻ったわたしは、いつものクセで意味も無くスマホを手に取った。発信履歴を表示し、フリックして画面を流す。

 意外なことに、先輩に対して電話をかけた経験はかなり少ないようだ。そして葉山先輩に対しての回数はそれに輪をかけて少なかったことに気が付いた。

 

 今一番気になっていること。

 

 今一番気に障ること。

 

 それはわたしが先輩をどう思っているか、じゃない。

 葉山先輩を差し置いて、先輩のことで頭を悩ませているという、この状況だ。

 

 「だったら──」

 

 状況の打破のため、やるべきことは見えてきた。

 でも、それは少し…いや、とても勇気がいる行動だ。

 いつかの夜のネオンの群の中で傷ついた記憶が二の足を踏ませる。

 もうあんな思いはしたくない、と弱い心が訴える。

 

 だけど、ここで停滞しているのだけは嫌なのだ。もしかしたら、何か大きなものが動くような、そんな予感がする。動かなければ何かを逃してしまう、そんな予感がする。これ以上傷つく事を恐れていて、これ以上大事なものが手に入るだろうか。彼が求めていた何かは、本気を出さずして、手に入るようなものだろうか。

 

「…わたしも、欲しい」

 

 カーテンを少し引いて、夜空を眺める。明かりのついた部屋の景色がガラスに反射し、星なんてちっとも見えない。顔を近づけた窓ガラスから、外の冷気が立ち上ってくるのを感じた。

 

「──命令」

 

 指先をガラスに映った自分のそれとつき合わせ、相手に向って言い放った。

 

「明日、葉山先輩と話してみること」

 

 自分の顔をしばらく眺め、外から見たら馬鹿なコだろうなーと思い至り、自身へ突きつけた指を下ろした。恥ずかしくなって逸らした視線が、机の上のフォトフレームに止まる。

 

 そこに収められているのは、サッカー部のメンバーと一緒に撮った写真だった。確か、マネージャーになってしばらくしてからだったか。ちょっと埃っぽい、でも楽しげな様子の男の子達が肩を並べる中、華奢な女の子が茶髪の男の子にまとわりついている。彼らの顔を、じっと見つめた。

 

 この時のわたしは、どういう気持ちを抱いていたんだろう。

 

「…………」

 

 しばらくそうしていたけれど、残念ながら、写真を撮った時の気持ちを思い出すことは出来なかった。

 

 胸の鼓動は、静かなままだった。




いろはす100%でお送りしました。ちょっとクドかった気もしますが…。
ってか、ストーカーの扱い小さいなー、さすが恋愛脳。


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■7話 こういうの、初めてなの

素の状態のいろはすが一番好きです。


<<--- Side Hachiman --->>

 

 

 吐く息が白いのは、人間の魂が美しいからである、と何かの本に書いてあった。

 

 その真偽はさておき──実際は、大気中の塵が呼気に含まれる水蒸気と一緒になるために発生する現象である。何でも、真に澄んだ空気の中において、水蒸気は塊を造ることは出来ず、息は白くならないのだとか。

 これはつまり、群れることを良しとしないぼっちこそが、世界で最も美しいものであることを暗示しているのではないだろうか。違いますね。

 

 寒さを紛らわすための思考を中断し、えっちらおっちらと大して数の無い階段を上る。

 

 今日も朝を迎えたわが母校の正面玄関。現在時刻の中途半端さゆえか、生徒の姿はまばらだった。

 ご苦労にも寒空の下でグラウンドを駆け回っているパッション溢れる連中は、もっとギリギリでないと戻って来ない。朝練が無いなら無いで、今度はギリギリに登校してくる。つまりはそういう事だ。家に居場所がなく、やる事もない人間だけが、このゴールデンタイムを味わうことが出来る。

 

 勤勉なギリギリス達とは一線を画す、怠惰さに定評のあるキリギリスな社畜であるところの俺も、当然このエアポケットを狙って出勤してくる。教室に入るとき目立たなくて済むからだ。決して家に居場所が無いわけではない。むしろ居場所なんて家にしかない。

 あと、そこそこ朝の早い小町を送ってから来ているから、というのもある。そうそれ、それが理由なんですよ。お兄ちゃんだからね。

 

 

 季節感もなく寒空へ向けて開け放たれた正面入り口をくぐり、下駄箱が顔を並べる空間へ。

 

 しかしアレだ、「下駄箱にラブレター」って言い回しの違和感ってすげえな。下駄箱という時代錯誤な単語と、ラブレターって甘酸っぱい響きの織り成す世にも奇妙なコラボレーション。とんかつパフェに負けないくらいの不協和音である。すいませんアレは美味しいらしいですね。

 ともあれラブレターなんてモノ自体、都市伝説を通り越して日本昔話に載っちゃいそうな幻想種だろう。粛々と朗読された日には、ヤンチャな高校生の坊やだってネンネしてしまうというものだ。

 

 そんな、最近では靴箱と名前を変えつつある金属製の小ぶりなロッカーには、ご丁寧にもひとつひとつに表札が下がっている。

 

 個人情報保護どこいった? と憂慮しているのはあいにくと俺だけらしい。この、一見私書箱にも似た形状の空間は、ある意味プライバシーの塊だ。しかし驚くべきことに、なんと施錠できる構造にはなっていないのである。

 

 これはつまり、女子の使用済みのアレが道端に放置してあるも同義ではないだろうか。アレとはもちろん上履き以外の何者でもないが、それでもここは材木座をはじめとする、変態紳士諸兄の通り道だ。そこに女子の私物をずらりとディスプレイしているようなこの設計には、色々と思うところがあるわけだ。

 

 俺の目の前にもその中の一つ──中身はシンクロ率が一桁を切ってしまうほどにテンション爆下げの逸品──すなわち男子の上履きなわけだが、それが格納されているボックスがあった。フタの上には「比企谷」と書かれた小さなプレートが誇示されている。

 

 どうせなら苗字じゃなくて名前の方を書くルールにしてもらえないだろうか。洒落を解さない大人の事情のおかげで、宮の字を足してこの靴箱をプチ(やしろ)に進化させようという俺の壮大な計画は、未だ実行の機会を得ていない。

 

 お社を持たないノラ八幡、人との縁を斬って斬って…いや斬る縁がそもそも無いんだっけ。無いものは斬れませんぬ。5円どころかロハで働き続ける俺、神様よりもマジゴッドと称えつつ、その鉄蓋を開ける。

 

 中には、良い感じにひんやりとした土が、たっぷりと詰めてあった。

 

「………」

 

 いつの間に母校が農林系の専門学校に生まれ変わったんだ、笑顔を失ったアイドルが転校してきて比企谷Pおおはしゃぎだぜ、というようなイベントは、もちろん俺の人生に実装されていない。

 百歩譲って未来人からの秘密の伝言だったらまだ胸が躍ったが、残念ながら投函された土の中には埋葬された上履きらしきものの端が見え隠れしている。

 

 しばし、状況を観察。

 

「…ふむ。これはあれか」

 

 端的に言って、上履きが土塗れだった。

 まあこれはどう好意的に捉えても──

 

「一緒のお墓に入りましょうという意味だな。引くわ」

 

「この状況で軽口を叩けるなんて、呆れを通り越して引くわね」

 

 聞きなれた品の良い声色に振り返ると、紺のコートを羽織った雪ノ下が、寒そうに体を抱いてマフラーに口元を埋めていた。彼女の登場と共に、ただでさえ冷たい空気が身を切るような鋭さを帯びた気がした。

 

「それ普通に呆れて引いてるだけでしょ。通り越せてないから」

 

 興味を失った様に目線を逸らした雪ノ下には、昨日一色と帰ったことについて言及するような気配はない。そりゃ「夕べはお楽しみでしたね」とゲヘってくる性格でもなかろうが、何も言ってこないのはありがたいやら恐ろしいやら恐ろしいやら。やっぱり恐ろしいわ。

 でもあれはスイーツ連盟がやれっていったことなんだから、八幡悪くないと思うな。不条理を飲み込めるのが社会人なのだとしたら、やっぱり俺は専業主夫! もこみちよりも美味しい手料理で、大黒柱の帰りを温かく迎えるのだ。

 

「やっぱり例の男子かしら」

 

 そんなに華麗なスルーされたら、目の前の人間に認識されない系の特殊能力が発現したのかとか疑っちまうだろ。あっでも俺は一生思春期煩ってる予定だから能力も消えないんじゃねラッキー!

 

──とか思ったが、別に能力が無くてもデフォでスルーされていた。

 

 無視されたショックで思考に逃げ込み反応が途絶えている俺に、雪ノ下は形のよい眉を立たせる。つかつかと土属性溢るる靴箱に歩み寄ると、その中を覗き込んだ。

 直後、表情に浮かんだ感情があまり喜ばしいものでないことは、彼女をよく知らないものでさえ容易に判じられただろう。それくらい、今の雪ノ下の顔色は分かりやすいものだった。

 

「…比企谷くんは、こういうの、初めてなのかしら」

 

 表情に灯った色を警戒から憐憫よりに変えつつ、雪ノ下はこちらへ向き直った。

 

 ああ、気を遣われている──。

 

 俺はほんの少しの気恥ずかしさと、強烈な羞恥を感じていた。

 

 ぼっちマイスターを称するこの俺だが、実のところあまり明確な()()の対象にされたことはない。何故なら、ぼっちと言うのは嫌悪の対象としてさえ認識されないのだ。

 タゲられなければどうということはない。万年オールハイド状態である。我が校にイジメはありません。

 

 

 そう、あれは確か小学三年のときだった。

 クラスの課外活動で、無理やり「かごめかごめ」をやる羽目になった。

 折よくオニの後ろで足が止まり、ドキムネMAXハートな俺に対して「うしろのしょうめんだーあれ?」と言われた、オニ役の口から出た言葉。

 

『え、ごめんホント、だれ…?』

 

 わきの下に変な汗を感じて、ふと我に返る。

 気が付けばいつの間にか黒光りする歴史を紐解いていた。

 

 …と、ともかく。

 人生の死角をうろうろと歩き回り、垂れ流される会話を漏れ聞いて勝手にダメージを受け、一人で腹を立て、こっそりと他人を見下すことで溜飲を下げる、エゴイスティックかつエコロジカルな生き物、それがぼっちである。

 なお、進化してもだいだらぼっちにはならず、人間と友達にもなれない孤高の妖怪でもある。だれが妖怪だよ酷いこと言うな。

 

 閑話休題──

 

 この手の悪意の発露に対して経験値の低い俺としては、なされた迷惑行為よりも、被害に遭った事実を他人に認識されたことの方に強い忌避を感じていたらしい。初めて、昨日一色が言っていたことの意味を理解できたような気がした。文化祭の一件で周囲からダークマター扱いを受けていた時だって、思えば、一番辛かったのは気遣わしげにこちらを盗み見る由比ヶ浜の視線だったかもしれない。

 

「なに。ラブレターを装った悪戯なら、べつに初めてってわけじゃない」

 

「いえ。それはそれで、一種の苛めだと思うけれど…」

 

 あれっ? じゃあ小四の時、手紙で呼び出されて校舎裏で二時間待ってたら風邪引いたあの件は、もしかしなくても苛めだったって事ですか?

 苛めは苛めと認識しなければ苛めにはならないってことか。八幡、それ知らない方がよかったわー。

 

 雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、苛メニモ負ケナイ者に、俺はなるっ!

 何それ単なるドMじゃん。俳人てか廃人じゃん。

 

「冗談はさておき、本当に大丈夫?」

 

 長い睫毛を若干伏せた、気遣わしげな眼差しが俺を捉えている。

 さっきとは違う意味で、少し恥ずかしさを覚えた。

 その、いつもとは違う温度を感じる瞳から逃れるように、目線を逸らしつつ頬を掻く。

 

「大丈夫だ。なんせこれ、俺の下駄箱じゃないからな」

 

 言いながら、自分の名前が書かれた小さなプレートを金属扉のスロットから外した。

 

「…どういうこと?」

 

 その問いへの答えの代わりに、俺は表札を失った土まみれの小部屋の、そのひとつ右の隣へ手を伸ばした。"戸部"と書かれたその下駄箱の名札を取り出し、代わりに自分のものを納める。

 

「どうやら昨日、このあたりに局地的な空間異常が発生したらしい」

 

 と、出現しただけで空間振を起こした犯人であるところの俺が語った言葉を聞き、聡い彼女はと言えば「ならデートしてデレさせてあげる」とは当然返さず

 

「事前に戸部君の名札とすり替えて置いた、ということかしら」

 

 と、あっさり結論を提示した。

 

 こいつはネタを膨らませるということを知らないんだろうか。俺がどれだけの思いで文字数をカウントしているのかというメタ発言を控えて押し黙っていると、さすがに戸部に同情を覚えたらしい雪ノ下が言った。

 

「いくらどうでもいい相手でも、やって良い事と悪い事があるんじゃないかしら」

 

 うーん、とりあえずその発言は悪いことの方に分類されるんじゃないですかね。

 

 海老名さんの口から出ていたら明日の朝刊の三面を戸部の名前が飾りかねないほどの辛辣な言い草に、前もって用意しておいた言葉を返す。

 

「まあ待て。戸部をスケープゴートにしたのには真っ当な理由もある」

 

「も、と言うことは、つまり真っ当でない理由もあるのよね」

 

 あまりに本音過ぎて、つい言葉の端に漏れてしまった尻尾をきっちり掴まれてしまった。しまったが、そのへんは言わなくても分かってもらえると都合よく信じることにする。最近その無理解が原因で派手に揉めたことはまだまだ記憶に新しいが、人間は過ちを繰り返す生き物なのだ、許して欲しい。

 

 とりあえずは表向きの理由を説明しておく。

 

「一色と戸部は一緒に居るところを普段から多数の生徒に目撃されている。至極客観的に見た場合、色っぽい噂が立っても不自然な関係じゃない。違うか?」

 

 一色がこの場に居たら、キュアグレーとしてノミネートされるくらい「ありえない」を連発しそうな話だが、幸い当人が居ないのでスムーズなものだった。

 

 パラメータ的には一色のルックス値が少々突き出しているものの、チャラ男とゆるふわビッチの組み合わせとして、俺の見立てではそれほど違和感がないように思う。その実態がいぬぼく(犬であり下僕)なのだとしても、俺と一色の組み合わせ──いいとこキャッチに捕まった哀れなぼっち──と比べたら、随分と自然なカードだろう。

 

 さて、戸部と一色のカップルが一般認識の上で成立し得るとしよう。ならば戸部がこの手の陰湿な攻撃に晒されたとき、どのような事象の紐付けがなされるだろうか。

 

「戸部君の交友関係から逆算することで、既に一色さんの教室で騒ぎを起こしていた例の人物に辿り着くことは充分可能ということね」

 

「アイツらは色んな意味で声がデカいからな。一年とのパイプも充分すぎるほどある。上手くすりゃ今日明日でホシの名前が挙がるんじゃないか」

 

 まず間違いなく、戸部は葉山たちにこの話をするだろう。本当に苛められている場合は他人への相談も難いものだが、ヤツに限ってそういう卑屈さは考慮しなくていい。

 そして葉山はあの通りの人間だ。事を荒げることは好まないだろうが、それでも何らかのアクションは起こすと期待していいだろう。

 

「なるほど…」

 

 雪ノ下は口元に手をやると、猫の様に目を細めた。

 

「一色さん自身からは何も言わせないままに、葉山くん達を巻き込んだというわけ?」

 

 マフラーに半分隠された表情は読み取り難かったが、重ねてきた時間のおかげか、浮かべているであろう苦笑いが容易く想像できた。

 

「だってあんなハイスペックなカード、遊ばせとくの勿体無いだろ」

 

 一色自身は葉山を巻き込むことに抵抗がある。それは以前に自分で言っていたとおり、今回の案件が"重過ぎる"からだろう。毎度毎度重過ぎる一色にはそろそろダイエットをオススメしたいが、ともあれ本人の口から伝わったものでないなら、問題ないと判断する。彼女自身も王子様から自発的に助けられて悪い気はすまい。

 

「貴方が彼に解決の糸口を期待するというのは、少し意外だわ」

 

「敵の敵は味方って言うだろ。なら味方には敵の敵になってもらってもバチはあたらない、みたいな」

 

「どこぞの白いおうちの方々が好きそうな物言いね」

 

「一緒にするな。当事者が参戦しないんだ、100倍タチ悪い」

 

「自覚があるならなお悪いでしょうに…」

 

 真の悪人とは自らの手を汚さないものなのですよ、魔王様。

 

「それに、葉山に解決してもらおうとは思ってない」

 

「なら何をさせるつもり?」

 

「ホシを焦らせるための猟犬だな。なるべく大きな声で騒いでもらう」

 

 訝しげに眉をひそめる雪ノ下に目を合わせず、何てこと無い話を何て事の無いみたいに告げた。

 

「騒がれれば犯人は焦る。焦れば行動は雑になる。今回、戸部に誤爆っちまった以上、俺を狙っている事を正しく認識させるために、もっと露骨で派手なことをしてくるだろうな」

 

 とりあえず、一色と俺が仲がいいという偽の関係は、引き続き強調していく。ターゲットを取り違えてしまった犯人は、それを見て頭に血が上り、更に目立つ手を打ってくるだろう。最初は地味な悪戯程度でも、のらりくらりとかわしていれば、いずれ必ず爆発する。

 

 問題を起こすのを回避するのではない。問題は()()()()()のだ。

 その瞬間、ヤツの悪意が一色に向いていなければこちらの勝ちだ。男同士の馬鹿げた取り合いに、一色いろはは巻き込まれただけ。

 モテる女は辛いね、いい迷惑だね。この方向に、世間の認識を誘導する。

 

 あとはまあ…適当に下手人を憲兵(平塚先生)に引き渡せば、ジ・エンドだ。

 

「また、貴方はそうするの?」

 

 当然、雪ノ下は厳しい目つきで食い付いてきた。

 

 これも心配の一種なんじゃないかと自惚れられる程度には、今の俺には心の余裕もある。以前のように諸刃を交えるような誰も得をしない対応を取るつもりは無かった。

 

「今回は今までとは違う。俺は単なる犠牲になるつもりは無い。…場合によっては囮にくらいはなるかも知れんけど」

 

 冗談抜きで、身体を張るつもりはない。それは、一色のためにそこまでするつもりが無いとかの話でなく、俺自身が物理的に痛い目を見るのは、そもそも策として認められないというだけのことだ。

 昨今、精神的にMである疑惑が浮上している俺ではあるが(俺調べ)、肉体的にも悦べるのは小町に踏まれた時くらいしかない。うーんそれ物理的にもMですね。むしろシスコンとの合併症で手遅れまである。

 

「確かに、問題を先延ばしにするのと違うことは認めるわ。けれど、貴方だけが傷つくという点では何も変わらない」

 

「いや、俺だけじゃない」

 

 今までは、被害者を出す前に俺がその位置に潜り込んでいた。

 だが今回は、既に少々事情が異なってきているのである。

 

「もう一色が傷ついてる。形振り構っている場合じゃないだろ」

 

 驚いたように目を見開く雪ノ下。その表情はいつかも見たことがあるな。確か俺が自分の本心を──ああうん気のせいですね初めて見ました。

 

 反論しようにも、材料不足で口をパクパクとさせている彼女に、更に後押しするようにして畳み掛けた。

 

「あいつ結構参ってるみたいでな。今回はスピードを優先したい。頼む」

 

 もともと変にすり寄ってくることの多い一色だったが、昨日の様子は輪をかけておかしかった。男に媚びているというよりも、寄る辺を求めているといった様子。

 それで葉山がフォローしてくれるならば話は簡単なのだが…。今の一色にとって葉山が必ずしも救いの象徴足り得ないことは、あの日ディスティニーに行った面子ならお察しのところ。

 今や関係が改善された生徒会を含め、男友達だけは多いはずの彼女が、今更俺なんぞに頼らなければならないこと自体、それだけ状況が切迫しているのだろうと考えられた。

 

「…ずるいわ」

 

 雪ノ下は交渉に失敗すると気力が上がって反撃してくるタイプのユニットなので、仲介役が居ない場所での説得は危険が伴う。

 目を逸らした雪ノ下を見て、今回はなんとか説得に成功したことを悟り、今回の作戦における一つの山場を無事通り過ぎたことに、俺は密かに肩の力を抜いた。

 

「ここで私が首を縦に振らなかったら、まるで一色さんに思うところがあるみたいに見えてしまうわね」

 

 何も無い、と言うほど因縁の薄い二人ではないと思うが、それも半分以上は雪ノ下自身や家庭にまつわる要因が大きい。もともと一色個人に対して特にわだかまりがあったわけではないのだろう。

 

「もっとも、全く思うところが無い、というのも嘘になってしまうけれど」

 

 嘘だと言ってよユッキィー!

 世の中には必要な嘘もあるんですよ?

 

「ずるいついでに雪ノ下、ひとつ頼みがあるんだが」

 

 はぁ、とこれ見よがしにため息をつく彼女の顔は、やけに大人びた諦観を帯びていた。言葉を続け難い空気にたじろいでいると、珍しくじろっとねめつける様な視線を寄越す雪ノ下。その目、姉貴にそっくりだな、とか言ったら殴られるかしら。ご褒美です。

 

「一色さん…それに由比ヶ浜さんもかしら。黙っていろと言うのでしょう?」

 

「お、おう…。いやお前のポリシーからしたら、黙っているなんてそれこそ馬鹿げてるって言いたくなるかもしれない。だが考えてもみ──」

「言わないわ」

 

 説得のために夕べから考えていた小話を披露する機会を与えられなかった俺は、しかし意外にもすんなり提案を受け入れた雪ノ下の不気味な引き際に、ついついターンテーブルをクラッチしそうなイントネーションになってしまう。

 

「MA・ZI・DE?」

 

「ええ。それはもう、途轍もなく途方もなく気に入らない。貴方の言う通りにしてしまう自分も、全くもって腹立たしい限りだけれど。でも──」

 

 百科事典で『不本意』を引いたら今の様子が写真で紹介されそうなくらい、身振り手振りで自らの不満をアピールしつつ、彼女は言った。

 

「私が貴方の立場であったなら、やっぱり同じように口止めすると思うから」

 

 言われて想像してみる。

 

 雪ノ下なら、まあ誰にも言わないだろう。いや、実際にあったことで、そして実際に言わなかったのかもしれない。友達は勿論のこと、親や姉妹にも。性格的にも環境的にも、許されない選択肢であったというだけのことかもしれないが。

 

 今の彼女であれば、少なくとも俺や由比ヶ浜には相談して欲しいなどと、我ながら身勝手な考えが、一瞬だけ頭を過ぎった。雪ノ下はああ言ったが、本当は由比ヶ浜にも教えたいのではないだろうか。

 

「一色さんは元より、由比ヶ浜さんについては──」

 

 俺の心配を他所に、雪ノ下は自らの懸念を訥々と語った。

 

「今回、既に犯人の目星が立っているというのが、逆に不安なのよね。貴方が害されたという事実を知った彼女が、容疑者に対して直接的な行動を起こす可能性は決して低くないでしょうね」

 

 告げる内容は優しい理解とのはずなのに、俺の頭に浮かんだのは、人類にその行動理念を完全に把握されているチンパンジーの姿だった。

胸の包含関係で言ったら立場は完全に逆のはずなんだが。げふんげふん。

 

「あれでかなりのイノシシ娘だからな、あいつは…」

 

雪ノ下(にゃーたん)と仲良しなあたりも(いのしし)っぽいしな。

 

 そんな彼女ではあるが、決して攻撃力が高いわけではない。燃費こそ悪いが瞬間火力の高い雪ノ下級とは異なり、由比ヶ浜級はもともとお菓子を消費するくらいしか能が無く、戦闘に耐えうる仕様ではないのだ。これでまかり間違って逆ギレでもされたなら、胸の悪くなるような結果になりかねない。

 ま、それを言い出したら、俺だって同じようなものなんだが…。

 

 懐かしそうな、切なそうな顔色を見せる雪ノ下。脳裏にはおそらく、俺と同じ光景が浮かんでいることだろう。

 

 生徒会選挙の際に由比ヶ浜が見せた表情。普段とは打って変わって、何を言っても絶対に意志を曲げない頑固さ。

 あの女傑っぷりときたらもうガハマーン様と呼んじゃって何ソレって真顔で聞かれるのが怖くてやっぱり呼んじゃわないレベル。呼ばないのかよ。

 だって髪の色とか似てるし。いや髪の色しか似てないか。

 

「悪いな」

 

「もう慣れたわ」

 

 分かったような、それでいて分かり合えていないことが分かっている、微妙だけれどぬるま湯のような空気感。知らず緩んでしまう頬を引き締めつつ、次の行動に頭を巡らせる。

 事態がこうなってしまうと、こちらは基本は受身だ。後手に回るしかないのが歯がゆいばかりである。

 

「私に出来る事があったら言って頂戴」

 

「助かる」

 

「出来ない事でも相談くらいはしなさい」

 

「おう」

 

「比企谷くん」

 

 生返事を繰り返していたところに、くいと袖を引かれたような感覚を感じた。

 振り返ると、コートの裾からこっそり顔を出した白い指が、申し訳程度に、しかしきっちりと俺の制服を摘んでいた。

 

「気をつけて」

 

「……」

 

 そのあまりに真剣な表情に、かえって恥ずかしさを覚えることもなく、さりとてこれ以上適当な言葉も出ない。おそらく同じように真面目な顔をしたつもりの、けれどもひょっとしたら間抜けな顔をしていたかもしれない俺は軽く首肯した。それを見てからようやく、か細い拘束は解かれた。

 

 寒色に張り詰めたの空気の中、柔らかな温度をはらんだ溜息を残して、雪ノ下雪乃は校舎の中へと消えていった。

 




だから睡眠を優先しろとあれほど…。


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■8話 今のはNOって意味だから

お気に入り400突破ありがとうございます。
さて、ここからは全国1,000万の葉山ファンに怯えながら書いていきますw
しかたないよ!八色だもの!


<<--- Side Iroha --->>

 

 

「くしっ」

 

 目を開いた瞬間、自らの失態に気付く。

 

 冷え切った身体には、嘆かわしい事に毛布が掛かっていなかった。

 

 見慣れた自室には既に朝を告げる光が充満している。力を失ったスマホが、朝の光に逆らうかのように、漆黒の画面を晒して目の前に転がっていた。

 立ち上げてロックを解除すれば、画面に現れたのは書きかけのメール。

 

 あて先には「先輩」の文字が鎮座し、本文は空っぽだ。特に文面が浮かばず、書いたり消したりを繰り返していたら、いつの間にか朝だった。

 

 冷気に当てられた関節をきしませて身体を起こす。ただでさえ低い寝起きの血圧は、台風もかくやという程にその勢力を増し──あああたま痛いぃぃ…。

 

 要約すると、目覚めはサイアクだった。

 

 出すアテのないメールを打ってたら寝落ちしましたー。以上!

 

「さっむ…」

 

 今更ながらエアコンにスイッチを入れ、煮え切らない温風に肩をさする。タイマーをかけていなかったせいで、家の中とは思えないくらいに寒い。

 

 風邪引いちゃったらまずいなー。

 先輩と居たらうつっちゃうかなー。

 

 気を揉みながら巡らせていた重たい視線が、ふいに視界に入ったものに縫いとめられた。半開きのまぶたに喝を入れてピントを合わせてみる。

 

 時計の短針が、8の数字に壁ドンする勢いで迫っていた。

 

「ひゃああっ!」

 

 可愛げの欠片もない悲鳴を上げ、パジャマのまま洗面所へ駆け込む。丁寧かつ迅速というハイレベルな洗顔をこなしつつ、この事態を招いた責任者を糾弾した。

 

「ママ! ママ! なんで起こしてくれないの!?」

 

 騒ぎ立てる自分の声がやけに家の中に響く。まるで家の中にはわたししか居ないみたいな──。その寒々しさに、遅れて状況を思い出した。

 

「あ、今日は…」

 

 うちのママは、看護士の仕事をしてる。夕べは夜勤から入ると言っていたから、今朝はわたし一人だったっけ。

 すっかり慣れた状況だけど、目覚ましを掛け損なうようなポカと被るアンラッキーは珍しい。

 

 え、パパ?

 パパは遠く福岡の空の下、愛する家族のために目下単身赴任中。最近は月に2,3回しか顔をあわせていないカンジかな。本当は毎週帰りたいってボヤいてるんだけど、ママの仕事の都合もあって、家族3人が揃うチャンスは案外少ない。

 みんなで会えないなら無理に帰ってこなくていいよね、とママに言われた時のパパの顔は、飼い主に捨てられた子犬みたいだったっけ。

 この話をすると、みんなうちの家庭における男女のパワーバランスを正しく理解してくれる。

 

 仲良しの女性二人に弄られる我が家のパパさん。男の子からみるとどう思うか分からないけど、少なくともうちのは愛されてる方だと思う。

 

 …なんかこれ、どこかで見た事のある配役のような?

 

 ともかく、パパはこの前帰ってきたばかりだし、しばらくはLINEくらいでしか顔をあわせる機会がないんじゃないかな。LINEで顔をあわせるって表現はおかしいって、先輩なら言いそうだなあ。でもみんなそう言うんだもん。日本語って柔軟だよね!

 

 

 言う事を聞かない髪にドライヤーを当て、必死にブローしつつちらりと時計に目をやる。時刻は8時の大台に乗ったところだ。これはちょっと食事をしている余裕ないかな…。

 朝のシャワーも浴びずに学校へ行くのは抵抗があるけど、曲がりなりにも生徒会長になった以上、人並みに遅刻するわけにもいかなくなっちゃって。

 

 どこぞの天才外科医のように、スピーディーかつ緻密な手つきでメイクを施していく。こう見えて、手先の器用さだけは自身があるんだよね。将来はカリスマメイクアップアーティスト、なんてどうだろう。いいね、うん、かっこいい。

 そんな妄想にふけりつつ、マスカラを当てる合間に紙パックの豆乳を啜る光景は、男の子が見たら何と言うだろうか。

 

「女の子は大変なんですよー、せんぱ…」

 

 いやいやいや。

 男子ってのは、世間一般の男子のことだし。

 特定の誰かさんに見られる予定は、まだ無いから。

 

 我ながら惚れ惚れする手つきで支度を終え、時計を見るとまだ20分を回っていない。電車が遅れなければぎりぎりセーフの時間。姿見の前で最終チェック。

 

「うーん…75点? でも仕方ない!」

 

 やっぱシャンプー抜きじゃ厳しいなー。髪のセットがちょっと微妙だけど、こだわっているのはミリ単位の違い。どうせ誰かさんはそこまで気がつかないよね。

 

 髪の上からふんわり巻いたマフラーで誤魔化しつつ、わたしは玄関から飛び出した。

 

 

* * *

 

 

「あ、そういえば…」

 

 本日のノルマを思い出したのは、電車に飛び乗って一息ついた後のことだった。

 

 葉山先輩に会って話をするんだっけ。

 うー、75点で会いたくないな~。

 明日でも良いんじゃないかな~。

 

 怠惰な自分が延期の提案をしてくる。最近まじめに頑張っているせいか、勤勉な自分はまだ眠りこけているみたい。でも、ここでずるずると延ばしてしまうとそのうち動けなくなりそうな気がする。

 何より昨日あれだけ気合を入れた自分がバカみたいだよね。だいたい、一度は私服込みの全力100%で玉砕してるんだし、今更ラッピングに気を遣うのもナンセンスっていうか。

 

「まっ、なるようになるかな」

 

 わたしの場合、基本的な合格基準をかなり高めに設定してある。だから75点と言えば、充分及第点と言っていい。その証拠に、同い年くらいの男子の視線が、いつも通りにちらちら向けられてる。てかあれ、うちの生徒じゃん。

 

 ほらね。男の子はいつだって、ヘアコーデの差なんか気にしてない。目が行くのは大きめに開いた首元や露出の多い太ももばっかり。うんまあ、アピールしてるんだから、狙い通りっちゃ狙い通りなんだけど…。

 正直、知らない人とかおじさんにサービスしたくてやってるわけじゃ、ないんだよなー。誰かさんは身体どころかまともにこっち見ないし…。

 

 くるりと背中を向け、自然な仕草で後ろ手にカバンを回す。露骨すぎる視線を遮断して満足すると、朝の失敗を忘れようと、横滑りする景色を無心になって眺めていた。

 

 

* * *

 

 

 遅刻寸前のこともあって、普段と少し客層の異なる電車から降りてみれば、時刻は8時40分。これなら学校まで走らなくても間に合うかな。さすがにこれ以上、セットを崩したくないよ…。

 

 一息ついて、今日の予定について思いを巡らせた。

 

 さて、葉山先輩と話をする、とは決めたけど。

 話すって、何を?

 

 今までなら、サッカー部へ行ってタオル片手にまとわり付くだけで楽しかった。でも今日は目的が違う。自分の気持ちを確かめるという、崇高な儀式だ。ある意味では告白以上に気を遣う、いわば決闘のような用向き。

そう、これは恋の鞘当なのだ!

 …あれ、それは違ったっけ?

 

 考えてみるといつかの告白以来、葉山先輩とはまともに話してなかった。生徒会という逃げ場…いつの間にか役目が逆転している気もするけれど…ともかく別の仕事があるおかげで、マネージャーの方は休職状態のままだし。

 

『お久しぶりですー、葉山先輩。じつは最近こっちのほうに顔出せてなかったのでー、たまにはマネージャーしようと思いましてー。あーソレわたしのこと忘れてたって顔ですねー! もー、ひ~ど~い~! (プンプン)』

 

 少し前までなら、これで何も問題は無かった。

「そんなことないよ、忙しいのに来てくれてありがとう」と葉山先輩に言葉を返される。わたしは気分よくマネージャーの真似事をし、適当に彼にコナをかけ、軽くあしらわれては別の方法を考える。

 それだけで、毎日がすごく楽しかった。

 

(なーんかアホの子みたいかも…)

 

 今のわたしには、それが悲しいくらい滑稽なやり取りにしか思えない。それもこれも全て、あんな言葉を聞かされたせいだ。

 その、熱い感情とは最も縁の無さそうな誰かさんが吐き出した言葉は、ただ傍らで漏れ聞いただけのわたしの価値観を()()()()()()に吹き飛ばしていった。

 

 『お前のそれは、本物じゃない』

 

 あの時確かに、そう言われた気がした。もともとわたしに向けられた言葉ではないのだから、そう聞こえたのは自分なりに思うところがあったというだけのこと。

 それでも、良かれと思ってやってきた事が、他人の一言がきっかけでここまで価値を失ってしまったのだ。その事実に、最近のわたしは一種の焦りのようなものを感じ続けていた。

 

 あれ以来、今までやってきた事のほとんどが、何より自分自身が、薄っぺらく感じてしまう。それに比べると、あの部室に居るひとはみんな、それぞれ中身は違うけれど──なんていうか、ギュッと詰まってる? そんな風に感じるのだ。

 これはもしかして、世に言うアイデンティティークライシスというものなのかな。

 

 アイデンティティーと言えば、葉山先輩だ。

 彼はパッと見、とてもよくできた人格者に見える。けど、観察し続けるうちに、自分というものが希薄なんじゃないかと感じる時がある。

 

 お決まりの会話程度なら、わたしは彼から返ってくるであろう言葉とその表情を、かなりの精度で予想できると思う。

 予測と言っても、彼個人への理解からくるものじゃなくて、例えるなら…そう、「女の子にとっての理想的な解答ってなんだろうね」みたいなガールズトークで披露し合う程度の、自分勝手な想像だ。

 そして彼はいつもその想像を裏切らない。少なくとも今まではそうだった。告白し、そして振られる時でさえ、流れ全てが、わたし自身が前もって予想したものと同じだったのだ。

 

(なんか、ヤダな…)

 

 彼は紳士的だと、みんな口を揃えて言う。でも、本気でぶつかってみて、初めて分かった。

 

 彼は紳士的ではあるが、人間的ではないのだ。

 

 話していると、こっちは真面目にやっているのに、いつの間にか演劇の舞台にでも立たされているような気分にさせられる。

 台本の読み合わせでもしているかのように、わたしは振られた。事前に用意されていた悲しげな表情で、断られた。舞台に酔っていられるうちはそれでもよかったけれど、わたしの酔いはもう、覚めてしまったから。

 

 素面に戻ってしまったわたしは、さて何と話しかけたらよいものか。やっぱり台本は用意しておくに越した事はない。とりあえず無難なところとして──

 

 一色いろは:告白なんてしなかったかのように振舞う。

 葉山隼人 :何も無かったことにして、爽やかな笑顔を見せる。

 

あるいは──

 

 一色いろは:振られたことを引きずってみせる。

 葉山隼人 :君にはもっといい人が見つかる、元気を出せと励ます。

 

 …よし、出来た。

 これが今日のストーリー。

 笑っちゃうほど安っぽい。

 

 でもたぶん、これが今までのわたし達の会話だ。

 

 足元に落ちていた視線を上げて見ると、既に校門は門限と共にすぐそこまで迫っていた。自然と足早になる周囲の生徒達に追い抜かれながら、すっと空気を鼻から吸い込む。冬の朝の空気は脳天を冷たく刺激し、覚醒しきっていない頭がクリアになっていくのを感じた。

 

 今日も二人が台本通りであったなら。

 

 わたしはもう、彼を好きで居続けることは、出来ないかもしれない。

 

 

* * *

 

 

 教室に着くと、もう時間には少しの猶予も無かった。椅子に座っていくらもしないうち、担任が教室へ姿を見せる。わたしの場合、出欠確認の開始が事実上のボーダーラインだ。チャイムの音を聞いて、彼が出席簿を開く。

 

「出席取るぞー。一色──」

 

「はい」

 

 髪の乱れを整えつつ、出席に返事を返した。

 あ行が豊富な場合を除き、かなりの確率で出席番号は1番か2番。これが名字次第では3分程度の余裕が生まれるのだから、ちょっと納得がいかない。それだけあればお手洗いくらい、寄れるっていうのに。

 

「田辺ー」

 

「はい」

 

「中原──」

 

(っ!!)

 

 弛緩していた意識にぐさりと刺さる名前が呼ばれた。我がおつむの、なんと軽いことか。今、この教室の中には、わたしの天敵がいるのではないか。

 そう言えば、昨日の一件以来、教室に入るのも彼と顔をあわせるのも初めてだった。自然と身体に力が入っていくのが分かる。

 

「──ああ、中原は欠席の連絡があった。んじゃ新堀ー」

 

「はーい」

 

 ハリネズミの如く張り詰めた鋭角な警戒も空しく、件の彼は教室に姿を現していなかった。コンパクトを使ってこっそり問題の席が空であることを確認し、ようやく身体の強張りをほぐす。ふと周囲に気を配ると、欠席した人物についての噂話が飛び交っているのが漏れ聞こえた。

 

(マジ逮捕されたんじゃねーの?)

 

(先生、知ってるのかな?)

 

(昨日の放課後、マジうけたよ)

 

(むしろ親バレして自宅監禁とか)

 

(それなー)

 

 この様子だと、昨日の出来事は既にクラス中の知るところとなっているようだった。そちらは予想の範疇だったけれど、意外な事に、その話の中に懸念していた要素が含まれていない。「ストーカー」という単語は出てくるものの、「一色さん」という単語が出てこないのだ。

 

(彼自体が悪目立ちしすぎて、誰が狙われているかは二の次になった、とか…?)

 

 それ自体は歓迎すべき状況ではあったけれど、見えない力が働いているような、何とも言えない不自然さに若干の違和感が残った。

 それでも、できる事と言えば、興味がない素振りを徹底するくらいだ。わたしは隠した口元でふぁーと小さくあくびの真似をしてみせた。

 

 

* * *

 

 

 午前の授業は空腹との戦いだったけれど、ダイエットだと思えば我慢できないほどでもなかった。お昼休みになって購買のサンドイッチを獲得し、ようやく堂々と飢えを満たしていたわたしの机に、ふっと影が落ちる。

 

 見上げれば、昨日中原くんを止めようとしてくれた男子生徒。たしか名前は…。

 名前は…。

 と、ともかく、その彼が何か言いたげな顔をしていたので、わたしは内心で恨み言を呟きつつ、食事を中断した。なんだか笑顔って気分でもなかったから、わりと無表情でもって、彼に対して小首を傾げて見せる。

 

「一色さん、昨日まじヤバかったね」

 

「ああ、うん。昨日はありがとう(名前なんだっけ?)」

 

 助けてくれたのは間違いないので素直にお礼を言うと、彼の顔にはパッと喜びの感情が広がった。

 

「いや別に。それより良かったら一緒に食わない?」

 

「え?」

 

 何度も言うのもアレだけど──わたしはそう、女友達が少ない。どれくらい少ないかは諸事情により言及を避けさせてもらうとして、最後にクラスメイトと机を囲んだランチの記憶となれば、年単位で遡る必要がある。

 生徒会に入ってからは仕事と称してそっちで食べたり、奉仕部にお邪魔したりしていたのだけど、今日は空腹に負けて、久しぶりに一人ご飯と洒落込んでいた。別に普段の先輩をマネしてみたいと思ったからとかじゃないから、ほんと。

 

 そんなわたしを、昨日の事もあってか良い意味でスルーしていた教室の空気をぶち壊し、彼はわたしを食事と言う名のお立ち台に誘ったのだ。

 

 はてさて。付き合ってもいない男女が二人きりで食事する姿を、若干アウェーな場所で披露するというのは、アリかナシか。

 更に言えば、わたしが立たされている微妙な状況、それを彼は誰よりも近くで目の当たりにし、知っているはずなのだ。女の子のいざこざにまで頭が回らないのはともかく、今のわたしがこの場における腫れ物である事くらいは察して欲しかった。

 もしかして、あれでお近づきになったつもりなのかな。こういう下心があってしたことだったなら、感謝して損したかも。

 

 いっそ無視してしまいたいくらいだったけれど、正直に断ったら逆に修羅場になりかねないのが男と女。二日続けて面倒なことだと内心ため息をつきながら、実に一般的で、強烈なお返事(カウンター)を返した。

 

「えと、なんで?」

 

「C組の山本ともメシ行ったんでしょ?俺ともいいかなって」

 

「えっと…」

 

 いやいや、理由を聞いてるんじゃないから。

 今のはNOって意味だから。

 OKならこんな返事するわけないじゃん。

 

 しかも理由が理由になってないよ。なにその、みんなやってるよーみたいな理屈。わたし、別に男子の共有物じゃないんだけど。

 てか、そもそもその話っていつの事だろ…。

 

 呆れて言葉を失っているわたしを見て困っていると思ったのか、傍で机を囲んでいた女子グループが見かねて口を挟んでくれた。

 

「ちょっとー、昨日みたいなのは勘弁してよね」

 

「はぁ? ち、ちげーし。あんなのと一緒にするとかムカつくわ。てかお前カンケーないし」

 

「この程度で熱くなるとかマジ予備軍じゃねー?」

 

 ねーっ、とグループ女子特有のユニゾン攻撃。男子には効果覿面なそれを受け、一人では勝ち目が薄いことを気取った彼は、忌々しげに顔をしかめる。ふと、その姿を見ていたわたしと目が合い、慌てて表情を取り繕おうとして失敗し、苦笑いで誤魔化してみせた。

 

「ごめん、悪いけど、一緒に食べる理由もないし」

 

 もうここまで来たらはっきり言わないとだめだろう。

そう思って告げた言葉は、しかし彼には届かなかったようで

 

「俺が一緒に食べたいんだけど、ダメかな」

 

 と一方的な要求を突きつけられてしまった。

 いつもだったらどう返していたっけな、と過去の実績に思いを馳せてみたけれど、今はやらなければならない事があったと思い出し、迅速に結論だけ答える事にした。

 

「うん、ダメ」

 

 引きつった声で、それでも乾いた笑いを貼り付けて「じゃあ、また今度」と後じさりする彼。次の機会が二度と来ないことを切に願いつつ、昼食を再開した。

 

 さすがに恩知らずかなとも思ったけれど、ヒュー、と口笛が聞こえてきて、見ればさっきフォローしてくれた子達が笑って手を振ってくれていた。「ありがとー」と手を振り返し、むぐむぐサンドイッチを頬張る。

 

 なんでもない顔をしつつ、神経と言う名のセンサーをこっそり周囲に張り巡らせてみれば、先ほどの彼女達はわたしの対応に驚きつつも賞賛しているようだった。

まあ確かに、いつもだったらにこぱースマイル(業務用)で「また今度ね♪」とあしらっていたはずなだけど。

 今は誰にでも笑顔を振りまく気じゃないんだってば。それで彼に嫌われるなら、別にそれでもいいし。どうでもいい相手のことまで気にしている余裕はないのだ。今はもっと大事なことに意識を割いていたいから。

 

 

 それにしても、さっきの彼女達を含め、今のところこの教室では、心配していたような"状況"が発生している様子はなかった。生徒会長に祭り上げられた時のような、あの悪意を内包した視線。そういったものは感じられない。

 だけど油断は禁物だ。彼女達はいわば中立。今のように味方になってくれることもたまにあるけれど、基本的には大多数の方針に沿って動く流動的なグループだ。

 ではその大多数はというと、残念ながらわたしとは非友好的な関係と言わざるを得ない。今も…ほら、距離を置いた島から露骨にならない程度の圧力でこっちを見張ってる。

 

 なぜ彼女達と敵対しているのかと言うと、やっぱりコトは男子絡みなんだよね。女同士の好き嫌いなんてのは大抵、根っ子のところに異性が絡んでるものだけど。だってさ、ただ相性が合わないだけなら、無関心でいれば済むはずでしょ? でも、異性に対して影響力を持っているコってのは、放っておけば自分の損失に繋がりかねない。だから攻撃してくるんだろうね。

 

 わたしと彼女達の間の一件も、たぶんどこにでもあるような話。グループの女の子が想いを寄せている相手に、わたしが手を出したとか、そんな程度のいさかいだった。実はそれについて一度、和解をしようと働きかけたことがあったんだけど──。

 彼女らが言う、ちょっかいを出された男子っていうのが、傍に寄ってくる男の子のうちのどれを指しているのか分からなかったんだよね。だからわたしは、彼女に向かってこんな風に切り出した。

 

「ねえ、それってどれのことかな?」

 

 …うん、わかってる。

 わたしが悪いよね、これは。

 

 わたしだって結衣先輩や雪ノ下先輩に、「それってどれのこと?」なんて言われたら思いっきり引っぱたいちゃうかもしれないし。あーいやいや、今のはものの例えだけどね。

 

 そんなわけで、彼女達にとっての一色いろはというのは、毎日違う男子の家から登校しているような、羽のようにお尻の軽いキャラクターとして認識されているみたい。

 

「もーまじで面倒なんですけど…」

 

 そう言えばお尻が軽いって褒め言葉にも聞こえるなぁ。重いって言われるよりマシな気がしてきた…。

 おっと、あまりの面倒くささに思考が逸れ始めてるよ。

 こういうのって、ちゃんとした彼氏が一人いれば全部解決するんだけどなー。その逆をずっとやってきたんだから、今の状況が自業自得なのは認めるけどさ…。

 

 いま頑張ってそのへんにちゃんとケジメつけようとしてるんじゃん!

 だから神様、さっきみたいな邪魔はもうしないでよね、お願いだから!

 

 あまり味わう余裕もないままに最後のサンドイッチの切れ端を口に放り込む。ゴミを片付け、野菜ジュースとスマホを左右の手に掲げ持つ。ようやく力が入るようになったお腹にぐっと気合を入れて、さあ、本題だ。

 

 メーラーを立ち上げ、首をひねりつつあれやこれやと文章を組み立てる。宛先はもちろん葉山先輩。どんな用事で呼び出したらいいんだろ。

 基本的にはいつも通り話をするだけだから、人に聞かれて困ることもないんだけど、戸部先輩(うるさいの)が居ても出来るかと言われちゃうと、やっぱり邪魔が入らないシチュエーションが欲しい。

 そうなると、どうしたって告白っぽい状況になってしまうワケで…ほんと、気の進まない作業だねこれは。

 

 

 気が付けば時計の長針は澱みなく先へと進み、メールの文面は相変わらずまっさらのまま。

 貴重なお昼休みをまるっと費やしたにも関わらず、都合の良い口実が思いつかないまま、自由時間は終わりを迎えようとしていた。

 

(ふぁー、もー、上手くいかないよぉー)

 

 今の段階でこんなに憂鬱なのだから、この後の展開も予想出来そうなものだったけれど、そうは言っても今更逃げられるものでもない。

 鼻息も荒く、ちうーっとジュースを吸い上げる。がぶ飲みしたい気分のところに、ちまちまとしか出てこないストローさえ恨めしい。

 

 これから会うのは、わたしの好きな人、なんだよね?

 なのになんなの、この気分…。

 

 恋人同士になりたくて、告白したはずだった。それが振られたからって、こんなに変わっちゃうものなの? 葉山先輩自身は、何も変わってないのに。

 

 頭をグシャグシャにかき回したい気分だったけど、ただでさえ微妙なセットだということを思い出して手が止まり、くしゃみを出しそこなったようなすわりの悪さだけが残る。

 悶々とするわたしの問いに応える相手はなく、空になった紙パックがふごっと間抜けな音を立てた。

 




この先の展開は角が立たない論理立てにするつもりですが、
場合によってはアンチヘイトのタグをつけるのも検討いたしますので、
ご意見のある方は是非ご一報くださいませ。ビクビク。


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■9話 それはきっと勘違い

一億二千万人がお待ちかね、IKE-MENさんのご登場です(滝汗)
アンチヘイトにならないように書いたつもりですが、ご意見ありましたらお聞かせ下さい。

だんだん字数が増えてる気がする…気のせい気のせい(白目)


 

 遠いカラスの声が寂寥感をあおる、放課後のクラブハウス裏。

 

 気の早い太陽が真っ先に家路へと向かい、ロケーションは夕焼けに染まってムード満点だ。グラウンドからの掛け声が木霊するこの場所に、わたしは呼び出した相手と相対していた。

 

 ここは告白スポットとしても特にメジャーで、正直かなりミスチョイスかもしれないと思ったけれど、人気が無いところに呼び出す時点でもうどこでも一緒だろうと思考放棄した結果、単純にサッカー部が活動をしているグラウンドに近い場所になってしまったのだった。

 

 最後までそれらしい口実が見つけられなかったわたしは、諦めてバカ正直に告げる事にした。心理的に浮ついた気分ではなかったから、それが余計に()()()口実だと思わなかった。

 

「お話したいことがあるので」

 

 伝言を頼むために呼び出した女子マネの子にそう告げたとき、彼女が浮かべた表情を確認する余裕も、今のわたしには無かった。

 

 

 長く伸びた建物の影に、表情を隠された一組の男女が向かい合う。

 

 呼び出されたその人は、髪に手串を通しながら佇んでいる。気だるげに斜に構えたその姿には、いまいち芯というものが感じられない。どこか頼りない居住まいのせいか、彼はいつもより2.5階級ほど格が下がって見えた。

 

 っていうか、ただの戸部先輩だった。

 

「いろはすー、ハナシって何なんー? つかここマジさみーんけど」

 

「チェンジで」

 

「ちょま、ひどくね!? いろはすがお呼びになったんしょーよー?」

 

 間髪を入れずに交換を申し出たわたしに対して、情けない声で戸部先輩が異議を申し立てる。

 

 ほんと、どうしてこうなったの?

 返して。わたしのシリアス返して。

 

「戸部先輩はお呼びじゃないです」

 

 オウム返ししただけなのに言い回しのヒドさが増している気がするけど、戸部先輩だからいいですよね。

 いろはす容赦ないわー、まじないわーとぼやく声がする。ったく…ないわーはこっちのセリフですよ。

 

「え、いやあるでしょー俺に。言わなきゃならんこと」

 

「は?」

 

 ないです。

 清々しいくらいにキレイさっぱりないです。

 ついでに言うと興味とか構ってる余裕とかもないです。

 

 微妙な沈黙が流れる。

 寒風が二人を撫で、わたしは「くちっ」とくしゃみをした。

 

葉山先輩を呼んで下さい( は   や   く   し   ろ  )

 

 なるべく内心の愚痴が漏れないようにフタをしつつ、にこぱっと笑う。そんなわたしを見て、どこか腑に落ちないような顔をする戸部先輩。その表情は、トボけているようには見えない。

 

 このひとは何でわたしから話があると思ったんだろう。少しだけ気になり始めたところで、「まいっかー」と襟足に溜まった長めの髪をバサつかせ、彼は口を開いた。

 

「あー、あのな、それなー…。いろはすー、やっぱそれ、やめといた方がよくね? まだ時期ソーローってかさー?」

 

「はあ…やっぱり戸部先輩が気を回したんですねー」

 

 なにかセクハラめいた単語が混じっていた気もするけど、要するにこのちゃらんぽらんな先輩は、わたしがまた懲りずに仕掛けてきたと勘違いをして、思い止まらせようとわざわざやってきたのだろう。

 頼まれてもいない恋愛ごとにわざわざ首を突っ込むあたり、お人好しというかお調子者というか余計なお世話焼きというかお邪魔虫というか…。

 あれー、やんわりホメたつもりなんだけどなー?

 

「ご心配なく。今日の用事はそういうんじゃないんで」

 

「マジでー? もう修羅場ったりしない? じーまー?」

 

「はい。おそらく。たぶん。きっと。あるいは…」

 

「ちょ、やめてくれよー、部活でまでとか、俺のセンサイな胃に穴あいちまうよー」

 

「ハッ」

 

 おっと、クスッと笑ったつもりが間違えて鼻で笑うカンジに…。どうも戸部先輩相手だと、必要以上に雑になっちゃうんだよね。とりあえず繊細という日本語には土下座して謝ってください。

 

「大丈夫ですよ、戸部先輩タフガイさんですから。胃かいようの10や20は」

 

「お、おう、そっか? サンキュ…いやないわー! 二ケタとかないわー!」

 

 わーわー騒がしい戸部先輩の背中を突き飛ばす勢いでぐいぐい押して、グラウンドへ送り返す。

 

 いいからとっとと連れてきて下さい。

 臨戦態勢を保つのって、結構キツいんですから。

 

 

* * *

 

 

 結局、葉山先輩が姿を現した頃には、すっかり日が沈んでしまっていた。ただでさえ薄暗かったこの場所は、色気を通り越して、寒気とか怖気(おぞけ)のようなものを醸し出している。

 

 白い息を漏らして、彼の方から口火が切られた。

 

「久しぶりだね、いろは」

 

「はい、ご無沙汰してます」

 

 振った振られたの男女というより、親戚同士の会話みたいだった。おかげで特に緊張もせず、用意していたセリフを続けられそう。

 

「いつぞやは、調子に乗って、どうもすみませんでした」

 

「ああ、いや、俺の方こそ…」

 

 俺の方こそ、何だろう。濁した言葉の後ろを覗き込んだところで、きっと何もありはしない。実際、葉山先輩に何か落ち度があったわけじゃないから。

 

 よく言えば日本人らしい、気の遣い方。

 悪く言えば葉山先輩らしい、おためごかし。

 

 あまりにいつも通り過ぎて、少し拍子抜けしながら先を続ける。

 

「で、話っていうのは何かな」

 

 一応プランは二つ用意してあったけど、どちらで行くかはその場で決めるつもりだった。

 

 プラン1、全部なかった事にして、明るく笑いあう。

 プラン2、やっぱり忘れられないと引きずり、その後の反応を伺う。

 

 何だかんだで一年近くは好きだった相手だ。会話している間に気持ちが刺激されて、やっぱり諦めないという選択肢が現れるかもしれない。もしもそうなった時は、その場の気持ちに正直に動くつもりでいた。

 けど、残念ながらわたしの乙女回路は、もうこの人とのやり取りに何の期待もしていないとでも言うように、沈黙を守っている。

 

「あ、はい。実はですねー」

 

 えへへーと頬をかきつつ、次の選択肢を選ぶ。次と言っても、もう実質最後になるかもしれない。プラン1からの自然消滅だ。

 生徒会が忙しくなったから、サッカー部に顔を出す機会が更に減るとかなんとか。それらしい言い訳をしてフェードアウトしていけば、わたし達の接点は薄れて無くなっていくと思う。

 

 『自分の恋が完全に終わろうとしているのに冷めたものだね』そう、頭の片隅から声が掛かる。

 『もともとそれが目的だった。これは予想していた展開だ』と、別のわたしが見栄を張る。

 

 結局、葉山隼人にとって、一色いろはというのは居ても居なくても変わらない存在だったのだろうか。

 

 これまで沢山の女の子が彼の気を引こうと努力し、儚く散っていった。わたし自身もそのうちの一人だろう。

 それは、まあ実際その通りでしかないんだけど。なんていうか、彼の記憶にその他大勢として埋まってしまうのは、気に入らない、かな。これでも、わたしはわたしなりに、プライドっていうのもあるし…。

 

 

「マネージャー、やめようと思いまして」

 

 

 …ん?

 

 あれあれ、台本にないセリフだなー。

 おーい、とちったの誰ですかー?

 わー、わたしじゃないですかー。

 

「ごめんなさい」

 

 まるでいつかの焼き直しのように、しかしキャストを入れ替えて、わたし達は向かい合っていた。折り目正しく深々と頭を下げたわたしと、棒立ちする葉山先輩。

 

 遠目に見ると誤解されかねない光景だけど、そこはそれ、なにしろ相手はあの葉山隼人だ。もしも噂が立つとしても、振られた下級生にしつこく言い寄られているといった程度だろう。

 いやはや、わたしは二度も振られた女として校内に名を馳せてしまうんでしょうか…。

 

 それにしても──どうしてこうなったんだろう。

 突然のアドリブに、身体が、脚が震えている。

 

 きっと、わたしは抵抗しているんだと思う。このまま台本どおりに会話が進めば、台本どおりにお別れするしかない。やはりわたしの恋は間違っていたと、認めるしかなくなっちゃう。それが悔しいから、しつこく足掻いているんだ。

 

「理由を聞いても良いかな」

 

 多少なりとも驚いたような表情の彼。しかしそれも想定の範囲内だと言わんばかりに、声色は相変わらず落ち着き払っていた。子供の自白を促す親のようなその口調がますます癇に障ったわたしは

 

「生徒会が忙しいからって事ではダメですか?」

 

 と、少しばかり反抗的な声を上げた。

 

「いや、ダメってことはないけど」

 

 わたしの声に含まれる僅かな怒気を感じ取ったのか、彼はあえて軽い感じに肩をすくめる。相手を落ち着かせるためであろう、いつものアルカイックスマイルと共に。

 

「それが理由なら、今まで通り、出来る範囲で参加してくれるだけでも構わないんだよ?」

 

 向けられただけで黄色い声をあげていたその笑顔。それも今は、ひたすらにわたしを苛立たせるだけのものだ。

 

「どうして止めるんですか?」

 

「そりゃ、一緒にやってきた仲間だし、今まで傍に居た人間が居なくなるのは、純粋に寂しいさ」

 

 あなたがそれを言うんですか。

 寄ってくる女の子みんなに、そう言うんですか。

 ふざけないで。

 女の子は、あなたのコレクションじゃない。

 

「葉山先輩がわたしを引き止める事が、どれだけ残酷なことか、分かってやってるんですか?」

 

「それは…」

 

 感情的に葉山先輩を責め続ける。

 頭の中がグシャグシャだ。

 すっかり血が上っているのが分かる。

 自分でも何言ってるか、分かんなくなってきた。

 

 半ば癇癪を起こし始めたわたしの中で、それでもどこか一箇所だけ、冷たく冴えている部分があった。そのわずかに残った、誰かさん曰くクレバーなわたしが、呆れたように言う。

 

 退部を引き止めて欲しいんじゃなかったの?

 どうせ彼が何を言ったって、食って掛かるつもりでしょ。

 引き止めなかったら、冷たいって責めるんでしょ。

 

 このまま口を開き続ければ、取り返しの付かないことになるかもしれない。いつもならそろそろ「…なーんて言ったらどうします?」と誤魔化しているところだ。

 だけど、こと今回に限っては、わたしはバカな女の子を貫こうと思う。これが葉山先輩絡みの案件だからなのか、それともあのひとの影響なのかはわからない。

 

 だけどもう、言わなきゃ収まらないんだもん!

 

 だったら我慢はやめだ。

 なるようになっちゃえ。

 言いたいことを全部、ぶちまけよう。

 結果としてどうなったとしても、その先にあるものは"本物"と呼べる気がするから。

 

「キャプテンとしての立場があるのは分かります。でも、相手の気持ちとか、考えないんですか?」

 

「…そりゃ考えるさ」

 

 浮かべていた笑顔を引っ込めた彼の表情は、いつかの夜とは少し違う。辛い時の表情はコレ、と言わんばかりだったあの時と比べ、幾分生々しいように思えた。なんだか、わたしの発言に苛立っている感じ。

 葉山先輩からそういう負の感情をぶつけられることはこれまで無かったし、もしもあったなら2,3日はテンションが地平スレスレまで落ち込んでいたと思う。だけど今は、ようやく彼と対話をしている実感のようなものを得ていた。

 

「でも、それならいろは、君はどういう俺を望む? 黙って見送ればいいのか? 俺としてはそれだって随分薄情な対応だと思うけど、君が望むならそうしよう」

 

「答えなんて知りません。正解があるかどうかもわかりません。ただ──」

 

 葉山先輩のそういうところ、優しさっていうものなんだって、思ってましたけど。

 

「その質問だけは、したらダメなヤツだと思います」

 

 どうして欲しいかと聞かれて、自分が望んだとおりの答えを貰う。それは、人間同士の会話とは呼べない。わたしはそれを、もう会話だとは思えない。

 

「だろうな。俺も本人に対して聞いたのなんて初めてだよ」

 

 どうやら葉山先輩自身、このやり取りはそれなりにイレギュラーな展開だったみたい。答えを聞きたかったんじゃなくて、その質問に対するわたしの反応を見たかったのだ。実はこの人、誰かさんと同じくらいのアマノジャクなんじゃないの?

 

「なら先輩にとってわたしは、少しは特別でしょうか?」

 

 特別。

 

 特別に腹の立つ女の子。

 特別に生意気な女の子。

 特別に可愛い女の子。

 

 どういう意味で特別か、それはもう意味を成さない事だった。なんでもいい、せめて最後に、どんな形であれ、この人に認めさせたかった。

 あまりに言葉足らずなわたしの質問だったけれど、その意図を葉山先輩はきちんと汲んでみせた。

 

「以前はどうだったかな。でも、今の君は違って見える」

 

「そうですか。…ありがとうございます」

 

「ありがとう、なんだね」

 

「わたしはそれ、いいことだと思いたいので」

 

「自分でそう言えるってことは、きっといい変化なんだろう」

 

 そんな君を失うのは心底残念だけど、と葉山先輩は零した。

 

「決心は固いみたいだね」

 

 これほど派手に当り散らしておいていまさら冗談ですと笑えるほど、わたしの心臓は毛深くない。きっかけは行き当たりばったりもいいところだったけど、正直な気持ちを吐き出してみて、しまった言い過ぎた、と思うようなことは無かった。

 もともとフェードアウトするつもりだったのだ。結果論かもしれないけれど、こちらの方が去り様としても礼儀に適っているのではないか。

 

「マネージャーも、もともと葉山先輩に近づきたくて始めた事でしたから。理由が無くなれば辞めるのは当然じゃないですかね」

 

「そう面と向って言われるとキツいな…」

 

「誰もが自分を好きになるだなんて、さすがにイタくないですか?」

 

 どの口が言うのかと、冷えて突っ張る顔に自嘲じみた笑いが浮かびかけた。

 

「そんな事思ってないさ。ただ──」

 

 真っ直ぐにわたしを見つめる葉山先輩。どこか遠いところを見据えるその目は、わたしを通り越し、違うものを見ようとしているみたい。

 

「誰からも好かれたい。そういう考えは誰しも持っているものじゃないか? 俺の知る限り…いろは、君だってそうだったはずだ」

 

 確かに、少なくともわたしは、そういうポリシーを持っていた。けど、本当に「誰もが」そうなんだろうか。

 数は要らない、本物の自分を理解してくれる人が居ればいい。彼が欲しがった"本物"とは、そういう意味ではないだろうか。

 

 不意に、さっき胸の中を駆け抜けた文句のひとつが思い起こされた。

 

『女の子は、あなたのコレクションじゃない』

 

 さて、男の子をコレクションしていたのは、誰だっただろうか。

 

 ああ、なるほど。

 そういうことだったんだ。

 

 

「…葉山先輩は、本気で人を好きになった事、ありますか?」

 

 少なくない負の感情が混じっていたわたしの声が、急に穏やかなものに変わる。

 少し眉を動かした葉山先輩は、頁の落丁みたいな話題の飛びっぷりに対して、それでもきちんとついてきた。

あるいはこういう展開になる事が分かっていたのかもしれない。

 

「…人並みには、あるつもりだ」

 

「それはきっと勘違いです」

 

 あまりに一方的な言葉に、彼はハトに豆鉄砲で撃たれたかのような顔をして、ポカンと口を開けていた。

 ずっとイエスマンだったわたしが、いきなり真正面から否定をぶつけたんですもんね。そんな顔になるのも無理ないです。さぞかし驚いたことでしょう。わたしも自分でちょおビックリですもん。いやーホント、我ながら何様なんでしょうね。

 

 でも、手加減はしてあげません。

 

 だって、気付いてしまったから。

 間違っていたことが、正しく分かってしまったから。

 

「わたしも葉山先輩も、そんな経験ないんですよ。なかったんです」

 

「どうしてそう言い切れる?」

 

 自信に満ちたわたしに怪訝そうに問う葉山先輩。

 今度こそはっきりと自嘲を浮かべて、わたしは答えた。

 

「でなければ出来ませんよ、誰彼かまわず、なんてことは」

 

 きっとわたし達は、どこか似ている。

 

 この苛立ちの正体は、おそらく同族嫌悪というモノだ。自分の足りないものを鏡越しに見ている気分になる。お前は間違っているのだと、客観的に見せつけられる。

 

「随分な言われ様だな。少なくとも俺は、そんなつもりはない」

 

 何をいまさら。

 わたし達のしていることは、世間ではそう評価されています。そう評価されている事を、わたし達は知っているはずですよ。

 

「葉山先輩は適当な女の子と遊んでいるとき、一番好きなひとに見られたらどうするとか、考えたことありますか?」

 

「彼女は俺になんて興味ないよ」

 

 彼女、と言った葉山先輩の表情は、誰か特定の人物を思い浮かべているように見えて、わたしはまたひとつ、彼の人間的な部分を見つけられた気がした。

 そしてその答えに感じた親近感に、自分の感情から刺々しさが抜けていくのが分かった。

 

「そう、それですよ。わたしとおんなじ」

 

「うん?」

 

「わたし達にとっての好きな人は、手の届くような相手じゃないんです」

 

 いつの間にか攻守が逆転している。小さな男の子でも相手しているかのように、わたしは立てた人差し指をくいっと傾けた。

 

「きっと葉山先輩の好きな人っていうのも、それはそれは凄いひとなんでしょうね。釣り合う人なんてそうそう居ないくらいには」

 

 うちの学校だと、例えば雪ノ下先輩みたいなイメージかな。うんうん、確かに誰かと手を繋いでいるところなんて想像も出来ない…。

 

「この話の流れで頷くと、俺もかなりのナルシストになってしまうんじゃないか?」

 

 あはっ、わたしの"お相手"だったわけですから、そこは自信持っていいと思いますよ?

 

「そんなスゴイ相手なら、もし振られても自分が劣っているわけじゃないって言い訳できます。それ以前に、高嶺の花って言葉は、告白する勇気が出ない自分を騙すのに最適ですし」

 

 根拠もなしに好き勝手を言うわたしの話を、葉山先輩は今まで見たことのないような表情で聞いていた。いつもの悟ったような笑顔ではなく、少し驚いたような、それでいて悪い事がバレた子供のような。

 

「まるで見てきたかのように言うんだな」

 

「ぜんぶ自分の事ですから」

 

 そしてあなたのことでもあります。

 

 そう目で語るわたしの顔を見て、葉山先輩はぴくりと眉を動かした。

 「でも」と、わたしは後ろ手に腕を組んで、"わたし達"の間違いを指摘する。

 

「そういうの、偶像(アイドル)って言うんじゃないですか?」

 

 わたしにとっての葉山先輩が何であるか、長い時間考えてきたけれど、この表現が一番しっくり来た。テレビの中に居るか、同じ学校の中にいるか。物理的な距離が近いせいかずっと勘違いしていたけれど、どちらもとても遠い存在なのだ。

 

「まあ、わたしはちょっと思うところがあって、無謀にも特攻をかけてしまったおバカさんですけど。おかげでそれが単なる幻だったってことには気付けました」

 

「その辺はまあ、何となく分かってはいたよ」

 

「はい。あの時、葉山先輩にもそれっぽいこと言われましたね。ですから、誰しも他人のことは良く見える、ということじゃないでしょうか」

 

 彼から見たわたしが人間・葉山隼人に恋をしているわけではないと気付けたように、わたしの目から見て、この人は等身大の相手に恋をしていないと確信した。

 

「君の目から見て、俺は真っ当な恋をしていない?」

 

「そう思います」

 

「なら今の君は、きちんと恋をしているってことかな」

 

「それはまあ、ノーコメントで♪」

 

 にぱっと笑って見せたわたしからふっと空に視線を逃がし、暗がりにも目立つ短い茶髪の頭を掻きながら、葉山先輩はバツの悪そうな苦笑いを浮かべた。

 

「やっぱり君は変わったよ」

 

 今までと少し違う色を帯びた彼の目に、わたしの胸はもうときめく事も苛立つ事もない。かわりに感じるのは少し奇妙な親近感だ。あれほど遠くに感じていた葉山先輩が、今はなんだかダメな弟にでも見えてくる。

 

「とても魅力的になった」

 

 なるほどー。ほんと、最近は驚くことばっかり。まさかイケメンに褒められて嬉しくないなんてこと、あるんだなー。これはあれかな、まさに弟に言われても仕方がない、みたいな?

 

「そういうのもういいですから」

 

 わたしの温度を含まない返しに、うぐっとうめく葉山先輩。

 おっ、これ一矢報いちゃったカンジです? 別に勝負ってわけじゃなかったけど、負けっぱなしはシャクだからね!

 

 ぶっちゃけ迷走しまくってたけど、今日の目的に関しては、胸を張っていい成果かな。考え過ぎたせいで、あとでゆっくり考えようと思ってた件にも、ついでに結論でちゃったカンジだけど…。

 

 わたしの本当に好きな人、とか。

 

 …とかとか。

 

 …はふぅ。

 

 興奮が冷めていくにつれ、だんだんと周囲に気が回るようになってきた。グラウンドにはライトが灯り、外気に冷やされた身体はすっかり固まっている。ぶるっとわたしが身体を振るわせたのをきっかけに、二人の間に漂っていた空気がガラリと変わった。

 

「ひとつ、聞いてもいいかな」

 

 いつものように…いやいつも以上に平坦なその声を聞いて、わたしはこの対話の終わりを感じた。できればラストは格好良く答えたいな。

 

「いいですよ。答えるかどうかは内容次第ですが」

 

「君を変えたのは、彼かい?」

 

 それは質問の体をなさない、不恰好な問いだ。だけどその不特定の誰かを指すための代名詞は、わたしにとある後姿を思い起こさせるものだった。

 彼の目もまた、その人物を指しているのだと言外に語っている。YESと答えても後からいくらでも誤魔化しが効く、彼らしい気を利かせた問いかけ。

 

 ほんと、こういうところは紳士ですね、葉山先輩。

 

 きっとこのひとに見せるのは、これが最後になるだろう。せめてもの餞別にと、こっそり気合を入れる。

 

 片目を閉じて人差し指は口元へ、顎を引けば目線は自然と下から上へ。自分が最高に可愛いと信じる本気のポーズをきっちり決めて、わたしはこう答えた。

 

「ナイショです♪」

 




ちょっと長くなりましたが、とりあえず一段落。
覚醒いろはすにはそろそろお砂糖を投下していかないとですね。
筆者は甘々なのが少し苦手なので、自分との戦いです。


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■10話 何のフォローにもなってない

懸念していた葉山の話が概ね好評だったので安心しました。
順調に伸びて気が付けばお気に入り700!ありがとうございます。
テンション上がったので筆も進み、早めの投稿です。


「うう…さ、さむい…」

 

 吹きっさらしの決闘場からなんとか生還したわたしは、校内に設置された自販機の傍に行儀悪くしゃがみ込んでいた。

 

 場末のサラリーマンよろしく、黄色い缶を両手でもってちびちびと口に運ぶ。既に外は真っ暗ではあるけれど、単に日が沈むのが早いだけで、まだそれほど遅い時間でもなかったのだろう。グラウンドからは相変わらず気合いを入れるような掛け声が聞こえてくる。

 随分長い間やり合っていたような気がしていただけに、ちょっと拍子抜けしてしまった。

 

 あれから一言二言だけ交わし、わたしは丁寧に頭を下げて先にその場から立ち去った。残された葉山先輩が最後にどんな顔をしていたか、暗がりのせいでよく分からなかったけど、少なくとも、今のわたしの顔はとても見せられたものではない。結果的に、あの場所を選んだのは正解だったのかもしれない。

 

 今はとりあえず、無性に甘いコーヒーが飲みたかった。

 

 それにしても甘いなぁ、これ。

 甘過ぎて、涙が出てくる…。

 

「頑張ったなー、わたし…」

 

 泣くほど甘いその缶が空になる頃には、涙腺も元通り。コンパクトを覗いてみたけれど、さすがに昨日ほど酷いことにはなっていなかった。

 

「…うん、OK」

 

 目元のフォローをしているうちに、気持ちもすっかり落ち着いたみたい。缶をゴミ箱に捨てようかと思ったけど、何となく気が変わって水飲み場へと持っていった。

綺麗にゆすいで水を切り、ハンカチに包んでカバンの中へ。

 昨日のは貰う前に先輩に捨てられちゃったからねー。

何に使うかって? ぜんぜん大したことじゃないですよ、ほんと。

 

「さって、これからどうしよっかなー」

 

 無事──でもないけど、当初の目的を果たしてしまった今、奉仕部に思いを巡らせるわたしを咎める声はもう聞こえてこない。

 

 葉山先輩との会話の流れからすると、今のわたしは真っ当に恋をしている、ということらしい。でもそれは、あくまでも理屈の上でのハナシだ。

 事実として受け入れる覚悟はしてるつもり。けど、感情としてはまだちょっと、恋という実感には達してないと思う。そう気安く切り替えられるものでもないだろうし、その辺は…それこそなるようになれってカンジかな。

 

 今はとにかく、話がしたい。

 

 声が聞きたい。

 

 生まれ変わったわたしは、自分の願望に素直ないろは。

 

「ま、まあ、どうせ一緒に帰らなきゃだしね!」

 

 決意も新たに口から出た最初の言葉は、みっともない言い訳だった。

 

 あーあー、心の声なんて聞こえませーん。

 

 廊下の窓ガラス相手にえへへっと照れ隠しをすれば、間抜けな半笑いの自分が映る。でも、今だけは少しくらい緩くたっていいかな、と思えた。

 

 ぼーっと自分の姿を眺めているうち、その先にある中庭へと意識がシフトしていく。校舎に四方を囲まれた空間は季節柄その彩をすっかり失っていて、生徒の姿もない。愛すべきあの部屋はといえば、残念ながらこの角度からは見えなかった。

 

 中庭を挟んだ向かいの校舎を眺めていると、ふと見覚えのある姿が視界の隅に入ってきた。お昼に声をかけてきたクラスメイトの男子だ。

 キョロキョロと辺りを見回すその様子は、人を探しているように見える。わたしは咄嗟に身をかがめ、冷たく冷えきった廊下の壁に背を付けていた。別にわたしを探していると決まったわけでもないんだけど…。

 

「あのひとも、ちょっと苦手だなぁ(名前なんだっけ)」

 

 一世一代の悩み事に心を砕いているところなのに、さっきからなんなのだ、空気読め。

 

 まったく、今日は色んな意味でストレス過多な日だ。

 こんなの美容にも良いコトないのに。

 

「あ、なんか…頭まで痛くなってきた気がする…」

 

 ああ、だめだね。

 これはもう、お薬が必要だね。

 ほら、ちょっと思い浮かべただけで、少し痛みが引いてきたもん。

 

 つられて頬がじんと熱くなってくる。冷え性の手でぺたぺたとクールダウンしつつ、そのよく効く薬を備えているはずの場所へと、わたしは足を向けた。

 

 

* * *

 

 

「こんにちはー!」

 

 悩みに痛む頭を抱えて開けた扉は保健室──なんかではもちろんなくて。

 

「やっはろーぉ。待ってたよー」

 

「今日は遅かったのね」

 

「ちょっと野暮用がありまして」

 

 わたしを迎えてくれたのは、まるで正式な仲間に向けられるような親しげな声だった。

 

 色恋とはまた違った柔らかい気持ちにほにゃっと頬が緩む。温度以外にも感じる空気の暖かさは、抜けきっていなかった身体の力を取り除いていくよう。

 

 訪れた奉仕部の部室の中央には、でんと置かれた長机。その片側には、魅力的かつ対照的な二人の女の子が紅茶を囲んでいる。反対側にいつも陣取っているはずの人物は、残念ながら部屋の中には見当たらない。片方だけ人口密度の高くなったその光景は、どこかバランスの悪いシーソーを思わせた。

 

 今日はまだ来ていないのかぁ。

 まさか休みとか言わないよね?

 うぅ、気になる…。

 

「そのうち来るんじゃないかしら」

 

 わたしが視線を巡らせていたのは、時間にすればコンマ数秒足らず。だというのにその行方は、文庫本に目を落していたはずの雪ノ下先輩にバッチリ捕捉されていた。

 

「何のことですかー?」

 

「いえ、誰かを気にしていたようだったから」

 

「別に先輩のことなんて気にしてませんけど?」

 

「あら、私は依頼人の事を言ったつもりだけれど」

 

「うぐ…」

 

 い、依頼なんて滅多に来ないくせにー!

 ダメだ、とても口で適う相手じゃない…。

 

 珍しく悪戯めいた笑みを微かに浮かべる彼女は、同性のわたしから見ても魅力的だ。一色いろはという素材をいくら磨いたところでこの輝きは得られないだろうと思うと、少しだけ気分が下を向いた。

 

「ん~むぅ…」

 

 長机に突っ伏し顔だけこちらを向けてうなっているのは結衣先輩。口では重々しさをアピールしているつもりのようだけれど、その姿はきゅーん、と鳴く子犬のように愛らしい。

 しかし、机と身体に挟まれて潰れている圧倒的な物体の存在感は、子犬なんて可愛げのあるものじゃない。そして今日はおまけでもう二つほど丸いもの──ぷっくりと膨らんだほっぺがくっついていた。

 

 何かの不満を表しているのか、それともお菓子がたんと詰まっているからなのか。もごもごと動くそれを見て、どうやら後者のようだと安心していたら、彼女は急に妙なことを言ってきた。

 

「…いろはちゃんさ、何かあった?」

 

「ふぇっ?!」

 

 あうち。

 先輩が居たら、その反応あざといとか言われそうな声が出ちゃった。頑張って続けてたせいで、こういうリアクション、もう身体に染み付いてるんだよね。そういう意味ではほんとに素なんだけど、直した方がいいのかな…。

 

「な、何か、とおっしゃいますと?」

 

「ん~? なんかねー、今日のいろはちゃん、ちょっと雰囲気違うかなって」

 

 腰掛けようとしていた身体がビクッと跳ね、ぶつかったパイプ椅子がガタリと大きな音を立てた。

 

 え、なに、わたしそんなに分かりやすいですか?

 ちょっと先輩の椅子みてただけなんだけど…。

 

 マズいなー、さっきの今だから、なにか顔に出ちゃってるのかな。女の勘って、自分が向けられるとほんと恐いんだよね…。結衣先輩も普段はあんな緩そうなのに、さすがにこういうのには鼻が利くなぁ。

 

「あっ、あれですかねー、今朝バタバタしてて、髪がうまく決まらなかったんで…」

 

「んー、そーゆーのじゃなくてねー?」

 

 雪ノ下先輩になら通じたかもしれない適当な言い訳は、もちろん結衣先輩には通用しなかった。普段快活な彼女がのそっと身体を起こして立ち上がる姿は、どこか異様な圧迫感がある。

 ゆさりと揺れる胸元についつい視線を奪われていると、目の前まで来た彼女は「ふーむ」と顎に手を当て、わたしの目を見つめてきた。

 

「な、なにかいつもと違いますかね…?」

 

「うん、目がね。なんか湿っぽい…じゃなくて、水っぽい…でもなくて…」

 

 え、ちょっと、なんかヒドくないですかそれ…。さっきダメージ受けた目元なら、もう直してあるはずなんだけど。結衣先輩の基準だとNGなのかな。やだなー、女子力負けてるのかなー?

 

「もしかして潤んでいる、と言いたいのかしら」

 

「そうそれ! うるるっとしてて、なんか色っぽい!」

 

「はあ、そうなんですか?」

 

 うるるはたぶんどこかのエアコンだと思いますけど、なんだー、よかったー。水っぽいとか言われても、どう直したらいいか分からないし。

 

 確かに、涙ぐんだりぽーっとなったり、今日は忙しかったからなぁ…。

 涙腺がゆるゆるなのもさもありなん、と本日の過去ログを頭の中で順に辿っていると、キスでもしかねない距離まで迫った結衣先輩が、わたしの目を無遠慮に覗き続けていた。

 

「ちょ…結衣先輩、ち、近いです…!」

 

「こらこらー、逃げないの。…なんか顔も赤くない?」

 

「こんな近づかれたら赤くもなります!」

 

「ちょっと由比ヶ浜さん、そのくらいに…」

 

 鼻息荒く迫ってくる結衣先輩ともみ合っていると、部室の戸口ががらりと開かれた。

 

 「うっす」という聞きなれた低い声と共に、男子の登場で女子の香りに満ちていた空気がかき乱され、飛び交う黄色い嬌声がぴたりと止まる。ちょっとした時間の空白が生まれ、視線は無遠慮な闖入者に集まった。

 

 冷蔵庫に残った魚の干物のような目を若干見開いて、現れた先輩はその場で固まっている。彼の視線を辿ってみれば、大きく脚を開いて椅子に座ったわたしと、そこに半ば馬乗りになった結衣先輩。暴れた拍子に二人の制服がはだけ、おまけに何の偶然か、彼女の手はわたしの胸の辺りに。

 

 彼の顔色が気になってそっと振り返る。

 そこには最初から誰も来なかったと言わんばかりに閉じられた扉があった。ゆっりゆっらっらっら…と廊下から聞こえてくる調子っぱずれの歌声。わたしと結衣先輩は顔を見合わせ──

 

「ちょっ、ちがっ、ちがうからぁ!!」

「なに歌ってんですかぶちますよぉ!?」

 

 

* * *

 

 

「…何か、悪かったな。その、いろいろと」

 

 顔を赤くした女の子二人がかりで部室へ引っ張り込まれた先輩は、いつも以上に不振な素振りで目を泳がせていた。

 

「謝られるようなことないから! なにもないから!」

 

「あら、謝罪くらい聞いてあげたら? 彼が色々と悪いのは事実なのだから。間とか、目つきとか、意地とか…あと手癖もだったかしら?」

 

「お前が全部言っちゃうのかよ。自虐の余地くらい残しとけ」

 

 いきなり始まった雪ノ下先輩との漫才に、なんとかいつもの調子を気を取り戻したみたい。そんな先輩を見ていたら、わたしの頭痛もだんだんと消えていくようだった。やっぱ効果あるんだよなあ…。

 本格的に常備について検討しようか迷っていると、ふと真っ先にすべき事を思い出した。

 

「先輩、ちょっといいですか」

 

「良くな──待て聞け、良くない良くない!」

 

 返事を待たずにぐいぐい腕を引いて、再び廊下へと連れ出す。不思議そうな顔で追いかける結衣先輩の視線を扉でシャットアウトし、先輩と向かい合った。

 

「折角(ぬく)いオアシスに辿り着いたってのに…」

 

「実はわたし、先輩にひとつ謝らなければいけない事があります」

 

「な、なんだ改まって…うっかり昨日の事を通報しちゃいましたてへぺろっ☆とか言うなよ?」

 

「それはまだなんで、安心してください」

 

「だったら安心を阻害する単語を含ませるのやめてね」

 

ところでそのバカっぽい偽ギャル、まさかわたしじゃありませんよね? 確認の意味でにっこり笑いかけたら、なぜか先輩は頬をヒクつかせてたじろいだ。

 

「冗談はさておき」

 

 こほんと可愛く咳払い。

 居住まいを直して、先輩に向き直る。

 今この瞬間は、真面目な顔が似合うだろう。

 このひとには、一番最初に言っておきたい。

 

「わたし、サッカー部のマネージャーを辞めました」

 

 

 さっきまで聞こえていたランニングの掛け声も折り悪く途絶え、廊下に沈黙の幕が降りる。何も言わない先輩の視線に心地の悪さ…もとい居心地の悪さを感じて口を開きかけると

 

「…そうか」

 

 わたしの言葉の意味をかみ締めるように、彼は眉根を寄せて目を細めた。

 

 暇になったわたしに、ますます振り回される未来でも想像でもしてるのかな。

 どうぞご心配なく。その想像、ちゃんと叶えて差し上げますからね♪ てか、こういう時でもないと、このひと目も合わせてくれないんですよねー。折角のチャンスだし、胸がドキドキうるさいけど、ここはガン見で受けて立っちゃいますよー?

 

「なんだ、その…すまなかった……」

 

「え…」

 

 鉛のように重く沈んだその声を聞いて、わたしは我に返った。

 

 改めて見てみれば、彼の目には後悔や自責といった色の感情が浮かんでいる。調子に乗って騒ぎ立てる心臓に、思いきり冷水を浴びせられたような気がした。

 

 何を浮かれていたのだろうか。少し考えれば分かる、簡単なことなのに。

 

 先輩は、本当の意味でわたしに生徒会長を勧めてくれた、この学校でただひとりの人物だ。その意図がどうであれ、二束のわらじを勧めてきたのだってこのひとだ。

 納得して彼の口車に乗った? そんなのわたしにしか分からないことだ。何の慰めにもならない。やめておけば良かったっていう甘ったれた顔を、何度も何度も彼の前で見せてきた。

 だとしたら、さっきの言葉は、先輩にはこう聞こえたのではないか。

 

 お前のせいで部活をやめるハメになった、と。

 

「それ、完了形なのか? 相談じゃなく」

 

 続く彼の言葉は、遅すぎたわたしの思考を肯定するものだった。明らかに、何とかしようとしている。

 

 色々気持ちに整理が付いて、物事の優先順位もハッキリしてきて。だから自分の選択を誰よりも先に聞いて欲しいと思っただけだった。

 わたしの今の気持ちはまだ伝わらなくてもいい。ただ、わたしは動き出しましたと、宣言したかっただけなのに。

 

「もう退部届けは出しちまったのか?」

 

「え?あ、はい、さっき葉山先輩に…じゃなくてっ」

 

 まずいまずいまずい。

 早く言わなきゃ。誤解とかなきゃ。

 

 ちがいます、そうじゃないんです。

 そういうつもりでお話ししたんじゃないんです。

 わたしは感謝してるんです。

 だから先輩の責任なんかじゃないんです。

 むしろ先輩のおかげですから。

 

「…そっ…あの、だ、だから…っ」

 

 どれでもいいから早く言うのっ!

 何を言ったって、きっと受け止めてくれるから!

 メチャクチャでもいいから、まず気持ちを声に出さないとっ!

 

「むっ、むしろ先輩の責任なんですからっ!」

 

 ひいいいぃぃっ!?

 だからってそれ混ぜたらダメでしょぉぉおおっ!?

 

「あ、うん…。そうね…やっぱそうですよねー」

 

 おや…? 先輩の様子が…。

 ちょっと、笑ってる?

 

 これはもしかして、ケガの功名というヤツではないですか? 責任にかこつけて無理難題っていう、いつもの流れだと思ってくれてるっぽい…。

 大チャンス! これぞ日ごろの行いのタマモノだね! よーしこのまま押し切っちゃおう☆

 

「これで葉山先輩に頼るって手段が、かんっっぜんに! 使えなくなっちゃいましたね? なので、先輩には彼氏の件、今後ともよろしくお願いしますね♪ サッカー部でもなくなったわたしじゃ、もう葉山先輩は頼れませんし。イヤとは言わせませんよー、イヤとは」

 

 一息に言って、空気を変えるようにぺちっと両手を合わせる。とどめに得意のにっこりスマイルで…どうだー!

 先輩にも笑って欲しいと思って作ったその表情は、いつもの営業スマイルと違う手応えだったけれど、それなりには効果があったみたい。彼はちゃんといつもの苦笑いを返してくれた。

 

「超イヤなんですけど…」

 

 はー、焦った…でも、もう大丈夫かな。「イヤよイヤよも好きのうち」は先輩のための言葉だって、わたしの辞書にはちゃんと書いてありますからね。

 この不真面目さが顔を出したなら、シリアスシーンは終了ってこと。あやうく「償い」とか「責任」とか、重たい空気になるところだった…。

 そういうのは、もっと面白おかしいシチュエーションで、わたしの方から求め──けほけほ。

 

 

* * *

 

 

 長話を終えて部室に戻ると、待ちぼうけにされていた二人から強烈な視線で迎えられた。わたしと共にその追求光線に晒された先輩は、さっきのやりとりを実に簡潔な一言でまとめた。

 

「一色、部活辞めるってよ」

 

 どこかで聞いた様なフレーズに、しばし呆然とする待ち人ふたり。辞めるっていうか、もう辞めたんですけどね。

 

「笑いを取るような話ではないわね」

 

 キリッと睨みつける雪ノ下先輩を、まあまあとわたしがお諌めする。変に重苦しくされるより、笑って欲しいんだけどなー。

 

「…それで、なぜ彼に報告を?」

 

 雪ノ下先輩の傍に立った結衣先輩はコメントも無く、やけに沈痛な面持ちをしている。

 

 えと、こっちでもこういう空気になっちゃうの…?

思ってた以上に、女性陣もわたしを気にしてくれてたってことなんだけど…。女の子に心配してもらうの、なんか久し振りすぎてじーんときゃうな──って、感動してる場合じゃなかった。

 

「んと、先輩には色々ご迷惑をお掛けしましたし。ほらわたし、両方うまくやってみせる、みたいなノリで始めたじゃないですかー。その手前、お恥ずかしいと言いますかー、なんと言いますかー」

 

 なるべく明るく聞こえるように、あはっと笑ってみせる。

 

「だってー、もともと葉山先輩目当てで入った部活ですよ?そんなトコ振られた後もいられるワケないじゃないですかー」

 

「そういやお前、まだ頑張るとか言ってなかったっけ?」

 

 まーた余計な事を覚えてますね、このひとは。あの時はまだ本気の相手を勘違いしてただけなんです! だからウソはついてません。

 

「もちろん恋は頑張りますよ? 乙女ですから。頑張る方向が少し変わっただけです」

 

 なので気にしないで下さい、と巻きついてしまった責任という名の鎖をせっせと取り払う。

 

 むふふー、だがしかーし。

 一度気に病んでしまった心というのは、そうそうすんなり自由にならないもの! そこで活躍するのが女子の108の奥義のひとつ。すなわち「もぉ、気にしなくていいって言ってるのに~♪」なのです。

 

 言葉とは裏腹にその古傷を抉るようなこの技は、関係をしば…深めるのにとても有効なんだとか。ソースはうちのママ。言われるパパは、確かにいつも満更でもなさそうな顔でママに奉仕してる。もしかしたら、これもWIN×WINっていうものなのかも。

 

「そ、そうなの…? よく分からんけど…お前がいいならいいんだけど…」

 

「はい♪」

 

 えへへ、これでまずひとつ、種を仕込みましたよ?

 とは言えあんまり軽々しいと、浮気っぽい女の子に見えるかな。でも重い女と思われたくもないし…。

 ううん、浮気性なのか一途なのか、それが決まるのってこれからでしょ。時間が解決してくれる問題もあるってことだね。

 

 

「…いろはちゃん」

 

 小さな、けれどどこか思いつめたような声がわたしを呼ぶ。

 

 …ですよね。

 こんなの、あなたは黙って見過ごすわけにはいきませんよね、結衣先輩。わたし自身よりも先に、わたしの気持ちを見抜いてたかもしれない、あなたなら。

 

 ちょいちょいと胸元で小さく手招きする彼女の元へと、息をのんで近づく。その目はいつもと異なる感情を宿しているように感じた。

 

 そう、言うなればこれは、女の目。

 きっと今のわたしも、似たような目をしているんだろう。

 

「それ、やっぱそういうこと、なのかな…?」

 

 それは核心を真っ直ぐに捉える言葉だった。葉山先輩のやり取りとも似た、ふわふわしているくせに致命的なまでに鋭い槍。

 

「…っ」

 

 一瞬だけ、答えに迷ってしまった。

 

 この手の修羅場に慣れている身として、考えを巡らせる。ここで正直に彼女に話すことに、何かメリットはあるのか。

 デメリットだけは、これまでの経験から嫌というほど思い浮かんだ。このひと達に嫌われるかもしれないと考えたら、どうしても身体が震えてくる。この部屋の暖かさに慣れてしまった今のわたしに耐えられるだろうか。

 

 けど、いま逃げたらこの先ずっと、ここの空気に潰され続ける。この部屋で何をしても、絶対に勝てなくなってしまう。自分の答えはもう出ているのだから。

 

 結論を得たわたしは、挑戦の意志を瞳に込めて答えた。

 

「ご想像にお任せします」

 

 散々かっこつけておいて、なんなんでしょうねーこのチキン。

 

 だってだって! 結衣先輩の目力、ちょおヤバいんだもん…。いいの! これ女子言葉ではYESなの!

 

 ちらりともう一人の守護者(ガーディアン)へ目をやったけれど、そちらは全くの自然体。相変わらず優雅な手つきで紅茶を口に運んでいるだけだった。

 

 気にならないのかな…。

 あ、よく見たらティーカップ空ですね。ぜんぜん自然じゃなかったです。

 

 じっとりと重いような、もしくは逆に乾いた風が吹き抜けるような、独特の空気感。沢山の女子に囲まれるよりもずっと緊張するけど、わたしの意地にかけて逃げ出したりはしない。

 

「そっか…」

 

 わたしの言葉を受け、結衣先輩はすっとその長い睫毛を伏せる。じっと身を固めていたけれど、再び目を開いたときの彼女は、いつもの彼女に戻っていた。

 にひっと人懐っこい笑顔を浮かべてわたしの元に歩み寄った。

 

「いろはちゃんて、意外と趣味悪いんだね♪」

 

「そっくりそのままお返しします♪」

 

 生意気にもニッと笑い返してみせる。

 現時点で周回差をつけられているわたしの、精一杯の強がりだった。そんな風に目で語り合うわたし達に置いてけぼりを食らった先輩が、

 

「え、なんでそれで会話成立すんの? 男には聞き取れない帯域で通信してるの?」

 

 と目を白黒させていたので、おかしくなってちょっと笑ってしまった。

 

「ふふっ、そういうんじゃないですよ」

 

「うんうん、ヒッキーだから内緒♪」

 

「いやそれ何のフォローにもなってないから。むしろピンポイントに悪化してるから」

 

 ふてくされる先輩に愛しげな──今ならはっきりとわかる、そんな視線をちらりと送る結衣先輩。いつもの柔らかな目尻を少し引きあげ、私の肩をポンと叩いた。

 

 同じように趣味の悪いもの同士、仲良く出来たらいいんだけど。それでもいつかは、恨みあってしまうんだろうか。大事なものを大事な人と分け合えたらいいのになあ。

 

 沈黙を守っていたもう一人の先輩を盗み見ると、彼女もいつも通りの仕草で紅茶を淹れ直していた。皮肉の一つも言ってこないその心情は計ることができないけれど、さっき一瞬感じた重たい空気はまたいつも通り動き出した彼女達によって攪拌され、いつの間にか消えていた。

 

「先輩って、真っ二つに切ったら二人に増えたりしませんかね?」

 

「お前らさっき拷問方法でも検討してたの? ほんとに趣味悪いな…」

 

 ついポロっと本音が出てしまったわたしに、なんとも失礼な目を向けて不安がる先輩。二人で一緒にそんな彼を弄っている時間は、ずっと続けばいいと思えるほどに、楽しいひと時だった。

 




おかげさまでもう10話です。
0話は…扱いが微妙ですよね…。書き直したいわぁ。
ぼちぼち章立てをすべきなのかも。


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■11話 つまり可愛いってこと

皆様お久しぶりです。今年もよろしくお願いします。
しばらく時間が空いたのでタッチが変わってるかもしれませんが、そこはご愛嬌ということで。
少なくとも今回の続きだけは、なるべく引っ張らないようにしたいものです。


<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「先輩って、真っ二つに切ったら二人に増えたりしませんかね?」

 

 俺の袖をカーディガンからちょこんと出した指でくいくいっとする後輩の物欲しげな目。「再生してみせろよこのウズムシ♪」と勝手にアテレコし、いい感じ…いや駄目な感じにゾクゾクしてみた。

 

 古くは日本で行われていたと言う牛裂き──要するに牛による大岡裁きのことだが、もしやそれを提案されているのではと、俺はこっそりタマヒュンしてしまった。

 

 裂けちゃう八幡。なにそれどこのチーズだよ売れねえよ。

 

 俺の身体はマジックカットじゃないので、どちら側のどこからも切れたりはしない。いや本家のほうもわりとそんな感じだったっけか。弁当に入ってるヤツの切れそうで切れない感ときたら、「マジでカッとなる」の略だとしか思えない。

 どうしてわざわざ揚げ物の傍にそっと添えるの? なりたけのギタギタにでも張り合ってるの? ご飯の横に置いたらいいじゃない、心配しなくてもご飯にソースかける馬鹿は居ねえよと、そう思うのは俺だけではないはずだ。

 

「ホントはもっとお話してたいんですけど、わたしちょっとだけお仕事があるのでー」

 

 飲んだ後に仕事をして帰るとか抜かすブラックOLのようなセリフをのたまった一色は、

 

「じゃ、先輩。あとで顔出しますので。あっ、帰ったりしたら酷いですよ?」

 

 そう言って何度かこちらに振り返りつつ、胸元でこちらにぐっぱーしてから去っていった。

 

 袖から顔を出した細い指がにぎにぎされる様子は、あどけなさと可愛らしさをミリ単位で計ったような仕草だ。でもその「酷いですよ」は「酷い人だと思っちゃいますよ」ではなくて、「酷い目に遭わせますよ」なんだろうな…。

 そう思うとどんな顔をしていいのか分からず、結局口をへの字に結ぶしかなかった。

 

 そう言えば、今日もあいつと一緒に帰るのだったか。ものの弾みで二人きりになるのとは明らかに異なる、明確な予定。若干もにょい気分にもなろうというものだ。

 

 まあ、嬉しくないことがないこともなくない、と思う。

 

 例えばこれがテレビ番組の企画と分かっていても、アイドルとご一緒させて貰えるなら、誰だって首やら鼻の下やらをニョキニョキと伸ばして約束の刻限を待つことだろう。加えてビジネスライクな関係であることがハッキリしているからなのか、俺自身、思っていたほど辛く苦しいということはなかった。

 

 一色は俺に身の安全を保障してもらい、俺は自身の安全のために事態解決のための立場を得る──。あれ、これWIN×WINじゃなくない? いろはすの2WINじゃない? 3本勝負ならもう俺の負けじゃない?

 

 勝ち負けはともかく、一色自身がご当地アイドルくらいなら務まってしまいそうなレベルなのがまた、実に度し難い。CBA48くらいならセンター狙えちゃうかもしれない。でも炎上しやすそうなキャラクターだよなあ、等と益体もない想像に達したあたりで、小さく口元を歪めている俺に気付いた由比ヶ浜が真顔で一言。

 

「キモいよ?」

 

 …あのですね、女子の言うキモイは君たちが思うほど軽い言葉じゃないんですよ。大阪の人にバカっていうよりダメージあるんですよ。承知の上ですかすいませんでした。

 

 そんな話題に事欠かない後輩が居なくなると、いつも通りに部室は三人分の気配で占められた。彼女の残していった空の紙コップに視線を投げる。いつか雪ノ下が不経済という表現をしていたが、ならばもう一つくらい買ってやった方がいいのだろうか。

 

 何となく視線を外せないでいると、不覚にも昨日のマッカンの事を思い出してしまった。

 

 頬に血の集まる感覚。

 すかさずセルフアイアンクロー!

 鎮まれ俺のイデア!

 

 ふと、手の平の隙間からこちらを見ている由比ヶ浜の目線を感じた。すぐに続くであろう罵倒をバッチコイと待機していたが、彼女はすぐにその目線を外してしまったようだった。

 

 顔にあてがった熊手を外してみる。俺の独り相撲に観客など既になく、雪ノ下は何事もなかったかのように…いや最初から俺など存在などしなかったかのように淡々と文庫本のページを捲り、由比ヶ浜は──あれ、どこいった?

 

「ねえ」

 

 細い指が油断していた俺の肩をきゅっと掴み、しかしすんでのところで漏れかけた喘ぎ声をかみ殺すことに成功した。

 

 やめて離して、声近いってうかいい匂いだしほら見ろどんどん寿命縮んでる。そうかそれが狙いか参りました。こやつ、いつから忍びの者に。胸が邪魔だから向いていませんね雪ノ下さんの方が適任です。

 ついつい忍者適正を確認したがる目線と再度紅潮していく顔色を強靭な意志の力でねじ伏せていると

 

「いろはちゃん、可愛いよね」

 

 由比ヶ浜はそんな意図の読めない同意を求めてきた。

 

 

 彼女はどんな答えを期待して、こんな事を言ったのか。

 

 女子の"可愛い"は基本的に男子の考えるソレとは異なる。彼女らは流行に聡いものを「可愛い」と呼び、話が上手いものを「可愛い」と呼び、肌と髪が綺麗なものを「可愛い」と呼ぶ。

 

一方、男連中にとっての「可愛い」はとても単純で、頭に「顔が」をつければ完成だ。流行に聡いものは「センスがいい」、話が上手いものは「おもしろい」と評する。表現が難しい時は、きちんと「雰囲気が」などといった前置きをつける。

 我々が単独で「可愛い」という表現を用いるのは、あくまでもルックスに対してなのである。

 

 ちなみに、女子は肌や髪に命を掛けて手入れをするが、男子はそれについて言及することはなく、そんな男子を女子は気が利かないと(なじ)るわけだが、ならばと褒めたりすれば、今度は間違いなく変態扱いされる。

 これは心底、理不尽極まるアルゴリズムである。

 

 さて、何でもかんでも同じ言葉でまとめてしまう女子の表現は、一見するとあまりに適当に過ぎるようにも思えるものだ。しかし彼女達の言う「可愛い」というワード、これは「チャームポイント」という単語に置換が可能である。日本語に直せば「魅力的なところ」だろうか。そう考えれば何もおかしい事はないだろう。

 ならばむしろ、男の方こそが言葉不足なのかもしれない。可愛い子を紹介して欲しければ、はっきり「顔が可愛い子」と言ってやらないとダメなのだ。まあ言ったら言ったで、返ってくるのは承諾ではなく毛虫を見るような目なのだが。

 

 ともかく、女子が紹介する「可愛い」子が、我々男子にとって必ずしもそうでないという不一致の原因はここにある。偉そうに語るソースは俺。小町が見せてくる「可愛い」子の写真は、いつも首を傾げさせられる。小町より可愛い女子がそうそう居るわけもないので、これは根拠としては弱いかもしれない。おっと、今の八幡的に超ポイント高い。

 

 杭打ちの足りないマンションに走る亀裂よりも根の深い、男女の間に走った認識の差という名の溝。それが邪魔をして、由比ヶ浜の質問に俺の認識を正しく伝えるのはとても難しい──と思ったのだが。

 

 よくよく考えると一色いろはという後輩の女子は、

 

 流行に聡く

 話が上手く

 肌と髪が綺麗で

 そして当然のように、顔も可愛かった。

 

 つまり可愛いってことですね。

 

 認めるのが悔しいので長々と頑張ってみたが、出てきた結論があまりにこっ恥ずかしかったので、

 

「まあ小町には負けるけどな」

 

 と最強のカードである比企谷王国のプリンセスを引き合いに出して誤魔化した。

 

「小町ちゃん妹じゃん」

 

 当たり前すぎる返事が返ってきたので、俺も当たり前のツッコミをする。

 

「バッカ、妹だからいいんだろうが。もしも小町が赤の他人だったら、片思いしているうちに彼氏ができた事を風の噂で聞いて2、3日引きこもったあげく逆恨みして苦手になっちゃうに決まってるだろ。ちょっとまて彼氏とかお兄ちゃん許しませんよ。ほら妹で良かった」

 

 何が良かったのだろう。

 立て板に水の如く流れ出た王国の公式回答を受け取った由比ヶ浜は、そうなんだ…と肩に置いた手を引き、ついでに身体も引いて見せた。

 さっきは触るなっていったけど、そういうリリースの仕方は傷つくから、八幡やめて欲しいな。

 

「家族からのセクハラは性的虐待に分類されるって事、小町さんに教えてあげた方がいいのかしら」

 

「やめてくださいお願いします」

 

 このまま行けば、来年には小町が総武高に入学してくるだろう。雪ノ下の洗脳教育を避けるため、考えよう、いま兄にできる事。今度、夜中に人生相談でも持ちかけてみようか。それこそセクハラで俺が家から追い出されますね。

 

「小町ちゃんはおいておいてさ、いろはちゃんは?」

 

 なおも食い下がる由比ヶ浜。

 これはどうせ否定したところで「そんなことないでしょ」と来るパターンだ。女性との会話は時に予定調和をなぞるだけのこともある。だったら聞くなよと思わないでもないが、それが女という生き物だと妹にきっちり刷り込まれていた俺は、無駄な抵抗を諦めたのだった。

 

「まあ可愛いんじゃねーの? ストーカーが付くくらいには」

 

「やっぱヒッキーもそう思んだ…」

 

 やっぱという単語が出てきた割には、あまり釈然としない様子の由比ヶ浜。ところで、それだと俺も一色の事をストーキングしたいと思っているように聞こえるからやめようね。

 

「でも、一色の本命が葉山だってことは、わりと知ってるやつも多いだろ」

 

 あいつは人目を憚らずに葉山に対してちょくちょくアピールを繰り返していたはずだ。マラソン大会の時には葉山が応えるような素振りを見せていたし、告白の一件を知らない人間からしたら、三浦に次ぐ葉山の第二の彼女候補という認識になってもおかしくない。

 てか、第二の彼女候補って何だよ。H.Hめ爆発しろ。あれ、ここにもひとりH.Hが居ますね。うっわ、イニシャル完全に同じかよ気持ち悪いな。今すぐ婿入りして名字変えないと。

 平塚先生ならこんな俺でも二つ返事で貰ってくれるかもしれない。何よりちゃんと稼いでるところはポイント高い。いや、それでもH.Hのままですね。なにこれ呪われてるの?

 

 そう言えば、目の前の二人もまた、完全にイニシャルが一致して──ああうん、やっぱなんでもねーや。

 全く一致する素振りのない、とある箇所を素早く一瞥し、俺はイニシャル占いが出鱈目である事に強い確信を得たのだった。

 

「それでも男がたかるんだから、あいつホントすげえな…」

 

 傾国の美女、と評するにはやや幼い顔立ちだが、彼女の計算され尽くした言動から放たれる引力は、見切り技など存在しない。もしも小町が居なかったら、確実に俺の黒歴史が一ページ増えていたことだろう。

 きっといろはすの"す"は、サキュバスの"ス"に違いない。いや元々"す"なんてどこにもないだろ誰だよ最初にいろはすとか言ったの。呼びやすくて可愛いから困る。呼ばないけど。

 

「近いうちに変わるかもしんないけどね、それも」

 

 意味ありげに漏らした由比ヶ浜の言葉が気になってそちらに顔を向けたが、彼女は既に背を向け、雪ノ下との会話を始めていた。

 

 確かに、彼女がサッカー部をやめたという噂はすぐに広まるだろう。多少なりとも総武高の事情に通じている人間なら、葉山と何かあったと考えるのが自然だ。一色はフリーになったと思った男子がぼちぼち動き始めると、由比ヶ浜はそう言っているのだろう。

 

 しかし俺の脳裏には、いつかの帰り道に見てしまった涙が鮮明に残っている。

 

『わたしも欲しくなったんです』

 

 彼女はそう言っていた。

 

 …主語を省いたせいでそこはかとなく卑猥な思い出になってしまったが、細かい部分を思い出すと首を絞めかねないので割愛させてもらう。

 彼女が何を欲しがったのかは分からないが、少なくとも自分がかつて血迷って漏らした何かであるだなんて傲慢なことは、微塵も思っていない。

 おかしい…また卑猥になってしまったような気がする。高校生男子の想像力は世界一ィィ!!

 

 どうせ一色の答えを教えてもらったって、答え合わせすら覚束ない。そもそも俺自身の問題がうまく言語化できていないのだから。

 ただ──思うに一色は、まだ葉山を諦めていないのではないだろうか。

 

 彼女がどれ程の真剣さで恋愛に臨んでいるかは俺の知るところではないが、さっきも攻めるベクトルがどうのとか言っていたし、ともすればこれも一色流恋愛術における戦略的行動の一環なのかもしれない。彼女には恋愛に対してクレバーで居て欲しいという、醜い我が侭がまたぞろ顔を出しているという可能性も否定は出来ないのだが…。

 仮に俺の思い違いでないのなら、彼女がここでサッカー部と完全に縁を切ってしまうのは得策ではない気がする。早とちりだったとしても、迷惑の掛からない範囲で──。

 

 

 何とかした方がいいかもしれない、と思考のスイッチを切り替えたところで、すっかり暗くなった廊下に通じる扉を軽くノックする音が響いた。

 

「どうぞ」

 

 何故だか少しばかり重くなっていた部室の空気。それを入れ替えるように、心なしか張りのある雪ノ下の声で、扉が開かれる。

 

 やってきたのは俺と運命が違うことで定評のあるH.Hこと、葉山隼人だった。

 

「う、おわっ、隼人くんじゃん!」

 

 さっきまで話題にしていた相手が現れたことに動揺した由比ヶ浜が、教師が入ってきた事に驚く小学生のようにワタワタと椅子に座る。別に座ってなきゃいけないルールはないのだが、やはり俺も同じように気持ち深めに座り直して葉山を迎えた。

 

「やや、やっはろはろー!」

 

 いろんな意味でアバウトな挨拶をした由比ヶ浜に軽く首を傾げつつ、葉山は部屋の主にご機嫌を伺う。

 

「やあ。お邪魔しても?」

 

「…どうぞ」

 

「おう、探しに行く手間が省けた」

 

 女帝のお許しを得て椅子に座った葉山に、俺は身体を向ける。寒い中グラウンドに行かずに済んでラッキーだった。

 

「比企谷に歓迎されるとは思わなかったよ」

 

「ちょっと聞きたい事があったんで」

 

「何だか君にはいつも質問されてばかりだな」

 

 それは仕方がない。俺ではなく皆がこいつのことを知りたがるのだ。こんな活動をしてさえ居なければ俺と葉山が話をする機会など、シャーロット彗星の到来周期よりもレアリティの高いイベントだったはずである。

 

「一色の事でちょっと」

 

「…なるほど」

 

 お前の剣は見切った、とでも言いたげな顔にぴくりと眉が動いたが、これから頼みごとをしようというのだ、感情を極力殺して言葉を紡いだ。

 

「退部届け、預かったんだろ?」

 

「ああ」

 

「それ、ちょっと顧問に出すの、待ってもらえないか」

 

「…何故?」

 

 葉山だけでなく女子連中からも、もの問いたげな視線が向けられているのを背中で感じる。自分でも身勝手な解釈だと分かっていたので、足りない説得力をどこかの会長よろしく身振り手振りで誤魔化しながら、さも真実のように説いて聞かせた。

 

「アイツはちょっとここんところ色々あって疲れてるんだよ。別にお前のことだけじゃなくて、まあ色々とな。だから少し休んだら、また部活に戻りたくなるかも知れない」

 

 そう一息に言ってから、口数と説得力は反比例するという一般論を思い出した。

 

 じっとこちらを見る葉山、雪ノ下、由比ヶ浜。

 おっと気が付けばアウェイ真っ只中だな。

 大丈夫、問題ない。いつも通りだ。

 

「だから、退部はさせないでおけ、と?」

 

 どこか超然とした葉山の目つきに、まるで最強キャラの強さも知らず突っかかる噛ませ犬のような気分で──

まるででもなんでもないな──まさにその通りの俺は、食って掛かる様にして言った。

 

「別に試合に出るメンバーでもないんだ、問題ないだろ」

 

 部員と言ってもマネージャーだ。そもそもマネージャーという立ち位置がクラブ活動で正式に認可されたものであるのかというのも疑問である。認められているなら俺もマネージャーになりたい。マネージャーになって、気が向いたときだけ参加したい。

 

「ヒッキー、あのね」

 

 うーん、と苦笑いする由比ヶ浜はどこか大人びた表情で、駄々をこねる小さな子でも相手にするような空気を匂わせていた。

 

「いろはちゃん、たぶん──ううん、ぜったい、戻らないと思うよ?」

 

「なんで」

 

 言葉の端にやけに確信めいた何かを含ませる由比ヶ浜に理由を尋ねてみたが

 

「なんででも。だから余計なことはしない方がいいよ」

 

 と返されてしまった。

 全く理由の説明になっていないのに、やけに自信たっぷりの彼女の様子が気になったが、無視して葉山の説得を続ける。

 

「別に無理に続けさせろとは言ってない。戻りたい時に戻れる下地をだな──」

「比企谷」

 

 俺のプレゼンを遮った葉山の顔は、既に交渉の余地がないことを如実に物語っていた。そこから続く理由は至極明白。俺の独りよがりな依頼は出鼻から間違っていたと知らされる。

 

「無理だよ。さっき顧問に渡して受理されたから」

 

「何でそんなに仕事が早いんだよ…」

 

 無駄に仕事速いとかこいつ社畜の才能まであるのかよ。天は何物与えれば気が済むの?

 

「言われたんだ。今すぐ顧問に渡せって。誰かさんが余計な気を回す前にってね」

 

 咄嗟に最も可能性の高そうな容疑者の顔を見たが、その黄金聖衣をも凍らせるような目は「誰に断ってこちらを見ているのかしらこのプラナリアが」と語っているだけだった。ゾクゾク。

 

「口止めされているわけじゃないけど、一応依頼人に気を遣って、イニシャルI・I(アイ・アイ)とだけ言っておこう」

 

 なんだよアイアイって南の島のおさるさんかよ可愛いな。イニシャルまで気を回すとか、どこまであざといんだあいつ。

 

「すっかり行動が読まれているみたいね、誰かさん」

 

「うん、ヒッ(けん)3級くらいはいけるね!」

 

「なにそれお宝でも鑑定しちゃいそうなんだけど」

 

「ガラクタの目利きが出来るという意味では、似たような物かもしれないわね」

 

「どっちも役立たず…って上手い事言ってんじゃねえよ」

 

「そんなこと思ってないわ。ところで古物と愚物って、響きが似ていると思わない?」

 

「めっちゃ思ってんじゃねえか!」

 

 まあ当人がそう言うのだから、少なくともこの案で粘っても無駄だろう。

 先ほどの依頼を撤回しつつ、何か他に策はないかと考えを巡らせていると、少し表情を硬くした葉山が口を開いた。

 

「実は俺の話もそのことなんだけど」

 

 組んだ足を正し、膝にこぶしを握った手を添え居住まいを正した葉山は

 

「いろはのこと、よろしく頼む」

 

丁寧に頭を下げて見せた。

深い一礼は俺達の誰を相手にしたものなのか、いまいち要領を得ない向きだった。そんな葉山の姿に、愛娘を嫁に出すが如き哀愁を見て取ったのはどうやら俺だけではないみたいで

 

「貴方、いつから一色さんの父親になったのかしら」

 

と温度の低いお言葉が突きつけられ、二人の温度差に気流が渦を巻いたような錯覚を覚えた。

俺はといえば、葉山の話など十中八九、戸部関連のツッコミだろうと思っていたので「それはひょっとしてギャグで言っているのか!?」という顔を隠せず、対する葉山は

 

「もちろんこれは、俺が勝手にやっていることだ。いろはにバレたらますます嫌われるだろうな」

 

と聞いてもいない弁解を始めた。

そりゃ、一色が頼むわけもないだろう…ってかイニシャルトークどうした、もうバラしちゃうのかよ。

 

「一色さんの退部の原因であるところの貴方に、気を回されるような事でもないと思うけれど」

 

端から聞いているだけでLPがもりもり削られるような正論に、葉山は軽く苦笑して

 

「言ったろ、ただの自己満足だよ」

 

と寂しげな笑みで答えた。

こいつ俺よりドMなんじゃないだろうか。いやいや俺がそもそもMではない。それが証拠に責められている葉山を見ているだけで心が折れそうになっている。

 

「分かっているなら、そんなものに他人を付き合わせないで欲しいわね」

 

雪ノ下の空中コンボに捕まり帰ってこない葉山。

流石に同情が芽生え、華麗なエリアルを披露し続ける彼女を遮って言った。

 

「そこまで気にかけるなら、付き合ってやることはできないのか。影で頭を下げてやれる程の相手だろ?」

 

「それこそ、君に言われる筋合いはないな」

 

それを言われると反論のしようもない。下手な仏心は自分のためにならないものだと、しょーもない俺が黙っていると

 

「隼人くんさ、どう思った?」

 

相変わらず言葉が色々と足りない由比ヶ浜が質問した。

俺はまた無線通信が始まったのか、やっぱりヒッキーだけフィルタリングされているのでは、と震え、葉山はと言えばきちんと受信に成功したようで、それで充分とばかりに彼女に答えを返す。

 

「いろはは…大人だよ。俺なんかよりずっと」

 

マッ、いやらしい!

こいつがそんな風に言うと、いろはすのお味について言及しているように聞こえるのは気のせいですか気のせいですね(気のせい)

どうやら、いやらしいのは俺だけらしかった。いろはす味はみんなご存知、無味無臭。ちなみに俺はピーチ派である。

 

「そう思うのなら、こんな気を回すのも余計なお世話というものでしょう?どうしてわざわざ…」

 

相変わらず葉山には厳しいのな。

きっと子供の頃から姉がサンドバッグにする様子を間近で見てきたせいだろう。

 

「…こうでもしないと、自分が嫌いになりそうだから、かな」

 

葉山はそう言って、グラウンドの方に目を向ける。

もう練習は終わったのだろうか、絶えず聞こえてきた掛け声は途絶え、校舎は夜の静寂を迎える準備に入っていた。

遠いものを見るように細められたその目には、一体何が映っているのだろうか。

自己満足のために来たという彼の顔には、満足とは程遠い、苦々しい笑みがこびりついていた。

 

相変わらず持って回った言い方に雪ノ下は鼻を鳴らしていたが、頭を下げるのは自分のためだという物言いと、こいつにそうさせた一色への感心もあって、俺は短く

 

「そうか」

 

とだけ言葉を返した。

 

結局、選挙の時とは打って変わって、支離滅裂な応援演説をした葉山隼人は、足早に部屋から立ち去った。

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

「ふー、やっぱ調子悪い…」

 

しぱしぱする目頭を押さえて重い息を吐く。

大丈夫?と心配そうに声をかけてくれるであろうひと達は、残念ながらここには居ない。

一人きりの生徒会室は、いくら暖房をつけても拭えない寒さが充満しているようだった。

 

あれから、少し冷めてしまった紅茶を一気飲みしたわたしは、後ろ髪を鷲掴みされる思いでこの部屋へと移動していた。

勝手に帰らないようにと何度も先輩に釘を刺しておいたけれど、へいへいと適当に投げられた流し目は海岸で干からびたヒトデにも勝るやる気の無さで、ものすごい不安を感じる。

 

あまり遅くならないうちに切り上げて、あのヒトデ…じゃなくてあのひとの腕を捕まえてしまいたかった。

いつもなら手伝ってくれるように頼んだかもしれないけど、さすがにさっきの空気の直後でおねだりできるほど

心臓が強くなかったので、わたしはひとり、黙々とやるべきことをやっていた。

 

ほんとうは、この部屋でひとりきりになる予定なんてなかったんだよ…。

ただ、ちょっと最近仲よさげな某役員の男女から「今日は外せない用事が」と揃って連絡されちゃって、

ほっこりニヤニヤしているうちにまんまと逃げられたって、ただそれだけのことで。

 

たまにクラッシャー呼ばわりされたりもするわたしだけど、それはカレシの方がカノジョを放ってわたしに寄ってくるから壊れるのであって、上手く行ってる二人を邪魔なんてしないし、したことだってないんだよね。

 

要するに、最近けっこう気を遣っているんですよー、というハナシ。

 

すっかり真っ暗になった廊下に生徒の足音はない。

型落ちノートPCが立てる無駄に大きなファンの音をBGMにひたすらキーボードを打つ。

なんでも今度、警察が総武高(ウチ)で交通安全教室?だかを開催するそうで、今度はその準備を生徒会に丸投げされていた。

 

「小学生だけでいいよー、そういうのはー…」

 

生徒会というのは華やかで権力の香りがする組織だけれど、実際のところは事務方のアルバイト部隊というのが今のわたしの認識。そんな中で職場恋愛なんてされた日には、これはもう正直、逃げ出したいレベルだ。

 

「まっ、それでもやることやりますけどねー…」

 

推してくれたひとがいるから。

大事なつながりだから。

…バイト代出ないけど…くすん。

 

がたっ!

 

急に部屋の扉が音を立てた。

 

「きゃっ!」

 

慌てて机の角に膝を打ちつけ、鈍い痛みに顔をしかめる。さすりながらそちらを見ると、扉は不規則にがたがたと動き続けていた。

はっとして身構えたけれど、この扉には鍵を掛けてある。さっきも確認したから間違いない。まるで開かない扉を揺すっているよう。緊張に肩をいからせながら観察していると、はたしてそれはこの部屋で良く見かける現象であることに気が付いた。

 

なんだっけ、気圧差とかの関係で、立て付けの悪い扉が空気に揺さぶられているとか。怖がる書記ちゃんに、副会長がドヤ顔で教えてたっけ。

 

「あーもー!だから早く直してって言ってるのに…」

 

わざとらしく声を出して何ということもないと確認してみたけれど、身体に入った力は抜けてくれない。

今のがきっかけで、一人で居ることが恐ろしいと思ってしまった。色々な事が重なって、思い出す余裕も無かったのだけど──

 

(ダメ…こわい……)

 

一度目を覚ました感情は、もう自分では押さえ込む事ができそうもなかった。扉に釘付けになったままの視線が逸らせない。背中を向けている窓には、カーテンをしていただろうか。いまこの瞬間、ベランダから覗かれているのではないか。

 

ふと、トリックアートでも見ているかのように、扉がグルグルと回転しているように感じた。

鼓動にあわせて頭がズキズキと痛む。

 

「あれ、なんか、ヘン…?」

 

一瞬、怖さのあまりおかしくなったのかと思ったけれど、いくらなんでもそれはない。得体の知れない恐怖を一旦おいて、目の前に迫った身体の不調の深刻さになんとか意識を向けてやると、手足が鉛でも詰め込まれたかのように重たくなっている事に気が付いた。

 

「え、うそ…でしょ…」

 

軽いパニックを起こして鼓動が早まり、それに合わせて刺し込むような頭痛のピッチも上がる。

痛みで頭がまともに回らない。

少し、まずいかもしれない。

 

強がらずに助けを呼ぶべきだと思ったわたしは、頼みの綱であるスマホを探してポケットをまさぐったけれど、

腹立たしい事に上着にもスカートにも手応えがなかった。

 

どこいったの?

 

バッグの中?

 

のろのろ視線を巡らせると、目当てのものは机の反対側にコートとまとめて置かれていた。

なんであんなトコに置いてんの、と見当外れの恨み言を並べつつ、近寄ろうとして立ち上がる。

 

次の瞬間、かくんと膝が折れた。

 

遠く、椅子が倒れる音が聞こえた気がして──

 

 

 -  -  -

 

いったぁぁ・・いまのぜったいアタマわるくなったよぉ・・・

 

パソコン、おちなかったかな・・・

 

てか、ゆかがつめたくて、きもちいい・・・

 

ちょっとだけ、このまま・・・

 

 

なんか・・いき・・くるしい・・・し・・・

 

 

 




ゲーガイル(続)、発売時期が遅すぎませんかね?
もう商機を完全に逃してる気がするんですが。


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■12話 妹の居るお兄ちゃん

自分も身体を壊して、派手にダウンしたりして。
呆れた読者様にお気に入りを外されたりもしつつ、めげずに投稿にこぎつけました。
一ヶ月も引っ張ってしまってごめんなさい!

正解者はこちら!よく出来ました!よく出来ました!(平成教育委員会)


 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「…それにしても、遅いわね、一色さん」

 

葉山の来訪がなかったかのようにすまし顔に戻った雪ノ下は、手首を返して高そうな文字盤を眺め、呟いた。

大して長話をしていたつもりもなかったが、確かに世界は夕方から夜と呼ぶべき時間帯へと移りつつあり、事前申請抜きで居残る事の出来る限界が近づいている。

 

「すぐに終わるような口ぶりだったけれど」

 

「あたし電話してみる」

 

スマホを耳に当てた由比ヶ浜は、自分の尻尾を追いかける子犬のように、頭から垂らした短い房を揺らしながらうろうろと室内をしばらく徘徊し、あれー?と首をかしげた。

 

「電源入ってないって言われた…どゆこと?」

 

誰ともなく顔を見合わせ、据わりの悪い沈黙が場を支配した。

 

「校内ではそうそう電波も切れないでしょうし、普通に考えればバッテリー切れなのだけど…」

 

「なら俺が回収してくわ」

 

どうせ今日も送るんだし、と二人に先に帰るよう示唆したが、雪ノ下は

 

「いえ、もう閉めるわ。皆で行きましょう」

 

と帰り支度を始めた。

 

「比企谷くんだけだと心配だし」

 

冗談めかした口調だったが、雪ノ下の目は笑っていなかった。寝ているかもしれない一色に俺がするであろう犯罪行為を真剣に心配して、のことであれば、いつも通りジャポニカ復讐帳に一筆書いておくだけで済むのだが、おそらくそうではない。

「待って待って」と今日も残ったスナック菓子を詰め込む由比ヶ浜の頭からは早くも飛んでしまっているみたいだが、今の一色は、雪ノ下が言及を避けた"万が一"という状況に無縁ではないのだった。

ならばなぜ一緒に行ってやらなかったのかというと、直前の会話の流れだとか、どうせ他の役員もいるのだろうとか、そういう言い訳で自分を誤魔化したからなのだが、無駄にはやる気持ちのせいもあって、今は少しばかりそれを後悔し始めていた。

 

そんな俺の複雑なようで単純な心理などお見通しなのか。責任を追及するような素振りは見せず、ただ手早く身支度を整える雪ノ下に部室の施錠を任せ、一足先に生徒会室へと向う。

 

「…ったく」

 

握った手にかいた汗が冷えて気持ちが悪かった。

 

暗い廊下の向こうに目当ての部屋の明かりを見つけたとき、いつの間にか小走りになっていた自分に気が付いて、「普通に気持ち悪いですごめんなさい」とフラれては居たたまれないので、減速しながら大きく息を吸って整えた。

 

何でこんなに緊張してるんだ、別に皇帝陛下に面会するわけじゃなしと思ったが、よくよく考えるとあいつはウチの女帝といって差し支えない立場の人間だった。目の上…もとい雲の上のたんこぶである。どっちにしてもたんこぶなのかよ。

あいつなら「パンが無いならケーキを作りますよー、わたし得意ですから!」とか言い出しそう。なにそれ暴君なのか名君なのかさっぱり分からん。

 

オーケー、平常運転に戻った。

 

辿り着いた生徒会室の扉を、努めて冷静にノックしてみたが、中に動きがある気配が無い。扉を引こうとしたら、生意気にも中から施錠されているときた。

 

目の高さに填められたすりガラスから煌々と漏れる光は中に誰かが居る事を確信させるのだが、トイレにでも行っているのだろうか。当人が居たらデリカシーについて小一時間説教されかねない推理をしつつ、やけに立て付けが悪い扉の隙間からこっそり中を覗いてみる。

何だか物凄く悪い事をしているような気分になるが、誓って下心は無いのでセーフ。口に出さなければセーフ。

 

細くて縦長の視界をスキャナよろしく横にじりじりとずらしていくと、小さな機械部品が床の上にいくつも散らばっているのが見えた。

 

以前に一度こんな光景を見た事があった俺は、それがすぐバラバラになったスマートフォンの部品だと把握した。バラバラと言っても、悪意を持って砕かれたという意味ではない。最近のスマホはちょっと落としただけで、カバーとバッテリーと本体がオープンゲット!してしまうものがあるのだ。衝撃を逃がすための構造だと好意的に解釈しているが、ネットを見る限りそんな気の利いた理由ではないようだった。

 

ともかく、どうやら通信途絶の原因はこれだったらしい。居眠りでもしているのでは、と机の方に人影を探るが、角度が悪いせいか何も視界には入ってこない。もう一つの扉から覗こうかと姿勢を変えた時、スリット状の視界に見逃せないものが映った。

 

さらりとした亜麻色の髪が、床に広がっている。

 

「一色!おい、どうした!?」

 

生徒会室の床に倒れ伏しているのは、一色いろは。

 

慌てて扉を引くが、簡素な造りの扉はガツンと何かに阻まれる。爪を引っ掛けて無駄に痛い思いをしてからようやく、鍵が掛かっている事を思い出した。衝撃でほんの少し広くなった隙間から、さっきより多くの情報が視界に入ってきた。

 

「一色、おい、聞こえるか!」

 

地面にうつぶせに倒れた彼女に動く様子は無い。

乱れて広がるふわふわとした髪と床の隙間に、口元がほんの少しだけ見えた。

きちんと呼吸をしているかどうかなど、ここからでは分からない。

 

何だ?何か顔の辺りに点々と散って…鮮やかな赤──

 

 

俺は、目の前の扉を全力で蹴り飛ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

柔らかい毛布と、暖かな空気。

 

慣れ親しんだ香りに包まれて、しかしそこには居ないはずの、大好きなひと達の声が聞こえる。

 

「だからちゃんと付いていなさいと言ったでしょう」

 

「いやだって、平気って言ってたし…」

 

「平気でない人ほどそう言うものでしょうに!」

 

「けどだって、まさかこれ程酷いとは思わないだろ?」

 

「貴方程度の物差しで、一体彼女の何を計れるというのかしら」

 

「…そうだな。俺が全部悪い。お前が正しかった」

 

「ねえ、あたしの料理、そこまでダメなの!?」

 

…なんか、騒がしいな。

ここ、奉仕部…?

わたし、寝ちゃったんだっけ…?

 

「は、ハートマーク描いたら、可愛いかと思って…」

 

「だからと言って、よりにもよっておかゆにケチャップを入れることは無いでしょう」

 

「どうすんだよこれ、ねるねるねるねみたいになってんぞ」

 

「はぁ…。仕方がないから洋風に転向するわ。離乳食みたいになってしまうけれど…」

 

「ま、国籍不明…ってか、今は正体不明か?コレよりはいいんじゃねえの、なんでも」

 

「ごめんなさぁい…うぅ…」

 

…なんか、聞き捨てならない会話が聞こえる。

 

誰に食べさせるのか知らないけれど、わたしの目の届く範囲で、そんなゲテモノを許すわけにはいかない。

重いまぶたを持ち上げてみると、そこは見慣れた天井だった。

 

わたしの、部屋──。

 

やけにごろごろする目を手でくしくしやっていると、廊下に続く扉が開き、お団子髪のボイン…じゃない、結衣先輩が目を丸くして立っていた。

 

「いろはちゃん!よかったー、心配したよー!」

 

身体を起こしたわたしの背に手を回し、その豊かな胸に抱き締める。むにゅう、と顔が埋まった。

 

「ゆきのん!ヒッキー!来てー!」

 

またも呼吸が阻害されたわたしは、階下に向けて声を上げる彼女の腕をパンパンとタップしながら、今の状況の理解に努めた。

 

「由比ヶ浜さん、病人が居るのだから騒がない──あら、目が覚めたのね」

 

クールな顔立ちに優しげな笑みを浮かべ、雪ノ下先輩が部屋に入ってくる。その後ろには、廊下と部屋との境目で見えない壁にでもぶつかったかのように立ち尽くしている先輩の姿もあった。

 

「…何してるんですか、先輩は。そんなとこで」

 

「…自重してる」

 

自分の部屋に──実際にはまだ中には入っていないものの、見慣れた空間に先輩が居るという不思議な光景に未だ夢見心地だったけれど、その彼らしいよくわからない返しを聞いて、わたしの頭には徐々に冷静さが戻ってきていた。

 

「ゆきのん、いろはちゃん起きたんだし、もういいんじゃない?」

 

「そうね。比企谷くん、入室を許可します」

 

長い間待たされていたにも関わらず忠義を尽くす家臣のように、厳かな顔でそろりそろりと、先輩はわたしの部屋に入ってきた。

 

「入ってよかったか?」

 

「入ってから聞くんです…いっつ!?」

 

強い痛みが、鼻の辺りを走った。その出所を探って指を伸ばすと、鼻頭にテーピングのようなものが貼ってあるのが手触りで分かる。ついついそれを剥がそうとして、またズキリと痛みがあった。

 

「っ…!」

 

痛いと分かっていながら本能的に伸びてしまうわたしの手を、少し冷たい指先がそっと押さえる。

 

「もう鼻血は完全に止まったと思うけど、しばらく触らない方がいいわ。骨には異常がないそうだから、しばらくすれば治るでしょう」

 

「え、はなぢ…?」

 

そう言えば、わたしは何でここに居るんだろう。

記憶が随分とすっ飛んでる。

確かさっきまでは、生徒会室に居たはずだよね。

んで、扉が風でうるさくて、怖くて、気持ち悪くなって…。

 

「もしかしてわたし、倒れちゃいましたか…?」

 

「口語的にも物理的にも、倒れてたな」

 

何事も素直には肯定しない彼の言い草の意味するところに、重たい頭を巡らせてみる。

 

物理的──。

 

そっか、床に倒れた拍子に鼻ぶつけたのかぁ。

 

鼻を打ったといわれて低くならないかちょっと心配になったけど、腫れているせいなのか、触った感じはむしろ少し高くなっている気がした。こういうのも、不幸中の幸いって言うのかな。

 

「お喋りが過ぎて、舌でも噛んだのかと思ったけどな」

 

「ちょ、ヒドくないですかぁ…」

 

内容はともかく、先輩が珍しく口元に笑みを浮かべていたので、わたしは釣られてついつい笑ってしまった。

 

「知り合いの女医さんを呼んで見て頂いたけど、普通の風邪ということだったから、ひとまず安心したわ」

 

「ほんと、すみません…わざわざ」

 

「いいから、まだ横になっていなさい」

 

いつもより数段優しげな言葉と共にそっと肩を押され、わたしは再び枕に頭を落とした。

 

考えてみれば、思い当たることは沢山あった。

朝の寝冷えに始まり、延々悩み散らした挙句の果てに、最後は寒空の下で大立ち回り。そりゃあ風邪の一つもこじらせるだろう。

 

ところでさらっと言ったけど、お医者さんを家に呼びつけるって、どうやるの?やっぱり雪ノ下先輩の家に関する噂は、あながちウソでもなさそうだなぁ。

 

「で、いろはちゃん、具合どお?」

 

「まだ少し、ぼーっとしますですかねー…」

 

「どれ」

 

先輩がわたしのおデコに手を当ててきた。

余りに自然だったので、避けるとか恥ずかしがるとかしている余裕もなく、先輩の手のひらが密着する。

 

「ちょ、ヒッキー、セクハラ!それセクハラだから!」

 

「比企谷くん、痴漢行為は発見した第三者にも逮捕する権利があるのだけど?」

 

「お前ら病人の前でまで騒ぐなよ…38度ってとこか…」

 

自分よりずっと大きな、しかし少し冷たく感じるその手はわたしの熱と交じり合い、

汗をかいた肌にしっとり溶けるように額を覆う。

ママよりも大きな手の平に包まれる安心感に、思わずその上から自分の手を重ねていた。

先輩の手がぴくりと震えるのが分かったけれど、少し力を込めると、逃げるのを諦めたように力を抜いてくれた。

 

最後にこうされたのはいつの事だろう。

パパもママも忙しくしてるから、風邪をひいてもこんな事をしてもらう機会は滅多に無かったように思う。

 

「きもち…いいですね…ひとの…手って…」

 

わたしの漏らした吐息に、まだ文句を言い続けていた二人の先輩方は、バツが悪そうな様子で口を(つぐ)む。

薄目を開けて先輩の顔を見てみると、思ったより照れた様子も無く、「まだ結構あるな」とだけ呟いていた。

 

「もっといいモンがある」

 

すっかりリラックスしたわたしの力が緩んだ瞬間、するりと額からぬくもりが逃げていく。

不意に消え去った感触を求めて手が泳いだ。

物足りなくて先輩を目で追うと、彼は傍に置いた洗面器でお絞りを絞っている。

そしてやけに慣れた手つきで畳み、わたしの額にそっと乗せてくれた。

 

「あ…」

 

冷たくて、すごく気持ちいい。

 

「手馴れているのね」

 

ずっと黙って見ていた雪ノ下先輩の言葉に棘は無い。

純粋に不思議がっている様子だった。

 

「もしかして小町ちゃんにもよくやってるとか?」

 

「まあな。あいつ昔はちょくちょく熱出してたんだよ。親はその頃から熱心な社畜だったし」

 

だから必然的に自分がやるしかなかったと、先輩は洗面器に張られた水を指で掬いながら言った。

妹扱いされているんだとしたらちょっと微妙だけど、優しくしてもらえるなら今はそれもいいかな。

洗面器から響く涼やかな水の音が心地いい。

ただ、もう少しだけ、さっきのままでも…。

 

「お兄ちゃんに看病してもらえるとか、小町ちゃん、ちょっと羨ましいかも」

 

あたし一人っ子だし、と結衣先輩。

ただ、ちらりと雪ノ下先輩を見て、それ以上話を広げようとはしなかった。

 

「俺は看病って超嫌いだけどな。めんどくさいし、弱ってんのとか普通に心配になるし」

 

「せんぱい…」

 

ん?とこちらに向き直るその態度は、明らかに普段と違う。

いま自分で言っていたけど、確かに、いつもより優しい。

ぶっきらぼうでも、その…だっていうのに、これは反則だよ…。

 

「わたしのことも、心配してくれたんですか…?」

 

弱っているからこそ聞ける。

聞ける時に、これだけはどうしても聞いておきたい。

こんな聞き方をして素直に答える人だとは思っていないけれど、それでも尋ねてしまった。

 

「いや、まあ、人並みにな」

 

いつものように視線を逸らすその表情を、ギリギリまで探ってみる。

けれど残念ながら、言葉以上の感情が込められているようには見えなかった。

どんな答えを期待していたんだろう。

胸が張り裂けそうだったと言われたら、笑ってしまうくせに。

 

それでも、心がしん、と音を立てて冷えていく感覚。

 

「そう、ですか…」

 

たぶん今のわたしは感情を隠す余裕がない。

こんな些細な事でも、目が熱くなってくるのが分かる。

うつむいて前髪で表情を隠していると、雪ノ下先輩が鼻で笑った。

 

「人並み程度であの様だとしたら、これまでもさぞ沢山の扉を蹴破ってきたのでしょうね」

 

「おまっ!言うなってさっき…!」

 

「そうね。口止めは依頼されたわね。けれど私、承諾した覚えは無いわよ?」

 

「小学生かっつーの…」

 

「け、蹴破るって、なんですか?」

 

今の文脈を辿ると…わたしの勘違いでないとしたら…。

そういえば、生徒会室の扉には、鍵を掛けてたはずだから…。

期待を込めて先輩をおずおずと見上げると、結衣先輩がわたしの推論を肯定した。

 

「ヒッキーね、生徒会室の扉、蹴って壊したんだよ。ドカーッて!」

 

開き直ったように先輩がこちらを向いて顎を上げた。

 

「床に血が飛び散ってたんだ。誰だって焦るわ」

 

「せ、せんぱぁい…!」

 

なんか最近は先輩の株が上がる事件ばっかりで、これ以上はわたし的にちょっとヤバいカンジですよ?

 

「もし死んでたら、第一発見者の俺が疑われちゃうだろ」

 

「せ、せんぱぁい…」

 

上げてから落すのやめてくださいよー。くすん…。

 

「安心なさい、第一でなくとも充分疑わしいわ」

 

「もー、いろはちゃん無事だったのに、二人ともそういうこと言わないの!」

 

「比企谷くん、不謹慎だと言われているわよ」

 

「なんでお前はそこで自分を除外できるの?」

 

「私の発言には何も後ろめたいところは無かったもの」

 

「お前絶対俺より友達少ないだろ…」

 

「馬鹿ね、ゼロより少ないなんて事あるわけないでしょう」

 

止まる気配をみせない言い合いに、ニコニコしていた結衣先輩がむきーっと両手を上げた。

 

「コラー!よそんちで騒がないの!」

 

 

* * *

 

 

雪ノ下先輩が"修正"したというリゾット風のおかゆを頂いて薬を飲んでいると、そう言えば、と彼女が口を開いた。

 

「お宅の鍵のことだけれど。勝手に荷物を改めさせて貰ったの。事後報告になってしまってごめんなさい」

 

「いえいえそんなこと。何から何まですみません」

 

「安心して、決してそこの男に漁らせたりしては居ないから」

 

「ほんっっとーーーにっ、何から何まですみません!」

 

「そっちのほうが感謝のレベル高いんだ!?」

 

だって色々と、ほら、ねぇ?

ヘンな物は入ってなくても、見られて困るものはあるわけですよ。

 

「うん、ま…そんだけ元気がありゃ大丈夫だな…うん…」

 

「そんなことより先輩」

 

あんだよ、と先輩はいよいよ発酵しそうな目つき。

 

「扉なんか蹴って大丈夫なんですか?ぶっちゃけ先輩、あんまり頑丈そうに見えないんですけど…」

 

いくらオンボロとは言え、それなりに厚くて重たい扉だったように思う。

むしろ蹴り破るほどの脚力があったことに驚愕しているくらいだ。

 

「おう、もちろん捻挫した。徐々に腫れてきて今まさにフィーバータイム突入間近」

 

それが当然みたいに言い張る姿にお礼を言うか謝罪をするか迷ったけれど、結局は「らしいですね」と笑顔を返した。はたしてそれは正解だったみたいで、

 

「まあな」

 

と先輩はまんざらでも無い顔を見せ、

 

「ほんと締まらないわよね…」

 

口では冷たい事をいいつつも、胡坐をかいた先輩の足に、雪ノ下先輩は氷のうをあてがっていた。

 

「先輩って、たまに…ごくごくたまーに、カッコイイですよね」

 

「ん、まあ、気にすんな」

 

素直に賞賛を受け取りはしないだろうと思ったら、彼は意外にも誇らしげ…いっそわざとらしいまでに胸を張って見せた。

 

「それがさ、聞いてよー、プッ…」

 

瞬間的に猫背が解消された彼の肩を小突いて、結衣先輩が口元を押さえた。

 

「おい、由比ヶは…痛って!」

 

何かを言いかけた彼の足にぐりっと氷を押し付け、雪ノ下先輩が封殺。

 

「蹴っ飛ばした扉が勢い余って、倒れてるいろはちゃんにゴン!って。んでヒッキーが超焦ってどけようとして、そしたら手が滑って、またゴン!って。いやー、思い出すとかなり笑えるシチュだよね、あはははっ!」

 

「全く、とんだレスキュー隊も居たものね」

 

白馬の騎士よろしく颯爽と、だなんて思っていなかったけど、想像の斜め上のシチュエーションだったみたい。

 

「なーんか頭も物理的に痛いと思ったら…ふふっ」

 

それでも嬉しいと思うわたしはおかしいだろうか。

おかしいんだろうなぁ。

でも、それが心地いい。

 

「いや待て、俺は悪くない。この脚が悪い」

 

弁解する先輩の、捻挫しているという足首を捕まえた雪ノ下先輩が

 

「ならこの脚にだけ罰を与えましょう」

 

氷のうで更にぐりぐりっとした。

 

「痛い痛い痛いそれ俺と不可分なんで許してやってください!」

 

「あら、いつから脚が口を利くようになったのかしら」

 

ほんの小さな、しかし確かに笑みと呼べるものを、雪ノ下先輩も浮かべている事に気が付いた。

彼女がこういうスキンシップをとる男の子が、はたして他に居るだろうか。

一緒になって先輩の足首をつつく結衣先輩は、いつも以上に楽しそうだ。

 

わたし、この輪の中に入っていけるのかな…。

 

「雪ノ下先輩はあいかわらず容赦ないですねー」

 

少し沈みかけた気持ちを持ち上げるために、努めてあはっと明るい顔をしてみせた。

 

「さっきまですんごい怖い顔してたんだよ?いろはちゃんの顔見て気が緩んだんだと思う」

 

「勝手な上に失礼な事を言っているわね。由比ヶ浜さん、貴女だって私が止めなければ人口呼吸を始めそうな勢いだったでしょうに」

 

「ちょっと、それ言う?!」

 

なんですと…?

危なく大事なものを失うところだったみたい…。

別に止めなくてもよかったものを、と一人ごちている先輩に三人分の白目が向けられたことは

言うまでもない。

 

「ともあれ、本当に良かったわ」

 

「わたし、迷惑ばかりお掛けして…なんてお詫びをしたらいいか…」

 

今日に限った事ではない。

わたしはこのひと達に出会ってから、ひたすらに迷惑の掛け通しだった。

穴があったら入りたい、という状態だけれど、穴なんてないので毛布を口元まで引き上げる。

 

「ぜーんぜん!そんなことないから!」

 

「例えどれだけ迷惑を掛け倒したとしても、比企谷くんほど煙たがられる事は無いものね」

 

「なめるなよ、俺クラスのぼっちになると何もしなくても超煙たがられる。しかしそこを超えると居ても気付かれない。仙人の境地だな──っと、ホレ」

 

何かごそごそやっているなーと思っていたら、先輩がすっと小皿を差し出してきた。

乗っかっているのは、白い果肉にピンと赤い皮の立ったカットフルーツ。

いわゆるウサちゃんリンゴだ。

 

「わぁ、かわいいですねー。え?これまさか、先輩が?えっ?」

 

「そのまさかは、技術的な意味での驚愕ってことでいいんだよな」

 

「大丈夫よ一色さん。きちんと消毒したから」

 

「手を洗ったって言えよ」

 

いえいえ、別に衛生面での心配はしてません。

そんなことより、ぜんぜんキャラじゃなくないですか?

 

「本来なら煮沸消毒したいところだったのだけど」

 

「それ世間じゃ釜茹でっていう拷問ですけどね」

 

にしても、さっきから先輩の看病スキルの高さが異常なんだけど。

妹の居るお兄ちゃんってみんなこうなの?違うよね?

先輩の妹さん、ほんとに羨ましくなってきちゃった…。

 

「ここでリンゴ剥けちゃうアピールとか、やっぱちょおあざといですよね、先輩」

 

「いや、リンゴは剥けない」

 

「は?え、これ、先輩が剥いてくれたのでは?」

 

「リンゴは剥けない。…が、カットされたリンゴをウサギにすることは出来る」

 

ちなみにカットしたのは私、と雪ノ下先輩。

何をどうすればそんな偏った技術が身に付くんだろう。

同じことを思ったのか、結衣先輩も半目で冷やかしにかかる。

 

「なにその微妙な特技…」

 

「無論、小町のためだ。ただのリンゴじゃイヤだってギャン泣きされて、なんとかそれだけは会得した」

 

「しかも意外といい話だった!?」

 

そこまで出来たなら、リンゴも剥けるトコまで行けばいいのに。

相変わらずよく分からないひとだなぁ。

 

「ちゃっかり突っ込みに回ってるけど由比ヶ浜、お前こういうの出来ないだろ」

 

しらっとした目を向けられた結衣先輩は、雪ノ下先輩に縋ろうとして、しかし露骨に明後日の方を向いていることに気付くと、うぐっと苦しそうに呻いた。

 

「つ、作れるし!ウサギくらい超作れるし!皮剥いて耳を切り取って、刺すだけでしょ?」

 

「切り取らねえし、刺さねえからな?」

 

結衣先輩の、作ってるところを子供が見たら泣き出しそう…。

 

「えっと…由比ヶ浜さん。ウサギリンゴにそんな残酷な工程はないわよ?」

 

「ウソ?じゃ、あの耳ってどっから来たの?」

 

「結衣先輩、ほんとに苦手なんですねー、お料理…」

 

 

齧ったリンゴの切り口は、ほんの少し自分の切り方とは違って。

だから、とても暖かい気持ちになることができた。

 

「ところでみなさん、今日は泊まっていかれますよね?」

 

今日はママも戻らないし、やっぱり本調子じゃないと心細さは否めない。

それに、今がこんなに楽しいからこそ、一息に失われたらと思うと、その寒々しさを想像して今から身が竦んでしまう。

 

「でも…お邪魔になるだろうし…」

 

雪ノ下先輩は思案顔だったけれど、結衣先輩は期待通り、とくに抵抗も無いご様子。

 

「あたしは構わないけど?パジャマとか貸してもらえれば」

 

「もちろんです!あーでも…」

 

ちらっと結衣先輩と自分を見比べて、ため息一つ。

ちょっと、無理じゃないかなぁ。

 

「その、ママもわたしも、標準サイズなので…」

 

「あたしもMサイズだけど…?」

 

そうですね。

身長は、そうですよね。

 

「…はっ!べ、別にあたし、そこまでおっきくないし!」

 

わたしの視線を察した結衣先輩が、その部位を隠すように両手を組んで見せた。

圧迫されて強調された谷間の奥に広がる闇の深さに、わたし達の声色も自然と低くなる。

 

「いやいやおっきいですよ、すんごく」

 

「そうね、謙遜は日本人の美点だけれど、しすぎると嫌味になるわよ」

 

顔を赤くして胸を隠そうとし、それが上手く行かない結衣先輩は、味方を探してキョロキョロした挙句、

 

「ね、ねえヒッキーもなんとか言ってよー」

 

と、残った約一名に助けを求めていた。

 

「鬼か…俺に振るなっつの…」

 

ほんとにね。

 

 

* * *

 

 

「せんぱい」

 

「…」

 

「せんぱぁい。せんぱぁーーい」

 

「…なんだよ」

 

「ヒマなんですけど」

 

「なら部屋で寝ろよ…」

 

さっきから繰り返されるこのやりとりだけど、3度目から先はもう数えていなかった。

 

結衣先輩と、彼女に引きずられた雪ノ下先輩は、いま揃ってお風呂に入っている。

2枚の毛布を被って雪ん子のような有様となったわたしは、部屋から抜け出してリビングのソファに身体を預けていた。

いつもならテレビを見ている時間だけど、何となくリモコンに手を伸ばす気にはならなかった。

普段は意識した事も無かったけど、テレビもつけないでこうして静かにしていると、廊下に続く扉からかすかに、お風呂場からの声や水音が聞こえてくる。

 

「さっきから妙に静かですけど、耳澄ませてシャワーの音でも聞いてるんですか?」

 

「いやぜんぜん違うんだけど。どうしたら無実を証明できるんだろうな」

 

目と違って閉じられるモンでもなし、と頭をひねる先輩。

 

結局、ママのパジャマは結衣先輩には(一部)小さかったものの、短めの丈のデザインに見えないことも無かったので、そのまま使ってもらう事にした。

泊まっていくことを承諾してくれた二人にパジャマを見繕い、一連のやりとりをまるで他人事のように聞いていた彼にもパパのスウェットを差し出すと、「なにこれ」とイラつくとぼけ顔をしてきた。

「先輩、全裸派ですか?それはさすがにちょっと遠慮して下さいね」と笑顔で告げてやると、案の定、ぽかんと口を開けて固まったのは、なかなか面白かった。

 

当然というか、彼は我が家への宿泊に激しい抵抗の意を見せた。

 

けれど、「何かする気なの?」という、純真なんだか真っ黒なんだか分からない結衣先輩の言葉に押され、

「例え先輩でも男手があったほうが安心なので」という、一言余計なわたしの意見が配慮されて、

「緊急避難ということで、目をつむりましょう」という鶴の一声(ジャッジ)が下った事で、めでたく先輩はリビングに一夜の宿をとる事になったのだった。

 

その先輩のためにと引っ張り出してきた2枚の毛布は、たまたまくしゃみをしてしまったわたしに両方とも被せられていた。

女の子の匂いをつけてから自分が使おうという計画的な優しさだったのなら、その変態ぶりにいつも通りの毒舌を浴びせてあげるところだけど、「いや、コート着てれば平気だから」と固辞する姿を見せられては、こちらも調子が狂ってしまう。

プライベートな空間において、しかし目の前にはどこかの部室よろしく淡々と文庫本を読み耽る彼の姿。

そんな諸々に小さくない高揚を感じ、眠りに飽きていたのも相まって、わたしはいつも以上に積極的に先輩に絡んでいた。

 

「じゃあじゃあ、わたしとお話しましょうよー」

 

「いいから病人は部屋戻って寝てろ」

 

「さっきまで寝てたから、目、ちょお冴えてるんですよー」

 

「ったって、話って何すりゃいいんだよ」

 

ようやく本から顔を上げたその目は、言外に「仕方ない」と語る、最近のわたしのお気に入りだ。

腐った目だとか散々言っておいてアレだけど、チーズだってある意味腐ってるんだし、いいモノはいいってことで。

 

「えっとですねー、腹筋がつっちゃうくらいの爆笑ネタで」

 

「待て、ハードル高すぎだ。せめて面白い話くらいにしろ」

 

「先輩のお話はなんでも面白いですから」

 

「あーはいはい、んなヘタってる時まで頑張らなくていいから」

 

「…」

 

アピールとか考える余裕が無いのは本当。

だから、いまの完全に素なんですけどねー。

どう言ったら、先輩は信じてくれるんだろ。

 

「…そういやおま──」

「なんですか?わくわく」

 

食い気味のわたしに少し引きつつ、先輩は手を払った。

 

「わくわくとか言うな。ゴロリかお前は」

 

男の子に邪険にされるのって慣れてないんで、ホント言うと結構傷つくんですけどね、それ…。

ていうか、ごろりって誰?

 

「倒れてたとこに、カバンの中身ぶちまけてたのな、お前。そんとき見えちまったんだけど」

 

「…!」

 

うわっ、バッグは雪ノ下先輩が開けたっていうから油断してた…。

もしかして、見られた?

見られてないよね?

 

「何で空のマッカン持ち歩いてんの?」

 

見ーらーれーてーたーぁ!!

 

「お守りか?中々いいセンスしてんな」と何故か気持ち前のめりの先輩。

一方のわたしはさっきとは逆に、身体を反らして顔ごと視線を泳がせてしまう。

 

「えー、あー、んんー?そ、そんなの入ってましたっけ…?」

 

「いや、知らないうちに入れられてたなら、もっと問題なんだけどな」

 

むむ、確かに。それじゃ単なるイジメですね。

今のわたしだと笑い飛ばせない状況だし、その尻馬に乗っかるとヘンにこじれる気がする。

 

追求からのらりくらりと逃れつつ、壁に据え付けられたダッシュボードに目をやった。元は観葉植物が飾られていたそのスペース。いつの間にやら半分以上をわたしの小物が占拠している。

その中のひとつ、短い脚を伸ばしてぺたんと座ったテディベア。どこか手持ちぶさたで据わりもイマイチよろしくないあの子に抱っこさせるつもりだったんだけど、それを正直に答えるのは大変よろしくない。

 

貴方が飲んでいるから。

貴方が好きだと言っていたから。

だから飾りたいと思った?

 

これがお気に入りのミルクティーの缶だとか、もっとパッケージに洒落っ気のあるものだったらともかく、バランス栄養食もかくやというあのデザインセンスじゃあ、他の理由にこじつけるのも難しかった。

先輩の推論に乗っかってお守りだということにしても、それがなぜお守りになるのかと聞かれれば、やっぱり結論は似たようなものだろう。

 

あのときは単なる思い付きだったけど、こうしてその行動原理を細かく紐解いてみると、我が事ながらその女々しさ…もとい乙女々(おとめめ)しさに身悶えしたくなる。

 

こんなの、言えるわけがない。

 

うーん、ちょっとピンチかも。

 

「あれです、その…ちょっと言いにくい事情があるといいますか、ないといいますか…」

 

「なに、空っぽのお前にはこれがお似合いだ、とか言いたかったの?」

 

と、自分を指差して、彼は見慣れた苦い笑いをして見せた。

確かに言い訳としてはそのオチでもいいんだけど…。

なんか、先輩の中のわたし、かなーりイヤな女の子になってないですか?

 

「…先輩って、わたしの扱いだけちょっとヒドいんじゃないかと思うんですよ」

 

ちょっとだけ恨めしそうな声を出して、ぷいっと顔を背けてみせた。

 

「いや今の流れだと酷いのお前でしょ」

 

「そうなんですけど…そうじゃないんですぅ」

 

「別に何でもいいけどな」

 

話を逸らし続けるわたしから興味を失ったのか、自分でつけたオチに納得したのか。

ともかく彼は文庫本を開くと、読書を再開してしまった。

 

何でもよくないです。

もっと興味持ってください。

わたしは興味ありますよ、先輩の色んなこと。

 

視線がぶつからないのをいいことに、顔の向きは変えずに目だけを先輩の方へ向け、こっそり見つめてみる。

 

もう、フツーに言っちゃった方がラクかなぁ。

 

そりゃ、ね。

わたしは自分の気持ちに正直な性格だって自覚もあるし、べつに認めるのはイヤじゃないよ?

それはいいけど、昨日の今日──ううん、まだ日付すら跨いでない、そんな流れで言うのは、なんか、その、軽すぎるんじゃないかなって。

重いのもキャラじゃないけど、いくらなんでも、ちょっとね。

 

てか、今日はさすがにイベント盛りすぎでしょ。今まで生きてきて、こんなに頭を使った日、無かったんじゃないかな。だいたい、気持ちがハッキリしたその日にいきなり自宅お泊りとか、ペースおかしいよ絶対…。

 

怠惰な神様に延々とグチっていたら、完全に居なくなったはずの睡魔が、またこっそりと忍び寄ってくるのを感じた。

やっぱりまだ体力が足りていないみたい。

もっとお話したかったんだけど…。

 

「ごめんなさい、なんか、またねむくなってきました…」

 

瞼の重さも支えられず、視界を遮断したわたしは夢と現の境が曖昧になっていく。

誰かがはだけていた毛布を掛け直してくれる感触があった。

ううん、誰か、だなんて白々しいのはよそう。

 

「ありがと、ございます…せんぱい」

 

返事はないし、わたしも目を開けて確認したりはしない。

そういうやりとりを、もっと積み重ねていきたいから。

触れられるほどじゃないけど、それでも傍に居てくれるのを感じられる。

 

男子の前で本気で寝ちゃうとか、何があっても言い訳できないなぁ…。

 

 

自分の図太さに呆れながら、わたしは再び眠りに落ちていった。

 




これで一安心だと思った?
残念!次も事件でした!(まさ外


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■13話 最高の悪目立ち

辻褄合わせに手こずって、掛けてる時間の割りになかなか文字数が稼げません。
伏線管理って大変だなぁ。


ようやく顔を上げた太陽の光は昨日よりも頼りなく、夜の間に冷えた空気はまだまだ冷たいまま。その厳しい寒さに動きは鈍り、普段であれば毛布をはぎ取られるまで篭城を決め込みたいところだ。けれど本日の一色家には眠気なんて微塵も感じさせない、甲高い声が飛び交っている。

 

「お待たせ!ドライヤー空いたよ~!」

 

「私は時間が掛かるから、一色さんお先にどうぞ」

 

「わ、わたしも最後にじっくりやりたいんですけどー?」

 

狭苦しい空間に、身体から湯気を立ち上らせる女子が、半裸のまま右往左往している。

何しろ年頃の娘が三人も居るのだ。洗面所におけるスペースの取り合いは社会の荒波もかくやといった激しさとなる。男子的には想像するとのっぴきならない絵面かもしれないけど、そこは女同士。肌が触れ合ったところで、普通に狭くて普通に邪魔でしかない。

低血圧だとかセットの都合だとか、色んな事情で朝からシャワーを浴びる女子は結構多い。

運動部だと結局汗をかくから朝錬の後なんてパターンもあるんだけど、今や無所属のわたしを含めた三人の女の子はみんな揃って朝シャン派だった。

 

「…だからずらして入れば良かったのに」

 

「まぁ、もう済んだ事ですし…」

 

そう、雪ノ下先輩は最後まで一人ずつの入浴を提案していた。

その提案に乗らなかった事を、今になってちょっぴり後悔している。

 

でも仕方なかったんですよ。いつ先輩が目を覚ますか分からないんだから。

わたし、何だかんだで24時間以上、お風呂に入れなかったんですよ?!

そのことに気がついたときは、マジで血の気が引きましたとも…。

そんな状態であんな…ぺたぺたすりすりしていただなんて…やだ、そんなの信じたくない…。

昨日のことは、あったかい思い出だけ取っておきます。

都合の悪いことは忘れます。忘れろ。忘れてー。

 

「ちょっと前、失礼しますね、バスタオルを…」

 

「冷たっ!一色さん、貴女きちんと暖まったの?ぶり返すわよ?」

 

リスクと引き換えに、わたしは雪ノ下先輩が頑なに独りで入りたがった理由を知ることとなった。

病み上がりで弱っているところに持つ者の余裕というものを見せつけられ、今はメンタルに少なくないダメージを受けている。そして二日続けてそれに付き合わされた雪ノ下先輩の方はというと、既に若干キレ気味のように見えた。

 

「ねー、あたしのブラ、誰か間違えてつけてない?」

 

「そんなわけないですし」

 

「朝から何の嫌味かしら…?」

 

うーん、わたしだって悲観するほど小さいわけじゃないんですけどね…。

それになにより、お二人とは一年という大きな差がありますし?

四月生まれだろうと実際の差はほとんどなかろうと、時間はわたしの味方なのです。

え?ママはどうなのかって?

ちょっとそこ黙っててくださいね☆

 

リビングに戻ると、お墓から復活したゾンビのように、虚ろな目をした先輩がゆっくりと周囲を見回していた。

 

危ない危ない、ギリギリセーフ。

制服よーし、髪よーし、メイクよーし、香水よーし。

準備完了!本日のいろはは90点でございます。

さてさて、今日も恥ずかしいお顔、見せてもらいましょうかー。

あ、でもでも、いつも通りじゃつまんないからー…

 

寝ぼけた先輩をからかうというレアチャンスに、わたしはさっきまでの憂鬱を忘れてこっそりと忍び寄る。

 

「おに~いちゃんっ♪」

 

妹キャラで肩越しにハグしてみちゃいました!てへっ☆

昨日の名残もあって、わたしのアタマは朝から全力でゆるゆるみたいです。

そんな過剰なスキンシップに対する反応は、冬眠開けの爬虫類のようにもっさり。

これ生きてるの?…あ、動いた、みたいなカンジ。

 

「小町、あと5分…5分経ったら諦めてくれ…」

 

それ5分待つ意味なくないですか?

 

言い返そうと思ったら、何と彼はわたしの腰に手を回し、お腹にスリスリ頭をこすりつけてきた。

 

ひゃーーーっ……!

 

妹さん確か中3でしょ?こんなコトして許されるものなの?

じゃなくて!想定外の展開ですねこれは。

あ、匂いがいつもより濃い…そういえば先輩もお風呂入り損なってましたっけ。

まあでも、先輩の匂いはイヤじゃないから、このくらいならむしろアリですけどね。

好きな相手の匂いはキツくても平気なんだっけ?

それはそれで、なんか恥ずかしいなぁ。

てか、悲鳴を堪えたのはホント感謝してくださいよ?

誰かさんに聞かれて刃傷沙汰とかカンベンですし。

 

自ら首に回した腕を解くべく、そろりそろりと身体を動かしていると──。

すんすん、と鼻を鳴らすような音が聞こえてくきた。

 

ちょ…っ!

 

視線を下方向へやると先輩が首を傾げている。

 

「んん…?」

 

わたしのお腹に顔を埋めたまま、すぅーっと深く息を吸い、再度匂いを確認。

 

「…っ、ひゃああああぁぁっ?!」

 

わたしの声は、向こう三軒に響き渡ったと思う。

 

 

* * *

 

 

「…だから、そもそも地面に額を付けるという非日常性こそが行為に価値を生む土壌になっている訳だ。そこへ来て俺のように日常的に当該行為に勤しんでいる人間が、さらにそのルーチンを繰り返すことに何の特殊性があるだろうか。まして昨今、責任回避の最終手段としてマスメディアの前で晒され続けた結果、最早謝罪の意を見出すことは困難になってさえいる。しかもだ、遡れば古くは江戸時代に…」

 

「黙って土下座してなさい」

 

床につけたままの頭を上げる権利を獲得すべく、寝起き直後から長ったらしいウンチクを話し始めた先輩をばっさり切って、雪ノ下先輩が冷徹に告げた。

すっかり身支度を整えた結衣先輩も、微調整とばかりにくくったお団子髪を撫で付けつつ、白い目を向けてる。

当事者であるところのわたしは、二人に責め立てられる先輩がちょっぴりかわいそうで、けど叱られるわんこのような姿がほんのちょっぴり可愛いなーとか思いながら、床に押し付けられた寝癖頭を見守っていた。

 

「何か申し開きはあるかしら」

 

「だーかーらー。小町と間違えたんだって」

 

「それで許されるなら、世の中に性犯罪なんて言葉は存在しないのよ」

 

「そーだそーだ!セクハラはんたーい!」

 

事なかれ主義の結衣先輩が、今日はやけに攻撃的だなぁ。

理由は…まあお察しというところだけど。

あと先輩、その理屈だとやっぱり妹さんなら反省しないってことですよね。先輩んちの妹さん、わたしの中で妄想膨らみっぱなしなんですけど。ちゃんと健全な兄妹なんですよね?

 

「一色が言うならともかく、お前らが責め立てるのはどういった理屈なわけ?」

 

「仮にも先輩である相手の変態性を糾弾するのは、後輩と言う立場の人間には難しいからに決まっているでしょう」

 

「そーだそーだ!パワハラはんたーい!」

 

「いや先輩に対する遠慮とかねえしコイツ。わりと普段からキツいこと…あれ、意外と言われてない、か…?」

 

当然です。愛されキャラのわたしは露骨に暴言を吐いたりしません。

油断してるとうっかり本音がポロッと零れたりすることはたまにありましたけど…。

女子の匂いをゼロ距離でかいだ先輩の罪の重さと比べたら、可愛いものですよね。

さて、いい加減つむじも見飽きたことですし…。助さん角さん、もう良いでしょう。

 

「雪ノ下先輩、もうそのくらいで…」

 

「発言は許可していません」

 

こわっ!

えぇー、なんかわたしまで睨まれてないですか?

結衣先輩の頬も膨れたままだし──ああ、なるほど。

過剰なスキンシップを責められてるのはなにも先輩だけではない、と。

 

そうですか、そういうことですか。なら遠慮しませんよー?お二人は苦手みたいですけど、わたしは得意分野なんですから。こういうのをいちいち咎められてたら、この先自由に身動きとれないですし。

 

「もう無かった事にしますから、ハイおわりー。裁判ごっこはおわりですよー」

 

パンパンっと手を叩きながら声を張りあげてみせると、結託していた二人も毒気を抜かれたように表情から険しさを引っ込めた。

ここはわたしの(ホーム)、本来主導権を握るのはわけもないのである。

 

「そう…。確かに被害者の心的負担を考慮すれば、蒸し返すのが辛いという事情もあるかも知れないわね。

 ごめんなさい一色さん。無作法だったわ」

 

「被告にも人権は保障されてるんじゃなかったのか、この国は…」

 

はいはいご飯にしましょうねー、と未だに言い足りなさそうな雪ノ下先輩の背中を押して、なんとかテーブルへ座らせる。

お出しする食器を選別していると、先輩がこそこそっと近寄ってきて、頭を下げた。

 

「その、マジですまん。すみませんでした」

 

うーん、お風呂に入る前だったらどうだったか分からないけど…。

ちゃんと支度した後だったし、わたしホントに怒ってないんですよねー。

 

仕方がないから頭を下げたままの先輩の顎に指をあてて、くいっと前を向かせて。目を白黒させているその耳元に口を寄せ 怒ってないことを教えてあげた。

 

「…どうでした?妹以外の女の子の香りは」 

 

「っ…!」

 

先輩はそのまま何も言わずにバッと身を引いたけれど、それで充分に満足できた。

だっていつかの回し飲みみたいに、先輩の耳、赤くなってるんだもん。

まずは本日の一本目ってところかな。

 

「ところで先輩も朝ごはん食べる派ですよね?」

 

「い、いや。時間ないからいいわ。一旦家に帰らんとだし」

 

「え?忘れ物ですか?」

 

家に帰っていないひとに、忘れ物って表現でいいのか分かりませんけど。

 

「俺もシャワーくらい浴びたいんで」

 

「うちで浴びたらいいじゃないですか」

 

「や、それは…」

 

チラチラと、女子の間を行ったり来たりするその視線。

 

「覗きませんよ?」

 

「いや逆だろ」

 

「わたし達もう済ませたので、覗けませんよ?」

 

「ちげーよ。つか分かってんだろ」

 

んーまあ。

先輩そゆとこチキンっぽいですしね。

ニマニマしていると、結衣先輩がドレッシングの瓶をシェイクしながら言った。

 

「いろはちゃん、お風呂のお湯ってまだ抜いてないよね?」

 

それを耳にした先輩は憮然としたご様子。

 

「残り湯を悪用したりもしませんから…つか、そういうの気になるから家に帰るって話だろ」

 

「気になるんですかぁ?(ニマニマ)」

 

「キミちょっと黙っててね?」

 

あわあわ言いながら否定している結衣先輩は、追い炊き出来るかどうかを気にしたんだと思うけど、面白いから黙ってよっと。

雪ノ下先輩はマイペースにコーヒーを口に運んでるけど、その片耳に掛かった長い髪を払って聞き耳の構えだ。

一緒に入るならともかく、気にしすぎですよ。

そんなこと言い出したら、学校のプールだって迂闊に入れないじゃないですか。

 

「いいからスパッと入ってスパッと済ませてきて下さいよー」

 

グダグダくねくねしている先輩にバスタオルを押し付け、無理やり脱衣所に押し込んでおいた。

 

リビングに戻って朝食を並べていると、「あ」と小さな声が上がった。

見れば結衣先輩が顔に手を当てて固まっている。

 

「どうかしましたか?」

 

「は、排水溝、大丈夫かなーって」

 

「排水溝?何のこと?」

 

楚々とした手つきで口元にティッシュを当てながら訪ねる雪ノ下。

いちいち上品ですねー。チェックチェック。

 

「その、毛、とか…」

 

「!!」

 

フシュッ!っと雪ノ下先輩のティッシュが踊った。

飲み物含んでなくて良かったですね。

しかし何てこと言いますかね、このピンクい先輩さんは。

 

「いくらなんでもそんなトコ気にしないんじゃないですかー?」

 

「いや~、ヒッキーだからこそ、そゆとこ細かそうじゃん?」

 

「…」

 

ひ、否定できない…。

 

「だ、大丈夫でしょう。仮に残っていても、いちいち誰のものか区別なんてつかないのだし」

 

いやいや、その"みんなで渡れば怖くない"的な発想、基本的に大丈夫じゃないパターンですよね…?

 

「え?すぐ分かるじゃん?てかゆきのんのが一番分かるし」

 

「ええっ!なっ、ど、どうして?」

 

「どうしてって…ゆきのん超長いじゃん。あたしといろはちゃんだって、色全然違うし」

 

「な、長いの?そ、そうだったかしら…?」

 

二人の会話はかみ合っているようで決定的にすれ違っている。だってほら、雪ノ下先輩の恥ずかしげな視線、どう見てもスカートの奥に向いてるっぽいし。まあ誰も幸せになれそうに無いから指摘はしないけどね。どっちにしても、わたしだってスルーしかねますよコレは。

 

揃って変な汗をかいていると、バスルームの扉が開く音が聞こえた。

足音がこちらへ近づいてきて、 (くだん)の人物がぬべっとリビングに顔を出す。

 

「…風呂、サンキュな」

 

濡れ姿というのは男女問わずドキッとするもので、本来であればわたしも先輩の湯上がり姿に思うところがあったはずなんだけど、重大な懸念を抱いてしまった今となっては、彼に向ける視線に艶っぽさなんて微塵も残ってはいなかった。

 

「な、何だよ…?」

 

都合3人分の、探るような視線が突き刺さる。

 

「…先輩、早いんですね」

 

「…うん、超早いね」

 

「…男子ってこんなに早いのね」

 

「主語省くのやめてくんない!?」

真っ向から聞くわけにもいかないわたし達の不満げな声に、なぜか先輩は悲しげに肩を落したのだった。

 

 

* * *

 

 

7時台の残り時間はもう僅かとなって、遅刻の二文字がちらつき始める頃合。

わたし達は連れ立って学校へと向っていた。

 

昨日は夕方から寝ていたようなものだったから、目が覚めたのも明け方だった。

けれど、リビングで眠りこける誰かさんの寝顔をぼけーっと眺めていたり、朝の身支度戦争が勃発したりしたおかげで、気が付けばこんな時間。

本当は時間差をつけて一人ずつ出て行くつもりだったんだけど、思ったより余裕がなかったのと、「どうせ誰も見てないでしょ」という結衣先輩の一言で「まあいっか」的なムードになり、結局みんなで一緒にぞろぞろと家を出てきたのだ。

 

雲の多い空からはあまり光が差さず、天敵の紫外線ばかりが降って来るのだから寒いやら腹立たしいやら。

そんな曇天の中、わたし達の交わす会話のトーンは明るく弾んでいた。

 

女子というものはお泊りが大好きな生き物で、そこそこ頻繁に友達の家に泊まったりする。

かく言うわたしもご多分に漏れず、お泊まりは大好物。親友と呼べるほどの相手こそ居ないものの、一部のクラスメイトの家に泊まる程度の嗜みはいちJKとして当然こなしてる。

 

…ごめんなさい今ちょっとウソつきました。

クラスにそんな友達居たら、一人でお昼とかありえないよねー。

これでも入学直後はフツーに御泊りローテの一角を担ってたんだけどなー。

 

それはともかく。

仲の良さげな二人の先輩もやっぱり泊まり泊まられしているのか、他人の家から登校することにはそこそこ慣れた様子だった。

けれど約一名、さっきからキョロキョロとせわしなく、とっても落ち着かないひとがいる。

 

「先輩、不審者ですね」

 

「一色。『まるで』が足りない。意味が違っちゃうだろ」

 

「必要ないでしょう、実際不審なのだし。一体何をそんなに気にしているのかしら」

 

「あー、いや、なんつーか…あれだ」

 

どうせ女子の家から出てきたところを誰かに見つかったりしたら、嬉し恥ずかしいつるし上げを食らうんじゃないかとか、必要のない心配でもしてるんでしょうね。そんな友達いないくせに。ぷくくー。

ツッコんであげようと思ってたら、結衣先輩に先を越されてしまった。

 

「知り合いなんてそうそう居ないでしょ?」

 

「そうそう、知り合いなんて居ない…何か違う意味にしか聞こえねーな…。いやそうですね。俺の気にし過ぎですね」

 

あれ、素直に認めた。

なーんかおかしいな…。

 

「心配しなくても、誰も貴方のことは気にしていないわ、最初から」

 

「素直に受け取りたいから最後のとこカットしてくんない?」

 

「出来もしない事を言わないで欲しいわね」

 

「それって俺が素直になれないって事ですかね。それともお前が引く気が無いって事ですかね」

 

「両方に決まっているでしょう」

 

いつもより三割くらい切れ味が鋭い雪ノ下先輩。

そのわき腹を、結衣先輩がチョイチョイとつつく。

 

「ゆきのん、なんか今日は特にゴキゲンだね?」

 

「きゃっ…!何をどう見たらそういう結論になるの?」

 

雪ノ下先輩のテンションは、こうやって測ればいいのかぁ…ふむふむなるほどー。

なんかマンガみたいなひと達ですねー。

やけに素直な先輩の態度がちょっとだけ気になったけど、語気も荒くまくしたてる雪ノ下先輩を諌めるためにそれどころではなくなってしまった。

 

「大体、異性と会話を交わした程度ですぐに色めき立つ風潮がそもそも問題なのよ」

 

保身が高じてとうとう社会にまで物申し始めた雪ノ下先輩。

でもそれはわたしも一言物申したいネタですねー。いざ参戦です。

 

「それは仕方ないんじゃないですかー?男と女の間に友情は成立しないって言いますし」

 

「あーそれ。よく言うよねー」

 

「ねー?」とシンクロする二人は恋愛至上主義。

それを冷ややかな目で見つめる雪ノ下先輩は「なら聞くけれど」と異論を唱えた。

 

「由比ヶ浜さんは、葉山くんのグループの誰かに特別な感情を持っているのかしら?」

 

「えー?ないない。ってか、そもそも一人ひとりとはそんな仲良くないし」

 

「あんだけ毎日つるんでるのに影でこの扱い…女子怖いよ女子…」

 

先輩がついっと結衣先輩との距離を広げる。

 

「こ、怖くないし!だってホラ、それはそれ、これはこれって言うじゃん!

 てかヒッキーも前ゆってたじゃん!友達の友達は友達じゃないって」

 

「そこまで露骨には言ってねえよ…」

 

「でもー、そんなの男子にだってありますよね?

 みんなで遊びに行くことはあってもー、その中の二人だけは絶対ないとか」

 

「でもお前、確か戸部と二人で遊んでなかった?」

 

「 は ? 」

 

・・・・・・。

 

もー、先輩がワケ分かんないこと言うからみんな固まっちゃったじゃないですかー。え、ちょっと先輩なんで腰引けてるんですか寒いからもっとこっち来て下さいよーほらほら可愛い後輩が腕組んであげますから。あれ、なんか結衣先輩や雪ノ下先輩までちょっと遠くなってませんか?気のせいですかねー☆

 

「せんぱぁい?」

 

「ひっ…」

 

「先輩はぁ、虫除けのスプレーとかぁ、ひとりって数えますかぁ?」

 

「か、数えない、けど…」

 

「 で す よ ね ~ ? 」

 

ご理解頂けたようで、わたしとっても嬉しいです。

おっかしーなー、かなりいい笑顔のつもりなのに、さっきから先輩が目を合わせてくれないなー。

けど、ここは誤解されたくないところだし、もっともっと説明しておかないと。

 

「な、なるほどー、ナンパ対策かぁ。とべっち悪目立ちするからちょうどいいかもね」

 

「そのとおりです結衣先輩!あれ普段何の役にも立たないんですけど、ナンパ防止率はなんとオドロキの100パーセント!結構便利なので、わりとちょくちょく持ち歩いてたんですよねー。あとほらー、ちょっと叩けばアイスくらいなら奢ってくれるんですよ。あ、叩くって物理的にじゃないですよ?ホコリが出るほうのやつですよ?」

 

だから全然そんなんじゃないんですよー、と笑顔で締めくくってみると、先輩の表情は暗い影が差していた。

 

「戸部…強く生きろ…」

 

あれー?目がいつも以上に死んでますね。

トラウマスイッチでも押しちゃいましたか?

 

「だいじょーぶですよ、わたしはちゃんと先輩にトクベツな感情もって接してますから」

 

「もうオチが透けて見えてるからやめろ」

 

「やだなぁ、負の感情だなんて言ってないじゃないですかぁ」

 

「やめて下さいって言ってるじゃないですかぁ…」

 

何一つウソを言っていないのだけど、勝手にネガティブに捉えた先輩はただでさえ猫背の背中を更に丸め、しょんぼりとしてしまった。

やっぱ大型犬みたいでかわいいなーこのひと。

撫でやすい位置に下りてきたその頭に、思い切って手を伸ばして──

 

「いろはちゃんはさ!」

 

ぐふっ!

 

とっさに腕を引いたせいで、自分のお腹にエルボーいれてしまったです…。

結衣先輩、さすがに目聡い。

腕組みは見逃せてもナデナデはNGですか。

 

「いろはちゃんはどう?男子と話す機会、けっこうあるよね?」

 

むぅー、わ、わざとらしいパスをしてくれますね…。

正直恨めしい思いですが、まだまだ面と向って戦争する気はありません。

ふこくきょうへい、がしんしょうたん、というやつです。

うん、ちょっと頭さげ。うんうん。

 

「わたしの場合、そもそも最初から相手が友情を望んでない、みたいな?そんなカンジですねー」

 

「貴女と友人関係を望む生徒自体が存在しないということかしら?」

 

そこの黒い先輩、なんでちょっと嬉しそうなんですか。

確かに結論は間違ってないんですけど、多分あなたが期待している流れとは違いますよ?

あと男子ってつけて下さい。女子ならそこまで酷くありません。そこまでは。

 

「つか一色の場合、相手の方が一足飛びに恋愛関係を望んでくるってことだろ」

 

「え、そ、そうですけど。よく分かりましたね…?」

 

何かを思い出すかのようなその目は遠く、いつにも増して淀みが深い。

もしかして先輩もそんな風に思ってたりとか、しちゃったりするのかなー、なんちゃって…。

 

「友達から先が期待出来ないんだったら、フラれたほうがマシってことだろ。時間も勿体無いし。あと金も」

 

「でも、だからっていきなり彼氏とか無理くない?こっちだってアリかナシか、すぐ判断できないし」

 

「そーですよー。何事にも順序ってものがあると思いますー」

 

いつの間にか賛同してくれてる結衣先輩。

その名前は一年男子の口からも聞こえてくるくらいだし、やっぱ結構声とか掛けられてるんだろうなー。

 

「とりあえず一色のケースに関してだけ言うと、出来レースの可能性を心配してる部分はあるだろうな」

 

「出来レースって…どういうことですか?」

 

「実はもう彼氏が居るとか、あるいはそれに近い状況ってことだよ。お前クラスの達人だと隠すの上手い上に距離感も適切に保って深入りさせないだろ。だから男は見えない影に怯えて、最初に確認したがる。このレースに参戦する価値はあるのかってな。実際、一色杯は葉山が優勝してるのに何故だか今も続投してる」

 

「そ、それは…」

 

もう違う。

けど、つい最近まではそうだった。

そして、少なくとも先輩はそう思ってる。

そうだ、大事なひとにこんな風に思われたくないから、普通は出来ないはずなんだ…。

うう…今更だけど、ちょっと泣きそう。

自業自得?そうだよ、分かってるから言わないでよー…。

 

否定しようとしてくれたのか、結衣先輩は口を開こうとして、けれど半開きのまま何も言わなかった。

余計なお世話だと思ったのか、事実だから否定できなかったのかは分からない。

彼女はあれでガードが固いって話だし、どっちかっていうと先輩の意見に同意しているのかも。

 

「あー、別にお前のやり方に口出しするとかじゃないから。それ承知の上で特攻してる男が大半だろうしな」

 

しょんぼりしてたらなんかフォローみたいな事されてました。

でも、ほんとは怒って欲しかったな…そういうの良くないって。口出ししないって、つまりわたしのことは興味ないってことだし…。昨日ちょっと仲良くなれたと思ったの、気のせいだったのかなぁ。

 

「なら、身持ちが堅い女性の場合はどうなのかしら?」

 

枯れかけた花のように萎れたわたし、そこに気を遣った結衣先輩が動けない中で、興味本位という面持ちの雪ノ下先輩が話を続ける。

聞きたくても聞けないで居たであろう彼女は、思わぬ助け舟にお団子髪がぴくんと反応していた。

 

「そりゃ、そういうのと友達にまで漕ぎ着けたら相当なリードだろ。ほとんど当確じゃねーの?」

 

「そ、そうかな?そうなのかな?」

 

うー、すっごい嬉しそう。身体も胸も弾んでる。

これが今のわたし達の差ってこと?

色々と遅れをとっちゃってるなぁ…。

 

「ま、世の中に絶対は無いけどな。真面目に好感度稼いでる途中でイケメンに掻っ攫われる可能性とかあるし。あいつらスタート地点がゴール直前とかおかしいだろ。人生舐めてるとしか思えん。俺が挨拶してもらえるのに何年かかったと思ってんだ。クラス替え初日で放課後デートとかどんだけ手ぇ早えんだよ、侵略的外来種かっつーの」

 

「男子全般の話と思ったら、またヒッキーの話だった…」

 

「ちなみに、ずっと友達のままではいけないのかしら」

 

「ぐっは!」

 

あちゃー…先輩が流れ弾で戦死してしまいましたね…。

これで戦死者は二人目。朝から大惨事です。

 

「雪ノ下先輩…。それ、男子にとっては死刑宣告みたいなものですよ?」

 

わたしもその事実を理解するまでに、何人()っちゃったかわからないですけどねー。

 

「けど一色、さすがに今はお前も閑古鳥なんじゃねーの」

 

カンコドリって表現はよくわからないですけど、言いたいことはわかります。

 

「そうですねー、さすがに寄ってくる男子は減りました。結構ありがたいかもです」

 

「減った?一色さん、まさかとは思うけど、この期に及んでなお、声を掛けられるというの?」

 

「はぁ、まぁ多少は…」

 

そんな信じられない、みたいな顔で言わなくてもいいじゃないですかー。

 

「実はー、昨日もクラスの男子にランチ誘われたんですよねー。参りましたよー」

 

勿論お断りしましたけど、と言って先輩の顔を見る。

どーですか、先輩?

そんな人気者のわたしとお二人様ランチ、してみたくありませんか?

先輩だったら顔パスで招待してあげますよ?

 

これ見よがしに視線をチラチラ送ってみたけれど、物憂げな表情を前に向けたまま、こちらを向いてはくれなかった。

 

「正気を疑うわね。例の騒ぎの後で、状況を知らないわけも無いでしょうに…」

 

えーと、それもちろん男子に言ってますよねー?

 

「一年生けっこー凄いんだ…クラスの男子と二人でお昼とか、あたし絶対ムリだ…」

 

上目遣いで先輩を盗み見る結衣先輩の仕草は、わたしの目から見てもちょお可愛い。

というか養殖モノの自覚がある身としては、アレはちょっと眩しい。そしてズルいです。

 

「こっち見ながら言わなくてもわかってんよ…」

 

「あっ、その、そうじゃなく…や、ヒッキーは、その、じっさい一番ムリはムリなんだけど…」

 

「やめろ。無理にフォローしようとすんな。余計酷くなってるからな?」

 

顔を見ればどういうつもりで言っているのか一目瞭然なんだけど、先輩が頑なに相手を見ようとしないせいで奇跡的なすれ違いが二人の間に生まれていた。

いくら踏まれてもへこたれない雑草のように顔をひと撫でしただけで復活した先輩は、気を取り直したように続けた。

 

「しかし勇者だよな。俺なら一色には近づきたくもないわ…」

 

今日はちょくちょくわたしを殺しに来ますね、このひと。

なんか段々慣れて来ちゃいましたよ。

 

「比企谷くんが自分から女子に声を掛けられる空気、なんてものがこの世に存在するとは思えないのだけど」

 

「ですよねー」

 

「一色さん、その同意は俺の発言に対してですよね?」

 

「いえいえ、ちがいますよ?」

 

苦いものでも食べたみたいにへにょっとした顔。

このひと、わりと顔だけは素直だなぁ。

 

「でも確かに、今のわたしってガチ地雷じゃないですかー。相手マゾなんですかね?」

 

「今の、は余計だけど、どうだろうな」

 

「先輩こそ一言余計ですよー」

 

ちょっと間をおいて、先輩は明後日の方を見ながらこう言った。

 

「例のやつ、そういうの見てリアクションとかねーの?」

 

努めて出したであろう、いつも通りに低くて平坦な声。

沈み気味だった気持ちがすっと浮き上がるのを感じる。

単純だなって、笑ってくれていいですよ。

だって嬉しいじゃないですか、こんな風に心配してもらえたら。

 

「中原君はですね、実はあれからずっと休んでるんですよ」

 

「それは…一概に安心とも言い難いわね」

 

「だな。来てるのとどっちがマシかってトコだが」

 

「そーなんですよねー…」

 

ことこれに関してだけ言えば、学校における周囲の目というのはとても強固な盾であると言える。だから何をしてくるかわからないのは自由に行動できる放課後以降に限られる。そうなると、むしろ一日中勝手に動き回っているかもしれない可能性があるぶん、休んでいる方が不安という側面があった。

先輩方もそんなわたしの心情を汲み取ってくれたみたいで、

 

「結局、根を断つしかないという事なのでしょうね」

 

雪ノ下先輩の冷たく静かな声に、今抱えている問題の深刻さを改めて思い出す。

 

顔を上げると見慣れた正門が近づいていて、賑やかな通学路が終わりを迎えたことを告げていた。

 

 

* * *

 

 

いつもとは違う時間に家を出て。

いつもとは違う顔ぶれで登校して。

けれど教室に入ってしまえば、後はもういつも通り。

ちょっとした非日常は日常という大波に飲み込まれる。

 

今日も中原君は学校に来ていない。

差し当たっての不安はなかったけど、先輩方の指摘した通り、見えないところで何かされていやしないかという恐怖感も小さくはなかった。

 

「──ふぁ…」

 

…いやいやいや。

こんなに怖くても眠くなっちゃう授業の方も、悪いんじゃないかなぁ?

やっぱさ、居眠りしちゃうのって、別に睡眠不足が原因ってわけなじゃいんだよね。だって昨日あれだけ寝たのに、それでも眠くなるって何かあるとしか思えないし。

 

睡眠のサイクルが狂ったせいで、明け方から起きていたというのも原因だろうけど、なんにせよ今日のグラマーほど辛い授業も久しぶりだった。

あの先生、絶対海外行っても通じない系だよね。onでもinでもいいじゃん。いざとなればボディランゲージで通じるって。だって日本語が既にちょお適当でも通じるし。

 

たらたらと取り留めない文句を思い浮かべていると、ようやく頭の回転数があがってくるのを感じた。

チャイムの音に周りを見渡せば、退屈な授業から解放された生徒達のざわめきが波紋のように広がり始めている。

まだ先生が教室に居るにも関わらず、眠そうな顔で伸びをしているかと思えば、「だっりぃー」とあからさまな声を上げるひともいた。

 

もちろんわたしは教室の中でそんな態度をとったりしない。教室の中では、ね。

溜まった鬱憤を解消するため、本日のランチメニューへと思いを馳せる。今日は空気も読まずに近寄ってくる男子も居ない。落ち着いて食事が出来そうだ、とバッグのお財布に手を伸ばしたところで、誰かが近寄ってくる気配を感じた。

 

「お疲れー、一色さん」

 

「あ、お疲れさまー…」

 

反射的に営業スマイルを浮かべて振り返ったわたしは、内心で「うっわ…」と顔を覆った。

そこには昨日確かに手酷く追い払ったはずの、空気読まないクンが居たからだ。

 

うーん、デジャヴ…。

 

昼休みに入ったばかりの慌ただしさのおかげで 誰もこちらに注目していないのが救いだ。

わたしのお昼休みはどうなってしまうのだろうかと、そればかりが気になった。

相変わらず、記憶を探っても彼の名前は出てこない。アドレス帳には入っていただろうか。昨日のアレで学習しなかったのだとしたら、対応が間違っていたのかもしれない。

彼に費やす時間が勿体無いと思ったわたしは、今後のためにもキツめの態度で応じる事にした。

 

「ごめん、ちょっと急ぐから」

 

しかし彼はその場から動こうとしない。

机のすぐ傍に立ちはだかって、立ち上がりたいわたしの行動を封じてるかのようだった。付き合いきれないので、反対側から行こうと身体をよじる。

 

「ねぇ、ちょっとこれ見てよ」

 

…へぇー、こちらの都合はお構いなしってこと?

なら、こっちも同じ事したって文句ないよね。

 

「ホントに急いでるの」

 

もう視線も合わせず、お財布を掴んで勢い良く席から立ち上がる。

けれど、次の言葉を聞いたわたしの脚はその場に釘付けとなった。

 

「これさー、例のヤバい二年の人じゃない?」

 

「……え?」

 

例のとか、ヤバイとか、何の説明にもなってない。

なのに、残念ながらその言い回しには心当たりがある。

一年生が先輩である二年生に対して見せる露骨な悪意。

それが可能なのは、学年を超えた校内の共通認識だからだ。

わたしを超える最高の悪目立ち。

そんなの、一人しか知らない。

 

思わず足を止めて振り返ったわたしに、彼は口の端を吊り上げ、一枚のプリント用紙を差し出した。

 

嫌な予感しかしなかったけど、受け取る以外に選択肢なんてない。

 

用紙には写真のようなものがプリントされている。

何が写っているのかを脳が認識しようとして、しかしその前に目に飛び込んできたものがあった。

写真を煽るかのように派手に書き殴られた、マジックらしき手書きの文字だ。

 

『淫行学生』

『ヤリチン』

『乱交上等』

『クズ野郎』

 

いっそチープなまでに下品さが際立った、悪意ある単語の数々。

けれどわたしは眉一つ動かすことなく、自然体の仮面を維持し続ける。これを渡してきた彼の表情を見て、ある程度の覚悟をしていたからだ。

それにしても、あまりあのひと向きの罵倒とも思えない。むしろ戸部先輩とか?

もしかして早とちりした、かな?

 

あれ、まって、この写真…。

 

…なに。

 

…なんなの、これ。

 

プリントされた写真は二つ。

一つは暗がりで撮ったのだろうか、モノクロコピーのせいもあって、とにかくひたすらに真っ黒い。

あまりに黒すぎて、パッと見て何が写っているのか分からなかった。

けれどもう片方は別で、同じモノクロながらもハッキリと見て取る事が出来た。

 

男子生徒が一人に、女生徒らしき人物が二人。

 

連れ立って、一戸建ての玄関から出てくるところが写っている。

 

「彼らがいかがわしい関係である」というのが、この写真の主張であるらしい。

高校生の男女が同じ住宅に出入りする機会なんて普通は無いのだから、まあ言わんとしていることはわかる。

女生徒「らしき」と言ったのは、上半身の辺りをマジックか何かでぐりぐりと塗りつぶされていたからだ。

解像度的にも総武高(ウチ)のスカートをはいていることがギリギリ分かるくらい。

これでは写っている個人を特定するのは難しい。もしかしたら女装した男子でも区別が付かないかもしれない。

しかしそれ以外の、写真の撮られている「ロケーション」が、彼女達の身元を伝えてきた。

 

見覚えのある門と、玄関前に植えられているゴールドクレスト。

 

わたしの家だ。

 

おそるおそる、男子生徒の方を注視する。

申し訳程度に引かれたか細い目線は、最初から仕事なんてする気が無い。

これなら誰が写っているかは、わたしでなくても分かるだろう。

 

ご丁寧にも、男子生徒の頭の上には「H.H」と書いてあった。

 

 




次回は「あの人」が登場します。

口調が使いこなせない…なんなのあれ。

(2016.5.29 追記)
すみません、カサが増えちゃって、次話であの人登場まで行きませんでした。


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■14話 実現可能な最適解

随分時間が空いてしまって申し訳ないです。
お気に入りを維持してくださった方、ご感想を下さった方。
皆さんのおかげで、続きをお届けできます。ありがとうございます。


盗撮。

 

これは盗撮だ。

 

今朝、わたしたちは揃って家を出た。

その時に()られたに違いない。

 

改めて見ると、もう一枚の不鮮明な写真も同じ場所で撮られているのが分かった。

朝の写真とは逆に、連れだって家の中に入っていく様子の三人。

それ自体はわたしには見覚えのない光景だけど、だからこそ、いつのことであるかを特定する事が出来た。

 

時系列的にはおそらくこの不鮮明な方が先で、昨日の夜に撮られたのものだと思う。

暗闇の中の「H.H」さんは、開かれた玄関の扉に半身が隠されて見切れ気味だ。

その姿勢がやけにへっぴり腰なのは、倒れたわたしを家に担ぎ込んでいるからに違いない。

つまり、その扉の向こう側には、彼の腕に抱かれているわたしが居るはずだった。

 

わたしの大切な思い出のシーン。

 

それが、彼らを貶める目的で使われていた。

 

「…」

 

大事な物が、傷つけられた──。

 

「……ッ!!」

 

ぎり、と奥歯が鳴る。

頭の芯が熱くなるのを感じた。

呼吸がどんどん、早く浅くなる。

俯いた目頭に、じんじんと熱が溜まってくる。

 

落ち着け。

焦っちゃダメだ。

周りを見ろ、まだ誰も騒いでない。

なのにわたしが油を注いだらサイアクだ。

 

「これ、ぜってーあのヒキガヤとかいう二年でしょ。顔モロ写ってるし…まあそれ以前にイニシャル入ってるか」

 

ガマンしろ。

泣いたら負けだ。

怒っても負けだ。

わたしの負けは、あのひとの負けだ。

だから、絶対に、ダメだ。

 

「エロ系のパパラッチでH.H(エッチ・エッチ)とかって偶然にしちゃ笑えるよね。つかあの人案外遊んでんのかな?ははっ、全っ然モテそうに見えないけど」

 

今は仮面を被れ。

いつもやってきた事だ。

だからできる。

わたしはできる。

 

「うっわー、なにこれー!ねーどこで貰ったのー?」

 

ほら、できた。

 

「階段ホールんとこの掲示板。超一杯あってウケるよ」

 

「へ、へぇー、わたしもちょっと見てくるねー」

 

やば、吐きそう。

 

なんとかそれだけを口にして、表情を見られないように、素早く背を向けた。

相手の答えも確かめずに教室の出口へ向う。

今にも剥がれ落ちそうなうすっぺらい仮面だけど、ギリギリもってくれた…。

 

ちらりと教室を見渡してみたけれど、このビラを持っている人も、噂をしている様子もまだ見当たらなかった。

一見すると、この教室には全然広まっていないみたいにも見える。

けれど、チャイムが鳴ればいつでもロケットみたいに飛び出していく人種が居る。購買組だ。

もしこれが階段ホールに置かれているのなら、もう間に合わない。彼らの目に留まらないはずがない。

普段からあまり気にしていなかったけれど、わたしのクラスにはどれほどの人数が居ただろうか。

この先の展開を考えると目の前が暗くなる思いだったけれど、それでも、行かないわけにはいかなかった。

 

 

一年生と二年生の階層を繋ぐ階段ホール。

駆けつけた先では、路上ライブでもやっているかのような、ちょっとした人だかりが出来ていた。

色めき立った様子の彼らにまた頭がカッとなったけど、ううん、今はそれどころじゃない。

人垣の隙間を縫ってその中心に向かうと、白衣の人物が声を張り上げていた。

 

「ほらほら散った散った!貴重な昼休みが終わってしまうぞ?あっそこ、拾うなと言っているだろうが!おい待たんか、置いていきなさい!」

 

「平塚先生!」

 

「あ"!?…おお、一色か」

 

一瞬すごい声が聞こえたような気がして身体がすくんだけど、続いてわたしに掛けられたのは、いつも聞きなれている大人の女性のそれだった。

先生は乱れた紙束を小脇に抱え、生徒達を威嚇…ではなく注意している。

 

「これ…」

 

突き当たりの廊下には、生徒会でもよく使っているお知らせ用の掲示板がある。いや、あった。

その場所を、大量のビラが覆い尽くしている。

壁に広げられたモザイク画にも見えるそれは、貼り方が雑だったのか、廊下にも散乱している。

 

「剥がすの手伝います」

 

「あっ、いや、いい!君は生徒を遠ざけてくれればいい。えーとあれだ、グロ画像だからな!うっかり見ると夢に出るかも知れんぞ?」

 

「もう見ちゃったんで」

 

無理やり表情を保っているせいで、なんだか泣き笑いみたいな声が出た。

この人が、そんな分かりやすい感情の発露を見逃すはずもない。

柄にもなくまくし立てていた口を開きかけ、しかし閉じ。

目を瞑って、それから大雑把に頭をかいて、最後に盛大な溜息と共に言った。

 

「…そうか。ならすまないが頼もう。私は少し雀を黙らすとするよ」

 

剣豪のようなセリフを口に、ヒールを鳴らして黒山に向き合った彼女は、少し低い声で告げた。

 

「さて、諸君。いい加減教室に戻りなさい。これ以上は冗談では済まさんぞ。内申が惜しくないヤツなら大歓迎だがな」

 

成績を人質に取られた学生ほど無力なものはない。

猫に踏み荒らされたネズミの集会の如く、人だかりは四方八方へと散っていった。

とは言え、時間が時間、場所が場所だ。

噂を聞きつけた生徒やただの通行人が絶え間なくやってくる。

その度に先生は彼らを追い返し、わたしは黙々とビラを剥がし続け──

 

お昼休みも半分を過ぎた頃、撤去作業はようやく終わりを迎えた。

 

何枚も重ねて張られた用紙は全部で100枚近く。

それぞれが画鋲で止められていたので、最初は一つずつ外していたけど、途中から耐えかねてビラを引き裂いてしまった。

おかげで鋲留めされた用紙の角があちこちに残り、掲示板は見るも無残な姿になってしまったけれど、終いには嬉々として一緒に引きちぎってた平塚先生は

 

「うん、スッキリしたな」

 

と腕を組んで満足げに頷いていた。

 

「全く下らんな。余程暇を持て余していると見える。譲って欲しいくらいだ」

 

そう言いながら彼女はついと、私に手を差し出した。

わたしの暇を譲ってくれ、という意味ではもちろんない。

その手には、ワンポイントの刺繍がお洒落な、パールホワイトのハンカチが乗っている。

 

「べつに泣いてませんけど…」

 

「指だよ。切れているぞ」

 

「え?…あっ」

 

指先を見ると、赤い筋が走っている。

見ればかき集めた用紙のところどころに、血が擦れた後があった。

ヒリヒリというかチクチクというか、とにかく気に障る痛みだった。

 

じわりと血の滲む指を見ていたら、ふと視界がぼやけた。

 

指が痛いだけ。

あんまり痛いから、涙が滲む。

 

「ご、ごめんなさい、わたし…その、ちがくてっ…」

 

「ああ、貴重な昼休みを使わせた上で言うのは心苦しいんだが、生徒会に頼まなければならない用事があったのを思い出したよ。悪いが少し準備室まで付き合ってくれ。代わりと言っては何だが、午後の出席くらいは都合しておこうじゃないか」

 

「…はい」

 

全く、このひとはかっこいいな。

ほんと、なんで結婚できないんだろ…。

 

国語科の準備室は目と鼻の先。

そのくらいならギリギリ涙を零さずに済みそうだ。

軽く肩を叩かれ、そっと首だけで返事をし、先生の後へ続く。

 

沈鬱な様子で俯き教師に連行されるわたしは、周りから見てどんな重罪人に見えるだろうか。

生徒会長のスキャンダルとして、あのビラよりみんなの好奇心を刺激してくれたらいいんだけど。

そんな事を考えていると、すぐに目的の場所へとたどり着いた。

準備室の鍵をカチャカチャとやりながら、平塚先生はこちらを見ずに呟く。

 

「その涙を恥じる事は無いよ。誰かを大切に思えるというのは、誇るべき事だ」

 

結局、ほんのちょっとだけ入り口の廊下を濡らしつつ、わたしは部屋の戸をくぐったのだった。

 

 

 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「ないわー!これマジハンパないわー!」

 

うららかな昼下がり(曇天)。

北風小僧程度に後れは取らぬとばかりにいつもの場所で昼食を済ませた俺は、燃料(マッカン)切れと共に教室へと撤退していた。

 

食欲を満たしたら次は睡眠欲。三つ目が自由にならないのだから、残り二つだけでも好きにさせてもらいたいものである。

活動が活発になった胃腸に血が行くから眠くなるなんて話がまことしやかに囁かれているが、あれはウソビアである。大体、もし身体の一部に血が集まる度に眠気が誘発されるのだとしたら、男はエロいこと考えただけで眠くなっちゃうだろうが。それは人類の滅亡を意味する。故にそんなわけはないのだ。

 

実際のところは自律神経のスイッチング──交感神経と副交感神経の素早い切り替えが眠気の原因であるとされている。食事という運動で交感神経が昂り、消化という内臓機能が副交感神経を昂らせるのだ。どうでも良いけど『昂る』って字面だけでちょっと興奮しませんか。ホントどうでも良いな。

 

その理屈で言うと、例えばこの状況。

 

俺のうたた寝を脈絡無く邪魔しくさった戸部(バカ)の甲高い声が交感神経を惜しみなく刺激し、ノルアドレナリンが後から後からスプラッシュマウンテン。

今は消化器官の皆さんがせっせと仕事中──つまり副交感神経が活発だったはずなのだから、これもやはりスイッチングに違いない。しかし残念ながら飛び去った眠気は一向に帰ってくる気配が無かった。

こりゃ戸塚でも見ないと治まらないな。いやそれはそれで治まらない。何がとは言わないが俺が治まらない。

 

机に突っ伏したまま騒音の出所を盗み見ると、「勝訴!勝訴でござる!」と言わんばかりに何かの紙切れを握り締めた戸部が教室の入り口で騒いでいた。

そのままいつものグループへと帰巣し「なんだ、どうした?」と葉山アンドお供の犬とサルが反応。三浦が「チッ」と舌打ちをし、海老名さんはスマホに夢中。由比ヶ浜は…うわ目ぇ逸らしやがった。つか何でこっち見てんだよ。しかし女子連中の戸部の扱いがマジで目に余る。一色の話を聞いた後だけに尚更。

 

「ちょ、まじくねー?ヒキタニくんでしょーこれ」

 

マジなのかマズイのか、マジでマズイのか。

なんにしてもヒキタニくんさんは相当まじいらしい。誰だか知らないがご愁傷様である。

…いや、少しくらい現実逃避させてくれ。聞こえないったら聞こえない。

 

聞き耳を立てていた訳でもないのに自分の名前だけはなぜか聞き取れてしまう現象を、俗にカクテルパーティー効果という。

人間はパーティーのような雑踏の中でも必要な情報を選択して聞き取っているのだそうだ。なら自分の名前だけは聞こえない現象は何と呼んだらいいのか。やっぱりカクテルパーティー効果だろ。だってそういうトコで自分の話とかされてたら、怖くて聞こえないフリするしかないし。

怖くて聞きたくないけど、聞こえてしまった以上はスルー出来るほど鈍感力が高くない俺は、諦めて聞きたくもない会話へと意識を向けた。

 

「うっわ、ないわー」

 

「べーな」

 

「だろ、やっぱヒキタニくんぱないわー」

 

…ちょっと誰か翻訳して字幕出してくれませんかね?そそ、田舎のおじいちゃんにインタビューしてる時のアレ。アレって実は相手に対してわりと失礼だよな。だからこそ今はソレがふさわしいと思う。

つか、お前らも実はお互い何言ってるか分かんないまま、TV収録的なノリで合わせてたりしない?

 

「信じらんない!」

 

語気荒く響いた声が、教室の雑踏に水を打った。

 

無秩序だった個々人の意識が一点に集中する感覚というのは、例えその中心が自分でなくても気持ちの良いものではない。

それでも 声を上げたのが三浦あたりであれば、「ああまたか」みたいな空気に収束したことだろう。

しかし視線の先に立っているのは由比ヶ浜だった。

日頃温厚な彼女のご乱心に、クラスの連中も面食らっているように見えた。

俺も何度か彼女が激する場面に立ち会っていなかったら、一緒になって泡を食っていたかもしれない。

 

「ちょ結衣、どした──」

「ごめん後で説明する」

 

戸惑う三浦を早口に遮ると、由比ヶ浜は()()()()でこちらへ近づいてきた。

誰よりも立派な爆装をしているくせに、人目に捕捉されずに近寄ってくることでお馴染みのステルス爆撃機がだ。

立て続けの異常行動を目の当たりにして、さすがの俺も突っ伏していた身体を起こした。

 

「ヒッキー」

 

「…どしたよ」

 

由比ヶ浜の表情は険しい。

悲しそうな、悔しそうな、怒っているような、まあ多分全部なんだろう。器用なヤツだ。

彼女は端がくしゃくしゃになった…してしまったプリントを両手で持っている。

渡したい、でも渡したくない、みたいに胸元で躊躇っているそれは、戸部が持ち込んできたものだろうか。

 

「…ヒッキー」

 

「…」

 

自分から渡すのが辛そうだったので、寄越すように手を差し出すと、ややあって彼女は握りしめた紙切れをおずおずと胸元から離し──

 

キンコンカンコンと、午後の予鈴が鳴り響いた。

 

「……ごめん、放課後に見せる」

 

「え…ちょっ…」

 

えぇー…マジで…?ここでCMとかねーわ。

俺この微妙な状態であと2コマも授業受けんの…?

生殺しで放置プレイとか、新属性でも狙ってんのかよあいつ…。

 

 

* * *

 

食後一発目の授業は大抵、どいつもこいつも睡魔とのキャットファイト(睡魔はメスだ、これは譲れない)に精を出しているものだが、昼休みに投下された爆弾の影響か、今日ばかりは落ち着かない空気が教室に蔓延していた。

 

そう言えばこんな露骨なのは文化祭以来だな。確かあの時も戸部がうるさかった。

なんとも懐かしい重苦しさ。

 

「これが、重力か…」

 

独りボソボソと宇宙移民者を気取っていると、プリントを手にこちらを見ているヤツが何人か居ることに気が付いた。

しかしさっきのは何だったのだろう。総武高『彼氏にしたくないランキング』でも公式発表されたのだろうか。そういうのは裏サイトだけでやって欲しい。

しかしまずいな、このタイミングでは入学後の小町人気に悪影響が出るかもしれない。早く何とかしないと。

 

昼休み、みのさんよろしくファイナルアンサーをケチった由比ヶ浜にも当然のように好奇の視線が注がれていたが、当の由比ヶ浜はスマホ相手に顔を伏せており、その表情を見て取ることは出来なかった。

そんな無反応な彼女の代わりに後ろの三浦ママがぐるりと辺りを睥睨。「チッ」と小気味良く舌を鳴らしてみせると、皆一様に明後日の方向を向いた。お前らは訓練されたイルカか何かなの?

しかし三浦いい人だなー、俺のためにもやってくれないかなー。そんな思いで見ていると、なんと三浦はこちらを見て「チッ」をサービスしてくれたのだった。いや俺にして欲しいわけじゃないから。

 

 

「では日直、号令を」

 

長い長いCMが明け、待望の解決パート。

 

「信じらんない!」のシーンから再放送される、なんてことは当然あるはずも無く、ホームルームが終了するや否や、リュックをひったくる様にした由比ヶ浜はずんずんとこちらへ向ってきた。

その勢いで俺の腕を取ろうとして、しかし触ってはいけないモノだった事を思い出したかのようにパッと手を引っ込め、顔を伏せる。そのまま改めてぐいぐいと袖を引っ張ってきた。

今の静電気ですよね?静電気だといいな…。

 

「はやく!ゆきのん待ってるから」

 

「っておい、部室か?行くから引っ張んなって。つか、さっきの…」

 

「ちゃんと話すから!急がないといろはちゃんが来ちゃう!」

 

「は?え、一色?」

 

ちょっと展開についていけない。

こいつは授業もそこそこに、恐らくLINEでもしていたのだろう。

現在勃発しているであろう何事かへのカウンターとして雪ノ下に救援を求めたであろうところまでは分かる。 一色が部室に来る可能性も、まあ最近の連勤ぶりからすればかなり高いだろう。

しかしそれら二つの事案に関連性があるのか。居てはまずいような言い草なのはどういう事か。

 

単純に考えて、先ほどの紙切れは一色にも関係のあるもの、という事だろうか。てっきり自分の不利益に繋がるものとしか考えが及ばなかった。

一色関連となると、今は色々と嬉しくない可能性が有り余っている。急に由比ヶ浜の持っていた紙切れがパンドラの箱に思えてきた。底に希望はあるのだろうか。

 

慌ててカバンを手に由比ヶ浜を追いかけると、彼女は廊下を駆けていた。

 

「おい、待てって!」

 

「ヒッキーも走るっ!」

 

てっけてっけと言う形容が似合う、いわゆる女の子走りをしつつ、由比ヶ浜は先を急ぐ。

仕方なく、俺も小走りで後を追った。こんな時に限って平塚先生とかに出くわしませんように…。

 

 

* * *

 

 

「ゆきのんお待たせ!いろはちゃんまだだよね?」

 

部室の扉を勢い良く開き、由比ヶ浜は既にスタンバイOKの雪ノ下の元へと駆け寄っていく。

飼い主を見つけたわんこの様で微笑ましい限りだ。

でもさっきのセリフ、もしこの場に一色がいたらどうするつもりだったのだろう。ホント、腹芸の下手なヤツである。

ちなみに俺はその手のシチュには詳しいぞ。噂されてる最中に現場に踏み入っちゃう方だけどな。その時のマヒャド感は忘れたくても中々忘れられない。

 

しかし、俺らも相当急いできたはずなのだが、なぜ雪ノ下は息も乱さず着席待機できているのだろう。実はここに住んでいるのではと疑ってしまう。

 

「では急ぎましょうか」

 

「…いい加減、説明してくれ」

 

この二人の間では情報筒抜けどころかクラウドで共有化している常識なのかもしれないが、さすがに蚊帳の外過ぎて疲れてきた。

それともまさか、もう既に説明はなされた後で、俺はそれを忘れているだけなのだろうか。身体のどこかにメモってあって、事件は今日中に解決しなければいけないのだろうか。明日には忘れるんだったら、タダ働きさせられても気付かないんじゃないだろうか。

 

袖を捲って人体メモ帳を確認すべきか悩んでいると、雪ノ下の目つきが瞬間、鋭利さを増した。

 

「比企谷くんが女たらしの変態だという内容の文書がばら撒かれたの。

 私達が一色さんの家に出入りしたところを撮られて、淫行まがいの脚色をされているわ。

 彼女に罪悪感を感じさせない為に、何かアイディアはあるかしら」

 

見事な今北産業レスだった。

内容を読み解き、急ぎで脳味噌を締め上げる。

 

「ヒッキー、どうしたらいい?」

 

それでやたらと急いでいたわけか。なるほど、説明下手な自分が話すより、雪ノ下に任せようとした選択は正しい。

雪ノ下まとめサイトの通りだとすれば、一色の立場なら強い責任を感じるだろう。HRが終わり、二年の教室を確認し、それからこちらに来るとして──猶予は10分あるだろうか。

 

一色が事態に気づいていない可能性──これは期待しないでおいた方が良い。

事件が発生したのは昼休みのはずだ、その時すぐに来なかった…いや来られなかったわけだから、謝罪し損なったまま午後の授業を受ける羽目になった彼女は、時間を置く事で自責の念を強めている可能性がある。

なだめすかして「お前は悪くない」と言って聞かせて、果たしてそれが通じるだろうか。今の段階では俺の方が事情に通じていないだろう。情報が無いことには、こねられる屁理屈もこねられない。

 

検証している時間は無いが、犯人が中原(なにがし)である可能性は非常に高いだろう。というか、少なくとも俺達にそういう心当たりがある以上、犯人如何に依らず一色は罪の意識を感じざるを得ないのだ。

それを防ぐには、彼女が本件と無関係であることを証明する必要がある。

 

さて、一色いろはに対するシナリオで、今すぐ実現可能な最適解はなんだ。

 

 

* * *

 

 

タッタッと廊下を駆ける、いかにも体重の軽そうな足音が近づいてくる。

俺が部室へ来てからまだ3分も経っていない。

予想以上にフットワークの軽いやつだ。

 

雪ノ下と由比ヶ浜は表情を隠すように俯いている。

 

ややあって、扉を慌しくノックする音が部屋に響いた。

 

「どうぞ」

 

「し、失礼します…っ」

 

雪ノ下の声を受けてソロソロと戸が引かれる。

思ったとおり、声の主は少し息を切らしていたようだった。

どうにもいつもとは声色が異なる。ありありと悲壮感が滲んでいるのだ。

やっぱり聞いていて気持ちのいいものじゃない。とっとと終わらせよう。

 

未知の部屋に探りを入れる猫のように慎重に部屋へ入ってきた一色は、中の状況を見て、動揺した声を上げた。

 

「あの、ソレ、せ、先輩…ですよね?」

 

ふむふむ、どうやら彼女は俺を尊敬すべき先輩として認識しかねているようだ。

ひょっとしてこれはゾンビですか?いいえ、八幡です。おっと大体合ってますね。

 

一色がソレと表現した物体を客観的に伝えるとこうだ。

 

部屋の入り口に背を向けて立っている男子生徒が一人。

その男子は、雨を避けるかように上着の襟を頭にすっぽりと被っている。

ジャミラ状態と言ったら通じるだろうか。小町は分かってくれるんだけどなー。古い例えだ、検索各々で。

上着が頭を隠しているせいで男子である以外の情報はないはずなのに、いろはすったらどうして分かったのかしら。隠せないダンディズムを背中で語ってしまっているのかしら。別に倒してしまっても構わんのだろう?

 

「…よくわかったな」

 

「いやここにいる男子なんて先輩くらいですし」

 

そんなバカな事するのは俺だけだから、という理由じゃなくて本当に良かった。

 

「何やってるんですか…?」

 

「なに、ちょっと有名になりすぎたんで、しばらく顔を隠そうかと思ってな」

 

速攻で身バレしてしまった俺は、肩を落して振り返る。

正面から俺の姿を見た一色は、思わず口を覆った。

どこか気ぐるみのような、それにしては生っぽい、生理的違和感を感じさせる格好。

そう、これは本来、前から見て楽しむものなのだ。

それを視覚から遠ざけておく事で相手を油断させる、鉄壁の二段構えである。

 

「…っ……っ!」

 

前かがみになった一色が、耐え切れずくふっと吹き出した。

 

「ぷ…うくっ…!ごめ、なさ…っ……なにやって…ぷぷっ!」

 

「…」

 

ひとつ、小さく息を吐く。どうやら緊急ミッションは完了とみていいだろう。

雪ノ下の方を見ると、こくりと頷いている。隣に立つ由比ヶ浜も表情が明るかった。

 

さんざん勿体つけておいて一発芸オチかよ、と笑ってくれていい。

 

一色が本件に無関係である事を証明する──。

そんなのは無理に決まってる。少なくともこの短時間では思いつかなかった。

てか、このコってば一連の事件の主演女優様だから。おまけにロケ地も一色さん家なんでそ?

俺は某国の住人ほど居直り上手ではないので、この状況で無関係を主張するのはいくらなんでも無理な注文だ。ついでに言うと今回のシンキングタイムは1分強しかなかった。ウルトラヒーローだってもう少し猶予を貰っているのではないだろうか。昼の時は不必要に引っ張っておいて、なんともバランスが悪いことだ。

そのせいで、いの一番に思いついたクソ間抜けな案を採用せざるを得なかったではないか。

 

哀れな姿を晒して謝罪する気を根こそぎ奪ってやろうと思っていたのだが、部室はなんとも生暖かい空気に包まれていた。

ピエロ?違うな。プロのエンターテイナーの芸はこんなに惨めじゃない。

 

まあ、笑いが取れたのなら充分だ。それが例え失笑だろうとなんだろうと構わない。よくよく考えると失笑ってのは字面的に笑顔失っちゃってる気もするけど、構わない。

事実、一色が笑いを零した時点で、彼女の引き連れてきた重たい空気はあらかた吹き飛ばす事が出来た。

ついでに俺の先輩としての威厳も跡形も無く吹き飛ばされた。ファーッ!

彼女が何をしに来たのかは想像に難くないが、今更シリアスなムードを引き戻すのはかなり難しいだろう。

仮に仕切り直しを狙われても今なら「まあまあ」で誤魔化せる。

名付けてスマイルチャージ大作戦である。バッドエンドになんて負けないんだからね!

 

それにしたって、宴席で突然「何かやって見せろ」とほざく老害上司みたいな雪ノ下の無茶ぶりに、わずか一分程度で対応した俺は賞賛されて然るべきだと思う。これで文句なんて言われた日には、翌日出社拒否してもおかしくないレベル。働きたくないでござる。

 

「ありがとうございます」

 

頬を紅潮させ、ちょっと涙ぐんだ一色が口にした言葉。

それは、いつかの「騙されてあげます」と同じニュアンスを孕んでいるように聞こえた。

意外と賢しいこいつが、このお粗末な寸劇の意図に気付かないわけも無いか。

 

「別に。何もしてねえよ」

 

仕掛け人としてはバツが悪かったが、ベストは無理でもベターが得られたことに満足しておく事にした。

頭に上着被ったこの姿じゃ、シュール過ぎて格好もつかないし。

 

「…本当に何をやってるんだ君は。ジャミラのモノマネかね?」

 

えーと、聞こえるはずの無い声がするんですけど気のせいですかね。

一色の後ろに視線をやると、なぜか平塚先生が寒々しい目をこちらに向けていた。

 

…なしてこのお方がここにおるとですか?

あらやだ超恥ずかしい!この人にだけは見られたくなかったわ!

もう穴があったら入りたい。入って、ネット環境整備して、一生その中で快適に暮らしたい。

あと先生、ジャミラ通じちゃうんですね…昭和ェ…。

 

 

* * *

 

 

俺のプライドと引き換えに守られた一色の笑顔が部屋の空気を暖かくしたところで、本格的な対策会議と相成った。

 

「つか、俺まだ肝心の写真見てないんだけど」

 

「あっゴメン。ヒッキー超ヘコむかなって思ったら、なんか見せづらくって…」

 

「その、先輩、あんまり見て楽しいものじゃないですよ?」

 

「だからって見ないわけにもいかんでしょ」

 

彼女達は気を遣ってくれてるのだと思う。

思うのだが、このホスピスみたいな腫れ物扱いの空気の中、自分だけが実態を知らないというのはかなりキツイ。

そして彼女達が渋り、言葉を濁すほど、コンテンツへの恐怖が右肩上がりで増大していくのだ。

…そういや一色ん家で風呂にも入ったよな。全裸公開とかだったらわりと立ち直る自信ないですよ?

すまん小町。お兄ちゃんお前と同じ高校に通ってみたかったよ…。

 

「ふむ…。いや、これは比企谷にとって、一概に苦痛だけを与えるものでもないと思うが」

 

「…それは一体どういうことでしょうか」

 

え、マジでどういうことなの?

つか、いい加減見たほうが早いな。

 

平塚先生がひらひらとさせている一枚を受け取って、思い切って紙面と向かい合う。

顔を覗き込む複数の女子…もとい女性(配慮)の視線を感じ、俺は赤面しかけた。

 

ようやくありついたビラの内容は予想通りというか、それなりにまあまあ手酷いな。

しかし、これは──。

 

「…なるほど」

 

平塚先生が即座に俺と同じ理解に及んだのには思うところがあるが、さすが大人の女性ということにしてこう。確かにこれは、俺にとって大したダメージとはなり得ない事が分かった。

 

「ヒッキー、気にする事ないよ!」

 

ああ、気にするほどの事は無かった。

いや違うか、気にはなるけど気に障るほどの事はなかった。

 

「大丈夫だ、問題ない。余裕だ」

 

淡々と告げると、おぉ、と感心めいた声が上がる。

 

「なんか…ホントに平気そうな顔ですね。ちょっと見直しました」

 

だって腹立たないしな。

雪ノ下ですら「小心者かと思えば、変な所で剛胆なのね」と賞賛らしき言葉を紡いだ。…賞賛か?

平塚先生は心配していなかったという風に、一度だけ首肯。どうやらネタバレする気はないらしい。男前過ぎて超眩しい。売れ残るわけだ。

 

(絶っっ対バラさないで下さいねホントお願いしますいやマジでお願いしますよ?)

言葉に言い表せない思いを乗せて、俺はまたも一つ目礼で返す。つかこれ、言い表せないんじゃなくて単に女子共に聞かせられないだけなんですけどね。

うーん、清々しいほどに男らしさの欠片もない。

 

「犯人、やっぱり例の…でしょうか」

 

「でもさ、ヒッキー狙い打ちだし、いろはちゃん写ってないし、違うかもじゃない?」

 

「あれ、そう言えば、わたしだけ写ってませんね…。朝の方も…」

 

言われて再度、写真に目を落す。

 

「…確かに」

 

場所が場所な上に、女生徒はマジックで上半身をダンゴ虫にされているからか、その違和感に気付かなかった。

一色の姿がどこにもない。

夜のシーンでは玄関の扉で隠れているし、朝の登校風景に写っているのも由比ヶ浜と雪ノ下だけだ。ん?塗りつぶしてあるのに何で分かるかって…そんなの脚みたら分かるだろ。え、いや普通分かるよね。

今朝は確か、玄関に鍵をかけるために一色が最後だったと記憶している。ならこの数秒後、彼女の姿がフレームに収まっていた筈なのだ。

一緒になって写真を検分していた雪ノ下は、確信を含ませた声で言った。

 

「これは、一色さんのストーカーで間違いないでしょう」

 

「それ、根拠聞いてもいいか」

 

「書かれている謗言から察するに、犯人は比企谷くんに手癖の悪いキャラクターというレッテルを貼ろうとしている。であれば、一緒に居たはずの一色さんが朝の写真に写っていないのは不自然だわ。倒れていた夜の方はともかく」

 

「そっかー、そだね。乱こ…そっ、そーゆーのなら、写ってる女の子は多いほうがいいハズだよねっ」

 

「こんな風に個人を特定できないように加工してしまうのであれば、由比ヶ浜さんの言う通り、一緒に居た女子をわざわざ一人だけ使わない理由はないでしょう。そもそも撮影現場が一色さんの自宅なのだから、淫行相手に仕立てるなら最も自然なはず。にもかかわらず、彼女は意図的に除外されている。流言としては片手落ちもいいところよ。つまり、そういう事じゃないかしら」

 

なるほど、筋は通っている。

要するに──

 

「犯人は一色がビッチだと認めたくないヤツって事か」

 

「ええ。ストーカーなら、自分の想い人を貶める様な事はしないでしょう」

 

「えーと、お二人とも?若干わたしにもダメージ来ちゃってるカンジなんですけど…」

 

ちなみに俺はちゃんと認めている。どころか由比ヶ浜も未だにビッチだと思っているまである。

言っておくが、これは偏見ではなく保険だ。清楚だ貞淑だ等と思っているところにもしも裏切られたりしたら、心が衝撃に耐えられる自信が無いからだ。女を見たらビッチと思え。訓練されたぼっちの教訓のひとつである。

そんな訳で、誓って彼女達に含むところなど無い。

なんなら雪ノ下だってビッチ…それはないな、うんないわ(偏見)

 

「先輩わたしのことまだゆるふわビッチだと思ってるんですか?」

 

さっきはビッチと言ったはずだが、一色はきっちり訂正してきた。

ゆるふわは大事らしい。確かにあると無いとじゃ印象が随分違うか。ゆるふわの方なら騙されても許せそうな印象がある。おっと早くも騙されるところだった。

ってか──

 

「それお前の前で言った事あったっけ?」

 

「無かったとしても今のでダウトですよー…」

 

ぷくーっと不満げにほっぺたを膨らます、あざといろはす。

知っていると思うけど、誘惑に駆られてこのやわらかそうな雪見大福をちょんちょんしたりなんてした日には、社会人なら最悪職を失う事もありえます。よって女子に触るときは覚悟を決めて掛かるように。俺がしてる覚悟は仕事をしないって事だけなので、当然触ったりはしない。

…にしても、最近こいつ俺のことちょいちょい引っ掛けてくるんだよな。超やり辛ぇ。

よもや自宅で空いた時間にヒッ検の資格取得にチャレンジ!とかしてないよね?

 

「あーそれー、あれだよね、藪からスティックってやつ?」

 

由比ヶ浜さん惜しい!正解はスネークでした!

いやどっちもちげーよ。なんでルーさん入ってきちゃったの?

いつの間にか脱線した挙句、別の路線を悠々と走っているかの如き見事な無駄話。

それを黙ってみていた平塚先生が「盛り上がっているところに悪いが」と口を開いた。

 

「この件、私としては学校側が動いて然るべきレベルだと考えている。犯罪行為の物証もこうして目の前にあるからな。犯人が生徒とは限らない以上、警察に相談するという可能性もあるだろう」

 

まあ学校側がそれを望むとも思えないが、と椅子に気だるげにもたれた彼女は言った。

しかし彼女の態度とは裏腹に、全く穏やかではない単語の登場によって、弛緩した場の空気が一気に萎縮したようだった。

 

「一色としては、やはりまだ学校側には内緒にしておきたいのかね?」

 

「えっと、その…」

 

「もう君一人の問題ではなくなってきているのだとしても、か?」

 

「…っ!」

 

「平塚先生」

 

追い詰めるような言い草に、心なしか語気が強くなってしまった。

うわ…なんか一色がメチャクチャこっち見てるんですけど。

何彼氏みたいな態度取っちゃってるんですかキモすぎですごめんなさいって心の声が大音量で聞こえてくるんですけど。お願い、見ないでぇ…。

 

「すまない、意地の悪いことを言ってしまったな。ただ、私にとっては君達は等しく大切な生徒だ。つまり被害が4倍に跳ね上がったと考えている」

 

「俺達のは失策だったって言いたいんですか?」

 

「そうは言わない。元々私だって賛成したしな。ただ、臨機応変という言葉もあるだろう」

 

平塚先生の言う事は正論だ。

俺も真っ向から突っぱねる理由が思い当たらない。何より、被害が大きくなったという表現は、俺も正に今感じていることだった。勿論4倍ではなく3倍だが。

 

「あの、あたしはなんとも思ってませんから、こんなの!」

 

由比ヶ浜がふんすっと鼻息を荒くし立ち上がる。

悪意に一番打たれ弱そうな由比ヶ浜がこうも奮起しているのは何故だろうかとぼんやり思った。

一色と特別仲が良かったという印象はないのだが、お泊りしちゃったり裸の付き合いしちゃったりしてるうちに、ステップアップしちゃったりもしたのだろうか。ゆるふわからゆるゆりにチェンジしちゃったりしたのだろうか。

 

「少なくとも今回、写真から私や由比ヶ浜さんを特定は出来ないでしょう。なら実質の被害者は貴女だけ。状況は変わっていないのだから、気にしないで正直な気持ちを話して」

 

雪ノ下が後輩に優しくしている貴重なシーンなので口は出さないけど、今回の実質の被害者って俺だけじゃないかなーなんて。まあノーダメージだって言っちゃったしなぁ。

ありがとうございますとぺこり頭を下げた一色は、顔を上げて雪ノ下(2秒)、由比ヶ浜(2秒)、俺(0.2秒)と順繰りに視線を巡らせ、最後に平塚先生へと向き直った。

 

「出来れば、戦いたいです」

 

「戦いたい、か…」

 

先日とは趣の異なる表現を受けて、先生は少し思い悩んでいるようだった。教師としての義務と、自身の規範との間で揺れているのかもしれない。

俺自身も、その目の力の強さ(0.2秒)に()てられたのか、一色の背中を押してやりたいような気持ちが沸いてきた。0.2秒でこれなら10秒くらい見てたら傀儡にされかねんな。さすがはサキュバスっ娘。

 

「一応、今回の対応についても、考えくらいはあります」

 

今さっき思いついた案で詳細はスカスカだが、だからこそ不敵な顔をしてみせる。

 

「ふむ、それは君達だけで実現可能なのかね」

 

「そっすね。ちょっと追加で犠せ…人手が必要ですが」

 

「いまギセイってゆった…?」

 

「大丈夫だ。少なくとも人選を知ればその心配はなくなる」

 

「否定はしないんだ?!」

 

「けれど、そんな頼りになる人物が、比企谷くんの知り合いになる…失礼、居るの?」

 

俺が連絡先を知っている相手で、こんな状況で迷わずサクリファイスできちゃう手札なんてちょっと考えれば分かると思うが、もしかしたらアイツは存在自体認知されていないのだろうか。切なすぎる。

あと雪ノ下、それ言い直してる意味あんま無いからな?

 

「内容を聞いてから判断しよう」

 

とりあえず検討の余地くらいは認めてもらえたようだ。

俺は黙ってポケットからケータイを取り出すと、大して数の無いアドレス帳から難なく目当ての人物を見つけ出した。

そうそう、送る前にこれだけは確認しておかないといけなかったか。

 

「一色、その…協力者に事情を話しても、平気か」

 

「あ、はい。いるんですよね?ぜんぜんオッケーです」

 

"居る"なのか、"要る"なのか。

答えによっては俺がぜんぜんオッケーじゃない。

 

そんな些細なんかを事を気にしつつ、俺は手早くしたためたメールを送信したのだった。

 




ちょっと、笑いの成分がすくないような。
でも事件の最中だし、こんなものでしょうか。

準備室の中の会話も書きたかったけど、テンポ的に余計かなーと。


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■15話 ただの女子と不審な男子の日常

八幡続きでゴメンなさい。事件パートは断然こっちが書きやすいので。
やっぱいろはすは恋愛パートですよね。


 

「いやぁ~乱世乱世!この剣豪将軍の助太刀が入り用と聞いたぞ、比企谷八幡ッ!」

 

メール送信から5分と経たず現れた人物。

呼び出した俺の最終兵器は儚げな彼女──であれば話が盛り上がったかもしれない。

室温が数度上昇するような錯覚と共にのっしのっしと部室へ入ってきたのはお察しの通り材木座だ。呼ばれたという大義名分があるためか、心なしドヤ顔なのが腹立たしい。

ちなみに平塚先生ですが、放送で呼び出されて先ほど入れ違いにご退場されました。一応あの人にも後で話通しておかないとだなー。

 

「えっと…こちらは?」

 

初見の相手にはとりあえず媚びていく一色のことだから、二人の絡みがどんなもんなのかちょっと期待していたんだが…。

さしもの愛され系も、この相手では一銭の得にもならないと判断したのだろうか。彼女の示したリアクションは「どもです」と軽く会釈するだけの淡泊なものだった。本日の営業は終了ですか?

 

「ぬぅふっ!何故このような場所に、せっ、生徒会長がおるのだッ!さては貴様、とうとう権威に下ったか!見損なったぞ八幡ッ!」

 

「お前メールちゃんと読んだわけ?」

 

逆にこちらは予想に違わず、暑苦しいことこの上ない。

反体制カコイイ!は中二戦士の基本だけど、お前の大好きな足利さんちは権威も権威、武家の棟梁だぞ。キャラ付けくらいブレないようにしとけ。

あと俺は最初から権力構造には従順である。一色にいまいち逆らえない理由の一つでもあるな。断じて十八番の上目遣いに下っている訳ではない。つか上目遣いに下るってどういうことなの物理的に無理でしょ。

 

「そうか、そういうことか…。かの娘を胸がキュンキュンするようなメインヒロインにして欲しいと、そういう事なのだな?この神なる…もとい(かみ)鳴る物書き、雷神脚本家(ライジング・プロデューサー)の手で!」

 

両手を広げてグリコの様なポージングを決める材木座。おそらくバックに雷光のようなエフェクトを背負っているつもりなのだろうが、俺の角度からは吊された七面鳥にしか見えなかった。

わざわさ言い直すもんだから、こいつが脳内で使っている当て字が大体分かってしまう。どうせまた語感優先なのだろうが、ライジングは雷ではないし脚本家はライターだ。材木座Pくんはどこへ上っていくつもりなのだろう。

 

「先輩、一体どんな説明したんですか…?」

 

「一色のコアなファンに逆恨みされてるから、一芝居打つのに協力して欲しい──みたいな?」

 

状況を的確かつ過不足なく伝えたつもりだったのだが、ヤツはアイドルの魅力を強化してファンを洗脳する方向に解釈したのだろうか。

とりあえず一色の顔色が怪訝から嫌悪に変わり始めてるからそのくらいにしとけ。

 

「…で、中二に何させるの?」

 

由比ヶ浜の声には、街中で騒ぐ余所の国の団体さんでも見かけた時のような精神的距離感を感じる。

こいつの冷たい態度というのは希少価値があるよな。ギャップ萌えとも言うべき…いや待て、それは寒から暖の差分のはずだ。ならこの場合はギャップ冷えとでも言うべきだろうか。冷えってよりかは、むしろこえーけども。女子こえー。

 

「勘所は決めてある。ただ、具体的な部分がまだ煮詰まってないんだよな…」

 

オチは決めてあるが、ネタが思いつかない。その辺も含め、この変人を弄っていたら良い案が浮かぶのではという期待も少しだけあった。

 

「あいや待たれよ、その前に詳しく話を聞かせて貰いたいのだが」

 

それもそうだ、と例のビラを一枚渡すと、材木座は食い入るように紙面を睨みつけた。

 

「ほむんほむん、何とも芸の無い文言だな…しかし写真は悪くない。素人にしてはなかなかどうして、見事なコラージュではないか」

 

「いやそれコラじゃねーから」

 

「なん…だと……?!」

 

さらに写真へと目を近づけ、鼻息を荒くする。

俺の分身にあまり接近しないでほしい。何だか俺まで息苦しくなってくる。

 

「こらー…って何?」

 

由比ヶ浜は知らないだろうな。ユキペ "コラージュ" で検索しようか。ぽちっとな。

 

「コラージュというのは、絵画における切り貼り画法の事よ。この場合、彼は写真が何らかの加工を施された可能性を疑っているということかしら。比企谷くんが誰かと一緒に写っているだなんて、誰が見てもおかしいものね」

 

ほーん。エロボディにアイドルの頭をパイルダーオン!することだとばかり。一つ賢くなったわ。

ところで人のこと写ってちゃいけないモノ扱いするのは、誰が見てもおかしくないのだろうか。ユキペディア運営は一度コンテンツの監査を受けるべきだと思います。

 

「ハン、何だこれは。これで罵倒のつもりとは片腹痛い。犯人は実は女子とかではないのか?」

 

「え?お、女の子?」

 

「あら、何を根拠にそう思ったのか聞かせて欲しいわね」

 

唐突な新展開を示唆され、女子達は目を白黒させた。

女子というのは冗談だとしても、こいつも平塚先生同様に中傷文の問題点に気がついたようだ。本気で男子高校生を貶すつもりなら、これは適当な文句とは言えないのだから。

 

「ならば問おう、比企谷八幡ッ!」

 

ガバッと長いコートをはためかせ、材木座は声高らかに問い掛ける。

いや俺は何も言ってないから。女子とのコミュニケーションで俺を串代わりにすんのやめてもらえない?

 

「童貞と淫行学生、どちらの称号を欲する?」

 

………。

 

………。

 

広がって空気を孕んだコートがゆっくりとしぼんでいく。

材木座のシルエットと相まって、まるで小汚いクラゲのようだ。

痛々しい静寂の中、俺はそんな逃避に思考を浸していた。

 

さて、ぼちぼち回答が出揃ったかな。では見てみよう。

 

どん引きのお手本みたいな顔をしている、由比ヶ浜くんのこたえー。

 

「さいってー…」

 

ゴ○ブリの死骸でも見ているような目つきの、雪ノ下くんのこたえー。

 

「下品ね」

 

この状況でも愛らしい笑顔が微動だにしない、一色くんのこたえー。

 

「死んでください♪」

 

女子からの厳しい批判の中、材木座はまさに山の如く動かず、俺を指さしたまま佇んでいる。

いや違った、よく見たら涙目でプルってるだけだった。

 

「どちらも中傷には違いないと思うけれど。でもそういう聞き方をするのだから、違いがあるということなのかしら」

 

「や…やぁれやれ、これだから女子(おなご)は。男子(おのこ)にとって、刀抜かず果つるはこれ生き恥なりッ!まして歴戦の猛者となど、比ぶるもおこがましいというものよ…」

 

中には抜きたくとも抜けない呪われし刀なんかもあると聞く。装備変更できないユニーク武器が開始早々呪われてるとか、変わらず人生さんのクソゲーぶりは他の追随を許さないな。そんなん難易度DMDじゃねえか。Danshi Must Die...

 

「え、えぇ…?そういうもんなの?あんま人数多すぎるのも微妙かなー、とか…」

 

「うーん、確かにけっこう難しいですねー、上手なのに越したことはないですけど…でもその為には経験が…」

 

コメンテーターは多少意見が割れているようだが、一色の意見を真実と見ておくべきだろう。より自身に都合の悪い方へ解釈しておくことがリスクマネジメントの基本だからな。

身体の相性が悪いせいで、というのはアダルトな人間関係における常識と聞く。苦労してこぎ着けたゴールの先でそんなこと言われたら…。俺なら総武線を一、二時間止めてしまうくらいしかねないわよ?

 

「ふ…少なくとも男子にはそれが世の理なのだよ。さて八幡、世間は貴様のことをこれまでどちらだと思っていたのだろうな」

 

おいてめえ何て事聞いてくれちゃってんの殺す気か。

材木座の言葉を皮切りに、感情の読めない視線が一斉にこちらへ向かい、俺は目のやり場を失った。

 

「えと、それは、その…ねえ?」

 

「ま、まあ遊んでそうには見えないですかね」

 

「確かに。そういった経験は無いものだと思っていたわね」

 

分かってる。

分かってるけどね。

材木座、ユルサナイ。

 

それにしても雪ノ下、そっち方面には全然照れないんだよな。恥ずかしい事じゃないと本気で思っているのだろうか。どうせ時機が来れば自然と、なんて考えているのか。これだからルックスに恵まれてるメンヘラは…。

 

「然り、これが答えだ。つまり、この文書は貴様にとってむしろ吉報とすら言える」

 

「いや流石にそこまでおめでたくはねーよ。どんだけコンプレックスこじらせてんだよ」

 

痛む頭を耐えるような顔で雪ノ下がまとめに入る。

 

「つまり…一部の男子にとって、この種のバッシングは痛くも痒くも無い。むしろ誇らしい、と?」

 

「ちょっと語弊がありそうだけど、間違ってはいないと言えてしまうこともあながち否定は出来ない」

 

簡単に言うとそういうことなんですよ…。

最低野郎とかいうのについては自他共に認める俺のプロフィールだから、ことさら言及する必要もないし。

あともう一つ…こっちはマジで絶対言えないし自己満足でしかないのだが…噂のお相手にされてるのがこの二人というのも無関係ではない。ネタとは言え、女子のレベルだって高い方がいいじゃない?

 

「んなことはどうでもいい。それより対策だろ」

 

「…いいけどさ。…なんだかなぁ」

 

「肩の力抜けちゃいましたね~」

 

おうおう何か聞こえるぞ、何の音かなー。

さっき微妙に上がった感のある俺の株が下がる音ですねコンチクショウ。

個人的に複雑な事情をこうやって一言にまとめられると、俺って人間の奥行きもせいぜい一言程度なのかなーと思ってしまう。材木座に看破されるのは非常に嘆かわしいことだが、実を言えばほんのちょっぴりありがたかったりもする。だってこんな話、自分で説明するわけにもいかんでしょ?

 

このまま放っておくと俺の損害が増えるばかりだ。

まとわりつく生ぬるい視線を強引に断ち切るべく、本作戦の草案を発表した。

 

「具体的には、材木座に死んでもらおうと思ってる」

 

 

* * *

 

 

「ハァーーーン?!」

 

今回も勿体ぶるほどの事はない。材木座の奇声がやかましいのでとっとと進めよう。

昼の一件に類する悪戯を材木座にやってもらい、人前で俺を妬んでの行動であるとぶちあげる。

そうすることで犯人をその犯行ごとすり替えようという魂胆である。

 

極論すれば単なる悪口でしかなく、やや地味でインパクトに欠けるこの一件。いくら矛先が俺に向いているとは言え、見る人が見れば一色の家であることに気づくことは可能だろう。少なくとも犯人を見つけるよりは容易な検証だ。

犯人がはっきりしない以上、好奇心と言う名の悪意が被害者側に向きやすい。つまりこれは当初危惧していた状況に該当していると言える。ストーカー問題を根こそぎやっつけるにはどうにも都合がよろしくないのだ。

だから今回も、受け流しスタイルで対処する。

 

俺の語る計画を聞いた材木座はというと、当然のようにはぽーんあらぽーんと荒ぶっていた。

 

「八幡ッ!貴様、よもや友である我に泥を被るような真似をさせるつもりではあるまいな!」

 

「お前以上に適任は居ないと確信してる。大体、他に出来るやつが居ると思うか?この役処は男にしか頼めない」

 

「ぬっ、ぬぬぅ…漢、か。し、しかし…」

 

俺には他に頼めるような男の知り合いが居ない。仮に性別に目をつぶったとしても、自称男子の戸塚にこの汚れ仕事を頼めるはずもない。消去法でこいつしか居ないのだ。

 

「流石に部外者にやらせるには気が引ける役目じゃないかしら…」

 

「大丈夫だ、問題ない」

 

「なぜ貴様が答えるの?我やりたくなーい!」

 

ったく脊髄反射で返事しやがって。仕方ないから説明してやるか。情けは人の為ならず、これはお前のためだと言うことを。

 

「いいか、考えてもみろ。俺が女子を侍らして日々淫行に耽っている、なんてリア充キャラ認定されちまったら、ピラミッドの最底辺住民はお前ひとりになるんだぞ?」

 

「ぐるぷはぁっ!た、確かにッ!」

 

「今は二人なんだ…」

 

奴隷カーストの醜い争いを目の当たりにして、女子は憐憫の眼差しを隠せないようだ。そういやこいつら揃っててっぺんの住民だったな。更にその頂点が一色ってところに今更ながらとてつもない違和感を感じる。全く、こんな小悪魔を会長の席に推したのはどこのどいつだ。Yes, I am!

 

「くふぅ…致し方なし、か。よかろう、その役引き受けよう…貴様一人だけ逝かせるワケにはいかんからな」

 

うんうん唸っていた材木座だったが、やはり俺だけが上位に昇格するのが許せないらしく、ひとつ景気よく膝を叩いて顔を上げた。セリフだけは一丁前だが、つまり抜け駆けは許さないってだけのことだよな。まぁ男の友情なんてこんなものだ。

 

「先輩ちょっとちょっと」

 

くいくいとシャツを引かれる感触に振り返ると、一色が小首を傾げて一言。

 

「けっきょく、先輩はDTなんですか?」 

>> いろはすのバックアタック!

 

「…材木座はそうなんじゃないか」

>> はちまんはこうげきをうけながした!

 

「ディッ…DTちゃうわぁっ?!」

>> よしてるはしんでしまった!

 

「だっ、だだダメだよ、そゆこと聞いたら!」

>> ゆいははずかしがっている!

 

「だから、他人と比べるなんてナンセンスだと…」

>> ゆきのにはこうかがないようだ!

 

一応補足しておくと、DTとは男子の嗜みのことである。…みんな嗜んでるよな?

 

「以上だ質問はないなよしじゃあネタ出しに協力してくれ」

 

「ふんぬふんぬ、孫子曰く、兵は拙速を尊ぶとな。ならば風の如く素早く行動すべきだろう」

 

事は一刻を争うのだ。俺の個人情報なんぞに気を向けている暇があったらアイディアを出せアイディアを。

満面の笑顔で張り付いてくる一色を巧みに視界から外しつつ、材木座と阿吽の呼吸で話題転換に勤しむ。

 

「ところで材木座、それ後世の誤用だぞ。孫子はそんなこと言ってねーから」 

 

「ねぇ、ヒッキー…」

「え…マジで?おい八幡よ、もそっと詳しく…」

 

「そんくらいヤフーでググれ」

 

「ヒッキーってば!…あの、ち、違うの…?」

 

「え?あ、ああ…さっきのは違うな」

 

なんだ、まさか由比ヶ浜が食いつくとは。こいつ実は隠れ歴女ちゃんだったのか。

彼女らは桃園の誓いで桃源郷に行けちゃう人種と聞く。海老名さんの影響かしらん。

そんな…そんなはず…と悲嘆に暮れている彼女をおいて、会議はなお踊り続ける。

 

「でもどんなイタズラがいいですかね…先輩そーゆーの得意ですよね?」

 

「俺のことどう思ってんのか詳しく問いつめたいけど、基本的にお勧めできない方法しか出てこないぞ?」

 

「比企谷くんはまず自分が犠牲になる前提の思考をなんとかなさい」

 

んなこと言ったってなー。

金もコネもないんだから、自分の身をBETするしかないだろ?

 

「しかし貴様の評判など既に底のズンドコ。何をしたところでこれ以上下がることもあるまい」

 

不思議だな、いつも雪ノ下に言われているようなことだが、材木座に言われるとやけにイラっとする。

当の彼女はと言うと、細い指を顎に添えてほうと息をついた。

 

「これ以上、悪くはならない──なるほど…」

 

「何か思いついたのか?」

 

「木を隠すには森という言葉があるでしょう?」

 

「ふぇ…?」

 

日本語に不自由なわんわんがしょぼーんと髪房を垂らして首を捻る。仕方ないから今度はヒキペディアが力を貸してやるとするか。

 

「鬱蒼とした森の中では人の気配なんて分からないってことだよ」

 

「し、知ってるし!気を隠すには森でしょ?超知ってるし!」

 

「先輩、ウソ教えないで下さい」

 

「ウソなのーー!?」

 

検索結果を何でもかんでも鵜呑みにするのはやめましょう。情報リテラシ不足の若者は特にご注意を。

裏口入学の疑惑が一層深まった由比ヶ浜はぷんすか☆おこ!していたが、やがてはっと顔を上げると嬉しそうに手を叩いた。

 

「わかった!ヒッキーのキモさをアピって、あの写真を目立たなくしちゃえってことだ!」

 

由比ヶ浜!配慮!配慮!

 

「とても惜しい…いえ、これはもうほぼ正解ね」

 

配r…(諦)

 

「さっきそこの彼が合成写真を疑ったこと、覚えているわよね。もともと信憑性の乏しい素材を印象操作で補正しているだけなのよ、これは」

 

「すみません、どういうことですか?」

 

ええと、と雪ノ下は例のビラを手にとって由比ヶ浜の目の前に突きつけた。

 

「この写真には何が映っているかしら」

 

「え?…あたしと、ゆきのんと、ヒッキー。それといろはちゃん」

 

「一色さん?どこに?」

 

わざとらしく不思議そうな声を出す雪ノ下。なるほど、言いたいことは大体分かった。

 

「ドアに隠れてるけど、ヒッキーが抱えてたじゃん」

 

「少なくとも写真では分からないわね。なら次の質問。この人達は何をしているのかしら」

 

今度は一色に写真を見せて問う。

 

「わたしを家に運んでくれてるところですよね…?」

 

「うん、ぜんぜん変なことじゃないのに…」

 

「それが分かるのは私達だけでしょう」

 

出来の悪い生徒を優しく教え諭すように雪ノ下は続ける。

 

「これらは、男女がとある家を出入りしている、ただそれだけの写真よ。家に出入りすることと淫行に耽ることに因果関係なんてない。私達の関係性を考慮したら、部活動の延長という解釈こそが最も自然だわ」

 

「あ…そっか…」

 

「犯人は、この証拠とも言えないありふれた写真が爛れた関係に見えるよう、集団心理を利用したのよ。ゴシップに飢えている高校生の前にこんな文句をつけてばら撒けば、この程度の写真でも想像をかき立てられる。一度その空気を作ってしまえば、あとは勝手に伝染していき、結果はご覧の有り様というわけね」

 

「ならさ、ひとりひとり落ち着いて説明してあげればよくない?」

 

「それは…やめておいた方が賢明かと…」

 

「そうね。この状況での弁解はするだけ火に油よ。むしろ悪化するでしょうね」

 

ムキになって否定するほど、のパターンか。一度思い込んだ人間は、自分の聞きたいことしか耳に入らなくなる。そして思い込んでいる側の人数が多いほど、自分の考えは正しいのだという自信が強固になっていく。

「はいはい、わかったわかった」とニヤけられる煩わしさというのは、人が他者への殺意に目覚める最初の体験ではないだろうか。

 

「それについては全面的に同意だな。つまり打開策は──」

 

「空気によってなし崩しに作られた認識なら、逆にその空気を変えてしまえばいい。このタイミングであからさまにウソだと分かるような写真が出回ったなら、昼間のビラに対するみんなの印象も、ただの女子と不審な男子の日常風景に変えられるんじゃないかしら」

 

「…もう少しだけゴールの設定上げてくんない?俺、取りこぼされてる感があるんだけど…」

 

「あら、この状況で身の丈以上を望むのは贅沢と言うものでしょう?」

 

俺の初期値って不審な男子なのか。それならヤリチンのほうがマシな気もするが…。

しかし無実の人間をスケープゴートにするだの、真実をウソだと思い込まるだの──これってある意味じゃ犯人よりタチの悪い計画ではないだろうか。俺一人に任せるよりも性格悪い作戦になってる気がする。

 

「じゃあ、同じように写真を用意すればいいですかね?わたしたちに都合がいい印象のモノを」

 

「そうね。印象がより過激でインパクトのあるもの…いっそやり過ぎなくらいでちょうど良いでしょう」

 

「そんならマジに合成写真でも使った方が手っ取り早いんじゃないの?材木座、お前フォトショとか使えない?」

 

「我はライターであるからして。イラスト関連のスキルはちょっと…」

 

ライターも自称だけどな。

 

「過激かぁ。エッチなのって事だよね?」

 

「ち、ちがっ!?そうとは限らないでしょう!」

 

ユイペディアには"過激"から"エッチ"にリンクが貼られているらしい。なにそれちょっと見てみたい。一般ページからピンクいページにジャンプさせられちゃうとか、まるでフィッシング詐欺サイトみたいだな。

 

「毒を以て毒を制す、か。一理あるのではないか、なあ八幡?」

 

「あーじゃあじゃあ、アレどうですか?バスタブにお金一杯詰め込んでー、ハダカの女の子とハーレム最高!みたいなの。怪しい広告とかであるじゃないですか。キャストなら揃ってますし」

 

「ふむん、あれか。確かに胡散臭さ抜群。良いチョイスだと思うが」

 

確かに男子にはピンと来て当然のネタなんだが…いろはすはそれどこで見たの?

隣のページの解呪専門クリニックの広告まで見てたりしないよな?同年代の女子にも見られてると思ったらすげーもにょいっす。

 

「…待ちなさい。色々と言いたいことはあるのだけれど…キャストって誰のこと?まさか──」

 

「やだなぁ、わたしたちに決まってるじゃないですかぁ」

 

いやでもほらキャストが居ても難しいんじゃないの?札束とか子供銀行券でもあの量揃えるにはそこそこするし俺チェーンのネックレスも持ってないし違う違うそこじゃなくて。

 

…はだかのおんなのこ?

 

…だれが?

 

「総武高のキレイどころですね!」と自信ありげな一色を尻目に、俺たちは顔を見合わせて固まるしかなかった。

 

 

* * *

 

 

「八幡よ、これは夢か?」

 

重量級の材木座がそわそわ貧乏揺すりをするものの、ビクともしない堅実な造りが頼もしい洋室。

家具の少ない広々としたその部屋に、居心地の悪そうな男子が二人、肩を並べていた。

 

「どうなんだろうな。超展開すぎるし、そうかもな」

 

今ちょっと落ち着くのに必死だから話しかけないでくれる?素数を数えるなんて定番では足りないな。ここは一句詠んで心を鎮めよう。

うわ()手汗()マジすごい()拭くものどこだ()?このシャツ(11)裾にしよ…

 

「ぬなっ?!我のシャツで拭いちゃらめえぇ!!」

 

あれから一時間。俺達は雪ノ下の自宅にお邪魔していた。ホテルかと思った?残念!女子の部屋でした!いや残念じゃねーし全然緊張するわ。

 

こうも緊張しているのは、久しぶりにこの部屋に来たからと言うわけではない。

確かに少し前だったら、女子の部屋なんて異世界に繋がるGATEの向こう側の存在だと思っていた。しかし気がつけば、ここだけでなく一色の部屋にまで上がり込んでいたりする。毎度成り行きだったとはいえ自分でも信じられない。

ともかく、今の俺は女子部屋程度で取り乱したりはしない程度には大人になったはずなのだ。

 

でもね。

 

扉を一枚隔てた向こう側では、女子が生着替えの真っ最中。

こちら側では俺が生着替えの真っ最中。

取り乱さない方がおかしいでしょ。

 

今一度、手にした企画書に目を落とす。

一色が可愛い文字でチラ裏ならぬビラ裏に書きつけたそれは、手作り感に溢れている。

 

────────────────────────────────────

・コンセプト→この水晶を買ってから毎日笑いが止まりません!

 

・カントク →わたし

・主演   →先パイ、わたし、結衣先パイ、雪ノ下先パイ

・ロケ地  →広くて高級感のあるところ(⇒雪ノ下先パイのおうち)

・衣装   →各自持参

・機材、撮影、照明、配布、雑用、その他→コートの先パイ

────────────────────────────────────

 

このコンセプトの意味が分からない坊やはそろそろネンネした方がいい。

「カントク→わたし」とか、はじめしゃちょーみたいだな。これがリア充の実力というものか。

コートの先輩の扱いが涙を誘うが、そこだけは俺でも迷わず同じ事をしたと思う。

 

あの後、カントクの指示によって瞬く間に企画は進められた。

本気を出した一色が優秀だと言うのは雪ノ下の弁だが、今回ばかりは俺もその行動力を認めざるを得ない。まさか同日の内に撮影に漕ぎ着けるとは。

 

詳細を聞いた二人のYさんはそれはもう激しく嫌がったのだが、一色にどこかへ連れ出され、帰ってきたときには何故か抵抗しなくなっていた。何があったのか猛烈に気になるけど、怖くてとても聞けない。ただ、妙にやる気を見せる由比ヶ浜の様子を察するに、モノで釣ったのではないかと推測している。馬を射られた雪ノ下将軍もそんな感じで討ち取られたのだろう。

 

影の説得工作もあるだろうが、普通ならこんな馬鹿げた工作にあの雪ノ下が付き合う事なんてあり得ない。文句を言いつつも逃げ出さずにいるのは言わずもがな一色の為だ。

俺達の手前、明るく振舞ってはいるが…何しろ自宅を盗撮されたのだ。ショックでない筈がない。そんな彼女の提案に強く反対できないでいるうち、気が付けばこんな展開になってしまっていた。

さっき聞いた話だが、今日の一色家は例によって娘さんが一人で留守番の予定なのだとか。親に心配を掛けたくないというその気持ちは尊重したいが、昨日の今日では流石に可哀想だというのが2年生組の共通認識である。

雪ノ下はこのまま一色を泊めるつもりなのだろう。そう考えると、撮影場所に自宅を提供した事にも納得がいく。

 

『ね、ねえ…ホントにやるの…?』

 

こちら側は二人揃って固まっているのでほぼ無音状態だ。

いくら高級マンションといえど、隣の部屋の姦しい会話が僅かに聞こえていた。

 

 

『やりますよー。その為にわざわざ家に帰って水着まで持ってきたんですから。ほらこれ、すっごく可愛いくないですか?』

 

『あ…ホントだー!超かわいい!』

 

『結衣先輩のもいいですねー。可愛くて色気もあるとか反則ですよ』

 

『これね、サイズ探すの苦労したんだー』

 

『由比ヶ浜さん…貴女どうしてそんなに乗り気なの…?』

 

『え?乗り気ってゆーか…実際何とかしないとなのは確かでしょ?それに作戦自体はゆきのんのお墨付きなワケじゃん。あとはもう、女は度胸だよ!』

 

『私の意図からはかなり離れてしまったと思うけれど…』

 

『いいじゃないですかー。どうせ合成写真って事にしてバラ撒くんですから』

 

『バラ撒かれるからイヤなんじゃない』

 

『でもさー、いい記念…ってか、楽しい思い出にはなると思う。少なくともあたし達にとっては。いろはちゃんも一緒の写真、欲しいし』

 

『うわーん結衣先輩ステキすぎです!結婚してくださーい!』

 

『ひゃあ!どこ触って…やだ、こらあっ!』

 

 

「──八幡」

 

気が付けば俺達は正座で待機していた。

材木座なんてメガネが曇ってしまって表情が見えない。どんだけ興奮してんだよ。

 

「これから我が何を言っても怒らないでくれ。所詮は負け犬の遠吠えに過ぎん」

 

「お、おう…」

 

「バーカバーカ!童貞!リア充!メントスとコーラ一緒に飲んで悶死してしまえーーっ!!

 羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましーーーい!!

 我もはだかんぼの女子とキャッキャウフフしたーいペロペロされたーーい!!」

 

「材木座…」

 

ラノベ作家を目指しているとはとても思えない貧相な語彙だが、その気持ちは痛いほどよく分かる。

なにせ本撮影における主演の役目は、はだけた彼女らとくんずほぐれつすることなのだ。女子が監修なのではだかんぼもペロペロもないと思うが、それでも役得という期待が頭から離れない。

今この瞬間、確実に勝者であるところの俺は、ガチの男泣きに震える肩に手を添えて優しく声をかけてやった。

 

「通報していいか」

 

「はぎゅんっ?!」

 




次話はサービス回の予定。
15禁タグの面目躍如なるか?(違


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■16話 可愛い顔した肉食獣

キャラ崩壊していない事を祈りつつのテコ入れ回です。
実はこのエピソード、最初期からプロットに組み込まれていました。
ちゃんとたどり着けてよかったー。


 

「ではではー。ご開帳ぉ~!」

 

わめき散らす材木座の相手を適当にしていると、廊下から一色の声がした。

大きな磨りガラスの嵌められた扉がゆっくりと開く。

 

「やだ、ちょっと一色さん、押さないで…」

 

背を押されるようにして入ってきた雪ノ下に由比ヶ浜と一色が続く。

視界に入った素足の白さに早くも心臓がどきりと音を立て、俺は焦りを感じた。女子のうち二人の水着については、何の因果か真夏の千葉村で既に拝見済みだ。同じシーズンでわざわざ買い換えるとも思えず、それならば見た目の衝撃には耐えられるはずだと正直油断していたのだ。

 

「な、なんか見られたら急に恥ずかしくなってきたんだけど!」

 

「今更過ぎるでしょう。だからさっきから言っているのに」

 

かつて健全な日光の元においては感じることのなかった、湿度を帯びたような艶っぽさ。夜の屋内というシチュエーションが彼女達の姿を全く別次元の物へと昇華させていた。

有り体に言っちゃうと、とってもエロチック。

視覚から飛び込んできた刺激が自律神経を刺激し、唾液が過剰分泌される。口腔内から溢れる前に慌てて食道へ廃棄した。

つまるところ、俺はゴクリと音を立てて生唾を飲んだわけだ。マンガか!

 

「あっ!ヒッキーいまゴクッってした!やらしーやらしー!キモい!どこ見てんの!まじキモイ!」

 

「比企谷くん、告訴されたくなかったら今すぐに目を潰しなさい」

 

それ(つぶ)りなさいの間違いじゃないんだろうなあ…。 

両手を巻きつけ身体をよじり、全力で視線から逃れようとする二人。それとは対照的に、最も年若いはずの一色は二人の陰からゆっくり歩み出ると、くすりと笑って肩に掛かった髪を柔らかに払った。

 

「まあまあお二人とも。ヘタに隠すとかえってやらしくなりますよ?」

 

(は、八幡っ、誰()し?ちなみに我は会長殿に一票)

 

こそこそっと材木座が口を寄せてくる。汗をかいているため比喩抜きで湿度を帯びていて実に気色悪い。

お前のは単なるロリコンだろうと突っ込むため、曰くイチオシであるところの一色に視線を合わせた俺は、再度固まった。

 

「せーんぱいっ♪どうですか、これ?似合ってますか?」

 

きゃるんっ☆とチェキをキメてみせる一色。

ギャルっぽくて腹立つ上に、マジで可愛いので5倍プッシュ。略してMK5である。

ところでリバースピースって欧米じゃファッキュメーンって感じの意味になっちゃうらしいんだけど、こいつは分かっててやってるんだろうか。聞いてみたらYESって言われるのが怖くて結局聞いちゃわないレベル。聞かないのかよ。

 

「ま、わたしの水着姿ともなれば、先輩なんて5秒で骨抜きですけどね」

 

ほう、5秒とはまた大きく出たもんだ。いろはすが如何に洗練された可愛いの申し子と言えど、所詮は養殖。可愛いの化身(アヴァターラ)たるKOMACHIの御姿を毎日拝んでいる俺を舐めてもらっちゃ困る。

 

一色セレクトの水着はパールホワイトをベースとして、差し色にブラックを取り込んだセパレートタイプのビキニだ。所々にあしらわれたフリルによってキュートな印象を与えつつも、モノトーンの配色が適度に子供っぽさを殺している。アピールすべき自分の長所を知り尽くしているだけあって、控えめに言っても超絶似合っていると言えるだろう。

自慢げに張る胸は確かに魅力的な曲線を描いているものの、由比ヶ浜と比べると女性としての要所要所は控え目と言わざるを得ない。制服で補填されていた女子高生らしさが薄れているため、余計に幼く見えるフシはある。

にも関わらず、子供にはない女性特有の柔らかさを備えつつある身体と露出の高いビキニとのギャップ、細めの太股とそこから続く健康的な脚線美、そして業界トップクラスの「魅せる技術」が加味された彼女は、やはり直視に耐えがたい危険物だった(ここまで3秒)

 

「…ヒッキー、いろはちゃんのことガン見しすぎ」

 

「あっれぇー、先輩、興味津々ですかぁ?」

 

ふふーん、と小憎たらしいドヤ顔で、彼女はクルリとターンしてみせた。亜麻色の髪がふわりと後を追い、俺の視線も追従する。くそ、目が言う事を聞かない。ブレインジャックされたかのようだ。

違うんですよ。まだ本気出してないだけなんです。つうか俺の利き目って左目だしね?俺に本気出させたら大したもんですよ。

止まったら死んでしまうマグロの様にひたすら泳ぎ続ける俺の目を、一色は笑顔で正面から覗き込んでくる。いや、止まったら止まったで今度は死んだマグロになるんだよな?なら泳いでも泳がなくても俺の目は不審度MAXってことですね。

 

多少照れた様子ではあるものの、腰と太ももに手を当てた一色の姿はどこぞのモデルと言われても疑いを持てない程で、悔しいくらい様になっていた。見られ慣れているのか、はたまた自信の現れか。

撮影のプロであれば平常心が維持できるのかもしれないが、そこは慣れとは無縁のぼっちと中二。堂々としていようが恥じらっていようが、許容量を超えた肌色を前に落ち着ける道理などどこにもなかった。

 

そんな一色に触発されたのか、由比ヶ浜は身体を正面に向け、胸元を隠していた腕を取り払うと気持ち背筋を伸ばす。

 

「うぅ……恥ずかしくない恥ずかしくない、一度見られてるから恥ずかしくない…っ!…肉を切って骨を断つ…」

 

ブツブツと自己暗示に忙しい由比ヶ浜。ちなみにそれだとただの解体になっちゃうからね?どんだけ相手のこと憎んでんだよ怖ええよ。

てか、まかり間違って違うとこがタってしまったら、本当に解体されかねないな。

 

胸部拘束具を解除した由比ヶ浜は見た者の正気度を下げる危険があるため、俺は素早く目を反らした。視界へ入ってきたのはテンションを上げすぎて息も絶え絶えの材木座。よしよし、集まりつつあった血の気が一瞬で散った。凄い即効性です…。

彼女についての感想は──まあ不要だろう。顔の作りが整っているのは今更だし、結構お菓子をパクついているわりには肉が余っている様子もない。つか一瞬しか見てないはずなのに、目を逸らした後も鮮明に思い出せるな。記憶メモリーを何MB消費しているのだろう。もしもこの技術を学習に生かせたなら、日本人の学力は世界を席巻できるだろうに。

 

「ヒッキー。いま、目、逸らさなかった?」

 

見るなとか逸らすなとか、いちいち注文の多いことだ。そのうちクリームを塗れとか言い出さないだろうな。食べるならそちらの太ったお客の方からお願いします。

 

「さっきから断つだの抜くだの…君ら、俺の骨に何か格別の恨みでもあるわけ?」

 

「逆恨みなら。有り余るほどにね…」

 

二人の影に肩を落して立った雪ノ下が、怨嗟を含んだ声で答えた。

 

ワンピースのような外装を纏ったスタイル。前に一度見てから調べたのだが、パレオってのは腰に巻くだけじゃないらしい。つまりあの胸に巻いているのもパレオというわけだ。身体のラインが若干曖昧になっているが、太いものを隠すための策でないことは良く知っている。あれが水で濡れた時、浮き上がったその腰の細さには驚いたものだ。

そして何より、直視することが叶わなかった胸周り。古典的に詠いあげるならば──

 

我、物の哀れを知る。小さきものはみなうつくし。

 

「どうしてこうなったのかしら…死ねばいいのに」

 

現代的に解釈しても哀れとしか言いようのない様子の雪ノ下は、最後のマッチが消えた少女のように、身体を抱いて顔を伏せた。それにしても口の悪いマッチ売りである。

 

 

* * *

 

 

初期コンセプトでは俺も水着一枚となっていたのだが、流石に肌が直に触れるのは勘弁して欲しいという雪ノ下の懇願もあって、最終的にはバスローブの装着が命じられた。

白くフワフワしたタオル地のお高いローブ。高校生の一人暮らしで常備するものじゃないだろ。待てよ、確かバスローブって裸に直接着るんだよな。ここんちのローブって事は、つまりなんだ、そういう事ですか。

 

「父が泊まった時の為に置いてあった物よ。もちろん、一度だってそんな機会、ありはしないけれど」

 

そういう事でしたか…。よく見たら確かに男物ですね。

 

"ゆきののローブ" 改め "ちちのローブ" を装備した俺は、とうとうカンスト寸前の高レベル不審者となった。警官もこんなのに出くわしたら職質すっ飛ばして「逮捕しちゃうぞ」と駆け寄ってくるに違いない。 

 

「…それで、ここからどうすればいいのかしら、監督さん?」

 

チラチラとこちらを盗み見しながら、雪ノ下が指示を請う。イヤなら撮影側に回ればいいのに律儀なことだ。何だかんだで身内には弱いところがあるし、最近足繁く通っていた一色も、いつの間にかその枠に入ってしまったんだろうな。

つか川遊びの時は何とも思わなかったのに、この恥ずかしさは鳥肌モノだな。雪ノ下だけでなく由比ヶ浜も顔を逸らしつつチラ見してくるから余計に。もう見るならフツーに見てくれませんかね。

って、一色の姿がないんだけど、監督どこいったのよ。

 

「どれどれ…」

 

「っひ!?」

ひたり、と柔っこいものが首筋に触れ、俺は反射的に声を上げた。いつの間にか背後に回り込んだ一色が、ローブの隙間から手を潜り込ませ、ぺたぺたと身体をまさぐっているのだ。

 

「おい、やめろって…」

 

頸動脈付近を押さえられ、反射的に体が固まる。つかマジやめてかなりくすぐったいくすぐったいきもちい…いや超くすぐってぇ!?くすぐり有段者の小町よりずっとくすぐったい!どういうことなの?!ギブギブ!

 

「…ふぅ、けっこう…ガッシリしてますね……ふぅ」

 

二人の先輩とは対照的に、一色は興味を隠す気はないようだ。なんか若干息が荒い気がするんだけど大丈夫か?ちなみに俺は大丈夫じゃない。異性の手というだけでも耐えがたいのに、直に肌を触られているのだ。

一色の細い指が這った跡を追いかけるように身体が熱を帯びていく。この子、指先からバンテリンでも染み出してるの?流石は運動部マネージャー、芸達者でいらっしゃる!

 

食材の肉感を確かめる料理人のようなその手つきが鎖骨あたりを這って下りかけたところで、彼女のパワー&セクシャルなハラスメント行為にようやく待ったが掛かった。

 

「い、いろはちゃん!やりすぎやりすぎ!」

 

由比ヶ浜の声にハッと目の色が戻った一色は「あ、あはは~」と笑顔を取り繕って手を引っこ抜く。

 

「いえいえ、単なる慣らし運転です」

 

誰に向かっての言い訳なのか、手をうちわ代わりにパタパタさせる一色。むっちゃドキドキしたけど、ほんのちょっとだけ怖かったぞ…。秘められし淫魔の血が先祖返りしたのかと思った。

 

「あっ、そそっそれなら、わわ我を使ってくれても、いっいいいんですよ?」

 

「じゃ、さっそく始めましょ~」

 

ヒト属性を取り戻した一色の指示に従って、俺達はえっちらおっちら家具を配置転換していった。部屋の真ん中にスペースを作り、そこにデデンとソファを置けとのお達しなのだ。どうやらそこがハーレムキングの玉座らしい。

 

「おーんおんおん…」

 

一色流ハンドエステの恩恵に預かれず、スルーされて泣きっぱなしの材木座も当然こき使っていく。一般的な統計に漏れず、このデブも無駄に力があるからな。遊ばせとく手はない。

それにしても、力仕事があるなら着替える前に言って欲しかった。屈んだり背伸びしたりと動き回る女子たちの姿は目に毒すぎる。たまらずに俯くと、さっきまで家具を運んでいたはずの材木座が、カメラを構えてニンジャのように地を這っていた。這った跡が汗で湿ってるのでナメクジに訂正しようか。

 

「仕事しろこの軽犯罪者」

 

「この瞬間の激写こそ我が運命(さだめ)よ!」

 

こいつガチで通報してやろうか。

つか水着相手にローアングルとかって意味あんの?

 

「バスタブとか札束とかは準備が大変なんで、これ使って悪の親玉風アレンジにしましょう」

 

余計なものを取り払われた部屋の中央に高級そうなソファだけがたたずむ。…なんか無駄に雰囲気あるな。その中央を指さし、三分間クッキングのような口調で一色は言った。

 

「先輩はそこで」

 

「…あいよ」

 

ボスなのでど真ん中。ふふん、当然だな。

ソファにどっかり腰を落とすと、実にいい感じの堅さだった。柔らかすぎると腰が支えられなくて逆に疲れるものだが、流石は雪ノ下チョイスと言ったところか。あとは毛のやたら長い猫と葉巻とワインがあったらバッチリだ。いや肝心の役者が小悪党過ぎるか。

プランによるとここに俺+三人の美少女を詰め込むらしいんだけど…スペース足りなくね?

俺は次の指示を仰ごうと顔を上げ、しかし視界に映ったモノに慌てて顔を伏せた。

 

「…先輩、すんごい猫背ですね…もっと背筋伸ばして!こう、背もたれにふんぞり返るカンジでよろしくです」

 

「いや、まあ…」

 

分かってる、ラスボス風だろ?分かってるけど。

目線の高さが立ってる君達の下半身直撃なんですよ言わせんな。

 

「あ~…せんぱぁい、も・し・か・し・て?」

 

おっと、再び妖しさを帯びた一色の視線が俺の股間周りを旋回してますね。そこに管制塔はありませんのことよ?異議あり!弁護側は無罪を主張します!

慌てて体を反らし、背もたれに悠々と腕を広げた。これぞ正にボスのポーズである。

 

首まで反っちゃって天井しか見えない。しかし今、俺の身体の一点に視線が集中している気がする。それも一人分ではない。貴様等、見ているな…ッ!?

おっかしいなー、始まる前は期待でどうにかなりそうだったのに。今は恥辱のあまりどうにかなりそうだ。もうこれ単に男子苛めて楽しむイベントに成り下がっていませんかね?

 

「…ふーん…まあいいです。じゃ次は…結衣先輩でいきましょうか」

 

「えっ?!あたし?!」

 

由比ヶ浜か…。

まあ誰から来ても心臓に負担が大きいのは変わらない。日頃からやけに距離感の近いこいつなら、少しは耐性が出来てるかもしれないな。

 

「じゃ、じゃあ、いくよ?」

 

祈るように手を組んだ由比ヶ浜が、素足をひたひたと鳴らして近づいてくる。

ボスチェアは十分な大きさがあるが、それはあくまで一人で座る場合だ。俺が真ん中に座っているせいでどちらのサイドを選んでも接触は避けられない。

困り果てた由比ヶ浜は必死に俺の両サイドを睨みつけた。ミスドでドーナツを前に仁王立ちしている時の小町にソックリだな。どちらがより自分に益があるか懊悩(おうのう)している目だ。

 

俺はこっそり身体を動かし、左側の空間をいくらか広げてやった。角度的に一色にはバレなかったようだが、由比ヶ浜は目ざとく俺の動きに気づいたらしく、ハッとした表情でこちらを見つめる。

 

「結衣先輩、度胸ですよ!」

 

「お、おうよー!」

 

考えてもみろ。

奇跡的に逃げ出しこそしていないが、あの雪ノ下が、しかも男子と密着必至な空間に、その身を置く事をよしとするだろうか。写真に参加するだけでも充分驚きだ。一色だって無理強いできるとは思えないし、傍に立って貰えるだけでも御の字だろう。

この手の計算高さにおいて他を圧倒している一色は、ノリノリに見せて先輩相手に主導権を掌握してしまっている。これは自らの被害を最小限に抑える上で理に適った方法だ。自身は床に寝そべって牝豹のポーズだとか、いくらでも抜け道はあるのだから。

 

つまり、一番手でスペースに余裕のあると思わせてからの「そこしか駄目とは言っていない」というお決まりのトラップだ。由比ヶ浜のやつ、(くみ)し易しとか思われてるんじゃ…。

 

まあ彼女が舐められるのはキャラ的にも仕方ない。こんくらい空けてやれば俺に触れずに座れるだろ。つか広げてやったとは言っても十分狭いんだけどな。ディスティニーのアトラクションだってここまで近くはなかったし、それ以前にあの時はお互いきっちりコートを着込んでいたんだった。

 

「…っ!」

意を決した表情で、由比ヶ浜は俺の()()に腰を下ろした。

スプリングがゆっくりと沈み、生きた人間の重さを傍らに感じてぎょっとする。彼女と会話する度に薄っすら感じていた香りがぐっと強さを増し、嫌が応にもその存在を意識させられる。

 

「おい…何してんの…」

 

「中途半端なのはやだし」

 

ちょっと言ってる意味がわからない。狭い方が好きとかハムスターかこいつ。確かにお菓子詰め込んだりちょこちょこしてる印象はあるけど…。

由比ヶ浜は握った手を膝の上に載せ、なるべく体積を減らそうと身体を丸めている。けれどどうしたって肩やら腰やらは触れちゃうわけで。ボスのポーズも相まって、その肩を抱いているような構図になった。

いやマジでバスローブ様々だわ。直接だったら10秒保たなかったな。

うん…?触れている箇所がほんわか温かくなってきたぞ。大丈夫、由比ヶ浜の体温だよ!

ってふざけんなファ○通は大丈夫じゃない方のフラグだろ!恥ずかしいもうダメ死ぬ死んぢゃう!

 

「ぬぐぐ、今こそ日頃の妄想力を発揮するとき…あれは我の身体、八幡は我、我は八幡…」

 

ギリギリと歯軋りしながらこちらを睨む材木座。なんか気持ち悪いこと口走ってるな。おかげで少しだけ冷静になった。さっきから材木座にイヤな形で助けられてばかりで不本意この上ない。

しかし残念なことに、この程度では監督にはご満足頂けなかった。清水の舞台から決死のジャンプを敢行した由比ヶ浜に、そこから三回転半を要求する。

 

「結衣先輩、それじゃボスの女じゃなくて新人ホステスですよー。もっと寄って寄って!ちゃんとしなだれかかって下さい。こう、腕を首に回して、うっふ~ん♪です!」

 

ねえしってる?あの舞台って意外と低くて、死に損なう確率が割とあるんだって。「決死」って意味にはあんまり向かないんだよ。豆しばせんせいが言ってた。

 

「ええぇぇっ?!ムリムリムリムリぜーったいムリ!」

 

由比ヶ浜の必死の抵抗に、俺の心もメリメリメリメリ!

 

「あは、さては結衣先輩~、自信ないとか?ちなみにわたし大きさでは負けてますけど、形とかハリは断然自信ありますよ♪」

 

「うっ……むむ…」

 

何について張り合っているのか言及するほど俺は愚かではない。だから射殺すような目で睨んでくる雪ノ下と目が合ってしまったのも不幸な偶然であることをここで主張しておきたい。

「うううぅ……てりゃっ!」

 

掛け声と共に、腕に何かがまとわりつく感触が走る。びっくりして反射的にそちらを見るが

 

「ダメ、こっち見ない!」

 

と頬を押し返された。

 

流石に首は躊躇したらしく、由比ヶ浜は俺の腕をとって自分の胸元に抱き込んだ。いやこれは抱き込んだとは言わないか。まるで腕と一緒に間に荷物でも抱えているかのような抱え方…ああ、そういや荷物はいつも持ち歩いているな。確かにそれは接触禁止に違いない。

それでも姿勢の関係もあって、接触面積が飛躍的に増加してしまった。

 

「由比ヶ浜さん、これ、写真に撮るのだけど…貴女それで大丈夫なの?」

 

「ぜんぜん大丈夫じゃないよ!…けど、大丈夫じゃない写真が必要なんでしょ?」

 

それはそうなんだが、このままいくと違う意味で新たな話題が生まれかねないような…。

俯いた由比ヶ浜の表情は見えなかったが、髪の隙間からちらりと覗く耳は真っ赤になっている。

 

「いいですよー!やりますねー、結衣先輩」

 

由比ヶ浜が見せた謎のプロ根性に感激したらしい一色。流石にこれなら満足するかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。曰く、現場は生きているのである。

 

「よーし、じゃあおっぱい!おっぱい寄せていきましょうか!」

 

…いよいよ遠慮がなくなってきたな、こいつ。

どこからか深夜番組の神が降りてきたらしい一色は、丸めた雑誌をメガホン代わりに指示を飛ばし続ける。

 

「ちょ、いろはちゃん?!キャラ変わってない…?」

 

「ほら、ぱい先ぱ──結衣先輩、もっと寄って寄って!」

 

「ねえいま何と間違えたの?!」

 

業界じゃ先輩の事をパイセンなんて呼ぶ事もあるらしいが、今のはそういう意味じゃないんだろうなぁ。

その名に恥じる事無く、π(パイ)先輩はゆっさゆっささせながらぷりぷりしていた。

俺の灰色シナプスもいい感じに機能しなくなってきてます。メーデー。

 

「うぅ…ヘンなこと考えないでよ…?」

 

こいつはほんとさっきから何を言っているんだろう。変な事なんて何も考えてやしない。食物を放り込まれた胃袋が消化活動を開始するのは単なる生理的機構である。だから今エロい事を考えるのも自然の摂理だ。このタイミングで明日の天気について考える男が居たら、それは脳の病気だろう。つか、ホントにやるんですか?

 

「…っ……っく」

 

プルプルと震えながら、由比ヶ浜は腕で抱えた輪の半径をすぼめていく。それに伴い、彼女の身体もより近くへと。正面を向いたままの俺の視界に髪しっぽがチラついている時点で、どれだけ距離が近いかがお分かり頂けると思う。

 

「ふぉーっ!すんごい、すんごいです!それ、わたしがしてほしいくらいです!」

 

一色の鼻息の荒さを見るに、押しつけられた由比ヶ浜のが相当すんごいことになっているらしい。けどそれを直視する勇気があるなら長年ぼっちなんてやってない。

こうなると触覚だけが頼みの綱だが――腹立たしいことにこの腕が感じ取っている感覚の根底にあるものが、いまいちよく分からないのだ。くそ、無駄に長い袖しやがって…。

この天使のヒップの如き柔らかさ(キ○ーピーマヨネーズ的なものを想像して欲しい)は高級バスローブのものか、はたまた由比ヶ浜のシロモノか。

 

結局、神の差配によって創造されたガハマ連峰の威容を、俺は最後まで拝むことが出来なかった。

いやこのひと一応クラスメイトだからね。こんなんまでしておいて、明日からどんな顔して顔合わせりゃいいんだよ。一色、お前ちゃんと責任取ってくれるん?

しかし、目を反らしているというのに間近に感じるこの存在感は何なのだ。近隣にこの双子星に匹敵する質量がない以上、そちらに興味や目線が引きつけられたとしても神はお許しになるに違いない。宇宙を支配する(くだん)の法則は今この時も働いているのだ。逆らうことは摂理に反す──

 

「どこを見ているのかしら、破廉恥企谷(ハレンチきがや)くん」

 

アーメン。質素を尊ぶ氷の女神様は、俺の行いをお許しにならなかった。

その字面、波羅蜜多心経みたいで意外とかっこいいじゃないの。略してチキがやくんなら猛レースまで始まっちゃいそうである。

 

「じゃあ次に雪ノ下先輩ですけどー」

 

「なぜ急に素に戻るのかしら。言いたい事があるなら言って御覧なさい」

 

「そこ張り合うとこじゃねえだろ…」

 

まかり間違ってお前も寄せていけとか言われたら、こいつは一体どうするつもりだったのだろうか。魔女の怒りを恐れた一色の判断は正解だろう。

 

「はぁ…。何でもいいから早く済ませて」

 

正面に立った雪ノ下。逆光でそのかんばせに落ちた影が俺の不安を煽る。

 

「え、マジでお前もやる気?」

 

「当たり前でしょう。いくら明後日の方向に広がった話とはいえ、元はと言えば私が『過激な写真を』なんて言ったのがきっかけでもあるのだし。自分の言葉には責任を持ちたいのよ。例え地獄の責め苦より辛い仕打ちが待っていると分かっていても」

 

その辛さは俺に水着姿を見られることなのか、単に胸に自信がないからなのか。多分両方なんだろう。

しかし一番過激なのは、脅威的な飛躍でエロはすを召喚してしまった由比ヶ浜の発想力じゃないかと思う。確かに雪ノ下の提案がそもそもの下地になっていることは否めないけども…。

 

「ここに座ればいいのかしら?」

 

気配りも虚しく、雪ノ下は俺の左側に()()()と腰を下ろした。

 

なに…?すとん?

 

やけにスムーズに座ったもんで、いちいち照れる暇もなかったな。

広げておいたとは言えその差はほんの数センチ。由比ヶ浜から受けている圧力を基準で考えると、掠るくらいしないとおかしいのだが…。

 

「ゆきのん、ずるい…」

 

「えっ?ずるいって、何が?」

 

「知れた事、先に座った赤毛の方が尻がでか──」

 

ゴツッと堅いものの当たる音。

床を見れば材木座に似た男の死骸と転がったTVのリモコン。ただの粛正現場だな。

 

「あたしがおっきいんじゃないよ!ゆきのんがちっちゃいんだよ」

 

「なっ?!私はバランスを重視してるだけで、決して不自然なほど小さくは…!貴女のそれが大きくないと言うのなら、私は無いも同然ということ?」

 

謙遜してるんだか貶してるんだか分からないすれ違いが、至近距離からステレオ入力されてくる。そういや俺らの立ち位置は基本、由比ヶ浜が間に入ってるんだよな。これはちょっと不思議な感覚だ。

 

「結衣先輩の胸はご立派ですし、雪ノ下先輩のお尻は引き締まってて素敵ですよ。先輩はどっちが気になりますか?やっぱり年下ですか?」

 

「…」

 

何を言っても不利になる時は、黙秘権を使うべし。覚えておくといい。

あとその年下って選択肢はどっから沸いて出てきたの?

パンかご飯か靴下か、みたいな感じになってるんだけど。

 

「あのー、雪ノ下先輩もなにかポーズお願いします。姿勢良すぎですよー」

 

「なにか…と言われても…」

 

身じろぎした拍子に腰が触れ、彼女は身を固くした。いくら細身といっても、動き回るほどの余地があるわけじゃないからな。どうあれ接触面積が増えないポーズが望ましいが…。

数瞬悩んだ雪ノ下は、すっとその白い脚を組み、長い黒髪を払うような仕草をして見せた。

 

「このくらいが譲歩の限度ね」

 

「うーん、ちょっともの足りないですけど…でも無理強いも出来ませんね!」

 

「えっ!それでオッケーなの?おかしくない!?」

 

俺の腕にだっこちゃんよろしくへばりついている由比ヶ浜がクレームをつける。

でも考えてみりゃ、由比ヶ浜の場合は挑発に乗っただけで、確かに一色は無理強いしていない…。やっぱこいつ策士だわ。

ぐぬぬ、と悶えつつもポーズを崩さない由比ヶ浜と雪ノ下を交互に見て、一色は満足げに頷いた。

 

「オッケーでーす。ではでは…お待たせしました!真打ち、まいりまーす♪」

 

満を持しての監督登場。

とは言え雪ノ下を僅かなスペースに詰め込んだ事で、ソファに座ることの出来る、座らなければならない可能性は既に枯渇した。一色の見事な作戦勝ちである。

しかし何を思ったのか、彼女は真っ直ぐ俺の方へと向ってきた。

 

「えっ?もう無理くない?」

 

「いえいえ。ここ、座れますよね?」

 

不意にすっと背を向られ、反射的に白い肌に視線が走った。あ、腰んとこにホクロ発見。

 

「えいっ♪」

 

むにっ、と形容の難しい感触が俺の太股に走る。

 

一色は確かに座ってみせた。

 

ただし、俺の膝の上にだ。

 

「なぁっ?!」

 

驚愕におののいた由比ヶ浜が強く腕を抱き込んだのが分かったが、そちらから伝わってくる感触を解析している余裕は全くなかった。目の前には由比ヶ浜よりも一回り明るい髪色。ふんわりと広がる毛先が鼻をくすぐる。甘いアナスイの香りが嗅覚を犯し、俺のCPUが演算の限界を越えて悲鳴を上げた。

 

「ちょと先輩、鼻息くすぐったいですよぉ?」

 

クスクスと笑うその表情は見えないが、明らかに普段と様子が違う。

 

「お、おっ、おまっ…何かキメてるんじゃないだろうな…?」

 

「覚悟はキメてますよ?それにこういうのはマジメになったら負けなんです。テンション吹っ飛ばさなきゃ、わたしだって恥ずかしくて死んじゃいます」

 

「その男の命を吹っ飛ばす方が手っ取り早い気がしてきたわ…」

 

真面目っ子代表が何やら不穏当な発言をしていますね。

こっちはテンションどころか理性も命も全部まとめて吹っ飛ばされそうです。

 

あ…、これヤバい。血が集まる感じがしてきた…。今すぐセンサーを遮断しなければ。

俺は息を止め、固く目を閉じた。

 

「んっ…けっこう、固いですね…っ」

 

──視覚および嗅覚をカット。だが足りない。触覚および聴覚からのダメージが深刻だ。

 

落ち着け、思い出すんだ、小町を抱っこした時の感触を。年下女子なんて全部似たようなもんだろう?

ちなみにこの方法で余計に状況が悪化するとか思ったヤツ。そいつにはラノベ作家でも目指す事をオススメする。千葉の兄妹が如何に仲良しとはいえ、兄妹は兄妹なのだ。属性としては母親のそれに類する。流石に比企谷家のご母堂を想像するのは効果より後遺症のリスクが上回りそうだし…。

 

むにむにっ。

 

腰の上で一色が身じろぎする度、見た目通りの軽い体重と小ぶりな臀部が弾む感触が薄布とタオル地を突き抜けて伝わってくる。

つか全然違うじゃん。最後に小町抱っこしたのなんて小学生のどこかだろうに。第二次性徴を完全に侮っていた。

…まずいな。このままでは連鎖的に御神体まで被害が及びそうだ。愛妹をそんな目で見ちまった日には、俺の身柄は比企谷父によってオホーツク海に浮かぶ蟹工船にでも渡されかねない。

 

もう禁じ手だろうと何だろうと、躊躇っている余裕はないか…。

許せ戸塚。そして俺を守ってくれ!

A(ngel).T(otsuka).フィールド全開っ!!

 

「せ、せんぱ…っ、あ、あんま、動かないで…バランスとれな…」

 

───フィールド反転!脳が侵されていきます!

 

対処を間違えた…女性的刺激に中性的刺激を足してもダメだった…。

素直に材木座に…しておけば…よかったのに…。

 

手を尽くしたエンジニアが疲れた顔で電源を引っこ抜くように、天使達の笑顔をそっと脳裏にしまいこむ。

 

残ったのは周囲を包む甘やかな香りと、密着する後輩の熱い体温。

 

負け惜しみであろうとも言わせてほしい。

 

戸塚は置いておいて、俺はホモではないのだ。戸塚は置いておいて。

 

 

「うわっ!ヒッキー鼻血出てる!」

 

 

顔面からの出血によって、俺はTKO負けを余儀なくされた。

 

 

* * *

 

 

負傷者の発生に伴い、撮影は一時中断となった。

女子の肌を血塗れにしないよう廊下に退散した俺は、鼻にティッシュを当てたまま、雪ノ下さんちの天井を相手に日本の将来について討論している。

 

「鼻血出すほど興奮しちゃいました?」

 

楽しげな声に振り返ると、肩からバスタオルを掛けた一色が廊下に出てきていた。

これはこれで逆にエロ…いかんいかん、折角収まってきたのに。

 

「人間なんだから鼻血くらい出るわ。一色だって出してただろ」

 

「それは今すぐ忘れてくださいね」

 

ちょっと引きつった声色。隙だらけの俺の鳩尾に一色のエルボーが迫る。

刀の間合いに潜り込まれた剣士のように瞳孔がキュッとなったが、次いで腹部に感じたのはぷにっとした感触としっとりした肌の温度だけ。どうやら高速で繰り出されたはずの肘鉄は俺に突き刺さる直前に減速し、牙突からお触りにまでその勢いを殺したようだった。

ここからかの有名な零式に派生するのか、はたまた既に肉体を破壊され奇声を上げて破裂する運命なのかとビクビクしていたが、一色は「もー…」と可愛く頬を膨らませて肘をぐりぐりしてくるだけだった。

そのくすぐったい感触をなんとか振りほどこうとして開いた俺の口から出たのは──

 

「ひゃめろ…!」

 

…くそう、やっぱり奇声を上げさせられてしまった…。YouはShock!!

 

それにしても最近、こいつのスキンシップは少々過剰ではないだろうか。いくら事情が事情とは言え、さすがに今日のはやりすぎだ。黒歴史編纂の第一人者としても看過しかねる。これは確実に後で死にたくなるぞ。

 

「一色…その、なんだ。…程々にしとけよ?」

 

「え?」

 

「悪ノリでもしないとやってられないってのはまぁ、察してるつもりだ。けどこんなんは、葉山だっていい気しないだろ」

 

「へ?葉山先輩…?」

 

「…?」

 

こいつに限って、自分のしている事が想い人にバレた時の事を考えていないとは思わないが…。

この前から色々あったし、やはり少し混乱しているのだろうか。

 

「あっ!葉山先輩!そうですね、すっかり忘れてました、その設定!」

 

「おい待ていま設定って言ったよな」

 

「それ、ちょーっとだけ情報が古いですね。今すぐ更新しますか?それとも…こ・ん・や?」

 

「いや俺は(セブン)がいいから…じゃなくて」

 

一色は「えへへ、ちゃんと通じました」と小さくピースサイン。

旬の強制アプデネタとは、地味に俺のツボをついてくるな。ヒッ検取得に成功したという噂がいよいよ真実味を帯びてきた。

 

「なに、いつの間にか状況変わってたりするの?」

 

「ふふっ、興味ありますか?」

 

「ん…多少な」

 

「えっ?ほんとに?」

 

確かに普段であれば、他人の恋愛事情に興味はない。ましてや一色みたいに息を吸うかの如く男女交際をこなす輩であれば、尚更だ。ただ──

 

「涙ボロボロ流して、もっと頑張る宣言してたし」

 

「わーもうこのひとサイアクだー!」

 

頭を抱える一色を見てようやく溜飲が下った。なにせ今日は終始やられっぱなしだったからな。

 

「葉山にヤキモチでもやかせるつもりか?」

 

「はい?」

 

「いや、路線変更するみたいなこと言ってたし」

 

押して駄目なら引いてみろ、みたいな切り替えの最中なのだろうか。しかしそれには少し手段が間違っているような気もする。もし俺が葉山の立場だったらどう思うだろう。比企谷ブッコロ!って思うんじゃないだろうか。…葉山が性格も含めた真性イケメンである事を祈るしかないな。

 

「はぁ……。まあその解釈でもいいですよ、今は」

 

うわ、すげぇ小馬鹿にされた感。

まだお前には理解できないからっていう時の常套句じゃねえか。

けど確かに、経験的にも性別的にもこいつの考えを理解するのは困難だろうな。

 

そんなことより、と一色がこちらに向き直って言った。

 

「何だかんだで言うチャンスがなかったので」

 

「ん?」

 

「ありがとう、ございます。その、色々…」

 

さっきまでの異様な明るさはなりを潜め、一色は神妙な顔でこちらを見上げてきた。

 

「いや…別に礼とか…。今回はむしろ、お前等を俺に付き合わせてるみたいな話だろ。だから礼を言われるのは違うっつーか…」

 

「違わないですよ」

 

一色の目は優しく、それでいてどこか一本芯が通っているようにも感じられた。

こいつこんな目してたっけ…。もっとこう、クリオネ的な、可愛い顔した肉食獣の印象だったんだけど…。

 

「こんなに人に感謝したのって、きっと生まれて初めてです」

 

それを言うなら、そんなに感謝されたのも、俺の人生で初めての事ではないだろうか。

少なくとも、面と向かってこんな風に言われた事はなかったと思う。

 

「わたしの初めての相手ですね、先輩」

 

「…………………………………………」

 

「い、いや~、ウケるかと思ったけどダメですねこのセリフ!考えた人、絶対アタマ沸いてますよ!」

 

俺を捕らえて離さなかった視線は急に落ち着きを失い、彼女は何かを誤魔化すように早口でまくし立てた。

その顔はほんのり赤くなっているが、俺はもっと酷い事になっているだろう。折角止まったのに、また鼻血が出そうだわ。言った側が恥ずかしがると、言われた側はもっと恥ずいんだよ…このエロリストめ。

 

ところで今のを盗聴とかされてたらヤバくない?

俺ってばマジで誤解から殺されてしまうよ…。

 

 

* * *

 

 

「…よし、と。これでオッケーです。じゃ、撮りますねー!」

 

タイマーをかけたカメラの正面ライトが点滅する。

その感覚が短くなっていき、「カシャ」とシャッターの音が響いた。

 

カメラマンであるはずの材木座が犯人不明の投擲攻撃によりダウンしたままだったので、結局セルフタイマーと三脚を駆使して撮影は続行された。ほんとこの男は何しに来たんだろう。ずっと女子の水着を撮影していただけのような…。まあ明日頑張ってもらう必要があるし、今日のところは大目に見よう。

 

「はーい、みなさんお疲れ様でしたー!」

 

息苦しい沈黙の中、ひょいひょいと足取りも軽くカメラの元へ向う一色。

彼女が膝から降りた途端に抱えていた熱がごっそりと抜け落ちて、俺は軽い虚脱感に見舞われた。人恋しさ故に異性に依存する連中の気持ちが少しだけ分かった気がする。

 

由比ヶ浜と雪ノ下、そして俺も、一色以外はカメラの方を向いたまま動けずにいた。

あまりに衝撃的な時間だったため、急に終わった事がまだ信じられないのかもしれない。

 

「ふぅ…」

 

しばらくして、由比ヶ浜は熱い吐息を残して身体を離し、その胸に抱かれていた俺の腕も開放された。

重いんだか軽いんだか分からない謎の圧迫感が無くなって、腕が細くなったような錯覚すらある。

由比ヶ浜は無言のまま、俺に触れていた箇所をしきりに撫でていた。

すりすり、すりすり、すりすりすりすりすりすり──ってちょっと擦り過ぎじゃないですかね。

垢すりみたく角質ごと削ぎ落としたいんですよね。ちょっと号泣してもいいですか。

 

雪ノ下は何故か、未だに立ち上がろうとしなかった。怒りに痙攣するわけでも、羞恥に顔を赤らめるでもない。ピクリとも動かない彼女に、俺はじりっと恐怖のようなものを感じた。比企谷菌に侵されてゾンビになってしまったわけでもあるまいに。

やがて立ち上がった彼女は、サイドテーブルに歩み寄ると、置きっぱなしの携帯電話を手に取った。

 

「…何してんの?」

 

「…ちょっとカウンセリングの予約をと思って」

 

「俺の分も頼みたくなるからやめてね」

 

ばら撒かれたビラなんかよりもずっと心が痛いです…。

 

「あのー、みなさん。お疲れのところ申し訳ないんですがー」

 

カメラを回収し、ちょいちょいっと画面を操作していた一色。

ちょっと困ったようなはにかみ顔でこちらに向き直り、彼女はてへぺろっ☆と舌を出した。

 

「メモリ不足で撮れなかったみたいでー。もう一回、お願いしまーす」

 

 

 

──数分後、脱衣所の前には必死の説得を行う二人の女性交渉人の姿があった。

 

立て篭ってしまったとある少女を再びカメラの前に立たせるべく掛けられた言葉。

 

その内容は当人の尊厳に関わるため、「発言の責任」なる単語が登場したとだけ記しておこうと思う。

 

 




写真一枚撮るのに大騒ぎですね。


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■17話 どう見ても女の子のアレ

登場人物が多いので、意図的に地の文をカットしてみましたが、如何でしょうか。
えっ?タイトルが酷い?そんなのいつもの事でしょう。



<<--- Side Iroha --->>

 

明けて翌日。

 

わたし達は朝早くから奉仕部の部室に集まっていた。

今は出来上がった写真に目線なんかを入れながら、わいわいと品評を述べているところ。

写真の仕上げやコートの先輩とのすり合わせのために再集合したんだけど、なんだか誰も彼もが眠そうにしている。

 

あの撮影会の後、雪ノ下先輩の家に泊まっていくように勧められた。

彼女は「今の状況で貴女を一人にしておくのは忍びないから」と至極真っ当な理由を口にした。一緒に話を聞いていた結衣先輩も一緒にと名乗り出てくれて、とんとん拍子に二日続けての合宿が決まったのだった。

正直言って、雪ノ下先輩の家で写真を撮るという展開になったとき、この流れを期待していなかったと言えばウソになる。それどころか「今夜も一人で留守番なんですよね~」なんてぼやいてみせたりしたのだし、完全に狙ってやっていたと言うべきだろう。

このところ先輩方には迷惑の掛け通しで、下げた頭を上げる間もないような立場だとは思う。けど、だからと言って他に頼れるひともいないのだ。

 

でもまあ、気を許せる相手との女子会──それもお泊りっていうと、問題やらご迷惑やらとは別のとこで、純粋に楽しいっていうのはあったかな。

一応顔には出さないようにしてるつもりだけど、やっぱ日頃の女子トーク不足が深刻っていうか。だから共通の話題を中心に夜中まで盛り上がっちゃったのは、当然と言えば当然か。

え?恋バナ?いやー、そこだけはみんな露骨に避けてたなぁ。てか、この三人で気楽に選べるトピックじゃないでしょ。

 

実はその時、先輩にもこっそりお泊まりを勧めてみたんだよね。

けど、「流石に今夜はカンベンしてくれ」と顔を赤らめる姿を見せられて、釣られてわたしまで顔が熱くなってきちゃって。それ以上食い下がるのも色々と急ぎ過ぎかなって思ったから、今回はやめときました。

自宅に帰ったはずの男性陣までこうしてあくびを連発してる理由については思うところがありますけど、深く追求しないでおいてあげますね?わたし、これでも理解のある女を目指してますから。

ちなみに、今夜はってことは、次があると思っていいんですよね?

 

「これは…コラだな」

 

「…コラにしか見えませんね」

 

「まごうことなきコラージュであるな!」

 

みんなが口々にそう評しているのは、PCに取り込まれた昨晩の写真だ。

わたしが思い描いたとおり、出来上がった写真の構図自体もなかなかアレな仕上がりになっている。

そして、写っているそれぞれの表情が、その怪しさを強烈に後押ししていた。

 

「ゆきのん、このポーズでマジ真顔とか…」

 

「貴女こそ…姿勢と表情が病的なまでに乖離してるわよ?」

 

…ま、要するに。

みんな不自然極まりない顔で写ってるもんだから、まるで別の写真から持ってきたみたいに見えるんだよね。

って言うか──

 

「あのー、わたしの目が見過ごせないレベルで飛んじゃってるので、軽く撮り直しませんか?」

 

「目線入れるんだから一緒だろうが」

 

「だってこれ、ちょおマヌケ顔なんですけど…」

 

「言葉を知らん奴め。こういうのはアヘがふんっ!」

 

あらら、抗議しようと襟元を引っ張ったら、なんかいい具合に首が絞まっちゃった。

ラクチンだから次からこうしよっと。

 

「イモ先輩は黙ってて下さいね?」

 

「イモ!?そのドン臭さ全開の蔑称は、よもや我の事ではあるまいな!」

 

「だって長いんですもん。ザザ先輩でもいいですけどー」

 

「我としてはそっちの方が…何かラノベの敵キャラとかにいそうだし…。おい八幡よ、どう思う?」

 

「いいんじゃね?ザザ虫みたいな響きで」

 

「やっぱりイモの方でお願いしますっ!」

 

「承りました♪」

 

うん?先輩から何か言いたそうな空気が出てますねー。

 

「ところで一色、俺の──」

「だって長いんですもん」

 

背中を向けたままのわたしにほぼ食いで却下されて、先輩、驚いてるみたいですね。

ふっふー、最近ちょっとずつ読める範囲が広がってきましたよ?

 

「…文字制限が厳しすぎだろ。つか雪ノ下なんて俺より長いし」

 

「確かにそうですね。じゃあじゃあ、ユキ先輩って呼んでもいいですか?」

 

「ええと…。出来たら今まで通りの方が嬉しいのだけど」

 

「──だそうです」

 

「素直かよ。俺の希望は通らないわけ?原型どころか影も形もないのはなんとかならんの?」

 

「なりませんねー」

 

「別にいいんじゃん?いろはちゃんが"先輩"って呼ぶの、ヒッキーだけだし。特別ってことじゃない?」

 

さすがに結衣先輩にはバレバレですか。

フォローはありがたいんですけど、ちょいちょいブレーキが緩いから、口を滑らせそうでヒヤヒヤさせられます…。

 

「日本語の妙よね…特別って言葉そのものは指向性を持たないのに、何だか良い事のように聞こえるわ」

 

「暗に悪い事だって示唆するのやめてね?」

 

そのへんは折を見てちゃあんとわたしの口から教えてあげます。

それまではせいぜい悶々としててくださいね♪

 

「それより準備は大丈夫なの?お昼休みに決行としか聞いていないのだけれど」

 

「やべ、肝心の人に話通すの忘れてた」

 

「平塚先生のこと?メールしたのではなかったの?」

 

「色々ありすぎて忘れてたんだよ…」

 

昨日の状況を繰り返すためには、事態の収拾に大人の登場が不可欠だ。

けど、それは教職員なら誰でもいいってワケじゃない。

 

「おい八幡、本当に大丈夫なのだろうな?事と次第では我の進退に関わるのだぞ?」

 

「平気だろ。最悪、材木座の進退くらいにしか響かないし」

 

「確か人生は三歩進んで二歩下がるくらいが丁度良いとか、往年の名曲も謡っていたわね」

 

「ちょっとちょっとおぉぉお!?」

 

足踏みどころか後退しちゃうんですか。それだと中学生からやり直しって事に…。

イモ先輩改めイモ後輩になっちゃうのかな。後輩は要らないからそれだとただのイモですねー。

 

「冗談だ。つかあの人も話の流れ知ってるんだし、俺らが雁首揃えて何かしてりゃ、ある程度察してくれるっしょ」

 

確かに、この状況でわたし達の行動を見たら、その場を上手にあしらうくらいの気配りは期待していいひとだとは思います。思いますけど──

 

「別の先生が駆けつけてきたら、どうするんですか?」

 

「……………」

 

 

* * *

 

 

(本当に大丈夫かな…)

 

HRの時間も迫り、わたし達はそれぞれの教室に散っていた。

先輩はさぞ居心地の悪い思いをしているだろうと気が気ではなかったけれど、結衣先輩が無言で頷いて見せたのをみて、ここは彼女に任せる事にした。残念だけど、今のわたしに出来る事はこんなにも少ない。

 

教室のざわめきに耳を(そばだ)ててみれば、案の定、二年の『H先輩』に関する話題が飛び交っている。

あの写真がわたしの家の前で撮られたことに気付ける人はそう多くないと思うけれど、このところ彼の元に入り浸りになっていたわたしに話題が飛び火するのは時間の問題だ。元はわたしが原因だし、それ自体は構わないけれど、そうなった時に昨日みたいに冷静さを失う可能性があるのが困り物だった。

 

あのひとが関わると、わたしの心はこんなにも大きく揺れてしまう。

丹精込めて作り上げた仮面が、いとも簡単に剥がれ落ちる。

それはありのまま生きていく上では歓迎すべきこと。

──なんだけど、今この瞬間に限って言えば、極めて都合が悪かった。

 

そんな風に会話に注意を向けている中、ふと誰かの口からとある単語が聞こえてきて、わたしはピクリと肩を震わせた。

「職員会議」と。

 

血の気が引く思いで時計を仰ぐ。

そろそろHRは始まっているはずの時間なのに、まだ担任が入ってこない。

あんなビラが出回ったのだ。その可能性は充分考えられた。

噂が大人の耳に入れば、事実なんて関係無しに関係者は全員呼び出されてしまう。

実際、昨日の写真については後ろ暗い事は無いし、教師の方には説明が出来るだろう。けれど今度はその呼び出しの事実が一人歩きを始めるのではないだろうか。

どうしよう、職員室へ乗り込むべきか。

 

次第に大きくなるざわめきの中、一人で青い顔をしていると、入り口から担任がひょっこりやってきた。

 

「すまんすまん、ちょっと遅くなったけど始めるぞー」

 

(お、おどかさないでよー……)

 

そそくさと着席するクラスメイトを余所に、ぺたりと机に潰れたわたしは大きくため息をついたのだった。

 

 

* * *

 

 

「だからー、過去系と過去完了系の一番の違いはー、その状態に連続性があるかどうかで──」

 

例によって眠気を催す英語教師の呪文も、今日はいっさい耳に入ってこない。

それもそのはず、わたしは1限からこっち、一分おきに時計を睨みつけていた。

いい加減首も疲れてきた頃、とうとう約束の時間が迫ってきた。みんな、うまく授業を抜け出せているだろうか。

じゃ、ぼちぼちわたしも…。

 

「せんせー」

 

授業を中断してぴこっと手を上げたわたしに、胡乱に散っていた教室の空気がきゅっと集中する。

…うざっ。

いいから。みんな寝てていいから。

 

調子が悪いだとかの単純な仮病でも、女子が授業を抜け出す事はそれほど難しくない。

ただ、この状況でわたしが仮病を使ってしまうと、逆に本気に取られかねないのが厄介だった。仲良しの先輩の噂を書きたてられて凹んでいる、なんて思われてはそれこそ都合が悪い。あの写真を合成だとみんなに信じ込ませるためにも、堂々としている必要がある。

 

幸いにして、今のわたしには非常に心強い肩書きがあった。

 

「すみません、お昼前にちょっと業者のひととお会いする約束がありましてー」

 

「うん?…ああ、生徒会の…。はい、ご苦労様。いってらっしゃい」

 

「ありがとうございます」

 

まんまと脱出に成功し、そのまま階段ホールへ向うと、既に先輩達が集まっていた。

設置作業はほぼ終わっていて、ビラが大量に張られた掲示板は昨日の光景によく似ていた。

 

「すみません、遅くなりました」

 

「いろはちゃん」

 

ひらひらと手を振ってくる結衣先輩に手を振り返しながら、わたしは本日の主演が一人足りないことに気が付いた。

 

「あの、先輩は…?」

 

「それが先生に捕まっちゃって…」

 

うわぁ…。またおかしな理由つけて抜けようとしたのかなぁ…。

 

「いろはちゃん、授業抜けるの大丈夫だった?ホラ、ヒッキーの事もあるし…」

 

「ありがとうございます。平気ですよ、これでもいちおう生徒会長ですから。そのあたりはぬかりなく」

 

しかし、さすがは結衣先輩。

諸々の気持ちを含めたわたしの複雑な立ち位置を一番理解しておいでです。

 

「おー、さっすがぁ!あたしはねー、お腹が痛いって事にしてみた!」

 

元気良くVサインしてますけど、まさかそのノリで申告してませんよね…?

先輩が隅っこで頭を抱えてる姿が目に浮かぶなあ。

 

「私も恥ずかしながら体調不良という事になっているわ。仮病なんて初めて使ったけれど、案外疑われないものなのね」

 

いえ、雪ノ下先輩のテンションだとどう見ても女の子のアレなんで、絶対止められないと思います。

 

「ふふん、我なんて2限まるまるサボってまで──」

「あっ、ヒッキー!」

 

いつも以上に背を丸めた先輩が足音を忍ばせてこちらにやってくる。

肝心の人物が居なくて不安だったのはわたしだけではなかったようで、雪ノ下先輩もほっとした様子で彼を迎えた。

 

「遅かったわね。捕まったと聞いたけれど何をしたの?痴漢?八幡?」

 

「捕まったってそういう意味じゃないから。つか八幡は犯罪じゃねえよ語感良すぎて危うく見逃すとこだったわ」

 

「ゴメン、もしかしてあたしの後だから怪しまれちゃった…?」

 

「いや、どうせ誰も見てないだろうと思って後ろの扉からこっそり出たんだけど、戸部のバカが声掛けやがったんだよ…」

 

「…脱出の方法もアレですけど、戸部先輩はいっぺん(しつけ)が必要ですかね」

 

「……」

 

あれっ?なんだか先輩方がわたしを見る目の距離感が遠くなった気がしますけど、気のせいですよね?

 

「ところで八幡よ。平塚教諭がこの時間、そこの準備室に居るという保証はあるのだろうな?」

 

この掲示板と国語科の準備室とは目と鼻の先だ。

普通に考えれば、ここでの騒ぎに真っ先に反応する職員は、その部屋の人物だろう。

ただ、平塚先生がそこに居なかったり、別の先生が待機していたりすると、話がややこしくなる恐れがあった。

 

「あるかそんなもん。んなことまで知ってたら俺が先生のストーカーだろうが」

 

「え、ちょっと困るんですけど。我、お腹痛くなってきたかも…」

 

イモ先輩がへどもどし始めた時、お昼を告げるチャイムが校舎に鳴り響いた。

 

そしてそれは、購買組にとってのスタートの合図でもある。チャイムが鳴り終わるや否や、校舎の空気が動き始めたのが肌で分かった。不安な要素はあるけれど、舞台の幕は上がってしまったのだ。

後はもう、上手く行く事を祈るしかない。

 

「あっ…きた!誰かきたよっ!」

 

「では私達は向こうへ。比企谷くん、しっかりね」

 

「先輩、がんばってください!あとイモ先輩も」

 

「ッシャアア任せておけえええい!!」

 

後から騒ぎを聞きつけてやってくるという筋書きに沿って、わたし達は踊り場から一旦距離を置く。

 

「ぬおぉおおっ!何だこれはっ!凄い、凄すぎるっ!」

 

イモ先輩は、さっそく役者も真っ青のボリュームで声を上げ始めた。

協力してくれてるんだし、スルーするのも酷いかと思って声を掛けたんだけど…予想以上に効いたみたい。

かなり離れたのにここまで声が届いてくる。これなら客引きとしての効果は十分期待できそう。

 

「…うるせーのが居るな」

 

「C組だかD組だかのキモオタじゃん」

 

声を聞きつけた生徒がさっそく近づいてくる。

わたし達は遠目から固唾をのんでそれを見守った。

 

「なんか掲示板にめっちゃ貼られてるんだけど」

 

「え、また?」

 

プリントされているのはもちろん、出来立てほやほや、わたしプロデュースの作品だ。イモ先輩は『桃色八幡宮』だなんて勝手に命名していたけれど、確か八幡宮って学問の神様じゃなかったっけ。もうすぐ受験生のクセに、無謀っていうかなんていうか…。

つけられてしまった作品名はちょっとアレだけど、注目度の高さについてはたぶん心配しなくていいと思う。

同級生女子の水着姿を見られる男子なんて、彼女持ち以外にまず考えられない。おまけに被写体がこのラインナップと来れば、総武高(ウチ)の男子なら千円や二千円は迷わず出してしまうレベルのはず。

 

「何だ…グラビア…?」

 

「ちょ、これ会長ちゃんじゃね?!水着すっげ、超エロカワだし」

 

「このロングの子…国際科の雪ノ下さんのような…まさかな…」

 

「うわホントだ!あの人こういうのNGだと思ったのに」

 

「こっちの巨乳の子、なんだっけ?ほらF組の可愛いの。なにヶ浜だっけか」

 

「由比ヶ浜な。確かに似てる」

 

(………)

 

影で控える女性陣の顔色は渋い。当然だろう、好きでも無い男に肌を見せて悦ぶのは痴女だけだ。

わたしだってそこらの男子に水着姿を安売りするのは(はばか)られる。

てか会長ちゃんてなに?わたし影でそんな呼ばれ方してるの?この歳で男子からちゃん付けで呼ばれるのってちょお気持ち悪いんですけど…。

わたし達はもやもやした不快感にじっと耐えながら、ひたすら様子を観察し続けた。ばら撒くと言ってはいるけれど、実は一枚たりとも彼らに持ち帰らせない手はずになっているのだ。そこには感情的な配慮というより、もっと現実的な理由があった。

 

「…なあ、これって合成じゃねーの?」

 

「俺も思った。いくらなんでもあり得ない。キャストが豪華すぎ」

 

「ええ?本物だろ。ぜんぜん違和感ないし。あの子の太ももってこんな感じだぜ?」

 

「またテキトーなこと言って…。そんなんどこで見たんだよ」

 

「いや部活んとき。ウチの部の名物マネだもん。こないだ辞めちゃったけど…あーまた死にたくなってきたー」

 

「ざまぁ過ぎる。そのままシネ」

 

「うるせーよ」

 

た、確かに真夏は短パンとかで参加してたっけ…。当時は葉山先輩にアピールするのに忙しくて、他人の目とか気にしてなかったし。でもそういう目で見られてたかと思ったら、今となっては、とととトリハダが~~っ!

まずいなぁ、折角いい感じの流れだったのに。まさかわたしの太ももで真贋が判定されるだなんて──。

 

「つか真ん中のヤツ、また比企谷だわ。昨日の写真でもヤリチンって言われてた」

 

「うっそ!じゃあ俺の会長ちゃんがヤリチンの餌食に…!?」

 

「少なくともお前のじゃねえよ図々しいな。これが合成なんだから昨日のもそうだろ」

 

「だよなー、だと思ったわ。あーよかった。もしも事実だったらコイツ殺す」

 

「そういや一色って、最近こいつと付き合ってるって噂があるんだよなー」

 

「よし殺そう」

 

うーん、ここへきて例の偽装工作が裏目に…。

個人的にその噂にはもっと燃料注ぎたいんだけど、こうも予備軍が多いんじゃ先輩の命が危ういなぁ。

 

「材木座。お前何してくれてんの」

 

期は充分と見たのか、ここですぐ傍に控えていた先輩が彼らの前に姿を現した。

H.Hさんご本人の登場に、ビラを手にしていた生徒達もさすがに口を噤む。

待ち構えていたイモ先輩はまるで歌舞伎のような身振り手振りで──いやいや、やりすぎですよそれは…。

 

「来たな、比企谷八幡っ!貴様がっ、貴様ばかりがぁっ!うぉのれぇ口惜しやぁあ!」

 

ちらりと目配せをすると、先輩は大仰にため息をついてから言った。

 

「来たよ来ましたよ…。で、なんでこんなモン作ったわけ?」

 

「無論、貴様の評判を地の底へ落とす為よ!前のは些か不出来だったからな!我の本気を見よ、真に迫る超クオリティ、幻想写し(イマジン・クリエイター)を!」

 

無意味にキレよくポーズを決め、高らかに叫んだイモ先輩。その額には脂汗が浮かんでいる。

緊張のせいなのか太っているからなのかちょっとよく分からないけど、とりあえずキモい。

キモいけど、がんばれっ!

 

「うっわ…同級生のコラとか完全に末期だろ」

 

「ま、これなんて胸とかAVクラスだしな。繋ぎに違和感なくて無駄にスゲーけど」

 

「評論乙」

 

「俺はスレンダーの方が好みかも」

 

「お前は雪ノ下さんが好きなだけだろ」

 

「ちがっ…何言ってんだおまっ…ちっげーし!」

 

生徒達がビラを手に盛り上がっているのを見て、雪ノ下先輩が目配せした。

 

(そろそろ頃合ね。行きましょう)

 

女子チームのお仕事はこの場の流れを確定させる事だ。

颯爽と現場へ向う雪ノ下先輩に続いて、わたしも舞台袖から躍り出る。

 

「これはどういうことかしら」

 

棘のあるどころか、棘そのものと言った声を発する雪ノ下先輩。

基本的には演技なのだけれど、先ほどスレンダーと称された怒りも少なからず混じっていると思われる。

 

彼女の傍らには顔を真っ赤にして涙ぐんだ結衣先輩と、顔色を失っているわたし。

顔が強張っているのは単に成否を案じて緊張しているからなんだけど、日頃愛想を振りまいている分、わたしの真顔は緊迫感を生むと、以前誰かに指摘されたことがある。それなら見ようによっては怒りを堪えているように見えなくもないはずだよね。

結衣先輩のは…うーんこれは演技じゃなくてガチの涙目ですね。さっきのAV発言がトドメになったみたい。わたしだって嬢扱いされたらさすがにショックだしなー。心中お察しします…。

そんなわたし達を庇うように立つ雪ノ下先輩は、強烈な目力であたりを睥睨(へいげい)している。その様子はまるで視線のレーザーで王蟲をなぎ払う炎の巨人のよう。実際、彼女の視線が通った先の生徒はみなたじろいでいる。先輩に至っては別に睨まれてもいないのにたじろいでいた。

 

「貴方がやったの?」

 

打ち合わせ通り、彼女はビラを一枚剥ぎ取ってビシリと目の前の不審なコート男に突きつけた。

応じて「フゥハハハ、いかにもっ!」と大胆に笑うイモ先輩。けれど雪ノ下先輩と目が合った瞬間、見えない弾丸で額を撃たれたかのようにビクンと顔を背け、「わ、我がやりました…」と消え入るように呟いた。

 

「そう。貴方がやったのね。もしかして昨日の騒ぎも?」

 

詠うように断罪する雪ノ下先輩は、心なしか生き生きとしているようにも思える。それが演技にハマってのことなのか、それとも単に嗜虐心が刺激されたからなのかは定かではないけれど、自分が責められる役だったらと思うとぞっとする。

 

「そうだ、昨日のも、我のした事、だぁ、ふ、ふはは…」

 

魔王様の迫力に、イモ先輩の声はとうとう独り言レベルのボリュームになってしまった。

そこ!そこ重要ですから!ちゃんと言って!みんなに聞こえるように言って!(鬼)

そう念じていると、彼はこちらをみてビクンと一度震え、大きく息を吸って再び声を張り上げた。

 

「こ、これは凡庸な写真を贄に我が召還せし逸品よ!ちなみに盗撮ではないからもちろん罪に問われる(いわ)れもなぁ~いっ!」

 

「そう…。確かにそれなら盗撮とは言わないわね。ただ、少なくとも名誉毀損、猥褻物陳列、肖像権侵害にはあたると思うから、然るべき所に報告させてもらうわ。私は素人だからそれ以上は分からないし、詳しい罪状は警察なり検事なりに聞いて頂戴」

 

いやいや十分過ぎますから。その他に該当する罪状なんてあるんですか?

このままだとイモ先輩は停学、悪いと退学ってレベルですけど、ホントに大丈夫なんですかね…。

 

「え…マジで?ちょっと八幡、聞いてないんですけど!?」

 

あっバカ!うろたえちゃダメ!先輩のほう見ちゃダメー!

 

「こらこらー、何を騒いでいる?」

 

「平塚先生!」

 

わたし達のピンチを図ったかようなタイミングで、頼もしい助っ人が到着してくれた。

いかにも面倒だと言わんばかりの声が、ヒールを鳴らしつつこちらへ近づいてくる。

イモ先輩は女神でも迎えるかのような表情で──ってあなたは喜んでちゃダメでしょ。分かりますけど。

 

彼女は掲示板に張られたビラを手に取り、ぷっと小さく肩を震わせた。

そしてわたし達の顔を一通り眺め、最後に先輩の方を見て苦い笑みを零して見せる。

そのまま野次馬へと向き直って一歩足を進めると、先に生徒達の方が口を開いた。

 

「おっ、俺らは何もしてないですよ?」

 

「そうそう、通り掛かったらこいつらが揉めてて…」

 

「なるほど。ではその手に持っているものは何だね?」

 

「あ、いや違うんですよ、これはその辺に落ちてて。ちょっと拾ってみただけで──」

 

生徒達が怯んでいる隙に、どさくさで床に落ちてしまったビラを予定通り先輩が回収していく。物証が残っていると、平塚先生が彼を庇いきれない可能性があるからだ。

にしても、何で誰も先輩の行動に疑問を抱かないのだろう。あの目立たなさはもの凄い特技のような気がしてきた…。

おっと、感心している場合じゃない。わたしにも大事な役割があるんだった。

 

「では、そっちは生徒会が回収します」

 

「あ、あの、俺たちは別に…」

 

わたしと平塚先生を交互に見て、少し怯えた表情で手にしたビラを差し出す男子達。

基本的に彼らは利用されただけだ。ちょっと恥ずかしい思いもしたけれど、もちろん恨んだりなんてしていない。

 

「分かっている。君らを咎める理由はない。それを持ち出さない限りはな」

 

優しげに、しかししっかりと釘を刺す平塚先生。

どうやら説明しなくてもこっちの意図するところを完璧に汲み取っているよう。

あっ、どうして結婚できないのか納得しちゃった。これ、先輩が言ってた「教わろうとする女子」の逆パターンだ。デキる人ほどモテないなんて、女子の人生って難しすぎるよ…。

 

そんなデキる平塚先生に促され、生徒達は抵抗することなく手にしたビラを渡していく。自身のマヌケ面が印刷されたいくつものビラを回収するのは性質の悪い罰ゲームみたいなものだったけれど、わたしも必死に能面を維持し続けた。さっきまで話題にしていた本人に見咎められたバツの悪さからか、彼らは「これ酷いっすね!」なんて口にしながら、これ見よがしにビラを剥がすのを手伝い始めた。

そうして、時折誰かがこぼす残念そうなため息には目もくれず、わたしはせっせと全てのビラを回収したのだった。

 

持ち逃げなし。撮影の気配もなし。

 

これで写真拡散の芽は断てたと思う。概ねスムーズに事が運んだのもあって、最終的な目撃者は20人にも満たなかった。でも昨日の騒ぎを知っている生徒が居たのは大きい。あとは放って置いてもねずみ算式に噂が広まっていくことだろう。

 

やがて生徒たちは散り、掲示板は平時の姿へと戻っていた。

 

「比企谷、後で準備室に来なさい。面倒だが一応な」

 

「うす」

 

そう言って、彼女は特に誰を咎める事もせずこの場を立ち去った。先輩はあとで事情聴取を受けることになってしまったけれど、あの口ぶりなら心配は要らないと思う。なによりイモ先輩を呼ばなかった事が、状況を理解していることの証だから。

 

そのうち、誰ともなくあの部屋へと足を向けた。わたし達の間に言葉こそ無かったけれど、みんな開放感にうずうずしているように見えた。

全員が部屋に揃ったところで、雪ノ下先輩が後ろ手に扉に鍵をかけ、ほう…と長い息をつく。そんな彼女の安心した様子を見て、わたしもようやく肩の力を抜いた。

 

「あーもう!超ハズいし!誰がAVだし!あーもう!」

 

「あははー、大盛況でしたね、あの写真」

 

「一色さんの太ももの話が出た時は、どうなる事かと肝を冷やしたわ」

 

いやあ、わたしもアレには焦りました…。

ていうか、全体的に綱渡りだったような気がしますけど、結果オーライってことで。

 

「だ、大丈夫だったか?我、うまくやれてた?」

 

「ああ、必殺技の名前なら心配すんな。誰もパクリだなんて気づいてない」

 

「そんな事聞いとらんわぁ!つかパクリじゃないしオマージュだし!?……マジでバレてない?ほんと?」

 

この期に及んで心底どうでもいい事を気にするイモ先輩。

このひと器が大きいんだか小さいんだか。でも今回はすごくお世話になりました。

 

「材木座」

 

「なんだ」

 

「…あれだ。今度何か奢るわ」

 

「当然よ。超ギタでも頼んでくれよう」

 

きゅーん…!

 

──はっ!なに、今の?

先輩達の照れを隠し切れないぶっきらぼうなやりとり。

それを聞いた瞬間、わたしの中で変な音がした。

 

こ、これはまさか…。

噂に聞くBL萌え!?

わたし、腐っちゃったの?!

違う違う、わたしはノーマル!普通に男女の恋愛が一番!

 

珍しく笑顔を零す先輩の腕をとり、わたしは強引にその輪に飛び込んでいく。

 

「なりたけですか?わたしも行ってあげてもいいですよー?」

 

「え、別にいいけど。お前は自腹だからな?」

 

「ぶぅー。…なぁんて、最初からたかるつもりないですけどね♪」

 

「あっ、じゃああたしも!ゆきのんも行こ?みんなで打ち上げしようよ!」

 

「…そうね、たまにはいいかもね」

 

「でさでさ、そのあとパセラ行かない?カラオケとか」

 

「いいですね!先輩の歌とかちょお聞いてみたいですし」

 

「いやカラオケとか行かねーから。そもそもいつ行くかも決めてないし」

 

「えー、いいじゃないですかー。今週末、ヒマですよねー?」

 

「そーだよ、ゆきのんの歌も聞けるよ?」

 

「私もカラオケに行くとまでは言っていないのだけど…」

 

「ヒッキー、パセラでハニトー奢ってくれるってゆったじゃん!」

 

「うぐ……そ、それはほら、別の機会というか…」

 

「むっ、何ですかそれ。ちょっと詳しく聞かせてくださいよー!」

 

「由比ヶ浜さん、怪しい相手から物を貰っては駄目だと教わらなかったの?」

 

「おいちょっと待て。その怪しい相手って俺の事ですか」

 

「わたしは怪しくても気にしませんよ?なのでわたしにもハニトー奢ってください♪」

 

「フォローの仕方がおかしい?!怪しいほうを否定してあげて!あとヒッキーはデレデレしないの!」

 

「怪しい呼ばわりされてデレデレするとか趣味が特殊すぎるだろ…」

 

 

 

 

 

 

「あの、我、ほんとに行ってもいいの……?」

 




材木座の呼称は中二先輩ってのが多いようですが、シリアスシーンで中二呼ばわりすると少し都合が悪いような気がして、無理やりにでも愛称?をつけてみました。
それなのに、結局シリアス向きじゃないところに落ち着いてしまった…。


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■18話 その発想はなかった

パラで話が動くと脳内の伏線がこんがらがって大変です。



「うー、二度手間だぁ…」

 

その日の放課後。

わたしは生徒会室から教室へ向かって、ひとり陽の傾いた廊下を歩いていた。

体調も回復し、差し迫った問題も解決。なので溜まりつつあった仕事を消化しにお仕事部屋へとやってきたんだけど、教室に忘れ物をしてしまったのだ。

 

「あぅ。やっぱ貼り替えよっかなぁ…」

 

歩きながら眺めていたスマホの画面を軽く指先で小突く。画面のほうは頑張って光を放っているようだけど、窓から差してきた西日が急に写り込んだのだ。キレイな色合いだとは思うけど、今はもっと見ていたいものがある。手首をひねってあれこれ角度を変えていると、今度はバカみたいに顔の緩んだ女子の顔が映り込んだ。

 

「うわっ、キモ…」

 

言うまでもなく、目の前にあるのはわたし自身の顔だ。さっきまで延々見ていたもののせいで、随分ステキな表情になっていたみたい。てか、こんな風に突然自分の顔にピントが合うと、何してても興が削がれちゃうよね…。

 

この薄っぺらいシートはなぜか発色と映り込み防止の両立が出来ないらしい。それでいて値段はケーキセットくらいするんだからどうにも納得いかない。貼り替えにも慎重になるというものだ。

 

「…えへへ」

 

けれどそんな些細な文句も、写真のことを考えればすぐにどこかへ行ってしまった。写真というのはもちろん昨晩撮ったあれのこと。ただしこっちは無修正版──なんだか違う意味に聞こえるなぁ──えっと…そう、加工前の生写真だ。

結衣先輩が記念にとデータを欲しがり、検討の末に女子にのみ配布が認められることになった。わたしは先輩にも持っててもらおうと思ったんだけど、顔を真っ赤にした二人に全力で阻止されてしまったのだ。女って見られて美しくなるものだと思うんだけどなー。可哀想だから、ハブられさんにはあとで見映えのいい自撮りでも送ってあげようかな。

 

貰ったデータはみんなで撮った写真としても十分価値のある物だったけど、わたしはちゃっかり別名でツーショット版を作っていた。トリミング機能さまありがとうございます!これは今後の交渉で有意義に使わせてもらいますね♪

 

「くふふ…真ん中でよかった…」

 

い、いいよね?ツーショットくらい。

こんなのフツーだよフツー。うん、フツーだ。

ま、シチュエーションはぜんぜんフツーじゃないけど…。

 

そりゃね、昨日のことは、自分でもかなり…ううん、確実にやりすぎたと思う。

けど、わたしのせいで傷つけられた先輩に、どうしてもお詫びとお礼がしたかったから。

だからすっごく恥ずかしかったけど、後悔はしてないつもり。

 

「…わたしの柔肌、先輩が思ってるほど安売りしてないんですからね…?」

 

とは言え、全部が全部、殊勝な心尽くしだったというワケでもない。女子の肌の感触を知らないであろう彼に、わたしの感触を一番に刻んでしまおうという(しん)の目的もあった。

肉を切らせて骨を断とうとしていたのは、結衣先輩じゃなくてこのわたしだったのです!ふははー。

 

「…………はぁ~」

 

まったく、それで宿敵に先手を譲ってちゃ世話がない。あんまり贅沢を覚えさせるとキリがないというのに、いきなりあんな極上品を…ってそれはペットの話だったっけ。

それに結衣先輩も結衣先輩だ。悪ノリついでの冗談だったのに、まさかホントにやるだなんて。

 

「てか、あのひと強敵過ぎでしょ…」

 

わたしは当初、まず警戒すべきは雪ノ下先輩のほうだと思っていた。

スペック的に不利なのは分かっていたけれど、結衣先輩の行動原理は理解できる範囲のものだったし、先輩の性格的に落ち着きのある清楚タイプが好みなのでは、と思ったからだ。

実際、彼女は誰も入っていけないような独特の会話で二人の世界を作り、その中で大きなリードを広げているように見える。けれどその反面、会話だけで満足してしまっているような気配があった。

 

そしてどう見ても日和見主義だったはずの結衣先輩が、困った事にここへ来てかなり攻めの覚悟を決めているのである。なんで分かるかって、わたしも同じようなスタンスだから。ふとした拍子にちょくちょく目が合ったりするものだから、やりにくいことこの上ない。

自分でけしかけておいてなんだけど、ただでさえ入りかけていた彼女のスイッチを後ろから後押ししてしまったかのような、若干の後悔があった。先輩の鼻血だって、単にタイミングの問題で、別にわたしだけに反応したって保証はないわけだし。

 

…なんか考えてたらどんどん不安になってきたなぁ。

 

「もう少し探りでも入れとこっかな」

本当なら牽制攻撃くらいするべきなんだろうけど、今はまだ完全不利の状態だし、下手したら反撃でやられかねないのは百も承知。だからまずは偵察なのだ。

昨日できなかった恋バナをするくらいの体で、軽くお話ししてみよう。彼女の本気度合いによっては、わたしも悠長にしてはいられない。

 

「よし、じゃあさっそく…」

 

ちっとも見飽きることのない写真をいったん引っ込めて、わたしはすぐに結衣先輩へ電話をかけた。

数回のコール音の後、『やっはろー!』と明るい声が聞こえてくる。

 

『いろはちゃん、どしたの?』

 

「結衣先輩、こんにちはです。いきなりですけどこれからデートしませんか?」

 

『えっ?いいよ!…でもどゆこと?』

 

オッケーしてから聞くとか可愛すぎですか!

わたしが先輩だったらこのままデートしつつ勢いで告白までいっちゃいそう。

 

「えーと、ちょっとご相談というか、お話とかしたいかなーって思いまして」

 

『ん…。ヒッキーのこと?』

 

「えっ?!」

 

『違った?』

 

「…えっと…いえ…」

『そっか。ならゆきのんにはあたしから言っておくね。校門でいい?』

 

「あ、はい、じゃ、じゃあそこで…」

え?え?

なになに?なんですかこれ?

一瞬油断したら、あっという間に主導権とられてるんですけど。

このままボロ負けの展開しか見えないんですけどー!?

 

『じゃ、すぐ行くから──』

「さ、30分!」

 

と、とりあえず、このままペースを譲ってしまうとヤバそう!

 

「…30分後でお願いします。ご、ごめんなさい、まだちょっと仕事がありまして…」

 

すみません、結衣先輩のことまだナメてたみたいです。

ちょっと時間下さい。作戦タイムぷりーず。

 

わたしからこういう話がくるのを、彼女は既に想定していたみたい。いまのは間違いなくそういう反応だ。

どうも彼女は恋愛方面においては上級者と考えた方が良さそう。ううん、女子高生ならこのくらいの感度が普通なのかもしれない。先輩や雪ノ下先輩を基準に考えようとする方が間違いだった。わたしの女子力、低すぎ……!?

 

『おっけー!じゃ、ヒッキーにはいろはちゃんからヨロシク!』

 

「あっ…」

 

気付いても時既に遅く、画面には「通話終了」の文字が踊っていた。

 

「まいったなー、先輩になんて言おう…」

 

塩を送られたのか、はたまた無自覚のキラーパスか。

忘れていたわたしもわたしだけど、結衣先輩と帰るのなら"彼氏"にはごめんなさいしなければならない。本当に申し訳ないと思っている時にお約束のネタが使えるわけもなく、わたしは頭を抱えた。

 

「電話だとテンパっちゃうかもだし…」

 

先輩のアドレスを呼び出してメーラーを立ち上げる。数えるほどしかない彼からのメールは全てが保護フォルダにしまってあった。これまでのやりとりから自分の言い回しを確認し、そのペースを引き継いでぺちぺちとメールを打っていく。

 

「甘えて見せるのと甘えるのって、勝手が違うんだよね…」

 

えーと……『今日は男子には聞かせられないトークをしたいので』…これはちょっと意味深すぎるかなぁ。

…あっ、そうだ!『昨日の今日でわたしと帰るとか、先輩には刺激が強すぎで──

 

「一色さん!」

 

(…あ゛?)

 

悩ましくも楽しい作文タイムを邪魔され、苛立ちがノドまで出掛かった。

もちろん顔にはこれっぽっちも漏らしたりはしない。一色いろは、特技は鉄面皮です☆

よそ行きモードにシフトしてから顔を上げると、いつの間にやら教室にたどり着いていたようで、平べったい笑みを浮かべた男子が扉の前に立っていた。

 

(げっ…コイツ……)

 

昨日──じゃなくてもう一昨日のことか、お昼に教室で声を掛けてきた俺様くん。そういえばパニクってて忘れてたけど、最初のビラをわざわざ持ってきたのも彼だったっけ。待ち構えていたかのようにわたしの道を塞いでいるのは何のつもりだろう。

あ、まって、ちょっと思い出したかも。たしか名前に山がついてたような…?

や、やま…山田…?山元…?いや山元はE組のチャラいのだっけ。

 

「これ凄いね!めっちゃ水着似合ってるし」

 

「……えっと」

 

山田くん(仮)が興奮気味に差し出したのは、朝から飽きるほど見てきた例のビラ。

うっわー、そういうの本人に直接持ってくる?

ここまで空気読めないと逆に人生楽しそうだなぁ。

 

──ん?ちょっとまって。

 

何でそれ持ってるの?

全部回収したはずなのに。

 

「そ、それ、どこから持ってきたの?」

 

「え?掲示板だけど。昨日と同じところだよ」

 

「そうなんだ?悪いけどそれ、昨日と一緒で生徒会で回収することになってるんだー」

 

やや早口になったわたしを見て彼は軽く首を傾げたけれど、特に抵抗もなくそれを渡してきた。

 

「そっか。生徒がこんなことしてる写真なんて残ってたらヤバいか」

 

「ありがと。まあ、そんなカンジかな」

 

愛想笑いで用紙を受け取ると、そのまま教室へと逃げ込んで、後ろ手にぴしゃりと扉を閉めた。

何となく息を殺して様子を伺っていたけれど、どうやら彼が追いかけてくる気配はない。

「やれやれだよ…」と小さくぼやき、わたしは肩を落とした。

おっかしいなぁ。あの場の全員から没収したつもりだったんだけど…見逃しちゃってた?

他にも持ってるひとがいたらどーしよ…。

 

教室の中に視線をやると、他に生徒の姿はないようだった。

 

部活をしている人にとってはまだ早く、帰宅部にとっては遅いという、中途半端な時間だからだろうか。暖房では拭えない寒々とした気配が漂っている。

わたしはふと、三日前から空いたままの席へと視線をやった。

席の主は相変わらずお休みを続けている。これくらい長く休むと担任から何かしらありそうなものなんだけど、「体調不良」の一言で済まされているのが少し不気味で──

 

(って、まだひと居るんじゃん…ビックリした)

 

よく見たら誰か一人、机に突っ伏して寝ているひとが居た。一瞬身体が緊張したけれど、それが女の子だと分かって安堵の息を吐く。

 

(男子にビクつくだなんて、わたしも随分と落ちぶれたものですにゃー)

 

心の中でおどけつつ、自分の机に掛けてあったバッグを開いた。

中にはぎっしりと紙束が詰まっている。シュレッダーに掛けるためにわたしが引き取った、例のビラだ。忘れ物というのはこれのこと。シュレッダーを好きなだけ使えるのも生徒会長の特権の一つなのです。わーすごいねー(棒)

 

(ちゃんと数えておけば良かった…)

 

剥がすのを手伝ってくれた男子達の中には乱暴に破いてしまったひとも居たりして、正確な枚数なんて今となっては分からない。これが本当に最後の一枚である事を願いつつ、わたしはさっき回収したものを無造作に突っ込んだ。

 

「よっ…って重っ!」

 

そのままバッグを担ぎあげると、机の脇に紙袋がちょこんと置かれているのが目に入った。

 

(うえー、()()野良プレゼント?)

 

せっかく担いだ荷物を下ろし、わたしは眉をしかめた。

実はこういう一方的な贈り物は初めてじゃない。さすがに数え切れないほどではないけれど、見つけて動揺しない程度には慣れていた。むしろこのパターンは靴箱を漁られてないだけスマートな部類だろう。

なんであれ、見知らぬ相手からのプレゼントなんて気持ち悪いだけだし、ちょっと前まではそのまま中身も見ないで落し物コーナーに届けていた。

けれど、残念ながら最近はそういうわけにも行かなくなってしまった。落し物の管理もまた、生徒会のお仕事なのだ。

 

(どうせ後で見ることになるんだよね…)

 

結局は自分で処理しなければならないのなら、不安要素は早めに確定させておくに限る。

大きなため息と共に、わたしは紙袋を手に取ったのだった。

 

 

 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

いつものように部室へ顔を出すと、俺を迎えたのは紅茶を淹れる雪ノ下の背中だけだった。

 

西日の眩しい部室は黄昏に染まり、人の輪郭を(おぼろ)げにさせる。女子が一人きりの部屋に当たり前のように立ち入っているのに、抵抗が感じられない。彼女と俺の境界線もまた、夕焼けに薄れて揺らいでいるのだろうか。

 

「取り調べの方は済んだのかしら」

 

手を止めずに雪ノ下が問う。挨拶さえないその態度は一見すると失礼だが、とあるラインを超えるとかえって気恥ずかしい類のものだ。

何て言うか、まあ、こんなのも悪くはないな。

 

「まあな。形だけっつーか、事後承諾っつーか」

 

俺を準備室に呼びつけた平塚先生は、写真を見て「私だってあと十年──いや五年若ければ」とか「いいなー青春。いいなー」とか、何かとコメントに困る言葉を列挙し、俺にたっぷりと嫌な汗をかかせてきた。けれど、しでかした理由だとかやり方の是非についての小言みたいな事は、一切口にしなかった。

繰り出される痛発言に耐えかねた俺がなぜ叱責しないのかと理由を問うと、彼女は「これが良い写真だからかな」とだけ答えた。その言葉の意味するところが一色カントクのセンスに対する賞賛でないことくらいは俺にもわかる。撮影会の事を思い出して顔を赤くした俺を、大人っぽい笑顔で眺めていたのが印象的だった。

 

「そいや、由比ヶ浜は?」

 

「今日は一色さんと一緒に帰るって連絡があったわ。残念だったわね」

 

「いや、別に期待とかしてないから」

 

「そう?」

 

この中で一色と波長が近いのは間違いなく由比ヶ浜だし、二人ならそれほど心配する必要も無いだろう。別の女子がいる時に手を出したストーカーの話ってのは聞いた事も無いしな。

つか、対策って最初からこれで良かったんじゃ…。

俺ってば働き損してるよね?むしろ働くほど酷くなるとかワープア以下だよね?

 

「一色さんから何か聞いていないの?」

 

自分の携帯を見ると、確かに着信を知らせるランプが点滅していた。差出人の欄に一色の名前を見て警戒心を強める。あいつは大抵ろくなメールを送ってこないからな。

 

──────────────────────────────

From  : 一色 いろは

Subject: 愛しのハニー♥より

昨日の今日でわたしと帰るとか、先輩には刺激が強すぎですよね?

 

結衣先輩とお話ししたい事があるので、今日は二人で帰ります。

急な話でごめんなさい。

──────────────────────────────

 

なんか、後半は中の人が交代したのかってくらい文体が変わっているのが気になるが…。

どうやら俺は、一時的に悠々自適なぼっちライフを取り戻したらしかった。

 

一色と由比ヶ浜だけでなければ出来ない話。想像も付かないが、きっと驚くほど他愛のない話に違いない。

もしくは百合的な何かだろうか。それはそれでビックリだな。攻守については大変興味深く、しかし観測してみるまで分からない難題だ。これがかの有名なシュレディンガーの受け(ネコ)というやつか。

 

雪ノ下と二人きりの空間の緊張感。久しぶりに味わったそれは入り口でも感じた通り、以前ほど刺々しくは感じられなかった。変わらないと思っていたこいつとの関係も、日々少しずつ変化しているのだろう。決して俺のM化が進行しているわけではない。

 

「…あの時、貴方がやけに気にしていたのはこの事だったのね」

 

ふいに、雪ノ下が呟くように漏らした。

 

「ごめんなさい。一色さんの家から登校するというシチュエーションに気を取られて、すっかり失念していたわ。盗撮の可能性くらい、考えて然るべきだったのに」

 

昨日の朝、一色の家を出たときの事だ。

確かにあの時、俺は不審な人物が居ないかと思って辺りを警戒していた。けれど今思えば、あんな露骨にキョロキョロしてたんじゃ、仮に居たとしても逃げられてしまったことだろう。下手したら善意の第三者から俺が通報されちゃうまである。

 

「どんだけ気をつけても、結果はあのザマだったからな…」

 

「毎日のように警戒や対策を必要としている今の状況が異常なのよ」

 

「一色の家の玄関周り、だいたいの角度は確認したつもりだった。例の写真を撮るために必要な方向もだ。けど、少なくとも人は居なかった。つまり考えられる可能性は二つ」

 

「遠隔式の小型カメラ。あと一つは…望遠かしら」

 

「だな。けど角度から見て望遠の線はナシと考えていい。たぶん遠隔の方だろ」

 

「そんなに簡単に手に入るものなの?」

 

「わからんけど、どっちにしても言えることは、思ったよりヤバいって事くらいだ」

 

高校生でここまで(こじ)れるもんかね。

一色もまたとんでもないヤツに目を付けられたもんだ。

 

「まさかとは思うけれど、家の中にまで何か仕掛けられていたりは…」

 

「保障はできない。けどまだそっちは無いと思う。つか、思いたい」

 

そこまでいくと、隠しカメラがどうというより、知らないうちに進入されている恐怖の方が大きいような気がする。隠している桃色資料の配置が少し変わっていることに気が付いちゃった時の絶望感とでも言おうか。男の俺でこれほどなのだから、女子にとっては死活問題だろう。

 

「そうなると、この部屋の会話も盗聴されている可能性を疑った方がいいのかしら」

 

「どうだか…けど安全地帯扱いはしない方がいいんじゃねえの?声なんて機械なしでも丸聞こえだからな…」

 

「お昼の時は気が緩んで騒いでしまったけれど…少し迂闊だったわね」

 

「そっちは平気だろ。どうせ犯人にだけは俺たちの小細工だってバレてるんだし」

 

とは言いつつも、個人的に盗み聞きの可能性はかなり低いと思っている。以前、聞き耳を立ているところを俺達に気付かれているからだ。相手の顔こそ確認できなかったが、この部屋は警戒されていると思わせることくらいは出来たんじゃないだろうか。

盗聴に関しても、今のところは心配要らないだろう。俺が"偽者"であることを知っていれば、ああも分かりやすく嫉妬を向けてくるはずが無いからだ。

 

「今回の一件は材木座にスポイルされる形になった。これであいつにタゲが移るか、それとも…」

 

「貴方に一層執着する可能性はないの?」

 

「それなら話は早いんだけどな」

 

「これ以上は危険だわ。やり方を変えるべきよ」

 

「現に一色から狙いが逸れ始めてる。こっちの思惑通りだろ」

 

「それはそうだけど…せめて相手に直接手を出させるよう仕向けるというのは止めましょう。見たところ、相手は理性の枷がかなり緩んできてる。この先何をしてくるか──」

 

コンコンッ

 

珍しく前のめりになっていた雪ノ下を押し留めるように、ノックの音が響いた。

このリズムは――って、そんなんで分かってしまった自分が嫌だ。おお気持ち悪い。

 

「比企谷、ちょっと話せないか」

 

顔を出したのは予想通り葉山隼人。

ノックの仕方もそこはかとなくシャレオツなんだよなーこいつ。

目で入室を促してみたが、ヤツは薄い笑みを湛えたまま戸口から動こうとしない。ここでは話したくないという事だろうか。

雪ノ下も口を引き結んだままだ。

 

「わかった」

 

俺は腹を括るとイスから重い腰を上げた。

俺が付いてくるのを確認すると、葉山は三歩ほど先を歩き出した。

そのまま微妙な距離を保ちつつ、言葉も無いままに男二人は歩みを続ける。

 

「…どこまでいくんだ」

 

「うーん、あんまり考えてなかったな。屋上なんてどうだろう?」

 

「いや、俺に聞かれても…」

 

やがて階段ホールに差し掛かると、上階から覚えのある美脚がとことこ降りてくるのが見えた。

 

いや、俺の識別能力に偏りがあるのは否定しないよ?けど、この脚は特別っていうか。

ほら、感触まで知っているくらいだから、すぐに区別が付いてしまうのも致し方ないっていうかね。

…駄目だこれ、正気を疑われそうな言い訳だわ。SAN値!ピンチ!

 

「あれ、いろは?」

 

はい。要するに、降りてきたのは一色さんです。

 

…言わないで下さい。俺も悔しいんです。

貴重な記憶容量を、いろはすの太ももにごっそりと食いつぶされているというこの事実…。

つか、まだ校舎内に居たんだな。これから由比ヶ浜と合流するところだろうか。

 

「あっ、葉山先輩…」

 

「どうかしたのか?顔色が優れないようだけど」

 

「いえ、その…」

 

先行していた葉山を先に視界に捉えた一色は、その後ろに潜伏する隠密艦比企谷の存在に気づかなかったらしい。我ながらなんと強力なパッシブスキルだろうか。

既に挨拶メール(?)を貰っていた事もあって、自分から「俺も居るんだけど」とは言い出しにくい。なんかほら、気まずくない?こういうのって。帰る宣言したあとで忘れ物を取りに戻ってきた時みたいな据わりの悪さがさ。

 

「俺でよければ話くらいは聞けるよ?」

 

「……そうですね、ちょっとご意見頂けますか?」

 

ねえそこのイケメン、あなた確か俺に話があって来たんですよね?

いや俺なんぞよりいろはすの顔色が気になるのは分かるけどさ。ついでに言えばそうしてあげて欲しいって気持ちもわりとあるんだけどさ。

 

「実はさっき──って、先輩?!な、なんで…?」

 

「お、おう…一応さっきから居たんだけどな…」

 

やっと気付いたか。このまま僕だけがいない街ごっこしてても良かったんだけど、気付かないまま青春劇場とか始まりかけてたし、流石に可哀想じゃん?俺が。

ちなみにこっちの無名先輩のハートは鋼鉄の被膜で覆われたりしてないから、そう露骨に区別されると簡単にブレイクしちゃいますよ?

 

「いろは?どうかしたのか?」

 

「あ、えと、その……」

 

意を決して開いた口をうまく閉じられない、といった様子の一色は、俺と葉山を交互に見てうろたえている。

我ながらお邪魔虫にも程があるだろ。これでフラグでもへし折ってたりしたら、また彼女に対する負債が増えてしまう。今でも消費者金融ばりの取り立てに喘いでいる最中なのに…。

 

(わり)ぃ、俺は外すから──」

「いえ何でもなかったです!お邪魔しましたー!」

 

俺が立ち去ろうとする前にぺこっと勢い良く頭を下げ、一色は階下へと駆けていく。

やめて!返済のチャンスを!待ってください一色様!

必死の祈りが届いたのか、彼女は階段の途中ではたと立ち止まってこちらを振り向いた。

 

「先輩、今日はごめんなさいです。また明日、お願いしますね!」

 

「え?お、おぉ…」

 

最後に見せた笑顔にあざといと突っ込む事も出来ず、俺は一色の背中を見送った。

 

残された男達の間には、何とも言えない気まずい空気が漂っている。

一色のヤツ、やっぱヤキモチを焼かせるのが狙いなんだろうか。この状況でそんなことしたら、行き場を失った葉山のモヤモヤは残った俺への怒りにシフトするんじゃないの?

 

「…えーと、今のはなんつーか…。そういうアレとかじゃなくてだな…」

 

しどろもどろになっている俺を見て、しかし葉山は嫌味を感じさせない笑いを見せた。

 

「知ってるよ。ボディガードを引き受けているんだろう?」

 

「ボディガード…なのか?まあ、そうか。知ってたのか…」

 

もうそのへんの状況まで察知しているのか。まずいな、偽装とは言えあまりダラダラやっていると、一色の学内でのポジションを揺るがしかねない。実際、一番知られたくないであろう相手に早くも知られてしまっている。

すまんいろはす。なるだけフォローはしてみるけど期待しないでね。

 

「なんか、ほんとすまん…話の邪魔したな」

 

「少なくとも君が想像してるような話じゃないと思うけど…でも気にはなるな…」

 

一色とは逆に俺達は階段を上り、そのまま屋上へと足を運んだ。

基本的に人通りはないし、誰か来たとしても精々が居場所を無くした材木座くらいだろう。

確かに話をするには良い場所なのかもしれない。

ここに来るのは、前に相模を追ってきた時以来だろうか。

いや、もう一回あったな。あれは恥ずかしいからノーカンでお願いします。

 

重たい音を立てる鉄の扉を開けると、大きな太陽がちょうど町並みに迫っているところだった。

俺はこの冬の夕日ってやつが嫌いじゃない。そそくさと家に帰ろうとするところなんて特に親近感が持てる。

 

「悪いな、引っ張り回して」

 

夕日を背に佇むイケメンと俺。無駄にいいロケーションだけど、コイツに好感度パラメータとかないからね。海老名さんの腐臭がしてくる前に終わらせてしまおう。

 

「戸部の事か?」

 

「それもある。でももっと根本的な話になるかな」

 

葉山の表情は珍しく真剣だ。いや、珍しいと言ってもそれは日常の葉山ありきの話であって、俺と話す非日常においては大体がこんな感じばかりのような気もする。俺だってガチでやりあうのが好きって訳じゃないのに。

 

「最初は少し自信がなかった。だから勘ぐるようでいい気はしなかったけど、少し調べたよ。何人かの話を聞いて、ようやく確信が持てた」

 

流石はみんなの葉山隼人。校内に張った情報網の密度は某国の公安並みである。

戸部というインプットからきちんとゴールにたどり着けるか少しだけ不安だったが、どうやら杞憂だったみたいだな。

 

「いろはは男にしつこく付きまとわれて困っている。そうだろ?」

 

「…ああ」

 

「俺との事以外にも、何か悩み事があるようだとは思っていたんだ。でも彼女は既に頼る先を決めているようだったから…。だから俺が口を出す必要はないと思ってた。けど、昨日今日と君のやり方を見ていて、考えが変わったよ」

 

こちらを正面から見据えた葉山の目は真っ直ぐで、ある意味では雪ノ下のそれに似ていた。

それを受け止める事が出来ず、しかし逃げるのも(しゃく)に感じた俺は、気だるげに頭を掻いてみせる。

 

「比企谷、やっぱり君とは相容れない。そのやり方は許容できない」

 

部室に来たときの顔を見たときからだいたい予想はしていたが、やっぱこうなるんだな…。

そもそも戸部経由で焚きつけたのは俺だし、葉山の行動を止める道理はない。けれどもこうも面と向かって否定されると、俺の中の屁理屈の虫が黙っていない。

 

「別にお前に許して欲しいとは思ってない。それに、それしか思いつかないだけだ。間違ってようと何だろうと、出来ることをしてる」

 

「それが許されるのは、問題が自分一人で閉じている場合だけじゃないのか」

 

ああ、全くもってその通り。だからこれまでの対策に共通する真の目的は、一色の抱える問題を「俺に向かって閉じる」ことだった。今回はちょっとばかり材木座も巻き込んでしまう形にこそなったが、それも例の写真を見た犯人のヘイトが俺一人に向かうという確信があればこその選択である。

 

「もっと簡単な方法があるだろう。まず最初に試すべき手段が」

 

「馬鹿だから分からないんだわ。良かったら教えてくれ」

 

「本人と話をすればいい」

 

──おぉう。その発想はなかった。

やっぱり人種が違うと根本からズレてくるな。

 

「いろはのクラスで騒ぎを起こしたっていう中原、あいつはサッカー部(ウチ)の部員なんだ。ひっかき回す前に、まずはきちんと話をした方がいい」

 

「そうか、元はそっち繋がりか…」

 

汗まみれで走り回ってるところにあの笑顔でタオルでも差し出されたりしたら、そりゃあ日照った男子なんぞカトンボのようにポンポン撃墜されてしまうだろう。

俺なんて彼女がスイッチを切り替える瞬間をこの目で視認までしていながら、直撃もらって瀕死の無様を度々晒しているくらいだ。

 

ほんの少し…ほんの少しだけ、中原とやらに同情心が芽生えてしまった。

 

しかし、そうなると部活を辞めたのはやはり早計だったのではないだろうか。元々足は遠のいていたのだし、籍だけでも置いておいた方が良かったのでは。一色が自分から離れていくことに焦りを感じてヤツがヒートアップしても不思議ではない。

 

「話すって、何をだよ」

 

「まずは事実の確認かな。もし本当に迷惑を掛けているなら止めるように説得するさ。でも、ちょっとした行き違いがあっただけかも知れないだろう?」

 

「ちょっとした、ねえ…」

 

「君の考え方のおかげでうまく回った事も確かにある。ただ今回に関しては、俺の方が彼のことをよく知ってるんだ。練習も一生懸命やってるし、根は良いヤツなんだよ」

 

お前に言わせればウドの大木も童貞風見鶏も、みんなまとめて「良いヤツ」だろう。その信用度たるや女子の「可愛い」とどっこいどっこいである。

そもそも、体育会系だから良いヤツという考え方が何の根拠もない希望的観測だ。何なら古代ローマ時代からグチられ続けている。「健全な精神は(以下略)」の真実はかなり有名なトリビアだ。それをこのインテリが知らないとは思えないんだが。

 

「別に(ハナ)っから無実と信じ切ってるわけじゃない。実際、クラスで騒ぎを起こしたのは事実らしいからな。ただ、俺は人を信じたいだけなんだ」

 

「善人が後付けで悪行を覚えていくってんなら、"良いヤツ"の集まりが 人間を悪に染めていることになるな。"良くないヤツ"の集まりからはどんな悪党が生まれるんだか」

 

「別に性善説を信奉してるわけじゃないさ。それに君は人とつるんだりしないだろ?」

 

ここでまさかの論破!

そうだった、ぼっちは群れないから他人に影響なんて与えないんだった。つか、しっかり俺を後者に分類してくれやがってますね。合ってるけどね。

 

「なにも難しいことじゃない。俺もそういう風にしか出来ないって話だよ」

 

そうか。そういう事であれば、同じ理屈で動いている俺がウダウダ言うのもおかしな話だ。ベクトルは真逆だけどな。

 

それに正直なところ、葉山であれば可能かも、という気持ちもなくはないのだ。

普通に考えればここで説得という選択肢は正気を疑うが、それはあくまで俺にとっての普通でしかない。きっと固有スキル『ザ・ゾーン』の圏内において、奇跡は日常的に起こり得るのだろう。「俺が間違ってたぜ!」と青春の汗を流し大団円──なんて可能性も、ゼロではないのかもしれない。

 

「参考までに聞いとく。話してみてクロだったらどうする」

 

「そうだな…負け戦を続けさせるのは見ていて忍びないし、男同士やけ食いにでも連れて行くかな」

 

お前はもう死んでいるってヤツですか。

…確かにそうなんだろうけど、コイツにだけは言われたくないんじゃない?

恋敵に慰められるとかどんな罰ゲームだよ。爽やかそうに見えて、その実かなりエグい処刑方法だな。

 

「ま、それで解決するんならこっちも楽できるわ」

 

繰り返すようだが、俺は自分の方法が正しいとは思っていない。葉山の言うやり方には度肝を抜かれた思いだが、コイツから見た俺の行動もやはり同じように見えているんじゃないだろうか。俺に出来ない事をやろうとしているのだから、やらせてみればいいのだ。

 

というか、話の流れでつい噛み付いてしまったものの、これこそ俺が期待したアクションではないか。

葉山が失敗するケース──それは犯人を糾弾して追い詰めるということに他ならない。つまり「猟犬に咆えさせる」という状況そのものだ。それで焦った犯人が動くのなら、その時こそこっちの出番だろう。

そうなれば何かしら穏やかでない事態になるのは想像に難くないし、出来れば葉山のターンで終わって欲しいというのは偽りない本音なのだった。

 

「…彼女に懐かれるのは迷惑か?」

 

脈絡なく投げかけられた言葉。

それが一色の事を言っているのだと気付き、少しだけ俺の眉が動いた。

 

「…お前にしちゃ随分な物言いだな」

 

そんな、犬猫じゃあるまいし。

──待てよ、猫耳いろはすはありだな、いや超ある。ついでにあざと過ぎてイラッと来る可能性もある。

 

「そういう反応をするって事は、噛ませ犬以外の目もあるのかな」

 

なに?葉山にとってはあの子ってわんわんなの?

俺には全然そうは見えないよ?言うことさっぱり聞かないし、気まぐれだし。

つかさっきから何が言いたいんだコイツ。

 

「正直なところ──」

 

こちらを向き直った葉山の目は、あまり見たことのない感情を浮かべていた。生々しい、と言うべきだろうか。

 

「俺としては、()()さえなびかなければ、どう転んでもそれほど許せないという事はないんだ」

 

「分かんねーよ。誰に誰がなびくって?」

 

「誰の事だと思う?」

 

うぜぇ…。お前の周りの女子なんて星の数ほどいるだろうが。俺の周りなんて小町とおかんと戸塚の三択だよ。

あ、おかんは女子枠じゃないから実質二択だったわ。

葉山が気にしているのが誰であろうと、そんなものに興味はない。

ただ、その言い方だと──

 

「一色を指していないって事だけは、まぁ分かった」

 

「何だか残念がっているように見えるな」

 

「別に。あんなでも意外と一途っぽいし、さぞかし凹むだろうと思っただけだ」

 

「はは、それはないんじゃないかな」

 

楽しそうに笑いを漏らすその姿には、少々カチンときた。

そりゃコイツにも都合はあるだろうし、きちんと返事だってした。それをいつまでも引きずっていろとは言わない。

俺だって何も見ていなければ、次の日には他の男子を侍らせている彼女の姿を想像していただろう。

 

けど、見てしまった。

報われなかった悲しみに涙を流し、それを隠して笑おうとする姿を。

知らなきゃ良かったとすら思える、夢の国の舞台裏をだ。

 

「あいつだって落ち込む事くらいあんだろ」

 

俺が一色の魅力を滔々(とうとう)と語って聞かせても仕方がないし、そもそも付き合いだって葉山の方が長いだろう。結局、フォローしてるのかディスってるのかよく分からない表現しか出来なかった。

 

「……特別、か。本当にそうだったのかもな…」

 

「…は?」

 

なんでお前まで特別とか言っちゃってるの?流行ってるんですかそれ。

 

「何でもないよ。こっちの話だ」

 

遠く町並みに視線をやる葉山は、驚いたような、眩しいものを見るような目をしていた。

やがてこちらへ意識を戻すと、話はそれだけと言わんばかりに軽く手を挙げ、来た道と戻っていく。

 

「葉山。余計な世話だろうが、何するにしても──」

「いろはに迷惑は掛けないさ。君に言われるまでもない」

 

背中だけで言葉を返すその姿は嫉妬するほど決まっている。

 

俺はひとつ息をつき、フェンスの向こう側に顔を向けた。

 

 

 

冬の太陽は、もうとっくに沈んでいた。

 




次回『IKEMEN vs Stalker』をお楽しみに!(嘘


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■19話 女の子という生き物

ヒロインはいろはすです。
π先輩ではありません。


<<--- Side Iroha --->>

 

 

せっかく取り付けた30分という猶予はあっという間に過ぎ去り、わたしは慌てて待ち合わせ場所へと向かった。

 

夕焼けに染まる校門の前には結衣先輩が一人ぽつんと佇んでいる。

寒さを紛らわすためか、彼女はその場で小さくピョンピョン跳ねていてた。合わせて揺れる膨らみに通り過ぎる男子の視線が注がれているんだけど…気がついてないんだろうなー、あれは。

先輩が見ていない時の彼女は、いつもこんな風に隙だらけなのかもしれない。

 

駆け寄るわたしに気がついた結衣先輩は、ぱっと笑顔を浮かべてこちらに手を振ってみせた。

 

「お待たせしました、結衣先輩。急にワガママ言ってごめんなさい」

 

「んーん、それは平気だけど…なんかあったの?顔色悪くない?」

 

結衣先輩が鋭いのか、それともわたしがよっぽど酷い顔をしているのか。

そういえばさっき先輩にも会ったんだった。情けないとこ見られちゃったかなぁ。

 

「…歩きながらでいいですか?」

 

二人連れ立って校門を後にする。

相変わらずむき出しのままの手が冷たくて、彼のポケットに突っ込んだ時の事を思い出した。

本当なら心だけでも温まるような記憶だけど、今日のわたしにとっては別の出来事を思い起こすきっかけでしかない。

「ヒッキーの話…とは別っぽいね」

 

こちらの顔色を慎重にうかがっていた結衣先輩は、すぐにわたしの気持ちが恋愛事に向いていないことを看破した。これだけテンションが低ければ、当然かもしれない。

 

「はい…。本当はそっちの話をするつもりだったんですが…またちょっとトラブってまして」

 

「また?!」

 

「ごめんなさい、ご迷惑ばかり…」

 

「あっ、違う違う!相手に怒ってるの!例の男子?ホントしつこいねー」

 

「まあ、犯人が誰かは分からないんですけどね…」

 

とくに証拠はないけど、きっとそうなんだとは思う。それに、別の人が犯人だったなら、むしろそっちの方が怖い気がする。

 

「…で、今度は何してきたの?」

 

「えと…さっき教室で──」

 

徐々に暗くなっていく地面を見つめながら、わたしはさっきの出来事を結衣先輩に打ち明けた。

 

 

* * *

 

 

「さてさて、何が出てくるやら…」

 

紙袋に手を突っ込むと、ふわっとした暖かな手触りが返ってきた。

その柔らかい感触にとりあえず安心し、思い切って中のものを掴み、取り出してみる。

 

「……………………ひっ!!」

 

ガタンッ!

 

中身を見た瞬間は、それの意味するところが理解できなかった。

そして理解した瞬間、わたしは紙袋から反射的に手を離していた。

勢い余って机にぶつけてしまったけれど、痛みの感覚が追いついてこない。

 

「ふえっ!?」

 

突然の物音に、教室でひとり居眠りをしていた女の子がビクリと顔を上げた。

わたしの思考はショックのあまりほぼ停止していたけれど、鍛え上げた外面スキルが無意識のうちにその場のフォローを続ける。

 

「ご、ごめーん!虫かと思ったら毛玉だったぁ…」

 

「…あははー、この時期って超毛玉るよね」

 

「そ、そだねー。起こしちゃってごめんねー?」

 

「ううん、そろそろ帰るし」

 

彼女はカバンを取ると、ふらふらと危なっかしい足取りで教室から出て行き、わたしはひとりきりになった。

訪れた静けさに反比例して、心臓の音がどんどん大きくなる。

遅れてやってきた手の痛みが、ズキズキと同じリズムを刻んでいる。

 

どうして…?

 

やだ、怖い…。

 

気持ちわるいっ…!

 

 

紙袋には、無くしたはずの手袋が入っていた。

 

 

* * *

 

 

「ひいぃぃっ!ヤバっ!怖っ!いやマジ怖いから!」

 

話を聞いた結衣先輩はなんだか面白いくらい怖がっていた。

彼女の反応を見て、話しているうちにまた荒れてきた気持ちをなんとか落ち着かせる。

そうだよね、取り乱すのが普通だよね。

 

「その…手袋だけどさ、触っても平気だった?…ヌチャッてしなかった…?」

「う…イヤな擬音つけないでくださいよー。幸いというか、それはなかったです。逆にクリーニングされたみたいなカンジになってて…」

 

「それはそれでイヤだー!」

 

「はい…何されたか分かったものじゃないです。分かりたくもないですけど」

 

どっちにしても、一度見知らぬ他人の手に渡ったものを身に着けられるほど図太くはない。

どんなに見た目が綺麗になっていても、恐ろしくてまともに触れなかった。

 

「それで、その手袋はどうしたの?」

 

「ゴミ置き場に捨ててきましたけど…まずかったですかね?」

 

「んー、どうだろ。あたしでもそうしたとは思うけど、ヒッキーならどうしたかなって思って。言ってないんだよね?」

 

「はい…。さすがにちょっと…。心理的にダメージ大きいっていうか…」

 

最初は男子が相手だから言いたくないのだと考えた。

けれどさっき偶然葉山先輩に会って、すぐ相談してみようという発想が浮かんだ時点で、言いたくない理由はそれではない事に気が付いた。

 

知られたくない。

先輩にだけは、こんなの知られたくない。

上手く理由が見つけられないけれど、とにかくそう思った。

それに──

 

「ていうか、昨日の今日でまたこんなの、さすがの先輩でも付き合いきれないですよー。あはは…」

 

毎日毎日、わたしはどれだけ迷惑をかけたら気が済むのだろう。これ以上頼って呆れられるのが、何よりも怖かった。

 

「そんなことないよ!」

 

語気も荒く、結衣先輩は大きく見開いた目でこちらを見据えていた。

 

「ヒッキーは投げ出したりしないよ!ぜったい!」

 

「…結衣先輩は、信じてるんですね」

 

わたしも先輩の事を特別に思っているし、生徒会でさんざんお世話になっている手前、とても信用できるひとだとは思っている。けれど、今の自分は全く笑えないレベルの面倒を彼にふっかけている。わたしが逆の立場だったら、ただの後輩にそこまで付き合ってやれる自信が無い。

彼女はどうしてそこまで強く言い切れるのか、純粋に不思議だった。その口ぶりから、何か明確な根拠があるようにすら感じた。

 

「──うちね、犬飼ってるんだ。サブレっていうんだけど、これが超かわいいの」

 

わたしの表情から疑問を察したらしい結衣先輩は、遠い目を空に向けて、白い息を吐き出した。

 

「え?」

 

「毎朝お散歩に連れてくの。あたし運動苦手だから、いいダイエットにもなるし。あ、ミニチュアダックスなんだけどね。脚とか超短いくせに、走るとすっごい速いの」

 

急に話が変わって戸惑うわたしを置いて、彼女は続ける。

聞いているうちに、それがとても大事な話なのだという気配を感じ、わたしは口を噤んだ。

 

「春頃にね、散歩中にサブレが急に道路に飛び出しちゃったんだ。リードちゃんと持ってなかったあたしが悪いんだけど。そこに運悪く車も来ちゃって…」

 

「……」

 

結衣先輩の口ぶりから痛ましい展開を想像してしまい、居た堪れない気持ちになる。

けれど彼女は晴れやかな表情で、想像とは全く別の、そして今に繋がる結論を語った。

 

「でもヒッキーが助けてくれたの。全然知らない人の、しかも犬を庇って。自分は骨折までしちゃって」

 

懐かしそうに笑う彼女の言葉。

そこには分かりすぎるくらいの感情が乗っかっていた。

 

ああ、そうか。

馴れ初めを語っているのだ、彼女は。

本人にそのつもりは無かったのかもしれないけれど、顔を見ればそんなのすぐに分かる。

 

「その後もまあ、色々あったんだけど…えと、何が言いたいかっていうとー」

 

少しだけ心に刺さるものがあったけれど、それでも聞かずにはいられなかった。

 

「──それで好きになっちゃったんですね」

 

「うえっ!?いや、そのっ、そういう話はしてないしっ!なんでそうなるの!?」

 

「違うんですか?」

 

「違うよ?その頃はそこまで好きじゃなかったし!」

 

「じゃあ今は大好きってことですね」

 

「やっ、その…違くて!ず、ずるいよ!今のナシ、もっかい!」

 

「いやーわたし、もうお腹一杯ですし、もっかいはちょっと…」

 

「ふぎーーっ!…じゃ、じゃあ次いろはちゃんの番っ!はいどうぞ!」

 

「わかりました。では葉山先輩と会った時の話を──」

「むきーーっ!ずるいずるいーっ!」

 

赤くなって大騒ぎする結衣先輩を見ていたら、未だに葉山先輩を隠れ蓑にしている自分が情けなくなってきた。

どうして昨日聞かれたとき、言ってしまわなかったんだろう。ヤキモチを焼いて欲しいのは先輩、あなたです、と。

 

彼女はこの話を他人にするのは初めてのことだと言う。

確かに、もし話して聞かされたとして、このエピソードはきっと殆どの人間が信じないだろう。

もしくはこの可愛らしい結衣先輩に対しての下心があっての行動と言われるかもしれない。

 

「あたしが飼い主だってこと、ヒッキー知らなかったんだけどね」

 

結果的にはこうしてお近づきにこそなったものの、一時はその事故が原因で険悪になりかけたのだとか。

どうしてそうなったのかは分からないけれど、あの先輩のすることなら何があってもおかしくはないかな、とだけ思った。

この話をなぜわたしに、なんてヤボなことは聞かない。

彼の本質に少しでも触れられたわたしなら、その話を信じられると思ってくれたからだろう。

 

「…ごめんなさい」

 

自然と言葉が漏れていた。

 

「わたしの為にしてくれたお話なのに、ちょっと妬いちゃいました」

 

こうして謝っても、抱いてしまった感情は消えてなくならない。

せめて罪悪感を減らしたくて、わたしは正直に気持ちを伝えた。

 

「…あたしこそゴメン。凹んでる時にする話じゃなかったかも。なんか脱線しちゃったね」

 

えへへ、と髪を弄りながら苦笑い。

それに、と彼女は続けた。

 

「あたしもいろはちゃんに嫉妬したこと、何度かあるし。おあいこかな」

 

「え…?そんなことあったんですか?」

 

わたしが羨ましがられるようなことが、今まであっただろうか。

強いて言うならスキンシップくらいだろうけど、折角のアドバンテージも昨日の一件ですっかり消えてしまったような…。

 

「ま、まーそれはいいじゃん。それよりヒッキーに相談するって話!」

 

「…はい、そうでしたね」

 

話すつもりがないことを無理に掘り返すのも悪いので、彼女の強引な話題転換に合わせる事にした。

 

「先輩が途中でわたしを見放すかも、というのは失言でした。もう言いません。ただ、先輩にだけは知られたくないんです」

 

「……」

 

「すみません、うまく説明できなくて…。でも、どうしてもイヤなんです!」

 

先輩を信用していないわけじゃない。そんな失礼な事を今更思ったりはしない。

信用していて、信用されたくて、なのに言いたくない。

よくわからない。矛盾している。頭がもやもやする。

 

「そっか…。そだよね。気持ち、分かるよ」

 

「でも、わたしには、わかりません…」

 

縋るような目で彼女を見つめた。

自分自身も上手く言葉にできない事を、彼女は分かると言う。

 

「ヒッキーに()()は知られたくないって、いま自分でゆったじゃん。もう使わない物でもさ、その…なんかされたかもとか思ったら、その、汚された――みたいな気分になるんじゃない?あたしだったらそうだし」

 

口ごもりつつ説明してみせた結衣先輩は、はにかみながらこう言った。

 

「そんなの、友達には言えても、好きな人には言えないよ」

 

「あ…」

 

彼女の言葉は、すとんとわたしの胸に落ちた。

 

例え相手の身勝手な妄想でも、一方的に汚されたような気持ちになった。

先輩との距離がまだ近いとは言えないから、余計にそう思うのかもしれない。

ぎゅっと抱きしめて頭を撫でてもらえたら。

そうしたらすぐに安心できるのに。

 

ひどくしっくりくる説明。

わたし以上にわたしをきちんと説明して見せた彼女に、けれど素直に頷くのも悔しかった。

 

「…そうかもしれません」

 

「うん、そうだ」

 

彼女は優しげな声で一言、わたしの気弱な返事を肯定してみせたのだった。

 

 

* * *

 

 

「話、蒸し返すようでゴメンなんだけど…」

 

二人の間のぎこちない雰囲気が抜けたあたりで、結衣先輩が口を開いた。

 

「手袋の件ね。やっぱなんかの形では教えといた方が良いと思う。いろはちゃんだけで抱えてるの、良くないっていうか。それにわりと大事な手がかりのような気もするし…」

 

「あ、そうですよね…。すみません、その、せっかくの手掛かりを捨てちゃって」

 

「あー…そ、それはしょうがないんじゃん?キモイし」

 

うげーっと舌を出す結衣先輩の変顔に笑っていると、彼女はスマホを取り出して言った。

 

「ねえ、ゆきのんに相談しない?ヒッキーに教えるべきかどうか。なんならいいカンジにぼかしてくれるかもだし」

 

「そうですね、雪ノ下先輩なら…」

 

こんな話から程よく必要な部分だけを上手く切り出すのは、この恋愛脳な二人では難しいかもしれない。

同意を示すと、結衣先輩はすぐにスマホを耳に当てた。

 

「じゃ、ちょっと待っててね──あ、ゆきのん?あたしー!」

 

「え!今すぐですか?!」

 

止める間もなく、既に会話は始まっていた。

結衣先輩、わたしより即断即決ですね…。

 

「…え!ちがうよ、詐欺じゃないし!結衣だってば!……え?やだー、あはは。ビックリした!」

 

オレオレ詐欺扱いされたみたい。

雪ノ下先輩、わたしにはまだ冗談とかあんまり言ってくれないんだよね…。

 

「そこにヒッキーいる?……うん……え、隼人くん?なんで……うん……そうなんだー」

 

葉山先輩…そう言えばさっき一緒にいたっけ。

もしかしてあのまま部室には戻っていないのかな。

さっきは余裕がなくて気が付かなかったけど、そもそもあの二人はあんなところで何をしていたんだろう。

 

「──じゃ、公園過ぎたトコのTully'sで。…うん、ありがとゆきのん。待ってるね!」

 

今さらだけど、こんな雑な呼び出しであの雪ノ下先輩を引っ張り出せるんだから、結衣先輩も実は相当すごい人なんだよね。そしてその二人や生徒会長のわたしをこうも振り回す先輩は、もっとすごいのかも。

そんなことを考えていると、電話を終えた結衣先輩が公園の方を指差した。

 

「来てくれるって。とりあえず移動しよっか」

 

「わざわざありがとうございます。でも、部活はいいんですか?」

 

「なんかヒッキーもどっか行っちゃったし、あたし達もこんなだし、今日はお開きにするみたい」

 

「…どっか?」

 

さっき葉山先輩って言っていたし、事情を聞いていたように見えたけど…どうして隠すんだろう。

もしかして変な誤解をしてるんじゃ…。自分を巡って男子二人が争っているだとか思いませんから。わたしの脳内お花畑はそこまで満開じゃないですから。

 

「うん、どこだろー、サボリかな?いろはちゃんと一緒に帰れなくてスネてるのかも!」

 

「そ、そーかもですねー!」

 

互いの会話の端々に微妙な違和感を残しつつ、わたし達は雪ノ下先輩との待ち合わせ場所へと向ったのだった。

 

 

* * *

 

 

「それは災難だったわね」

 

すっかり日が落ちて暗くなってしまったけれど、時間的にはそれほど遅くもない。

社会人が出入りするより少し前。わたし達学生が入り浸る喫茶店の中は、どこか学園祭のような空気に満ちていた。

ミルクティーのカップをコースターに置くと、雪ノ下先輩は俯いて長い睫毛をふるわせた。

 

「当然、比企谷くんにも伝えておくべきだと思うけれど…それが難しいから私は今ここに居る──そういう理解でいいのかしら」

 

「えっと…どうしてもってことでしたら我慢しますけど、出来るだけ内緒にしたいです」

 

「その理由を聞いても?」

 

「だってフツーに恥ずいじゃん。いろはちゃんの使ってこすったりしてたら大変でしょ!」

 

「結衣先輩、さっきまでの配慮はどこへ?!あと声おっきいですから…!」

 

あとその言い方もひどいですから!既に大変なカンジになっちゃってますから!

わたし達が三人揃ってたら、ただでさえ目立つっていうのに。ほら、向こうの席の男子とかこっちガン見してますよ!てか見んな!しっしっ。

 

「ゆきのんも女の子なんだからわかるでしょ?」

 

「そうね…。私物紛失に関して言えば、かなりの回数は。当時は同性のやっかみだとばかり思っていたのだけど。今考えると、そういう用途で男子に盗まれた物もあったのかも知れないわ」

 

「普通に経験者だった…。そして超平気そう…」

 

「雪ノ下先輩、マジ揺るぎないですね…」

 

「だって、たかがモノでしょう?しかも一色さんはその手袋を使わずにそのまま廃棄した。なら、何をそんなに気にしているのか分からないわ。別に貴女の手が直接汚されたという訳でもないのだし」

 

「そ、それはそうなんですけど…」

 

「誰の頭の中でどんな事になっていようと、現実の貴女はその相手の自由にはならない。貴女の全ては貴女だけのものよ。だから、貴女が自らの意志で捧げたものにしか価値は無い。少なくとも、私はそういう風に考えているの。写真だろうが私物だろうが、好きにすればいいのよ」

 

言い切って、彼女はまたカップを口に運んだ。

 

「ゆきのん、こないだの写真、超イヤがってたじゃん」

 

「…けほっ!あ、あれは事情が違うわ。水着だったし、身体の線も全部見えてしまっていたし…」

 

「あ、やっぱりおっぱいはNGなんですねー」

 

「おかしいわね。さっきから慰めの言葉を選んでいるのに、お返しに喧嘩を売られているような気がするのだけど」

 

「じょ、冗談ですよー」

 

「でもさ、自らの意志で捧げるとか、なんかロマンチックじゃない?」

 

「雪ノ下先輩って、けっこう乙女なトコありますよね」

 

「想い人に知られたくないと泣きついてきた人にだけは言われたくないわ」

 

「なっ、泣いてないですし!……あっ」

 

そこまでノリで喋っていて、ふと誘導尋問に掛かった事に気が付いた。

雪ノ下先輩はくすりと笑いを零している。

やっぱり彼女も気が付いていたらしい。

もう隠しているのが馬鹿らしくなるくらい、わたしの秘め事は各方面にバレバレだった。

 

「…雪ノ下先輩は、いいんですか?」

 

この期に及んで言葉を濁しながら、わたしは尋ねた。

よくない、と言われたら、どうするつもりだろう。

問われた彼女はカップに視線を落したまま、小さな声で答えた。

 

「…確かに、私は彼に特別な感情を抱いているのかもしれない。でも、それがどんな感情かが分からないの。綺麗なものではなくて、酷く淀んだ何かかもしれない。だから貴女達に対して抱くこの感情も、単純な嫉妬かどうか自信がないのよ」

 

他人から見れば一目瞭然でも、本人にとっては難しい問題だ。

ついさっき結衣先輩と似たような問答をしたわたしの立場からすれば、あまり偉そうなことも言えないのかも。

それでも他人の恋路に口を挟みたくなるのが女の子という生き物なのだった。

 

「ゆきのん、難しく考えすぎ」

 

「そうですよ。このひといいなーってフィーリングに正直に生きるべきです」

 

「…貴女達はもう少し慎重になった方が良いような気もするわね。それに万が一私がそうなったとして、貴女達には不利益しかないんじゃない?」

 

「その時はその時ですねー」

「なってから考える!」

 

「…全く」

 

異口同音に言葉を返すわたし達を見て、濃い苦笑いを浮かべる雪ノ下先輩。

 

「少し、羨ましいわ…」

 

小さく漏らした言葉は、紅茶に落した一滴のミルクのように、店の喧騒の中に消えたのだった。

 

 

* * *

 

 

家に帰ると消し忘れていたエアコンが健気に仕事を続けていて、暖かい空気に迎えられた。

 

リビングには一枚の書置き。

いつもの事だし、寂しいとも恨めしいとも思わない。ただ、働きすぎを心配するだけだった。

冷蔵庫を漁ってみると、野菜と鶏肉がまずまず。

お雑炊か、もしくは煮込みラーメンにするか。

ラーメンはまた先輩と食べたいな。お雑炊にしよう。

 

食材を取り出しながら、考える。

先輩に迷惑ばかり掛けて、何も恩を返せずにいるこの現状はどうしたものだろうか。今のわたしは間違いなくメガトン級に重い女だ。昼間はああいったものの、限度というものもある。出来る事なら少しでも軽くしておきたい。

 

「お礼にデート…は、わたしがしたいことだしなぁ…」

 

やはりここは切り札を投入すべきかも。スマホを片手にブラウザを立ち上げる。

『彼氏 お弁当』と入れてから、ちょっと首をひねる。折角なので『ラブラブ』を足してみよう。

 

「うひー、はずかし…死ねる…」

 

自分で入れた検索ワードを見返して、三回くらい悶死しそうになりつつ──

表示された内容とにらめっこして、わたしでも実現できそうなレシピを探していく。

 

いわゆる肉じゃがみたいな王道で攻めたいんだけど、あれは味付けにセンスが問われる。

食べられる程度には作れても、それじゃあわたしが納得できない。まあまあ、ではダメなのだ。

今回は洋食にしておいたほうが無難だろうか。

先輩、ブロッコリーとか嫌いそう…食べられるかなぁ。

 

実際のところ、わたしはあまり料理が得意というワケでもない。もちろん人並み以上には出来るつもりだけど、わたしにとってそれは「得意」とは言えないのだ。他人に自信を持って食べさせ、「美味しいですよね?」と聞けるレベル。今のところ、それを満たしているのはお菓子作りくらい。

手先は器用な方だし、本気を出せばそこそこいいセンまで行けるとは思う。そこまでしていないのは単にこれまであまり興味がわかなかったからだ。既に自分が食べられる程度の料理は作れるし、これまでに誰かに食べさせたいと言う気持ちになったことがなかった。

 

「そんなことして、どうして嬉しいんだろ…わかんないなー」

 

わかんないけど、想像するとだらしなく口元が緩む。

考えただけでこんなに楽しいのだから、味を褒められたら感極まって泣いてしまうかもしれない。

 

「いやいや、それはちょっとキモいでしょ…」

 

調べ物の片手間で用意していた一人用のミニ土鍋には、いつしか湯気の立つ晩御飯が出来上がっていた。

仕上げに溶き卵。隠し味にほんだしを少々。

 

「…うん、おっけー、90点。いただきまーす」

 

レンゲですくったアツアツのお雑炊に、ひたすらふうふうと息を吹きかける。

味は問題ない。

でも少し、心が冷たい。

この前風邪の時に食べた雪ノ下先輩の作ったのは、もっと美味しかったかな。

 

考え事をしつつ、冷蔵庫の有り合せで自炊できる程度には、わたしの料理技術はこなれている。家庭環境がこんな状況なので、仕方無しに身についたものだ。

そのおかげであの結衣先輩から確実に勝ち点をもぎ取れるのだから、人生というのは何が吉と転ぶか分からない。

勝負をするならここで出来るだけ稼いでおかなくては。好みさえ間違えなければ、おいしく完食してもらえる物が作れるはず。

 

単純なわたしの脳内は、(きた)るお弁当デーの悩みであっという間に埋め尽くされていった。

 

 

* * *

 

 

Piririri──Piririri──

 

食事を終えて料理本を開いていると、耳慣れない電子音がわたしの部屋に響き渡った。

妄想を止めて音源に目をやる。ベッドの上に放ってあったスマホからだ…けど、この音はなんだろう…?

アドレス帳にあるほとんどの相手は細かくカテゴリ分けしてあって、それぞれに着信音を設定してある。大抵は楽曲だから、味気ない電子音というのはまず滅多に聞くことがない。

画面を見てみると、やっぱり知らない電話番号が表示されていた。

 

「おっ!これもしかして、先輩の?」

 

メールアドレスは教えてもらったけれど、なぜか頑なに電話番号は教えてくれなかった。あまり電話が好きじゃないし、用件はメールでも伝えられると彼は言っていたけれど、わたしとしてはメールなんて基本的に口実でしかないから、何とか手にいれる方法は無いものかと頭をひねっていたのだった。

何の用事かは分からないけど、もしや棚ぼた?

堂々と番号をゲットするチャンス到来?

 

「も、もしもしー?」

 

少し上擦った声で電話を受ける。

 

『……………』

 

「…もしもーし」

 

だんだんと興奮が冷め、頭に冷ややかな血が巡る。

女の子との電話で緊張しているのかとも思ったけれど、どうやらそういう雰囲気ではなかった。

イタズラ電話だ。

これも初めての経験じゃない。

 

『……………』

 

「~~~ッ!」

 

苛立ちを隠さず、わたしは通話終了アイコンを指で何度も突っついた。

 

受けた番号に対して手早く着信拒否の設定をする。前に散々悩まされた時にやったことがあったので、手順はきっちり覚えていた。こんな幼稚な手にいちいち付き合っていられない。

 

「喜んで出ちゃったじゃんか!もぉ~っ!」

 

スマホをクッションに向かって投げつけ、そのままわたしも顔を埋めた。

 

Piririri──Piririri──

 

「…えっ?!」

 

さっき確かに設定したはずだ。

久しぶりだったけど、手順は間違っていないはず。

表示されているのは、さっきとは違う番号だった。

もしかして、今度こそ先輩から?

淡い期待を込めて、通話アイコンに触れる。

 

「………」

 

わたしの方からは口を開かない。

 

『……………』

 

「………っ!」

 

すぐさま電話を切る。

着信拒否の設定をする。

手が震えてうまく操作できない。

 

Piririri──Piririri──

 

「ひっ!」

 

もたもたしている間に再びの着信。

慌てた拍子に思わず取り落としてしまった。

 

「あ…」

 

カバー、本体、バッテリー。

床に落ちた勢いで、スマホは見事に三つに分離した。

しばらく呆然としていたけれど、そのうち笑いがこみ上げてきた。

 

「…は、あはははっ、あはははっ!」

 

そういえば、前に先輩が言ってたっけ。

わたしのスマホはユルユルだとか。ものすごく失礼な表現だったから気になってたけど…。

そっか、コレのことだったのかー。

 

「……はぁー」

 

よくわからないけど、とりあえずはもう大丈夫。

さすがにこの状態じゃあ イタズラ電話だって掛かりようが──

RURURURU... RURURURU...

 

「………ウソでしょ」

 

一階から電話機の音。

 

ママは今夜も仕事だ。誰も出てはくれない。

どうしよう。誰かに相談しようにも、スマホが使えるようになったらまたきっと…。

ううん、今は家の電話が鳴っているんだから平気のはず。

むしろ今しかない!

 

手早く分離したパーツをはめ直して電源を入れる。

起動のロゴマークがもどかしい。

家の電話はずっと鳴り続けている。

はやく、はやくっ!

 

「結衣先輩…ううん、こういう時は雪ノ下先輩の方が──ってそっちは番号知らないんだった!」

 

ようやく立ち上がったスマホを叩くように操作して、アドレス帳から連絡先を探す。

 

Piririri──Piririri──

 

「きゃあっ!」

 

すかさずスマホに着信が入る。

 

RURURURU... RURURURU...

 

家の電話の方も、未だ飽きもせずに鳴り続けている。

なにがなんだかわかんない。

相手は一人じゃないってことなの?

 

「も、もうやだ……」

 

またスマホを投げ出したくなったけれど、昼間の雪ノ下先輩の毅然とした態度を思い出した。

泣いてばかりじゃ何も解決しない。

貴重な高校生活を、いつまでもこんな相手に浪費させられるなんて真っ平だ。

 

大きく息を吸う。

ぱん、と頬を両手で張る。

 

画面を睨んで、それから通話アイコンにゆっくりと手を伸ばした。

 

 




例によって一話が長くなりすぎたので、分割しました。
つまり次話も短いながらほぼ完成してるわけです。やったね!
活動報告に書いた件は、次の次の次くらいになるかと思います。


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■20話 混ぜるな危険

日間ランクイン記念!サプライズ投稿~☆
…なんて、たまたま仕上げ直前まで出来てただけなんですけども。
ご感想や評価、ありがとうございます。最近の一番の楽しみです。


 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

『じゃあ、後は任せるから。きちんとケアしてあげてね。おやすみなさい』

 

「ちょっと待て、ケアったってどう──くそ、あんにゃろ切りやがった…」

 

突然掛かってきたかと思ったら、一方的に打ち切られたその電話。

軽い舌打ちと共に、俺は廊下から暖かい自室へと身を滑り込ませた。

屋内とはいえ空気は十分過ぎるほどに冷たかった。萎縮した身体が暖かな室温によって緩んでいく感覚がこそばゆい。

 

「まーたなんか揉めごと?」

 

こちらも見ずに呆れた声を上げたのは、Tシャツ一枚の女の子。彼女は俺のベッドを占拠しつつ少年マンガを読み漁っている。露出したその健康的な肌は季節感を多分に損なっていた。今は真冬なんだけどな…。

こいつのせいで、俺は電話をするためにわざわざ自分の部屋からくそ寒い廊下へ退出するという、意味の分からない憂き目に遭ったのだ。

 

「…小町ちゃん、せめてなんか履きなさい」

 

誰あろう、この我が物顔の娘っ子こそ、比企谷王国のプリンセスにして愛妹の小町である。

いや、この状況で愛妹とか言うと世間様から要らぬ誤解を招くかもしれない。ここは敢えて愚妹と呼ばせて貰おう。

 

「安心してください、履いてますよ♪」

 

彼女がきゅっと細い腰をひねると、だぼっとしたTシャツの裾からペパーミントの布地が覗いた。

やっぱ愚妹で間違いないわ。とても年頃の娘さんのすることではない。

 

ショーツに包まれた女の子のお尻。

客観的にも正しい表現であり、それだけ聞くと大変魅力に溢れる響きと言える。

しかし真に遺憾ながらここに俺の主観が入った場合、目の前のそれは妹の半ケツとしか認識されない。

妹でなければもっと違う目で見られたのだろうか。いや妹でなければそもそもお目にする機会もない。これは可愛い妹を持つ兄を悩ませる、永遠のパラドックスなのだ。

 

「パンツだけじゃねーか。パジャマ着ろっつの。風邪引いたら看病すんの面倒だろ」

 

「そこで知らないって言わないとこ、ホントお兄ちゃんは小町のこと大好きだよねー」

 

一応は持ってきたらしいパジャマのボトムスが床に落っこちている。仕方ないから拾い上げてパステルカラーの眩しいおケツに被せてやった。

 

「ヤダーお風呂上がり暑いー。ほら小町、お兄ちゃんと違ってまだ若いから。もー代謝とか良すぎてコマっちゃう。ていっ」

 

こいつめ、フリフリっとシリを器用に振って払い落としやがった。なんだそれ可愛いな。間違っても外でやるんじゃないぞ、萌え死に多数でテロ事件になっちゃうからな。

 

「小町だけにってか」

 

「そそ、小町だけにー」

 

重ねて断っておくが、繰り返し尻に言及しているからと言って、この奔放な娘さんの身体に対する興味なんてものは微塵もない。

お兄ちゃんが可愛い妹の尻ダンスを見て思うことと言ったら「カンチョーかましたろか」くらいのものである。昔は実際にかまして泣かせたこともあったかもしれない。

小町がこうやって俺の部屋でマンガを読んだ後は掛け布団がぺったんこになるんだよなぁ…。その分(ぬく)くなってるから許すけど。

 

「雪乃さんなんだって?」

 

「一色に電話しろって」

 

先ほど聞いた話によると、何やらまた一色に対してのアクションがあったらしい。間接的な嫌がらせを受けたみたいな話だったが、本人も遠慮して言えないでいるとのこと。

無理もない。実際俺も聞いた時は呆れ声を出してしまった。その後きっちり雪ノ下に説教もされた。

ただ、個人的には責任みたいなものも感じてはいるのだ。写真のゴタゴタでこちらに注意を引きつけたものだとばかり思っていたのに、まさか一色の方にも手を回してくるとは。正直、予測を崩されたような気分だった。

 

何があったのか、詳しい事は本人に聞くように言われている。アフターケアも怠り無く、と念まで押されて。

ストーカーから受けた嫌がらせ。きっとそこらの粘着行為とは一線を画しているのだろう。

"愛してる"で埋め尽くされた便箋とか、それが体液まみれの封筒に陰毛とセットで入っていたとか、そんな感じだろうか。いやいや、凡人の俺にはちょっと思いつきそうにない。相当に高レベルな変態行為と見ておくべきだろう。確かに一色のメンタルを懸念する雪ノ下の気持ちも分かる。

 

「あー、お兄ちゃんの"彼女さん" ね」

 

小町にはこれまでの経緯(いきさつ)について、ほぼ全てのことを話してあった。主に女心に関する相談役としてではあるが、今後想定されるであろう小町自身のストーカー被害に対する先行教育という側面もある。来年一杯はおはようからお休みまで警護できるとしても、その先はどうにもならないのだ。

 

「その言い方はおよしなさいな。お兄ちゃんに彼女さんが居た試しがないのはよーく知ってるでしょ?」

 

「あーうんそゆのいいから。早く電話したげなよ」

 

一色との偽装関係について、小町の反応はあまり芳しいものではなかった。偽の彼氏彼女という遊び人っぽいフレーズが中学生の潔癖さに障ったのだろうか。

理由を聞くと「一色さんのことはよく知らないから」と答えたが、知っている相手なら許せるという理屈もよく分からない。

 

「つか、なに当たり前の顔して寛いでんの?それ貸したげるからお部屋に戻んなさい」

 

「じゃあマンガは要らないから小町ここに居ていいよね?はやく電話してみそ!はやくはやく!」

 

バッカお前、そんな俺様理論(ジャイアニズム)が世の中で通用するとか本気で思ってるんじゃないだろうな。お前の世代はゆとりでもさとりでもないんだから、社会のせいには出来ないというのに。ここはビシッと言っておかないと小町のためにならないか。妹よ、兄の声を聞け!

 

「…パジャマは着とけ」

 

「あーい♪」

 

………聞いてください違うんです。

 

だって俺、一色と電話番号とか交換してないんですよ?

なのに雪ノ下が一方的に番号らしきものを送りつけてきて…超掛けたくないわーこれ。

嫌がらせされて不機嫌も警戒心もマックスハートな一色さんが、知らない番号からの着信に出てくれる確率。それたぶんガリガリ君でアタリ出す割合のがずっと高いですよ?

「は?誰ですか通報しても良いですか番号知ってたら掛けて良いとか友達のつもりですか慣れ慣れしくてムリですごめんなさいもう通報しました」とか言われそう。

その時の被ダメを考慮すると、やっぱり慰め要員のひとりも必要だと思うわけですよ。

 

「じゃ、かけるぞ…」

 

誰も求めていなさそうな言い訳を胸のうちでこねくり回しつつ。

雪ノ下から聞いた番号を入力し、通話ボタンを押した。

 

呼出音が一回──、二回──。

 

こ、この瞬間、すげえ居心地悪いんだよな…。

無駄に肩に力とか入るし、相手が既に気付いてて、でも出ようかどうか迷ってるんじゃないかーとか想像しちゃったりすると、もう気が気じゃない。

つか、俺だったら知らない番号からの電話なんて絶対に居留守を決め込んで──

 

『──いい加減にしてくださいっ!』

 

耳をつんざく第一声が、用意していた予想パターンの斜め上を突き抜けていった。

 

無事繋がった喜びに浸る間もない。俺は目を丸くして小町の方を見やった。

彼女はこちらを疑わしい目でじとーっと睨みつけている。

おや、口パクで何か言っているようだ──な・に・し・た・の?──いや何もしてないし言葉すら発してないよね、キミずっと見てたでしょ。

 

『つぎ電話してきたら、警察に通報しますからっ!』

 

電話の向こうは相当いきり立ったご様子で、掛ける番号を間違えたかとすら思った。

しかし、この甘痒い感じに鼻に掛かった声。怒っていても一色いろはに違いない。

ベースコーチの如くベッドに居座る小町からは「謝って!とにかく謝って!」とハンドサインが飛んでいる。

 

「わ、分かった。やっぱ電話はまずかったよな、了解だ。後でメールするわ」

 

『…え………あの、もしかして、せんぱい…ですか?』

 

「お、おう。悪いな、急に…」

 

『な、なんだぁ~!もー脅かさないでくださいよぉー!声低くて分かんなかったですー。無駄にカッコいい声出さないでくださいよー!』

 

「…いや、俺も相当驚いたんだが?」

 

急にいつものペースに戻った声色を聞いて、俺もようやく大きく息を吐いた。どうやらさっきのは、俺に対しての態度ではなかったらしい。

一色って怒らせるとあんな感じなのか。意外と凛々しい声も出るんだなとか、妙な感想を抱いてしまった。

ところで電話ってそこまで声が変わるものだろうか。いつも通りのテンションで話したはずなんだが。家族以外で電話する相手があんまりいないから統計の取りようがないな。くすん。

 

「お兄ちゃんの声、電話だと余計重いからねー」

 

一色の声が大きいせいか、会話が筒抜けだったらしい。余計ってなんだよ普段から重いみたいじゃねえか。

重くて嬉しいのは財布と漬け物石だけって相場が決まってるのよ?

 

『でもちょうど良かったです!あの、今すぐ教えて欲しいんですけど、着信拒否(チャッキョ)しても掛かってくるイタズラ電話ってどうしたらいいですか?!』

 

あれま。いろはすってば、結構な毒舌家でいらっしゃる。

雪ノ下と口調が違うせいか耐性がなくてダメージがよく通るわ…。

 

「ごめんなさい今後二度と電話しませんので堪忍してください」

 

『は?…違いますよ、先輩のことじゃないですー!ほら、聞こえませんか?コレ!』

 

スピーカーの向こうからは、やや遠くで鳴っていると思しき着信音が聞こえてくる。

一色の電話は今まさにこうして通話中なのだから、これはつまり彼女の家の固定電話だろうか。

 

「…今度はイタ電か。もうラーメンなら全乗っけって感じだな」

 

冗談めかして言ったが、正直頭を抱えたくなった。

ヤツはどんだけ一色に執着しているのだろうか。俺のやり方では生ぬるいのではないだろうか。

 

そして逆に、少しだけ安心もした。

悪戯電話をしてくる場合、犯人は相手の家に盗聴器も仕掛け、その反応を楽しんでいるケースが少なくないらしい。さっきの一色の啖呵やこうした相談の状況を盗聴によって察知しているのであれば、今もなお電話を鳴らし続けるとは考え難い。ゆえに現状、彼女の自宅における盗聴の可能性は低いと思われた。

 

「で、大丈夫なの?お前さんは」

 

…今なんか、電話の向こうで『はぅっ』とか息漏れする音が聞こえたんだけど。

ちゃっかりストレッチでもしてるの?実は余裕のよっちゃんなの?

 

『な、なんですかこんな時に心配してみせるとか彼氏のつもりですかだいぶクラッときましたけどまだ本契約もしてないし自重して欲しいですごめんなさい!』

 

ああうん、とりあえず元気そうで何よりです…。

つか彼氏って契約してなるモノだったのか、知らんかった。まあ最近は魔法少女になるのだって契約が必要なご時世だしな。そう考えると、ミスったら暗黒面に落ちちゃったりするあたりも親和性がある気がする。

 

「…そんだけ口が回るなら心配は要らなさそうだな。差し当たり、家電の方は回線抜いといたらいいんじゃないの?別に一晩くらい無くても困らんだろ」

 

『そ、そうですね!すぐ抜いちゃいます!』

 

ぱたぱたっとフローリングを叩くような篭った感じの足音に、俺は何となく居心地が悪くなった。靴を脱いだ一色の立てる"生活音"にやたらと生々しさを感じる。そこから連鎖的に脳裏に浮かぶ、白さの眩しい太もも。そしてその感触までも…。なるほど、これは盗聴したくなる気持ちも分からないでは──いやないな、ないない。

ダメ犯罪、絶対。色即是空、空即是色…

 

『なんでお経とか唱えてるんですか嫌がらせですか!?』

 

…おっと、ちょっぴり口から漏れてたらしい。

 

「気にすんな、単なる精神統一だ。つかまだ電話機の音するんだけど、何してんの?」

 

『だって家の中、薄暗くておっかないんですよー。先輩、なんか面白い話しててください』

 

「無茶振りすんな。お前んちなんだから電気付けたら良いだろ。誰も居やしねえよ」

 

『だから怖いんじゃないですかぁ…』

 

「なら誰か居るんじゃねえの」

 

『ぎにゃーー!先輩の役立たずーー!』

 

「どうして欲しいんだよ…」

 

バタバタしているうちに鳴り続けている電話の音がはっきり聞こえるようになった。電話機に到着したらしい。

やかましい…というか、無機質に鳴り続けているのがかなり気色悪い。第三者として見ても鳥肌モノだ。これは当事者ならノイローゼになるわけである。ホント、一色はよく耐えているものだ。

いや、誤魔化しているだけで実際ストレスは相当に溜まっているのだろう。昨日のエロはす出現は崩壊の兆候かもしれない。このままストレスに晒され続けていたら、そのうち本気で覚醒してしまうのではないだろうか。

 

………。

 

すまん一色。今ほんのちょこっとだけ、また見てみたいと思ってしまった。

でも、取って食われそうなレベルの迫力があるんだよなー、あれ…。

雪ノ下に似合う大罪が"傲慢"なら、あの時の一色は間違いなく"色欲"だろう。何せほら、(あつら)えたかのように字面も合ってるし。いやホント失礼な妄想だなこれ。全国の一色さんに謝れごめんなさい。

 

『じゃあ、ぬ、抜きますね?』

 

暫くして、電話から聞こえてくる着信音がぶつりと止んだ。

 

小町の様子を見ると、枕に頭を埋めて隙間からこちらを窺う怪談モードに移行していた。俺達のやり取りから不穏な気配を察したのだろう。いちいち()いヤツである。

 

『ふう…止まりました』

 

「それ、前々からあったのか?」

 

『いえ、たぶんこの相手は今日が初めてかと』

 

この相手は、か…。

これまでの苦労を(しの)ばせる言い方だ。モテるのもいい事ばかりではないのか。

 

『拒否ってもガンガン掛かってくるんですけど、そういうの効かない電話ってあるものなんですか?』

 

「どんなホラーだよ。大方、公衆電話でもハシゴしてるんだろ。駅とかなら沢山置いてあるし」

 

さっきの番号を調べればその辺はすぐに割れる。なんなら現場に張り込むという手も…。いやそれは厳しいか。俺が相手の立場だったなら、警戒して次は場所を変えるしな。

 

『でも、わたしの番号、どうやって…男の子にも基本教えてないんですけど』

 

「いや、雪ノ下が電話しろって教えてきたんだよ、勝手に…」

 

『だから何ですぐ卑屈に走るんですか。今のイタズラの方ですよ!』

 

だって、めっちゃ嫌そうな声出すから…。てっきり俺に番号知られた事かと。

 

「お前も昔は女友達とか居たんだろ。だったらそいつらが男に聞かれてフツーに教えてる可能性は十分あるんじゃないか?何しろ今は大して仲良くないんだし」

 

『うぅ…痛いところをグサグサと…。だったら家電はどういうことですか?』

 

「そこはほれ、定番の連絡網あたりじゃないか?」

 

『でも総武高(ウチ)ってメール連絡網だけじゃないですか』

 

「まあそうだな。中学の時はどうだった?」

 

『ちゅ、中学?!た、確かに、電話連絡網でしたし、おな中の子もいます…けど…』

 

あの頃は全員に配られた紙切れが宝の地図に思えたもんだ。間に控える生徒を何人抹殺すれば目当ての人物と直結できるのか、数えたことがない男子は居ないだろう。居ないよな?

 

「情報漏洩ってのは概ねその価値に無頓着なところから発生するんだよ。金銭目当てって場合もあるけど、今回はそうじゃないだろ」

 

『じゃあ、その条件を満たす男子が犯人ですか?中原くんは違うはずですけど…』

 

「それは何とも言えないな。さっきの話を聞く限り、今のイタ電とここ数日の諸々が同一犯の仕業だって決めつけるのはちょっとな。大体、ソースがおな中だって言うなら男繋がりでいくらでも広がるんだから、容疑者を絞るのはスマホの番号より難しいぞ」

 

『ほぁー…。よ、よくぽんぽん出てきますね…』

 

納得したような声を上げる一色だったが、そのまま黙り込んでしまった。

 

や、やめて欲しいなー、電話口で沈黙すんの。

そもそも俺にとっての電話は連絡ツールであってコミュニケーションツールではない。ドラマとかで何となく電話だけ繋いで時間を共有しているカップルとか見てると超イラつく。いやそれはカップルにイラついているだけかもしれないが。

この状況で一色が黙っているからと言って、二人の会話の間を楽しんでいると考えるほど、俺の妄想サーキットは素直に出来ていない。おそらく"経験者は語る"とか"類友"とか、そんな常套句が彼女の頭を巡っているのだろう。

 

「一応言っておくけど、やった事ないからな?」

 

ぷっ、と小さく噴き出す音が心地良いノイズを届けてきた。続けてクスクスと空気を震わせる笑い声に、改めて電話相手が女子であることを思い出し、何となく頬を掻いた。

 

『いえ、べつに疑ってませんよ。感心してただけです』

 

間近に聞く一色の笑い声。

こんな遅くに彼女と会話している。

電話とはいえ、二人きりで。

ひどく不思議な感覚が胸を満たす。

 

そう言えば今は何時だったっけか。

時計を見ようと身体をひねると、こちらを見ている小町とバッチリ目が合った。

彼女は優しいような蔑むような、なんとも表現が難しい表情をしている。慈愛顔とドヤ顔と軽蔑顔を足して割ったみたいな──総合的には見下し成分が勝ってそうな顔。

一言で言うと、めちゃくちゃニヤニヤしていた。

 

「…ちょっと小町ちゃん、顔が変よ?あと顔が変だわ。ブサイクさんに見えるからやめなさい」

 

「二回も言われた!?」

 

『あ、もしかして例の妹さん、傍にいるんですか?良かったらご挨拶を──』

「教育に悪いから遠慮してくれ」

 

『ひどっ?!今のはひどすぎです。さすがのわたしも泣きそうですよ…』

 

本当に泣き出しそうな声に思わずたじろいでしまう。電話は顔色が見えないから演技かどうかの判断が難しいんだよな。いや待て落ち着け、あのいろはすがこの程度で涙ぐんだりするものだろうか。

 

『ちょっとお話してみたかっただけなのにー…』

 

しょんぼりした声にお兄ちゃん回路がくすぐられる。

騙されるな、こいつは比企谷検定の取得疑惑がある。妹で責めれば楽勝とか悟られたら今後に障るぞ。

小町は満面の笑みで手を差し出している。

代われと言うのか。冗談ではない。返事の代わりに差し出された手の平を指でつーっとなぞってやった。

「ひゃん!」と可愛らしい声を上げて手を引っ込めた小町は「セクハラ攻撃禁止!」と叫んだ。

 

『……せんぱい、なにやってるんですか?』

 

さっきまでのか弱い一色は、やはり幻聴だったのだろう。冬場の廊下の3倍くらい冷たい声が俺の耳を貫いた。怖っ!いろはす怖っ!

 

取ってつけたような笑顔から飛び出る冷たい声。そのギャップこそが怖いのだと思っていたが、顔が見えないと普通に超怖かった。包丁とか持たせたら次の瞬間しばらくお待ちください(   Nice Boat.   )的な事態になってもおかしくないレベル。

 

「ちょっと手を突付いただけだ。思春期だからな、何してもすぐセクハラ呼ばわりされるんだよ。男家族は辛いぜ」

 

『へぇ~…』

 

一色の興味なさそうな「へー」は度々俺を傷つけてきたが、今度ばかりは一刻も早く興味を失って欲しいと願うばかりであった。

 

一色を小町に会わせたくない理由。

それは勿論、我が家のピュアエンジェルが小悪魔JKに毒される危険があるからだ。

しかし実のところ、最近ではそれとは全く真逆の懸念も抱いている。

その懸念とは、毎日5分小町と話しているうちに、一色が真の可愛げをスピードラーニングしてしまう可能性だ。

 

今でこそ心中で劣化版小町と評しているが、世の中にはパクリ進化なんて言葉もある。コピーがオリジナルを超えられないというのは、一昔前の常識だ。最近のラノベにおいて、コピーは平気でオリジナルを凌駕する。むしろコピーが主役になる話まである。

もしも小町の魅力を一色が全て学習したとしたら…。いろはす改爆誕の危険性については今さら論じる必要もないだろう。

そうなれば、第二の中原くんが比企谷家に出現しかねない。我が家から犯罪者を出すわけにはいかないのだ。

ちなみに第三は材木座な。先日も一色にかなり反応していたし、速攻で陥落するだろう。むしろ既に手遅れかもしれない。

 

つまるところ、どう考えてもこの二人、"混ぜるな危険"なのである。

 

これに加えて、二人に俺の与り知らぬところで自分の話をされる可能性がある事が超恥ずかしい。

雪ノ下や由比ヶ浜なら気にならなかった前例があるのだから、これは一色が後輩であることが原因と考えられる。

「わたしの時はあんななのに、妹相手だとそんななんだー、ぷーくすくすー!」という年下同士の情報交換を恐れているのだ。これで小町が一色と同じ一個下だったりしたら、なお悪い。

 

「妹を猫かわいがりしているなんて一色に知られたら、弄られるってレベルじゃねえぞ…」

 

「未だに隠せてるつもりなのが小町的に超ビックリ。てか妹を足蹴にしといてどの口が言うのそれ!」

 

人聞きの悪い事を。一色さんがDVと誤解したらどうするんだ。

お前がしつこく携帯に手を伸ばしてくるから足でガードしているだけじゃないか。

ははーん、さては狙ってやってやがるな、さすが我が妹。お願いだから雪ノ下が相手の時だけはやめてね、マジで通報されちゃうから。

 

「ねーお兄ちゃん、ちょっとでいいから…ねっ?」

 

『ねぇせんぱぁい、ちょっとだけ…ダメですかぁ?』

 

背筋を這い回る甘い毒は一体どっちの声から受けたものか。

常識的に考えれば妹であってはならないが、一色からというのは俺的にあってはならない気もする。

いずれにせよ天然と養殖の飽和攻撃という反則技に、俺はいともあっさりと屈した。

つか、抵抗するだけ無駄だった。ぶっちゃけ小町にしてみれば、いくら俺に拒否されても由比ヶ浜経由でどうとでもなるんだよな。

 

「わーったよ、好きにしろ。一色、悪いが対策はまた明日ってことで。俺は疲れたから寝る」

 

『えっ、まだ21時ですよ?先輩おじいちゃんですか?』

 

「お前よりはな。んじゃお疲れ」

 

そのまま携帯を小町に手渡した。

アフターケアと言うのなら、小町に勝る癒しもあるまい。

このタイミングで下手に俺が相手して、後でPTSDを拗らせたとか言われても堪らんし。

 

「あんま長電話するなよ?」

 

「だいじょう(ヴィー)。LINE聞いたらすぐ切るから」

 

にししっとVサインする小町。ネイティブかよ。

ああ、またひとつ、俺の知らないネットワークが構築されてしまうのか。

 

「いいか、一色の言う事は半分くらいに聞いとけ。あと男を紹介されても絶対に会うな」

 

『ぜんぶ聞こえてますー!先輩マジでいっぺん説教させてください!ホントわたしのことなんだと──』

 

女子と女子、二人が出会えばそこはもう土壇場──じゃなくて社交場だ。あとは男子の出る幕ではない。

電話から聞こえてくるクレームを受け流し、俺はまたも自分の部屋から退出した。

 

物は考えようだ。もしかしたら、少なくとも小町にとってこの出会いはプラスになるかも知れない。

小町が高校に入れば、途端に田舎のコンビニよろしく大量の羽虫が寄ってくるだろう。中には断ってもしつこく付きまとう相手が居るかもしれない。強引な相手が居るかもしれない。

そんな時、一色お得意の手玉取り(ジャグリング)は自衛のためにもうってつけのスキルではないだろうか。

とは言え、そんな一色も今現在ストーカーに悩まされているわけだから、あんま当てにも出来ないんだけどな…。

 

「どもども、はじめましてでーす!いつも兄がお世話になってますー」

 

いつもより一際高い、よそ行きの声。

部屋の中からダダ漏れしてくる会話の中身に、興味が無いといえば嘘になるが──。

 

「…なんか喉渇いたな。一色と話して疲れたか」

 

独りごちると、妹の声を背に、俺は一階へ続く冷たい階段を降りていったのだった。

 




20話目にしてようやく小町登場。八色SSにしてはかなり遅めでしょうか。
次話はまた葉山で荒れそう…。
短めのシーンごった煮の話になりそうです。


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■21話 どうあれ一色いろははモテる

さて、八幡と同じくド忘れされていた方はどの程度いらっしゃったでしょうか。


 

このところ、朝から肩の張る日が続いていた。

 

課せられた重荷が精神に負担をかけていたのだろう。眠りが浅く、夜中にしばしば目が覚めてしまう。

元来俺は小心者だ。一色の手前もあって余裕があるような振る舞いを心掛けてはいたが、毎日降りかかる難題に心が(きし)むのを感じていた。

 

しかし何故だろうか、今朝の体調は万全そのものだった。

小町の尻ですっかり温くなったベッドで熟睡したからか?いや尻は関係ない。ないと思いたい。

よほど盛り上がったのか、笑い声は夜更けまで聞こえていた。あの調子なら一色もいいストレス発散になった事だろう。ケアを任せたのは正解だったな。

 

「お兄ちゃんさー、なんか忘れてることない?」

 

15秒混ぜた程度では到底駆逐できないカップスープのダマを相手にダイニングで黙々と格闘していると、軽く睨むような目つきの小町が二階から降りてきた。

めんどくせえな、あの日か?

 

「…えーと…今日も愛してるよ小町?」

 

「小町はそうでもないけど今日もありがとーお兄ちゃん。でもそれじゃないなー」

 

冷蔵庫を漁りながら返事する彼女はこちらを見向きもしない。

しかしこの対応を冷たいと言う事無かれ。もしも「小町も愛してるよ!」なんて返ってきた日には白い壁の病院に連れて行かなければならないところだ。むしろこんな益体もない事を考えている俺からまず行くべきである。

 

「いろはさんの電話」

 

ジャムとバターを両手に携え、テーブルに着いた小町が再び口を開く。

折りよく焼きあがったトーストを皿に乗せて出してやると、いそいそとペーストを塗り始めた。この餌付け感が結構クセになるので毎朝パンを焼いているうち、いつしか俺がトースト係となっていたのは余談である。

 

それにしても、早くも"一色さん"を卒業してしまったか。コミュ力の高い女子の接近速度はいつもながら異常なまでに早い。俺だったら何年経っても名前で呼ぶとか無理だわ。俺史上、最も会話した女子かも知れない由比ヶ浜でさえ、下の名前で呼ぶとか考えただけでも身悶えする。

 

葉山なんかは大抵の女子をさらっと下の名前で呼んじゃっているようだが、知らない人が見たら誤解するのではないだろうか。

ヤツはなぜ彼女でもない女子を下の名前で呼べるのか。そしてなぜ男友達の方は名字で呼んでいるのか。

実はあいつら友達でもなんでもない疑惑が再浮上したが、それはとりあえず置いておいて──。

 

「…電話ならしただろ」

 

「っかー!これだからゴミいちゃんは。結局何があったか聞いてないでしょ?」

 

「いや、だからイタ電だろ?」

 

「おバカ!それは偶然でしょ!もともと別の話があったんじゃん!」

 

「あ」

 

悪戯電話のインパクトですっかり忘れていた。

そうだ、そもそもは雪ノ下に言われて掛けたんだった。一色がまた何かされたから、と。

 

「つまり昨日だけで二件って事か?」

 

「そうなるねー。いろはさんかわいそう…やっぱあんだけ可愛いと仕方ないのかなぁ」

 

冗談じゃない。犯行が加速度的にエスカレートしている。

単純計算すると2、3日の内に直接行動に出そうな勢いだ。早く何とかしないと。

…ところで今、可愛いとか言ったような。

 

「もしかして写真でも貰ったのか?」

 

「せっかくだから自撮(じど)って交換したんだー。お兄ちゃんと全然違う世界の人だよね。ゆるふわ清楚系っていうの?フツーに雑誌とかに載ってそうだった!いろはさんて超モテるでしょ?」

 

「いや…まあ…なんつーか…」

 

ゆるふわに続く部分を訂正しようかと思ったが、ビッチというのも明確な根拠があってのことではない。一色が葉山以外の男にコナを掛けている所を、俺は一度も見ていないのだ。

自分で思っているだけならともかく、仲良くなったばかりの先輩を売女(ばいた)呼ばわりする兄というのは小町的にもどうだろうか。

妥協点を模索した結果、

 

「──ゆるふわ清楚風?」

 

と答えておいた。

 

「だからそう言ったじゃん」

 

ノンノン、未熟者め。"系"ではなく"風"と言ったろうが。この二つには天と地ほども差があるのが分からんか。

ミラノ風ドリアは当然ミラノではなく、「ミラノっぽい雰囲気の」ドリアの事だ。手作り風ハンバーグだって基本的に手作りではない。

すなわち○○風というのは、そうである必要のない看板なのである。

だがしかし。

「インテリ系」と「インテリ風」だったら、後者の方がモテそうな気がするんだよな…。バリバリの理系よりも頭良さげなファッションのチャラ男がモテるというメカニズムは確かに実在する。

 

つまるところ、どうあれ一色いろははモテる。

 

「まあ…そうだな、モテる。たぶん」

 

…やたら屁理屈をこね回して出た結論がこれか。

確か前にも似たような事があった気がする。ちくせう。

 

「お兄ちゃんてああいうタイプ好みだったっけ?」

 

「お前相手に好みについて語った覚えはないぞ」

 

「やー、見てれば分かるし。好きでしょ?雪乃さんみたいな清楚系」

 

「あれはむしろ塩素系とか青酸系とかのカテゴリーだろ…」

 

正論でねじ伏せてくる漂白力とか、洒落にならない毒の強さとかな。

つか、そんな露骨に雪ノ下ばっか見てないと思うんだけど、小町は俺の心の目線すら感知できちゃうの?由比ヶ浜の胸とかに時々飛んでる意識さえも悟られちゃってるの?

兄貴の威厳とか、地の底通り過ぎてブラジルで草が生えちゃうレベルですわ。

 

「ま、今さら電話しても仕方ない。一色には後で直接聞いとくわ」

 

「そうしたげて。あとちゃんと謝ってね?」

 

何で俺が、と思わないでもないが、小町はこういう時の為のアドバイザーである。

彼女が言うのだから、謝っておくのが正しいのだろう。

「ん」と首肯した俺は、席を立つ前にさっきから気になっていた事を聞いてみた。

 

「ところで小町」

 

「うん?」

 

「さっきから何でガン付けてんの?」

 

「ちっがうよ上目遣いだよ!わっかんないかな~!」

 

予想に違わず、早くも技術供与が開始されていた。

しかし、一色流の奥義はどうやら相性が悪いらしい。小町にとってわりと自然にやってしまっている仕草のひとつだが、下手に意識したせいで仰角オーバーになってしまっている。どちらかと言えばアヘってる目に近かった。

考えてみれば小町はゆるふわ系でもないし、単純に真似ればいいと言うものでもないのか。

 

「八幡的には超ポイント低い」

 

「えぇー!?」

 

姿見の前で変顔を繰り返す愚妹を放置し、俺はさっさと学校へと向ったのだった。

 

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

(あれ、ホントに先輩の妹だったのかなぁ)

 

こまちゃんとの電話を思い出しながら、わたしは通学路を歩いていた。

このところ奉仕部の誰かと一緒の事が多かったけど、今日は一人きり。けれど夕べの電話の内容を思い出すのに忙しくて、あまり寂しさを感じはしなかった。

 

"こまちゃん"というのはもちろん小町ちゃんの事。"ち"が並んでいていつか噛んじゃいそうだと思ったわたしが思い切って提案した呼び名だ。結衣先輩とも雪ノ下先輩とも違うと、彼女は喜んで受け入れてくれた。

 

()()先輩の妹というくらいだから、わたしは最初、雪ノ下先輩みたいなキャラクターを予想していた。あの二人、姿形は似ても似つかないものの、やり取りを見ていると兄と妹…あるいは姉と弟なんじゃないかと思わせるような瞬間がある。スレた物の考え方とか、強情なところとか、変に頭が良いところとか。冷静になって挙げていくと、少なくない共通点があるのだった。

 

実際にこまちゃんと話してみると、賢い結衣先輩のような、気安い雪ノ下先輩のような、スピードのある城廻先輩のような、そして何より、わたしを一回りグレードアップしたような「可愛さ」を持ち合わせた、とんでもない女の子であることが分かった。

一見詰め込みすぎのようで、全部の要素がギリギリのところでバランスを保っているカンジ。

 

(わたしなんてスルーされるわけだよ…あんなの反則でしょ)

 

自撮りを交換してみても声に違わず可愛い子だった。先輩が過保護になるのもわかる。あれは相当モテるタイプだ。

先輩の目つきにそっくりの女の子が居たらお世辞にも「可愛い」とは言えないだろうし、似ていないんだろうなーとは思っていたけど、まさかここまでとは…。

柔らかそうな黒髪の質感を見てようやく「ああ、兄妹なんだな」と思ったくらい。カラーを入れたら共通点がなくなっちゃうね。

 

(ていうか、まさか義理の妹とか言わないよね…?)

 

けど、そう言われた方がしっくり来るような気もする。大人になったら一旦籍を抜いて、それから結婚しようとか言い出しちゃったり…。

ネットに無数に転がる妄想小説なんかだと、そういう展開はさして珍しくもない。現実にはありえないと思うけれど、先輩の面倒見の良さや年下好きが全て彼女によって形作られたものだとしたら…。

彼は普通とは程遠い思考回路をしているし、周りの目とかも気にしなさそうだし──

 

(いやいやマズいでしょそれは。やっぱ真っ当な彼女がリードしてあげないと!)

 

清楚で知的な雪ノ下先輩は、わたしの最も苦手な人種と言える。妹さんがそのタイプだったならば、先輩と仲良くしていく上で小さくない障害となるのでは、と思っていた。そういう意味では昨日の電話で心配事が一つ解消したと言ってもいい。

 

高校に入学してこっち、ずっと後輩として生活してきたこともあって、先輩扱いされるのも新鮮だった。彼女は総武高(ウチ)を受験するらしい。合格してくれればわたしの女子コミュニティーが大幅に強化されることになる。是非とも受かってほしい。

 

 

そんな事を考えながら足取りも軽く校門をくぐったわたしだったけれど、間の悪いことに見知った姿がグラウンドを駆けているのを見つけてしまった。

 

(な、中原くん……来たんだ…)

 

蛍光色が目を引くビブスをつけた彼は、サッカー部のメンバーと朝錬に参加しているみたい。

彼を見つけたわたしの脚は、さっきまでの軽さがウソのように、地面に縫い付けられて動かなくなった。

 

(忘れようとしてたのに…なんでいるの…!)

 

ずっと登校してこなければよかったのに。そんな勝手な考えが頭に浮かぶ。彼が犯人だという証拠はないけれど、そう考える事にもう罪悪感は感じなかった。

 

盗撮写真、盗まれた手袋、そして無言電話。

 

このところの出来事が一気に頭の中を巡り、胃の中まで同じようにぐるぐるしている。

先輩やこまちゃんとの電話で上書きしたはずの昨日の記憶が、鮮明に浮かび上がってきた。

ヤバ、急に吐き気してきた…。

 

「中原」

 

軽くパニックを起こしかけたわたしは、けれども辛うじて平静を取り留めた。

意外な人物が、彼に声を掛けたからだ。

 

(は、葉山先輩…?)

 

彼はグラウンドから中原君を連れ出すと、部室棟の方へと向った。

いったい何が始まるのか。見当もつかなかったけれど、放っておくこともできずに後を追う。

どうやら葉山先輩は、この前わたしと話をした場所へ向っているみたい。確かあそこは部室の中からでもギリギリ見えるはず──。

先んじて建物の中に駆け込むと、窓のそばに隠れて外の様子を伺う事にした。

 

思ったとおり、二人はすぐに建物の裏手へやってきた。

葉山先輩は中原君にタオルを渡しながら声をかける。

 

「お疲れ。暫く休んでたようだけど、もう大丈夫か?」

 

表向きは彼を気遣ったようなその態度。けれど一度彼とぶつかったわたしからすれば、声色を聞いただけで本心から心配して出た言葉でないことくらいすぐに分かった。

 

「あざっす。…あの、オレが休んだ理由とかって、誰かから聞いてますか?」

 

「いや…ただ、噂みたいなのは聞いたよ。それでお節介とは思ったけど、少し気になってさ」

 

「やっぱそうですか…。あの、葉山サンて、一色さんと付き合ってるわけじゃない…ッスよね?」

 

「違うよ。なんでそんな事聞くんだ?」

 

「よ、よかったー!いや、もしかして殴られんのかなって思って…」

 

「殴られても仕方ないような真似をした自覚はあるってことか?」

 

割と本気で怯えた目をする中原くんに、葉山先輩はいたずらっぽく拳を握ってみせた。

 

「か、カンベンしてくださいよ…」

 

「冗談だよ。大体、それは俺なんかの役目じゃない」

 

「ど、どういうことスか?」

 

「いろはにも、自分の為に怒って欲しい人が居るって事かな」

 

ちょっとちょっと。ひとの秘密、勝手にバラそうとするのやめてもらえます?

ていうか、遠慮せず殴ってもらって良いんですよ?ぜひお願いします。

先輩だと逆に手とか怪我しちゃうかもなんで、それは葉山先輩の役目です。

 

「それ、もしかして比企谷さんの事スか?」

 

「なんだ、知ってたのか」

 

「知ってたっていうか…。くそっ、葉山サンならまだしも、なんであんな…」

 

んにゃろー、まだ言うか!

キミには関係ないでしょ!もうほっといてよ!

握り込んだ爪が手の平に食い込むのを感じていると、不意に葉山先輩が冷たい声を出した。

 

「比企谷よりも自分の方が優れているって言いたいのか?」

 

「え、いや、その…そういうわけじゃ…」

 

声色に怯んだ中原君に、彼は畳み掛けるように続ける。

 

「人の評価なんてのは主観で決まる。比企谷をどう評価するのもお前の自由だけど、それが必ず他人にも共感して貰えるとは思わない方がいい」

 

葉山先輩が庇うとは夢にも思わなかったのだろう、中原くんは口を開けて間の抜けた顔を晒した。

わたしの口も開いていたかも。それくらい意外な反応だった。

 

「でも!あの人すげえ評判悪いじゃないスか!みんな言ってますよ?」

 

「そうかもな。けど、少なくともいろははそう思ってはいない。彼女に好かれたいなら、その価値観を認める事から始めてみたらいいんじゃないか?」

 

「…難しいっス」

 

どうやら葉山先輩は彼を諭そうとしているようだった。

でもどうせなら諦めるように言って欲しい。今さらなにをどうしたところで、わたしの気持ちがなびく可能性は万に一つもない。人生には取り返しの付かないこともあるのだと、彼に教えてあげて欲しい。

 

「正直、あんま納得はしてないです。でも葉山サンも庇うくらいなんだから、単純に噂通りのイヤな奴ってことでもないんスよね、たぶん。そう思うことにします」

 

「やめてくれ、別に庇ってなんかないさ」

 

この時ばかりは本当に嫌そうな声で、葉山先輩は大仰に肩を竦めた。

なんなんだろう、照れ隠しにも見えないし…。彼と先輩との関係だけは、本当によく分からない。

中原くんはまだ不満げだったけれど、いくらか落ち着いた様子で口を開いた。

 

「実は、休んでたのって親父の命令なんですよ。こないだの事が親バレしちゃって…ぶっちゃけ謹慎っていう体の軟禁でした」

 

「軟禁とはまた。えらく過激な表現だな」

 

「いやマジですよ。この三日、部屋からもまともに出して貰えなかったです。ウチの親父、警察勤めで超ガタイとかよくて。その大男にグーでぶん殴られて、まだ痛いっス」

 

「なかなかワイルドな教育方針じゃないか」

 

二人の会話を聞いて、わたしは当然の疑問に行き当たった。

 

もし彼が言っている事が本当なら、盗撮や手袋の件は別の犯人がいることになるんだけど…。

本当にそうだろうか。電話だけなら家からでも出来るかもしれない。軟禁だなんて言っているけど、話を盛っている可能性は高い。ただの外出禁止令なら、馬鹿正直に守る高校生の方が少ないのでは。

 

「まあ自業自得ってことなんですかね。確かに夢中になりすぎてたとは思います。一色さん、下手な地下アイドルよりぜんぜん可愛いじゃないですか。それでクラスも同じだし、なんとなく親衛隊みたいなつもりになってたんですよ…」

 

「アイドルね…。なんて言うか、皮肉だな」

 

くっくっと、葉山先輩は苦い顔で笑いを零した。

うぐぐ…あれ絶対、わたしの話を思い出して笑ってる顔だ…。

ドヤ顔で好きな人を偶像呼ばわりしておいて、まさかの時間差ブーメラン。

 

中原くんの懺悔を神父のように穏やかな顔で聞いていた葉山先輩は、少しだけ怖い顔をしてこう言った。

 

「そこまで自省してるならもうハッキリ聞こう。最近の嫌がらせはお前じゃないんだな?」

 

うっわ、またストレートに行きますねー。ちょっと他人にはマネできないですよこれは。

でもその聞き方はどうでしょう。ここで「いいえ、自分がやりました」って自白するようなひとなら、最初からあんな風にはならないような…。

 

葉山先輩は真っ直ぐに彼の顔を見据えていた。まるで目を逸らしたら有罪と言わんばかり。

でもそれ、目を逸らさなければ信じちゃうヤツでしょ。一番ダメな判定方法ですよ?

本当にウソが得意なひとはそんなヘマしませんよ。わたし自身、演技するときはまず目から入ってますし。

 

「えっと…さっきも言いましたけど、オレ家から一歩も出して貰えなかったんで…何かあったんですか?」

 

葉山先輩は、彼にここ数日の出来事を語った。

え?戸部先輩の下駄箱に盛り土のプレゼント?全然知らなかったんだけど…。

先輩はそのこと知ってたのかな。ていうか、なんで戸部先輩なの?

まさか。まさかだけど、彼氏と間違えられたとかじゃないよね。

もし、万が一そうだとしたら、違う意味でも犯人許すまじ。

 

でも、これでモヤモヤしていた疑問がひとつ解消した。葉山先輩を呼び出して貰ったときの、戸部先輩のあの態度だ。

彼はわたしに対して「何か言うべき話があるだろう」みたいな事を言っていた。下駄箱の件がわたしのとばっちりだと思っての反応であれば辻褄が合う。知らなかったとはいえ、結果的に泣き寝入りさせてしまった。本当にごめんなさいでした。

 

一通り話を聞いた中原くんは、青くなって首を振った。

 

「ち、違いますよ!そんなん、もうカンペキ犯罪じゃないスか!」

 

「張り込みや待ち伏せもやり過ぎれば犯罪だぞ?」

 

冷たいツッコミにたじろぎつつも、彼は弁明を続けた。

 

「う…それはマジ反省してます。でも盗撮とかは断固否定しますよ!言いましたよね、親衛隊のつもりだったって。追っかけってのは追っかける以上の事はしないもんスよ!」

 

「まあ、俺はそういうのは知らないんだが──」

 

葉山先輩は中原くんの目を改めて睨みつけた。

造りが整っているだけに迫力がすごい。無実のひとでも目を逸らしちゃうかも。

けれど、さっきまでは罪悪感から泳いでいた中原くんの目は、いま真っ直ぐに葉山先輩を見返していた。

 

しばらく続いた睨み合いの後、葉山先輩がふっと肩の力を抜いた。

 

「…分かった、信じよう」

 

「あ、ありがとうございますっ!」

 

「いや、悪かったな。疑ったりして」

 

「いえ…みんなの前でバカ丸出ししたんですから、真っ先に疑われるのは当然スよ…」

 

二人の会話に緊張感が失われていくのが肌で分かる。

もうこれ以上聞く必要はないだろう。わたしはその場を離れることにした。

 

(葉山先輩、信じることにしたんですね)

 

彼の選択が正しいのかどうかは分からない。

二人のやりとりを見届けたわたしの胸の中には、安心も失望もなかった。

あそこで疑い続けるというのは、彼にはきっと無理なんだろうな、とだけ思った。

これもまた、わたしの──そしてみんなの知る葉山隼人らしい振る舞いだったのだろう。

 

それにしても、あんな風に根拠も無いままに信じるっていうなら、最初から黙って信じてあげていればいいような気もする。わざわざ審判の真似事をするあたり、らしいっていうかなんていうか。そりゃ、本当に彼が犯人じゃないっていうならこのやり取りはあとあと美談になるのかもしれないけど…。

 

大人になるのは疑うことに慣れること。そんな風に格好をつけるつもりはない。

無邪気に他人を信じられるのが子供だというのなら、わたしだって子供のままでいたかった。

でも、悪意というものはこの世界に確かにあって。

どんなに胸がむかむかしても、ひとを疑わなくてはいけないことがたくさんあって。

 

だから望む望まぬに関わらず、みんな大人にならざるを得ないのだろう。

 

ふと、昔読んだ童話の一節を思い出した。

いつまでも歳を取らない、素直で明るい子供達の人気者。

けれどいつしか彼は、大人になったかつての友人を羨ましく思う。

葉山先輩も、いつか疑うことに慣れていくんだろうか。

 

目を閉じて、素直でも明るくもない、捻くれた誰かさんの顔を思い浮かべてみた。

 

「放課後、早く来ないかな…」

 

朝からすっかり滅入ってしまったわたしは、あの部屋で過ごす時間だけを支えに、朝の玄関を潜ったのだった。

 




よし、難所は乗り切った!
乗り切った…よね?


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■22話 もうハダカしか残ってない

さてさて、そろそろあちこちで動きが激しくなって参りました。
どうでもいいけどサブタイの役立たずっぷりが尋常じゃないですね。


「こんにちはー!」

 

その日の夕方、わたしはすっかり慣れ親しんだ奉仕部の部室に顔を出していた。

まだ先輩は来ていないみたい。そのせいか、結衣先輩は机にぺたーっと伸びた状態でひらひらと手を振っていた。押しつぶされた胸元が迫力満点ですねーむぐぐ。

 

「こんにちは」

 

「やっはろーいろはちゃん。ヒッキーそのうち来ると思うから。待っててって言ってるのに、いつものトコにいなかったんだよねー」

 

「あ、あはは。そですか、どもです…」

 

それでこんな風にペタってるんですね。でも待ち合わせて一緒に部活とか羨ましいです。ちょおゼイタクです。

にしても、いちおうわたし達ってライバルのはずなんだけど…。こうもあっけらかんと言われると変なカンジだなぁ。いちいち探り合いとかしなくていいのは助かりますけど。

 

「今日はどうだったの?なんもなかった?」

 

「中原くんが登校してきましたけど、教室ではとくに動きナシでした。あとは昨日の夜、キモいイタ電があったくらいですねー」

 

朝の一件は、どう報告すべきだろう。

わたしのために葉山先輩が動いてくれたこと自体は嬉しいんだけど、先輩方に頼りきりの立場からしたら、なんだか二股を掛けてるような後ろめたさもあったりして──。

そんな風に迷っていると、結衣先輩が慌てたように顔を上げた。

 

「くらいって…きっちりなにかあったんじゃん!」

 

「ごめんなさい、それはきっと私の責任だわ。一色さんに電話をするようにって、比企谷くんに番号を教えてしまったの。やっぱり早まったかしら…」

 

雪ノ下先輩が丁寧に頭を下げるのを見て、わたしは苦笑いを浮かべた。

先輩の卑屈な態度はどうやらここに原因がありそうだ。

 

「なんで先輩と同じような反応してるんですか…。違います、イタ電は別口です。先輩はむしろフォローしてくれました」

 

「なら良いのだけど…。その、悪戯電話の方は平気なの?」

 

当たり前のように目の前に差し出される湯気の立つ紙コップ。お礼を言って琥珀色の紅茶を口に含む。

品の良い香りのおかげか、夕べの出来事を思い浮かべても心がざわつくような事はなかった。

 

「はい。掛かってきたときはちょっと怖かったですけど、先輩も電話してくれましたし。あとこまちゃんともお話しできましたから。とりあえずは結果オーライってカンジです」

 

「あー、小町ちゃん?話したんだ。どーだった?」

 

「ヤバいですね。ちょお可愛いです」

 

「だよねー!」

 

「彼女、欠点らしい欠点のない子よね。強いて言うなら比企谷くんと血が繋がってるのが珠に(きず)だけど」

 

「そこ否定したら先輩の妹じゃなくなっちゃいますよー」

 

談笑していると、突然背後からがらりと音がした。

ノックをせずに開けられた戸の音に振り返ると、そこには期待通り彼の姿があった。

 

「うす」

 

「あー先輩!なにしてたんですかーもー。わたしちょお待っちゃったじゃないですかー」

 

無意識に飛び出した甘え声に、自分でもちょっと驚いた。

彼を求める気持ちは日を追う毎に強くなる。夕べは電話だってしているはずなのに、こんなんじゃ先が思いやられるなぁ。

ともあれ今の気持ちに逆らわず、戸口に突っ立ったままの彼にするりと腕を絡める。

自分のそばに座らせようとこちらへ引っ張ると、先輩は「痛っ!」と声を上げた。

 

「えっ?」

 

驚いて反射的に手を離す。

そんなわたしを見た彼の顔には「しまった」とでも言いたげな表情が浮かんでいる。

もちろん痛がられるほど強くなんてしないし、静電気が走ったとか、そういう反応でもなさそうだ。

 

わたしに見つめられ、先輩は腕を身体の後ろにゆっくりと隠そうとしていた。

しかしいつのまにか回り込んでいた結衣先輩が、それを素早く取り押さえる。

胸元に腕を抱き込まれ、「ちょ、おま」とキョドっている先輩のブレザーの袖を、彼女はシャツごとグイッとめくり上げた。結衣先輩がいきなり痴女になってしまったわけではもちろんなくて──。

 

外気に晒された彼の素肌には、青黒い(あざ)が痛々しく広がっていた。

 

「うっわ、いたそー!…どしたのこれ?」

 

「触んなって。マジ痛いから」

 

ちょいちょいと青アザをつつく結衣先輩。彼は嫌がっているんだけど、その割には抵抗が薄いような気がした。

なんだか動きがやけに鈍いような…。

もしやと思って、ガラ空きの膝をツンツンしてみると──

 

「いっつ!」

 

その声は思いのほか部室に響いた。

かさぶたを剥がすの剥がさないので騒いでいる子供のようだった結衣先輩。彼女の無邪気な顔からすっと表情が消える。

またも「やらかした」という顔色の先輩に、三人分の視線が集まった。

 

今度はズボンの裾に向かって、結衣先輩の手がゆっくりと伸びる。

 

「おい、何して──」

「動かない」

 

ぴしゃりと言い放つ結衣先輩。こういう時の迫力は下手したら雪ノ下先輩よりも凄い。

彼女の手によってめくられた先輩の向こうずね。

そこにもやはり、大きく広がる内出血の跡があった。

 

雪ノ下先輩が(おごそ)かに口を開く。 

 

「…比企谷くん」

 

「違う、ちょっとコケただけだ」

 

「何が違うのかしら。まだ何も言っていないし、聞いてもいないわよ?」

 

「説明するほど面白いことなんてないし。高校生にもなって恥ずかしいからあんま深追いしないでくんない?」

 

「ヒッキー…ウソついてる。どうして?」

 

「嘘じゃないっての。転んだ場所が悪かっただけだ」

 

結衣先輩は既に疑問ではなく確信として彼を問いつめる。

ちらちらとこちらに投げかけられる視線。

なぜだろうか、先輩は明らかにわたしのことを気にしていた。

 

「階段ね」

 

謎は全て解けた、と言わんばかりに瞑目して解を告げる雪ノ下先輩。

果たしてその答えは事実を違える事がなかったらしく、

 

「見てたのか?」

 

とあっさり先輩の自白を引き出した。

 

「まさか。そんな目に悪い…もとい趣味の悪い事、するわけないでしょう。校内で転んで大怪我をするとしたら、十中八九そこだと思っただけよ」

 

「見ただけで目に悪いとか。俺は黒魔術の原典か何かですか」

 

雪ノ下先輩はいつものペースを取り戻そうとするように先輩弄りを始める。

でも、わたしは彼の言葉を聞き逃す事ができなかった。

 

「つまり階段で転んだってことですか?」

 

「ん、だいたいそんな感じだな」

 

「危ないじゃないですか!」

 

ついつい、大きな声が出てしまった。

先輩は食って掛かるかのようなわたしの勢いに面食らったようで、「お、おう。危ないな」とオウム返し。

 

「それは転落したっていうんですよ!頭とか平気ですか?」

 

「その言い方だと語彙の少なさを罵倒されてるみたいにも聞こえるんだけど…。頭は打ってないから」

 

一番心配なところは打っていないらしい。とりあえず良かった…。制服に隠れていて分からないけど、他にもぶつけてそう。

雪ノ下先輩はやけに真剣な目で彼の顔を見つめていた。大丈夫だから、とその視線を手で払う先輩を見て、ふっと息をつく。

 

「比企谷くん。いくら人生に絶望したからといって、学校の階段で身投げするのは感心しないわね」

 

「お前さ、そういう発言が人を絶望に追い込むとか思わないわけ?」

 

まるで話を逸らすかのようにやりとりを再会する雪ノ下先輩。渡りに船とばかりに言葉を返す先輩もまた、この話を終わりにしたいと言っているように見えた。

 

雪ノ下先輩、心配じゃないのかな。

まだヘンな意地張ってるのかな。

わたしは、すごく心配なんだけどな…。

 

「お、おい。くすぐったいんだけど」

 

「…?」

 

なぜか顔を赤くしている先輩が抗議の声を上げる。

その視線の先には、彼の膝をゆっくりとさすり続けるわたしの手があった。

どうやら無意識にやっていたみたい。

少し恥ずかしくなったけれど、それでもやめようとは思わなかった。

 

「だって、ちょお痛そうなんですもん…」

 

なんだろう、先輩の怪我をみていると、自分の胸まで痛くなってくる。

ニュースやドキュメンタリーで見る"不幸な人"への同情なんかとは違って、むしろ共感といった方が正しい感覚かもしれない。彼の傷を見ていると、自分のどこかがキリリと痛む。

 

「えへ。こんなの、ぜんぜん意味ないですけどね」

 

いくら念じたところで、痛いのは急に飛んでいったりはしない。もしも冷やすのが正解なら、こうしているのは悪化させるだけかもしれない。だからこれはただの自己満足だ。

 

「無意味とは限らないわよ」

 

俯いていた顔を上げると、雪ノ下先輩が優しげな目でこちらを見ていた。

 

「人の手の平からは生命エネルギーのようなものが出ているという説があるの。科学的に立証はされていないのだけど、古くから治療行為が"手当て"と呼ばれているように、人の手を患部にあてがうというのはそれなりの意味があるのだとか」

 

だからそれは必ずしも無駄ではないと、彼女はわたしの行為を肯定してくれた。

 

「…確かに、ちょっといいかもな。関節とかあったかいし」

 

そっぽを向いて頬を赤らめる先輩。

 

そっか、あったかいんだ。

わたしの体温、伝わってるんだ。

なんか、すごく嬉しいかも…。

 

「うんうん。おなか痛いときとか、自然と手を当てちゃう!」

 

ならこれでどうだーっと腕の打ち身にグイグイ手のひらを押し当てる結衣先輩。

痛い痛いマジやめてと騒ぐ先輩の膝に、わたしはそっと手を当て続けた。

 

 

「そういや一色、昨日は聞きそびれちまったけど…今度は何されたんだ?」

 

照れ隠しなのか本当に忘れていたのか。顔を赤くしたままの彼の言葉に、雪ノ下先輩が渋い顔をした。

 

「呆れた…なら何のために電話したの?悪戯?」

 

「それどころじゃなかったんだよ。つか、このタイミングでその冗談は笑えないから」

 

「あー、それはですね──」

 

結衣先輩が心配そうにこちらを見ている気配を感じる。

ありがとうございます。でも大丈夫です。

 

さんざん渋っていた手袋事件の全容を、わたしはあっさりと伝えることができた。

その理由はたぶんこれ。今も先輩の膝から伝わってくる彼の体温だ。

 

いまわたしと直に触れ合っているのは、他ならぬ先輩自身。間違っても知らない誰かじゃない。

例えあの手袋で誰かがなにかをしたとしても、こうしているわたし達にはなんの関係もない。

これはまさに雪ノ下先輩が言っていたことそのものだ。

あの場ではすぐ頷けなかったけれど、実際に先輩に触れてみて、ようやく実感が持てたんだと思う。

 

黙って話を聞いていた先輩は、視線を下に向けて顎をさすった。

うーん、この角度から見ると実はイケメンなんだよね。急にやられるとドキッとする。

 

「教室の中には誰も居なかったのか?」

 

「他には女子が一人だけでした。その子、居眠りしてましたけどね」

 

「居眠りて…。それだとアリバイ要員としては微妙だな…」

 

先輩は何が起こったかよりも、それが起こった状況の方を気にしているようだった。

ヘンに思われるかも──だとか、わたしの考え過ぎだったのかも。

 

「あと、クラスの男子から例のビラを1枚回収しました。どうもお昼に取りこぼしちゃってたみたいで」

 

「げ、マジか…。変だな、きっちり全員から巻き上げたはずなんだが…」

 

「そうなんですよねー。イモ先輩大丈夫ですかね?」

 

再び進級の危機に晒されるかもしれない人物に二人で思いを馳せていると、雪ノ下先輩が「ところで」と先輩に問いかけた。

 

「肌着の類の盗難ならよく聞くけれど、女物の手袋なんて盗んで、犯人は一体何をしたかったのかしら」

 

ちょ…?!

いきなりなに口走ってるんですかこのひと!昨日の話、もう忘れちゃったんですか?

いくら先輩に話せたからって、恥ずかしいって気持ちはなくなってないんですけどー?!

 

「いや俺も変態じゃないから分からんし」

 

「全く想像が及ばないのよね。例え話で構わないから、良かったら参考までに教えて貰えないかしら」

 

「そうだな…。あくまで例えばだけど、嗅いだりしゃぶったりしごいたり突っ込──って危うく(つまび)らかに語っちゃうところだったわ!相変わらず誘導尋問すげえな…」

 

「私は何もしていないのだけど…」

 

「前置きの説得力のなさがハンパないですね」

 

「あたし、ヒッキーには絶対手袋貸してあげない」

 

結衣先輩とわたしは手を取り合って震えた。昨日の下ネタ発言が可愛く思える、想像を絶するヘンタイ行為。特にラスト、とんでもないこと言いかけてませんでした…?

 

「要するに、比企谷くんに掛かればストーカーの行動なんて児戯にも等しい。(へそ)で茶を沸かすレベルだと?」

 

「いやそれ逆だから。何で俺がストーカー軽く凌駕しちゃってるの」

 

顔を見合わせたわたし達は、同じように思っていただろう。

犯人もきっとこのひとには敵わない。色んな意味で。

 

 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

一色に撫でられた所が熱を持っているように感じる。

いや、撫でられていない所もだ。何だか全身が熱いような気がしてきた。

これはまさか──恋?

いいえ、ただの全身打撲です。

 

野郎、思い切り突き飛ばしやがって。おかげで一瞬、空飛んじゃっただろうが。

飛ばない八幡はただの八幡。是非ともそのままの俺で居させて欲しいものである。

しかし打撲だけで済んだのは不幸中の幸いだったな。まだあれから一年経っていないのに、また骨折とか冗談じゃない。まあぼっちはこれ以上悪化のしようも無いし、堂々と入院するのも悪くはないが。

 

「ヒッキー」

 

痛む手足をさすっていると、いつの間にか由比ヶ浜が俺の背後に立っていた

 

「それ、突き飛ばされたってホント?」

 

ぎくりと身体が固まる。その抑揚のない声が逆に恐ろしい。

あれ?まさかさっきの、声に出しちゃったりとかしてないよな?

動揺を隠すため、湯呑みに注がれた紅茶を口に運ぶ。

 

「は?誰がそんなこと言ったよ」

 

「ゆきのんに聞いた」

 

「げほ…っ。雪ノ下!なんで教えた?」

 

はぁ、と悩ましげに顔を手で覆った彼女は、その細い指の隙間からこちらを睨むようにして言った。

 

「全く…語るに落ちるとはこの事ね。私から言うわけがないでしょう」

 

「やっぱり!ゴメンねゆきのん、ダシに使っちゃって」

 

「一色さんが居なかったのがせめてもの救いね」

 

どうやら、俺は一杯食わされたらしい。

 

雪ノ下の言う通り、一色は既にここにはいない。俺の膝をさんざん撫で回した後、そそくさと生徒会室へ向かった。あのナリで時々勤勉だったりするもんだから、彼女の性格というのは未だによく分からない。

やはり仕事が溜まっているらしいのだが、そんなに忙しいのに何しに来たんだろうか。珍獣ヒッキーのグルーミングはさほど重要とも思えないのだが。

 

「まさか由比ヶ浜にカマをかけるだけの知恵があるとは…」

 

「貴方ばかりを責めるのも酷かしら。今のは私も驚いたもの」

 

「いつも思うけど、二人の間であたしってどういう扱いなの!?さすがに気付くから!ゆきのんもなーんか不自然にそっぽ向いてたし!」

 

「…だとさ」

 

「こほん…。仮に私の所作が多少のヒントになったのだとしても、私自身は何も言ってはいないわ。嘘はついていないでしょう」

 

「また小学生みたいな負け惜しみを…」

 

「だいたい比企谷くん、私にもきちんと説明していないじゃない。そりゃ、転んだなんて話を本気で信じてはいなかったけれど」

 

「それで、どうなってるの?あたしだけ知らないとかヤだからね!」

 

仲間外れにするつもりはなかった、なんてお為ごかしはしない。実際、由比ヶ浜のことは意図的に遠ざけようとしていたからな。どう見ても腹芸の得意なタイプではないし、いつも通りの彼女で一色の相手をしていて欲しかったのだ。

 

「正直、このタイミングで教えるのはあまり気が進まないのだけど…」

 

俺のやろうとしていた事。

一色に伝えていない最終目的。

ぐいぐいと詰め寄る彼女の圧力に屈したように、雪ノ下は口を開いた。

 

* * *

 

犯人の敵意を引きつけ、俺に対する事件を起こさせる。彼女が話した内容は要約すればそういうことだ。

この方針における問題点は「俺の身が危ない」という一点に尽きる。昨日までなら上手くやれていると主張することもできたが、今の状況ではそれ見たことかと言われかねない。共犯者である俺達は、揃って決まりの悪い顔をしていた。

 

「それ、いろはちゃんには隠してるんだよね?」

 

「ええ。何も知らされない事が辛いという事もあると思うのだけど…」

 

話を聞き終えた由比ヶ浜の顔は悲しげだったが、意外なことに否定の言葉を口にはしなかった。

間違いなく止めに来るであろうと身構えていただけに、ちょっと肩透かしの気分である。

一色の心情を(おもんばか)る彼女の尻馬に乗っかって、チラチラとこちらに視線を投げる雪ノ下。

おいおい、その話は済んだはずだろ?ったく、由比ヶ浜が絡むとすぐ雪解けしちゃうなこいつ。

 

「一色は既に相当なストレス状態にある。今は何とか凌いでるみたいだが、これ以上心労を増やすとトラウマになるぞ」

 

「ガイシャもこう言っている事だし。その遺志を尊重して、とりあえず秘密ということになっているわ」

 

「言葉の端々に故人への配慮が混じってるのは気のせいですかね」

 

「あら、草葉の陰からなにか聞こえてくるわね」

 

「気のせいじゃありませんでしたねやめて下さい泣きますよ」

 

「…ずるいよ。いろはちゃんのこと持ち出されたら、止められないじゃん」

 

「諦めた方が良いわよ。私も同じやり口で黙らされたのだから」

 

こいつらさっきから人聞きが悪すぎるな。ここだけ抜き出すと、まるで俺が女子二人を脅迫してるみたいに聞こえる。ご近所さんの耳に入ったら悪い噂じゃ済まないレベルである。つっても、この教室にやってくる物好きなんてそうそう居ないんだけどな。

 

そんなフラグめいた俺の考えに世界が反応したのか、狙ったようなタイミングで軽妙なノックが部室に響いた。

 

「やあ、こんにちは」

 

「あ、隼人くん」

 

訪問者は葉山隼人。まあ来るだろうとは思っていた。

おそらく昨日の話の続きだろう。身体めっちゃ痛いし、出来れば動きたくないんだけどな。

 

「何かご用?」

 

葉山は軽く部室を覗き込み、素早く視線を走らせた。一色が居ちゃ話しにくいだろうからな。

その仕草に雪ノ下の眉が不愉快そうに動き、「おっと、失礼」と葉山は頭をかいた。

 

「比企谷にちょっとね。でも君達にも知らせておきたい話だしちょうどいい、聞いてくれ」

 

勧められた椅子を固辞し、葉山は戸口の傍の壁に寄りかかった。

 

「中原のことだけど、彼はここ数日のトラブルとは無関係だと言っていた。俺は信じてもいいと思う」

 

「ちょっと待って。葉山くんがいつの間にか首を突っ込んでいるのはともかく、まさか本人に直接そんな話をしたの?」

 

「ああ、今日は登校していたみたいだったから、朝練の時にちょっとね。彼もちゃんと気持ちを話してくれたよ。この前教室で騒いだ事も随分と反省しているみたいだった」

 

「朝練って、どゆこと?」

 

「サッカー部の後輩なんだとさ」

 

昨日、俺が呼び出された後でどんな話をしたのか──。

葉山の発言に平然としている俺を見て、雪ノ下は大方の予想がついたのだろう。

彼女は疲れたOLのように額に手をやり、首を振った。

 

「なるほどね…。つまり比企谷くんのソレは、彼のとばっちりという事かしら」

 

俺に反対されることは折り込み済みでも、ここまで否定的な反応は想定していなかったのだろう。

露骨に視線を合わせようとしない雪ノ下の様子に眉尻を下げた葉山は、由比ヶ浜に説明を求めた。

 

「…結衣、何かあったのか?」

 

「ヒッキー、さっき階段から突き落とされたんだよ…。それってさ、もしかして、その…」

 

「葉山くんの接触に刺激された中原くんの仕業。そう考えるのが自然でしょうね」

 

つまりは葉山の行動が間接的な原因なのではないか。

口ごもる由比ヶ浜の言葉を引き継いだ雪ノ下が、遠慮の欠片もなく言い切った。

 

「そんな…。中原がやったっていうのか…?いつ?」

 

「一時間くらい前だ。後ろからだったから顔は確認できなかった。だからそいつがやったとは限らない」

 

庇った様にも受け取れる俺の言葉に、雪ノ下が語気を荒くする。

 

「現実的に考えれば、いま一番可能性が高いのはその中原という男子でしょう?」

 

「最有力候補ではあるな。けど断定は出来ない」

 

「待ってくれ!中原はかなり反省していた。今のアイツがそんな事をするとは思えない」

 

「ねえ隼人くん。その中原くんさ、アリバイとかってないの?ホラ、さっきまで一緒だった、とか…」

 

「…いや、残念だけど」

 

話にならない、と雪ノ下は顔を背ける。

そのあたりについては彼女に同意だな。根拠が無いなら容疑を外すのは難しい。俺が同じ状況になったら間違いなく面従腹背に徹するだろう。むしろリア充相手の態度なんて常日頃からそんな感じである。

 

「…もし中原がやったっていうなら、俺の責任だ」

 

「そうなるわね」

 

歯に衣着せぬ言葉が暗鬱な部室に響く。いつも容赦のない雪ノ下だが、今日は特に辛辣だ。実害が出たのが葉山のせいだと確信しているからだろうか。彼女のロジックはサッカー部という枠組みを得て小綺麗に纏まってしまったようだが、俺はいまいち釈然としない思いだった。

 

中原の立場になって考えてみよう。

先輩に目を付けられた直後に、そんな目立つ真似をするだろうか。事実、こうして真っ先に疑われている。何かするにしても、もう少し間接的な行動を選ぶのではないか。

 

「俺に何か出来ることがあったら言ってくれ」

 

責任を感じていますと書き殴ったような顔の葉山が詰め寄ってきた。

ほーん。なら一色の彼氏役を交代してくれって言ってみようかな。一色は本命とイチャつけてハッピー、俺は解放されてハッピー、そして葉山は挽回のチャンスが得られてハッピーと言うわけだ。WIN×WINな取引とは斯くあるべきである。

 

「そう。なら余計な事をしないで貰えると助かるわ」

 

「ゆ、ゆきのん!隼人くんも良かれと思ってやったことだしさ!」

 

「分かっているわ。彼はいつもそうだったもの」

 

「……」

 

俺が要求を口にする前に、雪ノ下の鋭いカウンターによって葉山は沈黙してしまった。

そのまま言い返しもせず部室から立ち去ろうとする背中に、俺は一つだけ質問を投げかけた。

 

「昨日の件、中原に話したか?」

 

連日欠席していた中原と朝イチで話したのなら、ここ数日に起きた事件を説明してやる必要があったはずだ。

しかし葉山はバカじゃない。だとすれば──

 

「…話したのは靴箱と盗撮の件だけだ。君らのやった事は話してない。俺も実際には見ていないけど、かなりその、挑戦的な写真だったって聞いたから」

 

そう。穏便に会話を運ぼうと思ったら、俺たちのやった事は伏せておくのが正しい。

ただでさえ噂レベルでしか認識されていない上に、一色に惚れている相手にとってはかなり気分の悪いものだからな。

 

「…お前のせいじゃないぞ、たぶん」

 

葉山の答えから導かれた考え。

論理的に考えた結果としての意見を述べたつもりだったが、もしかすると情けをかけられたように聞こえたのかもしれない。

余計に顔を強張らせて、葉山は戸口から出ていった。

 

「ヒッキー、優しいんだね」

 

「何言ってんだ、全然違う」

 

由比ヶ浜から生暖かい目を向けられて、俺は正直鼻白(はなじら)んだ。

誰が葉山なんぞ庇うものか。もしアイツのせいだと確信していたら、ここぞとばかりにネチネチ文句を垂れ流してやっているところだ。そうしてやれないのが実に残念である。

仮に葉山の行動が原因だったとしても、つまりは猟犬に焦った犯人が動いたことになる。それは元々こちらの計画通りであるはずだった。故にここで尻尾を掴み損なったのは、戦略的にも物理的にも痛いミスである。

 

こうもストレートな攻撃をされる原因となると、まず思い当たるのは例の水着写真だ。

あれがコラではないと知っていれば、一色とイチャコラこいていた俺に対する敵意は爆発的に膨れ上がったことだろう。なら、今回の襲撃はそちらがトリガーになったと考えた方がしっくりくる。

そして中原が本当に知らなかったというのなら、むしろ犯人候補からは遠ざかる事になるのである。

 

ただ、今の俺は少し中原に同情的な所がある。昨日の葉山の話を聞いた時、一色相手にのぼせ上がってしまった彼の気持ちが少しだけ理解できるような気がしたのだ。教室でやらかしたことについてはフォローするつもりも無いが、もしかすると今は本当に反省しているのではないか、という甘い考えが頭の片隅にへばりついていた。

だからこの二人には、引き続き中原を疑ってもらうことにする。葉山としては女子二人に敵視されて針の(むしろ)かもしれないが、ドMの素養もあるみたいだし問題ないだろう。

 

「比企谷くん。これでもまだ現状維持を続けるつもりなの?」

 

「やられっぱなしとか超くやしいんだけど…」

 

やられたのは別に由比ヶ浜ではないんだが、当人よりよっぽど腹に据えかねているようだ。

今回の事で犯人候補をきっぱり定めてしまったのか、雪ノ下もこのままでは収まりが着きそうにない。

少々予定とは違うが、ここは動くべきタイミングであると判断する。

 

「──いや、防戦するにしてもこう毎日じゃ身が保たない。次はこっちから仕掛ける」

 

「おー、さすがのヒッキーもやる気だ!でもどうするの?」

 

「今度はきちんと聞かせてもらえるのよね?」

 

「もう写真なんてヌルい事は言ってられない。面倒だけど俺が身体を張る。もちろん一色にも一肌脱いでもらう」

 

「えっ!まだ脱がす気?あともうハダカしか残ってないんだけど…」

 

何かこれ、売れないアイドルの末路について話してるみたいだな…。

アホの子オーラを遺憾なく発揮する由比ヶ浜をスルーし、俺は携帯を取り出した。

数少ないアドレス帳から登録したばかりの名前を見つけ、迷わず電話を掛ける。

 

短い呼び出し音の後、スピーカーの向こうから昨晩と同じ相手の声が、しかし遥かに高いテンションでもって聞こえてきた。

 

『もしもしー?どうしたんですかー先輩。わたしの声聞きたくなっちゃいました?電話代だけでこんな可愛い声が聞き放題ですもんねーちょおラッキーですよねー!あーでもでもー、学校に居るんだからフツーに会ってお話しませんかー?そりゃ電話の声も悪くないですし目つきが見えない分余計に──』

 

とりあえず通話を切った。

 

「…一色ってこんなんだっけ?」

 

「う、うーん。…相手によるんじゃない?」

 

夕べとは別人だな。あれでイタ電に怯えた状態だったってことか?俺としてはあのくらいでも十分過ぎるんだけどな…。

 

掛け直すのを躊躇(ためら)っていると、俺の携帯がブルブルと震えだした。

曲を入れれば趣味を蔑まれ、電子音ならダサいと言われ、マナーにし忘れれば顰蹙(ひんしゅく)を買いかねない。音を鳴らして良い事なんて一つもないのだ。つまり常時バイブこそが絶対の正義である。

 

『なんで切るんですかー!』

 

「…お前、違う人からだったらどうすんの?かなり可哀想な子だぞ?」

 

『そんなの分かっててやったに決まってるじゃないですかー』

 

「俺まだ一言も喋ってないんだけど」

 

『そこは雰囲気で!…というのはまだ無理ですけど、ちゃんと着信設定してるし二度と間違いませんよ。なのでご安心を』

 

「そ、そうか…」

 

俺の番号が女子の携帯に登録されているという事実。じわじわこみ上げてくる嬉しさみたいな感情を全力で踏み潰す。訓練されたぼっちはこの程度では取り乱したりしない。

 

『それで、何の用ですか?もしかしてまだ撫でられ足りないとかですか?雑用が残ってるので終わるまで待っててもらえれば、もうちょっとだけしてあげないこともないですよ?』

 

待ってたらしてくれんのかよ。じゃなくて。

 

「あー、あのな。明日なんだけど。土曜だろ?」

 

『はい、土曜ですね』

 

「お前、ヒマだったりする?」

 

 

プーッ... プーッ...

 

 

返事の代わりに俺の耳に届いたのは、無機質なトーン音だった。

 

「…き、切られた」

 

「あ、当たり前じゃん!なに急に誘ってんの?!バカじゃん?!ヘンタイ!ヒッキーのエロス!」

 

ええー…。ブッツリ切られるのって当たり前なの…?やっぱ慣れない事はするもんじゃないなー。

確かにそういう趣旨の発言ではあった。けど少なくともエロスの介入する余地は無かったように思うのだが。

由比ヶ浜にとっては男女が出掛けるとエロいイベントが発生するのがデフォなのだろうか。夏祭りに行った時は魔王に遭遇する以外のハプニングなんて無かったはずだけどな。

 

「仕掛けるってそういう事?これ以上犯人を刺激したら本当に危険よ?」

 

「同感だな。だからこれで最後だ。今度こそ引きずり出す」

 

「けど比企谷くんが──」

 

雪ノ下が食い下がったところで、再度携帯が着信に震えた。

これ幸いと話を打ち切って電話を耳に当てる。

 

『…す、すみません、ちょっと電話落としちゃって…また分離しちゃいました』

 

えへへー、と照れたように笑う一色の声がやけに甘く耳に掛かる。昨日も感じたむず痒さが背筋を走ったような気がした。

それにしても、切られたんじゃなくて本当に良かった。もしそうだったら今後の距離感とか接し方について真面目に考え直さなければならないところだった。

いや待て、ショックのあまり取り落とすって、反射的に切るよりずっと酷い反応なんじゃ…。

 

『──で!で!さっきの件ですけども!』

 

「お、おう…」

 

『残念ながら、わたしはぜんぜんヒマじゃないです。明日は予定でいっぱいですねー。もう分刻みで詰まっちゃってます』

 

おっと、いきなり計画が(つまづ)いてしまった。でも仕方ないか、一色は対外的にはリア充の筆頭株なのだ。週末ともなると相当忙しくしているに違いない。

平日に学校で出来る事を前提条件にして策を練り直すとするか。

 

「VIP並みのタイトスケジュールだな。…悪い、聞かなかったことに──」

『でも!でもですよ?ほんとーに仕方なく、さっき全部キャンセルしました。なので今なら貸し出し可能です。最長一泊二日までオッケーです!』

 

「そ、そうなの?悪いな。つか半日くらいで良かったんだけど…」

 

新作のレンタルを勧めるようなそのフレーズに、ちょっと不安になってきた。すんなりOK出してきたけど、まさか金とか取ったりしないよな…?

後から一泊おいくら万円とか言われても払えませんのことよ?

 

『貸し出しは1日からになりまーす。あとできれば朝からで。なるべく長くで!』

 

融通が利かない上に時間帯指定もあるとは…面倒なショップである。

そんなに長くは俺がもちそうにない。頃合いを見計らって適当に解散すればいいか。

 

「なら明日の10時に駅前で受け取りってことで。それでいいか?」

 

『すっごい言い方が気に入りませんけどわたしから言い出したネタなのでそこはグッと飲み込んで──了解でーす♪遅刻したら(めっ)☆ですよ?』

 

「なんか今の発音おかしくなかった?」

 

『あっ、あと今日は送ってもらわなくて結構ですので』

 

「へ?いいのか?」

 

『大丈夫です、何なら副会長でも呼び出しますから。その方がデート、盛り上がりますよ?ではでは、明日はよろしくでーす♪』

 

「あ、ああ…」

 

そっかー、副会長って手があったかー。あとでローテーション組んでくれないか交渉してみよっと。

しかしこちらから持ちかけた話だったはずが、いつの間にか主導権を奪われていた。この調子じゃ明日が思いやられるな…。

通話終了と表示された携帯の画面を眺め、俺は椅子の背もたれにだらりと身体を預けた。

 

「…またデートするんだ?」

 

さっきと同様、いやそれ以上にむすくれた顔の由比ヶ浜がこちらを覗き込む。

雪ノ下は澄ました顔で紅茶を口に運んでいたが、すっかり温くなっていたようで、微妙に顔をしかめていた。

 

「別にデートじゃないから。あと前のも違うし」

 

そういや一色もさっきデートとか口走っていたな。目的についてちゃんと釘を刺しておけばよかった。

しかしデートの定義は人によってまちまちだし、いちいち訂正するのもなんか意識しているみたいで恥ずかしい。

彼女のデータベースには「男性と出掛けること(ただし戸部を除く)」とでも定義されているんじゃないだろうか。

 

「いろはちゃんにも危ないことさせる、みたいな言い方してさ。心配して損したかも」

 

「犯人に見せて攻撃的な行動を誘発するのが目的だから、危険っちゃ危険だな」

 

「なら、やっぱ危ないんじゃん!いろはちゃんを危ない目にあわせたくないなら、それってダメくない?」

 

「いや、一色は今のところ犯人にとって崇拝の対象だ。まず危険ってことはない。恨まれるとすれば俺の方だけだ。ただ、空振りになれば結果的に俺なんぞと二人で出歩くだけになるからな。あいつにとっては結構なリスクだろ。お前だって似たような経験あっただろうが」

 

「あ、あんなのぜんぜんリスクとか思ってないし!」

 

ほらな、"いつ"とは言わずとも、ちゃんと通じてるじゃないか。ちなみに夏祭りで相模たちと鉢合わせしちまった時の事な。

一色は由比ヶ浜以上にブランド戦略に頼って生きている。そんな彼女が休日の駅前という危険地帯を底辺男子とブラついていたら、クラスメイトに見つかって恥をかく可能性もある。悪いとは思うが、ストーカーにおかしな事をされるよりはマシだと考えてもらうしかない。…マシだよな?

 

「犯人が必ず貴方達を見ているという保証はあるの?」

 

「保証はないな。でもここ数日の行動から見て、俺か一色…たぶん集団から外れて行動している方を監視してる可能性が高い。けど、相手がどっちを見ているかが分からないから──」

 

「一箇所にまとめてしまえばいい、と。そういう事かしら?」

 

「正解。なら他に俺が言いたい事も分かるだろ?」

 

「集団化しては意味が無いから付いてくるなという事よね。でも…」

 

「ヒッキーは恨まれるんだから、けっこう危ない立場なんでしょ?」

 

「そうね。普通のデートならともかく、これは言わば(おとり)作戦だわ。なら適切な支援が必要じゃないかしら」

 

確かに。この手の作戦は本来、囮役の何倍もの裏方スタッフが居て初めて成立するものだ。それにさっきの理屈で言うなら、犯人に見つからない範囲で尾行してくる分には問題ないと言える。

だけど俺の感情的には問題大有りだ。いくらヤラセといっても、知人(しかも女子)に見守られながら後輩(これも女子)と街を歩くとか、色々としんど過ぎる。

大丈夫、相手も街中で行動を起こすほどブチ切れてはいないはず。少なくとも、今はまだ。

 

「いいから。絶対に付いてくるなよ?」

 

説明しても納得してもらえないと思ったので、有無を言わさず結論だけを告げる。

色々な不満が混ざり合ったような二人の視線を背中で受け止めながら、この先の方針について、俺は静かに考えを巡らせたのだった。

 

 




砂糖大盛り、準備よーし!
次話は待望のデート回です。皆様応援ヨロシク!



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■23話 そこに至るまでの過程

へいお待ち!大盛りいろはす一丁!


「ふふっ…」

 

顔立ちに不釣り合いな色っぽい笑みを浮かべ、更に一歩、彼女はこちらに踏み込んできた。

自分の領域を食い破られ、押し倒されているかの様な感覚に包まれる。

 

「ねえ、先輩…」

 

甘い吐息が鼻先をくすぐる。

瞬きに長い睫毛が揺れるのさえ、はっきりと見える距離。

肩に置かれたその手が、小さな身体に篭った熱い体温を伝えてきた。

 

「そんなんじゃ、物足りなくないですか…?」

 

今の俺達は、周囲の人間の目にどう映っているのだろうか。

バカップル?爆発しろ?

上等だ、爆発でもなんでもいい。誰かこいつを止めてくれ。

 

「おい、やり過ぎだ。冗談にしたって…」

 

「まだ、冗談だと思いますか…?」

 

蛍光灯にぼやけたその影が、俺の顔に落ちる。

濡れたような瞳が逆光の中で妖しく輝いた。

犯人に見せるのが目的とは言ったが、ここまでする必要はない。

 

「ま、待て。何考えて──っむ?!」

 

 

思い留まらせようと開いた口は、彼女によって塞がれていた──。

 

 

 

× × ×

 

 

 

「あぶね…。結構ギリギリだったな」

 

押し出されるようにしてホームに降り立った俺は、ひとつ大きく息を吐いた。

窮屈な車両に押し込まれて不足していた酸素を思う様吸い込むと、肺に溜まった人熱(ひといき)れが押し出されるのを感じる。寒いのは大嫌いだが、こういう時は冷たい空気がありがたい。

しかし休日の朝っぱらから、これは一体何の罰ゲームだろうか。子持ちのお父さん方は本当によくやっているものだ。 

 

ブルゾンの袖に埋もれた腕時計を見れば、長針が示すのは約束の5分前。

小走りで駅を出ると、正面のロータリーには多くの人間がたむろしていた。後ろから俺を追い越していった男性が、女性の下へ手を振りながら駆け寄っていく。

え、こいつらみんなデートの待ち合わせなの?千葉ってばいつからこんなに彼女持ちが増えたの?

 

彼等の浮かれた顔がやたらと(かん)に障る。何が「寒いねー」だ。この世の春を謳歌してる分際で。

こっちはさながら休日出勤させられる社畜の気分だ。なにせこれから俺に待ち受けているのはデートでもなければ休日でもない。いつもの部活の延長なのだから。

 

「ん…なんだ?」

 

相方を待っているであろうリア充男子ども。連中の視線が、とある一点に集中していることに気が付いた。

もしかしてチーバくんでも来ているのだろうか。だったら写真撮って小町に自慢してやりたい。

県民愛をたぎらせてそちらを見てみれば、視線を集めているのは一人の小柄な女の子だった。

 

白っぽいダッフルコートの内側には黒系のセーターとチェックのミニスカート。膝上まであるロングブーツとの間には白い太ももがちらりと覗く。いわゆる絶対領域と呼ばれる代物だ。

絶妙に調整された露出が発する引力は極めて抗い難く、伝説のガハマ連峰にも匹敵する勢いだった。

 

彼女は両手をコートのポケットに突っ込んで、揃えた(かかと)をトントン鳴らしている。灰色の空を見上げてはぁっと白い息を吐くその姿は、「美少女といえばコレ」という要素を分かりやすく圧縮したようだった。例えるならば冬季限定チョコレートのCMで見かけるような、そんな感じ。

 

これが駅前で独り退屈そうに突っ立っているのだから、そりゃもう目立つこと目立つこと。

ダメ元で挑戦しようかなんて、顔を上気させた男連中が遠巻きに相談をしているのが聞こえた。

 

イヤだなー。

帰りたいなー。

 

俺、今からあれに声掛けるのか…。

 

「あっ、先輩!」

 

のたのたと近づく俺を目ざとく発見した彼女は、ちょっぴり上擦った声を上げた。良く出来た人形が魂を吹き込まれたかのように、その表情をぱっと綻ばせる。対照的に俺の表情は生気を失い、さっと暗い影が落ちた。

 

彼女は真っ直ぐこちらへと向かってくる。

俺は我関せずという体を装い、後ろを振り向いた。

よんでますよ、先輩さん。

 

…だって今の見た?

周りの人がね、ガッ!て一斉にこっち向いたんですよ。超怖えー。

戸部っていつもこんなのに耐えてるの?さてはアイツもドMだろ。サッカー部そんなんばっかだな。

もうね、「ないわー」って声が聞こえてくるんですよ。心の声じゃなくて肉声で。いや実際その通りで、俺ってばこの子の彼氏じゃないんだわー。

まあ今日の目的を考えれば、そんな誤解まみれの空気も有効活用しなくちゃいけないわけなんだが…。

 

「ちょっと先輩、なんでいきなり顔背けてるんですか。かなりヒドくないですかー?」

 

「お、おう。いや、ちょっとな…」

 

トトっと駆け寄ってきた冬の美少女さんは、もちろん一色いろは。

こうして話していると、いつもより一際眩しくはあるものの、俺の知っている彼女であることが分かる。身に帯びた香りもいつもと同じだ。さっきは何だか遠い存在のように感じたんだが…。

 

反応の薄い俺に業を煮やしたのか、一色は「もしもーし?」と俺の二の腕を叩いた。

しかしそんな微細な衝撃も、未だ中破状態の俺にはそれなりのダメージとして伝わる。「いて」と頬を引き攣らせたのを見た彼女は

 

「あ、ごめんなさい!今の、わざとじゃなくて…」

 

と、慌ててその場所に手を伸ばした。

 

おいおい。こんな人目の多い場所で愛撫プレイとかレベル高すぎでしょ。開幕早々、社会的に俺を抹殺する気なんですかね。それとも羞恥心をまるっとおうちに忘れてきちゃったの?そんな装備で大丈夫か?

 

ナデナデを押し留められた彼女は、気を取り直したようにさっきのやりとりを再開した。ただし、俺の袖はきゅっと握ったままだ。この安定のあざとさ。やはりこの娘、間違いなくいろはすである。

 

「ていうか、遅いですよ先輩。ちょお寒かったですー」

 

「大丈夫だ、俺は全然待ってない。いま来たところだ」

 

「いえそれは見れば分かります…。色々おかしいんでどこから突っ込めばいいかわかんないです」

 

はて。確か以前に彼女自身が言っていた、こういう時の模範解答のはずなのだが。

 

「もしかして待ってた?」

 

「先輩の5分前には着いてましたね!」

 

えへん!と控えめな胸を張る一色。

いや言うほど待ってなくね?と思ったが、ふわりと広がる髪から一瞬見えた彼女の耳は、冬の空気に赤く(かじか)んでいた。

うーむなるほど、これが「全然待ってないよ」の正しい使い方か。確かに気付いちゃうとすさまじい罪悪感がある。お詫びに何か奢ってと言われたら「ハイ喜んでー!」といい笑顔で応えちゃうレベル。なぜだろう、俺も遅刻はしていないはずなのに。

 

「それより先輩。ほらほら、か・ん・そ・う!」

 

腰にしなを作って軽いポーズを決めてみせる一色。

さっきも心中で評した通り、写真にすれば商売でも通用するレベルだと思う。だからと言って、正直に褒めるなんて選択肢があるはずも無いんだが。

だいたい俺なんかが言わなくても十分過ぎるほど可愛い自信があるだろうに、そこを敢えて聞いてくる意図が分からん。どうしてもと言うなら道行く人にでも聞いてくれないだろうか。

 

ただ、今日は一応犯人に見せ付けるという目的がある。普段の俺の柄ではない行動だとしても、多少の演技は覚悟してきたつもりだ。まずは妹向けテンプレで対応しておこう。

 

「あーうんすげー似合ってる超可愛いよ」

 

心の底から棒読みですほんとうにありがとうございました。

 

いやね、可愛くない相手なら頑張ればお世辞くらいは言えるんですよ?嘘とかわりと得意な方ですし。

でも本当に可愛い相手だと、気障(きざ)っぽくて逆に言えなくなるんだわこれが。ほら、ガチのハゲには冗談でもハゲって言えない理論的なアレな。

 

「な…」

 

彼女はきゅっと自らの両腕を抱くと、その半身を俺から隠すようにして言った。

 

「なんですかいきなり!そういうの似合わな過ぎて心臓に悪いですまじまじと見ないで下さいお世辞なら休み休み言ってほしいです!」

 

「…なら休み休み聞いてくれ」

 

「うー、なんなんですかーもぉー!」

 

理不尽には慣れているつもりだったが、一色のそれはどうやら小町とはパターンが違うらしい。

さっきより優しく気遣われたぺこぽん制裁を二の腕に受けながら、今日は疲れる一日になりそうだと覚悟を決めた。

 

やたら目立つロータリーから離れて人心地付いていると、彼女はにっこりと笑って言った。

 

「まずはどこに行きましょうか」

 

「一色は行きたいとことかねえの?」

 

「まずはどこに行きましょうか」

 

「……」

 

おっふ、流石はリアル人生。

最初の選択肢でいきなり無限ループにはまってしまった…。(あらかじ)め定められた正解を答えない限り、作り笑顔に付き合わされるらしい。

だが問題ない。この程度は想定の範疇だ。こんな事もあろうかと、脳内に小町謹製のカンペを仕込んで来たのだ。

 

「う、ウィンドウショッピングとか…?」

 

「ぷっ…」

 

どうやらループからは抜けられたみたいだが、あんま正解って感じでもないな。

 

「ごめんなさい。だってちょお似合わないんですもん…」

 

「…つまり、不正解?」

 

「いえいえ、正解ですよ。でもららぽが目の前にあるのに迷うことありますかね?」

 

「もしかしたら海岸を散歩したいとか言い出すかも知れないと思ってな」

 

「ないですから。この寒いのにいきなり海沿いの散歩とかないですから」

 

俺達の目と鼻の先には、千葉県民の集う大型ショッピングモールがでんと構えている。待ち合わせたのはその最寄り駅だった。

そんなロケーションでいちいちクラスメイトの目を気にする必要があるかって?あるんだよこれが。

 

千葉の人間にとって、買い物と言えば"ららぽ"か"パルコ"か"いなげや"なのだ。ソースは俺。だいたいそのどれかで済ませてる。

そして事実、ぼっちの俺でさえ、ここで過去に何度か知り合いに遭遇している これが一色クラスともなれば、テナント一つにつき一人くらいは顔見知りとエンカウントするんじゃないだろうか。

 

初っ端から選択を誤ったかと思ったが、つらつらと文句を(こぼ)す割に、一色の顔は明るい。

夕べは特に寒かっただの、小町が可愛いだのと会話の途切れない彼女の相手をしつつ、俺達はららぽーとへと足を向けた。

 

 

* * *

 

 

人の流れに逆らわず、施設の中へとなだれ込む。すわ初詣かとも思える人の波に即席パーティーの分断を危惧したが、一色はあれからずっと俺のブルゾンの袖を握っていた。ただしいつもの様に腕を絡めてこようとはしない。いくら演技でも流石に外でそこまでする気はないのだろう。

そんな風に勝手に安心していると、俺の視線に気づいた彼女はこう言った。

 

「だって、まだ痛いんですよね…?」

 

ビッチらしからぬ慈愛を滲ませたその声色(偏見)。

怪我してなかったら腕を組んで歩くのだろうか。何それ恐ろしい。本物のカップルでもそうそう居ないだろ。

こちらを窺う一色の視線がこそばゆくて、辺りを見回すフリをしながら視線を逃がした。

 

「…なんだあれ」

 

小物や服のテナントが軒を連ねる中、少し風変わりな店舗が目に付いた。

色とりどりのガラスビンが店内一杯に溢れている。しかしそれらは規則正しく並べてあり、どこか幾何学的な美しさがお洒落な雰囲気を醸し出していた。

…ポーションの専門店?あるいは錬金術のお店とか?

 

「なあ、あれって何の店?」

 

「ああ、アロマの専門店ですね。入りましょうか」

 

「そうか。じゃあ俺ここで待って──って引っ張んないの!伸びるだろ!」

 

「もー、なんのために一緒にいると思ってるんですか?」

 

「だってこれ、まるで連行されてるみたいだし…」

 

掴んだ袖を離さず、そのまま店内に突入しようとする一色。カップルのご入店というよりは、抵抗する痴漢現行犯を派出所に引っ張り込もうとしているような光景だった。

 

「連行って…。あ、でもそれ連れ立って行くって意味なんですから、単語的にはセーフですよ!」

 

「視覚的にアウトだろ…」

 

開け放たれた入り口からは華やかな香りが漏れてきている。よく見たら店内に男性客一人もいないじゃん。これ絶対、女子の為のお店でしょ。

 

すったもんだしつつ結局店内へと引きずり込まれた俺は、そのオサレ空間を前に棒立ちせざるを得なかった。

物言わぬ貝となった俺を引き連れ、一色は店の奥へと踏み込んでいく。

俺もこの手の雑貨チックな店は嫌いじゃないけど、店員から声掛けられたらいつでもとんずらかませるように外側から攻める派なんだよな。それをいきなりこんな敵陣深くまで…。いろはすったら大将首でも狙ってるの?

 

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

 

いかにも綺麗系といった風のお姉さんが飛び込んできた獲物を出迎える。

出たよ、初見殺しの定番台詞。ふらりと店に入ったヤツは大概これで駆逐される。何でいつも探しものしてる前提なんだよ。自分探しなんてとっくにオワコンだっつーの。

しかしそこはリア充代表の一色会長殿。彼女は常連さながらにリラックスした様子でこう(のたま)った。

 

「えっとー、彼氏とお揃いの香りとか欲しいんですけどー、オススメありませんか?」

 

「もちろんございますよ。宜しければこちらへどうぞ」

 

ほんと息をするように嘘吐くなー。こいつ見てると女子の話の真偽なんて探るだけ無駄だというのが良く分かる。あんまり堂々としてるもんで、共犯の俺ですら「左様でございますか」と畏まってしまいそうだ。

敵陣を悠々と進んでいく一色。その姿は小柄な背丈に似合わず頼もしい。彼女の後ろを歩いているうちにやっとこ余裕の出てきた俺は、改めて店内を見回した。

 

店内に並んだビンの中身は大抵がクリームやらオイルやらだったが、中には目の粗いシャーベットみたいなものもあるようだ。

興味深く観察していると、どこからともなく近寄ってきた別の店員さん(もちろん女性)が営業スマイルと共に説明してくれた。

 

「こちらは死海から取れました、ミネラルたっぷりの塩のスクラブになります」

 

なぬ?死海とな?

という事は、これに漬けておけば俺のテストの答案でさえも死海文書になっちゃうってこと?"見たら死ぬ"とかの付与効果が付いてそうだ。

やるなあ、アロマ専門店。見た目に反してめっちゃ中二臭い。材木座と来たら大変なことになるぞ。

 

「先輩、シカイってなんですか?」

 

はぐれたペットを見つけた飼い主のように、こちらへ寄ってきた一色は真っ先に袖を掴んだ。いつの間にか離していたらしい。つか、リードがなくても逃げたりしないから、ずっと握ってること無いんですよ?

 

「身体が沈まずに浮いちまうイスラエルの塩湖の事だ。海水の5倍くらいの塩分濃度があるらしいぞ」

 

「あっ、それテレビで見た事あるかもです。でもエンコ…湖なんですか?海じゃなく?」

 

「確かその辺は国際法的にも定義で揉めてるんだったっけか…。まあでかい塩湖と小さい海の明確な区別は難しいって話だ」

 

「はー…」

「はー…」

 

いや、なんで店員さんも関心してんの?あなたは説明できなきゃダメじゃない?

 

(彼氏さん、予習されてきたんですかね?凄い気合入ってますね…)

 

(いえ、こういうの素で知ってるひとなんで…)

 

(えー?イケメンだし頭も良いし、お客様とお似合いじゃないですか!)

 

(あはっ、そう見えますー?やだぁー)

 

…ねえねえその小芝居、いつまで続くのん?

それより俺、死海の塩とやらに触ってみたいんだけど。そこでサンプル弄れるみたいなんだよね。

しかしこの商品、語感的に禁忌に触れた人間の末路っぽくてかっこいいな。かつて封印した我が魂の輪廻(ルフラン)を感じる。

 

「よろしければお試しになりますか?」

 

「いいんすか?じゃあ…」

 

店内中央に設置された大きな石のテーブル。中央がくり抜かれる形で加工されたそれは、近づいてみると洗面台になっていた。

そこで手を洗った後、例のスクラブを使うのだそうだ。

一色と二人で肩を並べ、死海の塩とやらを両手にもみ込んだ。

 

「ほー…」

 

確かに石鹸みたいないい匂いはするが、ぶっちゃけそれ以外に特別何と言う事はなかった。普通に見たまんまざらっとしていて、傷口があったら超滲みそうだなーって感じ。

しかし水で洗い流したところで、その感触に俺は目を見開いた。

 

「うおっ、なんじゃこれ」

 

ほんとに俺の手か?スベスベなのにしっとりっつーか、とにかくやたら手触りが良い。自分の手なのにずっと触っていたくなる。何なら玉縄ばりに日頃から揉んでいたいくらい。

 

「含まれているミネラルがお肌をしっとりさせてくれるんですよ」

 

凄いわー。ほんと凄い。

けど、俺がスベスベマンジュウガニになって、一体誰が得するんだ?しかもよく見たらこれ、一瓶で五千円以上するし。

 

「うわ!すっご、ちょおスベスベですよ!先輩、ほらほらー」

 

「ちょ、分かったから触んなって」

 

「先輩の手もスベスベ!気持ちいいかもー!」

 

スクラブ効果に気を良くした一色が、俺の手をぺたぺた触ってきた。

うひぃーーっ!ほんとに人の手か?!

元が女子だからなのか、それともこれが真の死海パワーなのか。一色のスベスベ具合は俺のそれとは次元が違った。これでは人類も補完されかねない。八幡溶けちゃう!

 

「わ、分かったから。はい、もう終わりな、おしまい」

 

「えーなんですかーけちー。これ買って行きましょうよ。ちょおスベスベですし」

 

一色流ハンドエステfeat.死海ソルト。

これは危険すぎる。色んな意味で足腰立たなくなりそうだ。

 

「チッ……いかがでしたか?」

 

(…おい今この店員さん、舌打ちしなかった?)

 

(さすがにこれ以上の挑発はNGっぽいですね)

 

(挑発してたのかよ!やめたげて!)

 

さんざん冷やかしたお詫び代わりにお高い石鹸を購入し、俺達はその店を後にした。小町なら喜んで使うだろ。いい匂いがするから間接的には俺得だしな。

 

「ちょっとおなか減りません?」

 

「…そうか?」

 

「減りましたよね?」

 

このシチュエーションは…。

まさか早くも二度目のループに突入したのだろうか。

戦々恐々としていると、今度は一色が自ら提案をしてきた。

 

「あれ食べませんか?」

 

彼女の指す先には独特の形状をした焼き菓子のコーナーがあった。うろ覚えで書き殴ったベンツのロゴみたいなアレ。アロマ店から離れてみて気付いたが、確かにこのあたりには香ばしい匂いが漂っていた。

 

「確かプリッツみたいな、ブリュッセルみたいな…。そんな名前だったっけか」

 

「プレッツェルですよー。そこまできてなんで答えが出てこないんですか」

 

「あれっておつまみじゃないの?アメリカ人が野球見ながらポリポリやってるイメージなんだけど」

 

「スナックみたいに焼きしめてるのはまさにアメリカのですね。でもあそこで売ってるのはドイツ型です。焼きたてを食べる前提ですから、柔らかくてもちもちで美味しいですよー?」

 

「ほー…。何か面白そうだな。食ってみるか」

 

「やたっ♪」

 

一色がこういう雑学みたいなのに詳しいというのは意外だったが、お菓子の仲間だからだろうか。アメリカとドイツで違うとか、それらしいウンチクを語られると弱いんだよな。

 

カウンターに続く列に並ぶと、テキパキと接客をこなす店員達の姿が目に映った。みんな似たような年代の女子である。モラトリアムが許される学生の身で、お休みの日までわざわざ労働に勤しむ姿には恐れ入る。

それにしてもこの店、やけに顔の小綺麗な店員が多いような…。実は飲食店は世を忍ぶ仮の姿で、夜になるとみんなでアイカツ!してるとか?

 

「先輩…?」

 

首筋にドライアイスでも近付けられたような、産毛がざわっと逆立つ感触。一色は0円スマイル(愛想笑い)を維持しているが、こいつの表情ほど当てにならないものもない。

 

「言っておきますけど、わたしも受かった事ありますからね?」

 

「え、何の話?」

 

「ここの面接ですよ。可愛い子しか受からないって有名です。そしてわたしはもちろん即採用でした」

 

そう言って、胸元で小さなピースをチラつかせる。

さっきの一瞬でどこまで思考を読まれたのだろう。ちょっと怖い。確実にヒッ検の段位が上がっている気がする。

 

「なに、一色ってここでバイトしてたの?」

 

「ここじゃなくて、最寄り駅の系列店ですけどね。…でも一週間くらいで辞めちゃいました。お客さんから毎日連絡先渡されるし、チーフは必要もないのに連絡してくるしで、我慢できなくなっちゃって…」

 

「あー…」

 

パワハラ…いやセクハラなのか?どちらにせよバイト女子あるあるって感じの話だな。お客にまで大人気なのは流石と言うしかないが。

あのいろはスマイルが無料で見られるなら、それを目的に来店する男がいてもおかしくないだろう。あざといと言えば聞こえが悪いが、店員の接客態度としてはある意味で理想的でもある。

ここの制服は見たところタイトな黒のポロシャツだが、明るめの髪色とスレンダーな体系の彼女にはさぞ似合った事だろう。なんならゴールデンのCMに出しても全く恥ずかしくないレベル。

 

「一週間か…幻の店員として都市伝説とかになってそうだな」

 

一色が辞めた後も暫く、彼女目当ての客が通っていたらしい。それも見ようによっては十分ストーカーのような。

 

「それ以来、そのお店には二度と近寄れなくなっちゃって。だからここに来たときはよく寄っていくんですよ」

 

「顔が良過ぎるのも大変なんだな」

 

「な、なんですか口説いてるんですか!わりと嬉しいですけどちゃんと顔以外も見てもらわないと空しくなるので出直してきてくださいごめんなさい!」

 

最後まで聞くのが段々面倒になってきたので、俺は一色のお家芸を途中で放置すると、セットのドリンクメニューへと思いを馳せた。

 

「せめて最後まで聞いてくださいよー!」

 

 

一色のチョイスに任せ、プレーンとシナモンシュガーを購入し、プレートを持って店内をうろつく。

どうせなら広い四人掛けをと思って席を物色していると、彼女はなぜか壁側ではなく通路側のイスを陣取った。

てっきり女子はみんなソファみたいな形の壁側席が好きなのだと思っていたが、そうとも限らないのか。

 

いやよく見ろ。この四人席は店の隅にあたる。壁側に座ってしまうと、もしも追い詰められた時に逃げ場がないではないか。大した危機管理意識だな。発揮する方向を変えてくれるとなお良いのだが。

 

でもそんなの気にしない。だって俺、隅っことか大好きですから。警戒すべき方位が半減するから気楽でいいんだよな。

そんな吹き溜まりのポジションに身体を預けて一息付いていると、思いがけない事が起こった。

 

(おもむろ)に立ち上がった一色が、ぐるりテーブルを回り込む。

そして俺の隣にとすんと腰を下ろしたのだ。

 

「え」

 

他人に近付かれると不快に感じる領域をパーソナルスペースという。日本人の多くは前方に伸びた卵形をしているそうで、それほど親しくない相手と食事する場合、向かい合うより横並びの方がいいらしい。これはお一人様専用カウンターの距離感を考えてもらえば分かりやすいだろう。

まさか一色は、それを気遣って隣に座っ──

 

「はい先輩、あーん♪」

 

…うんまあそんなこったろうと思った。

 

まだうっすら湯気の立つプレッツェルにいそいそと紙ナプキンを巻いた一色は、実に素敵な笑顔で手に持ったそれを差し出してきた。

もちろん身体を反らして距離を取ろうとした俺は、しかし肩に感じた堅い感触に目を見開いた。

 

「なん…だと…?!」

 

何度も言うが、この席は隅っこだ。角だ。どん詰まりだ。何かあったら逃げられないと、分かっていたはずなのに。

テーブルと壁と一色に包囲され、俺は完全に進退窮まった。焦る俺の顔色を見て、彼女は嗜虐的な笑みに唇を歪める。その目はまるで窮鼠(きゅうそ)をいたぶる猫の如し。

 

「あーん♪」

 

「どこかで仕掛けてくるんじゃないかとは思ったが、まさかこう来るとは…」

 

「あ、期待してました?先輩もノリノリじゃないですかー」

 

「そういう意味じゃないから。さすがに無理。自分で食う」

 

「させると思います?」

 

一色はプレッツェルの乗ったプレートを素早く俺の射程から退避させた。いやそれ、プレーンは俺のだろ?

 

「…おい」

 

「あ、おっきいですか?じゃ、このくらいで」

 

手で半分にちぎると、それを再度こちらの口元へと近づけてくる。

 

「…っく」

 

ちらりと周りを盗み見ると、同い年くらいの女子が向けている好奇の視線とがっつりバッティングしてしまった。

なんたる恥辱。こんなこといつまでもやってたら良い見せ物じゃないか。

 

大丈夫、小町だと思えば余裕でいける…!

目を閉じて、思い切ってかぶりついた。

 

「はぐ…」

 

「あはっ♪」

 

シナモンの香りと砂糖の甘さ、そしてふかふかのパン生地のような感触が口に広がった。おお、確かにこれは美味いな。

恐る恐る目を開くと、彼女もプレッツェルをはむはむしているところだった。プレートの上を見ると、半分になった残りのシナモンシュガーがそのまま残っている。

 

…おいおい、なら今一色が食ってる方って俺がかじった方じゃない?ちょいとお前さん、一体何のためにちぎったのかえ?

 

「あむっ…。んー、おいし♪シナモンはちょっとカロリーヤバいですけど、たまにはいいですよねー」

 

もうちょっとほら、衛生観念っつーの?そういうのケアした方がよくないですかね。雪ノ下みたいにしろとは言わんけど、比企谷菌とか気にならないの?

 

「先輩、もう一口食べます?」

 

彼女が手にしたそれは、口にした痕跡がはっきりと残っていた。いつかのマッ缶の時は暗くてよく分からなかったが、表面にパウダーが振りかけられているせいで、あからさまに唇の触れた跡が残っているのだ。気が付かないフリなど出来はしない。

彼女は飽きもせず「あーん♪」と俺に差し出してきた。

 

ひたすらそっぽを向いて抵抗していると、一色は「ふふっ」と笑いながらプレッツェルを引っ込めた。

 

「ねえ、先輩…。そんなんじゃ、物足りなくないですか…?」

 

俺の肩に手を置き、ぐっと身を乗り出してくる一色。 顔、近っ!息があったかいし良い匂いがするから離れて!

 

「おい、やり過ぎだ。冗談にしたって…」

 

「まだ、冗談だと思いますか…?」

 

「ま、待て。何考えて――」

 

 

× × ×

 

 

「えいっ♪」

 

残りのシナモンシュガーを口に押し込まれ、俺は目を白黒させた。

一色は鼻歌を歌いながら、生き残った俺のプレーンにまで手を付けている。

 

「あれー、どうしたんですかー先輩。顔真っ赤ですよー?」

 

「…………」

 

言い返したい事は山ほどあったが、何を言ってもヤブヘビになりそうだ。

文句や言い訳をひっくるめ、俺は甘いプレッツェルをごくりと飲み込んだ。

 

 

・・・

 

 

「…二人、移動するみたいよ。いいの?」

 

「あっ、あっ、あーんな近付いちゃってさ!ちょっと攻めすぎじゃない?後ろからドンってしたらむちゅーってなっちゃうじゃん!いいの?押しちゃうよ?いや絶対させないけど……むぎぎ…」

 

「みっともないからストローを(かじ)るのはよしなさい…」

 

 

・・・

 

 

「せんぱーい。ねえ先輩ってばー」

 

最初あんなに気後れしていた一色を連れ歩くこの状況に、俺は次第に慣れつつあった。

彼女がまとわりつく度にふっと鼻に届く香りが、袖越しに時折伝わる手の柔らかさが、あって当たり前のもののような気になってくる。

 

「せんぱーい、機嫌直してくださいよー」

 

「…いや、別に怒っちゃいないけど」

 

「あっ、じゃあ照れてるんですねー?」

 

「激怒してる」

 

「あははっ、許してくださいよー」

 

駄目だこれ、完全にバカップルのノリだ。

死ね死ね団に見つかったら真っ先にやられるやつだ…。

 

腹ごなしに両脇に並んだ店を冷やかしていると、いつの間にやら隣にいたはずの一色の姿が消えていた。

慌てて辺りを見回すと、その姿は既にテナントの中にあった。ヘラのようなものを手に取って、()めつ(すが)めつ眺めている。

 

どうもキッチン周りの物を取り扱う店らしい。ただし何もかもがシャレオツ。あとやっぱり値段が高い。

何だよカレープレートって。茶碗で食ったらダメなの?ちょこっと残った夕べのカレーに関して言えば、俺は断然茶碗をお勧めするね。茶碗カレーの朝から得した感は平皿じゃ出せないと思う。

 

傍に立った俺に気が付くと、彼女はゴムべらの様なものを弄びながら言った。

 

「うちのやつ、ここのとこが金具なんですけど、洗うのが面倒なんですよねー。これ一体型だからラクそうだなーって」

 

「ほんとに料理するんだな…」

 

この手の店というのは一体どんな人種をターゲットにしているのか常々疑問だったのだが、雪ノ下や一色が買っていくのかと思うと、なるほど納得がいった。

成果物だけでなく調理の過程を楽しむために、道具にも細かなこだわりを持つ。料理が義務化してしまった主婦の皆さんにとっては失って久しい価値観だろうな。

分からないではない。小説を読むのだって同じ事だ。結末を迎えた時のカタルシスも大事だが、そこに至るまでの過程だって同じくらい重要である。

 

「なんですかー、また似合わないとか思ってるんですかー?」

 

「滅相もない」

 

「ふーん。まあそのうちご披露する事もあるでしょうから、今のうちからちゃんとコメント用意しておいてくださいね?」

 

一色の料理を見る機会なんてまずないと思うのだが、ひょっとすると雪ノ下に何か習うつもりなのだろうか。毒味係としては実害のない範囲でお願いしたいものだ。

 

そういや、今日の参加賞ということで一色に何か買ってやれと、小町から指令を受けていたんだった。何にするか全く目処が立っていなかったのだが、料理の話で思い出した。いつだったか由比ヶ浜へのプレゼントにエプロンを買っていたやつが居たっけな。

一色も料理をするのであれば既に持ってはいるだろうが、雪ノ下を見る限りじゃ複数あっても困ることは無さそうだった。

見ればこの店もいくつか扱っているみたいだし、エプロンで良いんじゃないかしら。

 

「わり、電話だ。妹から」

 

「わー、デート中に妹の電話優先するとか、これぞ先輩ってカンジですねー。でもこまちゃんなので許します。わたしこのへん見てますので、どうぞどうぞ」

 

「そりゃどうも」

 

俺はテナントから距離をとり、すぐさまライフラインとして登録済みの番号を選択する。

 

「小町、ちょっと教えてくれ」

 

『お疲れー。もうキスくらいしちゃった?』

 

「…聞きたいことがあるんだが」

 

『いきなり舌はダメだかんね?』

 

か、会話が成立しねぇ…。

でも他に聞ける相手もいねぇ…。

時間もないし、全力スルーの方向で。

 

「買えって言ってたお土産の件な。エプロンとかどうだろう」

 

『そういやいろはさん、お菓子作るんだってね。良いんじゃない?』

 

「色とかデザインとかはどうすりゃいい?」

 

『そんなの自分で──考えらんないから電話してるんだよね…』

 

流石は小町。伊達に15年も俺の妹を務めてないな。

 

『うーんと、いろはさんなら濃い色よりパステルカラーとかがいいんじゃないかな?あと何かしら布地に工夫があると良いかも。ボタンとか、変わったステッチとか』

 

ほうほう、つまり原色プレーン型は一番ダメって事か。聞いといて良かったわー。

 

『ところでデートの最中に妹と電話なんかしてていいの?いろはさん怒ってなかった?』

 

「問題ない。俺はシスコンってことにしてあるからな」

 

『それただの事実じゃん。ぜんぜん言い訳にもなってないし。なんでちょっとしてやったみたいな感じになってるの』

 

「でも小町なら許すって言ってたぞ」

 

『いろはさん、なんて良い人!それに比べて小町は…よよよ…』

 

「どしたん?」

 

『なんでもなーい。小町はみんなの味方だから、仕方ないのです』

 

ちょっと妹が何言ってるかわからない。今さら英雄願望のスキルでも発現したのだろうか。もう中学二年は通り過ぎているのだが。

 

「ま、だいたい分かった。サンキュな」

 

『お礼はどこまでいったかの報告でいいからね』

 

返事はせずに通話を終えた。行き先はららぽだって言っただろうが。男女が出かける度に毎回ステージが進行するなら、日本に少子化問題なんて起こらないんだよ。

 

さて、品物は決まった。けど、本人が見てる前で購入するのもちょっと押し付けがましい気がする。何とかマークを外せないだろうか。

そんな事を考えながら振り返ると、紙袋を持った一色がちょうど店舗から出てくるところだった。

 

「それ、何か買ったのか?」

 

「はい、さっき見てたやつです。わりと良さそうだったので。あ、ちょっとメイク直したいんで、すみませんけどあそこで待っててもらえますか?」

 

彼女の差した先には大きな噴水を備えた広場があった。備え付けられたベンチは、妻と子に振り回されて疲れ果てたお父さんにささやかな癒しを提供している。なるほど、俺にはうってつけだな。

 

「了解」

 

俺が右手を差し出すと一色は嬉しそうに笑い、持っていた袋を手渡してきた。彼女の姿が見えなくなるのを待って、俺は先ほどの店舗へと舞い戻る。図らずも作戦遂行の好機である。

 

(わっ、ゆきのん隠れて!なんか戻ってきた!)

 

ん…?

覚えのあるカン高い声が聞こえたような。

それに今、チラッと長い黒髪の様なものが…。

 

「……気のせいか」

 

ここに来るのを知っているのは他に小町くらいしかいないしな。時間もないし、とっとと買ってしまおう。

 

えーと、サイズは…たぶん一番小さいヤツでいいだろう。色は…このライムグリーンで。小町のパンツとお揃いだな(最低)

手早く選択してカウンターへ持って行くと、店員のお姉さんの微妙な顔に迎えられた。

まあ当然だろう。いくら男女平等と理論を振りかざしたところで、女物を身に付けようとする男はキモい。これは差別ではなく本能的な区別なのだ。

しかしそんなピンチも小町のカンペがあれば無問題(モーマンタイ)である。

 

「プレゼント用に包装して貰えます?」

 

「あっ、畏まりました♪」

 

ふふん、いとも簡単に安心しおって。いつから女子へのプレゼントだと錯覚していた?自分へのご褒美かも知れないだろうが!…いや女子のだけども。

ともあれミッションコンプリート。あとは帰り際にでも渡せばいいだろう。いや待て、この袋持ってたらすぐバレるよな?どうしよ、小町のために買ったことにでもしとこうか。

 

一色が戻ってくる気配はまだない。そもそも女子という生き物は何をするにも時間がかかるものだった。着替えに食事、そしてトイ…もとい化粧直し。これなら慌てる必要もなかったか。歩き回って足も疲れたし、ベンチで一休みしていよう。

 

「なあ、おい。お前──」

 

噴水広場に戻ると、横合いから急に声をかけられた。

 

見れば声の主は知らない男だ。俺と同じくらいの年頃だろうか。彼は探るような目つきで、こちらをじっと見つめている。

普段ならば絡まれる理由に心当たりなんてないのだが、あれだけ連れがフェロモンを垂れ流しているのだ。狼の一匹や二匹は寄ってくるだろう。

ただの難癖ならばいい。しかし、もしも本命が釣れてしまったのだとすれば──。

 

本格的なトラブルの気配を感じ、俺は緊張に身を固くしたのだった。

 



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■24話 手を伸ばす意志

こう暑いと真冬のシーンであることをちょいちょい忘れてしまいます。



きゃっきゃっとはしゃぐ幼児の声が広場に木霊する、長閑(のどか)な昼下がり。

 

俺は噴水の前で、突然声を掛けてきた見知らぬ男と対峙していた。

この状況では絶対に手を出してこないはずだと踏んでいたのに、また読みを外してしまったのだろうか。

 

一色の世間体を"ストーカーの被害者"から"巻き込まれただけ"に置き換えるというのが基本的な方針である。その為に俺が恨みを買うこと自体はこちらの思惑に沿っている。

しかしこれは既に目立ってしまった集団の中だからこそ意味を成す作戦だ。学外(そと)ではそういう訳にはいかない。彼女のバイトの話にもあった通り、ここでは「目立つこと」自体がNGである。

 

まだこちらに注意を向けている人間こそいないが、こんな場所で騒ぎを起こせばどうなることか。最悪、野次馬にネット配信でもされかねない。最も配慮すべきは一色の立場だというのに、それでは本末転倒というものだ。

 

 

「お前、もしかして──」

 

 

ずい、と一歩詰め寄られ、俺は手に汗を握った。

 

 

「ひきがや…やっぱ比企谷じゃん!」

 

「…え?」

 

睨み付けるようだった彼の目が、急に友人を見るようなそれに変わる。

突然の変貌に戸惑う俺の肩を、そいつは馴れ馴れしくバンバンと叩いてきた。痛い痛い。そこにも打ち身あるんで出来れば止めてください。

 

「懐かしいな!卒業以来か?」

 

「あ、ああ……えと、おう…」

 

「なに、まーた独りで何かしてんの?」

 

「ま、まぁ、独りっちゃ独りだけど…」

 

………誰?

 

新手のキャッチセールスだろうか。いくら俺に友達いなさそうだからって、このやり口はあんまりだろうに。マジで友達かと思っちゃうだろ。

とまあ、冗談はさておき──。

 

この、かつての俺の暮らし向きを知っているような口振り。常識的に考えて、中学かそれより前の同級生ということだろう。そう思って見てみれば、記憶にあるような気がしないでもない顔だ。

けれども名前の方は記憶の奥底にすっかり埋没してしまったらしく、いくら頭を捻っても一向に出てくる気配は無かった。

 

「なあに、知ってるヒトぉ~?」

 

どこかで聞いたような口調を伴って、そいつの影からもう一人、ひょっこりと顔を出したヤツがいた。

高くも低くもない身長に、太くも細くもない体格。良くも悪くも、あまり記憶に残らないタイプの女子だった。セミロングの茶髪は毛先に緩くパーマでも掛けているのか、顔の輪郭を覆うような広がりを見せている。コートにミニスカという若々しいファッションは真冬なのによくもまあと思うばかり。

この女も、何だか見たことがあるような…。いや、やっぱり無いような…。

 

「はじめましてぇ~」

 

敬礼っぽく手をかざしてこちらに挨拶したその女子は、唇を尖らせて笑って(?)みせた。やけに酸っぱそうな顔だが、そんなに俺の顔が気に入らないのだろうか。あるいはシゲキックスでもドカ喰いしているところだとか。

 

いや待て、これはいわゆるアヒル口ってやつじゃないのか。やってる女子が周りに一人もいないから、流行っているってのも釣りなんじゃないかと疑っていた。

確かにアヒルに似てるけど、これを可愛いと思うかどうかはアヒルが好きかどうかによるんじゃないの?

 

俺はそんな彼女を前に「アーフラック!」とアヒル語で応じるべきかしばし悩んだが、

 

「ど、ども…」

 

結局、面白くもない上にどもった返礼をしてしまった。

 

「緊張してるんですかぁ?あはー」

 

口元に手を当てて、彼女はにへっと笑う。

 

「あーこれ、俺のカノジョな」

 

この男、明らかにそのセリフが言いたくて俺に声を掛けたと思われる。ロクに話したことも無いような同級生にまで声をかけてくるくらいだし、自慢したくて仕方が無いのだろう。自然を装いつつもどこかぎこちない様子から、彼らは付き合い始めてまだ日が浅いのではないかと推測した。

その気持ちも分からないではない。俺だって小町と出歩く時はいつも、この可愛い子が妹であると喧伝して回りたい衝動を抑えているのだ。

 

「めっちゃ可愛いだろ?」

 

「え?あ、あぁ…」

 

やけに自信ありげな彼氏の言葉にまじまじとアヒルの顔を見て、ようやく気が付いた。さっきの既視感は昔の記憶なんかじゃない。こいつは一色と同じタイプの生き物なのだ。

可愛いか可愛くないかの大枠で言えば、おそらくは前者に該当する方なのだと思う。ただ、彼女の印象を一言で表そうとすると、俺が一色いろはに対して抱いている印象──つまりは"ゆるふわ女子"にカテゴライズされてしまうのがまずかった。

 

雑誌に載っているモデルと、それを模倣した一般人と言えば伝わるだろうか。もしくはワンオフの試作機と量産機でもいい。まあ俺は量産機が頑張る話も嫌いじゃないよ?コレだって彼氏(パイロット)にとってはいい機体なのかもしれない。でも第三者としては単純な外見(スペック)で比較するしかないわけで…。

ゆるふわガチャを10連回して目の前のコレしか出なかったら、俺はきっと課金したことを後悔するだろう。

 

そんな訳で、別にチビでもないこの女子を、俺は便宜的に★★★(のーまる)子ちゃんと名付けることにした。

 

「ヒロキく~ん、紹介してよぉ~」

 

「わり、ちょい待って」

 

くっ、やはり名前呼びか。彼氏相手なら当然だろうが…こいつは困ったな。

同級生を名前で呼んでいたなんて過去、俺に限ってあるはずもない。したがって「それそれ!そんな名前のヤツ居たわ!」という感触にすらたどり着けず、手掛かりは依然としてゼロのままだった。

しかも略したらヒッキーじゃん。被るからなんかヤだな、よしコイツはピロキでいいや、等と益体も無い事を考える。

 

「俺も中学じゃ全然だったけどさ、高校入ってから勉強とか部活とかわりと頑張ってみたわけ。そしたら今や彼女持ちですよ。結局、大事なのは自分磨きってことだな」

 

高校デビューに失敗したら人生終わりと言い出しかねない勢いで、ピロキは唐突に自らのサクセスストーリーを語った。彼は一体どこのチャ○ンジの回し者だろうか。

 

ちらりと彼女の方を盗み見ると、彼氏の示威行為に付き合っていられなかったようで、既にスマホ弄りにシフトしていた。

「珍獣遭遇なう」とでも呟いているのかしら。いや、呟き程度ならまだいい。聞くところによると、最近の女子はデート中でも平気で他の男とLINEしてるらしいからな。こいつはどうなんだろう。

 

「比企谷も彼女作ったほうがいいぜ?世界が変わって見える」

 

持つ者の余裕を最大限に見せ付けるように、自分の彼女の方を肩で示しながら、彼はそう締めくくった。

ふう。せめてマンガ仕立てにしてくれたなら、もう少しくらいは興味を持てたかも知れないな。マジで心の底から無駄な時間を過ごした。

 

「あー、そうな。出来たらな」

 

「ははっ!そうだな、出来るといいな!」

 

「お前に出来るはず無いけどな」という類の悪意は、意外なことに殆ど感じなかった。どうやら人というのは自分が幸福を感じると他人のそれにも寛容になるらしい。

とは言えそれは条件付きのことだ。自分より幸せな者を見つければ、羨望や渇望といった獣が再び牙を剥くのだろう。

 

世界が変わったのではない。こいつが変わったのだ。それがいい変化かどうかは俺には分からないが、他人に誇示することで満たされる欲求に従っての行動だというなら、競争社会から隠居するのが将来の目標であるところの俺にはあまり縁のない感覚なのなのかもしれない。

 

「え~、カノジョ居ないんですかぁ?イケメンなのにぃ」

 

「はぁ、いや──」

「いや全然そんな事ねーから!こいつキモいし、友達居ねーし」

 

うーん、確かに全然そんな事ねーしキモいし友達居ねーけどピロキのセリフじゃねえだろ。

ちなみに単純な顔のつくりで言ったら俺のほうがイケてるとこっそり確信。帰ったらアルバム探して妹裁判に掛けてやろう。絶対勝つる。

 

「まだ一ヶ月くらいなんだけどさ、そろそろキメようと思ってんだわ」

 

顔の話でプライドを刺激されたのか、ピロキはこそっと耳元で下世話な予定を暴露してきた。恐らく自分の女であることを強調したいのだろう。心配しなくても要らないっつーの。

 

でも…ちょっとだけ複雑な気分だ。

ほら、「あんたなんて全然好みじゃないけど、羨ましいんだからね!」って感じ。あれ、ツンデレ風にしてみたら余計に訳わかんなくなったわ。

 

いやさ、結局のところ、男子高校生がカノジョを欲しがる理由なんてたかだか知れてるわけよ。そりゃあ中には真っ当にイチャコラしつつ青春を謳歌したいという真人間もいるでしょうよ?

でもそんなのはあくまでごく一部。基本的には脱DTありきなのだ。君と紡ぐ物語も、全てはそこから始まるのである。嘘だと思う女子諸君は彼氏に「卒業まで待って」とお願いしてみるといい。なおその先の展開について、当方は一切の責任を負いかねます。

 

そういう訳で、そこのアヒルとどうこう出来ることが羨ましいのではなく、単純に男としてピロキに先を越されるのかという思いに、俺は内心(ほぞ)を噛んだのだった。

ま、俺だって淫行学生(プレイボーイ)として校内じゃそこそこ名の知れた男ですけどね?おっと、その噂は自分で叩き潰したんだっけか。

 

「ちょっとぉ、なに男の子だけでお話ししてるんですかぁ~?あ~そうだぁ、良かったらぁ、お友達さんも一緒にお茶ぁしませんかぁ~?これから行くとこだったんでぇ~」

 

スマホを引っ込めたのーまる子は、広場の向こうに見える喫茶店を指差して言った。

彼女の言動を見て、俺は今感じている感情を表すに適当な日本語を検索する。あざとい?違うな。それは一色にこそふさわしい。

 

あれは元来、小賢しいみたいな意味合いの単語である。しかし現代の用法に則った場合、"あいらしい" + "わざとらしい"の造語だと説明された方がしっくりくるだろう。

その理屈で言うと、"うざったい" + "わざとらしい"の場合は"うざとい"という事になるよな。

 

オーケー。ピロキの彼女、超うざとい。

 

「えー、比企谷とか超つまんねーからサガるよ?」

 

彼女の提案に反対の姿勢を見せるピロキ。おーおーその通りだよ、サカるなら二人でやってくれませんかね。

しかし何を思ったのか、のーまる子は俺の袖に手を伸ばし、逃がさないとばかりに握り込んできた。何でみんなそこ掴みたがるんだよ。マジでちょっと伸びてきたんじゃない?

 

「い~じゃないですかぁ、行きましょうよ~」

 

「いや、連れを待ってるんで」

 

もう勘弁して欲しい。今日はウソではなく本当に連れもいるのだ。つか遅いな一色。今来られるとそれはそれで面倒だけども。

 

「いいですよぉ、そのお友達もぉ一緒しましょうよぉ」

 

良くねえっつってんだろ。これだからリア充は…!

何が悲しくて余所のカップルとお茶しなきゃならんのよ。どうせなら百合ップルがいいな、それならお茶請けくらいにはなるだろうし。

それともこの女、男を周りに集めて自分だけ姫扱いでもしてもらおうという魂胆なのだろうか。

 

「マジかよー?せっかく二人で出かけてるのに…」

 

「それはさぁ、ほらぁ、次でもいいじゃ~ん。ね~え、行きましょうよぉ」

 

もしかすると──。

この子はピロキの下心に気付いているのではないだろうか。女子のそっち方面のセンサーってば驚くほど優秀だからな。ここで第三者を引き込んで有耶無耶にすれば、あからさまに相手を袖にせず、かつ自身の安売りも避けられる。まったく、色んな意味で食えない輩である。

 

ブルゾンの袖を掴んでいた彼女が、もう一方の手を伸ばしてくる。さっきから振り解こうと腕を引いてるんだけど、地味にがっちり握り込んでて離そうとしないんだよコイツ。

ゆっくりと寄ってくるその動きは食虫植物を思わせ、あわやそのまま捕食されるのでは、と思った瞬間。

 

「やめとけって!」

 

わりと大きな声で、彼氏ピロキは言った。

むしろ怒鳴ったと言ってもいい。

苛立ちを含んだその声は行き交う通行人を警戒させるのに十分で、何事かと足を止める者も居た。

 

「そいつマジ中学でも友達一人いないぼっちで超キモがられてたんだから。こういうヤツに変に優しくするから、勘違いしてストーカーになるんだよ」

 

早口でそうまくし立て、俺に近づくまる子の腕を引っ張った。

彼氏の突然の剣幕と穏やかではない単語のコンボに怯んだのか、彼女の方も浮かべていたアヒル(づら)を引っ込める。

 

「え、ちょっとやだ、ス、ストーカー?そういうのしてる系?」

 

いや、してない系。

そんな風に軽く笑って返せるコミュ力があれば、俺も今頃は葉山のグループの一員だったかもしれない。ぞっとしねえな、無くてよかった。

「冗談でしょ?」と苦笑いするまる子の腕を掴んだまま「まじヤバいから!」と連呼する彼氏。そこは冗談だって言えよ。

唐突にディスられたことには腹が立ったが、ここはぐっと堪えてやることにする。

 

だって、もしも自分の彼女──ちょっと想像できないから妹にしよう──が、偶然会ったぼっち野郎の袖を引いていたら、一体どう思うだろうか。

俺ならきっと実力行使に出てしまうだろう。みっともなく泣き喚いて、手を放すように駄々をこねる。

男の威厳?比企谷の男にそんなもの必要無いですし。つか最初から無いですし。

そんな俺と比べたら──ご覧下さい、ピロキのなんと雄々しいことでしょう。

 

そうやって理不尽に対する怒りを散らしていると、いつの間にか周りに不穏な空気が立ちこめていることに気がついた。

 

「ねえ、ストーカーだって…」

 

「マジかよ。通報した方がいいんじゃね?」

 

「やだぁ…。ねぇシュウちゃん、きもいよー」

 

「大丈夫、アッキーには手を出させないよ」

 

あんまりにもピロキがデカい声で騒ぐもんだから、すっかり耳目を集めてしまっていた。

悪事を働いた現場を彼氏に取り押さえられた変質者、みたいな解釈をしたのだろうか。オーディエンスからの視線に敵意や害意のような物が混じっているのを肌で感じる。

 

(参ったな…)

 

悔しいとか恥ずかしいとか、そういう感覚が無いわけではない。しかしそれよりも、もうすぐここに一色が戻ってくることが問題だった。

いま合流してしまうと悪目立ちは避けられない。周囲の人間はいちいち覚えていないだろうが、一色自身が嫌がってららぽに近寄れなくなる可能性は十分にあった。しかも彼女はただでさえ歪んだ感情に辟易しているところなのだ。こんな拷問に付き合わせてしまっては、弱っているメンタルに悪影響があるかもしれない。

あとドサマギでイチャついてるシュウちゃんとアッキーはセアカゴケグモにでも刺されろ。

 

「ほらぁ、ヒロキくんの声がおっきいからぁ」

 

「ちげーよ、お前の声だろ」

 

この空気を作ったバカップルは相変わらず二人で楽しくやっているようだ。下手に言い訳するよりこのままお(いとま)するのが得策か。一色が戻る前に全速でこの場を離れよう。電話番号も知っているから合流するのは容易いしな。

 

「じゃ、俺もう行くんで…」

 

タイミングを逃したのか、何故か未だに袖を掴んだままのまる子。

その袖を離すように言いかけて、しかし背後から聞こえてきた声に、俺の口は硬直した。

 

 

 

《--- Side Iroha ---》

 

 

 

「うわ、気持ちわるっ」

鏡に映った自分の姿にわたしは思わず毒づいた。

未だかつて見たことのないほどに緩んだマヌケ顔。

パンッと両手で挟んでも、すぐさまにへらーっと溶けていく。

うーん、これはもう処置なしですねー。

 

「ま、いいんじゃない?こういうのも」

 

こうして覚悟が決まるまでは、なかなか大変な事もあった。

葉山先輩のせいでたくさん泣いたりもしたけど、今では心底感謝してる。

だって彼と出会わなければ、きっと先輩と出会うこともなかったのだから。

 

手の届く距離の想い。

手を伸ばす意志のある恋愛。

それが、こんなに楽しい物だったなんて。

 

「ふふっ。ぜったい、逃がしませんよー♪」

 

向こうから来ないなら、こっちからいく。

線があれば踏み越える。

わたしが覚悟を決めたというのは、そういうことだ。

 

先輩、覚悟はいいですか?

まだまだこんなものじゃありませんよ?

 

何しろ今日の最終目標は…『先輩と手を繋ぐ』ことなんですから!

 

「……この、こんじょうなし」

 

男の子と手を繋いだことはある。いくらでもある。数を覚えていないくらいありますとも。

…けど、いま思えば、あれって相手のことを何とも思ってないから出来てたんだと思う。

好きな人の肌に直接触れるのが、こんなに緊張するものだなんて…。さっきのお店ではたまたまチャンスがあったけど、理由もなしにいきなりというのは、思った以上にハードルが高かった。

 

「腕まではいけるんだけどなぁ…」

 

念入りに手を洗い、ほんのちょっとだけハンドクリームも。カサカサだと思われたら、日頃の努力が台無しだから。そういえばあの塩スクラブは本当に良かった。ちょっと高いけど、今度こっそり買っておこうかな。

 

 

「やば、ちょっと時間掛けすぎたかも…」

 

化粧室から出たわたしは、早足で待ち合わせた場所へと向った。

噴水の広場に佇むその背中を見つけて安心した途端、むくむくと悪戯心がわいてくる。

 

(いやぁ、我ながら性悪ですにゃー)

 

こそっと物影に身を潜めて時計を確認。よしよし、まだ10分経ってないね。

ではではー、10分まではここから先輩を観賞させて頂きまーす。

だって、自分の事待ってくれてる姿って、見てるとすっごくゾクゾクするんだもん。

 

ていうか、よく見たら知らない男の子が居るんだけど、誰だろう?

先輩の知り合いかなー。友達少ないとか言ってるわりにはけっこう顔も広い人だし。

むー、ここじゃさすがに話が聞こえない…もうちょっとだけ近くに──。

 

更なる接近を試みていたわたしは、ふと広場の空気に違和感があることに気が付いた。

 

なぜだか分からないけれど、先輩が注目を浴びているのだ。彼に向けられる視線が好意的なものでないことは、端から見ても明らかだ。

さっきは気が付かなかったけれど、知らないひとは男の子だけじゃない。女の子も居るようだ。庇い庇われるような彼らの立ち位置から見て、二人の関係はそれなりに近しいものだと考える。

 

けれどもそういう目線で彼らを観察した場合、一つおかしな点があった。その女の子は、なぜだか先輩の袖を掴んでいたのだ。

 

見れば見るほどちぐはぐな光景だったけれど、だからこそ状況がだいたい飲み込めた。これはたぶん、女の子の方から先輩に手を出したのだろう。それを嫉妬した彼氏が騒いで周囲に誤解を招いたといったところか。

先輩はなにげに顔も良い方だし、それほどあり得ない話でもないと思う。それにわたしも昔、これとよく似た状況を経験したことがあった。

 

あのときのわたしは逃げる事しか出来なかった。助けてくれる人も居なかったし、いくら言い訳しても、誰も聞いてくれなかったから。

けど、いまの先輩は独りじゃない。わたしは彼を助ける事ができるかもしれない。

 

けれど、このやり方は酷く独善的で、頭の悪い方法だ。

 

彼はそれを認めてくれるだろうか。

(あ…っ)

 

手出しすることを躊躇(ためら)っていたわたしは、それを目にして頭を殴られたような後悔を覚えた。

投げかけられる言葉に彼が少し俯いた時、確かに見えたのだ。

ほんの一瞬だけ顔を出した、寂しそうな、悲しそうな目が。

 

 

認めてもらえなくてもいい。

 

バカな女だと思われても構わない。

 

あんな目をさせずに済むなら、喜んで笑われよう──。

 

 

わたしは彼の元へと駆け出していた。

 

 

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

 

その声を聞いたとき、俺の胸中は安心が2割、疑問が8割といった案配だった。

 

「せんぱぁーい、お待たせしましたぁー!」

 

最近すっかり耳馴染みとなった、しかしいつも以上に甘さマシマシな声が響く。結構なボリュームで放たれた彼女の声は広場を駆け抜け、そのラブリーなボイスに反応した人々の視線が発信源に集中した。

ピロキとまる子もその例に漏れず、そちらを見やる。

 

どうして来てしまったのか。

 

一緒に居るときに遭遇したのならともかく、運よく逃れた災難に自分から飛び込んでいく理由が彼女にあるとは思えなかった。損得勘定の得意な一色に限って、この状況の不利を察せられない訳がない。俺の関係者だと認知されてしまっては、この後どう立ち回っても赤字確定である。

 

俺の心中を知ってか知らずか、彼女は周囲の注目を切り裂いてトコトコと駆けてくる。無双ゲームキャラみたいでちょっと格好いいとさえ思ったが、彼女が引きずってくる視線の数に俺は震えあがった。

明らかにさっきより客が増えている。声がデカいんだよ声が。このままでは朝の二の舞、不可避イベント突入待ったなしだ。

これ以上面倒な事になる前に追い払おうと目で訴えたが、アリスを惑わすチェシャ猫の如く、彼女は悪戯めいた光をその目に宿していた。もの凄いイヤな予感がする。

 

不安を感じた俺が彼女の企みを看破する前に、状況は動きを見せた。

 

「いたっ」

 

綱引き状態にあった腕がぐいと引かれる。突然均衡を崩された俺は、一歩たたらを踏んだ。

しかし痛みを訴えたのは俺ではない。袖を捕らえていたまる子の方だ。一色は彼女の手を半ば払い落とすかのような勢いで俺の腕を強奪したのである。突然乱入してきた相手を睨みつけようとしたまる子は、しかし続く光景に目を丸くした。

一色が、奪った俺の腕をするりと自身の胸に抱き込んだからだ。

 

太ももとは別次元の柔らかさを押し付けられ、俺は息を飲んだ。

痛みを感じないギリギリの圧力。昨日のケガを気遣ってのことかもしれないが、なまじ丁寧に扱われたせいで、感触をはっきりと感じてしまう。

大きくはない。決して大きくはないが、そこには夢があった。お師匠様、ここが天竺(てんじく)です!

 

「すみません、お手洗いちょお混んでてー。あれっ、こちらお知り合いですかー?」

 

いま気が付きました、とばかりにとぼけた顔をして敵性カップルに顔を向ける一色。

そう、彼女は何故かこの二人を"敵"と認識しているようなのだ。いや、雰囲気からそう感じただけなんだけど。なんつーか…そう、いつか折本達とバッタリ出くわした時の感じ。あれに似てるんだよな。

 

「…なぁんだ、連れって女の子だったんだぁ」

 

顔はそのままに、どこか冷たい声を出すのーまる子。

表情を維持したまま声色を変えるのはゆるふわファミリーの必修スキルなのだろうか。

 

それにしても、慣れというものは恐ろしい。一色とまる子を見比べた俺は改めて思った。俺はこんなのと二人きりでブラついてたのか…。

のーまる子と比べると、一色はまさに大当たりの★★★★★(ウルトラレア)。あるいは背景が七色に光るホロカードといったところか。実際に課金した男子が多数存在する上、今は悪質な廃人の対策に奔走しているのだから、いよいよ笑えない例えである。

 

「どもですー。そちらもデートですかー?」

 

「あっ、えっとぉ、べつにデートってわけじゃないんですけどぉ…」

 

一色の視線が相手方の女子を撫でた時、その目が「勝った」と漏らしたのを、俺は見てしまった。

突然クラスURと対決するハメになったピロキの彼女は、まるで「私の戦闘力は53万です」と言われた誰かのように顔を引きつらせ──こそしていないものの、「くそったれ、ナメやがって…!」と覚醒できない自分に腹を立てる誰かのような気配を漂わせている。

 

改めて二人を見比べてみると、同族だからこそ、その違いが際立って見えた。

 

まる子が目鼻の造形をメイクで補正し、毛虫のようなつけまで目元を強調しているのに対し、一色は、元々くっきり整ったそれを軽いメイクで更に引き立てているのだ。睫毛も多少は盛っているだろうが、元から長いことはいつかの号泣の際に判明している。

あと個人的に、あちらさんはスカートから覗いている脚がやや太めなのが気になった。格別に酷いということもないのだが、いろはすの脚に関して今や一家言持ってしまっている身としては、比較するとどうしてもそういう答えになってしまう。

胸の方は…おっとドローですね。こちらの陣営唯一の泣き所かと思われたが、これで晴れて完封(ラブゲーム)である。

 

「ひ、比企谷、そのコまさか──」

「いや違う」

 

脊椎動物が刺激を受けた場合に、脳を経由せずに起こる反応。

ぼっちが注目を浴びた場合に、とりあえず否定してみせる反応。

これらを総称して、脊髄反射という。

 

「もぉー」

 

ぷんぷんですよー、と言わんばかりの顔(実際には言わないのがプロの所業)で一色がむくれてみせる。

そういった細かい仕草ひとつとっても、二人の錬度は全く違っていた。具体的に違いを指摘するのは困難だが、ほんの少しの差の積み重ねが、大きな印象の差になっているのだろう。

素人にとって、有段者の実力差ともなれば、勝敗のみで語るしかないということだろうか。

 

「そのネタ飽きましたよぉ。何度も言われるとさすがに傷つきますしー」

 

恐る恐るピロキの方を見てみると、ポカーンと口を開けていた。多分、俺も同じ顔してると思うけどな。脳の処理能力を超えた事態に遭遇すると、だいたい誰でもこんな顔になる。

 

「えっとー、どういう関係に見えますかー?」

 

何か細くてスベスベとしたものが、俺の手の平を滑る感触が走った。艶めかしい刺激に驚いて見てみれば、一色の白い指が俺のそれと絡んでいる。いわゆる恋人繋ぎというヤツだ。

緊張に固まった指の間を彼女の少し冷たい指先がそっと撫でる。ゾクリとするのを通り越して、身体のどこかをピリリと電気が走った。

 

ななななんぞこれぇーー?!

手を繋ぐって、こんなにいやらしい行為でしたっけ?!

隣で寄り添う一色の顔は見えないが、繋いだ手をそのまま胸元に抱きこんだ彼女との距離は限りなくゼロに近い。

ほんのり感じていた甘い香りが俄然強くなり、先日刻まれたばかりの肌の感触が脳を食い尽くしていく。

 

そして急速に高まる俺の体温とは逆に、周囲の熱は一気に引いていった。

棘のように突き刺さっていた視線が散らばっていくのが分かる。彼女持ちがストーカーであるはずが無い、と判断されたのだろう。単純すぎると思うかもしれないが、「女連れ」というのは男にとってそれだけ強力な身分証明なのだ。実際、女性さえ連れていれば基本的に職質はされないのだと聞く。

 

一色はこれを見込んで、リスクを冒してまで飛び込んできたのだろうか。だとしたら、俺はまた彼女に大きな借りを作ってしまったのかもしれない。

 

「え…。ま、マジで比企谷なんかと付き合ってんの?君が?」

 

()()()という言葉を聞いた時、俺の手を握る彼女の力が少し強くなったような気がした。

 

「あはっ。残念ですけど、恋人ではないですねー」

 

「だ、だよねっ!ありえないよな、比企谷じゃぜんぜん釣り合って──」

 

「いま三人くらい候補がいるんですよー。わたしはその中のひとりってカンジです」

 

「は…?」

 

再度固まったピロキと俺。

候補が三人…なんのことだろうか。一色が含まれるということは、後輩の候補とか?

なるほど、それなら二人目は小町だな。あと一人…そうか材木座か。既に留年扱いだなんて酷いですよ一色さん。

 

「こ、こいつが三股とか、冗談きついな、はは…」

 

「他の二人もちょお可愛いですよ?あ、これこれ。この前みんなで撮った写真です」

 

みんなで撮った写真。

そんなの本来ならば卒アル以外に有り得ないのだが、今の俺には思い当たるフシが一つある。

けど、だってあれは、全部シュレッダーで細切れにされて、マスターデータも雪ノ下が処分したはずで──。

 

しかし一色がスマホに表示して見せたのは、やはり例の偽装ハーレム写真だった。しかも目線修正を入れていない貴重なオリジナルバージョンである。このおっぱ…オーパーツがまだ現世に存在していたとは!

 

「…みんな超可愛いのも意味わかんないんだけど…、それよりもこれ、な、何やってるとこなの?」

 

「うーん、なんでしょうね。愛人ごっこ?」

 

呆然とするピロキにクスクスと意味深な笑いを返す一色。

 

何を馬鹿なことを、と突っ込みはしなかった。

あまりの過激発言に妄想が全力で先走りしかけたからというのもあるが、こちらを見つめる悪戯めいた彼女の目が「ウソは言っていませんよ?」と笑っていたからだ。

確かに彼女はさっきからそのスタンスを徹底している。

しかしこの言葉選びの巧みさ…いろはすって実は意外と賢い子だった?そういや発揮される機会が少ないだけで、やる時はやる子なんだっけか。

 

彼女は紙袋をぶら下げた俺の手をさわさわと撫で回しながらこちらの肩に撓垂(しなだ)れ掛かり、囁くように言った。

 

「それより先輩、そろそろ帰りませんか?新しく買ったゴムも試してみたいですし」

 

「ゴ…っ!?」

 

なるほど確かに、彼女はこのあと()()()家に帰り、新しく買ったゴム()()の使い心地を試すことだろう。しかし紙袋にナニが入っているかを知らない彼らにとって、さぞや扇情的な内容に聞こえたに違いない。

 

「明日は日曜ですから、今夜はたっぷり夜更かし出来ますね♪」

 

繰り返すが、さっきから一色は何もおかしな事は言っていない。

明日は日曜だ、俺もきっと夜更かしをする。読書とかして。

しかし、さっきまでの会話の流れとこれらの単語を思春期回路に突っ込むと、壮絶な化学反応を起こすのは火を見るよりも明らかで──。

 

「な、なあ!君、さっき…」

 

「はい?なんですか?」

 

「さっき、彼女じゃないって言った、よね…?」

 

「そうですけど、シてないとも言ってませんよ?相性の良さもアピールのうちですし」

 

シてないとも言ってないが、シているとも言ってない。ついでに言うと、何の相性とも言ってない。

なんとも女子らしい言い草だが、論理的に矛盾していないのがこれまた腹立たしい。

しかしそんな些細な事に気がつくような理性など、彼にはもう残っていないのだろう。なにせネタが割れている俺ですら興奮させられているのだから。

ところで一色さん、いい加減、指の股をスリスリするのやめてくれませんか。ホントに立てなくなりそうです…。

 

「ひ、比企谷、そんな可愛い子と…彼女でもないのに!」

 

「わー、ありがとうございます♪でも、ちゃんと見ててあげないとダメですよ?彼女さんこそ、とーっても可愛いじゃないですかー」

 

一色の言葉にぴくりと反応したのは、ピロキではなくまる子の方だった。

それはそうだろう。これほどまでに上から目線の"可愛い"は、未だかつて聞いた事がない。

引きつった笑いを見せるまる子。アヒルの真似事なんて、とうの昔に崩壊している。

こういう場合、「そんなことないよ、あなたの方が可愛いよ」と返すのが女子の決闘における礼儀だと認識していたのだが、彼女の口からそのテンプレはついぞ返ってはこなかった。本当に自分より可愛い相手にはお世辞でも言いたくないのだろうか。ガチのハゲ理論はここでも通用するらしい。

 

思うに、この邂逅(かいこう)は彼等にとっても不幸な出来事だったのだろう。俺の傍に居たのが雪ノ下ならまだ良かったのだ。比較しようにもキャラが違い過ぎるからと、自分を誤魔化す余地がある。しかし一色はまる子の完全なる上位互換である。これではご愁傷様としか言いようが無い。

 

「じゃあ、わたし達は失礼しますねー。行きましょ、先輩」

 

「も、もげちまえこのヤロー!」

 

ピロキの恨み言が、なぜだか後ろから聞こえた。 気が付くと、俺はいつの間にかその場に背を向けて歩き出していたのだ。一見するとこちらに身体を預けている一色が、その実プロのダンサーのように歩みをリードしているのであった。

一色さん、マジかっけーわ。

 

 

* * *

 

 

そのまま言葉もなく真っ直ぐに歩き続けた俺達は、ららぽのエントランスへと辿り着いた。

絡まっていた指を解き、一歩距離をとった彼女は「ふう」と吐息を漏らす。

 

やっべ、手汗すごい。ごめんないろはす。なんならもっかい死海の塩で洗浄しに行ってもいいんですよ?

 

「な、なんか疲れちゃいましたねー。今日はそろそろ帰りませんか?」

 

「だな」

 

確かに、今さらショッピングを続けるような空気でもない。俺達はつかず離れずの距離を保って駅へと向かった。元々そんなに長居するつもりもなかったし、丁度いいと言えば丁度いい。

 

帰り道の電車の中、ようやく熱暴走の収まった脳味噌を回して、俺はあれこれと思案していた。

 

さっきの状況は、前に葉山が折本相手にやらかした時の状況に少し似ていた。あの時呼び出された二人は葉山に騙されて来ただけで、おまけに同盟破棄寸前の険悪状態だったのだから、正直、生きた心地がしなかった。

戦国時代に例えるならば、浅井朝倉の相手をするうち武田信玄と上杉謙信に背後をつかれた織田信長とでも言おうか。それほどにありえない死地だった。

対して、今回自ら当て馬として飛び込んできた一色は、終始頼りになる相方だった。戦場全てを華麗に欺き、すぐさま転進。手段はともかく、俺好みの名差配と言える。

 

ただ、ひとつだけ気掛かりがあった。少しやり過ぎたのではないかという点だ。

これはもちろん、ピロキ達に対する心配などではない。恐らくどこからか監視していたであろうストーカーに見せるシナリオとしては、あまり望ましいものではなかったのだ。助けられておいて言うことでもないのだが…。

 

すっぱ抜かれたアイドルが愛想を尽かされるように、ファンが離れていくのならいい。偽装彼氏だって、元はそれを狙った作戦だったわけだし。

しかし相手は俺を憎み、一色にはその矛先を向けなかった。その心理を単純に推し量れば「今は騙されているだけだ」とか「目を覚まさせてやる」だとか、そんな考えが透けて見える。

一色に危害が加えられることはないと俺が確信しているのは、ヤツにとっての彼女が侵されざる聖域として認識されているからだ。

しかし、さっきの彼女の言動を見た相手が、もし「手遅れ」だと判断したら──。

 

 

「や、やっぱり先輩が変わってるんですね!」

 

あれこれ考えていると、ずっと黙っていた一色は、急に取り繕うような顔で笑ってみせた。

 

「最近先輩にスルーされてばっかだったんで、わたしの魅力が落ちたのかと思ってちょっと凹んだりもしたんですよ?ま、ご覧の通り、ぜんぜんそんなことなかったみたいですけど」

 

降りるべき駅が近づき、彼女は扉の前に立つ。

張り付けた笑顔の裏の表情は、ガラス越しにも量れない。

 

「……先輩」

 

電車は駅へと滑り込み、開いた扉から彼女はホームへと降り立った。

 

「余計なことして、ごめんなさいでした」

 

振り返った彼女は不安そうにこちらを見上げる。

その目は、悪戯を咎められた子供のようだった。

 

「や、やっぱああいうの、イヤでしたよね…」

 

…こいつ、ずっとそんな事考えてたのか。

マズったな。延々考え事をしていたせいで、どうやら誤解させてしまったらしい。

どうしよ、慰めるのとか超苦手なんですけど。助けて小町先生!

 

あ、小町と言えば──これまだ渡してなかったっけ。

 

「一色、これ。今日の土産な」

 

買っておいた"参加賞"を、彼女に押しつける。

 

「…えっ?あ、ありがとうございます…。でも、なんで…?」

 

だから別に怒ってないんだっての。

けどまあ、あれからずっとむっつりしてた俺に今さら言われても、そうは思えないよな…。

渡された袋と俺の顔を交互に見比べている一色。豪胆なようで気の小さいこの後輩に、何と声を掛けるべきか。

 

発車のジングルが鳴り響き、扉が互いを隔てるその間際。

 

迷った挙げ句、俺は端的に正直な気持ちを告げた。

 

 

「すげえスカッとした。かっこ良かったぞ」

 

 

 

* * *

 

 

 

人気の少なくなった電車に揺られながら、彼女が別れ際に見せた表情を、俺は思い出していた。

 

(あいつ…あんな顔するんだな…)

 

安心したような、心底嬉しそうな、はにかみ顔。

 

初めて見たその表情は、俺にとっての一色いろはの認識を根底から揺るがすような、無垢な笑顔だった。

もしも初めて会った時にあれを見せられていたら、俺は一体どうなってしまっていただろうか。少なくとも俺の人生において"あざとい"という単語を発する機会は激減していたに違いない。

 

考えるべきことは他にもあるはずなのに、どうにも思考が定まらない。目を閉じると亜麻色の少女の姿が浮かんでは消える。

 

参ったな。

少し、近付き過ぎたのかも知れない。

後で痛い目を見るのは自分だというのに…。

 

街並みの流れる車窓に目をやると、見慣れた自分の顔が映っていた。

誰かさんの笑顔とは比べるべくもない、(いびつ)な笑み。

 

胸に籠もった熱い吐息でもって、俺はその薄ら笑いを白く塗り潰したのだった。

 

 

 

 

 




いろはすに抱かれ隊、隊員募集中!


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■25話 失われた俺のニチアサ

例によって一話が長くなったので今回は切り出しました。
その分いくらか、次回更新日は早くなると思います。




 

日朝(ニチアサ)──それはカレンダーという名の神に従う多くの人々にとって、最後のユートピア。

 

週休二日といえば、大抵は土曜の朝から日曜の夜までの休みを指す言葉である。カレンダー様だって赤くなっているのはこの区間だ。しかし実効的な休日の期間として見た場合、必ずしもそうとは言えないのではなかろうか。

『サ○エさん症候群』なんて言葉もある通り、日曜日は夜になるほど憂鬱さが増していく。ならば実際にゆったり寛げるのは、金曜の夜を含めて精々が日曜の昼くらいまでだろう。

 

それほどまでに貴重な日曜の朝。俺も普段であれば、出来るだけ優雅に嗜むよう心掛けている。

飽きるまで惰眠を貪った挙げ句、妹に隠れてレッツプリキュアタイムと洒落込むのだ。HDレコーダーまじゴッド。生視聴になんて拘ってはいけない。というか、早起き小町さんがだいたい芸能ニュースを見てるので、どっちにしてもその時間には見られない。

 

このゴールデンな時間帯に、何故だかいそいそと制服に袖を通している俺がいた。

 

「ふむ…70パーセントという所か…」

 

節々の調子を確かめながら、強敵に挑む前の準主役キャラを演じてみる。事実こんな早起きをしているのも、ちょいと面倒な相手に会いに行く為だったりするわけで…。セリフに漂うそこはかとない差し違えフラグの香りについては気にしない方針でお願いしたい。

 

決して好調子とは言えないものの、これが100パーセントになったからって髪が金色に逆立つ訳ではないし、その気になれば120パーセントが出せる訳でもない。

誤解されやすいが、ああいった表現では100を全力としている訳じゃないんだよな。「今日は120パーセントで頑張るよ!」と言うヤツは間違いなく普段から手を抜いてやっているし、「エネルギー充填120パーセント!」というのも容量的にはまだ100パーセントではない筈なのだ。要するに通常運転のラインが100なのである。

 

そういう意味では、俺の70パーというのも最大スペック比で言えば50に近い値だろう。でも本気なんてまず出さないので問題ない。何しろ五体満足でも転んだりしちゃうからな。世の中には本気を出すのは子供、みたいな風潮があるが、大人は単に身体が付いてこないからやりたくても出来ないだけのような気がする。

 

ちなみに内出血の処置についてだが、ああいった場合は冷やすのが正解だ。つまり寄ってたかってぽかぽかのお手々を当てまくるスタイルの奉仕部式療法は大間違いということになる。

まあ人間の手で暖められたくらいで悪化するようなものでもないし、あれでも気持ち的には十分癒された。ましてやJKという職業は世間じゃ愚痴を聞くだけでお金が貰える役職である。そんな彼女らに無料(ロハ)でハンドセラピーされておいて文句も言えまい。

 

 

腰をさすりながらリビングへ顔を出すと、小町が朝から元気に動き回っていた。

 

「あれ、どしたの?まだ9時前だよ?それにその格好…」

 

時計を見れば8時45分。言うほど早起きじゃないな。むしろそれで驚かれた日頃の自堕落っぷりに目が覚める思いだ。

 

「ちょっと学校にな」

 

別に休みなんだしジャージで行っても怒られはしないだろうし、お目当ての相手も実はジャージを着ている可能性が高い。しかしワイシャツとブレザーというのはこれで案外と防寒性に優れているし、何よりコーディネートを気にしなくていいという最大の長所を生かさない手はない。

 

「…今日は日曜だよ?大丈夫?おじいちゃん疲れてるんじゃない?」

 

マジで心配そうな顔をする小町。せっかくボケてくれたのでご相伴に預かって、寄る年波に寿命を感じるしがない老人のような顔をしてみせた。

 

「小町よ、俺はもうじきお迎えが来るだろう…。だがその前に、一目で良いからお前の花嫁姿が見たかった…。あ、ちなみに新郎は抜きでよろしく」

 

「そっかー。でも無理かなー、本番以外でウェディングドレス着ると、婚期が遠ざかるって聞くし」

 

ジーザス!確かあのお方、ちょくちょく試着しに行ってるって言ってなかったか?そんな悲しいジンクスは知りたくなかったわ。世界には優しい嘘が足りないと思います。つか、装備する度に運気消耗するとか…明らかに呪いのドレスじゃねえか。

 

「そんなの事実無根だろ。わざわざ進んで着るってのは結婚願望が強い女性ってことだ。結婚したいと思ってる男から見たら、そりゃどう見てもプラス要素だろうが。むしろ早まるんじゃないの?」

 

「お?確かに…。なんだーデマかー。良かったぁ、実は一回くらい着てみたかったんだよねー!」

 

計画通り──。

これで我が家のアイドル流出を阻止できそうだと内心ゲス顔でほくそ笑んでいると、ネタに飽きたらしい小町がこちらに背を向けながら言った。

 

「で、冗談はともかく、なんで制服?」

 

「ま、野暮用だよ」

 

「ははーん、いろはさんに会いに行くんでしょ?」

 

「いや違うし。学校っつってんだろ」

 

「小町知ってるんだからね!いろはさんも今日は学校らしいじゃん。なんかケーサツ関連のイベント運営とかで」

 

なにそれ初耳なんですけど。

警察のイベントってなんだ?一日署長とかか?確かにやたら似合いそうだけど。

 

「いちいち一色のスケジュールまで把握してないから。俺はプロデューサーさんじゃないんだよ。あと会いに行くのは男な」

 

「えっ!小町、まだちょっと薔薇とかはよく分かんないかも…」

 

俺もお前のことが分かんなくなってきたよ…。

ほあーっと奇声を上げて悶える妹の先行きに不安を感じつつ、俺は我が家を後にしたのだった。

 

 

* * *

 

 

休日の通学路は人気が少ない。妙な新鮮さを感じながら自転車を漕いで行くと、校門に近づくにつれて敷地内から掛け声のようなものが聞こえてきた。よしよし、この分だと無駄足にはならずに済みそうだ。

 

「ふーん、これか…」

 

校門の脇には臨時の看板が立っていた。そこにはでかでかと『交通安全・応急救護教室』と書かれている。小町が言っていたのはこれの事か。

確か俺も小学生の時にやった気がする。交通事故のビデオを見せられたり、人形使って人工呼吸の練習をしたりするヤツだな。人形は使いまわしだから口の周りをアルコールティッシュで拭いて使うんだけど、もちろん俺の後には誰もやりたがらなかった。確かその次はいつもハナ垂らしてる男子の番で、お前にだけは言われたくないと悔しい思いをした記憶がある。

 

どうやらその教室は体育館で開催されているらしい。なるほど、一色はこれの運営要員に駆り出されたのだろう。椅子を並べたりお茶を用意したり…生徒会長って一番権力あるはずなのに地味な立ち回りが多いよな。しかしこうして休みまで奔走しているのを見ると、少なからず罪悪感を覚えてしまう。

成績に関係ない行事に積極的に出てくる生徒もそうそう居ないだろうし、さぞや薄ら寒いイベントになっている事だろう。しょんぼりしている一色の後ろ姿を想像してしまい、冷やかしに行ってやろうかという仏心も湧きかけたが、止めておくことにした。今日は一応、用事があって来ているのだ。

 

ガラガラの駐輪所に愛車を止めた俺は、校舎や体育館には目もくれず、目的地へと足を運んだ。

 

寒風吹きすさぶグラウンドでは、派手な色のゼッケンをつけた生徒達が、声を上げながら土まみれのボールを追って走っている。

両手をポケットに突っ込んでその集団をぼんやりと観察していると、一際大きな声で指示を飛ばしていた男子がこちらに気づき、メンバーに向き直って声を上げた。

 

「よーし、終了ー!10分休憩だ!明けたら1on1から。戸部、悪いけど戻るまで待っててくれ」

 

こちらへと駆け寄ってきた茶髪のイケメンは葉山隼人。

休みの日にまで見たい顔ではないのだが、二度寝を諦めて学校に足を運んだ理由はこいつと話をするためだ。

ひとつ覚悟を決めて、俺は葉山と向き合った。

 

「珍しいな。今日は日曜だぞ?」

 

「分かってる。ちょっと頼みがあるんだよ」

 

「勘弁してくれ──と言いたいところだけど、どうも今回は俺の話って訳じゃなさそうだな」

 

× × ×

 

俺の話を聞いた葉山は、迷わず首を縦に振った。

あまり時間も無いし、渋られたらどうしようかと思っていただけに、正直ホッとした。

失われた俺のニチアサも浮かばれようというものだ。

 

「すまん、助かる」

 

「君も変わったな。人を頼ることを覚えた」

 

「"立ってるものは親でも使え"が最近のマイブームなんでね」

 

「…()()はとても良い関係だな。お互いに高め合っている。そんな相手は探したってそうそう見つかるもんじゃない。正直妬ましいよ」

 

流石に「誰と誰のことだ」なんて聞き返す気は無いが、そんな風に言われるほど葉山に見せ付けた覚えも無い。

しかしそれよりも、葉山が"羨ましい"ではなく"妬ましい"という言葉を選んだことに、俺は若干の違和感を覚えた。敢えて人間臭さを装っている、みたいなその言い回し。清廉潔白な生き方を強いられ続ける自身の生き方について、やはり何かしら思うところがあるのだろうか。

 

「比企谷、君は中原が犯人だと思うか?」

 

「…分からないから頼んでるんだろ」

 

「そうか…。その他の可能性を考えてくれているだけでも十分だよ。俺が彼の無実を証明してみせる」

 

葉山自身、中原に対して何の疑いも持っていないという事はないだろう。

それでもそんな言葉が出てくるのだから、俺とは本当に根っこから違うんだな、と改めて感心した。

 

「すげえな。頼んでおいて何だが、よく他人の為にそこまで出来るもんだ」

 

「そんな立派な理由じゃない。単に自分の判断が誤りだったと思いたくないだけさ」

 

その言葉を額面通りに受け取るならば、要するに自分の為という事になっちゃうんだけど…。

俗っぽい理由に拍子抜けしていると、俺の顔色を見た葉山は見慣れた仕草で肩を竦めて言った。

 

「いつもそう言ってるだろう?」

 

「…違いない」

 

なるほど確かに、こいつは自分で何度もそう言っていたっけな。

その理由なら任せられそうだと、俺は卑屈な笑みを返したのだった。

 

 

 

《--- Side Iroha ---》

 

 

「ふーっ、疲れたぁー…」

 

制服を着替えもせず、わたしは帰るなりソファーへと突っ伏した。

 

朝イチで登校してから現場の設営、警察のひとへの挨拶、交通安全教室、最後に現場撤去──。

プログラムそのものは2時間程度だったのだけど、運営側で参加した結果、一日掛かりの大仕事だった。

 

参加人数が少なかったおかげで指導員と生徒は終始マンツーマン状態。しかもわたしに付いた若い男性指導員は、妙に距離が近かった。あれ絶対下心あったでしょ…。

そのあと殆ど使わなかった椅子の片付けやら会場の後始末やらをしていたら、いつの間にかすっかり日も暮れていた。明日はもう月曜日だなんて、もの凄い損をした気がする。

せめてもの救いは、今のわたしにとって平日は平日なりの楽しみがある、ということだろうか。このところ毎日一緒にいたせいか、彼の姿を一日見なかっただけで、なんだか落ち着かない気分だった。

 

「えへ、えへへ…」

 

わたしは転がったまま、キッチンの一角に目をやった。

そこには柔らかなライムグリーンのエプロンが掛かっている。

先輩がわたしにくれたもの。わたしの為だけに選んでくれたもの。

見ているだけで面白いように頬がふにゃふにゃと緩んでいく。

 

「まともな笑顔がレア過ぎるんですよ、先輩は…」

 

昨日別れ際に見せてくれた先輩の表情は、今思い出しても胸が熱くなる。

あんなものを見せられて、気持ちが燃え上がらなかったらウソだろう。

あのエプロンを身に着けて彼の前で料理をしてあげたら、また笑顔を見せてくれるだろうか。

そう考えただけで、いくら疲れていても明日という日が待ち遠しかった。

 

「あーダメダメ、シワになっちゃう…」

 

このままソファーに沈んだら良い夢が見られそうな気もするけれど、制服を着替えないといけない。

身体に鞭を打って立ち上がったその時、玄関に来訪者の存在を告げるインターホンの音が響いた。

 

- ピンポーン -

 

「…えー、なんだろ、こんな時間に」

 

時刻は夜の18時を回ったところ。

遅いと言うほどでもないけれど、勧誘が来るような時間でもないし、なにか届く物があるというような話も聞いていない。

 

「ママー?」

 

声を上げてみても求める返事が返ってくる気配はない。

 

「…あー、今日もだったっけ」

 

このところママと顔を合わせる機会がやたら少ない気がする。なんでだろうと考えてみたら、そもそもわたしが外泊してばかりだった。ちゃんとした彼氏が出来たら、こういう生活にも慣れていくのかな。

 

来客の対応をしようと室内機のモニターを覗いてみると、外の様子を映しているはずの画面はなぜか真っ黒だった。

 

「え、なに…?さっき鳴ったよね?」

 

玄関の電気が切れでもしたのだろうか。ううん、暗いと言っても山奥の田舎じゃあるまいし、夜だからってこんな真っ暗闇にはならないはず。

 

「故障かなぁ…」

 

応答スイッチをOFFにして、ソファーへと腰を下ろす。

なんだか寒くなった気がして、エアコンのリモコンに手を伸ばした。

 

- ピンポーン -

 

「っ!」

 

すぐさま振り向いてみたけれど、やっぱり何も映っていない。

モニター自体は反応しているようだ。さっきOFFにしたのに、またカメラ作動中のライトが点灯している。

間違いない。家の前には確かに誰かが居るのだ。

画面に映っていなくても、そこに確かな気配みたいなものを感じた。

 

- ピンポーン -

 

どうしたものかと動きあぐねていると、再度インターホンの鳴らされる音がした。

もしかしたら本当にカメラが故障しているだけかもしれない。勇気を振り絞って室内機に向って返事をしてみる。

 

「…どなたですかー?」

 

『………………………』

 

相手からの返事は無い。スピーカーからは微かなノイズがしているから、繋がっているはずなのに。

もう一度画面をOFFにしてみた。でも無駄のような気がする。だってこのパターンは──

 

- ピンポーン -

 

「うー…っ!」

 

予想通りの展開。自分の精神状態が徐々にパニックへと向っているのが手に取るようにわかった。

わたしはソファーに(うずくま)ると、頭の上にクッションをぎゅっと押し付けた。

外界を遮断して一旦落ち着こうと思ったんだけど、頭隠して尻隠さずのこのスタイルは、ちょっと失敗だったかもしれない。お尻がスースーするし、何より周りが見えないと余計に怖くなる。

 

(ま、まさか家の中に入ってきてたりしないよね…?)

 

一度考えてしまうと怖くて仕方ない。もしも後ろに立っていたらとか思ったら、確かめるのさえ怖くなってしまった。でもずっとこのままという訳にもいかないし…。

思い切ってクッションを退かそうと、わたしは心の中で勢いをつけた。

 

(よ、よーし、いちにのさんで顔出すよ?いち、にの──)

 

- ピンポーン -

 

「ひっ!…もうやめてよぉっ!」

 

怖い、怖い、怖い!

今までで一番怖い!

 

だって、いま相手は確実に、すぐそこまで来ているのだ。

目と鼻の先で息を潜めて、怯えるわたしを追い詰めて楽しんでいるに違いない。

それが悔しくて歯軋りしたいくらいだったけど、恐怖に震えてカチカチと鳴るばかりだった。

 

わたしの手はいつの間にか、スマホをぎゅっと握り締めていた。

 

電話したい。

先輩の声を聞きたい。

助けてって言いたい。

 

「だ、ダメ…我慢しないと…」

 

せっかく昨日はいい雰囲気で終われたのに。

初めて先輩の役に立てたのに。

先輩に、ちゃんと褒めてもらえたのに。

なのにここでまた、みっともないところを見せるのか。

 

そんなのイヤだ。

 

「負けない…がんばれ……が、がんばれぇ…っ」

 

鳴り続けるインターホンの音をかき消すようにして、わたしは自分を励まし続けた。

 

 

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

「──でもね、小町としては複雑なんだよ」

 

「なるほど」

 

「お兄ちゃんがモテるタイプじゃないのは言うまでもないし、チャンスがあれば買い取って欲しい。心からそう思ってます」

 

「そういうもんか」

 

「別にいろはさんがお姉ちゃんになってくれるのはいいの。むしろ歓迎かな。でもね、雪乃さんや結衣さんも好きなの」

 

「そうかもしれないな」

 

断っておくが、こんなおざなりな返事をしているのにはちゃんと訳がある。

俺は今、かつて読みかじった本に記されていた、とある実用的な理論を実践に移しているところなのだ。

 

「だいたいお兄ちゃんごときがあーんな綺麗なお花を両手どころか口にまで咥えて三刀流とか、おかしいと思わないの?前世や来世の分まで運を使っちゃっても足りないくらいの奇跡なんだよ?」

 

「なるほど」

 

「だからさ、今は恥ずかしいかも知れないけど、絶対本気出した方がいいんだって。そしたら後で小町に泣いて感謝することになるんだから」

 

「そういうもんか」

 

「大学行ったら彼女出来るとか根拠の無い期待しちゃダメだよ?自分から女の子に声掛けられない人にとっては高校以上に接点無いらしいって、よーちゃんも言ってたし。あ、コレよーちゃんのお兄さんの話ね」

 

「そうかもしれないな」

 

本のタイトルは忘れてしまったが、ざっくり言うと『女性の四方山(よもやま)話は返事三つで対応できる』みたいな内容だったと思う。

残念ながら具体的に何と何で事足りるとされていたかも覚えていなかったので、取り敢えずは当たり障りのない選択肢をチョイスしているのだった。基本的なポイントさえ押さえておけば適当で良かった筈なんだよな。

「共感してみせる」、「否定はしない」…あともう一個は何だっけか。

 

「だからね、この際みーんなお嫁さんに貰っちゃうくらいの覚悟でさ…あっ、ちょっと!これって超画期的じゃない?」

 

「妹が何を言っているかわからない件。これはむしろ末期的と言うべきだろう。基本的な法律も知らないとか、このまま受験したら合格は難しいかも知れない」

 

「ちょっとそこのひとー。心の声的なやつが漏れてるっぽいんですけどー、それ声に出しちゃダメなやつじゃないんですかねー?」

 

おっと、うっかり全力で否定してしまっていた。でもわりと途中まではナイスコミュニケーションが成立してたよな?あの理論が凄いのか小町が緩いのか、判断が難しいところだ。

しかしこの単純さ…ともすればソシャゲの二次元男子にも楽々落とされかねない勢いである。うちのチョロインには再教育が必要かも知れない。

 

「やっぱ差し当たってはいろはさん問題の早期解決かなぁ。あんまり一人だけに構ってたら他の二人に愛想尽かされちゃうかもだし」

 

「なるほど」

 

「取りあえずはご機嫌伺いだね。ってことで、はい、電話」

 

「そういうもん──いや何でだよ?」

 

「今なるほどって納得したじゃん」

 

「……そうかもしれないな」

 

どうやら既にパターンを見切られていたようだ。それどころか返事を利用して誘導までされていた。

しらっとした目を向ける小町の手には彼女のスマホが乗っている。そこには既に一色の名前が表示されていて、後はワンタッチで呼び出せるようスタンバってあった。

 

「さっきから適当に返事してるの、小町ちゃんと分かってたんだからね?」

 

「…だって最近お前、やたらと恋愛事とか推してくるんだもん。今日だって俺が帰ってからずっとそんな感じだし。相手すんの疲れるっつーか、ぶっちゃけめんどくさい」

 

「うっわー、それ女の子に言っちゃいけないセリフのワーストランカーだよ?仕方ないじゃん、八幡史上最大のビッグウェーブなんだから。今を逃したら次なんかあるわけないし!」

 

「ウェーブはウェーブでも雇用の波じゃねえの?」

 

そりゃ八幡経済的には景気上向きと言えるかも知れない。自分でも最近わりと忙しさを感じているしな。雪ノ下や由比ヶ浜のみならず、今日に至ってはわざわざ休日に葉山と言葉を交わしてきた。

しかしそれは俺の鎖国的な交友関係が改善された結果ではない。誰かさんがこそこそハッスルし続けてるもんだから、なかなか気苦労が絶えないだけだ。

つか、そもそも金銭的報酬が発生していないのだから、経済もへったくれもないわけで…。伊達に奉仕の二文字を掲げてはいない。万年サービス営業とか、ブラックを通り越してクトゥルフ級の闇の深さである。

 

「あのね、お兄ちゃん。モテ期ってのは他人から見ないと分からないモノなの。それか、終わって初めて分かるモノなの」

 

「え、いま俺モテ期なの?」

 

「そうなの!」

 

そうなのか。男の人生には三回モテ期があると聞いたんだが、この調子では後の二回も気が付かないうちに終わっていた可能性が高いな。この後の人生に集中してることを祈るしかないのか。

つか、この状況がモテ期としてカウントされるのなら、社畜になって先輩女子にこき使われるのも該当するってことだよな。それって世に言うところの"勘違い"ってやつじゃないのん?所詮は生きることに疲れた男たちの妄想が産み出した都市伝説でしかないという事なのか。

 

「ん。LINEなら電話代気にしなくていいでしょ?」

 

さらにぐいっとスマホを押しつけられ、俺は仕方なしにそれを受け取った。

料金を気にするほど長話するつもりもないんだけどな。

 

昨日の別れ際、一色が見せた表情が脳裏を掠める。

小町の手前、冷静を装ってはいるものの、ディスプレイに表示された文字列を見ているだけで心拍数が上がっていく気がした。一日時間を置いたが、どうやら未だに解毒は完了していないらしい。

 

「どしたの?」

 

「いや──」

 

ちらりと小町を見ると、こちらを無遠慮に覗き込んでいる視線とぶつかった。その顔が「おんやぁ~?」と言いたげな腹立たしいものにシフトしつつあったので、俺は慌てて呼び出しアイコンをタップする。

 

「…で、何話せって?」

 

「色々あるでしょ、昨日の事とかこれからの事とか。緊急事態とはいえせっかく接近してるんだから、鉄はホットなうちに打っとかないと」

 

俺としてはむしろクールダウンさせて欲しいのだが──。

まあ一応、今日一日何事もなく乗り切れたかの確認くらいはしてもいいか。

そんな風に気持ちを切り替えたところで、ちょうど通話が繋がったようだった。

 

『──もしもし、こまちゃん!?』

 

「…残念ながら、兄の方だ」

 

『えっ!?先輩、ですか?』

 

「おう。いま電話平気か?」

 

『へ、平気っていうか……いえ、なんでもありません。どうしたんですか?』

 

電話に出た一色の声は切羽詰ったみたいな声だったが、俺だと分かった途端に一気に暗くなった気がした。

分からないでもないけど、小町じゃなかったからってそんな露骨にがっかりしないで欲しいな。うっかり死んじゃいたくなるからね。

過去二回ほど聞いたはずの、電話越しのいろはすボイス。今の彼女はどちらかと言えばイタ電の時の空気にも似たものを感じさせる。ひょっとして自宅だとテンションが下がるタイプなのだろうか。

 

「悪いな。ちょっと気になったんで」

 

『え…』

 

「昨日も機嫌悪いみたいな誤解させちまったし、念の為っつーか。あと今日の状況とか聞き込みもかねて…その、あれだ、進捗報告会みたいな?」

 

一色からの返事はない。

自分でもこの説明はどうかと思った。もしかして恒例のお断り芸すら出ないほど呆れて──

ん?今なんか電話の向こうから音が聞こえたような気が…。

 

『じゃあ、先輩はわたしのこと心配して、電話してくれたんですか?』

 

そう真っ正直に言われると恥ずかしいのだが、ポジティブに解釈すれば、そういう事になる。()()()と表現したくらいだから嫌がってはいないのだろうと判断し、俺は彼女の言葉を否定しなかった。

 

「まあそうとも言うか。ウザかったなら言ってくれ」

 

(お兄ちゃんすっごいウザイ。卑屈なの禁止!)

 

いてっ!小町のやつ、向こう(ずね)にローキック入れて来やがった。そして自分も痛みに顔をしかめている。そんな彼女を顔だけでザマァと嘲笑っていると、耳に当てていた電話からぎょっとする声が聞こえてきた。

 

それは一色のすすり泣くような声だった。

全身を覆っていたこそばゆい微熱が弾け飛ぶのを感じる。

 

『や、やだなぁ…せっかく頑張ってたのに……。えっぐ…。てか、このタイミング、は、反則です、よ…。ひっく…』

 

涙に濡れる声の向こう側に、今度はなんとか聞き取れた。

 

間違いない、インターホンの電子音だ。

嘲笑うかのようにも聞こえるそれは、よくよく聞いてみると10秒と置かず繰り返し鳴らされていた。

音に合わせて一色が喉を震わせるのが電話越しにも伝わってくる。

 

「……いつからだ?」

 

『ごめんなさい…ごめんなさい…迷惑かけてごめんなさい…っ』

 

泣きながら繰り返されるその言葉が、状況の全てを物語っていた。

 

彼女が遠慮して助けを呼ばないという可能性──。

何故そこに考えが及ばなかったのだろう。思えばイタ電の時だってそうだ。たまたま俺が掛けたから発覚しただけで、あれも一色から報告してきたわけではない。

俺自身、彼女に負担を掛けたくないからといって被害を隠しているではないか。一色が同じような行動に出る可能性は十分考えられたはずだった。自分の間抜けっぷりに心底うんざりする。

 

「30分で行く」

 

そう告げて立ち上がった俺に、小町がブルゾンを手渡してきた。

聡い彼女は余計な事を聞き返すようなことはせず、手を差し出しながら頼もしい笑顔で言った。

 

「いってらっしゃい。場は繋いでおくね」

 

「悪い、助かる」

 

「いいってことよ!今のお兄ちゃん、小町的にもポイント高いぜ?」

 

「ほっとけ」

 

まったく…良く出来た妹だよお前は。

泣きじゃくる彼女に繋がったままの電話を預けると、焦燥感に突き動かされるまま、俺は家を飛び出したのだった。

 

 

 

《--- Side Iroha ---》

 

 

『まーそんなワケで、兄はリンゴカットだけは無駄に上手になってしまったのですよー』

 

「うん、あれ、すっごく可愛かったなぁ…」

 

あれからしばらく、わたしはこまちゃんとお話を続けていた。

しつこく鳴っていたインターフォンの音は、今はもうしていない。

彼女が気を遣って振ってくれる他愛ない会話と、音の恐怖から開放された安心感。わたしの心にはやっと余裕が戻ってきていた。

室内機のボリュームを無音(ミュート)にするという作戦が功を奏したのだ。こまちゃんに言われるまで、そんな単純な手も思いつかないくらい、わたしはテンパっていたみたい。

 

犯人が居なくなったかどうかは分からない。

でも、もうすぐ先輩が来てくれる。

そしたら、もう何も怖くない。

 

『そのせいで普通にリンゴを剥くことが出来ないっていうおかしな──あ、待って下さい、兄から連絡です。いろはさんちの前に着いたそうですよ?』

 

「えっ、ホントに?!あ、あの…」

 

『どうぞ行ってやって下さい。あんなのが夜に住宅地でボケーッと突っ立ってたら、それこそ通報されかねませんので』

 

「ご、ごめんねっ、ありがとう!」

 

お礼を言って電話を切ると、わたしは玄関に向ってバタバタと駆け出した。

 

ヤ、ヤバいよー、いま先輩の顔みたら、思いっきり抱きついちゃうかも!

でもでも、それくらいしてもバチは当たらないよね?

わたし、頑張ったよね?

 

ガチャガチャと音を立てて鍵を外し、勢い良く扉を開け放つ。

そこに先輩が立っているものだと信じ込んで。

 

「先輩っ!」

 

 

 

玄関の灯りに照らされて、目の前に立っていた人物──。

 

 

 

それは待ちわびていた彼ではなかった。

 

 




葉山への頼みごとの内容はいずれ。


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■26話 小揺るぎもしない鋼の理性

正解者にはいろはすトートバッグが!
当たったりする企画だったら楽しいですね。



 

「え………」

 

扉を開けた先に立っていた人物。

対面したわたしは、中途半端な顔のまま固まってしまった。

 

「お、おっ……」

 

小柄な体格。

華奢で、柔らかそうなライン。

でも一部はすっごいボリューミーな──

 

「おっぱい…!」

 

「誰がおっぱいだし?!」

 

玄関先に立っていた()()()()は、わたしの呟きに憤慨したようにぺこんとチョップを放った。

 

厚手のコートに押し込められても一向に主張を止めようとしない、その魅力的なパーツ。そんなのが突然目の前に現れたものだから、つい混乱して、とりあえず目に入ったモノの名前を呼んでしまったのだ。

あまりと言えばあんまりなわたしのリアクションに、彼女はふんすっと肩をいからせている。その後ろにはフワフワのマフラーに口元を埋めた雪ノ下先輩の姿もあった。

 

「こんばんは。取り敢えずは大事ないみたいで安心したわ」

 

「雪ノ下先輩も…ど、どうして…?」

 

「…こんな時間だし、男一人で押し掛けるわけにもいかないだろ」

 

声のする方を見ると、寒そうに鼻をすする先輩が門の陰の暗がりから姿を現したところだった。携帯をひらひらさせているところを見るに、彼が二人を助っ人として呼び出したみたい。

もー!なんでそんなとこに隠れてるんですかー?感動のハグはいずこ…。

 

「えっと、その…。皆さん、夜分遅くにすみません…」

 

いつの間にか、縋るように伸ばされていたわたしの手。行き場を失って半端な高さを漂っていたそれをこっそり引っ込めると、結衣先輩が申し訳なさそうな面持ちで囁いた。

 

(ごめん、あたし空気読めなくて…。ずっと待ってたんだもんね…。ヒッキー前に立たせてなくてホントごめん…)

 

(お、お願いですから忘れて下さいよー!)

 

期待通り先輩が目の前にいたら、それこそ彼女達の目の前でやらかすハメになっていたかもしれない。他の女子ならいざ知らず、この二人相手となればまだまだ覚悟が足りてないし、そういう意味では結果オーライだったのかも。

 

「と、とにかく中へどうぞ…」

 

 

一度に三人もお客様が入れば、さすがに我が家の玄関も手狭になる。けれど一人では広すぎると感じていたわたしにとって、それは嬉しい窮屈さだった。

先輩方をリビングまで案内して、わたしは人数分の紅茶を用意した。

 

そう言えば、来客用のカップを使ったのはいつ以来だろうか。この前はダウンしてたからおもてなしどころじゃなかったし、他にお客さんなんて滅多に来ないから…。

いつからこんな寂しがり屋になったのだろうとカップを手にしんみりしていると、出された紅茶に息を吹きかけながら先輩が言った。

 

「お袋さん、今夜も仕事なのか」

 

「ええ、まあいつも通りですよ…。最近あんまり親の顔を見てない気がします」

 

「お母様、確か看護師をされているのよね。お父様もお忙しいのかしら」

 

「親父さんは単身赴任だろ。違うか?」

 

「えっ?そうですけど…。先輩に話したことありましたっけ?」

 

「なに、簡単なプロファイリングだ」

 

先輩はしげしげと辺りを見回している。

やだ、変なもの置いてないよね?洗濯物とかぶら下がってないよね?

 

「玄関の目立つところに男物の靴が無かった。家具の質なんかを見ても暮らしぶりは良さそうだし、収入が二口あると考えるべきだろう」

 

「…いっつもヘンなところで頭良いよね、ヒッキー」

 

「ヘンなところ言うな。専業主夫志望としては、ご家庭の内部事情には通じている必要があるんだよ」

 

「比企谷くん、ご満悦のところ申し訳無いのだけれど、余所様の家庭事情を勘ぐるのは、あまり品が良いとは言えないわよ?」

 

「バカな…こないだお宅訪問スレで見た鉄板ネタだぞ?」

 

「バカなのはその話題選びのセンスでしょう」

 

呆れたように息を付く雪ノ下先輩の言葉に結衣先輩と一緒になって笑っていると、なんだか身体の節々が軋むような感覚があった。

無意識のうちに相当力んでいたのだろう。こういうのは気が緩んだあたりで一気にくるものだ。しかし、これも安心できる状況になったのを身体が認めた証だと思えば、それほど不快な痛みでもなかった。

 

「ええと、それで…。一応さわりだけは聞いているのだけど、詳しい説明をお願いしても良いかしら」

 

「あ、はい…そうですね──」

 

 

* * *

 

 

事の経緯を一通り説明すると、彼らの反応は驚きよりも呆れの割合が多かった。毎日何かしら起こっているせいで、事件が起きること自体が日常化しつつあるのかもしれない。

 

「ピンポンダッシュか。これまた古い手口で来たもんだな。今日び小学生でもそんな暇じゃないだろ」

 

「子供の悪戯で許されるのは14才未満までよ。高校生の場合、確か迷惑行為防止条例あたりに抵触するんじゃなかったかしら。ただ、この手の案件で警察が動く事は殆ど無いらしいけれど…」

 

「その詳しさも俺に劣らず気持ち悪いと思うけどな…。何なのお前、法律マニアなの?」

 

「思うところがあって、刑法あたりを少し前から勉強しているのよ。具体的には春くらいからかしら。ほら、身の危険を感じる頻度が急に増したものだから」

 

「それ俺が入部した時期とバッチリ被ってますけど気のせいじゃないですよね?確か刑法には侮辱罪ってのもあるはずなんだけど、めっちゃ見逃してませんかね?」

 

「なはは…。あれっ?インターホン押されたって事は、いろはちゃん、相手の顔見たってこと?」

 

「いえ、それが…。なぜか機械の画面が真っ暗になっちゃってて…スイッチは入ってるっぽいんですけど…」

 

「なにそれ怖っ!オバケ?!幽霊?!」

 

「だったら手に負えないけどな。幸い、相手は人間だったらしいぞ」

 

先輩が差し出した手には、なにやら茶色い切れっ端が乗っかっていた。

 

「これ、ガムテープ、ですか…?」

 

「カメラ部分に貼られてた。映像を塞ぐだけならこれで十分だ」

 

試しに室内機を操作してみると、今度はちゃんと玄関の様子が映し出されていた。

うそ…ほんとにこれだけの事だったの?

 

「はぁ~っ…こんなの相手に逃げ隠れしてたなんて…。怖がって損した気分ですよーもー!」

 

「出なくて正解だろ。もし出たとしても、どうせ誰も居なかったと思うぞ。この手の行為は一方的な干渉が目的で、自分が矢面に立つ気は無いもんだ」

 

「そうなんだー」

「そーなんですかー」

「貴方が言うならそうなんでしょうね」

 

「そう鵜呑みにされるのもなんだかな…」

 

少なくともわたしにとっては信頼から出た言葉だったのだけど、そうは受け取られなかったらしい。先輩は納得がいかないと言った面持ちで、不満げに鼻を鳴らしていた。

 

 

お菓子をパクつきつつお喋りを続けていると、あからさまな態度で壁の時計を仰いでいた先輩が、腰を上げながら呟いた。

 

「さて…。少なくとも今日はもう来ないだろうし、俺はぼちぼち帰るわ」

 

「いやいやいや!せっかく来て頂いたんですし、夜道は寒くて危ないですし、もう泊まっていって下さいよー!結衣先輩、雪ノ下先輩も、お願いします!」

 

同性相手には泣き落としは通じないし、先輩はあざといと言って相手にしてくれないし…このメンバーにはわたしのおねだりが(ことごと)く通じないのだ。今回は頭を下げて、誠意を持ってお願いしてみた。

 

「ええと…どうする?由比ヶ浜さん」

 

「あたしはもちオッケー!電話だけしとくねー」

 

「私も別に問題はないけれど…。明日は月曜だから、朝は早めに起きて帰らないといけないくらいかしら」

 

「…だそうですよ?」

 

「いいんじゃねーの?女子同士、宜しくやってくれ」

 

先輩はこちらには見向きもせずにコートハンガーへと向かう。

しかしその伸ばした手は空を切ることになった。肝心の上着が横合いから奪われたからだ。彼は犯人にじっとりとした目を向ける。

 

「…何してんの」

 

「ヒッキーも泊まってくんでしょ?」

 

そう言って、結衣先輩はひったくった上着を胸元にしっかりと抱き込んだ。

ナイスアシストです!それなら先輩も手が出せませんね。その活躍に免じて、ちゃっかり匂いをクンクンしてるのも見逃してあげます。バレてないと思ったら大間違いですよ?

 

「いや泊まらんし。女子三人とお泊まりとかどんだけだよ、超キツいっての」

 

「私達の事なら心配要らないわよ?理性を失って人間でなくなってしまうのを懸念しているのでしょうけど、きちんと事前に通報しておいてあげるから」

 

「国家権力使うんなら俺より先に通報すべき輩が居るはずなんですけど?」

 

「ひゃーっ!やだー!妖怪ヒッキーマンになっちゃうんだー!あはははっ」

 

「ふふっ、先輩は理性を失うと獣じゃなくて妖怪になるんですかー?」

 

「なんか年中醤油作ってそうな妖怪だな。つか、それだとヒッキーの部分が人間じゃないみたいに聞こえちゃうだろ。ヒッキーもマンも思いっきり人間だからね?ありのままの俺って意味でしょそれ」

 

「成る程。要するに比企谷くんは元から妖怪だ、という事よね?」

 

「あはは、ゆきのんヒドいんだー!」

 

「由比ヶ浜、一応ツッコんどくけど最初に妖怪って言ったのお前だからな?」

 

先輩が言い返す気力を失って項垂(うなだ)れている。どうやら説得は成功した…のかな?

 

「てか、今さら気にする?もう一回しちゃったんだから、二回も三回も一緒じゃん」

 

ゆ、結衣先輩…それは一度許したらズルズルいっちゃう女の子の典型ですよ…。あと出来れば誘惑するようなセリフは控えて欲しいです。あーほら、先輩とかちょおキョドってるじゃないですかー。モヤモヤするなぁ…。

 

「わーったよ…警察じゃなくても小町には通報されそうだしな。どっちにしても平穏に過ごせないならもうこっちでいいわ…」

 

「ははーん。さてはわたしの家が気に入っちゃいましたね?そこら中、女の子の香りがしますしねー」

 

「いや、こっちに泊まればもう移動しないで済む分だけ楽だなーと。チャリかっ飛ばしてきたから疲れたし」

 

むむ…消去法みたいで気に入らないけれど、泊まってもらえるならこの際なんでもいいや。

今夜は数日ぶりに楽しい夜を過ごせそう。それに、もしかしたら先輩に手料理を振る舞うチャンスも巡ってくるかもしれない。あれの出番があるといいんだけど…。

 

キッチンに掛けられた先輩からのプレゼントを盗み見ながら、得意と言える料理が何か無いものかと、わたしは必死に考えを巡らせたのだった。

 

 

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

何故だろうか。

なし崩し的に、またも一色の家に泊まることになってしまった。

 

この程度の事では小揺るぎもしない鋼の理性──があるのならば格好も付くのだが、いかんせん経験も度胸も甲斐性もない、単なる男子高校生であるところの俺は、実に分かりやすくソワソワしていた。

誰かが動く度にふわりと鼻をくすぐる香りとか、カップを傾けてこくりと鳴らす喉の白さとか、気が付けばそんなことばかりに意識が向いている。

 

間が悪いことに会話も途切れてしまい、俺はいよいよ居心地が悪くなってきた。やっぱり今からでも帰ろうかと思い始めたあたりで、自らのカップを干した一色が、その沈黙を嫌うかのように言葉を繋いだ。

 

「なにかゲームでもしましょうか。せっかく人数居るんですし」

 

「お、ゲーム!いいねー。占いとか?それともWii?」

 

「占いはゲームじゃねえだろ」

 

「女子的にはけっこう盛り上がりますけどねー、占い。ちなみに先輩のオススメはなんですか?」

 

ほほう、いろはす聞いちゃう?それ聞いちゃう?

俺は千葉県民に絶大な人気を誇る、とっておきを提案する事にした。

 

「んじゃ、総武線ゲ──」

「それはヤダ」

「それは却下」

 

経験者二人にシャットアウトされ、俺はすごすごと引き下がった。

 

何もやる前からそこまで嫌がらなくてもいいだろうに。一色なんかきょとんとしてるじゃん。案外クセになるかもですよ?

きっと二人は総武線ユーザーじゃないから楽しめないと思ってるのだろう。それも含めて千葉県民なら盛り上がれる良ゲームだというのに…。さてはこいつら、純粋な千葉ブランドじゃないな?由比ヶ浜の乳とか、絶対に北海道娘(どさんこ)の血が入ってると見たね(偏見)

 

「…比企谷くんに聞いたのが間違いね。由比ヶ浜さん、お任せするわ」

 

「じゃあねー……モノマネ大会とか!」

 

「も、モノマネですかぁー?ハードル高くないですかね…。雪ノ下先輩的にはアリですか?」

 

「私はこのさい何でも構わないけれど。先日の撮影を乗り切った身としては、何が来ても今更という気分ね」

 

「うっそお前、モノマネとか出来んの?

『どうして私がわざわざ低脳共の演技をする必要があるのかしら。見ていてあげるから、豚同士でせいぜい醜い争いをなさい』──くらい言うかと思ったわ」

 

「…まさかとは思うけど、その高慢ちきな性別不詳の変態は、私の真似のつもりかしら」

 

「我ながら会心の出来だな」

 

「病院に行きなさい」

 

ふ…この視線と罵倒を頂戴した後では、ゆるふわ族のクールボイスなんて春のそよ風のようだ。雪女族の冷笑、まじハンパない。心まで凍り付き、今にも粉々に砕けてしまいそうである。

 

「あーでもでもー、声や内容はともかく、雰囲気だけは出てるかもですよ!」

 

「うんうん、アリかナシかで言えばアリ!ヒッキーに座布団いちまーい!」

 

だろー?ほらー、分かるやつには分かるんですよー!

ちゃんと特徴捉えてる自信あるもん。

 

「…待って頂戴。貴女達は今のゲテモノと私との間に何らかの共通点を見出したとでもいうの?」

 

「まーまーゆきのん、ちゃんとあたしもゆきのんのマネしてあげるから!」

 

「いえ、そういう問題ではなくて…」

 

「2ばーん、由比ヶ浜結衣!ゆきのんのマネ、いっきまーす!」

 

「わー!ぱちぱちぱちー!」

 

由比ヶ浜はノリノリで自ら手を挙げると、髪を撫でつけたり肩を回したりと、それっぽい準備を始めた。

いやぁ、ビジュアルを似せる努力は無駄じゃないですかね。髪の長さも全く違うし、そもそも土台が違い過ぎる。ガハマ連峰を雪ノ下平野みたいに整地しようと思ったら、ドラゴン的なボールが七つくらい必要なんじゃないの?

 

「ちょっと由比ヶ浜さん、やめて──」

 

「んっん"…

『ワタシの名前は雪ノ下雪乃。好きなものは猫とパンさんと比企谷くん。苦手なものは犬と三浦さんと比企谷くんよ。いらっしゃい、奉仕部はアナタを歓迎するわ』」

 

「サラッ」と言いながら幻の長髪を風になびかせたのが止めとなったのか、ブッと一色が吹き出した。

 

「ゆ、結衣先輩ぜんぜん似てなーい!けど言ってることがおもしろっ…ずるいですよー、あはははっ!」 

 

「お前、それを本人の前でやるとか勇者過ぎるだろ…」

 

気のせいでなければ、比企谷くんが二回くらい出てきた気がする。もしや俺の知らないヒッキーが、他にも何人かこの部を出入りしているのだろうか。あるいは苦手な方の比企谷くんこそが俺で、好きな方の比企谷くんは別の人とか?そんなドッぺルゲンガー、確かに見たら死にたくなるな。

 

恐る恐る本人のご尊顔を確認してみると──おおう、俺んときより数段ヤバい顔ですね。南無三。

 

「突っ込みどころが多すぎて数え切れないのだけれど…残念ながらよく分からなかったから、先に聞いておくわね、由比ヶ浜さん。今のは一体、誰の真似かしら?」

 

「え、えとぉ…。つぎっ!いろはちゃんのターン!」

 

「え"っ!」

 

うわー、なにその「場はあっためておいたから☆」みたいな顔…。

ここでキラーパスとか、由比ヶ浜さんマジ鬼畜っすわ。

 

「哀れなり一色。骨は掃除してやる」

 

「そこはちゃんと拾ってくださいよぉ…。んー、雪ノ下先輩のですか。キャラが違いすぎて難しいなぁ…」

 

「む、無理にやらなくても良いのよ?」

 

「いえ、ゲームですからね、頑張りますよー!こほんっ…

『申し訳ないのだけれど、私は貴方について知っていることは一つもないの。この先知る予定もないし、こんな相手のことは忘れた方が貴方の為だと思う。新しい出会いがある事を祈っているわ』」

 

「なっ…?!」

 

何だろうな、今のは。えらくリアルに聞こえるセリフだったような。

 

「ね、ねえねえいろはちゃん、今の、もしかしてさー…」

 

「何故()()を一色さんが知っているのか、詳しく教えて貰えるかしら?」

 

「い、いえー、グーゼンですよグーゼン!屋上のすみっこで仕事サボ──サポートしてたら、急に始まりましてですね、出るに出られず…」

 

屋上の隅っこで何をサポートするのかは甚だ疑問だが、一色特派員の供述はやけに真実味を帯びていた。どうやら如何な平野であろうとも、その野に積もった新雪に手を伸ばしたがる輩は後を絶たないらしい。

 

「忘れなさい」

 

珍しくもその白い頬を朱に染めながら、雪ノ下はこちらをねめつけた。何で俺が睨まれているのだろうか。

 

「先輩先輩、どうでした?わたしの演技」

 

「悪くないんじゃねえの?普段から被ってるだけのことはあるっつーか」

 

「もー、ヒッキーすぐそーゆーコト言う!素直に褒めてあげればいいじゃん」

 

「あはっ、大丈夫ですよ。このやりとりもいい加減慣れてきました。たまにチクッと来るのが痛気持ちいい、みたいな?もしくは苦さで引き立つ甘み、とか…」

 

唇に添えた指を滑らせながら、一色は湿り気を帯びた目線をこちらに投げてきた。そのマゾっ気溢れる感性…やはりサッカー部には深刻な病が蔓延しているのだろうか。エロはすドMバージョンとか俺得過ぎるだろありがとうございます。

 

「物好きにはたまらない、と。ドリアンみたいなものかしら?」

 

「あー知ってる!超クサいフルーツでしょ?」

 

「ええ。公共の場所だと持ち込み禁止の所も少なくないらしいわ。アジアの一部ではお酒と一緒に食べると死ぬとまで言われているのだとか」

 

「それデメリットしか説明してなくない?アピールポイントはどこ行ったよ。ドリアンだって味は良いって、巷でもわりと評判なんだぞ」

 

「そう言えばドリアンの匂いって、腐敗臭みたいな感じらしいわね。それにハチマンとドリアンって、響きも似ているし」

 

似ているから何だというのだ。比企谷ドリアンとか、悪臭だけじゃなくて売れない芸人臭も凄そうである。腐り物繋がりはいいとして、臭いはしてないですよね…?そこ大事よ?

 

「大丈夫ですよ先輩。ドリアンより臭いひとなんてそうそう居ませんから」

 

そんな心配はしていない。あとフォローの仕方がおかしい。え、やっぱ臭いの?ほんとに?すげえ不安になってきた…。

 

「あははっ、冗談冗談。べつにヒッキーは臭くないよ」

 

由比ヶ浜はあっけらかんと笑っているが、俺の心情的にはあまり笑えない。女子が体臭について盛り上がっている時、男子は常に不安で胃を痛めているのだということを理解して欲しい。これって立派なセクハラだと思うんだよな…。

すっかり疑心暗鬼になってしまった俺を置き去りに、ゲームは引き続き進行していく。

 

「ところで次、ゆきのんの番だけど、いい?」

 

「…まあ、一人だけ不参加というのも盛り上がりに水を差すというものでしょうし。色々と借りも積もってしまったみたいだしね」

 

「げ、ゲームですからね?お、お手柔らかにお願いしますよ?」

 

一色と由比ヶ浜に鋭い視線を飛ばしてから、雪ノ下は瞑目した。

そのまま絵のモデルでもなれそうな真顔の彼女。しかし頭の中ではモノマネのネタについて思いを巡らせているというのだから、全く美人は得である。

 

「さっきはお題ゆきのんだったけど、今度は誰にしよっか?」

 

「そうね…。では、比企谷くんで」

 

「おぉー!ここでまさかの先輩ですかー」

 

「ま、マジでか…」

 

雪ノ下の冷え冷えとした視線が俺を射抜く。自分がやるわけでもないのにこの緊張感はどうしたことだろう。

 

そういや折本に告って振られた時、クラスの男子に真似をされた気がする。現場を見てもいない連中に面白おかしく再現ドラマを演じられたのだ。あの時の彼女の苦笑いを思い出すと、今でもじわっと嫌な汗が──って、つまりトラウマスイッチを押されただけですね。

 

「ゆきのん大丈夫?振っといてなんだけど、難しくない?」

 

まさか承諾されるとは思わなかった様子の由比ヶ浜に、彼女は余裕の笑みをもって応える。

 

「失礼ね、私にだって死んだふりくらい出来るわよ」

 

「いや失礼なのはお前だろ」

 

「冗談よ、待って頂戴。いま台詞を思い出しているところだから。ええと、何だったかしら。確か…『それでも俺──』

「オーケー!ターンエンドな!ほれ次、次いこう!」

 

こいつのドSもほんとブレないな!いやこんな女の前で醜態を晒した俺がド(マヌケ)なんだけども。

 

「えーっ!?ゆきのんのヒッキー、もっと見たいー!」

 

「その言い方は不本意な因果関係が連想されかねないから遠慮してもらえないかしら…」

 

もう出番は終わったとばかりに手櫛で髪を梳く雪ノ下。しかし由比ヶ浜は物足りないと飼い主にねだる子犬のように彼女にまとわりついた。

 

「ならさ、ならさー、ゆきのんはあたしのマネしてよ!」

 

えっ、リクエストとかアリなんですか?

だったら雪ノ下のあーしさんとか見てみたいなー。

 

「由比ヶ浜さんの…?まあ、それなら…。分かったわ、しばらく待っていて頂戴」

 

すっと立ち上がった雪ノ下。準備が要るほど大掛かりなネタなのだろうか。若干期待してしまうじゃないか。もしも胸に詰め物とかしてきたら、俺は笑いを堪えられる自信がない。

 

「一色さん、ちょっとキッチンを使わせていただける?」

 

「いいですけど、何するんです?お夜食ですか?」

 

「おいおい、わざわざ料理焦がして持ってくるとか酷過ぎだろ。やめてやれよ」

 

「あのね比企谷くん、先にネタばらしする貴方のほうが余程酷いと思うのだけど…」

 

「ヒドいのは二人だよ!」

 

えーんと泣き真似をする由比ヶ浜を、よしよしと一色が慰めていた。こいつ何気におかん属性も持っているのか?こんなビジュアルでも、男には意外と尽くすタイプだったりするのだろうか。

 

「うう…。でもヒッキーのマネは面白そう…。んじゃ次のお題はヒッキーでいこう!そしていろはちゃんのターン!」

 

乾燥ワカメよりも素早い復活を遂げた由比ヶ浜が、テーマの変更を告げる。何故かさっきから彼女が仕切っているが、任せておくとろくな事にならない気がする。と言うか、既にろくでもない事になっていた。俺がお題とか、不幸しか生まれないだろ常考。

 

実際、二度目のキラーパスを食らった一色は真面目な顔をして黙り込んでしまった。

あ、いや…。マジで嫌がられるとわりと傷付くんで、「えー生理的に無理ですよーキャハハー」くらいで勘弁してもらえませんでしょうか。つか由比ヶ浜もさっきから大概酷いな。いろはすに何か恨みでもあるのん?

 

「うーん、一応ネタは思いつきましたけど…。でもわたし、あんまりフラれた経験ないんで、下手でも笑わないで下さいねー?」

 

「おい待てやめろ。笑おうにも笑えないネタだろそれ」

 

見たら俺だけが死ぬ系のはホントやめてってばよ…。

 

「あっ、そう言えば先輩だけまだなにもやってないじゃないですかー。ブーブー!」

 

「だってネタが自分の時はパスでいいんだろ?」

 

「あ、そだねー。じゃ先にヒッキーね。お題はー…ヒッキーのマネをしてる、ヒッキーのマネっ!」

 

「ちょっと何を言っているのか分からなくなってきたわね…」

 

どう見ても勢い任せなのに、難易度が乗数的に跳ね上がってしまった。マネマネAのマネをしてるマネマネBみたいな意味の無さだが、真剣に考えるとどこか哲学的な香りすら漂う命題である。

 

「物真似って要するに、対象の特徴を強調して表現するものよね。比企谷くんの特徴を本人が強調なんてしたら、警察沙汰にならないかしら」

 

「そうなっても通報とかしたりしないから!では張り切ってどうぞー!」

 

「ねぇ、なんで俺の時はパスしてくれないの?男女不平等ってこういうことなの?ジェンダーフリーの風はこの国にはまだ届いてなかったの?」

 

「もー、仕方ないなあ…。ならいろはちゃんのマネで許したげる。まだやってないし」

 

「なんで上から目線なんだよ…しかも男に女子のマネしろとか滅茶苦茶ハードル高いし。やらんからね?」

 

「えー、ずるいよー!あたし達みんなやったじゃん!」

 

ふん、残念ながら俺はNOと言える日本人なんだよ。主に対等以下の相手に対して。

 

「一色さんが怖い思いをして怯えているのに、その緊張を解きほぐそうという気概は無いのかしら。この男は私達の手に負えないわ。もう小町さんに相談するしかないわね」

 

「NO!やります、やらせて頂きます!」

 

SHIT!対等以下の相手なんて殆ど居ないんだった。

でも、まあ一色ならこの中では一番マシか。キャラ作ってる分、モノマネの題材としては難易度が低いだろう。

 

一色はその大きな目でこちらをガン見している。

あざとくない時のこいつはどうも感情が読めないんだよな。これはどういう意味の視線だろうか。嫌がっている風にも見えないが…。

本人を前にしてやるモノマネはマジに心臓に悪いな。渋ってこれ以上注目浴びるのも辛いし、さっさと終わらせるとしよう。

 

俺は息を吸って喉を絞った。

そのまま、キモカワイイと我が家で評判の裏声でもって──

 

『一年生でせい…』

「一年生で生徒会長なのに頑張って部活に出てくるわたし、は禁止ですよ?」

 

 

「……………」

 

 

「それ以外のでお願いします♪」

 

 

事前に打ち合わせでもしていたかのように、一色は俺のセリフにぴたりと被せてきた。

確かにこいつは一度聞いているし、だからこそチョイスしたネタではあるが…それだけでここまで分かるものだろうか。

 

「ふっふっふー。先輩の考えなんてお見通しです」

 

満面の笑みとドヤ顔がウザかわ──じゃなくてウザい。この前から先読みの精度が加速度的に上がってるんだけど、もしや小町にマンツーマンでヒッ検の講義でも受けてるんじゃなかろうな。

 

「い、いつの間にかいろはちゃんの段位がスゴいことに…。あたし抜かれてるかも…」

 

「くっ…なら、そうだな…」

 

一色にやり込められたままでは、八幡的にも収まりが付かない。本意ではないが、ここは少々本気を出させてもらう事にする。

 

辺りを見回すと、リビングの片隅にお(あつら)え向きの物を発見した。

デフォルメされた沢山の動物たち。レースの掛かった棚に勢ぞろいしたぬいぐるみは、ゲームセンターのプライズ品だろう。

 

「これとこれ、借りていいか」

 

毛糸のタテガミが立派な割に、どこか情けない顔をしたライオン。それとパッチリ睫毛が生意気な白猫。

両の手に一匹ずつ、選んだぬいぐるみを取り上げる。

 

「もしかして人形劇ですか?これは期待しちゃいますねー」

 

「おー、なんか本格的だ!」

 

いや、単にガチでやってる顔を見られるのが恥ずかし過ぎるからなんだけどな──っと、ここでいいか。

 

俺は革張りのソファの後ろにうずくまって姿を隠した。背もたれを即席の舞台に、ひょいと飛び出して向かい合うのは先ほどのライオンと白猫だ。

具合を確かめるためにくいくいと動かしてやると、客席から黄色い歓声が上がった。

 

「わ、可愛い!」

 

「見慣れたぬいぐるみなのに、動かすと違って見えますね!」

 

「ほんとね。中身を知らなければもっと良いのだけれど」

 

ぱちぱちと三様の拍手が鳴り、俺は咳払いして演技を始めた。

 

 

『っべー!いろはすー、っべーよ、俺ってばマジコケしちゃった系ー!』

 

『るっさいなー、なんですか戸部先輩。わたしいま忙しいんですけどー』

 

『そ、そうなん?でもそれ雑誌読んでね?超暇してるカンジじゃね?』

 

『だって戸部先輩のそれ、基本ヤバくもなんともないですし』

 

『お、おう…まあそうっちゃそうなんだけど…。でもホラ、今回はマジで血とか出ちゃってる系っつーかさ?』

 

『そのくらいでピーピー騒がないで下さい。女の子は毎月その何十倍も出してるんです。うっわそのセクハラ最悪ですごめんなさい訴えていいですか』

 

『ないわー。このマネ、マジないわー』

 

 

「あは!あははははっ!似てる!とべっちちょー似てるー!あははは!」

 

あー恥ずい。顔あっついわー。

でもまあ、意外と好評のようだし、悪い気分じゃないな。

俺はソファの陰から身を起こすと、一色にぬいぐるみを手渡した。

 

「戸部に似てるって言われても全然嬉しくないけどな」

 

「いろはちゃんの方もけっこう似てたよ!」

 

「酷いセクハラもあった気がするけれど、本人が怒ってはいないようだし、今回は不問にしましょう。何より比企谷くんの顔が見えなかったのが高得点かしら」

 

俺さえいなければ世界に平和が訪れるんですね。つまり間接的に世界を救っちゃえる俺ってば超ヒーロー。世界を守るため、これからも敢えてぼっちで居続けようそうしよう。

 

ぬいぐるみを受け取った一色は、きゅっと胸元にそれを抱き込んでこちらを見上げる。さっきから感想も言わずに見つめてくるのが怖い。

 

「お、怒るなよ?ただのゲーム、冗談だ。忘れろ」

 

「いえ、怒ってなんかいませんよ。ただ、よく見てるんだなーって」

 

そう言って、彼女はまた感情の読めない目をこちらに投げてきた。一方的に読まれるのは納得がいかないが、だからといって彼女の瞳を睨み返したところで俺の心臓に負担が掛かるだけである。諦めてその熱視線を受け入れるしかなかった。

 

テンションが上がってきたのか、由比ヶ浜はお菓子を咥えたまま立ち上がり、誰に請われるでもなく名乗りを上げた。

 

「じゃあ次!あたしもいろはちゃんでいくね!

『せぇんぱぁ~い、いろはのお願い、聞いて下さいよぉ~!わたし~、お菓子作りとかぁ~、ちょお得意なんですよぉ~!あざとくなんてないですよぉ~!』」

 

 

こいつのレパートリーは自己紹介バージョンしかないのだろうか…。

やりきった顔の由比ヶ浜が「どお?」とこちらを見やるが、観客はそれぞれ複雑な表情で視線を逸らした。

 

「今のは一色、怒ってもいいんじゃね?」

 

「由比ヶ浜さんも、悪気は無いのよね…」

 

「これは嫌われるわけですねー。わたし今、ものすんごく反省してます…」

 

「な、なんかごめんなさーい?!」

 

 

* * *

 

 

草木も眠る丑三つ時──。

 

あれだけ騒がしかった女子共もさすがに寝静まり、リビングはすっかり静寂に包まれていた。省エネモードのエアコンが、時折思い出したかのように低い音を立てている。

 

この部屋からは、塀で外界と隔離された庭の様子が見渡せた。視線が通らないためプライバシー的には優れた構造だが、中で異変が起きた場合は外部から気付けない事が多い。要するに一色の家は、泥棒に好かれるタイプの仕様なのであった。

 

室内の明かりは消していたが、視界は十分に確保できていた。今夜は月がかなり明るいようだ。庭に面した壁は一面がお洒落なガラス張りで、間近に座りこんでいると空調の効いた空間といえども冬の夜気がじわじわと伝わってくる。

 

借り物の毛布をひっ被り、俺はカーテンの隙間からじっと外の様子を観察し続ける。

 

「やっぱ、おかしいよな…」

 

夜空に視線を移すも、街の灯りのせいだろうか、輝きは数えるほどしか見えない。

俺は昼間、葉山と交わした会話を振り返っていた。

 

 

× × ×

 

 

「ちょっと頼みがあるんだよ」

 

「勘弁してくれ──と言いたいところだけど、どうも今回は俺の話って訳じゃなさそうだな」

 

俺がひとつ首肯してみせると、葉山は辺りを見回しながら言った。

 

「いろはは?一緒じゃないみたいだけど」

 

「何で同伴してる前提なんだよ。あっちも今日は仕事あるみたいだし、忙しいんじゃねえの?お前ら日曜なのにホントよくやるよな」

 

「どっちも好きでやってる事だからね。辛いとは思わないさ」

 

妙な言い方をするな。それだと一色も、という事になってしまう。彼女が会長になったのは成り行きだって事くらい知っていそうなものだが…。

まあそれはいい。リア充の恋愛事情に気を巡らせていられるほど、俺のニチアサは暇ではないのだ。

 

「部活、昨日もやってたのか?」

 

「昨日はオフだよ。だから昨日の中原についても保証できない。もしかして何かあったのか?」

 

俺の質問の意図するところを察し、葉山は必要な情報を的確に返してきた。

話が早くて助かる。ぶっちゃけあんまりこいつと長話とかしたくないし。そもそもぼっち的には休日に一番会いたくない人種だしな。

 

「いや、昨日は何もなかった。あるとすればこれからだな」

 

俺の確定的な口調を受けて、葉山は不思議そうな顔をする。何故これから起こると思うのかと問いたいのだろう。

しかし理由を事細かに説明するのは面倒だ。ついでに恥ずかしいし、もしまた誤解でもされたら一色への借金が更に増えてしまうし。

 

「昨日、いくらかエサを撒いた。食いつくなら今日明日だと思う。だから今から保証して欲しいんだが、頼めるか?」

 

「つまり…中原と一緒に居ろってことか?彼のアリバイを証明するために」

 

「頼む」

 

こいつにきちんと頼み事をするのはもしかして初めてかな、と思いつつ、俺は葉山に頭を下げた。

 

「…いつまでやればいいんだ?犯人が見つかるまでってのは現実的じゃないだろ」

 

「差し当たってはこれから明日にかけてだな」

 

「その言い方だともしかして夜の間も?」

 

「可能であれば。手段も全て任せる。まあ、お前には受ける義務とか全然ないんだが──」

 

一色のためにも、というのが葉山にとって後押しになるかは分からないが、俺のためにというよりは八万倍くらいマシだろう。そう思って白々しくも悲劇のヒロインの名を出そうと思ったのだが、イケメンは迷うことなく即答した。

 

「いいよ、やろう。義務は無くても義理はある。いろはのことも、君の怪我のことも」

 

「いや俺の方は──すまん、何でもない。助かる」

 

こいつのいう義理ってのは、義理チョコから連想されるような意味合いではなさそうだ。「みんなの葉山隼人」が好みそうな"人としての正道"──いわゆる義理人情の方だな。

まあ葉山自身が望まないキャラクターを演じているのであれば、結局は義理チョコ的な意味に帰着するのだが…俺としては動いてくれるならどちらでも構わないのだった。

 

 

× × ×

 

 

「…ん」

 

鼻をくすぐるような感触で、俺はいつの間にか意識を飛ばしていた事に気が付いた。

 

「……やべ、落ちてたか…」

 

葉山の夢とか誰得ですか。どうせなら戸塚ドリームにしてくれよ。なんなら戸塚の存在自体がドリームまである。

つか、やけに鼻がムズムズするんだけど、風邪ひいちゃったか?

 

鼻を擦ろうと思ったのだが、何故か腕が動かなかった。活動停止しかけた頭にちょっとしたパニックが訪れる。これが噂に名高い金縛りというやつなのだろうか。

一色さん、お宅、押入の奥に御札とか貼ってあったりしませんよね?

 

腕に感覚を集めてみると、びくともしないという程でもない。ただ、何か柔らかいものに絡め取られている様だった。暖かくて妙に気持ち良いが、微妙に脈打っているような気もする。

ゆ、幽霊がなんぼのもんじゃい!八幡大菩薩の加護を舐めるなよ?

アジャラカモクレンキューライス──って、悪霊退散の呪文唱えてどうすんだよ。これ明らかに生物的な何かだよな?

 

「…っ?!」

 

突然、淡い色の髪の毛が視界に飛び込んできて、俺は目を疑った。

鼻をくすぐっていたのはこれだったのか。

 

「ど、どうしてこうなった…?」

 

雲に入っていた月が顔を出したのだろう。

差し込んだ薄明かりによって照らし出された謎の生物の正体──。

それは、俺の肩に頭を預けて寝息を立てている一色いろはだった。

 

もともとポンチョのように羽織っていた毛布に潜り込む形で、こちらにぴったりと寄り添っている。この体勢、どう見ても隙間に無理矢理に身体をねじ込んできたと思われるのだが、それにすら気が付かなかった俺が見張りを名乗るのはやめたほうが良いんじゃないだろうかと悲しくなった。

 

両腕だけでなく脚まで使ってすっぽりと抱き込まれた左腕は、期せずして二箇所のNGエリアへ同時に抵触していた。

二の腕の感触…これは再び(まみ)えた天竺に違いない。昨日振りですお釈迦様。

そして手の甲にある…この(ぬく)くてポニョっとした感触は…?

え"?!これは流石にまずくない?都市条例に引っかかっちゃうヤツじゃない?ゲェムギョウカイ的にはCERO【Z】じゃない?!

 

どこもかしこもフニフニしているいろはす。太ってないのに何でこんな感触が違うのか。セットがされていないためか、少し乱れた髪からはほんのりとシャンプーの香りが立ち上ってくる。いつもの香水とは違う素を感じさせる匂いにやられて、俺の全身はまさに金縛りにあったようだった。

繰り返し主張しておくが、全身が硬直したのである。決して一部だけではない。 

 

小さな寝息をたてる一色を余所に、こちらの睡魔は成層圏までぶっ飛んでしまった。「起こしてベッドに追い返せ」と理性ががなり立てるが、別の何かが「このままでいい」と押さえ込みにかかっている。

 

このやわらか生物の告白を断るとか、もう葉山に関しては海老名さんの妄想を否定できないだろ…。

あ、そうそう。葉山と言えば──さっき何か大事なことを考えていたような気がする。

…するんだが、この状況では思い出せるものも思い出せそうにない。どころか、下手すると覚えていることすら忘れてしまいそうである。

何しろ脳味噌がいろはすの香りと感触の解析に掛かりきりで、完全にフリーズしているからな。さっきからCtrl+Alt+Delを連打してるけど一切反応なし。

 

「お、おい…マジに寝てるのか…?」

 

「ふ……んぅ……」

 

もぞり、と身動ぎをした一色は、俺の肩口に頬を擦り付けるようにしている。落ち着けるポジションを探しているのだろうか。

覗き込んでいたせいで彼女の零した甘い吐息を至近距離で吸い込んでしまい、ただでさえ霧掛かった頭に更なる痺れが走る。彼女はやがて満足した様に動かなくなり、そのまま体重を預けてきた。

ぶっちゃけわりと重たい。どうやらガチで眠っているらしい。

役得と喜ぶべきか、男として見られていないのを悲しむべきか。

 

まあ最近は状況が状況だったし、あまり眠れていなかったのかもしれない。起こすのも可哀想だし、このまま寝ず番と洒落込むか。

いやいや、別に下心とかないから。誰だって野生のテンとかオコジョとかが突然布団に潜り込んできたら、ほっこりしても追い出したりはしないでしょ?そういうアレですよ。

いやもっこりもしてるだろって…誰が上手いこと言えと。

 

明日はもう月曜だ。結果的に、ほとんど一色に掛かりっきりの土日となってしまった気がする。

いや違った、今日が既に月曜だった。

 

「こりゃ、今日は死んだな…」

 

一日分の授業と引き換えなら安いものか。

諦めの境地に至った俺は、明け方までの数時間、後輩女子との同衾というプライスレスな体験をさせてもらったのだった。

 



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■27話 最初から間違っていた

とうとうここまで来ました。
もはや退かぬ!媚びぬ!省みぬ!


 

チュンチュン、朝チュン──。

 

半ば幻聴も交えつつ、俺の耳に小鳥の声が届く。

 

ぼんやりと目を開いてみたが、真冬の空は未だ暗闇に覆われていた。それでも時間にうるさい雀達に空気を読むような気遣いはなく、一方的に朝の訪れを主張する。

その囀りは毛布の中にまで届いたようで、もそもそと僅かな動きがあった。体温で暖められた甘い香りが胸元から立ち上ってきている。彼女が目を覚ます気配を感じ、俺は石膏像のように硬くなった。局所的な朝の石化現象ではない。何もしてないアピールと悲鳴対策を兼ねた鋼鉄変化呪文(アストロン)である。

 

「ん…っん…」

 

ゆっくりと頭を上げた一色は猫のように丸めた手でこしこしと目を擦ると、間近にある俺の顔を見やり、そのまま暫くぼうっとしていた。口に手を当て、くあ…と可愛く欠伸なんかしている。元々童顔で小柄なこともあって、寝起きの彼女はぶっちゃけ高校生には見えない。これがまた庇護欲を鷲掴みにしてくるのだが、俺は辛うじて彼女の頭を撫でまわしたい欲求に耐えた。

危ない危ない。小町が妹じゃなかったら即死だった。

 

健全ロボも顔負けの超淫らなこの状況に、彼女はいつ噴火するのだろうか。

ヒヤヒヤしながら見ていたが、彼女はキレもテレもしなかった。片腕を俺に絡みつかせたまま、俺の目を見つめてほんの少しだけあざとく笑ってみせる。

 

「おはようございます。おかげでよく眠れました」

 

「おう…。それは良かったな…」

 

夜通しの理性耐久レースによって、朝っぱらから気力ゲージは枯渇していたが、今のやり取りでさらにそこから何かをきゅうっと吸い出されたような気がした。どことなく生気に満ちた様子の一色の言葉を、俺は落ち窪んだ目でもって受け止める。

 

「とっても、気持ちよかったです…」

 

まだ半分寝ているような、もしくは情事の後のような(知らんけど)、どこか気怠い妖艶さでそう言い残すと、ゆらりと立ち上がった一色は浴室へと消えていった。

 

しばらくすると廊下の向こうからシャワーの音が聞こえてきて、俺は身体から力を抜いた。ふと視線を落とすと、くるまっていた毛布にはぽっかりと穴が空いている。その空白を見つめ、ずっと空調が効いているはずの室内で、俺はぶるりと身震いをしたのだった。

 

 

* * *

 

 

一色がシャワーを済ませているうちに、俺は彼女の家を出立していた。

 

時間的にそろそろ動かないとしんどいというのが表向きの理由だが、このまま湯上がりの一色と顔を合わせた時、掛けるべき言葉がさっぱり思いつかないからというのが本音だったりする。

彼女が昨夜の件を他の面子に暴露するような事はないと思うが、あのまま待っていてもひたすら水音を聞かされるだけだろう。彼女が言わずとも、俺の態度から何かを気取られる可能性は低くない。何より、これ以上誘惑されると精神衛生上よろしくない。

 

「めっちゃ暗っ!寒っ!」

 

尋常ならざる状況で完徹したにも関わらず…いや、だからこそなのかもしれないが、俺の身体は意外と軽快に動いてくれている。所謂ナチュラルハイというやつだろうか。あるいは既にプチ精神崩壊しちゃってるとかな。どちらにせよ、興奮状態が途切れた瞬間、俺は死人の如き眠りに沈むことだろう。

彼女の残した体温や残り香が、冷たい向かい風によって引き剥がされる。頭に燻っていたピンクの霧が晴れていく感覚を、俺は少しだけ勿体無いと思った。

 

おかしなテンションで立ち漕ぎなんかしつつ我が家へと戻る頃、二度寝したんじゃないかと疑うくらい遅めの朝日が顔を出した。元旦ですら拝む事のない日の出に目を眇めていると、家の窓からは既に明かりが漏れている事に気付く。

 

「あいつ…こんなに早く起きて何してんだよ…」

 

極力音を殺しつつ玄関の戸を開ける。

そこには腕を組んで仁王立ちした小町が待ち構えていた。

まさか夜通し待っていた訳じゃないよな…?

 

「お、おはようございます…」

 

逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。いやいや逃げなきゃ駄目だろバカ言うな。

家主とばったり出くわしてしまった侵入者のように、俺は顔を隠して平謝りしつつ、彼女の脇をすり抜ける。

 

「すいません、違いますから」

 

「……何が?」

 

「すいません、大丈夫です」

 

何がどう大丈夫なのだろうか。

支離滅裂な兄の言動を見て、小町は悩ましげな声を漏らした。

 

「はぁーっ、まさか朝帰りとは…。いくら何でも色々と飛ばし過ぎじゃない?」

 

もしかして、俺が一色と二人きりの夜を過ごしたと思っているのではないだろうか。知らなかったのだから無理もない。助っ人の二人を呼んだことを伝えれば、この誤解はすぐにでも解けるだろう。

だったらそれは後でいい。今は釈明できるだけの気力が足りていないのだ。頭もさっぱり回らないし、小町の誘導尋問にも引っかかりかねない。誤っていろはす同衾事件について口を滑らせたりしようものなら、今後のお兄ちゃん生命が断たれてしまう。

俺は背中で追求の視線を遮ると、そのまま浴室へと逃げ込んだのだった。

 

「もー、二人になんて説明したらいいのさ…」

 

これ見よがしにぼやく小町の声が廊下から聞こえてくる。わざわざ親に説明する必要はないだろうに。しないよな?しないで下さいお願いします。

 

手早くシャワーを浴びてリビングへ戻ると、既に小町の姿はなかった。代わりにテーブルには湯気の立つコーヒーと焼きたてのトーストが一人前。

書き置きなんかは特に置かれていないが、流し台の様子を見る限り、これが彼女の分という事は無さそうだ。

 

「ほんと、良く出来た妹だよ…」

 

あまり気が利きすぎるのも寂しいものだと肩を竦めつつ、俺はそれらを有り難く頂戴した。

 

身体を清め、朝食を胃に収めると、お次は睡魔が鎌首をもたげ始める。このままベッドに飛び込めたら最高なのだが、誠に遺憾ながら、今がまさに一週間の始まりなのである。死にたい。

 

「月月火水木金金…ってな」

 

まるで休日出勤からそのまま翌週へと突入した会社員の様である。絶望感に苛まれつつ、俺は再びよろよろと自転車に跨がったのであった。

 

 

* * *

 

 

学校に着く頃、既に時刻は8時を大きく過ぎていた。

グラウンドからは部活動に勤しむ生徒の声が聞こえてくる。またサッカー部だろうか。目に優しくない色のゼッケンを着けてないところを見ると、余所の連中かもしれない。

いつもさして変わらない朝の風景を目にすると、やはり平日が始まってしまったのだなぁという切なさが胸に去来した。あとは愛しさと心強さがあれば役満である。

失われた週末に涙をちょちょ切らせていると、昇降口に差し掛かったところで普段見かけない人物の姿を発見した。

 

「雪ノ下…」

 

朝練には遅く、無所属としては早いという、マイフェイバリットな時間帯。過去においてこの時間に彼女と遭遇した記憶はない。夕べが夕べなので、行動が変則的である事自体に疑問はないのだが、それにしては他の二人の姿が見当たらない。わざわざ別々に来たのだろうか。

 

「おい…顔色凄いぞ。貧血か?」

 

彼女はハンカチを口にあて、青い顔で俯いていた。もともと色白なので、少し血の気が引いただけでも顔面蒼白といった有様である。

彼女は何も言わず、形の良い眉を歪めて瞑目している。俺の声に対して上げられたその相貌から、またぞろ何かあったのだろうという事だけは察せられた。

 

俺が黙って返事を待っていると、彼女は意を決したように唇を引き結んだ。ハンカチを口から外し、一年の下駄箱へと歩いていく。

昨日の話に触れるはおろか、挨拶さえもしてこない。そんな彼女らしからぬ態度に違和感を覚えながら、俺は黙って後に続いた。

 

「悪いとは思ったんだけど、先に来て彼女の靴箱を改めさせてもらったの」

 

そう言って、彼女は"一色"という名札の前で立ち止まった。僅かな躊躇いの後、金属製の小さな戸を開く。

 

「…ああ…なるほど。…お前ほんと凄いわ」

 

開陳された靴箱の中を見て、俺は二重の意味で、彼女を賞賛せざるを得なかった。

 

自分の足元ばかり警戒していたせいで、俺は一色自身の被害を見逃していた。それを夕べ反省したばかりなのに、どうやらまたやらかす所だったらしい…。雪ノ下の配慮には感謝するしかないな。そして、この状況を見てなお、顔色を変える程度で済んでいるその肝の据わりっぷりにも、改めて感心させられる。

 

「比企谷くん。これってその…いわゆる、アレなのかしら…」

 

「あ、ああ…多分な…」

 

そっと靴箱の戸を閉じ、俺達は互いに顔を背けて言葉を交わした。

雪ノ下の反応についてはさもあらんという所だが、こちらも別の意味で言葉を失っている。

くそう、何で俺がこんな微妙な辱めを受けなきゃならないんだ。とばっちりも甚だしい。

 

気まずい空気がしばし場を支配したが、やがて確認しなければならない事があったのを思い出し、俺はポケットから携帯を取り出した。先日手に入れたばかりの、さして欲しくもなかった番号へと電話を掛ける。

 

「比企谷くん…?」

 

訝しむ雪ノ下。

彼女に返事をする間も惜しんで、通話が繋がると同時にその相手へと問いかけた。

 

「そっちの様子はどうだ?」

 

『──もうすぐ学校に着くところだよ。君と別れてからずっと一緒だけど、特に変わった事はなかったかな』

 

向こうも挨拶なんて間怠っこしい真似はしない。何故か掠れて無駄に色気を増した声で、電話先の相手──葉山隼人は俺の求める答えをすぐに返してきた。

 

「わかった。一晩何してたかは聞かないでおくわ」

 

『姫菜が喜びそうな妄想はよしてくれ。オールでカラオケボックスに居ただけだよ』

 

チッ。海老名さんに密告して、存分に愚腐ってもらおうと思ったのに。しかし頼んでおいてなんだが、日曜の夜に徹カラとはよくやるものだ。

 

「了解、もうアリバイの方は十分だ。切るぞ」

 

『待ってくれ。中原が話したいって言ってる。いま代わるから』

 

「ちょ、なんで知らないヤツといきなり──」

 

抗議してみたものの、既に相手が電話口から離れた気配を感じ、俺は眉間にしわを寄せた。件の中原が相手となれば、聞かないわけにもいかないか…。

ふと雪ノ下の様子を見ると、髪の毛を指で寄せ、露出させた形の良い耳をこちらに向けていた。

え、それだけで電話の内容とか聞こえちゃうの?ゆきのんイヤーは地獄耳!

彼女のスペックに驚嘆しつつ待っていると、聞いたことのない男の声が電話から聞こえてきた。

 

『──比企谷サンっスか?一年の中原です。自己紹介とか要らないっスよね?』

 

想像していたのよりずっと普通の男子だな。第一声でデュフフ笑いがくるのも覚悟していたのだが。

 

「…ああ。なんか話があるって?」

 

『葉山サンから色々聞きました。オレ、ストーカーだと思われてたって。それで夕べ一晩、マークされてたんですよね?』

 

「ま、まあな…」

 

くそ、葉山のやつ…さては馬鹿正直にゲロしやがったな。

容疑者に向かって「あなたがキラですね」ってどこのLさんだよ。依頼者である俺の名前がデスっぽいノートに書かれちゃったらお前のせいだからな。

 

『つけまわしたりしてたってのはその通りなんで、疑われるのは仕方ないっス。けど、身に覚えのない事までオレのせいにされるのはさすがにキツいっていうか…。一応、言い訳みたいなのをしておきたいなって』

 

「身に覚えがない?」

 

『盗撮とかイタ電とか、色々されてるらしいじゃないですか。オレ、そんなのやりませんから!』

 

「24時間、SEC○Mばりに気合入れて見張ってるって話を聞いたんだが」

 

『そ、そこまでしてないっスよ!そりゃ一時期は毎日姿を見ないと気が済まないって時はありましたけど…そもそも見てただけですし!』

 

うーむ。かつて呼吸してるだけで罪みたいに言われた経験もある立場からコメントさせてもらうと、その供述を無罪として扱うのはちょっとばかり難しいかな。

 

『多分、あいつの仕業ですよ、それ全部』

 

「あいつ?誰の話だ」

 

『同じクラスの男子で、西山ってやつなんスけど。あいつも一色さんの事好きだったんで、最初は結構その話で盛り上がったりもして。でも、そのうち仲悪くなって…。最近じゃさっぱり話してないんスけど』

 

それはそうだろうな。

相手がアイドルならともかく、自らの手が届くただ一人の人間なのだ。断じてオタクの共有財産ではない。彼女に本気になればなるほど、お互いに仲良くできる要素が失われていったのだろう。

 

「…で、そいつが何だって?」

 

『オレが言うのも何なんスけど、かなりヤバいって言うか…。えーと、これ言っていいのかな…』

 

「よく分からんが、お前の無実を証明するのに必要な事なら、言っておいた方がいいんじゃないの?」

 

『そ、そうっスね…。これ、まだそこそこ話してた頃の事なんスけど』

 

中原は少し迷っていた様だったが、やがて開き直ったような口調で語り始めた。

 

『いいもの見せてやるって声掛けてきた事があって。てっきり一色さんの生写真か何かだと思って、オレ、あいつの家まで付いていったんスよ。でも…。その、"いいもの"って何だったと思います?』

 

「な、何だったんだよ…」

 

『髪の毛だったんですよ!一色さんの!』

 

「…………」

 

一瞬、意味が分からなかった。

 

なにそれどういう事?いろはすヘアって転売ヤーに転がされたりするレアアイテムなの?実は生活すんごい苦しくて、リアル聖者の贈り物状態になってたりすんの?

 

『多分、一色さんの机の周りに落ちた抜け毛なんかをちょっとずつ拾って集めたんだと思います。やたらと立派なケースに入ってて、超自慢してくるんスよ。それ見て、こいつヤバいやつなんじゃないかって…』

 

「ああ、そういう…いやどう見てもアウトだろ」

 

なんでまだ疑問の余地が残ってんだよ。とんだサイコ野郎じゃねえか。

 

『なんつーか、一瞬ですけど、羨ましいかなーとか、思っちゃったもんで…。いや、ほんと一瞬だけっスよ?』

 

「…………」

 

いやまあ、分からないではない。分かりたくもないけど分かってしまうな、その気持ちは。好きな女子の髪に触れたいという欲求。男子にそれが有るか無いかで言えば、確実に有るのだから。

おかんの抜け毛なら汚いゴミだが、意中の人物のソレであれば金糸にも匹敵する価値がある。だからってそこまでやっちゃうかと言えば、普通はやっちゃわないわけで。

 

『オレはやらないっスよ?!』

 

「分かってんよ…」

 

『黙られると怖いんスけど…』

 

考えるだけなら何ら罪ではない。何かの拍子に頭の中身がバレてしまえば社会的に死ぬ事はあるかもしれないが、少なくとも法的な罰則はないのだ。俺たちの住む国において、思想の自由はきっちり保障されているのだから。

もしも相手を殺したいと思っただけで捕まるのなら、首都圏は人が減ってさぞ住みやすくなる事だろう。妄想好きな俺なんて何百年投獄されるか分かったもんじゃない。それくらい、思うのとやるのとでは次元が違うのである。

 

『そもそもオレが教室であんなに興奮したのだって、アイツが自分のこと棚にあげてオレをストーカー扱いしたからで──いやすんません、その事はいいです。とにかく、ここ何日かの様子を聞いた感じだと、西山ならやりかねないって話っス』

 

「そうか…情報助かった」

 

手短に礼を言って、俺は電話を切った。

 

ここへ来ての、新しい容疑者の浮上。

振り出しに戻ったのでは、と一瞬気が滅入りかけたが、中原の話を聞く限り、どうやらその逆になりそうだった。

 

「意外とあっさり犯人確定、か…?」

 

俺は今一度、靴箱へと視線を投げる。

 

今は戸が閉じられているその中には、彼女を写した隠し撮りらしき沢山の写真が入っていた。

これだけでも十分に偏執的なのだが、加えてそれらには(ことごと)く、ぬめった液体が付着していたのだ。

あの粘液が何であるのかなど、言葉にするのも気が進まない。この手の悪意には滅法強そうな雪ノ下ですら顔を逸らしているというあたりで、出来れば察して頂きたい。彼女は彼女で嫌悪感が凄いだろうが、男である俺は見た瞬間に靴箱ごと焼き払いたい衝動に駆られた。これが夏場だったら臭いで吐いていたかも知れない。

 

第三者ですら夢に見そうなこの光景。

もしも一色が直視してしまったならば、間違いなく一生記憶に残る傷となるだろう。

 

この行為の異常性は、さっきの話に出てきた人物に通じる所がある。中原はこの現状──靴箱の現況を知った上で報告してきた訳ではないのだから、その人物を貶めようとして作り話をしたのだとは考えにくい。

 

「話は大体聞こえたわ。どうやら私達、最初から間違っていたみたいね」

 

「…ああ」

 

どこかで聞いたようなセリフだな、と思った。あの時とは随分意味も状況も異なるが…。

中原が動けない状況において、事件は確かに発生した。少なくとも昨日の訪問者は彼でなかったのだ。そしてアリバイが無いというのは犯人である事とイコールではない。つまるところ──

 

「犯人は最初から別に居た、という事かしら」

 

「むしろ事件は()()発生していたって感じだな」

 

これは勿論、盗撮とイタ電を別々に数えるという意味ではない。最初に中原が起こした騒ぎと、その後に起こった諸々の事件という括りである。ストーカー問題というカテゴリで纏めて取り扱っていたそれらは、あくまでも立て続けに発生した別々の案件だったのだ。自分で言った事ではないか、ダース単位で発生していないとおかしいと。

 

結果論ではあるが、葉山の主張は正しかったという事になる。いや、中原自身が全くの無罪というわけではないのだから、半分だけ正しかったと言うべきだろうか。事の大小を除けば、彼は彼でもう一人の犯人には違いないのだし。

 

「ストーカーの同時多発とか、そんなのアリかよ…。どんだけモテるんだっての」

 

「もしかしたら、偶然ではなかったのかも知れないわね」

 

同じ事を考えていたのだろう。俺の苦々しい表情を見て、雪ノ下は言った。

 

「もう一人の方…中原くんの言っていた男子生徒だけど、その人物がこの状況を利用したとは考えられないかしら」

 

「中原を隠れ蓑にした…ってことか」

 

雪ノ下の言う通りだ。偶然同時に動き出したというよりは、今だからこそ動いたと考えた方が自然である。ちょっとくらい過激な事をしても、疑いの目は中原に向けられるのだから。

 

「二人が組んでいる可能性はあると思う?」

 

「それは考えなくていいだろ。メリットがない」

 

そもそもが一人の女子を巡る恋愛絡みである以上、男子二人の利害が一致することはまずありえない。何より中原が疑われる事で、そいつには恋敵が減るというオマケまで付いてくるのだ。これで協力しているつもりなら、中原はただの間抜けである。

 

「仮にここまでグルだったとしても同じだ。これだけ派手に罪を着せられた中原からすれば、律儀に協力関係を維持する理由はもう無いからな。つまり、さっきの電話が報復としての告発にあたるとしても──」

 

「いずれにせよ、彼の言っていた内容の信憑性は揺るがないという事ね」

 

彼女の言葉に首肯すると、雪ノ下は苦笑いを浮かべて腕を組んだ。

 

「やれやれだわ。"事実は小説よりも奇なり"とは言ったものね」

 

してやられたというか、簡単ななぞなぞに答えられなかった頭の固い大人というか、彼女はそんな微妙な顔をしてみせた。俺もポカを重ねすぎて、そろそろ一色に合わせる顔がなくなってきた気がする。まさか、より危険な方をノーマークで泳がせていたとは…。

一色に大きな被害が出る前にオチが着いたのだけは、不幸中の幸いだろうか。汁まみれの靴箱については…まぁ尊い犠牲とでも思うとしよう。つか、誰が片付けるんですかこれ。

 

「すぐに先生に報告する?」

 

「けど、証拠が無いっていうのは変わってないんだよな…」

 

「それはそうだけど、靴箱の後始末もあるし、さすがにこれ以上抱え込むのは難しいんじゃない?」

 

「確かに。このエスカレート具合を見る限り、バレたくないとか贅沢言ってもいられないか」

 

「事後については可能な限りフォローするとして、まずは喫緊の危険を全力で排除するべきでしょう」

 

今さらになって手に負えないと認めるのは何とも業腹な話だが、このままだと明日にでも本人に被害が及びそうな勢いだ。一色に頭を下げてでも、事態を明るみに出してもらった方がいいだろう。大事なのは間違わないことじゃない。過ちを認めることだって孤独なアンパンのヒーローも言ってたし。

そういや生徒会選挙の時も、結局は彼女に折れてもらったんだった。クリパとフリペの件を加味しても、彼女からの依頼に対する達成率は5割まで落ち込んだことになる。この数字、果たして高いのか低いのか…。

 

今後のアプローチについて雪ノ下と話し込んでいると、入り口から由比ヶ浜がとっとこ小走りで入ってきた。

 

「おっ!ヒッキー、ゆきのん。さっきぶりー」

 

「あら、やっと来たのね」

 

「おう。…ん?一色はどうした」

 

見たところ、由比ヶ浜は一人のようだった。雪ノ下がここにこうして居るのだから、一色のカバーには由比ヶ浜がついているのだと、俺は勝手にそう思っていたのだが。

 

「いやぁー、えっと、それがねー…。ちょろっと取り込み中ってゆーか…」

 

「意味分からん。トイレか?」

 

「違うし!んー…、こんくらいならいいのかな…?うん、大丈夫だね、たぶん」

 

彼女は何か複雑な事情に配慮しているような素振りでこめかみを揉んでいたが、割り切ったような顔になると「ヘンに思わないでね?」と前置きをしてから言った。

 

「実はすぐそこまで一緒に来たんだけど、校門のとこで男子が待ってたの。いろはちゃんに話があるとか言ってて」

 

「男子…?それって──」

 

「聞くまでも無いが…相手は中原じゃないよな?」

 

「当たり前でしょ!あたしその男子の顔は知らないけど、いろはちゃんの顔見てたらさすがに分かるし!」

 

「それもそうか。…で、中原じゃないなら大丈夫だと思って、お前はアイツをのこのこ一人で行かせた、と?」

 

ネチネチと責め立てる俺の言葉に、由比ヶ浜はうわーんと頭を抱えた。

 

「し、仕方なかったんだよー!なんか、ちょー告白っぽい空気だったし。そんなんついて行けるワケないじゃん!それにさー、話してるとこちょっと見たけど、お互いに知らない相手ってカンジでもなかったよ?」

 

「そうなの?…そういう事なら平気かしら…」

 

由比ヶ浜はそもそも中原が犯人だと思い込んでいるし、それ以外の男子に反応するのはせいぜいが恋愛関連のセンサーだけだろう。タイミングが悪かったのか、配役が悪かったのか。

 

「一応、様子見に行った方がいいんじゃないか?」

 

「やめといた方がいいよ。見られたくないだろうし。そもそもヒッキーが心配してるような展開とかありえないし」

 

「どっから沸いて来るんだ、その自信は」

 

「どうせすぐに分かることだから、この際教えちゃうけど…。さっきいろはちゃん、笑ってたもん。最近しつこかったから丁度いいって。あれはもうバッサリいくやつだね!瞬殺だね!」

 

「いや、そっちの心配はしてないから…」

 

普通に惚れた腫れたの話であれば、何も心配はないんだが…。

でもまあ確かに、いろはすが斬る!の名場面は一度くらい見てみたい気が──。

 

 

………ちょっと待て。

 

 

「…そいつの事、一色は、何て言ったって?」

 

「えっ?だから、最近しつこかったって」

 

「前に一色さんが、こんな状況でも声を掛けてくる男子は居るって言っていたじゃない。その相手の事なんじゃ──」

 

何かに気が付いたように、雪ノ下はハッと口元を抑えた。俺と同じ考えに至ったのだろう。

 

「まさか…」

 

雪ノ下は靴箱と俺の顔を交互に見比べた。俺は彼女の視線に無言で頷く。

 

彼女にしつこく声を掛けてくる男子が居て。

彼女の事が好きで好きで、異常行動に走っていた男子が居て。

そして彼女は、犯人が動くであろうと張っていたタイミングで、男子に呼び出された。

 

これらの要素を確実に結びつける、確乎たる物証は無い。しかし、逆に言えば足りないのは証拠だけで、この期に及んで無関係と考える事の方が難しかった。

もちろんこれは状況証拠のみで構成された粗雑な推論である。違うなら違うでいいのだ。むしろ違っていて欲しい。

 

「二人がどこ行ったか分かるか?」

 

口早に由比ヶ浜に問うと、事態を理解していないであろう彼女はきょとんとした様子で首を傾げた。

 

「ん?たぶん…特別棟の方かな?告るんなら、やっぱ校舎裏とか、屋上とかなんじゃない?」

 

「比企谷くん」

 

雪ノ下の呼びかけに、俺は自分の担当を告げる。

 

「屋上に行く」

 

「なら私は校舎裏を」

 

「ちょっ、え?二人とも、なに?まさか見に行くの?大丈夫だってば!」

 

「いいから!由比ヶ浜さん、付いてきて!」

 

わたわたしている由比ヶ浜を雪ノ下に預け、俺は玄関から飛び出した。

頭をかきむしりたい衝動を堪えて、俺は全力で特別棟へと向かって走る。

 

「くそっ…!頼むからやめてくれよな…っ!」

 

中原の言っていた、同じクラスの変態野郎。十中八九、そいつが真犯人であると考える。

中原が一色のクラスメイトなのだから、その変態だってクラスメイトだ。つまり由比ヶ浜の言う、彼女の顔見知りであるという情報は何の安心材料にもならない。

 

「ウソだろ…。ストーカーご本人に、わざわざ一番危ないタイミングで引き渡しちまったのか…?!」

 

今はまだ辛うじて一色への敵意にはなっていないようだが、見ての通り、奴の妄執は膨れ上がって破裂寸前だ。告白自体が何事も無く済むかどうかも怪しいのに、その上ばっさり瞬殺されると太鼓判まで押されてしまった。

 

今の犯人が、もしも彼女に手酷く拒絶されたりしたら──。

 

 



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■28話 愚かで無力な先輩男子

《--- Side Iroha ---》

 

 

 同級生の男の子と二人並んで、わたしは屋上から朝のグラウンドを眺めていた。

 

 二人の間に言葉はない。最初は程々に笑顔を浮かべていたわたしの顔も、今ではすっかり表情筋が強ばっていた。

 真冬の屋上を吹き抜ける風は冷たいを通り越して痛いくらいで、千年の恋もキンキンに冷やされかねないロケーションだ。ましてやパートナーが小指の甘皮ほども興味のない相手とあっては、得意の愛想笑いも陰ろうというものだった。

 

(まったくもー…何でこう、ひとがやる気を出してるって時に…)

 

 

 夢見心地でバスルームに入ったわたしは、目覚めるにつれて、しでかしたことの大胆さに恐れおののくことになった。

 

 夜中、たった一人で番犬のように庭を見張っていた──厳密には居眠りしてた──そんな先輩の姿を偶然見かけて、胸を打たれたというか魔が差したというか…。

 どうせすぐ目を覚ますだろうと思って、わたしは冗談のつもりで先輩の懐に潜り込んだ。けど、そこで思いも寄らない事態が発覚して、そのまま動けなくなってしまった。そこは、先輩の匂いと温もりで溢れていたのだ。

 これが思った以上に心地良くて、あとちょっと、もう一回、と胸に鼻先を埋めて深呼吸を繰り返していたら、いつの間にか鳥の声が聞こえてきた、と──まあ大体そんなカンジ。

 

 身体に残る先輩の匂いに赤面しつつ、シャワーを済ませてバスルームから出ると、彼は既に姿を消していた。

 せっかくだから朝ご飯作ってあげようと思って、メチャクチャ気合い入れてたのにー。例のエプロンを着けた後ろ姿を見せてあげようと思っていたのにー。鏡の前で全身を何度も確かめたわたしがバカみたいだった。ううん、みたいじゃなくてかなりバカなんだとは思うけど。

 

 そんな行き場を失ったパッションは、最終的に手作りのお弁当となって、今わたしの左手にぶら下がっていた。

 

(ま、ただのサンドイッチなんだけど)

 

 プラスチック製のカゴに入れたまでは良かったけれど、オシャレなお弁当入れなんてものは我が家に常備されていない。時間もなくて、結局は中学で使っていたお弁当袋に入れてきた。そのせいか、露骨なまでに「頑張ってお弁当作ってみました」感が溢れている。

 アピール手段としては悪くないんだけど、先輩相手には逆効果なんだよね…。またあざといとか言われちゃいそう。サプライズ的な意味でも、せめてお昼までは見つかりたくないなぁ。

 

 そんなことを考えながら結衣先輩と登校してきたら、校門のところにクラスの男子が立っていた。

 

 挨拶して通り過ぎようとしたところ、彼は「話したい事がある」とわたしを呼び止めてきた。どうしたのかと問えば、結衣先輩の顔をちらちらと見ながら二人きりで話したいと言う。彼の用件がなんであるのか、この時点で察しの付かない女子は居ないだろう。

 

 クラスメイトでもあり、幾度となく言葉を交わしたこともあるその人物。盗撮写真が載ったビラを見せてきた時から、あまり好ましくは思っていなかった。

 

 ただ、こうして冷静に考えてみれば、たまたまこのひとが最初に持ってきたってだけで、別にアレを作った犯人ってわけじゃないんだよね…。

 それに確か、中原君が騒いだ時も率先して止めようとしてくれたんじゃなかったかな。

 

 諸々の事情を加味した結果、わたしは彼の話をきちんと聞き、きちんと答えを返すべきだと考えた。

 

 けれど、雪ノ下先輩からわたしのことを任されていた結衣先輩としては、この状況において"場を外す"という当たり前の選択肢を素直に選んでいいものか、判断がつかなかったらしい。

 困り果てた顔でこちらを見つめてきたので、顔見知りだから特に問題ないという旨を伝え、その場を外してもらうことにしたのだった。

 

 そうして彼の後について歩いてきたら、着いた先がこの特別棟の屋上だったというわけだ。

 

 

 ぶら下げた袋を弄びながら、わたしは相対した男子が口を開くのを辛抱強く待っていた。本当は急かしてでもさっさと終わらせたかったけれど、胸にこみ上げてきた今までにない感情がそれを思い止まらせていたのだ。

 

(かわいそう、だな…)

 

 もしかしたら初めてかもしれない。

 

 わたしはこれから告白してくるであろう相手に同情していた。

 

 彼がどんな言葉を紡いでも、決してその望みは叶わない。それはわたしの一存で既に決定していることなのだ。だからこうして彼が熱意や時間を費やすほどに、失われるモノは大きくなっていく。

 昔から何一つ変わっていない、告白する側とされる側の関係だ。こんな風に悩んだりなんて経験はこれまで一度だってなかったと思う。

 

 わたしの価値観は、いつの間にこんなに様変わりしてしまったのだろう。

 

 例えば──。

 

 わたしが先輩を呼び出して告白しようと息巻いていたとして、けれど彼の心は既にこちらではない方向を向いてしまっているのだとしたら、受け入れられないわたしの気持ちはどこへ行けばいいのだろう。「すまない」なんて断られたりしたら、新しい相手に気持ちを切り替えていけるイメージがこれっぽっちも湧いてこない。

 そんな風に配役を入れ替えて考えてしまうと、胸が苦しくて仕方がないのだった。

 

(でも…このひとと一緒にされるのは、ちょーっとカンベンかなぁ…)

 

 目の前に佇む彼の気持ちは、少なくともわたしの求めているものとは違うと思う。

 なら、わたしが築きたい恋愛関係とは、どんなものなのか。

 それは「本物」と言えるのか。

 その問いには、未だに納得のいく答えが出ていない。

 

 ただ、分かっていることもある。彼が好きなのは"総武高一年のかわいい女の子"であって、"わたし"ではないということだ。どれだけ思いの丈をぶつけられても、それはあくまでわたしが演じてきた役柄に対する感想でしかない。アルバイトで振る舞っているスマイルに惚れたと言われても、ちっとも嬉くなんてないのだ。

 

(このひと、少し前のわたしみたいだ)

 

 同じ立場に立ってみて、あの時の葉山先輩の気持ちがようやく理解できた。

 そうなると、彼に対して少なからず同情とか共感みたいなものが湧いてこないでもない。寒空の下で立たされていることや貴重な時間を奪われていることにも、それほど腹は立たなかった。

 

 腹は立たなかったんだけど──。

 

(…ごめん。もう限界)

 

 それはそれとして、寒いものは寒い。普通に辛かった。このままだとまた風邪を引きかねない。

 一向に動こうとしない相手に痺れを切らしたわたしは、向こうのアクションを待つことを諦め、こちらから声を掛けようとして、けれど一つ問題があることに気が付いた。

 

(えーと。な、名前…)

 

 信じられないことに、この期に及んで、わたしは彼の名前をきちんと思い出せていなかったのである。どんだけ興味ないんだろうか。

 先日、暫定的に命名した山田(仮)という名前が自分の中で定着してしまい、余計に思い出せなくなってしまったのかもしれない。

 

(や…山中…山根…ち、違う気がする…)

 

 山が付くのは間違いないのだ。それだけは自信がある。というかそれしか覚えてないんだけど…。

 こうなったらイチかバチか、一番メジャーなやつで行ってみよう。大丈夫、今日の牡羊座は勝負運アゲアゲだって言っていた。

 

「話って何かな。…や、山本、くん…?」

 

 わたしの言葉に、彼はにっこりと笑って顔を上げた。

 

「西山。西山だよ、一色さん。やだなぁ、名前間違えるとか酷いなぁ」

 

 ぐふぅ…。

 山は山でも後ろの方じゃん! あの占い、もう見るのやめよ…。

 

「ご、ゴメンゴメン! ちょっと勘違いして覚えてたかも」

 

 名前を間違えられるなんてわりと最悪の扱いを受けて、告白する気が削がれたりはしないのだろうか。どう考えても絶望的だと分かりそうなものなんだけど、残念なことに彼は特に気にした様子もなく、そのまま言葉を続けた。

 

「いつ言おうかって迷ってたんだ。もっと良いタイミングがあるんじゃないかって思ってたんだけど、ほら、最近色々騒がしいし」

 

「え? あ、うん…」

 

 ああ、キミも一応分かってはいたんだね…。

 それで──今も思いっきりその騒動の真っ只中なんだけど、どうして今なら行けるって考えたわけ?

 

「俺達、付き合おう」

 

 まるで「雨が降ってきたから家に入ろう」とでも言うかの様に、実に自然な口振りで彼はそう言った。

 あまりの脈絡のなさにほんの少し硬直してしまったけれど、その発言の意図を理解したわたしは、いくつか用意していたパターンのうちの一つを返させてもらった。

 

「ごめんなさい」

 

 なるべく素っない感じで、ぺこりと頭を下げる。自慢じゃないけど、この手の俺様アプローチも初めてじゃない。会話にすらなっていないのが少しばかり後味悪いけど、こういうのは下手に引っ張らない方がいいのである。それに、強引に来たのは向こうが先だ。だったらこっちも遠慮なく行かせてもらう。

 

 そりゃ、中には強気な態度で引っ張られるのが好きな女の子も居るとは思うよ? わたしはあんまり好きじゃないけど。あ、先輩が言ってくれるならアリかも。でもあのひと絶対そういうタイプじゃないしなー。

 

「………」

 

 沈黙が幾分気まずかったけれど、彼とは特別仲良くしていた記憶もないし、「友達のままでいよう?」というありがちなフォローさえする気にならなかった。

 

 一向に反応を見せない彼の様子を見て、わたしは内心でため息を吐く。少しキツかったかも知れないけれど、はっきり返事はしたし、これ以上相手を続ける義理はない。ていうか、ちょお寒い。

 

「それじゃ…」

 

 わたしはきびすを返して校内に戻ろうとした。

 しかし、唐突に発せられた彼の言葉は、わたしを混乱へと叩き落とした。

 

 

「…あの…だ、抱き締めても、いい、かな…?」

 

 

「………は?」

 

 

 熱っぽい目をした西山くんは、両手を広げてじりりと一歩踏み出してくる。

 

 わたしは本能的に、同じ分だけ後ろへと下がった。

 

「…なに、言って…?」

 

 彼は少し首を傾げるようにして、それから更に距離を詰めてきた。

 こちらも同じように距離をとる。

 

 彼が前へ。

 

 わたしは後ろへ。

 

 奇妙な緊張感を抱きつつ数回それを繰り返していると、ガシャリと背中に硬い物が当たる音がした。

 いつの間にか、わたしはフェンスまで追いつめられていたのである。

 ざわ、と肌が粟立つような感覚が走った。

 

「いいでしょ、好き合ってるなら」

 

「い、意味わかんないんだけど…」

 

「受け入れるのが遅くなってごめんなさいって、さっきのはそういう事だよね?」

 

「違うから。受け入れられませんごめんなさいって意味だから」

 

 ホントに何言ってるんだろ、このひと。

 あんまり無茶苦茶言うもんだから、なんだか先輩みたいなツッコミになっちゃった。

 ポジティブ思考なんて可愛いものじゃない。焦点のずれたみたいな、ヤバい目つき。これって、現実を受け入れる気が無いだけなんじゃ…。

 

「いいから。照れ隠しとか要らないよ?」

 

「あの、真剣にキモいんだけど」

 

 少し声が震えた。

 このひと、頭、大丈夫なのかな? さっきから会話になってないよね?

 

「ほら、それ。俺のために作ってきてくれたんだよね? 今日のために」

 

 わたしのぶら下げていた、見るからにお弁当っぽい布袋を指差して、彼は言う。

 頭が痛くなってきた。今朝、衝動的に作ってきたこれを、自分の告白に合わせて用意したのだろうと言っているのだ。

 

「いつもは持ってないからすぐ分かったよ。すげえ嬉しい!」

 

 袋に伸ばされた手を見て、わたしは反射的にそれを背中に隠した。

 

「ほんとキモすぎ。これ先輩のだから」

 

「……俺達、相性良いと思うんだ」

 

 その名を出した瞬間、西山くんの顔が酷く歪んだような気がした。表情はすぐに消えてしまったけれど、代わりにさっきまでの会話の流れがぶつりと途切れている。

 やっぱり、自分に都合の悪い言葉は耳に入れない、話したくないということなんだろう。

 

「絶対、大事にするから。約束する」

 

 彼はおもむろに両手を伸ばしてきた。後ろ手に回していたせいでその手を跳ね除けられず、両肩をがっちりと掴まれてしまう。

 

「いた…っ」

 

 握り締めるかのようにギリギリと力を込められ、わたしはその痛みに声を上げた。ニコニコと不気味に笑いながらも、一切力を緩めようとしない。

 そうしてわたしを押さえつけたまま、彼はゆっくりと顔をこちらに近付けてきた。

 

「ちょ…っ!?」

 

 腕を振り解こうにも、完全に力負けしている。それなら蹴っ飛ばそうと思ってみれば、いつのまにか脚の間に膝を入れられていた。そのまま脚を押し開かれ、標本のように磔となったわたしの抵抗は、ガシャガシャと空しくフェンスを鳴らしただけだった。

 

「ふざ…っ…やだ、やめて…っ」

 

 ようやく理解した。

 相手が何をしようとしているのか。

 自分が何をされようとしているのか。

 

「やっ…めてって、ばっ!」

 

 これはなりふり構っていられない。

 乙女的な大ピンチを悟ったわたしは、即座に反撃に移った。

 

「んがッ!?」

 

 息を荒くしているその鼻っ柱に、わたしは思い切って頭を叩きつけた。 硬い頭蓋骨の直撃を受けた彼は大きく後ろへ仰け反り、キツく掴まれていた肩が解放される。

 あいたた…どーだ、ざまー見ろっ!

 ふふーん、わたしってばわりかし石頭なんですよーだ!

 

「ヘンタイ。二度と話しかけないで」

 

 鼻を押さえて悶絶する彼には、もう欠片ほども同情の余地は残っていなかった。報われないからって無理矢理だなんて、最低にも程がある。こんなのの失恋記念にくれてやるほど、わたしの唇は安くない。

 

(それにしても…さっきのはホント危なかったなぁ)

 

 決断が遅れていたら無理やりされかねなかった…おえぇ…。

 軟骨を潰したような感触が猛烈に気持ち悪い。あとで先輩に100回くらい撫でてもらわないと。

 

 乱れた前髪を整えながら、その場を離れようと背を向けた瞬間──

 

「くえっ…」

 

 わたしは首を絞められたガチョウのような声を上げる羽目になった。身体が凄い勢いで後ろに引っ張られる。

 

「きゃあっ!」

 

 フェンスが派手な音を立てて、再び戻ってきたわたしを受け止める。どうやらわたしは襟首を掴まれて、元の場所に叩き付けられたらしい。

 

「えほっ、けほっ!」

 

 咳込むわたしの顎を大きな手が掴む。強引におとがいを反らされた先には、鼻血を垂らしながらも再度近付いてくる血走った彼の目があった。突然の反撃で前後不覚に陥りながら、わたしはがむしゃらに手を振り回す。 その手は彼の身体のあちこちを叩いたけれど、それでも止まらずに唇を近付けてくる。

 

「や、やぁっ!」

 

 冬場の屋上に足を運ぶひとは滅多にいない。

 他に、わたしが今ここに居ることを知っているのは結衣先輩くらいだろう。けれど彼女は告白が行われるであろうことを知っているのだから、進んで様子を見に来たりはしないはずだ。むしろ気を遣った結果、先輩を足止めしている可能性の方が高いくらい。

 

 彼の生温かい息が鼻先を撫で、背筋に寒気が走った。

 

 奪われる──

 

 瞬間、脳裏に浮かんだ背中に向かって、わたしは反射的に声を上げた。

 

「先輩助けてぇっ! せん──っ!」

 

 突然の金切り声に慌てたのか、彼はもう片方の手で騒音の発生源を塞いだ。これでは助けが呼べないけれど、無理矢理キスすることも出来はしない。静かにしていては終わりだと感じたわたしは、ひたすらもがき、わめき続けた。

 

「んーっ! んんーっ! んむーっ!!」

 

「チッ……なんだよ。比企谷、比企谷って。あんなののどこがいいんだ」

 

 彼は顔を寄せようとするのをやめ、気分を害したという風に舌打ちをした。

 

「そう言えば、ららぽーとでもおかしなこと言ってたよね。聞き間違いだって分かってるけど、念のため確認させてほしいな」

 

 ぐっと、押さえつけるその手に力が込められる。

 態度とは裏腹に、口調だけが優しげなのがかえって不気味だった。

 

「ひ、比企谷とは、何でもないんだよね? 何もしてないんだよね?」

 

 ららぽーとという単語が出てきてようやく、わたしは彼の正体に思い当たった。この異常極まりない行動から見ても、まず間違いない。

 

(そうか、こいつ…っ!)

 

 わたしを悩ませ、脅し、いたぶってきた張本人。

 ストーカーは、なにも中原くん一人とは限らなかったのだ。中原くんを疑うわたし達に対して、先輩は何度か言っていた気がする。確証は持てないって。

 

 その事実に気付くと同時に、一つのアイディアが頭に閃いた。以前、犯人像について雪ノ下先輩が語っていたことだ。

 

『犯人は、わたしをビッチだと思いたくない』

 

 男の子は普通、意中の相手が自分だけのものだと思いたがるらしい。さっきの彼の問いからも、確かにそういった意図を感じた。その価値観については色々と言いたいこともあるけれど、今は置いておいて──。

 わたしが"お手付き"でないことに拘りがあるというのなら、逆にハッキリ教えてやれば…。

 

 答えを聞こうと緩められた手の隙間から、わたしは必死に言葉を紡いだ。

 

「…けほっ。今さら何言ってるの。デートまで尾行()けてきてたなら知ってるでしょ、わたしと先輩の関係。どこまで進んでるか」

 

「…な、に?」

 

 ここが勝負所だ。

 わたしは畳みかけるようにして、彼に()()を突きつけた。

 

「先輩とはとっくにそういう関係なの。わたしの全部、ぜーんぶ、もう先輩のだから。あんたの為のモノなんて、髪の毛一本残ってないの!」

 

 

 

 

 パン、と乾いた音が響いた。

 

 

 

 

 最初に感じたのは困惑と、物理的な衝撃だった。

 

 視界がチカチカとして、左の頬が引き攣る。

 焼き付くような熱。

 遅れてやってきたジンジンという痛み。

 

 頭の横にある振り抜かれた彼の手を見て、それからようやく、わたしは自分が何をされたのか理解した。

 

「……嘘つけよ」

 

 次に、精神的な衝撃がわたしを襲った。

 

 初めて受けた男性からの暴力。痛みそのものよりも、"殴られた"という事実に呆然とする。

 頬に手を当てると、麻酔でも打たれたかのように、自分の頬ではないような鈍い感触がした。いつの間に落っことしたのか、地面にはお弁当の袋が転がっている。

 目頭が熱くなるのを感じる間もなく、ボロリと大粒の涙が零れた。

 

「嘘だ嘘だ」

 

 頬が濡れる感触を得て、次第に"殴られて泣かされた"という事態を認識する。

 悔しさと恐怖で腰が抜けたのか、わたしは言葉も無くその場にへたり込んだ。

 

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だああぁぁっ!」

 

 彼は狂ったようにがなり立て、両手で胸倉を掴んでくる。すっかり力の抜けたわたしは、糸の切れた人形のように引っ張り上げられ、揺さぶられるがままにガクガクと頭を揺らした。

 

「嘘だよな!? カッとなって口から出任せ言ってるだけだよな!?」

 

 叩かれた。

 

 痛くて、苦しくて、すごく怖い。

 

 どうしてこんな目に遭わないといけないの?

 わたしがなにか悪いことをしたの?

 よくわからないけど、謝ればやめてくれるの?

 

 反射的に開きかけた口を、しかしギュッと引き結ぶ。

 

 ここで謝ったりしたら、つけ込まれてしまう気がする。

 もうこんなヤツに、大事な高校生活を奪われたくはない。

 彼と一緒に居られるはずの時間を、一秒だって無駄にしたくない。

 

 震える手を握りしめ、歯を食いしばって、わたしは目の前の敵を睨みつけた。

 絶対に、思い通りになんて、してやらない。

 そんな決意を込め、せめて口元だけでも不敵に笑いながら、わたしは言ってやった。

 

「…おあいにくさま」

 

「あ"あ"ぁぁっ!!」

 

 力任せに突き飛ばされ、わたしは頭から背後のフェンスへと叩きつけられた。もうどこがどう痛むのかもよく分からない。脚が言うことを聞かず、そのままずるずると地面へ崩れ落ちる。

 見た感じ、そこまで体格がいいという風でもないのに、男の子というだけでこんなに力があるものなのか。逃げ出すこともままならないという事実に心が折れてしまいそうだ。

 

 けれどそれでも、相手を睨むことだけは決してやめなかった。

 

「このクソビッチ! んだよその目は! ヤリマン野郎が、騙しやがって!」

 

「知らないよばーか…。ビッチとかちょお失礼…野郎でもないし…」

 

「ちょっと黙ってろ!」

 

 彼は右手を振り上げ、それを振り下ろした。

 

「あうっ!」

 

 頬とも頭ともつかない辺りを平手で殴りつけられ、溜まっていた涙が宙に舞う。

 

「ああー…あんなクソ野郎の中古とかありえねえ…。これキレるわー、もうマジに終わった。終わるしかないわー」

 

「…あんた、最っ低…」

 

「黙れってんだろ!」

 

 既に抵抗する力を失ったわたしを引っ張り上げ、間を置かず、彼は再び腕を振り上げる。

 

(うわ、サイアク…)

 

 さっきまでとは違い、その手は硬く握り締められていた。いまの挑発はどうやらNGだったみたいだ。

 震える腕をなんとか持ち上げ、形だけでも頭を庇う。

 

 向けられた拳を前に、せめて顔には傷が残りませんようにと神様に祈るほかなかった。

 

 

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

 息を切らせて屋上までの階段を駆け上がると、そこには分厚い非常扉が立ち塞がっていた。

 俺はふと、ドアノブに掛けた手を止める。

 

「考え過ぎだったら、後で笑えば済むんだしな…」

 

 虫の知らせという訳ではないが、この先起こり得る最悪の事態を考慮し、携帯にちょっとした仕込みをしておく。

 これが出番のないまま終わる事を心から祈りつつ、扉を押し開ける。

 

 そこには予想通りの、そして最悪の光景が広がっていた。

 

 

 

 見知らぬ男子と、一色いろは──。

 

 この組み合わせは想定通りだ。

 

 胸倉を掴んでいる男子と、フェンスに追い詰められた後輩女子──。

 

 これも予想の範疇だ。出来れば当たって欲しくなかった方の予想だが。

 

「ちょっと黙ってろ!」

 

 叫びながら振り上げた手を叩きつける男子と、地面に転がる彼女──。

 

 待て待て、そろそろ脳味噌が置いてけぼりだ。

 

「もうマジに終わった。終わるしかないわー」

 

 普通に高校生活を送っていては目にする機会のない、非日常的な構図。それを目の当たりにして、俺の思考は酷く冷静だった。

 

 男はまだ足りないとばかりに、今度は握り拳を振り上げている。

 気になる後輩女子を目の前で殴られた、愚かで無力な先輩男子。さて、そんな比企谷八幡はこれからどんな行動を取るべきだろうか。選べ。

 

 ① 殴る

 ② 蹴る

 ③ タックル

 

 いやいや、ここでリズム感とか要らないから。何で「韻踏んでみました」みたいな感じになっちゃってんの?

 つか、これもう実質一択だよね。もう少し理性的な選択肢とか無かったんですかね。説得とか交渉とか、もっと穏便なのから徐々に行ってみようとか思わないわけ?

 

 やたらとアグレッシブな選択肢に異を唱えつつ、改めて状況を確認したが、残念ながら他に有効な手立ては無さそうだ。と言うか、あるいは有ったかもしれない可能性は、自分自身の行動によって潰されてしまっていた。

 

 何故ならば、俺の身体は既に相手に向かって走り出してしまっていたのである。

 

 冷静だと思ったのはどうやら思考の方だけらしい。惚れ惚れするほどのロケットスタートによって加速された身体は勢いが付き過ぎて、説得どころか制止すら不可能な状態だった。

 もしかすると、これが「らんぼうはやめろー!」と叫びながら先制パンチを繰り出す自己矛盾ヒーローの心境なのだろうか。どの口で言ってんだコイツ、と常々突っ込んでいた俺が、まさか同じような行動を取ってしまうとは…何とも皮肉な話である。

 

 やれやれ。俺、ケンカとか超弱いのに。

 パンチとか、ちゃんと相手に当たるのかしら。

 殴った俺の方がダメージ大きいとかだったらどこにクレーム入れればいいの?

 徹夜明けに全力疾走とか、やり合う前から死にそうなんだけど…。

 

 けどま、これ以上いろはすに手ぇ上げられるわけにも行かないんだよなあ。

 一応ほら、助けてやるって、約束しちまったからさ。

 

 だったら、仕方ないだろ──。

 

 

 乖離していた心身の意見がめでたく一致をみたところで、残念ながら時間切れのようだ。

 

 

 強制的に選ばされた選択肢は3番。

 

 

 俺の身体は、その男に激突していた。

 

 

 

《--- Side Iroha ---》

 

 

「ぐはッ!」

 

 握り拳の痛みに怯えて身体を硬くしていると、わたしを追い詰めていた男子が突然、絞り出すような声を上げて横っ飛びに吹き飛んだ。

 何か人影のようなものが、横合いから飛び込んできたのだ。涙で歪んだ視界でハッキリとは見えなかったけれど、それでも直感的に、あるいは期待を込めて、わたしはその影の名を呼んだ。

 

「せ、先輩っ!」

 

 男子の腰に組み付いて押し倒していたのは、やっぱり大好きなあのひとだった。見たこともないような怖い目つきをした先輩は相手と押し合いへし合い、二人で屋上を転げ回る。

 

「はっ…離…せっ! 何なんだっ!」

 

「っぐ!」

 

 お腹に膝でも入れられたのか、びくんと先輩の腰が跳ねる。怯んだ先輩を蹴り飛ばして距離を取ると、その男子はフラフラと立ち上がった。

 

「ひ、比企谷…! どこまで邪魔すりゃ気が済むんだよ、あんたはっ!」

 

 襲撃者の正体を改めたその男子は醜悪に顔を歪めると、わたしと彼の顔を交互に見やった。

 

「最初から呼んでたのかよ…そうなんだろ。二人して、オレをバカにするつもりだったんだろ!」

 

 どうやら彼の中では、わたし達が示し合わせてこの告白をからかっているという筋書きらしかった。

 お腹を押さえながら立ち上がった先輩は、相手の言い分に怪訝な顔をしている。さっきの拍子に切ったのだろうか、その唇からは血が垂れていた。

 

「げほ…こいつ何言ってんだ。ラリってんのか」

 

「あんたが…あんたさえ居なければ、一色は…っ」

 

「せ、先輩! そ、そのひと、その…ちょっとおかしいです!」

 

 まだ少し掠れる声でもって目の前の人物の危険性を告げると、先輩は振り向かずに片手を挙げて答えた。

 

「ちょっとじゃないだろ。そいつ多分、お前が思ってるよりずっと重症だぞ」

 

「うるさい! あんたのせいでメチャクチャになったんだ…。ずっと好きだったのに…ずっと、ずっと! 一色のことだけを見てきたんだ! 初めて見た時からずーっとだ!」

 

「んなこと知るかよ」

 

 怨念のように垂れ流されるその言葉を、先輩は小気味良く切って捨てた。手の甲で唇を拭って、「いてっ」っと顔を顰める。

 

「押し付けた気持ちの量でカップル成立すんなら世の中に片想いなんて言葉は要らないんだよ。大体、俺やお前なんぞが釣り合うタマかっての。少しは身の程を知ることを覚えとかないと、この先の人生しんどいぞ?」

 

「しらばっくれんな! 知ってんだよ、あんた一色とヤったんだろうが!」

 

「……は? 誰がそんな──」

 

「くそったれ…何でよりによって、あんたに説教垂れられなきゃならないんだよ!」

 

 彼は唾を飛ばして怒鳴ると、自らの上着のポケットを漁った。そこから出てきたのはプラスチックの様な黒いケース。それを両手で掴んで引っ張ると、中から更に黒いものが現れた。

 

 それを目にして、わたしは最初、オモチャか何かだと思った。

形からすぐに察しが付いたけれど、世の中にそんな色のものがあるだなんて、知らなかったのだ。

 

「…やめとけ。それはマジで洒落にならん」

 

 諭すような先輩の態度と、その先端をこちらに向けて威嚇する彼の振る舞いを見てようやく、あれがオモチャではないのだと理解するに至った。だって、まさかこんな物が自分に向けられる日が来るだなんて、誰が想像するだろうか。

 

 彼の手には、15cmはあろうかという真っ黒な刃物が握られていた。

 

「それ…ナ、ナイフ? …な、どうして…」

 

 狼狽するわたしの様子に気を良くしたのか、彼は手にした得物をヒラヒラとさせながら、聞いてもいないことをまくし立てる。

 

「はっ! 知らないのかよ。普通にネットで買えるっての。ステンレスだし、5000円もしなかったかな」

 

 素材がどうだとか、グリップがどうだとか、彼はベラベラとよくわからないウンチクを垂れ続けている。

 けれど、わたしはその話を全く聞いていなかった。

 興味がなかったからじゃない。先輩が信じられない行動に出たからだ。

 

 相手を刺激しないように気を遣ってか、先輩はわたしに付かず離れずの距離を保っていた。それがナイフを出された途端、その身をじりじりと動かし始めたのだ。これが逃げ出そうとしていたのなら気持ちは分かるし、責めるつもりもなかった。けれど先輩は、よりによって、わたしとアイツとの軸線上に割り込もうとしていたのだ。

 

 自らの身体を盾にするようなその態度。

 

 彼に護られているという感激や喜びといった感情は、しかし次の瞬間、何倍も強い恐怖によって覆い尽くされた。

 ずっと見つめてきた彼のことだ、こちらからは顔が見えないけれど、今どんな目をしているかくらい想像できる。だって、いつもなら貧相に丸められているはずの背中が、真っ直ぐに伸びているのだ。

 

「一色。そのまま、そこ動くなよ」

 

 心の底からイヤだけど、仕方がない──。

 

 想像に違わず、振り返った彼の顔には、諦めたような苦笑いが浮かんでいた。

 

 わたしが初めて凶器を向けられて感じた恐怖は、自らが刺される可能性に対してではなく、彼がこの身を庇ってしまうことに対してのものだった。

 

「や、やめて…」

 

 思わず口から零れたか細い声は、一体どちらに向けられたものだろう。

 

「そうだ…そうだよ。生まれ変わってくればいいんだ。キレイな身体になってさ。そしたら、今度こそ一緒になれる」

 

「ならまず自分からキレイにしとけ。主に頭の中とかな」

 

 浮ついた口振りでとんでもないことを言い出す彼に対して、先輩はポケットに手を突っ込むと、不貞不貞しくふんぞり返って笑い飛ばした。わたしに向けられた敵意を自分に向けようと挑発しているのだろう。

 

「大体、こんな真冬の朝っぱらから、しかも特別棟の屋上でとか、俺でもドン引きのセンスだぞ。フラれない方が難しいだろ」

 

「うるせぇええ!」

 

 彼は腰溜めに構えていたナイフを両手で前に突き出した。

 切っ先を冬の朝日に輝せながら、そのまま、こちらに向って走り出す。

 

 唇は恐怖に震え音にならず、わたしは頭の中で叫び声を上げた。

 ショックが抜けていないのか、目の前の恐怖に竦んでいるのか。

 脚は全く言うことを聞かず、逃げるどころか立ち上がることすらままならない。

 

 本能的に身を縮め、わたしは目を閉じた。

 

 

 

「────っ!」

 

 

 

 刃物で刺されると痛いより熱いというカンジがするらしい。

 

 そんな話をどこかで聞いたことがあるんだけど、これはその表現に一致するんだろうか。どうにも聞いていたのとは違う気がするけれど、驚きすぎて麻痺しているのだろうか。だとしても、ちっとも痛くないというのは、いくらなんでもおかしいような…。

 

 地面に手を突いたまま、恐る恐る目を開けてみると、目の前には見慣れた背中があった。

 

「……せ…ん…ぱい……?」

 

「…マジで…見誤った…な。ここまで…する、か…」

 

 例の男子は先輩の前でぴたりと動きを止めていた。

 

 彼の背中がわたしの視界をすっかり遮っていて、何がどうなっているのかちっとも分からない。けれど、直前に見たはずの光景がわたしの心臓をざわつかせる。こいつは、ナイフをこちらに向けて飛び掛ってきたのではなかったか。

 

「…ち、違う…っ! 俺は、一色を脅かそうと思って…! と、止めるつもりだった! …あ、あんたが勝手に飛び込んでっ…!」

 

 言い訳らしき言葉をわめき散らす声だけが聞こえる。

 

「は…やっぱ、ワンコを助けるようには、いかねえか…」

 

「は、離せよっ! 離せっ、この!」

 

「いぎっ!?」

 

 身を裂かれるような先輩の声。

 

 拘束を力ずくで振り解いたのか、そいつは腕を引き抜いた勢いで二歩三歩と後じさる。

 

 その時、ひたひたと、どこからか飛んできた水滴がわたしの頬を暖かく濡らした。

 

 反射的に頬を手でなぞり、降り注いだ水滴の正体を改める。

 

 

 指先にはべっとりと、暗い赤色が広がっていた。

 

 

 どさりという音と共に、先輩が床に崩れ落ちる。

 突然開けたわたしの視界に飛び込んで来たのは、両手を震わせる男子と、その手に握られたナイフ。

 黒かったはずの刃と共に、彼の手は真っ赤に染まっていた。

 

 

「           」

 

 

 わたしの世界から音が消えた。

 

 視界の片隅には、今もあいつが騒いでいるのが映っている。

 けれど、その声も一切聞こえない。

 耳が痛くなるくらいの静けさの中、赤色にぬめる自分の指先を眺める。

 そして再び、地に伏した先輩を見つめた。

 

 お腹の辺りからじわりと、コンクリートの床に赤黒い染みが広がっていく。

 

 

「──────────っ」

 

 

 何が起こったかなんて、とっくに分かっている。

 頭が理解するのを拒んでいるのだ。

 

 だって、こんなに×が出たら、せんぱいが××でしまう。

 

 わたしの大好きなひとが、いなくなってしまう。

 

 そんなのぜったいにいやだ。

 

 

 いやだ、いやだいやだ──。

 

 

 

 

 

「いやああああああぁぁぁっっっ!!」

 

 

 

 

 



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■29話 友人の定義

  

《---Side Yukino---》

 

 

「こっちは外れね…」

 

 駆けつけた校舎裏に人影は無く、日当たりの悪さからか、半ば凍った地面が堅い感触を返してくるだけだった。春先ならば辺りの桜も咲き誇り、それなりに悪くない雰囲気になるのかも知れない。しかし少なくとも今時分に限って言えば、望んで近寄りたいロケーションとは程遠かった。

 

 普通に考えれば、こんな場所で告白するという選択肢は無いだろう。けれどもあんな話を聞いた後では、むしろ人気(ひとけ)のない場所に連れ込まれる可能性をこそ心配すべきであり、この区画を確認しない訳にもいかなかったのだ。

 

「い、いろはちゃん居たー?」

 

「いいえ。当たりは彼の方かしらね」

 

「はーっ、はーっ…。だ、ダメだ…あたし運動不足かも…」

 

「大丈夫…?」

 

 お世辞にも機敏な方とは言えない彼女も何とかここまで頑張ってくれたけれど、既に随分と青い顔をしている。今度は屋上までの階段を登らなければならなくなった訳だが、この様子では付いて来るのが難しそうに思えた。

 

「ごめ、先、行っ…ゲホッ!…おぇっ」

 

「…分かったわ」

 

 えづいている彼女には申し訳ないけれど、今は先を急がせてもらう事にした。休む間もなく特別棟の中へと駆け込み、階段へと向かう。

 

(私も持久力には自信が無いのだけど、そうも言ってられないのよね)

 

 このタイミングで一色さんを行かせてしまった由比ヶ浜さんは、その立場上、自分に責任があると考えているに違いない。しかし、私だったなら一人で行かせたりしなかったのかと問われれば、答えは否である。

 もちろん警戒くらいはしたと思うけれど、精々がそこまでだったろう。まかり間違って冤罪であったならと考えると、告白なんてものを仄めかしてきた相手を第三者が遮るというのは、現実問題として難しい。

 

 そもそも、事はそんな表面的な話ではない。危険度や犯人候補の実態を正しく理解していなかった時点で、私と彼女は同罪なのだ。折り悪く彼女に付いていた由比ヶ浜さんに同情こそすれ、少なくとも私は責められる様な立場ではないのである。

 

 脚は重く、冷たい空気が肺に凍みる。しかしジリジリと身を焦がす罪悪感のためか、私の体はいつもよりほんの少しだけ、無理な要求に応えてくれていた。

 

「はぁ、はぁ…私ももう少し、運動した方が良いかしら…!」

 

 息を切らせて幅の狭い階段を上っていると、上の方から人の声らしきものが聞こえてきた。

 屋上からだろうか。はっきりとは聞こえなかったものの、私の耳にはそれが悲鳴のように聞こえた。スタミナの枯渇した身体に鞭を打って、更に先を目指す。

 

 そこにガツンと、重く硬質の音が響いた。何かが分厚い金属に衝突した様な音だ。

 

 上階を見上げると、転がるような勢いで一人の男子生徒が階段を駆け降りてくるところだった。

 特に記憶にない人物だったけれど、ギョロギョロと辺りを見回し、片手を上着の内側に突っ込んだその姿は奇異そのもので、そのまま見過ごすには目立ち過ぎる。何より、この男子は今、悲鳴らしき声のした方から逃れるようにしてやって来たのだ。

 

「ちょっと貴方──」

「ど、どけっ!」

 

 血走った目つきと敵意に満ちた怒鳴り声に怯み、私は思わず脇へ身を寄せ、相手に道を譲ってしまった。

 すれ違うのに遅れて、とある匂いが鼻をつき、思わず彼の背に振り返る。

 

(え…これ……)

 

 鉄錆びたような、それでいて生々しい匂い。

 

 一時、呆然と立ち尽くす。

 これは、血の匂いではないのか。

 まさか。そんなことは。

 

 しかし、そんな私の甘い考えをねじ伏せるように、開け放たれたままの鉄扉の向こうから、今度こそはっきりと一色さんの声が聞こえた。

 

「誰かっ、誰か来てぇっ! 誰かあぁぁっ!!」

 

 涙に濡れた声が、悲痛なまでに助けを求めていた。

 

 先行していた比企谷くんが未だに辿り着いていない訳もない。彼が居るはずの空間で、それでも彼女がこんな風に泣き叫ぶという状況──。

 

「そ、んな…」

 

 逃げ去った先程の男子の様相と合わせ、私の頭に最悪のシナリオが()ぎり、手足が自然に震え出した。

 

 怖い。

 

 この先に行きたくない。

 

 見たくない光景が待っている気がする。

 

「ゆきのん!」

 

 後ろから掛けけられた声に振り向くと、髪を解れさせた少女が地面に顔を向けてぜえぜえと息を切らしていた。

 

「由比ヶ浜さん…」

 

「い、いろはちゃんのっ、声っ…」

 

 手すりにしがみつくようにして、彼女は更に階段を上っていく。私を追い越して、どんどん進んでいく。

 彼女からすれば、さっきの声は自分が出させた様に聞こえたのだろう。責任感からか、その表情は悲壮を通り越し、鬼気迫ると表現すべきものだった。

 

 こんな時、つくづく実感させられる。

 私の本質はどうしようもなく弱い。

 そして、彼女の本質はこんなにも強いのだと。

 

 せめて置いて行かれないよう、私は必死に彼女の背中を追いかけた。

 

 

 非常扉を(くぐ)るとすぐに、高さのない冬の日差しが瞳を焼いてきた。たまらず手を(ひさし)にして目を眇める。

 先に屋上へ踏み出した由比ヶ浜さんが、ほんの少しだけ私よりも早く待ち受ける事態に直面し、思わずといった風な声を漏らした。

 

「…なに、これ…」

 

 露光に慣れた私の瞳に飛び込んできたのは、想像と違わぬ──いや、それ以上のものだった。

 

「結衣先輩っ! 雪ノ下先輩っ!」

 

 涙と絶望、そして赤い飛沫で頬を彩った一色さんが、縋るような目でこちらを見上げる。

 (ひざまづ)く彼女の前には、空を仰ぎ苦痛に顔を歪める比企谷くんの姿があった。

 

 普段目にすることのない色に、視線が釘付けとなる。

 小豆にも似た美しい赤。けれど一度(ひとたび)人間を濡らした途端、それは本能的な恐怖を呼び起こす。

 

「助けてください! 先輩がっ、先輩が死んじゃうっ!」

 

 必死に現状を否定しようとする自分と、一色さんの言葉を理解しようとする自分がぶつかり合い、激しい痛みとなって頭を駆け巡った。

 ついさっきまで軽口を交わしていた人物が、生きるの死ぬのと叫んでいるこの状況。理解したくないのに、目の前の全てが口を揃えて現実なのだと騒ぎ立てる。

 

 こんなこと、ある筈がない──。

 

 あまりの惨状を目の当たりにして、悲鳴が喉を駆け上がってくるのを感じた。ろくに叫んだ事もないのに、甲高い声が上がるのだろうという確かな感覚だけが、すぐそこまで迫る。

 

 しかし、ほんの僅かに残った理性が「隣を見ろ」と告げてきた。

 

「や、…ヒッキ…! …っは、っは…、っく!? …かはっ!」

 

 由比ヶ浜さんの様子がおかしい。

 彼女は異様なまでに目を見開き、胸を押さえて身体を震わせている。素人目に見ても、何らかの理由で呼吸困難に陥っていると分かった。ここまでの疲労に加えて極めつけのショックを与えられたせいだろうか。

 

「雪ノ下先輩っ!」

 

「か、はっ! …ひゅっ…えほっ!」

 

 一色さんも由比ヶ浜さんの異常に気を回せる状態でないのか、返事が出来ない彼女からこちらに視線を移し、助けを求め続けている。

 

 私だって悲鳴を上げて(うずくま)りたい。

 

 なのに、とてもそれどころではない。

 

 しかし、絶望的な不幸の中、僅かな幸いがあった。

 自分以外の完全なるパニック。

 これが()()パニックで留まっていた私に、たった一つの取り柄──冷静な思考というものを、ほんの一瞬だけ呼び戻したのである。

 

 その蜘蛛の糸を手放すまいと、必死になって意識を集中させる。鼻から息を吸い、口から吐き出して、狂ったように暴れ回る心臓の鼓動に耳を澄ませた。

 

(これが本当の、泣きっ面にハチマンと言ったところかしらね)

 

 不意に胸に浮かんだ団欒の思い出に、内心で苦笑いをする。どうやら余計なことを思い出せる位には頭が回ってくれているらしい。

 

(固まっている場合じゃない…!)

 

 貴重な時間を随分と無駄にしてしまった。私が狼狽えている間に、彼の身体から一体何ccの血液が失われたのか。

 

 慌てず、急いで、順番に、効率よく対処するのだ。

 

 最初にすべき事は?

 泣くこと?

 叫ぶこと?

 

 いいや違う、頼もしい友人との協力だ。

 

 両の手を大きく開き、そのまま強く拍手を打つ。

 

 ぱん!

 

 私の手に挟み込まれた由比ヶ浜さんの頬が、乾いた音を立てた。

 

「……いっ!」

 

「由比ヶ浜さん、聞いて。貴女の力が必要なの。お願い」

 

 彼女の身体はどちらかと言えば酸欠状態のはずだから、この症状は酸素過多による過呼吸ではないだろう。恐らくは、肉体への負荷と精神的ショックが重なった事による、一時的な自律神経の不調が原因だ。言ってしまえばしゃっくりの親戚である。だったらきっと、この方法で回復させられる。

 驚いてこちらに焦点を合わせた彼女の目を睨むくらい真剣にのぞき込むと、一瞬息を止めた彼女は大きく咳込んだ。

 

「叩いてごめんなさい。大丈夫?」

 

「…けほ、けほっ。ご、ごめ…っ。あたし、どうすればいい?」

 

 危なげな色をしていた瞳に力が戻ったのを確認し、ひとつ頷いてみせる。

 

「救急車を呼んで頂戴」

 

「らじゃ! …んぁぁああっ、110だっけ、119だっけ!? パニくっててわっかんないよー!」

 

「9よ。救急車だから9番。そう覚えておきなさい」

 

「わ、わかった!」

 

 110番にも用が無い訳ではないけれど、警察への通報は後回しだ。彼女に応えつつ、私は比企谷くんと一色さんに向き直った。

 

「それで、これは刺されたの? 切られたの?」

 

「ごめんなさい! わた、わたしのせいで…!」

 

「彼を助けたいのでしょう? 私もよ。だから教えて。何で、どこを、どうされたの?」

 

「あいつに、ナ、ナイフで、お腹を、さっ、刺されて…ひぐっ…こ、この辺だと、思うんですけどっ…」

 

「うん? 一色さん、貴女、それ──」

 

 しゃくりあげながらも必死に答える、一色さんの押さえつけている場所。そこには厚手の布地が掛けられている。

 よく見ると、それは血塗れになった女子のブレザーだった。その布地ごと彼女の手は赤黒く染まり、地面までもが同じ色に濡れている。添えられた手の下から、彼が呼吸する度に少しずつ、じわりと何かが染み出していく。

 

 圧迫止血。

 

 患部を圧迫することで止血を試みる、最も基本的な応急措置だ。彼女はボロボロと泣き、取り乱しながらも、懸命に救命行為を行っていたのである。

 意外というか予想外の働きに、私は場違いながら舌を巻いた。

 

 しかし何故当て布として制服を使っているのだろう。ハンカチの方が良いのでは。疑問に思っていると、その視線に気付いた彼女はその答えを口にした。

 

「こんなんじゃ足りなくて…! き、昨日習ったんです。足りないときは、衣服でも良いって!」

 

「習った…? あっ、警察の…!」

 

 昨日は確か、県警主催の交通安全教室が行われていたはずだ。併せて応急救護の講習もあると告知されていた。自由参加という事で、休みの日にわざわざ顔を出す物好きが居るのだろうかと溜息を付いた記憶がある。

 そのイベントに一色さんが参加していた事には意外性を感じたけれど、成る程、生徒会のメンバーなら強制だったに違いない。

 

 彼女の傍らには真っ赤に染まった布きれが落ちていた。おそらくはハンカチであったと思われるそれは、血が付いたというより浸したかのような状態だ。であれば、いま押しつけられている制服の下がどうなっているのか、想像するのも憚られる。

 

「手伝うわ」

 

 私は彼女の記憶を信じ、その処置に従うことにした。

 小さな傷ではなさそうだし、女性の力では長く圧迫を維持するのは難しいだろう。意を決してその手の上から患部に力を込める。

 女の身である以上、血を見る機会は少なくなかったけれど、そこに手を浸すような経験となれば話は別だ。(ぬめ)る血の温かさを感じて僅かに身震いしていると、比企谷くんが薄らと目を開いた。

 

「……しき──」

 

「先輩!」

 

 弱々しい呼び声に一色さんが顔を上げる。

 

「先輩、大丈夫ですか!?」

 

「…すまん…顔、切られたのか…?」

 

 彼女の顔に付いた返り血を気にしたのか、彼は真っ先にそう言った。

 

「わたしは大丈夫です…先輩が守ってくれたじゃないですか…!」

 

「それは貴方の返り血でしょう。フェミニズムは結構な事だけれど、まずは自分の心配をなさい」

 

 自分に何かあったら、この場の全員をどれだけ傷付ける事になるのか、彼は考えているのだろうか。実際、私の心は間違いなくトラウマものの傷が付いたと思う。これについてはほとぼりが冷めたら絶対に糾弾させてもらおう。

 

 内心で愚痴を零していると、電話を終えたらしい由比ヶ浜さんがこちらに駆け寄ってきた。

 

「な、なんか分かんないけど、救急車、もう呼ばれてるらしいよ!」

 

「どういう事? 誰かが通報してくれた…?」

 

 屋上の入り口を振り返ると、一色さんの叫び声を偶然拾ったのか、何人かの野次馬が姿を見せ始めていた。誰もが色めき立ってスマートフォンを取り出しているけれど、どうせ面白半分に撮影するつもりなのだろう。あの中に救急車を呼んでくれるような奇特な生徒が居るようには思えないのだけれど…。

 

「ヒッキー! すぐお医者さん来るからね!」

 

「……くるのは、救急だ…。医者は、来ねぇ、だろ…」

 

「もう。減らず口を叩く余裕があるなら心配要らないわね」

 

「……え、雪ノ下…? どっから沸いた……」

 

「比企谷くん? …ちょっと、しっかりなさい」

 

「…はっ、…はっ、……くそ、アホほどいてぇ……一色、ちょっと…白いタクシー、頼んでいい…?」

 

 一色さんが戸惑いがちな視線をこちらに送ってくる。

 

 浅く呼吸を繰り返す比企谷くんは、さっきから少しばかり反応がおかしい。どんどん声から力が抜けてきている。会話も通じているような、いないような。

 

 この止血は効果があるのだろうか。

 

 溢れる血の量が減っているのか、よく分からない。

 

 救急車はあと何分で来るのだろう。

 

「比企谷くん。救急車ならもう呼んだわ。すぐに来るから、頑張りなさい!」

 

 襲い来る不安に負けないようにと、私は押さえつける腕に力を込めた。

 

 

 

《--- Side Shizuka ---》

 

 

「あーん?」

 

 私はデスクの上で耳障りな振動を続ける携帯電話に目をやった。

 

 時計を見れば、まだ始業までには若干余裕のある時刻。今朝は門限当番でもないし、まったりと授業の前のコーヒーを嗜んでいたところだった。

 

 月曜の朝というのは、憂鬱という名の魔物が大抵の人物を襲う。わけもなくブルーになるのは、別に結婚を控えた女性の特権という訳では無いのである。ああ、今ので余計に気分が落ち込んでしまった。

 

「あーもう。かったるい…」

 

 電話を手に取ってみると、画面には掛かってくる機会の滅多に無い番号の主が表示されていた。

 

「比企谷…? あいつ、朝っぱらから教師を呼び出す気じゃあるまいな。最近ちょっと私の扱いが目に余るぞ」

 

 通話ボタンを押し、背もたれにふんぞり返りながら、私は気怠さを隠す努力もせずに声を出した。

 

「何の用かね。サボリならサボリますと正直に言いたまえ。今朝の私は君のやさぐれ理論に付き合えるほど寛容な気分じゃないんだ」

 

『…………………』

 

 先制で粗方喋ってしまってから、我ながら生徒に対して気易すぎやしないかと少し気になった。これで保護者からだったりした日には、わりと(まず)い事にならないだろうか。

 そっと様子を窺ってみるが、電話口からの返事はない。そもそもこちらの言葉を聞いている気配からして無いような気がする。耳を澄ますと、周囲の音を拾ったかのような、くぐもった声らしきものが漏れてきていた。

 

「もしもし? もしもーし。おい、どうした?」

 

 変わらず、返事は帰ってこない。切ってしまおうかとボタンへ指を伸ばしたが、ふとその手を止めて考える。

 あの小悪党がこんなおかしな電話を掛けてくるのだ。まさか意味もなく悪戯をする性格でもなし、何かがあると考えるべきではないか。そもそも彼は今、大きな問題を抱えていた筈だ。

 

 口を噤んだままスピーカーに耳を当てていると、不鮮明な会話らしき声が聞こえてきた。

 

『──っぱら──、特別──屋上──か、俺でも────。フラれ────ろ』

 

『うるせぇええ!』

 

 聞き取りにくい比企谷の声のあと、男子生徒らしき鬼気迫る怒鳴り声だけがやたらはっきりと聞こえてきて、私は思わず顔を顰めた。

 何が起きているかは分からないが、概ね想像が付いた。今の声色は、どう考えてもまともな雰囲気ではない。

 

(もしや、犯人とかち合ったのか…?)

 

 一色が被害に遭っているというストーカー。彼らの追っていた相手は姿こそはっきりしていなかったものの、諸々のアクションの早さから見ても、うちの生徒である事だけはほぼ確定的だと言える状況だった。

 私自身、これでなまじ追い詰めたつもりになっていたのが拙かったのかも知れない。見方を変えれば、向こうの気分次第でいつでも寝首を掻かれ得る状況であったというのに。

 

 不意に、耳障りな衝突音が聞こえた。電話を落としたのだろうか、堅い物に激しくぶつかったような音だった。

 先程聞こえた怒鳴り声の剣幕と、不穏な物音。少し想像力がある人間なら、みな同じ様な展開を想像するだろう。

 

 私もご多分に漏れず、携帯を持つ手に嫌な汗をかく羽目になった。もう一方の手を職員室に備え付けられた電話機へと伸ばす。

 

 静かに三つの数字を押し、それから目を閉じて祈る。

 

 念のためだ、念のため。

 頼むから、これは押させないでくれよ──。

 

 

『──────ッ!!』

 

 

 願いも空しく、電話から女生徒の尋常ならざる叫び声が聞こえてきて、私は指を添えていた通話ボタンを押し込まざるを得なかった。

 

 

× × ×

 

 

「くそ、要らん小細工をしてくれる…」

 

 廊下を小走りに駆けながら、私は電話の主に悪態をついていた。

 

 あの後何度か電話に呼びかけたが、向こうから聞こえてくるのは女生徒の助けを呼ぶ声だけで、こちらの呼び掛けは届いていないようだった。

ひょっとすると、彼は会話の内容を余所へ流しているのを悟られないように、予め受話側の音量を絞っていたのかも知れない。という事は、本来は言質を掠め取る事を目的とした策だったものが、非常事態にあたって転用されたというところだろうか。

 

「この辺りは特に騒ぎが起きている様子が無いな…。どこだ、どこから掛けてきた…?」

 

 漏れ聞こえてきた会話を頭の中で辿る。確か彼は言っていたはずだ、居場所についての情報を。

 

「特別な、屋上──いや、特別棟か。また辺鄙な場所を選んだものだな」

 

 教師が小走りする姿が珍しいのか、何人かの生徒が声を掛けてくる。しかしおざなりに挨拶を返す私の頭の中は、パンプスならばこの倍は早く走れるものを、という不満で一杯だった。

 

 

* * *

 

 

 手狭な階段を登って辿り着いたその場所は、最初、路上ライブでも行われているかのような印象を私に与えてきた。

 

 まばらな人垣によって形成された輪の中に沈む、幾人かの女生徒の姿。その中心には誰かが寝転んでいるようで、隙間からちらりと見えるズボンが男子生徒である事を教えてくる。

 

 ヒールの音に野次馬が振り向き、道を空けていく。

 その先で膝を突いていた黒髪の少女──雪ノ下がこちらを仰いだ。

 眉を立て、返り血が頬に付いたその顔を見て、私の胸に浮かんだ最初の感想は「美しい」という場違いなものだった。

 

「平塚先生! 良かった、手を貸して下さい!」

 

 いつだって冷静で、時折高校生である事さえ忘れさせる彼女。初めて耳にした彼女の叫びに近い声に、我に返って傍へと駆け寄る。

 

 我が目を疑う光景がそこにあった。

 これでも大体の覚悟はしていたつもりなのだが──。

 

「この馬鹿者が…。こんな時だけ予想を裏切らないんだな、君は…」

 

 電話から悲鳴が聞こえた時点で、私はすぐさま119番に通報した。『怪我ですか? 病気ですか?』と聞かれたので「怪我です。酷く出血しています」と答えてやった。漏れ聞こえて来た状況から、血を見るような事態か、あるいはそれに準ずる何かが発生したと判断しての行動だ。

 結果的に大した事がなかったのなら、私が責任を取れば済む。それよりも、迷っていたら取り返しの付かない事になりそうな、そんな予感を感じさせる切迫した声だった。そして残念な事に、電話口で吹いた私のホラは、概ね正鵠を射ていたらしい。

 

 目の前には、私の教え子が、血塗れで横たわっていた。

 

 雪ノ下は大きな布らしきものを彼の腹部に充てがい、体重を掛けている。赤黒く染まって原形を失いつつあるが、元は制服の上着であると思われた。

 どうやら彼女は圧迫による止血を試みているらしい。ちょうど雪ノ下の影になっていて気付かなかったが、由比ヶ浜も反対側に陣取り、彼女と共に力を込めていた。

 

「由比ヶ浜さん、もっと強く押さえて!」

 

「や、やってるし! でもこれ…押したら余計にあふれて来てない!?」

 

「押したり離したりするからよ。押し続けるの。泣き言を言う余裕があったら力を入れなさい!」

 

「こんの、もー! 止まれったら! 止まれぇー!」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜。

 

 この二人は異常だ。率直に言って、そう思った。

 

 少女達はあちこちを血で汚しながら、仲間の危機に全力で立ち向かっている。しかし、いくら親しい人間だからといって、こんな非常事態に迷わず行動できる高校生がどれほど居るだろうか。いや、大人だってそうそう出来る事では無いだろう。

 私自身、血塗れの生徒を目にして、正直かなり怯んでいる。生徒の前だから格好をつけているだけで、もしもここが学校でなかったら、きっとこんな風には振る舞えなかっただろう。誰よりも先に私がこの場に到着していたとして、彼女達の様にやれるだろうか。

 

「この止血の方法は君が?」

 

「いえ、一色さんが」

 

「ほう…」

 

 意外な人物の名に思わず眉を上げる。

 少女達の怒号が飛び交う異常な熱気に紛れるようにして、もう一人女生徒が居る事には気が付いていた。

 とても無事とは思えない、血だらけの少女。しかしそれが一色いろはであると把握した瞬間、直感的に無傷なのだろうと私は確信していた。

 

 その組み合わせの意外性に驚きはしたものの、最近の一色が比企谷を強く慕っているのは端から見ていて明らかだったし、世の中には「魚心あれば水心」という言葉もある。彼の方も憎からず思っているであろうことは、容易に想像がついた。

 比企谷は自らを傷つけるやり方でしか物事の対処が出来ない少年ではあるが、だからと言って傷付く事を好んでいるという訳ではない。恐らくは、気の置けない存在となった一色に降り掛かった危機を前にして、自らの身体で請け負う以外に選択肢が無かったのだろう。

 

 ならば彼がここまで傷ついている以上、一色が無事でない筈がないのだ。

 

「せんぱい、せんぱい」

 

 横たわる彼の頬をゆっくりと撫でながら、一色はか細い声で彼を呼び続けている。その俯いた表情は前髪に隠されてはっきりとは見えないが、少しばかり精神の均衡を崩しているような雰囲気を醸し出していた。

 

「彼女はその…平気なのかね?」

 

 私の言い澱む様子に、身体の怪我を聞いているのではないと理解したのか、雪ノ下は声を潜めて答えた。

 

「さっきまでは先陣を切って、立派に措置をしてくれていたんです。ただ、徐々に彼の反応が薄くなってきて、その…」

 

「せんぱい、ねえ…せんぱいってば…」

 

 雪ノ下が濁した言葉の続きは、一色の様子を見れば明らかだった。

 執拗に比企谷に声を掛けるその姿は、電池の切れた人形を構い続ける子供を彷彿とさせる。

 

 想いを寄せる相手が自分を庇って負傷するというのは如何にもな美談で、女性なら誰しも一度は憧れるシチュエーションだろう。

 しかしそれはあくまでもフィクションに限った話だ。そんな事が現実に起これば、相手への想いが強ければ強いほど、そのまま罪悪感となって胸を刺す。

 ましてやこれ程の惨状となれば──。

 

「無理もない、か…」

 

 私が十六の時だったなら、やはり泣き叫ぶ以外の事は出来なかったに違いない。

 もしかしたら立場が違えばそこの二人と同じくらいの気概でもって動けたのかも知れないが、強すぎる自責の念が、彼女の心を縛っているようだった。

 そんな心情を斟酌してか、雪ノ下は彼女にこんな指示を与えていた。

 

「一色さん、呼び掛けを止めないでね。聞こえている筈だから」

 

「っく、はい…。せんぱい、せんぱい…へんじしてください、せんぱい…おねがいです…」

 

 涙をポロポロと零しながらひたむきに呼び続ける少女の姿は、あまりに痛々しい。そして、いくら一色が呼んでも、彼は反応らしい反応を示さず、浅い呼吸を続けていた。

 

「意識がないのかね?」

 

「ええと、どう判断したらいいか…。ついさっきまで、会話は出来ていたのですが」

 

「ふむ…。おい比企谷、寝るな! 寝たら殺すぞ馬鹿者!」

 

「………それ…しぬ、じゃない…すか…」

 

「先輩!」

 

 耳元で怒鳴ってやると、億劫そうに弱々しい声が返ってきた。一色が弾かれたように顔を上げる。

 

「可愛い後輩がこれだけ呼んでいるのに返事をしないとは、何様かね君は。ちゃんと起きていたまえ」

 

「先輩! もう少しですから! すぐ救急車来ますから、頑張って下さい!」

 

「…すんませ……すげ、ねむく…て……」

 

 痛い、ではなく眠い、という表現に、私は内心で舌を打った。

 痛みというのは一種の防衛機構だ。痛覚は肉体の損傷具合と対処の必要性を知らせる役割を担うが、それも過度の刺激と判断されれば、人の脳は生命維持よりもその場のショックを和らげる方向に動くのだという。つまり、大怪我をしているのに痛くないというのはかなり好ましくない状態なのである。

 

「比企谷? おい、聞こえているか?」

 

「…………」

 

 再び黙ってしまった彼を見て、私の心にも焦りが生まれ始めた。

 電話してから何分経っただろうか。

 救急車は普通、どのくらい掛かるものなのだろうか。

 

「せ、先生! どうしたらいいの!?」

 

「平塚先生!」

 

 いくら先生と呼ばれても、医者でもない私に出来る事などたかが知れている。それでも何か一つでもプラスの要素はないものかと、ざっと現場を見回した。

 

 地面に広がる血はタイルに阻まれ溜まったまま。

 色に惑わされて大量にみえるが、よくよく見ると薄く広がったそれは、さほど多くないのではないか。何より、色が鮮やかではない。

 

「安心したまえ。これは静脈血のようだ。動脈が切れたらこの程度では済まんよ。量も大した事は無いな。この倍の量を失っても、人は失血で死んだりしない」

 

 半分は聞きかじり、残りの半分は口から出任せだ。もしかしたら願望もかなり混じっているかも知れない。

 取って付けたような励ましではあったが、それなりに彼女達の力にはなったようで、萎えかけていた気力を振り絞るように二人は顔を見合わせた。

 

「そう言えば、これをやらかした生徒はどうした?」

 

「それが、階段を下りてどこかへ…。すみません、現場から逃げ出して来たタイミングですれ違ったのですが、その時点では状況を把握できていなくて…」

 

 それで良かったのだ、と私は答えた。下手に取り押さえようとして他にも被害が出ていたら、こんなにまでなった比企谷も刺され損と嘆いたことだろう。

 

「遅いな。そろそろ音の一つも聞こえそうなものだが…」

 

 無駄に眺めの良い屋上から下界を見渡したが、サイレンのようなものが迫ってくる様子は無い。病院はどっちの方角だったか。いや違う、消防署だ。おいおい、少しは落ち着け。

 

「あ、あたしがさっき呼んだんですけど、なんかもう連絡もらいましたーって言われて…。も、もしかしてうまく通報できなかったとか?あたし、またやらかしちゃった?」

 

「いや、それは私の要請の事だろう。比企谷が負傷してすぐに掛けたから、間違いなく一番乗りの筈だ」

 

「先生、それはどういう…。そもそも、どうやってこの事態を?」

 

「現場から生中継が届いたものだからな」

 

 ポケットから落ちたのか、傍らには彼の携帯電話が打ち捨てられるようにして転がっていた。それを拾って雪ノ下に見せてやると、彼女は何が起こっていたのかを察したように「成る程」と瞑目した。

 

「この状況でよくもまあ…ちゃっかり保険も掛けていたんですね。流石と言うべきか、それとも呆れるべきでしょうか」

 

「あは、ほんとヒッキーらしいや」

 

 結果的に犯人は逃げ去ったから良かったものの、ここまでやる相手であれば、残った一色が乱暴されないという保証も無かったのだ。加えて、後から追いかけてくる雪ノ下達も二次被害に遭わないとは限らない。

 彼が大人に──あるいは権力かも知れないが──他者の力を頼ってくれた事は素直に嬉しかった。細かい事を言えば、私も一応女の端くれとして思う所が無い訳ではないが、それは全てが済んでから問い質してやるとしよう。

 

「事の一部始終を聞いた上で何も出来なかったというのは、何とも惨め極まりない話なんだがな」

 

「音だけ聞かされても、どうにもならないと思います。迅速に救急を呼んで頂けただけで十分ですから」

 

「ふ…。生徒に慰められていては世話がない──」

「すまない、通してくれ!」

 

 背後から聞こえてきた声に振り向くと、茶髪の男子生徒が人垣を押し分けてこちらへやってきた所だった。葉山隼人。そう言えば彼は、確か比企谷と同じクラスだったか。

 彼は目の前の光景に立ち竦み、口を戦慄(わなな)かせる。

 

「な…何があったんだ…。この怪我…平気なのか?」 

 

「愚問ね。そう見えるなら貴方も今すぐ病院に行きなさい」

 

「す、済まない。それより救急車は──」

「もう呼んだよ!」

 

「君達も血が付いてるじゃないか。怪我を──」

「ねえ葉山くん、見て分からなかったのかも知れないけど、私達、今少し立て込んでいるのよ。悪いけど後にしてもらえるかしら。由比ヶ浜さん、まだいける?」

 

「うん、がんばる! ヒッキーも、がんばれー、がんばれー!」

 

言外に戦力外を通達され、葉山がフラフラとこちらに身を寄せてきた。

 

「気にする事はない。この惨状で、君は理性的に動いている方だ。彼女達が少々非凡なだけだよ」

 

「面目ないです。彼は本当に友人に恵まれていますね」

 

「比企谷がムキになって否定しそうだな。彼はどうも友人の定義というものを──」

「は、八幡! おい、大丈夫か!? 大丈夫じゃないな! 血が、血が凄いぞ! これは少々奮発し過ぎではないか? 戻せ戻せ、いくら地面に献血してもカントリーマァムは貰えないのだぞ、知らんのか馬鹿者が! おい、何とか言え、比企谷八幡!」

 

「材木座。君も少し落ち着きたまえ」

 

「イエス、マム!」

 

 無駄にハキハキとした返事でもって、材木座義輝はその場で敬礼をし、直立不動の構えを見せた。と言うか、彼はいつの間に沸いたのだろうか。

 

 役に立たない者同士がそんな風に騒がしくしていると、遠くから待ちわびた音が近付いて来る事に気が付いた。高いサイレンのけたたましさが、今は何とも頼もしい。

 

「来た! 救急車来たよ! …あれっ? てか、こっからどうやって降りるの?」

 

「恐らく担架か何かを持って来てくれるだろう。こちらは動かず、ギリギリまで止血に努めるべきだ」

 

「分かってはいますが…焦れますね…」

 

「そうだな。どうせならドクターヘリでも呼べば良かったよ」

 

 半ば本気で言った台詞に、由比ヶ浜が「へりこぷたー!? すごっ!」と興奮気味に返し、その様子に雪ノ下もクスリと笑った。

 

「先輩、聞こえましたか? もう大丈夫ですからね?」

 

 救急隊の到着と場の空気の弛緩を感じ取ったのか、一色の声にも幾分張りが戻ってきている。

 

 やれやれ、何とかなりそうだな…。

 

 知らず、握りしめていた拳から力を抜こうとしたところで、一難去ってまた一難。様子を見に行っていた葉山の声が、更なるトラブルの発生を伝えてきた。

 

「まずいぞ! 階段の生徒が邪魔で、隊員が立ち往生してる!」

 

「な…っ!?」

 

 何という迂闊──。

 

 ただでさえ手狭な特別棟の階段は異変を察して集まってきた野次馬で次第に溢れ、今や完全に渋滞していたのである。

 加えて朝練の終わりと最後の登校ラッシュが重なる時間帯だ。このゴールデンタイムに非日常の象徴たる救急車両が堂々と構内に乗り付けているのだから、これはもう注目するなと言う方が無理な注文である。明滅する赤いランプは誘蛾灯の様に増々生徒達を引きつけ、現場付近の混雑は悪化の一途を辿っていた。

 

「みんな、道を空けてくれ! 怪我人が居るんだ!」

 

 葉山が下に向かって声を張り上げる。

 皆、その声が聞こえたのだろう。多くのものは脇へと身を寄せ、道を譲ろうとした。

 しかし救急隊員は何かしら担架的な道具を伴っているに違いないのだ。ひと一人が漸く通れるかという程度の隙間では、こちらへ登って来るのもままならないと思われた。

 更に悪い事に、屋上付近は狭いだけでなく踊り場すら存在しない。言ってみれば途中から非常階段のような作りになっているのである。つまり、一旦詰まってしまうと下から順に人が抜けるのを待つしかないのだった。

 

「降りて! みんな早く下に行ってよ! 助からなくなっちゃう!」

 

「上半分の生徒はこっちへ! その方が早いわ!」

 

 由比ヶ浜の悲鳴と雪ノ下の怒声が飛び交う。それでも押し合いへし合いをしている群衆の動きは亀の様に遅い。

 私は人払いをしておかなかった事を今更ながら後悔した。屋上からの移動が難しい事は分かっていた筈なのに。救護さえも生徒任せにして、私は手をこまねいていただけではないか。

 

「なんでこんな……お願い、かみさま…!」

 

 比企谷の手を握った一色の絞り出すような祈りが聞こえて、思わず奥歯がぎりりと音を立てた。ぞろぞろと波打つばかりの黒山に苛立ちが募る。

 降りようとする生徒と新たに様子を見に来た生徒が拮抗しているのか、いつまで経っても階段上の人間は減ってくれなかった。

 

「お前ら、人の命が掛かってるんだぞ! 急いでくれ!」

 

 業を煮やした葉山が階下に向かって今一度叫んだところで、ぬっとその後ろに立った人物が居た。

 煤けた色のコートをはためかせるのは材木座。

 彼は眼鏡をくいと指で押し上げ、低く響く声で言い放つ。

 

退()け、そこなイケメン」

 

 決意に満ちたその表情を見て、彼が比企谷の数少ない友人である事を思い出した。比企谷は嫌そうな顔でその関係を否定していたものだが、あんな風に忌憚なく扱える知己こそが、人生において得難い存在なのだと私は思う。

 

「え? 中二、なにする気…?」

 

「なに、我もこの男には少々貸しがあるのだよ。取り立てる前に倒れられては大損だろう? ──ヤバい、今の我、超かっこいい…」

 

「イモ先輩…」

 

「あふん…! 上手くいったら超クールなあだ名に変えてもらうんだ…!」

 

 遠い目をして盛大にフラグを仄めかしながら、彼は指を立てた両手を地面へと付けた。頭を低くして正面を睨むその姿勢は、クラウチングスタートと呼ばれるものだ。これから彼がしようとしている事を見て取った葉山が慌てて制止を叫ぶ。

 

「よ、よせ! 階段だぞ! ()()は危険過ぎる! 別の怪我人が出るかも──」

「生憎だが、貴様と違って友が少ない身の上でな。我が相棒の命、見知らぬ百人の怪我で拾えるなら安いものよ!」

 

「なっ…本気か!?」

 

「フッ、是非もなし…」

 

 四肢にぐっと力を込め、鼻息も荒く腰を上げた。その姿はまるで猛牛だ。全く止まる気配がないのを察した葉山は、怯んだように非常扉への道を譲った。

 

()くぞぉッ! (うな)れ豪腕ッ、(ほとばし)れ魂ィ!」

 

「お願いしますっ!」

「いいわ、やって頂戴!」

「行っけぇー! ちゅうにーーーっ!」

 

 身動きの取れない少女達の痛切なる願い。

 それを代弁するかの如く、彼は猛々しい雄叫びを上げる。

 

 

「必ィィッ殺! 超重量貫通撃(グランド・ペネトレイタ)アアァッ!!」

 

 

よく分からない台詞と共に、重量級の身体が階段へ向かって真っ直ぐに突っ込んだ。

 

「ぎゃあああああっ!?」

「ちょっバカ、何してんだ!?」

「やだ重っ! 踏まな…きゃああ!」

「ばっ! お、押すな…いででで!」

「うわわわ落ちる落ちる!」

「やっべバカ早くそっち行けって!」

「んな簡単に動けねぐええっ!」

 

 材木座は渋滞する生徒達を押しのけ、突き飛ばし、踏みつけて、無理矢理に階下へと駆け下りてゆく。

 巻き込まれた生徒達は体勢を崩し、何人かは階段を踏み外して下の生徒を押し潰し──男女を問わない阿鼻叫喚が広がっていくのが屋上まで聞こえてきた。

 

「壮絶ね…。無茶も無謀も、ここまで来ればいっそ爽快だわ」

 

「凄いな、彼は。俺には真似出来そうもない」

 

「あたし中二のこと見直したかも!」

 

「やれやれ。これは弁護のし甲斐があるな…」

 

 階下から聞こえてくる功労者の悲鳴は、生徒達から吊し上げでも食らっているところだろうか。その身が些か心配ではあったが、無茶を通しただけの甲斐はあった。幅の良い彼が押し通ったその跡は、抉れたようにぽっかりと道が開いている。

 

「け、怪我人はこちらですか?」

 

 やがて戸口から担架を担いだ救急隊員が恐る恐るといった体で顔を出し、私達は歓声を上げて彼らに手を振ったのだった。

 




八幡、いろはす視点「メイン」というのはこの伏線だったんだ!
ΩΩΩ<な、なんだってー

そう言えば、久しぶりに鬼畜引きじゃないですね。


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■30話 選択肢なんてない

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

 

 *いしのなかにいる*

 

 

 

 某有名RPGにあやかって今の状況を表現してみたんだが、どうだろう。

 

 何も見えず、何も聞こえない。

 寝呆けているだけなのだと思いたいが、明晰夢だとしても、意識がハッキリし過ぎている。と言うか、より厳密に言うと、意識()()しか感じられない。

 

 そう、困ったことにさっきから身体の感覚が全く無いのだ。身体を無くした経験のある人間はそうそう居ないだろうから、これも分かりやすく例えると──そうだな、「畜生…持って行かれた……!」という感じだろうか。

 

 意識が途絶える前の記憶がハッキリしないのだが、断片的に覚えている事から逆算するに、一番有力な説は物理属性からゴースト属性にシフトしてしまった可能性だろうか。しかしそう判断するのは些か早計に過ぎるというものだろう。

 とかくこの世には、怪しげなエピソードがごまんと転がっている。例えばそうだな、幽体離脱とか臨死体験とか神様転生とか。おっと最後のはきっちり死んでますね。

 

 日頃から世間相手にクレームを垂れ流している俺ではあるが、別に本気で死にたいとまでは思っていない。

 昨日録ったプリキュアだって観なくちゃいけないし、平塚先生の花嫁姿も見てあげたい。後者の可能性については議論の余地があるとしても、まだまだ俺なりにやりたい事があるのである。

 …あとほら、男としては外せない経験とかもさ、あるじゃない?

 

 もしもここで力尽きてしまったら、全てを見通すと名高い閻魔帳の職業欄に"魔法使い(見習い)"と書かれてしまうのだろうか。そう考えると、見当たらないはずの身体がぶるりと震える思いがした。

 あの世でまで肩身の狭い思いはしたくないんだが…。こうなると、いっそ淫行野郎の方が箔が付いたんじゃなかろうか。

 

 とにかく状況を知りたいのだが、外界の情報が無いというのが致命的だった。この無明の闇の中で意識だけが延々と存在するのなら、死後の世界だろうと夢の世界だろうと、それはただ苦痛でしかない。

 何一つ思い通りに出来ない状況の中、俺はいつか見聞いた言葉を実感として思い出していた。

 

『人生の主人公は自分自身』

 

 確かにその通りなのかも知れない。例えそれが、どれだけ出来の悪いルールに縛られたクソゲーであろうとも、だ。操作不能なこの状況よりはマシなのだと、今なら思える。このまま、俺という存在は霞のように消えてなくなるのだろうか。

 

 少しずつぼやけていく意識の中で、気になることを思い出した。

 

 

 

 そういや、一色はどうなったんだろうか。

 

 

 

 俺がこんなんになってしまったって事は、彼女を守りきれなかったという事ではないのか。まさか学校の中で18歳未満お断りな展開になったりはしていないだろうな。そんなのあの中じゃ大っぴらに見れるの平塚先生くらいしかいないだろうが誰得だよ。

 

 あまり考えたくないが、ヤツの壊れっぷりからしたら、何が起きてもおかしくないと思えた。エロ展開どころかすっ飛ばしてグロ展開もかくやという勢いだったしな…。むしろ俺自身がグロ加工されているワケであるからして、笑い事ではないのかも知れない。

 

 おっ?おおっ?

 

 なんとか彼女の安否だけでも確認したいと思っていると、不意に強い力で引っ張られるような感覚があった。さっぱり状況が分からず、反射的に抵抗を試みる。とは言え身体もないのだから、あくまで気持ちの上での話だ。

 もちろんそんな形にもならない抵抗に意味はなく、ただ一つの変わらない吸引力的なものによって、俺の意識は凄いスピードでどこかへ流れていく。

 

 次第に、細い光が流れる様に横へと滑っていくのが見え始めた。

 

 ふーん、バンブーファイトよりずっと面白いじゃないの。

 雪ノ下に見せたら何て言うだろうな。

 

 虚無感に辟易していた俺は、食い入るようにそれを見つめ続けた。

 

 長いのか短いのかすらも分からない牽引タイムの後、これまた突然、俺を引っ張る力が消え失せた。視界のスライドがピタリと停止したが、急ブレーキのような慣性もなく、相変わらず現実味が薄い。そんな視界の中で、一人の女子が泣いていた。

 

 

 それは、カーディガンを赤く染めあげた、一色いろはだった。

 

 

 っておいおい一色さん!赤い、赤いよ?!

 嘘だろ、結局やられちまったのか…。いろはすが斬る!を見たいとは思ったけど、女子が刃物で斬られるとこなんて見たくなかったなぁ。罪悪感がハンパないわ。俺ってばカンペキ刺され損じゃないのよ。

 

 やっぱ八幡一枚じゃ厚みが足りなかったのかな。せめてあの場に材木座が居れば(肉盾的な意味で)何とかなったかも知れないのに…。つか平塚先生、電話に気付いてくれなかったのかしら?

 

「ひっく…ひっぐ…せんぱい…っく…」

 

 ドラマのヒロインもかくやという位に綺麗な顔からぼろぼろと涙を零す一色は、両手で何かを一心に掴み、祈るような姿勢で俯いている。覗き込んでみれば、驚いた事に、彼女が掴んでいるのは血で汚れた人間の手であった。

 一向に動く気配のないそれに、時折自らの手を擦りつけるようにしている。必然、彼女の手にもそこから滴る液体が伝う。

 

 ちょっといろはす!ばっちいからそんなの触らないの!

 つか相変わらずエロい指使いだな、うらやまけしからん。どこのどいつだコンチクショウ。

 

 俺は一色が握っている手の持ち主を検めた。

 

 そこに横たわっていたのは、死んだような目を閉じて死んだように動かない、あーこれ絶対死んでるなーと思えるほど土気色の不健康そうな男子高校生──

 

 おう、どっかで見た事あると思ったら、これ八幡だわ。

 

 自分の顔なのに何故こうも反応が遅れるのかと思ったが、考えたら理由は簡単だった。

 人間は普段、自分の顔を客観的に見る事が出来ない。一番目にする機会が多いのが鏡や水面に反射した姿だが、これは他人から見たものと同じではないのである。

 鏡に映った顔において、自分から見た左側の目というのは俺の左目なわけだが、正面から俺の顔を見た相手にとって、左側にある目は俺の右目にあたる。要するに、普段見慣れた顔の鏡写しなわけだ。大した違いはないだろうと思うかもしれないが、人間の顔というのは全くもって左右対称にはなっていない。これを反転すると、かなり違う印象になるのである。

 写真に撮ったものならば他人との認識のズレは埋められるが、その絶対数が足りない俺には微妙に不細工だと感じられた。しかしよく考えてみると、これこそが世間一般の認識する比企谷八幡の顔なのであった。

 

 要するに、一色は俺の手をやたらイヤらしい手つきで愛撫──もとい取り縋って泣いていたわけである。

 

 ドラマなんかでは既に手垢に塗れているであろうこの構図。しかし演出の加減がなされていない為か、下手な映画よりずっと衝撃的だった。

 率直に言って、美より醜の方が遥かに勝っている。これで主演女優がルックスに秀でた彼女でなかったら、マジにただのグロ画像だな、とすら思った。

 

 改めて辺りを見回すと、狭い空間に低い天井、ゴチャゴチャした機械や道具が目に入った。どうやらここは救急車の中らしい。通り過ぎるサイレンは聞き慣れているが、その音源と共に移動するというのは新鮮な経験だ。

 つまるところ、俺はブッスリやられて見事に病院送りの真っ最中と、そういう事らしい。横にある心電図みたいな機械も断続的に音を立てているし、一応はまだ生きてると思って良さそうだ。

 

 しかし、人の意識ってのは脳味噌が生み出しているものだと思っていたが…。ならばこの状態をどう説明したらいいのだろうか。こうして思考している俺は、そこで寝ている俺と別人なのか。

 でもそんな考察、今は意味がない。偉い人が生涯掛けて考えたって、簡単な結論しか出てこないのだから。真実は目の前にあるものが全て、それで良いじゃないか。

 

 我思う、無駄にエロ在り──いや待てなんか違う。

 

 …だってさー、いろはすの手つきがさー。

 これ見てると、こないだ手を繋いだ時の感触を思い出しちゃうんだよなー。

 

 意識だけで悶えるという奇っ怪な芸当を披露していると、奥でゴソゴソしていた救急隊員らしき人物がやってきて、一色に声を掛けた。

 

「すみません、人工呼吸つけますので…」

 

 えーと。

 今、なんて仰いましたかね。

 人工呼吸?

 このオッサンにされちゃうのん!?

 やめて下さい初めてなんです!

 

 声が出せないことがこれ程のピンチに派生するとは。何とか阻止できないものかとひとり慌てていると、隊員の声に顔を上げた一色が、握り込んだその手を離さずに言った。

 

「あの、わたし、出来ます…」

 

 おおジーザス、あなたが神か!

 

 つか何でそんな事出来るんだよ。ゆるふわ系最上位ともなればそんな事まで出来ちゃうの?流石はクラスURだな。

 いや、この期に及んで俺に選択肢なんてないですよ?一色にしてもらえるんだったら、土下座でも靴舐めでも便器舐めでもしちゃいますよ?ごめんやっぱ最後のは勘弁な。

 でもほら、そこの土色ゾンビ、リアル過ぎる死に化粧(エンバーミング)でちょっとキモさに拍車が掛かってるっていうかさ。

 

「一色、マウストゥマウスじゃない。そこの機械を使うんだろう」

 

 ポンと彼女の肩を叩いたのは平塚先生。なんだあなたも居たんですか。

何のことはない。さっきのは呼吸()って言ってたんだな。ここ、サイレンの音がデカ過ぎてよく聞こえないんだよ。脅かしやがって…き、期待なんかしてないんだからね!

 

 平塚先生は一色をゾンビから引き剥がし、彼女の手を消毒布…ではなくて、綺麗なハンカチで包む。せっかくいろはすまで聞き間違えていたっぽいのに、これまた余計なお節介をしてくれたものだ。これで俺が死んじゃったりしたら、最後のワンチャンを阻止してくれた恨みで枕元に立ってしまうかもしれませんよ?

 そんな馬鹿げた愚痴を垂らしつつ、平塚先生の顔を覗き込んだ俺は、そこに見たことのない表情を見つけてぎょっとした。しゃくりあげる一色を胸に抱く彼女の目が、赤くなっていたのだ。

 

 ここへきて初めて、俺は自らの行動が招いた結果を正しく認識した。

 

 もちろん、一色が2年ほどすっ飛ばしてアダルティな目に遭わずに済んだ事に関しては、胸を張っていいと思う。とは言え、「計画通り…」とほくそ笑むにはあまりにお粗末な展開である。例によって、俺はまたもや間違えてしまったのだろうか。

 

 でもさー、俺自身もよく忘れるけど、ここってばまがりなりにも進学校なわけでしょ?ナイフが出てくるとか思わないだろ。

 おまけに徹夜明けの体調であんな急展開、そんな上手くあしらえるかよ。身体を張る覚悟はあったって言ったって、精々がグーパンくらいの想定だっての。

 

 もっと色々と言い訳をさせて欲しいところではあるが、そもそも釈明の機会が俺に与えられるのかすら、現状かなり怪しい有り様なのであった。

 

「…ごめん、ごめんなさい…せんぱい…ひっく…」

 

 結果的に一色の身体は無傷だったのかもしれないが、今の彼女は無事と表現するのが憚られる程度には精神を磨耗させているように見えた。

 一色だけではない。平塚先生の様子を見たときに何となく察しは付いたが、彼女らの他にも責任を感じるであろう人物は、少なくともあと二人は存在する訳で──

 

「せんぱい、頑張って…。もう少しだけ…すぐ病院に着きますから…」

 

 待てよ。ちょっと思い出してきたぞ。

 

 えーと…葉山が雪ノ下の罵倒(ごほうび)を頂いて、一色の顔のは俺の返り血で、由比ヶ浜が救急車をダブルブッキングして──そんで、こんな風に俺を呼び続ける声が、ずっと聞こえていたんだっけか。

 

 時系列がゴチャゴチャだけど…畜生、世話になっちまったって事だけは、きっちり分かってしまう。

 

 色んな意味で、死んでる場合じゃないな。

 

 しっかりしろよ、比企谷八幡。

 

 

* * *

 

 

 やがて、朝っぱらからご近所に騒音をバラまいていたサイレンが静かになった。どこぞの病院に着いたのだろうか。

 外の様子を確認したいと思っていたら、視界がすっと静かに横方向へ移動した。何だこいつ、すげーぬるぬる動くじゃないか。FPSが高すぎて逆に酔いそうである。

 

 救急車は裏口のような所にお尻をつける形で止まっている。

 そこからストレッチャーに乗った俺の身体が引っ張り出され、あれよあれよと言う間に建物の中へと運び込まれていく。必死に追い縋ろうとしていた一色は、待ち構えていた病院のスタッフに捕まっていた。

 

「せんぱい、せんぱい!」

 

「大丈夫ですか? 貴女は怪我をしていませんか?」

 

 一色の服には結構な量の血が付いていて、俺の血だと知らなければ、彼女の方が重傷に見える程だった。これではドクターストップも掛かろうというものである。

 

「あのひと、助けてあげてください! お願いします! お願いします!」

 

「大丈夫ですよ、すぐ対応しますから。まずは落ち着いて下さい」

 

「失礼、この子は私の方で…。お騒がせして申し訳ない」

 

 平塚先生が、男性職員に掴み掛かるようにして懇願する一色をやんわりと引き剥がす。

 

「保護者の方ですね。そちらもお怪我はありませんか?」

 

「ええ、大丈夫です」

 

 少なくない血の痕跡を残す女性達に気を遣ってか、彼は清潔そうなタオルを何枚か渡しながら、奥を指して告げた。

 

「お使い下さい。そちらのトイレが使えますので。落ち着かれましたらそちらの窓口に声をお掛け下さい。いくつか手続きをして頂く必要があります」

 

「使わせて頂きます。…ほら、一色。行こう」

 

「あの! わたしの血とか、使えませんか? 輸血、必要ですよね?」

 

 平塚先生に肩を押されながら、一色はなおも職員に迫った。しかしそんな反応さえ慣れているといった風に、彼は穏やかな笑みで返す。

 

「ありがとうございます。ですがお気持ちだけ。最近ではそういうやり方はしないんですよ。大丈夫、患者さんはA型です。ストックは沢山ありますよ」

 

「で、でも…こっちの方が新鮮じゃないですか?生き血って言うくらいだし、その方が治りが早くなったりとか──」

 

 生き血ってお前…もう少し言い方あるだろ。スッポンみたいじゃねえか。それともいろはスッポンってことなの? やまと豚みたいなブランドだったりするのかしら。

 この子の血とか輸血されたらリア充に突然変異しちゃいそうな気もするし、ちょっとばかし興味が無いわけでもない。

 

 だってほら、血液って要するに体液の一種でしょ。いろはすみたいな美形女子のが自分の中に混入するかと思うと、何かこう、字面だけでもゾクゾクっと来るものがあるよな。

 

「待ちなさい。そもそもA型に輸血できるのは同じA型かO型だけだぞ。君はどうなんだ?」

 

 へー先生、やけに詳しいっすね。あなた国語の教師じゃなかったんですか? 子供の認知を求める時に必要になる系の知識だからかなー、エグいなー。

 

「あ……B…です…わたし…」

 

危なっ! ゾクゾクしていたのはHENTAI的な愉悦じゃなくて、HONNOU的な危機感だったらしい。やはりリア充の血はぼっちには受け入れられないのだろうか。ちなみに型違いを輸血すると、血液が凝固してショック死するそうですよ。エグいなー。

 

 しょんぼりと肩を落とす一色。もしも頭にネコの耳が付いていれば、ぺったりと伏せられているに違いなかった。その姿は大変いじらしく、お兄ちゃん本能に対して強烈に訴えかけるものがある。

 

「大丈夫だ。その献身は彼が病室に戻ってきたらきっと必要になるよ。なに、すぐに出番は来るとも。だから今はプロに任せたまえ。いいね?」

 

「………はい」

 

 ストレッチャーが運ばれていった廊下の先を、一色はじっと見つめていた。

 

 不謹慎かも知れないが、俺はこのやりとりを感激をもって見守っていた。彼女がこれほどまでに他人を思える人間だった事にも驚いたし、自分の為にここまでしようとしてくれる姿を見て、何とも思わない訳がない。

心臓の無いブリキの木こりにだって、人の心は確かにあったのだから。

 

 

 トイレへと消えた二人を追跡するわけにもいかず、わりと手持ち無沙汰になった俺は、かつぎ込まれた自分の身体を見張ってやろうと処置室へ潜入した。

 しかしいざ腹を開かれている所を目の当たりにすると、直視するのは予想以上にキツい光景だった。いくら自分の内臓(モツ)って言ってもなー。

 しかも執刀医のヤツ、ひとの内臓弄りながら「最近パーが取れない」とか言い出して、何のことかと思ったら昨日のゴルフの話でやんの。パーが取れないのはお前の頭だこのクルクル野郎!と全力で突っ込んでしまったじゃないか。

 

 色んな意味で気分を害した俺はそそくさとその場を退出した。

 まあ仕方のない事だと思おう。俺にとっては人生の一大事でも、ここの医者にとっては月曜の朝っぱらから担ぎ込まれてきた、はた迷惑な急患でしかないのである。

 

 ぬるりと壁を抜けて廊下に出ると、備え付けのソファの前には見慣れた連中が勢揃いしていた。平塚先生は少し離れたところで、電話を相手に小声で怒鳴るという器用なことをしている。

 おーいそこの人、病院内では携帯NGっすよー?

 

 燃え尽きたジョーのようにソファへと沈んでいる一色の側には、奉仕部の二人が佇んでいた。あまり時間が経っていないはずだが、二人はタクシーでも使って来たのだろうか。その手の経費は西山さんちにツケといてもらいたいものだ。

 雪ノ下と由比ヶ浜は未だに髪が解れ、制服のあちこちを血で汚していた。ともすれば派手にバトってきた後にも見える。由比ヶ浜はレディースの鉄砲玉、雪ノ下は極道の娘といった趣だな。

 

 感謝と申し訳なさからそんな照れ隠しをしつつ、俺は彼女達の様子をつぶさに観察していた。

 

 

 

《---Side Yukino---》

 

 

 処置室の前の廊下はどこか暗く、暖房が掛かっていないのではと疑いたくなるような薄ら寒さが蔓延(はびこ)っていた。

 据え付けられた無駄に柔らかなソファは、只でさえ沈んだ気分をより深い場所へと引きずり込む。そんな些細な事にさえ苛立ちを感じながら、私は観音開きの搬入口を正面に見据え、眉間に寄った皺を揉み解していた。

 

 集まった人達は皆、口を開かない。廊下の向こう側で電話をしているらしい平塚先生の、時折荒くなる語気だけが散発的に伝わってくる。

 歓迎し難い類いの沈黙に辟易していると、背後からパタパタと廊下を駆ける音が近づいてきた。

 

「皆さん、来てくれたんですね!」

 

 やってきたのは中学の制服に身を包んだ小町さんだった。こちらの面々を見つけて嬉しそうに駆け寄って来る。

 連絡を受けたであろう時の状況を想像すれば、無理もないと思えた。きっと彼女は何の前触れもなく、家族の危機だと言って送り出されてきた筈なのだから。道すがら、さぞや心細かった事だろう。

 

 しかし彼女はこちらにあと数歩というところで立ち止まった。その視線を追いかけて、今更ながらはっとなる。固まってしまうのも無理はない。私達の衣服は今もなお、そこかしこが彼の血に染まっていたのである。

 

「小町さん、これは、その…」

 

「あ、兄がご迷惑をお掛けしましたっ!」

 

 彼女は勢いよく頭を下げ、私達は予想外の第一声に戸惑う羽目になった。

 この場の誰もが赤い(まだら)を纏っている。それを見た彼女の脳裏にまず過ったのは、間違いなくお兄さんの安否に関する不安だった筈だ。にも関わらず、こんな自罰的な態度になってしまうあたり、やはり彼の妹なのだと思う。

 

「頭を上げて頂戴。謝るのはこちらの方なのだから。彼がこんな目に遭ったのは、私達のせいなのよ」

 

「そうだよ。ヒッキー、超頑張ったんだから!」

 

「そう、ですか…。良かった──とは言えないし、なんて言ったらいいんでしょうね…」

 

 作りかけた愛想笑いも場の空気にそぐわないと思ったのか、小町さんはもやもやとした表情でこちらに歩み寄ってきた。

 

「誰かから事情は聞かされた?」

 

「はい、平塚先生から…。もともと兄から大体の事情は聞いてましたけど、ここまで危ない話だったとは思ってなくて。とにかくビックリしちゃって、正直、感情がまだ追い付いてきませんね」

 

「こまちゃん……」

 

 両手をきつく握り締めた一色さんが、彼女の名を呼んだ。そう言えばこの二人、写真も会話も交わしているとの事だったが、顔を会わせるのはこれが初めてなのではないだろうか。だとしたら不憫にも程がある。

 小町さんも、呼び掛けられるのを待っていたかの様に、ゆっくりとそちらを向いた。

 

「初めての顔合わせがこんな事になっちゃって残念ですけど…。改めまして、いろはさん。比企谷小町です。いつも兄がお世話になってます」

 

 折り目正しいその挨拶におかしな所は無い。ただ笑顔が足りないだけだった。

 小町さんから笑顔を奪っているのはこの状況であって、特別含む所がある訳では無いのだろう。けれども一色さんの立場からすれば、型通りの言い回しも皮肉にしか聞こえなかったのかも知れない。

 

「ごめんなさい、こまちゃ──小町さん!」

 

 顔を強ばらせたまま、一色さんは彼女の挨拶に謝罪で応えた。

 

「わたしのせいなの。せんぱい、わたしのせいで、こんな…ほんとにごめんなさい! 謝ってもぜんぜん足りないの、分かってるけど…!」

 

「いろはちゃん、そんなことないから!」

 

「止しなさい。貴女が悪い訳ではないでしょう」

 

「わたしが悪いんです!」

 

 当たり障りの無い慰めでは逆効果なのだろうか。一色さんは吐き捨てるようにして擁護の言葉をはね除けた。

 

「…あなたはわたしの顔なんて、見たくもないと思う。けど、それでも、ここに居るのだけは許してほしいの…。せめて手術が終わるまで…お願い…!」

 

 最後は消え入る様に懇願した彼女に対して、小町さんは先程から表情を変えず、逆に質問を返した。

 

「いろはさんは、ケガ、してないんですか?」

 

「ほんと、おかしいよね。全部わたしのせいなのに、自分だけ無傷なんて…。わたしがあっちに居るべきだったんだよ…」

 

その問いに頷いて、一色さんは処置室を見つめた。その瞳の奥には昏い色がこびりついている。幾分持ち直したかと思っていたが、その心はまだ安定には程遠い様だ。

 

「いろはちゃん…」

 

 二人の様子を見守っていた由比ヶ浜さんがいよいよ腰を上げる。しかし彼女のフォローよりも、小町さんの方が少しだけ早かった。

 

「何を言っているやら、ですよ。そんな見当違いをするアホの子の"小町さん"なんて、ここには来てません。いろはさんとお友達になった"こまちゃん"は、心からこう思ってます」

 

 小町さんは、その小さな身体で一色さんを静かに抱き締め、噛みしめる様にして言葉を紡いだ。

 

「あなたにケガが無くてほんとに良かった…。お兄ちゃんが頑張った甲斐、あったんですね…」

 

 

 一色さんは、声を上げて泣いていた。

 

 

 彼の守ったものと、守れなかったもの。

 どうするのが正しかったのかだなんて、不毛な議論でしかない。ただただ苦いものが胸に去来して、喜ぶべきか悲しむべきか、私には分からなかった。

 

「…うん。泣きたい時は、泣いていいと思う」

 

 目元をすっかり腫らした由比ヶ浜さんの、泣き笑いのような表情。肯定を意味するその言葉の意味を反芻し、私はやっと、自分の頬を伝う涙の感触に気が付いた。

 

「……年長者が揃って不甲斐ないわね。小町さんを見習わないと」

 

 お通夜の様な空気を吹き飛ばしたくて少しおどけてみせると、顔を上げた小町さんはニカッと笑って言った。

 

「小町は泣きませんよ。後でバラされたら恥ずかしいですから。そんなん絶対いびられますし。調子に乗られてもウザいですし?」

 

「あはは…ヒッキーは喜びそうだけどなぁ…」

 

「そうね。私達もあまり恥ずかしいところは見せられないわ」

 

 あからさまな空元気でも、彼女がそう望むなら付き合おう。

 小町さんの胸で泣き続ける一色さんの背中を撫でながら、私は再び処置室のランプに目をやったのだった。

 

 

***

 

 

「…皆さん、お腹空きませんか?」

 

 小町さんの言葉を受けて時計を確認すると、既に十三時をとうに過ぎていた。かれこれ四時間近く、処置室の前で待ちぼうけていた事になる。

 

「もうこんな時間なのね…」

 

 色々な感覚がすっかり麻痺している。言われてみれば空腹感のような胃腸の蠕動は感じるけれど、だからと言って食欲を満たしたいと思える状態ではなかった。

 思い出した様にスマートフォンを取り出して弄っていた由比ヶ浜さんが、遠慮がちに口を開く。

 

「あ…優美子から──学校、臨時休校になったって」

 

「そう…。明日以降はどうなるのかしらね」

 

 個人的な意見としては、ほとぼりが冷めるまで無期休校にしてくれても、正直構わないと思っている。しかし少なくとも建前上は進学校なのだし、受験もここから正に本番という時分である事を考えると、そういう訳にも行かないだろう。先輩方にはとんだ迷惑をかけてしまった。

 

「平塚先生、電話いっぱい来てたみたいですけど…。向こう戻んなくていいんですか?」

 

「ああ、気にしなくていい。あの腐れハ…教頭め、緊急会議をやるから戻れとそればかりだ。壊れたテープレコーダーってやつだな。君達を放って戻る位ならこの先教壇に立てなくなる方がマシだと言ってやったら(ようや)く静かになったよ」

 

「えぇー…。そんなこと言っちゃって平気なんですか?」

 

「どうせ戻ったらつるし上げは確実だろうし、前々から気に入らなかったからな。結構スッキリしたぞ?」

 

 ふん、と鼻息も荒く言い放ったその内容は、口調の軽さとは裏腹に到底笑えるものではなく、由比ヶ浜さんが顔色を変える。

 

「そんなの…別に先生のせいじゃないじゃん!」

 

「こういう時の為の責任者だからな。体裁上という理由が全く無いとは言わないが、それくらいはしないと、何より私自身が収まらないよ」

 

「待ってください。わたしが先生方に直接説明すれば──」

 

 恩師の危機を感じとったのか、暫くぶりに一色さんが顔を上げたその時、処置室の上に点っていた明かりが消えた。

 

 皆が固唾を飲んで見守る中、ややあって扉が左右に開き、中からストレッチャーが静かに運び出されてくる。

 

「先輩!」

 

 一色さんは慌てて立ち上がり、しかしそのままぐらりと身体を傾がせる。いつの間にか彼女のすぐ隣に移動していた平塚先生が、そんな彼女を待ち構えていたかの様に抱き留めた。

 

「す、すみません…」

 

「立ち眩みだ。急に動くんじゃない…と言っても、どうせ聞かないだろうがな」

 

 横たえられた比企谷君くんの口元には呼吸用の器具が取り付けられている。彼の顔からはさっきまでの苦悶が消えている様だが、素直に喜んでいい結果なのだろうか。

 

「あの! 大丈夫でしたか? 大丈夫なんですよね!?」

 

 ぞろぞろと出てくる青い術衣の集団に向かって、一色さんは半ば食って掛かる様にして問い掛ける。そんな彼女を私達は止めなかった。誰もがその答えを求めているからだ。

 しかし先頭を闊歩する恰幅の良い医師は「担当の者から説明します」とだけ口にして、がに股で立ち去っていく。そんな事を言われても、誰もが似たような格好で、担当医など分からないではないか。

 

 やきもきしていると、最後に退出してきた幾分若い医師が、こちらに向かって言った。

 

「患者さんの処置が完了しました。詳細についてご家族に説明させて頂きたいのですが、いらっしゃいますか?」

 

 その言葉を聞いて、周囲にほっと暖かい吐息が満ちる。

 

「私、妹です」

 

 手を挙げて名乗り出た小町さんを見た医師は眉をぴくりと動かし、一度ぐるりと視線を巡らせた。

 

「…失礼ですが、ご両親は?」

 

「そろって遠くで働いてるので、ちょっとすぐには来られないと思います。あの、私じゃダメですか?」

 

「いえ、お伝えする分には問題ないのですが…。そうですか、困ったな…。早めにしたいお話なので、あまり時間を置くわけにも…」

 

「どういうことですか? 先輩、助かったんですよね!?」

 

 再び色めき立つ一色さんを抑え、平塚先生が医師に歩み寄った。

 

「失礼。私は彼の学校の教員を務めている者です。私が保護者代わりとしてお話に同席するわけには行きませんか?」

 

「これはどうも。しかし難しいですね。そういう現場判断を下した後で、御両親に後から色々と言われるケースもありますので…」

 

「そう、ですか。そちらも大変そうですね」

 

 提案が通らなかった彼女はそれ以上食い下がりもせず、素直に引き下がった。流石に冷静なものだと感心していると、その口元から僅かに舌打ちらしき音が聞こえてきた。

 

「未成年の方だけというのが申し訳ないのですが、この際やむを得ないでしょう。妹さんだけ来て頂けますか?」

 

「わかりました」

 

 医師と共に歩き出した小町さんは、さも大した事のない話だと言わんばかりに、明るい声を出した。

 

「あっ、遅くなっちゃいましたけど、皆さんはご飯でも食べてて下さい。向こうに食堂があるみたいですので」

 

「…ええ、待っているわ」

 

 ごねたところで話を聞かせて貰えるとも思えない。

 年若い彼女のか細い肩に全てを預けなければならないという歯痒さを飲み込んで、私達はのろのろとその場を後にしたのだった。

 

 

* * *

 

 

「話ってなんだろね。もったいぶっちゃってさー」

 

「さあ…。この場合、措置についての事後承諾だと思うけれど。何処其処(どこそこ)を切りましたとか、何針縫いました、とか」

 

「うわぁ、縫っちゃったかぁ…。いろはちゃん、手術って経験ある?」

 

「……いえ」

 

 病院に併設された食堂は、昼時を過ぎたせいか他に客入りもなく、今の私達には都合が良い場所だった。テーブルを囲んで中身の無い会話をしながら、小町さんの帰りを待つ。すっかり憔悴してしまった様子の一色さんが心配で何度も話を振ってみたけれど、生返事以上の反応は得られなかった。

 

 そんな彼女が漸く顔を上げたのは、小町さんが戻ってきた時だった。

 

「あ、小町ちゃん、こっちだよ、こっちー」

 

「お疲れ様。任せっきりにしてしまって御免なさいね」

 

「お待たせですー。いやあ、肩凝っちゃいました。…あれっ、平塚先生は?」

 

「ずっと電話してるよ。また学校からじゃない?」

 

 平塚先生は暫く前に廊下の向こうに消えたまま、中々帰ってこない。

 あちらに関しても早晩、何か手を打たないと…。このままでは最悪、彼女の言葉通りになってしまうかもしれない。しかし、ここまで肥大化してしまった厄介事を、一介の高校生の力でどうにか出来るものだろうか。

 

「それで、その…。先輩の容態は? 何か良くないことでもあったの?」

 

「えっと、まず、手術は上手くいったと聞きました。ただその…お腹の中が傷ついているらしくて、感染症ってのになる可能性があるんだとか。今日明日あたりは特に警戒が必要だって言われました」

 

「カンセンショウ…って?」

 

「傷口から雑菌が入ると、膿んだり腫れたりする事があるでしょう?比較的丈夫な皮膚でもそうなる位だから、それが体内で起こってしまうと面倒なのよ」

 

「はい、そういうことらしいです。兄はいま体力が落ちていて、キズも、ただ縫い合わせただけみたいなものなので…。もしもそれが起きちゃうと、わりとその、良くないって…」

 

「良くないって? もしその、感染症になったらどうなるの?」

 

 徐々に身を乗り出し、いつの間にかすっかり前のめりになった一色さんを、落ち着くようにと視線で再度促してやる。そろそろと椅子へ腰を下ろした彼女の顔には、納得出来ないという不満…いや、不安が浮かんでいた。

 

「ごめんなさい…わたし、今アタマぜんぜん働かなくって…。たった一言が聞きたいだけなんです。『もう大丈夫』って…」

 

「──あのさ」

 

 それまで黙って聞いていた由比ヶ浜さんが、テーブルに視線を落としたまま、独り言の様に呟いた。

 

「あたしバカだから、たぶん勘違いだと思うんだけど、いちおう聞くね。似たようなシチュ、見たことあるんだけど…。これって、その、『今夜が峠』ってヤツじゃあない…よね?」

 

 彼女の口にしたその言い回しはとても馴染み深く、誰もが一度は耳にした事のあるものだった。今時ドラマでももう少し表現を工夫するだろう。 安直過ぎると笑い飛ばしてやりたいのに、沈黙を守っている小町さんの硬い表情が、それを許さない。

 

 

「ねえ…違うよね? あたし、間違ってるよね?」

 

 

「…………」

 

 

「………そう、なの…?」

 

 

 ゆっくりと(こうべ)を垂れた小町さんの反応は、彼女の理解を肯定するものだった。

 

 

「ど、どうして…! だって…手術、うまくいったって…!」

 

「そんなの、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん…! ここ、ヤブなんじゃん!」

 

 感染症に関する予備知識のあった私でさえ、あまりの理不尽さに喉が震えているのだ。その方面に疎い人間にしてみれば、手術に失敗したと言われた様な気分だったのかも知れない。

 

「矛先を間違えないで。小町さんだってそう言いたいに決まっているじゃない。それと由比ヶ浜さん、気持ちは分かるけれど、そんな事を大声で連呼してたら営業妨害でつまみ出されるわよ?」

 

 激昂して小町さんに詰め寄る感情派の二人。冷静ぶって諌めてはみたものの、私自身、握った手のひらに爪が食い込むのを感じていた。

 

「でも、だってさ! こんなのおかしいよ! 絶対おかしいもん!」

 

「きっと病院側の保身の為に、最大限脅かしてきているだけよ。この事件は注目を浴びるでしょうし」

 

「お医者さんもそんな感じのこと言ってました。最悪のリスクとして伝えてるだけだって。ただ、手術がうまく行ったって言うのはキズの処置の方の話で、感染とかはまた別なんだそうです。こういうケースでは避けられないって」

 

 由比ヶ浜さん達の抗議に対して、小町さんはまるで用意していたかの様な模範的な回答をした。きっと彼女も同じ様に不服を申し立て、そして打ち(ひし)がれてきたのだろう。医師がこうだと言うのなら、それがどの様な結果であっても、私達はそっくりそのまま受け入れるしかないのだから。

 

 しかし、由比ヶ浜さんはそうは思えなかったらしい。何とか状況を変えようと、必死になって抗い続ける。

 

「べ、別ってゆったって分かんないよ…! もっといいお医者さんに連れてった方がよくない? あっ、ほら、ゆきのんの知り合いのひととかさ! スゴい名医さんぽかったじゃん。お願い出来ないかな?」

 

 一色さんが倒れた時にもお世話になった、雪ノ下(うち)の掛かり付け。その人の事を言っているのだろう。けれど──

 

「残念だけど、誰に見せても同じ回答が来ると思うわ…。もう傷は塞いだのなら、腕前云々(うんぬん)のステージは終わっているもの。そもそも感染のリスク自体、異物が体内に侵入した時点で確定してしまっているのよ」

 

「わたしがキズの上から制服を押しつけたりしたからですか? それでばい菌が入ったとか…」

 

「確かに、私達の措置がそういう副作用をもたらした可能性はあるでしょうね。だとしても、失血を抑えるメリットの方が大きいからこそ、あの方法が応急手当てとして規定されているんじゃない?」

 

「それは、そうかも知れませんけど…」

 

「あ、そう言えば。皆さん、兄の手当をして下さったんですよね。救急の人が褒めてたそうですよ。キズのわりに出血が少なかったって。お礼が遅れましたけど、本当にありがとうございました」

 

「ほんとに? それなら──」

 

 

 

「そのお話、もっと詳しく聞かせて欲しいなー!」

 

 

 

 唐突に割り込んできた、野太い声。

 

 闖入者の登場によって、紛糾していたその場は水を打った様に静まり返った。一瞬で固まった空気を押し割って、見知らぬ男性がこちらのテーブルに向かって歩いてくる。

 ワイシャツの上に派手なピンク色のセーターを来たその人物。病院の関係者は元より、普通のサラリーマンにすら見えない。無精髭に混じる白髪の具合から、年の頃は40後半といったところだろうか。

 

「どうもどうもー。みんな、総武高の生徒さんだよね?可愛い子ばっかりだから、オジサンてっきり地下アイドルかと思っちゃった。ほら、最近流行りの」

 

「…どちら様ですか?」

 

「おっと失礼。自分、こういった者です。良かったら少しお話聞かせてもらえませんか?ってね」

 

 年齢の割にはやけに軽い印象の男性は、胸元からむき出しの名刺を取り出した。代表して受け取り、その色気の無い紙面を読み上げる。

 

「"ちばスポーツ新聞社、第二記者部、日野(ひの)俊行(としゆき)──"」

 

「はいはい、どうもどうも」

 

 新聞記者を名乗るその男性は、白髪の混じった頭をもさもさと掻きながら、下手くそな愛想笑いを浮かべていた。

 




演出、何とかならないかと悩みましたが、八幡抜きではどうにも立ち行かず、結局こうなりました。


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■31話 美少女と血痕

 

 

「マ、マスコミ…っ!?」

 

 名刺の文面を聞いた一色さんは、まるで虫にでもたかられたかの様に、嫌悪も(あらわ)な声を上げた。きっと私の顔も似たような事になっていると思う。これから彼の取るであろう行動を考えれば、至極当然の反応だろう。

 

 そんな嫌悪に満ちた声色から早々に手応えの悪さを察したのか、男性はこちらに向けていた顔を一度ぐるりと巡らせる。おそらく聞き込みに慣れているのだろう。警戒している者とそうでない者の判断が実に早い。

 次に男性が目を止めたのは、如何にも状況を飲み込めていないといった顔で呆けている由比ヶ浜さんだった。

 

「えっと…ちばスポって…新聞のアレ?」

 

「そうそう、新聞のアレね! 最近はスマホ向けにも配信してるよー。で、みんな事件の関係者なのかな?お友達の容態はどんな感じ?」

 

 まさか、もうこんなところまで嗅ぎ付けたというのか。学校の方ならいざ知らず──いくらなんでも早過ぎるのでは。その手の事情に明るい訳ではないけれど、この迅速さの裏側には何か、第三者的な要素が絡んでいる様な気がする。

 

「お話出来るような事はありません」

 

 会話という名の尋問が始まる前に、二人の間へと割って入り、きっぱり拒絶の意を示す。由比ヶ浜さんには申し訳ないけれど、彼女はマスコミとの相性がとても良さそうだ。勿論、悪い意味で。

 

「いやいやいや! それ、その血ね。お友達のでしょ? 現場に居なきゃそんなにならないんだから。話すこと無いって(こた)ぁないでしょ。事件のこと聞かせてちょうだいよ」

 

 彼が指差す私のスカートには、流血の痕跡が今も惨たらしく残っていた。この状態で無関係を主張するのは確かに無理があるだろう。けれど、まともに頭が働かないこの状況で彼の相手をしていては、下手な言質を取られかねない。そうなれば後々、何かしらの形でこちらの不利益に繋がる可能性が高かった。

 

「お引き取り下さい。今、それどころではないんです」

 

 自分の声に苛立ちが混じるのが分かる。大抵の相手なら怯むはずの視線を思いきりぶつけているのに、その男性は食らいついたまま離れようとしなかった。海千山千の記者にとっては、私の眼力など小娘の虚勢に過ぎないのだろう。

 

「そう、そうだよねー! でもそこを何とか! ほら、こっちもお仕事だからさ、助けると思って! ちょっとだけ、ねっ?」

 

「──ストーップ。日野さーん、がっつき過ぎ」

 

 警察の名前でも出してやろうかと携帯電話に手を伸ばしたあたりで、男性の向こうから、酷く聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「若い子相手だからって興奮してるんですか? これだからオジサンって生き物は…通報しちゃおうかしら」

 

「勘弁してよハルちゃーん。俺まだ47よー?」

 

「うーむ、もはやオジサンですら生温い。次からはジイサンと呼んで差し上げましょう」

 

 ネイビーのロングコートの襟を弄びながら、食堂の入り口に若い女性が身体をもたれている。謎の男性に軽口を叩く、ハルちゃんと呼ばれたその人物。

 

 私の姉──雪ノ下陽乃がそこに居た。

 

「ね、姉さん…!」

 

「はーいお姉ちゃんですよー。ひゃっはろー、後輩諸君」

 

 手をひらひらとさせながら、彼女はその場の緊張感を台無しにするような、何とも気怠い様子でこちらに歩み寄る。

 

「みんな、ちばスポ知ってるよね? このしがないオジサン、見た目こんなだけど、一応ベテラン記者だから。あんまり邪険にしないであげてね」

 

「しがないってねー。そういうの、自虐以外では勘弁してほしいなー、なんて。たははー」

 

 ガリガリと頭を掻く男性は彼女のコネのひとつと、どうやらそういう事らしい。

 感じていた違和感の種は明かされたものの、今度はその理由が思い当たらない。苛立っていた私は、手っ取り早く尋ねてしまう事にした。

 

「どうして姉さんが記者と一緒になってここに居るの?」

 

「そりゃあ、ブン屋は現場に涌くって相場が決まってるでしょう?」

 

「涌くってそんな虫みたいに言わないで欲しいなー…。実はタレコミがあったんだよね、アッツアツのやつがさー」

 

「タレコミ…そんなこと、一体誰が…」

 

総武高(ウチ)の生徒の誰かかな? みんな見てたし」

 

 あの時、現場にはスマートフォンを携えた無責任な野次馬が大勢集まっていた。その中の誰かであるのなら、追求するだけ時間の無駄というものだろう。けれど、ひょっとすると──。

 

「ちなみにタレこんだのは私、はるさん特派員でーす!」

 

「ええぇっ!? なっ、陽乃さんが…?」

 

 やっぱり…。

 由比ヶ浜さんは仰天している様だけれど、姉さんのコネだと聞いた時点で、そうなんじゃないかとは思っていた。けれども重要なのはそこじゃない。

 

「んー? 雪乃ちゃんはあんま驚いてないみたいだね?」

 

「伊達に何年も妹をやっている訳ではないのよ。それより、どこから聞きつけたの? こんな根回しをしているくらいだし、今さっき知ったばかりとは言わせないわよ」

 

 実際に事件が起きてから、まだそれほど時間は経っていない。つまり、かなり早い段階で情報を得ていた筈なのだ。

 問い詰めてやると、彼女は軽く首を傾げて目を眇めた。値踏みしているような、薄笑っているような。色気があると言えば聞こえは良いが、私はそれを厭らしい表情だと感じた。

 

「ふぅん…少しはモノを考えられるようになってきてるのかしら。でもまだまだ合格とは言えないかなー。もっと頑張りましょう!」

 

「姉さん、茶化さないで!」

 

「──私が頼んだんだ」

 

 後ろから肩を叩かれて振り向くと、そこには電話に行ったきりになっていた筈の、平塚先生の姿があった。

 

「せ、先生が?」

 

「ああ。昔の教え子に頼るというのは、私の矜持と照らし合わせてもかなり苦しいところだし、悩んだんだがな…」

 

 言葉以上に苦々しい表情で、彼女はその長い黒髪を乱雑にかき上げる。

 

「しかし、現実的に使えるコネの中で、文句なく最強のカードには違いない。何より、今は私如きのプライドよりも遥かに優先されるべき事態だと判断した」

 

「そんなに嫌そうな顔されると、燃えてきちゃうよねー! 意地でも期待には応えてあげないと。ふふっ」

 

 悪女の様に目を細める姉さんを前に、先生はやはり苦笑いも出来ず、複雑そうに眉を歪めている。学校からの電話にしては少し様子が変だと思っていたけれど、まさか彼女に連絡を取っていたとは…。

 

「平塚先生、それはどういう…」

 

「あ、あの…陽乃さん、先生も。どうしてわざわざマスコミに…? こうゆうのって、なるべく騒ぎにしない方がいいんじゃないんですか?」

 

「問題はまさにそこなんだよ、由比ヶ浜。今回ばかりは──」

 

「甘いっ、甘いよーガハマちゃん。このまま放っておいたら『モテない男子の逆恨み』みたいな冴えないテロップと一緒に、私達の母校がお茶の間に晒されちゃうでしょ?」

 

 それが何だと言うのか。またお得意の冗談かと思ったけれど、話を遮られた形の平塚先生も、姉さんを咎める様子がない。ニュースのテロップがそれ程重要な事なのだろうか。

 

「えっと…それは…そう、なるかもですけど…」

 

「そういうの、あんまり好みじゃないのよねー。どうせなら、もっと面白く報道してもらいたいじゃない?」

 

「お、面白く…?」

 

 それまでずっと萎れていた一色さんが、目の色を変えてテーブルを叩いた。水だけが注がれたグラスが、その心情を代弁するかの様に激しく波打つ。

 

「面白いことなんか何もないです! 先輩大ケガしてて、こんなに大変なことになってるのに! それ、あんまりじゃないですか!」

 

 彼女はこの中で一番年若く、姉さんと深い交友がある訳でもない。私の記憶違いでなければ、むしろ隙在らばすり寄っていくスタンスだった筈だ。そんな彼女が、親の仇でも見つけたかの様な目で姉さんを睨んでいた。

 雪ノ下陽乃という人物は、元から空気を読まない…意図的に読み飛ばすような性格ではあったけれど、それにしたってさっきのは非常識にも程がある。自然、私の咎めも驚くほど冷たい声となった。

 

「…姉さん、不謹慎にしても限度を超えているんじゃないの? 今は冗談を言っている場合じゃないでしょう」

 

 憤慨する私達を横目で流し見ながら、しかし姉さんは余裕の笑みを崩すことなく、人差し指をゆっくりと左右に振ってみせた。

 

「ノーンノン。言っている場合なんだなぁ、これが」

 

「陽乃。いい加減にしろ」

 

「はいはい、分かってます。少しくらい勘弁してよね、私だってイラついてるんだから…」

 

 ぼそぼそと溢しつつ、彼女は窓際に歩み寄った。縁に腰掛けて、外の様子を窺いながら淡々と語る。

 

「いい? ここはDTT(デトロイト)じゃないの。千葉の片隅でこーんな目立つ事して、大騒ぎにならないなんてこと、ある訳がないでしょう。余所のマスコミだって嗅ぎつけて、すぐにわんさか押し寄せるんだから。さっきのは、その予行演習みたいなものね」

 

 ちらりと送られた姉さんの視線に、記者の男性が無精髭の生えた顎を撫でる。どうやら先程のやりとりは、彼女の差し金という事らしい。本命の記者団が殺到すれば、あれの比ではないのだと言いたいのだろうか。

 

「マスコミが来たら面倒になるって言いたいのは分かったわ。でも、何もあんな、けしかける様な真似をさせなくても…」

 

「それなんだけどねー。さっきの、丸っきりヤラセって訳でもないのよ」

 

「どういう意味ですか?…もしかして、さっきのニュースの話と関係が…」

 

「おっ、鋭いねーキミ」

 

 窓枠に腰掛けていた彼女は、一色さんの問い掛けにパチンと指を鳴らした。

 

「情報の隠蔽ってのは言うほど簡単じゃないわ。けど、()()なら別。幸いな事に、まだ先走った報道は流れていないみたいだしね」

 

「制御って──姉さん、何をしようとしているの?」

 

「私がっていうのは少し違うかなぁ。力は貸してあげるけど、この舞台の主役は貴女だよ、いろはちゃん」

 

「わたし、ですか…?」

 

 話を振られた一色さんは、ぴくりと身体を震わせキョロキョロと周囲の様子を窺った。どうして自分が、と思っているのだろう。私にも皆目見当がつかない。

 

「わたしに、何が…」

 

 不安そうな一色さんを前に、姉さんは胸元で腕を組み、にやりと口の端を歪める。その顔に浮かぶのは、誰かの後ろ姿を彷彿とさせる、憎たらしい含み笑いだった。

 

 

「乗っ取るのよ。この事件をね」

 

 

 

《---Side Hachiman---》

 

 

「事件を、乗っ取る…?」

 

 鸚鵡(おうむ)返しに言葉をなぞった雪ノ下に対して、陽乃さんは弟子に教えを説く哲学者のように、悠々とその自説を披露した。

 

「『県内有数の進学校で、生徒による刃傷事件。被害者は重傷』──これで終わったらぜーんぜん面白くない。学校の評判は下がるわ、静ちゃんの婚期はますます遠ざかるわ、良いコトなぁんにもなし」

 

「…笑えない冗談はよせ」

 

 平塚先生の声がすげえ低くてほんとに笑えない。

 学校の評判の方はともかく、婚期については確かに致命的だよな。このままでは色んな意味で俺が責任を取らなければならなくなってしまう。

 

「だからこう続けるわ。『しかし、女生徒の懸命な救命活動によって、被害者は一命を取り留めた。事前教育の賜物か』」

 

 はーん、乗っ取るってそういう意味ね…。

 

 凹んでいる年下女子をいびって楽しんでいるのかとか本気でドン引きしかけたが、今の一言でようやく真意がハッキリした。雪ノ下達の視線からも既に敵意は消え失せ、しかし代わりに色濃い困惑が浮かんでいる。

 

「本当に出来るの? そんな事が…」

 

「私がって、そういう意味ですか? ぜ、絶対無理ですよ…!」

 

「えっ、えっ? どゆこと? 分かんなかったのあたしだけ?」

 

うん、たぶんお前だけ。

テンポ悪くなるからちょっと黙ってような?

 

「今のどうゆう意味? それ、言い方がちょっと違うだけじゃないの?」

 

「いろはちゃん、この前、警察の講習を受けてたんでしょう?そこを最大限に押し出していくわ。横に今の写真でも載せれば、絵面のインパクトもバッチリだし」

 

「ちょっ、陽乃さん、スルーしないで下さいー!」

 

「由比ヶ浜さん、後で説明するから…」

 

 約一名、違う意味で困惑してるわんわんを華麗に放置しつつ、陽乃さんは自分の指で作った四角いフレームに一色を収め、一人満足そうに頷いている。

 それにしても…マジに一色を矢面に立たせる気なのか。この最低最悪のタイミングで? アンタどんだけ鬼畜なんだよ。

 

 実のところ、彼女の言わんとしていることも分からないではない。騒動の渦中から一歩引いているからこそ見えることなのだが、美少女と血痕というギャップが生み出すのは、どうやら悲壮感だけではないようなのだ。

 美と醜というか、プリティー&バイオレンスというか…。とにかく、捉え方次第では良い意味でのインパクトともなり得る何かを、今の彼女は身に纏っている。あ、そうそう、例えば『セーラー服と機関銃』とかね、ちょうどあんな感じな。

 もしもニュースや新聞に写真が載せられたりすれば、彼女のルックスと相まって、それこそドラマの広告並みに目立つんじゃないだろうか。陽乃さんが言いたいのは、つまりそういう事なのだろう。

 

 そこまでして、この案件のイニシアチブを奪い取る目的と言えば──。

 

「いい? 同じ報道をするなら、少しでも数字が取れそうな伝え方をするのがマスコミという生き物なの。そんな彼らをコントロールすることは、そのまま世論を操作することに他ならない。彼らを釣ることさえ出来れば、後は放って置いても上手く転がってくわ」

 

 やっぱそう来たか。

 

 つまるところ、恣意的報道によって事件の印象操作をしようという腹積もりなのだろう。"学生が起こした傷害事件"を"学生が起こした奇跡"で塗り替えてしまえ、と。

 理屈そのものは全面的に同意できる。世論ってのは民主主義の象徴みたいに崇められてるけど、実際のとこは思いっきりメディアに依存してるもんな。しかし、言うほど簡単にいくものだろうか。

 それとこのやり口…なんかつい最近、どっかで聞いたような気がするんだけど、気のせいですかね…?

 

「一応、話は理解したけれど…。それで、その大事な大事な第一印象の中に、どうして警察への胡麻擂(ごます)りが?」

 

「そこはほら、腐っても公権力(おかみ)だから。うまく彼等の利に寄り添っていれば、見えないところでお尻を押してくれるくらいの事は期待出来るかなーって」

 

 どうやら魔王様は官民の癒着まで利用し尽くすおつもりのようだ。一体全体、腐っているのはどちらなのか。

 

 警察にしてみれば、管轄内で事件が起きるのを防げなかったと叩かれるのは望ましい事ではないだろう。講習のお陰で人命が救われたと言われれば、それなりに面目も守られる。その為なら、一色に感謝状のひとつも寄越しかねない。考えるほど、実にありそうな話である。

 

 それにしても姉ノ下さん…相変わらずと言うか、腹ん中マジで真っ黒だな。まだ大学生とか誰が信じるよ。裏で時とかかけまくってるだろこの人。

 

「はぁ…凄いこと考えるんですね…」

 

 陽乃さんの提案を聞いて、一色は思い悩むように俯いていた。

 

 戸惑うのも無理はない。そんな事をすれば、校内での立ち位置どころの話ではなくなる。世間的にも広く顔が知れてしまうのだ。いくらプラスの方向にアピールする方針とは言え、猛烈に悪目立ちすることは避けられない。

 それは俺達が忌避していた状況の極め付けとも言える展開だった。ここまでの流れを読めないお人でもあるまいに、何故こうもエキセントリックなやり方を推すのだろうか。

 

 小さくなっていた由比ヶ浜が、おっかなびっくりという感じでちょこんと手を挙げ、口を差し挟んだ。

 

「あの、言ってること、ちょっと分かります。あたし達もついこの間、ヒッキーが立てた作戦で…。それ、今の陽乃さんのと、すごく似てて。その時も、何だかんだでうまくいったし」

 

「へえ、そうなんだ? 流石は比企谷くん。だったら話は早いね」

 

「でもそれ、内輪のハナシですよ? そんな、ニュースとか、世間とか…。それにうまくいかなかったら、いろはちゃんの立場とかも…」

 

「大丈夫、世の中ってのはその内輪を卒業した大人達が形作るものだから。あなた達が思ってるよりずっと、子供っぽかったり単純だったりするものよ」

 

 俺達にはいまいちピンと来ない感覚だが、親父達の世代にも等しく学生時代というものはあったわけで…。かつて学生であった彼女が世の中を見聞きしてきた上でそう言っているのだから、ここは信じて従うべきなのだろうか。

 

「って言うか、大丈夫じゃなくてもやるけどね。やらなきゃ最悪になるだけだし。だったらチャレンジしない理由はないでしょ?」

 

「ええと…そう、なんですかね…?」

 

 おいおい、一気に不安要素が増したな。しかもこれまたどっかで聞いたような屁理屈を持ち出すし。盗撮騒ぎの時はリスクを負うのが俺一人だったからまだ良かったのだ。今回は学校ぐるみの一蓮托生になってしまう。どう考えても、一色独りが負うには荷が勝ち過ぎている。

 

「乱暴な意見ではあるけれど、否定は難しいわね」

 

 くそう、この姉妹…揃いも揃って目先の評判とか気にしなさ過ぎなんだよ。雪ノ下家の家訓ではそうなってるかもしれませんけどね、一般人(パンピー)はあなた方のように鋼の人間強度は持ち合わせてませんのことよ?

 

「姉さんの意図は分かったけれど、それって要するに、一色さんに張りぼてのヒロインになれって事じゃない。晒し者にされる彼女の気持ちは考えているの? まして写真を公開するだなんて事、以ての外でしょう」

 

 ほほう、雪ノ下が他人の心境を(おもんぱか)って怒るというのもなかなか珍しい光景だな。噂の火消しに望まぬ水着写真まで晒した後だけに、台詞にもなかなか説得力があるというか。

 しかしそんな妹の主張を前に、それがどうしたと言わんばかりの姉は、顔色を一切変えなかった。

 

「犯人くんだけは法律にきっちり守られてて、顔出し厳禁…この国の法制度って、どうしてこんなにアタマ悪いのかしら。ま、だからこそ、そこに付け入る隙があるんだけどね。こちらのモデルちゃんはルックス抜群だし、これは楽勝かなー」

 

 陽乃さんのプランは、あくまでも一色の顔出しが大前提らしい。まあ出来る出来ないで言えば、確かに出来るのだろう。何せそのふざけた法制度、『批判』には口煩い癖に『称賛』する分には実質無制限という謎ルールがあるからな。

 

 それにさぁ、と彼女は続けて言った。

 

「その"気持ち"ってのを優先し続けた結果がこれなんでしょ。ああ、それ自体は人道的だと思うし、責めるつもりは無いの。でもね──」

 

 それまで全ての反論を飄々と受け流していた彼女は、ここで初めてすっと目を細めた。

 

「この期に及んで個人の感情を優先する余裕があるとは、お姉さん、ちょーっと思えないなあ。降り掛かった火の粉はまだ消えてない。いつまでもうじうじ泣いてると、みんな仲良く焼け死んじゃうわよ?」

 

「それは…っ」

 

 ねめつける蛇のような視線に、その場の誰もが反論出来なかった。

 

 でもこれ、言い方はキツイけど、実際その通りなんだよな。このままでは小火(ぼや)が大火になりかねない。油を注いだ張本人が偉そうに言えた事ではないんだが、俺としてもこれ以上の被害拡大は許容しかねるところだ。

 

「でもわたし、そんな、役に立つどころか、怪我をさせた原因のほうですし…。そういう、褒められるみたいな役回りなら、雪ノ下先輩の方がいいと思います」

 

 一色は申し訳なさそうに顔を伏せ、小さな声でそう言った。

 陽乃さんの話には一理も二理もあるのだが、今の彼女は自責の念で半ば潰れかかっている状態だ。いや、仮に万全の状態だったとしても、まず出来ることではない。色んな意味で、これは実現不可能な話なのだと思う。

 

「変に持ち上げられると、かえって心苦しいかな?」

 

「わたしはもっと責められるべきなんです…。そうじゃないと、先輩にも皆さんにも申し訳なくて──」

 

 

「甘えたこと言ってんじゃないの」

 

 

 幾ばくかの怒りを含んだ、冷たい叱責。

 

 さして大きくもなかったはずのその声は、人気のない食堂によく響いた。

 

「後悔や自責なら後で好きなだけしたらいいわ。今はそんな自己満足に浸ってる暇は無いのよ。もしも責任を感じているのなら、解決の為に努めなさい。あなたになら出来る、あなたにしか出来ない事があるんだから」

 

 陽乃さんは両手を広げ、この場に集った女子達全員に語り掛けた。

 

「忘れないで。彼が帰ってくるのは()()なのよ。頑張って頑張って、誰かの為に頑張った挙げ句に酷い目に遭って──それでも帰ってきた場所が、もしも滅茶苦茶になっていたとしたら、その人は一体どう思うかしら」

 

「…先輩の、帰ってくる場所…」

 

「…そうだ…そうだよ……なんとかしなきゃだよね…」

 

 んー、そりゃま、確かにな。

 何の因果か、こうして状況を見聞きしてしまえた以上、あの渦中で復活するのも中々に気が重いと考えてはいた。リスポーン地点があんまり危険な状態だと、復活した直後にまた死んじゃうかもしれないし。

 しかし、下手をすれば…いや、どうあっても、これだと一色は全国の晒し者だ。戻ってくるかも分からないぼっちの為に、そこまでのリスクを侵すことは到底お勧めできない。結果的に彼女の望まぬ展開になったとしても、俺ではその責任を負いきれないのだ。

 

 お前はリスクリターンの計算が出来る女だろう?

 

 無理だと言ってくれ、一色いろは。

 

 

「やります」

 

 

 俺の独白を吹き飛ばすかのような、力強い返答。

 

 顔を上げた一色の目には、強い意思の光が見て取れた。一体何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。胸中に様々な憶測が浮かびかけたが、今は考えるべきではないと、見て見ぬフリをする。

 

「わたし、やります。教えてください。何をすればいいですか?」

 

 陽乃さんは、ギロリと音が聞こえそうな目付きで一色の目を覗き込んだ。それまでの気怠さが嘘のように、周囲の空気が張り詰めていく。

 

「…いいのね?」

 

「はい」

 

「…………」

 

 数瞬の睨み合いの末、陽乃さんはパンとひとつ、手を打ち鳴らしてから言った。

 

「──結構。ついてらっしゃい。どこに出しても恥ずかしくないくらい、バッチリ仕込んであげる」

 

 

 

《---Side Yukino---》

 

 

 その日の夕方、千葉県のお茶の間に一色さんの姿が届けられた。

 

 いや、私が見たのが地方局だったというだけで、実際には全国区で流れたのかもしれない。

 

 姉さんによって諸々を仕込まれた彼女は、健気さと勇敢さを併せ持った素晴らしい若者としてよく振る舞った。そしてその姿は手配したメディアを皮切りに、実に大々的に報道されたのである。

 

『あの時はとにかく必死で──あ、はい。お世話になってる先輩なので、なるべく早く良くなって欲しいです』

 

 当たり障りのない、主観というものを極力取り除かれたそのコメント。型通りの台詞を()()()()()つっかえながら並べたてる彼女の姿に、違和感を感じる者は少ないだろう。しかし本心を知る立場から見れば、彼女が上手に演じれば演じる程、貼り付けた仮面の内側で堪えているであろう苦悩に、見ているこちらまで胸が苦しくなる思いだった。

 

『比企谷くんへの想いを語る必要は無いわ。ううん、絶対に熱くなっちゃダメ。…そうね、同じクラブの先輩の一人──その程度にしておきなさい。強すぎる感情は視聴者が白けちゃうから。必要なのは注目であって、同情じゃないのよ』

 

 そんな偽りの役回りは、彼女の心にどれだけの負担を強いたのだろうか。事の真偽はさておき、少なくとも彼女自身は、自分こそが一番の元凶だと考えていた。そこへ来て、さも立役者であるかの様な振る舞いを強要されたのである。

 取材の対応を終えた彼女は真っ先に化粧室へと駆け込み、何度か嘔吐していた。文字通り「反吐が出る」くらいに抵抗があったのだろう。

 

 その苦労の甲斐あってか、仕上がりは上々。

 姉さんの首を縦に振らせるに値するものとなった。

 

 メディアに否定的な人間が見れば、露骨な印象操作であるのは明白だったかも知れない。しかしネットを軽く探った限りでは、彼女自身に対する反応が一番多かった様に感じられた。見目麗しい今時の女子高生が、血塗れになって同級生を救ったというドラマの様な実話。それが目論見通りに大衆の興味を惹いたという事だろう。

 

 勿論、未成年者のモラルや学校の責任を問う形の報道をする局はあったし、それに賛同する意見も少なくはなかった。それでも、もしも私達が動こうとしていなければ、これ程までに拮抗した展開にはなっていなかっただろう。

 

「流石は姉さん、という事なのかしら…」

 

 これで安心だとは口が裂けても言えないけれど、打てる手立てが他に思い当たらない私達は、今はひたすら流れに身を任せるしかないのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 事件から一夜明けて──。

 

 平塚先生に言い含められて一旦家に帰った私は、殆ど眠れぬままに朝を迎えた。

 

「ん…頭…痛い……」

 

 窓の外は暗く、室内の空気は冷たく淀んでいる。

 テレビを付けてみると、昨日と同じ一色さんの姿が、早朝のニュースとして放送されていた。知人がモニターに出演している違和感をミルク多めの紅茶で飲み下すと、眠気に軋む頭を抱えて部屋のソファへと倒れ込む。

 

「学校、どうなってるのかしら…」

 

 いずれにしても行く気にはなれないが、どうせだったら休みになっていてくれないだろうか。電話するのも億劫だけれど、下手に無断欠席なんてして、母さんに連絡でも行ったら厄介だ。

 

「ああ…そうだ、あの人…」

 

 母さんと言えば──。

 今のところ、実家の方はまだ何も言ってこない。今回の事件について、厳密に言えば、私は被害者でも加害者でもない、第三者だった。そういう意味では怯える事は無いのかも知れない。かと言って、あれだけの騒ぎの中心に居た事は間違いないのだ。それで何のお咎めも無いと言うのは楽観が過ぎるのではないだろうか。

 

「きっと、今は姉さんが上手く取りなしてくれているのね…」

 

 そうに違いない。

 そうでも思わないと、空っぽの胃に穴が空いてしまいそうだった。

 

「…本当…どうするのが正解だったのかしら……」

 

 部屋の中で一人、時計の秒針に耳を(そばだ)てながら、定まらない思考を持て余す。

 

 

──、──。

 

 

──、──。

 

 

 どれだけそうしていただろうか。

 

 テーブルの上に投げ出していた携帯電話が立てる無機質な音で、私の意識は現実へと引き戻された。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。時計を見上げると、時刻はもうすぐ正午というところだった。

 

「…はい、もしもし──」

 

『ゆきのんー! アイ…シーアイ…CIA? あれ、もうだいじょぶだって! だいじょぶだってさ、ゆきのん!』

 

 音量過多な由比ヶ浜さんの声が、スピーカーから飛び出してきた。

 電話を少し耳から遠ざけつつ、少々呆け気味の頭で何とか内容を解読する。

 

「…念のため確認するけれど、集中治療室(ICU)の話よね?」

 

『そうそれ! アイシーユー!』

 

 手術の後、比企谷くんは集中治療室へと運ばれた。

 入室が許されるのは当然、家族だけだ。如何にも深刻めいたその状況に、一色さんは枯れかけた涙を更に絞り出し、落ち着かせるのには実に骨を折らされた。

 

 あの部屋を出られたという事は、彼が『峠』を無事に乗り切ったと考えて差し支えないだろう。吐息と共に肩が下がるのを感じ、知らず知らず、電話を掴む手が力んでいたことに気が付いた。

 

「ふう……。なら、(ようや)く一安心という事かしら…。全く、脅かしてくれるわね」

 

 "手は尽くしたが、駄目かもしれない"

 世の中でそんな無責任な発言が許されるケースというのは、あまり多くない。医者というのはそれに該当する数少ない職業だ。仮に患者に何かあった場合、本当の意味で命の責任を取れる人間なんて居ないのだから、それが仕方のない事だというのは分かっている。

 分かってはいるけれど、この寝不足の原因は間違いなくあの医師の残した脅し文句なのだ。恨み言の一つくらい、言ったところで罰は当たらないだろう。

 

「ええと…つまり彼、もう通常の病棟に移ったの? …随分早いのね」

 

『だよねー。嬉しいけど、ちょっと微妙。ホントにもう良いのかなーって』

 

 聞けば集中治療室というのはいつでも満員御礼で、場合によっては半日単位で追い出される事もあるのだとか。何とも世知辛い話だけれど、気を揉まされる期間が短くなったのだと前向きに解釈しておくことにした。

 

『でね、午後にはお見舞いオッケーらしいから、一緒に行かない?』

 

「ええ、分かったわ。…ところで一色さんの様子はどうなのかしら。由比ヶ浜さん、彼女と話した?」

 

『ううん、小町ちゃんから話だけ。やっぱ、すっかり抱え込んじゃってるらしくてさ。なんかわりとマズイみたい。このままだとそのうち倒れちゃうかも…』

 

「そう…やっぱり…。どうしたものかしら…」

 

『だからさ、あたし達が交代してさ、それで今日は少しでも休ませてあげたいかなって』

 

「それは賛成だけど…でも彼女、承諾してくれると思う?」

 

『うっ…。そ、そこはホラ、少しくらい強引にでも!』

 

 比企谷くんが集中治療室に入った後、一色さんは待合室のソファに座り込んで動かなくなった。いや、動けなかったのかも知れない。事件のショックで打ちのめされた上、延々と慣れないマスコミの相手をし続けたのだ。気力も何もかもを出し尽くしたのだろう。

 

 平塚先生は当然、家に帰って休むよう、一色さんに繰り返し勧めていた。しかし彼女は、その場を離れるのは嫌だと言って、頑なに拒み続けたのだ。

 結局、その姿に(ほだ)された小町さんに「自分も泊まるのに居てくれた方が心強いから」と言わしめるに至り、昨晩は彼女もまた、病院で一夜を明かしていたのだった。

 

 そんな一色さんを比企谷くんから引き離すのは非常に心苦しいけれど、看病疲れで倒れさせてしまっては、その彼に合わせる顔がない。由比ヶ浜さんの言う通り、少しくらいきつい言葉を使ってでも、彼女を休ませないといけないだろう。

 彼が帰ってくる場所。そこに一番必要なのは、何よりも彼女の笑顔の筈だから。

 

「では、13時に病院で」

 

『オッケー! また後でね!』

 

 今日が平日である事や、今が授業の真っ最中であろう事。

そんな話は、どちらの口からも(つい)ぞ出る事はなかった。あちらの状況がどうなっていようと、私達のすべき行動は変わらない。

 

 手早く身支度を整えると、私は再び病院へと向かった。

 

 

 

* * *

 

 

「あっ、マズったかも…。なんかお見舞いとか買ってくればよかったー」

 

 病院のエントランスで合流した由比ヶ浜さんは、困った様にその空手をぶらぶらと振っていた。言われて、私もつい自身の両手を見る。当然のことながら、私用のポーチ以外に気の利いたものなど持ってはいない。

 

「そう言えば…。ごめんなさい、私も全然気が付かなかったわ。ここの売店に何か無いかしら。お花とか、果物とか」

 

「あ、そだね。おっきい病院だし、あるかも。あたしちょっと見てくる!」

 

「あっ、私も一緒に──」

 

「ゆきのんは先行ってていいよー!」

 

 やはり彼女も浮かれているのだろうか。リードの切れた子犬の様に、パタパタと駆けて行ってしまった。かと思えば、曲がり角でバッタリ出くわしたスタッフに注意されている。

 

「ふふっ…落ち着きのない人ね……」

 

 その姿に久方ぶりの笑いを小さく溢していると

 

「失礼、そこのお嬢さん。ひょっとして総武高校の生徒さんではないですか?」

 

 と、急に背後から男性の声がした。

 

 振り返れば、ブランドものと思しきスーツを着込んだ長身の人物が一人。

 四十代か、あるいは既に五十に近いのか。恐らくは昨日の記者と同じくらいの年頃と思われる。しかし、整髪料できっちり固められた頭髪とスマートな着こなしのせいか、同じ中年男性というカテゴリでは括れない程に、その印象は溌剌(はつらつ)としている。治療や見舞い目的で来たにしては、少々趣が異なる様に感じられた。

 

「比企谷さんのご友人、で合っていますか?」

 

 見知らぬ人物の口から出てきた名前に、どきりと心臓が跳ねる。

 

(まさか、またマスコミ関係の…?)

 

 思わず眉根に力が籠ったその瞬間、ちょうど私の目の高さの位置──彼の胸元に、鈍く光る小さなバッジが目に入った。

 中央に特徴的な意匠を掘られた、小さな向日葵のバッジ。

 

「──っ…」

 

 牽制をすべく喉から出かかっていた言葉が、ぴたりと止まる。

 かつて私は見たことがあった。そのバッジを付けた人間を。

 だから私は知っていた。それを着けた人間が何を生業とするのかを。

 

(何故…一体どうして、このタイミングで、()()が出てくるの?)

 

 口を半開きにして固まった私の無言を肯定と捉えたのか、その男性はゆっくりとこちらに頭を下げた。

 

「初めまして。西山と申します」

 

「えっ? に、西山って──」

 

「ええ、()()の父です」

 

 予想外の人物の口から飛び出した、衝撃的な告白。

 冷静さを旨とする私の思考は、一瞬で真っ白に塗り潰された。

 

 




切り札その一、投入!

助けてハルえもーん!


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■32話 汚い大人同士のケンカ

人生初インフル、きつかったです。
今年もどうぞよろしくお願い致します。


 彼は名乗った。

 口にするのも憚られる、忌々しいあの男子の父である、と。

 

 父親。

 

 保護者。

 

 あんな人間にすら、立場を保護してくれる者は居る。

 そんな、当たり前の事実がどうにもしっくり来なくて、目の前の男性と犯人との関係が、すぐには頭に入ってこなかった。

 

 そのまま何度か瞬きを繰り返し、言葉の意味するところを正しく理解した私は、思わずその場から一歩後じさる。

 

「この度は、不肖の息子がご迷惑をお掛けしまして──」

 

 定型の挨拶に耳を貸す余裕などどこにも無かった。

 居る筈もない正義を求め、咄嗟に辺りを見回す。

 

「ど、どうしてこんな所に…! け、警察っ…!」

 

「ええと…どうか落ち着いて下さい。お気持ちはお察ししますが、私自身が何かした訳ではありませんし、何もしませんから」

 

 見ればその男性は両手を軽く上げ、無害である事を主張していた。

 

「……っ……!」

 

 確かに、この人が直接、私達に危害を加えた訳ではない。それでも、あんな事をする子供を育てた人間なのだ。どう言い繕ったところで、鬼の親が鬼呼ばわりされるのは当たり前ではないだろうか。

 けれども、ここで喚いても仕方がないと思える程度には、私の中にも冷静さが残っていた。胸に手を当てて一つ息大きくを吐き、心にも無い言葉でもって、形ばかりの謝罪を示す。

 

「……そうですね。失礼しました…」

 

「いえいえ、こちらこそ」

 

 それにしても、無駄に落ち着き払ったこの態度は、本当に癇に障る。彼が紳士的に振る舞えば振る舞う程、心がささくれ立っていく様だ。

 

(でも、由比ヶ浜さんが行ってしまった事だけは、運が良かったわ…)

 

 彼女がここに居たら、もっと大きな騒ぎになっていただろう。彼女の激昂する様子に()てられれば、引きずられて自分を見失いかねない。少なくともその程度には、私の(はらわた)も煮えくり返っている。

 けれどそれでも何とか、お腹の底から沸々と沸き上がってくる激情を唾と一緒にごくりと飲み下し、澄まし顔を取り繕った。これまで気にする余裕の無かった、しかし放っておく訳にもいかない、加害者(あちら)側の状況。それを確認する絶好の機会だと思ったからだ。

 

 長く顔を会わせていたい相手でもなし、思い切ってストレートに訊ねてみる事にした。

 

「…息子さんは、どうされているのですか」

 

「ああ、はい。あれも一言皆さんに謝罪したいと申しておりまして…。今は病室の方にご挨拶に伺っているかと思います」

 

「は……?」

 

 予想の斜め上を行く回答に、私は再び固まる羽目になった。

 

 待って、待って頂戴。

 ご挨拶?

 だって、彼は比企谷くんを…!

 それが、どうしてそうなるの?

 

 張り付けた筈の無表情は滑稽なほどあっさりと剥がれ落ち、私は今度こそ無惨に狼狽させられた。

 

「ど…どこから病室を…いえ、そうではなくて、何を…え…ここに、来て…?」

 

「病室でしたら、受付で伺いましたが、何か?」

 

「だ、だって、あんな事をしておいて、何をそんな堂々と!」

 

 手が後ろに回るべき立場の人間が、平気な顔をして闊歩していると、彼は言う。自分の常識から大きく逸脱した事態に、酷い混乱が私の頭を埋め尽くしていた。

 

「確かに昨晩、任意出頭の要請がありました。これから事情を説明しに署の方へ伺う予定です。しかし、今の時点ではまだ何も確定してはいません。ですから、出来ましたら犯罪者呼ばわりは遠慮して頂けると、大変ありがたいのですが」

 

「そんなの、分かりきった事じゃない!」

 

 誰が遠慮などするものか。あれが犯罪者でなくて、それ以外の何だというのだ。

 それにこの親も親だ。どうしてこんな余裕の表情でいられるのか。警察の事にしたって、少し話をするだけだとでも言いたげな話しぶりで、すこぶる気に入らない。

 そもそも、こんなにも分かりやすい事件なのに、どうして任意出頭なのだ。それではまるっきり参考人ではないか。所詮は未成年同士の諍いだと思って、軽く見られているのだろうか。

 

「それと病室の件ですが…。患者の方から特に要求しない限り、身分の明らかな相手に対して、病院側がわざわざ隠すことはありませんよ?確かに今回は多少、込み入った事情が介在していますが…少なくとも私は職業柄、止められるような事は滅多にありませんね」

 

 そう言って、彼は洒落たデザインの名刺を差し出してきた。そこに名前と共に記されていた肩書きを前に、改めて息を飲む。

 

成瀬(なるせ)法律事務所……弁護士──!」

 

 やはりそうか。

 胸元のバッジは葉山の叔父様がつけているのと同じ、弁護士の身分を示すものだった。

 

「ええ。まあご覧の通り、しがない雇われの身ではありますが」

 

(よりによって、という感じね…)

 

 このタイミングで現れたその肩書きからは、言い表せない嫌な予感が立ち上っていた。警察の動きが鈍い事にも何か関係があるのでは。どうしても、おかしな深読みをせずにはいられない。

 

 しかし、今は下手な勘繰りよりも優先すべき事があった。さっき彼が口にした、到底聞き流すことの出来ない言葉。聞き間違いでなければ、あの男子がこの病院に、比企谷くんの病室に向かったと、彼はそう言ったのだ。

 

「そ、それより、今すぐ息子さんを呼び戻してください。病室には今、被害者の女生徒も居ます。今度はここで騒ぎを起こさせるつもりですか。失礼ですが、とても常識的な判断とは思えません!」

 

「ええと、確か一色さん、でしたか。まあ馬鹿な息子ですが、あれにも分別くらいあります。一度振られた相手にまた迫るような度胸もありませんし、ご心配には及びませんよ」

 

「笑えない冗談ですね。衝動的に人を刺すような人間の、何をどう信じたら分別なんて言葉が出てくるんですか」

 

「これは耳が痛い…。しかし、彼女の方に怪我はなかったと聞いていますが…」

 

「ナイフを突きつけられ、あまつさえ大事な人を目の前で殺されかけて! それでも彼女に何も危害を加えてはいないと、そう主張するのですか!」

 

 反射的に彼の頬に走ろうとする手を、私は必死に押さえ付けた。脳裏には、昨日から嫌というほど見続けてきた、憔悴し切った一色さんの姿がはっきりと浮かんでくる。彼女の心の傷は明らかに重傷だ。比企谷くんにもしもの事があれば、人生が狂ってしまっても不思議ではないと、そう思えた。

 暴行罪とは、肉体のみならず精神(こころ)の傷にも適用される。弁護士ならば、その程度の事を知らないだなんて思えないのだけれど──。

 

「なるほど。やはりその点に関しては、関係者の皆さんと、一度きちんとお話しさせて頂く必要があるようですね」

 

 その男は、まるで聞き分けのない子供でも相手にするかの様に、額に皺を寄せ、ふうと息を吐いた。

 

「…どういう意味ですか」

 

「そちらが一方的に害されたという様な表現は、些か語弊があるのでは、と申し上げているのです。()()に落ち度があったのなら、まずは公平な立場で話し合うべきではありませんか?」

 

「……なん、ですって…?」

 

 己の耳を疑った。

 

 今、双方と言ったのか?

 この男は何を言っているのだ。

 何をどう解釈したら、そんな言葉が出てくるのだ。

 

「ば、馬鹿な事を言わないで! そちらが一方的にした事じゃない!」

 

「息子から話を聞いた限り、状況はあなたの認識とは少々異なるように思います。確かに、刃物を用意したのは間違いなく息子自身でした。しかし、本人は単に威圧目的で見せびらかしたと言っています。それを比企谷さんとのもみ合いで一旦奪われてしまい、身の危険を感じて取り合っているうち、誤って刺さってしまった、と」

 

「嘘を言わないで…」

 

 どうやら彼はこの件に、この衝動的で身勝手な事件に、『過失』だとか『正当防衛』だとか、そういった言い逃れを紛れ込ませようとしている様だった。

 息子か、あるいは自分の立場か。どちらを守るためかは分からないが、彼は間違いなく嘘をついている。目つきを見ただけでも、直感的にそれが分かる。

 

「そんなの、作り話に決まってる!」

 

 だと言うのに、相手の言葉を論理的に否定出来ない。

 何故なら私は──

 

「ふむ。でしたらお聞きしますが、不幸な事故の瞬間、あなたは現場に立ち会わせていましたか?」

 

「っ……!」

 

「そこには居なかった…そうですよね?」

 

 そう、私も由比ヶ浜さんも、比企谷くんが刺された決定的瞬間だけは、見ていないのだ。どれだけ違和感のある主張であっても、それが虚言である事を証明する事が出来ない。

 奥歯をぎりりと噛み締める私に向かって念押しする彼の声は、強い確信に満ちていた。きっと息子から、前もって詳細を聞いて来たのだろう。

 

「…でも、私達は誰よりも早く現場に駆けつけた!」

 

「それは事件の()()に、でしょう? その瞬間を実際に目撃したのは息子と比企谷さん、それから一色さんだけのはずです」

 

「そ、そうよ! こちらには一色さん──証人がいるわ」

 

 例え比企谷くんが話せなくても、同じものを見聞きしていた彼女が、全てを明らかにしてくれる筈だ。しかし、そんな私の反応を予測していたかのように、彼は「ですが」と顎に手を添えた。

 

「聞けばその一色さんは比企谷さんと、とても親しい間柄だとか。ならば、仮に証言をして頂くとしても、彼にとって有利な証言をするであろうことは想像に難くない。となると、客観性を求められる裁判の場において、それが決定的な要素として扱われる可能性は低いでしょう」

 

「そんな……」

 

 この男が語る話は事実なのだろうか。被害者の証言が重視されないなんて事が、あるものなのか。(にわか)には信じられないけれど、法廷の話となると私には判断がつかない。何よりあんな肩書きを見せられた後では、まともな反論が出来る筈もなかった。

 

 それどころか、相手はすっかり怯んでいる私に、ここぞとばかりに追い討ちを掛けてくる。

 

「ところであなたは先程、息子が一方的に凶器を振るったような表現をされましたが、何を根拠にそう考えられたのですか?」

 

「そ、それは……だって…!」

 

 考えてみれば、色々と慌ただしかったせいで、一色さんから詳しい話を聞く機会は無かった。いや、聞くまでもないと思っていた、と言うのが正解だろうか。

 比企谷くんと別れて行動していたとは言え、屋上に到着した時間にそれほど差は無かった筈だ。けれども、厳密に計っていたという訳でもない。この男が言うように、彼らが取っ組み合いをしているような時間的猶予があったのかどうか、はっきりとは分からなかった。

 

「特に根拠がある訳ではないのですね?」

 

「……っ!」

 

(この男と会話を続けてはいけない…!)

 

 このままではこちらの大きな不利に繋がる。私は今更になって、自分が置かれている危機的状況に気が付いた。揺さぶられ、動揺して、あっさり手の内を晒してしまった後でだ。きっと彼は、現場に第三の目が無かったという事実に、強い確信を抱いたことだろう。

 

(しくじった…何て迂闊な…っ)

 

 敵対者が自ら接触してきた事の意味を、もう少し深く考えるべきだったのだ。慌てて口を(つぐ)んだ私を慰めるかの様に、男はわざとらしくゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「この様な事情ですから、そう考えてしまわれるのはとても自然なことです。ただ、そういった先入観を捨て、正しい事実を詳らかにする必要があるのではと、そうご提案しているんですよ」

 

 弁護士バッジをつけた詐欺師が、理解ある大人の振りをして私に語り掛ける。穏やかなその口調の奥には、言い返せない私を嘲笑うかの様なニュアンスが潜んでいる様な気がした。

 

 今すぐ言い返さないといけないのに、武器となる証拠を、私は何一つとして持ち合わせていなかった。

 

「こんな、こんな事……」

 

 許されていいのか。

 許されていい筈がない。

 

 悔しくて、腹が立って、自分の不甲斐なさに、じわりと目頭が熱くなった。

 

 

 

「喧嘩両成敗──それがそちらの主張ですか?」

 

 

 

 せめて涙は溢すまいと唇を噛み締めていると、今にも倒れそうな私の背中を支えてくれる、懐かしい声がした。

 

 振り返ると、見慣れた女性が一人。

 彼女は殊更ゆっくりとした歩調でこちらに近付いて来る。

 

「姉さん…」

 

 その顔に貼り付けられた、いつもより少し露骨な作り笑い。感情を殺しきった平坦な声は、頼もしさというよりも、恐ろしさをこそ、強く感じさせるものだ。

 不意に思い起こされた記憶の傷痕に、私は思わず身震いがした。かつてこの能面の様な表情をしてみせた姉に、一体どれだけ泣かされた事か。

 

「ええと…?失礼ですが、関係者の方ですか?」

 

 彼の誰何を聞いた姉さんは、ふっと僅かな失笑を漏らした後、「ええ、そんなところです」と適当にお茶を濁した。

 

「これはこれは…比企谷さんのご友人には素敵な女性が多くていらっしゃる。羨ましい限りです」

 

「それはどうも。お話の続きをしても?」

 

 下らない世辞を冷笑でいなすと、姉さんは私の半歩前に立って柔らかく両腕を組む。そんな反応に少し鼻白んだ様子の男は、とても加害者側とは思えない──実際そうではないと主張しているのだが──そんな態度で両手を広げた。

 

「責任の大小で言えば、そもそも刃物を用意していた息子の責が大きいでしょう。例えそれが()()とは言え、です。しかし大枠で見た場合、両者に非のある案件という認識でおります。ですが、本日はその手の抗議や、勝ち負け目的の争論をしに伺ったのではありません」

 

「と、仰いますと?」

 

 続きを促す姉さんの言葉に、ほんの一瞬、彼の口の端がにやりと吊り上がる。さっきから感じていた嫌な予感が、毛虫の様に背筋を這い回った。

 

「こちらには示談の用意がある、とご家族にお伝えに参ったのですよ。先程はあの様に申し上げましたが、事は裁判沙汰です。傷害事件で争った経歴なんてものは、お互いに何の得もないでしょう? 未来ある若者の将来となれば、尚の事だ」

 

「…成る程、そういうお話ですか」

 

 どうやら、これが彼の本当の目的だったらしい。

 

 死なばもろとも、もしくは破れかぶれ。

 今さら失うものが無い側だからこそ取れる、捨て身の戦法だった。あちらは放っておいても破滅一直線。ならばこちらの足を全力で引っ張り、あわよくばそのまま地獄から這い上がろうという魂胆か。

 

 冗談ではない。そんな悪足掻きに付き合わなければならない義理なんてあるものか。

 

「争う余地なんてどこにも無いじゃない! これは一方的な傷害なのよ?」

 

「ですから、重ねて申し上げますが、それはそちらの主張です。こちらの主張はそうではありません。そして、そこに裁定を下すのは、裁判長のお仕事なんですよ」

 

「警察がきちんと調べれば、貴方の言う事が出鱈目だって事はすぐに分かるわ!」

 

「そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。私は息子を信じていますが、あれが保身のために嘘をついていないとも限りませんからね。ただ、事実がどうあれ、裁定を公的に求めた時点で、誰もが間違いなく損をする。むしろ、より大きな損をするのはそちらだと思うからこそ、このような提案をしているのです」

 

「よ、よくも、いけしゃあしゃあと…!」

 

 馬鹿げてる。

 なのに、反論できない。

 弁護士とは、裁かれるべき罪を無かったことにする職業ではなかった筈なのに。

 

 すっかりやり込められている私を、姉さんは後ろ手で押し留めた。相変わらず薄い笑みを絶やさず、額に手を当ててわざとらしく呆れた声を出してみせる。

 

「ご子息の為を思うお父上の軽挙──今ならまだ、そういう事にして差し上げます。先ほどの発言を撤回し、そのまま回れ右をして頂ければ、ですが」 

 

 姉さんのやり口の真価というのは、味方にしてみると、成る程よく分かる。絶対的な窮地に陥っているのはこちらの筈なのに、まるで相手を追い詰めている様に錯覚させるのだ。

 彼女は勝利を確信するに足る、何かを隠し持っている──そんな悠然さは、終始余裕の表情を崩さなかったこの弁護士からさえ、怪訝そうな顔色を引き出した。

 

「ご両親以外に説明する義務はないのですが…まあいいでしょう。どうもそちらの皆さんにはご理解頂けていないようですし」

 

 一度顎を撫でつけてから、彼は仕切り直すようにして言葉を紡いだ。

 

「いいですか? 現場には息子と比企谷さん、そして一色さん。屋上という閉じた空間に全部で三人しか居ないかった。その事実だけは覆りません。当事者同士が異なる主張をしている中で、第三者が言及する余地は無いという、そういう状況なんですよ」

 

 だから私達がいくら騒いだところで、法廷まではお互いに平行線にしかならない。そんな彼の主張をつまらなさそうに聞いていた姉さんは、ふと思い出したかの様に口を開いた。

 

「あ、そうそう、比企谷くんと言えば…。実は彼、事件の真っ最中に、とある教師に対して電話を掛けているんです。現場の状況を密告し、息子さんの罪を証明するために。ご存知でした?」

 

「それは…初耳ですね…」

 

 そうだ、それがあった──!

 どうして思い出せなかったのだろう。平塚先生が教えてくれたではないか。生中継されていた、と。

 

「ですが、例えそうであったとしても、その電話を受けた人物の証言も同じ事です。結局は直接目撃していない訳ですからね。それならばまだ、現場に居合わせた一色さんの発言の方が信憑性がありますよ」

 

「彼女に証言なんてさせるつもりはありません。息子さんが全てを自白している記録。これ以上、何か必要なものがありますか?」

 

「ハッタリがお上手ですね。残念ですが、電話会社が保管しているのは通話があったという履歴だけですよ。仮に照会したところで、内容なんてどこにも残ってはいない」

 

 この男には揺さぶりというものが通じないのだろうか。私には天啓の如き名案だと思えたのに、それすらも一瞬でひっくり返されてしまった。

 けれど、姉さんはそれでもなお、泰然自若とした姿勢を崩そうとはしない。

 

「まさか。しませんよ、そんな面倒な事。だって録音していたのは彼の携帯電話ですから」

 

「自分で録っていた、と? …確かに携帯電話にはそういった機能がありますね。しかし普通、電話する度にその内容をいちいち録音するような人間は居ません。まさか今回に限ってたまたま録っていただなんて、都合のいい主張をなさるおつもりですか?」

 

 本当に?

 比企谷くんは、そこまでやっていたの?

 もしもそうなら、きっと勝てる。

 けれど、私だって把握していないのに、姉さんがそこまで知っているとは…。

 

「ええ、勿論そのつもりです」

 

 そんな私の迷いを笑い飛ばすかの様に、姉さんは真正面から相手の言葉を打ち返した。もしかしたら、決定的な何かを平塚先生から聞いているのかも知れない。そう思わずには居られないくらい、その態度は自信に満ち溢れていた。

 

「そもそも、非常事態の状況を教師に密告するような電話が、あなたの仰る"普通"に該当すると思いますか? 私はむしろ、通話はあくまで手段であって、彼の目的は現場音声の録音にあったと考えています。どこかのご子息のお陰で、本人に確認は取れていませんが」

 

 そう言って、姉さんは相手の男に鋭い眼光を放った。相手の弱味を突く事で、間接的に否定をさせにくくしているのだろう。いやそれ以外にも、個人的な怒りから来る当て(こす)りというのもありそうだ。

 

「………」

 

「………」

 

 二人は言葉を途切らせたまま睨み合っている。互いの腹を探り合っているのだろう。

 

 姉さんの主張には、かなり高い確率でブラフが混じっていると思う。けれど私は彼女の手札を知らなくて、そしてこの時ばかりはそれが幸いだった。もしもこれがハッタリであるという確信を持っていたら、自然と漏れ出た態度から、あの男に悟られかねないからだ。

 

「…そもそも、本当にそんな電話があったのですか? 息子から聞いた限り、とてもその様な余裕があったとは思えませんが」

 

(あっ……)

 

 その瞬間、場の空気が変わったのが、私にも感じられた。

 ほんの少し、けれど確かに、ここまでずっと強気一辺倒で居続けた相手が、初めて引いてみせた瞬間だった。

 

(ここが勝負の(きわ)──)

 

 私の予想に違わず、姉さんは畳み掛けるように返す。

 

「それこそ通話履歴が残っているはずです。何でしたら調べて頂いても結構ですよ、西山弁護士?」

 

「…良かったらその通話内容、お聞かせ願えませんか?」

 

(くっ…しつこい…!)

 

 これは恐らく、あの男の最後の抵抗だろう。

 もしも本当にそんな録音が存在するのなら、突き付けてやれば、下らない言い掛かりにこれ以上付き合う必要も無くなる。それどころか、偽証を新たな罪として告発出来るかもしれない。

 相手の要求に応じる義務なんてこちらには無いけれど、姉さんがここで要求を受け入れなければ、録音自体が存在しない、あるいは決定的な内容ではないという事を認める形になってしまう。

 

(あの携帯電話は、小町さんに預けられていた筈…)

 

 姉さんだって神様じゃない。こんな事態を見越して予め受け取っている訳がないし、何よりもまず、録音データが実在するのかが相当に怪しい。

 しかし、この場で決着がつかなかった場合、それは引き分けではなくこちらの敗けだ。悔しいけれど、裁判が論争になってしまった時点で、こちらも無傷では済まなくなる。

 

 勝ったと思ったら、いつの間にか逆転されている──。

 これが本当の駆け引きというものなのだろうか。

 

「…うーん、それは難しいと思いますよ」

 

 眉根を寄せ、姉さんは困った様な声を上げた。

 やっぱり彼女は今、比企谷くんの携帯電話を持っていないのだ。その答えを聞いて、男ははっきりと口の端を吊り上げた。

 

「何故ですか? 本当に録ってあったのなら、少し聞かせて頂いても不都合はないでしょう? あなたからご両親にお願いしてもらえませんか」

 

「それが、警察に証拠品として預けてしまったらしくて」

 

 あっけらかんと答えた姉さんの一言。

 苦し紛れの様にも聞こえたそれは、しかしこの場における唯一無二の正解だった。

 もしもこれが事実であったなら、私達の立場ではそれを取り返すことは不可能だし、同じ理由で彼がデータの実在や内容を確認する事だって出来はしない。

 

 

「────分かりました」

 

 

 彼は長い沈黙のあと、(ようや)くその言葉を口にした。

 

「…申し訳ありませんが、示談の件は無かったことにさせて下さい。こちらも弁護の準備をし直す必要がありそうです」

 

(勝った…の……?)

 

 やはり、本来であれば論じるまでもない事だったのだろう。負けて当然、あわよくばという考えでの接触。だからだろうか、彼は至極あっさりとこちらに背を向けた。

 

「それでは、失礼します」

 

 さっきまでの饒舌が嘘の様に、足早にその場から立ち去っていく。狐につままれたみたいな心持ちでしばし呆然としていたけれど、例の嫌らしい笑顔でこちらを覗き込んでくる姉さんの視線に気が付いて、彼女に向き直った。

 

「…さっきは助かったわ。私だけではどうにもならなかったと思う」

 

「いいのよー、汚い大人同士のケンカだもの。それより雪乃ちゃんが素直!お姉ちゃん嬉しい!」

 

「そういうのはいいから…。それよりさっきの話だけど、あの携帯電話──本当に録音なんてされていたの?」

 

「ん? さあねー。静ちゃんに中継してたって聞いたから、比企谷くんならそういう事もあるかなーって、そんだけ」

 

 そう言って、姉さんは片目をぱちりと瞑って見せた。

 

「やっぱり…」

 

 我が身内ながら、とんでもない大法螺吹きである。きっと姉さんの心臓には、鋼鉄の剛毛が束になって生えているに違いない。

 

「それにしても向こうの言い分…あれって脅迫にあたるんじゃないの? 逆に訴える事も出来そうなものだけど」

 

「そうねー、言い方がもっと高圧的だったなら、まあ出来なくもないってトコかしら。でも、訴訟前に示談の交渉をするのは弁護士の常套手段だし、あの程度だと難しいかな」

 

「…ちなみに、あれで相手が引かなかったら、どうするつもりだったの?」

 

「その時は面倒だけど正面戦争ね。どうせこっちの勝ちは決まってるし。万が一、裁判沙汰になったことで比企谷くんに実害が出るんなら──そうね、その時は囲ってあげるのも手じゃない? 確か彼、専業主夫志望だったわよね」

 

「姉さんなら本当にやりそうだから怖いわ…」

 

 クスクスと笑う姉を尻目に、色々な意味で、そうならずに済んだ事に安堵した。

 向こうも、女が相手なら簡単に黙らせられると思って仕掛けてきたのだろう。実際、姉さんでなかったら、相当危なかった。

 

「少し釈然としないけれど、取り敢えずこちらの不利は避けられたんだし…。さっきのは犬に噛まれたと思って忘れる事にするわ」

 

「えー? 雪乃ちゃん、あいつ許すんだー? やっさし~い♪」

 

 彼女はそう言って、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。画面では何らかのアプリが起動していて、カウントアップされていく数字、そして録音中を示唆する赤丸が表示されている。

 

「それ、もしかして録っていたの? さっきの会話」

 

「少年Hくんの手口を真似してみましたー。てへり☆」

 

 ぺろりと出した舌を引っ込めると、そこには獲物をいたぶる残虐な捕食者の顔があった。

 

「本当のギャンブルっていうのはね、例え途中で勝負を降りたとしても、賭けたチップは返って来ないものなのよ」

 

 彼は、自分が喧嘩を売った相手の事を、もう少し知っておくべきだったと思う。雪ノ下のお膝元であれだけやらかしておいて、この(ひと)が見過ごす訳もないのだ。

 勿論、同情の余地なんて微塵も無い。今回ばかりは、彼女が報復するだけの力を持ち合わせている事に感謝し、私はこっそりと溜飲を下げたのだった。

 

 

 ひとしきり含み笑いをした後、姉さんはころりと表情を切り換えて言った。

 

「それより、病室。援軍が要るんじゃないの?」

 

「そうだったわ…!急がないと」

 

 結局、何ひとつ得るものが無いやりとりで、たっぷりと足止めを食らってしまった。由比ヶ浜さんは既に向こうへ着いているだろうか。何事もなければいいのだけれど…。

 

 私はすぐさま、彼の病室へと足を向けた。

 

 

* * *

 

 

 さっき手に入れた録音(おもちゃ)を弄びながら「野暮用が出来たから」と怪しく笑う姉さんと別れ、私はエレベーターを使って比企谷くんの病室があるフロアへと移動していた。

 

「何だか、胸騒ぎがする…」

 

 例の男子が、またナイフを隠し持っているのではないかとか、そういう心配をしているわけじゃない。いや、その手の懸念もゼロという訳ではないのだけれど、いま心をざわつかせるのは別の事案だった。

 

 

 エレベーターを降りるとすぐ、目の前には簡素なカフェの様な空間があった。入院患者や見舞い客向けに設置された、談話スペースだ。その一角に、テーブルを前にして頭を捻っている女の子が一人。やはり先を越されてしまっていたらしい。

 

「由比ヶ浜さん」

 

「あれ、ゆきのん? 遅かったねー、もしかして迷ってた?」

 

「いえ、ちょっと…。それより、病室にはもう顔を出したの?」

 

「ううん、これからー。今ね、お見舞い向けのをチョイスしてるとこ」

 

 テーブルに盛られているのは、無計画に買い漁ったであろうお菓子の山。花もフルーツも、それらしきものはどこにも見当たらなかったけれど、お小言は後回しだ。

 

「一緒に来て」

 

「え、なに? どしたの?」

 

 手を引かれ、目を白黒させる彼女に、なるべく簡潔に状況を伝える。

 

「向こうの父親に会ったわ。例の男子が病室に来ているみたいなの」

 

「はああぁっ!? アイツ、牢屋の中じゃないの!?」

 

「世間的に、まだ犯人って扱いではないみたいよ」

 

「意味わかんない! ケーサツ仕事しろし!」

 

 彼女の頭の中では既に実刑が下されていたらしい。本当に、もしもそれだけ仕事が早かったら、こんな心臓に悪い状況にもならずに済んだろうに。

 

「まさかヒッキーに…? それともいろはちゃん…?」

 

「…とにかく急ぎましょう」

 

 何にせよ、今は一刻も早く、彼らの元へ駆けつける以外に選択肢はない。

 間に合わないだなんて事は、もうこりごりだ。

 

 今にも駆け出しそうになる脚をすんでのところで抑えながら、私達は足早に病室へと向かったのだった。

 

 

 




あっ…いろはす出てこなかった…。


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■33話 心の声の告げるまま

 

《---Side Iroha---》

 

 

「…ん……あれ…?」

 

 消毒液の香りのする白いシーツが、視界いっぱいに広がっている。

 

 顔を上げると、自分よりも一回り大きな手を握りしめる、わたしの右手が目に入った。絡めた指先から伝わってくる暖かな感触に、少しずつ頭が覚醒していく。その先で静かに上下する胸元をしばらく見つめてから、深く息を吐いた。

 

 辺りを満たす独特の香り。しばらく嗅いでいたせいか、すっかり慣れしまった病院の空気の中に、今はほんの一握りだけ、とても落ち着く香りが混じっている。どうやら寝落ちの原因はこれみたい。

 変な姿勢で突っ伏していたせいか、腰がミシミシと痛む。軋む身体を起こしつつ、わたしはベッドの主に静かな挨拶をした。

 

「──おはようございます、先輩」

 

 

 二人きりの空間で彼の静かな吐息を聞いていると、心の底から安心できた。じっと見守っているうち、どうしても手を握りたくなった。別に誰も見てないし、減るもんじゃないしって思い切って手を伸ばして──。

 その先のことはよく覚えていない。ほとんど気を失うような感じで、眠りに落ちたんだと思う。

 

 一眠りしたおかげか、あれだけメチャクチャだった気持ちとか頭の中が、結構スッキリしていて、昨日の事は悪い夢だったんじゃないだろうかとさえ思えた。だけど残念なことに、こうして病院で目元を腫らしているのが現実なのだ。

 

「うわ、もうお昼過ぎですよ。起こしてくれてもいいじゃないですかー」

 

 改めて時計を確認すると、最後に見たときからかなりの時間が経過してしまっていた。でもまあ、色々あったんだし、寝起きの弱いわたしにしては、これでもかなりマシな方だと思う。

 先輩が集中治療室からこの個室にベッドごと引っ越してきたのは、今から二時間くらい前の事だ。その時はまだ、周りに沢山ひとが居たはずなんだけど…。

 

「てか、なんで二人きりなんでしたっけ?」

 

 昨日、それぞれの保護者が一堂に会したのは、すっかり夜も更けた頃だった。先輩のご両親はそれぞれ別の場所に長期出張しているそうで、飛行機のチケットがすぐに取れなかったものだから、到着までにかなり時間が掛かってしまったのだ。単身赴任先から飛んできたウチのパパも似たり寄ったりで、おまけにそこからコメツキバッタみたいな頭の下げあいが一晩中続いて…。

 結局、病院に残った誰もが、ろくに寝ないで夜を明かしていた。

 

「ほんと…先輩が集中治療室(あそこ)から出られなかったら、たぶん終わらなかったですよ、あれ」

 

 そうして朝になって、スタッフから彼が無事に峠を越えられたと聞かされ、両陣営の謝罪合戦はひとまずの停戦を迎えた。

 わたしはこまちゃんと手を取り合って喜びの涙を…それとさんざん脅かしてくれた医者への愚痴を、そりゃあもうボロンボロンに零しまくった。

 

「あはは…。わたし、呆れられちゃったかもですね…」

 

 グズグズの泣き顔を親御さんに晒してしまったのもそうだけど、それ以上に反省すべきはわたしのワガママだった。先輩の容態もとりあえず落ち着いたということで、みんな一度出直そうという話になったとき、それでもわたしは空気も読まずに、この部屋での留守番を希望したのだ。

 

 もちろん、うちの親も一度帰ることを勧めてきたんだけど──。

 

「あれ?これって…」

 

 すっかり聞き上手になった先輩を相手に記憶の整理をしていたわたしは、ふと、ベッド脇に据え付けられたテーブルに、花束が置かれていることに気がついた。隣には、やけに膨らんだボストンバッグも鎮座している。見たことのある柄だし、一色家(うち)のものに違いない。そしてさりげなくちょこんと添えられている、折り畳まれたメモ帳の切れっぱし。

 

 なんとも雑なこの感じ、ひょっとして…。

 

 わたしは三折りにされたその紙切れを手に取って、そっと開いてみた。

 

 

───────────────────

受けたご恩はきっちりお返しすること!

パパのことは気にしなくていいからね

───────────────────

 

 

───────────────────

 

 

「ふふっ…わかってるって……」

 

 差出人も宛先もないけれど、文面や文字を見ても、ママからわたし宛の手紙ということで間違いなさそうだ。

 うちの両親も、先輩のとこと一緒に解散して、家に戻ったはずだった。着替えとか、他に色々持ってきてくれるって言ってたんだけど…わたしが爆睡してる間に一往復してしまったみたい。相変わらずフットワークの軽いアラフォーだなぁ。

 

 ママは今回のことについて、ただの不幸な事故とは考えていないようだった。こうしてわたし一人に先輩を任せてもらえているのも、実はあのひとの暗躍による所が大きかったりする。先輩の側に居たがるわたしを止めようとはせず、それどころか、向こうのご両親に頭を下げ、「是非とも娘に責任を取らせて欲しい」と頼み込んでくれたのだ。

 ご両親はやけに嬉しそうに首を縦に振ってくれて、こまちゃんを連れて自宅へ引き上げていった。でも、彼女はしきりに「ノーコメントで!」と繰り返していたし、やっぱり呆れていたんだと思う。

 

 こんなうちのママだけど、非常識と笑わないであげて欲しい。あのひとにしてみれば、他人事とは思えない状況なのだ。もちろん、わたしが自分の娘だからという言葉通りの意味だけじゃない。

 と言うのも、最悪極まりないこの状況──実はこれが、我が家の両親の馴れ初めというやつに、とてもよく似ているのである。

 

「ほんと、なんの偶然なんだか…」

 

 ママがまだ学生だった頃、同級生だったパパに助けられたことがあったのだそうだ。トラックだかトラクターだかに跳ねられそうになったのを庇われて、代わりにパパが轢かれてしまった。で、入院したパパを介護をしているうちに以下略…と、まあそんな感じみたい。

 あれっ、改めて比べるとあんまり似てなくない?こっちの方が百倍ドラマチックだよね?

 

「気にしなくていいって言われてもなぁ…」

 

 わたしの行動について、パパはあまり賛成という感じではなかった。ママに睨まれるとすぐ、一緒になって頭を下げてくれたけど、やっぱり父親としては、あんまり気分の良いものじゃないんだって。同じ恋愛をした二人なのに、なんでこんなに反応が違うんだろう。いつか娘ができて、その子に好きなひとができたなら──わたしは全力で応援したいけどなぁ。

 ちなみに、普段の力関係を見てる身としてはとても信じられないんだけど、告ったのもキスしたのもプロポーズしたのも、全部ママからだったのだとか。明日は我が身って気がして、先行きがちょっと不安になったりならなかったり…。

 

「……ま…ありがとね」

 

さっき二人に言いそびれた言葉を口にしながら、書き置きの続きに目を通した。

 

 

───────────────────

受けたご恩はきっちりお返しすること!

パパのことは気にしなくていいからね

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

必要そうなものを入れておいたけど

他にもあったらメールしなさい

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

P.S.

ママはそうしてあなたを産みました♥

───────────────────

 

 

「……ん?」

 

 取って付けたような最後の一文の、いったい何が「そうして」なのか、すぐには理解できなかった。けど、それが一番最初の部分に掛かっているのだと気が付いて──。

 母の愛がたっぷり詰まった書き置きはぐしゃりと音を立て、わたしの手の中で紙クズへと姿を変えていた。

 

「な…なな…っ」

 

 なに書いてんのバカー!

 

 ママの恩返しはなんていうか…思いっきり私欲にまみれていた。娘の立場としては、聞きたくないやらコメントに困るやら、とにかく酷すぎる内容の手紙である。

 

 てか、こんなの置きっぱにして、こまちゃんやご両親に見られたらどうするの?メールじゃない時点でぜったい確信犯なんだろうけどさ…。わたしがあざといあざといって連呼されてる一番の原因、間違いなくこのひとだよね。

 

「…ほんっとに、もー!」

 

 将来のことなんて想像した直後だったからか、一気に顔が熱くなってしまった。けれどお陰で、自分の身体を暖かい血が巡っているのを感じられる。すっかり乾いて萎れていた心が、まるで水を与えられた花のように、潤いを取り戻していく。悔しいけど、きっとこれもママの作戦通りなんだろう。

 

そうそう、花って言えば──。

 

「これ、ママが買ってきたんだよね…?」

 

 花屋さんの包装そのままの、色とりどりの花束。わたしが寝ている間に、その辺で買ってきたのだろうか。確かに病室はかなり殺風景だし、そこのキャビネットに飾るだけでも、ずいぶん違ってくるんだけど…。

 

「花瓶、病院で貸してくれないかなー」

 

 とりあえずその辺は後で調達することにして、バッグの口を開き、中身を検分していく。

 

「えーと、どれどれ……なんか色々入ってる…」

 

 タオルに歯ブラシ、旅行用コスメなんかを詰め込んだ、お泊まりセット。ドライヤーに…下着類と替えの制服も入っていた。ここで私服じゃないところが()()()っていうか…下手なチョイスでわたしからダメ出しを食らうくらいなら、いっそ制服の方が外れないという考えなんだろう。まあ間違いではないけどね。

 

「わ、すごっ、ちゃんと花瓶あるし」

 

 バッグを漁っていくと、陶器で出来た小ぶりな花瓶が転がり出てきた。ついでに花を切るためのハサミまで完備。

 

「でもこれ…あんま可愛くない…それに大きさも──あ、これで切ればいいのか…」

 

 ひたすら真っ白で装飾もなく、おまけに柄さえないその花瓶。どうせ百均あたりで仕入れてきたんだと思うけど…気が利いているようで、ちょくちょくがさつなところがある。たまに男なんじゃないかって笑ったりもするけど、ママのそういう所も、わたしはそんなに嫌いじゃなかった。折角買ってきてくれたものだし、使わせてもらおうかな。

 

「おっ?まだ奥になにかあるにゃー…っと」

 

 だんだん楽しくなってきたわたしは、バッグの奥底に隠すようにして入れてあったそれを、目敏く発見した。お菓子のようにも見える、妙にカラフルな小箱である。だけど抽象的な模様ばかりで、肝心の商品の情報が一切伝わってこない。なんて不親切なデザインだろう。これ見よがしにプリントされてる大きな数字だけが、無闇に目立っていた。

 

「ぜろ、ぜろ、さん…? コスメかな…」

 

 なになに…選べる3色カラー?

 天然ゴムうすうす──

 

「ぎゃーー!」

 

 まさかの二段構えとかー!

 

 あのひとなんてもの入れてんのこれ使っちゃったらなにも産まれないじゃんって違う違うそうじゃなくてどうせならもっと薄いのあるでしょってそれも違くてーっ!

 

 酷く可愛いげのないリアクションと共に、思わず放り投げてしまったゴム製品(コンドーさん)。それは綺麗な放物線を描き、くるくると回転して宙を舞い──。

 そして、ベッドで眠る先輩の股間の辺りに、サクッと角を立てて落っこちた。

 

「ふぎゃーーっ! 大丈夫ですかせんぱーい!?」

 

 傷の辺りじゃなくてよかったあああ!

 いや、ソコに落ちるのもダメなんだけど!

 

 慌ててそのエロっちい小箱を取り除いたものの、場所が場所だけに、いつかのように「手当て」してあげるワケにもいかず…。とりあえず平謝りする以外、今のわたしに出来ることは何もないのだった。

 

「うう…ママのおバカ…。こんなん買ってくるくらいなら、食べ物とか入れといてよ…」

 

 一人でバカ騒ぎをしていたせいだろうか。色を取り戻しつつある感情に比例するかのように、胃袋の方も猛烈な空腹を感じ始めていた。

 考えてみれば、まともな食事をしたのは昨日の朝が最後なのだ。そこからは何を口にしたのか、そもそも何も食べていないのか、覚えてすらいない。どこかで水くらいは飲んだ気がするけど、それだって全部戻しちゃったし。

 

「ま、ダイエットだと思えば…イケるイケる。とりあえずお花でも飾っとこ」

 

 花を活けるなんてやったことないけど、こういうのに必要なのは、技術よりセンスのはずだ。そしてわたしはなんでも人並み以上にこなせる子(ただし勉強以外に限る)。だからきっと上手に出来るはず。

 

 出来るはず…。

 

 …………。

 

 ……。

 

「……うわ~ぉ…」

 

 技術よりセンスとか言ったのは、どこのどいつだろう。

 専門の学科もあるんだから、そんなにチョロいわけないじゃんね?

 

 切っては挿し、切っては挿しを気の向くままに繰り返して──気がつけばわたしの目の前には、実にオリジナリティ溢れるオブジェが鎮座していた。無理に全部の花を挿したのがまずかったのだろうか。これでもかと突っ込まれた切り花達はまるで盛り髪みたいなバランスの悪さで、どうして倒れないのか逆に不思議なくらいである。

 

「と、とりあえず、先輩の側は却下で…」

 

 当初予定していたポジションは危険と判断して、ちょっと離れた備え付けの棚の上に、そっと花瓶を設置する。

 

「ほら、アレですよー。大は小を兼ねる的なー」

 

 先輩に聞こえるように言い訳をしつつ、ハサミでちょいちょいっと葉を落としたりして、スタイリストを気取っていると──。

 

 病室のドアを叩く、コンコンという音が聞こえてきた。

 

 回診かな…でも他人のわたしが出るのってどうなんだろう。それともひょっとして、奉仕部の二人かな?

 

「…はーい、どうぞー」

 

 手が塞がっていたわたしは、戸口に背を向けたまま返事をした。けれど、いつまで待っても訪問者が入ってくる気配がない。鍵は掛かってないはずだけど…。

 

「あ…」

 

 そう言えば、当たり前のように返事をしてしまったけど、先輩の親戚さんとかだったらどうしよう。中から知らない女子の声がして、戸惑ってたりして。ちゃんと出迎えて挨拶しないと!

 

 

『あの…すみません……』

 

 その時、訪問者の返事がようやく返ってきて──

 

「──っ!?」

 

 声を聞いたわたしは、その場で凍りついた。

 

 扉越しにくぐもっていたって、聞き間違えたりしない。

 忘れもしない、この声。

 わたしを襲い、先輩を刺した、アイツの声だ。

 

『俺、西山です…。一色さんも居るんだ。ちょうど良かった』

 

「…な…やだ……なんで……!」

 

 なんで…どうしてアイツがここに!

 捕まったんじゃなかったの!?

 

 頭の中に、昨日の出来事が雪崩のように流れ込んでくる。せっかく温まった心も、冷水を引っ掛けられたかのように引きつっている。身体にガクガクと震えが走り、耐えきれずにその場にへたり込んだ。

 

 心臓がうるさい位に音を立てている。

 いくら息をしても、苦しくて堪らない。

 

「いやっ、いやっ…だ、誰かっ!」

 

 すぐ警察に通報して…ダメだ、間に合わない。

 さっき返事してしまったし、鍵だって掛かってない。今すぐにでも部屋に入ってくるだろう。

 それに、もしもまたナイフを持っていたら…。

 

『ま、待って! 何もしない、しないから!』

 

 そんなこと、信じられるわけがない。きっと大事になったことを逆恨みしているのだ。そうでなければ、何をしにこんなところまで追ってきたというのか。

 

『今さらって思うかもしれないけど、一応その、あ、謝らせてもらいたくって! 許してもらえないかも知れないけど…それで来ただけなんで…。あ、もちろん比企谷さんにも! …その、できたら、なんだけど……』

 

────は?

 

 その身勝手極まりない弁明を聞いたとき、わたしの中で何かのスイッチがカチリと切り替わったのを感じた。後から後から沸いてくる怒りが胸の内に広がって、恐怖や混乱をどんどん塗りつぶしていく。

 

 わたしの中のわたしが──クレバーさの欠片もない、(くら)い声で嗤うのが聞こえた。

 

『あはっ、謝るだってさ。どう思う?』

 

 謝るって、なに?

 どの面下げて、謝らせろだなんて言えるの?

 どうせ自分のためなんでしょ。

 謝って、自分が楽になりたいだけなんでしょ。

 

『わたしは、許してあげられる?』

 

 許せない──許すわけがない。

 

『何をしたら、許してあげられる?』

 

 何があっても、ぜったい、許さない。

 

『アイツは、先輩の痛みを分かってないもんね』

 

 アイツは、わたしの怒りを分かっていないんだ。

 

『だったら教えてあげなくちゃ』

 

 でも、どうやって──?

 

 

 その時、わたしは気が付いた。気が付いてしまった。

 道具なら、さっきからずっと、この手に持っているではないか。

 そうだ、これでいい。

 アイツにはこれで十分だ。

 

 わたしは何かに促されるように、ベッドへ視線を向けた。

 

『見て。わたしの大好きなひとは、まだ目も覚ましていないんだよ?』

 

 もう一度、扉を見る。

 

『それは、誰のせい?』

 

 いつの間にか、震えは止まっていた。

 

 

「………いま、開けるから」

 

 

 わたしは、ゆっくりと戸口に向かって歩き出した。

 

 

 

《---Side Yukino---》

 

 

 個室ばかりが主体となった、少し特別なフロア。それが比企谷くんの入院している区画だった。一般の患者との相部屋が難しい患者の為に用意されたもので、特別な事情や病院へのコネでも無い限り、そうそう入れるものではないらしい。

 彼がそこに移されたという話を聞いた時、例によって姉さんの関与を疑ってしまった。しかし実情としては、警察やマスコミが出入りする可能性を考慮した、病院側による采配という事だった。

 

「本当に迷ってしまいそうね、これ──」

 

 似た様な部屋ばかりが続く通路の角を何度か曲がると、廊下の先に向かい合う二つの人影が見えた。

 

 病室を守護するかの如く立ちはだかる女の子と、その彼女に必死に話し掛けている男の子。衝撃的な状況だったからか、すれ違っただけだというのに、私の目は鮮明にその背格好を覚えていた。確かにあの時現場の前ですれ違った男子生徒──やはり彼が西山くんだったのだ。

 

 一見すれば告白の場面にも見える、そんな状況。勿論、この場を満たしているのがそんな甘ったるい空気でない事は、言うまでもない。

 

「──から──俺──して────」

 

 彼の口から辿々しく紡がれる言葉が、ところどころ聞こえてくる。それが本心から出たものかは分からないけれど、少なくとも今の彼は落ち着いた様子で、唐突に暴れだす心配は無さそうに見えた。

 

「おっとと…。あれ、意外とだいじょぶそう、かな?」

 

 由比ヶ浜さんも、通路の角に身体を隠し、首だけ伸ばして様子を窺っている。

 確かに、両者が落ち着いているのであれば、ここは様子を見るのが正解だろう。下手に割って入れば、余計にややこしい事になりかねないのだから。

 けれど今は──。

 

「…違うの。そっちじゃない」

 

「ゆきのん?」

 

 実を言えば、犯人が何かするかもしれないという心配は、殆どしてはいなかった。私が気にしていたのは、彼が必死に話しかけている相手の方なのだ。

 一瞬の躊躇いの後、私は彼女に呼び掛けた。

 

「一色さん」

 

 西山くんと向き合った彼女は俯いていて、ここからでは遠すぎて表情が読み取れない。ただ、影を被ったその横顔は、どこか剣呑な気配を漂わせている様に思えた。

 

「一色さん!」

 

 再び声を張り上げる。

 けれども、その呼び掛けにびくりと反応してこちらを向いたのは、西山くんの方だった。

 

「え? ……あっ……そ、その…」

 

 私が比企谷くんの関係者だと気が付いたのだろう。彼はしどろもどろになって、支離滅裂な言い訳をし始めた。

 

「ち、違うんです! いや、違わないけど、その、俺、そういうんじゃ…今日は、違くて──ほんと、何て言うか…」

 

 その聞くに耐えない弁明らしきものに、私は耳を貸してはいなかった。彼がこちらを向いて──一色さんから注意を逸らしているなか、俯いたままの彼女が静かに動いたからだ。顔を上げた彼女の表情に格別の険しさは無く、しかしそれが余計に、名状しがたい薄ら寒さを感じさせた。

 

 一色さんは(おもむろ)に、後ろ手に回していた腕を高く掲げる。

 彼女の手元が蛍光灯の光に晒されて──。

 

「なっ!?」

「ちょ…マジ!?」

 

 その手に握られた花切り(ばさみ)が、狂気に鈍く輝いていた。

 

 

 

 そう。

 私が本当に心配だったのは、犯人の行動ではなかったのだ。

 

 もしも今の一色さんが、比企谷くんをあんな目に遭わせた相手の顔を見たら。向けられて然るべき、正しい怒りの矛先を与えられてしまったのなら──。

 

 自分だったらどう感じるだろう。それを考えた時に真っ先に浮かび、けれどもすぐさま却下された、一つのビジョンがあった。それを恐ろしい事だと感じる理性の(たが)が健在なら、心配はない。けれど、昨夜の一色さんの盲目的な行動を見ていて思ったのだ。彼女のそれは、心と同様にボロボロに傷付いて、壊れかけているのではないか、と。

 

 絶対に彼女を犯人に会わせてはいけない。その筈だったのに。

 

 止められなかった私の目の前で、想像した通りの展開が再現されようとしていた。

 

 

「やめなさいッ!」

「ダメェーーッ!」

 

 彼女に駆け寄りながら、力の限りに叫ぶ。その逡巡を体現するかの様に、振りかぶられた凶器は一度だけぶるりと震えてみせた。そして再び、無防備を晒し続ける背中に狙いを定める。

 

(駄目…間に合わない…!)

 

 どんなに手を伸ばしても、ほんの数メートルが届かない。

 避けられない惨状を前に、私は思わず目を瞑り──

 

 

 

 

 どこかで、何かが割れる音がした。

 

 

 

 

 取り返しがつかない事が起きてしまった事を比喩的に表現した訳ではない。実際に物が壊れた様な音がしたのだ。

 決して大きくはない。私の声にかき消されて、聞き漏らしてもおかしくはない程度の音だった。しかしそれは、一色さんの耳にもきちんと届いていたらしい。降り下ろされかけた彼女の手は、(すんで)の所で止まっていた。

 

 私もつい足を止め、由比ヶ浜さんと顔を見合わせた。

 

「…ね、ねえ、今のって…」

 

「…ええ…でも…」

 

 この音ならば、確かに一色さんも手を止めざるを得ないだろう。

 何故ならそれは、彼女が背にした()()()()から聞こえてきたのだから。

 けれど…だって今、その部屋には…。

 

 改めて様子を見れば、一色さんも病室の方を振り返り、呆然と立ち尽くしていた。力の抜けた手から取り落とされた鋏が、床の上で安っぽい音を立てる。

 西山くんは、その音に気付いてやっと背後を振り返った。一色さんと、そして床に落ちた鋏を何度か見比べて、目を(しばたた)かせている。ひょっとしたら、私達が止めようとしていたのは自分の事だと勘違いしていたのかも知れない。これがどんな状況なのか、頭が追い付いていないのだ。

 

「────ひっ、ひああぁっ?!」

 

 程なく理解に至ったのか、彼は地べたに尻餅をつき、言葉にならない悲鳴を上げた。

 正に()()うの(てい)といった様子で、這いずりながら後じさっていく。

 

「やべぇ…お前マジやべぇよ! 頭おかしいんじゃねえの!」

 

 自分がした事も棚に上げ、一色さんを口汚く罵っているのが聞こえてきたけれど、私達の興味は既にそちらには無かった。馬鹿に付ける薬は無いとは言ったものである。それに放っておいても、どうせこの後は警察に拘留されるのだ。それに何より、今はそんな些末な事はどうでもよかった。

 

 私は病室の戸口に近付き、一色さんの肩越しに中を覗き込んだ。

 

 まず目に飛び込んできたのは、濡れた床に散乱した、小さな破片と沢山の花。どうやらさっきの音は花瓶が割れた際のものだったらしい。そこまではいい。それは理解できる。

 一緒になって覗いていた由比ヶ浜さんも、やはりこの不可思議な状況に困惑していた。

 

「えっ、な、なんで…どゆこと…?」

 

 部屋の中には当然、ベッドに横たわる比企谷くんの姿があって──。

 

 そして、その他には、誰も居なかった。

 

「窓も開いていないのに…」

 

 一色さんを止めようとする人間が居なかったのだ。この部屋に動ける者が居ないであろう事は、中を確認する前から分かっていた。しかしそれを言うなら、一色さんは直前まで部屋の中に居たのである。彼女の驚きは私達の比ではないだろう。

 

 一体、誰がこの花瓶を倒したというのだ。

 

 よもやと思って改めて見ても、比企谷くんが少しも動いていないのは、綺麗に整えられた掛け布団を見れば明らかだった。

 

「……先輩に、怒られちゃいました…」

 

 今になって、自分がしようとした事の意味に頭が追い付いたのだろう。彼女は自分の腕を掻き抱いて震えていた。その表情はばつが悪そうで、けれども少しはにかんで見えた。

 

「ううん、守ってくれたんだよ、きっと!」

 

 由比ヶ浜さんは彼女の肩を押してベッドの側へと連れていくと、目覚める気配のない彼に向って、優しい声で話しかけていた。

 

「ありがとね、ヒッキー。──ほら、いろはちゃんも!」

 

「また、助けてもらっちゃいましたね、先輩…」

 

 正直を言えば、私の理性的な部分は「そんな訳がない、何かの偶然だ」と冷たく告げている。けれどそれが実際に口から零れたりすることはなくて、代わりにこの場に相応しい建前が、自然と溢れていた。

 

「全く…口で言えばいいのに。いつもの事だけれど、本当に手段を選ばない人よね…」

 

「あははっ、ホントにそうだ!」

 

 自分の考えを曲げてしまったら、それはもう本物じゃない──ずっとそう信じてきた。それなのに、すんなりとこの空気に迎合できた事が不思議で、そしてそれが、少しだけ嬉しかった。これまでの私は(かたく)な過ぎたのだと、今ならそう思える。いつか彼女達の語った、心のままに生きるというやり方。私にはとても難しいと思えたそれは、意外と手の届くところにあるのかも知れない。

 

 こんなのは突拍子もない話だ。お世辞にも理性的な解釈だとは思えない。それでも尚、信じたいという気持ちは、この胸の中に確かにあって。

何より、それだって紛れもなく、私自身の考えに他ならないのだから。

 

(──ほんとうに、ありがとう)

 

 悪戯っぽい顔で彼の頬をつつく由比ヶ浜さんと、それをやめさせようと騒ぐ一色さん。

 そんな彼女達の日常を守ってくれたかもしれない誰かに向かって、心の声の告げるままに、私は感謝を捧げたのだった。

 

 

 




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■34話 ここでこうしている理由

 

《---Side Hachiman---》

 

 

 本日の太陽はいつにも増して撤収が早いようだ。気がつけば日の当たる時間は終わりを告げ、窓には色気のないカーテンが引かれていた。おかしいな、さっきICUを追い出されたばかりだと思ったのだが…。

 スタンドによる攻撃か、はたまた永遠(クローズドクロック)の使い手が潜んでいるのか。個人的には後者だったら嬉しい。KAWAII イズ ジャスティス。

 

 個室に入院するのは初めてだったが、どうやら思っていたほど良いもんじゃないらしい。家具もほとんどない空間にぽつんとベッドが置かれた景色は、どこか霊安室を彷彿とさせる。さっきまでは女子が三人で文字通り(かしま)しかったのだが、居なくなってしまうと静けさが一層際立っている。

 

 ゆらゆらと室内を揺蕩(たゆた)い、自分の寝顔を視界に納めながら、俺は物思いに耽溺していた。

 

 

 それにしても、まさか一色があんな方向に進化を遂げるとはな。黒化(ニグレド)の素養があるとしたら、絶対に雪ノ下の方だと思っていたのに。過度のストレスにより変異してしまったのだろうか。エロはすなら大歓迎だが、クロはすは遠慮させて頂きたい。なんなら天使のようなシロはすの方が──うーんいまいちピンと来ないな。

 

 ともかく、強襲が未遂に終わったのは不幸中の幸いだった。あの程度のハサミを突き立てたところで大した怪我にはならないだろうし、そもそもこちらが純粋な被害者ではなくなってしまう。

だから、花瓶が()()()()()()のは本当に運が良かったのだ。

 

…ん? お前が倒したんじゃないのかって?

 

 そうだな、それなら今回やられっぱの俺でも少しは格好がついたんだろうけど。残念ながら、俺じゃない。

 あの世に片足突っ込んでるかも知れない今になっても、結局新たなスキルが発現したりはしなかったのだ。ちゃんと試したから間違いない。いくら睨んでも後輩のスカートすらめくれなかった…ガッデム!

 

 前に水見式を試したときは、浮かべた葉っぱがほんのちょっぴり動いたんだよ。だから多少なりとも操作系の素質があるんじゃないか、とか密かに期待してたのに、ほんとガッカリだわ。

 まあ真面目に考えてみれば、あのやり方で葉っぱがピクリとも動かない方が不自然なんだけどな。我ながら(ゼツ)が上手過ぎるもんだから、ひょっとしたらと思ってしまった。俺達の日常において、現実は何となく超絶(スーパー)になったりしないのである。

 

 

 閑話休題──

 

 

 一色のかいしんのいちげきを阻止した花瓶の件だが、種を明かせば実につまらないオチだ。

 ほら、空き缶とか入れといたビニール袋が後で突然ガサッってなって、「えひっ…たたたターンアンデッド!ターンアンデッドォ!」ってなることあるだろ。あれあれ、あんな感じ。要するに、アグレッシブ過ぎたフラワーアートが時間差で崩れ、不安定だった花瓶を巻き込んだのだ。

 誰かさんは『大は小を兼ねる』とか誤魔化していたが、どちらかと言えば小が大を兼ねなかった結果だな。結果的にいろはすの仕掛けたセルフタイマーが効果を発揮しただけなので、ああも見当外れの感謝をされてはこちらとしても据わりが悪いのだが──あの時の剣幕を思えば、テンプレ美談で有耶無耶にした雪ノ下達を責めるのは酷というものだろう。

 

 真の美形の力というのは単に異性を惹き付けるに留まらず、真剣な表情にも迫力が宿るものだ。だから真顔で睨まれると超怖い。実際、雪ノ下や由比ヶ浜も、怒ったときにはかなりの重圧を発することが既に実証済みである。

 一色も時折ゾッとするほど冷たい声を出すことはあったが、作り笑いというフィルターがどれほど重要な役目を果たしていたのか、今回身に染みて理解した。表情を完全に殺したいろはすのプレッシャーは、そのまま人も殺しかねない。

 あれほどの殺気をモロに浴びたのだ、西山の精神にはハサミや女性に対するトラウマが少なからず刻まれた事だろう。美容師のお姉さんが背後でチョキチョキ鳴らせば最大限のシナジー効果が狙えるかもな。メシウマメシウマ。

 

 

──コン、コン──

 

 

 部屋の扉をノックする音によって、俺の思索タイムは終わりを告げた。食事に行った女子連中が戻ってきたのだろうか。それにしては話し声も聞こえなかったが…。

 

『──御免下さい。総武高校の平塚です』

 

 噂をすれば…というわけでもないが、訪問者は平塚先生だった。この時間だと定時上がりからの直行だろうか。なかなかホワイトな職場ですねと言ってやろうかと思ったが、今の彼女の状況を思えばブラックユーモアにしても皮肉が利き過ぎかと思い、自重した。

 

「…なんだ、一人とは珍し──いや、失言だったな」

 

 ほんとだよ。

 そのフォローが失言だよ。合ってるけど。

 

 病室へ入ってきた平塚先生は、脱いだコートを膝の上に抱え、ベッドの側のスツールに腰を下ろした。ハンドバッグをごそごそと漁り、「土産だ」とジュースの缶を取り出してみせる。現れたるは黄色と黒の警戒色が目にも優しい、懐かしの我がソウルドリンクだった。

 嬉しい。嬉しいんだけど…ごめんなさい、こういうときどんな顔をすれば以下略。とりあえず笑っていいですかね。プゲラ。

 

 彼女はプルタブを開け、手にしたそれをワンカップよろしくグイッと(あお)った。って自分で飲んじゃうのかよ。何の嫌がらせですか?

 

「…うぷ……よく飲むなこんなもの…胸焼けがしそうだ」

 

 飲まず食わず、ひたすら点滴が続いている俺の好物をわざわざ目の前で干した挙げ句、更に酷評までしてみせた彼女は、それでも残りを一気に流し込み、げふっと空気を漏らした。

 

「病院で酒というわけにもいかんしな…。ほら、ちゃんと君の分もあるぞ」

 

 バッグからは同じ缶がもうひとつ現れる。片手でカキッとやると、それを据付けのテーブルにそっと置いてみせた。

 ああうん、スタイリッシュで大変結構なんですけどね。でもこのお作法、見舞いっていうより墓参りでしょ縁起でもねーな! そこは開けなくて良いんだよ、後でちゃんと飲むんだから。

 

 彼女はしばらく缶を眺め、記された成分表示に顔を(しか)めていたが、やがてふっと苦笑いを浮かべた。

 

「…しかし、雪ノ下には参ったよ。急に会議の場に乱入してきて、何を言ったと思う?」

 

 ああ学校は再開してたんですねーとか、あいつらさっきの見舞いは授業フケて来てたのかなーとか、なのにわざわざ殴り込みに戻ったのかーとか、突っ込みどころが山盛りなんだが…とりあえず一言だけ。

 

 何してんだアイツ。

 

「教師一人の責任を糾弾するなら、学校側としての対応に根本的不備がなかったかどうかを県議会に掛けるよう、陳情させてもらう──とさ。全く…教師を脅す生徒とは、前代未聞だな」

 

 マジで何してんだアイツ…。

 

 雪ノ下がそんなことを言うなんてな。いろはすの変異に呼応して、とうとう姉化が始まってしまったのだろうか。胸周りの特性は変化の片鱗すら見せていないというのに、成長とは斯くもままならないものなのか。

 

「彼女の発言が現実的なものかどうかは、この際どうでもいいんだ。ただ、あの雪ノ下が自分から親の名前を使ったという事には本当に驚いて…その、不謹慎ながら、嬉しく思ってしまったよ。聞いたぞ、君が仕込んでいたそうじゃないか。随分と頼られる男になったものだな」

 

 ねえちょっと、何でそこで俺の名前が出てくるの?議会に刺客を送り込むとかどこの暗黒卿ですか。

 雪ノ下め、勢いで飛び込んだはいいけど怖じ気付いて、俺の入れ知恵って形にしやがったな。そういうのは"頼る"じゃなくて"なすりつける"って言うんだよ。

 

「身体を張って一色を守ったお前に、感じるものがあったのか…それとも単に毒されたかな」

 

 毒されたて…。でも確かに、あいつら俺の血にジャブジャブ触ってたっけな。もしも比企谷菌なる病原体が実在するのなら、完全に手遅れに違いない。やっぱり感染したら俺みたいな性格になってしまうのだろうか。モテないことを全力でお前らのせいにするような、めんどくさい女になってしまう、恐怖のウィルス。…微妙にどこかで聞いたような症状だな。

 

 

「──なあ比企谷」

 

 声色を改めた平塚先生は、教師の顔をしていた。

 

「私はな、約束は守る方の人間のつもりだ。常にそうありたいと思うし、だから他人にもそれを求めている」

 

「いつか言ったな、君達の心と身体を守れと。なのにこのザマは何だ。心も身体もボロボロじゃないか」

 

 いやはや、返す言葉もない。

 一色はおろか、他の人間にまで負担をかけてしまっている。平塚先生にだって、こんなに気を掛けてもらっているのに、迷惑を掛けることしか出来ていない。今回に至っては完全に恩を仇で返してしまった形だ。

 

『──君のやり方では、本当に救いたい相手を救うことは出来ない』

 

 ふと思い出した、いつかの忠告。

 

 奉仕部に助けを求めてきた一色を見て、確かに俺は、何とかしてやりたいと思った。助けてやりたいと思ってしまった。例えそれが父性に由来する保護欲のようなものであったとしても、これまでの俺の活動にはなかった、能動的な感情であったと思う。

 だからなのだろうか。そんな思いを抱いた結果が、これなのだろうか。確かに、いつだって満点とはほど遠い成果だったことは認めよう。それでも、ここまで上手く行かなかったのは初めてだった。

 強く願うほどに、相手は救いから遠ざかってしまう。そんなジレンマを抱えたヤマアラシが奉仕部を名乗っているだなんて、まるで出来の悪い童話のようではないか。

 

 そんな鬱々とした俺の自虐が聞こえたわけでもなかろうに、平塚先生は励ますような口調でこう続けた。

 

「だがまだ挽回は可能だぞ。たった一手で全て覆る」

 

 凄いな、本当ならまさに神の一手ってやつだ。そんな都合のいい話があるのなら、是非とも教えて頂きたい。とは言え、こんな体たらくでは、その一手さえも打てないのだが…。

 

「君は身体を治せ。とっとと目を覚まして、いつものように減らず口を叩け。そうすれば一色の、そして皆の心も救われる。そら、ハッピーエンドだ」

 

 ああ、それなら俺にでも出来るかもしれないな。なんせ食って寝るだけの簡単なお仕事だし。

 だけどそれって、自分で掘った穴を埋めるようなもんじゃないのか。マイナスがゼロに戻っただけ。失ってはいても、何も得られてはいない。そんなんで本当にハッピーエンドと言えるのだろうか。

 

「君には責任がある。何なら義務と言ってもいいだろう。これは君が為すべき事であり、君にしか果たせない事だ」

 

 しかし、そんな穴を開けてしまった俺だからこそ責任があるのだと、彼女は言った。

 

「自分の尻くらい拭いてみせろ。男の子だろう?」

 

 手を伸ばし、横たわる俺の前髪を指先で弄びながら呟くようにして、彼女は言葉を紡ぐ。優しい叱咤が耳に心地よく沁みてくる。

 

 そうだよな。立つぼっちは跡を濁さない。常識だ。

 仕方ない、もう少しだけ頑張るか──。

 

 そんな風に腹を括った途端、唐突な眠気が俺の意識を揺さぶった。まるで夜更かししちゃった月曜の朝の布団のような(こう言っちゃうと大したことなさそうだな)、とにかく抗いがたい、強烈なヤツだ。

 今の俺はずっとWi-Fiしてたみたいなもんだろうし、そろそろバッテリー的なものが切れてきたのかもしれない。しかしこのまま意識の手綱を手放してしまうと、セーブデータ消失の可能性がありそうだ。早いとこ本体に接続してしまおう。

 

 …あれ、これどうやって戻んの?

 復活の呪文とか唱えないとダメかしら。

 よーし、そんなら──これでどうだ。

 

 鏡よ鏡、八幡に力を!

 世界に輝く一面にょ──ああくそ噛んだ!

 

 どういうわけか、目を覚ましたいと強く思う程に、泥沼のような眠気に意識が引きずり込まれていく。まごついている間に視界に黒い(とばり)が降りてきて、遂には何も見えなくなってしまった。

 

 くそっ、エピローグくらい最後まで見せろよ。

 走馬灯だってまだじゃねえか。

 

 嘘だろ…これで終わりとかマジでないわー…。

 

 ………。

 

 ……。

 

 …。

 

 

 ………あいつ、どうなったかな──。

 

 

 

 

 

《---Side Iroha---》

 

 

 先輩の病室はビジネスホテルのような作りになっていて、入り口の側にはシャワールームがついている。お世辞にも広いとは言えないその個室の中で、わたしは鏡に向かってムニムニと顔を揉みほぐしていた。

 

「ひっどい顔…。先輩が起きる前に治るかなぁ…」

 

 メイクで隠しきれないクマと、冷やすのが追い付かないほど腫れっぱの目蓋。今のわたしは自分史上、かつてないほどに不出来ないろはだった。

けれど、これでもさっきよりは随分マシになったのだ。先輩方に二人掛かりで慰められ、一緒に食事をして、先輩のところに戻るのだからとなけなしの気合いを入れて、それでやっとここまで漕ぎつけた。

 

 早く目を覚まして欲しい。

 

 でも、こんな顔だけは見られたくない。

 

 胸を張って先輩の目覚めに立ち会えるよう、せっせとマッサージを続けていると、病室のドアを叩く軽快な音がわたしの意識を引き戻した。

 

(このノックの仕方って…)

 

 音のカンジから、誰が来たのかはすぐに目星がついた。けれどさっきの一件が喉に引っ掛かって、上手く声が出ない。もしもまたあの声が聞こえたら、次こそどうにかなってしまうかも。

 

 やがて静かに戸が引かれる音がして、革靴が床を叩く音が部屋に入ってきた。

 

「──おっ、珍しく独りじゃん。うんうん、これでこそお兄ちゃんって感じだよねー」

 

 思った通り、聞こえてきたのは先輩に話しかけるこまちゃんの明るい声だった。彼女はわたしに気付かずにシャワールームの前を通り過ぎ、部屋の奥へと進んでいく。ここに居ることを教えようと思ったのに、開いた口からは声にならない吐息が漏れただけだった。どうやら怒り以外にも、この身体を縛るものがあったみたい。

 

(負い目…なんだろうな…)

 

 正直なところ、わたしはこまちゃんの目を見るのが怖くて仕方がなかった。そんなことはないって分かっていても、どれだけ彼女が優しく気を遣ってくれても、彼女の目に映ったわたし自身が、わたしの罪を糾弾してくるから。

 逃げ場を失って、ついついその場で息を潜めてしまう。こんなんで見つかったりしたら、ますます肩身が狭くなってしまうというのに。

 

(でも…合わせる顔なんて、ないよ…)

 

 今さらノコノコと出ていって、彼女と二人きりになるのも耐えられない。結果、臆病者のわたしは「何もしない」という選択肢を選ぶしかなかった。

 ぽつぽつと小さな声で、こまちゃんが先輩に話しかける。自然と聞こえてくる声に、黙って耳を傾ける。

 

 

 

「っとに、ごみいちゃんたら…どんだけ心配かけたら気が済むの? 小町、来週もう受験本番なんですけどー」

 

「でも小町が落ちたら、多分お兄ちゃん落ち込むよね? 俺のせいでーとか言って」

 

「…まー実際、落ちたら100パーお兄ちゃんのせいだけどね?」

 

「てか、どうせすぐ起きるでしょ? そんでウジウジ自分責めてるお兄ちゃんの相手するとか超めんどくさいし」

 

「…だから小町は受かるよ。絶対、合格してみせる」

 

「あ、あはっ! 今の小町的にポイントたーかいー♪」

 

「──そんなわけでー、小町は小町のやるべきことをするから、お兄ちゃんはお兄ちゃんの仕事をすること!」

 

「寝て起きるのが仕事とか、ほんっといいゴミ分だよねー」

 

「合格、雪乃さんと結衣さんと、それにいろはさんと。みんなにお祝いしてもらわなきゃなんだから」

 

「それまでには何があっても起きてよね。…バカ」

 

 

 ──。

 

 入ってきた時と違い、ガラリと威勢よく引かれた戸の音を聞いてからしばし。わたしはそっと、シャワールームから顔を出した。

 

 さっきまでわたしが使っていたスツールが、少し移動している。きっと彼女が座ったんだろう。恐る恐る、そこに近付いてみる。

 

 先輩の枕元──清潔そうなシーツの上に、いくつもの滴の跡が描かれていた。

 

「──っ…!」

 

 分かっていた。

 

 見えてはいなくても、聞こえてはいたのだ。

 

 彼女の一方的なお喋りは、ずっと涙に震えていた。

 

 わたし達の前で泣かないと言い切った彼女。確かにこまちゃんは、人前で涙を見せたりしなかった。先輩が集中治療室に入れられた時も、泣いているわたしの背中をずっとさすってくれていた。大事なお兄さんを傷つけられた、そんな彼女の気持ちに目を向ける余裕すらないわたしの側に、ずっと寄り添っていてくれたのだ。

 

「ごめん、こまちゃん…ごめんなさい、先輩……」

 

 みるみるうちに涙が溜まってきて──

 

 けれどここへきて初めて、わたしは涙を流すということに対する抵抗みたいなものを感じた。

 中学生の彼女があんなに我慢しているのに、年上の──しかも半分は加害者みたいな立場の自分が、真っ先に泣き散らかしているだなんて。そんなこと、許されるはずがないではないか。

 

 唇をギュッと引き結び、目尻に力を込める。既に溜まった涙がポロっと零れたけど、指で掬って見なかったことにする。

 

 はるさん先輩が言った。

 泣いてる暇があったら、出来ることをやれって。

 

 平塚先生が言った。

 わたしの力は、すぐに必要になるって。

 

「今なら、やれること、ありますよね…」

 

 もう一度だけ目尻を擦ってから、先輩の寝顔をじっと見つめる。

 穏やかな吐息が僅かに聞こえてきて、わたしは胸に暖かなものが溢れてくるのを感じた。

 

 

 

 

《---Side Yui---》

 

 

「うーん……」

 

 ヒッキーの入院している病室。

 その扉に手をかけたまま、あたしはなんて言って入るのがいいか、あれこれと考えていた。

 

 あれから、みんなで一緒にお昼を食べて、だいぶ落ち着いた様子のいろはちゃんが病室に戻ったのを見届けると、ゆきのんはそのまま学校に行ってしまった。ちょっとヤボ用があるからって言ってたけど、なんなんだろ。

 あたしはまだそういう気分になれなかったし、さっきはあんまりヒッキーの顔も見れなかったから、こうしてまた病室まで戻ってきたのだ。

 

 部屋の中にはいろはちゃんも居るはずなのに、人の息遣いみたいなのをほとんど感じない。なんとか愛想笑いが出るくらいには持ち直してたカンジだったけど、やっぱりまた塞ぎ込んでるのかも。

 こういう時は神妙な顔して静かに入るのが正解かもしれないけど、あたしの役割って、たぶんそういうんじゃないと思うんだよね。

 

…というワケで、ひとつ気合い入れてぇ──

 

「どーん!」

 

 ノックもせずに、目の前の扉を勢いよく開けた。

 ビックリでもなんでもいいから、とにかく俯きっぱなしの顔を上げて欲しくて。だから子供っぽいと思いつつ、出たとこ勝負でやってみた。

 

「やっはろー、ヒッキー! いろはちゃー…」

 

 みたんだけど──。

 

「あ」

 

 病室の中を見たあたしは、目の前の光景に言葉が出なかった。なんかちょっと…ううん、かなり想像してたのと違う。

 

 いろはちゃんは、なぜかヒッキーのベッドの上に乗っかっていた。寝ている彼のズボンに手を掛けたまま、目をまんまるにして固まっている。なんとなく、ゴハンの途中で背中を叩かれたネコみたいだなって思った。

 

「ゆ、結衣先輩…?」

 

「えっと……」

 

 あ、あわわわ…。

 こ、これはどーゆー状況なのかな?

 ひょっとして、そーゆー状況、なのかな?

 

「…ハッ!お、お邪魔だったかな…?」

 

「い、いえいえー、お構いなくですー」

 

 戸口とベッドの上で、それぞれ固まったまま、愛想笑いを交わす。

 

「も、もー! 最近あたし、ダメダメだよねー! 空気読めないだけじゃなく、タイミングまで悪いなんてさぁ…」

 

 あははー、と苦笑いしながら回れ右をし、そそくさと病室を後に──って違う違う、もひとつ回れ右!

 

 結局その場で一回転してから、あたしは力の限りにツッコんだ。

 

「いや構うよ! 何やってんの!?」

 

 

* * *

 

 

「すみませんでした」

 

「う、ううん…こっちこそ…」

 

 ベッドを挟んで二人向かい合い、あたし達はペコペコと頭を下げあっていた。

 

 どうやら彼女は、ヒッキーの身体をタオルで拭くために下を脱がそうとしていたみたい。男子のズボンをひっぺがすのに十分な理由かってゆーと微妙なんだけど、少なくともあたしが考えたみたいな、その──そういうコトをしようとしてたワケじゃなかった。一人で想像して騒いじゃって、超恥ずかしいデス…。

 

「興味がないと言えばウソになりますけど、どうせならちゃんと反応ある時がいいですよね」

 

「同意求められても困るよ…」

 

 いろはちゃんは最初こそビックリしていたものの、今はすっかり落ち着きを取り戻していた。上半身はもう拭き終わったって言ってたけど、二人っきりでヒッキーの裸に触ってたってコトだよね。さっきやけに静かだったのって、いま思えばホントに()()()の最中だったんじゃ──って、勝手な妄想はこのくらいにしておいて。

 

「いろはちゃん、やっと元気出てきたみたいだね」

 

「この流れで頷くのは、まるでエロの化身みたいでちょっと心外ですけど…はい、お陰さまで」

 

 笑顔を浮かべた彼女からは、確かなエネルギーみたいなものを感じる。それはさっきまでの空元気なんかと比べても、明らかに違うものだ。

 

「メソメソしてても時間が勿体ないですから。それにもう、泣きすぎて涙も打ち止めって感じです。干上がっちゃいました」

 

「なんか久しぶりに笑ってるとこ見た気がする」

 

「わたし、笑えてますか? やっと前向きに頑張ろうと思えるようになったばっかなんですけど」

 

「んー、言われればまだ少しぎこちないかな。疲れてるんだよきっと。落ち着いたなら自分ちで寝た方がよくない? ヒッキーが心配なら、あたし泊まるし」

 

 考えてみれば、屋上の事件がおきてからずっと、いろはちゃんは家に帰っていない。いくらここでもシャワーを浴びられるからって、疲れもそろそろ限界なんじゃないかなー、とかとか。

 

「それはそうなんですけどねー。でも、どうせ家に帰っても眠れないと思うんですよ。夕べは何度もフラバっちゃって、ちょお大変でしたし」

 

 てへへ、といろはちゃんはほっぺをかいてみせる。

 笑い話にしようとしてるけど、やっぱり心の傷はかなり深いんだろうなぁ。

 

「そっかぁ。寝れないのはツラいよね…」

 

「あっ、でもでも、たぶん今夜は大丈夫です。こうしてれば眠れるって分かりましたから!」

 

 そう言って、いろはちゃんはヒッキーの手を取ってみせる。まるで愛用のぬいぐるみを抱き寄せるような自然な仕草だった。

 この状況ならそうなっちゃうのも分かるんだけど、優しげな目をして両手でスリスリされると、さすがに胸がモヤモヤしちゃって素直な言葉が出てこない。

 

「その…お、おうちの人には、何か言われたりしないの? 泊まりっぱだとさ」

 

「いえ、そっちは別に。母も仕事柄、常に似たような生活してますし。そもそも父と出会った切っ掛けがちょうどこんな感じだったらしくて、逆に頑張ってお世話しなさいって言われてるくらいです」

 

「へ、へぇ~…」

 

 ぐぬぬ…親公認とか…。

 いや、うちのママだって、ヒッキーの看病したいって言えば、応援くらいしてくれるとは思うけどさ。

 

「そっかー。それなら良いんだけど…。ちょっと痩せたみたいだから、気になってさ」

 

 これはウソじゃない。いろはちゃんはもともと小柄だけど、ここ数日でさらに一回り小さくなったように見える。このカンジだと、たぶん3キロ以上減ってるんじゃないかな。

 

「えっ、ホントですか?それなら派手に泣き散らかした甲斐もありますね。大丈夫ですよ、太るのは一瞬ですから。スイパラにでも行けば一日でお釣りが来ます。今度一緒に行きましょう」

 

「えーヤダよー。あたしそんなに痩せてないし」

 

 あそこ、キャッチコピーが怖すぎて行ったことないんだよね。『5kg太ろう!』ってなんなの?それ、女子に死ねって言ってるよね?

 

「でも、結衣先輩こそ、おっぱい一回り小さくなったような気がするんですけど」

 

「あ、分かっちゃう? そうなんだよねー痩せる時ってまずここから小さく…ってなに言わせるの!?」

 

 それまでの気安い笑顔をふっと引っ込めて、いろはちゃんはあたしの目を覗き込んだ。

 

「そのままお返ししますけど、ちゃんと寝てますか? 結衣先輩が責任を感じることはないんですから」

 

「それは…ちょっと無理かな、あはは…。あたしが悪くないなら、誰が悪かったのってカンジだし」

 

 だって、あの時一緒に居たのはあたしだから。あたしがいろはちゃんをひとりで行かせたりしなかったら、きっと誰も泣かずに済んだはずだから。

 

「決まってます。わたしです。わたしのせいですよ」

 

「ううん、いろはちゃんは被害者だもん…」

 

 自分が悪い、いや自分の方が──。

 

 昨日も繰り返した、このやりとり。

 きっとまた飽きるまで悪役を奪い合うんだろうな。

 それで少しでも気が紛れるんなら、いいのかな…。

 

 内心でそんな風に考えていると、

 

「…ごめんなさい、結衣先輩。わたし今からちょっと空気読めないこと、言わせてもらいますね」

 

 いろはちゃんは、これまでとは雰囲気の違う答えを返してきた。

 

 思ってたのとは違う反応に顔を上げると、パッチリと開かれた大きな目があたしを真っすぐ見つめていた。さっきの明るいカンジとも違う、ゆらゆら揺れる炎みたいな瞳。見ているとどうしてか怖くなってきて、思わず目を逸らしたくなった。

 

「もちろん、気を遣って頂けるのは凄く嬉しいです。ホントに感謝してます。けど、わたしは別に、自虐的な意味で自分の責任だって言い張ってるワケじゃないんですよ」

 

「え…?」

 

「だってあの時、わたしは(さら)われたわけでも何でもなくて、自分で判断した上でアイツについて行ったんです。そんなの、どう考えたって自分の責任じゃないですか。それなのに、こんな状況になってまで、お前には責任がないだなんて言われたら…なんだか、まるで──」

 

 そこで目を伏せたいろはちゃんは、悲しそうに、そして心から悔しそうに、声を絞り出した。

 

「わたしだけ、一人前って認められてないみたいじゃないですか…」

 

「あ……」

 

 あたしは──あたし達は、大きな勘違いをしていた。

 いろはちゃんは自分を責めて、その責任で潰れちゃうんじゃないかって、そればっかり。耐えられる強さをもっているだなんて、最初から考えてもいなかったんだ。

 

「すみません、せっかく慰めてもらってるのに、生意気言ってますよね…。でも、わたしだって子供じゃないんです。誰よりも責任を感じますし、そうする義務と、そうする権利があると思ってます」

 

 責任を感じる権利。

 

 そんなもの、普通なら頼まれたって欲しくない。

 けど、言われてみると、すごくしっくりくる表現だった。

 

「はるさん先輩だけでした。あのひとだけが、わたしの責任を認めてくれました。だから、すごく怖かったけど、逃げずに頑張ろうって思えたんです」

 

「そっか…。そう、だよね」

 

 どうして怖いって感じたのか、やっと分かった。

 だって、いろはちゃんの目に込められてたのは、不満、悔しさ、それに怒り──当然の権利を取り上げて、未だに自分を恋敵として認めないあたしに対しての、真っ直ぐな敵意だったんだから。

 

「ごめんね。…ごめんなさい」

 

 謝罪の言葉は自然と口から溢れてきた。

 

「…きっとあたし、まだいろはちゃんのこと、どっかで子供扱いしてたんだと思う。ゆきのんみたいに同じとこに立ってるライバルじゃなくて、後から追いかけてくるだけの後輩だと思ってた。でも、違ったんだよね」

 

 ヒッキーが助けたのはいろはちゃんで、助けられたのはいろはちゃん。一番心配する権利があるってゆうの、ホントにその通りなんだと思う。なにより、もしもあたしが同じ目に遭ってたら、きっとこんな風に感じただろうから。

 

「謝らないでください。ただの我が儘なんですから。ただ、結衣先輩にだけは、改めて知っておいて欲しかったんです。わたしがここでこうしている理由が、罪悪感だけじゃないんだって」

 

 正直、いろはちゃんの反応は見方を変えれば少し行きすぎている面もあって、だからこそ、それだけ抱え込んでいるのかなって思ってしまった。そうするだけの理由があることを、少なくともあたし達は知っていたはずなのに。

 

 耳に掛かった髪の毛をすくいながら、いろはちゃんは少し長いため息を吐いた。鋭い視線が重たげなまぶたにさえぎられ、射すくめられるような緊張感が消えていく。

 

「…最悪ですね、わたし。いま言うべきことじゃないのはよく分かってるんです。こんな形で認めてもらうつもりなんて、無かったのに…」

 

「あたし、同じ立場なんだから、ちょっと考えたら分かりそうなものなのに…。ぜんぜん気づかないとか情けなさ過ぎかも…」

 

 もう何度目かも分からなくなった、重苦しい息を吐く。

 ここ数日の間に、いったい何年分の幸せを逃がしてしまったのだろう。そんなとりとめもないことを考えていると──

 

「結衣先輩っ」

 

 いろはちゃんは、スイッチでも切り替えたみたいに、いつものような明るい声を出した。

 

「わたしの方からけしかけておいてアレなんですけど、この話、しばらく預けてもらえませんか?」

 

 彼女の向けた視線の先には、ベッドで静かに寝息を立てるヒッキーの姿があった。

 

 確かに、容態(こっち)の方が気になっちゃって、今はあんまり冷静にはなれそうもない。それに、ヒッキーが元気になれば避けては通れないのだ。少し気持ちを整理する時間も欲しいし、その提案を断る理由はなさそうだ。セリフを取られちゃった感はあるけど、こんなお通夜を続けるくらいなら、喜んで乗らせてもらおう。

 

 あたしは、今度こそ目を逸らさずに、彼女の視線を受け止めた。

 

「…うん。近いうちに」

 

「はい、必ず」

 

 お互い、ぜったいに逃げないように。

 それと、早く良くなるようにって願掛けもかねて。

 眠り続ける本人の前で、あたし達は密かな約束を交わしたのだった。

 

「…これって、宣戦布告かな?」

 

「もう始まってたじゃないですか。休戦協定ですよ」

 

「そっか。あははっ、そだね!」

 

 半分冗談のつもりだったけど、いろはちゃんの方は十分過ぎるくらいのやる気に溢れていた。

 あたしが目指してるのって、たぶんいろはちゃんとは少し違うゴールなんじゃないかって思うんだけど…そーゆー話もまた今度、だね。

 

 しっかし、ゆきのんだけでも難しいのに、ホントどうしたもんかなぁ…。

 




 
やっと終わったぁぁああ!



めんどいパートが。


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■35話 亜麻色の髪の暴君

休載中も感想・お気に入り頂きまして、皆様本当にありがとうございます。
大変長らくお待たせしました。それでは続きをどうぞ。



 

《---Side Yukino---》

 

 

「体調が優れないので、申し訳ありませんが早退させて下さい」

 

 授業を遮って突然挙手した私の一方的な申請は、教壇に立って浪々と英文を読み上げていた壮年の男性教諭によって、実にあっさりと受理された。

 

 クラスメイトの物問いたげな目が身体にまとわりついてくる。校内を駆け巡っている噂を聞きつけ、色々と想像を捗らせているのだろう。そんな視線をまとめて軽い会釈で断ち切ると、私は手早く荷物をまとめ、しかし幾分重たげな足取りを演出しながら教室を後にした。

 

 

 事件の日から数えて三日目。

 

 そろそろ実家の雲行きが不穏になってきたという姉さんの助言(タレコミ)に慌てて出席したものの、まさかこんな短い間に二度も仮病を使う事になろうとは。これで変な噂でも立とうものなら本末転倒というものなのだけれど──。

 

(今度ばかりは、みんな嘘だと気付いたかしら…)

 

 ともあれ、してしまった事を悔やんでも仕方がない。いくら私でも、()()()()()を貰っておいて素知らぬ顔を貫けるほど、面の皮は厚くないのだから。

 

────────────────────

From  : 比企谷 小町

To   : 雪乃さん, 結衣さん

Subject : 意識が回復しました

 

おはようございます。

 

先ほど、兄が目を覚ましました。

お医者さんの話では、身体の方は問題ないようですが、ちょっと困ったことになっています。

お時間がありましたら、一度病院まで来て頂けるととてもうれしいです。

────────────────────

 

 さっき届いた小町さんからのメール。この文面を見た瞬間、私は思わず教室の中でガタリと椅子を鳴らしてしまった。すわ何事かと集まる衆目を咳払いで逸らし、必死に澄まし顔を取り繕っていると、すかさずもう一通。先のメールを待ち構えていたとばかりに、二通目のメールが飛び込んできたのだった。

 

────────────────────

From  : 由比ヶ浜 結衣

To   : ゆきのん

Subject : No title

 

すぐいこげんかんまつてる

────────────────────

 

 装飾過多な普段のそれとは打って変わって、最低限の体裁すら見失ってしまった様な一文。そんな彼女の言葉は、そわそわと背中を揺らしていた私の迷いを小気味良く吹き飛ばしてくれた。

 

 

* * *

 

 

 

「ありがと…ごめんね」

 

「別に、皆勤賞が掛かっているという訳でもないから」

 

 少しだけ申し訳なさそうに眉を下げ、それでも信頼の光を湛えた由比ヶ浜さんの眼差し。それを正面から受けきれず、格好の悪い照れ隠しを吐きながら、二人揃って玄関をくぐる。グラウンドに響く教師の声に少し足を忍ばせつつ、私達は校門へと向かった。

 

「うーん、この時間だとバス微妙だー…」

 

 由比ヶ浜さんがスマートフォンを弄りながら困惑の声を出している。通勤や通学の時間帯以外では、このあたりのバスの間隔はあまり短くない。いや、車の前にそもそも人が通り掛かる気配すら無かった。昼間の学校近辺なんてものは、大抵こんな状態なのかもしれない。

 

「これはタクシーを呼んだ方が良さそうね」

 

 携帯を開いて番号を探していると、

 

「あ、ラッキー! 来たよ!」

 

「えっ?」

 

 幸運の星ならぬ、星型の装飾をルーフに飾った一台のタクシーが、折よく曲がり角から姿を現した。

 

「おーい、乗りまーす! 乗せてー!」

 

 青になった瞬間に飛び出していく小学生の様に、手を上げてそちらへ駆け寄る由比ヶ浜さん。その背を追いかけようとして、ふと足が止まる。

 

(こんな時間のこんな場所に、こうも都合よく…?)

 

 残念ながら「これぞ日頃の行い」と天に感謝できるほど、雪ノ下雪乃という人間は素直ではない。思うところがあって、私は校舎を振り返った。

 

 自分の教室ではない。

 由比ヶ浜さんの教室は、あの辺りだろうか。

 

……やっぱり。

 

 遠目でも目立つ白衣の女性が、窓際で腕を組んでこちらを見守っていた。

 向き直って深く頭を下げてから、私を呼ぶ声の方へと走る。

 

「ゆきのーん、早く早くー!」

 

「ええ」

 

 返す言葉もそこそこに車内へと乗り込み、行き先を告げる。

 

「超特急でお願いします!」

 

 身を乗り出した由比ヶ浜さんが無茶な要求を口にしても、それを咎める言葉は出てこない。安全運転の念押しが出来るほど、私の心にも余裕がある訳ではないらしい。

 学生二人が昼間から病院へ急いでいるという状況に非日常を感じ取ったのか、運転手は浮かべかけた営業スマイルを引っ込めると、短い返事と共に手際よく車を動かした。

 

 

* * *

 

 

「やっば! ゆきのん、忘れてた!」

 

「…もう。運転中に大声を出しては迷惑よ?」

 

 発車からしばらくして、由比ヶ浜さんが急に顔をはね上げた。

 

「忘れ物なら後で取りに戻りましょう」

 

「そうじゃなくて、いろはちゃん! 置いてきちゃった!」

 

「あっ」

 

 言われて、それが実に致命的な忘れ物であることを把握する。

 

 何故こんな当たり前の事を失念していたのだろう。いくら急いでいたとは言え、よりにもよって彼女を意識の外に置いていたとは、我ながら度し難い。

 

「も、戻った方がいいかな?」

 

「……いえ」

 

 思い返してみると──先のメールの宛先に、はたして彼女の名前はあっただろうか。私は小町さんからのメールを読み直し、自分の記憶違いでない事を確認した。

 

「一体どうして…」

 

 小町さんが出し忘れた可能性はとりあえず除外する。彼女がこういった状況でそんな簡単なミスをする人間だとは思っていない。もしもこの状況で、一色さんにだけ連絡しない、あるいはしなくても良い理由があるのだとすれば──。

 

「そもそも一色さんって、今日は出席していたの? まだ落ち着かないでしょうし、来ていないものだと思っていたわ」

 

「ど、どうだろ。そいや、今日はまだ連絡してないや」

 

「もしかしたらなのだけど…彼女、また病院に居るんじゃないかしら。小町さんからのメールに宛名が無かったのも、口頭で状況を伝えてあるからだと考えれば辻褄が合うし」

 

「あー、たぶんそれだ…。昨日話したけど、あんまし帰る気なさそうだったし。どーせ授業なんかさっぱりアタマ入ってこないんだから、あたしも休めば良かったよー。そしたらもっと早く行けたのに!」

 

「あら、まるで普段は集中出来ているみたいな口ぶりね」

 

「うっ…。それはほら…ソレはソレ、コレはコレってゆーか…分かるでしょ?」

 

「冗談よ。これだけ迅速に動けたのなら、立派なものだと思うわ。それに容態が回復したという朗報なのだから、そこまで慌てる必要も無いんじゃない?」

 

 半ば自分に言い聞かせるような内容を発することで、自分の浮き足立った心を徐々に落ち着かせてゆく。

 

「でもさ、こんなんゆわれたら、気になるじゃん…」

 

 メールを読み返す彼女の横顔は優れない。かく言う私も、小町さんから受け取った内容が気になって仕方が無かった。

 何事も無く回復しているのであれば、あんな思わせぶりな書き方はしないだろう。彼女は歳のわりに配慮の行き届いた子だ。不用意に周囲を騒がせるような事をするとは思えない。

 

 逆説的に際立ってくる不安感をかみ殺し、シートに深く身を委ねる。窓から見上げた先には厚い雲が広がっていて、まるで私達の不安を空に描き出してみせたかのようだった。

 

 

* * *

 

 

 病院の玄関を潜った先に広がる正面ロビー。

 そこには、予想通りの人物の姿があった。

 

「いろはちゃん」

 

「あ…おはようございます、結衣先輩、雪ノ下先輩。さすが、お早いですね」

 

 彼女はこちらに気が付くと、刹那のうちに笑顔を浮かべてみせる。安心が半分、虚勢が半分といったところだろうか。あまり上等ではないけれど、作り笑顔も笑顔のうちとも言う。こんな表情が出せるくらいには良くなったと考えるべきなのだろう。

 ただ、引っ込んでしまったさっきまでの素の彼女は、今にも泣き出しそうに見えた。それが小町さんの示唆した懸念を肯定している様に思えて…。

 

「一色さん。貴女──」

 

「こーら、いろはちゃん。またこっちに泊まったでしょ。気持ちは分かるけどダメだってば。疲れて倒れちゃったらどうするの?」

 

「すみません…」

 

 目を伏せて顔を逸らす彼女の顔色は、お世辞にも良いとは言えなかった。よく見ると、いつもよりメイクが濃いのが分かる。きっとまた彼のベッドの側で夜を明かしたのだろう。この場の誰よりも年若い彼女ではあったけれど、流石に隠しきれない疲れが滲んでいる様に見えた。

 

「あ。べ、別に責めてるワケじゃなくて! その、ほら…」

 

「それで貴女が身体を壊してしまったら、今度は比企谷くんが気を病むでしょう。彼、意識が戻ったって聞いたわよ」

 

(ちょ、ちょっとゆきのん! それはさすがに…)

 

(だってこうでも言わないと彼女、ずっと帰らないでしょう?)

 

 些か卑怯だとは思ったけれど、この名前を出せば聞き入れてくれるのではないか。由比ヶ浜さんでは到底口に出来そうにない、打算にまみれた説得に、しかし彼女の口から返ってきたのは、諦念をたっぷりと含んだ苦笑いだった。

 

「あは…。その心配は、ないかもですね…」

 

「いろはちゃん!」

 

 由比ヶ浜さんの叱声がロビーに響いた。そのボリュームに自分でも驚いたのか、気まずそうに口を押さえてから、俯いている彼女に歩み寄って、両肩に手を添える。

 

「そんなワケないじゃん。心配するに決まってるよ。今さら疑うトコじゃないでしょ、そんなの」

 

「…違うんです。違うんですよ、結衣先輩」

 

 (たしな)められ、しかし反省と言うよりは困った様な表情で顔を背ける一色さん。彼女は口を引き結んだままで、さっきの発言を撤回しそうな気配は無かった。

 

「…何か問題があったという話だけれど、もしかしてそれと関係があるのかしら」

 

 悲しげに目を伏せたその表情からは、先程の言葉が謙遜や自嘲といった皮肉めいた感情からではなく、本心から発したものである様に感じられた。比企谷くんが自分を心配する事なんて無いのだと。してはもらえないのだと、彼女は本気で悲しんでいる。

 

「──それ、小町の方からお話します」

 

 掛けられた声に顔を向けると、通路の奥から制服姿の中学生がやってきたところだった。

 

「小町ちゃん」

 

「おはようございます。すみません、お呼び立てしてしまって」

 

「あ、ううん。それはぜんぜんなんだけど…」

 

「お早う、小町さん。早速だけど、何があったのか聞いても構わないかしら」

 

「…立ち話も申し訳ないですし、場所を変えませんか」

 

 この数日で一回り大人びたような印象の小町さん。口振りから察するに、やはり諸手を挙げて喜ぶという訳には行かないのか。結論を急かしたいという気持ちはあったけれど──

 

「…それもそうね」

 

 ここだって、少ないとは言え人目はある。さっきのやり取りで、私達は既に十分過ぎるほど目立ってしまっていた。逸る気持ちを押し殺して、私達は無言で彼女の後を追ったのだった。

 

 

* * *

 

 

『お兄ちゃーん、お友達がお見舞いに来てくれたよー』

 

『ちょっと小町ちゃん、怪我人相手に皮肉はおやめなさい。傷に染みんでしょうが。主に心の方の』

 

『んー、そっちのはここの病院じゃ治んない傷だから。心のツバでもつけといて』

 

『それ遠回しに独りで泣いてろって言ってるだろ…つか結局誰よ? あ、ひょっとしてエア友達のともちゃんか? あれは他人に見えるような低次元の存在じゃ──』

 

 たったの二日。

 ただの週末と変わらない空白にも関わらず、彼の声を聴いた瞬間、私の胸には懐かしさのようなものが去来していた。比企谷くんのベッドはカーテンに覆われ──個室でこのカーテンに何の役目があるのかは定かではないけれど──中からは一風変わった兄妹の喧騒が漏れ聞こえてくる。

 同じ事を感じたのか、見合わせた由比ヶ浜さんの顔も久し振りの笑顔に一瞬だけ綻み、けれどそれも、すぐに別の感情に塗り潰されてしまう。

 

『あーもうグダグダ言ってないで。もう来てるんだから、とっととお見舞われて!』

 

『あのな小町、正しい謙譲語の使い方ってのを──って、え? なにもう来てるの?』

 

「はーい、オープン ザ カーテーン!」

 

 マジックショーの様にシャッと開かれた白布の向こうには、相変わらず死んだような目をそれなりの驚愕に見開いた、見慣れた男子の姿があった。

 ベッドに座る彼の腕には太い点滴のチューブが繋がれていて、既に何度か見たはずのそれが、妙に痛々しく目に写る。小町さんがその粗雑な口調とは裏腹に、甲斐甲斐しく背中へ手を添えているのも印象的だった。

 

「…こ、こんにちは…ではなくて」

 

 間違えた。今は午前中だ。

 

「お早う比企谷くん。お邪魔しているわよ」

 

 どうやら、私もそれなりに緊張していたらしい。私が彼と言葉を交わすのは大抵が夕方。だからこそ、咄嗟に出た挨拶がこれだったのだろう。

 

「……………」

 

 瞬間、室内の空気が一瞬で切り替わったのを肌で感じた。プライベートを他者に侵されたという息苦しい緊張感が、場を急速に満たしていく。

 

「あー、えとその…。ど、どうも…」

 

 頭だけをかくんと下げた彼は、一瞬私と目が合って、しかしすぐにそれを逸らしてしまった。

 

 行動だけを見ればいつも通りとも言えるのだけれど、そこに含まれていた感情の違いに、私はショックを隠せなかった。何より、彼の口から出た言葉は、先ほど小町さんの説明した事案が冗談ではないのだという事を、端的に証明するものだったのだ。

 

「あ、兄の八幡です……」

 

 

× × ×

 

 

「きおくそーしつ…」

 

 それこそ中高生の分の記憶を失って退行でもしたかの様に、由比ヶ浜さんは危なげな呂律でもって小町さんの語った言葉を反芻した。

 

「まあ、わりとよくある話らしいんですけどね」

 

 小町さんと合流した私達はフロントから場所を移し、喫茶コーナーでテーブルを囲んでいる。

 彼女の声は思ったよりも元気そうで、それだけが唯一の救いだった。比企谷くんの回復が医者の見込みよりもずっと早かった為だろう。応急措置のお陰だと何度も頭を下げられて居心地の悪い思いをしたのは、つい先程の話だ。

 

「それって…ここはどこー、わたしはだーれって…あの記憶喪失?」

 

「いえいえ、兄は自分がどこの八幡か、ちゃあんと分かってますよ? 小町のことも覚えてるみたいです。ただちょっと…その、ここ最近の記憶だけ、ごっそりすっ飛んでるみたいで──」

 

「ゆゆゆ、ゆきのんどーしよ。そだ、病院! ヒッキー、病院に連れてかないと…!」

 

「取り敢えず落ち着きなさい」

 

 実の所、この展開は私の予測の範疇にあった。

 

 感染症の件で気を揉まされている間、私はこの手の重傷についてあれこれと調べていたのだ。だから小町さんのメールを元に、いくつかの状況とその対応を先んじて検討しておく事が出来た。では、それが何の役に立ったのかと問われれば──由比ヶ浜さんと一緒になって慌てふためく羽目にならずに済んだ、程度の事でしかないのだけれど。

 ただ、彼女の言葉にはどうにも見過ごせない表現があった。仮に記憶を失ったとしても、事件前後の数日程度の話ならば、『ごっそり』とは言わないのではないか。

 

「最近と言うと、具体的にどの程度の期間なのかしら」

 

 ええと、と小町さんは言い難そうに目を逸らした。

 

「もしかして、事件のこと、覚えてないとか?」

 

「…目が覚めた直後、あの犬はどうなったか、と聞いてきました」

 

「え…?」

 

 その言葉を噛み締め、意味を探る。

 

 "犬"と言えば──。

 由比ヶ浜さんの方へ視線をやると、やはり彼女とのそれとかち合った。

 

「それって──」

 

 忘れようもない、去年の春先に起きた交通事故。それは私達の関係を語る上で欠かす事の出来ないトラブルだった。彼は由比ヶ浜さんの飼い犬を庇って事故に遭ったのだ。その直後だと勘違いしている、という事になる。病院に担ぎ込まれるという状況の類似性が、記憶の混同を招いたのだろうか。

 

「っく…」

 

 しゃくりあげる声の方を見やれば、一色さんがハンカチを目元に押し当てて肩を震わせていた。小町さんの説明に感情の昂ぶりが再燃したのだろう。

 

「そう…。さっきの貴女の言葉、そういう意味だったのね…」

 

 例の事故の直後という事であれば、なるほど私達の関係はまだ始まってすらいない時期だ。随分と長い間、こんな関係を維持してきたようなつもりでいたけれど、改めて数えてみれば、驚くほど短いものなのだと気付かされる。彼が入部してからまだ一年も経っていなかったのか。

 

「………」

 

 由比ヶ浜さんも、無言で指を折っている。その手は微かに震えていて、迂闊に口を開ける状況ではなかった。

 

「…そうなると、この中で彼の記憶に残っているのは、小町さんだけという事になるのかしら」

 

 慎重に言葉を選んで小町さんに確認すると、

 

「会ってみたらすぐに思い出すかもですけどね。皆さんみたいな美人さんの顔なら、忘れたくても忘れられないでしょうし」

 

 と、空気を軽くするかの様に彼女は笑ってみせた。けれど残念ながら、そこに私の望んだ否定は、含まれてはいなかった。

 

 

 

『自分の事を忘れて欲しい』

 

 そんな台詞を、私は過去に何度となく使ってきた。勿論その時々では本気でそう願っていたけれど、内心では「そう簡単に忘れられる訳もない」とも思っていたのだ。私自身の鋭角的な人間性だとか、単純な見た目だとか──理由はともかく、簡単に埋没してしまうその他大勢とは違うのだという、自負みたいなものが確かにあった。

 だからだろうか。自分の事を忘れられたのだと言われても、今ひとつ理解が及ばなかった。

 

「こういう場合、一般的には数日以内に回復するものだと聞くけれど…医師の見立てでは何て?」

 

「あ、はい。先生も大体そんな感じで。あくまでも()()()ってクギ刺されちゃいましたけど…」

 

「そう…」

 

 またそういう…いや、この際医者の口上は気にしたら負けだろう。

 

「…いろはちゃん、もうヒッキーと話した?」

 

「いえ、まだ。その……こ、怖くって…」

 

 ぐずっと鼻を啜り、ハンカチに顔を埋めたままの姿勢で彼女は答えた。

 怖い、と言いたくなるのも分かる気がする。恋愛的な視点で見ると、嫌われるよりも遥かに苦しい状況になったと言えなくもないからだ。『好きの反対は嫌いではなく無関心』なんて有名な言い回しが頭を過った。

 関係が初期化されたと告げられた私達も大概だけれど、それでもまだ切っ掛けが残っているだけマシなのだろう。関係が根本から消失してしまった彼女よりは、ずっと。

 

項垂(うなだ)れる一色さんの手を握りながら、小町さんは眉を下げて言った。

 

「そういう事情ですので、皆さんにはご不快な思いをさせてしまうかもしれません。お呼び立てしておいてなんですが、兄が思い出すまでは会わないでおくというのもアリかと──」

 

「あたしは会ってく。ゆきのんは?」

 

 小町さんの言葉尻を掻き消すようにして、由比ヶ浜さんはきっぱりと言い放った。その目は普段よりもずっと凛々しく輝いている。いざという時、彼女は決して迷ったりしない。見た目とは裏腹に、逆境の時こそ強いタイプだ。

 

「私も──」

 

 由比ヶ浜さんに張り合ってという訳でもないけれど、内心の動揺を隠し、精一杯の平然を取り繕う事にした。

 

「彼の負担でなければ、顔くらいは出していくつもりよ。一応、学校を早退までして来たのだし、何もせず帰るというのもね」

 

 そんな私達に向かって「ありがとうございます」と、小町さんは丁寧に頭を下げる。

 

「いろはちゃんは?」

 

「行きます…」

 

「うん、行こ」

 

 ハンカチをグズグズにしつつも、その答えに迷いは無い。そんな一色さんの手を、そして私の手を両の手で引っ張って、由比ヶ浜さんは力強く歩き出した。

 

 

× × ×

 

 

「ええと…その……。お、お加減は如何かしら」

 

「へ? はぁ、お、お陰様で…」

 

 余人の数倍は見積もって然るべき、比企谷くんのパーソナルスペース。それを侵さぬ様に細心の注意を払いながら、私達は数日ぶりの言葉を交わしていた。

 

 互いに上滑りする挨拶が滑稽極まりない。いや、滑っているのはこちらだけなのだろう。彼は本当に戸惑っているのだ。気が付けば入院していたという状況すら満足に飲み込めていないところに、知らない異性がぞろぞろと現れたのだから。もしも私が向こうの立場だったなら、そろそろナースコールに手が伸びていてもおかしくない。

 

「…え…えーと……」

 

 落ち着き無く泳ぎまわる比企谷くんの視線は、所在無さげに私達を一通り掠めた後、最後に縋るようにして小町さんの方へと向けられた。

 

(…ねえ、何で俺の病室で美少女コンテストしてるの? 今日は俺の誕生日とかじゃないんですけど。つかお前、いつの間にウチの高校に知り合いとか作ったん?)

 

(うーん、あれみんなお兄ちゃん関係なんだけどねー)

 

 自慢ではないが、聴覚は鋭い方だ。

 漏れ聞こえてくる兄妹の会話とその顔色から、これが演技という可能性も潰えた。いやはや、どうやら私はこの期に及んで、これが演技であって欲しいなどと思っていたらしい。そんな自分に心の中で苦笑する。

 

(──っ)

 

 すうっと、身体が宙に投げ出されるような感覚が身体を覆った。

 

 そのまま放置していたらすぐさま眩暈に繋がったであろう、強い喪失感。しかしそれは、引っ張られるような感触を得て、強引に拭い去られた。由比ヶ浜さんの指が私の袖を握り締めている。力を入れ過ぎて、文字通り白魚のような色合いになっていた。

 

「ヒッキー……。あ、あたし達、初めましてじゃあ、ないんだよ?」

 

「ヒ、ヒッキーって…。色々とその、なんだ。ギリギリ感のある呼び名だな…」

 

「あ……」

 

 喉から零れた小さくか細い悲鳴が、私の耳にだけ届いた。さっき私が感じた痛みを、彼女も感じているのだ。いや、特別な呼び方をしていた分だけ、一層苦しいに違いない。

 

()()()()なのか。

 

これは、痛い。

 

覚悟していたよりもずっと、痛い。

 

 

「…あー!そういや、そうかもだね! ゴメンね、すっかり慣れちゃってて。えへへ」

 

 流石の由比ヶ浜さんも泣き崩れるかとさえ思ったけれど、彼女は一瞬で毅然とした態度を取り戻し──むしろ普段よりも一本筋の通ったような姿勢でもって、その顔に優しげな微笑を浮かべてみせた。

 それは喜びや安心といった正の感情の発露ではなく、相手の気持ちを揺さぶらないために彼女が会得した"愛想笑い"の極めつけでしかなかったのかもしれない。けれどもこんな時に相手にまで気を配れる彼女は、やはり私よりもずっと強い人間なのだと思った。

 

「二人はその…俺んとこのクラス委員か何かで?」

 

「ん? 違うよ? あ、でもあたしは同じクラスで──てか、いろはちゃん、そんなトコに立ってないで。ほらほらー、コッチおいでー!」

 

 由比ヶ浜さんは病室の入り口で立ち竦んでいた一色さんの腕を取り、強引に彼の前へと引っ張り出した。

 

「あっ、あう、あうぅ…」

 

 言葉に困り、スカートを両手でくしゃくしゃと握る彼女の姿は弱々しく、普段のマイペースさなど微塵も感じられない。高校の制服を着ていなければ、むしろ小町さんの同級生に勘違いされかねないな、とさえ思ってしまった。そんな彼女は、瞳に大粒の涙を湛えながら、それでもなけなしの勇気を振り絞り、彼に声を掛けようとした。

 

「あ、あの…わっ、わたし…っ……せん──」

 

「ど、ども…」

 

「──っ!?」

 

 たった一言。

 彼の短い挨拶を聞いた一色さんは、咄嗟に顔を伏せると、弾かれたように病室を飛び出していった。

 

「い、いろはさん!」

 

「は…え、なに…?」

 

 比企谷くんは訳も分からぬという様子で、彼女の走り去った戸口と床に残った水跡へ交互に視線を送っている。当然こちらのフォローも必要なのだけれど──。

 

「私が行くわ。悪いけど、少し外すわね」

 

「え…あ、うん。わかった。ありがと、任せて」

 

 二の句も告げさせずに役割分担を終え、私は一色さんに続いて部屋を退出した。

 

 

 言うまでも無い事だけれど、この二者択一ならば、一色さんにとって追いかけてきて欲しいのは由比ヶ浜さんの方だろう。けれど、今の比企谷くんとの会話を上手くこなせそうなのもまた、彼女の方だった。そして何より、由比ヶ浜さんは不安そうな彼の元に残りたそうな顔をしていた様に見えたのだ。

 

 ならば、役立たず(わたし)はせめて、彼女の重荷を──友人と想い人との板挟みとなる苦悩を取り払おう。

 

 これがあの一瞬で構築された()()である。

 

(こうやって、言い訳ばかり上手くなって…)

 

 私と彼とのコミュニケーションは、他人が見れば半ば口喧嘩にも聞こえるほど捩くれたものだ。実際、最初のうちは顔を突き合わせる度に喧嘩をしている気分だった。今でこそ、そこに特別な何かがあるような気がしているけれど、この状況でそんなやり取りが成立するとは考え難い。

 私が少し気を遣えば済む事なのかも知れないけれど、これでも少なくないショックを受けているのである。只でさえ愛想が欠落しているこの身では、彼女の様に振る舞う事などとても出来そうもなかった。

 

『ご、ゴメンね? ちょろーっと行き違い的な…。別にヒッキーのせいとかじゃないから!』

 

『いやいやいやー。甘やかすことないですよ結衣さん。今の100パーこの人のせいですから。女の子泣かせるとかマジ最悪ですよねー。そのうち刺されますよ』

 

『いやそれ…俺のコレってば刺されたんですよね? なのに言っちゃう? そゆこと言っちゃうの小町さん?』

 

 場を取りなすような明るい声を背に、廊下へと躍り出る。辺りには既に一色さんの姿は無かったけれど、泡を食ったような看護師さんの視線が、彼女が走り去ったであろう方向を教えてくれていた。

 

 

* * *

 

 

 慣れないフロアを適当な方向感覚のみで進んでいくと、やがて非常脱出口がある行き止まりに辿り着いた。

 

 扉に鍵が掛かっていたのだろう、残念ながら外に出られなかったらしい一色さんが床に座り込み、膝を抱えていた。ここが病院だった事が不幸中の幸いと言うべきか、人通りというものは殆ど無い。時たま通り過ぎる看護士も、忙しいのか見慣れているのか、塞ぎ込んでいる女の子にいちいち奇異の色を向けては来なかった。

 

「ごめんなさい…」

 

「謝ることは無いわ。涙を堪えただけ、立派だと思う」

 

「な、泣き過ぎ、反省したばっかなので…。ギ、ギリギリ堪えて、ます…」

 

 今にも決壊しそうな震え声。道中ぽつぽつと零れていたものには知らないふりをしつつ、私は今彼女に掛けるべき言葉が何であるのか、頭を捻った。

 

「わたしなんかと関わらなければ、先輩も、雪ノ下先輩も、結衣先輩も、こまちゃんも──みんな、誰も泣かずに済んだんです」

 

「………ねえ、一色さん」

 

 普通、ここは否定してあげるべきなのかもしれない。けれどこの件について、表面的な慰めがあまり有効でない事は、既に学習済みだ。だから──

 

「彼に頼った事、間違っていたと思う?」

 

「そ、そんなわけない!」

 

 思った通り、この方向に煽れば噛み付いてくる。それくらいの気力はあるのだ。なに、昨日までと比べれば随分と健全ではないか。憤慨する彼女を見ながら、私は密かにそんな事を考えていた。

 

「この前からずっと、後悔の言葉ばかり聞いている気がするのだけど…まさか目覚めた彼にも、そうやって謝り倒すつもり? 感謝の言葉はいつ出てくるのかしら」

 

「し、してます、すっごい感謝してます! 何て言えばいいのか分からない、言葉に出来ないくらいに! …でも、なのに、それを伝えることも出来なくなっちゃって…だから…わたしっ…!」

 

「どうして伝えられないの?」

 

「だ、だって先輩、わたしの事、何もかも忘れちゃってて…!」

 

「あら、会話が出来るのだから、少なくとも感謝の言葉を伝える事くらいは出来るでしょう? その前提として、私達が特別な関係である必要は無いんじゃない?」

 

「それは…っ! で、でも!雪ノ下先輩、辛くないんですか!?」

 

 また彼女の瞳の端が、じわりと潤っていく。ああ、今度は私が泣かせてしまった、と気まずい思いが込み上げたけれど、私がその様子をまじまじと観察しているのに気付いたのか、彼女は辛うじて涙を引っ込める事に成功した。

 

「わたしは辛いです…。辛くて辛くて、もう頭がどうにかなっちゃいそうです…。先輩さっき、『ども』って言いました。わたしが後輩だってことも、忘れてるんですよ…」

 

「それは否定しないわ。でも、この状況が辛いというのは、彼ではなく私達の都合でしょう? 忘れられた辛さに耐える事と彼にお礼を言う事は、そんなに両立が難しいかしら。極端な話、これが赤の他人相手だったとしても、やはりまずは最初に助けてもらったお礼を言うのが筋というものだと、私は思うけれど」

 

 彼女とそんなやりとりを続けながら、何と不毛な会話だろうと、私は思っていた。

 

 彼の行動が謝意や見返りを求めてのものではない事ぐらい、誰もが分かっている。まして彼は最近の出来事を忘失しているのだ。礼を述べられたところで、何の話かと首を傾げるのが落ちだろう。

 結局、今の彼に何を言ったところで、それは彼をあんな目に遭わせてしまった私達の懺悔でしかないのだった。

 

「ごめんなさい、無駄話を振ってしまったわね。それよりも今は、もっと建設的な話をしましょうか」

 

「…建設的、ですか?」

 

「ええ。今後、彼とどう向き合っていくか。今のうちにスタンスを決めておいた方が良いかと思って。すぐ思い出すとは思うけれど、本人の為にも一応ね」

 

 別に彼を寄ってたかって謀ろうという腹積もりでもないけれど、ある程度は話を合わせておかないと、ひょんな所から綻びが生まれないとも限らない。

 

「…雪ノ下先輩は、どうするつもりですか?」

 

「幸か不幸か…あの独特な人となりはちっとも変わっていない様だったから、基本的にはこれまで通りかしら。元より私、他人に合わせられるほど器用じゃないもの」

 

「そうですか。でも、わたしは…同じようには、出来そうにありません…」

 

 さっきまでとは違う色の悩みを湛えて、彼女の瞳は揺れていた。

 

「こんなに好きになっちゃった後で、今さら前みたいになんて、出来ないです…。先輩の手を握ってないと、落ち着かないんです。少し前まで、どれくらい離れて歩いてたかさえ、もう分からなくって…」

 

 吊り橋効果だとか、ナイチンゲール症候群だとか──いくつかの単語が頭を(よぎ)る。しかし私は今回に限って、それらの味気無い理屈には目を瞑った。そのどれもが、今求められている答えでない事は明らかだったし、この悩める年下の女の子に向かって、たまには女としての先輩風を吹かせてみたくなったのだ。

 

「だったら、無理に前のように振る舞う必要は無いんじゃない? 記憶がどうとか、人間関係がどうとか──細かい事は抜きにして、心の求めるままに、自分らしく。彼が求めた本物っていうの、私は今でも分からないけれど…でも、きっとそういうものの先にあるんじゃないかしら。そんな気がする」

 

 それは、ずっと自分がやりたくて、けれども出来ずにいる事。

 他人に言うのはこんなにも簡単なのに、どうして私は──。

 

「わたしらしいって何ですかね…? どういうのが、わたしらしいんでしょうか…」

 

「知らないわよ。貴女の事、あまり詳しくないもの」

 

「ええ…。ここまで来たら普通、答えとかバシッと教えてくれるものじゃないですか?」

 

「そんな事言われても…。困ったわね、私、哲学はあまり得意ではないのだけれど…」

 

 この子は恐らく、この私を恋敵と認識してはいないのだろう。でなければ彼を好きだと言う悩みを、こうも盛大にぶちまける筈もない。業腹ではあるけれど、それも私自身の不甲斐なさの結果だと思えば、甘んじて受け入れるしかなかった。確かに私は彼女達と同じ土俵にすら立っていない。それは既に、私自身も認めている事なのだ。

 

「大体、自分らしさなんてものは、そうやって頭を捻って考える事じゃないでしょう。仮に、思うがままにやった結果がたまたまどこかの誰かと同じだったとして──それは自分らしくない事なの? 自分らしさの基準は常に自分であるべきよ。間違っても他人じゃない」

 

 それを言い出すと、厳密にはこうして私の言葉に耳を傾けている時点で定義が崩壊してしまうのだけど…今はディベートの時間ではないから、些細な矛盾は見て見ぬふりだ。

 

「そういうものでしょうか…ていうか、雪ノ下先輩って基本、誰とも被ったりしませんよね? ビジュアル的にもスペック的にも、ナンバーワンかつオンリーワン、みたいな。…あれ?もしかしてこれ、相談する相手間違えたかな…」

 

 失敬な。私にだって、人より明らかに劣っている所はある。いくらバランスが大事だと言い繕っても、足りないものは足りないのだ。その点においては、きっと一色さんにさえ負けている事だろう。

 思わず気持ちが沈みかけたけれど、今はアドバイザーとして弱味を見せる訳にはいかない。なるべく自然体を装って、髪を軽くひと撫でして見せた。

 

「私はそういうの、あまり興味無いもの。やるべき事とやりたい事をやっていたら、結果がそうなっただけだから」

 

「はぁ…参考になるような、ならないような…。でも…ふふ…すんごい雪ノ下先輩らしいですね、その考え方」

 

「そう? ありがとう」

 

「うん、カッコいいですよ、すっごく。あははっ、わたしそれ、気に入りました!」

 

 吹っ切れたような顔で笑う一色さんを見て、私は安堵した。こんな助言でも、何かの役には立ったらしい。彼女の瞳で弱々しく揺らめいていた炎は、再び力強く燃え盛っている。こんな風に、慰められて素直に立ち直れるところも、私にはない美点の一つだろう。少し羨ましくなって、思わず目を細めた。

 

「──もう大丈夫そうね。そろそろ戻りましょうか」

 

「はい。とりあえず、やりたいようにやってみようと思います。今、わたしが先輩にしてあげたいことを」

 

「そうね、それで良いんじゃないかしら」

 

 元気良く立ち上がった後輩の様子を見ながら、少々肩入れが過ぎたかもしれないと、私は心の中でもう一人の友人に詫びたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

「改めまして、私は雪ノ下。貴方と同じ二年よ。一応、貴方が所属している部活動の代表を務めているわ」

 

 比企谷くんの病室に戻って仕切り直し──。

 

 由比ヶ浜さんと小町さんが暖め直してくれた空気の中、さっきよりは随分リラックスした状態で、私達は自己紹介をしていた。

 

「あたしはね──」

 

「由比ヶ浜、な。さっき聞いた」

 

「ちゃ、ちゃんと最後まで聞けし! クラスはヒッキーとおんなじ! 部活もおんなじ! ほら新情報!」

 

「ふーん…。あれ? 俺、部活やってるって言った?」

 

「ええ」

 

「な、何部?」

 

「奉仕部」

 

「は? …何て?」

 

「奉仕部。(たてまつ)り、(つか)える、の奉仕」

 

「おお! なんか時代劇っぽくてかっこいい!」

 

 由比ヶ浜さんは語感だけでおかしなイメージを受信してしまった様だけれど、流石に比企谷くんにはきちんと意図が伝わったみたいだった。

 

「それ、額面通りに受け取ると…いわゆるボランティア的なヤツに聞こえるんだが…」

 

「厳密には少し違うのだけど、その理解で概ね合っていると思うわ」

 

「えぇー…マジで?」

 

「マジマジ。あたしとゆきのんとヒッキー、毎日部活してるんだよ?」

 

「毎日進んでご奉仕してるとか…俺の高校生活に一体何があったんだ…」

 

「比企谷くんは毎日奉仕をしていた訳ではないわ。むしろ普段は消費しかしていなかった…いえ、浪費と言った方が適切かしら」

 

「やった覚えの無いことでディスられるのって、わりと不本意なんだが」

 

「大丈夫よ。何もやっていない事を批判しているんだもの」

 

「何も大丈夫じゃねえだろ…なんなんだこの女…」

 

「ゆ、ゆきのん、その、そろそろ…」

 

 つい何時もの癖で言い返しそうになった私を引き留め、由比ヶ浜さんが背中で隠していた一色さんを再び彼の前へと立たせる。

 

「あら、御免なさい。もう一人紹介しないと」

 

「ほーい、んじゃオオトリのいろはちゃん、どーぞー! パチパチパチー!」

 

 部活もクラスも学年も違う、本来関わりの無い彼女。一体どんな切り口から責めるのか、私は固唾を飲んで動向を見守った。いつかの如く、無駄に高く積み上げられたハードルにも怯まずに、彼女はとても自然な──そう、かつて見た事も無いほど素敵な笑顔で口を開いた。

 

「こんにちはー、先輩♪」

 

「せん…? …ああ、おたく一年なのね」

 

「はい。一色いろはです。一年生ですけど、いちおう生徒会長とか、やらせてもらってます」

 

「へぇ…人は見た目によらないってか…。まあでも、納得はできたわ。つまりお前は会長だから来たんだろ? 生徒代表として、校内で大怪我したバカの見舞い的なヤツで」

 

「ちょ、ヒッキー。そーゆーのじゃなくてね?」

 

「おバカ! バカの八幡! 何ですぐそういうこと言うかなー! す、すみませんいろはさん…」

 

「だって事実だろ。手間とらせて悪かったな…ってか小町、アホの坂田みたいに言うのやめてね?」

 

 そうだ。彼はそういう理由付けが出来ないと、他人の厚意を素直に受け取ることが出来ない人種だった。記憶が有ろうと無かろうと、その壁は変わらない。小町さんと由比ヶ浜さんに取りなされても、正に馬耳東風といった調子だ。

 このひねくれ者に一体どう返すのかと肝を冷やしていると、一色さんはその魅力的な笑顔を曇らせる事無く、きっぱりと答えてみせた。

 

「ぜんぜん違います。恋人だから来ました。カノジョとして、愛しい愛しいカレシのお見舞い的なヤツで♪」

 

 

 

 

「……は?」

「……えっ?」

「……うわ~ぉ」

 

 

 

(……ああ、成る程…)

 

 三者三様の反応を眺めつつ、私はひとり、一色さんの自己紹介(ばくだんはつげん)に感心していた。

 

「ちょ、え? い、いろはちゃん? な、ナニゆって…」

 

「あー、そう言えば結衣先輩には言ってなかったんですけど…実はわたし達、けっこう前から付き合ってたんですよー」

 

「は!? い、イミわかんない…どゆこと?」

 

「わたしと、先輩は、恋人同士! ってことです」

 

「それは分かるし! いやぜんぜん分かんないけどっ!」

 

 口をぽかんと開けていた比企谷くんは、けれどすぐに我に返ったらしく、いっそ冷たい目でもって一色さんを睨み付けた。

 

「あのなあ…。これでも一応、記憶がぶっ飛んでてさ、わりとテンパってんだよ。そういうの、あんま笑えないからやめてくんない?」

 

「いえいえ、ホントにホントですよ?」

 

「全く、一切、微塵も、記憶に無いんだが?」

 

「大丈夫です、わたしはちゃあんと記憶あるので、ご安心を♪」

 

「いや、だからそうじゃなくて………ん? ……あ…」

 

 呆れた様に頭を振ってから、彼はそのまま硬直してしまった。どうやらさっき私を感心させた、この策略の要に至ったらしい。

 そう、記憶の無い今の彼には、彼女のどんな言葉をも否定する事が出来ないのだ。比企谷くんがいくら口から生まれた屁理屈の申し子であったとしても──いや、屁理屈屋であればこそ、理屈の土台となる情報が無ければ言い返す事など出来ないのである。

 

「か、仮にだ! 仮に百歩譲ってお前の言う通りだとして、記憶無くした相手となんか付き合えるわけないだろ。なら、どっちにしてもこれからは他人同士だな!」

 

「あ、ちょっと記憶が無くなったくらいで別れる気とか、わたしにはぜんぜん無いんで。もう大体のことはしちゃってますし、責任取ってもらう約束ですから」

 

「な、う、嘘…だろ……?」

 

「だだだ大体のことってなに!? ねえいろはちゃん!?」

 

「えー、結衣センパーイ…。アレをこまちゃんの前でカミングアウトさせるっていうのは、流石にハードル高過ぎじゃないですかねー…?」

 

「アレってどれ!?」

 

 完全にパニックになった由比ヶ浜さんが、助けを求めてこちらに泣きついてくる。けれど──

 

「ゆ、ゆきのんゆきのーん! なんかワケ分かんないことになってるんだけど!?」

 

「これは一本取られたわね…。当事者が二人しか居ない男女交際において、一人に証拠能力が無く、もう一人がこう言い張ってしまったら、一体どうやって事の真偽を証明すればいいのかしら」

 

 口に出してみて、全く同じようなやり取りが昨日もあった事を思い出した。昨日は姉さんのハッタリで勝ちをもぎ取ったけれど…彼女の言を覆せるほどの材料は、今のところ、どこを探しても無い様に思える。

 

「で、でもさ! あたし達、知ってるじゃん!」

 

「どうかしら。こっそり付き合っていました、と言われてしまうとね…。少なくとも私は、それを否定出来るほど二人のプライベートに明るくはないし」

 

「だだだだ、だって、だって!」

 

「ちなみに似たような状況に痴漢告発のケースがあるのだけど、女性に"やった"と言われた男性は、事実の有無に関わらず、殆ど全てが敗訴になるそうよ」

 

「なにそれ!? 言ったモノ勝ちってこと? じゃ、じゃあハイ! あたしも付き合ってた! ヒッキーと付き合ってましたー!」

 

 手を挙げてピョンピョンと自己主張をする由比ヶ浜さんに、ベッドの主から冷ややかな声が掛けられる。

 

「お前、この流れでそれが認められるとか本気で思ってんの…?」

 

「ううっ、結衣さん…おいたわしや…」

 

 目の前で繰り広げられている言動は、由比ヶ浜さんにとって、かなり致命的な内容を孕んでいる。にも関わらず、比企谷くんはそこに気が付いていない様だった。あまりに支離滅裂な展開に、彼女の行動が意味する感情の矛先について、考えが追い付かないのだろう。

 

 彼は大きく溜め息をつくと、一色さんに向き直って言った。

 

「そっちの、えーと、イッシキだっけ? お前も病人からかうのはやめてくれ。何の罰ゲームか知らんけど、お前みたいなタイプが俺を…とか、一番ありえないだろ」

 

「むぅ、やっぱり信じられませんか?」

 

「当たり前だ。まかり間違ってお前に好かれるような性格だったとしたら、もう別の世界線の俺だなそれは。超ありえん」

 

「ふふっ、まあ先輩ならそう言いますよね。任せてください。ちゃあんと、信じさせてあげます♪」

 

「へ?」

 

 ニコニコと相変わらず良い笑顔を浮かべる一色さんの顔が、やけに紅潮している事に私が気付いた時──彼女は既に動いていた。

 

「ん──」

 

 比企谷くんの肩に手を添え、そのまま流れる様に自然な動きで、彼の顔へ自分のそれを寄せる。

 

「ふほおぉぉー!」

 

 一色さんの真後ろに位置していた私や由比ヶ浜さんからは、何が起こったのか、よく分からなかった。ただし角度的に丸見えであろう、反対の枕側に座っていた小町さん──彼女が色めき立つ様子から、おおよその状況は把握できた。

 

 

「ひゃ、ひゃぁぁ…ほぁぁ……」

 

 

 興奮しきった小町さんの、悲鳴にも似た掠れた声だけが、時間の固まった病室に響く。一色さんの行動──そのあまりの迷いの無さに、誰もが不意を突かれた形となっていた。

 

 

 

 何秒──いや何十秒だったのか分からないけれど──ふあっと甘い息をついた一色さんが顔を離し、ぺろりと赤い舌先が唇を舐め、それからやっと周囲の時間が動き出した。

 

「な、ななっ、なぁっ──」

 

「ふぅ…。これで信じられました…?」

 

「ななななナニやってんのいろはちゃんっ!?」

 

 すぐさま、由比ヶ浜山──もとい由比ヶ浜さんが大噴火を起こした。やらかされた本人よりもおかんむりだ。いや、この場合やらかされたのは彼女という解釈も間違いではないのか。

 

 私としても文句の百や二百が無い訳ではない。けれども人間、目の前で誰かが取り乱していると存外冷静になれるというのはご存知の通り。何だか最近こんな役回りばかり…(ことごと)く叫ぶ機会を逸しているような。

 

「何って…()()()()愛情表現ですけど?」

 

 ごく自然な仕草で、未だに固まっている彼の唇をチュッと(ついば)んでみせる一色さん。その顔は、まるで毎朝挨拶代わりにやっているとでも言わんばかりだ。

 

「あーーーっ! に、二回目、二回目ぇーっ!」

 

「え? 二回目じゃないですけど…あ、今日のって意味ですかね? それなら二回目ですねー」

 

 呼吸の仕方を忘れたような顔で呆然としていた比企谷くんは、その気さくなライトキスで息を吹き返した。まるで女の子の様に慌てて唇を隠しながら、言葉の意味を反芻して顔を紅潮させる。

 

「おまっ、それ…っ、こんなの、え? い、いつも!?」

 

「ま、まさかヒッキーに先を…じゃなく!いろはちゃんに奪われ…。な、なんなのこの展開…イミわかんない…」

 

 虚ろな顔でぺたんと床にお尻をついた由比ヶ浜さん。そんな彼女を尻目に、

 

「うーん、まだ信じられないって顔してますね…。ではでは、もすこし濃ゆいのを…」

 

 そう言って、一色さんは再び彼の肩に手を掛ける。既に完全に屈した様子の比企谷くんは、慌てて両手を挙げ、降参の意を示した。

 

「わ、わかった。信じる、信じるから…待て待てギブギブギ──!」

 

ブッチューーッ

 

 今度こそ思いきり痴態を正視してしまった私の脳裏には、コミックの様なありふれた擬音が浮かんでいた。

 

 亜麻色の髪の暴君が、艶やかな唇を彼のそれに重ね──いや、貪っていた。比企谷くん(えもの)はベッドの上に座り込んでおり、体を反らす事さえままならない。白旗を強引にへし折られた彼の手は空を掻き、ピクピクと戦慄(わなな)いている。その様子は捕食されている小動物を思わせて、だんだん哀れにすら思えてきた。

 

 そしてとうとう、湿った水音らしきものが、唇の隙間から漏れ始め──

 

「ファーーーーーッ?!」

 

 脱け殻と化していた由比ヶ浜さんの奇声が、三度(みたび)その部屋に響いたのだった。

 

 




次回、『覚醒のいろはす』お楽しみに!(嘘


サービスのつもりでぶっ通しましたが、地味にいつもの1.5倍くらいあります。もしも長過ぎて読みにくいようでしたらコメント下さい。分割して載せなおしも検討しております。


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■36話 好きって気持ちのぶつかり合い

m(_ _)m 皆様ちょおお久しぶりです。めりーくりすます。
エタりはせん!エタりはせんぞぉ!


《---Side Yui---》

 

 

「……ねー、いろはちゃんさぁ…」

 

「……なんですかー? 結衣先輩…」

 

「……これからずっとアレ、続けるつもり…?」

 

「……さー…どーですかねー…」

 

「………」

 

 平日の真昼間から、高校生が二人、グダグダと。

 

 病室を出たあたし達は、エレベーター前のスペースで缶ジュースを弄んでいた。大騒ぎを見かねた看護師さんにお説教されて、頭を冷やしに来たのだ。ま、どっちにしても、あのままヒッキーのところには居られなかったけど。

 

「……ねー、いろはちゃんさぁ…」

 

「……なんですかー? 結衣先輩…」

 

「……ちゃんとホントのこと、ゆった方がよくない…?」

 

「……うーん…そーかもですねー…」

 

「……………」

 

 派手なデザインのアルミ缶をほっぺたに当ててみる。よく冷えたそれはあたしの火照りをぐいぐいと持っていくけれど、それでも身体の内から溢れる焼け付いたような熱気が収まる気配はなかった。どれだけ深呼吸を繰り返しても、頭の芯から力が抜けてくれない。

 気だるげな返事を繰り返すお隣さんに視線を移してみると、いろはちゃんはおデコに缶を当て、ゆっくりと熱っぽい息を吐いていた。その唇がやけに艶っぽく思えて、思わず目を逸らす。

 

「……ねー、いろはちゃんさぁ…」

 

「……なんですかー? 結衣先輩…」

 

「……その…どうだった…?」

 

「最高でした♪」

 

「なんでソコだけ即答するし?!」

 

「あはははは!」

 

 ころころと笑う彼女はとても幸せそう。ううん、きっと幸せなんだろうな。だって三回もしてたし。あんなに。ぶちゅーってしてたし! むきー!

 

 おデコから缶をどけた彼女と、ようやく目が合った。

 ああ、分かる。分かり過ぎるくらいに分かる。

 「恥ずかしい」が「嬉しい」で塗りつぶされている。そんな目だ。

 

「お茶を濁すのはもう終了って事で。そっち方面は正直ベースで行くことにしました」

 

「あたし的には一番ぼかしてほしかったかも…」

 

 どれだけ分かりやすくとも、今までは決定的な言葉を避けていた彼女。それがいつの間にか、気持ちをハッキリ口に出すようになっていた。ただでさえ甘ったるいところに加えて更にハチミツをトロットロに溶かしたような声で、身体を抱いてクネクネしている。

 どんなきっかけがあったのかは分からないけど──ううん、そうじゃないか。きっかけはあった。超ド級のがあった。ただ、それどころじゃなかったってだけの話だ。ひと段落すれば、こうなることは分かってたハズなのに。

 

「うひー、キスヤバいです、マジヤバいです。想像してたのの100万倍ヤバイです。あたま爆発しそうです。ぶっちゃけ全然足りないです一日中してたいですダメですか?」

 

「あたしにぶっちゃけられても困るよ…」

 

「あ、スゴい事思いついちゃいました。週に一度はキスして過ごす日とか作れば、世界から戦争とか無くなるんじゃないですか? だってこんなにハッピーになれるんですよ。これもうノーベル賞ものじゃないですかね」

 

「うん、それだとまずはここで戦争が起きるんじゃないかな」

 

 彼氏が出来た友達のノロケは聞いたことあったけど、いろはちゃんのはわりと最悪レベルにウザい。しかも今回は相手が相手だ。さっきから右のコメカミあたりがピクピクいってるのが分かる。

 

「嬉しいのは分かったからさ…。いちお、その、ノロケる相手も選んでほしいってゆーか…」

 

 思った以上に低い声が出ちゃった。

 けど、いろはちゃんはそんなあたしの恨みがましい呟きに、ケロッとした様子で返した。

 

「なら、結衣先輩もしたらいいじゃないですか。さっきカノジョに名乗り出てましたよね?」

 

「んなのできるわけないじゃん! それに二番目はないってクギ刺されちゃったし…」

 

 言われなかったらやったのかっていうと…どーだろ。やったかもしれない。それくらい、悔しかったし、羨ましかった。

 

「てかいろはちゃん、そーゆーの気にしないタイプなの? 浮気とか許せちゃうヒト?」

 

「えっとー、そういうワケじゃないんですけど…。さっきのアレは反則だって自覚はありますから。自分はお手付きしたくせに、もうツバ付けたから手を出すなー、なんて…さすがに言えませんし」

 

 バツの悪そうな顔でほっぺたをかきながら、彼女はペロリと舌を出してみせる。みんなはあざといあざといって言ってるけど、女の子同士だからこそ、特に狙ったわけでもない今の仕草はひときわ可愛いと思えた。

 ついつい、彼女の唇に目線が奪われる。さすが、ケアもばっちりだなー、柔らかそう。まるで雑誌のお手本みたいな仕上がりだ。こんなの、男の子なら誰だってキスしたいって思っちゃうよね。いやまあヒッキーからしたわけじゃないんだけど。

 

 パニクっちゃってちゃんと見てなかったけど、いろはちゃんに限ってキスがヘタクソってことはないだろうし…。こんなに可愛い子に、こんなに綺麗な唇で、とっても上手に初めてを奪われた。きっと一生、記憶に残るんだろうな…はぁあああ……。

 歯ぎしりするほど悔しかった。でも、自分ならあれ以上の初めてを与えてあげられるのかと言われれば、そんな自信も持てなくて…。思わず、惨めったらしい負け惜しみが口からこぼれ落ちる。

 

「そ、それよりさ。無理矢理奪っちゃうみたいなの、マズくない? …そりゃ、いろはちゃんは経験豊富かも知れないけど、向こうはぜったい初めてだったでしょ」

 

「んーまあ…確かに強引過ぎた感はありますけど。話の流れ的にビビッと来たので。ココだー!って」

 

「ダメだよ! そんな適当にあんなコトしちゃ!」

 

「そうですか? ああいうのって普通、盛り上がったその場のノリでするものじゃないですか?」

 

「ちが…! ……あれ? …違わない、かも…?」

 

 考えてみれば、キスなんてものは事前に計画していたとしても、ムードが盛り上がらなければできない類のものだ。ノリや勢いが一番大事という彼女の言い分は、あながち間違ってはいない。みんなのリアクションからもあのタイミングがムード的に非常識過ぎたってのだけは確かだけど…。

 

「ノリでやっちゃまずいのは、相手への気持ちが定まってない時ですよね? その点、わたし的に、さっきのはオールオッケーだと思うんですけど」

 

「う、うーん…。そう言われると、アリ…かも…」

 

「先輩、ちょお気持ち良さそうな顔してましたよ? それとわたしも! ちょおちょお気持ち良かったです!」

 

「あ、あたしがしたっておんなじ顔するもん! たぶん! あと感想とか要らないから!」

 

「まあそうでしょうね。だから先手を打たせてもらったワケですし」

 

「…へ?」

 

 熱に浮かされていたはずの彼女の言葉に、急に理性的な冷たさが戻っていた。

 気がつけば、こっちを流し見る彼女の瞳は、前に一度見たことのある色に輝いている。そう──一人前と認められていないと悔しがって、怒っていた、あの時のような。

 

「いつぞやは先手取られて泣きを見ましたので。遠慮している場合じゃないなーと」

 

「あ、あれは…いろはちゃんがやれって言ったんじゃん!」

 

「ほら、()()の意味、分かってるじゃないですか。それで意識していなかったとは言わせませんよー?」

 

「う…」

 

 写真撮影の夜のこと。一つのイスの上での大騒ぎ。

 あの時、あたしがしたコトをいろはちゃんが全く気にしていないとは思ってなかったけど、これほど目の敵にされてたとは…。

 でも、それも今ならわかる。きっと彼女はあの瞬間──あたしが彼にすり寄った時、こういう気持ちを味わったんだ。だからその後、あんなに大胆な行動に出た。それでもやっぱり、先を越されたという事実はなくならない。だって彼女が今さっき、そう告白した。

 じゃあ、ここで張り合って彼女と同じようにしたとしても、やっぱりこのモヤモヤは残ってしまう。それ以上の事をしないと消えてくれないの?

 

「それと…どうも誤解がありそうなので断っておきますけど…あれは先輩の初めてを奪ったんじゃなくて、わたしの初めてを捧げたっていう体ですので。そこのトコよろしくです」

 

「は? え? ウソ! いろはちゃんあれ初めてだったの?!」

 

「あー、そのリアクション…予想通り過ぎて涙が出そうですね…。まったく失礼ですよ。みんな、ひとの事どんだけビッチだと思ってるんですか」

 

「いやいやいや! だってすっごい慣れたカンジだったじゃん! それにどっかの男子と遊んでるとこ、あたしだって何度も見たし…。てっきり…その、もっと経験してるんだろうなーって…」

 

「だって、慣れっこになるくらい沢山しちゃってるんだって思わせないと、先輩が逃げちゃいますからね。あと、色々と遊び歩いてたのは事実ですけど、"遊ぶ"以上の事はしてませんからね? 言葉通りの意味なんで、勝手に深読みしないでほしいです」

 

「なんだぁ…ならあたしと同じだったんじゃん。…って、なんか余計に悔しくなってきたんだけど」

 

「むっふっふー、もう同じじゃなくなっちゃいましたけどね。勝てばカングンというやつです」

 

「うぐぐ…なんかアタマ良さげなことまで言ってるし…」

 

 ドヤ顔を披露しつつ、輝きが艶めかしい唇を、指先でぷるぷると弾く。経験者の──彼女の言葉を信じるならば、今となっては、なんだけど──そんな余裕がありありと滲み出ていて、これ以上は何を言ってもあたしが惨めになるだけだった。

 

「ま、まあ勢いでやっちゃったことはこの際置いておくとしてさ…。その…結局、カノジョとかってのはなんなの? あれ本気?」

 

 そう。

 キスのインパクトが大きすぎて思わず忘れそうになるけど、どっちかって言えばそっちの方が問題だった。記憶のないヒッキーにあんな言い方をすれば、彼は信じるしかない。けど、そんなウソをついたところで、いつかはバレるに決まってる。負け惜しみでもなんでもなく、あんなやり方で上手くいくとはとても思えなかった。

 

「んー、今の先輩って、結衣先輩たちに会う前の状態なんですよね? つまり、ホントのぼっち。これまでの自称ぼっちとは違う、ガチのやつ」

 

「まあ…そう、かな…?」

 

「そんなぼっち先輩が一人で入院とか、可哀想じゃないですか。でも! でもですよ? そこにカノジョの一人もいれば、入院生活もバラ色に早変わり! となるとー、そこはやっぱり直前まで恋人のフリしてたわたしが、一番適任じゃないかと思ったわけで──」

 

 ペラペラとまくし立てるいろはちゃん。その言葉のほとんどは、あたしの耳には入ってこなかった。彼女の目を見ればわかる。さっきまでの強い力が籠っていないからだ。

 

「ん。みんなにはまあ、それでもいいと思うけど」

 

「………」

 

 

 あたしの言葉を受けて、用意していたであろう設定(りゆう)をすらすらとそらんじていた彼女の口が、きゅっと結ばれる。長いまつげが伏せられて、まぶたが彼女の瞳をしばらく覆い隠した。それから、再び開かれた彼女の瞳の色が戻ったことを確認する。「で、本音は?」とあたしは尋ねた。

 

「…今しかないと思いました。先輩が、お二人のことを忘れてる今しか。神様がくれたチャンスなんだって。…ひょっとしたら、くれたのは悪魔かも知れませんけどね」

 

 そう言って正面から目を見つめてくるいろはちゃんを、あたしは「怖い」と思った。そこに罪悪感はある。恐れもある。けれど、後悔はない。

まるで陽乃さんに睨まれた時みたいな──けど、種類はぜんぜん別の──押しつぶされそうな感覚だった。

 身体つきだって年齢だって、いろはちゃんよりあたしの方が大人のはずだ。そんなちっぽけな優越感が笑えてくるくらい、今の彼女は圧倒的なまでに"女"だった。

 

「でも、わたしは誰にも謝りませんし、これからも遠慮しません。だって恋は戦争ですから。わたし達の好きな人は、世界にたったひとりしか居ないんですから」

 

「さっきは戦争がなくなるとかゆってたクセに…」

 

 彼女は「前言撤回します」とクスクス笑う。

 

「もう自分のだから手を出すな、だなんて言い張るつもりはないですよ。ただ、結衣先輩がわたしと同じ事をするっていうなら、わたしはもっと先へ踏み込みますけどね」

 

 もっと先へ──。

 あたしが想像し、怯んだことの答えを、彼女は先回りしてきた。

 同じようにして張り合ったところで、まず勝ち目はない。そう思えた。

 

「じゃあ、続けるの? 恋人のフリ…」

 

「…先輩の記憶、そのうち戻るんですよね? その時どういう反応すると思います? ぜったいに責任がどうとか言って、離れようとしますよね」

 

「それは…うん、そう…だと思う」

 

 今回の騒ぎの大きさを考えれば、彼が後々どう動くかは簡単に想像できる。結果的に、あたし達はいろはちゃんを本当の意味では守りきれなかった。ヒッキーだって絶対にそう考えているハズだ。間違いなく、今後いろはちゃんと距離を置こうとするだろう。

 

「あのひとは感情より理屈を優先するタイプです。怖い目に遭わせた自分はわたしの傍に居ない方がいい──そんなふわっとした感情論よりも、居なくちゃいけない明確な理由があれば、そっちを優先するはずです」

 

「既成事実を作るってこと? そんなことしたら、記憶戻ったヒッキー、怒るんじゃない?」

 

「真っ当なやり方で気持ちを伝えたとして、答えが返ってくるのっていつになると思いますか? そもそも答えが返ってくると思いますか? わたしは待てません。それに、近くに居たいんです。少しでも長く、少しでも近くに」

 

 後々までをきちんと見通した、理性的な作戦…というワケではなさそうだった。今もこれからも、ただ近くに居たい──色々理屈をこねているけど、一番の根っこにあるのはそういうシンプルな理由だけのような。

あたしだって、そういう気持ちはある。だけど──

 

「でも…それってさ…気持ちの押しつけのような…」

 

「そうですね」

 

「え?」

 

「そうですよ?」

 

 そうはならない、とか。そういうつもりはない、とか──。

 言い訳なり、別の解釈なりを期待していたあたしは、全く悪びれもしない彼女に、目を丸くすることになった。

 

「あー…そかそか。結衣先輩らしいですね」

 

 あたしが何に驚いたのかを理解したのか、彼女は人差し指を立てて、「これは持論なんですけど」と続ける。

 

「恋愛って、言っちゃえば好きって気持ちのぶつかり合いですよね。どうしたって、気持ちの強い方が弱い方に押しつける形になるんです。別々の人間同士なんですから、いきなりピッタリ釣り合うワケないじゃないですか。最初は温度差があるの、当たり前のことじゃないですか? わたしはそう思います」

 

 あとは恋人として過ごしながら温め合って、その差をゆっくりと埋めていくのではないか。彼女はそう語った。

 

「はー……」

 

 考えたこともなかったけど、それはすごく素敵な恋愛観だった。思わずぼうっと聞き惚れてしまった…しまったけど、「でもでも」と頭を振る。それはお互いの"一番"が一致している場合の話だ。誰が一番なのかを見失っている今の彼に、その理屈を当てはめてしまってよいものか。

 

「そ、それはそうかもだけど…。なら、今のヒッキーの気持ちはどうなるの? 記憶なくなっちゃってるからアレだけど、その…ホントは他にもっと好きな人がいたりとか…」

 

 ゆきのんとか、ゆきのんとか、ゆきのんとか。

 

 あとはその……ひょっとしたら万が一……あ、あたし、とか…。

 

「いま大切にしてるモノ、捨てさせるってコトじゃないの?」

 

 自意識過剰だとは思わない。それだけは自信がある。

 いろはちゃんは、ちゃんと分かっているんだろうか。分かっていないのなら、彼女のやったこと、やろうとしていることを認めるわけにはいかなかった。これだけ長い間悩み続けて、まだ見つけられないでいるあたし達の"答え"を、彼女は持っているんだろうか。もしもそんなものがあるのなら、教えて欲しい──。

 

 そんな淡い期待も込めて、自分でも答えの出せていない、ずるい質問を彼女にぶつけてみた。

 

 

「…それで、ヒッキーは、幸せになれるの?」

 

 

 

 

「…………………………………………………」

 

 

 

 

 これほど長い沈黙は、あたしといろはちゃんの会話の中で初めてだった。

 それはそうだろう。だってこれは、あたし達の関係の一番深いところにある問題だ。後から参戦したいろはちゃんに首を突っ込む権利がないだなんて言わないけど、すぐに答えが出せるならあたしだって苦労はしない。

まるで放送事故みたいな空白の後、いろはちゃんはぽつりと呟いた。

 

「…ずるいですよね」

 

 タチの悪い質問をぶつけたあたしの底意地を責められたのかと、一瞬心臓が跳ねる。

 でも、続く言葉は全く逆の相手を指していた。

 

「ずるいとは思ってますよ、わたしのした事は。わたしが結衣先輩なら、二、三発引っぱたいてやりたいです」

 

 まるでそこを誰かに叩かれでもしたかのように、彼女はほっぺたに手を当ててさすっていた。ううん、あたしの言葉がそう感じさせた。あたしは言葉で彼女のほっぺたを引っぱたいた。そんなつもりはなかっただなんて言わない。彼女を責め立てるべくして責めたんだ。

 

 そして、引っぱたかれた彼女は、しかし負けじとこちらを見返してきた。

 

「でも…でも、だったら、結衣先輩や雪ノ下先輩だってずるいんです。わたしから見たら、凄くずるいんです」

 

 その言葉に、正直あたしは面食らった。

 ヒッキーとの仲を「羨ましい」と言われることはあっても、「ずるい」と責められるだなんて。そんな風に言われるようなこと、何も──

 

「だって二人は…結衣先輩は、先輩に逢えたじゃないですか。誰よりも先に出会えたじゃないですか。それからずーっと一緒に居られたじゃないですか。そんなの全然フェアじゃないです! ずるです! ずっこいです!」

 

 あたし達を責め立てる声は、悔し涙に濡れていた。

 

 

「初めて私が入った時、あの部屋、もう満席だったじゃないですか…」

 

 

 

 

 ふと、初めて彼と出会った頃の事を思い出していた。

 

 

 

 寒々とした教室の中、取ってつけたように置かれた長机とイス。

 

 そしてそれをいびつな距離感で囲む三人。

 

 彼女の言葉とは逆に、あの部屋は当時も今も、見てくれはスカスカだった。

 

 部室で話すようになった頃、彼の他人への距離感は今ほど近くはなかった。あの人は心に壁を作っていて、それはどんなに鈍い人間にもハッキリと見て取れるほど、露骨なモノ。だけどあたし達は、ぽっかり空いていた彼の両隣を占領できた。三人だけの世界に籠り、時間をかけて、少しずつ。

 

 だって、あの締め切った小さな部屋の中は、ほんの半歩だけとはいえ、紛れもなく彼の壁の"内側"だったのだ。

 

 ここまで来るのに、色んなことがあった。ひどいケンカだってしたし、とてもじゃないけど簡単な道のりだったとは言えない。それでも、こうして今の位置に陣取れたのは

 

(そこに居たのがこのあたし、由比ヶ浜結衣だったから──)

 

残念ながら、そうではないということを、他ならぬ自分自身が一番理解していた。

 

(もし、あたし以外の誰か…例えばそれが、いろはちゃんだったら…)

 

 そんな"もしも"に意味なんてない。いろはちゃんがあたし達と仲良くなったのは、生徒会選挙があんな風に拗れたからで、何か一つでも違っていれば、今の関係だって成立しなかった。

 それでも、もしも彼の隣に、最初からいろはちゃんが座っていたとしたら。今の彼女がやってきたように、ヒッキーに会うために完成された"内輪"へ飛び込むなんて勇気、あたしには絶対に出せなかった。

 

 そこまで考えて、やっと彼女の気持ちが理解できた──ううん、思い出した。

 

 あたしだって同じようなコト、やってたじゃん。

 ゆきのんに内緒で花火とか、行ってたじゃん。

 そうしないと追い付けないって、分かってたじゃん。

 

「────っ」

 

 取り留めもなく謝ろうとした声が喉まで出かかったけど、続く言葉に遮られた。

 

「先輩が傷付けられて。泣いて、すごく、すごく泣いて。もう一滴も出ないってとこまで泣き尽くして。それなのに、先輩に忘れられちゃって…そしたら、まだ涙が出たんですよ。自分でもビックリしました。ああ、こんなに好きなんだなって…」

 

 こみ上げるような内容とは裏腹に、その声色はほとんど平温に戻っている。あたしがあれこれ考えている間に、いくらかクールダウンしたみたいだった。

 

「もう、後悔したくないんです、わたし」

 

「…あたしも今、後悔してる。でも…だから、かな。なんかよくわかんなくなってきちゃった。みんなで仲良くできたら一番良いんじゃんて、思ってたけど…」

 

 そんなのうまく行きっこないなんてコト、良く分かってたハズだった。 だってほら、こうしてたった二人の間でさえ、全然うまくやれてない。

 

「わたしの恋愛脳も大分アレだって自覚はありますけど、どうやら結衣先輩とは毛色が違うみたいですね」

 

「…?」

 

「だって、わたしにとっての一番の席は、元々ひとつしかないんです。もちろん結衣先輩や雪ノ下先輩のことは大好きですけど、それでももし、先輩とどっちかを選べって言われたら…。ゴメンナサイですけど、その答えには迷いません。だからさっきの、先輩に他の本命がいたらどうするのって話ですけど──」

 

 いろはちゃんは目を閉じていた。その瞳には誰も映っていない。

 

「捨てる必要はないんです。先輩の大事なものは何ひとつ」

 

 誰に対するでもなく、彼女は静かに宣言した。

 

「ただ、あのひとの中に、わたしへの気持ちがほんの少しでもあるなら…あるって信じて、それを育てます。他の何よりも、一番大きくなるまで、丁寧に、必要なだけ時間をかけて。そして今、先輩が持ってる一番大きな気持ちよりも、ずっと、ずーっと大きく──。そしたらきっと、今よりもっと幸せになれます。してあげます。それがわたしの答えです」

 

 いつだったか。

 自分で宣言したことを、ふと思い出した。

 

『来ないなら、こっちから行く』

 

 あたしの精いっぱいの、宣戦布告。

 それが、どれほど生ぬるいものだったのか、よくわかった。

 あの引きこもりの男の子を相手に、この子はこう言っているんだ。

 

『扉が開かなくても、こじ開ける』

 

『居場所がなくても、作り出す』

 

 確かに、あたし達は同じじゃなかった。あたしには、親友を傷つけてまで彼を選ぶ覚悟がない。宙ぶらりんなまま、ぬるま湯に浸かっている今が心地良いから。本当はそれが、ゆきのんやヒッキーの嫌いな、彼が涙まで浮かべて欲しがったモノから一番遠いところにある、ニセモノだってことも、よく分かってるのに。

 

「…望んでるのと違うかもって…不安にはならないの?」

 

 縋るように問いかけたあたしに返ってきた彼女の答えは、ちっとも優しくはなかった。

 

「きっと、その辺がわたしと結衣先輩の決定的に違うところなんでしょうね。『先輩が幸せになってくれれば、相手は誰でもいい』だなんて、そんな健気な女の子じゃないんですよ、わたし。他の誰でもない、このわたしの手で、あのひとを幸せにしてあげたいんです」

 

 同じ相手に向けられた、あたしと彼女の気持ち。

 最初は親近感すら感じていたハズだったのに、どこでこんなに差が付いたのだろう。

 

「わりと、ワガママなので」

 

「ふふっ…そだね。でも…」

 

 ニカッと白い歯を見せる彼女は、本当に自分勝手で。

 なのに悔しくなるくらい、自分に真っすぐな、お姫様みたいな笑顔だった。

 どっちが正しいとか、間違っているとか、そういう問題じゃない。

ただ──

 

「いいね、それ」

 

 そういう風に動けたら、もっと違ってたんだろうなって。

 

 そう思ったけど、言葉にはしなかった。

 今までの自分を否定したくなかったから。だけど、こんな風に思うってことは、自分の行動に満足していないってことなんだろう。今からでも動いたら、もう少し満足のいく結果になったりするのかな。

 

 そんなあたしの考えを見透かすかのように、彼女は尋ねた。

 

「──それで、結衣先輩は、どうするんですか?」

 

 どうするって、何を?

 

 恋人のフリのこと、ヒッキーへの接し方、いろはちゃんとの付き合い方、ゆきのんの気持ち、これからの学校のこと──。

 

 何もかもが、グチャグチャにこんがらがってる。

 どこから手を付けたらいいの?

 今さらあたしに、出来ることってある?

 

「……わかんない」

 

 何をするべきか、わかんない。

 何を聞かれたのかも、わかんない。

 

「わかんないけど…」

 

 すっかり温くなった空き缶を放り投げる。

 綺麗な放物線を描いてゴミ箱へ飛び込んだそれは、思ったより高い音を立てた。

 

 ひっくり返したおもちゃ箱みたいな頭の中で、一つだけ、ハッキリと形を保っているモノ。

 きっとこれが、彼女の質問に対する答えだと信じて、あたしは返事をした。

 

「──頑張るのは、やめない」

 




ブランク明けでこの二人のガチンコとかキツ過ぎだってばよ…。


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■37話 体現される感情

あけましておめでとうございます。
今年も色々あるとは思いますが、どうぞ最後までお付き合いください。

久しぶりの八色回です。ご賞味あれ。



<<--- Side Hachiman --->>

 

 落ち着きのない珍妙な文字列が、鮮やかな液晶の上を次々と横滑りしていく。肺の腑から零れた空気が、傷一つないモニターとそこに映し出された少女の姿を、白く曇らせる。

 

『運が良かったっていうか…たまたま前の日に…はい』

 

 暴力的なまでに漂白されたベッドシーツは、蛍光灯の光を拒絶するかのように跳ね返してくる。視覚的にも触覚的にも優しくないこの布地の感触にも、随分と慣れてきた。手の中で動画を垂れ流し続ける真新しいスマホを横目に、俺は本日何度目かの重苦しい空気を吐きだした。

 

「…………はぁ……」

 

 溜息の百や二百も出ようというものだ。

 どこぞの犬を助けようとした途端、二年ほど未来の世界に飛ばされてしまったのだから。

 

 聡明な諸兄であればこのあたりで「ああ、コイツは頭の病気で入院しているんだな」と思われるかも知れないが、それで半分正解だ。小町から聞かされている経緯をダラダラと繰り返すのは簡単なのだが、混乱しているのは俺ひとりらしいので、そのあたりは割愛させてもらう。

 

 大怪我をした上に記憶を失い、入院中。

 それが高1改めもうすぐ高3を迎えんとする、比企谷八幡の現状まとめである。

 

 記憶喪失。

 

 英語で言うとメモリーズオフ。ちょっと違いますね。

 

 ライトノベル界であればまず間違いなく、失われた過去には壮絶な秘密が隠されているものだ。暗殺業に従事していたり生き別れた妻子が居たりと、展開に合わせて自在に過去を捏造できてしまう。何なら健康な主人公よりも好まれる傾向さえある、かなりメジャーな疾患である。

 男子であれば一度くらい「ぐっ…あ、頭が…っ」とかやってみたくなるものだが、ならば実際に体験した場合、どんな感じかと言うと…そうだな…。「風邪で学校休んだらいつの間にか飼育係にされていた」ってのが一番近い。ただの欠席裁判じゃねーかと思うだろうが、本当にそんな感じなのだ。口裏を合わせているのがクラスメイトか世界かの違いでしかない。もともと全方位ぼっちである俺にとって、それは誤差だ。あってないようなものである。

 ただ、いくらハブられるのに慣れていると言っても、家族にすら置いてけぼりを食らっていたのは堪えた。あの小町がもうすぐ高校受験だという。俺だってこの前終わったばかりのはずなのに…。

 

『えっと、そういうのは考えてる余裕なかったです。ぜんぜん冷静じゃなかったし──』

 

 高一の春にいきなり二年分の記憶を失う──これが一体どういう意味をもつのか、ちょっとだけ考えてみて欲しい。

 あったかもしれないイベントやラブコメ的展開。青春の代名詞とも言える高校生活のメインディッシュが全て無かったことにされ、終わったばかりの高校受験の次に待ち構えるは大学受験…。そりゃもうブラック企業も真っ青の過密スケジュールだ。

 この事実を両親に告げられた時の俺が、幸いにも生き延びられたことをちょっとばかり後悔したからって、そうそう責められる事ではないはずだ。

 

 しかし、そうして地を這っていた俺のメンタルは、とある人物によって一瞬で衛星軌道まで打ち上げられた。さっきからスマホに映っている、こちらのお嬢さんだ。

 

『あの時はとにかく必死で──あ、はい。お世話になってる先輩なので、なるべく早く良くなって欲しいです』

 

 耳の後ろをくすぐられるような声色で、固めのはにかみを見せる、画面の中の女の子。マイクを向けられて、一生懸命マスコミの質問に答えている。彼女は最近ネットを(そしてごく一部の住民を)賑わせている、スーパーJKだ。

 何でも、ナイフで刺されて大出血した男子生徒に対し、自らも血塗れになりながら適切な応急措置を施術、見事にその命を救ったのだとか。なるほど確かに、とても同じ高校生とは思えない。度胸と愛嬌を兼ね備えた女性主人公だなんて、まるで流行りのドラマみたいではないか。

 ただ世間的に…というか主にネット民の反応としては、その偉業を差し置き、主にルックスに対する反応の方が顕著であるように思えた。ソースはこれ、今も目の前を流れ続ける数多のコメントである。

 

────────────────────────

この子は俺の嫁 むしろ俺の嫁むしろ俺の妹

prprしたい prpr prpr prpr

prpr prpr ビッチかわいい prpr prpr

 ちな総武高  ↑処女だろjk 誰か凸ってこい

  prpr prpr     ↑厨乙

千葉ハジマタ ゆるふわ美少女降臨 prpr

prpr prprみんなごめんな俺の彼女だから

 prpr 太ももでオギャりたい

          ↑通報しました

 ピーナツ美人ww 千葉ディスる香具師は氏ね prprさせろ

────────────────────────

 

 何でもいいけどprpr多いな。どんだけ舐めたいんだよ気色悪い。あと千葉ディスるやつは逝ってよし。

 けどま、お前らの気持ちも分からんでもないよ。うん、これは仕方ない。

 

 庇護欲を掻き立てる小柄な体格。

 柔らかなピーナッツ色──もとい、亜麻色の髪。

 薄いメイクでも存分に映える、あどけないながらも整った目鼻立ち。

 

 ゆるふわ清楚系って言えば通じるだろうか。ちょっとムカつくくらい可愛い、というのが第一印象だ。驚くべきことにこの女の子、市井(しせい)の娘っ子のくせして芸能人顔負けのルックスなのである。それだけに、群がる有象無象で軽やかにお手玉を楽しんでそうな印象が付きまとうのだが…。何にせよ、地下アイドルをかき集めたってそうそう太刀打ちできない高濃度のオーラを身に纏っていた。

 これほどの圧倒的美少女力に晒された一般人(パンピー)にとって、彼女が何を成し遂げたかなど二の次。箸が転んだところで祭り上げられていたことだろう。

 

 …で、ここからが本題。

 

 実は彼女、驚くべきことに、俺の知人であるらしい。

 

 この時点で十分過ぎるほどに「妄想乙ww」なのだが、より正確にはただの知人ではなくて……改めて言葉にするのはキツいな。アレがアレ過ぎて心が痛い。暗黒時代の自作ポエムを音読させられているようだ。だって自分でも未だに──

 

「ただいまでーす♪」

 

 動画に流れていたトーンをじっくりコトコト煮込んだような、甘ったるい声。ノックと共に病室の入り口から聞こえてきたそれを耳にした俺は、慌てて動画のブラウザを落とし、何食わぬ顔で相手を迎えた。

 

「…おう。お疲れ」

 

「むっ。今なにか落としました。アダルトサイトですか?」

 

 部屋に入ってくるなり俺の行動を目敏く見咎めた声の主。ブレザーを白いコートですっぽり包んだ小柄な女子だ。それは先程の動画でコメントの弾幕に埋もれていた人物、その人だった。コートを脱ぎながらトコトコと歩み寄ると、カバンを床に下ろしてスツールにぽふんっと腰を下ろす。座面には、幾分ヘタれた安っぽいクッションがセットされていた。

 

「人聞きの悪い。わざわざこの時間帯を狙って危険を冒す必要がどこにある」

 

「わーこのひと全然反省してなーい♪ データ通信解約してもーらおっ」

 

「すいません冗談です」

 

 断じてエロなど見ていない。見ていないけど全面降伏だ。俺は素直に両手を上げた。

 下手に機嫌を損なうと、こんな冗談半分の脅しすら現実になりかねない。少なくともこの御仁、その程度にはスマホの契約主──つまりは俺の両親に対し、発言力を備えているのである。

 彼女はふにゃっと眉尻を落とすと、俺のベッドに顔面ダイブを敢行した。かき乱された空気と共に、人肌に温められた甘い香りがふわりと立ち上る。

 

「はー、疲れましたー。せんぱーい、わたしちょお疲れましたー」

 

「毎日こっち来るからだ。疲れてるなら真っすぐ帰って休んでいいんだぞ」

 

「違いますー、疲れてるから来てるんですー。…ふへぇ~生き返るぅ~」

 

 彼女は俺の手を取って自分の頭の上に据えると、その上から自分の両手を重ねて気の抜けた声を上げた。ベッドに鼻先を埋めつつ、ひとっ風呂浴びているかの様な愉悦の吐息を漏らしている。

 一見すると、俺が女子の顔面をベッドに押し付けている──拡散されれば炎上不可避の、この光景。けれどもこれは、病室(ここ)に居ればわりと頻繁にお目に掛かることが出来る、言わば日課の様なものだった。

 

 俺が命を救った女の子。

 俺の命を救った女の子。

 ネットに数多くのにわか信者を擁し、

 俺になでなでを強要している、亜麻色の美少女さん。

 

 名前は一色いろは。

 

 俺の「彼女」である。

 

 

* * *

 

 

 時刻は午後の六時を少し回ったところ。

 既に日も落ち、蛍光灯の明かりが室内を照らす中、鼻をくすぐるような愛らしい声が、滔々(とうとう)と話題を紡いでいた。

 

「──で、今日はついにそのグループとお昼を一緒することになったんですけどー、これが案外話が合うっていうか、わりと盛り上がってですねー」

 

「マジか。そう思ってるのはお前だけってオチじゃないよな」

 

「そういう心折(しんせつ)系のツッコミはノーサンキューで。てか、ちゃんと良いカンジでしたし」

 

 夕方になるとこの病室にやってきて、花瓶の水を変え、俺の冴えない相槌を肴に取り留めもない事をつらつらと話し、面会時間の終わりと共に帰っていく。それが俺の知る、一色いろはという女の子の、平日の過ごし方だった。

 時の人である彼女が、どうして俺ごとき虫けらの為にプライベートの大半を費やしているのか。そこには当然、やんごとなき理由がある。彼女にとって俺は正真正銘、"恩人"なのだ。

 

 事の発端は、ボランティアで人助けをしていた俺の部(ここからして違和感が酷いのだが先に進むとして)に、この子が転がり込んできた事だった。御覧の通りの見てくれだったので、変な男に粘着されて困っていたところに紆余曲折あって、最終的には俺がナイフで刺される超展開に。

 証明問題の証明部分をごっそり端折られたような雑な説明だが、実は俺もまだあまり事細かには聞いていない。まあ聞いたところで納得できるかどうかは妖しい話である。大体、高校で唐突に護身術デビューを果たしたとも思えないし、凶器相手では勝ち目など皆無だったはずだろうに、俺氏は一体何がしたかったのだろうか。もしも無為無策で挑んだというのなら、同じ八幡として「アホなの?」と突っ込む他ない。と言うか実際に声に出してしまい、ダイジェストを語っていた小町から真顔で睨まれたりしたのが、つい先日の話である。

 

 そんな火サスみたいな事件が、よりによって千葉随一の進学校で起きたというのだ。小町の語りをありのまま受け入れるのは、比企谷家のさすおにと呼ばれたこの俺でもかなり骨が折れた。ネットを冷やかした感じ、総武高(ウチ)で刃傷沙汰が起きたことは確かな事実として認知されているように見える。だから事件が起きたこと自体は嘘ではないんだろう。

 それでもやっぱり、俺が「身体を張って女生徒を守った」という美談の方は、どうしても府に落ちない。「比企谷八幡がストーカー行為に及んだため、成敗された」の方が、余程しっくりくるというものだ。

 

(ぐ…い…てぇ…)

 

 時おり脇腹を襲う、きりりと引き攣るような感覚。教えられた()()が嘘ではないと主張しているのか、思い出したかのように鋭い痛みを伝えてくる。

 刃物で腹を裂かれて、しかも内臓まで達していたのだ。ぬいぐるみじゃないのだから、針と糸で縫い合わせたところで無かったことにはならない。しばらくこの痛みと付き合っていかなければならないのかと思うと、どんどん気分が滅入ってくる。本当に、どうしてそんな命知らずな真似をしたのだろう。失われた二年間の中で、妙なヒロイズムにでも目覚めたのだろうか。中二病(やまい)はもう治ったと思っていたのに…。

 

「──先輩?」

 

「…ん…わり。一瞬眠くなった」

 

 事あるごとに走る痛みに思わず顔をしかめたくなるが、それを目の前の女子にバレないようにするのが、入院中の俺に与えられた唯一の仕事である。

 

「今日はもう休みますか?」

 

「いや、まだいいわ。昼間とかほとんど寝てんのに、何でだろうな」

 

「傷の回復ってけっこう体力使うそうですから。眠かったらいつでも寝ちゃってくださいね」

 

 そうそう、傷と言えば──。

 損傷した内臓というのは主に大腸のことだったらしく、手術こそうまく行ったものの、はみ出した内容物が腹部に広がったため、感染症をこじらせれば死に至る可能性もあったのだそうだ。医者の話を理解した俺は、心底震え上がった。

 だってさ、医学的にはそれらしく聞こえるけど、つまりは腹の中でウンコを漏らしたって事じゃないですか。ナイフに耐えてもウンコに殺されてたら世話ねーよ。そんな業を背負ってあの世デビューとかハードル高すぎだから。口コミだとお化けにゃ学校も試験もないそうだけど、苛めがないとは言ってないし。生き残れてホントに良かった。

 

 

 ともあれ、これだけ大きなトラブルがあったのだ。別世界の住人である彼女が俺なんかの病室に足しげく通っている摩可不思議な現状も、その恩返しだと思えばギリギリ納得出来ないでもない。ただ、俺達の間には恩義以外にもう一つ、無視できない関係性があった。

 

「──でも予習とかちょおダルいじゃないですかー。クラスで話せる女子も全然やってなくてー」

 

(…………)

 

 相も変わらず楽しげに話し続ける彼女に返事をしながら、ちらりと脇に目線を投げる。その先にある俺の左手はいつも通りだ。特に汗もかいていなければ乾燥もしていない。

 

「そしたらですね、先生が当てようと──……?」

 

 彼女はおしゃべりに夢中のようでいて、意識の中心を常にこちらに向けている。ぼうっとしている分には放っておいてくれるが、何かに注意を向けていれば、必ず追いかけてきて確認する。甲斐甲斐しくて、可愛らしくて、ほんの少しだけ鬱陶しくて…。高性能なアシストAIってこんな感じなんだろうか。

 俺の目線を追って、しかしその先に特別変わったものを見つけられずにいた彼女に、話の続きを促してやった。

 

「…で、先生が?」

 

「…でー、先生が問題当ててくるじゃないですか。その度に忘れたフリが──ってそーだ!わたしも忘れてました!」

 

 おもむろにゴソゴソと傍らのバッグを漁る。取り出したるは瓢箪にも似た形状の果物だ。

 

「じゃーん。実は今日、洋ナシ買ってきてるんですよー。許可もちゃんともらってます。どうですか?」

 

「…悪いな。んじゃありがたく」

 

「はーいよろこんでー♪ ではではー、ちょっと失礼しますねー」

 

 彼女は腰を上げ、()()()()()俺の左手をそっと離した。

 

 そう。彼女はこの病室にいる間、ずっと俺の手を握っているのである。小さくてスベスベの、俺の体温よりちょっとだけ冷たい指。握っていればすぐにぽかぽかと温かくなり、手離した瞬間、ゾッとするほどの寒気を感じてしまう。雪のように白いシーツの上にぽつんと取り残された自分の手を、俺は妙な心持ちで一瞥した。

 

「…………」

 

 

 × × ×

 

 初めてこのスキンシップを求められた時、言うまでもなく俺は死ぬほど恥ずかしがり、戸惑い、心臓を鳴らし、リアルに滴り落ちるほど大量の手汗を流した。ベタベタを通り越してもうビショビショ。自分でもドン引きの惨憺(さんたん)たる有様である。気持ち悪いだろうから離せと慌てる俺に対し──

 

『汗をかくってことは、生きてるってことですよ』

 

 一層強く手を握り込み、彼女は嬉しそうに笑ったのだ。

 

『何でこんな…』

 

『先輩のこと、大好きだからです』

 

 本来、比企谷八幡が続けるべき次の言葉は『嘘つけ』なのだが、その台詞が実際に俺の口から出ることはなかった。出せなかったのだ、物理的に。

 

『…んっ』

 

『んむっ!?』

 

 彼女宣言の際に貰った3連発に続く、通算4度目の打ち上げ。彼女の行動は常に、全てを疑ってかかろうとする俺の、一歩も二歩も先を行っていた。体現される感情は、嘘や冗談で済まされる領域をとうに踏み越えている。それに──

 

(事情はどうあれ、一生の宝だろ)

 

 たとえ詐欺や罠だったとしても、こんなのは拒めない。

 こんな可愛い子が健気に尽くしてくれるのだ。抵抗とか無理に決まってる。

 これほどに甘美な毒ならば、いっそ飲んで死ぬのも悪くない…。

 

 とうとう悟りへと至った俺は、理性的な追及を諦め、剥き出しの好意に対する抵抗力の大半を放棄してしまったのである。

 

 納得はしていない。理解も及んでいない。頭のどこかは常に冷やかだ。それでも彼女を遠ざけることが出来るほど、俺の心は平常ではなかった。

 ほぼ二年──これまでの人生にして10%以上。それを失ってしまった事が恐ろしくて、でも、誰に泣き言を言えばいいのかも分からなくて。だからこそ、こうして確かに触れている彼女に、伝わってくる火傷しそうな程の情動に、必死に取り(すが)っているのかも知れなかった。

 

× × ×

 

 

「食事制限、はやく明けるといいんですけどねー」

 

 物思いに耽る俺をよそに、彼女は制服の上着を脱ぎ、壁に掛けられたエプロンへと手を伸ばした。目で追って、ふと、それがこの部屋に持ち込まれた日のことを思い出す。

 

 彼女がバッグからそれを取り出した瞬間、俺は思わず「何それ」と漏らしてしまった。だってそうだろう、いくら個室とはいえ、料理をするほどの設備もスペースもないのだし。けれども、そんな何気ない突っ込みを聞いた彼女が一瞬だけ見せた感情に、俺はぎょっとさせられた。いつも楽しそうに笑っていた顔が、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪んだのだ。

 次の瞬間には笑顔に戻っていたが、あんなものを見てしまった後で「持って帰れ」などと言い出せるはずもなく──それから今に至るまで、壁の一角に堂々と居座っている。

 

「洋ナシって、お菓子にするともっと美味しくなるんですよ。タルトとか」

 

「リキュールに漬けるアレ?」

 

「ですです。普通にパウンドケーキに入れるだけでもちょお美味しいですしー。今度作ってあげますね」

 

「なに、ケーキとか作れるの? すごくない?」

 

「他にも色々と。退院が待ち遠しいですね~?」

 

 彼女はしばしばそれを身にまとい、こうして術後にも食べれられる様な果物なんかを饗してくれる。世界に軟禁されているような気分の俺にとって、それはひどく心安らぐ時間だった。

 無味乾燥な病室にひょっこりと咲いた、てんで場違いな一輪の花。このエプロンを片してしまったら、彼女がもう来なくなってしまうんじゃないか──そんな妄想さえするようになっていた。

 それに、こっ恥ずかしい感情論を抜きにしても、これで案外いいインテリアだったりする。白一色で味気なかった病室の壁に、ライムグリーンの布地が少なくない彩りを与えてくれるのだ。

 

 そんなこんなで、今となっては引っ込めてもらう理由など何ひとつ見当たらなかった。

 

「しかし相変わらず、反則的だよな…」

 

 制服エプロン。もう名前からしてチート臭が香しい逸品である。か細い腰にするりと帯紐を回し、後ろ手に蝶々を結ぶ可憐な姿。控えめに言って最高かよ。

 裸エプロンが事実上ファンタジー世界の住人である一方で、制服エプロンとは確かにその恩恵にあやかる事が出来る現人神(あらひとがみ)の様な存在だ。いや、厳密に言えば我が家のキッチンでもそこそこ見かけたのだが…それはそれ、これはこれ。この国には八百万もの神がおわすのだ。細かい事を気にしてはいけない。

 

「え? なんですかー?」

 

「いんや、なんも…」

 

「…ふふっ」

 

 白のブラウスを包むパステルカラーがスレンダーな体型を浮かび上がらせ、裾からはチェックのスカートがヒラヒラと視線を誘う。こんなん童貞じゃなくても瞬殺されるわ。むしろレベル1デスだわ。

 どう見ても今風ガールの彼女が、エプロンを纏うだけで清楚指数3倍増し。原理はさっぱり分からないが、きっと名のある概念礼装に違いない。垢抜けているのに清楚。二つの相反する要素が今、ここに共存していた。

 

「~♪ ~~♪」

 

 彼女は小さな鼻歌を奏でながら時折チラリとこちらを伺い、自らに向けられる視線を再確認する。そして満足げに目を細めては、果物ナイフを滑らせるのだ。その手の平でくるくる踊るフルーツに今の自分を見た気がして、要らない負け惜しみが口をついて出てしまった。

 

「いつもありがたいけどさ、わざわざエプロンって要る?」

 

 折角俺のためにやってくれているというのに、なんと余計な一言だろうか。しかし彼女は手にしたナイフを左右にチッチッと揺らして──危ねえな!──余裕の笑みをもって答えた。

 

「分かってませんねー。こういうのは雰囲気が大事なんです」

 

「雰囲気、ね…」

 

「だって可愛くないですか?」

 

 クイっと小首を傾げる仕草は、一つ間違えればただ痛いだけだ。けれども彼女は一つたりとも間違えはしない。こんな露骨なアクションに反応するのは悔しくもあるのだが、つつこうにも重箱の隅に至るまで、粗ひとつ見当たらない。どこからどう見たって、やっぱり可愛いのである。

 

「そういうの見せる為に、わざわざ着るん?」

 

「そういうのを見て欲しくて、わざわざ着るんです」

 

 ちょっとした言い回しさえ、いちいち理性を切り刻む。こちらの考えを見透かしたような上目遣いがこそばゆくて、俺は天井を睨む勢いで視線を上へと逃がした。

 

「…その色は…嫌いじゃない、けど」

 

「ぷっ…でしょうね…ぷぷっ…」

 

「へ?」

 

「いえいえ。わたしのお気に入りですから、当然です」

 

 お気に入りと言えば──

 この色、確か小町も好きなんだよな。こんな色のパンツ履いてんの、前に見たことあるし。

 ライムグリーン。和名で言えば萌黄色(もえぎいろ)だ。つまるところ、古より受け継がれし、日本国公認の萌えカラーと言える。日ノ本の男子であれば、これはもう心動かされるのが自然というものだろう。

 証明終了。

 俺は悪くない。日本人の血が悪い。

 

 

* * *

 

 

 本日は土曜日。

 

 翌日もお休みという至福の一日であり、誰もが夜更かしに歯止めをかけられない日だ。だが、通学の義務を免除されている今の俺にとって、言うほどありがたいものでもない。

 苦痛をデフォルトに設定することで、ニュートラルを幸福だと錯覚させられている哀れな現代人。知りたくなかった、こんな真実。滅びろ管理社会(ディストピア)

 

 ただ、この変わり映えしない病室の閉鎖環境にも、休日なりの変化というものはあった。普段は夕方しかいない人物が、一日中入り浸っているからだ。今日も今日とて、彼女はこの部屋に朝から顔を出していた。呆れたことに弁当まで持参して。もうどっちが入院患者なのか分からない。

 

「ここ! ここに文字入れられるんですよ。"H to I"とか。ちょお可愛くないですか?」

 

「刻印ねぇ…」

 

 H to I(俺から彼女へ)…。キザったらしくてアレルギー反応が出そうだってのもあるんだけど、それ以前に──

 

「HからI…まるでアルファベットのお勉強だな。次はちゃんとJの人に回せよ?」

 

そしてJの人が小町(Komachi)に渡せば──ダメダメ小町に指輪プレゼントとかHの人が認めませんから。くそうチェイン失敗。

 

「なんでそういうこと言うんですかー! バツとして先輩がプレゼントしてください」

 

「…最初からそう言ってるでしょ」

 

 

 

 随分世話になっているから、礼の一つもさせてくれ、と──。

 

 細々と世話を焼いてくれる彼女にそう切り出してからというもの、今日は一日中こんな調子だった。

 

 彼女は「お礼だなんて」みたいなめんどくさい遠慮は一切言わず、それはもう大喜びで品定めを始めた。あちこちのWEBサイトを絶え間なく梯子し、ひたすら可愛い可愛いと頬を緩めている。本人楽しそうだからいいんだけど、なんで指輪オンリーなんだろう。ペンダントとかブローチってオワコンなのかしら。下手な見栄を張らずに自分で選ばせたのは正解だったな。

 

「あ、これ! わたしこれ系ちょお好みですー!」

 

「んじゃそれで」

 

「なんですぐ決めちゃうんですかー。もっともっと悩みましょうよー」

 

「何時間掛ける気だよ…」

 

 ついさっき、選ばせて正解だと思ったが、やっぱりそうでもなかったらしい。とかく女の買い物は時間が掛かるものと言うが、寝転がっているだけの俺の方が先に音を上げることになるとは。

 

 時計を見れば、短針は彼女の出勤時刻から既に半周を過ぎていた。冬の太陽は帰宅部ばりに逃げ足が速い。既に日差しは勢いを失いつつあり、冷たい風が窓を揺らしている。家路を送ってやることも出来ない身の上としては、少しばかり据わりが悪い。

 

「なあ。暗くなるし、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」

 

「えー? なんでですかー、まだ夕方ですよー? むしろこれから本気出します」

 

「夜行性かよ。うちのカマクラ見習え。あいつ夜もちゃんと寝てるんだぞ。昼もだけど」

 

「イヌかネコかっていうなら、わたしって断然ネコだと思いません? にゃー」

 

「………………っ」

 

 油断してたところに一色流ねこ☆ぱんちが炸裂。しかも萌え袖エンチャント。

 脳がぐわんぐわんと揺さぶられる。

 可愛いなこんにゃろうぎゅっとしたいナデナデしたいもっと色んなことしたい──。

 

 あらゆる葛藤を奥歯で砕いて飲み干して、余裕の振る舞いを見せる紳士がそこにいた。

 

「…はいはい、にゃーにゃー。でもほら、今日はこれから冷えるらしいぞ。氷点下」

 

「あ…ごめんなさい。ご迷惑ならすぐ帰ります」

 

 ケラケラとおどけていた彼女は突然、叱られた幼子の様に居住まいを直した。普段はふてぶてしいくらいなのに、たまにこういう顔をするから迂闊に強く出られない。何か地雷でも踏んでしまったのだろうか。

 

「いや、迷惑とかは全然ないけど…」

 

「ホントですか…? なら良かったですー」

 

 ふーやれやれ、と再度リラックスモードにシフトする彼女。仕切り直してんじゃねーよ。

 

「てか、一色は大丈夫なワケ? 今日だけじゃなくて、色々と。俺の相手ばっかしてたらさ…」

 

「………………」

 

「一色? 一色さーん? もしもーし? 聞いてるー?」

 

 俺との距離はおよそ1メートル。聞こえていないはずもない。やがて彼女は不意に顔を上げ、ついっとこちらを向いた。

 

「先輩」

 

 心なしかいつもと違う声音に、ドキリと心臓が音を立てた。スマホを手放し、彼女は真正面から俺の目を見つめてくる。すぐさま目線を逸らしたものの、顔面に振り注ぐ熱視線の圧力が弱まる気配は微塵もない。

 

「なんで名前で呼んでくれないんですか?」

 

「え」

 

 この数日の間でしつこいくらいに繰り返されていたこの要求。名前で呼んで欲しいという、彼女であれば当然のお願いを、俺は未だ叶えてやれずにいた。

 

「いや、だからそれは…」

 

「わたし、先輩の彼女です。あなたの恋人です」

 

「それは、まあ、うん…。そう、ですね…」

 

 最初は「嫌だ」「恥ずかしい」の一言で一蹴していた。しかし次第に頻度が高くなり、それでも「お前」だの「一色」だのと呼び続けていたのだが…今日の彼女は適当にあしらうのが困難なくらい、前のめりだった。直視するのも恥ずかしくなるような単語を並べ、自分達の繋がりが特別であることを繰り返し主張する。

 

「彼女のこと名字で呼ぶ人、居ませんよね?」

 

「それ言ったら、彼氏のこと先輩って呼ぶヤツも──」

 

「それはいっぱい居ると思いますけど」

 

「………そうですね」

 

 むしろ憧れの呼び方ランキングで常連っぽい響きですね。まあ普通は〇〇(ナニナニ)先輩ってなるもんだけども。比企谷先輩、とかね。うーん、四文字ってのは語感の収まりが渋くていいよなー。いっぺん呼んでくれないかなー。

 

「そもそも前って名前で呼んでたの? 俺に限ってそれはないと思うんだけど」

 

「……………」

 

 どうせ俺には分かりゃしないんだから、「名前で呼んでいた」と返ってくるかと思ったのだが…。意外にも、彼女は目を逸らして黙りこんでしまった。案外、根は正直な子なのだろうか。

 

「違うんだろ? だって俺は死んだじいさんの遺言で、女子を下の名前で呼んじゃいけないことになってるからな。今みたいに名字で呼んでいたはずだ」

 

「へーそーなんですかー。でも亡くなってるならバレないから平気ですよきっと」

 

 (ハナ)っから信じる気がゼロなのはさておき、その理屈だと、遺言ってものの存在意義が無くなっちゃうんだけど…。

 

 どうしてそこまで固執するのだろう。そりゃ、世間一般ではそうするものだって常識くらいはある。俺だって内心、そうしてみたいという憧れがないわけでもない。羞恥心と彼女の機嫌を秤に掛けるのならば、折れてやってもいいとは思っている。

 ただ、少しだけ気にかかるのだ。うっかりココアを焦がしてしまったかのような、甘味に混じった僅かな苦み。彼女の態度の奥に、微かな焦りのようなものを感じていた。全身全霊で気持ちを表してくる相手に対して、些細な要求すら突っぱねてしまうほどの強い抵抗でもないのだが──。

 

「呼んで欲しいです。今すぐ。いろはって」

 

 キシッとベッドの軋む音に身体が固まる。傍らを見れば、彼女はいつの間にか俺の間合いの内側まで急接近していた。嗅ぎ慣れた香りが一際強くなっている。体温を感じるほどの至近距離から甘痒い声が届き、耳朶(じだ)をこそばゆく引っ掻いた。

 

「ね…? 呼んでください……じゃないと…べろちゅーの刑ですよ…?」

 

 何それこわい。まんじゅう超こわい。

 

 意識の底で感じていた不確かな苦みが、ひとまわり濃くなったような気がした。それでもなお、甘露な誘惑は(ことごと)くを塗りつぶし、濃厚な(もや)となって違和感ごと理性を飲み込んでゆく。

 

「いいんですか…? しちゃいますよ…?」

 

「……ここで呼んだらそれ、嫌がってるみたいだし…」

 

「あは…その返し、ずるいです…。するしかなくなるじゃないですか…」

 

 さっきより大きく、ベッドが音を立てる。

 蛍光灯の光を亜麻色の影が遮っていた。

 零れ落ちたやわらかな髪がさらりと頬をくすぐり、痺れるような感覚が腰を駆け抜けていく。

 

「────いろは」

 

 流されまいとする理性が言わせたのか、単に感情のままに零れた言葉か。

 酩酊感に任せて口にしたその名は舌を心地よく震わせ、彼女の大きな瞳が感情に潤むのがはっきりと目に映った。

 

「うれし…い……うれしいです……」

 

 刑罰はいつしか褒美へとすり替わり、陶酔に溺れた瞳には妖しい光が色濃く満ちる。

 

 彼女はもう止まらない。名前を呼ばれようと、呼ばれなかろうと。

 

「……すき…です……だいすき……」

 

 小さな手を俺のそれに重ね、そっと押さえつける。壊れ物を扱うかのような繊細さと、逃がしはしないという無慈悲さを伴った手つきは、まな板の上の鯉に添え手をする料理人を思わせた。

 

 目前に迫った瑞々しい唇に、触れ合う前から記憶が刺激される。思い出すのは(とろ)けるような滑らかさと、天上の柔らかさ。されどそこから溢れる吐息は猛毒だ。吸い込めばじわりと肺を侵し、すぐさま全身へと巡る。既に彼女を退ける力と意思、一切合切が奪われていた。代わりとばかりに熱い塊が身体の芯で首をもたげ、蜷局(とぐろ)を巻いて暴れだす。

 

「……せん…ぱい……」

 

 瞳の色。

 くすぐったい声。

 甘い香り。

 暖かな体温。

 柔らかい感触。

 

 五感の全てが、一つの色で染められていく。

 

 捕らわれた羽虫のように、俺はまた、貪られる快楽へとこの身を投げ出した──。

 

 

 

 

 

 




え、朝チュン? はっはっは、ご冗談を。
この作品が更新をまたぐ時に、何もしないとでも?
なお、次話からは有料コンテンツとなります(嘘)


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■38話 ツイスター風味の男女

皆さまお久しぶりです。
いろはすの誕生日までには終わらせたかったんだけどなぁ。
とにかく、続きをご賞味あれ。


「せん…ぱい──」

 

 

 

「お客さんお時間でーす。延長はできませーん」

 

 

 

「ひゃあ!」

「いてっ!」

 

 柔らかく俺を拘束していた小さな手は、外敵の襲来に慌てたのか、キリリと爪を立ててきた。突然手の甲に走った痛みに、ドロドロに溶けていた理性が急速に覚醒していく。乱暴なノックの響いた戸口を見れば、薄桃色の看護服に身を包んだ女性が一人。半笑いを浮かべながら腕を組んでこちらを観察していた。

 

「あ、あはは…。ち、違うんですよー今のは。その、ね、熱を測っていただけでー…」

 

 男のベッドから慌てて身を起こし、着衣の乱れを直しながら弁解する一色。笑えるくらい説得力のないその姿に、乾いた目線が突き刺さる。

 

「お気遣いなく。それは看護師(ナース)のお仕事です。むしろ熱があるのはあなたの方じゃない? 頼むからここで最後までしないでよね。シーツとか換えるの私なんだから」

 

「し、しませんって! あーそうだーわたしお花の水換えなきゃでしたー! ちょっと行ってきまーす!」

 

 棒読み少女は窓際の花瓶をひったくると、あっという間に廊下へ逃走した。正に"脱兎の如し"ってヤツだな、と含み笑いしていると、ナース服の女性も腕を組んで苦笑いを溢した。

 

「ったくすばしっこい。うちのウサギにそっくりだわ」

 

 やっぱり彼女も同じような感想を抱いていたらしい。

 

「知ってる? ウサギってほとんど一年中発情してるの」

 

 違った。俺はそこまで酷いこと考えてなかったわ。女子ってほんと同性に容赦ねえな。

 

 なかなかに口の悪いこの看護師は、20代半ばくらいのサバサバした女性だ。それほど年が近いというわけでもないのに、一色とはわりかし気さくに言葉を交わしている。俺の入院当初、彼女がどっぷり落ち込んでいた頃にちょこちょこ世話になって、それ以来の付き合いなのだとか。

 

「あんまからかわんでやって下さい。後で捌け口にされるの、俺なんですから」

 

「男の子としては本望でしょ? 泣いて感謝なさい」

 

「………はは」

 

 何と返してよいやら。俺は閉口し、乾いた愛想笑いで乗り切った。どうも、二人の交流のきっかけとなった俺までひっくるめて、いち患者の枠を飛び越したカテゴリに登録されているきらいがある。だがこちらとしては殆ど一方的に知られているだけの間柄であり、こういった彼女のノリにはあまり付いていけず、距離感の近さに面食らうことも少なくなかった。

 

 淀みない手付きで点滴のパックを交換しながら、彼女はチラリと廊下に視線を送る。

 

「…私はキミが担ぎ込まれた経緯も一通り知ってるから、あの子が入れあげるのも理解できるし、野暮なことは言いたくはないんだけど。一応ほら、立場上はね」

 

「いえ…こちらこそスンマセンです」

 

 内容が内容だけに、俺の身に起きた事件の仔細について、院内でも一種の緘口令(かんこうれい)の様なものが敷かれていた。この人は俺が入っている個室の担当者で、警察の人と会う機会も少なくなく、第三者としては最も事情に通じている人間の一人なのだ。

 

「でもあの調子だと、退院したその日のうちに、ペロッと食べられちゃいそうだよねーキミ。初めてなら今のうちに少し勉強しといた方がいいよ?」

 

「…………えっと」

 

 こういう時、どんな顔をすればいいのだろうか。距離感云々は抜きにしても反応できないネタである。ウィットに富んだ返しなど出来る筈もなく、俺が脂汗を垂らしていると

 

「あーるー晴れたー♪ ひーるー下がりー♪」

 

 彼女は哀愁たっぷりに家畜の挽歌(ドナドナ)を口ずさみながら、病室を出て行った。

 

「いや曇ってるし。夜だし」

 

 花瓶を手に戻ってきた一色が、首を傾げながら戸口をくぐる。

 

「今日はなんかご機嫌でしたね…?」

 

 こないだの合コンうまく行ったのかなーと花瓶を弄っているマイ彼女。その小さな背中に向って、俺はひとつアドバイスを送ることにした。

 

「なあ一色」

 

 返事がない。

 

「…一色?」

 

 こちらを向こうともしない。どうし──あっ、顔(そむ)けやがった。

 

「………………いろは?」

 

「はーい♪」

 

 わあーいい笑顔ですねー。テンプレあざっす。って、マジでこれからずっと名前で呼ばなきゃなのかよ…。恥ずかしいわー、恥ずか死するわー。

 

「何ですかー?」

 

「ああ…うん。そうそう、豆乳は身体にいいらしいから。毎日飲むといいぞ」

 

 色々と抑制する効果があるらしいからね。コレステロールとか。あと性欲とか(本命)

 

「へっ? なんですか急に…。豆乳、もう飲んでますよ?」

 

 え? そうなの? 毎日習慣しちゃってるの?

 

「お肌に良いんです。それにバス──えっと…そう! バスタブに入れて、豆乳風呂とかにして!」

 

「ほー。そいつは優雅なこって…」

 

 あっれーおっかしいなー。ネットで記事を見たんだけど。ウソビアだったのか? それともうちのサキュバスさんには豆乳如きじゃ足りないのか?

 

 …いや待て。大豆イソフラボンの別名は疑似女性ホルモン。それが男性ホルモンを抑制するから"男の"性欲は低減されるって話だったっけ。だがこの場合、女性が疑似女性ホルモンを摂っているわけだから──。

 

「飲み過ぎは、良くないぞ」

 

「どっちなんですか…」

 

 俺の彼女がエロいのは、豆乳のせいかもしれなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

 生殺しの夜から一夜明けて──。

 

 スマホに表示された日付をちらりと横目で検める。ふむ、今日は終日出勤の日か。

 あー、出勤って言っても学校の話じゃないよ? 一色…げふんこふん…い、いろはの話ね。

 

 彼女が終日病院に入り浸る日。つまりは登校不要のハッピーサンデーだ。だが毎日がホリディな俺にとって、大事なのは来客があるかどうか。そしていつも通り、本日最初の客も彼女だろうと思っていたのだが、実際に来たのは予想外の人物だった。

 

「やっはろー! お邪魔しまーす!」

 

「邪魔すんなら帰れ」

 

「いきなりヒドい!? あ、今日はお菓子もあるよ! ほらコレ、ゼリー! これなら食べれるでしょ?」

 

 うーん…今の、関西じゃ鉄板のネタなんだけどなー。やっぱ千葉じゃ通じないかー。

 冗談だから、と手をひらひらさせると、頬をぷっくりさせながらトコトコと室内に転がり込んできた。

 

 由比ヶ浜結衣。

 この"毎日がエブリディ☆"って感じのちょっと緩い女子は、何故かちょくちょく俺の病室に遊びに来る。いろはとも仲が良いみたいなんだが、その割には一緒に来るのを見たことがない。こいつとセットで見かけるのは──

 

「雪ノ下は?」

 

「ムッ。何それ。あたしだけじゃ不満ってこと? ヒッキーのくせに生意気!」

 

「いつも一緒だから、今日はどうしたのかと思っただけだ」

 

「すぐ来ると思うよ。あたしがちょっと早く着いちゃっただけ」

 

 よいしょ、とスツールを引き寄せてコートを脱ぐと、窮屈そうにしていた彼女の果実が、解放された喜びに小踊りしてみせた。俺は素早く目を逸らし、「たゆんたゆん」という擬音語を生み出した天才の生涯へと思いを馳せる。ふう、危ない危ない…。

 彼女というものが居ると、こういうアタック・チャンス!で素直に楽しめないという弊害がある事を最近思い知った。まあ贅沢な悩みではある。

 

「いろはちゃんは?」

 

「まだ来てないけど」

 

「ふ~ん…()()、ねぇ…」

 

 そのニュアンス…今日も来るって確信してる俺に何やら含みがあるようだが、彼女が見舞いに来るのを信じてる彼氏って、そんなにおかしいのだろうか。それとも「ヒッキーに見舞われる当てがあるなんて生意気!」ってこと? もしや高校でリア充化に成功したのかと錯覚したが…どうやら比企谷八幡というキャラクター、高三を目前にさしたる変化もないらしい。奉仕部とかいう組織での立ち位置も、なんか微妙っぽいしなー。

 

「…ねえヒッキー」

 

 強烈な違和感を放つあだ名にようやく慣れてきた俺が顔を向けると、由比ヶ浜がピンク色のタオルをもみくちゃにしながら息を荒くしていた。

 

「えっと、えと…ね?」

 

「…な、何?」

 

「あー、その……あ、汗! 汗かいてない? かいてるよね! 拭いたげよっか!」

 

「いや別に。つか先に自分の拭いた方がいいぞ」

 

「えっウソ! あたし汗臭い!?」

 

「いや、そういうんじゃないけど。なんか暑そうだから」

 

 臭くないどころか、最近お馴染みの香りとはまた毛色の違う──柑橘系かな? これまたイイ匂いが、病室の空気を順調に上書き中だ。ただ、いろはが置いた甘い系の芳香剤と縄張り争いでもしているかのようで、ちょっと落ち着かない。

 

「じゃ、じゃあシャンプーとか。これ、水の要らないヤツ。あたし得意なんだ。サブレにもよくやってるから」

 

「折角だけど、それも昨日やってもらったばっかだし。今は遠慮しとく」

 

 つか、サブレって確かコイツんちの…。それ何用のシャンプーか確認させてもらっていい?

 

「げげ…あたし、もしかしてカブってる…?」

 

「ちっちっ。甘いですよー結衣先輩」

 

 ガラリと戸を開けて、キメ顔の少女がずかずかと病室に乗り込んできた。

 

「おはよーございます、先輩♪ 結衣先輩も」

 

「おう、おはよーさん」

 

「い、いろはちゃん…やっはろぉ…」

 

 いろははぎこちない挨拶を返した由比ヶ浜の肩を、ガシッと掴──いや気のせいだった、ぽんと手を置いて、その耳元へ口を寄せる。

 

「そろそろ動く頃だろうなーとは思ってました。その程度のケアをわたしが取りこぼすとでも?」

 

「むぐぅ…」

 

 いろはが世話をしてくれるのは、まあ分かる。散々分からされた。でもどうして由比ヶ浜まで…。ひょっとして八幡は奉仕部の愛玩物(ペット)的な存在だったとか? おいおい、犬シャンプーが急に現実味を帯びてきたぞ…。イジメ、カッコ悪い!

 

「じゃ、じゃあ…」

 

 まだ諦めないつもりなのか、部屋の中を見回していた由比ヶ浜。何を思ったのか、彼女は出し抜けにとんでもないことを言い出した。

 

「溜まってるやつ! あたしがしてあげる!」

 

「ブほッ!! ごほ、ごふっ」

 

 くそッ唾が気管に入…ってか咳込むと傷ヤベェ痛っ!

 

「ゆゆゆ結衣先輩!? あ、ちょっと先輩あんま強く咳しちゃダメです! そっと。そっとですよ」

 

 小さな手が背中をさする感触を頼りに、肉体の反射を無理やり押し留め、なるべく静かに咳をする。静かにやっている時点であまり咳をする意味がない気もするが、出るものは仕方ない。これも怪我人として暮らすうち、自然と身についた芸当だった。

 

「うわわわわ! ヒッキー大丈夫!? どしたの?」

 

「ごほ…お前が変なコト言うからむせた…ケホ」

 

「まったくもー。結衣先輩…本気ですか?」

 

「え? なにが?」

 

「だからその…」

 

 遠慮がちな視線が俺の股間に向けられたのを察知し、反射的に両手でガード体勢に入る。

 

「いま言ったじゃないですか…シてあげるって。確かに止める権利はないって言いましたけど、ソレはちょっとわたしもスルーしかねると言いますか…」

 

 いろはに導かれるようにして、由比ヶ浜の目も某所へと吸い寄せられる。二人分の視線がガードを貫かんばかりにグリグリと突き刺さり、俺の顔面はいよいよ羞恥に燃え上がった。

 

「……? ………っ!! ち、違っ!?」

 

 こちらの認識にやっと追いついたらしい。トマトみたいに赤くなった由比ヶ浜は両手で顔を覆い、「うはーっ!」と奇声を上げたのち、勢いよく俺の背後を指さした。

 

「それ! そっちのハナシ!」

 

 彼女の指す先──ベッドの影には、プラスチックの洗濯籠が置かれている。中には俺が使った寝間着やタオルなんかが入っていた。

 

「お、お洗濯くらいなら出来そうだし…だから…その…そんだけで……そーゆーのは……」

 

 意図的に俺を避け、フラフラと室内を遊泳する由比ヶ浜の目線。何かもう色々と直視できない。聞かせるプレイならまだしも言わせるプレイとか、俺にはまだ難易度が高すぎる。「HAHAHA、紛らわしいなぁコイツめぇ☆」なんて場をリフレッシュさせられるはずもなく、俺は黙々と壁の染みを数える作業に没頭した。

 

「…い、今のは結衣先輩が悪いと思いまーす」

 

 共に先走った約一名は、悪びれもせず全力で他人のせいにしていた。

 

 

「ね、ねえヒッキー…あの…」

 

「いいから。もう忘れたから。俺も恥ずいし」

 

「あ、うん。ごめんね。ありがと。でね、その…さ」

 

 チラチラと、俺の腰回りに未練がましい視線を泳がせながら、彼女は消え入りそうな声で聞いてきた。

 

「…………た、溜まってるの?」

 

「洗濯物が、な!」

 

 もうヤダ…何なのこの子。わざとやってるんじゃないの?

 

「そ、そういう事でしたら結衣先輩、一緒にお洗濯でもしましょうか! あ、先輩どうします? 調子いいならついでにお散歩いきませんか?」

 

 部屋の隅に鎮座した車椅子をポンポンと叩きながら、いろはがこちらに水を向ける。

 うーん…。別に太陽は恋しくないんだよな。おそと超サムい。腰だって今はそんなに痛くないから、無理に動かなくてもいい感じ。けど、いろはの誘いを蹴るってのが地味に良心に響くし──

 

「そうな…雑誌とか見たいかも」

 

「ラジャーです。では売店方面ということでー。結衣先輩、ちょっと肩貸してもらえます?」

 

「お、おうともさ! 貸すよー、ちょー貸すよー!」

 

 絵面としては心底情けなくも、女子二人の肩を借りて──うっわ混ぜたらすげえいい匂いフルーツポンチかよ──車椅子に移動すべくやいのやいのと四苦八苦していると、更なる来客を告げるノックの音が響いた。

 

「お邪魔します──お早う、比企谷くん…と、由比ヶ浜さん、一色さん」

 

 雪ノ下雪乃。

 由比ヶ浜の友人にして、俺の所属する組織の首領(ドン)を名乗る女だった。そういやすぐ来るって言ってたっけか。

 

「うす」

「おはようございまーす」

「やっはろー、ゆきのん」

 

「…由比ヶ浜さん。約束より随分早いのね?」

 

「え? あ、その、ちょっと早く目が覚めちゃって…。てか、ゆきのんだってちょっと早いじゃん」

 

「私のは一般的な五分前行動よ。それに今朝は私の電話で起きたって言っていなかったかしら」

 

「うえっ!? い、いや~、あのあと二度寝しちゃって…」

 

「言い訳が明後日の方向にずれているわよ。何か後ろめたい事でもあるの?」

 

「ご、ごめ~ん…もうしないから許してぇ~」

 

「いえ、別に責めているのではなくて、単に理由を──」

 

 来て早々、何なんだこいつらは。その内輪揉め、ここでしなくてもいいやつじゃないの?

 

「…ところで比企谷くん。そちら、お取り込み中みたいね。間が悪くて御免なさい」

 

 肩を寄せ合うツイスター風味の男女を見て、雪ノ下がついと身を引いて見せる。間違っちゃいないけど、間違った想像をされてそうだなー。

 

「雪ノ下先輩も一緒にどうですか? 今から下の売店までお散歩です」

 

 いろはのフォローに車椅子へ視線をやり、「成程」と状況への理解を示すと、雪ノ下は(ようや)くこっちへ歩み寄ってきた。

 

「そうね…お邪魔でなければご一緒させて頂こうかしら。比企谷くん、これ自分で動かせるの?」

 

 車椅子の周りをくるくる回りながら、あちこちを指先でつつく雪ノ下。なんだか新しい玩具を与えられて警戒している猫のようだ。

 

「ちょっとならいけるけど、売店までってなるとしんどいな。力もあんま入れられないし」

 

「なら、誰かに押してもらう必要があるのよね?」

 

「もしかして雪ノ下先輩、押すのやりたいですか?」

 

 明らかに図星をつかれた様子の雪ノ下は、長い睫毛を(しばた)かせながら早口にまくし立てた。

 

「べ、別に率先してやりたいという程では…。ただ、車椅子を押した経験なんてないから、後学のためにも一度くらいはやっておいた方がいいかもって、そう思ったのよ。いずれ誰かの看護をする必要に迫られた時、失敗したら可哀想でしょう?」

 

「その動機だと今まさに俺が可哀想なんですけど…」

 

 ふーむ、と顎に指を当てた後、責任者(いろは)が裁定を下した。

 

「…じゃあ今日のドライバーは雪ノ下先輩にお願いしましょうか」

 

「あら、催促したみたいで悪いわね。ならお言葉に甘えて、これで少し練習させてもらうわ」

 

 あれで催促してない扱いなんですか…。つかいま練習って言ったろ。本音出すの早すぎじゃね?

 

「あー、いいなー。あたしもあたしもー。あたしにもそれやらせてー」

 

「うーん、でも結衣先輩、うっかり事故りそうですしー…」

 

「大丈夫、お散歩だけはマジ得意だから! 毎日してるし!」

 

 いやだからそれ犬の話だろ? お前やっぱ俺のことペット枠で見てない?

 にしても、いろはは雪ノ下にだけちょっぴり甘い気がする。いや、由比ヶ浜に厳しいのか? モデルケースが少なすぎて何とも言えないが…。

 

「なーんて、冗談ですよ。じゃ結衣先輩も入れて、公平にローテってことで。その方が先輩も退屈しないでしょうし」

 

「退屈ってこたぁないけど、確かにいろはばっかりってのも悪いよな」

 

「いろは!? いまヒッキー、いろはって言った!?」

 

「ん…まぁ…」

 

 コイツ…わざわざさり気なく(ほう)ったのに、フルスイングで打ち上げやがって…。

 

「どーしたんですかぁ結衣先輩、大声出してー。フツーですよフツー。彼女なんですから♪」

 

「うう…ま、またやられたぁ…」

 

 そうそう、フツーフツー。もっと言ってやれ。じゃないと恥ずかしくて死にそうだ。

 

「…順調に親睦を深めているようで何よりね」

 

「すいません背後から不穏な気配を感じるんで他の人でお願いしたいんですが」

 

「大丈夫よ。こんな恵まれた境遇なら、少しぐらい滞在が伸びても困らないでしょう?」

 

「おい待て。それだと入院が長引くような何かをするつもりに聞こえるぞ」

 

「あら、誰もそんなこと言ってないわ。ところで、最近は骨折程度だといちいち入院なんてさせてもらえないそうね」

 

「オーケー骨折以上の何かですねやめて下さい」

 

 車椅子ひとつとっても、背後に感じる温度や流れる景色の具合というのは微妙に異なるものらしい。いつもは真後ろに居るいろはが隣を歩いているのもどこか新鮮だ。雪ノ下の、口先のわりにはひどく慎重な足運びでもって、車椅子はゆっくりと廊下へと漕ぎ出した。

 

「雪ノ下先輩、初めてなのに上手ですね。わたし最初、うまく角とか曲がれませんでしたよ」

 

「それでも小町よりはマシだったけどな。俺ごとぶつけてたぞアイツ」

 

「ねーねー、ゆきのんどう? 車イス」

 

「想像していたのよりもずっと重いわ。それに動き始めるとかなり引っ張られるし」

 

「これ絶対あたし達の方が軽いもんねー。坂とか入っちゃったらヤバくない?」

 

「責任重大だわ。何しろ彼の命を握っているんだもの。車椅子ひとつ押し留められない、この私が」

 

「そこ。お前がいま掴んでるハンドルんとこね。俺の命の前に握るべきものがあるんだけど知ってた? ブレーキっていうんですよ?」

 

 雪ノ下のブラックユーモアに付き合いつつ、ゆっくり時間をかけてエレベーターへ。

 1階のランドリーへ向かうフルーツポンチ──もとい洗濯チームを庫内に残し、俺と雪ノ下は売店のある2階へと降り立った。

 

 

* * *

 

 

 早くも要領を掴んだのか、雪ノ下の押す車椅子は、既にたどたどしさも薄れてきていた。

 

 カラフルな髪色が視界から消え、自然と軽口も鳴りを潜める。

 このまま売店まで無言のままかと思ったが、暫くすると、意外にも雪ノ下から口火を切ってきた。

 

「まさかこうして比企谷くんの看護をする事になるだなんて、人生分からないものね…」

 

 それ自体、大して意味のある言葉ではない。会話をするつもりがあるのだと判断し、俺は思い切って彼女に問い掛けをした。

 

「なあ…聞いてもいいか」

 

「質問するだけなら私の許可は要らないでしょう。答えるかどうかは別の話だけれど」

 

 めんどくさい。心底めんどくさい女だ。俺以上にめんどくさいとか、これはもう才能だ。

 けれど、だからこそ、聞いてみたい。こいつと俺に、一体どんな繋がりがあったというのか。

 

「…どんな関係だったんだ」

 

「貴方と一色さんの事なら、私もあまり詳しくはないの」

 

「いや、俺ら」

 

 

「……………」

 

 

 車椅子は、いつの間にか止まっていた。

 

 

「…雪ノ下?」

 

 

「……その質問は、卑怯だわ…」

 

 

 どうやら俺は踏み込み過ぎたらしい。

 すぐさま取り消そうとして、乾いた舌が上顎にへばりついた。

 

「す、すまん。忘れてくれて──」

「分からない」

 

 再び動き出した車輪と共に、固まっていた空気がゆっくりと解けていく。

 

 俺の舌にも幾許(いくばく)かの湿り気が戻ってきていた。

 

「…いや。分からんてことないでしょ」

 

「あるのよ。事実そうだったのだから」

 

「人間関係なんて、仲が良いか悪いかどうでもいいか…それくらいだろ」

 

「私と貴方の仲が良かった、という表現には…強烈で激烈で猛烈な違和感を覚えるわね」

 

 違和感にドーピングしすぎだろ。超進化起こして殺意とかに変異しそうな勢いじゃねえか。

いいから。もう普通に否定してくれていいから。

 

「なら悪かったのか」

 

「…そういう時期はあったと思う。けれど、それだけという事でもなくて……」

 

 ならどうでもよかったのか、と聞くのが会話の流れというものだろう。しかし、ここまでの答えを聞けば、その質問が不要であることくらいは俺にも察せられた。

 

「そうか。悪いな、変なこと聞いた」

 

「ただ──」

 

 なのに、雪ノ下は殊更に毅然とした声で、こう言った。

 

「興味を失った事は、無かったと思う」

 

 どうでもよくはなかったと、彼女はそこだけを強調してみせた。

 

「…少なくとも、私は」

 

 弱々しい声で付け加えた彼女の表情を、俺は伺うことが出来ない。彼女に何て言ってやればいいのか、答えはとても簡単だ。だが今の俺に、その一言を口にする資格はなかった。

 

「……そか」

 

 聞いて良かったような、けれどもいま聞くべきではなかったような、スッキリしない気持ちが胃の腑を掻き回していて。雪ノ下は雪ノ下で、表情は見えないものの、感情を持て余しているような気配を匂わせており、お互いに二の句が継げないでいた。

 

 そうしているうち、牛歩運行だった車椅子も、とうとうお目当ての売店区画へと到着していた。しかし、さっきの今で雑誌に手を伸ばすような気分になろうはずもなく、俺は一体何しに来たんだっけかと目的を見失いかけていたところで、

 

「げっ!? ひ、比企谷!」

 

 売店から出てきた一人の男が、俺の顔を見て、素っ頓狂な声を上げていた。

 

 

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

 

 先輩を雪ノ下先輩に託して、わたしと結衣先輩は1階にあるコインランドリーへと向かっていた。

 

「ごめんね、あたしがやるって言い出したのに」

 

「いえいえ。ここのって場所分かりにくいですし」

 

 入院患者かその家族くらいしか使わない施設ということもあって、探しても見つからないような辺鄙な場所に、そのコーナーは設置されていた。勝手知ったる様子のわたしに、結衣先輩がへにゃっと眉を下げる。

 

「ぐえー。やっぱりお洗濯もしてたかー」

 

「マネージャーの時にもやってましたし、何ならこれが一番得意かもですよ?」

 

「いろはちゃん、なにげ女子力高くない? 参ったなあ…。あたしにしか出来ないコト、何かないかな?」

 

 それをわたしに聞きますか…。そういうストレートなところこそ、わたしにはない武器だと思うんですけどね。正直にそう答えちゃうのはちょっと癪なので──

 

「そーですねー。()()を使われちゃうと、さすがに厳しいかもです」

 

 と、洗濯カゴをぶらつかせる両腕に挟まれた、窮屈そうな部分に目をやった。

 

「つ、使わないし! そーゆーの以外で!」

 

「クスッ、ホントですかー?」

 

 

 そうして二人で廊下を歩いていると──

 

「おっ、結衣アンドいろはすハッケーン。つーかマジこれ鬼タイミングじゃね?」

 

 意外過ぎる人物が小走りでこちらに駆け寄ってきた。

 しまりのない笑顔と無駄に手入れされたロン毛。この顔も随分と久しぶりに見たような気がするなあ。

 

「とべっち! なんで居んの?」

 

「どうもおひさです、戸部先輩。どこかお悪いんですか? あ、頭ですか?」

 

「ウェーイおっひー。つか二人、突っ込みキッツいわぁ~。いちお、お客さんよー()()

 

 へらっと笑って見せた彼の後ろには、これまた見慣れた男の子が立っていた。とは言え、この顔がここにあるというのは変な感じだ。戸部先輩よりも遥かに強烈な違和感を感じた。

 

「葉山先輩…」

 

「隼人くんもやっはろー。あ、もしかしてお見舞い来てくれたの?」

 

 結衣先輩の挨拶に軽く手で返してから、彼はわたしの方へ向き直った。マネージャー時代の癖が抜けていないのか、思わず居住まいを直してお辞儀をしてしまう。

 

「まあね。いろはの様子を見に来たってのもあるんだけど、そっちは目的達成かな。思いつめてるって聞いて心配してたけど…とりあえず大事はなさそうで良かったよ。でも…ちょっと痩せたんじゃないか?」

 

「えと、はい。いい感じにダイエットになりました」

 

「そっか。その調子なら心配は要らないな。それで、比企谷の具合はどうだい?」

 

 見るからに菓子折りと思しき箱を掲げている彼に、わたしは思わずこう言ってしまった。

 

「…ホントにお見舞いに来たんですねー」

 

「そんなに変かな」

 

 整った顔に浮かべた、どこか不慣れな苦笑い。彼がごく最近になって見せるようになった、生の表情だった。

 

「いえ、戸部先輩が来たことに比べれば、ぜんぜんですけど」

 

「はは、そっか」

 

 わたしの方はと言えば、自分の心臓がきちんと平常運転を続けていることに、正直ホッとしていた。もちろん今さら気持ちが揺らぐなんてことは無いんだけど、彼もある意味で特別枠なワケで…。理由はどうあれ、今は先輩以外のことで胸をザワつかせたくはない、といった心境なのだ。

 

「──やっぱり俺も、こっちのいろはの方がいいな」

 

「はあ、それはどーも…」

 

 憮然としない気持ちで相手をしていると、結衣先輩がちょいちょいと肩をつついてきた。

 

(あたし先行ってるから。ゆっくりでいいからね)

 

(え? いえ、あの──)

 

 チャキッと敬礼のマネをした結衣先輩は、止める間もなくさっさとランドリーへ向かってしまった。たぶん気を遣ってくれたんだろうけど、今さら葉山先輩と二人で話したいことなんて特にないんだよね…。気まずいって程でもないけど、二人きりはちょっと遠慮したいかなって。あ、そういや戸部先輩も居たっけか。

 

 すたこら駆けていく結衣先輩の後姿を眺めながら、葉山先輩は肩を竦めた。

 

「…結衣はまだちょっと追い付いていないのかな」

 

「仕方ないですよ。みんなに説明して回る話でもないですし──」

 

「つかヒキタニくんの病室どこよー。今パインとかガッツリ行きたい気分なんだわー」

 

 …このひとホント何しに来たんだろ。お見舞い品に手を出す気なら、その時点でお客じゃないと判断させてもらうので悪しからず。

 そもそも、先輩はかなりデリケートな状態だ。病院側は特に制限していないけど、面会人にはこっちの判断でフィルターを掛けた方が良いと、お医者さんから勧められている。

 

「すみません…お見舞いの件なんですけどー」

 

 ぶっちゃけ、二人は大して仲が良かったわけでもないだろうし、状況を知らずに気まずい思いをするくらいなら会わせない方がいい。何より、彼らはわたしの過去に関わりの深い人物だ。先輩におかしな情報を与えてしまうかもしれない。そのうちバレることではあっても、今このタイミングで暴露するのはよろしくない。

 ちょっと迷ったけど、わたしの独断でこの二人にはお引き取り頂くことにした。

 

「えーと、せっかく来てもらったお二人には悪いんですけど…実はまだ一般のお見舞いってNGなんですよ。基本、家族だけーみたいなカンジで。あと一部関係者とか」

 

 自分達は特例なのだ、と言外に付け加えてみせると、二人はガッカリした様子で顔を見合わせた。

 

「そうなのか…。まあ重傷だったし、事情も込み入ってるもんな。出直すしかないか…」

 

「そりゃねえべー! 俺の記念すべき初体験は空振りってこと? サガるわぁー」

 

 あー、お見舞い自体が未経験だった、と。これは先輩を心配して来たんじゃなくて、単にイベントとして参加したかった、で確定ですねー(イラッ☆)

 

「初体験がお望みなら、帰りにそれ系のお店にでも行ってみたらどうですか」

 

「ちょ、店とか必要ないから! そういう系じゃねーから俺!」

 

「はは。あんまり苛めてやるなよ」

 

「それこそ知りませんね」

 

 先輩のお見舞いをイベント扱いする人にかける情けはありませんので。

 

「つかさ──」

 

 ピーピー(わめ)いていた戸部先輩の視線が、わたしと葉山先輩の間を行ったり来たり。ほんのちょっとだけ神妙な顔をして、彼は口を開いた。

 

「なーんかいろはすと隼人くん、変わったっぽくね? フツー過ぎるっつか…」

 

「………えーと」

 

 い、今さら…?

 

「戸部先輩、その辺の事情はほとんど知ってますよね…? 肝心なトコは大体居合わせてたじゃないですか。呼んでもいない時まで」

 

 葉山先輩とのオーラスの時にもきっちり邪魔してきたくせに…もう忘れてるのかな。

 

「そりゃな。俺ってばマジ名アシストだったっしょ?」

 

「何言ってるんですか。得点に繋がらないのはノーカンですよ」

 

「確かに。戸部は最近アシスト損が多いよな」

 

「ちょ、隼人くんそれサッカーの話だべー」

 

 へー、サッカーでもそうなんだ。このひとはアシストミスをする星の下に生まれてきたに違いない。これからは関わらないようにしよう、そうしよう。

 

「…まー今のでザックリ分かったけどさー。したら次、誰になったん?」

 

「戸部…この流れでそれを聞くのは…」

 

「全部言わないと分からないとかどんだけですか…」

 

 二人分の冷ややかな視線に晒され、戸部先輩は頭を抱えてのたうち回る。

 

「って、マジわっかんねー! したっけこの流れだとヒキタニくんしかないっしょ? でもそれはねーべ? じゃどーゆーことっすかー!」

 

 

「…………………………………」

 

 

 分かってるなら聞かないで下さいよ恥ずかしい。

 

 

「…………………え。うっそ、マジで?」

 

 わたし達の沈黙が肯定であることを理解した戸部先輩は、いよいよべーべー騒ぎ始めた。

 

「それビビるわー、ビビりMAXだわー! んー、そっかーヒキタニくん! っべ、これパないわー! ちょいLINE回していい?」

 

「未体験のまま死にたければどうぞご自由に♪」

 

 そう言えば、今までは先輩の関係者ばかりで話をしていたから、こういう普通の──下品っていうか、下世話っていうか──そういうリアクションは初めての様な気がする。たぶん、ウチの学校の生徒なら大体こんな反応か、もっと悪いくらいなんだろう。

 

「でもさー、ヒキタニくんといろはす? 超絶イガイな組み合わせじゃね?」

 

「…何か文句でも?」

 

「いんやービビっただけ。いんじゃね? ヒキタニくんなにげ最悪ってワケでもないっぽいし」

 

「誉めるのヘタ過ぎませんかね…」

 

 でもちょっと意外だな。わたしはてっきり──

 

「戸部先輩って、先輩のことあんま好きじゃないと思ってました」

 

「テキトー言わんでよー。別に嫌いとかねーし」

 

「戸部はあいつに借りもあるしな」

 

「借りっつかラ・イ・バ・ル! そこ重要よ? …あれ…でもいろはすと付き合ってるってことは、これ俺の不戦勝じゃね?」

 

 戸部先輩が先輩に借り…? どういうことだろ、ちょっと想像つかないんだけど。今度聞いてみよっと。

 

「あーでも、いろはすがヒキタニくんにご奉仕ってのは、ちょいモヤあるわー」

 

「なんですかわたしに気があったんですかごめんなさい心に決めた人がいるので戸部先輩とかうざいしチャラいし普通に無理です」

 

「ちげーし。あとそれ後半、ディスる必要なくね?」

 

「じゃあ何がモヤるんですか?」

 

「だからさー、いろはすってビジュアルだけはまじイケ子なわけじゃん? したら夜とか超アガるわーって話」

 

「うっわこのひとマジ最悪ですやめてくださいなに勝手に妄想してくれちゃってるんですかセクハラの上に肖像権侵害ですお金払ってください」

 

「これ! この性格がなー。もーちょいアレしたらなー」

 

 だいたいビジュアルだけってなんですか、だけって。ビジュアルすら微妙なひとには言われたくないです。

 

「ま、まあ戸部の感想はさておき…。おめでとう──と言っていいのかな。色々あったけど」

 

 葉山先輩には迷惑もかけたし、本来であればこの言葉にだけは素直にお礼を言いたいところなんだけど、先輩はまだ万全とは言い難いし、わたしのついたウソの件もある。今その言葉を受け取ってしまうのはさすがに違うような気がする。だけど上手いごまかし方も浮かばなくて、少し強引に話を切り上げた。

 

「とーにーかーくー! 今後、先輩の前で今みたいな過去バナは厳禁でお願いしますね。やらかしたら酷いですよ、戸部先輩?」

 

「あ痛ーッ!」

 

 失礼極まりないロン毛の(むこ)(ずね)をぺしっと蹴っ飛ばしてから、スマホを取り出した。立ち話が過ぎたのか、思った以上に時間が経ってしまっていた。結衣先輩からは『お洗濯おわったよー! 売店で合流☆』のメッセージ。うわー、ごめんなさい、丸投げしちゃいました…。

 

『Sorry!』と『ラジャー!』のスタンプを手早く連貼りし、サッカー部コンビと別れたわたしは、売店へと足を向けたのだった。

 

 

 

 



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■39話 俺の知らない話題

バスト占いのうた。
もう15年くらい前になるんですね。のすたるじー。


<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「げ、比企谷!」

 

 松葉杖をついた一人の男子高校生が、こちらに向けてあまり美しくない声を上げていた。

 見たとこコイツも入院患者の様だが…はて、俺に何の用だろうか。

 

「お前もここに入院してたのか。いつから?」

 

「あー…えと…」

 

 うん? ちょっと待て、コイツ見たことあるぞ…。

 つか、去年までのクラスメイトじゃん。

 何だっけ、ほら、その、ええと…ヒロキ! そう、なんとかヒロキだ。

 

 くっそ、何ヒロキだっけ。おかしいな、名字で呼んでいたはずなのに、なんで名前しか出て来ないんだ。周りの奴がみんなしてヒロヒロ呼んでたからか。俺は内心でピロキ(笑)(かっこわらい)って呼んでたけど。

 あっ、記憶がほぼ二年飛んでるとすると、去年どころかもう三年も前ってことになっちゃうよな? それでもまだ付き合いがあんの? 中学卒業してこっち、特に絡んだ記憶もなかったんだけど、一体どういう経緯で国交が再開したんだろうか。

 

「いやまあ。ちょっと、腹を切る羽目になって…」

 

 へらへらと笑いながら、ピロキはこちらに近寄ってくる。右腕と右足をギプスで固めているところを見るに、コイツはコイツでなかなかに重傷のようだ。車にでもはねられたのだろうか。

 

「ブッ、だっさ。あの子に刺されでもしたか?」

 

 む…? わざわざぼかして言ったのに、何で刺されたって分かるんだ? 普通、盲腸とか病気での手術を想像すると思うんだが。

 あと、あの子ってどの子のことだろう。こいつの知り合いはあっさり人を刺しかねない程、危ない奴なのだろうか。

 

「三股とか調子こくからだぜー。彼女は一人にしとけって。な?」

 

「三股…? なんだそりゃ…」

 

「ねえ比企谷くん。まさかとは思うけど、こちらお知り合い?」

 

「あ、ああ。一応、昔のクラスメイトだ」

 

 黙って様子を見ていた雪ノ下が、たまらず口を挟んできた。彼女の「まさか」には「比企谷くんにお知り合いなんて居るはずないわよね?」的なニュアンスしか感じないけど、今はそれどころじゃない。

 

「お前、刺されたそばから別の彼女とか…。つかその子、あの時の写真の子じゃん」

 

 次から次へと俺の知らない話題を…。

 写真ってなんだよ、と聞き返そうと思ったところで、予想外のところから追及が入った。

 

「ちょっと待って。今、写真って言った? まさか貴方、あ、アレを他人に…?」

 

 背後の熱量が急速に高まるのを感じるが、さっぱり話についていけない。写真とやらについても、俺よりむしろ雪ノ下の方が心当たりのある様子ではないか。俺は放っておいてくれて構わないから、二人で話をしてくれないだろうか。

 

「ヒロキく~ん、おまた~」

 

 ピロキとガチャガチャやっていると、店の奥から一人の女子がのたくたと姿を現した。

 

 ほにゃっとした口調とほわっとした髪。どことなくゆるーい感じを漂わせている。ファッションセンスとかメイクの感じとか、いろはと被ってる部分が少なくない、わりかし小洒落た感じのJKだ。でも一つ一つの精度は彼女ほど高くなくて、全部合わせると全くの別物──言うなれば、中〇産(パチモン)いろはだな、と俺は総括した。

 

「あ、あれ~!? あの時のぉ~!」

 

「……ん?」

 

 何だ何だ、こいつも俺と顔見知りなのか。だが俺はこの女を知らないぞ。メイクが濃いから自信ないけど、かつてのクラスメイトにこんなやつはいなかった。ちょっと確証が持てないくらい濃いけど。

 怪我人のピロキと二人で居るってことは、ヤツの彼女だろうか。普通に考えるとそれで間違いないはずだが、それだけで断定はできないだろう。こんな俺でさえ、彼女以外の女子が見舞いに来ているという実例があるのだから。何にせよ、未だにピロキとの交流が続いているのだとすれば、この女子とも芋づる式に会っている可能性はあるのだろう。…それにしても、自分の交友関係を推測で語るのは何ともおかしな気分である。

 

「どうも~。あの時のカノジョさんとは随分違う子ですねぇ~。あ、もしかしてぇ~、別れちゃったとかぁ~?」

 

「は、はぁ…」

 

 生返事で時間を稼ぎつつ、"あの時"について必死に頭を巡らせている俺に、妙に嬉々として話しかけてくるゆるふわ系女子。

 だが俺は知っている。コイツみたいに顔の輪郭をふわふわスタイルで覆うのは、丸顔を誤魔化すための女子テクだという事を。ってことで、コイツのことは暫定的にまる子と呼ばせてもらおう。

 

 んで、さっきから話に上がっている"俺の彼女"についてだが、それはやっぱりいろはの事なんだろうか。付き合い始めたきっかけだとか、いつから付き合っているのだとか、そういう細かい話をする機会がなかったからよく分からない。しかし彼らの言う"あの時"ってのが、いろはと付き合い始める前を指している可能性は、ゼロではないはずだ。

 となればもしかして、今カノだけじゃなく、元カノなんてものまで存在したりしちゃうのか?

 

 凄い。高校生マジ凄い。

 なのにそれを全部忘れたとか、ぶっちゃけありえない。

 

「フラれたんだろ。比企谷にはマジもったいない子だったし。つか刺されたとかマジうける。なあ修羅場? 修羅場った?」

 

「いや、これはそういうんじゃなくて…」

 

 何で刺された方向で確定してんだよ。なまじ合ってるもんだから余計に腹立つわ。

 あと、犯人女じゃないからね。男だから。

 

 下手くそな愛想笑いで受け流しながら、俺は思った。一応は名誉の負傷と捉えていたんだけど…。何だろうな、女に刺されたってエピソードの方がそこはかとなくモテオーラに満ちていて、ちょっぴり負けたような気がする。だからって女性から包丁向けられたい訳じゃないんだけどさ。

 

 そうして的外れな考え事に勤しんでいると、背後に無言で控えていた雪ノ下が、唐突に鋭い声を上げた。

 

 

 

「──黙って聞いていれば、貴方達、一体何様のつもり?」

 

 

 

「え…………」

 

「この怪我は、事情を知らない人間が冷やかして良いものではないの。謝罪して頂戴」

 

 凛と澄み渡った声に含まれた、たっぷりの緊張感。

 

 それは彼らのチャラけた笑いだけでなく、俺の愛想笑いをもまとめて吹き飛ばし、その場の全てを一瞬にして凍り付かせた。

 

 

 

 『雪乃白銀世界(スノープラチナ・ザ・ワールド)!!』

 

 時が止まる。

 

 俺も止まる。

 

 そして時は動き出す──。

 

 

 無・意・味\(^q^)/

 このスタンドは何がしたかったの?

 

 

 

「お、おい、雪ノ下…」

 

「親しき仲にも礼儀は必要でしょう?」

 

 揺ぎ無く屹立(きつりつ)し、真っ向から不届き者を糾弾するその姿。潔い事この上ない…のだが、彼女はハンドルをがっちり握ったままなので、(いさか)いの矢面に立たされているのは車椅子に座った内臓ツギハギ男──スバリ俺氏である。

 傷病者を前衛に使っていくとはなかなか斬新なフォーメーションだ。さてはこいつ、マスターを消して自由になりたいタイプのサーヴァントだな。誰だよこんな冷酷な英霊召還したの。

 

「ご、ゴメンゴメン。元カノの話とか気分悪くなるよね。悪かったよ」

 

 雪ノ下と相対したピロキは、LEDもかくやという鮮やかさで、顔色と態度をスイッチングしてみせた。短い付き合いの中、彼女の放つ威圧感の片鱗を何度か味わったことのある身としては、この殺気の塊みたいな気迫をぶつけられて尻尾を巻いてしまったピロキを笑うことは出来ない。

 とは言え、さっきまでは訳も分からずからかわれていただけに、鬱憤が溜まっていたのも事実である。俺は自陣の優勢にすっかり気を良くし、このまま黙って虎の威を借るスタイルを通すことにした。

 

「まずその低俗な妄想をやめてもらえないかしら。痴情の(もつ)れと一緒にされたら、それこそ不愉快だわ」

 

 どうもピロキは雪ノ下が俺の彼女だと勘違いしているらしい。俺達の間に漂うスモッグばりに息苦しい空気の、一体何をどう見たらそう思えるのだろう。一度病院に行った方がいいのでは──ああ、だからここに居るのか。なーる。

 それと雪ノ下さん。ストーカーとの刃傷沙汰って、大枠で見ると痴情の縺れに分類される気がするんだけど、おたくの見解だと違うんですかね?

 

「ふぁ~、こっわぁ~い。前のカノジョさんとはずいぶん違うんですね~。こ~ゆうタイプが好みなんですかぁ~?」

 

 見た目と違って鋼の心臓を持っているのか、それとも単に実力差が分からない程の間抜けなのか。どこか人を小馬鹿にしたようなまる子の声音に、車椅子がミシリと音を立てた。おいやめろ、それ以上刺激するな。コイツはいま俺の命を握っているんだぞ。

 

「はぁ…もういいわ。日本語が通じないなら英語でも無駄だろうし。それより貴方。さっき写真で私を見たような事を言ったわね。どんな写真か聞いてもいいかしら」

 

 頭痛を堪えるよう目を眇めながら問うた雪ノ下に、ピロキは少し気まずそうな顔で答えた。

 

「ああ、なんか水着で比企谷にくっついてるやつだけど…」

 

「やっぱり…! ちょっと比企谷くんどういう事? どうして貴方がアレを持っているの。他に誰に見せたの。全て剥がされる前に吐き出しなさい」

 

 やだなに怖い! ゲロする前にまずは何枚か剥ぐって意味にしか聞こえんとです!

 

「ま、待て。ホントに話が見えない。仮に俺が何かしていたとして、悪いけど今は──」

 

 興奮していた雪ノ下も、流石に状況を思い出したのか、息を吐いて(まなじり)を下げた。

 

「──そうだったわね。御免なさい、今は不問にしておくわ。今はね」

 

 二回言うくらいだから、相当大事なことらしい。

 だが今の俺には関係ない。がんばれみらいのぼく。

 

「にしてもぉ…今度のカノジョさん、キレイ系なんですね~。ほっそぉ~い! モデルみた~い」

 

 なおも恋人扱いをやめる気のなさそうなまる子。こいつらにとって、男と女は全て恋人に見えるのだろうか。さぞかし尊い人生に違いない。ありがてぇありがてぇ。

 

「…貴女も分からない人ね。私達はそういう関係ではないとさっきから──」

 

「でもぉ~、胸の方はちょ~っと寂しいかな~、オンナノコとして♪」

 

「なっ…!」

 

 ガタリと大きく揺れた車椅子が、雪ノ下の動揺をこちらにも伝えてきた。衝動的に話題となっているもののサイズを確認したくなったが、いま振り向いたら爪ではなく魂を剥がされそうな気がして、ギリギリのところで踏みとどまった。

 

「お、大きければ良いという物ではないでしょう。プロポーションというのは身体的バランスを指す言葉なのだから。美とはバランスあってのもので、その一点だけで私が貴女に劣っているという結論にはならないわ。そもそも貴女だって、他者をこき下ろす程に立派という訳では…」

 

 確かに雪ノ下の外見は総合的な美しさを備えていると思うし、言っていることも実に正しい。個人的には今後がどうあれ応援してやりたい。しかし残念ながら、世の中というものは往々にして醜く、そして正しくないものなのである。

 

「でもぉ~、大は小を兼ねるっていうし~? わたしの方がぜ~んぜんあるし~?」

 

「くっ…鬼の首でも取ったような顔で…」

 

 確かにこの御首級(みしるし)、まる子にとっては事実それくらいの大手柄に違いない。それ言っちゃうと俺の首も飛びかねないから黙ってるけどね。俺は貝──そう、深い海の底の貝なのだ。だから来るなよー、こっち振るなよー?

 

「ねぇ~ヒロキく~ん、男の子的にはぁ、どぉ思う~?」

 

 よっしゃ回避成功。

 全力でステルスヒッキーを発動していた甲斐もあって、矛先は見事ピロキへと向かった。

 

「えっ? えと、それは…まあ、なくてもいいけど、ちょっとはあった方が…」

 

 腕を取り、ここぞとばかりに胸を押し付けるまる子に、ピロキはキョドキョドフヒっている。しかし中途半端な答えだなー。お前、バスト占いのうた知らねえのかよ。そんなの微妙過ぎるわ。

 雪ノ下は反論する気力が失せてしまったらしく、床を相手に「うぬぅ」と吽形(うんぎょう)の相を見せている。そらまあ人前でこれほど露骨に指摘されたら悔しいわな。けど、男の俺が「勇気ヲ持ッテクダサーイ」なんて言っても、月の無い夜に出歩けなくなるのがオチだし…どうにかならんもんかね。

 大体、さっき雪ノ下も言ってたけど、まる子だって別に自慢する程でっかくはないんだよな。むしろ平均以下なんじゃねえの? 誰か一発で黙らせられるヤツ居ないかなー(チラッ)

 

 冗談半分、救いを求める気持ち半分で辺りを見回してみると──

 驚くなかれ、廊下の向こうからテッテケテーっと走ってくる勝利の女神(ウィクトーリア)の姿が目に留まった。

 

「おっ、ふたり見っけー。なに買ったのー?」

 

 駆け寄るその胸元では、富の象徴がたゆんたゆん。

 

「──勝ったな」

 

「へっ?」

 

 暴走した初号機を前にした副指令の如く、ボソリと漏らした俺の言葉に彼女は首を傾げる。

 

「由比ヶ浜さん…」

 

「ん、そっちの二人、知り合い? ──…ってえ!? ちょ、みんなドコ見てるの!?」

 

 話の流れが流れだっただけに、俺達は全員、揃って突如現れた豊穣の双丘を凝視していた。自分に素直で思ったことを隠せない由比ヶ浜は──なるほどつまり彼女はFカップか──あわあわと不埒な視線から胸元をガードしている。やっぱあの占いは偉大だわ。

 

「あ、いや──」

 

 ピロキも当然その中の一人だ。コイツに見られるのは何だか癪な気がしないでもないが、あの国宝が俺個人の所有物という訳でもなし。服の上から見る分には、好感度が下がる以外のデメリットもない。見るだけなら(法的には)セーフなのである。

 何より、(ニュー)トンの法則に人の意思の介在する余地など(ハナ)から存在しないのだ。地に向って落ちるリンゴに「動くな」と叱る馬鹿はいないだろう。女性には分からない感覚かも知れないが、これはそういう次元の話なのである。

 ヤツは傍らの彼女もそっちのけで、視線をすっかり奪われていた。そんな彼氏の痴態にキーキー騒ぐかと思われたまる子の方もまた、自ら天に吐きまくった唾の集中豪雨に打ちのめされ、動けないでいる。

 

 War Is Over.(戦争は終わった)

 世界に幸あれ。

 

「え、えと…こ、こんにちはー。…二人、ゆきのんの知り合い?」

 

 全力で胸元をガードしつつ(余計に強調されていることは言うまでもない)、こんな無礼極まりない連中にもきちんと挨拶をする由比ヶ浜に、俺はちょっぴり感動を覚えた。低次元の争いを終戦へと導いた女神のありがたいお言葉に、雪ノ下も少し複雑な表情で息を吹き返す。

 

「私ではなくて、比企谷くんの方よ。そこで偶然会ったのだけど、最近の話題を振られて、その…ちょっとややこしい事に、ね…」

 

「あー…そういう…」

 

 よし、と小さく気合を入れた由比ヶ浜はテンション上げ上げの甲高い声で、まる子へと吶喊(とっかん)していった。

 

「ね、ね。何のハナシしてたの?」

 

 すごいよ!!ガハマさん。思わずピューと口笛吹いちゃう。

 

 あっさり会話に乱入した由比ヶ浜は、勘所を狙ってズバリ一刀目から斬り込んでいく。

 ほんとそれな。最初から会話に混じってたはずの俺が一番理解してないんだけどさ。

 お前らさっきから何の話してるのん?

 

「…んっとぉ、胸とかスタイルとか、人それぞれだよねぇ~って話かなぁ」

 

 あれっ? そういう話でしたっけ? お前は大艦巨砲主義者じゃなかったっけ?

 大局(バランス)でも局地戦(バスト)でも勝ち目がないと悟ったのか、まる子は急にどこかで聞いた歌詞みたいな台詞を盾にして日和り始めた。

 

「結局は個性っていうかぁ…あっ、和洋中みたいなぁ? そういう感じぃ? タイプが違う相手と比べるとか、ナンセンスだしぃ」

 

 既に彼女には二敗の土が付いている筈なのだが、どうしてもこの場はドローって事にしたいらしい。初対面の相手に対して、何故こうも執拗に対抗心を燃やすのだろう。何か過去に因縁でもあるのだろうか。

 

「それ! やっぱキャラって大事だよね。そっち、ゆるふわ系? あたしそーゆーの似合わないから超憧れるなー。あたしの友達と趣味合いそう!」

 

「え、そ~なのぉ~? へぇ~、どんな子ぉ?」

 

「あたし達の友達でね~。あ、ホラこれ。超かわいくない?」

 

 趣味が合う、という言葉に同族の気配を嗅ぎ取ったのだろう。自分のフィールドであれば多少の自信があるのか、まる子は由比ヶ浜が口にした"友達"に興味を示した。恐らくは彼女の友人に勝利することで留飲を下げようという魂胆なのだろうが…。

 

 由比ヶ浜は由比ヶ浜であまり深く考えず、とにかく適当にまる子を持ち上げることで、強引に場の空気を温めようとしているようだった。

 直前までの話の流れを知らず、更には相手の名前すら知らないはずなのに、会って5秒でこのトークが出来ちゃうスーパーMCガハマちゃん。つか、初対面の相手との会話で二言目から同意(アグリー)出せちゃうところがまず信じられない。

 

 由比ヶ浜の介入によって、戦場の緊張は一気に弛緩へと向かっていた。初っ端から奇襲してマウント取っていた雪ノ下とはえらい違いである。そんな彼女のコミュ力の高さに改めて感心していると──

 

「すぐ来るから紹介したげる。たぶんハナシ合うと思うし」

 

「え…ちょ、こ、この子って…」

 

 由比ヶ浜のヨイショで調子づいていたまる子が、差し出されたスマホを覗き込んだ途端、表情を固く強張らせた。

 

「ゴメ、ちょ、あたしお手洗い。ヒロキくん、お友達と話あるよね? ごゆっくり!」

 

 彼女はあわててポーチを取り出し、そそくさと退散してしまった。

 若干キャラ崩壊を起こしていたようだが、ついでお腹も壊してしまったのだろうか。

 

「あ、おい! どしたんー?」

 

 その場にひとり取り残されたピロキが「なんだぁ?」と首を傾げる。

 

「驚いたわ。由比ヶ浜さん、一体どんな手品を使ったの?」

 

「え? いろはちゃんの写真見せただけなんだけど…」

 

 あっ(察し

 どうやら由比ヶ浜の本命は、相手の土俵で叩きのめすことによる精神破壊(メンブレ)だったらしい。可愛い顔してえげつないやっちゃな。

 

「あー、友達ってあの子のことか…なんだ、もしかして別れてねえの? つまんねえ…」

 

 横合いから由比ヶ浜の手元を覗き込み、得心した様子のピロキが半目でこっちを睨んでくる。俺は何も言っていないのに、勝手に盛り上がって盛り下がって、忙しないヤツである。

 

 けど、ここまでの会話からひとつ分かった事がある。コイツの言う"俺の彼女"が指しているのは、やっぱりいろはのことだったのだ。意外なところで失われた過去の痕跡を発見してしまった。

 

 うーん、本当に付き合ってたんだな、俺…。

 いや、別に今さら疑ってないけどね。やっぱ第三者の証言があると、真実味が増すなーと。

 

 

 

「…なあ、ウチの彼女も気ぃ回してくれたし、ちょっとだけ比企谷借りていい? 野郎トークってことで」

 

 何を思ったのか、不意に俺の肩に手を乗せたピロキは、雪ノ下達に許可を求めた。

 

 え? まる子のあれは社交辞令とかテンプレとかそういうのでしょ? 何だよその汗臭そうなパワーワード。お前と改めて話すことなんか何もねーよ。

 

「えーと…いいのかな? ゆきのん」

 

「…そうね、構わないんじゃないかしら。私達はしばらくここで時間を潰しているから」

 

「あ、ああ…悪いな」

 

 訳の分からない女子とやり合って疲れたのか、少しげんなりしつつも、こちらへの配慮を見せる二人。記憶の欠落による不都合が起きないか気にしてくれているのだろう。

 

 ほんの少し歯切れの悪い返事に見送られて、俺達はそこから場を移したのだった。

 

 

* * *

 

 

 廊下の角を一つ曲がった先で、ピロキはふぅと息をついた。

 

「いやあ…ららぽん時の小柄な子もヤバいけど、あの子らもめちゃレベル高いよなー。…誰かフリーだったりしない?」

 

「お前その為にわざわざ場所替えたの? もう帰っていい?」

 

「怒んなよ! ったく…あんな子をとっかえひっかえ…ほんとに刺されても知らねえぞ?」

 

「そりゃどこのハーレムの話だ」

 

 女性関係を揶揄しているだけなんだろうが、ほんとに刺された身としては何度も聞きたい冗談ではない。お前もそんなフラフラしてるとそのうちまる子にグサッとやられるんじゃない? 感染症には気をつけな。ウンコは人を殺すぜ…。

 

「ところでさ…俺のコレについて、何かコメントないわけ?」

 

 ピロキはギプスに包まれた右手をこれ見よがしに晒し、ドヤ顔でアピールをしてきた。

 

 うぜえ…。骨折でヒーローになれるのは小学校までだっつーの。それにお前だって俺の怪我の話、ちゃんと聞いてないだろうが──っておいやめろ近づけるな。ギプスって外れるまで1カ月とか洗えないんだろ? 垢とかヤバいって聞いたことあるぞ。

 ウッ…何か変な匂いが…。メ、衛生兵(メディック)! 衛生兵ー(メディーック)

 

「分かった、分かったから! ったく…んで、何したん? ソレ」

 

「この前バイク乗っててさー、ちょうどこの病院の前通ったのよ」

 

「ほー、免許持ってんのか。いいな」

 

 バイクがあれば小町を送るの楽ちんそうだな。あと小町を迎えに行くのにも使える。

 

「お、バイク興味アリ? …あ、そんでな? そこ走ってたら、どっかのバカが奇声あげながら道路に飛び出してきてさー。ドカン!よ。まあ10メートルは飛んだね、俺が」

 

「は? 相手じゃなくてお前が飛んだの?」

 

「そ。避けようとしたけど避けきれなくて、半端にぶつかったらぶっ飛んだ」

 

 うへえ。そりゃマジで災難だな。近くに奇行種の巣でもあるんだろうか。車なら少なくとも運転手は無事だろうに、バイクってやっぱ怖えわ。

 

「んで骨折…と。ならその程度で済んでラッキーじゃないの? 下手すりゃ死ぬだろそれ」

 

「やー、全然ラッキーじゃねえし…。まだローンあるのに全損だぜ。しかも100パー相手の責任なのに、車両と歩行者だからこっちが弱えーんだとさ。マジ意味わからんよ…」

 

 突然の飛び出しなんて避けられる訳ないのに、法律ってほんと融通利かないよな。やっぱ引きこもってんのが一番だろ。何せホラ、事故りようがない。

 

「お前の不運も大概だけど、それで相手は生きてんの?」

 

「死んでたらこんなネタっぽく話せねえよ…。でも下半身に障害だって。けどさ、それで勃たなくなっても知るかボケって話だろ?」

 

 いや、その前に立てなくなることを心配してやれよ。

 

「たださー、なーんか後味悪いっつーか。だって高校生で不能だぜ? 俺なら首吊るわ」

 

「だから不能の前に不随を…って相手も高校生かよ。そりゃ…キツいな」

 

「総武高の一年だとさ。ったく、何で俺がこんな凹まなきゃならねーんだ」

 

「おいおい…。ちょっと他人事じゃないぞ、それ…」

 

 飛び出しで交通事故に遭った、総武高の一年男子。

 

 何かどこかで聞いたような話だなーとは思っていたが、比企谷さんちの八幡くんもまた、その条件にピタリと当てはまるではないか。いや、俺にとっては既に遥か過去の話になっているはずだから、ピロキの話とは無関係だと頭では分かっているが…。

 

 結局、犬を庇った時の怪我は骨折で済んだらしいんだけど、一つ間違えていたら俺も半身不随とかになっていたのだろうか。我ながら酷い無茶をしたものだ。今回は運良くその程度で済んだけど、まあ二度目はないと思った方がいいだろう(←二度目)

 

「ん? そういやあの子ら総武高だったな…。もしかしてお前も?」

 

「そうだけど。あ、俺に聞いたところで──」

 

「マジか! 西山って一年なんだけど、知ってる?」

 

「だから知らんし」

 

 そもそもお前の名字も知らん──と言いたい。声を大にして言いたい。

 それに、忘れてしまった二年間だって、後輩なんぞと交流するような縦割り生活はしていなかったと思う。いろはは例外中の例外だろうし。

 

「だよなー。すまん、聞いた俺がバカだった」

 

 ホントだよ。大体、聞いてどうにかなるもんでもないだろ。もし知り合いだったらお互い気まずくなるだけだし、何がしたかったんだ。罪悪感のシェアリングとか俺の全損でしかないわ。

 

 

 ──ん?

 

 反射的に知らんと答えてしまったけど。

 その名前、つい最近どこかで聞いたような…。

 はて、どこだったか…。

 

 ま、こんなのは知ってるうちに入らないか。

 もしかすると、記憶が戻りかけているのかもしれないな。

 

 

「でもアイツと2ケツしてる時じゃなくてほんと良かったわ。怪我させたらシャレならんから」

 

 ピロキは売店のある方角に目を向けながら、しみじみと呟いた。

 

 まる子がどうなろうと心の底からどうでもいい…。どうでもいいけど、もしもいろはを乗せていて事故に遭ったらと考えると、やっぱり恐ろしくておいそれとバイクには乗れないな、と思った。

 いや、バイクだけではない。小町とはよくチャリで2ケツしてるけど、そっちも気を付けないといけないぞ。まかり間違って傷などつけようものなら、俺が責任を取らないとならなく──ふむ、それは名案かもしれない(迷案)

 

「お前もせいぜい彼女を大事にしろよ。逃がしたら来世まで後悔するぞ、あれは」

 

「まあ、そうだな…そうだよな…」

 

 彼女を大事に、か。ひたすら大事にされっぱなしで、大事にしてやれてるとは言い難いんだよな…。

 

 あれだけ尽くしてくれる女の子が恋人ではないなんてことがあるわけもないし、俺なんかを騙したところで得をするわけでもない。いろはは──いろはの事だけは信じているつもりだし、これからも信じ続けたいと思っている。

 

「あのさ…」

 

 ──にも拘わらず、生来の疑り深さが捨てきれない俺は、思わずこう尋ねてしまった。

 

「やっぱり彼女に見えるか? あいつ…」

 

 聞いてしまった後で、いろはに申し訳ないという思いがじくじくと染み出してきた。

 

 結局のところ、自分に自信が持てない人間の自己肯定なんてものは、何の安心材料にもならないのである。しかし、第三者に認めてもらわなければ自身の人間関係にすら確信が持てないというのは、いくらなんでも度し難い。性格の問題か、それとも状況のせいなのか。出来れば後者であると信じたいが…。

 

 そんな俺の問いに、不快感を露にしたピロキの口から、予想を上回る答えが返ってきた。

 

「おま…あそこまでやって彼女じゃないとか…。マジで刺されても文句言えねえぞ」

 

「あそこまでって何よ」

 

「うざ! こいつマジうざっ! 二人してコンドーム買っといて今さら──」

 

「ちょっと待てその話詳しく!!」

 

 病院で目覚めてからこっち、最も衝撃的な情報キマシタワー!

 

 それが本当なら、いろはへの態度をもっともっと真剣に考えなきゃいかんですよ!

 え、何? 俺は記憶なんかより遥かに大変なものをとっくに失っていたってこと?

 いやそっちは惜しくないっていうか金払ってでも手放したいお荷物なんだけれども!

 

「うるせえ。もげちまえバーカ」

 

 もう話すことはないと言わんばかりに、ピロキは俺に背を向ける。

 追いかけ問い詰めようとしたところで、廊下の向こうからまる子がやってくるのが見えて、俺は伸ばした手を引っ込めた。

 

 彼らがこうして二人でいる時間が、俺にとってのいろはとのそれなのだとしたら──。

 そう思うと、さしもの俺も、これ以上の野暮をする気にはなれなかったのである。

 

「じゃあな。ま、精々お大事に。あともげろ」

 

 呪いと見舞いと、おまけにもひとつ、呪いを口に。

 彼は鼻息も荒く去っていった。

 

 

「…あんにゃろ、最後に特大の爆弾落としていきやがって」

 

 一方的に連れ出しておいて、とことん勝手な奴である。しかもこっちが聞きたい事にはさっぱり答えやがらねーし。

 

 雪ノ下が言ってた写真ってのは何だったんだ。

 

 コンちゃん買ってたってのは、そのままの意味なのか…?

 

 

* * *

 

 

 あれだけ他所の女子に色目を使っていたというのに、迎えに来たまる子は甲斐甲斐しくピロキを支えてやっていて、寄り添う二人の後姿がやけに印象に残った。自然と、亜麻色の髪の女の子を脳裏に思い浮かべる。

 

 ゆるふわ系って男慣れしてそうだけど、あれで案外尽くすタイプなのかな…。いろはだって、最初の印象と違って、実際はめちゃくちゃ世話焼きだし健気だし優しいし。

 

 ぶつぶつと考え事をしながら車椅子を動かし、女子連中が待っているであろう売店前へ戻ろうとしていると──

 

「うおっ!」

 

 ぬらり、と、通路の角から線の細い女が姿を現した。

 

「…そこで何してんの?」

 

 妖怪影女(かげおんな)──改め、雪ノ下はどこか遠くを見つめて、不思議な表情を浮かべている。彼女は長い睫毛に彩られた目をゆっくりと閉じると、ふるふると頭を振ってみせた。

 

「…おかしなものね。いざそうなってみると、少し複雑な気分だわ…」

 

「何が?」

 

「気にしないで。やっぱり悪いことはするものじゃないなって、そう思っただけ」

 

「待ってホントに何してたのお前」

 

 こちらの追及には一切応じずに、彼女は黙って背後に回ると、ハンドルを手に取り車椅子を押し始めた。何かの悟りでも開いたかのような、これまでにない程に穏やかな表情だった。

 

 この様子だと、雪ノ下は俺達の会話を聞いていたのかもしれない。聞かれて困る内容でもなかったからそれは構わないのだが、あの取り留めもない話の中に、彼女をネクストステージへと導くような崇高な内容が含まれていただろうか。

 

「後できちんと話すわ。後でね」

 

 難しい顔をしている俺を見かねたのか、雪ノ下はクスリと笑って言った。

 

「…まあ、それなら」

 

 大事なことだから、と。彼女は言外にそう伝えてくれた。

 ならばすっぽかされる心配はあるまい。その時が来るまでは忘れておこう。

 

 

 

 気が付けばまた二人きりだったが、さっきまでの重苦しさはもう残っていない。

 

 心なしか軽やかな車輪の音を携えて、俺達は売店へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、雪ノ下が浮かべていた表情の意味。

 

 それを俺が知る事は、決してなかった。

 

 

 




メメタァアア(タイヤで潰される音)



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■40話 再び凍りつく音

とうとう100万UA突破しました。
全ては皆さんのご愛読の賜物です。本当にありがとうございます。


<<---Side Yukino--->>

 

 比企谷くんが目を覚ましてから、一体何日経過しただろうか。

 

 少しずつ、しかし着実に、私達の周囲は日常を取り戻しつつあった。

 いつまでも同じ話題では視聴率を稼げないのだろう。校門に張り付いていたカメラの数は日に日にその数を減らし、いつの間にかその姿を見かけなくなっていた。

 

 一時は大いに乱れていた私達の生活サイクルも概ね回復し、食事や睡眠も平時のペースに落ち着いている。ただ、あの日以来、部室には一度も顔を出していなかった。改めて聞いたことはないけれど、足が遠のいているのは私だけではないと思う。

 昏睡状態だった時は兎も角、今では退院の話もちらつく程に、彼は回復している。それでもかつての日常にすんなり戻れないでいるのは、やはり記憶の問題が引っかかっているからではないだろうか。

 

 そんな私達は、まるで部活動の代償行為であるかの様に、毎日放課後に例の病室へ足を運んでいた。

 今日もこうして、タクシーの後部座席に三人並んで納まっている。いつもと違うところがあるとすれば、()()()()の緩みきった笑顔が少しばかり癇に障るという事くらいだろうか。

 

 特別急ぎの訪問でもないのだから、本来であれば高校生らしくバスを使うべきなのだろう。けれど私は、姉さんからとあるチケットを受け取っていた。後払いでタクシーを利用できる、クレジットカードのような代物だ。高校生には不釣り合いなその品は、きっと彼女のポケットマネーから捻出されたに違いない。そう解釈した私は、「そこまで世話になる必要はない」とそれを突き返したのだけれど、

 

『いいのいいの、私のお金じゃないから。なるべく沢山使ってあげてね?』

 

 と、意味深な言葉と共に、強引に押し付けられてしまったのであった。

 

 言い出したら聞かないあの人の事だ。要らないと言っても返品には応じないだろう。幸い、使わなければ請求が行かない仕組みのようだし、引き出しの奥にでも──と、お蔵入りしかけたところで、請求先の欄に印字されたとある社名が、私の目に留まったのであった。

 

 

 あれから私は、本当に何の遠慮もなく、むしろ積極的にそのチケットを使い倒している。

 

「ゆきのん、いっつもゴメンね。タクシー代、出してもらっちゃって」

 

「言っているでしょう。出すべきところから出ているお金なの。これで日本一周したところで、良心の呵責を感じる必要は一切無いわ」

 

「あはは…。日本一周は無理でもさ、またみんなで旅行とか行きたいね。ヒッキー慰安旅行!みたいなカンジで」

 

「あら、それは名案ね。比企谷くんをダシにすれば、超長距離でもこれが使えるかもしれないし」

 

「って、タクシーで行くつもりなの!?」

 

 どうやら彼女は冗談のつもりだったらしい。私としては、如何にこのチケットを無駄遣いできるかを日々模索しているところなので、その案は真剣に検討する余地があると思うのだけど…。

 

 私が手にしているチケットの束を覗き込んで、由比ヶ浜さんが問いかける。

 

「この…なるせ?法律事務所…って何なの? 陽乃さん関係?」

 

「そう聞いているわ。いずれにしても、私達の知る必要のない事よ」

 

「ふーん…お金ってあるトコロにはあるんだねー。いろはちゃんは旅行とか行きたく──」

 

 しみじみと的外れな感慨に浸っていた由比ヶ浜さんは、隣に座る一色さんに話を振る。しかし彼女はしきりに胸に手を当てて頬を緩めており、声を掛けられたことにも気づいていない様子だった。

 

「……♪」

 

「むっ…」

 

「………えへ」

 

「ぐぬぅ……」

 

「…………えへへ♪」

 

「ぐぬぬーーーっ!」

 

「由比ヶ浜さん、騒がないの」

 

「だってだって! いろはちゃんがー!」

 

「一色さんも。気持ちは分かるけど、弄り過ぎて落としたりしないようにね」

 

「うっ…そうですね。気を付けます…」

 

 少し矛先を変えて注意してやると、一色さんはやっとこちらの言葉に反応して頷いた。

 彼女は両手の指先を揃え、祈るようにして自らの胸に添えている。そこにしまわれた宝物に想いを巡らせているのか、ほう、と熱っぽい息を吐き出していた。

 

「それにしてもこれ、ちょっと息苦しいですね。雪ノ下先輩、気になりませんか?」

 

「別に。きちんとしていた方が、気持ちが引き締まるじゃない」

 

「気持ちって言うか、リアルに首が絞まるんですけど…」

 

 自らの襟元に指を突っ込み、暑さにくたびれた子犬の様に小さな舌を垂らしている一色さんに、私は首を傾げた。

 

 ある程度は型を崩すのがセオリーとされている、女学生の着こなし術。私と同乗している二人もまたその風潮にあやかって、日頃から襟元を緩めている。その中でも彼女らはかなり解放的な部類だと思うのだけれど、ならばボタンを全部止めている私みたいな人種はというと、これはもうかなりの少数派だった。下手をすると国際教養科(ウチ)の女子くらいのものではないだろうか。

 

 ただ、今日に限って言えば、一色さんはそのマイノリティの一員となっていた。私と同じか、あるいはそれ以上にきっちりと襟を閉じ、上から結んだリボンで厳重に首周りを抑え込んでいる。普段から洒落っ気の強い彼女がこうしていると、あたかも指導室で身なりを整えさせられた直後の様に見えて──言っては何だけれど、微妙な痛々しさすら感じさせる。

 

「学校にはしてこない、と言う選択肢は…聞くだけ野暮かしら」

 

「あはは…すみません」

 

「でもそれ、見つかったら一発アウトだよ。危なくない?」

 

 総武高は勉学に重きを置いた校風ではあるけれど、風紀にも力を入れているかと言えば、実はそれ程でもない。靴に鞄、果ては制服そのものに至るまで、かなりの範囲で生徒たちの自由を黙認している。指定のブレザーを着用すること、というのが唯一守られているルールだろうか。

 

 斯くも自由な校風ではあれど、あまりお目(こぼ)しの利かない物もある。その一つがネックレスやブレスレット──要はアクセサリーの類だった。

 そして駄目と言われればやりたくなるのが思春期…という訳でもないのだろうけれど、厳しいと知っていながら敢えてそれを持ち込み、指導室に連行される女子生徒の話というのは、枚挙に暇がないのである。

 

「優美子とか速攻で没収されてたし。一週間くらい返ってこなかったって」

 

「没収はマズいですね。()()を取り上げられたらわたし、ちょっと何するかわかりません」

 

「ヒエッ…!」

 

 由比ヶ浜さんは小さく悲鳴を上げ、こちらに身を寄せてくる。私も思わず手の平が汗ばんだ。

 

「もー、冗談ですよ結衣先輩。そんな怖がられたらショックです」

 

「え、いや。あはは…そ、そーだよねー。冗談だよねー、うん」

 

「そうですよ。取り上げられる前にどうにかするに決まってるじゃないですか」

 

「怖い! いろはちゃん怖いよ!」

 

「由比ヶ浜さん…狭い……」

 

 ぐいぐいと身体を押し付けられる柔らかな身体を押し返しながら、先日の事を思い出し、私はこっそりと唾を飲み込んだ。

 

 まさかまた(はさみ)が登場したりはしないだろうが、彼女が半ば本気であることは疑いようもない。生徒会長という立場の彼女が見逃してもらえる筈もなし、「外さなければ生徒会長を解任する」と言われたところで、彼女は迷わずその席を降りてしまうだろう。

 となれば、見つからないようにフォローする事も、あの時失敗した──ひいてはこの事態を招いた私の責任というものなのかもしれない。

 

「ていうか、三浦先輩はバレる以前に全く隠そうとしないじゃないですか。それにあのひともですけど、総武高(ウチ)ってピアスは実質セーフですよね。あっちのが全然目立つのに」

 

「そのあたり、本当に緩いわよね…」

 

 私は「学校は勉強をするための場所だ」と本気で思っている人種なので、わざわざルールを破ってまで着飾りたがる彼女たちの気持ちには全くと言って良いほど共感出来ない。とは言え、自身の考えを主張して他人と対立を繰り返すうち、「女子とは得てしてそういうものである」という理解と諦念は、自然と身体に染み込んでいた。

 

「あー、アレは…隼人くんに褒められたから、誰に言われても絶対やめないんだよ」

 

「なるほど、それは仕方ないです。怒られたら葉山先輩のせいですね」

 

「まあねー。好きな人にそんなんゆわれたら、もう着ける一択だし」

 

 あまりに一方的な結論に、何かフォローでもしようかとも思ったけれど…葉山くんのそれに関しては自業自得としか言えないので、私は口を挟まないことにした。

 

 三浦さん含め、堂々とピアスをつけている生徒は何人かいるけれど、あれも本来であれば指導対象だ。ただその手の生徒というのは、注意しても一向にやめようとしないケースが多い。そのせいか検挙率はさして高いものではなく、運が悪ければ虫の居所が悪い教師に捕まって説教をされるくらいで、これも殆ど野放しに近い状態だった。

 つまるところ我が校の教職員のスタンスは「成績以外は一切興味なし」という事なのかもしれない。面倒見の良い平塚先生のそりが合わないのも無理はない、というものだろう。

 

「それにほら、わたしは外に出してませんから。あれですよ、お守りみたいなカンジです」

 

「実際、そう主張されてしまうと咎めたてる道理も無いのよね」

 

 仮に、祖母から貰ったお守りを懐に忍ばせているのが見つかったところで、これを没収する教師は居ないだろう。例えモノがアクセサリーであろうと、その扱いがお守りの範疇から逸脱していない以上、彼女の言い分はそうそう間違ってはいない。あくまでも理屈の上では、だが。

 ましてや、一色さんの現在の心境を(おもんばか)れば、()()を肌身離さず持っていたいと思うのも、十分頷けるというものである。私だって立場が違えばあるいは──いや、意味の無い仮定は止めておこう。

 

 

「けど…本当、外からだと全然分からないのね」

 

 呆れ半分、感心半分の気持ちで、首を伸ばして一色さんの襟元を覗き込む。立てられた襟の隙間に微かな輝きが見え隠れしている。更に目を凝らすと、細い首にチェーンが掛かっているのが見て取れた。

 けれども、生活指導を担当する教諭が男性である以上、こんな風に女生徒の襟を覗き込むなんてことが出来る訳もない。

 

「でもそれ女子にはバレバレだし。いろはちゃん普段と全然違うから一発でしょ」

 

「そうね。あまり露骨にしていると誰かに告げ口されるかも。程々にしておきなさい」

 

「はーい♪」

 

 結局、今の一色さんの様に"風紀を守って襟を正している姿"こそが、ご禁制の品を持ち込んでいる証──そんな諧謔(かいぎゃく)めいた不文律が、女子生徒の間で成立しているのであった。そのせいで痛くもない腹を探られる身としては、実に迷惑な話である。

 

「ちぇー。あたしも何か買ってもらっちゃおっかなー」

 

「いいと思いますよ。先輩、お二人にもお世話になってるって言ってましたし」

 

 どう転んでも自分の負けは無い。一色さんの態度からは、そんな余裕がありありと伝わってくる。

 

「あーでもー、今日は朝から全然返信してくれないんですよ。タイミング悪いかもです」

 

「機嫌悪いってこと?」

 

「んー、リングの件で弄り過ぎたので、ちょっとスネちゃってるかもしれません。それか、新しい本に熱中してるとか…」

 

「なるほどなるほどー。じゃあ今日は止めておいた方が無難かなぁ」

 

 由比ヶ浜さんは、恋敵からの助言を聞き入れて素直に頷いている。助言する方もされる方も、懐が広いのか危機感が足りないのか…。

 

「それと結衣先輩、おねだりはいいですけど、わたしと被らない方向でお願いしますね」

 

「ほら出た! ずるいよー、()()マジ最強だし! この上とかもうないし!」

 

 それもその筈だろう。彼女が先日比企谷くんから受け取ったという"感謝の証"は、かつての彼を知る私達の想像を遥かに超える物だった。「わたしが選んで買ってもらったんですけどね」と一色さんが種明かしするまでの間、比企谷くんの人格が狂ってしまったのではないかと本気で心配した程である。

 

「はあー、いいなぁ…。ねーねー、もっかい見せてー」

 

「いいですよ♪」

 

「…由比ヶ浜さん、貴女って被虐嗜好者(マゾヒスト)なの?」

 

 一色さんが見せたがるのは分かるとしても、悔しい悔しいと(ほぞ)を噛んでいる由比ヶ浜さんが見たがると言うのはどういう理屈だろうか。この辺はちょっと理解できない。

 

 おねだりを受けた一色さんが、人肌に温められたチェーンをごそごそと手繰る。

 

 

 懐から吊り上げられた鎖の先には、銀色に輝く指輪がぶら下がっていた。

 

 

「ふあー…やっぱこれ超かわいい…ふあー…いいなぁ…」

 

「えへ、えへへへへへ♪」

 

「なんか指にするよりこっちの方がかわいくない?」

 

「あ、結衣先輩も思います? 隠すためにこうなったんですけど、逆にアリかなって」

 

 先程から幾度となく繰り返されているこの流れ。もう暫くすると惚けていた由比ヶ浜さんが歯を鳴らして騒ぎ始める訳だけれど、もしかして何かの様式美なのだろうか。

 

「二人ともよく飽きないわね…」

 

 ちらりと横目に見て、そのまま視線を外せないでいる自分に気が付いてしまう。何のことは無い。私もまた、彼女の胸元で輝く小さな銀の輪を、飽きもせずに眺めていた。

 

「ゆきのんはアクセとかあんま好きじゃない?」

 

「あまり主張の強いのはちょっと…。でも、それは素敵だと思うわ」

 

「わ。雪ノ下先輩に褒められちゃいました」

 

 一色さんの好みはもっとこう、良く言えば女の子らしい、悪く言えば子供っぽいデザインを想像していた。けれども実物を見せてもらった時、私は思わず感嘆の声を漏らしてしまったのだ。

 

 見栄えのする宝石は一切使われておらず、形どられた装飾もシンプルな曲線と直線の組み合わせ。まるで媚びる気配の無い、ともすれば「地味」の一言でうち捨てられかねないそのリングは、けれども不思議と誰かの姿を連想させる。そこまで考えて、何故彼女がこれを選んだのか、理解できた気がした。

 

 人を妬む事の愚かしさを常々語っておきながら情けない話だけれど、正直を言えば自分も欲しい。この気持ちは果たして、その質素なデザインだけに依るものなのか、それとも送り主ありきなのだろうか。

 

「何にせよ、学校では気をつけなさい」

 

 私は小言を諦めると、再び頬を膨らませ始めた友人を鎮める作業に専念したのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 甘ったるい空気と共に病院へ到着し、いつもの通りの経路を辿って入院病棟に向かう。

 目的の階層でエレベーターから降りた私達は、そこで目の前の休憩スペースに見慣れた姿を発見した。

 

「あ、こまちゃん! お疲れ様ー」

 

「いろはさん! お二人も。お疲れ様です」

 

 病院でする挨拶はこれでいいのだろうか、と内心首を傾げつつ、私も彼女達に倣ってお疲れ様、と声を掛ける。

 

「どしたの? こんなとこで。診察中?」

 

「あー、えーと。その、ですね…。落ち着いて聞いて欲しいんですけど──」

 

 小町さんはこちらを、特に一色さんを意識しながら、気まずそうに口を開いた。

 

「実はお兄ちゃん、昨夜から目を覚ましてないんです」

 

「えっ!?」

 

 つい先日、嫌と言う程に味わった、背中に氷柱を差し込まれるような感覚が走る。

 両目の瞳孔が開く音が聞こえた気がした。

 

「ど、どういうこと!? せ、先輩は!? 先輩大丈夫なの!?」

 

「おおおお落ち着いていいいろはさんんん! だだ大丈夫、だだ大丈夫ですかららら」

 

 一色さんに激しく肩を揺さぶられて、小町さんは息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。興奮する彼女を引き剥がしながら、私は先を促した。

 

「す、すみません。ご心配をお掛けしないように気を配ったつもりなんですけど、かえって混乱させちゃいましたね」

 

「その様子だと、慌てるような事態ではない、と思って良いのかしら」

 

「はい。お医者さんも身体は全く問題ないって言ってて、すぐ目が覚める可能性が高いってことだったので…。だったら起きてからご連絡しようと思ってたんですが、中々起きてくれなくて、結局この時間になっちゃいました」

 

 つまり、彼女は朝から今までずっと、一人きりでこの不安に耐えていたということだ。状況を理解した私達は、のうのうといつも通りの生活を送っていたさっきまでの自分を恥じるしかなかった。

 

「大変だったのね。こちらこそ、いつも肝心な時に任せっきりで御免なさい。それで、具体的にはどういう状態なの?」

 

「えっと、結論として、今回のはまず心配いらないそうです」

 

 一色さんに気を遣ったのか、小町さんはまず私達を安心させるための一言を強調した。その配慮にかつてのやり取りを思い出したのか、一色さんは少し気恥しそうにして、眉間から力を抜いた。

 

「そ、そうなんだ…。良かったぁ…」

 

「それは額面通り、目が覚めないだけという事かしら」

 

「そうですね。記憶が戻るときはこんな感じになるかもって言われてましたし。そもそも頭を怪我してるわけじゃないし、身体も治ってきてますから。いくらなんでもそろそろ起きるんじゃないかなーと思ってるんですけど…。ホントにいつまで寝てるつもりなんでしょうねー」

 

 冗談めかして言った小町さんの言葉に、(ようや)く小さな笑い声が上がる。手の平に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、私は比企谷くんの病室の方角に顔を向けた。

 

「やー、でもキズが開いたとかじゃなくてホッとしたよー」

 

「でも、目が覚めないのは普通じゃないですよ。やっぱり心配です」

 

「けれど、何もなかったらいつまでも記憶が戻らないかも知れないでしょう。だったら治る兆しと考えた方が前向きじゃないかしら」

 

「小町も雪乃さんに賛成です。ただ──」

 

 何か思うところがある、といった様子の小町さんが口を開いたところで、ナースセンターの方から呼び出しが入った。

 

「比企谷さーん。比企谷さんのご家族のかたぁー?」

 

「あっ、すみません、ちょっと行ってきます」

 

「ええ。こちらの事は気にしないで」

 

「ごめんね、任せっぱなしで」

 

「小町ちゃん、頑張れー!」

 

「はーい! 行ってきまーす!」

 

 小町さんはこちらに小さく手を振ると、看護師と共に彼の病室へと向かっていった。

 

 

* * *

 

 

 気が付けば、私達は誰ともなしに彼の病室へと向かって足を動かしていた。

 

 見慣れた病室の扉が、今日は固く閉ざされている。時折人の声のような物音がわずかに聞こえてくるけれど、耳を澄ませてみても彼の声が混じっているかどうかは分からなかった。小町さんを待つ以外に出来ることはない。私達はただひたすらに、(くつわ)を並べて立ち尽くす。

 

 今日は見舞客が少ないのか、忙しそうに動き回るスタッフを除けば静かなものだ。嫌が応にも運び込まれた日の事が思い出されて、私はぶるりと体を震わせた。

 

「ヒッキーが起きたのかな? もう夕方だし」

 

「そうね…。少し寝坊が過ぎるわね」

 

「今度はちゃんと思い出してくれるかなー」

 

「そう願うわ」

 

 気味の悪い沈黙を嫌った彼女に応じ、ぽつぽつと言葉を繋いでいると、一色さんが酷く暗い顔をしていることに気がついた。由比ヶ浜さんに目配せをすると、こちらの意を酌んだ彼女はひとつ頷いてから

 

「いーろはちゃんっ。大丈夫! 良くなってるってゆってたし!」

 

 と期待通りに明るく励ましてくれた。

 けれど──

 

「わたし、最低です…」

 

 沈んだ顔色は晴れることなく、彼女は独白するように零した。

 

「記憶、元に戻りそうだって…それなのに、ちゃんと喜んであげられないんです」

 

「…えと…どうゆうこと? 治ってほしくないの?」

 

 大きくかぶりを振る彼女は、その場に膝を立ててしゃがみ込んだ。由比ヶ浜さんもそれに倣い、壁を背にして三角座り。ちょっと行儀が悪いかなとも思ったけれど、私も二人の真似をした。

 

 膝に顔を埋めたまま、一色さんはその心中を吐露していく。

 

「…もちろん、戻って欲しいとは思ってます。でも戻っちゃったら、さすがに今まで通りってわけにはいかないだろうなーとか。けど、我慢するのしんどいなーとか。そんな、自分のことばっかり考えてるんですよ。酷くないですか?」

 

 ここまでの展開──比企谷くんの恋人を騙った一色さんが、あとあと苦しい立場に置かれるであろうこと──は、想像に難くないものだった。きっと本人も分かった上での行動だったに違いない。

 それでも、簡単に割り切ることが出来れば苦労はしない。耐えられると思ったはずの苦痛が耐え難いものであるなんて事は、世の中ままあるものだ。

 

「今になって、ちょっと調子に乗りすぎたかもって…。もしも嫌われたらって考えたら、怖くなっちゃって…」

 

 これは慰めるべきか、それとも諭すべきだろうか。やりたいようにすればいいと助言した手前、あまり厳しい事を言えた立場でもないし…。

 そんな風に悩んでいるうちに、由比ヶ浜さんがフォローに入っていた。

 

「そんなことないよ。それにヒッキー、あれだけ仲良くしといて今さら嫌いになんかなれないと思うな。そゆこと出来ない人が相手だから、やられたーって思ったんだし。ね、ゆきのん?」

 

「え、ええ…そうね。そうかも知れないわね」

 

 曖昧な相槌を打ちながら、閉め切られたままの病室へと目を背ける。一色さんの不安や由比ヶ浜さんのフォローを聞いているうち、私はとある懸念を思い出していた。本来であればさして心配する必要のなかった、しかし今となっては無視できない、彼女たちの不安とは根本を異にする問題である。

 

 確かに、比企谷くんの記憶が戻れば一色さんとの間に小さくない軋轢を生むだろうし、かと言って彼女と過ごした日々を全て切り捨ててしまうことは出来ないだろう。けれど、それはあくまで今の──

 

 

 その時、睨みつけていた病室の戸がすっと開け放たれた。

 

 中から退出してきた医師と看護師に、慌てて立ち上がり頭を下げる。

 ただ、いつかの手術の時と違って、今日の医師は去り際に軽く声を掛けてくれた。

 

「大丈夫、良くなってるよ」

 

 思わず互いに笑みを交わす。

 そして最後に姿を見せた小町さんに、三人は揃って殺到した。

 

「お待たせしました。お察しかと思いますが、あのおバカ、やっと起きやがりました。こんだけ皆さんに心配かけといて、もう腹立つくらいケロっとしてますよ」

 

 小町さんの言葉を受けて、思わずほう、と安堵の息を漏らした。強がってはいたものの、私もそれなりには不安だったのだ。

 

「それは本当に何よりね。今日のご面会は出来そう?」

 

「あ…えっと………そうですね、はい」

 

「ええと…具合が悪いようなら日を改めるけれど…?」

 

「あ、いえいえ、ホントに元気ですよ。処置とかも特になしで、このまま解禁だそうです。ちょっと話してみましたけど、なんか記憶も戻ってるっぽい感じでしたし──」

 

 さっきの歯切れの悪い返事が気になったけれど、そんな小さな疑問は由比ヶ浜さんの上げた歓声にかき消された。

 

「おーっ! やったぁ! バンザーイ!」

 

「よ、よかったぁ~!」

 

 手を取り合って喜びに沸く二人。ただ、由比ヶ浜さんと比べると、一色さんはやっぱり少し影を含んだ笑顔だった。小町さんもその機微に目敏く気が付いたようで、彼女の耳元でぽそりとフォローをしてみせた。

 

「いろはさんのことも、すごく心配してましたよ?」

 

「ホ、ホントに? もー先輩ったらぁ、たった一日も我慢出来ないんですかー♪」

 

「ただ、そのですね。実はちょっと──」

 

 嫌われることをあれだけ恐れていた彼女の表情は、その言葉を聞いた途端、春を迎えた花の様に瞬く間に綻んだ。それまでの(かげ)りはどこへやら、弾むような足取りで小町さんの脇をすり抜け、あっという間に病室へと飛び込んでいく。

 

「あっ!? ま、待って、いろはさんっ!」

 

 小町さんはやけに慌てた様子で、彼女の後を追いかけていった。

 

「ゆきのん、行こ?」

 

 さっきの小町さんの言葉がどうにも、引っかかっていた。

 

 比企谷くんが一色さんを心配している──

 おかしくはない。それはおかしくないのだけれど…

 何だろう、この違和感は。

 

「ゆきのん?」

 

「…御免なさい、何でもないわ」

 

 不気味な(わだかま)りを抱えたまま、二人を追って、私達も病室へと足を踏み入れた。

 

 

 

* * *

 

 

 

 恐る恐る病室に入った私は、その光景に肩透かしを食らった心地だった。

 

「けど先輩、ホントにもう大丈夫なんですか?」

 

「ああ、何が何だかさっぱりだけどな」

 

 ベッドの側に陣取った一色さんと上体を起こした比企谷くんが、自然な様子で言葉を交わしている。彼の表情には一色さんへの過剰な遠慮も見当たらない。血色を見る限り調子も良さそうだ。さっきの胸騒ぎは単なる杞憂だったのだろうか。

 

「本当に元気そうじゃない。無駄足だったかしら」

 

 私も気が緩んだのか、暫く控えていた筈の憎まれ口がうっかり顔を出してしまった。慌てて口を手で押さえたところで、

 

「そこはちゃんと無駄足を喜べよ。元気じゃない方が良かったみたいに聞こえちゃうだろ。どうせ万年運動不足なんだから、何なら感謝されても良いくらいだ」

 

 と、きっちり倍になって返ってきた。

 

「お、おぉー…? なんか完全復活ってカンジじゃん! ね、ゆきのん」

 

「ええ…そうね…そう見えるわね…」

 

 比企谷くんの態度には、先日までのようなぎこちなさもない。本当に記憶が戻ったように見える。だと言うのに、嬉しそうにはしゃぐ由比ヶ浜さんに、どうしてか素直に同意できなかった。

 

 

 何だろう、やっぱりどこか違和感が…。

 

 違う、そうじゃない。そうではなくて。

 

 ()()()()()()事に、違和感を感じる。

 

 

「ねえ比企谷くん。貴方…」

 

 誰もが待ち望んでいたはずの日常の中で。

 小町さんだけがずっと、青い顔をして一色さんの袖を引いていた。

 

「い、いろはさん、ちょっと! ちょーっとだけ、小町にお時間をば!」

 

「あは、さっきからどしたの? ちょっと待ってね、いま──あっ先輩、一応、意識失ってたんですから、ちゃんと横になってた方がいいですよ?」

 

「あ、おお…。サンキュな…」

 

 慣れた様子で背に手を添えて、そっと彼を寝かしつけようとする一色さん。

 

 その優しげな笑顔は、そっけなく発せられた次の一言で、無惨にも打ち砕かれた。

 

 

 

 

 

 

 

「つか、()()は大丈夫だったのか?」

 

 

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 弛緩していた空気が、再び凍りつく音を聞いた。

 

 

 

 

 

「いや、ケガとか。昨日、モロ殴られてただろ」

 

「先輩……いま…え…? 昨日って……」

 

「バッ…ちょ、お兄ちゃん黙ってて! あの、いろはさん? 違うんですよ、この人まだちょっとだけ混乱してて──」

 

 小町さんが一色さんに駆け寄り、手を強く握ってまくし立てる。しかし、呆然と立ち尽くす彼女に、その言葉が届いている様には見えなかった。キョロキョロと物珍しげに辺りを見回す比企谷くんの横顔を、(まばた)きさえ忘れて凝視している。

 

 小町さんが伝えようとしていたのは、やはりそういう事だったのか。

 

「ね、ねえ。もしかしてヒッキーさ…」

 

 一説によると、本来の記憶との摩擦を回避する為の、脳の自衛機能であるとか。

 今回のような短期記憶障害において、しばしば起こり得る事態なのだと聞き及んではいた。

 彼もまた、御多分に漏れることが無かったと。

 つまりはそういう事なのだろう。

 

「ああ、もう昨日の話じゃないんだっけか。悪い、まだアタマ追い付いてないんだわ」

 

「そう…。本当に、()()()()()のね──」

 

 

 私達を忘れてしまった彼に対して、少なからず感じていた筈の違和感。

 

 その決して小さくなかった棘が、消失していた。

 

 跡形もなく、綺麗さっぱりと。

 

 

 

 

 その間の記憶、もろともに。

 

 

 




ファイナルトラップカード、オープン!


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■41話 掛けがえのないもの

<<--- Side Hachiman --->>

 

 キング○リムゾン!!

 

 復帰後の第一声がこれだ。

 「あー、こいつまだ治ってねーなー」と失笑されても文句は言えない。しかし今の気分に合致した言葉を他に知らないのだから、仕方ないではないか。

 

 ネットで5000円のリーズナブルな凶刃でブッスリやられた俺は、痛みで呼吸も覚束ないまま救急車に乗せられた。そのあたりまではちらほら記憶が残っているのだが、ここから先がいただけない。ちょっと気を抜いて寝落ちしただけのつもりが、目が覚めたら三週間経っているときたもんだ。

 

 このプチ竜宮体験にはもちろんびっくらこいたが、改めて考えてみると、それ程騒ぎ立てる事でもなかった。たがが三週間程度でこの俺の一体何が変わるというのだ。そんな短期間の変化でこの人格がどうにかできるなら、ぼっちなんて新人類はこの世に誕生しなかった。

 実生活への影響を強いて挙げるなら…アニメの話題に大きく後れを取っているくらいだろうか。いやほんと、HDレコーダーが無かったら即死だったわ。積みキュアの消化が今から楽しみである。

 

 目覚めた俺といくつか言葉を交わした小町は、そんな俺の小並感を見抜いたのか、あからさまに渋い顔をして押し黙っていた。医者と入れ替わりで入ってきた雪ノ下達も、俺の記憶があやふやであることを知り、些か動揺している様に見える。

 

 

「──つまり、ここに入院してから今日までの事を、何も覚えていないのね?」 

 

「そ、そういうことになるな…」

 

 容疑者を問い詰めるかのような鋭い目つきに若干怯えながら、俺は現状把握のために脳をフル回転させていた。

 

 さて、どうしたことだろう。何かやらかしてしまったかのような、気まずいこの空気…。今もなお、毎秒1℃くらいのペースで室温が低下し続けている気がする。

 こいつら、曲がりなりにも見舞いに来てくれたんじゃないの? 入ってきた時はそんなに機嫌悪そうに見えなかったのに。一色なんて見たことないくらいニコニコしてたのに。

 

 空気が変わったのは、一色に怪我がなかったかと確認した瞬間だった。そこから逆説的に、彼女が何らかの負傷をした可能性が推測できる。それも、飛びきりの笑顔が凍り付くくらいの何かだ。

 けど、確か一色は「無事だ」って言っていたような──。あれ、これどこで聞いたんだっけか。

 

「なあちょっと、小町さんや…」

 

「い、いろはさん、ちょっと一緒にお花摘みに行きましょう! ね?」

 

 身内に助けを求めようと思ったが、当の本人はこちらに見向きもしない。かなり切羽詰まった様子で、一色を部屋の外へと連行していった。んな漏れそうな時くらいソロションで我慢なさいな。お兄ちゃんちょっと恥ずかしいよ。

 俺の知る限り、二人が直接対面する機会はなかったはずだ。おそらくこの病院で初顔合わせと相成ったのだろうが──。

 

「…あいつら、仲良さそうだな」

 

 三週間経過していた事実より、この悪魔的ユニットが発足した瞬間に居合わせられなかった事の方がずっとショックだった。既にフラワーハントを同道するくらいには親しくなっているようだし、あの二人の相性は悪くないらしい。遠からずボーイズハントにまで手を出すのでは、と今から気が気ではない。

 

 "いろは×こまち"ってことは、二人合わせて"はまち"……。

 駄目だな、やはり俺のネーミングセンスは間違っている。

 

 はまちメンバーの今後について比企谷Pがあれこれ構想を練っていると、

 

「──御免なさい、私もちょっと席を外すわね」

 

 と、雪ノ下まで花園へと旅立ってしまった。

 

 残されたのは、珍しく難しい顔をしたわんわんと俺。

 顔を合わせてすぐに退出されると些か心にクるものがあるが、目の前でこうしてムッツリされるくらいなら、素直にトイレへ避難して頂きたい。何なら俺が避難してもいい。むしろさせて下さい。

 

「…ヒッキー、どこまで覚えてる?」

 

 気を取り直したようにこちらへ向き直った由比ヶ浜は、ベッドに手をついて身を乗り出してきた。俺達の距離感ってこんなんだったっけ…? ちょっと近過ぎる気がするのだが。

 

 そういえば、比企谷のDNAと近しくしている影響か、一色の距離感も少し変わっていた気がする。当たり前の様に背中に手を添えてきたもんだから、内心かなりビビった。性感帯でも何でもないのに、ソフトタッチでビビッと来た。

 

「屋上の事はそこそこ…。っても、ほとんど音だけな。平塚先生来てなかったか? 何か怒られた気がする」

 

「うん、正解。…他には?」

 

「いや…んー。あんまハッキリとは…」

 

「そっか…」

 

 由比ヶ浜はどこかホッとしたような、しかし納得はしていないような、据わりの悪い表情をしていた。

 

「…うぅ~…っ」

 

「な、何だよ」

 

「んーん、何でもない…」

 

 痒いところに手が届かずに悶えているわんこのように、由比ヶ浜はぷるぷると頭を振っている。彼女の表情を見るに、覚えていない期間にまた"何か"があったということなのだろう。改めて、脳内に残留している断片的な情報に意識を傾ける。

 

 ──けたたましいサイレンの音。

 

 ──握られた手を伝う血。

 

 ──薄暗い病院の廊下と、いくつもの泣き顔。

 

 ──派手なセーターのおっさん.......って誰だお前。

 

 他にもいくつかの光景がぼんやりと浮かんではいるのだが、頭が覚醒するにつれてどんどん希薄になっていく。思い出そうとするほどに指から零れ落ちていくこの感覚…おそらくは夢にでも見た場面なのだろう。だいたい、死にかけている自分の顔なんて物理的に見えるわけないんだし。

 

 情報源としては一番頼りないが致し方ない。意を決して由比ヶ浜に尋ねることにする。

 

「で、結局あの後どうなったわけ?」

 

「うーん…色々、かな…」

 

「…………………………」

 

 お、オーケー。ここまでは想定内。

 

「…出来ればもう少し具体的に頼む」

 

「…いろはちゃんが超泣いた。あたしも。ゆきのんも」

 

 ぐっはぁ。

 こ、これまた刺さるエピソードから入ってきたな。聞いた時点で多少覚悟はしていたが。

 

「ホントに死んじゃうかと思ったし」

 

 じりっと睨んで来る由比ヶ浜。脳内BGMは久方ぶりに聞いた「なぁーかーせたぁ、なぁかせたぁー♪」の大合唱である。出来れば平塚先生(センセー)には言わないでほしいなー…って現場に居たんですよね。はい説教確定。

 

「まあ酷い絵面だったもんな…」

 

 大立ち回りしていたこいつらの姿は明滅する視界の端に入っていたが、比企谷汁でデコったJKというのは結構なスプラッタだった。その汚液の源泉を彼女達は直視し続けたのである。SAN値が危険域を下回るのは自明の理というものだ。

 …待てよ? 冗談交じりに卑猥な表現をしてみたが──事実、俺は彼女ら全員に熱い(ほとばし)りをブッ掛けてしまったってコトじゃね? 下駄箱止まりのストーカーなんぞより、よっぽど攻撃的(アグレッシブ)な変態ですよ。これ訴えられたらちょっと危ないんじゃないの?

 

「その節は色々な意味で多大なるご迷惑を──って、雪ノ下も? 泣いたの?」

 

「当たり前じゃん。ゆきのんのこと何だと思ってんの?」

 

「いや…」

 

 血も涙もない…とまでは言わないが、絵面が今一ピンとこないんだよな。周りがオイオイ泣いてても、一人だけマネキンみたいに乾いてそう。そして皆が泣き疲れて眠った頃合いに、そっと長ドスに手を伸ばすのだ。なめたらいかんぜよ!

 

「さっき聞きそびれたけど、一色は──お前らも、怪我とかしなかったか」

 

「あ、うん。そっちはヘーキ。みんな心配し過ぎてちょっと痩せたくらいじゃない?」

 

 由比ヶ浜の答えを聞いて、ひとまず胸を撫で下ろす。

 いやいや安心している場合ではない。世界遺産の標高に影響があったとすれば人類の一大事ではないか。雪ノ下平野は…どうせ大して変わらんだろうから置いておいて、一色はどうだったかな。そっちもあんま余裕はなかったような気がするが。

 

「そか。原因が言うのもなんだけど、食事と睡眠だけはちゃんと摂っとけよ?」

 

「まじヒッキーがいうなし。これ、今夜も眠れなさそう…」

 

「なんでだよ。起きない方が良かったみたいに聞こえるぞ」

 

「…………んなワケないじゃん、ばか…」

 

 う、うーん。

 今のは台詞の恥ずかしさから生まれた間なのか、それとも即答できずに生まれた間なのか。由比ヶ浜の声が小さくて、正しいニュアンスが掴めなかった。もし後者だったら立ち直れないでござる。雪ノ下の場合はまだネタ解釈という逃げ場があるけど、こいつのはガチ本音っぽくて心臓に悪いんだよな。

 

 しかし他にも聞きたいことがあったので、もの言いたげな由比ヶ浜の視線を見なかったことにして、俺は聞き込みを続けた。

 

「じゃあ…例の、西山だったっけか。アイツはどうなった?」

 

「そっちも色々あったけど…こないだ医療少年院?とかゆうのに入ったって」

 

少年院(ネンショー)は分かるけど…病院付きの? なんでまた…」

 

 俺は一方的にやられたからあちらさんに怪我はさせてないはずなんだけどな。もしかして無意識に全反撃(フルカウンター)でも発動しちゃってた? ってそしたら俺ここに居ないですよね。

 

「なんかあの後すぐにバイクと事故ったらしいよ。バチがあたったんじゃない?」

 

「ほーん…ちゃんとしょっぴかれたんなら、どうでもいいけど…」

 

 俺だってお世辞にも善人とは言えない人種なので、因果応報とか気にし始めると夜も眠れなくなる。既にムショに入ったのならば十分だ。この上さらに報復してやるみたいな執着もない。ってか、ヤツの逆恨みが晴れたとも思えないし、出来れば二度と関わり合いになりたくない。

 ただ、結構レベルの高い変態だっただけに、再犯の可能性だけは気になった。いっそ去勢でもしちまえば安心なんだけどなぁ。

 

「あのさ…」

 

「ん?」

 

「聞かないの? 昨日までの…入院中のコト」

 

 お団子髪をしきりに撫でつけながら、由比ヶ浜はこちらを見ずにそう言った。

 

「いや…そっちはあんま興味ないし…」

 

 だって三週間経った状態で、まだこんなに痛むんだぞ? どうせ身動きも取れなかったに決まってる。

 いや本音を言えば、小町に色々見られたんじゃないかとか、綺麗な看護師さんにシモの世話をされてたらどうしようとか、その手の不安要素が続々と浮かんではくる。だからこそ、出来るだけ考えたくない。

 

「ずっとベッドの上だったんだろ? 食っちゃ寝以外に出来ることがあったとも思えんし」

 

 しかし、由比ヶ浜はあからさまに目を逸らし続けている。落ち着きなく指を擦り合わせるその姿に、次第に不安が首をもたげ始めた。

 

「…な、何もなかった…んだよな?」

 

「…………」

 

 ついには背筋に"ざわ…"とお馴染みの寒気が忍び寄ってきたところで、

 

「あ、あたしもちょっとお手洗い!」

 

 とうとう最後の一人が逃走し、病室には俺だけが残された。

 

 わーお。ガハマさん露骨ゥ…

 

「せめて上辺だけでも否定していってほしかった…」

 

 釈然としない思いで、改めて病室をぐるりと一瞥する。

 

 尿瓶(しびん)は──良かった、ぱっと見た感じ見当たらない。もうその段階ではないのか、最初から使わないで済んでいたのか。出来れば後者であることを願うばかりだ。同級生の女子に見られでもした日には、心に大きな傷跡が残ってしまう。

 

「個室か…。ちょっと広すぎて落ち着かないな。相部屋よりはいいけど」

 

 そうして独りごちていると、気が緩んだのか、ねっとりとした眠気が意識を刈り取りにやってきた。本当に記憶が飛ぶような状態だったのならば、まだまだ脳みそのデフラグ中なのかもしれない。

 欠伸(あくび)に浮かぶ涙は視界をひどく滲ませ、いよいよ起きているのが億劫になってくる。

 

「次に起きたらまた三週間後、とか言わないよな…」

 

 抗いがたい力で下がってくる(まぶた)の隙間にふと、この場にあるはずのない物が見えた気がした。

 

 あれ…前に買った…

 

 なんで…ここに……あるんだろ…な……。

 

 

 

<<--- Side Yukino --->>

 

 

 由比ヶ浜さんに二度目の丸投げをした私は、後で必ず謝罪しようと心に誓いつつ、一色さんの後を追っていた。小町さんが付いていったから、私は必要ないのかも知れないけれど…。

 先日の助言が今の状況を産んだ一因であることは疑いようもない。今回は比企谷くんから逃げ出した訳ではなく、それなりの責任を感じての行動だった。

 

 廊下を辿って休憩コーナーまで出た所で、ペーパーカップのジュースを手に、二人が並んで座っている姿を見つける事が出来た。

 

「一色さん…」

 

 肩を震わせ、しゃくりあげる濡れた鼻声は、想像通り。

 ただ、その声の主は、私の予想とは些か異なっていた。

 

「あ、雪ノ下先輩。…すみません、ご心配お掛けしましたか?」

 

 声に力こそ入っていないものの、一色さんは意外と落ち着いた様子でカップに口をつけている。

 ポロポロと涙を零していたのは小町さんの方だった。

 

「っく…ごめんなさい、ホントにごめんなさい、小町のせいで…ひっく…」

 

「だから、こまちゃんのせいじゃないってば。わたしが話も聞かずに飛び込んだのが悪いんだよ?」

 

「でも、でも、ちゃんと先に伝えておけば…そしたら、あんな、ショック受けないで、済んだのにっ…」

 

「そんなの遅かれ早かれだよ。それに先輩、良くなったんだから喜んであげなきゃ」

 

 どうやらあの顛末に責任を感じた小町さんが、先に泣き出してしまったらしい。一色さんはその肩を抱き、優しく声を掛けていた。

 

「──正直、泣いているのは貴女だと思っていたわ」

 

「ですよね…。ホントはわたしもそこそこヤバいんですけど…」

 

 苦笑いしている一色さんのカップから、敢えて視線を逸らす。

 水面が細かく波打っているのは、きっと見られたくないだろうから。

 

 あれだけの事があっても人前で泣かなかった小町さんが、今は自分の為に泣いているのだ。致し方ないとは言え、ここまで涙の大盤振る舞いをしてしまった一色さんだけに、泣くに泣かれぬ状況に陥ってしまったのだろう。

 

 けれどこれはこれで、一色さんにとって救いだったのかもしれない。彼女が口にしている言葉は、私が言わんとしていた事そのものだ。こうして自分で再確認してくれるのであれば、私なんかの出る幕ではない。

 

 必要以上に明るい声で、彼女は小町さんに向って胸を張った。

 

「実はね、このパターン、完全に予想外ってワケでもないんだよ? わたしなりに記憶喪失のこととか調べてたから。雪ノ下先輩も気づいてたんですよね? あんまり動揺してないみたいですし」

 

「…こうなる可能性は、それほど低くないと思っていたわ」

 

 一色さんが予め可能性を考慮していた、というのは嘘ではないと思う。私自身も調べ始めてすぐに辿り着いた症例だったからだ。ただそれ以上に、目についた事例としては「覚えている」ケースの方が多かった様に思う。彼女の感情面を考慮すれば、希望的観測に縋ってしまうのは当然だろう。

 「きっと大丈夫」と「もしかしたら」の差は大きい。ましてや私と彼女では前提条件が全く違うのだ。彼女の受けた衝撃を考えれば、泣き喚かないだけでも十分称賛に値する。

 

 けれども、ここで「よく泣かなかったわね」などと褒めてしまうと、年上の威厳で何とか保っている彼女のメンタルを突き崩しかねない。私は自販機で紅茶を購入し、彼女らの傍らに静かに腰を下ろした。

 

 

* * *

 

 

「すみません、小町一人で騒いじゃって…」

 

「ううん。泣いてくれてありがとね。自分で泣くよりスッキリしたよ」

 

「えへ…そう言ってもらえると助かります」

 

 濡らしたハンカチを目に当てた小町さんは、既に呼吸も落ち着いている様子だった。

 頃合いを見計らい、今後の行動方針を提案してみる。

 

「ちょっと慌ただしいけれど、今日はお開きにしましょうか。彼も病み上がりだから、体調への配慮という体裁なら違和感もないし」

 

「いえ、わたしは大丈夫です。さっきはびっくりしてテンパっちゃいましたけど、先輩の前で泣き崩れたりしませんから」

 

「そう? 別に逃げるモノでもないのだから、焦らなくてもいいのよ?」

 

「早いうちにやらなくちゃいけないんです。それこそ先輩が混乱してるうちに」

 

「それって──」

 

 一色さんの言葉の意味を訪ねようとしたところで、私達の下に最後の一人がやって来た。

 

「あれっ、結衣先輩…」

 

「あ、ここに居たんだ」

 

 ふと、一色さんではなく小町さんが目を腫らしていることに首を傾げるも、思い出したかのように彼女は遺憾の意を示す。

 

「って、みんなヒドいよー。あたし色々聞かれて大変だったんだからね?」

 

「えっ。もしかして昨日までのこと、教えちゃいましたか!?」

 

「んーん、事件とか犯人のその後とか、そういう系」

 

「入院生活については聞かれなかったの?」

 

「自分の事はあんま気になんないみたい。どうせ痛くて動けなかったんだろーって」

 

「それは…らしいというか何と言うか…」

 

「けど、その辺うまくスルーできなくって──ゴメン、あたしまで逃げてきちゃった」

 

「…仕方ないと思うわ。私が聞かれたところで、似たような物だったと思うし」

 

 一色さんの件をどう対処するか、(あらかじ)め意見のすり合わせをしていなかったのはまずかった。真実を明かせない、さりとて無かった事にもできないとなれば、いよいよ説明のしようがない。由比ヶ浜さんにはこの手の貧乏くじを引かせっぱなしの気がする。

 

 そもそも、事前にそう言った場を設けていれば、この展開だって示唆出来た筈なのだ。ただ改めて槍玉に挙げてしまうと、一色さんを言外に糾弾する形になるような気がして、ついつい先送りにしていた。

 

「すみません。わたしが勝手したせいで、色々とこじれちゃって」

 

「それはもう言いっこなし──って、あたしまで来ちゃったらヒッキーひとりじゃん! 戻んないと…」

 

「あの、ちょっといいですか? みなさんも…」

 

 (きびす)を返そうとした由比ヶ浜さんを、一色さんが引き留める。彼女は立ち上がって居住まいを直すと、こちらに向き直って言った。

 

「実は、迷惑ついでにお願いがあるんですけど──」

 

 

* * *

 

 

 私達が連れ立って病室に戻ると、部屋の主は掛け布団の中に引きこもり、丸くなっていた。

 

「…先輩、もしかして寝ちゃってます?」

 

「お(あつら)え向き、と言いたい所だけれど…まさかまた目を覚まさないとか言わないわよね?」

 

「しばらくは頻繁に寝ちゃうかもって言われてるんで、平気だと思います」

 

「そっか。今日だって寝て起きたら良くなってたもんね」

 

 足音を忍ばせてゾロゾロと侵入した私達は、彼が眠るベッドから距離を置いて、声を潜めた。

 

「最後にもう一度お聞きしますけど──いろはさん、ホントにいいんですか?」

 

「うん、お願い。お二人もお願いします」

 

「貴女がそれで良いのなら、私は構わないわ」

 

 最後の一人に視線が集中する。彼女は未だにむすくれていたけれど、皆が賛成している中でひとり反対しきれなかったようで、ふいと顔を逸らして言った。

 

「……いいよ。納得はしてないけど…とめない」

 

 一色さんの"お願い"。

 

 ──この病室で自分がした事は、全て無かった事にして欲しい。

 

 そう口にした彼女に最後まで反対し続けたのは、意外なことに由比ヶ浜さんだった。あれだけ悔しがっていた彼女が誰よりも激しい拒絶を見せたのは、それが自身の規範に抵触するような行為であったからなのかもしれない。

 けれど現実問題として、私達が取り得る選択肢は隠蔽と暴露の二者択一だ。一色さんがどの様な葛藤の末にこの結論にたどり着いたのかは私には分からないけれど、感情論を抜きにすれば、丸く収めるにはこちらしかないだろう。そういった判断から、私は賛成の立場を取っていた。

 

「ごめんなさい、結衣先輩…」

 

「べつに、謝ってほしいんじゃないし…」

 

「比企谷くんの負担を考慮しても妥当な選択でしょう。由比ヶ浜さん、気持ちは分かるけれど…」

 

「分かってるよ。だから止めないってゆってんじゃん…」

 

 珍しく刺々しい空気の由比ヶ浜さんを(なだ)めている間に、小町さんがさっさと役割を遂行していた。

 

「ごめんね、ちょっと借りるよ──」

 

 ベッドへ忍び寄り枕元を漁っていた彼女が、スマートフォンを手にして戻ってくる。

 

「パスワードは分かっているの?」

 

「それは大丈夫です。だいたい小町の名前とか誕生日なので」

 

 当たり前の様に兄のスマホを開錠した小町さんを見て、一瞬だけ、都合三人分の視線が寝息を立てる比企谷くん(シスコン)に鋭く突き刺さった。

 

「メールと、通話履歴と、あとはLINE…かな。他に何かやりとりしてましたか?」

 

「ううん、それで十分だと思う」

 

 小町さんはてきぱきと操作をして必要な措置を施していく。自分が渋ったところで、一色さんが辛い思いをするだけだと分かっているのだろう。改めて彼女の顔色を伺うような事はなかった。

 

「他に何か、配慮の要りそうな物はあるかしら」

 

「あ、それ…」

 

 由比ヶ浜さんの声に顔を向けると、一色さんが壁に向かって静かに佇んでいた。一面の白にぽっかり浮かぶ淡いライムグリーンは、ここへ通い詰めた彼女の象徴みたいなものだった。

 

「…先輩、思い出してくれたんですよね。これのことも」

 

 このエプロンは比企谷くんから貰った物だと聞いている。そちらの記憶は蘇ったのだろうが、代わりに失われたのもまた、掛けがえのないものだった。いや、ひょっとしたら──思い出に貴賤をつけるのは無粋だけれど──より大事なものを取り上げられてしまったのではないか。これを身にまとった彼女の表情を見てきた私達は、そう思わずには居られなかった。

 

 やがて彼女は静かにエプロンを手に取り、丁寧にたたんで鞄へとしまい込んだ。

 

「──よかったです。本当に」

 

 その声は震えていたけれど、下手な慰めは毒にしかならない。

 

 私達は黙って、彼女の後姿を見守っていた。

 

「………ばか」

 

 ずっと背を向けていた由比ヶ浜さんの呟きは、真っ白な壁に沈んで消えた。

 



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■42話 涙があふれるほどの何か

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「──うん、良さそうだね」

 

 脳波検査によって強化人間の気分を味わっていた俺に、担当医はニコニコと笑って太鼓判を押してきた。このまま問題が無いようであれば、数日後には退院できるらしい。

 

 忘れてしまった時間に興味はないと言ったが…いざもうすぐ退院と言われると、もの凄い損した気分になってきた。考えてみれば、冬休みより遥かに長い期間をすっぱ抜かれたのだ。退院後にはすぐに受験戦争が始まってしまうだろう。失われしモラトリアムはもう帰ってはこないのか。

 

「はー、しんど…。これ帰ってからが一番きつそうだな…」

 

 手すりを頼りに、診察室から病室までの道を歩いていく。松葉杖で突っ張るとかえって痛いのでフリーハンドだ。足に異常がある訳はないので、衝撃にさえ気を配ればわりと歩きまわれるようになった。

 

「うわ、ルート選択間違えた…」

 

 病室の前まで辿り着いたところで、ちょっとした失敗に気が付いた。入口の戸は向かって右側にある。だというのに、廊下の左側を伝ってきてしまった。仕方なく命綱を手放して、ヨチヨチと反対側へ渡河を開始する。

 

「えっほ…えっほ…あんよが…じょうず…っと」

 

 秒速5センチメートル…とまでは言わないが、ナマケモノとレースをしたら余裕で負けそうな鈍足ぶりを披露していると──突然、俺の半身に柔らかい塊がくっついてきた。

 

「おわ! って、一色…?」

 

「こっちに体重掛けていいですから、ゆっくり歩いてくださいね」

 

 暇を持て余しているわけでもなかろうに、今日も見舞いに来てくれたらしい。彼女はためらいもなく俺の脇の下に潜り込むと、その小さな体をぎゅっと押し付けるようにしてこちらを支えてくる。

 

「あ、ああ…すまん…手間かけて──」

 

「そういうコト言わないでください」

 

 学校帰りの彼女は分厚いコートに身を包んでいたが、強く密着した身体の柔らかさは十分に伝わってくる。鼻先をくすぐる亜麻色の髪の香りが、長い禁欲生活で弱り切った理性を激しく揺さぶっていた。

 

 やめて。マジで好きになっちゃうからもうやめて。

 

「せ、先輩!? 痛むんですか? 車イス持ってきましょうか?」

 

「い、いや…傷は平気……」

 

 どんどん前屈みが酷くなる俺を本気で心配してくる女の子に、心の中で土下座をせずには居られなかった。

 

 

* * *

 

 

「いや、マジ助かったわ」

 

 結局、彼女に支えられたまま、ベッドの上まで丁寧にエスコートしてもらった。

 

「いえいえ、お構いなく」

 

「………」

 

 一色は、なぜか一緒のベッドに腰を下ろしていた。引き続きドキドキが止まらない。身体を支えていた流れのままであるため、ほとんど肩が触れそうな距離だ。

 しかし本人は全く気にしていない──どころか、かつて見たことがないくらいに寛いだ表情をしている。彼女にとって男のベッドなんてものは、公園のベンチ並みにどうということのないオブジェなのだろうか。

 

「っ!?」

 

 突然、悶々としていた俺の手の甲を、しっとり滑らかなものが滑った。

 背筋に電気が走るようなこの感じ…覚えがあるぞ…!

 

「お、おい…ちょっと…」

 

「はい?」

 

 くりっとこちらを向いた後輩は、思った通り悪戯っぽく笑って──いない。あまり見慣れない、しかし何度かはお目に掛かった事のある、自然体の笑顔だった。

 

「その…だから……手」

 

「て?」

 

 俺の視線につられて二人が絡まり合ってる部位を見つめた一色は、たっぷり数秒経ってから

 

「…………あっ!」

 

 

 と、慌てた様子で握っていた俺の手を離した。

 火傷でもしたかのように両手を胸元に抱き込み、顔を伏せてしまう。

 

「す、すみません、つい……」

 

「いや、俺は別に…」

 

 つい、で異性の手を取ってしまうなんてことがあるだろうか。いや、コイツの場合はあるのかも。前に「なんかいいなーと思ったら手を(以下略)」とか言ってたこともあったしな。あれだけの苦難を乗り越えたのだし、さすがの俺もいろはす査定で「なんかいいなー」レベルには到達したのかもしれない。

 

「……………っ」

 

 やけに落ち着かない空気を発しているお隣さんをこっそり盗み見ると、左右の指をすりすりと絡ませながら、物欲しそうに俺の手へ視線を飛ばしていた。

 何すかそのエッチな手つき。変な気分になるからやめてくんない?

 

「……どしたの」

 

「いえ、その…。ま、マッサージとか要りませんか? 指先の」

 

「要りゃない。ごほん。いや…別に手はなんともないし…」

 

 自分のベッドに腰かけた女の子からの、上目遣いのお誘いだ。つい脊髄反射で「要ります」って言いかけた。というか、半分くらい漏れた。

 細くてやわっこくてすべすべの肌が、指の間をくすぐるあの絶妙な感触──。これで念入りにしごかれでもしたら間違いなく大惨事だ。確実に別のところの血行も良くなってしまう。俺は血を吐く思いで却下した。

 

「で、ですよねー」

 

 言わば暴行未遂に遭ったわけだし、男性に触れるのが怖くなったりしないだろうかと心配していたのだが、コイツに限っては杞憂だっただろうか。それとも逆に、無意識下の恐怖を払拭するために誰かに触れていたい、みたいな強迫観念があるのかも知れない。

 

「…………」

 

「…………」

 

 どこかくすぐったい、しかし決して不愉快ではない沈黙に言葉を出しあぐねていると、

 

「おいっすー!」

 

 タイミングの良い事に、色気のない挨拶を口にした小町が、病室へと乱入してきた。

 

「ヘーイちゃんおにー。賢くて可愛い小町ちゃんですよー。お菓子とお茶でもてなして──って」

 

 お見合い状態となっている俺達を見て、訪問者は素早く戸口へと舞い戻る。

 半身を乗り出したまま、彼女はにへらっと笑った。

 

「……お邪魔でしたぁ?」

 

「そこに居たら邪魔。いいからこっちゃ来い」

 

 悪代官に侍る某問屋の如く、低い腰で擦り寄ってくる小町。

 

「どもどもー。いろはさん、お邪魔しまーす」

 

「いらっしゃーい。あ、コートそっちに掛けていいよー」

 

 ベッドに座ったままの一色が、あたかも部屋の主の如く来客の応接をこなしている。この不思議な光景はとりあえず見なかったことにして──

 

「さて、良いところに来たな小町くん。実は折り入って頼みがあるのだが」

 

「うむ、言ってみそ」

 

「悪いけどこれ濡らして背中拭いて欲しいんだわ」

 

 俺は小町の手をとって、その上にタオルをぽんと乗せた。

 

「え"っ…」

 

「前は自分でやったんだけど、後ろは身体(よじ)れなくてまだ無理っぽい。あ、洗面器そこね」

 

「あー…え~っと……」

 

 てっきりアイス一本くらいで快諾してくれるものと思っていたが、小町は困った顔で顔を逸らしてしまった。返事を渋った彼女の視線を追ってみれば、なぜか一色が腰を浮かせている。

 

「あ、わたしが! …いえ、その…良かったらで、いいんです…けど…」

 

 バッ…小町ちゃん、いつからそんな空気読めない子になったの? 鈍感力育成中なの?

 この状況で一色に振ったりしたら、立場的にこう言わざるを得ないでしょ。

 

「いや、そんな気ぃ遣わなくていいから。つか後輩女子を指名とかセクハラとパワハラで(ダブル)役満になっちゃうからね? ここは血を分けた妹の出番でしょ普通」

 

「そうですか…。そうですよね…」

 

 あっれぇー? おっかしいなー。かなりクールに配慮したはずなのに、これぞ泣き寝入り女子!みたいなやるせない顔が目の前で展開されている。何なら今夜にも#MeeTooで呟かれちゃいそうな雰囲気。

 

「別にいいけど…ホントに小町でいいの?」

 

「…他に居ないだろ?」

 

 俺ではなく、またも一色の様子を伺う小町。ってさっきから兄スルー頻度が高すぎじゃないですかね。もうちょい心のアンテナ立ててこ?

 

「じゃあいろはさん…ひっじょーに申し訳ないんですけど…」

 

「あっ、ぜ、ぜんぜん! ぜんぜんだから。こ、こまちゃんお願いするね。わたしちょっと売店行ってきまーす!」

 

 俺が貧相な上半身を晒そうとしている事実に思い至ったのだろう。空気の読める一色はパパっと財布とポーチを取り出して、パタパタと病室から出て行った。

 

「ふーむ…」

 

「…なにさ」

 

「一色にしては斬れ味が悪いなーと。最終的にはイヤイヤ名乗り出るにせよ、今の流れだとまずは『気持ち悪くて無理ですごめんなさい』って来そうなものなんだけど」

 

「なにそれドM? 気持ちわる」

 

 その冷たい声はホント勘弁して。機嫌悪いときの小町の声色って、他の女子と比べてもぶっちぎりで怖いからね? 慣れてる俺でさえちょっと死にたくなるし、初見だったらあっさり首吊るレベルですよ?

 

「…遠慮しすぎじゃねーのかってこと。あれ、屋上の事まだ気にしてるよな…」

 

「さあ。もう演技でも言いたくないだけなんじゃない? そういうの」

 

「えーと…」

 

 つまり"ヒッキーキモい"のテンプレに付き合う気すら起きないってこと? それ、前よりポイント下がってない? 名前を呼んでもらえないラインよりも下が存在するとか…。「なんかいいなー」に昇格したのは気のせいだったのか?

 

「……ほら脱いで。やったげるから」

 

 絞ったタオルを片手に、半ば引ん剝くようにして俺の寝間着を脱がせていく小町。手つきに乱暴さこそないものの、これ見よがしに背中を撫でる溜息が、その心中をありありと代弁していた。

 

「はぁ~~~~っ」

 

「…妹がガチで嫌がってるように見える件。だけど大丈夫、まずもって気のせいに違いない」

 

「嫌だよ。嫌に決まってんじゃんこんな役。空気読めバカ八幡」

 

 ひぎぃ! ナイフで刺された時より痛いッ!

 

「こ、小町さん…ちょっとお口が過ぎるんじゃありません? お兄ちゃんうっかり泣いちゃうかもよ?」

 

 さっき「別にいいよ」って言ってたのに…何たる反抗期。これだから娘ってのは…。

 あまり兄を邪険にするもんじゃあないぜ。いいか、俺はお前のおしめだって替えたことが──いやそれは無かったわ。たかだか二歳差だしな。

 

「泣きたいのはお兄ちゃんじゃないし」

 

「いやお兄ちゃんで合ってるだろ…」

 

 この状況で他に誰が泣くっていうんだよ…ぐっすん。

 

 

* * *

 

 

 不機嫌プリプリ☆ギガプリンの小町が帰ってから、俺は知らぬ間に買い与えられていたスマホを使い、とある動画を視聴していた。

 

『──あ、はい。お世話になってる先輩なので、なるべく早く良くなって欲しいです』

 

 一色が事件の折にニュースに顔を出し、ネットでちょっとした祭り状態になっていると聞いていたのだが…これはちょっとなのだろうか。再生数を見る限り、祭りを通り越して例大祭に発展しているような。

 

 しかし前から思ってはいたが、やっぱカメラ映えもすげえな。性格的にも絶対アイドルとか向いてると思うんだけど…いやいや、それはちょっと危ないか。一般人やってる時点でストーカーに追われてるのに、アイドルなんて完全に自殺行為だ。

 

 コメ欄が壮絶にヌメヌメしてるけど、よく見れば否定的な意見は多くない。何なら便乗して千葉叩いてる輩の方が多いくらいだ。動画の中の一色はいつものお愛想も控えめで、小悪魔っていうより愛玩系の可愛らしさが前面に押し出されている。この作為的な魅せ方──第三者によるプロデュースの臭いがするな。

 

 しかしこうやってネットに露出された以上、たとえ俺みたいなぼっちが動画を所持していても、格別の後ろめたさを感じずに済むからありがたい。せっかく本人との接点があるのに心行くまでそのルックスを鑑賞する機会がなかったので、ここぞとばかりにループ再生して眺めていた。

 既に4週目に突入しているが…今のところ全然飽きが来ない。いろはすマジ美少女。腐っていると評判の俺の目も蘇生しちゃうレベルで幸せです。

 

 さてもう一周、とリピートアイコンに指を伸ばしたところで──

 

「なに見てるんですかー?」

 

「いひゃっ!?」

 

 超高音質(ハイレゾ)ですら表現できない、生の甘ボイスが近づいてきた。

 

 売店から帰ってきたマジ美少女な後輩に、俺は慌ててブラウザを落し、しかしその拍子にスマホまで落っことしてしまった。ケースもつけずにいた筐体はフロアをしゅるりと滑り、そのままベッドの下へと潜り込む。

 

「っと…イヤなとこ行っちまったな…」

 

「あ、いいですいいです。わたし拾います」

 

 パタパタと駆け寄ってきた一色は、脱いだコートをベッドの柵に引っ掛けると、しゃがみ込んでベッド下に手を突っ込んだ。

 

「いや、悪いからいいって。自分でやるから…」

 

「いえいえ。屈むの辛いですよね?」

 

 遅れて俺もベッドから身を乗り出したが、そこでとんでもない事に気がついてしまった。

 

 ふわっとした髪の隙間に見える白い首筋と、魅惑の闇に包まれた襟元。

 それらが眼下に一望できる、神シチュが訪れていたのである。

 

 ごくり──。

 

 未知の領域への好奇心に抗う術を、俺は持たない。

 当然の如く、視線は冒険の旅に出航した。

 ボンボヤージュ! 索敵機発艦セヨ!

 

 さてさて、由比ヶ浜を戦艦とするならば、本標的はさしずめ軽巡洋艦といった所だろうか。あんまり大きくはないが、軽量級には軽量級の良さというものがある。具体的にはチクチラの期待値が高め。え、雪ノ下? 駆逐艦が活躍するのはここじゃないと思うな(酷)

 

「先輩慌てすぎ。絶対エッチなサイト見てたでしょ…っと、見えないなぁ…」

 

 うむむ? 一色は普段からもっと襟元が緩かった気がするんだが、なんでこんなにきっちり閉じてるんだろう。男の個室訪問するからって警戒してるんだろうか。この警備レベルじゃ鎖骨すらも厳しいぞ…。

 おっと、何やら肌色以外のものが見えたような…もうちょい…もうちょい…。

 

 敵艦の動向に最大限警戒しつつ、全力で胸元海峡の索敵を続けていると──

 

「…あったあった。よい…しょっと…」

 

 期待していた布地とも肌とも、もちろんビーチクとも違う、光沢のある金属質のものが、首と襟の隙間からズリズリっと零れてきた。

 

「あ」

 

 それが何であるかを確認する前に、彼女の口から漏れた警戒音を聞いた俺は、慌てず騒がず落ち着いて対処を試みた。

 ごく僅かに目線の角度のみをずらし、一緒にベッドの下を覗いていたフリをする。「最初からそっち見てなかった」のではなく、「そっち見てたけど別にお前見てた訳じゃないから」という体を装うワケだ。成功の秘訣は絶対に慌てないこと。いや成功したかどうかの確認はしたことないんだけども。

 

「…どしたん?」

 

 きっちり一秒。長すぎず短すぎずの間を置いてから、あたかも「いま初めてあなたを見ましたよ」という惚け顔を張り付け、慎重に一色へと目線を移す。

 

 

 ぷらんぷらん、と──。

 

 彼女の胸元で、鎖に繋がれた小さなリングがブランコを漕いでいた。

 

 

 チェーンを通して指輪を首に掛けていたらしい。頭を下げて覗き込んだ拍子に、それがポロリしたのである。

 

 ハッ! こいつはとんだレアドロップだ。

 期待させやがって…俺もう那珂ちゃんのファンやめます。

 

 一色は何故か固まってしまっているが、我が軍の策敵機が捕捉された…という雰囲気ではない。どうも、この指輪を見られたことに動揺しているようだ。

 確かに俺も今まで全く気づかなかったし、本人も厳重に隠していたみたいだが…。

 

「や。別にいいんじゃねえの、そんくらいの私物は。俺もチクったりしないし」

 

 生徒会長がこんなん着けてるって露見したら、さすがに騒ぎになりそうだとは思う。しかし授業中にヨガのポーズでもしない限り、今みたいな事故は起こらないだろう。

 

 一色は俺の視線を遮るように、ぎゅっとリングを握り込んでいた。

 しかし何かを決意したかのような顔で立ち上がり、その手の中のモノをこちらに突き付ける。

 

「…先輩。これ、わかりますか?」

 

 胸にぶら下げたものを俺の目の前に持ってきたのだから、自然と胸も突き出す形になる。体温を帯びたフェミニンな香りがふわりと鼻を撫で、リングの向こうに広がる双丘へと意識が引っ張られた。

 

 わかりますとも。天竺ですよねお釈迦様。

 

「これ、ここのトコ。読んでください」

 

 しかし、やけに真剣な声色で続ける一色に、こちらも真顔にならざるを得なかった。

 言われるがままに目を凝らすと、リングの内側に小さなアルファベットが掘ってあるのが見える。

 

 ほーん。こういうのはバカップル専用装備だと思ってたけど、思ったよりカッコいいな。指輪自体のデザインが落ち着いていて、あんまり子供っぽくないからだろうか。これ見よがしに指にはめていないのもポイント高い。見えないところでのオシャレにも気を抜かない──さすがは総武高の傀儡生徒会長(ファッションリーダー)である(失礼)

 

「えーと…"H to I"…」

 

 Iはいろはすだよな。じゃあ送り主はHくんか。Hねぇ…エイチ……。

 

 

 ……ん!?

 

 は? え、H? マジで!?

 

 そういう事? コレそういう事なの?

 

 じゃ、この指輪ってもしかして、俺が記憶飛ばしてる間に…!?

 

 

 感想を待っているのか、一色は何かを期待するような目で、じっとこちらを見つめている。その熱のこもった瞳に若干たじろぎつつも、俺はこの後輩に素直な気持ちを返してやることにした。

 

「…いや、すげぇわ、お前」

 

「す、すごい…ですか…?」

 

「あれだ、雨垂れ石をも穿つっつーか、石の上にも三年っつーか」

 

「え、えっと…?」

 

 こっちが記憶を落している間に自分もちゃっかり落すとは…本当に恐れ入った。

 

「あの、先輩。この意味、ちゃんと分かってますか…?」

 

 一色はなおも不安そうにこちらを見上げている。

 

 おのれ、どこまでも失礼な後輩め。指輪との接点なんて、どうせ縁日で小町に恵んだオモチャか700円のカッコカリが関の山だと思っているんだろう。Exactly(イグザクトリー)(そのとおりでございます)

 

「にしても、三浦とか大丈夫なのか? それこそ血の雨が降りそうなんだが…」

 

「は…? なんで三浦先輩…?」

 

「けど葉山の場合、あんくらい入れ込んでる女子は他校にも居そうだな。出歩く時は気をつけろよ?」

 

 誰かさんと色々被っていないことで定評のある、一色の大本命ことH先輩。

 見たとこ彼女には少々分の悪い勝負に思えたが、恐らく陰で地道なアプローチを積み重ねていたのだろう。それに今回の事件がきっかけで、あいつも一色のことを意識する時間が増えていたはずだ。

 俺も今回の依頼では盛大にやらかしてしまったが、巡り巡ってうまく行ったのであれば、負債を全部チャラにしてもらってもいいんじゃないだろうか。

 

「えっ!? は、葉山先輩…? あの、ちょっと先輩なに言って──」

 

 本気で頭を心配しているような失礼極まりない目を俺に向けていた一色は、しかし何かに気が付いたかのように指輪を検めると、次の瞬間、盛大に笑い出した。

 

「……ぷっ、あはははは、あはははっ!」

 

「……え、何?」

 

「ぜ、全然気が…あはははっ! え…やだウソ、な、名前まで…ぶぷっ…マンガみたい! あはは!」

 

「おい…さっきから何なの? なぞなぞ?」

 

「いえ、そういうんじゃ……いやある意味そうなんですけど…ふふっ、あははっ」

 

 どうでもいいけど、いろはすがここまで大笑いしてるの、初めて見た気がする。涙まで浮かべやがって、ちょっと可愛いじゃないの。

 

「ま、まさかここまで引きずるなんて…。まあ完っペキに自業自得なんですけどねー」

 

「よく分らんけど…。ここまで引きずったから、最後の最後で勝ったって話じゃねえの?」

 

「最後の最後ですか…。一体どうなるんでしょうね…」

 

「…? …とにかく、おめでとさん」

 

 俺にしては珍しく真面目に祝ってやったつもりだったのだが、結局一色はこれといってまともな返事をしてくれなかった。

 

「あー笑った。…はい先輩、スマホ♪」

 

「どうも……」

 

 手渡されたスマホに礼を言うと、

 

「けど、さすがに病院ですよね。ベッドの下もホコリ全然ですし」

 

 一色はあからさまに話題の切り替えを図ってきた。

 判然としないままに、俺は彼女との会話に応じる。

 

「学生のやってる掃除とは違うしな。仕事なんだからこんくらいやってもらわにゃ困る」

 

「わたしなら手を抜けそうなところは抜いちゃいそうです。この壁だって、なんでわざわざ白なんですかね。この色、汚れ目立つのに…」

 

「あ、壁で思い出したんだけど──そこらへんにさ、何か掛かってなかった?」

 

 

 

 

「……………………………………」

 

 

 

 

 ついさっきは朗らかに笑っていた一色が、今は朝凪に佇む水面の如く、静まり返っていた。

 

 

 考えてみれば、俺に限ってスムーズな会話など出来るわけがないのだった。キャッチボールのつもりがデッドボールを返してしまったとあっては、笑うに笑えない。過去最大クラスの地雷を踏んだ感触に、嫌な汗が脇の下を湿らせていく。

 

「………あ、すみませんちょっと考え事してました。なんですか?」

 

 無視するには心臓に悪すぎる沈黙の後、一色はいつも通りの小悪魔スマイルでこちらを振り返った。

 

 って聞き逃しただけかよ! 今のでちょっとトラウマ更新されちゃっただろうがふざけんな。

 

「だから、そこの壁にさ。何か掛かってただろ」

 

「…ポスターとかですか?」

 

「いや、その…そういうんじゃなくて…」

 

 お前にやったアレが、掛かっていたような──。

 

 きょとんとしている一色の様子を見て、だんだん自信が無くなってきた。そういや寝落ち寸前に見かけたんだっけ。ひょっとして夢だったんじゃないのか? てか、よく考えたら真偽はどうあれそんなアホなこと聞けるわけないし。

 

 なぜかって? んじゃ、さっき俺が言わんとした言葉、意訳してみようか?

 

 ──前にやったプレゼント、わざわざ持って来て、俺のために着て見せてくれたよな?

 

 うん普通にキモいですね。いや普通以上にキモいですね。

 理性と常識が口を揃えて「妄想乙」とか罵っちゃうレベルでキモいですね。

 

 ちょっと顔見知りの先輩ごときの為に、キッチンもない病院の一室で、何が悲しくてそんなイメクラまがいのサービスをしなければならないのか。しかも相手は非モテを拗らせた喪女ではない。今や時の人となった一色いろは──そう、いろはすスパークリングである。

 

 既に白い壁には辟易していたところだ。このうえ精神(こころ)のお医者さんの世話にはなりたくない。

 

「すまん。やっぱ勘違い──」

 

 取り繕おうと一色に目をやったところで、今度は俺が固まってしまった。

 

「お、おい…」

 

「え?」

 

「いや、それ……」

 

 ニコニコと笑みを絶やさない、その大きな瞳から、ついと一筋。

 

 大粒の涙が、彼女の頬を濡らしていた。

 

「え……あ………」

 

 言われて頬に手を当てた彼女は、そこで初めて気が付いたかのように慌ててハンカチを当てる。

 

「さ、さっき笑い過ぎて、まだ残ってるんですよ」

 

「…………………」

 

 堰を切ったように瞳から零れる雫を、俺はぼうっと眺めていた。

 

 うちの親父とオカンはあの調子だ、命に別状のない俺のためにわざわざ仕事を休んでいたとは思えない。必然、入院中の面倒は小町が見てくれていたものだとばかり思っていた。

 

 しかしこうして彼女を見ていると、その当たり前の仮説が揺らいでくる。俺との距離感やこの病室での立ち居振る舞いの全てが、もっと単純な回答を提示してくるのだ。

 ちょっと顔見知りの先輩ごときの為に、キッチンもない病院の一室で、イメクラまがいのサービスまでしてくれた人物。俺の妄想にしか登場しないはずの、そんな甲斐甲斐しい女の子が、確かに実在するのだと。

 

 だから思わず問い詰めそうになる。

 

 それはお前のことなんじゃないのか、一色──。

 

「あ、あー! 目がちょおゴロゴロするー! これはマツゲ入ったかもですー」

 

「……あんま強くこすんなよ」

 

「ちょ、ちょっと洗面所…ひぐっ……きょ、今日はそのまま直帰しますね、お疲れでした…っ!」 

 

 背を向けたまま荷物をひったくり、彼女は逃げるようにして病室を飛び出していく。

 

「そか。気ぃつけてな…」

 

 俺は結局何も聞けないまま、その小さな背中を気のない素振りで見送った。

 

「…………」

 

 白い壁を見つめ、溜息をひとつ吐く。

 

 これはきっと、触れるべきではないのだろう。

 

 一色のみならず、周囲の誰もが異口同音に「何もなかったのだ」と言う。そこまで無かったことにしたいと言っている、そして掘り返されれば涙があふれるほどの何か。口にすれば取り返しのつかないことになりそうな──そんな危うささえ感じる。

 

 もしもこの直感が正鵠を射ているのであれば、それこそ本人が望む通りにしてやるべきではないだろうか。ようやく想い人と結ばれた彼女にとって、他の男の世話をしていた経歴なんてのは黒歴史でしかない。女の過去は言わなきゃ無いのと同じ、とはよく言ったものだ。感謝ではなく忘却を求めている彼女に、俺は恩を返さなくてはならない。

 

 だから、そこに触れるべきではないのだ。

 

 エプロンなんてなかった。それでいい。

 

 

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

 病院の中庭は、入院患者達にとって格好の散歩コースになっている。けれど真冬の、しかも夕方という薄暗い時間帯ともなると、好き好んでここを通る人間は多くない。そんなうらぶれた空間で、彼の声に火照った身体の熱を冷ますのが、最近増えた新しい日課だった。

 

 我ながらけっこう病的だとは思うんだけど。

 でも、こうでもしないと、先輩の前で笑っていられないから。

 抱き締めて、キスしたいって、言っちゃいそうだから。

 

 コート越しにベンチの冷気が立ち上ってくるけれど、今のわたしにはそれすら生ぬるい。バッグから黄色い缶を取り出して、白い息を吐いた。既に温もりが失われて久しいそれをカキッとやって、そっと口をつける。

 

 好物を我慢してまで挑戦し続けた甲斐もあってか、わたしの舌はこの風変わりな飲料を美味しいと感じるまでになっていた。ううん、今では愛おしいとすら思っている。もういっぱしの中毒者と言って差し支えない状態だった。

 

 

「酷いですよ、先輩──」

 

 

 飲み口はあっという間に外気に冷えて、触れていると痛いくらい。

 それでもわたしは、そこに唇を押し付ける。

 繰り返し、優しく、自分の熱を分け与えるように。

 

 

 何度目かの彼とのキスのとき、はっきりとこの味がした。

 

 だからこの甘さは、彼の味だ。

 

 温もりも香りも吐息も、何もかもが足りないけれど。

 

 この味だけはあの時とおなじ──。

 

 

「忘れるなら全部忘れてください……こんなの辛すぎます……」

 

 

 グツグツと湧き上がってくる熱い塊を、わたしは仮初めの恋人へと口渡しし続けた。

 

 

* * *

 

 

 中身の尽きた空き缶をしつこく唇で弄んでいたわたしは、いつからか、目の前に一人の女の子が立っていることに気が付いた。意識を向けられた彼女は、いつも通りの朗らかな声色で話しかけてくる。

 

「ここ、寒くないの?」

 

「…身体は暑いくらいなので」

 

 わたしの言葉の裏が伝わったのか、少しだけ悲しそうな空気が伝ってきた。何か言おうとして、けれど開いた口は言葉もなく閉じられる。同情を嫌ってわざわざこんなロケーションを選んでいる身としては、その配慮がありがたかった。

 

 

「告白…」

 

「……っ!?」

 

 

 ややあって、彼女の口からポツリと漏れた単語に、一瞬で全身の肌が粟立った。

 

 『──したよ』と続いたならば、それはわたしにとって終わりを意味する言葉になる。

 

 けれど実際には、想像とかけ離れた意図の発言だった。

 

 

「──しないの?」

 

 

 握りしめた手の平に浮かんだ汗が、寒風と共に熱を奪っていく。

 真剣で寸止めでもされたかのような、生きた心地のしない瞬間だった。

 一呼吸おいて唇を湿らせてから、わたしは口を開いた。

 

「…言ったじゃないですか。無かったことにするって」

 

「恋人ごっこは、でしょ?」

 

「…辛口ですね」

 

 全身全霊で引きずっている、わたしの心の拠りどころ。あの愛しい蜜月の日々を、

 

「だって認めてないし。あの時のことも、その後のことも」

 

 そう言って、彼女はきっぱりと断じてみせた。

 少なからずムッとしたけれど、他でもない彼女にだけは、どう言われても反論できない。胸を突いた苛立ちを、溜息と一緒に無理やり吐き出した。

 

「…とにかく、しませんよ、そんなこと。出来ません…」

 

「断られるの、怖い?」

 

「……そうかもですね」

 

 もう一度彼と触れ合うことが出来るなら。

 その可能性が僅かにでもあるのなら、今すぐにでも思いの丈をぶつけたい。

 けれど、勝ち目がゼロの戦いに飛び込むのは無謀ですらない。ただの自殺だ。

 

「気、遣ってるとか」

 

「……さあ、どうでしょうか」

 

 申し訳ないけれど、正直それもない。

 この件に関して、わたしはどこまでも自分本位だ。

 ましてや圧倒的優位の二人に送る塩なんて、持ち合わせてはいない。

 

「それとも、退院するまで我慢?」

 

「……ご想像にお任せします」

 

 待ってどうにかなるような話なら、いくらでも我慢する。

 けれど、きっと時間はわたしに味方なんてしてくれない。

 

「もしかして飽きちゃった?」

 

 ────。

 

 凍えていたはずの頭の芯に、赤い火が灯った。

 想い出に微睡(まどろ)んでいた思考が、一気に過熱していく。

 

「お試し期間で満足しちゃったのかなって」

 

「…結衣先輩」

 

 ほんの一瞬だけ理性が"待った"をかけてきたけれど、もう止まらなかった。

 

 

「──ケンカ売ってるんですか?」

 

 

 やってしまった。

 

 自分の喉から出たとは思えない、まるで地を這うかのような声。

 このひとに、こんな汚い感情をぶつけたくはなかった。

 けど、そこはわたしの逆鱗なのだ。触れた方が悪い。

 

 ここで初めて彼女の目を捉えたわたしは、しかし返ってきた言葉に一層目を見開くことになった。

 

 

「うん、そう」

 

 

 正面に立ち、こちらを見下ろしている両の瞳。

 

 そこには、今までに出会ったどんな女性よりも、強烈な光が宿っていた。

 

 

「ケンカ売ってる」

 





女の闘いもついに最終ラウンド突入。


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■43話 ネコの恩返し

ちょっと少な目ですが、キリの良いところまで。


 

「やっとこっち向いた」

 

 結衣先輩を睨みつけたはずのわたしは、予想外の目力に思わず身を竦めた。

 

「謝んないよ。まるっきり冗談ってワケでもないし」

 

 ちっとも悪びれる様子のない、それどころか一層こちらを煽ってくる彼女を前に、萎縮した身体が再び熱に焼かれる。

 

「なお悪いですよ。それだけは訂正してください。いくら結衣先輩でも許せません」

 

「だって気持ち伝える気がないんでしょ? ならこの先は要らないってことじゃん」

 

「ないんじゃなくて出来ないんですっ!」

 

 みっともなく怒鳴ってしまった後で、わたしは悲しくなった。

 今までにだって女の子同士で言いあった事はある。けど、結衣先輩とここまで本気でぶつかることになるなんて──。

 

 そんな感傷を込めて彼女の目を見た瞬間、ちょっとした違和感に気が付いた。

 

 今までわたしを罵ってきた相手とは何かが違う。確かにエネルギッシュではあるけれど、その奥に黒い感情が見当たらない。

 どう言葉を取り繕おうと、結局は自分が気に入らないから相手を叩く──そういう自分勝手な感情から動いている人間の目には、とても見えなかった。

 

 そもそも彼女にとって、わたしが動けないでいるのは望ましい状況のはずだ。敢えて挑発するメリットがない。

 

「…すみません、大声出しちゃって」

 

 そう思ったら、あれだけ激しく燃え盛っていた怒りが、すっと収まってしまった。

 

「それで、わたしを焚き付けてどうしたいんですか?」

 

「あれっ、もうバレた!?」

 

 叩きつける様な視線の圧力を一気に緩めた彼女は、くしくしとお団子髪を弄って苦笑いを浮かべていた。やっぱり、さっきのは単なるポーズだったらしい。

 

「結衣先輩にそういうのは似合わないと思います」

 

「えー? でもいろはちゃん、今わりと本気入ってなかった? 目とか超怖かったし」

 

「そりゃ、あそこ突かれたらマジにもなりますよ」

 

「ヒドいことゆったのはゴメン。…けど、あたしも怒ってるのはホントだから」

 

 演技を引っ込めた彼女ではあったけれど、確かに純粋な憤りは消えていない。真正面から受け止めきれずに、わたしは再び手の中の空き缶へと視線を戻した。

 

「それは…そうでしょうね。あれだけやりたい放題やっておいて全部ナシとか…ほんと何様ですかってカンジですし」

 

「ううん、そっちじゃなくて。いやちょっとはあるけど…もう済んじゃったコトだし」

 

「じゃあ何を怒ってるんですか?」

 

「今だよ。離れるでもない、くっつくでもない、宙ぶらりん。どうしたいの? 見ててイラつく。超イライラする!」

 

「…覗いてたんですか?」

 

「の、覗いてなんてないし! 距離感のハナシ!」

 

 …ホントに覗いてないですよね?

 

「だったら見なきゃいいじゃないですか」

 

「目に入るんだもん。同じひと見てるから」

 

 彼女の言いたいことは分かる気がした。思い返せば、かつて先輩達に対してわたしがうっすらと感じていたモヤモヤの正体が、正にこれだったのだろう。

 二人と同じ立場になりたいって思ってたけど、まさかこんな形で実現するだなんて、ほんと皮肉だなあ。

 

 言い返す気配のないわたしに対して、結衣先輩の舌はさらに熱を帯びていく。

 

「こんなんだったら、こないだまでのがまだ良かったよ。悔しかったけど…でも、あたしにできないこと堂々とやってたから、すごいなって気持ちもあったし。

 なのに、あっさり『無かったことにして』とかゆってさ。じゃあどうするんだろって思って見てたらコレでしょ?

 今のいろはちゃん、全然すごくない。あたしよりすごくない人になんて譲れない!」

 

「前は譲ってくれるつもりだったんですか…惜しいことしましたね…」

 

「い、今のは言葉のアレ! 揚げ足とんなし!」

 

 見当はずれのツッコミで気勢をそがれたのだろう。彼女はふんすっと鼻息を吐くと、二人分ほどの微妙な距離を空けて、わたしの座るベンチに腰を下ろした。

 

「…告白しろって言うんですか、今さら」

 

「うん。やっぱそれが抜けてたからモヤモヤするんだと思う。ちゃんとコクった結果なら、お互いスッキリするでしょ?」

 

「見るに堪えない死にぞこないを玉砕させて、きちんと止めを刺しておこうと?」

 

「違うし。てか、なんでやる前から決めつけるの?」

 

「今の先輩にとって一番大事なものは、結衣先輩と雪ノ下先輩です。それが、ちょっと前までの、わたし達の知っている、あのひとです」

 

「そだね。ちょっと前まではそうだったかも。けど、今はちょっと違うと思うな」

 

「なりふり構わない泥棒ネコのしでかしたことですか? それならほら、神様がちゃんと辻褄合わせてくれたじゃないですか」

 

「ひ、ヒクツだなぁ…。ていうか、そんな罪悪感まみれで恋人のフリしてたの? そんなん嬉しくなくない?」

 

「嬉しかったんです!」

 

 突然声を荒げたわたしに、結衣先輩の肩がぴくりと震えた。

 

「楽しかったんです。罪悪感なんて気にならないくらい、幸せだったんです…」

 

 思いのままに吐き出して、けれどみんながどう思っていたのかを思い出したわたしの声は、自然と尻すぼみになっていった。

 

「でも、結衣先輩に何度も言われた通りです。やっぱりずるだったんですよ、わたしのしたことは。だからバチが当たったんです」

 

 わたしが無かったことにしたんじゃない。無かったことにされてしまったのだ。

 

「けど、人と暮らす喜びを知ってしまったネコは、その温かさを忘れることが出来ないんです。もう飼ってもらえないって知ってても、優しく抱いてもらえなくっても、すり寄っていっちゃうんですよ」

 

「…………」

 

 とあるネコの懺悔にじっと耳を傾けていた結衣先輩は、話題を変えるように声のトーンを少しだけ上げてきた。

 

「──あのさ。()()ヒッキー、いろはちゃんのこと、どういう風に見てると思う?」

 

「それは…ワガママで、めんどくさくて、超ウザい後輩、ってところじゃないですか」

 

「そうかなぁ。ホントにそれだけかなぁ」

 

 含みを持たせたその言葉に顔を上げてみると、彼女はガールズトークの最中みたいな自然な笑顔を浮かべていた。

 

「ヒッキーってさ、結構ダメなとこ多いじゃん? 自分勝手だし、他人見下してるし、マジ空気読めないし、だいたいはやる気ゼロだし」

 

「…結衣先輩って、ほんっとーに、趣味悪いですよね」

 

「はいそれブーメラン!──こほん。…ま、たま~に人のために頑張ったりするけど、それもやっぱ正義の味方ってカンジじゃないじゃん。キホン悪役ってゆうか」

 

「はぁ…まあ…」

 

 何が言いたいのだろう、と眉をひそめたわたしの肩に、彼女はするりと手を回してきた。

 

「そんな人がさー、ワガママで、めんどくさくて、超ウザくて、超あざとい後輩なんかのために、わざわざ命まで掛けるかなぁ」

 

 女の子同士の他愛ないひそひそ話。

 そんな声色で、彼女は悪戯っぽく笑って言った。

 

「いろはちゃんを助けた人ってさ、そんな"良い人"じゃなくない?」

 

 

 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

 そいつが俺の元に現れたのは、一色が去ってしばらくしてからだった。

 

「…何しに来たんだ? まさか見舞いってワケじゃないよな?」

 

 客を客とも思わない俺の言葉を、そいつはお決まりのポーズで軽く受け流す。

 

「残念だけどそのまさかだよ。もうすぐ退院だって聞いたから、その前に一言と思って」

 

 綺麗な方のH.Hこと葉山隼人は、そう言って、何やら高そうな菓子折りを手渡してきた。

 

「土産まで…おいマジで見舞いみたいに見えるぞ」

 

「そう言ってるだろ。あとこっちは戸部から」

 

 ばかに軽い、ぶっちゃけ高級感のかけらも感じられない、紙包装の箱がついてきた。

 

「ウソだろ…あいつそんな気配り上手だったか…?」

 

 そもそもお見舞い貰うほど仲良くなった覚えもないんだけど。

 

「今日は用事で来られなかったけど、一度は俺と一緒に病院まで来たんだぞ?」

 

「そうなのか…」

 

 ほんの一瞬だけ神妙な気持ちになったが、何となく察するところがあって、迷わずに箱の包み紙を引っぺがした。

 

 中身は──独身男性の夜のお供でおなじみ、空気嫁(エアダッチ)だった。

 

 おそらく下ネタだろうとは思っていたが、地味にとんちが利いていて腹立たしい事この上ない。禁欲生活と俺の性格をダブルで皮肉ってくるとは…。しかしあの男にこんな回りくどい知性があるだろうか。きっと何者かが入れ知恵したに違いない。

 

 俺に睨まれた容疑者その1は、首を振って嫌疑を否認していた。

 

「あんにゃろ覚えてろよ…」

 

 後で本人に返品してやろう。海老名さんの目の前でなァ!(自爆テロ)

 

「と、戸部なりのユーモアなんだろう。許してやってくれ」

 

 ったく、運の良いやつだ。もしこの場にひとりでも女子が居たりしたら、退院したその足でお礼参りに行っちゃうところだぞ。

 

「…まあ形だけでも礼は言っておく」

 

「伝えておくよ」

 

「で? どうせ祝いついでに一言文句があるんだろ?」

 

 あれだけ大見得を切っておいて、結果この有様なのだ。多少の厭味を言われても今回ばかりは何も言い返せない。復学に際して気が重くなる要因の一つだったので、今のうちに済ませられるものは済ませてしまいたかった。

 

「そうだな…。もしも君が目を覚まさなかったりしたら、言ってやりたいことはあったよ。けど調子も悪くなさそうだし、やっぱり遠慮しておこう」

 

「それだと、どっちにしても聞かせる気がないってことになるんだけど」

 

「はは、そうなるね」

 

 いつも通りの思わせぶりな態度にカチンときたが、何もないに越したことはない。高級菓子折りに免じて、今日くらいは許してやることにした。

 

「本当はもっと前に来たかったんだけど、面会許可が下りなくてさ。後で聞いたよ。最近まで記憶障害があったんだって? そっちはもう平気なのか?」

 

「ああ。知らない間に私物とか増えてたのは気味悪かったけど…幸い、忘れて困るほどのイベントもなかったしな」

 

「覚えてないのにどうしてなかったって言えるんだ」

 

「いや、だって実質寝たきりみたいな感じだったらしいし」

 

 あと、みんなが何もなかったって言うし。

 

「それで済ませられるあたり、やっぱり君は肝が太いな」

 

「こういうのは図太いって言うんだよ」

 

 棚の上に置かれた花瓶に目を向けていた葉山は、ふと笑いを引っ込めて言った。

 

「君は何か言いたいことはないのか。俺に対して」

 

「何かって?」

 

「俺は結局、最後まで何の役にも立てなかった。見当はずれの容疑者相手に、刑事の真似事をしていただけだ。君の命懸けの行動がなければ、いろはの身に取り返しのつかない事が起きていたはずだ」

 

「無能を責めろってんならお門違いだぞ。それに関してはみんな同じ穴の(むじな)だろ。最後まで間違い続けてた」

 

「でも君は最後の最後で気が付いた。そして間に合った。決定的な違いだ」

 

 それだって、雪ノ下が発見した下駄箱の異変だとか、コイツが引っ張り出した中原の供述があればこその話である。

 

 しかしここで本年度の抜け作決定戦をしていても埒が明かない。せっかく勝手に借りを感じてくれているのだから貸しておこう。それに、ひとつ言っておきたいことがあるのを思い出した。

 

「そう思ってんなら…一色のこと、今度こそちゃんとしてやれよ。って、俺が言う事でもないけど」

 

 あの日、葉山が部室にきた時の光景が思い起こされる。一色の為に頭を下げたコイツを雪ノ下が鞭舌(べんぜつ)(誤字ではない)でフルボッコにし、俺はそれを生暖かく見守ったものだが──それと全く同じことを、俺はしていた。

 

「えっと…話の腰を折って悪いんだけど…それはどういう意味で言ってるんだ?」

 

「いや、そういうのいいから。もう本人から聞いてるし。今は付き合ってんだろ?」

 

「いろはが…!? 俺と付き合っていると、自分でそう言ったのか?」

 

「イニシャル入りのリングなんてもん見せつけられれば、さすがの俺でも分かるわ。HからIへってな」

 

「指輪って…そんなはず……って、イニシャル? ──あっはっはっ!」

 

 泡を喰ったように慌てていた葉山が、突然弾かれたように笑い出した。

 

「なるほど、そういう…いや、これは…何て言うか…すまない…ははっ!」

 

「なに馬鹿笑いしてんだ。こういう事、俺が言ったらそんなにおかしいか?」

 

「違う違う、そうじゃなくて…しかし、ククッ…参ったな、全然気付かなかった」

 

 一色ん時の反応と全く一緒だな。ひょっとしてあの刻印にはリア充的に気づいて当然のからくりがあるのだろうか。

 

 "H to I"──ははーん読めたぞ。

 エッチから愛へ。すなわちエロから始まるイチャラブ生活!

 ってさすがに引くわ。いくらエロはすでもそんなん指輪に彫るわけねーし。

 

「…その指輪。いろはは大事にしてたかい?」

 

「肌身離さずってのは、ああいうのを言うんじゃねーの」

 

 それを聞いた葉山は「だろうな」ともう一度だけ肩を震わせ、こちらに背を向けた。

 

「そう言えば──君は結局、中原の事を疑いこそすれ、犯人だと断定はしなかったな」

 

 何だ急に。

 

「…別にあいつを信じてたワケじゃない。何もかもを疑ってただけだ」

 

「だったら、悪意だけじゃなくて、たまには好意も疑ってみるといい。案外面白い答えが見つかるかもしれないよ」

 

「いや…何の話だよ」

 

「犯人が一人とは限らないって話さ」

 

「…………?」

 

 確かに今回は事件を起こした犯人が複数居たせいで捜査が混乱していたわけだが…お前いま好意がどうとかいってたじゃねえか。そんなん、言われるまでもなく日頃から全力で疑ってるっつーの。

 あれ? じゃあ犯人ってのは何の話だ?

 

「すまん、今のはマジで全く意味が分からん…」

 

「はは。まあ退院までの暇つぶしにでもしてくれ」

 

 ふざけんな。せっかく学校休んでるのに、何が悲しくてお前から宿題出されなきゃならないんだよ。

 

 思い切り顔をしかめた俺に、葉山は白い歯を見せて笑った。

 俺を笑っているのは確かなのに、なぜだか厭味を感じさせない、不思議な笑顔だった。

 

 

 

<<--- Side Yui --->>

 

 

 ここ数日のいろはちゃんは、色んな意味で見ていられなくて。

 命がけで守ってもらったくせに、まだ自信を持てないでいる彼女が許せなくて。

 

 だから教えてあげた。

 

 ヒッキーは、ただの後輩のためにあそこまで頑張ったりしない。

 いろはちゃんはとっくに大事な人の仲間入りをしているんだって、伝えてあげた。

 

「大丈夫。いろはちゃんはもう、あたし達と同じだよ」

 

 うつむいたその表情は髪に隠れて見えないけど、ちゃんと手応えはあった。

 

 ほら、顔を上げたいろはちゃんの目はキラキラと輝いて──

 

「ちょっと結衣先輩…」

 

 あれっ? なんかそうでもない…てか若干ニラまれてない!?

 

「今さりげなく悪口増やしましたね」

 

「え、ウソっ!? あれっ!? なんか間違えた?」

 

 えと…ワガママ、めんどくさい、超ウザ──ヤバっ、いっこ多いじゃん!

 

「まったくもう…。わたしの好きな人ディスってフォローとか…滅茶苦茶ですよ」

 

 半目をやめたいろはちゃんが、困ったような顔で、でもようやく笑ってくれた。

 

「それはいいの。ディスったの、あたしの好きな人だし」

 

「ほんと…二人居れば良かったんですけどね」

 

「あはは。やっぱ真ん中から割ってみようか?」

 

 あの時もいろはちゃんとこんな話をしてたんだっけ。なんかずいぶん昔みたいな気分だなあ。

 

「今さらアリなんですかね? こういうの…。あんだけズルしておいて…」

 

「いいんじゃない? それこそ神様がスッキリさせてくれたんだし」

 

 ものすごくショックだったし、神様ってイジワルだなって思ったけど…今となってはあれでよかったんだと思う。そうじゃないと、あたしもずっとモヤモヤしっぱなしだったから。

 

 そう思っていたら、いろはちゃんがちょっと可哀想な人を見る目を向けてきた。

 

「…結衣先輩って、要領悪いって言われませんか?」

 

「いきなりヒドいっ!? え、なんで? さっきのお返し?」

 

「だってせっかくチャンスなのに、わざわざ不利になるようなことして…」

 

「あ~…まあ…」

 

 それは言われても仕方がないんだけどね。

 

「…ホントは今のうちにコクるべきだって分かってるんだけど、どうしてもね…。そりゃ、今すぐ動く勇気がないとかってのもあるよ? けど、それとは別のトコで…。うまく行っても行かなくても、このままだと気持ち悪いんだろうなって思ったら…なんか、さ…。そういう性格なんだろうね、あたしって」

 

 だから要領が悪いってのとは違うんじゃないかな。不利になるって分かってやっちゃってるし。きっと単純にバカなだけだと思うな。

 

「正直、今もちょっと後悔してる。けど、このままだったら、もっと後悔、しそうだから…」

 

 話してたらじわりと目頭が熱くなって、少し声が震え出した。

 泣いてるトコ見られたくないなぁって思ってたら、いろはちゃんはそっと目を逸らしてくれた。

 こういうコだから、ぜったい嫌いにはなれないんだよね…。

 

 

「…あーそうそう! さっきネコの話してて思い出したんですけどー」

 

「へっ?」

 

 何を思ったのか、いろはちゃんは突然、場違いなほど明るい声を上げた。湿っぽい空気をぶち壊されて、あたしは目を丸くしてしまう。

 

「あのコ達って、三日で恩を忘れるって言うじゃないですか。酷い話ですよねー」

 

「はえ? な、何のハナシ…?」

 

「でもそれってー、泥棒ネコでも三日は恩を覚えてるってことですよねー?」

 

 流れについていけないわたしを横目に、どこかわざとらしい口調のいろはちゃんはおしゃべりを続ける。

 

「三日かぁー。そう言えばあと三日で先輩、退院だったっけー」

 

 ヒッキーの退院まであと三日。それまではネコが恩を覚えている…?

 ネコの恩返し? ツルじゃなくて?

 

 ──あっ、泥棒ネコってそういうコト?

 それ、退院までの間にあたしにコクれって言ってるの!?

 

「ち、違うの! あたしそういうつもりじゃなくて!」

 

 確かに元気づけようとは思ってたけど、そのお礼としてあたしに譲るっていうなら、話があべこべになっちゃう!

 

「譲ってほしいんじゃないから! それに今すぐコクるつもりもないし──」

 

 三日以内に告白しろだなんて、そんなのゲームじゃあるまいし、急に無理だよ!

 

「えー? 何の話ですかー? まあ結衣先輩が何を言ってるのか、何をするつもりなのか、わたしにはちっともわかりませんけどー…」

 

 慌てふためくあたしを真正面に見据えて、彼女はぴしゃりと言い放った。

 

 

「──忘れないで下さいね。三日経ったら、ネコは()()恩を忘れます」

 

 

 ランランと輝くその目を見て、ゾクリとした。

 

 違う、彼女は何も譲ってなんかいない。

 今日のお礼に、ほんのちょっとだけ待つって言ってるだけ。

 邪魔はしない代わりに、自分も絶対に止まらないって、そう宣言してるんだ。

 

 あたしの気持ちが固まっていてもいなくても、待つのは三日だけ。

 うまく告白できたとしても、ひょっとしてキスまでいっちゃったとしても──

 あたしが何をしても、彼女の取る行動はきっと変わらない。どうしたって止められない。

 

 あたしに、ここまでの覚悟があるんだろうか。

 何度先を越されてもこっそり泣くことしか出来なかった、このあたしに。

 

 

「………わかった。覚えとく」

 

 

 その答えに満足したのか、いろはちゃんは「帰りましょうか」と立ち上がった。

 

 けれど、あたしはしばらく立ち上がる事ができなかった。

 

 




次回、最終話です。
どうぞ最後までお付き合いください。


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■最終話 わたしにとっての本物

<<--- Side Hachiman --->>

 

 退院を明日に控えた俺は、最後の穀潰し生活を心ゆくまで堪能していた。

 

 と言っても、基本的にはスマホを弄っているだけなんだけどな。これさえあれば時間なんていくらでも潰せちゃう。あと一か月くらいこのままでも全く困らないと思う。

 

 ちなみに、スマホに夢中でろくすぽ前も見ずにフラフラと歩く──いわゆる「歩きスマホ」が巷で問題になっているが、海外ではあれを「スマホゾンビ」というらしい。ならば既にゾンビ呼ばわりされている俺の場合、何と呼ぶのが正しいのだろう。感染が新たなステージへと突入し、逆にダッシュゾンビとかに進化したりしないだろうか。

 

「しかしな…小町との履歴がゼロってのは、違和感ありすぎるだろ…」

 

 この部屋にはかれこれ一か月近く世話になっているはずなのだが、その割にはあまりにも俺の痕跡が少なすぎる。スマホの中身を含めてやけに身辺が真っ白なのは、何者かによる隠ぺいが行われたからではないか──。

 

 そんな陰謀論を弄びながらスマホを触っているうち、ふと「ブラウザ履歴ならば残っているのではないか」という発想に至った俺は、消されずに残っていたブックマークからかつての自分の痕跡を発見するに至ったのであった。

 

「ビンゴだ…ツメが甘いなジャック!」

 

 えっと、どれどれ…。

 

 WEB小説に、ゲームの攻略wiki…pi○ivもあるな。あとはエロCGまとめへの直リンク…。

 

「うーん、あんま代わり映えしないな…」

 

 たかだか三週間。ネットの歩き方が変わるような時間じゃないか。これといって目新しいものは──おっ、何だこれ。THE・KISS(ザ・キッス)? これは新しいエロスの予感…!

 

 wktkしながらそのブクマを開いてみると、キラキラしたトップページにキラキラしたアクセサリーがずらり。見るからに女子向けのネットショップの類であった。

 

 (´・ω・`)シューン

 

 期待して損した…。小町あたりが勝手に使った名残だろうか──っておいおいそれはマズいだろ。そしたらこの履歴も見られてるって事じゃん。兄の性癖が丸裸にされてしまう!

 

 身体に触れるのを猛烈に嫌がっていた先日の小町を思い出し、よもや手遅れなのではと俺が青くなっていると、

 

「いろはちゃん居るー?」

 

 おざなりなノックと共に、入り口から由比ヶ浜が顔を出した。

 

「なんで一色が居る前提なんだよ」

 

「だって毎日来てるでしょ」

 

「いや、最近は見てないけど」

 

「えっ!?」

 

 先日、生徒会の仕事がたまってるから暫く来られないかも、と謝ってきた一色は、それきり顔を出していない。そして皆勤賞が途絶えた彼女の代わりに来たのは、よりにもよって材木座だった。

 その顔を見るなり「チェンジ」と言い放ち、ヤツを涙の海に沈めてしまったことは申し訳ないと思っている。しかしあまりのスケールダウンに気落ちしているこちらの心情も、少しくらいは斟酌して頂きたいものである。

 

「もしかして来なくなったのって、一昨日から…?」

 

「そうだけど…もしかして何かあったのか?」

 

 あちゃー、と言わんばかりに天を仰いだ由比ヶ浜。その口から「あのネコ…」などというボヤキが聞こえてきて、俺は密かに衝撃を受けていた。

 

 意外ッ! いろはすは誘い受けッ!

 ヘタレの由比ヶ浜こそが攻め(タチ)だったらしい。

 百合の道は、げに奥深きものであることよ…。

 

「まー、ヒッキーが気にする事じゃないよ」

 

 そんな誤魔化しに、二人の意味深な関係への疑惑をますます深めた俺は、

 

「何もなかったとは言わないんだな」

 

 と探りを入れてみた。

 すると、ちょっと思案気な顔をしていた由比ヶ浜から、さらに思わせぶりな返しが。

 

「…気になる?」

 

 なるよ! 超気になるよ!

 

 思わず前のめりになった俺は、しかし続く彼女の言葉を聞いて、一気に冷静になった。

 

「──あたしより、いろはちゃんのこと、気になる?」

 

 その言葉の裏には、とても分かりやすいメッセージが仕込まれていた。

 素人であればもうこれだけで「こいつ俺の事好きなんじゃね?」と思うところだがお生憎様。訓練された俺はこの程度で騙されたりしない。

 自分に興味を持ってほしいというのは、老若男女を問わず誰もが持っている承認欲求の一端だ。"いいね"の数が多ければ幸せで、ボタンを押したのが誰であるかなど気にも留めない。アイドルはファンから好かれたいと思っているが、ファンをいち個人として意識しているわけではないのである。

 

 ならば甘い言葉をかけてやる必要はない。

 自然な上目遣いがどれほど心臓に悪かろうと…。

 ちょっぴり拗ねたような口調がどれほど愛らしかろうと…ッ(血涙)

 

「いや…目の届かない方を気にするのは当然じゃねえの?」

 

「ゴメン。ちょっとヘンだったよね、あたし」

 

「別に…お前が国語苦手なのなんて今さらだろ」

 

「それはカンケーないし」

 

 軽く笑ってやると、はにかんだ由比ヶ浜は両手を後ろに組んで言った。

 

「その…明日だよね、退院。…そのあと予定とかって入ってる?」

 

 あれ? いつものパターンだと「予定なんてないよね?」ってくるはずなのに。初めて人並みの扱いをされた気がするぞ。

 

「いや、特になんも」

 

「ホント? 誰かに呼び出されてたりしない?」

 

「誰かって誰よ…」

 

 呼び出しってなんぞ? 西山の仲間のお礼参りとか?

 

「じゃあさ、退院祝いにみんなでどっかいかない? ヒッキー座ってるだけでいいから」

 

 多分俺の身体に気を遣って言ってくれてんだろうけど、ご心配には及びませんよ。大体いつも座ってるだけだからね。まあそれ以前に──

 

「んー…俺はともかく小町がな…」

 

 俺がトリップしている間に、我が校の入学試験は終了してしまっていた。この大事なタイミングで応援どころか全力で妹の足を引っ張った愚兄に出来ることは、平謝り以外にない。幸い、「合格の暁には不問に処す」という寛大な沙汰を受け、俺は現在執行猶予の身である。退院を祝ってもらえるのはありがたいが、小町の抱き合わせくらいが丁度いいと思っていた。

 

「あ、そっか、発表待ちだっけ…。うーん、タイミング微妙だー…」

 

「いや…だから俺の方はそういうの気にしなくていいから」

 

「別にヒッキーだけの話じゃないし。色々大変だったから、みんなお疲れ様ーって会だし」

 

 そういう体裁なら、俺がいちいち口を挟む謂れもないのだが…。

 そんな慰労会にお疲れの元凶たる俺が顔出したら、針の(ムシロ)になるだけなんじゃないの?

 

「その席、実現するか怪しいから今のうちに言っとくけど──」

 

 少しだけ居住まいを直して、俺は小さく頭を下げた。

 

「今回はほんと、迷惑かけたな。すまん…」

 

「きゅ、急にどしたの? あたし別に何もしてないし」

 

 色々大変だったんじゃないのかよ。謙遜下手すぎるだろ。

 

「刺された時のこととか──あと記憶飛ばしてる時は分からんけど、覚えてる範囲でも、何度も見舞いに来てもらっただろ。…時間使わせて悪かったな」

 

「そこはさ、ゴメンよりありがとうって言って欲しいんだけど」

 

「…誠にありがとうございます。大変感謝しております」

 

「うむっ! よろしい♪」

 

 何やら芝居じみたやりとりになってしまったが、素直に言えた柄でもないので助かった。気配りの上手いヤツだから、狙ってそういう空気にしてくれたのかもしれない。

 

「…ね、ねえ、ヒッキー」

 

「ん?」

 

 見れば由比ヶ浜は、しきりに前髪を弄っていた。心なしか顔が赤いような…。

 

「あの、さ……あたし……」

 

「…お、おう……」

 

「……………あの」

 

 かつて何度か見た事のある、熱を帯びた由比ヶ浜の瞳。

 胸をざわつかせるその目をこちらにじっと向けていた彼女は、しかしおもむろに俺から目線を逸らす。何もない──()()()()()()壁の一角をじっと見つめ、ポツリと呟いた。

 

「…もしもあたしだったら、どうなってたかな」

 

 何が、と聞く前に、彼女はこちらを振り向いて言った。

 

「ヒッキー、ここまでしてくれた?」

 

 まったく、何を深刻そうにしているかと思えば…。

 いつも言葉が足りない由比ヶ浜ではあったが、今回ばかりは聞き返す必要もない。その無意味な仮定を鼻で笑って一蹴する。

 

「一色だったからこんな展開になったんだ。お前の時に同じになる保証は無いだろ」

 

 むしろ同じになってたまるか。間男でもないのにあんな修羅場は二度とゴメン被る。

 

「じゃあ、今度あたしがストーカーに狙われたら…?」

 

「そん時は真っ先に警察にタレ込むわ。これでも俺は学習するぼっちだからな」

 

「あはは…そっか…だよねー」

 

 ぼっち関係ねえ、というツッコミは返ってこなかった。

 ってか、なんで俺が解決する前提なんだよ。金貰ってる本職に頼んでくれよ。下請け扱いするならこっちも公務員待遇にしてくれ。でないと労基に通報しちゃうんだからね!

 

「あのな、分かってると思うけど…一色がワガママ言わなきゃ、今回だって最初から──」

 

「どうしてワガママを聞いてあげたの?」

 

 どうしてって…そもそも一番最初に支持したのお前だっただろうが。

 

 しかし彼女は、俺の反論を待たずに言い直した。

 

「ううん…どうして助けようと思ったの?」

 

 どうやらもっと根本的な意味での問いかけらしい。

 

「そりゃ…だから……あれだ、なんつーか……」

 

 唐突に、俺の語彙力が由比ヶ浜よりもお粗末になってしまっていた。

 

 なぜ一色を助けたのか。助けようと思ったのか。

 似たような自問をしたことがあるような気がするが、どういう結論に至ったのだったか。それほど答えに悩むような命題ではないはずなのに。

 

 一色に対する責任があったから?

 違うな、ストーカーは生徒会選挙とは一切関係ない。ぶっちゃけ俺のせいじゃない。

 

 単に可哀想だと思ったから?

 それはある。でもこれは、満足のいく答えじゃない。

 

 

「依頼だったからって、言わないんだね」

 

「──っ」

 

 

 こちらの気持ちを見透かしたかのような目で、彼女はそう言った。

 

 何故だろうか。

 思いつかなかったというよりも、真っ先に除外していたような気がする。

 

「そりゃあ……」

 

 確かに、あの日一色が部室に逃げ込んで来たのがきっかけではあるし、部活の一環みたいなノリで進めていた側面は否定できない。しかし実際の心情はそこまでビジネスライクなものではなかったはずだ。ましてや由比ヶ浜に至っては、そんなこと心にも思っていないだろうに。

 

 

「考えて」

 

 

 言葉に詰まっている俺を慈しむ様な──あるいは惜しむ様な、複雑な色の瞳が見守っていた。

 

「ちゃんと、考えてあげて。いろはちゃんの為にも」

 

 そして彼女は「──あたしの為にも」と零した。

 

 俺に聞かせる気があるのかないのか定かではない、それは何とも中途半端な呟きだった。

 

 

 一色の事を考えることが、なぜ由比ヶ浜の為にもなるのか。その設問自体はあまり難易度の高い物には思えなかった。けれど、あと一息というところでゴールに辿り着けない。決定的なピースが足りていないという実感がある。

 

 そして、恐らく欠片はこの先も手に入らない。

 俺が諦めてしまったからだ。手を伸ばすことを望まれていないのなら、と。

 

 だから、このパズルはいつまで経っても完成しない。

 ピースの欠けたままに、思い出という名の額縁に収められるのだろう。

 

「──チッ」

 

 そんな光景を夢想して、小さく舌を打った。

 悶々とした心持ちのまま、ベッドの上を転がり続ける。

 

「なら、どうしろってんだ…」

 

 零れ落ちた呟きに応じる声は、既にない。

 

 気が付けば、病室には微かな柑橘の香りだけが残されていた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 待ちに待った退院当日。

 

 ──などといった思い入れは特になく、未だに軋む身体で通常業務に復帰しなければならないのかという憂鬱さを全身にまとった男子高校生が、冬の弱々しい日差しを受けて、病院の中庭に突っ立っていた。

 

「なんでこんな吹きっさらしに…中入ろうぜ、中」

 

「先輩が話があるっていうからわざわざ来たんじゃないですか」

 

「いや、別に屋内でよかったんだけど」

 

「でもほら、今日はすごくいい天気ですし」

 

「太陽光線が痛い。紫外線が肌に刺さる」

 

「シャキッとしてください。今からその調子じゃ、春になったら溶けちゃいますよ」

 

 およそ一か月に及ぶ入院生活のせいですっかりモヤシと化した俺の背中には、口調のわりに労りを感じさせる小さな手が添えられている。急に姿を見せなくなった一色には色々と不安を煽られたりもしたものだが、こうして退院の日にきちんと顔を出してくれたことに、心底ほっとしている俺がいた。

 

 誰もが触れようとしない空白の入院生活。そこで何があったかはこの際置いておくとしても、忙しい合間を縫って世話を焼いてくれたこの後輩にも、改めて謝意を伝えておくべきである。ならば退院するこのタイミングがベストであろう。

 

 そう思った俺は、集まってくれた関係者の祝辞に返礼しつつ、一色が独りになる機会を虎視眈々と伺っていたのだが…。

 自らに注がれる危ない視線を感じ取ったのか、彼女は逆に自分から声を掛けてきた。そして話を切り出そうとした俺をこの寒々しい中庭までずるずると──いや優しく寄り添いつつ、連れ出してきたのであった。

 

「ところで先輩、さいきん結衣先輩と話とかしました?」

 

「え」

 

 唐突な振りに心臓が大きく跳ねた。

 

 こうして一色に改めて礼を伝える気になったのは、由比ヶ浜にあんなことを言われた影響が大きい。色々考えているうち、どうあれ今回のけじめくらいはつけておくべきだという考えに至ったのだ。

 まさかその辺の事情までバレている訳ではないだろうが…このタイミングで由比ヶ浜の名が出てくるあたりが心底恐ろしい。コイツは最近、俺の行動パターンを掌握しつつあるからな。マジで油断ならない。

 

「…あー、昨日来た時にいくらかは…。何で?」

 

「──いえ。それならいいんです。義理は通したので」

 

「義理?」

 

「女の子同士の話です♪」

 

「…さいですか」

 

 はい、パワーワード頂きましたー。男の子同士の話って言えばヘンタイ呼ばわりされるのに、これホント理不尽よな。いいけどよ。

 

 ちなみに、由比ヶ浜の問いに対する満足のいく答えは、未だに得られていなかった。

 

 なぜ一色を助けようと思ったのか。

 いち男子としては「可愛い女の子に頼られたから」というのが大きいように思う。しかしそれも正解ではない。と言うか、正解であってほしくない気分だった。

 

「…それで、話ってなんですか?」

 

 こちらに向き直った一色の目を──見るのは難しいので、おでこ辺りを見つめながら言葉を考える。

 

「あー、その、な…」

 

 これだけの大事に発展させてしまった事。

 諸々の後始末に奔走させてしまった事。

 

 それらを踏まえればやはり謝罪の言葉から入るのが妥当のように思われたが、こっそり小町に相談したら「ごめんなさいはNG」と再三警告されたし、それこそ由比ヶ浜も似たようなことを言っていた気がする。

 

 見るからに告白っぽいシチュエーションが恥ずかしいが、一色の顔色はどう見ても平常運転だ。呼び出された理由を変に勘繰っている風もない。

 少し肩の力が抜けた俺は、風になびく彼女の柔らかな髪を眺めながら口を開いた。

 

「実はちょっとお前に言っておきたいことがあって」

 

「へえー、奇遇ですね。わたしも先輩にお話があったんですよ」

 

「え、そうなの? んじゃお先どうぞ」

 

 反射的に先を譲った俺に、しかし一色は聞き捨てならない台詞を吐いた。

 

「いえいえ、先輩からどうぞ。わたしのはちょっと重めの話なので」

 

「えぇ…」

 

 さすがに返し方が上手い。今のですげえ聞きたくなくなったわ…。

 

 尻込みしている気持ちが顔に出ていたのか、こちらを見上げた一色はにへらっと相好を崩す。

 

「もー、大丈夫ですよー。別に悪い話とかじゃないんで。それで、先輩のは?」

 

「あ、あー…。こっちも構えるほどの話じゃない…んだけど…」

 

 こいつの話というのも恐らくは俺と同様、事件に関する謝罪の類に違いない。何だかんだでこれまで改まってその話をする機会はなかったし、一色の立場としても、やはりけじめをつけないと気持ちが悪いだろう。

 

「…先輩?」

 

「…わり、ちょい待ってもらっていい?」

 

 一色の顔を見ているとやけに頬が熱くなってくる。動画リピートの副作用に違いない。だいたい否定と謝罪から入るスタイルの俺がそれらを封じられたら、出足から躓くに決まっているのだ。

 くそう、どうせ同じ内容なら先に言わせておけばよかった…。そしたら「こちらこそ」の5文字で済んだのに。

 

「じゃあ10秒待ちますね。じゅ~~う…」

 

「やめ…そういうの焦るだけだから!」

 

「きゅ~~う…」

 

「待て待て待て! ──そうだ、お前今年でいくつになった?」

 

「もうすぐ17歳の誕生日ですね。ろ~~く…」

 

 アカン。時そばやっぱ使えねーわ。

 しかも裏でしっかり残量が減っている。いろはすカウンタはマルチスレッド対応らしい。

 

「あ、あれだ。今回お前には、その、色々と迷惑を…」

 

 とりあえず単語を繋いでカウントを止めようとしたのだが──

 

「ごーよんさんにーいちぜろっ!」

 

「ちょ、はぁ!?」

 

 ようやく滑り出した俺の口を塞ぐかのように、時が加速した。

 無常というか無理やりにカウントを終えた彼女は、呆気に取られている俺を他所に、スカートをパッパッと払い、居住まいを直す。

 

「じゃあ次。わたしの用件ですけどー」

 

「こ、コイツ…」

 

 本当にもう聞く気がないらしい。いや、俺が何を言おうとしていたかは冒頭で理解できたはずだ。その上で封殺された気がする。つまり聞く気がないのではなく聞きたくない、ということか。それなら俺も同じ事してやろうか?

 

 

「好きです」

 

 

 

 

「……………え?」

 

 

 

 

「わたしは、あなたのことが、大好きです」

 

 

 

 

 呆然と立ち尽くす俺の目をその大きな瞳で見つめながら、彼女は言った。

 

 一言一言、丁寧に。聞き間違える事の無いように。

 

 その面持ちには一切の迷いがなく、ただ最初からそうするつもりだったのだという覚悟だけが浮かんでいる。

 

「…す……え…?」

 

 突発的難聴が発症したわけではない。音としては聞こえているが、日本語としての解釈が追い付かないのだ。またしても言葉を封殺された俺に、彼女は容赦なく畳みかける。

 

「好きです。ていうか、もうこれ愛しちゃってるレベルです」

 

 え? なに? (アイ)しちゃってるってなに?

 いかんて、頭がまともに働かんて! 日本語でおk!?

 

「実際、大好き程度じゃ全然足りないんですけど…あんまり重すぎるのも引かれるかなーと。なのでちょっとだけ自重して、大好きってことで」

 

「言っちゃったら自重した意味ないんじゃ…」

 

「ですね。じゃ、今のはオフレコってことで、よろしくです」

 

「オフレコの意味ねえし…」

 

 忘れられるはずがあろうか。

 これはいわゆる、愛の告白というやつではないか。

 おかしい。さっきまで全然そういう空気じゃなかったのに。

 

 熱を感じる程に身を寄せられ、目を逸らそうにも視界から追い出すことが出来ない。

 孤立無援で背水の陣。戦略的には投降止む無しといった状態である。

 

「そ、それは、あれじゃないか。俺に怪我をさせてしまったという罪悪感から──」

 

「罪悪感でも勘違いでもないです。だいたい、ケガする前から好きでしたし」

 

「へあっ!?」

 

 馬鹿な…そんな素振りは何ひとつ──。

 

「でも、それは……」

 

 改めて思い返すと、それっぽいのがいくつか思い当たらんでもない。

 駄目だ駄目だ、今の思考だと何もかもが自分に都合よく改ざんされてしまう。

 言ったはずだ、訓練された俺は「こいつ俺の事好きなんじゃね?」なんて初歩的な勘違いは──いやさっきからいろはすがそう言ってくれてんじゃねーか!

 

「ひ、ひとまず保留…ってのは、ダメか?」

 

 何度でも言おう。現実はクソゲーだ。イベントの発生は唐突で、攻略サイトもなければやり直しも許されない。ならばせめて一時停止プリーズ、と思っての発言だったが、

 

「先輩。キープって言葉、知ってます?」

 

 返事の代わりに笑顔でそう返されて、八幡頓死しろと思った。ほんの少し表現を変えただけで、先の発言がどれ程に失礼だったかを思い知る。

 

「…正直すまんかった」

 

「聞かなかったことにしてあげます」

 

 仕切り直すかのように再度こちらを覗き込んで来る彼女に、俺は確信をもって告げた。

 

「…やっぱ、お前だったんだな」

 

「何がですか?」

 

「その…入院中、ずっと面倒見ててくれたろ」

 

 ふと、彼女の瞳が淡い哀愁を帯びる。

 素直な好意をぶつけられ、面と向かってその表情を見て、ようやく言葉にする勇気が持てた。言い表せないほどの感謝を何とか伝えようとして、しかし続く言葉に押し留められる。

 

「それは今は関係ありません」

 

「つまりYESってことだろ」

 

 彼女は軽く首を振って、再び強い情熱を目に込めた。 

 

「ノーコメントってことです」

 

「…言えば不利になる事実でもあるのか?」

 

「むしろ有利になります」

 

 何それ。黙秘する意味ないじゃん。

 細かい事は分からないが、つまりは余計な条件抜きでの真っ向勝負を望んでいらっしゃるらしい。普段はこすいくせに、いざとなると真っすぐなんだよな…。

 

「先輩はわたしを何度も助けてくれましたけど、それでもまだ、先輩にとって一番大事ってわけじゃない。それは分かってるつもりです。だから──」

 

 その言い分は、勝手気ままな彼女にしては随分と控えめで。

 

「わたしに、チャンスをください。一番になるためのチャンスを」

 

 けれど、明確な要求として、俺に突き付けられた。

 

「……………」

 

 二人の女の子の姿が頭を(よぎ)る。

 

 分かり合えたような気がして、でもやっぱり分かり合えなくて。それでも分かり合えるようになりたいと思えた相手。

 俺にとって、この子が彼女達よりも優先すべき相手なのか。この考えが失礼とは思うまい。むしろ考えなければ失礼というものだ。

 

 一色いろはという女の子は、俺にとってどういう存在だったのだろう。

 

 雪ノ下や由比ヶ浜も中々難しかったが、それ以上に分かり合えたことは無かったと思う。俺にとっての彼女はいつだって未知の生き物で、何を考えているかちっとも分からなくて、振り回されてばかりだった。分かりたいだなんて、一度だって思わなくて──

 

「俺は──」

 

 ──本当に、そうだっただろうか。

 

 濡れたマッ缶の飲み口だとか。

 

 ららぽーとからの帰り道だとか。

 

 彼女と時間を過ごす度にいちいち気持ちを締め直して、俺は目を瞑ってきた。

 そんな筈はないって言い聞かせてきた。もう惨めな思いはゴメンだったから。

 逆を返せば、拒絶されれば惨めになるような感情を、俺は彼女に抱いていたという事だ。

 ちっとも分からないから近付くのが怖くて、だから分かろうとしなかった。

 

 今も俺の深いところを見つめ続けているかのような、大きな瞳。

 

 正面から受け止めるのを避けてきた賢しい後輩の目は、いつからか全くの別物になっていた。こちらを捕らえて離さない、逸らすのが惜しいとさえ思わせる、深い感情を湛えた瞳。

 

 いつの間にか、俺はこの瞳の虜になっていたのだ。そして、その感情の正体が一体何であったのかを、今さっき彼女が明かしてくれた。惨めに怯えて縮こまる俺に、その胸の内を言葉で教えてくれたのだ。

 

 断る権利を持っているのは彼女ではなく、俺。

 断られたら惨めなのは俺ではなく、彼女。

 修羅場には違いないが、比企谷八幡にはリスクがないという、全く未知の戦型だった。

 

 ひょっとしたら──

 だったらいいな──

 

 内心そう思いつつ、期待しては自粛して。

 悶々としながらも、誰一人として口にしなかった致命打(クリティカル)

 雪ノ下も、由比ヶ浜でさえも、(つい)ぞ言葉にしなかったそれを、彼女は面と向かって言ってのけた。

 

 単なる蛮勇ではない。喪失を恐れていることは、小さく震えるその肩を見れば分かる。

 

 この勇敢な振る舞いが、何よりも決定的だった。

 

「本当にかっこいいな、お前…」

 

 その感想がいつかと同じであることに気づいたのか、一色は顔を赤くして笑顔を見せた。

 

 ここで「だが断る!」なんて言える男が居るとしたら、そいつどこの神なの死ぬの?──と、ついつい思考がネタに走りかけたところで、非常に残念な事に、重要かつセンシティブな事案を思い出してしまった。

 

 そう言えば居たじゃないですか、この状況で断った(バカ)が。

 

 

 

「──葉山は」

 

 我ながら実に格好悪いとは思ったのだが、どうしても聞かずにはいられなかった。

 

「葉山が好きなんじゃなかったのか」

 

 問われた彼女はこの展開を予想していたのか、さして動揺するでもなく、「まあ、こうなりますよね」と苦笑い。こほん、と小さく咳払いをして表情を改めると、俺の言葉を否定せず、静かに言い直した。

 

「葉山先輩に憧れてた時期は、ありましたね」

 

 随分と懐かしい話でもするかのように、遠い目をする一色。いや、俺の中だとわりと最近の記憶なんだが…記憶が飛んだせいなのか? あれってもう結構昔の話になっちゃうのだろうか。

 

 

 

「…………………」

 

 

 

「…………………え? 終わり?」

 

「はい。特にそれ以上のものでもなかったので」

 

「いや、だって…指輪とか…」

 

「あれ、葉山先輩からじゃないですよ?」

 

「は!? え、なにマジで分かんなくなってきた! んじゃ誰から──」

 

「ていうか、あのリング選んだのわたしですし」

 

「何それ…自分へのご褒美ってコト?」

 

「そうですね、だいたいそんなカンジです」

 

 急に丸の内のOLみたいなことを言い出した一色は、襟元を緩めて例のリングを取り出した。久しぶりに目の当たりにした白い喉に、思わず追及の手が緩んでしまう。

 

「なので、これのことは気にしないで下さい」

 

「いや…まあこの際リングはいいとして、葉山の方は? …そっちはもう、いいのか?」

 

「うーん…その理解だと…ちょっと危ないかもですね…」

 

 え、もうよくないの? まだ若干アリなの?

 

 その状態で他の男に告白するのだとしたら、これはもう本格的に俺の理解できる思考ロジックを逸脱している。ただ、今時の女子らしいと言えばらしいような気もするので、納得しちゃいそうになるのが怖い。

 しかし今の言い回しを最大限、俺に都合よく解釈するのであれば──

 

「…もしかして、好きと憧れは違うとか、そういうニュアンスか」

 

「そうそれ!」

 

 まさに我が意を得たりという顔で、一色は手を叩いた。

 

「え、ちょっと先輩、ちゃんと恋愛力あるじゃないですか! そこたどり着くのにちょお悩んだわたしがバカみたいです…」

 

「そりゃどうも…」

 

 俺いまこの子に告られてんじゃなかったっけ。だんだん自信無くなってきたんだけど…。

 

 ここだけの話、葉山にキャーキャー言ってる女子を見る度に、彼女らの半分くらいはそういうノリなんだろうなーと思っていた。きっと一色もそのクチだったということなのだろう。そういう事にしておこう。

 

「まぁ良いけどね…よく分からんけど…」

 

「良くないです! 分からんのはダメです!」

 

 んー、と顎に人差し指を当てて、首を捻る一色。

 

 いや別にもう気にしてないからいいんですよ? ただの憧れだった、でわりと納得してますから。むしろ必死に弁明されると不安になるんですけど…。

 

 なんだか最初の緊張感がどこかへ行ってしまった気がするが、「そう!」と顔を上げた彼女の口から出た言葉に、俺は再び身体を固くした。

 

 

「わたしにとっての本物は、先輩だけだったってことです。…これで、伝わりますか?」

 

 

「…っ!」

 

 

 そうきたかー。

 ここでそれ、使ってくるかー。

 

「お前…それは……ズルいだろ」

 

 その瞳で、あの言葉を口にされては、逃げ場などあるはずもない。

 

「言ったじゃないですか」

 

 女心と秋の空。

 そんな風に、いつの日か、一色が心変わりしてしまうかもしれない。

 お前なんて嫌いだと言われる日が来るしれない。

 そんな恐怖はある。あり過ぎるくらいに。

 それでも──。

 

「ちょっとズルいくらいが、女の子らしさってものです♪」

 

 虚言と欺瞞の汚泥から生まれ落ちた、ただ一つだけの本音。

 それすら疑ってしまったならば、この先何かを信じることなど二度と出来ないだろう。

 他人はもとより、死ぬまで付き合っていかなければならない、俺自身の言葉でさえも。

 

「俺も言ったよな。全部の男子に通じる訳じゃないって」

 

「一人に通じれば十分です。その人には通じるって、知ってました」

 

 ピッと立てられたひとさし指は、そのまま俺の鼻先へと突き付けられる。

 すっかりやり込められた気がして、思わず小さな笑いが零れた。 

 

 ああ、どうやら、詰み(チェックメイト)らしい。

 

 やっぱりこいつには、敵わないな。

 

 

「まあ、いいけどな…」

 

  

 引き攣るような俺の笑みとは対照的な、眩しいほどの彼女の笑顔──

 

 まずはこれを飽きるまで眺めてみようと、俺はそう思えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  * * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

  * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

  * *

 

 

 

 

 

 

 

  *

 

 

 

 

 

 

「──で、先輩。お返事は?」

 

「えっ」

 

 あれ? 今なんか、良い感じに場面終わってなかった?

 

 桜舞う青空にカメラが上昇(パン)していく感じ、しなかった?

 

「なに一人でスッキリした顔してるんですか。可愛い後輩が本気で告ったんだからちゃんと本気でOKしてください」

 

 やだ、この子ったら男前…! 断られる可能性とか皆無!

 つか、自分のターンが終わったもんで完全に開き直ってやがる。

 

「『イエス』ですか? 『OK』ですか? それとも『結婚しよう』ですか?」

 

「ちょ…」

 

 選択肢おかしいだろ。

 

 そう突っ込もうと思ったが、少し考えて納得してしまった。

 俺を相手取った問答としては、これこそが正解なのだ。もしも俺が比企谷八幡を攻略する立場だったなら、絶対に"NO"の選択肢は与えない。あれば必ずそちらに逃げると分かっているからだ。

 

 何かの契約であるかのように──ある意味では正しいのだが──手早く俺の退路を断っていく彼女は、座して審判を待つだけの挑戦者ではなかった。

 

「じゃあ…その…前向きなヤツで」

 

 言ってしまった後で、恐る恐る対面の表情を伺う。そこには笑顔から一転、微妙に眉をしかめた不満げな表情。背筋を一筋の冷や汗がスーッと走っていく感触があった。

 

 もしかして俺、やらかした…?

 

 女子の口からここまで言わせ、選択肢を与えられ、それすらもまともに選べない。控えめに言って最低だ。百年の恋だろうと、一万年と二千年前からの愛だろうと、冷める時は一瞬なのである。ともすれば、悪夢の逆転負けもあり得るのではないだろうか。

 

 それに考えてみたら、彼女は"比企谷ゴメンナサイ(カップ)"における、史上最強のタイトルホルダーである。おそらく今後も彼女の記録を敗れる者は現れないだろう。

 って、いま思い出したら駄目なやつだろそれは。クソゲーさんってこういうフラグにはすげえ敏感なんだってばよ!

 

「ちゃんと自分の言葉で言ってください」

 

 またギネスを更新されるのではと怯える俺を他所に、彼女はやり直しを要求してくれた。

 いやーワンチャンあったか。寿命縮んだわー。神様仏様八幡大菩薩様、マジでありがとうございます。

 

 しかし、ならばどういう言葉なら満足してくれるのか。

 見当がつかず、とにかく思いついたことを言葉にしてつらつらと吐き出してみた。

 

「…あれだ。正直、俺のどこを気に入ったのか、さっぱり分からん。でも、ここ最近、お前を見てて思った。その…もっとお前のことが知りたい。色々と教えて欲しい。知ればきっと、もっと知りたくなる…ような気がする。だから、その──」

 

 綺麗にまとめることが出来ず、頭をガシガシと掻き回す。すっかりお手上げ状態になった俺は、恥ずかしげもなく白旗を上げた。

 

「……こういうんじゃ、ダメか?」

 

「全然ダメですもっとシンプルな言葉でハッキリと言ってもらわないと全くこれっぽっちも伝わりません今すぐやり直して下さいゴメンナサイ」

 

「…ここまで来てゴメンナサイはさすがに予想してなかったわ」

 

 プライドをかなぐり捨てて全面降伏するも、一色陣営はこれを拒否。その上とどめとばかりに十八番の一芸を炸裂させてきた。

 が、今度ばかりは記録にも残るまい。言われて嬉しいゴメンナサイなんてノーカウントだ。合格するまで付き合ってやると、彼女はそう言っているのだから。

 

「普通のでいいんです。カッコとかもつけなくていいです」

 

「いや、俺は普通に頑張ったし、カッコもつけてはいないんだが…」

 

 やっぱり人生さんはクソゲーだった。この期に及んで正解を引くまでループしやがる。

 

 

 えーくそ、なんだ。シンプルに、かつこの場にふさわしい言葉?

 

 

「おっ……」

 

 

 すー、はー。

 

 すー、はー。

 

 

「俺と……」

 

「俺と?」

 

 

 すー、はー。

 

 

「俺と……つ、付き合って欲しい……」

 

 

 

 

「…………………………………………」

 

 

 

 

「……みたいな」

 

「っ!?」

 

 うぐぅ…日和ってしまった…。

 沈黙に耐えられなかった…。

 

 向日葵みたいな笑みから一転、キリキリと吊り上がっていく眉に恐れをなした俺は、

 

「どうか付き合って下さいお願いします!」

 

 折り目正しくも90度に近い勢いで、頭を下げていた。

 

 ここまで来ると、心情的にも告白と言うより謝罪である。羞恥心は概ね消え失せ、声も若干ヤケクソ気味になってしまった。

 

 けれどちらりと視線を上げてみれば、一色は今度こそ満更でもない様子だった。腰の前で組んだ両手をじっと見つめ、指先を突き合わせながら、何度も頷いている。

 

「…ふんふん。そんなに。そんなにわたしが欲しいですか。そうですか。ふんふん」

 

 ん?

 

 んん?

 

 んンンンン?

 

 何かこれおかしくない? 確か俺が告られてたんじゃなかったっけ。

 いつから俺がお願いする側になってたの?

 

 告ったと見せかけて告らせる──これぞ告白巴投げ。

 恋愛組手の名家、一色流の真髄が鮮やかに炸裂していた。

 

 そういやこの子、八幡特効のヒッ検有段者でもあったっけな。

 この戦い、最初から俺に勝ち目なんてなかったわけだ。

 

「…まあ、今日のところは10点って感じですかねー」

 

 ひとしきり鼻を鳴らした後、一色はにっこり笑って一本だけ指を立てた。

 いつかどこかで聞いた覚えのある点数だ。相変わらず採点が辛い。

 

「…なんでそんなに低いのか聞いていい? 俺ちゃんと──むぐっ!」

 

 

 渾身の告白に対する低評価への抗議は、彼女の唇でもって黙殺された。

 

 

 

 

 キスを、されていた。

 

 

 

 

 

 驚愕。

 

 混乱。

 

 興奮。

 

 羞恥。

 

 歓喜。

 

 快感。

 

 

 

 それと、どこから紛れ込んだのか、ほんの一握りの懐かしさ。

 

 

 

 

 細い指が俺の髪の間を滑り、二人の距離をゼロへと近づける。

 どこまでも柔らかく暖かな感触が、乾いた唇を溶かしていく。

 脳髄が痺れて、視界が明滅するようだった。

 肺の中の全ての空気が、彼女の香りに染まる。

 

 背伸びが辛いのか、その身体が小刻みに震えていて。

 無意識に、彼女の腰を抱き寄せていた。

 

 

 

「…相手が先輩だったので…オマケで10点…あげます」

 

 

 

 ほんの少しだけ唇を離し、熱い吐息を漏らしながら、彼女は総評を下した。

 

 

 

「…一応聞くけど、何点満点?」

 

 

 

「ヒミツです…♪」

 

 

 

 悪戯めいた笑みを浮かべ、彼女はもう一度、俺に口づけたのだった。

 

 



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■Epilogue あなたがわたしにくれたもの

<<--- *** --->>

 

「ふぅん、やっぱりママからコクハクしたんだー。それでそれでー? どーなったのー?」

 

 昔話の続きをせがむ幼いその声は、告白という言葉の意味をきちんと理解しているのだろうか。黒歴史ならぬ青歴史を容赦なくえぐってくる二人の会話に、俺はテレビの音量を上げることでささやかな抵抗を示していた。

 

「あとはおばあちゃんとおんなじかな。チューもママからでしょー、プロポーズもママからでしょー、あなたが産まれたのも…やっぱりママからだしー」

 

「うえ~、パパかっこわるーい…」

 

「…父は黙秘権を行使するぞ」

 

 最後のはどう頑張っても俺からにはならねーだろ、と──そんな野暮な突っ込みを入れられる余地なんてものは、当然ありはしなかった。我が家における発言権は、娘が生まれてこっち、一度だって俺に回ってきた覚えがない。

 

「やしろ、それしってる! パパのまけってことだよね!」

 

「…よく知ってるじゃないか。やしろは俺に似て賢いな、どこで習ったんだ?」

 

「えー? …えっとねー、えとねー、はやまのおじちゃんがいってたー」

 

「あんにゃろ、人んちの娘(たぶらか)して何してくれてんだ…」

 

 未だに腐れ縁の続くかつての同級生に「毛根死滅しろ」とケチな呪いを掛けていると、嫁のスマホがメールの着信を告げる音を奏でていた。

 

「えーと…あ、平塚先生だ」

 

「またかよ。あの人、お前のこと好き過ぎるだろ」

 

 何かっていうと連絡してくるんだよな。まあ家族ぐるみで世話になってるから、足を向けて寝られないお人ではあるんだけど…。

 

 え? 結婚できたのかって?

 そこは察してくれ。あの人に限って夫婦別姓なんて利用するわけないだろ。

 

「面倒見がいいんだよー、先生は」

 

 もう10年ほどになるだろうか。かつての彼女は高校教師であり、俺達の恩師であった。

 

 だがあの冬、事件の責任を取る形で教職を辞することになってしまったのである。その結末を阻止できなかったという事実は、当時の俺達を随分と苛んだものだ。

 

 では何故未だに"先生"と呼んでいるかというと、単に昔の名残──というだけではなくて、彼女が次に手掛けた仕事がスクールカウンセラーというものであったからだ。

 良くも悪くも情の深い人物であっただけに、相性が良かったのだろう。教師と比べて不安定な職種にもかかわらず、気が付けば出版やらメディアへの顔出しやらもこなす、有識者の端くれにまでのし上がっていた。

 

 そんなわけで、少なくとも経済的には以前より充実しているはずの彼女ではあったが、かねてより抱えていた悩みは悪化の一途を辿っていた。

 

「先生なんだって?」

 

「えっと…『老いた両親に孫の顔が見たいとせがまれて毎日辛いです。どうすればいいですか』」

 

「カウンセラーが昔の生徒相手にガチ相談とか…」

 

「んー…『やしろの顔を見に来てください。赤ちゃんほしくなりますよ』…っと」

 

「よせ死ぬ気か」

 

「えー? 先生と飲むの、好きでしょ?」

 

「いや、あんまり…。もうちょっとやんわり答えた方が良くない?」

 

 酔った時のあの人、俺を見る目がマジっぽくて怖いんだよなー。昔の弱みもあるから頼まれると断れないし、二人きりでとか絶対会いたくないわ…。

 

「あのねー、変に気を遣うと逆に失礼なんだからねー?」

 

 嫁がメールの返信に夢中になっていることを確認し、こっそりと娘に接近する。大人同士の昔話に飽きて人形を弄っていた彼女に、さっきから地味に気になっていたことを聞いてみた。

 

「…なあ、葉山のおじさんにはよく会ってるのか?」

 

 ほえ?っと一瞬動きを止め、思案気に目線を巡らせてから、幼女は答えた。

 

「んーん。でもね、パパがやきもちやくからね、そういいなさいってママが」

 

「……ほほう」

 

 愛娘を誑した犯人へ鋭い視線を飛ばしたが、そこには置き去りのスマホがあるだけだった。ハッとして背後を振り返れば、扉の陰でころころと笑っているではないか。

 

 ガァッデェェム! またもやしてやられた。

 

 どれだけ経っても、ウチの嫁のこういうところはちっとも変わらない。俺の立場もまた、言わずもがな。

 

「やしろー、パパにやきもち焼いたか聞いてきて?」

 

「パパ、やいた?」

 

「……黙秘させてくれ」

 

 ちょっと訂正。娘が生まれて、更に劣勢になっていた。

 

「相変わらず、葉山先輩ネタには弱いですねー、ウチのパパさんは」

 

「別に…そういうワケじゃないんだけどな。あれだ、惰性っつーか、お約束っつーか」

 

 未だに呼び方が昔のままってのも微妙に気に入らない理由の一つなのだが…最近ではわざとやってるんじゃないかと疑っている。

 

「あの頃は色々と…何だ、こっ恥ずかしいエピソードが散らばってるからな…」

 

「そう言えば、結局あなたの本物って、なんだったの?」

 

「ねえ今の話聞いてた? その辺ほじくり返すのやめろっての。つかお前も大事なシーンでパクってただろうが。分からんで使ってたの?」

 

「パクリとか心外~。どーせパパもよく分かってなかったんだよねー?」

 

「ね~」

 

 ホントによく分かっていないやしろと声を揃え、彼女は楽しそうに笑っている。

 

「ったく…。ちゃんと手に入れたんだからいいだろ…」

 

「えー? なーに? きーこーえーまーせーんー!」

 

「嫁と娘が俺の本物でございます! ──ったく…これで満足か?」

 

「ふふっ、10点ってところかな~♪」

 

「そいや、偉ぶって採点してるお前はどうなんだ。きちんと聞かせて欲しいもんだな」

 

 俺だけ辱めに遭っているのは割に合わない。そう思って話を振ってみたが、彼女は特に表情も変えずにさらりと言ってのけた。

 

「わたしの? そうだな~。やしろでしょー、旦那様でしょー、今の暮らしにー、こまちゃんにー」

 

「…ちょっと多くない? つか、俺と小町って同レベルなの?」

 

「おじいちゃん、おばあちゃん、ママ友、ヨガ教室のみんな…」

 

 延々指を折っていく彼女。両手でも足りないペースで増えていく。

 昔は俺だけって言ってくれたのに…。時間って残酷だなぁ。

 げんなりした様子の俺を見て、彼女はクスリと笑った。

 

「だからね、要するに──」

 

 人差し指を立て、相も変わらず切れ味のいいウインクをひとつ。

 

「あなたがわたしにくれたもの、全部ってこと♪」

 

「…横着すんなっての」

 

「嬉しいくせに~」

 

 そうやって、いつも俺をからかっては、悪戯っぽい表情で顔を寄せてくる。

 きっとこの先も、この笑顔には逆らえないことだろう。

 

「あー! ママ、チューしてる! またチューしてるー! ずーるーいー!」

 

「ずるくないのー。ママはいいのー。パパのことちょお愛してるからいいのー♪」

 

「やしろも! やしろもパパのことちょーあいしてるもん!」

 

「おっ? やしろもパパにチューするか?」

 

 何にでも対抗心を燃やす、負けず嫌いの愛娘。

 水を向けてやると急にはにかんで、服の裾を掴んでモジモジし出した。

 

「あっ、えとね。えっとねー?」

 

 はいはい、天使天使。吐血吐血。ちょっとティッシュくれゲフォゴフォ。

 

 ウチの娘は可愛い。たぶん世界一可愛い。ソースは小町。

 

 女の子だと分かったときは俺に似ませんようにと嫁に隠れて神に祈りまくったが、いざ産まれてみれば八幡的な因子は猫っ毛気質の頭髪くらいで、母親譲りのパッチリおめめに通った小鼻。つまりは幼い頃の小町にも似た、千年(ミレニアム)美少女の卵であった。

 

 これ将来、女神とかになっちゃったらマジでどうしよう。SPって個人で雇えるのかしら。

 

「恥ずかしがらなくていいんだぞ。ほれ、ほっぺに。ほれ」

 

 母親そっくりのクリッとした宝石が、おずおずとこちらを見上げる。

 

 そして、娘は父に愛を囁いた。

 

「おひげチクチクするからムリですゴメンナサイ」

 

「…それって一子相伝の奥義か何かなの?」

 

 嫁だけでなく、娘にも逆らえなくなる日が来るのは、そう遠くないように思われた。

 忘れてた。この天使の半分は小悪魔で出来てるんだった。

 

「おいコラそこの原材料。マジ正座しろし」

 

「子供ってなんでもすぐに覚えるよねー」

 

 既に俺の腕から逃げおおせていた彼女は、ペロリと舌を出して笑う。

 

「わたしだけのせいじゃないもん。やしろの半分はパパで出来てるんだもんねー?」

 

「ねー」

 

 絶対嘘だ。いや最初はそうだったかも知れないが、今となっては構成物質の九分九厘、母親で占められているに違いない。何なら思わず「やしろはす」と呼んじゃうまである。

 

 娘と楽しそうに笑い合う彼女の首元には、10年前から変わらず、鎖を通した指輪がぶら下がっていた。安物だから見ているこっちが恥ずかしいのだが、大人になった今でも家の中では大抵身に着けている。家事をする際には外している結婚指輪よりも、装着率が高いかもしれない。両方の贈り主としては少々複雑な気分だった。

 

「やれやれ…。ほんと、どうしてこうなったんだろうなー…」

 

「え? わたしに会っちゃったからでしょ?」

 

 うん、ホントそれな。

 

 本物がどうとか、心変わりがどうとか。

 青臭く悩む暇もないくらい、彼女は俺に愛を注ぎ続けた。

 愛情の激流に溺れないよう必死にもがいていたら、辿り着いたゴールがここだった。

 本当に、ただそれだけの事。

 

 あれほど切望していた専業主夫ポジションも、今では完全に誰かさんに奪われて。

 今ではいっぱしの社畜として、自分以外の誰かのためにあくせく稼いでいる。

 

 出会って以来、彼女に振り回されっぱなしの人生だ。

 でもまあ、悪い気分じゃない。

 

「ま、お前に会っちまったしな。しょうがない」

 

「しょーがない、しょーがない♪ もひとつおまけにかいしょーもない♪」

 

「酷い。酷過ぎる。なんちゅー歌だ」

 

「これはねー…愛するダーリンの歌、かなー」

 

 タイトル聞いたんじゃねえっつーの…。

 

 しかしよくもまあ、そうポンポンと愛情表現で返せるもんだ。変なところで頭の回転早いからなーこいつ。油断してると二言目にはラブビーム撃ってきやがる。

 

 

 上目遣いでこちらの反応を窺う、見飽きる事のないその笑顔。

 

 ()いらしくてわ()とらしくて、()びきり()としい、俺の宝物だ。

 

 

 かくして俺は、彼女にふさわしいこの言葉を、今日も繰り返すのだった。

 

 

 

 

「だから、あざといっつーの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《そうして、一色いろはは本物を知る》

 

       - 完 -

 

 

【挿絵表示】

 

 




【謝辞】

素晴らしい作品を世に送り出して下さった、原作者の渡航先生。
キャラクターに愛らしい魂を吹き込んで下さった、声優の佐倉綾音様、並びにキャストの方々。
そして、応援して下さった読者の皆様。

この作品に力を与えてくれた全ての皆様に、心より御礼申し上げます。



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□おまけ 作者反省会

 ■ WARNING ■

 

作者と小悪魔による、あとがき代わりのぐーたら台本トークです。

 

大したオチもなく、本編とも一切関係ありませんので、ご了承ください。

 

製作エピソードに興味のない方、本編の余韻に浸りたい方は、ブラウザバックを強く推奨いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──止めましたからね?

 

 

 

 

 

 

 

 

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

作・I 「「かんぱーい!」」

 

I「どうもお疲れ様でーす。完結おめでとうございまーす♪」

作「はいはーい、そっちもお疲れさん。面白かったかな?」

I「わたしこれ絶対エタると思ってましたー。ホントよく最後まで続きましたね?」

作「あ、うん、それはおかげさんで…。んで、面白かった?」

I「先輩があんなことになった時は、作者さんをやつざ──八つに引き裂いちゃおうかと思いました♪」

作「丁寧な言い方の方が具体的で怖いわ! …いやそれより、面白かった?」

I「長期連載に時事ネタはNGって言われる理由が分かった気がしますねー」

作「お世辞でいいから面白かったって言ってよぉぉぉおお!」

 

作「──で、正直なご感想は?」

I「そうですね。客観的にどうかは知りませんけど、主役としてはもうさんざんでした」

作「辛辣ゥ…」

I「ストーカーに追い回されてー、好きな人は死にかけてー、自分のこと忘れられて──」

作「おいおい作者マジ鬼畜かよ」

I「ハッ、あれで鬼畜じゃないとか…。感想でもドS呼ばわりされてたじゃないですか」

作「確かに和姦より凌辱とかNTRとかが好きな作者だけどね、別にSじゃあないんだぜ」

I「いやそれSとかMよりずっと悪質ですから…。先輩が助けに来てくれなかったらまぢヤバかったですね…」

作「うへへ、おっちゃんがIFで一本書いたろか?」

I「お巡りさんこっちでーす」

作「ダッ(窓から脱出」

 :

 

I「──お勤めご苦労様でした♪」

作「はあはあ…あいつら日本語が通じねえ…。非実在青少年って何? 妄想と現実の区別もつかんのか」

I「下らないフェミ叩きはそのくらいにして、とっとと反省会に入りましょー♪」

作「殴りたい、この笑顔…(#^ω^)ピキピキ」

 

 

◇◇◇

 

 

I「まずはこの作品の総括から入りますけど──」

作「(ドキドキ)」

I「二人は幸せなキスをして終了、ってことでいいんですよね?」

作「言ったぁー! 今いろはすが言っちゃいけないこと言ったぁー!」

I「だって、このENDだと他に言いようがないですし!」

作「謝って! 俺の三年間をゴミ扱いしたの謝って!」

I「実質一年くらいしか書いてないくせに…」

作「るせえ社会人なめんな小娘がァ!!」

I「はいはい、すみませんでしたぁー」

 

作「けど、作者的にはそれこそ当初の狙い通りって感じなんだよな」

I「…と言いますと?」

作「元々は『俺ガイルキャラで演じる名作』みたいなイメージだったのよ。予想外にストーカーパートの構成がウケちゃったけど、どっちかっていうと本題はその後だったから。いつだったか感想で叩かれた時にも書いたんだけど、『ベタだけど面白い』ってものはあるって確信してたし」

I「ふむふむ…うん? なんかどっかで聞いたような話のような…」

作「うむ、実は平塚先生に冒頭で言わせてる。壮大な保険だろう?(ドヤア」

I「チキンな上に、エタったら目も当てられない無駄仕込みですね」

作「ΩΩΩ<アグリー」

I「けど、それにしたってあの事件は少し露骨すぎませんか? 自分で言うのも何ですけど、後輩女子のためにナイフに立ち向かえる高校生なんていないですよ、多分」

作「それ言い出したら、知らん犬のために車に突っ込む方がよっぽど不自然でしょ。あり得ない行動が物語の要になっているという意味でも、やはり拙作は原作に忠実であると言えるんじゃないか」

I「うっ…無駄に説得力が…。じゃ、じゃあ伏線回収は? いろいろバラまいてましたけど、最後いくつか隠したままになってません?」

作「本編でも書いたけど、ラストのシーンは面倒な諸々を一旦置いといて、っていう体だから。でも、投げっぱなしにはしてないよ? あの後でバラされて状況が揺れるような形では残してないから」

I「確かに…先輩から追及されたときの誤魔化しっぷりも、我ながら恐ろしいものがありました…」

作「いろはすは勉強得意じゃないけど、かしこさは高い子だと思ってるんだ」

I「…ま、まぁそういうことなら仕方ないですね。ハッピーエンドには違いありませんしねっ」

作「うむうむ、やはりいろはすはかしこいなぁ(ニヤリ)」

 

I「キスしてひと段落ってのはわたしも幸せですよ? けどここからエピローグまでのイチャラブこそが本番じゃないですか。第二部はどこいったんですか?」

作「正気? バカップルの私生活を10年分書けと?」

I「読者さんはみんな読みたがってました」

作「無理。だいたいそんなの、八割方いろはすの濡れ場になっちゃうし」

I「ひとのこと痴女扱いするのやめてください。べつに普通のデートとかでいいんですけど」

作「普通のデートを他人が見ておもしれーわけねえだろぉおお!」

I「力不足をひとのせいにしないでください。面白いひとのは面白いです」

作「あっハイ」

I「ていうか、大半のSSはそっち系ですから。先輩を本気で殺しにかかった作品、他にないんじゃないですか?」

作「だって八幡って基本口先だけの帰宅部じゃん。原作でも自己犠牲ばっかじゃん。カッコいいとこ見せようと思ったら肉壁しかないじゃん」

I「もしかしてケンカ売ってます?」

作「売ってr──うそうそ何でもありません! あれはあくまでも等身大の高校生の枠をはみ出さないよう、リアリティを追求した結果でね?」

I「ハッ。リアリティとか…どの口が言うんですかね」

作「あれは夢。幽体離脱なんてなかった」

 

I「作者さん、ひょっとして先輩のことあんまり好きくないです?」

作「…さ、作品のキャラクターとしては、尖っててとっても使いやすいんじゃないかと!」

I「もういいです…主人公への思い入れもないのに、よくこんな大作書き上げましたね?」

作「どうやらお前は一つ勘違いをしているようだな…」

I「…はい?」

作「この作品の主人公は八幡ではない。い ろ は す だ !」

I「……素で忘れてました」

作「ちなみに、世の中にはHACHIMANなんて言葉もあるらしいな。しかし作者がそれを知ったのは、なんと2018年に入ってからだ」

I「遅っ!…ってまたまたー。さすがにそれは冗談ですよねー?」

作「知ってたら《Side Hachiman》なんて危なっかしい表現しなかったわ…」

I「本業SEのくせして情弱すぎませんかね…」

作「ちなみに自宅PCが5年前にぶっ壊れて、買いなおしたのが二年前ね」

I「え? …ということは、連載開始当初は…」

作「PCなんてなかった」

I「SEってPC無しで出来るんですか!? 次々と明かされる真実が衝撃的すぎです!」

作「別に家で仕事したりしないしね。案外なんとかなってたよ」

I「へー。持ち帰りが無いなんて…SEって案外ホワイトなんですか?」

作「持ち帰りが無いっていうか、終わらないと帰れないだけ」

I「うっわぁ…じゃあいつ書いてるんですか…?」

作「メインは通勤時。あとお休みの日は12時間ぶっ続けで書いたりな。これでも集中力には自信があるぞ」

I「やっぱり物書きさんって、すごい(ド変態)ですね♪」

作「だろ? そうだろ? うへへ…」

 

 

◇◇◇

 

 

I「次に、作品を作るにあたっての苦労なんかがあれば。正直わたしあんまり聞きたくないんですけどねー、グチとか」

作「も少し建前大事にしてこ? …そうねー、やっぱ一番きつかったのはモチベ管理かな」

I「一番は執筆時間の確保じゃないんですか?」

作「それもあるけど、せっかく時間が出来ても書けない、書きたくないって方が深刻」

I「へー。そういう時はどうやって凌いだんですか。よその八色SSを読んだりとか?」

作「いや、それはむしろNG。面白くないとやる気でないし、面白くても凹むし。何より自分の作風に影響が出るから全力で遠ざけてたね」

I「めんどくさっ! じゃあ何してたんですか?」

作「アニメ二期を軽く流したり、ペットボトルのいろはすを飲んだりかな…」

I「…お水を飲んでモチベがあがる仕組みがちょっと分からないです」

作「こう、いろはすの身体を流れるエキスだと思ってくぴくぴ飲むわけよ。ピーチとか甘いフレーバーでマジお勧め」

I「ヒッ…!」

作「まあ実際にはそんなんばっかだとデブっちゃうから、基本は水だったけどね。あっちはどう頑張っても味しないから妄想すら難しかった」

I「ピーチならはかどる時点で救いがありません」

 

作「モチベ管理も大変だったけど、産みの苦しみもそれなりにあったな」

I「そりゃそうですよ。初連載で女の子の恋心メインとか…作者さんバカなんですか?」

作「しかもヒロインが主人公以外の男を好きとかもうね。お前が原作で半端に未練がましいからだぞ!」

I「ほっといてください。まあわたしのSS書く上では葉山先輩からの卒業って必修科目みたいなものですし、仕方ないですよ」

作「その過程で葉山が貶められ、アンチヘイトのタグを強要される定期」

I「作者さん、その辺りはめちゃくちゃ気を遣ってましたもんね」

作「読み返すと前書き後書きにビビリの痕跡キッチリ残ってるしなw もう展開に気遣いすぎてオーラスよりも綺麗にまとまってるまである」

I「わたし的にそれを認めちゃうと色々まずいんで、今の発言はスルーしてあげますね♪」

 

作「信じられないかもだけど、当初は10話くらいで終わらせる予定だったんだ」

I「けど、褒められて調子に乗ってズルズルと…」

作「そうそう──ってちゃうわ! プロットを組み直したのがきっかけだろうな…。そっからは話は予定通り進まないわ、キャラは勝手に暴れるわでもうね…」

I「プロットがあってもそんなに荒れるものですか」

作「まあキーポイントを押さえただけのだし。具体的には一話あたり5~10行くらいの」

I「そんなスカスカのストーリーが──ご覧ください、戸部先輩の髪のようにわっさわっさと増えました♪」

作「言い方! …ちなみに書籍にすると、だいたい4冊くらいらしいな。一気読みしたとか言ってくる人はマジで鬼だと思う」

I「ですねー。でも、シリーズものと比べると4冊って大したことないように聞こえますけど」

作「一つの事件、いろはす一本でそれだからね。ラノベなら一冊あるいは上下巻でまとめるような内容をここまでじっくりやったんだから、読みごたえはあるはずだ」

I「うーん…。わたし一本ってわりには、出番ちょっと少なくないですか?」

作「あれで少ないとか…。ゲーガイルのいろはす√よりずっとボリュームあるぞ、多分。やってないからわかんないけど」

I「紙芝居ゲー相手にボリュームで張り合わないで下さいよ。てか、こんだけ書いといてなんで買わないんですか。わたしのファンじゃなかったんですか?」

作「…いろはすの温泉カットを公式で公開しちゃうのはどうかと思うんだ」

I「…確かにあれはわたしも通報しようかと思いました」

作「あとどっかで見かけたロングいろはすにあんまし萌えなかったから。基本的にボブからセミロングくらいまでが好きなんだよね、俺」

I「知りませんよそんなの…。絵のことばっかりじゃないですか」

作「うーん、あの手のゲームにストーリー性は期待してないっていうか…あ、でもOVAは知人に借りて観たからね!」

I「そのドヤ顔うざいです。だったら特典だけじゃなくてゲームも借りればいいのに」

作「いやー、いい歳したおっさんがラノベのキャラゲー貸しっこしてるのもどうかなって」

I「いえ特典まではOKって理屈が全然…。それで作者さんの知識は10.5巻で完全停止してるんですね」

作「厳密にはアニメ含めて11巻までフォローしてるけどな。それ読んでから一切触ってないから、もう三年は原作の文章読んでないわ」

I「ちょっとそれ初耳なんですけど…。そんなんでよく『二次は原作らしさが命』とか口に出来ましたね」

作「い、いやぁ~。みんなが褒めてくれるから大体あってるんだろうなーって…」

I「うっわ…。学園物だから現実の知識でごまかせましたけど、ファンタジーとかだったら絶対に世界観追いきれなくて破綻してますよ」

作「ほんとそれな m9(^Д^)」

 

◇◇◇

 

I「ええと次のテーマは…"本作の中軸たるストーカーについて"だそうです」

作「山なんとかね。意外と人気あって驚いたわ」

I「人気…かなぁ。まあ素晴らしくキモい男子でしたね。やっぱり実体験なんですか?」

作「言うと思ったよ! ていうかキャラを褒められるたびに若干凹んでたよ!」

I「あんなキャラを生み出した作者の中には同じ闇が潜んでいる、と」

作「想像力が豊かだと言って!(号泣」

I「序盤はあからさまに中原君にタゲなすりつけてましたよね」

作「うむ。実際に犯人がやったのと同じ手口だな。読者さんも途中までは気づかなかったことだろう」

I「だって真犯人出てきたの、わりと後の方じゃないですかー。後出しずっこいです」

作「ちがうよぉ? むしろ八幡よりも先に登場してるよぉ?(ニヤニヤ」

I「えっウソ!? ちょっとどこですか! と、トリハダがぁ~っ!」

 

I「結局、葉山先輩の読みは正しかったってことですか?」

作「ああ、中原の件? 正しかったっていうか、結果的に合ってただけって感じかな」

I「あの葉山先輩が信用するだなんて言うから、もうこれぜったい犯人だ!って思ってました」

作「そうそれ。その俺ガイル読者の本能ともいうべき先入観を利用したのよ。おかげでデコイとして大活躍w」

I「わーこのひとサイテーだー」

作「言っとくけど作者はアンチ葉山じゃないからね? むしろSS的にはすごい使いやすいキャラだった。スペックもコネも、何もかもが八幡より上だべしッ!?」

I「それ以上ディスったら殴りますからね♪」

作「テメー文章ならバレねえと思ったら大間違いだぞ! 読者さんは行間とか辻褄とかきっちりチェックしてんだからな!」

I「あー確かに。読者さんの推理には何度かヒヤヒヤさせられましたねー」

作「斜め上の展開を予想されて笑ったりもしたな」

I「実際にコメントがストーリーに反映されたりはしたんですか?」

作「いや、メインストーリーには全然。元々がブレたら空中分解するような綱渡りだから、何を言われても変える余地は一切なかった。あ、でもガハマちゃんの行動の細かい部分とかには、多少影響あったかも」

I「あ、一時期フォロー濃いめでしたもんね」

作「もともとラスボスは彼女って決まってたし、普通に泥臭くキャットファイトさせようと思ってたんだけど、予想以上にヘイトが溜まってたから。当初の予定よりかなり美化されたな」

I「まああれでよかったと思いますよ。女同士の争いなんて見てて気分悪くなるだけですし」

作「ギャグでごまかせる展開でもないしなー。つか、なんでガハマちゃんってあんなに嫌われてるんだ? 作者的にはいろはすと同じくらい好きなんだけど」

I「好きってわりにはかなりイジってましたよね。小学生男子ですか?」

作「少年の心をいつまでも忘れない、どうも作者です。…いや、ヒロインのおっぱいがもう少しあれば、ああも執拗に彼女のチチをイジる必要は…」

I「あっ、そう言えば! 誰が軽巡ですか誰が! てか那珂ちゃんも中の人一緒ですし」

作「中の人などいない! それ以上のメタ発言はやめてもらおうか!」

 

◇◇◇

 

I「続いてのお題──"ピロキとまる子について"だそうです」

作「モブキャラ自信なかったから、評判良くて嬉しかったわ」

I「へー。まるで主要キャラには自信あるみたいな口ぶりですね」

作「雪ノ下みたいなツッコミはYA・ME・RO☆」

I「わたしとしてはどうしてこの作品が"原作テイストに近い"ともてはやされているのか、ちっとも理解できないんですけどね。序盤なんてブレブレもいいとこじゃないですか」

作「うむ。いろはすがあんまり勉強得意じゃないっていうから、バカっぽく書こうとした結果だ」

I「もうちょっとやり方なかったんですかね…。だいたいそれ、結衣先輩のお仕事じゃないですか」

作「お前も大概酷いね…。だからほら、後半は役割分担がはっきりしてたでしょ」

I「役割と言えば──例のカップルも、かなり重要な立ち位置でしたよね」

作「そういやアイツらの話してるんだった。まあアレだ、いわゆる引き立て役ってやつだ」

I「ずっと奉仕部に居ると、わたしの可愛さが目立ちませんからねー」

作「まったく…顔面偏差値高すぎるんだよな。ぽっと出の小学生が一番可愛いとかおかしいだろ常考」

I「いま聞き捨てならないロリコン発言があったような…」

作「作者にとっての本物はいろはす、ガハマちゃん、ルミルミだからな」

I「ちょ、多くないですか!? わたしだけじゃないんですか?」

作「お前がくれたもの、全部って事さ♪」

I「パクるのやめて下さい。ってかあげてませんし、そのドヤ顔はどっからくるんですか?」

 

作「しかしモブップルの二人よ。デートの時にヘイトが集まるのは分かりきってたけど、まさか挽回するチャンスが来るとは思ってなかったぞ」

I「犯人のお仕置きについては、あんまり具体的なコト考えてなかったんでしたっけ?」

作「そうそう。普通に逮捕されれば十分かなって。けど読者さんの憤りが思った以上に強くてね。あのままノータッチだと突っ込まれそうだったから慌ててねじ込んだ」

I「わたしがあんな目に遭ったんだから当然じゃないですか。むしろ自分で仕返ししたかったですよ。何で止めたんですか」

作「お前泣いて感謝してただろうがよ! つか、あそこはめっちゃ露骨に伏線張ったのに『ファンタジー展開萎えた』って低評価食らってほんと参ったわ。メインキャラの手を汚させずに報復するってのは難しかったんだぜ?」

I「そうですか? わたしかなり汚されちゃった気がするんですけど…」

作「ヤンデレは萌え属性! だからノーカン! ノーカン!」

I「逆ギレとかどこの班長ですか」

 

◇◇◇

 

I「えーとお次は…わわっ、"いろはの恋愛について"だそうですよ♪」

作「あーうん。まあぶっちゃけそんなに難しい話じゃないんだけどな」

I「ぶぅ…なんでそんなテンション低いんですか…」

作「長々とやったけど、勝因はシンプル。自分から告って流れで押し切ったからだ」

I「ええー。それ、ストーカー関係なくないですか?」

作「だってそっちはいろはすが惚れるための仕掛けだし。なし崩しだろうとなんだろうと、押しまくった子が未来を勝ち取ったんだよ」

I「それだけ聞くと、とてもヒロインの所業とは思えないんですが…」

作「だって作者、別にいろはすのこと女神とか思ってないし。普通の女子だと思ってるし」

I「それにしたって、ズルをズルとも思わない、みたいな言われ方は心外ですよー」

作「いや、むしろそこにこそ他の二人といろはすとの違いを感じて欲しいね。誤解を恐れずに言っちゃうと、いろはすだけが肉食系なんだよ」

I「あ~…それは否定しづらい部分が…」

作「原作いろはすって後発キャラだし、シナリオ的にも背中を押す役割を課せられてるじゃん? もしもそういう制約無視して性格のまま自由に暴れさせたら、妹キャラへの壁がやたら薄い八幡は押し切られて終わるんじゃないの? てか、作者なりに暴れさせた結果がまさにこれなんだけども」

I「褒められてるはずなのになーんか素直に喜べないですね…」

作「だからいろはすが惚れてさえいれば、あの展開は自然な事だと思ってるんだよ。となると、あんなのに本気で惚れるって不自然さを消すことの方が大変でしょ? だから敢えて本命葉山の状態から始めて、あそこまで大掛かりな仕掛けを施し──」

 

◇◇◇

 

I「えー、お次のお題。"タイトルについて"ということですが…」

作「ひょ、ひょっと待っへ…おー痛ぇ……」

I「あっれー? どうかしたんですかぁー?」

作「くそう…作者にのみ許された奥義"シーン切り替え"をマスターしやがって…だが編集の圧力には負けないぞ! 訴えてやる!」

I「はいはい、ちゃっちゃか進めて下さいねー。んで、タイトルですが」

作「なによ。タイトルに何か文句あんの?」

I「末尾のマルが足りないんですが。原作ちゃんと読んでますか?」

作「…そ、それは句点を除くことで未来へ続くイメージを持たせるために──」

I「つけ忘れたんですよね?」

作「……はい」

I「いつ気が付いたんですか?」

作「完結イラストにタイトルを書き込んでた時、です…」

I「ホントに最後の最後じゃないですか!」

作「だって誰も突っ込んでくれないからぁ…(メソメソ」

 

I「まあマルはともかく…単純な割にかなり重めのタイトルですよね。一つ間違えると名前負け感がハンパないっていうか、ギャグでは済まされない空気というか」

作「名前だけだと完全に没個性なのは認める。でも面白ければタイトルなんて何でもいいだろって思って、仮題くらいのつもりで始めたわけよ」

I「危なっかしいですねー。二次創作じゃなきゃ手に取って貰えないパターンですよ」

作「だな。結果的に高評価を頂いた今でこそ逆にタイトルの重みが光ってくるけど、最初は『はいはい本物厨乙』って思われてたと思う」

I「事実、読み始める前はそう思ったって感想があったくらいですしね」

作「作者は理詰め派だからストーリーの組み立てとか辻褄合わせは得意な方だけど、とっぴな発想力ってのはさっぱり無いんだわ。巷のラノベだって殆ど編集さんが考えてるんだろ? いっそ誰か良いタイトル付けてくれとすら思ったね」

I「ま、シンプルですけどきちんと結論つけて完結してますし。少なくともタイトル詐欺ではなかったんじゃないですか? 完結してますし」

作「そこ大事よな…完結してなかったら即死だったZE☆」

 

I「ところで…この妙なサブタイの付け方、どういうルールなんですか?」

作「本編のフレーズから意味深なものを拾ってくるんだよ。『庶民サンプル~』なるラノベのサブタイがやたら面白かったんで参考にしたんだが、他にも同様の手法を使ってる作品があるかもな」

I「あー、それで序盤はみるからにネタっぽいんですねー」

作「うむ。ゼロから考えるよりかは楽かもって思って。けど、思わせぶりかつ読んで納得のサブタイなんてものは、いっそゼロから作った方が遥かに楽だと後悔するハメになった」

I「それにこれ、サブタイからいまいち内容が見えないんですけど。読み直ししにくいったらないですよ」

作「大丈夫、作者もよくわかんないから」

I「なるほど。つまりPV稼ぎのための姑息な罠なんですね」

作「異議あり! 作者は総合UA以外のアクセス数を、あんまり気にしていない!」

 

I「サブタイと言えばエピローグですけど。あれ、有名な歌からパクってきましたよね?」

作「パクリとか心外~。実はその歌、詳しくは知らんのよね」

I「知らないくせにラストに使ったんですか」

作「そのフレーズが何度も繰り返される歌だから、ハンパに覚えてたんだわ。それっぽい感じ出てたでしょ?」

I「あのサブタイ、さいしょ見たときにビビっと湧いてきましたよ」

作「あ、湧いちゃった? 作者へのリスペクト湧いちゃった系?」

I「いえ殺意が」

作「ホワイ!?」

I「だってあれ『二股された女の子の失恋ソング』ですし」

作「(白目」

I「一応聞いておきますけど、もちろん他意は──」

作「ないないないない! マジで知らんかった! つか10年後も幸せENDだろ!?」

I「…ふん、まあいいです」

作「ハアハア…ちょっと! 誰かこの包丁片しといて!」

 

I「まあタイトルはともかく、内容はすっごくすっごくよかったです!」

作「そりゃお前さんはそうだろうよ…。鬱展開の頃にハッピーエンドを盾にして批判を凌いでたから、半端なオチだと炎上しかねないと思ってね。短いけど本編以上に気合入れて書いたわ」

I「実際、キスして終わりだったら許しませんでしたけどね。大体そんなの作中で何度もしてましたし」

作「あれ美少女じゃなかったら逆レ〇プだからな? 可愛く生んでくれたオカンに感謝しろよテメー」

I「ああそう、可愛いと言えばやしろですよ! なんですかあの天使、ちょお可愛いんですけど! さすがわたしの娘!」

作「可愛い奥さんとその娘…全男子の憧れやな。なお既に小悪魔化が始まってる模様」

I「ちなみにやしろって名前にはどういう意味があるんですか?」

作「作中では使わなかったけど、実は漢字で"八色"と書くのだ。…というより、『八色』という文字を眺めてて思いついたというのが正しいな」

I「おおー!? その伏線は驚き──いやいや、それだとやしろって読めないですよ?」

作「語感優先だからいいの。でもゴリ押してるのは一音だけだから、あんま違和感なかろ? あと"いろは"の娘だから絶対和名にしたかったし、"お社"を連想させるから八幡という単語との相性もバッチリ。我ながら完璧だと思ってる」

I「言われてみるとこのカップリングにおける最適解のような…けどやっぱり、字面が安直すぎません?」

作「まあ作者もさすがにそう思ったから、あえてルビとか使わずに平仮名で通したんだよ。でも表札とかに家族並べてひらがなで書いたら、かわいいと思わん?」

I「それは全面的に同意ですね──って…だからそういうアフターを書いてくださいって話ですよ! ぜんぜん行けそうじゃないですか!」

作「でもこれ、離婚していろはすが引き取ったら"一色八色"になっちゃうな。ソートボタン押したら"九色"になっちゃいそうww そういうのでもいい?」

I「──作者さん…前々からわたし、乳首って男性には必要ないと思ってたんですよ…」

作「オォイ包丁片しとけって言ったろおお!?…ヤメッ.イタッ…」

 

◇◇◇

 

I「じゃあ最後に──今後の活動について、だそうです。大学生編はいつ始まるんですか?」

作「書かねーっつってんだろこのアマ(#^ω^)」

I「せめて短編くらい書いてくれてもバチは当たらないと思うんですが」

作「強いて言うなら、本編の別視点バージョンってのが一番負担少ないとは思う」

I「あ、それいいじゃないですか! わたしも出番足りませんでしたし。ザッピングにした甲斐がありましたね。あと三週はいけますよ」

作「あのなー。『限界効用逓減の法則』って聞いたことない?」

I「えっとー、DTほど女の子に夢見がち──みたいな話でしたっけ?」

作「嫌な例え方すんなし…大体合ってるけどね…」

I「お願いですよー。 社会人編とかでもいいですからー」

作「高校や大学はともかく、社会人は大変だぞ。経験してない職業はリアルに書けないからな。作者ベースにすると、『なるな!SE』みたいな話に…」

I「うーん、さすがにそれは読みたくないです…」

 

I「じゃあ次は別の作品ですか。何かアイディアは出てるんですか?」

作「艦これモノでまともなプロットがほぼ出来上がってるし、今からだと一番とっつきやすいんだけど、いい加減ジャンルが下火気味なのがネックだなー」

I「それでも読者数は当ジャンルの三倍くらいありますし、今もすごい人気作が連載中ですよ」

作「うむ。今はアズレンが台頭してきてるが、二次創作への掘り下げは艦これの方が向いてる気がする。まだまだいけるはずだ」

I「けど作者さんって所詮はvita提督ですよね。そんなにわかで大丈夫ですか?」

作「もともと情報量少ないし、ネットで調べればいけるんじゃね? あとは川内型への愛で何とか!」

I「えっと…いきなりそんなカミングアウトされてもゴメンナサイとしか…」

作「べべべ別に声だけで選んでるわけじゃないし! つか一番好きなの金剛さんだし!?」

I「へーそーなんですか。…ところで作者さん、この最速駆逐艦と種付けおじさんの手書きラフなんですけどー(ペラリ」

作「何で捨てた筈の落書きアナタが持ってるんですかねえ!?」

I「もしもしポリスメン?」

作「ダッ」

 :

 :

 :

I「おかえりなさーい♪」

作「くそう長引いた…人の描いたモン猥褻物扱いしやがって…。何が単純所持だよ。男はみんな頭の中に秘密の本棚持ってるっつーの」

I「そのラインナップは聞かないでおいてあげますね」

作「あざっす!」

I「…やっぱりわたしの声に欲情してません?」

作「そんな事実はない」

I「まあいいですけど…それより、ちょっと前には"りゅうおうのおしごと"で書きたいとか言ってませんでした?」

作「あ~そうそう。姉弟子のツンデレが可愛くてさぁ~」

I「…ぜったい声で選んでますよね?」

作「姉弟子っつってんだろうがぁあ! こちとらキャスト決まる前から読んでんだよ!」

I「ならCVが決まったときはどう思いましたか?」

作「神はいませり(*´Д`)」

I「まあ何を書くかは気分次第ってことで。期待しないで待ってますね♪」

作「ふっといてスルーすんなし。でもその通り。面白い作品があったら教えて欲しいもんだね」

 

◇◇◇

 

作「ふー、もういい時間だな…。お前さんそろそろ上がった方がよくない?」

I「わたしは大丈夫です。今日は先輩の部屋に泊まる予定なので。ここからすぐですから、オールでもぜんぜんオッケーです♪」

作「ざけんなww こっちは全然オッケーじゃねえし明日も仕事だし! ほら立って。つか、お前は酒飲んでないんだろうが! グデッとすんな!」

I「まだまだこれからじゃないですかぁ~。あ、トリカラ頼みましょー、トリカラー」

作「あっバカ! この時間にそんなん食ったらおっさんは大変なことになるんだよ! だからお願い、もうやめて!」

 :

 :

 

 

☆END☆

 



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