漫画家の兄と小説家の弟 (高木家三男)
しおりを挟む

兄と弟

バクマン。の二次作品が見つからなかったので自分で書きます。
チョイ役からガッツリヒロインまで色々クロスする予定です。
ジャンプ以外の少年誌、青年誌について、また、同人誌やアニメとそれ以外のメディアミックスについても書けたらいいなと思っています。


 その日は、いつも通りの一日だったように思う。

 

 たぶんいつも通りに朝起きて、朝食を食べて、弟と一緒に学校に行った。

 クラスメイトと昨日見たテレビの話なんかをして、家で親から習ってもう知ってることを学校で勉強したんだと思う。

 

 授業の細かい内容なんかは流石に覚えていない。

 当時のクラスメイトも仲の良かった奴ら以外はすぐに思い出せない。

 人間の記憶なんて曖昧なもんだな。

 ある部分を超えると特別なこと以外、何があったかなんてほとんど忘れてしまう。

 

 曜日と日付は、どうだったっけな。

 家から帰ったら弟とコロコロコミックを買いに行ってたから多分15日。

 兄貴がジャンプを買って中学から帰ってきたから月曜日。

 マンガを読んで、晩飯を食べて、風呂に入って、それで寝た。

 

「それじゃ上司の責任かぶって首にされたのと同じじゃない!」

「仕方ないだろ、俺の上司なんだから……」

 

 ふと目が覚めてトイレに行こうとしたら、母親が喚く声を聞いてしまった。

 親父が銀行をクビになったのを知った。

 次の日から、俺の、いや、俺達の生活は一変した。

 

 

 

 

 今日は、何でもない夏休みの一日だけど、特別な日だ。

 

 昨日、初めての作品が完成した。そして、今日、初めて持ち込みをした。

 編集部に向かう途中、『サイコー』に俺がマンガ家を目指す理由になった話をした。

 あんまり細部を覚えていないのが気になったから、帰ってから調べてみたらITバブルが崩壊したのが2001年だということが分かった。だから、多分あれは俺が小2のときのことだ。

 

 その年、俺はまだちょっと勉強ができるただのマンガ好きの少年だった。

 まだ何ものでもなく、何かになれるかどうかも分からなかった。

 何になりたい、いや、何になると決めることすら、できていなかった。

 

 親父が長いローンを組んで建てた家からはリストラのその翌月には引っ越した。

 学校こそ変わらなかったけれど、今も住んでるボロくて安いアパートが新しい家。

 幸い、母親が高校教師で共働きだったから家のローンのことを除けばすぐに金に困ることはなかった。

 ゲームはあんまり買わなくなったけど、古本屋で昔のマンガをセットで買ったりするようになった。生活のレベルもそれほど下がったようには思わなかった。

 

 その頃からかな。弟が母親に代わってメシを作るようになったのは。

 双子だからまあ見た目はそこそこ似てるんだけど、趣味嗜好はだいぶ違う。

 俺はメガネをかけてるけど、あいつの視力は2.0以上。

 俺はスポーツはマンガで十分などっちかというとインドア派だけど、あいつは親父が会社をクビになったあともテニススクールにずっと通ってるし、小学校の頃はサッカーと野球の地域のチームに入ってたし、夏休みは ほぼ毎日無料開放される学校のプールで泳いでた。

 俺はクラスの中心にいて騒いだり盛り上げたりが好きだったけど、あいつは休み時間いつもノートに絵を描いたり本を読んだりしていた。

 

 

 

 父親もかなり条件は悪くなったみたいだけど何とか失業手当が切れる前に再就職してサラリーマンを続けてる。

 私立中学を目指すのは金銭的事情からなくなったけど、その分、母親は俺達兄弟に勉強をさせた。

 それまでみたいに、土日だけ2,3時間といった塾の代わりなんて甘っちょろいもんじゃなかった。

 平日は母親の仕事が終わって、弟が作ったメシを食べた後、毎日夜7時から10時位まで。

 休日も最低6時間は勉強させられてた。

 

「あっちゃん達がお父さんの仇とってね……」

 

 そんな風に泣きながら勉強を教える親って、どれくらいいるんだろうな。

 まあ、ちょっとずつ世間のことも見えてきて、無理やり勉強させられるのも嫌になった。

 

「僕はお母さんの道具じゃない! 自分の将来は自分で決める!」

 

 机の上に広げてた参考書や筆記用具をぶちまけて、ノートをビリビリに破いた。

 椅子をまだ細い小学生の腕で持ち上げて、机を思いっきりぶっ叩いた。

 運良く窓ガラスは無事だったけど、勉強机についていた蛍光灯はあっけなく割れた。

 気が付くと涙はもう枯れていて部屋の中はボロボロだった。

 母親は呆然とした顔で立ちすくんでいて、弟は、あいつは、何故か少しだけ嬉しそうだった。

 

 それが、小5の頃の話。

 俺はそれからマンガの原作者になることを決めた。

 図工だけ通知票はいつも3。絵が壊滅的なので、話を作る一本で行こうと決めるのにそれほど時間はかからなかった。

 片っ端からマンガを読みなおし、学校帰りや休日には古本屋や図書館に入り浸った。

 弟は絵はうまかったけれど、学年に一人いるレベルだった(石沢なんかよりよっぽどいいけれど)。

 俺の求めるレベルにはちょっとまだ足りない。

 何より、テニスを俺から見たら信じられないくらい熱心にやっていたから漫画を描いてくれとは言えなかった。

 

 俺は作文や読書感想文といったものがあれば片っ端から応募するようになった。

 評価する人間が求めているものは何なのか、必死で考えて、分析して、書いた。

 文部科学大臣賞を取った小6の夏には、数万円分の図書カードを貰えるまでになった。

 

 ふと気づくと中学に入る頃には、弟はノートに絵を描くのをすっかりやめていた。

 

 

 2008年8月29日。

 俺、高木秋人と真城最高の最初の作品、『ふたつの地球』をジャンプ編集部に持ち込んだその日。

 

 サイコーと駅で別れ、自宅に戻ってからボーっとして、そのまどろみの中で懐かしい夢を見た。

 ネットでだらだらと昔のことを調べていると、キュッという甲高い音が外から聞こえる。

 出かけていた弟が、アパートの駐輪場に自転車を止める聞き慣れたそれ。

 トツトツと小気味よい、古びた階段を登ってくる足音。

 そして、玄関のドアを開けて弟が帰ってきた。

 

「アニキ、ただいまー」

「んー、おう」

 

 脱いだスニーカーを下駄箱に入れ、自転車の鍵をその上に置かれた缶の中に入れながら話すあいつに俺は曖昧に返事する。

 

「風呂沸いてる?」

「あーごめん。まだだ」

 

 弟はいつも通り。いや、どこか少しだけ嬉しそう。気のせいかもしれないけれど、そんな感じの声色だった。

 

「分かった。今からでいいから沸かしてきてよ。向こうでシャワー浴びたけど汗かいたからさ。その間にメシ作る」

「今日の晩飯なに?」

 

 ガチャリと冷蔵庫のドアを開け、一通り中身を見渡した弟は、常備してあるスポーツドリンクを口に少しだけ含んで飲み下す。

 

「ああ、生姜焼きにする」

「オッケー」

 

 弟がテニスバッグを肩から降ろし、着替えを洗剤と一緒に洗濯機に入れそれが回り始めるのと入れ替わりに、俺はPCを閉じて立ち上がり風呂掃除に向かった。

 

 

 

 一時間後。風呂から出た弟と、俺は二人で食卓を囲んでいた。

 今日の夕食はごはん、わかめと豆腐の味噌汁、生姜焼きと付け合せにキャベツの千切りにトマト。それに焼きナス。

 相変わらず、弟はよく食べる。ご飯茶碗は弟のだけどんぶりだ。運動で消費した分をしっかり摂取している。運動と食事のおかげか、双子のはずなのに身長は弟の方が4,5cmは高い。肩幅も弟の方が広いし、腹筋はキレイに割れている。

 

「大会は終わったんだろ? 今日もまた練習だったのか」

「うーん、ちょっと違うんだけど。この前の大会で知り合った女子のヒッティングパートナー頼まれてさ」

 

 中学三年の夏の最後の大会。部活に入っていればそれなりに期すものもあるのだろう。まあ、弟のやっているのは中学には珍しい硬式テニス。部活ではなく地元のテニスクラブとしての参加だ。勝手は多少異なる。

 

「へえ、珍しいな」

「凄い強くなると思うよ。あの子」

 

 どこかの人間離れした王子様たちとは違い、相手を吹き飛ばすボールを打ったり分身はできない。

 ファンタジーはないけれど、漫画家になるのと少しだけ似ている。才能と、努力と、運。そしてそれこそが現実世界のスポーツだ。

 

「ふーん。……プロになれるくらいに?」

「うん。きっと、あの子はプロになると思うよ」

 

 前回の大会ではナバエとかいう奴にこそ負けたけれど全国大会二位の弟がここまで言うなんてよっぽどのことだ。

 何と言っても、テニスにそれほど興味のない俺や親ですらテレビで一回くらいは見たことのある、天才少年、池爽児と国内の同年代で唯一互角の勝負をしたのがこいつだ。

 

 降って湧いた女の子の話に、俺は少しからかってやろうと思った。

 その子は可愛いのか、なんて聞こうとした矢先。

 

「今日はっきりしたよ。俺は、もうプロを目指さない」

 

 あいつはいっそ晴れやかな顔でそんなことを言ったのだ。

 

 

 

 俺がマンガ原作者としての一歩を歩み始めたその日。

 弟はプロテニス選手になることを諦めた。

 




次回から弟(オリ主)視点。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

転生と現世

 直径6.5cm強の黄色い硬球を追う。

 無風のコートは砂入りの人工芝で出来ていた。

 日本にいるというよりも、地中海のどこかの島のように空気は固く乾き張り詰めている。

 あまりにも乾きすぎて、砂漠の砂のように摩擦がなくなってしまうのではないかという感覚。

 しかしほとんど限界まで鍛え上げた身体と、しっかりと手入れをしたシューズによってそんな妄想はいとも容易く打ち払われる。

 

 

 池爽児が走る。

 じゃじゃじゃっとコートを蹴る音を聞く。

 ストロークの体勢に入る。

 見るたびに、いや、この試合の中ですらあいつのフォームは洗練されていく。

 次の打球の軌道を予想する。

 およそラリーとは思えない厳しいコースに、ボールが来るのを幻視する。

 ラケットがボールを叩く音を聞く。

 

反応・反射・音速・光速

 

 縮めることで力を溜めていたバネを解き放つように、走るというよりも飛ぶイメージでボールを追う。

 無酸素の呼吸。息は吸えずにただ吐き出すだけ。何十万回と振った腕はただ意識せずにイメージ通り飛んでくるそのボールを打ち返す。

 まだあいつの追いつけない場所にボールは一度だけ弾み、後ろの金網に突き刺さるように滑っていく。

 

「ゲーム高木。カウント6-4。ファーストセット」

 審判のコールの後。一瞬の沈黙。

 歓声がうるさい。

 

 

 

 デスノートの所有権を放棄した夜神月が記憶を取り戻した時のように、

一瞬で前世の記憶が戻ってきたというわけではなかった。

 赤ん坊のまっさらな脳みそには、発達が不足して受け入れることが難しかったのだろうか。

 俺は現世の俺でありながら成長と合わせて、ときに夢にみるように、ときに思い出すように、ときに意識せず前世の記憶を取り戻していった。

 前世最後の記憶はトラックに引かれたとか隕石がぶつかったとか、通り魔に刺されたとかそういったこともなく、ただ普通に眠っただけ。

 当然ながら、何が原因で生まれ変わったのか今更確かめようもない。

 

 

 

 記憶がだいぶ戻って自分を自分としてはっきり認識できるようになったのは幼稚園のころ。

 小さい頃から身体を動かしたり何かしたほうが良いと気づき、最初は色々とスポーツをしようと思った。

 といっても幼稚園児はまだまだ親の庇護下にある。熱心な親は子供にピアノや水泳をやらせていたが我が家、高木家はそうでもなかった。5つ離れた兄が地域のチームで週に1度バスケをやっているくらいのものだ。それも小学4年生から。サッカーなら小学1年生からできるチームがあるみたいだからそれをやるくらいしか選択肢はないかもしれない。

 ただ、母親が高校教師だったので双子の兄、秋人と一緒に就学前から色々教わってある程度勉強が出来てもおかしくない下地は貰えた(6歳児に割り算まで覚えさせるのはちょっと気が早いようにも思えたが)。まあ、何にせよ図書館に行ったり5つ年の離れた兄のマンガを読むのが不審がられないのは助かった。

 

 

 

 何回か図書館に行くうちにいろいろと調べた。

 もともと神様みたいな良く分からない存在に転生させてもらったという記憶はないし、自分の死生観・宗教観としてもちょっとそれは信じがたい(まだ思い出せていないだけで本当はそういった超常的な存在に転生させられたという可能性はゼロではないが)。

 この世界は前の世界と同じような、自分の転生以外に特に不思議のない世界だということは薄々気づいていた。

 ただ、やっぱりちょっとした期待はあったわけで、その可能性を見つけられなかったときは多少落ち込んだりもした。

 

 魔術や魔法があるんじゃないかと思って『冬木市』『三咲町』『海鳴市』や『麻帆良学園』を地図から探したがなかった。他、思いついたものでは『空座町』『杜王町』『見滝原市』『米花市』なども調べたが存在していない。

 親のいない隙を見計らい、勇気を出して前世の実家に電話をかけてみたが、使われていない番号だった。

 少し残念だが、ホッとした。どうやら、この世界は前世によく似た単なるパラレルワールドのようだとそのときは思った。

 

 ドラえもんなんかはそもそもアニメとして現世でも存在していたし、他、前世で起きたことをすべて知っているわけではないが歴史や有名人物に関しても変わりないように思う。

 

 ちなみに、自分の住んでいるのは埼玉県谷草市。東京からほど近い、足立区の北あたりにあるそこそこ栄えた都市だ。さいたま市がないのは不審に思っていたが父親がリストラされた2001年に県内では合併によりさいたま市ができている。他、春日部市、所沢市、越谷市など知っている地名はそのままあった。谷草市というのは聞いたことがなかったが、前世は神奈川出身で高校卒業後、大学と就職後は東京で過ごしていたのでおそらく自分が知らないだけで存在していたのだろう。

 もちろん、図書館では車いすに乗った関西弁の小学生に会うことはなかったのは追記しておく。

 

 そして、4歳のある日、マンガ好きの双子の兄と共に本屋へコロコロを買いに初めてのお使いに行ったその日の夕方、俺はその事実に気づいた。

 

 6時半からのアニメ。新番組『超ヒーロー伝説』だと……。

 ここ、『バクマン。』の世界じゃねーか!

 

 

 多少取り乱して双子の兄、秋人あらためシュージンに不思議がられたものの、まあ、『バクマン。』の世界なら特に文句はない。

 前世で読んでいたマンガも結構な種類をまた読める。いずれ兄、シュージンと相棒のサイコー、亜城木夢叶が描くマンガも読んでみたい(特にPCPが面白そうだと思う)。

 ラッコ11号も気になるマンガだし、天才新妻エイジの作品も是非見てみたい。

 

 そう思っていた。

 

 漫画家になる気はなかったが、せっかくなので幼稚園では運動する他はひたすら絵を描くことばかりしていた。

 精神年齢的に周りには中々馴染めなかったが、手先の器用な物静かで手のかからない子供として見られていたようだった。

 

 そんなある日、俺たちは父親に連れられて家族で出かけることになった。

 もともと仕事人間の母親と父親だ。残業は多いし、コミュニケーションがそれほど得意というわけではない。上の兄は長男らしく真面目だが年の少し離れた弟が二人いるせいか面倒見は良いタイプ。シュージンはそれを反面教師として育ったのかよく喋る子供に育った。

 行く先を教えられぬまま家族五人で向かったのは巨大な照明に彩られたスタジアムだった。

 

「取引先の人からチケットを貰ってね。今日はサッカーの試合を観に来たんだよ」

 

 上の兄は物珍しそうに当たりを見回し、シュージンはすげーすげーと言いながら目を輝かせている。

 そして、試合開始前、チーム名とスターティングメンバーが読み上げられた時、俺は混乱に陥った。

「イーストユナイテッドトーキョー! 背番号7! タツミー! タケシー!」

 スタジアムが、文字通り揺れた。

 ジャイアントキリングだと……!?

 

 

 何が何だか わからない

 

 

 俺の心境をこれほど的確に表現した言葉もないだろう。

 『バクマン。』の世界だと思っていたらサッカーマンガ『GIANT KILLING』の世界だった。

 その後サッカーについても調べてみたが、どうやら将来的に達海猛が監督を務めるETUが存在する以外は前世のサッカーとそれほど大きな違いはない。

 

 いや、一つ大きな違いがあった。

 

 この世界には中田英寿が存在しないのだ。

 前世ではちょっとサッカーをかじっていたこともあり、中田の存在くらいは知っている。

 いや、正確には、実在の人物としては存在しない、が正しい。

 この世界の週刊少年サンデーで連載されたマンガ『ワールドカップ』に登場する主人公、架空のサッカー選手としてのみ中田は存在している。

スポーツに凄く詳しいわけではないが、幾つか調べた所、数件同じような例が見つかった。

 高校生まではピッチャー、プロ入り後は外野手というマンガとしては珍しいキャラクター、イチローを主人公とした『No.51』、女子卓球という他にないジャンルで成功した作品『バンビ』の主人公は福原愛。

 他にも幾つかあるが有名所ではそんなところだ。

 

 多少悩んだが、もともと転生について誰かに話すつもりはないし、誰かが解決してくれるわけでもない。

 俺は、現実だとか創作物だとか、前世だとか現世だとか考えるのを辞めることにした。

 

 夕食後、リビングで団欒しているとテレビからどこかで聞いたことのある音楽が聞こえた。

「1995年のヒット曲チャートNo.1は日高舞で『ALIVE』でした。デビューのファーストシングルから5連続ミリオンを達成したこの曲を最後に彼女は電撃引退を発表。当時の芸能界に衝撃を与えました」

「もう5年も前になるんですねぇ。あれから舞さんに匹敵するようなアイドルはまだ生まれてません。もっと彼女みたいなアーティストが出てくると我々としても嬉しいんですけれども」

 司会の女子アナとサングラスにオールバックの小柄な男性が一言二言喋ると、当時の楽曲と映像が終わる。

 

 次はアイドルマスター?

 わけがわからないよ……。

 

 そういった経緯があって、俺はもう驚かないようにもう一度少しだけ考えることにした。

 一応の結論としては、「この世界は前世に似たファンタジーのない世界でありながら、複数の創作物が混ざった世界である」ということだ。

 まあ、ここからいきなりがっこうぐらしとかアイアムアヒーローみたいなゾンビものになられても困る。頭と身体はこまめに鍛えているおかげかかなりスペックが高くなりそうだが、どんなに頑張っても精々がオリンピック選手、つまりは人間の範疇でしかない。

 それならもしものときのことは考えずに、使える部分だけ上手く使って普通に生きればいい。

 実際に関わることがあったとしてもスポーツでプロを目指すとか創作物に多い高校での部活が一緒になるくらいじゃないと特に問題はない。

 

 

 

 小学校にあがり、何か一つメインでやろうと考えたスポーツに関してはテニスを選んだ(青春学園がないことは確かめてある)。

 サッカー野球に比べるとマイナーで多少お金はかかるが一人で通える近くにそこそこ強いクラブチームがあることが親を説得する材料で、自分としてはチームで動くスポーツは精神年齢の違いから合わせることが難しくなる可能性があるし、中学・高校での体育会系の上下関係が好きになれないという理由が本音だった。

 水泳や陸上も考えたが、近くに環境がなかった。その上、俺の誕生日は双子の兄シュージンと同じ早生まれの1月25日。技術でカバーできる部分よりも肉体的な才能の差が小学校では特に大きいこともテニスを選んだ要因の一つとなった。

 

 

 そんな理由で始めたテニスも、少しずつ慣れていくにつれて俺はどんどん好きになっていった。

 他の小学生にはない、一見地道な基礎練習がとても重要なことを知っている俺のアドバンテージは大きい。

 毎日たった30分、ちょっと頑張って1時間練習するだけでこの歳の子供は技術を身に着けていく。

 衛星放送などを録画してプロの試合を見ることも欠かさなかったし、成長を妨げないよう筋トレは控えて水泳で心肺能力を鍛え、ケガ対策に毎日しっかりストレッチをした。

 テクニックや幼いころから始めたものにしか身につかない独自のボール感覚などを武器に、俺はどんどん強くなっていった。そして、強くなればテニスがもっと好きになる。好きになれば練習が楽しくなり、うまくなった結果さらに勝てるようになる。

 父親のリストラの後も、住む場所以外の生活レベルは変わらなかったのでテニスを続けることができたのは嬉しかった。栄養をコントロールして成長に活かすため、夕食は自分で作れるようになったのも手間がかかる以外はプラスになった。

 

 学校と母親に勉強を教わる以外の大半の時間をテニスに捧げていた。学校の勉強は流石に飽きていたので分からないように図書室で借りてきた本を読んだり絵を描いたりしていた。

 

 

 

 シュージンが母親にキレてしまい、両親が放任主義になった小学5年の年、埼玉のジュニア大会であいつに当たった。

 

 井出義明。

 俺と同じ早生まれで、そして体格はそれを差し引いてもやや小さめ。

 技術的に特筆するような凄い点はないが、ミスを恐れず挑戦する攻撃的なテニスの元になる強靭なメンタルと抜群の体幹・ボディバランスの良さ。

 周囲の環境すべてを味方につけてしまうような、生まれついて持った人を惹きつけるような何かがこいつにはある。

 県内では小5の頃から、埼玉の県大会ではほぼこいつ以外にライバルといえるような存在はいなかった。

 

 

 そしてこいつは、テニスマンガ『ベイビーステップ』の登場人物の一人だ。

 

 

 さすがに、4度目ともなれば驚くこともない。

 原作の主人公エーちゃんは高校からテニスを始めたし出てくるのはまだ先だ。

 あるいは何かの行き違いで出てこない可能性すらある。

 だが、そんなことはどうでも良かった。

 この時の俺はテニスがすっかり好きになっており、強い相手と戦ったり、もっと上手くなれることが楽しくてしょうがなかったのだ。

 超次元サッカーとかテニヌとかそういったジャンルではない、現実にありうる範囲のテニスこそを俺は愛していた。

 

 

 

 井出に気づいたこの年、初めて出た全国大会でひとつ上の江川逞、同学年の緒方克己と出会った。どちらも原作で非常に強者として描かれているプレイヤーだ。江川とは組み合わせの関係で当たらなかったが見ているだけで強いのが分かったし、それ以上に2回戦で当たったこのときの緒方は信じられないくらい強かった。

 確か原作では中学に入って怪我をしていたと思うので、試合後、不審に思われない程度に普段どんな練習をしているか情報交換を行い、何気なくストレッチの重要性などケガ対策を説いておいた。

 全国大会に出るレベルのアスリートとしては実力や才能で負けるのは悔しいけれどまだ許せる。ただ、怪我を負けた言い訳にされたくないし、ライバルがいることはそれ自体が貴重だということも知っている。特に悩むこともなく、自分の口からするっと言葉が出てくることそれ自体が何となく嬉しかった。

 

 

 小6のときは12歳以下の全国準決勝で緒方にあと一歩のところで負けて3位だった。

 ただ、昨年よりは差が縮まっていることが確認できたし、来年はきっと勝てると確信できた。海外選抜にも内定が出てフロリダに行く予定だったが、おたふくかぜを引いてしまい、原作通り井出が代わりに行ったのは世界の修正力というやつなのだろうか。

 だが、公式戦では俺が井手に勝ち続けていたこともあるし、それほど気にしなくても良いのかもしれない。

 

 

 

 サイコーのおじさん、漫画家川口たろう氏に関しては悩んだがとくに何も出来なかった。同じ谷草市に住んでいるとは知っていても、具体的な場所は分からないし、病気ではなく過労での死亡というのも原作で明言されている。複数の世界が混ざったことによるバタフライ・エフェクトの可能性もあってこの世界でも彼が実際に死んでしまうかどうかが分からなかったからだ。言い訳になってしまうかもしれないが、小学生が関わるにはハードルが高すぎた。

 最も有力な案としてはサイコーと友人になり、漫画が好きという会話の中でおじさんのことを引き出し、遊びに行かせてもらうというものだったが、週4日はテニスクラブに通うのが当たり前だった俺には難しかった。

小学六年の2学期、同じクラスだったサイコーがおじさんの死による忌引で休んだということで、俺はその結果を知っただけだ。

 

 

 

 直径6.5cm強の黄色い硬球を追う。

 微風のコートは砂入りの人工芝で出来ている。

 台風が近づいている影響もあり、昨年と違い空気はどろどろと湿っている。

 それを切り裂くのは、俺のスタイルに近い野生の獣じみた池爽児のボールではない。

 

 こちらを分析し、罠を張り、機会を伺い、最も効率的な一点を狙い撃ってくる針のような鋭さを持った難波江優のボール。

 

 リアルを重視した漫画の中でも度々語られるゾーンという状態。

 その状態に俺は中学に上がってから頻繁に入れるようになっていた。

 6歳から始めた俺のテニスのトレーニング密度は世界中でもトップだと自信を持って言える。

 物理的なトレーニングだけが必要なのではない。3食の食事、立つとき、座るときの姿勢、エーちゃんほどではないがより強くなるために書き始めたテニスノート、朝夜のイメージトレーニング。漫画を読むことによるストレス解消。生きることすべてが俺のテニスを向上させてくれる。

 ハンターハンターでネウロ会長が至った『感謝』という概念はきっとこの先にあるものだという確信すらある。

 

 

 

 難波江優が走る。

 ギュッギュッとコートを蹴る音を聞く。

 ストロークの体勢に入る。

 お手本になるようなフォームのストロークであいつは構える。

 次の打球の軌道を予想する。

 きれいに積み上げられた古代建築のように計算された基部の一つとなるボールが来るのを幻視する。

 ラケットがボールを叩く音を聞く。

 

反応・反射・音速・光速

 

 どんなに考えても、それは結局のところ実現できなければ意味は無い。

 

「右ストレートでぶっ飛ばす」

「まっすぐ行ってぶっとばす」

 

 技術的な優位が相手になく、フィジカル的な優位がこちらにあるのであればそれが最も正しい選択なのだ。

 

 イメージは義経の八艘飛び。

 ボールに追いついた後は、もはや意識して腕を振る必要すらない。

 十二分に鍛え上げられたトレーニングにより染み付いた一連の動作は、ほとんど自動的に行なわれる。

 まだあいつの追いつけない場所にボールは一度だけ弾み、後ろの金網に突き刺さるように滑っていく。

 

 こんな光景をどこかで見たような気がする。

 ただ何となく分かるのは、去年、池爽児に逆転負けをくらったとき、あいつは何も考えていなかったのに対して、難波江優はこれを計算づくでやっているのかもしれないということだった。

 

「ゲーム高木。カウント6-3。ファーストセット」

 審判のコールの後。一瞬の沈黙。

 歓声はもう、うるさくない。

 

 

 

 去年、池爽児に負けたのは完全に才能の差だった。

 ゲームの後半になればなるほど、あいつは俺に追いつき、追い越し、目に見えて進化していった。

 

 

 

 2時間後。

 

「ゲームセット。アンドマッチウォンバイ難波江。カウント3-6。7-6。8-6」

 

 最後は泥沼に両足を取られているようだった。

 体力はもうすっからかんで、気力だけでコートの向こう側とこちら側を隔てるネットまで向かい、難波江優と握手をする。

 お互いにもう握力はほとんど残っていない。

 礼をした後、特に意識したわけでもなく全身から力が抜けた。

 からから、というラケットの転がる音。

 その場に大の字になって倒れ伏す。

 

 

 

 今年難波江優に負けたのは戦略と運の差だった。

 ひたすらじっと耐えるテニスを選び、短期決戦をかけた俺の猛攻を耐え切った難波江優の戦略。

 

 総合力、本来の実力で見れば完全に俺が上。

 ただ、運が難波江優にはあった。

 全国大会でのドローのクジ運。

 原作に出てくるプレイヤーとの5連戦によって決勝前に俺の体力はかつてないほどに消耗していたのだ。

 

 超攻撃的テニスの岡田、学年がひとつ下かつまだ原作で見た理不尽な環境で鍛え上げられてはいないが九州では圧倒的な戦績を残している神田、小学校の頃からライバルとして互いに競い合ってきたことで強くなった井出、選ばれた者の中で生き残った天稟・圧倒的なフィジカルを持つ荒谷。

 

 そして準決勝。

 

 中1のとき池爽児に勝利し、その数週間後に怪我で復帰に8ヶ月を要したものの復活した緒方克己。

 

 小学生の時、俺のしたアドバイスは正しかった。

 あいつの怪我は原作よりもはるかに軽く、回復も早かった。もちろん、全国クラスレベルに戻ってくるのも。

 

 池爽児を除けば俺が同世代で現在No1なのは間違いない。

 だが、これだけのメンバー相手に片手間で勝てるというわけではない。

どの試合も体力を温存することはできず、全力で当たらざるを得なかった。

 

 結果、10回戦えば最低8回は勝てるだろうはずの決勝は、難波江優に軍配が上がった。

 

 

 

 天を仰ぐ。

 

 そこに青空はない。

 2時間半に及ぶ試合によって、空はすっかりと雲に覆われていた。

 やがてぷつぷつと生温い雨が降り始める。

 

 審判が立ち上がるよう注意するのが聞こえる。

 

 まぶたの上が、雨の温さよりもさら温かく湿っていくのを感じる。

 

 イメージは灰。

 

 完全に焼け落ちた後の、ただ雪のように真っ白な灰。

 

 全身全霊を尽くした戦いの後には、ただそれだけが残った。

 




テニス回はあと2話。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

出会いと初恋

お気に入り100件突破ありがとうございます。
今回出てくるキャラクターは大学編で本筋に同作品で別キャラクターが一人絡む予定があったので、年齢設定は悩みましたがこれしかないなと思って決めました。


6時丁度に目覚ましが鳴る。

5時58分頃にいつも通り目が覚める。

ぼんやりとしながらアラームがなる前に目覚ましを止める。

朝ごはんとお弁当の準備をしてくれているお母さんにおはようの挨拶をする。

顔を洗って歯を磨く。

ジャージに着替えたらコップ一杯の牛乳を飲んでから家の前で準備運動をする。

後から出てきたお母さんと近くの公園までジョギングする。

告げられた今日の本数と距離でダッシュとジョグを繰り返す。

家に戻ったらシャワーを浴びて汗を流し、朝ごはんを食べて学校に向かう。

授業を受ける。

お母さんの作ってくれたお弁当を食べる。

授業を受ける。

家に帰って、お母さんの車でクラブに向かう。

今日の練習をする。

家に帰り、お風呂に入った後、お母さんに身体をストレッチしてもらう。

夕ごはんを食べ、学校の宿題をする。

寝る時間の10時半にはまだ少し時間がある。クラスメイトが話していたドラマを少しだけ見てみる。

クラスの子達は誰が格好いいとか、誰が誰を好きとかばかり話してる。でも、好きってなんだろう。私にはまだ良く分からない。

いずれ海外に出る時のために必要だと言われていた英語を勉強しておく。

10時25分になったのでベッドに入る。

 

 

 

6時丁度に目覚ましが鳴る。

5時58分頃にいつも通り目が覚める。

ぼんやりとしながらアラームがなる前に目覚ましを止める。

朝ごはんとお弁当の準備をしてくれているお母さんにおはようの挨拶をする。

顔を洗って歯を磨く。

ジャージに着替えたらコップ一杯の牛乳を飲んでから家の前で準備運動をする。

後から出てきたお母さんと近くの公園までジョギングする。

告げられた今日の本数と距離でダッシュとジョグを繰り返す。

家に戻ったらシャワーを浴びて汗を流し、朝ごはんを食べて学校に向かう。

授業を受ける。

お母さんの作ってくれたお弁当を食べる。

授業を受ける。

 

 

「なあなあ、清水さん。うちら今からマクドでテスト勉強するんやけど、一緒に行かへん?」

昼ごはんを一緒に食べているクラスメイトの一人に声をかけられた。

こっちの方が中学の間は環境が良いからとお母さんに言われて進学したけれど、どうにも関西弁には慣れない。

 

「あ、ええっと……。その、今日も、練習があるから」

 

「そうなん? テニススクールやっけ、部活とちゃうからテスト期間でも休みとかないんや? 大変やね~。ならしゃーないわ。また今度な」

 

そう言って、彼女は一緒に勉強しに行くという他のメンバーの方に向き直る。

どうしてか分からないけれど、私は急いで教室を出た。

 

 

家に帰って、お母さんの車でクラブに向かう。

今日の練習をする。

家に帰り、お風呂に入った後、お母さんに身体をストレッチしてもらう。

夕ごはんを食べ、学校の宿題をする。

寝る時間の10時半にはまだ少し時間がある。

大会で何日か学校を休む分、テスト勉強はしっかりしておく。

英語は普段からやっているので問題ない。あまり得意じゃない数学と理科を30分ずつだけやっておく。

寝る時間の10時半にはまだ少し時間がある。

 

 

放課後のことを思い出す。

 

いつからだろう。

周りの子達が自分より大人っぽく見えるようになったのは。

いつからだろう。

みんながスカートを短くしたり、簡単なお化粧をするようになったのは。

いつからだろう。

みんなが携帯電話を持つようになったのは。

いつからだろう。

男の子の視線がそれまでとは変わっているように感じるようになったのは。

 

可愛い服とか、休みの日はずっと練習だし。買っても着れないかな。

でも、雑誌くらいは読んでも良いかもしれない。

 

10時25分になったのでベッドに入る。

 

 

 

6時丁度に目覚ましが鳴る。

5時58分頃にいつも通り目が覚める。

ぼんやりとしながらアラームがなる前に目覚ましを止めようとする。

ホテルのそれはいつものと勝手が違って上手く止められない。

アラーム音で隣で寝ていたお母さんが目を覚まし、目覚ましを止めてくれる。

顔を洗って歯を磨く。

お母さんと一緒に30分ほど外でジョギングし、シャワーを浴びてから朝食のバイキングに向かう。

 

「今日は4回戦と準決勝ね。組み合わせ的には問題ないからいつも通りプレーすれば大丈夫。

昨日のうちに決勝で当たりそうな相手の試合は見れたから、試合が終わったらゆっくりしていてもいいわ」

 

バターをつけたロールパンをかじりながらうなずく。

お母さんは私の方を見て小さく息をついた。

 

「……そうね。もし時間があったら男子の方の試合を見てくると良いかもしれないわ。池爽児っていう子の試合。多分準決勝で江川逞という子と当たると思うけれど、いい刺激になるかもしれないから」

 

ああ、私は一応あなたの決勝の相手を撮っておくから。

予備のビデオカメラで池君の試合も撮ってきてね。

 

機械の苦手な私にとっては死刑宣告に等しい言葉に、思わず眉をむにゅっとひそめた。

 

 

 

準決勝で当たった中城さんは1年生にしては強いと思ったけれど、それほどうまいという感じはしなかった。

まだまだ一つ一つの技術が甘くて、ぎこちない動作が多い。

そういったほころびのつなぎ目をついていけばそれほど勝つのは難しい相手じゃなかった。

 

思ったより早く試合が終わったので、私は結果を運営に報告した後、池君のコートへ向かった。試合までまだ15分あったけれど、私の試合よりもずっと多くの観客が来ていた。

テニスバッグから縮めた三脚とビデオカメラを取り出す。

 

三脚を伸ばす。

……。上手くいかない。

三脚を伸ばす。

……。上手くいかない。

三脚を伸ばす。

……。上手くいかない……。

 

「おーい、アキ! こっちこっち!」

 

突然、前にいる人に名前を呼ばれて私はびっくりした。

思わず両手で握っていた三脚を倒してしまう。

 

「あ、ご、ごめんなさい……」

 

大丈夫大丈夫とメガネをかけた前の男の子が、倒れた三脚を私に返してくれる。

そして、テニスバッグを肩にかけた同年代にしては身長が高く、やや細身の、前のメガネをかけた男の子によく似た男の子がこちらに近づいてきた。

 

「お待たせ、アニキ。……ん? そっちの子は……。もしかして、清水さん?」

「……はい、そうです」

「ああ、ごめん。俺、高木文秋(ふみあき)。君の試合見たことあるんだ。俺は次の試合でこの試合の勝った方と当たるんだけどね」

 

プロ選手で有名な人とか雑誌で最近取り上げられている池君の話は何度か聞いたことがあったけれど、クラブで一緒に練習する人以外の男子選手なんて私は知らなかった。知らない男の子が私のことを知っているなんて、思わず顔が熱くなってしまう。

 

「アキが知ってるなんて、君、強いんだ?」

 

高木くんのお兄さんに聞かれたが、上手く答えられない。距離が近いというか、口調がナンパっぽいというか。悪い人ではないんだろうけど、なんだかこういう風にぐいぐい来られると思わず引いてしまう。

 

「ほら、そういう風に馴れ馴れしいのが駄目な子もいるんだって。ごめんね。この子は清水亜希さん。俺達と確か学年は同じ。お母さんが元プロで、清水さん自身も去年の全国でベスト16。今年の全国にも出てる。……あってるよね?」

 

お母さんのことまで知ってるなんて。日本ランキングである程度までは行っていたというのは知っているけれど、世界で有名な矢沢選手とかに比べると成績は全然だし、プレイヤーとしてはかなり前の選手なのに。

 

「お母さんを知っているんですか?」

「ああ、アキは……。あっごめん、呼び方が紛らわしいね。弟は、超が付くくらいのテニスバカでさあ。映像に残っていれば日本人選手の試合ならほとんど見てるんじゃないかな」

 

バカは余計だ、なんて高木くんはちょっとだけぶっきらぼうにお兄さんに言う。

どうしてだろう。さっきの話だと私と同い年のはずなのに。高木くんがずっと年上みたいに感じる。

 

 

 

少し話をした後、私たちは一緒に試合を見ることになった。

三脚とかビデオカメラとかを中々準備できない私を見かねたのか、高木くんが手伝ってくれたのだ。

 

「ありがとうございます」

「ううん、携帯とかならともかく、ビデオカメラとか普通は普段あんまり触らないから。機械に興味のない女の子とか使い方分からなくてもおかしくないよ」

 

すみません……。携帯も持ってません……。

そんなことは何となく恥ずかしくて口に出せない。

 

「たっ、高木くんは機械とか得意なんですか?」

「うーん、パソコンとかはもともと嫌いじゃないけどね。ビデオカメラなんかは練習でもよく使うし」

 

話を聞くと、どうやら普段の練習でも自分のフォームを確認するのに使っているらしい。私の場合はお母さんがそういうのは全部指摘してくれたり撮影してくれるから、全然気にしてなかった。

 

「テニス、好きなんですね」

「うん。清水さんだって、嫌いじゃないでしょ?」

 

……はい。嫌いじゃないです。

 

どうしてだろう。高木くんは、私もテニスが好きなんでしょ、とは聞かなかった。

そして、嫌いじゃないかと聞かれたからすぐに答えられたけど、多分、私はテニスが好きかと聞かれたらそんなにすぐには答えられなかったような気がする。

 

 

 

池君の試合は凄かった。

相手の江川さんのサーブも中学生離れしていたけれど(恐らく200kmは出ていた)、池君はそれをほとんど意に介さずリターンエースを決めることも少なくなかった。

江川さんはほとんどポイントできず、6-0,6-0のダンゴで負けてしまった。

 

池君はすごく、強い。

 

でも、何故だろう。

池くんが上手なこと、強いことがとても良くわかるすごい試合だったのに。

ワクワクはしなかった。

何故かちょっと手に汗握ってしまう、緊張感があった。

どうしてだろう。

 

 

 

最後のポイントが決まり、選手二人が握手をしようとネットに近づいた時、私はそれに気づいてしまった。

あ、ひょっとして……。

思わず赤くなり、そしてすぐに青ざめる。

 

「清水さん? 試合終わったよ? 行かないの?」

高木くんがビデオを片付けてくれていると、お兄さんが声をかけてくれた。

私は恥ずかしいのと男の子には言い出せないことで、頭がまっしろになってしまう。

 

「え、お、俺、何か悪いことした!?」

下を向き、膝の上にぽろぽろと涙が流れる。

そうだ、どうして忘れていたんだろう。緊張していたんだろうか。

 

「……違ったらごめん。もしかして女の子のあれ……?」

耳元がささやきでくすぐられる。

そう、女子選手は体調面で男子とは違うからしっかり管理しなさいとお母さんに言われていたのに。去年はなかったことだから、気付かなかった。あれが遅れていたんだ。

真っ赤になりながら、私は小さく頷いて声を振り絞った。

「……準備してないの」

高木くんがタオルで私の顔を拭いてくれる。

 

「アニキ、誰でも良いからそこら辺にいる女の子に声かけて」

「お、おう」

 

お兄さんは高木くんの低い声に気圧されながら近くにいた小柄なジャージの子に声をかける。

「あー、悪いんだけどさ、キミ、ちょっと良いかな?」

「ええと、ぼく?」

「うん、キミ。すぐ済むと思うか―」

 

高木くんは言葉を遮るようにお兄さんの頭を半ば本気で叩いた。

 

「っってー! 何すんだよ急に!?」

「アホアニキ。あの子は男の子だ」

「ええっ!?」

 

一瞬の沈黙。

そして、その子は一瞬沈んだように頭をもたれさせる。

 

「……うん。よく間違われるんだけど、ぼく、男子。戸塚彩加って言います」

 

その子は女の私より色白で、そして思わずかまってしまいたくなる小型犬のような瞳をしていた。

確かに、声も高いし私から見ても女の子と見間違えてもおかしくない。

 

おい、どうすんだよ!?

知らねーよ。こっちは俺が何とかするから戸塚くんとしばらく話してれば?

 

高木くんはお兄さんを突き放すと、ちょっと離れた場所にいた女の子に声をかけた(今度は見た目からして間違いなく女子だ)。

 

「あーしになんか用?」

 

ウェーブのかかったセミロングを薄く茶に染めたちょっと派手目な女の子。

美人で、ちょっぴりキツそうな目をした、縦ロールとか似合いそうな子。私だったら気後れして声をかけられないタイプの女の子。

 

「ごめん。急に声をかけて。女の子にしかできない相談だから。この子のこと、ちょっと見てやってほしい」

「……あー、そういうことね。はいはい。そりゃ女子にしか分からんわ」

 

 

 

「まさか、中城の応援に来たのにそれを負かした相手の世話をするなんてね……」

高木くんが声をかけてくれたのは三浦優美子さん。

私より一つ下の学年だけれど、県大会で負かされたライバルの中城さんの応援と雑誌で取り上げられた池君の試合を見に来ていたらしい。

 

 

 

色々と恥ずかしかったけれど、三浦さんのおかげで何とかなった。

高木くんは気を利かせて、観客席に置いてきたビデオカメラとテニスバッグは私がトイレに行っている間に三浦さん経由で返してくれた。

 

「やっぱり池爽児はすごかったなー。高木は勝つの難しいかもしれないけど、あんたは中城に勝ったんだから優勝しなさいよ」

 

どこかぶっきらぼうだけど優しい、高木君に似ている三浦さんに返事をして、私はホテルに戻った。

 

 

 

なぜだろう。寝る前はなんだかドキドキしてなかなか寝付けなかった。

中学に入ってから一番大きい大会の決勝だからだろうか。

いままでこんな風に感じたことはなかったのに。

 

 

 

決勝の相手は私よりひとつ上の選手だったけれど何とか勝つことができた。

昨日お母さんが撮影してきてくれた通り、基本に忠実ないいテニスをする選手。

でも、技術的には私のほうが控えめに見てもほぼすべての面で2ランクは上だ。

昨日のこともあり体調面での若干の不安と、あとは年齢から来る体力差が多少問題になるかもしれないくらいしか気になる点はなかった。

 

試合は終始私ペースで進んだ。

2ゲーム終了まで様子を見てお互いに1ゲームずつキープ。その後サーブに変化をつけて2ゲームをブレイクした後はペースを戻し6-4で1セット目を取った。

2セット目は相手も必死になってくることが分かっていたので、最初からこちらは全力。ラリーで相手を上手く走らせることを意識して3ゲーム目までで体力を奪い、6-2で勝利した。

 

礼をした後、お母さんが近づいてきたがそんなことは構いもせず、私は走りだしていた。

「ちょっと亜希! どこ行くの!?」

「ごめんなさい、男子の試合見たいの!」

 

叫んだ後、一生懸命走ったけれど荷物もあったし疲れていたせいか、あっという間にお母さんに追いつかれてしまった。

仕方なく運営に決勝の結果を報告し、お母さんを急かして男子の決勝を見に行く。

 

「まったく、フルセットまで持ち込んで3時間とかかかってるならともかく……。1時間ちょっとで試合が終わったんだから間に合わないどころか待つに決っているじゃない」

やれやれ、という声が聞こえてきそうな雰囲気だったけれど、お母さんはどこか嬉しそうだった。

 

 

 

コートの上を飛ぶように駆けるのは二匹の美しい獣だった。

一匹は若く、それが興味のない初めて見た人にすら分かってしまうほどの才能に溢れた眩いばかりの輝きを放つ獣。

もう一匹は才能よりもむしろここまで何かに対して真摯になれるのかという尊敬や畏怖を感じさせる、玉(ぎょく)になるまで磨き上げられた尊い努力の結晶を両の前脚に抱えた獣。

 

 

二人の実力差は歴然で、

そして、それ以上に才能の差は明白だった。

 

 

一ポイントを重ねる度に彼は彼に追いつかれていく。

一ポイントを失う度に彼は彼に追い越されていく。

一ポイントを取られる度に彼は彼に取り残されていく。

 

 

その試合は私から見たらとても哀しくて。

それなのに彼らは二人とも最後まで笑うように戦っていて。

見ている人はすべてその姿に心奪われるように静寂と歓声を繰り返し。

 

 

きっと、昨日池君の試合を見ていてワクワクより緊張を強く感じたのはそれを予感していたからなのだろう。

 

 

最後にボールが彼のラケットの横をすり抜けていったとき、

私はひとすじだけ細く透明で、たぶんものすごくしょっぱい涙を流した。

 

 

 

表彰式のことはほとんどふわふわとしていて、よく覚えていない。

ただ、帰りの新幹線の中でぼんやりとふたつ考えた。

 

この気持ちを何と呼べば良いのだろうということと、

ああ、そういえば、機械を触るのは苦手だけれど、携帯電話を持つのも悪くないかもしれないなということを。

 




テニス回は次話で終わる予定です。

クロス済み作品一覧
バクマン。
ベイビーステップ
アイドルマスター
GIANT KILLING
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢と現実

お気に入りが突然増えて驚きました。
ランキングに入っていたんですね。
今後とも頑張りますのでよろしくお願いします。


義務教育9年目の俺達に、大人たちはいつも

「進路は?」「将来の夢は?」と聞く。

 

大抵の中学3年生はこう答える。

「わからない」「まだ決めていない」

 

よりよい高校、大学、会社へと進むのがふつう。

そう、ふつうに生きていくだけ。

 

事実、俺はその通りに生きていた。

少なくとも前世の俺は。

 

 

 

朝6時に起き、顔を洗い、歯を磨いた後、15分間じっくり身体の調子を確かめるようにストレッチをする。

いつも通り走りに行こうかとも考えたが、神奈川は少し遠い。9時半には向こうに着くのを逆算して朝食と弁当の準備をする。

両親と遅れて起きてきたアニキ(ここしばらく仕事場に籠もりっきりだったせいか辛そうだ)に挨拶をして7時には家を出た。

 

北谷草の駅を出て東京方面へ。

夏休みといっても社会人は仕事のある平日だ。7時台の電車はスーツを着たサラリーマンで混んでいる。

文庫本を読むにも集中しにくい環境のため、MP3プレイヤーを取り出しイヤホンを耳に。

ついでに携帯をチェックすると清水さんからメールが来ていたので返信する。

スマートフォンが普及していない時代だ。携帯と音楽プレイヤーはまだ別。荷物が増えて少し不便だなとも思う。

テニスバッグを金網に載せ、試合前によく聞く、心を落ち着かせてくれる雨宮洋一郎のピアノを含めたマイリスト、クラシックの世界に没入する。

 

コージィーとか国吉ちえみとかが売れてるみたいだけど全然ピンと来ない。

日高舞は実際聞いたら凄かったんだけどな。あと、マイナーでほとんどCDを出さずに消えたけど音無小鳥は結構良かった。

そう言えばアニキは前世の俺と同じでロックが好きだったな。

ベル・アームは売れなかったアルバムが一番良かったとか。あとはジェネレーション69あたりが学校でも好きな奴が多い。

洋楽はまだそんなに手を出してないとか。最近のオススメバンドはROOM13って言ってたっけ。

 

……味覚も含めて音楽の好みなども前世とは微妙に違っている気がする。

まだ思い出せていない記憶と関係があるのだろうか。

 

 

前世のことを思い出す。

 

中学校は部活を頑張りながら、特に眼を見張るような結果を出すこともなく、

3年夏休みの引退後、受験勉強を頑張り進学校へ。

 

高校は特にやりたいこともなく、本ばかり読んで過ごしていた。

勉強はそこそこ。本を読むのは好きだったけれど国語の授業は嫌いだったので理系を選択。

といっても別に機械とかが特別好きというわけでもなかったので、

理科はセンター試験だけ、二次試験は得意だった英語と必死で世界史を勉強してそれなりのレベルの国立大学の言語系学部に入った。

 

ところどころ、まだ記憶が抜けてる気がする。

 

大学はバイトと、たまたま取ったプログラミング言語の授業が面白かったので、

それにはまっていたことしか覚えていない。サークルとか入ってたっけな、どうだろう。

プログラミングを3年の終わりくらいまで独学でかなりやって、

あとはバーでバイトをしてたからそのときの対人能力を活かして就活。

IT系の中では比較的まったりした大きい会社を選んでそこに入社した。

そういえば大学4年のときのこともほとんどまだ思い出せてない。

まあ、たぶん卒論とかバイト、あとは遊んだりで時間を潰していたのだろう。

 

前世のことを考えると、いつもカサブタが上手く剥がれないような、妙な違和感を感じる。

まあ、転生に関しては普通の人間とは違うのだから仕方ない。テニスに集中しているときは考えることはないけれど、大きい大会が終わった後で気も抜けている。自分に限らず、何かに集中していないときは余計なことを考えるものだ。

 

アニキ、シュージンはいよいよ今日、少年ジャンプに初めての作品を持ち込む。

今まではどこか気が抜けた感じもしていたが、サイコーと組み始めたここしばらくの集中力はずば抜けていた。

才能もあるのだろうけれど、人間はきっと自分で望んで決めたものに挑戦するときが一番力を発揮するのだろうということがよく分かる。

 

 

昨年の大会、決勝で池爽児と打ち合ったときのように。

 

 

あの試合は不思議だった。

 

共感覚とでもいうのだろうか。

あのとき、なんだかあいつの考えていることや実力や才能が、他人やあるいは池爽児自身にも分からないような深くまで分かったような気がした。

そうだ。あれはたぶんハンターハンターのキメラアント編、宮殿への突入の際に回想の中でゼノが解説していた、心的拳聴がたぶん一番近い。

 

 

大会も終わったし、そろそろ進路のことも考えないといけない。

前世とは違う。でもまだ将来を決めるには何かが足りない。

 

 

思い出せないこと。死ぬ前の数年に謎が残っている。

会社に入ったあとの5年間の仕事のことはほとんど覚えているのに、会社を辞めた過程とか、

その後3年くらい、何をしていたのかが全然思い出せない。

貯金が600万くらいあって、退職金が100万くらい出た。退職後は失業手当を貰ったことも覚えている。

でも、その後何をしていたのかの記憶が無い。

 

最後の記憶。恐らく転生の前の日は、9月10日だった。

退職後のことは思い出せないことが多い中、それだけは何故か覚えている。

何か祝日とか、そういうわけでもない。

いったい、あの日に何が起きたのだろう。

 

 

 

「やあ、高木くん。わざわざすまないね。大会が終わったばかりだというのに」

「いえ、STCの施設を一度きちんと見てみたいと思っていましたから」

「遠慮無く見ていってほしい。ほら、ナツもせっかく来てもらったんだからきちんと挨拶しなさい」

「わかってますよ、コーチ。高木さん、よろしくお願いします!」

 

難波江優に負けたこの前の大会。

表彰式の終了後に声をかけてきたのはそれまで接点のなかった鷹崎奈津だった。

準決勝で清水さんに敗れ、3位決定戦で勝利した彼女と話したのはこのときが初めて。

翌日、彼女の所属するSTCの三浦コーチから連絡が来た。

鷹崎の練習に付き合って欲しいというのと、一度STCの見学に来ないかとのことだった。

 

そういった事情で今日はわざわざ埼玉から神奈川までやってきたのだ。

クラブの入り口にいたのは三浦コーチ、鷹崎。そして、なぜか清水さんだった。

 

「あのっ、今日はよろしくお願いします」

「清水さん? どうしてここに?」

「私、東京が実家で。大会も終わったし、夏休み最後なので進路の関係もあってこっちに来てたの」

 

そう言うと、彼女は顔をほんのりと赤く染め、顔を傾けて前髪で表情を隠した。

 

「それで、高木くんがSTCに来るってメールで知ったから。打たせてもらえないかなって」

「こちらも考えていることがあってね。池君の海外での活躍もある。今後も彼のような選手を育てていく環境を作るのは我々の仕事だ。所属クラブや学校を越えて有力選手を集めた練習会などをやっていきたいと考えている。その企画のためにテストしてみたいというのもあって、ちょうど良い機会だと思ってね」

 

そう三浦コーチが言った後、ロッカールームや筋トレ用の機材が置かれたトレーニングルーム、コートなど一通り説明を受け、練習が開始された。

 

男子は同学年の深澤諭吉、天才小学生の田島勇樹などがいたが、江川逞はいなかった。昨年の大会で池爽児に負けて以来、スランプというか腐っているようなのでそのせいかもしれない。

 

午前の練習を終え、昼食の後、しばらく身体を休ませる昼休みに入り、清水さんと深澤・鷹崎、それに三浦コーチと話していると話題は自然と今後のことになっていった。

 

「高木くんは、進路はどう考えているのかな?」

「それは、テニスのことを言ってるんですよね」

「ああ。もちろんそれ以外の要因もあるかもしれないが、君レベルの実力者なら全国の強豪校からも声がかかっているかと思う。正直な所、今の環境では不満があるのではないかと思ってね」

「……そうですね。こちらの施設に比べるとうちのクラブはどう見ても劣ります。コートなど基本的な設備はそろっていますし、悪くないコーチはいますが、やはり全国的に見た場合に知名度も低いですし。ただ、やっぱり家から自転車で10分以内という立地条件は自分で試行錯誤、努力するには最適だと考えています」

 

俺の言葉を聞くと、三浦コーチは少しだけ表情を険しくした。

 

「厳しい言い方をするかもしれないが、それは、一人で頑張った場合の話だ。見た感じでは君の身体はそろそろ成長が止まる。これからはより筋力トレーニングなどの分野で専門的な知識が必要になるだろう」

 

そう言った後で、しばらくの沈黙。

すると、三浦コーチは何かに気づいたように驚いたように口を開いた。

 

「いや……まさかとは思っていたが、君は、プロになる気がないのか……?」

「……どうなんでしょう。冷静に考えてみれば、今年の決勝みたいな組み合わせの不運とかはそれぞれの試合に対する戦略を変えればクリアできると思います」

 

学校の友人や軟式テニス部の知り合いには言えないことが、何故か口にできた。

多くの選手を育ててきたきちんとした指導者でありながら、自分の普段通っているクラブのコーチほど距離が近くないから逆に言いやすかったのかもしれない。

 

「でもね、やっぱり思い出してしまうんです。去年の決勝を」

分かってしまったのは池爽児の力だけではない。

「ああ、俺の才能は池爽児には遠く及ばないんだなって」

それと比較した、自分の力こそを、思い知ったのだ。

「あいつが目指すのは世界のトップです。それが許された人間なんです。そして、それは俺には与えられなかったものなんです。少なくとも、今の時点ではまったくそこを目指すのに自信、いや、うぬぼれを持てるような根拠が何一つないんです」

 

ふと周りを見る。鷹崎の表情は曇っている。そして、清水さんの顔は俯いていて見えない。

 

「プロでそこそこの成績を残して、その後は指導者に。あるいはメーカーに入ったりテニスに関わる仕事をする。そんな選択肢は俺にはまったくないんです。俺は、何をやるにしてもプレイヤーとして生きていきたい。こればっかりは性分だからしょうがありません。テニスのプロとしてやっていけるのは30歳、長く見積もっても35歳まで。これから先の20年、テニスをやったら他のことはできないことを考えると、簡単に結論は下せません」

 

深澤は確か関東大会に出ることは結構あるが、全国にまで行ったことはない。

思うところがあるのだろう。俺の言葉を真剣な表情で聞いている。

 

「大学受験を本気で考えたら、いっそ、キレイにここで辞めてしまうのも良いのかもしれませんね」

「……そうか。すまなかったね。いずれにせよ、まだ少し時間はある。そんなに結論を急がなくても良い。私で良ければいつでも相談に乗るよ」

 

 

重苦しい雰囲気の場を無視するように、やる気のない挨拶が聞こえた。

 

 

「ちーす」

「タクマ! 一体、どうして遅れたんだ」

 

180cmの俺よりも一回り大きい恵まれた身体。ひとつ上の学年で全国大会の常連、江川逞だった。

 

「……好きなバンドのギタリストが撃たれて瀕死の重体だって昨日のニュースでやってたんすよ」

「まったく、何をふざけたこと言ってるんだ! たるんでるぞ」

 

江川の声には悪びれたところがない。

こういった普段の様子では図太いようでいて、しかしプレー自体はしばしばメンタルに大きく影響される繊細なタイプ。

他の人間に対する態度と三浦コーチに対する彼の態度はだいぶ異なる。彼は彼で三浦コーチを信頼しているのが分かる。

 

「コーチには分からないかもしれないですけどね、ダイブリのエディ・リーって言えば世界最強のギタリストですよ」

 

ちくりと。

靴の中に小さな固い石が入っていた時のような違和感。

 

思い出せ。と頭のなかで声が聞こえたような気がした。

 

俺は、反射的に思わず二人の会話を遮った。

 

「ちょっといいですか、タクマさん」

「あ? 何だよ?」

 

面倒そうにこちらに向き直る江川。

俺は振り絞るように声を出した。

 

「ダイブリってダイイングブリードのことですよね」

「ん、ああ。そうだけど」

 

面食らったように、江川は声を詰まらせる。

しかし、今はそんなことに気をかけているような余裕はない。

 

 

やはりそうだ。

ダイイングブリード。音楽漫画『BECK』の中で最強のバンドと呼び声の高いアメリカのロックバンド。

主人公コユキたちとも関係が深いそのダイブリのギタリスト、エディの死は物語の転機となっている。

少なくとも、前世、漫画の中ではそうだった。

 

彼が、死んでいない?

 

「エディが撃たれたって、死んでないんですか。瀕死の重体……?」

「なんだか死んでなきゃいけないような言い方だな。頭ととっさにかばった両手を撃たれて意識不明の重体、命だけは取り留めたが脳に障害が残る可能性が高いし、もう二度とギターは弾けないだろうってさ」

 

思い出せ。

他にも忘れていたことがあったはずだ。

思い出せ。

それはすごく大切なことだったはずだ。

思い出せ。

俺は今、自分が動いたとしても動かなかったとしても「世界は変わる」っていうことをようやく実感したんだ。

あとは忘れているそれを思い出せば――

 

「おい、どうしたんだよ。急に黙っちまって。まあいいや。まだ時間あるだろ? せっかく来たんだから俺とも打ってけよ。コーチ、良いですよね」

「まあ、やるべき練習は他にもたくさんあるが、せっかく高木くんが来ているんだ。午前サボった中で甘やかしたくはないが、仕方ない。試合形式でやろうか」

 

そんな二人の声が通り過ぎていく。

 

「待ってください」

 

ぼんやりとした頭に、やけにくっきりと響く声。

 

「高木くんとは私が打ちます」

 

今までに見たことのないような、何か大切なことを決意したような顔をした清水さんだった。

 

「それで、私が勝ったら、高木くんはもうテニスを辞めるなんて言わないでください」

 

 

 

江川が清水さんの言葉に突っかかる一幕もあったが、結局、コーチの取り計らいで帰る時間も考えた末、鷹崎、江川、清水さんとそれぞれ1セットマッチをすることになった。

 

 

 

ぼんやりと。

俺は何かを必死で思い出そうとしていた。

 

200kmのサーブ。

身体は自動的に反応し、リターンを決める。

ときに決まらなかったリターンに、ボレーが返ってくる。

繊細にコントロールされたそれに、身体は再び自動的に反応する。

 

本気になっていない、磨き上げられていない今の江川逞では、俺の相手にはならない。

 

「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ高木。カウント6-3」

 

 

 

薄い紙の膜を張ったすくい枠で、記憶を自分の奥深くから汲み上げようとする。

あと一つ、何か大切なことがあった。それを俺は思い出さないといけない。

 

ときにオーソドックスな選択肢から外れた、意図の分からない感覚的なプレー。

一方で、男子ですら反応できないような際どい俺のショットにも反応する輝きの片鱗。

だが、まだ足りない。

才能が、積み上げられたものが、何よりも覚悟が。

 

プロになりたいと思っていながら、一度も清水さんに勝てないという理由だけでどこか心の奥底では自分を信じきれていない今の鷹崎奈津では、俺の相手にはならない。

 

「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ高木。カウント6-2」

 

 

 

頭は考える。

まだ思い出せない記憶を。

身体は反応する。

しっかりと整備された信頼性のある機械から生み出されたようなプレーに。

 

ノイズが走る。

 

私を見て

 

 

頭は考える。

自分の核にある大切な何かを。

身体は反応する。

獣のような俺のプレーとは真逆の、緻密に計算されたプレーに。

 

ノイズが走る。

 

私を見て

 

 

頭は考える。

自分が自分になるために必要な何かを。

 

ノイズは気がつけば、ざあざあと固い地面を叩く無数の細い雨のように俺の意識を捉えた。

 

自動的な反応だけでは身体は対応しきれなくなる。

直径6.5cm強の黄色い硬球が、ラケットの先を滑り抜け、後ろの金網に刺さる。

 

 

いやに清水さんの身体の輪郭がはっきりしているように感じた。

 

「ずっと思ってた。私はどこまで強くなれるのかなって」

 

ネットを隔てた向こう側にいる相手のつぶやきが、聞こえるはずがないのに聞こえる。

 

「きっと、才能じゃ鷹崎さんに負けてる」

 

ボールを打つための一連のフォームは、機械のような精密さを越えて、さらにイヌワシのような気高い猛禽類が滑空するために翼を広げたときのよう。なめらかな美しさを兼ね備えるまでになっていた。

 

「背が高いわけじゃないし、足が特別速いわけでもない」

 

頭と身体がバラバラでは、この相手には対処できない。

意識が切り替わる。

 

「江川さんみたいに凄いサーブが打てるわけでもないし、矢沢選手のライジングみたいにこれだけは誰にも負けないっていうものがあるわけでもない」

 

互いを行き来する直径6.5cm強の黄色い硬球は、

一球ごとにより速く、より厳しいコースを当然のように跳ねまわる。

 

「お母さんの期待に応えられないかもしれないことが、すごく怖かった」

 

積み重ねてきた努力を思う。

 

「でも、そんなのどうでもいいことだったんだ」

 

ときに自分の才能を疑い、それに屈しないための工夫と挑戦を思う。

 

「これは私の人生なんだ」

 

自分の歩く道を自分で決め、迷わずに進んでいく覚悟を。既にそれを歩み始めている事実を思う。

 

「去年のあの日、池君と高木くんの試合を見た時思った」

 

答えは初めて足を踏み入れたときよりも、いくらか狭くなった、このコートの中にあったのだ。

 

「私はもっと、もっとテニスを好きになっていいんだって」

 

前世のことを思い出した時から、きっと身体と心はバラバラだった。

 

「私は私のやってきたことをもっと信じていいし、もっともっと遠くまで行けるはずだって」

 

自分の中には同じ魂が二つ、重なるように存在していて、それはきっと何とか一つになろうとしてきて、なりきれずにいたのだ。

 

「私が私のまま、どこまで行けるのか知りたいって」

 

気づかせてくれた彼女に感謝する。

その動作としぐさのすべてを焼き付ける。

それにしても、ああ、ラリーがこんなに愛おしいと思ったのは初めてだ。

 

「そしてもし許されるのなら」

 

思い出した。

 

「あなたがどこまで行けるのか知りたいって」

 

前世最後の日。

9月10日は、電撃大賞の、4次選考の発表日だ。

 

 

 

「私、もう負けない」

 

試合の後で、彼女は涙を拭くこともせずにそう言った。

 

「鷹崎さんにも、中城さんにも、他の人にも」

 

それは宣誓であり、誓約だった。

 

「高校のうちに海外に行って、プロになる」

 

さっきまでの試合の影響か、感覚がひどく鋭敏になっている。

彼女の言葉は俺だけではなく、鷹崎をも強く揺さぶっていた。

俺にはそれが見なくても分かった。

 

「天才とか、そうじゃないとか、関係ない! 積み重ねていったものが、無駄になることなんてない! 私が世界のトップと戦えるようになってそれを証明する」

 

彼女はもっと強くなる。そして鷹崎もきっと強くなる。

そして、俺は。

 

「それで、私が高木くんの気持ちを変える。私があなたにテニスを辞めさせないから」

 

俺は何も言わず、ただその頬を流れた涙を拭った後、彼女の頭に手を載せて微笑んだ。

 

 

 

途中まで一緒だった帰りの電車の中はお互いに無言。

それでも、十分だった。

俺と彼女は、今必要な分を既に言葉以外の手段で伝え合ったのだ。

 

 

プロを目指さないからといって、テニスを辞める必要はない。

でも小説を書いても良い。

答えはいつだって本当はシンプルだ。

どちらも本気でやればいいというだけのこと。

それが、自分が自分であるということだと、ようやく受け止められたのだから。

 

その日の夕食、アニキとの会話の中で、俺はごく自然に言う。

「今日はっきりしたよ。俺は、もうプロを目指さない」

 

さて、そろそろ前世で知ることの出来なかった、最終選考の結末を見るために。

小説家になるという夢の続きをはじめるとしよう。




次回よりいよいよライトノベル投稿編に入ります。

クロス済み作品一覧
バクマン。
ベイビーステップ
アイドルマスター
GIANT KILLING
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
BECK
ピアノの森


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

甲子園と100万分の1

図書館の自習室は夏休みだけあって受験生で溢れている。

節電のためか空調は弱く、窓が閉められていることでかえって息苦しい。

 

だが、この緊張感は嫌いじゃない。

 

ここではみんな一人だ。

参考書やノートをめくったときの紙の擦れる僅かな音。

芯を出すためにカチカチとノックされるシャープペンシル。

心地よい雑音に囲まれながら、固いパイプ椅子に座って13インチのノートパソコンに向き合い、一人、キーボードを叩く。

 

 

 

小説を書くのに必要なものは、物質的な意味合いで言えばほとんどない。

ただ、唯一ほぼ必須となっているのがパソコンだった。

何か調べ物をするのにも使うし、原稿を書く速度は手書きよりもはるかに速い。そして、データ形式で投稿する新人賞が増えていることも重要だった。

 

我が家、高木家には4台のノートパソコンがあった。

父親・母親が仕事用で1台ずつ。

そして大学生になった兄のものが1台と、俺とアニキが兼用のものが1台。

 

サイコーと組んでからのアニキを見ていたのだが、基本的にノートにアイデアを書き、その中から一部の出来が良いものを選んでルーズリーフにネームを書いているようだった。

調べ物があると言ってパソコンを使うことも増えたし、図書館に行くことも多くなった。

この先、さらに使う時間が増えることも十二分に予想される。

 

 

 

そんなわけで小説家になると決めた俺がまず最初にしたのは、パソコンを買うことだった。

8月30日の午前、お年玉の残りと小遣いを確認した後、家電量販店に出かけて3万5000円ほどの安いノートパソコンとマウス、USBメモリを買った。

家にはネットが通っており、Wi-Fi環境もあるため、特に困ることはない。基本設定を済ませたあとは執筆のため、いくつかのフリーソフトを入れる。

入れたのは主に2種類。縦書きの出来るワードソフトと、プロットやアイデアのメモを整理するためのアウトラインプロセッサだ。

 

前世の記憶は先日でほぼすべてを思い出していた。

しかし、小説執筆に関してはまだ自分が持っていた理論やアイデアのいくつかが戻っていないように思う。

ただ、数時間書いただけでもぼんやりと何かを取り戻しつつある感覚がある。

このまま書き続けていけば残りも思い出していくだろう。

 

フリーソフトを入れたのも、そんな前世の記憶からだ。

縦書きと横書きでは、書けるものの質が違う。

もちろん、人によるのかもしれないが、俺の場合はかなりはっきりと違いが出る。

 

前世、高校時代、二次創作を書いていたときは横書き。

大学四年次に初めて新人賞に応募したときは縦書き(結果は二次落ち)だった。

 

文章力が上がっていたということもあったが、

書いていたときの感触から、明らかにそれ以外の要因で後者の方が質が高かった。

 

基本的に、出版される小説は日本ではほぼ縦書きだ。

学校で作文などを書かされる場合に使う原稿用紙も1行の文字数は異なるが縦書きで、横書きはレポートやネット小説程度。

思うに、小説家になるような人間は、自然と基本的な量の読書をこなしており、個々の文体以前の段階でジャンルによって異なる「お作法」的な文章のリズムを身に着けているのではないだろうか。

良く言われることだが基本的に文学になると地の文の行数が増え、会話は減る。

一般文芸、ライトノベルになるにつれて地の文は減り、会話が増える。

ネット小説はさらに特殊で、読みやすさの問題から地の文はシンプルで、さらに頻繁に改行を行う。

 

このことを語るのに俺の理論とは少し異なるが印象的な事例が一つある。

電撃文庫の看板作品の一つ、『アクセル・ワールド』は『超絶加速バーストリンカー』というタイトルで小説投稿サイトに応募前の一時期載せられていたのだ。

ネット掲載時のものを読んだことがあるが、はっきりと言って、ネット小説、つまり横書きの作品としては明らかに描写が過多だったと思う。

しかし、描写自体はしっかりとしていたし、それはオリジナル作品であることからも必要なものだった。

逆説的に言えば、本来オリジナルの作品にはそれくらいの描写が必要であるとも言えるのだ。二次創作はキャラクターや世界観について読者が知っていることを作者がほとんど意識せずに前提として書いているように思うし、オリジナルの作品も結構な割合がいわゆる中世風ファンタジーでお決まりの設定を当てにしたそれに近いものがあるように思う。

推測に過ぎないかもしれないが、『超絶加速バーストリンカー』はサイトで見た時こそ横書きだったが新人賞応募を前提として縦書きのルールで書かれていたように思う。

 

出版される際はもとより、審査の段階も縦書きで読まれる。一つの文章が長くなりすぎていたり、逆に描写が足りずに分かりにくい、もしくは物足りなかったり、会話のテンポがおかしくなっていたり、そういったことの確認をするためにも縦書きで小説を書くことは有用だと思う。

そんなわけで、新人賞応募用の小説を書く準備として俺は、縦書きのソフトを入れたのだった。

 

 

3時間ほど書いたところで昼食のため一時帰宅。土曜のため家にいた母親が作った冷やし中華を食べている間にパソコンを充電。その後、パソコンのバッテリーが回復してから再び図書館で3時間ほど書き、夕食まで1時間半ほど公園でジョギングと壁打ちをし、寝る前に2時間ほど書いた。

 

1日8時間の執筆で書けたのはおよそ8000文字。

一般的なライトノベルの新人賞の要項に沿うと、1作の文字数はおよそ10万文字程度になるのでそれほど悪いペースではない。

前世と異なりタイピングがまだキーボードを見ずには出来ないのがマイナス要因。

一方であまり迷わずに書けたのは、前世で書いた作品の内ひとつを再度書きなおしているからだ。

 

明日から学校が始まるが、今回出す新人賞の締め切りは10月下旬。

今日の調子なら問題なく間に合うはずだ。何とか応募まで持って行きたい。

 

 

 

9月に入り、2学期が始まった。

学校は席替えがあったことの他、2学期に入り少しずつ受験を意識した話が増えたと感じるのが気になった程度しか変化はなかった。

いや、1学期の終わりに引き続き、見吉に見られている気がするくらいか(俺と見吉、あとついでに石沢は1組。アニキとサイコー、亜豆は2組。岩瀬は3組だ)。

 

テニスはほぼ毎日コートに行っていたのから平日2日、休日1日のペースに変え、ジョギングや壁打ちは続けているがその他のトレーニングも自然と減ることになった。

その代わり、平日4時間・休日8時間ほどパソコンに向かい、1日最低5000文字を目標に執筆を続けていった。

 

 

 

砂を一瞬だけ足の裏で掴み、そして蹴る。

ただ前に進むためだけに、推進力を稼ぐように両腕を振る。

クラウチングスタートから体勢は段々と起き上がり、より強く風を切っていく。

ふだん練習に使っているものと比べると、学校指定の体操着は伸縮性が弱く、この身体のパフォーマンスをフルに引き出すには不十分だ。

 

それでも問題はない。

 

あの日からずっと、練習時間を減らしてさえいるのに感覚は研ぎ澄まされている。

身体と精神はうまく馴染み、その隅々まで意識がしっかりとコントロールできているのを感じる。

野球部もサッカー部も、スタートのときに横にいた人間はもう誰もいない。

最後の一瞬は胸を張り、数センチだけはやくゴールテープを切る。

100mという短い距離は、今の自分には12秒ほどで十分だった。

 

 

9月5日。それほど力を入れていない運動会が行われた。

練習は夏休み明けの体育の時間のみで、応援団などは夏休みの間に引退した運動部の有志が集まって役割を決めて行っている。

俺自身は全国レベルのアスリートということもあり、クラスメイトからの推薦で100m、騎馬戦、リレーなど主要な競技に出ざるをえなかった。

修学旅行は5月、合唱コンクールは屋内行事ということから雨の多い6月に行われているため、これから卒業まで学校での主要なイベントは受験だけになる。

 

競技が終わり、次の番まで自分の応援席に戻って休む。

すると突然、首の後にひやっとしたものが押し当てられた。

 

「おつかれー、高木」

振り返ると、パイナップルのように後ろで纏められた茶色がかった髪と人好きのする笑顔が目に入る。同じクラスの見吉だった。

普段まったく話さないというわけではないが、それにしても少し距離が近い。

 

「体育とかで見たことあったけど、めっちゃ足速いじゃん。これ、クラスの女子からごほーびね」

俺はそう言った彼女からスポーツドリンクを受け取る。

 

「で、他に何か用?」

すぐにはその場を離れない見吉に俺は問いかける。

すると彼女は、はうっ、と大げさなリアクションをした後、もじもじと人差し指で髪ををいじりまわしながら言った。

 

「あー、そのー。なんてゆーか。あんたの兄貴。そう、2組の高木兄のことね。……ねえ、夏休みの間とか、あいつ私のこと何か言ってなかった?」

 

こちらではどうか知らないが、確か原作ではサイコーのために亜豆のことを聞き出そうとして、アニキが見吉に声をかけ、勘違いで告ったことになったんだっけ。

 

「いや。特に何も」

 

見吉は俺の言葉を聞き、特に怒るような素振りも見せず、ただえへへとはにかんでいた。

「そっか、まあ、兄弟でも話さないこともあるしね。うん、分かった。ごめん、ありがとう」

明るく振舞っているものの、どことなくその声色はさみしげだった。

2組の応援席を見るがアニキの姿は見えない。

 

「今日はたぶん、面倒だから最初の方の競技に出てもう帰ったんだと思う。最近一緒にいる真城もいないみたいだし。気になることがあるんなら、直接聞いたほうがはやいと思うよ。アニキはたぶん見吉のこと嫌いじゃないし」

 

俺の言葉を聞いて、見吉はちょっと面食らったようだが、すぐに照れくさそうに言った。

「あ、ありがと」

 

もらったスポーツドリンクのふたを開け、口に含む。

「あんた、結構いいヤツだね。夏休み前は何かちょっと落ち着きすぎてて話しかけにくかったけど。……成績もクラストップだし、これから人気出るかも」

 

そんな言葉を残して、見吉は自分の競技のためその場を後にした。

 

 

 

運動会の後はもう9月は大きなイベントはない。

執筆前、毎日15分ほどネット上のサイトで練習していたこともあり、10日ほどでタイピング速度もかなり上がった。執筆速度もそれに伴って徐々に速くなっていき、かなり良いペースを維持していった。

 

今書いているのは、前世でファンタジア大賞の3次選考まで残った『ブラックボックス』だ。

あらすじとしては、主人公が借りている荷物を預けるためのトランクルームに入るとヒロインと出会い、お互いのいる世界が異世界と繋がってしまうというもの。

主人公とヒロインはお互いの世界にしか戻ることが出来ず、相手の世界には行くことができない。そして戦争に巻き込まれているヒロインをその箱の中にある荷物だけで助けていく、という話だ。

 

何を書くかということは、パソコンを買う前、小説家になると決めた日の夜によく考えた。

その中で前世でヒットしていたが、こちらの世界にはない話をかけばいいのではないかという考えもよぎった。しかし、それは盗作だ。他の誰が許可を出したとしても、仮にヒットしたとしても自分が納得いかないだろう。

また、実際問題として文体や細かい設定など、資料もなしに完全に他者の作品をコピーすることなど不可能だ。何より、自分自身の熱意がゼロからその物語を生み出したオリジナルの作者に勝てるとは思わない。1本でも本気でオリジナル作品を書いたことのある人間ならそれが分かる。コピーがただの劣化作品になることは目に見えている。それはその作品に対する冒涜に他ならない。その上、こちらの世界にもジャンプを始めとして漫画雑誌・ライトノベルの出版社は俺の知る限り同じものがそろっていて、前世であった作品が数多く存在している(もしかしたらバクマン原作よりもこの点は前世に近いのかもしれない)。さらに今後、前世にあった作品が世に出てくる可能性だってあるのだ。

設定の一部をアイデアとして使う、キャラクターのビジュアルイメージを自分の中でふくませるために当てはめる程度しか、前世の他者の作品は使えないと判断した。

結果、前世で15本書いた中の1本で、資料などを調べる必要が少なく、また、記憶としても大部分を思い出していたものを書くことにした。

 

 

9月26日。書き上げた内容を途中で数回戻って修正したので多少時間はかかったが、3週間ほどで初稿は完成した。

この後は数日時間をあけ、表現や誤字を修正した後、締め切りの1週間前くらいまで推敲を行っていく。

ひとまず、作品が完成したことに安心の息をつき、テレビを見ながら夕食を作る。

 

しばらくすると、アニキが帰ってきたので一緒に食事をする。今日は煮込みハンバーグだ。

 

「でさ、サイコーのやつ、学校休んで原稿やってるわけ。どんどん上手くなってるしすげーよ。描くスピードも上がってるし、何とか手塚賞には間に合いそうだ」

「ふーん。そうなんだ」

 

アニキは夏休み以来、土日などサイコーの仕事場に泊まることも増え、俺たち家族には漫画を描いていることを話している。

俺はまだ最初の作品を応募していないこともあり、自分から話してはいない(さすがに急にノートパソコンを買ったことは突っ込まれたが、アニキが使うことが増えたので別にあったほうがいいと思ったと答えている)。

もともと兄弟でほとんど喧嘩したことはない。今年はサイコーと原稿を描いていたのでともかくとして、俺の試合もよく見に来てくれているし、普段から結構話したりもする。まあ、それとは別にプロを目指さないと言ったあの日からやけにこちらを気にかけているような感じはするが。

 

「明日、9月27日は埼玉県高等学校野球、秋季県大会の準決勝が行われます。春の選抜大会出場に繋がる関東大会出場もかかった大事な試合、公立ながら勝ち進んできた樫野高校と甲子園常連校の浦和秀学高校が話題を呼んでいます」

 

テレビのローカルニュースの声が耳に入った。

公立で樫野高校が勝ち進む? どこかで聞いたことがあるような気がする。

 

「両チーム、エースは2年生の七嶋くんと榎戸くん。140km台後半のストレートを投げる本格右腕同士の対決が期待の一戦となっています」

 

樫野の七嶋……。砂の栄冠か!

 

ニュースを聞き、少し考えた後、俺はアニキに声をかける。

 

「アニキ、俺、明日ニュースで今やってた野球の試合観に行くわ」

 

へ、と俺の言葉を聞いたアニキは一瞬固まって、そしてむう、と少しのあいだ額に手を当ててから言った。

「ちょっと待て、俺も一度野球の試合を取材してみたかったんだ。一緒に行く」

 

 

 

無数のプラスチック製のメガホンが打ち鳴らされ、それと重なって歓声が響く。

9月後半の秋空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、まだ夏の熱を残している。

バッターボックスに打者が入ると、首にタオルを巻いた吹奏楽部員たちがよく統制されたリズムでお決まりのテーマを演奏し、会場を盛り上げる。

 

注目されている強豪校と公立との試合ということもあり、両者の生徒以外にも多くの観客が応援席を埋めていた。

 

「でも、良かったの? 今描いてる原稿。もう少しで完成する大事なとこなんでしょ?」

「ん、ああ。まあそうなんだけど。基本、俺の仕事はネームの段階で終わってるからな。仕上げでベタとかちょこちょこ手伝ってはいるけど。先のことも考えると今しかできないことをした方がいいと思ってさ」

 

カキン。

金属バットが硬球を叩く小気味よい音。

 

「……なあ。夏休みの終わりに言ってたことだけどさ」

 

5回の裏、それまで『グラサンピッチャー』という作品を考えていたといった他愛無い話をしていたアニキがそう切り出した。

 

「プロを目指さないって話、ホントなのか?」

 

張り詰めたような、緊張を感じる声。

 

「アニキだって去年のあの試合を見てたんだから分かるだろ? そんなに甘い世界じゃないよ」

 

リズムの良い投球からストライクが入り、15個目のアウト。

七嶋がマウンドから降り、選手たちは小走りでベンチへ向かう。

 

「……でも! 先のことはわかんないけど、お前の実力なら十分プロを目指すことは出来るんだろ。有名な学校から来てた推薦断ったって聞いてるぞ。もっと環境の整ってるところにいけばプラスになるし、うちの場合、家はボロいけど金はそこそこあるんだ。短くても海外行ってみるとか、いろいろ出来ることはあるだろ」

 

その声はどこか切羽詰っているようで、ある種の怒りすら含まれていたように思う。

 

「約4000分の49だから、だいたい100校に1校」

 

人の気持ちが分かるなんて言わない。双子だからといってもそれは同じだ。

だけれども、何かを本気で目指している今のアニキとなら、分かち合えることはある。

 

「甲子園に出られる学校の数。1学年の部員が10人として、毎年4万人の野球部員が結果に関わらず卒業する。ドラフトのことを調べたことはないけど、この中でプロになれるのは多く見積もって100人くらいかな」

 

マウンドに立つ榎戸は、際どい所を攻めるものの、あと一歩のところでコントロールが定まらず、ボールを重ねている。

 

「400人に一人っていうと結構多く聞こえるかもしれない。でも、実際にはなってからの方が大変だ」

 

樫野の選手はそんな榎戸の球筋をしっかりと見極め、バットを振るのを我慢している。

 

「ピッチャーの数は簡単に計算出来ないけど、プロのチームは12球団。スタメンは12×9で108人。定着してないメンバーがいたり、DHとか守備要員とかあるけど、1年間野球選手として仕事をしたって言えるのは200人いないと思う」

 

会場がざわめく。フォアボール。ノーアウト1塁。

 

「現役でやっていける年数を15年として、年を経るごとに引退するのも出てくるし、毎年入ってくる人数と合わせて考えると現役のプロ野球選手は1000人いないはず。1年間プロで野球選手として活躍する確率は、2000人に一人」

 

次の選手がチャンスの重圧からか、硬い表情でバッターボックスに入った。

 

「これは1年間だけの話だから、一生野球で稼いだお金だけで食べていける人数はもっと減ると思う」

 

キャッチャーか、それとも監督のサインか。一塁への牽制。

 

「少年野球とか、中学の野球部とか、野球選手になりたいって思ったことのある人数はもっと多いよね」

 

端から見ていても、マウンドの榎戸は集中力を失いつつあるように見える。

 

「アニキが目指してる漫画家は野球と違って女性でもなれる。年齢もスポーツである野球よりも許容幅はずっと広い。単純に考えて競争率は倍以上だ。そこらへんは、良くわかってるだろ?」

 

ボールのあと、打球はバントで榎戸の前に転がる。

前進守備の甲斐なく悪送球でランナーは1,3塁。

 

「……うちの学校、1学年200人くらいだけど、小説を書いてみようかなって思ったことがあるのはクラスに2,3人、10人に一人くらいかな」

 

険しい表情の榎戸を、ウラシュウの監督はしっかりと見つめているもののタイムは取らない。

 

「文芸部があったらたぶん1学年で5人いればいいほう。入らなくて一人で書くのを合わせても実際に小説を書いてみるのは20人に一人くらい」

 

一度大きく息をはき、右腕から放たれたストレートはキャッチャーミットに大きな音を立てて突き刺さった。

 

「でも実際に、賞に出せる、原稿用紙200枚以上を書き上げられるのは、書こうとした人のうち100人に一人とは言わないけど10人に一人もいればいいほうだ」

 

2球目もストレート、そして外角低めのいいところ。判定はもちろんストライク。

 

「さらに、実際に賞を取ったりして本を出せるのは1000人に一人くらい」

 

150キロ近くは出ているだろうストレート。内角に迫るそれに思わずバッターは手を出すが、バットは宙を切る。

 

「1作しか出せない作家も少なくない。小説だけで食べていけるのは100人いないくらいだと思う」

 

三振。ワンアウトだが走者は変わらず、1,3塁。

 

「漫画はもう少し市場が広いし、アシスタントとして生活している人もいるだろうから、200人から500人くらいは職業としてやっていけるはず」

 

アナウンスによる選手のコール。

榎戸はバッターボックス入ろうとする七嶋を睨みつけるように視線で射抜く。

 

「100万人に一人」

 

エース対決に、球場はまるでそれまでとは異なる宇宙空間のように盛り上がる。

 

「たぶんプロの小説家として、小説だけで一生食っていける確率」

 

ゆったりとした仕草で会場を見回し、七嶋は気圧されることなく、あくまで落ち着いた表情のままその場にしゃがみ、スパイクの紐を結び直した。

 

「一生の仕事って考えると笑いすら起きない。グランドスラムの賞金は一つ優勝すると4億くらいのもある。テニスで食べていく方がもしかしたら簡単かもしれない」

 

息を吐き、立ち上がった七嶋が一度確かめるようにバットを振る。

 

「でも、書きたいんだ」

 

余裕すら感じさせるゆったりとした歩みでバッターボックスが埋められる。

 

「夏休みの終わりから書き始めて、昨日、1本目が書き上がった」

 

ヘルメットのつばをバッターグローブのはめられた右手で触り、距離を測るように左手で持ったバットを持ち上げる。

 

「来月終わりに締め切りがあるから、それまで手直しして新人賞に応募するつもり」

 

審判がプレイをコールする。

 

「俺、小説家になる」

 

カキン。金属バットが硬球を叩く音がする。

榎戸の初球は七嶋にキレイに跳ね返されセンター前に落ちた。

 

この攻撃で8回の表に樫野は2-0とリードし、七嶋は最終回に1点を取り返されたものの最後まで投げ切った。

 

アニキと二人、勝敗に関係なく健闘した選手たちに拍手をし、俺達は会場を後にした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不安と期待

お兄ちゃんの気持ち。


9月のはじめ。

夕暮れの田舎道。定規で線を引いたように区画整理された田には、実の重さで頭を下げ、やがて刈り入れを待つ稲穂が金色に照らされている。

駅から離れ、目的地に近づくごとに道は細くなり、牧歌的な風景は東京の喧騒とは真逆の秘境めいた様相を見せる。

ときおり、タクシーはがたりがたりと揺れ、ふだん私服の雄二郎はあまり着慣れていないスーツがしわにならないかを気にしていた。

遠くには相変わらず押しつぶされたように横に広く引き伸ばされた山々が青々と佇んでいる。大きな道から分け入るたび、道路の舗装はところどころひび割れが目立つように。道の片側に立つ電柱はいつしかコンクリートから木で出来たものに変わり、それらをゆるく垂れ下がった電線がつないでいる。

 

目的の住所に着き、タクシーのドアが開かれ外に出ると、りんごのあまい香りがしたような気がした。

「それでは、長くても2,3時間ほどになると思いますので、帰りもお願いします」

編集長である佐々木がそう告げ、強いなまりのあるイントネーションで運転手が返事をする。

敷地を取り囲む木の塀には年月を感じさせる、新妻と書かれた表札。その奥にはよく手入れされた茅葺の屋根が特徴の、横に広い平屋建ての一軒家が風景に溶け込むように存在していた。

「ごめんください! 東京から参りました週間少年ジャンプ編集部の服部です!」

 

 

 

雄二郎と編集長の佐々木が通されたのは玄関からすぐの場所にある、畳張りの部屋だった。仏壇と神棚が同じ部屋にあるのがなんとも日本らしい。促され、食卓用に使うのであろう大きな座卓を囲むように座り、出された茶に口をつける。どうやら、歓迎ムードであるらしい。

 

「……では、もうエイジくんが上京する事はご両親も了解されているということですか」

「はい」

「良かったですね、編集長」

 

漫画家という不安定な職種という理由だけではない。親元を離れ、東京で一人暮らしをしながらの連載ということもあり、両親の許可は必須どころか前提だった。

 

「小さいころからずっと漫画ばかり描いていましたから。それが、このあいだ急に有名な雑誌で賞金100万の賞を頂いたなんて聞いて驚きました」

 

喜びと、どこか寂しさも感じさせる新妻エイジの両親のそんな言葉は、当然のものだと言えるだろう。作品を読んだり、電話で話した限り、エイジ本人はふつうの人間とは異なった感性を持ったことは想像に難くなかっただけに、彼が常識のある両親の下で愛されて育ったことに、二人は自然と感謝していた。

 

「……きっと、あの子は普通の会社に勤めたりは出来ないと思うんです。学校の先生から周りから浮いたところがあると面談の度に言われてきました。親としては心配ですが、それがあの子ですから、そこはそのままでも良いと思うんです。ただ……」

 

好きなことを好きにやらせる。簡単なようでいて、それは実際にはとても難しいことだ。エイジの両親が親として大らかな性質を持っているのは、自然に囲まれた土地柄だろうか。

 

「出来る限り、厳しくしてやってください」

 

突き放すようでいて、その実は優しさのにじみ出るような言葉だった。

 

「これはあの子にとって就職活動のようなものです。自分の好きなこと、やりたいことで生きていくには才能だけでなく他のものも必要になってくると思います。あの子が漫画を描くのを辞めるなんてことはないというのはよく分かっています。だからこそ、その世界で食べていけるようになってほしいんです」

 

「分かりました。彼自身の才能は疑いようはありません。それでも成功できるかどうかは分からない厳しい世界ですが、私達も高校生に週刊連載という無茶をさせる当事者です。出来うる限りのサポートをお約束いたします」

 

 

両親との対面を済ませ、板張りの廊下を案内される。踏みしめて、ぎぃという音が鳴ると雄二郎はかかとを浮かせるように歩き方を変えた。ふすまの低い位置には幼いころに描かれたと思われる、古いキャラクターの絵。母親の手によってそれが開かれる。

 

しゅぴーん。

しゃしゃっ。

どぅるぉーん。

でゅくしでゅくし。

 

「ほら、エイジ。編集長さんたちが来たわよ。ちゃんとあいさつばしなさい」

 

本棚にあふれるように、背の高さまで積まれた無数の漫画。

染み付いたインクのにおい。

壁には所狭しとエイジが考えたであろうキャラクターの描かれた紙が貼り付けられている。

 

「新妻くん、編集長の佐々……」

 

ばっしゃあぁぁあ!

 

突如、奇声を上げたエイジに声を遮られた雄二郎はぎょっと身を縮めた。

 

「……すごい、部屋だね」

 

しかし、そんな様子に佐々木は動じなかった。

背後から聞こえた落ち着いた声に、それまで動かしていた手を止め、エイジが振り返る。

 

「上京するにあたって僕からひとつ条件があるんですケド……」

「条件?」

「もし僕がジャンプで一番人気の作家になったら、僕が嫌いなマンガをひとつ終わらせる権限をください」

 

ボサボサの髪に着古されたよれよれのスウエット。新妻エイジは大きなペンだこの出来た右手に持った鉛筆で、二人の編集者と距離を測るようにしてそう言った。

 

「なっ……」

 

そんな突拍子のない言葉に、思わず二人は息を呑んだ。

 

「そ……、そんなの絶対駄目に決まってますよね。エイジくんもそんな事いっちゃダメだ」

「それをモチベーションにやりたいんですケド」

 

雄二郎のとりなすような言葉が聞こえないかのように、エイジは再び原稿用紙に向かい、奇声を上げながら執筆を続ける。

 

「そういう事はプロの厳しさを身をもって知り、「ジャンプ」の真の看板に上り詰めたうえでまだそう思っていたなら、その時もう一度聞こう」

 

思わぬ出来事に、しかし佐々木はあくまで毅然とした態度でそう告げる。

 

「……あとひとついいですか」

「ま、まだ何かあるのかな」

「一番の少年誌ってジャンプで良いんですよね」

「ああ、発行部数ならずっとトップを維持している」

 

そこで、エイジは再び手を止めた。

 

「最近のジャンプ。おもしろくないです」

「……!」

「マガジンで沢村叡智賞を取ったハリマ☆ハリオ先生とか、石波修高先生が戻ってからのサンデーの方がずっと勢いがあるように感じます」

 

聞き捨てならない言葉だった。しかしながら、それこそがわざわざ青森まで現役高校生を新連載のために迎えに来た理由でもあった。

 

「良い新人が出てないです、この頃のジャンプ。僕がジャンプに連載したとして、ライバルになれるような人はいますか?」

 

「今、ジャンプでもっとも力のある新人はエイジくん、君だろう。だが、高校3年で手塚賞に入選している子もいるし、すぐこの前も中学生の二人組が初めての持ち込みで話題になったりしている」

 

否定することは出来ない。大ヒットが出ていないのは確かだった。

 

「これからも彼らに継ぐ才能が集まってくる。君が活躍すればさらに若い漫画家を目指す者はジャンプに集まるだろう。私はそう思っている」

 

ややあって、エイジは振り返らずに佐々木の言葉に答えた。

 

「そうですか。わかりました、東京に行きます」

 

高校生とは言っても、一筋縄ではいかない。

そんな予感を思わせる邂逅であった。

 

 

 

9月30日。

シュージンとサイコーは手塚賞に合わせて完成させた原稿を持って集英社に向かう電車に揺られていた。

 

「はーっ」

「どうしたんだよシュージン。持ち込み2回目だろ、前のより絶対出来も良くなってるし、そんなに心配しなくていいって」

「ん、ああ。そっちは心配してないんだけどさ」

「原稿のことじゃないのか?」

「いや、ある意味原稿のことなんだけど」

 

そう言うと、再びシュージンはため息をつく。

 

「弟が急に小説家になるとか言い出したんだよ」

「え? お前の弟って言うと、1組の高木弟のことだよな」

 

「ああ。さすがに知ってるか。双子で顔もほとんど一緒だし」

「小学校で同じクラスだったことがあるからな。あと、1年の最初のテストでお前ら兄弟で1位2位だったから知ってるやつは多いと思うぞ」

 

「そうなのか。まあそれはどうでもいいや。あいつ、テニスやってるんだけどさ」

「ああ、小学校のときも大会で休んでたことあったな」

 

「めちゃめちゃ強えんだよ。去年、今年って全国2位」

「はあ? まじで言ってるのかそれ? 聞いたことないぞ」

「あいつ、人にそういうこと話さないから。友達がいないわけじゃないんだけど、ほぼ毎日練習だから学校以外じゃ付き合いもないみたいだし。あと、性格的なものだけど、俺と比べると一歩引いたところがあるっていうかさ」

 

シュージンが思い出すのは幼い頃から一緒に育ってきた弟の姿。生活の中心をテニスに起き、子どもとは思えない自制心で懸命に取り組む姿だった。

 

「『テニスの王子様』なんかは硬式テニスだけど、あれって実は中学じゃマイナーで、うちの学校も軟式テニス部しかないんだよ。んで、あいつは部活じゃなくてテニスクラブに入ってるから、学校で表彰とかされたことないんだ」

「なるほど……。確かに、シュージンも運動できる方だけど、弟の方がそっちは得意だったもんな。小学校の水泳大会じゃたしか1位だったし」

 

「ああ、サイコーと亜豆が見つめ合ってたっていうときのやつな」

「亜豆のことがなかったら流石に覚えてねーよ。3年前の特別仲が良いわけでもないクラスメイトの大会の結果なんて」

 

「まあ、そうかもな。んで、話は戻るけど。全国大会が8月の終わりごろにあって、あいつは準優勝だったんだ。その何日か後、俺達が初めてジャンプに持ち込みをした日に、「プロは目指さない」って言い出したんだ」

「……プロって。まあ、俺達も人のこと言えないけどさ、スポーツだと全国大会出てるとそんな先のことまで考えるものなのか?」

 

「サッカーだとクラブチームとかあるから珍しくもないと思うけどな。野球だと甲子園があるから高校までで考えるのかな。テニスはマイナーだけど、高校終わりくらいまでに判断する場合が多くて、大学行きながらプロ目指すとかもあるらしい」

「結構詳しいな。シュージンもテニスやってたのか?」

 

「いや、俺は最初ちょっと一緒にやってたけどすぐ辞めちまったな。一つのことをずーっとやるって結構それだけで才能だと思う。まあ、全国大会とかに出るときは応援しに行くことが多かったからさ。それで色々入ってくるわけよ」

「ふーん。まあ、俺でもテレビで見たりする野球とかサッカーとかならオフサイドとか細かい所はともかく基本的なルールは分かるしな。双子なら情報も入ってきやすいか」

 

「去年、あいつに勝った同学年のやつなんかは世界レベルの才能があるって騒がれてて。弟に勝った後、すぐに渡米してる」

「やばいな、それ」

 

自分たちにとって、新妻エイジのようなものだろうか。いや、漫画の世界であればそこまでの才能があるのであればすでに連載しているだろう。そう思い直し、サイコーはかぶりをふった。

 

「そいつが何十年に一人って才能の持ち主なんだけど、弟も普通にプロを目指せるレベルの有望な人材って言われてるんだ。なのに、突然小説家だぜ? わけわかんなくね?」

「どれくらい本気なんだ、それ?」

 

小説家? プロを目指すような人間が急に? これが大学生くらいであればおかしいことではないような気もするが、中学生であれば確かに疑問符が浮かんでもおかしくない。

 

「二日前、今日持ち込む原稿の完成前だけど午前だけ仕事場行かなかった日に小説書いてるって言われてさ。プロを目指さないって言った翌日に執筆用のノートパソコン買って、一ヶ月で新人賞に出す原稿を書いたらしい」

「一ヶ月って……。それどれくらいの分量なんだ?」

 

漫画と小説は違う。だが、賞に出すようなものを一本仕上げるとなれば、相当の努力がいるだろうということは今のサイコーにとってはよくわかった。

 

「原稿用紙300枚分くらいって言ってたな。俺たちも持ち込みが追い込みだったからまだ読ませてもらってないし、それ以前にまだ直しがあるから印刷はしてないっていってたけど」

「そんなすぐに書けるもんなのか」

「無理じゃないと思うけど、相当大変だと思うな。俺もネームと原作やってるけど、小説の場合、絵がない代わりにセリフ以外に地の文も書いてるから。前ちょっと漫画原作者になる方法として、小説家になって自分の作品を漫画化してもらうのを考えてみたことがあるんだけど、だいたい、新人賞に出すような作品は完結してないといけないからジブリの映画とかあれ一本書くようなイメージだな」

 

なるほど、どうやらちょっとした思いつき程度で何とかなるものではなさそうだった。それに元クラスメイトの持つイメージとしては、手先はともかくとして、そこまで性格的に器用な人間にも見えなかった。

 

「あ、文学とかそっち系じゃないんだな」

「もともと小説はあいつの方が読んでたんだよ。文学もそれ以外の一般文芸、ミステリーとかも含めてな。ライトノベルも結構読んでて、そっち系を目指すらしい。漫画は俺の方が読んでたな。ジャンプ以外の週刊誌とか、古本屋で立ち読みとかもずっとしてるし。小学校の頃はあいつもちょこちょこ絵を描いてたから兄弟で漫画家って考えたこともあったけど、テニスを本気でやってたからとてもじゃないけど言い出せなかったし」

 

「へえ、絵も描けるのか」

「いや、サイコーほどじゃないよ。賞とか取るほどじゃないけど、クラスで一人いる絵がうまいやつってくらいのレベル」

 

確かに、石沢よりもうまかった気はするが、小学校の頃のことだ。おじさんが死ぬまではサイコーも漫画家を目指していた。自分が気にするようなレベルの人間がいれば近くにいれば覚えているだろう。

 

「漫画は絵だけで勝負じゃないから、おじさんもそうだったけど、一人でやるならそれでも何とかなることも結構多いけどな。上手い下手も大事だけど、それより個性のある絵かどうかの方が大事」

「ああ、もちろん上手いほうがいいとは思うけどな。……また何か話し逸れたな。んで、小説は一本書いたって言うし、それまでもテニスはかなり結果を出してたから県外の強豪校、鹿児島の方からとかも来てくれって話があったんだけどそれも断ったってあいつのクラス担任から聞いてさ」

 

自分が元プロの仕事場を貰えて、原稿の完成にはそれも大きく役割を果たしていた。環境は重要だ。本気でテニスを続けるのであれば、強豪校に行くことはサイコーにとってごく自然のことのように思えた。

 

「それだとかなりマジっぽいな」

「ああ、まあ小説家を目指すのはいいんだけど、あまりにも急だったからさ」

「シュージンとしては、結局どうしたいんだ?」

 

そんな、ごく自然な問いに、シュージンは答えることが出来なかった。

 

「……え。いや、どうしたいってことはないんだけど」

「聞いてて思ったんだけど、シュージンは弟にプロのテニス選手を目指して欲しいんじゃないのか?」

 

一人っ子のサイコーには、兄弟のいるシュージンの気持ちは分からなかった。

しかし、一度夢を諦めたことに関しては理解できるところがあったのかもしれない。

 

「……サイコーがそう思うんだったら、そうなのかもな。あいつの努力を一番近くで見てきたし、よく考えればあいつが全国大会とか小学校の頃から出てたから、俺自身も将来のこととか深く考えるようになったのかもしれない」

 

そう言ったきり、シュージンは黙りこんだ。

数秒の間。

 

「でも、無理強いはできないしな」

「そうなんだよな。去年弟に勝って海外に出たやつは知らない人が見てても分かるくらい凄かったし。その影響は間違いなくあると思うし、諦めたくなってもしょうがないと思うけど。テニスでプロを目指すのも、漫画家になるのも、才能の差はあるかもしれないけど努力は絶対必要だし、本人の熱意だけは他人にはどうしようもない。双子って言っても、いつも一緒にいるわけじゃないし、心の中まで分かるわけじゃない……」

 

だけどそれでも。

自分とシュージンの弟は違う。

似ているからこそ、そう感じる部分もあった。

 

「でも、今年も全国大会出たってことは去年負けたっていう試合の後、すぐに辞めたってわけじゃないんだろ。本人が納得するまでやって、それで決めたんならいいんじゃないか」

「……そうか。そういう見方もあるのか。確かに、プロを目指さないって言っただけで練習する量は減ったけど辞めてないしな」

 

見ているのだ。

シュージンは、弟の努力していた姿を。

そして、この一ヶ月キーボードを打つ姿を。

今年の大会の後は初めての原稿で見ている余裕がなかったが、あの時とはまた少し様子が違っているように思える。

 

「じゃあ、あとは本人が決めることなんじゃないか。俺みたいに漫画家で18までにアニメ化ほど厳しいとは言わないけど、小説家を目指したりするのだって、大学卒業までとか本人が決めてたらそこまで時間に余裕があるわけじゃないと思うぞ」

「そうだなあ……」

 

やがて、車内にアナウンスが流れ、電車はゆっくりと減速を始める。

 

「ほら、降りる駅、次の次だぞ。原稿、忘れんなよな」

「おう。……ちょっと緊張してきたな」

 

 

 

 

 

慣れない東京の電車は乗り換えがややこしい。

道は入り組んでいて、趣味であるバイクを気軽に乗り回せるようになるには少し時間がかかるかもしれない。そんな思いを抱きながら少年と青年の間にある彼はビルの入口をくぐった。

 

「すみません、週刊少年サンデーの山田さんに原稿を見て頂く約束で来ました、福田真太といいます」

 

ニット帽に細身のトレーナーとジーンズ。

周囲の建物ではスーツか施設管理の作業服の人間くらいしか訪れることはないが、出版社という特殊な仕事柄、受付の対応は手慣れたものだった。

 

「はい、確認いたします。こちらに氏名、住所等をご記入の上、少々お待ちください」

 

彼のような持ち込みも珍しくないのだろう。特に手間取ることなく確認は済んだようだった。

「お待たせいたしました。それではそちらのエレベーターから週刊少年サンデー編集部のフロアにお上がり下さい」

 

 

 

「どうっすか」

 

およそ30分後。アポイントを取ってあった編集者は小太りで感じの良さそうな人物であった。聞けば、看板作家の一人である坂井大蔵の担当もしていたことがあるという。

柔らかい物腰に、初めての持ち込みで年若い自分にも丁寧な対応。福田は自然と好印象を抱いていた。

 

「……うん、悪くないね。ちょっと過激な表現が目立つけど、作品自体は良く出来てます。うちへの持ち込みは初めてか。まだ18歳だっけ?」

「はい、今年高校卒業っす」

 

「進路とかは決まっているのかな?」

「いえ、漫画家で連載が第一志望っす」

 

そこで迷うようであれば、この場には来ていないだろう。どこかそんな若さゆえの根拠の無い自信が見て取れるような声だ。

 

「なるほど……。すぐに掲載とかは出来ないけど、賞に出せば十分引っかかるレベルだね。遠い所をわざわざ来てもらったんだ。僕の出来る範囲でアドバイスをして、修正したものを郵送して改めて賞に、という形で問題ないかな」

 

はい、と返事をしようとする福田を遮ったのは既に老いが入ろうとし始めた50台くらいの三白眼の男だった。

 

「福田真太、手塚賞佳作入選経験ありか」

「編集長!」

「せっかく広島から来てもらったんだ、最終的にどの作品を載せるか権限を持つ、私が見なければ意味が無いだろう」

 

やや痩けたような頬、慎重はそれほど大きくないのに、存在感だけが異常に大きく感じる。

 

「み、見てもらえるんすか!?」

「もちろんだ」

 

そう言って彼の手によって原稿がめくられていく。

そして、それは先ほど山田に見てもらったのと比べれば一瞬と言っていいような時間の間に終わってしまう。

 

「漫画とは残酷なものだ。描くのには1週間、1ヶ月とかかるというのに、それを判断するのはほんの数十分、いや数分の時間でしかない」

「……え?」

 

「拝見させてもらったよ。今のが、一般的な読者が君の作品を読む速度だ」

 

何が起こったのか、目の前の男が何をしたのかが福田には理解できなかった。

 

「山田くんは丁寧だからね。君の原稿程度に15分も時間を割いてくれた」

「どういうことっすか」

 

「今の君の作品は売り物にならないと言っているんだ」

「あ!?」

 

今度こそ福田は怒りを隠そうとしなかった。

抑えてはいたが、もともとは感情的なタイプだ。

そして、自分の作品をここまでバカにされては引き下がることは出来ない。

 

「つまり、私はまだ君をプロとして判断しない。手塚賞佳作などという経歴はまったく意味のないものだ」

 

だがしかし、それでも目の前の男には、言い返すことが出来なかった。

尋常ならざる真剣味。

こちらを貶めるという意図でなく、本当に編集者としての意見を言っているだけだということが分かってしまったからだ

 

「ふざけるな、とでも言いたそうな顔だな。だが、君こそ勘違いをしている。優しい言葉をかけてほしいのであれば、漫画など描かないことだ。ただ見て欲しいのであれば、わざわざ直接出向く必要はない。賞に出せば十分だ。こうしてわざわざ直接出向いたのだ。それ以外の何かが欲しいのではなかったか?」

 

「俺は……」

 

「そう、プロでやっていけるかどうかが知りたかったのだろう? そうであれば、結論はさっき言った通りだ。今の君の作品はうちの雑誌に載せるレベルに達していない」

「ッ、具、体的に、言ってくださいよ。どこが悪いのか」

 

相手が真剣であるのであれば、こちらも同じ場所に立ち、あくまで作者として応えなければいけない。それこそが福田の取れた唯一の反抗だった。

 

「悪いところなど無数にある。技術的な未熟、無駄な暴力表現、オリジナリティのなさ」

 

まるで、そんな欠点などどうでも良いかとでも言うようだった。

 

「だが、何よりも致命的なところがある」

 

何故目の前の男は、ここまで言い切ることができるのだろう。

息を呑みながら、しかしその視線から逃れることができない。

 

「それは、読者として見たときにこの作品に心惹かれるものがないという点だ。欠点などあとでいくらでも修正できる。真に必要なのは、個性などというありふれた言葉で語られたものではない、その作家が描くべき必然性だ。小説にせよ、漫画にせよ、何にせよ。それがない作品など、他社はともかく我が社の雑誌に載ることはない」

 

反論しなければいけないはずなのに、出来なかった。そう、心にわずかでもよぎった瞬間に既に負けている。気分はコーナーに追い込まれてあまりの実力差にリンチされるボクサーのようだった。

 

「サンデーはここ10年、誌面の改革で発行部を数170万部まで増やした。対するジャンプは230万部まで落ち込んでいる。よく考えることだ。まだ漫画を描き続けることを選ぶのか。そうであれば君が描くべき作品とは何なのか。そして、どういった手段でそれを達成するのか」

 

にやり、と。

何も楽しいことなど何もない。しかし、面白い。そう思っているような笑顔だった。

 

「もしも君がゼロから這い上がってくるというのであれば、楽しみにしているよ。福田くん」

とんとん。

先程までの攻撃が嘘のように、男は慈しむように原稿を揃え、机の上に置く。

 

「ああ、最後に。……どうしてこの作品をジャンプではなくサンデーに持ち込んだ?」

 

答えたくはない。しかし、答えなくてはいけない。

呆然とする意識の中、福田はぽつりとつぶやく。

 

「……桜の道。友達に勧められて読んだ、長谷川鉄男っていう人が1作だけ描いた作品」

 

思い返すのは、ただ作品のことだ。

後から入ってきたそれを描いた人間が当時高校生だったことや、その他諸々の事情など、読者であったときの自分には関係がない。

 

「ずっと漫画は好きだった。絵を描くのも好きだったし、いつか漫画家になってやるって思ってた。色んな漫画を読んだ。特にジャンプは小学生の頃から俺にとってのバイブルだ。でも、実際に漫画家を目指したのは、原稿を描き始めたのは、人生を変えられたのはあの作品のせいだったんだ」

 

認めるのが嫌だった。

受け入れることができなかった。

だが、ここに至り、もはやそれに目をそむけることはできなかった。

 

「……俺は。それと、同じには、なれないんだな」

 

口に出してしまえば、あっけないものだ。

臓腑に落ちるとは、このことなのだろう。

 

「福田くん……」

 

それなのに、ふと心に浮かんだのは自分を否定する言葉ではなかった。

 

「……なん、て」

 

だが、今だから分かることもある。

 

「いつまでも、塞ぎこんでると思ったら、大間違いだからな!」

 

憧れは理解から最も遠い感情だとは、まさにその通りである。

 

「なってやるよ! 漫画家に! 俺の作品が載ったら、絶対に追いつけるなんて言わせねえ! 今度はそっちから、うちに描いてくださいって言わせてみせるからな!」

 

もう迷うことはない。

手塚賞で2つ下が描いた作品に敵わないなどと落ち込んでいる暇などない。

後はただ惨めでもみっともなくても、戦い続けるだけなのだから。

 

 

 

「……良かったんですか、編集長?」

 

「出来上がってしまえば必然のように見える。高度な技術とそして、それ以上の、その作品をその作品たらしめる言葉には出来ない何か。そして、それを当たり前だと作家や編集者は思っていてはならない。その上で、生き残る者はごくわずかに過ぎない」

 

福田が悲鳴を上げるにして、その場を去った後、編集長である阿久田鉄人はかつて息子に向けて語ったのと同じ言葉を繰り返す。

 

「ならば、それが進むべき道を違えないようにすることもまた、我々の仕事のはずだ」

 

蛇足。

作品としてであれば今もそれを許すことはないだろう。

しかし、時は誰にでも等しく流れ、すべてを変えていく。

彼の作家に対するあり方はかつてとはほんの少しだけ変わっていた。

 

「なに、気にすることはない。部数が増えて気が緩んできたうちの作家や編集も、他のねじが締め直されれば危機感を持つだろう」

 

そう言って山田が見上げた阿久田の顔は、見知らぬ少年時代を思わせるよう。

 

「……新妻エイジ。お前に必要な環境が揃わないと判断できたそのときは、迷わず迎えに行く準備はできているぞ」

 

呟いた後で、阿久田は世相からすっかり切り離された喫煙所へ少しだけ身を縮ませて去ってい




クロス済み作品一覧
バクマン。
ベイビーステップ
アイドルマスター
GIANT KILLING
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
BECK
ピアノの森
砂の栄冠
G戦場ヘヴンズドア
スクールランブル
RIN


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

学校と脱稿

バクマン設定でミスが見つかったので近日中に2話を修正します(他話やクロス作品、今後に影響は出ない予定です)。
また、あとがきのクロス作品を今話に出たキャラクターのみにしてみました。様子を見てから全話で修正します。


将来どう役に立てるのか分からない授業が終わる。

英語とか、どうせテストで良い点取ったって話せるようにはならないし、他の教科も似たり寄ったりだ。

さすがに3年の10月ともなると部活はみんな引退していて、ふだん教室で偉そうな態度の運動部も夏前に比べればおとなしい。

まったく、どいつもこいつもアホみたいだ。必死になって外を走り回ってさ。

 

始業式の表彰では誇らしそうにしていたけど、結局、団体競技は良くて3回戦負け。個人で県大会ベスト8とかそれくらいが関の山じゃないか。

ちょっと足が速いとか、そんなの勉強に輪をかけて役に立たない。

そんなやつらがモテたりするんだから、世の中は不公平だ。

オタクがクラス内で下の地位みたいな風潮、ふざけんなよ。

ジャンプ、サンデー、マガジンと回し読みできるようにしてるのは僕達なんだからな。

まあ、僕はオタクの中でも絵が描けるから女子との会話もあるけどさ。

 

これからは萌えの時代だよ。

漫画は進歩してるんだ。

いつまでもスポ根とかばっかり流行ってるわけじゃない。

アニメの数も年々増えてるしね。おジャ魔女どれみとか、プリキュアとかいい流れが来てる(ナージャは残念だった……)。魔法少女ものの復権がそろそろありそうな感じがする。

 

そうそう、こんなにダウナーな気分なのは先日コードギアスが完結してしまったからだ。

1期の終わり方は不安になったけど、待たされた甲斐があったよ。おかげで分割2クールとかいう手法もこれから増えてきそうだしね。

2期は毎週毎週が本当に楽しみだったよ。

ライブ感っていうのかな。各話の引きで続きが待ちきれないような作りだった。2chの実況が盛り上がる盛り上がる。そのぶん思い返してみれば途中で強引な展開も結構あった気がするけどね。とりあえず、扇死ね。氏ねじゃなくて死ね。

まあ僕は、お姉さま系キャラよりナナリーとかアーニャみたいなロリキャラの方が好きだからそこまでショックはなかったけどね。ヴィレッタ好きの友人は危うく発狂しかけたよ。僕自身のささやかな不満としては、キャラが多いぶん、ひとりひとりの出番が少なくなってしまったくらいだね。

でも最終回があんなにきれいにすっぱりいった作品はここ最近じゃなかったんじゃないかな? クランプのキャラデザは癖があるからちょっと不安もあったけど、絵も2期になってから硬さが消えてこなれた感じがしたしね。

 

最近好きな作品といえば『聖ビジュアル女学院高等部』あたりも原作ストックが溜まってきたな。百合に造詣が深い作者の作品だから丁寧に作って欲しいな。

 

まあその前に中間テストも来週末だ。

とは言っても、勉強も必要だけどその前にこの気分を回復させるためにツタヤにでも寄って帰ろう。

 

 

 

嫌なやつを見つけてしまった。

クラスメイトの高木文秋。帰宅部なのに運動が超できて、勉強も全国トップレベルの高木兄には敵わないけどクラストップ、学年5位以内のチートキャラだ。

運動部でもないのに話したことのない後輩のテニス部の子に告白されたとか聞いたことあるぞ。妬ましい。でもこいつ、あんまりしゃべんないんだよな。双子のくせに去年クラスが一緒だった高木兄とは性格がかなり違う。つくづくよくわかんないやつだ。

 

つーか、なんでアニメコーナーにいるんだよ。

どうせジブリとか借りにきたんじゃないのか?

あ、ガンダム00の2期がやるから、1期を借りにきたとかそういうことか?

それくらいしかこいつが見そうなアニメってないだろ。あとピクサー社系ぐらいか。

 

「『学園戦記ムリョウ』はなし。あと、『サムライチャンプルー』と『灰羽連盟』がないな……」

 

ん? 何か探してる?

 

「石沢か。お前も何か借りに来たの?」

 

げっ、気づかれた。

 

「あ、ああ。テスト勉強の息抜きにね」

「へえ、そうなのか。……お、『ぱにぽにだっしゅ!』があるな。借りよう」

 

あれ、こいつ?

どう見てもカタギのチョイスじゃないぞ。

 

「ちょっと待て、高木。お前、何借りに来たんだ?」

「おお、見る? 石沢なら知ってるの多いと思うけど」

 

そう言って高木が出してきたのは4本。

攻殻機動隊(S.A.C)

涼宮ハルヒの憂鬱

ぱにぽにだっしゅ!

よく知らない洋画(ショーシャンクのなんたら)。

 

「中々のチョイスだな。つーかお前、オタだったのか?」

 

僕がそう問いかけると、高木は首の後ろに手を当ててかしげるような動作をした。

 

「別に隠してたわけじゃない。カバーかけてるけど学校でラノベも結構読んでるし」

 

おお、そうだったのか。だが、この程度で僕がお前を認めると思ったら大間違いだからな……。リア充への恨みは深いのだ。

 

「あと、ロボット系のやつ何か1つ借りていくか……」

 

ほほう、これでお前の本性が見えるというものだ。

ガンダムはSEEDと00だったら最近の過ぎる。グレンラガンも去年やったばかりだし、オタクとは認められないな。あと、エヴァは別枠だから、ノーカン。まあ、ホントにその作品が好きだったらお年玉とかでDVD買ってるか録画してあるだろう(偏見)。

それ以前の作品だったら、まあ認めてやろう。ファーストは僕もまだ見てないからともかく、ポケットの中の戦争とか選んだら友達になれるな。

 

「あー、『ゼーガペイン』あるんだ。じゃあ、これだな」

 

そんなことを言いながら高木はひょい、とDVDの収められた箱を手に取り、ごく自然に中身を抜き取った。

 

「高木」

「ん? 何?」

「友だちになってください」

「別にいいけど」

 

そういうことになった。

だってしょうがないだろ。これ、相手が女の子だったら間違いなく惚れてるチョイスだもん。

 

 

話してみると、高木弟は結構いいやつだった。

どっちかというと、オタとしては萌えというより作品に質を求めるタイプらしく、シリーズ通してまとまっているかを気にしたり、作画がすごい回などがある作品が好きらしい。『エウレカセブン』についてはクソ回がある(例のサッカーの回)のと最終回が微妙なためかなり評価が難しいということには同意した。

 

「なるほど、家に録画環境がないのか」

「うん。だから撮ってあるならコードギアス貸して欲しい」

 

小遣い節約のため、ツタヤが旧作セールやってるときしか借りられないというのも親近感が湧く。

リア充っぽい雰囲気がしたり、運動が出来るのはこいつ自身がテニスを学外でやっているかららしい。ちなみに、こいつ曰く、個人系のスポーツでは結構オタは多いらしい。陸上競技、箱根駅伝に出るような連中とか、あとちょっと毛色は違うけど自衛隊員とか。

 

「まあいいよ。別に減るもんじゃないからね」

「ありがとう」

 

自然に微笑むんじゃねえ。妙な感じになるだろうが。

 

そんな感じで、僕たちは前期のアニメである『ストライクウィッチーズ』について話しながらしばらく歩いた。

 

「僕も漫画家を目指してるけど、これからはこういう作品が来ると思うんだよね」

 

「うん」

 

「キャラクターと物語性の融合っていうかさ。もう少しシリアスでもいいし。そう、ギャップでキャラクターの可愛さとか魅力が引き立つものがあるっていうか……」

 

「要するに、☓☓☓☓舐めたくなるようなキャラクターが必要ってこと?」

 

ブーッ

 

思わず僕はその言葉を聞いて吹き出してしまった。

 

「あれ、中学生っていつもそんなこと考えているもんじゃない?」

 

いや、結構な割合で考えているけれども。

それはともかくとして。

 

その後も少し漫画の話をしたが高木弟は、「ワンピースもハンターハンターくらい人が死にまくればもっと面白くなるのに」とか「ドラゴンボールはハリウッド版がクソだったから、そのうち鳥山先生が劇場版2本くらいつくって、そのあと地上波で新作アニメ化するけど微妙な出来になると思う」なんて言っていた。

 

ああ、おかげでよく分かったよ。

お前がいけ好かないハイスペック野郎じゃなくて、ただのクソ天然野郎だってことがな……!

 

そんなこんなで僕は高木弟にいくつか録画した作品を貸す約束をした。

こいつは漫画とかラノベを色々持っているみたいだから僕はそれを借りる。お互い得をする取引だ。

「じゃあ、今度持ってくるよ」

「うん。頼んだ」

 

そう言って、帰ろうとしたとき、あいつはポツリと言った。

 

「それにしても石沢。お前、スペックの低い間桐慎二みたいなやつだな」

 

……?

 

間桐慎二=やられ役。

おい。

 

間桐慎二=ヒロインにはモテないが一般人にはモテる。

うん、まあ、よし。

 

間桐慎二=魔術以外のスペックは高い。

うん、これも、まあ、よし。

 

僕?=スペックの低い間桐慎二?

……。

 

よく考えたら全然褒められてねーじゃねーか!

天然だからってなんでも許されると思うなよ。ぶち転がすぞ、この野郎……!

 

高木弟の顔を見るが悪びれた様子はなく、どこかきょとんとした様子。

……天然クール系ロリ少女だったら運命の人だったのに(あっ、このネタいつか自分の作品に使えそう)。

僕は、額に筋が出来るのを感じながら手を振ってその場を後にした。

 

 

 

 

10月も半ばが過ぎ、それまで部活に現実逃避していた人たちもいよいよ学生の本分である勉強に追われるようになってきた。

ふだんから真面目にコツコツとやっていないからそんな風になる。分かっているはずなのに、どうしてやらないのだろう。

 

私自身は、今回のテストは出来たという実感があった。

高木くんは塾に通わずにずっとトップを維持している。全国模試でも冊子に名前が載る、トップクラスの成績だ。だから私も、というわけじゃないけれど、もともと一人で頑張るのが苦にならないこともあって何も使わずに夏休みは頑張った。

 

……少し不安なのは高木くんのことだ。

 

そんなに勉強を頑張っているようには見えなかった。でも、あれだけの結果を出しているのだ。陰ながら努力をしているのだろう。そんな風に、どんどん彼のことが気になっていった。

1年の終わりのときにお互いを励みにしようって告白して、頑張ろうときちんと手を握り返してくれた。その後、あんまり話さないからちょっと不安になった。思い切って、2年のときにメールアドレスを交換してからは、こちらから勇気を出して分からないところを聞いたり、学校の行事について尋ねたりすれば必ず返信をくれた。

 

でも、今年の5月、中間テストのあたりからその返信が遅れることや来ないことが増えた。

夏休みに至ってはずっと返信が来なくて、終わる直前に一言「忙しくて返信できなかった、ゴメン」とだけ。

 

その後も、2学期に入ってからは授業中堂々と寝ていたという噂があったり、気になる。

 

でも、そんな不安も今日で終わるはず。

今日、中間テストの順位と点数が貼りだされる。

 

いつも通り、高木くんが1位。それで安心できる。

私も今回は結構頑張ったから最近負けがちだった、医学部を目指して塾に通ったり家庭教師をたくさんつけている神保くんを抜いて2位になるかもしれない(もともと、神保くんの方は学校のテストでは点は取れるけど模試だとあんまり結果が振るわないタイプだ。それほど気にしてはいない)。

 

そう、思っていた。

 

 

 

「えっ、高木4位?」

「うそ」

「ありえない」

「高木弟が2位だって」

「神保が1位か」

 

 

 

そんな、同級生たちの言葉を聞くまでは。

 

 

順位の貼りだされた掲示板を横目でちらりと一瞥すると、高木くんは知らないクラスメイトの肩を抱くようにしてその場から去っていった。

 

本人に聞くのは最終手段。それに、もう、メールで聞いても答えてくれない気がする。

彼のクラスにいる友人にまず確かめるべき。

それでもダメだった場合は。

話したくはないけれど、彼の弟と話してでも事情を聞き出す必要がある。

 

 

 

 

 

アニキが手塚賞に作品を持ち込んだ数日後。

俺は簡単な誤字と表現チェックを行い、USBメモリでデータを持ち運びコンビニのプリンターでコピーした。

前世ではいなかったが、アニキは信頼できる身内で貴重な意見をもらえるかとも思った。だがアニキたちは既に編集から意見をもらっていて、手塚賞も入賞の確率は充分ある(原作と同じになるとは限らない)。まずは1次選考くらいは受かってから見せたい。

そう告げると、向こうも納得してくれたようだった。

 

今回出すのは集英社ライトノベル新人賞だ。

前世では賞の名前が変わっていたように思う。

そもそも、集英社はライトノベル出版社としては、『紅』『パパのいうことを聞きなさい!』『カンピオーネ!』『ベン・トー』『R・O・D』『銀盤カレイドスコープ』『六花の勇者』あたりが代表作だったがイマイチマイナー感がある。ああ、単巻作品だけど『All You Need Is Kill』もそうか。ただ、ジャンプ作品のノベライズ系のコネもありそうで、締め切りがちょうどよい時期にあったので最初の応募先とした。

 

そう、ライトノベル新人賞について調べて知ったのだが、出版関連は前世と似ているようで実は結構な差異があることが発覚した。

基本的に、この世界では漫画とライトノベルは4大出版社を中心に動いている。

集英社、講談社、小学館、角川の4社だ。

集英社はジャンプと集英社ライトノベル新人賞を擁する前世と同じ体制。

講談社はマガジンは前世と同じだが、講談社ラノベ新人賞がなく、元は角川系になったファンタジア大賞を会社合併でこちらが吸収している。

小学館はサンデーと小学館ライトノベル大賞(ガガガ文庫)を擁する前世と同じ体制だが、部数が信じられないくらいに伸びている。どうやら『G戦場ヘヴンズドア』内の雑誌、少年ファイトの作家がこちらにいるからのようだ(前世で掲載されていた雑誌のIKKIが小学館だからだろうか)。

そして、角川。ライトノベルに関してはここは前世と変わらずトップのまま。MF文庫Jライトノベル新人賞、スニーカー大賞、電撃大賞の3賞を有している。一方、漫画はスクエアエニックスのお家騒動と鋼の錬金術師の掲載終了が一斉に来た際にガンガンを丸ごと引き取って電撃大王に統合している。

 

これは、俺自身が前世から知っている作品中心で読んでいたこと、テニスを生活の中心にしていたことから今まで気づかなかったことだ。

 

今回応募する初稿を上げてから、アニメについても調べたがなくなっている作品やこちらにしかない作品があるなども知った(石沢とはその際に仲良くなった)。

 

実はゲーム業界に関しても大きな変化があるが、今はあまり関係ないし、それについてはまた別の機会に触れようと思う。

 

いずれにせよ、ライトノベルは漫画と違って新人の持ち込みなどは存在しない。

賞を取るまで、地道に執筆と投稿を繰り返すしかないのだ。

 

締め切り前、最後の土日までを使って出来る範囲の修正は行った。

細かい修正を繰り返し、合計2万字程度は書きなおした。

赤で大量のチェックを入れた初稿を机の中に丁寧にしまい、修正したデータと応募要項を印刷する。応募の準備を整えて俺は市内で一番大きい郵便局へ向かった。

 

 

 

 

 

2学期から転校だなんて、なんとかならなかったのかしら。

まあ、来年は高校受験だから、今年で良かったというべきなのかもしれないけれど。

それにしても、千葉と埼玉は近いようでなかなか遠いわね。

もともとあちらに未練があったわけではないけれど、妹たちはこちらにもう慣れることができたのに比べて、私はそうすぐにはいかないわ。

よく使うスーパーの場所くらいかしら、慣れたと言えるのは。

ここ2ヶ月は執筆に集中していたおかげで気になっている新刊もほとんど読めていないし、新しい衣装も作れていないものね。

学校でも書いている作品のことをずっと考えていたせいか、話せる人もできないし……。

人と上手くやっていくのは簡単なようでとても難しいことだと改めて思い知らされたわ。

ペンネームの通り、リアルでも猫を被れれば良いのだけれど。

 

それにしても、郵便局というのは不便なものね。

新人賞に出す小説の送り方くらい、どこかにマニュアルが置いてあってもいいのに。

というか、こっちが窓口にいかずにずっと座って待っているのだから誰かひとりくらい声をかけてもいいのではないかしら。

 

初応募、ね……。本当であれば2年前には出す予定だったけれど、自信をつけるためにネットで公開した作品が評価されないからついそちらに時間を割いてしまったわ。

結局、表に出るためには賞を取らなければいけないという結論に至るまで時間はかかったけれど、その間に私も成長しているからその点はプラスとしておきましょう。

 

……それにしても混んでいるのは月末が近いからかしら。

何なのかしら。本当に、みんなに無視されているみたい。

まだ土曜まで日があるし、いったん家に戻ってきちんと調べてから出直そう……。

 

 

「大丈夫? きみ、南中の人?」

 

 

そう言って声をかけてきたのは、どうやら別の中学の男子生徒のようだった。

ブレザーを崩さずに着た、背の高い人。

何故だろう。どことなく雰囲気が他の男子とは違って柔らかい。

細身だけれど、しっかり筋肉が付いている感じ。絵も描く私にはそれが何となく分かる。

 

頷くだけで上手く答えられないでいる私に、彼は寄り添うようにして言葉を引き出してくれる。

驚いたことに、どうやら彼も私と同じ新人賞に応募するということらしい。

 

ゆうパックの入れ物と切手を買い、宛先を書く。

そして必要なものを入れようとすると彼はすっかり準備してきたようで、紐で綴じられた作品と応募要項をカバンから取り出した。

 

それをチャックのついたビニール袋に入れ、入れ物の中に収める。

 

 

「雨が降ったりして中身が濡れる可能性があるかもしれないから。これ以上だとやり過ぎになると思うけど、調べた中では常識の範囲内みたいだから」

 

 

そう言って、私にも余っていたビニールをくれた。

その後はそれぞれの作品を窓口に渡し、後は結果を待つだけ。

終わってしまえばあっという間だったわね。

 

お世話になったのに、去り際にお礼を一言添えるくらいしか出来なかったわ。

確か、横目で見たけれどペンネームは高木文秀とか書いてあったわね。

選考結果が出るときは、少し気にしておこうかしら。




クロス作品(今話出たキャラクターのみ)
バクマン。
俺の妹がこんなに可愛いわけがない


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

結果と喧嘩

 あくびを噛み殺す。

 ステンレスのトレーを放り投げるようにして重ねて片付ける。給食の味はよく覚えていない。ただひたすら眠かった。受験まではもうそれほど時間がない。ちょっとサボったくらいで受からなくなるようなレベルの学校を目指しているわけではないが、授業中寝るのはよろしくない。今なら牢獄のような教室に閉じ込められて勉強する意味が分かる、そう石沢は思った。

 

「眠そうだな」

 

 席に戻ると声をかけてきたのは文秋だった。

 目の前の少年の顔の造形は整っている。それに嫉妬することは少なくない。だが、今はその表情が他のクラスメイトや自分とは違う、そのことにこそ意識が行く。

「……3時には寝たよ。きりの良いところまで進まないと気持ちが悪くてね」

 お前のせいだろうが。そう思いながら、彼はこのクラスメイトのことが今はもうはっきりと嫌いではないと言えるようになっていた。

 

 文秋と話すようになり、やがて会話の中で出てきたPixivに登録したのがひと月半前。

 おべっかも何もない、匿名の他人に評価されることが、こんなにも怖いことだとは思わなかった。そして、他の何にも代えがたい快楽であることも知らなかった。

 この眠さはその代償だ。そう、思えば安いものだ、そう思える。

 最初の2週間は猿のように作品を公開しているページの更新を繰り返し、そして閲覧数や評価に一喜一憂し、コメントが付いた時などはあやうく叫びながら外を走り回るところだった。

 そして、慣れてくるとどうしたらもっと上手く描けるようになるかを考えるようになる。

 背景や機械、アンドロイドを描くとき、リアリティをもたせるためにはどうすれば良いのか。そこには、画力以外の理科や数学を元にした物理的な重心を見極める力が役に立つのではないか。

 女の子を可愛く描くにはどうしたら良いのか。人をもっとよく観察したり、その表情がどんな心境から来ているのか知るためには国語の授業の小説や、好きで読んでいるライトノベルも役に立つのではないか。

 

 世界の見方が変わる。

 

 もう、元には戻れない。

 昔なら納得していた線に、苛立ちを覚える。

 何も分からず褒めてくるクラスメイトが鬱陶しく感じる。

 自分はどこまで行けるのだろうということに不安を感じる。

 

 だが、こんなにも苦しいのに、こんなにも楽しい。

 だから、後悔はしていない。

 上手くなるために参考にすることはあっても、昔のように他人のことを気にしているような暇はない。

 

 ああ、これはきっと呪いのようなものなんだろうな。

 

 そして、目の前の少年もまた同じような、いや、自分よりもずっと深い喜びや苦しみを繰り返して生きてきたのだろう。

 少なくとも、今の石沢には人の表情からそれが分かるようになっていた。

 クラスメイト、教師、両親、立ち寄ったコンビニや本屋の店員、すれ違う人の表情を注意して見るようになった。

 人は、年を経るごとに表情に深みを増していく。

 それはその人間の人生そのもので、ほとんどが環境や経験のせいなのだ。

 だからこそ、自分と同じ歳でどこか大人びて見えるのは、他の人と違うことをしてきたという何よりの証なのだろう。

 

 文秋はどこか物欲しそうな顔。

 ああ、今日は月曜日だったっけ。

「……分かったよ。ジャンプだろ? 今週は隣のクラスの奴が買ってくることになってる。取ってくるからちょっと待ってろよ」

 文秋の口角がほんのすこしだけ釣り上がるのを見て、石沢は少しだけこの分かりにくい友人との出会いを感謝した。

 

 

 

 

 

「石沢くん、遅かったね」

 

 昼休みの教室は程よく賑やかだ。

 残っているのは全体の三分の二程度。

 12月の教室は少し肌寒くて、ストーブの前に集ってだべっているのは女子が多い。

 机に突っ伏すように眠っていたり、本を読んだり、試験に向けて問題を出し合っている生徒の姿も見られる。

 

「僕だって忙しいからね。そういうときもあるさ」

 

 同じ学年で、友人がいるクラスということもあって入りにくいということは無い。

 石沢は自分の姿を見て話しかけてきた友人に言葉を返す。

 

「いやー、ハンターすごいね。王に会長、勝てる気しないよ」

 

 そう言って、差し出されたのはBLEACHのキャラクターが表紙に描かれた今週のジャンプ。

 もう連載が再開して10週になったっけ?

 そんなことを思いながら石沢はそれを受け取る。

 

「おいおい、ネタバレは勘弁してくれよ。僕だって楽しみにしてるんだ」

 

 ゴメンゴメンと形だけの謝罪。

 ここで追っている作品だけ読んでから教室に帰ろうかな、そう考えていると、ふと思い出した。

「あれ、そういえば手塚賞の発表ってそろそろだったっけ?」

 

 漫画家を目指しているものとしてはそのあたりのチェックも怠らない。

 特に夏休み前の号に載っていた新妻エイジの作品は一つ上とは思えないほどの完成度だった。今なら、その凄さがよく分かる。

 

 ああ、そうだったね。そんな友人と一緒に、ぱらぱらとピンクがかったざらざらの誌面をめくる。

 

「おお! 新妻エイジがまた入選してる! しかも、準入選も!?」

 これは本物だ。石沢は素直にそう思った。

 思わず興奮が隠せない。総評を読もうとして、しかし友人の言葉がそれを遮った。

「石沢くん! これ、これ! ココ!」

 何だよ、いいところなのに。そんな風に思いながら指された先を見ると、そこにあったのは見知った名前だった。

 

『一億分の』

 

真城最高(14)埼玉県

高木秋人(14)埼玉県

 

佳作

 

 

 思わず目を疑った。

 しかし、どうやら間違いではないらしい。

 

 思い返してみれば、一年のときのクラスメイトに真城というやつがいた。

 そして、高木秋人のことは学年では有名人だけあって多少は知っている。

 

 埼玉県で、14歳で、漫画を合作している二人がうちの学校以外にいる確率はいったいどれくらいのものだろう?

 

 高木兄の方はともかく、真城の方は苗字も名前も珍しい。

 いや、それ以前に何となく分かる。

 間違いなくあの二人だと。

 

 中間テストの結果や、ふと耳にした彼ら二人の会話。

 それらも彼ら二人が、誌面にある作品を生み出したのだということを示していた。

 

「これ、3組の高木と真城のことじゃない!?」

 

 驚いた。他に言葉はない。

 不思議と悔しいという気持ちはあっても羨ましいという気持ちは無かった。

 それはきっと、ここに載っている作品は彼らのものであって、自分のものではないからだ。

 例えて言うなら、ワンピースは面白いし、お金持ちにもなってみたいとも思う。

 でも、尾田栄一郎になりたいわけじゃない。

 きっとそれは、他の何かではなくて、自分と自分の作品が認められたいからだ。

 

「ああ、そうみたいだね。なかなかやるじゃないか。そうは言っても、新妻エイジには勝ててないし、見たところ絵はまだまだみたいだけど」

 

 思わず皮肉が出てしまうのは、性格によるものか。

 まあ、じきに追いつくさ。

 友人が傍らで騒ぐのを聞きながら、石沢は奥歯をキュッと噛み締めながらそんなことを考える。

 興味はもちろんある。ふう、と息をついた後、作品のあらすじと総評を読もうとする。すると突如、物凄い力で開いていたジャンプを取り上げられた。

 

 文句を言おうと向けた視線の先には、肩を震わせてだんだんと高い音の浅い呼吸を速める少女。岩瀬の姿があった。

 

 

 

 文秋はストーブのそばでページをめくる指先を暖めながら、千寿ムラマサの『幻想妖刀伝』を読んでいた。

 昨年の電撃大賞で大賞を受賞した、彼の前世にはなかった作品である。

 完成度の高い和風ファンタジーで、文章、キャラクター、世界観ともに非常によく出来ている。

 本屋で見つけた2巻は冊数も多かった。これから人気作品になっていくだろう。

 そういえば、他に来るとしたらアクセル・ワールドが今年あたりだったっけ?

 章の区切りとなったところで、そんなことを考えながら黒板の上にかけてある時計を見上げる。

 

「高木! お前のアニキが大変なことになってる、早く来い!」

 

 帰りが遅いと思っていた石沢が、教室の扉を大きな音を立てて開き、そう叫んだ。

 

 

 

 

 

「やったな、サイコー」

「そうだな、シュージン」

 机を挟んで前後の椅子に座り、二人は今週号のジャンプを見ながらにやける表情を隠せずにいた。

「俺さ。もう総評覚えちゃったよ。『非常にシェイプされた良質のSFだ。完成度は既に新人の域を超えている』」

「俺も。『丁寧に描き込まれた努力の積み重ねを感じる背景。キャラクターはまだまだといったところだが、ひと月前に描いたという作品からの進歩は著しい、末恐ろしい中学生だ』」

 二人は誌面を見ずにそう言うと、再び顔を緩ませた。

「かーっ、来週授賞式だわーっ。服とかどうしよう」

「賞金も入るし、おじいちゃんにちょっとは返さないとなー」

 

 完全に緩みきっていた。

 だからこそ、雷が落ちたような音を立てて開かれた教室の扉にも注意が行っていなかった。

 

「高木くん、これ、どういうこと」

 激情を決壊寸前のところで押しとどめた声で、二人が広げていたジャンプの上に岩瀬の手でもう一冊のジャンプが重ねられた。

 突然のことに、静まり返る教室。

「おー、岩瀬じゃん。実は夏休み前からサイコーと二人で漫画描いててさ。お前も見てくれたのか? 手塚賞で佳作取ったんだ」

 

 へへ、と鼻の頭を人差し指で擦りながらシュージンはそう答えた。

 その言葉を聞いた岩瀬は、首を動かさずに視線だけでサイコーを睨みつけた。

 

 敵意。

 

 漫画や小説ではよくある表現だ。しかし、現実世界でそんなものを見たのは、彼にとってそれが初めての事だった。

 

「つまり、ここに載っているのは間違いなくあなたたち二人ということなんですね」

「そ、そうだ。でも別に悪いことをしたわけじゃ……」

 

 サイコーの弱々しい弁解は、しかしその途中で遮られた。

 

「悪いことを、したわけじゃない?」

 

 その言葉には既に隠し切れない怒りが現れている。

 サイコーが反論することは許されていないようだった。

 加工されていない強い感情が、その場の雰囲気すらを支配しているかのよう。

 

「ふざけないで。あなた一人なら漫画を描こうが何をしようが気にしません。でも、高木くんが一緒なら話は別」

 

 吐き捨てるように言葉をぶつけ、そして岩瀬は静かにジャンプを開いていたシュージンの右手を両手で握った。

 

「ねえ、受験までもう3ヶ月ちょっとしかないのは分かっているでしょう。模試も、定期テストの校内順位も下げてまでするようなことじゃないはずです」

 

 岩瀬の言葉を聞き、一度シュージンはサイコーの顔を見た。戸惑うような、怯えたような表情だった。シュージンはふっと息をはいたあと、握られていた岩瀬の手からするりとぬけ出す。そして、少し照れくさそうに自分たちの名前が書かれたジャンプのページをなぞった。

 

「……いいか、岩瀬。漫画家になるのは俺の夢なんだ。サイコーと一緒になって、夏休みに初めて作品を持ち込んで、悔しい思いもした。でも今回、必死でやって佳作っていう結果で出たんだ。学校の成績なんかより、俺にとっては漫画の方がずっと大事なんだ」

 

「そんな事していたら、必ず後悔します」

 

 だから、と続けようとした矢先。

 

「なんであんたが、そんなこと言うの!?」

 

 そんな甲高い声が教室内に響いた。

 亜豆のそばを離れ、近づいてくるのは表情を険しくした見吉。

 邪魔な机の角にぶつかるのもおかまいなしに音を立てて歩く。

 

「何故って、わ、私と高木くんは付き合っているからです。好きな人の進路に関わることですから、当然のことだと思いますが」

 

 頬をさあっと赤く染めた岩瀬の言葉を一拍置いて理解した見吉は、睨みつけながら自分の顔を岩瀬に近づける。

 

「はあ!? 何言ってんの? 高木は、夏休み前にあたしに告ってきたんだけど。あんたと高木が一緒にいたところなんてほとんど見たこと無い。妄想してんじゃないの!?」

 

 呆然。それ以外に見吉の言葉を聞いた岩瀬の心境を表した言葉はないだろう。

 それまで静まり返っていた教室が、にわかにざわつき始める。

 

「う、嘘じゃありません。1年生の頃、お互いを励みにして頑張りましょうと話したら、頑張ろうと手を握り返されました。表立って一緒に出かけたりはしていませんが、メールでのやり取りもしています……」

 

「で、でも。夏休み前に私にミホのことを聞いた理由、なんでって聞いた時は高木は私と話したかったからって言ってた! そうだ、真城だって聞いてたでしょ!?」

 

 二人の言葉は段々と荒くなっていき、いつ手が出てもおかしくないような状況だ。睨まれたサイコーは迂闊に何か言うことも出来ず、ただ椅子に座ったまま縮こまる。

 いつまでも返答を返さないサイコーにしびれをきらせたのか、ついにその追求は渦中のシュージンへと向けられる。

「どっち!?」「どっちなんですか!?」

 

 問いつめられたシュージンは左手で眼鏡ごと顔を覆い隠すような動作をした後、短く強く頭を掻き、叫ぶ。

「あーっ! もう! 二人とも落ち着け!」

 

 大声を出したせいか、シュージンはどこか落ち着きを取り戻したようだった。二人に反論を許さず、言葉を続ける。

 

「俺はどっちとも付き合ってるってつもりはない。岩瀬とは握手をしただけでそれがイコール付き合いますだとは思ってなかった。見吉とも話をしたかったけどイコール告白っていう意味じゃなかった。以上!」

 

(すげーなシュージン。この状況で言い切ったよ)

 

 恐らく、サイコーの内心はその場にいたクラスメイトに共通したものだったろう。いずれにせよ、これで一息ついたと思ったが、そうは行かなかった。

 

「でも、でも私。高木くんのことが好きなの!」

 

 両手を胸の前で自信なさげに握り、その声はどこか子供がしゃくりあげるようだった。普段は大人しい岩瀬がそんな感情的な態度を取るのを見たのは、その場にいるすべての人間にとって初めてのこと。

 

「あ、あたしだって、高木のこと好きだもん!」

 

 振り絞るようにした告白の後、二人は息を切らしながら瞳をうるませてシュージンをじっと見つめる。

 女子に好かれるのは嬉しいし、状況が今のようでなく、相手が可愛ければちょっと付き合ってから考えるということもありえた。だが、今のシュージンにはそんな不誠実な選択肢は思い浮かばなかった。思い出されたのは、この半年。サイコーと二人で必死に漫画を作ったことだけだった。

 

「……ありがとう。二人とも、すげー嬉しいよ。正直に言えば、岩瀬のことも見吉のことも嫌いじゃない。どっちかと言えば好きだ」

 

 確かに。そう、シュージンは言葉を続ける。

 

「確かに、前の俺だったら、どっちか先に言ってくれた方と付き合ってたと思う。でも、今はそうじゃないんだ。俺には漫画家になるって夢がある。今はそれに向かって頑張りたいんだ。だから、二人とも、ごめん」

 

 同じ言葉を聞きながら、二人の表情は全く違うものへと変化する。

 見吉のそれは、どこか仕方がないといった、大人が子供を許すようなもの。

 

「漫画家なんて、目指したって意味ありません。必ず後悔します」

 

 岩瀬のそれは、責めるものとはまた違う、どろりと濁った力の無い声と瞳によって作られた人形のようだった。

 

 

 俺は、この眼を知っている。

 人が本当に絶望したときに見せる表情。

 去年、弟の試合に応援に行ったときに見た、一つ上の江川選手が池爽児に完膚なきまでにやられたときの顔。

 圧倒的な才能の差。自分では決して手の届かない領域があると知って、それを受け入れてしまったとき。

 そんなときに見せる顔。

 ……岩瀬は、本当に俺のことが好きだったんだな。

 

「夢を追って敗れて後悔するなら納得できる。でも、夢を追わなかった事に後悔したくない」

 表紙がくしゃくしゃにされてしまったジャンプを、シュージンは丁寧に伸ばして岩瀬に向き直る。

 

「真城と漫画を描き始める前は毎日がただ過ぎていくだけだった。いつかは漫画家になりたいと思ってたけど、ここまで本気じゃなかった。でも、今は辛いこともあるけど毎日が楽しい。懸命に生きてる……」

 

 そう言って、シュージンはふっと力を抜いて微笑んだ。

 

「岩瀬、俺、真城と一緒に谷草北高に行くんだ」

 

 それ、あたしが行きたいのと同じ高校だ。まだチャンスはあるのかな。

 そんな風に見吉がぼんやり考えていると、岩瀬はシュージンの胸に頭突きをするように頭をうずめた。

 

 やがて聞こえてくるのは、声にならないぐずぐずと鳴る鼻と嗚咽の音。

 いや、いやと力なく繰り返されるつぶやき。

 そんな岩瀬をシュージンは振り払うことが出来なかった。

 

「こんなの、こんなのおかしいよ!」

 

 シュージンの言葉に先程まで聞き入っていた見吉の、突然の爆発。

 

「高木は夢に向かって頑張るって言ってるのに、なんでそれを否定するようなこと言うの? 好きだったら、その夢を応援するのが本当じゃないの?」

 

 岩瀬をシュージンから引き剥がそうとした見吉の手は、しかし岩瀬の手によってはたき落とされる。

 

「あなたなんかに、何が分かるの?」

 

 だらりと垂れ下がった前髪から、生気のない瞳が覗く。

 

「努力したって、必ずしも報われるわけじゃない。高木くんなら、全国トップにもなれるのに。それを捨ててまで?」

 

 ああ、そう言えば。

 

「そんなことを言うあなたは空手だかなんだか、全国大会に出たっていうのに簡単に諦めてしまったらしいですね。……そう、その程度の夢だっていうなら、応援だなんて茶番と同じ。最初から見ないほうがずっといいんです」

 

 見下すような、嘲りを含んだ口元の笑い。

 自分に対してだけであれば、見吉はそれに怒りなどしなかった。だが、自分が好きな相手のことだったからこそ、それに対する感情を抑えることは出来なかった。

 

「ふっ、ざけんな……!」

 

 自分より少し高い身長の岩瀬を、しかし見吉は軽々と持ち上げる。

 シュージンから引き離し、制服の首元を握り、締め上げる。

 リボンのタイの形が崩れ、怒りを露わにした見吉の瞳が岩瀬を見据える。

 

 何かが破裂したような。乾いた音。

 見吉の視線は、腕力によって強引に岩瀬から逸らされていた。

 後には振り下ろした岩瀬の平手。

 その張られた頬の痛みを認識し、見吉は右腕に込めていた力を一瞬だけ抜いた。

 

 机が派手に音を立てて横倒しになる。

 そこには投げつけられた岩瀬の姿。

 のそり、と立ち上がると言葉にならない叫び声を上げながら見吉に掴みかかろうとする。

 

 上等……!

 そう思って向かい来る岩瀬を捉えようとする見吉だったが、その腕は空を切った。

 試合の場で見るのとは異なる、その人間が本来出せる力を超えた速度の突進。

 

 今度、音を立てて机に突っ込んだのは見吉の方だった。

 

 見吉が打ち付けた腰に気をやった瞬間、岩瀬がマウントポジションを取り、左手で見吉の髪を掴み、そして右手で何度も平手打ちを食らわせる。

 

「ヤバい、サイコー! 止めるぞ!」

「お、おう!」

 

 しばし唖然としていた二人。シュージンの声でサイコーも立ち上がろうとするが、そこに岩瀬が吹き飛ばされて突っ込んでくる。

 

 今度は逆襲に、文字通り、見吉が岩瀬を蹴り飛ばしたのだ。

 

 打ちどころが悪かったのか、その場に悶絶するサイコー。岩瀬は痛みなど気にしていないかのように立ち上がり、再び見吉に向かっていく。

 後ろから羽交い締めのように腕を掴まれた見吉だったが、腕力は彼女の方が上だったのか、腕を振り回すことは止めきれなかった。

 握られた拳が振り回され、岩瀬の顎にがちんと音を立ててぶつかる。

 ぐらりと激痛にたたらを踏むが、岩瀬は机に手をつき、その場に踏みとどまった。

 そして、腕力ではかなわないと悟ったのか、その場に転がっていた椅子を細い両腕で持ち上げ、走りながら勢いをつけて振りかぶる。

 

 ――やり過ぎた。

 そんな後悔も、もはや止めようがない。

 シュージンが見吉に覆いかぶさるように庇うのを見ながら、岩瀬はそんなことを短い間に思う。

 鉄と木で出来た凶器がシュージンの頭を捉え、ぐにゃりと食い込み砕こうとする瞬間、右側からの衝撃。

 

 岩瀬の手は椅子の脚を握り続けることが出来ず、手から離されたそれは運動エネルギーを維持したまま、向きだけを変えられて窓ガラスに激突する。

 ガラスが割れ、破片が飛び散り、そしてわずかな間の後に椅子が校庭に落ちてぶつかる音がした。

 

 振り上げられた椅子を蹴り飛ばし、そして岩瀬が再び手を振り上げないように両手を握るのは、石沢に呼ばれて来た文秋だった。

 

 放心したように、岩瀬は動けず、見吉も力が抜けたのかその場に座り込んでいた。

 悶絶していたサイコーは、教室の入口付近にいた亜豆が駆け寄って介抱している。

 

 やがて、この騒動における最後の暴力が振るわれた。

 

 シュージンの、岩瀬に対する平手打ちだった。

「やり過ぎだ、岩瀬」

 

 叩かれたことによるものか、それとも言葉によるものなのかは判然としない。

 ただ、それまで抑えていたものが決壊し、岩瀬は声を上げて大声で泣き始める。

 教師や人が集まって来る。

 そんな中、ただ一人、文秋は右手で岩瀬の手を握ったまま、その泣き顔を隠すように彼女を左手であやすように抱きしめていた。




執筆環境のせいで、投稿分の1字下げができていないようでした。
基本的に新しい話の執筆を優先しますが、時間を見つけて修正する予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。