阿礼狂いに生まれた少年のお話 (右に倣え)
しおりを挟む

目覚めの時代 ‐稗田阿七‐
少年は目覚めを自覚する


 あのお方と出会ったのは、いつの頃だろうか。少なくとも、物心がついて程ない頃だったはず。

 世話人の女中に手を引かれ、誇らしげに胸を張って立つ父の傍らにいるその人を見た時――心を奪われた。

 

 身体を構成する細胞が、脳を走る電気信号が、肚の奥底から生まれる熱が。全てが視線の先にいる少女に注がれる。

 

 この時少年――いや幼児と呼んでも差し支えない年齢の子供は悟ったのだ。

 

 自分はこの人のために生まれてきた人間なのだ、と。

 

 これより先の三代、御阿礼の子の護衛役を一人で務め上げることになる男――火継信綱(ひつぎのぶつな)はこう語った。

 

 

 

 

 

 火継の家は代々御阿礼の子の護衛をする一族であり、側仕えになれる者は一族の中で最も強い者に限られる。

 仮に護衛役に選ばれようとも油断はできない。

 月に一度、家の道場にて行われる一族全員を集めた稽古の場において、下の人間に打ち負かされた場合は即座に交代する仕組みとなっている。

 

 一族中の人間は自分こそが御阿礼の子の護衛に相応しいと思い鍛錬を続けているため、本来であれば毎日護衛役に挑みたいと思っているのだが、それで頻繁に護衛が交代しては御阿礼の子の負担になりかねず、本末転倒となってしまう。

 月に一度というのもある種苦肉の策なのだ。

 

 身命は言うに及ばず、私心、私情、信念。御阿礼の子が求めるならば全てを躊躇うことなく差し出し、それこそが至上の喜びであると信じる者たちが集まって形成された一族。

 

 たった一人の人間に文字通り全てを捧げる潔さと、それによって生まれる狂気じみた強さ。

 

 

 

 里の人間は畏敬と侮蔑、双方の念を込めて――阿礼狂いの一族と呼んでいた。

 

 

 

 信綱はそんな家に生を受け、彼もまた阿礼狂いの血を目覚めさせようとしていた一人だった。

 

「……ねえ」

「なんでございましょう」

 

 御阿礼の子の姿をチラリと見た帰り道、信綱は女中に手を引かれながら口を開く。

 

「あの人、綺麗だった」

「……左様でございますか」

「ぼくの家は、そういう家なんだよね」

 

 信綱は聡明な子だった。一を聞いて十を知る。十を知り百を解する。百を解し万を覚える。

 元々火継の家は優秀な人材が輩出される家だが、そんな中でも信綱の優秀さは群を抜いていた。ある種異質な領域にあると言っても過言ではないほどに。

 

「その通りにございます。ですが坊ちゃまはまだ子供。稽古への参加を許されるのは十を数えてからになります」

「危ないからだよね。少しだけ見たことがある」

 

 護衛役は自分の立場を脅かしかねない芽を摘み取ることに躍起になり、そうでないものは自分こそが護衛に選ばれるのだと手段を選ばない。

 

 護衛役に求められるものはあらゆる状況下において御阿礼の子を守り抜くことであり、奇策や奇襲程度もいなせぬようであれば護衛の資格なし。それが決まりだった。

 

 故に稽古は苛烈極まりないものになる。死者が出ることも日常茶飯事とまではいかずとも、頻繁に起こる。その稽古にまだ寺子屋に通う年齢ですらない信綱が行くのは、無謀を通り越して自殺に等しい。

 

今は(・・)無理。それはわかってる」

 

 周りの人間はどうとでもなるが、現在護衛を務めている父に勝てる図が描けない。さすがにもう少し待つ必要があった。

 

「帰ってご飯にしよう。たくさん食べて身体を強くしないと」

「ええ。坊ちゃまが大きく健やかに育たれることを私は願っております」

「ありがとう。そう言ってくれるのはトメだけだ」

 

 上記にもあるように、護衛役は自分の立場を脅かしかねない芽を摘み取ろうとする。それは自分の子供であっても例外ではない。

 永遠に生きられるわけではないのだから跡継ぎは必要であるが、同時に彼らは一秒でも長く御阿礼の子の側にいたいのだ。

 そのため信綱だけでなく、火継の家に生まれる男児はほとんどが親の愛情などというものとは無縁に成長する。

 

 とはいえ、火継の一族は全て例外なく御阿礼の子に魂を奪われるため、親の愛情など無用の長物であるのだが。

 

 母親代わりの人に手を引かれ、家へと帰るその姿は見れば誰もが頬を緩ませる家族のものであり――同時に、雌伏の時を耐え忍ぶ、獣のそれであった。

 

 

 

 

 

 

 

 信綱の年齢が六歳を数えた時、彼は寺子屋に通っていた。

 御阿礼の子の側仕えになるのであれば単純な武力だけに留まらず、様々な知識を持っていなければならない。御阿礼の子が求めて来た時、応えられぬとあっては火継の名折れである。

 むしろ応えられない当人が己の不甲斐なさを嘆いて自害する。御阿礼の子を至上とする者たちにとって、その願いを叶えることが出来ない自分など塵芥にも劣る存在なのだ。

 

「ノブー、宿題見せてくれよー」

「そういうのは前日に言え。今からじゃ写したって間に合わないし、慧音先生の頭突きをぼくまでもらう」

 

 さて、火継の一族として信綱も例外じゃない御阿礼の子を至上とする価値観を持っているわけだが、寺子屋では普通に同年代である子供たちの輪に溶け込んでいた。

 

「だいじょーぶだって、おれ写すのメッチャ早いんだから余裕だって!」

 

 どうやら寺子屋で出された宿題を見せてくれと頼まれているようだ。

 火継の家は阿礼狂いである、と言っても子供たちにとってそんなことはあまり関係のないことであり、また信綱も御阿礼の子が絡まない限りは、普通の人間として振る舞うことが出来た。

 

 尤も、仮に御阿礼の子が寺子屋の人間の死を望んだなら、信綱は一片の躊躇いも見せず鏖殺するだろう。

 

「いいや、無理だ。なぜなら――」

 

 しかし、そんな命令が飛ぶまでは信綱も自身の良心や感性に従って友人を大切にしようという思いぐらいは見せる。例えそれがこの少年の一秒後の残酷な未来を告げるものであっても。

 

「――慧音先生、もう後ろに来てる」

「えっ――」

 

 信綱の机にかじりついていた少年の顔がサッと絶望に染まる。

 反射的な行動で机から身体を離し、逃げ出そうとした少年。その動作の機敏さには信綱も僅かに感心する。よくこの状況下で逃げ出す選択ができるものだという負の方向で。

 だが哀れ。少年は首根っこを引っつかまれ、片腕で持ち上げられる。

 

「やあ勘助。おはよう」

 

 ニッコリと笑う銀髪の美しい女性――彼らの教師である上白沢慧音を見て、皆はこれから勘助少年に振りかかる試練を思い、内心で合掌する。

 

「お、おはようございます、慧音先生……」

「うむ、おはよう。気持ちの良い朝だ。――さて、信綱に何を頼んでいたのか、先生に詳しく教えてくれないかな?」

「そ、それは、その……」

 

 ぶら下がった状態で目を右往左往させる勘助少年。

 そんな少年を優しく地面に下ろし、慧音は慈母のごとき笑みを浮かべる。

 

「――まだ謝れば許してやるぞ」

「ごめんなさい宿題忘れました!」

「天誅!」

 

 返答は恒例のお仕置きである頭突きだった。

 ドゴン、と思わず目をつむってしまう鈍い音が部屋中に響き渡る。

 信綱も寺子屋に入ったばかりで、人との交友関係にあまり意味を見出だせていなかった頃に一度受けたことがあるが、あれはとても痛い。

 

「許すって言ったのにっ!?」

「頭突き一発で許してやるという意味だ。だが素直に言ったことは偉いぞ。追加の頭突きは勘弁してやろう」

「はーい……」

 

 頭を押さえてフラフラしながら自分の席につくのを見送ってから、慧音は信綱にも向き直る。

 

「おはよう、信綱」

「おはようございます」

「宿題を写してくれと言われても断るように。前日に言われてもだ」

「教えるぐらいはいいですよね?」

「切磋琢磨は推奨する。が、依存してしまうのは良くないことだ。お前ならわかるだろう」

 

 信綱の家が阿礼狂いと呼ばれることを含めて言っているのなら壮絶な皮肉だが、慧音に限ってそれはない。寺子屋に通う子供たちである限り、誰であろうと平等に接して子供たちの成長を望む良い先生なのだ。

 

「さて、では今日の授業を始めるぞ。今日は楽しい歴史の授業だ!」

 

 歴史と聞いて子供たちの目が一斉に濁ったことを慧音先生は知らないし、今後も気づかないだろう。

 良い先生なのだ。良い先生なのだが……授業が面白くないのがたまに疵である。

 

 

 

 授業自体は午前中で終わる。午後からは畑作業を手伝う子供もいれば、皆で遊ぶ算段を立てる子供もいる。

 そんな中、信綱もよく一緒にいる勘助少年ともう一人の少女と帰り道を歩いていた。

 

「おれはこの後畑の手伝いやんねーと。だけど夕方から遊べると思うんだ! 伽耶と信綱はどうだ?」

「ごめん。ぼくは用事がある。ひょっとしたら夜までかかるかもしれない。伽耶は?」

 

 伽耶と呼ばれた少女は控えめに微笑み、首を横に振る。

 

「わたしのところも弟の面倒見ないと……」

「そうかー……。よしっ、おれは畑仕事サボって寺子屋に戻るか! あそこなら遊んでるやついっぱいいるし!」

「ダメだよ、勘ちゃん。ちゃんと手伝わないと怒られるよ?」

 

 人里で生まれたのなら、同年代の少年少女など全員幼馴染のようなものだが、この二人は特に距離感が近い。

 信綱の聞くところによると、家も隣同士だそうだ。

 

「慧音先生の頭突きに比べりゃなんてことないって!」

「ぼくも伽耶に賛成。ぼくに比べて身体も大きいんだし、手伝えば小遣いがもらえるかもよ」

「よっしゃ今日も頑張って働くぞー! 小遣いもらえたら二人にもなんかおごってやるよ!」

 

 勘助は同年代の少年少女に比べて身体が大きい。普通ならガキ大将の一つでも出来そうなものだが、この少年はお山の大将でいることよりも信綱を含めた三人で遊ぶのが楽しいらしい。

 気前も良く、阿礼狂いと呼ばれる家の子である自分にも分け隔てなく接してくれる。

 それがとても素晴らしいことであり、掛け値なしに賞賛されるべきことであると信綱は理解していた。

 

「あはは、期待しないで待ってるよ。じゃあぼくはここで」

「おう、また明日なー!」

「また明日、ノブくん」

 

 友人二人と手を振って別れ――信綱の顔から感情が凍えていく。

 今日は月に一度の稽古日。信綱は未だ稽古に参加できるほどの年齢ではないが――十分だ。

 

 もうこれ以上待つのはうんざりなのだ。あの人の隣に立ちたい、側にいたいという思いは自分でも不思議に思うくらい強くなっていた。

 稽古に参加する者たちは皆、この狂おしい炎に身を焦がしながら戦うのだろう。

 肉打たれ、骨砕ける痛みの火照りも、胸を焦がす激情に比べれば流水に等しい。

 

 

 

 さあ、人間の時間は終わりだ。ここからは――阿礼狂いの時間だ。

 

 

 

 家に戻り、少々小じわの増えてきた女中の目をかわして道場に向かう。

 武器は途中で拾った木の棒で十分。

 道場からは聞くものの心を砕いてしまうような怒号と木刀の打ち合う音が響き渡る。時折、肉を打つような鈍い音が聞こえるのは殴打も加えているからだろう。

 

 怒声と狂騒。混沌の坩堝であるその中へ、信綱は一息に踏み入る。

 カラリ、と引き戸を開く。喧騒の中でそれが聞こえる道理などないのに、稽古という名の殺し合い一歩手前の戦闘を行っていた者たちは、一斉に動きを止めて戸に視線を向けた。

 

 この程度の気配を察知できないものは火継にはいないということ。

 その事実をさしたる驚愕もなしに受け止め、信綱は木の棒を片手に悠然と進む。

 

「……チェエエエエエリャアアアアアアアア!!!」

 

 そんな信綱目掛け、火継の男が木刀片手に襲いかかる。

 それを咎める声は存在しない。この道場に、しかも護衛に成り代わる可能性を得られる日に、未来の脅威とも呼べる存在が、まだ幼い子供のままやってきたのだ。

 鴨が葱を背負ってきたも同然。この機に刈り取っておけば後顧の憂いがなくなる。

 

 常識で考えればおよそ真っ当でない思考と行動。だがそれをおかしいと思う者は、信綱含めてこの場に存在しない。

 この程度で死ぬのなら、それはここがどんな場所かも理解せずに来た信綱が全面的に悪いのである。

 

 

 

 要するに――この家で弱いことは罪なのだ。

 

 

 

 信綱は迫り来る狂剣を何の感情も宿さない瞳で見据え、息を吐く。

 恐怖から漏れる吐息ではない。立ち向かうための気炎を上げたものでもない。

 ただ――安堵していた。

 

「ああ、うん。――怖がり過ぎてたな、ぼく」

 

 振り下ろされる狂剣は一瞬前まで信綱のいた場所を斬り裂き、板張りの床をかち割る。

 避けられた。その事実を知った男は視界から消えた信綱を探そうとして、視界が上下逆転する。

 

「あ?」

 

 男の勢いを利用した一撃が足を刈り取り、大の男を床に転がす。

 床に叩きつけられる衝撃が通って身体が弛緩する瞬間を見切り、信綱は男の持つ木刀を奪い取って男の頭を軽く叩く。

 それだけで男は意識を失い、起き上がろうとしていた手足から力が抜ける。

 

 信綱は一瞥をくれることもなく、身の丈にはやや大きい木刀を肩に担いで道場の中央にいる男――自らの父に対して口を開く。

 

「どうも、父上」

 

 実のところ、父親と言葉を交わすというのは初めてだった。それほどに火継の家というのは親子の繋がりが薄い。

 

「……俺に挑むつもりか? 不肖の門弟を一人倒せた程度で?」

「いいじゃないですか。ぼくが負けたら金輪際道場には近寄りません。腹斬って死にます。……というより父上、ぼくがこうなることを見越していたでしょう?」

 

 信綱の言葉に男はかみ殺した哂いを零す。

 火継の家に生まれたものならば、御阿礼の子を見て何も思わぬはずがない。

 そして一度火がつけば、後はそれが勝手に未来の脅威を燃やし尽くしてくれる。

 それほどに彼らが抱える熱は大きく、猛っているのだ。

 

「何を言っても無駄だろうから、これ以上の問答はやめよう。この場に立ち、今しがた力を示したお前は俺に挑む権利がある。そしてそれを俺はどんな手で潰しても良い。――これは勝負だ。時に事故も起こり得る」

「そうですね。本当――もっと早く来ていればよかった」

 

 信綱は全く力を込めないまま木刀を構え、普段通りの顔に戻る。

 ここに来る前は多少なりとも緊張はあったのだが、最初の一人を倒した時に確信できてしまった。

 ずっと前にチラリと遠目で見た稽古の様子だけを脳裏で描き続け、仮想敵と考えて頭の中で戦い続けていたが、それはどうやら過大に評価したものだったらしい。

 

「ッシャッ!!」

 

 合図も何もない、極限まで無駄を減らした恐ろしい速度で父が我が子に対し、剣を振るう。

 直撃すれば柘榴のように頭が弾け飛ぶ。それを見て、信綱も軽く足に力を込めて――

 

 

 

 

 

 

 

 ――勝負はさほど長くかからなかった。

 

「馬鹿、な……っ!?」

 

 信綱の父は信じられないものを見るような目で、自分の手を見ている。

 相手の力を完璧に利用した一撃で手首を破壊され、木刀が握れなくなった。

 ならばと大人故の腕力と体格を使った打撃は全て出を潰された。まるでどこからどんな風に攻撃が来るのか、全てわかっているような動きですらあった。

 

 信綱は膝をついた父を何の感慨も持たずに見つめ、大きくため息をつく。

 

「案ずるより産むが易し。壁を高くしていたのはぼく自身か。――勝負ありですね」

「……っ!!」

 

 ギリ、と歯軋り――いや、噛み締めすぎて砕けた歯と血が父の口から零れる。

 彼らの勝負を見ていた者たちも一言も発せない。

 自分たちがあらゆる手段を用いて倒そうとしても倒せなかった現在の護衛役である男に、六歳になったばかりの少年が汗もかかず打ち勝ったのだ。

 

 何かの夢であって欲しいとすら思う。なぜならこの少年は見てわかるように若く、伸び代がある。

 若いということは長く護衛役を務められる可能性が高いということであり、伸び代があるということは今より遥かに強くなる可能性があるということだ。

 我こそはと思う者たちにとって目の上のたんこぶ以外の何者でもない。

 

 それを感じたのだろう。信綱は父から目をそらし、自分を見る者たちに剣を向ける。

 

「異議があるならどうぞご自由に。全員倒せばぼくが阿七様の護衛に相応しいってことになるんでしょ」

 

 再び巻き起こる怒号。今度はそれが信綱ただ一人に向けられていることが先ほどと違うことか。

 しかし皆が阿礼狂いならば、彼もまた阿礼狂い。すでに心は阿七に奪われているのだ。たかだか雄叫び程度、心に響く道理などない。

 

 それぞれが武器を持ち、父を押し退けて四方八方から迫る男たちを、信綱は静かに見据えて佇んでいた。

 

 

 

 

 

 ――この日こそ、後の三代に渡って御阿礼の子の隣に立ち続けた男、火継信綱が正式に阿七の護衛に選ばれた日となったのであった。




新作を書いてしまった作者です。王道とはどこへ行ったのか。
例によって勢い発射ですが、ある程度のストーリーラインは付けてます。だから今度は長編になる……かもしれないです。多分、きっと、メイビー。

さて、初っ端から飛ばしてますが、戦闘はメインじゃありません。そこだけは留意ください。話の都合で戦闘ばっかになる場面もあるかもしれませんが、まだまだ先の話です。

そして話の都合上、阿七、阿弥、阿求の代まで一人の人間が見届けるわけです。一応原作での設定では転生に必要な年数は100年近く設定されてますが、その辺を縮めてます。

こまけえこたぁいいんだよ! の精神を持ってお読みくださると幸いです。

御阿礼の子に狂った男の一代記。お付き合いいただけることを願っております。



……良い感じのタイトルが思い浮かばなかった(^ρ^) いきなり変わっても驚かないでください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

稗田阿七という少女

「よくお似合いですよ、坊ちゃま」

「そうかなあ……」

 

 護衛役を継ぐことが正式に決まった翌日、信綱は護衛用の礼服に身を包んでいた。

 体格のある大人が着れば見栄えも良いのだろうが、信綱の年齢と身長では七五三の格好にしかならない。

 祝い事であることは確かだけれども、どうにも場違いな気持ちが否めなかった。

 

「ああ、あと悪かったね。勝手に道場に行ったりして。気持ちが抑えられなかった」

「しかし私がいてもいなくても、どちらにしても向かっておられたでしょう。あなた方はそういう一族ですから」

 

 トメという女中は長く火継の家に仕えている。信綱の乳母でもあるし、それ以前からこの家に仕えていたのだから、阿礼狂いと呼ばれる所以も知っているのだろう。

 

「それに何より、坊ちゃまは見事に力を示された。無事に帰って来てくれて嬉しゅうございます。ささ、こちらをどうぞ」

 

 差し出される小太刀を受け取り、腰に差す。木刀なら多少長くても良いのだが、さすがに鉄の塊である刀を大の大人と同じように持つことは出来ない。

 だが、これでも道場の者たちを全員打ち倒した猛者。小太刀一振りあれば人間に負ける気はしなかった。

 

「ふぅ……」

 

 しかし姿見に映る格好を見て、自分のことながら情けなくなる信綱。

 これではまるで七五三の子供が背伸びをしているようにしか見えないではないか。

 腕に自信はあるが、見た目というのも大事な要素である。この背格好に侮られて阿七に危害が加えられたとあっては、それこそ末代までの恥辱。

 とはいえ見目が変わるということもなし。侮られることは仕方ないと受け入れても、せめてこれから仕える阿礼乙女には絶対に指一本触れさせないという決意を、その少年らしい赤らんだ頬に浮かべる。

 

 

 

「これより阿七様の警護を務めさせて頂きます。火継信綱と申し――」

「わっ、可愛らしい子! 私、弟が欲しかったのよ!!」

「ちょ、ちょっと!?」

 

 

 

 出会い頭に思いっきり抱きしめられ、脳天を貫く多幸感と共に信綱は今後の先行きを不安に思うのであった。

 

 

 

 

 

 さて、晴れて正式に阿七の側仕えを出来るようになった信綱だったが、生活そのものが劇的に変わったというほどではなかった。

 確かに寺子屋に通える頻度は下がり、その代わりに道場への立ち入りを許されて頻繁に稽古に向かうようになった。そしてそれ以外の時間は阿七の側に控えるようになった。

 

 その事自体は手放しで喜ばしい。彼女の隣りにいることを願って、齢六歳で父を打ち倒したのだ。

 正直先走りすぎた気がしないでもない信綱だが、そこは息子が勝手に潰れることを願って小さな頃に御阿礼の子を見せた父親が悪いことにする。

 彼の誤算は息子の才覚がこの歳ですでに開花していたことと、その資質が元より強い人間が生まれやすい火継の家においてなお、天稟と呼ぶに相応しいものだったことか。閑話休題。

 

 さておき、信綱の生活があまり変化していないのは別の理由があった。

 阿七である。出会い頭に強烈な抱擁を受けたことは一生消えない記憶に残るだろうが、それとは別に彼女はあまり頻繁に外出する身ではなかった。

 

「阿七様、お体の具合は大丈夫ですか」

「ああ、ノブ君? 今日は調子いいからこっちおいで、抱っこしてあげる」

「……ぼくは護衛です。あと信綱です」

 

 彼女は病弱なのだ。ちょっとしたことで体調を崩し、長期間寝込んでしまうことも珍しくない。

 稗田の家に生まれなければ一年と年を越せなかったと確信できるほどだ。

 

 そんな時信綱に出来ることと言えば、こうして話し相手になることぐらいのものなのだ。

 どうにも阿七本人に護衛として認識されていないのが不本意だが、自分の存在が彼女の慰めになるのであれば望外の喜びである。

 

「いいじゃない。信義さんは優しい人だけれど、どこか一線を引いていたもの」

「いや、警護なのだからそれが当然――」

「さ、いらっしゃい?」

「…………失礼します」

 

 どうにも断れない。信綱は阿七の負担にならないよう気をつけながら、こちらに手を伸ばす彼女の身体に寄りかかる。

 背中に腕が回され、スリスリと頬と頬がこすり合わされる。

 

「んー、やっぱりノブ君はちっちゃくって可愛いねえ。私の家には君みたいな子、全然来なかったからとっても新鮮」

「…………」

 

 御阿礼の子に褒められているのだが、あまり嬉しくない信綱だった。

 これでは自分という存在の意味がない。彼女の可愛がりはたまたま近くにいた子供に対して行っているのであって、信綱自身が何かをしているわけではないのだ。

 もっと自分が大きければ、阿七に護衛として認識してもらえたのだろうか。そう思いつつ、されるがままになっていると唐突に彼女の身体が震える。

 

「っゴホッ! こほこほっ」

「大丈夫ですか、阿七様!?」

 

 すぐに背中に回り、少しでも楽になるようにとさすってやる。

 

「だ、だいじょう、ぶ。今回の咳は、ひどくなる感じがしないから……」

 

 阿七も自分の病弱さは理解しているのだろう。長年の付き合いからか、自分の体調の崩れる兆候というのをよく理解していた。

 しかし、それで信綱の心が休まるかと言われればもちろん否で――

 

「……白湯を持ってこさせます。少し話しすぎたのでしょう。どうかご自愛なさってください」

「あはは、ごめん、ね。お願いしても、いいかな……」

「お任せください」

 

 阿七の部屋から下がり、一人になったところで信綱は拳を握りしめる。

 

「……クソっ」

 

 忸怩たる思いとはこのことか。自分の未熟さを心底から思い知らされた気分だった。

 火継の家において、弱いことは罪である。しかし、本質はそこではない。

 御阿礼の子の力になれないことが火継における最大の罪だ。存在する価値すら認められない。

 

 今の自分は阿七の力になれていない。その焦燥が肚に渦巻き、信綱の顔をしかめさせる。

 

「……知らなきゃいけないことが山積みだ」

 

 彼女の病床を少しでも良くする手段が欲しい。万を打ち倒す武力よりも、今は阿七の身体を治せる一人の方が重要だ。

 父――火継信義(のぶよし)も何かしらの策を講じていたのだろうか。聞いてみたいところだが、それをする前に出来ることは多くある。

 とりあえず稗田の家にある蔵書を漁ろう。そう決心した時だった。

 

「阿七様は大丈夫かしらねえ。ここのところ雪が続いて寒さも酷いものよ。この冬を越せる……いえ、転生の支度まで間に合うのかしら」

「滅多なことを言うもんじゃないよ。そうならないように阿七様のおそばには私たちや、あの一族もいるんだし」

「でも新しいお付は子供でしょう? あの家はちゃんと優秀な人を付けてくれているけど、大丈夫なのかしらねえ……」

 

 女中の話し声が信綱の耳に届き、愕然とする。

 転生には長い準備が必要だと聞き及んでいる。それが志半ばに斃れたら――稗田の家が途絶える?

 

 それはあってはいけないことだ。信綱が、いや火継の家が全てを捧げてでも回避せねばならないことだ。

 

「――のんびりしていられない」

 

 一秒でも早くあの人の病床を改善させる。それが今、自分のなすべきことだろう。

 そう信じて、信綱は足を早めるのであった。

 

 

 

 

 

「父上、阿七様の病床について詳しく教えていただきたい」

「先日、俺の腕を破壊したお前が言うことか」

 

 父親を頼りたくないと言ったが、なりふり構っていられる状況でもなかった。

 それに息子に対する情がなくても、御阿礼の子に対する情は信綱に負けず劣らずある。

 御阿礼の子を守る役目を担うために競争相手は蹴落とすが、同時に御阿礼の子の危機には何も言わずとも一致団結する一族なのだ。

 

「ぼくに付き人が務まらない、というならこれが終わったら腹でも何でも斬ります。阿七様の体調をよく出来るなら安い」

「……ふん、それを決めるのは月末の総会のみ。そういう決まりだ。で、阿七様だな」

 

 添え木と布で腕を固めた信義は、ゆったりとした動きで立ち上がると部屋の隅に積まれている巻物を一つ、信綱に手渡す。

 書かれているものは滋養強壮、阿七の好きなもの、嫌いなもの、などといった情報だった。

 事細かに書かれており、信綱にとってはまさに宝の山に思えるものだ。

 

「俺も色々と調べたのだが、あの方の虚弱体質は生まれついてのものだ。先代の阿夢様はそうでもなかったと聞く」

「…………」

「どの道、御阿礼の子というのは転生して記憶を引き継げる代わりに短命。それは変えようがなかった――何代もの火継がそれに挑んだがな」

「……それは今はどうでもいい。だけど転生の儀が行われなければ阿七様で代が終わってしまう。ぼくたちの仕える人がいなくなってしまう」

 

 仮に稗田の一族が潰えたら――火継の者たちは皆、自害して果てるだろう。必ずまた会える――転生してくるとわかっているからこそ、彼らは今まで生きてこられたのだ。

 

「わかっている。対処療法にしかならんが滋養強壮のつくもの、薬湯などで騙し騙しやっていくしかない」

「……父上は、自分が無力であると思ったことがありますか?」

「何をそんな――」

 

 

 

 ――それを感じない火継など、火継にあらず。

 

 

 

 握り込んだ左の拳からは、血が流れていた。

 

 

 

 

 

 信綱はとにかく知識を重要視した。

 阿七はどのような部位が悪いのか。どういった処置をすれば改善ができるのか。その処置に必要な材料は何か。

 とにかく父の記録を読み漁り、他に必要と思われる医学の知識を修めていく。

 

 現時点で護衛としての役割などあってないようなものだ。ただでさえ大きな稗田の家の、その一番奥で静養している彼女に何かしようなどという不逞の輩はいない。無論、いたら死なせてくださいと懇願するまで痛めつけるが。

 

 さておき、今の信綱には結構な時間があった。それこそ――冬の山に一人で特攻するぐらいには。

 

「ちょっと……無謀だったかもしれない」

 

 最近の阿七は咳がひどく、かといって薬湯に使う薬草は山奥にしか生えていないときた。

 普段は猟師が山に入ったついでなどで時折手に入っていたようだが、冬場の今はそれもなくなっている。

 それを聞いた時、居ても立ってもいられず思い立ったが吉日と走り出してしまったのが先ほどの話。

 

「まあ、失敗しても死ぬだけか。安い安い」

 

 阿七の助けになれる可能性が一縷でもあるのなら、そこに全てを懸けられるのが阿礼狂い。

 

 最初はバカ正直に雪道を歩いていたが、子供の足では無理がある。そのため木から木へ飛び移った方が移動が楽だった。

 こういった常人とはかけ離れた運動能力を発揮できるのも、火継の家の特徴と言えよう。道場内で壁や天井を利用した三次元機動とか朝飯前な一族である。

 

 そうやって通常の猟師とは一線を画す勢いで山奥まで来た信綱だが、そこで無事に薬草を見つけて万々歳、というわけにはいかなかった。

 

「そこの人間……子供!? いや、止まりなさい!」

「……参ったな」

 

 妖怪の山の方まで来てしまったようだ。

 哨戒と思われる女の天狗が木の上にいる信綱の前に現れる。

 修験者を連想させる装束に身を包み頭巾を乗せた姿で、脇差しを携えて空に浮かんでいた。

 

「なんで真冬のこんな場所に子供がいるのよ? 捨て子? だったら木の上になんて登らないわよね」

「……薬草を探しているんですけど、気がついたらこんな場所まで来てしまっていたんです。申し訳ない。すぐに戻るから見逃してもらえないでしょうか」

「ふぅん、まあどうでもいいわ」

 

 信綱の言葉に対し、天狗は興味がなさそうに相槌を打つ。

 その時点で空気が変わっていたのを、信綱は直感で理解できていた。

 

「――天狗は子供をさらう。親の言うことを聞かなかったことを後悔しなさい」

「うちの親は諸手を上げて褒め称えるだろうさ!」

 

 伸びて来る手を払い、反転して逃げ出す。木から木へ飛び移り、およそ人間とは思えない速度で山を駆け下りていく。

 

「すごいすごい、あなた本当に人間? さらったら他の子に自慢できそうね!」

 

 しかし、妖怪からすれば人間にしては出来る程度のもの。特に信綱はまだ子供であり、未だ完成は遠い器。苦もなく併走できる速度でしかない。

 これはよろしくない状況だ。信綱は内心で自らの未熟に歯噛みしつつ、状況の打開策を考え始める。

 

(遊ばれてる。その気になれば向こうはいつだってぼくを捕まえられるんだ。――乗ってやるさ)

 

「……ハッ、ハッ、ハァッ!!」

「お、息が切れてきた。そろそろ限界かな?」

「うる、さい……っ!」

 

 面白そうにこちらを見る天狗を威圧するように睨みつける。

 無論、そんなことをしても相手の天狗を楽しませるだけだ。それはわかっている。

 実際、相手を子供と侮っている天狗には、信綱のそれは怯えながらも精一杯張っている虚勢に映った。

 

「ああ、たまんない……! もう捕まえちゃってもいいよね、ね!」

 

 手が伸びる。今度は確実に捕まえようとする意思の乗ったものだ。

 

「――」

「え――」

 

 小太刀を抜刀し、一息に手首を斬り落とす。

 断面から血が出るのは人間と同じなんだな、と思いつつ天狗の胸に自分から飛び込み、何が起こったか把握ができていない双眼に短刀を奔らせる。

 

「ぎっ――」

「じゃあ、ねっ!」

 

 胸を蹴り、距離を離してそのまま背を向ける。

 後ろからは苦痛に悶える悲鳴が聞こえ、これで一時の安全は確保されただろうと振り返り――

 

 目を潰されたままこちらに迫り、脇差しを振りかぶる天狗を見た。

 

 天狗は風を操る妖怪。故に風の流れで動体を探ることなどわけはなく、それは信綱の眼前にいる盲目の天狗も同じだった。

 全身が総毛立つ。父を打ち倒したあの時より――否、生まれてこの方一度も感じたことのない驚愕が信綱を襲う。

 なんということだ――自分にはまだ打倒出来ないものがいたのか!

 

 よく考えなくても当然のことだ。自分はまだ十にも満たない子供であり、この幻想郷は閉じた世界であってもそれなりに広い。

 しかし、これまで人里の中にある僅かな家と、稗田が全てだった彼にとってそれは多大な衝撃だった。

 秒とかからず、刀は自分を両断するだろう。しかし、彼の目に絶望はなかった。

 

 これが妖怪。あの方はこれらと相対して、その在り方を書にまとめる宿命を背負っている。ならば――

 

 

 

 この程度の障害、越えられずして何が阿礼狂いか。

 

 

 

 視界が開ける。細胞が活性化する。迫り来る凶刃の刃紋までしっかりと目に映る。

 ――どこに剣を奔らせれば、どのような結果が生まれるかも、視界から流れる情報を完璧に処理する脳が教えてくれる。

 振るう刃は一太刀。これで十分。力も技も必要ない。ただ、刃の軌跡に沿って――

 

 

 

 ――刃を斬れる場所に置けば、それで全てが事足りる。

 

 

 

 鉄と鉄の触れる硬質な感触は一瞬。キンッ、という軽い音を立てて、天狗の振るった刃は根本から断ち折られていた。

 軽くなった刀に驚愕する暇は与えない。返す刃で喉を斬り裂き、噴き出す血が自らを汚す前に今度こそその場を離脱する。

 

 次は振り返らない。自分があの天狗を相手に命を拾えているのはひとえに不意を突けていることと、目を潰しているという理由が大きい。

 どちらも妖怪ならしばらくすれば立ち直る。そうなった時に自分が近くにいたら、勝ち目は限りなく薄くなるだろう。

 

 今は逃げても良い。しかし、自分の弱さを存分に心に刻みつけてからだ。

 薬草一つ満足にとれない自分が惨めで、涙すらこぼれない。瞳から零れる液体は、自らの怒りを表すような血の雫。

 

 火継の家において弱さは罪である。それは嫌というほど、この世界における一つの側面を適切に表しているのだと、信綱は思い知らされた。

 

 強くなりたい。阿七に降りかかるであろう万難を笑って排除できる。そんな人間になりたい。

 

 悔しさと何かに急き立てられるような焦燥感。二つを得て、信綱は人里への道を駆け抜けていくのであった。

 

 

 

 

 

「……あー! もう、いったいなあ!」

 

 信綱が完全に人里に到着した頃、女天狗はようやく視力と手が再生し始めていた。

 子供と侮った結果があれだ。いや、あれを侮るなというのが難しいのだが。羊の皮を被った狼よりタチが悪い。ただの子供が刀の刃だけを狙って斬るような絶技を行うだろうか。

 

 ――だが、それがなんとも愛らしい。

 

「うふふふふ……あの子、ちょっと本気で狙いたいかも……」

 

 天狗は子供をさらう。さらった子供をどうするかは好みによって変わるが――少なくとも、不意打ちとはいえ天狗に痛手を負わせられる少年をさらってくるというのは、この女天狗の自尊心を大いに満足させられるものになることは確かだった。

 

「おーい、椛ー!!」

 

 となれば話は早い。さすがに人里で手を出したら博麗の巫女に目をつけられてしまうが、あの少年の言い分を聞く限り再び山に入ってくる可能性は高い。

 

「はいはい、なんですか。不審者でも居ましたか?」

 

 名前を呼んでやってきた白狼天狗――犬走椛に女天狗は親しげに話しかける。

 

「いたっていうか、逃げられたっていうか。まあ元々ギリギリ妖怪の山ってぐらいだったんだけどさ」

「この時期に? 妖怪か何かですか?」

「うんにゃ、子供。見た感じ十にも達してない」

「……今度、飲みに行きましょうか。大丈夫、私のおごりですよ。あと、今日はもう疲れたでしょうから、早く上がって暖かくして休んでください」

「わーい事務的対応。でも本当なんだよねー。私も言ってて信じられないけど、本当に人間。で、話はここからなんだけど」

「はぁ。言っておきますけど、私の千里眼ではあなたの見た幻覚は見えませんよ」

「幻覚じゃないから安心して。それに見るって言っても人里まで見るんじゃなくて、山に入ってきた子供を見ていればいいから。多分、ひと目でわかると思う」

 

 確信を持っている様子だった。椛は不思議そうに首を傾げ、その疑問を口に出す。

 

「そんなに特徴的なんですか?」

「うん。だって――」

 

 

 

 ――あなたが見ていれば視線に気づくだろうし。

 

 

 

「むむ……?」

「ま、それっぽいのが見つかったら教えてよ。それまでは真面目に哨戒任務やるからさ」

「はぁ、冬場の哨戒なんて誰もやりたがらないんでそれはありがたいですけど。あまり人間にちょっかいは出さないでくださいよ、博麗の巫女が来たら手出しが出来ないんですから」

「わかってるって。とにかくお願いね」

「はいはい、わかりましたよ――椿さん」

 

 椿と呼ばれた天狗は、先ほど追いかけた子供に思いを馳せて、うっとりと顔を歪めるのであった。




NGシーン
「なに、妖怪に絡まれて薬草を取れなかった? それでも火継か、今すぐもう一回行って来い」
「わかりました、父上」

いれなかった理由? 身も蓋もないのと話が切れないからです。



阿七と信綱の二人の関係はおねショタもとい姉弟みたいな感じです。但し信綱は護衛として扱って欲しい。阿七は弟のように接したい。

阿七はこの頃大体十代後半です。そろそろ転生の準備を始める頃。なおそれが終わるまで身体が持つか怪しいレベルで病弱な模様。
ということで現時点での大目的は阿七の身体をどうにかすること、です。根本的な改善策はないので薬草を採ってきたり、魚を採ったりといったことになりますが。

なお次話辺りからゴリッと年代を飛ばす予定。二、三年どころか御阿礼の子がいない次代なんて十年単位で飛ばすこともあるかもしれませんので、ご容赦をば。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人里でのとある一幕

「ふぅ……久しぶりの外は気持ちが良いわね」

「ここ最近は転生への準備なども含めてお疲れのようでしたから。余計なお世話でなければ幸いです」

 

 うららかな陽気の中、信綱と阿七は人里の中を散歩していた。

 露天に店を開いている野菜売りや、金物を敷物に広げて日光の反射で人目を引いている商人など、雑多な人たちが多く集まって思い思いに商売をしているそこは、躍動するような生命の力が感じられる空間だった。

 

「少々人混みが激しいようですが、良いのですか?」

「いいのよ。私、こういうところ大好きだから」

 

 この主は意外と騒がしい物が好きらしい。しかし好きなものであっても、長時間この場所にいると体調をまた崩してしまうことがわかってしまうのが泣ける。

 

「……無理はなさらないでください。倒れられると、心配する人がおります」

「わかってるわ。ノブ君は心配症ね」

 

 いや、日頃の様子を見て心配しない人間などいるのだろうか。風が吹けば倒れそうな有様だというのに、この主人は存外積極的に外に出たがる。

 

 幻想郷縁起の編纂もあるため、彼女を伴って妖怪の領域へ赴くことも今後あるのだろう。

 気合を入れ直さなければ。そう思って決意を強めていると、ふと横合いからほっそりとした手が信綱の手を取った。

 

「え?」

「手、つなぎましょう? はぐれたら大変ですもの」

 

 この人の側仕えをしてそこそこ長くなるが、未だに子供扱いがなくならない。少しではあるが背も伸びてきたというのに。それでも阿七より小さいのは悔しい話である。

 だがまあ、結局のところこの人の子供扱いが消えない理由は――

 

「……そうですね。お手を失礼します」

「ん、失礼されます」

 

 それをまんざら悪く思っていない、信綱に原因があるのだろう。

 側仕えを始めて、三年が経過する春の出来事だった。

 

 

 

 

 

「む、阿七じゃないか。今日は体調がいいのか?」

 

 そんな風に手をつないでゆるゆると歩いていた時だ。視界の向こうに銀髪が映ったのだ。人里にいて違和感がなく、なおかつ銀の髪を持つ者など慧音以外にはほとんどいない。

 知己と会ったことに羞恥心も働いて、信綱は阿七の身体を最大限労って手を離そうとするのだが、阿七はゆるやかに手に力を込めてくる。離す気はないようだ。

 

「ええ。慧音先生もお変わりなく。寺子屋はどうですか?」

「相変わらず子供たちの相手は大変だよ。だが、やりがいがある。毎度毎度問題児が出てくるのも風物詩みたいなものさ、時に信綱?」

「……いや、ぼくは事情説明したと思うんですけど」

「たまにで良いから顔を出せ。勘助や伽耶が暇そうにしていたぞ。それと私からの愛もたくさんある」

 

 愛と書いて課題と読むのだろう。

 確かにここしばらく、寺子屋には顔を出せていなかった。阿七の様子が良ければ、顔を出すのも悪くはない。

 

「ノブ君、寺子屋にはちゃんと行かないとダメよ? めっ」

「ぅあっ、だけど寺子屋でやる範囲の勉強はとっくに終わらせ――」

 

 阿七に額を軽く小突かれる。慧音も阿七に同意するようにうんうんと頷いていた。

 

「勉強だけが寺子屋で学ぶことではない。かけがえのない友達と過ごす時間というのは、一生の思い出になるものだ。そういった付き合いは大人になってからも続くぞ。お前とて、勘助らとの縁を切りたくはないのだろう?」

「まあ、そりゃ切らなくて済むならそれに越したことはありませんけど……」

 

 人との繋がりはあって困ることはない。問題に対して、どのような方向から解決策が出てくるかなど誰にもわからないのだ。

 御阿礼の子のためならいつでも切り捨てられるが、それは重要視していないことと同義ではない。ただ、最終的に優先すべきものが生まれた頃より一切揺るがないだけで。

 

「だったら顔を出せ。一度結んだ縁をつなぎ留めておく努力も重要だぞ」

「……肝に銘じておきます」

「相変わらず厳つい言い回しだな」

 

 慧音が微笑すると、釣られたように阿七も笑う。

 護衛として見られていないのはどこに行っても同じようだ、と信綱は憮然とした面持ちになるのであった。

 

「さて、私はここらで失礼しよう。こういった場所では騒ぎも起きやすいからな。見回りと知り合いへの声掛けも兼ねた散歩というわけだ」

「慧音先生も女性なんですから、お気をつけてくださいね」

「…………」

「信綱からはなにかないのか? あるととても嬉しいぞ?」

 

 慧音に逆らえる人など人里にいるのだろうか。もう随分と長い間、寺子屋をやってきているという話を聞いている。父信義も彼女に教わったことがあるとか。

 それはさておき、慧音先生の期待通りの労いをするのも癪だったので、信綱は話題を変えることにした。

 

「……今しがた、あそこの人の懐から財布が盗まれましたよ」

「なに!? 待て、そこの――平助! お前、やっていいことと悪いことがあると昔に教えただろう!!」

 

 ものすごい速度で追いかけてあっという間にスリを捕まえてしまう。大人であっても元教え子ならすぐに名前の出る慧音には敬服の念しか浮かばない。

 

「ひぃぃ、お許しを先生! 出来心だったんです!!」

「子供の頃に先生のスカートを捲るくらいは頭突き十連発で許してやったがな、今回は別だ! さぁ来い! たっぷりお説教してやる!」

 

 頭突き十連発は許してもらった部類に入るのだろうか、と信綱は慧音に引きずられる男を見送りながらぼんやり思う。信綱でも十発受けて意識を保っていられる自信はない。

 その時、鈴を転がすような笑い声が頭上から聞こえてきた。顔を上げると、阿七が慧音を見てクスクスと楽しそうに笑っていた。

 

「ふふっ、先生はああやって悪いことをした人に厳しいけど……お説教が終わったら一番親身になってくれるのも先生なのよ。変わってなくて安心したわ」

「……阿七様も先生に教わったことが?」

「ちっちゃな頃に少しだけね。あとは、歴史書の編纂とかで幻想郷縁起とのすり合わせもしないとだから。先生との付き合いは結構長いのよ」

「幻想郷縁起……」

 

 妖怪との付き合い方や対処法。そして彼らに対抗しうる存在である英雄を載せた本であると聞いたことがあった。事実、過去の幻想郷縁起にはそういった内容が載っていた。今代のものは……まだ阿七が見せてくれていない。

 

「……ふふっ、私の次の代にはノブ君が英雄として載るのかしら。こんなに小さくて可愛いのに」

 

 立ち止まった阿七が信綱に向き直り、髪を梳くように頭を撫でる。

 

「……もう少しすれば大きくなります」

「じゃあ頑張って生きなきゃね。大きくなったノブ君に守ってもらわないと」

 

 今だって守っているつもりだ、と言っても頭を撫でられている状況では信じてもらえないだろう。

 一応周辺には目を光らせているのだ。先ほどのスリを見つけたのだってその副産物に過ぎない。慧音がいなければ阿七に害はないと判断して放置していた。

 

「……絶対に。阿七様に仇なすものからお守りしてみせます」

「ええ、頼りにしているわ。私の可愛い護衛さん?」

 

 いつになったら弟扱いから抜け出せるのだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていると、今度は見知った二人に出会う。

 

「あれ」

「ん、どうしたの?」

「……いえ、なんでもありません。行きましょう」

 

 勘助と伽耶である。先ほど慧音の話に出てきた二人だが、すでに慧音は彼らと会っていたのかもしれない。

 二人はこちらに気づいていないようで、かんざしやら何やらの装飾具が広げられている敷物に夢中になっていた。

 周りから見て全くそうとは思われていないが、信綱は阿七の警護中なのだ。仕事中に知己に会ったからといって、職務を放り出すなど言語道断である。

 

 しかし、阿七は信綱の視線に目ざとく気づいたようで――

 

「あ、そこの二人、ノブ君の知り合い?」

「……まあ、そうです。ですが、阿七様の方が重要です」

「私はノブ君のお友達に挨拶したいなあ、名前は?」

「……勘助と伽耶です」

 

 そう言われてしまうと弱い。個人的事情のために阿七の頼みを無下にするという選択肢は、阿礼狂いには存在しない。

 

「……二人とも、久しぶり」

 

 観念したように声をかけると勘助と伽耶は振り返り、その顔に驚愕と喜色を表に出す。

 

「ん、あ、ノブ! 久しぶりだなあ!」

「ノブくん、久しぶり。そっちの人は……?」

 

 伽耶の視線は信綱が手をつないでいる女性の方に目が行く。

 阿七は年下の少年少女らに微笑み、軽く頭を下げる。

 

「稗田阿七って言います。ノブ君のお姉さんみたいなものかな? よろしくね、勘助くんに伽耶ちゃん」

「あの、護衛……」

 

 護衛らしい仕事を何一つしていないと言われれば返す言葉もないが、そもそも護衛が必要な場所に阿七が赴くこと自体が稀なのだ。

 これでも火継の家で最も強い人間だというのに、発揮される機会がないのが嬉しくも悲しい。

 

「……この人の側仕えをしていてね。隠していたわけじゃないけど、あんまり寺子屋に来れなくなったのもそれが理由」

「……で、なんで手をつないでんだ?」

「阿七様の要望だよ! ぼくも嬉しいけどね!」

「お、おう……」

 

 こいつちょっと変なやつなんだな、という目で見られてしまった。間違っていないから何も言えない。

 

「ところで、二人は何見ていたの? 結構熱心に見ていたみたいだけど」

「無理やり話題を逸らした……」

 

 信綱の主がぼそっとつぶやくが黙殺する。彼とて延々といじられるのは勘弁なのだ。

 伽耶はなぜだか信綱と阿七を羨ましそうに見ていたが、勘助は信綱の振った話題に乗ってきてくれた。

 

「あ、そうそう! これ、綺麗だと思わねえか?」

 

 勘助が指差すそれは、精巧な意匠の凝らしてあるかんざしだった。残念ながら本物の宝石やべっ甲が用いられているのではなく、安物の色石や馬の爪などを磨いたものを利用しているようだが、細工そのものは非常に細かく書かれている。

 

「良い腕をしてますね。材料は高いものではありませんけれど、一般の人達でも精一杯のお洒落を楽しんで欲しいという気遣いが感じられます」

「へぇ、ありがとうございます。こんな場所に敷物を広げているのも、少しでも多くの人に見てもらおうと思ってまして」

 

 阿七が穏やかに微笑んで商人を労う。信綱は一目見てそこまで見抜いた主への敬意を深めると同時、二人の友人がなぜここにいたのかを理解する。

 

「二人は何か欲しいものでもあるの?」

「伽耶がな。これが欲しいって」

「あぅ……」

「……可愛い」

 

 恥ずかしそうにうつむく伽耶に阿七が何かをつぶやくが、聞かなかったことにする。この主が可愛いものに目がないのはいい加減わかっていた。

 

「買いたいって言ってくれるのはありがてえけど、さすがに坊ちゃんらの小遣いじゃあ、ちっと高いぞ?」

「ぅー……」

「ってわけだ。おれと伽耶の分、合わせても届かない」

 

 伽耶は半ば涙目になりながら商品を見つめている。内向的で弟の多い伽耶が、こんな風に真っ直ぐ自分の感情を優先する姿を見るのは珍しい。余程欲しいのだろう。

 

「……ぼくで良ければ出そうか? 一応、お金ならあるよ」

 

 使いみちのない自分の金銭で彼らが喜んでくれるならば安いと思い、信綱は勘助に申し出る。

 護衛になっているかはともかく、そういった仕事であることは事実なので給金はもらえているのだ。そのため、信綱の懐具合は成年男性と変わらないものになっていた。

 

「んー……」

 

 飛びついてくるかと思いきや、勘助は難色を示す。後頭部をバリバリとかき、仕方がないと小声で話し始める。

 

「伽耶の誕生祝いに贈ろうと思ってんだ。だから今はいいや」

「……だけど、これだっていつまでもあるわけじゃないだろ? そうだ、ここはぼくがお金出すから、勘助は後で――」

 

 取りに来ればいい。そう言おうとしたのだが、阿七が握っている手を急に持ち上げたことによって遮られる。

 

「こーら、ノブ君。めっ」

「いたっ。阿七様?」

「そういうのはダーメ。勘助くん、私たちはそろそろ行くね。お誕生祝い、喜んでもらえるといいね」

「え、あ、ちょ……」

 

 歩き始める阿七に引きずられる形で勘助らと距離が離れていく。

 後ろを振り返ると二人が手を振っていたので、それに軽く手を振ってから、阿七の方へ向き直る。

 

「……ノブ君」

 

 いつもよりやや早足で歩く阿七は、信綱の方を見ないで口を開く。

 

「はい」

「私がどうして怒ったのか、わかる?」

「…………いえ」

 

 血の気が引くとはこのことだ。どんな行動が原因なのかは知らないが、自分の浅慮が阿七の気分を害してしまった。許されるなら腹を斬って詫びたいところである。

 

「勘助くんが自分で買おうとしているのを、君が簡単に解決しようとしたことだよ」

「……何がいけなかったのでしょうか」

 

 あの装飾品を買う金が自分にはあって、勘助にはなかった。だから自分が払う。

 贈り物として渡したいのは勘助なのだから、彼はそれを受け取って渡せば何も問題ないではないか。

 そのことを伝えると、阿七は悲しそうな顔でゆるゆると首を横に振る。

 

「それじゃただ物を贈るだけ。そこには何の気持ちも込められていないわ」

「気持ち……」

「ノブ君は私の側にいる役目を譲りたくないでしょ? それと同じで、勘助くんは伽耶ちゃんにあれを贈る役目を譲りたくなかったんだよ」

「…………」

 

 阿七の例え話を聞いて初めて腑に落ちる。信綱もこの役目を誰かに譲ろうとすることはあり得ないだろう。自分以上に強い存在がいたとしても、御阿礼の子のためなら喜んで死ぬ精神を持っていなければ。

 

「……なんとなく、わかりました。ぼくは勘助の気持ちを無意味にするところだった」

「わかればよろしい」

 

 阿七は輝くような笑顔を見せ、信綱の頭を撫でる。また弟扱いされているのだが、その笑顔が見られただけで信綱の心は幸福感で満たされていた。

 

「……私が怒ったのは、ノブ君にそんな人間になってほしくないから。簡単に解決できる方法があるからって、いつだってそれが正しいとは限らないの」

 

 真摯な瞳で語られる言葉に、信綱は神妙に頷く。

 どうやら自分はまだまだ未熟らしい。いくら腕が立とうとも、阿七の側仕えとして相応しい精神を持つようにしなければ。

 

「……わかりました。肝に銘じておきます」

「よく出来ました。じゃあ、そろそろ帰りましょうか」

「はい。お伴します」

 

 そう言って、再び来た道を歩き出す。今日の教えは一生忘れないほど深く、信綱の心に刻まれたのであった。

 阿七が信綱を叱った背景にあったものを知るのは、それからしばらく経ってのことだった。




更新不定期(長くなるとは言ってない)。書ける時に書いていくスタイル!

ちょっと短め。切り良く終わらせるにはここが丁度よかった。
人里での話は大体このメンバーが中心になります。今の年代は。
もうちょいすると妖怪関連でなんやかんやあるので、多少広がっていきます。

なんだかんだおねショタ状態がまんざらでもない信綱少年。

天狗とのお話は多分次話。

阿礼狂いの所以とか出したいのに、そもそも波乱が起きにくい人里で、しかもその奥にいる稗田が危険にさらされる状況がまずない……! というジレンマ。
阿弥辺りの代で吸血鬼異変をぶっ込む予定ですし、なんだかんだまだ結界が張られたばかりの過渡期でもあります。どこかで出てくるかもしれません。出てこないかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

或る烏天狗と白狼天狗

 現在、阿七は転生の準備を進める期間に入っている。

 詳しい内容は火継の家にも知らされておらず、また側仕えをしている信綱も知らないことなのだが、長い時間をかけて行う必要のある儀式ということだけは確かだった。

 

 御阿礼の子はただでさえ三十歳生きられないと言われるほど寿命が短いというのに、その中から数年以上を転生への準備に捻出しなければならない。

 いかに記憶をある程度引き継ぐと言われていても、幼少の頃から幻想郷縁起も編纂しなければならないのだ。彼女らにとって、本当に自由と呼べる期間はどれほどあるのか。

 

 火継の家はそんな彼女らを支えるべく身命を捧げ、光に影に、御阿礼の子が幸福な一生を過ごせるよう全力を尽くす一族なのだ。

 だからこそ体調管理などもしっかり行い、万に一つもあってはいけない。

 

「さて……こんなものか」

 

 滋養強壮の食物、また阿七に飲ませる薬湯の材料。どちらも妖怪の山付近で手に入るものは全て信綱が手に入れる役目となっていた。

 転生の準備がそろそろ終わる頃になって来て、阿七の容態が悪化し始めたのだ。

 これまでは猟師が時折取ってくるものでよかったのだが、今では定期的に信綱が山奥に踏み入って採取する必要があった。

 

 それ自体に言うべきことはない。妖怪の山にほど近い場所であって、熟練の猟師であろうと妖怪に出くわせば死あるのみな場所に行くことになっても、信綱の心に恐怖はなかった。

 むしろ喜びの方が大きい。自分の行いがハッキリと彼女のためになっていると実感できることなのだ。

 そうして集めた薬草を懐の小さな麻袋に入れ、立ち上がる。

 

 妖怪の山に踏み入るほどではないが、それでも人間の領域からはそれなりに離れた場所。人の手が入った様子は自分以外に存在せず、生い茂る木々が陽光を遮り薄暗い空間が形成されている。

 植物に優しく、人間には不快な湿気が信綱の肌にまとわりつく。

 

「――見られてる」

 

 いつものことだった。護衛を任され始めたばかりの頃、山に踏み入って天狗に追いかけられたことがある。

 あれ以来、山に入ると決まってどこからか視線を感じ取る。視線を感じる瞬間は山に入ってすぐだったり、ある程度奥に進んでからであったりと、規則性がない。

 

 方角も大体わかるため木陰に身を隠して動いたりしても、自分にまとわりつく視線は引き剥がせない。

 目だけが自分を正確に追尾してくる。そんな奇妙な感覚を受けながらも、信綱は役目を果たして帰途につく。

 

 最初は普通に歩き――すぐに走り出し、いつしか木そのものを足場に使っての高速機動になっていた。

 地を蹴り、眼前に迫る木に手を添えて滑るように側面に足を当て、斜めに推力を得て更に加速していくのを繰り返す。

 幼年の頃のまともな肉体がなかった頃に比べ、格段の進歩と言えた。あの頃ですら身体能力は人里の中で頂点を争えるほどだったのだ。

 今ならば――自分の背中を追いかけてきている存在と少しは張り合えるかもしれない。

 

「は、はははははっ! すごいすごい! 何度も見てるけど、キミ本当に人間? 人里に混ざってる妖怪とかじゃないの!?」

「――うるさいな。喉をかっさばいただけじゃ足りないのか」

 

 あの日、信綱をさらってしまおうとした天狗――椿とは遺憾ながら長い付き合いになってしまっていた。

 隙あらばさらおうとするのは今でも変わらない上、山に入って視線を感じた時はちょくちょくやってくるので邪魔なことこの上ない。

 

 出来るなら殺してしまいたいのは山々だが、椿はこちらをよく見ているのか踏み込んで届くギリギリの場所を見極めて距離を保っている。

 こちらも日々精進して射程は伸びているのに、正確にそれを読み取ってくる。ひょっとしたら家族以上に信綱の戦闘力を理解しているかもしれないと思うほどだった。

 

「治るけど痛いから勘弁。それでさぁ、私のところに来る決心ついた? 三食昼寝付きだよー? 死ぬまで面倒見るよー?」

 

 こちらに並走して馴れ馴れしく話しかけてくるのが心底鬱陶しい。

 舌打ちと同時、信綱の腕が霞んで椿のいた場所を薙ぎ払う。

 その手には小太刀が握られており、抜き手を見せない速さで振り抜かれたのだと、椿は認識する。

 

「やっぱキミは面白いよ! 天狗の私でギリギリ目に見える速度の一撃なんて、普通の人間はできないよ?」

 

 なぜそんないい笑顔で付きまとってくるのか。信綱には理解に苦しむ存在だった。

 

「知るか、さっさと山に帰れ。ここはもう人里にほど近い場所だぞ」

「おっとと、今日は知り合いを紹介しに来たんだ。ここで逃したらダメだから――椛!」

 

 視線を前に向ける。するとそこには白い装束に身を包み、犬のような耳をした天狗が木陰から現れていた。

 手に持っているのは脇差しより遥かに大きい大太刀と、攻撃を受け流すための盾。

 

「こんにちは、人間」

「白狼天狗……!」

 

 足は止めない。椿一人でも持て余すのだ。ここにもう一人追加されたら為す術がない。

 決死の抵抗をして相討ちが関の山。ならば――最初の一手で数を減らしてしまうのが定石。

 

 椿への注意は完全に切る。自分の抵抗など、彼女の遊びの上に成立しているものだ。彼女が本気になった時点で警戒など無意味になる。ならば不要。

 必要なのは最速の一刺し。天狗の反応を超えた突きを目の前の白狼天狗にぶち込む。

 

 自分含めた動きの全てが緩慢さを増していく。木々の葉擦れ、空気の流れ、蹴られた衝撃で爆ぜる土。そして驚愕に顔を歪めようとしている白狼天狗。

 盾を持つ左手がのろのろと持ち上げられる。顔をかばうか、心の臓を守るか、二つに一つ。

 信綱の狙いは顔のその奥にある脳。顔をかばわれるのは些か不味く――白狼天狗は賭けに勝った。

 

(このっ……!!)

 

 歯を食いしばり、内心で舌打ちを一つ。なんということだ、これでは――

 

 

 

 盾ごと貫く手間が増えるではないか。

 

 

 

 突き出した小太刀は防御に使われた盾の一点に刺さり、そこから裂くように断ち割る。

 盾の向こう側にいた白狼天狗の女に、その小太刀が突き刺さろうとして――

 

「あ、ぶないっ!!」

「っ!」

 

 刃そのものが白狼天狗に掴み取られる。握った手から赤い血が零れるが、柔らかい眼球から脳天へ刃が突き抜けることはない。

 いくら技芸に優れており、防御に用いた盾を一突きで断ち割ろうとする才覚の持ち主であっても――純粋な膂力勝負に持ち込まれれば妖怪に軍配が上がる。

 

「く、そ……っ!」

 

 小太刀から手を離す。そして着地と同時に右手を貫手の形に変えて――捕まった。

 

「はい、つーかまーえた。一切の躊躇なく目と脳天同時に狙うとはさすがの椿さんも驚いた」

 

 背中から抱き留められる。阿七にされた時は照れ臭いやら幸福感やらで頭が茹だりそうだったが、天狗にされると怖気が走るのだと思い知る。

 

「この、離せ!!」

 

 腹に回されている手を殴りつけ、握りこぶしを関節に叩きつける。ビクともしない。

 

「やーっと捕まえた……って言いたいところだけど、今日の用件はこっちじゃないんだよねえ」

「離してくれたら話を聞いてやる!」

「冗談。離したら逃げるでしょ」

 

 当然である。こっちは人間で、向こうは妖怪。信用できる要素が何一つとして存在しないのだ。

 その時だった。

 暴れ回る信綱を見かねたのか、小太刀を掴み取った白狼天狗が信綱の手に小太刀を乗せる。

 

「は?」

 

 唐突に武器が手元に戻ってきたので、思わず顔を上げてしまう。

 刃を受け止めた手元から血を垂らしながらも、白狼天狗の少女は穏やかな顔だった。

 

「この人の言うことは本当ですよ。というより、顔合わせみたいなものです」

 

 この人、という部分で椿の方を見る。そして信綱に視線を合わせて微笑みかけてくる。

 

「…………」

「椿さん、手を離してください。この距離で前後を挟まれて、それでも逃げようとするのは愚者のやることです。それなら対話の可能性に懸けた方がいくらかマシ。――違いますか?」

「……あんたらの思い通りになることを厭って自害する可能性は」

「ないですね。あの家に命じられでもしない限り、石にかじりついてでも生き永らえようとするでしょう」

 

 あの家、という単語が出てくる辺り、この二人は信綱がどのような家の生まれなのかわかっているのだろう。

 その上で話しかけてくるとかこいつら正気か、と思いながら信綱は抵抗を止める。

 

「……で、話って?」

「んー、顔合わせとキミの今後の話とか?」

「阿七様に仕える。それだけだ」

「ああうん、それは別に止めないよ。というか、そっちの助けにもなる話だと思うから話だけでも聞かない?」

「…………」

 

 渋い顔になる。天狗に前後を挟まれた状態で何かを選べる人間などどれほどいるのか。

 逃走に関しては、先ほどの小太刀が白狼天狗に防がれた時点で詰んでいる。

 せめて傷があればと思うが、今しがた治癒したのが見えた。つくづく人間と妖怪の間には絶望的な差があるようだ。

 

「返答なしならこっちで進めようか。ほら、椛から自己紹介」

「初めまして、ですかね。白狼天狗の犬走椛と言います。何度か目は合ってますよ」

「あんたみたいな妖怪と顔を合わせたこと……ああ、なるほど。山でぼくを見ていたやつか」

「……やっぱり、末恐ろしいですね。普通、千里眼で見られて気づく人なんていないのに」

 

 そういう白狼天狗――椛の頬には一筋の汗が流れ、引きつった頬を伝っていく。

 そんな椛の姿を見てかすかに溜飲を下げ、信綱は口を開いた。この状況、黙っていては助かるものも助からない。

 

「最初は気のせいか、獣の仕業を疑ったさ。人為的だと気づいたのは二回目からだ。獣が鞘に収めた小太刀をジロジロ見たりはしないし、何より視線の方角が動いてないのに引き離せなかった。妖怪の術を疑った方が自然だよ」

「そうですか。次からは少し気をつけましょう。今回、君の前に姿を表した理由は三つあります」

「……何か」

 

 現在自分を抱えている椿よりも、彼女の方が話が通じやすい。というより理性的だ。ちゃんと筋道を立てて話してくれる。

 

「あれ、なんか椛と仲良くなってない? おかしい、最初に目をつけたのは私なのに!?」

 

 後頭部の辺りが騒がしいが無視する。何度も山を追いかけまわされた相手に信頼を抱く方が難しい。

 というかいい加減降ろせ。

 

「まずこれが一番重要ですが、あなたの行動自体を咎めるつもりはありません。最初はさておき、今はちゃんと妖怪の山に踏み入らない範囲で物事を済ませているようですし、下手に手を出すと博麗の巫女が怖い」

「天狗さらいなんて一昔前は当たり前にあったと幻想郷縁起にはあったけど?」

「昔の話ですよ。博麗大結界の張られた今、迂闊に人に手を出すのは自分たちの首を絞める結果にしかならない」

「……ぼくが生まれる少し前の話か」

 

 以前は幻想郷と外界の行き来は問題なく行えたらしい。妖怪の山やら何やらを越える危険性に目を瞑ればの話だが。

 結界の張られた今はそういうわけにも行かず、外界との交流は実質的に途絶えている。

 それでも塩やら何やらが手に入るのは、幻想郷の興りより昔から存在しているスキマ妖怪が対処している、という……らしい。人里で聞ける話など、妖怪とかなり密接に関わる稗田の家であってもこの程度だ。

 

「そうですね。下手に刺激して不可侵の状態を壊したくないというのが本音です。あなただって妖怪の領域に無闇に侵入するつもりはないでしょう」

「……状況次第ではわからないけど、今のところはその通りだ」

「よろしい。話が通じる子は嫌いじゃありませんよ」

 

 ニコリと微笑む椛。しかし、信綱の目にはどこか酷薄さを感じさせるものだった。

 

「次の理由は……椿さん、いい加減降ろしましょうよ」

「んー、この子抱き心地良いんだよねえ。やっぱりさらっちゃわない?」

「……っ!」

「前言撤回しないと舌噛みますよこの子」

「冗談冗談! 今すぐキミをさらうつもりはないから本当に!」

 

 慌てた様子で地面に降ろされる。彼女らにしてみればちょっと目をつけた相手が死ぬ程度だろうに、妙に焦った様子が垣間見えた。

 

「悪かったよ。あ、ちなみに椛をけしかけたのも私だからあしからず」

「死ね」

 

 踏み込んで腹部を狙った斬撃を放つ。が、それは椿が半歩下がることによって避けられてしまう。

 

「ほいっと。まあ椛の紹介が用件の二つ目だから省くとして、次が本命。――キミ、強くなりたくない?」

 

 斬撃を避けられ、その隙を突かれて距離を詰められる。

 腰をかがめ、唇と唇が触れ合いそうになるほどの至近距離から発せられた言葉に、信綱は身体を硬直させられる。

 

「……どういう、意味だ」

 

 呻くように絞り出した言葉に、椛が補足を入れる。

 

「私がここ最近で見た人間はあなたぐらいですが、それでも断言できます。――あなたの資質は人里に収まるものではない」

「…………」

「息苦しさを感じてませんか? もどかしさを感じてませんか? 強くなりたいのに、今のままでは駄目だと感じてませんか?」

「…………」

 

 言葉が出なかった。とっさの否定もできないほど、椛の言葉は正鵠を射ていた。

 確かに火継の道場でも物足りなさを覚えていた。かといって外に出て妖怪退治など年齢的に不可能である上、何より護衛の役目がある。

 だが、人里で最も強い程度では足りないのだ。妖怪とそこそこ戦える程度では駄目なのだ。

 

 

 

 それこそ――今自分を挟んでいる二人であろうと一蹴出来るほどの力がなければ、無理を通すことすら出来ないのがこの幻想郷なのだ。

 

 

 

「……ある。ぼくの未熟と言ってしまえばそれまでだけど、だったらその未熟を解消する手段はどこにある? 時間じゃダメなんだ、足りないんだ。阿七様――いいや、御阿礼の子らは待ってくれない」

 

 密度を上げる。余力など残さない。三十年足らずで旅立ってしまう人たちの願いを全て叶えるには、人間の百年など短すぎる。

 信綱の人生に余裕など最初から存在しない。阿礼狂いに生まれた時点で、その命は阿礼乙女のために燃やし尽くすことが決まっているのだ。

 だから――向こうの思惑がなんであれ、伸ばされた手を掴まない理由はなかった。

 

「うんうん、良い返事だ。と言っても、これじゃ私らの目的が明かされてないから不公平だ。私たちがキミを鍛えたい理由、それはね――」

 

 

 

 ――人間が好きだからだよ。

 

 

 

 

 

 その日から鍛錬開始、とは行かず、すでに時間もだいぶかかってしまったので信綱は帰ることになった。

 本来の目的は阿七への薬草採取なのだ。あまり遅くなって阿七に薬草を届けられなければ、それこそ本末転倒である。

 そのようなわけで帰っていく信綱を二人の天狗は見送り、口を開く。

 

「んでさぁ、椛さんや」

「なんですか、椿さん」

「あの子、どう見る?」

 

 本来なら、椛は烏天狗である椿より下の位に当たるのだが、椿は椛によく声をかけて友人としての付き合いを築いている。

 なぜならば、彼女はよく“視える”からだ。

 

「何かの間違いで兎に惚れ込んでしまった餓狼、ですね。そのまま兎の集落に溶け込む術も得てしまった」

「それ、あの一族全体について?」

「そうです。以前にもあの一族が来たことってあるらしいですよ。幻想郷縁起に必要だとかなんとか」

「んむ、初耳。そんな昔?」

「二、三百年程度ですから、比較的最近です。ただ、絶対に他言無用するようにと天魔様や大天狗様らが話していました」

「……なんでそれを白狼天狗が知ってんの?」

「よく見える目があるもので」

 

 こいつを敵に回すのは絶対に避けよう、と改めて思い直す椿。この白狼天狗はそういった部分が恐ろしく怖いのだ。

 本人自体の地力は白狼天狗相応だが、千里眼を見渡す能力にとても熟達している。

 口の動きを見れば読唇、人間相手でもある程度話せば性格傾向を出すことが出来るなど、とにかく“視抜く”ことに関して右に出るものはいない。

 信綱を見るように頼んで正解だった。そう思いながら椿は話の続きを促す。

 

「どうなったのさ?」

「当代の御阿礼の子を貶した大天狗の片翼を切り落として、しかも逃げ切った。妖怪が人間を下に見るのは当然ですけど、見事にしっぺ返しを受けた形ですね。ああ、他言無用ですよ?」

 

 大天狗が人間に翼を斬られるなど、醜聞以外の何ものでもない。しかも生きて逃げ延びたとは、目を剥かんばかりの結果である。

 

「同族に殺されるなんて勘弁願いたいね。っとと、話がそれた。それであの子は?」

「言った通りですよ。人間という兎の群れに生まれてしまった餓狼の一族。その中でも特に――多分さっき話した者以上の器がありますね」

「――それはそれは」

 

 口元が釣り上がる。大天狗の片翼を単身で切り落とした昔の火継も凄まじいが、信綱はそれを凌ぐ資質らしい。

 

「しかも本人らは特定の兎に惚れ込んでいるからタチが悪い。実際に間近で見て、ようやく阿礼狂いの意味がわかりましたよ」

「ああ、間近で見た感想は?」

「一人だったら死んでました。あれ、見たでしょう?」

 

 椛は後ろを向いて、断ち割られた盾の破片を拾う。

 鉄を使っているというのに、まるで木の繊維を裂いたように綺麗に割断されている。

 

「小太刀は突きに使うと強い。山を下りていた勢いもあった。だからってこんな神業、あんな子供がやっていい芸当じゃありません。将来的なことを考えるなら、今摘み取っておくのが一番後腐れがない」

「やったら椛と言えど殺すよ?」

 

 笑った顔のまま、椿は刀に手をかける。どんな理由でこれほどまでに入れ込むのか。

 

「……やりませんよ。私一人では負ける可能性高いですし。それに椿さんほどじゃないですけど、興味が出たのも事実です」

 

 椛は信綱が去っていった方を見つめる。まだ小さな子供の背ではあるが、成長すればどこまで到達するのか。

 磨けばその分だけ輝きを発する宝石を前にした気分だった。

 

「そっかそっか。――あの子は私が最初に目ぇ付けたんだからね。ああ、早く大きくなって強くなってほしいなあ……! もし折れちゃったらちゃんと飼って上げないと」

「……ないと思いますけど、あの子には同情します」

 

 果てしなく面倒くさい相手に目をつけられてしまったようだ。

 本心は椛にもわからないが、少なくとも何かしらの期待を信綱に寄せていることは確かだろう。

 

 まあ――妖怪なのだ。人間を愛し、人間を害し、人間に討たれる。

 最近は人間と妖怪の関わりなどあってないようなものだ。

 信綱は人間の中では間違いなく精神、肉体ともに規格外の部類だが、それでも久しぶりに言葉を交わせる人間なのだ。

 少しくらい楽しんだってバチは当たるまい。

 

 椛と椿はこれから幾度となく言葉を交わすであろう人間を思い、密かな笑いを零すのであった。




天狗に鍛えてもらうことになった信綱少年。ちなみに阿七の代のお話はだいぶ後半に来ています。すでに二十代に入ってしまった阿七の人生は長くない。

次の話あたりで幻想郷縁起の話が出せそうです。多分、きっと、メイビー。

ちなみに敵に回したらアカン子は椛。目をつけられたらアカン子は椿です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想郷縁起

 幻想郷縁起――端的に言ってしまうなら、幻想郷における妖怪図鑑のようなものである。

 但し幻想郷では妖怪に出くわすことはそう珍しいことではない。なので名前だけ知っていては何も出来ないのだ。

 そこで各妖怪への対処法などを調べ、載せる。その上で被害が出た際に頼るべき人間――英雄も載せる。そうして作られる書物なのである。

 

 尤も、大半の英雄は博麗の巫女に固定されており、英雄の欄はほとんど当代の博麗の巫女に関することだけなのだが。閑話休題。

 

 さておき、この幻想郷縁起の編纂こそが御阿礼の子に課せられた使命であり、その半生を賭して作られるものとなる。

 

 そうして完成した幻想郷縁起はスキマ妖怪の手によって検閲させられ、あまりに人妖の均衡を崩しかねないものなどを改めて編集される。

 言うなれば御阿礼の子が執筆。スキマ妖怪が編集といった形で作られる本なのだ。

 必然、御阿礼の子が書き上げた幻想郷縁起はスキマ妖怪が確認する必要があるわけで――

 

「ノブ君、本当に大丈夫? 私もついていった方がいいんじゃあ……」

 

 持っていくのは側仕えである信綱の役目なのだが、阿七は心配ばかりしているのが現状だった。

 幻想郷縁起を懐にしまい、出立の準備を整えていると阿七が不安そうな顔で玄関まで来て見送りに来ていた。

 その気持ちは嬉しかったのだが、体調の悪化しつつある現状、床からなるべく出ないで欲しいというのも本音であり、信綱としては複雑な心境だった。

 

 仕え始めて七年。寺子屋も卒業し、阿七と背丈も並び始め、小太刀から脇差に持ち替えて見栄えも相応にするようになったというのに、子供扱いは今でも変わらない。

 

「いや、阿七様を山に連れて行くわけにはいきませんよ。危険過ぎます」

「ノブ君はいいの?」

「私はそれが役目です。大丈夫ですよ。傷一つ負わないで帰ってきますから」

 

 むん、と力こぶを作る仕草をする。まだまだ子供らしい細い腕だが、そこに詰まっている力は大の大人を軽々と凌ぐ。

 ついぞその力を阿七の前で披露することはなかったが、それで良いのだろう。主の危険を振り払うのが役目だが、危険などないに越したことはないのだ。

 

 が、それゆえに阿七の信綱への印象は出会った頃と変わらず、弟みたいな存在のままなのだろう。そこはもう仕方がない。

 

「じゃあ……気をつけてね? 危ないと思ったら帰ってきて良いから、無理だけはしないでね。私は幻想郷縁起よりも君の方が大切だから」

「過分なお言葉、ありがとうございます。ですが、あなた方御阿礼の子が代々受け継がれてきた縁起の編纂も大切にしてください」

「……良いのよ。幻想郷縁起が必要とされる時代はもうすぐ終わるわ。だってほら、最近は妖怪の被害なんかもほとんど聞かないでしょう?」

 

 側仕えを始めた頃から、少々青白さを増した阿七の頬がゆるやかに笑みの形を作る。

 自分の役目が必要とされなくなりつつある悲哀と、人里が平和になっていく喜び。双方が等分に混ざった笑みだった。

 

「……それでも、私にとって幻想郷縁起は世界で一番大切な人が、一番時間をかけて書き上げた大切な本です。粗雑に扱うような真似はいたしません」

「ありがとう。そう言ってくれる人が一人でもいると、私も嬉しいわ」

 

 ふわりと信綱の身体が阿七の華奢な腕に絡め取られる。

 背が並び、阿七の頬が自分の頬に当たる温もりを心地良く覚え、信綱もされるがままになる。

 

「……阿七様、そろそろ行ってまいります。部屋にお戻りください」

「……ん、ありがとうノブ君。そろそろノブ君も恥ずかしいお年ごろかな?」

 

 困ったように笑ってごまかす。そして羞恥を振り払うように信綱は阿七から離れ、出発するのであった。

 

 

 

 

 

 スキマ妖怪の住処は知られていない。そのため、向かうには案内が必要となる。

 なので信綱は阿七に教えられた、人里から少し離れた場所に行ったのだが……。

 

「…………」

「……なにさ」

 

 いたのは信綱よりも更に子供っぽい、猫の耳を持つ子供だったのだ。どう見ても妖怪である。

 いや、妖怪が案内であることに驚いているわけではない。むしろスキマ妖怪へ案内する存在が人間だった方が驚くだろう。

 しかし、一見すると子供にすら見えるこの少女に頼んで大丈夫なのだろうか、という懸念が信綱の胸中に渦巻く。

 ……が、それを言ったら自分だって人のことは言えない。気を取り直して声をかけることにした信綱であった。

 

「幻想郷縁起を持ってきたんだが……スキマ妖怪のところまで案内してくれるのはお前か?」

「そうよ。八雲藍さまの式であるこの橙さまが、お前の案内をしてあげるわ!」

 

 ふんぞり返るように胸を張る少女。どこからどう見ても歳相応の子供にしか見えなかった。

 

「そうか。その八雲藍とやらがスキマ妖怪なんだな?」

「ん、違うわよ? 藍さまは紫さまにお仕えしてる式神だもの」

「……じゃあお前はなんなんだ」

「藍さまの式だって言ってるじゃない。頭悪いの?」

「…………」

 

 メッチャ腹立つ。

 子供のような言動のこの妖怪にバカにされるのは、とてつもなく苛立つことを信綱は心の底から理解した。

 だがおおよそ、この少女の置かれている立場は把握できた。要するに――

 

「スキマ妖怪の孫みたいなものか」

「……それ、紫さまの前では言わない方がいいわよ」

 

 恐ろしい物を見たように青ざめる橙。過去の思い出を振り返っているのだろう。

 

「わかった。本人には言わないことにする。……で、案内はしてくれるのか?」

「ふっふっふ、それをして欲しければお願いします橙さまと崇め奉るように言うが良い――ああ、待って待って帰らないで! 案内しないと私が藍さまに怒られちゃう!」

「始めからそう言え。行くぞ。こっちは阿七様のためにも早く帰りたいんだ」

「あ、待ってよーっ!」

 

 このお調子者の妖怪がスキマ妖怪の住居に到着するまでの相棒になるらしい。

 控えめに言って前途多難である。しかもこれから向かうのは妖怪の山であると言うのだ。不安は加速する。

 いざとなったらこいつ見捨てて自力でたどり着こう、と心に決めて信綱は橙と共に山に入っていくのであった。

 

 

 

 慣れた足取りで山中の獣道を歩く橙に、信綱は苦もなく着いて行く。

 

「よく知っている場所なんだな、向かう場所ってのは」

「まあね。マヨヒガって言えばわかる?」

「ん……確か訪れた者が中にある物品を持ち帰ると、富が得られるという場所だったか」

 

 過去の幻想郷縁起を思い返し、記憶を掘り起こす。とはいえ、それ自体が人に害をなす類ではなかったので、危険度は高くなかったはずである。

 

「あそこに私は住んでるの。いわば幸運の招き猫ね」

「はいはい幸運幸運。……スキマ妖怪は住んでるのか?」

「ううん? 紫さまは別の場所に住んでるよ」

「おい」

 

 それではこれから向かう場所にいない可能性が高いではないか。

 

「縁起を見る時、っていうか人間の相手をする時はマヨヒガに来るの。紫さまのお住いはどこにあるかわからない方が良いんだって」

「ふむ。さすがは幻想郷の創始者、か……」

 

 底の知れない話である。信綱は軽く肩をすくめて八雲紫への話題を切り上げる。

 どうせこれから会うのだ。礼を失するつもりはないが、相手は妖怪。何をしてくるかなどわかったものではない。

 

「ところで、あんた結構やるわね。人間は山道には慣れてないと思ってたわ」

「他の人にはしないようにしろ。俺はそこそこ山道に慣れてるだけだ」

 

 俺、という舌の響きにまだ慣れない信綱。だが、これも侮られないための一策である。

 阿七の前で使おうとすると泣きそうな顔をされるため、私という一人称でお茶を濁しているが。

 

「ふぅん。最近は人間が山に入っても襲われないもんね。あんたみたいなの、結構多いの?」

「そうでもない。俺はたまたま事情があっただけだ」

 

 椿と椛、二人の天狗との鍛錬もあるので、信綱は頻繁に山に出入りしている部類だった。それ以外にも山魚を釣りに行ったり、薬草を採取したりと、妖怪の山にほど近い場所に関してはかなり詳しい。

 

「そう。あ、じゃあさじゃあさ……」

 

 ペラペラと橙の口は止まることを知らないように動く。

 信綱はうんざりしながらも話を合わせていた。人と妖怪が共存している、と言えば聞こえは良いが、ここ最近で人間と妖怪が交流を持ったという話は聞かない。

 この橙という妖怪も人間との対話に飢えていたのかもしれない、と思えばまだ受け入れられる話だった。

 と、そんな時だった。

 

「――」

「――気づいたか」

 

 橙が足を止め、信綱も同時に足を止める。

 

「うん、多分妖怪。獣の足音だけど、僅かに妖力を感じる」

「今初めてお前が妖怪だと実感したぞ」

「ひどい! って、あんたもわかるの?」

「この程度の気配もわからずに阿七様を護れるか」

 

 二人が気づいているのが向こうにもわかったのだろう。ゆっくりと威圧感を放つようにその巨体――灰色の毛並みを持つ狼が姿を現す。

 唸り声をあげ、薄暗い森の中で爛々と輝く紅い双眸が信綱と橙を射抜く。

 橙は腰を低くし、いつでも飛びかかれる体勢を作って口を開いた。

 

「……あんた、この道を真っ直ぐ行きなさい。そうすればマヨヒガに着くはずだから、そこで藍さまを呼んできて」

「そんなに強いのか?」

「強くない。藍さまと比べれば月とスッポンだけど……わたしだと万一がある、かも」

 

 橙の手から妖術の炎が生み出され、威嚇の意味も込めて強く燃え盛る。

 しかし、通常ならば火を恐れる獣である狼に恐れはなかった。瞳に浮かんでいる感情は侮蔑であり、確かな知性と妖怪の力を兼ね備えていることを確信させるもの。

 

(確か、白狼天狗は長い間生きた狼が化生したものだったか。……となると、こいつは椛の一歩手前ぐらいか?)

 

 あるいは、獣性を捨て去っていないが故の凶暴さもあるかもしれない。理性があって対話を望む存在よりも、その理性を本能を満たす手助けに使う相手の方が怖いように。

 

「早く行きなさいよ! 人間なんてどうなってもいいけど、あんたは幻想郷縁起を届けるんでしょ!」

 

 信綱が動かないことを、目の前の妖怪に恐怖していると思ったのだろう。橙が子供らしい甲高い声で檄を飛ばす。

 

「……信じられんな」

 

 ため息を一つこぼし、信綱はふらりと前に一歩を踏み出し獣の前に近寄っていく。

 

「お前の討ち漏らしを警戒して走るくらいなら、ここで倒した方が後顧の憂いもなくなるというものだ」

「バカ言ってんじゃないわよ、妖怪なのよ! 甘く見なくても人間なんて簡単に死ぬのよ!! 早く逃げ――」

 

 橙の言葉は最後まで続かない。妖狼が信綱の柔らかな喉笛を噛みちぎらんと、跳びかかっていたのだ。

 妖怪である橙にもかろうじて目で追える程度。当然、人間の信綱が追える道理などない。

 とっさに手を伸ばしても間に合うはずがなかった。

 

 一瞬の後に訪れるであろう、愚かな人間の喉笛に獣の牙が突き立つ瞬間を見たくないと、橙は目を瞑る。

 どうでもよいと言っている人間相手に妖怪が見せる反応ではないが、同時にそれが橙という化け猫の優しさの証明でもあった。

 しかし、彼女の危惧した瞬間が訪れることはなく――

 

「そら、終わったからさっさと行くぞ」

「はぇ……?」

 

 目を開けた橙の視界に飛び込んできたのは、首が落ちた妖狼の死体と、その横に佇む信綱の姿だった。

 さらに信綱は橙の見ている前で刀を振りかぶり、振り下ろす。それで狼の胴体が縦一文字に断ち割られる。

 

「なんだ、再生はしないのか。もう少し切り刻む必要があると思っていたんだが」

 

 斬られた身体が燃えていき、灰が空気に溶けていく様を一瞥し、信綱はつぶやいた。

 

「んん?」

「どうした」

「んー……いや、それよりあんた本当に人間!? なんで妖怪倒してるの!?」

 

 橙が僅かに不思議そうな顔をしたが、それより目の前の驚きを優先したのだろう。信綱に食って掛かってくる。

 

「別に不思議ではないだろう。幻想郷縁起の編纂には妖怪の知識が必要不可欠なのだから、御阿礼の子は妖怪の領域に足を踏み入れることだってある。だったら側仕えの俺が妖怪に伍する力を持ってなくてなんとする」

 

 とはいえ殺す気の妖怪を相手にした経験はなかったので、事実上の初陣だったのだが、そこは黙っておく。

 他者の害意や殺意程度で揺らぐような精神は持ち合わせていない。生まれた頃より御阿礼の子が至上という価値観が完成しているのだ。

 

「うーん……納得行かないけど、あんたは特別強くなろうとしてるってことね。気に入ったわ! うちの猫を持ってってもいいわよ!」

「猫の毛は阿七様の肺に良くないからいらん」

「阿七様阿七様! あんたそれ以外ないの!」

「あるわけないに決まってるだろう。誰にもの言ってるんだ」

 

 にわかに騒がしくなりながら、二人は歩みを再開するのであった。

 

 

 

 

 

 鬱蒼と茂る森の中を歩き続けていると、ふと視界が開けて目に入る光量が増し、ポツンと立っている一軒の家屋が見えてきた。

 玄関前には道士の着るような服に身を包み、九本の尾をふさふさと動かす少女の姿があった。

 

「あ、藍さまーっ! ちゃんと案内してきましたっ!」

 

 その少女の姿を捉えるや否や、隣を歩いていた橙が駆け出して少女の前に弾む足取りで立つ。

 一方の信綱は微かに眼光を鋭くし、なるべく侮られないような振る舞いを意識しつつ橙の横に並ぶ。

 

「八雲紫の式、八雲藍とお見受けする。自分は火継信綱。当代御阿礼の子である稗田阿七様の側仕えを任せられている者だ。本日は阿七様の作成した幻想郷縁起を見てもらいたく参上した次第だ」

「ふむ。ああ、縁起は出さないでいい。紫様にお見せしてやってくれ。ともあれ、よく来てくれた。紫様の元へ案内しよう。橙、ここからは私の仕事だ。お前は外で遊んでおいで」

「はい、藍さま! あんたも後でね!」

「そっちも。……一応、案内は感謝しておく」

 

 目を丸くする橙を尻目に、信綱と藍はマヨヒガの中に入っていった。

 木張りの廊下を歩いていると、藍が前を向いたまま口を開く。

 

「橙に気に入られたようだな。出来るならこれからも仲良くしてやってくれ」

「生活圏が違うからなんとも言えない。人里に妖怪が入っていけないのは知っているだろう」

「……そうだな。由々しき問題だ」

 

 ふぅ、と頭痛を堪えるようにため息を零し、藍は歩みを再開する。

 その背中に今度は信綱の方から疑問を投げかけることにした。

 

「妖怪と人間が領域を分けて暮らすことに、何か問題があるのか」

「……君は妖怪が何を糧に生きているか知っているか?」

「人間の畏れ。そう聞いている。……ああ、なるほど」

 

 ここ数年どころか、信綱が生まれた頃から人里での妖怪の被害は激減していた。あっても山から降りてきた獣が畑を少々荒らした程度のもの。

 信綱は妖怪に命を狙われたり、貞操を狙われたりと色々危ない目に遭ったことがある……というより、現在進行形でそれは続いているため、妖怪を脅威に思う気持ちがある。

 だが、一般の人々はどうだろう。信綱の友人である勘助や伽耶と言った同年代の子供たちは、妖怪の姿を見たことすらないのでは、と思ってしまう。

 

「察しが良くて何よりだ。畏れがなくなりつつあり、妖怪が力を失い始めている。動く気力がなくなれば皆、自分たちの縄張りから動かなくなり、余計に人間は妖怪を畏れなくなる。悪循環だ」

「ふむ……」

 

 阿七の言葉を思い出す。妖怪の対処法が書かれた幻想郷縁起は、もう必要とされなくなりつつあるという話だ。

 人里の人間からすれば、妖怪の脅威がなくなることは歓迎すべきものである。しかし――

 

(……御阿礼の子が不要になる時が来るのか?)

 

 縁起の編纂が必要なくなったら。彼女らはどうなるのだろうか。

 短命の呪縛から解き放たれるのか。それとももう――転生しなくなるのか。

 

「……っ」

 

 背筋から悪寒が広がり、思わず身震いする。考えたこともなかった。御阿礼の子がいなくなる時など。

 歴代の火継が御阿礼の子の短命に挑み、諦めていった理由にも理解が及んだ。

 恐れたのだ、彼らは。今ある状況を下手に弄って、転生の仕組みに悪影響が出てしまうことを恐怖したのだ。

 

「ん、どうした? 身体でも冷えたか?」

「……少し、人妖の関係について考えを巡らせていただけだ」

 

 阿七のために何かをしたい。それは本心だ。だがもし、彼女が転生を望まない時があったら、信綱はどうするつもりだったのか。

 わからなかった。その願いを叶えるべく奔走していたのか。それとも思い直すよう説得していたのか。

 御阿礼の子が全てであるが故の阿礼狂い。ならば――御阿礼の子がいなくなったらどうなる?

 

「ほう、人間のお前も考えてくれるか。いや、嬉しいことだ。とはいえ、従来通りの関係では何も変化がなく、いずれ人間が滅ぶか妖怪が滅ぶかの二択になってしまう。どうしたものか……っと、ここが紫様の部屋だ。くれぐれも粗相のないように」

 

 藍という九尾の少女は信綱の答えに機嫌を良くしたように語り始めるが、信綱の頭の中は御阿礼の子で埋め尽くされていた。人妖の関係というのも御阿礼の子が関係しているから考えているだけだ。

 しかしそんな信綱の思考など藍には知る由もない。上機嫌に尻尾を揺らしながら、襖の向こうにいるであろう主に声をかける。

 

「紫様。幻想郷縁起を持つ者が到着いたしました」

「通して頂戴。それと藍は下がって」

「かしこまりました。ではここからは君の仕事だ。頑張ってくれ」

「案内に感謝する」

 

 親切にしてくれた藍に軽く頭を下げてから、深呼吸を一つ。

 考えるのは後にすべきだ。今はとにかく与えられた役目をこなすことに集中しようと意識を切り替え、襖を開く。

 

 開いた先には信綱の語彙では形容しがたい帽子をかぶり、藍とよく似た道士服に身を包んだ少女が佇んでいた。

 一見すると信綱より少し年上ぐらいにしか見えない容姿だが、すでに阿礼狂いとして壊れている生存本能が、壊れているなりに警告を鳴らしていた。

 この女の前で隙を見せてはいけない、と。

 

「失礼。当代御阿礼の子、稗田阿七様の名代として参った、火継信綱と申す。此度は阿七様の書かれた幻想郷縁起の検閲を頼みたく参上した次第である」

「よく持ってきてくれました。私があなた方人間の言うスキマ妖怪、八雲紫です。もっと砕けた言葉遣いでも構わないわよ? むしろ可愛くゆかりんって呼んでくれても」

「こちらが幻想郷縁起になります」

「ああん、手厳しい。でも、そうね……」

 

 信綱が懐に大事に持っていた幻想郷縁起を紫に手渡す。

 それを紫は受け取るが、視線は信綱に注がれ続けていた。

 

「……何か」

「いいえ、今代の名代は随分と若いと思いまして。阿七の要望かしら?」

「……御阿礼の子の警護を務める人間は、火継の家で最も強い者がなるしきたりです」

「あらそう。じゃあ強ければ火継の家以外でもなれるのかしら」

「さて、私以上に強い人間に会ったことはありません」

 

 掴みどころのない妖怪。それが信綱の第一印象であった。

 質問の矛先がコロコロ変わる上、おどけているのかからかっているのか、はたまたこれで真面目に応対しているつもりなのか、まるで読み取れない。

 何もかもがあやふやで、彼女を自分の中でどんな立ち位置に置くべきなのかすら悩んでしまう――否。

 

(惑わされるな。今重要なのは彼女が幻想郷縁起を見ることであって、彼女がどういう妖怪なのかは関係がない)

 

 極論、彼女が役目を果たしてくれる限り信綱から言うことはない。幻想郷縁起の確認をしないと言ったら阿七のためにも徹底抗戦するだけだ。

 

「人間は面白いわよね。時々、あなたみたいに場違いとすら言える能力の持ち主が現れるんですから」

「…………」

「あら、つまらない。やっぱりあなたたち一族は少々苦手ですわ」

「早く読んでいただけないでしょうか。一刻も早く戻って阿七様を安心させたいので」

 

 勝手に話し始めたので遮る。この女に付き合って時間を潰されては、阿七が信綱を心配する時間が伸びてしまう。それで余計な心労を持たせては本末転倒だ。

 

「ああ、もう読みましたわ。私から特に言うことはありません。こちらの問題になりますけど、妖怪の勢力が少々衰えつつありますから、必然的に幻想郷縁起に載せる内容は少なくなります」

「ありがとうございます」

 

 紫から幻想郷縁起を受け取り、懐にしまう。

 本来であればそこで用事も済んだので帰るだけなのだが、信綱はすぐに立ち上がらず視線を彷徨わせる。

 

「……何か?」

「…………」

 

 言うべきか言わざるべきか。

 このまま幻想郷縁起が必要とされなくなった時、御阿礼の子はどうなるのか。

 不要となって、人々の営みに埋もれて消えゆく存在になってしまうのか。

 そうならないためにすべきことは――すでにわかっていた。

 

 しかしそれは聞いたが最後、人里に住まう者として踏み越えてはいけない一線を越えてしまう。決定的な裏切りと言っても過言ではない。

 

「あの――」

 

 だが、信綱が、阿礼狂いが真に恐れるのは御阿礼の子に関わることのみ。彼女のためならば――

 

「よく考えなさい」

「っ!?」

 

 機先を制され、言葉に詰まる。視線の先には、とらえどころがないと評価した紫の瞳が、真っ直ぐに信綱を見据えていた。

 

「それは一度踏み込んだら戻ってこれないものよ。御阿礼の子のために御阿礼の子を裏切る。特に今代の子は優しいと聞くわ。――何も聞かなかったことにするから、戻りなさいな」

「…………」

 

 熱いわけでもないのに、汗が止まらない。紫に指摘されることで初めて、自分がやろうとしていたことの重さを改めて実感したのだ。

 

 何を考えていた自分は。御阿礼の子の使命のために人間を欺き、妖怪に与する? それで阿七が喜ぶと思ったのか。

 違うだろう阿礼狂い。彼女は――人里でなんということのない市場を見ていた時が、一番楽しそうにしていたのを忘れたのか。

 

「……失礼します。本日はありがとうございました」

「そちらこそ遠路はるばるよく来てくれたわ。早く帰って、あの子に顔を見せてあげなさいな。きっと、さっき抱いた考えが違うってことがわかるでしょうから」

 

 紫の言葉を受けて、席を立つ。そして襖を開いて出ようとして――

 

 

 

 ――稗田の家の前に立っていた。

 

 

 

「え?」

 

 何が起こったのか、全くわからなかった。

 ……いや、よくよく振り返ってみると、襖の向こうから微かに風を感じた。平時の信綱であれば違和感に気づいていただろう。

 

「…………」

 

 額に手を当てて己の未熟にうんざりする。要するに動揺して妖怪の術中にあっさり嵌ってしまったというわけだ。怒る気にもなれない。

 しかし、そんな気持ちもすぐに消え去ることになる。カラリと戸を開くと、玄関口で阿七がいたのだ。

 身体を冷やさぬようにと肩掛けを羽織っているが、そんなことをして玄関にいるぐらいなら布団に入っている方が百倍マシである。

 

「阿七様!? どうしてこちらにおられるのですか! 私はすぐに戻るとお伝えした――」

「ノブ君!? ああ、無事でよかった……!」

 

 阿七が信綱に抱きついてくることで、言葉は途中で遮られた。

 華奢な身体を受け止めると、阿七は信綱の存在を確かめるように背中に腕を回す。

 頬と頬が合わせられ、何か温かいものが信綱の首筋に当たる。

 それが涙であることを理解すると、信綱も阿七を安心させるべくゆっくりとその背に手を添えた。

 

「阿七様……」

「妖怪の山に入るから、本当に心配で心配で……。無事に帰ってきてくれて本当によかった……」

「……大丈夫ですよ。こうして帰ってきました。八雲紫にもちゃんと縁起を見せてきました。……私は大丈夫ですから、次は阿七様もご自愛ください」

 

 落ち着かせるように背を軽く叩く。

 しばらくの間ジッと動かなかった阿七だが、やがて身体を離すと恥ずかしそうに頬を染める。

 

「ごめんね、ノブ君。変なところ見せちゃったりして」

「……心配していただけるのは望外の喜びです。ですがどうか――本当にどうかご自愛なさってください。私に傷がつくことを阿七様が悲しむのであれば、私は阿七様が具合を悪くするのが悲しいのです」

「うん、本当にごめんね。ノブ君にそこまで言われちゃうんですもの。私も気をつけるわ」

「反省しているのなら、今から部屋に戻りましょう。八雲紫に見せたことの報告もしたいですし」

「そうしましょうか。……部屋に戻るまで、支えてもらってもいいかな」

 

 あれほど無理をするなと言ったのに、これである。支えが必要なぐらいなら安静にしていて欲しいというのが信綱の本音だった。

 しかし、色々と思うところは残っているが、阿七は自分のことで心を乱してくれたのだ。頭が一杯になってくれたのだ。

 ならばそれは、阿礼狂いとして至上の喜びであろう。

 

「喜んで」

 

 そして決意する。この方のために生き、この方のために死ぬ。それが信綱の成すべきことであり、成したいことだ。

 きっとそれは、御阿礼の子のためという言い訳と共に妖怪に与することではない。

 彼女が幻想郷縁起を不要と言うのならその通りにしよう。その果てに御阿礼の子がいなくなるのなら、その時はまた阿礼狂いも消える時なのだ。

 

 嗚呼、先ほどの自分はなんと醜い考えを持っていたのだ。御阿礼の子のために生きる自分たちの保身を考えるなど、思考が健全に過ぎる(・・・・・・)

 御阿礼の子のために生き、その果てに自分たちの破滅が待っていても迷いなど持たない。それこそが阿礼狂いの在り方だろう。

 

 阿七の華奢な身体を支えながら、信綱は改めて自らの在り方を定義づけるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、紫様? あの少年はどうなさいましたか?」

「早く阿七に会いたいって顔をしていたから帰したわ」

 

 様子を見にやってきた藍に答えながら、紫は手で口元を隠して穏やかに笑う。

 

「うふふ、腕は立つみたいだけど、まだまだ青い果実ね。あんまり可愛いものですから、ちょっとだけ背を押してみたくなっちゃったわ」

「橙には紫様から伝えて下さいね。あの子、少年のことを結構気に入っていたみたいでした」

「あらあら。スキマで送り返したのは早計だったかしら」

 

 笑いを深める。

 あの少年は間違いなく気が触れているというのに。存外に好かれる気質を持っているようだ。

 

「……それで、どうでしたか。今代の火継は」

 

 探るような目線で藍が問いかけてくる。紫は微かに目を細め、ほんの僅か言葉に真剣味を混ぜる。

 実のところ、幻想郷縁起をここまで持って来させることに意味はないのだ。

 なぜなら彼女は神出鬼没のスキマ妖怪。わざわざ待たずとも、阿七の部屋に現れて彼女から直接手渡してもらえば良いだけだ。

 故に今回の邂逅は幻想郷縁起の検閲が目的ではなく――それを持ってくる火継の人間を見ることが目的だったのだ。

 道中に襲いかかった妖怪も式神の一種である。橙が気づきそうになったのは――嬉しい誤算だ。あそこは運が良かった。

 

 その際の妖怪退治の手腕。そして対峙した時の対応も含めて、紫は彼を評価する。

 

「まだまだ青いわね。でもそれは子供故の未熟。成人もしていない子供が未熟なのは当然の話でもある」

「……見極めるには早いと?」

「彼の器を決めつけるには早いでしょうね。ただ、それでも一つだけ断言できることがある」

 

 御阿礼の子に付き従う少年。妖怪の勢力が衰えつつある現状。そして紫の思考に渦巻く一つの腹案。

 それらが導き出す答えはただ一つで――

 

 

 

 

 

「彼は途方もなく強くなるわ。そうでなければ生き残れないほどの嵐が彼を襲うでしょうから」

 

 

 

 

 

 呪うように、祝ぐ(ことほぐ)ように、彼が歩むことになる茨の道を、予言するのであった。




 八雲家全員集合の巻。なんだかんだ妖怪と知り合うことが多い信綱少年。ここまで原作勢出しておいて、なんでオリ天狗出したんでしょうね私(オイ
 まあ彼女にも彼女なりの目的があって動いてますので、どうか受け入れてくださると幸いです。

 そして幻想郷縁起ですが、この時代では妖怪が力を失いつつあるのでだいぶ役割が薄れつつあります。
 とはいえ、それが未来でも同じであるとは限らないわけで……?

 ――そして幻想郷縁起も完成した今、阿七の役目はとうとう終わりが近づいております。
 信綱を家族として扱った御阿礼の子。その終わりはもう間もなくとなるでしょう。(次話と確約はしない。なお予定は未定)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いと人と妖怪と

少々遅くなりました。スマヌ、スマヌ、卒論が忙しいんや……!


 幻想郷の人里において、成人は十五からとされる。この歳になれば酒を呑むことも出来るようになり、また大人たちの会合にも出られるようになる。

 とはいっても、親の仕事の跡目と目されているような子であれば、成人前からそういった場所に出入りすることも珍しくはないため、実際のところそこまで大きな節目というわけではない。

 

 しかし、この歳を迎えることによって男衆はある役をこなすことが義務付けられる。

 

「…………」

「よ、ようノブ! 一緒に見回り行かねえ?」

 

 自警団である。

 外からやってくるかもしれない妖怪への見張り。人里内部において起きるかもしれない犯罪への抑止力。そして自身が大人になったことを人里の人間に知らしめる。

 様々な要素が絡んでいるが、とにもかくにも男衆は成人を迎えると自警団にある程度の期間、所属するのが決まりとなっていた。それは御阿礼の子のために生きる火継の一族であっても例外ではない。

 

 だが、十五を迎えて自警団の屯所に向かった信綱を待っていたのは、自分とほぼ同年代の連中と、長年勤めて熟達しているであろう先輩らの腫れ物を触るような目だった。

 子供の頃は気にならないかもしれないが、大人になれば嫌でも目につくのだ。

 

 御阿礼の子のために生まれ、御阿礼の子のために死ぬ。

 

 全てにおいて御阿礼の子を優先する歪極まりない一族であり、同時にその卓越した身体能力と御阿礼の子が命じれば喜んで命を捨てる精神性から、人里の最大戦力でもある彼らは自警団や妖怪退治屋の者たちにとって、非常に複雑な立ち位置にあった。

 

 なお当の本人らにはそんなことどうでも良かった。重要なのは御阿礼の子の力になることただ一つであり、それ以外の全てが些事である。

 信綱も例外ではなく、屯所にいる時間を放り出して阿七と共にいたいと心底思っているのだが、元より護衛の役目で自警団での仕事を減らしているのだ。そのたまにある仕事ぐらいは真面目にこなさなければならない。

 

「……そうだな。行くか」

 

 そして御阿礼の子が絡まない限り、自分と友人であろうとしてくれる勘助を大切にしたいという気持ちもまた、信綱は持ち合わせていた。

 

「だけど良いのか、俺に合わせて? 俺の見回り範囲は里の外だぞ」

 

 強い者が危険な場所を見る。当然の理屈ではあるが、同時に微かなやっかみも含まれていることがわからないほど、信綱は鈍くなかった。

 

「いいっていいって。妖怪なんて出やしないさ」

 

 簡素な槍を持った勘助とともに、先輩方に形式上の挨拶だけをして外に出る。

 信綱としても煩わしい時間であったので、外に出たのは気分転換に良かった。

 

「んーっ、やっぱ外に出ると気分いいな。これで妖怪さえいなけりゃ、伽耶も連れて遊びに行けるんだけど」

「そりゃ無理だ。人里に来ないとはいえ、妖怪自体はあちこちにいる。……ほら、あそこにも」

 

 信綱が木陰を指差すと、慌てたような足音がガサガサと茂みの奥に消えていくのがわかる。

 姿を見ないだけで、妖怪自体はやはりそこかしこに存在するのだ。

 

「だな。お前がいるからって油断はできないか」

「強い妖怪になると油断どころじゃないけどな。昔から妖怪を相手にする時は複数で囲んで叩くのが一番って相場が決まっている」

 

 そんな数の多寡を気にしないのが本当に強い妖怪でもあるのだが、そんな妖怪が人里に敵意を向けていたらとうに人里は滅んでいる。

 これにはきっとスキマ妖怪や博麗の巫女の尽力もあるのだろう。

 しかし人間の側からしてみれば、人に害を成す妖怪となんで共存しなければならないんだという話でもある。

 

 憎悪しあう、とまでは行かない。信綱の親世代から上はどうか知らないが、自分たちにとって妖怪とは遠くの世界の住人であった。

 存在はしている。だがそれは自分の住む世界とは関わりのない場所にいるのであって、自分たちとは何の関わりもない。その程度の認識しかなかった。

 

「まあ、何事も平穏なのが一番だ。山あり谷ありなんてのは、別の誰かがやってくれるって」

「……そうだな」

 

 その山あり谷ありの渦中に自分がいるかもしれない、とは言えなかった。

 少なくとも天狗に武術の教えを受けている時点で、平凡とはかけ離れた人生を送っているだろう。

 

「……で、さ」

 

 そんな時だった。自分の隣を歩く勘助がおずおずと、躊躇うように口を開く。

 大らかで活発。元気の塊と表現するのがピッタリなこの男にしては珍しい態度だった。

 

「どうした」

「……父ちゃんや母ちゃんが話してんだ。お前の家は色々と……その……」

「気が触れている。集団との協調性がない。気狂い揃いの家。そんな連中と付き合うのはやめろ。そんなところだろう」

「わかってんのかよ……」

「自分たちの里での評判ぐらい、嫌でも理解する」

 

 それ自体は今までも言われ続けていたであろう。むしろようやく来たか、という気持ちですらあった。

 阿礼狂いと呼ばれる火継の人間にとっては避けて通れない道だ。無理に嫌われるつもりはないが、優先順位を変えるつもりもなかった。

 

「いい加減、俺の家がどういう家かはわかっているだろう。――俺も同類だ」

「……っ」

 

 聞きたくなかったことを聞いてしまったように、勘助は表情を苦痛に歪ませる。

 信綱は対照的に静かな表情のままだった。

 まるでこの状況自体、平時と何も変わらないとでも言うように淡々としている。

 

「六歳の頃からか。寺子屋に顔を出す頻度が下がっただろう。あの時から俺は阿七様に仕えていた」

「丁稚とか、小間使いじゃないよ……な。お前んところ、裕福だし」

「色々と騒がしいから広いだけだ。道場と部屋以外は何もない」

 

 比喩ではなく事実だった。あの家に住んでいるのは女は世話係の女中と次代の跡目を産むことを義務付けられた者。男は皆例外なく阿礼狂いであり、御阿礼の子の隣に立つために心血を注ぐ連中しかいない。

 残りの男衆は暇さえあれば御阿礼の子に見合う己になるべく、鍛錬漬けの時間を過ごしている者ばかり。私生活とか何それ? というほどである。

 

 誤解を招かないよう説明しておくなら、子を産む者に対して火継の家は手厚く保護している。

 自分たちが狂っている自覚など皆持っているのだ。それ故、そうでないにも関わらず自分たちの道に付き合わせてしまう者に対しては、相応の便宜を図る。

 

「……まあ、誤解されても困るからハッキリ言っておこうか」

「……やめろよ。お前のこと、どう見ればいいかわかんなくなるだろ」

 

 勘助の声は震えていた。だが、信綱は止まらず言葉を続ける。

 

「もしも二者択一などの選択が迫られたら、俺は迷わず阿七様を取る。もう片方の天秤に何が乗っていても。父上だろうと、伽耶だろうと、慧音先生だろうと、自分だろうと――お前だろうと」

「やめろよ!!」

 

 泣き声のような怒鳴り声だった。言いたいことは言ったのか信綱は黙り、荒い息を吐く勘助を見つめていた。

 

「やめろ、やめろよ、やめてくれ、やめてくれ……!」

「……俺はそういう人間だ。狂っているのは間違いないし、おぞましいと思うのは正しい感性だ。勘助、お前が責められることは何一つとしてない」

「あ……」

「……先輩方には俺から言っておくから、お前はもう帰れ。離れていっても俺は何も言わん。それが普通の選択だ」

 

 人里外周を一回りする程度の短い時間だったが、勘助は憔悴しきっていた。

 一人で帰りたいところだと勘助の心情を慮るものの、万一があってもいけないため、無言で勘助を安全な場所まで送り届ける。

 

 小さくなっていく背中を見送りながら、勘助が離れていくことを多少残念には思うが、仕方がないことだとも信綱は考えていた。

 元より自分は阿礼狂いで、彼は正常な人間。相容れるはずもなかったのだ。

 幼少の頃に何かの手違いで交わっていた道が離れた。それだけの話。

 

 信綱はそう結論づけて背を向ける。

 

 ――信綱はこの対応を終生、勘助にからかわれることになるのだが、今の彼には知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 信綱にとって、山の中はひょっとすると自分の家以上に思い入れのある場所となっていた。

 阿七に届ける滋味のあるものを採るために入ることもあれば、どんな思惑があるのかは不明だがこちらを鍛えようとする天狗と会うこともある。

 特に後者の場合は稽古とは名ばかりで、ほぼ本気で殺し合うような殺陣を繰り広げることになっているのだが、今も死んでおらず強くなっているのだから問題はない。

 

 事実、今もこのように山を歩いていると――ほら。

 

「シャッ!!」

 

 木々の隙間を縫うように飛ぶ椛が、信綱の死角を完璧についた奇襲を仕掛けてくる。

 人間と妖怪の差など考えない。一太刀に滅殺の意志を込めて、椛の握る大太刀が周囲の木もろともに信綱の立つ空間を薙ぎ払う。

 

 しかし、信綱にその刃は届かない。武器を振りかぶる瞬間までは確かにその場にいたというのに、振り抜いた時にはすでに消えている。

 どこにいった、と椛が千里眼で周囲を見る。千里眼を使えば見つけられぬ者などいない――

 

「終わりだ」

 

 首元に冷たい鉄が押し付けられ、そこで椛の抵抗は呆気なく終わりを迎えることになった。

 何か策はないかと知慧を巡らせるが、抵抗の余地ありと判断した信綱が容赦なく刀を押し付け、首に傷をつける。

 あとほんの少しでも力を込めれば動脈が切れ、椛は地獄の苦しみを味わうことになるだろう。妖怪だから死にはしないが、痛くて苦しいのは嫌なのだ。

 諦めて武器を捨て、両手を軽く上げる。

 

「参った。参りました。死角から突いて不意打ちしているのに、どうしてこんなあっさり負けるんですか……」

「千里眼に頼りすぎだ。速く動けば捕捉するのに僅かに時間がかかる。それに千里眼も戦闘と同時に使用は難しいのか、動きが止まる。――そら、三回は首を落とせる」

「それ、実行できる人間はほとんどいませんよ……」

 

 信綱の可愛げのない言葉にげんなりしつつ、椛は信綱から身体を離す。

 出会った頃は少年だったこの男も、ずいぶんとたくましくなったものだと僅かに感慨深い。

 数年程度、妖怪からしてみれば瞬きの時間に過ぎないが、その短い時間で人は見違えるように強くなる。

 あの頃より片鱗は見せていたが、肉体も出来上がるこの時期より、信綱の天稟は本格的に開花し始めていた。

 それこそ、白狼天狗である椛に不意を突かれても、たやすく返り討ちに出来る程度には。

 

「で、椿はどうした? お前じゃもう相手にならんぞ。次は目隠しでもするか?」

「すっごい失礼ですよねあなた! うぐぐ、人間に手加減されるとか屈辱通り越して死にたい……」

「骨は拾わんぞ。で、椿は?」

「もうすぐ来ますよ。烏天狗さまは私みたいな下っ端よりもお忙しいんです」

「お前と同じ哨戒をしていたと記憶しているが」

「どうにもあの人は私の友人みたいですからね。それに付き合ってもらってるんです。冬の哨戒なんて誰もやりたがらないでしょう?」

 

 椛と気安く話しながらも、信綱は周囲の警戒を怠らない。

 今さら白狼天狗一匹程度ならば苦もなく撃退できるため、彼女への警戒は最低限にしておく。

 というより、椛の怖いところは戦闘能力にはない。無力化が出来ても厄介な存在とは確かにいるのだ。

 

「ふむ。妖怪のもうすぐは信用ならんが……まあいい。することもないんだ。しばし待とう」

「あ、では将棋しません将棋?」

 

 手近な木にもたれかかると、椛は楽しそうな顔でこちらに寄ってくる。

 ちなみにここで言う将棋とは大将棋を指す。しかも妖怪の演算能力に物を言わせた目隠し将棋だ。

 なまじ信綱も付いてこれるだけの地頭を持っていたのが運の尽きだった。将棋が趣味らしい椛に、度々頭の中で将棋盤を突き合わせる羽目になってしまっていた。

 

「……まあ、構わん。この前までやったところからな。俺の手番だ」

 

 先日差した盤面を頭に思い浮かべる。この手の遊戯は経験が物を言うため、人間なら何世代も交代するような時間を費やしてきた妖怪はひどく手強い。

 信綱も勝負はできるものの、勝率はいいとこ一割程度だ。

 

 そんなわけで信綱は自分の知性を総動員して抵抗を試みているものの、あれよあれよという間に追いつめられてしまう。

 

(これはあと二十……いや、十五手ぐらいで詰まされるな)

 

 脳内の盤面に頭を悩ませ、いざとなったら盤面を忘れたことにしてうやむやにしてしまおうと思っていた時だった。

 

「――来たか」

「ふぁ? 神の一手でも降りてきました?」

「違う、そうじゃない」

 

 というかそこまで真剣にやってない。あくまで時間つぶしである。

 

「椿だよ。多分頭上。急降下を仕掛けてくる」

「はぁ……って、ちょ!? この軌道私まで被害を受ける位置ですよ!」

 

 千里眼で状況を把握したのか慌てて距離を離す椛を尻目に、信綱は背を預けていた木から離れ、木々に覆われて隠れてしまった空を見据える。

 木々の葉はいつも通りに蠢き、葉擦れの音を森の中に響かせる。一瞬の後に大半が散らされる運命にあることを知らぬまま。

 

 信綱が手を柄に添えると同時、頭上の木々が文字通り吹き飛ばされる。突進してくる椿のまとう風が、自分以外の何かに触れることを拒絶していた。

 向かう先にいるのは少年から青年へと成長を遂げた、けれどまだまだ大人とは言い切れない子供が一人。

 受ければ骨すら残らない。五体は引き裂かれ、バラバラの欠片になってしまうだろう。

 

「――猪突猛進とは、性格そのままだな」

 

 しかし、信綱は動かない。鞘から奔らせた剣閃が椿のまとっていた風を切り裂き、返す刃が彼女の持つ天狗団扇を弾き飛ばす。

 勢いを止めない彼女に対して、信綱は開いた片手で迫り来る椿の頬に触れる。

 

「あ――」

「失せろ」

 

 一瞬だけ驚愕したような――あえて直接的に表現するなら女の顔になった椿を記憶から消去しつつ、頬に添えた手に力を微かに込めて、向かってくる莫大な力を受け流す。

 

「ちょ、あ、きゃああああああああああ!!」

 

 ほぼ真横に力の向きを変えられた椿は、勢いそのままにバキバキと木を薙ぎ倒しながら信綱の視界から消える。

 それを見届け、一息ついてから信綱は椛に向き直り口を開く。

 

「……あいつも来たことだし、将棋は終わりにするぞ」

「刀を抜く瞬間が千里眼でも見えなかったんですけど。というか受け流しただけで真横に行きますっけ? この人本当に人間……?」

「聞こえてるぞ。俺は人間だ」

 

 ただちょっと異常な一族に生まれてしまっただけである。

 遡れば初代辺りで妖怪の血ぐらいは混ざっている可能性は否定できないが、長命な妖怪と違って寿命は人間相応だ。確かめる術は皆無に等しい。

 

「お前もこっちに来い。大した痛手でもないだろう」

「あ、バレた」

「ダルマにしても翌日には治る妖怪が何を言っている」

「首は不味いよ? 頭が吹っ飛ぶと、さすがに一刻やそこらじゃ回復しない」

「首が落ちただけなら死にもしませんけどね」

「滅びろ妖怪」

 

 こちとら腕が一本飛んだだけで命が危うい人間だというのに、なんという不公平。

 口でそう言いながら、信綱は抜いてある刀を二人に向ける。

 

「――始めるぞ」

「はーいはいっと。じゃ、今日も楽しもっか!」

「あ、私は適当に援護に回りますんで。今の彼と打ち合うとかホント勘弁して下さい」

「あっという間に追い抜かれたもんね、椛」

「白狼天狗の中では上位なんですよこれでも……」

 

 人間って怖いなあと呟きながら椛は距離を離す。千里眼で状況を把握しつつ、信綱の嫌がる瞬間を見逃さずに援護を入れてくるのだろう。

 千里眼という能力がある特性上、援護に回られてしまうと厄介極まりなくなる。信綱とて、常に全方位に注意を向けられるわけではないのだ。

 

「さて、それじゃあ今日はどっちが勝つかな」

「よく言う。まだ遊んでいる癖に」

「まだ、ね。この調子なら本気で打ち合う日も遠くないよ」

「言ってろ。俺はお前で足踏みしていられるほど人生に余裕はないんだ」

「余裕があってもなくても、強さには関係がない。――さあ、もっと強くなって私を惚れさせてみな! もうとっくに惚れてるけど!」

「知るか、死ね」

 

 鋼と鋼。鍛え抜かれた技術と技術。森の奥で聞くには不釣り合いな、甲高い鋼の音が幾重にも連続して響き渡る。

 縦横無尽に木々の間を跳ね回り、自らの足がついている場所が地面とばかりに動く信綱。

 その一挙手一投足を慈しむような目で見ながら、同時に自身もまた信綱以上の速度で動きまわり、信綱を翻弄する椿。

 一瞬の交錯と同時、響き渡る剣戟の音は――五つ。

 

「ああもう、本当に……!」

 

 目で追えない。援護に回ると言った椛は、自身の千里眼の弱点に歯噛みをする。

 確かにこの能力は便利だが、決して無敵でも最強でもない。動体視力は椛のそれに依存するし、何より見えたところで椛自身の能力は椿や信綱らとは比べ物にならないのだ。

 慢心などできるはずもない。こういう時、椛は自分の力が千里眼程度(・・)でしかないことを悔やしく思う。

 そして椛が自身の能力に懊悩している時も戦いは推移し、早くも終わりに差し掛かっていた。

 

「はっ!!」

「おおっと!」

 

 裂帛の気合とともに無数の剣閃が放たれる。一瞬のうちに繰り出される数は七。

 渾身の一撃を椿は全て見切り、同時に本命も理解する。

 

「全部引っ掛け。本命は――そこ!」

 

 椿は斬撃の嵐に身を投じ、剣閃が身体を刻むのを受け入れる。

 どうせ囮なのだ。妖怪を殺す斬撃には程遠い。もっと胴体ごとぶった斬る勢いでなければ、妖怪にとって致命傷には成り得ない。

 

 そして数年の付き合いになれば嫌でも技の好みというのも理解できてくる。この少年は――無駄を嫌うのだ。

 殺すつもりの一撃が回避されることを嫌う。故に絶対に当たる状況や体勢を作るのにこだわる。

 それさえわかっていれば、致命打を受けないためにある程度の傷を許容することによって、信綱の呼吸を乱すことができた。

 

 椿の推測を裏付けるように信綱の顔が苦渋に歪む。その顔に椿の妖怪としての感性が刺激されるのを覚えながら、信綱に刀を突きつける。

 

「はい、おしまい。妖怪相手に駆け引きなんて仕掛けない方がいいよ。前提が違うっていうのは、頭で理解できても、実際にできるかどうかは別問題だから」

「……覚えておこう。次からは全て殺すつもりで斬る」

「その方が良いね。私も愉しいから」

「妖怪め」

「妖怪だもの」

 

 信綱にとってみれば死と隣りあわせの稽古であっても、彼女らにとってはある種の娯楽にすぎない。

 

「もう一度やるぞ。彼女も混ぜて多人数で」

「漁夫の利を全力で狙いますけど良いんですか?」

「それしか勝ち筋ないんだし良いんじゃない? こいつと私だけじゃ大体結果見えちゃうし」

「滅びろ妖怪」

 

 振るわれる斬撃が木漏れ日を反射して煌めく。光の弧が椿の首を刈り取ろうと迫るが、半歩動いただけで避けられる。

 

「っとと。いやぁ、キミも腕を上げたもんだねえ。私はキミの呼吸とか癖とかある程度わかってるから勝てるけど、初見の烏天狗なら十分倒せるよ」

「大天狗は倒せないのだろう。まだ未熟だ」

「成人したてでそれなんだから十分だと思いますけど……」

 

 末恐ろしいなんて気持ち、とっくに通り越している。このまま成長したらひょっとすると、かつて妖怪と戦った古の勇者らと同等の領域まで達するのではないかと思ってしまう。

 

「……時に。お前は烏天狗の中ではどのくらいなんだ?」

「ん? 殿方との経験?」

「違う。力だ。一口に烏天狗とくくっても多少の差はあるだろう」

「あー……まあ、低いってことはないよ。上から数えた方が早い。でも一人、大天狗以上の力を持つ烏天狗とかいうバケモノがいて、さすがにそれには劣るかな」

「そんなのがいるなら俺はまだまだ普通だな」

「いやいやいやいや」

 

 椛からしてみればバケモノ同士が背比べをしているようなものだ。

 よもや後の未来で、そのバケモノみたいな天狗と知り合うことになるなど想像もしていない椛であった。

 

「気まぐれに振る舞ってるように見えるけど、ありゃ根は真面目と見たね。退屈退屈言いながら里からは出ないし、問題があった時とかも気づいたらいるし。絶対処女だよ処女」

「死ぬほどどうでも良いなその情報」

 

 ともあれ、まだまだ上には上がいることがよくわかった。より一層の修練に励む必要があるということ。

 今の無駄話で休憩にもなった。今度こそ自分が勝つという意思を込めて、信綱は椿を見据える。

 

「そろそろ再開するぞ。次はどうする」

「んじゃ、基礎を固めとこうか。とりあえず木でも括りつけて山走り回ろう」

「わかった」

「これを普通と思ってしまう辺り、私も毒されてるなあ……」

 

 最近、椛がやたらと遠い目をすることが増えていた。

 椿は死んでも構わないが、椛に死なれるのは少し悲しいため、信綱は彼女に声をかける。

 

「疲れてるのか? 休んでいても構わんぞ」

「いてもいなくても変わらないから?」

「それは否定しないが、お前に倒れられるとこいつを止める役がいなくなる」

「あ、そういう役どころ。……はぁ、大丈夫ですよ。人間に気遣われるほど落ちぶれちゃいません」

 

 立ち上がった椛と共に、信綱は稽古に没頭していくのであった。

 

 

 

 

 

 その日の帰り道、信綱が身体の痛みを堪えながら人里の中を歩いていると、目の前に人影ができる。

 

「……勘助」

「よう。一日探したけど見つかんなかった。どこ行ってたんだ?」

「……山で鍛錬だ。道場じゃ物足りない」

「そっか。……やっぱお前ってスゴイんだな」

 

 目的が読めない。信綱は何が起こっても対処できるように心構えを切り替えていく。

 

「俺と人里で会わない方が良い。気狂いの仲間だと思われるぞ」

「いいさ。言わせたい奴には言わせとけ。それより酒でも飲まねえ?」

 

 普段通りの姿であることが、余計に信綱の疑問を煽る。以前の様子は一体何だったのか。

 あの日の問答が受け流されているのなら、信綱も怒りの一つは覚える。いざとなれば切り捨てる存在であっても、切り捨てる際に何も思わないわけではないのだ。

 

「……別に構わんが、事情を話せ。見回りの時に言っただろう。俺と一緒にいて得になることはない。……俺だって報いてやれるかどうかはわからない」

「あー……悪い。ちょっと急だったか」

 

 歩こうぜ、と言われて信綱は勘助と並んで歩く。

 

「……お前に言われたこと、ずっと考えてた。お前の家のこととか、お前自身のことも。お前は色々と違うんだよな」

「そうだ。原因はわからんが、生まれた頃から御阿礼の子に対して異常な執着を持つ。男児ならば例外はない。

 あの方の役に立ちたい。あの方のために生きたい。それ以外は己含め、全てが塵芥。

 人里で暮らすには協調性に難あり。気狂いの集まり。――だけど強い」

「お前も強いのか?」

「勘助の首ならいつでもへし折れるくらいには」

「やるつもりはないんだろ? それ言い出したら包丁持ってる人間がいつでも相手を刺せるみたいなもんだ」

「まあ、それはそうだ」

 

 肩をすくめる。難易度に差があるとはいえ、誰だって人を殺すくらいは可能である。だが、それにこだわって隣人を信じられなくなっては、人は生きられない。

 

「……だけど御阿礼の子、だったか。その人のためならお前はやるんだよな」

「ああ。躊躇わない――いや、喜んでやる」

 

 例えそれが肉親の臓物を引きずり出すことであっても。隣を歩く親友の心臓をえぐることであろうと、それが命じられたのならば、かつてない幸福感に包まれながら実行するだろう。

 信綱の異常性を見て理解したのか、勘助の顔が引きつる。しかし、それも一瞬ですぐに普段通りの顔に戻る。

 

「わかった。それでいい」

「……何を言っている、勘助?」

「そんな時が来るなら、それでいいって言ったんだ。同じ里の人間を殺すように命じるのが稗田の家なら、多分この里は長くない」

「…………」

 

 返答はない。だが、それが何よりも雄弁な返答になっていた。

 

「俺も考えたんだよ。もしもお前と伽耶、どっちか一人しか選べないって時が来たらどうしようかって」

「……伽耶と同列ぐらいには思ってもらえていたのか」

「茶化すなよ。小さい頃から一緒なんだし当たり前だろ。……俺は、伽耶を選ぶ」

「そうか。その方が健全だ」

 

 ついでに言えば自分のような男と関わらない方がもっと健全なのだが、勘助はもう覚悟を決めているのだろう。ここまで言われて気づかないほど鈍感ではない。

 

「だけど、そうならないうちは両方とも大切な友達だ。……だからお前も、俺を切り捨てなきゃならない時まで、友達でいてくれないか」

「…………」

 

 信綱は眉を寄せ、無言になる。顔にこそ出さないが、戸惑っていた。

 そんな信綱に畳み掛けるように勘助が言葉を続ける。

 

「お前と縁を切ることも正直考えた。それが多分、一番楽な道だとも思った。だけど違うんだよ! 何が違うのかは上手く説明できないけど、あんな終わり方で終わっていいはずないんだよ!」

「……縁をつなぎ止める努力も重要、か」

 

 ずいぶんと昔に慧音から聞いた言葉が思い返された。一度繋いだ縁は簡単に切れるものではないが、つなぎ止める努力は欠かしてはならないと。

 恐らく、世間一般で言われている基準は信綱には当てはまらない。彼にとって他者との縁は御阿礼の子が絡めば儚く断ち切られるものだ。

 

「……そうだな。阿礼狂いと呼ばれている男で、いつかお前を手ひどく裏切るかもしれない俺で良ければ、お前の友達を続けさせてくれ」

 

 だが、それでも。それでも、その時が来るまでこの縁を大切にしたいと思ってしまったのだ。

 自分のような気狂いを友と呼んでくれるこの青年に、応えられる限りで応えたいと思ったのだ。

 

「お……おう! よっし、こうなりゃ伽耶も呼んでくる! 前みたいにとは行かなくてもさ、三人揃えばきっと楽しいって!」

 

 勘助は喜色満面の笑みを浮かべ、勢い良く信綱の背を叩く。

 その喜びようを見て、信綱も寺子屋の頃を思い出して微かに笑みを浮かべるのであった。

 

「……そうだな。きっと、楽しいことだ」

「ああ! へへっ、今日は呑むぞぉ!」

 

 

 

 

 

 二人の若者が笑いながら歩く姿に、皆が恐れるような阿礼狂いの姿はこの一時のみ、存在しなかった。




 (今は)平穏な日々を過ごしている一幕です。信綱少年改め信綱青年。
 阿七が外に出ないため知られることもありませんが、すでに人里の中では最強の一角です。幻想郷全体? 中堅ぐらいかな(適当)

 妖怪は近頃大人しい通り越して、力を失いつつある模様。さて、そんな頃に起こった異変がありましたね(ゲス顔)

 漢を見せた勘助青年。どっかで彼の葛藤を書く番外編か閑話を差し込むかもしれません。上手く入れられませんでしたが、時系列的に話の最初と最後で一月ぐらい時間が経ってます。



 そして近況報告というか、前書きにも有りましたようにリアルがちょっと切羽詰まってます(暴露)
 更新が遅くなることもあると思われるので、その時は活動報告を使おうと思います。お付き合いいただけると幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残酷な約束

次、ヤバい(片言)


「阿七様、このような場所でよろしいのですか?」

「うん、ここがいいの」

「しかし……見るべきものがあるわけではありませんよ?」

「いいのよ、ここが」

 

 困った顔をする信綱と、そんな彼の手を取りながら歩く阿七。

 すでに身長差は逆転し、以前は姉弟のように見えた二人も今では普通の男女にしか見えない。

 だが、阿七の中で信綱はずっと弟のままだろうし、信綱自身も彼女に対して特別な感情を持つことはないのだろう。

 狂信、盲信と呼ばれる類なら持ち合わせているが、それとて表に出なければ平和なものである。

 

 さて、そんな信綱が現在困っているのはその主である阿七についてだ。

 

 転生の支度も終え、幻想郷縁起の確認も終わった。つまり阿七はほんの僅かな時間かもしれないが、本当の意味で自由な時間を過ごせるのである。

 尤も、病弱なことに変わりはないのであまり遠出することは難しい。

 しかし、それでも今の阿七は非常に活き活きとしていた。

 

 その楽しげな顔のまま、信綱の部屋が見たいと言われては断れないのだ。

 

「阿七様、お手を失礼いたします」

「ん、どうぞ」

 

 現在いるのは信綱の家――つまり火継の邸宅である。

 他の火継に見られるのも癪なので、稽古の時間にずらして阿七を案内していた。

 

「ここが火継の家です。阿七様でしたら知っておられると思いますが」

「記憶にはあるけど、こうして自分の目で見たのは初めてよ。……どこか物悲しい、かな」

「そう見えますか……」

 

 人間性を投げ捨てた連中の集まる家だ。そう見えてしまうのも無理はないのかもしれない。

 

「こちらへ。私の部屋に案内します」

「うん。ノブ君の部屋がどんなものか、私が見てあげる」

「人に見せるものではないのですが……」

 

 黙殺された。諦めた信綱は阿七の手を引いて自分の部屋に案内する。

 

「ここです。最近、部屋が変わりましたので何もありませんが」

 

 以前の部屋に物があったわけでもないが、一応の言い訳をしておく。

 そして開いた部屋は最も広い――いわゆる家長の部屋だった。

 

「あれ、信義さんは? ここは家長の部屋だったと記憶しているけど……」

「私の成人と共に、私が当主を受け継ぐことになりました。父上は今頃、道場で汗を流しておられるでしょう」

 

 煩わしい外の出来事なども今後増えていくだろう。面倒な話だが人里で生きていく以上、無縁ではいられない。

 今にして思うと、父から託されたこの当主という立ち位置は貧乏くじを引かされた気がしてならない。

 

「…………」

「どうかした? ノブ君」

 

 座布団に膝を折りながら、阿七がこちらを見上げてくる。

 

「今からでも父上に当主の座を返上できないかと考えてました」

「ダメよ? どこかで次の世代には繋がないといけないんだから」

「……世知辛いものです」

 

 阿七の守護だけをしていれば大丈夫な世界とかないだろうか。

 人付き合いとはかくも面倒なものかと、信綱は阿七の隣に腰掛けながら思う。

 

「ところで……ノブ君、私物はどこにあるの?」

「いえ、これが全部ですが」

「……これで全部?」

 

 阿七が改めて部屋を見渡す。

 最低限の座布団や座椅子などはあるが、私物に類するものが一切ない。

 釣られた信綱も自分の部屋を見て、首を傾げる。

 

「……何か問題がありますか?」

「うーん……どう言えばいいかな……」

 

 阿七は悩んだ様子で目を閉じる。

 その様子を見た信綱は直ぐに口を開く。何で側仕えの部屋に悩んでいるのかはわからないが、主を煩わせる側仕えなどあってはならない。

 

「何か置物でも置きましょうか。そうだ、父が育てている盆栽があります」

「ダーメ。そういうのはいけません」

 

 阿七の手が信綱の額を軽く叩く。彼女の信綱をたしなめる時の癖だ。

 座っていても背丈に差が出来てしまったので、額に手を伸ばすには手だけでなく体全体を動かす必要があるのだが、阿七はこの動きを変えようとはしなかった。

 

「むぅ……」

「ちゃんと自分の趣味とか持たないと。女の人を楽しませられないよ?」

「人を楽しませるものではない気がするのですが……」

 

 またも無視された。阿七は指を立てて信綱に教授していく。

 

「いい? 私が見たいのは君の部屋だけじゃなくて、君の心なの」

「はぁ……」

 

 よくわからない。部屋には心が出てくるものだろうか。

 

「例えば、物臭な人の部屋が片付いていると思う?」

「そうは思いません。……ああ、なるほど」

 

 理解はすぐだった。阿七のように見聞きしたもの全てを覚えるというわけではないが、信綱も頭の回転は非常に速い方なのだ。

 

「言われてみれば、確かに。私もこの部屋に戻るのはたまに寝る時ぐらいでした」

「あれ? でも私、そんなに忙しいことお願いしたかしら?」

 

 阿七は活動的な方ではないため、家の中にいる時はほぼ四六時中話し相手になったり、庭の散歩に付き合ったりと、遠出をするようなことはない。

 

「いえ、そうではありません。ただ、もっと精進せねばと腕を磨いておりますゆえ」

 

 暇さえあれば自己鍛錬に余念がない少年でもあった。

 何かあった時、最終的にモノを言うのは力であることが多いのだ。

 

「ノブ君は熱心ね。私はそれに付き合えないけど……」

 

 少し残念そうな顔をする阿七に、信綱はゆるゆると首を横に振る。

 

「阿七様に危険が迫った時のために私がおります。――ですが、危険なことなど起こらないに越したことはないのです」

 

 そう告げると、阿七は驚いたように目を丸くする。

 そんなに不思議なことを言っただろうか、と信綱は首を傾げた。

 

「……ノブ君の口からそんな言葉が聞けるとは思ってなかったわ。ちっちゃな頃は私に護衛だって思ってもらえないのを不満そうにしていたから」

「わかっていたのですか。阿七様もひどいお方だ」

 

 信綱は口元に手を当ててくつくつと笑う。側仕えに任命されたばかりの頃はどうにか阿七の力になれないか、試行錯誤したものだと思い返す。

 

「ええ。信義さんみたいに大人の人ならまだしも、ノブ君は子供だったから。それに可愛かったんですもの」

 

 そう言って、阿七は信綱の肩にもたれかかる。

 昔は逆だったな、と子供の頃を思い出しながら信綱は口を開いた。

 

「……あの時の自分は、あなたのお役に立てていたでしょうか」

「もちろん。心から信頼していない人に肩を預けるほど、私は安い女じゃないわ」

 

 小太刀しか握れず、阿七の話し相手ぐらいにしかなれなかった未熟な自分であっても、彼女にとって意味はあったようだ。

 良かった、と深く静かに息を吐く。

 

「……恐悦至極」

「ふふっ、照れてる」

 

 いくつになっても阿七には敵わない。信綱は観念したのか、力を抜けた笑みを浮かべる。

 

「……次来る時には、当主の部屋じゃなくてノブ君の部屋を見せてね」

「約束します。色々と考えてみます」

「ん、よろしい。じゃあこれ、お姉さんからのご褒美です」

 

 阿七が着物の袖から取り出した硝子細工の花を受け取る。

 花びらの細部に至るまで繊細に作られたそれは、障子越しの淡い陽光を浴びて虹色の輝きを放っていた。

 

「これを飾るだけじゃダメだからね?」

「承知しております。気をつけましょう」

 

 信綱は軽く笑い、阿七がくれたそれを細心の注意を払って扱い、机の上に飾る。

 

「ひとまずはこれで。さて、これからどうされますか」

「ん……もう少し、このままで」

 

 阿七の頭が肩から下がり、信綱の膝の上に収まる。

 

「誰かにこうしてもらうなんて、初めて……。ふふ、意外と硬い」

「一応、鍛えていますから」

 

 壊れ物を扱うような手付きで、信綱は阿七の髪を梳いてやる。

 阿七はくすぐったそうに目を細めるが、手が払われることはなかった。

 

「……疲れたのでしたら、このままお休みください。私はずっとおりますから」

「疲れたわけじゃないけど……こういう時間、素敵だなあ……」

 

 まどろみに身を委ねた阿七が小さく欠伸を漏らす。

 

「ノブ君がいなかったら、こんな時間を知ることもなかったと思う。そういう意味では、君が子供の頃に私のところに来てくれて良かったかな」

「……これでも、小さな頃は悩んでいた時もあったのです。阿七様の話し相手にはなれていたけれど、それはただ単にあなたの近くにいた子供が自分しかいなかっただけなのでは、と」

 

 それで構わないと開き直るまで少々時間がかかった。あの頃の自分は阿礼狂いとしても未熟だったのだろう。

 

「そうかもしれない。でも、ノブ君は私のそばにずっといてくれた。私が苦しい時も支えてくれた。楽しい時は喜んでくれた。護衛の役目を果たしてくれた人は大勢いたけれど、家族になってくれたのは君が初めて」

「……過分なお言葉です」

 

 阿七は信綱の膝の上で仰向けになり、見下ろす信綱の頬に手を伸ばす。

 

「私がお姉さんで、君が弟。弟って言うには、色々と頼りすぎちゃっていたけど」

「私の方こそ、阿七様にご迷惑ばかりおかけしていました。早く大人になれば阿七様のお手を煩わせずに済む、と思ったことも一度や二度ではききません」

 

 思えば必死に走ってばかりだった。阿七の決して長いとは言えない一生の一部を、少しでも支えられるようにとひた走り続けた。

 結果として阿七に家族と思ってもらえるのだから、望外である。

 

「うふふ、ノブ君が最初から大人だったら、今みたいに頼ったりはしていなかったわね。だから子供でありがとう、かな」

「……複雑ですけど、ありがとうございます」

 

 話すこともなくなったのか、阿七は静かに力を抜いて信綱に身を委ねる。

 誰かに寄りかかるということは、その誰かへ全幅の信頼を置いていなければ出来ない、と何かの本で読んだことを思い出す。

 

「もう少し、このままでいてもいいかな……?」

 

 阿七の声は眠気に負けつつあるのか、とろんとした小さなそれだった。

 

「ええ。あなたが望む限りいつまでもこうしていますから。どうか安らかにお休みください」

 

 穏やかに微笑み、阿七の目元を手で覆う。するとすぐに小さな寝息が聞こえ始めた。

 阿七が起きたら足のしびれは適当にごまかそうと思いながら、信綱は時間がゆっくりと流れてくれればと思うのであった。

 

 ――遠くない未来において、信綱は理解する。

 

 

 

 次に来る時というのは、阿七の時間ではないということを。

 

 

 

 

 

「あ、慧音先生」

 

 夏が終わり、秋に向かいかけている日のことだった。

 山に分け入って阿七に出すための魚を釣った帰り道で、信綱の手には釣り竿と魚籠がぶら下がっていた。

 

「む、信綱か。久しいな、息災だったか?」

「はい。先生もお変わりなく」

「ははっ、お前もそんな大人の言葉遣いを覚えたか」

 

 朗らかに笑う慧音。会うのはだいぶ久方ぶりなのだが、慧音は全く変わっていなかった。

 詳しいことは知らないが、後天的に妖怪の属性を得ることによって寿命を伸ばしているとかどうとか。

 

 その方法がわかれば何代もの御阿礼の子を守護することが出来る……が、物事はそう上手く行かない。

 慧音が妖怪の力を宿したのは彼女自身も物心ついて間もない頃であったため、半妖になる方法を彼女自身も知らないのだ。

 

「お前は釣りの帰りか?」

「ええ。そろそろ甘露煮が美味しくなる季節ですので」

「そうか。阿七も喜ぶだろう」

 

 当り障りのない話をしていると、ふと慧音が真面目な顔になって信綱を見てくる。

 

「……どうかしましたか、先生」

「いや、なに。お前も成人したから言うが、お前の家のことは知っているつもりだ」

「はあ」

 

 寺子屋時代から気づいてました、とは言わないでおく。というより、人里で最も長く生きてきた人が火継を一切知らないということはあり得ないだろう。

 

「お前は確かに強いのだろう。そして今後、危険なことがあれば真っ先に向かうのだろう」

「……まあ、人里に被害が出るのは阿七様にとっても悪影響ですから」

 

 それに火継の人間が人里に期待されているのは、その卓越した身体能力から生まれる戦闘力だ。

 今でこそ平和な時間が続いているものの、今後もそうであるとは限らない。

 博麗大結界が生まれて間もない以上、今は幻想郷の過渡期とも言える状態なのだ。

 

 特に信綱はすでに妖怪と打ち合えるだけの実力を持っている。それぞれの勢力の頭目や幹部級でないと一騎打ちで止めるのは難しいほどに。

 何かあれば出張ることになる。危険な妖怪相手に戦う時も来るだろう。

 

「うむ、私もそれを止めるつもりはない。人里が人里として在るために必要なことだ。……だが、お前を心配する人は多いことを忘れるな」

「はい。肝に銘じておきます」

「ならば良し。さて、あまり長話をしても魚が悪くなるな。ではな信綱。次会うときは私にも何か土産を用意しておいてくれ」

 

 そう言って去っていく慧音に善処しますと曖昧な答えを投げかけておく。

 そして歩みを再開するのだが、それもまたすぐに足を止めることになる。

 

「お、伽耶。久しぶりだな」

「ノブくん、久しぶり。元気だった?」

「体調管理はしっかりしている」

 

 子供の頃、勘助より贈られたかんざしを付けた伽耶が信綱に微笑みかける。

 

「伽耶は何を?」

「お父さんのお手伝いで荷物を届けていたの。弟も大きくなってきたし、私はそろそろお嫁さんかなあ」

 

 もうすぐ十六になる手前での婚姻はさすがに早い部類に入るが、珍しい話というわけではない。

 特に伽耶の家は商家のため、見合いによる結婚も有り得る話だった。

 

「もう見合いが?」

「お父さんがポツポツ零してるってぐらいかな。ノブくんの家も大きい方だけど、どうなの?」

「ん……」

 

 跡目がいなければ火継も絶えてしまうので、女手が必要になる時はあるのだが――どこから来ているのかまでは知らなかった。

 多分、必要になったら話として上るのだろう。

 

「よくわからないな。うちで女中以外の人を見た覚えはないし、そもそもうちがどう呼ばれているかはわかっているだろう。男衆は皆阿七様に首ったけだ」

 

 その並み居る男衆を倒して信綱が隣りにいる。

 天狗にも教えを受けている彼にとって、もはや火継の人間であっても物足りないぐらいだった。

 

「どのくらいそうなの?」

「暇さえあれば阿七様の側仕えになろうと誰も彼も修練に励んでいる。というかそれ以外のことをしている身内を家で見たことがない」

「思いを暴走させて、とかはないの? そんなに一心に想う人なら、さらってしまおうって考えが出てもおかしくないと思うけど」

「ないな」

 

 尤もと思われる伽耶の質問に、信綱は即答で否定する。これに関しては自信を持って断言できた。

 

「俺たちはひたすらに与える側だ。側にいられれば、それが叶わなくとも何かの力になれれば構わない。皆そう思っているだろうし、そう思ってない奴は火継ではない」

 

 言い切る信綱に伽耶は困ったように笑うしかなかった。これは阿礼狂いと呼ばれるわけだ。

 

「あ、あはは……すごいんだね」

「狂ってると言って良いぞ。原因は知らんが、うちの男は皆そうなる」

「環境とかじゃなく?」

「不思議なことにな」

 

 親の教育、環境、そういったものに関わらず火継の男は御阿礼の子に全てを捧げる。

 それがどうしてなのか、など考えたこともないし、今後も考えられることはないだろう。

 彼らにとって御阿礼の子が全てであり、自分の状態などどうでも良いの一言なのだ。

 

「で、話を戻すが伽耶の見合いはどうなるんだ?」

「さあ? いざとなったら勘ちゃんにもらってもらうから。私は別に跡取りってわけでもないし、なんとかなると思う」

 

 そう言って伽耶は愛しそうに頭のかんざしに触れる。

 その様子を信綱はなんとも言えない顔で見ていた。友人同士の色恋沙汰とかどんな顔をすれば良いのか。

 伽耶の意外なたくましさを見た気がする信綱は、この話を終わらせるべく口を開く。他人の惚気を聞く趣味はない。

 

「そ、そうか……。まあ、頑張ってくれ。不幸な結末にならないことを祈るぐらいはするから」

「うふふ、ありがとう。ノブくんもお仕事頑張ってね」

 

 伽耶の背中が遠のくのを見ながら、信綱はそう遠くない未来で伽耶に絡め取られるであろう勘助を思い、そっと心の中で手を合わせるのだった。

 

(相思相愛っぽいし大丈夫か)

 

 二秒でバカバカしくなった。そんなことより阿七に魚を届けることの方が重要だ。

 信綱は思い直したように稗田の家への道を急ぐのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 秋が始まる頃のこと。信綱がこの世に生を受けて十六年目を迎える日のことだった。

 今日も今日とて阿七の話し相手となっていた信綱は、阿七と共に稗田邸の縁側に並んで座っていた。

 

「秋晴れの良い天気ね。空が透き通ってる」

「ええ。もうじき紅葉が美しい季節になります。食欲の秋とも言いますし、あの季節は美味い物が多い」

「ふふふ、ノブ君は食べ物の話が多いわね。食べ盛りなのかしら?」

 

 阿七に栄養あるものを食べさせようとなると、必然的に秋が重要というだけである。動物や魚は冬に備えて脂を蓄えるし、栗なども採取することが出来る。

 

「私的には読書の秋を勧めたいかな。ノブ君は何か本を読む?」

「歴代の幻想郷縁起は一通り読みました。あとは必要と感じた知識に関するものを少々」

 

 御阿礼の子が書いた幻想郷縁起は火継の人間にとって聖書に等しい。

 その上で信綱は阿七の体調管理に良いと判断した医学書や、薬に関わる書物を読み漁っていた。

 

「楽しい本だったかしら。特に幻想郷縁起は今と昔じゃ全然違うわ」

「阿七様が書かれた幻想郷縁起、未だに見ていないのですが……まだ見てはいけませんか?」

 

 すでに公開はされているので見ようと思えば見る手段はあるのだが、阿七が見るなと命じている以上、信綱にその命令を背く理由はなかった。

 

「ダーメ。身内に見られるのって案外恥ずかしいのよ?」

「父上とかは……」

「あの人は頼りになったけど、どこか一線を引いていたから。信用も信頼もしていたのは確かよ。でも、ノブ君とは違ったかな……」

 

 遠い過去を思い返すように阿七は虚空に視線を投げる。

 信綱もそれに付き合って視線を空に向けると、肩に暖かな重みを感じた。

 

「阿七様?」

「歴代の御阿礼の子はね、皆あなたたちのことを信じていたの。絶対に自分を裏切らなくて、絶対に自分を待ってくれる。

 転生を繰り返す私たちにとって、あなたたちが変わらない姿を見せてくれることはある種の救いだった」

 

 阿七の言葉に信綱はどう返事をすべきかわからなかった。

 こうして過去の――否、前世の記憶を話してくれる阿七の姿を、信綱は初めて見たのだ。

 

「まだ妖怪と人間が殺し合っていた頃も、ずっと変わらずあの人たちは私たちを護ってくれた。信義さんも、他の皆も」

「……阿七様、私は――」

 

 何かを言わなければならない。

 そんな自分でもよくわからない情動に突き動かされて開いた口は、阿七が首を横に振ることで遮られる。

 

「私たちが見た中でも、あなたが例外なの。ちっちゃな子供の頃から、ずっと変わらず私の隣にいてくれて。家族になってくれて嬉しかった」

「……それなら良かった」

「ねえ、ノブ君――いいえ、火継信綱さん」

「……なんでしょう。阿七様」

 

 これから来る質問に備え、信綱は真剣な顔で阿七を見る。

 

 

 

 ――私が死んでも、あなたは後を追わない?

 

 

 

「…………」

 

 とっさに答えることはできなかった。が――答え自体は決まっていた。

 

「待ちます」

「あ……」

「死んで黄泉路に付き合うのも悪くはありません。ですがあなたは転生できる。その時まで待ちます」

 

 稗田の火が絶えることはない。転生に転生を繰り返し、いずれ新たな火が灯るのだ。

 その火を守り抜く。それこそ火継の人間の役目である。

 

「もう一度。私が今よりも成長し、あなたが子供になるとしても。必ず会える」

「ノブ君……」

 

 感極まった阿七が信綱の身体をかき抱く。

 謝罪するように、懺悔するように、そして何よりも大きな感謝を込めて、阿七は信綱を抱きしめた。

 

「ごめんなさい、ありがとう……!」

「謝ることなど何もありません。あなたの願いが私の願いです。それに……」

 

 阿七が涙に濡れた目を向けてくる。

 いつまでもそのような姿を見たくないと思い、信綱は慣れない冗談を口にした。

 

「次の代であれば、私があなたを子供扱いできるでしょうから」

「……ふふ、あははっ。ノブ君、気にしてたんだ」

 

 ぽかんとした顔になった阿七を見て、失敗したかと思った信綱だったが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 

「そりゃあもう。早く大人になりたいと何度も思ったものです」

「あんなに可愛かったのに、今ではすっかりたくましくなってしまったわね」

「食べ盛りなものですから」

「あははははっ」

 

 そう言うと、阿七がまた笑ってくれた。

 これで良かったのだと信綱は信じることにした。真意は阿七にしかわからなくても、今笑ってくれるなら十分である。

 

 ひとしきり笑った後、阿七は涙を拭って信綱の膝に頭を乗せる。最近のお気に入りのようだ。

 

「あんなに声を出して笑ったのは久しぶりよ。それもノブ君に笑わせられるなんて」

「もっと早くこうしておけば良かったかもしれませんね。真面目な態度ばかりがあなたを安心させられるわけではない」

「ノブ君はそれでいいのよ。今から冗談ばかり口にするようになっても困っちゃうわ」

「そうでしょうか」

「ええ、そうなの。これからしばらく、顔が見れなくなるのだから」

「…………」

 

 阿七の言葉に何も答えず、信綱は阿七の髪をすくことに没頭する。

 

「……止めないのね」

「十年、あなたと共にいました。だからあなたの様子はわかるつもりです」

「――ありがとう。あなたは私にとって最高の家族だった」

「身に余る光栄に存じます」

「照れて……る? 短い言葉を使う癖があったはずだけれど」

「羞恥以上に、今は胸に迫るものがあります」

 

 互いの手が互いの頬に触れる。駄目だ、まだ涙は流すな。

 

「そう。――ねえ、少し眠くなってきちゃったわ」

 

 嗚呼、時間切れになってしまった。まだ話したいことは山程、それこそ一生分あるというのに。

 

「楽にお休みください。必要ならば布団を敷いてきます」

「ううん、ここが良いわ」

「そう、ですか」

 

 声よ、震えるな。今ここで自分が動揺しては、阿七が安らげないだろう。

 

「私はずっとここにおりますから、どうか安らかにお休みください」

「ええ。――信じているわ。信綱さん」

 

 静かに阿七の手が信綱の頬から離れていく。その手を握りたい衝動に駆られながらも、手は動かない。

 手が床に降りる前に信綱がその手を取り、阿七の胸に添える。動く気配は――ない。

 

 

 

 

 

 

 

 もう、この人が目覚めることはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 信綱は動かなくなった阿七の頭を膝に乗せて、静かに空を見上げる。

 その目からは止めどない涙が流れていたが、阿七が濡れないように袖で端から拭っていく。

 

「あなたが願うなら、いつまでも……っ! こうしていますから……っ!!」

 

 唇を噛みしめ、嗚咽が零れるのを防ぐ。阿七が眠れないから。

 

「だから、どうか……どうか……っ! 心安らかに、お休みください……っ!!」

 

 五体がバラバラに引き裂かれるような悲しみだ。

 阿七はこれをもう一度味わう可能性のある未来に、信綱が向かうようお願いした。

 自害して彼女の後を追いかけられるならどんなに幸福か。しかし、残酷なことに彼女はそれを願っていない。

 

 ならば生きよう。再び会うであろう御阿礼の子に、成長した自分を見せてやらねばならない。

 それこそ、阿七の罪悪感が吹き飛んでしまうほどに。

 

 強くなる。今度こそあの人を安心させられる自分になるために。

 

 ああ、これはそのためには不要なものであり、無駄でしかないことぐらいわかっている。

 すでに膝の上の肉体に魂はなく、目を開くことも永劫に訪れない。

 

 だけど今だけは。今だけは彼女の死に涙を流す弱さを認めて欲しい。

 声を殺して、涙を拭って、身体の震えも押さえ込んで、信綱は静かに泣き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん、来たか。どうだった、人生は?」

「素晴らしいものでした。これまで家族とは縁がありませんでしたが、ようやく家族ができたんです」

「そいつは良かった。ささ、乗った乗った。閻魔様のところに案内するよ」

「はい。行きましょうか」

「そんじゃ出発! っとその前に」

「? 何かありましたか?」

「仕事の決まり文句みたいなもんさ。言わなきゃ仕事をした気がしない。

 ――お前さん、幸せだったかい?」

「――ええ、もちろん」




 これにて阿七の時間は終了となり、信綱は独りになりました。これより十数年、人里で生きていく時間になります。
 まあ幕間の時間に近いので、ザックリ飛ばすときは飛ばすかもしれません。そんな大きなイベントは年中ありません。ある時は集中してありますが。

 ちなみに火継という苗字ですが、これは古事記の元になった帝紀の本名称。帝皇日継(ていおうのひつぎ)を元にしています。勢い半分でつけた苗字ですが、御阿礼の火を絶やさないようにするという意味では割と合っていたり。

 今回はギリギリ一週間で投稿できましたが、リアルの修羅場状態は変わっておりません。なので遅くなりそうでしたら活動報告に乗せますので、そのつもりでお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場人物紹介

現段階でのメインキャラクターを紹介。今後登場が増えるキャラなどはまた今度。
かなり大雑把な作者の所感的なものなので、見なくても特に問題はありません。


 火継信綱

 

 本作の主人公であり、基本的に彼の目線で物語は推移していく。御阿礼の子に狂った一族、阿礼狂いの人間。

 価値基準、判断基準の全てが御阿礼の子を至上としており、彼女らの願いを叶えることこそ至高と心から信じている。それは終生変わることはない。

 そんな正真正銘の狂人だが、同時に物事をよく見ている。御阿礼の子が望む生き方をするためには人里の協力が不可欠で、彼らと無闇に敵対するのは得策ではないと判断する程度には。

 そのため御阿礼の子と天秤にかけるような場面が来ない限り、冷静で生真面目だが、決して情も解さないわけではない好青年を演じ続けるだろう。

 自分が狂っている自覚を持っており、それを隠す術も、表に出すべきタイミングも心得ているという、ある意味最も厄介な狂人タイプ。

 

 

 

 

 

 稗田阿七

 

 ヒロイン一人目。本作ではヒロインが三人います。残り? 察してください。

 三代を見守る信綱にとって、唯一の年上の御阿礼の子。そして最初に仕えた主であり、最愛の姉。彼女の言葉は信綱の中に残り続ける。良くも悪くも。

 小さな信綱を知っているため、お姉さんのように振る舞う。彼女がそう振る舞わなければ、信綱は今とは違った形の阿礼狂いになっていたかもしれない。

 これまでの御阿礼の子の記憶も持っており、当然阿礼狂いのことも知っていた。その上で信綱に生きることを命令。うなずいたのを見て、穏やかにその一生を終えた。

 信綱にとって始まりの御阿礼。彼女の存在は決して色褪せることなく、心に残り続けるだろう。

 

 

 

 

 

 火継信義

 

 主人公である信綱の実父。信綱が阿七の側仕えになる前までは彼が側仕えを務めていた。つまりあの家では信綱の次に強い存在ということになる。

 ――が、それでも信綱には勝てなかった。信綱が六歳の頃に敗北を喫して以来、一度も勝てることなく今に至る。

 火継の家基準で見て一般的な阿礼狂いであり、幼少の信綱に阿七の姿を見せて阿礼狂いの火を付けさせ、暴走したところを刈り取ろうとした。常人なら非難されるべき事柄だが、火継の家ではまあよくあることである。

 ただ、その息子が火継の歴史で随一の資質を持っていることだけが想定外だった。鷹がライオンを産んだぐらいには。

 息子を肉親だと思ったことはなく、信綱もまた彼を家族だと思ったことはない。しかし、息子が阿七を支えきったことには阿礼狂いとして尊敬する気持ちを持っている。

 

 

 

 

 

 上白沢慧音

 

 原作キャラその一。人里の守護者。寺子屋の(授業がつまらない)先生。

 かなり長い期間を生きて子供たちに教育を施しており、人里の人間はだいたい彼女に頭が上がらない。

 非常に人間的に出来た人物で、一度教えた子供たちの顔と名前は忘れない上、大人になっても親身になって接してくれる。彼女に惚れたものは少なくないとかどうとか。但し授業は面白くない。

 歴代の火継、御阿礼の子双方を知っており、信綱と阿七の在り方に最も喜んでいた人の一人。今の平和な幻想郷でどうか穏やかに生きて欲しいと願っている。

 

 

 

 

 

 勘助

 

 信綱の友人その一。農家の生まれだが、将来的に商家に婿入りする可能性大。

 冷静で生真面目な信綱とは対照的に大らかで明るい性格。そのためか人に好かれるタイプ。商売人としては優秀かも?

 信綱がどのような人格なのか、ある程度理解した上で友達でいることを選んだ。信綱も有事でない限りそれに応えようとするため、一部とはいえ阿礼狂いの人間を絆した稀有な人間。普通はそうなる前に離れる。

 伽耶とは寺子屋以前からの幼馴染であり、大切な人。なお伽耶が内心に秘めている野望にはまだ気づいていない模様。

 

 

 

 

 

 伽耶

 

 信綱の友人その二。そこそこ大きな商家の生まれ。

 どちらかと言えば内向的な性格で、小さな頃から勘助に引っ張ってもらっていた。いたが――今は勘助を絡め取ろうと機会を伺っている人。内向的だが肉食的でないとは限らない。適切な時期が来たら自分から告白するつもり。

 信綱のことも知っていて友人として付き合っている。但し彼女の場合は信綱の一面をまだよくわかっていないという面もある。が、有事にならなければ知らなくても良いことであるため、知る必要はあまりない。

 内向的で控えめ、相手を立てることを忘れないけど、ちゃんと手綱は握っている。そんな女性、良いと思いませんか?

 

 

 

 

 

 椿

 

 信綱の(出来れば殺してしまいたい)腐れ縁妖怪。

 陽気で中性的。気さくで誰とでも(妖怪)仲良くなる性格。人間に対しては彼女なりの愛(拉致監禁)を見せようとする。見下しているわけではないが、対等とも思っていない。

 そんな彼女だが、小さな頃の信綱に手痛い目に遭わされて以来、彼に首ったけ。こんなんでも烏天狗。

 彼に強くなって欲しいのも、出来ればさらってしまいたいのも、どちらも彼女の本心。目的はどこにあるのか。

 

 

 

 

 

 犬走椛

 

 原作キャラその二。信綱にとってまあ友人と言っても良い妖怪。信綱は人間なので、妖怪に対しては基本厳しめ。

 礼儀正しく人懐っこい。人間と妖怪という点で一線は引いているが、その範疇でなら普通に友好的。信綱に趣味の大将棋を教えるなど、遊びに付きあわせることも。

 千里先まで見通す程度の能力を持っており、その気になれば人里にいる信綱の様子を逐一観察することも可能。なおやったら即バレる。

 椿に付き合う形で信綱と知り合ったが、久方ぶりの人間との付き合いなのでそう悪くは思ってない。

 最近の不安は信綱の成長速度が凄まじすぎて、自分って妖怪として問題があるのではないかと思っていること。大丈夫、こいつが異常なだけ。




 紹介が少ない人がいる? 今後の展開バレになりかねないから黙っている部分が多くなる人もいます。
 こんな感じにその章ごとに雑把な人物紹介を入れていくかもしれません。入れないかもしれません。年代も動くため、知り合う妖怪も増えていく。

 ちなみに人里側はそんなに変わりません。下手に一人出すと雪だるま式にガンガン増える羽目になりますので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

揺籃の時代 ‐あるいは、嵐の前の静けさ‐
阿七のいない世界


ヤバいヤバい詐欺だと思われそうになってきた今日このごろ。テスト前に部屋の掃除が捗る現象だと思ってください(白目)


 朝、信綱は自室で机に向かっていた。

 書き物をしているというわけではなく、手に持った布で何かを磨いている。

 丁寧に、丁寧に。細心の注意を払う彼の手に収められているのは、阿七より贈られた硝子細工。

 

 もらったその日より朝夕必ず磨いて飾っていた。今は――遠くへ行ってしまった彼女を偲ぶ意味も込めている。

 

「……よし」

 

 チリ一つ残さず磨かれたそれに満足し、机の上に飾って立ち上がる。

 今日は総会だ。阿七がいなくなってからも、火継の家での行事はなくならない。

 阿七の次、阿弥に仕えるために。いなくなった人を忘れるわけではないけれど、時間は前にしか進まない。

 阿七と最も長い時間を共にした信綱もまた、最愛の主の言葉通りに前へと進むべく一層の鍛錬に力を入れる日々だった。

 

 道場へ入る戸を開くと、すでに中で鍛錬に励んでいた者たちが一斉に振り返り、そして誰もが顔を強張らせる。

 

 齢十六。六の頃より火継最強の証明である阿七の側仕えを務め上げ、今なお彼の最強は微塵も揺らいでいなかった。

 四方八方から数で攻めれば力の方向を変えての同士討ち。不意をついたと思っても、すでに読まれている。飛び道具を使えば、残らず空中で掴み取られて返される。

 無論、正面から挑むなど愚の骨頂。六歳の頃、父を打ち倒した時以上に磨き抜かれた技量で触れることすら許されない。

 

 火継の人間はその殆どが常人を遥かに凌ぐ能力を持つ。そんな一族においてなお、信綱という青年の才能は異質な部類だった。

 

 信綱は皆の視線を受けても揺らぐことなく道場の中央へ足を進める。

 

「愚息よ」

「……父上、この場では皆対等。あなたも例外ではありません」

「阿七様の支えになれたと、思っているか」

「――」

 

 足が止まる。父の投げかけた言葉に信綱は明確な動揺を見せた。

 彼の言葉に対して信綱は返す言葉を持たない。人間、過去を振り返って自分の行動が完璧だったと思うことなど滅多になく、ましてやそれが愛する主のことであればなおさらだ。

 つまるところ、これは信義の策だ。答えの出ない、出してはいけないが無視もできない。そんな問いかけをして信綱が動揺したところを――突く。

 

「ケエェェェェェェェ!!」

 

 裂帛の気合と共に放たれる流星にも見紛う突き。木刀とはいえ、直撃すれば死は免れない。

 対し信綱は動かない。茫洋とした、どこか遠くを見る目をしており、自身に迫る木刀をまるで捉えていなかった。

 

 斯くして策は成る。信義はもはや信綱には対応のしようがないほど近づいた木刀に確かな手応えを感じ、これより後に待ち受ける御阿礼の子の隣に立てる自身を夢想して――

 

 

 

「……つまらないことを聞きますね、父上」

 

 

 

 そんな夢想を、息子は容易く打ち砕いた。

 現実に帰った信義の目に飛び込んできたのは、手を完全に伸ばしきった先にあるはずの木刀が消え失せ、信綱の手に移っていた光景だった。

 

「な……馬鹿な!! 見えていたはずがない! いや、どうやって防いだ!!」

 

 防げるはずがない。直撃は不可避で、例え受けたとしてもその部分が弾け飛ぶ。それだけの破壊力を秘めていた。

 だというのに、なぜ目の前の男は無傷で佇んでいる。なぜ自分が持っていた木刀は愚息の手に渡っているのだ。

 

 信義の悲痛とも言える追及に、信綱は不思議そうに眉をひそめる。

 

「どうやっても何も……。普通に対応できるでしょう?」

「な……」

 

 むしろなぜできないんだ、と言わんばかりの顔だった。

 自身の渾身の突きを相手が動揺した状況に叩き込んだ。なのに――顔色一つ変えられない。

 

 隔絶している。

 信義は前々からわかっていながら目を背けていたことを、改めて理解してしまう。

 自分の息子は、すでにこの家の人間全てを集めたとしてもなお届かない高みにいるのだ。

 

「それと質問の答えですが……、疵瑕はあります。ああしておけばと思ったこともあります。ですが――私はあの人の隣に立ち続けた。それだけが確かで、それだけわかっていれば十分だ」

 

 信綱は父から奪った木刀をぞんざいに放る。

 それを受け取るものの、信義の顔は苦み走ったものだった。渾身の一撃が苦もなく防がれたのだ、ある意味当然と言えよう。

 

 が、心が折れている様子はなかった。また隙を見せたら容赦なく襲ってくるのだろう。

 次元が違う相手であろうと、自分の目的がその先にあるのなら躊躇わない。御阿礼の子を護る戦いで、自分より格下の相手ばかりと戦えるわけではないのだから。

 

「さて、始めるか。あの方の隣に立ちたければ、俺を超えてみせろ」

 

 そして――彼らの頂点に君臨する者として、信綱は彼らを叩きのめすのだ。

 怒号と気合。武器を片手に近づくものもいれば、懐から吹き矢を取り出すものもいる。

 どれも一廉の使い手であり、人里の妖怪退治屋としてなら十二分だろう。

 

 ――結果は決まっていた。

 

 

 

 傷一つ負うことなく総会を終えると、信綱はその足で稗田邸に向かう。

 主のいなくなった屋敷はガランと静まり返っていた。普段は聞こえる女中の足音も、料理番の包丁の音も聞こえない。

 微かな物悲しさを覚える。栄枯盛衰、というには少々短すぎる期間だ。まだ阿七の葬儀が終わってから一年も経っていないというのに。

 

 今の信綱の役目は御阿礼の子が帰ってくる場所を守ることと、その日が来るまで火継の家を絶やさぬようにすること。

 さしあたって、家の掃除は欠かせなかった。時折女中だった人がやってくれることもあるが、基本は信綱がやっている。

 一人で掃除をするには少々広い邸宅を掃除して回っていると、ふと玄関の戸が開く音がした。

 

「泥棒……ではないか」

 

 ガラガラと静かに開けようとは考えていない開き方だった。無論、万一もあるので最低限の警戒は怠らず信綱は玄関に向かう。

 

「あれ、慧音先生?」

「おや、信綱か。葬儀以来だな」

 

 玄関にいたのは慧音だった。手には掃除道具があり、信綱と同じ役目で来たことがわかる。

 

「どうしてこちらに?」

「阿七がいない家の掃除をしようと思ってな。昔からの付き合いなんだ。帰ってくる場所を守るぐらいはするさ」

「……阿七様も喜ぶでしょう。私がある程度掃除をしましたので、残りをお願いします」

「ああ、任された。……お前は大丈夫そうだな」

「追ってくるなと言われましたから」

 

 ならば前を向くしかない。阿礼狂いが御阿礼の子を喪った穴は一生消えないだろうけど、それでも。

 

「次の御阿礼――阿弥様が生まれるまで待ちます。そしてもう一度仕えます。今度もまた、私が側仕えで良かったと言ってもらえるように」

「そうか。私個人としても嬉しいよ。これまでの火継は仕えている主がいなくなると、殆どが抜け殻のようになるか後を追うかのどちらかだった」

 

 慧音は軽く信綱の肩を叩く。同僚を労うように、子供の成長を喜ぶように。

 

「頑張れ。お前が願った通りの生き方ができることを私からも祈るよ」

「ありがとうございます」

「さて! 今日はお前もいるし徹底的に掃除するか! 埃臭い家に稗田は住まわせられないからな!」

 

 意気揚々と歩く慧音の背中を追いながら、この人も色々なものを見てきているのだと思う信綱だった。

 いつも公明正大なこの人の頭には、一体何が渦巻いているのだろうか。

 

 長く生きていれば良いことがあるわけではない。その分だけ悪いことを見る可能性も上がる。

 その点では阿七は短命で良かった? ――否。

 選ぶ権利があるならば選べば良い。だが、彼女らに選択肢はなかった。一つしか選べないものの価値を語るなど不可能だ。

 

「……先生は、長く生きて良かったと思いますか」

「藪から棒にどうした。……まあ、この身体を嘆いたこともある。小さな頃から一緒だった人間が死んで、自分だけが残されるというのは辛い」

「わかります――とても」

 

 向こうが年上だったことを差し引いても、信綱がこの世に生を受けてから大半の時を過ごした人だった。喪われた悲しみは今なお――いや、阿弥が生まれてきたとしても癒えるものではない。

 

「だが、彼らが何も残さなかったわけではない。彼らの言葉は私の胸にある。彼らの子孫は私の前に、立派に成長して現れる。お前のようにな」

 

 とん、と軽く額を小突かれる。

 阿七にもよくされていた行為に、自分の額はひょっとして叩きやすいんじゃなかろうか、と思ってしまう信綱だった。

 

「辛くないと言えば嘘になるさ。けど、楽しくなかったかと聞かれたら違うと答える。……まあ、寺子屋の教師をするのと同じようなものだ。楽しくもあり、苦しくもある」

「楽しいこと……」

「お前は阿弥が来るまで待つのだろう? だったら、土産話の一つでも用意しておけば阿弥を楽しませられるぞ。今を俯いて過ごすのではなく、楽しく過ごせ。置いていかれることに関しては先達の私からの教えだ」

「……覚えておきます」

「うむ、わかってもらえたところで掃除を始めるか。お前は男なのだから、力仕事を頼むぞ」

「いや、力なら先生の方が圧倒的に上じゃ――」

「た、の、む、ぞ?」

「あ、はい」

 

 半妖である慧音に勝てるほどの膂力は持っていないのだが、断っちゃいけない空気だった。

 自分の周りには妙に女性であることを強調するような人が多い、と思いながら信綱は言われた通り力仕事に従事していくのであった。

 

 

 

 

 

「――と、いうことがあってな。あの人、俺より力が強いのだから適材適所という言葉を学んで欲しい」

「それは君が悪い。女というのはいつになっても少女でいたい気持ちがあるんですよ。男が自分のために力を発揮する、なんてうってつけだと思いません?」

「面倒な話だ」

 

 誰もいない山奥での渓流釣りの最中、信綱は千里眼で自分を見つけた椛にいつぞやの慧音のことを話していた。

 秋も深まり冬に近づきつつある今、上流から紅葉が流れて川を色鮮やかな紅に染め上げている。

 その中に釣り竿を垂らして時の流れを感じるというのは、信綱の密かな趣味になっていた。

 

 阿七の側仕えもなくなった現状、信綱は危険性の高い仕事や妖怪退治の名目で里の外に出歩く頻度が増えていた。

 この魚釣りもそれの一環である。ここである程度釣りをして、同時に兎なども狩っておくと感謝と日銭がもらえるという流れだ。

 

 実際のところを言えば妖怪が存在する幻想郷の人里において、武力が不要になる時代などいつ来るかわかったものではないため、人里から養ってもらっているという面もある。

 あるが、それにかまけて胡座をかくのはよろしくない。働かずにメシを食べるのは、誰かの負担を増やしているとも言い換えられるのだ。そのツケがどこで来るかなど誰にもわからない。

 なのでできる範囲で人里に貢献はする。御阿礼の子がいる時は雑事程度しかしない火継の人間の処世術と言えた。

 

「で、女の扱いというのを君はどう思っているんですか?」

「どうもこうもない。……ま、次からは心がける」

「……こうして話していると、阿礼狂いという所以は今ひとつわかりませんね。もっと阿七様以外に向ける好意などない! とかじゃないんですか?」

 

 酷い勘違いをされているようだ。信綱は憮然とした面持ちで釣り竿から目を離さず、口を開いた。

 

「どんな狂犬だ俺は。そんなことをして里との関係を悪くして何の得がある。阿七様も、歴代の稗田も人里に住むのだから、側仕えの俺たちが人里と関係悪化なんてしたら御阿礼の子にも悪影響が及ぶだろうが」

「……ああ、うん、なるほど。特定の人間にはどこまでも感情的になるけど、それ以外に関しては合理的で利害を重んじるのですか」

「そうでもない。確かに損得で相手を選ぶこともあるが、来るものを拒むつもりはない。普通に友人を作っている……のは俺くらいだな」

 

 他の面々は自分を倒そうと修行に躍起になっているだろう。信綱ほど妖怪の山に近づかなくても、山の中で跳ね回っている火継もいそうである。

 

「あ、じゃあ私はどうなんです? 君にとって友人ですか?」

「…………お、釣れた」

「無視しないでください!」

 

 むすっと頬をふくらませる椛。こんなのでも自分の何倍も生きているというのだから恐ろしい話である。

 実際のところ友人と呼ぶのもやぶさかではないが、言葉にするには躊躇いがあった。照れくさいと言い換えることもできる。

 

「で、今日はお前一人なのか? いつもなら椿もどこからともなく来るというのに」

「露骨に話を変えますね……。なんでも上の方で今後の進退を会議しているみたいで、その警備に駆り出されてますね。かくいう私も見回りですよ」

「サボってていいのか」

「見て回るだけなら、どこからでもできるんですよ」

「さいで。まあ妖怪の山がどうなろうと知ったこっちゃないが、人里に迷惑をかけるのはやめてくれよ」

「多分難しいです」

「……なに?」

 

 釣りをする手を止め、椛の方へ視線を向ける。相変わらずの柔和な笑顔だが、どこか疲れているように見えた。

 

「今すぐどうこうって話じゃないんですけど、私たちに限界が近いんです。もう何十年も妖怪と人間が交わっていないから、人間が妖怪の脅威を忘れつつある」

「……聞いたことはあるな」

「おや物知り。まあ、一年二年で変わりはしませんが、このままさらに二十年三十年もするとさすがに不味いって感じですね」

「なるほど。で、お前はどう思っているんだ?」

「別にどうとも。このまま滅びるんでしたらそれはそれで妖怪らしい末路だと思ってますよ。好き勝手やった鬼が騙し討ちでやられたように。妖怪と人間が正面から戦うなんて時代は終わったんだと思います」

「……そうか」

 

 この白狼天狗は意外と達観しているようだ。

 あるいはかつて狼だった頃の感性が、繁栄も滅びも自然の流れと割り切っているのか。

 

「ただ、まあ……私の考えは珍しい部類みたいで。他の天狗たちは死にたくないようですし、とにかく脅威を思い出してもらえれば良いわけですから、博麗の巫女に討伐されること覚悟で人里を襲うくらいはあり得ますよ」

「妖怪の決死隊とはなんともタチの悪い」

 

 博麗神社は人里から離れた場所にある以上、事が起こってから駆けつけるまでに惨事を引き起こすことなら可能というわけだ。人の集まる時間や場所などを狙えば数十人と死者が出てもおかしくない。

 

「……もし人里を襲う段になったらお前はどうするつもりだ。場合によってはここで後の脅威を断つ必要がある」

 

 片手を後ろに置いてある刀に向かわせる。椛との付き合いも長くなっているが、それはそれ。里への脅威は排除するのが人里の人間としての義務だ。

 距離はだいぶ離れているが、今の自分なら椛が空へ逃げる前に首を落とせる。無力化したら後は煮るなり焼くなりして殺せば良い。

 

「やりませんよ。かつてあった栄光にすがって身を滅ぼすなんて、いかにも惨めじゃないですか。もう私たちの黄金時代は終わった。ならばそれに合わせた生き方をすべきなんですよ。

 春や夏は生きられるのに、冬は生きられない獣なんて淘汰されて当然です」

「……それならいいが」

 

 実に動物的な考え方だ。信綱としては死にたくないという天狗たちの方がまだ理解できた。

 

「まあ実際どう動くかまではわかりませんけど。会議に上がるだけあって、博麗の巫女と事を構えるのが得策じゃないと考える派閥と、とにかく動かなければどうにもならないと考える派閥が分かれていますから」

「ふぅん」

 

 警戒を弱め、再び釣りに戻る。と、そこで思い出したように信綱は茂みの向こうを指差す。

 

「興味深い情報の礼だ。そこに仕留めたイノシシがあるから持って行っていいぞ」

「へぇ、イノシシですか。ありがたいですけど、良いんですか?」

「常人は素手でイノシシは狩れない。あまりに常識離れした結果も人里との隔意を招きかねないということだ」

 

 信綱的には山でばったり出くわせば、今日はぼたん鍋だなと思いながら気軽に狩れるものでしかないが、一般の人であったら死を覚悟するものなのだ。そんなものを素手で平然と狩る姿を見せては不要な恐怖を買ってしまう。

 

「シカは高所から首に一撃。イノシシだって目から脳天を破壊すればすぐだというのになあ」

「あはは、確かに妖怪は獣を狩るのに苦労はしませんよね。私も狼時代は色々と大変でしたけど、天狗になってからは楽なもんですよ」

「……今、俺を妖怪扱いしなかったか?」

「気づいたんですよ。あなたは人間じゃなくて妖怪として扱った方が、私の精神安定的に良いんだと」

「俺は人間だ」

「はいはい人間ですねー」

 

 なぜ自分が駄々をこねている子供を見るような目で見られなければならないのか。甚だ不本意な信綱だった。

 

「まああれはもらっておきます。椿さんに見せたら喜びますよ」

「一人で食え。あいつを喜ばせるためのものじゃない」

「イノシシを一人で食べ尽くせとか無茶言わないでください!?」

「妖怪なんだからできるだろう」

「人間にできることとできないことがあるように、妖怪にもできることとできないことはあるんですよ」

「さいで」

 

 良い頃合いになってきたため、釣り竿を片付け始める。そろそろ戻らねば暗くなってしまう。そうなっても一夜を明かすぐらい問題なく行えるが、人里に余計な心配をかけることになる。

 

「俺は戻る。……あれだ、気をつけてな」

「…………」

「なぜそんな顔で俺を見る」

 

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見られてしまう。普段から自分はどれだけ冷たい人間だと思われているのだろうか、とちょっと自分を振り返りそうになる信綱。

 その様子を見た椛は小さく微笑んだ。

 

「……そういう態度は椿さんに見せた方が喜びますよ。それこそ嬉し泣きするくらいに」

「お前だから見せるんだ。奴には見せん」

 

 椿の印象は今でも隙あらば自分をさらおうとする、はた迷惑な烏天狗以外の何ものでもない。

 ……まあ、武芸を教えてもらえることには感謝していなくもないが、それを伝える気は今のところ欠片もなかった。

 

「む……今のは女心を意識したからですか?」

「どの辺がだ?」

 

 椛の言葉の意味がわからず、首を傾げる。はて、今の言葉に女心を刺激するようなものがあっただろうか。

 

「なるほど、鈍感だ。天才は人の心がわからないというやつですかね。お前だから見せる、なんて言われては私もちょっと舞い上がっちゃいますよ」

「……ああ、そういうことか。安心しろ。俺が心を捧げるのはいついかなる時も御阿礼の子だけだ」

 

 鈍感と言われて信綱も理解が及ぶ。が、彼が御阿礼の子以外に心惹かれる時など来るはずがない。故に椛に友情を感じることはあっても、愛情を感じることは絶対にないと伝える。

 

「あ、うん。なんだろう、ちょっとドキッとさせられた子にフラれた形になるのに、全く悲しくない」

「そうかい。じゃ、また今度な」

「おっと、また今度。次来る時はもうちょっと天狗の情勢も調べてみますよ。君との時間はなんだかんだ楽しいですし」

 

 そう言って椛は上空へ飛び去っていく。少々長過ぎる自主休憩だったのか、だいぶ速度を出していた。

 あっという間に見えなくなる椛の背中を見送り、信綱もまた帰路につくのであった。

 

(天狗の山がきな臭い、ねえ……)

 

 今日明日にどうこうなるわけではないが、いずれ何かが起こる可能性は高い。

 人里に伝えて備える……いつ来るかもわからないものを備えさせては、疲弊してしまうのがオチであるし、武術の鍛錬などしていない男たちが武装したところで焼け石に水である。

 

 

 

 ――自分が強くなる。それが最も確実だ。

 

 

 

 天狗が襲ってくるのなら来れば良い。全て蹴散らせば良いだけの話だ。

 里に被害は出るかもしれないが、御阿礼の子が帰ってくる場所として機能していれば問題はない。

 

「……また頑張ろう」

 

 より一層修行に力を入れよう。椿程度に手こずっていてはダメなのだ。この世界は広く、強い妖怪などいくらでもいるのだから。

 

 決意を新たにし、信綱はいつか阿弥の来る場所を守るべく歩き始めるのであった。




椛との恋愛描写!(五秒で終わる)
意外と妖怪に好かれる信綱青年。なんだかんだ向けられる好意を無下にはできない辺り、割と私人としては優しい方です。有事になったら? 間が悪かったねで切り捨てます。

そしてじわじわ不穏な空気が漂い始める幻想郷。人間は嵐に怯えるしかないのか、はたまた嵐がなんぼのもんじゃと奮い立つのか。どうなるのかは誰にもわかりません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

信綱と博麗の巫女

ヤバイヤバイ詐欺? せやな(開き直った)


「やっほ」

 

 ある日のこと。信綱が鍛錬のために山に入ると、すぐに椿が目の前に降り立ってきた。

 普段は椛が見つけてから来るというのに、今回はやたらと早い。

 どこかで目星を付けられていたのかと考えながら、信綱は口を開く。

 

「……何の用だ。来てくれなんて頼んだ覚えはない」

「いや、私としてもそろそろ動くべきかなーって思ってね。今代の稗田も死んだんでしょう?」

「…………」

 

 無言で刀の柄に手を添える。椿の言っていることは全くもって事実だが、信綱にとって阿七の死は誰にも侵されてはならないものとなっている。

 それを土足で踏み入ろうとしている彼女に、かける情けも言葉も存在しなかった。

 

「おっと、失言。妖怪なんてやってると死生観が適当になっていけない。人間にとっては死ぬって重いことなんだよね」

「……妖怪にとっては重くないのか」

「重いやつもいるよ。でも私にとっては別。死ぬより怖いことがある。キミもそうでしょ?」

「……次からは気をつけろ。もう一度警告してやるほど俺は優しくない」

「一回許してくれるだけでも相当優しいと思うけどね。っとと、今日はこんな話をするためじゃなかった」

 

 椿は改めて信綱に向き直り、信綱にもかろうじて見える速度で近づいて顎に手を添える。

 身長差も逆転しているので椿が信綱を見上げる格好になるが、気圧されているのははたしてどちらか。

 

「――私のところに来ない? 天狗の里に案内してあげる」

「……どういう、意味だ」

 

 距離を取ろうと後ろに下がるが、その都度椿は信綱に近づく。

 すぐに木にぶつかってしまい、椿の手が木に当てられて逃げられなくなってしまう。

 

「言葉通りだよ。天狗が人間をさらうの。ああ、安心して。ちゃんと三食面倒見るし、他の天狗に手も出させない」

「断ると言っているだろう。俺の答えは変わらない」

「私が正式にあなたを弟子にすると言っても?」

「それでもだ」

 

 おおよそ椿の言いたいことは把握できた。要するに次代の御阿礼の子が生まれるまで、天狗の里で鍛錬に集中しろということだ。

 だがそれを言い出す椿の真意は相変わらず読めない上、彼女の提案には致命的な欠点があった。

 

「仮にそれで鍛えて人里に戻って――俺の居場所が在るわけないだろう。ぽっと出の男に阿弥様の側仕えなど任せられるはずがない」

「む……そこはほら、妖術とかも教えるから、適当に認識をいじってさ」

「そのぐらいでごまかされるような連中じゃない。阿礼狂いを舐めるな」

 

 一時は騙されるかもしれないが、すぐに気づかれる。彼らの御阿礼の子への執着は、自分の身をもってよく理解している。

 絶対に譲らないという強い意志を見せる信綱の瞳に、椿は魅入られたように顔を近づける。それこそ、唇と唇が触れ合いそうなほど近くに。

 

「この距離なら外さない。お前の言葉を実行に移すつもりなら、俺も抵抗する」

 

 信綱の手は刀に添えられており、いつでも抜刀が可能だった。唇と唇が触れ合う至近距離。相手が烏天狗であろうと当てる自信があった。

 

「……そっか、残念」

 

 首を縦に振ることはないと確信したのか、椿はあっさりと信綱から離れる。

 

 これがあるから彼女の心はよくわからない。何を犠牲にしても構わないとばかりに信綱に執着するが、信綱が拒むと惜しむ様子も見せずに身を引く。

 彼女との付き合いも相当に長くなってきている。しかし、信綱には今でも彼女がどのような妖怪なのか判断がつけられなかった。

 

「あーあ、私のところに来たら本気で術とか教えて、人外への道を歩ませてあげようと思ったのになあ」

「よく言う。それに乗っていたら殺していただろう」

「まあね」

 

 信綱の指摘に椿は悪びれる様子もなくあっさり頷く。

 

「人間は人間であること、それ自体に価値があると思っているから。人外の術に手を伸ばすキミは見たくない。いかにも惨めでしょう? 自分の力の限界を認めるなんて」

 

 だからそうなる前に私が摘み取ってあげる。そう語る椿の目は爛々と輝いており、信綱に人間と妖怪の違いを再確認させるには十分だった。

 が、表には出さない。誠に遺憾ながら、彼女とも長い付き合いになってしまったのだ。この程度で目くじらを立てていてはやっていられない。

 信綱は肩をすくめて口を開く。

 

「……さあな。それが手っ取り早く強くなって、阿弥様を守ることに繋がるなら考える」

「でもキミはやらないと思うよ。キミは多分、人間のままが一番強い」

「そうなのか」

「うん。妖怪って限界あるし。前に話した大天狗より強い烏天狗の話もあるけど、あいつも天魔様に勝てるほどじゃない。椛だってキミと一緒に鍛錬してるけど、白狼天狗以上にはなってないでしょう?」

「確かに、それはそうだ」

 

 ただ単に信綱の成長速度がおかしいだけだが、それを突っ込む役である椛はこの場にいなかった。

 が、その異常とも言える成長速度こそ人間の特権かもしれない。

 

「妖怪って種族には限界があるんだよ。天魔様は天狗の中では最も強いけど、鬼の首魁には多分勝てない。

 ――でも、人間に限界はない。策を練って道具を用意するだけで、鬼の群れだって打倒しちゃうんだ。妖怪よりよっぽど優れていると思うよ」

「それはそいつらが特殊なだけだと思うが……」

「キミも負けたもんじゃないさ。いつか鬼だってぶっ飛ばせるくらい、強くなるかもしれない。多分、その光景を私は見れないけど」

「? おい、それはどういう――」

「さ、今日の稽古を始めようか。全力で打ち込むから頑張って強くなってね」

 

 疑問を聞き返す前に椿は信綱から距離を取ると、刀を抜き風をまとい突進してくる。

 業風、旋風、乱風。彼女の周りに渦巻く縦横無尽の風の刃が土を巻き上げ、葉を散らし、木々に風の爪をこすりつける。

 直撃すれば挽肉になる。いや、肉も残さぬ血煙になって大地の養分になる未来が待っている。骨も丁寧に砕かれてさぞ吸収の良い肥料になることだろう。

 

「初手から全力か」

 

 応戦するために信綱も抜刀し、風の鎧を身にまとう椿に正面から太刀を浴びせる。

 彼女の風に対して信綱が持つ対抗策は刀で斬る以外にないのだ。遠距離からの攻撃手段など持ち合わせていない。

 汎用性がないとも言えるだろう。頑強で再生もできる妖怪と違い、人間は一撃受ければほぼ致命傷なのだ。

 

 

 

 しかし――それだけあれば十分であると言い換えることもできる。

 

 

 

「ウソッ!?」

「そら、その手品は見飽きたぞ。次はどんな種でくる!」

 

 風の鎧を斬り裂き、その中にいた椿に刃を走らせる。

 それ自体は椿の構えた剣によって防がれるも、距離を詰め続けて新たな飛翔の隙を与えない。

 下手に距離を取ると、速度で翻弄されて面倒な相手になるのだ。ならば超至近距離から戦った方がいくらかマシと言える。

 

 鋼と鋼。二つが弾かれ合う硬質な音が、葉擦れや虫の奏でる自然の音楽の中に不協和音として流れ込む。

 甲高く、鋭い。そして何より絶え間ない。一つの音が終わる前に更に三つの音が連続し、それらが消える前には十の音が響き渡る。

 

 信綱は天狗の速度に追従できる剣技を振るい、椿はそれに対して烏天狗としての速度と風を操り対抗していく。

 目に追えない速度での戦闘は必然、流れも通常より早く動き――

 

「わっ!?」

「――取った」

 

 椿の刀が甲高い音を立てて空を舞うまで続けられた。

 弾かれた衝撃で尻もちをつく椿を見下ろし、油断なく刀を突きつける。

 

「いたた……これで私の三敗目かあ……」

「ようやく、というべきだがな。十年以上お前と戦って、ようやく背中に手が届いた」

「普通の人間なら五十年費やして、やっと影を踏めるってくらいだけどね烏天狗って! でも昔には鬼の群れですら四人で殺した人間がいるらしいし、これぐらいおかしくないのかなあ」

「さあな。これでようやく、妖怪連中相手なら中堅どころといったところか……」

 

 まだまだ先の長い話である。椿に勝てるようになっても、慢心する余裕すら生まれない。

 

「……まあ、キミがそう思うならそれでいいかな、うん。で、今の具体的な課題はどうするつもり?」

「……変わらん。今はまだ十回やって一回の勝ちがある程度だ。まずは百回やって百回勝つまで強くなる」

「ううん、清々しいまでの実戦主義。でも嫌いじゃないよ、そのバクチにしか見えない稽古法は!」

 

 少しでもしくじったら死にかねない修行法だが、今のところ死なずに強くなれている。つまり何の問題もない。

 信綱はそう自己完結して再び刃を構える。

 

「次だ。今日は徹底的にやるぞ」

「……やさしくしてね?」

 

 口元に手を当てて、うっすらと涙に潤んだ瞳で見上げられる。先ほどの戦闘で破けた服とそこからのぞく素肌がなんとも扇情的だ。

 こんな性格でも烏天狗。容姿は並の人間とは比べ物にならない。そんな存在にこのような姿をとられて――

 

「気色悪い」

「ちょっと自信なくすんですけど!?」

 

 信綱は全く動揺しなかった。火継の人間にそんなことを仕掛けること自体が不毛と言わざるをえない。

 

「俺の何を見てきたというんだお前は。まず御阿礼の子に生まれ変わって出直してこい」

「それやったら無条件で尽くすんでしょう?」

「うむ」

「じゃあやらない。御阿礼の子以外の存在がキミの心を奪うのって、面白そうでしょう?」

「そんな未来は来ないから安心しろ」

 

 何が楽しくて自分につきまとうのか。さっきの話でその一端は見えてきたが、未だに彼女の心はわからない。

 

「――そろそろ再開するぞ。いい加減、お前ぐらいは超えてみせねば」

「まだまだ簡単には負けないけどね!」

 

 再び響き渡る鋼の音。そしてそれは、日が暮れるまで止まることなく鳴り続けるのであった。

 

 

 

 

 

「……やあああああああぁぁっ!!」

 

 腰だめに棒を構え、踏み込みとともに突き出す。

 基本中の基本とも言える動作であり、それ故に少し習熟さえすれば誰にでも扱える利点がある。

 腰に固定しておけば狙いがブレることもない。後は数を揃えて多方向から放てば、達人であっても対処に苦心する槍囲いが完成する。いつの時代も数が力にならないことはないという良い手本だ。

 

 が、それは言い換えれば一人では劇的な効果が見込めないということでもあり――

 

「ほら」

「うわぁっ!?」

 

 相手が達人の域にあるならば、苦もなく対処できるということでしかなかった。

 軽々と避けられ、足を払われて思いっきり顔から地面に落ちる――一歩手前で襟首を掴まれて助けられる。

 

「今の踏み込みは良かったぞ。後は練習あるのみだ」

「お、おう……お前に言われても実感湧かないけどな」

 

 信綱は自分の稽古に付き合ってくれと言われ、勘助の練習に付き合っていた。

 妖怪の被害がない現在であっても――だからこそと言うべきか、人里での騒ぎが少々目立っている。

 大抵は酔っ払った男たちの喧嘩沙汰などで済むのだが、それでも大の大人同士がぶつかり合う場所に無手で行くのは危険である。

 そのため、勘助のように一時的な所属であっても何かしらの武芸を覚えて損はなかった。

 そして勘助には、年がら年中剣を振ってばかりいることが許された一族の人間と交友関係があったので、これ幸いと師匠役を頼んでいるという経緯だった。

 

「最初に比べれば雲泥の差だ。今日はこのぐらいにしようか」

「はーい、先生っと。しっかしお前、本当に強いのな。初めて実感したぜ」

「まあ、小さな頃からの稽古は伊達じゃないということだ。俺の家は強くなることが仕事でもある」

 

 必要とされているかは未だにわからないが、それでも有事になった時に何もできないでは話にならない。

 

「そっか。っと、そろそろ帰ろうぜ。伽耶が心配する」

「……伽耶が?」

 

 勘助と信綱の練習は時折、顔を合わせた時ぐらいにしか行われない。勘助は人里から出ないのだが、信綱は結構頻繁に里の外に出ているため、行動範囲が広いのだ。

 で、その突発的に行われる練習であるため、誰かに伝えている余裕などないはず。

 

「ああ。なんか最近、よく家に来るんだよな。んで父ちゃんと母ちゃんと話してる」

「……どんな話を?」

「これからもよろしくーとかそんな感じのやつだよ。そんなもん当たり前だよな?」

「そ、そうか……」

 

 外堀が埋められているぞお前、と指摘する勇気はなかった。伽耶の恋路を邪魔する理由もなく、勘助の歩んでいる人生の墓場への道をそらす理由もない。

 総じて言ってしまえば、好きにしてくれ二人とも、という心境である。

 ……が、それで終わってしまうのも友達甲斐のない話だ。なので信綱は自分にできる範囲で手を貸すことにした。

 

「……そういえば近いうちに博麗神社で祭がなかったか? 毎年やってる例祭」

「ああ、あれか。よく覚えてんな。お前んところは毎回奉納金だけだったのに」

「ちょっとした私事だ。とはいえ、それさえ終われば自由に動けるし、見物に行かないか? 伽耶と三人で」

「お、本当か!? ……って言いたいところだけど、ちっと難しいわ。悪いな」

 

 珍しい。今でも仲の良い三人で一緒に行動するのが一番楽しいと言うような男だというのに。

 信綱の見立ては間違っておらず、断る勘助の顔は本当に申し訳なさそうで、提案したこちらが謝りたくなるものだった。魂胆が伽耶の背中を押すことだからこそ余計に罪悪感が刺激される。

 

「何かあるのか?」

「伽耶が店を出すんだと。親父さんの真似ってか、手伝いみたいな感じか? あいつ、頭が良いから頼まれたんだ。だけど商品の仕入やら何やらはやっぱ男作業だろ? 俺にも手伝ってくれーって」

「…………」

 

 外堀はすでに埋まっていて本丸に手がかかっている状態だった。

 そして順調に婿入りした後の手はずまで整えられている。大方、今回の仕事で商売の感覚と、他の商売人への顔合わせも同時にしてしまおうという筋書きだろう。

 もっと控えめな少女だと思っていた伽耶の行動力に信綱は内心で舌を巻くしかなかった。女って凄い。

 

「だから悪いな。一緒に見回ることはできないけど、店は出すからそっちに顔出してくれ」

「わかった。必ず顔を出すようにしよう」

 

 お前の人生墓場までバッチリ整備されているぞ、と言ってやるべきかと一瞬だけ悩んだが、伝えようと伝えまいと結果は変わらないだろうと思い直すことにした。

 

「頑張ってくれ勘助。上手くいくよう願っている」

 

 色々な意味で。

 

「おう、また後でな!」

 

 手を振りながら去っていく勘助の背中を見送り、内心で合掌するのであった。

 

 

 

 それから例祭の日。信綱は火継の家の当主として奉納金を持って、博麗神社への道を歩いていた。

 最近は妖怪の被害も少なく、博麗神社への道も比較的安全となっているのだが、今でも道の整備はされていない。

 当の博麗の巫女も気にしている様子はないので、放置されてしまっているのだ。

 

 妖怪と人間の共存する幻想郷において、両者の天秤が片方に振れ過ぎないよう調整する存在が博麗の巫女だ。

 実態としては人間が苦境に立たされる場面の方が多いので、人間の守護者に近いとも見ることができるが、慧音のように明確に味方してくれるわけではない。

 

 おまけに妖怪と正面から戦える実力者が博麗の巫女である。

 明確に人間の味方をするわけでもない。でも隔絶して強い。

 だったら距離を置こうとなるのも、当然の帰結と言えた。

 

 感謝は受けれど、労いはされず。畏敬は集めるが、人間扱いはされない。それが博麗の巫女。

 自分たちと似通っている部分が多い存在だと思うが故に、信綱は彼女に興味があった。

 

「どんな心持ちでやっているんだろうな、博麗の巫女は」

 

 生まれた時より阿礼狂いであり、御阿礼の子以外全てがどうでも良い自分たちとは違うのか。対象が幻想郷に変わっただけの気狂いなのか。

 それとも彼女自身の意志で選んだことなのか。類まれなる使命感を持って責務をこなしているのか。

 

「……会ってみなければわからないか」

 

 境内への長い階段の前には、すでに集まっている人里の住人たちが思い思いに出店を用意していた。数を揃えている途中の砂糖菓子の甘い香りが鼻をくすぐる。

 

(阿七様の体調がよろしければ、一度くらいは見に来ていたかもしれないな。……あの方は本当に悔いなく生き抜いたのだろうか)

 

 準備をしている人たちの活き活きとした姿を見ていると、こういった光景が好きだった阿七のことが思い起こされた。

 一切の悔いなく生きられる人などいないというのに、それでもこのような思いに囚われてしまう。

 信綱は首をゆるゆると振り、その思考を振り払う。今は自分の役目を果たすことを考えよう。

 

 階段を登り切ると、そちらでは神楽舞用の舞台が準備されていた。人里からの有志を募って行われる雅楽の用意も着々と進んでおり、本当に人里総出で行われる祭りなのだと実感する。

 

 よくこんな大規模な祭りを毎年奉納金だけで済ませてきたものだ、と信綱は自分の家のことながら驚愕する。

 ここまで協調性がなければ皆から遠ざけられるのも当然だった。これで何の力もなかったら村八分待ったなしだろう。

 

 信綱は着々と祭の準備が進んでいる境内を抜けると、拝殿の方へ足を向ける。

 これだけの規模の祭だ。博麗の巫女も雑務や出店の配置などで相談を受けている可能性が高い。

 

「あら、え……っと、どちらさまですか?」

 

 案の定、拝殿の奥で目当ての人物は忙しなく動いていた。

 見た目から読み取れる年齢は自分とそう変わらない。肩口が切り取られ、袖だけ別に付けている珍妙な巫女服をまとっている。

 変な格好だな、と思いながらも表情に出さないように信綱は口を開いた。

 

「火継の人間を代表してきた。こちら、奉納金になります」

「ああ、いつもありがとうございます」

 

 まずはここに来た本命でもある奉納金を渡してしまう。

 博麗の巫女が受け取ったのを確認してから、信綱は祭の喧騒に耳を澄ませながら私人として語りかける。

 

「凄まじい熱気だな。毎年奉納金は収めているが、こんなに規模の大きい祭だとは知らなかった」

「今年は特に大きいわよ。妖怪の被害も少ないから、神社に来る人も増えてるし」

「……博麗の巫女は大丈夫なのか? 人里でも妖怪退治屋が廃業しているところがある」

「大丈夫よ。誰が博麗大結界を維持していると思ってんの」

 

 それもそうかと納得する。彼女は人間のみならず、妖怪にとっても是が非でも生きてもらわねばならない人材なのだ。

 

「…………」

「……どうかしたの? 奉納金はちゃんと受け取ったけど、まだ何かあるの?」

「いや……どうして博麗の巫女になったのか、と思って」

 

 巫女の顔が呆気に取られたものになる。そんなに変なことを言ったかと言動を振り返るが、特におかしなことは言ってないはず。

 

「そんなこと聞いてどうするつもり?」

「どうもしない。ただの興味だ。俺の家みたいなものなのか、それとも自分で選んで巫女になったのか」

「……誰かにさせられた、って言ったら?」

「こんな貧乏くじ、誰かに強制されてやるんなら長続きはしないだろう」

 

 信綱の答えに博麗の巫女は笑いが堪え切れない様子で、口元に手を当てて笑う。

 くつくつと小さく、しかし心の底からおかしいと言った笑い方だった。

 

「ふふふ……まさか人里の人がそんな風に言うとは思わなかったわ。みんな、私が博麗の巫女であることに疑問なんて持たないもの。巫女は巫女だから巫女。過程も経緯もどうでもいい。人里を守るならなんでも、ね」

「ふむ……」

「そういうそっちこそどうなの? 俺の家みたいに、って言ってたけど」

「……自分で望んで、だな。あんたみたいに幻想郷を守るなんて大それたもんじゃないが、皆誇りを持っている」

「そう。私も似たようなものよ。はい、これで満足?」

「ああ。手間を取らせて悪かった」

 

 博麗の巫女の態度に違和感はあったが、信綱は追及することなく退く。

 自分と似た境遇であるのなら、どのような経緯で博麗の巫女を続けているのかという理由にいくらか思い当たる答えがあるからだ。

 知ってどうするというものでもないので、それなりに近い答えが得られただけで満足である。

 

「俺は友人の屋台を冷やかしに行く。そちらも神楽を頑張ってくれ」

「ありがと。それじゃ、また」

 

 博麗の巫女と会釈をしあって、その場を別れる。

 互いに自己紹介すらしていない、口だけの再会の約束。

 ただ、信綱はいくらか情報があった。今が平和でも、これから先の平和は誰にも約束されていないことを知っていた。

 

 

 

 多分、また会うことになるのだろう。確信にも似た予感がある。

 

 

 

 信綱はいつか訪れるであろうその未来が、なるべく平穏なものであってほしいと願いながら、境内への道を戻るのであった。

 

 

 

 

 

「お、本当に来たのか! へいらっしゃい!」

「あ、ノブくん。仕事の方は終わったの?」

「ああ。あとは適当に祭りを見て回るさ。で、調子はどうだ?」

「勘ちゃんのおかげで上々ってところ。ほら、元気が良くて声も大きいし」

「結構不安だったんだけどな。やってみたら意外と楽しいぜ! ノブも一個どうだ?」

「もらおうか。二人はこの後どうするんだ?」

「売って売って売りまくる! 目指せ完売! ってところかな。伽耶も色々頑張ってくれたみたいだし、おれも頑張らねえと」

「ふむ……わかった。なるべく暗くなる前に切り上げろよ。なんなら一緒に――んんっ! 無理はしないようにな」

「? おう。ノブも無理すんなよ!」

「また明日、ノブくん。――ありがとうね」

「……俺は応援する。それが友人としてあるべき姿だろう」

 

 伽耶の感謝に軽く頷きながらも、できれば早く決着を付けて欲しいと思う信綱だった。この二人と話している時くらい、煩わしいことからは解放されたい。




 ※普通の人間はそもそも烏天狗に挑みません。fateで言うところの並のサーヴァントみたいなもんです。

 ついに出てきた博麗の巫女。霊夢が原作開始頃の年齢を大雑把に逆算(十代前半ぐらい)すると先代とは大体同年代ぐらいになる不思議。今後の展開的に長い付き合いになります。

 人生の墓場街道爆走中の勘助青年。幼馴染は友達であると考えて付き合いを変えない彼の特徴は美点でもあり、欠点でもあり。結婚とかまだ頭の端にも浮かんでません。それが当然でもありますが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

青年は人を探す

サブタイトルネタが尽きつつある現状。
いきなり題名が第一話とかに変わっても驚かないでください(^ρ^)


 その日、信綱は阿七の月命日の墓参りに来ていた。

 御影石によって作られた墓の中に、歴代の稗田が眠っている。

 

 ここまで大きな墓を作られるのは稀で、たいていの人間は火葬だけされて埋められるのがほとんどだ。

 中には火葬する余裕もないため、そのまま土葬するところもある。

 

 とにもかくにも、信綱は阿七の墓前に手を合わせ、彼女の冥福を祈っている時だった。

 

「あの……」

 

 墓前に合わせた手は動かさず、ちらと横目で誰が来たのか確認をする。

 見覚えのない夫婦だった。目尻のシワや体全体から発せられる雰囲気から、どちらも憔悴した様子が見て取れる。

 

「……阿七様の墓前です。少々お待ちを」

「は、はあ……」

 

 自分に用があって来たと思われる人間を待たせ、信綱は墓前に手を合わせ続ける。彼にとって今大事なのは、阿七への祈りであって彼ら夫婦ではない。

 どう声をかけたら良いのか戸惑う夫婦を尻目に、たっぷり五分ほど黙祷してから信綱は二人に向き直る。

 

「お待たせしました。ここは阿七様らの眠る場所故、場を変えて話しましょうか」

「あ、はい……。お願いします」

 

 実のところ、このように見知らぬ人に声をかけられることなど初めてだった。彼らも対応に苦慮している様子から、信綱たちが人里でどのような呼ばれ方をしているかは知っているのだろう。

 それでも話しかけざるを得ず、なおかつ信綱の協力が是が非でも欲しい。夫婦の状況はそんなところだと判断できた。

 

(頼られる……というより、すがりつかれるようなものか)

 

 博麗の巫女もこんな気分で人助けをするのだろうか、と思いを馳せながら信綱たちは墓地への入り口前で改めて言葉を交わす。

 

「……どのようなご用向きでしょうか。我々は戦うことぐらいしか能のない人間たちの集まりです」

「父を! 父を助けてください! 山に行ったきり、昨日から帰ってこなくて、それで、それで……!」

 

 向き直った信綱の胸ぐらに食って掛かるように、女性の方がまくし立ててくる。

 

「おい、待て! それじゃ話が伝わらない! お前は少し向こうに行っててくれ!」

 

 それを夫が制止し、妻の方を少し遠くの方へ向かわせる。その上で改めて信綱に視線を合わせてきた。

 

「すみません。あいつの父なもんで、気が気じゃないみたいで……」

「気にしておりません。ご家族が危険とあらば当然のことでしょう。奥方様の話を聞く限りでは、私に父親を探してきて欲しいと?」

「そうなります。ただ……」

 

 そこで男性は声を潜め、妻の方を気にしながらささやきかける。

 

「山に行って、もう一日経ってます。あいつの親父さんは釣りで山釣りに行くことがあったんで、それだと思うんですが……正直、その……」

「見込みは薄い、と」

「……そうなります」

 

 男性の言葉に、信綱は貧乏くじという言葉が脳裏に浮かぶ。これは引き受けようが引き受けまいが、どちらにしても恨まれる役目ではないだろうか。

 

「……わかりました。川の辺りを探してみましょう。但し、最悪の結果も有り得ることを奥方様に伝えておいてください」

「わかっております。ではすぐにでも――」

「それと、まだ阿七様の墓参りが終わっておりませんので、動くのは終わってからになります。理解して頂きたい」

「え? それは……」

「理解して頂きたい」

 

 物言いたげな男性の視線を正面から見据える。

 請われた以上、仕事として役目は果たす。だがそれは、自分たちが最も優先すべきことを行ってからになる。

 

「できれば今すぐってわけには……いきませんか?」

「無理です。そちらにとって父君が大切なように、私にとっては彼女が大切なので」

 

 無下にするとは言っていない。が、優先するとも言ってない。

 

「……わかり、ました。どのみち自分たちじゃあ、山には入れませんし」

「理解してもらえて何よりです。では、確かに引き受けましたので」

 

 そう言って信綱は話を切り上げ、墓地に戻っていく。墓前に報告はしたが、墓周りの掃除や花の入れ替えなどがまだなのだ。

 夫婦の視線を受けながら、信綱は特に気にすることなく墓へ戻っていくのであった。

 

 

 

 その日の昼ごろから、信綱は山に踏み入って夫妻の話していた父を探し始めていた。

 

「全く、こういう時にこそ必要だというのに。肝心な時に使えんやつだ」

 

 椛さえいればこんな場所を探さずとも一気に見つけられるのだが、今日に限って来ない。その場にいないのをいいことに言いたい放題である。

 山の川と一口に言っても広大なのだ。一人で探すには少々骨が折れる。この際椿であっても、信綱の前に姿を現したら手伝わせていたところだ。

 

 注意深く周囲に気を配りながら山の中を歩いていると、ふと何かの気配を感じ取る。

 目当ての人物、ではない。足音が軽快に過ぎる。一日帰らずにこんな元気な足取りの老人がいたらそれは妖怪だ。

 落ち葉を踏みしめ、枝をかき分け、地を蹴る軽やかな音が連続して信綱の耳に届く。

 

「……ふむ」

 

 刀の柄に手を添える。飛び出してきた瞬間を狙って――

 

「あ、あんた! 久しぶぎゅ!?」

「そら」

 

 茂みから飛び出してきた妖猫の頭に、鞘に収めたままの刀の一撃をお見舞いするのであった。

 

「……っ! ……っ! いったぁーい!!」

 

 頭を抱えてジタバタと悶絶する妖猫――橙に信綱は刀を肩に担いで呆れた顔になる。

 

「お前だとわかってやった。許せ」

「どこに許せる要素があるってのよ!!」

 

 橙が食ってかかってくるが、相手にしない。

 別の妖怪なら不意を突かれて襲われる危険もあったため、問答無用で殺すつもりだった。

 痛い目だけで済ませたのだから温情だと思って欲しい。

 

「あんな勢いで走って来られたら警戒するに決まっているだろう。というか俺以外にそれはやめろ。驚いた人がどうなるかわかったもんじゃない」

「あんた以外にやんないわよ。知り合いの人間なんていないんだし」

 

 それはそれで迷惑な話である。

 痛みも引いてきたのか、橙は信綱の方をジロジロと見回し、やがてふと自分の頭に手を乗せると、その高さを維持したまま信綱の方へ持ってきた。

 最初に会った時は顎ぐらいだったのが、今では胸のあたりになっている。

 

「ずいぶん大きくなったわね。私の舎弟の癖に生意気よ!」

「誰がいつ舎弟になった。しかし、ふむ……」

 

 顎に手を当てて考える。今は手間を減らすために猫の手も借りたい状況だ。

 橙は妖怪の山のどこかにあるマヨヒガに住んでいるのだから、山にも詳しいだろう。

 

「……お前、暇か? 暇だな、よし付き合え」

「勝手に決めんじゃないわよ!? というか何に!?」

「人探しだ。老人で、釣りに行ってたと聞くから釣り竿を持っている。昨日から戻っていない」

「知らないわよそんなの。妖怪に食べられて骨も残ってないんじゃない?」

「……だとしても遺品ぐらいは見つけねばならん」

 

 橙に言われて気づいたが、死体すら上がっていない可能性もあったのだ。すっかり失念していた。

 

「ふうん……。人間ってよくわかんないわね。もう死んでいる人間の物なんて見つけてどうするの?」

「さあな。だけど、遺品を見てその人の思い出を振り返るってのは、共感できる。……もう会えない人を思い出すには物品の力が必要ってのも情けない話だけどな」

 

 僅かな自嘲とともに息を吐く。

 そして自分の言葉を理解した様子のない橙に再び向き直る。

 

「つべこべ言わずに手伝え。そうすりゃ少しは人間のこともわかるだろうさ」

「んー……ま、いいわ。人間のお願いを聞いてあげたなんて言えば、藍さまに褒めてもらえそうだし」

 

 妖怪的にそれは良いのだろうか、と思わなくもないが、口には出さない。下手なことを言って邪魔されるのは面倒だ。

 そうして橙を味方につけた信綱は川の下流に向けて足を運んでいく。

 

「そういえば、お前水とか大丈夫なのか? 猫だろ」

「好きじゃないけど、絶対無理ってわけでもないわよ。お魚が食べたければ入るしかないし」

「それもそうか」

 

 話を切り上げる。上手く見つけたら魚の一尾ぐらいは釣ってやっても良いかもしれない。

 

「そっちこそどうなのよ? 泳げないとかないの?」

「ないな。御阿礼の子が危ない時に泳げないようでは話にならん」

「あんたは相変わらずね……」

 

 猫の耳と尻尾がある以外、童女にしか見えない橙にバカを見るような顔をされると結構腹が立つ。

 

「お前も変わらんな。妖怪というのは成長しないものなのか?」

「妖怪によるわね。私はほら、尻尾が二つあるじゃない? これが増えれば妖怪として成長した証になるのよ」

「いずれはお前の主みたいに九尾になるのか」

 

 これは初耳である。天狗などは生まれついた種族から大きく成長はしないようだが、成長する妖怪もいるらしい。目の前の橙が良い例なのだろう。

 

「そういうこと! 今のうちに媚びへつらっておけば、将来役に立つかもしれないわよ?」

「……それはいつの話だ?」

 

 視線をそらされた。どうやら信綱が生きている間に彼女の九尾姿は拝めそうにないようだ。

 

「何百年かかるかわかったもんじゃない相手に媚びを売る意味はないな。もっと早く成長しろ」

「妖怪に無茶言わないでよ……」

 

 そこでしおれるからお前は妖怪らしくないんだ、と思うがツッコミはしなかった。これはこれで彼女の美点だろう。

 幻想郷縁起に書かれるような妖怪らしい妖怪だったなら、出会った瞬間に殺し合い確定である。人間を襲うのが妖怪の道理ならば、それに抗い駆逐しようとするのが人間の道理だ。

 

「まあお前がへっぽこなのはこの際どうでもいい。俺の言っている人物さえ見つければな」

「へっぽこ言うな! これから成長するのよ!」

「あーはいはい」

 

 相も変わらずうるさい妖怪だ、と思う信綱。しかし初めて会った時のような辟易した感情は浮かばなかった。

 存外、自分は彼女との対話を楽しんでいるのかもしれない。

 子供のようだが、どこか達観している妖怪特有の価値観の持ち主。

 

 ――不思議と、相容れないとは思わなかった。

 

 信綱と橙はこれまでの近況を適当に、大雑把に、時には誇張まで交えて賑やかに話していると、橙が唐突に足を止める。

 

「…………」

「どうした」

「……ちょっと待って。あんた以外の人間の臭いがする」

「わかるのか」

「猫の嗅覚を侮らないで欲しいわね」

「お前が妖怪だと実感したのはこれが二度目だ」

「ひっどいわね本当に! あんたが強くなかったら八つ裂きよ!」

 

 ちなみに今勝負したら橙が八つ裂きになる側である。

 

「で、どの辺りだ? 俺が探す」

「んっと……臭いの方向はあっち。沈んではいないと思うし、内臓の臭いもないから食われてはいないはず」

「わかった」

 

 橙の指し示す方角に信綱は移動し、川の流れに顔をのぞかせている石に跳び移る。

 石から石に、足を滑らせることもなく簡単に移動していくその姿を、橙は人外を見る目で見ていたことに信綱は気づいていない。

 

「――いた」

 

 川岸の岩に引っかかるように、着物の裾が見えた。顔は見えないが、下半身が水にさらされていた。

 

「…………」

「あ、見つけたの?」

 

 川岸に戻ってきた信綱に橙が声をかけるが、信綱は返事をしない。

 橙と話していた時とはまるで違う、厳しい表情になっていた。

 

「……確かめないとな。おい、お前は下がってろ。死んでいる可能性が高い」

「嫌よ。どうして私が人間の死に怯えなきゃいけないわけ?」

 

 それもそうだ。思わず見た目通りの子供相手にする対応をしてしまったが、よく考えなくても彼女相手に気遣いなど不要だろう。

 信綱と橙の二人は足取りを緩めることなく、見つけた人間の方へ歩み寄る。

 

 釣り竿が付近に転がり、釣り糸が人間の足元に絡みついている。これが事故の原因だろう。

 そして野ざらしとなった上半身に目立つ傷跡はなく、その顔も眠っているように静かに伏せられていた。

 が、見ただけでわかる――この肉塊に魂は存在しない。

 

「……っ」

 

 息を呑む橙をよそに、信綱は静かに歩み寄って口元に手を当てる。念のため、確認はしなければならない。

 

「……ダメだな。もう死んでいる」

 

 溺死したと察せられるが、その割に表情に苦しみがない。

 足を滑らせ、川に落ちた拍子に意識を失い、そのまま……という流れが想像できた。

 信綱は目をつむり、この人物への冥福を祈る。そしてこの老爺を帰るべき場所に戻すべく、背中に手を回して持ち上げようとして――

 

「……おい、こっちに来い」

「え? あ、う、うん」

 

 初めて見るのだろう。人の死体に圧倒されている橙がこちらに来たのを確認してから、信綱は刀の柄に手を添えた。

 

「そこの水面、何かいる」

「っ! この人を殺した妖怪?」

「さあな。――隠れているなら、こちらも安全のために仕掛ける。姿を現すならそれで良し。現さないなら――」

「わ、待って待って待って!?」

 

 警戒する信綱と橙らの前に現れたのは緑色の服を着て、青い髪を持つ少女だった。

 が、油断するなかれ。ただの少女が長時間水の中に居られる道理などないのだから、彼女の正体は妖怪以外に在り得ない。

 

「……河童、か? 幻想郷縁起で見たものに特徴が合致する」

「そっちは人間と……化け猫? 不思議な組み合わせもあったもんだ。その人の知り合いかい?」

「この人の娘夫婦に頼まれてな。探しに来た。……お前がこの状況を作った犯人か?」

 

 川沿いで遊ぶ者たちを引きずり込むのが河童である。もしも彼女がこの死体を作ったのならば、それはある種自然の流れとも言える。

 しかし、だからといってはいそうですかと受け入れる理由などない。下手人がわかっている以上、信綱の剣は過つことなく彼女の首を落とすだろう。

 

「違う! 私だってこの爺さんはついさっき見つけたんだ! 絶対にそんなことはしない!」

 

 強い口調での否定に違和感を覚えるが、追及する必要性は感じなかった。少なくとも不意打ちは警戒しなくても良いだろう。

 

「そうか。だったら戻れ。俺はこのままこの人を里に連れて帰る」

「あ、待って!」

 

 話を終わらせて遺体を運ぼうとした時、後ろの河童から声をかけられる。

 

「なんだ」

「あの……その……」

「言いたいことは早く言え」

「人間はわかってないわねえ。河童って生き物は人見知りなのよ。もう少しどっしり構えなさい、私みたいに」

「…………」

 

 こいつは俺を苛立たせることにかけては天才的だな、と内心で橙に皮肉を言う。

 しかし椿のように殺意を持つまでは至らない辺り、まだ微笑ましい部類なのだろう。

 

「その爺さん……私の友達だったんだ」

 

 橙の言うとおり無言で先を待っていると、河童がおずおずと話し始める。

 

「名前も知らないけどさ。たまに釣りに来た人間と話して、それだけなんだけどね。でも、何年かはそうやって付き合ってたんだ……」

「そうか。だからこの人も……」

 

 お前に会うためにわざわざこんな山奥まで踏み入っていたのだろう。

 言い換えれば、彼女が原因でこの事故が起こったとも言うことができる。だが、それを言って彼女の悲しみに追い討ちをかけるのは無粋でしかないし、行う必要性も感じない。

 

「…………」

「だから、その……っ! その人間、私が弔いたいんだ。人里で弔うんじゃ私は入れない。お願いだよ、この通り!」

「……ダメだ。この人は人里の人間であって、里に帰りを待つ人がいる。お前のためにそれを無視することはできない」

 

 河童の必死さは伝わってきた。しかし、それでも信綱は人里の人間として、受けた仕事を投げ出すわけにはいかなかった。

 

「ちょっと、あんた……!」

「これは譲れない。この人の身体は里に戻って手厚く葬られるべきだ」

「……そっか、そうだよね。その爺さん、帰る家と待っている人がいるんだよね」

 

 名も知らぬ河童の落ち込んだ顔を見ていると、横から橙が咎めるような視線を向けてくる。

 人間の死などどうでも良いと言っていたくせに、その死に執着している河童に入れ込むのだ。やはり彼女は妖怪らしからぬ妖怪と言えた。

 

「…………」

 

 彼女らの視線や思いを無視して帰ることは簡単だ。

 けれど、そうやって買った隔意がどこで牙を剥いてくるかなどわからない。取るに足らない相手に足元をすくわれる話などいくらでもある。

 先見の明ではないが、狂人が里でまっとうに生きるには恨みや妬みをなるべく買わない方が良い、という処世術が信綱には染み付いていた。

 

 なのでこれはその処世術に従っただけであり、自身の感情とは無縁である。

 

 ――と信綱は自分に言い訳をしながら、老爺の手元にあった釣り竿を手に取って、足元に絡まっている釣り糸を手刀で切り離し、河童に投げ渡す。

 

「ほら」

「えっ?」

「持っていけ。釣り竿ぐらいなら川に流されて見つからなかったで話が通る」

「あ、あの……」

「……いなくなった相手を思うのに、何か物品がないと忘れてしまう。それが辛いのは、まあ、共感できなくもない」

 

 言葉選びを間違えた気がする。これは語るに落ちていると言うのではないだろうか。

 そして後ろでニヤニヤ笑っている橙が鬱陶しい。

 

「それで満足して、葬儀に関しては諦めろ。俺からの譲歩はここまでだ」

「あ……ありがとう! お前さん、良い人間だったんだね!」

「…………さっさと帰れ」

 

 人間に感謝されるよりも先に妖怪に感謝されるとは。

 人生とはわからないものだと思いながら、信綱は河童が釣り竿を大事そうに抱えて川に潜っていくのを見送って、改めて老爺の遺体を担ぐ。

 

「へー、ほー、ふーん、にしししし」

「猫みたいな顔を見せるな気色悪い」

「失礼ね! でもまあいいか。珍しいものが見れたし」

 

 橙は生暖かい笑みを浮かべたまま、信綱の周りをちょろちょろと動く。

 老爺の遺体を背負っていなければ拳が飛んでいるところだ。

 

「あんたも結構優しいところあるじゃない。見直したわ」

「……たまたま向こうにできる配慮があっただけだ。それに……もしあいつがこの人を殺した妖怪だったら、殺すつもりだった」

「別にいいでしょ? 妖怪は人間を襲って、人間は妖怪を倒す。襲わなかった河童もだけど、河童を倒さなかったあんたもおかしいのよ」

 

 そういう橙の口元には機嫌の良い笑みが浮かんでおり、先ほどのやり取りが満足の行くものであったことを示していた。

 

「……自分の行いがどこで返ってくるかなどわからない。恨みや悲しみを買わずに済むのなら、それに越したことはないというだけだ」

「ふうん、どうでも良いわ。ほら、私妖怪だし」

「脳天気なお前には縁のない話だったな」

「ホント、口の減らない人間ね」

 

 橙はそれ以上何かを言うことなく、信綱の後ろをトコトコと歩いていた。

 そして人里にほど近い領域まで山を降りてきたところで、何かを考えていた橙が口を開く。

 

「ねえ、人間。いなくなった誰かを思い出すのに、道具って必要なの?」

「あの河童を見ればわかるだろう。もう会えない人を思い続けていても、時間は流れる。

 ……時間が流れるたびに、その人を思い出すには時間がかかるようになる」

 

 阿七が亡くなって三年が経過した。それはすなわち、彼女のことを思い出すには三年分の過去を振り返る必要があるということである。

 五年経てば五年分の。十年経てば十年分と、その人を思い出すために必要な過去の量は増えていく。

 それを本人の記憶のみを頼りに思い出すのは――残念ながら、少々難しかった。

 

「一年二年なら良いさ。だが五年、十年。妖怪なら百年もあるか。それだけの時を過ごしても、死者は死んだ時に置いていかれたままだ。距離が離れていってしまう」

「…………」

「そうして離れた時間が記憶を削って……やがて忘れたという事実すら忘れ去る。そうならないために、ああいった物の力は必要なんだ」

 

 信綱が阿七より贈られた硝子細工を磨くように。あの河童も釣り竿を見て、この老爺と話した記憶を思い出すのだろう。

 

「……よくわかんないわ。でも、忘れちゃうのがとても辛いってことはわかった」

「一応、お前も妖怪だからな。忘れられることには敏感か」

 

 妖怪にとっての死は忘れ去られること。畏れがなくなり、そんな妖がいたことすら認識されなくなってしまった時が、妖怪の滅びる時だ。

 外の世界ではすでに妖怪が滅びかけていると聞くが、どうやればこんな個性的な連中を忘れられるのか。聞いてみたいものである。

 

「というわけで、はい!」

 

 橙は出し抜けに懐から何かを取り出し、信綱に押し付けてくる。

 思わず片手で受け取ってしまったそれをまじまじ見つめると、ただの色のついた石だということがわかる。

 

「……なんだこれは」

「私がこの前拾った綺麗な石。これを見れば私を思い出すってことでしょ? それを見て私がいない寂しさを紛らわしなさい」

「誰が寂しがるか。お前こそ俺がいない夜に涙で枕を濡らさないよう注意するんだな。……いや、お前は布団か?」

「良い覚悟じゃない。人間が妖怪にケンカ売ったらどうなるか教えてやるわ!」

 

 どうにもこの妖怪が相手だと売り言葉に買い言葉になってしまう。だが、それが不思議と馴染む相手でもあった。

 橙も本気で怒ってはいない。適当にぽかぽかと力の入っていない拳で叩いてくるだけだ。

 それを適度に受け止めながら、信綱は口を開く。

 

「じゃあ――お別れだな。ここから先は人の領域だ」

「そうね。人間なんて簡単に死ぬんだし、あんたもせいぜい気をつけて生きなさい」

「お前もな」

 

 それが別れの合図。橙は山に残り、信綱は人里への道に出て行く。

 自分を見送っている視線に気づいて、信綱は僅かに逡巡した後、軽く後ろ手に手を振った。

 どうにも妖怪とばかり仲良くなっている気がするな、と自分に呆れながらの行動だったが。

 

 

 

 人里に戻った信綱が最初に聞いたのは、罵倒の声だった。

 

「どうして! どうして助けられなかったのよ! それが役目でしょ!! なんで、なんで……!」

 

 老爺の遺体を夫婦の家に届けた時、その娘の錯乱ぶりは酷いものだった。

 すでに冷たい遺体にすがりつき、半狂乱で泣き喚く姿を娘の夫と痛ましい目で見る。今の彼女にかけてやる言葉は見つからなかった。

 

「……見つけた時にはもう死んでいた。妖怪に食われなかっただけでも幸いだろう」

「そうですか……。義父を見つけていただき、ありがとう――」

「ふざけないで!!」

 

 夫の言葉を遮り、女性が信綱に詰め寄る。

 髪を振り乱し半狂乱のそれに、信綱は微かに眉をひそめるも声には出さない。

 

「あんたが墓参りなんてしてたから、父さんは助からなかった! あの時はまだ生きていたのよ!」

「……そうかもしれないな」

 

 あり得ないと否定することは簡単だが、それを言って納得はしてもらえないだろう。

 それにこの手の罵倒を受ける可能性も考慮はしていた。自分を優先するとはこういうことである。行いへの非難は甘んじて受けるべきだ。直すかどうかは別として。

 

「あんな誰もいない墓参りなんかする前に、探しに行ってればこんなことには――」

「――待て」

 

 だから、自分が非難されるのは構わない。この女性の言っている可能性も絶無というわけではなかったのだ。それを阿七への墓参りを優先して逃したと言われれば、頷くしかない。

 

「その言葉は阿七様への非難と認識する。誰もいない墓などと言うな。あの場所に俺たち火継は何ものにも勝る価値を見出している」

「な、によ……! まだ生きていた父さんよりもあんな石の塊を優先するってわけ!?」

「――当たり前だろう。そちらが頼みごとをした相手はそういう者だ」

 

 普通に接する分には普通に挨拶も返す。自身の裁量が及ぶ範囲で便宜も図り、上手く調和を取り持とうとする。

 が、しかし。信綱の本質が阿礼狂いなのは間違いのないことで――有象無象の一欠片でしかない彼女の父より、阿七の方が遥かに大事だった。

 

 表情を変えることなく淡々と、無機質な目で夫妻を睥睨する。

 およそ人に対する視線ではない。まるで路傍の石や死にかけの昆虫でも見るような、そんな――人間味のない瞳。

 

「この……気狂いが!」

 

 激昂のあまり、もはや自分でも行動の制御が取れないのだろう。女は信綱に殴りかかろうと踏み込む。

 それで溜飲が下がるなら殴られるのもやむなしと信綱は考える。御阿礼の子が眠る墓をあんなもの呼ばわりした時点で殺しても良いのだが、人里の住人を殺すのは色々と問題がある。

 

「もうよせ! お前!」

 

 だが、その女の本懐は果たされることなく、横合いから文字通り飛びかかった夫の手によって防がれる。

 言葉にならない金切り声を上げて爪を立てる妻を必死に押さえながら、顔だけをこちらに向けてきた。

 

「すみません、こいつはちょっと頭に血が上っているだけなんです! だからどうか、どうか……!」

 

 信綱が彼女を殺すと思ったのか、必死な形相で謝意を伝えようとしてくる。

 

「別に何もするつもりはない。頼まれたことは果たした。……後日で構わんから、報酬は慧音様にでも預けておけ。それを取りに行く。

 ……火継の人間はこの辺りに近寄らないよう言っておく。そちらも俺たちとは関わらない生活を心がけろ。――間違ってもあの墓を壊そうなどとしたら、今度こそ堪忍袋の緒は切れると思え」

 

 旦那がこの調子なら大丈夫だとは思うが、念の為に釘を差しておく。

 墓を壊すのは人里内でも罪に当たるが、御阿礼の子の墓を破壊したとなれば、信綱も自分を抑える自信はなかった。持てる力の全てを使って報復に出るだろう。

 

 それがどのような惨事を作り出すか、想像できないほど愚かではなかった。

 

 無意識の内に殺気を放っていたのか、青ざめた顔で壊れた人形のように首を縦に振る旦那に背を向け、信綱はその場を去っていった。

 

「……妖怪に好かれ、人間に嫌われる、か」

 

 あの夫婦に酷い対応をしたという自覚はあるので、仕方がないと割り切っている。しかし、一切思うところがないというわけではない。

 軽くため息をつく。やはり貧乏くじだったと内心で愚痴をこぼしながら歩いていると、懐の色石を思い出す。

 

「…………」

 

 手にとって眺める。見れば見るほど安っぽい石で、子供っぽい橙らしい贈り物だった。

 

「……ふん」

 

 捨てるのも勿体ない。阿七様の硝子細工の隣に置いてやるから光栄に思え、などと掌の石に勿体つけながら、信綱は自宅への道を歩むのであった。




 人里の夫婦は間が悪かった(断言)。御阿礼の子が絡むと大体こうなります。
 それでも好んで波風を立てるタイプではないため、基本的に対応は温厚な方という。もし女の人が阿七の墓に手を出したら? R18G待ったなし。

 もうちょっといろいろと書いたら阿弥の時代が来ると思いますので、もう少々お待ちをば。

 あ、ちなみに次のお話は閑話になる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 阿礼狂いの友人のお話

確変が起きました。ちなみに一人称で話を進めるテスト的なものでもあります。


 おれには二人、大切な幼馴染と言える存在がいる。

 まあ同年代の子供たちは大体寺子屋に通うから、みんな幼馴染と言ってしまえばその通りだけど、その中でも特に付き合いの深いやつがいた。

 

 一人は伽耶。家が隣同士で、同い年と来ればそりゃあ嫌でも顔を合わせる。

 初めて会った時はおばさんの影に隠れてこっちを見ているような子だったから、おれが手を引っ張ってやんなきゃて子供心に思ったんだ。

 

 手を引っ張って遊びに行って、あいつも笑顔を見せてくれて、なんていうか妹ができた気分だった。最近はおじさんの仕事の手伝いとかを本格的に始めて、色々と頑張っているらしい。

 当人いわく、下準備だとか。きっと商人の仕事には多くの下準備が必要なのだろう。野菜だって予め肥料をやって、土を休ませてやらないと大きく育たないように。伽耶には伽耶の準備があるんだと思っている。

 

 で、もう一人。こっちは男の幼馴染がいる。

 

 火継信綱。いつも無表情というか仏頂面というか、何を考えているのか今ひとつわからない顔で。でもこっちが話しかければちゃんと反応するし、冗談を言えば笑いもする。

 ……宿題を見せてくれって頼むと毎回呆れた顔になってたっけ。

 結局一度も見せてはくれなかったけど、わからないところを教えてくれと頼むとちゃんとわかるまで付き合ってくれた。

 

 凄いやつだと思ってた。背はちっこかったけど、頭が良くって運動も寺子屋で一番できて。

 おれみたいに騒がしいだけのやつとは違って、あいつはいつか凄いことをやるんだって、なんとなく思っていた。

 

 それは――今でも変わらない。

 

 

 

 

 

 ノブ(信綱のアダ名。最初は嫌な顔をされたけど、ある時から悟ったように何も言わなくなった)と最初に出会ったのは、伽耶と違って寺子屋からだった。

 

 母親らしき――後で聞いたら女中だった――人に手を振って別れて、寺子屋に入ってきたノブを見た時、良いところの坊ちゃんだな、という感想を覚えた。

 それなりに大きな商家の伽耶を見ていたからわかった。仕立ての良い上等な着物を着て、振る舞いにもどことなく品が感じられた。

 

 周りの目を集めながら、全く気にした様子を見せずに席につくノブ。それをおれも遠巻きに眺めている一人だった。

 

 そこから実際に声をかけるまでは少し間が空く。慧音先生の授業がつまんなくって集団逃走を考えた時もあいつは乗らなかったし、身体が一番大きいガキ大将に絡まれた時もあっという間にあしらっていた。

 その後慧音先生に喧嘩両成敗の頭突きを食らって涙目になってた。

 

 頭も身体も良くて、どこか近寄りがたい。慧音先生に指されれば口を開くけど、休み時間中に自分からは声をかけない。

 

 まあ正直、主体性のないやつだと思ってた。あいつも伽耶と同じで、誰かに引っ張ってもらうのを待っているんだと。

 

 だから声をかけた。それが始まり。

 

「な、なあ」

「……ぼくに何か用?」

 

 振り返った顔は疑問の顔。なんで自分に声をかけてくるのだ、という疑問が浮かんでいた。

 その時点でおれは自分の考えが間違っていたんじゃないかって思い始めてた。

 伽耶みたいに待っているんなら、誰かに声をかけてもらえたことを喜ぶはずだ。こいつにはそれがなかった。

 

 本当に一人で構わない。そんな気配がひしひしと伝わってきていた。

 

「いや、これから外で遊ぶんだけどお前も来ないかって」

「……ん、いや、ぼくは――」

「遊びたいってさ、勘助。信綱もそれでいいか?」

「……まあ、いいよ。どうせ帰ってもやることないし」

 

 ノブの言葉が最後まで続いていたら、おれたちの付き合いはきっとなかった。だから強引に遮って無理やり仲間に入れてくれた慧音先生には感謝している。

 

 そこで遊びに参加したのだが、かくれんぼをやれば数を数えている時に目でも開けてるのかと思うくらいあっという間に見つけ出し、鬼ごっこでは鬼役になればすぐに捕まえ、自分が追われる側になったら鬼役のやつから距離を離さず伸ばされる手を延々避け続けるとかの行動をとっていた。

 

 あいつに一対一とかの遊びは厳禁。それが同世代の寺子屋連中の認識だった。

 集団で別れて遊ぶものだったら、大体ノブが入った方が勝つという無双状態。

 

 まあ、うん。だから勝ち負けとかがない遊びに移行するのは当たり前のことだ。勝つ相手が決まっている遊びなんて面白くもなんともない。

 

 頭も良いから宿題を見せてもらおうとしたらキッパリ断られた。自分でやらなきゃ意味がないって言って、取り付く島もない。

 あの時はなんて頭の固いやつだと思っていたけど、教えてくれと頼んだらすぐ投げ出そうとするおれに粘り強く教えてくれた。

 

 だから――なんでか自分からは友達を作ろうとしないけど、良いやつなんだってのはすぐにわかった。

 

 三人で帰りながら駄菓子を買って、座って食っている時のあいつは確かに笑っていた。あの時間を楽しいって思っていたんだ。

 父ちゃんと母ちゃんはそのことを話すと、少し微妙そうな顔になったのが不思議だった。多分、うちの両親はあいつの家について知っていたんだろう。

 

 

 

 ――それからすぐに、あいつは寺子屋になかなか来なくなった。

 

 

 

 慧音先生からは家の都合って教えられた。それに全く来なくなったというわけじゃないし、数少ない寺子屋に来た日には自分から話しかけてきた。

 

「久しぶり、二人とも。元気だった?」

「あ、ノブくん。私と勘ちゃんは相変わらずだよ。そっちは?」

「ぼくも相変わらずかな」

 

 あはは、とノブの顔に笑みが浮かぶ。それをおれは自分たちに会えて嬉しいのだと思った。

 ……実態は微妙に違うのかもしれないと、今ならわかる。あの笑みは多分、阿七の姉ちゃんを思い出していた。

 

「久しぶりだな! 今日は時間あるのか?」

「うん。夕方には戻らないといけないけど、それまでは付き合うよ」

「そっかそっか! じゃああの駄菓子屋行こうぜ! おれがおごるからさ!」

 

 会うことこそ少なくなったけど、ノブはそういうのを気にせず話したし、おれも伽耶も気にしなかった。

 それで実際にあいつの仕事を知る機会があって――

 

 十歳になる少し前の時、おれと伽耶は市場に繰り出していた。父ちゃんと母ちゃんの手伝いをして小遣いもあったし、伽耶の誕生日が近かったからそれを探す意味もあった。

 

 大人たちが思い思いに店を出して、地面にござを敷いて商品を並べて、大きな声を張り上げてお客さんを呼び込むその光景に、おれは圧倒されっぱなしだった。

 行き交う人と人。おれと伽耶の二人はそんな場所じゃちっぽけな子供二人でしかなくって。

 

「勘ちゃん、こっち」

「え、あ、おう?」

 

 動けなかった俺の手を伽耶が引っ張ってくれた。そういえば伽耶の家は商人の家だったな、と思い出すと同時に言い知れぬ恥ずかしさのような感情が浮かんだ。

 多分、おれは――妹のように思っていた伽耶が頑張って手を引かなくっちゃいけないような、情けない姿を見せた自分が恥ずかしかったんだ。

 

「ん!」

 

 だからおれは早足で歩いて、伽耶の前に出てその手を引っ張る。

 

「わっ、勘ちゃん?」

「おれが前だ! 伽耶が頑張らなくっても、おれがなんとかしてやる!」

 

 別に危ない状況というわけじゃない。でも、大人だらけの空間を子供二人で歩くことは十分以上に大冒険であり、その危険な先陣を伽耶に切らせたくなかった。

 

「……ありがとう、勘ちゃん」

「なんでお礼なんて言うんだよ」

 

 頬をほんのり紅色に染めた伽耶が笑う。それにわけもわからず照れ臭くなって、でも危ないから手を離すこともできず、とにかく前に進むことしかできなかった。

 

 そうして見つけた小物屋。ちょっと頑張ればおれたちでも買えそうな値段のかんざしや小物が敷物の上に置かれていて、店主のおっちゃんもニコニコと笑いながらおれたちを見てて雰囲気の良さ気な場所。

 つまり――おれと伽耶が冒険の先に手に入れた宝物だった。宝物を手に入れるにはお金が必要だというのが世知辛いところだったけど。

 

「……二人とも、久しぶり」

 

 そんな時だった。後ろから声をかけられて、弾かれたように振り向くと、そこには久しぶりに顔を合わせる友達と、その友達と手を繋いだ女の人がいた。

 その時のノブの格好は、まあ、あれだ。正直に言うと七五三のような格好だった。その頃は背格好が小さかったのも含めて、余計にそう見えた。腰に差していた小太刀もおもちゃにしか見えない。

 

「ん、あ、ノブ! 久しぶりだなあ!」

「ノブくん、久しぶり。そっちの人は……?」

 

 それより目を引いたのは女の人だ。ノブの手を引いているから、お姉さんだろうかと思った。本人は結構不本意そうな顔をしていたけど。

 

「稗田阿七って言います。ノブ君のお姉さんみたいなものかな? よろしくね、勘助くんに伽耶ちゃん」

「あの、護衛……」

 

 ノブはなにか言いたげにしていたけど、阿七の姉ちゃんの言うことに観念したのか、嬉しさと哀しさが混ざったような変な顔で紹介を始める。

 

「……この人の側仕えをしていてね。隠していたわけじゃないけど、あんまり寺子屋に来れなくなったのもそれが理由」

「……で、なんで手をつないでんだ?」

「阿七様の要望だよ! ぼくも嬉しいけどね!」

「お、おう……」

 

 こいつにこんな一面があったんだな、と初めて知った。やけっぱちになっているだけにも見えたけど、手を離していない辺り、本当に嬉しいんだとわかった。

 

 そして二人にも事情を説明していたら、伽耶が欲しい物を見つけたのかそれだけを一心に見つめていた。

 けど、それはおれと伽耶の二人分の小遣いを足しても届かないもの。店のおっちゃんも申し訳なさそうな顔はしていたけど、まけてくれる様子はなかった。

 

 ノブが払ってくれるって言ってきたけど、それは断った。なんて言えばいいかはわからないけど、それをしたら伽耶が喜んでくれないし、おれも嬉しくない。そんな気がした。

 

 それがわからなかったのか、ノブは阿七の姉ちゃんに怒られながら連れて行かれてしまった。

 あいつに悪気があったわけじゃないので、あまり怒らないでくれると嬉しいなと思いながら、一応伽耶に頭を下げる。

 

「悪いな、伽耶。すぐ欲しいと思うけど、ちっと待ってくれ」

「ううん、気にしてないよ。ノブくんには悪いけど、勘ちゃんからもらうのが嬉しいから」

「あー……おう、頑張るよ」

 

 父ちゃんと母ちゃんの手伝いを超頑張ればなんとか届くだろう。最悪、お年玉の前借りとかでどうにかする。

 

 

 

 そうして贈ったかんざしを、伽耶は今でも肌身離さず付けてくれている。

 今ならその理由もわかる。伽耶は誰でもない、おれが贈り物をしたのが嬉しかったのだ。

 そして時間はまた少し早くなる。

 

 

 

 

 

 寺子屋を卒業したおれたちは以前のように三人で集まる機会が減り始めた。

 おれは本格的に父ちゃん母ちゃんから農作業の手伝いに駆り出され、伽耶はおじさんについて商売の勉強を始めていた。

 

 ノブは何をしていたのか、正直その頃はわからない。おれと伽耶は人里から出ることがないから、里の中で顔を合わせることもあったけど、ノブだけはほとんど顔を合わせることがなかった。

 多分、山の方に行っていたんだと思う。あとは阿七の姉ちゃんと一緒にいたか。

 

 稗田の家のことは後で父ちゃん母ちゃんから聞いていた。幻想郷縁起を記して、おれたちに妖怪との対処法を教えてくれる、人里でも長い歴史を誇る家の人間だと。

 それを語る時の父ちゃんの顔は何か痛ましいものを語るような顔だったけど、その時はよくわからなかった。

 

 

 

 ――稗田の子供は転生するがために、生まれてきた子は親と引き離されて育つだなんて、知らなかった。

 

 

 

 ノブもその時は背が伸び始めて、ごくたまに阿七姉ちゃんと歩いている時の姿はもう姉弟のようには見えなかった。

 病弱な少女を支える一人の男性という、どこかの一枚絵のように絵になる光景だった。

 だけどきっと、ノブの方にそんな感情はなかったんだろう。阿七姉ちゃんと一緒にいるノブは本心から楽しそうで、同時に姉ちゃんの身体の弱さに歯噛みしていた感じだった。

 

 だからノブは頑張っていたと思う。おれや伽耶の何倍も努力して、必死になっていたんだと思う。

 それはつまり、余分なものを削ぎ落としていたことと同じ意味で――

 

 

 

 

 

 十五の時に、おれとノブにとっての転機が訪れた。

 

 

 

 

 

 大人たちの仲間入りをして、自警団に入った。

 先輩方はみんなおれに優しくて、緊張していたおれに肩肘張ることはないと言ってくれた。

 

 後からやってきたノブには、何もなかった。ただ遠巻きに、腫れ物を見るような目で見ているだけ。意識的にやっている分、寺子屋の時よりさらにタチが悪くなった感じだ。

 それがどういう意味か、わからないわけでもなかった。

 十五になった時に、父ちゃん母ちゃんから聞かされた話がある。

 

 曰く、気狂いの集まり。曰く、稗田のためなら親でも殺す集団。曰く――結界大騒動の折、狂乱したように暴れ回って妖怪を殺した人間の集まり。

 

 今でこそ静かになって、またノブもその頃は生まれてないため知らないかもしれないが、あの家はそういう家なのだと。いつか手ひどく裏切られるから、付き合いをやめろと。

 

 ふざけんなって話だと反発した。おれが小さい頃に近づくなと言うのならいざしらず、おれとノブたちの付き合いがあることなんて寺子屋の頃から知ってたはずだ。

 それを今になって付き合いを切れなど、聞けるはずがない。

 

 だけど周囲の反応を見ていると、ノブがそういう家の人間であることを否応なしに見せつけられる。同時に、ノブはおれたちとは違う世界の人間なのだと、本人を見ていて実感してしまう。

 それが無性に腹が立って。おれとノブは友達なのだと、ノブは皆に言われるような人間じゃないと、根拠もなく思っていた。

 

「よ、ようノブ! おれと一緒に見回り行かねえ?」

 

 そんなおれの苦悩など全く知らんとばかりに、ノブは静かに本を読んでいた。

 何やら難しそうな本から顔を上げると、ノブは小さく笑って立ち上がる。

 

「……そうだな。付き合おう」

 

 立ち上がったノブは自警団の詰め所にある武器には手を触れず、腰に差してある刀だけを持って、先輩方に会釈して出て行く。

 おれもそれに続いて詰め所に立てかけてある槍を掴んで、出て行く。

 

 槍は剣より強い武器で、扱いやすい。一般的にそう言われている。

 自警団に入った時はノブみたいな刀を使えるもんだと思っていたから、ちょっとだけ不満があったけど、今じゃ手に馴染んでいる。

 

 まあノブはそんな理屈、物ともしないくらいに強いのだろう。自警団での訓練に顔を出すことはないが、それでもこいつが一番強いんだろうな、と特に疑問を持つことなく思っていた。実際それは当たっていた。

 

 ノブとの見回りは人里の外に出る。外に出ることが禁じられているおれにとっては、こいつと一緒にいる時だけが外に出られる機会ということになる。

 無縁塚に商品を仕入れに行く人。魚や肉を取るために山に入る人など、職業に応じて外に出る人は存在するが、あいにくとおれの家は農家だ。農家が外に出る必要性なんてなかった。

 といっても、外に出ても外壁の周りをぐるりと回るだけなので、里の中と大差はないのだが。

 

「んーっ、やっぱ外に出ると気分いいな。これで妖怪さえいなけりゃ、伽耶も連れて遊びに行けるんだけど」

「そりゃ無理だ。人里に来ないとはいえ、妖怪自体はあちこちにいる。……ほら、あそこにも」

 

 ノブが指差した茂みに目を向けると、ガサガサと慌てたような音が遠ざかっていく。……全く気づかなかった。

 隣のノブはといえば、特に気を張った様子もない。つまり今ぐらいの気配なら、こいつにとって苦もなく読み取れる程度でしかないのだろう。

 

「だな。お前がいるからって油断はできないか」

「強い妖怪になると油断どころじゃないけどな。昔から妖怪を相手にする時は複数で囲んで叩くのが一番って相場が決まっている」

 

 そう語るノブだけど、ノブはそんな強い妖怪相手でも一対一でどうにかできるのではないかと、信じてしまう何かがあった。

 自分みたいな人間とは違う。何か――波乱の中心に選ばれるような、何かが。

 

「まあ、何事も平穏なのが一番だ。山あり谷ありなんてのは、別の誰かがやってくれるって」

 

 そうなってほしいという期待だった。山あり谷ありの人生になったら、どこかでこいつと決定的な何かが起こってしまう。そんな予感があった。

 

「……で、さ」

 

 だけど、その予感が的中するのは思いの外早くやってきた。

 

「どうした」

「……父ちゃんや母ちゃんが話してんだ。お前の家は色々と……その……」

「気が触れている。集団との協調性がない。気狂い揃いの家。そんな連中と付き合うのはやめろ。そんなところだろう」

「わかってんのかよ……」

「自分たちの里での評判ぐらい、嫌でも理解する」

 

 全て知っていた。知っていて、こいつは今の自分を貫いている。

 それが眩しいのか、羨ましいのか――おぞましいのか。身体が震えるのがわかった。

 

「いい加減、俺の家がどういう家かはわかっているだろう。――俺も同類だ」

「……っ」

 

 聞きたくない。それ以上先は聞きたくないと頭が叫んでいる。

 おれがどんな顔になっているかなんて、察しの良いノブには全部わかっているだろうに、言葉は止まらない。

 

「六歳の頃からか。寺子屋に顔を出す頻度が下がっただろう。あの時から俺は阿七様に仕えていた」

「丁稚とか、小間使いじゃないよ……な。お前んところ、裕福だし」

「色々と騒がしいから広いだけだ。道場と部屋以外は何もない」

 

 初耳だった。けど、心のどこかで合点が行った。こいつの家が里の外れにある理由がわかったのだ。

 

「……まあ、誤解されても困るからハッキリ言っておこうか」

 

 そんなおれの理解をよそに、ノブはこちらを真っ直ぐに見据えて口を開く。――決定的なそれを。

 

「もしも二者択一などの選択が迫られたら、俺は迷わず阿七様を取る。もう片方の天秤に何が乗っていても。父上だろうと、伽耶だろうと、慧音先生だろうと、自分だろうと――お前だろうと」

「やめろよ!!」

 

 言葉を遮る。ノブの無機質な目を見ながら、そんな言葉をこれ以上聞いていたら頭がおかしくなりそうだった。

 見たくなかった。いつもあまり表情に変化の出ないやつだったけど――今のこれは本当に違う。敵とか味方といった次元じゃない。本当になんとも思ってない相手にしか向けないような瞳だった。

 あれは――ノブが殺すことを考えた相手に向ける瞳なのだと、この時のおれは知らなかった。

 

「やめろ、やめろよ、やめてくれ、やめてくれ……!」

「……俺はそういう人間だ。狂っているのは間違いないし、おぞましいと思うのは正しい感性だ。勘助、お前が責められることは何一つとしてない」

 

 頭を抱えてうずくまるおれに投げかけられた言葉は、意外なほどに優しい声音だった。

 けど、顔を上げてもそこにあるのはノブの無感情な顔だけで、おれの思考は乱れに乱れた。

 

「あ……」

「……先輩方には俺から言っておくから、お前はもう帰れ。離れていっても俺は何も言わん。それが普通の選択だ」

 

 ノブとともに人里への道を歩く。ひどく消耗した気分で一人で歩くのも辛かったが、ノブはおれに手を貸すことはなかった。

 ……たぶん、あいつなりの気遣いだったんだと今ならわかる。不器用だとは思うけど。

 

 そうして別れて家に戻って、待っていたのは父ちゃん母ちゃんからの話。

 辛かった。さっきまでの自分ならいざしらず、今の自分に二人の言葉を否定することはできなくて――

 

 ノブもあれ以来自分と顔を合わせるのを避け始めた。おれより頭も身体も良いやつだ。少し頭を回らせるだけで簡単におれと出会う可能性は潰せるのだろう。

 

 それからしばらく農作業をして、自警団に顔を出して。死んだように生活していたと自分でも思う。

 でも他にすることもなくて、おれはノブになんて言えばいいのかなど、わからなくて――

 

 

 

 転機は、一月ほど経った頃のことだった。

 

 

 

「はぁ……」

 

 自警団の見回りも終わった後、おれは広場で老人たちが座るために用意された長椅子に腰掛けて、ため息をついていた。

 ここ最近の日課だった。家に帰っても待っているのは気まずい両親との時間。それを少しでも減らすために、ここで時間を潰すのだ。

 

 顔を上げれば人の行き来を見ることができる。が、それがおれの心を躍らせることはなく――

 

「あれ、勘ちゃん? どうしたの、こんなところで」

「ん、あ、伽耶?」

 

 おれが真っ当な反応を返したのは、幼馴染の耳に優しい控えめな声を聞いた時だった。

 心配そうにおれを見る伽耶に心配かけたくなかった。だから空元気でもなんでもいいから立ち上がる。

 

「こうやって顔を合わせるのは久しぶりだな! 今日は何してんだ?」

「お父さんのお手伝い。……ねえ勘ちゃん、何かあった?」

 

 見抜かれていた。ここ最近の伽耶は妙に勘が鋭い。

 疑問形で聞いているけど、これは確信を持っているだろう。

 

「な、何もねえよ! それより久しぶりに会ったんだし、これから駄菓子屋でも――」

「何かあった?」

 

 適当にはぐらかそうとしてもダメだった。いつの間にか隣に座った伽耶が、自分の顔を真っ直ぐ見据えてくる。

 一月前にノブにされたのと同じだけど、伽耶の視線にははっきりとした心配があったのが、なぜだか妙に安心できた。これでこいつまでノブと同じ目をしたら、発狂する自信がある。

 

「……ノブのこと、知ってるか?」

「……周りからどう呼ばれているか、だよね? うん、知ってる」

「どうして……」

「私の家の仕事、商売だよ?」

 

 伽耶の言うとおりだ。世間に疎い商売人などやっていけないだろう。

 

「……え? じゃあ、待てよ。お前、ずっとノブがその……そういう家の人間だって知ってて付き合ってたのか!?」

 

 心底からたまげた。だってそれは、おれの今抱えている悩みを伽耶はずっと持ってきたってことじゃないか!

 

「うん。あ、でも私もノブくんの口から直接聞いたわけじゃないし、勘ちゃんほど知っているかはわからないけど……」

 

 そう伽耶は言うが、そんなに大差はないだろう。重要なのはノブが一般の人とは違う人間であることと、それに悩んでいるかどうかだ。

 

「……お前は、ノブのことをどう思ってんだ?」

「大切なお友達。向こうから言い出さない限り、私からは何も言わない」

 

 即答された。生まれて初めて、伽耶のことが眩しく見えた。

 ずっと妹だと思っていたのに、その妹分は自分よりずっと強い女なんだって実感した。

 

「どうしてそう思うんだ?」

「決まってるよ。一緒にいて楽しそうにしてくれて、悩みを打ち明けたらちゃんと一緒に悩んでくれて、ちゃんと私たちと一緒の時間を大切にしようとしてくれる。――ほら、お友達じゃなくてなんていうの?」

「だけど……」

「勘ちゃん、ノブくんになんて言われたのかはわからないけど。でも今まで一緒にいて、楽しかったのは間違いがない。寺子屋の帰り道に、三人で一緒に駄菓子を食べて笑っていたのは、ノブくんも同じだよ?」

「あ――」

 

 視界が開けた気分だった。伽耶の言葉が、おれの胸のどこかにストンと落ちる。

 

「確かに、普通の人と違うところがあるんだと思う。それがいつか私たちを遠ざける原因になるかもしれない。――でも、その時が来るまで、友達を続けることはできると思うんだ」

「伽耶……」

「だから私はノブくんの友達。――勘ちゃんは、どうしたい?」

「…………」

 

 目を閉じて自分の胸に問いかける。このまま終わって良いのかと。あんな一方的な言葉で、今までの関係を終わらせて良いのかと。

 

 

 

 ――答えは決まっていた。

 

 

 

「……伽耶。ありがとうな。目ぇ覚めた」

「ふふ、どういたしまして。……勘ちゃん、頑張ってね」

「おう! ちょっとノブ探してくる!」

 

 あいつの顔を見て、もう一度話をしよう。それでもう一度友達になろう。

 そうなったら、あいつのあの時の態度を一生弄り倒してやるんだ。

 

 ずっとくすぶり続けていた何かに火がついた気分だった。今なら、あいつの目にも対抗できる。

 

 おれは数時間後に待っているであろう、三人一緒の楽しい時間を目指して走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ノブは大切な友達で少し、いやかなり人と違う部分がある男だ。

 だけどあいつは誰かに優しくあろうとしているし、おれたちはそれを知っている。

 

 だからこの先もずっと――あいつは最高の親友だ。




 優しいけれど、確実に頭のおかしい友人に悩み、それを幼馴染のヒロインに助けてもらって改めて向き合うパンピー勘助のお話でした。※主人公は頭のおかしい友人の方です。

 今回はちょっと異様に筆が走りました。次回もこんなに早くなると思うなよ!? いいな! フリじゃないからな!?

 時系列的に適切な位置に差し込むべきかどうかはちょっと考え中です。場所を変えた方がいいかな? と思ったら変える予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一つの転機

 阿七が遠くへ逝って五年。信綱も二十一になり、正式に一人前の大人として認められる頃合いになった。

 ……まあ信綱の場合は六歳の頃から一族の中で最強を掴み取り、それ以来家の中では大人として扱われてきたため、特に感慨深いというものはないのだが。

 

 強いて言うなら一族の当主として参加する会合などで、チラホラと発言を求められるようになったことくらいか。

 権力など興味ないので、稗田を守ることに集中させて欲しいと言っているのだが、火継の持つ物理的な武力をどうにかして利用したいという者は少なくないのだ。

 

 少々話がずれた。とにもかくにも信綱らと同年代の少年少女は成人し、それぞれの道を歩み始めるのだ。

 これ以降、彼らと道が交わるかどうかは己次第。繋ぎ止めたい縁はきちんと繋ぎ止めないと、後悔してしまう。

 

「なあ、ノブ……」

「で、何の話だ勘助」

 

 現在、信綱は勘助に誘われて大衆酒場に入っていた。

 日が地平線の向こうに消えかけ、里が月夜に染まる前の僅かな夕焼け色の時間。

 一日の仕事を終えた者たちがその日の癒やしを求めて、あるいは仲間との団らんを求めて、思い思いに酒と肴を頼んでいく。

 

 信綱たちもまた、そんな場所で机を挟んで向かい合う。周囲の喧騒はうるさいが、だからこそ内緒話も喧騒に紛れてくれる。

 お猪口に注がれた酒を呑み干し、喉を焼く感覚に息を吐く。酒そのものを嫌いだとは思わないが、どうにも酔う感覚がわからない。

 酒精が頭に回って酩酊すると言われているが、今のところそれを自分の身体で体験したことはない。

 

 対面には深刻そうな顔をしている勘助。あまりに動揺しているのか、酒にも手を付けず考え事をしているようだ。

 普段なら勘助の悩みに合わせて信綱も酒は呑まないのだが、今回は別だ。

 なにせ話が伽耶について相談があると来た。もう大体どんな内容の悩みが来るのか見当がついている。

 

 なので気楽に酒を呑んで勘助の悩みを肴にすれば良いのだ――

 

「実は伽耶に――結婚申し込まれた」

「ケフッ、ゲホッ、ゴホゴホッ!?」

 

 むせた。そこは順序を踏んで告白からではなかったのか。

 

「なんか、もう親にも話が行ってるみたいで、父ちゃんと母ちゃんから畑仕事しないで良いって言われた……」

「まあそこは知ってた」

「知ってたのかよ!? 教えてくれよ!!」

「他人の色恋沙汰に口なんて出せるか!?」

 

 阿礼狂いでも恐ろしい物はある。覚悟を決めた女は敵に回しちゃいけないと、伽耶を見てしみじみ思ったのだ。

 伽耶を敵に回さないためなら勘助ぐらい喜んで生け贄に差し出そう。なに、最終的に幸せになるなら問題ない。

 

「というかこの歳になるまで気づかなかった方が凄いぞ。伽耶の見合い話、十六の辺りから聞いていただろう?」

「い、良い人がいないだけだと思ってた……」

「お前の鈍感さは一周回って美点だと思い始めてきたぞ……」

 

 他人の言葉や他意を疑うということを知らない。全く考えていないわけでもないのだが、こと友人関係になると基本的に無条件の信頼のみになる男だ。

 いや、だからといって見合いの話から自分が好きなのでは? と思うようではただの自意識過剰である。何も非は勘助だけにあらず。

 

 もしかしたら、伽耶も告白をすることでの関係の崩壊を恐れて、なかなか手を出せなかったのかもしれない。

 ……あるいは逃げ道を塞ぐことに力を注いでいただけか。

 

「ど、鈍感って。そんなに察しが悪いか?」

「伽耶がお前を好いていた時期を考えると、相当な。俺がわかる範囲でも寺子屋の頃からだ」

「嘘だろ……」

 

 頭を抱えてしまう勘助。ずっと妹分だと思っていた子が、実は自分と恋人になりたいと思っていたなどと言われれば、衝撃の一つや二つ受けるだろう。

 

「まあ過去の話は取り返しがつかないからやめよう。たらればの話ほど無為に心をえぐるものはない」

「……そうだな。で、お前に相談持ちかけたのはその……ほら、あれだ」

「なんだ、受けないのか? 女から結婚を持ちかけるのが嫌か?」

「……そういうの、考えてなかった」

「おい」

 

 お互い二十一である。そろそろ結婚適齢期と言っても良い。

 実際、家全体がその手の話に興味ない火継の家でも、信綱にあてがう人の話が出始めているのだ。

 さすがに無関係ではいられないだろうとは思うが、父信義も自分を作ったのは三十前半のはず。強ければある程度の無体は許してくれるかもしれない。

 

「いや、こう……そういう縁ってのは時間が来れば自然とわかるものだと思ってた」

「今まさにわかっただろう。伽耶はその縁の相手にお前を選んだ。向こうから来るのを待つのではなく、自分で行動した」

 

 そこで一度言葉を切る。注ぐのが面倒くさくなったため徳利ごと酒を呑み干し、酒臭い息を吐いて勘助を見据える。

 

「好いた惚れたはそれぞれの問題だ。俺も悩んでやることはできるが、答えをやることはできん。……ただ、伽耶が昔から頑張っていたのは知っているから、報いることができなくてもちゃんと向き合ってくれることを願うよ」

 

 勘助が伽耶と一緒になれないというのなら、それはもう仕方がない。人の心だけはいくら準備をしても掴み取れない時がある。

 そうなったら互いに飲み明かして酔い潰れて、それで終わりだ。下手な慰めも全て逆効果にしかならない。

 月並みだが、時間が傷を癒やすのを待つだけである。

 

「……それと、返事はなるべく早めにな。待たされる身というのは辛い」

 

 ほぼわかりきった答えであっても、はっきりしないうちは不安を消せないのが人間なのだ。

 信綱も自分が生きている頃に阿弥が来てくれるのか、そして転生してきた阿弥は自分を受け入れてくれるのか、不安に思う時がないと言えば嘘になる。

 

「これだけじゃ相談相手としちゃ足りんか。――勘助、お前は伽耶をどう思ってる?」

「おれは……ずっと、妹分だとばかり思ってた。お前と会う前から知ってて、手を引っ張ってやって……」

「そうか。それは確かなんだろう。他には?」

「他は……ああ、いつだったかな。お前と阿七の姉ちゃんが一緒に市場に来たことがあったよな? あの時にちょっとだけこっちが手を引っ張られたんだ。おれが動けなかった時は代わりに動いてくれて、なんだか気恥ずかしかったな」

 

 ……言葉にするまでもなく答えは出ている。気狂いだからこそ他人の心の機微には聡くなければ生きられない――という建前を差し引いても、勘助の心の中は定まっているように見えた。

 ただ、少しだけ言葉にできていないのだ。信綱以上に長い付き合いであるからこそ、これまで知らなかった伽耶の一面に戸惑っているだけで。

 

「――他にはなにかないか? お前が今挙げた以外の印象を持った話は」

「まだ聞くのかよ。えっと……そうだ。お前が火継の人間だって言って、おれから遠ざかった時があっただろ? あの時も相談に乗ってもらって……おれより前からお前のことを知ってたって言ってたな」

「…………」

 

 それは初耳だった。いや、この歳になっても何も言ってこないので気づいているだろうとは思っていたが。

 

「すげぇやつだって思った。おれが悩んで動けなくなっているようなものに、あいつはずっと前から向き合って、答えを出していた。んで、その悩みをおくびにも出さない。生まれて初めて、あいつを格好良いって思ったな。……うん、お前と同じで伽耶もすごいやつなんだ。おれなんかと違って」

 

 話しているうちに、勘助の顔が徐々に明るくなっていく。友人の素晴らしさを語らせたら、勘助の右に出るものはいない。本心から友人の良さを語れるその素直な心は、得難い美徳だろう。

 それに自分は助けられている。勘助がいなければ、自分はもっと冷たい人間になっていたはずだ。

 

「そうか。まあ一部訂正したいがそれは置いておいて、改めて聞こうか。――お前はそんな女性と一緒になりたいか?」

「……伽耶の中身って、あんまり変わってないと思うんだ。おれが今でもバカで、お前は今でも落ち着いた性格で。あいつも、引っ込み思案なのは変わらないと思う」

「ふむ……」

 

 以前、勘助と店を出していた時も伽耶が表に立ってはいなかった。将来の夫を立てるためかもしれないが、あれはただ単に人前に立つことを苦手としていた面もあるだろう。

 三つ子の魂百まで。阿礼狂いは生まれた時から阿礼狂い。持って生まれたものは早々変わらない。

 

「だから一緒になって引っ張ってやりたい。そうだ、おれは――あいつと死ぬまで一緒にいたいくらい好きなんだ」

「……答えが出たようで何よりだよ」

 

 放置しておいても勝手に答えは出していただろう。だが、そうなると答えが出るまでの間、伽耶は内心の不安を必死に押し殺すことになる。それは信綱の良心が痛む。

 

「あまり待たせるのはよろしくないぞ。そら、酒も呑んでないんだ、今から行って来い」

「え? ってああ!? おれが頼んだ酒まで消えてる!」

「相談料にしちゃ安いだろう。結婚が決まったら俺がおごってやる」

「……ありがとな! お前に相談して良かったよ」

「どういたしまして。ああ、あと一つ訂正しておけ。――俺も伽耶もお前が普通のやつだなんて思っちゃいない。すごいやつだって、俺も思っている」

「へっ?」

「そら、さっさと行け! ここで管を巻いても無駄だぞ!」

 

 聞き返そうとする勘助の背中を強めに叩いて、無理やり酒場の外に放り出す。

 その勢いに押されて慌てて走り始め、夕闇に消えていく友人の背中を見送って信綱は一人、軽い笑みを零すのであった。

 

 

 

 

 

 ――霧雨家の長女が幼馴染である農家の男と婚姻を結んだという話は、すぐに人里に広まるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 信綱は山奥で一人、考え事をしていた。

 家では何かやっていると、総会前に自分を亡き者にしようと襲い掛かってくる者の対処が面倒なので、一人になりたい時は大体山に踏み入っている。

 

 信綱が好む静かな時間も最近は橙やら椛やら椿やらで邪魔されることが増えてきた。一人の時間が欲しいと切に願っている。

 が、今回は用事が別にあったため、誰かに来て欲しいと思っていた。できれば椿以外で。

 

「やっほ、元気?」

 

 しかし信綱の願い虚しく、頭上から聞こえてきた声は信綱が最も疎んでいる烏天狗のものだった。

 

「たった今元気がなくなった。椛を連れて来い椛を」

「先に知り合ったの私なのにぃ……。お姉さんは悲しいですよ」

 

 よよよとやる気のない嘘泣きをされる。信綱は憮然とした顔のまま、嫌そうに口を開く。

 

「まあ……お前でもいいか。ちょっと聞きたいことがある」

「なんかすっごい嫌そうなのが気になるけど……まあいいや。私に聞きたいことって? 椛の男性経験?」

「お前の話題は卑猥なものしかないのか」

「ちなみに椛は処女だよ。千里眼のおかげで要領良く動けるけど、あの子根本的な部分で不器用だから」

「どうでもいいわ」

「えー、椛を連れて来いってそういう話じゃないの?」

 

 どんなケダモノだと思っているのか。というか妖怪の男性遍歴など興味ない。

 

「友人が今度結婚する」

「へぇ、そりゃおめでとう。人間の一生は短いんだから、キミもさっさと相手見つけた方が良いよ」

「うるさい黙れ。で、何か贈り物をと考えていたところだ」

「ふーん。親戚筋とかじゃないんだよね? じゃあさすがに呉服関係はちょっと高価過ぎるか。ところで予算は?」

 

 真面目に考え始めた椿に、信綱はこの世ならざるものを見たかのような顔になる。こいつ、偽物か?

 

「……なにさ、私がちゃんと応対するのが珍しい?」

「本物の椿かと疑うくらいには」

「ひどいなあ。なんだったら、キミが初めて会った私のどの部分を切ったか、当ててあげようか」

「いや別にいいお前は本物だ」

 

 そこで恍惚とした顔になる時点で偽物はあり得ない。

 しかし彼女が烏天狗の標準なのだろうか。それはそれで怖いというか、一生お近づきになりたくない相手である。

 

「一応聞くけど、キミって婚姻の作法とか知ってるの? 普通は家族間とか、親戚筋だけでやるもんだけど」

「そのぐらいは知っている。式は神聖なものだ」

 

 男女が一生を共にする誓いの場でもある。その決意を知るのは彼らと親類の者たちだけで十分だ。

 

「……が、何もしないのも友達甲斐がないというものだろう」

「キミって意外と友誼に篤いね。もっと冷めてると思ってた」

「向こうが友人として扱ってくれるなら、俺もそれに応えようとする程度の甲斐性はある」

「私はキミのことかけがえのない友達だと思ってるのに……」

 

 こいつは別である。友達と書いて誘拐対象と読む女の好意など願い下げだ。

 

「話を戻すぞ。何か良い案はないか? ないな。使えない女だ」

「勝手に聞いて勝手に使えない認定しないでくれる!?」

 

 椿の話を聞いて良い結果になる気がしない。さっさと話を切り上げて自分でなにか探そうと思うことに何の不都合があるのか。

 

「では何か妙案が?」

「妙案って程でもないけど――いや妙案妙案! だから帰ろうとしないで!」

「……言ってみろ」

「うん、山芋とかどうよ?」

「じゃあな」

「理由ぐらい聞いてもいいんじゃないかな!?」

 

 帰ろうと背を向けていたところをしぶしぶ向き直る。これで理由がしょうもないものだったら今度こそ帰るつもりだった。

 

「キミが手に入れられるものでしょ? 天狗の秘薬をあげてもいいけど、それじゃ私からの贈り物になっちゃう」

「ふむ。秘薬とやらに興味はあるが、道理だな。で、山芋にした理由は?」

「結婚するってことは、男女が同じ屋根の下に住むわけだ」

「そうなるな。婿入りだと思うが」

「夫婦になったからには、いつか子供もできるわけだ」

「そうだな」

 

 あの二人の子供であれば、自分も可愛がるだろう。

 

「で、健康的な夜の生活のためには精を付ける必要がある。特に男」

「まあ、それを不潔と言うような潔癖症ではないが……」

 

 二人の共通の友人からそんなものを贈られる心境や如何に。筆舌に尽くしがたい気まずさがあると想像するのは難しくない。

 

「……というかお前が持っていく話はそういうものしかないのか」

「何をおっしゃる! 丈夫な子供を産んで次に繋げるのは人間のみならず生物の使命! それを軽んじる生物に未来はないと言っても過言じゃない!」

 

 いきなり奮われた熱弁に信綱は物理的に一歩下がる。言っていることの正しさは理解できるのだが、お近づきになりたい部類ではなかった。

 

「キミの友人なんでしょ!? だったら健やかな家庭を築いて欲しいという願いの助けとして何の問題もない!! ――というわけで芋を掘ろう」

「…………」

 

 ここまで熱弁を奮われてしまうと、信綱もこいつの言っていることは正しいんじゃないかと思い始めてしまう。

 椛がいれば流されてますよ!? とツッコミをくれたところだが、あいにく彼女はこの場にいない。

 

「……まあ、かんざしやらを贈るのはあいつの仕事だし、俺は俺であまり形に残らないものの方が良いか」

「そうそう。食べ物ならすぐに消費できるし、山の幸は結構貴重でしょ?」

「……ん? そういう意味なら阿七様にお出ししていた山女魚とかでも問題ないんじゃ――」

「さあ善は急げ! 山芋掘りなんて力仕事だよ!」

「あ、おい!」

 

 背中を押される形で、ひょんなことから山芋掘りを始めることになってしまった信綱なのであった。

 

 

 

「……で、本当の目的はなんだ?」

 

 信綱は椿に言われるがまま、その辺で拾った木の棒で椿の指示通りの場所を掘り進める。

 専門の道具でもなく、まして芋掘りなど初めてのことなのだが、信綱は特に息を乱すこともなく淡々と、しかし芋を折ることなく丁寧に掘っていた。

 椿はと言うと、適当な石に腰掛けて信綱の働く様子を見守るばかり。とはいえ楽しそうに見ている辺り、退屈はしていないのだろう。

 

「んー、キミと一緒に何かしたくなったってだけ」

「今までだって剣を交えてきただろう」

「それ以外のこともしたくなったんだよ。ほら、キミのことをよく知りたいっていうか?」

「気色悪い」

「ひどいなあ」

 

 苦笑はするものの、怒りはしない。人間が妖怪に見せる態度としては実に正しいものであるし、御阿礼の子以外がどうでも良い彼らしい対応でもある。

 それでも椿が信綱に構い続けるのは、彼が自分の期待をかけた子供のような存在でもあり、同時に――

 

「好きな人のことって、たくさん知りたいじゃない?」

「人間が好きだとか言ってたな、そういえば」

「よく覚えてたね。私と椛がキミを鍛えようとした時だっけ。――でも外れ。人間が好きだって言ったけど、あの時はキミが好きだとは言ってない」

「言葉遊びがしたけりゃ椛に頼め。面倒なのは嫌いだ」

 

 物事が単純であればあるほど、信綱が考えるのは少なくなる。必要とあらば知略の一つや二つ巡らせるのはわけないが、頭の出来が根本的に違う妖怪相手と対等に張り合えると自惚れてはいない。

 

「ん、まあ率直に言うと――惚れた。キミの全部が欲しい。キミの剣術も、キミの思いも、何もかも」

「…………」

 

 冗談、ではないだろう。信綱は芋を掘る手を止め、横目で椿の姿を追う。

 胸の前で手を組み、頬を赤く染めて想いを語る彼女の姿は、なるほど確かに。本で読むような恋する少女のそれだ。

 

 しかし信綱にはいささかの感嘆もない。どんなに見目を取り繕ったところで、彼女が妖怪で人間とはおよそ相容れない価値観の持ち主であることは疑いようもないことと――何より、生まれついて心を特定の一つに捧げてきた狂人に、そんな言葉は無為以外の何ものでもない。

 

「……女の子の告白に何もなし? ちょっと傷つくよ?」

「言ってろ。お前の想いに応えるつもりはこれっぽっちもない」

「知ってた。でも、私がキミを振り向かせようとするのを止めるつもりもないでしょう?」

「そんなことをする暇はない」

 

 すでに信綱は芋掘りに戻っていた。椿と話していて実になることが滅多にないことぐらい知っていた。

 本気の言葉であっても、そうでなくても、どちらにしろ相手にしない。それが自分のためである。

 

「だからさあ、キミに私の全てをもらって欲しいんだ」

「やだ」

「か、かなり直接的に拒否してきたね……。でもそれがキミなりの好意の表し方だって信じよう」

「……もう好きにしてくれ」

 

 ちなみに椛には普通に接する。おそらく妖怪で誰が一番好きかと聞かれたら、椛と答えるだろう。

 

「うん、好きにする。ということでキミの後ろ姿眺めてて良い? 今はそれで満足するから」

「………………まあ、そのくらいなら」

 

 かなりの間を置いての返答だった。下手に許すとズルズル行きそうで怖いというのが理由にあった。

 が、そこまで邪険にするなら最初から無視すれば良いだけの話であることも、信綱は理解していた。

 口でも態度でもまともな応対をしたことはないし、今でも殺せるならば殺してしまいたいと思っているのも事実だが――剣を教えてもらったことに関しては感謝している。

 

 複雑な感情ではあるが、おそらく彼女を殺した時に持つ感情は哀しみなのだろう。

 

「……お前と知り合って、十五年になる」

「んむ、そんなに経つか。キミも大きくなるわけだ」

 

 ああ、そこで穏やかな表情を見せられると、憎みきれない。わかっててやっているのなら相当な策士だ。

 信綱は彼女の表情に、自分の記憶にない母親の存在を連想させられながらも、口を開く。

 

「鬱陶しいことこの上ないし、距離感は掴めないし、隙も見せられないけど――お前のことは、そう嫌いじゃない」

「……ふぇ?」

「いややっぱ嫌いだ。嫌いだが……あれだ。お前と一緒にいる時間はこちらの鍛錬にもなるし、俺をさらおうとさえしないなら無視はしないでやる」

 

 全く予想の外だったのか、呆然とする椿の方を見ないようにする。

 すでに芋は掘り終えていたが、何もせずに相手の反応を待つ時間が耐え切れなくて無意味に手を動かしていた。

 

「……えーっと、それ、は」

「うるさい黙れやはり死ね!」

 

 もう使い道のない枝をぶん投げる。

 呆けていてもそこは烏天狗。最小限の動きで避け、そこでようやく実感が得られたのか信綱に輝く笑顔を向ける。

 

「うそ、本当? やだ、凄い嬉しい。こんなに嬉しいと思ったことなんてないくらい」

「泣くほどか……」

 

 ボロボロと零れる涙を手で拭いながら、はにかんだような笑顔を浮かべる椿の顔は、さながら相手に自らの片思いが通じたと確信する少女のそれ。

 あんな対応で良かったのならもっと前から口だけでも合わせておけば良かった、と信綱が今後の椿の対応について考えていると、椿は涙もそのままに立ち上がった。

 

「――ありがとう。キミにそう言ってもらえたことがすっごく嬉しくて、私の心を震わせるほどに成長したキミが心から誇らしいよ」

「……どうした、お前」

 

 様子がおかしい。泣き笑いをしている顔は普通の村娘と何ら変わらないというのに、なぜか信綱にはそれが獲物を追う狩人の顔に見えた。

 

「うん、決めた。少年、しばらくお別れだ」

「……どういうことだ」

「言葉通りだよ。私は当分の間キミに会いに行かない」

「なぜ。……いや、せいせいするが」

「キミのことがようやく見えてきたよ。キミって押すと拒絶するけど、離れようとすると引き止めるでしょ」

 

 全然気づかなかった私に言えたことじゃないけど、と椿は苦笑しながら背中の黒翼で飛び上がる。

 

「私も強くなりたくなった。本当はキミが私を越えたら終わりにするつもりだったんだけど……火がついちゃった」

「…………」

「勝ちたい。私は――人間に勝ちたいんだ」

 

 それは椿が初めて信綱に見せた本心。

 

「待――」

 

 信綱が彼女に対する理解を深める前に、椿は空高く飛び上がっていた。

 

「しばしの別れだ人間! 次に会う時は――楽しく殺し合おう!!」

 

 それが決別の言葉。木々の隙間から見える空の向こうに姿を消した椿に、信綱はもう一度会う時が戦いの時であると理解してしまった。

 残された信綱は彼女の消えた空を見上げて、一人ため息をつく。

 

「……あんなことを思ったからか」

 

 殺した時に抱く感情は哀しみであると思った矢先にこれだ。この世界は人間と妖怪の共存に優しくない。

 瞑目し、彼女と過ごした時間を思い返す。概ねロクなものではなかったが、それでも信綱の時間の一部。自分が今の性格に落ち着いたのは、彼女の影響も間違いなくあるだろう。

 思うところはある。出来ることならその瞬間が来ないで欲しいとも思う。だが――

 

「御阿礼の子に害をなすなら――殺す」

 

 ――目を開けた時には、彼女に向ける感情は全て消えていた。

 

 

 

 

 

 椿は一つだけ、大きな勘違いをしていた。

 それは彼が古代の英傑に勝るとも劣らない天稟を持つ人間であると同時に――否、それ以上に狂った人間であることを失念していたのだ。

 

 それは普段の信綱が平均以上に真っ当な人格を演じていたから起きてしまった不理解。

 椿は自分が幻想郷の妖怪として少しおかしいことを理解していたが、信綱が人間から大きく外れた存在であることにまで思考は及ばなかった。

 

 妖怪と人間。本当に理解し合えるのは剣を交えた時である。その考えを持つからこそ、彼女は想像もしない。

 

 

 

 ――剣を交える時、信綱は椿に何の感慨も抱くことなく殺しに来ることなど。

 

 

 

 

 

 椿はまだ、自身の終わりに気づいていなかった。




 人里の側においても大きな転機があり、そして妖怪との関係においても転機がありました。
 簡単にいえば椿の地雷爆発。彼女の好意に僅かでも答えることが地雷爆発のキーだとは誰も思うまい。デレると起爆する地雷です。
 なお同時に椿も信綱の地雷を踏んだ模様。

 そしてさらっと出した霧雨家の話。そこそこ前から考えていたことですけど、勘助と伽耶の子供 → 魔理沙の父親 → 魔理沙 的な流れを考えています。
 なんか色々と矛盾があったら教えて下さい。御阿礼の子の転生の周期? あれはわかってていじってるのでノーカンです(真顔)

 ぼちぼち阿弥の時代が近づいています。これまでの微妙に不穏な空気が一気に爆発する動乱の時代になる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

椛の憂鬱

クリスマス? 卒論が恋人です(半ギレ)


「そういえば、慧音先生」

 

 ある日のこと、信綱は会合の帰り道を慧音と一緒に歩いていた。

 霧雨家の婚儀も決まり、実にめでたい日であるということで、会合の名を借りた宴会みたいなものだったが。

 

「なんだ、信綱。お前も友人に当てられて結婚を考え始めたか?」

「いや、そちらではなく。慧音先生は阿七様の生まれた時を知っておられるのですよね」

「全く関係のない話を持ち出してきたな……。勘助と伽耶を祝おうとかはないのか」

「もうしました。山芋を一本丸々掘って贈りました」

 

 理由を察したのは伽耶だけで、引きつったような嬉しいような曖昧な顔だったのが印象深い。きっと有意義に使われたのだろう。

 ……だからしばらく顔を合わせづらいのだ。なぜあの時の自分は椿の口車に乗せられてしまったのか。昔の自分を殴り飛ばしたい。

 

 折を見て三人で飲もう。それで水に流してくださいお願いします。

 

「……お前がそんな直接的な贈り物をする性格だとは知らなかったな」

 

 ああ、慧音にまで開いた口が閉じないような顔をされた。それもこれも椿のせいだと決めつけ、信綱は憮然とした顔になる。

 

「気の迷いだったんです。次からは高価な酒でも贈りますよ」

 

 信綱はまだ知らない。これ以降、時々伽耶に山芋を持ってきてもらえないかと頼まれることなど。

 

「で、話を戻しますけど。代々の御阿礼の子は転生します。では――その母体はどうなるのでしょうか? 私は阿七様の血縁に会われたことがありません」

「…………」

 

 信綱の疑問に対し、慧音は暗い表情になる。痛ましい何かを思うように顔を俯けて、しばしの静寂が二人を包む。

 

「……お前なら無関係ではいられないか。わかった、教えよう。……確かに御阿礼の子は転生する。だが、それは木の股から生まれるわけじゃなく、きちんと母親の(はら)から生まれるのだ。そして御阿礼の子は生まれた頃より稗田の家で過ごすことが定められている。

 ――つまり、御阿礼の子を宿してしまった夫婦は腹を痛めて産んだ子と無関係になるのだ」

「それは……」

 

 実感がわかないが、ひどく残酷なことだと言うのは容易に想像ができた。

 

「そうして家族と引き離された御阿礼の子は、お前たち火継の人間を側に置いて幻想郷縁起を編纂し、転生の準備をして死んでいく。皆、転生をしているから大人びたところもあるが――親の愛情を求めたこともあっただろう」

「…………」

 

 信綱はかける言葉が見つからなかった。

 そんな仕組みで御阿礼の子が転生していたことなど気づかなかった――いや、少し考えを巡らせればわかることであったが、あえて考えないようにしていたのだ。

 

 この事実に信綱はどう対応すれば良い。過程はどうあれ、御阿礼の子が生まれてきたことを喜ぶべきか?

 

 

 

 ――違う。

 

 

 

「それは、誰も幸せにならない仕組みだ」

「信綱……」

「御阿礼の子が嘆くなら、そんな仕組みは廃さなければならない。違いますか」

「……そうだな。幻想郷縁起の編纂。人里を見守り続ける人間が必要――全部向こうの都合だ」

 

 そう言い切った慧音の瞳には確かな怒りが浮かんでおり、人里が歩み続けてきた歴史を象徴しているようだった。

 災害に怯え、妖怪に怯え、さりとて逃げることも叶わない。人里としての機能が止まらない程度には生きることができるが、それは個人の生存権を保証しない。

 

 

 

 ――この世界は強き者に美しく、弱き者に残酷だ。

 

 

 

 それが間違っているとは思わない。いつの時代でも弱肉強食は一定以上の説得力を持つ便利な摂理だ。

 だが、弱者の側にも言い分はある。不満もある。考える頭も持っている。

 

「……貴重なお話ありがとうございました。私はこちらの道ですので」

「っと、少し話に熱が入ってしまったな。……信綱、私が言うのもあれだが、不満や怒りなどどこにいても生まれるものだ。要はそれをどこで処理するかという話だ。

 あー……上手く伝わるかはわからんが、あまり先走ったり、妖怪全てに憎しみを募らせるようなことはするなよ。それは不毛でしかないし、間違っていることだ」

「わかっていますよ。それでは」

 

 慧音と別れた信綱は軽くため息をつく。寺子屋の教師として見るには、今日の彼女はいささか感情的だった。

 あるいは対等の人間として見てもらえているのかもしれない。それなら少しは嬉しい話である。

 

 一人になった信綱は様々な思考が渦巻いていたが、すぐにそれらを捨て去ってしまう。

 

「まあ――御阿礼の子以外はどうでも良いか」

 

 御阿礼の子が望むなら幻想郷を壊そう。短命を厭うなら延命手段を探そう。縁起の編纂がしたくないのなら妖怪を滅ぼそう。

 別に難しいことではなく、自分たちに真っ当な感情など必要ない。阿礼狂いは、ただ御阿礼の子に狂っていればそれで良いのだ。

 

 転生の仕組みについても、御阿礼の子が嘆いているのならどうにかする。幻想郷そのものに喧嘩を売ることになるかもしれないが、何も問題はない。

 全ては御阿礼の子のために。利益にならないものを排除しようとするのは当然の考えである。

 

「……うむ」

 

 よし、方針が決まった。というより、再確認のようなものだが。

 不利益にならないなら放置。なるなら対処。実に簡単だ。

 信綱は一人満足そうに頷くと、家路を急ぐのであった。

 

 

 

 

 

 親しい友人らの婚儀も無事執り行われ、めでたく夫婦となった。実に良いことである。

 勘助は正式に霧雨家に婿入りし、商人の勉強を始めている。以前の祭りの手伝いが効いているのか、飲み込みは早いらしい。

 そして伽耶はそんな勘助を公私に渡って支え、助けていた。

 お互いを尊敬し合う、実に良い夫婦だとは二人の働く姿を直に見ている慧音の言葉。

 

 一方、信綱はと言えば、相変わらず山で魚を釣り、獣を狩り、ついでに人の領域に踏み込みすぎた妖怪を追っ払い、といった普段通りの生活をしていた。

 後継問題に関してはもうしばらく逃げることにしていた。自分は今が盛りだ。その時期に余計なことを考えたくない、という言い訳で今は見逃してもらっている。三十ぐらいになったら本格的に考えよう。

 

 で――

 

「お前、暇なんだな。暇なんだろう」

「ええ、ぶっちゃけ暇です」

「帰れ。俺は忙しい」

「釣りしてるだけなんだし、良いじゃありませんか」

 

 山に踏み入ると、毎度の如く妖怪に引っかかるのは宿命か何かなのだろうか。

 冬山での釣りの最中、信綱は後ろに感じる椛の気配にため息を隠さない。

 無警戒に隣に座ってくる椛に信綱は低い声で脅しをかける。

 

「……俺の気が向いたらお前の首は簡単に落ちるぞ」

「今の君には逆立ちしても勝てる気がしません。なので懐だろうと遠間だろうと大差ないです」

「開き直っただけだろうが」

「そうですけど何か?」

 

 これ見よがしにため息を吐く。椛は笑うばかりで特に効果はなかった。なんてふてぶてしいやつだ。

 追い払おうとしたものの、離れる気配がない椛に信綱はうんざりしながらも拒絶はしない。

 拒絶せず、邪魔しなければ自分の裁量次第で便宜も図る。口では色々と言ってくるが、なんだかんだ子供の頃から面倒を見てきたこの青年が優しさを持っていることを、椛も椿も知っていた。

 

 ……だからこそ椿は致命的な間違いを犯したのだが、それが白日に晒されるのはもう少し未来の話である。

 

「こんな冬でも元気ですよね。今年は特に雪も酷いというのに」

「だからこそ魚も獣も栄養を溜め込んで大人しい。格好の狙い目だ」

「この時期は冬眠の場所を探す熊とかも出る……君には無用の心配ですね」

「不要だな」

 

 出たら出たで狩れば良い。妖怪に化生した熊相手だったら多少の苦戦はするかもしれないが、そうでもなければ一撃で終わらせられる。

 

「元は阿七様のお身体に効く薬草や、栄養を付けてもらうべく始めたことだがな。これが飯の種になるとは思ってなかった」

「ここまで妖怪の山にほど近い領域まで入るのは君ぐらいですからね。結構重宝されているのでは?」

「これがそうでもない」

「んん?」

「妖怪が力を喪って困る連中もいるということだ」

 

 端的に言ってしまえば妖怪退治屋や、自分たちのような武力を人里に提供することによって、居場所を借りている者たちだ。

 昨今、妖怪による被害もめっきり減り始めた。妖怪の姿を見たことがない勘助やそういった世代が大人になりつつある。

 妖怪退治屋は仕事が減ってしまい、廃業にしたところもあると聞いている。

 そういった人々は危険性の高い無縁塚や、魔法の森などに赴いて人里では入手できないものを入手して、それを店に卸すことをしているらしい。要するに火継の人間が御阿礼の子のいない時代にしていることと同じである。

 

 ……そんな時代において、突出した武力がある人間の集団など腫れ物以外の何ものでもない。

 しかもそれは阿礼狂いと呼ばれるほど、特定個人に入れ込んでいる。

 

 昔は良かった。妖怪という明確な脅威が存在し、歴代の御阿礼の子も人里を守るために火継という剣を振るった。

 今はどうだろうか。阿弥が来る頃もこの平和が続くようなら――自分たちは御阿礼の子に悪影響の出ない内に消えるべきかもしれない。

 

「難儀なものですね。社会の縮図というのはどこも似たようなものなのかしら」

 

 うんざりした様子でため息をつく椛。その横顔には疲労、あるいは諦観とも呼ぶべきものがにじみ出ていた。

 信綱の前では崩していなかった敬語も崩れている。相当なものだろう。

 

「天狗もそうなのか?」

「いつだったか、天狗の里の進退を会議していると言ったでしょう。あれ、覚えてるかしら?」

 

 頷いて釣り竿を引く。丸々と肥えた魚が一尾、食いついていた。

 魚籠に収めず石の上に放る。ビチビチと暴れているが、すぐにおとなしくなるだろう。

 

「覚えている。まだ続いていたのか?」

「妖怪の時間を人間の尺度で考えない方が良いわよ」

「年単位で会議が続くとは……」

 

 付き合わされる方もたまったものではない。信綱だったら途中で逃げている。椛も逃げることを選んだのか。

 

「今回は内容が内容だから、会議が紛糾するのもわかるんだけど……正直、示された道に着いて行くだけの下っ端には辛いわね」

「そうか。ところで口調が崩れてるぞ。それが地なんだな」

「あ……」

 

 椛の頬が寒さ以外のもので朱に染まる。何を恥ずかしがっているのかよくわからないが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだろうと結論付けて、信綱は黙っておくことにする。藪蛇は突かないのが鉄則だ。

 

「……はぁ、なんかどうでも良いわ。君は人間だけど、私の友達みたいなものだし」

「さよか。俺はもっと前から友人だと思っていたが、会議はどうなったんだ?」

「まだまだ長引くわね。ただ、もういい加減私たちも進退窮まって来てるから、何か切っ掛け次第で一気に動くかも。……んん?」

「前兆は見逃さずにいろということか。気の抜けない話だ」

「あの、今なにか言わなかった? サラッと流しちゃったけど」

 

 無視して魚をもう一尾釣る。人間一人が魚を釣る程度なら、この場所はよく釣れる穴場である。

 すでに魚籠にもそこそこ魚がいる。これ以上釣っても持って帰るのが面倒になってしまう。

 

「さて……おい、適当な枝を二本拾って来い」

「いいのかしら?」

「早く行け。俺は火を用意する」

「……君、結構優しい人よね」

「黙――」

 

 信綱が否定する前に椛は茂みに消えていってしまった。

 一人残された信綱は後頭部をかきながら、少々隙を見せすぎてしまったかと自己嫌悪する。

 しかし出会い方以外、椛を嫌う理由が特にないのだ。対応も常識的だし、椿を止めてくれるし、色々と天狗の里の情報もくれるし、椿を止めてくれるし。

 

「はい、取ってきたわよ」

「わかった」

 

 雪に濡れていない落ち葉を集めて火打ち石で火をつける。そこに手早く枝を刺した魚を二尾並べて座り込む。

 

「阿七様が生きておられた頃は考えもしなかったな。このように一足先に食べることなど」

「良いんじゃない? 危険な仕事に対する正当な報酬よ」

 

 目を輝かせ、尻尾を振りながら椛が対面に座る。

 

「……危険で思い出した。椿はどうした」

「わかんない」

「…………」

 

 目を鋭くして睨む。千里眼を持つ椛であれば、容易く椿の動向ぐらい把握できるだろう。

 そう思っていたのだが、椛は首を横に振る。

 

「千里を見渡せても、その情報を全部網羅できるわけじゃないのよ。頭が破裂しちゃうわそんなこと」

「……動き回っているということか? 見つけたければあいつの家を見続けていれば良い」

「そこまでする義理もないからさすがに知らないわよ?」

 

 それもそうである。椛にしてみれば特定個人にそこまで入れ込む理由はないだろう。

 信綱も椿の最後の言葉が気になっていたが、考えてどうにかなるものでもない。

 

「……どこまでも迷惑なやつだ。俺だけで済ませるなら良いが」

「さあ? あの人も結構付き合い長いけど、本心が見えた時なんて数えるくらいよ」

「なんとなくわかる気がするな」

 

 飄々として気安いが、どこかで明確な一線が引かれている。彼女に目をつけられている自分ですら、彼女の全てを知っているとは言いがたい。

 

「あの人は溜め込む方ね。溜めて溜めて溜めて――爆発する。ご愁傷様とだけ言っておくわ」

「やめろ縁起でもない」

「ふふふっ。あ、そろそろ焼けてるんじゃない?」

 

 焼けた魚を手にとってかぶりつく椛を見て、信綱も魚に食らいつく。

 冬に備えて蓄えていたであろう脂が滴り、引き締まった身と混ざって濃い旨味をもたらす。

 釣りたての魚は特に味付けを必要としないくらい、味が濃い。内臓の苦味もエグみ一歩手前の実に良いほろ苦さだ。

 

「んぐ、美味い! いやあ、子供の頃からの知り合いに食事をもらえるなんて、なんだか親になった気分ね。……いや、私まだまだ若いけど!」

「誰が誰の親だ。妖怪に若いも年寄りもないだろう」

「一応、歳食った妖怪の方が強い傾向ってのはあるらしいけどね。まあでも妖怪は割と生まれが全てだと思うわよ」

「ふむ……」

「強い妖怪は最初っから強い。弱い妖怪は弱いまま。多少の上下や例外はあっても、大体この理屈からは逃れられない」

 

 例外と言われて思い浮かべるのは橙だ。彼女やそれに類する妖怪は、長く生きて研鑽を積めば強くなれる側の妖怪なのだろう。

 

「人間だって同じじゃない? 生まれが大きな要素を占める。あなたがあの家に生まれたように」

「俺の家は特殊だと思うが……。まあ、そうだな」

 

 誰しも生まれは選べない。御阿礼の子然り、阿礼狂い然り。

 家の宿命を否定するも良し、受け入れるも良し、自分みたいに喜んで殉じるも良し。要はそこからどう生きるのかが大事なのだ。

 

「……問題は、ここで意思を通すには力が必須ということか」

「そう。だからしがない下っ端の私はありがたい千里眼を活用しつつ、こうしてサボっているのよ」

「サボりとこれは結びつかないだろう……」

「まあまあ。見回りはしているからいいのよ。それにしても君のことが羨ましいわ」

「俺が?」

 

 どこに羨ましがる要素があるのか。人間より長命で、空を飛べて、多少の怪我なんてすぐ治る頑丈さがあって、さらに頭の出来も良いと来た。

 信綱の方が、妖怪の頑健さを何度羨んだか。

 

「君みたいに強くなれない。私がいくら頑張っても、せいぜい白狼天狗に毛が生えた程度。身体能力も、妖力も、生まれついた時からそう変わらない」

「…………」

 

 白狼天狗に毛が生えた程度ってどのくらいだ、と思ったが口には出さない。口調から察するに十の力が十二になる程度なのだろう。

 

「……烏天狗には大天狗を上回る力量の者がいると聞くが」

「風の使い方が異常に巧いの。何かしらの能力を持っていると考えなきゃ説明がつかないくらい」

「ふむ……」

「私があれぐらい強かったら、もう少し自由に振る舞えたかしら……」

 

 眩しいものを見上げるように空を眺める椛。そんな彼女を横目で見ながら、信綱は魚をかじる。冷めてすっかり味が落ちている。

 

 能力というのは椛の言う千里眼のようなものを指すのか。

 まあそこはどうでも良かった。天狗の里と関わることになるとは思ってないし、そんなバケモノと関わる可能性など皆無と言っても良いだろう。

 

 そんなことよりも、信綱は今気に食わないものがあった。

 

「……腹が立つな」

「やっぱ君はそう言うわよね。御阿礼の子以外どうでも良い君ならこんな話に興味なんて……え?」

 

 椛の話を聞いている内に冷めてしまった魚を骨ごと胃に収め、立ち上がる。

 

「お前のその負け犬根性に腹が立つ。――立て。鍛錬するぞ」

「は、え、ちょ……私の話聞いてた!?」

「当然だろう。その上でこう言ってやる――バカか。俺が今の強さに満足しているとでも思ったのか。誰だって上には上がいることくらい理解しているわバカ」

「そんなバカバカって……」

 

 頭頂部の犬耳が垂れるが、信綱は手を緩めない。

 

「上には上がいるから鍛錬をするんだ。負けたくないと思うから鍛錬をするんだ。お前のその生まれで強さが決まるという理屈は嫌いだ。

 ――だからやるぞ。昔とは逆に、俺がお前を鍛えて強くしてやる。烏天狗以上に強い白狼天狗がいない? だったらお前を最初のそれにしてやる」

 

 自分には力がないから仕方がない。信綱が最も嫌う理屈だ。

 誰しも強いわけじゃない。それはわかっている。だが、できることをやらないでそれを言うのは気に食わない。

 それにもし生まれで全てが決まるのなら、人間はとうに妖怪に屈しているのだ。

 

「い、いや私は――」

「さあ立て。避けないと殺すぞ」

「ちょっと厳しすぎない!?」

 

 厳しいというが、信綱が椿とやっていた鍛錬はこんな感じだ。これで強くなったのだから間違いはない。

 抜刀して振るった刃を椛は慌ててしゃがみ、避ける。そしてしゃがんだ反動を利用して立ち上がり、飛び上がろうとして――

 

「なんだ、動けるじゃないか。さあ行くぞ次だ次!」

 

 耳を削ぐように、要するに飛び上がるのを防ぐための斬撃で先回りされ、地上に戻らざるを得なくなる。

 

「ちょ、まっ、君、鬼ィー! 妖怪! 首切りお化け! 私に選択肢はないの!?」

「うん? 強くなりたくないのか?」

 

 信綱は不思議そうな顔で手を止め、首を傾げた。

 そんな本心から疑問を感じているような行動を取られては、椛も嘘はつけない。

 とっさに構えた大太刀を片手にもじもじと指をいじりながら白状する。

 

「い、いや、そりゃあ、強くなれるならなりたいなーって思うことは……」

「じゃあやるぞ」

「もう少し! もう少し穏便な方法で強くなれない!?」

 

 だが今の鍛錬は不味い。強くなる前に死ぬ未来しか見えない。

 

「楽に強くなる方法などない。普通の鍛錬ではお前の言う通り、毛の生えた程度の強さにしかならん。じゃあ常軌を逸した鍛錬で強くなれば、お前の言う壁を越えられる。――簡単な理屈だろ?」

「なんでそんなデタラメな理屈を自信満々に言うの!?」

「俺はこれで強くなった。大丈夫大丈夫、なんとかなる」

 

 椛の顔から血の気が引く。この青年、妖怪に鍛えられたからか、強くなる過程の安全性を全く考慮していない。

 途中で死んだら運がなかったね、で済ませるつもりだこれは。

 

「安心しろ。首が落ちても治るんならなんとかなる。さすがに四肢を落とした後に追い打ちをかけるつもりはない。

 俺は人間だから手足が落ちても死ぬというのになんという理不尽。言ってて腹が立ってきた。よし再開するぞ」

 

 駄目だこれ。半分は日頃の鬱憤を晴らす意味も兼ねている。

 だが――不思議と諦める気にはならなかった。

 

 確かに、何を弱気になっていたのか自分は。上を見て諦める前に、やるべきことがあるのではないか。

 目の前の青年とて子供の頃は自分と同程度であり、そこから強くなるためにどれほどの血反吐を吐いたのか、間近で見ていたではないか。

 確かに生まれで全てが決まるというのは、この男に対する否定に他ならない。いい顔をしないのも当然だ。

 

「……そうですね」

「お、いつもの雰囲気が戻ってきたな」

「ええ、まあ。たまにはあなたのように、バカみたいに何かを目指すのも悪くありません。それで強くなれるならなおのこと」

 

 椛の啖呵を聞いて、信綱の口元に淡い笑みが浮かぶ。

 妖怪と接する時はほとんどが眉を寄せたしかめっ面に近い仏頂面のため、非常に珍しい顔と言えた。

 

「じゃあ行くぞ! 目標は椿をあしらえるぐらいだ!」

「それ、君が楽したいだけですよね!!」

 

 こうして、突発的に始まった人間が妖怪を鍛えようとする奇妙な鍛錬が終わるのは、日も沈み始める夕暮れ時だった。

 

 

 

 

 

 この時はどちらも想像すらしなかっただろう。

 

 

 

 ほんの少し先の未来において、互いに背中を預けて戦いに身を投じる羽目になることなど――




地味に椛が主人公の相棒ポジを取りつつある現状。プロットの外です(白状)

スペルカードルールが出来上がる以前の力関係やら考えると、人里って相当弱いだろうという妄想。

そしてツンデレムーブが捗る信綱青年。人里の人間の常として妖怪に対して厳しい態度を取るべきだというのと、狂人の仮面として周りの恨みや妬みは買うべきではないという二つの態度が合わさるとこうなります。

本心? 御阿礼の子の敵になるなら即殺。


さて、そろそろ阿弥の時代が始まります。前話でも見た? つ、次こそはぼちぼち阿弥の生まれが示唆され始めますから(震え声)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死者の思い

「坊ちゃま、お客人でございます」

 

 家の財政状況の確認や、当主の認可が必要な外部の家からの協力要請など、信綱が自室で書類相手に四苦八苦していると、年老いた一人の女中が入ってくる。

 

「わかった。……トメ、いい加減坊ちゃまはやめろ」

「ほほほ、私が死んだら聞くこともなくなりますよ」

「全く……」

 

 乳母でもあるこの人には今でも頭が上がらない。

 もう良い歳である彼女は火継の家の女中まとめのような役割を果たしており、当主である信綱に伝えるべき情報なども彼女が統括していた。

 

「誰が来たかは?」

「わかりません。ただ、八雲の使いだとか」

 

 微かに目を見開く。まず連想されるのは子供時代に一緒に山を歩き、なぜか今でも付き合いが続いている子供っぽい妖猫だ。

 

「……小さな少女ではないだろうな」

「妙齢の女性と聞きましたが、心当たりでも?」

「……いや、忘れてくれ」

 

 さすがに橙を人里の使いには出さなかったか。安堵したような、残念なような気分である。

 客室に近づいたところでトメに目配せをする。普段なら伴ったまま行くのだが、相手が八雲の使いと来ては警戒を怠れない。

 信綱の意思を汲みとったのか、無言で下がってくれる彼女に内心で感謝しつつ、信綱は客室に着く。

 部屋を開けると視線の先にいたのは、見慣れたはずの黒髪すら美しく見えてしまうほどの美女だった。

 

「待たせて済まない。私が火継の当主、信綱になる」

 

 だったのだが、信綱は特にそれ以上の感想は持たなかった。御阿礼の子じゃないなら眼中にない。

 

「いえ、私こそ突然の来訪に対応していただき感謝いたします」

 

 信綱は上座に座り、対面の女性を軽く一瞥する。

 見れば見るほど、尋常ならざる美しさの女性だ。顔立ちはもちろんのこと、身にまとう空気が尋常のそれじゃない。男を惑わす魔性の魅力というのがあるなら、それが当てはまるのだろう。

 という情報をひどく冷静に処理して何かしらの確信を持ったのか、大きくため息をついて口を開く。

 

「……本題に入ってもらおうか。八雲藍」

「む……どこで気づいた?」

 

 美女の姿が揺らぐ。波打つ人間の虚像という、どこか生理的な嫌悪感をもたらすそれを眺めていると、いつの間にか九尾を持つ少女へと変わっていた。服装も村娘の服から、マヨヒガで見た道士服に変化している。

 

「見ればわかる」

「……さすがは火継の当主、といったところか。人間も侮れない」

 

 消去法と実際に見た印象で橙は真っ先に外れた。残るのは藍、もしくは紫になる。

 紫がからかう可能性も全く考えていなかったわけではないが、彼女のいたずらを見抜ける自信はなかった。

 要するに二分の一まで絞れたので、後は勘で言ってみただけである。

 無論、藍に教える義理はないので黙っておく。勝手に深読みしてもらえるなら大歓迎だ。

 

「何の用だ。妖怪が人里に来るような事件でもあったか」

「いいや。これは歴代の火継に告げていることで、ある種の定時連絡のようなものだ」

「……定時連絡?」

 

 訝しげに眉を寄せる。彼女らに教えてもらうようなことが何かあるのだろうか。

 そんな信綱に、藍は特に溜めを作ることもなく実にあっさりとその事実を告げる。

 

 

 

 

「ああ。――間もなく、御阿礼の子が転生する」

 

 

 

「っ! 本当か!?」

 

 思わず身を乗り出して確認してしまう。

 その動作も藍は歴代の火継で慣れていたのか、特に驚く様子も見せずに頷く。

 

「ああ。これより数年の内に誰かの胎に御阿礼の子が宿る」

「それがわからないなら意味がないだろう。吐け」

「待て! その時になったら改めて来るから心構えをしろという意味だ! いきなり刀を抜くな!?」

「……数年とはどのくらいだ」

「三年以内には。転生する家への説明はそちらの役目だ」

「…………」

 

 腹を痛めて産む子はあなたの子ではありません、産まれてもこちらで育てます、と言いに行く役割。どう考えても貧乏くじである。

 だがそれで御阿礼の子に会えるのなら是非もない。信綱は迷う素振りも見せずに首肯する。

 

「念の為に確認するが、嘘ではないな?」

「お前たち相手に御阿礼の子が絡んだ嘘をつくなど、余程のバカだけだろう」

 

 その通りである。例え幻想郷の管理者であろうと、御阿礼の子に害をなすなら殺す。そういう家だ。

 

「……わかった。その時が来たら教えてほしい。用件は以上か」

「そうだな。ここからは私事だ」

 

 袖で腕を隠して、藍は何か見定めるような目で信綱を見る。

 

「…………」

「……何か? そちらの不興を買ったのなら謝るが」

「む、いや失敬。最近、橙がお前の話をよくするのでな。以前会った時とどう変わったのか見てみたかったんだ」

「そんなに変わったものでもあるまいに」

 

 身長は伸びた。身体も出来上がった。剣術、体術もあの頃とは比べ物にならないほど成長した。

 だが、それだけだ。信綱の精神はあの日、阿七を見た時から何も変わっていない。

 

「うむ。まあ橙の口から聞こえるのは悪口ばっかりだがな」

「……あいつめ」

 

 今度会ったら尻尾握ってやる。

 

「ははは、そう怒るな。悪口ばっかりだが、お前の話をしている時は橙も楽しそうなんだ。人間に負けちゃいられないと言って修行にも身が入るしな」

「俺に勝とうなど百年早いと伝えておいてくれ」

「ははははは!」

 

 信綱の言葉を聞くと、藍がおかしくてたまらないというように笑う。袖で口元を隠しているが、涙目になっている辺りよっぽど面白かったのだろう。

 

「……何がおかしい」

「いや、すまない。気を悪くしないでくれ。橙はお前がこれを知ったら百年早いと言いそうだから言わないで、と言われたのだが……まさか本当にそっくりそのまま言うとは」

「……ふぅ」

 

 ため息をつく。あんな猫に自分の言動が読まれてしまうなど一生の恥だ。あいつと同じ知性だと思われないよう心がけねば。

 

「橙のことをよろしく頼むよ。あれもそろそろ人間を知るべきだ」

「知らなきゃいけないことなのか?」

「私の式として、な」

「ふむ……まあお前の思惑はどうでも良いが、来るなら相手にはなる」

 

 幻想郷の管理者だとか、これから先の幻想郷の在り方とか、全部どうでも良い。

 気にかけているのはそれが御阿礼の子の進退にも関わるからに過ぎない。

 関わらないなら、どうぞこちらに被害を出さない範囲で好きにして欲しいという心境だ。

 

 この点に関して信綱は実に一般的な阿礼狂いだった。一つ違うことと言えば――まだ誰も彼個人の脅威を認識していないということか。

 今が平和な時代であることが信綱と幻想郷、双方にとっての幸いだった。

 彼の実力が白日に晒される時は、もう目の前に迫っていた。

 

 火継信綱がこの世に生を受けて――否、稗田阿七が亡くなってから、実に八年が経過した春の話だった。

 

 

 

 

 

「お前のせいで要らぬ恥をかいたわ」

「いたたたた!? な、何なのよいきなり!?」

 

 春の芽吹きが聞こえ始める山に春の山菜を取りに来たところ、橙がやってきたので耳を引っ張っている次第だった。

 

「主の前で俺の愚痴ばかり吐いているそうじゃないか、ん?」

「な、なんでそれ知って――いたたたたっ!」

「藍にこの前会ったんだよ。全く……」

「痛い痛い痛い! 藍さま、助けてーっ!!」

 

 無論のこと、助けは来ない。信綱は満足行くまで橙の耳を引っ張ってようやく橙を解放する。

 橙は涙目で頭を抱えていたが、やがて回復すると信綱のすね目掛けて蹴りを放ってきた。

 

「このっ、このっ!! 当たりなさいよ!」

「嫌に決まってるだろう、痛い」

「あんた私にしたことわかってんの!?」

「はっ、ざまあみろ」

「むかーっ!!」

 

 橙が本気を出して追いかけてくるのを適当にあしらい、肩で息をし始めたところで声をかける。

 

「今日は山菜を摘みに来たんだ。お前は邪魔だから帰れ」

「会うなり耳引っ張られて大人しく帰れるわけないでしょ!? 私が負けたみたいじゃない!」

 

 勝ち負けなんてあったのか、というのが正直な感想である。

 藍に笑われた恨みは晴らせたので、信綱に断る理由はなかった。

 

「……まあ構わんか。ほら、その鼻で山菜を探してこいタマ」

「誰がタマよ!?」

 

 わいわいと騒ぎながら二人は山奥へ分け入っていく。その足取りに淀みはなく、橙の嗅覚に信綱の観察眼も相まってみるみるうちに山菜が集まる。

 

「あ、そこにタラの芽がある。ふきのとうも」

「よし、そろそろ良いだろう。これでしばらく春の味には困らない」

「ふぅ……」

 

 橙は額にかいた汗を拭い、爽やかな労働の笑みを浮かべ――

 

「ってちょっと待って!? なんで私人間の仕事を手伝ってるのよ!?」

「チッ、気づかれたか」

「あんたがさも当然のように私をこき使うからよ!」

 

 普通に命令を聞いてくれたから、手伝ってくれるのだとばかり思っていた。

 とはいえ、これ以上無碍に扱うと本気で怒るかもしれない。窮鼠猫を噛むということわざもあるように、追い詰められたネズミは何をするかわからない。

 

「猫なのに例えはネズミとはこれ以下に」

「? 頭の中も春になった?」

「はっはっはお前は俺を怒らせるのだけは天才的だな」

「あ、ちょっ、耳はやめてー!」

 

 山菜の入ったかごを片手に持って、橙の耳をわさわさいじる。ちゃんと手入れしているのか結構肌触りが良い。

 

「……時間はあるか。まだ日も高いし、少しばかり寄り道をするぞ」

「どこ行くのよ?」

「今の時期はイワナにヒメマスも美味い。雪解け水で栄養を蓄えた魚が食える。……まあ、手伝ってくれた礼ぐらいはしてやるさ」

「え、ちょっと、あんた熱あるんじゃないの?」

 

 心配そうな顔をされた。こいつの場合、どうにも本心から心配しているのがわかってしまうため、それが余計に信綱を怒らせる。

 無論、本気の怒りではなくこやつめハハハ! ぐらいの怒りだが。

 

「たまには早く帰ってウチの連中を揉んでやるかな」

「ああ、冗談冗談!! だから待ってお魚食べたいです!!」

「最初からそう言えば良いんだ」

 

 橙がついてくるのを確認してから信綱は渓流に続く道を歩き始める。

 ぼちぼち山に入り始めて二十年になる。もう半分庭のようなものだ。

 阿七が存命の頃はともかく、御阿礼の子がいない時の働き口になるとまでは思っていなかった信綱である。

 

「でもどうやって釣るの? 釣り竿はないんでしょ?」

「お前はどうやって魚を取る。よもや俺と同じで釣りじゃないだろう」

「そりゃあんた、直に入ってすぱーんと……って、あんたがやるの?」

「そんな危険な真似、誰がするか」

 

 まるで熊のような取り方だ。橙もこう見えて妖怪である以上、身体能力は高いのだろう。使い方がなってないので、信綱から見ればカモネギでしかないのが悲しいところ。

 

 渓流の方まで歩いてきた信綱は山菜の詰まったかごを置いて刀を抜く。

 そして水に足が触れる一歩手前まで近づき、水面目掛けて剣を振るう。

 最初は綺麗な半月を描く薙ぎ。そして跳ねた水滴を砕くように無数の突きが放たれ――

 

「そら、火を用意しろ」

 

 動きを止めた刀の先には、腹を貫かれる三尾の魚があった。

 

「え、ええ……」

 

 信じられないを通り越して、バケモノを見るような目で見られる。それを無視して橙の耳に再び手を伸ばす。

 

「あ、ちょ、耳触るなー!」

「だったら早く用意しろ。お前だったら妖術で火を出せるだろう。魚の血でも早く洗わないと剣が錆びる」

「わかった! わかったから離れなさい!」

 

 こいつ本当に人間かしら……という橙のつぶやきを聞かなかったことにして、信綱は刀に刺さった魚をその辺の枝に改めて刺していく。

 ちょっと腹に傷がついているが、鮮度で補える範囲のはず。二尾も食べさせればしばらくはこき使っても良いだろう。

 信綱の善意は基本的に打算込みである。

 

 そうこうして用意された火に例によって魚を並べる。

 なんだか最近、魚を家で食べていないなあと、しょうもないことを考えながら信綱はふと思ったことを口にする。

 

「……そういや、お前魚は生で食べるんじゃないのか?」

「焼いた方が美味しいでしょ? 生のままなんて非文化的よ」

「猫が文化を語るか……」

 

 つくづく妖怪とはわからないものだ。そう思いながら信綱は橙が嬉しそうに魚に手を伸ばすのを眺めて――

 

「……俺とお前、そしてもう一人。この組み合わせがまたできるとは」

「んぁ、食べないの? 美味しいよ」

 

 魚を食べることに夢中になっている橙に呆れた顔を隠さない信綱。

 橙の頬についている食べかすを取ってやりながら、視線を渓流に向ける。

 

「お前は嗅覚だけでなくもう少し観察力を磨け。――そこの水中の妖怪! 敵意がないなら出てこい!」

「っぐ、うえぇ、いたの!?」

 

 魚を喉に詰まらせたのか、ちょっとだけむせる橙を尻目に信綱は水面に視線を合わせる。

 パチパチと火の跳ねる音と、渓流の流れに逆らう岩に弾かれる水の音。それに紛れて――人間大の何かが水に浮かぶ音が混ざる。

 

「うう、まだ近づこうか悩んでいたのに……お兄さん、人間?」

 

 出てきたのは青い髪を持つ、緑の少女。要するに河童だ。

 観念したように水から上がり、信綱たちの方に身体を向ける。まだ渓流の方に近いのは、いつでも逃げられるようにか。

 

「……なぜ出くわす妖怪どもは皆俺を人間か迷うのか。どう見ても人間だろう」

「はっ」

 

 橙に鼻で笑われたので、とりあえず耳を引っ張る。

 痛い痛いと喚く橙には目もくれずに、河童に顔を向けて口を開く。

 

「いつぞやの河童か?」

「うん、そう。……あの、そろそろ離してあげたら?」

「離して欲しいか? ん、嫌か。なら仕方ないな」

「言ってない、言ってないよーっ!」

 

 適当なところで手を放し、抗議しようとしてくる橙に自分の魚を口に突っ込んで黙らせる。

 色々と言いたいことはありそうだが、橙も素直に口内の魚を楽しみ始めた。とりあえず目先の楽しみを優先させるのは妖怪らしいのか、人間らしいのか。

 

「……仲、いいんだね」

「腐れ縁みたいなものだ」

「将来の八雲、橙さまと仲良くできるのに不遜な話よね!」

「その将来は俺の生きている間に来ないだろうが。お前なんぞただの猫で十分だ」

「表出なさいよあんたぁ!!」

 

 ここが表である。

 猛って爪を振りかぶる橙を受け流し、力を利用してこちらに背中を向けさせる。

 そしてむき出しになった尻尾を握ると、橙は途端にへにょりと力を失う。

 

「にゃあぁ……尻尾はダメぇ……」

「弱点むき出しというのも面白い話だな……」

 

 ひとしきり触り心地を堪能してから離す。

 反抗する気力を失ったのか、橙はおとなしく自分の魚を食べに戻っていった。

 その際、信綱の魚も持っていく辺り、なんだかんだちゃっかりしている。

 

「で、なんの用だ」

「あ、私がいたの覚えてた。てっきり忘れられたのかと……」

「別に忘れてなどいない。敵意がないならこちらも邪険には扱わん。魚、食べるか?」

「私の扱いはどうなのよ……」

 

 橙が魚を食べながらボソッとつぶやくが、聞こえなかったことにする。

 この妖怪に対しては不思議と手が出やすいのだ。信綱もよくわかっていないが、何かしらの波長が合うのだろう。

 

「きゅうりはないの?」

「お前に会う予定もなく山にきゅうりを持ってくるのは、相当奇特な奴だと思うぞ……」

「じゃあ仕方ないか。次は持ってきてね」

「おい猫。こいつ結構図々しいぞ」

「妖怪なんてそんなもんでしょ」

 

 人見知りというのはどこに消えたのか。あるいは信綱と橙の二人は身内認定されたのかもしれない。

 ひそひそと声を交わす二人の対面に河童は座り込み、橙に残しておいたもう一尾の魚にかぶりつく。

 

「いやあ、焼きたての魚は美味いねえ。よっ、お兄さんの釣り上手! ……あれ、釣り竿は――」

「あ、そういえば人間、あんた三尾取ってたのってこのため?」

「ねえ、釣り竿――」

「いや、山菜摘みに付き合わせた礼でお前に二尾食わせてやろうと……今のは忘れろ」

「……あんたさあ、そのたまに見せる優しさって計算づく?」

「釣り竿……は、無視ですかそうですか」

 

 河童がほんのり落ち込み気味に魚をかじる。

 信綱は釣り竿が手元にない以上、どうやって魚を取ったかなど見ればわかるだろうとしか思っておらず、橙はあんなものを説明しろと言われて説明できる気がしなかったためである。

 

「あ、そうだ人間。あの時の釣り竿、ありがとうね」

「……はぁ」

「え、そこでため息つかれる? すごい傷つく」

「いや……お前が関係していることじゃない」

 

 思い出してしまったのだ。河童に釣り竿を渡し、橙と別れた信綱が自分の役目を果たした時の、あの夫婦の言葉を。

 だが、全ては終わったこと。夫妻はどちらも父の死を心のどこかで認めていただろうし、やり場のない悲しみを向ける相手にたまたま信綱がいただけ。

 それを非難するつもりはない。ただ、自分たちも木石ではないので思うところはあると言った程度だ。

 

 今後も御阿礼の子の転生の報告など、そういった行き場のない感情をぶつけられることは増えていくのだろう。

 

「慰めになるかは知らんが、あの人は手厚く葬られた。俺もそれを確認した」

「そっか。……うん、ならいいんだ。お兄さんの前に姿を現したのだって、それが目的みたいなものだし」

「……あの老爺は」

「ん?」

「……すまない、忘れてくれ」

 

 首を傾げる河童から視線をそらす。信綱自身、こんなことを聞いてどうするつもりなのか考えていなかった。

 

 

 

 ただ――老爺は死の瞬間、後悔していたのか、など。

 

 

 

 正しい答えなど誰も持っていない。河童に聞いたところで嫌な思いをさせるだけだ。

 

(……まだ引きずっているのか、俺は)

 

 自分は阿礼狂いであり、御阿礼の子本人では決してない。かつて自分が看取った阿七が、本当に何も思うところなしに死ねたのか。

 その答えは未だに得られず。自問自答を繰り返すばかりだ。

 

「河童、お前は……死者を思い出す時、良い思い出を浮かべるのか?」

「んー? どうしたのさ、いきなり」

「……興味本位だ」

 

 実を言うと、信綱が打算抜きで好奇心を先行させることはあまりない。

 自分と似た境遇の博麗の巫女に対して示したぐらいだ。それ以外は大体その場での道理に合わせた行動を取っている。

 言い換えれば、これは阿礼狂いとしてではなく火継信綱という個人が持った疑問なのだ。

 非常に稀有なものだが、あいにくと見せた妖怪らはその意味など知る由もない。

 

「まあ私はお爺さんとはただの話し相手だったし、四六時中一緒にいたってわけじゃないしね。お兄さんの望む答えが返せるとは限らないよ?」

「構わない」

「…………」

 

 橙もこれには話を聞く姿勢を見せていた。魚を食べる手を止めて、河童をじっと見つめる。

 

「じゃあ答えるけど……大体は楽しい思い出ばかりだよ。あの時はこんなことを話した。別の時に話した内容は面白かった。寒い日にはお爺さんが用意した火に当ててもらった、とか」

「ふむ……」

「……でも、そればっかりじゃない。そういうのを思った時は大体、あのお爺さんが死んだことを考える。お兄さんは言わなかったみたいだけど」

「……悪意ある決め付けだ。言う理由がない」

 

 老爺はお前に会いに行くために山へ行き、死んだ。理由としてはそれらしいが、本当のところは老爺にしかわからない。

 河童に会うために死んだかもしれない。ただ普通に釣りをしようとして死んだかもしれない。

 だから言わなかった。確証もないことを告げて、相手を悲しませることで得られる利益など何もない。

 それだけの話である。

 

「でも言わない理由もない。だってあの時のお兄さんと私は見ず知らずの他人なんだから」

「…………」

 

 顔をしかめる。揚げ足取りに近い言葉で、人を善人みたいに言うのはやめて欲しいと切に思う信綱だった。

 あとニヤニヤし始める橙になぜか腹が立つ。

 

「……人をあまり曲解するな。俺はそんな善人じゃない」

「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」

「……おい」

 

 あやふやなことを言い始める河童に、わずかに苛立った声を上げる。誰だって相手にされていなければ怒りぐらいは覚えるものだ。

 

「とまあ、これが答えだよ」

「む……?」

「私はお兄さんのことを知らない。これから知っていったとしても、完璧にお兄さんのことを理解できる時は来ない。私とお兄さんは他人だもの」

「……そうだな」

「だから私は私から見たお爺さんやお兄さんの姿で判断するしかないの。わかる?」

「……ふぅ」

 

 諭されるような河童の言葉で何が言いたいのかを把握した信綱は、自らの不甲斐なさにため息をつく。

 よもや名も知らぬ河童に説教を受ける日が来るとは。

 

「……わかったよ。馬鹿なことを聞いた。……相手がどう思っていたかなど、当人にしかわからないか」

「そういうこと。私は楽しくても、お爺さんは別かもしれない。

 お爺さんは私を恨みながら死んだかもしれない。でも、私はきっとお爺さんは苦しまずに死んだと信じてる。これが答え。期待には応えられた?」

 

 どうやら質問の意図まではっきりと読まれていたようだ。

 

「……年の功も捨てたものではないな」

「ふふん、見た目で侮ったね人間。妖怪の長命も無意味じゃあないってことさ」

「ん、あれ? 楽しいことを考えるかどうかじゃないの?」

「お前にゃまだ早い」

「耳はやーめーてー!」

 

 橙の耳を乱暴だが、痛みは感じない程度に力を弱めて撫でる。

 そうして話を終えて、魚をすっかり食べ終わった頃に信綱は立ち上がる。

 

「そろそろ戻るか。夕方の買い物時には店に山菜を卸すようにせねば」

「あ、次はきゅうりをお願いねー。相談に乗ったから奮発して五本はもらおうか!」

「遠慮のないやつだ……」

「よろしく、人間! じゃあね!」

 

 肯定も否定もする前に河童は川に飛び込んで見えなくなってしまう。水中を泳ぐ速度の早さは、確かに人間とは違うことを頷かせるものだった。

 特に泳ぎは身体能力が物を言う。地上でならまだしも、水中で河童に勝つのは難しいと言わざるをえない。

 

「河童って勝手ねえ。あれでよく人間を盟友だなんて言うもんだわ」

「盟友?」

「うん。なんか人間の生活を遠くから見ていたみたい」

「それでどうして盟友なんて出てくる」

「きゅうりでも作ってたんじゃない?」

「そんな適当な……」

 

 それで良いのかと思うが、橙の言葉を否定する根拠も見つからない。

 とりあえず河童はなんか変な思い込みを持っているということにしておく。正すかどうかは信綱の利益次第で決めよう。

 

「まあ良い。戻るぞ」

「はいはいっと。……あんたさあ、意外と悩みってあるのね」

「お前と違ってな」

「うっさいバカ。……私はあんたが死んだら、色々と思い出してあげる」

「どういう意味だ」

「しょっちゅう人のことバカにするし、口を開けば御阿礼の子ばっかりで、おまけに妖怪でもこき使う人非人だし、すぐ手が出るし」

 

 橙が指折り数えるのは信綱にバカにされた回数だろうか。片手の指折りが親指から小指へ、そして小指から親指へ往復しているので、信綱が意識していないものまで数えられていそうだ。

 

「でも、不思議と嫌いになれない。たまに優しいし、お魚くれるし、悪いやつじゃないって思ってる」

「……優しさと魚は同義か」

「だ、か、らっ! あんたが死んだら諸々含めて、私の優秀な舎弟だったって話してあげる! 泣いて感謝しなさい」

 

 ニパッと無邪気に笑う橙。それを信綱は眩しいものを見るように目を細め――る手前で堪える。

 よもや橙が輝いて見えたなど認められるものか。バレたら何を言われるか。

 

「いや、それはやめろ」

「真顔で否定しないでよっ!? 本気で嫌がってるみたいじゃない!」

「本気で嫌がってるんだよ!」

 

 にわかに騒がしくなりながらも妖怪と人間、二人の歩みが止まることだけはなかったのであった。

 

 

 

「いつか絶対! あんたのことぎゃふんと言わせてやるんだから!」




 橙と主人公は割と腐れ縁じみた付き合いです。この二人は書いてて波長が合う。

 河童の名前が出ない? 仕様です。実はこの物語が始まってから主人公は妖怪に名乗るのは幻想郷縁起を届ける時ぐらいです。

 とはいえ橙は藍に名乗った時、椛は千里眼で、など知っていることもありますが、基本的に信綱は本人の前で名前は呼びませんし、妖怪もそれにならっています。

 でも河童の名前が出ないのはおかしい? オリキャラにするかにとりにするかで正直悩んでいるところです(暴露)このまま名無しの河童でも美味しいかなと思い始めていたり。

 次のお話で御阿礼の子の転生について書いて――揺籃の時代は終わりです。阿弥の時代は阿七の頃と打って変わって動乱が続く予定。幻想郷最後の原始的な戦いの時代が来ます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閻魔との出会い

書き上がってしまったので投稿(そっと前の話の来年もよろしくという言葉を消しながら)


「ふぅ……」

 

 その日、信綱は陰鬱な気持ちで人里を歩いていた。

 つい先程出た家から聞こえるのは慟哭と絶望、そして怨嗟の入り混じった非難の声。

 

 当然、周囲にも声は届く。何事かと集まってきた人々は事情を知り、信綱を見て険しい顔をする。

 石を投げられないだけ幸運だろう。投げられても仕方ないことをしている自覚はあるが。

 

「本当、貧乏くじだ」

 

 ついさっき、信綱は大切な役目を果たしていたのだ。

 

 ――あなたが産む子は次代の御阿礼の子であり、産まれたら稗田の家が引き取るという説明を。

 

 当然、歓迎されるはずもなく。だが、堕ろすことも許されない。

 火継の人間が許さないというのもあるが、何より御阿礼の子は幻想郷にとって必要な人材。境界の賢者もそれを阻止すべく動く。

 

 代わりに御阿礼の子を産んだ家族には火継の人間が可能な限りの厚遇を与え、一生の暮らしに困らないだけの財を渡しているが……腹を痛めた子が失われるものには比べられない。

 全くもって貧乏くじである。御阿礼の子の仕組み自体は妖怪である境界の賢者が作ったのだから、恨まれる筋合いなどないというのに。嬉しいのは確かだが。

 

 この後は三途の川にも通じている無縁塚に来るよう、八雲藍に言われている。

 阿七の――いや、稗田の魂がどのようなカラクリで転生を成し遂げるのか、その理由の一端を見せてくれるというのだ。

 断る理由はない。八雲藍の上――八雲紫の意図は読めないが、情報はあって困るものではない。

 

「……行くか」

 

 このままここにいても気が滅入るばかりだ。向こうも気狂いが近くにいるとあっては落ち着けないだろう。

 信綱は胸中にこびりつく嫌な気持ちを振り払うように、里の外へ出て行くのであった。

 

 

 

 

 

 無縁塚は出所不明の死体――いわゆる無縁仏を埋葬する場所となっている。

 この狭い幻想郷において身元不明というのはまず起こり得ないため、実質外の世界から来た外来人の墓場のようなものであり、彼らの遺体を置くことが多い。

 そして人間の死体が多く出る関係上、それらを狙う腐肉漁りの妖怪も現れる。

 それ故、この場所に人里の人間が訪れることは滅多にないのだ。

 

 他にも外と内を隔てる結界の境界でもあり、強い意識を持っていなければ結界の狭間に溶けてしまうという話もある。真偽は不明だが、四六時中モヤがかかっている光景を見ると、あながち間違いでもないのかもしれない。

 まるでモヤに溶けるように妖怪に襲われ、食われるという意味で。

 

「――失せろ」

 

 信綱は自分を喰らおうとモヤの中から飛びかかってきた妖怪の首を無造作に斬り落とす。

 元より屍肉喰らいに慣れてしまった妖怪だ。芸もなく、速度もない跳びかかりをされたところで何の脅威にもならない。

 頑健さも天狗とは比べられないのか、首を落としただけで肉体の消失が始まる。天狗ならばこれに手足も落として心臓を貫いてようやく、と言った具合だ。

 

「鬱陶しい……ケダモノより学習能力が低いのか」

 

 先ほどから襲ってくる妖怪はそろそろ十に届く。一体か二体、徹底的に痛めつけて悲鳴を上げさせるか。

 

「……それで集まってきたら元も子もないな。このような場所に来る人はどうしているのやら」

 

 博麗神社のお守りを使って妖怪避けをしているのだが、信綱にそれを知る由はない。なまじなくても何とかなってしまうため、ある意味油断しているとも言えた。

 

 今のところ目新しい死体はない。妖怪に食い尽くされたのか、はたまた外来人が少ないのか。理由は定かではないが、それでも信綱の嗅覚は死臭を捉えていた。

 舌打ちを隠さず、信綱は不機嫌そうに歩く。

 同種の死を喜ぶ感性はない。ただでさえ阿礼狂いなのだ。これ以外の狂気など持っていたら人里で生きていけない。

 

 胸元にこみ上げる苛立ちを深呼吸でごまかす。人里では非難の声を受け、さらに無縁塚まで来る羽目になっている。今日は厄日だ。

 

 ああ、早く阿弥に仕えたい、と若干現実逃避の色まで混じり始めた想像をしていると、視線の先に人影を捉えた。

 

「……紫様?」

「はぁい、お久しぶりね。火継の当主さん」

 

 藍かと思われた人影は、近づくと別人の様相を露わにし、信綱に馴れ馴れしく話しかけてくる。

 閉じていた日傘を指し、妖しく微笑むその姿はまさに妖怪そのもの。おぞましさと美しさが同居した笑みだった。

 

「……あなたの式からはここに来れば良いとだけ言われている。あなたがここから先の水先案内人か」

「そういうこと。ああ、言葉遣いは普段通りで構いませんわ。いつも通りゆかりんって呼んでくれて」

「行くぞ妖怪」

「あなたの普段通りって辛辣過ぎない!?」

「橙と話す時は大体こんなものだが」

「……あの子、男の趣味大丈夫かしら」

 

 変なことを考え始めた紫を無視する。

 適当なことしか口にしない妖怪なら真面目に相手しないのが一番だ。

 

「で、三途の川へはどうやって行くんだ」

「ああ、ついてらっしゃいな。ここまで来たご褒美よ。普通の人間には見られない光景を見せてあげる」

 

 そう言って紫は歩き出す。てっきり、以前に自分を稗田の家まで一瞬で運んだ術を使うのかと思っていたが、意外である。

 

「……歩くんだな」

「スキマで移動するだけ、というのも風情がありませんから。無粋はお嫌いでしょう?」

「粋も無粋もさして興味はない」

「あら無粋な」

 

 どう答えてもこの妖怪を喜ばせることになるのだ。

 他人の掌に乗せられるのを面白くないと思う気持ちぐらい、狂人とて持ち合わせている。

 

「この際だから言っておくが――俺はまともに応対するつもりのない相手に対して誠実でいる必要はないと思っている。逆に言えばそれなりに誠意があるなら、俺もそれに応えるつもりだ」

「ふふふ、真面目ねあなた。もっと肩の力を抜いた方が良いわよ?」

「……お前以外の相手にすることにしよう」

 

 この妖怪はそういうものなのだと考えることにした信綱。

 おそらくだが、彼女は曖昧な対応を好むのだろう。

 中立、俯瞰的と言えば聞こえはいいかもしれないが、どっちつかずで美味しいところだけを持っていく姿にも見える。

 

 相手にするだけ損。それが彼女の在り方なら言うべきことはない。

 こちらも相応の対処をするだけである。

 

「さて、あなたは三途の川への知識はどの程度あるかしら?」

「……一般的に呼ばれている程度の知識だ。生きた身で行くことになるとは思っていなかった」

「そう。ああ、気をつけた方が良いわよ。妖怪桜は美しさで人を惹き込むから」

「なにか言ったか?」

 

 紫の美しい花を咲かせていた妖怪桜を、一刀のもと斬って捨てながら信綱は紫を振り返る。

 

「……あなたには無用の心配かしら」

「さっさと向かおう。あまり長居はしたくない場所だ」

「あら、もう行くの? 血と臓物の香りも素敵じゃない?」

「――人里の人間として」

 

 紫の首に刀を突きつける。その一瞬だけは本気を出したのだが、紫は相変わらずの薄い笑みを浮かべて信綱を見上げるばかり。

 

「人の死を喜ぶ妖怪は生かして置けない。相手が誰であっても、害を成すなら討伐する」

「あらあら、怖い守護者ね。でも、人間だって嫌いな相手の死は喜ぶのではなくて?」

「…………」

 

 無言で刀に力を込める。敵だと認識したら迷わず、躊躇わずが基本だ。

 口八丁手八丁に騙されて返り討ちに遭うなんて話はありふれている。

 信綱の意志を感じ取ったのか、紫はゆるゆると手を上に上げて降参の姿勢になった。

 

「参りましたわ。少しからかいすぎたようね。――では、三途の川に行きましょうか」

 

 そう言って紫は手元で何かを動かす。すると眼前の風景が歪み、数瞬もしないうちに向こう岸が見えないほどの川が見えるそれに変わっていく。

 

「…………」

 

 要するに歩いていく必要など始めからなかったということだ。

 むしろ、歩いていたら到着できていたのかもわからない。

 怒るだけ馬鹿馬鹿しい。信綱はため息を一つついて歩き始める。

 

「あら、無反応? つまんないわ」

「……行くぞ」

 

 無視して歩き始める。紫もこれ以上からかうのはやめたのか、素直に先導して信綱の前を歩く。

 

「今回、川は渡らずにある人と会う約束をしていますの。誰かわかるかしら?」

「……さあな。三途の川の渡守は死神と聞いているが」

「惜しい。でも死神と顔合わせも悪くないわね。ほら、あそこ」

 

 紫が指差した方向を見ると、柳の木に鎌が立てかけてあった。

 

「あそこに死神が?」

「ええ。サボり癖のある死神が寝ているのでしょう」

「ふむ、勤勉な奴と怠惰な奴に別れるのはどこでも同じか」

 

 人間も妖怪も形成する社会に大差はないというのに、どうして妖怪には人間を見下すものが多いのか。

 

「話を聞くのか?」

「本来なら予定にはないけど……まあ、多少の遅刻は良いでしょう」

「…………」

 

 これは多分怒られる時は自分だけだな、と信綱は直感的に理解する。

 理解するが、死神と話せる機会など一生に一度あるかないか。

 それに――阿七の話を聞ける可能性がある。迷う理由はなかった。

 

「はぁい、元気してるかしら、死神さん」

「んぁ……げっ、スキマ妖怪」

「あらあら、嫌われたものですわね」

 

 死神と紫のやり取りを眺めた後、信綱は死神の少女に会釈をする。

 彼岸花のような赤毛を二房、頭の方で結んでいる少女で、やる気がなさそうに木の根本に寝転がっていた。

 

「そこの人間はどうした? さらってきたとか?」

「…………」

「そういうわけではありませんわ。今回は彼に会わせたい人がいるのよ」

 

 無言で視線を強める信綱。幻想郷全体のためかどうかは知らないが、こいつはここで殺した方が人間のためになるんじゃないだろうか。

 

「へえ。あんたが会わせたいなんて言う人、映姫さまぐらいしか思いつかないけど、あんたから会いに来るとはね」

「まさか。来たら逃げますわ」

「ははは! 人間も災難なもんだ!」

「……死神だったか。お前に聞きたいことがある」

 

 勝手に笑いの種になっている現状に苛立ちを覚えながらも、信綱は口を開く。

 

「なんだい、人間。言っておくが、死者と生者ってのは交わらないもんだ。それを踏まえて質問は頼むよ」

「稗田阿七を知っているか?」

 

 死神に忠告を受けたが、それでも僅かな逡巡も見せなかった。

 阿七に関わることなら禁忌の一つや二つ、何の障害にもなり得ない。

 

「……ははぁ、なるほど。スキマ妖怪が人間を連れてくるなんて何事かと思ったら、そうか。――お前さん、火継の人間だろう」

「なぜそう思う」

「見たことあるからさ。御阿礼の子が死ぬのとほぼ同時に来て一緒に逝く奴もいれば、この場所に残って他の御阿礼の子が来るのを待とうとする奴もいる。

 まあ、後者はあたいが無理やり送らせてるけど」

 

 阿礼狂いは死んでも阿礼狂いらしい。誇らしいような、ここまで来ると面倒なだけのような。

 

「しかし、しかし、ふぅん……」

 

 死神の少女は興味をそそられたのか、信綱の方をジロジロと見る。

 その目で見られるほど、彼女への距離が不思議と縮まっていく気がする。

 知り合いを飛び越え、友人、親友、恋人とその距離はどんどん信綱の核心に触れるように近づく。

 きっと今の彼女は御阿礼の子と同程度には大事で――

 

「つまらない能力だな、死神。お前ごときと御阿礼の子を比べられるものか」

 

 信綱はそんな愛おしい彼女に対し、剣を向けた。剣先に震えは――ない。

 感情を排した瞳が死神を射抜く。彼女のことは大事だが、御阿礼の子に比べれば所詮は塵芥だ。

 

 そう考えていると、いつの間にか死神の少女が大事な存在に思えなくなっていた。

 能力が解除されたのだろう。信綱も刀を納め、しかし警戒だけは怠らず少女を見据える。

 

「やっぱり。お前さんらのその精神性はどこから来たんだろうね。心の距離をいじっても優先順位が全く揺らがない。

 距離という概念すら届かない、そんな矛盾した場所にお前さんにとっての御阿礼の子が存在する」

「それ以前に言うべきことがあるんじゃないか」

「さて、何のことか――冗談だよ冗談。あたいが悪かった。不躾な真似をしたことを詫びるよ」

「……ふん」

 

 興味をなくしたように信綱は紫の方を向く。そして吐き捨てるように言い放った。

 

「――これで勘弁してやる」

「うげぇっ!?」

 

 無造作に、何の脈絡もなく、それ故警戒のしようもない。そんな一撃が死神の腹部に当たっていた。

 本気ではない。当たったらそれなりに痛いだろうが、人外なら問題なく回復する程度のもの。

 向こうも本気でやったわけではないだろうが、人の心を土足でいじったのだ。このぐらいは必要経費と思ってほしい。

 

「うっそ……あたいがわからないって……」

「お前の驚愕はどうでも良い。阿七様を知らないか」

「いたたたた……今の痛みで忘れそうだ……あ、冗談冗談! だからもう一発殴れば思い出すだろうという顔やめて!?」

「人をからかうのはお前の勝手だが、応報もそれなりに覚悟した方が良いぞ」

 

 すでに信綱の死神への印象は下限を通り越している。

 これ以上下手に何かされたら、剣を抜くことも視野に入れていた。

 

「あー……まあ、うん。知ってるよ。お前さんは知っていると思うけど、御阿礼の子っていうのは短命だが、転生する。

 その転生の準備が整うまで、ここで閻魔様の手伝いをするのさ」

「ほう……」

 

 その辺りは知らなかった。

 御阿礼の子の仕組みにも関わる話のため非常に興味深かったが、今はそれ以上に聞きたいことがあった。

 

「そこは後で聞くとして……阿七様は何か仰っていたか?」

「ん……そうだね。これまでの人生で傅く人はいたけど、家族となってくれた人はいなかった。そう言っていたよ」

「…………」

 

 産んでくれた親からも引き離され、あの屋敷にいるのは女中と仕事の手伝いをする者。

 そして側仕えをする自分たち。

 確かに、家族などというものとは無縁になるのもうなずける。六歳で側仕えの役目を勝ち取った信綱が現れるまで――

 

「……幸せだと、仰っていたのか?」

「――ああ。あたいもこの死神は長いけど、あんな良い顔で死ねた奴なんて多くないよ」

「そうか。……そうか、そうか」

 

 空を仰ぐ。胸に喜びとも感動とも形容できない感情が溢れ出る。

 あの人は幸福だったのだと。自分があの人の隣にいて良かったのだと、ようやく確信が持てたのだ。

 

「いじらしい話だよ。普段なら転生ってのは百年単位で行われるものなんだけど、あの子が閻魔様に頼み込んで短くしてもらったって話さ。今頃必死に手伝ってんだろうね」

「…………」

 

 また会える。それは嬉しいことだが、転生周期に関してはよくわかっていなかった部分もある。

 そして火継の人間が側仕えになるために死に物狂いになるのも理解が及ぶ。

 百年単位でしか現れず、現れても三十年経たずに逝ってしまう御阿礼の子の隣に立つには、実力もそうだが幸運も必要になる。

 

「……本当にそれだけで転生の周期は短くなるのか?」

「さあ? あたいはしがない死神、細かいところは知らんよ」

 

 

 

「ただ――噂じゃ、どこぞのスキマ妖怪が入れ知恵したとなんとか」

 

 

 

「っ!」

 

 これまで無言を貫いていた紫の方へ弾かれるように振り返る。

 相も変わらず感情の読めない曖昧な笑みを浮かべたままの紫は、日傘を閉じて信綱に背を向ける。

 

「あまり話し込むのも閻魔様に悪いですし、そろそろ行きましょうか。死神さんも、休憩は程々に」

「とんでもない、あたいは勤勉だよ。この休憩が効率を良くするのさ」

「そうか。別にお前の在り方にケチは付けん。聞きたいことも聞けたから感謝する」

「はいよ。あたいは小野塚小町ってんだ。生者にゃ縁のない名前かもしれんけど、覚えときな」

「ああ。阿七様を送り届けた名だ。忘れない」

 

 死神――小町から遠ざかっていく。振り返ると、彼女は再び木の根本に腰掛けて寝る態勢に入っており、働く気配はなさそうだった。

 

「あれが勤勉な死神か」

「死神ですもの。怠惰なぐらいが丁度良いのよ。生き過ぎても困るけど、死に過ぎても困る」

「そうか。まあそれはさておき」

「……幻想郷縁起は御阿礼の子が生きている時にのみ編纂されるの」

 

 信綱が質問をするより前に、紫が訥々と話し始めた。

 

「今は博麗大結界が張られた直後の過渡期。幻想郷縁起もこまめな編纂が――いいえ、これまでとは在り方を変えなければならない時が来ているのよ」

「すでに結界が張られて数十年近いと思うが」

「妖怪からすればほんの数十年よ。せめて百年は見なければ」

 

 天狗の里の話と言い、つくづく妖怪の時間に対する尺度は人間のそれとは違うようだ。

 

「阿七が望んだのも合わせて――ちょうど良かったから利用させてもらっただけ。本来は百年は働くのを十年に縮めたんですもの。きっと手伝わされる仕事の量は相当でしょうね」

「…………」

「あら、何も言わないの?」

「……阿七様は俺に残っていてくれと命じた。ならばそれに殉じる。……あの方に会いに行くことが、あの方を最も悲しませることぐらい、わかっている」

 

 それに小町からの言葉とはいえ、阿七が後悔していないと聞けた。それだけでここに来た意味はあった。

 無論、会いたいという感情は信綱の胸に渦巻いている。御阿礼の子を求める本能が三途の川の果てにいる彼女を渇望していた。

 

 そうした感情を全て、一息で押し潰す。

 

 自分たちの欲望を優先させて御阿礼の子を悲しませるなど、阿礼狂いとしてあってはならないこと。

 彼女の言葉が絶対。自分など彼女の願いを叶える道具で良い。何よりも――

 

「あの方が選んだことだろう。強制されたのなら助けるが、あの方自らが選ばれたことに俺が口を挟む理由がどこにある? ――全てはあの方の幸せのために。それが俺たち火継だ」

「…………」

 

 信綱の言葉に対し、八雲紫の方が押し黙った。

 まるでおぞましい何かを見るように。まるで気狂いを見るように。まるで――何かを羨むように。

 

「……我ながら、あなたに不躾なことを聞いたものですわ。今のは忘れてくださいな」

「ああ。忘れよう。――お前が俺たちのことをなにか知っていることも」

「……何の話かしら」

「別に。話したくないなら聞くつもりはない。俺たちの原点に今さら興味もない」

 

 先ほどの口ぶりからして、紫は阿礼狂いの発祥を知っている。知っているなら、無関係ではないはずだ。

 そもそも――自分たちのような存在が自然に発生するはずないのだから。

 超常的なスキマを操る妖怪など、疑ってくださいと言っているようなものだろう。

 

 そんな考えを巡らせつつ、こちらに視線を合わせなくなった紫を横目に見ていると――いきなりその姿が掻き消える。

 さっきまで彼女のいた地面に無数の目が蠢く空間が広がっている。

 中に入ったら魂まで喰い尽くされる。そんな空間で八雲紫は移動したのだろう。

 さて、彼女がいきなり姿を消した理由は先にも言った通り――

 

 

 

「全く、あの妖怪は人を呼び出して自分は来ないとは……」

 

 

 

 視界の先には悔悟棒を持つ一人の少女がいた。

 成人男性である信綱ほどの背丈はなく、細身の少女らしい肢体。

 にも拘らず、平伏してしまいそうになる圧倒的な存在感があった。

 八雲紫に対してすら覚えなかった感覚だ。なるほど、これは――次元そのものが違う。

 

「あなたは……なるほど。あの妖怪に連れてこられた人間のようですね」

「人里の火継信綱と申します。あなたは閻魔様とお見受けしますが、如何に」

「相違なく。四季映姫・ヤマザナドゥと。映姫で構いませんよ」

「では映姫様と。して、今日この場に私を呼んだ用事とはなんでしょうか」

「なに、八雲の協力があるとはいえ、転生の周期を早めて欲しいと願った御阿礼の子の理由を知りたかっただけですよ」

 

 そう言って映姫は全てを見透かすような目で信綱を見る。

 後ろめたいことも、誇るべきことも何もかも見抜かれる。

 自分という存在を取り繕うことが一切できないその視線を受けて、しかし信綱は真っ向からそれを受け止めた。

 

 自分の在り方は褒められるものではない。だが、謗りを受けるものでもない。

 少なくとも、誰かを害することを是とする生き方ではないのだ。

 

「…………」

「ふむ、生まれついての天才。人より多くのものが見えて、多くのものを感じ取れる。しかしそれに驕ることなく修練を積んでいる。

 善を良しとして、悪を嫌う。人間と妖怪で隔てることなく、求められた手を取り、調和を良しとする。

 およそ個人として理想的な在り方と言えるでしょう。――ただ一つを除いて」

 

 映姫の言葉に一切の虚飾はない。一個人としてほぼ完璧とも言える生き方でも、一皮むいたらそこには――御阿礼の子への想いしか存在しない。

 

「あなたの行動は全て御阿礼の子に繋がっている。

 善を尊ぶのも、自己への悪評から御阿礼の子に害が及ぶのを避けるため。

 自己研鑚を怠らないのも、御阿礼の子を守るため。

 調和を尊ぶのも、御阿礼の子を守りやすいから」

 

 全くもってその通りである。信綱は映姫の語る言葉に疑う様子もなく首肯する。

 だが、続けられた言葉に信綱は少々目を見開くことになる。

 

 

 

「そして――後味の良い話の方が、阿弥に話して笑顔を見られるから」

 

 

 

「…………」

「見たところ、そこまでは意識していなかったようですね。ですが、合点がいきました」

 

 悔悟棒で口元を隠し、映姫は手応えを確かめるように何度もうなずく。

 

「火継信綱。あなたは様々な巡り合わせとあなた自身の努力によって、時流の中心に立とうとしています。ゆめゆめ、心得なさい」

 

 これからの波乱を暗示するように、映姫は悔悟棒を信綱に向けて告げる。

 

 

 

 ――そして最後まで、御阿礼の子を守り抜きなさい。

 

 

 

「それがあなたにしかできない善行です」

「言われずとも」

 

 即答。

 

 そんなこと、信綱が生まれた時から定められていたことだ。

 何が起ころうと、どんな障害が現れても全て切り伏せる。

 

「ならばよろしい。……私も彼女には思うところがあります。どうか、悔いなき次生を過ごさせてあげてください」

「肝に銘じます。あなたに心配してもらえて、阿弥様も嬉しいことでしょう」

「閻魔に世辞を言うものではありませんよ」

 

 映姫はそう言うものの、口元には微笑が浮かんでいた。

 

「ではお行きなさい。ここは生者が居るべき場所ではありません。……いつかあなたを裁く時、良き生き方をしていることを願います」

「閻魔がそれを言って良いのですか?」

「無論。閻魔が衆生を裁くのは、民により良く生きてほしいからに他なりません」

 

 この四季映姫という閻魔も、心の中では常に全ての幸福を祈っているのだろう。

 それで事実が覆るわけでもないから、手心を加えることなく裁きは下すのだろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 これよりしばらくの後、稗田阿弥が誕生する。女児だった。

 それから程なくして、幻想郷を霧が覆い始める。

 

 これに端を発し――幻想郷で最後の、原始的な戦いの異変が幕を開けることとなる。

 

 

 

 動乱の時代は、すぐそこまで迫っていた――




Q.どうやって帰ったの?
A.信綱くん、ボッシュートです(スキマ)

ということで揺籃の時代が終わりを迎えました。
次回からはいきなり吸血鬼異変とそれに連なる騒動をぶっ込んで行きます。序破急だとここが破であり急。阿求の時代は半分ロスタイムみたいなもんです。

そして割りといろんな方面の妖怪に目をつけられつつある主人公。但し、現時点では阿七が気にかけているから気になる、といった間接的なものです。
さて、これがどうなるかは今後の話次第になります。

これにて今年最後の投稿になります。来年もよろしくお願い致しますm(_ _)m


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場人物紹介

 ということで揺籃の時代でのメイン人物を紹介。基本、時代の節目ごとに一回は入る感じです。
 例によって作者の主観かつぶっちゃけ話も入っています。見なくても特に問題はありません。


 火継信綱

 

 読者に登場人物で最もヤバい奴を聞いたら多分こいつがナンバーワンになる系主人公。実際ヤバイ。

 平和な時代が続いている頃に生まれたため、人前で戦う機会に恵まれていないが、すでに中級の妖怪程度なら無双可能。一勢力の長クラスの妖怪とも戦える領域はすぐそこまで来ている。

 言動や行動はちょっとツンデレ風味な面倒見の良い好青年そのものだが、思考は基本的に打算や敵意を買わないことに終止している。

 理由はもちろん、御阿礼の子への悪影響を避けるため。

 ……が、それとは別に彼自身の感情もちゃんと持っているため、上記の行動理由を助長する程度にはお人好しなのも事実。人間味のある狂人を目指してます。

 恨みや妬みを極力買わないためならば、殺してしまうのが後腐れのない場合もあるのだ。

 阿七のいない期間は妖怪の山にほど近い領域で獣を狩り、魚を釣り、山菜や薬草を採って食い扶持を稼いでいた。そのためか結構な数の妖怪と知り合っている。

 

 なんだかんだ悪人ではない。道徳意識も倫理観も人並み以上にしっかりしたものを持っているし、貧乏くじを引いたらボヤく程度の人間性も持っている。

 が――御阿礼の子のためならあらゆる道理を平気で踏み越える。

 御阿礼の子が死んだら頼まれないかぎり後を追うけど、御阿礼の子以外が全部死んでもちょっと眉をひそめるだけで終わる系主人公。

 

 

 

 霧雨勘助

 

 苗字なしだったのを改め霧雨家にめでたく婿入り。それ以前の苗字? 考えてません(暴露)

 友達思いで活発。誰とでもすぐ友だちになれる。でも恋愛事は勘弁な! という性格だったため、伽耶の告白にはそりゃもう驚かされた。天変地異と言っても過言ではない。

 狂っている姿を見たこともある信綱にすがる辺り、彼も混乱していたと見える。幸いだったのは、相談相手が狂人として生きるためには、他人の機微に聡くなければならないという鉄則を守っていたことか。

 そのおかげで伽耶と結ばれる。贈られた山芋の意味はもらった直後はわからなかったが、その日の夜に理解させられた。スゴイ気まずかった。

 信綱と伽耶、双方を心より尊敬しており、また彼らも勘助を尊敬している。

 現在は義父の元で商人修行の最中。勘助は友好的な人間関係を築くことが上手く、金勘定は伽耶が上手いという、足りないところを補いあった形で予想以上に早く物を覚えているらしい。

 

 

 

 霧雨伽耶

 

 商家の娘という設定を作ってから暖めていた苗字。ちなみに二人の息子が魔理沙の父親になる流れ。

 ここで魔理沙が産まれたら原作開始時にはお婆ちゃんになっている。

 引っ込み思案で人見知り。友人として認められている信綱や勘助には普通に接するが、他の人の前では縮こまってしまう。

 そのため告白も文字通り一世一代の大冒険だった。外堀を埋めに埋めたのは不安の表れとも言い換えられる。用意周到とも言える。

 ちなみに告白した後は布団にくるまって不安に悶えていた。信綱が勘助の背を蹴っ飛ばさなかったら心労でぶっ倒れていたかもしれない。

 めでたく結ばれてからは夫を立てることを忘れず、それでいてしっかり行動の手綱は握っている。そんな夫婦関係らしい。飲みは断れない場合を除いて週二回まで。後は応相談。

 勘助、伽耶ともに相手の足りないところを理解して、それを補って支え合いたいと思っているため、夫婦仲は極めて良好。子が産まれる日も近い。

 なお、夜は積極的な模様。

 

 

 

 上白沢慧音

 

 寺子屋の先生。卒業した現在、もはや寺子屋設定が活かされる時はいつ来るのか。

 多分阿弥が子供の頃に使われるだろう。

 信綱が生まれるずっと前から人里に暮らしているため、幻想郷での出来事も色々と見てきている。

 妖怪が集団で暴れた際には博麗の巫女に任せ、人里は震えるしかない――そんな状況も見てきた。幻想郷が妖怪の楽園だと言われればうなずくが、共存ができているかと言われるとすごく微妙な顔をしてうなずく。

 しかしそれを普段は表に出さず、模範的な教師として振る舞うよう心がけている。愚痴をこぼしたのも信綱が立派に成人し、その上彼がいざとなれば戦いに出ることを考慮してのこと。

 人格者であり、人里のことを思って自らの妖怪としての力を振るう。彼女が人里に居ることは間違いなく幻想郷にとってのプラスである。

 

 

 

 博麗の巫女

 

 文字通り。名前は設定していないし、今後も呼ばれることはない。

 泰然自若とした性格だが、根っこは非常に真面目。最近は平和な時代が続いているが、信綱と同じく修行は怠っていない。

 基本的に神社からは出ず、たまにご祈祷を頼まれたり祭りの指揮を取ったりするぐらい。最近良かったことは幸せそうな夫婦の婚姻を取り持てたこと。自分には縁遠いが、憧れるものがないわけでもない。

 ぶっちゃけこの時代でのメインではなく、次の阿弥の時代でメインを張る予定。ここで出したのは顔見せ程度。

 

 

 

 椿

 

 言葉、行動全てから地雷臭のほとばしる烏天狗。最近とうとう地雷が爆発した。

 見た目はまともだが、口を開けば下ネタばかりという残念具合。信綱も彼女のことは嫌ってはいないが、好きでもない。嫌いに限りなく近い普通ぐらい。

 烏天狗としての実力は高い方で、大天狗以上と目される射命丸某に匹敵するほどではないものの、それでも十指には入っている。

 本人の気質なのかは知らないが、妖怪が人間を襲えない現在の幻想郷に歯噛みしていた。信綱はそんな折に見つけた彼女にとっての福音でもある。

 何やら最近、やたらと修練に力を入れている模様。例えるなら好きな人との逢瀬に備えて勝負服を選ぶ女子のように。

 実は彼女の地雷が爆発した時に信綱の敵になると言ってしまったため、信綱の地雷も爆発しているのだが、彼女がそれに気づくことはない。

 お互いに地雷を爆発させる殺し愛カップル(一方通行)である。

 

 

 

 犬走椛

 

 ぶっちゃけ初期のプロットでは影も形もなかった人懐っこい白狼天狗。

 なぜか信綱の妖怪としての相棒の立ち位置をゲットしつつある。足りない実力は鍛錬と千里眼で補え!

 元が狼だからか、非常に考え方が気高く動物的。生きようとすることを否定はしないが、だからといってかつての栄光にすがる必要はどこにあるのか、というスタンス。

 ある意味幻想郷の在り方に最も適応していると言える。人間を襲えないなら、他の方法で畏れをもらえばいいじゃん、と考えている。

 最近、よく服をボロボロにして涙目で歩いている姿が目撃されている。同僚がそれを聞くと顔を赤くして逃げ出すため悪い男に騙されたともっぱらの噂。

 真相は人間にボッコボコにされてるのが悔しいだけ。知らぬは当人ばかりなり。

 信綱との関係性は普通に友人であり、互いに情報共有もする共犯者じみたもの。結構他所に知られたら不味い情報も渡しているため、椿ほどではないが信綱には入れ込んでいる。

 

 

 

 河童

 

 名無しにさせるかにとりの役をかぶせるか悩んでいる途中の河童。

 人見知りで臆病。しかし一度懐に入ると結構ふてぶてしく図々しい。あれ、書いていくとこいつ普通にダメな奴な気がしてきた。

 亀の甲より年の功とはよく言ったもので、残される側の思いを深く知っている。明確に年長者としての役割を果たす妖怪というのは意外と少ないどころか、こいつが初めてかもしれない。

 信綱以外の人間と触れ合っていた妖怪でもあり、そして信綱のことを盟友だと思っている。主人公への誤解が最も大きい妖怪と言える。

 平和な時代では表に出づらいため、大なり小なり誰でも誤解している部分があるのが事実だが。

 何気に信綱は妖怪の山に住む主要な妖怪と、大体渡りを付けられるコネを得ていることになる。河童、白狼天狗、烏天狗、八雲の式神の化け猫と知り合いはバリエーション豊富。

 

 

 

 橙

 

 幻想郷縁起を渡す時だけのチョイ役だったはずが、意外と書いてて主人公との掛け合いが楽しいということで急遽メインまで格上げされた本作での出世株。

 お調子者で尊大なガキ大将気質。マヨヒガには彼女の子分(自称)の猫が大勢いるが、命令を聞くかは謎。

 実は妖怪として人間を襲った経験が全くなく、信綱が初めての人間の知り合い。

 こいつ並みの人間がワラワラいるとか怖いからやめてくださいと内心ビビっている。

 ガキ大将気質だが、同時に優しい一面も備えている。妖怪は人間を襲うもの、という認識を持ってはいるものの、本心ではどっちとも仲良くした方が楽しいと思っている。

 妖怪と人間の違いについて、信綱を通して学んでいる途中であり、彼女の成長を主である藍と紫は暖かく見守っている。

 目下の目標は信綱をぎゃふんと言わせること。

 

 

 

 八雲紫

 

 幻想郷の管理者であり、とらえどころのない妖怪。信綱の天敵。

 言っていることがあっちこっちフラフラする上、ボケているのかからかっているのか全くわからない言動をすることもある。

 そのくせ核心は突いてくる。生真面目な信綱はやりづらいと思っている。

 とはいえ、あまり信綱をからかったりはしていない。理由は反応が面白くないから。

 博麗大結界を張った直後の幻想郷を逐一書物に残すべく、御阿礼の子の転生周期の短期化を考案し決行した人。火継の人間からすれば大歓喜待ったなしの行動だが、しばらくして落ち着いたら戻すつもり。

 また人間のこともなくてはならない存在だと認識はしているが、そこまで大切には思っていない。人里の立場が弱いのもそのため。

 信綱に対する認識も未だに阿七の側仕えをしていた人間止まり。

 ――これが変わる時は近い。




 忘れてるキャラがいたら教えて下さい(土下座)
 ちなみにここに出てくるキャラは基本、次の時代でも出てくるキャラです(生き残れるかは別問題)

 では、次からは動乱の時代の始まりになります。どうか今年も拙作をよろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

動乱の時代 -稗田阿弥-
霧に蠢く狂気


 自警団から死者が出たのは、実に数十年ぶりの出来事だった。

 

「ここに遺体が?」

 

 信綱が自警団の屯所を訪れると、中にいた者たちからすがるような視線を一斉に投げかけられる。

 平和な時代では腫れ物扱いだったというのに、危険が自身に迫っているとなると現金なものである。

 

 信綱が目を向けた遺体は荼毘に伏せられ、それでもなお床に血の染みが出来るほどの血溜まりができていた。

 

「確認しても?」

「ええ、お願いします」

 

 自警団の班長に請われ、荼毘に近づく。屯所にいる者たちが一斉に顔を背けたことから、遺体の状況が凄惨なものであることは想像に難くなかった。

 軽く黙祷を捧げてから、荼毘を開く。

 

 そこにあったのは人間の形を留めない、人間だった者の姿だった。

 

「ふむ……」

 

 ここまで運んでくるだけでも相当の苦労があっただろう。誰だって半分に裂けた人間の死体を運びたくはない。

 内臓が綺麗に食べられて残っていないのが不幸中の幸いか。

 手足の傷を軽く見ても爪による引っかき傷や、おぞましい怪力で骨だけを露出させられた部分も見受けられた。

 総じて――途方もない苦しみと絶望の中で死んだことが容易に想像できる死に様だ。

 

 これらの情報を信綱は眉を軽くひそめる程度で受け流し、再び荼毘を伏せる。

 

「……このこと、家族には」

「まだ伝えてません。どう伝えたら良いのか……」

「……金はこちらが持つ。火葬をして骨だけが見つかったことにして伝えろ。それまでは行方不明……いや、妖怪が目の前で殺して持ち去ったと伝えてくれ」

 

 ありのままに見せたら精神が崩壊してしまうかもしれない。というより、するだろう。

 ただの事故ならまだしも、これは明らかに弄ばれた可能性が高い。

 残された者の悲哀を考えると、可能な限りの配慮はしておきたかった。

 

「よろしいんですか?」

「金に関しては問題ない。それにこれをそのまま伝えてみろ。ご家族なら気が触れてもおかしくないぞ」

「そ、そうですか。差し出がましいことを失礼しました!」

「別にいい。ああ、葬儀屋に行くならその足で上白沢様に言伝を頼む」

「言伝ですか?」

「ああ。――緊急の会合を火継の家主導で開く故、人を集めてほしいと」

 

 信綱が真剣な顔でそう伝えると、まだ年若い自警団員が慌てて駆け出していくのが見えた。

 彼も今の時期に自警団所属など災難なことだ、と内心で彼に同情する。

 そして残された面々からの視線を受けつつ、信綱は彼らへの対応を考えて口を開く。

 

「明日以降の方針はこれより行われる会合で決めるが、今日のところは外へ通じる門を閉め切り、見回りは里の内部だけに留めてほしい。……このような犠牲が出てしまったことを、里の人間として悔しく思う」

「わ、わかりました! 今すぐに門を閉めます!」

「櫓での見張りも忘れないよう頼む」

 

 信綱が来るまでは、誰もが凄惨な光景に言葉を失っていた屯所の空気がにわかに力を取り戻す。

 それはやるべきことがまだ残っている騒々しさでもあり、いつまでも死者に拘っていられないという生者の傲慢さでもあった。

 

「では私は会合に行く。くれぐれも見回りは二人以上で行い、決して単独行動は取らないこと」

 

 それを伝えて信綱は出て行こうとする。

 そんな彼の背中に、投げかけられる声があった。

 

「あ、あの! 的確なご指示、ありがとうございました! 俺、あなたたちのことを誤解していたみたいです!」

「…………」

 

 自警団の年若い班長の言葉を聞いて、周囲の様子を見る。

 見る限り、皆の反応は概ね班長と同様のようだ。

 身近な存在から死者が出てしまった以上、彼らを率いる人物を求めていたのだろう。

 そしてそれがたまたま信綱に当たってしまった。

 被害者のことを慮った言動も大きかったかもしれない。少々の出費と口頭での悔恨だけで人々の歓心が買えるなら安いと思って言ってみた結果がこれである。

 

「……里の人間として当然のことをしたまでだ。私に感謝するより、今は早く作業を終わらせることを優先しろ」

 

 君の誤解は実に正しいものだと告げる義理もない。過度の尊敬は不要だが、侮蔑も無用なのだ。

 なので適当にあしらって、信綱は屯所を出て行く。

 

 外に出た信綱を待ち構えていたのは一寸先、とまでは行かないものの、相当に濃い白霧だった。

 それを鬱陶しそうに睨み、信綱は軽くため息をつく。

 

「……本当に、嫌な霧だ」

 

 濃霧が里を覆って一月。状況が徐々に悪化していく中で、信綱は今後のことを考えて歩き始めた。

 

 

 

 

 

 この霧が里を覆ってから、良いことは一つもない。

 老人や子供といった、身体の弱い者たちからバタバタ倒れていく。春だというのに日が差さないため、野菜も育たない。仕事ができなくなる場合もある。

 信綱もここ最近は山に入れていない。今は戦闘力が求められているので、仕事に困ってはいないが。

 これだけなら偶然ということも考えられる上、霧のせいと言える明確な害があったわけではないため、人々は不安に襲われながらも普段通りの生活を送っていたが――今日で終わりである。

 

 信綱は稗田の邸宅に集まってもらった人々を見回し、まずは頭を下げる。

 

「多忙の中、ご足労頂き感謝します。火急の用があり、皆様を招集させて頂きました」

「信綱、何があった? お前が自発的にこのような会議を開くのは初めてだろう」

 

 参加者でもある慧音が皆の困惑を代表して問いただしてくる。

 信綱、というより火継の家は里の運営にも権力にも興味を示さず、程々の距離を保ってきた。

 そんな彼が能動的に動く内容と言えば思い当たるのは一つしかない。

 

「……何かあったのか」

「ええ。残念ですが、つい先程外に見回りへ出ていた自警団員の遺体が見つかりました」

 

 どよめきが広がる。ここ二十年以上、自警団の者たちが死ぬことはなかったのだ。外の見回りと言っても安全な里の外周を回るだけ。

 それにもかかわらず死者が出た。それは今の若い者たちが忘れつつある――妖怪の脅威である可能性が高い。

 

「私が呼ばれて軽く検分したところ、妖怪のものと判断させてもらいました。今後の里の取るべき動きを議論したく」

「ま、待ってくれ! なぜ妖怪と断定できた! この霧のせいでたまたま獣が近くに来たことを気づかなかった場合もあるだろう?」

 

 慧音の疑問と、それに追随するように集めた人々がうなずく。

 信綱は彼女らに対し、僅かに言うべきか否か躊躇う姿を見せてから、重々しく口を開く。

 

「……遺体は頭から股下まで、縦に引き裂かれて真っ二つになっていました。その上手足には獲物を弄んだと見られる傷が見受けられた。……このようなことができる獣を私は知りません」

 

 比類なき残虐性を持ち、人間を遊び道具としか思わないような奴にしかできない所業だ。

 信綱は吐き捨てるようにそう言って、話を切り上げる。遺体の話は気分が悪くなるだけで、何も得られるものがない。

 

 普段から感情をあまり表に出すことのない阿礼狂いの信綱が、明確に嫌悪の感情を表に出した。

 それで慧音以外の皆も思い知る。今は平和な時間などではなく、嵐が人里を襲っているのだと。

 

「……それで、お前さんは俺たちを呼んでどうするつもりだ? 火継の若頭」

 

 老人たちにとっては数十年ぶりの妖怪の脅威に慄いていると、その中から一人の壮年の男性が声をかけてくる。

 霧雨商店の旦那。伽耶の父親であり、今は勘助の義父でもある。その縁で信綱とも繋がりは深い方だ。

 

「今後の見回りと里の進退について、皆様にご裁可頂きたく」

「言ってみろ。お前さんらのところは有事に動く。俺らは平時に動く。そういう了解だ」

「では。――まず自警団の活動ですが、今後は里の内部の見回りのみにし、更に最低二人一組、欲を言えば三人一組で動くよう義務付けてください。

 外の見張りと見回りは火継の者たちにやらせます。その上で博麗の巫女に助けを求めるのがよろしいかと」

「……それで、若頭はどうするつもりだ?」

「博麗の巫女に頼めば、遠からず此度の異変の黒幕がわかるでしょう。打って出ます」

 

 事もなげに言ってのける信綱に再びざわめきが起きる。

 今度はそれを信綱が手で制し、口を開く。

 

「他の動向に関しては皆様の認可次第ではありますが、打って出ることに関しては決定事項です。覆すつもりはありませんので、ご了承を」

「……理由を聞いてもいいか?」

「決まっています」

 

 相変わらずの無表情。だが――瞳に宿る激情はこの場にいる誰よりも強かった。

 

 

 

「――阿弥様を害する畜生が今も呼吸しているなど、許しがたい事実ですから」

 

 

 

 この霧の影響は御阿礼の子にも及んでいるのだから、信綱に戦わない理由など存在しなかった。

 

 

 

 

 

 先述にあったように、この霧が出てから良いことは一つもなく、老人や幼い子供たちが倒れている。

 その中には――生後数年と経っていない、阿弥も含まれていたのだ。

 

 信綱は一通りの方針を取りまとめて会合を終えると、その足ですぐに阿弥の部屋に向かう。

 今は女中に任せているが、本心を言えば一秒たりとも離れずに看病していたいのだ。

 

「阿弥様の容態は?」

「あ、信綱様。先ほど熱冷ましを飲ませましたので、今は落ち着いておられます」

 

 女中の視線に合わせて顔を傾けると、ほんの僅かに顔の赤みが引いて静かに眠る赤子の姿があった。

 この方が次代の御阿礼の子。奇しくも阿七と同じ、阿礼乙女である稗田阿弥その人だ。

 

 信綱は苦しそうに眠る赤子を忸怩たる思いで見つめる。

 彼女の苦しみを速やかに取り去ってやれない自分への怒りが煮えたぎる。それと同時に、このようなことを引き起こした存在に対する憎しみも膨れ上がっていく。

 

「…………」

「信綱様?」

「……医者が来たはずだ。なんと仰っていた?」

「は、はぁ。お医者様が言うには、この霧のせいで何人も人が倒れているとのことで……症状は同じだそうです」

 

 全身の倦怠感、発熱、ひどい場合は起き上がることすら億劫になってしまうほどの脱力感が襲うらしい。

 人里の医者では原因が特定できず、対処療法的に栄養のあるものを食べさせ、発熱を抑える薬を出すことぐらいしかできていない。

 今はまだ病気による死者は出ていない。だがこの霧が今後も続くようであれば――夏を迎えることは辛くなるかもしれない。

 

「……殺してやる」

 

 低く、声を押し殺してつぶやく。

 この事象を引き起こした黒幕を、この手で引き裂く。生まれたことを後悔させ、誰に手を上げたのかじっくりその身に刻み込んだ上で殺す。

 

 すでに博麗の巫女への使いは出してある。後は彼女の動向に注意を払っていれば、必ず動く時が来る。その時に合わせて動けば、上手く異変解決に同行することができる。

 拒絶してきたら、その時は先ほどの犠牲者の話でも持ち出せば無碍にはされないはず。向こうとて人里との関係を無闇に悪化させたくないだろう。

 最悪の場合は無視すれば良い。異変の黒幕をどうにかするという目的は同じである以上、排除までされる可能性は低い。

 

 ああ、いや。細かい理屈など信綱にはどうでも良かった。

 今、阿弥は苦しんでいて、それは誰かがこの霧を出した結果によるものである。

 阿弥を害した何かがいる。ああ――なんと許しがたい所業か。

 

 信綱は胸中の殺意が阿弥に届かないよう押し殺して、静かにその頭を撫でる。

 転生というのは容姿にも影響を与えるのか、阿七とよく似ていた。

 

「……今度は私が年上になりましたね」

 

 無論、阿弥と阿七を重ねるつもりはない。阿七も阿弥も、御阿礼の子である以上信綱にとっては至高の存在。何ものにも侵されてはならない神聖な領域。

 この言葉も阿弥が覚えていない今だけだ。彼女が起き、物心がついた時には阿七の側仕えではなく、阿弥の側仕えとして侍ろう。

 

 そのためにも――障害は排除しなければならない。

 

「引き続き阿弥様の看病を頼む。私は家に戻って話すことがある」

「はい。異変の解決をなされるのですよね? どうかお気をつけて」

 

 女中からの労いを受けて、信綱は阿弥の部屋を後にする。

 今は打てる手を打って待つ時だ。場所もわかっていない今、闇雲に動いたところで事態は好転しない。

 信綱は自身の手足となる火継の者たちに指示を飛ばすべく、自宅へと戻っていくのであった。

 

 

 

 火継の家、その道場には一族の中でも戦いに耐えられる年齢の者全てが集められていた。

 彼らの先頭には壮年から老年に差し掛かりつつある初老の男性が立ち、後ろの者たちをまとめている。

 そして信綱はその前に足を運び、皆の視線を一身に受け止めて立つ。

 泰然自若。威風堂々。彼らを動かすことに対し何の罪悪も覚えず、信綱は一族の頂点に立つ者として口を開いた。

 

「父上、これで全員でしょうか」

「ああ。お前の言う通り、戦闘に足る者たちを集めた」

「感謝します。さて、お前たち。状況に動きがあった」

 

 ざわめきは広がらない。代わりに広がる張り詰めた空気がさらに張り詰め、事情を知らぬ者であれば息苦しさすら覚えるほどに緊張が増していく。

 

「里の人間から死者が出た。今まではまだ偶然も考えられたが、これによりこの霧は有害であると断定。異変とみなすことになった。――阿弥様を害する何かが存在するということだ」

 

 空気が変わる。先ほどまでが張り詰めた糸ならば、今は燃え盛る炎。

 煮えたぎる湯のような激情を、場にいる全員が余すところなく共有しているのだ。

 

「それなりに戦える者は二人一組で……そうだな、この状況だ。不安になって博麗神社に参拝したがる人もいるだろう。

 そういった人々の護衛という名目で博麗神社に足を運び続けろ。そして巫女の動きを逐一俺に報告」

「――」

 

 返事はない。この場の誰もが、それぞれの実力は把握できている。信綱が解散の一言を言うだけで、それぞれが細かい指示を受けるまでもなく勝手に動き始めるだろう。

 普段は御阿礼の子の側仕えを巡って殺し合い寸前の争いをするが、御阿礼の子に危機が及んでいる場合は目的を統一させた、一糸乱れぬ集団と成り果てる。

 それこそが阿礼狂いと呼ばれる所以。そして信綱も阿礼狂いの一人として、ここにいる者たちの狂いぶりは信頼していた。

 

「父上と俺は黒幕の居場所を突き止める、ないし巫女が動き出したら同行を狙って動く。この霧だ。最悪、どこかで追い越しても問題はない」

 

 懸念は八雲紫の存在だが……彼女が本気で動いているなら、今の状況はとうに終わっていなければおかしい。

 考えるだけ無駄。もしくは、楽観的に見た方が良い。

 

「そして首謀者を殺す」

 

 事もなげに言い放たれたそれに、燃え盛っていた気迫が一気に爆発へと繋がる。

 殺意、殺意、殺意。顔も知らぬ黒幕に対する怒気が天井知らずに膨張し、瘴気すら漂わせる。

 先ほどは事情を知らぬ者なら息苦しい程度だったが、今この場に来たら――問答無用でひっくり返ってもおかしくない。

 

「首謀者を、殺す」

 

 もう一度。今度は噛み含めるように、一言一句をゆっくりと。

 その空気の震えが伝播し、皆の耳に染み通ったのを待って、次の言葉を放つ。

 

 

 

「阿弥様を害する者がいる。阿弥様を害する者がいる。――阿弥様を害する者がいる!!」

 

 

 

 信綱の言葉が道場に響き渡り、そして室内の者たちがそれに追随して同じことを叫ぶ。

 

 

 

『阿弥様を害する者がいる! 阿弥様を害する者がいる! 阿弥様を害する者がいる!』

「――殺すぞ」

 

 

 

 怒号が道場を震わせ、皆が動く。複数の人間が全く同じ意志に統一されて、一つの物事にあたっていく。

 ここに阿礼狂いが本当の意味で動き始める。御阿礼の子を害した者に鉄槌を。ただそれだけのために私心を捨て、倫理を捨て、命を捨てる。

 この異変を起こしたものは、まだ自らが何を敵に回したのか理解する由などなかった――

 

 

 

 

 

 信綱は今回の事件が妖怪の山の仕業だとは考えていなかった。

 いや、考えていなかったは正確ではない。知っていたと言う方が正しい。

 

 霧が里を覆った初期の頃、信綱は椛や椿の話していた内容が真っ先に頭をよぎった。

 そのため確認を椛に再会した時に取っていた。

 時間は少し遡り――

 

「ああ、良かった! この霧で会えるとは運が良い」

「本当にな」

 

 二人で鍛錬をする場所で待っていた時、椛が空からやってきたのだ。

 お互いに相手の情報が欲しいため、ここで待っていれば会える可能性が高いと踏んでいた。

 実際は椛の言うように運が良ければ会えるという程度。だが、会えた場合に得られる利益は計り知れない。

 

「そちらはどうですか?」

 

 地面に降り立ち、信綱と相対して椛が近況を尋ねてくる。

 信綱は肩をすくめ、それでもにじみ出る現状への苛立ちを含んだ口調で話し始めた。

 

「今のところはいつも通りだ。霧が出て、人が倒れてもまだ決めつけるには早い」

「うん? 声は届いてないんですか?」

「声?」

「はい。我々の軍門に下れとかそういう感じの」

「……来てないはずだ」

 

 この幻想郷で妖怪の山は一大勢力だ。彼ら相手に軍門に下れなんて言い切る命知らずは、幻想郷で生きられないだろう。

 

「……外から来た妖怪か?」

「おそらく。で、言い分そのものは幻想郷でだらけきったお前たちを我が支配下に置いてやろうフーハハハー、みたいな感じでした」

「高笑いは必要か?」

「声、結構甲高かったですから女性、それも少女ですよ多分。それの表現です」

「う、ううん……?」

 

 時々椛がわからなくなる。声真似をしたのか定かではないが、高笑いの部分は確かに子供っぽい笑い方だった。

 

「名前とかは?」

「言ってないです。ただ、ツェペ……なんとかの幼き末裔だとかどうとか」

「ちゃんと覚えとけよ」

「発音しづらかったのでつい」

 

 こいつ当てになるようでならねえ、と信綱は内心で嘆息する。

 彼女なりに身振り手振りも交えて必死に伝えようとしているのはわかるが、単語に歯抜けがある辺りどこまで信じて良いものか。

 

「とにかく、それは私たちの方にも宣戦布告してきたんです」

「で、どうなった」

「まあ怒りますよ。大天狗様方は怒髪天を衝くと言った有様で」

「だったら戦争しろよ」

 

 そのまま共倒れしてくれると人里的に非常にありがたい。できれば首魁を残してこちらに差し出してくれるとなおありがたい。

 そう思っていたのだが、椛の深刻そうな顔を見る限り、ことはそこまで上手く運ばなかったようだ。

 

「……問題はここからです。以前にも話した妖怪の復権のために云々って話、覚えてます?」

「巫女に討伐されること覚悟で人間を襲って、畏れを取り戻すだったか。……切っ掛けがあれば動くとも言っていたな」

 

 ものすごく嫌な想像が浮かんできてしまった。しかも辻褄は合ってしまう。

 

「ええ、まあ、はい。これに乗じてかつての権威を取り戻そうという勢力がいまして」

「……じゃあ、何か? そいつについていった奴もいるのか」

「…………」

 

 無言で顔をそらされた。どうやら天狗も一定数、向こうに流れていったようだ。

 

「さ、さすがに全員じゃないですよ? 上の方では全面戦争するか敵の敵は味方作戦で協調するかで揉めているみたいですし」

「お前らのところ、グダグダにもほどがあるだろう……」

「普段は天魔様が辣腕を振るうところなのですが……まだ動いてないみたいです」

「ふぅん……」

 

 今の情報には少々気になる点があったため、信綱は覚えておくことにする。

 どうやら天魔はこれまで話に聞いていた大天狗とは違うようだ。

 さて、決断のできる類の天魔はこの状況で本当に何もせず静観を決め込むだろうか?

 

 妖怪の山の頂点だ。境界の賢者ともやり合えるだけの武力、ないし政治力はあると考えるべきだ。

 侮って痛い目を見るのはこちらになる。忘れず留意しておこう。

 

「そっちが色々と揉めているのはもう日常茶飯事だからどうでも良いな」

「そちらに迷惑かける可能性濃厚ですけどね!」

「お互い不可侵で、相手の領域に許可なく入った者は好きにして良い。そういう暗黙の了解だろう」

 

 要するに、危害を加えるなら殺す。それだけである。

 今さら天狗の一体や二体程度なら、信綱一人でもどうにかなる。

 

「まあお前らが今回の黒幕じゃないことはわかった。で、下手人の居場所は知らないか?」

「……すみません。私も千里眼で見ているのは自分の領域ばかりなので、全容の把握まではできませんでした」

「いま見てもわからない?」

「もう霧が幻想郷を覆ってますから、全体を見ても白いモヤばかりですよ」

「そうか……」

 

 椿が言っていた、椛は要領が良いようで根が真面目という言葉を思い出す。

 自分と鍛錬をしてサボっている時でも、周辺を見て回ることだけは怠っていなかったように、何か目的でもなければ自分の世界を広げようとはしないのかもしれない。

 

「……まあ、ここまで情報が得られただけでも御の字か。済まない、無茶を言った」

「いえ、私の方こそすみません。あなたも大変でしょうに、余計に厄介事を押し付けただけのような……」

「……仕方ないさ。幻想郷で我を貫くことの難しさは理解しているつもりだ」

 

 外から来た妖怪。それに付き従う天狗の集団。

 彼らと戦わなければ、阿弥の容態は良くならないのだ。是非もない。

 

「お前が敵でないことを確認できたのも良かった。じゃあな。俺はしばらく人里で異変の情報を集める」

 

 それに椛が敵でないだけ色々とマシだ。彼女が敵に回って、なおかつ後方からの支援に入られたら、信綱でも後手後手になることは避けられない。

 千里先を見渡せるというのは、それだけで恐ろしく厄介なのだ。

 

「あ、あと一番大事なことがあります!」

「……まだあるのか」

「そんな嫌そうな顔……しますよね、ハイ」

 

 露骨に嫌な顔をする信綱だが、椛も原因が自分の属する集団にあるため、強くは言えなかった。

 妖怪同士の争いに人里が巻き込まれるなど良い迷惑だ。

 しかし、黙っていたら人里にも被害が及んでしまう。

 信綱はザワザワと胸に迫る嫌な予感を振り払いながら、口を開いた。

 

「内容はなんだ」

「ええと、ですね。いつか来ると思っていた日が近いと言いますか、なんと言いますか……」

「ハッキリ言え。耳と尻尾の毛全部逆立てるぞ」

「手入れに時間かけてるんですからやめてください!?」

 

 耳と尻尾を手でかばいながら椛が距離を取っていく。

 

「えー……では言いますよ。驚かないで聞いてくださいね」

 

 

 

 ――椿さん、向こうについたみたいです。

 

 

 

「…………」

 

 椛の言葉を聞いて、信綱はどこか納得した表情になる。

 いつか殺し合おうと言って別れた彼女は、この機会を使って自分と殺し合いを楽しむ魂胆のようだ。

 確かにこの霧は人里、並びに阿弥に害を及ぼしているため、信綱が動かない道はない。

 

「そうか」

「……あれ、意外と驚かないんですね」

「当然だろう?」

 

 

 

 ――阿弥様の敵に回るなら、誰であれ殺す。

 

 

 

「……っ!」

「あいつに言うべきことは何もない。話はそれだけか?」

「え、ええ……」

 

 椛は何をそんなに震えた声で答えるのか。何をそんな、化外を見るような目で見ているのだ。

 その目は人間がバケモノを見る時にするものだろう。妖怪が人間を見る目ではない。

 

「そうか。じゃあしばしの別れだ。次は異変が終わってから会いたいものだな」

「は、はい。そ、そう、ですね……」

 

 そう言って信綱は一人、山から降りていく。その姿はすぐに霧に紛れて見えなくなっていった。

 これが人里で死者の出る、ほんの少し前の話だった。

 

 

 

 

 

 残された椛は脂汗を流して後ろ姿を見送っていたが、やがて憔悴したように膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。

 

「はぁっ、はっ……な、なに、あれ……」

 

 怖かった。子供の頃から世話をして、面倒を見てきた青年がまるで別人のように感じられた。

 椛の見立てでは信綱は椿に対し、好意とまでは行かなくても本気で嫌っている様子はなかったはず。

 そんな存在が敵に回り、殺し合いを強いてくる。常人なら戸惑うところだ。

 

 だというのに、あの青年は何の迷いもなくこれまでの時間を捨てた。

 戦う覚悟があるから? そういう領域の話じゃない。もっとおぞましい何かだ。

 そこまで考えて、椛はようやく、事ここに至ってようやく、信綱がどういう存在なのか思い知ることになる。

 

「阿礼狂い……!」

 

 兎の集団に紛れ込む餓狼など、そんな生易しいものではない。

 あれは怪物だ。人間とも妖怪とも違うナニカ。

 

「あ、ああ……!」

 

 同時に思い至る。椿の行動は、信綱に対して効果的なものでも何でもない。むしろ愚行でしかない。

 椿は妖怪と人間、古来の在り方を思い出したくて信綱を育て、けしかけた。

 その果てにこそ人間と妖怪の正しい姿があると信じて。

 

 ――そんなもの、あの気狂いに存在するはずがない。

 

 間違っている。間違っている。間違っている。

 誰も彼も、火継信綱という人間を見誤っていた。二十年近い付き合いのある、自分たちでさえ騙された。

 敵にならなければ慈悲も見せる。無感情で心がないわけでもない。椛の冗句に笑みを浮かべることだってある。

 

 

 

 けど、彼は――生まれた時より気が狂っているのだ。

 

 

 

「椿さん……」

 

 逃げてください、謝ってください、と椛は誰にも届かない声量でつぶやく。

 謝って、彼に協力すれば、また……どうなる?

 

 信綱は椿の願いを叶える存在にならない。絶対に、何があってもこれは揺るがない。

 

 刃を交えることによる語り合いなど、気狂い相手では何の意味も持たない。

 ただただ無機質に、無感動に、鶏の首を絞めるように、椿を屠殺する。

 いくら戦ったところで、椿の声は信綱に届かない。届かなくしてしまった。

 もう、昔のような関係に戻ることは不可能なのだ。

 

 どこで間違っていたのか、と問われれば最初から間違っていた。

 

 誰もが信綱の資質に目を向けて、彼の精神性に目を向けなかった。阿礼狂いの意味を甘く考えていた。

 椛にできることはない。すでに出奔した椿を見つけるのは限りなく可能性が低く、信綱を止めるのは不可能と言って良い。

 

 もはや賽は投げられているのだと、残された椛は全身の震えと共に理解させられてしまうのだった――




 蠢く狂気(主人公の)
 ということで動乱の時代の始まりです。有事になっており、阿弥の身にも危険が及んでいるので最初からクライマックス状態です。

 同じ被害者な人里の面々や、情報を持ってきてくれた椛相手には取り繕ってますが、さて、邪魔する敵の前ではどうなるのやら。



 超楽しい(爽やかな笑みを浮かべて)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

戦いの前

 信綱は若い者たちが持ってくる情報を整理しつつ、ひたすらに来るべき時を待っていた。

 椿もいて、なおかつ黒幕もいる。そんな相手に無策に突っ込んだところで自殺にしかならない。

 

 それで確実に相手を倒して異変を解決できるなら迷わず実行するのだが、さすがに犬死には問題がある。阿弥を守れないという意味で。

 

 博麗の巫女が動き出すのに合わせて、動き出す。そして何としても同行し、そこからは多少行き当たりばったりになるが、異変の黒幕を討伐する。

 欲を言えばこの手で討伐したい。だが、実際は阿弥を害する霧がなくなれば良いので、多少の妥協もするつもりだった。

 彼らが阿弥を害する者を排除するのは、阿弥の苦しみを一秒でも早く取り除くためだ。それさえ果たされ、また次に危害を加えないのであれば放置してもよかった。

 うむ、ここまで理由をつけておけば博麗の巫女に断られることはないだろう。

 まあ自分たちが黒幕と会ったら殺す予定だが。

 

 そんなことを考えながら、信綱は自室に父親を招いていた。

 

「来たぞ、信綱」

「ああ、お待ちしておりました。父上」

 

 肘掛けに片肘を置いて、信綱が上座に座って父、信義を見下ろしている。

 その貫禄はもはや二十代の若造のそれではなく、阿礼狂いを率いる当主としての貫禄に満ちていた。

 

「……ふん、ずいぶんと人を使うことにも慣れたようだな」

「ええ、昔は少し戸惑いましたけどね」

 

 だが、この家は比較的マシな方だと思っている。

 力を示せば皆が従ってくれるのだ。他家のしがらみの話などを会合で聞かされていると、つくづくこの家で良かったと思わされる。

 他家との距離感を保つ方法も慣れたものだ。元より排斥はされにくい家でもある。

 平時は無駄飯食いにならない程度の仕事をしておけば無下には扱われない。

 

「まあ私の苦労話を聞かせに呼んだわけではありません。ええ、仮にも父ですから」

「無駄話はやめろ。本題に入れ」

 

 苛立つ信義に急かされ、信綱も肘掛けから手を放して真剣な顔で父を見る。

 

「では――私と父上。異変の解決に向かうのは二人です。よろしいですね?」

「ああ。それだけ言いに俺を呼んだわけでもないだろう」

「もちろん。あなたはこの家において私の次に強い。故に私が期待するのは妖怪退治の予備戦力としてです」

「黒幕が出るまで、お前を温存する方向ではないのか?」

 

 首を横に振る。尤もな提案だが、信綱が温存されては黒幕の居城にたどり着くまでに死人が出てもおかしくない。というより、確実に出る。

 火継の面々も戦えるのは確かだ。だが、それは信綱のように一人で大勢の妖怪を相手に立ち回れる領域ではない。

 弱い妖怪なら戦える。中位の妖怪であれば複数人。上位ならば、その時代の側仕えに可能性が一縷。それが火継の家の人間だ。

 

 もしも信綱を温存させるとしたら火継の人間を大勢連れて行き、彼らの大半を使い潰す勢いで使えば可能性がある、と言った程度だろう。

 確かに異変の相手を追い詰めるためならいくらでも命を使うことに迷いはない。

 だが、使うにしても最大限有効に扱われるべきであって、使った命に見合わない成果しかもたらさないのなら、使う理由はない。

 

 それとこれが一番重要だが、そんな悠長な方法で進んでいては、博麗の巫女がさっさと終わらせてしまう可能性が高くなる。

 大勢の犠牲を出しながら進む安全策を取りましたが、良いところは博麗の巫女に取られました、では無駄死も良いところである。

 

「最も強い者を周囲が援護する。その形が一番消耗を減らせるでしょう。それに父上をどうでも良いところで使い捨てるつもりはない」

 

 最初から矢面に出して雑兵にやられてしまっては、無駄使いにしかならない。信綱に及ばないとはいえ、信義もまた確かな強者。使うなら相応の場所を選びたい。

 

「とはいえ覚悟はしておいてください。私かあなた、どちらかしか生きられない場合に選ばれるべきは――」

「わかっているつもりだ」

 

 信義の目を見て、信綱は自身の求める答えを父がちゃんと持っていることを確信する。

 

「……そのようですね。あなたも私も同じであるというのに、少々侮っていた」

「ふん、最終的に生かすべきはお前。悔しいが、お前以外の全員が束になっても指一本触れられないだろう」

「人間はそうです。ですが、妖怪はそうではないかもしれない」

 

 そして妖怪は触れるだけで人間の体をやすやすと引き裂ける者もいる。

 そういった時、どうすべきか――二人はそれを直接口に出すことなく、再確認した。

 

「話は以上です。時が来るまでは父上も皆と同じように見回りをお願いします。私も人里の見回りをしますので」

「阿弥様は良いのか?」

「その阿弥様が過ごしやすいよう、我々の立ち位置を少しでも良くしておくのです」

 

 無論、本心では阿弥の側にいたい。だが、現在人里において求められている力を、明確に提供できる自分が引きこもっていては里の人間に余計な不信を持たせてしまう。

 打てる手は打った。ならば後は時が来るまで可能な限り自分たちの心証を良くしておく。

 異変の解決はもちろんのこと、解決した後も考えておく必要があるのだ。

 

「……そうか。ではお前に従おう。腹立たしいが、お前が一族で最も御阿礼の子のことを知っている」

 

 六歳の頃から十年。そして例外とも言える短さの転生を経て、次代の御阿礼の子に仕えるという前代未聞のことをしている信綱こそ、歴代の火継において最も特別であると言えた。

 

「ええ、よろしくお願いします」

「……あの方の特別になれたお前が心底羨ましい」

 

 そう言って、信義は部屋を出て行く。

 おそらく彼の思考は息子である信綱への妬みや嫉みで埋まっているだろう。

 それを止めるつもりはない。仮に凶行に及ぼうとも傷一つ受けずに無力化する自信があること以上に、彼の阿礼狂いとしての在り方を信頼していた。

 

 それでも彼は忠実に動く。この霧が収まるその時まで、火継の一族は皆信綱の手足になる。

 故に無駄使いはしない。自分の手足がなくなって喜ぶ者はいない。切断するのなら、相応の利益が得られる時のみだ。

 

「早く阿弥様の側仕えだけをしたいものだ」

 

 ……あまり複雑なことは考えたくないのだが。

 できることなら無心に仕えているだけで終わりたい信綱であった。

 

 

 

 

 

 博麗の巫女が来るのは、思いの外早かった。

 

「……また会ったわね」

「……このような形で再会はしたくなかったものだ」

 

 不機嫌そうな顔をして歩く巫女に、信綱もまた苦虫を噛み潰したような顔で答える。

 二人はとある場所から出てきたところだった。

 後ろから聞こえるのは思わず耳を覆いたくなるような、絶望と悲痛が生み出した苦悶の叫び。

 以前に見つけた遺体の家族を、火葬だけ済ませた骨と対面させたのだ。

 その時の嘆きは筆舌に尽くしがたいものがあり、信綱も巫女もただ無言で頭を下げることしかできなかった。

 

「……あれ、実は肉が残ってたでしょ」

「まあ、少し冷静なら見ればわかるか。そうだ」

「どうして焼いたの? 何か判別できるならその方が――」

「縦に裂けて脂肪と血管の覗く息子の顔を、間近で見せられるものか」

 

 脳や目といった柔らかな箇所は食い荒らされ、ポッカリと空洞のある眼窩と家族を対面などさせたらどうなることか。

 

「……悪かったわ。ちょっと感情的になった」

「別に構わん」

 

 むしろやや驚いてすらいる。

 博麗の巫女は幻想郷の調停者。人と妖、天秤が片方に傾きすぎないようにする役目の者だ。

 その彼女が人里の人間の死に、明確な怒りを見せるとは思っていなかった。

 

「後味が悪いのは嫌なのよ。立場上、人里に住むような真似はできないけど……この状況、一番割りを食うのは人間でしょ」

「そう言ってくれるのは助かるが、一番ありがたいのは異変の解決だぞ」

「わかってるわよ。今、紫が探ってるわ」

「かの境界の賢者でも手こずっているのか」

「みたいね。畏れが減って、力が出しづらいとか」

 

 この巫女、腹芸という言葉を覚えた方が良い。

 実のところ信綱は、博麗の巫女と境界の賢者がつながっていたことすら初耳だった。

 より多くの情報が引き出せると踏んで知っているフリをしただけである。

 面白いぐらいに引っかかったこの巫女に対して、むしろ不安を覚えてしまう。

 

「この霧、魔力がこもっているみたい。お爺さんや子供が倒れているのもそのせい。これから結界を張るから少しはマシになるけど……」

「元を断たない限り、医者の対処療法に毛が生えた程度だろう」

「そういうこと。でも安心して。人里は私がちゃんと守るから」

「ありがたい話だな。常駐してもらえるとなお助かる」

「ごめんなさい」

「…………」

 

 本当に悪そうな顔をされるとこちらが返答に困ってしまう。

 最初に神社で出会った時の泰然自若とした空気はどこに行ったのか。

 

 信綱の推測が多分に混ざるが、彼女は元来真面目な性格なのだろう。

 あの青年の死だってそうだ。この霧を軽く見ていた人里側の不注意の産物とも言えるのに、自分のことのように責任を覚えている。

 

「……俺が言うのもおかしいかもしれないが、肩の力を抜け。あまり気負うな。誰にだってできないことはあるし、事件を起こる前から解決するなんて不可能だ。

 少なくともあの青年の死の責任は、有事の際に人里の守護を任されている俺たちのものだ。お前が背負い込むものじゃない」

 

 実際は御阿礼の子以外を背負う気などさらさらないのだが、言わぬが花である。

 

「……なにそれ、慰めてるの?」

「変に落ち込んだまま異変解決に行かれて、失敗したとあっては目も当てられないのでな」

「わかってるわよ。私が失敗したら後がないってことも」

 

 失言した、と信綱は内心で頭を抱える。

 根が真面目な彼女に重荷を確認させるような発言をしては逆効果だ。

 

「……結界を張るんだろう。ついてこい」

「え、ちょっと?」

 

 巫女の手をとって歩き出す。

 これは余計な言葉を重ねるより、とりあえず身体を動かして忘れさせた方が良さそうだ。

 今回は信綱たちも参加するつもりだが、他の異変は御阿礼の子に害が及ばない限り、動くつもりはないのだ。

 その時にこの博麗の巫女が働いてくれないのは困るどころの話ではない。

 

 

 

「はいっと、四方を囲む形で結界を張ったから、少しは霧の影響も和らぐと思う」

「助かる。そちらの摩訶不思議な術の方は俺たちにはサッパリなんだ」

 

 霊力とか妖力とか。そんなあやふやなものに頼るぐらいなら剣で斬った方が早いと考えてしまう。

 

「ま、退治屋が全員これを扱えたら私がご飯食べられなくなっちゃうわよ」

「博麗大結界があるだろう」

「あれ、張ったの妖怪側の都合というか、人間はあれあって便利なことあんまりないし……そのくせ紫は食料持ってこないし……」

 

 遠い目をされた。また踏んでは行けない部分を踏んでしまったようだ。

 やりづらい、と信綱は顔には出さないよう静かに嘆息する。

 もっと妖怪みたいなふてぶてしさがないと、博麗の巫女なんてやっていけないのではないだろうか、と門外漢なりに心配してしまう。

 

「……まあそちらの事情に深入りはしない。これからどうするつもりだ?」

「不安がって参拝する人もいるし、一旦戻るわ。私が相手した方が向こうも安心するでしょうし」

「……いつ頃動くつもりだ? 長くなるようなら、こちらから援助したい」

 

 ちなみに援助と書いて情報収集と読む。

 この巫女に頑張ってもらいたいのも本音だが、できれば異変の黒幕は自分の手で仕留めたいのも本心である。

 

「そう時間はかからないわ。一週間以内には動くつもり。あんたたちは安心して待ってなさい」

「警戒を怠るつもりはないがな。……そうだ、いくらか妖怪退治の札をもらえないか。金なら出す」

「お金はいいわ。普段ならともかく、異変の最中までお金は取らないわよ。いくつ欲しい?」

「見回りに出ている者に渡したい。四、五十枚は頼む」

「ん、今度来た時に渡すわ」

 

 仕事上の話が終わると互いに無言になる。

 巫女との接点などないに等しい上、話題が豊富なわけでもない。

 と思っていたのだが、向こうから口を開いてきたため、無言の時間は思いの外短く終わる。

 

「ねえ、あんたは普段何してるの?」

「知ってどうする」

「別に何も。ただ、初めて会った時に興味本位で私に聞いてきたじゃない」

「あんな些細なこと、よく覚えていたな」

「そう言うってことはそっちも覚えてたんだし、お互い様よ。自分で言うのもあれだけど、人と話すのは珍しいしね」

 

 本当に孤独な役目だ。あっけらかんと言っているが、何年あの神社にいたのか。

 信綱には隣を歩く巫女が理解し難い存在に思えた。

 

「いいから質問に答えなさいよ。減るもんじゃないでしょ」

「……そんな面白いものでもない。今は阿弥様もいるから、大体彼女のお側にいる。後は暇さえあれば剣を振っているだけだ」

「ふぅん。楽しい?」

「この上なく」

 

 御阿礼の子に仕えていられるのだ。これ以上の人生などどこにある。

 

「私にはあんたがよくわからないわ……」

 

 どうやら相手を理解できないと思うのはお互い様だったようだ。

 

「代わり映えがしないという点ではそちらと大して違わない。俺はそれで満足だが」

「私だっていつも通りの時間が続くに越したことはないわよ。でも……」

 

 肩を落とし、ため息をつく巫女に信綱も空を仰いで嘆息する。

 きっと今、考えていることは同じだろう。

 

『妖怪は人間の都合を考えない』

 

 異変を起こされて良い迷惑だ。その結論にたどり着き、二人は顔を見合わせる。

 

「……まあ、起こってしまったものは仕方ない。やるだけやりますか」

「それが人間の役目というやつなのだろう」

 

 物事に対し全力で、希望を持って死力を尽くす。

 それこそが今日まで人間を生き残らせ、また繁栄させてきた底力なのだ。

 

 そんな風に二人が気合を入れなおしていると、霧の向こうから一人の男性が歩いてくる。

 その男性はこちら――特に信綱の方を見て、走って駆け寄ってきた。

 

「あ、ノブ! ……っと、博麗の巫女様! お元気そうで何よりです」

「……勘助か。今はあまり外に出ない方が良いぞ。万が一があるかもしれん」

「客先にちょっと行ってきただけだよ。ノブは?」

「巫女に里を案内していた。それも終わったからこれからどうするか考えていたところだ」

「そうか。なら二人ともウチの店に来るか? 酒は出せないけど、お茶ぐらいなら出すよ」

「ねえ、この人は?」

 

 信綱と勘助の二人が話していると、巫女が気になったのか信綱に聞いてくる。

 

「友人の勘助だ。だいぶ前に霧雨商店に婿入りした。あそこはそれなりに大きい店だから顔は合わせているはずだぞ」

「霧雨勘助です。博麗の巫女様も霧雨商店をよろしく!」

「え、ええ……」

 

 ニコニコと、陰鬱な霧に似合わない朗らかな笑みを浮かべた勘助が巫女の手を取る。

 巫女も彼の雰囲気に押されたのか、ただ単に賑やかな人に慣れていないのか、やや萎縮気味だった。

 

「……結界も張り終わったんだ、少しぐらい時間はあるだろう。茶でも飲むか?」

「いや、でもこれから戻って札を作らないと……」

「だ、そうだ。異変が解決したら良い茶葉か酒を奉納した方が良さそうだぞ」

「ん、今は二人とも忙しいか。じゃあこれ終わったら良い酒を奉納させて頂きます! ノブも後でなー!」

 

 来た時と同じく、忙しなく霧の向こうに消えていく勘助を信綱は手を振って見送る。

 霧の影響で外に出る人間が減っており、沈んだ空気の人里において彼の明るさは眩しく感じられた。

 

「……元気な人ね」

「それが取り柄だと言っていた。さて、札を作るならあまり引き止めるのも悪いか」

「そうね。ああ、見送りはいらないわよ。私、飛べるから」

 

 そういった巫女はふわりと空中に浮かび上がる。

 妖怪が空を飛ぶ光景など見飽きていたので驚きはないが、やはり彼女が人間とは決定的に違う存在なのであると理解してしまうには十分なものがあった。

 

「じゃ、また」

「ああ、また会おう」

 

 再会を約束する言葉で別れる。

 霧に消える巫女の姿を見て、信綱は遠からず戦いの時が来ることを実感するのであった。

 

 

 

 

 

「で、巫女様は来ないけどお前は来るのかよ!?」

「巫女の案内で疲れたから休憩だ。茶を飲んだら見回りに出る」

 

 巫女と別れてから信綱は霧雨商店に足を運んでいた。理由はもちろん、勘助に茶をたかるためである。

 ……というのは建前として、実際はある種の確認を兼ねていた。

 店の奥で出された熱い茶をすすりながら、信綱は口を開く。

 

「伽耶の調子はどうだ?」

「まだ臨月には時間があるし、大丈夫だって。意外と心配症だな」

 

 もう一人の友人である伽耶のことだ。

 彼女は阿弥の生まれたすぐ後に身ごもっていたことがわかっていた。

 

「……こんな霧が出てもお前は心配じゃないのか?」

「心配だよ。でもこういう時だからこそそんな顔は見せない。俺が伽耶を支えるんだから、支える側がグラグラじゃダメだろ」

 

 そう答える勘助の姿に、信綱は一人の大人から親になろうとしている男の姿を見た。

 御阿礼の子に狂った自分にはなれない姿だ。それが尊いことであることはわかるので、素直に尊敬の念を深めた。

 

「それにお前や巫女様も動いてる。だから大丈夫だって信じてるよ」

「……そうか」

 

 上手く勘助の顔が見られない。ごまかすように茶を飲み干す。

 

「店主、済まないが店はやっているか? 日用品をつい切らしてしまってな」

 

 どうにかして話題を変えようと思っていた矢先、店の表から耳慣れた女性の声が聞こえてくる。

 

「いらっしゃいませ、慧音先生! 何をお探しで?」

「これとこれを……お前は相変わらず元気そうで何よりだ。今はどこも暗いからな。お前ぐらいは明るくないと」

「ははは、これが取り柄ですから」

 

 先に出た勘助の姿は顔見知り相手とはいえ、商人として堂に入っていた。

 婚儀を結んだのが五年前でありそこから修行を続けていたのだから、そろそろ半人前を抜ける頃だろう。

 

「慧音先生」

「む、信綱もいたのか。なんだ、何かあったのか?」

 

 信綱も顔を出すと、慧音は勘助に見せていた笑顔から一転して深刻な顔になる。

 有事に動くため、信綱が動く場所は大体異変に関係がある場所になるが、だからといって行動全てがそれに直結するわけではない。

 

「ちょっとした休憩ですよ。すぐ見回りに合流します」

「そ、そうか。すまない、私も少し落ち着けていないのかもしれないな」

「……勘助、俺はそろそろ行く。悪いが湯呑みは片付けておいてくれ。慧音先生、少し歩きません?」

「わかった。気をつけてな!」

 

 勘助に別れを告げて、信綱は立ち上がる。慧音が買い物を終えるのを待って、一緒に店を出る。

 外に出ても青空は見えず、相変わらずうんざりするような霧が空を覆っている。

 普段は日を浴びて輝く慧音の銀髪も、霧のせいか灰色にくすんで見えた。

 

「何か話でもあるのか? ないなら勘助たちとの時間を優先した方が……」

「博麗の巫女と少し話したのですが、遠からず動くそうです」

「そうか! ではこれで異変は解決するか……」

 

 信綱の口から語られる朗報に、慧音は顔を輝かせて喜色を露わにする。

 これは少々手こずっていることは伝えない方が良さそうだ。

 

「結界を張って霧の影響も抑えているみたいです。こちらは先生の方から伝えておいてください」

「わかった、任せておけ。他には何かあるのか?」

「ええ、まあ――我々も動きます」

「っ!!」

 

 喜色から一変。慧音の顔がこわばる。

 現在の火継が恐れられているのは、最近の出来事として結界大騒動の折に動いたことが原因と言われている。

 御阿礼の子が帰ってくる場所を守るべく、悪鬼羅刹のように暴れ回り、里を襲う妖怪たちを殺したとか。

 

 ……これだけなら敬われてもおかしくないのだが、同胞の死すら気にせず血に塗れて戦い続ける人間――修羅の群れに敬意を持てるかと言われたら怪しいところだ。

 数十年前。信綱が生まれるより前の話だが、慧音なら知っているだろう。その時のことを思い出したのかもしれない。

 

「そう、か……」

「我々も阿弥様を害する者に対して黙ってはいられませんから」

「いや、わかっている。お前たちがどういう一族なのかも理解しているつもりだ。だが……ああ、上手く言えないな。なんと言えば……」

「飾らず言ってくださって結構ですよ。どんな戦い方をしたのか、おおよそ想像はできます」

 

 今、信綱が異変解決に際して消費するものとして考えているもののように。

 自分たちは御阿礼の子のためなら何だって行い、どのような傷も厭わない。

 手足がもげて、内臓が露出しようと死ぬ時まで戦い続ける。痛みも恐怖もなく、ただただ御阿礼の子の力になれる歓喜だけを瞳に宿して。

 

「まあ、そういう人間なんだと割り切ってください。誰彼構わずってわけでもないんですよ?」

 

 狂人であるが、狂犬ではない。本能だけで動く畜生とは違うのだ。

 理性で狂気を振るうため、余計にタチが悪いとも言えるが。

 

「……すまない。お前みたいな顔をした火継の人間を何度も見てきたが、その度に言葉に詰まってしまう」

「正しいと思いますよ。というより、罵倒しないだけ先生はすごいと思います。……では、自分はこの辺りで」

 

 あまり話し過ぎると慧音が参ってしまう。負担をかけるために話していたわけではないので、信綱は適当なところで慧音から距離を取る。

 

「――信綱!」

「……なんでしょう」

 

 霧に見えなくなりつつある慧音へ振り返ると、彼女は迷いながらも慎重に口を開いた。

 

「あー……異変が解決したら、私はお前に感謝するぞ。お前がどんなことをしても、だ」

「……ありがとうございます」

 

 慧音の言葉に、信綱は言葉少なに感謝を告げて背中を向ける。

 彼女が追ってこないのを確かめてから、静かに深く息を吐く。

 賞賛を受けたくて戦うわけじゃないのだ。彼女の感謝などあってもなくてもどっちでも良い。

 

 だが彼女の本心から出た言葉なのはわかる。無碍に扱って良いことはない。

 この異変でようやく、信綱は自分が阿礼狂いと呼ばれるだけの役目を果たせるとすら思っていた。

 だというのに、皆は自分が真っ当な人間であると思い、言葉をかけてくる。

 

「受け入れるべきか……」

 

 この思考を煩わしいと思ってしまうのは、もう目の前に来ているその瞬間を待ち望んでいるからか。

 しがらみも何もなく、ただただ狂気に身を任せれば良いだけの時間が、すぐそこまで来ている。

 明確な敵がいて、それを排除すれば良い。なんと単純なことか。

 何より熱に苦しむ阿弥のためにも。ついでに自分のためにも。早く時よ来いと思う信綱であった。

 

 

 

 

 

 ――動き出すのは、それから数日が経ってからだった。




戦いに出る人と出ない人をちょろっと。
次回から異変解決に赴きます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

すれ違った戦い

「で、なんであんたがここにいるのよ」

 

 里の外、黒幕がいると思われる霧の湖へ向かう道中、信綱親子は合流した博麗の巫女に苦虫を噛み潰したような顔をされて出迎えられた。

 彼女は八雲紫と一緒に立っており、招かれざる存在である彼らに困惑の視線を向ける。

 

「俺たちも動く」

「戻って里の防衛をしてなさい。襲ってこないとは限らないわ」

「上白沢慧音以下、火継の面々が行っている」

「……異変の解決は巫女の役目。お互いに役目があるってこと、わかってるでしょう」

「そうだ。阿弥様を守るという役目に従って、俺は阿弥様を害した者を討ちに行く」

 

 話は平行線をたどる。元より、信綱と巫女の言い分が噛み合うことなどあり得ないのだ。

 

「良いではありませんか、博麗の巫女」

 

 故に変化は第三者より与えられることになる。

 二人の言い分を傍観していた紫が、扇子に口元を隠してそのようなことを言う。

 

「ちょっと、紫?」

「いじらしいことではありませんか。仕える主が危ないから、その危険を排する。実に論理的な帰結ではなくて?」

「だけど今回の異変は本当に危なくて……!」

「そう、危ない」

 

 パチリ、と音を立てて扇子が閉じられ、巫女の方へ突き付けられる。

 

「――だからこそ、弾除けは多いに越したことはない。違う?」

「……っ! 里の人間をそんなことに使えるわけないでしょう!?」

「あら、そこのお二人はそれを理解しているようだけど?」

 

 話を振られたため、首肯して口を開く。

 

「俺も父上も承知の上だ。それに目的は一致している。足並みを揃えて動こうなどと言うつもりはないが、ある程度の協調は認めて欲しい」

 

 認められなくても勝手に動くが。

 そう考えていたのが読み取られたのか、紫はやれやれと首を振る。

 

「言っても聞きませんし、無視しても勝手についてきますわよ、この手の人種は。だったらある程度手綱を握ってしまった方が良いのではなくて?」

「……っ! 私の努力は何なのよ……!」

 

 納得できないように歯噛みする巫女を、信綱は真っ直ぐ見据える。

 

「お前の力を否定するつもりはない。だが、俺たちも力になりたいという思いは認めてくれないだろうか。……無力に震えるのは嫌なんだ」

 

 さも無力を嘆くように言う。そんな使命感に突き動かされたような立派なものではないが、言うだけならタダである。

 

「……わかったわよ。あんたたちも犠牲が出たのに動くな、じゃ不満が溜まるだろうしね」

「では、話もまとまった辺りで移動を始めましょうか」

 

 紫がポンと手を合わせてふわりと微笑む。

 その様子を巫女と信綱、双方が胡散臭そうに見て、同時にため息をつく。

 

「……味方にこいつがいるのが不安だが」

「それは同感。気が合うわね」

「二人ともひどい!?」

 

 心なしか涙目で見られるが、二人とも無視した。

 

「どう向かうつもりだ」

「お互い足並みは揃えなくて良いとのことですし、バラバラに進みましょうか。霧の湖の向こうに悪趣味な紅い館があります。そこが目的地ですわ」

「ふむ……」

 

 頭に地図を思い描く。霧の湖は年中霧が覆い、しかも妖精の住処でもあるため人々が好んで近寄る場所ではない。

 湖としての規模はそこそこ大きく、霧が晴れて妖精もいなければ良い行楽地になるはずのものだ。

 

「わかった。別れて進めば妨害の妖怪も減るか」

「そういうことですわ。無論、空を飛ぶ私たちと地を往くあなたたちでは差が出ますが……」

「構わん。異変解決に向かえるだけマシだ」

 

 そう言って、信綱は父を伴って歩き始める。

 

「――先に行く。父上、遅れないよう」

「わかっている」

 

 地を低く蹴り、飛び跳ねるように動く。およそ人間とは思えない速度を出して、二人は霧の果てに消えていく。

 その姿を巫女は驚いた顔で眺め、ポツリとこぼした。

 

「何あれ、妖怪の血でも混ざってるの?」

「いいえ、正真正銘の人間ですわ」

 

 巫女の疑問に応えるのは紫。再び口元を扇子で隠し、感情の読めない瞳で二人の消えていった方向を睨んでいた。

 

「…………」

「紫?」

「……いえ、私たちも動きましょうか。あなたも修行は怠ってないでしょうね?」

「当然……って言いたいけど、あんまり実戦はやってないのよね……」

「博麗の巫女たるものが情けない……」

「できないものは仕方ないわよ。人間が襲われない以上、私から妖怪を襲う理由なんてないし」

「わかっていますわ」

 

 紫は巫女が経験を積めていない状況に内心で歯噛みする。

 少々平和な時間が長すぎた。妖怪を畏れない状況が妖怪の力を削ぎ、妖怪と戦わなくて良い時間が人間の力を削いでしまった。

 しかしだからといって妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を倒す従来通りの形にすることはできない。

 すでに人妖の比率は妖怪の方に傾いている。個として優秀な妖怪が数の面でも上回っている時点で、人間に勝てる道理などない。

 

 抜本的な改革をする必要がある。でなければ先細り、結果として待つのは共倒れの未来のみ。

 この異変が首尾よく終わってもやることが山積みだ、と紫は今後のことに頭を悩ませながら空を飛ぶのであった。

 

 

 

 

 

「邪魔」

 

 狼と人間を掛け合わせたような妖怪を一刀で唐竹割りにし、さらに首へ刃を奔らせる。

 一瞬で四つの肉片となった狼男――西洋ではライカンスロープとも呼ばれる妖怪を瞬殺した信綱は、後ろの信義に視線を向ける。

 

「倒しました。行きましょう」

「わかった。……火継の誰よりも強い、という言葉では足りぬなこれは」

 

 今の妖怪は中級の妖怪並に力強く、速かった。信義なら一対一で互角かやや危ういと言ったもの。勝てたとしても重傷は避けられない。

 それを苦もなく殺しきった。これといった準備もなく、心構えもせずに討ち倒す。もはや人間業ではない。

 

「数の多い」

 

 先頭を走る信綱は湖の岸から這い上がってくる醜悪な半魚人たちに舌打ち。

 信綱にしてみれば雑魚以外の何ものでもないのだが、数が集まればだいたいどんな生物も鬱陶しくなるのは変わらない。

 

「迂回して森を移動しましょう。最短の道は消耗が無視できない」

「私を使って進むというのは?」

「ここを抜けたら目的地、なら考えました」

 

 言いながらも足は止めない。一振りで群がってくる半魚人の首を軒並み落とし、返す刃で胴体を断ち切る。

 再生することなく、腐った魚のような悪臭を放ちながら泡に消えていく半魚人。

 それを一瞥して確認し、再び移動を開始する。

 

 ようやくとすら言える本格的な戦闘を経験することになり、信綱は妖怪にも差があることを実感として理解した。

 差というのは、再生力の違いだ。

 端的に言って、これの強弱が自分にとって倒しやすいか否かに直結する。

 再生力が弱ければ首を落とす程度。強ければ、首を落とす以外にも複数の部位に切断することでやっとといった具合に、殺すために必要な工程が違ってくる。

 が、基本は首だ。妖怪も頭部には何かあるのか、そこを落とすと再生が鈍くなる。

 その瞬間に攻撃を叩き込めば大体の妖怪を殺すことができる。

 

 その理論を実証するように、信綱は眼前に迫ってきた獣の首を落とし、四本足を全て切断して胴体を断ち割る。

 瞬時に解体された妖怪の肉体は一度だけ弱弱しく震えたと思うと、やがて静かに塵へと消えていく。

 再生力の強弱自体は実際に斬ってみないとわからないため、本当に死んだのか確認の手間があるのが面倒だが、仕方がない。見誤って背中を切られるなどご免である。

 

「妨害も散発的、というより統一性がない。連れてきた配下に好き勝手やらせて、指示は出していないと見るのが妥当か」

 

 部下の勝手を許すのも度量と聞くが、これは単なる放任とか生態系の破壊とか言うのではなかろうか。

 勝手にやってきて、勝手に見下して、勝手に迷惑をかける。正しく妖怪らしい有様だ。

 迷惑千万である。信綱は後ろの父が妖怪を殺すのに合わせて移動を再開しようとして――

 

「――父上、伏せて!」

 

 烈風が襲い掛かってくる。鋭い風が皮膚を切り、肉を食らい、骨まで断ち切らんと唸りを上げて迫る。

 幸運だったのは、今が霧に覆われていることと、信綱がこの手の風の使い手に心当たりがあること。

 どちらか片方が欠けていれば、信綱でも手傷を負うのは避けられなかった。

 

 霧を吹き散らす業風が身を裂く刃となり迫る。

 いつか見たそれよりさらに洗練されたそれを、しかし一刀の元斬って捨てる。

 

「いまのは何だ!?」

「……幻想郷で風を操れる妖怪なんて決まっているでしょう」

 

 力ずくで霧を引きちぎった風の向こう。艶のある黒翼をはためかせるそれに、信綱は視線を向ける。

 

「――天狗も敵ということです」

「……そうか」

 

 その言葉で信義も覚悟を決める。

 元より阿弥の敵は全て斬る。そこに天狗も混ざった。それだけの話である。

 敵の強弱など関係なく、自らの保身も考えず、有益であると考えたら命を捨てることも厭わない。

 

 二人が見上げる中、渦中の天狗――椿はゆっくりと降り立ち、信綱の視線に正面から対峙する。

 いつか見た修験装束。髪は入念に手入れされ、かんざしに付けられた鈴がチリンと涼やかな音を立てる。

 唇に紅を塗り、白粉(おしろい)を頬に当てたその姿は正しく逢瀬を待ちわびた少女の姿。

 しかし手には信綱も見たことのない立派な大太刀が握られ、殺意を隠そうともしない笑みがそれを裏切っていた。

 

「待っていたよ! 君なら来ると信じていた!! でもちょっと遅かったかな? 準備に時間ばかりかかっちゃって、向こうの吸血鬼に変な目で見られちゃったよ」

「…………」

 

 彼女が何を言っているのか。さして興味もないし、応える理由もない。

 

「逢瀬に待たされる側の気持ちってのがわかったよ。ああ、だけどこれはずっと焦らされたのかな?」

 

 彼女は敵だ。黒幕に付き従うことを選んだ、討つべき敵だ。

 

「なにせ私はキミが子供の頃からこの瞬間を待っていたんだ。待たされた分、たっぷり愛し合おうよ」

「…………」

 

 彼女の言葉を信綱の頭は理解しない。しようとも思わない。

 彼にとって視界の先にいる彼女は、もはや自分を鍛えた天狗ではなく、敵としてしか映らない。

 

「妖怪と人間、互いに殺し合う先にこそ私の求めたものが――」

 

 そこで言葉を切り、恍惚とした表情を見せる椿。

 彼女の瞳に映る信綱は、常と変わらず無表情を貼り付けるだけ。

 

 敵の言葉を聞く必要などないし、敵に声をかける必要もない。憎悪も不要。ましてや向こうの感情など、どうでも良い。

 殺し合いを求める彼女の声に応じる結果には落ち着く。だが、そこに信綱は一切の感情を込めることなく、相手への理解も行わない。

 

「さあ、始めよう人間! 私とキミ、どちらかが生き残ってどちらかが死ぬ! 最初で最後の逢瀬だ!」

 

 故にこれは椿の語る逢瀬などでは断じてない。しかし椿はそれに気づけず――

 

「――道の邪魔だ、妖怪」

 

 

 

 信綱への認識は変わることなく、すれ違った戦いが始まっていくのであった。

 

 

 

 

 

「狭い場所へ。奴に上空に行かれては打つ手がありません」

「わかった。お前は奴と知り合いなのか?」

「敵の知り合いはいません。敵でない頃であれば、少々」

 

 言いたいことがありそうな父を無視して森に駆け込む。なるべく木々の生い茂った鬱蒼とした場所を探し、そこに駆け込む。

 そこで目立つ一際大きな木の根本を指差し、父へ振り返る。

 

「そこにいてください。――使うかもしれません」

「わかった。せいぜい上手くやれ」

 

 信義は何かを覚悟した目で息子であり、自分の上司でもある信綱を見る。

 ある決断をした信綱の目に、しかし一片の迷いもなく。それを行うのが最も効率的であると信じている顔だった。

 

 ――是非もない。

 火継の家で最も御阿礼の子のために動けるのは信綱である。ならば彼の選択に間違いなどあろうものか。

 

「阿弥様には伝えるな」

「伝えるまでもありませんよ。我々が勝手にやって勝手に死ぬ。それだけです」

 

 そう言って信綱は一人、椿の前に姿を現す。

 先ほど口を開いた場所に、椿は変わらず佇んでいた。

 

「話は終わった? キミとの戦いに無粋な第三者はいらないからね。他の妖怪にも邪魔はさせないよう言っておいたよ」

「――死ね」

 

 信綱は道を急いでいる。椿の――敵の真偽もわからない言葉に耳を傾ける道理などなかった。

 踏み込む足に力を込め、蹴られた地が爆ぜる音と共に接敵、刃を振るう。

 

「っと! ハハッ、鍛錬は怠ってないね! 私が見た時より速い!」

 

 椿の声に応えず、上空に逃げる彼女を飛び越すように跳躍し、兜割りを放つ。

 しかしそれは構えた長太刀に防がれ、微かな火花を散らすだけ。

 

「っ!?」

 

 僅かに息を呑む。生半可な防御であれば、幼少の頃と同じように武器ごと切断してしまおうと狙っていた。

 だが、斬れない。信綱が見てきたどの武器よりも硬く、柔軟な金属で作られている刀だ。

 

「お、気づいた? これ、天狗の技術を使った名刀なんだ、よっ!」

 

 下段から上段へ、信綱の振るう刀の倍の長さはある長太刀を振るい返す。

 危なげなく防ぐが、手に走るしびれが上手く受け流せなかったことを信綱に伝える。

 

(腕を上げている)

 

 信綱は椿の言葉に、意志に応えることはない。しかしそれは、彼女を敵として過小評価するという意味ではない。

 認めたくない事実だが、彼女も最後に剣を交えた時とは比べられないほどに腕を上げている。

 父を置いてきて正解だった、と信綱は自身の肉体が地上に戻る数秒の間、目まぐるしく行われる攻防を時に意図した紙一重、時に意図せぬ間一髪で凌ぎきる。

 

 烏天狗の本気の攻撃を無傷で凌ぐ。その事実に椿は気を良くしたのか、口が裂けるように広がり――

 

「おっと、紅が剥がれちゃう。もっとお淑やかに笑わないとね」

 

 何を恥じ入ったのか、口元に手を当てて白粉の塗られた頬を赤らめる。

 常人なら彼女の異様に多少なりとも呑まれる場面。信綱は眉一つ動かさず、心も冷え切ったまま、その動作を好機と捉える。

 

 主導権は譲らない。無駄を省き、全てを討ち倒すための布石とする。その信念の元、信綱は足を止めることなく、上空へ飛び上がるのを阻止しようと激突する。

 

 瞬時に交わされる斬撃の数は牽制含めて十二。

 一つの火花が生まれた時には剣戟の音が三響き、音が耳に届く前に斬撃が五つ風を切る。

 

「せぇやっ!!」

「――」

 

 風をまとった斬撃。刃を防いでも、不可視の風が信綱の頬を浅く斬っていく。

 大した脅威ではない。しかし塵も積もれば山となる。軽傷であっても数が集まれば致命傷につながりかねない。

 

 何か策を練る必要がある。身体能力、技量、制空権、いずれも相手が持っている。

 まあそれ自体は大した問題ではない。長年生きた天狗にこれらで勝てるとは信綱も思っていない。

 いかに天稟の持ち主であろうと、二十年余りの鍛錬と数百年の研鑽では差が出るのは当然である。

 

「やあああぁぁっ!!」

「――っ!」

 

 振るわれる太刀筋を読み切れず、浅い傷がいくつも作られていく。

 信綱は負けじと剣を振るいながらも、徐々に追い詰められるのを感じ取っていた。

 

 椿は信綱との接近戦を求めているのか、羽を使って距離を取ることはせずにひたすらに距離を詰めていく。

 地上で行われる目まぐるしい攻防。僅かな気の緩みが死に直結する状況。

 天狗の膂力と速度、そして年輪を積み重ねた技量が命を刈り取らんと無数に迫る。

 

「キミってこんなものだっけ? 違うでしょ? もっと、もっと力を見せてよ!!」

「――」

 

 椿の声に応えず、信綱は乾坤一擲の念を込めて剣を大上段に構え、振り下ろす。

 業、と風が唸る。細身の刀で、しかし完璧な技巧の元に繰り出されるそれは天地すら割ろうと言う気迫に満ちていた。

 天稟に恵まれ、鍛錬を怠らず、極限まで磨き抜かれた一撃。

 

「――キミ、私の事舐めてる?」

 

 

 

 それを苦もなく止めるのが、妖怪という存在だ。

 

 

 

 喜悦の色が濃かった彼女の顔に、今や浮かぶのは失望と諦観、そして何よりも大きい怒り。

 渾身の一撃を片手で白刃取りしてみせた椿は、苛立ちのままにがら空きの腹へ蹴りを放つ。

 

「――っ!」

 

 自分から後ろに飛ぶことで致命傷は防いだ。が、内臓をかき回されるような痛みを受け、信綱は大きな木の側で片膝をついてしまう。

 

「それでおしまい? そんなはずないよね? 私が知るキミはもっと強くて、もっと容赦がなかった。……最初に会った頃のキミは、もっと強かったよ」

「…………」

「それとも椛や私に勝てるようになって油断した? お生憎様、キミがいくら強くなってても――妖怪相手に油断は命取りだよ?」

 

 無造作に信綱に近づいていく椿を、信綱は苛立ちと共に見上げる。

 敵にこのようなことを言われるのは腹立たしいが、それもまた自身の未熟ときた。

 

 ここまでの屈辱を覚えたのはいつ以来だろうか。

 ああ、初めて彼女に会って、逃げることしかできなかった時に違いない。

 あの時の自分は世界の広さを何も知らないままだった。だが、それゆえに見えていたものもあった。

 例えば――相手の弱い場所を見抜く目は、今の自分が持っていないものだ。

 

 あの頃の自分は弱かった。技量云々ではなく、単純な膂力や速度の話だ。だからこそ、戦うには誰よりも多くを見る必要があった。

 身体ができて、力もついて、忘れていたことかもしれない。

 

(神童も大人になればただの人、とはよく言ったものだ)

 

 期せずして、子供の頃の自分こそ、信綱にとって最適な戦い方を知っていたのだ。

 近づいてくる椿に対し、一瞬だけ瞑目して視界を閉ざし――再び開く。

 

「――」

 

 腹部の痛みも引いてきた。この場所であればほぼ確実に不意を突ける手段が使える。

 立ち上がり刀を握る手に、踏み込む足に、敵の隙を見抜く目に、全ての神経を注ぐ。

 

「だんまりか。まあキミのそういうところも好きだけど……? あれ、キミの目――」

 

 言葉は最後まで続かない。

 パンッ、と風船の弾けるような軽い音とともに、椿の身体の一部分から感覚が消失したのだ。

 

「あ、れ」

 

 視線を下に向けると、右足が膝から消えていた。

 

「――!」

 

 視界から切れたのを見計らったように腕への斬撃が飛ぶ。再び聞こえる乾いた音と、左腕が斬られる感触。

 体勢を大きく崩し、しかし椿は慌てない。

 彼女は妖怪、それも幻想郷に名を轟かせる烏天狗だ。この程度の傷、苦もなく治る程度のものでしかなく、そのための時間は飛翔して稼げば良い――

 

「っと!?」

 

 飛行に意識を傾けた瞬間、首を狙った斬撃が信綱の手から放たれる。

 思考が冴えていた。椿の肩、腿、首、翼。体を動かす時、確実に生まれる肉体の動きが信綱の手に取るように理解できる。

 どのように動くのか、予めわかるのなら。全てにおいて先手を取り続けることなど造作もない。

 

「は、はははっ! どうして私の動きがわか――ッ!?」

 

 歓喜のままに声を上げようとする彼女が鬱陶しい。喉に剣を奔らせ、強制的に口を閉ざす。

 それでも彼女は満面の笑みを浮かべて、信綱の顔を見て剣を振りかぶる。

 対する信綱は剣を振った直後で動けない。避けるのなら後ろに下がり、椿の肉体が回復する時間を与えることになる。

 ようやくしっくり来る戦い方を見つけた。だがそれは発見したばかりであって、十全に扱えるものではなかったのだ。

 

 振り下ろされる剣を見据え、信綱は微かに息を吐く。

 

 

 

 ――残念だ。

 

 

 

 左腕で掴んだものを強引に振り下ろされる刃の前に突き出す。

 そうして突き出された父、信義の肉体に刃が食い込み、胴体の半ばまで斬り裂く。

 

「――ッ!?」

 

 心底からの驚愕。喉が潰されているため声は出せないが、椿の驚きようは見てわかる。

 ここに人を隠したことは知っている。しかし彼は信綱と比べたら圧倒的に弱く、今の椿なら一刀で終わらせられるもの。

 故に不意打ちの警戒を最低限行い、後は無視していた。

 それに父とも言っていた。親子らしい感情で親を守ろうとしたと考えれば隠した筋も通る。

 

 違った。全然違った。全くもって見当はずれだった。

 

 

 

 

 

 最初から肉の盾として親を使い捨てる気だったなど、誰が予想できたか。

 

 

 

 

 

(硬っ!?)

 

 肉の盾として使うだけなら強引に斬って捨てることができる。しかし今現在、信義の身体の半ばまで進んでいる刃は、しかし彼に食い止められていた。

 椿には知り得ぬことだが、彼の懐には博麗の巫女が用意した対妖怪用の札が複数入っていた。

 それが簡易結界の役割を果たし、刃を食い止めるのに一役買っていたのだ。

 

 すなわち、信綱は人里で博麗の巫女と話していた段階から、この絵面を描いていたことになる。

 椿相手の対策だったのか、はたまた強力な妖怪を切り抜けるための方策だったのかは知らないが、信綱は最初から連れと共に生き残る算段など持っていなかったのだ。

 そして今、何より恐ろしいのは――盾となっているこの男に恐怖の色がないことだ。

 

「ぐ、おおおおおおおぉぉぉぉ!!」

 

 信義はすでに秒読み段階の命を更に削り、奇跡的に動く双手で刃を握りしめる。

 もはや心の臓などとうに斬り裂かれ、酸素は肉体に巡らず、血を吐くだけの器官に成り下がった口は、驚くべきことに喜悦に満ちていた。

 これは無駄死などでは断じてない。御阿礼の子を守ることに最も長けた息子が選んだことなのだ。

 ならばこれが正しいのだ。ここで死ぬことが最も阿弥のためになるのだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 信義は数秒先の死を前に、人生最大の多幸感を味わっていた。

 

「カッ、フ、こ、の……!!」

 

 声を出そうとする口から血を吐きながら、椿は怒りに震える。

 自分と信綱、二人だけの時間が無粋な輩に邪魔をされた。しかもそれは信綱の作戦であり、彼がこの時間を望んでいなかったことが怒りに拍車をかける。

 

 両手で刀を握りしめ、強引にその身体を両断しようとする。

 だが、とうに死んでいなければおかしい信義の肉体は、しかしあり得ないほどの意志で駆動し続け、彼女の腕を阻む。

 

 動きが止まる。烏天狗と人間。対策を取り、人間の命を使い捨て、さらにその人間の奮闘に期待しなければ成立しない一瞬の拮抗。

 その停滞こそ信綱が求めたもので、それさえあれば勝負を決められるものだった。

 

「あ――」

 

 椿は微かに首を後ろに向けると、そこには刀を構えた信綱がいて――

 膝、肘、肩、腿、胴体、そして心臓。

 

 

 

 四肢を落とし、腹を斬り、心を穿つ。神速の斬撃が椿の身体に奔っていった。

 

 

 

 

 

 手足をなくし、心の臓に剣の突き刺さった椿。

 だが彼女の意識はハッキリと残っており、未だに死が確定した状態ではなかった。

 仰向けになって地面に胴体が落下し、その上に事切れた信義の五体が被さる。

 

 焦がれる相手の親とはいえ、見知らぬ男。愛する男のものならいざ知らず、好きでもない男の血と肉は不快だった。

 

「あ、ははははは……負けちゃった、か」

 

 ザクザクと地を踏みしめ、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。

 足音の主がこちらに来た時こそ完全に命の終わる瞬間であると確信しながら、微かな口惜しさと多大な満足感を浮かべ、一人苦笑いをする。

 できることなら一騎打ちの末であって欲しかったが、信綱は昔からそういった精神論的な戦いには興味を示さなかった。

 この結末にも納得は行っている。信綱はこの時、この瞬間だけは椿のことを見てくれて――

 

 

 

「え――」

 

 

 

 そこで初めて、椿は信綱の目を見た。

 瞳に浮かぶものは憎しみでもなく、親を失った悲しみでもなく、ましてや腐れ縁を断ち切った喜びでもなく――何もなかった。

 目的の途上に阻むものがあって、排除した。ただそれだけ。

 

「あ、ああ、あぁ……!」

 

 理解した。理解してしまった。理解できてしまった。

 この青年は最初からずっと椿という烏天狗を見てなどおらず、先程まで倒していた半魚人ら同様、鬱陶しい敵としてしか認識していなかったのだと。

 

「あ、だめ、だめ、そんな……」

 

 それはいけない。それだけは認められない。自分の方を見て欲しくて戦ったのに、相手は最初から自分を認識すらしていなかったなんて、道化の空回りにも程がある。

 

 信綱は父親の懐を探り、新たな刀を探っていた。今の刀は心臓を突き刺すのに使っており、これで首を落とせば確実に殺し切ることができる。

 

 早くしなければ。早くしなければ自分は椿という存在でなく、有象無象の敵の一人として終わってしまう。

 椿はさっきまでの満足感から一転。恐怖に支配されて上手く動かない口を動かす。

 

「ね、ねえ。私が悪かったよ、椛も言ってたと思うけど、私も焦ってたんだ」

「…………」

 

 応えない。少々面倒な位置にあったのか、引き抜くのにやや苦労しながら信綱は形見となった父の刀を手に取る。

 

「あ、そうだ! 私の剣、キミが使っていいよ。元々負けたらキミに上げる予定だったんだ。ちょっと長いけど、キミの力なら問題なく使えると思う」

「…………」

 

 応えない。信綱は目を見開いたまま事切れている父親のまぶたに手を添え、その瞳を閉じてやる。

 その動作には肉親への情や、同じ阿礼狂いとしての役目を果たした一人の人間への敬意に溢れており、それが椿に向けられる無感情を一層引き立てる。

 

「あと、あと……私の格好、どうだった? これでも気合入れて化粧したんだよ?」

「…………」

 

 応えない。父への別れも済ませた信綱は無言で刀を引き抜き、必死に口を回す椿の喉元に突きつける。

 その瞳の奥には吹雪すら見えない。砂を噛むように、賽の河原で石を積むように、ただただこの行動が無為であると、無駄であると、無意味であると、何も映さない瞳が雄弁に語っていた。

 

「お願い、だからぁ……!」

 

 椿の瞳から涙が零れる。死の恐怖ではない。そんなものよりも、このまま彼の心に何ら残さず消えることが何より怖い。

 これまでの自分をかなぐり捨てて、すがりつくように口を開いて――

 

 

 

 

 

「わたしを、見て――」

 

 

 

 

 

 最期まで言葉は続かなかった。

 

 

 

 

 

 信綱は切り離された首が再生を始めることなく、煙に溶け始めるのを眺めて息を吐く。

 四肢を落として胴体を斬って、さらに心の臓まで刺しても生きているとは驚嘆の一言しか浮かばない。

 だが、これに首を落とせば天狗であろうと殺すことができる。それは有益な情報だ。

 

 余計な時間を食ってしまったし、父の命という手痛い損害も出てしまった。――そんなことより先を急がなければ。

 

 すっかり消えた天狗の死体から自分の刀を。そして迷うことなく天狗の遺した刀を取る。

 長刀のため取り回しは少々不便だが、頑丈さは先ほどの攻防で嫌というほど味わった。

 それに今の自分の戦い方なら、手数こそ何よりも重要視すべきもの。一刀よりも二刀の方が都合が良い。

 

 なかなか便利な敵だった(・・・・・・・・・・・)。そう思って信綱は二刀を携え、走り出すのであった。

 

 残されたのは物言わぬ屍が一つと、奇跡的にも血の汚れを浴びなかった、彼女のかんざしだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 嗚呼、全く――無駄な時間を過ごした。




 椿さん死す。何が間違っていたかを語るなら、惚れた相手が悪すぎた。

 彼女は最初から一貫して妖怪と人間が争い合っていた時代への回帰を求めていました。しかしそれには妖怪である自分に勝てる人間が必要。そこで目をつけたのが信綱です。
 スポンジが水を吸うように物を覚え、十年もした頃には遊びとはいえ自分に打ち勝つ技量すら備えた少年に心奪われ――恋は盲目になりました。

 椿は戦いによる感情のやり取りを通して人間と妖怪の有るべき姿を実感したく、信綱にとって戦いは目的遂行のための手段でしかなく、相手が二十年来の付き合いであっても機械的に処理する考えでした。
 この二人が激突すれば、そりゃ相容れるはずがない。椿の結末は必然とも言えるものです。
 身も蓋もないことを言うなら、最初から男を見る目がなかった。

 ですが彼女が遺したものは大きいです。ここがブレイクスルーとなり、主人公の戦い方は完成されます。刀に関してもこの長刀は生涯使えるものになるはずです。
 そして異変の最中で今は気づかれずとも、巫女以外で烏天狗を討ち倒して生き残った人間がいる、というのは大きな意味を持つことでしょう。

Q.つまり?
A.彼女の意図しないところで色々と信綱に遺している。でも本人が気づくことはなかった。





 今更だけどこの主人公、キチガイだわ(敵と言葉を交わさないという縛りが思ってた以上に面倒だった)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それぞれの思惑

卒 論 再 提 出 
\(^o^)/


 たった一人となった信綱は二刀を持って走る。

 椿の言った通りこちらに妖怪はおらず、特に妨害を受けることなく進むことができていた。

 この調子で進めばすぐに目的地にたどり着けるだろう、そんな風に考えていると――

 

「――誰だ」

 

 ちりん、と微かに届いた鈴の音。それが信綱の足を止めさせ、上空に視線を向ける。

 視線の感じる先は上空。今の信綱でも鈴の音がなければ気づけなかったと確信できるほど、微かなもの。

 だが距離は不思議とそう離れておらず、この視線の主は相当の使い手であることが容易に想像できた。

 

 

 

「あやややや……まさかバレるとは思いませんでしたよ、ええ」

 

 

 

 信綱の眼前に旋風が起こる。巻き上げられる砂塵に目を細め、右の長刀で風を切り払う。

 やはり天狗、と信綱は修験装束に身を包み、頭巾を付けて錫杖を持つ少女の姿を見て理解する。

 

「どうもどうも。私、射命丸文、と申します」

「なんの用だ。邪魔するなら斬る」

 

 彼女が異変の黒幕に付いている、というのは考えなかった。

 それならさっさと不意打ちでも何でもすれば良かったのだし、彼女にはそれができるだけの技量がある。

 戦ったらだいぶ危うい橋を渡る必要が出てくるだろう。正面切って事を構えたいとは思わない相手だ。

 

「いえいえ、邪魔だなんてとんでもない! むしろ協力したいくらいなんですよ!」

「したいくらい、要するに自分以外の誰かの命令か。……風の噂だが、天魔は不自然なほどに静観を決め込んでいるとか」

「あやや、天狗事情にお詳しい」

 

 図星、というより隠す気配もない。

 目の前の少女――文は賞賛しているように手をパチパチ叩くが、どうにも仕草が胡散臭い。

 飄々としているのは見た目だけで、内面では極めて怜悧に信綱の価値を測っているように見えた。

 と、そこで信綱は椿の言っていた言葉を思い出す。

 烏天狗には大天狗以上と言われるほどの力量を持つバケモノがいると。それは確か――

 

「お前――椿の言っていた処女天狗か」

「何その風評被害!? というか何言ってたのあの子!?」

 

 処女だと言っていた。信綱は自信満々に答えると、文は悲鳴のようなツッコミを入れてくる。

 誰だって初対面の相手に処女だと言われたら驚きもするだろう。

 

「む、違ったか」

「いや、その情報で私だってわかったら私以外の天狗がみんな非処女みたいじゃないですか!?」

 

 それもそうだ。大天狗以上の烏天狗の証明が処女だけというのはいささか弱い。

 そんなことを考えていると、またも椿の言葉を克明に思い出していく。

 

「気まぐれだが根は真面目とも言っていた。――つまりお前だ」

「いや、その、ううん……? まあ、はい……」

 

 照れているのかわからないが、最後の方は縮こまっての肯定だった。

 

「大方、事の推移を見守れとでも受けているのだろう。なぜスキマ妖怪の方に行かなかったのかは疑問だが」

 

 この異変を無視するのは悪手。となれば取れる手は大きく分けて介入するか、見届けるかの二択。

 その中で天魔は後者を選んだ。今後の幻想郷に訪れる変化の、その先駆けを見抜くためだろう。

 

「彼女たち以上にあなたに興味を持った、ではいけませんか? あ、冗談です冗談! だから黙って背を向けないで!」

「俺は、今、とても急いでいる。長話がしたければ異変が終わった後にしろ」

 

 言外にこれ以上話すようなら敵とみなすと、あえてゆっくりした口調で語る。

 文もそれを察知したのか、顔に浮かべる笑顔を一瞬だけ消す。

 

「じゃあ――これ、受け取りなさい」

 

 投げられたものを手に取る。取ったと同時に聞こえるちり、という音が鈴の転がす音であり――椿の使っていたかんざしだった。

 

「…………」

「あの子、色々変でしたけど、それでも同僚なんですよ。あなたに相当入れ込んでいたみたいですし、それぐらいはしてあげようかなって」

 

 真意を問う目で見ていると、文は照れくさそうにそっぽを向いて話す。

 

「戦いの全部を見ていたわけじゃないし、あなたを恨むつもりもないです。それに無意味じゃありませんよ?」

「続けろ」

「これを受け取るなら、館までの案内と露払いをしてあげます。あなただって先の見えない道を走るのは嫌でしょう?」

「わかった。行くぞ」

 

 かんざしを受け取るだけで道中の危険が排除されるのなら考えるまでもない。

 彼女は敵だったが、異変が終わったら死んだ知り合いになる。その時には父の埋葬も含めて多少は遺品を探してやろうと思っていたが、その手間も省けて一石二鳥だ。

 

「決断早いですね……。あの時は拾わなかったのに」

「あの時に拾わなかったから、お前という協力が得られる。良い判断だろう?」

「その合理主義、相手によっては不興を買いますよ」

「当然だろう」

 

 そんなことはわかっているが、御阿礼の子の危機なのだ。阿弥の危険を排すること以上に優先すべきものなどない。

 故に他の些事は全て合理で考える。それで生まれる確執も、敵意も全て薙ぎ払えば良い。

 感情を見せるのは異変が終わってからで十分だ。

 

「行くぞ天狗。せいぜい上手く働け」

「はいはいっと。そちらこそ頑張って走ってくださいね?」

 

 業、と風を切る音が信綱の耳に届いた時、すでに文の姿は視界の遙か先に行っていた。

 羽をはためかせた、にしては動きが少々速過ぎる。いつか椛の言っていた風の扱いが異様に上手い、ということを思い出しながら、信綱は足を動かすのであった。

 

 

 

 射命丸文は後ろについてくる気配が確かに存在するのを確認し、密かに頬を引きつらせる。

 よもや烏天狗と本気の一騎打ちをして、勝って生き残る人間がまだ存在しているとは思っていなかった。

 最初は博麗の巫女の尾行が難しかったので、もう一組の方にこれ幸いとくっついていただけなのだ。

 

 蓋を開けて見ればこの結果である。個人的には博麗の巫女を追いかけるより大きな価値のある情報が得られたと思っていた。

 博麗の巫女が妖怪に勝つのは当然である。だが、人里の人間が妖怪、それも烏天狗に打ち勝つのは一大事である。

 ほぼあり得ないことだが、彼以外にも同等の使い手がいるのならそれは妖怪の立ち位置すら脅かしかねない。

 

 重ねるが、巫女は構わない。彼女は幻想郷の調停者であり、この天秤をよほど揺らさない限り動くことはない。

 だが、彼は違う。そういったしがらみがなく、彼は自身の意思によってその力を振るうことが許されている。

 

(特ダネね、これは)

 

 人里など取るに足らず、ただ妖怪への畏れを供給するだけの場所だと思っていたが――彼のような人間がいるのなら認識を改める必要がある。

 この青年に関しても興味などなかったが、椿を討ち倒したとあれば話は別だ。

 

(異変が終わったら、じっくり話してみたいわね)

 

 軽く話してみたが、どうにも極端な合理主義の持ち主らしい。言い換えれば、利益を提示し続けられるなら付き合いは持てるということだ。

 人妖の在り方に対して憎悪を持ち込み、話に持ち込むことすらできないより余程マシだ。

 

 異変に介入することもなく、ただ見届けるだけという退屈な仕事だと思っていたが、存外面白いことになりそうだ。

 文は今後の楽しくなるであろう幻想郷を考え、密かに笑いを零すのであった。

 

(あと処女の件は問いただしておこう)

 

 ついでに妙な決意もするのであった。

 

 

 

 

 

「あ、私はこの辺りで失礼します」

 

 それが館の輪郭が見える程度の距離になった時、文の口から放たれた言葉だった。

 

「館までではないのか」

「いやあ、博麗の巫女とかもいるようじゃさすがにごまかせないですから。色々と面倒な立場なんですよ私」

「……まあ、理解は示してやる」

 

 八雲紫に見つかったら面倒どころの話ではないだろう。それに信綱にも飛び火する可能性がある。

 

「ここで別れるのがお互いのためか」

「です。あ、この異変が終わったらどこかで会いません?」

「断る」

「長話は異変が終わってからって言ったじゃないですかあ。男に二言はありませんよね?」

「黙れ処女」

「その噂についても聞いておきたいですし!!」

 

 信綱は露骨に嫌そうな顔をするが、文はニコニコと微笑むばかり。妖怪というのは図々しいのが多くて困る。

 ここで押し問答をして時間を食うのは賢明ではない。

 かといって殺すのも彼女の強さが読めないため危険が大きい。敵とも味方とも言わない存在は対応が面倒で仕方がない。

 そのため問題の先送りにしかならないが、とりあえず異変が解決するまで待ってもらうのが得策だった。

 

「……わかったよ。終わったらな」

「素晴らしい! 話のわかる人間は好きですよ。じゃ、私はこれで! 清く正しい射命丸文でした!」

 

 そう言って文は上空へ昇り、みるみるうちに見えなくなる。

 その速度たるや、信綱の先導をしていた時のそれが児戯に感じられるほど。正しく次元の違う速度だ。

 

「……敵にはなってほしくないものだ」

 

 戦って負けるとは思わない。今の信綱なら勝ち目も存在する。

 が、無傷で勝てると楽観視はできなかった。戦うなら腕の一本や二本、犠牲にする覚悟が必要になる。

 

 とはいえ今、戦う相手ではない。軽く頭を振って思考を切り替え、信綱は霧の向こうに浮かぶ館へ足を速めて館の手前にいた博麗の巫女らに合流する。

 合流した二人も妨害を受けていたのか、軽く息が上がって服にもほつれが見受けられた。

 傷そのものは見えないので、消耗の度合いでは手傷も負っている信綱の方が大きいだろう。

 

「さすがに空からは早いな」

「いや、ほとんど同着のあんたが恐ろしいわ……。で、連れがいないのは聞かない方が良い?」

「別に隠すことじゃない。父上は異変に与した妖怪の手にかかって死んだ」

 

 サラッと言う信綱に巫女は微かに表情を曇らせる。

 始めから覚悟があると言っていても、異変に関わって人が死ぬのは堪えるのだろう。

 ……実は双方合意の上で信綱が父親を盾にした、などといったらこじれる未来しか見えないので、黙っておくことにした。

 

「…………」

「ご愁傷様、とかそういう言葉はいらんぞ。あの人は自分の意志で戦い、その果てに命を落とした。俺はあの人を尊敬こそすれ、悲しむつもりはない」

 

 文字通り。ぶっちゃけ父親でも阿弥と比べたら月とすっぽんである。

 だが、彼が阿礼狂いとしての使命に殉じたことに対する敬意は忘れていない。

 命を使って奉仕するなど、一生に一度しか使えない奉公なのだ。それを成した父に対して小さな嫉妬すら抱いていた。

 

「彼らは死ぬことも視野に入れて異変に同行してきた。あなたが悔やむとしたら、始めから彼らの同行を認めた自分自身ということになりますわね」

「……っ、うるさい! 人が死んで良い気分なわけないでしょ!」

 

 紫が揶揄するように指摘すると、巫女は苛立ちも露わに人道を叫ぶ。

 彼女は紛れもなく優しい人間であり、それはこの場にいる誰よりも尊ばれる美点である。

 しかし、今この場において求められているのは、残念なことに優しさではなかった。

 

「過ぎたことを言っても仕方がない。博麗の巫女。あなたの言葉は尊いものだが、今は異変の解決に集中を」

「……大丈夫よ。あんたに心配されるようなことじゃないわ」

 

 とはいえさすがは博麗の巫女と言うべきか、信綱が話を戻そうとすると深呼吸一つで意識を切り替えてみせる。

 そうして場にいる三人は目と鼻の先にまで来た館を見据えた。

 

「紅い館なんて悪趣味だと思いません? 他の色を引き立てるならともかく、本当に赤一色よ?」

「俺は地上。お前は空。同時に仕掛ければ館の中の妨害も分散されるだろう。それで後は異変の黒幕をとっちめる方向で良いか?」

「良いわ。あとは霧も止めさせないと。黒幕がやっているのか、共犯者が居るのか、それはわからないけど……ま、早い者勝ちってことで」

「異論はない。行くぞ」

「……しくしくしくしく」

 

 完全に無視を決め込まれた紫がさめざめと嘘泣きをしていたが、二人とも取り合わない。

 この二人、からかっても面白くない。無視するフリなら可愛らしいものだが、この二人は本当に聞いていない。

 

「ああ、私が見たところ門番がおりますわ。私たちとあなた、同時に行けば片方は突破できるかと」

「門番とやらがどっちに対処してくるかは運試しか。良いだろう」

 

 信綱は話を切り上げて二刀を構え直し、館に向けて疾走を開始する。

 その上を博麗の巫女らは飛び、二人は密かに言葉を交わし合う。

 

「……あいつ、どう思う?」

「正直なところを言えば、見くびっていましたわ。あの一族は昔から強い人間を輩出する傾向がありましたけど」

「なによ、知ってるの?」

「ええ、昔から。今の彼についてはあなたと同じ程度ですけど」

 

 火継の原点に関わっていると言っても良い。が、そこは今の話に関係ないため紫はサラッと流す。

 この場で重要なのは彼の強さだ。その理由や原因を探ったところで大した意味はない。

 

「さて……あなたはどう見ます?」

 

 巫女に話を振る。まずはお手並み拝見だ。

 

「……妖怪退治の素人。霊力の扱い方も知らないみたいだし、あれじゃ妖怪を倒すのも手間がかかって仕方がない」

 

 本来なら妖怪の相手というのは霊力を込めた札や拳で叩くことにより、相手の魂とも言うべき部分に傷をつけて倒すのが基本なのだ。

 その過程を無視して再生力の限界まで斬って倒す、というのは非効率極まりない。

 巫女なら一発殴れば終わる相手に、信綱は四肢を落として首を落とすことまでする必要がある。どれだけ効率に差があるかはよくわかるだろう。

 しかしそれで妖怪を殺して生き残っている以上、非効率ながらもそれで戦えるだけの実力は備えていると言うこともできる。

 

「でも強いと思う。……あんたはどう見てるの?」

「それをこれから見極めましょうか。少し速度を落として」

 

 紫はほんの少しだけ速度を落とし、地上を走る信綱から僅かに距離を取る。

 追従するように巫女も速度を落とすが、顔はしかめっ面になっていた。

 

「なに、門番にぶつけようって魂胆? 趣味悪……」

「必要なことですわ。彼の剣が私たちに向かないとも限らないのですから」

 

 目的が一致しているから同行を許しているだけであって、理由は全く別物だ。

 幻想郷のために戦う巫女たちと、御阿礼の子のために戦う信綱。特に後者は御阿礼の子が望むなら全てを敵に回すことも厭わない男だ。

 ならばその器は見極めなければならない。ここで終わる程度ならそれで良し。そうでなければ――改めて付き合いを考える必要がある。

 

 紫の言葉に巫女は不満気な様子であったが、信綱の力を見定めたいということには同意なのか、不満を口に出すことはなかった。

 

 

 

「そこで止まってください」

「……上を通ろうとしている奴がいるぞ」

「え、ああっ!?」

 

 間の抜けた声を上げて二人を見送ってしまう門番。その隙に通してもらおうとするが、さすがに阻まれる。

 

「あ、あなたまで通したら怒られます!」

「わかった、邪魔するなら殺す」

 

 視界の先にいる赤髪を翻す少女を睨み、二刀を構えて攻撃の姿勢を取る。

 

 腰を落とし、足を大きく広げて平手をこちらに向ける独特な構え。信綱の知識にはないものだ。

 とはいえ、その動作が熟練されていることはわかる。できれば素肌を晒してくれる方が筋肉の動きも読みやすいのだが、手足は服で覆われていた。

 熟達した体術の使い手。こんな場所に人間がいるとも思えないため、妖怪だとすれば肉体の頑健さも人の比ではないだろう。

 総じて、妖怪として有り余る時間を武術に費やした妖怪と信綱は判断する。

 

 ――やりやすい相手だ。

 

「下がりませんか。残念ですが、主から誰も通すなって言われているんですよ」

「――」

「あ、これはダメだ。話が通じない。しかもなんか勝てる気がしない! 人間の才能って本当恐ろしいですよ、ねっ!」

 

 踏み込みからの突き。言葉にすればそれだけだが、込められた技巧は達人のそれ。

 震脚と呼ばれる踏み込みは地面にヒビを入れ、突き出される拳は足、腿、腰、肩、肘、手首、拳へと一つの流れを形成して練り上げられた功夫によって淡く輝きを宿して――

 

 

 

 ――信綱の構えた刃の前に、手首までその刃をめり込ませた。

 

 

 

「んな……っ!?」

 

 拳に走る痛み以上に驚きが大きい。少女――紅美鈴の気を操る程度の能力によって気を纏わせた拳は、それこそ鋼に匹敵するものになる。

 剣と打ち合えば剣が折れるほど。そも、人体の柔軟性に鋼の強度が加われば鉄の刃程度恐るるに足らず。

 そんな理屈を、信綱は当たり前の顔で踏破する。

 

 鋼に匹敵する強度? 人体の柔軟性? 自身の手足であることの操作性? どれもくだらない。

 刃筋を立て、ものの斬れる箇所にあらかじめ刃を置いておく。そうすれば向かってくる物体は勝手に切れてくれるのだ。

 

 理論として言う分には簡単だが、行うには物体の斬れる点を見極め、それに対して完璧な角度で刃を合わせる必要がある。

 絶技であるが故に寸暇の狂いすら許されないそれを、信綱は苦もなく成功させる。

 それもそのはず。なにせ同じ技を幼少の頃に行っているのだ。今になってできないなんて道理はない。

 

「――ふん」

 

 幼少の頃、誰に対してこの技を行ったか。過去の追憶をするのは異変が終わってからだ。

 信綱は軽く息を吐いて、一息に双刃を振るう。

 腕、足、胴、心の臓。五体を扱う武闘家にとっての武器を一瞬で奪うと、重力に従い地に落ちる胴体を踏みつけて刀を突きつける。

 

 一瞬の出来事だった。置くように構えられた刀に手首がめり込み、驚愕したと思ったらすでに地面に寝転がって踏まれている。

 美鈴は半ば呆然としながら、自分を見下ろす男を見る。

 

「え、あ、うそ……!?」

「――」

 

 その目にはいかなる感情も宿っておらず、あらゆる言葉を無に流すと確信できるもの。啖呵を切っても、命乞いをしても、敵のあらゆる行動に意味を見ない。そんな瞳。

 はるか昔の英雄にもここまでの目をした者がいたかどうか。力量はともかくとして、ここまで他の全てを塵芥だと目で語って憚らないものは初めてだ。

 

 あ、これなに言っても駄目だ。結構長く生きてたけど終わる時ってあっさりだなー、などと美鈴が半分ぐらいヤケになった走馬灯を見ていると、制止の声が上から届く。

 

 

 

「そのくらいにしてくださる、おじさま?」

 

 

 

 少女らしい甲高さと、信綱が会合で顔を合わせる家長らを連想させる、落ち着いた雰囲気の同居した声。それが信綱の頭上に響く。

 ちら、と視線を上に上げると一匹のコウモリが翼をはためかせていた。

 ……コウモリ一匹程度にこの場を変えられるとも思えない。とりあえず敵は殺してこいつも殺す。

 その後でゆっくり館を探れば良い。そう考えて信綱は美鈴の首を落とそうとして――

 

「彼女を殺したら、私の全勢力を以ってあなたを殺すわ。逆に、彼女を生かしたら私の元まで道案内も付けてあげる」

「――」

 

 コウモリから聞こえる言葉に剣を止めざるを得なかった。

 敵の言葉だ。信じるに値しない。それはわかっている。

 わかっているが、彼女の言葉を境に周囲からの視線が増したのも事実。

 足で踏んでいる少女の首を落とせば、これらは一斉に信綱へ群がってくるのだろう。

 有象無象なら問題はない。だが、優先すべきは黒幕を討つことであり、ここで足元の少女を殺すことではない。

 

 敵を殺すことは後顧の憂いを断つことだ。後顧の憂いを断って余計な憂いを増やし、無為な時間を費やすなど本末転倒である。

 

「――人質」

「あら?」

「こいつが大事なんだろう。案内役をこいつにしろ。妙な真似をすれば殺す。騙す素振りを見せても殺す」

「剣呑ねえ。もう少し優雅に、っとこれ以上は危ないかしら」

 

 無言で少女の首を落とそうとする信綱をコウモリが止める。

 

「一つ確認させろ」

「何か?」

「お前が異変の黒幕で相違ないか」

「ええ。このツェペシュの幼き末裔――レミリア・スカーレットがこの霧を生み出した張本人よ」

「――」

 

 空気が変わる。霧に覆われて陰鬱なそれが払拭され、代わりに空気に粘度すら与えるような濃密な殺意が場を満たしていく。

 それを発しているのは信綱その人だった。何ものにも揺らがないと感じられた瞳に浮かぶのは、炎のように揺らめく怒りと殺意。

 信綱は決して無感情でいたわけではない。溜め込んでいただけなのだ。

 黒幕への殺意を胸中で煮詰め続け、阿弥を害する者を殺すという願いの純度をひたすらに高め続けていた。

 

 その相手が、もう目前にいる。例えこのコウモリが本体ではないとしても、殺意が漏れ出してしまうのは致し方ないことだった。

 

「――さっさと案内しろ」

 

 その熱情を、信綱は無理やり胸に押し込める。

 今この場でそれに身を任せるのは簡単だ。獣の咆哮を上げ、激情のままに刃を振るうのはさぞ快感だろう。想像しただけで絶頂してしまいそうだ。

 ――そんな自分の快楽を追求し始めた時点で、信綱は阿礼狂いを名乗る資格を失う。

 いついかなる時も優先すべきは御阿礼の子。苦しみの根源であるこの霧を一秒でも早く消せるのなら、この怒気だろうと捨ててみせよう。

 

「ふふ……心地良い殺意ねおじさま。今まで私が殺してきたヴァンパイアハンターなんかより余程素敵」

「――」

 

 信綱はコウモリから聞こえる少女――レミリアの声を無視して、一瞬だけ視線を上に向ける。

 想像していた流れでは並み居る敵を全部打倒して進む予定だったのだが、こうして案内が付いた。それが良いことか悪いことか、まだ結論は出せない。

 しかし、自分とは別に進んでいる博麗の巫女らもいる。彼女らが異変を解決してくれるのなら、自分はここで適当に時間を稼いでおけば良いという見方もできた。

 

「ああ、それと招かれざる客は丁重にもてなしをさせてもらうわ。門から入ってこない輩に払う礼儀はないもの」

「――」

 

 どうやら時間稼ぎはできそうにない。視線の先の上空がにわかに騒がしくなる。

 空を飛べない信綱に援護は無理。それに彼女らもわざわざ地上に降りて戦うくらいなら、この館を突っ切って黒幕に当たる可能性に賭ける方が妥当だ。

 

 信綱の思考は当たっており、騒がしくなった上空では硝子を割る音が連続して響き渡る。

 それが迎撃の妖怪か、博麗の巫女たちが屋敷に入った音か、追求はしなかった。どちらにせよこの程度の妨害で撤退するようでは、異変の解決など到底不可能だ。

 

 ようやく肉体の再生が終わった少女の肉体から足をどけ、信綱は二刀を警戒して携えたまま立つよう促す。

 

「話は聞いていたな。門を開け」

「ちょっと貧乏くじ過ぎませんかねこれ……!?」

「余計なこと言わないの美鈴。ほら、主人に助けてもらった命なんだからキリキリ歩きなさい」

「――」

 

 上空の声が鬱陶しかったので、一刀でコウモリを斬り落とす。口うるさい小娘、しかも片方が黒幕の少女と言葉を交わして冷静でいられる自信はない。

 

「早くしろ。お前の生きる価値は今、俺を主とやらの元に連れて行くことだけだ」

「うう、それが済んだら用済みで殺したりしないですよね?」

「――」

「あ、はい、黙ります。黙って門開けます」

 

 なんだ、死にたいのか。そんな気持ちを込めた目で見ていたら色々察したのか、顔面を蒼白にした少女が門を開けていく。

 

「ええっと、こちらになります。お嬢様の部屋までは少々遠いですが……」

「走れ」

「ハイ、そうします。ううぅ、この人怖い……」

 

 一撃で戦闘不能まで追い込んだことが影響しているのか、それとも生来のんきな性格なのか。

 今ひとつ真剣味の感じられない少女の嘆きを右から左に流し、信綱は全てが真紅に染まった屋敷の中へ足を踏み入れるのであった。




 これといって実績もなかった人間が烏天狗を殺し、五体満足でいる。目をつけられない理由がありませんよね?
 というわけで諸々の勢力から目をつけられつつあります。信綱もそれに気づいていますが、そんなことより御阿礼の子が重要だ(真顔)

 各勢力は大体信綱の器を見極めようと言う感じですが、信綱視点での印象はこんな感じ。
ゆかりん:うさんくさい
巫女:里を守るなら無問題
あややや:処女
れみりゃ:絶許


 さて、前書きにも書きました事情によって結構キツイ状況です。遅れるかもしれませんが、その時は気長にお待ち下さると幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

吸血鬼と阿礼狂い

 屋敷――紅魔館の中に静かな足音が、しかし走っていることもあって騒がしく響く。

 館に飾られる調度品、壁にかけられている絵画。どれも赤で統一されており、配色の調和など全く考えられていない。

 ただ好きな色を並べればもっと素晴らしくなる、そんな子どもじみた考え方だと信綱は不愉快そうに鼻を鳴らす。

 

「まだ着かないか」

「も、もうすぐ着きます! え、えっと、斬られたばっかりで私も疲れたんでちょっと休憩がてらお話とか――あ、冗談です。ペース上げます!?」

 

 よくよく命が惜しくないと見える。そんな目で見たらすぐに察してくれる。

 口うるさいのが少々傷だが、なかなか察しが良いことが救いだ。

 これで察しも悪かったら――まあ、今さら妖怪の一体や二体、どうということはない。

 

「おい」

「へ? な、なんです?」

「なぜこんな異変を起こした?」

 

 足は止めず、信綱と美鈴は屋敷の中を跳ねまわるように移動しながらの疑問。

 見れば見るほど、この妖怪がこのような異変に加担したと思えないほどのんきなため、見定めようとしたのだ。

 

「里で死者が出た。老人や幼い子が霧に苦しめられている。思うところはないのか」

「……すみません。やはり私も主に仕える門番なんです。主の命は絶対です」

「その主の意図は」

「…………」

「ふん、だんまりか」

 

 純粋に知らないか、あるいは信綱に話すのが憚られたか。どちらでも構わなかった。

 どうせ興味本位。この美鈴と呼ばれる少女がどんな性格であろうと、邪魔をするなら殺すだけ。

 せいぜい、この今にも暴れそうな激情を慰めるための時間つぶしだ。

 

 

 

 美鈴は美鈴で信綱に対して距離を測りあぐねていた。

 気を使う程度の能力というのは、何も自分だけが範囲ではない。相手の気というのも読み取ることができるのだ。

 怒っている相手、喜んでいる相手、不機嫌な相手、悲しんでいる相手。一般の人々はそれぞれの空気や雰囲気でなんとなく察するところを、美鈴は非常に高い精度で行うことができる。

 その能力を使って、なお信綱の心境は読み切れなかった。

 

(まず感じるのは怒り。それも世界全部を塗り潰してしまうほどの。理性で抑えているみたいだけど、張り詰めた糸のよう)

 

 感情というのは生物の行動理念になりやすい。理屈や理由など後付でいくらでもつくが、根本の要因は感情であることが多い。

 察するに、この青年は怒りが原動力になってこのような場所まで来たのだと読み取れた。

 しかし、それだけだ。纏っている怒りが強すぎて他の気を読むことができない。

 この紅魔館にある全ての赤を足してもなお足りぬほどの赤い激情。これが解き放たれた時、自分の主は無事でいられるのか。

 

(でも……)

 

 止めたいところだが、青年との実力差はすでに見せつけられてしまった。

 それに戦い方から判断するに、体を張って盾になっても無意味だろう。むしろ利用される光景しか浮かんでこない。

 主の強さは疑っていない。だが、この青年には不安を煽る何かがある。

 そこまで考えて、美鈴は軽く息を吐く。

 

(まあ、妖怪同士が群れているんですから、人間に討たれるのも来るべき未来ってやつですかね)

 

 かつて来たヴァンパイアハンターらのように。妖怪が力を振るえる場所だとやってきたこの場所でも、人間と妖怪の争いが絶えることはないのだろう。

 ……原因が主の行動にあることは知っているが。

 

 なぜこのような行動をしたのか。真意は美鈴には明かされていない。

 ひょっとしたらこの霧を出す実行犯である親友の魔女は知っているかもしれないが、それは関係のない話。

 主である彼女からしてみれば人間など餌と変わらない。その餌を苦しめ、脅かし、恐怖する様を楽しむような低俗な趣味は持っていないはず。

 そこで一つ、美鈴の頭にある予想が浮かぶ。

 

(……いやあ、でも、さすがにこれは……ないですよね?)

 

 だが、あまりに馬鹿馬鹿しい、というより子供っぽすぎるので却下する。

 よもや、よもやレミリア・スカーレットともあろう者が――

 

 

 

 ――妖怪の多い場所に浮かれてしまっていた、など。

 

 

 

「……ここ、です」

 

 美鈴は一際大きな扉の前で立ち止まると、後ろにいる信綱を見る。

 結構速度を出して走っていたのだが、息を切らした様子もなく並走していた。

 こちらを見る瞳には相変わらず何の感情も宿っておらず、生かすも殺すも彼次第だと言うことを嫌でも認識させられる。

 本当に何の感慨もなく殺すし、生かすだろう。

 極東の島国。その中のさらに幻想郷という隠れ里。そんな狭い場所によもやこのような目をする存在がいるとは。妖怪と生きている人間は一味も二味も違う。

 

 すでに美鈴の中で、信綱のような目をした人間は人里に大勢いるのではないかという認識が生まれていた。

 それは盛大な勘違いなのだが、幻想郷で初めて見た人間が信綱であるため、多少の誤解は仕方ないと言えよう。

 

「開けろ」

 

 信綱は二刀を携え、腰を低くした。もう全身から扉を開けた瞬間飛び込みますという意志がありありと見える姿勢に、美鈴は頬を引きつらせながらも諦めたように扉に手をかける。

 

「ああもう、頼みましたよお嬢様……!」

 

 扉が開き、部屋の内容が徐々に明らかになっていく。

 床敷きは紅。奥には大きく足の長い机と、椅子。その上には異国の茶器と思われるそれが並べられており、これまた真紅の茶が揺れている。

 そしてその果てに座す、月光をそのまま表したような銀糸の髪を持つ少女の姿。

 

 その姿を目にした瞬間、信綱の心臓に大きな鼓動が生まれる。

 それはドクドクと壊れたポンプのように狂った速度で全身に血を巡らせ、体を熱くしていく。

 視界が赤く染まるような錯覚。全身の血液が先の存在を一秒も早く殺せと騒ぎ立てる。

 この時信綱は自身の心の臓、血液、筋肉、神経、細胞。毛一筋に至るまで狂った存在なのだと実感した。

 

 気が触れているだけだと思っていた。でも違う。

 火継信綱という存在は精神と肉体、双方が狂気に落ちて初めて、阿礼狂いと呼ばれる存在なのだ。

 さあ、足を踏み出せ。そして御阿礼の子に仇なす敵を討ち滅ぼせ。

 

 

 

 動け肉体。猛れ心臓。今動かずして、いつ動く――!

 

 

 

「――死ね」

 

 口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たく怜悧なもの。胸に渦巻く激情を一つも出していない。

 だがそれで良い。この怨敵に対してくれてやる感情など一欠片もない。

 刀を振るう。扉の側にいたナニかを斬った感触がしたが些事だ。首と胴体を三等分した程度。死にはしない。殺す手間も惜しい。

 

 踏み出した足は、これまでで最高の踏み込みとなって少女へと跳びかかっていくのであった。

 

 

 

 

 

「ああもう! なんか最近あんたのやることなすこと裏目に出過ぎじゃない!?」

 

 博麗の巫女は悪態をつきながら館内を走る。隣ではスキマで浮かびながら八雲紫が並走していた。

 あの信綱という青年を見極めると言ってこのザマだ。この館に向かう道中も陸と空に分かれて移動したが、どうにも妨害は烏天狗と雑魚妖怪が少しと、向こうの方が少なかったらしい。

 

「良いではありませんの。そのおかげで霧を出している魔女は退治できたのだから」

 

 案内もないため、館の中に入ったら後はもう適当に突っ走るだけだったが、そこは博麗の巫女。不思議と勘の良い彼女の独壇場だった。

 適当に歩いていただけで見事、大図書館にいた魔女を探り当てて殴り倒してきたところなのだ。

 

 そもそもやる気自体あんまりなかったようで、ちょっとどついたらさっさと霧を解除してしまったというのが現実だが、問題が解消できたのだからとやかくは言うまい。

 

 その紫色でもやしみたいにガリガリな少女が言うには、自分は実行者であって考案者ではないとのこと。

 要するに黒幕は別にいますということだ。どちらもぶっ飛ばせば良いだけだが、面倒な話である。

 

 そしてこうして走っている現在に至る。

 館の道中で妖怪の群れに襲われ、館の中で妖怪に襲われ、さらに魔女を倒して。今日一日だけで、自分の人生の中で戦ってきた妖怪の数を超えるのではないかと思うくらい、妖怪を退治した。

 

「……ねえ、紫」

「なんです?」

「私は力を持つ必要がある。それは幻想郷の調停者としての義務」

「……? ええ、その通りよ」

「――これじゃダメ。今回は良かったかもしれないけど、これがずっとは続かない。言わなくてもわかっていると思うけど」

 

 そもそも、博麗の巫女の仕組みそのものも幻想郷ができた当時に制定されたものだ。

 当時はそれでよかったかもしれないが、博麗大結界もできて名実ともに外界から隔離された空間となった現在、新たな有り様を求められている時が来ていた。

 巫女の言葉に紫も目を細め、思案をしている表情で虚空を睨む。

 

「ええ、わかっておりますわ。……とはいえ、我々だけでそうすぐに浮かぶものかはわかりませんけれど」

「あんたにしては弱気じゃない」

「弱気、強気の問題ではありませんわ。三人寄れば文殊の知恵、といいますけど、考え方が同じ者だけでは文殊の知恵など出るはずもない」

「相変わらずあんたの話は迂遠で長い。要点を簡潔に言いなさい」

「――此度の異変の黒幕と話がしたい」

 

 外から来た妖怪ということはわかっている。それはつまり、紫以外にも外の世界を知る者が来たということだ。

 自分や式の藍では見方も似通ってしまう。新たな視点を提供してくれる存在というのは、それだけでありがたい。

 

「……ま、あんたがそう言うなら悪いようにはしないんでしょうけど。だったら急いだ方が良いわよ」

「あら、どうして?」

「嫌な予感、すっごいする。今までで最悪なくらい」

「……少々急ぎましょう」

 

 巫女の顔は若干引きつっており、彼女の勘というものが悪寒をもたらしているのだと予測することができた。

 紫は無表情に飛翔の速度を上げ、巫女もそれに追従して空を飛び始める。

 魔女が倒されたことで異変そのものは収束したのか、邪魔をしてくる妖怪もいない。

 後は勘で適当に進めば黒幕の場所に勝手に導いてくれるという流れだ。

 

 そうして、邪魔なく二人は黒幕の少女――レミリアのいる場所まで到達することができたのだ。

 

 扉は切り刻まれている。余程の恨みや怒りを持つ存在が、それでも技巧の限りを尽くしたような切り口。

 こんな切り方ができる存在など、両者の頭には一人しか浮かばなかった。

 二人が視界を上げて部屋の中を見ると――

 

 

 

 

 

 血しぶきが舞う。蹂躙の爪牙が踊り、血の雨が四方八方に撒き散らされる。

 おぞましいまでの血臭とむせ返るような内臓の臭い。耐性があっても目を背けたくなるような光景の中、その青年は立っていた。

 

 

 

 

 

「――死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 

 

 

 

 

 言葉を失う。淡々とうわ言のように殺意を零しながら、されど振るわれる二刀の技の冴えは門番に見せたものとは比べ物にならず、疲れなど知らぬとばかりに無尽に刃を振るう信綱の後ろ姿。

 

 部屋で血に汚れていない箇所などない。赤で統一された空間であってもなおわかってしまう、赤黒い血色が撒き散らされ、しかし信綱の肉体には一滴の返り血もない。

 

「――お前たちか。その血には触れないほうが良いぞ」

 

 その口調は平時と何も変わらず。信綱は巫女たちに背を向けて何かを切り刻む速度を落とさないままに言葉を紡ぐ。

 それがかえって自身の狂気を強調するものだとわかっているのだろうか。

 

「どういう理屈かは知らないがな、こいつが斬られながら俺に血を当てようとしてきたんだ。浴びて良いことはないと思った方が良い」

 

 吸血鬼の血を飲んだものは、彼女と同じ吸血鬼になる。それも子、孫といった風に上位の存在には逆らえぬ吸血鬼として。

 ある種の生殖にも近いが、使い方次第では相手の力をそのまま自分のものにできる。

 

 当然、外来の妖怪である吸血鬼の情報など信綱は持っていない。

 持っていないが、椿との戦いを経て開花させた観察眼と山歩きで鍛え抜かれた五感が、彼女の五体から感じ取れる危険を全て教えてくれた。

 

「しかし呆れた生命力だ。これだけ斬ってもまだ治る」

「が、く、そっ! こ、の――」

 

 信綱の刃を受け続けて、しかし黒幕であるレミリアは闘志を失うことなく睨みつけ――その首を斬り落とされる。

 

「黙れ囀るな誰が喋って良いと言った」

 

 無論、吸血鬼は首を落とされたぐらいでは死なない。再生を終えた腕に妖力を集めようとして――腕が斬り落とされる。足で距離を離そうとして、足を斬り落とされる。妖力で飛ぼうとして、胴体が串刺しにされる。

 すでにレミリアは信綱の空間に入ってしまっており、あらゆる行動が許可されていなかった。

 腕を動かすこと。足を動かすこと。呼吸をすることすら許さず、ただただ振るわれる二刀を身体に受け続ける時間。

 通常ならば天狗であっても致死の攻撃量。再生が追いつかなくなり、その身を灰に変えるだけの斬撃を浴びて、それでもなおレミリアは存命だった。

 

 だが、徐々に目から光が消え始めている。

 それもそのはず。何かをしようとしてもできない。させてもらえない。そういった状況というのは思いの外精神を蝕む。

 これである程度の反撃ができていれば、その効果がなくてもここまで追い込まれはしない。

 レミリアは吸血鬼。特定の弱点以外ではほぼ不滅と言っても良いほどの再生力が武器でもあるのだ。丸一日殺されても精神を保つことはできる。

 

 そして逆に、完全に自由が奪われている場合でも精神というのは意外と頑丈になる。肉体の自由がないゆえに、精神だけは守ろうと心が鎧を作るのだ。

 しかし信綱は肉体の自由は奪っていない。彼女には行動の自由があった。ただ、その出を誰よりも早く察知し、完璧に潰しているだけで。

 

 何をしても構わない。但し何もさせない。つまり――何もできないのはお前の未熟であると突きつける戦い方。

 意識しての行動かどうかはわからない。しかし信綱は妖怪を殺すもう一つの方法――心を折る戦い方を確かに行っていたのだ。

 

「ああ、面倒だなお前は斬っても斬っても死なない。早く死ね。一秒でも早く死んでこの霧を終わらせろ」

 

 身体が治るのを待ち、動こうとしたところを斬り続ける。それが今なお続く血しぶきの答え。

 そこまで見て、ようやく博麗の巫女と八雲紫の二人は正気に戻る。

 

 呑まれていた。火継信綱という青年から発せられる狂った理性の気配に。

 

「――待ちなさいよっ! 異変はもう終わったわ! 霧は晴れたのよ!」

「実行犯が別にいたということか?」

 

 常と変わらぬ口調が余計に恐怖を煽る。例大祭の時に話しかけた口調と全く同じ。

 そのまま世間話をすれば応えてくれる。そんな様子だった。

 

「そう、そうよ! だからあんたも手を止めなさい!」

「断る。異変の黒幕自体はこいつだ。異変を起こしたものは退治される。違うか?」

「――それは博麗の巫女の仕事であって、あなたの役目ではない。違います?」

「…………」

 

 紫の言葉に信綱は押し黙り、剣を振るう腕を止める。

 即座に再生を開始したレミリアの肉体だが、もはや興味がないと言わんばかりに見向きもしない。

 そして視界の端でやや早めに再生を終えたと思われる美鈴にその肉体を長刀で刺して放り投げる。

 

 彼女もまた、主の一方的な殺戮が始まったのを止めようとしていたのだが、片手間に振るわれる斬撃でバラバラにされては元に戻るを繰り返していた。

 レミリアに注力している癖に、振るわれる刃の冴えは門で振るった技の比ではないのだ。受けることも避けることも敵わない。

 さりとて遠距離からの攻撃もままならない。元々肉弾戦の方が得意なのだ。苦手な分野で一矢報いるなど夢のまた夢だった。

 

「え、あ、あのっ? ――お二方! その人を止めてください! 主に代わって私からお願いします! 事が済んだら命でもなんでもご自由にして結構ですから!」

 

 再生の終わった直後、状況がイマイチ飲み込めなかった美鈴だが、それでも腕の中にいる主を青年が殺し続けていて、背後にいる巫女服と道士服の少女二人がそれを止めている。その構図は理解できた。

 

 ここでの美鈴の判断は実に英断と言えた。討伐ではなく対話を望む紫からすればまさに渡りに船だっただろう。

 

「霧は消えているのか」

「ええ。私が確認いたしましたわ」

「…………」

「あら、嘘を付いていると思われるのは心外ですわね。私とて、嘘を言わない方が良い時というのは心得ておりますのに」

 

 だから信用できない、とは口に出さない。

 彼女が自分をどのように見られているか、客観視できていないと考えるのは軽率に過ぎる。

 

「……まあ良い。霧を出していた実行犯をこの手で斬れなかったのは残念だ」

「こっちはあんたが黒幕の方に行ってよかったと心底思ってるわよ」

 

 あの魔女は吸血鬼ほど再生力が高くなさそうだった。顔色も生白く見るからに不健康そうであり、信綱が首を落とすだけで死にそうだった。

 いや、妖怪でもよほど強くないかぎり首を落とされると致命的なのだが。

 

「俺とて実行犯相手なら手加減はする。死んで永遠に解除されないとかだと目も当てられないだろう」

「手加減じゃなくて拷問の間違いじゃない?」

「そうとも言うな。寸刻みに刻んでやりたいくらいだ」

 

 その上で霧を解除したら殺す。信綱の目からはそういった意思がありありと伺え、博麗の巫女は先ほど倒した敵に僅かに同情すらしてしまうのであった。

 

「で、なぜ俺に剣を止めさせた。異変が終わったことはありがたいが、黒幕は退治すべきだろう」

 

 彼女が次に何かをやらかさない保証などどこにもない。

 それに今回の異変で御阿礼の子が苦しい思いをした。その時点で信綱のレミリアへの評価は底辺を貫いており、よほどの理由がなければ殺すつもりだった。

 

「ええ。ですが彼女には価値がある」

「お前から見た、だろう。早い者勝ちと言ったのはそちらだ。俺に主張を曲げさせたいんなら、それなりのものは支払ってもらうぞ」

「…………」

 

 身の程を知らないとすら言える信綱の要求に紫は微かに怒気を浮かべるが、全く気にした様子もない。

 博麗の巫女に一瞬だけ視線を向け、信綱は紫の視線に真っ向から対峙する。

 

「突っぱねるならそれで構わないし、俺を殺そうとするのも自由だ。だが、相応の被害は覚悟しておけ」

「あなた……」

 

 戦ったら勝てない。だが、自分が死ぬまでに博麗の巫女を道連れにするぐらいならできる。

 その確信を持った瞳だった。紫にとって何が最も嫌な手なのか、理解して話していた。

 

 次代の博麗の巫女もいない上、今は幻想郷そのものの過渡期にある。彼女を失うことは少々痛すぎる出費になる。

 信綱は天狗との会話でそれを理解していた。故にここで生半可な妥協をするつもりはなかった。

 

「俺は黒幕を討伐したい。後顧の憂いは断つべきであり、何より阿弥様を害したものを生かすつもりはない……が、お前はどうやら違う考えを持っていて、彼女を生かしたい。

 ……お互いにとってより良い選択ができる。そんな賢明さを今は期待しようか」

 

 信綱は無表情のまま言葉を紡ぐ。

 実のところレミリアを殺そうという情熱は、もうそこまで燃え盛っているものではなかった。

 何もなければ殺すが、殺す以上の利益を提示してもらえるなら殺さないことも視野に入れるつもりだった。

 

 彼にとって最優先すべきは阿弥の苦しみを取り除くこと。その原因である霧が払われた時点で、信綱の戦う理由は半分終わっていたのだ。

 残りの半分である敵の排除だが、時に敵は殺さない方がより利用価値を生む場合もある。

 紫や博麗の巫女とて、彼女を生かしてもう一度人里を苦しめようなどという考えを持っているわけでもないだろう。彼女らに任せることが幻想郷にとって最善であると、信綱は理解していた。

 

 まあだからといってハイそうですかと自分の意思を曲げる理由もないので、もらえるものだけもらってしまおうという魂胆である。

 

「……何がお望みかしら?」

「お前への貸し。境界の賢者、幻想郷の管理者、スキマ妖怪――八雲紫が、人里に対して借りを作る。そしてそれを妖怪連中にも伝えろ。迂闊な手出しができないように」

 

 元々人里は紫の庇護下にあるようなものだが、それでも人里としての機能が停止しかねない規模のものでしか動かなかった。

 だが、この貸しがある限りそれはなくなる。それは人里にとって多大な利益であり、何より阿弥への悪影響を減らせる可能性にもつながる。

 

「他はどうでも良い。そこのガキを煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わんし、異変を解決した名誉も巫女が独り占めして良い。俺が願うのは人里の安寧と平穏だ」

「よく言うわ。本当はそこに属する阿弥の安全だけが重要なんでしょう」

 

 何を当然のことを言っているのだ。自分が真っ当に人里の安寧を祈っている善人だとでも思っていたのか。

 そんな目で見ていると、紫も巫女も呆れたようにため息をつき、信綱を無視してレミリアの方に向き直る。

 

 美鈴の腕に抱えられ、消耗の色が濃く映っているが、それでもレミリアの顔に負け犬のそれは存在しなかった。最後まで気高くあろうとする王者の気概に溢れている。

 

「ハッ、話はまとまったみたいね。ああいえ、私から言うことは何もないわ。――参ったよ人間。完膚なきまでに打ちのめされた。対策もなく、知識もなく、ただの人間にああも斬り刻まれて何もできなかった、私の負け」

 

 あのまま戦い続けていて――勝つのはレミリアだ。

 いかに精神が傷つけられようとも、いかに消滅寸前まで追い込まれても、最終的には体力勝負に落ち着く。

 レミリアの精神が勝つか、信綱の体力が勝つか。軍配としてはレミリアの方に上がる。

 だがそうして得られる勝利というのは体力の尽きた信綱に牙を突き立てるものであり――誇り高い吸血鬼からすれば、極めて泥臭い勝利になる。

 

 第一、今回は信綱に一方的に斬られ続け、他の二人に止めてもらった形で拾った命だ。

 ここでまだ負けていないと言い張るなど、無様にも程がある。

 

「……いいわ。あなたが然るべき謝罪をするのなら、私たちはあなたを受け入れましょう」

「ん、そう」

 

 レミリアは目眩を感じているような覚束ない足取りで立ち上がる。

 精神の疲弊は妖怪にとって肉体的損傷以上に効果がある。美鈴に支えてもらいながらフラフラと歩き――

 

「あら?」

「ん?」

 

 巫女と紫は無視して、信綱の方へ向かう。

 

「――済まなかった。あなたの里に犠牲が出たのも、私の責任よ。私の首で気が済むなら持って行って頂戴」

「ちょ、お嬢様!?」

「戦って、勝者と敗者ができた。敗者は勝者に逆らえない。この場で私に命令して良いのはあなただけよ。おじさま」

 

 紫でも、博麗の巫女でもない。直接戦い、刃を交えた信綱にこそレミリアは頭を下げた。

 彼女らの取り成しで助かった。それは事実だが、レミリアが信綱に負けた事実もまた存在する。

 少女二人には助けてもらった義理がある。信綱には勝者と敗者という義務がある。

 義理と義務。どちらを優先すべきかなど、決まりきっていることだった。

 

 そうして頭を下げるレミリアを信綱は一瞥し、僅かに思案して口を開く。

 

「……お前、人は食うか」

「ええ、血を吸うから吸血鬼って呼ばれるのよ」

「――ならばお前は金輪際人里の人間から血を吸うな。そして人里に、幻想郷に害を成す妖怪と戦え」

「ちょっと、あなたそれは……!」

 

 信綱の命令に紫が苦言を呈する。

 人を襲い、人に討たれるのが妖怪の正しい姿。

 つまり信綱の言葉は、レミリアに妖怪としての摂理を捨てろと言っているようなものだった。

 

「わかったわ。レミリア・スカーレットは人里に住まう人間の血を一切吸わず、害する者に立ち向かう。これでいいかしら」

 

 それにレミリアは迷う素振りも驚く様子も見せず、二つ返事で頷いた。

 

「……少々ふっかけたつもりだったんだがな」

「わかっているわ。その上で私は断らない。私の食事やプライドよりも、この場で最も尊いのは勝者であるあなたの言葉よ」

「私たちもお嬢様に殉じます。……あなたのことは正直苦手ですけど」

「……だ、そうだ。後はお前たちに任せる。細かいところは好きにしてくれ」

 

 そう言って信綱はレミリアにも紫たちにも背を向ける。

 

「どうするつもり? まさか今から魔女を殺しに行くとかじゃないでしょうね?」

「帰るんだ。霧が払われたなら一刻も早く阿弥様の様子を見に行く」

 

 ただでさえ子供で、霧がなくても体調が安定しない時期なのだ。つきっきりで見てやらねば。

 

 という建前はさておいて、十年も待たされてようやく会えた御阿礼の子なのだ。一秒でも側にいなければ嘘というものだ。

 

「ああ、待っておじさま。お名前を聞かせてもらっても良いかしら?」

「名乗る理由がない。じゃあな」

 

 レミリアの言葉を完全に無視し、信綱は一人血に塗れた部屋を後にしていくのであった。

 

 

 

 

 

「……あそこまで無視されるといっそ清々しいわ」

 

 残された面々はぽかんと信綱を見送り、レミリアになんとも居た堪れない視線を向ける。

 

「えっと……どうする? 紫」

「あの男がいると良くも悪くも場が狂いますわ……」

 

 今回の場合は彼がレミリアに勝ったのだから当然とも言える。

 それにこちらに対してある程度の配慮もしてくれたのだ。生身の人間が吸血鬼すら打ち倒した事実を賞賛こそすれ、非難はできない。

 が、あくまで配慮はある程度でしかなかった。一時は八雲紫すら手こずった霧を出す魔女に、その魔女を従える吸血鬼。それらが丸々人里の味方についたとあっては、人里の地位は幻想郷でも無視できないものになる。

 おまけに吸血鬼を単独で倒せる……かどうかはわからずとも、釘付けにできる力を持つ人間が現れた。

 

 色々と出来事の多い異変だった。天狗の里への対応と言い、この吸血鬼たちの対処と言い、やることが山積みである。

 紫はシクシクと感じる頭痛を表情に出さないようにしつつ、レミリアたちに口を開く。

 

「私たちはあなたをどうこうするつもりはないわ。異変を起こして、退治された。それでおしまい」

「……そう。私たちも受け入れてもらえるのかしら」

「ええ、もちろん。幻想郷は全てを受け入れますわ」

 

 レミリアは僅かに安堵したような吐息を漏らすが、すぐにかき消して紫たちに向き直る。

 

「勘違いしてもらっては困るから言っておくが。私はあいつに頭は下げるけど、あんたたちに頭は下げないからね」

「はぁ……」

 

 頭痛の種が増えた。あの男、好き勝手かき回してるだけだというのに、不思議と妖怪に好かれる。

 それだけの強さがあるとも言えるが、それにしたって幻想郷の妖怪どもは男の趣味が悪過ぎると言わざるを得ない。紫に男ができたことがあるかはさておき。

 

「今日のところは退散しますわ。あなたたちも疲れているでしょうから」

「別に疲れてないし! ちょっと足がふらついて腕に力が入らなくて目眩がして……ああぅ」

「お嬢様、ムリしないでください!? メッタ斬りにされてたんですから!」

「そうよ、メッタ斬りよ! あなたもどうにかして助けなさいよ美鈴!」

「私が返り討ちにあいまくってたの見てなかった!?」

「……はぁ」

 

 また騒々しい連中が来たものだ。

 童女なのか群れの長なのか。イマイチ判断の付かない吸血鬼にその仲間たち。

 もう幻想郷に害を及ぼすことはないだろうけど、騒動を引き起こすことは今後数え切れないくらいあるだろう。

 

 それらを思うと頭が痛くなると同時、静かだった幻想郷が活気を取り戻すかもしれないという淡い期待が生まれるのであった。

 

 

 

 かくして、吸血鬼異変は終わりを迎える。

 表向きは巫女が動いて巫女が解決したことになっているが、事態の収拾に当たったものたち。事態の傍観に当たったものたちは知っている。

 巫女でもなんでもない一人の青年が動き、烏天狗を討伐し、吸血鬼をも打倒する戦果を上げたことを。

 

 幻想郷に点在する多くの妖怪たち。それらから目をつけられたことを渦中の人である信綱は、まだ知らない。

 

 

 

 

 

「……でさあ、美鈴」

「はい、なんでしょう」

 

 人の気配がなくなった紅魔館の一室。

 レミリアは美鈴の膝の上に頭を乗せてゴロゴロしながら気怠そうに口を動かす。

 

「あの人間、強かったわね」

「ですね。ちょっと頭おかしいくらい」

「頭おかしいって……いや、合ってるけどさあ」

「私は正直苦手です。でもお嬢様は違うんですよね」

「あー……」

 

 コロリと顔を美鈴の腹の方に向ける。鍛えられて引き締まった太ももの感触が顔に優しい。

 

「……私さ、すごく強いと思うのよ。そんじょそこらの妖怪じゃ相手にならないくらい。極東で有名な天狗にだって負けないわ」

「ええ、お嬢様はお強いです」

「んでさ、人間は弱いと思うのよ」

「その通り。人間が脆い生き物だって、お嬢様は何度も見てきたじゃありませんか」

 

 襲い来るヴァンパイアハンターらは、レミリアが一撫でするだけで物言わぬ肉塊へと姿を変えた。

 レミリアを怒らせないために捧げられた生け贄の生娘らは、少し血を吸うだけで動かなくなった。

 陰鬱で代わり映えのない時間。それに嫌気が差してここまで来て――

 

「あの人間、名前はなんて言うのかしら?」

「さあ? そういえば誰も名前で呼んでませんでしたね」

「ひどい話だこと。殿方の名前くらい聞き出せないでレディは名乗れないわ」

「それだと無視されたお嬢様はレディじゃないんじゃ……」

「美鈴、後で屋敷裏」

「ひどい!?」

 

 都合の悪い指摘は華麗に無視する。

 ともかく、レミリアは知ってしまった。この場所の面白さを。

 あの人間の巫女も大した力量だろうし、胡散臭い妖怪も底が知れない。何より自分に打ち勝てる人間すら存在することがレミリアを大いに喜ばせる。

 

「私は綺麗なものが好きなのよ。美鈴も知ってるだろうけど」

「ええ、まあ。私の髪が好きなことも知ってますよ」

「そうよ。紅色で綺麗な髪。――弱い人間が強い妖怪に打ち勝つ、というのも綺麗な光景じゃないかしら?」

「……あれが綺麗だったんですか?」

 

 獣を処理するように淡々と殺し続けていて、傍から見て狂気の産物にしか見えなかったのだが。

 あばたもえくぼとはよく言ったもので、レミリアにはあれすら美点に見えるらしい。我が主ながら、目医者にかかった方が良いのではなかろうか。

 

「私は負けたのよ。敗者が勝者を讃えなくてどうするの? ああ……まさか私を最初に倒すのが人間だなんて思わなかったわ」

「……これから、どうするおつもりですか?」

「どうもしないわ。ここで適当に楽しく暮らして、たまにあの人間にちょっかいを出す。

 ――断言してあげるわ。あの男の騒動はこれで終わりじゃない」

 

 自分を打ち倒すだけに限らず、自分に娯楽まで提供してくれるとは。なんて素晴らしい男だ。

 

「根拠は?」

「私を打ち倒した男がこの程度で終わるはずがない」

「ああ、そういう……」

 

 なんだか美鈴に可哀想なものを見る目で見られているのが心外だが、レミリアには確信があった。

 今後、あの青年の側にいればとても楽しい時間が過ごせるのだと。

 

 これから来るであろう騒々しい日々に思いを馳せ、レミリアはそっと笑いを零すのであった。




 これにて吸血鬼異変は終了です。そして終了と同時に様々な方面から目をつけられた模様。

 ここ、というより椿との戦闘が本当にターニングポイントになっており、今現在の信綱ならネームドキャラでも上位陣を相手に戦えます。相性次第では勝つこともできたり。
 レミリアは天狗より遅く鬼より力も弱く、しかしそれらの二位に次ぐほどの身体能力と魔力、再生力がありますが――悲しきかな。
 天狗より遅く、肉体の頑健さも刃を通さない程ではなかったため、信綱の出足をくじく戦い方と相性が悪かった。

 そして割りとバランス感覚を持っている信綱青年。手札は増やせる時に増やす主義であり、売れる恩は積極的に売っていきます。
 なおあの時点で霧が晴れてなかったら殺していた模様。

 各勢力の信綱への印象
ゆかりん:要注意
巫女:変人
あややや:興味の対象
れみりゃ:愛すべき勝者

 モテモテですね!(良いことかは別問題)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

異変の終わりと始まり

 信綱は広場で行われる宴会を、やや離れた場所で酒瓶を片手に見守っていた。

 すでに阿弥の様子は見てきた。霧の効果もなくなり、すやすやと眠る幼子の姿を見て、心底からの安堵を漏らした。

 

 問題はそこからで、異変の解決を祝して宴会をしようと人々が言い出したのだ。

 それだけなら火継の人間は参加しないからお好きにどうぞ、で終わりなのだが、今や村人たちにとって火継の人間はちょっとした有名人扱いだった。

 霧の異変が起こって犠牲まで出てしまった時、火継の当主は適切な指示と人情あふれる決断を下した、などというどこで尾ひれが付いたのか聞いてみたいくらいに美化されて信綱の存在が広まっていたのだ。

 

 異変解決の立役者とされている博麗の巫女は不干渉を貫いてさっさと神社に戻っていき、人里に残っている祭り上げられる対象は信綱しかいない、ということになる。

 確かにこれ幸いと心証を良くする努力はしたが、良くなりすぎるのも困りものである。

 

 異変の解決に当たり、志半ばに斃れた父の喪に服すと言って逃げても良かったが、せっかく盛り上がっている人々に水を差すのも憚られた。

 信綱は逃げられなくなってしまった宴会に参加して、挨拶や感謝を告げに来る人々にどうにか笑みを浮かべて対応をしている最中であった。

 

「やあ、人里の英雄どの。調子はどうかな?」

「……慧音先生、からかうのはやめてください」

 

 盃を片手にやってきたのは珍しく心の底からはしゃいでいるように見える慧音だ。

 信綱の隣に座り、美味そうに酒を飲む横顔にはほんのり赤みが差しており、すでにそれなりの量を飲んでいることが読み取れた。

 

「いやいや、お前は間違いなく英雄だ。聞いたぞ。犠牲者の遺体を親御さんに見せぬよう、火葬を自分たちで引き受けたとか」

「……他言無用にしておくべきだったな」

 

 というかそれが広まっているとか、遺族への配慮はどうなっているのか。

 人の口に戸は立てられぬとはいえ、頭痛を覚えてしまう信綱だった。

 それを人間への呆れと受け取ったのか、慧音は陽気にケラケラ笑いながら信綱の酒瓶をひったくる。

 

「あ、先生!?」

「そら、お酌してやる。盃を出せ」

「いや、私はもう……」

「盃を出せ。私の酒が飲めないと言うのか?」

「……わかりましたよ」

 

 この人めんどくせえ。

 それが信綱の内心だったが、それを言っても酔いの回った慧音には届かないだろう。

 なみなみと注がれた酒を一息に飲み干す。酒精が喉を焼き、舌を痺れさせる。

 とはいえ酔わない体質だ。いくら飲んでも問題はなかった。

 

「おお、良い飲みっぷりだ。お前もそんな風に酒を飲めるようになったんだなあ……」

 

 しみじみと過去を思い出すようにしながら、慧音が新たな酒を注いでくる。

 今度は舐めるように酒を口にして、慧音の話に耳を傾ける。

 

「お前が小さい頃は変に悟った顔をしていて、先生も色々心配だったんだぞ」

「は、はぁ……」

 

 今も大差ない気がする、とは言わないでおく。自分があの頃と比べて成長したとは全く思っていない信綱だった。

 それに慧音がここまで自分を出してくるのも珍しい。普段は模範的な教師であり、里の一員たらんと自分を律している部分が多かった。

 今日の宴会は彼女にとって本当に嬉しいものなのだろう。水を差すのも無粋というものである。

 

「だがお前は不思議と要領が良いというか、周囲が放っておかないというか……いつの間にかこんなに立派になって、先生は嬉しいぞお!」

「せ、先生!?」

 

 しなだれかかって抱きついてくる。そのまま信綱の背中に手を回しておいおいと泣き始めるのだ。

 

「私の教え子が成長して、皆をまとめて異変を解決して……こんなに嬉しいことがあるか! うわーん!」

「良いから泣き止んでください!?」

 

 同年代の若者たちからは羨ましそうな目で見られ、年配の人々からはあの人またやってるよ、というような同情混じりの視線で見られる。

 どうやら慧音が泣き上戸なのはある程度の年齢を重ねた村人は全員知っているようだ。教えて欲しかった。

 

 どうにかこうにかなだめすかし、適当な椅子に座らせて介抱は他人に任せておく。今の彼女の相手はしたくない。面倒くさいという意味で。

 陽気に笑いながら涙を流すという器用なことをしている慧音から離れ、再び宴会を眺められる場所に陣取る。

 あまり騒がしい場所の中は好きではないのだ。適度に距離を取っておく方が色々と楽だ。

 

「よう、ノブ! おつかれさん!」

「……勘助か。伽耶は良いのか?」

「こういう場所だし、雰囲気だけでも楽しんでもらってるよ。おれはおれで義父さん……親方と一緒に挨拶回りだ」

「うん?」

 

 顔通しぐらい、婚姻を結んだ頃にやっているものだと思っていた。

 信綱は不思議そうに盃から顔を上げる。

 

「ん、ああ? 今度暖簾分けしてもらうんだよ。さすがに本店は義弟たちが継ぐって」

「……いや、良いのか? 伽耶が身重で、もうすぐ産まれるんだろう?」

「だからだよ。産まれてくる子供にも伽耶にも、苦労はさせたくない。むしろ今が好機だと思ってるね」

 

 そういう勘助の目には信綱でも見たことがないギラギラとした欲望が宿っており、商売人としての姿をこれでもかというほど強く感じさせるものだった。

 

「異変が終わったけど、色々と里の機能も停止していたからな。今なら需要もあると思う。そういう意味では狙いどきなんだ」

「ふむ……」

 

 確かに火継の家でも入用は増えている。人的被害は少ないが医療品、衣類、武器などが不足しがちになっていた。

 有事の時に動く一族とはいえ、長年の平和は火継の家でも平和ボケを引き起こしかけていた。

 個々人の実力を発揮しようにも武器がいる。無傷ではいられないだろうから医療品もいる。血に汚れた服を着続けるのは衛生的にもよろしくないので服がいる。

 信綱が簡単に思いつくだけでもこんなに存在する。家の資源を把握している女中頭のトメに聞けば、より正確な数字とめまいのしそうな書類仕事を用意してくれるだろう。

 

 異変は終わった。しかし人の営みは明日も続いていく。信綱は明日から待っているであろう不得手な書類仕事を想像して、微かに憂鬱そうなため息をつくのであった。

 

「何を売るつもりだ? 販売の伝手なんかもあるだろう」

「そのことなんだけどな……ノブ、おれと契約しないか?」

「契約? ……なるほど」

 

 おおよそ読めてきた。火継の人間は危険な場所に赴くことが多い。そうして普通の人では調達の難しいものを入手することで日銭を稼ぐこともある。

 が、その際に卸す先などは特に決まっておらず、個人個人で適当にやっているというのが現状だった。

 それを統一して自分のところに欲しいということだろう。

 

「やっぱ頭いいな、お前。おれなんて伽耶と散々頭悩ませたってのに」

「まあ、らしくない考え方だとは思うよ」

 

 というより、まず伽耶の入れ知恵だと信綱は思っていた。

 悪い言い方をすれば信綱と友人であることを利用することだ。勘助には思いもしなかったことのはずだ。

 

「別に良いぞ。後日正式な書面を若い衆に持って行かせる」

「いいのか!?」

「あまり露骨な肩入れはできんがな。多少優先させるぐらいならなんとかなる」

 

 火継の家は里内の力関係には中立を保っている。稗田の家は幻想郷縁起の編纂こそが第一の使命であり、人里の中での権力を振るうという場面はそんなに多くない。

 それに仕える火継の一族も御阿礼の子以外に入れ込むことはしないようにしていた。どこかの家と癒着していざという時動けないなど本末転倒だ。

 

 と、ここまで書いたが、それは言い換えれば癒着しない程度ならば多少の融通は利かせられるということだ。

 火継の家の当主として、また勘助の友人として。どちらへの面目も立つのなら受けない理由はない。

 

「十分だ、ありがとう!」

「――言っておくが。あくまで優先させるだけだ。沈む船に乗り続ける趣味はない」

 

 そこは明確にしておく。友人といえど、信綱にも一族の長として優先すべきものがあると伝える。

 それを聞いた勘助は神妙な顔つきでうなずいた。

 

「おう。……でも驚いた。お前の顔、親方のそれとそっくりだ」

「どんな顔だ」

「すっげえ冷静に損得勘定してる顔。伽耶も帳簿計算してる時とかに良くしてる」

 

 つまるところ、何かを切り捨てる算段を付けている顔なのだろう。

 信綱も火継の当主となって十年以上が経過している。人を動かすことや、それ以上に人との距離の保ち方、付き合うことによる損得計算なども学んでいた。

 本音を言えば全部放り投げて無心で阿弥に仕えていたいのだが、幻想郷の環境そのものが激変している現在、無縁ではいられないだろう。

 

「ま、おれが成功すればいいだけだ! よろしくな!」

「……ああ、お互い良い結果になることを祈るよ」

 

 差し出された手を握る。刀を振り続けて固くなった信綱の手とは違うが、彼もまた働く男の手になっていた。

 

「じゃ、おれはこれで帰るよ。お前で挨拶は最後だったんだ。お前とは長く話したかったし」

「早めに来てくれ。慧音先生に絡まれて大変だった」

「はははっ、慧音先生も楽しそうだったよな」

「見ていたのか……」

 

 だったら助けろよ、と思って半眼で勘助を見るが、楽しそうに笑うばかり。

 

「……実際さ、お前が異変を解決したんだろ?」

「違うに決まっているだろう。俺は巫女の付き添いをしたようなものだ」

「だったら博麗の巫女様、あんな不本意そうな顔しないって。他人の顔色を見るのはちょっと慣れてきてんだ」

「勘違いだな。巫女も人間だ。虫の居所が悪い時もある」

「隙を見せないなあ……」

「やはりカマをかけただけか」

「どうしてわかったんだ?」

「秘密だ」

 

 椿との戦いで視野の広げ方を思い出した。一挙手一投足に留まらず視線の動きや顔の筋肉の強張り、そういった部分にまで目を向ければ、まだ慣れていない勘助の嘘ぐらいなら容易に見抜ける。

 

「そろそろ伽耶のところに戻ったらどうだ? 俺もまた今度挨拶に行くと伝えておいてくれ」

「おう! 最近お前と話せてないってちょっと寂しそうだったしな!」

 

 仮にも人妻がそれで良いのか、と思わなくもないが、勘助は特に気にした様子もないし良いのだろう。

 簡単な料理を持って勘助が喧騒から離れていく。伽耶のところに行って共に食事をするのか。

 

「仲の良いことだ……」

 

 酒を呷り、信綱はゆっくりと立ち上がる。

 このまま家に帰って、未だ懐に収めたままの椿のかんざしを眺めるのも悪くはないが、それより信綱には気がかりなことがあった。

 彼女は今頃神社で一人無聊を慰めているのだろうか。

 

 結果こそ信綱がいいとこ取りしたみたいな形になったが、信綱とて巫女が動かなければすぐには動かなかった。

 そういった意味ではやはり彼女こそ異変解決の立役者なのだ。

 それに霧を出していた魔女を倒したのも博麗の巫女だ。そちらの方を切りたかった信綱としては、彼女に無力を嘆くような顔をされるのは心外である。

 

 肩を並べて、と言うほど協調したわけでもないが、それでも同じ目的の元に走った間柄だ。自分ぐらいは労っても良いだろう。

 

 そう考え、信綱は適当な料理を二、三持って博麗神社への道を歩くのであった。

 

 

 

 案の定というべきか、博麗の巫女は一人人里の喧騒を見下ろしながら酒を飲んでいた。

 

「羨ましそうに眺めるくらいなら、お前も輪に入れば良い」

「……あんたこそ、愛しの阿弥様はどうしたのよ」

 

 巫女は振り返らず、信綱に悪態をつく。

 それを気にすることもなく、信綱は巫女の隣に腰を下ろして同じ光景を眺める。

 

「お休み中だ。ようやく苦しそうな顔で休まれなくなって、こちらも人心地ついた気分だ」

 

 まだ幼児なのも幸いして、成長しても今回の一件を思い出すことはないだろう。

 苦しい思い出など、少ないに越したことはない。

 

「で、何しに来たのよ。もう用はないんでしょう?」

「お前は俺を必要なことしかやらない絡繰人形か何かと勘違いしてないか? 俺だって共に異変を解決した仲間を労おうという気持ちぐらい持つ」

「……だから怖いんじゃない」

 

 巫女の口からかすれて零れた言葉を、信綱は聞かなかったことにする。

 阿弥を害した存在に対して一切の情けをかけない姿も、こうして博麗の巫女を労おうとする好青年らしい姿も、どちらも偽ることなく信綱の本心だ。

 

「……言っておくが、俺はお前をどうこうしようとは思ってないぞ」

「そんなことわかってるわよ。……理屈じゃわかってるのよ。あんたがやったことはやり過ぎかもしれないけど、異変を起こした黒幕に対する態度としてはこの上なく正しかった。人里の人間として、あんたの姿は間違いなく褒められるべきものだった」

 

 あれほどの暴威を見せて怯えるものは出るかもしれない。だが、それが振るわれるのは自分たちの属する集団と敵対している存在なのだ。

 賞賛こそすれ、非難することはできない。それを非難するということは、今回の異変で命を落とした彼らが無価値になってしまう。

 

 故に巫女も行いそのものに言及はしない。あそこまでやることはなかっただろうが、巫女だってレミリアに会ったらとりあえずぶん殴ろうとしていたのだ。人のことは言えない。

 

「でも、違うのよ……。あんたに感じた恐怖はもっと別のものなのよ……」

「……さすがに、それは俺には理解できない。教授してくれないか」

 

 信綱は狂人である自覚がある。それはつまり、自分のことを客観視できているからだ。

 しかし、できているからといって、普通の人と全く同じ視点を持っているかと言われれば否である。

 狂人なりに一般人の考え方を模倣しているだけであって、彼らの考えそのものを理解できるわけではない。

 

「……私とあんた、結構似た者同士だと思ってた。生まれた時から役目が決まってて、それ以外の自由なんてなくて。でも、私もあんたもそれを受け入れて」

「…………」

 

 黙して先を促す。

 信綱も巫女に対して親近感を覚えたことはある。自分と同じで優先すべきものが定まっている側の人間だと。

 だが、そこに博麗の巫女は違和感を覚えたのだろう。優先順位が決まっていることと、他を切り捨てる際に覚える心の痛みは別問題だ。

 

「……あの瞬間、あんたが別人のように思えた。うわ言みたいに死ねって呟きながら、あのちっこい吸血鬼を刻み続ける姿を見て、心の底から震えた」

「……お前の感性は正しいものだと思う。けど、あれが俺だ。阿弥様を害した敵は全力を尽くして殺す。その果てにお前と決別しようと、八雲紫と敵対しようと、絶対に迷わない」

 

 巫女は自分の肩を抱くように俯き、信綱と視線を合わせない。

 これは下手に自分がいない方が良い、と判断した信綱は料理を置いたまま立ち上がる。

 

「……まあ、離れても何も言わん。お互い生活圏は違うし、意識して会おうとしなければ会わないはずだ。

 本当は明日も何か奉納の酒でも運ぶつもりだったが、別の者にやらせよう」

「…………あー!! もう!!」

 

 立ち去ろうとした信綱の後ろで、巫女がとても人には聞かせられない雄叫びをあげてガシガシと頭をかきむしる音が聞こえた。

 何事かと振り返ると、いつの間にか後ろに来ていた巫女が信綱の着物の襟を掴んで引きずろうとしてくる。

 

「何をする」

「うっさい、こっち来る!」

 

 言われるがままに引きずられ、先ほどまで一緒に飲んでいた場所まで戻ってきた。

 巫女はドカッと乱暴に座って自分の使っていた盃を信綱に押し付ける。

 

「飲め」

「いや、理由がわからない――」

「飲めっつってんのよ」

「……わかったわかった」

 

 慧音といい、彼女といい、幻想郷では差し出される酒を断っていけない掟でもあるのだろうか。

 なみなみと注がれる酒を一息に飲み干すと持っていた盃がひったくられ、代わりに酒瓶を押し付けられた。

 注いだんだから注げ。そういう意味だろうと判断して信綱も酒を注ぐ。

 豪快に飲み干した巫女の姿に、信綱はどこか困ったような笑みを浮かべる。

 

「……ぷはぁ! 意外とイケる口じゃないのよあんた」

「飲めないなんて言った覚えはない。それより飯も食え。酒ばかりでは体を壊すぞ」

「あんたは私のお母さんか! 細かいことは良いから飲みなさい! 美味い酒が飲める奴に悪いやつはいない!」

「なんともまあ……」

 

 呆れてものも言えない。この巫女は生まれてくる性別を間違えたのではないだろうか。

 などということを考えながら信綱は持ってきた食事を巫女の側に持っていく。口ではああ言っているが、つまみがない酒よりはあった酒の方が良いはずだ。

 

「俺はお前の召使いじゃないぞ」

「いいじゃない、阿弥に仕えるのも私に仕えるのも一緒よ」

「全く違うわ阿呆」

 

 月とすっぽん、天と地、いや、比べることすらおこがましい次元の差がある。

 憮然とした顔で、しかし巫女の口に食事を義理で運んでやっていると、巫女はふっと優しい笑顔になる。

 

「なんか安心したわ。あんた、頭はおかしいけど悪いやつじゃないみたいだし」

「どんな評価だ」

「言葉通りよ。――私はあんたが狂ってると思った。それは正しいことだって確信してる。

 ……でも、あんたは理由はどうあれ人里のために戦った。犠牲者の死を悼んでいた。どんな心境なのか、とかはわからないけど、まるっきり嘘でもないんでしょう?」

「……いたずらに弄ばれて良い命などあるはずないだろう。狂人とか常人以前の問題だ」

 

 そこでそう言えるからこそ、悪人ではないのだという確信を巫女は深める。

 あの時レミリアに向けた殺意も、犠牲者に向けた哀悼も、どちらも本心なのだ。

 悪人ではない。その確信が得られただけでも今は十分だった。

 

「ごちゃごちゃ考えるのはやめよやめ! 仲良くできるなら仲良くする! 仲違いしたら解消するようにする! 当たり前のことよ!」

「……まあ、お前がそう言うならそれで良いんじゃないか?」

 

 多分、信綱と仲違いする時が来るとしたら、もはや避け得ぬ決別の時ぐらいしかないだろう。

 とはいえそんな時など来ないに越したことはないし、信綱とて博麗の巫女たちと無闇に敵対するつもりなどない。

 時が来れば躊躇わないが、その時が来るまでは今の関係を大事にしたい。そう思う程度の人間性は信綱にも存在する。

 

「……もう少しだけ酒に付き合ってやる。このまま一人で飲ませたら明日には飲み過ぎで死んでいそうだ」

「死なないわよ、今まで大丈夫だったんだから明日も大丈夫だって!」

「その根拠のない自信はどこから来るんだ……」

 

 そうして、信綱は巫女としばしの間、人里の明かりを肴に杯を交わすのであった。

 

 

 

 巫女とも別れ、信綱はようやく戻ってきた自室で机に向かっていた。

 机に飾られているのは阿七から贈られて以来、日々大切に磨いている花の硝子細工と、気が向いた時ぐらいしか扱わないが、それでも一応大事に扱っている橙から贈られた色石。

 この他にも趣味の釣り竿などがあるのだが、さすがに客の応対もするかもしれない部屋に置くことはできず、物置においてある。

 ――全部、阿七に言われたように自分の嗜好というものを探し始めた結果だった。

 

 その中に信綱は女物のかんざしを置く。チリ、と(かす)かな音を立てて置かれたそれに深々とため息をつく。

 

「……本当、愚かな女だ」

 

 なぜあんな結末になったのか。振り返ってみても、結局彼女の求めるところは自分との真剣勝負以外になかったのだろう。

 だが、自分は敵と真っ当に戦うつもりなどなかった。敵を愛する椿と、敵を排する信綱では最初から相容れなかった。

 殺したことに後悔はない。阿弥の敵になった時点で、信綱にはそれ以外を選ぶつもりなどなかったし、その首に剣を奔らせても何も悲しくはなかった。

 

「敵にかける情けはない。……だけど、死んだお前になら少しだけ……砂粒ほどで良ければ、憐れんでやる」

 

 椛や椿、彼女らと山を駆け回った時間が信綱を成長させ、いつの間にか異変を解決するぐらいの存在に育て上げた。

 あの日々が楽しくなかったと言えば嘘になる。例え二人を越えた後も、ああやって過ごしたいと思わなかったと言えば嘘になる。

 

 ――そんな私情を、御阿礼の子のために一片の迷いもなく捨てた。

 

「…………」

 

 これ以上思うことは何もない。もう彼女と会えないことに思うところはある。ああいう生き方しかできなかった彼女を憐れみもする。

 ――しかし阿弥の敵に回った。ならば彼女に生きる資格などなかったということだ。

 

 結論は出た。このかんざしを見る限り信綱は彼女のことを思い出し続けるだろう。

 けれどそれは懐かしい思い出に触れるためではなく、自らの感情と阿礼狂いとしての使命を再確認するためでしかなかった。

 

 

 

 

 

「――と、まあ、以上が報告になります」

「……射命丸。オレぁ、お前に嘘を報告してこいって命じた覚えはないんだがな」

「いやいや、本当ですって! こう見えて仕事は真面目にこなすんですよ私!?」

「それは知ってっから、お前を偵察に命じたんだが……にわかには信じ難いな。結界も張られて外との繋がりもなくなった今の幻想郷に、烏天狗を打ち倒す猛者ねえ……」

「遠目で見る限りは一人協力者がいたみたいですけど、実質一騎打ちでしたね。しかもその戦いで何かを思い出したのか、異変の黒幕とは正真正銘一人で戦ってました」

「どうなった」

「勝ちました」

「はははははっ!」

 

 男性の笑い声が響く。若く快活な青年の声だ。

 落ち着いたあの人の声とは対照的だわ、と文は内心でつぶやく。

 優劣を付けるつもりはないが、きっと目の前の男性の声の方が、人を惹き付けやすい爽やかさがあるのだろう。

 

「吸血鬼。オレも舶来の妖怪は詳しくねえが……鬼の一種と見ていいんだろ? 鬼とくりゃあ、一昔前は地上を席巻してたつっても良いくらいの大妖怪だ。それを倒したって?」

「殺し切ってはいないみたいですけど、吸血鬼が負けを唯一その人間に対してのみ認めたとか。そこからはスキマ妖怪やら何やらがいたんで、私も全容の把握はできませんでしたけど」

「そこは仕方ねえ。オレだってお前にスキマを出し抜けなんて無茶は言わん。しかし、しかし、ふぅむ……」

 

 実に楽しげな様子で思案に浸る男性の声。

 

「……んあ、そいつ、火継って呼ばれてなかったか?」

「あやや、申し訳ありません。異変の最中は誰も名前を呼んでませんでしたので、確認できませんでした」

「稗田の……今は確か八代目か。彼女に関しては?」

「いえ、ですからその名前が私にはわかりませんって」

「んー……まあそんだけ強い人里の人間と来れば、ほぼ確定なんだが……」

「様子、見てきましょうか?」

 

 悩ましい声を上げる男性に、文は我が意を得たりと申し出る。

 そんな彼女の様子に呆れたような顔をしながらも、青年は両手を上げた。

 

「やれやれ、じゃじゃ馬な部下を持ってオレは大変だよ。――オレの想像通りの相手なら、御阿礼の子を害するような言動だけはするな。これだけは絶対に守れ」

「? はぁ……」

 

 今ひとつ飲み込めていない文の双肩に青年の手がずっしりと置かれる。

 睨みつける寸前の眼光で正面から見据えられ、文も僅かにたじろぐ。

 

「お前の安全のためでもあり、天狗全体のためでもある。良いな? お前はオレの個人的な部下でもあり、同時に天狗の代表でもあると心得ろ」

「は、はい……」

 

 訳がわからない。だが、青年が本気で言っているのは痛いほど伝わってきた。

 文がわからないなりにうなずくと、青年は安心したような息を吐く。

 

「ならば良し。……オレたち妖怪ってのはとかく人間を見下す。それは一種の生態みたいなもんだし、実際人間の大半は弱い連中ばかりだ。

 だが、中には違う奴らもいる。そいつらはオレたちの喉笛にすら喰らいつく牙を持つ。藪蛇を出したくなかったら言うことを聞いておけ」

「……わかり、ました。――天魔様」

 

 青年――天狗を束ねる首魁である天魔の言葉に文はうなずき、気持ちを切り替える。

 楽しいだけの時間だと思っていたが、天魔の言う通り吸血鬼に打ち勝てる相手を侮るのは互いにとって良くない結果になりかねない。

 気をつけつつ、楽しめるところは楽しもう。そう心に決めるのであった。

 

 

 

 

 

 そして場所は変わり――

 

「――って騒ぎがあったみたいだね」

「へぇ、外来の鬼。この国以外に鬼なんてのはいたのかい」

「そりゃ、鬼ってのは万国共通で恐怖の象徴だからね。私も霧に紛れて見てきたけど、ありゃなかなか面白いよ」

「ふぅん」

 

 小柄な少女と大柄な少女。対照的な二人が揃って酒を飲んでいた。

 側には樽がいくつも転がっており、それが少女らのとんでもない飲酒量を表している。

 もっぱら話題を振っているのは小柄な少女の方であり、大柄な少女は土産話程度、酒の肴ぐらいにしか聞いていなかった。

 

「何より面白かったのは――異変を解決したのが巫女じゃないってことさ」

「だったらスキマだろ? 異変の解決なんてそいつらぐらいしかやらん」

「人間だよ。博麗の巫女だとか、妖怪の血が混ざってるとかなんにもない、ただの人間」

「……おいおい、本当かい?」

「鬼は嘘つかないよ」

 

 大柄な少女は穴が開くほどに小柄な少女を見つめる。

 小柄な少女は楽しそうにその視線を受け止め、両手を広げた。

 

「ねえ、地上に行かないかい? 外来の鬼が騒いでんだ。私らももう一回外に出よう! それで人間どもに恐怖を思い出させるんだ! あいつらが忘れた私たちの力を見せてやろうじゃないか!」

「嘘、じゃあないけど本心でもないな。私らの仲だ。本音を言いな――萃香」

「ああん、勇儀ったら相変わらず勘が鋭いねえ。ま、私らの目当てなんてわかってるでしょ?」

 

 二人の少女――かつて地上を恐怖に陥れた鬼の少女は、ここ数十年味わったことのない高揚感を胸に獰猛な笑みを交わす。

 

 

 

 ――人間の猛者を一目見たい。

 

 

 

「それに外来の鬼にも教えてやんなきゃ。私らの強さってやつを」

「……まあ、面子の問題もあるわな。地底に来たとはいえ、私らは鬼だ。外来の鬼がいるってんなら挨拶に行かねえとなあ……?」

「それでこそだ! さぁ――」

 

 

 

 

 

 ――百鬼夜行の準備と行こうじゃないか!!




盛 り 上 が っ て ま い り ま し た

動乱の時代がこれだけで終わると思ったら大間違いだよ!
導火線に火の着いた爆弾だらけな幻想郷。原因をたどると主人公の人間らしからぬ強さにあったり。
なまじ強かったから妖怪に目をつけられてしまう。大変ですね(他人事)

まあさすがに一年以内にこれらが続いたんじゃ後の話を考えるのが大変、もとい面倒、げふんげふんノッブの身体が持ちませんので、多少の年月は間を開けます。
妖怪の時間感覚の緩さは半端じゃない。

ということで次回はほのぼの。次回以降? 知らない子ですね。

ノッブの評価は大体巫女の言う通り「頭おかしいけど悪いやつじゃない」に収束します。
他人からの評価もだいたいこれ。変人だけど悪いやつじゃない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

妖怪たちのそれぞれ

信じられるか? これ、書いてる時のサブタイトル「阿弥との時間」だったんだぜ……?


「クックック……自分の文才が恐ろしいわ……。まさかこんな素晴らしい文章が書けるなんて……」

 

 紅魔館の一室にて、レミリアは羽ペンを横において自画自賛をしていた。

 彼女の目線の先には悪趣味な真紅の便箋に白いインクで文字が書かれており、そのものずばり手紙であることがわかった。

 

「詩的にして情熱的。それでいて私の想いを余すところなく記したこれはまさに! スカーレット・レターと呼ぶにふさわしい!」

 

 ここに誰か人がいたら、何言ってんだこいつという目で見られていただろう。

 くるくると回りながら自分の手紙に名前をつける様は、控えめに言って関わり合いになりたくない存在だ。

 

「さて、いつまでも浸っていても仕方ない。手紙というのはやはり他人に見られてこそ。……ああ、でもちょっと恥ずかしい気が……いいえ! 女は度胸! 尻込みしていたら何も始まらない! パチェー……はダメか」

 

 勝手に悩んで勝手に自己完結したレミリアは親友でもある魔女を呼ぼうとして、口をつぐむ。

 

「確か巫女にお腹殴られて休養してたっけ。じゃあ仕方ない。めーりーん」

「はいはい、なんですか?」

 

 呼んだらあっという間に来てくれる門番。

 異変が終わってから屋敷の修復やらで忙しいのはわかるのだが、これは門番として正しい姿なのだろうか疑問に思うレミリアだった。

 

「ちょっと手紙届けて欲しいんだけど」

「はぁ、それは良いですけど、どちらに?」

「人里」

「あ、私ちょっと急用を思い出し――」

 

 逃げようとする前に美鈴の足を掴んで逃げられないようにする。

 

「行け」

「ムリムリムリですって!? 異変が終わってからまだ三ヶ月ぐらいしか経ってないじゃないですか!?」

「もう三ヶ月も経ったのよ! うちのもやし魔女は腹パン食らっただけで三ヶ月も寝込むし、動かせるのあんたしかいないのよ!」

「いやいや! そもそも人里って妖怪の出入りがご法度だって言ってたじゃないですか!」

「先駆者はいつの時代も異端視されるものよ! 生け贄になって……んんっ! あなたが時代を切り拓くのよ、美鈴!」

「生け贄って言った!? 嫌ですよぉ……人里にはきっとあの人みたいな目をした人が大勢いるんですよお……。私なんかが行ったら五秒でミンチですよぉ……」

 

 本気で嫌がっているのか、美鈴はさめざめと泣き始めてしまう。

 余程信綱の目が怖かったのだろう。完全にトラウマになってしまっている。

 しかし彼と同程度の力量の人間がワラワラいる人里とか、普通に妖怪を駆逐できるのではないだろうか。

 

 いつの間にかレミリアの腹に顔を埋めて泣き始めた美鈴をあやしながら、レミリアはどうしようかと考える。

 

「あーもう、泣くな泣くな。こうなったら私も一緒に行くから!」

「本当ですか……?」

 

 普段は自分を子供のように扱う美鈴が、逆に自分に甘えるように涙目で見上げてくる光景にレミリアは軽いめまいを覚える。

 

 やっべーこの子可愛すぎるわーこの子を迎え入れる判断をした過去の私素晴らしい! などと美鈴を褒めるようでいて、その実自画自賛でしかない思考を僅かな時間で行う。

 

「大丈夫よ。このレミリア様に任せなさい! 私がちょっとお願いすれば人里に入るくらい朝飯前よ!」

「うう、ぐすっ……あれ? そうなると私必要ないんじゃ……」

「さあ行くわよ! 日傘を持ちなさい!」

「あ、待ってくださいよー!」

 

 先に行ってしまったレミリアを追いかける美鈴。

 大体これが紅魔館の日常だった。

 

 

 

「ひっ!? か、帰れよ妖怪! こ、ここは人里だぞ!?」

「あー……」

 

 顔面を蒼白にしながら、震える手で槍の穂先をレミリアに向ける年若い少年二人の姿に、レミリアは空を仰ぐ。日傘で見えなかった。

 

「いやあ、あの男から聞いてない? 私、あなたたちに手は出さないわよ?」

「妖怪の言うことを信じられるか!」

「そりゃそうだ」

 

 思わず納得してしまう。見ず知らずの妖怪に声をかけられたら、信用せずついていかないのが鉄則だ。

 迂闊についていって命を落としたなんて逸話は枚挙に暇がない。

 

 さて困った。愛すべき勝者との約定により、人里に手は出せない。

 とはいえここで屋敷に戻るのも出かけてきた意味がない。なのでレミリアは彼らに呼んできてもらうことにした。

 

「じゃあ呼んできてよ。でなきゃここで出待ちするわよ?」

「ううっ、おい、どうしよう……」

「おれが知るかよ!? うう、なんでこんなことに……」

「哀れな……」

 

 年若く経験も少なそうな少年たちがどんどん青ざめていく様を、横で日傘を持っている美鈴が同情の視線で見つめていた。

 彼らの内緒話は件の青年を呼びに行く方向でまとまったらしく、一人が見張りを継続し、一人が呼びに行く様子だった。

 

 なおその際にじゃんけんで決め、負けた方は人生が終わったかのような顔をしていた。

 

「んじゃよろしく。ねえねえそこの少年、なんか人里の美味しいものとかない? 次から持ってきてもらうわ」

「教えたらお前たちが独占するつもりだろ!?」

「そんなことしないって格好悪い。でも話し相手にはなってもらうわよ」

「どうしてこんな……」

「取って食べやしないから大丈夫よ。ほーらスマイルスマイルー」

「ひぃぃぃぃっ!?」

 

 レミリア的には精一杯の友好的な笑顔だったのだが、少年には獲物を前にした舌なめずりにしか映らなかった。

 槍も放り投げて尻もちをついて後ずさる少年。完全に逃げ出さないのは自警団としての使命か、はたまた腰が抜けただけか。

 

「……お嬢様、ちょっと楽しんでません?」

「わかる? ああも驚いてくれると妖怪としては嬉しいわね」

「……強く生きるんですよ、人間」

 

 異変を経験したとはいえ、霧に覆われた人里を守っていたのは火継の人間だ。

 実際に妖怪と相対した経験のある人材は、依然として少ないままだった。

 

 ともあれ、レミリアは友好的な態度を取りながら、ちょっと驚かして楽しんでいると、人里に繋がる門から一人の男性が出てくる。

 苦虫を噛み潰したような渋面を貼り付けて天狗の長刀と脇差を携えた、自警団の少年らより歳を取っている青年の姿を見た瞬間、レミリアは駆け出して――

 

「会いたかったわよおじさまっていたたたた!? 美鈴、日傘日傘!?」

 

 日光の元に飛び出して、肌の焼ける苦痛に悶え苦しんだ。

 

「いきなり走らないでくださいよ!?」

「……何しに来たんだお前ら」

 

 青年――レミリアを打ち倒したただ一人の男、火継信綱はそんな二人の騒々しい姿に頭痛を覚えるのだった。

 しかしその様子を自警団の少年に見せることなく、信綱は少年の肩に手を置いて労いの声をかける。

 

「よく頑張った。後のことは俺に任せろ」

「は、はいっ! 英雄様、お願いします!」

 

 先ほどまでの震えはどこへ行ったのか。少年たちはあっという間に逃げ去ってしまう。

 その後ろ姿に信綱は何か言いたげな顔をしていたが、すぐにレミリアの方へ向き直る。

 

「で、なんの用だ」

「英雄様ですって美鈴。やっぱり私を打ち倒した男は評価されるものよね!」

「そりゃお嬢様みたいな吸血鬼に勝ったといえば、人間で見れば間違いなく英雄ですよ」

「人の話を聞けお前ら」

 

 青筋を浮かべる信綱。ただでさえ今は異変の後処理が続いて信綱も忙殺されているのだ。

 本心を言えば阿弥を女中に任せることなく、自分で世話をしたいのだ。なのに里の状況と信綱の立場がそれを許してくれない。

 そこにやってきたのは異変の黒幕であるレミリア。しかも明らかに遊びに来た様子。

 怒りたくなるのも無理はなかった。

 

「そうそう、ハイこれ」

「なんだこれは」

「ラブレターよ」

「……?」

 

 レミリアの言葉の意味がわからなかった。幻想郷で通じる日本語とは全く違う。

 違和感を覚えながらも信綱は手渡された赤い手紙に目を落とし――

 

「全く読めん」

「しまった言語の壁を忘れてた!?」

 

 英語の文章など見たこともない信綱には理解できないものだった。

 

「……ああ、いや待て。手紙の類と考えるなら最後の方に宛名が付く。良かったな、名前ぐらいならギリギリわかるぞ」

 

 もう少し時間をかければ全体の文法や最初に来る単語などから意味を類推することはできるが、レミリアのためにそこまでする義理はなかった。

 

「それじゃダメじゃない! ああ……私の最高傑作が……」

「残念だったな。お帰りはあちらだ」

「少しは慰めようとかないの!?」

「全く思わん。というかよく人里に顔を出せるな。あんだけの異変を起こしておいて」

「あら、その代償にこの場所を守れと言ったのはおじさまじゃない。私は約束は違えないわ。これもその場所と規模の確認よ」

「…………」

「おじさまだって、どの程度の大きさで、どの程度の人数もいるのかわからない場所を守れと言われても困るでしょう?」

 

 眉のシワが深くなる。業腹だが、レミリアの言っていることの否定は難しかった。

 とはいえ彼女を里に入れることを容認はできない。今でこそ美鈴の日傘の下で大人しいが、気が向けば人里の壊滅ぐらい容易い妖怪なのだ。

 しかし――

 

「……吸血鬼の弱点は日光なのか?」

「あら、知らなかったの? 日光で焼かれる、銀やニンニク、他にも心臓を白木の杭で打ち込めば死ぬって話よ。実際に試したことはないけど、日光が辛いのは確かね」

「ふむ……」

 

 銀やニンニクなどは確かめられないが、少なくともさっきの光景で日光に弱いことはわかった。

 日傘を持っている美鈴を斬ればレミリアは日光に晒される。そこから逃げることを封じるために足を斬り続ければ、恐らく相当の痛手は与えられるだろう。

 

「……わかったよ。俺の目から離れない。その条件が飲めるなら外から案内ぐらいはしてやる」

「中は見せてくれないのー?」

 

 頬を膨らませて不満気だが、外周の案内をするだけでも相当な譲歩だと気づいて欲しい。

 

「もっと付き合いが長くなったら考えてやる。今のお前には悪名しかない。さすがにそんな奴を里には入れられん」

「うー!」

「まあまあお嬢様、見方を変えてはいかがでしょう? ほら、人目を憚らず逢引ができると思えば」

「美鈴天才じゃない!?」

「でしょう? では日傘をお渡ししますから私はこれで――」

「そっちが本音か! 逃さないわよ!」

「やだー! その人と一緒やだー!」

「お前ら帰れよ」

 

 なんて騒々しい連中だ。信綱は眉間をもみほぐすように手を当てて、胸中の苛立ちをごまかす。

 

「……さっさと行くぞ。来ないなら帰れ」

「あ、待ってってば!」

「うう、逃げられない……」

 

 さっさと歩き始める。この二人のやり取りを見ていたらいつまで経っても話が進まない。

 かつて自警団に属していた時のように外周を歩き始めると、レミリアと美鈴の二人もその横を大人しく歩いてきた。

 

「ふぅん、結構しっかり外周が作られてるのね」

「昔は人妖が殺し合っていたと聞く。その時の名残だろう」

「おっかない。人間もよく生きられたものね」

「半ば見逃されていたんだろうさ。天狗の群れやら鬼の群れにまで襲われて、あの規模の人里が生き残れるものか」

 

 あるいは、自分のように妖怪と打ち合える人間が今より多かったのか。

 それとも博麗の巫女が全力で働いていたのか。

 当時の歴史書もあるにはあるが、その頃は慧音もまだ幻想郷にいなかった時期で、どうにも編纂内容に偏りが見受けられた。鵜呑みにするのは危険だろう。

 

「お前が来る前までは妖怪の被害もほとんど聞かなくてな。生まれてから一度も妖怪を見たことのない人も多い」

「へえ、驚いた。私が幻想郷に来たのも妖怪と人間が共存しているから、って売り込みなんだけど」

「お互いに顔を合わせない不可侵状態を共存というなら、な」

 

 尤も、個人単位なら里の外に出る者が妖怪と遭遇することもある。

 信綱自身はその典型で、妖怪の山にほど近くを鍛錬場にしていることや、幻想郷縁起を編纂する御阿礼の子に仕えている影響から、多くの妖怪と知り合っている。

 ……典型と言うには少々多すぎるが、彼のように頻繁に外に出れば妖怪と知り合う機会も増えると考えて間違いはない。

 

「じゃああのちびっ子たちは? 見るからに若そうだけど、若い連中にやらせてるの?」

「自警団は成人したての男たちが引き受ける暗黙の了解がある。主な仕事は里の見回りぐらいで、妖怪退治はまた別口の仕事だ」

「おじさまはその妖怪退治なのかしら?」

「有事の際には俺たちが動く決まりだ。だが異変の時でもない限り、俺たちが動くことはあまりない」

 

 普段は御阿礼の子の側仕えになるべく自己鍛錬ばかりしている。

 霞を食うわけにもいかないし、里との関係を良好に保ち続けるためにも仕事はしているが、阿礼狂いの一族は皆本心では信綱を排して阿弥の側仕えをしたいと思っているに違いない。

 その辺りの説明は面倒だったので省略する。レミリアが知ったところで何の意味もない。

 

「ふぅん、じゃああやさまあやさま言ってた、それが関係しているって――」

「それ、などと呼ばないでもらおうか」

「う、わっ!?」

 

 レミリアの首に脇差を突きつける。

 抜刀の所作がレミリアの目にも追えなかった。人間以上の速度を出しているはずはないが、意識の間隙、瞬きにも見たない一瞬を狙えば不可能ではない。

 悲鳴を上げたのは美鈴の方。レミリアは微かに目を見開いてその光景を受け入れ、やがて愉しげに唇を釣り上げた。

 

「いや、すまないね。謝罪しましょう。なるほど。あなたの一番大切なもの――人を傷つけたからあなたが来たわけ」

「そうなるな。……言っておくが、もう一度手を出したら」

「出さないわよ。負けた私が勝ったあなたのものに手を出す? 無様過ぎるでしょうそれは」

 

 そういうレミリアの瞳には本気の怒りが浮かんでいる。

 あまり見くびるな。そう言いたいのだと信綱は読み取り、しばしの間睨み合う。

 

「…………」

「信じられないというならお好きにどうぞ。尤も、私を打ち倒した男の度量はそんなに狭くないと思いたいけど」

「……ふん、信用できないで他者を切っていたら誰も味方にならんだろうが」

 

 刀を収め、再び歩き出す。

 勝者と敗者に分ける彼女の方針は理解し難いが、少なくとも信綱を害する真似はしないと考えて良いだろう。

 それに吸血鬼を味方にできれば、利益は計り知れない。どこまで信用できるのかはわからないが……。

 

「あ、あの!」

 

 と、思案に耽っていると後ろから若い女性の声が聞こえた。

 信綱に対して怯えた視線を送って、レミリアとの話にはほとんど入ってこなかった美鈴が、信綱に声をかけてきたのだ。

 

「なんだ」

「そ、その……お嬢様は見た目通りのお子ちゃまで、すぐワガママ言い出しますし、飽きっぽいですし、時々奇行に走ったりしますけど!」

「主思いの部下だな」

「後でシバく」

 

 レミリアと信綱の声も耳に届いていない様子で、美鈴は必死に言葉を紡ぐ。

 

 

 

「それでも! 自分から約束されたことを覆すようなお方ではありません! どうか信じていただけないでしょうか!」

 

 

 

「断る」

「良いこと言ったはずなのに!?」

 

 そんな美鈴の必死の叫びを、信綱は一言でぶった斬った。

 他人に言われた程度で信用するしないを覆すなど、そちらの方が軽佻浮薄である。

 

「お前が何を言ってもこいつが異変を起こして、多くの人妖を巻き込んで、何より阿弥様を害した過去は変わらない。だから相応の態度を取る。何か間違っているか?」

「そ、それは……正しいですけど」

「悪いことをした以上、それ相応の対応をされるのは当然の結果だ。だから、異変を起こした妖怪としてお前たちのことは扱う」

「……ま、道理だわね」

 

 そこまで言って、言葉を切る。

 事実を受け入れるように肩をすくめるレミリアとは対照的に美鈴はすっかり落ち込んでおり、自分なんかがこの人に声なんてかけるんじゃなかったと後悔している様子がありありと伺えた。

 今言った内容はあくまで現時点での話であって、これから付き合いが長くなるのならその限りではないのだが、それに気づいた様子はない。どうやら口に出して説明しなければならないようだ。

 

「……とはいえ、俺はお前たちのことなどそれしか知らん。今後も人里に来続けるのなら――まあ、信じる時も来るだろうさ」

「ふぇ? それって……」

「大体、一朝一夕で信じろというのが無理な話なんだ。そういうのは時間をかけて醸成すべきものだ。……言いたいことはそれだけだ。行くぞ」

「ええ、わかったわおじさま。ほら行くわよ、美鈴」

「え、あの、ちょっと?」

 

 レミリアは信綱の言葉を過不足なく理解したようで、上機嫌に隣を歩いていた。

 鼻歌まで聞こえてきそうな様子で、美鈴に聞こえないよう空を飛んで信綱の耳に顔を近づける。

 

「おじさまも可愛いところがあるのね」

「今は信じていないのも事実だからな。里に入れるまで、時間がかかると思え」

「ええ、私は吸血鬼ですもの。気長にやっていくわ」

「どうだか……」

 

 美鈴とレミリア、そして信綱の三人は里の外周を回りながら適当な話をする。

 里の説明であったり、彼女らの自己紹介であったり、また互いの近況報告であったり。

 

 外周を回り終え太陽が沈み始める頃には、美鈴からの怯えた視線は少しだけ弱まっていた。

 

「……さて、これで里の案内は終わりだ」

「外壁回っただけだけどね」

「まだ中には入れられん。……次からは門番に火継の名を出せ。そうすれば俺が来る」

「そうさせてもらうわ。でもそれってファミリーネーム――苗字の類でしょう? そろそろおじさまの名前を教えてくれても良いんじゃないかしら?」

「もう少し信用できるようになったら考えてやる」

 

 レミリアは薄く微笑み、信綱から離れる。

 今は信用されていない。しかしこうして共に時間を重ねていけば信用するとも言っている。

 絶対に信じない、なんて言われるよりは破格の対応と言えた。

 

「今はそれで満足としましょう。ではまたねおじさま。次はあなたのお家が見てみたいわ」

「却下だ」

「つれない人。まあ良いわ。錠前は堅牢であればあるほど、解いた時の快感も大きいのだし」

「えっと……お邪魔しました! また来ますが、その時はお嬢様をよろしくお願いします!」

「ああ、また」

 

 手をひらひらと振って彼女らが遠ざかるのを見送る。

 空を飛んで夕闇に消えていくそれを見て、信綱は軽くため息をつく。

 

 今後も異変が起こらない保証なんてない。だから彼女を味方に引き入れるようにしたが、かえって考えることが増えたかもしれない。

 とりあえず今はこれから先も信綱を尋ねてくるであろう、レミリアの対応をどうしたものか頭を悩ませる信綱であった。

 

 

 

 

 

 信綱はその日、妖怪の山に足を踏み入れていた。

 用件はただ一つ。椿と自分、両者にとって共通の友人である椛に事の次第を報告するため。

 

「…………」

「……私が来ないこと、考えなかったんですか?」

 

 いつも三人が稽古に使っていた場所で待っていると、上空から緊張を孕んだ声がする。

 視線を上に向けると、椛は地上に降りて信綱の近くに寄ってきた。

 

「考えた。だが、どんな結果になろうとお前に報告するのが筋だと思っていた。今日がダメなら別の日にする」

「あなたがここに来た時点でわかっていることですが……聞かせて下さい。あなたと椿さんが行き着いた果てを」

 

 いつもの人懐っこい面影はなく、真剣な顔で問いただしてくる椛に、信綱も包み隠さずあの日のことを話す。

 

「霧の中で襲ってきた奴と戦った。俺との一騎打ちだ」

「人間と烏天狗が本気の一騎打ちとか……いえ、今さらですよね。続けてください」

「強かった。最後に会った日よりも腕を上げていた。正直、食らいつくのがやっとだったよ」

 

 椿の言葉がなかったら。無言で彼女が自分を殺しに来ていたら――父を使って一矢報いることはできただろうが、勝てたかどうかはわからない。

 

「でも、あなたが勝った。その刀、天狗のものですよね」

「ああ。椿がくれると言うから受け取った。悪くない使い心地だ」

 

 頑丈で軽く、切れ味も鋭い。元々数打ちの刀でも斬鉄ぐらい訳はないが、この刀なら岩でも斬れそうだった。

 

「……すみません、私もまだ心の準備ができていませんでした。あなたがここにいるのだから答えなんて一つしかありませんよね。――椿さんは、どんな形で死にましたか?」

「…………」

 

 言葉に迷う。排除すべき敵として、彼女の心を何一つ酌むことなく、戦いの中で心を交わしたいという彼女の願いを踏みにじって殺した。

 それに後悔も迷いもなくても、他者に話すことがはばかられる内容であることは信綱にもわかっていた。

 

「――絶望して死んだ。あの戦いで心が交わった時など一時もなく、奴は最後まで自分を見てと絶望して死んだ」

「っ! わかっていて、どうして……!」

「敵だからだ。阿弥様の敵になった以上、俺が奴の願いを叶える道理など何一つとして存在しない」

 

 そもそも前提が違う。信綱は戦いに私情は持ち込まず、御阿礼の子の敵となった者を淡々と処理していくだけだ。

 その彼に戦いを通じて古来の人間と妖怪の在り方を思い出すなど、土台無理な話なのだ。

 信綱の言葉を聞いた椛は何か言いたそうな顔をして、しかし何も言うことなくうなだれる。

 

「……霧が出てから会った時に気づいてました。椿さんは致命的な間違いを犯して、何一つ報われることなく死ぬんだって。ああ、だけど……!」

 

 顔を上げる。椛の瞳には涙が浮かんでおり、今にも零れそうだった。

 

「どうして何も言わなかったんですか! 私だけがのけ者にされて! 三人で一緒にいれば良かったじゃない! 何が人妖の在り方よ! それで誰かを泣かせてれば世話ないわよ!!」

 

 信綱への糾弾ではない。椛は信綱を通して、椿に対する思いを吐露していた。

 胸ぐらを掴み、腹に顔を埋めて、どうして世界は悲しいのだと叫ぶ彼女に、信綱はかける言葉が見つからない。

 ただ戸惑いながら、その細い肩に手を置くくらいだった。

 

「殺し合わなきゃ真の理解がない? ふざけないで! そんなことしなくてもただ一言言えばわかり合えた! わかり合えなくても一緒に悩んであげられた!! なのに、どうしてみんな、何も言わないのよ!! 千里眼でも心は見えないのよ!!」

「……すまない。俺はお前になんて声をかければ良いのかわからない。どうして欲しい?」

 

 椛の慟哭を受けて、信綱も自分のことを省みる。

 ……自分が狂った人間であると。最初から言っていれば違う結末はあったのだろうか。

 思いを馳せる信綱の胸に、椛が一層力を込めて顔を埋めてくる。そろそろ痛みを覚えるほどだが、何も言わない。

 

「もう少しだけ、こうしていて……っ!」

「わかった。……俺ももうちょっと自分のことを教えておけば良かったのかもしれないな」

 

 それとも、あの三人で過ごした時間が好ましかったと、言っておけば良かったのか。

 ……いずれにしても決定的な破綻は異変が起こった時ではない。五年前、椿が信綱の敵になると言ってしまった時に関係は破綻していたのだ。

 

 敵になったら容赦はできない。一番大事なものは御阿礼の子で、それは終生揺らがない。

 だが、敵にしない方法はあったのではないか。信綱が他人に対してたらればを考えることは珍しいが、それだけこの時間を大切にしていたとも言い換えられる。

 

 慟哭する椛の肩を抱きながら、信綱ももう会うことのない椿との時間を思い出すのであった。

 

 

 

「……ごめんなさい、格好悪いところ見せちゃって」

「今さらだ」

 

 力量で信綱に追い越されて凹む姿も、自分の身の丈を知って落ち込む姿も、大将棋で珍しく負けて悔しがる姿も、椛の格好悪いところはよく見てきた。

 

「も、もうちょっとマシなことを思い出して欲しかったですけど……。でも、本当に今さらか」

「……お前はどうするつもりだ? 椿を殺した俺と顔を合わせたくないと言うなら、俺はもうここに来ない」

「殿方の胸で女が泣く意味、考えたことある?」

「手近にすがれるものがあったからだろう」

「……正解。なんでわかるのかしら。女心に疎そうな顔しているのに」

 

 半ば確信に近い直感だった。椛は気安く、人間とも仲良くなれそうだが、どこかで決定的な一線を引いている。そんな気がするのだ。

 

「まあ良いわ。――決めた。私は椿さんみたいに殺し合わなくても良い在り方を目指します。

 あなたとだって決別しなくても良い。そんな人と妖怪の繋がりがあっても良いはず――いえ、殺し合うのがダメなら真っ先にこうすべきだったんです」

「徹底して顔を合わせないって手もあるだろう」

「外から来た妖怪一人で大騒ぎじゃないですか。薄氷過ぎるんですよ、今の状況。誰も彼も内心で何を考えているかわかったものじゃない。ひょっとしたらあなた、色々な妖怪に目をつけられているかもしれませんよ?」

「……まあ、思い当たる節はあるな」

 

 少なくとも天狗には目をつけられている。あの射命丸と名乗った天狗が自分のことを黙っておく理由もない。

 あとは外来の吸血鬼。倒したら執着されるなど誰が想像できるか。

 

「殺し合ってはいけない。でも顔を合わせないのもいけない。――だったらそれ以外の道を探す他ないんです。少なくとも私はそうします」

「……具体的には?」

「君と仲良くなる。私に大それたことはできませんけど、君と一緒にいればあるいは――」

 

 そういう椛には何らかの確信があるようで、信綱という男が今後も様々な騒動に巻き込まれることを予見しているように見えた。

 

「なぜそう思う」

「長く生きていると、色々とわかることがあります。時代の節目とか、そういった時に起こる騒動の前触れとか。それに――その中で中心に成りうる人間のこととか」

 

 意味ありげに微笑む椛に、信綱は言い表せない胸騒ぎを覚える。

 こちらを見ながらそんなことを言わないで欲しい。それではまるで――

 

「断言します。これから色々なことが起きます。良いことも悪いこともいっぺんに。その中心は――あなたです」

「どう、して」

「なぜと言われてもわかりません。ですがそういうものです。望む望まないに関わらず、時代の流れは人も妖怪も等しく飲み込んでいく」

 

 椛が別人のように見えた。人懐っこい彼女の面影はそこになく、あるのは信綱より遥かに長い時を生きた妖怪の姿。

 固唾を呑む。彼女の言っていることは根拠もなにもないはずなのに、信じてしまいそうになる何かがあった。

 

「……安心してください。私はあなたの味方をするつもりです。

 いつの日か、天狗も人間も一緒にいられる。殺し合わなくても互いを理解できる。そんな幻想郷に、なって欲しいですから」

「……しがない白狼天狗と言っていたお前が、言うようになった」

「あなたのせいですよ。弱い人間のくせに妖怪を殺してでも大切な人を守ろうとするから――私も、大きな夢ってやつを持ちたくなってしまったんです」

 

 目元を泣き腫らしながらも笑う椛。その姿に信綱も何かが突き動かされるような感覚を覚える。

 阿礼狂いとして生きることに迷いはない。ないが――できることならそれは椛と同じ道を歩んだ上であって欲しいと思ってしまった。

 

「……大変な道のりだ」

「ですが、価値はあります。勝算も」

 

 時代が変化を求め、それぞれの勢力の首魁はそれをきちんと見抜いている。

 これから生まれるであろう大きなうねりに、一石を投じることぐらいならできるだろう。

 時代の中心に立つであろう信綱の生き様を見届けるつもりの椛はそう思っていた。

 しかし、彼女は一つ失念していることがあった。あるいは見ようとしなかったのか。

 

 

 

 信綱が最も頼りにしている妖怪は誰でもない、この自分であることを理解していなかったのだ。

 

 

 

 故に彼女は今後の動乱にも否応なしに巻き込まれることになるが――それは未来の話である。




異変の後は色々と変化があるので書くことが増えて困る。おのれレミリア!(責任転嫁)

椿の死が信綱の力量にとってのブレイクスルーなら、椛にとっては精神的なブレイクスルーでもあります。彼女の死が与える影響は殊の外大きい。
そして椛がとうとう相棒ポジションゲットしやがった……なんてやつだ……(戦慄)

レミリアが来たことが転機になって、色々な変化が起きようとしています。融和を願い始めた者もいれば、再び支配を狙うものもいたり。

そして何はともかく阿弥が出せねえ! この話の三大ヒロインの一角なのに! あっきゅんとか書きたくて始めたのに御阿礼の子が書けねえ! なんで三代にしたか? ノリ。
というわけで次は時間経過させます。いつまでもこの時間を書いていたら話が進まない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いは阿弥に仕えていたい

最近の投稿間隔、おかしくね?(自問自答)

そして椛の躍進に対する反響にビビる今日このごろ。お前ら椛大好きだな! 俺もだよ!!


「あはははは! こっちこっち!」

「待てよ、このーっ!!」

 

 寺子屋前の広場。そこでは一日の授業を終えた子供たちが春の日差しの下、楽しそうに駆け回って鬼ごっこに興じている。

 その中には勘助と伽耶の子供である弥助の姿があり、成長した阿弥の姿もあった。

 

 信綱は信頼する友人の子と最愛の主が、共に青空の下で走り回る姿を見て双眸を緩める。

 転生前の記憶を引き継いでいるとはいえ、精神は未だ五歳と少しの子供。こうして子どもたちと走り回る時間も重要である。

 何より――阿七の願いでもあっただろう、広い外で存分に身体を動かす姿に信綱は胸が熱くなるのを感じる。

 

 阿七は身体が弱く、満足に外も出歩けなかった。それを嘆いている様子はなかったが、それでも不自由を感じたことはあったはずだ。

 吐く息は熱く、目頭に熱がこもるのを自覚する。御阿礼の子に二代も仕えることができる喜びと、彼女が健やかに育ってくれた喜びが綯い交ぜになって信綱の心を揺り動かす。

 

「子どもたちは元気だな」

「ええ、素晴らしいことです」

 

 横に来ていた慧音と穏やかな気持ちで言葉を交わす。

 数年前に起こった異変ももはや過去のこと。人里はすっかり元の活気を取り戻し、慧音達も今までどおりの生活に戻っていた。

 変わったことと言えば火継の名の意味が良い方向で受け取ってもらえたことと――

 

「お、英雄様じゃねえか! 慧音先生と一緒になって、逢引かい?」

 

 自分の名が英雄として広まってしまったことだろうか。

 しかも三十代に踏み込んだ現在、何かと婚姻話に結び付けられて居づらいことこの上ない。

 今もまた名も知らぬ赤ら顔の老人にそう言われてしまい、信綱は憮然とした顔で口を開く。

 

「違います。慧音先生にはもっと良い人がいつか現れるでしょう」

「ははは! 慧音先生のおっぱいと尻を自由にできるってのに欲がないねえ!」

「おい、吾郎! お前のその助平根性は孫ができても治らんのか!」

「おっと、こりゃイカン。この歳で慧音先生の頭突きなんてもらったら昇天しちまう!」

 

 とても老人とは思えない俊敏な足取りで軽快に逃げていく。

 慧音は追いかけようともせず、呆れきった表情でため息をついて信綱を見る。

 

「昔の教え子でな。小さな時から私の尻を触るわ、女湯を覗こうとするわの問題児だったんだ。どんな手品を使ったか知らんが嫁をもらってからはめっきり大人しくなった……はずなんだがなあ」

「ははは……。まあ、元気なのは良いことですよ」

「子どもの元気は無邪気で可愛らしいが、老人の元気は鬱陶しいだけだぞ。私が断言してやる」

「そ、そうですか……」

 

 人里で長い間暮らしている慧音の言葉だと思うと、妙な重さがあった。

 

「しかし実際、どうなんだ? お前もいい年だろう?」

「慧音先生までそれを聞きますか……もう耳にタコができるくらい聞かれてますよ」

「ハッキリ答えないお前が悪い。皆、お前のことが心配なんだ」

 

 余計なお世話だと声を大にして言いたい。

 とはいえ相手がいるかと聞かれたらそれもまた否である。

 側仕えとして忙しいと言い張ってごまかすのにも限界が来ている。本気で身を固めることも考慮しなければならない時期が迫っていた。

 まあ名も知らぬ女を娶って子を産んでもらい、その後は手厚い保護をするというのが阿礼狂いの通常なのだが、信綱はどうにもそんな気になれなかった。

 

 情も交わさず子を作るのは不誠実だ、などという潔癖な考えを持っているわけではない。

 必要に迫られればそれもやむなしだと思っている。思っているが、時期がまだ早いのではないかと尻込みしてしまうだけで。

 結局のところ逃げているだけだと言われてしまえばぐうの音も出なかった。

 

「……まあ、考えてはおきます」

「そうやって適当に流そうとするものを私は百人は見てきた。さあ答えろ。場合によっては私がお前に相手を紹介してやっても良いぞ」

 

 なんだこの世話を焼くおばさんは、と考えた瞬間慧音の顔に暗い影が差し込んだため、世話を焼くお姉さんと頭の中で言い換える。顔に出ていただろうか。

 しかし困った。今の慧音はごまかせそうにない。さて、どう答えたものか――

 

 

 

「とーさーん!!」

 

 

 

「っ!」

 

 弾かれたように振り向き、自身を父と呼んで手を振る少女――阿弥に信綱もまた笑顔で手を振る。

 

「阿弥様が呼んでおりますのでこれで」

「ええい、悪運の強いやつめ。次は聞かせてもらうからな!」

 

 阿弥が呼んでいる以上、信綱にこれ以上話を続ける意思もない。

 それを読み取った慧音も素直に引いて、子どもたちの方へ歩いて行く。彼女も遊びに入れてもらうのだろう。

 信綱もまた阿弥の元に歩み寄り、膝を折って幼い彼女と視線を合わせる。

 

「どうかしましたか、阿弥様」

「肩車して、父さん!」

「わかりました。しかし、私はあなたの父ではなくてですね――」

「物心ついた時から一緒にいる家族なんだから父さんよ!」

 

 阿弥の言葉に信綱は困ったように笑う。

 転生前の記憶を持っているはずだが、どうにも阿七の認識であった家族を年齢差に当てはめて、見栄えのする形に落とし込んだようだ。

 幼い信綱と阿七だったら姉弟。立場が逆転した今は歳の差も考えて、父と娘。それが妥当なのだろう。

 それにこそばゆい感覚を覚えながら、信綱は阿弥が肩に乗ってくるのを持ち上げる。

 

「はい、どうですか阿弥様」

「高い高い! 父さんの視線はこんな感じなのね!」

 

 きゃっきゃとはしゃぐ阿弥の声を聞きながら、信綱は自身が嫁を取ろうとしない理由に思い当たる。

 

 子がすでにいるのだ。心のどこかで嫁を必要としていないのかもしれない。

 

「どこに向かわれます?」

「んー……このまま帰ろ?」

「では行きましょうか」

 

 阿弥が落ちないよう細心の注意を払って帰ろうとすると、道の向こうから見慣れた顔が映る。

 

「伽耶」

「久しぶり、ノブくん。ふふっ、阿弥ちゃんもこんにちは」

「こんにちは、弥助のお母さん!」

 

 元気よく挨拶をする阿弥に二人とも笑顔を交わす。

 そして勘助と伽耶の子供である弥助とともに、信綱らは帰りの道を歩く。

 

「ノブくんも大変ね。どこへ行っても英雄様呼ばわり」

「仕方ないと割り切ってるよ。好意的に受け入れてもらえるのはありがたいことだ」

「この前なんて、弥助がノブくんのことえいゆうって名前なんだと勘違いしていたのよ。ねえ、弥助?」

「か、母ちゃん!?」

 

 名前で呼ばれず英雄という単語で敬われることも良し悪しだな、と信綱は内心で思う。

 少なくとも友人の息子に名前を覚えられていなかったのは悲しいことだ。

 

「んふふー」

 

 と、そんな信綱の頭を阿弥が嬉しそうに抱きしめる。

 その所作は子が親に向ける純粋な愛情であり、同時に成長した弟を褒め称えるような動きでもあった。

 

「――立派になったね、父さん」

「阿弥様?」

「なんでもなーい。ねえねえ、帰りにお団子食べても良い?」

 

 一瞬だけ別人のように感じられたが、今の阿弥は無邪気な子供そのものだった。

 気のせいだったとは思わない。阿弥のことに関して、信綱は常に注意を払っているのだ。些細な挙動も見逃さない。

 が、追求はしなかった。主から頂戴したお褒めの言葉だ。大切に胸に刻み込もう。

 

「夕食もあります。一本だけですよ」

「やった!」

 

 まるで本当の親子のような会話で、伽耶も手を繋いで歩く弥助に微笑みかける。

 

「私たちも帰ったらおやつにしましょ? おはぎを作ったの」

「母ちゃんの? やった! おじさん、母ちゃんって時々怖いけど、おはぎがめっちゃ美味しいんだぜ!」

 

 自慢するように、勘助の面影を感じさせる力強い笑みを浮かべる弥助に信綱も笑う。

 

「良いことだな。だけど余計な一言には気をつけた方がいいぞ」

「へ? あっ!」

 

 弥助が横の母を仰ぎ見ると、伽耶の顔はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら、どこか威圧感を覚えるものに変化していた。

 ヤバい、怒らせた……!? と弥助は顔面蒼白になる。普段は優しくて笑顔の絶えない母なのだが、怒ると頼れる父親でも手も足も出なくなるのだ。

 すわこの世の終わり――具体的にはおはぎが食べられなくなるのかと思っていた弥助だが、助け舟は母の親友から出てきた。

 

「大目に見てやったらどうだ? 弥助も悪気があって言ったんじゃないだろう」

「はぁ……弥助、ノブくんに感謝するのよ? 助けてもらったらありがとうって言うようにね」

「わかった、おじさんありがとうな!」

「どういたしまして。あとできれば名前を覚えてくれ」

「もう覚えたって!? あの時のことは忘れてくれよ母ちゃん……」

 

 子供に尊敬される目で見られ、何やらむず痒い。

 無償の好意という子供特有のそれに、信綱は座りが悪そうな心地を覚える。

 彼らの尊敬を壊すような真似は、できれば避けたいものだ。

 

「じゃあノブくん、私はここで」

「ああ。また今度な」

 

 新たに作られた霧雨商店への道に伽耶と弥助は手を繋いで歩いて行く。

 信綱と彼に肩車されたままの阿弥はそれを見送り、どこかで阿弥の望む団子が食べられる茶屋を探し始めるのであった。

 

「ねえ、信綱さん」

「なんでしょう、阿弥様」

 

 不意に阿弥の声音が変わる。天真爛漫な子供のそれから、落ち着いて大人びた御阿礼の子としてのそれに。

 信綱は秒と待たせることなく返答する。やはり自分が仕えるのは彼女しかいないと確信を深めながら。

 

「――私の帰る場所を守ってくれてありがとう。今、とても幸せです」

「……恐悦至極」

 

 感極まってしまい、短い言葉しか返せなかった。あまり長々と話してしまうと、泣いてしまいそうだった。大の大人の泣き顔など見苦しいだけだろう。

 くす、と小さな笑い声が肩車している阿弥から聞こえる。

 

「可愛い。そういうところは阿七の時から直ってないんだ」

「……気をつけます」

「ああ、悪いと言っているわけじゃないから良いのよ? なんだか変わってなくて安心した」

 

 信綱の頭を抱き締める力が強まる。

 

「……これからも側にいてくれる?」

「もちろんです。あなたが嫌と言うまで、側に居続けます」

 

 ちなみに嫌と言ったら潔く死ぬか、徹底して影に潜るだけである。

 

「ふふふ……」

 

 信綱の言葉に安堵したのか、それとも期待通りの答えが返ってきたことを喜んだのか阿弥は小さく、それでいて感慨無量な思いがこもっている笑いを零した。

 その笑いが聞けただけで無上の喜びだ。信綱もまた、誰にも見せたことのないような優しい笑みを浮かべた。

 

 

 

 ――阿礼狂いとして生まれ、至上の幸福がそこにあった。

 

 

 

 

 

「――で、俺は今阿弥様のお側にいることで忙しいんだ。わかっているのか、処女」

 

 信綱は阿弥の側で光に影に仕えていたいだけだというのに、周囲はそれを許さない。

 今もまた、霧の異変に際して知り合った射命丸文と名乗る烏天狗に呼び出されたところだ。

 ちなみに呼び出した方法は火継の屋敷に手紙を置くというもの。文ほどの天狗ならば信綱以外の火継の目をかいくぐることなど、朝飯前なのだろう。

 無視しても良かったのだが、後々の不利益を考えると無視は下策だった。

 

 それに椛の言葉もある。信綱は認めたがらないかもしれないが、彼女の言葉が信綱に妖怪との共存の可能性を考えさせたのは事実だった。

 

「人のことを処女というのやめなさい!?」

 

 呼び出した張本人である文は、今でも信綱の認識が処女であることにツッコミを入れる。甚だ心外だった。

 というかなぜ初対面の時から処女という印象が拭えていないのか。格好か、格好が芋臭い天狗装束なのが悪いのか。

 

「違うのか」

「違わな――んんっ!! 乙女の秘密です」

「そうか、じゃあな」

「そこ、帰らない! ウヤムヤにして帰る心胆でしょうけど、そうはいきません!」

 

 露骨に舌打ちを隠さない信綱に僅かに怯む。異変の時に会った彼はもう少し合理的だったはずだ。

 今みたいに阿弥の側にいたいという感情だけで行動はしない、と文は睨んでいたのだが当てが外れた。

 御阿礼の子が大切なのは天魔から聞いていたが――狂気の領域まで達しているとは文も思っていなかったらしい。

 

「まあ待ってくださいよぉ。決して損はさせませんから」

「今この時間そのものが俺にとっての損だ。ああもう阿弥様の元に帰りたいよし帰ろう」

「もうちょっと悩みなさい!?」

 

 文は信綱に対して抱いていた印象を全部放り投げることにした。多分、今の態度が素だろう。

 物事全てを理で考えていた、異変時の姿の方が特異なのかもしれない。

 

「まあ本気の冗談はさておき、用件を言え」

「冗談に本気だったのか、本気だったのを冗談で隠したのかわからない……あ、いえいえ。烏天狗を打ち倒したあなたのことを知りたいなーっと」

「……ふん、上司からの命令か」

「はい、ご明察です。まあそれがなくても私から挨拶には伺っていたと思いますけど」

 

 故に今の時間、文にとっては仕事であり趣味でもあるのだ。

 これまで見向きもしていなかった人里から、彼のような猛者が現れた。

 常に退屈を持て余していると言っても良い閉鎖的な天狗社会ではこの上ない娯楽だ。

 

「さて、天狗の内部事情とか興味ありません?」

「……ないとは言わん」

 

 椛からの情報で事足りている、とは言えなかったし、これは信綱が持っている天狗に対しての強みだ。

 迂闊に話すのは愚者のやることである。

 

「まあハッキリ言いますと、私は天魔様からの指令で動いてます。これから騒ぎが起きるだろうと仰っておりましたので」

「…………」

「そちらが天狗の情報が欲しいように、私は人里の情報――特に天狗殺しであるあなたの情報が欲しい。そういうわけです」

 

 黙して語らない信綱。彼の頭の中には長命の妖怪に対する脅威があった。

 

 椛だけでなく、天魔も。そして言葉にこそ出さないがレミリアも。誰も彼も時代の流れだとか、そういった大きなものの流れを読み取っている。

 人間であり、妖怪である彼女らほど生きられない自分にはわからない感覚だった。

 いつの時代も人間は目の前の出来事に全力を尽くし、より良い方向へ行くことを願うことしかできない。

 

 あるいは――幻想郷の歴史を眺め続けてきた御阿礼の子ならば、妖怪たちの言う歴史の潮流というのを見ることができるのかもしれない。

 

「……良いだろう。里の方でも掛け合ってみる」

 

 様々な思考の末、信綱は文の言い分を飲むことにした。

 異変が終わって時間も経った。それに幻想郷に住まう人間は外に出ることが叶わない身。

 嫌でも妖怪とは顔を突き合わせる必要がある。

 天狗の側から個人単位とはいえ交流を望んでいるのなら、可能な限り人里にとって良い方向に持っていくのが信綱の役目だ。

 

「あやや、そこまでやっていただけるので? こうしてたまに交流が持てるだけでも十分ですけど」

「これが露見した場合、立場が悪くなるのは俺だけだろう。俺の背負う危険が大きすぎる」

 

 傑出した武力を持つ集団が妖怪と繋がっていた、などということが知られれば人々は英雄ともてはやしていた手のひらを簡単に返すだろう。誰だって自分の身は守りたい。

 下手に独断で里の情報を漏らし、里に不利益をもたらしたとあっては追放どころか縛り首でも文句は言えない。

 

 だったら始めから公開してしまえば良いという寸法である。人里と天狗、双方の将来がかかっている問題の責任など自分一人で背負いたくない。

 というより御阿礼の子以外の何かを背負いたくない。なので最初から教えて責任の所在を分散させてしまおうという魂胆だった。

 

 予想外の待遇に文は少々驚いた顔をするが、信綱からしてみればこれでようやく対話の土台ができたというところだ。

 

 椛や橙と言った個人での友人同士ならこのような手間を掛ける必要はない。

 しかし、文との会話は彼女の上――天魔にも報告される。

 文に自覚があるかは知らないが、信綱の言葉が人里の総意と見られる可能性もあるのだ。

 下手なことは言えないし、万一争う事態になっても次善の策は用意しておく必要がある。

 

「ふぅむ、そういう見方もありますか。これはこちらの配慮が足りていませんでしたかね?」

「……いや、人間と妖怪が交流を持つなんて久しぶりの話だ。お互い手探りなのは仕方あるまい」

 

 正直、相手が文で助かったとすら思った。権謀術数に長ける大天狗や天魔が相手なら、相手の良いようにされていた可能性もある。

 信綱は人間にしては頭の回転も早く物事を広く見る方だが、彼の本領は戦闘だ。政治面ではない。狂人に政治を求められても困る。

 なので今は慣れない腹芸を必死になってやっているのだ。これでも内心は冷や汗ものである。

 

「とはいえ交流を持つのはあくまで俺だ。場所も俺の家に限定する。里内に妖怪、それも烏天狗が入り込んだとあっては大騒ぎになるし、俺も見逃せない」

「構いませんとも。いざとなれば変化の術も使えますが、それはあなたが見ている前でのみに限定しましょう。私の個人的な考えですけど、これでも人間は評価しているんですよ?」

「……どうだか」

 

 自分は評価されているのだろう、と信綱は文の目を見て確信する。

 しかしそれは人里の民の評価と同じではない。半ば直感になるが、彼女自身は天狗殺しを成し遂げた信綱を評価はしても、人間そのものは見下しているように感じられた。

 

 それ自体は別に構わない。妖怪とはとかく人間を見下すものだし、事実彼女より強く頭も良い人間は人里にいないだろう。

 あまり彼女を自由にさせすぎても人間との軋轢を招きかねない。やはり目の届く範囲で監視させた方が良いはずだ。

 

「……それで、そちらが俺に提供してくれる情報はどんなものがある?」

「天狗の情勢、天魔様の意向と言ったところですね」

「ふむ……」

 

 個人単位での情報のやり取りだ。妥当なところなのだろう。

 信綱が公表したら天狗と密かに関わりを持とうとする家も出てくる可能性がある。

 未知の技術を持っているであろう天狗の集団だ。手を組んだ場合の利益は計り知れない。

 彼らを抑えつつ、なおかつ文との交流を持ち続ける方法は――さて、どうしたものか。

 

「……良いだろう。俺からはお前に何を渡せば良い」

「先ほど言った通り、あなた自身の情報と……そうですね、後はそちらに差し支えのない範囲で人里の妖怪に対する意見などを」

「わかった」

 

 また面倒な要求が来たものだ。適当にお茶を濁すだけでは済まなそうである。

 信綱が億劫な顔を隠すことなく眉間を揉みほぐしていると、文は無警戒に信綱の方へ近寄ってくる。

 

「……まあ、私は仕事はこなしますけど、それ以外のことも楽しむ主義なんで! 今日のところはとりあえず普通のお話と行きましょうか!」

「…………」

「あやや、信用されてないお顔。個人的に興味もあるって言ったじゃないですか」

「……はぁ」

 

 ため息をつく。文は傷ついた様子もなくニコニコとこちらを見ている。何が楽しいのか。

 人間と妖怪が関わってもロクなことがないんじゃないか、そう思い始めた春の一幕だった。

 

 

 

 

 

 里への説明そのものは簡単だった。

 烏天狗が興味を持っているのは信綱であって、人里の人間が下手に手を出したらどうなるかわからない、ということをそれとなく匂わせるだけで話は終わった。

 長らく交流のなかった妖怪と人間が話し合う。どう考えても火中の栗である。

 会合に出るような大きな家の長であれば危険を避けようとするのは当然だった。

 

 そのためか火継の家は一種の治外法権――信綱が認めた妖怪に限定して出入りができる状況が生まれつつあった。

 そしてそんな状況を見咎めこそしないものの、黙認もできない勢力がいて――

 

「…………」

「あら、どうしたのそんなお腹を押さえて」

「紫様、彼はきっと私たちが来ることを予見していたのでしょう。以前会った時も私の変化を見抜いていました」

「…………大丈夫?」

 

 こうして八雲紫の勢力が勢揃いして信綱の前にやってきたのだ。胃が痛い。

 普段はこれ幸いと調子に乗るであろう橙も心配そうな顔で信綱を見ており、彼女に癒やしを覚えてしまう自分がなおさら嫌になる。

 

「……なんの用だ」

「いえ、風のうわさであなたが天狗と交流を持つと聞きまして」

「問題があるのか」

 

 情報源に関しては気にしないことにした。彼女の得体の知れなさを考えれば、信綱の予想の埒外にあることは想像に難くない。

 

「まさか。あなたたち人間の動きも、天狗の動きも私からすれば歓迎すべきものですわ」

「力のない人里の後ろ盾にでもなってくれるのか?」

「あら、それが私への貸しの内容?」

 

 意味ありげに微笑む紫に舌打ちを一つ。

 彼女が人里の後ろ盾になったら――人里と天狗の関係ではなく、八雲紫と天狗の関係になってしまう。人里は双方にとって美味しい餅ぐらいにしか思われないだろう。

 それでは意味がない。結局人里は妖怪に飼われたままだ。

 

 確かに自分たちは妖怪の力がなければ生きられないのかもしれない。だが、それでも意思を表し対話の席につく権利はあるはずだ。

 

「笑えない冗談だな。だが、進退窮まった時は頼むかもしれん」

 

 と言っても、何を差し置いても信綱には守るべき者が存在する。御阿礼の子に害が及ぶ場合は八雲紫に頭を下げることも辞さない方向だ。

 

「その言葉、覚えておきますわ。しかし、どういった風の吹き回しかしら? あなたは妖怪を嫌っているように思えたけど」

「嫌いだとも。自分勝手に振る舞い、それに抗う力のない者を見下し、何より人を襲う。人間が妖怪を好む理由の方が少ない」

 

 紫のように見目は麗しいとか、その人間にはない力に憧れるといったことはあるだろうが、それにしたって大多数を占めることはない。妖怪に対する人里の印象は概ね信綱が代弁していた。

 

「え、私のことも嫌いなの……?」

「……が、俺たちはここから出られない身で、妖怪とも付き合わなければ生きることすらままならない。ならばより良い関係を築こうとするのは当然ではないか。……別にお前のことを言ったわけじゃないから泣くな」

 

 橙に泣きそうな顔で見られてしまい、ついつい擁護するような言葉が出てしまった。

 御阿礼の子が関わらない場面ではあまり冷徹になりきれない男であった。

 

「あ……! ふ、ふんっ! この橙さまを敬うのは人間として当然よね! あんたもわかってるじゃない」

「…………」

「あらあら、仲が良いわね」

「正直な話、途中で人間の方から離れていくものだとばかり思ってました。彼も意外と懐が広いですね」

「そこ、聞こえてるぞ」

 

 急に調子を取り戻す橙に閉口していると、紫と藍がヒソヒソと楽しそうに話しているのが聞こえたため突っ込んでおく。

 

 見た目が全く変わらない妖怪と十五年近く付き合えるのは稀有な例である。しかも自分は成長を続ける若い頃であればなおさらだ。

 とはいえ藍が知らないだけで信綱はすでに二十年以上妖怪と顔を合わせているため、その辺りに頓着はしていなかった。

 

 故に彼自身から離れようとすることはない。突き放した物言いはするが、相手が近づいてくるのを止めはせず、また近づいてくる者に対する面倒見も良い。

 要するに口で色々言っても結局、厄介事を背負い込んでしまう損な気質だと言えた。無論、御阿礼の子が絡まない範疇で、だが。

 

「……とにかく、人里は概ねこのような方針だ。嫌いなのは変わらんが――今後の動き次第では変わることもありえるだろう」

「そうね。我々としてもそれを確認しておきたかったのよ。あなたを旗頭に妖怪の殲滅、なんて考えられたら目も当てられないし」

「そんな発想が出ないようにするのがそちらの仕事だろう」

 

 皮肉を言っておく。人間と妖怪の共存を最初に唱えたのは彼女なのだから、信綱が背負っているものは彼女が背負うべきものでもあるのだ。

 立場の問題か、あるいは嗜好の問題か。理由はわからないが、嫌味の一つぐらいは許されるはずだ。

 

「それは済まないと思っているが、私たちがあまり下手に動くと……」

「あらあら、相変わらず嫌われてるわね。あなたに何かした覚えはないのだけれど」

 

 申し訳なさそうにする藍と、全く悪びれる様子のない紫が対照的に映る。個人的には藍の方が好感を持てる対応だった。

 橙は話を理解している様子がない。信綱もこんな話が理解できるようになりたくなかったので、彼女が少し羨ましく思えた。

 

「……まあ良い。俺から言うべきことは終わりだ。そちらも用件は済んだのだろう。帰ったらどうだ?」

「お客様をもてなすのも主の度量ではなくて?」

「ウチで作った魚の干物と油揚げをやるからそいつを連れて帰れ」

「くっ、逆らえない! なんて卑怯な!」

「紫さま、ごめんなさい!」

「あなたたち変わり身早すぎない!?」

 

 信綱も驚いていた。主の好き勝手に頭を悩ませていそうな藍をけしかける適当な口実を言ってみただけなのだが、あそこまで動きが早いのは予想外だ。

 藍が動けば必然的に橙も動く。ちなみに橙への干物は純粋にお土産として渡そうとしていた善意の産物である。

 

 ともあれ、一瞬で紫を押さえつけた藍はペコペコとこちらに頭を下げながらスキマを開いて去っていく。

 物欲しそうな顔で帰っていく橙に手を振りながら信綱は考える。はて、あの式神もスキマを開くことができたのだろうか。

 ――否、紫が開いたに違いない、と信綱は確信を持つ。

 

「……面倒なやつだ」

 

 帰る口実ができたから帰る。あのまま信綱が何も言わなければ本当に夕飯ぐらいまでは集っていくつもりだったはずだ。

 どちらに転んでも良いように動く。彼女自身が何かを選ぶことはなく、いつも相手に選ばせる。そして選んだことに従う。なるほど、あの妖怪が好みそうな手口である。

 

「……はぁ、面倒事が多くて困る」

 

 あの妖怪の考えていることなどいくら推測したところで無駄だ。ならば別のことを考えた方が建設的というもの。

 

 差し当たって、次に橙と会った時のために干物と油揚げを用意しておこう。

 

 

 

 しかし、ああ、本当に――自分はただ御阿礼の子に狂っていたいだけだというのに。




ガンガン面倒くさい立場に置かれつつあるノッブ。人里の将来がかかっている=下手にすると阿弥に悪影響が出るため、真面目にやってますが。

ノッブの本心は最初にある阿弥と過ごした穏やかな時間に集約されてます。あれさえあれば何もいらない。

さて、次の動乱は阿弥が幻想郷縁起の編纂を始める頃――要するに寺子屋を卒業した辺りからになります。
その時まではちまちまと妖怪相手に胃壁をすり減らしたり、とうとう家にまでやってくるようになった妖怪に頭を悩ませたりしながら、阿弥との時間を過ごしていく姿を書いていくつもりです。この時代本当に長くなるな!(自業自得)

あ、ちなみにこの時代での動乱は三つある予定です。多分予想は付いていると思いますが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

地底の妖怪

いいか、お前ら。この投稿ペースに慣れたらダメだぞ! 今がボーナスタイムぐらいに思っておけ! いや、本当に。
基本的に書き溜めとかもあんましないので、どっかで失速すると思ってください。


 地底へと通じる穴から顔を出すと、まず差し込む陽の光に目を細める。

 

「う、眩し……」

 

 地底にも灯りはあるのだが、やはり燦々と降り注ぐ日光には遠く及ばない。

 とはいえもともと日光が好きというわけでもない。それは眩しい以上の感慨を抱くことなく、やがて目が光に慣れるのに合わせて完全に身体を地上に現れさせる。

 

 少女――火焔猫燐は視界に広がる森の緑に圧倒されながら、辺りを見回す。

 

「ここが地上かー……」

 

 燐は地上で生まれた妖怪ではない。地上でも暮らすことが難しいとされた妖怪たちが地底へと潜り、そこで飼われていた猫が妖怪として化生した――元はただの黒猫である。

 とはいえ今は火車。人間の死体を持ち去り、地底の灼熱地獄跡に焚べることが役目でもある。

 我ながら地上にはいられないだろうな、とは思う。死体が大好きで仕方がない妖怪など、近寄って欲しいと思う人間は間違いなく奇特な部類だろう。

 

「ううん、草木の香りがすごいなあ。日向ぼっことかしてみたいなあ」

 

 のんきに呟きながら歩き出す。火車とはいえ猫であるのも事実。こんな良い陽気の日には、暖かい暖炉の側や主の膝で眠れたらどんなに心地よいか。

 

「だけど、勇儀の姐さんらが地上を取り戻せば、いつでもできるってことか。我慢我慢」

 

 さて――彼女が地上に出てきたのは他でもない、百鬼夜行の下見である。

 幻想郷全土に鬼の恐怖を思い出させるのが目的なのだから、最終的に幻想郷全体を回れば良いのだが、それにしたって効率というのはある。

 見当違いの場所に向かって時間を食ってしまい、いざ人里についたら人間が避難済みとか笑い話にしかならない。

 

 それに百鬼夜行の準備自体、あまり進んでいる様子ではなかった。

 鬼たちは基本的に自分勝手なので、わかりやすく腕っ節で言うことを聞かせるにも喧嘩という過程を経る必要があるのだ。

 あとはまあ、単純に百鬼夜行を起こそうとしている者たちの気まぐれだろう。強い妖怪になると考えることがわからなくて困る。

 

 燐はそんな中で百鬼夜行への参加を決めた一人だった。理由は単純――暇だったからだ。特大のお祭り騒ぎがあるのなら乗らない理由はない。

 

 そんなわけで燐は初めてやってきた地上の散策と下見をのんびり行っている途中なのだ。

 

「平和だなあ。地底とは大違いだ」

 

 気性の荒い者ばかりが集っている地底では喧騒が絶えることなく存在する。

 酒を飲んだ末の喧嘩、荒くれ者同士の喧嘩、とにかく目が合ったから喧嘩をするなんてのも日常茶飯事である。

 燐の主はそういった野蛮なことを嫌悪している様子だが、燐はあの空気が嫌いではなかった。

 火車という性質故か、そういった熱気のある場所は好きなのだ。運が良ければ死体が出るのもなお良し。

 

 その点で言えば地上は陽気があって暖かいが、燐の望む熱気というのは欠けていると言わざるを得なかった。この森に火でも点けたら良い感じになるだろうに。

 

 などと物騒なことを考えていると、燐の聴覚が足音を捉える。

 人の踏み均した道など存在しない獣道。しかし足音は規則正しく、淀みなく燐の耳に届く。山歩きに慣れた者の足だろう。

 同時に燐の鼻は地底では滅多に手に入らない大好物――魚の香りを嗅ぎつける。

 

「お魚……お魚ぁ!?」

 

 水の音は付近から聞こえない。要するに足音の主は不思議なことにこんな山の中で魚を持ち歩いているということだ。

 釣りの帰り道なのかは知らないが、燐にはもう追いかける以外の道はなかった。

 俊敏な猫である。喧嘩を売ったら不味そうな相手でない限り上手く魚をちょろまかすくらい朝飯前だ。

 双尾の猫になり、燐は一歩を踏み出した――

 

 

 

「――というわけで、お兄さんの元に来たわけなんだよ」

 

 そして今現在、燐は猫の姿のまま首根っこを険しい顔の青年に掴まれ、地面に押さえつけられていた。

 妖怪、しかも猫の妖怪より素早い人間がいるとか聞いてない。

 見つけた人間はあっという間にこちらに気づくと、一瞬で取り押さえてしまったのだ。つくづく人間業じゃない。

 

 しかも尾の数から妖怪であることもバレており、このままじゃいつ殺されてもおかしくなかった。

 というかこの青年がボソッと殺すか、とつぶやいていたのを覚えている。

 

「そうか、辞世の句はそれでいいか?」

「待って待って待って話をしよう! 暴力反対!」

 

 これから百鬼夜行という特大の暴力をかましに行く側の存在だが、それは棚に上げる。

 

「いきなり仕掛けてきたのはそっちだ。聞く理由がない」

 

 あ、ヤバい。これ本当に不味いやつだ、と燐は鉄火場で育ってきた者特有の直感で理解した。

 お魚どころじゃねえと恥も外聞も投げ捨てた燐はどうにかして命を拾うべく、口を開く。

 

「良いのかい!? あたいが死んだら鬼が黙っちゃいないよ!?」

「……鬼?」

「そうさ! あたいってば地底の鬼が大事に大事にしている姫みたいなもんだからね! あたいが死んだら鬼は怒り心頭、怒髪天を衝いて地上に雪崩れ込んでくるに違いないよ!!」

「……ほう。その割にお前には護衛がいないようだが」

「そ、それはお忍びってやつだよ! ほら、あたいは猫だから自由を愛するのさ!」

 

 我ながらよく回ると思うくらい、燐の舌は動いた。

 しかし青年は全く動じることなく言葉を紡ぐ。驚愕の色すら全く見えなかった。

 

「そうか。つまり――お前が地底に戻って伝える内容次第では、鬼が地上に来ないこともあり得るわけだ」

「う、なんで鬼が地上に来るなんて思ってんのさ。全てはあたいの胸先三寸だよ?」

「抜かせ。さして強くもないお前を鬼が尊ぶ理由などなかろう」

「あたいの完璧な嘘をいつ見抜いたのさ!?」

「最初からに決まっているだろう」

「殺せー! いっそ殺せぇ!!」

 

 やけっぱちになって叫ぶ。もうこの青年と会ったのが運の尽きだったのだ。

 しかし、青年の腕はいつまで経っても剣に伸びることなく、じっと感情のこもらない瞳で燐を見つめ続けるだけ。

 

「……俺の質問に答えるなら、助けてやってもいいぞ」

「嘘だ! 人間は妖怪を騙すって鬼が言ってたよ!」

「別に今すぐ死んでくれても構わないのだが」

「冗談冗談! 何でも話しますぜダンナ!!」

 

 人間が騙してくるかもしれない? そんなことより生き残る可能性が少しでもある方に懸けるのが当然である。燐は妖怪の矜持より動物の本能に従うことにした。

 

「――鬼が来るというのは本当か?」

「うん。なんでも地上に来た新しい鬼に挨拶するとか」

 

 青年の顔がみるみる渋面に変わっていく。これは良い流れだと判断した燐は畳み掛けるように言葉を続ける。

 

「百鬼夜行の用意もして、鬼も本気ってことだよ! あたいはその下見みたいなもんさ。あたいが帰ってこなけりゃ、鬼どもも動き出すだろうねえ……?」

 

 あの大雑把な連中が本当に心配などはしないだろうが、そんなことをこの青年が知る由もない。

 

「……それはいつ行うつもりだ?」

「もう準備ができてるようなもんさ! 下見が来てから数年後に向かうとか、あたいが来る意味がないってもんだよ!」

 

 実際は準備が整うまで暇だったから暇つぶしも兼ねての行動だが、これまた青年が知る由もない。

 真偽の判断がつけられない情報を出しまくって、混乱させてしまえば逃げることだってできるはずだ。

 と、燐が確かな手応えを感じつつある時だった。頭上からブツブツとつぶやき声が聞こえてきたのは。

 

「こいつの首を地底に投げて牽制……拷問して連絡役……このまま人質……面倒だ、殺すか?」

「待った待った待った!? あたいをどうしようってんだい!?」

「安心しろ。ちゃんと解放してやる」

「解放した後で不意打ちする気だろ!?」

「…………」

「そこで黙るなあ!?」

 

 ヤバい。何がヤバいってこの青年、恐らく脅威をきちんと認識している。

 燐の言っていることの真偽はわかっていないだろうが、鬼が来るなら来るで燐を生かす理由などこれっぽっちもないことを理解している。

 

「……最後の質問だ。その百鬼夜行は人間にも向かうか?」

「…………」

 

 今度は燐が黙る番だった。嘘を言うべきか、本当のことを話すか、どちらが良い方向に転がるかわからなかった。

 本当のことを言えば義憤に任せて殺されるかもしれない。しかし嘘をついたらこの青年が燐を生かす理由はいよいよなくなってしまう。

 現時点で燐が命をつないでいるのは、彼女の存在が人里の脅威になるかならないか、ハッキリしないという一点のみなのだ。

 

「……あたいら妖怪を地底に追いやった人間に、もう一度恐怖を思い知らせてやるんだ!! かつて地上を覆った暴威は誰のものか! 今さらサル山の大将気取ってる天狗でも、のんきに暮らしてる人間でもない!!」

 

 考えた結果、燐は自分の感情に従うことにした。どっちが最善の選択なのかわからないなら、せめて後悔しない道を選ぶまでだ。

 青年は無表情に燐の叫びを聞き、静かに押さえつけていた手を離す。

 

「え、お、あ?」

「……これから言うことを百鬼夜行の主に伝えろ」

 

 身体を押していた重圧がなくなり、燐はいきなり軽くなった自らの身体に戸惑いながら青年から距離を取る。

 片膝をついて黒猫と目線を合わせ、感情の伺えない瞳で燐を見つめる。どんな打算が渦巻いているのか、燐にはわからなかった。

 

「人里は異変の影響で疲弊している、とだけ伝えてくれれば良い」

「……それを伝えてどうしろっていうんだい」

「別にどうとも。今の言葉を伝えさえすれば、襲撃を早めようと進言しても構わん。そら、行っていいぞ」

 

 まるで拍子抜けだ。あんなに警戒して燐の利用価値を値踏みしていたにしては、あまりにもあっさりとした解放に燐はきょとんと青年を見返してしまう。

 

「……なんだ」

「あ、ううん、あたいになにもしないんだなって」

「下手に何かしても面倒にしか繋がらない。ああ、それと」

 

 青年は懐から魚の干物を一尾取り出し、燐の前に置く。

 

「次来る時はちゃんと声をかけろ。いきなり襲うような真似をしなければ、俺だって妖怪を無闇に倒したりはしない」

「へ、あ、うん? ごめんなさい?」

 

 なぜか謝ってしまう。妖怪が人間を襲うのは当然だと言うのに、目の前の青年に訥々と言われると悪いことをしている気分になってくる。

 

「じゃあさっさと行け。この辺りは天狗の領域にほど近い。今はまだ物事をこじらせる時期じゃないのだろう」

「……お兄さん、何もの?」

「人間以外の何に見える」

「バケモノ?」

「手足の一本ぐらい、妖怪はすぐ治るか」

「じゃ、もう会わないことを願うよ!!」

 

 ちゃっかり干物をくわえて青年の前から逃げ出す。追いかけてくる気配はなかった。

 あまり下見の役目をできたとは言えないが、燐はなんとなく百鬼夜行を企てる本当の理由がわかるような気がした。

 

 地上に権威を取り戻す? 馬鹿馬鹿しい、あの万事適当な鬼がそんなものに執着するものか。

 権威など不要と言ったからこそ地底に降りたのを忘れたか。

 外来の鬼への手荒な挨拶など建前だ。本心は――

 

(あの人間――)

 

 彼以外の人間を見たわけではないが、不思議と確信が持てた。

 あれは妖怪を惹きつける男だ。妖怪が求めてやまない、彼女らの望みを叶えうる傑物だ。

 

 ……自分はもう会いたくないが、彼女らにこの報告をすれば喜ばれることだろう。

 燐は地底への道のりを急いで戻っていくのであった。

 

 

 

 

 

「――ふむ、あそこが地底への入り口か」

 

 そしてその姿を青年――火継信綱は木の上から観察する。

 逃がしたのは地底とやらへの入り口の確認も兼ねていたのだ。わざわざ追いかけるまでもなく、猫の足跡でも注意深く観察すれば見つけるのは容易だ。

 

「……はぁ、またぞろ面倒な話が来たものだ」

 

 今日は橙に干物を渡しに来ただけだというのに、鬼の襲来が近い将来に訪れるかもしれないという、一人で抱え込むには大きすぎるネタを拾ってしまった。

 これでは椛の語る時流の中心に立っている、という評価を笑えなかった。まるで物事が自分を中心に起こっているみたいではないか。

 

「どうしたものか……」

 

 人里に伝えるのは下策だろう。四六時中地底への穴を見張るわけにも行かないし、妖怪の山に教えてしまうのが妥当か。

 できることなら人里に被害が来ないよう、天狗と鬼が全面対決して共倒れになってくれるのが一番ありがたい。

 

「……後で考えるか」

 

 と、そこまで考えて信綱は思考を横に置くことにした。ここ最近は考えることが多くて困る。早く帰って阿弥との時間を過ごしたいものだ。

 

 信綱は橙とよく会う場所に向かう。案の定と言うべきか、それとも他にすることがないのか心配すべきかはわからないが、ともあれ彼女はそこにいた。

 

「あ、お魚!」

「まず魚に目が行くのかお前は……」

 

 今にも飛びかからんばかりの橙をなだめながら、懐から魚の干物と油揚げを取り出して手渡す。

 

「ほら、一応多めに用意したから大切に食え」

「ありがとう! 私の加護を授けてもいいくらいよ!」

「どんな加護だ」

「猫に好かれる!」

「却下で」

 

 今しがた地底からやってきた妖猫を見たばかりなのだ。不吉な予感しかしない。

 それに加護と言っても、どうせ簡単な妖術で自分を猫と誤認させる程度のものだろう。

 

「いらないの? 猫の手も借りたいくらいって言うじゃない」

 

 余程機嫌が良いのだろう。橙は信綱のつれない言葉にも気分を害することなく信綱の後ろを歩き始める。

 

「本物の猫の手を借りてもどうにもならんだろう。……時に、聞きたいことがあるんだが」

「なに?」

「この近辺にお前以外の猫又っているのか?」

「んー? いないと思うけど。いたら私と縄張り争いになるはずだし。なに、見かけたの?」

 

 しゅしゅっ、と橙が握り拳で空を切る仕草をする。

 意外と縄張り意識が強いことに信綱は感心したように首肯し、再び歩き出す。

 

「別に。ただなんとなく気になっただけだ。それにお前以外の妖猫を見た覚えもなかった」

「猫の妖怪って一口に言っても色々いるのよ。猫又、火車は有名ドコロだけど、探せばいくらでも出てくる」

「火車……」

 

 あの黒猫の妖怪はそれに当たるのだろうか。幻想郷縁起には姿を消したと書いてあった鬼も地底に潜ったという話らしい。

 ――実のところ、燐の語っていた地底の話など、信綱にとってはほとんどが未知の情報だったのだ。

 幻想郷に地底なんてあったの? というぐらいである。

 人里で生まれ、幻想郷縁起が妖怪に対する情報源であるため、編集されて隠された部分は全く知らないも同然だった。

 

「……確か、阿未様の代の幻想郷縁起に書かれていたな。死体を持ち去る妖怪だとか」

「……あんた、歴代の幻想郷縁起を全部読んでるの?」

「一言一句頭に入れてるわ。当たり前だろう」

「バカじゃないの?」

 

 橙の耳を引っ張りながら先ほどの黒猫について考える。

 なぜ地底に行ったのか、なぜ今になって地上に来るなどと言い出したのか。わからないことは山のようにある。

 確かなことは遠くない将来において、かつて地上を襲った暴威の権化である鬼がやってくるということだけだ。

 

「離せー! 離してよぉ!」

「全く……まあ良い。聞きたいことはそれだけだ。八雲藍によろしく伝えてくれ」

「へ? 遊ばないの?」

「これから行くところができた」

 

 椛に伝えておく必要がある。天狗なら誰でもというわけではない。信綱が信頼できる彼女に教えておきたかった。

 幸か不幸か、信綱は地底から鬼が来るという文字通りの鬼札を手に入れた。文を通した天魔を相手に駆け引きを仕掛けるなら情報面での優位は絶対に失えない。

 だがこの情報をいつまでも死蔵しておくわけにもいかなかった。人里で対処できそうにない問題は他所に投げるのが一番である。

 

「じゃあ私も行く!」

「…………まあ良いか。来るなら好きにしろ」

 

 橙の同行も目くじらは立てない。いてもいなくても問題ないなら、彼女の好きにさせても良いだろう。

 

 

 

 かつて信綱と椿、そして椛の三人で鍛錬をしていた場所に訪れると、椛はすぐにやってくる。千里眼でいつも見ているのではないかと思ってしまうほどだ。

 

「よく来ましたね。あれ、そちらの妖怪は……」

「…………」

「娘ですか?」

「違う」

 

 人見知り――いや、妖見知りでもするのか、橙は信綱の影に隠れて椛を伺っている。

 その様子を見て椛はからかい混じりの言葉を信綱に投げかけてきた。

 憮然とした顔で否定していると、服の袖を引かれる。

 

「ちょっとあんた、あいつ天狗じゃないのよ!」

「それがどうした」

「天狗って言ったら人間をさらうって有名なのよ! あんたさらわれちゃうわよ!?」

「さらいませんよ。私じゃ返り討ちが関の山です」

 

 今の信綱をさらえる天狗など数えるほどしかいないだろう。

 

「マヨヒガの猫と言えばわかるか?」

「ああ、もしかして山の一角にある何故か(・・・)見えない場所ですか? なるほど、マヨヒガなら納得です。私は犬走椛。しがない白狼天狗です」

「……橙」

「かのスキマ妖怪、八雲紫の式の式らしいぞ。本人はこの通りちんちくりんだが」

「誰がちんちくりんよ! 頭を押さえるなーっ!!」

 

 腕を振り回すが、童女の体格でしかない橙では成人男性の腕を振り解けなかった。妖怪としての力を尽くしても巧みに力の強弱を操られ、良いようにされてしまう。

 

「それは凄い。将来を約束されているようなものじゃありませんか」

「俺の生きている時には来ないんだ。チビ猫で十分だ」

「私が成長したらコケにした人間って悪評を語り継いでやる……!」

「あはは、本当に仲が良いですね」

「誰が!? 腐れ縁よ!」

 

 突っかかる橙とそれをあしらう信綱。そしてそんな二人を笑いながら眺める椛。すぐに打ち解けてくれて何よりである。

 

「それで用事ってこの子の紹介ですか? 確かに可愛いですけど、私と彼女はほとんど接点がありませんよ」

「今のがついでだ。……これから話すことは他言無用で頼む」

「そんな重い内容ですか? 橙ちゃんは危ないんじゃ……」

「いや、構わない」

 

 彼女の口から八雲紫の耳に届くなら御の字だ。信綱が紫に頭を下げることなく、彼女が問題に対処してくれるかもしれない。

 そうなってくれるのが一番ありがたい。労せず問題が解決するに越したことはない。

 

「……ねえ、あんた」

「なんだ」

「もしかして、あんた私をヤバいことに巻き込もうとしてない?」

「…………ついさっき、こいつ以外の猫又に会った」

「無視すんな!?」

 

 橙の悲鳴のような言葉を聞かなかったことにして、信綱は椛に先ほどあったことを教えていく。

 猫の妖怪に会った程度、幻想郷ではさして珍しくもない。まして妖怪の山付近には動物から化生した妖怪などいくらでもいる。

 なので椛は不思議そうな顔をしながら聞いていただけなのだが――地底から来たと聞いて血相を変える。

 

「地底から来た……!? それ、本当ですか!」

「そいつから聞くまで俺は地底の存在すら知らなかった。人里に地底のことは伝わってない」

「そうか、そうですよね。あんな事実、人里が知るはずもないか……」

「え? え? 何の話よ?」

「お前は後で藍に聞け。で、その猫が言うには地底の鬼どもが百鬼夜行の準備をしているらしい」

「…………嘘ですよね?」

「そう思うんならそれで良いんじゃないか。実際に出てきた時に泣くのは俺もお前も一緒だ」

 

 信綱とてあの黒猫の言葉を全て信じているわけではない。だが無視した結果、何の対策も取れずに鬼を迎えるなど悪夢でしかない。

 故に信綱は対策を怠らない。鬼と人間が正面から戦った場合の結果など見えているのだ。そうならないためにできる手は打たなければ。

 

「うう……わかりましたよ。これからは地底の方に注意を向けてみます。ですがこんな情報、私たちだけで処理できる限界を超えてますよ」

「わかっている。……だが、一番信じられるのはお前だ。だからお前に最初に伝えた」

 

 レミリアという手も考えたが、彼女らは武力という面でこの上なく頼りになっても、情報面ではあまりあてにできない。

 その点、椛ならば千里眼でほぼ確実に兆候を見つけられる。おまけに信頼もできる。

 信綱から見てこの情報を真っ先に共有する相手は、椛以外に思い浮かばなかった。

 

「……そう言われて悪い気はしませんけど」

「俺は俺でお前以外の天狗にツテがある。……まあ、上手くやるさ」

 

 胃の痛い作業になるだろうが、そこはもう必要経費と飲み込むしかない。

 

「で、チビ猫」

「あ、私は何も聞かなかったことにして――」

「藍に伝えろ。但し俺からの話だとは言うな。自分でたまたま猫の妖怪を見つけて聞き出したとでも言え」

「ヤバ過ぎることに首突っ込ませるんじゃないわようわーん!!」

 

 藍から紫に話が行けば、どうせ自分のことはバレるだろうが、その時は適当に突っぱねれば良い。

 肝心なのは証拠を握られないことだ。状況証拠だけならいくらでもごまかせる。

 

「そんなに泣くな。話が上手くいったらまた魚でも釣ってやる」

「うー……お魚一年分はもらうからね!」

「あ、私もなにか欲しいです。そちらが引きずり込んだんですし、対価はもらっていいですよね?」

 

 橙の要求を呑もうとしたら、椛までちゃっかりそんなことを言ってくる。

 眉をひそめて目を細くするが、全く悪びれた様子がない。どうやら本気で言っているようだ。

 

「妖怪め」

「妖怪ですから」

「……わかったよ。できる範囲で力になってやる」

 

 ため息をつき、両手を上げる。自分もこの二人を使い倒そうとしているのだから、これでおあいこなのだろう。

 妖怪相手に空手形を切るなど愚行なのだが、それをしても大丈夫だと判断できる程度には、この白狼天狗との付き合いに価値を見出していた。

 

「その言葉、違えないでくださいね?」

「……できる範囲だからな」

「じゃあ私はお魚一年分以外にあんたに何してもらおうかしら。そうね……とりあえず橙さま今までごめんなさいと土下座して――」

「調子に乗るな」

「いだだだだ!?」

 

 式の式と千里眼が使えるだけの白狼天狗。そして人間。

 百鬼夜行に立ち向かうにはあまりに乏しい戦力で――しかし三人の顔に諦観はなかった。

 

 

 

 

 

「――だ、そうだよ」

 

 一方その頃、火焔猫燐は地底にて鬼の首魁らの酒盛りに邪魔して報告をしているところだった。

 もとより自分勝手に行った行動。百鬼夜行の主二人は、力量こそ鬼の頂点を名乗るにふさわしいものがあるが、鬼たちを束ねているかと言われると微妙なところがある。

 要するに、この二人がお祭り騒ぎを起こすから皆便乗しているだけなのだ。巻き込まれる方はたまったものではないが。

 

 勝手にやっているので報告の義務などない。だが、燐には青年の目が焼き付いて離れなかった。

 

「ふぅん、わかった」

「で、どうするんで?」

 

 酒臭い空間。周囲には酒樽と盃が散乱し、酔い潰れた鬼が何人も寝込んでいる。

 だが、燐の前にいる鬼の二人は全く潰れる様子もなく、さらに酒を飲んでいた。

 燐の話に相槌を打った大柄な鬼の少女は、その巨大な盃の酒を飲み干すと隣の小さな少女に話しかける。

 

「――ハン、鬼を試すたぁ良い度胸だ。そう思わないか、萃香?」

「今、人里は弱っている。つまり今襲っても私らは吸血鬼のおこぼれを拾うだけってことかい」

 

 燐は二人の鬼の話を聞いて、あの青年の意図をようやく理解する。

 彼はあえて人里の弱みをさらけ出すことにより、却って彼女らの譲歩を引き出そうとしているのだ。

 

 ちなみに異変から数年経っている今、人里はすでに立ち直っているので真っ赤な嘘なのだが、これで時間を引き延ばせれば確かめる方法もなくなるという寸法だった。

 

「まあ実際のところはわからんけどね、人間だし」

「そいつは狭量ってもんだぜ、萃香。まだあの時のこと引きずってんのかい」

「忘れるもんか。あんだけこっぴどく騙されて、忘れろって方が無理だよ」

「そんな過去の話がしたいんじゃないよ、萃香。私らは弱った人間どもを襲いたいのかい? 違うだろう。

 ――時間が欲しいってんならくれてやればいいのさ。そんで万全の準備をした奴らを叩き潰す」

 

 鬼に横道はない。あるのは常に叩き潰し、轢き潰し、薙ぎ払って作られる血塗られた道のみ。

 そして鬼は他者の都合など考えない。――しかし、目的がある場合は別である。

 

「我慢してやろうじゃないか。久方ぶりの祭りなんだ。たまには焦らされる側ってのも悪くない」

「……ま、勇儀に付き合ってみようかね。私が見た人間はまだ若かったし、もう少しぐらい熟すのを待つか」

 

 話はまとまった。二人はどうやら祭りの時を引き延ばすようだ。

 燐は内心で密かに戦慄が隠せなかった。僅かな言葉だけで見事に時間稼ぎに成功してみせた人間への戦慄である。

 力もある。知恵もある。度胸もある。地底生まれの燐が生きている人間というものを見たのは彼が初めてだが――あれは妖怪を討ち滅ぼす人間だと直感できた。

 

「ありゃあおっかない人間だよ。あたいはもう一度は会いたくない」

「そりゃあつまらんよ、お燐。私ら妖怪が人間を恐れてどうするってんだ。どんなに強くても人間一人、薙ぎ払えば簡単に動かなくなる」

 

 勇儀が腕に力こぶを作って笑う。しかしその笑いは人間に対する嘲笑ではなく、その腕を乗り越えることを期待している笑みだった。

 

「楽しみに待とうじゃないか。なに、こういうのは流れってもんがあるのさ」

「私も見に行くのは我慢するかね。お燐が出くわしたことと言い、何か持ってる側の人間だろうし」

 

 星熊勇儀と伊吹萃香。地底が――否、鬼が誇る首魁の二人は、一人の人間を肴に酒を楽しむ。

 どうかその人間に七難八苦が襲いかかりますよう。

 そして全てを跳ね除け、自分たちの前に立ちはだかるよう。

 

 誰に祈ることもなく、彼女らは陽気な笑い声とともに期待を募らせていくのであった。




本人の知らぬ所で厄介な妖怪の好感度が上がる毎日。ノッブの明日はどっちだ。

ということでこの時代、最大の動乱は百鬼夜行です。どうにかしなきゃ幻想郷世紀末待ったなし。頑張れノッブ、御阿礼の子のためだ。

あと、そろそろ主人公が全く出ない話が出てくるかもしれません。登場人物が増えまくっているので、妖怪同士で動かしていかないとそれぞれの動きが出しづらい。幻想郷って広い。

まあそろそろというのがいつになるかはわかりませんがね!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巫女と阿礼狂い

サブタイトルに死ぬほど悩んだ今日このごろ。


 最近、何かときな臭いと哨戒中の白狼天狗――犬走椛はぼんやり思う。

 幼少の頃とは見違えるように心身ともに成長した人間の友人とは、ここしばらく会っていない。

 

 それ自体は別に良い。向こうが来たらこちらも行く。逆にこちらから人里は尋ねない。そんな暗黙の了解があった。

 それに彼はもう自分などよりよっぽど腕も頭も立つ。こちらが心配するまでもなく、たいていの問題は自力でどうにかしてしまうだろう。

 ……最近彼から聞かされた百鬼夜行の話には度肝を抜かれたが。

 

 これにも思うところはない。いや、本音を言えば彼の間の良さというか悪さに拍手したい気分だった。

 ああも面倒事に巻き込まれるのは一種の才能である。

 やはり自分の見立ては間違っていないのだろう。幻想郷にて起こっている変化、大きな流れの中に彼は立っている。

 そして自分も彼の隣りにいる以上、変化とは無縁でいられないということなのだろうか。

 

 天狗の上層部がここしばらく、全く動きを見せない。千里眼で覗いてみても不気味なまでの静けさを保っている。

 反面、天魔と彼が率いる部下は忙しく動いている様子があった。

 これまで延々と終わらない会議をしていたのは何だったのか。嵐の前の静けさを連想させる、不気味な空白期間が現在だった。

 

「はぁ……」

「おや、ため息をつくと幸せが逃げますよ?」

「うわっ!?」

 

 思わず零れたため息を耳聡く聞きつけたのか、後ろからここ最近で聞き慣れた声がした。

 

「あやや、そんなに驚かれると少し傷つきますねえ。椛」

 

 自分とは一生縁がないと思っていた烏天狗、射命丸文その人の姿に、椛は内心で微かに警戒を強める。

 

「射命丸、さま……」

「文で構いませんのに」

「そういうわけには。私はしがない白狼天狗ですから」

 

 友好的に話しかけてくるが、彼女に付きまとわれる理由など思い当たらない椛にとっては不審以外の何ものでもない。

 何やら最近よく人里の方に足を運んでいるようで、いつか決定的な問題でも起こるんじゃないかと気が気じゃなかった。人妖の共存が遠のいたらどうしてくれる。

 

 ……よもや自分の友人である青年に会いに行っているなど夢にも思っていない椛だった。

 

「最近はどうです? 何か変わりはありませんか?」

「いつも通りですよ。誰も入ってこないし、何も変化はありません」

「そうですか。霧の異変も今は昔、終わってしまえばまた退屈な日常……。椛は退屈じゃありません?」

「……いえ、これで暇をつぶすのは得意なんです。することがなければ剣を振るのも悪くありません」

 

 主に青年との修練で受ける怪我を減らすためにも。

 四半世紀前に出会った子供が今や自分など置き去りにするほどの存在になり、自分を鍛えようとしているのだ。暇を持て余すなんて彼の前で言ったら手足が五回は落とされる。

 最近は割りと優しい姿もよく見せてくれるのだが、鍛錬の時には全く手心を加えてこない。何度死ぬかと思ったか。

 

 それに自分はあの青年と知り合ってから退屈とは無縁の生活を送れている。その点は文に対して微かな優越感を抱けることだった。

 

「真面目ですねえ。そんなに頑張ってもすることがなければ退屈でしょう?」

「ちゃんとした目的があればそうでもありませんよ。何かを追いかけるというのは良いことです」

 

 妖怪というのは総じて寿命が長い。白狼天狗の中では比較的若い椛でさえ数百年は生きている。

 そのため時間に緩く、目的意識が低いことが多い。時間は豊富にあるのだから、ゆっくりやっていけば良いと考える者が多いのだ。

 椛も昔はそうだったが、生きている限り全てを御阿礼の子に捧げる青年の熱意に当てられてしまった。

 彼に会うことがなければ、自分は今も怠惰に時間を過ごすことだけを考えて生きていただろう。

 

「ふむ、今は何か目的でもあるのですか?」

「ええ、まあ。今はまだ願望ですけど、いずれは実現させますよ」

 

 椿と信綱のように、互いにすれ違った末に殺し合わなくて済む幻想郷を。

 例え喧嘩になっても仲直りができるような世界を、椛は強く願うようになっていた。

 

「……あなた、やっぱり他の天狗とは違いますね」

「何がでしょうか?」

 

 しかし少々話しすぎた。文は椛のことを興味深そうな顔で見つめており、完全に関心を持たれてしまったことが伺えた。

 

「昨今の天狗社会ときたらどいつもこいつも目の前のことばっかり! 大天狗は自分たちの保身と他人を蹴落とすことで頭が一杯だし、烏天狗も権威とか血筋とかばかり前に出して! 白狼天狗は自分たちが下っ端だからって何にも考えないで日々お気楽に過ごしているだけ!」

「はぁ……」

 

 ずいぶんと溜め込んでいるんだな、と椛は他人事のように思う。

 確かこの射命丸文という烏天狗、天魔の部下みたいな立場だと聞いていた。

 事実ここ最近、天魔の居室から忙しなく出て行く彼女を千里眼で見た覚えがある。

 

「退屈こそ妖怪を殺す最悪の毒だっていうのに。あなたと椿は違った」

「……椿さんを知っているんですか?」

「この狭い天狗社会、変わり者なんてあっという間に噂のタネよ」

 

 いつの間にか文から慇懃な態度が消えて、ざっくばらんとした話し言葉になっていた。

 先ほどまでの話し方はある種の仕事言葉だったのだろう。椛も親しい友人と話す時は口調が砕ける。

 

 ……不思議と信綱に対してはなかなか崩す気になれないのが素直に疑問だった。はて、何か彼に対して素の口調を恥ずかしがる理由などあっただろうか。

 しかしその疑問を深く追及する前に文が話しかけてきたため、椛の思考はそちらに向かってしまった。

 

「あなたとも友人だったって聞いて話しかけてみたわけ。そうしたら案の定あなたも面白い。そこらの烏天狗なんかよりよっぽどね」

 

 文の言葉を喜ぶべきか嘆くべきか全く判断がつかなかった。

 曖昧に微笑んで無難な言葉を口にし、お茶を濁しておく。

 

「……ありがとうございます?」

「なんで不思議そうなのよ。まあいいわ、これからも良い付き合いができると嬉しいわね。――では! 私はこれにて失礼します!」

 

 言いたいことだけを言って、文は砲弾に見えるほどの凄まじい速度で人里へ向かっていってしまった。

 

「嵐みたいな人だなあ……」

 

 嫌な感じは受けなかった。きっと彼女にも悩みや抱えているものはあって、それが今解消されようとしているのだろう。

 椿は人間に関わって破滅した。文は人間に関わって変化しようとしている。そして椛は人間に関わって願いを持った。

 

 どの起点にも人間が関わっている。しかも椿と椛は同一の人間が。

 ……さて、今の人里において彼女と対等に話せる立場の人間など数えるくらいしかいないはずだ。

 

「……まさか、ね」

 

 文が執着している人物は、自分の親友である青年のことではないか。そんな想像が浮かんできてしまい、思わず吹き出してしまう。

 千里眼で確かめる必要は感じない。椛の想像が当たっていたとしても、どうせ後々わかることである。

 

 それにどこか誇らしい気持ちがあった。自分たちが育てたと言っても過言ではない人間が、今や天狗社会において大きな存在感を示し始めている。人間を見下す傾向のある天狗社会において、だ。

 我が子の成長を眺めるような、愛弟子の開花を褒め称えるような――あるいは、無二の相棒の躍進に胸を張るような、名前はつけられないけれど大きな気持ち。

 

「本当、退屈とは無縁になりますよ」

 

 誰にでもなくそうつぶやき、椛はいつも通り哨戒に戻っていくのであった。

 但しその耳と尻尾は機嫌良さそうに揺れていたが。

 

 

 

 

 

 逃げたいと、そう強く思ったことはないだろうか。

 信綱の記憶にはなかった。実際に逃げたことはあるが、その時だってできるなら逃げない方法を選びたかった。

 

 だが今は違う。直面している問題に対して、信綱は強烈に逃げ出したい気持ちが抑えられなかった。

 

「だからここに来たってわけ?」

「うむ」

「帰れ」

「賽銭を入れてやっただろう。かくまってくれ」

 

 場所は博麗神社。その居住区である縁側――参拝客の目にも止まりにくい場所で、信綱は博麗の巫女が出す茶を片手に空を眺めていた。

 

「いや、お賽銭もらったからお茶ぐらい出すけど……。あんた良いのそれで?」

「時にお前の服装、それで寒くないのか?」

「人の話聞きなさいよ!!」

 

 握り拳が振るわれるが、首を傾けるだけで避けてしまう。

 婚姻絡みの話をするなという思念が信綱の背中から漂っており、巫女も諦めたように隣りに座って自分の分のお茶を飲むしかなかった。

 

「……実のところ、なんとかなりそうな目処はつけているんだ」

「へえ?」

「ウチはそれなりに規模が大きい。俺が子を作らなくても分家筋やら本家筋の連中が作ればどうにかなる。それに――」

 

 火継の歴史において信綱が最高傑作であることは疑いようもないことであった。

 おまけに異変を解決に導いた人里の英雄であり、知名度も群を抜いて高い。

 強い血を後世に残したいという火継の事情と、これを機に火継の家に取り入ろうという人里の名家の思惑。

 様々なものが絡み合って、信綱はおいそれと嫁を娶るのが難しい立場になりつつあった。

 

「ウチはお前ほどじゃないが、里の運営からは距離を取っている。あまり深入りするのは望ましくない」

「ふぅん、でもそう言って何とかなるの?」

「ならないからこうして逃げているんだ」

 

 頭目は異変を解決する力を持ち、他の者たちも妖怪と正面から戦える武力を持つ集団。是が非でも我が一族に取り入れたい、と思うのは自然のことだ。

 以前は阿礼狂いという肩書がそれを遠ざけていたが、信綱は少々人里からの好意を得すぎた。自分たちにも力を貸してくれる存在ではないかと思われてしまっているのだ。

 

 そんな人間らが用意する女と結婚したら、今は信綱が抑えても次の時代以降で確実に不利益が生まれる。

 御阿礼の子を守るために生きる一族だ。他の一族と癒着するのは本意ではなかった。

 

 が、さりとて普通の人と結ばれるのも火継の人間は良い顔をしない。上述の通り信綱は一族の歴史を紐解いても二人と見ないほどの才覚を持っている。

 ならば次代にも相応の血を残したいと思うのは至極当然の話であり、あてがわれる相手にも相応の力が求められる。

 

「――と、話がこじれ出してな。俺の一存で決めても良いんだが、あいにくとそんな相手もいない」

「阿弥はどうなのよ?」

「まだ十にもならない阿弥様を相手にとか、変態かお前? 常識的に考えろ」

「なんであんたに常識語られなきゃならないのよ!」

 

 振るわれる両拳を、手首をつかむことで抑えこむ。鍛えられているのだろうが、それでも女の細腕。片手で握り込める。

 

「離しなさいよ!」

「火継は御阿礼の子にそういった思いは抱かない。ただ力になれればそれで良い」

 

 両手を抑えて蹴られてはたまらないので、巫女の身体を縁側の床に押さえつける。

 ジタバタ暴れられるが、こと体術においては博麗の巫女より自信があった。

 

「だったら妖怪相手にでも盛ってればいいじゃない! レミリアなんてあんたにご執心でしょ!」

「…………」

 

 そっと手を離し、静かに距離を取る。子供相手とかあり得ないと言った直後にこれとは、博麗の巫女の今後が危ぶまれる。

 よもや幼子にしかそういった目を向けられないのだろうか。次代の危うさは火継以上だと言わざるを得ない。

 

「そんな憐れなものを見る目で見るなーっ!!」

「いや……あれだぞ? 同性同士で子は無理だぞ?」

「なんでいつの間に私の性癖扱いになってんのよ!?」

「近づかんでくれ、童女趣味が感染(うつ)る」

「ぶっ飛ばす!!」

 

 本気で怒った博麗の巫女が手足を振り回すが、信綱は苦もなく受け流す。

 巫女が疲れるまでそれに付き合い、肩で息をし始めたところで信綱は再び縁側に腰を下ろして茶を飲み始めた。

 

「まあお前の性癖はさておき、俺には相手もいなければその気もないということだ。もうしばらくすればほとぼりも冷めるだろう」

「それまで私の神社は駆け込み寺扱いなのね……」

「賽銭は入れるから許せ」

 

 なんだかんだ信綱にとっても居心地が良いのだ。賽銭を多めに入れれば茶菓子も出てくるし、巫女の距離感も不快に感じる手前ぐらいを実によく理解している。

 と、そんな風に二人で静かに茶を飲んでいると、巫女がふと口を開いた。

 

「……あんたさあ、結婚とかする気ないの? 他所の事情は置いといてあんた自身の意思で」

「今のところはな。幸か不幸か、あの異変で必要が遠のいた」

 

 より正確に言えば、信綱自身が子を成す利益と、それによって生まれる不利益が釣り合わなくなりつつある、といったところか。

 強い女などそこらにいるはずもなく、さりとて権力者の娘をもらったら後々面倒になる。そういった事情を鑑みて、信綱は執拗に自分の娘を勧めてくる人から逃げていれば良かった。

 

「じゃあ一生独身?」

「何もなければな。妖怪と結ばれても構わないなんて言うほど熱意あふれる性根でもない」

 

 半妖が阿礼狂いの血を引くかもわからない。阿礼狂いは人間にのみ許された特権であり、妖怪の血が混ざったら発現しなくなる可能性だってある。

 

「…………」

「……何が聞きたいんだ?」

 

 押し黙ってしまった巫女に不思議そうな顔をする。まだ彼女には言いたいことがあるのだと、信綱はなんとなく理解していた。

 

「……博麗の巫女って、どうやって決まると思う?」

「うん? そりゃあ、代々そういう一族がいるんじゃないのか?」

「ハズレ。それじゃどうして神社に家族がいないのよ」

「む……人里に家があるとか……ではないんだな?」

 

 首を横に振られる。信綱はこれまで一度も考えたことのなかった博麗の巫女という存在について思考を巡らせていく。

 

(人里の人間から選ばれる……は、あるのか? しかし先代以前を俺は見たことがない。……いや、そもそも――こいつの先代は誰だ?)

 

 隣で茶を飲んでいる彼女は自分とほぼ同年代のはず。

 ならば信綱が幼い頃の博麗の巫女は誰が務めていた? 引退したはずの巫女はどこにいる?

 

「……外の世界から持ってくる、か? 少なくとも幻想郷にいないのなら、そこしか思い浮かばん」

「正解。私も先代も、物心つかないくらいの小さな頃にここに連れてこられた。

 先代がどうなったかはわからない。紫に連れられて、次はあなたが巫女だと言われてそれっきり神社での生活ってわけ」

「…………」

 

 先代以前の、それこそ初代の博麗の巫女はこの事態をどう考えているのだろう。そんなことを思った信綱だった。

 そんな信綱の隣で博麗の巫女は縁側に体育座りしながら、ブツブツと隣りに座る者以外に聞こえない声音で話を続ける。

 

「それで何が言いたい」

「もしも、私が死ぬことなく巫女の役目を終えて、引退することができたら……」

「できたら?」

「余生は誰かの家で過ごしたいなあって……」

 

 チラチラと信綱の方を見ながらの言葉。それを受けて信綱は得心したようにうなずき――

 

「そうか、頑張ってくれ」

 

 大真面目な顔で巫女の願いを応援すると言い出した。

 自分のことを指しているとは夢にも思ってない顔である。

 

「話の流れから察しなさいよ!?」

「……ああ、なるほど。――いや、正気か?」

 

 正気を尋ねるのも無理はない。なにせ巫女に好かれるような行動をした覚えは一切ないし、事実してないはずだ。

 人の好意とは相応の行動と時間を以って醸成されるものである。

 人が持つべき普遍的な好意について、そんな認識を持っている狂人にとっては、巫女の言葉は青天の霹靂に等しい。

 

「正気じゃないに決まってる。私だってあんたに声かけてる自分に驚いてるし、仮に一緒になったってあんたは私を愛さないでしょ」

「そうだな。俺が心を全て捧げる相手は阿七様であり、阿弥様であり、御阿礼の子だ」

 

 無論、それとは別に伴侶となるなら大事にはする。が、間違っても愛は生まれないだろうし、御阿礼の子との二者択一になったら迷わず切り捨てる。

 寸暇の迷いもなく言い切った信綱に、巫女は赤らんだ頬を隠すように体育座りの膝に顔を埋める。

 

「わかってるのよ。吸血鬼異変の時に散々見せられて、あんたは頭おかしいやつなんだって」

「うむ、それは正しい見方だ。だからさっきの言葉が自分に当てられたものとは思わなかった」

 

 彼女には相応以上に――いや、ひょっとしたら幻想郷において誰よりも狂った信綱を知っている。

 椛ですら片鱗を見ただけ。何も映さない狂気の瞳を覗いて生きている人間は、正しく博麗の巫女だけだ。

 

 何をトチ狂ったのか妖怪の中には好意を持つ存在もいるが、あれは彼女らが異常なだけだ。頭おかしいんじゃないだろうかと思っている信綱だった。

 

 ともあれあの姿を見た人間が好意を持つことなど、万に一つもあり得ない。そう思っていたのだ。

 自分が常人とは逸脱した姿を見せた自覚はある。そして異質な同族に対して人がどんな目を向けるのか、信綱は知識として理解しているつもりだ。

 

「だけど、私をただの女として見てくれるのあんただけなんだもの……」

「俺は別にお前を女だと思ったことはないぞ?」

 

 飄々としているようで真面目。むしろ真面目過ぎて肩の力が抜けてないんじゃないかと思ってしまう。

 そんな少しお節介を焼きたくなる知り合い程度の認識だった。

 

「そういう意味じゃないわ。一人の人間として扱ってくれたってこと」

「……ただの知り合い程度ですら、お前には重いのか」

 

 驚愕の感情より先に憐憫の感情が浮かんでしまう。自分と似通っている存在だと思っていたが、その内実は恐らく火継より重い。

 そもそも、火継は最初から御阿礼の子に狂っている。狂っていれば何の迷いも持つことはない。

 

 しかし博麗の巫女は人間だ。気が触れることなく、自らの意志で幻想郷に全てを捧げる立場に居続けるというのは、そこにどれほどの重荷があるのだろう。

 おまけに人も来ない、孤独なまま。

 

 故にこれは同情が多分に含まれた選択になる。

 火継信綱という人間は、御阿礼の子が絡まない限り人道を重んじ、努力が報われることを是とする人間であるよう心がけていた。

 

「……わかったよ」

「まあ急な話だとは思うわ。私も自分で何言ってんだろうって思うし……は?」

「お前が巫女の役目を退いて、一緒になる相手がいない時はもらってやる。そう言ったんだ」

 

 婚儀の相手など信綱は誰でも良く、するもしないもどうでも良い。ただ、今は立場と周囲がそれを阻んでいるだけで。

 彼女が役目を終える時には、信綱もそれなりの歳になっているだろう。

 無論、生涯現役を目指すので巫女を愛することはないが――彼女が孤独になるのを防ぐくらいならできる。

 

「え、ちょ、嘘……? 正気?」

「狂った決断だと思うなら、引退する前に相手を見つけろ。俺と一緒になってもロクなことにならんだろうよ」

 

 ため息をついて、巫女の側に置いてある茶菓子のせんべいをまとめてもらって齧る。

 呆けた巫女は気づいていないが、このぐらいは必要経費だと思ってもらおう。

 

「……本気で言ってるの?」

「別に今すぐでなく、引退なんて十年二十年は先の話だ。それに証文も何もないただの口約束。お前が破るのは自由だ」

「あんたは破らないの?」

「どっちでも良い。どっちでも良いからお前の好きにすれば良い」

 

 信綱の言いたいことはここに集約される。巫女の努力の結果が幻想郷の平和だけでは、彼女への報酬が少なすぎる。

 その報酬を自分にとってどうでも良いもので補えるなら、これほど楽なことはないというだけだ。

 巫女も驚愕から冷め、信綱の言いたいことが徐々に飲み込めてきたのか呆れた顔を隠さない。

 

「……要するに、私が頑張らないとあんたと一緒にさせられるってことか」

「そうなるな」

 

 ふっと相好を崩す。純粋な好意なのか、それともたまたまできることがあったから言っただけなのか。巫女に理由はわからない。

 しかし、失敗しても受け止めてくれる存在がいる、というのは思いの外肩を軽くするものであった。

 

「……私もあんたみたいな奴と一緒になるなんてゴメンだわ! これは気合入れて良い人探さないとね!」

「その意気だ。せいぜい良縁は逃がさないようにしろ」

 

 これはある種の発破に近いのだ。自分などと一緒になりたくなければ頑張れという。

 もう少しマシな方法はなかったのかと思うが、自分の与える影響というものを軽視している狂人にはこれが精一杯なのだろう。

 

 

 

 ――自分が相手にどう思われているのか、全く頓着しない彼らしい失敗と言えた。

 

 

 

 無論、この時点で互いに特別な感情など持ってはいない。博麗の巫女も口ではああ言っているが、信綱のことなど狂っているけど悪いやつじゃない、程度の知識しかなく。

 また信綱も巫女のことなど何も知らない。こちらは単純に興味がないだけなおタチが悪い。

 

 今、この二人が共に生きる道理はない。

 だが、これが十年二十年先どうなっているかは――誰も知る由などないのだ。

 

 

 

 

 

 春の日差しが人々に眠気を誘う暖かさを提供している昼下がり、信綱と阿弥は並んで帰り道を歩いていた。

 阿七に手を引かれて歩いていた時とは違い、今は信綱が阿弥の手を引く側になったことを感慨深く思いながら、柔らかな笑顔を浮かべる。

 

「改めてご卒業、おめでとうございます。何か祝いの料理でも作りましょう」

 

 今日は阿弥の寺子屋を卒業する日だった。

 といっても他の者のように学業を修めたという意味での卒業ではなく、彼女の子供でいられる時間の終わりを意味していた。そのため未だ阿弥は十にもならない少女である。

 それを承知の上で信綱は阿弥を祝ぐ。寺子屋での友人との縁は意外と切れないことは自身も身を持って理解しており、何より避け得ぬことだ。

 ならば少しでも良い気持ちになっていただこうと思うことの何が間違いなのか。

 

「父さんが料理するの?」

「これでも阿七様の料理を作っていたのは私ですよ」

「嘘!?」

「本当です」

 

 薬草や薬膳の知識だけ持ってても宝の持ち腐れである。信綱一人で阿七や阿弥の面倒を見られることが理想なのだから、生きるために必要な衣食住は最低限できるようにしてあった。

 突出した武力の逸話ばかりが増えているため武張った人間だと思われがちだが、これでも自発的にやろうと思ったことは大体そつなくこなしてしまうのだ。

 

「知らなかった……。なんで黙ってたの?」

「褒めていただきたくてやったわけではないので。あの時は阿七様のお身体が良くなることだけを願っていました」

「じゃあ今は?」

「無論、阿弥様が健やかに育たれることを願ってますよ」

「えへへ……」

 

 はにかんだ笑みを浮かべて阿弥が手を握る力を強くする。それにもう一度微笑みを返す。

 こうして歩いていると本当の親子のようにしか見えないだろう。阿弥もそれを望み、信綱はそれに応えている。

 だが――ここから先はそうも言っていられない。

 

 彼女に残された時間は少なく、そして果たすべき使命があるのだから。

 

「縁起の編纂はいつから?」

 

 信綱がそのことについて問うと、阿弥の雰囲気が天真爛漫な子供のそれから、人里の歴史をその目で見続けた老獪なもの――御阿礼の子のそれに変わる。

 

「ん、慧音先生から借りた私がいない間の歴史書の確認と、外から来た妖怪の確認が最初かな。私が生まれてすぐの異変もあったんでしょ?」

 

 吸血鬼異変のことである。慧音も歴史にまとめてはいるが、実際にレミリアのことなどを記すのは阿弥の役目だ。

 編纂が始まったら真っ先に向かうことになるだろう。阿弥は求聞持の力で見聞きしたことを忘れないが、レミリアの記憶は有限であり、遠くの時間から削れていくものである。

 

「ええ、里で死者が出ました」

「一人だけなら昔より良いのよ。幻想郷ができた始めの頃は何回里が滅ぶと思ったか……」

「阿弥様」

 

 過去のことを忘れられない阿弥が嫌なことでも思い浮かべたのか、暗い顔になったのを目敏く見抜いた信綱は立ち止まって阿弥の頭に手を置く。

 

「過去は過去、今は今です。……あなたを悲しませるものは私が全て退けます。ご安心ください」

「……うん、信じてる。父さんのこと」

「ええ、信じてください。それだけで私は誰にも負けなくなる」

 

 信綱の言葉に阿弥は小さく笑みを浮かべ、頭に乗せられた手に自分の小さな手を重ねる。

 

「私を守ろうとしてくれた人は多く知っている。でも、こうしてくれた人はいなかった」

 

 落ち着いて、暖かな声音は信綱に阿七を幻視させる。

 阿七にされたことをつい自分もやってしまったと思った信綱は、戸惑ったように口を開く。

 

「む……気分を害されたのならもういたしませんが」

「あ、ううん、私も阿七の気持ちがわかっただけ。こうやって触れ合えることは、とっても素敵なことなんだなって」

 

 阿七もそう思っていてくれたことに対し、信綱は嬉しく思いつつも表には出さない。

 今の自分は阿七の側仕えではなく、阿弥の側仕えなのだ。彼女を前に阿七の話をすることは、阿弥より阿七を重んじていると宣言することに他ならない。

 

「……そうですね。阿弥様と共にいられて私も幸福です」

「えへへ、ありがとう父さん。それじゃあ帰りましょ!」

 

 阿弥は信綱の手を大きく振りながら元気良く家への道を歩く。

 その隣に立って、穏やかな顔で弾んだ笑顔の阿弥を見守る。

 

 阿七の側仕えになった時、すでに幻想郷縁起の編纂はほぼ終わっていた。それ故、信綱は阿七を伴って妖怪の領域に向かうことはなかった。

 だが、阿弥は違う。幻想郷の過渡期である現在、彼女は恐らく歴代において最も妖怪の領域に踏み込む御阿礼の子となるだろう。

 当然、信綱もそれに付き従うことになる。

 

 ならば彼女の笑顔が曇らないようにしよう。

 不安があるなら払えば良い。恐怖など持たせないほど自分が強くなれば良い。痛みがあるなら代わりに受けよう。

 御阿礼の子が持つ妖刀であるこの肉体。彼女のためなら喜んで万物を斬り裂く利剣となろう。

 それで彼女に幸福な時間の一助になれるなら望外である。

 

 信綱は自身により一層の精進を課して、御阿礼の子と共に生きることを改めて誓う。

 

「……阿弥様さえよろしければ、少し寄り道をして帰りませんか?」

「ふぇ? どこかに寄るの?」

「ええ。ご卒業のお祝いに何か髪飾りでも見ましょう。食事以外にも贈らせてください」

「え、そんな……良いの?」

「もちろん。父が娘の成長を祝うのは当然です」

 

 本物の父親のような言葉遣いは難しいが、このぐらいはしてやりたかった。

 それに家に戻ったら否応なしに御阿礼の子としての時間が待っている。

 ならば今だけはゆっくりと子供の時間を過ごして欲しい。

 

「あ……うん!」

 

 満面の笑みを浮かべる阿弥の子供らしい姿に、自身の行いが良いことであることを願いながら、市場への道を阿弥の足に合わせてゆっくりと歩いていくのであった。




次回以降でようやく縁起の編纂が始まります。要するに天狗の里に赴く用事もあるということだ(ゲス顔)

ノッブは婚姻関係はそんなに気にしていません。これに関して自主性はあんまりないので、周囲が揉めれば揉めるほどに婚期が遠のいていく。
ちなみに神社に向かう姿は目撃されているため噂は立ちつつあるという。人里と接点が少ない巫女とうわさ話に興味を持たない狂人のコンビなので、気づくのは相当遅くなります。

なお現段階での好感度はお互い20ぐらい。知り合いから友人にシフトチェンジする手前ぐらいをイメージしていただければ。
そんな適当な口約束ですが、果たして履行されるのかどうか。それはまだ誰にもわかりません。

椛がかっさらったら? うん(目をそらす)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

御阿礼の子と紅魔館

遅くなったなと思った人。私もそう思いました。
あーでもないこーでもないと悩んで遅れたり。


「お嬢様ー? お手紙が届いてますよー?」

 

 夏の日差しが暑い日――と言ってもこの館は吸血鬼の屋敷らしく窓がほとんどなく、四六時中薄暗い。

 そんな中、美鈴はとある青年から直接届けられた手紙を持って歩いていた。

 

 いかに薄暗くても大気は入る。夏特有のジメッとしたベタつく空気が気持ち悪いが、これが夏なのだから文句は言えない。

 美鈴が主であるレミリアの部屋に入ると、ベッド代わりの棺桶――にはおらず、執務机に座っていた。

 まるで美鈴の来訪を待ち構えていたように肘をついて組んだ両手で口元を隠し、ものすごく真面目な空気を醸している。

 

「ご苦労、美鈴。……それで手紙は誰からかしら?」

「私たちに手紙を届ける人なんてほとんどいないってわかってますよね? ……あと、帽子ズレてますよ」

「おっとっと」

「寝癖、直ってませんよ」

「う、うっさい! 後でいいのよ後で!」

 

 大方手紙と聞いて飛び起きたのだろう。よく見たら服も微妙に着崩れている。

 

 異変から少しは時間も流れたというのに、主である少女は相変わらず一人の青年――もう壮年に入った男性にご執心だった。

 これが巫女だったら彼女に傾いていたのだろう。妖怪の戯れとして同性同士というのもあるにはあるが、ハマり過ぎるとロクな結果にならないのは万国共通である。

 

 それなりに時間も流れた現在、レミリアは幻想郷に馴染みつつあった。人里に足を運んでも門番に怖がられなくなったし、慣れた自警団員からは飴をもらうこともある。べっこう飴美味しい。

 なんだか可愛がられる孫みたいな立場になっていることに、妖怪的に問題があるのではないかと思われることだろう。実際問題がある。

 とはいえ件の男性と人里を襲わないことを約束している時点で妖怪的に大問題だ。一つや二つ問題が増えたところで今さらである。

 閑話休題。

 

「で、なんか言ってた?」

「えーっと、近いうちに足を運ぶとかどうとか。幻想郷の妖怪対策本、知ってます?」

「あら、そんなのがあるの? 人間も大変ねえ」

 

 レミリアを打ち倒した男性のようにずば抜けた力量があるならまだしも、大半の人間はそうではない。

 妖精に度の過ぎたイタズラをされても死ぬし、動物から化生したばかりの雑魚妖怪に襲われても簡単に死ぬ。

 だから幻想郷縁起という形で対策を取るのだ。

 ……尤も、一番手っ取り早い方法は人里から出ず、危険な領域に赴く場合は身元と技量が信頼できる護衛を雇うこと、という身も蓋もない結論に落ち着くのだが。

 

「それを作っている人と一緒に来るみたいです。可能な限り詳細な話がしたいとか」

「ふぅん、本人でもないのに熱心な話だこと」

 

 手紙の封を切って中身を見る。流暢な英語で書かれた内容に軽く口笛を吹く。

 

「あらお見事。私が持っていった本一冊でここまで書いちゃう」

 

 言語の違いがあることに悩んだレミリアは、男性に適当な本を一冊渡していた。

 それで練習しろという意味である。自分が日本語の読み書きを覚えるという発想はなかった。

 が、一冊で十分なほどに言語を習得している様子。レミリアの認めた男は基本的になんでもできるらしい。

 

 内容自体は美鈴が口にしたものと大して変わらない。が、主を連れて行くので粗相のないようにと客人に言われるのは少々おかしくて笑ってしまう。

 そんな風に概ね満足しながらレミリアが手紙をしまおうとすると、重ねられたもう一枚の紙が執務机にハラリと落ちる。

 

「うん……?」

「あれ、二枚目ありました? 紙の厚さ的に一枚だけだと思ったんですけど」

「隠してあったのかしら。ふむ……」

 

 手に取って眺めてみると、英語以上に書き慣れた文体での文章が綴られていた――但し日本語で。

 無論、レミリアも美鈴も読めない。それを良いことに、人に面倒なことやらせやがってという皮肉と嫌味がたっぷり詰め込まれた内容である。

 

「……なんか読めないけどバカにされてる気がする」

「英語で書かなきゃ読まないなんてお嬢様が言ったからだと思いますよ? まあとにかく、どうされます?」

「当然、歓迎するに決まってるわ。私から訪ねることはあっても、向こうから来るのは異変以来でしょう」

 

 向こうからすれば本当に行く理由がなかったのだろう。阿弥の側仕えに山歩きで食材集めなども含め、紅魔館の方へ足を向けても途中にある魔法の森で用事が済んでしまう。

 

「さて……おじさまがあんなにご執心の子はどんな子なのかしらねえ」

「あんまり挑発とかしないでくださいよ? 今度こそ殺されるかもしれませんから」

 

 美鈴はブルリと身震いをする。レミリアが人里に訪れる関係で美鈴もちょくちょく同行しており、顔を合わせる機会はあるのだが、今でも苦手意識が抜けていないようだった。

 

「しないわよ。私はおじさまが大事にするもの全てを尊重する。古来より妖怪退治を成し遂げた英雄には金銀財宝って相場が決まってるの。それがおじさまにとっては人間だった。それだけの話でしょ」

「……お嬢様って、そういうところこだわりますよね」

「当然よ。私は高貴な吸血鬼ですもの。人間の上位種である自負がある。――だからこそ、それに打ち勝った人間は讃えられて然るべきなのよ」

「そんなものですかねえ」

「生まれつき強い妖怪なんて、多かれ少なかれ私みたいな部分があると思うわよ?」

 

 強いから相手がいない。だから相手を作るために自らに縛りを加える、ないし相手になった者へ惜しみない賞賛を送る。そういった傾向は西洋でも東洋でも差はなかった。

 レミリアはそういった感性に則っているだけである。下等な種と見下す人間に負けてそれを認めないのは、彼ら以下の存在に堕することと何ら変わらない。

 

「私みたいな頑丈さだけが取り柄の妖怪にはわかんないです。でも、そうやって誇りとか矜持を語るお嬢様は格好良いですよ」

「ふふん、もっと褒めなさい」

「そこで調子に乗らなければ八十点です。あ、残り二十点は無条件にひれ伏したくなる感じで」

「百点厳しいわね!?」

 

 どうにも部下に威厳が示せないレミリアだった。

 

 

 

 

 

「人里から出るのって初めて! んー、空が広く感じるわ!」

 

 夏の晴れた日、澄み渡る空の広さに感動するように阿弥は両手を広げる。

 後ろには人里に通じる門があり、門番の人たちが見守っている。そして隣には自身が最も信頼する人がいる。

 心配することなど何一つない、最高の気分だった。

 

「ここからは妖怪が出ることもあります。私の側から離れないよう」

「こんな場所にも現れるの?」

「滅多にありませんが、最近は目撃報告などもありますね」

 

 実際に襲われるとまでは行かないのだが、そろそろ自警団員も経験を積むべきなのかもしれない。

 火継の人間も有限であり、おまけに今は阿弥がいるのだ。火継の人間は妖怪退治よりこちらを優先するだろう。

 

「阿七の頃は本当に平和だったのよ。でも、今はそうじゃないのね……」

「阿弥様?」

「なんとなくだけど。今は色々な妖怪が息を潜めている。そんな気がするの」

 

 繋がれた手に力が込められる。阿弥が抱いている感情は不安なのか、懐古なのか。

 阿弥でない自分にはわからない。わからないが、自分は彼女にこのような顔をさせたくて側にいるわけではない。

 

「――ご安心ください。私がいる限り何も心配に思うことはありません。ご自分のなさりたいことに集中してください」

「……本当に格好良いね、父さんは」

「あなたの前で無様は晒せませんから」

 

 静かに微笑みかける。阿弥はそんな信綱の姿に照れたように頬を赤らめ、顔を下に向けて本心を吐露していく。

 

「……実は不安だったの。私が縁起の編纂をするのは初めてで、妖怪と会うのは少し怖かった」

「阿弥様……」

 

 心配するな、と言ってどうにかなるものではないだろう。自分が隣りにいると言っても幻想郷縁起の取材である以上、矢面に立つのは阿弥になる。

 

「私が後ろにおります。それではダメでしょうか」

「父さんが悪いわけじゃないんだけど、阿七の記憶には父さんが戦ってる姿がないから……」

「阿七様や阿弥様の前で戦うとか護衛として問題ありますからね?」

 

 危険は事前に排除しておくのが基本なのだ。そうでなくても主に気付かれぬよう危機を退けるのが鉄則である。

 目の前で危険を排除すれば確かに見栄えは良いだろう。主も明確に安心感を抱ける。

 だがそれは危険を感じさせた上で与えられるものだ。山と谷、その落差を利用したものに過ぎない。

 

 本当に主の安全を考えるならば仕事をしていないと軽んじられようと、主に危険など感じさせないように振る舞うのが一番である。

 阿七の頃は確かに戦う機会に恵まれなかったが、それでも彼女らに振りかかる危険がないならそれに越したことはない。

 

「あはははは……うん、肩の力も少し抜けた。行きましょっ」

「ええ、お供いたします」

 

 だからこそあらかじめ手紙も渡しておいたのだ。後はちゃんとした歓待をしてくれることを願うばかりだ。

 阿弥にとって、そして自分にとって初めてになる縁起の取材。それが上手くいくことを願う信綱であった。

 

 

 

 

 

「ようこそ、紅魔館へ。お嬢様が首を長くして待っておりました。そちらが……」

 

 紅魔館の前に信綱と阿弥が並んで到着する。

 門番の美鈴が信綱に笑みを向け、また彼が手を引いている少女の方へ目を向ける。あまり驚いた様子がないのは仕える主の影響だろうか。

 

「八代目阿礼乙女、稗田阿弥と申します。私の側仕えである信綱さんとはお知り合いでしょうか?」

 

 阿弥は信綱に見せる子供らしい姿ではなく、転生を繰り返し幻想郷の歴史を見つめ続けてきた御阿礼の子としての姿で自己紹介をする。

 今回の用事は阿弥が主体。そのため信綱は一歩下がり、あくまで主を立てる方針だった。

 

 ……実はそこそこ距離がある上に道も整備されていないので、途中は信綱が阿弥を背負って歩いていたことは内緒である。

 

「ええ、まあ。異変の折には大変色々と……なんていうか……ハッ!?」

「…………」

 

 余計なことを話したら後で屋敷裏、という目で見ているとこちらの視線に気づいた美鈴が頬を強張らせる。相変わらず察しが良くて何よりである。

 妖怪の生態を知るための取材だ。信綱の戦いぶりなど二の次三の次で十分なのだ。

 

「? どうかされましたか?」

「い、いえ……とにかく、よく来てくださいました! お嬢様以下、我々紅魔館はあなたを歓迎いたします」

 

 可愛らしく小首を傾げる阿弥に、美鈴は咳払いをしながらなんとかごまかし、話を切り替えて門を開く。

 美鈴が先導して中庭を通り、屋敷に通じる扉へ向かう。その道中の植え込みに咲き乱れている薔薇の花が美しい。

 

「うわぁ……」

「あはは、綺麗でしょう? 私がお世話しているんですよ、あの花は」

「ええ、とっても綺麗です。信綱さんもそう思わない?」

「確かに美しい。それに薔薇は育てるのが難しいとも伺います。さぞ苦労されたことでしょう。……どうされましたか?」

 

 まるで寒気がするように二の腕を擦る美鈴に、信綱は爽やかな笑みを向ける。

 その裏に込められた意味は、変な素振りを見せたらぶった斬るという物騒極まりないものだったが。

 

「な、なんでもないです。あはは、夏風邪でも引いたかなー?」

「それはいけません。花の手入れは一日も怠ってはいけないものです。この仕事が終わったら休みを頂いてはいかがでしょう?」

「か、考えておきます……」

「妖怪の門番というのも大変なのね……。あまり長居することにならないようにしましょうか、信綱さん」

「阿弥様の御心のままに」

 

 恭しく阿弥の言葉に従う信綱を、美鈴は信じられないものを見るような形相で眺めていた。

 傍若無人、誰が相手でも自分を崩さない、敵に対する情けは一片も持たず――そんな冷徹な姿は微塵もない。

 あるのは真摯かつ誠実に、主人のために生きることに至上の喜びを見出す、仕える者としての姿。

 

 狂っている、という感想が正直なところだった。

 美鈴は彼が阿礼狂いと呼ばれる一族の人間であることを知らないが、奇しくも同じ答えに到達する。

 また同時に、信綱に全幅の信頼を寄せているあの童女は彼をどう思っているのか疑問を覚えるのであった。

 

 とはいえ口に出したら彼が怖い。自分の命に何の価値も見出していない者に、生殺与奪権を預けることほど恐ろしいものはない。死ぬのが怖い妖怪だっているのだ。

 

「薄暗い場所ですみません。我が主は吸血鬼ですので、日光を嫌っておりまして」

「吸血鬼は日光が苦手なのですか?」

 

 阿弥が美鈴に尋ねると同時、信綱に視線を送る。

 それを受けて信綱は懐から紙を取り出し、美鈴の言葉を記していく。

 

 求聞持の力を持つ御阿礼の子に筆記は必要ないと思われがちだが、これがそうでもない。

 文字通り見聞きしたことを全て覚えてしまうがゆえに、記憶の中から特定の何かを探り出すには時間がかかる。

 そうならないためにも、要点をまとめておくのは記憶を掘り起こす際に役立つのだ。

 後世の人々のために少しでも詳細に、少しでも対策と成り得る情報を残す。それが幻想郷縁起の役割であるが故に。

 

「ああ、幻想郷では吸血鬼は珍しいんでしたか。西洋では結構有名なんですけどね……っと、ここから先はお嬢様に直接お聞きください」

 

 美鈴と阿弥が楽しそうに会話していると、ある部屋の前で立ち止まる。

 異変解決の折に信綱が訪れた部屋ではない。応接間のようなものがあるのだろう。

 恭しく扉が開かれ、中では茶の用意をして待ち構えるレミリアの姿と、その脇で本に目を落とす少女の姿があった。

 一人は信綱にとっても初見だが、すぐに直感した。

 

 ――彼女が霧を起こした張本人である。

 

「はぁい、お二方。紅魔館の主、レミリア・スカーレットが二人を歓迎するわ。まずはお座りになって」

 

 阿弥に殺意が届かないよう苦心して押し殺していると、レミリアが親しげに口を開いて椅子を促す。

 

「お嬢様、私はどうしましょうか?」

「残りなさい。主の私に護衛がつかないのはなんか負けた気がする」

 

 チラ、とレミリアの視線が一瞬だけ信綱に向く。側仕えとしての本分を果たしている姿を羨ましいとでも思ったのだろうか。

 レミリアの正面に阿弥が座り、その後ろに信綱が侍る。対するレミリアの後ろにも美鈴が立ち、話し合いの形は完成した。

 

「さて、まずは自己紹介と行きましょうか。永遠に紅い幼き月、ツェペシュの幼き末裔――レミリア・スカーレットよ。こっちは門番兼食事係兼雑用係兼肉体労働係の紅美鈴」

「役職多くないですか!?」

「八代目阿礼乙女。稗田阿弥と申します。こちらは側仕えの火継信綱。本日はよろしくお願いいたします」

「む、側仕え一言で済ませるのも格好良いわね……。美鈴もなんか一言で済ませられる役職ある?」

「門番って言ってるじゃないですか!?」

 

 相変わらず威厳を演出しているようで素の人格がそれを否定している。この気の置けなさが彼女の持ち味なのかもしれないが、初見の人は置いてけぼりにされてしまうので勘弁して欲しい。

 

「……えっと」

「阿弥様、お気になさらず。彼女らは大体こんな感じです」

「父さ――信綱さんは異変の時以外にも?」

「……ええ、彼女らとはそれなりに懇意にしております。里には入れられませんが」

 

 向こうから寄ってくるというのが正確なところだが、阿弥に上手く説明する自信がなかった。

 

「あら、あなたおじさまから異変解決したお話聞いてないの? そりゃもう格好良かったのよ?」

「その辺りも含めて、本日はお話いただこうかと。そちらの方は……」

「おっと、紹介が遅れたわね。私の親友の魔女、パチュリー・ノーレッジよ。普段は図書館に引きこもってるんだけど、良い機会だから紹介しておくわ」

 

 阿弥と信綱の視線が本を読む少女――パチュリーに向けられるが、気にした様子も見せずに本に集中している。

 レミリアは友人である少女の対応に肩をすくめ、阿弥たちに笑いかける。

 

「……と、まあ本の虫ってやつなのよ。特に異変の解決にはいい思い出がないらしくてね。おじさまのことも嫌いってわけ」

「…………」

 

 黙して語らず。彼女が霧を出した張本人であることは確実であり、阿弥に直接被害を出した憎き敵なのだ。

 口を開いて憎悪が漏れないと言い切る自信はなかった。

 

「えっと……」

「ああ、あなたが気にすることじゃないわ。パチェのは逆恨みみたいなものだし、むしろあれだけで済んで良かったって何回も言ってるのに聞かないんですから」

 

 戸惑ったように信綱とパチュリーの間で視線を行き来させる阿弥に、レミリアが補足を加える。

 実際はレミリアの頼みで霧を出したら巫女に殴られただけなので、実行犯であることを差し引いてもとばっちりは受けているのだ。

 パチュリーは本から顔を上げると恨めしそうな目でレミリアを見据える。

 

「……お腹を殴られて、本当に痛かったのよ。内臓がグシャグシャになった気分だったわ」

「死んでないんだから良いじゃない」

「私はレミィと違って打たれ弱いの」

 

 またも信綱らをそっちのけで話し始めた紅魔館の面々に、信綱は内心でため息をつきながら阿弥に進言する。

 

「阿弥様、彼女らの話を真面目に聞いていると日が暮れます」

「そ、そうね父さん。こっちもこっちで頑張らないと……」

「お二方、ご歓談はよろしいのですが、こちらの用件を通してもよろしいでしょうか?」

 

 阿弥が気合を入れ直したのを見て、信綱は彼女らの話を遮るように口を挟む。

 

「おっとと、少し脱線しすぎたわね。客人を放置してってのは美しくないわ」

「では始めましょうか。まずはあなたの人里に対する考え方を」

「――非友好。そう書いておいて頂戴」

 

 信綱は怪訝そうに目を細めるが、前に座っている阿弥は驚いた様子もなくそれを紙に書き込んでいく。

 

「はい、ではそのように」

「私は私を打ち倒したおじさまには敬意を払うわ。異変の折に課した約束は決して違えないし、おじさまが仕えるあなたにも真摯に応えるつもり。

 ――でもそれは人間に傅くことではない。私が優先しているのは約束の履行であって、人間を守ることではない」

 

 その割に人里に来る時は結構友好的な体を装っているが、あれは少女と人間というある意味対等な立場での会話だから見逃されているのだろう。

 人里を守るが傅くことはなく。彼女が人間の下にひれ伏すことは決してない。それが確信できる姿だった。

 

 レミリアが人間という種族全体に向ける威圧を阿弥は受け止め、しかし涼しい顔で笑ってのける。

 

「ええ、理解しております。人間に打倒され、それでも生き延びた妖怪は皆似たようなことを言います」

「……どうやらあなたも普通じゃないみたいね。まるで同族と話している気分よ」

「うふふ、褒め言葉と受け取っておきます」

 

 レミリアと正面から対峙している阿弥の姿に、感動を覚えてしまう。

 これが御阿礼の子。代々転生して記憶を引き継ぎ、縁起の編纂という形で幻想郷に奉仕することが定められた人間――阿礼狂いの主。

 吸血鬼という外来の鬼に対して全く怯むことなく対話を続ける姿は、信綱に一層の忠誠と精進を誓わせるのに十分な気迫があった。

 

「では人里からは無闇に関わらぬよう書いておきます。よろしいですか?」

「構わん。うちは観光名所じゃない。誰彼構わず来られるのは迷惑だ。――おじさまとお前は例外として、な」

「ありがとうございます。それでは妖怪に対してはどう思われてますか?」

「――嫌いだね。人間どもを飼って悦に浸って、そのくせ問題が起きた時の解決は人間任せ。

 妖怪の楽園? 戯れ言を抜かすなよ化外ども。(妖怪)が起こした問題を住民(妖怪)が解決しないで人間に任せて、どの口がそれを言う」

 

 異変の解決に当たったのが博麗の巫女と信綱、そしてスキマ妖怪の援護というのが余程腹に据えかねていたようだ。

 しかしこの吸血鬼、存外に過激な思想を持っている。

 

「私たちは妖怪だぞ? 人間どもより遥かに優れた肉体と知能があるんだぞ? せめて気高く振る舞えよ。自分たちの縄張りを侵した奴に歯向かえよ。全くもって腑抜けている。それが私から先輩への言葉だ」

「……ええ、はい。ちゃんと記しておきますとも」

「誤解しないで欲しいけど、私は強い者、美しい者を愛するわ。まだこの世界の大半にそれを見ていないだけ。あなたとおじさま、二人は認めてあげる」

 

 要するに自分が認めない者には冷たいということだ。信綱は内心でレミリアの言葉をまとめる。

 その点では自分が彼女を打倒して正解だったのかもしれない。博麗の巫女が解決したのでは、レミリアは人里に価値は見出さなかっただろう。

 

 と、そんなことは信綱にとってどうでも良い。今重要なのはレミリア相手に一歩も引かず立派に対話している阿弥の勇姿だ。

 小さな子供の背中に何人もの御阿礼の子が幻視される。なんと気高く美しいことか。

 ここが公の場でなければ平伏して生涯の忠誠を誓っているところだ。

 実は三十年以上生きてきて、妖怪と相対する御阿礼の子を見るのは初めてな信綱だった。

 

「ありがとうございます。うふふ、新しく来た方に認めてもらえて光栄です」

「……なんだかね。どうにもやりづらい。子供なんだか大人なんだかサッパリだ」

「お嬢様がそれ言います?」

「美鈴、十秒以内に紅茶を用意しないと夕飯抜き」

「無茶言わないでください!?」

「……仲が良いよね、みんな」

 

 気を抜いたらあっという間に彼女らの空間ができあがる辺り、本当に深い付き合いであるということが伺えた。

 それを読み取った阿弥がこっそりと信綱の方を振り返って囁いてくる。

 

「……あれを見習った方が良いのかはわかりませんがね」

「あはは、父さんには難しいかな」

「むぅ……」

 

 唸るしかない。阿弥が望むなら鋭意努力する所存だが、上手くできるかは別問題である。

 阿弥と信綱が話していると、お茶を用意した美鈴が薄い陶器の小さな茶碗を二人の前に並べていく。

 透き通った琥珀色の液体が湯気を立てて注がれ、優しい花の芳香が漂ってくる。

 

「わ、綺麗な色……」

「紅茶は初めてかしら。東洋の緑茶とやらも美味しいけど、これはこれで美味しいものよ。ああ、毒を入れるなんて無様なことはしないから安心して」

 

 レミリアは同じ茶器で入れられた紅茶を飲んで、毒が入っていないことを証明する。

 

「……ふむ」

 

 阿弥が口を付ける前に、信綱は自分の前に置かれた紅茶を口に含む。

 熱くて甘く、そして僅かな渋みを含んだ液体がより強く香りを引き立てる。

 渋みは茶そのもののそれ。緑茶などよりは柔らかい味で、より万人向けの味と言えた。

 

 ――懸念していた血の臭いも、舌を刺すような毒も感じない。

 

「阿弥様、冷めないうちに飲んだ方が美味しいようです」

「熱いのはちょっと苦手だけど……頂きます」

 

 取っ手を持ち、もう片方の手でカップを支えるように持った阿弥が紅茶を口に含む。

 恐る恐るという風体だったが、口にして味を確かめた瞬間、その顔に花が開いたような笑みが生まれる。

 

「美味しいです! 甘くて、香りが良くって……」

「喜んでもらえて嬉しいわ。おじさまはいかがかしら?」

「……美味かと。あまり嗜好品に詳しくはないので、細かいところはわかりませんが」

「そうかしら。その割には真剣な顔で吟味していたみたいだけど」

「馴染みのない味でしたので」

 

 レミリアの追求を適当にはぐらかす。向こうも自分が毒味をしたとわかっていてからかっているはずだ。

 バカ正直に相手に付き合う必要はない。そう結論付けて紅茶を飲み干す。

 

「レミリアさん? 信綱さんがどうかされましたか?」

「良い従者を持てて羨ましいってことよ。さて、取材の続きはあるのかしら?」

「では――人間があなたに遭遇してしまった場合の対処法などをお聞かせ願えないでしょうか?」

「私は基本的にここから動かんし、自発的に動く時は無闇に被害は与えん。それ以外で遭ったら諦めなさい」

 

 信綱も内心で同意する。彼女の弱点はあるだろうが、恐らく特効と言えるほどの効果はない。

 以前に日光を浴びても火傷ぐらいだったのだ。無意味にはならないが、決定打にもならない。そんな印象を覚えた。

 ましてそれで命が助かるか、と問われると否である。

 

「い、一応弱点とかは……」

「銀、流水、日光。私の国では一般的にこういったものが弱点とされた。存外、東洋の鬼と同じものが効くかもしれないけど、そちらは試したことはないわね」

「つまり遭わないに越したことはない、と。一応、弱点の類も乗せておかないと人々が不安になってしまうので。ご協力に感謝します」

「他に聞くことなんかはあるかしら?」

「いえ、おかげさまで縁起に載せるのに十分なお言葉が集まりました」

 

 阿弥が書き込んでいた紙をしまい、笑って感謝の言葉を述べる。

 それを見たレミリアが最後に、愉しむような笑みを浮かべて退出の言葉を放つ。

 

 

 

「そう。――お互い、仲良くやっていけると良いわね、阿弥?」

 

 

 

 

 

 手土産にと渡された紅茶の包を持って、阿弥と信綱の二人は紅魔館を後にする。

 見送りに来た美鈴が阿弥に朗らかに笑い、ひらひらと手を振る。

 

「お嬢様も久しぶりの来客に楽しそうでした。あと、そちらの方の普段は見ない姿も見られたので」

「恐縮です。……笑ったらわかってるな?」

 

 阿弥の側仕えとしている間は、私人としての個はほとんど封印している。

 とはいえこれをネタに後々からかわれても鬱陶しいので、こっそりと釘は刺しておく。

 

「は、はいぃ!! 相変わらずこの人怖いぃ……」

 

 あっという間に青ざめる美鈴に、ここまで嫌われることだったかと少し首を傾げてしまう信綱。

 最初に会った時に本気で殺そうとしたのが余程トラウマになっているらしい。悪いことをしたとは思っていないので反省はしていない。

 

「信綱さん?」

「申し訳ありません。では、失礼いたします」

 

 阿弥の呼びかけに応え、彼女の後ろについて歩き出す。

 そうして美鈴の姿も見えなくなった辺りで、阿弥が立ち止まる。

 

「…………」

「阿弥様? どうかされましたか?」

 

 立ち止まった阿弥に声をかけると、腰の辺りに小さな衝撃が走った。

 視線を下げると、阿弥が信綱の腰に抱きついているのがわかる。何があったのかと思い、信綱も腰を下げて阿弥と視線を合わせる。

 

「…………」

「阿弥様?」

「……もうちょっとこのまま」

 

 胸に回される腕は微かに震えており、胸に埋められた表情は窺い知れない。

 先ほどは立派に妖怪相手との対話をしていると思っていたが、訂正しよう。彼女は彼女なりに必死に頑張っていたのだ。

 

 自分のものではない記憶と信綱以外に頼れるものがない。そんな中で十歳にも満たない少女が何百年も生きた妖怪と話すなど、どれほどの緊張があったか。

 信綱は彼女の内心を見抜けなかった己に恥じ入りながら、阿弥の背中に手を回して優しくその背を叩く。

 

「よく頑張りました。ご立派でしたよ、阿弥様」

「……抱っこ」

「わかりました」

 

 ひょいと阿弥の軽い身体を抱えて立ち上がる。

 彼女は怖いなどの弱音は吐かないだろう。歴代の御阿礼の子は成し遂げたのだから、大丈夫だと言い張るはずだ。

 ならば自分が支えてやらねば。この小さな身体に課せられた役目が少しでも楽になるよう、力を尽くさねばと信綱は気を引き締める。

 

 そして人里への帰り道、阿弥は信綱の頬に自分の頬を寄せて――

 

 

 

「父さんがいてくれて良かった……」

 

 

 

 そんな、心からの言葉を告げるのであった。

 

「……望外の喜びです。阿弥様」

 

 この人のために生きよう。阿弥を抱く力を微かに強めて、信綱は静かに笑いながら歩くのであった。




意外とギザギザハートの持ち主なれみりゃ。
認めた相手には懐が深いですけど、そうでなければ全方位棍棒外交なお人です。

実はれみりゃの計らいでパチェさんとノッブ戦わせようかなと思ったりしてたんですけど、話の流れ的に没になりました。
ノッブ、基本御阿礼の子の前で戦う事自体を嫌っています。主を危険にさらすとは何事かという意味で。

他にも霧の異変の時に吸血鬼は死体を操ることができるという伝承を元に、骸骨を操って襲わせる。その中には阿七の遺体もあって――という草案がありました。
が、やったが最後紅魔館の終焉待ったなしになるというか、もう何がどうなっても阿礼狂い入ったノッブに殺さない理由なくなるなという考えでお蔵入りに。

ともあれこんな感じで幻想郷縁起の取材が始まります。楽しみにしてくださると幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天狗のお誘い

 最近、何かと忙しいと信綱は思う。

 阿弥の編纂が始まり、彼女が求める資料を探して人里を駆けずり回ることもあるが、あれは別だ。御阿礼の子のために動くことで疲労を感じるなど火継の名折れ。むしろあれが休暇と言っても良い。

 それとは別に火継の当主として、最近は里の運営に安全面を考えた意見を求められたり、活発になりつつある妖怪の対処などに追われる日々を過ごしていた。

 それもこれも英雄として名を上げてしまったことの弊害であり、信綱の築き上げた名声にあやかろうとする連中が増えてきたのが原因だ。

 

 無論、阿弥の側仕えはおろそかにしない。彼女の世話をする用事があれば、他の用は全て断るか他の火継にやらせている。

 他の火継は愛想がないだの、こっちのことをまるで考えていないだのの苦情が来るのが欠点だが、むしろ情も一定以上重んじる信綱が例外なのだと理解して欲しい。

 それにこうして適度に不評も流れれば、いずれ英雄としての名声も落ち着くだろうという思惑もあったため、信綱は止めることなく火継の人間を使っていた。

 それでも信綱には休みが増えることもなくおまけに――

 

「はぁい、おじさま。ご機嫌いかが?」

「最悪だ」

 

 こうして人の事情など全く考えない妖怪どもがやってくるのだ。休める暇などありはしない。

 信綱は人里に入る門の前でレミリアの前に仁王立ちする。

 もはや後ろの門番はレミリアに慣れてしまったのか、あ、来たんだー、ぐらいにしか思っていない。そこ、親しそうに手を振るな。

 腹の奥から零れるため息をこれ見よがしに吐きながら、信綱は最低限の確認を始める。

 

「美鈴はどうした」

「今日は連れて来てないわ。あら、あの子を気に入ってるの?」

「……お前よりはな」

 

 割りと同情していたりもする。こんな主を持ってしまったことと、御阿礼の子のために戦う自分の前に立ちはだかったのが彼女の不運だ。

 自分の行いを謝罪するつもりはないが、彼女に今でも残る苦手意識を植え付けてしまったことには思うところがほんの少しだけあった。

 ちょっと距離は取られるが、話しかければ普通に答えてくれる――実に真っ当な対応をしてくれるのも信綱的に嬉しいことだった。

 自分の周囲には人の話を聞かない輩が多くて困る。類は友を呼ぶという言葉が脳裏をよぎるが無視。

 

「あれはダメよ。美鈴は私のものだから」

「別に奪おうとは思っていない。お前とは違う」

「守るのも奪うのも大差ないわよ。おじさまは守って、私は奪う。大切なモノは手元に置いておきたいでしょう?」

「……ふん、人の大切なものに手を出すのはただの盗人だ」

「手厳しい。でもそういう姿、私は綺麗だと思うわよ?」

 

 楽しそうにこちらを見るレミリアに舌打ちを一つ。彼女の価値観は独善と独尊に基づいているのだが、そこに吸血鬼としての誇りが混ざると読みにくくなる。

 

「私は私で唯一無二だけれど、他の価値を認めないわけじゃない。手が届かないからこそ輝くものがあるってことも理解しているつもりよ」

「……ふん、行くぞ」

 

 信綱はレミリアの言葉に反応を返さず、歩き出す。

 手に入らないから美しいものがある。その言葉に同意してしまったなど、認めたくなかったのだ。

 自分たちが御阿礼の子に全てを捧げても見返りを求めないように。あの方たちはあるがままにあるのが最も美しいと理解しているが故に。

 レミリアもまた、信綱はただ御阿礼の子に狂っている姿こそ最も美しいと思っているのだろう。

 

 そこまでわかっていても、彼女の言葉に同意するのは嫌だったので何も言わずに足を動かす。

 日傘を差した小さな影が後ろをついてくるのを確認して、信綱は人里の門へ足を踏み入れる。

 

「あら、外周を回るのはおしまい?」

「……気まぐれだ」

「ふぅん。あ、門番もお仕事頑張ってねー」

「おう、お嬢ちゃんも英雄様怒らせないようにな! ほれ、飴ちゃん」

「わーい、ありがとー!」

「…………」

 

 門番二人の呑気さに苛立ちを覚える信綱だった。

 美鈴と言い、門番は気楽な性根でなきゃ務まらないのだろうか。

 もごもごと口の中で飴を転がして顔を綻ばせるレミリアの姿に、先ほどまでの全てを見透かすような感覚はない。

 大物なのか、ただ単に子供なのか、今でも判別ができない姿に目まいすら覚えてしまう。

 

 そうして人里の中を練り歩き、一直線に火継の屋敷に向かっていく。

 

「殿方の家に連れ込まれるなんて、これは期待しちゃって良いのかしら」

「寝言は寝て言え」

「冗談よ。私に傅くあなたとか何の価値もないじゃない」

「それには同意してやる。こっちだ」

 

 自室に向かう。最近は妖怪が来ることも増えてきて、妖怪屋敷と呼ばれる日も遠くないのではないかと不安に思いながらも、襖を開いてレミリアを案内する。

 紅魔館のように外来のものなど何一つない部屋に、レミリアは面白そうにキョロキョロと顔を動かす。

 

「ふむ……こういうのを日本ではワビサビ、と言うのかしら」

「そう大した部屋でもないぞ」

「畳があればワビサビがあるんじゃないの!?」

「その理屈だと家の大半に侘び寂びがあることになるだろう」

 

 外来の妖怪だからか、レミリアの知識は妙な偏りや間違いがある。

 幻想郷に来てからは洋食に触れる機会が激減しているため、食生活が和食となりつつあるとは美鈴の言。

 閑話休題。

 

 ともあれ、信綱はレミリアに座椅子を促して自分も適当な座布団に胡座をかく。

 レミリアは興味深そうに掛け軸や飾られる生け花などを見回していた。

 

「ふぅん……これも一つの雰囲気ってやつかしら。面白いわね」

「あんまりジロジロ見るな。私物もある」

「私物!? どこにどこに!?」

 

 顔をキラキラ輝かせるレミリアに、失言したと信綱は渋面を作る。

 それに隠しているものでもない。顎でレミリアの見ている方向の反対を示す。

 毎日手入れしていることが一目でわかる花の硝子細工と、その横にちょこんと置かれているかんざしと色石がレミリアの目に留まる。

 

「花の硝子細工には触れるな。それ以外は触ってもいいぞ」

「ガラス細工に髪飾りの一種。あと……宝石、じゃないわね。これは?」

「ただの色石だ」

「ああ、なんとなくわかるわ。出かけた先でこういうの見つけると嬉しくて持って帰りたくなるわよね」

「お前と一緒にするな。貰い物だ」

 

 もらいもの? と首を傾げながらレミリアは色石を手に取って眺める。

 部屋に入る日光程度なら問題ないのか、光に透かして見たりと興味津々の様子が伺えた。

 

「こういうキラキラしているだけ、というのも美しさを感じるものね。技巧の粋を凝らしたものよりも、ただ自然が生み出した単純なものに惹かれる時があるのはどうしてかしら」

「……やらんぞ」

 

 阿七より受け取った硝子細工と比べたら扱いに差はあるが、それでも橙からもらったもの。誰かに渡すつもりはなかった。

 レミリアはただの色石に執着を見せる信綱を面白そうに見て、元あった場所に色石を戻す。

 

「美術的価値も資産的価値も何もない、子供が戯れに拾ってそうな石に執着を示す。……結構大切な人からのものかしら?」

「……そんなはずあるか。腐れ縁に押し付けられたものだ」

 

 橙は友人であると認めるが、大切な友人だとまでは未だ思いたくない信綱だった。妙なところで意固地である。

 が、それを聞いたレミリアは我が意を得たりと口元に笑みが広がっていく。

 

「あら、じゃあ今度私からの贈り物も受け取ってくださる?」

「なぜだ」

「腐れ縁に押し付けられたものを、今まで大切に飾っているんだもの。受け取ったら無下にはしない、違う?」

「…………」

 

 今日は押されっぱなしである。信綱は降参したように両手を上げ、機嫌良く笑うレミリアを見てしかめっ面になることしかできなかった。

 

「……そこに置けるぐらいのものなら考えてやる」

「考えておくわ。大事にしてもらえるものを。瓶詰めの私の血なんてどうかしら?」

「埋めるぞ」

「ああん、手厳しい。――で、わざわざ自室にまで招いた理由をお聞かせ願いたいわね」

「気まぐれだと言っただろう」

「ウソ。おじさまはその辺の手抜きはしない。それぐらいはわかるつもりよ」

 

 舌打ちを一つ。どうにも流れが相手に向いている。あまり話を長引かせずに進めた方が失言も減りそうだ。

 

「……幻想郷縁起に必要な資料はお前だけじゃない」

「道理ね。それで?」

「次は妖怪の山、その中の天狗の領域を考えているんだが……不安がある」

 

 いつだったか椛の言っていた妖怪の畏れを得るために決死隊云々、という話である。

 あれから霧の異変が起こって、妖怪への畏れもある程度は回復した。

 しかしそれでかつての栄光を取り戻せるかと言われれば否。射命丸を通して天狗の情報が得られるようになった今でも、信綱の懸念は消えていなかった。

 

「遠からず向かう。俺と阿弥様で、だ。……その時の人里を狙われたらどうしようもない」

「博麗の巫女じゃダメなの?」

「想像の域を出ないし確たる証拠もない。妄想と一蹴されても文句は言えない内容で幻想郷の調停者は動かせん」

「それで私に。……ふふふ、吸血鬼を顎で使おうとする人間は初めてよ」

「人里に常駐しろとは言わん。が、俺たちがいない時に注意を向けるくらいはして欲しい。できるか」

「それができないなんて言ったら、私は子供のお使いすらできない吸血鬼になるわね。良いわよ、受けましょう。吸血鬼の誇りに懸けて」

 

 念には念を入れる程度の内容のため、そこまで意気込まれても困ってしまう。

 何事もなければそれに越したことはないので、レミリアの出番は来ない方が望ましい。

 

「頼んだ。……あともう一つ。こっちが本命だ」

「人里の話?」

 

 頷くと、レミリアになんだか憐れなものを見るような目で見られる。

 

「私が言えたセリフじゃないけど、幻想郷の人里って大変なのね……吸血鬼に天狗に、まだあるの?」

「だからあるもの使ってどうにかしようとしているんだよ」

 

 本当に全く。こんな仕事をしなければならないのも全部妖怪のせいである。

 平和な幻想郷で御阿礼の子の側にいたいだけだというのに。

 地位や権力、武力があって困ることはない、というのは間違いのないことだが、時に目立ちすぎる力は本人の望まない面倒を呼び込むこともあると、現在進行形で思い知らされている信綱だった。

 

「鬼を知っているか?」

「東洋で有名な妖怪でしょ。聞いたことくらいはあるわ。なに、いるの? この幻想郷に?」

 

 信じられないとでも言わんばかりの顔だった。

 

「……多分な。俺も最近まで実在するとは思ってなかった」

 

 幻想郷縁起には人間に失望し、どこかへ消えていったとしか書いてなかったのだ。

 確かにあの文面なら隠れ住んでいる可能性も否定できなかったが、よもや地底に住んでいるとは夢にも思わなかった。

 

「……へぇ?」

 

 レミリアの声が低くなる。人里の門番と話す少女の無邪気な声音ではなく、吸血鬼としての声だ。

 

「どこにいるのよ?」

「地底。入り口は以前妖怪の山で見つけた」

「それで? 私にそこへ特攻仕掛けろってわけでもないでしょう?」

「誰がそんな危険な真似するか」

 

 レミリアが危ないという意味ではなく、彼女が向こう側に付く危険性である。

 この吸血鬼のしぶとさは自分が身を持って知っている。死地に放り込むのにこれほど適した人材もいないが、性格面が少々読みにくいのが難点だ。

 しかしレミリアはそう受け取らなかったようで、頬に手を当ててきゃあきゃあと身をよじる。

 

「やだ、いつの間にか好感度上がってた……? これは私の時代が来た!」

「気色悪いからやめろ」

「期待が一秒で砕かれた! だけど私になびいてたら価値無しと判断して殺してたわ!」

 

 これだから妖怪は面倒くさい。信綱はこめかみを指で押さえて頭痛に耐えながら、話を元に戻す。

 

「その鬼たちが地上を攻めてくる可能性がある」

「今さら? 一度は逃げて、おめおめと地底に引きこもっていれば良いのに、今になって?」

「…………」

 

 原因として一番有り得そうなのはお前なんだよ、とは言わないでおく。責任の所在がハッキリしたところで一文の得にもならない。

 

「可能性がある程度の話だ。何事もなければそれに越したことはない。……だが、人里の防衛を任されている者として、万が一は考えなければならない」

「大変ねえ、色々と考えることが多くて」

「お前はどうなんだ」

「部下が優秀なものですから」

 

 妬ましさに殺意が湧きそうになるのを堪える。優秀な部下など喉から手が出るほど欲しい。できれば自分と同じくらいに強い人が。

 

「とにかく、天狗の動向の監視と場合によっては人里の防衛。それと……鬼が攻めてきた時の戦力。確約できるか」

「約束しましょう。ええ、東洋の鬼と戦えるなんて心躍るじゃない」

 

 即答された。愛おしいものを見るように信綱へ手を伸ばし、頬を撫でていく。

 

「さすがは私が認めた人。やはり私の目に狂いはなかった」

「どういう意味だ」

「あなたの近くにいれば、暇潰しには事欠かないということよ」

 

 霧の異変。天狗の暴走。百鬼夜行。どれもまともに機能したら人里の機能が壊滅しかねない異変だ。

 博麗の巫女は異変であると認識するまで動かず、未然に防ぐにはツテも力もある信綱が知恵を振り絞るしかない。

 それを娯楽程度にしか思われていないことに苛立ちはあるが、彼女の協力は不可欠。信綱は言いたいことを飲み込んで頷いた。

 

「もちろん、やるからには全力を尽くすわ。認めた人間の頼みごと一つ満足にこなせないようでは、吸血鬼の名折れですもの」

「……なら良いが」

「難しい話はおしまい? だったら私に構ってほしいわ。今日はそんな話を聞きに来たわけじゃないもの」

 

 しかめっ面で考え事をしている信綱の膝の上に、レミリアの小さな身体が座ってくる。

 大人の信綱の膝にすっぽり嵌ってしまう小さな身体だが、この細腕には信綱を容易に引き裂ける膂力があるのだ。微笑ましい気持ちなど微塵も起こらない。

 

「邪魔だ鬱陶しい」

「ちょっとぐらい良いじゃない、減るものでもなし」

「阿弥様が座る場所だ。百年早い」

 

 自室で話し相手になっている時など、阿弥はよく信綱の膝の上に座りたがる。

 まだまだ甘えたい年頃なのだろう。彼女が笑ってくれるならと受け入れていた。

 そのため信綱は取り付く島もなく断っているのだが――

 

「ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」

「お前は俺の膝にどんな価値を見出しているんだ……」

 

 しつこい。拒絶を通り越して呆れてしまう。

 ため息をついて信綱は口を開いた。

 

「……少しだけだぞ」

「やった、おじさま大好き」

「その声音をやめろ。吐き気がする」

「可愛く言ったのに!?」

 

 だから気持ち悪いのだ。信綱は自身の膝の上で話をねだってくるレミリアに、どう答えたものか頭を悩ませるのであった。

 

 

 

 

 

 天狗との対話をするにあたって、人里から提示された条件が一つあった。

 場所を人里の外にすること、である。

 烏天狗などという幻想郷において極めて強力な妖怪を、人里に入れたくはないというとてもわかりやすい理由からだ。

 

 他にも火継の家に入っていく妖怪の姿を見られた場合、英雄への信頼は容易く不信へと変わる。それを避けるためのものでもある。

 とにもかくにも、こういった理由で信綱は文との会合場所には、すでに使われなくなった人里外の廃屋を使っていた。

 

 人里が今のような人間の集落としての機能を持つ前、他の場所にも住もうとしていた時代がある。

 恐らく、そうして人間の生息圏を広げることで妖怪に対抗しようとしたのだろう。

 実態は失敗に終わってしまい、その名残が廃屋という形で幻想郷の各地に残っているだけなのだが、手付かずになっていることが功を奏して今でも普通に使用可能な家がある。

 

 具体例として有名なのは魔法の森にある家だろうか。店でも営めそうな大きいものから、一人暮らしするには丁度良い小さなものまで、魔法の森でキノコを採取する人間は休憩所として使用することもある。

 

 さて、信綱が使用しているのもそうして見つけた廃屋に手を入れて使えるようにしたものであり、個人的にも結構気に入っている場所なのだ。

 ――妖怪と会うために作られた場所でさえなければ。

 

「さてさて! 本日はどのようなお話をしましょうか!」

「……はぁ」

「人の顔を見るなりため息は傷つきますよー?」

 

 口ではそう言うものの、文の顔にはへらへらとした笑みが浮かぶばかり。全く堪えていないのは明らかだ。

 

「今日はなんの用だ。お前の話はもう聞かんぞ」

「あやや、警戒してらっしゃる。今日は天魔様からのお話もありますから大丈夫ですよぉ」

 

 この射命丸文という烏天狗、仕事にかこつけて私的な興味を満たすことにも貪欲らしく、天魔からの言伝はそこそこにしてさっさと自分のために動くことも多い。

 それで仕事はきっちりこなし、なおかつ信綱が入れる探りにも反応しないのだから、憎らしいほどに優秀な烏天狗である。

 多少奔放な部分があるとはいえ、優秀な部下が持てて羨ましい限りである。レミリアと言い天魔と言い、組織の頭は良い部下に恵まれるのか。こっちにも一人寄越せ。

 

「で、話とは」

「まあまずはそちらからどうぞ。最近ですと、八代目の子が縁起の取材を開始したとか」

「どこで知った?」

「風のうわさってやつですよ」

「風を操る天狗が風のうわさを語るか」

 

 皮肉を言うが、全く悪びれた様子もない。別に隠していることでもないので知られることに問題はないが、天狗の情報源がわからないことに一抹の不安を覚える信綱だった。

 しかしそれを顔に出すことなく、信綱はまずここに来た用件を果たすことにした。

 

「その縁起の取材が目的だ。近いうちにそちらに向かう」

「ふむふむ、先代の頃は天狗の領域でもごく浅い場所でした。どういった感じにするおつもりで?」

「……深入りせず、互いを刺激しない程度に済ませられるならそうしたい」

 

 妖怪の山は深く、広い。半ば庭のようなものである信綱でも、歩き慣れた領域はごくわずか。

 そこに阿弥を連れて行くのだ。無理などできるはずもない。

 最悪、椛や河童辺りに頼んで終わらせる可能性も考えていた。妖怪対策の本としてそれで良いのかとは思うが、それでも阿弥の安全が最優先である。

 第一、真っ当に生きていれば山の頂点にいるような烏天狗と話す機会など一生来ない。それならまだ麓付近を根城にしている妖怪を調べた方が、実用性があると言うものだ。

 

「ほうほう。つまり私たち烏天狗にはあまり関わりたくない、と?」

「……そうさせてくれない事情でもあるのか」

「あやや、さすがに鋭い! もうお気づきですか」

 

 本当に良く回る口だ、と信綱は内心で辟易する。

 これ見よがしに取材のことを深く聞いてくるのだ。何かしらあります聞いて下さいと言っているようなものである。

 文は大げさに驚いた格好をして、気のない褒め言葉で信綱を称える。

 

「ええ、まあ。天魔様から受けた言葉もそれに関わることでして。曰く、そろそろ幻想郷縁起を書き始める頃合いだろうと」

「それがどうした」

 

 

 

 ――私たちの里、来ませんか?

 

 

 

 文の口から出た言葉を予測していなかったとは言わない。あれだけ仄めかされたのだ。想定しない方がおかしい。

 しかし、想定していたからと言って驚かないかと言われればそれもまた別であり――信綱は目を見開いて楽しげな文を見つめる。

 

「私と天魔様はあなたを非常に高く評価しています。ですので、これを機に一度顔を合わせたいと天魔様が仰っておりまして」

「…………」

 

 裏がある。それは確信が持てた。

 おまけに天狗の里と来たら土地勘のない上、山の頂上にある以上何か揉め事が起こった場合に逃げる場所すら確保できない。

 万一何かあったら危険に過ぎる。それが信綱の率直な感想だった。

 

「断る。阿弥様をそのような場所に向かわせられない」

「送り迎えは私が行います。さすがに子供を連れて山を登って来いなんて言いませんよ」

「それ以前の問題だ。阿弥様に万に一つが起こってみろ。お前たちを一人残らず鏖殺するぞ」

「おお、怖い怖い。……いえ、本当に怖いですからその顔やめてください!? 護衛を付けますから! 本当にお話したいだけなんですって!」

 

 そこまで譲歩されると無視もできない。

 椛も言っていたように、いつ暴走されるのかわからない状態だ。ならばあえて懐に潜り込んで融和の方向を探ってみるのも一つの手であることは確か。

 

「……俺一人では無理か?」

「我々のことを知るのであれば、書籍の形にまとめるのが一番手っ取り早いのでは? あなた方は私たちのことが知りたい。私たちはあなた方のことを知りたい。悪い話ではないと思いますよ?」

 

 だから面倒なのだと信綱は眉根を寄せる。一見すると確かに悪い話ではない。

 しかしどうにもきな臭い。裏があるのは確実と言っても良いし、何よりどんな面倒があるのか予想ができない。

 予想ができないということは対策も立てづらいということであり、何かあった時頼れるのは自分の腕だけになってしまう。

 腕に自信がないとは言わない。だが過信もしていない。まだ(・・)天狗の里などという一大勢力を相手取れるほどの技量はない。

 

「……阿弥様に確認を取る。その上で日時はこちらが指定。護衛にはお前が付く。この条件を飲めるなら」

「ええ、了解しました。では詳しい日取りは後ほど」

 

 多少吹っかけた条件にしたつもりなのだが、あっさり飲まれてしまう。

 これを向こうの本気具合と受け取るべきか、それともただ単に彼女らの掌で踊らされているのか、判断がつかない信綱。

 だがもう賽は投げられた。引っ込めることはできず、天狗の里で何が起ころうと今ある手札でどうにかするしかないのだ。

 

「……わかった。ではまた後で」

「ええ、ええ。色よい返事を期待していますよ?」

 

 そう言ってニンマリと笑ったまま文は飛び去ってしまう。

 その背中を目で追いかけ、信綱はため息を吐く。

 

「……何事もなければそれでいいが」

 

 やることは山積みだ。できる備えをして、人里の安全と阿弥の安全は確保しなければ。

 信綱は自分の背中に乗っているものの重さを実感し、もう一度大きなため息をつくのであった。




次の修羅場……もといイベントだ頑張れノッブ。
ここからはイベントが連続していくので、時間の経過も緩やかになります。

なぁに、死んだら英雄の死で人里の気勢が落ち込みまくって、レミリアが人里を守る理由がなくなって、天狗の歯止めも効かなくなって、そんなこと知らねえと鬼がやってくるだけだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

椛と河童

 信綱は椛と会う場所に訪れていた。

 天狗の里に向かう日時も決まってしまった。ならば信綱は御阿礼の子に仕える者として、考えうる脅威とその対策を取って万全の態勢を整える義務がある。

 

「最近はよく来ますね。私に会いたくなったとか?」

「ここに来る理由など一つしかない」

「ふむ、何か用事でも?」

「頼みがある。何も言わずに受けて欲しい」

「良いですよ。どんなお願いですか?」

 

 全く逡巡せず引き受けてくれたことに少々驚く。

 狼狽する信綱の様子がおかしかったのか、くすくす笑いながら椛は理由を説明する。

 

「君は無理難題は言いませんから。一番危険な部分は自分でやる、でしょう?」

「……俺が渦中になるんだ。仕方ないだろう」

「あはは、それもまた宿命ですよ」

 

 そんな宿命願い下げである。

 信綱は最近増えている傾向にあるため息をついてから、椛に事の経緯を話す。

 

「――と、この日に俺と阿弥様が天狗の里に赴く」

「それは凄い。ここ数百年はなかった話ですよ。確か……先々代の頃に一度あったきりです」

「よく知っているな」

「あ、他言無用でお願いします。事件がありましたから」

「詳しく話せ」

「話します! 話しますからすぐ剣を抜くのはやめてください!? というか抜き手が見えないって何!?」

 

 聞き捨てならない言葉があった。事件があったってなんだ、初耳だぞ。

 下手に無視しては死活問題に直結しかねないと判断し、多少脅す形で聞き出すことにする。

 

「実は……数百年ほど前にも一度、御阿礼の子と人間が天狗の里に来たことがあるんですよ」

「続けろ」

「どういった経緯かまでは知りませんが、御阿礼の子を侮った大天狗が片翼を人間に斬られ、逃げられるという事件がありまして……」

「…………」

 

 絶句してしまう。あの烏天狗、そんな過去が昔にあったとか聞いてない。

 

「……その天狗、生きているのか」

「まあ、はい。支配派……人里を襲って支配してしまおうって派閥の筆頭です」

「あの烏め……」

 

 焼き鳥にしてくれようかと怒りを募らせた信綱に、椛は慌てて注釈を入れてきた。

 

「いや、責めるのはお門違いですよ。これ、他言無用の内容で知っているのは大天狗以上が数人だけですから」

「……なんでお前が知っているんだ?」

「私の能力、知っているでしょう?」

「生まれて初めてお前を尊敬しそうだ」

 

 椛の背中から後光が見えそうだった。

 優秀な部下もおらず、一人でひいひいやっていると思ったところにこれだ。地獄に仏とはこのことか。

 信綱からそんな目で見られることに椛は照れくさそうに笑って頭をかく。

 

「まあ目には自信ありますからね私。でも天魔様がおられるなら大丈夫でしょう。あの方は鬼が山を去ってから我々天狗を導いて下さったお方です」

「ふぅん……」

 

 椛の目から見ても天魔は傑物らしい。

 これからそれと話をしに行くと考えると憂鬱である。

 表向きは幻想郷縁起の取材であるため、阿弥の負担が怖い。

 あの細い双肩にどれだけの重荷を背負わせたいのか、と信綱は彼女の苦しみを肩代わりしてやれないことを苦しく思う。

 阿弥が恐れるような素振りを見せたら、自分が前に出ようと決意する信綱だった。

 

「お前の目を見込んで頼みがある」

「さっきの話に絡んできます?」

「ああ。……俺が天狗の里に向かう日、お前には天狗の里を見ていて欲しい」

「はぁ、それでどうしろと?」

「それだけだ。礼はする」

 

 それだけ? と首を傾げる椛に信綱は頭を下げる。

 これは彼女にしか頼めないが、同時に下手に関わらせると椛の天狗内での立場を崩しかねない。

 というより、万一自分たちが天狗の里で襲われる事態になったら彼女しか頼れる存在がいないのだ。

 そしてその状況の信綱たちの味方をすることは、天狗を裏切ることに等しい。

 なので決断は彼女に委ねることにした。御阿礼の子が危ない時は問答無用で巻き込むが。

 

「それぐらいなら良いですけど、何か目的があるんですよね?」

「……ま、転ばぬ先の杖というやつだ。使わないに越したことはない」

 

 天狗の里に赴いた信綱たちを見る。そして転ばぬ先の杖。

 椛の頭に想像できるのは一つしかなかった。

 

「天狗の里とやり合う公算があるとかやめてくださいよ? 本当に。身内は敵に回したくないですし」

「……は?」

 

 ギョッと目を見開いて椛を見る。今なんと言ったのだ、この白狼天狗は。

 椛は何か変なことでも言いましたか? というようなきょとんとした顔で見るばかり。

 これは確かめねばならない。信綱は自分の都合以外にも彼女が心配になってしまい、声をかける。

 

「……お前、もし俺が天狗と事を構えたらどうするつもりだ」

「え? そりゃ時と場合によりますよ。でも……君は御阿礼の子が傷つけられでもしない限り、自分から喧嘩は売りませんから。

 そういう信頼も含めて、多分君の味方になります」

「…………物好きな天狗だ」

「でも信頼している。違いますか?」

 

 確信を持っている椛の笑みに上手い言葉が見つからず、信綱はごまかすように顔をそらして舌打ちする。

 無論、椛の笑みがますます深まるだけの結果に終わってしまう。

 

「じゃあお礼を今すぐ払ってもらいましょうか。何もなかった後になってウヤムヤにされても困りますし」

「ふむ、今すぐ用意できるもので良ければ」

「お時間は取らせませんよ。――私を信頼していると、言ってください」

 

 ぐ、と言葉に詰まる。いや、心の中では椛のことをとうに気の置けない友人だと思っていた。

 だからこそ友人だと言ったこともある。彼女が慌てている心の間隙に滑り込むように。

 しかしこうして面と向かって言うのは憚られた。

 良い大人になっても羞恥心というのは妙なところで発揮されるものである。

 

「む……」

「いやあ、君って私が思わず聞き流しちゃうところでそういうのを言ってきますよね。ですからこの機会にちゃんと言ってもらおうかと」

「……他の願いはダメか?」

「私のことを名前で呼ぶのとどっちが良いですか?」

 

 進退窮まった。諦めるしかないようだ。

 静かに微笑み、しかし尻尾がブンブンと揺れている椛の姿を見て、信綱も腹をくくることにした。

 

 

 

「――友人として、お前を信頼している。俺が背中を預けても良いと思える妖怪はお前だけだ」

 

 

 

 椛のことを信頼しているのは間違いないのだ。それこそ博麗の巫女以上に。

 御阿礼の子が自分の全てで庇護する対象であるとするなら、椛はそんな信綱の背中を任せられる存在だ。

 そのことを伝えると椛は頬を赤らめる。

 

「い、いやあ、改めて言われると照れますね。君もずいぶん変わりました」

「そんなに変わったか」

「出会った頃に比べれば身も心も成長しましたよ。椿さんがいないのが本当に悔やまれます」

「……あいつには今みたいな姿は見せんよ」

 

 下手に優しさを見せてどうなるかは霧の異変の時に思い知った。

 最初で最後のあの戦い。あれが自分と椿の結末であって、もしもを考えるなら自分と出会わなければ良かったのだ。

 

「あはは、さらわれちゃいますからね。でも、天魔様から招かれて天狗の里に足を踏み入れるとは思ってませんでした。前代未聞ですよ」

「……昔と今は事情が違う。それだけだろう」

 

 昔はいがみ合って生きられた。少し昔は顔を合わせないで生きられた。

 今は――顔を合わせて今後を決めていく必要がある。

 

「あともう一つ聞きたいことがあった。これは前々から気になっていたことなんだが……」

「何ですか? あ、ちなみに私は君が本当に人間なのかをずいぶん昔から気にしてました」

「そんな決まりきったことを聞くな」

「ですよね妖怪首切りお化けですよね」

「…………」

 

 人をなんだと思っているのか。

 妖怪を殺すには、首を落とすのが最も効率が良いから狙っているだけである。

 いつになっても人を妖怪扱いする天狗だ。

 信綱は咳払いをして強引に話題を戻す。

 

「妖怪の山で勢力となっている妖怪だ。頂上付近に天狗がいるのは良いが、他の妖怪も集落を築いたりしているのか?」

「ああ、そんなことですか。ええ、いますよ。川沿いに河童が集落を作っています」

「ふむ……」

 

 感心したようにうなずくが、立てていた予測が当たったことに対する喜びが大きい。

 なんで今になって? という顔をしている椛に信綱は考えていることを説明していく。

 

「万一の逃走経路だ。行きは烏天狗が運んでくれるようだが、襲われた場合の帰りは考えておかねばなるまい」

「君も大変ですね本当に……」

「虎穴に入るんだ。注意しすぎることはない」

 

 阿弥を妖怪に殺されたとあっては、妖怪を一人残らず皆殺しにしてから自らも阿弥の後を追うだろう。

 信綱もそんなことにはなってほしくない。

 阿弥が死ぬのも、自分が死ぬのも人里に与える影響が大きすぎる。

 

 人里が妖怪の注目をかつてないほど集めながら、襲われることもなく平和に過ごせているのは自分という防波堤がいるからだ。

 信綱が死んだら、自分以外の人間に対して冷たいレミリアは人里を守らなくなる。

 八雲紫に貸したものもウヤムヤにされるだろう。そして天狗は人間に興味を失う。

 

 そうなった先に待っているのは今までどおりの飼われるだけの未来だ。

 それを甘受するつもりはないので、できる限りのことはしておきたいのだ。

 

「じゃあ河童の集落、行きます?」

「良いのか?」

「まあ哨戒天狗はいますけど、そこはごまかせますし」

「助かる」

 

 そう言って信綱は懐を探る。実はきゅうりは持ってきていたのだ。

 川沿いに河童の集落がある、という予想が外れた場合は自分の知り合いである河童にあげればよかった。

 どちらにせよ無駄になることはない。

 

 信綱は先導する椛の後に続いて、妖怪の山へと足を踏み入れていくのであった。

 

 

 

 

 

「私の友達を紹介します。さすがに集落に連れて行ったら騒ぎが隠せないですし」

「頼んだ」

 

 信綱は椛に連れられて妖怪の山の頂上にほど近い場所まで来ていた。

 頂上に近づくに連れて山の傾斜が急になり、人が歩くように整備されていない切り立った岩場が増えてくる。

 その岩場もよく見ると不自然に削られており、空を飛びやすいように調整されているのが見て取れた。

 そんな中、信綱は急な傾斜で叩きつけるような音を轟かせ、その身を砕いて飛沫を飛ばしている川の流れを横目に椛の後ろを歩く。

 

 なお道中は椛が空を飛んで信綱は走ってきたのだが、特に息を切らした様子もない。

 つくづく人間離れしている、と椛が本気で信綱の妖怪説を信じかけていることに信綱はまだ気づかない。

 

 しばらく歩き続けていると切り立った場所が減り始め、緩やかな流れが目立ってくる。

 緩急のついた段差が川の急な流れを形成しているようだ。河童は緩やかな場所に集落を作っているのだろう。

 

「ちなみに私の将棋仲間なんですよ。最近は君との勝負が刺激になって勝てるようになってきて、もう笑いが止まりません」

「それはどうでも良い。というか俺が相手で良かったのか……」

 

 椛との大将棋は鍛錬の合間を縫って続いていた。

 有り余る時間の大半を娯楽に費やした妖怪に勝てる道理もなく、勝率は良く見積もって二割程度だった。

 そんな下手くそな相手でも刺激になっていたのか、とむしろ椛の学習意欲に感心してしまう。

 ……それをもっと鍛錬の時に発揮して欲しいのだが。

 

 椛は信綱のじっとりとした視線に気づかないまま、川沿いに建てられている家に近づいていく。

 川の流れも叩きつける激しい場所から緩やかなものまである。河童の集落はそうした緩やかな流れの場所に作られていた。

 

「にとりー? 今大丈夫ー?」

「はいよー」

 

 扉を開いて出てきたのは青い髪を持つ河童の少女だ。

 家の中で作業でもしていたのか、上着をはだけた軽装になっており、油汚れで頬が黒ずんでいる。

 

「どうかしたの? この時間は哨戒している時間じゃない?」

「ちょっとね。紹介したい人がいて」

「紹介したい人ぉ? なんだい、改ま……って……」

 

 椛ににとりと呼ばれた少女の視線が信綱に向く。

 信綱は見慣れた友人に対して行うように、軽く手を上げて口を開いた。

 

「よう、久しぶり」

「なんで人間がこんなところ――モガッ!?」

「声が大きいわよ、にとり! ……待って。君、久しぶりって言った?」

「うむ。俺の知り合いだ、その河童」

 

 世間とは狭いものである。信綱の妖怪相手の繋がりの広さが異常とも言えるが。

 とはいえお互いに名前は知らなかった。

 人間、河童、そう呼び合ってたまに会う程度。

 信綱も最近は阿弥の側仕えに集中しており、あまり会っていなかった。

 

「まあ家に入ろう。あまり外にいるのを見られたくない」

「え、あ、は、はい……」

 

 我が物顔でにとりの家に入っていく信綱を椛は呆然と見送る。

 口元を押さえつけられたにとりが、その髪にも負けない勢いで顔を青くしているのに気づくまであと僅か。

 

 

 

 部屋の中は油の臭いが漂っており、嗅ぎ慣れない臭いに信綱は顔をしかめる。

 内装も木で作られたものが多い空間なのだが、部屋の隅には鉄製の何かが無造作に放り込まれており、何かをいじる作業場であることが伺えた。

 そして寝床であると思われる高い足の布団の側に、昔に信綱が手渡した釣り竿が立てかけられていた。

 

 そんな中で、信綱と椛はにとりが出したお茶を片手に話をしていた。

 

「まさか百年来の友人に殺されかけるとは思わなかったよ……」

「悪かったって言ってるじゃない。それより二人とも知り合いだったの?」

「阿弥様が生まれる前に知り合った。その時は名前を聞いてなかったが」

 

 特に興味も持っていなかった。

 釣りをしていたら向こうがやってくるから、無聊を慰めるために話し相手になっていたくらいだ。

 お互い人間と妖怪であることはわかっていたので、話す内容もそんなに突っ込んだ話にはならなかった。

 

「で、なに、人間? 私に会いに行く途中で天狗に捕まったとか?」

「誰がそんな真似するか。今日来た用件は……」

 

 信綱はうむ、と腕を組んで鷹揚にうなずき、口を開く。

 

「近々、お前に相当な迷惑をかけるかもしれんから、その時のための挨拶だ」

「なにそれ!? というか人間、あんた本当に何しでかしたのさ!?」

 

 懸念を潰すための挨拶回りみたいなものである。正直、特にこれと言って話す用事があるわけではない。

 

「ま、まあまあにとり、落ち着いて。ほら、君も事情は説明しないと不公平ですよ」

「……気は進まないが」

 

 ただの人間と妖怪としての時間も嫌いではなかったが、巻き込んでしまった以上仕方がない。

 信綱は自分がこのような行動をしなければならなくなった背景を話していく。

 その際、自分が阿礼狂いと呼ばれる人種であることは伏せて、阿弥の護衛というだけに留めておいた。

 にとりが信綱らを天狗に売る、という展開次第ではにとりも斬ることになる。

 その危険を語って協力してくれるほど、博愛精神に溢れてはいないだろう。

 

 嘘をつくことになるが――まあ、露見するのは最悪の時だけだ。そうなったらにとりも殺すから問題はない。

 

「――と、俺と阿弥様は天狗の里に招待されているわけだ」

「ははあ、人間も大変だねえ。普通に考えて生け贄みたいなものだよ?」

「だからこうして動いているんだ。罠にハメられて死ぬ、なんて冗談じゃない」

 

 並の烏天狗相手なら罠ごと食い破る自信があるのだが、文や大天狗まではわからない。

 

「いざという時は逃げ道に使う。匿ってくれと言うつもりはないが、邪魔はしないで欲しい」

「んー……人間、天狗の里に行くのに護衛になるくらいなんだし、それなりに強いの?」

「そこの白狼天狗ぐらいなら一方的に殺せるくらいには」

「本当よ。私が保証するわ」

「椛が言うなら間違いはないだろうけどさ……」

 

 言葉を濁す。さすがに友人の言葉であってもすぐに信じることは難しいようだ。

 

「集落にいられなくなるような迷惑をかけるつもりはない。ただ、切羽詰まった状況で邪魔だけはしないで欲しいということだ」

 

 邪魔をされてしまうと、信綱も彼女らを生かす道が取れなくなる。

 次にこの場所に来る時があるとしたら、それは天狗の里から逃げている時であって、その時に邪魔をしてくるということは阿弥を害するということだ。

 そうなったらもはや是非もない。信綱の剣は御阿礼の子の敵を排除するためにある以上、誰であろうと邪魔をしたら容赦はできない。

 

「……それぐらいなら良いけど」

「助かる。礼というわけではないが、ほら」

「お、きゅうり! 盟友、偉い! いいよいいよ、いくらでも迷惑かけてってよ!」

「…………」

 

 きゅうりをいくつか渡すだけでこの態度の変わりようである。

 信綱は一周回って心配になってしまう。この河童、いつか危ない人に騙されるんじゃないだろうか。

 そんなことを横にいた椛に言うと、こちらをジトッとした目で見ていることに気づく。

 

「どうした」

「いえ、現在進行形で危ない人が騙していると思うとにとりが不安で」

「どこにそんな危ない人がいる」

「君以外にいないでしょう!」

 

 それもそうだった。邪魔をしたら殺す、と考えている自分より危ない人などそうはおるまい。

 

「用事がそれだけって言うんならくつろいでってよ。椛が来るのも久しぶりだし、最近作った発明品を見せてあげよう!」

「発明品?」

「河童は手先が器用なのさ! 流れ着いてくる外来のものとかを弄るのが大好きでね」

「ふむ……」

 

 視線を部屋の隅にある存在に向ける。

 生まれも育ちも人里で、外来のものに触れる機会がほとんどなかった信綱にはそれが何の用途に使うのかわからない。

 

「無縁塚以外にも外来のものは流れ着くのか」

「そりゃそうさ。たまーに、ここいらにも流れ着いてくるものってのはあるよ。今だと……これかな」

 

 にとりが部屋の隅に置かれているがらくたから、何かを取り出して二人に見せる。

 鉄の筒が特徴的な長い棒だ。軽くはないのか、にとりも両手で扱っている。

 

「それは?」

「わかんないけど、多分ここから何か出せるんじゃない?」

「それでいいのか……」

「あはははは……私も何度か見物しましたけど、にとりたちはどうも絡繰をいじること自体が好きみたいで。あまり用途までは気にしないんですよ」

「何かを発射する装置、まではわかるんだけどねえ。何を発射するのか、そもそもどうやって発射するのか、その辺の仕組みまではわからないんだ」

 

 実に中途半端な理解であるが、それを弄ることで好奇心が満たされ、人間に害を与えないのだから文句を言う筋合いはない。

 それに外来のものが完璧な状態で来るとは限らない。

 にとりが持っているものも、どこかで破損したものが流れ着いただけなのだろう。

 

「むむむ、意外と驚かないね」

「壊れているものを見てどう驚けと」

「じゃあこいつはどうだい! これさえあれば誰が釣りをしても爆釣間違いなし! ミミズくん!」

 

 またもゴソゴソとがらくたを漁って信綱に見せてきたのは、うねうねと動くミミズ状の何かだ。

 

「うわ、ミミズ」

「元狼が驚くな。それによく見ろ、動きが規則的過ぎる。作り物だろう」

「芸術と言ってほしいね! 動力は全てこいつの中に入れてあるから、丸々三日は動き続ける! これなら盟友が釣りをするのも楽になると思って――」

「餌を取られたら不味くないか?」

「しまった使い捨ての観点を考えてなかった!?」

 

 ガクッと床に手をついて打ちひしがれるにとり。

 それを信綱はどう声をかけたものか困った顔で見つめる。

 職人気質と言うべきか、目的と手段が逆転していると言うべきか。

 

「……まあ、俺のために作られたのなら喜ばしい。お前さえ良ければ受け取るぞ」

「いいやダメだね! 私が完璧だと思えるものじゃないと! 待ってな盟友、次はもっと良いやつを作るよ!」

「そ、そうか。頑張ってくれ……」

 

 そしてまた手段と目的が逆転するのだろう。というか今でもしている感じがする。

 いずれにしても、釣りをしていた時に話した落ち着いた雰囲気とは別人のように情熱的だった。

 

「……今の姿が素、なのか」

「う、ま、まあ私も人間と話すのは貴重だったからね。猫被っていたかったんだよ」

「別に責めるつもりはない。ただそう思っただけだ」

「え、にとりが猫を被っている姿を知っているんですか? 面白そうですし、少し話してくれません?」

「椛!? 盟友も話さないでいいからね!」

「……そうだな。秘密ということにしておこう」

 

 この河童には少しばかり、若輩者である自分の愚痴を聞いてもらった恩がある。

 その恩を仇で返さない程度には、にとりに報いようと思う信綱だった。

 

「大体、そういう椛こそどうなのさ! 盟友の前では仕事口調で私には砕けた口調ってのもおかしい話じゃない?」

「わ、私? 私はほら……その、あれよ」

「ふむ、言われてみればお前が敬語を使わない姿はあまり見ないな」

 

 言葉を濁す椛に信綱も興味を惹かれる。

 確かに彼女の崩した言葉遣いを耳にしたことはあまりない。長い付き合いの中でも数えるほどである。

 

「そ、それはそのぅ……なんて言うか、照れくさくって」

「今さらだろう?」

「おや、結構長い付き合いですかい、お二方?」

「十にもならない頃からだ。稽古を付けてもらって、いつの間にか追い抜いていた」

「盟友は昔からぶっ飛んでいたんだねえ……」

 

 にとりのしみじみとした声が絶妙に信綱を馬鹿にしていた。

 照れをごまかすようにお茶を飲む椛を尻目に、にとりを軽く睨みつけると視線をそらされる。

 この河童、存外に毒を吐くかもしれない。友好的であることと、その範疇で好き勝手することは両立する。

 気を許さないとは言わないが、最低限の警戒はした方が良いだろう。

 

「まあ言葉遣いを強要するつもりはない。楽な方で良い」

「あ、はい。君は昔からその言葉遣いですよね。硬いというか、真面目というか」

「言葉には性格が出る。言い換えれば、言葉を取り繕っていればまともに見てもらえるということだ」

 

 レミリアと戦った時の言葉遣いをしていたら、あっという間に居場所がなくなってしまうだろう。

 人間が他者に悪印象を抱く切っ掛けなど、ほんの些細なことの時もあるのだ。

 根っこが隠し切れない狂人である以上、その他の部分で悪印象は買いたくない。それだけの話である。

 

「……疲れない? そういう打算まみれの生き方。私は好き勝手生きた方が良いと思うけどなあ」

「別に。すぐ慣れるし、打算だけで生きているわけでもない」

 

 少なくとも、用事が終わった後もこうして妖怪と茶を飲むのは彼自身の感情だ。

 本当に合理だけを重んじるなら、もうここにいる用はないのだから。

 そして信綱は椛がお茶を飲むのに集中している時を見て、あまり言わないことを口にした。

 

「それに長い付き合いのこいつもいる。恵まれている方だよ、俺は」

「ふぁ、熱っ!? ああもう、だから君は私が聞き流している時に限ってそういうのを言わないでください!?」

「ははは、断る」

「直す気ゼロですね本当に!」

 

 機嫌を損ねてしまった椛に信綱は困ったような笑みを浮かべる。

 こうして人間一人に妖怪が二人いると、少しばかりの懐かしさを覚えてしまう。

 まだ小さかった頃、椿と椛と三人で稽古をしていた頃だ。

 

 もう一人いた長い付き合いの妖怪は信綱自身の手で殺すことになってしまった。

 これを相容れなかった人妖の悲劇とするか、独り相撲をした妖怪の喜劇とするかは信綱の行動次第である。

 さて、一時とはいえ妖怪と人間が仲良く茶を飲む今の光景を、彼女は望んでいたのだろうか。

 

 もはや答えは得られず、信綱は信綱なりにやっていくことしかできない。

 御阿礼の子を最優先にしつつ、彼女を取り巻く環境も可能な限り良くしていく。

 幻想郷を良くする結果につながっても、それの延長線にすぎない。

 だが、それを成し遂げた暁には――

 

「また……こうして茶が飲めると良いな」

「……君がそんな風に言うのは珍しいですけど、同意します」

「人間とは盟友だからね! きゅうりさえ供えてくれれば大歓迎だよ!」

 

 御阿礼の子も一緒に、人も妖も関係なく共に茶を飲める。

 そんな世界になってくれることを信綱は願うのであった。




天狗の里に行く前の下準備フェイズ。転ばぬ先の杖を幾つも用意するノッブ。この他にも一度限りの切り札があったり。
もし行った先で御阿礼の子が死んだら? 天狗の里大炎上の後、妖怪全てに殺意を向けるノッブオルタ爆誕。妖怪は絶滅する! ……かもしれない。

もみもみに対してはかなりデレつつあります。背中を預けられる妖怪としては唯一無二で、彼女になら御阿礼の子を預けることも考えるでしょう。

次回からは天狗の里に行きます。穏健派と支配派、どちらの対立にも一石が投じられますね(爽やかな笑み)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天狗の里へ

 天狗の里に向かう当日、信綱は阿弥と共に人里の外を訪れていた。

 

「父さん、天狗が私たちを送ってくれるって本当?」

「ええ。私どもに歩いて来いとは言ってませんでしたよ」

「阿夢の時以来かあ……」

 

 信綱の手を握った阿弥はしみじみとつぶやく。

 

「覚えておいでですか?」

「私が忘れるはずないよ。それにあの時は……」

 

 何かを思い出す――否、思い出すのではなく、過去に手を伸ばすような目だった。

 信綱もその時代に起きた事件のことは知っているが、阿弥のように見た記憶までは持っていない。

 

 どのような事件だったのか。気にはなったが、聞いて良いのか躊躇ってしまう。

 彼女にそれを聞くということは、阿弥の記憶でなく阿夢の記録を見たいと言うようなもの。

 あまりにも阿弥を蔑ろにしてしまうのではないか。そう考えると、信綱は口を開けなかった。

 

「……父さんは」

「はい」

「父さんは、私に何かあっても無茶をしないでね?」

 

 すがるような目で阿弥に見られ、信綱は言葉に窮する。

 そして阿夢の時に何があったのかも薄々理解してしまう。

 阿弥がこのようなことを言うのなら、それはつまり――

 

「……阿夢様の代の我らは、もしかして」

「何とか戻っては来れたけど、そこで倒れて……」

 

 大天狗の片翼を斬り落とし、阿夢を連れて逃げ切り、そして死んだ。

 信綱の持つ情報とまとめるとこんなところだろう。

 阿礼狂いが御阿礼の子の心身、名誉を守るのは当然だが、そのまま死ぬとはなんと情けない。

 自分たちは御阿礼の子のために存在する一族。それが御阿礼の子を悲しませるなど、笑い話にもならない。

 

 沈んだ顔を見せる阿弥の頭に手を置いて、サラサラとした髪を優しく撫でる。

 

「ご安心ください。阿弥様にそのような思いなどさせません。私はあなたの剣ですが、同時にあなたの父でもあるのです。父が娘を置いて死ぬ道理などございません」

 

 不安に震える瞳を見て、優しく微笑む。

 ちなみに死ぬ気がないだけであって、阿弥が貶められたり危ない目にあったら躊躇なく剣を抜くつもりである。

 

「……ありがとう。えへへ、なんだか父さんに頼ってばかりね、私」

「悪いことではありません。子供が大人を頼るのは当然のことです」

 

 御阿礼の子が背負う重荷を少しでも軽くするために自分たちがいるのだ。頼ってもらえない火継こそ火継の名折れになってしまう。

 なので今の状況はむしろ願ったり叶ったりなのだ。

 

 二人は手を繋いで文との待ち合わせ場所に赴く。

 信綱と文が会合場所として使っている廃屋の前に立つと、上空から風を切る音が二人の耳に届く。

 

「わっ」

「あやややや! どーもどーも、清く正しい射命丸文でございます! そちらが御阿礼の子でしょうか?」

「――そうだ。稗田阿弥様だ」

 

 阿弥を風からかばい、現れた文の前に立つ。

 今回は縁起の取材でもあり、同時に対等な立場による交渉でもある。

 舐められないためにも気を張る必要があった。

 

「ほほう、まだお若いどころか子供ですか。とはいえ御阿礼の子、ちゃんと丁重にお出迎えいたしますよ」

「――初めまして、文様。信綱さんよりご紹介に預かりました、稗田阿弥と申します。本日はよろしくお願いします」

 

 風からかばった信綱の前に出て、阿弥が人里を代表する御阿礼の子として文に挨拶をする。

 

「あやや、ご丁寧にどうも。天魔様の使いで参りました、射命丸文と申します。この度はお二人の水先案内人を務めさせていただこうかと」

 

 そう言って文は信綱に視線を向ける。

 

「まだ言葉遣いはいつも通りで構いませんよ。あなたも私に敬語は使いたくないでしょう?」

「……阿弥様」

「向こうが良いと言っているのだから、お言葉に甘えても良いと思います」

 

 阿弥の許可を受けてから信綱は文に口を開く。

 

「では失礼して――俺たちを天狗の里に連れて行くとは言うが、どのようにして連れて行くつもりだ?」

「ああ、お伝えしていませんでしたね。私としたことが失礼しました」

「よく言う。大方、何も聞かれなければ黙っておくつもりだったのだろう」

「あやや、相変わらずお鋭い。私、そういう人は嫌いじゃないですよ?」

「黙れ処女」

「その言い方いい加減直してくれない!?」

 

 文と信綱のやり取りを阿弥はぽかんとした顔で見ている。

 阿弥と話す時は常に従者としての立場を崩さないため、こうして砕けた口調で話す彼が新鮮だったのだ。

 そんな阿弥の視線に気づいた信綱が彼女の方に振り返り、視線の高さを合わせる。

 

「阿弥様が気になるようでしたら、戻しますが」

「あ、ううん! 嫌とかそういうのじゃないの! ただ、父さ――信綱さんがそんな話し方をしている姿は、阿七の時にも見たことがなかったから」

「確かにそうですね。阿弥様の前が初めてかもしれません」

「そっか……私が初めてかあ……えへへ」

 

 阿弥は何やら噛み締めるようにつぶやき、口元を緩ませる。

 その理由に思い当たる点が見当たらず、信綱は首をかしげるが、後ろの文は微笑ましいものを見る目で二人を見ていた。

 

「あやや、お二人がそうしている姿を眺めるのも悪くないのですが、そろそろ話を戻しましょうか」

「そうだな。で、どうやって連れて行くんだ?」

「私がお二人をぐいっと……いや、冗談じゃないです本気です! だからその汚らわしい手で阿弥ちゃんに触れるなとでも言わんばかりの顔やめて!?」

「どうされます、阿弥様」

「……えと、信綱さんで」

 

 遠慮がちに袖を引かれ、屈んで阿弥の矮躯を抱き上げる。

 

「これでお前が俺の背中を持てば良いだろう。安全に頼むぞ。阿弥様に何かあったら……わかるな?」

「わかりました! わかったからその目は本当にやめて!? 怖い!」

「……父さん、どんな目で見てるの?」

「ははは、自分の目つきなど気にしたこともありませんので」

「うぅ、結構長い付き合いなのにまだ慣れない……」

 

 ちょっと触りたくないものに触るような手付きで文が信綱の背中を持ち上げる。

 さすがに烏天狗と言うべきか、少女一人を抱えた大の大人を苦もなく抱えて空に飛び上がる。

 

「きゃっ!?」

「阿弥様、ご安心ください。ほら、良い景色ですよ」

「無理ー!? 父さん助けてー!」

「大丈夫です。私がちゃんと支えてますから」

「高いところは苦手みたいですね。楽しめるようなら遊覧飛行も悪くなかったのですが、少し飛ばしますよ!」

 

 阿弥が信綱の胸にすがりついてくるが、信綱は全く動じた様子もなく景色を楽しむ。

 背中の文が速度を上げ、信綱の身体が揺らいでも阿弥に振動が行かないようにするなど、およそ恐怖というものを感じていないのではないかと思うほどの態度だ。

 

 乾いた大地の薄茶色と日を受けて輝く木々の緑。流水が岩に砕ける飛沫の白で構成された自然の絵画。

 およそ三色でしか構成されていないものだが、心を震わせる何かが存在した。

 

 人間で空を飛べる知り合いは巫女しかいない。彼女はこのような景色をいつも見ていたのだろうか、と思うと少々羨ましく思ってしまう。

 それに腕の中で怖がっている阿弥にも見てもらいたい。高所への恐怖など一瞬でなくなりそうな風景だ。

 

「阿弥様、少しだけでもご覧になりませんか? 壮観の一言です」

「ううー……落ちたりしない?」

「私の腕が信じられませんか?」

 

 信綱がそう言うと、腕の中にいる阿弥は信綱と目を合わせる。

 穏やかに阿弥を見つめる信綱を見て、自身の側仕えに寄せる信頼を思い出したのだろう。

 やがて意を決したように、ちらっと首を動かして地上を見下ろし――

 

「わぁ……!」

「良い景色でしょう?」

「すごいすごい! こんな景色、私以外の誰も見たことがない!!」

 

 怯えていた姿から一転して、阿弥は食い入るように瞳を輝かせて眼下の景色に圧倒される。

 信綱を抱えて空を飛ぶ文も阿弥の歳相応の姿に頬を緩ませ、茶化すように言う。

 

「あやや、これなら速度を上げなくても良いかもしれませんね。ゆっくり行きます?」

「はい! こんな楽しい体験、すぐに終わるのは勿体無いです!」

 

 先ほどまでの怖がりっぷりがウソのようだ。

 調子の良い言葉に文は笑い、信綱も阿弥が見せてくれた屈託のない笑顔に心が満たされるのを感じる。

 やはり御阿礼の子には笑っていて欲しい。

 そうしてしばしの遊覧飛行が終わり、再び徐々に高度を上げて天狗の里へ向かう途中、阿弥がふと信綱の顔を見上げる。

 

「――父さん」

「なんでしょう、阿弥様」

「父さんは私たちに知らないことを教えてくれる。阿七には家族を。私には父を。そして今もこんな素敵な光景を見せてくれた」

 

 阿弥の手が信綱の胴体に回る。背中まで回りきらず、脇腹で止まってしまうが、それでも阿弥は信綱を抱き締める。

 そして密やかに、文には聞こえない声量でそっとつぶやいた。

 

「ありがとう、私の大切な父さん」

「……身に余るお言葉です」

 

 天狗の里に到着するまでの時間、二人は微笑みを浮かべながら景色を堪能するのであった。

 

 

 

 

 

 天狗とは、空を飛べる妖怪である。烏天狗は言うまでもなく、白狼天狗もまた然り。そこに例外はない。

 だからこそ妖怪の山の頂上付近に里を作り、今日に至るまで暮らしている。

 そしてそこでは当然、地を歩く人間の配慮はなされておらず――

 

「ふむ……やはり様式が人里とは一線を画するな」

「うわ、凄い。崖と崖の合間に家が建ってる」

 

 空を飛び交う天狗が、崖と一体化するように建てられた家から家へと行き来する光景が阿弥と信綱、二人の目に入ってくる。

 手に買い物袋のようなものをぶら下げている辺り、ここは市場のようなものなのだろうと推測できた。

 

「ここで買い物が?」

「人里と大して変わりはありませんよ。取引をするのが河童というだけで、八百屋もありますし肉屋もあります」

「ではあの崖と一つになっているような家が店か?」

「その通りです。もう少し奥が深い家もありますよ。あまり天狗は住みたがりませんけど」

 

 文を見ると、困ったような顔で頭をかいていた。

 

「崖の中を繰り抜いた形の家なんですけど、やっぱり私たちは空を飛んでいたい種族でして、いまいち不評なんですよ」

「ここまで人妖の違いを見せつけられると、考えさせられるな……」

「父さん、とにかく紙に書いて書いて! この光景は宝の山だよ!」

「すでに書き記しました」

 

 信綱は全く違う妖怪と人間の文化に感心しきりだが、阿弥はこの光景の意義に興奮していた。

 歴代の御阿礼の子でもこの光景を見た者はいないのだろう。今代の幻想郷縁起は天狗の項目が充実するに違いない。

 

「さて、ちょっとした観光案内はこのくらいにして、ぼちぼちお屋敷に行きましょうか」

「これと似たような景色が続くのか?」

「さすがに居住区や大天狗様らの家はもっと広い場所にありますよ。山の頂上と言っても、崖しかないわけじゃありません。狭い場所を活用しようとしたらこうなっただけです」

 

 だったら広い場所に移れば良いと思うが、彼女らにこの頂上は譲れないのだろう。

 

「また私が抱えて行きましょうか?」

「阿弥様、どうされます」

「どうって……文様を頼らない方法があるの?」

「こう、私が抱えて跳躍すれば普通に」

 

 家が建てられるほどしっかりしているのだ。むしろ足場だらけで移動には不自由しない。

 岩の中を繰り抜いた家もあるというし、この空間内なら天狗だろうと翻弄できる自信があった。

 そんな意味を含ませて言ったら阿弥と文、双方に引かれた。解せぬ。

 

「父さん、人間は崖から崖に移動はできないのよ?」

「彼もこの飛行で感覚がおかしくなったんでしょうかね?」

「その羽根引きちぎるぞ貴様」

 

 文はともかく、阿弥がそう言うなら仕方がないと、信綱は再び阿弥を抱えて文に頂上付近へと連れて行ってもらう。

 次に降ろされた場所はどこか静謐な気配のする森の中で、降りた場所から良く均された道が続いていた。

 

「この先に我ら天狗の集会場があります。ちょっと歩きますがそこはご勘弁を」

「ふむ……阿弥様、私の側を離れぬよう」

「――はい。行きましょう、信綱さん」

「御意のままに」

 

 先ほどまでは文の目溢しもあって一人の少女としていられたが、ここからは御阿礼の子としての時間だ。

 信綱もそれにならい、静かに彼女の後ろに下がる。

 無論、警戒はこれまでの比ではない。幾つもの視線が自分たちを見ていることにも気づいていた。

 

「……ジロジロと見られるのは気分がよろしくありませんな」

「あはは、ご容赦ください。天狗も一枚岩ではないんですよ。お二人に興味津々な方もおられます」

「あまり良い意味ではないのでしょうね。信綱さん、我々も気を引き締めましょう」

 

 そういう阿弥だが、手が微かに震えている。

 きっと今にも信綱の袖を掴みたくてたまらないのだろう。

 それはそうだ。どこで誰が狙っているのかわからないような状況に、十にも満たない少女が放り込まれて平気なはずがない。

 

 さり気なく阿弥の後ろから隣に立ち位置を変える。

 物騒な気配も感じるのだ。阿弥をここに連れてきたのは間違いだったかと後悔しつつあるくらいだった。

 

 椛から得た話をまとめる限り、天狗の里では人間に対する見方が真っ二つに分かれているはず。

 過去に火継の人間に翼を斬られた大天狗が革新派の長を務めている――言い換えれば、対立する派閥もあるはずだ。恐らく正反対の穏健派とも言うべきものが。

 文、天魔の意向はわからないが、信綱と交流を持とうとした辺りそう悪くは見られていないはず。

 彼らも人間を支配すれば良いと考えるなら、信綱の脅威を野放しにせず暗殺するなり何なりしていただろう。

 

 だが革新派が派閥として存在する以上、自分たちを疎ましく思う天狗が一定数いるのも事実。

 護衛に文を付けているとはいえ、彼女もどこまで本気で自分たちを守ってくれるかは未知数な部分がある。

 あまり期待はできないだろう。下手に期待して裏切られるより、最初から戦力として数えない方がいくらか気楽だ。

 

(……椛に世話をかけるかもしれんな)

 

 無駄になれば良いと思いながらも、仕込んでおいた下準備が役立ちそうで泣けてくる。

 信綱は一瞬たりとも気を抜くことなく、文の案内する集会場へ阿弥とともに足を踏み入れるのであった。

 

「さて、ではここで天魔様が来るまでお待ちください。来たらお呼びしますので」

「わかりました。案内、ありがとうございます」

「いえいえ、個人的にはあなたも面白い子ですから、楽しめましたよ」

 

 慇懃に一礼して去っていく文を見送り、二人になった阿弥はほっと一息入れる。

 案内された部屋は応接間とも、休憩室とも言うべき一室だった。

 建物の中身はさすがに人里と大差ないようで、見慣れた畳張りの和室にどこか安心感を覚えてしまう。

 阿弥に座椅子を勧め、信綱は窓の外を一瞥してから阿弥の隣に控える。

 

「阿弥様、お体は大丈夫ですか?」

「阿七みたいに体が弱いわけじゃないけど……慣れない場所だから、少し疲れたかも」

「休まれたらよろしいかと。まだ天狗が集まっている気配もありません」

「ん……でも、誰か来たら……」

 

 阿弥は気を張っていようとしているが、視線が信綱の膝に向いて目がトロンとしてきている。

 

「その時は起こしますので、今しばらく休んでください。私が見ていますから」

「ん、ありがとう、信綱さん……」

「誰も居りませんから、好きに呼んでいただいて構いませんよ」

 

 信綱は阿弥に父と呼ばれることに慣れてしまった自分に、そっと忍び笑いを漏らす。

 阿弥は信綱の腿に頭を落とすと、コロリと身体を仰向けにして見下ろす信綱と目を合わせる。

 

「ん、阿七と同じ景色だ」

「……ゆっくりお休みください。あなたが起きるまで、私はずっとここにいますから」

 

 阿七も信綱の膝の上を好んでいた。そのことを思い出しながら、阿弥の目元を手で覆ってやる。

 くすぐったそうに身じろぎをするが、静かな寝息に変わっていくのはすぐだった。

 穏やかな笑みを浮かべて阿弥の髪を一撫でした後、信綱は険しい――妖怪と対峙する時と同じ表情になって廊下に通じる襖へ視線を向ける。

 

「そこの天狗、入ってくるなら静かに入って来い。阿弥様が眠っておられる」

「……嘘だろ。気配は消したつもりだったんだが」

 

 信綱の言葉に従い、静かに襖を開いて入ってきたのは若い男性の烏天狗だった。

 厳しい顔つきの信綱と違い、爽やかで精悍な顔立ち。今でこそ頬が引きつっているが、見るものに敵意を感じさせないその姿に、しかし信綱は一層の警戒を強めた。

 

(文が仕事をしなかったか……あるいは)

 

「天狗の首魁ともなれば、さすがに隠し切れない気配がある」

「……なんでそう思った?」

「護衛が離れた瞬間にやって来れるのは、護衛を命じた存在も選択肢に入るものだ」

「亡き者にしようとする間者や襲撃者は?」

「わざわざ阿弥様が眠るのを待ちはしないし、もっと狙いやすい時があった」

「……クックック、こりゃ予想以上だ。文のやつ、美味しい役目を持っていったな」

 

 信綱の対面に腰を下ろした天魔は、実に楽しいと言うような笑みを浮かべて信綱を見据える。

 姿そのものは文と同じ、若い青年の姿にしか見えない。信綱と並んで他人が見れば、彼の方が若く見えるくらいだ。

 だが、信綱はこの青年に八雲紫と同じ気配を感じ取る。

 彼もまた、天狗の山の首魁を務める怪物である、と。

 

「……なんの用だ」

「オレも公の場では取り繕うからな。妙な誤解を与える前に顔見せと、話でもちょっとしておこうと思ってな」

「阿弥様が眠る前で、か」

「御阿礼の子の使命は幻想郷縁起の編纂だ。そっちは後で体裁を整えてから話す。だが、お前さんとの交渉はあまり横槍を入れられたくない」

 

 確かに、信綱も阿弥に人里の運営に関わる話を聞かせたくなかった。

 彼女にとっては青天の霹靂だろうし、何より御阿礼の子も火継も人里や幻想郷の政治には深く関わらないように生きてきたのだ。力になれるとも思えない。

 英雄として名を馳せ、妖怪からも目をつけられている信綱が例外なのだ。

 ……ただ単に誰もやりたがらない火中の栗を拾わされているとも言うが。

 

「わかった。但し条件がある」

「なんだ?」

「……阿弥様がお休み中だ。声を静かに」

「……ああ、懐かしいねこれは」

 

 くつくつと楽しそうに――ちゃんと声は潜めて――笑う天魔。

 その様子を見ながら、信綱は片手で阿弥の頭をそっと撫でる。とても落ち着く。

 

「さて、オレはお前さんと一度話がしたかった。こうして会えて嬉しいよ」

「そうか。用件を言え」

「せっかちだねえ。とはいえ長話もできんし、簡潔に行くか。――お前さんはオレらにどうして欲しい?」

 

 天魔の言葉に少々考えこむ。信綱の脳裏に浮かぶのは、慧音や椿にレミリア、そして椛と言った人妖の在り方を考えたことのある存在の言葉。

 

 慧音は表面では受け入れているが、そこには妖怪の理不尽に対する怒りが押し殺されていた。

 椿はなかなか本心を明かさなかったが、あの戦いで触れた一端では古来より続いてきた、人と妖が戦う世界を望んでいた。

 レミリアは自らを高貴な吸血鬼として、人のことは有象無象と言いながらも無為に虐げることもないだろうと確信できる高潔さを伺わせた。

 椛は椿とは対照的に、もはや人妖の争う時代は終わったと言っていた。信綱と椿が殺し合ってしまった、今の幻想郷を嘆いていた。

 

 そして人と妖怪が争わなくて済む世界にしたいと願っていた。

 この中で信綱が最も共感でき、また同じ方向を向きたいと思わされたのは――

 

 

 

「――共存を。今までとは違う形で、人と妖怪が暮らせるようにしたい」

 

 

 

 あの日、涙を流しながら自分にすがってきた、椛以外にいないのだ。

 

「へぇ?」

「これまで通り不干渉を貫くのが一番無難だろう。だが、それではいつまで経っても何も変わらない」

 

 合理的に考えて不確実な選択だ。そんなことは信綱にもわかっている。

 少なくとも不干渉なら、表面的な問題は自分の代には噴出しないだろう。

 それでお茶を濁して後のことは後の世代に任せてしまうのが、信綱にとって一番面倒が少ないと思える道だ。

 

 

 

 ――だが、それだけではいけないことを信綱は阿七から教わっている。

 

 

 

 人妖の共存の形など、これまで行われてきた不干渉という在り方しか知らない。

 人も妖怪も交わる幻想郷の姿など、ひょっとしたら誰も想像できないのかもしれない。

 しかし、それでも誰かがやらなければならない。できなければ未来は先細るだけだ。

 

 そうなっては後世の御阿礼の子にも悪影響が出かねない。それに人間の脅威である妖怪を逆に味方に付けられるのなら――阿弥に振りかかる苦難を格段に減らすことにも繋がる。

 

 言い訳に近い屁理屈だが、敵を敵のままにするよりは味方に引き入れる方が後々の脅威が減るのも事実。

 なにせここは幻想郷。この狭い世界の中でくらい、いがみ合わずに済んでも良いではないか。

 

 信綱は椛の願いと自身の意思。双方を乗せた瞳で真っ直ぐに天魔を見つめる。

 

「で、具体的にはどうするつもりだ?」

「それをこれから一緒に考えるのだろう。どうやら同じことを考えていたようだし」

「……なぜそう思った?」

「わざわざ文を遣わせた意味。天狗の情報までくれた意味。こうして直々に話したい意味。総合すれば簡単に出る答えだ」

「――良いねえ。文句なしだ。オレが見てきた中でも最高級に良い人間だ」

 

 片口を釣り上げ、天魔は性格の悪そうな笑みを浮かべて信綱を称える。

 その顔に信綱は顔をしかめ、相手は自分を見定めに来ただけだと理解する。

 

「そう怒りなさんな。褒めてんだぜ? それに御阿礼の子が起きねえ間だけって制限もあったしな」

「そうか。――ここが公の場でない以上、ここからの対応には素の自分で判断してもらいたいものだが、どう出るつもりだ」

 

 公人としての会合なら、一方的に自分のことを話した信綱が悪いで済まされるし、そこで恨み言は言わない。

 しかし今はお互い私人としての時間だ。その対応如何で、信綱は天魔がどのような人格であるか見定めると言っているのだ。

 要するにちょっとした意趣返しである。

 

「性格の悪さはお互い様だな。まあ――オレは同じ視点を持っているとだけ言っておこうか」

 

 そう言って天魔は立ち上がり、部屋の外に出ようとする。

 

「思いのほか有意義な時間を過ごせた。この後の会談でまた会うことになるが、その時はせいぜい威厳を出すさ」

「阿弥様を怖がらせたら誰であろうと殺す」

「ハッハッハ、わかりやすくて大変結構。じゃあ、また後でな」

 

 立ち去る天魔を見送り、信綱は知らず背中に汗をかいていたことに気づく。

 顔にまでは出ていない。万に一つ阿弥に垂れたら火継失格である。

 

 話すことにより一層、あの天魔が底知れない相手であると確信が深まった。

 もう少ししたら阿弥が彼と話すのだ。何事もなく、恙なく話が終わることを祈るばかりである。

 

「……阿弥様、頑張ってください」

 

 これから待ち構えている阿弥の受難を、信綱は最初から受け止めることができない。

 その悔しさに比べれば、自分がその後に人里や幻想郷の行く末を左右しかねない会談に臨むことなど些事だ。

 

 本当にどうか、どうか――彼女に困難を与えないでくれ、と信綱は誰にでもない何かに祈るのであった。




共存を願う二人の邂逅。これが幻想郷における一つの転換期になります。

ノッブは阿礼狂いであるという前提以外は、色々な人の影響を受けています。
阿七の言葉を受けて情に理解を示し、そこから派生して様々な人妖の考えを受け止め、自分の中で蓄えていきました。

そして決定打が椛の願いという。彼女が心から願った人妖の共存できる幻想郷という思いこそ、阿礼狂いでないノッブが共感した願いとなり、今の姿に繋がります。
今の性格になった全ての起点は阿七。そして人も妖も見て、情も理も理解した彼が選ぶのは椛の願った人妖の共存。

物語を始めた当初のプロットにはこんな繋がりが生まれるとは書いてありませんでしたが(というか椛の躍進も書いてない)、割りと上手くつながったなあと自画自賛しています。



まあ阿礼狂いが前提なのは変わらないんで、阿弥に危険が迫ったらぶん投げますけど(本末転倒)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

反乱の始まり

ちょっと多神連合をしばいていたら寝食を忘れて遅れました。……遅れました?(一週間投稿していた頃のペースが思い出せなくなっている)


 再び案内された部屋は、信綱にとって非常に見慣れた空気を漂わせるものだった。

 人里の運営を決める際に集まる部屋。内装は微妙に違えども、用途が同じである以上纏う空気も同じになる。

 

 御阿礼の子に集中したい阿礼狂いとしては誠に遺憾ながら、信綱はこういった空気に慣れてしまっていた。

 視界の先、上座にはしわがれた老齢の烏天狗がいた。片膝を立てたあぐらをかいて、こちらを見下ろす眼光には覇気とも言うべき強い威圧があった。

 

 奇しくも、先ほど信綱が天魔と相対した時に受けた感覚と同じであることから、それが変化の術を使用した天魔であると信綱は理解する。

 

 しかし阿弥はそのようなことは知らない。老齢の天狗の眼光を受けて、阿弥は怯んだように体を強張らせる。

 

「天魔様、人里からの客人を連れてまいりました」

 

 文もこの時は飄々とした顔を見せることなく、気を張った声を出す。

 それもまた、阿弥を緊張させる要因になってしまうことに信綱は気づく。

 

「……阿弥様」

 

 彼女の緊張を和らげるように、そっと阿弥の背中に手を触れる。

 阿弥は一瞬だけこちらを振り返り、微かに安堵したような笑みを浮かべて歩き出す。

 

「よくぞ参られた。御阿礼の子よ。儂が天魔だ」

「ご招待にあずかり光栄です。八代目阿礼乙女、稗田阿弥と申します」

「うむ、此度の縁起には期待しておるぞ」

「はい。実りあるお話になればと思います」

 

 そう言って阿弥は天魔に笑顔すら浮かべてみせる。

 それが彼女なりに精一杯の姿であると、レミリアの時に理解した信綱は内心気が気でない。もっと和やかに話を進められないものだろうか。

 

「我ら天狗のことを知ってもらおうと思って招待した次第だ。こちらも話せることは包み隠さず話すゆえ、そちらも我々に対して誠意を見せてくれることを期待する」

「もちろんでございます。ではまず天狗の生態の確認から……」

 

 夢中になって話を進めていく阿弥。御阿礼の子としての使命かはわからないが、こうして天狗と話ができる機会など久しぶりであり、天狗のことを知る絶好の機会なのだ。この機を逃す手はない。

 その後ろ姿を眺めていると、文がそっとこちらに近づいてくるのがわかる。

 

「こちらを」

 

 後ろ手にかさりと紙が触れる。装束の袖にしまい込み、咎めるように目を細める。

 天魔たちにとってはこの後の信綱との会談こそ本命なのかもしれないが、阿礼狂いである信綱にとっては御阿礼の子以上に優先するものなどない。

 話は聞いてやるから、今は阿弥様の話を聞かないと殺すぞ、という意味である。

 共存を願う心は確かに存在するが、そんな個人的な私心より御阿礼の子が大事な信綱だった。

 

 信綱の視線の意味を正しく読み取ったのか、わずかに頬を引きつらせた文が天魔の後ろに戻っていく。

 そうしている間にも話は進んでいく。

 阿弥は信綱も見たことがないほど熱中した様子で質問を繰り返し、その都度手元の紙に書き込まれる。

 信綱の手も天魔の一言一句を逃さぬよう速記していくが、これが必要ないと確信できるほど、阿弥の集中ぶりは凄まじいものだった。

 

「――童でも御阿礼の子か。いやはや、質問攻めよ」

「あ、いえ、その、天狗のお話が聞けるなんてこれまでの代ではほとんどなかったことですから、つい夢中になってしまい……申し訳ありません」

「責めてはおらぬ。招待したのはこちら。客人ももてなせぬほど、天狗は排他的ではない」

 

 本当だろうか、と信綱は首を傾げる。

 領域に許可なく入って来たものを問答無用でさらおうとするのは、排他的とは言わないのだろうか。

 おかげで椿に追い回されてエライ目に遭った。多分現在進行形で続いている。

 あれが運の尽きというべきか、あの邂逅があったから今の自分があるというべきか。

 

 自身の巡り合わせに内心でため息をつく――前に私心を切り捨てて天魔の言葉を正確に書き留めていく。

 阿弥が使命を果たしている隣にいられるのだ。これ以上の幸福がどこにある。

 山あり谷ありの人生を送っている自覚はあるが、少なくとも二代続けて御阿礼の子に仕えられるという幸福は、それら全てを補って余りあるものだ。

 

「ふむふむ、天狗はそうやって生活をしているのですね……。ここまで深く聞けたのは歴代でも初めてです。今回の幻想郷縁起の中心はあなた方と吸血鬼になりそうです」

「儂らを多く書いてもらいたいものだな。新参者に大きな顔はさせられん」

 

 くぐもった笑いが天魔の口から漏れ出る。それに阿弥も小さく笑い、取材そのものは非常に和やかに進んでいた。

 元々呼ぶ気があったのか、はたまた阿礼狂いである自分のご機嫌取りのためか。本心はわからないが、阿弥が楽に取材できることは素晴らしいことである。

 

「儂ら天狗と人間は違う。文が案内したのなら多少は生活も見ただろうが、人間があの中で生活はできまい」

「その通りですね。人間は空を飛べるようにできていない」

「じゃが、天狗の中には人間に関わりたいと言う者も出てきている。縁起にはそのことも載せておいて欲しい」

「そこまで書いてよろしいのですか? 妖怪としての危険度が下がりかねませんが……」

「顔を合わせぬ現状の方が不味い。忘れ去られぬよう、対策を講じる必要があるのだ」

 

 妖怪の山の頂上にいるだけでは、人間との接点など皆無と言える。事実、信綱だって麓で出会った椿と椛以外の天狗を見たのは、霧の異変があった時からだ。

 それにあの頃は妖怪を見たことがない世代が主流になりつつあった。

 もし霧の異変が起こらず、あのまま時間が流れていたら――幻想郷で妖怪の存在が夢物語になるなどという状況があったかもしれない。

 

 そういった意味ではレミリアの来訪は奇貨と言えるのだろう。あれが切っ掛けとなって信綱は妖怪に名が知られ、それぞれの勢力も今後を見据えて動き始めた。

 目の前の天魔もそうして、人間との付き合い方や天狗の未来などを見ているのだろう。どこに着地点を見ているかまではわからないが、無闇に敵対はしたくないものだ。

 

「これもその一環よ。無論、畏れがなくなるのも困るため、適度に怖がらせてもらう必要はあるが」

「理解しております。私が幻想郷縁起の編纂を行うのは、恐れるべき妖怪の対策ですから」

 

 対策をするということは、脅威と認識することだ。

 本当に怖くないと思っているのなら、対策すら取る必要がなくなる。人間が人間に対策を取らないように。

 

 ともあれ概ね和やかに進んでいるようで何よりである。天魔も阿弥を怖がらせたところで得られるのが阿礼狂いの殺意だけなのだ。どこにも得がない。

 

 阿弥も子供らしい姿ではなく、妖怪の知識を蓄え続け、幻想郷の歴史を見届けてきた御阿礼の子らしく新たな妖怪の知識の獲得に貪欲な姿勢を見せている。

 この知的好奇心と求聞持の力が彼女の強みなのだろう。知識はあって困るものではない。

 

 阿弥が質問を行い、信綱がそれに対する答えを機械的に書き留めていく。

 身も心も阿弥のために使える時間。なんと素晴らしいのだろう。できれば永遠に続いて欲しいくらいだ。

 しかし世界というのはとことん信綱の期待を裏切るようにできているようで――

 

 

 

「――阿弥様、伏せてください!」

「――天誅!!」

 

 

 

 一瞬早く気づいた信綱が阿弥を背中から押し倒すように飛びつくのと、窓から飛び込んできた複数の天狗が武器を片手に殺到して来るのは同時だった。

 鼻から下は布で隠されており、手に持つ武器は天狗の炎で彩られている。入念に準備をしてきたことが一目でわかる様相だ。

 

 だが天誅と言っていた以上、狙いは天魔。信綱はそれらの情報を見抜きながらも、まずは阿弥の安全を優先した。

 

 信綱より僅かに遅れて気づいた文がすぐさま一人を無力化する。狭い室内だから風を下手に操ると自滅の危険があるが、文にそれは適用されない。

 風を操る程度の能力を使えば手足のように、いや手足以上の精度で風を使えるのだ。室内であるという縛りなど何の意味もない。

 

 しかしそれで防いで一人。驚愕から立ち直り即座に無力化する手際は驚嘆すべきものだが、数が多い。

 残りの天狗は少女を庇うように倒れる信綱には見向きもせず、微動だにしない天魔に室内用の槍を突き出し――

 

「――喝!!」

 

 天魔の総身から迸る妖力であっさりと防がれる。

 吹き出す妖力が室内に風を起こし、襲撃してきた天狗を吹き飛ばして壁に叩きつける。

 即座に戦闘不能とまでは行かなくても、壁に勢い良く叩きつけられれば誰だって動きが止まる。それは物質である以上避けられない状態であり、狙うべき隙でもあった。

 

「え、な、なに!?」

「阿弥様、少々目をつむっていてください」

 

 無力化の好機と捉えた信綱が動き、素手で瞬く間に大半の天狗を無力化する。

 後頭部を強く打てば天狗だって気絶ぐらいするのだ。回復力が人間とはケタ違いのため、人間が昏睡する強さで打ってもせいぜい二、三分程度ではあるが。

 問答無用で殺さなかったのは阿弥を狙っていないからである。これで攻撃が少しでも阿弥に向かっていれば、全員の首を落とすつもりだった。

 

「阿弥様、もう大丈夫です。下郎は無力化しました。ですが私の側から離れぬよう」

 

 信綱の言う通り頭を抱えてうずくまっていた阿弥を、優しく片腕で抱き寄せる。

 無言のまま強く抱きついてくる阿弥の背中をさすりながら、信綱は天魔らに険しい視線を送る。

 

「説明してもらおうか。どうやらこちらを狙ったものではないようだが」

「文、外を見てこい。やっこさん、これだけでオレを殺せるとは思ってないだろ」

「見る必要ないですよ。窓から見るだけで十分です」

 

 文が引きつった表情で外を眺めており、それに釣られて信綱と天魔も視線を窓に向ける。

 

 

 

 ――そこでは、烏天狗同士が空を縦横無尽に入り乱れて戦う光景が繰り広げられていた。

 

 

 

「…………」

 

 信綱はその光景に目を丸く見開く。襲撃ぐらいは予測していなかったわけじゃないが、よもや天狗同士が戦う光景を見ることになるとは思っていなかった。

 隣の天魔は盛大に舌打ちし、変化の術を解く。もはや取り繕う余裕もないということか。

 

「説明を」

「天狗が真っ二つに分かれてるのは知ってるな? あれが爆発したってところか」

「…………」

 

 起爆剤は自分たちか。その意味を込めて天魔を見る。阿弥がいる手前、口に出して言ってしまうと阿弥が責任を感じてしまいかねない。

 それを正しく読み取ったようで、天魔は軽くうなずいて口を開く。

 

「――済まない。ここまで不満が溜まっているとは見抜けなかったオレの不徳だ。大方、オレを排して支配派の大天狗を天魔に据えてしまおうって魂胆だろう」

 

 やるにしてもここまで大事にする必要があるのだろうか。

 打ち負けて堕ちていく天狗も窓から見えるが、肉体が消えていない辺り致命傷ではないのだろう。

 そう考えると、人間の価値観で見ればこれは戦争にも等しい戦いだが、彼ら天狗から見れば己の意見を通すためのちょっとした強硬手段の一つに過ぎないのかもしれない。

 あまりこんなところで価値観の違いを感じたくはない信綱だった。

 

「文、客人を人里まで丁重に送れ。傷一つでも付けられたら向こうの勢いが付いちまうし、何より彼が怖い」

「人間一人にそこまで、と言いたいところですけど今の手腕を見せられては仕方ないですね」

 

 文も文で信綱への評価を改めていた。

 烏天狗を討ち、吸血鬼に勝った。遠目で見るのと、間近で見るのでは違う。

 すでにあれから十年弱が経過しており、そろそろ四十代が見えてくる年齢だというのに技量はさらに上がっていた。限界とかないのかこの男は。

 

「阿弥様、非常事態です。人里へ戻りましょう」

「わ、わかった。ああ、嫌だ、嫌だよ……頭に阿夢の記憶が浮かんでくる……!」

「ご安心ください。逃げるだけですから簡単ですよ」

 

 信綱は阿弥を片腕に抱き留めたまま、安心させるような声をかけていた。

 目に涙を浮かべてこちらを見上げる阿弥に微笑みかけ、背中をさする。

 確かに置かれた状況はよろしくないが、信綱は別に危機感は持っていなかった。正直、タダの烏天狗ぐらいなら片手が塞がっていても無力化できる。

 それに阿夢の代の火継のように大天狗に挑む事情もない。切っ掛けは自分たちかもしれないが、渦中にはいないのだ。危険からは速やかに遠ざかるのが吉である。

 

「お二人とも捕まってください、急ぎますよ!」

「空中では動けない俺たちが落ちたらカモだろう。途中までは走る。阿弥様、片腕で失礼します」

「きゃっ! と、父さん、大丈夫なの!? 文さんについていった方が……」

「高所から落下したら人間は死にますよ。下手に集まる方が危ない」

 

 それにさっきの襲撃者も天狗のみを狙っていた。人間二人を抱えたら文も普段通りの動きはできないだろうし、色々と人間離れしている信綱も高所からの落下には為す術がない。

 片腕で阿弥を抱き上げ、もう片方の腕で天狗の襲撃者が持っていた刀を拾い、信綱は文とともに集会場を飛び出す。

 

 すでに外ではそこかしこで戦闘が始まっており、三次元に動きまわる天狗がそれぞれの術や武技をぶつけ合っていた。

 外に飛び出した瞬間、文に天狗が押し寄せる。地を往く信綱たちは木々が隠れ蓑の役割でも果たしているのか、見向きもされない。

 本当に内輪揉めが肉体言語に発展しただけなのだろう。天魔を殺そうともしている辺り、反乱と言っても過言ではないが。

 

 天狗の内部事情など椛と文からの伝聞でしか知らないので、あまり深入りするつもりもない。深入りするにしても阿弥の安全確保は必須である。

 

「――阿弥様、思うところはお有りでしょうが、私を信じてください。あなたも私も、必ず無事に戻りましょう」

「……こんな時に私は信じることしかできないけど……だから最後まで信じる! 父さん――頑張って!!」

 

 そう言って阿弥は信綱の胸に顔を埋める。

 まだ少女の身体、思いっきり抱きつかれても動きにそう支障はない。

 いや、むしろ御阿礼の子と触れ合いながら動けるとか、信綱的には羽が生えたような気分だ。

 

 阿弥に振動が行かないよう細心の注意を払いながら森を走る。空を飛んで移動していた時に集会場から、河童の集落への方角は確かめてある。

 文に注意が行っている今のうちにさっさと脱出して人里に戻れば問題はない。

 殺しにかかってきた精鋭と思われる天狗も天魔と文に傷一つ付けられなかったのだ。遠からず天魔たちの勝利で終わるだろう。

 今は逃げて状況が落ち着くのを待てば――

 

「――お二人とも、逃げて!!」

「っ!?」

 

 信綱は異変に気づく。文には目もくれず、今まで狙ってこなかった自分たちに向かってくる天狗がいる。それも複数。

 そしてさらに間の悪いことに文の叫びで信綱たちの位置が割れてしまった。文と交戦していた天狗から何人かが信綱たちに向かってくる。

 

 信綱は高所からの攻撃を嫌って森の中に入り、状況の悪化に内心で舌打ちする。一振りしか使えない状況では殺し切るのが難しい。せいぜい首を落として足を止める程度。

 文の支援はわからない。彼女は大天狗以上に強いのかもしれないが、群れた烏天狗を殺さず無力化となると手こずる可能性が高い。

 妖怪の厄介さはその再生力にあり、複数で固まられた場合の無力化が極めて難しくなる。殺してしまえばその問題は解消されるが、文とて同族を手にかけたくはないだろう。

 それに信綱が森に逃げ込んだ時点で文はこちらを半ば見失っている。ある意味信綱の自業自得だが、状況が状況故に仕方がない。文の支援のために他の天狗に狙われる危険は冒せない。

 

 阿弥を置いて戦うことは論外。どこから敵が来るかもわからない状況下で、自衛のできない阿弥を置くなど愚の骨頂。

 己の未熟であると歯噛みする。片手で烏天狗複数すら屠れない自分が悪いと結論付け、思考を切り替える。

 

 複数人を相手に五体をバラバラに刻んで殺す手間を取るか、はたまた首を落とすなり目と耳を切るなどの足止めに徹して逃げ続けるか。

 前者はもちろん危険が大きい上、人間に殺された天狗が多くいるとあっては人間への心象も悪くなるどころではないだろう。

 後者は時間稼ぎ以上の意味は持たない。一直線にこちらを目指してきている以上、何らかの目的を持って追いかけてきている相手を足止めだけに留めて良いのか、信綱の直感がささやく。

 

 阿弥を抱える腕に力が入ってしまったのか、阿弥が服を握る力が強くなる。

 小さな手が白くなるくらい握りしめられたそれを見て、信綱は改めて眼前の脅威を見据える。

 どちらを選んでも相応の危険が伴う二者択一。信綱は腕の中にいる阿弥を最も危険に晒さないで済む方法を選択し――

 

 

 

 

 

 視界の端に、見慣れた白狼天狗の大太刀と盾が映る。

 

 

 

 

 

「――阿弥様、少し揺れますから目をつむってください!」

「え、きゃあ!?」

 

 決断は早かった。信綱はその場に足を止めると、殺到してくる一体の天狗の武器を太刀の一振りで破壊し、怯んだ隙に首を刈り取る。

 

 血を噴き出し、ダラリと立ち尽くすそれを見ても天狗たちは怯まない。つまり、信綱がどういう存在なのかわかっていて攻撃してきたということだ。

 しかし相手がどんな力量を持っているかわかっていたとしても、見失うことを嫌って距離を詰めてきたのが彼らの失敗であり、信綱の幸運だった。

 

 少女を抱え、使う武器は何の変哲もない刀。だが、御阿礼の子を守ろうとしている阿礼狂いが力を発揮できないなど冗談でしかなく。

 ものの数秒で襲いかかってきた天狗の首を全て切り落とし、もう使う必要のない刀を捨てて信綱は方向を転換し、河童の集落とは別の方向へ向かう。

 先ほどまでは逃走経路である河童の集落に向かうという目的地があったが、今はそれもない。

 にも関わらず信綱は逡巡を見せることなく走り続ける。そして一際大きな木の辺りまで来て、横合いから伸ばされる手を払うことなく掴み取った。

 

「――助かった。ありがとう、椛」

「ここまで来るの大変だったんですからね! って、今、私の名前を呼んで――」

「とにかく逃げるぞ。どこに行く?」

「ああもう! 君は本当に反応できない時に言ってきますよね! ――こっちです! 私がいれば不意討ちの心配はありません!」

 

 信綱たちを先導しながら後ろを警戒するという器用なことを、椛は簡単にやり遂げる。こういう場面において彼女ほど頼れる存在は他にいないだろう。

 

「と、父さん、あの人は?」

「白狼天狗の犬走椛。私が幼少の頃より知り合った妖怪で、友人です」

「ゆ、友人?」

 

 両手が空き、椛がいる限り不意を突かれる不安もないため、阿弥の抱き方を変えて膝裏と背中に手を入れる――いわゆるお姫様抱っこの形で阿弥を抱える。

 そんな阿弥は信綱が親しげに信頼を寄せて話す椛という妖怪の存在に、目を白黒させていた。

 さっきまでは険しい顔をしていた信綱もどこか表情を緩ませている。

 阿弥は信綱の私生活面での交友関係にはそこまで詳しくないが、先ほどまで文や天魔に見せていた顔とは比べ物にならない。

 

「……あれ?」

 

 そういえば阿弥は何も知らない。火継信綱という人間が自分に仕え、自分のことを一番大事にして、自分が一番頼っている優しい父親で――

 はて、と阿弥は信綱の腕の中で小さく首を傾げる。信綱は阿七の頃から自分の代まで、ずっと仕えて来てくれた大好きな男だが――よく考えたら彼のことを何も知らない。

 

 そして椛と呼ばれた少女は阿弥の知らない信綱を知っている。幼少の頃からと言っていたし、数多くのことを知っているだろう。

 そう考えると、胸が微かに締め付けられるような気分になる。不快なようで、そうでもないような曖昧な気持ち。

 

「それでどこに行く。いつまでも逃げられるのか」

「一旦私の家に行きましょう。君が騒ぎを起こすのは予想してましたけど、あんな大規模なものになるとは思ってませんでした」

「騒ぎを起こすのを予想していた点については後で話し合おう。阿弥様、これから汚い家に向かうそうですがご容赦を」

「君こそ話し合いが必要ですよね! いつも綺麗にしています! あなたもこの人の言葉は信じないで良いですからね! 照れ隠しに悪口を言っちゃう子供並みの神経ですから」

「え、あ、はい!?」

 

 が、そんな気持ちも信綱と椛の話を聞いている間にどこかへ行ってしまう。というかそんな名前すら付けられない気持ちであたふたしていられる状況じゃない。

 信綱と椛は落ち着いているが、状況自体はあまり好転していないのだ。未だ安全圏とは言いがたいし、そもそも天狗の里で何が起こっているのかもよくわかっていない。

 依然として阿夢の記憶にある火継の側仕えがボロボロに傷つき、命を流していく姿は脳裏に焼き付いたまま離れない。

 

 しかしこの人なら。この人ならばどうにかしてしまうのではないか、と。天魔よりも文よりも早く襲撃に気づいた信綱ならば。

 阿夢の記憶が不安と恐怖を叫び続けている。だが信綱ならば阿夢の受けた悲しみを阿弥に与えたりしないと、生まれた時から一緒にいる阿弥の家族を信じることができた。

 

「父さん」

「どうかしましたか?」

「信じてる。――父さんなら阿夢の嘆きを振り払えるって信じてるから」

 

 阿弥の言葉に信綱は一瞬だけ呆けたような顔になる。

 自分の行いは阿弥の安全のためだけではなく、目の前で火継を失った阿夢の無念も晴らせるのか、と気づかされたのだ。

 今この瞬間、信綱は二人の御阿礼の子の想いを背負っているのだ。

 御阿礼の子二人から見てもらえるなど、なんて幸福なことなのだろう。

 

「ええ、もちろんです。あなたのためなら私は――」

 

 笑って全てを犠牲にし、破壊する。

 その言葉を呑み込んで、信綱は阿弥に微笑むのであった。




ノッブが椛にデレまくってる? 天狗の里で焦点が当たらないわけないだろ(真顔)
ということでまさかの反乱。しかしマジモンの刃物使っても五体バラバラにしないと死なない天狗の場合、ちょっと過激な学生運動ぐらいのもんです。

反乱に関する考察は次回の安全な場所に到着してから。まだノッブは阿弥の安全確保が最優先事項なので、それが終わるまで他のことを考える余裕がない。
襲われるぐらいは予想していたけど、よもや天狗の里全体の騒動に巻き込まれるとは思っていなかったノッブは無事に帰れるのか。



あ、あと私事ですが凄く久しぶりにゲームに時間を忘れる感覚を思い出しております。投稿が遅れましたら「あ、こいつメガテンに夢中になってんな」と思ってください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

休息と胎動

「どうぞ、狭い家ですが」

「阿弥様、狭い家ですがどうぞお入りください」

「君がそれを言う資格はありません!!」

 

 椛に助けてもらったことを照れているのか、ただ単に減らず口を叩いているだけなのかは不明だが、信綱と阿弥は椛の家に逃げ込むことに成功した。

 外では相変わらず天狗が戦っているが、家の中にまで踏み込んでくることはないだろう。信綱たちを狙っていた天狗も首を落として視界を奪ってから逃げた以上、見失っているはずだ。

 

 一息つけると判断した信綱は阿弥の身体を降ろし、室内に視線を走らせる。

 にとりの家と似た木造の家で、こちらは清潔そうに整えられている。部屋の隅には将棋盤と思しきものが見えているがご愛嬌だ。

 総じて――

 

「物の少ない家だな。趣味は将棋以外にないのか?」

「武器の手入れとかは別の部屋でやるんですよ! あとはまあ、色々と見回すのが仕事で趣味ですからお金もかかりませんし」

「父さんが物が少ないって言うんだ……」

 

 阿弥の言葉は聞かなかったことにする。信綱の部屋も物が多いかと言われれば否である。

 ともあれ落ち着ける場所に来たため、信綱たちはお茶を片手に机で向かい合う。

 

「はぁ……そういえば喋りっぱなしだったから、お茶が美味しい……」

「それは良かった。お茶菓子もどうぞ?」

「えっと……」

 

 阿弥が遠慮したように信綱に視線を向ける。なぜ自分に、と思わなくもないが、別に椛の菓子なんだから遠慮も不要だろうと首肯し、自分も茶菓子を取る。

 

「……ふむ、そういえばもう昼時か」

「そうですね。騒ぎがあったのですっかり忘れてましたけど、お昼でも食べます?」

「そうだな。阿弥様、少し昼食を作りますので、あまり菓子を食べ過ぎないよう」

「はーい。父さんったらこんな時もお菓子にうるさいんだから」

「申し訳ありません。その代わり人里に戻ったら菓子を腕によりをかけて作りますよ」

 

 台所に向かおうとしていた椛がぎょっとした顔で信綱の方を見る。そういえば彼女には自分が料理をできるとは言っていなかった気がする。

 しかし別段説明する意味もなかったので、特に気にせず椛と一緒に台所の方へ向かう。

 幸い、台所に入れば阿弥からの視線は途切れる。会話も気をつければ行えるだろう。

 

「……それで、わざわざあの子から距離を取った理由はなんですか?」

 

 長い付き合いだけあって、椛は信綱の行動の意図を理解していた。

 阿弥に隠すように動いたことには理由がある。少しばかり状況をまとめておきたかったのだ。

 彼女が気に病むような情報もまとめる必要があるため、阿弥は遠ざけておくことにした。知らなくて良いことを考えるのは自分の役目である。

 

「少し考え事だ。襲われた時はとにかく阿弥様の安全を優先したが、今なら良いだろう」

「……まあ、私はお昼を作りますから何かあったら呼んでください」

「わかった。一品ぐらいは作るから材料を置いといてくれ」

「あ、料理ができるって空耳じゃなかったんですか……」

「耳が飾りの白狼天狗とか色々洒落にならんぞ」

「私は目が主体だから問題ないんです!」

 

 狼から化生した白狼天狗がそれで良いのだろうか、と常々思っている疑問を胸にしまい込む信綱だった。

 

 椛が料理用の割烹着に身を包むのを視界の端で見ながら、信綱は壁に背を預けて思索に入る。

 まず考えるべきは信綱たちを狙ってきた天狗のことだ。天狗同士が争っていることも気にはなるが、まずは差し迫った脅威について考えなければ。

 

 そもそもどうして自分たちが狙われたのか。天魔を殺そうとした天狗は自分たちには見向きもしなかったというのに、彼らだけは逆に天魔の方を見向きもせずにこちらを狙ってきた。

 つまり天魔以上に自分たちに重きを置いている何かがいる。それはどういった意図でこちらを狙ったのか。

 

 人間との共存を願う天魔と敵対している派閥であることは間違いないだろう。であれば信綱たちを狙ってきたものたちは支配派の連中になる。

 

 人間を支配することが目的ならば、確かに信綱と阿弥を狙うのは理に適っている。

 信綱が死んだら人里の気勢が弱まるだろうし、阿弥が死んだら縁起の編纂に来た御阿礼の子を殺したとして融和どころの話じゃなくなる。それこそ人妖の合戦になりかねない。というか怒り狂った火継の連中が天狗に殴り込みをかけるだろう。自分だったらそうする。

 

 だが、それでは腑に落ちない点がある。――それならなぜ最初に自分たちを狙わなかった?

 天魔を殺す手間よりも信綱たちを狙った方が遥かに楽だ。力量がいくらあっても所詮は人間。四肢の再生などないし、首が落ちたら死ぬ。

 なのに集会場では天魔を。外に出たら自分たちを狙ってきた。このちぐはぐな対応の疑問はどう解消したものか。

 

(……何も派閥が二つしかないとは限らない、か?)

 

 大きく分けて天魔主導の共存派と、規模は不明だが共存派と戦える勢力を持つ支配派。この二つになる。

 しかし支配派の中でも複数の派閥が存在すると考えればどうだろう。向こうの首魁は大天狗だと聞くし、天魔が率いる共存派より統率が取れていなくても不思議ではない。

 そしてその中で意思の疎通が上手くいってないと仮定すれば、狙いがそれぞれバラバラなのも合点がいく。

 

 ただ、この仮定だともう一つわからないことが生まれてしまう。

 

 天魔という天狗の首魁がいる派閥を敵に回すのに、身内で意思疎通が取れないような愚かな真似をするだろうか?

 相対して実感した。あれは正真正銘、天狗の中でも最高峰の傑物だ。

 文と出会った時以上に驚いた。今の自分が全力でかかっても相討ちが限界だろう。悔しいが、それだけの実力差がある。

 他にも大天狗以上と目される文がいる。彼女らを相手に挑むのなら、最低限足並みぐらいは揃えないと話にならない。

 それすら理解できない凡愚揃いが大天狗だとは到底思えなかった。天魔に及ばなくとも妖怪の山を仕切ってきた存在。過小評価はこちらの首を絞めてしまう。

 

 となると考えられる可能性も減っていく。足並みを揃えなければいけないのに、意図的に揃えない存在がいる。

 自分たちを狙ってきた天狗は空を覆う天狗に比べれば少なかった。となれば、自分たちを狙ってきた側が少数派。

 そして足並みを乱してまで自分たちを狙う理由は――

 

「……個人的な感情、か」

「え、なにか言いました?」

 

 信綱が辿り着いた答えを思わず口にすると、耳聡く椛が聞き返してくる。

 

「積年の恨みというのは恐ろしい。そう言ったんだ」

「はぁ……そんな考え事していたんですか?」

「一つ確認するが。支配派の天狗はかつて御阿礼の子と側仕えの火継が訪れた時、片翼を切り落とされたんだったな」

「ええ、まあ……」

「そいつの恨みと俺たちの来訪による支配派の動揺。ありえない線ではないか」

 

 信綱と天魔の話が円満にまとまったら支配派の出る幕がなくなる。そうなる前に手を打つのは当然だし、騒ぎが大きくなれば脆い人間の一人や二人、事故で死んでもおかしくない。

 

「えっと、何を言っているのか私にはさっぱりなんですけど……。熱でも出ました?」

 

 集会場では襲われず、外に出たら襲われた信綱の事情までは椛も知らないため、口に出して自らの思考をまとめていく信綱の話についていけない。

 椛が眉を八の字にした困り顔で信綱を見ている間に思索は終わったらしく、信綱は普段通りのしかめっ面で説明を始める。

 

「天魔との会合場所にいたのは俺と阿弥様、天魔とお付の射命丸という烏天狗だ。そして襲撃の際に狙われたのは天魔一人だった」

「え? どうしてそこで君たちを……」

「狙わなかったのか。そこがわからなかった。俺の武勇伝が天魔を凌ぐ領域で広まっていて、俺と戦うのを恐れた、なんて阿呆らしい話でもないだろう」

 

 言いながら椛の隣に立って、用意してあった油揚げを手早く刻んでいく。

 椛としては青天の霹靂とも言える信綱の手際の良さと、同時にその口から語られる物騒な話で、どちらに集中すれば良いのかわからなくなってしまうが、そんな彼女を無視して話を続ける。

 

「阿弥様は狙われる理由そのものがない。天狗を害するようなこともしていないし、立場も人里内からは浮いている。幻想郷縁起の編纂が止まったとしても目に見える不利益は出ないだろう。

 ――それはそうと出汁に使えそうなものはないか」

「あ、そこに川魚の煮干しが……って、話すか料理するかどっちかにしてください!?」

「別に良いだろう、片手間にできることだ。で、残った理由は一つしかない。――向こうには俺を殺したいと思う輩が存在する」

 

 椛は身体を強張らせる。信綱を殺そうとすることはすなわち、御阿礼の子を害することと同義であり――

 信綱の顔は見えない。味噌汁の鍋の方に身体が向いているため、こちらに顔を向けずに淡々と語っているのだ。

 

「ではどうして俺を殺したいのか。人里への影響力も大きいし、殺そうとすること自体は理に適っている。――だがそう考えると集会場で俺を狙わない理由がわからない」

「……えと、君は……」

 

 言葉に詰まる。声の調子は変わらないが、あの時もそうだった。

 透徹な狂気を宿した瞳に反して、声音は平常そのもの。それが何よりも恐怖を煽るのに信綱は気づいているのか。

 何を言って良いのかわからない椛を他所に、信綱は自身の考えをいつも通りの平坦な口調で話していく。

 

「つまり結論はこうだ。――今の状況に乗じて、俺を殺したいと考える極めて個人的な事情を持つ存在がいる」

 

 信綱は自分に向かってきた襲撃者をそう結論付けた。

 派閥間で信綱の脅威を排除したいという認識が一致しているなら、集会場で狙わない理由がない。そうなったら残される理由は個人的な感情ぐらいである。

 そして椛から聞いていた情報などを総合すると――出てくる結論は一つしかない。

 

 

 

「天魔を排除しようとした支配派の長。そいつが俺を殺そうとしているんだろうさ」

 

 

 

「……じゃあ、この状況って」

 

 たった一人の人間を殺すためだけに、これほどの大事になったというのか。

 そんな考えを持った椛の声が震えるが、それは違うと信綱は否定する。

 

「俺だけが狙いなら事故を装うなり暗殺なりするだろうよ。本命は天魔の失墜。俺はいわばついでのようなものだ。

 ……うんざりする。俺が引き起こしたことではなく、俺の先祖が起こしたことの尻拭いをさせられるとは」

 

 しかもそれの影響で阿弥に怖い思いをさせてしまった。ご先祖様の火継もやるのならキッチリ殺して欲しかった。

 中途半端に手傷を与えて相手の恨みを買っただけではないか。数百年が経過する今でもその恨みを忘れていないのは妖怪ゆえだろう。

 先祖もあの世で血涙を流し、己の未熟を嘆いているはずだ。阿夢の名誉を守るために戦うのは火継として当然だが、戦うなら禍根は残さないようにしなければ。

 

 とまあ、完全にとばっちりを受けている自分の間の悪さにはため息が出るが――そんなことより重要なことがある。

 

「では、このまま逃げて騒動が収まるのを待てば大丈夫なんじゃ……」

「さっきまではそれでも良かったんだがな。事情が変わった」

 

 いつの間にか出来上がっていた味噌汁の鍋を火からどかし、信綱は椛を見て決定的なそれを言い放つ。

 

 

 

 ――阿弥様を害した敵は悉く斬り捨てる。

 

 

 

「……っ!」

 

 阿礼狂いとしての信綱の顔を再び見ることになった椛の身体が強張る。だが、最初に見た時のような恐怖までは覚えなかった。

 信綱はこういう存在なのだ。普段は優しい姿も見せるが、その実情はご覧のように抜身の刀でしかない。

 御阿礼の子を守る利剣であり、御阿礼の子を害する者を滅する魔剣こそが火継の人間である。

 

 なんて言えば良いのか椛にはわからない。大天狗を殺しに行くなんて無謀だ、などという当たり前の言葉では動揺すらしないだろう。というより、信綱なら成し遂げてしまいそうで怖い。

 彼の行動は定まった。阿弥を害した存在を決して許さないという自らの行動理念に従って、立ちふさがるもの全てを斬り刻む修羅となっている。

 

「……あの」

「――まあ、全ては阿弥様が決めることだ。とりあえず食事にしよう」

「ふぁ?」

 

 何かを言わねばと思って口を開こうとした椛に、一瞬で阿礼狂いから普段通りに戻った信綱が先んじて声をかける。

 さっきまでの純化した狂気は見えない。戸惑っている椛に対して呆れた顔を向けるその姿は、おぞましさすら感じるほどいつも通りだ。

 

「いやいや、あそこまで言っておいてあっさり翻すんですか!?」

「俺たちは御阿礼の子の願いを叶えるためにいる。何も言わなければ障害は排除するが、阿弥様が厭うなら何もせず帰るし、共に死んで欲しいと言われたら共に死ぬ。それだけだ」

 

 彼女たちが本心から願うなら、信綱はあらゆる願いを叶えようとするだろう。その果てにどれだけの屍山血河を築くことになろうとも。

 レミリアの時は彼女が自分で判断できるような歳ではなかったし、霧が身体を蝕む明確な害が出ていたから自分で動いたが、今は阿弥がいる。彼女の決断こそがこの世で最も正しく尊重されるべきものだ。

 気負うことなくそう言い切る信綱に、椛は改めて自分と彼の間に存在する深い溝を思い知る。

 

 人間と妖怪の違いなんて些細なものだと考えてしまうくらい、自分と信綱の間には隔たりがある。

 阿礼狂いである時と普通の人間である時。硬貨の裏表のように一瞬で切り替えられる信綱の精神は、人間とも妖怪とも違う場所に存在している。

 霧の異変の時に信綱との違いは思い知らされた。その上で友人であろうとしているのは自分だが――何度も見たい姿ではないと椛は感じる。

 

「……とりあえずご飯にしましょう。阿弥ちゃんもお腹を空かせているでしょうし」

「…………」

「な、何か不満でも?」

 

 阿礼狂いだった姿を見せられた後の無言は怖い。今の信綱の内心では椛を殺す算段が立てられているのではないかと気が気でなかった。

 

「……いや、阿弥様と呼ばないのが不満だっただけだ」

「あ、ちょっと安心しました」

「……? 変なやつだな」

 

 いや、一番変なのは君です、とツッコむ気力はなかった。

 信綱が本気で阿礼狂いの状態になっていたら、多分無言で殺しに来る。それが実感できてしまう程度には、先の信綱が見せた目は殺意に満ちていたのだ。

 椛は昼食を作るだけの時間にドッと疲れを覚えながらも、阿弥の待つ食卓に食事を持っていくのであった。

 

 

 

「美味しいです! この天ぷらとか最高!」

 

 川魚と山菜がきつね色の衣に包まれ、油の香りがなんとも食欲を誘う。

 阿弥が美味しそうに食べる姿に頬を緩ませながら、信綱も川魚のそれを一つ口に運ぶ。

 衣に歯を立てるサクッとした軽い音とともに、魚のほくほくした身が舌の上でほぐれる。

 熱いと思うが、火傷するほどではない。油に通すことによって活性化される魚の旨味を楽しみながら、白米をかき込む。

 

「ふむ、確かに美味いな。火の通り具合もいい塩梅だ。あ、阿弥様、そちらの味噌汁は私が作りました」

「え? ……あ、ホントだ。お出汁とか違うけど、なんか慣れた味付けがする」

 

 油揚げの味噌汁に炊きたての白米。川魚含む山の幸の天ぷらと、こんな状況下で食べられるものとしては十分以上に上等な昼食に舌鼓を打つ。

 

「意外と薄味なんですね。子供はもう少し濃い目の味が好きかと思ってました」

「阿弥様はご健啖でよくお食べになる時期だ。味を濃くして塩を摂り過ぎるのは良くない」

「と、父さん!」

 

 恥ずかしそうに隣の信綱を見る阿弥だが、信綱は気にしない。

 何か恥ずかしいことを言っただろうか? と本気で疑問に思っている顔だった。

 

「父親というより母親……」

「そこ、何か言ったか」

「いえなんでもないです!」

 

 誰かはわからないが、彼の伴侶になる人は大変だと思う椛。結婚の素振りすら全く見えないので、無駄な心配だとは思うが。

 そんな風に賑やかな昼食を終えると、信綱は食後のお茶を片手に口を開く。

 

「――阿弥様、これからどうされます」

「……今がとっても危ない状況だってこと、すっかり忘れてた。父さ――えと」

 

 今更かもしれないが、御阿礼の子として取り繕った方が良いのではないかと思ってしまう阿弥。

 戸惑った目で椛を見ていると、椛はふっと相好を崩す。

 

「好きに呼んで構いませんよ。私は下っ端の白狼天狗ですから、あなたとの繋がりなんてないも同然です」

「じゃあ、えと、父さん。これからどうしたら良いと思う? 私より父さんの方が色々と考えていると思うから」

「……でしたらこれは想像が多分に入りますが」

 

 信綱は襲われた際の違和感や、そこから推測できる敵の背景、事情などを説明した上で一度話を止める。

 この中に阿夢に関係する話は入れず、敵は何かしらの事情でこちらを狙っている派閥がいるという説明に留めた。

 信綱の先祖が関係していると言えば、連鎖的に御阿礼の子である阿弥も気にしてしまうだろうという判断からだ。

 

「――阿弥様の安全は最優先されるべきです。ですが今回の件はただ逃げても解決にはならない可能性が高い」

 

 人間を支配して畏れをもらうことが向こうの最終目的。となればこの騒動に乗じて人里を天狗が襲っている懸念もある。

 もうそこは心配しようとしまいとどうしようもないので、事前に頼んでおいたレミリアが仕事をしてくれることを願うばかりである。

 河童の集落を通した逃走経路と言い、椛への頼みごとと言い、転ばぬ先の杖だったものが次々と役立つような事態になってしまい非常に悲しい。全て肩透かしで終わってくれればそれが一番だったのに。

 

「私たちを狙う存在がいる以上、人里に逃げてもそれを考え続けなければなりません」

「天魔様たちに任せるのは……」

「彼らが私たちを狙う存在を排除までできるか、と言われるとわかりません」

 

 多分、天魔は殺すと決めたら同族だろうと殺すだろうが、全てが終わった後に天魔からそれを聞いて、安心できるかと言われると否である。

 というか信綱だったら人間を狙う感情を利用して手札の一枚にする。勝手に動かないよう首輪さえ付ければ、自分と異なる意見の持ち主はそこそこ貴重なのだ。

 

「そこまで考えていくつか道はあります。一つ、この白狼天狗の力を借りてこのまま逃げて人里に戻る」

「でもそうなると父さんの言うように、私たちを狙い続ける人が残るのよね?」

「後のことは私にお任せください。どうにかしてみせます」

 

 天魔相手の知恵比べになろうと、どちらにせよ阿弥の危険は排除するつもりだった。

 ただ、現時点での脅威は排除できない。ここで失敗すればしばらくは大人しくするかもしれないが、次の世代以降に不安が残り続ける。

 

「二つ、この騒ぎで人目に付きにくいのはこちらも同じです。私が出て狙っている者たちを倒し、この騒動の解決に助力する」

「それじゃ父さんが危ないよ!」

「ですが、後々に売れる恩や後顧の憂いを断つという意味では悪くない手だと愚考します」

 

 向こうにとってこちらを殺す千載一遇の好機であるのと同じく、こちらも向こうに刃を届かせるまたとない機会なのだ。

 御阿礼の子を連れた状態で反撃してくるとは思っていないだろう。阿弥を預ける決断ができるほど信頼している天狗の友人がいるとは向こうも思うまい。

 

「その場合私はどうなるの?」

「この家で待っててもらうか、私抜きで人里へ戻ることになります。後者の場合はほぼ確実に戻れる手段です」

 

 霧の異変の時に作った八雲紫への貸しを返してもらえば、阿弥の安全は確保できる。阿弥が望むなら今が使いどきと判断してためらわずに使うだろう。

 

「……最初からそれを使わないのは、理由があるのよね?」

「ええ。隠すことでもないのですが、八雲紫を頼ることになります。幻想郷縁起の編纂に必要な阿弥様は確実に戻れるかと」

 

 逆に信綱まで安全かは保証できない。人里内で発言力があるだけならまだしも、信綱の影響力は妖怪にまで広がりつつある。

 それを疎んじて行方不明扱いにされる可能性は否定できなかった。阿弥を任せるのは構わないが、自分が頼るのは是が非でも避けたい相手だ。

 

「ただ、こちらも霧の異変の際にこちらが押し付けた借りを返してもらう形になりますので、一度きりになります。もう一度似たようなことがあっても対応は難しいかと」

「うーん……」

 

 どれも一長一短な選択肢の数々に、阿弥は可愛らしく腕を組んで黙ってしまう。

 これが最善、と言える選択肢を提示できないことに信綱も忸怩たる思いである。全ては何かと複雑な幻想郷事情が悪いと決めつけておく。

 

 とりあえずの安全確保のために人里へ戻るか、後顧の憂いを断つべく戦いに転じるか、八雲紫という一度限りの禁じ手を使うか。

 人里に天狗が行っていれば安全は確保できない。後顧の憂いを断とうとして死んでは元も子もない。紫は普通に信用できない。

 何もせずここに留まっていれば――安全は確保できるかもしれないし、天魔が信綱を狙う大天狗を殺してくれるかもしれない。

 と言ってもあくまでかもしれない、だ。自分と阿弥の命運を信用もできない他人に任せたくはない。

 

「……父さんはどうしたい?」

「あなたの意向に従いたいのが本心ですが……私心を語るのであれば、阿弥様の不安を払いたいと思っております」

「私の不安?」

「より正確に言えば、阿夢様の悲嘆でしょうか。阿弥様が阿夢様の記憶にある火継と私を重ねて不安に思うのはわかります。それがあなたを苛むのなら、私が上書きしてしまいたい」

 

 天狗に手傷を与えて死ぬのではなく、天狗に打ち勝って帰ってくることで、阿弥の不安は払拭されるはずだ。

 そう伝えると阿弥は信綱の目を真摯な瞳で見つめる。正面から見つめ返す信綱の目には、阿弥が何かを決心したように映っていた。

 

「……信綱さんは無事に帰ってきますか?」

「必ず。そしてあなたを守り続けます」

「……絶対?」

「絶対に」

 

 阿弥のためだけでなく、阿弥からの願いも背負って戦うのなら、それこそ火継の人間に負ける道理はない。

 

「……信じると言ったのは私だもんね。私たちを狙う悪いやつなんてぶっ飛ばしちゃって!」

 

 それが精一杯の強がりであると、信綱には一目でわかった。きっと心の中は不安に溢れているのだろう。

 だが、信綱が側にいられない時は今後も出てくるはず。守るために打って出なければならない時は必ず訪れる。

 阿七の時に一度も彼女の前で戦う機会がなかった。それが不信と言うほどではないが、信綱の力を信じない要素になってしまっている。

 

 戦う機会など少ないに越したことはない。だが、どうしても来てしまう時に信じてもらえないのも辛い。

 少年の頃、幻想郷縁起を届けに行った時も阿七には心配ばかりされてしまった、と信綱は阿弥に心配させてしまっている現状に内心で嘆息する。

 

「――ええ。傷一つ負うことなく帰ってきます」

 

 ならばと決意する。今この時、阿弥の願いを完璧に叶えてみせよう。

 烏天狗が襲ってくる上、最終的には大天狗に刃を向ける。――だからどうした。それは御阿礼の子より重いのか。

 

 否、断じて否。彼女の願い以上に重いものなどこの世に存在しない。

 

 信綱は阿弥の頭を優しく撫でて、後ろでことの推移を見守っていた椛に振り向かないまま話しかける。

 

「争いの状況は?」

「少し落ち着き始めて小康状態と言ったところです。やはり天魔様が舵を切っている分、支配派は不利になってます」

「……お前が以前話していた天狗はどこにいる?」

「……頂上付近に大天狗様らの居住区があります。そこに」

「そうか。――そうか」

 

 阿弥に背を向け、二刀を携えて椛の顔を見る。

 信綱の顔を見て椛は自分の意識に反して身体が強張るのを感じる。まただ、また、この人間は狂気に身を浸している。

 いいや、この表現は適切ではない。事この人間に関してはつけていた仮面を外して、本来の姿に戻っていると言うべきなのだ。

 

「阿弥様を頼む。お前ぐらいにしか頼めん」

「……わかりました。その代わり一つだけ良いですか」

「なんだ」

「できるだけで良いですから、あまり身内は落とさないでください」

 

 この場合の落とすとは、殺すことを指しているのだと気づく。椛も阿弥に配慮しているのだろう。

 そういった気遣いが信綱の阿弥を預ける判断に繋がっているのだが、本人に言うつもりはなかった。

 

「わかった、可能な限り配慮する。……周囲に天狗はいないな?」

「……はい」

「……貧乏くじか。済まないな、椛」

 

 考えてみれば椛が信綱に協力することは、大天狗を討ちに行く片棒を担ぐことだ。

 信綱たちの障害を排除するために不可避であっても、同族を殺すことに簡単に納得はできないだろう。

 御阿礼の子を守るためである以上、後顧の憂いは断って進むつもりだ。

 

 しかし――それで余計な時間を食わないためにも、殺さない方が良いところでは殺さずに進もう。

 

 何かを堪える顔の椛の頭に軽く手を置いて、驚いたような顔をする彼女の反応を待つことなく外に出る。

 いつも通りの山の空気。しかし今この場所は戦場に等しく、油断すれば命を落とす場所だ。

 

 ふぅ、と息を吐く。阿弥の前であまり醜いものを見せたくなかったので、かなり言動に気を使っていたのだ。

 だがそれもおしまい。ここからは――阿礼狂いとしての時間だ。

 

 剣を抜いて移動を開始する。踏み出す足は地を蹴り、木を蹴り、人間とは思えない速度で三次元の動きを展開し――

 

「……っ! お前は!」

「――失せろ」

 

 分散して信綱を探していたであろう、烏天狗の一人を瞬時に斬り刻むことによって、開戦の狼煙とした。




Q.なんでこんな面倒くさい状況なの?
A.ノッブが強すぎて人間に注目が集まっているから。

ということで阿礼狂いが動き出しました。阿弥の前では極力グロ画像を見せないようにかなり配慮していましたので、今が何の縛りもなく動ける状態です。
まあこの場面はぶっちゃけそんな重要じゃない。強いて言うなら阿七、阿弥、阿求の三代に仕えるはずの男が阿夢の想いまで背負い始めたくらいだ。

次のお話では色々と視点を動かしていく予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天狗の事情と阿弥の悩み

 信綱が自分に群がってくる天狗を相手に大暴れをしている頃、天魔と文は共存派の指揮を取りながら話し合っていた。

 

「申し訳ありません、あの二人を見失ってしまい……」

「過ぎたことを言っても始まらん。それにあの男は生き残るだけなら容易にこなすだろうさ。今さら並の天狗が束になっても傷一つ付けられん」

「それは過大評価なんじゃ……」

「ん、そうか。お前は気づいてなかったか」

 

 文の前で見せた信綱の武芸は天狗を無力化したことだけ。

 あの手並みには凄まじいものがあるが、それだけだ。霊力の扱いも素人っぽい彼がそこまでやるとは思えなかった。

 しかしそれを天魔は否定する。

 

「あの時、奴は一瞬だけオレに殺意を向けた。まあ向こうからすりゃ信用できないのはオレも支配派も大差ないだろうし、天狗が入ってきた瞬間にどっちを狙うかなんてわからんしな」

 

 本当に一瞬だったため、天魔も最初は襲撃してきた天狗の殺気だと勘違いしてしまったほどだ。

 だが、天魔でさえ体内の妖力を溜めて咄嗟の守りを考えるほどの殺意を放つ存在など、天狗の中にはほとんどいない。長い付き合いだけあって、そんな殺意が出せる相手は全て顔も名前も覚えている。

 つまり、あの殺意が出せる存在に当てはまるのは信綱しかいないわけで。

 その時に確信したのだ。この男こそ歴史が選んだ人間の英雄なのだ、と。それまでは概ね信じていたが、どこか迷うところがあった。

 

「オレが守りを考えたのは久しぶりだ。あんな殺意が出せて実戦で弱いなんて見たことねえ。まあ、死んだら死んだで使い道もあるが……」

 

 生きててもらった方が高い利用価値がある。死人の価値は存外に早く劣化するのだ。

 それに天魔も天狗の端くれ。強い人間には興味があるし、叶うならその武技を味わってみたいとも思う。

 天狗の長が何をと言うかもしれないが、ある種妖怪の性なのだこれは。

 その点で言うと、そういった性を持たない妖怪こそ今後の幻想郷に必要とされるのかもしれない。

 あの人間に対しても普通に付き合い、普通に仲良くなっていける、そんな存在が。

 

「……文、自分の失態だと思っているなら武者働きで返せ。お前さんは昔っから捉えどころがないように振る舞おうとして失敗するんだ。いい加減学べ」

「う、うるさいですよ! 良いじゃないですか格好良いんですから!!」

「失敗してりゃ世話ないっての。良いから行って来い。んで、あの二人を探すのも並行しろ」

「わかりました。見つけたらどうしましょう?」

 

 向こうが気づいている情報次第になる。文から信綱たちだけを狙った天狗がいたことは聞いているので、支配派の大天狗が信綱に私怨を向けているのはすぐにわかった。

 問題はそれを信綱が理解しているかだ。御阿礼の子が眠っている時に話した印象から見れば、決して頭が悪いとは思えないが、自分たちを狙う天狗の存在だけでそこまで読み取れるとは思わない。純粋に持っている情報量が違う。

 

「……向こうの意向に従え。逃げるんなら助力、戦うにしても助力。向こうもオレたちに対する信用はないだろうし、行動で示してこい」

「はいはい! では、最速の天狗の足をお見せしちゃいますよー!!」

 

 そう言ってあっという間に天魔の視界から消えていく。その速度だけは相変わらず目を見張るものがある。

 あの白くて綺麗な足に負けない要領の良さがあればとしみじみ思う天魔。根っこの部分が常識的と言うか、真面目だから妙なところで失敗したり、変に気に病むのだ。

 だからこそ信頼しているのだが。自分に対する忠誠を疑わなくて良い分、彼女は良い部下だ。

 

「さぁて、あの旦那はどう動くか……」

 

 支配派が何か行動を起こしてくるまでは読んでいた。つまり、御阿礼の子と阿礼狂いが巻き込まれることも想定の範囲内だった。

 少々騒ぎの規模が大きくなってしまったのは予想外だが、逆にここを制すれば支配派の力は皆無になるだろう。乾坤一擲の大勝負である以上、勝てば得られるものも大きい。

 趨勢もすでに決しかけている。故に天魔が考えるべきことはこの後に控えるであろう信綱との対話と、その反応だ。

 

 御阿礼の子にも危険が及んだ以上、信綱が何もしないとは思えない。それに逃げ切れないと判断すれば反撃してくる可能性もあるだろう。

 いや、妖怪の山の地理にも疎いはずだ。それならむしろ逃げずに自分たちと一緒にいた方が身を守りやすい――

 

「ああ?」

 

 疑問が浮かぶ。

 そうだ、あの時は自分が襲撃してきた天狗を一喝で吹き飛ばした力量を見せた。

 文に逃走を手伝うようにも指示した。少なくとも敵対するつもりがないことも示せたつもりだ。なのにどうしてためらわずに逃亡を選択した?

 

 信用できないだけなら良い。文に掴まって撃ち落とされる懸念もしていたし、あり得ない線ではない。

 だが、彼が自分で逃げ切れると思っていたとしたら――前提が違ってくる。

 

「そういや文に掴まらないことを選んだ時、逃げやすい道を聞かなかったな……」

 

 高いところから落ちたら人間には為す術がない。尤もな話だ。だったら文を使わない逃げ道を聞いておくべきだろう。

 今のようにはぐれる可能性に思い至らなかったわけでもないはず。

 別々に逃げる場合、それぞれが逃げ道を知っていることが前提になる。なのに向こうは聞いてこなかった。天狗の里の土地勘などあるはずもないのに。

 

「……知っていたとしたら、どこから仕入れた?」

 

 だが、信綱があらかじめ知っていたとすれば不自然ではない。その場合考えるべきは信綱に情報を渡した天狗が誰か、だ。

 そこまで考えて、天魔は背筋に嫌な寒気が走るのを自覚する。

 

 この考えが当たっている場合――信綱が持つ情報量が一気に読めなくなる。さすがに大天狗の存在にまで気づくとは思えないが、天魔が支配派の動きを意図して静観していたところまで読まれると、一気に危うくなる。

 

「椿を殺した時点で別の天狗の存在を考えるべきだったか……」

 

 そもそも椿は信綱にご執心だったと聞く。ならば彼女の周辺にいた天狗も信綱と知り合っている可能性もあったはずだ。

 誰だ? 一体どの烏天狗(・・・)だ?

 

「本当、楽しませてくれる……!!」

 

 ここまで頭を悩ませる状況というのは実に久方ぶりだ。

 天魔は行動が読めない信綱に、苛立ちと感心を等分に混ぜた感想を抱くのであった。

 

 

 

 

 

 天狗の内乱とも言うべきそれが始まった時、実はそちらに向かわなかった者たちがいる。

 大天狗の密命を受けて動く者たちだ。彼らはそれぞれの使命を帯びて、事にあたっていた。

 一つ――天魔と話している男を殺せ。

 一つ――人里を襲い、妖怪の恐ろしさを思い知らせてやれ。

 

 前者はさておき後者は行ったが最後、帰ってこれないことが確実の役目だった。

 なにせ人里の存続は妖怪にとっても至上命題だ。彼らが滅びることになれば、それこそ妖怪は死に絶えてしまう。

 故に博麗の巫女がいる。人の価値を見失った妖怪を討ち、妖怪を忘れる人々を諭す、そんな役目の存在が。

 が、彼女が動くのは事件があってから。妖怪に人間が襲われるのを予防しては、妖怪が人間に忘れ去られてしまうのだから、彼女は何かあるまで動くことができない。

 

 信綱が注目を集めるのもこの辺りが理由だ。近接戦闘に限定すれば大妖怪とすら渡り合える隔絶した力量の持ち主が、博麗の巫女のように後手に回ることなく動くことができる。

 八雲紫ですら予想し得なかった存在。幻想が終焉を迎えつつある現代に生まれ落ちてしまった、天然物の妖怪を滅ぼす人間だ。

 閑話休題。

 

 さすがに人里を襲えば博麗の巫女もすぐに気づいて動き出すだろう。人里を襲う使命を受けた天狗も博麗の巫女には手を出さないよう厳命されていた。

 彼女が死んだら博麗大結界に影響が出て、妖怪たちが甚大な被害を被ることになる。妖怪の勢力復権のための行動で、妖怪たちが致命傷を負うのは笑えない。

 故に博麗の巫女が来た時点で天狗たちの命はない。だが、その行動は決して無為になることなく、人間は無残に引き裂かれた家族を前に妖怪の脅威を思い出すのだ。

 

 天魔は気づかない。人里の中心は火継信綱であると考え、彼に対して注力しすぎているが故に、相対的に他の人間を軽視してしまっている。

 この一点において、天魔は明確に失敗していると言えた。確かに信綱は対妖怪の代表みたいな存在になっているが、人里の運営や方針そのものにはあまり口を出していない。

 つまりこの件に天魔の助力はない。何にも邪魔をされることなく烏天狗たちは人里を蹂躙できると――

 

 

 

「はぁい、センパイ方」

 

 

 

 使命感にたぎる烏天狗たちが人里の手前まで来たところで、一人の少女が現れる。

 日傘を手に持ち、飾りの多い服を身にまとうそれは、まるで舞踏会か何かに参加するかのよう。

 烏天狗という幻想郷でも屈指の存在を前に、一切の気負いを持たずに道を塞ぐ。

 

「この先は人里よ? そんな物々しい気配を撒き散らして行く場所じゃないわ」

「……新参者の吸血鬼か」

 

 彼らにも情報はあった。霧の異変を起こした際に、妖怪の山に我が軍門に下れと言ってきたことは未だ記憶に新しい。

 それが博麗の巫女以外の人間にあっさりと負けを認めることになるとは妖怪の面汚しだ、と嘲笑すべき存在だった。

 ……彼ら天狗はその言葉に踊らされ、幾人かはその新参者の吸血鬼に跪いたとしても、自分たちは違うと思っているのだ。

 

「ええ、ええ、そう。私は新参者ですもの。幻想郷の流儀にも疎いのよ」

「ふん、人間に屈した妖怪の風上にも置けぬ存在が囀るな。屋敷に篭ってネズミの生き血でもすすっていろ」

 

 人間に負けた吸血鬼など恐るるに足らず。吸血鬼――レミリアと話している烏天狗を筆頭に、天狗の集団にはレミリアへの軽視と侮蔑が存在した。

 それを知ってか知らずか、レミリアは天狗の言葉におかしそうに笑う。

 

「あはははは! ネズミの生き血ですって! あれって結構面白い味なのよ。あなたたちも試してみる? 意外とハマっちゃうかもしれないわよ」

「天狗を愚弄するか!」

「あら、わかっちゃう? ふふ、頭は烏じゃないみたいね」

「貴様……!」

 

 くすくすと笑うレミリアに膨れ上がった天狗の殺気がぶつけられる。

 それすらも心地良さそうに受け流し――醜悪なものを見る目に変わる。

 

「ヌルい。そんな目的のついでに殺すような意識で私を討つ? ハッ、舐められたものだ」

「事実だろう。人間に負け、人間に媚び、人間を守ろうとする妖怪の面汚しが」

「否定はしないわ。でも私は誰とも知れぬ妖怪の在り方よりは、私自身のプライドに背かない生き方をしていく。今までも、これからも」

 

 レミリアも今の自分を幻想郷に来る前の自分に伝えたら、鼻で笑われるだろうという自覚はあった。

 まさか人間の言うことを聞いて、人間の集落を守ることになるなんて予想すらするまい。

 だが――眼前の醜い烏天狗どもと同類であるよりはよほど清々しい。

 

 

 

「第一――私の敗北がお前たちの強さの証明になどならないだろうがっ!!」

 

 

 

 レミリアの身体から妖力が溢れ出る。

 地にヒビが入り、風が吹き荒れて木々が悲鳴を上げる。

 天敵である太陽光すら侵食してしまうと錯覚するほど、その妖力は禍々しく美しい。

 物理的な重圧すら伴うそれは、天魔や鬼に勝るとも劣らない。

 日傘を投げ捨て、片手に魔力の槍を持ち、夜の女王は薄く微笑む。

 

「約定は守る。悪魔は交わした契約を破らない! さあ、ここから先は死地と心得ろ!! 

 紅い悪魔――レミリア・スカーレットがお前たちの相手だ!!」

「な、めるなぁ!!」

 

 天狗と吸血鬼。

 東洋と西洋を代表する妖怪が、片や人間を襲うために。片や人間を守るために。それぞれの持つ妖力をぶつけ合い、局地的な嵐を生み出すのであった。

 

 

 

 

 

「……あの、椛、さん」

 

 信綱が出て行った後、残された椛と阿弥は食卓に戻ってお茶を片手に時間を潰していた。

 椛は別に信綱のことをさほど心配していないが、阿弥は別だ。

 信綱のことを信用も信頼も、それこそ自分の全てを委ねても良いほど大切に思っている存在が、危険な場所に赴いているのだ。心配でないはずがない。

 が、それで心配しすぎて倒れるのもよろしくない。主に椛の生命的に。

 彼も罪作りな人です、と椛は良くも悪くも強すぎる人間を思って苦笑してしまう。

 

「はい、なんですか? 阿弥ちゃん」

「父さん……信綱さん、とは知り合ってどのくらいなんですか?」

 

 はて、どうして父から名前を呼ぶのに変えたのか、と椛は内心で首を傾げながらも阿弥の疑問に答えるべく口を開く。

 

「そうですね……十にも満たない頃だとは思いますけど、正確な年齢は知りませんね。私はとある烏天狗の紹介で彼と知り合いました」

「阿七の頃からって本当だったんだ……。じゃ、じゃあ子供の頃の信綱さんってどんな感じだったんです?」

「変な人でした」

「は、はあ……」

 

 机から身を乗り出した阿弥に椛は一言で幼少期の信綱について話す。

 阿弥は思わず席に座り直してしまうくらい、その言葉には実感がこもっていた。

 

「彼が山に入ってきたのは稽古のためなんですけど、水を吸うように物を覚えていきましたし、どんなに無茶苦茶な内容でも文句一つ言わずにやってました。まだ子供の彼が、ですよ?」

 

 ちなみに今はなんとも思わない。なんかもう人間とか妖怪とかの括りで考えるのがバカバカしくなった。

 

「それに口を開けば阿七様阿七様。ええ、なんでまだ付き合いが続いているのか私が知りたいくらいです」

「そ、そうなんですか……。信綱さん、私や阿七にはそんな姿を見せませんから」

 

 射命丸と話している時の姿や、今みたいに椛と話している姿。いずれも阿弥が初めて見る信綱の姿だった。

 自分の前では優しく頼れる姿しか見せない信綱が、素の自分をさらけ出している。

 そう思うと、胸の辺りが締め付けられたような心地になるのだ。

 

「……あの、あなたが何を思っているのか正確なところはわかりませんけど、そんな良いものじゃありませんよ? 全く優しくないですし、容赦もありませんし、知り合って間もない頃は警戒心の塊みたいな人でしたからね」

「それでも私の知らない信綱さんは新鮮です」

「ううん……」

 

 困ったように椛は耳をかく。今でこそ椛にはそれなりに優しい姿を見せるようになったが、昔は結構酷かったのだ。

 稽古をつけていた椿だって隙さえあれば本気で殺そうとしていたし、稽古の時は椛の手足が何度切り飛ばされても手心を加えてくれない。

 あの姿を阿弥に見せないのは当然だろう。仕える主に綺麗な姿を見ていただきたいと思うのは、誰かに仕える人なら多かれ少なかれ抱くことだ。

 

「……羨ましいんです」

「え?」

「私や阿七の知らない信綱さんを、椛さんが知っているのが羨ましいんです。どうしてそう思ってしまうのかはわからないんですけど……」

 

 自分でも変なことを言っている自覚はあるのだろう。肩を縮こまらせてしゅんとしている阿弥に、椛はなんと声をかければ良いのか悩んでしまう。

 

(この子、どう見てもあれですよね……?)

 

 いやしかし椛から見てそうだと思えても、実際のところは違う可能性がある。阿弥が答えを見つけていない感情を、椛が勝手に名づけて良い道理はない。

 だが、信綱に対して父親とは違う感情を持ちつつあるのは確かだろう。ひょっとしたら過去の御阿礼の子が誰も持ったことのない、特別なものを。

 だとすればなおさら阿弥自身が見つけるべきだ。椛は相手を見ることに長けているが、その心まで見透かすことはできないのだから。

 

 それはさておきこの状況、放置したら信綱が怖い。阿弥に肩身の狭い思いをさせたとか、問答無用で首を刈られかねない。

 椛は阿弥の持つ感情のことは一旦横に置いて、どう答えれば彼女が楽しく時間を過ごせるか頭をひねって口を開く。

 

「……阿弥ちゃんはあの人の何が知りたいんですか?」

「え……?」

「妖怪に限らず、人間というのは色々な面があるものです。阿弥ちゃんがあの人を父と呼ぶ姿と、名前で呼ぶ姿があるように。彼にもあなたの前でしか見せない姿というのがあります。私からすれば、あなたに甲斐甲斐しく仕えている彼の姿が新鮮でした」

 

 変な夢でも見ているんじゃないかと思ってしまうほどには。

 滅多に見ない本心からの笑みを浮かべ、信綱の持つ全てで奉仕しようとする姿は、ずっと友人として付き合ってきた椛が知らない光景だった。

 それを阿弥は生まれた頃より受け続けている。ただ、椛に対する姿を見て少し戸惑っているだけだ。

 

「ふふ、こうして考えてみると私の知らない彼をあなたは知っていて、あなたの知らない彼を私は知っている。それだけの話ですよ。ですから私にも教えて下さい。あなたから見た彼の良い所を」

「は、はい! えっと、信綱さんはまず……」

 

 一生懸命に側仕えであり、父親代わりである信綱の良いところを探そうとする阿弥を、椛は微笑ましく見つめる。

 御阿礼の子と言うから身構えていたのだが、何の事はない。ただの可愛らしい少女ではないか。

 

「まず阿七の時にどう見ていたかから話した方が良いですよね!」

「え? ちょっと待って、それって三十年ぐらい前からじゃ――」

「あの頃の信綱さんは阿七に仕えられることが本当に幸せだったみたいで、もう話し相手になっているだけでずっと笑っていたくらいなんです! それに阿七が抱きつくと嬉しそうにするんですけど、ちょっと悔しいみたいな顔になってそれがまた可愛くて阿七はさらに信綱さんを可愛がって最終的には照れながらも嬉しそうな信綱さんも応えてくれるんです! でも私がやっても慣れちゃったのか全然動じないんですよどうしたら良いです!?」

「え、えっと……」

 

 踏んじゃいけないものを踏んでしまったようだ。

 阿弥が瀑布のように語る信綱の良さに、椛はすっかり圧倒されてしまうのであった。

 

 

 

 一頻り話が終わると、阿弥はやりきった顔でお茶をすする。

 その様子を聞き役に徹し続けて憔悴した椛が眺めていると、不意に阿弥の顔に影が差す。

 

「……初めてなんです」

「……何がですか?」

「子供の時からずっと、御阿礼の子と一緒にいてくれる人は。それも阿七の頃からなんて」

「…………」

 

 椛も信綱から多少なりとも聞きかじった覚えがあった。火継の家では月に一回の総会があり、そこで最も強いと証明した者が側仕えに襲名できると。

 ……実際、一月やそこらで頂点がコロコロと変動するような力関係が団子の一族ならとうに滅んでいるので、側仕えになる者は相応以上に強いのだろう。

 その中で信綱は最強を得続けている。椛が会うより前、僅か六歳の時から。

 

「阿七の時は可愛い弟でした。小さくて、一生懸命に背伸びをしていて、でも甘えてきて。あんな子供が側仕えになるなんて初めてだった」

「それはまあ……そうですよね」

 

 普通の子供は並み居る大人を薙ぎ倒したりはしない。椛は初めて会った時に構えた盾を小太刀の一突きで割断されたことを思い出し、身震いする。

 しかしあの可愛げのない少年にも誰かに甘えるなんて真っ当な心を持っていたのか、と椛は阿弥の意図している箇所とは違うところで驚いていた。

 

「阿七が終わる頃には逆に私が甘えてしまうくらい大きくなって。あの時は弟の成長を喜びながら死ぬことができた。じゃあ――私はどうすればいいんだろう」

「……阿弥ちゃん?」

 

 湯呑みに揺らめく波を眺めながら、阿弥はポツポツと心情を語っていく。

 決して信綱に明かすことのできないそれに、椛はどこか戸惑いを覚える。

 

「阿七の時は姉と弟だった。今は私が子供に、あの人は大人になった。阿七の記憶とは全く別の素敵な人。椛さん――私があの人に抱いている感情は娘が父に抱くものなんでしょうか?」

 

 決定的なそれを聞いて、言葉に詰まる椛。

 対する阿弥は胸に手を当てて、自分の感情を確かめるように瞑目している。

 

「寺子屋に通っていた時はそれに疑問なんて覚えなかった。こんな気持ちになり始めたのは縁起の資料集めを開始して、信綱さんを伴って妖怪の領域に行き始めてから」

「…………」

「普段は父さんと呼べるのに、たまにそう呼びたくない時がある。子供みたいな反抗期、なんでしょうか」

「――阿弥ちゃん、私はあなたの質問に答えてあげることはできません。それを答えてしまったら、あなたにも彼にも不誠実です」

 

 自分の気持ちを再確認するようにつぶやく阿弥の言葉を遮り、椛は真っ直ぐに阿弥を見る。

 ただの可愛い子供というのは訂正だ。彼女は確かに幻想郷の長い歴史をその目で見届けてきた御阿礼の子で――だからこそ普通の人が当たり前のようにすることに疎すぎるのだ。

 罪作りな人だ、と椛は阿弥のために戦っているであろう信綱に嫌味を言う。

 彼自身もそうだが、彼が持ち込む人も物も面倒なものばかりだ。自分は彼みたいに面倒な人に好かれることはないと思っているのに。

 

 それでも阿弥が本心からの悩みであると理解し、ちゃんと誠実に向き合おうとしてしまう辺り、椛も信綱に負けず劣らず厄介事を背負い込んでしまう性質なのだが、自分のことは存外にわからないものだ。

 

「あなたの悩みはあなたにしか答えが出せません。私は色々なものが見えますが、人の心は覗けません。

 ――でも、相談に乗ってあげることはできます。誰かに話すことで見えてくるものもありますから」

 

 一度言葉を切って、お茶を口につける。呆けたように自分を見上げる阿弥の視線がこそばゆい。

 なんだか急に恥ずかしくなってきてしまい、椛は赤くなった頬をごまかすようにかきながら、言葉を続ける。

 

「まあ、ですから、その……私みたいなしがない天狗で良ければ、今後もお話しましょうか? 今のあなたに足りないものは彼以外の人と、幻想郷縁起の編纂とかでなく話すことだと思います」

「……そう、なんでしょうか? よくわかりません」

「わからない、というのが証拠ですよ」

 

 首を傾げる阿弥に少しおかしくなり、小さく笑う。

 彼女には当たり前の時間が足りていないのだ。幼年の頃は信綱が遊ばせていたかもしれないが、今のように情緒が発達してくる頃の感情には思い至らなかったらしい。

 きっとこれまでの御阿礼の子なら不要だったのだろう。肉体が弱い、縁起の取材に危険が伴い続けた、などの要素が彼女を当たり前の感情から遠ざけた。

 

 それに御阿礼の子の転生周期はもっと長いはず。一度転生してしまえば人間関係も全て最初からになる。先代の御阿礼の子の大切な人と、もう一度付き合うことになるなど異例の事態のはずだ。

 つまるところ、何もかもが例外まみれ。それは信綱を取り巻く妖怪たちの情勢だけでなく、このちっぽけな少女にも適用されていたのだ。

 

「今はお話しましょう。私からは……そうですね、あなたが生まれる前の彼を話しましょうか」

「……! 是非お願いします!」

 

 机を乗り出すほどの食いつきを見せる阿弥に微笑みを深め、椛は彼女が好みそうな面白い話を思い出していくのであった。

 

「そうですね、ではあの時の話などを……」

 

 

 

 

 

「……うわぁ」

「……お前か」

 

 そして一方、文は幸か不幸か信綱の発見に成功していた。

 

「……死んでません?」

「妖怪は死んだら死体が残らないだろう」

 

 

 

 ――但し、ずたずたに斬り裂かれた同胞の血で地面を赤く染め上げている中心で、だが。

 

 

 




皆いろいろ考えて動いています。なおノッブは細かい思考を全部ぶん投げて大天狗目指して無双していたためカット。

何気に椛の存在がノッブにとってかなりの鬼札であったり。御阿礼の子を預ける決断ができるほど信用していて、なおかつ千里眼があるから情報にも困らないという、サポートやらせると鬼のような性能を発揮する子です。
天魔もノッブの友人天狗の存在に思い至り、阿弥は椛を頼れるお姉さんとして見始めている。本人の知らぬ間にド級の面倒事を呼び込みつつある椛の明日はどっちだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騒乱の終結

「なんの用だ」

 

 血糊を払い、信綱は手近な崖に跳び移って口を開く。

 下に見える赤黒い血の海は、彼が妖怪を殺していないからこそ見られる光景だ。

 本当に死んでいるのなら血も肉も全て塵に還ってしまい、残るのは服や武器だけとなる。

 

 そう考えれば、血だらけの肉塊がうごめいている光景はまだ手心を加えた方なのだ。

 文はそれを知ってか知らずか、口を引きつらせているが。

 

「……ここまで何人斬ってきました?」

「さあな。途中で再生した奴らも斬ってきた。正確な数字は知らんが、二十、三十、ひょっとしたら五十程度だろう」

「程度って……」

 

 行儀よく一対一の戦闘が続いたわけでもないだろう。にも関わらず信綱は返り血一滴浴びず、傷もついていない綺麗な姿のままで、息すら切らしていない。

 霧の異変の時とはまるで別人だ。椿は確かに烏天狗の中では腕が立つ方だったが、それにしたって同族をまとめて相手取れるかと言われたら無理がある。

 今の彼と戦ったら、自分でさえ危ういかもしれない。文は天魔の言葉が正しいことを実感すると同時、眼前の信綱に対する恐れを深めていく。

 

 僅か四人で鬼を征伐せしめたかつての英雄と、この男はほぼ同種だ。

 運命か何かの悪戯としか思えない存在。増長した妖怪を殺し尽くす、蹂躙された人々の願いの具現。

 

(放置したら間違いなく手が付けられなくなる。天魔様は見抜いておられるのでしょうか……)

 

 下手に野放しにしていると、彼の牙は自分たちに向くかもしれない。それがわかっていて天魔は信綱への協力を決めたのだろうか。

 いいや、自分が感じる程度のことを天魔が気づいていないはずがない。飄々としているようでいて、その実誰よりも知慧を張り巡らせる人だ。

 自分を遣わせたのだって何かしらの意図があるだろう。それを独断で放り投げるには、この男は危険が多すぎる。

 藪をつついて蛇を出すどころではない。藪をつついて鬼が出るようなものだ。

 

 この時、文はようやく天魔の言葉の意味を理解した。

 すなわち――自分の言葉が天狗の代表である、ということだ。

 迂闊な言動は彼からの敵認定を受けかねない。これを受けるということは、天狗にとって大打撃を受けるに等しい。

 すでに烏天狗を数十人、無傷で無力化に成功している。その気になれば殺すことも容易いだろう。文も手傷は負わせられるだろうが、勝てる光景までは描けない。

 

 椿を討った時の彼はまだ厄介な相手というだけの印象だったのに。いつの間にか手が届かない領域に至っている。

 人間の成長速度はどれだけ恐ろしいのか。幻想郷が外界と隔離されて以来、初めて文が人間に心からの恐れを抱いた瞬間だった。

 

「どうした、何か言え」

「あ、ああ! いえいえ、お困りでしたら協力するようにと天魔様から命令されてまして! えっと、御阿礼の子はどこに?」

「……安全な場所だ。とりあえず俺に向かってくる天狗を斬っていたらお前が来た」

「あやや、そうでしたか。とにかく合流できて何よりです」

「…………そうだな」

 

 信綱の文を見る目は鋭く、冷たい。変な素振りを僅かでも見せたら、その時が文の最期になるのがありありと読み取れた。

 限りなく黒に近い灰色という認識なのだろう。こちらが対話の姿勢を示しているから攻撃はしないだけで、文は実に危うい綱渡りを強いられているのがわかった。

 

「ともあれ、これからどうされます? 天魔様からはあなたの意向に従うように言われました。今この一時、あなたが私の翼の主です」

「……大きく出たな」

「それぐらい天魔様はあなたを重要視されていると思っていただけると」

「…………」

 

 文の申し出に信綱は思考の姿勢を見せながら、崖をヒョイヒョイと跳んでいく。

 天魔や文らが信綱に対して持っている情報の程度と、実際に信綱が握っている情報量の差異を考えているのだ。

 

 まず、椛の存在にたどり着かれることは絶対に避けたい。千里先を見通す能力も、阿弥を預けても良い人間性も、信綱にとって奇跡とも呼べる存在なのだ。

 彼女がいるから阿弥を預けたまま戦う選択ができ、なおかつ目的の相手の元までほぼ一直線に向かえる。

 バカ正直に支配派の大天狗の元に向かっていますと言えば、天魔なら容易に自身と繋がっている天狗の存在にたどり着くはず。

 かといって阿弥の安全確保のために闇雲に戦っていたと言っては、文を阿弥の元に連れて行かない理由がない。文は阿弥が今、一人で震えていると思っているはずだ。

 

「……ありがたい。こちらも合流したいと思っていたところだ。なるべく派手に攻撃していれば、いずれ気づいてもらえるだろうと考えて、わざわざ殺さないでおいたのが功を奏したか」

 

 色々と考えた結果、とりあえず文の協力は快く受けることにした。味方をすると言っているのだから、無下にするのは余計な疑いを持たせるだけだ。

 受容、拒絶、どちらを選んでも痛い腹の探り合いになる。だったらせめて使える手足が増える方がマシである。

 椛がもう一人いれば間違いなく彼女を選んでいた。あいつ、分裂したりしないだろうか。

 益体もないことを考えながらも、足は動いていく。天狗を殺していないため、あまり一処に留まれないのだ。

 

「――阿弥様の安全が最優先だ。そのためにも俺はこの争いを一刻も早く終わらせることが最善と判断した。何か異論はあるか」

「いえ、ありません。正直、何が正しいかなんて終わってからでしかわからないでしょう」

「そうだな。こうして話す時間も惜しい。――此度の騒動の首魁を教えろ。その首を以って終わらせる」

 

 口ではそう言っておく。ほぼ一直線に動いていたこともまだバレてはいないだろう。もし何か言われても敵の来る方角に向かっていたと言えばごまかせる。

 それに争いの元はさっさと倒してしまうのが一番であるとも考えているので、全部が全部嘘というわけではない。脅威から逃げるより倒してしまった方が良いのは当然の話だ。

 

「え、えぇ……本気ですか?」

「お前に嘘をつく理由があっても、冗談を言う理由は見当たらんな」

 

 それに勝てるかどうかが問題ではない。御阿礼の子を害して、御阿礼の子が倒してくれと願った。

 ならば信綱のやるべきことなど決まっている。あらゆる手を尽くして敵は排除する。それだけの話だった。

 

「……正確な場所までは掴めてませんが、恐らく頂上付近の屋敷にいるかと」

「そうか。だったら山の上を目指せば良いわけだ」

 

 崖を登り切り、信綱は空の上からまたやってくる烏天狗の群れを見据える。

 文もいることによって、こちらに群がる敵の数はさらに増えたように感じられるが――所詮は雑兵。

 

「お前は距離を取るやつを狙え。向かってくるやつは全て俺が受け持つ」

「……あんまり殺さないでくださいよ? 意見の相違で争っているとはいえ、同僚なんで」

「お前たちを敵に回す趣味はない」

 

 組織に属している存在はこれが面倒くさい。個人で見れば殺した方が圧倒的に楽でも、殺せない場合が出てきてしまう。

 信綱を狙うということは、阿弥に対して悪影響を与えるということだ。その時点で皆殺しにしたいくらいなのだが、すると後が面倒くさい。

 短絡的に動いて阿弥が悪い状況になることは最も避けねばならない。

 

「はっ!!」

 

 上空からの急降下。そこから繰り出される脳天目がけた神速の突き。天狗の速力が存分にこもったそれは、人間など容易く粉々に砕く暴威を持つ。

 しかし信綱は左の刀で弧を描いて容易く受け流す。

 目を見開く天狗に、こいつは俺が斬った奴ではないなと思いながら、ひねった身体の反動を利用した右の長刀で胴を薙ぎ払う。

 

 信綱が一度でも斬り、そして身体を再生させた天狗は皆距離を取りたがる。おかげで倒すのが少々面倒になりつつあった。文が来てくれたのはなんだかんだありがたい。

 思考と肉体は分離し、肉体は正確無比に動いて上半身と下半身が分かれたところに斬撃を奔らせ、手足をさらに飛ばして首も落とす。

 これに心の臓も破壊すると、これまで撒き散らした臓物や血反吐が綺麗に消えてくれる。

 

 が、時にこれらは殺さない方が役立つ場合もある。信綱はバラバラにした烏天狗の上半身を長刀で引っ掛け、向かってくる烏天狗に放り投げた。

 

「そら、傷つけたら死ぬかもな」

「っ!?」

 

 仲間を投げられ、避けるか受け止めるかで迷う烏天狗。その一瞬があれば、信綱は相手の無力化ぐらい容易に行える。

 投げられた胴体に隠れて一息に天狗の側面まで移動。驚愕に顔を染める前にその首に刃を通す。

 血しぶきが舞い、周囲を赤く染めていく――前にその柔らかい腹を蹴り飛ばしてしまう。

 自分の衣服に血がつくと、帰ってきた時に阿弥に心配されかねない。

 

 瞬時に二体を無力化し、次の獲物を見据える。空からは信綱を狙った天狗が天狗火や天狗礫。天狗団扇を使った疾風などが準備され――

 

「役目を果たせ」

「はいはいっと! 幻想郷最速を自負するこの私、射命丸文におまかせあれ!」

 

 自称か、と内心でツッコミを入れる。どうも妖術には予備動作があるらしく、何度か見ていたので何がどんな予兆なのか完璧に読み取れるのだが、対応が面倒なのは変わらない。

 なにせ信綱には遠距離攻撃の手段が皆無だ。剣で近づいたものを斬れば良いという思考しかなかったので、こういった開けた場所で空を飛べる相手と戦うのは不利極まりなかった。

 

 まあ――不利なら不利でやりようもあるのだが。

 

 文は見たところ並の烏天狗とは一線を画する速力を利用した打撃重視の戦い方だ。時に天狗団扇の柄で、時に体術で。

 風すらも置き去りにする速度で空を自由に動く彼女は、術を組もうとする天狗を阻んではその風で地に堕としていく。その速度たるや一陣の風、または彼女の言う通り、幻想郷最速が嘘ではないと思ってしまうほどのもの。

 

「なんだ、意外とやるじゃないか」

 

 地上に来た天狗を一掃した信綱は軽い驚愕とともに空中の文を眺める。

 信綱みたいにさっさと斬ってしまえば手っ取り早いのだが、それをしないのは彼女なりの矜持か、はたまた同族への配慮か。

 左の刀を適当な天狗から奪った刀に変えていると、文が地上に降りて山頂の方角を指差す。

 

「こちらに行けばもうすぐです。意図してかは知りませんけど、あなたはかなり騒動の中心部分まで来ていたんですよ」

「そうかい。……天魔は来るのか?」

「わかりませんけど、指揮官がホイホイ来ることはないと思いますよ?」

 

 それを言ったら信綱はどうなるのか。有事の際の指揮官も兼ねている信綱は、微妙な顔で文の言うことにうなずく。

 

「……初めて天魔がうらやましく思える」

「? 何かありましたか?」

「……なんでもない」

 

 やっぱあいつは敵だ、と信綱は些か以上に私心の混ざった思いを天魔に抱くのであった。

 

「時に。俺は首魁を殺すとは言っているが、お前たちはそれで良いのか?」

「私はあなたに助力するよう言われましたし、天魔様もあなたが動くことを予測されていたようです。まあ、これだけの騒動を起こした相手ですから、私が先についても天魔様が先についても、結末は同じかと」

 

 要するに処分は不可避なので、誰がやっても同じということだ。

 文もその場に居合わせたら信綱と協力して大天狗を無力化、ないし討伐する必要が出てくる。

 この騒動だけならまだ降格処分ぐらいで済まされたかもしれないが、天魔を暗殺しようとした一件は擁護できない。

 禅譲ではなく放伐を行おうとした時点で、失敗すれば死ぬ定めは確定している。

 

「…………そうか」

 

 文の答えに軽く首肯しつつも、信綱は今しがた生まれた疑問が頭を占めていた。

 信綱が大天狗を殺す大義名分ができたのはまあ良い。どうせあってもなくても阿弥を害した時点で殺すことは決定しているが、それによって生まれる確執は少ないに越したことはない。

 

 

 

 だが、動くことを予測していたとはどういうことだ?

 

 

 

 自分がこうして戦いに赴いているのは、阿弥を預けられるほど信頼できる天狗の椛がいるからこそ。いなければさっさと退却するつもりだった。

 戦うことが予想されていた? ということは――そもそも何かあることに気づいていた? 支配派が動くことを見抜いていたというのか?

 疑問が思考を加速させ、加速した思考が天魔への疑惑を深めていく。信用はこれっぽっちもしていないが、同時に天魔という存在が決して軽視してはならない相手だという点においては、彼を信頼していた。

 いや、そもそも――支配派の不満が溜まっていることはわかっていたと言っている。そこに自分たちという火種を入れれば何かしらの行動があることくらい、彼ならわかるだろう。

 

「…………」

 

 無言で文を見やる。天魔は信綱たちが危険な目に遭う可能性を感じながら黙認したのなら、彼女はどこまで天魔の事情を知っているかが問題だ。

 信綱へ恩を売るため、純粋に助力だけをするのか。それとも信綱が不穏な動きを見せた場合の監視役なのか。

 恐らく両方。信綱が何かしない限りは味方であり続けるが、それが終わった場合は容易く敵に回る。

 

 最悪の場合、大天狗を倒した後に天魔と文を相手取る必要性が出てくる。自分はまだしも、阿弥を危険に晒した時点で抹殺対象だ。

 真偽を確かめねばならない。今、阿弥のためにやるべきは無傷で大天狗を殺すことだ。天魔たちを討つことはまた別の話。

 

「あやや? 私の美顔に見とれてどうされました?」

「……お前を見ていると椿を思い出すから鬱陶しいと思っただけだ」

 

 不思議そうにする文に、あながち嘘でもないでまかせを言う。

 文は椿と違って飄々としているっぽく見せているだけだし、根っこの方もぶっ飛んでいないが、なぜか見ていると椿を思い出すのだ。

 風を操り自由に空を舞う彼女の姿に、幼い頃に見た椿を幻視したのかもしれない。

 

「ふむん? 私と彼女、そんなに似てます?」

「……ふん、気の迷いだろうよ。それより急ぐぞ」

 

 過去の椿を美化して、文に重ねたなど言えるはずがない。

 そんな愚かなことを考える暇があるなら、これから刃を交える大天狗に対しての予測でも立てていた方が余程マシだ。

 信綱は文の先導を受けながら道中の敵を時に翼を斬り、時に首を落とすことで退けながら、大天狗の邸宅へと向かうのであった。

 

 

 

 

 

 翼が疼く。

 大天狗は一人、邸宅にて盃に酒を注ぐ。

 この家には自分と志を同じくする者たちが集まっていたが、すでに皆出払っている。

 戦況は劣勢。遠からず天秤は天魔の側に傾き、自分は反乱の首謀者として死が与えられるだろう。

 

 翼が疼く。

 それ自体に文句はない。人間とは容易くうつろい、愚かで、過去から何一つ学ばない愚劣な生物だと大天狗は心から思っていた。

 故に優れた種族である天狗が支配し、導くことが人間たちの脆い幸福を永遠のものとして、なおかつ天狗の栄華も享受できる唯一無二の方法だと信じた。

 対話と嘯きながら、今なお人里に救援の一つも寄越さない、結局のところ人間を軽視しているのは自分たちと大差ない天魔に天狗を任せることはできないと感じたのだ。

 しかし負けたとあらば是非もない。時代は勝者が作るものであり、敗者は悪として消え去るのみ。選んだ道に後悔はないが、続かないことは残念だ。

 

 翼が疼く。

 だからこその反乱。

 もっと早くに天魔が道を定めていれば、これほど不満を持った天狗は集まらなかった。不満を見抜いていながら人間を招き入れるなどという博打をしなければ、ここまで騒乱の規模が膨れ上がることもなかった。

 とはいえ趨勢は決まりつつある。もう戦力として動ける天狗も少ないだろう。彼らがいかに奮闘したところで、大きな流れを変えるほどにはなるまい。

 

 翼が疼く。

 もはや過ぎたことに興味はない。天狗の行く末も、残った敗残者の始末も、勝者が好きにすれば良い。その場に自分はいないだろう。

 ああ、だが、一つだけ。ただ一つだけの心残りがあるとすれば――

 

 翼が疼く。

 盃に注ぐ酒は生涯で最も強く、最も上等な酒だが、あの日以来胸にくすぶる熾火を忘れさせるには至らない。

 足音が耳に届く。配下の天狗ではないだろう。道を知らず、ところ構わず剣で切っていればいつか目的の相手に会える。そんな動きだ。

 ――待ち侘びた。

 

 眼前の襖が切り開かれる。斜めに覗くその存在――二刀を携えた人間を目にした時、すでに完治している翼の付け根が燃えるように熱を持つ。

 

「お前が首魁か」

 

 言葉は短く。目は無為無価値を高らかに謳い、大天狗の存在意義、理由、全てを考慮しないことが一目でわかる。

 

「――いかにも」

「そうか。――死ね」

「貴様がなぁっ!! 小僧!!」

 

 背に回してある大太刀を振り上げる。天狗の膂力、速力、大天狗として持ち得た力を存分に使った一撃。

 斬撃の圧に畳が耐えかね、人間――信綱に届く前にその身体がぞぶりと裂けていく。

 その必殺の攻撃を、信綱は未来でも見えていたとしか思えない反応で距離を取り回避する。

 ああ、この時だ! この瞬間だ! この刹那を待っていた!!

 

「お前が来るのはわかっていたぞ……! 翼の疼きが酒精でごまかせぬほどになっていた! あの日の屈辱、一瞬足りとも忘れてはおらん!!」

 

 今まで語ったこと――全てが建前だ。

 天狗の行く末を憂いていたことも、叶うならば自らが天狗を導いていきたいと思ったことももちろん、嘘ではない。嘘ではないが、眼前の怨敵には及ばない。

 

 結局のところ――あの日、翼を斬られた怒りと狂気だけがこの大天狗の原動力だったのだ。

 

 そんな数百年、ひたすらに煮詰め続けた怒りと憎悪を信綱は涼しい顔で受け止め、くだらないとばかりに大仰なため息を吐く。

 

「ふん。たかだか数百年前の怒りだろうが、つまらん」

 

 なにせこちらは阿礼狂い。稗田阿礼の時からひたすら彼女たちに狂い続けてきた一族。

 短い人の一生を狂気の只中で過ごし、次代に継承し続けてきたのだ。

 密度が違う。深度が違う。長さが違う。一人の存在が数百年恨み続けた程度(・・・・・・・・・・)で阿礼狂いと同等など自惚れに過ぎる。

 いいや、そもそも敵と認めたならばさっさと殺すべきなのだ。問答など馬鹿げている。

 

「――チッ」

 

 文がいないのが面倒だ。彼女は信綱と文の二人で進む途中で引っ掛けまくった烏天狗たちの対応に追われている。味方が近づいているとも言っていたので、しばらくすれば増援も来て終わりだろう。

 おまけに刃を交えてわかった。この大天狗、相応以上に腕が立つ。このまま戦えば勝てるだろうが、かすり傷の一つぐらいは負うかもしれない。

 

 この大天狗の死はすでに決まっている。ここで信綱が殺さなくても外の天狗を片付けた文が殺すか、数の暴力で捕まったところを天魔に処刑されるか。どちらにせよ生き永らえる道はとうに潰えている。

 さて、阿弥の願いである無傷での勝利と、多少の傷など無視してでも敵を排除したい信綱の願い。優先すべきはどちらか。

 

 そんなもの、考えるまでもない。

 

「――」

「ぬんっ!!」

 

 振るわれる剛剣を右の長刀で受け流し、距離を取る。信綱が動きやすい狭い空間。その気になれば壁だろうと天井だろうと足場にできる。

 薙ぎ払いを屈み、振り下ろしを横に跳んで避ける。速度、膂力、技量、どれも大したものだが、守勢に入っていれば脅威にはならない。

 

「戦え!! 儂に臆したか小僧!!」

「――」

 

 剛剣を振るう手が一つになり、残った手が信綱を掴みとろうと魔手を伸ばす。

 それすらも信綱には届かない。ひらりと身体を翻し、ひらひらと紙のように大天狗の手から逃れる。

 豪、と音を立てる大天狗の空間は小さな嵐のようだった。暴虐の風が吹き抜け、入ろうとする矮小な人間など容易くちぎれ飛ぶ。

 

「――ふむ」

 

 それらを与し易い、と信綱は思考する。武器破壊、双手の破壊。どちらもさほど難しくはない。

 すでに数分は経過している。大天狗の動きもおおよそ理解できた。

 さて――終わらせるか。

 

 信綱が守勢に回っていたのは無傷で勝てる自信がなかったからであって、その不安が解消されたのなら無為な時間を過ごす理由など消えてなくなる。

 胸の中心を抉るように突き出された太刀を長刀で払い、身体を前に倒す。

 払った勢いそのままに振り下ろされる太刀に左の刀を合わせる。

 

 鋼に鋼が食い込む硬質な音。一瞬の抵抗の後、ズルリと大天狗の振るう大太刀の刃は根本から床に落ちる。

 

「っ!」

「――」

 

 驚愕の時間は与えない。武器を破壊しても相手は妖怪。素手で容易く人を引き裂くことができる。

 長刀が大天狗の太刀を持つ腕を切り落とす。左の刀で残った腕を落とそう刃を滑らせ――食い込む。

 

「――ッ!!」

 

 信綱の狙いを読んだのか、腕で刀を掴み取られたのだ。

 それでも刃は手のひらから肘の半ばまで食い込み、もはや手としての用途を果たさない。

 一瞬の硬直。次の瞬間には刀から手が離れ、自由になった両手での斬撃が大天狗の首を落とす。

 だが一瞬あれば妖怪が人間を殺すことなど容易で――

 

「獲った――」

 

 張り裂けるような笑みを浮かべた大天狗の顎が、信綱の喉笛に食らいつこうと近づいていく。

 何かが裂ける音、ブチブチと不快な何かが引きちぎれる音を立て、血が吹き出したのであった――

 

 

 

 

 

 ――口に刃を受けた大天狗が。

 

 

 

 

 

「ぁ……」

「――」

 

 信綱は無傷。ただ、大天狗の口は着物の襟を荒く食いちぎっただけだった。

 とはいえ肝を冷やした。妖怪の底力を見くびっていたと言われても文句は言えない結果だ。

 口に突き刺した刀の柄を両手で持ち、渾身の力により斬り上げられ、振り下ろされる。

 

 一刀両断され、二つに崩れ落ちようとする肉体にさらなる追い打ちが無尽に刻まれていく。

 首、胸、腹、腰、腿、膝。長刀一振りによって一瞬でバラバラに解体された大天狗。

 もはや消滅は確定した。彼がここに存在したことを示すものは信綱が受けた返り血と、身にまとっていた服だけになる。

 

 は、と使いものにならない大天狗の口から変な音が漏れる。口内に残っていた空気が出ただけか、大天狗が本心から漏らした吐息か。

 

「――ふん、そんな目で死ぬのなら最初から戦わなければいいんだ。決着はとうについていたというのに」

 

 塵と消える僅かな時間。大天狗は闇に閉ざされつつある瞳で、自身を見下ろす信綱を見る。

 何の痛痒も感じていない瞳を見て、どこか納得した気持ちになっていくのを自覚する。

 かつて片翼を斬られて以来、ずっと侮蔑していた人間に執着していたのか、ようやく理解できた。

 

 そうか――自分はもう一度勝負がしたかったのだ。

 

 屈辱を晴らすとかそんな複雑なものではなく。ただ純粋にどちらの力が上か、挑んでみたかっただけなのだ。

 そして勝敗は決した。自分は、どうしようもなくこの一族には勝てないことが判明した。

 全力を振るい、受け止められ、そして負けた。最期に思いっきり身体を動かせたのだ。思い残すことなどあろうものか。

 天狗の行く末は天魔に任せれば良い。敗残者の天狗も悪いようにはされないだろう。

 

 

 

 ああ、うむ――実に良い時間だった。

 

 

 

 消えゆく大天狗を眺めて、信綱は自身の身体にドッと疲れが湧くのを感じる。

 要するにこの大天狗、何も複雑なことなど考えずに遊びたかっただけなのだ。

 長い時を生きたはずの妖怪のくせに――だからこそと言うべきか、降って湧いた人間の強者に群がっているだけだ。

 この騒動にかこつけて自分たちを排除するのが目的ではなく、その騒動に乗じて最後に勝負がしたかった。それがかつての屈辱やら大天狗の立場やらで複雑に見えていただけである。

 

「あやややや、清く正しい射命丸見参! さあて、人間さん、この私が来たからにはもう大丈夫――」

「終わった」

「ふぇ?」

「もう終わった。そこにある服がそうだ」

「……新種の妖怪ですかあなた? って、その血はどうしました?」

「返り血だ。これは残るらしい」

 

 服も裂け、血糊がべっとりとこびりついている。すでに衣服が吸収してしまったものは残るらしい。

 しかし傷自体はない。少々危ない場面もあったが、どうにか大天狗一体なら無傷で勝てるようだ。烏天狗一体すら倒せなかった頃に比べれば大違いだ。

 

「全く、面倒な相手だった。とはいえ首魁を倒したんだ。これで騒動も収まるだろう」

「あ、え、ええ。そうですね。後はこれを私が触れて回れば――」

「その必要はないぜ、文」

 

 声のした方に目を向けると、そこには腕を組んで佇む天魔の姿があった。

 

「今しがたオレが黙らせた。この騒動はおしまいだ」

「そうでしたか。あやや、私としたことがずいぶん真面目に働いちゃいましたよ」

「いつもそうだろうが。少し悪ぶってるだけだろ」

「そ、そんなことありませんよ! 私、幻想郷最速の烏天狗ですから! 常識なんかで私は縛れません!」

 

 文が胸を張るが、誰も彼女と視線を合わせない。信綱と天魔、この二人の文への認識は飄々としたいけど、根が真面目というもので一致していた。

 それが空気でわかったのだろう。部屋の隅でさめざめと影を背負い始めた文を尻目に、信綱は天魔を見る。

 

「……あんだけ一緒にやってきたってのに、呆気ないもんだな。ったく、ここまで不満だったとはね。オレも耄碌したか」

 

 死体の代わりに残された持ち主のいない服を見つめ、悪態をつきながら大天狗の死を悼んでいた。

 だが、こちらに目を向けた時には大天狗への感情は消え、天狗を統べる天魔としての姿に戻っている。

 

「そちらには迷惑かけた。まさかオレもこうなるとは読めてなかった」

「――」

 

 信綱は無言のまま、天魔に刃を突きつける。その眼差しは大天狗に向けたものと同じ、透徹な殺意のみで構成されていた。

 

 

 

 

 

「――阿弥様の敵は死ね」




吸血鬼退治
大天狗殺し←new!

※なお状況次第では天魔殺しの称号も得ます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一時の休息

「やっと家に帰ってこれたー! 長かったー!」

 

 阿弥は家の前に立つと、大きく伸びをして身体の疲れをほぐす。

 そして信綱の方を振り返り満面の笑みを向けてくる。

 

「父さんのおかげね! 天魔様や文様から聞いたの! 父さんがすっごい頑張ったって!」

「お褒めに与り光栄です。ですが阿弥様を泣かせてしまい、本当に申し訳ないと……」

 

 椛の家に戻った時、返り血を浴びて服が破けた信綱の姿を見て、阿弥が泣き出してしまったのだ。

 何も知らない人が見れば、それは胸が抉られて重傷のようにしか映らないだろう。

 無傷で戻ってきたにも関わらず泣かれてしまい、信綱はかつてないほどに動揺したものだ。

 横で見ていて、信綱のそれが傷じゃないことに気づいた椛が大笑いしてしまうほどに。

 

 ちなみに信綱は阿弥を心配させたことを詫びようと腹を切ろうとして二人に止められた。

 

「いいよ。あれだって私が勘違いしちゃったのが悪いんだし、父さんは気にしないで」

「……いえ、阿弥様にご心配をおかけしてしまったことは事実です」

「真面目だなあ、父さんは」

 

 口でそう言いながらも、阿弥の顔は穏やかに笑っている。

 信綱に向かって両手を伸ばすと、それを察した信綱が屈んで阿弥と視線を合わせてくる。

 椛から聞いた話では信綱は無愛想でしかめっ面ばかりの人間だそうだが、阿弥には信じられなかった。

 自分といる時の彼はいつも優しく微笑んでいるのだ。何かの冗談とすら思ったほどだ。

 

 そんな父親代わりの人の額をぺちん、と軽く叩く。

 目を丸くしてこちらを見る信綱が少しおかしくて、また笑ってしまう。

 

「じゃあ、今ので罰は終わり」

「え……」

 

 呆けた顔をする信綱に抱きついて、阿弥は静かに語る。

 

「私ね、父さ――信綱さんにはすごく感謝してるの。私が言った無茶苦茶なお願いを守ってくれたこともそうだけど、何より阿夢の悲しみを払ってくれた」

「阿弥様……」

「だからありがとう、信綱さん。あなたが私の側仕えで良かった」

「……恐悦至極にございます」

 

 言葉少なに信綱の腕が阿弥の背に回される。

 阿弥は胸を貫く感情を持て余しながらも、それでも今がこの上なく幸福であることを噛み締める。

 もう危険な場所に行く信綱を心配することはあっても、不安に思うことはないだろう。

 彼はこの上なく、自らの力量を示して見せたのだから――

 

 

 

 

 

 振り抜かれた刀を、天魔は避けなかった。

 

「ちょ、天魔様……!?」

「手ェ出すな、文」

 

 異様に気づいた文が信綱と天魔の間に入ろうとするが、天魔がそれを目で制する。

 刃が通った胸から血が吹き出す。

 切り口は浅いものの、あと半歩信綱が踏み込んでいれば心の臓に届いていた。今さら心臓だけが潰されたところで大差はないが。

 

「……避けないのか」

 

 信綱は僅かに興味を持ったように、目に好奇の光を灯す。

 天魔はそれに内心で安堵する。まだ完全に敵と認識されていないか、あるいは話す価値があると思われているということだ。

 大天狗を無傷で殺した人間が相手。すぐに治る胸の傷程度で対話の姿勢が作れるなら、安いものである。

 

「お前さんの口から聞きたいんだよ。どうしてオレが人間の敵であるか。慮外の事件で迷惑はかけたが、お前さんらと敵対するつもりはないって再三言ってるつもりだ」

「よく言う。敵対するつもりはなくとも、巻き込むつもりはあっただろう」

「……どうしてそう思う?」

「文が話していた俺が動くという予想。そもそもお前が言っていたここまで不満が溜まっているとは見抜けなかった、という言葉。

 ……不満がある程度溜まっていることがわかっていたなら、俺と阿弥様の来訪が起爆剤になることぐらいお前なら読めていただろう」

 

 他にも色々と理由はあるが、信綱としては阿弥を危険に晒した時点で殺しても良いと思っていた。

 信綱の言葉を聞いた天魔は静かに息を吐く。そして顔を上げると信綱に説明をしていく。

 

「評価してもらえて光栄の至りと言っておこうか。そっちまで危険に晒してしまったことは謝罪する。面目次第もない。……何を言っても言い訳にしか聞こえないだろうし、繰り言はよそう。お前さんはオレをどうしたい?」

「ああ?」

「そちらの言い分を聞くと言っているんだ。とはいえ、オレの首を所望するならそれなりのものはもらうがね」

「…………」

 

 信綱は剣を天魔に突きつけたまま、無言で思考する。

 阿弥に危険が迫る可能性を予見しながら放置した、という理由で見れば殺しても良い。

 だが、殺した後の天狗がどうなるか読めない。ひょっとしたら何かの間違いか支配派が実権を握り、人里に攻めてくるかもしれない。

 そうなっても天魔がいない天狗なら返り討ちにできるだろう。大天狗を倒した時に確信が持てた。

 ……と言っても、あくまで信綱が阿弥を守り抜く分にはどうにかなるというだけだ。人里は壊滅的な被害をうけるだろう。

 

 人里が機能を果たさなくなれば阿弥を守るどころの話ではない。それに天魔自身は信綱の推測を否定しないが、肯定もしていない。

 今、怒りに任せて彼を殺した場合、文含めた全ての天狗を敵に回すことになる。それは非常に骨の折れる道になるし、命も危うい。

 

「……誓え。二度と御阿礼の子を危険に晒さないことを。破ったら今度こそ、いかなる障害があろうとお前を殺す……!」

 

 腸が煮えくり返る心地とはこのことか。信綱は憤怒を一息で抑え込み、刀を収める。

 

「わかった。オレの目が黒いうちは天狗たちに御阿礼の子は襲わせない。約束しよう」

「なら良い。……俺は阿弥様の元に戻る」

「文に送らせるか?」

「あいにく、痛い腹は探られたくない。話し合いはまた後日」

「そうだな。落ち着いたら今度はお前さんだけ呼ぼう。それなら良いだろ?」

 

 今は早く阿弥の顔が見たかった。信綱は適当にうなずいて天魔の横を通り抜ける。

 その際、耳元で微かな声が聞こえてくる。

 

「――どんな手品使ってここまで辿り着いた?」

「――さてな。これでも顔は広いんだ」

 

 天魔のつぶやきに、そう返して今度こそ椛の家へ戻るのであった。

 

 

 

 そうして戻った信綱だったが、帰って来て早々に阿弥を泣かせてしまう。

 

「ただ今戻りました、阿弥様」

「あ、信綱さん――えっ!? そ、その傷……」

 

 顔面を蒼白にし、震える指先が信綱の胸元の汚れに向けられる。

 見下ろしても傷自体はない。それに首を傾げようとして、阿弥の恐怖に思い当たる。

 

「いえ、こちらは返り血を浴びただけで私は無傷――」

「死んじゃう……信綱さん、私のお願いで死んじゃう……」

 

 阿弥は震える口を手で覆い、ボロボロと涙を零して後ずさる。

 これは不味いと察するが、抱き締めるわけにもいかない。血が付いた胸を押し付けて、余計に錯乱しかねない。

 阿弥の泣き顔を見てしまったことも相まって、信綱はかつてないほどに慌てていた。

 手を所在なさ気に動かして、椛を呼ぶことすら忘れてあー、とかえー、とか言葉にならない声を出すばかり。

 何事かとやってきた椛が信綱の胸元は返り血であることを見抜くまで、この奇妙な行き違いは続くのであった。

 

「あはははは……! 君もこんなうっかりをするんですね!」

「黙れ笑うな殴るぞ」

「う、うぅ……」

 

 お腹を抱えて目尻に涙すら浮かべて笑う椛。いつも隙を見せない信綱があんなに慌てている様を見られたのだ。笑わねば嘘というものである。

 自分でも情けない対応をしたという自覚があるのか、信綱も憮然とした顔のまま椛に手は上げない。

 阿弥は信綱の隣で羞恥に赤くなって縮こまっていた。もう穴があったら入りたいくらいといった様子である。

 

「まさかそんな大事なことを忘れておくなんて……あはははは痛ぁっ!?」

「殴るぞ」

「殴ってから言わないでください!」

 

 とりあえずうるさい椛を黙らせて、信綱は申し訳なさそうに阿弥を見やる。

 

「本当に申し訳ありません。なんとお侘びをしたら良いか……」

「あ、ううん。父さんが悪いんじゃないよ――」

「そうだ、腹を切りましょう。侘びにもなりませんがお受取りください」

『やめて!?』

 

 信綱が笑いながら刀を抜いた辺りで本気だと気づいたのか、阿弥と椛が信綱の身体に組み付いて来た。

 

「いけませんか?」

「そんな心底から不思議そうな顔しないでください!?」

「父さんが死んじゃったら今より泣いちゃうよ!?」

 

 椛の説得はともかく、阿弥の言葉には素直にうなずく信綱。気を取り直して阿弥と目を合わせる。

 阿弥は自身の胸元に手を当てると、感極まったように涙を堪える。

 

「……無事で良かった」

「阿弥様のお願いですから、必ず叶えますよ」

 

 しばし微笑みを交わし合う二人だった。今は返り血で汚れているため、信綱は阿弥を抱きしめることはしなかったが。

 そうして阿弥と心を通わせた後、信綱は椛の方に向き直る。

 

「終わらせてきた」

「それは見ればわかります。君は一度言ったことを翻すことはあっても、諦めることはありませんから」

 

 こうと決めたら余程のことがない限り成し遂げる。それが火継信綱という人間であると、椛は子供の頃から知っていた。

 その意志の強さが彼をここまで到達させ、椿を殺すことにもつながった。

 

「それと一応落とすのは最小限に留めた。難しいかと思ったが、意外とそうでもなかった」

「烏天狗の囲いを無傷で無力化とか君ぐらいしかできない芸当ですよ……」

「私のお願いもやり遂げるし……父さん、スゴイね」

「過分なお言葉です」

 

 阿弥は純粋に褒めているが、椛は別に褒めていない。

 この人間に関しては驚くだけ損だ。それでも引くことはあるが。

 

「あと、大天狗の邸宅で天魔と話してきた」

「あ、天魔様と合流できたの? 無事だった?」

「ピンピンしていましたよ。こんな騒動になってしまったことを謝っていました」

 

 ちょっと斬りつけたが些細なことである。話している間に傷も治っていたのだ、問題はない。

 後日改めて話し合うことになったので、今日のところは帰ることも伝える信綱。

 

「そっか……じゃあどうやって帰ろうか?」

「でしたら私が案内しますよ。阿弥ちゃんを抱えるぐらいは軽いです」

「良いんですか、椛姉さん!」

 

 どう帰ったものか思案していた阿弥の顔が喜色に染まる。

 それ自体は喜ばしいが、信綱は聞き捨てならない言葉があったので思わず聞き返してしまう。

 

「姉さん?」

「うん。信綱さんが外に出ていた時に、相談に乗ってもらったの」

「む、相談でしたら私がいくらでも――」

「だーめ、こればっかりは同じ女の子じゃないとわからないわ」

「女の子……?」

 

 阿弥はともかく、椛は女の子と言える年齢だろうか。

 首を傾げて椛を見ていると、椛は視線の意味に気づいたのか頬を膨らませて怒り出す。

 

「あ、君! そういうのは女の子の機嫌を悪くするって教えたでしょう! 主に私の!」

「いや事実だろう」

 

 別に椛の機嫌が悪くなることはどうでも良い。この程度で付き合いが揺らぐような浅い関係ではない。

 しかし阿弥が椛にしか相談できないとはどうしたことか。信綱は不安になりながら阿弥に尋ねる。

 

「本当に私では駄目なのですか?」

「……うん。あ、信綱さんが信じられないってわけじゃないの。ただ、信綱さんに知られたくないっていうか、私もまだ良くわかっていないというか……」

「要するに、乙女の事情というやつです。男子禁制の領域です」

「…………」

「心配しなくても悪いことじゃないのは保証しますよ。さすがに聞かせるわけにはいきませんが」

 

 そこまでして自分に聞かせたくない情報など何があるのか。全く思い当たらず、信綱は首を傾げるしかないのであった。

 

「……まあ良い。気にはなるが、お前なら大丈夫だろう。一応、バレない配慮もしておいた。どこまで効果があるかは保証できんが」

「あー……大天狗様を討った君としがない白狼天狗の私が知り合いだなんて天魔様も考えないでしょうね……」

 

 椛が目をかけた少年がここまでの傑物だとは予想もしなかった。大天狗を無傷で殺し切るなど、人間の歴史を紐解いても数人いるかいないかと言った領域である。

 そんな存在に対して、自分は未だ烏天狗とは天と地ほどの差がある白狼天狗。差を感じてしまうのも無理はなかった。

 自分のことながら凹んでしまう、と椛は顔に手を当てて苦笑いをする。

 

「俺も友人は選ぶ。胸を張る必要はないが、卑下することもない。お前がいてくれてよかったと思ったことは何度もある」

 

 椛に対し、信綱は憮然とした顔で告げる。相変わらず彼女は変な方向で落ち込み始めるが、信綱にしてみれば的外れも良いところなのだ。

 大方、信綱と自身の間にある差に劣等感が刺激されたとかそんな感じだろう。実にどうでも良い。

 椛と自分。比べてみれば椛の方が優れていると思っているくらいだ。

 身体の再生含めた身体能力も、千里を見渡す能力も、阿弥に秘密の相談を持ちかけられるその人柄も。どれもうらやましくて仕方がない。主に最後のやつが。

 

「えっと……なんて反応すれば良いんでしょうね。君にそう言ってもらえるとは思いませんでした」

「とにかく!」

 

 落ち込んだ顔から一転して、頬をかいて視線を信綱から逸らしながら照れる椛に、自分も恥ずかしいことを言ってしまったと思った信綱は強引に話題を終わらせようとする。

 そんな二人の姿を阿弥は何か言いたげな顔で見ているが、二人とも気づかない。

 

「――ありがとう。お前のおかげで助かった」

「――どういたしまして。君の方こそ、無事で何よりです」

 

 

 

 

 

「父さんは椛姉さんと長い付き合いなんだよね?」

「ええ、弥助の父母と同じ時期には知り合ってました」

 

 阿弥の私室にて、阿弥は信綱の膝の上に座って話を聞いていた。

 一応、座布団の上に座るようやんわり注意はしているのだが、あまり聞き入れてくれる様子はない。

 

「そっか……。でも、父さんの小さな頃のお話、いっぱい聞いちゃった!」

「私の子供の頃など、あまり面白いものでもないでしょうに」

 

 本当に。阿七の側仕えの時以外はほとんど修行に次ぐ修行だった記憶しかない。

 身体もできておらず技量も未熟。そんな子供に何が守れるものかと躍起になって身体を鍛えていた時代だ。

 今も鍛錬は怠っておらず、むしろ密度が濃くなっているが、それ以外にも時間を取られることが増えてきている。

 そんな信綱に、阿弥は首を横に振る。

 

「ううん、父さんの色々なことが知れて楽しいよ?」

「……そんなものでしょうか」

 

 阿弥の嗜好がよくわからなくなる信綱だった。こんな男のことを知って何が楽しいのか。

 波乱万丈の人生を送っている自覚はあるが、自分自身に対する評価はあくまで阿礼狂いであるというだけだった。英雄として取り繕っているのは仮面であるため、そちらの評価はしたことがなかった。

 

「それにレミリアさんとも仲が良いんだね。紅魔館に取材に行った時に教えてくれれば良かったのに」

「あれは向こうが一方的に来るだけです。私は友人だと思っておりません」

「あ、ひどい。レミリアさんが聞いたら泣いちゃうよ?」

「むしろ喜びますよ」

 

 あれは信綱が阿礼狂いとして在ることを望んでいるフシがある。

 自分の手が届かないと認めたものが、今もまだ遠い場所にあるのか確かめているのだ。

 レミリアの手で掴めるほど信綱が阿礼狂いとしての純度を落としたら――その時は、彼女の手にかかって死ぬのだろう。

 そのようなことを考えながら、信綱は阿弥と共に山を降りたことを思い出す。

 

 

 

 

 

「やっほー、お二人さん」

「あんた、本当に天狗の里に行ってたのね……」

 

 椛に途中まで案内してもらいながら、阿弥と一緒に山を降りて麓のところまで来た時だ。

 これ以上は人里の領域であるとして椛と別れ、人里までもうすぐといったところで、二人を呼び止める声が聞こえてきたのだ。

 抱き抱えられたくないと阿弥が言い出したため、信綱は阿弥の手をつなぎながら最低限の警戒をして声のした方へ顔を向ける。

 

「お帰りー。天狗の里はどうだった? お土産はある?」

 

 折り重なって倒れている天狗の背に腰掛けて日傘を差すレミリアと――

 

「あんたの周りは異変並の騒動だらけね……。ある程度の話はレミリアから聞いたわ」

 

 呼んだ覚えのない博麗の巫女が、倒れる天狗たちを結界で封じ込めていた。

 信綱は倒れる天狗の姿を見て、納得したように首肯する。

 

「やはり人里にも向けていたか。転ばぬ先の杖が功を奏するとは」

「なかなか楽しかったわよ。雑兵ばっかだけど、久しぶりのストレッチぐらいにはなったわ」

「で、私は妖怪同士がドンパチしてると聞いて駆けつけたわけ」

 

 ここは人里からもそう遠くない場所だ。確かに誰かが見つけて博麗の巫女に教えることは起こり得た。

 信綱は得心してうなずき、力を使い果たして倒れる天狗に視線を向ける。

 

「一応殺さないでおいたわ。どうする?」

「……解放してやれ。天魔に後で恩を着せる」

「良いの? 人里を襲おうとしたのに?」

「また人里を襲うならその時は俺が討つだけだ。今さら烏天狗の雑兵ごとき、相手にもならん」

 

 大言でないことは、大天狗を殺したことを知らないレミリアと巫女にもわかった。

 そうして解放……というより、結界ごと一纏めになったそれをレミリアが妖怪の山の方角へ思いっきりぶん投げ、人里を襲おうとした天狗は姿を消すことになる。

 それを見送った後、今度は巫女が信綱に詰め寄ってくる。

 

「で、説明してもらおうかしら。どうして私に頼まなかったのよ」

「妄想一歩手前の推測だった。そんなあやふやなものでお前は動かせないだろう」

「うぐ……」

 

 幻想郷の調停者であり、異変の解決者が博麗の巫女だ。言い換えれば、異変が起こるまでは動かないということだ。

 事件が起こってから動くのではなく、事件が起こる前に動けるのは信綱やレミリアといった、幻想郷での役割を課せられていない者の特権である。

 

「実際、無駄足になる可能性の方が高かった。そうであったらどんなに良かったか……」

「んふふー。おじさま、褒めて褒めてー」

 

 童女のようにちょろちょろ信綱の周りを動くレミリアに、感謝の気持ちを込めた鉄拳をくれてやる。

 ドゴン、と重いものがぶつかる良い音がした。きっと気持ちも伝わったことだろう。

 

「助かったよアリガトウ」

「うぐぐ、愛が痛い……」

「相変わらずレミリアにキツイわね……」

 

 起こした異変を考えればまだ優しくしている方だと思う信綱だったが阿弥の手前、口には出さなかった。

 頭を抱えてうずくまるレミリアを他所に信綱は巫女の方に向き直り、事情を説明していく。

 主目的は阿弥の幻想郷縁起の取材であり、そのついでに信綱と天魔が人里と天狗の里との付き合い方を考える会合がある……予定が、天狗の里で起きた騒動によってウヤムヤになってしまい今に至る、と。

 

 騒動の内容や信綱がそれに首を突っ込んで大天狗を殺し、騒動を終わらせたなどの部分は省略する。もう終わったことであり、巫女が知る必要性は感じなかった。

 説明を終えると、ものすごく同情的な視線を巫女から向けられてしまう。

 

「……霧の異変の時と言い、あんたって色んな妖怪に目をつけられてるわよね」

「いい迷惑だ。俺は阿弥様の側にいたいだけなのに」

「ふぇっ!?」

 

 三人の話の聞き役に徹していた阿弥が素っ頓狂な声を上げ、その顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

 

「阿弥様、どうかされましたか?」

「の、のの信綱さん、それってどういう……」

「どういうも何も、言葉通りの意味ですよ?」

 

 彼女のために生き、彼女のために死ぬ。ただそれができれば他に望むことなど何もない。

 それが愛なのかと問われればうなずくが、彼ら阿礼狂いの感情は俗人の言うそれとはズレている。

 ぶっちゃけてしまうと真に受けるだけ損である。

 

「あー……阿弥ちゃん、だったっけ。こいつ、意識してかどうかは知らないけど、こういうの真顔で言ってくるわよ。あまり真面目に受け取らない方が良いわ」

 

 顔を真赤にして慌てる阿弥を見かねたのか、巫女がそんなことを言ってくる。

 

「失敬な。俺はいつも大真面目だぞ」

「だからタチが悪いのよ……」

「おじさま、私にもちょっとくらいそういうの……」

「まだいたのか、もう帰っていいぞ」

「本当にひどいわねおじさま!?」

 

 レミリアを適当にあしらいつつ、信綱は阿弥の手を取る。このままここにいては面倒なことになる未来しか見えない。

 話が終わることがわかったのか、レミリアは日傘を片手に紅魔館への道に身体を向け、博麗の巫女も自身の神社に戻ろうとする。

 

「それじゃおじさま。あなたの運命に安寧は似合わないわ。次はもっと楽しい遊びに私を呼んで頂戴。あともう少し女心を学んで」

「私も戻るわ。あんたといると退屈はしなさそうだし、これからも頑張んなさいよ。あと少し女心を学べ」

 

 信綱が何か言い返す前に二人は自分たちの家に帰ってしまう。

 若い頃から椛にもそう言われ、中年となった今でもそう言われることには不可解の一言である。他人の機微には敏いつもりなのだが。

 手をつなぐ阿弥を見て、信綱は首を傾げる。

 

「……阿弥様、私は女心というやつがわからないのでしょうか」

「あ、あはははは……信綱さんは男の人なんだし、わからなくてもいいんじゃない?」

 

 乾いた笑いを上げながらの言葉だったが、信綱は素直に首肯する。基本的に御阿礼の子の言うことは全肯定である。

 だったら戻りましょう、と信綱は山道を歩いていた時と同じように、阿弥の手を引いて歩き出すのであった。

 阿弥が嬉しそうにこちらの手を握り返してきたことが、山道を歩いていた時とは違うことだった。

 

 

 

 

 

「……信綱さんって女の人の知り合いが多いよね」

 

 天狗の里から戻った時のことを思い返して、なぜか頬を少し膨らませた阿弥がこちらをじっとりとした目で見つめてくる。

 そんな目で見られる理由に心当たりなどこれっぽっちもない信綱は、特に気にした様子もなく阿弥の言葉に答える。

 

「妖怪に女が多いだけかと。人里の中では普通に男の友人もいますよ」

 

 有事の際の戦力として、自警団の人間とはそれなりに付き合いが深い。

 成人したばかりの少年少女たちの顔見せみたいな面は相変わらずなので、その部分を壊さずに妖怪たちと接するにはどうしたものかと頭を悩ませてもいる。

 

「そういえば昔っから妖怪って女の人が多かったような気が……。昔の記憶を辿ってみても、あんまり男らしい妖怪って覚えがないかも」

「でしょう。阿弥様こそどうされたのですか? 椛に変なことでも吹き込まれましたか?」

「ち、違うよ! ただちょっと、私って信綱さんのことを何も知らないなって思っただけ」

「私のこと、ですか? 大して面白いものでもありませんよ」

 

 阿弥の少ない時間を消費するに値するものだとは思えなかった。

 

「うん。椛姉さんからも聞いたけど、やっぱり信綱さんの口から聞いてみたい。阿七がいなくなった後に何をしていたのか。どんなものが好きで、何を思って生きているのか。私に教えて?」

「ふむ……」

 

 あなたのことしか考えていません、と言ったら多分怒られるだろう。

 さて、割りと面白い話には事欠かない人生だが、どれを阿弥が好むのかまではわからない。

 ……が、それを互いに知っていくことを阿弥は楽しんでいるはずだ。

 

「そうですね、では妖怪の山であった話などを……」

「……信綱さん、そんなに妖怪の山に通っていたの? 一人で? 阿七の時から?」

「…………」

 

 話を始める前に、妖怪の山という危ない場所を小さな頃から修行場にしていることはともかく、遊び場にまでしていたなんてとんでもない、とお説教をもらう羽目になったのはここだけの話である。




ということで天狗の里での騒動は終結です。細かい部分は後の話で適当に端折ったり端折らなかったり。
ちなみに阿弥のノッブへの呼び方が安定していないのは理由があります。もうちょい引っ張る予定なので、あまり詳しくは言えませんが一応。

ここからしばらくはのんびりタイムが続きます。そろそろ人里の面子とかも出したいし、妖怪の絡まないお話も書いていきたい。
のんびりタイムが終わったら? ノッブがまた修羅場に放り込まれるだけです。是非もないネ!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いの友人たち

 ジャリ、と砂を踏みしめる音が嫌に大きく響く。

 信綱の手には二刀の木刀が握られ、対する相手――博麗の巫女の傍らには陰陽玉が二つ、ふわふわと付き従うように浮いている。

 

 場所は博麗神社の裏側。代々の巫女が鍛錬に使う場所で、二人は向い合っていた。

 

「……一応、勝敗の確認をしておこう」

「ええ、どうぞ」

「霊力の使用はあり。但し浮遊は跳躍などの常識的な範囲で。主眼がお前の体術だ。できる限り接近戦で」

 

 信綱の口から語られるそれは、巫女の修行内容である。

 霧の異変以来、巫女が動くような異変は起こっていないが、信綱が巻き込まれた異変はある。

 天狗の里の異変に巻き込まれたという話だ。巻き込まれて何もできず逃げ帰ってくるなど、この男に限ってはあり得まい。

 

 それに僅かな所作から見られる隙の無さに磨きがかかっていた。

 ハッキリ言ってしまおう。妖怪退治の手腕ならともかく、純粋な技量という点で巫女が信綱に勝てる絵図が全く描けない。

 

 霊力を扱えるという一点において、巫女は信綱に対して明確な優位を持っている。

 しかしそれはあくまで妖怪退治にのみ力を発揮するもの。人間が相手では効果が落ちてしまう。

 結界の発動や霊力を用いての身体強化など、全くの無意味ではないのだが、信綱相手にそれは焼け石に水である。

 というか身体強化をしなければ、巫女の身体能力は鍛えた女性相応のものでしかない。並大抵の男ならねじ伏せる自信があっても、信綱は無理だ。

 

 そのため、信綱が告げた内容は主に巫女の動きを縛るためのものだ。

 あえて自分を追い込むことにより、苦手な分野も克服しようとしている巫女のお願いで、信綱はこの場に立っているという経緯である。

 

「しかしお前は接近戦が苦手な風には見えなかったが」

「あんたに比べれば劣るわよ」

「俺はお前みたいに札を投げたり摩訶不思議な術は扱えんぞ」

「それでも。できることがあって困ることはないわ」

「……まあ、それには同意しよう」

 

 軽く息を吐き、会話を終わらせる。

 次の瞬間には二刀を下げた構えを取り、巫女の攻撃を待ち受ける姿勢になった。

 

「――来い。そっちの修行だ」

「じゃあ遠慮な……くっ!!」

 

 地面が爆ぜた瞬間、すでに巫女は信綱の懐に潜り込んで顎を狙った拳を放っている。

 

「――っ!」

「まだまだ!!」

 

 首を動かして避けると、そこから手足に陰陽玉まで加えた猛攻が信綱を襲う。

 

「――!」

 

 舌打ちをして武器から手を離す。信綱の戦い方は相手の出を潰すやり方であって、それはこういった修行目的にはそぐわない。

 なにせ相手に何もさせず、自分は一方的に叩くことを目的とした戦法。この模擬戦でそれをやったら、しばらく口を利いてもらえないのは想像に難くなかった。

 

 素手になった信綱は巫女の拳打と蹴撃を同じく四肢を使って受け流し、弾いていく。

 厄介なことに陰陽玉も巫女を援護するようにその硬い身体をぶつけてくるのだが、どうやら自動操縦らしい。それなら上手く誘導すればどうにかなる。

 

(どんな視野の広さしてんのよ!? 手数で勝ってるのに、押してる感覚が全くない!)

 

 自信のある連撃が防がれていることに、巫女は内心で舌を巻く。やはり剣だけで妖怪と渡り合っているのは伊達ではない。

 打ち込もうとする拳を受け流し、次手を放てない軌道に誘導してくるのだ。蹴って仕切り直そうにも、動きの少ない腿を抑えられて封じ込まれる。

 陰陽玉は信綱が一瞬手で触れるだけで軌道を変え、もう一つの方とぶつかり合って火花を散らすだけ。力の方向を変えているのはわかるが、どんな精度で行われているのかはわからない。

 

「あまり焦るな」

「っと!」

 

 巫女の動揺を見抜いたように放たれた信綱の掌底が巫女の腹を打つ。

 それ自体に威力はほとんどなく、ただ距離を離すためのもの。

 足元に落とした木刀に気を向けずに双掌を構える信綱に焦燥はなく、今の一撃が相手に平静を与えるために打たれたのだと、巫女は理解する。

 

「……本当、どんなデタラメよ」

「これぐらいしか取り柄がないんだ。そう言ってくれるな」

 

 巫女は体術で勝てない相手なら空を飛んで戦えば良いが、信綱はそうも行かない。

 

「さて、休憩はこのくらいで良いだろう。次はこっちが仕掛けるぞ」

「わざわざ宣言どうも。――来なさい!」

 

 その時、巫女の目には信綱の姿が見えなかった。

 足元で弾ける砂で位置を読み取り、信綱が側面から攻撃してくると推測し守りを固め――

 

「ハズレだ」

「ぐっ!?」

 

 弧を描く蹴りがまたもや腹部に当たる。ハズレと言われた瞬間に身体に霊力を回していたため、さほど痛みはない。

 が、身体を硬直させた隙に信綱の攻撃が始まる。

 巫女のように手足を使った連撃というわけではない。だが、とにかくこちらの意識の虚を突いてくる。

 左の拳を握ったと思ったら、右から蹴りが飛んでくる――と見せかけて左の肘が顔面に迫るなどを当たり前のようにやってくる。

 下手に受けに回ったら一方的に狩られる。そんな印象を受ける攻撃だった。

 ならば巫女のやることなど決まっている。

 

「はっ!」

「――っ!」

 

 多少の傷は無視して殴ればいい。霊力を使わなければ身体能力で信綱には勝てないが、逆に言えば使っている間は信綱よりも疾いのだ。

 信綱が一撃入れるより速く、それができなくても一撃の重さで勝っていれば後は気合で勝てるはず。

 そんな脳筋もとい益荒男な答えを出した巫女は信綱の一撃に耐えて必殺を入れようとして――

 

「そら、読みやすい」

「きゃあっ!?」

 

 当たれば昏倒間違いなしの突きが絡み取られ、逆に転がされてしまった。

 転がって距離を取ろうとして、そこで喉元に信綱の拳が突き付けられる。詰みだ。

 

「……参った」

「ん、よし。俺を相手にするなら攻撃させないことだな。一度攻撃に回ったらそのまま相手を潰すようにしている」

 

 ふてくされる巫女に手を貸しながら、信綱は巫女の敗因を説明していく。

 つまるところ、信綱が攻めようとした時に首を横に振れば良かったのだ。あそこで待ち構えてしまった時点で、信綱の術中に嵌っていたと言える。

 バカ正直に相手に合わせてやることなどない。主導権を握ったら、そのまま返さず勝負を決める。それが信綱の戦い方だった。

 

「練習試合でそれはずるいでしょ……」

「敵の言うことは鵜呑みにしない。主導権は譲るな。次からの教訓になっただろう」

「肝に銘じておくわ……」

「じゃあもう一回やるか」

「えっ」

 

 距離を取って木刀を拾う信綱に、巫女は信じられないような顔を向ける。

 今の一戦で結構疲れたのだが、まだやると言っているのかあの男は。

 

「どうかしたか? お前が練習したいと言い出したんだから、時間は有効に使わねば」

「……ちなみにこの組手、何回やる予定?」

「時間が許す限りやるに決まっているだろう。正午までやるとして……二十、三十はできるな」

「それ休憩入れてる!?」

「いや、別に半日ぐらい休まず動けるだろう?」

 

 何を言っているんだお前は、という目で見ないで欲しいと心底思う巫女だった。

 この時巫女は確信を持つ。信綱が一番人間離れしているものは体力だ、と。

 巫女と同程度の運動をしたはずなのに、信綱は汗一つかかず息も切らしていない。

 戦闘というのは精神の消耗も大きいのだが、この男に限ってそれもないだろう。気狂いの精神は常人とは違う場所にある。

 

「ほら、あまり休むな。次は俺も武器を使うぞ」

「さっきのあれは!?」

「俺も徒手空拳はあまり慣れてなかったからな。慣らしも兼ねてお前に合わせた」

 

 やはり武器を持った方が性に合っている。そう言って信綱は二刀を拾って巫女に向き直る。

 ――振り返った時、自身の直感が警鐘を鳴らし始めるのを巫女はどこか遠い感覚として捉えていた。

 

「始めるか。俺も鍛錬として活用させてもらう」

「……ええい! 矢でもなんでも持って来いっての! やってやろうじゃない!!」

 

 半ばヤケになった巫女が立ち上がり、闘志を燃やす。

 その様子を見ても信綱は相変わらずの仏頂面のまま、二刀を構えるだけ。

 そうして二人の激突は信綱の宣言通り、延々と太陽が中天に昇るまで続けられるのであった。

 

 

 

「う、ぐごごごおおおあぁ……」

「変な声で呻くな気色悪い」

「だ、誰のせいよ……」

 

 案の定というべきか、昼を迎えた巫女は疲労困憊で動けなくなっていた。

 対する信綱はケロッとしており、動けない巫女に代わって昼食も作って今は縁側でお茶を飲んでいるところだ。

 しかも腹の立つことに自分が作ったものより美味しかった。幼少の頃から自炊してきたので密かに料理上手だと自画自賛していたのだが、そんな矜持が粉微塵に砕けそうだった。

 

「あー……疲れた。今日はもう一歩も動きたくないわ」

「ううむ……お前がこんなに疲れるということは、俺がおかしいのか?」

「知らなかったの!?」

「人と一緒に鍛錬とかしなかったからなあ」

 

 妖怪との鍛錬を行い、それが一歩間違えば死者が出ること上等の内容だったのだ。信綱の修行観は常人とは相当のズレがある。

 ちなみに巫女は紫に稽古をつけてもらっていたが、巫女の方はすぐに替えを探すのが面倒という紫の事情があったため、最低限の気遣いはあった。

 

「いや、実は俺も後継者を考え始めてな。見込みがありそうなやつを数人見繕ってみたんだ」

「それと今の状況に何の繋がりが……あ」

 

 どうにかこうにか苦労して体を起こし、信綱の隣に座ってお茶を飲み始めた巫女の顔が青ざめる。

 さっきまでで信綱の色々な意味での人間離れっぷりはよくわかった。まさかこいつ、この鍛錬を他の人にも……。

 

「早朝は道場で組手。朝食後に山で丸太を括りつけてひたすら走らせる。昼食は山で自活。昼食後は何でもありで行う組手。あとは岩を持ち上げる鍛錬なんてのもやらせたな。それらが終わってから――」

「待て。待て待て待て。まだやるの!?」

「当然だろう。阿弥様の側仕えになりたくば、いつか俺以上に強くなってもらわねばなるまい。全員ついて来れなかったが」

「その時点で自分の失敗に気づきなさいよ」

 

 なおも続く信綱の修行内容に巫女は開いた口がふさがらない。

 同時に自分がやったのはまだ軽い方だったということに戦慄してしまう。

 

「……あんた、それ毎日やってるの?」

「俺が普段何をしていると思っているんだ。阿弥様の側仕えに火継の当主として動く案件。対妖怪の人里代表……やることは山積みで、修行をやっている暇なんてない」

「あ、やっぱりあんたでも無理なのはある――」

「だから空いた時間にやるようにしている。初心者用の簡単な内容ではなく、俺がやるためにいくつか手を加えたものが――」

「あ、もう良いわ」

 

 こいつは人間の尺度に当てはめちゃいけない。それを実感した巫女だった。

 天稟を持つ人間が、狂気じみた修行を行い続けていればそりゃあ強くならないのは嘘というものだ。

 そんな風に親しい巫女から引かれた信綱だが、特に気にすることもなくお茶を飲み干すと立ち上がる。

 

「さて、俺は戻るか。本当なら午後もお前の稽古に付き合いたいが、悪いな」

「いや全力で遠慮したいから大歓迎だけど……何かあったの?」

「天魔との話し合い……は概ねまとまりつつあるから良いとして、別件だ」

 

 支配派に属していた天狗は天魔が押さえつけ、それ以外の天狗で人里との交流を設けようという話になっている。ここまでは人里の方にも信綱が伝えた情報だ。

 ……こちらも人間の中で信綱以外にも妖怪と接することのできる存在が必要になるため、そこで色々と面倒が起きている。今回の問題はそれだった。

 

「別件?」

「うむ。人里と天狗の里が交流することはほぼ決定事項になりつつある」

「そりゃスゴイわね。あの天狗と対等とか、幻想郷ができて以来じゃない?」

「向こうもそう言って笑っていた。お前は歴史に名を残す快挙を成し遂げるかもしれんぞ、と」

 

 そんなこと阿弥の安全に比べれば何の価値もない。大体、歴史に残るような騒動を起こす向こうが悪い。

 こっちはどうせ巻き込まれるなら、せめて自分の望む方向に進もうとしているだけである。

 

「それで何か問題あるの?」

「妖怪と人間の交流だ。どちらにもそれなりの頭数が必要になる。向こうは天魔が見繕うが、こちらは俺が見繕わなければならない」

 

 すでに人里の方にも話して有志を募ってもらっているが、どうにも芳しくない。

 誰だってその気になれば一瞬で首をねじ切れる相手と話したいか、と言われると尻込みしてしまう。

 なので信綱はまた使いたくもない知恵を振り絞って、どうにか人材確保に明け暮れているのである。

 

「とにかく何人か来ることを決めれば、後は芋づる式に行けると考えている。これから慧音先生と第一候補に会いに行くが、お前も来るか?」

「ん? 行っていいの?」

「気心の知れた相手だ。別に構わん」

「ふぅん……だったら行こうかしら。ここにいても暇なだけだし」

 

 身体は軋むが、そこは鍛錬を怠っていなかったおかげか動かすことに支障はない。

 信綱もそこは配慮していたようで、後に響くものは筋肉痛ぐらいだ。かなり激しく戦ったのだが、打撲傷は全くと言って良いほどなかった。

 ……要するにそんな配慮をする余裕が信綱には残っていたということだが、考えると落ち込みそうになるので無視する。

 

 そうして二人は人里へ足を向けるのであった。

 

 

 

 人里に入って二人がまず感じたのは、妙な視線だ。

 別に敵意があるとかそういうわけではないのだが、とにかく道行く人々に生暖かく見られている。

 

「……おい、お前何かやったのか?」

「いや、あんたこそ何かやったんじゃない? 私は人里なんて買い出しぐらいしか来ないわよ」

 

 巫女に言われ信綱も記憶を辿っていくが、このような目で見られる覚えはなかった。

 首を横に振り、とにかく歩いてしまうことにした二人。見られる目も移動すれば減ってくれるはずだ。

 

「最初はどこ行くの?」

「慧音先生のところだ。見回り役を兼ねてもらおうと思っている」

「ふぅん、人里じゃやっぱりあの人に教わるんだ」

「人里で生まれてあの人の世話にならない人はいないだろうよ。お前はどうなんだ」

 

 信綱が寺子屋に通っていた頃に巫女の姿を見たことはない。何らかの方法があるのだろう。

 

「紫と藍に最低限のことは教わった。面倒だけど読み書き計算ぐらいはできなきゃね」

「……その教え方は上手かったか?」

「え? 普通だと思うけど……」

「そうか……」

 

 ちょっと羨ましく思ってしまう信綱だった。慧音は昔から寺子屋をやっているのに、なぜ授業が面白くならないのか永遠の謎である。ちなみに今でも直ってないと阿弥が言っていた。

 信綱は濁った目で昔のことを思い出しながら、巫女とともに寺子屋に入る。

 子供たちの授業に使う部屋を通り過ぎ、慧音が私室としても使っている部屋に向かうと慧音が出迎えてくれた。

 

「む? 信綱が来るのはわかっていたが……博麗の巫女も? どういった風の吹き回しだ?」

「朝は彼女の用事に付き合わされたので、今は私が連れ回しているだけです。事の内容が内容ですから、事情は教えるべきかと」

「ふむ……まあ良いだろう。上がってくれ、お茶を出そう」

「ありがとうございます」

 

 茶の用意に下がる慧音に頭を下げ、部屋に上がる。

 ふと横を見ると、目を真ん丸にした巫女がこちらを見ていた。

 

「……なんだ」

「いや、あんたのそういう言葉遣いにびっくりした」

「お前に初めて会った時も多少は意識していたぞ。これでも当主なんだ。相応の場では相応の言葉も使う」

 

 本当にこの巫女は自分をなんだと思っているのかと信綱は憤慨するも、巫女はごめんごめんと気のない謝罪ばかり。

 よもや夜な夜な刀を舌なめずりし、意味もなく笑うような狂人だと思われているのだろうか。

 そうであるなら訴訟も辞さない方向だ。博麗の巫女を誰に訴えれば良いのかは知らないが。

 益体もないことを考えて怒りを紛らわせていると、慧音が戻ってきたため話に戻ることにする。

 

「一応、会合の時に話には出ていたな。天狗と人間の交流する場所を設けることだろう? 私は全面的に賛成だぞ」

「それはありがとうございます。慧音先生には普段の見回り以外にも、その場所を見てもらえればと」

「ふむ……さすがに天狗を相手に大立ち回りはできんぞ? それでも良いのか?」

「はい。人々が求めているのは安心感です。先生が来るだけでも違います」

 

 人々の恐怖心もわからないではないのだ。理解は示せるが――ぶっちゃけ対策の立てようがない。

 並の人間が天狗と武力で張り合うなど土台無理な話なのだ。というより、まともに張り合える信綱が例外であり、本来はそれが当然なのだ。

 が、当然ながら天狗の絶滅は不可能であり、何より向こうから対話を申し入れてきている。

 ならば開き直って仲良くする方法を探る方が良いだろう。人間も天狗も、仲の良い隣人を殺そうとする奴はいない。

 

「ふむ……お前がそう言うなら間違いはないが……上手く行きそうか? 私見で構わないから答えて欲しい」

「上手く行くようにするのが私の役目であり、天魔の役目です」

 

 失敗したら今度こそ修復不可能な亀裂が入り、人妖の共存は永遠に手の届かない場所に消えるだろう。

 天魔が舵取りをしているからそうは見えないが、天狗はあれでだいぶ追い詰められている。でなければ支配派と勢力を二分するなんて事態は起こらないはずだ。

 故に向こうは乾坤一擲の大勝負なのだ。信綱もその熱意に応えることこそ、人妖の共存への近道だと判断している。

 

「それにこれは好機です。天狗が人に譲歩するなんてこと、今後いくつあるか」

「……多分、それはお前のおかげだよ、信綱」

 

 信綱がこの事業の重要性を説いていると、慧音がふっと相好を崩す。

 まるで我が子を慈しむような目で見られ、信綱は自分に熱がこもっていたことを自覚する。

 

「あ……いや、申し訳ありません。つい熱が入ってしまいました」

「謝ることじゃない。むしろ嬉しいんだ。事情はどうあれ、お前が人妖の共存に尽力してくれることがな」

 

 ただ単にいがみ合うくらいなら仲良くした方が、妖怪と接する機会の多い阿弥の安全にも繋がるという、割と身も蓋もない考えが信綱の根底にあった。

 ……が、決してそれだけではないことも事実であり、ここで求められている答えはそちらの方であると察するだけの機微は備えていた。

 

「……ある妖怪の願いに、私も可能な限り応えたいと思った。それだけです」

「ほう、妖怪の知り合いが意外と多いんだな。あの吸血鬼だけじゃなかったか」

 

 こうして人里と妖怪との間を取り持つような役目を任されて、妖怪の知り合いがいることを隠さなくても良くなったことが信綱にとっては少し嬉しかった。

 ひょっとしたら遠くない未来、信綱は人里で友人の妖怪と大っぴらに会えるかもしれない。それはとても喜ばしいことだった。

 

「でなければ天狗の里に招かれはしませんよ。それで先生、答えは?」

「もちろん、全力を尽くすことを約束しよう。より詳しい話は場所が作られ始めてからで良いか?」

「ええ、お願いします。さて、では私は次の場所に行ってきます」

「ああ。アテはあるのか?」

「勘助に頼もうかと」

 

 彼ら夫妻ぐらいしか信綱が個人的に頼めるツテはない。人里の他の知り合いは大体が火継の当主としての知り合いだ。

 

「ふむ……商人は悪くないな。それにあいつは人好きのする方だ」

「そうですね。私が推すのであれば彼を推します」

 

 自分のような気狂いを今でも友人だと言ってくれるのだ。つまり自分を好いてくる妖怪とも仲良くなれる可能性がある。

 ……なぜ自分は変な妖怪に好かれるのだろうか。

 

「どうした? いきなり首を傾げて」

「……いえ、思い返してみると私は不思議と妖怪に好かれるな、と」

「強いからだな。妖怪は人間を襲い、人間が妖怪を倒す。その流れを好む妖怪というのは存在する。それが妖怪の本能なのかどうかは議論が分かれるところだが、一つの要素であることは間違いない。そもそも妖怪というのは――」

 

 しまった、心の琴線に触れる疑問を言ってしまったようだ。

 寺子屋の教師として語り始めた慧音を前に、巫女が信綱を咎めるような目で見てくる。

 逃げよう、と信綱と巫女はこの瞬間、確かに心が一つになった。

 

「大変興味深いお話ですが、私たちはこれから勘助のところに行かねばなりませんので失礼します!」

「じゃ、じゃあまた!」

「あ、話はまだ途中だぞ!」

 

 巫女の手を掴んでそそくさと部屋を出て行く。

 外に出ると巫女が信綱に詰め寄ってくる。

 

「ちょっと、なに下手な真似してんのよ」

「悪かったよ。先生は話が始まると長い上に要領を得なくてややこしいからな……」

 

 おかげで授業中も何度居眠りしそうになったか。眠るともれなく愛のムチと書いた慧音の頭突きが待っているので必死で起きようとする。

 ちなみに一度受けた者は皆、永遠の眠りにつきそうになったと口をそろえる。信綱も一度受けた時は冗談抜きに死を覚悟したことがあった。

 

「だから紫の教え方を聞いてきたのね……」

「うむ。人里の人間は誰もが通る道だから、比較対象がいない。それにあの人も頑張ってはいるんだよ……」

 

 慧音は信綱が生まれる遥か昔から人里に奉仕し続けているのだ。寺子屋はその一環であり、趣味でもある。

 趣味の時間ぐらい好きにさせてやりたいと思う気持ちと、それでもせめて教え方をどうにかして欲しいという気持ちがせめぎ合って今に至る。

 いつか誰かがなんとかしてくれるだろう。多分、恐らく、願わくば。

 ……こんな心持ちでいるから、いつまで経っても教え下手が直らないのだ、と言われるとぐうの音も出ないが。

 

「とにかく次だ。霧雨商店に行くぞ」

「ああ、あんたそこの店主と友人なんだっけ? 意外な縁よねえ」

「俺もあいつがあそこまで出世するとは思ってなかった」

 

 伽耶の父親は隠居生活に入り、今は勘助の霧雨商店と伽耶の弟たちの霧雨商店が二分しているような状態だ。

 正直なところ、信綱も独立した勘助がここまで商才を発揮するとは思っていなかった。意外なところに意外な才能が眠っているものである。

 彼の人徳の賜物だろう。商人という人間社会に密接した職業の関係上、人に好かれるというのは得難い資質となる。

 

「……ふふ」

「なに笑ってんのよ、気色悪い」

「酷いな。立派になった友人を誇らしく思っているだけなのに」

「あんたが言うと気持ち悪い」

「本当に酷いな……」

 

 狂人であることは認めるが、情緒も倫理観も人並みに備えているし、人道を大切なものだとも思っているのに。

 ……だからこそ、いざとなったら躊躇なくそれらを踏み越える狂気も浮き彫りになるのだが、本人は気づいていなかった。

 

 

 

「久しぶりだなあ。お前は最近忙しそうだから、あんまり声もかけられなかった」

 

 霧雨商店に到着すると、信綱と巫女は瞬く間に二階の部屋に通されて勘助からの歓待を受けていた。

 すでにお互い四十代。老年に差し掛かる二歩手前ぐらいの年齢だが、相変わらず勘助の笑顔は人懐っこさを感じさせるもの。

 寺子屋で培った友情が今なお続いている。そのことに信綱も頬を緩める。

 

「悪いな。阿弥様の幻想郷縁起の編纂が始まって以来、里の外に行くことが増えたんだ」

「それにお前がココと妖怪の間を取り持ってるようなもんだしな。やっぱお前はスゴイことをする奴だって、前々から思ってたんだよ」

「光栄だと思っておこう」

 

 阿弥を守っていたらいつの間にか、という面もあるが、それでも今の状況は信綱の意志が作り上げたものだ。

 

「それで巫女様はどういったご用件で?」

「あ、いや、私はこいつに引っ張られて来ただけで……ほら、早いところ本題に入りなさいよ」

 

 巫女は信綱が暇そうだからと連れてきただけなので、少々肩身が狭そうだった。

 済まない、と小さく謝罪してから信綱は話に入る。

 

「勘助、妖怪と人間が交流する区画を設けようという話、お前の耳には入っているはずだ」

「ああ、そうだな。まだお前みたいに人里そのものの方針を決める会合には出られないけど、耳にはしてる」

「時間の問題だろう。さておき、お前――そちらに出店するつもりはないか?」

「……おれはそういう話を耳にしたってだけで、詳しいことはまだ知らない。その辺も話してくれなきゃ判断はできねえ」

 

 旧交を温めていた勘助の顔が商売人としてのそれに変わる。

 その変貌に信綱は僅かに驚愕し、同時に安堵もする。二つ返事で受けられていたら、こちらが逆に不安になってしまう。

 信綱は会合でまとまりつつある話の内容と、それらに関しての問題点を包み隠さず話した。それをすることがせめてもの礼儀であり、誠意であると信じて。

 

「――というわけだ。これが最初の一歩になる以上、俺にもどんな問題が起こるか予測しきれていない」

「……おれらの対応次第じゃ、危ないかもしれないってことか」

「そうなる。最善は尽くすが、どうにもならない場面があるかもしれない」

「……どうしておれに頼もうと思ったんだ? 友達としてなら嬉しいけど、お前が頼めば動く人脈はいくらでもあるだろ?」

 

 勘助の言葉に首を振る。

 皆が求めているのは人里の英雄の頼みであって、火継信綱の頼みではない。

 自分の影響を自覚せざるを得ない立場にいる関係上、下手に頭を下げることがどんな結果になるかわからない。

 なにせ天狗と対等にやり合える武力の持ち主。それらしいことを少し匂わせるだけでも効果は絶大だ。

 だが――

 

「お前なら、俺の名を悪用しないと信じられる。俺の目で見て、頼れそうなのはお前しかいなかった」

 

 静かに告げて、信綱は頭を下げる。

 ハッキリ言って――信綱は自分の人を見る目を信じていなかった。初見の人や公式の場で会い続ける人々が善人か悪人かを見抜く目なんて持ち合わせていない。

 だからこそ彼は長期的に付き合って信頼に値するかを見る。信用も信頼も、時間が醸成してくれるものであると信じていた。

 そうして付き合って、最も信頼できる人間が勘助と伽耶の二人になる。ちなみに妖怪では椛がそれに当たる。

 

「……頭、上げてくれ。友達が頭下げてるのを見るのは、気分が悪い」

「返事を聞かせて欲しい。俺が頭を上げるかどうかはその後だ」

「受けるよ。これは美味しい話だ」

 

 信綱は若干信じられない思いを抱いて顔を上げる。

 勘助の顔には友人に頼られたから引き受けるのが少し。残りが商売人としての顔で信綱を見ていた。

 

「ノブがそんな顔をしたの、あの日以来だな」

 

 あの日とは自警団に入って間もない頃、二人が――いや、信綱が行った別れの宣告のようなものだ。今でもたまに引き合いに出されてしまう。

 そんな顔をしていたかと思い、しかめっ面に戻そうとする信綱を勘助は笑って説明のために口を開く。

 

「だってこの交流が上手く行けば、妖怪も商売相手になるんだろ? お客さんのことはいち早く知っておかないと商人失格だぜ」

「いや、失敗した場合の危険が大きいことは説明した――」

「――成功した時の利益は計り知れない。人里にとっても、おれにとっても。違うか?」

「それは、そうだが……」

 

 いや、何を言っているのだ自分は、と信綱は自分の言動を頭に片隅で疑問に思う。

 勘助は受けると言っているのだ。ならば自分はその好意を受け取り、尽力するだけだろう。なぜ彼の決意を鈍らせるような言動をしているのだ。

 

「……らしくないわよ、あんた」

 

 何を言うべきか迷っている信綱に、これまで聞き役に徹していた巫女が口を開いた。

 

「店主さんはやると言っていて、あんたはそうしてくれるようお願いした。だったら言うべきことなんて決まってるんじゃない?」

「……言われずともわかっている。勘助、ありがとう。お前が参加すると表明すれば、恐らく芋づる式に色々と参加してくれると睨んでいるんだ」

「そっか。おれはお前みたいに広い視野は持てねえ。だからそういうのはお前に任せるよ。おれはおれで上手く行くよう頑張るからさ」

 

 勘助の言葉に力強くうなずき、信綱の返答とした。

 勘助は自己と任された店の利益に関して鋭く、信綱はそれらの動きを含めて幻想郷の各勢力や人里内での動きなどを見ることができる。

 どちらも見る場所が違い、どちらも失ってはならないものだ。

 

「話は終わりか? じゃあ久しぶりに話そうぜ!」

 

 そうして話がまとまれば、後は友人同士の付き合いである。態度が砕けたものに変わり、信綱もまた頬を緩める。

 巫女が話に入りづらそうだが、意外とコロコロ変化する信綱の表情を見ているだけでも面白く、二人とも話題は提供してくれるため居心地が悪いとは感じていなかった。

 

「ふむ……弥助はどうした? 見ていないが」

「んー……なんか修行する! とか言って里の中駆けずり回ってるよ。英雄様がいる時代に生まれたからなあ。強い男ってのはいつだって憧れの対象なんだろう」

「なんだ、今度俺が稽古でも付けて――」

「やめなさい。やめなさい本当に」

「っ!? 何をする!」

 

 横にいる巫女に耳を引っ張られて言葉が途切れる。

 信綱は耳の痛みや、巫女がいきなりそんな行動に出てきたことに目を白黒させてしまう。

 

「いい加減学びなさいよ。あんたの稽古はいつか人が死ぬ」

「やってみなければわからな――わかった! やめるから耳を離せ! ちぎれる!」

 

 誰だって蓋を開けてみるまで才能というのはわからない。もしかしたら弥助が自分を凌ぐ多大な資質を示す可能性もあるのだ。

 という信綱の持論を巫女は耳を引っ張る指に力を込めて無視する。

 そんな二人の様子を勘助は朗らかに笑いながら眺めており、信綱の助けろよという視線も全く気にしない。

 

「ははは! 二人ともずいぶん仲が良いな! いつの間にそうなったんだ?」

「こいつが隠れ家に私の神社を使ってくるのよ。腐れ縁みたいなもの」

「そんなところだ。……なんだ、勘助。その目は」

「いやいや別にー?」

 

 うわ腹立つ。それが信綱の率直な感想だった。

 自分にはわかっているんだぜ、みたいな顔をされて生暖かい目を向けられるとものすごく苛立つ。

 

「うん、あれだよノブくん。相手からの好意にはちゃんと応えないと駄目だぞ?」

「伽耶の側から婚姻申し込みされたキサマにだけは言われたくないわ」

「あ、おまっ、それは卑怯だろ!?」

 

 寺子屋時代からの好意に成人し、結婚を申し込まれるまで全く気づかなかった男に言われたくない。

 身も蓋もないことを言うと勘助が痛いところを突かれたとうめき、また笑い始める。

 信綱と巫女もそれに釣られて笑い始めてしまう。

 

「あら、二人と巫女様、まだ話してたの?」

「邪魔してるぞ、伽耶」

「伽耶もこっち来いよ! 巫女様も加えて話そうぜ!」

「……二人とも、邪魔にならないかしら?」

「俺は歓迎するよ。お前は?」

「一人や二人増えても変わらないわ。それに――あんたたち三人を見ているのも楽しいもんよ」

 

 狂人だけど悪い男ではない。そんな認識だった信綱だが、彼にも人並みに笑うことがあり、友人に冗談を言うこともある。

 そんな当たり前の姿を見られたことが巫女には不思議と嬉しかった。同じ人間であることが実感できた気がしたのだ。

 こうして話している分には、仲の良い友人同士で戯れているようにしか見えない。

 お互いに歳を取り立場も全く違うものになれど、友情は不変。その姿が巫女には眩しい。

 まるで――自分もこの中に入っているように感じられたのだ。

 

 そうして、四人は日が暮れて夜になっても楽しそうに話を続けていくのであった。




もはや自分に匹敵する後継者を探すより、そんな後継者の必要ない幻想郷を作った方が楽なんじゃね? と思いつつあるノッブ。手段と目的が逆転してる? その通りです。

なんだかんだ巫女とは仲が良いです。ちなみにこの二人、人里で噂が立ってますがどっちも気づいてません。

そしてノッブの友好度は付き合いの長さに比例します。付き合いが長く、ノッブに対して不利益なことをしなければ徐々に上がっていく仕様。途中でやらかしたら? 好感度ゼロになるどころか命がゼロになります(具体例:椿)
この法則に従い、幼年からの付き合いである勘助と伽耶の二人は信用も信頼もしています。あと椛と意外ですが橙も。

なお妖怪相手だと表には出さない模様。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿弥の相談と阿礼狂いの関係

 よく晴れた清々しい日、阿弥は一人で里の中を歩いていた。

 一人で、である。外に出る時は必ずお伴する信綱の姿はない。

 

「ふぅ……少し言い過ぎちゃったかな?」

 

 後ろを振り返り、誰も居ないことを確かめてから小さく息を吐く。

 信綱に対して抱く感情を未だ決められない阿弥。彼女は椛の言葉に従って、色々な人に相談しようとしていた。

 

 そこで問題になるのが信綱である。側仕えとして控える彼は基本的に阿弥の行く場所にはどこでもついていこうとする。

 さすがに厠まで追いかけるほど常識がないというわけではないが、それでも出かける時は大体ついてくる。

 これに一番困るのは阿弥だ。なにせ相談の内容が信綱と関わることである。

 下手に言ってしまうと信綱は自分のことで阿弥が気に病んでいると思い、なんとかしようとし始めるだろう。悩みの原因が自分にあるのなら自分が消えれば良いとか言い出しそうだ。

 

 なので今日は一日暇を与えるという旨の話をしたのだが――

 

「わかりました。では阿弥様のお手伝いをしたく」

「えっと……お休みだよ? 自由にしていいんだよ?」

「ええ。ですから阿弥様のお力になるのが私の好きなことです」

 

 全く他意のない無邪気な微笑みを向けられてしまい、顔に熱が集まるのを自覚すると同時に内心で困り果ててしまった。

 そう言ってもらえるのは嬉しいが、内容が内容だけに信綱には聞かせられない。

 

「と、父さんには秘密なの! だから絶対に来ないで!!」

「…………わかり、ました。それが阿弥様の望みならば……」

 

 その時の信綱の顔は、ちょっと筆舌に尽くしがたいものになっていた。

 普段見慣れている、世界で一番頼りがいのある信綱の背中がどこか煤けて見えたのは、阿弥の気のせいだと思いたい。

 

「ううん……後で肩でも揉んであげれば良いかな……?」

 

 ふと目に入ってきた家では、父の肩をまだ小さな娘が叩いている光景が飛び込んできた。

 もう頬が緩みまくって幸せの絶頂にありそうな父親と、楽しそうな娘。あれを信綱と自分に置き換えれば――

 

「父さん、あんな顔しないよね」

 

 天狗の里での騒動などで少しだけわかったが、火継信綱という男はあまり満面の笑みを浮かべる性格ではない。

 阿弥の前では頻繁に笑顔を見せるものの、それにしたって目尻を下げ、口角を釣り上げる微笑みと言った感じだ。

 女の妖怪が大勢いても全く鼻の下を伸ばさないし、阿弥以外の人と話す時はかなりぶっきらぼうな物言いをしている。文への口ぶりを見た時の驚きは大きかった。

 

「ああやって私に話してもらえるのも、たまには良いかも」

 

 絶対に実現はしないだろうが、想像するだけならタダである。

 椛に対して行っていた気の置けない言葉遣いを自分にしてもらえると当てはめると、これがなかなか面白い。なんだか対等な関係になったような気がするのだ。

 実際は阿弥が主で信綱が従者として侍る立ち位置だ。しかし、阿弥には信綱の方が上の立場だと思えてしまう。

 

(私の父さんが英雄様かあ……。なんだか不思議な気分)

 

 過去の御阿礼の子の記憶を遡っても、ここまで名を馳せた男はいない。武力はもとより、政治面でも活躍を続けて妖怪との対話を望む火継なんて、これまではいなかった。

 彼らが御阿礼の子のために生きていることは知っている。それが――余人から見て狂気の類であることもわかっている。

 それでも。――それでも、人と同じ時間を過ごせず、転生という罪を重ね続けてまで生きる御阿礼の子にとって、彼らの変わらぬ想いは心地良かったのだ。

 

 彼らに甘えていた、と言うこともできる。彼らは御阿礼の子に付き従うことこそ至上の幸福であり、それ以上のものを何も望まない。

 そんな鉄の心だからこそ変わらないと信じることができて、安心して背中を預けることができた。

 歴代の御阿礼の子も、皆火継の人間には絶大な信頼を寄せていたのだ。

 

「……あ、もう着いちゃった」

 

 考え事をしている間に目的地に到着したようだ。寺子屋の大きな建物が目の前にある。

 他の人からはぼんやりしながら歩いていたように見えたため、信綱がこの場にいたら気が気でなかったことだろう。ちゃんと阿弥の言いつけは守っているため、この場に信綱はいない。

 

 ……信綱がいないだけで、密かに使える駒にそっと見守るよう命じているが。

 それでも阿弥の配慮も兼ねて寺子屋などの安心できる目的地だったら、そこで帰るようにと言った命令であるあたり、中途半端な対応になっている信綱の動揺が伺える。

 

「失礼します。慧音先生、おられますか?」

「いま行くから待っててくれ! ……む、阿弥一人か?」

 

 やってきた慧音は信綱を伴っていない阿弥の姿に、怪訝そうな顔をする。

 火継と御阿礼の子。この二人は常に共にある姿を見てきた慧音にとって、彼女が一人で動いていることは新鮮に映った。

 

「はい。いきなり押しかけてしまいすみません」

「それは構わないさ。ところで信綱は……」

「ちょっと私的な相談事がありまして……暇を出してます」

「……あいつ、落ち込んでなかったか?」

「ものすごく落ち込んでるように見えました」

 

 阿弥の前では頑張って取り繕っていたように見えたが、それでも普段と様子が全く違うことはすぐにわかった。

 あんなに沈み込むとは思っていなかったため、ちょっと罪悪感を覚えている阿弥だった。

 戻ったら優しくしてあげよう。具体的な方法はまだ思いつかないが。

 

「……別に信綱が嫌いになったわけじゃないよな?」

「そんなことあるわけないじゃないですか!! あ、いえ……すみません……」

「ははは、いいさいいさ。お前の信綱への思い入れがわかって嬉しいくらいだ」

 

 慧音は笑って許してくれるが、阿弥はいきなり大声を出してしまったことが恥ずかしくて縮こまってしまう。

 そんな彼女に慧音は穏やかな表情で阿弥を奥に招く。

 

「最近は信綱やお前に縁があるな。上がってくれ、良いお茶があるんだ」

「え? 父さんが来たんですか?」

「その辺はおいおい聞いてくれ。一つ言えることは、あいつを誇りに思うのはお前だけじゃないってことだ」

 

 胸を張って自らの教え子を誇る慧音の姿に、阿弥は自分の家族が褒められていることへの喜びの他に、言い表せぬ感情が胸に生まれるのを感じる。

 締め付けられるような胸の痛みは阿七の時に再三経験したが、それとは全くの別物。苦しいはずなのに心地良いという、阿弥にとっては全くの未知。

 この感情は一体何なのか。一人で考えても答えは出ず、椛に相談しようにも彼女と自分では生活圏が違う。

 それに相談は同性にした方が良いと思い、慧音を訪ねたのだ。まさか信綱も先日訪ねているとは思っていなかった。

 

 私室に通された阿弥は優しい香りの緑茶と美味しいと評判の最中を提供され、慧音と阿弥は机に向かい合う。

 

「さて、どんな用向きで来たんだ?」

「えっと……すごく曖昧な話になってしまいます。それでもよろしいですか?」

「もちろん。お前は悩み、苦しみ、一人で答えが出せない問題に直面しているのだろう? 協力するのが教師の役目だ」

「……相変わらず眩しいですね、先生は」

 

 本当にこの人は変わらない。阿弥がもっと昔の御阿礼の子の頃から、ずっと人里に貢献し続けてきた彼女は今も変わらず人間を愛していた。

 

「褒めてもお茶のお代わりぐらいしか出ないぞ。しかし、ふむ……言いにくいなら当ててやろうか。信綱のことが絡んでいると見た」

「ふぇっ!? な、なんで……」

「お前が信綱に聞かせたくない相談事など、あいつに関わることぐらいしか思いつかないからな」

 

 片目を閉じて、茶目っ気たっぷりに微笑まれた。言われてみれば当然の指摘に、阿弥は再び羞恥で顔を赤らめる。

 そもそも普段の相談事は大体信綱に話していた。その自分が信綱以外の他人に相談する事態など、信綱が関係していて話せない内容ぐらいである。

 

「ははは、ずいぶんと混乱していたみたいだな。普段のお前ならそのぐらいすぐ気づくだろう?」

「うう、はい。気をつけます……」

「別に注意しているわけじゃないさ。お前にとってそれだけ大事な人というわけだ」

「そう、それです!!」

 

 大事な人、という慧音の言葉に阿弥は思わず身を乗り出してしまう。慧音が身体をのけぞらせるほどに。

 

「私、父さんがとっても大切なんです!」

「あ、ああ。それは見ていればわかるぞ。お前は信綱にとても大切にされ、そしてお前も彼を大事にしている」

 

 単なる主従関係に留まらず、家族として。それは父と慕う阿弥の姿を見ていればわかるし、それに応えようとしている信綱の姿を見ていればわかる。

 しかしはて、信綱が大事な存在だとわかっているのなら一体何を相談したいのだろうか。

 

「……反抗期か?」

「ち、違……います。多分……」

 

 多分、と言い直したところに慧音は首を傾げる。

 少々落ち着いた阿弥も座り直し、慧音にポツポツと自身のことを語り始めた。

 

「私には親がいません。だから反抗期とか、そういうのがよくわからなくて……」

「む、そうだったな。済まない、少々軽率だった」

「いえ。ただ……私があの人に抱いている感情は父親とか、家族に対するものなのか、自信が持てないんです」

「ふむ……相談もそれか?」

 

 阿弥は小さくうなずく。それを見て慧音も腕を組んで彼女に与えるべき言葉を考えていく。

 

「……少し遡って聞いてみるか。お前がそうやって自分の気持ちに自信が持てなくなったのはいつ頃だ?」

「え? えっと……」

 

 慧音に言われて阿弥も考え始める。

 小さな時にも彼を父と呼ばず、名前で呼んだことがあるのは確かだ。

 だがその時は阿七の記憶にある彼と、今の彼を照らし合わせて彼の成長を喜んでいただけであり、どちらかと言えばあれは阿七の感情だ。

 あの頃はまだ若干阿七の記憶と混同していた部分があって、信綱のことが弟のようであり、父親のようでもある存在に感じられていた。

 

 だがそれも寺子屋を卒業するまでには折り合いをつけた。それから彼を名前で呼んだ時は――そう、編纂のために紅魔館に行った時だ。

 公的な場で父親と呼ぶことはできないからそう呼んだだけだが、これが不思議としっくり来た。

 それ以降は場所に応じて、彼を名前で呼ぶようになって――公的でない場でも呼び始めたのは、天狗の里からか。

 

「……天狗の里に招待された時、です。あの時、色々と騒動に巻き込まれてしまって……私たちも危ない目に遭ったんです」

「あいつめ、その辺りはボカしたな? まあ良い。信綱はお前を守るために戦ったんだろう?」

「はい。子供だった私が滅茶苦茶なお願いをしたのに、それさえもなんてことのない顔で叶えてしまって。……私はあの人をどう見たら良いんでしょう。父さんと呼んでいたはずなのに、いつの間にか父と呼びたくない自分がいるんです」

 

 そしてこうも思ってしまう。自分と彼は釣り合っているのか、と。

 人里の守護を担い、妖怪の一大勢力である天狗と対等に交渉し、吸血鬼を打倒し、大天狗を討ち倒す力も備えている。

 自惚れのような考えだが、これら全ては自分のためだ。彼は徹頭徹尾、阿弥のためになることでしか動きはしない。例え個人としての私情が混ざっていても、阿弥の不利益になることは絶対にしないと断言できる。

 

 自分と信綱が遭った騒動を思い返し、その度に静かに、しかしゆっくりと膨れ上がっていくこの気持ちに阿弥は戸惑っていた。

 

「信綱さんの友人である天狗様にも相談してみたのですが、その人も周りに相談して、私が答えを出さなければならないものだと仰ってました。慧音先生なら何かわかりますか……?」

 

 訥々と、たどたどしいながらも自分の心を語っていく阿弥に、慧音は静かにうなずきながら話を聞いていた。

 そして阿弥が全ての気持ちを吐露し、答えを求めてすがる視線を向けてきたところで口を開く。

 

「その天狗の言っていることは正しいよ。阿弥、お前の心はお前にしかわからない。その感情に答えを出す権利を持っているのはお前だけだ。

 だが、そうだな。これだけでは教師としてお前の助けに応えられていないな。では一つだけ質問をしよう」

 

 そう言って、慧音は湯呑みのお茶を飲み干して阿弥を真っ直ぐに見つめる。

 

 

 

「――その感情を知って、お前は信綱とどうなりたいんだ?」

 

 

 

「え……?」

「父と呼びたくない。その理由は反抗期であるかもしれないし、別の何かかもしれない。問題は次だ。

 いつかお前の中で答えの出る時が来る。その時にお前はどうしたい? どうなりたい?」

「そんなの……」

 

 この感情がわかっていないのだから、わからないではないか。そう言おうと思った阿弥だが、口が上手く動かない。心がその言葉を拒絶している。

 

「私、は……」

 

 否定することはさておき、慧音の言葉について考えてみる。

 自分の心を知ることも大切だが、信綱との未来を考えることも重要だ。

 なにせ自分と彼の付き合いはきっと、どちらかが死ぬまで続いていく。火継の人間が信綱に勝てれば変わるかもしれないが、三十五年以上一度も譲っていないそれを、今さら誰かに譲りはしないだろう。

 そして自分が大人の女性になった時――その時にはもう寿命が近いだろうが――にまで彼を父と呼ぶのは少々気恥ずかしい。

 答えあぐねる阿弥を見て、慧音は少しだけ助力をしてあげることにした。このぐらいなら手助けとしても許されるだろう。

 

「少し簡単な例を出そうか。人との付き合いというのは大雑把に分けて三種類だ。その人の背中を見ているか、その人の隣に立っているか、あるいはその人の手を引いているか、だ。……お前はどうなりたい?」

 

 慧音の話を聞いて、阿弥は阿七と信綱の関係を思い出す。

 死ぬ直前こそ対等に近くなっていたが、基本は阿七が信綱の手を引いていた。

 阿七を守ることしか知らなかった彼に様々なことを教え、導いた。彼女がいなければ、今の信綱はいなかったはずだ。

 では自分はどうしたいのか。自分はあの人と――

 

「私は――」

 

 

 

 

 

「死にたい……」

 

 一方その頃、信綱はいきなり出された暇に全力で落ち込みまくっていた。

 人里の者が見たら別人を疑うほどに雰囲気が暗く、目を離したらそのまま自殺でもするんじゃないかという雰囲気にあふれている。

 

「阿弥様に俺は必要ないのか……絶対に来ないでと言われるとは……」

 

 そんな感じに絶賛絶望中の彼だが、さすがに人前でこの姿を見せるのは不味いという最低限の理性は働いたらしく、足は妖怪の山に向かっていた。

 ……見る人が見れば首吊り自殺でもしようとする人間にしか見えていなかったが、彼は気づかない。

 

 ふらふらと足の赴くままに動いていると、見慣れた釣り場が目に飛び込んでくる。

 最近はとんとご無沙汰になってしまったが、阿七のいない頃はここで魚を釣って日々の糧を得ていたものだ。

 とはいえ今は釣り竿もないし、そもそも釣りをする気になれない。適当な岩に座り込み、静かに頭を抱える。

 

「どうしたものか……」

 

 なんかもう消えてしまいたい。阿弥に必要とされない自分に価値なんて皆無。

 天狗との交流? 幻想郷の行く末? 阿弥に拒絶されることより重いのかそれは。

 と、信綱は阿弥とは対照的に相談する相手がいなかった――否、求めなかったために一人で際限なく気落ちする悪循環にハマっていた。

 そんな時――

 

「……あんた、何やってんの? 超能力の開発?」

 

 頭上から聞き慣れた少女の声が降ってきた。

 呆れきった顔をしていることがありありと想像できる口調をする少女は、信綱の知り合いには一人しかいない。

 

「……なんだ、化け猫。俺は今忙しい」

 

 八雲紫の式の式、橙以外にあり得ない。この状態の信綱を見て、心からバカを見るような顔ができるのはこの少女だけだ。

 

「いや、どう見ても忙しそうに見えないけど……」

「どうすれば阿弥様に許してもらえるか考えているんだ。これ以上忙しいことはない。やはり死ぬのが一番の侘びだと思うんだが」

「私がその子の立場だったらものすごく迷惑だと思うわよ?」

「なぜ」

「あんたはその子の謝罪で死なれて嬉しいの?」

「そもそも謝罪などさせんわ」

 

 御阿礼の子の言うことは全てが正しく、全てが尊ばれるもの。あの方が謝るような事態などがあったら、この世界が間違っているのだ。

 などという思考をしている間に橙は信綱の隣に座り、その顔を覗き込んでくる。

 

「うわ、ひっどい顔」

「…………」

 

 人の顔を見るなり引かれたため、無言でその耳に手を伸ばす。いい加減学習したのかシュパッと逃げられた。

 距離が開いたまましばらくこう着状態になっていると、動かない信綱に気を良くしたのか橙が調子に乗った笑いを見せ始める。

 

「ふーん、そんなに落ち込みたきゃ好きなだけ落ち込んでなさいよ。ま、挫折なんてこの橙さまには無縁のものだし? あんたはそこでうずくまっているが良いわアハハ――イタタタタ!!」

「調子乗んな」

 

 高笑いする手前で立ち上がった信綱が橙に距離を詰め、その耳を引っ張り出したのだ。毛並みの手入れがされていて良い手触りなのが腹立つ。

 痛い痛いとわめく橙でしばらく遊んでから、その耳を離してやって信綱は事情を話し始める。

 信綱が話し始めると橙も涙目で耳を押さえながらも、大人しく話を聞く。この二人は割りとこんな感じで付き合っていた。

 

 お互い相手をバカだと思っているが、悪いやつとは思っていない。悪いやつじゃないから、来たらそれなりに歓迎してそれなりに喧嘩をする。

 橙の気質がそうさせるのかは知らないが、容赦のいらない関係として成立しているこの時間を、信綱は自分でも意外なほどに楽しいと感じていた。

 事実、阿弥に言われて落ち込んでいた気持ちも橙の耳を引っ張っていたら薄れていた。彼女の耳には鎮静効果でもあるのだろうか。次からはもっと強く引っ張ってやろう。

 

「――というわけで、暇が出た。だから阿弥様の手伝いを申し出たら断られてしまった。なぜだ」

「そりゃそうでしょうよ……。あんた、その子に知られたくないこととかないの?」

「全くない」

 

 阿弥が知ろうとするなら全て包み隠さず教える所存だ。

 信綱がそう言い切ると、橙の目がこいつダメだな的なものに変わる。

 

「あんたは良くてもその女の子には言いたくない秘密があるんでしょ。なに、それともその子にまで何もかも話せって言うつもり? うわ、ひっど」

「む……」

 

 そこまで言われると唸ってしまう。この猫に正論を言われるとものすごく腹が立つ。

 私良いこと言った? と言わんばかりの顔をされるのもそうだが、何が頭に来るって反論できないことだ。

 出会った頃から童女の姿と全く変わらないこいつと同じだと思われるのは嫌だ。とても嫌だ。

 

「その子が戻ってきたら聞いてみれば良いじゃない。何したかくらいは教えてもらえるかもしれないわよ? ま、私ならともかくあんたじゃそんなこと上手く聞き出せるわけ――痛い!?」

「調子乗んなと言ってるだろ」

 

 橙の言っていることはうなずけなくもないのだが、事あるごとに調子に乗り始めるのが面倒だ。その度に耳を引っ張って地に足を戻してやらねばならない。

 調子に乗られると果てしなく面倒になる。この化け猫の前向きな性格は一体どこから来るのか。

 

「まあ良い。癪だが、とても癪だが、お前の言い分にも一理ある。阿弥様が戻られたら聞いてみよう」

 

 信綱に言いたくないことであっても、せめて道義的に悪いことかどうかぐらいは聞かなければ。なんか変な人に騙されている可能性だってあるのだ。

 ……その場合は密かに命じておいた部下に誅殺させる予定だが。

 

「ふふん、この橙さまに感謝することね」

「寝言は寝て言え」

 

 感謝していなくもないが、口に出すとまた調子に乗られてしまう。つまり言わないでおくのが一番楽だ。

 これ以上この話を続けていても信綱にとって面倒くさく、橙の耳が物理的に痛くなるだけなので、信綱は強引に話題を変えることにした。

 

「ところで。お前、しばらく暇か? 暇だな」

「勝手に決めつけんな! 大忙しよ大忙し! 私ってば藍さまの式なんだから!」

「じゃあ暇だな。今度、人間と天狗が交流する催しがあるのは知っているか?」

 

 橙の言葉を無視して話を進めると、橙はきょとんとした顔をして首を横に振る。どうやら知らなかったらしい。

 

「なにそれ? 天狗が人間と? なに、あんた今朝見た夢でも話してるの?」

「お前の主にでも聞けば答えてくれるだろうさ。藍や紫が知らんなんてことはないだろう」

 

 真っ先に人の夢を疑う橙に青筋を浮かべながらも、手を出すことなく淡々と語っていく。そうすることが橙に情報を信じさせるコツだ。

 

「うーん……それがどうかしたの?」

「互いの迷惑になるようなことをしなければ、お前も来ていいと言っているんだ。というか来い」

 

 八雲紫とその式神である藍までは来ることを予測しているが、橙が来るかどうかは未知数だった。

 それにこれは直感になってしまうものの、彼女はなんとなくそういった場所に来た方が良い気がするのだ。この飾り気のなさはある意味貴重である。

 人間に対して物怖じせず、かといってへりくだることもなく接することができる妖怪というのを、信綱は橙ぐらいしか知らない。

 橙には人間との付き合いが少ないというのを藍から聞いていた信綱は、彼女なら上手く人間と妖怪の間を取り持てるのではないか。そう考えたのだ。

 

「なんであんたがそんなこと言ってくるのさ?」

「……別に理由はない。ただの気まぐれだ」

 

 とはいえそれを正直に言う理由もないので、ごまかしておく。自分でも上手く説明できる自信はない。

 だが橙は目敏く信綱が本心から来て欲しいと言っていることを理解したようで、口元を得意気に釣り上げる。

 

「ふふん、あんたがどうしてもって言うなら来てあげなくもないわよ?」

「じゃあ言おう。是が非でもお前に来て欲しい」

「ふぇっ!?」

 

 普段の信綱なら調子に乗るなと耳を引っ張ってくるはずの場面なのに、特に迷わず橙の要望に応えた彼に橙は目を真ん丸に見開く。

 そして心配そうに信綱の額に手を伸ばしてきた。猫だからか微妙に体温が高い。

 

「熱……はないわよね」

「お前は俺をなんだと思っているんだ」

 

 信綱が落ち込んでいると煽りに来るくせ、橙の意に従うような行動を取ると心配してくるのだ。

 だから不思議と嫌いになれず、今に至るまでお互い相手をバカだと思いながらも付き合いが続いているのだろう。

 

「ど、どうしてそんなに来てほしいの? まさか、私の身体が目当てってイタタタタ!?」

「冗談はその顔だけにしろ。理由は……まあ、あれだ。俺は八雲紫や八雲藍よりお前を信用している」

「は?」

「だから来るんだぞ、良いな?」

 

 聞き返す橙の両肩に手を置いて、強引に念を押す。

 信綱の口から聞けると思わなかった言葉が出たことで驚いていた橙は、コクコクと何かを考える間もなくうなずかされる。

 

「よろしい。では細かいことは後で伝えよう。あとお前のおかげで気が楽になった、感謝する。じゃあな」

「あ、ちょ……」

 

 うなずいたのを確認したら、信綱はもう一つの本心を告げてさっさとその場を後にする。橙が驚愕から抜けて、聞き返されるのは非常に恥ずかしいものがあった。

 

「こらー! 今のもう一回言ってから帰れー!!」

 

 後ろから聞こえてくる橙の怒鳴り声は、聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

 稗田の家に戻ると、阿弥はすでに帰っていることが下駄から読み取ることができた。

 意識せず心臓が高鳴るのを覚え、やはり心のどこかで不安に思っている自分がいることを信綱は認めざるを得なかった。

 橙と会って心が軽くなったのは確かだが、それで信綱が阿弥に言われたことがゼロになるわけではない。

 ……が、ここで悩んでいても答えは出ない。腹をくくって阿弥に聞かなければ。

 悪い点があるなら直す。どうしようもない段階まで嫌われていたら潔く諦めて後進に譲り渡すなり、阿弥の前に二度と姿を表さないようにする。

 よし、と気合を入れた信綱が阿弥の私室へと踏み込んでいく。

 

「失礼します。阿弥様――」

「信綱さん、お帰りなさい!」

 

 部屋に入った信綱の腹部に軽い衝撃が走る。

 視線を下げると、阿弥が抱きついているのがわかった。

 

「阿弥様? 私のことがお嫌いになったのではないのですか?」

「……私、ちょっと信綱さんには言えないことを慧音先生に相談しただけだよ?」

 

 絶対に来るなと言われただけで、嫌われたわけではない。そんな当たり前のことですら、今まで考えが回っていなかった。

 そのことに気づき、信綱は自分でもバカバカしくなってしまい軽く笑う。

 こちらに抱きついてくる阿弥の背中に自分も優しく手を回して、静かに口を開く。

 

「では、私はあなたのお側にいても良いんですね」

「もちろん。信綱さん以外に身を委ねたくないわ。だって私――」

 

 阿弥はそこで言葉を切り、信綱の方を見上げて満面の笑みを浮かべる。

 そして慧音との相談で見出した、自分の感情を口にするのであった。

 

 

 

 

 

「――ずっとあなたと一緒にいたいから!」




ずっと一緒にいたい(なぜ一緒にいたいのかはわかっていない)
はい、もうちょっと引っ張ります。ここで気づいてしまうのは少々私が面倒げっふんげっふん展開が早いので。

ノッブを殺したければ阿弥に大っ嫌いと言わせれば勝手に死にます。但し変化、洗脳の類は一発で見抜きます。

橙はノッブの悪友的ポジションに落ち着いています。お互い容赦なく付き合えるという点で意外と貴重な存在だったり。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想郷の夜明け前

「――とまあ、オレたちがまとめておくべき話はこのぐらいか」

 

 信綱と天魔は間近に迫った天狗と人間との交流に備えて、ちょくちょく顔を合わせていた。

 意外と身軽なのか、それとも影武者でもいるのかは不明だが、時には文との会合場所に使っていた廃屋に天魔自らが訪れるほどだった。

 

 暇なのでは? と勘繰っているが、本人に聞くつもりはなかった。

 そんなわけで今日も廃屋にて信綱と天魔は決めておくべき内容の再確認をしていたのである。

 

「しかし人間が相手だと話の進みが早くて助かる。同族相手じゃこうは行かない」

「かなり時間の掛かった方だと思うが……」

 

 あの騒動からすでに数年が経過している。騒動が終わってからも反旗を翻した天狗の処分やら、そもそも勢力を二分した争いになったことで揺らいだ天魔の地盤固めなど、時間を要するものが多かったのだ。

 人間の側でも交流する区画を新たに作ったり、そもそも妖怪と交流することへの説得周りなどで時間がかかったので、そこはおあいこだと言えるのだが。

 

「ま、あの事件のおかげでこっちもやりやすくなった。あんまり一人が舵取りし過ぎるのも後々面倒なんだが、今は仕方がない」

「……お前は長く生きるだろう」

「そうだな。とはいえ、何が原因で死ぬかなんてわからん。誰だって死ぬときは呆気ないものだ」

 

 目を細める天魔は、あの時に信綱が討った大天狗を思い出しているのだろう。長くやっていたと聞くし、遥か昔から共に天狗を導いていたはずだ。

 が、その姿もまばたき一つで消え去り、天魔としての顔に戻る。

 

「ま、お互いままならない愚痴を言い合っても仕方がない。今ある札でやりくりするしかないのさ。お前さんもそうだろ?」

「……否定はしない」

 

 天魔の言葉に一応うなずいておく。彼の一族の長としての考え方には信綱にも賛同できるものが数多くあった。

 うなずいた信綱に気を良くしたのか笑顔を見せながら、天魔は懐の目録を渡してくる。

 

「そんじゃ、これがオレの選んだ天狗だ。オレの方で人間に興味があって、無闇に害そうとしない性格の連中を見繕った。あとは本人たちの強い希望」

「それでは多くなるのでは?」

「退屈は嫌いだが、責任も嫌いって連中が多いのさ、ウチは」

「部下は頭に似ると聞くぞ」

 

 困ったものだと苦笑する天魔に皮肉を返しながら、信綱は目録に目を通す。

 そのほとんどが知らない天狗だが、その中に射命丸文と犬走椛の名を見つける。

 

「ふむ……あの烏天狗も来るのか」

「オレの代理も兼ねてな。人間の方との顔合わせはオレがやるが、その時の天狗の防波堤だ。権限はオレと同等と見ていい」

「ずいぶんとあの天狗を買っているんだな」

 

 天魔は文を非常に重用している。それは信綱との交渉役に任せたことや、騒動の際にも見ることができた。

 信頼なのだろうか、と首をかしげる信綱に天魔はニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。

 

「あいつ、からかうと面白いんだよ。根が真面目なのに、何を思ったか不真面目ぶりたがる。なんだかんだ腕も立つしオレに忠実ってのもあるが」

「お前に忠実じゃない部下もいるのか」

「一族ぐらいならともかく、天狗全体となるとどうしてもな。ウチは階級社会で階級の変動もまずないから横の繋がりもできやすい。一つの意思に統一なんてのはとてもとても」

「そういうものか」

 

 信綱は興味深そうに首肯する。なにせ彼の率いる家は一族全員阿礼狂いだ。こと御阿礼の子が関わる時は信綱が何も言わずとも一つの意思に統一される。

 そのことを伝えると、天魔からもバケモノを見るような目で見られてしまう。

 

「……お前の先祖やお前だけが特別じゃないのか。なんておっかねえ連中の集まりだ」

「でなければ代々御阿礼の子の側仕えなどできんわ」

「いや、別にお前と同等まで狂っている必要はないと思うぞ?」

 

 後天的に盲目的な忠誠を誓う例は存在する。

 命を助けられたとか、名もない人間に名を与えたなど、その人の運命そのものを変革するような出来事があった場合、助けてもらった存在に忠義を誓うこともあるだろう。

 だが信綱たちは違う。幼少の教育ですらなく、ただ生まれ落ちた時点ですでに特定の人物に対して魂すら捧げる熱を抱いている。

 

 これが一人二人ならまだ特異事例としてあり得なくもない。しかし一族全員がこれとはどういう了見だ。こんな人間の摂理に真っ向からケンカを売っている連中が大勢いるのか。

 

「……まっとうな出自じゃなさそうだな」

「そうだな。遡れば妖怪の血でも混ざっているかもしれん」

「いやいや、妖怪の血が入った程度でそうなるものかよ。間違いなく根っこの部分が弄くられているぜ」

「……だったらあのスキマだ。俺の知っている連中でそんなことが可能なのはやつぐらいだ」

「……そこまでわかってんのかよ」

 

 消去法で考えればすぐである。自分たちが異常であることなど、とうの昔から理解しているのだから。

 とはいえそれをどうこう言うつもりはなかった。紫が犯人であろうとなかろうと、そこにどんな思惑があろうとどうでも良い。むしろ感謝すらしている。

 

「今さらまともな人間に戻るつもりもないし、俺たちのやることはいつだって変わらない。――阿弥様を害するのなら全て討ち滅ぼす。それだけだ」

「……本当、牙がこっちに向かなくて良かったと思うね」

 

 意図せず背中に冷たい汗が流れるのを、天魔は感じ取る。

 信綱ほどの強者がいなくても、この手の連中は脅威と成り得る。倒すことはできても被害が洒落にならない領域まで膨れ上がるだろう。それほどに自分の命を度外視する連中は怖い。

 

「別に阿弥様に手を出さないなら俺から仕掛ける理由はない。俺もお前と戦うのは骨だ」

「勝てないとは言わないんだな」

「まあ、多分勝てるだろう。腕の一、二本は危ういが」

 

 切れる手札の用意を怠ってはいない。あの騒動のおかげで実戦経験が積めたので、信綱の技量にさらなる磨きがかかっていた。

 すでに四十代であるというのに、未だ信綱は成長の最中にある。妖怪を滅ぼす人間というのはかくも恐ろしいものだったかと、天魔は内心でかつての人間を思い返していた。

 

「……こりゃ、鬼が倒されるのも運命だったか。とにかくお互い、仲良くやっていこうや」

「わかった。……ところで、この目録にある天狗は全てが烏天狗か?」

「ん? 大天狗は入ってないから……後は白狼天狗くらいか。山の哨戒を任せていたからか、人里に興味を持つ者が多くてな」

「ふむ……そちらも確かめたか?」

「当然。そこいらに手抜かりはない」

 

 自信に溢れる天魔の言葉に適当な相槌を返しながら、信綱は思考を巡らせていた。

 椛の存在をいつ明かすか、である。もう隠しきるのは難しい段階まで来ている。

 というか鬼の情報もそろそろ告げねばならない。そうなると人里の人間が知るはずのない地底の情報も出すことになる。ごまかしきれはしないだろう。

 

「…………」

「何か気になる点でもあったか?」

「……いや、なんでもない」

「ん、そうか。……次に会うときはお互い笑顔で会いたいもんだな」

「そうだな。失敗しないことを祈ろう」

 

 互いに立ち上がり、背を向ける。天魔は空に飛び立ち、信綱は帰路についていく。

 これが終わったらこちらの知る全ての情報を渡そう。天魔は信用できないが、天狗のために動いているという点は信頼できる。

 天狗のためなら人間に頭も垂れる。不要なら躊躇わずに切り捨てる。――言い換えれば、人間に利用価値がある間はこちらを守るはずだ。

 

 鬼が襲来など人間の手に余る。二、三十体の雑兵ぐらいなら信綱が一人でどうにかできるが、向こうだってお行儀よく一点に集中するはずもない。

 被害は甚大なものになるだろう。そうなる前に対策は講じなければならない。

 が、人間側で鬼と戦えるだけの力量がある者など自分ぐらいだろう。

 

 昔の幻想郷縁起を見ても鬼の記述から読み取るに、相当恐ろしい存在だったようだ。

 頭数を揃えればどうにかなる、というのは驕りになるだろう。そしてその驕りの代償は地上の壊滅的被害。

 そんなことにならないためにも、人間と天狗という勢力そのものを巻き込んでしまおう。それが一番生き残りやすい形のはずだ。

 

「……あのスキマは何をしているのやら」

 

 自分と天魔が人妖の共存に力を尽くしているというのに、本来最初にそれを唱えたはずの妖怪の賢者はこれをどう思っているのだろう。

 

「……ふん」

 

 しばらく考えている間にそれらしい答えが出た。その内容に信綱は少々虫の居所が悪いように鼻を鳴らし、歩を速めるのであった。

 

 

 

「あの目録に見るべきものねえ……」

 

 帰りの道、天魔は空を飛びながら信綱が興味を示していた目録を思い出す。

 自分で選んだ連中だ。当然、顔も名前も全て覚えている。

 さて、信綱が見知っている者はあの中には射命丸文ぐらいのものだが、何がそんなに興味深かったのか。

 

「……全てが烏天狗か、なんて聞く必要あったか?」

 

 信綱から見れば全て似たり寄ったり、というより違いがわかるはずない。あれはどのくらいの数が交流に興味を持っているか、という報告書みたいなものだ。

 あれに一体何を不思議に思って――

 

「あの中に人間への協力者がいる……のか?」

 

 そんな疑問に至る。あの目録の中に信綱の知る天狗が二人以上いたのなら、あのような言葉が出てくるのも一応はうなずける。

 とはいえわかるのはそこまでだ。信綱もなかなか隙を見せない。

 

「……ま、考えることが多いのは良いことさ」

 

 最近は刺激的なことが多くて良い。退屈が妖怪を殺す毒である以上、良いことであれ悪いことであれ、やることがあるのは良いことだ。

 幻想郷における変化があるとしたら、それはもう佳境に来ている。

 最後までこのまま行ってくれれば言うことなし。だが、世界というのはそんなに都合が良くできていないことを、天狗の歴史という形で幻想郷を見続けてきた天魔は理解していた。

 

「……あの人間、そろそろ死なないと良いが」

 

 吸血鬼、天狗と来て次はどんな艱難辛苦が信綱に襲いかかるのか。

 傍観者であれば楽しいが、彼に死なれると自分も困る天魔はなるべく楽なものであって欲しいと、願うのであった。

 

 

 

 

 

 帰り道を歩いていた信綱は、ふと見慣れた道で足を止める。

 踏み均された道に侍るように立ち並ぶ木々。前後で差のない風景はどちらが人里への帰り道なのか、一瞬わからなくなってしまうほど。

 その中で信綱は何かを感じ取った。殺気や敵意などという明確なものではなく、なんとも表現しがたい不思議な気配。

 

「……ああ、なるほど。いるんだろう、八雲紫」

 

 曖昧な感覚、と来たら思い浮かぶものは彼女しかいない。虚空で彼女の名を呼ぶ。

 ……特に何もないので、気配を感じた場所に無言で手を伸ばす。

 

「きゃっ!?」

「やっぱりいたか。あんな変な感覚、お前しか考えられん」

「あなた、どんどん人間離れしてませんか……?」

 

 手を伸ばすと案の定、スキマを開いて紫が飛び出てきた。自分のスキマが見破られるとは思っていなかったのか、本気で驚いている様子だ。

 そんな彼女の様子に信綱は不快げに鼻を鳴らす。

 

「ふん、弱ければ生きられない世界にしたのはお前だろうに」

「……正直、人間を見くびっていましたわ。まさかあなたみたいな人が生まれるなんて」

「俺がいなければいつまでも人里は妖怪に怯えていたということか。楽でいいな、人妖共存の提唱者は」

 

 ギロリと鋭い目で睨む。信綱とて人里の一員。同胞が悪い扱いを受けることに良い顔はしない。

 ついでに嫌味も混ぜておく。彼女相手に言いたい放題言える瞬間など、この時ぐらいしかないだろう。

 

「ぐ……わ、悪いとは思ってます。ですが、私が動いては上手くまとまるものもまとまらなかったでしょう?」

 

 確かに八雲紫が相手となっては誰も彼女を信用などできないだろう。信綱と天魔の話し合いとは比べ物にならないほど、物々しい空気の会合になっていたはずだ。

 天魔がある程度信綱に対して気安い空気を見せるのも、彼が自身の立ち位置を極めて明確にしている上、そこから逸脱することはないと確信できるからだ。

 天魔は天狗のため。信綱は御阿礼の子、ひいては人里のため。お互いに利益が一致しているから手を組み、協力し合うことができる。

 

 八雲紫は幻想郷の味方であるという立ち位置は崩さないものの、それが天狗や人間のためになるかと言われると怪しいものがある。ぶっちゃけると胡散臭い。

 視点が彼女だけ広すぎるのだ。見ている方向が同じでも、信綱や天魔は自分たちの足元にしか目を向けておらず、紫は足元ではなくより遠くを見据えている。

 

 そこまで理解していても結局のところ、幻想郷を作り上げた一人に八雲紫がいることは間違いなく、問題が如実に表れるまで動かなかったのも事実なので、言いたいことは言っておくのだが。

 

「ふん、お前の事情など知ったことか。……で、なんの用だ」

「あなたと天魔がやっていることの結果を見届けようと思いまして」

「……余計な手出しは」

「しませんわ。それに下手な手出しはまとまる話をこじれさせてしまうだけよ」

 

 自覚があるならなぜ来たのか。そんな目で見ていると、紫の目がふっと優しいものに変わる。

 

「これは不躾な話だと思うけど……私はあなたに期待していたのよ」

「いい迷惑だ」

「歯に衣着せないわね! 橙は最近ちょっと優しくなったって言ってたのに!!」

「なぜお前に優しくせねばならんのだ」

 

 裏表のない橙ならともかく、裏も表も信綱よりたくさんある紫に見せる優しさなどない。

 不動の表情で、しかしもう帰っていいか? という意思をありありと浮かべている信綱に紫は咳払いをして話を戻す。

 

「ん、んっ! 私も人妖の在り方の変貌はなんとかしなければと思っていました」

「思ってなければ困る。死者が出ているんだ」

「茶々入れしない! でも、ハッキリ言ってあの時は袋小路だったのよ。妖怪は自分の領域にこもり、人間は妖怪の脅威を忘れつつあった」

 

 否定はせずにうなずく。あの時代は妖怪の姿を見たこともない人間が多くいた。

 まだ妖怪の姿を知る老齢の者たちがいたから良かったものの、あのまま十年も経っていれば妖怪の存在を信じない者すら生まれたかもしれない。

 

「あの吸血鬼が来たのも実に間が良かったわ。こう言ったら怒るでしょうけど、死者が数名で済んだ」

「…………」

 

 彼女の言葉に肯定はしないが、否定もしない。死者が出たことを喜ぶ感性は持ち合わせていない。

 たとえレミリアが来なければ天狗が襲いかかってくる可能性が濃厚で、そちらの方が死者が多く出ていただろうと予想していても――たらればの話で死者の数を幸運と言ってはいけない。

 

「遠からず爆発すると誰もが思っていたあの瞬間、レミリアが来たことで多くのものが一斉に動き始めた。私は言うに及ばず天狗や人間まで。正直、あなたが共存を意識するとは思っておりませんでしたわ」

 

 微かに苦笑する紫。信綱は憮然とした顔で紫から目をそらす。

 椛がいなければ思いもしなかった方向だ。椿の死を知った彼女が人妖が殺し合わずに済む世界を願わなかったら――きっと、信綱は人妖の在り方に興味など示さなかっただろう。

 

「そうして人間と天狗が手を取り合って……本当、夢のような光景でしたわ。何度も願った夢物語が、あなた達の手で実現しようとしている」

「……そうだな。それにケチを付ける気はない」

 

 紫が下手に手を出せない問題だったのは事実であり、何よりこういった話は当人同士の歩み寄りが大切だ。

 第三者が話をまとめれば共存できる、なんて楽な話ではない。

 そこは信綱にも理解できたため、茶々入れはしなかった。その代わり――

 

 

 

「――お前、どこまで読んでいた?」

 

 

 

「……どこまで、とは?」

 

 かつて夢見たものを見るような目から、信綱を推し量るそれに変わる。

 但しそれは決して悪意のあるものではなく、子供の宿題の答え合わせをするような優しいもの。

 

「そこまで妖怪の不満とかを理解していたのなら、あの小娘が来た時に色々と情勢が動くこともわかっていただろう。――その中にはここまでの絵面も描けていたはずだ」

「買いかぶりですわ。私、未来予知はできないのよ?」

 

 未来予知はできないだけで、彼女の能力は本当に得体が知れない。いや、ひょっとしたら未来予知も可能かもしれないと思わせる何かがある。

 しかし、それとは関係なしに信綱は今の状況が八雲紫の想像通りであることに確信を抱いていた。

 

「……恐らく、天魔が俺に話を持ちかける辺りまでは読んでいた。あの異変に関して、天狗が何の情報も得ていないとは考えられず、実際に情報を得ているのなら人里に属する俺が異変を解決したこともわかっている」

「ええ、ええ。それは少し考えれば誰でもわかることでしょう。博麗の巫女のように妖怪側の手出しが許されないわけでもなく、ただ純粋に強い人間にはそれほどの価値がある」

「……ではどうして手を出さなかった? あの時、お前なら機先を制して天狗と接触するくらい簡単なはずだ」

 

 紫の持つ情報は天狗とも自分とも違う領域にある。情報の量だけで見ても幻想郷で右に出るものはいないだろう。

 だからこそわからない。情報というのは時間とともに価値が劣化するものだ。だがそれは言い換えれば劣化していない情報には万金に値する価値があるということ。

 彼女なら自分と天狗、そして幻想郷。全てを自分の手のひらで動かすことなど造作もないはず。そうした方が楽に話も進んだだろう。

 信綱がそれを伝えると、紫は明確な意思を乗せて否定する。

 

「それは違うわ。確かに私にはそうすることができた。もしかしたら今以上に良い形で共存の道標もできていたかもしれないわね」

「なら――」

「でもそれは私が与えただけ。あなたや天魔の気持ちを無視して、ただ私が押し付けただけの答えで共存が生まれたとして、それが長続きすると思う?」

「…………」

 

 答えられない。人里の人間だって妖怪に良いようにされ続けて、妖怪に怯えることも共存することも全て妖怪からの押し付けで話が進むとしたら、どこかで不満が爆発するかもしれない。

 天狗だって彼らの利益にならなければ、容赦なく人間を切り捨てるだろう。

 それが自身の手で作り出したものなら惜しみもするが、他人の手から与えられたものに頓着はしまい。

 そして――八雲紫のその言葉には、信綱が稗田阿七より教わった言葉を連想させるものがあった。

 

「あなたたちの気持ちを無視したくなかった。それで得られる答えが最善とは思えなかった。だから、選んだの」

「見守ることを、か」

「ええ、正解」

 

 そう言って紫は慈母のごとき笑みを浮かべる。

 見守り続けた愛子が望み通りの未来に到達しつつある。そのことを祝福するように。

 

 その姿に信綱は不覚にも阿七を思い出してしまう。

 彼女に相手の思いを無視した行動が良い結果を生むとは限らないと言われたから、信綱は相手の情を考えるようになった。

 それと同じことを紫に言われ、つい連想してしまった。阿七は唯一無二の存在であり、八雲紫とは比べ物にならないほど尊い存在であるというのに。

 

「……なんか今、すごく失礼なことを思われた気がしたのだけれど」

「気のせいだろう。それで後は見届けるだけか。楽な役回りだ」

「見ているだけというのも辛いものなのよ? 天魔は抜け目ないから良いけど、あなたに関しては阿礼狂いですし」

「俺にそんな大役を押し付けたのが悪い。俺だってやらなくて良いならそれに越したことはなかった」

 

 なぜこんな政治的な動きまでしているのか。阿礼狂いは御阿礼の子に狂っていたいだけなのに、周囲の情勢がそれを許してくれなかった。

 結果としてこんな場所まで来てしまった。博麗の巫女でもなく、吸血鬼でも天狗でもないただの人間が、今や人妖共存の架け橋になりつつある。

 

「……当日は来るのか?」

「もちろん。私と藍、二人で見に行きますわ。当然、変化は使わずに」

 

 これまでは変化の術で来ていた可能性があるのかよ、と思ったが口には出さなかった。今さら人里の中を疑っても良いことはない。

 

「あの猫は連れて行かないのか」

「あら、連れて来て欲しかったの? なに、あなたやっぱりあの子が恋し――痛い!?」

「調子に乗るな」

「迷わずグーはひどくない!?」

 

 橙の性格は紫から来たのかもしれない、と思いながら紫の頭にゲンコツを落とす。

 紫は両手で可愛らしく頭を押さえて涙目になる。紫がやるとなぜか不気味に見えると信綱は思った。

 

「全く、その性格でよく妖怪との共存とか言うようになりましたわね。見守ると決めた時から今になっても氷解しない疑問ですわ」

「ふん、自覚はある。俺は誰憚ることない狂人で、御阿礼の子以外は全てが塵芥だ。正直、問題に直面しなければ人妖の共存なんてこれっぽっちも考えなかっただろうさ」

 

 自分は何かの手違いでこの場所にいるだけであって、本当にこの願いを持っているのは自分ではないのだ。

 

 

 

「だから――共存を成し遂げるのは俺じゃなくて、その願いを最初に持った奴なんだ」

 

 

 

 信綱は偶然にもそれを行える力と出会いがあったから行っただけ。彼女がいなければ自分はただの阿礼狂いであり続けただろう。

 そしてこうも思うのだ。本当に何かを変える力を持つというのなら、それは自分のような狂人ではないはずだ。

 

「あとは橙みたいに何も知らない奴だ。多分、これからの幻想郷を作るのはあいつらだ」

「……ずいぶんと買っているのね、あの子を」

「お前は見守ることを選んだ。俺と天魔は土台を作ることを選んだ。歩くのは俺たちじゃない」

 

 正直に言って、信綱は妖怪全体と仲良くできる自信なんて一欠片もない。自分みたいな狂人と友人でいてくれる奴らが変人なのだ。

 天魔も紫も立場が邪魔をして誰かれ構わず仲間を作る、というわけにもいかないだろう。

 要するに彼らが行ったことはただの道作りでしかないのだ。それ自体も重要だが、本当に大変なのはこれからだ。

 そう言うと、紫は静かに目を閉じて何かを噛み締めるように何度もうなずき、やがて信綱の肩に手を置く。

 それは対等の存在にする所作であり、自らと同じ領域にまで至った存在を歓迎する所作でもあった。

 

「……よく言ってくれました。阿礼狂いの当主、火継信綱。今のあなたを、ええ――幻想郷の一翼を担う一人であると認めましょう」

「興味ないな。そんなもの、阿弥様のお言葉以上の価値はない」

「あらひどい、私にとって最上位の褒め言葉なのに」

「別にお前に褒められたところで全く嬉しくないわ。せめて即物的なものを用意しろ」

「あ、じゃあ橙のお婿さんにでもならな痛い!!」

「寝言は寝て言え」

 

 博麗の巫女といい八雲紫といい、なぜ悉く自分との相手に童女にしか見えない妖怪を具体例に出してくるのだ。

 もう話すこともないのだろうと判断した信綱は、叩かれた頭を抱えて涙目になっている紫を横目に再び歩き出す。

 この際、紫は一瞬だけ気配を幻想郷の賢者のものに変えて口を開く。

 

「――もうすぐ嵐が来るわ。これまでで一番大きいものが」

「……お前が未然に防ぐ手はないのか」

「仮にそれで防いで、次にいつ不満が爆発するかは私にもわからなくなりますわ。今が最善かと」

 

 紫の言葉で来ることが確定してしまった鬼の集団。それに対抗する手段も勢力も、そして鬼たちを満足させうる人間もいる。

 確かに今以上の時はないのかもしれない。下手に時間稼ぎをしたところで、次がより良い状況で迎えられる保証はない。

 要するに鬼の襲来という幻想郷の歴史を紐解いても最大級と呼べる異変を、解決できる可能性を持つ人間がいるうちに爆発させて大人しくさせてしまおうという魂胆だ。

 

「つまり俺に死んで来いと」

「常人ならばそうでしょう。ですがあなたは生き残る算段をすでに立てている。違います?」

「……どうかな」

 

 もちろん嘘だ。あの日、燐から知りたくなかった情報を聞き出して以来、キッチリ対策は考えてある。

 ……相手の規模もよくわからないので、とりあえずその時が来るまで協力者を集めるのと自分の実力を可能な限り高めておくという身も蓋もない結論だったが、そう間違ってはいないはず。

 共通の危機であれば天狗を動かせる。天狗が動けば河童も動かせる。人里が危なければ巫女も動く。レミリアには以前の約束が効いている。

 あとは――自分が力を示せば良い。

 

 

 

「それでは頑張ってくださいな、人間の英雄。結実はもう間もなくですわ」

 

 

 

 次の異変に際しては味方になってくれるであろう、そんな幻想郷の賢者の言葉を背に信綱は帰路につくのであった。




話が進んでない? 次回から進めます(土下座)

ゆかりんはほぼメタ視点に近い情報を持っていて、大体なんでも自由に操れる上で何もしないことを選びました。彼らがその道を選ばなければ意味がないと思っています。

つまりそこまで見抜いた上でノッブはゆかりんに嫌味を言っているわけですが。
見方を変えれば散々厄介事押し付けられた形にもなりますので、阿礼狂いでいたい彼にとっては迷惑以外の何ものでもありませんでした。
でもそんなゆかりんでもノッブに共存を願わせた妖怪の存在までは手が及んでいません。椛がここまでのダークホースになるとは誰が思ったか。少なくとも私は思ってなかった(暴露)

さて、ぼちぼちこの時代も佳境に入りつつあります。阿弥の感情の決着に百鬼夜行。それが終わったら殆ど戦闘はなくなるでしょう。
三つも異変ぶち込んだからスゴく長くなっています。誰のせいだ、私のせいです(土下座)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

願いの結実とそれぞれの始まり

 ふむ、と信綱は人妖の交流のために設けられた区画――そのまんまに交流区画と名付けられた一帯を歩いて回っていた。

 天狗の側でも騒動の際に大暴れした記憶が新しいのか、ジロジロと見られてしまう。

 見られることに興奮を覚える性格でもないので心苦しいのだが、この場では見られることが半分仕事のようなものだった。

 

 表情に出さないようにそっと息を吐く。阿弥が隣にいればこの仕事も至福のひと時に早変わりするのだが、彼女は今日はいない。

 なにせ交流は始まったばかり。どんな問題が起こるかわかったものではない。成功か失敗かもわからない試みに連れて行って危険な目に遭ったなどとしたら目も当てられない。

 

 だから慧音に見回りを頼んでおいたのだ。歴史書の編纂も行う彼女ならば今日の出来事も克明に記録してくれることだろう。後でそれを見れば実際に見ることには及ばずとも、それなりに詳しい資料が揃うはずだ。

 ……無論、民に安心感を与えることができるという理由もある。信綱の中での二つの比率は知らない方が幸せである。

 

 巫女と紫はどこにいるかわからない。だが彼女らのことだからどこかで見ているはず。いつ何が起きても不思議ではない空間を見逃すとは思えない。

 

 今のところは祭りのように浮足立った気配が漂っていた。人間は人間で、妖怪は妖怪で固まっており、どちらかが一歩を踏み出さなければこの微妙なこう着状態は続くと読み取れる。

 つまり、この状況に求められているのはある種空気を読まない力であり――

 

「あ、ねえねえ! あそこのお団子美味しそう! この橙さまに買ってあげても良いのよ!」

「さっき焼き菓子食ってただろうが」

「甘いものは別腹よ!」

「さっきのやつも甘かったと思うぞ。店主、二つくれ」

「へい毎度!」

 

 周りの視線に全く頓着しない妖猫が、今は信綱の手を引いていた。

 

 

 

 実のところ、彼女とはかなり早い段階で合流ができていたのだ。

 この催しが始まり、信綱と天魔が軽い挨拶をしてすぐに交流は始まった。

 最も往来が激しいことになると予測された場所では、勘助率いる霧雨商店が声を張り上げて客の呼び込みをすぐに始めていた。

 その場所では人妖関わらず上手く回っていたため、あまり心配することなくその場を後にすることができた。忙しそうに人里の酒や加工食品を売る勘助の邪魔はできない。

 

 が、あくまでそれは一角。全体で見ればまだまだ上手く行っているとは言いがたい。

 そんな時だった。橙が信綱の方にまっすぐ向かってきたのは。

 

「やっほー人間! 凄いわね、私が普通に歩いていても何も言われないなんて!」

「来たか。お前の主人はどうした?」

「藍さまは紫さまと一緒。お小遣いももらったのよ! なければ適当に妖術でごまかし――アイタタタ!!」

「この状況で、それをやったら、本当に見逃せないんだよ」

 

 橙の耳を強めに引っ張って、痛い痛いと喚く橙の耳元で一言一句を噛み含めるようにして告げる。

 何がどこで爆発するか全くわからないのだ。下手に火種を増やすような真似はしたくない。

 それに下手に人間を騙すことを覚えてはロクな妖怪にならない。

 妖怪の時点で将来のロクデナシが約束されているようなものだが、それでも橙にはまっとうに育って欲しい。でないと友人を手にかけるハメになる。

 

「ううぅ……悪かったわよ。でも大丈夫なの? 天狗も変化の術ぐらい使えるはずでしょ?」

「そこは人選をした天魔に一任した。天狗も自分たちの行いの責任が天魔に行くくらいわかっているだろう」

「? 難しいこと言ってる?」

「…………」

 

 橙に首を傾げられてしまい、信綱はいかに自分が面倒なことを考えることに慣れてしまったのか、嫌でも見せつけられてしまう。

 やや大仰にため息をついて、橙の頭に手を乗せる。耳を引っ張られると思って警戒している彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫で回し、歩き出す。

 

「俺も考えたくないことだ。そら行くぞ、安いものなら買ってやる」

「今日は槍が降るわね……。短い命だったわ……」

「ちなみにあそこの店は人里でも有名な甘味処だ。今日は出店して金つば焼を出しているとか」

 

 足を止めて食べるのではなく、ある程度持ち運びも考えた選択である。他にも最中や大判焼きと言ったものもあり、塩っ気が欲しければ天ぷらや蕎麦の屋台などもあった。

 技術面で人間が天狗に勝てる部分はほとんどないため、食事方面で攻めようという魂胆である。あとは娯楽品などなど。

 

「なにやってんのよ早くお金出しなさいよ!」

 

 そしてあっという間に甘味に目が釘付けになった橙が信綱の手を引いてくる。

 強そうにも偉そうにも全く見えない妖猫と、今や幻想郷の大半にその名を知らしめている人里の英雄。

 およそ接点などないはずの二人が悪友のように悪態をつき、時には手を出しながら仲良く歩いていく。

 そんな姿を衆目に見せながら、二人の一日は始まっていくのであった。

 

 

 

 そして今は橙の甘味制覇に向けて付き合わされている途中だ。

 天狗の方も負けじと手の込んだ食物が出てきている。羽根のように軽くて甘い砂糖菓子や、卵を使った菓子が出てきている。

 ……卵の出処は考え始めると怖いのでなるべく考えないことにする。多分、彼らも普通に鳥を飼っているのだろう。そう思いたい。

 

「よく食うなお前は……」

「はぐはぐはぐ……。あんたは食べないの? 美味しいよ?」

「もう十分だ」

 

 橙が食べている姿を見るだけで腹が膨れてしまう。身体が資本の職務だけあって信綱も平均的な成人男性よりは食べる方だが、それでもずっと甘いものを食べていられる舌の持ち主というわけではない。

 焼き立てでほこほこと湯気を立てている大判焼きを、必死に冷ましながら美味しそうに頬張る橙を横目に歩いていると、視界の先に見慣れた日傘を発見する。

 

「あらおじさま、奇遇ね」

「こんにちは。お嬢様ともども、ずいぶんと探し回りましたよ」

「美鈴、そこの店でお茶買って来なさい。自腹な」

「しまった失言!? 行ってきます!」

「ちょっと、日傘は置いてきなさい!?」

「変わらんなお前ら」

 

 日傘を持ったまま飲み物を買いに行こうとして主を日向に晒し、火傷を負わせてしまう美鈴と身悶えしながら美鈴を叱るレミリアを見て、信綱はため息をつく。

 橙は例によってこの二人の空間に飲まれてしまい、ただ手元の大判焼きを食べるだけの存在になっていた。

 食べ続ける気概があることに信綱が内心で驚いていたのは内緒である。

 

「誰、この二人?」

「霧の異変――もう吸血鬼異変か。その時に来た吸血鬼だ」

「ん? その子猫ちゃん、あなたのペット?」

「なっ!? 違うわよ! こいつが私のペットよ!」

「どっちも違うに決まっているだろう」

 

 ゴリゴリと拳で橙の頭を押し込みながら、レミリアにも咎める目を向ける。

 信綱がそこそこ本気で気分を害していることがわかったのか、レミリアは肩をすくめて小さく笑う。

 

「そう、ごめんなさいね。まさか奥様が妖怪だなんて思わなかったわ。美女と野獣かしらって日傘はやめて!?」

 

 そっとレミリアから日傘を奪い取ると文字通りの日焼けに悶え苦しみ始める。

 その姿を眺めながら、自分が誰かと一緒に歩くといつも変な勘繰りばかりされる、と信綱は少しだけ落ち込む。見た目が問題なのか、肩書が問題なのか。

 やがてレミリアに日傘を返して、辟易した顔で両者の紹介をする。

 

「ふーん、あのスキマの式の式……どれくらいすごいの?」

「そりゃあもう凄いのよ! 幻想郷の管理なんて凄い大役に決まってるじゃない!」

「見た目通りのお子様だから、あと何百年かかるかわかったもんじゃないがな。ところでお前たちはどうして?」

「がーっ!! 最近は藍さまに腕を上げたなって褒められているのよ!!」

 

 こっちに腕を振り上げてくる橙を片腕で押さえ込みながら話し続ける。

 見るたびに腕を上げていく信綱に対抗心を燃やしたのか、橙は修行に身を入れるようになっていた。

 藍はこれをほくほく顔で受け入れており、密かに信綱を式に変える計画を練っていたらしいが、紫にボツを食らってお蔵入りしたとのこと。閑話休題。

 ちなみに知恵比べではさすがに藍に分があるが、武力勝負ならすでに信綱の方に天秤が傾いているようだと紫は見立てているらしい。

 

「もちろん見物よ。おじさま、あなたのオススメのお店とかないかしら?」

「ふむ……そろそろ客足も落ち着いただろうし、ちょうど良いか。おい、少し戻るぞ」

「ふぁ?」

 

 何か驚いている橙の手を引き、後ろのレミリアが戻ってきた美鈴から飲み物を受け取って付いてくるのを確認する。

 

「知己のやっている店がある。店主も信頼できる」

「へえ、おじさまの口から信頼なんて言葉が出るなんて。期待して良い?」

「それはお前が見て決めろ。そら着いた」

 

 勘助の出している霧雨商店は未だ盛況のようだが、最初の頃みたいな人だかりは落ち着いていた。

 その中でも信綱とレミリア、橙という組み合わせは人目を引いたのか、誰かが彼らの姿を見つけると静かに引いてくれる。

 

「……なんだか悪いことをした気がするな」

「あら、こういうのは堂々と傅かれていればいいのよ」

「すごい注目。これは私の時代が来てるわね……って、なに頭撫でてんのよ! やめなさい!」

 

 レミリアは根っこが貴族らしく、傅かれることを当然と受け入れている。

 その中で橙の脳天気さがうらやましく思えた信綱は、橙の頭を乱暴に撫でる。耳と同じく毛並みの手入れはしっかりされていた。

 

「よう、勘助。繁盛しているか?」

 

 店の前に立って声をかける。普段は丁稚や他の店員に店を任せるようになった勘助だが、大勝負の時は彼が前に出る形になっていた。

 

「お、来てくれたのか。そこのお嬢さんたちは……」

「やあ人間。吸血鬼異変の時には世話になったね」

 

 信綱を見つけた勘助は嬉しそうに笑うが、レミリアがかけた言葉にそれが引きつる。

 助け舟は出せない。人妖共存を掲げるなら、レミリアともどこかで折り合いを付けてもらわねばならないのだ。

 信綱が事の推移を見守っていると、勘助はグッと喉元で何かを堪えるようにして、笑顔を浮かべた。

 

「……いらっしゃいませ! うちは人間でも妖怪でも皆等しくお客様だよ! 何が欲しい?」

「……へえ。じゃあこのお菓子をもらおうかしら」

「あ、私はこっちの駄菓子!」

「毎度あり!」

 

 レミリアと橙にお菓子を渡しながら、勘助はそっと信綱に耳打ちする。

 

「これでいいんだよな?」

「ああ、ありがとう。やはりお前に頼んでよかった」

「よせよ。ウチの商品で喜んでくれるなら誰だってお客様だ」

 

そう言えるからこそ頼んだのだ。どうやらレミリアのお眼鏡にも適ったようで、一安心である。

 

「……おじさま」

「なんだ」

「あなたの友人だけあって、彼もなかなか強いわね。ああいうの、嫌いじゃないわ」

「そうか。なら、今後もよろしくしてやれ。商品を買ってやるのが一番喜ばれる」

「そうしようかしらね。……ええ、この場所を守るのも存外、悪くはないかもしれない」

 

 レミリアが零した言葉に信綱も微かに驚く。彼女が人里を守るのは自分との約束であって、それ以外の理由などないと思っていた。

 そんな風に考えていたことが読まれたのか、レミリアは優雅に微笑みながら口を開く。

 

「ふふ、居心地の良い場所を守るのは当然でしょう? 受け入れてくれる場所をわざわざ壊そうなんて思うのは余程のバカだけよ」

「……それもそうだな」

 

 相槌を打ちながらも、菓子くずをボロボロと口元にくっつけていては優雅もなにもないな、と思う信綱だった。

 橙は美鈴が日傘を持つことに集中しており、何も食べていないことに気づいたのか自分の菓子を半分差し出そうとする。

 

「はい、これ」

「……あの、これがどうかしましたか?」

「食べたそうだったからあげる」

「…………」

「えっ、泣き出した!?」

「ひ、久しぶりに人の暖かみに触れた気がします……!」

「血も涙もない悪魔とはこのことか」

「風評被害も甚だしいわよ!? ちゃんと労ったりお給料も出してるから!!」

 

 橙の優しさに泣き出してしまった美鈴。

 そんな彼女を見て、信綱は横で慌てているレミリアとの付き合い方を考えようか悩むのであった。

 

「じゃ、私はこれで離れるとするわ。ちょっと美鈴に優しくしないといけないし……」

「わかった。いじめるのもほどほどにしておけ」

「あんたがそれを言うのね……」

 

 ちょっと本気で泣いている様子の美鈴にこれはマズイと思ったのか、レミリアはそそくさと離れて部下を気遣い始めていた。

 あそこまで追い詰められる紅魔館の激務が少しだけ気になる信綱。もしかしたら彼女は自分よりも辛い仕事をしているのかもしれない。

 が、それは至極どうでも良いこと。あまり気にしていても虚しいだけなので程々にして歩き出す。

 隣の橙がお前が言うのか、という視線で見ていることはあえて無視することにした。

 

 

 

 次に見つけたのは九本の尾が壮観な道士服の少女だ。

 歩く度にふりふりと揺れる黄金の尻尾は思わず目で追ってしまうほど、人目を引いていた。

 信綱たちもかなり衆目を集めていたのだが、彼女には及ばない。

 

「あ、藍さまーっ!」

 

 敬愛する主を見つけた橙はその尻尾の海に飛び込むように抱きついていく。

 

「うん? ああ、橙か。楽しんでいるか?」

「はい、藍さま! 人間の作るものってとっても甘くて美味しいですね!」

「む……あまり甘いものの摂り過ぎは良くないんだが……」

「なぜ俺にそんな目を向ける」

 

 咎めるような目を向けられてしまい、信綱は憮然とした顔になる。

 確かに金銭には余裕があるのでいくらか奢ったが、甘いものばかりを選ぶのは橙の嗜好である。

 

「お前の主はどうした」

「別行動中……と言えれば格好もついたんだがね。到着して早々、どこかにフラリと行ってしまわれたよ。特に命令も受けていないし、ブラブラと散歩中みたいなものだ」

「じゃあ一緒に行きましょうよ! こいつ、すぐ意地悪してくるんです」

「……ほう」

 

 藍の目が微妙に怖いので信綱は顔を背けてあらぬ方向を眺める。

 ――と、そこで信綱はある存在に気づく。

 

「……なあ、八雲の式。お前の主人は本当に見つかっていないのか?」

「む? その通りだが……」

「……ふむ」

 

 先日覚えたあの感覚。あれは八雲藍などといった紫と親しい存在ならば気づけるものだとばかり思っていた。

 どうやらこれは信綱一人しか理解できない感覚らしい。藍の後方やや上空にある空間に手を伸ばそうとして、そこから目当ての妖怪が出てくるのを誘う。

 案の定、信綱が手を伸ばす前にそこから一瞬だけスキマが開き、先日話したばかりの少女が着地する。スキマを衆目に晒すつもりはないようだ。

 

「……一回目はまぐれの可能性を考えましたけど、二度あればそれは真実。……あなたの目には何が見えているのかしら。私以上にスキマが見えているのかもしれないわね」

「紫様!? おられたのですか!?」

「彼が私を察知できた以上、あなたにもできるかと思ったんだけど……期待外れだったようねって痛い!?」

「別に試してないだろうお前」

 

 ただ単に部下の慌てようを見て楽しんでいただけである。

 紫の頭にゲンコツを落としながら、信綱は藍にほんの少しだけ同情を覚えた。こんな主の従者になってしまうとは。

 それに反して御阿礼の子に仕えられる自分はなんと幸運か、という優越感も覚えていたので、信綱もあまり褒められたものではないが。

 

「……私が前に会ったのは吸血鬼異変が終わってすぐだったが、とんでもないな。紫様の気配に気づいたのか」

「俺だけではないと思っていたんだがな。どうもそうらしい。で、スキマ」

 

 ゲンコツを落とした手を開き、変な形状の帽子ごとその頭蓋を掴む。

 これマズイやつだ、と察した紫は冷や汗を浮かべながら信綱を見た。

 

「な、何かしら?」

「先日言っていたよな。この日は普通に歩く、と。あれはなんだ」

「私にとっての普通がスキマに乗っていることっていうか、ちょっとしたいたずら心がムラムラと湧き上がってきてこめかみが握りつぶされるように痛いいいい!?」

「今わかった。お前結構適当だろう」

 

 橙が紫のために飛びかかってくるギリギリを見極めて、紫の頭を離してやる。

 頭を押さえて涙目になった紫が信綱を非難するように睨みつけるが、全く意に介さない。幻想郷の賢者が相手でも容赦の二文字は存在しない男だった。

 

「あなた本当に容赦しないわね! 橙はいつもこんなことされてるわけ!?」

「うん」

「うむ」

「この状況に二人とも疑問を持ってない!? 藍、これでいいの!?」

「は、はぁ……」

 

 話に入れないような藍を見て、信綱は気づく。今のこのやり取り、レミリアと美鈴がよくやっている部外者の入りづらいそれではないだろうか。

 ちなみに藍は紫が親しい者を相手にしか見せない素の表情を、信綱に対して見せていることに驚いていた。

 最初に会った時は良いように紫の手玉に取られていた少年が、今や彼女に対等の存在と認められるまでになっていたのだ。

 人間の短い一生。その中の数十年程度でここまで到達した信綱に対し、敬意とも恐れとも取れぬ感情が浮かんでくる藍だった。

 

「はぁ……もういいですわ。それにしても……」

 

 そんな藍をさておいて、紫は自分たちの周りを眩しそうに見回す。

 この空間、領域において人妖の区別は限りなく薄い。

 誰も彼も皆、自分たちの商品を売ろうとするものや互いのことを理解しようと積極的に話しかけていく者たちばかり。中には見目麗しい天狗とお茶の時間でも楽しもうと声をかける豪の者までいるくらいだ。

 それらを愛おしそうに眺め、紫は信綱に笑顔を向ける。

 

「夢みたいな光景ですわね。藍もそう思わない?」

「はっ。人妖の不満が爆発するのではないかと考えていた頃が、ずいぶんと昔に思えます」

「私も時々そう思うわ。吸血鬼の娘が来てから全てが変わった。その点ではあの子に感謝してもいいわね」

「……俺としては違うがな」

 

 幻想郷の情勢で言えば、レミリアが来たことが奇貨だろう。だが、信綱が人妖の共存を考え始めたのはもう少し後からだ。

 仲が良い、とは言えなかったかもしれないが、それでも長い間ともに修練を続けてきた椿を手にかけた。

 その結末を嘆いた椛の慟哭を聞いた時が、信綱にとって人妖の共存を意識し始めた瞬間だった。

 だから賞賛されるべきは椿と椛、そして最善が最良の道ではないと信綱に教えてくれた阿七だ。

 自分は彼女たちの願いを受けて動いたに過ぎない。本質はただの阿礼狂いである。

 

「それで化け猫。お前はどうする? 二人について行くか?」

「あ、もう少し面倒を見ていてくれないかしら? 私たちはちょっと天魔の狸を探しているのよ」

「狸か」

「あなたも気をつけなさい? どんな状況でも天狗の利益はキッチリもらっていく男よ。私も何度煮え湯を飲まされたか」

 

 そう言う紫だが、心底嫌っている様子ではなかった。

 幻想郷の成立当初からの付き合いだと読み取れる。千年以上の付き合いは単なる好き嫌いを越えた関係を作り出すのだろう。

 

「では、ごきげんよう」

「橙、あまり甘いものばかり食べないようにな」

「紫さま、藍さま、また後でね!」

 

 日傘を持った妙齢の美女とそれに付き従う九尾の女。とても目立つ組み合わせであると思いながら、信綱は彼女たちが雑踏に紛れるのを見送る。

 そして残った橙を見下ろし、声をかけた。

 

「……で、これからどうする?」

「まだまだ見てないお店はあるわ! 行くわよ子分!」

「誰が子分だ。というか子分ならお前が奢れ」

「え? あんたの方がお金持ってるでしょってイタタタタ!!」

 

 橙の言うことは正しいが、それはそれとしてお金を出し続けるのは業腹なので橙の耳を引っ張っておく。あまり調子に乗られるのも困るのだ。

 

 そうして再び二人で歩き出して――信綱がこれまで密かに探していた目当ての妖怪を発見する。

 

「よう」

「あ、君も来ていたんですか」

「当然だろう。発案は俺だ」

「あ、天狗! あんたも来てたの!」

「ええ、橙ちゃんも健康そうで何よりです」

 

 一人歩いていた椛を発見し、信綱と橙が寄っていく。

 こうして三人で集まると、いつかの鬼の情報共有で集まった時を思い出す。

 あの時は強引に橙を巻き込んで泣かせてしまったものだ。

 

「……化け猫、もう少し小遣いをやろう」

「え? うん、ありがと」

 

 今さらになってほのかに罪悪感を覚えた信綱は、橙に小銭を握らせる。

 本人はもう覚えていないようだが、それでも小銭をもらったのが嬉しかったようであっという間に菓子を買いに行ってしまう。そんなに飢えていたか。

 などと考えながら橙を見送っていると、隣にやってきた椛が信綱と同じ方向を向いて、穏やかな顔で見ているものを共有し始める。

 

「……君が作ったんですよね、この光景」

「俺だけではない。天魔もこれを願った」

「それでも、やっぱり君が最初に言い出したことですから」

「それは違う」

「え?」

 

 思わず振り返ったという様子の椛に、少しだけ笑ってしまう。

 なんだ、この白狼天狗はあの一言がどれだけ己を変えたのか理解していなかったのか。

 もう教えても構わないだろう。信綱は自分のことを遠巻きに観察している視線に気づいた上で、隣の椛の手を取る。

 

「うん?」

「お前が――あの日、人妖の共存を願ったお前がいたからこそ、俺はここにいる」

「えっと……」

「お前が起点だ、椛。お前があの日に抱いた願いに共感したから、俺はこの光景を作り上げた」

 

 最初は何を言っているのかわからないといった表情の椛だったが、信綱の言葉を理解するとその顔が徐々に赤く染まっていく。

 なにせこの男の言動、幻想郷でも初めてとなる人妖が共存するこの光景を、お前のために作ったと言っているも同然なのだ。

 

「う、あ……」

「お前がいなければこの光景は生まれなかった。お前と椿がいなければ、今の俺はいなかった。だから賞賛されるべきはお前なんだ。犬走椛」

 

 ふっと微笑む信綱の顔を見て、椛は自分の中で生まれた感情が何なのか、ストンと落ち着く答えを得る。

 ああ、この気持ちはきっと――感動だ。自分が目をつけ、時に導き、時に引っ張られながら一緒にやってきたこの人間が、ここまで成し遂げた。

 これを喜ばずして何を喜べば良い。椛の頬を紅潮させていた感情が徐々に落ち着いていき、別のもっと大きな充足感が胸中を占めていく。

 

「……ありがとう、信綱。あなたの言葉、とても嬉しいわ。でも――」

「ああ、ここが終わりではない――」

 

 椛が片手を上げる。それが何を意味するのかわかった信綱も片手を上げる。

 信綱はここに至るまで力及ばずとも味方であり続けてくれた椛への感謝を込めて。椛は信綱がやってのけたことへの感謝と、これからも信綱の力になり続ける自身への誓いも込めて。

 

『ここからが始まりだ!』

 

 互いの手を叩く快哉は、両者の中で終生消えることはなかった。

 

 

 

 

 

「ク――ハハッ、ハハハハハハハハハハハッッ!!」

「ふ、うふふ、あはははは、だめ、笑っちゃうわ!」

 

 そんな二人の姿を遠く離れた家の屋根から眺めていた天魔と紫は、笑いが堪え切れていなかった。

 紫は上品に口元に手を当てていたが、天魔は腹を抱えて倒れるほどの笑いっぷりだった。

 

 まさか、まさかである。何の変哲もない白狼天狗こそが信綱の意識を変革せしめた当事者など、誰が予想できたか。

 天魔も紫もそちらの方を失念していたことに笑いが止まらない。

 

「お、オレもさ、あの人間に協力者の天狗がいるまでは読んでたんだよ。でも、まさか白狼天狗とは……ククッ」

「ええ、私も想像すらしていませんでしたわ。阿礼狂いを変えたのは幻想郷に名を馳せた大妖怪ではなく、ただの一介の天狗だなんて」

 

 全く気づかなかった自分たちがあまりに滑稽すぎて笑いが止まらない。

 名高い大妖怪を何体も討ち倒した人間の英雄が、最も頼っていたのが彼女とは。大穴にも程がある。

 そうして一頻り笑った天魔と紫は、信綱と椛が話しながらもチラチラとこちらに視線を投げかけていることに気づく。

 

「ありゃ、バレてんな。旦那はともかくとして、あの天狗まで気づくか。こりゃ文と同類っぽいな」

「ああ、あなたの子飼いの天狗と? 何かしら力があると?」

「おう。視界が異常に広いってところだろう。さすがに白狼天狗に見抜かれるほど耄碌した覚えはない」

「ふぅん、あなたが知らなかったの」

「ま、わかってればこき使っているからな。その点じゃよく隠した方だろう。大方、信頼できる相手にしか話していない」

 

 だが、それだけだ。天魔の目から見た椛に特筆すべきところはない。能力は後で聞き出す必要があるが、それ以外の力はせいぜい烏天狗と同程度。

 白狼天狗として見るなら破格だが、信綱や自分たちとは比較にならない。

 しかし――

 

「……あの人間の言っていることがなんとなくわかりましたわ」

「……だな」

 

 紫と天魔は椛とついさっき店から出て信綱たちに合流した橙の姿を見て、なんとなく理解する。

 

「あなたと阿礼狂いの英雄が作り上げたこの場所で、一番馴染んでいるのは彼女たちね」

「ああ。先見の明……ではないな。狂人には狂人の居場所しかないってわかっていたから、逆にこの場所に居るべき連中がわかったんだ」

 

 共存を願う椛に人妖の対立を経験として知らない橙。彼女たちのような者こそ、今後の幻想郷で必要とされる存在なのだろう。

 それを理解して、天魔はゆっくりと立ち上がる。

 

「……ま、オレもこれで満足したわけじゃない。まだまだ先は長い」

「ええ。あの子たちがまた、こうして人里で会えるように頑張りましょうか」

「最低限、ウチの利益を確保した上でな。やれやれ、これはまたしばらく隠居は遠のくな」

「あら、隠居するなら大歓迎よ?」

「冗談。虎視眈々とウチの勢力を減らそうとする婆さんがいる間は到底無理だね」

「…………」

 

 天魔の言葉に青筋を浮かべる紫だったが、相手にすることなく視線を切って足元にスキマを開く。

 

「それでは、私はのっぴきならない事態になるまで見守らせていただきますわ。せいぜい踊って頂戴な」

「言ってろ。オレもお前も、今だけは旦那に出し抜かれた間抜けな道化だろ」

 

 最後まで天魔の言葉は届くことなく、紫はスキマに消えていった。

 一人残された天魔はもう一度だけ信綱たちの三人に目を向け、独り言をつぶやく。

 

「まだまだ、ここからが始まりか……」

 

 

 

 

 

「よう、萃香。しばらく顔を見なかったけど、どこ行ってたんだい」

「やだね勇儀。わかりきってる、って顔してるよ」

「社交辞令ってやつさ。……で、どうだった?」

 

 地底の一角。相も変わらず酒を飲む鬼の二人は楽しそうに近況を報告し合う。

 勇儀の目は今にも燃え上がりそうな熾火があり、萃香の言葉を今か今かと待っていた様子だった。

 

「なに、そんなに楽しみだったの?」

「まあな。元々娯楽がないってことより、予感だよ」

「予感?」

「ああ、予感だ。――これからとびっきり楽しいことが待っている! なあ、萃香。お前の報告もそれなんだろう?」

 

 勇儀の言葉を受けて、萃香もまたニヤリと笑う。

 

「ちょっくら地上を見てきたんだ。そしたらなんと! 天狗と人間が同じ場所で商いをしていたんだ!」

「ハッ! 強い連中に媚びへつらって弱い奴らを襲う天狗が! 人間と! こいつぁ面白い!!」

 

 大笑いしながら酒を流し込む。あまり美味しくはないが、萃香の話に続きがあることぐらい、今すぐにでも言いたそうな顔をしている彼女の顔を見ればわかる。

 だからこれはいわゆる食前酒だ。この後に来る萃香の本命を聞いた時、酒は極上の美酒に変貌するのだ。

 

「人里はもう復興されてるよ。あの異変が起こってから十年以上経っている。ちょっと待ちすぎたくらいさ」

「ああ、そんな小さいことどうでも良いって。ほらほら、話せよ萃香。私とお前の仲だろう?」

「おっとと、やっぱ勇儀に隠し事はできないなあ。ありゃぁ、大勢で行くのがもったいないぐらいだよ」

 

 萃香はうっとりしたような顔で空を仰ぐ。きっと彼女の瞳には目をつけた愛しの人間が浮かんでいるのだろう。

 

「で、どうだったんだ。もったいぶらずに言えよ、ほら!」

「うん、言っちゃうよ? ――あの人間、私たちの予想以上に強くなっていたよ」

「ハ――」

 

 ニイィ、と二人の口元が裂けるように広がり、赤い弧を描く。

 酒を飲む手が止まってしまうほど、勇儀にとって萃香の言葉は興味深かった。

 

「どのくらいだ?」

「聞いて驚くな――いややっぱ驚いて! 多分、私らが本気で戦っても負ける可能性がある」

「クハッ――」

 

 二人の哄笑が地底中に響き渡る。天井で反響し、あますところなく響き渡ったそれは酔って眠っていた鬼たちを根こそぎ叩き起こすには十分だった。

 

「いいね、いいねいいねいいねいいねェ!! もう待てないよ!! 萃香、お前もだろ!?」

「もちろん! 勇儀が行かないって言うんなら私一人でも行こうとしていたところさ!」

 

 共存なんて生温い。妖怪とは人間を蹂躙し、支配するもの。

 かつて地上を覆った暴威を今こそ見せてやろう。そして腑抜けた妖怪と人間に知らしめてやるのだ。

 ぞろぞろとやってきた鬼を背にして勇儀と萃香、遥か昔に大江の山で猛威を振るった古の鬼が実に楽しそうに叫ぶ。

 

「さあ――鬼の覇道を始めようじゃないか!!」

 

 

 

 幻想郷において最後となる原始的な武力による異変――百鬼夜行異変の始まりだった。




ここからが本当の地獄だ……(文字通り)

ということでほのぼのパートは終了です。
もうちょっと強くなるかもしれないと放置していた人間はいつの間にか喉笛に食らいつくほどに成長していた。鬼の首魁たちのテンションは最初からMAXです。大変ですね(他人事)

そしてとうとうノッブとの繋がりが周知になった椛。実は烏天狗と一騎打ちならどうにかなるぐらいには腕を上げていた模様。なお比較対象がノッブしかいないので本人は気づいていません。

あ、次回はちょっと遅れるかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天狗の宣戦布告

「…………」

 

 まぶたを閉じると今でも克明に浮かんでくる光景がある。

 無二の友人が築き上げた、人も妖怪も殺し合わないで済む世界。その一端をこの目で見ることができた椛は、この上ない上機嫌で今日も職務に励んでいた。

 

「ふんふふんふふーん」

 

 鼻歌でも歌いたい、というか実際に歌いながら周囲を見て回っていると、同時にあの後の出来事も思い返されていく。

 

 

 

「よう。まあ座れ」

「はい」

 

 胸の充実感に突き動かされるようにフワフワと交流区画で信綱たちと遊んだ後、戻った椛を待っていたのは天魔からの招集だった。

 まあこれは予想できていたことだ。信綱とともに笑い合っている時からこちらを見つめる視線には気づいていた。

 ……千里眼を持つ自分はさておき、どうやって信綱も気づいたのかは謎だ。おまけに自分より早かった。つくづく思うが、彼は人間なのだろうか。

 

 眼前に座っているのは若い烏天狗。艶のある黒翼を広げ、片膝を立てて座る眼差しには値踏みするような光が湛えられている。

 暇だった時に眺めていた姿と同じである。以前、人里に行く際に顔合わせをしたことがあったが、あの時は老爺の姿であり、内心の驚愕を隠すのが大変だった。

 こちらが本来の姿なのだろう。見た目に似合わぬ老成した空気と、一瞬の油断を見逃さず食らいつく貪欲さが見え隠れしている。

 

「……へぇ、オレの本来の姿を見せた奴は大体驚くんだがな。驚かないか」

「天魔様に呼ばれることが、私にとってはすでに青天の霹靂ですよ。今さら一つや二つ、驚きません」

 

 ウソである。前から千里眼で彼の姿を知っていたからだ。前情報なしで天魔の姿を見ていれば驚きは隠せなかった。

 そんな椛なりの虚勢であったが、天魔にはしっかり見抜かれているようでくつくつと楽しそうに笑うばかり。

 

「いやいや、なかなかどうして肝が据わっている。そのやたらと広い目をごまかす術も心得ていると見た」

「……何の話でしょう」

「今さらごまかさないで良いぜ。阿礼狂いの旦那が散々隠し通してきたお前の存在を、あそこで明かした。

 要するにお前のことが明るみになってもお前に危険はないって判断したんだ」

「…………」

 

 せめて一言事前に言って欲しいと思う椛だった。いや、もう隠すのが限界だったと言われればその通りだとうなずくしかないのだが。

 とはいえ、椛と信綱の付き合いはもう四十年に迫る。半世紀に近くすらある付き合いの中で、天魔に存在が露見したのは先日だ。

 彼が椛に配慮した――か自分の利益のために隠したのかは定かではないが、天魔を相手に相当心を砕いたことには容易に思い至る。

 そういった目に見えない配慮は怠らないくせに、なぜ出会うとぶっきらぼうな態度になるのか。不思議なものである。

 

「頭が良い、というよりは慎重なんだな。文なんかはひけらかしまくったから一発でオレの耳に届いたが、お前さんのは直接的な力じゃない。だから隠すことを選んだ」

「……どうしてそこまでわかるんですか」

「ナメんな。千年以上お前らのこと考えて生きてんだ」

 

 事もなげに言い放つ天魔に、椛は今相対している相手の大きさを思い知る。

 自分の属する組織の長、なんて小さな表現ではない。彼もまた天狗の中で生まれた傑物だ。

 椛は頬に冷たい汗が流れるのを感じながら、慎重に言葉を選ぶ。

 

「……私が隠していたのは、決してこの能力が便利なだけではないからです」

「ほう?」

「あなたの姿は見知っていたのに、相対して感じるこの感覚までは見えなかった。ずっと一緒にいた人間のこともかなり長い間見誤っていました」

「あの人間は仕方ない。やつほど自己を取り繕うのが上手い狂人はなかなかいるもんじゃない」

 

 天魔からもそう言われてしまう信綱に、あの男はどれだけ規格外なのか首を傾げてしまう。

 なんだか痛そうに胸をさする天魔。信綱に斬られでもしたのだろうか、と疑問に思っていると、気を取り直した天魔が話を再開する。

 

「ま、そこを詰問するつもりはない。お前がいたから、旦那はオレたちとの共存を考えてくれた。むしろ大天狗への推薦ぐらいしてやりたいぐらいだ」

「いや、良いですよ!? 私みたいなしがない白狼天狗にはとても務まりません!」

「うむ、それは見て確信した。お前さんは誰かの上に立てるやつじゃない」

 

 褒められているのか微妙な言葉だが、天魔の目はそれを咎めるものではなかった。

 が――それも次の瞬間までだ。

 

「とはいえ、お前さんの方向性は確認しなけりゃならん。大方、あの騒動の時に大天狗の場所を教えたのもお前だろうしな」

「……ッ!」

 

 目を細め、眉を寄せる。天魔が行ったのはそれだけの仕草。

 しかし、椛が感じる重圧は桁外れに強まり、一切の虚偽を許さないものとなっていた。

 

「旦那に教えることがどんな結末を招くか、お前ならわかっていたはずだ。――なぜ教えた? 答えてもらおうか」

「私、は……」

 

 椛の一挙手一投足を見逃さない天魔の目を受け、椛はやや気圧されながらもしっかりとその目を見つめ返した。

 

「私は――彼の味方をすると決めました」

「どんな状況でも、か?」

「もちろん、天狗を全て裏切るつもりはありません。彼が天狗を滅ぼすと決めたら相容れなくなるでしょう」

 

 想像するだけでも心の痛む光景だが、椛も白狼天狗の端くれとして最後の一線は譲れなかった。

 しかし彼女の言葉はそこで終わることなく、続いていく。

 

「……ですが、そうでない限りは彼の味方をする。そう決めてあります」

「なぜ?」

「確かに彼は狂人です。誰の目にも、私の目にもそう映ります。けど、誰かれ構わず斬りかかるような人ではありません。むしろ御阿礼の子を害さない範囲なら、かなり寛容な方だと思っております」

「ふむ、道理だな。より詳しく言えば、ありゃ御阿礼の子以外がどうでも良い。どうでも良いが故に別け隔てがない。そんなところだろう」

 

 彼にとって善も悪も大して差はない。ただ、善を行う相手なら優しさを。悪を重ねる相手なら隔意をぶつけているだけである。他人への対応としては実にわかりやすい部類だ。

 椿は信綱の敵になってしまったから、これらの評価をぶち抜いた場所に落ちてしまった。

 椛は敵対するようなこともなく、ゆっくりと積み重ねてきた時間が彼の信用と信頼に直結している。

 

「ええ、それなら彼が動くような時はどんな時か。御阿礼の子が害されるか、彼自身の命が危うくなった時です」

「続けろ」

「そうなった彼は止まりません。なら、可能な限り被害を減らす方向で動くことに間違いはあるでしょうか」

「…………」

「私は彼に首魁である大天狗様以外は殺さないで欲しいと頼みました。事実彼は殺さなかった」

「……お前ならやつを操縦できると?」

 

 首をブンブンと横に振る。あれを操作する? 冗談でも笑えない。あれを操作できる存在など御阿礼の子以外に存在しない。

 椛に対して気を許しているのは確かだが、そんな彼女であっても敵になるなら一片の情けもかけずに殺すだろう。その確信が椛にはあった。……嬉しくないことだが。

 

「ご冗談を。……ただ、御阿礼の子が絡まない限り、あの人は人と妖怪の共存を願っています」

 

 それが誰のために行われていたのか、この間理解してしまった。思い返すと今でも頬に熱が集まるが、これは天魔と話している緊張のせいだということにしておく。

 

「私の目はそのために使うと決めました。幻想郷全体を見渡せるこの目は、共存を願い続ける限り彼のものです」

「……惚れたか?」

「最初にあの人を見出した時から、ずっと」

 

 椿に誘われての興味本位だったが、それでも彼を友とした時間は心地良かった。

 その少年が今や人妖共存を成し遂げる手前まで来る存在になったのだ。

 誇りに思うなという方が無理だろう。それほどに椛は信綱に対して入れ込んでいる。

 それこそ――目の前の天魔に対しても恐れることなく立ち向かえるほどに。

 

「……ふむ。添い遂げる、結ばれるといった形の愛ではないな」

「げふっ!?」

「惚れたか? という質問に躊躇なく答えればそう取るに決まってるだろ……」

 

 むせた。そういう意味で受け取られるとは全く思っていなかった椛だった。

 天魔は慌ててお茶を飲む椛に呆れた視線を向けて、苦笑をこぼす。

 

「オレの見立てでは向こうもそう嫌ってはいないと思うがね」

「ち、違いますよ! そういう関係になりたいわけじゃありません!」

「じゃ、どうなりたいんだ」

「もっと、こう……対等な関係でいたいんです!」

 

 むん、と胸の前で拳を作って力説する椛。その姿を見た天魔もこれは愛だとかそういったものではないと確信する。

 これはもう少し子供っぽくて無邪気な、一緒に同じ目的へ邁進できる同士とか仲間といったものに近い。

 

(旦那は……まあ、聞くまでもないか)

 

 御阿礼の子を愛し、御阿礼の子に狂うがための阿礼狂い。誰かに好意的になることはあっても、優先順位は一切動かないだろう。

 それらを鑑みて、天狗の主である天魔が取れる選択肢はいくつかある。

 

 天魔の頭の中で取るべき行動と、その結果による未来予想図が描かれていく。

 その中には椛を信綱の元に送りつけて婚姻を結ばせるものもあったが、却下した。信綱の行動が読めてしまうがために、却下せざるを得なかった。

 この案の前提には双方の愛情が必須となる。椛はわからないが、信綱が有事の際にどちらを選ぶかなど考えるまでもない。

 それで椛を障害とみなして殺してしまう危険性を考えると、この案はお蔵入りにせざるを得ない。万が一の危険が大きすぎた。

 

 他にも様々な行動とそれに付随する未来予測が立つが――天狗の未来を考えるなら行動は一つしかなかった。

 

「……ま、お前さんらの関係に口を出すつもりはない。今後もその調子でやってくれ」

 

 すなわち、自分たちからは手を出さないというある種の日和見である。

 下手に手を加えて今の関係を崩すのは悪手。かといって信綱から全幅の信頼を寄せてもらえている椛を拘束するのも悪手。

 ならばこれまで通り見守るしかない。それが最も天狗に振りかかる危険を減らすことに繋がる。

 

「え? それだけですか?」

「ああ。咎める点があるとすれば大天狗の話くらいだが、あれにしたってオレが勝っているんだからお前は賞賛されるべき立場だ」

 

 勝てば官軍とも言う。それに天魔は椛を見極めるために呼びつけたのであって、罪に問うつもりはなかった。

 目を丸くして驚く椛に天魔は話も終わりと立ち上がり、彼女の肩に手を置く。

 

「お前が天狗を裏切らない限り、オレはお前の味方だ。好きにやれ」

「天魔様……はいっ!」

 

 感動したようにこちらを見上げる椛に、天魔は内心を読み取らせない笑みを浮かべた。

 やはり彼女は多人数を動かすには少々向いていない。人の好意に素直すぎる。

 そんな情報を自分の頭に書き込み、椛の元から去って一人になったところで天魔は顔を歪める。

 

「全く、何が政治は不得手だ。あの人間……!」

 

 あの男、苦手だとか不得手だとかさんざん嘯いておきながら、普通に腹芸も駆け引きもこなすではないか。

 椛が信綱と仲が良いことを天魔も紫も知っている。言い換えれば、人妖共存の姿をいち早く体現しているとも。

 そんな彼女に今さら何かしたら、この共存を揺るがしかねない。信綱に対しても然りだ。

 故に椛は誰も手が出せない。千里眼を持つ程度の白狼天狗に、天狗の首魁である天魔とスキマ妖怪が何もできない。

 そんな状況を彼が作り上げた。常々自分のことを狂人と呼び、政治に苦手意識を持っているはずの信綱が。

 これに関してはもはや舌を巻くしかない。武芸に関しては図抜けているというより超越しているという言葉の方が近いが、それが彼の全てではないということか。

 

「ああ、本当に……楽しませてくれる!!」

 

 素晴らしい。一筋縄では行かない人間は大好きだ。

 願わくば彼との付き合いができる限り長く続くことを、天魔は誰のためでもなく自分のために祈るのであった。

 

 

 

 

 

 と、そんな面接を終えて一週間。椛の周囲は何も変わらなかった。

 まだ人妖との交流自体は続いているものの、さすがに毎日行っては仕事が滞ってしまう。

 とにもかくにも人と妖怪の接点を増やし、相手方を知ってもらうことが重要。これが十年二十年と続いていけば、いつかは妖怪が大手を振って人里に来れる日が来る――と、信綱は言っていた。

 

 ならば椛はその日を信じて、今日も職務に勤しむまで。そして彼に頼まれることがあれば全力で応える。それが一番の近道だ。

 そう信じて今日も今日とて千里眼を使って山の哨戒に励み――それを見つける。

 

「あれは……」

 

 地底へ続く大きな穴。かつて地上を席巻し、人間のみならず妖怪からも忌み嫌われた妖怪が集まる場所。

 あるものは人間に見切りをつけ、あるものは安住の地を目指し、あるものは八雲紫に封印された。

 かつて地獄と呼ばれた場所。今なお怨霊が漂い、そんな場所で生きる魑魅魍魎の住処。

 そんな場所へ通じる暗闇に――蠢くものが見えた。

 

「……ッ!!」

 

 椛は弾かれたように天魔の座す場所へ向かう。その影が何ものであるか確かめるまでもない。

 

「来てしまいましたよ、この時が……!」

 

 見張りの烏天狗を千里眼で探った死角ですり抜け、窓から文字通り飛び込むことによって部屋に転がり込む。

 

「曲者! って椛!? あなた、どうして!?」

「……急ぎか」

 

 部屋にいたのは天魔の部下である文と天魔その人。

 文は知り合いの白狼天狗がいきなり飛び込んできたことに目を丸くしているが、天魔は驚いた様子もない。

 

「え、知り合いですかお二人とも!?」

「詳しいことは後で聞け。で、どうした椛」

「は、はいっ! 地底に続く穴に動きあり!」

 

 

 

「――鬼の軍勢が大挙してきました!!」

 

 

 

 その言葉を聞いて文は信じられないような顔になり、天魔は渋面を全面に広げる。

 

「……旦那が話していたのは本当だったか。おい、文!」

「え、あ、は、はい!?」

 

 現実離れした内容に呆けていた文に天魔の鋭い声が飛ぶ。

 それによって半ば反射的に文は身構えてしまう。天魔がこの手の声を出す時は大体本当にマズイ時と相場が決まっているのだ。

 

「そこの白狼天狗と一緒に人里に行け。旦那の元に着いたら以降はそっちの指示に従え。そんで向こうでの役目を終えてからオレの元に戻れ!! 足が必要ならオレの権限で適当な奴を引きずっていけ、許可する!」

「え、ちょ――はい!! ですが鬼が来たら我々は――」

 

 文は条件反射の如く命令にうなずくが、相手が鬼とあっては尻込みしてしまう。

 なにせ鬼と天狗はかつて上下関係にあった。鬼が上司で天狗は手下。階級社会である天狗にとって、鬼は逆らえない相手ということになる。

 ……とはいえ一度は地上を去った者たち。すでにその上下関係に意味などないが、鬼の姿を知っているものたちは皆、同様に鬼の強さも知り尽くしている。

 そんな文の弱気を天魔は一声で吹き散らす。

 

「舵取りはオレの仕事だ。悪いようにはしないから早く行け!!」

「……ああもう! 信じてますからね天魔様! 行きますよ椛!」

「あ、ちょ、天魔様、あなたはどちらに――」

 

 椛の襟首を引っ掴んだ文が空に飛び出していくのを見送ろうとして――

 

 

 

「ああ、もう来ているから心配しなくてもいいよ」

 

 

 

 部屋の中に現れた、小さな体躯の鬼にせき止められてしまう。

 

「――ッ!?」

「……伊吹、萃香か」

 

 驚愕に身を固める文と椛に対し、天魔は冷静にそれを見据える。

 童女にすら見える矮躯だが、頭に生える二本角は雄々しく天をつく。手足につけられた鎖の先には重たそうに引きずられる分銅が。

 そして発せられる圧力は紛れもない――鬼のもの。

 

「よう、天魔。しばらく見ないうちにすっかりサル山の大将に慣れたじゃないか」

「何分仲間思いでね。頭がいなくっちゃ身体ってのは上手く動かない」

 

 萃香と呼ばれた鬼は親しげに天魔に話しかけ、天魔もまた肩をすくめて皮肉げに話す。

 文と椛はその空間にすでに呑まれており、事の推移を見守ることしかできなかった。

 

「それで? 地底に引きこもっていた鬼が一体全体何の用で?」

「はは、ご挨拶だね。そっちも想像ぐらいできてんじゃないの?」

「覚りじゃないんだ。あんたの考えはあんたの口から聞きたいね」

「じゃあ言ってやろう。――もう一度、地上を支配したくはないかい?」

 

 禍々しい笑みとともに萃香の口から発せられた言葉に文と椛は息を呑む。

 

「かつての時みたいに好きに蹂躙し、好きに生きる! どうだい、素晴らしいだろう?」

「ふざけるな!!」

 

 椛にとって萃香の提案は到底受け入れられるものではなかった。

 信綱が様々な妖怪と対話を重ね、同じ未来を見据えてようやくここまでたどり着いたのだ。

 それを今まで地上と無関係を決め込んできた地底の連中が横槍を入れて全てぶち壊す? 冗談ではない。

 激昂した椛が大声を上げたことに萃香はやや面白そうな顔になる。

 

「へえ、白狼天狗が吠えるじゃないか。誰に向かって物言ってるのか、わかってんのか?」

「誰であろうと関係ない! 今さら出てくるような奴に、私たちがあげていいものなんて何一つない!」

 

 信綱という人間の英雄。天魔という天狗の傑物。双方が同じ夢を見てやっと形になりつつある人妖の共存。

 鬼がいかに強大な妖怪であろうとも、それを壊して良い道理などあっていいはずがない。

 相手が鬼であることの脅威など頭から抜けており、文が止めてくれなければ飛びかかっていたところだった。

 

「ちょ、ちょっと椛……!?」

「静かにしろ。今話しているのはオレと萃香だ」

「天魔様!!」

「――静かにしろと言ったのが聞こえなかったか」

 

 しかし、椛の激昂を天魔が押し留める。声音こそ平時と変わらないものの、発せられる威圧は先ほどの比ではない。

 椛はその威圧に押し黙るしかなかったが、瞳は雄弁に萃香への敵意を語っていた。

 

「なかなか血気盛んな部下だね。いつの間に天狗は鬼に逆らえるようになったのかな?」

「…………」

「さて、答えを聞こうか。――私らと手を組んで人間を支配しよう」

 

 差し伸べられる小さな手。その手を取ったが最後、人間を裏切り鬼につくことが定められる。

 天魔は動かない。その手を見て、何を言うでもなく沈黙を保つ。

 

「なんだい、私はお前さんを誰よりも天狗らしい天狗だと思ってるんだけどねえ。強いやつに媚び、弱いやつを虐げる。いやいや、私は否定しないよ。くだらんとは思うが、それもまた一つの世渡りだ」

「……確かに、あんたの言うとおりだ。オレはこいつらを生かすためなら泥だって啜るし、誰にだって媚を売る」

 

 天魔には文や椛といった天狗を守る義務がある。彼女らを生かすためであれば誰であろうと裏切り、生き残るための手段に妥協はしない。

 だからこそ天魔は決断した。

 

 

 

「これがオレの決定だ。――クソ食らえだ、負け犬」

 

 

 

 突き出した貫手が萃香の胸元を抉り、心の臓を貫く。

 その小さな身体を片腕で持ち上げ、天魔は鋭い目で萃香を射抜いた。

 

「オレたちと戦える力を持っているのに、手を取ることを選んだ人間がいる。スネて目を背けて逃げたあんたよりよっぽど強い」

「ハン、私らが逃げたんじゃあない。あいつらが逃げたんだ。勝てない相手なんていなかったのだと、目を背けたんだ」

 

 心臓を貫かれているにも関わらず、萃香の身体からは血の一滴も流れることなく、常と変わらぬ口調で天魔と話す。

 しかしその顔は親しい相手にするものではなく、すでに敵となった者を見る目になっていた。

 

「そんな主観はどうでもいいんだよ、事実を見ろ。人間は地上で生き、鬼は地底に隠れた。あんたたちが負けたこと以外に何の真実がある?」

「……言うじゃねえか天魔。吐いた唾は呑めないよ」

「ああ、言った。第一――」

 

 天魔が腕を振りかぶり、萃香の肉体を全力で床に叩きつける。

 

「本体ですらねえのが戯れ言抜かしてんじゃねえ。片腹痛い!!」

「ハッ、ハハハハハッ!」

 

 叩きつけられた萃香の肉体は床にぶつかることなく、雲散霧消する。

 まるで最初からそこにいなかったかのように消えたそれを見て、文と椛は目を見開くが天魔は驚きもしない。

 

「はー、笑った笑った。いいよいいよ、見ない間にデカイ口叩くようになった。そんぐらい啖呵切ってくれる方が私らとしても気楽ってもんさ」

「どこから!?」

「疎と密を操る程度の能力。要するにこいつは自分の体を限りなく薄めたり、逆に濃くしたりできるのさ」

 

 どこからともなく聞こえる声の主を探そうとする椛たちに、天魔が萃香の能力を説明する。

 鬼として規格外の身体能力を誇り、その上この反則じみた能力。八雲紫と同等、ひょっとしたら上回りすらするであろう力の持ち主。

 椛でも戦慄を隠せない。これに信綱は立ち向かうというのか?

 

「別に無敵ってわけじゃねえ。やりよう次第で普通に勝てる」

「言うねえ。ま、あんたが私らの敵になるってんだし、無策ってことはなさそうだ。せいぜい楽しみにしようじゃないか」

 

 声の気配が遠のいていく。去っていくのだと理解し、天魔は最後に口を開く。

 

「最後に一つ。地上を知らなかったお前に教えてやる」

「なんだい?」

「お目当ての人間、あまり舐めない方が良いぞ」

「――へっ、それが鬼ってもんさ」

 

 気配が消える。今度こそ完全にいなくなったと直感で理解した椛と文は、意図せず深い安堵の吐息を漏らす。

 萃香と相対した天魔は二人の方に向き直ると、疲れた様子も見せずに口を開く。

 

「おら、急げ! これでオレたち天狗は鬼に宣戦布告したぞ! 旦那に伝えて足並み揃えねえと勝てるもんも勝てなくなる!」

「はいっ、わかりました! 行くわよ、椛!」

「あ、ちょ!?」

 

 文に引っ張られる形で空に飛び出す椛。なんとか体勢を立て直して文に追従するように空を飛んでいく。

 

「天魔様、大丈夫なんですか!?」

「あの人が選んだことに間違いはないの! 正直鬼についた方が良いんじゃないかなーとは思ったけど、私より多くのことを考えている天魔様が人間に付くことを選んだなら従うまでよ!!」

 

 ある意味思考の放棄とも言えるが、階級社会の天狗としては理想的な答えだろう。

 なんだかんだ、この烏天狗は天魔を信用しているらしい。

 椛はどちらかと言えば、信綱の方を信じていた。これは単純な付き合いの差である。

 

 とにもかくにも、賽は投げられた。もはや天狗に残された道は鬼に負けて滅びるか、鬼に打ち勝って生き残るかの二つに一つ。

 鬼の味方になったとしたら、今度は信綱を敵に回すことになる。

 彼は妖怪の目から見ても正しくバケモノだ。ひょっとしたら天狗、鬼の連合でさえも打ち破る可能性がある。

 そうなった場合に待つのは阿礼狂いとしての信綱に殺されるか、あるいは裏切り者の烙印を押されて生き延びる結果である。

 

 それに人妖の共存は八雲紫も望んでいること。それを邪魔しようとする鬼たちはいわば幻想郷に楯突いているようなものなのだ。協力して万事上手く運んだとしても、鬼が頭に残ることは変わらない。

 結局のところ、考えるまでもなく天狗に選択肢などなかったのだ。

 そんな天魔の思考に文の理解が及ぶまで――人里に到着するまで、あと僅か。




大体わかる萃香と天魔のやり取り
萃香「YOU人間なんて裏切ってウチに来なYO!」
天魔「ノッブ敵に回すとか怖いから却下で」

天魔がノッブの何を恐れているって、彼の人望を一番怖がっています。単純な武力以上に、彼が一声かければ損得勘定を越えて協力してくれる妖怪がちらほらいる。

ちなみに椛との繋がりをバラしたタイミングの上手さは、この話を書いている途中で気付きました(暴露)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いは百鬼夜行に挑む

 椛と文が人里に急行している頃、信綱は阿弥と二人で交流区画の方を歩いていた。

 すでに時間も経ち、初日のような喧騒も少しは落ち着いている。

 今なら阿弥を連れても大丈夫だと判断して、彼女にこの光景を見せていた。

 

 彼女の希望で後ろではなく隣に、自分の胸ほどの高さまで背が伸びた阿弥と手を繋いで人妖入り交じるそこを歩いて行く。

 阿弥は人と妖怪が争うことなく、それぞれの商売や対話に夢中になっている光景にすっかり魅了されており、あちらこちらに視線が動いている。

 

「すごい、すごい! こんな景色、私以外の誰も見たことがない!!」

「喜んでくれて何よりです、阿弥様」

 

 興奮し、ともすれば信綱の手を離してどこかに行ってしまいそうになるのを、信綱は優しく手を握って押し留める。

 本当に健康に育ってくれて感無量である。これが阿七だったらどこかに行こうとする前に倒れている。

 

「これ、信綱さんが作ったのよね! 私が幻想郷縁起にしっかり書いておいてあげるからね!」

「私一人の力ではありません。しかし、幻想郷縁起ですか……」

 

 もう妖怪の記述は大半が終わっている。脅威と対策、そして付き合い方を書いたそれらだが――信綱の今後の働き次第では、無用の長物になる可能性が出てきた。

 なにせ妖怪が脅威でなく、隣人になってくれるかもしれないのだ。

 隣人の対策本となったら、単なる対策だけに留まらず仲良くなる方法なども書かなければならず、これまでとは幻想郷縁起に求められるものが変わってくる。

 

 いずれにしても人妖の共存を場所を区切ってとはいえ、成し遂げてみせた火継信綱の名は、幻想郷の歴史に刻まれることだろう。

 そのことに信綱はむず痒そうな顔になる。

 

「少々面映ゆいですね。私はできることをしていっただけで、それに共感してくれた妖怪たちがいなければ成立しませんでした」

「それでもすごいことだよ。皆が頑張って、あなたも頑張った。その中で信綱さんが一番頑張った」

「そんなつもりはないのですが……」

 

 空いた手で困ったように頬をかく。いつになっても持ち上げられることには慣れない。

 自分のような狂人がその場に入って良いのだろうか。もっとふさわしい人間がいるのではないか。そう思ってしまうのだ。

 

「うふふ、でも嬉しいよ。私の一番大切な人が、一番有名になって。私の隣りにいる人はこんなにすごいんだぞ、って思える」

「……そう言っていただけるなら望外の喜びです」

 

 今でも歴史に名を残すことに意義は見出だせていないが、阿弥が喜ぶのならそれも良い。

 阿弥が終わり、阿求、さらに次の御阿礼の子に行って、いつか信綱がこの世を去る時が来ても。歴史に名を残した事実があれば彼女らの慰めになるのかもしれない。

 

 そう、未来の話だ。阿弥も十五歳を過ぎた今、それを考える必要がある。

 阿七の享年は二十六。身体が病弱だったことを差し引いても、歴代の御阿礼の子では短命な方になる。

 対する阿弥は健康体そのもの。外で働くといったことはさすがに難しいが、日常生活を送る分には何の支障もない。

 ――それでも、彼女は三十を迎える前に死ぬ可能性が高い。

 

「……阿弥様」

「ん? なぁに、信綱さん」

 

 優しく笑って手を握り返してくれるこの愛しい主の胸中はどうなっているのか。

 阿七の時でも死の恐怖はなかった。当たり前のように短命の身体を受け入れ、当たり前のように死んでいった。

 今の彼女はどうなのか。理解した上で今の態度なのか、それとも目を背けているだけなのか。

 わからなかった。迂闊に聞いて、彼女を悲しませてしまうことが阿礼狂いとして最も辛い。聞くべきか聞かざるべきか判断がつかなかった。

 

「……いえ、喜んでもらえて私も嬉しく思います」

「? ふふっ、変な信綱さんね」

 

 なんと言って良いのかわからずお茶を濁す信綱と、それを笑って受け止める阿弥。なんだか阿七の時に戻ってしまったような錯覚すら覚えてしまう。

 これではどちらが年長者かわかったものではない。いや、転生を含めるなら阿弥の方が圧倒的に人生経験は多いのだが。

 などと悩んでいると、視界の端に見慣れた猫の耳を発見する。

 

「おーい!」

「また来たのかお前」

「信綱さんの知り合い? 妖怪の知り合い、多いのね……」

 

 感嘆の感情以外にも、そこはかとなく怒っているような気がするのは気のせいだろうか。気のせいであって欲しいと思う信綱だった。

 

「さあ、今日も橙さまに色々とお菓子を奢りなさい!」

「断る。そう毎日毎日やれるか」

 

 優しさを見せたのは初日だけで十分である。

 橙もさすがに無理だとわかっていたのか、特に気にした様子もなく阿弥の方に視線を向ける。

 

「この子、誰?」

「俺の主だ。阿弥様、このちっこくて何の脅威も感じない化け猫は橙と言います。邪険に扱っても大丈夫ですよ」

「あんたバカにしてる!? ううーっ、手を離せー!!」

 

 橙の頭を阿弥と繋いでいない方の手でグリグリと押さえ込みながら紹介すると、阿弥はほんの少しだけ握る手に力を込める。

 

「……信綱さんのそんな顔、初めて見る」

「む……何か不味かったですか?」

 

 最近、阿弥のこんな顔をよく見る。切ないような、新たな一面を知れて嬉しいような、信綱には内心を推し量れない表情。

 とはいえ橙に見せている表情と言っても、椛に見せているのと大差はない。橙は調子に乗りやすいので、信綱もそれに応じた対処をしているため、少し違うように見えるだけである。

 

「……ううん、なんでもないわ。ところで橙ちゃんはどうして信綱さんのところに?」

「ふぇ? 友達がいたら声掛けない?」

「……いい子ね、あなたは」

「…………」

 

 なんだかとても居た堪れない。非常に居づらい空間から逃れようと視線をそらした時だった。

 信綱は自分を見つめ、近づいてくる気配に気づく。

 

「――」

「信綱さん?」

「阿弥様、少し頭をお下げください」

 

 そっと彼女を庇えるよう立ち位置を変更する。そうして飛んできた二人を見上げる。

 

「見つけた! 椛の千里眼、本当みたいね……!」

「椛がいるのは良いが、お前まで来るか。息せき切らして、何があった?」

「とぼけてる場合じゃないですよ! 君の言っていた鬼が来たんです!!」

 

 椛の言葉に信綱は何も言わずうなずく。来るとわかっていた嵐がついにやって来たのだ。

 なぜこの時なのか。いや、燐を見つけた時からずいぶんと経過している。待ってもらった方なのだろう。

 阿弥は鬼と聞いて顔を青ざめ、手が震えだす。この中で鬼の脅威を正しく認識しているのは、椛と文を除けば阿弥だけである。

 かつて地上にはびこった悪意の塊。巌のごとき肉体と首を潰されても復活する再生力。そして日本の三大大妖と謳われるほどの妖力。

 これらを前にした人間など塵芥のようなもの。文字通りの一騎当千を体現してしまう理不尽の権化。

 そんな存在が地上にやって来た。ならば人間にできることなど誰かが解決してくれることを願ってただ震えるだけ――

 

「ご安心を、阿弥様」

 

 悪寒に震える阿弥の手が優しく暖かな両手に包まれる。視線を合わせるように屈んだ信綱がその手を包み込み、安心させるような笑顔を浮かべていた。

 

「信綱、さん……」

「私がいる限り、阿弥様の御身には指一本触れさせません。……今はどうか、人里のために動く許可を頂きたい」

 

 この男の顔を見ていると、不思議となんとかなるんじゃないかという気になってくる。

 大天狗を無傷で殺し、人妖の共存すら成し遂げようとしている彼ならば、と思ってしまうのだ。

 

「……信綱さんはそれが一番だと思ったのよね」

「ええ。味方が多い今のうちに叩いておくべきかと」

「だったら信綱さんの言葉を信じます。絶対に人里を……ううん、幻想郷を護りなさい。これは私からあなたへの――命令です」

 

 御阿礼の子としての言葉。阿七にされたことはなく、お願いでもない阿弥からの命令。

 本来はこうして命令を受けて動くのが火継の在り方だ。信綱が阿七や阿弥と家族としての絆を結んだからこそ起こった、些細な違い。

 だが――その言葉を聞いた瞬間、信綱の総身は言い表せぬ感動に包まれた。歓喜の涙すら零れそうになる。

 彼女の道具になれる。それのなんと心地良いことか。小難しいことを一切考えることなく、ただただ彼女の命令を最大効率で遂行すれば良い。

 

「御意のままに。――おい、烏」

「は、はいっ!?」

 

 そして最大効率とは、使える手札を全て使って勝ちに行くことである。

 信綱は阿礼狂いと御阿礼の子の生み出す光景に釘付けになっていた文をにらみ、ある方向を指差す。

 

「お前は紅魔館に行って、今すぐ力を借りてこい。俺の名を出せば二つ返事で引き受けるはずだ」

「それが終わったら?」

「適当になんかしてろ。天魔への報告でも良い」

「すごい適当!?」

 

 無視して椛の方へ向き直る。文は言いたそうなことがある顔だったが、やがて諦めたように紅魔館の方へと飛んでいく。

 

「椛、鬼の様子は?」

「えっと……大きな一本角の鬼の女性を筆頭にこちらに向かってきて――あれ? じゃああの小さい鬼は――」

「ここにいる――」

「――」

 

 声は最後まで続くことなく、一瞬すら越えた速度の抜刀で身体が断ち切られる。

 目を見開く橙や椛には反応すらできなかった。全てが終わり、首も胴体も斬り落とされてようやく理解が及ぶほどの斬撃。

 しかし、声は消えることなく聞こえてくる。見慣れぬ気配は信綱たちの周囲に薄く広がっていた。

 

「……最高だよ、人間。今のだけでイッちまいそうになった。この私が! 伊吹萃香さまが! たかだか数十年しか生きてねえ人間の一太刀で絶頂しそうになっちまった!」

「チッ、面倒な。おい椛、詳細は」

「疎と密を操る程度の能力。この妖怪はどこにでも現れて、どこにでも消えます」

 

 椛の言葉に同意するように萃香の気配が一部に収束していく。

 

「そういうことさ。例えば……人間ご執心のこの子の後ろに――」

「――」

 

 阿弥の後ろに回ろうとした気配を信綱が吹き散らす。阿弥には毛一筋の傷すら付けず、しかし無尽に振るわれる斬撃が薄くなった萃香をさらに斬り刻む。

 

「ハハハッ! そんなことやっても無駄だよ! 私が余計に薄くなっていくだけさ!」

「――」

 

 萃香の嘲笑に耳を貸さず、信綱は片腕で阿弥を抱き抱えて刃を振るう。

 椛や橙には、斬り刻まれている本人である萃香にもその意図はわからない。

 だが、彼は無意味と判断した行動は決して取らないことを椛は知っていた。

 一見無意味に見えても、そこには必ず何らかの意味がある。たとえ今はわからずとも、後々になって意味を持つ行動であるはずだ。

 

「君、援護は!?」

「要らん。もうわかった」

 

 椛の申し出を一蹴し、信綱は一閃する。

 薄まった気配はフワフワと移動し、阿弥から距離を取っていく。

 

「――薄くなればなるほど、お前の影響力は薄れる。こんな風に剣圧だけで動いてしまうほどに」

「クハッ、そりゃちょいと頭使えば誰だってわかることだ。まさかそんなちっぽけな情報のために無駄な力を使ったってのかい?」

「それと――」

 

 再び一太刀。先ほどの抜刀に比べれば速度は落ちたもの。

 重い真剣。まして長刀と刀を振るうのだ。体力の消耗は通常の比ではない。

 まさか今ので疲れてしまったのか。そんな当たり前の不安を、信綱は当然のように踏み越えていく。

 

「ガッ……!?」

 

 信綱の手が振り抜かれた瞬間、これまで信綱を嘲笑っていた萃香の声に苦しげなものが混ざったのだ。

 

「――薄くなっていようとお前が居ることに変わりはない。コツさえ掴めば刃ぐらいは通せる」

 

 さすがに効果は薄くなるようだが。本当は今の斬撃で薄まっている萃香の首を落としてしまうつもりだった。

 

「手応えから察するに胸。それも心臓に達しない程度の浅さ。意趣返しとしては不満だが、こんなところだろう。――失せろ妖怪。今ならお前が実体を取り戻す前に数百は斬れるぞ」

「……ハハハ。最高だ、なんて言葉じゃ足りないねえ……」

 

 気配が遠のく。恐らく逃げるつもりなのだろう。

 信綱にも追いかける意思はないのか、それを鋭い目で睨みつけたまま動かない。

 

「挨拶程度の顔見せだったんだ。初志は貫徹させてもらおうか。でも――人間、名前は?」

「失せろと言ったのが聞こえなかったか」

「ククッ、その態度も気に入った! 雑魚がやっているんなら見るに耐えないけど、お前さんは本物だ! 本物の妖怪を殺すバケモノだ! 決めたよ――あんたは私が攫う!」

 

 攫う。その言葉を聞いて信綱は密かに渋面を作る。椿と言いこいつと言い、自分は妖怪を惹きつける気質でも持っているのか。

 

「後でまた会おう! その時は誰にも手出しをさせない、一対一を楽しもうじゃないか!!」

 

 その言葉を最後に気配が完全に消える。今度こそ脅威が去ったことに安堵の息を吐く。

 そんな中で信綱は気を緩めた様子もなく、椛たちに向き直る。

 

「この様子じゃ下手に策を弄する余裕はない。正攻法で行くぞ。椛は阿弥様を連れて家に戻ってくれ。終わったら俺と合流。常に鬼の動向は確認しろ。化け猫も阿弥様に付いていけ。俺と来るよりは安全だろうよ」

 

 それに鬼との戦いに耐えられるとも思えない。

 橙も椛に比べると不安だが、それでも阿弥を任せても……まあ、良いと思える程度には信用していた。

 

「それはわかりましたけど、君は?」

「避難誘導は俺の部下に任せる。その後慧音先生に人里を隠してもらうよう頼んで、炒り豆の用意。それが終わったら外に出て鬼を迎え撃つ」

 

 なにせ鬼の目当てが自分で、しかもここは信綱が生まれ育った人里だ。

 やるべきことは彼が一番多い。こればかりは椛や橙に任せられないことである。

 

「わかったら急げ。――阿弥様を頼むぞ」

「……はいっ! 阿弥ちゃん、ちょっと飛ばしますよ!」

「あ、信綱さん!」

 

 椛に抱き上げられ、今にも飛んでいきそうなところで阿弥は信綱へ言葉を投げかける。

 

「絶対、無事に帰ってきてね! 死んじゃ駄目だよ!!」

「――ええ、もちろんです」

 

 阿弥を怖がらせないよう、なんてことのないように微笑んで彼女たちを見送っていく。

 椛に任せればとりあえずの安全は確保できる。後はもう部下に任せるか、祈るしかない。

 どこにでも現れ、どこからでも消えるなど、ある意味八雲紫のスキマに匹敵する能力だ。それを一騎当千の鬼が持っているなど悪夢でしかない。

 信綱が四六時中側にいられればなんとかできる。もう霧の気配は覚えたし、感覚も掴んだ。次はどんなに薄まった気配であろうと斬り裂く自信がある。

 が、信綱はこれから最も危険な場所に飛び込まなければならない。何が起こるかわからない戦場に主人を連れ出すなど言語道断である。

 

「橙、お前もさっさと行け」

「……人間、死ぬんじゃないわよ! あんたが死んだら親分の私の沽券に関わるんだから!」

「誰が子分だ。お前こそ阿弥様を守れよ」

「言われなくてもやるって! こんな楽しい場所を壊すような奴の思い通りにはさせないわよ!」

 

 人間をあまり知らない妖怪がこれからの幻想郷に必要だ、と考えた自分は間違っていなかった。

 こうして人間を守ろうとしてくれる橙の存在に、信綱は微かに笑みを浮かべる。

 

「……なら良い。頼んだぞ」

「任せなさいっての!」

 

 調子に乗りやすい橙の言葉が今ばかりは気楽だった。

 信綱は彼女たちに背を向けて、人里では見せるのを避けていた身体能力を存分に発揮していくのであった。

 

 

 

 上白沢慧音が人里の守護者をやっていることにはいくつかの理由がある。

 無論、一番大きな理由は人間が好きだからだろう。使命感や義務感で続けていけるほど人間は綺麗なものではなく、人里を襲う嵐は小さくない。

 他にも一つ、彼女には重大な使命を担っている。幻想郷縁起を編纂する御阿礼の子と同等とすら思えるほどの重要なもの。

 

 歴史書の編纂である。彼女は後天的に得た白沢としての能力、歴史を創る程度の能力を所持しており、満月時にはそれを使って歴史書を編纂しているとか。

 少し伝聞が入る理由は信綱もこの話は幻想郷縁起で読んだだけであり、詳しいことは知らないからだ。

 だが、人間の時にはこの能力は少々変化するらしく、これが今日まで人里を存続させた一因を担っていると言っても過言ではないほどのもの。

 

「――ふう、無事に人里の歴史を隠した。これで里の外に出ない限り、鬼からはわからないはずだ」

 

 外で両手を天にかざす。それだけの行為でありながら、滝のような汗を流す慧音が一仕事を終えた顔で信綱に振り返る。

 それに頭を下げ、懐から取り出した手拭いを慧音に渡す。

 

「ありがとうございます」

「なに、これも私の仕事だ。……ただ、あくまで隠しただけになる。そこにあるという歴史そのものを知っている妖怪なら効果はない。とはいえ、数百年近く地上の歴史と断絶していた連中だ。鬼が相手でも隠すことは不可能じゃないはずだ」

「十分です。避難誘導はこちらの手勢に任せておりますので、慧音先生は人心の安定に努めてください」

「わかった、お前の指示に従おう。……勝算はあるのか?」

「なければ作るまでです」

 

 信綱は勝算があって動いたことなどほとんどない。

 そこにやるべきことがあるから、どんな無理難題だろうとやってのける。いつだってそうしてきた。

 可能性の有無など明らかに失敗する場合のみわかっていれば十分なのだ。そうじゃないならどうにかなる。

 一切の恐れも迷いもなく百鬼夜行に立ち向かうことを選ぶ信綱の顔を見て、慧音は眩しいものを見るように目を細めた。

 

「……そうだな。それが正しい人間の在り方だ。……頑張れよ」

「先生も頑張ってください。私の手勢も避難誘導と避難所の警護に回します。万一鬼が来たら彼らを囮にして逃げてください」

「む……いや、状況が状況か。……わかった。最善を尽くそう」

 

 人里の危機である以上、御阿礼の子の危機でもある。火継の人間も己の命を度外視した動きを見せてくれることだろう。

 それに御阿礼の子を守れずに生き延びる阿礼狂いなど何の価値もない。

 火継の人間はこの価値観を全員で共有しているがゆえの言葉だったが、慧音は苦い顔を作って確約はしなかった。

 

「……お願いします。それでは私はこれで」

「ああ。後ろを気にせず暴れてこい」

 

 阿弥にも守りは付けてある。もうここは信じるしかない。

 信綱は嫌な胸騒ぎを押し殺して、寺子屋を後にする。

 慧音の寺子屋はいざという時の避難所の役目も持っている。今はまだ里の中で妖怪の襲来の情報が回っていないため静かなものだが、すぐに人で溢れかえるだろう。

 

 火継の人間が避難誘導を始めており、人間でごった返す人里の道を信綱は逆走して里の外へ向かっていく。

 その中で信綱は見慣れた三人を発見する。霧雨夫妻とその息子だ。

 

「お前たち、無事か?」

「あ、お、おう! ノブか。お前ん所の人間に鬼が襲ってくるって言うから何事かと思っちまったぜ」

「ノブくんは……戦うんだね」

 

 勘助、伽耶ら二人の問いかけに信綱は気負った様子もなくうなずく。

 

「これが俺の役目だ。あと、ややこしいかもしれないが天狗は味方だ。そこは混合しないでほしい」

「わかってる。天狗も天狗で慌ててたし、向こうも大変なんだろ」

「ああ。そっちも無事で――」

「あの!」

 

 時間も惜しく、彼らはまだ避難中である。そのため別れようとしたところで弥助が声を上げてきた。

 何事かと思って視線を合わせる。成長期の途中にあるその瞳には、戦意が煌々と宿っている。

 

「お、おれにも何かできませんか!? 一応、自警団なんです!」

「……だったら避難の誘導を手伝ってくれ。老人は移動が遅くなる。手はいくらあっても足りない」

「よ、妖怪との戦いとかは……」

「来るな、足手まといだ」

 

 これに関しては嘘偽りなく答えるしかなかった。弥助の顔が悔しそうに歪むが、答えは変わらない。

 だが、ここで頭ごなしに否定するのもよろしくない。不満の発露というのは状況を選ばず行われることがある。できることなら双方満足して役目に当たれるのが一番なのだ。

 

「良いか、力を発揮すべき箇所というのは人それぞれ違う。お前の父親は商売。母親はそれを支えること。俺は有事の戦力という風に分かれている」

 

 弥助の頭に手を置き、見上げてくる目に信綱も目を合わせる。

 

「妖怪退治でお前が俺の力になるのは無理だ。だが、それ以外の場所でお前が役立てる場面がある。……わかるな」

「……はい!」

「いい返事だ。勘助もそれで良いな?」

「ああ。ウチの息子が役立てるんならいくらでも役立ててくれ! ……あと、悪いな。慣れないことやらせて」

 

 勘助の小さな声での謝罪に信綱は軽く笑ってしまう。

 自分のような狂人が偉そうに人様に説教など柄ではない。今さらになってそう思えてきたのだ。

 

「全くだ。終わったら良い酒でももらおうか」

「終わった後の宴会で大盤振る舞いしてやるよ。……だから、生きて戻ってこいよ」

 

 今回の異変は吸血鬼異変の時とは比べ物にならないほど規模が大きく、危険であることを勘助はわかっていた。

 それに対し、信綱は軽く腕を上げることで応える。

 

「そら、さっさと逃げろ。一箇所にまとまってもらわないと守るものも守れん」

「……おう! 弥助、気張って来い!」

「あまり無理はしないでね、二人とも。死んじゃったら悲しむ人が大勢いるんだから」

「わかっている。阿弥様を泣かせるつもりはない」

 

 夫婦は避難所の方へ。息子は別の方向へ走り出すのを見送って、信綱は再び走り出す。

 思えばずいぶんと人里に名が知れたものだ。信綱が子供の頃は阿礼狂いとして遠巻きに見られていたのが、今では里の英雄扱いである。

 妙なる巡り合わせの結果だ、と信綱は思う。自分が狂人であることは変わらないにしても、少しばかり対応を変えるだけでこんなにも変わるのだ。

 

「君!」

「椛か。阿弥様は無事に送り届けたんだろうな」

「橙ちゃんに任せてます。鬼の群れはもうだいぶ人里まで近づいてます。人里に向かうのが一番大きくて、そこから枝分かれするように妖怪の山、霧の湖の方へと細分化しています」

「なんでこっちが一番多いんだ。レミリアのところに行け」

 

 切っ掛け自体は吸血鬼の存在だろうに。舌打ちしながら苦々しく思っていると、椛がじっとりとした目で信綱の方を見ていた。

 

「……なんだよ」

「いえ、あの鬼にあんな絶技を見せて興味を持たれないと思ってたんですか?」

「…………俺たちは外で迎撃する。なるべく人里からは離れるぞ」

「無視!?」

 

 椛から目をそらして走り、人里の外に出る。

 振り返ると人里があるべき場所には何もなく、荒れ野が広がっているだけの光景になっていた。

 

「すさまじいな、これが慧音先生の力か」

「ですがそこにあることが変わらない以上、小細工の一種ですよ」

「ないよりはマシだ。さて……」

 

 信綱の感覚が鬼のそれを捉える。

 隠すつもりもない、金棒を担いだ鬼の群れが地鳴りのごとき足音を響かせて向かってくるのがわかる。

 

「ずいぶん近づかれたな。仕方がない、こちらから仕掛けて引っ掻き回すぞ」

 

 幸い、この辺りはまだ信綱にとって慣れ親しんだ場所。茂みの場所や木の位置もほとんど把握できているので、移動には困らない。

 むしろ下手にここで迎撃して後ろに行かれて人里の存在がバレたら目も当てられない。

 

「うぇ!? 正気ですか!?」

「正気も何も、下手に囲まれるよりはマシだろう」

「そ、それはそうですけど……」

「向こうも萃香のことがあるとはいえ、ここまで反応が早いとは思っていないだろう」

 

 萃香が人里にやって来たのは顔見せ程度であり、彼女自身の独断であると信綱は判断していた。

 というより、彼女が首魁に近い立場のはずだ。彼女に命令を出せる存在がいるなど考えたくないので、その可能性は無視する。

 そしてその独断を他所に告げる可能性も低い。彼女は信綱に目をつけたのだから、彼女自身の手で信綱と戦いたいと思っているはずだ。

 とどのつまり、今なら地上を蹂躙するつもりになっている鬼たちの虚を突ける可能性が高いということ。

 少ない危険で大きな利益が見込める以上、信綱にやらない理由はなかった。

 

「――やるぞ」

「ああ、もう……君との修行以外での実戦相手が鬼とか予想もしませんでしたよ!」

 

 一度決めたことは実行する。信綱が意見を翻すつもりがないことを理解すると、椛はヤケになったように大太刀を構える。

 烏天狗を越える白狼天狗になれと言われて稽古を付けてもらっていたが、よもや初めての相手が天狗の上司とも言える鬼になるとは。

 

「同感だ。とはいえ、不謹慎だが少し高揚するものがある」

「うん?」

 

 珍しいこともあるものだと椛は信綱の横顔を仰ぎ見る。

 戦いを前にした信綱は感情を殺した表情になり、殺すと決めた相手には一切の情けをかけない凍てついた顔になるというのに、今の彼は微かに口角が上がっていた。

 笑っているのだ。何が楽しいのか、と椛が視線を送ると信綱はその表情のまま答える。

 

「――誰かに背中を預けて戦うというのは初めてだ」

 

 背中を気にせず戦ったことはあるが、実際に戦う場所で信頼できる仲間に背を預けた覚えはなかった。

 巫女と自分では空を飛べるか否かで戦う場所自体が違った。父親は元より使い潰すつもりで、こちらからの仲間意識がなかった。

 天狗の里での文は信用していなかった。敵ではないが味方でもない。その程度の認識でいた。

 だから、心から信頼できる仲間と一緒に戦うのは今日が初めてになる。そのことを信綱は少しだけ嬉しいと思っていた。

 

「俺の背中は任せたぞ。椛」

「……はいっ! 地底に篭っていた鬼たちに目にもの見せてやりましょう!」

 

 相手は幻想郷でも屈指とされる鬼の群れ――百鬼夜行。

 しかし天狗の騒乱にも巻き込まれた信綱にとっては今さらのものでしかなく、あの時に比べれば使えるものも数多くある。

 

 そして何より――阿弥が命じたことだ。

 

 隣に背を預けられる仲間がいて、胸には阿弥の言葉が灯っている。恐れるものなどこの世のどこにもない。 

 信綱の一歩は最高の加速を以って、百鬼夜行へと突撃していくのであった。




色々と書く場面が多すぎて泣けて来る今日このごろ。誰だこんなに多勢力出してんのは! 私だよ!

しばらくはごちゃごちゃするかもしれませんが、結局のところ焦点は鬼の首魁二人に魅入られているノッブですので、最後はそこになると思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それぞれの戦いと語られる怪力乱神

「オラァ!!」

 

 口内に紅色の槍を叩き込み、内部で爆散させる。

 顔が柘榴のように弾けて赤い血を吹き出す不格好なオブジェと変わり、さらにそのむき出しの首に腕を突っ込む。

 ぐちゅり、という気色悪い音を立てて肘の辺りまで埋め込まれた腕にさらなる魔力が込められる。

 

 許容を越えた魔力を注ぎ込まれた鬼の身体が弾け飛び、臓物の欠片と肉片を撒き散らし――光の粒子と消えていく。

 

「あー……妖怪も消える時は綺麗なものね」

 

 その様子をレミリアは血に塗れて紅に染まった視界で眺める。

 腕も足も血に染まり、紅色でない部分を探す方が難しいほど。

 ――それを恍惚とした表情で受け止め、レミリアは凄艶に笑う。

 

「アッハハハハハハ!! 良いわよ良いわよ! こうしていると外の世界で暴れた時を思い出すわ!!」

 

 指にこびりついた血を舐め取り、しかし顔をしかめて吐き出す。鬼の血はレミリアの口には合わないようだ。

 ここは紅魔館の中庭。射命丸が紅魔館に到着するのと時をほぼ同じくして、鬼の群れが紅魔館を襲撃したのだ。

 当然、美鈴たちは迎え撃つものの悲しきかな、根本的に攻撃の重さが足りない。

 

 鬼の特徴はなんといってもその肉体の頑健さと、それを助長する生命力の強さである。

 生半可な攻撃はその皮膚が弾いてしまい、通った傷もすぐに再生してしまう。

 脆弱な人には決して抗えない悪逆と理不尽の権化。それがかつて日本という島国を覆った鬼という名の災害。

 そう、災害なのだ。台風や地震と同じく、人々にはどうしようもできないもの。ただ耐え忍び、終わりが来るのを待つしかない。

 

 ――通常ならば。

 

「お嬢様、大丈夫ですか!?」

「へーきへーき、私を誰だと思ってんのよ」

 

 吸血鬼は東洋では名前が届いていないが、西洋では有名な妖怪だ。その悪名は鬼にも匹敵する。

 血を啜り、月の魔力を蓄え、夜に羽ばたく闇夜の王。レミリアもまた、鬼と同じく災害に分類される存在だ。

 レミリアはまだまだ数を減らした様子のない鬼の群れを睥睨し、呵々大笑とその手に紅色の槍を持つ。

 

 視界の先には未だ多くの鬼の群れ。対抗するには美鈴では力が足りず、パチュリーたちは館の守護に手一杯。

 ついでに言えばやる気もさほどない。図書館さえ守れればそれで良いといった感じだ。今度こっそり紅茶に血を混ぜてやろうと思っている。

 つまり、この場において鬼を殺し切ることができるのはレミリアただ一人になる。

 

「そこの烏もさあ、あんたもうちょい頑張りなさいよ。柔らかい口の中とか狙えばなんとかなるものよ?」

「種族の差が大きいんですよ!? 私がどんなに速く動いてもこの大地を動かせないように! 天狗と鬼では相性が最悪なんです!!」

「動かして見せなさいよ。おじさまならやろうとするわよ?」

「あのバケモノと一緒にしないでください!?」

「あっははは! おじさまったら誰からも人間と思われてないのね!!」

 

 文と何気ない言葉を交わしながらレミリアは笑う。自分が目をかけた人間が妖怪に目をつけられるどころか、妖怪からも恐れられる存在になっていた。

 人間は妖怪を恐れることが大前提にあるというのに、あの人間は妖怪に恐れられている。笑わない方がおかしい。

 

「で、おじさまからの救援要請。そりゃもう全力出すっきゃないっしょ」

「いやあ、噂には聞いてましたけど、聞きしに勝るベタ惚れっぷりですね」

 

 文の驚嘆には答えず、レミリアは悠然と大地を踏みしめて後ろの美鈴に問いを投げる。

 

「当然。――美鈴! 私は強いか?」

「はいっ!」

「最強か?」

「お嬢様こそ最強です! 誰よりも、何よりも!!」

「――そうだ、その通り!! 私はレミリア・スカーレット!! 闇夜を統べる女王! 誇り高き吸血鬼!!」

 

 美鈴の言葉に獰猛に笑い、レミリアは鬼の前に立つ。

 

「だからこそ――私を倒したおじさまは私より強い。彼が鬼に立ち向かうというのなら、私にはこの程度笑って踏破する義務がある」

 

 自己の強さに絶対の自信を持つがゆえの言葉。そして己が強いと自負しているからこそ、その強さを上回った彼に惜しみない祝福を授ける。

 それがレミリアの行動理由。人間の在り方も妖怪の在り方も全てどうでも良い。それらはレミリアの腹を満たすことはあっても、心を満たすことはないのだから。

 

「さあ、かかってきなさい雑兵ども!! 私を殺したければ、今いる数の十倍は持ってくることね!!」

 

 レミリアの啖呵に鬼の軍勢は鬨の声を上げる。元より喧嘩っ早い連中の集まり。大人しく頭に着いていこうなんてものは皆無に等しかった。

 この場にいる者たちは星熊勇儀らが目的とする強い人間との戦いなど眼中になく、あるのは新参者である吸血鬼に上下の立場を教えてやるために来ていた。

 

 人間に負けたと聞いていたがなかなかどうして、気骨のある誇り高い妖怪ではないか。

 出会う場所、時間が違えば気が合ったことだろう。ひょっとしたら酒を酌み交わす未来なんてのもあったかもしれない。

 だが、彼女は人間に頭を垂れた。脆弱で、愚かで、卑怯な人間にだ。

 

 教えてやらねばなるまい。レミリアが守ろうとしている人間は決して彼女に感謝などせず、ただ良いように利用してそれで終わりなのだと。

 妖怪には妖怪の生き方がある。そしてそれは人間と相容れることは決してない。

 彼女を叩き潰し、その後人里も襲う。スキマ妖怪や博麗の巫女が出てくるだろうが、構うものか。諸共に潰してしまえば良い。

 その過程で自分たちのように名を残してもいない者たちは死ぬだろうが――なに、元より刹那的な快楽のために引き起こされた百鬼夜行。刹那に生きて死ぬのが本望だろう。

 

 鬼にも鬼の考え方があって――しかしそれはレミリアの知るところではなく。

 彼女と鬼の集団は何も言葉を交わすことなく、激突していくのであった。

 

 

 

 

 

「はぁ……今年は厄年かしら」

 

 博麗の巫女は博麗神社にて、自らを見下ろす鬼たちと対峙していた。

 その顔に気負ったものはなく、驚きなどないように振舞っている。

 

「おいおい、おれたちを見てもなんともねえのかよ?」

「お生憎様。私の役目は異変が起きた時の妖怪退治。それは誰が相手であっても変わらないのよ」

 

 幻想郷の調停を担う以上、彼女にとって誰が相手でも大した違いはない。勝つ以外に道などないのだから、せいぜい生き残れるかどうかを心配するぐらいだ。

 ……尤も、その点で言うなら鬼はとてつもなく不味い相手になるのだが。

 

(あー、もう。紫はもうすぐ新しい博麗の巫女を探すって言ってたから、ようやくお役御免だと思ってたのに。……遺書の一つも書いておくべきだったかしら)

 

 誰に渡せば良いのかわからず、咄嗟に思いついたのが一番付き合いの長い狂人であることに巫女は苦笑する。

 彼に遺書を渡したところで何になるのか。残念だ、の一言で済ませて終わりだろう。

 それとも何か、自分は彼に泣いて欲しいのだろうか。

 

「……ま、全ては繰り言ね。さて――私に喧嘩売ろうってんなら相手になるわよ」

 

 胸に去来する思いを切り捨て、巫女は自らの役目に殉じることを選ぶ。

 陰陽玉を浮かべ、袖に隠した札と針を確かめる。全て用意はされていた。

 巫女の戦意に鬼は猛々しい笑みを顔に貼り付け、拳を構える。

 恐らく命がけの勝負になる。例え勝っても五体満足とは行かないだろう。無論、負ければ死ぬ。

 結局、私は先代の巫女と同じ運命なのかな、と心の何処かで思いながらも役目を果たそうとして――闖入者が現れる。

 

「お待ち下さい、博麗の巫女様」

「……はぁ!?」

 

 自分の真横から聞こえる声に巫女は心底仰天する。

 鬼に集中していたとはいえ、博麗の巫女が気づけないような隠形で近づいてきた男がいたのだ。驚くしかない。

 男は鬼たちに刀を向けて牽制しながら、巫女に話しかけてくる。

 

「ここは自分に任せて人里に向かってください。当主がすでに戦っております」

「当主って……あんた、あいつの?」

 

 思いつくのは彼しかいなかった。自分を狂人と言ってはばからないくせ、博麗の巫女すら凌ぐ実力を持つ、今の幻想郷で最も有名な人間。

 青年は無表情にうなずき、巫女の疑問を肯定する。

 

「はい。信綱様より命を受けて参りました。――人里へ。ここは私が引き受けます」

 

 感情の見えない瞳で剣を構える男に、巫女は彼が死兵であることを察する。

 巫女に気づかせなかった隠形から見るに、この男はかなり腕が立つ。信綱ほどとまではいかなくても、人間の中では相当の強者。

 しかし、そんな男でも鬼が相手では時間稼ぎが関の山。しかも単純な数でも向こうに利がある。これでは時間稼ぎという名の嬲り殺しにしかならない。

 

「何言ってんのよ! ここは二人で協力して――」

「協力したところで援軍の見込めないここでの勝ち目は薄い。それならここの者たちを引き連れてでも人里に向かい、当主様と協力した方が良い。それに――いざという時は死ね、と命じられてますので」

「……ッ! あんたそれでいいの!?」

「無論。当主様の命ならば、これが最も阿弥様のためになるということ」

 

 その横顔には隠し切れない喜悦が浮かんでおり、まるでこの場で死ぬことがこの世で最も強い快楽であると信じて疑っていないようにすら見えた。

 

「素晴らしい。阿弥様のお側に居られなかったことは残念だが、あなたが生き延びれば私の命は阿弥様のためになったと断言できる。――私の命があの方にとっての益となる。これに勝る幸福などどこにもない」

「…………」

 

 阿礼狂い。御阿礼の子のために生きて、御阿礼の子のために死ぬ。そんな歪な一族。

 巫女も知っているのはずっと側仕えをしてきた信綱だけだった。故に彼を基準にして阿礼狂いというものを測っていた。

 

 違う。信綱があらゆる意味で例外なのだ。彼はこの一族の中では相当に人間味あふれる性格をしている方だ。

 この男のような近づき難さは感じないだけ、彼がマシな部類であることを今さらながらに思い知る。

 

「……覆す気はないのね?」

「ええ。あ、私の死で気に病まないでください。あなたに悔やんでもらったところで何の得にもなりませんから」

「阿弥に伝える必要は?」

「それこそ必要ありません。あの方のために死ぬのは事実ですが、それが阿弥様の重荷になってはいけない。私の死体は適当に焼くなり埋めるなりしておいてください」

 

 全く気負った様子もなく死を受け入れている男に、巫女はため息をつくしかない。

 梃子でも動かないだろうし、誰に知られるつもりもなく死ぬというのも本当だろう。

 貧乏くじだ。彼の死を知るただ一人になってしまうとは。後で信綱に愚痴をこぼそう。

 

「……わかったわ。せいぜい派手に時間を稼ぎなさい!」

「はい。その方が良い。辛気臭く見送られるより、よほど気分良く戦える」

 

 男が鬼の群れに突撃を開始すると同時、巫女は気休めの札をその背中に貼り付けて自らは踵を返す。

 

「逃がすな! 巫女さんを捕まえ――!?」

「――!!」

 

 鬼の言葉は途中で止まる。指示を出すために開いた口腔に男の刀が突き刺さったのだ。

 すぐに引き抜かれ、傷の再生が始まる前に次は目に刺突が繰り出される。

 不意を突かれたとはいえ、ただの人間に二度も痛みを味わわされたことにより、鬼の頭から巫女のことはすっかり抜けてしまう。

 繰り返すが、鬼は血の気の多い妖怪である。それ故――虚仮にされて黙っているということが最も耐え難い種族なのだ。

 

「てめぇ!」

「――」

 

 鬼の集団に取り囲まれ、残る命数はどんなに奮戦しても一時間足らず。

 だが、笑っている。今この瞬間、自分の命が阿弥に捧げられる瞬間を夢見て笑っている。

 その命を使った奉公は側仕えである信綱にはできないことだ。彼は阿弥の側にいるため、生き残ることを考える義務がある。

 自分たち側仕えになれなかったものにはそんなもの存在しない。御阿礼の子のために生き、彼女らの側にいられなかったからこそできる究極の奉仕。

 この役目を与えてくれた信綱には感謝している。阿弥のために死ねるなど自分はなんと幸福か。

 側仕えになれぬまま、平穏な時代の中で朽ち果てるよりよほど有意義だ。

 多大な感謝と狂喜を込めて、青年は鬼の群れで舞を踊るように刀を振るっていくのであった。

 

 

 

 

 

 そして天狗の里では天魔が陣頭指揮を執って鬼との戦闘に備えていた。

 矢継ぎ早に指示を飛ばし、鬼が攻めづらい崖の方に退避し、戦闘に耐えうる天狗は全て上空に待機させる。

 空を自由に飛べて、高度にも限界がないこの場所は天狗にとって手放してはならない優位点。

 鬼が下から攻め、天狗は上から迎撃する。この構図が崩れた時が天狗の敗北である。

 

 天魔なら無名の鬼相手ならどうとでもなる。天狗の頭領を務める所以は政治力だけではない。

 ――が、バカ正直に相手をする理由もない。警戒すべき伊吹萃香と星熊勇儀の両名は人里の方に向かっているのだ。こちらに来る雑兵をいなす程度なら人的被害は考えないで良い。

 そんなわけで天魔は作戦の第一段階である河童との接触を行い、彼女らの避難を手伝っていた。

 

「犬走椛がいりゃあ、もっと楽ができたが……仕方がないか。鬼の本命はどうもオレたちじゃないようだし、一番キツイところに回すのが筋か。なあ河童」

 

 そしてそんな折、信綱と知り合いだという河童がいたのでこれ幸いと河童の代表に仕立てあげ、自分の隣に置いている次第である。

 他の河童も天魔の隣は嫌だったのか、どうぞどうぞと言わんばかりに差し出してきたので話が早かった。

 対する河童は怯えたような、自分がどうしてここにいるのかわからないと言った視線で見つめてきており、それがまたおかしくて笑ってしまう。

 

「ひゅい!? い、いきなり話しかけないでくださいよ!?」

「ハッハッハ、人間と盟友と語るお前たちなら協力してくれると考えて正解だったな。しかもまさか旦那の知り合いとは」

 

 幻想郷は狭いというべきか、あの男の知り合いがここに多すぎるというべきか。

 天魔は自分の横で所在なさ気に立っている河童――河城にとりを見る。

 

「こっちの台詞ですよそれは……あの人間、何やってるのさ……」

「最近始まった人妖の交流の立役者」

「ひゅい!?」

「本当だ。その様子だと何も知らなかったみたいだな」

「いやあ、お互い名前を知ったのもつい最近で、それまでは当り障りのない世間話ぐらいしかしてこなかったもんで」

「お前ら確か店出してたろ」

「なんか妖怪といつも一緒に居たから声をかけづらかったんですよ!」

「お前……」

 

 天魔はちょっと哀れな目でにとりを見てしまう。河童という種族は総じて人見知りが多いが、彼女もそれなのだろう。

 それににとりが臆せず話せる相手で、なおかつ信綱との知り合いは意外と限られている。八雲の式の式と知り合いなのは本当にどうしてか知らないが。

 そも、天狗と河童という種族の差は天狗と鬼とのそれに近い。種族単位で上下関係が決まっているのだ。にとりが天魔に対して下手に出るのも無理はない。

 

「まあ良い。お前たちの避難は終わったか? 荷物はありったけ持ったな?」

「は、はい。でも、私たちを逃がしてどうするつもりなんです?」

「うむ。――まあ、後で作り直してやるからあんま怒らんでくれ」

「へっ?」

 

 これで天狗の里より低地で、なおかつ開けた場所を確保できた。おまけに川の流れは結構早いと来ている。まさに理想的。

 これなら――鬼の連中を川に叩き落として時間を稼ぐぐらい、容易に行える。

 

「オレたち天狗と鬼は相性が悪い。どうしてかわかるか?」

「え? うーん……強いから?」

「まあ正解だ。天狗から見りゃ、鬼は確かに鈍重で空を飛べる奴も限られる。――だがそれを補って余りある強さがある」

 

 生半可な妖術では痛痒すら与えず、天狗の全力を込めた一撃でもようやく身体が揺れる程度。

 そして振るわれる豪腕は一撃当たれば天狗の身体をひしゃげさせ、轢き潰してしまう。

 つまるところ、正面からの戦闘は極めて分が悪いということである。

 そこまで説明して、天魔は人の悪い笑みを浮かべながら鬼の侵入しつつある河童の里を見下ろす。

 

「だからこそ。オレたちはオレたちの強みで鬼を退治する」

 

 予定通りだ。案の定、空を飛べない鬼たちは開けた場所に出てきた。

 その場所なら――上空に待機させた天狗たちの突撃が存分に効果を発揮する。

 

「オレたちの強みは機動力と速度だ。十分な助走があれば風と一体になるのも不可能じゃない」

 

 そしてその速度を出した突進は鬼に対しても効果的なものになる。それこそ――川に叩き落として追っ払う程度なら容易なほどに。

 そんな芸当ができるなら倒してしまえば良いじゃないか、と思われるだろうがこれも一長一短である。

 高速で大質量をぶつける方法は単純故に効果的だが、実行者である天狗にかかる負担が重い。

 鬼の再生力は高く、よしんばこの方法で傷を与えたとしても天狗より先に鬼が治ってしまうのだ。痛み分けとして分が悪い以上、この方法もあまり褒められたものではない。

 

「こっちは高所を握ってるんだ。活かさない手はないってことさ。……さて」

 

 天魔はスッと片手を上げる。それと同時に上空の天狗が一斉に構えを取ったことを、隣にいるにとりが確認した。

 天狗の首魁とはいえ、ここまでの統率力には目を見張るものがある。強い妖怪というのは総じて自意識も強いものだが、天魔は見事にそれらをまとめていた。

 その姿に感嘆していたにとりだが、そこでようやく思考が追いついてくる。

 つまり――これって河童の里が一方的に被害を被るんじゃね? という思考である。

 

「あ、ちょっ、天魔様!?」

「気づいたか。後で直してやるから勘弁しろ!」

「ぎゃー!? まだ持ち出してない研究材料があったのにー!!」

 

 無情にも天魔の手は眼下の鬼目掛けて振り下ろされ、それに追従するように上空の天狗が文字通りの体当たりを敢行していく。

 耳鳴りに近い音すら響かせて地表近くの鬼とぶつかり、衝撃波を撒き散らす。

 もうもうと砂埃が立ち、光を遮る空間の中から飛び出すように鬼が何体も出てきて、川へと突き落とされていく。

 さすがの鬼も突き飛ばされて体勢の崩れた状態で川に落ちては、そこから踏ん張る術を持たない。正面から戦わず、小賢しい手を使った天狗に対して怨嗟の声を上げながら、流されるしかなかった。

 

「なんか言ってますけど」

「負け犬の遠吠えだ。笑っとけ」

「は、はぁ……あ、でもこの川って最終的に……」

 

 確かに天狗の山近辺の渓流は流れが激しい。だがそれも下流に行くに従って緩やかになっていく。

 何よりあの川は――人里が生活用水にも使っていたはずだ。

 そこまで思い至り、にとりは天魔の横顔を仰ぎ見る。

 先ほどの流される鬼を見ていた時の稚気あふれる顔ではなく、何かを思い出すように顔をしかめていた。

 

「……同じ失態は犯さんよ、オレは」

「天魔様?」

 

 にとりの言葉に天魔は頭を振る。大天狗の騒動の折、人里への守護を失念していたのは天魔の中で失敗として残っていた。

 幸い、抜け目なく準備を怠らなかった信綱のおかげで被害は出なかったが、あれがなかったらと思うとゾッとする。

 その時に学んだのだ。火継信綱という人間が中心になって物事が動いているとはいえ、他の人間たちも決して無視して良い存在ではないのだと。

 

「鬼がこのままバカ正直に登ってくるなら良し。何べんでも川に叩き落として根比べと洒落こむ。逆に人里に向かい始めたら――むしろ好都合。願ったり叶ったりだ」

「それ、どういう……」

「畏れの確保。妖怪が人間に忘れ去られる事態は避けられた。なら次にすべきは力の復権だ。――人間たちが見る前で天狗が鬼と戦えばどう映る?」

「あ――」

 

 鬼は常人には決して勝てない存在だが、天狗なら討ち倒すまではいかなくても抵抗ぐらいはできる。

 そしてその抵抗であっても、常人には決して立ち入れない攻防が行われることだろう。

 それを見た人里の住人たちは妖怪に対して何を抱くか――決まっている。畏れだ。

 天魔はこの騒動さえも利用して、人間の味方をする天狗という形で人間からの畏れを得るつもりなのだ。

 

「……それ、自作自演じゃ」

「鬼が天狗の里を放置して人里に向かうのが悪い。いやあ、弱いやつを寄って集って甚振るなんて許せん! だからオレが義憤に燃えて人里に援軍を送ってやった! 上手く行けば人間と妖怪の共存はグッと近づくぞ」

「……うわぁ」

 

 もはや言葉もない。ここまで考えてやっているとしたら脱帽の一言である。

 だが、にとりのそんな目に対して天魔は心外だと言わんばかりに肩をすくめた。

 

「これでおあいこだ。旦那も結構オレを出し抜いて来たんだ。こんぐらい些細な意趣返しだよ。向こうの損になるような真似はしていない」

「鬼を人里に向かわせるのも?」

「オレらが決定力に欠けるのも事実だからなあ。人里なら博麗の巫女も向かうだろうし、博麗の巫女を死なせまいとスキマも動くだろう。あとあの吸血鬼は旦那にぞっこんで、何より旦那と御阿礼の子があそこにいる」

 

 要するにできることをできるやつに押し付けてしまおうという魂胆だ。

 援軍という形で恩を売り、ある程度戦うことで畏れも得る。そして信綱の勝利に貢献すれば天狗の名声はうなぎ登りである。

 まさに良いことずくめだ――勝てるなら。

 結局のところ勝たなければ何の意味もない。そういった意味で天魔はこの上ない賭けに出ているのだ。

 かつてその暴威を間近で見続け、どんな大義もその剛拳の元に薙ぎ払ってきた光景を見たことがあって――そのおぞましさも全て理解した上で、天魔は信綱に賭けた。

 

 彼なら勝ってくれる。かつて大江山を征伐した人間たちのように、己の実力で鬼たちをねじ伏せてくれる。そう信じたのだ。

 

「だから――後は任せた。信じているぞ、人間」

 

 天魔のつぶやきはにとりの耳に届くことなく、空へと消えていくのであった。

 

 

 

 

 

「ハッ!!」

「っと!」

 

 盾が突き出され、顔面に軽い衝撃が走ると共に視界が封じられる。

 結構な勢いの乗った一撃だったが、鬼の身である自分からすればちょっと痒い程度。

 これなら盾がずれて視界が晴れた瞬間、生意気にも立ち向かってきた白狼天狗を薙ぎ払える。

 と、そこで盾に遮られていた視界が広がり――刀を振りかぶった男の姿が目に映る。

 それがこの鬼の最後の思考となり、横にズレた自らの視界で見た二人の姿が、最期の光景となった。

 

 そう、盾を突き出す攻撃の意味は視界を塞ぎ人間――信綱の斬撃を見せないことだった。

 椛が手に持っている盾で顔を叩き、その隙に信綱が二刀を振るい再生すら行えないほどに斬り刻む。

 手首、肘、肩、足首、膝、腿、下腹部、胴体、首。さらにこれらを縦に両断し、ようやく鬼は生命活動を停止する。

 

 厄介極まりない生命力だ。しかも肉体は頑健でレミリアのように柔らかくないのが困りもの。斬るにも神経を使ってしまう。

 

(これで二十。なるべく後ろを狙ったが、おおよそ四半弱ってところか)

 

 本当に百体の鬼がいるのではと思ってしまう。信綱は内心で辟易しながら、背中の椛を見やる。

 彼女はこの戦闘が始まってから、鬼の隙を作ることに終始していた。

 自分の剣では鬼の一部を斬ることはできても倒し切るには至らないと判断したようで、鬼を殺せる信綱を十全に動かすことに力を注いでいた。

 実際、千里眼を持つため視野の広い彼女の援護は非常に助かっている。信綱も隙のできた相手を斬り刻むだけなら簡単だが、そうでない相手の攻撃をかいくぐるのは少し手間がかかる。

 

 などと考え事をしている間にも鬼が迫ってくる。

 不用意にも刀の範囲に入ってきた鬼の首を斬り飛ばし、後ろを向く。

 そこでは椛がちょうど手に持つ大太刀を鬼の腕に食い込ませており、その窮地を脱しようと必死になっていた。

 

「――」

 

 好都合にも自分から注意を外してくれた鬼の首を刈り取り、そのまま全身を斬り刻んで殺し切る。

 そうしている間に大太刀を引き抜いた椛は、先ほど信綱が首だけ斬って放置していた鬼の再生が始まる前に、その切断面から大太刀を振り下ろし、その身体を強引に両断する。

 さすがに無傷の状態では肉に食い込ませるまでが限界だが、信綱が斬って切断面を見せる部分からなら斬り飛ばすことができた。

 

 そして両断までされてしまえばいかに鬼の肉体であろうと、再生には時間がかかる。この戦いにおいてはほぼ無力化したも同然だ。

 

 そんな風に椛が一体を無力化している間に、信綱は後ろで三体の鬼を殺していた。

 一撃受ければ死ぬことは避けられないため、椛は一杯一杯で戦っているというのに、精神的に疲弊した様子が全く見られない上、息も切らしていなかった。

 この人は本当に人間だろうか、と何度思ったかわからないことを思っていると、背中合わせの信綱から声がかかる。

 

「大丈夫か」

「な、なんとか」

「意外となんとかなるだろう?」

「それは君がいるからだと思いますけど……」

「戯け、修業の成果だ」

 

 確かに椛の目は鬼の攻撃を的確に見切り、身体の動きは無駄なく生存のための動作を取ってくれる。

 昔の自分だったらこうは行かないと断言できる。途中で足を止めて鬼の攻撃を受けてしまう未来が見えた。

 妖怪の山に通じる森の中で信綱と散々交わした剣が役立っていると、椛は認めざるを得なかった。

 

 鬼の攻撃は一撃喰らえば致命的だ――信綱の攻撃も、一度受けたらそこから全部持っていかれる。

 鬼の攻撃は豪快で何人も薙ぎ払える――信綱のそれより鋭くなく、大振りだ。避けるだけなら苦労はない。

 鬼の肉体はいかなる攻撃であれ耐えてしまう――攻撃しなければそんなもの、何の意味もない。

 

 人間の英雄であり、今まさに鬼退治すら成し遂げている信綱の斬撃を最も多く受け、そして生きているのは間違いなく椛だ。

 その蓄積された経験が身体を動かし、鬼が相手であろうと戦えるだけの技量をその身に宿していた。

 椛は必死に戦っているが故にこの事実に未だ気づかず、なんとか防戦一方で頑張っているという認識しかない。

 

 後で彼女に本当のところを教えてやろうか。そう信綱が思ったところで、彼らの奮戦は終わりを告げる。

 

 

 

「やあやあ、人間! 私らが真正面から向かってきたというのに、後ろからとはひどいじゃないか」

 

 

 

 鬼の群れが割れるように広がり、そこから一人の鬼が歩いてくる。

 片手で盃を持ち、着崩した着物を着て亜麻色の髪を流して歩く姿は気風の良い美少女にも見えた――天を高く衝く一本角がなければ。

 

 椛から鬼の集団を見てもらった時に先頭を歩いている、というだけで彼女が首魁であるという確信は持っていたが、こうして相対することによりその確信は深まる。

 鬼を前にしてもなんとも思わなかった信綱の危機感が騒いでいるのだ。この感覚を覚えたのは実に久しく――八雲紫と最初に会った頃まで遡る。

 

「…………」

「うん? 白狼天狗も一緒とは珍しい取り合わせだ。まあ良い、楽しもうじゃないか」

 

 ニコニコと実に楽しそうに笑いながら、鬼の少女は酒を呷る。

 

「っぷはぁ、美味い! いやぁ、後回しにされっちまったからついでに見せてもらったけど――極上じゃないか。あんなもの見せられて、血が滾って仕方がない!」

 

 人間を薙ぎ払う存在である鬼が、ただ一人の人間と白狼天狗に薙ぎ払われているのだ。

 同族として見れば悪夢のようなものかもしれないが、彼女にとっては身体を昂ぶらせる興奮にしかなり得ない。

 

「ずっと眺めっぱなしってのは生殺しだ。そろそろ私らとも遊んでおくれよ」

「…………」

 

 いつの間にか信綱と椛、そして鬼の少女を取り囲むように円ができていた。

 逃げるにはこの包囲を突破する必要がある。もしくは――

 

「……一つ、約束をしろ」

「うん? 良いよ。鬼は約束は破らねえ」

「お前の要望通り、一騎打ちに応えてやる。――だから俺が勝ったら鬼を退かせろ」

「ちょっと!?」

 

 信綱の口から出たのはとんでもない提案だった。鬼がどんな存在なのか、これまでの戦いで厄介な相手だとわかっていたはずだ。

 椛と二人がかりでかかっていくらか生存の目が出る。そんな相手である。

 そんな椛の不安を見抜いたのか、信綱は彼女に小さくささやく。

 

「――手はある。それに俺は一対一の戦いの方が得意だ。信じろ」

「……ああもう! 負けたらあの世まで追いかけて怒りますからね!!」

 

 信綱は無駄と判断したことはしない。つまり一騎打ちを申し出たのも、そこに椛と二人がかりで戦う以上の可能性を見出したのだろう。

 無論、そんなことは鬼にとってどうでも良く――彼女は信綱の申し出に歓喜するだけでよかった。

 

「ハッハハハハハハハハ!! こりゃあ良い! 鬼の私に一騎打ちを申し込むか! 人間が!! ――良いだろう。鬼に二言はない! 私たちが負けたら責任持って鬼を地底に戻してやる!」

 

 持っとけ、と鬼の少女は持っていた盃を適当な鬼に放って、信綱の前に立つ。

 地均しをするだけで大地にヒビが入り、周囲の木が大きく揺さぶられる。下手に建物でもあったら倒壊するほどの揺れだ。

 その中で信綱は揺らぐことなく、鬼の少女をまっすぐ見据えていた。

 

 

 

「久方ぶりの人間だ。手加減も慢心もしない! さあ、人間。語られる怪力乱神――この星熊勇儀に打ち勝ってみせろ!!」




杯の酒をこぼしたら負け? そんなものはない(無慈悲)
ということで次回は慢心なしの勇儀戦です。頑張れノッブ(他人事)

バ火力クソ耐久超再生。並べるとわかる鬼のスペックの鬼畜ぶり。天狗は多分根本的に相性が悪い。
下手な攻撃は弾かれるのに、頑張って通した攻撃も瞬く間に再生してしまう。おまけに攻撃は受けたら死ぬのでオワタ式。そりゃ人間も毒盛りますよね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

怪力乱神と小さな百鬼夜行

 鬼の少女、星熊勇儀の名乗りも終わったところでいざ尋常に勝負――とはならなかった。

 

「おっとっと、待ちなよ勇儀」

「……んだよ、萃香か」

 

 明らかに不機嫌そうな顔で、勇儀は自らの隣にいつの間にか現れた萃香を見る。

 

「そんな怒らないでよ。ちょっと天狗の方に顔出してきただけじゃんか」

「そっちじゃあない。人がこれからお楽しみに入ろうって時に入ってくるのが気に食わねえってだけだ」

「うーん、それじゃあ今から言うことは勇儀をもっと怒らせるだろうねえ」

「……どうした」

「あの人間、私が欲しい」

 

 萃香の言葉を聞いた勇儀の足が振るわれ、その小さな身体を吹き飛ばす――前に萃香は霧と化す。

 

「私が先に言ったんだ。順序は守ってもらおうか」

「つれないねえ。ま、そこは仕方がないか。私が出遅れたのは事実だし」

「ハッ! 先走ってちょっかいなんてかけるからだよ」

「……どうしてわかった?」

「その胸。どんな手品かわからんが、斬られたんだろう。お前さんらしくもない」

 

 勇儀が指差す萃香の薄い胸には、傷跡こそ残っていないものの先ほどの攻撃から庇う姿を見せていた。

 人間に付けられた傷を鬼の一撃で上書きされたくないのか、それとも霊力を使えないはずの彼の斬撃が鬼に治癒しない傷を負わせられる特殊なものなのか。

 答えはどちらでも良い。重要なのは、萃香が抜け駆けしてこの人間に唾を付けたことである。

 

「最初に抜け駆けしたのはお前さんだ。ここは私に譲りな」

「ちぇー」

 

 不満たらたらだが、萃香は勇儀に一番手を譲るようだ。

 しかし信綱からすれば面倒以外の何ものでもない。鬼の首魁二人を相手取れとか、人間一人にかける期待じゃない。

 

「俺はお前に勝ったら鬼を退かせろと言っているんだが」

「うん、いいよ。どうせ私らの目的はお前なんだ。戦えるなら他の鬼を黙らせるぐらいやってやるさ」

「そこの一本角と戦うことは良いが、お前まで相手にする気はないぞ」

「ま、それは勇儀との戦いが終わってから決めても良いんじゃない? ほら、今は観戦に徹するよ」

「…………」

 

 胡散臭い。信綱は直感で萃香から紫と同じ気配を感じ取る。

 鬼であり嘘を嫌うことは間違いないだろうが、彼女は本当のところも言っていない。そんな気がしてならなかった。

 何か――そう。すでに答えは提示されているのに、何かを見落としているような感覚。

 

「……椛」

「わかりました、よく見ておきます」

 

 半ばすがるような気持ちで視線を後ろに送ると、椛はきちんと読み取ってくれた。

 内心で感謝しながら、信綱は思考を切り替えて勇儀の方を見る。彼女を前に無駄な思考は死に直結してしまう。

 

「……これから鬼と戦うというのに、人間に患いごとをさせるとはどちらが卑怯なのやら」

 

 が、鬼を相手に嫌味を言える機会など一生に一度あるかないかなので、とりあえず言っておく。

 実際、彼女らの思惑に振り回されているのはこちらなのだ。文句をいう権利ぐらいはあるだろう。

 

「スマンね。そこは侘びるよ。こいつは変なところで小賢しくていけない」

「ひっどいなあ勇儀。私は私なりに真剣にやってるよ? 少なくとも、鬼の面子を潰そうとは一度も思っちゃいない」

「ハッ、それでこそこそと下らねえ知恵を巡らせている時点で鬼の面子が潰れんだよ。まあ、らしいといえばらしいがね」

 

 心底済まなそうに、それこそそこまで気にしなくてもと思ってしまうほどに謝る勇儀。それとは対照的に萃香の方は全く堪えた様子がない。

 

 どうにもこの二人、鬼という種族での在り方が違うようだ。

 勇儀は実にまっとうな鬼らしい鬼。鬼に横道はないという言葉の体現者であると言える。

 対して萃香は違う。あれは鬼の在り方に決定的に反しない限り、ある程度の知略は許容するように見える。

 

 萃香は今もへらへらと笑っているが、その実何を考えているのか信綱にはわからない。この一点に関しては勇儀以上に脅威を感じていた。

 ――とはいえ、全てはまず目の前の脅威を打倒してからの話。萃香と戦うかどうか以前に、勇儀に勝たなければ何も始まらないのだ。

 

 信綱は覚悟を決めて二刀を構える。それを見て、勇儀も改めて地に足を付けて身構える。

 

「まあ、まずはこの勝負を楽しもうか! さぁ――一撃で終わるなんて無様は晒してくれるなよ!!」

 

 最初の一歩は勇儀から。

 大地が割れると錯覚してしまうほど、重い踏み込みからの拳。人間一人を殺すには過剰なほどの一撃。

 しかしすでに信綱の姿はそこになく、側面に回り込んで攻撃の当たらない場所に移動していた。

 

「――ッ!!」

 

 だというのに。こちらは攻撃がかすりもしない位置取りをしたはずなのに、振るわれる拳の風圧だけで身体が傾いでしまいそうになる。

 先ほどまで倒していた鬼とは次元が違う。同列に考えるのが失礼に値するほど、彼女の膂力は図抜けていた。

 だが、避けたことに変わりはなく、信綱は絶好の機会を得ていることは揺るがぬ事実。

 それを逃す理由もない。信綱は双刃を振るい、その振り抜いて力の弛緩した腕を切り落とそうとし――

 

 

 

 ――刃は骨に届くことなく浅く斬るだけに留まってしまう。

 

 

 

「――!?」

 

 斬撃に関しては鋼鉄の塊だろうと豆腐のように斬る自信があるというのに。きっちり物の斬れる箇所を狙ったというのに。その刃は骨にすら到達しない。

 なんという理不尽。なんという不条理。これまで信綱が戦いの中で築き上げてきた勝利の方程式を根底から覆してしまう。

 すなわち――出足を挫いて攻撃の手段を奪うという手が、完全に封殺されているのだ。

 

「なに驚いてんだ、よっ!!」

「ッ!!」

 

 身をよじって振るわれる豪腕を後ろに飛んで回避する。そしてすぐに自身の失策に気づく。

 距離を取って体勢を整えた時点で、勇儀の腕に付けた傷はすでに完治していたのだ。

 なるほど、これは確かに厄介に過ぎる。通常の鬼ですら硬く、強く、治りが早いというのに、この星熊勇儀はそれを極めている。

 

 ただ強く、ただ硬く、そして傷の治る速度は吸血鬼に迫るほど。

 

 八雲紫や伊吹萃香のように面倒な能力があるわけではない。

 だが、単純故に完成されたその強さは、今の信綱にとって何よりも脅威に映った。

 

「そんじょそこらの鬼と見くびらないでもらおうか。舐めてかかったら死ぬよ?」

「…………」

 

 答えない。彼女を倒すことは信綱の中ですでに確定している。先の交錯でおおよそ見えた。

 

 硬いには硬い――だが刃は通る。

 強いには強い――出がしっかり見えている以上、当たる道理はない。

 治りも早い――一気に終わらせれば問題はない。

 

 つまり――勝てる相手だ。

 

「――」

 

 次の踏み込みは信綱から。

 天狗仕込みの速度で懐に入ると、勇儀は力強い笑みを浮かべてその攻撃を受け止める姿勢を見せる。

 信綱の双手が霞み、無尽に放たれた斬撃が勇儀の右腕に纏わり付き、右肩と右腕を切り離す。

 骨と鉄が擦れ合い、耳障りな音が周囲に響き渡って勇儀の右腕が宙を舞う。

 

 ヒュウ、と勇儀が軽い口笛を吹く。一度の斬撃で斬れないならば、その傷が治る前にさらに攻撃を重ねれば良い。

 実に単純明快。そして多大な技術を要求する動きだ。今、自分の腕に何回刃が通ったのか、勇儀ですらよくわからない。

 それにそんな些細なこと、気にするまでもない。どのみち一撃当てればこちらの勝ちは変わらないのだから。

 

 残った左腕が唸りを上げる。振りかぶる必要などない。そんなことをしなくても人間の体は容易く壊れる。

 それを信綱は身体を翻して跳び上がり、空中の腕を刃に引っ掛けて勇儀の顔へ振るう。

 

「っ!」

 

 撒き散らされた血糊が視界を遮る。しかし空中にいる信綱の身動きが取れない事実は変わらない。

 勇儀は気にせず左腕を振り抜こうとして――その腕がなくなっていることに気づく。

 いつの間に。今度は本当に気づけなかった。

 そのことに驚愕するが、すぐに勇儀は自身も地を蹴る。上空にいる信綱を目掛けて宙返りからの蹴りを当てようとしたのだ。

 だがそれも叶うことなく信綱は怜悧な表情のまま刃を振るい、その首を斬り落とす。

 

 両者が地に足を着けた時、両手と首が胴体から切り離された勇儀の姿と、未だ返り血すら浴びない信綱と実に対照的になっていた。

 しかし、信綱の表情に喜びはない。

 

「……まだ倒れないか」

 

 勇儀は倒れていない。両手を落とし、首も斬ったというのにその肉体は倒れることなく地を踏みしめている。

 やがて右腕が新しく生え、左腕が治り、首もまた元に戻っていく。

 おぞましい光景だが、かつてレミリアを斬り刻んだ時にそういったものは見慣れている。

 全ての傷が治り、元通りになった勇儀は首の調子を確かめるようにゴキゴキと鳴らしながら、信綱に賞賛の声をかける。

 

「いや――見事!! 人の身でよくぞそこまで練り上げたもんだ! 歩法や動き方から見るに、天狗に教わったんだろう。さっきの両腕落とし、あれ何回斬った?」

「……十五回だ」

「さすが! 私には半分も見えていなかったよ! てぇことは左右で大体七回ってところか」

「違うな。左右で十五回ずつ、腕と首に刃を通した」

「ハッ――!」

 

 勇儀の顔が獰猛な笑みを形作る。地を踏む足にさらなる力がこもり、地割れができていく。

 その姿を見て、信綱は微かに眉をひそめて周囲に目を配る。

 誰も彼も皆、自分の一挙手一投足に注視している。あまり好ましくない状況だ。

 両手を斬って首を落としても相手は負けにならない。こっちはどれか一つ落ちただけで戦闘不能か、死ぬというのになんという不公平。

 内心で妖怪への罵倒を並べつつ、信綱は表情に出さないまま刀を構え直す。

 

「さぁて、もうしばらく楽しみますかねえ!!」

 

 再度の突進。信綱は文字通りその出足をくじかんと足に左の刀を奔らせて――通らない。

 

「っ!?」

 

 何をと思って見ると、足の筋肉が丸太のごとく膨れ上がり、その筋肉の収縮で刀を止めていることがわかった。

 

「来るとわかってりゃあ対策の一つも立とうってもんだよ!!」

「――っ!」

 

 すぐさま左手を離し迫り来る豪腕を屈んで、追撃の蹴りを身を翻してわざと紙一重で避ける。

 

「あん?」

「この……馬鹿力が!!」

 

 決して皮膚にかすらせず、紙一重と言えど確かに避けたはずなのに信綱の横顔に赤い筋が通る。

 それに怯むことなく信綱は両手で持った長刀を振るい、刀の食い込んでいる部分を穿つように刃を通し、強引に刀を奪取する。

 一度傷のできた部分をさらに抉るような攻撃。人間なら激痛に泣き叫ぶか、痛みで失神しているそれを勇儀は悦に浸っているとすら感じられる表情で受け止める。

 

 そしてすぐに治っていく傷を見て、信綱は自身の心臓の音がうるさくなりつつあるのを感じる。

 鬼との連戦に加え、この戦闘。どうせ一撃食らったら普通の鬼だろうと勇儀だろうと死ぬのは変わらないので、そこは気楽に戦えるが、さすがに彼女は別格だ。

 

 綱渡りに次ぐ綱渡り。相手も徐々にこちらの攻撃に反応しつつある上、彼女の再生力を考えると長期戦は不利だと言うのに、鬼の頑健さが短期決戦を許してくれない。

 かつて鬼を退治した人間たちが毒を盛った意味が身に沁みて実感できる。これと人間が同じ土俵で戦えというのは、鬼の方が卑怯というものだ。

 だが、泣き言を言っても始まらない。いつ来るかわからないものを相手に具体的な罠など無理というものだ。

 昔に鬼に毒を盛った者たちだって鬼という種族の脅威をその身で受けたからこそ思いつくもの。信綱が想像だけで罠を作ったところで、彼女らなら何の苦もなく踏み潰して来るだろう。

 

「…………」

「どうした? まさかもう諦めたとか言わないでおくれよ?」

 

 諦めて全てが丸く収まるのなら諦めたい心境だ。このままではどうやっても勝ち目が見えない。

 先ほどのように斬撃が来る瞬間に再び筋肉を固められれば、片手で振るう剣は阻まれてしまう。

 彼女の予測を全て読み切って裏をかいたとしても、両手か両足を切り飛ばすのがやっと。四肢全てを落とすための時間を彼女の懐で稼ぎ切る自信はない。

 

 懐に入ればその分、彼女の一撃を受ける確率も高まる。向こうだって考えなしに動いているわけではない。

 このまま信綱が斬り、彼女が迫るという構図を繰り返していれば、いずれ彼女の拳は信綱を捉えるだろう。そうなれば即死である。

 

「……いくら考えても、お前を倒せる未来図が描けない」

「……おいおい、まさか諦めるってんじゃないだろうな」

 

 初めて勇儀の目に不安が宿る。せっかく見つけた人間との時間が不本意な形で終わることへの恐怖だ。

 後ろで観戦している萃香の目には失望の色が宿り、冷めた目で信綱を見ている。

 そして後ろの椛からは痛いほどの視線が突き刺さってくるのを感じる。無価値と判断した行動をしないというのを知っているとはいえ、もう少し信じて欲しいものだ。

 

「このまま戦えば俺は負けるだろう。それぐらいお前の力は脅威だ」

「ハッ、そんなもん人間が鬼に挑む時点で当然なんだよ。そこをどう覆すのか! それが人間の真価ってもんだろう!!」

「……ふむ」

 

 勇儀と萃香、二人の違いがようやく理解できた。

 人間に期待しすぎるが故に手酷く騙されようと、人間を信じられる勇儀。彼女の期待は重く、信綱であっても彼女の期待に添えられるかはわからない。

 萃香は逆。人間に騙されたからこそ、人を信じることをやめた。彼女もまた勇儀と同じく人間に期待を抱いているが、それは自らの不信を覆し得る人間を求めてのこと。

 それに巻き込まれている信綱に言わせてしまえば良い迷惑の一言だが、彼女たちは真剣に求めている。

 この勝負に無様な形で負けることがあれば、人妖の共存は人間への信頼をやめた鬼たちによって閉ざされることだろう。

 

 

 

 ――ならば、こちらもなりふり構っていられない。

 

 

 

「このまま戦えば、という話だ。勘違いしてくれるな」

「ああん?」

「できればお前に使いたくはなかった。そこの小鬼に見られたくない」

「ん? 見られると困るやつなら後ろを向いておくよ。人間ってのは無様だからねえ。変な難癖を付けられるのは困る」

「まあ、仕方がない。ここまで手こずったのは俺がお前を見くびっていたからだ。認めよう」

 

 萃香の言葉は無視する。今信綱が戦っているのは勇儀であって、彼女に向ける注意は椛に全て任せてある。

 信綱は両腕を交差させて腰の方へ持っていく。双刃を振り抜き、一撃で決着をつける構えだ。

 

「お前は出し惜しみして勝てる相手ではない。これから見せる力でお前を倒し、返す刃で小鬼も倒す。……なんでもっと早くこの方法を思いつかなかったんだろうな。手札を晒した程度で勝てなくなるのなら、それは俺の未熟が悪い(・・・・・・・・・・)というのに」

「……良い啖呵だ。実に良い啖呵だよ人間! なんだ、仏頂面のお固い性格かと思ったら言うじゃないか!! 私を相手に出し惜しみなんて考えるとは、お前さんもなかなかイカれてる!」

 

 不安は歓喜に取って代わり、勇儀もまただらりと拳を下げた構えではなく腰を落とし、一撃に全てを込める体勢へと移行した。

 

「これでおあいこだ。私も出し惜しみなんてせずにお前さんを全力で殺す。――三歩。私が三歩歩いて拳を放つ前に私を倒せたら、お前さんの勝ちだ」

「…………」

 

 そこまで言う以上、勇儀には絶対の自信があるのだろう。まだ地上に鬼がいた頃、あらゆる障害をその拳で粉砕したに違いない。

 信綱もそれに応えようとして、勇儀の後ろにいた萃香が不満そうな声を上げる。

 

「ちょっと勇儀!? そんなことしたら私の分が残らないじゃん!」

「ハハハハハッ! 萃香だって先に戦っていたらこうしていただろう? お互い様だよ!」

「うっへえ……あの時手を出さなかったのが失敗だったかあ……」

「安心しなよ。殺した後のこいつはお前さんにやるよ。攫うなり食うなり好きにしな」

「ちぇ、つまんないの」

「……意外だな」

 

 両者のやり取りを見ていた信綱は嘲るような笑みを浮かべて勇儀に声をかける。

 

「あん?」

「まだ勝ってもいない戦いなのに、お前の中では終わったことになっているのか。不義理なものだな。鬼に横道はないと聞いていたが、どうやら嘘らしい」

「……んだと? 私らが嘘つきだって言うのか?」

 

 戦いを愉しむ姿から一変し、剣呑な顔になる。鬼が嘘を嫌うというのは本当のようだ。

 ――かかった。

 

「少なくとも誠実ではないだろう。相手を前に終わった話をして、そもそも身体能力では鬼が全てに優れているというのに、人間に正面からの勝負を強要して。罠にはめた人間が卑怯? 笑わせるな、お前たちほど卑怯な存在を俺は知らん」

 

 信綱は戦いの最中に話すことはあまりしない。相手は敵であり、排除することがすでに決まっているのだから声をかけるだけ無駄という考えである。

 それは逆に言えば、彼が戦っている時に何かを話すのは必ず意味があるということであり――

 

「――吠えたな、人間」

 

 星熊勇儀のみならず、信綱たちを取り囲む全ての鬼たちが殺気立ち、一人の人間に殺意を集中させる。

 後ろの椛は悪化したとしか思えない状況に顔を蒼白にし、信綱の方を見やる。

 なにか声でもかけてやりたいところだが、煽った直後にそれをすると策が見抜かれるかもしれない。

 と、そこで唯一信綱に対して殺気を向けなかった萃香が嘲笑うように声を発する。

 

「へっ、どうせ一撃で決められないから言葉でどうにかしようって魂胆だよ! これだから人間は小賢しくていけない! 勇儀、一発で仕留めてやりな!!」

「……わかってるよ。もう口出すな」

 

 勇儀は殺気を漲らせながらも、どこか冷静な声で後ろの萃香に答える。

 対して信綱は策が上手く行かなかったように苦々しい顔で、さらに腰を沈める。

 

(……さて、ここまでやれば俺の手はわからんだろう)

 

 萃香が見抜くところまで、信綱の予想通りである。イチかバチかの賭けの成功率を高めるための悪あがき。そう思ってもらった方がありがたい。

 存分に信綱の考える横道を警戒すれば良い。そうして彼女たちに否応なしに人間の謀略というものを意識させ――

 

「じゃあ、さよならだ。人間」

「――」

 

 勇儀の身体に力がこもるのがわかる。これより行われる三歩の踏み込みの後、極限まで力を溜めた拳が解放され、あらゆる障害が灰燼に帰す。

 

 一歩。その踏み込みが行われ、地面に大きなヒビが――入らない。

 

 

 

 すでに懐に入った信綱の長刀が勇儀の両足を腿から切断していたのだ。

 

 

 

「――ッ!?」

 

 心底の仰天が勇儀を襲う。

 だが考える暇はない。例え踏み込めずとも、その拳は当たれば人間の脆い身体など簡単に吹き飛ぶ。

 不格好になるが両の拳を握り締め、振り下ろす。

 

 

 

 だが、それも信綱の刀で受け止められ、肘の半ばまで引き裂かれてしまう。

 

 

 

「な、ぁ……ッ!?」

 

 訳がわからない。鬼の拳は薄い鋼の刃物など、物の数にもしないで破壊する。

 それは信綱がかつて吸血鬼異変の折に、美鈴を相手に行った技ではない。

 刃筋を立ててものの切れる箇所に置いておく。それだけでどうにかなるほど鬼の肉体は常識に則っていない。

 当然の理屈を当たり前に踏みにじる。鬼というのはそういう理不尽の塊だ。無策でやったところで鬼の力が強引にぶち抜いてしまう。

 だからこそ信綱もこれまで行わなかった。第一、人間の力で鬼の拳を受け止めようとすれば腕が壊れる。

 

 だというのに――彼はなんてことのない顔で両拳を受け止めた刀を持っている。

 腕が壊れた様子はない。いかなる絶技で力を受け流しても関係ない。鬼の膂力はそんな生易しいものじゃない。

 第一、そんなことができるならもっと早くにやっていれば勇儀の負けは確定していたはず。

 

 もはや自身の敗北が秒単位で迫る中、勇儀は驚愕で白に染まる思考のまま眼前へと来る刃を見て――

 

 

 

 その刃にあるはずのないものが煌めくのを見つける。

 

 

 

「お、まえ、」

 

 言葉は最後まで続かない。足を長刀で切り落とし、両拳を刀で受け止め、そして返しの長刀で勇儀の首を落とした。

 胴体を失った首が宙を舞う前に、左の刀を落とした信綱がその髪を手に取り、高々と掲げる。

 

「俺の――勝ちだ」

 

 

 

 

 

 信綱は自分の力が足りていると感じたことなど、一度もない。

 幼少の頃から修行を積み、壮年になり八雲紫に対等の相手と認められた今になってなお、己の力に満足はできなかった。

 満足できないなら何をすれば良い? 決まっている。さらなる修行だ。

 基礎を磨き上げ、並ぶもののない領域まで技を鍛え、有効と判断したものを全て取り入れる。それだけの話であった。

 

「アーッハッハッハッハ!! いやあ、負けた負けた! もうダメだ、降参!」

 

 生首だけとなり、信綱が髪を持ってぶら下げている状態になってなお、勇儀は健在だった。

 とはいえ両手両足が使えず、さらに首も信綱の手にある現状では声を出す以外の行動は難しいようで、潔く負けを認めていた。

 多大な疲労感をにじませている信綱と、そりゃもう心からの満足したような笑みを浮かべる勇儀。どちらが勝者で敗者かわからなくなる光景だった。

 

「さあ、私を殺しな。それで鬼退治は完了だ」

「ふざけるな。お前を殺したら鬼を地底に送り返すものがいなくなるだろうが」

 

 これまでの鬼の耐久力から言って、これで死ぬとは思っていなかったが、ここまで元気に喋れるとも思っていなかった。鬼の頑健さは卑怯を通り越して脱帽の一言である。

 

「そうかい、つれないねえ。人を襲った妖怪が人に倒されたっていうのに、死ぬ権利すらくれないのかい」

「敗者は勝者に逆らえない。そんな当たり前の理屈すら忘れたか」

「いいや、その通りだ。だけど言ったはずだよ。私たちを倒したら(・・・・・・・・)ってね」

「…………」

 

 とてつもなく嫌な顔をして萃香の方に横目を向ける。

 もう興奮が抑え切れないといった感じで信綱を見ており、今にも飛びかかってきそうなくらいだ。

 

「ハッハッハ、私を打ち倒した人間相手だ。萃香もさぞ張り切るだろうさ」

「…………」

「ま、お前さんの秘蔵を開けちまったのは悪いと思ってるよ。これじゃちっと萃香が有利に過ぎる。お前さんが勝とうが負けようが鬼の連中は私が責任持って地底に送るよ」

「……ふん」

 

 勇儀の首を乱暴に放り、信綱は萃香を見据える。

 放られた首は信綱たちを取り囲む鬼たちに受け取られ、主を失っていた胴体にくっつけられるとみるみるうちに再生が始まっていた。

 

「必死になって鬼を倒してみれば、次の鬼が控えていると。一人の人間に寄って集ってとは些かずるくないか?」

「よく言うよ。あんな切り札を隠していたなんて。ああいや、今までがおかしかったんだろうね」

 

 萃香は実に楽しそうに笑いながら、信綱の身体を舐め回すように見る。

 

「その腕、その足、その頭。どれを取っても非の打ち所がない。きっとお前さんは何をやらせても上手くやっていたんだろうよ。それこそ妖怪退治だって容易く行えるほどに」

「…………」

「だからこそって言うべきか。人間が妖怪を退治する時にあって然るべきもの――いいや、それ抜きに私らに挑むのが自殺行為ですらあるものをお前さんは使っていなかった。

 強者の傲慢って言葉じゃ足りない。超越者の足元不注意とでも言うべきかな?」

 

 萃香は謳うように自らの推測を説明していく。

 まるで時間を稼ぐような行為に信綱は内心で疑問に思うが、萃香の言葉はそれを無視して続く。

 

 

 

「――霊力。お前さん、どこかで霊力の扱いを覚えたな?」

 

 

 

「……幻想郷で最も霊力の扱いが上手い人間と稽古する機会があってな」

 

 確信を持った萃香の口調に、信綱も諦めて話し始める。こうして話していれば、これまでの戦いで消耗した体力も少しぐらい戻るだろうという打算も含めて。

 

「その時に習った?」

「何度か見てコツを掴んだ。さすがに巫女と同程度、というわけにはいかないが」

 

 地に落とした刀を拾いながら、信綱は軽く長刀を振るう。

 霊力の淡い白磁の光が軌跡に沿って残光を残す。

 先ほど勇儀を斬ったのも、この力を用いて刀を強化していたのだ。

 

「そうかいそうかい。……いいよ、やっぱりお前さんは最高だ。もはや人間じゃないって私が認めてやるよ」

「別にいらん」

 

 萃香の小さな身体から圧力が発せられる。

 勇儀のそれと全く遜色のないそれを受けて、信綱は再び意識を戦闘のそれに切り替えていく。

 誰にも言わずに隠しておいた霊力は周知になってしまった。一度限りの切り札はもはや通常の札に価値を落としてしまった。

 疎と密を操る鬼という、ある意味勇儀以上に厄介な鬼を今度こそ正真正銘、何の小細工もなしに倒さなくてはならない。

 その難しさに顔をしかめていると、萃香が急に顔を輝かせる。

 

「いやあ、ようやく来たか。遅すぎだよ」

「……?」

「信綱! 周りに人が集まってる! なんで、これ、どうして……!?」

 

 椛の驚愕の声が信綱を振り向かせる。何がどうなっているのかわからないとばかりに動揺している椛の目には、一体何が映っているのか。

 そんなことを思って口に出そうとした瞬間、信綱たちを取り囲んでいた鬼たちが一瞬で消え失せる。

 

「っ!」

「ああん?」

 

 信綱は鬼の消えた先に見えた光景に目を見開き、萃香もこれには予想外だったのか不思議そうな声を上げる。

 彼女の疑問に答えるように空間にスキマが開かれ、中から険しい顔の紫が姿を出す。

 

「――伊吹萃香。少々やり過ぎよ、これは」

「へぇ、ここであんたが出てくるか。よほどこの人間に肩入れしていると見た」

 

 萃香の言葉に答えず、紫は扇子で口元を隠して萃香を見下す。

 その顔から感情は読み取れなかったが、極めて不愉快な思いをしていることは想像に難くなかった。

 彼女が鬼をどこかへ放ったのもうなずける。なにせ――

 

 

 

 ――人里の人間がこの場に集まっているのだから。

 

 

 

「椛!」

「わかりませんよ私にも! どうしてか知らないけど、皆がこの場所に集まってる!」

 

 何がどうなっているのか。信綱は咄嗟に椛に説明を求め、皆が集まるという単語に眉をひそめる。

 

「集まっている……集まる?」

「そうです! まるで誘蛾灯に請われるように来ています!」

 

 信綱の視界にも映っている。自分でもどうしてこの場に来ているのかわからないけど、なぜかここに来てしまうといった風体で、人里の住人がこの場にいた。

 椛の視界では文やレミリア、博麗の巫女たちもこの場に集まっていることがわかっている。幻想郷の大半と言っても過言ではない集まりようだ。

 

 そして集まる、という単語と未だ剣呑極まりない気配を出しながら萃香を睨む紫を見て、信綱は今の状況を誰が作ったか理解する。

 

萃めた(・・・)のか、人間を……!」

「人間だけじゃあない! 天狗も吸血鬼も! みんな私が萃めてやったのさ!! これから始まる勝負は観客が多ければ多いほど盛り上がる!」

「――これ以上の狼藉を許すとでも?」

 

 いい加減頭に来ていたのだろう。紫が本気で怒っていることがわかる低い声を出す。

 

「はぁん、いいよ? 但し、私が疎と密を操れることは忘れないようにね。今この瞬間にだって、薄く広がった私がどこかにいるかもしれないんだよ?」

「……っ!!」

「ハッタリだ、スキマ。この辺に彼女以外の気配はない」

「ああん、人間にはわかっちゃう?」

「あなた……」

 

 紫を押しのけ、信綱は萃香と相対する。

 

「スキマは人間を守れ。結界を張るなり何なりでこいつから隔離することぐらいできるはずだ。……あと、絶対に阿弥様を守れ。これが俺からの命令だ」

「え、ええ……。でも、あなたはそれで良いの?」

「良いも悪いもない。――そいつは俺が斬る」

 

 ゾッ、と紫は背筋に異常な悪寒を感じ取り、信綱の顔を改めて見直す。

 仏頂面、苦渋の面、などといった勇儀と戦っていた時に見せていた感情豊かな(・・・・・)それではない。

 能面のごとき無表情をその顔に貼り付け、萃香と相対していた。

 彼女も疑問に思ったのか、信綱に声をかける。

 

「? どうした人間? 何か大切な人でもいたか?」

「……椛、あの方を守れ」

「…………わかり、ました」

 

 椛は千里眼ですでに見つけている。信綱が最も大切にし、全てを破壊してでも守り抜こうとするただ一人を。

 

 

 

 

 

 そう――人里の人間というのは、阿弥も例外ではなかったのだ。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 故にここから先の信綱が人間である必要性はない。

 彼女は信綱の聖域を侵した。ならば彼女にかける言葉などもはや一つもなく。

 

「…………したな」

「あん?」

「阿弥様を危険に晒したな」

「あやさま? 一体誰――」

「阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな阿弥様を危険に晒したな」

「へ、あ……!?」

 

 うわ言のようにつぶやかれる言葉に、さすがの萃香も信綱の異常性を察知する。

 だがもはや時は遅い。彼女をこの場に萃めた時点で、彼の取るべき行動など一つになっていた。

 すなわち――

 

 

 

「阿弥様を害したな、下郎がぁっ!!」

 

 

 

 敵の排除。ただそれだけである。




巫女との修行風景をわざわざ書いた意味はここにあったんだよ!!
はい、というわけであれが答えです。あそこの修行で巫女の霊力の使い方を見て覚えてました。何度も言いますがこの主人公、やろうと思ったことは大体こなすモノホンの天才です。

これを切り札として誰にも言わずに隠していました。本当は勇儀は使わずにどうにかして萃香にぶつけたかったのですが、勇儀が予想以上に強かったのでやむを得ないという流れです。

そして最後にやらかした主人公。萃香がやらかしたというべきか。
事実上のラストバトルですからやりたかったことを詰めました。いくら英雄と言ってもノッブは阿礼狂いですし、最後にふさわしいとするならやっぱこれしかないなという作者のゴリ押し。ラストバトルで見せる一面じゃないですね。



超 た の し い (ツヤツヤした顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

共存の答え

 結局のところ、萃香は信綱という人間を何一つ理解していなかった。それに尽きるのだろう。

 

 確かに彼は幻想郷において屈指の実力を持つ。幻想郷の中で彼と比肩する人間を探すなら、幻想郷の調停者としての能力を持つ博麗の巫女の歴史を紐解かねばならないほどに。

 八雲紫の境界を操る程度の能力や、伊吹萃香の疎と密を操る程度の能力といったものもない。正真正銘、彼はただの人間でありながら、幻想郷の実力者として名を連ねている。

 

 古来より人妖の関係というのは、妖怪が人を襲い、人が妖怪を討ち倒すという流れによって形作られていた。

 だが、その法則は人間が常に前に進み続け、妖怪はその場に停滞し続けるという条件の元に成り立っている。人の進歩が八雲紫によって操られている今、人間に妖怪を討ち倒す力はない。

 

 人が妖怪に抗えず、妖怪も人を蹂躙できない。そんな時代の中、火継信綱という名の英雄は生まれ落ちた。

 吸血鬼異変を境に頭角を現した彼は烏天狗を討伐し、西洋の鬼とも言える吸血鬼を打倒し、巻き込まれた天狗の騒乱を大天狗の討伐で終結。そして天魔との対話から人妖の共存を区画を区切ってとはいえ成し遂げる。

 彼が幻想郷の表舞台に姿を表してからの道のりは、余人が見れば華々しいものであるという印象を与える。

 

 それは一面で間違っていないだろう。彼は巻き込まれる騒動の中において目覚ましい力を発揮し、華々しい活躍をした。

 長らく自分たちと戦える相手を求めていた妖怪が、その結果に目を取られて彼の人間性に目を向けなかったことの、何が責められようか。

 彼の内面を正しく理解しているのは、恐らく人妖含めて十人も満たないだろう。ほんの少し、彼以外の周辺から情報を得ようと思えば容易に調べられる内容であるが、だからこそ盲点となっていた。

 

 彼ほど外聞と内面が乖離している人物も珍しい。外聞は確かに英雄で、彼もある程度意識してそのように振舞っている。

 だが、彼を一言で表すのならそれは英雄ではなく――阿礼狂い以外にあり得ない。

 

「――死ね」

「っとぉ!!」

 

 怜悧な無表情のまま、しかし振るわれる斬撃の鋭さは勇儀に見せたものの比ではない。

 鬼の萃香が受けることも避けることもせず、ただ後ろに下がることを選択してしまうほど、彼女は信綱に呑まれつつあった。

 

(気圧された? この私が? 大江山に名を馳せた伊吹萃香様が、かよ!)

 

 しかし彼女もさるもの。自身が威圧されていることに対し、凄まじい怒りを覚える。その腸が煮えくり返る心地に自らを置くことにより、萃香はいつも通りの自分を取り戻す。

 自身への怒りによって冷静さを取り戻すという曲芸を行って、萃香は改めて迫り来る信綱を見据える。

 

 仏頂面、しかめっ面、渋面、などといった苦虫を噛み潰した顔ではない。勇儀と戦っていた時には予想外のことに目を見開いたり、苦悶の表情を浮かべたりといった人間らしい行動をしていたが、今はそれすら見られない。

 ただただ何もない。顔に何の感情も出さず、瞳に何の感情も浮かべず、されど振るわれる双刃の冴えは増しに増していく。今ならば八雲紫のスキマですら斬り裂いてしまいそうなほどだ。

 

 それらの情報を頭のなかでまとめ――萃香は笑う。

 

「ハン、面白え。元々やることに変わりはねえんだ。これもまた新しい趣向の一つと受け入れてやるよ!!」

「――」

 

 地を踏みしめ、突っ込んでくる信綱を睨みつける。

 そもそも鬼に後退の二文字はない。信綱がどんな精神状態にあって、どんな苛烈な攻撃をしてこようとも、それを正面から受け止め叩き潰してこその鬼。

 信綱がここまで変貌することは予想外だったが、それ以外はほとんどが萃香の思い通りになっているのだ。焦る必要などどこにもない。

 

 双刃を振りかぶる信綱に合わせ、萃香も拳を振るう。但し、その拳には周囲から萃めた熱を纏わせて直撃せずとも熱と火傷で動きを鈍らせる効果がある。

 

「――」

「チィっ!!」

 

 舌打ちは萃香から。信綱は萃香が何かを萃める気配を出した瞬間、その場から離脱していたのだ。

 そして拳を振り抜いた時にはすでに後ろに回り込まれている。

 

「こんの……っ!!」

 

 地脈を萃め、隆起した土塊が槍のように信綱に迫り――左の刀で斬り落とされている。おぞましさすら覚える対応速度。まるで萃香の技を全て知っているかのようだ。

 しかし左の刀を使ったことに変わりはない。萃香が片手をかざすと、その刀に密の力が加わり、彼女の方へ引き寄せられる。

 いかに信綱が凄まじい武芸を誇ろうと武器がなければどうにもならない。一刀だけでも奪い、武器を破壊してしまえば間違いなく趨勢は萃香に傾く。

 

 このまま刀を持ち続ければ腕が引き千切れる。武器を離せば空いた拳で殴り壊してしまえば良い。仮に向かってきたとしても、迎撃の心構えはできている。

 

「――!」

 

 信綱が取った行動はどれでもなかった。左の刀が引っ張られていることに気づくと、地面にそれを突き刺す。

 それだけでどうにかなるのか、と萃香が嘲ったのも一瞬。

 突き刺した刀を軸に吸い寄せられる力に僅かに踏ん張り、そして逆に引きずられる力を利用して、速度を上げた斬撃を放ってきたのだ。しかもご丁寧に地面に刺した刀は萃香の顔面目掛けて投げられている。

 地面に刺したのは一瞬だけでも萃香の計算を狂わせるため。そして時間差を付けて投げることにより、事実上の二連撃として機能する。

 

 道のない二者択一を迫ろうとしたら、逆に利用されてこちらが選ばされる側になっていた。その事実に苛立ちつつも、萃香は己の身体を疎にして斬撃を避けようとして――失策に気づく。

 

「やばっ――」

「――」

 

 投げた刀の先に萃香の姿がなくなったことに気づくと、信綱は霊力による身体強化で増加した脚力を存分に活かし、投げた刀に追いついて回収するという離れ業をやってのける。

 すでに萃香の気配は周辺に散っている。この薄く広く、特定の人物の気配がするという奇妙な感覚は萃香以外にあり得ない。

 

 ――もう、彼女の斬り方は理解している。

 

「――死ね」

「ぐぁっ!!」

 

 何もない空間に刃を振るう。だが、それだけで空気中に散っている萃香から苦悶の声が漏れる。

 そしてそのまま追撃の刃が空間に振るわれる。今度は声を上げないが、信綱は刀に伝わる感触で萃香を斬っていることに確信があった。

 振るわれる刃には霊力が込められている。霊力のこもった攻撃ならば通常より治りが遅くなり、殺しやすくなる。その優位性を理解していたからこそ、進退窮まる時まで使わないつもりだったが、そこは勇儀の強さを称えるしかない。

 

 対して萃香の体たらくは何なのだろう。確かに自分は勇儀の戦いを経て、鬼の中でもなお隔絶した強さを持つ鬼相手の戦い方をある程度理解した。

 だが、それにしても小細工に過ぎる。ひたすら正面から攻め続ける信綱と、それに対し様々な技工を凝らす萃香。どちらが鬼なのかわからない。

 

 信綱にとって彼女は排除すべき敵以外の何ものでもない。故に彼女の対し余計な感情は持っていないが――彼女の脅威を忘れたわけでもない。

 疎と密を操る程度の能力の汎用性は、間違いなく八雲紫の境界を操る程度の能力に比肩する。

 現に先ほどの攻防にしたって熱を萃めて炎を作り上げ、地脈を萃めて大地の隆起を行うなどやりたい放題だった。

 

 ――そんなことしなくても信綱は人間だ。一撃殴れば死ぬことに変わりはない。

 

 今でこそ霊力による身体強化があるが、それにしたって鬼の一撃を十全に受け止められるようなデタラメな代物ではない。

 勇儀の双腕を防ぎ切ったのは不完全な形で放たれたことと、信綱がどこからどのような軌跡で攻撃が来るか、全てを完璧に読み切ったからこそ得られた成果である。あれと同じことをもう一度やれと言われても――不可能というわけではないが、気軽にできるものではない。

 

 萃香に対する感情はもはや何もない。憎しみや怒りなどとうに過ぎ越している。

 これから殺すことが確定している相手に対し、何かを思う必要なんてない。もう信綱の中で伊吹萃香という存在は終わったことになっていた。

 

 だからこそ腑に落ちない。信綱が見た伊吹萃香は正面からの勝負を好む鬼らしい鬼であると同時、自身の目的のためなら嘘にならない程度のごまかしも是とする狡猾な一面を持つ妖怪だ。

 今、彼女は自身の失策によって薄めた身体を斬り刻まれている。苦悶の声こそ聞こえなくなっているが、振るわれる刃に触れる空気以外の何かが、信綱にとって萃香を斬っていることの確信につながっている。

 本体を直接斬れればそれに越したことはない。だが、薄くなっていてもそこに伊吹萃香がいるのは同じ。斬撃の通りこそ悪くなるが、斬れなくはない。

 

 故にこのまま斬っていれば決着は遠からず着く。――本当に?

 

「…………」

 

 双刃を振るう手を緩めないまま、信綱は言い表せない何かが胸に溜まっていくのを自覚するのであった。

 

 

 

 

 

 その場に萃まった者たちは、信綱に縁のあるものたちが自然と集合していた。

 博麗の巫女に始まり、信綱より阿弥を任された橙と椛。紅魔館の側からはレミリアと文が。さすがに勘助たちはこの場におらず、御阿礼の子と彼女に連なる環境を守ろうと動いた信綱以外の阿礼狂いの人間たちによって保護されている。

 

「やっほー、阿弥。久しぶりね」

「レミリアさん、お久しぶりです。皆さん、どうしてこちらに?」

「おじさまの勇姿を見物したいってのもあるけど、約束はもちろん守るわ。さっきまでウチの方でも鬼が来て面倒だったのよ」

 

 当然、レミリアが全て喰らい尽くしたのだが。妖怪は死ぬと骨も残さず散るため、後始末の必要がないのが楽で良い。

 白昼の襲撃だったためレミリアもある程度消耗しているようで、見る人が見れば彼女の服が微妙にほつれているのがわかる。しかしそんな姿勢を表に出すことなく、レミリアは紅魔館の主としての体裁を保つ。

 

「いざ来てみればこの有様。スキマは鬼をほとんどどこかにやっちゃうし、おまけにおじさまは……いえ」

「信綱さんがどうかしたんですか?」

 

 吸血鬼異変の折に見せた阿礼狂いとしての姿に舞い戻っている、と阿弥に言うのははばかられた。彼とて阿弥にあの姿を見られるのは本意ではなかろう。

 御阿礼の子に狂っている姿が本性であることに違いはないのに、火継の一族はそれを御阿礼の子に見せることを頑なに嫌う。

 全ては彼女が笑って何の心配も抱くことなく過ごせる未来のため。他人のために自らの本性をひた隠しに隠し、そのまま死ぬことを是とする一族。

 

 レミリアから見ても狂っていると言えた。だが、その狂気がレミリアの目には何ものよりも美しく見える。

 彼らの献身が他と大きく逸脱していることは異端であるが、醜悪さに繋がるものではない。

 麗しき主従愛、と呼ぶには奉仕が過ぎる。されど一方的な妄執とは一線を画す。

 彼らを最初に阿礼狂いと呼び始めた人間に喝采を送りたい気分だった。実に適切、実に無骨。彼らをこの上なく表現した言葉ではないか。

 レミリアは忙しなく動きまわり人里に献身――しているように見せて、その実阿弥のためにしか動いていない他の阿礼狂いをうっとりとした顔で見つめていた。

 

「ううん、おじさま以外の連中もなかなか……。彼らの血を吸ったら何かわかるのかしら」

「……それをしたら、私があんたを退治するからね。ま、必要ないとは思うけど」

 

 レミリアの独り言に反応した博麗の巫女が剣呑な顔でレミリアを睨みつける。

 とはいえ、身内に被害が出たら信綱が動くだろう。多分。

 ……つい先程、迷わず部下を一人捨て駒にしたことを知っているため、確信が持てない巫女だった。

 

「こうして来てみたらあいつはもう鬼の大将を一人ぶっ倒しているし、もう一人も時間の問題みたいね」

「当たり前よ。私のおじさまがあんな小鬼程度に負けるはずがないわ」

「誰があんたのよ。それにしても……」

 

 阿弥の周りに集まる妖怪を見て、思わず苦笑してしまう。彼はどれだけの妖怪から信用を得ているのか。

 と、巫女がそんなことを考えて少しばかり気を抜いた。そんな時だった。

 

「……なんか、変な感じがする」

 

 信綱の頼みを聞いて阿弥の側から片時も離れていない橙が猫耳と鼻の辺りをむず痒そうにして、首を傾げる。

 阿弥はそのことに不思議そうな顔をして――椛にいきなり抱きすくめられる。

 

「も、椛姉さん!?」

「伏せてください! 何かいます!」

「……へぇ、気づいたか」

 

 阿弥のいた場所に現れたのは伊吹萃香その人だ。

 信綱が現在戦っている彼女が現れたことに阿弥の周囲に集まった人妖も警戒の姿勢になる。百鬼夜行を起こしただけあって一筋縄では行かないらしい。

 全員が萃香の挙動に警戒して動けない中、レミリアが紅色の槍を携えて傲岸不遜に前へ進む。

 

「……おじさまはどうしたのかしら。あなたが勝てるとは思えないのだけれど」

「へっ、今頃は私の大半を注いだ分身相手に戦ってるんじゃない?」

「ごまかさないで。今さらおじさまがあなた程度のチャチな小細工、気づかないわけないでしょう」

「言っただろう? 大半を注いだって。こっちもイチかバチかの賭けに出てるのさ」

「へぇ?」

 

 そういう萃香の表情に余裕はなく、どこか憔悴しているような気配すら漂わせていた。

 彼女の言葉は事実なのだろう。いかに疎と密を操ったところで彼女の肉体は有限だ。分身を作ればその分本体の力は下がり、本体が苦境に置かれているのならそれを加速させる結果になりかねない。

 数の力は確かに脅威である。だがそれは自身と同等の力量の存在を生み出せるならば、という注釈が付く。特に信綱のように一騎当千を体現した実力者ならなおのこと。

 つまり、今の行動に萃香が有利になれる要素は何一つとして存在しない。阿弥を人質に取ることができればわからないが、そんな人間がするような真似は彼女の矜持が許さなかった。

 ……実行したらしたで信綱が何をしでかすか全く読めないというのもあるが。

 

「……私は人間なんて信用できない。今でこそ良い顔をしているかもしれないけど、あいつらは笑顔の下に刃を隠せるんだ。笑いながら私たちを騙せるんだ。お前さんらはそれがわかってるのかい!」

「……ふぅん、意外と義憤に燃える性質なのね、あなた」

 

 萃香の口から出てきた言葉に対し、レミリアは面白そうな顔をする。

 何を考えているのか読めないと思っていたが、何のことはない。彼女も彼女なりに妖怪のことを考えていたのだ。但しそれは人間への不信が前提に来ているが。

 

「お前だってそうだろう舶来の鬼! 人間の醜さなんていくらでも見てきたはずだ!」

「もちろん。我が身可愛さに娘を差し出す親も見てきたし、私への供物に紛れて来た暗殺者も多く見てきたわ。そのくせ、私が少しいじめるとすぐ命乞いをし出すのだけれど」

 

 レミリアの口から語られるのは、彼女が紛れもない悪逆の存在としての証明。

 そして彼女は人間が醜い存在であることを否定したことは一度もなかった。

 

「私もあなたの意見には概ね同意するわ。人間は醜く愚かで度し難い。今は良いかもしれないけど、おじさまたちがいなくなって百年もすれば私たちを厭う声も出るでしょう」

「だったらわかるだろう? 私らは人間を襲い、人間は妖怪を討つ。そこに好意も何もいらない。それが一番――」

「だからこそ」

 

 萃香の言葉を遮り、レミリアは笑う。宝石に憧れる乙女のように。眩しいものに手を伸ばす子供のように。

 

「美しい人間は一際輝くのよ。私を打ち倒したおじさまは言うまでもなく、阿弥だって私と正面から向かってきた。人間の店主は過去を水に流して私を受け入れた。……彼らはいつかいなくなるけれど、それで彼らの行いの尊さが変わるわけではない」

 

 ここに来て心底良かったと思えることだ。信綱に始まり、人間も捨てたものではないと。ただの血袋以上の価値を示せる者たちもいるのだと思えるようになった。

 

「私は強いものを尊び、弱いものを蔑む。……それはお前も例外ではないぞ、異国の鬼」

「私が弱い? へっ、この体でもお前さんを食い荒らすぐらいなら余裕だってんだ。何なら試して――」

「――期待している」

「あん?」

 

 レミリアの言葉に彼女を挑発していた萃香の口が止まる。

 それを見て自身の憶測が間違っていないことを確信し、レミリアは言葉を続けていく。

 

「こんな異変を起こした時点で丸わかりよ。人間が信用できない。人間が嫌いだ、なんて嘯いて。――本当は、あなたの不信を覆せる誰かを求めていたのでしょう?」

「…………」

「おじさまとの戦いを大勢に見せようとしたのもそう。自分が勝つのならそれで良し。でももし負けたら、それで人間を信じようとしたはずよ」

 

 結果はあのザマだが、そこは同情しない。萃香の調査不足である。

 

「でなきゃあの人間が大好きそうな鬼と付き合いなんてしないわ。大嫌いと言いながらも、あなたは自分の嫌いを否定してくれる人間を……いえ、人妖の誰かを求めている」

 

 途中で言葉を変えたのは、萃香の視線がある妖怪を指し示していたからだ。

 人と妖怪の共存なんて無理だと思いながらも、心のどこかでそれが成立して欲しいと願っている。

 なにせ萃香の思い出にはかつて人間たちに裏切られる前の、愛すべき隣人として過ごした時間もあるのだ。

 彼らは確かに裏切ったかもしれないが、それ以前の時間の価値を見出したのは他ならぬ萃香自身になる。

 人間を相手に心を閉ざすことは彼らとの時間すらも無為にしてしまう。

 

 無論、レミリアはそこまで萃香の事情に詳しいわけではない。そんな事情があることなど慮外である。

 だが、かつて人間に対して絶大な権威を誇った妖怪であるという一点は同じだ。それ故、迎える結末などもある程度想像ができた。

 

「だから私の出番はここでおしまい。今のボロボロのあなたを倒すのはわけないけど、ふさわしい結末はそうじゃないわ」

 

 そう言ってレミリアは魔力で生成した紅色の槍を消し、萃香に道を譲る。

 

「……ハッ、今だけは感謝してやるよ。そうさ、私が求めているのは――お前だ。そこの白狼天狗!」

「…………」

 

 鬼の頂点に立つとも言える萃香に指名され、しかし椛の心には波一つ立たず、穏やかなままだった。

 心配そうな目で見てくる阿弥をそっと後ろに下げて、椛は前に出る。

 

「お前は人間と一緒に戦っていた。知っているんだろう、あの男のことも」

「ええ。どういう人間なのかわかって、その上で彼と友人であり続けています」

「なぜだ? あれは信じた分だけ報いてくれるような優しいものではないぞ」

 

 まだそう思っているのなら、今のうちに手を引くのが賢明だ。

 そんな意味もあるであろう萃香の問いかけに、椛は答えない。

 

「――私が最初です」

「あん?」

「私が最初に、人妖の共存を願いました」

 

 信綱と椿のように殺し合わなくても良い世界を。互いにここに住むことが変わらないのなら、せめて話し合うことを。

 

「顔を合わせなければレミリアさんが来た時みたいに大慌て。顔を合わせても昔のままでは互いに殺し合うだけ。

 ――だから共存を。同じ世界で、同じ場所で、同じものを見たいと、私が一番最初に彼に語りました」

「……それで今があると? 一介の白狼天狗が幻想郷を変えたって言うのかい?」

 

 自惚れも大概にしろ、という目で睨まれてしまい椛は困ったように笑うしかない。

 自分でもそう思うのだ。ただ、信綱と同じ時間を長く過ごしていた。それだけで彼に今に至る影響を与えられるようになるなんて想像すらしていなかった。

 でも、確かに共存を最初に願ったのも自分であることに変わりはなく――

 

「ええ、まあ。自分でも驚いてますけどそうみたいなんですよ。だから――それを壊そうとするあなたは許せません」

 

 大太刀を構える。すでに萃香が何を言いたいのか、椛にはわかっていた。

 証明を。この百鬼夜行を乗り越え、人と妖怪は共存できることを萃香に見せる必要がある。

 鬼に一人で喧嘩を売ることになるなんて思いもしなかった、と椛は信綱と知り合ったばかりの頃を思い出して苦笑する。

 しかしこの一件に関してはずいぶんと彼におんぶにだっこだった。自分は彼を見守り、要請に応じて手を貸すだけで自分から何かをしたことはあまりない。

 

 こうすることで彼と肩を並べられるなんて思いもしないが、彼に対して胸を張るためにここは避けて通れない戦いだ。

 

「――言ったな、白狼天狗」

「言いましたよ、小さな百鬼夜行」

 

 もはや言葉は不要。椛は自分の願いのために。萃香もまた彼らを試す者として。

 双方の間で圧力が高まり、いつ戦いが始まってもおかしくない状況。

 そんな中、椛は後顧の憂いをなくすべく自分の後ろにいる橙と阿弥を見て口を開く。

 

「……橙ちゃん、阿弥ちゃんを連れて下がっててください。そして最悪の場合は彼女だけでも逃がして」

「わ、わかった。けど、大丈夫なの?」

「大丈夫に見えます?」

 

 彼女らに逃げるよう告げる椛の足は震え、顔にはすでに冷や汗が浮かんでいる。

 自分たち天狗を部下に置いていた鬼の一番上に位置する存在に、天狗の中で下っ端の自分が喧嘩を売るのだ。

 子供と大人どころの差ではない。乳飲み子が大の大人に正面から打ち勝つようなものだ。

 橙がふるふると首を振るのを見て、正直な猫だと笑ってしまう。こういうところが信綱も気に入っているのかもしれない。

 

「まあ、私の願いだっていうのに今までが少し楽し過ぎたんですよ。ここは私がやらなきゃいけないんです」

「……うん、頑張って」

「阿弥ちゃんもですよ。あなたに何かあったらエラいことになりますからね」

 

 もうすでになっている気がするが、多分気のせいである。千里眼で入ってくる光景など見ない気にしない。

 阿弥は何かを堪えるように胸に手を当て、様々な感情のあふれる瞳で椛を見る。

 

「……椛姉さん、負けないで。信綱さんが頑張ってここまで持ってきたのを壊させないで」

「ええ。任せて下さい」

 

 もっと多くの感情が渦巻いていることを椛は見抜いていた。見抜いた上で、その激情を抑え込んで純粋に心配をしてくれる阿弥の優しさに小さな笑みがこぼれる。

 そうしていると後ろの方にレミリアや文、博麗の巫女まで集まり、阿弥を守護するように立つ。

 

「主役はおじさまとあなたよ。せいぜい見応えのあるものにしなさいな。ああ、私これでもハッピーエンド主義者なのよ。バッドエンドも嫌いじゃないけど、あんなポッと湧き出た鬼に壊されてバッドエンドでは三流もいいところよ」

「多分、ありがとうございますって言えば良いんですよね?」

 

 レミリアの言葉によくわからない部分があったので、とりあえず笑っておく。満足したように下がったから間違ってはいないだろう。

 

「……正直、博麗の巫女だってことが枷になる日が来るとは思わなかったわ。あいつと一緒に幻想郷を変えるって願い、私個人は応援したいと思ってる。……頑張って」

「私もここまで大事になるとは思ってませんでした。あなたがあなたの役割を果たしたから、私たちも動けたんだと思います。ですからおあいこですよ」

 

 調停者だからこそ人妖双方に対して平等。そんな彼女だからこそ果たせる役目もあるはずだ。

 妖怪にも人間にも両方に好かれる、そんな巫女がいても良いだろう。

 

「私が適当に声をかけた白狼天狗がまさかここまで出世するとはこの射命丸文、一生の不覚でしたよ」

「あ、偶然だったんですか? 天魔様から目をつけられたのだと思ってビクビクしてたんですけど」

「その辺りも含めてお見事でしたよ。……お見事ついでにあの生意気な鬼をぎゃふんと言わせちゃいなさい。そうしたら私があなたのことを広めてあげます」

「そ、それは遠慮しておきます……」

 

 文なりの激励なのだろうが、顔が引きつってしまう。今だって普通に過ごしていたら一生縁のないような大妖怪に絡まれているのだ。それがさらに増えてしまうのは本意ではない。

 

 そうして一通りの人妖に声をかけられ、椛は腹の底に力が溜まるのを感じる。

 信綱はあまりこういったことに価値を見出さず、阿弥の言葉さえあれば十分だと真顔で言い切るだろうが、椛にとってこれは十分な力を生む。

 

「……本当に、あなたが最初なのね。期待しているわ、天狗さん」

「え?」

 

 ふと耳慣れない声が後ろからしたので思わず振り返るが、そこには何もいない。

 ただ、椛の千里眼が何やら目玉の蠢く不思議な空間を見ていたが、まさかあんな恐ろしい場所に入る存在はいないだろうと首を振って萃香と相対する。

 

「別れの挨拶は済ませたかい?」

「ええ、あなたに勝ちたいと思いました」

「良い度胸だ。始めよう――と言いたいが、一撃で終わらせてやるよ」

「……こちらも望むところです」

 

 拳を握り、身体をねじった一撃に傾注した構え。その姿勢が意味するところは一撃必殺と――時間がない。

 恐らく信綱の方に回した力が限界に近いのだろう。こちらに分身を送るために行った霧になることが、彼女にとっての致命的な失敗だった。

 一度握った主導権を信綱は決して放さない。一瞬の失敗があれば彼が喉元を食い破るには十分なのだ。

 まして今の彼は阿礼狂い。あの状態の彼ならばいかなる無理もやってのけるだろう。

 

 椛の推測になるが、この萃香は本来の力の十分の一も出せないはずだ。それほどに彼女は信綱に力を割いている。

 それでもなお、椛と萃香の間には大きな力の隔たりがあるが――万に一つの可能性ぐらいはあるということも事実。

 ならばそれを掴めば良い。難しいことではなく、信綱がすでに何度もやっていること。今さら自分にできない道理などない。

 椛もまた大太刀を腰の後ろに構え、静かに萃香を見据える。

 

「良い奴だなお前。こんな形じゃなきゃ気も合っただろうに」

「まさか。こんな形じゃなきゃあなたは私に目もくれませんでしたよ」

「違いないや」

 

 互いに微かに笑みを交わし合い――空気が変わる。

 

「じゃあ、行くぞ」

「――ええ」

 

 踏み込みは同時。そして一瞬のうちに互いの間合いに入った両者がそれぞれの武器を構えて――交錯した。

 

 

 

 

 

「――」

 

 信綱は双刃で切り払うと、その場を離れる。

 これまでずっと霧だった萃香を斬っていたが、このままでは苦しみは与えられても致命打は与えられないと理解したのだ。

 苦しみだけ与えていればいずれ心が折れるだろうと思って続けていたが、存外にこの鬼はしぶとかった。

 

 どうやら外側にいくらか力も流れているようだし、早くに決着を付けてしまいたい。

 向こうにはレミリアや椛らもいるから心配はしていないが、阿弥のことは心配だ。

 早く片付けて阿弥に会いたい。百鬼夜行を食い止めたことで褒めてもらえればもう望外の喜びだ。死んでもいい。

 

 わざわざ萃香に肉体を再構成させる時間を与え、信綱は無表情でボロボロの萃香を見る。

 霊力を込めた斬撃を振るい続けたのが功を奏したのか、再生も遅いようだ。

 

「ここまで一方的にやられるなんていつ以来だろうね。だけど、勝つのは私――!?」

 

 言葉は最後まで続かない。信綱が萃香に与えたのは肉体を作りなおす時間だけであって、彼女に無駄口を話す権利は与えていない。

 今の彼女に信綱が許すのは、このまま一方的に斬られ続けて消滅を迎えることだけである。

 反応すら許さない斬撃が両腕を斬り落とし、足を斬り飛ばし、その首に刃を奔らせる。

 

「こ、の……っ!」

 

 首を飛ばされながらも意地で片腕のみをすぐに再生した萃香が反撃せんと拳を握り込み、それさえも信綱は無慈悲に斬り捨てる。

 

「阿弥様を害した怨敵だろうが早く死ね疾く死ねすぐに死ね」

「へ、へへ……これならどうだ!!」

 

 萃香が腕に力を萃め、一部だけ異常な肥大化を見せる。これで殴れば人間の体は簡単に潰れるだろうし、大木のように太ましくなった腕を斬り落とすのはいささか面倒だ。

 

「頭でもどこでも斬るが良いさ! でも、この腕だけは斬らせない!」

「――」

 

 信綱の取った行動は単純明快。萃香の身体に長刀を下から奔らせて縦に両断。

 腕ばかりが太った歪な造形のそれが力を失い倒れ――ない。

 もはや意地を通り越した何か。執念ですらなく妄念と呼んでも良い意思で萃香の肉体は動き、腕を振りかぶる。

 

「――」

 

 しかし萃香にとっての乾坤一擲は、信綱にとってただの悪あがきにしかならない。

 振り下ろされる直前の腕に飛び移り、二つの腕を壁のように見立てて空高くへと跳躍する。

 そして腕を完全に飛び越えた後、重力に従って落ちる際に信綱の双刃が霊力の煌めきを宿す。

 

 切れ味を増した双刀が振るわれる度、萃香の巨大化した腕が大根か何かのように薄く輪切りにされる。霊力を扱い切れ味を増やすだけでなく、僅かに刃先自体も伸ばしているのだ。

 そうして信綱が着地をする頃には、完全に無力化され微塵に斬り尽くされた萃香の肉体が残り――

 

「ちく、しょう……」

 

 どこからか漏れ聞こえるその声を聞き流し、信綱は心臓にその刃を突き立てる。

 

「――終わりだ」

 

 あくまで表情は変わらない。敵を倒す快楽も鬼退治を成し遂げる名誉もそこにはなく、鶏の首を絞めるように、あるいは夏の羽虫を落とすような無味乾燥な顔。

 お前の全てを否定し、全てを踏みにじる。そんな顔で見られ、それでもなお萃香は敵愾心を露わにした顔で信綱を睨みつける。

 

「やってみろ。首だけでもお前を噛み殺してやる」

「――」

 

 無表情のまま信綱は刀を振りかぶり――

 

 

 

「そこまでにしておきなさいな」

 

 

 

 横合いから伸ばされる手にそっと肩口を押さえられる。

 一瞬だけ横目でそれを見て、白い手袋に覆われた紫の手であると確認した。

 とりあえず無視して刀を振り下ろそうとすると、人の話を聞かない信綱の目の前にスキマが開かれる。

 

 そこにはもう一人の萃香と椛が相対している光景が映し出され、その後ろには阿弥の姿もあった。

 ――阿弥。信綱にとって何よりも優先すべき人の姿を見つけ、信綱は実にあっさりと萃香を殺す手を止める。すでに興味は阿弥と椛に移行していた。

 

「何が起こっている」

「あなたが信頼している白狼天狗とそこの鬼が戦うのよ。人と妖怪の共存を実現するために」

「いつの間にそんな大層なものになったんだ?」

 

 はて。勇儀と戦っているときは真っ当に考えていたが、今は阿弥の敵を排除することしか考えていなかった。

 なんだ、この鬼も一丁前に人妖の関係について考えていたのだろうか。興味ないのでどうでも良いが。

 真顔でそんなことを言い切る信綱に紫は頭痛を堪えるような顔になる。彼の人妖の共存はあくまで阿弥のためであり、椛のために動いたことだ。彼自身にさほどの思い入れはない。

 あくまで信綱の願いは阿弥の平和な時間ただ一つ。幻想郷の平和や人妖の共存もそれに繋がりはするが、優先順位として阿弥以上になることは決してない。

 

「はあ……もう良いですわ。それより良く見ていなさい。あなたの願いの始まりを与えた天狗が、幻想郷の歴史を動かす瞬間を」

「こいつを殺してからでいいか」

「私が責任持って抑えますから殺さないでくれない!? 後々の怨恨とかが面倒なのよ!」

「お前が抑えられなかったから今の状況ができたわけであってだな。後々の怨恨以前にこいつは阿弥様を危険な場所に連れ出したという理由があるからよし殺す」

 

 確かに紫が他の鬼をどこかに放ってくれたおかげで安全ではある。だがそれは結果的にそうなっただけであって、萃香が鬼のいる場所に阿弥を連れ出そうとした事実に変わりはない。

 その時点で信綱に彼女を生かす理由など欠片もなくなる。阿弥の敵は滅ぼす。そうでないなら状況次第で手を伸ばす。萃香は前者になったというだけの話。

 

 今の彼女は十二分に弱っている。霊力を込めた刃で心臓を貫き、首も落とせば確実に殺し切ることができる。

 過去の悪行をどうのこうの言うつもりはないが、それでも彼女は人間にとっての敵性種。人里を守るものとしても、阿弥の側仕えとしても彼女を生かす道理は見当たらない。

 

「それより見なさい! ほら、あなたの椛ちゃんが戦うわよ!」

 

 などと考えていると業を煮やした紫に強引に首を捕まれ、視線をスキマの方に合わされる。

 スキマの向こうではお互いに一撃必殺の構えを取り、一回の攻撃で全てを決しようとしていることが伺えた。

 それらを一瞥し、信綱はさしたる興味も示すことなく視線をそらす。

 

「あ、あら? 見ないの?」

 

 椛には結構気にかけていたと思っていた紫は肩透かしを受けるが、信綱は気にせず萃香に声をかける。

 

「……なんだよ」

「お前、あれがしたかったのか?」

「へっ、悪いかい。あいつが負けたら、戻ってきた力でお前のこともくびり殺してやる」

「……なんだ、勝つ気がなかったんだな。お前」

 

 信綱の顔が無表情なそれから、呆れるようなものになっていく。

 その言葉を聞いた萃香は信綱に生殺与奪権を掌握されながらも、彼を睨みつけた。

 

「どういう意味だよ」

「相手が負けたら、なんて言葉が出る時点で向こうの勝利を願っていると自白しているようなものだ」

「っ!」

「そもそも――あいつがお前ごときに負けるはずないだろう」

 

 

 

 

 交錯は一瞬。振るわれる拳と刃も一撃のみ。

 お互いにそれぞれが最も頼みにする武器を振り抜いて――膝をついたのは椛の方。

 

「う、ぐ……っ!」

 

 苦悶に喘ぐ彼女の左腕は存在せず、不格好に引きちぎられていた。

 だが、言い換えればそれだけが目立つ傷であり、体だけは人間の信綱ならともかく白狼天狗である椛なら大事には至らない。

 対する萃香の方は――

 

「……勝っちまいやがったよ、本当に」

 

 袈裟懸けに斬られた傷から血が噴き出し、薄まっているとはいえ鬼の肉体を両断されていた。

 徐々に身体が傾いでいく中、しかし萃香は鬼の意地で立ち続けて笑う。そこには一介の天狗が自分に勝ったことへの驚愕と敬意が込められていた。

 

「ああ、うん。ここまでやられちゃぐうの音も出ない。見事だよ、妖怪。あの時、どうやった?」

「……不本意ながら、手足が吹っ飛ばされることには慣れているんですよ。あとは――周りをよく見るようになったってことだけです」

 

 信綱に数え切れないほど手足を切り飛ばされたため、嫌でも慣れてしまっていた。あの男は時々首まで狙ってくるから怖い。

 そして徹底的に出足をくじこうとしてくる彼に対抗するために、椛は自分の強みを徹底的に磨くしかなかった。

 そうして極めて見てわかったことが、生物の動きには全て予兆が存在するということ。拳を振るうならまず肩が動くように。足を動かすなら腿が動くように。

 千里眼を持っているため、そうやって観察するのは得意だった。そしてそれを戦闘に活かせるようになれば、信綱ほどの精度はなくても近接戦闘ではかなりの強みとなる。

 

 先ほどの攻防で椛は萃香の拳の軌道を先読みし、早々に避けることと受けることは諦めた。

 その上で左腕をわざと犠牲にして勢いを減衰させ、返す刀で萃香を斬る。言葉にしてしまえばそれだけのこと。

 だが、萃香とてその程度の小細工で止まるような拳は放っていない。

 結局のところ、椛自身がこれまで身につけた実力こそが彼女に勝利をもたらしたのだ。

 

「ふぅ……全く、それだけで勝てるほど生易しいつもりはないんだけどねえ」

「言葉にすれば簡単なだけです。こうなってもまだあの人には勝てませんし」

 

 椛がブルリと身体を震わせるのに萃香は笑う。鬼に勝ったというのに、気負ったところのない自然体のまま。

 そろそろ限界か、と萃香は自身の九割以上を構成している側すら信綱に一方的に倒されているのを感じ取り、満足気な息を吐く。

 

「まあ、これも一つの結末かね。あの人間と勝負した気はしないけど、お前さんとは実に良い勝負だった。最後に名前を聞いても良いかい?」

「……いいえ、覚えるならあの人の方を覚えてください。私は何かの偶然でここにいるだけな下っ端の白狼天狗。それで十分です」

「ちぇ、残念だ」

 

 背中から倒れ、空を見上げて萃香はその言葉を放つ。

 

 

 

「――参った。私の負けだ」

 

 

 




Q.萃香がノッブに人妖への関係について問答を投げかけたらどうなります?
A.どうでも良い死ね



椛、一体君はいつから主人公になったんだい?(不思議そうな顔)

ノッブが主人公らしからぬ行動をやらかした結果として、主人公がやるようなイベントは大体椛に集中した模様。おかしいな、お前初期のプロットでは登場してないはずだぞ?
ノッブが暴走した理由? あそこでキレない理由がないよねってプロット立ててから書いてる時に気づいたんだよ(自爆)

おかげで椛が相棒ポジから主人公までかっさらう結果に。王道イベントやるならこの子の方が正直動かしやす(ry

そして萃香に始まり、大体どいつもこいつも人と妖怪の関係について面倒くさいものばかり持っている幻想郷。ノッブはこれでも巻き込まれ主人公な方です。最終的には振り回しますけど。

ともあれ、これにて百鬼夜行は終焉となります。後はまあ徐々に原作に近づいていく風になって物語も佳境から終わりに向かっていきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騒乱は終わり、明日が来る

「ハッハッハッハッハ!! そらそら、酒だ酒だー!! もっと飲め飲めー!!」

「離れてくれないか」

「なんだい、酒が減ってないよ? ほら、もっと飲みな!」

「離れろ」

「あ、ちょ、痛っ!?」

 

 馴れ馴れしく肩を組んでくる勇儀をゲシゲシと蹴っ飛ばして引き離す。酒は静かに飲みたいのだ。

 ……と、そう願っても今日は静かな酒は無理そうだが。

 信綱は眼前に広がる人間と天狗、鬼の三種族が混ざって開かれる宴会の中心人物なのだ。

 

 夜の帳が落ちて星と月の灯りが太陽の代わりを務める中、地上には煌々と灯された火を囲むように酒宴が行われていた。

 人間と天狗が主体となり、勇儀も顔を突っ込んできた大規模な宴会で。信綱はその中で一際高い場所に作られ、目立つ場所で酒を飲んでいた。

 

 あまり人混みが好きではない信綱は苦々しく思っているが、自分が何を成し遂げたのかは理解しているつもりだ。文字通りの神輿になるのもやむを得ない。

 百鬼夜行を退けた人間をひと目見ようと集まる天狗や人間の好奇の視線に内心で辟易しつつ、それでも軽く手を振るなどの心配りを忘れない。

 

 しかし早く阿弥の元に戻りたい。それで頑張ったね、の一言でも貰えれば言うことなしだ。

 そんなことを考えながら、信綱は隣で酒を飲む勇儀に話しかける。

 

「お前がまた地底から来るとは思わなかったぞ」

「いやあ、あんな大きなお祭り騒ぎの後だ! 酒を飲むのが当然! むしろ飲まないとかあり得ねえ!」

 

 一度はスキマによって地底に放り込まれたはずなのに、勇儀はいつの間にかまた地上に来ていた。しかも酒樽をいくつも担いで。

 恐らくだが、信綱に負けた時点でこうなる結末は見えていたのだろう。始めから信綱の勝利を疑いもしない顔でやって来た時は目を見開いたものだ。

 勇儀の大きな腕が自分の肩に回される度に鬱陶しそうに引き剥がしているのだが、一向に懲りた様子がない。もう諦めた方が良いのだろうかと思って、何も言わないでいるとふと勇儀の顔がしんみりとしたものになる。

 

「……また、こんな風に人間と酒が飲めるなんて思わなかったよ」

「そうか。とりあえず離れろ」

「ちったぁ聞いてくれても良いんじゃないかい!?」

「酒の肴程度に聞いてやるから離れろ。お前とそこまで親しくなったつもりはない」

「えー、喧嘩が終われば兄弟だろう?」

「離れろ」

「痛っ!?」

 

 ドゴ、と鈍い音がして勇儀の脇腹に信綱の肘がめり込む。さすがに痛かったのか、勇儀の頬が引きつった。

 

「いたた……お前さん、意外と冷たいねえ」

「むしろ俺が人情味あふれる人間に見えたか」

「いんにゃ、全く。……まあ、あれだよ。萃香の言っていることは概ね事実なんだ」

「そうか」

 

 盃に注がれた酒を飲み干す。鬼が持ってきた酒だけあって強い酒精があるが、それでも酩酊感を覚えるには至らない。

 どうにも自分の酔わない体質は筋金入りのようだ。阿礼狂いに酔う、という当たり前の機能があるのかはさておき。

 

「お前さんの言う通りだよ。人間ってのは脆くて弱い。でもそれをどうにかしようと知恵を振り絞っていた。そいつらに私たちが正面から戦っても蹂躙にしかならない」

「…………」

「だけど、そうじゃない人間も確かにいたんだ。お前さんみたいに鬼と立ち向かえる強者は確かに存在した。気のいい連中が多くてね、一緒に酒を酌み交わしたりもしたよ」

「ふむ」

 

 勇儀の口から語られる話に適当な相槌を打ちながら、信綱は酒を飲む。

 周りは乱痴気騒ぎの真っ最中、勇儀もこんな場所で真剣な話をするつもりもないだろう。なので酒の肴ぐらいの心積もりで聞いていた方が勇儀も気が楽なはずだ。

 

「いつの間にかそういう連中は消えていって、それがわからなかった私らは人間に騙されて追いやられた。……人間とは友人のつもりだったけど、何もわかってなかったんだ」

「そこまでわかっていたなら地底に篭っていれば良いだろう」

「わかっていても、認められない。そんなことだってある。お前さんにはないのかい?」

「……ふん」

 

 勇儀の問いかけに不愉快そうに鼻を鳴らす。

 信綱が理解していて認められないことなど、山のようにある。主に御阿礼の子関連で。

 なぜ彼女らは同じ時間を過ごせないのか。なぜ彼女らはそれを笑って受け入れるのか。

 阿礼狂い以前に、彼女のように短命ではない信綱には決して踏み込めない領域。

 

「思い当たるフシはあるみたいだね。人間に騙されるのが嫌で地底に行き、そこでも鬼と人間の関係が終わったなんてことが認められないまま、燻っていた時にお前さんの噂が届いた」

「さしずめ俺はお前たちにとっての光だったというわけか」

 

 信綱にしてみればものすごく迷惑なだけだが。おかげで死ぬ思いを何度もするハメになった。

 そんなことを考えていると、勇儀がバシバシと信綱の肩を叩いてくる。とてつもなく痛いのでやめて欲しい。

 

「そうだよ、その通り! そしてお前さんはそれに見事応えた! 満足も満足、大満足さ!」

「やめろ、死ぬ」

「おっと悪いね。体は人間だってのをすっかり忘れてた」

「体は、とはなんだ。俺は全身くまなく人間だ」

 

 憮然とした顔で言い返すが、笑ってごまかされる。一体どこに自分が人間だと思われない要素があるのだろうか。本当に謎である。

 などと信綱が見当はずれの疑問を持っていると、不意に勇儀の声が静かなものになる。

 

「……だから、私らはもう良い。人間と鬼の関係ってのも、私なりにケリが着いた。後は煮るなり焼くなり好きにするがいいさ」

「……別に俺からは何もない。人里の人間に迷惑をかけなければ、俺は何も言わん」

 

 鬼にも今後人間を襲わせないよう話を着けた。その約束が破られない限り、信綱から何かを仕掛けるつもりはない。

 そもそも、信綱は自分から他所に喧嘩を売るようなことはしない。自分はあくまで御阿礼の子に仕える者であり、彼女の身が危なくなるか、彼女自身の意思がない限り動くことはないのだ。

 

「……それって」

「それだけだ。お前らが人里と天狗の里を混乱のるつぼに叩き込んだ百鬼夜行の首謀者であることに変わりはない。信用が得られるまで時間がかかると思え」

 

 シッシッ、と腕を振っていい加減離れるよう促す。彼女の話を聞いているのも飽きてきた。

 

「……へへっ、いつまでも主役を独り占めしてちゃあ悪いよな。よっし、私は萃香の方に行ってくるよ。またな!」

「できるならもう来るな」

 

 豪快に笑いながら去っていく勇儀を見送り、信綱は深々とため息をつく。

 そもそも、どうしてこうなったのかは少し時間を遡ることになる。

 

 

 

 

 

「それで、あなたはどうするつもりなのかしら?」

「阿弥様の敵を殺すに決まっているだろう」

 

 紫のスキマから椛が萃香に打ち勝ち、萃香が敗北を認めたところを見せられても信綱の答えは変わらなかった。

 例え萃香がこれまでどんなに聖人君子な生活を送っていたとしても関係ない。御阿礼の子を危険な場所に連れ出した。それだけで阿礼狂いにとって万死に値する。

 

 椛の側の萃香が負けを認めたからか、信綱が押さえ込んでいる萃香も観念したような顔になっていた。

 どこか清々しく、どこか悔しい。そんな感情をにじませて萃香は口を開く。

 

「あんたと戦った気はしないけど、あの白狼天狗とは思いっきり戦えた。思い残すことはないよ、好きにしな」

「――」

「待ちなさい」

 

 振りかぶった信綱の剣はまたも紫に止められる。

 これ以上邪魔をするなら紫も敵と認めてたたっ斬る。そんな意志を込めて睨むと、彼女は冷や汗を流しながらも信綱に萃香を殺さないことの利益を提示していく。

 

「彼女を殺さないことを確約するなら、此度の異変の後始末は全て私が行いますわ」

「一昨日出直してこい」

 

 話にならんので殺そうとする。異変の後始末と言っても、人里に目立つ被害は出ていない。強いて言えば、皆が集まってしまったこの状況をどう収拾つけるかぐらいである。

 

「私から! 私からよく言っておきますから!」

「……引っ張るな。なんだ、お前はこいつが大事なのか?」

 

 普段の余裕が見られない紫の態度を不審に思い、信綱は刀を振りかぶる手を緩めて紫を見る。

 ぐ、と紫は言いたくない何かを堪えるような顔になるが、やがて観念したように話し始めた。

 

「……確かにその鬼は他人の嘘が嫌いなくせに、自分の嘘は許容する他人に厳しく自分に甘い性格ですし、四六時中酔っ払ってますし、自己中心的な性格をしてますし、迷惑千万な輩です」

「言われているぞ」

「泣きっ面に蜂か!? というか割りと満足してるんだから気持ち良く死なせろよ!?」

 

 ぎゃーぎゃーと騒ぐ萃香を無視して、紫は自分の心情を明かす。

 

「――それでも彼女は友達、なんです」

「友人は選んだ方が良いぞ」

「真顔で心配された!?」

 

 この鬼、友達にしても絶対ロクなことにならないと、ロクでもない妖怪の友人が多い信綱の勘が言っていた。

 紫の深く考えたら切なくなりそうな交友関係はさておき、信綱は少しだけ思考する。

 紫に恩を売るというのも悪くはないが、それだけだと少し弱い。

 

 吸血鬼異変のように、信綱が相手にしていたのが厳密に彼の求める相手ではなかった時ならともかく、この鬼は正真正銘、御阿礼の子に手を出した憎き敵だ。

 今の紫の話を聞いても、信綱の内心はほぼほぼ萃香への殺意で埋め尽くされている。

 確かに彼女を殺せば紫の恨みを買うかもしれない。だが、幻想郷にとって必要な存在である御阿礼の子を害することはないだろうし、自分も今や幻想郷にとってなくてはならない存在になった。

 殺したところですぐに悪影響が出るわけでもないだろう。

 

「……おい、スキマ」

「なんでしょう」

「こいつに余計なことをさせないと本当に誓えるか?」

「……ええ、妖怪の賢者の名に懸けて」

「……なら良い。良かったな小鬼。生き残れるぞ」

「ふざけんな! って言いたいけど……敗者にゃ言い訳する権利もないか」

 

 信綱が身体を押さえつけるのをやめ、大の字に寝っ転がった萃香が諦めたように大きく息を吐く。

 

「良いよ。人間の逆鱗に触れて、一矢報いることすらできなかった鬼だ。好きにするがいいさ」

「その言葉に嘘はないか?」

「鬼に横道はない。……いや、ちょっとはあるかも」

「八雲、またこいつが何かやったらお前の責任だぞ」

「……庇ったの、間違いだったかしら」

「それと、」

 

 頭痛を堪えるように頭に手を当てる紫の方を見て、信綱はかねてより考えていたことを話す。

 

「いい加減、お前にも表舞台に出てもらうぞ。もう見守る段は過ぎた」

「……ですが、私が出たら皆に要らぬ不安を与えて――」

「それはお前の日頃の行いだ。それとも何か? 自業自得を理由にいつまでも引きこもるのか? ははは、とんだ賢者もいたものだな」

 

 軽くあざ笑ってやる。彼女には幼い頃から散々弄ばれた経験があるので、ここぞとばかりに嫌味を言えるのはとても気持ちが良い。

 天狗と人間の歩み寄りを壊したくなかったから見守ることを選んだ、というのは嘘ではないが、完全無欠の善意というわけでもない。

 少なからず彼女がやるべきことを他の誰かがやってくれて楽ができるという面もあったのだ。

 

 それに土台を作るまでが信綱の役目である。実際にそこで共存の道を手探りで探すのは全ての人妖がやるべきこと。そこには当然、八雲紫も含まれている。

 

「別に裏方でいても構わんがな。人と妖怪の共存が成功した時、お前だけ人間との付き合い方がわからないなんてことになっても責任は取らんぞ」

「う、痛いところを……!」

 

 彼女の周囲にいる人間など、自分ぐらいのものである。

 この妖怪は他人との接点が少々少なすぎる。これで良く人間との共存を考えたものだと感心するくらいだ。

 

「これを機にもっと友人を増やせ。黒幕気取りの傍観者でいられると思ったら大間違いだぞ」

「……はあ、最後の最後でしてやられましたわ」

 

 やがて紫は肩の力を抜いた笑みを浮かべ、信綱に対して頭を垂れる。

 

「承りましたわ。鬼退治の英雄の言葉とあらば、聞き入れぬわけにはいきませんもの」

 

 

 

 

 

 そうして八雲紫が音頭を取って今に至るのだ。

 とりあえず酒を酌み交わせば大体仲が良くなる、なんて誰が言い出したのかは知らないが、あれよあれよという間に人里の外での大宴会が始まっていた。

 

 普段なら妖怪が襲ってくるため外で宴会などご法度なのだが、その妖怪も一緒になって酒を飲んでいるのだ。危険はない。

 

 萃香も参加したそうにしていたが、彼女には壊滅的な被害を受けたらしい河童の里の修復に行けと信綱が命令してあった。

 勝者である信綱に逆らうつもりはないらしく、とても恨めしい目をしながら山に向かっていった。

 彼女の力は敵に回れば厄介極まりないが、味方であるのなら非常に有用だ。

 それでも殺さなかったことを後悔する時が来ないか不安だが、今は自分の選択が間違いでなかったことを信じるしかない。

 

「やあ盟友! なに黄昏てるんだい?」

「……お前か」

 

 自分の選択について考えていると、にとりがやってきた。両手の指と指の間にそれぞれきゅうりを挟んでおり、どのような意図があるのか全く読み取れない。

 

「それはどうした」

「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれた! とうっ!」

 

 ポリポリポリポリ、と小気味よい音を立てて、にとりの手にあるきゅうりがそれぞれ一口ずつかじられていく。

 右手のきゅうりをかじり、左手のきゅうりをかじり、一巡したところでねっとりと味わうように咀嚼する。

 そして形の良い白い喉を嚥下し、にとりは感動した顔で信綱を見てくる。

 

「これぞ究極の贅沢! それぞれの指できゅうりを持って、一口ずつかじる! ああ、私ったら明日死ぬんじゃないかな……!」

「そ、そうか……」

 

 ちょっと安すぎる贅沢ではないだろうか、と思ったが口には出さないでおく。河童の価値観ではきゅうりの存在がかなり上の方に位置しているらしい。

 

「……うん? そういえばお前の里、今あの小鬼が直しているのではなかったか?」

「あ、やめて。今そういうの聞きたくない。よりにもよって鬼が自分たちの家直してるとかそういう現実見たくない」

「わ、わかった」

 

 どうやら彼女なりの現実逃避でもあったようだ。天狗に壊されたと思ったら鬼に直してもらうなど、彼女らの家は波乱万丈に満ちている。

 

「お前たちのところも災難だったな。被害を受けた理由、立地以外にないだろう」

「うん、まあそうなんだけどね。天魔様も直す約束はしてくれてたし、そこはあんまり痛くないんだ」

「ふむ」

「でも、あの中に持ち出せなかった研究材料があることを思うと……ね」

「月並みだが、生きていればまたいつか同じものを見る時も来るだろう。そう落ち込むな」

「慰めてくれるのかい、盟友」

 

 さてな、と信綱はにとりから視線をそらして盃の酒を呷る。

 

「どう受け取るかはお前の自由だ。……あの釣り竿は大丈夫か?」

「あれは持ち出したよ。にしても、盟友がこんな有名人になるとは思わなかったなあ」

「ふん、俺だってそう思っている。吸血鬼に始まり、お前たち妖怪が騒ぎばかり起こすからだ」

 

 吸血鬼、天狗、鬼。誰も彼もが人間の都合などお構いなしに異変を起こした。

 そこに偶然か意図的か、信綱という人間が居合わせて解決した。この構図はレミリアの頃から変わらない。

 

「本当なら盟友は、さ。天魔様とか鬼の萃香様とかと一緒にいる方が似合ってるんじゃないか、って思うんだよ」

「俺はそうは思わん。あいつらと四六時中一緒など肩が凝る」

 

 それに腹芸をずっとしていろというのも苦痛だ。いい加減慣れてしまったが、椛という名の情報面での優位を自分から手放してしまった現在、彼らと対等に舌戦を交わせるかは怪しいものがある。

 

「これからはあの区画を徐々に広げていき、いずれは人里全体に広めるつもりだ。お前も来たくなったら来ればいい。俺も見かけたら挨拶ぐらいはする」

「……お祭りの射的とかみたいなギリギリの不正とかは」

「死にたいようだな」

「あ、いたっ!? やめて、頭握らないできゅうり潰しちゃうからああああぁぁぁ!!」

 

 まずそっちの心配か、と些か驚愕する。この河童のきゅうり好きは筋金入りのようだ。

 適度に握ったところで解放してやると、にとりは警戒したように信綱から距離を取って、ある程度離れたところでこちらに笑顔を向けて手を振ってきた。

 

「じゃあまた今度ね! 次に会うときはにとり様特製のぎゃふんと言うような発明品を見せてあげるから!」

「期待しないで待つとしよう」

 

 去っていく彼女を見送り、信綱は再び酒を飲む。酒しか飲まなくても酔わないというのは便利であり、妙な疎外感を覚えるものでもあり。

 そんなことを考えていると、博麗の巫女が難しそうな顔でやってくる。顔に赤みは差しておらず、まだほとんど飲んでいないことがわかった。

 

「……ちょっといいかしら」

「構わん」

 

 巫女は無言で信綱の隣に腰を下ろすと、眼下の篝火をぼんやり見つめながらつぶやく。

 

「人が死んだわ」

「……俺が送った奴か?」

「そうね、彼だけ。この異変が終わった後、真っ先に神社に戻ってもそんな奴がいたことが夢だったんじゃないかってくらいに何もなかった。……この切れ端くらい」

 

 そう言って巫女は信綱に血に染まった布の切れ端を手渡してくる。

 信綱にどんな命令を下したのか、実感させようという気迫が存在した。

 だが、信綱はそれを軽くうなずいて受け取っただけで、何かを言うことはなかった。

 

「そうか」

「……ちょっと、何もないの?」

「俺はあいつに死兵になれと命じ、あいつはそれに了承した。それに嫌がる様子はなかったはずだが?」

 

 死なせるつもりのなかった部下が死んだのなら悼みの一つも覚えるが、元より博麗神社に向かわせた部下は信綱が捨て駒に選んだ者。

 信綱が彼の死の一因を担っていると言われればその通りだが、彼を殺したことを咎められる筋合いはない。

 

「俺があいつに下した命令は鬼が来ていなければ巫女に助けを。鬼が来ていたら、お前が時間を稼いで巫女を人里に向かわせろ、というものだ」

「…………」

「あいつは使命を果たした。これはその証だ。俺があいつにかけてやる言葉は謝罪などではなく、よくやったという賞賛だけだ」

「……なんか、腹立つ」

 

 迷うことなく命を使い、それに迷うことなく殉じて最善の結果を手繰り寄せた。

 巫女の目には彼ら阿礼狂いの一族というものが、歪だけれど極めて強固な絆で結ばれているように感じられてしまう。

 御阿礼の子のためなら全てが統一された意思の元に動ける一族。そこに生半可な謝罪や遠慮などない。

 なんだか彼の死を悔やんでいるのが自分だけの気がしてしまい、巫女は言い表せない苛立ちが募るのを感じる。

 

「それにあいつの死は公表できん。俺の一族から出た死者など、聡明な阿弥様なら意味に気づくだろうし、何より人間が死ぬことは今後に響く」

 

 例え阿礼狂いであり、人里の人間からも遠巻きに扱われていた存在であろうと、妖怪の引き起こした異変で死んだとあっては人間側も良い顔をしない。

 今でこそ鳴りを潜めているが、妖怪を排斥した方が良いという声は未だ存在するのだ。彼らに余計な燃料を与えることになりかねない。

 まあ一番の理由は阿弥のために、という一点だけなのだが。そこは死兵となった彼とも共通の見解だった。

 

「……あんたたちはそれでいいの?」

「もちろん。俺たちの命で阿弥様を煩わせてしまうことが何よりも耐え難い。それが避けられるなら、誰にも知られず死ぬことなど笑って受け入れる」

 

 何かが欲しくてやっているわけではないのだ。自分たちの献身の果てに御阿礼の子の平穏があるのなら、それで十二分に報われるのである。

 信綱もそれは変わらない。正直、この人妖の共存を成し遂げて良かったと思ったことなど、椛の願いを叶えられたことと阿弥が笑ってくれたことの二つくらいだ。名誉や富に対する価値はさして見出していない。

 

「……納得の行かない顔をしているな」

「まあ、ね。あんたらの理屈に私まで巻き込まないで欲しいわ」

「そこは悪かったとしか言えん。が、恨むんなら俺ではなく鬼を恨んで欲しいものだ。確かに死地に送り込んだのは俺だが、実際に殺したのは奴らだろう」

「あんたは恨むの?」

「別に。あいつは結構筋が良かったから喪うのは惜しいが、その程度だ」

 

 風呂の湯が温かったとか、料理の味付けが今ひとつ物足りないとか、そういった日々の生活で起こり得るちょっとした不幸程度のものである。

 起きたことを祝福するとまでは言わないが、後悔するほどのものでもない。

 とはいえ、これは単純に火継の家の理屈であって、博麗の巫女のように心優しい人間には受け入れがたい理屈であることも確か。

 なので信綱は彼女にもできて、心が苦しくならないであろう最低限の方法を提示することにした。

 

「――墓でも造ってやれ」

「へ?」

「気になるのなら、墓でも造って花を添えてやってくれ。それで十分だ」

 

 阿弥の力になって死に、そして花まで添えてもらえる。阿礼狂いの一生としては上等に過ぎる。

 それに形あるものとして残ることで、御阿礼の子がいつか手を合わせる時が来るかもしれない。そんな時が来れば、死んだ彼も至上の幸福に包まれるだろう。

 

「……私でいいの?」

「お前しか知らん」

「……本当、あんたたちはよくわからないわ。あんたは鬼の首魁を二人ともぶっ倒すし」

「二度とやらん。何度死ぬかと思ったか」

「あんたでもそんなこと思うんだ」

「俺をなんだと思ってるんだ。一撃食らったら死ぬ身だぞ」

 

 無傷で勝つかひき肉になるかの二択なら、勝てば無傷になるのが当然である。

 それでも勇儀には頬に傷をつけられてしまったが、と信綱は顎の辺りからこめかみまで走る傷を撫でる。

 天狗が秘薬を出してくれると聞いているので、傷跡は残らないはずだ。

 そんなことを言っていると、巫女がフッと微笑んで立ち上がる。

 

「幻想郷の英雄になったって言っても変わらないわね、あんたは。じゃ、私もこれで」

「どこに行くんだ」

「お墓、造ってやるのよ。完成したらあんたも酒ぐらい持って来なさいよ」

 

 手をひらひらと振っておく。巫女が空を飛んで行く姿を見送っていると、視線の先に愛しい主の姿が映る。

 椛とともにやってきた彼女の姿に自分から立ち上がり、阿弥の元へ駆けていく。

 

「阿弥様……。呼んでくださればこちらから参りましたのに」

「ううん、今日の信綱さんは皆の信綱さんだから、私だけが独り占めしちゃいけないわ」

「私は最初からあなただけのものですよ。阿弥様」

 

 そう言って微笑む。信綱は人里のためだとか幻想郷のためだとかそんな大層なものではなく徹頭徹尾、阿弥のために動いてきた。

 その方向性を決める際に椛の言葉が指針となった。たったそれだけのことで今、この光景が存在している。

 阿弥はそんな狂人である信綱の心境など知りもせず、心配そうな顔で信綱の頬の傷を撫でようとする。

 

「信綱さん、傷ついてる……。椛姉さんもだけど、痛くないの?」

「この程度の傷、痛くもかゆくもありません。名誉の傷ですよ、これは」

 

 阿弥を守り抜けたという。決して人里を守ったからではない。

 椛はそんな信綱の内心を見抜いているのか、困ったように笑いながら添え木を当ててある左腕を指差す。

 

「さすがは鬼、と言ったところですよ。明日には治るみたいですけど、一日は治らないようです」

「烏天狗を越える最初の白狼天狗にしてやると言っただろう。あんな軌道も速度もわかった攻撃ぐらい捌けなくては困る」

「無理言わないでください!? あれが精一杯ですよ!」

 

 人間が妖怪に無茶振りしているというちぐはぐな光景だが、この二人の間ではそれが自然な空気だった。

 

「それで阿弥様、楽しんでおられますか?」

「無視した!?」

「あはは……うん、とっても楽しい。椛姉さんにもまた会えて、人と妖怪が笑い合える時間があって。信綱さんには本当に感謝してもし足りない」

 

 ゆるゆると首を振って、阿弥の手を取る。その後ろでは椛が本当に仕方のない人だと苦笑していた。

 

「そのお言葉だけで十分です、阿弥様。私が今までしてきたことの全てが報われます」

「……ん」

 

 阿弥がその身体を信綱に預けてきたので、信綱は彼女が痛まない程度にそっと抱きしめる。

 この小さな身体を守るために戦ってきた。守り抜くことができて望外の喜びである。

 

「じゃあ、お願い。……ずっと私とこうしてくれる?」

「ええ、もちろん」

 

 二人の姿は仲の良い親子のようであり、極まった形の主従であり、そして比翼の鳥のように椛には見えた。

 恐らくそのどれもが正解であり、不正解であるのだろう。

 信綱が阿弥に注いでいるのは無償の愛と呼ばれるもの。そして阿弥が信綱に向けているものは――未だ自覚はないけれど、それでも徐々に理解しつつある感情。

 

 だが――と、椛は静かに星空を仰ぎ見る。

 いつか彼女が一人の人間として自分を見て欲しいと願った時、二人の関係はどうなってしまうのか。

 いや、より具体的に言えば阿弥は信綱をどのような位置に置こうとするのか。それが疑問であり、不安だった。

 

 信綱は変わらないだろう。阿弥に何を言われようと、どんなに拒絶をされたとしても、彼は何一つ迷うことなく彼女のために命を燃やし続ける。

 では、阿弥はどうなるのだろうか。彼女の願いを信綱は必ず叶えるが――どうしたって無理なものもある。

 

「どうか――」

 

 その先の言葉は続かなかった。御阿礼の子の寿命に関しては椛も聞き及んでいる。

 妖怪から見て短い人間の生涯のさらに半分程度。その時間ぐらい彼女には幸せに生きて欲しいではないか。

 もう信綱は十分なほどに頑張った。幻想郷のために尽力し、人妖の在り方に大きな楔を打ち込んだ。これ以上頑張る必要なんてどこにもない。

 

 だからどうか――彼女らの未来に幸あれ、と椛は人知れず願うのであった。




ということで異変は終わりです。この動乱の時代もほぼ終わりと言っても良いかもしれません。
とはいえ最後の方にあるようにまだ山はあるけどな! 今度は剣振ってりゃどうにかなるもんじゃないという。

さて、どうしようか(概ねイベントは考えているものの、文字に興した場合少なくなるんじゃないかという不安)

ここからはのんびりかつゴリゴリと時間が進んでいき、阿弥の時間が終わるまで一気に行きます。阿弥の出す答えが焦点です。ノッブ? あれはもう一生変わりません。



で、さて。私事になりますが、4月より社会の荒波に揉まれて参ります。今までのような更新速度を維持できる可能性は極めて低いので、ご了承ください。
更新停止だけはしないよう注意いたします。私もここまで書いて完結させないとか生殺しも良いところですから。
というかあっきゅん書きたくて始めたのにあっきゅんまで届かないままエターとか笑い話だよ!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

吸血鬼の悩みと阿礼狂い

「やっほー、おじさま、元気してる?」

「たった今元気がなくなった」

 

 百鬼夜行の異変が終結し、幻想郷は揺籃の時間を送っていた。

 人里ももちろん例外ではなく、信綱もまたその恩恵を享受してしていた時だ。

 いつもの様にフラリとレミリアがやってきたのだ。美鈴はいつも通りに日傘持ちでこちらに恐縮しきりの視線を向けてくる。

 

「……俺はもうお前になにかやるつもりはないんだぞ」

「ひっ!? あ、いや、すみません。つい昔のことが思い出されてしまって……」

「見事にトラウマになってるのよねえ。ったく、仮にも紅魔館の門番なんだから次はけちょんけちょんのボッコボコにしてやる! ぐらい言いなさいよ」

「良い度胸だ」

「言ってませんよ!? というかあなたも乗らないでください!」

 

 最近、ようやくこの二人の空気に乗れるようになってきた。彼女らの空気に慣れてしまったとも言えるので、あまり喜ぶべきことではないのかもしれない。

 

「で、今日はなんの用だ。ちなみに今は交流区画の霧雨支店で安売り中らしい」

「それは後で見に行くとして、今日はおじさまに会いに来たのよ」

「お帰りはあちらだぞ」

「相変わらず冷たいわね! もう十五年は通ってるわよ!?」

 

 人妖の共存が実現しつつあるため、信綱が妖怪と一緒に歩いている姿を見かけることが多い。

 その中で化け猫や白狼天狗と一緒にいる時は心なしか雰囲気が穏やかになっているのだ。遠目で見ていたから間違いはない。

 それに百鬼夜行の時にレミリアも活躍したのだ。そろそろ優しさの一つも見せて良いだろう。

 そう思っていると、信綱は心外と言わんばかりの顔になった。

 

「む、少し優しくしただろう」

「どの辺が?」

「霧雨商店の安売りを教えた」

「あれ優しさなの!?」

 

 なんて小さな優しさだ、とレミリアが打ちひしがれていると頭に誰かの手が乗る。

 見上げるとそこにあったのは美鈴の手ではなく、無骨に鍛え上げられた男の手――信綱の手があった。

 撫でることはせず、帽子越しの頭に手を乗せるだけ。しかし、いつものように握り潰そうとするわけでもゲンコツを落とすわけでもなく、ただただそのまま人間の温度を伝えていく。

 

「ふぇ?」

「お前は約束を守った。そのことには感謝している」

「……フフ、約束を守るのは誇り高き吸血鬼として当然の義務よ」

「そうか。じゃあ終わりでいいな」

「あ、でももうちょっとだけ……」

 

 ぐりぐりと手に頭を擦り付けるようにくっついてくるレミリアに、なぜか犬を連想してしまう。尻尾があったらぶんぶん振られているに違いない。

 呆れた顔になりながらも邪険にはしない。言葉にした通り、彼女が天狗と鬼を相手に戦って人里を、ひいては信綱との約束を守ろうとしたのは事実なのだ。

 いかに阿弥を害した憎き敵であろうと、成したことに違いはない。天狗の時と言い彼女はひけらかすことを好まないが、人妖の共存に一役買っていることは確かである。

 

「……いい加減離れろ」

「もうちょっとー」

 

 とはいえ、ここまで懐かれるのも空恐ろしいものを感じてしまう。自分がメッタ斬りにした相手からの好意など、悪寒以外の何を感じろというのか。

 吸血鬼にここまで好かれるといつか寝込みを襲われそうで怖い。返り討ちにするつもりだが。

 

「おい、お前からも何か言え」

「いやあ、お嬢様が肩の力を抜くのは久しぶりなので、もう少し我慢してくれません?」

「なかなか笑える冗談だな」

「ひどいわおじさま。私にも悩みぐらいあるのに」

「…………そうか、悪かった」

 

 レミリアの声音は普段と同じそれではなく、しみじみと噛み締めるようにつぶやく。

 その態度に意図せず彼女の悩みに触れてしまったのかと思い、信綱も素直に謝罪する。

 彼とて虎の尾を無闇に踏む趣味はないのだ。これでも踏み込んで良い場所と悪い場所はわきまえているつもりだった。

 そんな信綱にクスリとおかしそうに笑ってから、レミリアは美鈴に目配せをする。

 美鈴は何も言わずに日傘をレミリアに差し出して雑踏に紛れてしまう。この区画は人妖入り乱れる個性あふれる場所。紅髪を持つ少女一人を隠すのは造作もない。

 

「どうした?」

「ちょっとした気まぐれよ。それよりおじさま、どこかでお茶でも飲まない?」

「……まあ、良いだろう」

 

 誘ってきたレミリアの声が平時とほとんど変わらないはずなのに、信綱はその声にどこか真剣な色を感じ取る。

 面倒になりそうだと思いながらも、それを表に出すことはしない。いくら信綱とて本当に困っている相手を茶化すような真似はしない。

 

 そうして適当な店に入り、熱い緑茶を片手に向かい合う。

 レミリアも幻想郷に住み始めて十年以上が経過しているため、特に気にせずそれを飲み始める。

 明らかに外来の妖怪とわかる服装と雰囲気の少女が湯呑みを持っているのも、なかなか面白い光景である。

 そんな信綱の視線に気づいたのか、レミリアは肩をすくめた。

 

「郷に入りては郷に従え、よ。私の家ならともかくとして、こんな場所で紅茶を飲むのもちぐはぐでしょう」

「それには同意しよう。で、話とはなんだ」

 

 頼んでおいたみつ豆がレミリアのところに置かれる。信綱が自分のところに引き戻そうとする前に、レミリアが美味しそうに食べ始めてしまう。

 甘い糖蜜がたっぷりと果物、求肥などにかけられ、見ているだけでその甘さと冷たさが伝わってくるようにキラキラと輝いていた。

 

「…………」

「うん、美味しい。おじさま、ありがとうね」

「誰がお前に奢ると言った。全く……」

「ブツブツ言いながらも取り返そうとしない辺り、私は結構好きよ?」

 

 彼女に食べられるのは少々癪であるだけで、別に怒っているわけではない。

 しかしレミリアが美味しそうにみつ豆を頬張っている姿は、本当にそこいらの童女と変わらない。寺子屋にこっそり混ぜてもバレないと思ってしまうくらいだ。

 茶を片手にレミリアが食べ終わるのを待って、信綱は改めて口を開く。

 

「で、何か話したいことでもあるんだろう」

「わかっちゃう?」

「美鈴を離して、わざわざこんな場所に来て、しかもお前が不自然に明るい。何もないと思う方が愚かだ」

 

 最初の二つはともかく自分が明るく振舞っていたことには気づいてなかったようで、レミリアの目が丸くなる。

 

「驚いた。意外と見ているのね、おじさま」

「ふん、それで話はなんだ」

「…………」

 

 強引に話を進めようとすると、レミリアが押し黙ってしまう。

 言いづらいことなのか、はたまた彼女自身の沽券に関わる何かなのか。

 こんな少女のような見た目であっても、吸血鬼の逸話に恥じない群れの主としての貫禄を彼女は備えている。

 その彼女がここまで言い淀むのは珍しい。優柔不断は群れの長として良い点など一つもないというのに。

 

「……家族の、ことなのよ」

「お門違いだろう。美鈴やあの魔女にでも言え」

「皆知ってるわ。その上でどうにもならないって結論が出た」

「ふぅん……?」

 

 レミリアに始まり、あの館にいるのは全員が妖怪だ。彼女たちでどうにもならないことを信綱がどうにかできるとは思えない。

 

「巫女かスキマでは駄目なのか」

「駄目ね。彼女たちは真っ当に過ぎるもの」

「……少し読めてきたな。なるほど、俺に近づいたのもそれが理由か」

「察しが良くて助かるわ。私が知りたいのは――狂人の接し方」

 

 食べ終えたみつ豆の器を置き、レミリアは凪のように静かな顔で話す。

 

「私ね、妹が一人いるの」

「初耳だ。館の中に?」

「地下室に幽閉しているわ」

「ほう」

「……ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。妹はそれを持って生まれた」

 

 妖怪、しかも吸血鬼にそんなもの必要なのだろうかと内心で首を傾げてしまう。妖怪の攻撃など全てがあらゆるものを破壊するためにあるようなものだろうに。

 

「だから、と言うべきなのかしら。妹は価値観が妖怪のそれとも人間のそれとも違っていた。正直、私もあの子が何を考えているのかわかったことは一度もないわ」

「文字通り見えているものが違うのだろう。仕方のないことだ」

 

 ありとあらゆるものが破壊できるのなら、壊せるものに価値を見出すなどおかしな話である。

 

「そうみたい。でも、あなたはどうなの? 阿礼狂いと呼ばれるあなたは周りのものを無価値とは思わないの?」

「御阿礼の子以外に何の価値がある、と言って欲しいのか? ――当たり前過ぎて口に出す必要すら感じてなかった」

 

 常日頃から言っているではないか。御阿礼の子以外は有象無象と何ら変わらないと。

 信綱にとって御阿礼の子以外は全て無色である。白と黒と灰、それだけで構成される世界に何の美醜を見出せと言うのか。

 そんな世界で唯一極彩色に彩られて見えるのが御阿礼の子。全く色のない自分たちにとって平伏してでも守りたいと思うのは当然の話。

 と、言うのが信綱の偽らざる本心だが、世界というのはそれだけで成立しうるものではない。

 

「ではどうしてあなたは人里のために戦うの?」

「色がなくても形の違いぐらいはわかる。好ましい形とそうでない形。見慣れない形に見慣れた形。どちらを優先するかなど、言うまでもなかろう。

 それに誰も彼も一人では生きられない。生きられない以上、どこかで折り合いをつけるなりごまかすなりしていくしかない」

 

 その妹とやらも、最初から庇護する存在がいないまま外に放り出されていれば、存外狂気と付き合いながら生きていくことができたのかもしれない。

 そういった意味では、レミリアのように庇護する存在がいたことが不幸とも言い換えられる。

 ……無論、狂気のままに振る舞って討伐される可能性もあるのだから、どっちもどっちだが。

 

「それであなたはずっと自分を隠し続けるのね。周囲に価値なんて見出してないのに、あるように振る舞い続ける」

「そうして得た英雄という呼び名で、あの方が喜んでくれる。歓喜以外に何の感想を持てというのだ」

 

 迷いのない瞳で言い切られ、レミリアは僅かに苦笑を浮かべる。

 やはり彼と妹は全く別種の存在だ。狂人という枠で見れば同じかもしれないが、彼は自身の狂気を完全に制御している。

 自己の逸脱性を理解し、それがどの程度常人からかけ離れているかを理解することによって結果的に常人以上に常人らしく振る舞うことができる。

 

「やっぱり。あなたを見ていても参考にはまるっきりならないわね」

「それはそうだろうよ。俺は生まれつき人里で生きている。普通の人間を見る機会が多かったんだ。猿真似の一つや二つ、難しくはない」

「みたいね。あーあ、やっぱりどうしようもないのかしら」

「さあな。意外と腹を割って話せばどうにかなるかもしれんぞ」

「無責任ね」

「お前の事情に興味はないのでな」

 

 それに実体験でもある。自分が狂っているとわかっていて、常人たちとは相容れるはずがないとわかっていても、面と向かって否定されるのは堪えるのだ。

 だからこそ、それと向き合って共にいることを選んでくれる相手を狂人なりに大切にしようとする。

 要するに大切なのは本質の理解と、その上での決断である。

 

「まあ良いわ。時間はたっぷりあるのだし、私の方でもなにか考えないとね」

「そうしておけ。とはいえ、時間で狂気が治ることはないだろうが」

「あなたを見ていて嫌というほど実感したわ」

 

 またも笑われる。信綱も生まれてこの方あまり変化したという感覚がないため、彼女の言い分は全くもって正しいのだが、それでも正面から言われるのは腹が立つ。

 話も終わっただろうと判断して席を立とうとすると、信綱の前に一輪の花が差し出される。

 真紅の花弁と棘のある緑の茎が美しい薔薇は、ずっとレミリアが懐に入れていただろうに全くしおれた様子がない。

 

「魔力で固定しておいたの。多分、あなたが死ぬより長く持つわ。――美しい花には棘がある。あなたにピッタリだと思わない?」

「いや全く」

 

 自分が美しいと思うなど、自意識過剰も甚だしいのではないだろうか。第一、見目など御阿礼の子の側にいて彼女を引き立てる程度で良い。

 

「そこは合わせなさいよ! とにかく、これが私からあなたへの贈り物よ」

「ふむ……」

 

 何気なく手を伸ばし、薔薇の茎をそっと持ち上げる。

 強く持てば血が出るが、撫でる程度の力なら痛みもない。

 そしてそんな風に外圧から必死に花を守ろうとする茎と、そんな茎の姿を知ることもなく咲き誇る花を見て、信綱はあるものを連想した。

 

「……まあ、良いだろう。花瓶に差しておけば多少は見栄えもする」

「何を思って受け取ることを選んだのか、興味が有るわね」

「教える義理はないな」

「フフ、その答えで十分理解できたわ」

 

 レミリアが席を立ち、さっさと店の外に出て行ってしまう。

 日傘越しにこちらに視線を送り、別れの言葉を告げて去っていく。

 

「それじゃあねおじさま。――その花弁、阿弥に似ているでしょう?」

「お前、」

 

 何かを言う前にレミリアはどこかに行ってしまう。今から追いかけても見つからないだろう。

 彼女に内心を読まれたことに舌打ちをしたい気分だったが、料金を受け取りに来た看板娘の前でやるのは八つ当たりにしかならない。

 心中は苛立ちが大半を覆い、しかし同時にレミリアの言葉に賛同している部分もあった。

 

 この花は御阿礼の子と自分のようであると思ってしまったのだ。 

 

(何をバカバカしい)

 

 あくまで一瞬である。自分たちが支えているから花が咲き誇れるなど、驕りにも程がある。

 御阿礼の子らは自分たちなどいなくても咲き誇れる花だ。茎がなければ花も咲かせない薔薇とはまるで違う。

 自分への怒りのままに捨ててしまおうかとも思ったが、あくまで信綱が思ったことであり、薔薇に罪はない。

 レミリアの都合で自然の有り様を捻じ曲げられ、おまけに受け取った相手からは勝手な苛立ちで踏みにじられるなど、文字通り踏んだり蹴ったりだろう。

 それに連想した内容はさておき、この花が美しいと思っていたのも事実。捨てるのは忍びない。

 

(……部屋の端に置こう)

 

 それでもレミリアの得意げな顔が頭に浮かんで腹が立つため、扱いは微妙に悪くなってしまうのだが。

 

 

 

 

 

「ほ、本当に大丈夫なのですか?」

「もう、信綱さんは心配しすぎ! 私だってこのくらい……きゃっ」

「阿弥様!?」

「ちょ、ちょっと手が滑っただけ! 本当に大丈夫だから!」

「包丁は手が滑った時点で危ないんですよ!? おい、椛!」

「突発的な事故まで防げとか無理です!?」

 

 現在、信綱は稗田の屋敷にある台所にて阿弥と格闘していた。椛はそんな二人の様子を困ったものを見るような目で眺めている。この男、本当に阿弥の側仕えをしている時は別人のようである。

 阿弥との格闘は当然、文字通りの格闘ではない。百鬼夜行異変から目立った騒ぎもなく、今日も一日平和に過ぎることの幸福を噛み締めながら信綱が阿弥の話し相手を務めていた時、

 

「信綱さん。私、料理が作りたいわ」

 

 そんなことを言い出したのだ。ちなみにその時、彼女の手には料理の本が握られていた。

 てっきり自分に何か作って欲しいものでも見ていたのだろうと思っていた信綱は、きょとんとしながらも返事をする。

 

「……? 言ってくだされば私が作りますよ。何が食べたいのですか?」

「ううん、私が作りたいの」

「そうでしたか。では私と一緒に何か作りましょうか」

「信綱さんは手伝わないで。私が一人で作ってみたいの!」

 

 まさかの拒絶に信綱の気分がドン底に落ち込むが、表に出さないようにしながら理由を尋ねる。

 

「ど、どうしてなのか理由を伺っても良いでしょうか?」

 

 理由を聞いてみただけなのだが、阿弥は顔を俯かせて真っ赤になってしまう。そんなに言いづらいことを聞いただろうかと内心で不思議に思う。

 

「……だから」

 

 やがて阿弥の口から漏れた言葉は口の中で舌を微かに動かしたような音で、信綱でも文字にすることは不可能な声量だった。

 しかしここまで恥じらっている阿弥にもう一度言わせるのも忍びない。ここは阿弥とずっと一緒にいた信綱が彼女の内心を読み取ってやるべきだろう。

 

 だから、という言葉で終わる。さて、この少女がそんな単語で終わらせる言葉は誰に向けるものだろうか。

 決まっている。心優しい主である以上、他人のために料理を作りたいからに他ならない。

 ではその他人は一体誰なのか。これは難問だ。彼女の付き合いは信綱もほとんど把握しているが、その中で阿弥が料理を作ってあげたいと思うほど付き合いの深い存在はいただろうか。

 そこまで考え、信綱の思考に天啓とも呼ぶべき閃きが訪れる。自分の直感の鋭さに内心で拍手したいくらいだ。

 

「……まさか、阿弥様」

「な、なに?」

「……懸想する相手でもおられるのですか?」

「ぶっ!?」

 

 図星を突かれたのだろう。むせている阿弥の背中をさすりながら、信綱は赤ん坊の頃からその生き様を見届けてきた少女の成長に目頭が熱くなりそうだった。

 そしてその男を調べて阿弥を任せるに足る人間なのか調べなくてはなるまい。

 別に嫉妬はしていない。どんな形であれ阿弥が幸せになるのなら信綱から言うべきことは何もない。

 ただそのためには相手が阿弥を幸せにするという確信が欲しいだけである。密かに阿弥に近づく男に課そうとしていた試練が役立つとかは考えていない。

 

「ち、違うよ! 全然、全く、これっぽっちも違う!!」

「…………」

「そんな生暖かい目で見ても違うから! 本当だって!」

 

 ここまで必死に否定されてしまうとはどうやら本当に間違っていたらしい。

 自分の推測が外れることはあまりないのだが、と仄かに落ち込みながらも信綱は阿弥の安全のために口を開く。

 

「まあ理由はこの際気にしません。ですが阿弥様、何をお作りになるのかだけでもお教えください。握り飯ぐらいならまだしも、包丁を使った料理は危険です」

「……これ」

 

 差し出された本には絵が書かれており、立派な御膳があった。

 これのどれを作るのか、という意味を込めて視線を送っても阿弥は微妙に視線をそらすばかり。

 

「……よもや全部作ろうなどと考えてはおりませんね?」

「うっ」

「材料の調達などはどうにかなりますが、これは難しいものです。料理自体が初めてな阿弥様には荷が勝ちすぎるかと」

「は、初めてじゃないもん。料理ぐらいしたことあるもん」

「いつ?」

「あ、阿余の時に何度か……」

「…………」

 

 さすがの信綱も呆れた目をせざるを得ない。基本的に御阿礼の子の言うことなら全肯定の彼だが、それでも承服しかねるものはある。

 明らかに身の丈に合わないことをしようとしているのだ。どうしてもというなら土台を整える必要があるものの、やらないに越したことはない。

 

「……どうしても、おやりになりたいのですか?」

「うん」

「そして私は手伝わない方が良いものだと」

「……うん。あ、信綱さんが悪いってわけじゃないのよ?」

 

 阿弥はそう言ってくれるが、自分ではいけない理由が何かあるのだろうかと思ってしまう。

 足りないものは補い続けてきた。しかし今の自分でもまだ届かないものがあるのかと思うと、未だ己の未熟に恥じ入るばかりである。

 と、そんな自分の不明はさておき、阿弥は譲る気はないらしい。ならば次善の手を打つ必要があるということで――

 

「料理を始めるのは少し待っていてください。阿弥様もお一人で作ることに不安はあるでしょう?」

「……あはは、わかっちゃう?」

「初めてでこんな難しい料理に挑んで、不安を覚えない方が怖いですよ。ともあれしばしお待ちを。人を呼んでまいります」

 

 そう言って信綱は稗田邸を飛び出して行き、少しした後に首根っこを引っ掴んだ椛を連れて帰ってきた。

 

「ただ今戻りました。せめてこいつを助手に付けてください」

「椛姉さん!?」

「あ、あの……どうしてここにいるのか全くわからないんですけど、誰か説明を……」

「阿弥様と一緒に料理を作れ。阿弥様に少しでも傷がついたら……わかるな?」

「交流区画で遊んでいたらいつの間にか命の危機!?」

 

 たまたま今日は哨戒が休みで交流区画で遊んでいると椛本人から聞いていたのだ。後で顔を出しに行こうと思っていたこともあって、一石二鳥である。

 とにもかくにも椛を武力を背景にした穏便な説得をして、台所で阿弥と共に料理を作らせている次第である。

 信綱は来るなと阿弥に言われているのだが、どうにも心配なためそわそわと台所の前を行ったり来たりしていた。

 

「……あの、集中できないんでやめてくれません? 阿弥ちゃんなら私が見ておきますから」

「…………」

「君?」

「お前を殺して成り代わりとかできないだろうか」

「真顔で何言ってるんですか君は!? とにかく出て行ってください!」

 

 阿弥に信綱は駄目だと言われたのが相当堪えていたようで、信綱は大真面目な顔で変なことを言い始める。

 今の彼は何の役にも立たないと早々に判断した椛は、強引に信綱の背中を押して台所から追い出してしまう。

 この時、阿弥にも呆れた目で見られたのが辛かったのか、今度は廊下から視線を感じない。部屋に戻っていってくれたのなら何よりだ。

 慣れない野菜の感触に四苦八苦している阿弥に椛は目を細め、そっと聞いてみる。

 

「……それで、どうしてあの人を遠ざけたんです?」

「……びっくりさせたくって」

「ついさっきいきなりやってきた彼に引きずられた時はものすごく驚きましたよ」

「椛姉さんじゃなくて!?」

「あはは、冗談です。彼のあんな慌てた顔を見たのは初めてでした」

 

 大体しかめっ面か、生真面目に口元を引き結んだ顔立ちだったと椛は覚えている。子供の頃からあまり喜怒哀楽を表に出す性格ではなかった。

 それが阿弥の前では良くも悪くも崩れる。阿弥の言葉に一喜一憂し、彼女からちょっと離れていることも苦痛と覚えるような有様である。

 もしかしたら阿七と一緒の時もそうだったのかもしれない。そう考えると、椛は信綱が阿七とともにいる姿を千里眼で見ていないことが惜しく思えてしまう。

 

 と、そんなことを考えた後、椛は阿弥の真意を聞いてみる。

 

「あの人はあなたがくれたものなら何でも喜ぶと思いますよ」

「でも、やっぱり買って渡すだけのものより、頑張って何かを作ってみたかったの」

「それで料理ですか」

「うん。……信綱さんより上手くはできないけど、それでも一生懸命作るよ」

「阿弥ちゃん、あの人と何かを比べようとするのはやめた方が良いです。バカバカしくなりますから」

 

 朗らかな笑みを消して真顔で言われてしまい、阿弥はコクコクとうなずくしかなかった。

 この白狼天狗は恐らく信綱の知り合いでは最も付き合いの長い妖怪になる。彼の人間離れした姿を一番多く見てきた妖怪とも言い換えられる。

 きっと彼女の常識は何度も彼によって壊されたのだろう。そんな悟りを開いた目になっていた。

 

「と、とにかく頑張って作ろう! 椛姉さんも協力してね!」

「もちろん。あの人の呆気にとられた顔が楽しみです」

 

 彼は御阿礼の子に尽くしていれば満足なフシがあるため、阿弥が自分に何かしてくれるなどとは夢にも思ってないだろう。

 自己評価が低いのか、はたまた側仕えである自分は道具で良いという考えなのか。恐らく両方だ。

 

 しかしだ。いかに彼が一皮むけば狂気しか存在しない狂人であったとしても、行いそのものに貴賤はない。

 どんな思惑があれど善行は善行。悪行は悪行となる。その点で言えば信綱はこの上なく阿弥を喜ばせている。

 阿弥が心優しい少女であるとは信綱の言だ。ならばその心優しい少女が彼に何もお返しをしないというのはおかしな話だろう。

 

 阿弥に笑って欲しくて信綱は努力し、阿弥はそんな信綱にお礼をする。当然の帰結である。

 きっと並べられた料理を前に、信綱は慌てて辞退しようとするのだろう。自分なんかがこのようなもてなしを受けるのは恐れ多いとでも言って。

 そんな彼を阿弥と一緒に説得するのだ。彼は自分の評価は頑なに低いままだが、ちゃんと理由を説明されれば納得もする。

 そうして食べ始める彼の姿を阿弥は微笑みながら見つめ、自分もその中で笑うのだ。

 人と妖怪、そして狂人の三人が同じ空間にいて、笑い合う。

 

 

 

 それはきっと――何よりも心安らぐ時間になることだろう。




フランちゃんの話がチラッとだけ出ましたが、ノッブに興味が無いので出てくることはもうしばらくないでしょう。

ノッブは良くも悪くも御阿礼の子が基準です。彼女のためなら全てを害しますし、彼女のお願いに一喜一憂もします。
ある意味人間らしい姿とも見ることができるかもしれません。こんな感じにしばらく時間がゆっくりと流れていく予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閻魔の言葉

大体一日千文字を目標に書く→そして金土で一気に書き上げる、が流れになりそうです。およそ週一が目安かと。


「ふむ、このような場所で会うとは奇遇ですね」

「……それはこちらの台詞だと思うのですが」

 

 信綱が日課となっている交流区画の見回りをしている時のことだ。

 この日は天気も良く、阿弥も最近は縁起の資料確認や編纂に追われて忙しそうにしていたため、彼女の散歩も兼ねてのことだった。

 

 現状、人と妖怪の間で揉め事が起こる気配もない。百鬼夜行異変の折に行われた宴会で多少は距離も縮まったものの、未だ完全に互いの日常に溶け込んでいるとは言い難い。

 そして非日常の存在と触れ合う時、警戒をしてしまうのは人も妖怪も変わらない。

 警戒をしていれば騒ぎなどそうそう起きるはずもない。起きたとしてもお互いに立場がわかっていれば小規模なもので済むし、少ない騒ぎが起これば信綱の耳にも届く。

 

 将来的には人里全体に場所を広げて行う予定なので、その時になればいい加減信綱の役目も終わりだ。

 今のような見回りは信綱の身体が動く限り続けなければならないが、信綱の手が届かない場所もいずれ出てくるだろう。

 そうなった時、人も妖怪もそれぞれが同じ目的で動けるか。それが人妖の共存に必要な最後の分水嶺と言えた。

 こればかりは策を弄しても、信綱がいくら頑張ってもどうにかなるものではない。信綱も幻想郷に生きる一人の人間でしかなく、幻想郷を作っていくのは普通の人間と妖怪なのだ。

 ……とまあ、人里が歩むべき道を提示した辺りでそろそろ視点を現実に戻そう。

 

 今、信綱と阿弥の前にいるのは一人の少女だ。服装も地味で質素な和服で悔悟棒も持たず、そこいらにいる年頃の少女と見た目は何ら変わらない。

 しかし信綱と阿弥、双方にとっての知り合いでもある彼女の姿に、二人は揃って口元を引きつらせるのであった。

 その少女――簡単に言ってしまえば閻魔大王である四季映姫その人が二人と相対して口を開く。

 

「映姫様がなぜ!?」

「なぜ、と言われましても閻魔大王の仕事は交代制ですし、休暇もあります。長が休まなければ部下に示しがつかないでしょう」

「えっ」

 

 生まれてこの方、休みらしい休みをした覚えがない信綱には青天の霹靂だった。

 阿礼狂いである彼は御阿礼の子と一緒にいる時が休暇であるが、他の阿礼狂いに休めと命じた覚えは一度もない。

 まあ休みを与えたところで側仕えになるための修行しかしないだろうが。

 

「……ふむ、火継信綱。あなたは一族の当主でありながら、あまり部下を大事にしていないと見ました」

「……相違ない、です」

 

 つい先日、一人捨て石にした身としては強く否定できなかった。

 それに彼らは部下であるが、同時に獅子身中の虫でもある。隙あらば虎視眈々と側仕えの座を狙っている連中なのだ。

 そんなことを考えている間にも映姫の説教は続いていく。

 

「うむ。指摘を認められる柔軟性は尊ばれるべき美点です。――しかし、いくらあなたと同じ穴のムジナと言えど彼らも人の子。あなたが手を尽くしてこそ芽は成長します。ゆめゆめ、気をつけることです」

「肝に銘じます」

 

 信綱が素直にうなずくと映姫は満足気に笑う。

 質素な服に身を包んでいても、仮にも人外の存在。その容姿には目を見張るものがある。

 そんな彼女が微笑んだことに周囲の視線が集まるが、映姫は気づかないまま話を続けていく。

 

「よろしい。全く、他の者たちももっと素直に聞いてくれれば良いものを……」

「……何をしていらしたんですか?」

「辻説法です。私は衆生により良く生きてもらいたいだけだと言うのに」

 

 ふう、と溜息をつく姿は本心から彼らのことを悲しんでいる様子に見えた。

 なんだかんだ、この閻魔は幻想郷に生きている存在を愛しているのだろう。ただその愛がやたらと口うるさくて、敬遠されがちなだけで。

 どうしたものか、と阿弥と視線を交わす。それだけで阿弥のおおよその意思を察し、信綱は口を開いた。

 

「少し場所を変えて話しませんか? 阿弥様もあなたと話したいようですので」

「ふむ、良いでしょう。御阿礼の子とこうして現世で言葉を交わすのは久方ぶりになります」

「私は初対面ですけどね」

 

 困ったように笑って阿弥がつぶやく。彼女の記憶に映姫のことはよく残っているが、それでもまだ死を迎えていない阿弥は映姫と会うのが初めてになる。

 そのことを映姫は耳聡く聞きつけ、軽く頭を下げる。

 

「失礼。これまでの御阿礼の子とあなたを同一視するのは無礼に当たりますね。改めましょう」

「い、いえ、そんなかしこまらなくても……」

「そういうわけにはいきません。御阿礼の子との付き合いは長いですが、親しき仲にも礼儀ありです」

「…………」

 

 二人のやり取りをそっと眺めて、信綱はこの映姫という閻魔は寺子屋の教師である慧音より堅物かもしれない、と思うのであった。

 

 

 

 その茶屋では妖怪も人間も分け隔てなく受け入れている店であり、中では天狗が人間お手製の団子に舌鼓を打っていた。

 信綱の顔を見てサッと頬を引きつらせた者もいたので、騒乱の折に剣を交えた相手かもしれない。あるいはサボっていたか。

 信綱がじっと顔を見ているとそそくさと席を立って外に出ていくので、どうやらサボりで茶を飲んでいたらしい。

 

「全く、働かない奴がいるのは人間も妖怪も変わらん」

「人の上に立つものとして、多くの者たちの模範であることがいかに大切かわかるでしょう。天魔も人前では取り繕っていますが、彼の本性が下々の者にも伝わるのです」

「天魔様とも知り合いですか?」

「幻想郷の指導者に連なる者たちとはある程度顔を合わせていますよ。阿弥も彼の知り合いですか」

「私が……というより、信綱さんですけど」

 

 感心したような顔で映姫が信綱の方を見てくる。

 

「あれは相当な食わせものです。彼と話してこの場所を作ったとすれば、あなたもなかなかやるようになりましたね。彼岸で顔を合わせた時とは見違えました」

「信綱さん、映姫様とも知り合いだったんだ……」

「は、はい。それが何か……?」

 

 おかしい。やましいところなどこれっぽっちもないのに、なぜか阿弥の視線が痛い。

 そんな阿弥の視線に気づいたのか、映姫は相好を崩して微笑む。

 

「あなたがそのような少女らしい感情を出すとは、先代より仕える火継は良い従者のようですね」

「え? あ……お恥ずかしい、です」

「気にすることはありません。あまり長く生きられない影響か、あなたは良くも悪くも達観していた。仕方ない一面だと思いながらも、歯がゆく思っていたものです」

 

 そう言って映姫は手元の葛切りを口に運ぶ。もぐもぐと口が動き、こくりと白い喉を嚥下していく。

 信綱からしてみれば八雲紫以上に超然とした存在である彼女が、このようなものを食べる光景には少々驚くものがあった。

 

「甘くて美味しいですね。お二方は食べないのですか?」

「阿弥様、何か食べられますか?」

「あ、じゃあお団子をもらおうかな」

「かしこまりました」

 

 信綱が看板娘を呼び止めて阿弥の注文を済ませ、映姫の方を振り返ると面白いものを見るような目になっていた。

 

「……何か?」

「いえ、あなたのことは彼岸でも話題になっておりますよ。裁いた鬼や妖怪があなたのことを覚えていました」

 

 そう言って映姫は楽しそうに笑う。

 その反応の意味がわからずに隣を見ると、阿弥も困ったようなおかしいような不思議な笑みを浮かべていた。

 

「人間も妖怪もね、死んじゃったらその時点で記憶がほとんどなくなるの。私みたいに求聞持の力があったり、よっぽど強い意思を持っていれば話は別だけど……」

「意外と死んだ直後の記憶というのはないものですよ。それでもあなたが手にかけた妖怪は例外なく覚えてました」

「…………」

 

 褒められているのか責められているのか判断がつかない。

 妖怪を多く殺したことを問題視でもしているのか。しかしそれにしては映姫の表情は穏やかで、誰かを詰問する雰囲気は見えない。

 

「ああ、責めてはいませんよ。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。古来より続いてきたこの掟に則っただけです。あなたも必要以上は手にかけていないようですし」

「……何が言いたいのですか?」

「今言ったことが全てですよ。――古来、妖怪と人は相容れない。これは歴史が証明した事実だとかそういったものではなく、そういうものです。理屈も理論も必要ない。人間が呼吸することを当たり前と受け入れるように、これは太古の時代から変わらぬ形でした」

 

 映姫の目が信綱を射抜くように見据える。

 彼の行ったことは彼女の言に則るならば、摂理に弓引く所業である。

 人と妖怪は相容れないという世界の掟を、人間が打ち破ってしまったのだ。

 

 

 

「問いましょう、火継信綱。あなたはこの光景の先に何を見据えていますか?」

 

 

 

「いえ、別に何も見てませんが」

「あ、あら?」

 

 信綱の返答が予想外だったのか、映姫も僅かに面食らった顔になる。

 最初にこの光景を願ったのは信綱ではなく、それに信綱が作ったのは土台だけである。

 そこからどんな社会ができあがるのか、それは信綱にはわからないことだった。

 

「確かに私は人と妖怪が共にいられる空間を作りました。ですが、私はそこで人妖に共存しろと強制しているわけではない」

「む……では今の姿はあなたが願ったものではないと?」

「私一人が願った程度で実現するものなら、とうの昔に誰かがやっていますよ」

 

 天魔も信綱も場所を作った。願うのは他の人妖だ。

 人間は妖怪を知りたいと願い、妖怪は人間を知りたいと願った。それが今の結果につながっている。

 いかに傑物の二人といえど、その場所に住まう個人の好き嫌いまで動かすことはできないのだ。

 

「それにそのことを問うなら相手が違うかと。私はある妖怪の願いを受けて動いたに過ぎません」

「ではあなたの意思はここにないと?」

「全くない、とも言いませんよ。敵と味方、増えて嬉しいのがどちらかと言われれば味方ですから」

 

 その上で色々と時節が上手く絡み合った。信綱からしてみればその程度の話であった。

 それに、と信綱は阿弥の顔をチラリと横目で見る。

 自分が戦うのは、いついかなる時でも彼女のためだ。

 人と妖怪の共存を作り上げて、阿弥は喜んでいる。ならば他に言うべきことなど何もない。

 

 信綱の答えを聞いた映姫は神妙な顔でうなずくと、器に残っていた葛切りを全て口に運び、一息に食べてしまう。

 

「んぐ。よくわかりました。かつてあなたを見た時がありましたが、本質は何も変わっておりませんね」

「失望しましたか」

「いえ、むしろ得心しましたよ。阿弥、あなたは良い従者を持ちました」

「はいっ! 私の一番大切な人です!」

 

 目を細め、柔らかな眼差しで阿弥を見る映姫。その目は先ほど信綱に向けていたものとは違う、慈愛に満ちたもの。

 映姫は歴代の御阿礼の子を知っている側の存在だ。人里で辻説法を行うほど人妖への愛を持つ人物であれば、それなり以上に入れ込んでいるのだろう。

 

「すみません、少し阿弥と話をしてもよろしいでしょうか」

「私ですか? てっきり信綱さんに会いに来たのかと……」

「それが要件の一つであることは否定しませんが、本来の目的はこちらです」

「む? それは私が聞いたら不味い類ですか?」

「そうですね。あなたが聞くのは望ましくありません」

「…………」

 

 映姫のことを信用していないわけではない。幻想郷の閻魔で、転生を繰り返す御阿礼の子との付き合いは信綱を遥かに凌ぐ。

 だが、それでも信綱と離れて阿弥と話すとなると、一瞬でも警戒心が生まれてしまうのは無理のないことだと思いたい。

 一瞬の感情を見抜かれたのか、映姫に苦笑されてしまう。

 

「見ていることは構いませんよ。話を聞かれるのが困るだけです」

「……それでしたら、先に店の外に出ております。阿弥様もそれでよろしいですか?」

「わかった。……信綱さん、大丈夫よ。少しお話するだけだから」

「それでも心配するのが従者の務めです」

 

 そう言って信綱は立ち上がり、映姫の分の支払いも済ませて店を出て行く。

 残された映姫と阿弥は顔を見合わせると、映姫の方が頭を下げた。

 

「申し訳ありません、彼に集る意図はなかったのですが……」

「良いですよ。あの人、自分のことではあまりお金を使いませんから」

 

 誰かと歩いている時の食事に費やすか、時たま彼の友人である霧雨商店の店主と飲みに行く時くらいである。それにしたって阿弥の用事があれば断っているので、頻度が多いわけでもない。

 武器の手入れや服に関しても妖怪に対しての人里の顔でもあるのである程度取り繕っているものの、それは彼個人の資金から出るものではない。

 

「清貧、というわけではなさそうですね。ただ単に消費に興味が薄いだけですか」

「あはははは……」

 

 擁護のしようがないので阿弥も笑ってごまかすしかない。人里の情勢に関してはかなり詳しいのに、彼自身が社会を回そうとはあまり考えていないようだ。

 

「まあそれは良いでしょう。いえ、立場あるものが全く使わないのも問題ですが、今日の要件はそちらではなく」

「私にと仰ってましたね。何かありましたか?」

「いえ――転生の準備は進んでいるのかと」

「え――」

 

 阿弥の顔から血の気が引いていく。すっかり忘れていた――否、見ないようにしてきた事実を一息に指摘され、阿弥の顔が青ざめる。

 その様子を見て、映姫は済まなそうな顔になりながらも言うべきことを告げていく。

 

「……その様子では手を付けていないようですね。あるいは彼があなたを一人の人間として扱いすぎたか」

「……私の寿命は、どのくらいなんですか?」

 

 首を横に振る。それを告げるのはいくら映姫が彼女に対して入れ込んでいても、やってはいけないことになる。

 

「あなたの質問には答えられませんが、私から言うべきは一つ。――転生周期を元に戻してはいかがでしょうか?」

「え?」

 

 阿弥が顔を上げる。阿七、阿弥と続いて十年弱で転生ができたのは博麗大結界が張られた直後の歴史を記すべきだと、八雲紫が手を回したからだ。

 恐らく次の代までそれは続くと阿弥は考えていたため、映姫から告げられた言葉は驚愕に値するものだった。

 

「あなたの役目は理解しております。そしてここからが幻想郷にとって極めて重要な時期であることも。ですが、それを記すのはあなたでなくても良いのではないでしょうか?」

「……なぜ、そのようなことを言うのですか。幻想郷縁起の編纂は代々の御阿礼の子に課せられた使命。それを果たすことが私たちの生きる――」

 

 目的であると。阿弥は確固たる使命感を持ってその言葉を言うつもりだった。

 だが、それも映姫が次の決定的なそれを告げるまでの儚い気持ちだった。

 

 

 

「あなたは――彼が旅立つのを見届けたいのですか?」

 

 

 

「――」

 

 今度こそ顔が蒼白になる。これまでの御阿礼の子では考えもしなかった事実を突き付けられ、改めてそれが酷く寂しいものであると実感したのだ。

 

「彼ももう良い年でしょう。あなたが生きている間はまだしも、次の代まで見送る役目を果たせるとは思えません」

「それ、は……」

 

 なんと答えるべきか、阿弥にはわからなかった。

 生まれた頃から一緒にいて、いつだって自分の側にいてくれた彼が、死ぬ?

 百鬼夜行すら退けた彼が死ぬ姿など想像もできないが――それでも彼は人間。百年も生きられない儚い命なのだ。

 もう阿弥の年齢は二十歳を過ぎようとしている。三十まで生きられるとしても、転生の準備を含めれば自由な時間はあと僅か。

 阿弥が三十で死んだら信綱は五十六。もういつ死んでもおかしくない年齢だ。

 次の御阿礼の子への転生がどのくらいかかるかわからないが、それでも間に合った場合――間に合ってしまった場合、その御阿礼の子は阿七、阿弥と二代に渡って仕えてくれた男の死を見届けることになる。

 それはとてもとても悲しいことであって――かつて阿七が信綱に味わわせた痛みでもあった。

 

「……構いません」

 

 それらを考えて、その上で阿弥は転生の周期を早めることを選んだ。

 顔色こそ未だ蒼白だが、その瞳には強い意志がこもっていることに映姫は興味深い顔になる。

 

「ほう?」

「確かにあの人と永遠に会えなくなる日が来るのは怖いです。想像しただけで震えそう。……でも、それでも私はあの人と少しでも長く一緒にいたい」

「彼はあなたが願いさえすれば人であることをやめる決断も下すでしょう。それはどうするつもりです?」

「私がさせません。そんなことは悲しすぎる」

 

 悲しい、という表現に映姫は疑問を覚えた。確かに彼が永遠を手にした場合、御阿礼の子が転生の役目から解放される時まで彼女の側に居続けようとするだろう。

 それは彼にとって至上の幸福のはず。阿弥もそれはわかっているはず――

 

 

 

「そうなったら、想像だけで震えるこの痛みをあの人はずっと背負い続けることになってしまう」

 

 

 

「……ふむ」

「私たちは転生しますけど、阿七と阿弥は別人です。もし、あの人がずっと私たちに仕えるようになったら、それら全てを分けて一個の個人として扱い、そしてそれぞれの死を悼むようになってしまう。

 ……ですが最初にワガママを言ったのは私たち(稗田阿七)なんです。あの子がどういう子なのかわかった上で、残酷なお願いをしてしまった」

 

 彼なら笑って受け入れると甘えてしまった。彼が御阿礼の子の死で嘆かないはずがないというのに。

 そして今もなお、阿弥は彼に看取ってもらうことを願っている。

 この上さらに彼に苦渋を舐めさせ続ける決断を強いることなど、阿弥にはできるはずもなかった。

 

「私はあの人と一緒に死ぬことはできない。だったらせめてあの人の死を見届けたい。それはワガママでしょうか?」

「……いいえ、あなたのそれは尊い思いやりに満ちた決断です。申し訳ありません、私はあなたに辛いことを聞いてしまった」

「いえ、映姫様が尋ねなければ気づくのはもっと遅くなっていました。気づかせてくださり、ありがとうございます」

 

 阿弥の言葉に映姫も心なしか表情が明るくなる。

 閻魔以前に個人として御阿礼の子に入れ込んでいるが、それでも彼女は閻魔。もしも阿弥が間違った道を選ぼうものなら、魂の裁きを任されている者として手心は加えられない。

 そんな慈悲も情けもない結末にならぬようにとの忠告だったが、阿弥には不要だったのだろう。

 

 映姫は軽く微笑んで席を立つ。

 

「では転生の準備を進めておいてください。そしてできることなら、あなたも長く生きてください」

「ええ。ええ――本当に、長く生きたいものです」

 

 阿弥の微笑みの意味に映姫は気づかなかった。あるいは短命である御阿礼の子特有の自虐の意味も込めた冗句と受け取ってしまったのだろう。

 映姫は彼女の真意に気づくことなく、しかし会話の節々から読み取ることのできた阿弥から信綱への特別な感情を見ての感想を、店の外で待っていた信綱に告げようとする。

 外にいた彼は腕を組み、目をつむったまま大樹のように微動だにしていなかった。

 しかし映姫は知っている。阿弥に転生の話を持ち出し、彼女の顔色が変わった時に彼が紛れもない害意を飛ばしてきたことを。つまりこの格好は彼なりの自制の表れである。

 

「……来たか」

「全く、実に久方ぶりに背筋が冷える感触を味わいましたよ。あなたは少し過保護に過ぎる」

「そう言われても困る。手を出さなかっただけ堪えた方だ」

 

 憮然とした顔のまま、信綱は敬語も捨てて映姫と話す。阿弥の顔色を変えさせた時に彼の中で映姫は注意すべき存在になっている。あの場面で阿弥が泣いていたら抜刀も辞さない覚悟だった。

 そんな信綱に対し、映姫は呆れと喜びが綯い交ぜになった表情を浮かべる。

 

「……あの子は、大切に思ってくれるあなたのことを心から信頼しているようです。その信頼に背かないよう、ゆめゆめ気をつけなさい」

「俺があの方の信頼に背を向けることがあるとでも?」

「愚問でしたね」

 

 彼の迷いのない返答に微笑みが浮かぶ。

 しかし忘れてはいけない。阿弥が転生のことすら遠くに追いやって、そして未来の自分が悲しむことを覚悟すらしているのは、ある意味彼の責任でもあるのだ。

 これぐらいは閻魔としての領分からも逸脱しないだろう、と映姫は内心で自己弁護しつつ彼の額を軽く小突く。

 

「むっ?」

「――あなたは少し完璧に過ぎる。もう少し不完全なら、今みたいなことにはなっていませんでしたよ」

「……?」

 

 言葉の意図がわからず眉をひそめる信綱だったが、映姫は笑ったまま答えない。

 

「ふふ……では、私はこれで失礼します」

 

 映姫の後ろ姿はそのまま雑踏に紛れてしまう。やがてその姿も見えなくなり、信綱はこの疑問をどう解消すれば良いのかわからないとため息を吐く。

 

「全く、好き勝手言うだけ言ってどこかに行くのは妖怪特有の癖か何かか……」

 

 八雲紫に通じるところのある部分だ。八雲紫と四季映姫はあまり相性の良くない相手同士だと睨んでいるのだが、意外な場所が似ているのかもしれない。

 

 まあ、そんな考えても答えの出ないものに懊悩するくらいなら阿弥を迎えに行く方が百倍マシである。

 思考を切り替えて茶屋に再び入って、信綱の帰りを待っていた阿弥が笑って迎えてくれることに多幸感を覚え――

 

「……阿弥様、どうかされましたか?」

「え?」

 

 彼女の笑みに違和感を覚える。なにせ生まれた頃より彼女の笑顔は見続けてきたのだ。それが心からのものかどうかぐらい、読み取ることはできる。

 そんな信綱の目に、彼女の笑みは心からのそれとは映らなかった。むしろ何か心配事を悟られたくないという、気遣いの笑みに見えた。

 

「先ほどの閻魔になにかひどいことでも言われましたか?」

「……どうして? 私、笑えてたはずだよ?」

 

 声が震えている。そのことを指摘せずに、信綱は机の上に置かれていた阿弥の手を握り、冷えてしまっているその手を温めるように持つ。

 

「ずっとあなたを見てきました。それに主の悩みを解消するのが従者たる私の役目です。……どうか、そのようなお顔をされないでください。私はあなたに何のしがらみもなく笑っていて欲しいのです」

 

 そう言って微笑む。信綱は阿弥の重荷を少しでも軽くするためにいるのだ。

 どんな些細なことであっても、彼女の力になれることこそ、人妖の共存を成し遂げることより意義のあることである。

 そんな思いで信綱が口に出した言葉を聞いて、阿弥の瞳にみるみるうちに雫が溜まっていく。

 そして信綱が握っていない方の手で口元を覆い、嗚咽を堪えるように阿弥は泣き出してしまう。

 

「っ、ごめ、なさ……!」

「あ、阿弥様!? どうしたのですか、どこか痛むのですか!?」

「ごめん、なさい……! ごめん、なさい……!」

 

 慌てた信綱が何を言っても届かない。阿弥はうわ言のように謝罪の言葉を口にし続け、涙を流すばかり。

 映姫に何か言われた可能性しか考えられないが、それにしたって阿弥の様子は少々異常に過ぎる。

 信綱は失礼しますとひと声かけてから、泣き続ける阿弥の身体を抱え上げて茶屋を飛び出し、稗田邸へと走っていくのであった。

 当然、阿弥が泣いている理由などわかるはずもなく――それがわかるのは、まだ先の話であった。

 

 

 

 

 

 阿弥が映姫に言ったこと。それが全てであった。

 彼女が口にした転生という言葉。それを聞いた時、阿弥の胸に去来した思いは一つである。

 

 ――あの人ともっと一緒にいたい。

 

 彼と同じ時間を生きて、彼と同じ時間に死にたい。そんな思いが生まれた瞬間、阿弥は自らが信綱に対して抱いている感情を全て理解した。理解してしまった。

 阿七の時とは別人のように成長し、生まれた頃より阿弥の側にいてくれて、いつだって自分のことを理解してくれる、自分の全てを任せても良いと思える大切な人。

 

 子供の頃より少しずつ大きくなっていたこの思いに気づいた瞬間、阿弥は全てを悟る。

 火継の人間と深い関係にならないようにしてきた御阿礼の子の考えも、転生の周期が百年以上ある理由も、全て。

 

(ああ……私は、この人のことが――)

 

 好きなのだとわかった瞬間、この想いは禁忌であると理解してしまった。

 

 彼ら阿礼狂いは御阿礼の子の願いに例外なく応える。そこに彼の意思があるのかどうかすら定かではなく。

 これでは想いを告げたとしても人形遊び以上のものには成り得ない。

 

 好きだと言えば彼もそう返すだろう。当然だ。なにせ彼は生まれた時より自分たち(御阿礼の子)に狂っているのだから。

 だが、愛していると言えば聡明な信綱のこと。彼は阿弥が自分に何を求めているのかを正確に理解し、戸惑ってしまうはずだ。

 

 個人の愛情に対し、愛情を返すにはその人自身の意思が必要不可欠となる。

 なのに、阿礼狂いは御阿礼の子に対してそれを持ち得ない。彼女らの言うことは全てが正しく、全てがあらゆる物事に差し置いて優先されるべきもの、という刷り込みがすでに成されている。

 その彼に自らの想いは言えない。言ったら彼はきっと叶えようとするだろうが、その果てに阿弥と共にいられる保証がない。

 

(私は、彼に――人間になって欲しいと願ってしまっている……)

 

 阿礼狂いでない、火継信綱自身の感情で稗田阿弥を選び、そして愛して欲しいなどという浅ましい願い。

 言えるはずがなかった。彼がずっと一緒にいてくれるのは火継の人間だから。それをやめた時、彼が自分のところに来ることなんてない。

 故にこの想いは封印しなければならない。言ったが最後、御阿礼の子と阿礼狂いの関係は破綻してしまう。

 

 なんと愚かで身の程を知らぬ願いだろう。彼ほど立派な存在が自分のところにいてくれるのは阿礼狂いであるからこそなのに、自分はそれ以上を求めてしまおうとしている。

 

 ああ、しかし。子供の頃より抱いてきた想いをようやく自覚できたというのに、この結末はあんまりではないか。

 阿弥は信綱の腕の中で止めどなく涙を流しながら、一つの選択をする。

 

 

 

 ――ごめんなさい、父さん。

 

 

 

 彼と家族であり続けよう。もう感情の正体を知ってしまった今、それでは物足りぬと思うかもしれないけれど。

 それでも自分の死を看取ってもらう上、彼に人間になれなどというワガママを言うよりはマシだ。

 

 不幸中の幸いは自分の時間が残り少ないことだ。想いを告げられるのなら共に生きたいに決まっているが、言えないのなら時間は短い方が良い。

 精一杯家族として振る舞って、そして消えよう。それが抱いてはいけない想いを持ってしまった自分への戒め。

 

 

 

 決して報われない想いを胸に、阿弥は静かに涙を流すのであった。




映姫さまがノッブに言ったことが大体全て。『彼は少し完璧に過ぎた』

・百鬼夜行を退ける力があって
・海千山千の妖怪とやり合える政治力もあって
・八雲紫の悲願であり、彼女の要請で縁起を編纂していた御阿礼の子も願っていた人妖の共存を成し遂げて
・その影響か色々な知り合いがいるけど、自分だけを優先して自分だけを見てくれる。上記の所業も全部あなたのためだと真顔で言い切れる

そんな人が自分の生まれた頃よりずっと側にいた阿弥の男性ハードルを答えよ(配点:ノッブが阿弥の恋人候補に課す予定の試練)



が、これが悲劇になってしまう。そこまで一個人として完璧でも、彼は阿礼狂いであって、真っ当な人間ではない。
椿の時にも言った台詞ですね。惚れた相手が悪すぎた。生まれも関係しているので、今回ばかりは彼が全て悪いというわけではありませんが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

稗田阿弥という少女

「阿弥様、少々よろしいでしょうか」

 

 信綱は襖越しに声をかけ、主の返事を待つ。

 あの日、映姫と言葉を交わして以来、彼女は部屋にこもって転生の準備にばかり追われている。

 確かに阿七の時にもそのような時間はあったが、それでも阿七は暇を見つけては縁側に出て外の空気を吸いたがり、その度に信綱をハラハラさせたものだ。彼女が倒れやしないかという意味で。

 

「……なんですか?」

「そろそろ部屋にこもりっきりになって一月が経ちます。少し外の空気を吸われてはいかがですか?」

「不要です。今は転生の準備が忙しいので」

「今のようにかかりきりになるくらいでしたら、私も手伝って良い範囲で手伝います。これ以上は阿弥様のお体に障ります」

「いりません。食事はそこに置いてください」

「……かしこまりました」

 

 襖越しの会話に、信綱は不承不承うなずくしかなかった。もうずっとこの調子である。

 食事はしっかり食べているようなのでそこは安心だが、顔が見られないというのはやはり不安がある。

 陽の光も浴びず、ずっと準備にかからなければならないほど転生の準備は忙しいものだっただろうか。

 

 ずっとこの場所にいても阿弥が落ち着かないだろう、と思って信綱も立ち上がる。

 今や信綱と阿弥を繋ぐものは食事だけだ。それだけはせめてと滋養のつくものを選んで作っているが、気休めにしかならない。

 

 せめてちゃんとした理由を言って欲しい。転生の準備というのも嘘ではないだろうが、それだけでここまで無理をすることはないはずだ。

 顔もここ最近は見ることが叶わない。自分に至らないところがあったのなら言ってくれれば全力で直すし、信綱と顔を合わせることすら嫌だと言うほどに嫌われてしまったのなら、潔く側仕えを退くつもりだった。

 

「……あの方の好物だけでも用意しておこう」

 

 笑顔を見ることが叶わなくても、せめてあの方には笑っていて欲しい。

 自分がその隣にいられれば言うことなしだが、そうでなくとも阿弥の幸せこそ信綱の幸せ。

 その考えこそが阿弥を苛むものであることに一切気づくことなく、信綱は真摯に阿礼狂いとして阿弥の幸せを願い続けていくのであった。

 

 

 

「……行ったかな」

 

 信綱が立ち去るのを足音で確かめると、阿弥はそっと襖を開いて廊下に出る。

 転生の準備にかかりきりというのは間違いではなく、信綱と一緒の時間が楽しすぎて後回しにしていたツケを支払っているのは事実だ。

 それ以外にもようやく答えの出た感情に対する自分なりの折り合いや、信綱との今後の付き合い方を考えている間に一月が経過してしまったというのが正しい。

 

「……うん、もう顔を見ても泣かないよね」

 

 自問自答に対し、軽く笑みを浮かべる。何度も姿見で信綱が疑わない笑顔の練習はしてきた。

 もう自分も二十歳。短命でない人間の尺度でも大人の年齢だ。短命な御阿礼の子で計算すれば、およそ人生の三分の二が経っている。

 つまり常人が六十年生きると計算すれば今の自分は四十――これ以上考えるのは乙女的に不味いのでやめよう。

 

 ともあれ自覚した感情であるとはいえ、いつまでもそれに振り回されてもいけないのだ。

 想いを告げることができなくても彼と一緒にいたいという願いは嘘ではない。家族として共にいられるだけでも、阿弥にとっては幸せである。

 

「大丈夫、大丈夫……」

 

 自分に言い聞かせるようにしていた時、阿弥は足元にある食事に気づく。

 そういえばさっきここに置いてくださいと言ったっけ、と考えながらそれを見ると、どれも阿弥の好物ばかりで構成されていた。それでいて栄養価も考えている辺り、彼の気遣いには頭が下がる。

 

 それを見ていると腹の虫がくう、と可愛らしく鳴く。誰かに聞かれてはいないかと赤面するが、この家に普段からいるのは屋敷の掃除などをする女中と信綱ぐらいだ。

 阿七の頃はもう少しいたのだが、信綱が成長して一人で多くの仕事をこなしてしまう現在、資料の編纂なども彼がやっていた。

 ……阿弥でも時々、彼が分身か何かしているのではないかと思ってしまうのは内緒である。

 

 ともあれ食事を済ませ、美味しかったと労いの言葉をかけよう。ずいぶんと彼には心配をかけてしまっているのだ。それぐらいはしてもバチは当たるまい。

 

「あら?」

 

 そう思って持ち上げた盆には食事の他に一枚の紙が添えられていた。

 何かと思って持ち上げてみると、微かな香りが漂ってくる。どうやら押し花が挟まれているようだ。小さな花をいくらか集めて作られている。

 押し花を挟む紙にも文字が書かれており、せめて香りだけでも外を感じて心を休めて欲しいという、信綱の心遣いが感じられた。

 

 阿弥は自分の心臓が高鳴るのを自覚して、頬に熱が集まるのを自覚する。彼とは家族でいようと決心した途端にこれだ。

 もう大丈夫だと言い聞かせていたつもりだが、そんな気構えが何の意味もないほどに彼はこちらの心を心地良く揺さぶってくる。

 

「本当に……困った人」

 

 彼に何の隔意もなく身を寄せられた日々が遠く懐かしく感じる。今やったら心臓が破裂してしまうだろう。

 あまりにも身近にいたから、どれほど彼の気遣いに浸っていたか理解していなかった。彼はいつだって本当に真摯に自分のことを想ってくれているのだ。

 ……そして、それが今は何よりも痛い幸福を阿弥に与えてくる。

 

 きっとこれからもこの感覚は続くのだろう。なにせあの男は子供の時からずっと側仕えを続けてきた阿礼狂い。御阿礼の子のことなら阿七や阿弥以上に理解していると言っても過言ではない男だ。

 彼の前でいつも通り振る舞わなければならない。それがいかに難しいかは理解しているつもりであるが、いきなり出鼻をくじかれそうになってしまった。

 

「……大好きです、信綱さん」

 

 押し花の紙を片手に、阿弥は信綱がいないことを確かめてから静かにつぶやくのであった。

 

 

 

 

 

 一方、信綱は阿弥に対して何かできることはないかと慧音の家を訪ねていた。

 そうやってひたすらに阿弥を思った行動を取ること自体が、彼女にとって嬉しくも辛い心境にさせるなど夢にも思っていない。

 

「……という次第です。先生なら何かわかるかと」

「ふむ……。いや、確かに私は歴代の御阿礼の子を知っているし、付き合いもあるが……。二代に渡って側仕えをしているお前よりあの子がわかるとは口が裂けても言えんぞ」

「それでもお願いします。あるいは俺が男だからわからない問題かもしれません」

「その手の問題じゃないと思うがなあ……」

 

 慧音は困ったように頬をかく。

 確かに男に相談しづらい悩みというのは存在するが、信綱は阿弥と親子に近い関係を築いていたはず。むしろそのぐらいなら阿弥も相談しているのではないだろうかと思ってしまう。

 

「……慧音先生でもわかりませんか」

 

 とはいえ、普段は毅然と英雄として振舞っている信綱が目に見えて落ち込む姿を見せられては、なんとか力になれないものかと思ってしまうのも人情である。

 そもそも彼はよくやっているのだ。幻想郷縁起、幻想郷の歴史書双方において名を刻むことが確実なほど、信綱は人里と幻想郷に尽くしてきた。

 阿弥の幸せこそ信綱の本心からの願い。それぐらいは彼に世話になった者として助けてやりたいのだ。

 

「ううむ……一つだけ心当たりはあるが……済まない、お前には言えない」

「どういう意味でしょうか」

「阿弥が私に持ちかけた相談があってな。今の悩みもそれに関係があるのかもしれない」

「教えてはいただけませんか」

「阿弥の悩みだと言っただろう。私からそれを言うのは彼女にとって不誠実だ」

「…………」

 

 そう言われては押し黙るしかない。阿弥の不利益になりかねないとあっては、信綱も強く出られなかった。

 未練がましい視線で見つめてみるも、慧音の表情は動かない。相談相手自体は間違っていなかったものの、上手く聞き出せるものではなかったようだ。

 

「……わかりました。お時間を取らせてしまい申し訳ありません」

「力になれなくて済まない。ただ、おそらくは心の問題だ。お前から急かさず、あの子が話したくなるのを待つ方が良い……かもしれん」

「かもしれんって……」

 

 自分でも無責任なことを言った自覚はあるのか、慧音は恥ずかしそうに視線をそらす。

 

「私から言えるのはそれぐらいだということだ。今のお前を前に御阿礼の子は語れんよ」

「……そうでしょうか」

「お前ほど長くあの子の側にいる火継を私は知らん。少なくとも私が何かを言うより、お前が考えた行動の方があの子のためになると思うぞ」

「……参考にします。それでは失礼しました」

 

 丁重に礼を言って慧音の家から外に出る。

 今日も寺子屋前では多くの子供たちが遊んでいる。自分が子供の時から変わらない光景にほんの少しだけ気が楽になった。

 信綱が落ち込んで阿弥の気が晴れるなら地の底まで落ち込むが、それをしたところで今の阿弥が根を詰めるのは変わらないだろう。

 気を取り直して何か考えよう、と気分を切り替えた時だった。

 

「あれ、おじさん? 寺子屋に何か用ですか?」

「……弥助か。お前こそどうした?」

 

 百鬼夜行の頃より落ち着いた雰囲気を出すようになって、大人への階段を登り始めている友人の息子を見て、信綱は頬を緩ませる。

 自分は血のつながった子供こそいないが、友人の子や阿弥を見ていられるのだ。それはそれで素晴らしいことである。

 

「ちょっと親父……親方に言われて手伝いです」

「ふむ、お前は勘助の後を継ぐつもりか?」

「まだハッキリと決めたわけじゃないですけどね」

 

 困ったように笑うものの、彼の目に迷いは感じられなかった。

 弥助の前に提示されている道はいくつかあるだろう。人妖の共存が始まりつつある今、自警団や妖怪と積極的に関わる仕事はいくらでもある。

 それに彼は勘助いわく、英雄を目指していたと聞くがその辺りはどうなのだろうか。

 

「……百鬼夜行の時におじさんの戦いを見てわかったんです。自分にあれはできないって」

「そう卑下したものでもないぞ。三十年も修行すれば……うむ、それなりには行くんじゃないか?」

 

 今から信綱が稽古をつければ二十年もあれば烏天狗の一人ぐらいは倒せるはずだ。

 途中で死ぬ危険? 修行とは危ないものである。

 信綱の危険な思考が漏れていたのか、弥助は心なしか顔を青ざめさせながら否定する。

 

「中途半端な慰め……のような変な自慢やめてくださいよ!? そりゃ、見せつけられた時は辛かったですけど、立ち直れたのもおじさんの言葉なんです」

「俺の言葉? お前を立ち直らせたのは親じゃないのか?」

「そっちも皆無じゃありませんけど、おじさんにできないことでおれにできることがある、って言葉が嬉しかったんです」

 

 確かにそんなことを言った覚えがある。

 あの時は百鬼夜行が迫っていたので割りと適当に言った気もするが、彼が喜んでいるのなら黙っておくべきだろう。美しい思い出をわざわざ汚す必要はあるまい。

 

「そうだな。確かに俺は多くのことを成したのだろう。だが、それらを形作っていくのは勘助たちであり、お前たちだ。……商人の修行、頑張れよ」

「はい! それじゃあ……っと、話がそれてた。おじさんはここで何を?」

「む、話を戻すか。実は……」

 

 丁度良いので話を聞いてもらうことにした。阿弥と同年代である彼なら何かわかることがあるかもしれない。

 

「はぁ……いきなり泣いて謝りだして、何事かと思っていたら今度は顔を合わせなくなったと」

「うむ。まあ家にいる以上、全く合わせないというわけでもないんだが、とにかく会話が減った」

 

 話術も彼女を楽しませるのに必要な技能であるためそれなりに磨いているのだが、話しかけられること自体を拒んでいる彼女の小さな背中を見ては何も言えなかった。

 会話を望まないならせめて食事や目で何かを楽しんでもらおうという心遣いだが、少しでも阿弥の心が軽くなっているのなら幸いである。

 

「嫌われたのならそうと言ってくれれば潔く退くつもりなのだが……」

「いやあ、それはないと思いますよ? 父さん父さん言ってべったりだったじゃないですか」

「子供の頃と今は違うだろう」

「案外変わらないものもありますよ。おれが今でも母ちゃんのおはぎが大好きみたいに」

「それと一緒にされても困るな」

 

 弥助の例えに少し笑ってしまう。食い意地と阿弥の悩みが同列ならばどんなに楽か。

 しかし笑ったことで僅かではあるが気が軽くなった。そんな信綱の様子を見て、弥助は我が意を得たりと破顔する。

 

「そうそう、笑った方が良いですよ。笑う門には福来る、って言いますから」

「お前も言うようになった。……血筋かね、これは」

 

 勘助も弥助も、笑顔に不思議な力があるような気がしてならない。

 その顔を見ているとなぜか知らないが、どうにかなるような気になってしまうのだ。

 

「やるだけやってみるよ。お前も寺子屋に用事があるんだろう? 頑張れよ」

「おっと、話しすぎました。慧音先生! 寺子屋の教材の件で伝言があります!」

 

 寺子屋に入っていく弥助を見送って、信綱は帰り道を歩き出す。

 このまま阿弥が外に出ない時間が続くようなら、多少強引にでも連れ出そう。少しは陽の光も浴びなければ身体に毒である。

 顔を合わせられないことは信綱にとっても辛いが、自分の幸不幸など阿弥の健康に比べれば些事である。

 というより、自分が報われないことは別に良いのだ。阿弥が今後一切、自分を見向きもしなくなったとしても、彼女がそれで笑ってくれるのなら喜んで道化になる。

 

 今回は嫌われることを覚悟して強引に行くべきだ。転生の準備が必要なのは否定しないが、それで身体を害するようでは元も子もない。

 そう決心して、稗田の家に戻っていく。

 すでに時刻は太陽が眠りかかっている黄昏時。差し当たって夕食後に月明かりの散歩でも進言してみようと戸を開くと――

 

「あ、お帰りなさい、父さん」

「阿弥様?」

 

 一ヶ月、ほとんど顔を合わせていなかった愛しい主が玄関にいた。

 身体を冷やさないための肩掛けを羽織って佇むその姿は、かつて信綱を弟のように扱ってきた阿七を思い起こさせる。

 年齢もほとんど同じであることに奇妙な縁を感じてしまう。信綱がもう老年に差し掛かってすらいることだけがあの時とは違うところだ。

 自分の時間は無情に流れ、御阿礼の子はあの時のままここに留まっている。

 そんな錯覚を覚えてしまい、信綱は微かに目を細める。

 

「? 父さん?」

「……いえ、久方ぶりに阿弥様と顔を合わせることが嬉しいだけです」

「もう、父さんったら大げさね。部屋に行きましょう。これからの転生の準備について話したいことがあるの」

「かしこまりました」

 

 淡く微笑んで部屋に戻っていく阿弥に信綱も笑顔を返そうとして、ふと妙な感覚を覚える。

 

「阿弥様」

「ん? なあに?」

 

 振り返る彼女の様子に変なところは見受けられない。信綱が懸念していた顔色も良い。差し入れていた食事はきちんと食べていたのだと内心で握り拳を作る。

 服装もいつも通り、可愛らしい少女らしさと清楚な女性らしさの同居した素晴らしいもの。歳も少女と大人の境を越え、身にまとう儚げな空気が彼女の美しさを一層際立たせる。

 少し話は変わるが、信綱の御阿礼の子に対する評価は最高以外にないのであまり当てになるものではない。閑話休題。

 

 ではどこに違和感を覚えたのか。呼び止めた信綱にも理由がわからず、心の中で首を傾げる。

 

「……私の気のせいでしたら申し訳ありませんが、何か無理をしておられませんか?」

「あはは、変な父さんね。ここしばらくは放ったらかしだった転生の準備にかかりきりだったのよ? 無理なんてしてないわけないじゃない」

「……そう、ですか。申し訳ありません、後ほど葛湯でも持って行きます」

 

 違和感は拭えぬまま。しかし阿弥の言葉を否定する確たる理由もないまま否定することはできず、信綱は曖昧にうなずくに留める。

 全ては後で考えるとして、今は阿弥を部屋に導くのが仕事である。信綱は従者としての役割で阿弥の前に立ち、振り返って笑いかける。

 

「では行きましょうか。阿弥様、お手を」

「……良いわよ、そんな。子供じゃあるまいし」

 

 ふい、と阿弥は伸ばされた手を取ることなく信綱の隣に立つ。

 いつもなら阿弥が信綱の手に自分の手を重ねてきたのだが、それがないことに僅かな戸惑いを覚える。

 

「そ、そうですか。失礼しました」

「それより部屋に戻ったら編纂の資料で確認したいことがあるのよ。ちょっと長くなるけど良いかしら」

「無論。私はいついかなる時でもあなたのものです」

 

 阿弥の要請ならば何ものに代えても達成すべき案件である。

 そんな意思を込めてうなずいたところ、阿弥は一瞬だけ何かに耐えるような顔になったのを信綱は見逃さなかった。

 

「……阿弥様、どうかされましたか?」

「あ、ううん! なんでもないの。ちょっと疲れちゃっただけだから」

「それなら良いのですが……今日はもう休まれてはいかがです? ここで無理をして後々に祟っては元も子もありませんよ」

 

 ずっと部屋にこもりきりだったから月光浴にでも誘おうかと思っていたが、この調子ではやめた方が良いだろう。自分の浅慮で御阿礼の子が体調を崩すなど、側仕え失格である。

 それに信綱が顔色を確かめようと視線を合わせたところ、頬の赤みが確かに増していた。これは少々熱があるのかもしれない。

 

「だ、大丈夫だから! うん、今日は早く寝ることにするわ! だ、だからちょっと顔が近い……!?」

「……本当に、大丈夫なのですね」

 

 信綱が心底からの不安をのぞかせてつぶやくと、阿弥はまだ顔を赤らめながらも落ち着きを取り戻した様子になる。

 

「ええ、本当に大丈夫。でもちょっとだけ、体調は良くないかもしれないわね」

「……わかりました。ですが今日はもうお休みください。夜に目が覚めるようでしたら夜食を用意しておきますゆえ」

「そうするわ。父さんもこの一月、私のお世話ばかりで疲れたでしょう? 父さんも休んだ方が良いわよ」

「私は大丈夫です。あなたの顔が見られたのですから、疲れなどありません」

 

 阿礼狂いにとっての特効薬は御阿礼の子の笑顔である。これさえあれば首が切り飛ばされても動く自信がある。信綱の首が切り飛ばされて笑っていられるかという疑問はあるが。

 

「……父さんは父さんだね」

「む?」

 

 真顔で言い切った信綱を、阿弥は頬を赤らめながらもジットリとした湿度の高い目で見る。

 はて、そんな目で見られるような変なことを言っただろうかと首を傾げるが、答えはわからない。

 信綱が疑問に答えを出せないでいると、阿弥は困ったように笑いながら信綱から離れていく。

 

「ん、なんでもない。おやすみなさい、父さん」

「ええ、おやすみなさい。良い夢を」

 

 自室に戻っていく阿弥を見送り、信綱はふと不安に襲われる。

 

 彼女と共にいられる時間は残り少ない。そして恐らく次の阿求を待つ頃、あるいは生まれてしばらくした頃に自分は死ぬだろう。

 これは信綱が人間である限り逃れられない定めだ。御阿礼の子が望むなら人を辞める方法も探す必要が出てくるが、望まないなら人間として死ぬつもりである。

 

 人間を辞めるというのは、阿礼狂いであることを辞めることにも繋がりかねない。

 自分たちの狂気がどんな条件の元に成立しているかもわかっていないのだ。迂闊に手を出して人間に戻ってしまったら、物心ついた時から今も変わらず胸に息づいている炎が消えてしまうかもしれない。

 そうなった時、御阿礼の子のために全てを捧げる決断を迷うことなく行えるのか、信綱にも自信が持てなかった。

 

 現状を変える必要があるのなら躊躇わないが、必要がないことをする理由もない。ないはずなのだ。

 だというのに、阿弥の様子を見ているとその自信が揺らいでしまう。

 一月も部屋にこもったかと思えば、急に出てきて不自然なまで(・・・・・・)にいつも通り振る舞おうとしている。

 なぜなのかは聞いても教えてもらえないだろう。信綱に原因があるのなら言って欲しい。それがどんなものであれ、彼女の願い通りに変えるつもりだ。

 

「……阿弥様」

 

 彼女に笑っていて欲しい。それだけが信綱の願いである。

 そっと漏らしたため息は誰に聞かれるでもなく、空気に霧散していった。

 

 

 

「父さんは……来てない、と」

 

 阿弥は部屋に戻り、襖を閉めて大きく息を吐く。

 一月かけてちゃんといつも通りになったつもりだったが、相手は予想以上に難敵だと思い知らされるだけだった。

 異性として改めて見るようになってしまい、そしてその想いを封印するつもりであるというのに、あの従者は全く意識せずこちらの心を揺さぶってくる。

 ……というより、あれを平然と受け止めていた以前がおかしかったのかもしれない。どうして自分はあの状態に疑問を覚えなかったのか。

 

「大変だなあ、これから」

 

 しかし、不思議と阿弥の口元に浮かぶのは笑みでもあった。

 想いを吐露できない切なさはある。だが、どんな形であれ彼と共に生きることができる喜びも確かにあった。

 

 通常の男女が行う好いた腫れたとは全く別種だろう。

 とはいえ、御阿礼の子と阿礼狂いなのだ。どちらも常人とは一線を画す存在である以上、こういった形も悪くはないはずだ。

 

「……あ、そうだ。椛姉さんに今度会いに行こう」

 

 自分の感情に答えが出たことの報告と――自分がどんな道を選んだのかまで伝えるのが、相談に乗ってくれた彼女へ通すべき筋だろう。

 ひょっとしたらあの時、すでに椛の中では阿弥が信綱に対して持っている感情を知っていたのかもしれない。その上で阿弥が答えを出すのを待ち、その結果を祝福したかったのかもしれない。

 

 そう考えると椛には悪いことをしてしまう。阿弥は信綱に対して恋をしているという答えを出していながら、それを告げることを諦めたのだから。

 しかし諦めることがすなわち不幸であると言うつもりはない。想いを告げられない辛さは確かにあるが、それを言って信綱を困らせたくないという気持ちも存在するのだ。

 

「まあ……うん」

 

 信綱からもらった押し花を見て、最初に浮かぶ気持ちは嬉しいということ。

 次いで僅かに胸を締め付ける気持ちが生まれるが、それも嬉しさに勝るものではない。

 

「あの人と一緒にいられるなら――それで良い」

 

 彼は阿礼狂い。自分が彼と共にいることを願い続ける限り、彼はその願いを叶えてくれる。

 これから彼に途方もない重荷を背負わせるのだ。それ以上を望むのは酷というものだろう。

 

 あの人にはまだまだ生きていて欲しいのだ――それこそ、自分がいなくなった後も。

 阿七は彼にどんな気持ちで後を任せたのだろうか。御阿礼の子が目の前で消えることが彼にとってどれほど辛い仕打ちであるかなどわかっていただろうに。

 

 それでも――それでも、阿七は阿弥に彼を教えて上げたかったのだろう。火継信綱という、阿七の弟であり、家族である少年を。

 

 今度は自分がそれをする番だ。自分もまた、彼に次の御阿礼の子を任せたいと思っているのだ。

 きっと彼は悲嘆にくれるはずだ。阿七、阿弥と二代に渡って御阿礼の子の死を見届ける火継など前代未聞である。

 泣いて、悲しんで、嘆いて――最後は御阿礼の子の願いを叶えようとする。

 

 

 

「ごめんなさい、父さん」

 

 

 

 それは言葉に出来ないワガママを持つ少女の懺悔であり、彼女が願う幸せの形でもあった。

 

 

 

 

 

 ――阿弥が残酷な約束をする時まで、残った時間は少ない。




ノッブ「あなたが笑ってくれるなら自分は道具で構わない(真顔)」
阿弥「そう言うあなただから告白できない(涙目)」

ノッブが阿礼狂いとして完璧だからこそ、彼女を追い詰めてしまうジレンマ。鈍感無自覚系主人公(自己評価が阿弥の道具で一貫しているため、自分に恋しているなど考えてすらいない)

でも阿弥も阿弥でノッブに自分が死んだ後を任せる気満々なので、一緒に死ぬことを許さないという点では阿弥もワガママであったり。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天狗との一幕

 ドクドクとうるさい鼓動を無理やり鎮め、必死に息を整える。

 現在地は茂みの中。外部から見つけるには一苦労を要するであろう場所に隠れ、しかし油断は一切できない。

 周囲を注意深く見回し、五感を極限まで使って気配を探っていく。

 

 どこだ? どこにいる? いや、どこを探している?

 

 完璧にこちらを見失っている――なんてのは甘い夢想であると嫌というほど思い知らされている。

 今の状況だって一時しのぎに過ぎない。遠からず彼は自分を見つけるだろう。

 

 極限の緊張と綱渡りの連続に汗が流れ、地面に映る濃い影を一層濃く際立たせて――

 

 

 

 影が濃い?

 

 

 

「――ッ!!」

「む」

 

 背筋に走る悪寒に従い、茂みから飛び出す。

 直後、先ほどまで少女――椛のいた場所に二刀を振りかぶった男性が着地していた。

 男性の顔には微かな感嘆。気づかれないと思っていたのが感づかれたことに対する感心と驚愕が混ざっている。

 その男性――火継信綱が二刀を携える姿は、有事や異変の際には大妖怪にすら匹敵する頼もしさを備えるというのに、今の彼には途方もない圧迫感と恐怖しか覚えない。

 

 確信があったわけではない。ただ、影が濃いことから直感的に不味いと思っただけのこと。

 訳のわからない連想だろう。きっと自分も後で振り返って、なんであの瞬間わかったのか首を傾げるに違いない。

 だが、今は結果が全て。彼の追撃を振り切り、椛はまだ戦闘が可能な状態にある。

 

「ハッ!」

「っとぉ!!」

 

 追撃に振るわれた長刀を椛の手にある大太刀で防ぐ。

 甲高い音が連続し、火花が両者の間に散る。

 何合か打ち合った後、椛の側から渾身の一振りを合わせて大きく距離を取る。

 

(打ち合いができた! ということは――本命はこっちじゃない!)

 

 彼は無駄な行動はしない。それを骨の髄まで知っている椛には理解できる。

 自分程度の剣術で彼と打ち合えるものか。本気で今の攻撃で終わらせるつもりなら、さっきの打ち合いで武器が破壊されていた。

 

 事実、千里眼で見る彼の姿は木々の間を飛び回り、一瞬たりとも地に足をつけることなく攻める方向を特定させない動きで椛を翻弄している。

 全方位を見回せる目があるのなら、攻め手を予測させない動きをすれば良い。言葉にすればそれだけだが、実行するには彼のような卓越した体術が必要不可欠である。

 

 千里眼を持ってして見切れない速度とどこから仕掛けてくるかわからない足さばき。それらを目で追って――やがて諦めて目を瞑る。

 視界が闇に閉ざされ、彼の姿はどこにも見えなくなる。聞こえるのは樹の幹を蹴る際に生まれるコツコツというキツツキのような足音のみ。

 だが、こういった閉所とも言える場所では千里眼に頼るより精度が上がる情報だ。

 

「…………そこっ!!」

「おっと」

 

 音のする方向に大太刀を振るうと、少しだけ驚いた様子の信綱が剣を避けるために身を翻す。

 そして着地する音が地面の木の葉を踏み潰す音でわかる。その場所に剣を走らせて――硬質な何かに弾かれる。

 

「っ!?」

「一つの感覚に頼り過ぎだな」

 

 目の前で囁かれた声に驚愕のあまり、目を開ける。一刀を手放して地面に突き刺していた信綱が、両手で長刀を振りかぶっていたのだ。

 驚愕に固まる思考とは裏腹に肉体は素早く反応し、咄嗟に防ごうと左の盾を前に出し――失策に気づく。

 鉄の盾など彼の斬撃の前には何の意味も成さない。今必要なのは彼に刀を振らせないか、四肢の切断を覚悟で突っ込むこと。

 

「こ、のぉっ!!」

 

 案の定というべきか、左腕の感覚が喪失する。冷たい刃が肉を切り裂く感覚はおぞましく、痛みを無視できるようになった今でも耐え難い嫌悪感をもたらす。

 だがそこで動きを止めたら相手の思うつぼだ。椛は歯を食いしばってそれに耐え、踏み込んで斬撃を繰り出そうと――

 

「もう遅い」

「くっ――!」

 

 その足はすでに信綱が斬っており、椛が次に行う攻撃も読まれていたことがわかった。

 だがそれで諦めるわけにはいかない。手足が全て斬られようと、そこに可能性がある限り椛に諦めは存在しな――

 

「終わりだ」

 

 闘志に燃える椛に対し、信綱は無情にも残った手足を斬り飛ばす。

 

「ま、参りました!! あー、また負けたー!!」

 

 四肢を全部斬られたら諦めざるを得ない。椛は悔しそうに地面に転がるのであった。

 

 

 

「いやあ、凄まじい鍛錬ですねえ。椛もよくあそこまで切り結べるものです」

 

 椛と信綱の鍛錬と呼ぶには実戦的かつ、危険に過ぎる光景の一部始終を眺めていた文は、鍛錬で生まれた血と汗を水場で清めている椛に話しかける。

 

「何百、何千と斬られ続ければ嫌でも覚えますよ……文さんも試してみます?」

 

 話しかけられた椛はすでに接合しているものの、斬られた悪寒の消えない手足に水を何度もかけながら、濁った目をする。

 烏天狗を越える白狼天狗の第一号に、俺がしてやるという信綱の言葉から始まったこの鍛錬は、しかし椛の想像を絶する激しさがあった。

 信綱に稽古を付けていた時は彼が人間だという配慮があったから多少は手心も加えられていたというのに、信綱が椛に稽古をつける時はそれがない。

 

 多少熱が入り過ぎて斬ってしまっても、致命的なまでに斬り刻まなければ治るのだからなにやってもいいよね、と言わんばかりに攻撃してくるのだ。

 正直、何度泣きを見たかわからない。ズタボロで衣服を整える余力すら残らなかった時もあるくらいである。

 それでも椛が信綱の稽古に付き合っているのは、彼なりに真摯にやっているからだろう。言ったことを翻すことはあっても、諦めることは滅多にないのだ。

 それになんだかんだ強くなってもいる。百鬼夜行異変の折、信綱が背中にいたとはいえ鬼を相手に時間を稼げたのは鍛錬の賜である。

 

「あはは、遠慮しておきます。あの人のお気に入りはあなただけで十分ですよ」

「お気に入りなんて綺麗なものじゃないですって、全く……」

 

 身体を清め終わった椛は川岸に上がり、新しい服を身にまとっていく。彼との鍛錬時には着ている服が必ずと言っていいほど使い物にならなくなるので、こうして新しいものを用意しておくのだ。

 そんな椛の様子を逐一視界に焼き付けながら文はそっとつぶやく。

 

「――着痩せする方と見た」

「文さん?」

「いえいえ、なんでもありませんよー。さ、あまり話し込んでも彼が来るかもしれませんし、戻りましょうか」

「そうですね。もういい時間ですし、お昼にしましょう」

 

 ちなみに昼は大体信綱が川や山で採った魚や野草になる。稽古場に使うこの近辺は、もはや彼にとって庭に等しかった。

 椛と文が焚き火の焚かれている場所に戻ると、そこにはザッと水浴びでもしたのだろう。上半身をはだけた格好で座っている信綱がいた。

 

 もう五十を迎えようとしているというのに、この男の肉体には未だ衰えというものが見えない。

 鬼の顔すら伺えるような巌の如き肉体が惜しげもなく晒されていることに、文は貴重なものを見た心持ちになる。実際、彼が服を脱ぐような時があまりないので珍しいものではある。

 大体が和装で、公の場では羽織なども着る彼は結構着膨れをしているはずだが、それでも体躯自体は華奢に見えていた。

 が、それは決して筋肉がないことを意味しているのではなく、むしろ極限まで引き絞られているのだということが肉体から伺える。

 弓の弦を引き絞って引き絞って引き絞って。何かの拍子に千切れてしまうのではないかと思ってしまうほどに絞り込み、しかし千切れない。

 人間の限界に挑み続け、一歩間違えれば全てが壊れるような鍛錬に身を置き続けて、その上でようやく得られる肉体。そんな印象を文は覚えるのであった。

 

「む、戻ったか」

 

 とうの信綱はそんな文の視線に気づくことなく、二人が帰ってきたことに手元の紙をしまって立ち上がる。

 彼の前ではパチパチと音を立てて魚が野草を巻かれて串に刺さっており、食欲をそそる脂が滴っていた。

 

「メシにするぞ。魚は適当に採ってきた」

「わかりました。ところで、さっきの紙は?」

「大したものじゃないぞ。俺の動き方を書き記しただけのものだ」

 

 そう言って信綱が懐に収めた紙を無造作に放ってくる。

 受け取った椛とそれを覗き込む文が見てみると、確かに本人の言うとおり攻撃の受け方や避け方、避けた場合の反撃方法などが事細かに図解付きで記されていた。

 

「これは一体?」

「……こんなものでも、残しておけばいつか誰かの役に立つかもしれない。そう思っただけだ」

 

 たとえ役に立たなくても無駄にはならない。そう考えて、信綱は自分の戦い方を残そうとしていた。

 信綱の戦い方は火継の一族が使う戦闘術と椿から教わった天狗の武術、さらに自身の戦闘経験によって磨き上げた独自の動きが混合している。

 それでいて動きに無駄が出ないのは系統立った動きが元になっているからだろう。我流のみで強くなった場合、同時に悪癖なども身についているものだ。

 

「別に全部模倣できなくても、一部だけでも模倣できれば無意味にはならん」

「なるほど、道理です。ところでそうやって動きを教えられるのなら、私の稽古をもう少し楽なものにしてくれても……」

「これは人間用の動きだ。空を飛ぶ妖怪に合わせてはいない。お前は基礎もできているし、実戦に勝る稽古はない」

 

 がっくりと項垂れる椛に、彼女がどれだけ厳しい稽古に身を置いているか理解した文も苦笑いしかできない。

 とにかく食事をして気を紛らわそう。そう思って、そろそろ焼けてきた魚に手を伸ばす。

 

「まあまあ、辛いことなんて忘れて食事にしましょうよ……って、あら?」

 

 伸ばした手に枝の感触がない。そして横合いには何やら大柄な影がある。

 誰かと思ってそちらに視線を向けると、そこには魚を美味そうに頬張っている歳若い天狗の姿があった。

 

「んぐ、美味い。こういう野趣のあるやつを食うのは久しぶりだ」

「て、てて天魔様ぁ!?」

「よう、旦那」

「天魔か。そこにお前の分があるぞ」

「あ、天魔様。お久しぶりです」

「おう、きっちり顔を合わせたのは百鬼夜行前か」

「いやいやいやいや!!」

 

 いきなり現れた天魔の姿に文は心底仰天しているというのに、信綱と椛は驚いた素振りを見せない。

 椛はまだ理解できる。彼女は千里眼を持っているのだからどこかで気づいた可能性はある。だが、信綱はどうなっているのだろうか。

 不思議な目で見ていたことに気づいたのか、信綱が文の方を見ながら説明する。

 

「稽古の途中で視線が増えてた。慣れた気配だったから天魔だとわかっただけだ」

「だけってもんじゃないですよね!?」

「文、旦那を人間の領分に収めない方が良いぞ。驚くだけ損だ」

「失礼な」

「あはははは……」

 

 天狗が三人と非力な人間一人だろう、と信綱が憤慨するものの、誰一人として信綱の味方にはならなかった。解せぬ。

 天魔の登場に驚いていた文も二人が動じていないことから、自分だけ戸惑っているのはあれと思ったのかおずおずと座り直す。

 そのまま四人で魚の昼食を取った後、信綱は皆が休憩をしているのを見計らっておもむろに口を開く。

 

「お前はなんの用だ。まさか俺と椛の鍛錬を見学に来ただけでもないだろう」

「それも目的の一つではあるな。なにせ旦那の仕込んだ白狼天狗が伊吹萃香を一騎打ちで倒したと来た」

「あれは相手がほとんど一割にも満たない状態だったからですよ。万全だったら逆立ちしても勝てません」

 

 それを言ったら九割の萃香をほぼ一方的に斬り刻んだ信綱はどうなるのかという話だが、誰もそこには触れない。きっと常識はずれの答えが返ってくるだけである。

 

「それでも勝った。千里眼ぐらいしか取り柄のない白狼天狗が。旦那の鍛錬にはどんなものがあるのかと興味を持ってもおかしくないだろ?」

「それはまあ……」

「――天魔」

 

 椛が答えにくそうにしていたので、信綱が話を遮って助け舟を出す。

 

「本題に入れ。俺はお前に稽古の感想を求めた覚えはないぞ」

「へいへいっと。相変わらず世間話とか通じねえなあ」

「抜かせ。ただの世間話なら俺も目くじらは立てん」

 

 暗に世間話以外の目的があることを仄めかす。先ほどの話における、天魔の狙いをある程度読み取っているからこそ取れる行動だ。

 というより、先ほどの助け舟を出す瞬間を見計らっていたのだろう。信綱が椛をどの程度大切に扱っているか、その基準を見定めたかったに違いない。

 つまりすでに彼の手のひらである。それに信綱は不愉快そうに目を細める。

 

「さすが、と言っておこうか。ここまでオレとやり合える存在なんて妖怪にも早々いねえ。この手の駆け引きってのは単純な知恵比べとは違うからな」

「…………」

 

 天魔の褒め言葉にも耳を貸さず、信綱は細めた目に微量の殺気を込めていく。

 この後も椛と稽古をして、それが終わったら彼女に阿弥の元へ行ってもらおうと思っていたのだ。それを邪魔されたことへの恨みも僅かにこもっている視線を受けて、天魔も表情を真面目なものに変える。

 

「おっと、これ以上は怖いな、本題に入ろう。――人里に天狗を置きたいと考えている。旦那の裁可をもらいたい」

「……畏れの確保か」

「察しが良くて助かる。オレの方で見繕った天狗を何人か送る。そいつらは治安維持、それも野良妖怪の出てくるような人里の外縁に回してくれて構わない。むしろ力を示しやすいそっちに回してくれ」

「俺の一存では決められんな。人里の会合で話には出す」

「頼む。その先駆けってわけじゃないが、一人うちの天狗を連れて行って欲しい」

「ん?」

 

 信綱は文の方を見る。天魔が重用している部下は彼女ぐらいしか思いつかないため、彼女が人里に来るのだと考えたのだ。

 しかし文は全くそんなこと聞いていないと言わんばかりに体の前で手を振るばかり。では一体誰なのだろうか、と信綱が考えると、天魔の手が椛の肩に置かれた。

 

「というわけで、よろしく頼む」

 

 そして実に爽やかな笑顔とともに、椛にとって晴天の霹靂なそれを告げるのであった。

 

「は、はぁ……ってえええぇぇ!? 私ですか!?」

「むしろお前しか適任がいねえと思ってる。百鬼夜行異変の折、萃香が人間を集めた前でお前が勝ったとも聞いているし、目に見えて活躍したお前が人里に行った方が色々とやりやすいだろ」

「ふむ、道理だな。文ではないのか?」

 

 今まさに告げられた話の内容に椛は驚きを隠せないが、意外にも信綱は天魔の言葉に同意の姿勢を見せていた。

 実際、見回りの仕事に天狗を回すのであれば、管理するのは人里の警備を担っている信綱の仕事になる。

 ……本来なら有事の際に動くだけだったのだが、人里の運営に対妖怪の人間として携わっているうちに任されてしまっていたのだ。

 それに見回りをしなくとも、人里に常駐するであろう妖怪を管理するのは信綱の役目になるのが目に見えている。だったらせめて気心の知れた相手と仕事がしたい。

 

「そいつにはオレの仕事を押し付け――もとい、別の仕事がある」

「今なんて言いました!? 今なんて言いました、ねえ!?」

「うるさいぞ文。今は仕事の話の最中だ」

「天狗社会の理不尽!?」

 

 文が来ないことも不思議に思っていたが、どうやら天魔の個人的な用事に付き合わされるようだ。

 美鈴と言い文と言い、破天荒な上司を持つと大変だというのが実によくわかる光景だった。

 その点で言えば信綱は部下に優しい方だろう。あまり手綱も握っていないため、放任とも言えるが。

 

「……まあ良いだろう。こいつなら話も出しやすいし、向こうも受け入れるだろう。だが、畏れの確保が上手くいくかは保証しないぞ」

「そこは一時しのぎで構わん。今も騒いでる強硬派を抑える口実になりゃあ問題ない」

「意思の統一が難しいのはどこも変わらんな」

 

 人里にも未だ妖怪排斥の声があるように。天狗の方も火種を抱えている状況に変わりはないようだ。

 とはいえ共存の流れができあがりつつある今、下手に動いても逆効果にしかならないだろう。向こうもそれはわかっているのか、今はおとなしいものだ。

 信綱の言葉に天魔は同意の姿勢を示すも、口から出てくる言葉は意外にも彼らを擁護するものだった。

 

「あいつらもあいつらなりに天狗の未来を考えてんだよ。頭ごなしに否定はできん」

「ふむ、お前にしてみれば強硬派も守るべき天狗か」

「それに意思が一つに統一されすぎるのも問題がある。オレがいつまでも正しく天狗を導けるかはわからんしな」

「なるほど、お前も苦労しているな」

「旦那も同じだろう? お互い、一人で舵を取ると何かと大変で仕方がない」

 

 天魔の同意に信綱は肩をすくめて返答とする。あいにくと信綱は人間と妖怪の舵取りに苦心したことはあっても、責任を感じたことはなかった。

 失敗したところで前までの形に戻るだけ。仮に争うことになったとしても阿弥が守れるならそれで良い。その程度のものだった。

 ……萃香との戦いで阿弥を優先する姿を見せたことから、天魔には知られてしまっているかもしれないが。

 

「まあ犬走のことは旦那に任せるよ。天狗に被害が出ない範囲で煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

「天魔様!?」

「言われずとも」

「ちょっと!?」

 

 信頼ができ、千里眼を持つ椛の重要性は身にしみている。こき使える間は徹底的に使い倒す所存だ。

 自分の意向が完全に無視されていることに椛は乾いた笑いを上げるものの、どうにもならないと思ったのかがっくりと項垂れる。

 天魔と信綱。天狗と人間の頭とも言える二人が決めた内容に、しがない白狼天狗に逆らう術はない。

 

「で、ここまでが本命。こっからは趣味の話だ」

「趣味?」

「おう。――人間、一つ技比べをしようじゃないか」

 

 天魔は立ち上がり、その腰に携えている木刀を信綱に放る。

 思わず受け取ってしまうが、信綱は怪訝そうな顔を崩さない。なぜ腹の底を見せない相手に手札を晒す必要があるのか。

 そんな不審を露わにする信綱に天魔は苦笑を浮かべた。

 

「オレだって四六時中悪巧みしてるわけじゃないっての。オレも久々に天狗の端くれとして、人間と純粋に武技を競いたいと思うのさ」

「……お前が俺に勝てるとでも?」

「まさか。鬼の首魁を打ち倒した人間とまともにやり合ったらお陀仏さ」

「つくづく人間と天狗の会話じゃないですよね……」

「鬼か何かだと思った方が驚愕が減りますよ?」

「聞こえてるぞ、そこ」

 

 文と椛がヒソヒソと交わす会話に顔をしかめる信綱。こいつらは人のことをなんだと思っているのか、と憤慨せざるを得ない。

 しかし信綱の怒りに対し同意する声は上がらなかった。周りは敵だらけである。

 

「……はぁ、寸止めでやるのか?」

「おう。何でもありだとオレが死ぬ。場所は……こんぐらいでいいか」

 

 天魔が腕を一振りすると、相撲の土俵のように小さな円が風で作られる。

 限られた空間内での武技の競い合い。火継の道場でもよくやっていることだ。

 相手は天狗の首領、天魔。信綱が火継の一族を率いる時間など児戯と感じてもおかしくないくらいの時間、天狗という種族を率いてきた男だ。

 能力の一端はあの騒動の時に見ているが、あれは妖力の扱いであって武術には数えられない。

 つまるところ、完全な未知数。ぶっつけ本番でどうにかするしかない。おまけに向こうはこちらの戦い方をある程度知っている。

 

 それらの情報を加味して、信綱は思考を切り替えて立ち上がる。

 

「……良いだろう。純粋に技術を競うのはそう嫌いじゃない」

「だろうさ。相手がいない乾きってのはそうそう無視できん。オレがそうだったようにな」

「…………」

 

 天魔の言葉には答えない。信綱が力を磨くのは御阿礼の子に仇なす敵を討ち倒すため。

 誰も相手にならない時が来たとしたら、それはいかなる相手からも御阿礼の子を守れるという点で誇るべきことなのだ。

 

 円の中に二人が入ると、両者の間ですぐに眼光による威圧のやり取りが始まる。

 これまでの穏やかな空気から一転し、あるのは互いの隙を抜け目なく探っていく駆け引きと機先を制そうと圧力を強める眼光のみ。

 

「…………」

「……来ないのか?」

「……ッ!!」

 

 天魔の声に応えたわけではない。だが、一歩は信綱から。

 動きが制限されて、どちらが重い枷を背負うか――そんなもの、空を自由に飛べる天狗の方が重いに決まっているのだ。

 ならば先手を取って主導権を握り、一気呵成に決めてしまおう。いつもと何ら変わらない結論だった。

 

「っと!」

「――」

 

 見惚れるような弧を描いて振るわれる右の木刀を天魔も危なげなく受け止め――急加速して死角から迫る左の木刀を首を傾けて回避する。

 さすが、と言わんばかりに天魔の口から小さな口笛が出る。それに対し信綱は一切の反応を返すことなく、無言で双刃を変幻自在に操り、あらゆる角度から襲いかかる。

 

 無尽に放たれる攻撃の嵐に天魔の顔から余裕も消え、しばし無言で互いに斬撃の応酬を繰り返す。

 辺りに響くのは木刀と木刀がぶつかり合う乾いた音ばかり。誰も何も発することなく、限られた空間から動かずに刃が振るわれる。

 互いに一歩も動かない。軸足を中心に僅かな足さばきのみで振るわれる剣を避け、また同時に攻撃へ転じていた。

 

 どこからか息を呑む音が聞こえる。鬼との戦いでは鬼の豪腕を信綱の技術がいなす戦い方だったが、こうして技と技を比べ合う戦いは初めてである。

 文と椛、二人の目から見て両者の剣術は同格に見えた。人の身でここまで練り上げた信綱を称えるべきか、百鬼夜行すら退けた信綱の剣術と同格の天魔を称えるべきか。

 

(――辛い。今は拮抗させているが、元の地力が違う。妖怪と打ち合うなんて何時ぶりだ? あまり長く続けていたら俺が負ける)

 

 信綱は打ち合いの最中であっても冷静に彼我の状況を見極めていく。

 言うまでもなく信綱は天狗と身体能力を比べて勝てるものではない。人間の中では極限まで鍛え抜かれて、人間を半歩超えたような身体能力の持ち主であっても、妖怪と比べられはしない。

 今だって打ち合いができているのは信綱が上手く力を受け流しているからであって、それも天魔の技巧の前には長くは続かない。

 正直、内心で舌を巻いている。弱いとは思っていなかったが、技術の面でもこれほどに腕が立つとは思っていなかった。

 

 ともあれ、このまま相手との打ち合いを続けていたらジリ貧、ないしそのまま決着になってしまうのは明白。

 ならば先に手札を切る必要がある。それも天魔の虚を突けるような特別なものを。

 

「――ッ!」

 

 最初の変化は天魔より。信綱の斬撃を紙一重に避けたはずの天魔の頬に赤い筋が走ったのだ。

 無論、天狗にとってかすり傷などないも同然。しかし、ここで重要なのは信綱の剣を避けたはずにも関わらず、傷がついたことである。

 その身で受けた天魔にはどんなカラクリがあるのか理解したらしく、信じられないものを見るような目で信綱を見る。

 

「――呑まれたな」

「天狗の技だろ、それ……!?」

「そうでもない。星熊勇儀と戦っていなければ思いつかなかった」

 

 霊力も使わず、純粋な技巧のみで実際の刃以上の射程を生み出す。

 鬼は豪腕に物を言わせて。天狗は風を操って実現するそれを信綱は技術だけで自力にしてみせた。

 打ち合いの最中はどこか余裕すら浮かべていた天魔だが、これには驚いたようで仕切り直しをしようと腕が大きくしなる。

 

 

 

 主導権は譲らない。当然、信綱に彼の仕切り直しを許すつもりは毛頭ない。

 

 

 

「――そこ」

「っ!?」

 

 木刀の柄。右の木刀を振り抜くような姿勢で斬撃を食い止めた信綱は一気に懐へ距離を詰め、その柔らかな腹部へ左の木刀を容赦なく突き込む。

 

「ご、ぶ……っ!」

 

 木刀と言えど先端はそれなりに鋭く、勢いと技術、そして場所さえ選べば突き刺すことぐらいは容易となる。当然、信綱にできない道理はなく――木刀は天魔の腹部を刺し貫いて、背中へと突き抜ける。

 口から血を吐いて膝をついた天魔の首に木刀を当てる。詰みだった。

 

「……降参を認めないならまだ続ける」

「参った。あーくそ、妖怪だからって容赦ねえな本当に」

 

 天魔は苦笑いを浮かべて腹部の木刀を引き抜き、立ち上がる。

 さすがというべきか、その傷はすぐに再生を始めてあっという間に治癒してしまう。木刀二振りで天狗を殺し切ることは難しいらしい。

 

「あやや、天魔様の腹に躊躇なく木刀を突き刺すとは、私も冷や汗をかきましたよ」

「椛にやったことと同じだ。妖怪に単純な殴打は効果が薄い」

 

 よほど強く叩いてもすぐに治ってしまう。骨折なども同様のため、力を削いだとわかりやすく教えるには人間を殺すつもりで戦うぐらいが良い塩梅になる。

 それに最初の応酬は信綱にとっても辛い状態だったようで、見るとはだけた上半身には汗が滴っている。

 

「全く、天狗の速度と膂力に正面から勝てるものかよ。曲芸の一つでもなければ危なかったのは俺だ」

「ちゃんと打ち合ってたじゃねえか。ご丁寧に腕の負担も軽減しながら」

「お前のおかげで綱渡りだったがな。あそこまでやれるなら星熊勇儀ぐらい勝てるだろう」

「ムリムリ。妖力は霊力みたいな妖怪特攻はないし、勇儀の姐さんの身体に刃が通せねえよ」

「とことん相性が悪いな鬼と天狗は」

「仰るとおりで。誰がそうしたのか聞いてみたいくらいにな」

 

 肩をすくめる天魔は本当に困っている様子だった。きっと鬼に面倒を押し付けられた経験が相当あるのだろう。

 そんな天魔だったが、しばらく休むとまたも雰囲気を変える。今度は私人としてではなく、天狗の首魁たる天魔としての姿だ。

 

「――さて、それじゃオレは戻る。次に会う時はスキマの主導で集まっているだろうさ」

「スキマの?」

「内容はその時のお楽しみってことで。またな、人間」

 

 どんな要件だよ、と問い詰める間もなく天魔は飛び去ってしまう。

 何か知らないかと文を見やるが、首を横に振られる。わからないようだ。

 あの紫が天魔にだけ教えて信綱に教えない理由がわからない。幻想郷の進退に関わる話なら、今の信綱を無視する理由はないはずだ。

 まだ何かしらの面倒が待っている。少なくとも天魔、紫と同じ席に集まることというものが。もしかしたら他の妖怪もいるかもしれない。

 

 いい加減阿弥との時間に注力したいものだ、と溜息を隠さない――と、そこで椛に伝えるべき要件を伝えておくことにした。

 

「ああ、椛。人里に来る前に一つ頼まれてくれ」

「? はい、何でしょう」

 

 

 

「阿弥様が会いたいと仰っていた。会いに行け」

「あれ、頼みというより命令!?」

 

 

 

 ただし、阿弥の言葉であるため内容は命令に等しいものであったが。




椛に阿弥のところに行けと言うのがこのお話の主軸です。そこに行くまで天魔とか出したらやたらと長くなってしまった。書きたかったから是非もないよネ!

ちなみに椛はノッブに散々いじめられているため、近接戦闘は割りとこなせたりします。ノッブの斬撃を受けられているのは、決して彼が手加減しているだけではありません。
それが何の役に立つのか? 弾幕ごっこが成立したらあんま役に立ちません(真顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

御阿礼の子と阿礼狂い

 信綱が椛を伴って稗田邸に戻ると、阿弥は大層驚いた様子でそれを出迎えた。

 

「こんにちは、阿弥ちゃん。お久しぶりですね」

「椛姉さん!? え、今日も父さんに何かされたんですか?」

「天魔からの要請で彼女を預かることになりました。しばらくは人里に常駐させる予定です」

 

 細かい説明は省いて、椛が当分の間人里を活動拠点にすることを信綱が告げる。

 椛がなんだか遠い目をしていたのがちょっと気になったが、とりあえず阿弥は嬉しいという自分の感情に素直になることにした。

 

「じゃあいつでも会えるんですね、嬉しいです!」

「そう言ってもらえると私も嬉しいですよ。この前は引きずられて来ましたけど……」

「別に良いだろう」

「君は少し反省しなさい!」

「……何を?」

 

 少し前に交流区画で遊んでいた椛を無理やり連れてきたことだろうか。しかし阿弥が信綱の手助けなしで料理をしようとしていたのだ。

 ならば万全の対策を取るのが信綱の役目である。相手の都合? 御阿礼の子以上に優先されるものなどない。

 

 反省の色がないどころか、どこが悪いのかすら認識していない様子の信綱に椛はため息をついて肩を落とす。

 こういう人間だとわかってはいるが、些細な部分で常人と違う点を見せられると思うところがある。

 

「彼女に話があると仰っておりました。私は席を外しましょうか?」

「お願い、父さん。あ、自警団の人が呼んでたから行ってあげて」

「かしこまりました」

 

 恭しく頭を下げ、完璧な所作で下がっていく信綱を椛は今でも信じられないものを見るような目で見送る。

 自分の前では礼儀? なにそれ美味しいのと言わんばかりの態度を取るくせ、阿弥に向ける態度は別人のようなそれだ。

 椛の視線に気づいたのか、阿弥が困ったように笑いながら話しかけてくる。

 

「あはは……私にはあれが自然なんですけど、椛姉さんには珍しいですか?」

「そりゃもう。ついさっきまで私の手足を斬り飛ばした人とは思えません」

「何やってるんですか!?」

「稽古です。ほら、妖怪は色々頑丈ですし」

 

 それ含めても信綱のやり方には凄まじいものがあるが、強くなっているのも事実なのであまり強くは言えない。

 

「……後でお説教ね」

「程々にお願いしますね? それぐらいやらないと強くなれないんですよ私も彼も」

「……大変なのね、椛姉さんも父さんも」

「彼は人間で、私はしがない白狼天狗ですから」

 

 尋常の鍛錬では尋常の結果しか生み出せない。百鬼夜行の主をも打ち倒してみせた道理を蹴飛ばすような実力は尋常ならざる鍛錬に身を置き続けるしかないのだ。

 

「それより話とは何ですか? あの人にできないものだということはわかりますが……」

「あ、そうでした。私の部屋に来てください」

 

 椛の手を引いて阿弥が自室へと案内していく。

 かつて見た時はあどけない少女だった阿弥だが、今の彼女には椛の語彙では上手く表現できない何かがあった。

 無理に例えるなら、どこか憂いを帯びたことによって生まれ来る色気のような何か。そんな雰囲気があるのだ。

 

 そうして招かれた部屋は墨の香りが漂う空間だった。

 信綱が見栄えを整えているのだ。チリ一つ残っていない部屋だが、それでも墨の香りがしてしまうほどこの少女は書物と親しいのだろう。

 阿弥に促されて座布団に座り、対面に座る阿弥を見る。凪のように落ち着いているようで、しかしその瞳には揺れる何かがあった。

 

「何か、困ったことでもありましたか」

「……どうして私の周りには察しの良い人が多いのかしら」

「私はほら、よく周りを見ていますから。それにあの人はあなたしか見ていませんし」

 

 場を和ませようと信綱のことを話題に出した一瞬、阿弥の顔が悲痛に歪んだことを椛は見逃さなかった。

 信綱が関連していることだ、と当たりを付けた椛は出されたお茶を飲みながら彼女が話すのを待つ。

 

 彼が阿弥を悲しませるような行動を取るとは思えない。というか取ったら腹を切って詫びようとするだろう。あれが望むのは阿弥の幸福ただ一つであり、それを阻むものは自分であろうと排除するはずだ。

 ならば必然、彼女が思い悩むことは限られてくる。例えば――彼女自身の心の問題とか。

 

「……お話したいことというのは、父さんのことなんです」

「ふむ」

 

 まあ想定の範囲内である。というより、椛と阿弥の共通の話題は彼ぐらいしかない。

 何やら決意を秘めた様子の阿弥に、椛はどんな質問が来るのかと身構え――

 

「単刀直入に聞きます――椛姉さんは父さんのことが好きですか!?」

「ゲフッ!? ゴフッ、けほ、けほっ!」

 

 むせた。天魔に人里の常駐をいきなり押し付けられたことと言い、なんだか最近は驚いてばかりである。

 しかし阿弥は椛の驚愕を気にする余裕すらないのか、真っ直ぐにどこか追い詰められた様子すら浮かべて椛を見つめている。

 

「答えてください。父さんのこと、どう思ってるんですか」

「いや、それは、その、ええと……友人だと思ってますよ。はい」

「異性として見たことはないんですか? あの人の腕に抱かれたいと思ったことは?」

「ないです」

「そ、そこはハッキリ答えるんですね……」

 

 関係を訪ねた時は頬を赤らめてしどろもどろな答えだったのに、次の質問に関しては即答だった。

 あの男の本質である阿礼狂いに最初に気づいたのは椛だ。それ故、彼が御阿礼の子以外を愛さないことも知っている。

 その彼に抱きしめられる? 背中に隠した刃で殺される懸念をすべきだろう。あの年中仏頂面な男の口から睦言が出るとか想像もできない。

 

 椛の即答の早さに思わずたじろいでしまった阿弥に、今度は椛が声をかけていく。彼女が聞きたいことはもう理解しているつもりだ。

 

「阿弥ちゃん。……あの日に尋ねてきた感情の答えが出たんですね」

「……はい。私はあの人が好きなんだって、気づきました」

 

 切なげに胸を押さえる様子は信綱を求める恋する乙女のそれであり、椛はこの場にいない信綱のことを考える。

 恋を自覚したのなら言えば良い。だが、こうして椛に相談をしに来るということは何かしら理由があるのだろう。

 そもそも、それなら椛に信綱を懸想しているかなど聞く必要がない。恋敵を増やしたいのかという話である。

 ……まあ、椛は自分があの男になびくとかあり得ないと思っているが。人間として見ればこの上なく信頼していても、そういう対象に見られるかは別問題だ。

 

「なぜ、彼に言わないのか聞いても良いですか」

「……父さんの一族がなんて呼ばれているかは知っていますか?」

 

 うなずく。一時期は信綱の傑出した活躍によって霞んでいたが、百鬼夜行異変の際にその名を多くの人妖に知らしめていた。

 

 阿礼狂い。昔から今に至るまで一秒たりとも彼は英雄の名誉に酔うことはなく、御阿礼の子に狂っている。

 成長はしているだろう。阿七から教わったことや多くの人妖と触れ合い、人と人のつながりを重要視したり調和を尊ぶ心は決して阿礼狂いのままでは得られなかったものだ。

 しかし、優先順位の変化はない。ここまで積み上げてきた人妖の共存でさえ、彼にとっては御阿礼の子が望めば容易に手放せるものに過ぎない。

 

「あの人たちは絶対に私たちを守ってくれます。阿礼の時からずっと、変わりなく。でも、本来なら私たちの転生周期はもっと長く、同じ人が私たちに仕えることはなかった」

「…………」

「父さんだけが例外。子供の時から阿七に仕えて、そして私まで守ってくれて――多分、阿求の代までお願いします」

「……あの、話が――」

「それはあの人にとって何よりも辛いこと」

 

 話が見えない。そう言おうと思った椛の声を遮り、阿弥はそれを言ってしまう。

 いつか訪れる別れであり、信綱が再び絶対に癒えぬ傷を背負う瞬間を。

 

「あ……」

 

 言われて椛も気づく。阿礼狂いにとっては価値基準も判断基準も全てが御阿礼の子を至上とする。

 ならば、御阿礼の子の死は彼らにどんな意味があるのか。

 考えるまでもない。自分の身が八つ裂きにされるより苦しいことであると容易に想像できてしまう。

 

「父さんはもう阿七の時に一度それを受けているんです。そして私もそれを味わわせる。……そんな醜い女が、あの人に告白なんてできるわけありません」

「……それは」

 

 何も言えない。阿弥と信綱の関係は、例え長い付き合いであっても外側からの第三者である椛が何かを言ってはいけない気配があった。

 ずっと自分に傅き続けてきた人に恋をしてしまった阿弥の想いは阿弥にしかわからず、そんな阿弥に仕え続ける信綱の気持ちもまた彼にしかわからない。

 

「私はあの人に幸せでいて欲しい。いつか酷い約束をさせる私以外の人なら、と思って椛姉さんに尋ねてみたんですけど……」

「阿弥ちゃん、それは違います」

「え?」

 

 今度は椛が阿弥の言葉を遮り、断言する。

 虚を突かれて呆けたようにこちらを見る阿弥に、椛は静かな意思を乗せた表情で口を開く。

 

「あの人が幸せを感じられるのは、あなたの側にいる時だけです。例え最期に彼に酷い仕打ちをするとしても、それでもあの人はあなたとの時間を否定することだけは決してありません」

 

 椛は彼と一緒の時間を過ごして長いが、彼の口から御阿礼の子に関する愚痴を聞いたことは一度もない。

 死別してしまった阿七のことは傷として残っているだろう。しかし、彼はそれで阿七と過ごした時間を全て決めるほど真っ当な性根はしていない。

 

「…………」

「彼はあなたがどんなワガママを言っても笑って受け入れますよ。そりゃあ死別は泣くかもしれませんが、必ず立ち上がってあなたの願いを叶えようとするはずです」

「……そうですね。椛姉さんの言うとおりです」

 

 だから彼と話し合って――と言おうとした瞬間、椛は自分が何か失言をしてしまったことを察する。

 儚げな笑みを浮かべた阿弥は椛の言葉にゆるゆると首を振り、伏せられた相貌から一筋の涙が零れた。

 

「あの人は私を全部受け入れてしまう……きっと、この想いも。でも――それは彼の意思ですか?」

「……っ!」

 

 阿弥が何を悩んでいるのか。その本質に椛はとうとう思い至る。

 狂気の域に達した忠誠を捧げ続ける一族の人間に、一人の個人としての意思を求めることの無慈悲さが。

 阿弥の質問に答えられる者は誰もいない。それこそ当人である信綱にすら、阿礼狂いでない意思がどこにあるかなど知る由もない。

 

 当人ですら存在を証明できない火継信綱自身の心。阿弥が熱望しているのはそれであり――心優しい彼女は、それが手を伸ばして良いものでないこともわかっていた。

 手を伸ばしたが最後、彼は見つかるはずのないものを見つけようとして彼女の手から離れるだろう。

 少なくとも今のように家族ではいられまい。阿弥が信綱に求めているものを彼は正確に理解してしまうが故に、阿弥に代替行為を許さない。

 

 椛は全てを理解した。何がいけないとかそういったことではなく巡り合わせの妙であり、悲劇であると。

 狂人とそれを求める少女の関係に呑まれてしまった椛に対し、阿弥は儚い笑顔を向ける。

 

「だから私はこれで良いんです。これはこれで好きなんですよ? あの人は父さんと呼ぶとどこか戸惑ったような顔になりますけど、呼ばなきゃ寂しそうな顔にもなるんです」

「……ふふ、それは見てみたいですね」

 

 何かを言おうとして、しかし椛は何も言うことなく阿弥の言葉に笑みを浮かべる。

 彼女なりに悩み、苦しみ、考えに考え抜いた末での決断なのだ。第三者でしかない椛に言えることなど何もない。

 想いを告げても信綱は自身が阿礼狂いとして彼女の想いに応えられないことを呪うだろうし、阿弥はそんな信綱を見て自身の行動を悔やむだろう。

 ならば告げないのも一つの道ではないだろうか。残り少ない時間なのだ、静かに過ごしたいと願う阿弥の選択を誰が責められる。

 

 御阿礼の子と阿礼狂い。しがない白狼天狗を自認していたのだが、この二人に頼られるようになる時が来るとはあの頃の自分では想像もできないだろう。

 瞑目して言いたいことをまとめていく。

 それで良いのか、と確かめる段階はすでに過ぎている。ならば問うべきことは一つしかなく。

 

「……阿弥ちゃん」

「はい? なんですか?」

「今、幸せですか?」

 

 その質問に対して、阿弥は椛が見惚れてしまうほど、綺麗な笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

「――はい。もちろん」

 

 

 

 

 

 そして時の人である火継信綱その人は――

 

「ハッハッハッハッハ! お固い性格かと思いきや意外や意外! 結構イケる口じゃないか!!」

「っぶはぁ!! 鬼が博麗の巫女ナメんじゃないわよ! あんたこそ着いてきなさいっての!」

「…………」

 

 盃になみなみと酒が注がれ、それを一息に飲み干す飲兵衛――彼女らの面目を保つ意味でこの言葉はやめておこう――酒好きな少女二人が樽ごと乾かすのではないかと言う勢いで酒を飲んでいる光景を眺めていた。

 

 目の前で繰り広げられている光景に頭痛を覚えてしまう。

 

 ここ数年で特に問題も起きていないため、徐々に広げている交流区画の中。自警団に呼ばれた所用を片付けた後、妖怪と人間が入り乱れる光景に物珍しさを覚えないほどに見慣れた場所を歩いていると、店で騒ぎが起きているのが見えたのだ。

 今は日も高い時間。酔漢が喧嘩をするにも少々時間が早いと考え、妖怪と人間がまたぞろ何かを起こしたのか、と思いながら信綱は騒ぎの元へ向かう。

 騒ぎがあったら自分に伝えるように言っているのだ。騒ぎを見つけたら無視はできない。

 

「何事だ」

「へ? 誰……って、英雄様!?」

「喧嘩か? 妖怪同士なら私が仲裁するが……」

 

 仲裁すると書いて無力化するとも書く。無辜の民に血しぶきの舞う光景を見せるわけにはいかないので、後頭部を強打して意識を奪うくらいだが。

 信綱に話しかけられた青年は恐縮したような困惑したような、どちらともつかない表情で道を開く。見た方が早いということだろうか。

 

 青年が動いたことで群衆の視線が信綱に集まり、皆一様に困った顔になる。

 喧嘩の類なら助けが来たと言わんばかりに輝くのだが、今日は違う。一体何がどうしたというのか。

 

 そうして店の中に入り、話は冒頭に戻る。

 

「…………」

 

 ガバガバと酒を飲み干していくのは、かつて信綱が首を落とした星熊勇儀と仕事熱心なはずの博麗の巫女。

 お前ら何やっているんだ、という文句も今は浮かばない。酔っぱらいに絡まれるのが面倒なことであるというのは、人生経験上身に沁みている。

 二人とも酒を飲むのに夢中で信綱には気づいていない。信綱は入口側の席に陣取っている博麗の巫女の背中を呆れた顔で見ながら、看板娘に熱いお茶を用意するよう小声で頼む。

 

「済まない、熱い茶をくれ。酔いも冷めるようなものを頼む」

「わ、わかりました……でも、お二人に飲ませるにはちょっと……」

 

 無謀だと言いたいのだろう。信綱もバカ正直に正面から向かう気はない。酔っぱらいはいつだって道理や事情を蹴っ飛ばして来る。

 

「まあ任せておけ。気づくのが遅れて悪かったな」

「い、いえ! 店中のお酒を飲んでもらえるなら、お金もいっぱい入りますから!」

 

 たくましいことである。尤も、巫女と勇儀が金を持っていればの話だが。

 そうして熱い茶の入った湯呑みを受け取ると、信綱はそれに口をつけることなく軽いものを投げるように巫女の後頭部目がけて投げる。

 それは精妙な力加減によって中のお茶を零すことなく巫女の後頭部へと吸い込まれていき、すこーんと良い音を立てる。

 

「ごぶっ!?」

「んぁ?」

 

 後頭部に走る衝撃に巫女は咳き込み、何事かと勇儀の顔が盃から上がる。

 彼女の眼前には、巫女の後頭部を湯呑みの底に掠めるように当たって回転し、茶の入った面を向けている湯呑みがあり――一本角に引っ掛かってその中身を顔面にぶちまけた。

 

「熱っ!? うおっ、あちちちちちち!?」

「痛っ! 頭が割れるように痛い!?」

「…………」

 

 沸騰寸前のお茶が目に入って悶える勇儀と、それがたっぷり入った重たい湯呑みを後頭部に受けて悶える巫女。二人とも酒どころではない。

 そんな二人の首根っこを引っ掴み、呆然と見ている看板娘に謝意を込めて軽く頭を下げる。

 

「騒がせたな。金は後でこいつらからせしめて持って来させる」

「い、いえ……ありがとうございます」

「ああ。こいつらには節度というものを教え込んでおくから、次来た時は拒まないでやってくれ」

 

 コクコクとうなずく看板娘と野次馬を押しのけて、信綱は外に出る。

 適当なところで曲がって視線を外すと、信綱は辟易した顔で二人を地面に放った。

 

「……で、お前らは何をやっていたんだ」

 

 すでに回復していた勇儀がニヤリと笑い、どっかと地面に座り直す。

 

「何って、酒場で鬼がやることなんて一つしかないだろう」

「じゃあお前だ。博麗の巫女の仕事はどうした」

「妖怪に舐められちゃあ黙ってられないわよ。でも殴り合いの喧嘩なんてやったら大騒ぎだし、そうならない穏便な方法を選んだだけって痛っ!?」

「大騒ぎになったわ阿呆」

 

 巫女の頭を叩いて、勇儀の方に向き直る。

 

「……まあお前であろうと悪さをしなければ文句はない。金はあるんだろうな」

「へ? そんなもん、あの看板娘をちっと脅せばタダに――ぐぉっ!?」

 

 手加減無しの蹴りを顔面にぶち込む。さすがに倒れ込んだ勇儀に容赦なく追撃を加えていく。

 

「お前には、貨幣経済、というものをっ、根幹から、教えるっ、必要が、ありそうだ、なっ!!」

「ちょ、待って待って冗談だって! だから蹴るのはやめろって! 痛い!?」

 

 ゲシゲシと蹴ってくる信綱に、慌てて勇儀は懐から取り出した金銀財宝を見せる。鬼の首魁だけあって、かつて大江山にいた時に貯めこんだ財宝も相応にあるようだ。であれば後は謝罪して渡せば良いだろう。

 さて、と信綱は巫女に視線を向ける。後頭部を二度も叩かれてブツブツ言っていた巫女だが、信綱と視線を合わせると気まずそうにそらす。

 

「…………」

「…………」

「……まさかとは思うがお前」

「う、うるさいわね! 良いじゃない、そこの鬼がおごってくれるって言うんだから! 私だってちょっとくらい肩の力を抜きたかったのよ!」

「博麗の巫女が鬼にたかって良いのか……?」

 

 この巫女はなんだかんだ真面目でまともな価値観を持っていると思っていたのだが、と信綱は呆れて頭痛のする頭で二人の処遇を考える。

 

「おい一本角、お前は何か騒ぎを起こすつもりはないな?」

「うん? そりゃ売られた喧嘩は買うけど、そうじゃなきゃ私からは仕掛けんよ。喧嘩になっても手加減ぐらいするさ。お前さんに負けたことを他の人間に八つ当たりするつもりはないね」

「……なら良い」

 

 妖怪は人間である信綱には訳のわからない価値観を持っていることが多いが、同時にその価値観から逸脱する行いはしない。

 二十年以上前の約束をレミリアが未だ愚直に守り続けるように。彼女らは交わした約束と自分を打ち倒した人間に対しては誠実だ。

 

「行っていいぞ。あまり店に迷惑はかけんようにな」

「へいへいっと。お前さんも戦っている時とは別人だねえ、今度一緒に酒でも飲まないかい?」

「気が向いたら考えてやる」

 

 すでに手に持っている盃で酒を飲み始めている勇儀が立ち上がって信綱に背を向けて去っていく。

 百鬼夜行で刃を交えたものの、勇儀は信綱に対して正面から向かい、交わした言葉に嘘はなく誠実だった。

 異変を起こした相手として警戒は怠っていないが、生粋の鬼として嘘をつかないことは信用できると判断していた。どこぞの阿弥に手を出した鬼畜生とは大違いである。彼女は今頃どうしているのだろうか。

 

 考えても詮なきことを思いながら信綱は巫女に向き直る。酒が抜けてきて自分の行いを省みたのか、その顔は不貞腐れているように見えながらも反省の色が伺えた。

 

「……何よ」

「……いいや、なんでもない」

 

 本人が反省しているなら何も言うことはない。彼女も良い年の人間だ。今さら信綱が小言を言う必要もないだろう。

 その信綱の態度がまた癪に障ったのか、子供のようにそっぽを向く巫女。これで見た目が若々しくなかったら吐き気すら覚える挙動である。

 

「帰るぞ。博麗の巫女が里で酔い潰れたなど、醜聞以外の何ものでもない」

「良いわよ。人里にはあんたがいるんだし」

「俺は阿弥様にだけ仕えていたいんだ。それ以外の面倒事はゴメンだ」

 

 地べたに座り込んでいる巫女を立たせ、博麗神社の方角へ歩こうとすると巫女に止められる。

 

「待って」

「どうした」

「……私、そろそろ巫女の役目が終わるかもしれない」

「そうか。帰るぞ」

「もう少し反応しないそこは!?」

「いや、別に博麗の巫女の代替わりはどうでも良い。お前もお役御免でせいせいするだろう」

 

 人里に被害が来なければ好きにしてくれというものである。紫とて次代の当てがないまま博麗の巫女を解任はすまい。

 全く興味を示さずさっさと歩き出した信綱を追いかけて、巫女も並んで歩き始めたところで信綱が口を開く。

 

「そろそろということは、今はまだ巫女なのか」

「あー……まあそろそろって言っても紫の言葉だし、まだ巫女は続けるけどね」

「妖怪のそろそろなんて当てにならんぞ。あと十年近くはありそうだな」

「う、そう言われるとそうかも……」

 

 わかっていなかったのか、と呆れるがそれだけ巫女にとっては嬉しいことなのだと思い直す。

 信綱が十代の年若い頃から巫女をしていたのだ。すでに三十年以上が経過しているだろう。

 幻想郷が何かと騒がしい時代で死ぬこともなく巫女の役目を果たした彼女が、ようやく訪れる役目の終わりにハメを外すのも無理はない。

 が、それはそれとして人里に迷惑をかけて良い道理はないので、最低限の小言は言っておく。

 

「……お前の気持ちには理解を示そう。しかし、まだお前は博麗の巫女なんだ。あまり変な騒ぎは起こさないでくれ」

「わかったって。あんたは私のお母さんか!」

「やりたくてやっているわけではない。誰も言わないから俺が言っているんだ」

 

 説教というのは教えを説くと書く。教えとは人の道理だ。そして人の道理とは常人にとっての道理である。

 ならばその道理に背を向けている阿礼狂いは、説教をする資格から程遠い人間であると言うことができた。

 説教をする役目は慧音など、本心からその人間を思っている者がやるべきだ。信綱のように表面だけ取り繕っている狂人がやるべきことではない。

 

「…………」

「……どうしたの?」

「……なんでもない。神社に帰るぞ」

 

 自分の狂気と説教との関係の遠さを彼女に説いても詮なきこと。それに思い悩むのなら説教をする前にやるものである。

 そうやって割り切ろうとしていた信綱の背中に、巫女の意外な声がかけられた。

 

「そう。……あー、その、なんていうかありがとね、怒ってくれて。あんまそういう人っていなかったからさ、嬉しかった」

「…………」

 

 この巫女の勘の良さというか、間の良さは天性のものである。

 柄にもないことをやったと自己嫌悪しているところにこれは、もはや狙っているとしか思えない。

 しかし素直に感謝するのもなんだか巫女の手のひらの上にいるような気がして腹が立つ。

 なので信綱はいつの間にか隣に並んでいた巫女の背中を強めに叩いてごまかすことにした。

 

「痛っ!?」

「そんな寂しいことを考えている暇があるなら友人の一人も増やすことだな。俺のような変人にばかり構っていても、良いことはないぞ」

「お生憎様、私も人里じゃ十分に変人の扱いなのよ」

 

 屁理屈だ、と言おうとしたところで巫女が浮いているのがわかった。見送りはここまでで良いようだ。

 

「それじゃ、今度はあんたが神社に来なさい。いつの間にか覚えた霊力のことも聞きたいし」

「俺があまり強くなっても困るんじゃないか」

「今更よ」

 

 信綱の言葉に巫女は苦笑する。百鬼夜行異変で鬼の首魁二人を打ち倒した彼に敵う相手など、幻想郷全体を見ても数えるほどしかいないだろう。

 それに彼の人間性はなんだかんだ見極めているつもりだ。御阿礼の子に対して手を出すことさえしなければ、彼は人並み以上に懐の深い性格である。御阿礼の子に手を出した結果はレミリアと萃香が身を持って教えてくれた。

 

「じゃ、またね。約束は忘れないように」

 

 信綱の反応を許さず、巫女の姿が空の向こうに消えていく。

 十年以上も昔に交わした口約束。あれは彼女の中で今でも意味を持っているらしい。

 その意味するところは信綱も理解している。四十を迎えた頃からパッタリと途絶えていた婚姻話が今になって現実味を帯びてくるとは、人生もわからないものである。

 

「物好きなことだ……」

 

 お互い老齢に差し掛かろうとしている者同士としてはお似合いなのかもしれない。鍛えているからか、どちらも比較的若さを保っているのも共通項と言える。

 しかしわからない、と信綱は彼女の好みに首を傾げる。

 自分は阿礼狂いであると再三言っているのだ。阿礼狂いは御阿礼の子以外を愛さず、家に迎え入れても家族になどならないというのに。

 一体何が彼女を自分のような狂人に向かわせるのか。信綱には皆目見当もつかない。

 

 自分が並の人間より優れている自覚はあるが、人を愛するのに必要なのは能力ではない。

 力がなくとも、誰かを誠実に愛せる人間はそれだけで信綱より上等な人間だ。あの巫女にはそういった人物の方が似合うと思っていたのだが。

 と、そんなことを考えることのバカバカしさに自嘲しながら帰路につく。どうにも自分は女心がわからないらしい。この推測も巫女に語ったら鼻で笑われるのだろう。

 

 稗田邸に戻ると、椛が出てくるところだった。彼女と目が合い、椛はなにか驚いたように目を見開く。

 

「どうした。俺の顔になにかついているか?」

「……い、いえ。なんでもありません」

 

 そんなぎこちなく首を横に振られて、なんでもないという言葉が信じられるわけがなかった。

 信綱は微かに目を細めるが、椛は何も言わないのでため息をついて流すことにする。

 彼女が阿弥を泣かせているとは思っていない。その可能性をわずかでも考えていたら、稗田邸を離れない。

 

「……まあ良い。内緒話でもしていたのだろう」

「……そうですか。ありがとうございます」

「別にいい。お前なら何も言わん」

 

 これが紫とかだった場合、信綱は阿弥に出て行くように命令されても彼女の側を離れようとはしなかっただろう。

 それより今は阿弥のことが重要だ。所用も終わらせてきたのだから、彼女との時間を改めて大切にしなくては。

 そう思って椛の横を通り過ぎ、屋敷に入ろうとした時のことだった。椛に呼び止められたのは。

 

「信綱」

「……ん?」

 

 椛が自分の名前を呼ぶとは珍しい。慌てている時か、何か特別な時ぐらいしか呼ばないというのに。

 振り返ると、椛はどこか真剣味を帯びた声で一つの質問を投げかけてきた。

 

 

 

「――阿礼狂いであることを疑問に思ったことはありますか?」

 

 

 

「ない」

「……即答ですか」

 

 考えるまでもない質問である。

 自分の人生を迷うことなく捧げられる目的が、生まれた時から存在するのだ。これ以上の幸せなどどこにある。

 

「質問はそれだけか? お前ならわかっていただろうに」

「……はい。すみません、つまらない質問をしてしまいました」

 

 椛は馬鹿げた質問をしたことを謝罪し、同時に阿弥の言葉の意味を理解する。

 これは確かに。御阿礼の子が阿礼狂いに恋をしたなど言えるはずがない。

 

 信綱が悪いわけではない。彼は徹頭徹尾、自らの役目と願いに忠実であるだけで、そこに阿弥を貶める意図は一欠片も存在しない。

 阿弥も当然、悪いわけではない。生まれた頃より共にいる異性であり、そして彼女のために生きる男性に恋をしてしまうことの何が間違いなのか。

 

 誰も悪くなく、誰も間違っていない。ただ、最初から無理だった。阿弥は生まれた時から御阿礼の子で、信綱は生まれた時から阿礼狂いだった。

 彼らが普通の男女だったなら、結ばれる未来もあったのだろうか。そんな詮なきことを考えてしまい、椛の顔に儚い笑みが浮かぶ。

 

「……おい、どうした?」

 

 その笑みを見た信綱は訝しむように、そして微かに心配するように椛の顔をのぞき込む。

 彼がもっと冷徹に、感情を排した阿礼狂いだったら今のようにはなっていなかっただろう。何か一つ歯車が噛みあわなければ生まれなかった状況。

 椛は阿弥のために。そして信綱のためを願って一つの言葉を口にする。

 

 

 

「どうか――どうか、最後まで阿弥ちゃんと一緒にいてあげてください」

 

 

 

「……? 言われずともそのつもりだ」

「ええ、それが聞ければ十分です」

 

 椛の目尻に光るものが浮かんでいたが、信綱が言及する前に飛び上がってしまう。

 振り返ることも別れの挨拶も告げることなく去っていく椛を見送って、信綱は言葉の真意を考えて首をひねる。

 変に思い詰めたような顔をしたと思ったら、当たり前(・・・・)の質問をしてきた。

 

 少しの間考えて、思考を切り上げる。結局のところ、椛の願いは信綱が阿弥と共にいることに集約される。

 ならばこんな場所で無駄なことを考えてないで、彼女の側にいよう。

 もう阿弥の時間は残り少ないのだ。今は一分一秒が惜しい。

 そして最期の時が来るまで彼女の側に侍り続ける。それが自身のあるべき姿だ。

 

「ただ今戻りました」

「あ、お帰りなさい父さん!」

 

 廊下の向こうから聞こえる愛しい主の声を耳に、信綱は主にだけ見せる笑みを浮かべて歩いていくのであった。




話が進んでないと思うじゃろう? 次から一気に進めます(このままじゃ終わらん)

人の感情は表現するのが難しい(吐血)
ですがまあ、阿弥は告白することだけが幸せのカタチだとは考えず、彼に笑っていてもらえることが一番であると考えていることだけ伝わっていれば十分です。



GW中にもう少し更新したいですけど、勉強が忙しい場合は無理なのであしからず!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いの真実

「それでは阿弥様、行ってまいります」

 

 稗田邸の玄関にて。信綱は懐へ大切そうに一冊の書物を抱えて、見送りに来てくれる阿弥に微笑みかける。

 

「うん。気をつけてね、父さん」

「ご安心ください。すぐに戻ってきますので」

「あはは、もう心配はしてないよ。阿七の時はすっごい心配したけど」

 

 幻想郷縁起を八雲紫に届ける。今日はそれが予定されている日だった。

 これが終わり、転生の準備が終了すれば彼女は本当の意味で自由になれる。求聞持の力は消えないが、それでも稗田阿弥個人としての時間が生まれるのだ。

 例え数年の命であっても、その価値に陰りはない。信綱も阿弥が幸福に過ごせるよう、全力を尽くすつもりである。

 

「あの時はご心配をお掛けしました。全ては私の未熟です」

「あ、ううん。父さんが悪いわけじゃないよ。阿七が過保護だっただけ」

 

 阿七の幻想郷縁起を届けた頃は信綱が十代前半だった時だ。異変や妖怪と戦う機会もなく、どこか張り詰めた平穏な時間が流れていた時代。

 力を示す必要もなく、それにまだ烏天狗一体すら満足に倒せなかった未熟な自分だ。体格も完成しておらず、阿七が心配するのも当然であると言えた。

 

 反して今はあの異変を乗り越えた信綱を心配する必要などない。幻想郷の人間では間違いなく最強で、妖怪を含めてすら最強の一角に至った彼にできないことなら、人里の誰もできないことになる。

 とはいえ阿弥に全く心配されないのもそれはそれで寂しいものがあるが、表には出さない。そんな私欲で阿弥を煩わせては阿礼狂いの名折れである。

 

「中は見ていけないのですね?」

「うん。紫様宛に手紙があるから、そっちは絶対に見ちゃ駄目」

「かしこまりました。それでは行ってまいります」

 

 阿弥が紫に何か聞くようなことでもあったかと首を傾げるが、すぐに考えるのをやめる。

 主への詮索など側仕えの分を超えている。自分はただ阿弥の忠実な下僕であれば良い。

 

「行ってらっしゃい、父さん」

「……一応念を押しておきますが、玄関で待っている必要はありませんからね?」

「し、しないよっ! 父さんの方こそ過保護なんだから!」

 

 阿弥と阿七が別人なのはわかっているが、阿七に前科があるのだ。信綱もそれを警戒せざるを得ない。

 時期も秋に近づく今日このごろ、玄関前は少々待ち続けるには寒い場所だ。

 阿七より身体が丈夫といえど、身体に悪い行いをして良いわけではない。それで倒れられたら死んでも死にきれない。

 

 とはいえそれを指摘された阿弥は心外だったのか、顔を真赤にして否定してくる。

 こう言われては信綱も信じるしかなかった。心配そうな顔で、しかし何かを言うことなく信綱は外に出る。

 

 少々話は変わるが、稗田邸から妖怪の山に向かうには交流区画を抜ける必要がある。

 天狗との交流が主体なのだから、彼女らがやってくる妖怪の山側に場所を設けるのは当然といえば当然の話であり、今や妖怪の姿を人里で見かけないことの方が少ないくらいだ。

 

 無論、何かと揉め事も起きる。人と人が集まっても騒ぎが起きるのだ。人と妖怪なら言うまでもない。

 そしてそれらをどうにかするには信綱のように妖怪を相手にできる人間を用意する――ことなどできるはずもなく、人出を増やして数で対応していた状態だったのだが――今は違う。

 

 橙に何か土産でも持って行こうかと思って甘い菓子を見繕っていたところ、視界の端に見慣れた白狼天狗の姿を確認する。

 彼女の話はすでに人里へ通してある。人間の数で対処する方法も限界が目に見えていた上、何より人里の治安を管理するのは信綱の仕事だ。信頼できて、なおかつ常人より強い存在とか大歓迎である。

 そんなわけで彼女は今現在、自警団の面々を何人か連れての見回りに精を出していた。畏れを得るという目的も忘れていないのか、その表情は普段の人懐っこいものとは違い凛々しいそれだった。

 

 一声かけようかと僅かに逡巡するが、仕事の邪魔をすることもないと思い直す。

 それに彼女なら千里眼で自分のことには気づいているだろう。

 彼女の目がこちらに向いていないことを承知で、軽く手を振る。それで十分である。

 そして信綱は橙が確か好物だと言っていた菓子を懐にしまい、待ち合わせ場所である妖怪の山へ向かうのであった。

 

 

 

 阿七の頃に一度行っているため、マヨヒガへの道自体は覚えている。覚えているが、マヨヒガにはどういった理屈か迷い人であるか、誰かに招かれなければ到着することができないらしい。

 そんなわけで待ち合わせの場所を訪れると、見慣れた小柄な少女がなぜか仁王立ちで信綱を待っていた。

 

「遅かったわね!」

「時間通りのはずだが」

「私が遅いって言ったら遅いのよ!」

「…………」

 

 何も言わず信綱は妖怪の山への道を歩き始める。彼女の相手をしているのは面倒で仕方がない。

 そんな信綱の背中を追いかけて猫耳の少女は山に入り――

 

 その首元に刀を突き付けられる。

 

「ふぇ?」

「あの化猫は俺に対して子分と親分という立ち位置を明確にしたがる。あと、俺より自分の欲望を優先する」

 

 干物を持っていった時も信綱より干物を優先したのだ。甘味を持っている現在、彼女が本来優先すべきは信綱の糾弾ではなく懐の菓子を要求することである。

 そしてそれをしなかった時点で、彼女は橙以外の誰かであると信綱が判断するには十分だった。

 

「あまり趣味が良いとは言えないな。八雲の式」

「……参ったな。今回は私であることを読み取らせないように本気で化けたんだが」

 

 橙の姿だった体は虚空に溶け消え、信綱の前に現れるのは道士服に九尾の八雲紫の式、八雲藍。

 何やら最近は人里で油揚げを買い求めて店の前にいる姿を見かけるらしく、割りと人里に馴染んでいる部類だと聞いている。

 声こそかけなかったが、信綱も大根と長ネギがはみ出た袋を持って歩いている藍を見た覚えがあった。

 

「なぜお前は会う度に俺を試そうとする」

「本気で化けたと言っただろう。今回は真剣勝負のつもりで臨んださ」

「…………」

「ああ、うん。悪かった。勝手に悪戯してごめんなさい。だからこの喉元に突き付けてある刃を離してくれるとありがたい」

「…………」

「本当に悪かったと思ってるから!? 様々な大妖怪を打ち倒した君の実力を見てみたかっただけなんだ!」

 

 顔を確認できない背後で無言を貫くのはやめてほしいと思う藍だった。

 信綱は藍の謝罪が本当であると判断したのか、刀を収めてしかめっ面をする。

 

「お前は節度のある方だと思ったんだがな。どうにも違うらしい」

「強い人間を見ると試したくなるのは妖怪の習性みたいなものなんだ。済まないね」

「八雲の式がこれでは主の程度が……いや、なんでもない」

 

 嫌味を言おうと思ったのだが、八雲紫が意外と物事を適当に考えているのを知っているため、無駄になると思って引っ込める。

 藍はその様子に首をかしげるも、気を取り直して信綱の案内を始める。

 

「ちょっとケチがついてしまったが、マヨヒガへ行こうか。今代の幻想郷縁起は紫様もしっかり見る必要がありそうだ」

「お前たち妖怪が騒ぎを起こしたおかげでな。俺は大忙しだった」

 

 そして外来の妖怪であるレミリアのことや、再び地上に現れた鬼の知識など、阿弥の書く内容が多くなってしまった。

 尤も、御阿礼の子にとって自身の幻想郷縁起が充実するのは嬉しいようでニコニコしながら作業していたため、信綱に文句は言えない。

 

「ははは、物事というものは過ぎてしまえば良い思い出になるものさ。ところで、最近の人里では天狗が見回りをしているのか?」

「なんだ、スキマから聞いていないのか? 畏れを確保するために治安の維持に天狗をいくらか借りているんだ」

 

 信綱から見れば雑兵でも、常人から見れば恐るべき妖怪だ。良き隣人になりつつある今であっても、彼らとの力関係は何の変化もない。

 治安の維持という方向で、彼女らの力を人間に知らしめる場を作る。そうして畏れの獲得を目指す魂胆なのだろう。

 そのことを話すと、藍は興味深そうに何度もうなずく。

 

「ほう……、さすがは幻想郷での一大勢力といったところか。数が多ければ社会が形成されるという点で、人間と天狗は極めてよく似ている」

「言われてみれば、まともな社会を構築している妖怪は天狗ぐらいだな」

 

 天狗の仲間意識の強さもある意味異端なのかもしれない。信綱の知っている妖怪たちは大体が一匹狼気質というか、極めて少数の身内さえ良ければ他はどうでも良いと言うような連中が多い。

 ……類は友を呼ぶという言葉が頭をよぎったが、気にしないことにする。

 

「地底を含めればわからんが、地上ではそうなるな。実際、妖怪と人間の交流は幻想郷でも前例がない。私も紫様も、興味深く見守っているよ」

「そうかい」

 

 話を切って、信綱はさっさと歩き出す。後ろから藍が付いてくるが、何かを言う気配はなかった。

 紫にはいい加減、表舞台に出てこいと言っているのだが、今でも音沙汰は聞かない。

 いや、天魔はスキマの主導で集まる用事があるとか言っていた。その準備に追われているのかもしれない。

 

「……マヨヒガにはお前の案内がなければ入れないのではないのか?」

「私がついていれば問題ないよ。そう山奥に作っているわけでもないからもうすぐ到着する」

「そうか……む」

 

 薄暗い獣道を歩いていると、不意に視界が開けて広い場所に出る。

 人里の一角か何かだと勘違いしてしまうほど、この場所は妖怪の山に相応しくない穏やかな空気をまとっていた。

 柔らかく降り注ぐ日差しが目に眩しい。目を細めて歩くと、視界の端に見慣れた緑の帽子が見えた。

 

「あ、甘いもの!」

「やはりお前はそう来るか」

「痛い痛い! 会うなり耳引っ張るのはやめなさいよー!!」

 

 それなら会うなり人ではなく菓子に目が行くのをやめて欲しいものだ。

 橙の耳を引っ張るのがもはや一種の予定調和のようになってしまった。いくら言っても聞かないのは困ったものである。

 後ろの藍の目が怖くなってきたところで耳を引っ張るのをやめ、涙目で下がる橙に懐の菓子を差し出す。

 

「ほら、大事に食べろよ」

「やった! あんた、私の大好物を押さえるなんてわかってるじゃない!」

「……偶然だろう」

 

 言葉少なにそれだけを言って、信綱は話題を変える。

 こちらに近づいてくる彼女は汗の滴が光っており、服もところどころがほつれていた。子分の猫と遊んでいたと考えるには少々過激に過ぎるだろう。

 

「その格好はどうした」

「あ、忘れてた! 藍さま、言われていた修行をやっておきました!」

「うむ、偉いぞ橙。あれをやり遂げるとは成長したね」

「えへへへへ……」

 

 藍に頭を撫でられてふにゃりと相好を崩す姿に、信綱はいささか以上に驚いた様子になる。

 

「お前……本当に修行していたんだな」

「ホント失礼ねあんた! 最初に会った時とは大違いだってこと見せてやるわ!!」

 

 飛びかかってきたので紙一重で身を捻って避けて、すれ違いざまに襟元を掴んで持ち上げる。

 

「ふぇっ!?」

「百年早いな。お前だけが努力しているわけじゃあない」

「この、離せぇ!」

 

 ジタバタと暴れるので、藍の方に放る。空中で軽やかに身を翻して着地する様は、さすがに化け猫と言うだけはあった。

 だが当人にはそんなことどうでも良いようで、悔しそうに地団駄を踏んで藍の方に向かう。

 

「藍さま、次の修行をお願いします!」

「え? いや、さっき言いつけたやつを終わらせたのならもう休んでも――」

「お願いします! あいつをギャフンと言わせられるやつで!」

「そ、それは私でも難しい気がするが……」

 

 チラ、と藍の視線が信綱に向く。申し訳なさそうに伏せられたその視線の意味は、橙の相手をしても良いだろうかという確認だ。

 小さく首肯して了承の意を示す。ここまで来れば後は八雲紫に幻想郷縁起を渡すだけなのだ。別に藍と橙の案内は必要ない。

 

「せいぜい気張れ。俺は俺でもっと強くなるが」

「今に見てなさいよ!!」

 

 ビシっと信綱を指差し息巻く橙を尻目に、信綱は館の中へと入っていくのであった。

 

 

 

「なるほど、ああやって橙を炊きつけていたのね」

 

 かつて案内された部屋に入ると、紫が微笑みながら座っていた。

 信綱も対面に座りながら、肩をすくめる。

 

「さて、なんのことかわからんな」

「やっぱり相手がいると張り合いも出るから私としてもありがたいわ。ありがとうね」

「……お前、本当にスキマか? 素直すぎて怪しい」

「あなたが表に出ろって言ったんじゃないの!? 素直になったらそれは酷いわよ!?」

 

 日頃の積み重ねが原因だと思ったが、涙目になっている紫を見るとそれを指摘する気にはならなかった。

 

「まあそれはさておき。天魔がお前のことを話していたぞ」

「無視!?」

 

 聞こえないフリをして話を切り替える。紫は無視されたことに大仰なため息をつきながらも、信綱の話に合わせてきた。

 

「ええ、まあ。私なりに吸血鬼異変から連なる異変について考察してみましたの」

「ふむ」

「あなたたちが頑張った結果については言うまでもないけれど……、問題視しているのは原因。原因の究明ができなければ、またいつか同じような異変が起きるかもしれない」

「道理だな。いつまでも俺のような人間はいないだろう」

 

 そうポンポン生まれては妖怪側が困ってしまう、と紫は思っていたが口には出さない。

 正面からの実力勝負で鬼の首魁を薙ぎ倒すような人間、万年に一人生まれれば良い方である。

 

「いくつか考えてみて、そこで私は失策に気づいたのよ」

「失策?」

「ええ。――私一人で考えても、ロクな結果にならないってこと。だから天魔もレミリアも、今後の幻想郷に関わる皆で話し合おうと思ったのよ」

 

 かつて彼女の選んだ不干渉という在り方の間違いを認め、紫は苦笑いを浮かべていた。

 しかしそう言った彼女の表情にはどこか清々しいものもあって、信綱はそれを見て静かに口を開く。

 

「――最初からそうしていれば色々と楽に進んだのだ、馬鹿め」

「少しは優しくしてくれてもいいでしょう!?」

 

 結構良いことを言ったと思った紫だったが、肩を落として大きなため息をつく。

 この男に優しさとかそういったものを期待するだけ間違っていた。紫は大きな咳払いを一つして、強引に話題を戻す。

 

「と、とにかく! 今後の幻想郷に必要な掟を改めて決める必要があるのよ。時期が来たら私が直接赴くから、そのつもりでいて頂戴」

「それはわかった。……では、今日の本題に入ろうか」

 

 信綱は懐に収めてある幻想郷縁起を紫に渡す。

 

「聞いているとは思うが、阿弥様が作成した幻想郷縁起だ。校閲を頼む」

「ええ。……この時代は色々とあったから、さすがに厚みが違うわね」

「阿弥様は充実したお顔だった。俺から言うことは何もない」

 

 とはいえ、対処に当たった信綱は散々な目に遭ったので、二度と起きてほしくないという思いもある。

 御阿礼の子が望んだら? 彼女らの願いを叶えることが阿礼狂いの喜びだ。言うまでもない。

 

 紫が阿七の時代よりも遥かに分厚い縁起をパラパラと斜め読みするようにめくっていく。

 と、そこで間に挟まっていた紙がハラリと机の上に落ちる。

 

「あら、これは?」

「阿弥様からお前への手紙だ。俺も中身は知らん」

「見てもよろしいかしら」

「好きにしろ」

「では遠慮なく」

 

 封を切ってその中身を見て――紫の表情が消える。

 信綱と話し、幻想郷縁起を見ている時は親しい友人と一緒にいる時のように、どこか朗らかな雰囲気をまとっていたが、その面影がどこにも見られない。

 それだけの内容が書いてある手紙だったのか、と信綱は首を傾げる。

 

「何が書いてあった?」

「……言えないわ。阿弥はきっと、あなたに知られることを望まない」

「……そうか」

 

 そう言われては引き下がるしかない。自分と関係している何かを阿弥が求めているのは明白だが、それを教えるつもりはないようだ。

 

「だったら今のうちに行け。俺が戻った後は阿弥様の安全のためにも、側にいる必要がある」

「……良いのかしら?」

「俺が知るのは望ましくないんだろう。……ただ、阿弥様に一つだけ言伝を頼む」

「承りましょう。必ず伝えるわ」

「――俺はいついかなる時でもあなたの幸せを願っている、と」

 

 紫は無言でうなずき、スキマの中に消えていく。

 一人残された信綱はそっと息を吐くと、自らの胸に片手を当てた。

 

「……阿弥様、私ではあなたのお力になれないのですか」

 

 

 

 

 

 阿弥は一人、墨の香りがする自室で正座をして待っていた。

 信綱はおらず、女中たちの足音もどこか遠く。障子も閉め切って淡い日光が入り込むだけの、時間がゆっくりと流れるような空間。

 そんな中で阿弥は微動だにせず正座をしていたと思うと、おもむろに口を開く。

 

「……お待ちしておりました。紫様」

「……ええ、来たわ。阿弥」

 

 阿弥の前にスキマが開かれ、そこから幻想郷の管理者である八雲紫が姿を現す。

 紫の表情には感情が排されており――それでも隠し切れない、罪を懺悔するような後悔の色があった。

 

「いつか来るとは思っていたわ。ずっとあなたの側にいてくれる人間の一族なんて、疑問に思わないはずないもの」

「今まではそれに甘えて来ました。転生する度に人間関係が消える中、変わらずいてくれるあの人たちの思いはあなたの想像以上に心地が良かった」

 

 妖怪と人間の付き合いのように、形を変えて関係が続くというわけではない。

 転生の周期は本来百年以上。それだけの時間が空けば、御阿礼の子らにとって人間関係とは全て白紙に戻るようなもの。

 その中で変わらない人間がいる。それがどれほどの慰みになったか、紫でも想像することしかできない。

 紫は瞑目し、話すべき内容をまとめ、ゆっくりと口を開いた。

 

「……後悔はしないのね?」

「ええ。このまま何も知らないことが、私にとっては一番辛い」

「わかりました。ならば私もあなたの決意に応えて――話しましょう」

 

 

 

 ――阿礼狂いの起源を。

 

 

 

 

 

 事の始まりはそう珍しいものでもない。

 稗田阿礼から始まった幻想郷縁起の編纂。当時は人と妖怪が殺し合うことが当たり前のようにあった幻想郷において、その本の意義と制作の危険は群を抜いていた。

 

 様々な面で未熟かつ危険な世界であった幻想郷。そして妖怪退治屋は数こそ多かったものの、危険極まりない妖怪の領域にまで踏み入れるほどの手練はいなかった。

 幻想郷縁起の編纂者である稗田阿礼の安全確保は急務だった。彼女の血が途絶えたら、妖怪の情報をまとめるものがいなくなって遠からず、人間の絶滅という形で幻想郷が終わる可能性が高い。

 紫や博麗の巫女が表立って守るなんてこともできない。妖怪の力が圧倒的だったあの時代、下手に刺激をすれば紫ですら危うかった。

 

 故に作ったのだ。あの当時、稗田阿礼の従者をしていたある男の魂に仕掛けを施し、転生を繰り返す御阿礼の子に付き従い、守り続ける人間を。

 

「……それで、あの人たちが?」

「いいえ。こんなのはまだ序章よ。……確かに術は私が施した。誓っても良いけど、双方合意の話よ」

 

 ここまでは良かった。いや、ここまでしか紫の思惑通りに進まなかった、と言うべきか。

 自嘲する笑みを微かに浮かべ、紫は話を続けていく。

 

「これは魂に働きかける術。個人だけに留まらず、その子々孫々に連なる後の世代にまで影響を及ぼすもの。……でも、私が施したものは今の彼らのようになるものではない。せいぜいがほんの少しあなたのことが気になる程度のもの」

 

 個人だけならば、今の阿礼狂いのように変貌させることも紫にとって難しいことではない。だが、子々孫々にまで影響を与えるとなると難易度は跳ね上がる。

 まして魂に働きかける術。八雲紫にとってもそれが限界だったのだ。

 

 人は存外無意識下のささやきを大切にする。なんだかよくわからないが、この子は守りたい。そんな気持ちにさせる程度でも、御阿礼の子を守るには十分であると判断していた。

 そもそも、彼らに求めているのはいざという時の盾といった使い捨てのもの。所詮は人間なのだ。完璧に御阿礼の子を守れと言う方がどうかしている。

 

「……思えばあの時からずっと、あの一族には振り回されっぱなしなのね」

「あの、それでは父さんたちが今の姿になったのは、紫様の仕業ではないと?」

「事の発端に私がいるのは事実よ。切っ掛けは私が最初」

 

 しかし、こうも思うのだ。結果論でしかないことは重々承知だが、彼らは紫が自身に術をかける瞬間を待っていたのではないか、と。

 あるいはそんなものがなくても、彼らは自分で狂っていくことができたのではないかと。

 

「……慮外のことが起こったのは、初代の火継に術をかけてからよ。彼らは独自に私のかけた術を解析すると、それの深度を自ら深めていった」

「御阿礼の子に感情を向ける術を、自分たちの意志で強めていった……?」

「どうやったのかは私にもわからない。でも、気がついた時には彼らは狂っていた」

 

 紫が術をかける前から、初代の火継は阿礼に狂っていたのかもしれない。

 そうなると紫の申し出は渡りに船だったのだろう。自分の狂気を自分一代だけで終わらせることなく、延々と継いでいけるのだから。

 

 そして紫にとっては都合の悪いことに初代には才能があった。現代の信綱のように人の身で並み居る大妖怪を打ち倒せる程ではないが、紫の術を解析して改造を施すことができた。

 あとはもう同じことの繰り返しである。世代をまたいで術の深度を徐々に深めていき、そしてそれは遠からず好意から狂気へ変貌する。

 そうしていつしか、御阿礼の子の側仕えを宿命付けられた彼らは阿礼狂いと呼ばれるようになったのだ。

 

「気づいた時には術は見る影もないほどに変わり果てていた。もしかしたら魂の在り方も変質して、何かしらの変化があったかもしれないけど、そんなものはあの狂気の前には些事でしかない」

「……では、もう紫様の手であの人を元に戻すことは……」

「不可能よ。あれはもう私の手から離れた術に成り果てている。下手に手を出したらどうなるかわからない」

 

 狂気が変質するか、あるいは魂が負担に耐え切れずに自壊するか。その中で常人に戻る可能性を考えるなら、それこそ奇跡の領域になるだろう。

 

「そうして狂気に落ちた人の一族が生まれ、御阿礼の子に付き添って守り続けるようになった。時に妖怪を、時に身内すらも手にかけて」

「それが、あの人たち……」

 

 紫は話を終えると、静かに阿弥へ頭を下げる。

 

「――本当にごめんなさい。あの時、私が術さえかけなければ彼らが狂人になることはなかったでしょう」

「あ、頭を上げてください!? 私、紫様に感謝こそすれ、怒るつもりなんて毛頭ありませんから!」

「……だけど、彼らの狂気に私が一役買ったのは事実よ」

 

 結果的に火継信綱という稀代の才人が生まれ、幻想郷は良い方向に変化した。

 だが、あくまで結果論でしかなく。また彼も火継以外の家に生まれていれば、というたらればは残る。

 

「……どうやら、あなたを悲しませる答えになってしまったようね」

「いいえ。――いいえ。おかげで私も決心がつきました」

 

 紫の謝罪に阿弥は微笑みで答える。

 これで知りたいことは全て知ることができた。ならばこれからどうすべきかも自ずとハッキリする。

 

「……このことは父さんには黙っていてください。私がそんなことを聞いたと知れたら、あの人は全部理解してしまうでしょうから」

「わかっていますわ。私も彼を相手に騙し合いはしたくないもの」

 

 そう言って紫は苦笑する。初めて会った時は取るに足らない少年だった者が、今となってはずいぶんと大きくなったものである。

 

「だけど、あなたはどうするつもりか聞いても良いかしら」

「……このまま父さんと一緒にいます。私はあの人に笑っていて欲しい」

「そのためにはあなたも幸せである必要があるのよ? 伝言になるけど、彼はいつだってあなたの幸せを願っているんだから」

 

 念を押す紫に阿弥は微笑み、高らかに自らの恋を唄う。

 

「もちろん。――私は父さんが大好きですから」

 

 その姿を見た紫は微かに目を見開き、阿弥が信綱へ抱いている感情を理解する。

 しかし、紫が阿弥に抱いた感想は違う、というものだった。

 ならばそれを指摘しよう。彼女の持つ感情は恋ではなく――

 

 

 

「あなたのそれは愛と言うのよ。阿弥」

 

 

 

 言葉の意味を理解して頬を赤くする阿弥の姿を見て、紫はそっと忍び笑いを漏らすのであった。




前の話の後書きで言おうと思っていたのですが、忘れていたことを一つ。

IFENDで阿弥ルートをどこかで書きます。あまり詳しくは言えませんけど、文字通りのEndingになるので、本編をそのルートにするわけには行きません。ご了承ください。

あとはノッブの家の真実。ぶっちゃけ知らなくても良い情報です。なぜ載せたか? 書きたかったからだよ!(身も蓋もない)
ゆかりんが崖下へ背中を押したけど、自分から飛び込んで崖下の地面を掘り進める勢いで突っ込んだのはノッブのご先祖様という真相。

そして阿弥の恋はいつの間にか愛に昇華されていた。指摘したゆかりんは恋をしたことがあるのか? と思ったあなたはスキマ送りです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残された時間

投稿が遅い? GWに頑張ったからノーカンで(震え声)


「…………」

「あ、あの、だな……」

「…………」

「あー、えっと、そのー」

「…………」

 

 沈黙が痛い、と思ったのは生まれて初めてだった。

 机を挟んだ先には腕を組み、しかめっ面一歩手前の仏頂面でこちらを睨みつける男の姿。

 

 かつて自身をズタズタに斬り裂いた男が割りと本気で殺気をぶつけてきている状況に、少女――伊吹萃香は内心で冷や汗をかく。

 どうしてこうなった。いや、元を辿れば百鬼夜行の折に自分のやったことが原因であることはわかっているのだが、それでもそう思いたくなってしまう。

 と、居た堪れない沈黙に耐えかねたのか、男――信綱の隣に座っている青みがかった銀髪を持つ美しい少女が取り繕うように声を上げる。

 

「こ、こうして面と向かって鬼と話す機会が来るとは思わなかったな! いや、それもこれも偏にお前のおかげだ!」

「…………」

「あ、甘いものでも頼むか? そちらの鬼も駄目というわけではないだろう?」

「あ? お、おう! 雑食の萃香と言やぁ、私のことさ!」

「ほ、褒められているのかそれは……?」

 

 ちょっと萃香の交友関係が気になってしまう銀髪の少女――慧音は頑張って明るい声を出してなんとかこの空気を変えようとする。

 しかし男――信綱は厳しい顔のまま微動だにしない。殺意一歩手前の威圧を萃香のみに放っている。隣に座る慧音も気づかず周りも普段通りに店を経営している辺り、さらに腕を上げているようだ。

 

「の、信綱、お前は確か甘いモノが比較的好きだったな。なんでも頼んでいいぞ、私の奢りだ!」

「……それには及びません。先生には区画の見回りを頼んでいる手前です。ここは私が」

 

 ようやく口を開いた彼の声は想像よりも優しいもの。これならイケるんじゃないかと思って萃香が口を開こうとして――

 

「お、じゃあ私も――」

「お前は自費だ」

 

 ダメだこりゃ、と察してしまえる程度には声に温度がなかった。嫌われているなんて生易しいものではなく、問答無用で殺されないだけ自制しているのがわかるくらいに憎まれている。

 後で聞いてわかったが、信綱にとって稗田阿弥という人物は萃香の予想を遥かに超えて大切な人らしい。そんな彼女を鬼の集まっている空間に連れてきた以上、信綱が萃香を嫌うのもある意味当然の流れである。

 

 そこに文句は言わない。それに名も知らぬ白狼天狗と正面から戦って、萃香なりにケジメはつけたつもりだ。もう人間を襲うことはないし、信綱の大切なものに手を出すつもりもない。

 

「ふぅ……」

 

 萃香は手に持つ伊吹瓢から口を離すと、信綱の目をまっすぐ見据える。

 感情の削ぎ落とされた人間味の感じないその瞳を見ていると、あの斬り刻まれた感触すらも思い出してしまう。

 尋常な勝負で受けた傷なら誉れであり、悦楽すら覚えるものだが、勝負にすらならなかった萃香には遠い感情だ。

 

「――人間、あの時は言えなかったけど、私の負けだ。金輪際お前たち人間に手は出さねえ」

「…………」

「私が敗者で、あんたが勝者だ。ここに来るのをやめろっていうのなら、私は二度と地上には出ない」

「……その言をお前はいつまで守る?」

「私は勇儀のようにはなれんけどね。自分から交わした約束すら守らないほどの軟弱者になった覚えもないよ」

「…………」

 

 信綱の目が微かに細くなり、相手を見定めるように瞳の奥が鈍い輝きを宿す。

 その目を萃香は初めて見た。彼と戦う前に目を合わせた時は、およそ人間性を失った狂人の目をしていた。

 だが、今の目は違う。人間よりも圧倒的に強い存在に対して物怖じすることなく、相手を踏破する意志のこもったその瞳はなるほど確かに。英雄の称号にふさわしいだけのものがあった。

 

 萃香の印象で見れば信綱は狂人だ。それは間違いではないだろうし、信綱自身も己をそう位置づけている。

 が、同時に幾多の苦難を乗り越えた彼は確かに英雄でもあるのだ。かつて自分たちを打ち倒した人間と同じ場所に彼は到達している。

 

「…………」

「……あの時はちゃんと見れなかったけど、綺麗な目をしてるね。自分のやっていることに迷いがない良い目だ」

「……ふん。わかった、信じよう。人間に危害を加えないのなら俺から言うことは何もない」

 

 信綱はため息と共に萃香の来訪を認めることにした。

 これがまだ妖怪との交流すら始まっていない頃なら、レミリアのようにとりあえず追い出していたところだが、今それをやると色々と反発がありそうで怖い。

 

「へへっ、話がわかるじゃん。じゃあお近づきの印に一杯……」

「個人的にお前が嫌いだから断る」

「ひっでえ!?」

 

 幻想郷全体のためを思うなら萃香だけを人里に入れないわけにもいかないが、それはそれとして御阿礼の子に危害を加えかけた彼女を許すつもりもない信綱だった。

 話すことも終わったしさっさと席を立とう、とする信綱。しかしそんな彼の袖を隣に座る慧音が引く。

 

「先生?」

「まだ頼んだものが来ていないだろう。それを食べてからでも遅くはない」

「いえ、私は見回りを……」

「お前は色々と頑張りすぎだ。少しぐらい休んで行け」

 

 有無を言わせぬ口調だった。信綱も子供の頃から面倒を見られている慧音には強く出られないようで、困った顔をしている。

 この人すげえ、と萃香が密かに慧音への尊敬を覚えながらその光景を眺めていたところ、折れた信綱が渋々席に座り直す。

 

「よしよし、良い子だ」

「そんな歳ではありませんよ、もう」

 

 辟易したようにため息をつく信綱と満足そうに笑う慧音の二人は親子にしか見えないほど、歳が離れているように見えた。

 

「ところで二人はなんで一緒にいるのさ? 夫婦ってわけでもないんだろう?」

「見回りをしている時に偶然会った。そこからこの人に連れ回されている」

「む、嫌だったか?」

「…………」

 

 答えにくい質問を投げかけないで欲しいと思う信綱だった。

 その様子を見て、萃香は笑いをこらえるように肩を震わせる。

 

「く、くくく……人間にも頭の上がらない人ってのはいたんだ。こりゃ収穫だ、勇儀にも話してやろうっと」

「お前はお前で俺をなんだと思っているんだ」

「ははは、良いじゃないか。お前も英雄視されるのには困っていたんだろう?」

「醜態を知ってほしいってわけでもないですよ……」

 

 信綱にしては珍しく本心から困っていた。慧音はからかい混じりの言葉があっても、自分を心配する心に嘘はないので断りづらい。

 相手が椛や巫女のように遠慮せずに振る舞える相手なら、こちらも遠慮はしない。レミリアや勇儀のように異変を起こした相手も容赦はしない。

 しかし慧音が相手となるとそうも行かない。妖怪でもなく人でもなく、さりとて信綱が生まれる遥か前より人里に奉仕してきた偉大な人だ。

 

 こうして顔を合わせると子供っぽいというか、規律を守ろうとする大人としての姿に僅かに混ざる稚気とも呼ぶべき何かがあるが、それが彼女の人間的魅力でもあるのだろう。

 ともあれ、信綱は慧音と会ってしまったことが運の尽きだと考えて、ここは彼女に付き合うことにする。

 

 運ばれてきた甘味は一つが萃香。二つが慧音の前に運ばれ、信綱にはお茶のお代わりが来た。

 

「……あの、先生」

「うむ、どちらも美味いぞ」

「……はぁ」

 

 茶屋で頼む甘味が自分のところに来ないのは、もはや嫌がらせか何かなのだろうか。

 すでに口を付けたものを取り返すほど甘味が欲しいわけでもないが、嫌いなものでもない。阿弥が甘いお菓子を好むため、味の研究に余念はない方だと自負している。

 

 そういえば一人で茶屋に入って甘味を頼んでも信じられないものを見るような目で見られてしまう。何かおかしいことでもあるのだろうか。

 などと微妙な悩みに思いを馳せていると、ふと萃香が口を開く。

 

「そっちの先生はここで結構長いの? いや、私も昔は地上にいたけど、見た覚えないし」

「ん? 人間よりは長く生きているが、鬼ほどではないよ。あなたが暴れていた頃に私は生まれていない」

「ふぅん。それにしては見事なもんじゃないか、寺子屋の教師までやってさ。私にゃとてもできんわ」

 

 木の匙を片手に萃香は気分良さそうに笑う。その褒め言葉に慧音もはにかんで微笑み、信綱はそれを意外なものを見る目で見ていた。ひょっとしたらこの二人、波長が合うのかもしれない。

 

「ふふ、あまり褒めないでくれ。私なんてまだまださ。授業を何度やっても眠る者は後を絶たないし、頭突きばかりしていて頭が固くなってしまう」

「ははははは! 子供なんてそんなものだよ! 無邪気で恐れってもんがない! 鬼の私らだって恐れないだろうさ!」

 

 いや、この人の教え下手は結構深刻である、とは口を挟めなかった。

 上機嫌に手を叩いて面白がる萃香と、そんな彼女と親しげに話す慧音。信綱は少女二人に囲まれて肩身が狭い。

 

 思えば自分の友人はあまり男がいない。というより、知り合う妖怪に女が圧倒的に多い。

 里の運営などで話す相手は男が多いが、彼らは人里という社会の中でより大きな利益を得ようと貪欲だ。あまり個人的な付き合いは持ちたくない相手である。

 

「……こうして話してみても、人間ってのは変わらんねえ。生きるのに必死で、それでいくつのものを捨てていくんだか」

「さあな。お前たち妖怪が奪わなければ多少は少なく済んだかもしれん」

「手厳しいね、本当に」

「自分たちを害する敵を擁護するはずなかろう。先生は俺とこいつを仲良くさせたいようですが、俺にこいつと馴れ合う気は一切ありません」

「……わかるか?」

 

 あれだけ露骨に引き止められてわからない方が問題である。信綱も慧音の頼みであろうと萃香と友誼を結ぶつもりは毛頭ないため、そこはハッキリさせておく。

 

「先生が友誼を深める分には構いません。人里に来ることも認めましょう。――ですが、俺がこいつを許すことは当分あり得ませんよ」

「……はぁ、参ったね本当に。鬼の私が、自分でやった策で首絞められるなんて。人間を賢しいなんて言えたもんじゃない」

 

 やだやだ、と萃香は自嘲して酒を呷る。

 なんとか場を取り持とうとした慧音も困ったように両方に視線を行ったり来たりしており、信綱は顔をしかめた。もう少し言葉は選んでも良かったかもしれない。

 レミリアの時と同じだな、と信綱は自分の対応が昔とあまり変わっていないことにうんざりしながら、口を開く。

 

「……別に一生許さないと言ったわけではない。過去に起こったことは変えられないが、お前の行動次第で俺の対応は変えられる」

「……人間さあ。お前さん、器が狭いんだか広いんだかよくわからんよ」

「許すかもしれんと言っているのだから菩薩の広さに決まっているわ戯け」

「済まない、信綱の言うことを否定はできん」

「あんたもあんたで手厳しいな!?」

「あなたと個人的に仲良くはできそうだが、それはそれとして人里に迷惑をかけたのも事実。私も信綱も人里の守護者として甘い顔はできない」

 

 けど、と慧音は微笑んで萃香に手を差し伸べる。

 続く言葉を予想した信綱は軽く肩をすくめ、その様子を見守ることにした。多分、自分だったらそこまでやらないだろうなとも思いながら。

 

 

 

「が――それでも頑張るなら私たちはお前を見捨てない。決してな」

 

 

 

「……あんたもかい、人間?」

「………………私的な好悪で、その人物の評価を歪める真似はしないつもりだ」

 

 言って、舌打ちする。個人的に見て嫌いなのは間違いないが、彼女から目を離して面倒を起こされる可能性は否定できない。

 それに幻想郷で頂点を争えるほど強いのも事実。敵に回すよりは味方にした方が遥かに利益がある。

 嫌いな相手は排除できるに越したことはないが、それが無理ならせめて友人とまではいかなくても嫌悪感が湧かない程度には相手を知る努力をすべきだろう。

 

 阿礼狂いとしての自覚があり、それ以外で悪印象や敵を増やすのは良くないという考えがあるため、こういった場面では信綱も不本意な選択をせざるを得なかった。

 

「ただし。お前がもう一度御阿礼の子に手を出したら、その時はどんな状況だろうとお前を討つ。それは忘れるな」

「骨身に染みたよ。お前さんの武芸と勇気……武芸に免じて人間に手は出さない」

「なぜ言い直した」

「いやあ」

 

 困ったように頭をかく萃香を半目で睨む。慧音の方を見ても苦笑いするばかり。酷い連中しかいない。

 信綱は諦めたように茶を飲み干すと、席を立つ。もう慧音の願いにも応えただろう。

 

「先に失礼します。私と先生、両方が休んでいると騒ぎがあった時に動けませんから」

「相変わらず真面目だな、お前は」

「性分ですので」

「あ、私の分は――」

 

 萃香の言葉は最後まで聞かず、店を出る。

 この時に自腹を切れと言った萃香の分も支払いを済ませていたことを慧音は目ざとく気づき、小さく笑う。

 

「ふふ、いつになっても好意の表し方が下手だな」

「……あいつ、結構人誑しじゃない?」

「わかるか? 周りの評価も自己評価も阿礼狂いで間違ってないのに、奴は不思議と好かれるんだ」

 

 打算はあるだろうが、天然でやっている部分もある。優先順位は変わらなくても、他を蔑ろにすることはない。

 阿礼狂いを刺激しない程度の距離を保っていれば、彼は合理も情も弁える好人物なのだろう。

 

「まあ私は当分嫌われるだろうけど、頑張ってみますか!」

「そこはもう頑張れとしか言えん。ちなみに以前彼の逆鱗に触れた吸血鬼は二十年かけて、ようやくまともに対話をしてもらえるようになったところだ」

「……あいつが死ぬまでに認めてもらえるかなあ」

 

 その吸血鬼もなかなかに一途なものである、と萃香は遠い目になるのであった。

 

 

 

「私が来たわ、構いなさい!」

「帰り道はあっちだ」

「少しは優しくして!? いい加減心が折れるわよ!? 恥も外聞もなく泣き喚くわよ!?」

「手段を選ばなくなってきたな……」

 

 なお、件の吸血鬼は今でも暖簾に腕押しを続けていた。いつかは優しくなると信じて。

 

 

 

 

 

「うーん、父さんの部屋って来るのは何時ぶりだっけ?」

「阿七様の時以来になるかと。あの日に怒られたことは今でも覚えております」

 

 御阿礼の子に関わることを信綱が忘れることなどあり得ない。三十年以上の時が経ってもなお、鮮明に思い出せる。

 姉のようでもあり、どこか童女のようでもあった。あの人が自分を導かなければ今の幻想郷はなかったと信綱は確信していた。

 

 怒られたことをどこか誇らしげに語る信綱に阿弥は笑いながら、火継の家へ入っていく。

 

「……ん、少し静かだね」

「家のものは所用で外しておりますから」

 

 信綱が命じて外させたことは言うまでもない。余計な邪魔が入るのは望ましくなかった。

 女中に茶を用意するよう命じ、信綱は当主としての自分が使う部屋に阿弥を案内する。

 

 余談だが、彼は火継の当主としての職務を果たす部屋と、阿弥の側仕えをするための部屋を二つ持っている。

 基本的に寝泊まりは阿弥のいる稗田邸で行っているため、火継の部屋は本当に仕事部屋といった程度のものだ。閑話休題。

 

 その部屋もまた書類や書物が数多く積まれており、阿弥の部屋と同様に墨の香りが漂っていた。

 阿弥にとっては親しみのある匂いに、僅かに顔が緩む。

 

「父さんも本に囲まれているんだね」

「当主として目を通さなければならない書類などもありますから。最近は部下に任せていますけど」

 

 自分が死んだ後も御阿礼の子は代を重ねていくのだ。後を任せられる人材育成は急務である。

 とはいえ、信綱一人が長く側仕えをした弊害は意外なほどに少ない。

 百年単位で転生する御阿礼の子を待ち続けて研鑽を続けられる一族だ。今さら一人が独占したところで何の痛痒にもならない。

 例え己の研鑽の全てが時間という大きな壁の前に潰えるとしても、何一つ迷わず全てを捧げられる人間の集まり。それが阿礼狂い――火継の一族だ。

 

「少々お待ちください。確かこの辺りに来客用の座布団が……」

「あら、これは?」

 

 信綱が阿弥をもてなそうとしていたところ、阿弥は目ざとく部屋の隅に置かれている信綱の私物に目が行く。

 変哲もない色石に始まり、凝った装飾の施されたかんざしや薔薇の花。そして大切に扱われていることが一目でわかる硝子細工の花飾り。

 一つは阿弥も見たことがあるものだ。より厳密に言うなら、阿七が見たことがある。

 

「これは……」

「……妖怪からもらったものがほとんどになります。そこの薔薇などは吸血鬼からもらいました。魔力で保護されているようで、今に至るまで枯れてはいません」

「そうなんだ……。ふふ、父さんはレミリアさんに好かれているのね」

「不思議なものです」

 

 割と本気でそう思う。なぜあそこまで懐かれるのか全くわからない。

 とはいえ二十年以上纏わりつかれれば嫌でも慣れる。ああいうものなんだろうと割り切ることにしていた。

 

「この石は……ふふ、橙ちゃんからもらったものね。まだ取ってあるんだ」

「なぜそれを?」

「百鬼夜行の時に橙ちゃんが話してくれたのよ。子分の証だって」

「…………あの猫」

 

 捨ててやろうかと本気で思うが、気を取り直して阿弥に座布団を勧める。

 すっと上品な所作で立ち上がった阿弥は静々と歩み、信綱の膝の上に腰を下ろす。

 

「……阿弥様、座布団がそちらにありますが」

「うん。でも私はここがいいの。ダメ?」

「あなたの願いを断るはずありません。ですが、人前ではやらないよう気をつけてください」

「大丈夫よ。父さんは心配症ね」

「む……」

 

 阿弥にクスクスと笑われてしまい、信綱は言葉に詰まる。

 これでは阿七を過保護だと言えないかもしれない。しかし自分は阿礼狂いなのだから、彼女の安全を最優先に考えるのは至極当然のことであって、何も不自然なことなどないはずだ。

 

「阿弥様が煩わしく思うのでしたら、何も言わないようにしますが……」

「ううん、どんどん言って。なんだかそうやって怒られるの、本当の家族みたいで好きなの」

「そう、ですか……」

 

 家族。そう呼ばれることに信綱の胸が痛みを覚える。

 自分は彼女の家族としてふさわしい人間であったのだろうか。阿礼狂いという狂人が、彼女の求めに応じて演技をしただけ。そんな可能性も否定できないのではないか。

 こんな歪な関係を家族と呼んで良いのか。その迷いが表に出たのか、阿弥は柔らかな頬を膨らませて信綱の額を叩く。

 

「うぁっ」

「もう、変なことは考えちゃダメ。家族のことなんて私もよく知らないんだから、私が家族って言ったら家族なのよ。だから父さんが悩むのは禁止」

「……ええ、わかりました」

 

 阿弥にそう言われては是非もない。自分の悩みなど阿弥の笑顔の前には砂塵に等しい。

 彼女が笑っている。その事実以上に重い事実などあるはずがない。故にこれで良いのだ。例え余人の理解が得られずとも、自分たちは家族なのだ。

 静かに微笑み、うなずいた信綱に阿弥も満足そうに笑い、改めて部屋を見回す。

 

 阿七の時には書類が積まれている様子すらなく、当主としても駆け出しだった彼の部屋に私物はないに等しかった。

 あの時は信綱の色が感じられないと、どこか物寂しさを覚えたものだ。

 

「これが父さんの部屋……。幻想郷を変えた人の部屋……」

「そんな大層なものではありません。私一人では何もできませんでしたし、何もしませんでしたよ」

 

 阿七がいなければ合理以外の答えを探そうとは思わなかった。椿に鍛えてもらわなければ、途中で死んでいた。椛が信綱と椿の行き着いた果てに涙を流さなければ、人妖の共存なんて意識しなかった。

 自分でもわかってしまうほどに、信綱は多くの人妖から影響を受けているのだ。阿礼狂いとしては失格かもしれないと思う程度には。

 

 とはいえ、火継の家では強さこそ正義なので遠慮無く頂点に立っているが。

 

「もうすぐ転生の準備も終わるし、それが終わったらどうしようか。父さんは何かやりたいこととかある?」

「阿弥様のやりたいことが私のやりたいことです。もう一度空からの眺めを見るでも、幻想郷を端から端まで見てみるでも、なんでも仰ってください」

「……そういうのはもうお腹いっぱいかな。残った時間は、父さんと一緒に家族らしいことをしてみたい。父さんはそれで良い?」

「もちろんでございます。阿弥様が望むのであれば、私も微力を尽くして家族になりましょう」

「あはは、そんな肩肘張ってなるものじゃあないと思うわ、家族って」

 

 阿弥に笑われてしまい、信綱の顔にも困ったような笑みが浮かぶ。

 生まれた頃より親元から引き離される御阿礼の子と、そもそも親兄弟全てが阿礼狂いであり側仕えを巡る不倶戴天の敵である火継の人間。

 どちらも家族なんて知らないはず。にも関わらず、信綱と阿弥はそれぞれが思い描く家族という形に思い当たるものがあった。

 

「阿七の時は姉弟。私は父娘。阿求はおじいちゃんと孫かしら?」

「それはまだ先の話です。未来では阿求様に仕えるのかもしれませんが、今この瞬間に仕えているのは阿弥様ただ一人です」

「……ん、ありがとう。父さん」

 

 阿弥の身体を暖めるように回された信綱の腕に、阿弥も自らのそれを重ねて静かに微笑む。

 そしてそのままするりと身体を滑らせて、信綱の足に自らの頭を乗せる。

 

「小さな頃によくしてもらったっけ、膝枕。父さんの膝、固いけど暖かい」

「鍛えていますから」

「うん。……あ、でもここから見る景色は阿七が見たものと同じ」

 

 阿弥は笑顔のまま手を伸ばし、信綱の頬を撫でる。信綱もその手に自らの手を添えるように持とうとして、何かに躊躇った様子を見せた。

 理由は単純――怖かったのだ。かつて阿七も今の阿弥と同じようなことを言って、そして旅立っていった。この姿勢はそれを否応なく思い起こさせる。

 幸い、阿弥は信綱の顔を見るのに夢中で気づかなかったようで、笑いながら信綱の顔に浮かぶシワを探していた。

 

「……父さん、老けたねえ。阿七の時に見上げた景色と一緒だけど、大違い」

「あれから四十年近く経っています。これでも若く見られる方ですよ」

 

 日々鍛え続けた影響か、五十を超えた今でも信綱の肉体には力が宿っている。

 衰えを感じたことは今もってなく。剣術も体術も、今この瞬間こそが全盛期であると確信していた。

 

 とはいえ肉体の変化は避けられないものである。信綱の顔には歩んできた苦難を象徴するようなシワが刻まれていた。

 

「……頑張って来たんだよね、父さん。私がいない時も、いる時もずっと」

 

 御阿礼の子がいない時間も当主としての役目を果たし、阿弥が生まれてからは激動の時代でもあった時間を駆け抜けた。

 絶え間ない嵐の中で彼は幻想郷の誰もが認めるだけの輝きで、幻想郷の変革を成功させた。

 

 もう十分だろう、という声が阿弥の脳裏に囁きかける。

 彼は本当によく頑張った。理由がどんなものであろうと、彼の本質が何であろうと、成したことに貴賤はない。

 いい加減休ませてやるべきだ。まだ彼を酷使するのか。阿弥の後ろめたい感情が首をもたげていた。

 

「……阿弥様?」

 

 気遣わしげな顔の信綱が見下ろしてくる。ハッと阿弥は自分が信綱の頬に手を伸ばしたまま止めていたことに気づく。

 笑ってごまかし、阿弥は手を下ろして頭で父と慕う者の体温を感じることに集中する。

 

「あはは、なんでもない。……ねえ、父さん。少し眠っても良いかな?」

「ここでは寝苦しいでしょう。言ってくだされば布団を用意しますよ」

「ううん、ここが良いの。私だけの特等席」

「……かしこまりました。私はずっとここにおりますから、心安らかにお休みください」

 

 阿七に言った言葉と殆ど同じである。阿弥は面白そうに笑い、そして同時に否応なしに迫ってくる終わりについて思いを馳せていく。

 

 

 

(ごめんなさい、ありがとう――)

 

 

 

 そして阿七が信綱に後を託した時と同じ感想を、阿弥もまた抱くのであった。

 

 

 

 

 

 彼の歩みは、未だ止まることを許されてはいなかった。




出そう出そうと思って忘れていた萃香登場。ノッブと二人きりだと話が続かないので先生をぶち込む暴挙。

もういい加減、阿弥の時代は終わりを迎えます。恐らく残り一、二話で彼女は旅立ち、信綱は再び一人になるでしょう。本当に長かったなこの時代。

あとやるべきことはスペカルールの作成と、ノッブの政治活動の引退ぐらいです。
阿礼狂いは百年単位で生まれて来る御阿礼の子のために研鑽を積める一族なので無問題ですが、妖怪相手の駆け引きをノッブ一人が担う状況はあまりよろしくない。


そして私事になりますが、少々忙しくなってきたため更新ペースが落ちるかもしれません。ご了承をば。本当に遅くなる場合は活動報告の方に載せようと思いますので、よろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一つの区切り

「そろそろご隠居されてはいかがでしょうか、信綱様」

 

 その言葉が出てきたのは、ある日の人里の運営を決める会合の終わり際だった。

 発したのは二十代後半のまだ年若いが優秀であるとお墨付きを受けて、この会合に参加している青年。

 もう人里の運営に関わって三十年近く経過している信綱と、まだ数年も経っていない彼では立ち位置がまるで違う。

 だがそれは年数を重ねれば誰だってそうなるものであり、信綱は特にそういったものを重視はしていなかった。重要なのはその言葉にどれほどの理があって、どの程度の利が得られるかである。

 

「……ほう。理由を問おうか」

 

 相手の意図に予想はつくものの、信綱はあえて聞き返すことによって青年の考えていることを衆目に晒すことにする。

 ちなみに信綱個人としては引退できるのなら喜んでするといった程度である。なにせ彼は阿礼狂い。御阿礼の子の側仕え以外は彼にとって煩わしい面倒事に過ぎない。

 

 とはいえ、それで信綱が手がけた様々な事業をいきなり放り出すのは不味い。

 特に信綱は人里自体の経営にはあまり口を出さないが、妖怪との共存事業に関しては彼がほぼ一手に担っている状態だ。

 信綱も自分がいつまでも仕事を担っている状況が良くないことは理解しており、そもそもそこまで仕事をしていたくないという気持ちがあった。

 

「はい。これまで人里はずっとあなたやあなた方火継の人間に頼りっぱなしでした。私が子供の頃――いえ、赤ん坊の頃から異変に向かっていたと聞きます」

「それは別に良い。有事の際に動くのが火継の役目だ。妖怪の脅威を何の力もない民には任せられん」

「そうかもしれません。ですが、この状態はいつまで続くのでしょうか」

「……ふむ」

「信綱様の尽力によって、妖怪との共存が成立しつつある。これは素晴らしいことです。幻想郷始まって以来の快挙でしょう」

「世辞はいい。要するに俺以外の人間に妖怪との折衝を行わせたいということだろう」

「ご推察の通りです」

 

 少々考える。いい加減、自分以外の人間に任せたいところもあったので、向こうから言ってくれるのはありがたい。

 だが、自分以外の人間に任せた途端、妖怪と揉め事が起こって共存の話が頓挫、なんてことになったら目も当てられない。

 さすがにそんなことはないと思いたいが、他人の性格、能力を正確に推し量るのは難しい。有事が起きないよう、信綱は最悪の場合を考えなければならなかった。

 

 自分が全て行うのが最も問題は少ない。しかし、それはあくまで自分が生きている間は、という注釈が付く。

 後のことなど知らぬ存ぜぬとしてしまいたいが、信綱が死んだ後も御阿礼の子は生きていく。彼女らのために少しでも楽にしておくのは彼の最後の役目とも言えた。

 

「……一応念を押しておくが、俺の関与する全ての物事から手を引け、というわけではないだろう。順を追って、段階的に俺を一線から退かせるつもりか」

「はい。お返事は今すぐでなくとも構いませんが、ご一考いただければと」

「…………」

 

 周囲を見回す。信綱と青年の動向を見守っている者たちは、いずれも信綱より歳が若いものがほとんど。

 自分が最初に出席した時にいた人たちは大体がもうこの世にいない。

 

 一番歳が若かった自分が、いつの間にかこの場で最も高齢な人間になっていた。厳密に言えば慧音がいるが、彼女は長命であるがゆえにこういった政治的な関わりは持とうとしない。

 時代の流れ、というべきか。御阿礼の子の側仕えを譲るつもりは毛頭ないが、それ以外は後進に譲る時が来ているのだろう。

 

「わかった。妖怪の側には俺の方から伝えて、今後は徐々にお前たちに任せていく。それで異論はないな?」

「はい。……これまでありがとうございます。でも、私たちもこの場所の力になりたいんです」

 

 青年が深々と頭を下げると、それに続いて周囲の者たちが頭を下げる。

 その光景を見て、信綱は改めて自分にも終わりが近づいていることを実感してしまう。

 

「――お前はこの日のために準備はしてきたか?」

「は? いえ、慧音先生に話す以外は特に……」

「ならば一つ教えておこう。是が非でも通したい願いがあるのなら、こういった会合が始まる前に味方を増やしておけ。俺はそうして人里でやってきた」

「は、はい!」

 

 そして柄でもない老婆心というものを発揮して、これからの未来を担ってもらう若人に発破をかけるのであった。

 

 

 

「今日の話、私の方にはすでに持ちかけられていたんだ」

 

 会合の帰り道。信綱は阿弥の待つ稗田邸への道中を、慧音とともに歩いていた。

 慧音は信綱を慈しむような目で見ており、信綱としてはいささか面映ゆい。

 

「……だったら先生を休ませれば良いじゃないですか」

「ははは、私はもうかれこれ百年以上は変わらんからな。あいつらも決してお前を邪険にしたいわけではないんだ」

「わかっております。私とて、いつまでも現役でいたいと思っていたわけではありません」

「そこは疑ってないさ。お前ほど権力に魂を腐らせる心配のない奴はいない」

「見てきたことがあるのですか」

「長く生きていれば、な。尤も、ここは隔離された場所。そう悪さもできない場所だ」

 

 慧音の言葉にうなずく。人里の中で完結している限り、この場所の規模はそんなに大きくもない。

 仮に一人の人間が独占をしたところで、妖怪にとっては何ら脅威にはなり得ないだろう。それこそ人間が妖怪の餌でしかないことに絶望して集団自殺でも試みないかぎりは。

 

「ともあれお前は自らの権力に固執することも、利益に腐心することもなく見事にやり遂げた。うむ、先生は誇らしいぞ」

「全員誇らしいんでしょうに」

 

 背伸びをして頭を撫でようとしてくる慧音を押し留めて小さく笑う。

 

「バレたか。出来の悪い子も可愛いし、出来の良い子も可愛いものだよ。お前だけでなく勘助や伽耶、他の子供たちだって皆それぞれ立派に生きている。それだけで私は嬉しいさ」

「……私が死んだ後も、先生は人里に居続けるんですよね」

「ああ。お前は人里のみならず幻想郷さえも大きく変えたからな。その変化を見守るのも楽しみの一つだ」

 

 そう言って笑う慧音の顔に悲しみや痛みは見えなかった。

 人の死に慣れてしまったのか、と一瞬だけ考えてすぐにそれを否定する。

 皆が自分を置いていくのは悲しいだろう。しかし、決してそれだけではないことを彼女は知っている。

 だから彼女は笑うのだ。その姿は何よりも尊い在り方なのかもしれない、と信綱は改めて思う。

 

「まあ、何はともあれ――長い間、お疲れ様でした。後のことは任せてゆっくり休んでくれ」

 

 再び伸ばされた手を、信綱は拒まなかった。慧音の繊手に頭を撫でられ、信綱の顔には困った笑みが浮かぶ。

 

「先生に比べれば私などまだまだですよ。……ですが、ありがとうございます」

 

 どこかで自分から切り出そうとは思っていたことだ。これを機に人里の仕事は最低限にして、残った時間は阿弥との時間に当てよう。

 阿弥と一緒でいられない時間が減り、阿弥と一緒にいられる時間が増える。良いことずくめだ。

 

 これで実質、信綱が幻想郷に対してやるべき仕事は一つだけになった。後は――

 

 

 

 ――英雄、火継信綱として最後の仕事を果たすだけだ。

 

 

 

 

 

 最初に来たのは天魔だった。

 

「早いわね」

「先手必勝って言うだろ?」

 

 指定された場所にどっかと座り込む姿に気負った様子は何もない。

 あくまで自然体。天狗の前に現れる時はたいてい、変化の術で威厳ある姿を演出しているというのに。

 誰が参加するかも教えられていないこの会合に彼は普段通りの姿で来ていた。

 

 彼の後ろには部下である射命丸文が付き従っている。彼女もずいぶん奔放な性質だと聞いていたが、意外と天狗社会の秩序には従順なのかもしれない。

 机を挟んで彼女――八雲紫は天魔を軽く睨みつけた。天魔は無視しているのが腹立たしい。

 

「オレたちは待たせてもらうぜ。ここに集められた理由はまだわからんがな」

「……よく言うわ。あなたのそういうところは嫌いよ」

「おいおい、こんな色男を呼び寄せておいて言うことがそれか? 文、帰っちまうか?」

 

 嫌味な男である。目的も何もかも理解しているだろうに、それでもなお揺さぶりをかけてくる。

 彼とは本当に長い付き合いになるがどうにもウマが合わない。紫も他人を煙に巻くのは得意な方だと思っているが、天魔相手にやるのは少々難しい。

 

「いや、私に言われましても……というか、二度寝決め込もうとした私を引っ張り出したの天魔様ですよね!?」

「いいじゃねえか、こういうのは伴を連れているっていう威厳の表現が重要なんだよ」

「私に言ったら何の意味もありませんわね」

「かかかっ、慣れだ慣れ。いかにふてぶてしくなれるかがこの場でのコツだぜ?」

 

 この男は天性の政治家気質だ。文と紫、二人から冷たい目で見られてもまるで堪えた様子がない。

 と、そんな風に天魔を睨んでいると、次の参加者がやってくる。

 

「あら、私たちが二番目。結構早く来たつもりなのに」

 

 伴の少女――美鈴に日傘を持たせ、悠然と部屋に入ってくるのは幻想郷の新参者――吸血鬼レミリア・スカーレットその人だ。

 レミリアの目はすでに来ていた天魔に止まり、次いで部屋の周囲を見回す。

 と、そこで後ろに控えている美鈴が不安そうな顔で口を開く。

 

「お嬢様、私って場違いじゃないですかね……?」

「んー? 大丈夫大丈夫。何があっても私だけは大丈夫だから安心なさい」

「何一つ安心できるものがないですよね!?」

「あーもう、うっさいわね。この場でドンパチやらかそうなんてバカはいないから安心なさい」

 

 レミリアの目が天魔と合う。

 天魔は口元に楽しそうな笑みを浮かべながら、その実レミリアを見る目は全く笑っていない。

 レミリアも当然、それに気づいて犬歯をのぞかせる挑戦的な笑みになる。

 呼応するように美鈴と文も軽く睨み合おう――とする前にレミリアは天魔に手を差し出す。

 

「…………」

「レミリア・スカーレットよ。よろしくね。セ、ン、パ、イ?」

 

 その手の意図を図っていると、レミリアから口を開いた。

 内容は紛れもなく友好的なもので、天魔の側に断る理由はない。

 しかし口元に浮かぶ笑みは相変わらず挑発的なもののまま。その姿に天魔はやれやれと自らも手を差し出すことで応えた。

 

「……気骨のある嬢ちゃんだなこりゃ。こちらこそよろしく、後輩」

「ええ、よろしく。いつだったか、天狗が人里にやって来た時は楽しく遊ばせてもらったわ」

 

 チリ、と天魔の後ろに控える文から殺意に似た何かが零れる。

 美鈴は僅かに腰を落として対処できる構えを取り、レミリアは相手の出方を見極めるように薄く微笑む。

 

「へえ、人里に向かっていた奴らの対処はあんただったか。巫女か旦那の手勢の二択を考えていたんだがな。旦那も顔が広い」

「……意外と度量が広いのね」

 

 曲がりなりにも身内に手を出されたというのに、天魔は怒る様子が欠片もない。むしろわからなかった事実を知れて嬉しいといったくらいだ。

 

「殺してないのなら良い薬で済む。オレは積極的に他所と喧嘩するほど血気盛んじゃないんだ」

「へえ」

 

 レミリアの口元が禍々しく歪む。どうやらこの男、穏健派な性格らしい。これなら多少は足元を見ても――

 

「ま――売られた喧嘩は根切りまでするけどな?」

「……っ!」

 

 一瞬だけ天魔の眼光が鋭くレミリアを射抜く。一瞬の油断をしたレミリアに対して、これ以上ない瞬間を狙って放たれたそれに、レミリアの体は意図せず硬直する。

 やられた。穏健派だなんてとんでもない。戦うべき時とそうでない時。手を組む時と手を切る時。全ての基準が彼の中で定まっているのだ。

 

 必要と判断すれば頭を垂れるだろうし、同時に躊躇わず殺しにも来るだろう。

 

 常に刃が仕込まれているようなものだ。油断などできるはずもない。

 

「……良いわ。あなたとは仲良くできそう」

「お眼鏡に適ったみたいで恐悦至極、と言っておこうか」

「……話が終わったなら席についてもらえるかしら。全く、顔を合わせるなり面倒事を起こさないで頂戴」

 

 少々危なっかしい自己紹介も終わったところで、紫が彼らをまとめにかかる。両者もこの場でこれ以上やり合うつもりはないのか、素直に従ってそれぞれの席につく。

 用意された座布団は三つ。机の四面にそれぞれが座る形だ。

 それを見てレミリアがわかりきった疑問を口にする。

 

「大体予想はつくけど、あと来るのは誰か聞いてもいいかしら」

「彼が最後よ。……来たみたいね」

 

 紫の言葉と同時に襖が開かれ、中から恭しく藍が現れる。

 

「お待たせいたしました、紫様。目当ての人物を連れてまいりました」

「なんだ、俺が最後か。正直、妖怪なんて遅刻してなんぼだと思っていた」

 

 藍に伴われて現れたのはこの場にいる全員が周知の人物――火継信綱その人である。

 天魔やレミリアのようにお供はいない。それを真っ先に見た天魔がからかい混じりの声をかけてくる。

 

「なんだ、椛は連れて来なかったのか?」

「あいつは天狗社会の一員だし、あまり目立つことを好まない。今後も天狗社会で生きていくなら、余計な軋轢はないに越したことはないだろう」

「その気遣いをどうして私に向けてくれないのよ……!」

 

 思わずレミリアが嫉妬してしまうほど、信綱の返答には椛への気遣いがあった。ハンカチがあったら噛み締めていただろう。

 信綱はぐぬぬと睨みつけてくるレミリアを無視して席につき、揃った人物を見回して口を開く。

 

「鬼はいないのか? 今後の決まりを作るのなら地底からも来ると思っていたが」

「沙汰に従うという委任状をもらってますわ。どちらもあなたが決めたことなら文句は言わないそうよ」

 

 そういって紫は二枚の紙を見せてきた。

 

「……手拓にしか見えないんだが」

「これが彼女ら流の委任状です。決して面倒なだけではありませんわよ?」

 

 どうやら面倒なだけのようだ。とはいえ四六時中酔っ払っているような鬼に、精密な文字を書けと言われても難しいのかもしれない。

 

「さて、まずは今日集まっていただいたことに感謝を。こうして集まっていただいたのは他でもない――幻想郷の今後についてですわ」

「新しい決まりを作る、だったか」

「ええ。レミリアが来たことを発端に始まった多くの異変。その全てにおいて、暴力という明確な力が用いられました」

 

 痛ましい、という感情を隠さず紫は目を伏せる。

 なお参加者の全員は胡散臭いと半目で見ていたことに、彼女は気づいていない。

 

「それではいけないのです。我々妖怪は人間と比べて力が強く、長命故に知恵もある。私たちが暴力を振るい続ける限り、人々との共存は叶わないでしょう」

 

 なぜ自分まで妖怪側なのだ、と物申したかったが何も言わずに黙っておく。

 紫の言いたいことは理解できる。たまたま信綱という大妖怪すら倒せる人間がいたから今の形になっただけで、信綱がいなければ人里は悲惨な状況になっていたことは想像に難くない。

 そしてその奇跡は永遠には続かない。信綱はもう五十を過ぎており、彼は遠からず幻想郷を旅立つ。

 そうなった時、人里と妖怪の関係が変わらないままであれば――人里に抗う術はなくなってしまう。

 

「剣と剣。拳と拳。暴力に対する暴力――なんて野蛮なことは終わりにしましょう。己の意思を貫くために必要な新たな掟を。それを今日は考えたいのです」

「俺は構わん」

 

 真っ先に同意を示したのは信綱だ。

 なにせ彼の所属する勢力である人里は、自分が死んだら勢力図としては最底辺にまっしぐらである。そうならないためにも皆が平等な決まりが必要だった。

 

「オレも同意しよう。血みどろの殺し合いなんて面倒だし、何より幻想郷では人も妖怪も有限だ。限りあるものをすり減らすことほど無為なものはない」

「あなたらしい意見ね、天魔」

「持ちつ持たれつなんだ。この機に勝ち馬に乗っておきたいだけさ」

 

 沈む船には絶対乗らないだろお前、という内心のツッコミは紫と信綱のもの。

 そんな二人を他所にレミリアも声を発した。

 

「私も賛成、としておこうかしら。あなたも戦いそのものを禁じてハイおしまい、って言うつもりではないのでしょう?」

「ええ。あなたが来る少し前の話になるけど、人と妖怪が全く触れ合わないのも不味いのよ」

「畏れが得られなくなる。ついでに言えばオレらが退屈に負けて騒ぎを起こす。断言しても良い」

「これだから妖怪は……」

「そう言ってくれるなよ。人間は弱いから生きることそのものを目的にできるが、妖怪はそうも行かないんだ」

 

 ふう、と信綱は大仰にため息をつく。天魔の言い分は理解できないが、それは自分が人間だからだろう。

 現にレミリアと紫は天魔に同意するようにうなずいていた。

 

「さて、今後の幻想郷に向けて解決すべき問題が明らかになったところで、皆の意見を聞こうかしら。ことこれに関して妥協するつもりはないわ。皆の忌憚のない意見をお願い」

 

 幻想郷のことに関して、紫以上に深い愛情を抱いている存在はいない。彼女の真剣な気迫に合わせるように三人も静まり返り、ようやく会議の体裁が整う。

 

 最初に声を上げたのは信綱だ。

 

「では俺から。――弱肉強食の否定をお願いしたい」

「……なるほど、実力主義の否定といったところかしら」

 

 紫の確認にうなずく。

 

「俺たち人間は基本的に弱者だ。弱者でも強者に勝てる――勝負の場においては平等であるような決まりが欲しい」

「それはあらゆる場において?」

「いいや、なりふり構わず守るべきものは別だ。だがそれ以外の意思決定をする際に、暴力だけが用いられる状況は変えたい。人間があまりに不利だ」

 

 その不利を覆すからこそ英雄と呼ばれる人種が存在する。

 だが、英雄など生まれないに越したことはない。

 信綱は自らが積み上げ続け、幻想郷の行く末を決める場に参加する権利すら勝ち取った自身の武力を、今後の幻想郷には要らないものであると位置づけたのだ。

 

「あ、じゃあオレからも一つ。そこに安全性を加えてくれ」

「意図は……さっき話した通り、殺し合いは無駄であるという意見ね」

「おう。狭い幻想郷で顔を突き合わせていればそりゃ嫌でも争いは起こる。しかし、その争いに一定の決まりさえあれば争いも骨肉のものにはならんだろう。

 命懸けにならなければ誰だって気軽に……と言うのも変だが、ある程度はガス抜きもできるはずだ」

 

 かつて大天狗という長い付き合いでありながら、反乱まで許容してしまったことを天魔は思い返す。

 あの時に決めたのだ。意見の相違は致し方ないにしても、殺し合うことなく決められるものをいつか作り出すと。

 妖怪の山に住まう天狗全てが彼にとっての家族。故に家族が無為に死ぬことは許さない。

 それが天魔の根幹。八雲紫の幻想郷への愛に匹敵するだけの熱量を天狗に注いできた男だ。

 

「ふぅん、二人とも意外と堅実ね。私は別の観点から意見を言おうかしら。――美しさを。これからの幻想郷を彩るにふさわしい見目華やかなルールが良いわ」

「ふむ、意見を聞いても?」

「要するに命懸けの勝負じゃなくてお祭り騒ぎの勝負にしようってことでしょ? だったら血と臓物が飛ぶ風景よりも華やかなものの方が良いじゃない」

「一理あるな。決まり事ってのは周知されなきゃ意味がない。見た目が良いってのはそれだけで印象が良くなる」

 

 レミリアの意見に天魔が賛同の姿勢を見せる。外の世界から来ただけあって、彼女の視点は信綱とも天魔とも違うものがあった。

 当のレミリア本人は私良いこと言った? みたいな顔で信綱をチラチラと見ているが、信綱はそれを無視して――

 

「……その美しさの基準はどうするつもりだ? 一口に言っても色々あるだろう」

「あ、あら? おじさまが私の言葉を否定しない?」

「人聞きの悪いことを言うな。理があれば誰の言葉だって一考する」

 

 一考した結果として無駄だと切り捨てることはあるが、今回は別だ。

 彼女の意見は自分には浮かばなかったものであり、何より信綱の願いである実力主義の撤廃に近いものがある。

 

 実力主義とはとどのつまり強いものが正義ということであり、そして強いものとはほんの一握りである。

 暴力とは簡単に言ってしまえば強いものが勝つための決め事。弱者は搾取され、強者は肥える。極めて原始的な理だ。

 信綱はそれを排除してしまいたい。人間と妖怪では妖怪の方が強いという誰にも否定できない事実がある以上、実力主義がある限り人間は弱者の位置になってしまう。

 

「祭りと言うくらいだ。茶器のような芸術品とは違うのだろう」

「当然よ。見て楽しく、やってさらに楽しく! 一部の人にしかわからないとか、知識がなければわからないなんて小難しい物じゃなく! もっとパーッと子供でもわかるようなものにしましょう!」

「となると光り物だな。古今東西、光り物を好まない連中は皆無と言って良いくらいだ」

「光、ねえ……」

 

 天魔が挙げた光り物というものについて考えてみる信綱。その際、ついつい烏は光り物が好きではないかという考えが浮かんで文の方に視線が行くが、凄まじい目で睨まれてしまったため視線をそらす。

 しかし浮かばない。レミリアの言葉をそのまま受け取るのなら娯楽のようなものを求めていると判断できるが、その手の娯楽には縁の薄い人生だった。

 阿弥も阿七と同じであまり外に出ることを好む性質ではなかったし、信綱はそんな時間があるのなら鍛錬に時間を費やしていた。

 

「ふむ……お前にはどんな案が浮かんでいるんだ?」

「長く残るようなものは考えてないわ。一瞬だけ光って、あっという間に消える。あまり勝負が長くなるのも面倒でしょう?」

「だ、そうだ。オレはこの姫さんの意見が結構良いんじゃないかと思う。スキマはどうする?」

「一考の価値はあるわね。実力主義を排し、安全性に考慮し、なおかつ美しい……」

 

 まさに雲をつかむような話である。信綱にもこれがどのようなものになるのか、皆目見当がつかない。

 細部を詰めようにも大本自体が決まらない。これでは各々の主張を挙げただけになってしまう。

 

「妥協……は難しいか」

「自分たちの意見の主張に用いられる争い以外のルールでしょう? 誰も妥協なんてしないわよ」

 

 レミリアの言葉に誰もうなずきはしないが、皆心の中で同意していた。

 それに自分の意見を最も優先させるべきだとも思っていない。この場にいる全員が幻想郷を導くにふさわしいだけの知性を持ち合わせているがゆえに、お互いの言いたいことをほとんど理解してしまって会議にならなかった。

 だが、それでもなお今挙げているものの中で優先させるべきを考えるなら――

 

「レミリアの案を軸に据えるべきだろうな」

「旦那に一票。理由はこの場の面子ならわかるだろう」

 

 まずは知ってもらい、なおかつ従ってもらわなければ話にならない。

 掟と言っても破って何がどうなるというわけでもないのだ。決め事を破った方が好き勝手に生きられるのなら、ここで決めたことも有名無実化してしまうだろう。

 

 そう考えると美しさというのは悪くない着眼点だった。

 大抵の存在は汚いものより美しいものを好む。そして苦しいくらいなら楽しいことの方を好む。

 その辺り、非常に硬派な生き方をしてきた信綱には全く浮かばない発想だった。

 というより、御阿礼の子以外はみな等しく塵芥な阿礼狂いには難しいものがある。美醜を語るなら御阿礼の子がこの世で最も美しく、他は全て醜いと彼は真顔で言い切れるのだから。

 

「ふふふ、もっと私を褒め称えなさい。あとおじさまはもう一回私の名前を呼んで!」

「スキマ、まずは人妖に知ってもらえるように見栄えの良いものを作るというのを主軸に据える。次は何が美しいものになるか、だ。お前は何か案がないか?」

「無視!?」

 

 謙遜の一つもしていれば褒めるくらいはしてやるというのに、この吸血鬼は相変わらず知恵が回るのか子供なのかわからない。恐らく両方なのだろう。格好良いと残念の境目を歩いている少女である。

 話を振られた紫はしばし考える姿勢を見せて――やがてパッと弾けたように立ち上がる。

 

「――花火、花火なんてどうよ! 誰が見てもわかるくらいに綺麗で、一瞬の美よ!」

 

 天啓と言わんばかりの喜びようだった。天魔と信綱は納得したようにうなずき、各々の考えを述べていく。

 

「ふむ……悪くはないな。説明不要の美しさっていうのは楽でいい。肩の凝る芸術品などよりよっぽどな」

「大きな音と光は衆目を集める。それに派手な戦いを好む妖怪にも良いかもしれない。賛成だ」

「じゃあこれからはそれを主軸に話を進めていくけれど……」

 

 そして再び紫の音頭で会議が始まっていく。

 人間である信綱も二日や三日程度なら寝ずに活動ができる。彼もこの話し合いが今後の幻想郷を作っていくものであると理解しているため、力を尽くすつもりだ。

 天魔や紫、多くの妖怪の力添えがあったとはいえここまで漕ぎ着けたことに対して、愛着はないが執着はある。ここで下手を打って転んでは骨折り損のくたびれ儲け。

 それは合理的でないし、何より誰も得をしない。信綱だってタダ働きは嫌だ。それが数十年単位のものであればなおさらである。

 

「……これで俺が死んだ後も平和になれば良いが」

 

 会議の最中、ふとつぶやいた信綱の言葉は思いのほか響き、部屋にいる妖怪たちの耳にしっかりと届いてしまった。

 視線が集中し、つい弱音を吐いてしまったと信綱は憮然とした顔で三様の瞳を睨み返す。

 だがその視線の意味は決して訝しむものではなく、何を馬鹿なことを言っているんだこいつは、というような視線だった。

 

「え? おじさまが死んだ後も約束は守るわよ?」

「……む? 俺が死んだら約束は終わりではないのか?」

「私が生きてる限り続けるに決まってるじゃない。吸血鬼退治を成し遂げた人間への褒美が、一生分で終わりなんて味気ないでしょう」

 

 最初はレミリアが。自らを打ち倒した人間を誇るように胸を張って、彼女は人々を守護することを約束した。

 

「オレも、これでも旦那のことは認めているんだぜ? そこの姫さんみたいにずっととは言えんが、人間がよっぽど道を踏み外さない限り、天狗を人間の敵にはさせんよ」

「……意外だな。俺がいなくなれば人里から力はなくなるというのに」

「旦那のことを忘れないかぎり前言は翻さん。オレだって妖怪の端くれ。お前さんが守ろうとしたものを守るぐらいの甲斐性はあるさ」

 

 なんとも物好きな妖怪ばかりである。どうやら自分が死んだ後も人里は守ってもらえるらしい。

 こんな気狂いの男が示した強さにまで価値を見出すとは、彼女らもまた人間とは違う価値観を持っていると言わざるをえない。

 本当に、本当に馬鹿ばかりが集まった。

 呆けた顔をしている信綱に、紫は薄く微笑んで彼の歩んだ人生を讃える。

 

 

 

「誇りなさい、人間。――あなたの行いは全てがこうして未来に繋がっていくのよ」

 

 

 

 後にスペルカードルールと呼ばれる決闘方式が生まれる、ほんの少し前の話であった。




彼にとっては打算や駆け引きの一つでしかなかったかもしれないが、それでも無意味ではなかった。そんなお話です。

そして後のスペカルールの骨子が制定されました。外から来たレミリアが美しさという観点を持ち出すことは前から考えておりました。
ノッブは自分が死んだ後の勢力差を考えて実力主義の撤廃を。天魔は大天狗を殺さざるを得なかった事件を経て安全性の確保を願います。

生まれてこの方磨き続けた力ではありますが、あくまで御阿礼の子を守るために必要だから執着しているものであり、後の幻想郷に必要ないと判断したらさくっと捨てます。
まあ人里がヤバくなったら力振るうんで夜露死苦! する予定でもありますが。

以降は隠居生活を送りながら御阿礼の子の世話をして、ぼちぼち老いつつある人間の友人と話したり、時間が流れていくのを書く予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いと妖怪と博麗の巫女

「ふむ……」

 

 信綱は手に持っている木刀を下ろし、眼下の光景を見る。

 死屍累々と横たわる人と妖怪の群れ。ことこの空間に限り、人妖の境目はなくなっていた。どちらも動けないほど消耗しているという点で。

 

「少し揉んでみたらこれか。基礎からやっていくべきだな……」

「いやいやいや! 君の稽古はおかしいんですよ!?」

 

 まだ余力のあった椛が代表してツッコミを入れる。というか妖怪までもぶっ倒れる稽古をしてなぜこの男は汗一つ流さない。

 権謀術数が必要な舞台からは離れつつある。しかしそれで何も仕事がなくなるかと言われればそんなことはない。

 英雄としての知名度は未だ健在の上、彼の力は今なお衰えがない。その力を全て、とはいかなくてもある程度を残すのも重要な役目である。

 

 なので信綱は頭を使う時間が減ったので、その分を稽古に費やしてみたのだが――結果はご覧の通りである。

 

「椿とやったのはもっと厳しかっただろう」

「難なくこなす君がおかしかったんですよ!! 私たちは普通の妖怪と人間なんです!!」

「わかったわかった、そう騒ぐな。俺も皆が皆上手くいくとは思っていない」

 

 一人余力を残している椛に対して倒れ伏している人妖たちが密かな尊敬をしていることを彼女は知らない。当然、信綱も気づかない。

 しかし今の状況が不味いことは理解しているようで、椛の言い分にも同意する様子を見せた。

 

「それぞれの限界は把握した。安心しろ、俺も加減ぐらい覚える」

「全く良い予感がしないんですけど、どうするつもりです?」

「きっちり生と死の境を彷徨う一歩手前まで追い込んでやる。さあ立て。稽古はまだ終わりじゃないぞ」

 

 信綱も加減のわからない烏天狗を相手に通った道だ。今の自分なら生かさず殺さず鍛えることができるはず。

 昔から椛を相手に散々試したことでもある。他の人間や妖怪に適用できない道理もない。

 しかし皆はもう限界だと思い込んでいるらしく、誰も立ち上がらない。

 

「仕方がない。椛が倒れるまでに起き上がらなかったら丸太引きずって走り込み追加な」

「鬼だこの人――!!」

「鬼なら加減を間違えて殺すわ戯け」

 

 だからタチが悪い、という椛の悲鳴は無視した。

 その後、自警団に参加した者たちが等しく信綱の顔を見ただけで血の気が引くまで、稽古は続けられたのであった。

 

 

 

「あの鍛錬を日々続けていれば、いつかは烏天狗ぐらいならなんとかなるのだが……」

「いや、あれについていける精神力だけでも相当な資質だと思いますよ?」

 

 稽古の終了後、信綱は見回りに行く椛に付き合って人里を歩いていた。

 今や天狗と人間に限れば良き隣人としての付き合いが形成されており、人里の警備を担っている椛もすっかり人里に馴染んだ。

 彼女にしてみればほんの十年ちょっと人里で仕事をするだけなのだが、人間の尺度で十年は結構な長さになる。

 きっと椛が天狗の山に戻る時は悲しむ人もいるのだろう。しかし、妖怪との別離を人間が嘆く時が来るとは信綱が子供の頃は思いもしなかった。

 

「いつまでも庇護されるばかりではいずれ人里の価値はまた昔に戻る。そうならないためにも、強さというのはあって困るものではない」

「あったら嬉しい、程度の気持ちであの鍛錬は無理ですって……」

「そんなものか? 別に阿弥様が強くなくても良いと言えば、俺はいつでもこの力を捨てるぞ?」

「だからそれは君が特殊なんですって!!」

 

 あれだけ磨いた自分の力にすら執着を見せないとは。

 ツッコミ疲れた椛はため息をついて顔を前に向ける。千里眼で人里の動きを見ることにも慣れてきた。

 最初は人の細やかな営みを見続けるのは辛いものがあったが、見る場所をスリなどの起こりやすい懐や手元に集中すれば、問題なく行えると最近気づいた。

 

「……まさか人里でお前と会えるようになるとは思わなかった」

「君たちの頑張りのおかげですよ。私一人じゃ何もできませんでした」

「俺も一人だったら何もしなかった」

 

 あの日、椿に出会っていなかったら。彼女が椛と知り合っていなかったら。

 天狗に武術を教わらなかった信綱はこれまでの異変で屍を晒していた可能性が高い。磨けばその分だけ輝く才覚の持ち主であっても、磨き方が上手くなければどうしようもない。

 仮に生き残ったとしても融和など一欠片も考えなかっただろう。元より敵には容赦をしない性格でもある。屍山血河を積み上げ、自分もまたその一部になっていたに違いない。

 

 ほんの少し。一歩を踏み出す際に右足を出すか左足を出すか。そんなちっぽけな違いだけであると信綱は理解していた。そしてそのちっぽけな違いは椛であると。

 

「誇れ。お前がいたから俺は退治より共存を選んだ。お前がいなければ天狗の山の騒動で死んでいただろうさ」

「……君、そういう照れくさいことはまっすぐ言いますよね」

「事実を述べたまでだ。恥じ入ることなど何もない」

 

 顔を赤くして縮こまる椛の様子に、何かおかしなことを言ったかと首を傾げる信綱。

 個人的な心情を述べることよりも客観的な事実を述べることの方が恥ずかしいこともあるのだが、この男はその辺りは気にしないらしい。

 

「で、お前はどうなんだ?」

「どう、とは?」

「面倒なことが起きていないかだ。俺の……友人であることには一定の意味がある」

「どうして友人と言うのを躊躇うのに、あんなことが言えるんですかね……?」

 

 良い歳であるというのに未だに慣れないようだ。精神構造が生まれた頃よりほとんど変わらないというのも良し悪しである。

 見た目だけは……相変わらずの狂気的な鍛錬の成果で三十代前半にすら見えるが、内面は椛が初めて会った少年の時と全く変わることなく阿礼狂いだ。

 外面を取り繕う術は天魔と対等に駆け引きができるほどに習得していても、逆に私心を出すのは苦手なのだろう。阿礼狂いであることが第一義である彼にとって、火継信綱としての私心はあまり価値の高いものではない。

 

「うるさい、さっさと答えろ」

 

 ……まあ、こうして見ているとただ単に彼が照れ屋であることも理由の一つだと思うが。

 三つ子の魂百まで、ということわざを連想しながらも、椛は律儀に信綱の質問に答えていく。

 

「特にないですよ。天魔様は私が人の上に立つ器ではないと仰ってましたし、鬼の方々も基本は人里の方に顔を出しています」

「知っている。あの豪快さは良くも悪くも人を惹きつける」

 

 酒の席は無礼講とも言うし、彼女らの酒の強さは折り紙つきだ。それなりに上手くやっているのだろう。

 最初の頃は加減を誤って殺してしまうのではないかと戦々恐々だったが、さすがにそこで信綱との約束を破るつもりはないらしい。

 

「あとはもういつも通りですよ。白狼天狗らしく、日々下っ端のお仕事です」

「そういう連中がいるから社会は成立する。にしても、ふむ……」

 

 少々意外だった。全ての勢力が、とまではいかなくてもある程度は粉をかけられると思っていたのである。

 理由を考えてみて、すぐに答えへと思い至る。

 

 彼女を身内に引き入れることでの旨みが少ないのだ。

 千里眼は確かに強力だが、天魔やレミリア、紫らはすでに存在を知っている。そして誰に協力しているかも知っている。

 信綱が人里で知り得ない情報を得た時は彼女を疑えば良いのだ。彼女の強みは、誰にも知られていないという前提があって初めて強力な鬼札になり得る。

 

 それに信綱は阿礼狂いでありながら最大限の配慮を彼女にしている。その彼女に手を出して、藪蛇を突く真似はしたくないというのもあるだろう。

 要約するとタネが割れている上、白兵戦こそ侮れないものの実力も大したことはない椛一人に対し、各々の勢力がそこまで手を割く必要がないのである。

 

「なるほど。まあお前が大天狗になるなどゾッとしないな」

「あはは、自分でもそう思いますよ。烏天狗が自分に傅くなんて想像できません」

 

 その光景を想像したのだろう。椛の顔が困ったような笑みに変わる。

 お前はそれで良い、と信綱は内心で思うも口には出さない。

 誰かを従える立場になるということは、利害を計算しなければならない立場になるということだ。

 信綱は阿礼狂いとして御阿礼の子に悪影響が出ない範囲でしか動かない。天魔は天狗の首領として天狗に不利益が出ない範囲で。

 

 そういう風に振る舞う必要がある以上、保守的にならざるを得ない時もある。

 そんな時、一歩を踏み出せるのは――椛のような立場の存在なのだろう。

 

「…………」

「どうかしましたか? 変な顔で見て」

 

 彼女にそれを告げたところで何もならない。信綱は視線を椛から離して彼女とは別に考えていたことを話す。

 

「……別に。椿はこの光景を望んでいたか、考えていただけだ」

 

 もし、彼女が生きていたら自分はなんて声をかけるのだろうか。

 彼女の人妖観が節穴だったことをバカにするだろうか。それとも戸惑う彼女に手を差し伸べていただろうか。

 椿が望んでいたのは人と妖怪が戦える時代だ。それはもう少し先の未来で、より安全で楽しい方法が実現するかもしれないところまで来ている。

 

「……今はあの人のこと、どう思ってます?」

「――憐れんでいる。俺と会わず、天狗の山で退屈を持て余していれば幸せになれたかもしれんというのに。……愚かな女だよ、本当に」

「ですが、あの人と会わなければ君は今のように強くなれなかった。弱いままで何かを変えられるほど、幻想郷は優しくありませんよ」

「…………」

 

 椛の言葉に反論が浮かばず、黙ることしかできなかった。

 続きを促す信綱の視線に、椛はさらに言葉を紡いでいく。

 

「それに私が共存を願ったのは、君と椿さんの結末を知ってからです。この光景ができるまで、何か一つでも違っていたら。それを言ったのは君じゃないですか」

「……ふん、わかっている」

 

 だが、彼女の死が幻想郷にとって必要であったと認めたくない自分がいた。

 なぜかはわからない。阿弥の敵になった彼女は信綱にとって死んで当然の相手であるというのに、不思議と彼女の死を肯定的に捉える気になれない。

 信綱はほんの少しだけ思索を巡らせ――自分の手で殺した相手を考えるなどということのバカバカしさにため息をつく。

 

「見回りに戻るぞ。河童の出店を見に行く」

 

 火継信綱という人間は、物事を自分の中で完結させると話題を変える癖があった。

 自分の心情を表に出すことを嫌う信綱らしい悪癖であり、椛からすれば何度も見た姿である。

 なので椛も驚くことなく彼の言葉に応える。

 

「あれ、何かあったんですか?」

「……イカサマしているんじゃないかという疑惑が出ていてな」

「ああ……」

 

 椛が遠い目になる。良くも悪くも技術者というか、思いついたら実践せずにはいられないというか。ついでに言えば研究には金もかかるため利益にもうるさい。

 あれ、河童って結構面倒な連中? と椛が思っていると、横を歩く信綱の顔が厳しいものに変わる。

 

「さんざん注意したというのに、懲りない奴らだ」

「え、君はもう何度も見ているんですか?」

「うむ。その度に生きるのが嫌になるくらい折檻したつもりなんだが……」

「うわぁ」

 

 この手の言葉で信綱が嘘をついたことはない。本当に死なせてくれと懇願するくらいには精神と肉体を追い詰めたのだろう。

 それでもなおイカサマを続けるとは、一周回って潔さすら覚える領域である。

 

「真面目に商売をしていれば俺も何も言わないというのに……」

「あはははは……ほら、ハマると凄いんですよ?」

「悪い方向に行くなと手綱を握ってくれ」

「それは無理です」

 

 地味に頭の痛い問題なのだ。祭りの出店程度の規模なので、さほど大きなわけではないのが救いというべきか、だからこそ強く罰することもできずタチが悪いというべきか。

 ともあれ、まずは真偽を確認して本当のようであれば、再び生きることが嫌になるまで折檻をしなければならない。信綱としても面倒なのでやりたくないことだ。

 

「はぁ……行くぞ、椛。やっと作った時間を些細なことで壊したくはない」

「ええ、任せてください。私だってこの時間は好きなんですから」

 

 二人は長年共に歩んできた者たち特有の距離感で、人里の中を歩いて行くのであった。

 

 

 

 

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 空気が重い。双方ともに無言で茶をすすり、沈黙が場を支配している。

 茶を飲む片方は信綱。相手がなぜ何も言わないのかも理解しており、元々静かな時間が好きな彼にとって、この空間は少々居心地が悪い程度で気になるものではない。

 しばらく無言の時間が続いたが、やがて痺れを切らしたのか、信綱の茶飲み相手――博麗の巫女が口を開く。

 

「……何か言うことはないわけ」

「茶菓子が欲しい」

「湿気ったせんべいでも食ってなさい! 幻想郷の未来を決める会議に呼ばれないって何よ!」

 

 怒鳴りながらもせんべいを出してくれたので、遠慮なくかじりながら信綱は巫女の愚痴を聞き流す。

 招待をしたのは紫なのだ。別に信綱が選んだわけではない。巫女もそれぐらいはわかっているので、これは単なる八つ当たりに過ぎない。

 

「俺に言われても困る。選んだのはスキマだ」

「他に言う相手いないじゃない! 紫はどこにいるかわからないし! レミリアと天魔は遠いし!」

「それはそうだが、よく把握しているなお前……」

「紫から事の次第だけは聞かされたのよ……あんな喜色満面の紫なんて初めて見たわ」

「ふむ」

「正直気持ち悪かった」

「だろうな」

 

 紫が聞いていれば非難轟々の内容だったが、二人は特に気にしなかった。両者の中で紫がロクでもない妖怪に位置することは当然の事実らしい。

 

「あーあ、妖怪が雁首揃えて会合とか、どうせロクなことじゃないと思ってたのに。あんたまで入ってるなんて」

「それぞれが勢力の長だからな。博麗神社は勢力としては数えられん」

 

 敵味方以前に、ここが落ちたら幻想郷は終わりなのだ。

 絶対中立、絶対不可侵。それが博麗神社の不文律であり、この中で争うことは許されていない。

 これらも彼女を呼ばない決断に十分だが、それ以上にもっと大きく、単純な理由があった。

 

「大体お前、もうすぐ引退だろう」

「……む」

「昨日今日で決まるものでもない。骨子だけは定まったが、形になるのはまだまだ先の話だ」

「私やあんたが今から覚えられるものではないってこと?」

「いや、俺は覚えられるぞ?」

 

 必要ならなんだって覚えるし、取り入れる。霊力の扱いを巫女との稽古だけで覚えた彼の才覚は伊達ではない。たとえ制定された掟が全く新機軸のものであっても、信綱は容易に習得ができるだろう。

 

 とはいえ必要ないとも感じていた。これからの幻想郷に必要なのは命を懸けることなく人妖が戦える決まりであって、それができたら信綱は一線を退いて御阿礼の子の側にいたかった。

 人里に決定的な被害が出かねない場合は剣を振るうことも許されているので、最悪の場合の防波堤ぐらいになれば十分だと考えている。

 

 それを伝えると巫女は頭痛と感心を混ぜたようなため息をついた。

 

「馬鹿となんとかは紙一重ってよく言ったものね……」

「なぜ天才をなんとかと言う」

「あんたを天才と言うのはなんか腹立つ」

 

 相変わらず理不尽な巫女である。信綱は肩をすくめて湯呑みに残っていた茶を飲み干す。

 置いた湯呑みに新たな茶が注がれるのを横目に、信綱は巫女に声をかける。

 

「俺は御阿礼の子がいる限り現役だが、お前はそうではない。スキマが後継を見つけたら、ないしアテがついたら終わりだろう」

「……生きてこの役目を終えられる時が来るなんて思ってなかったわ」

「そんなものか」

「あんたは私が死ぬとか思わなかったの?」

「なぜ?」

 

 真顔で首を傾げられてしまい、むしろ巫女の方が戸惑ってしまう。この男の頭には巫女が死んだ場合のことが一切ないようだ。

 

「なぜって……博麗の巫女の危険性は知っているでしょう?」

「実際のところはわからないが、俺も修羅場はくぐっているから想像はつく」

「じゃあわかるでしょう。妖怪退治に失敗して死ぬ。恨みを買った妖怪に襲われる。寝入ったところを襲われる。博麗神社が中立地帯って言っても聞かない連中だっているわ」

「お前はその程度じゃ死なんだろう。そんな有象無象にお前が殺せるものか」

「……当たってるけどさあ」

 

 信頼されていると考えるべきか、それとも信用以前の事実を述べているだけなのか。常と変わらず淡々と話す信綱の顔からは今ひとつ判断ができなかった。

 

「それにお前が死ぬのならその前に俺も死んでいるだろう。何の因果か、妖怪の執着は俺に向いていた」

「ご愁傷様。そしてありがとう。おかげで楽ができたわ」

「どういたしまして」

 

 全く気のこもっていない巫女の感謝に信綱もおざなりに返す。過ぎたことをどうこう言うつもりはないのだ。

 

「……なあ、お前は巫女の役目を終えた後はどうしたいのか、決まっているのか?」

「え?」

「この前、俺も人里の政治からは下がるよう言われてな。ふと思った」

「……あんたはどうするの?」

「阿弥様の側仕えをやめるわけじゃない。稽古に当てる時間が増えた程度のものだ」

 

 当主としての雑務も適当な連中に任せている。実質、信綱に課せられた役目は妖怪との折衝ぐらいである。

 と言っても、基本は阿弥の側仕えが中心だったので、それ以外の時間に入っていた仕事がなくなったに過ぎない。それに人里の仕事ぐらいは片手間でもできていた。

 それを巫女に伝えると、巫女は馬鹿を見るような目で信綱を見る。

 

「まだ稽古してるの? 鬼なんてぶっ倒しておいて?」

「あんな薄氷の戦い二度と御免だ。次は無傷で勝つ」

「本気で言ってるのがあんたらしいわ……」

 

 面白い冗談だと思われたのだろうか。しかし信綱は五十を過ぎた今であっても、鍛錬を緩めることはなかった。

 彼が求める強さは例え鬼の首魁が二人がかりで来ようと、鎧袖一触に薙ぎ払える強さ。そこまで到達することが不可能であっても、御阿礼の子に心配をかけさせないために強さは必要だった。

 

「俺の話はどうでも良いだろう。お前の話だ」

「ん……」

 

 巫女は湯呑みを置いて空を見上げる。信綱もそれにつられて空を見る。

 雲ひとつなく蒼天澄み渡る晴れ模様。頬を撫でる風は適度に涼しく、秋晴れの良い一日であった。

 その空を見て、巫女の思考には何が去来しているのか。信綱には想像がつかなかった。

 

「……誰かと一緒にいたいってのは話したわよね」

「物心ついた頃よりこの神社で過ごしているのなら理解は示せるな」

 

 誰に相談することもなく、ただただその強さを求められる日々。人に肩入れをすることも、妖怪を駆逐することも許されず幻想郷の一部として生きることを宿命付けられた命。

 信綱には考えられないことだ。自分から望んだものではないものに命は懸けられない。

 

 それをこの巫女はやり遂げた。誰に認められずともそれは賞賛されるべきことである。

 信綱がこの巫女と友人として付き合いを続けているのは、巫女の役目を果たしている彼女に対する敬意も含まれているのだ。

 なので彼女が役目から解放された時、彼女の願いをある程度は叶えるのもやぶさかではなかった。大して価値も見出していない自分との婚姻で良いのならどうぞという感覚である。

 

「他の夢、他の夢、ねえ……。一緒にいてくれる相手はいるし、後はもう悠々自適にお茶でも飲んでいられればいいかな」

「今の状況と何が違うのだそれは……」

 

 無欲というべきか、とことん怠惰というべきか。あるいは夢を持つような関わりすらなかったのかもしれない。

 夢とは他者や道具と関わって得るもの。志半ばで死ぬ可能性が極めて高く、他者との関わりも最小限になっていた巫女が夢を持たないのも、ある意味当然の帰結なのだろう。

 

 それに対し憐れとは思うが、それ以上の同情などは抱いていない。

 選択肢が他になかろうと、選んだのは彼女である。辛い役目を背負ったことへの憐憫と、見事それを成し遂げたことに敬意は表すが、畏敬は持たない。

 色眼鏡をかけず、その人自身を見てくれる友人というのは思いのほかありがたい存在なのであると、信綱は勘助から学んでいた。

 

「……まあ、お前がそれで良いなら良いのだろう。俺もお前の生き方にとやかくは言わん」

 

 今さら夢を見つけてもどうしろという話でもある。もうお互いに五十を過ぎた老人の身だ。

 霊力を扱えるからか見た目こそまだ働き盛りを維持しているが、死ぬ時はあっさり死ぬだろう。

 

「わかってるじゃないの。適当にやってくわよ、適当に」

「…………」

 

 こいつは元々一般人の生活が向いてないのではないだろうか。そんな感想を巫女に対して持ってしまう信綱だったが、口には出さなかった。

 

「……ねえ」

「なんだ」

 

 巫女の声音がしんみりとしたものになり、そこはかとない真剣味を感じさせるものになる。

 それを耳ざとく察した信綱は、しかしいつも通りの態度で彼女の方を見やる。基本的に信綱の対応は相手の態度によって決まるが、大体の場面では彼なりに真面目に向き合っていた。

 

「私たち、友人よね?」

「そうだな」

「否定しないんだ」

「三十年以上お前の愚痴にも付き合ってきただろう」

「あんたの愚痴も聞かされたわね」

「そうだな。ところで、過去を思い返すような話が増えると人間は老けると言うぞ」

 

 拳が飛んできたので避ける。一発だけ飛んできた拳はそのまま力を失い、信綱の肩に置かれる。

 何かを言い淀むようにその手は震え、やがて決心とともに信綱の肩を握り潰す勢いで力がこもった。

 

「……先のことはまだわからないけど、ずっと友人でいてくれるわよね?」

「俺は来る者は拒まず去る者は追わずだ。お前が離れるか、阿弥様の敵にならない限り俺はお前を見捨てない」

 

 痛いから離せ、とは言えないので素直な気持ちを話す。

 彼女なりに勇気を出して聞いているのだ。素直に応えるのが筋だろう。

 それを聞いた巫女はこわばっていた肩の力を抜き、安心したように長い安堵のため息をつく。

 

「全く、そんな不安に思うようなことでもなかろうに」

「声に出さなきゃわからないこともあるのよ。あんたはその辺、かなり受け身だし」

「必要がないことはやらない。簡単なことだ」

 

 彼女が目に見えて落ち込んでいるようなら慰めの一つも口にするが、そうでなければ何も言わない。

 巫女の言葉ではないが、声に出さなければわからないことなどいくらでもある。

 

 御阿礼の子のことであるなら何も言わずとも全てを察するのが当然だが、それ以外の存在のためにそこまでする義理は見当たらなかった。

 

「……あんたは本当、変わらないわね。私が会った時からずっと」

「一生変わらんだろうよ。俺はそういうものだ」

 

 火継の人間は全員が阿礼狂いであり、総じて物の見方や価値基準などはほぼ同じである。

 その中で何を重要視するか。信綱のように可能な限り情理に配慮し周囲との軋轢を作らないことに腐心するか、周囲との関係自体を持たないように振る舞う者もいる。

 

 どちらも阿礼狂いという観点で見れば違いはない。根幹が生まれた時より定まっている以上、歳を重ねても枝葉が少々変わる程度である。

 その点で言えば信綱は変化した方だとも言える。六歳の頃から側仕えをし、多くの人妖に目をつけられて生きてきたため多くの価値観に触れている。

 

「……けど」

「けど?」

 

 御阿礼の子が至高という価値観は揺るがずとも、それ以外の部分では十二分に成長をした。それが今の共存を作り上げる原動力となっているのだ。

 

「俺が知り合った誰か一人でも欠けていたら、今の自分はないと思っている。お前も例外じゃない」

「……なんか言葉にされると照れるわね、それ」

「言葉にしなければわからないと言ったのはお前だろうに。まあ……」

 

 立ち上がり、巫女に手を伸ばす。

 

「来る者は拒まない。責務を終えたお前ぐらいならどんな形であれ、面倒を見てやる」

「……言ったわね? 私、結構面倒な方よ」

 

 それを巫女は眩しい何かを見るように目を細めて、しかし迷うことなく伸ばされた手を掴む。

 

「俺より面倒なやつはいないだろう。愛されないとわかっていて俺の手を取るか」

「恋だの愛だのを語れるほどの時間はないでしょ。一緒にいてくれる友だちがいる。それだけで十分よ」

「変わったやつだ」

「あんたと同じ評価ね。なら私も英雄ってことかしら?」

 

 口の減らない女である。しかし、これが彼女なりの親愛の表現であることも信綱は理解していた。

 仕方がないと微かに笑い、巫女も信綱の微笑んだ姿を見て笑う。

 

 博麗の巫女と阿礼狂い。本来なら接点など生まれるはずもない関係であるにも関わらず、ここまで縁が続き、またこれからも続いていく。

 

 

 

 それはきっと――彼女にとって何よりの救いなのだろう。




椛とは相棒。巫女とは腐れ縁のような、友人のような関係。
自分が狂人であると公言し、なおかつ向こうもそれを理解しているからこそ成り立つ人間関係。
奇妙でノッブの意思次第であっさり終わるけど不思議と強固。そんな感じのつながりです。

話が長くなる→色々とキャラが出る→そのキャラを満遍なく書こうとする→話が長くなる→作者が死ぬ(迫真)

というわけで次回で動乱の時代は終了です。つまり――阿弥と別れる時がやって来ました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

家族との離別

 それは阿弥が御阿礼の子の生きられる限界と言われている、三十回目の誕生日を迎える少し前のこと。

 信綱は彼女の身を案じつつも努めて普段通りに振舞い、朝餉を用意した時のことだった。

 

「父さん、今日は少し出かけましょうか」

 

 阿弥は信綱が作った味噌汁を飲みながら、今日の予定を告げる。

 一足先に食事を終え、側で控えていた信綱は阿弥の言葉に一も二もなくうなずく。

 

 余談だが、信綱は阿弥の強い希望によって阿弥と一緒に食事をしている。従者としては失格だが、家族としてはこれが正しいのだろう。

 

「阿弥様が出られるのであれば、どこへなりともお供いたします」

「そんな肩肘張るような場所じゃないわ。ちょっと市場の方を見てみたいだけ」

「市場の方を、ですか?」

 

 はて、何か入用なものでもあっただろうか。

 阿弥が縁起の編纂や書物などで使う道具は全て信綱が用意している。当然、不測の事態にも対応できるように余裕は常に持ってある。

 誉れある御阿礼の子の側仕えなのだ。万に一つの可能性すら排して完璧にしているつもりだ。

 

「少し贈り物をしようと思うの。父さんは何か欲しいものとかある?」

「私、ですか? 今、この時間さえあれば他には何もいりませんよ」

 

 一切の逡巡を見せずに即答する信綱に、阿弥は少し困ったように眉を動かす。

 

「じゃあ、私から何が贈られたら嬉しい?」

「そちらも特にありません。阿弥様から贈られるものでしたら、どんなものでも一生大切に致します」

「うーん……」

 

 唸ってしまう。確かに阿七から贈られた硝子細工を今でも後生大事にしている彼のことだ。

 言葉に嘘偽りはなく、硝子細工のように長く持つものでなくとも、彼は大切に保管し続けるだろう。

 彼に具体性を求めること自体に無理がある。それを察し、阿弥は軽く手を叩いて立ち上がる。

 

「じゃあ行きましょう。行ってみれば何か見つかるかもしれないし」

「お供いたします。本日はお日柄も良い。きっと良いものが見つかるでしょう」

「もう、父さんに贈るものなんだから。そんな人事みたいに言わないで、父さんも考えてね?」

「……善処いたします」

 

 阿弥からもらえるものであればどんなものでも舞い上がってしまうほどに嬉しいのだが、ここで求められている答えはそういうものではないらしい。

 阿弥が笑ってくれることは嬉しい。しかしその好意が自分に向けられることにはいつになっても慣れない信綱であった。

 

 

 

 阿弥の手を引いて外に出る。もう童女のそれではなく、成熟した女性となった阿弥は信綱と並んで手をつなぐ。

 

「お身体の調子はどうですか?」

「大丈夫。父さんは心配症ね」

「申し訳ありません」

 

 阿七が逝った歳からすでに四年が経過しているのだ。もういつ亡くなってもおかしくない時間。信綱が神経質になるのもわかるというものである。

 そんな信綱の不安を他所に、阿弥は健康そのものの日々を送っていた。春の花見に夏の祭り、秋には軽く山を散策し、冬には雪を見ながら信綱と静かに過ごす。

 信綱も大半の仕事を他のものに任せるようになった現在、阿弥と一分一秒でも共にいられる幸せを噛み締めながら彼女の側に寄り添っていた。

 

「さ、父さんは何が欲しい?」

 

 そんな阿弥は淑やかな笑みを浮かべ、視界の先に広がる市場を指差す。

 ここで手に入らないものは幻想郷のどこを探しても見つからないだろう。そう思ってしまうほどに市場は賑わっており、人妖の区別なく商いをしている光景が映る。

 

「ふ、む……」

 

 話を振られた信綱は少々考え込む形を作り、僅かな間を置いてポツリと小さく自身の願いを語る。

 

「……できれば、長く保存できるものが良いです。細心の注意を払っても形あるものはいつか壊れてしまいますから」

「わかったけど、それでもざっくりしてるよ父さん。もう少し細かくできない?」

「……部屋に飾るものであればなおありがたいかと」

 

 自分はあまり装飾品を付ける性格ではない。最低限、その場所に相応しい身なりをしていれば問題ないと考えてしまう方だ。

 堅物で生真面目とは誰の評価だったか。人から好感を得やすい態度を取り続けていただけだが、実際自分はそういう人間なのだと思ってしまう程度にはその性格を演じることに慣れていた。

 

「わかった。父さんの部屋、色々と貰い物が多いものね」

「押し付けられるものばかりです。部屋の調和を乱して困る」

「でも、捨てたりはしないんでしょう?」

「…………」

 

 困ったように笑い、降参だと両手を上げる。贈り物をくれた相手の前ではあまり認めたがらないが、部屋をどのように飾れば良いのかわからない信綱にとって、ああいった贈り物はありがたい部分もあるのだ。

 

「阿七様から頂いた硝子細工は今でも大切に保管してあります。一緒になどいたしませんが、それとは避けた方がよろしいかと」

「そうする。確か、花の硝子細工だったわね。もう少し小さくて綺麗な色のついたものを髪飾りにするとかも良いかもね」

「阿弥様ならばなんでも似合いますよ」

 

 阿弥との何気ない会話に微笑みながら、信綱は自分の言葉に考えを巡らせていく。

 とりとめのない会話の一部分だった。しかし彼女に髪飾りというのは思いのほか悪くない。

 従者として出過ぎていないかというのが少々心配だが、美しい装飾品は阿弥の美しさをより一層際立たせる。いや、彼女は何も身に付けずともその美しさに陰りなどあり得ないが。

 

「お、人間! ちょっと見ていかないかい?」

「あ、父さん。河童が呼んでるよ?」

「…………」

 

 人が考え事をしている時に、と信綱はやや眉間にシワを寄せて視線を下に向ける。

 ござを敷いてそこに商品を並べているにとりの姿がそこにあり、信綱の顔を見てにとりは満面の笑みを浮かべる。

 

「やあやあいらっしゃい盟友! 今回の商品はどうよ?」

「……イカサマはしてないだろうな」

「この前みたいなことはもうしないって!? 私はもう懲りたよ……」

 

 ちなみににとりも河童の例に漏れず、悪徳商売で儲けようとしたので信綱の鉄拳が火を噴いていた。

 慧音の説教も加えて常人なら五分で泣きながら土下座をする密度の内容である。にとりは一時間耐えた。

 

「だったら他の河童にも言い聞かせておけ。俺も何度もやりたいことではない」

「……私たちを殴ることで心が痛むとか……」

「無駄に頑丈で聞き分けが良くなるまで長いからな」

「ですよね盟友にそういう優しさとか期待するだけ無駄ですよね」

 

 うなだれるにとり。しかし信綱は心外だと言わんばかりの顔をする。

 これでも情状酌量はきちんとしている方だと自負しているのだ。それでも罪を犯した存在を許すことは秩序の乱れを生むことに繋がるため、キッチリ罪を償わせているだけで。

 

「悪いことをしなければいいんだ。それなら俺だって殴る拳は持たん」

「身に沁みたよ……。ところで盟友、今日はその女の人と一緒? 白狼天狗と言い、博麗の巫女と言い、綺麗どころ侍らせてるじゃないのよこの色男って痛ぁっ!?」

「口は災いの元だな。あと、この人は俺の主だ。粗相のないようにしろ」

 

 阿弥も信綱の交友関係は把握しているので、その二人が彼にとって友人と呼べる付き合いであることも知っている彼女は困ったように笑うしかない。

 というより、元々妖怪に女性が多すぎるのだ。人里での彼は普通に親友である霧雨商店の店長と一緒にいることもある。

 

「いてて……と、とにかく見ていってよ! 今回のは……あんま自信ないけど」

「ないのか」

 

 信綱にゲンコツを落とされたにとりは涙目になりながら、ござに置かれている商品を勧める。

 阿弥とともに視線を下ろすと、そこには河童がよく置いている訳のわからない鉄製品や、あこぎな空気がぷんぷん漂う遊び道具――ではなく、純粋に美しい工芸品が並んでいた。

 

「お前たちが好む商品ではないな。どうした?」

「天魔様に怒られちゃってさあ。ちったぁ儲けが出るものを作れって言われた」

 

 ちなみに天魔はにとりの家で待っていた。

 人里で物を売って帰ってきたら天魔が待ち構えており、冗談抜きに心臓が止まりそうになったのはここだけの話。

 

「それでこれか?」

「うん。お前らに任せて売れるものが出るとも思えんから、今回はオレが指定するって」

 

 ぐうの音も出ない理屈だった。信綱も河童に指示を出すとしたら商品の指定もするだろう。こいつらに任せたら不安しかないという意味で。

 手先は器用なのだから、ちゃんと市場の売れ筋や高値で売れるものを把握しておけば問題なく稼げるはずなのだが、彼女らはどうにも興味を優先してしまう。

 

 機械、とやらの凄まじさを力説されたところで信綱たちにはピンと来ない上、作ったものがまだ未完成のものも多いのだ。売れるはずがない。むしろなぜ売れると思うのか。

 

「英断だな。阿弥様、どうされます?」

「少し見ていこうか。すっごく綺麗」

「お、そう言ってもらえると嬉しいね。でも私らが言うのもあれだけど、こんなのでいいの? もっとこうミミズ君三十五号とかの方が――」

「やめろ」

「はい」

 

 信綱に見せたミミズが三十五号まで進んでいることにも驚愕である。まだ完成していなかったのかという点と、どこまで凝れば気が済むのかという点で。

 ともあれミミズの作り物が動く光景を見ていて楽しいとも思えないので、信綱も阿弥と一緒に商品を見る。

 

 見れば見るほど精巧な細工になっており、どれほどの技巧が凝らされているのか信綱にもパッと見るだけではわからないほどだ。

 

「本当に見事な作りだ……お前にこんなものが作れるとは思わなかったぞ」

「んなっ!? 河童は凄い技術力があるって言ってんじゃん!」

「出てくる物が物だったからな……」

 

 しょうもないものや用途のわからないものを差し出されても価値はわからない。信綱とて知らないものに適切な評価は下せない。

 だが、今見ている細工品は別だ。部屋に飾る置物や所持者を淡く彩る飾り物など、信綱が普段から見慣れているものであるにも関わらず、そこに凝らされた技巧は群を抜いていると断言できるもの。

 

「すごいね、これ……。私も目は肥えているつもりだけど、こんなに綺麗な細工は見たことがない」

「へへん、河童の手先もなかなかのもんでしょ? 見るだけじゃなくって買っていってくれるとさらに嬉しいよ!」

「ふ、む……」

 

 にとりがニコニコと見てくる視線の中、信綱はおもむろに細工品の一つを手に取り、阿弥の方を見る。

 可愛らしく小首を傾げる阿弥のさらさらとした髪にそっとその細工品――艶やかな花の飾りをかざす。

 

「……これを一つくれ」

「まいどあり! よく似合ってるよ、お嬢さん!」

「え!? もう父さん、今日は私が父さんになにかあげたいのよ」

 

 柔らかい頬を小さく膨らませる阿弥に、信綱は穏やかな笑みを浮かべながら髪飾りを渡す。

 

「ですが、私からあなたに贈り物をしてはいけないとも言われておりません。無論、阿弥様がお嫌ならば受け取らずとも結構です」

「うう……イヤじゃないけど……」

 

 阿弥は新たな髪飾りをしきりに触って、収まりの良い位置を探しているようだった。外す気はないようで一安心である。

 内心で安堵している信綱だったが、何やらむくれた阿弥がその手に持っていた根付を押し付けてきて驚いてしまう。

 

「阿弥様?」

「……これ、父さんに似合うと思うから」

 

 勢い良く差し出された根付に反して、阿弥の声はボソボソと小さなもの。照れているのか頬に赤みが差していた。

 信綱はやや戸惑ったように身じろぎをするが、すぐに根付を受け取って微笑む。

 

「ありがとうございます、阿弥様。一生大切に致します」

「うん、そうしてくれると嬉しい」

 

 喜んで受け取る信綱に阿弥もホッとしたように笑う。信綱が阿弥の贈り物を断るはずがないのに、それでも不安に思ってしまう何かがあったようだ。

 と、そんなことを考えているとにとりの憔悴した声が横から届く。

 

「まいどあり……。お二人さん、見せつけるんなら他所行ってくれよ……」

「? 何を?」

「い、行きましょ父さん!」

 

 訳がわからないと首を傾げる信綱の手を阿弥が引いてにとりの元から立ち去る。

 その際、一応手を振っておいたがにとりからの返事は疲れ切ったような投げやりな手だけだった。

 そうしてにとりのいた場所から距離を取ると、阿弥はくすくすと笑い出す。

 

「ああ、楽しい! 昔に戻ったような気分!」

「ここ最近はあまり外に出ることもありませんでしたね。喜んでいただけて何よりです」

 

 外に出ても家の周りを散歩したりする程度のものである。阿七よりマシとはいえ、阿弥もまた成人女性と同程度の健康を持っているわけではない。

 子供のようにはしゃぐ阿弥に信綱も嬉しそうに目を細め、彼女の手を取って従者としての役割を果たす。

 

 彼女から受け取った根付を大切にしまい、彼女に手を引かれるままに里を練り歩いて――里が夕焼けに染まり始めた頃。

 市場からも人が消え始め、皆がそれぞれの帰る家や仕事を終えた後の一杯を探しに歩み出す風景を、阿弥と信綱の二人はその場に立ち止まって眺めていた。

 

 見回りの仕事を終えた天狗が人間に誘われ、居酒屋に入っていく姿。

 河童と人も互いに肩を組んで陽気に歌いながら歩いている。その顔は夕焼けに照らされてなお赤い。すでに酒が入っているのだろう。

 チラリと見かけた居酒屋の中では鬼が樽の酒を飲み干し、皆に囃し立てられている。

 

 誰も信綱たちには目もくれない。皆が自分たちの楽しみを求めている途中で、その楽しみに人妖の境はなかった。

 

「……綺麗ね」

 

 その風景を愛おしそうに見つめる阿弥が静かにつぶやく。

 

「そう言っていただけるのなら、彼らも喜ぶでしょう」

「ふふ、父さんが頑張って作ったのに喜ぶのはあの人たちなんだ」

「もうとっくに私の手を離れていますよ。今の人里を作っているのは彼らです」

 

 彼らを見ていると信綱の胸にも言い知れぬ充足感が生まれる。

 それは阿弥と一緒に見ているということもあるだろうし、八雲紫ですら一人では成し得なかったことを成し遂げた感慨もあるだろう。

 

 存外、自分はこの幻想郷という場所が好きなようだ。

 妖怪がいて、人間がいて、椛たち妖怪の友人がいて、勘助ら人間の友人がいて――何より御阿礼の子がいるこの場所が。

 

「……ね、父さん」

 

 この世に生を受けて半世紀以上。そんな歳になるまでずっと人里にいたのに気づかなかった事実に胸中で笑いをこらえていると、阿弥が繋いでいた手を離して信綱と向かい合う。

 

「なんでしょうか、阿弥様」

「私はこの場所が好き。稗田阿礼の時から今に至るまでずっと、幻想郷を愛している」

「ええ、存じ上げております」

「そして父さんが頑張った今の幻想郷はもっと好き。……だから私はこの場所を見守っていたい」

「…………」

 

 迷うような顔になる阿弥に無言で微笑みかける。その先の言葉を続けても火継信綱は笑って受け入れることを示すように。

 

「仰ってください、阿弥様。私はあなたの願いを叶えるためにここにおります」

「……っ! 父さんはそれでいいの!? 私たちと一緒にいるんでしょ!? なのに、私がそれを否定したら……!」

 

 死出の旅路に伴したいだろう。阿七の死を見届け、さらに阿弥の死まで見届ける信綱の心はどれほどの傷を受けるのか。

 泣きそうな顔で叫ぶ阿弥に信綱は微笑みを崩さないまま、阿弥の頬を涙が流れないように優しく撫でた。

 

「確かに逝かれることは悲しく、苦しく、辛いことです。――ですが、あなた方から頂くものはそんなものより遥かに大きい」

 

 静かに膝を折り、阿弥の前に頭を垂れる。

 あなたの価値はそんなもので陰りはしないと。阿礼狂いは御阿礼の子の側に居られるだけで、何ものにも代え難い宝を受け取っているのだと。

 主に全てを捧げるその姿勢が何よりも雄弁に語っていた。

 

「どうか私に命じてください。私はそれだけで十二分です」

「……稗田阿弥があなたに命じます。――どうか、私が遠くへ逝った後のことをお願いします」

「御意のままに」

 

 垂れていた頭を上げると、そこには涙を堪える顔で、信綱の肩に手を置いて命令を下した愛しい主の姿がある。

 肩に置かれた手を両手で握り、信綱は安心させるように心からの笑みを浮かべた。

 

「あなたが気に病むことは何もありません。あなたの懸念が嘘になるよう、私も強く生きましょう」

「……ごめ――」

「ありがとう、と。それだけ言っていただければ私は他に何もいりません」

 

 かつて、阿七に同じことを頼まれた時は彼女に謝らせてしまった。

 今はそんな必要もない。彼女の願いは全て正しく、叶えられるべきものであるのだ。

 何も迷う必要はなく、ましてや泣く必要なんてどこにもない。それを証明するように信綱は笑う。

 

 信綱の言葉の意味を正しく感じ取り、阿弥は泣きそうな顔をどうにかして歪め、不格好な泣き笑いの形を作った。

 

「……ありがとう。私の大切な人」

「その言葉だけで私は望外の幸せです」

 

 再び頭を垂れ、そして阿弥の手を握って立ち上がる。

 

「帰りましょう、阿弥様。私たちの家に」

「……うん」

 

 寄り添いながら夕焼けの向こうに歩いて行く二人の姿は、誰にも引き裂けない強い絆によって結ばれていた。

 

 

 

 

 

「阿弥様、寒くはないですか?」

「大丈夫。今日も良い天気ね」

 

 稗田邸の縁側に並んで座り、熱い緑茶を片手に静かに佇む。

 天気の良い日は稗田邸に備え付けられている庭園が見事な彩りになる。春には桜が咲き乱れ、夏は目もくらむ深緑が生い茂り、秋には紅葉が舞い、冬には雪化粧が施される。

 御阿礼の子に目でも楽しんでいただこうと頑張った甲斐があった、と信綱は内心で自画自賛をする。御阿礼の子のためなら大体のことをやってのける男だった。

 

 阿弥はよもや自分の側仕えがそこまでしているとは夢にも思っていないが、彼女に褒められたくてやったわけではない。普段より庭が綺麗だなあ、程度の思いで十分である。

 

 今日は春の芽吹きが聞こえるような良い天気であり、溶けた雪の下から芽吹く小さな生命が二人の目を楽しませていた。

 二人はしばし無言で熱い茶を少しずつ啜る。春の足音が聞こえるとはいえ、まだ外は寒い。

 だが、信綱は部屋に戻ることを進言はしなかった。本来ならば体の弱い阿弥を慮って部屋で休養をすることを勧める男であるにも関わらず。

 

「…………父さん」

「はい、何でしょうか」

 

 阿弥の身体が傾き、信綱の胸に倒れこむ。

 それは別に体調を崩したからというわけではなく、ただ寄りかかりたいだけであると信綱は直感していた。

 

「父さん」

「……阿弥様?」

「父さん、父さん、父さん」

 

 しかしそこから先の阿弥の行動はわからなかったようで、何度も父さんと呼んでその響きを忘れないようにしている阿弥に首を傾げる。

 首を傾げると、阿弥の髪飾りが春の日差しを受けて輝く。あの日に贈ったものは肌身離さず付けてもらえているようで何よりである。

 

「うん、覚えた。この時間を私は絶対に忘れない」

 

 やがて顔を上に向けた阿弥は信綱に春の日差しに負けない優しい笑みを浮かべた。

 

「阿弥様にそのように思っていただき、嬉しく思います」

「絶対に、絶対に忘れない。私の想いが消えたとしても、この記憶だけは色褪せさせない」

「……そんなに意気込むことはありませんよ。阿求様にもきっと同じことをしますから」

 

 信綱の言葉に阿弥はビックリしたような顔になる。

 

「……わかるの?」

「あなたが生まれた時よりずっとお側におりました。わかりますよ」

 

 穏やかな心境だった。この日が来ることを心の底から嘆いていたはずなのに、阿弥の顔を見ているとその気持ちが溶けていくのがわかる。

 いや、溶けていくのは正確ではない。きっと彼女が遠くに逝った時、信綱の心に去来するのは阿七が亡くなった時と同じだけの悲しみだ。

 

 ――だが、阿弥にそれを見せる必要はない。阿礼狂いは御阿礼の子が隣りにいるだけであらゆる負の感情から解き放たれる。

 

「……そっか。父さんはわかっちゃうんだね」

「あなたのことをずっと見てきました。これからもそれは変わりません」

「ん、ありがとう、父さん」

 

 身体が重たいのか、阿弥の身体は信綱の胸から膝に滑っていく。

 阿七と同じ場所をお気に入りとしている阿弥は、その定位置に収まると気持ち良さそうに身動ぎをする。

 

「父さん、今いくつ?」

「五十六です」

「じゃあ阿求の頃にはおじいちゃんね」

「そうですね。耄碌だけはしないよう気をつけます」

「父さんなら大丈夫よ」

 

 軽やかに笑う阿弥に信綱は膝を貸したまま微笑む。

 彼女の髪を慣れた手付きですかすと、阿弥はくすぐったそうに笑う。

 阿七の時はおっかなびっくりだったそれも、今では慣れたものである。

 

「阿七の時は弟。私の時は父さん。阿求にはおじいちゃん。父さんは私たちに色々な形の家族を教えてくれる」

「私が教えているのではありません。あなたが学んでいるのです」

「どっちも一緒じゃない?」

「違いますとも。私はあなたに何かを教えようとしたことなど一度もありません」

 

 そんな上からの立場の行動、御阿礼の子に対してできるはずがない。信綱が願うのはあくまで彼女の側にいること。

 御阿礼の子はただあるがままに振る舞ってくれれば良い。それが最も美しい姿であると阿礼狂いは知っているのだ。

 

「私は人間として生きます。それをあなたは望まれるのなら是非もありません」

「……もうごめんなさいは言わないわ。ありがとう、父さん」

「はい。その言葉だけで私は生きられます」

「うん。……父さん」

「はい」

 

 伸ばされた手を微笑んだままそっと握る。彼女が穏やかなまま逝けるように、かつて阿七を看取った時より自分を取り繕うのが上手くなった信綱は、しかし阿弥との離別が迫っていることに臓腑が凍える心胆だった。

 

 腕よ、震えるな。頬よ、震えるな。阿七との離別の時に強くなることを決めたではないか。

 

「あなたがいてくれて私はとっても幸せでした。きっと今までの御阿礼の子の中でも一番に」

「……私もこの上なく幸せでした。あなたと共にいられた時間は何ものにも代え難いものです」

 

 声が微かに揺れたことを阿弥は気づいただろうか。必死に抑え込んでいるつもりなのに、どうしても心が揺れて肉体にも表れてしまう。

 

「ふふ、ありがとう。……吸血鬼異変に始まって、天狗の騒動、百鬼夜行。色々な異変があったね」

「ええ。どれも一筋縄では行かない異変でした」

「こう言ったら怒られちゃうかもしれないけど――楽しかった。色々な妖怪を見ることができて、中には友達になることもできて……」

「……はい」

「そんな異変を父さんが解決した。あんまり自慢できる人はいなかったけど、すっごく誇らしかった。私の父さんはこんなにすごい人なんだって」

 

 過去を思い返すように語る阿弥に涙が零れそうになり、彼女の手を握っていない方の手で慌てて拭う。

 幸い、一瞬だったようで阿弥には気づかれなかった。

 このまま彼女の終わりまでごまかし続けなくては。彼女には何一つ憂うことなく逝って欲しいのだ。

 

「そのように言われると少々むずがゆいです」

「あははっ、こうやって褒められると照れる父さんも可愛いって思ってた」

「…………」

 

 軽やかに笑う阿弥に信綱は困ったような顔になるしかない。可愛いと言われても今はまともな反応ができそうにない。

 そんな信綱がおかしかったのか、さらに阿弥は笑い――やがて、深く長いため息に変わる。

 

「ああ――もう、話したいことがこんなにたくさんあるなんて。幸せ過ぎておかしくなりそう」

 

 これが最期だ。全てを理解した信綱は最期に一つ、阿七にも抱いた疑問を今度は彼女に直接尋ねる。

 

「……私は、あなたの幸せの一助になれましたか?」

「もちろん。あなたがいなければ私は幸せになんてなれなかった。あなたが父親で、そして私の大切な人で本当に良かった」

「――恐悦至極」

 

 短い言葉を使った信綱に阿弥がくすっと小さく笑う。言葉を短くしなければ、口から余計な嗚咽が漏れそうだったのだ。

 

「その癖、見るのはいつぶりかしら。――父さん。私の手を握ってくれる?」

「はい」

 

 片手で握っていたそれを両手で優しく握る。今にも熱が失われようとしている彼女に少しでも熱を分け与えるように。今、自分の感じている幸福が少しでも彼女に伝わるように。

 阿弥の前では決して崩さない笑みを浮かべたまま、真摯にその手を握る信綱に阿弥は薄っすらと微笑む。

 

 

 

 

 

 

 

「ああ――父さんの手、とっても暖かい」

 

 

 

 

 

 

 

 信綱は淡い微笑みを浮かべ、動かなくなった阿弥の身体を膝に置いていた。

 握り続ける彼女の手にはまだ阿弥の温度が残っている。

 だが、それも遠からず信綱の体温だけに変わっていくのだろう。

 

「…………」

 

 彼女は幸せだった。彼女の口から出た言葉が嘘であるなどと思いたくはない。

 阿弥が幸せであったのなら信綱が何かを言う理由などない。

 御阿礼の子の幸せのために存在するのが阿礼狂い。その本懐を果たせたのだからむしろ幸福を感じなければならないのだろう。

 だけど――

 

「……っ!」

 

 涙が零れる。手で拭おうかと思ったが、まだ阿弥の体温が失われていない手を離したくなく、袖に顔を埋めるように涙を隠す。

 袖を噛んで嗚咽も隠す。零れる涙は留まるところを知らず、嗚咽が身体を震わせようとする。

 

 阿弥の眠りが妨げられてはたまらない。その一心で身体の震えを抑え込み、嗚咽も黙らせる。

 なぜ、どうして、とは思わない。信綱にはこの涙の理由にすでに思い至っていた。

 

「阿弥様……っ!!」

 

 彼女の言葉は絶対だ。今、この悲しさは阿七の死に匹敵する絶望と悲嘆を信綱に与えるが、彼は必ず立ち上がって阿弥の願いを叶える。

 これはもうすでに決定したことだ。火継信綱は自身がいかなる状態であろうと、御阿礼の子の願いを叶えることを最優先にできる阿礼狂いである。

 

「どうして……どうして……っ!!」

 

 故にこの悲しみは阿礼狂いとしてのそれではない。無論、阿礼狂いが御阿礼の子に死なれてしまった苦痛たるや五体がバラバラに引き裂かれるそれを遥かに凌ぐ。

 しかしそれはすでに一度受けている痛みであって、信綱は二度目の痛みであれば耐えられる自信があった。

 つまるところ、信綱が涙を流す本質は御阿礼の子の死ではなく――

 

 

 

 

 

「どうして、父より先に逝く娘がいるのですか――!!」

 

 

 

 

 

 只々、彼は大切な娘が逝ってしまったことを嘆いているのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「おっと、来たか。向こうは色々騒がしかったと聞くけど、どうだった?」

「とっても楽しかったです。大変なことも苦しいこともありましたけど、全部ひっくるめて」

「ん、そうか。阿七の時もそうだけど、あんたみたいに良い顔で死ぬ奴なんてほとんどいない。良い人生を送れたんだろうね」

「ありがとうございます。ふふっ」

「んぁ、どうしたい? 思い出し笑いなんてして」

「いえ。――私が恋をした、なんて言ったら小町さんは笑います?」

「まさか! 花も恥じらう乙女が恋の話を笑うわけないだろ! さ、乗りな! 閻魔様のところまで運んであげるから、その話をもっと詳しく聞かせとくれよ」

「はい、少し長くなるけど良いですか」

「もちろん! それを聞くためなら船なんていくらでも遅らせるよ! ま、これはその顔を見る限り聞くまでもないだろうけど――お前さん、幸せだったかい?」

「――はいっ」




斯くして、動乱の時代は終焉を迎え、残りは原作に繋がるゆっくりとした時間になります。

この後は登場人物の説明をいくつか載せて、阿求が生まれるまでの空白期間を書こうと思います。ようやくあっきゅんが出てくる目の前まで来た……!!



あ、来週はかなり怪しいです。洒落にならんレベルで。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場人物紹介

キャラが……キャラが多い……(白目)

抜けがあるかもしれないので、その時は教えてくれるとありがたいです(吐血)


 火継信綱

 

 本作の主人公にして本作で一番ヤバい奴の称号を読者、登場人物双方からもらっているただの人間。作者からの愛称はノッブ。是非もないよネ! とは言わない。

 コンセプトは霊夢の才能+魔理沙の努力+隠し味の狂気。隠し味が隠れてない? アーアーキコエナーイ

 

 この世に生を受けて二十六年。機会に恵まれずとも腐ることなく磨き続けた武技は後に吸血鬼異変と呼ばれることになった霧の異変で披露される。

 それを境に彼の知名度は人間、妖怪双方の間で一気に高まり、幻想郷全体にその影響を強めていくことになる。

 結果として彼は人妖共存の道標となり、人里に妖怪が入ることを受け入れた人里のみならず幻想郷にとっての英雄へとなっていった。

 最終的に百鬼夜行をも退けた彼の実力は天井知らずに伸び続けており、今なお成長は止まっていない。恐らく幻想郷を見渡しても比肩するのは僅かだろう。

 公人としての彼は品行方正、公明正大、清廉潔白で情も理も解する好人物であり、その剣をひと度抜けば百鬼夜行さえも薙ぎ払い、妖怪とも対等に渡り合える智謀にも長けた――というまさにお伽話のような英雄である。

 

 ――転じて、私人としての彼は上記の事柄に殆どの価値を見出さず、あくまで周囲が求めて彼にもできたから英雄を演じているだけのただの狂人。

 あくまで彼が願うのは御阿礼の子の幸福であり、それ以外の物事は無価値とまでは言わずとも、御阿礼の子以上の価値があるとは思っていない。

 ここで無価値とは思っていないのがタチが悪く、私人としての彼も進んで悪事を成すような人物では決してない。優先順位が完全に定まっており、だからといって他も切り捨てるわけではなく可能な限り助けようとする。狂人でありながらどこか優しさを持つ人間。なんだかんだ言って面倒見も良いので、御阿礼の子が関わらない範囲ではそれなり以上の常識と良心を持っている。

 

 また、天与の才としか表現のできないほどの才覚の持ち主であり、一を聞いて十を知るどころか、人間にそもそも覚えられない妖術とかの類でないかぎり、見れば大体理解して覚えてしまう才能の持ち主。あらゆる分野で歴史に名を残せる才能がある。もしもにとりの機械に興味を持っていたら科学の力で幻想郷がマッハ。

 

 戦闘スタイルは椿からもらった長刀と刀の変則的な二刀流。本来なら片方の刀で守備、片方の刀で攻撃を担うのだが、信綱は攻撃面を重視して両方で攻撃に回る。

 これは妖怪を殺すための殺傷力を求めてのこと。突きに適した小太刀では再生の早い点攻撃しかできず、またリーチの短さから相手の出を狙った攻撃がやりにくいため。

 阿弥の側仕えとして室内戦なども考慮しているのだが、今さら人間相手に不覚を取ることはほとんどないため、だいたい素手でなんとかなる。動乱の時代終了時のノッブはモブ烏天狗ぐらいなら素手で無双可能。

 

 狂気の方向性が完全に定まっていること。そしてそれを刺激しない限りは寛容な方であり、頼られた場合の面倒見も良い。おまけに妖怪と比較しても隔絶した力を持つ信綱は不思議と妖怪に好かれる。

 多くの人間、そして妖怪。それぞれから少なからず影響を受けて、彼は阿礼狂いの在り方を一切違えることなく英雄へと変わっていった。

 

 阿七、阿弥との死別に悲しみはあるが、それでも彼は二人の約束を胸に前に進んでいく。

 すでに人里では長老にもなろうとする歳であっても、未だ彼に休むことは許されない。

 

 

 

 

 

 稗田阿弥

 

 ヒロイン二人目。阿礼狂いに恋をしてしまった阿礼乙女。

 生まれた頃よりずっと側にいた信綱を父と慕っており、子供らしい子供時代を送った天真爛漫な性格。

 無論、それとは別に御阿礼の子としての自分も持っている。妖怪を相手に幻想郷縁起の取材をする時などはそちらの面が出てくる。

 とはいえあくまで記憶であり、経験ではないのでおっかなびっくりにやっていた。隣りにいる信綱が何よりも頼もしいと感じていた。

 幻想郷縁起の編纂が始まる前までは信綱を何の隔意もなく父と呼び慕っていたのだが、天狗の動乱を境に彼に向ける感情が変化。紆余曲折を経てそれが恋であると自覚。同時に阿礼狂いに恋をすることの非情さも理解してしまう。

 

 火継信綱個人に愛して欲しいという願い。そしてそれを口に出したが最後、彼は存在証明のできない愛を探してどこかに行ってしまう。

 自らの恋心と暖かく感じている今の時間、そして信綱を困らせてしまうこと。諸々を天秤にかけ、少女は信綱と共に穏やかな時間を過ごすことを決める。

 

 女としての愛を伝えることは終生なかったが、それでも笑いながら信綱の腕の中で逝った彼女に後悔はなかったのだろう。

 

 信綱にとって二番目の御阿礼の子。生まれてから死ぬまで、ずっと仕え続けたただ一人の御阿礼の子であり、娘でもある彼女のことを信綱は永遠に忘れない。

 

 

 

 

 

 犬走椛

 

 信綱の相棒。お前ホント出世したな、というのが作者の感想。

 彼女が出るきっかけはノッブの稽古相手にオリ天狗出すかー、でもこいつ一人だけじゃなー、かといってあややや入れるとオリ天狗出す意味なくなるし、この天狗途中で殺す予定だしなー、椛辺り追加すっか! という身も蓋もないもの。

 しかし真っ当に信綱と付き合い、真っ当に好感度を上げていった彼女はやがて信綱から御阿礼の子を託しても良いと判断されるほどの信頼を勝ち取っていく。途中で殺すからかなり早い段階で出した椿と同時期に知り合い、なおかつずっと一緒にいれば当然の結果とも言える。

 

 椿と信綱の関係の結末を聞き、阿礼狂いである信綱を見抜けなかった自身への後悔と三人で一緒にいられた時間の結末がこんなものであって良いはずがない、と彼女は妖怪の山にこもるより人と妖怪は共存した方が良いと願い始める。

 その言葉を信綱が聞き届け、動いた結果が今となる。彼女が信綱に幻想郷共存の願いを与えた立役者である。彼女がいなければ信綱は阿礼狂いとして一個の機械に徹していただろう。

 千里先を見渡す程度の能力を持つ以外、何も特筆する部分のない白狼天狗だが――背伸びをすることもなく人間に迷惑もかけず、そして信綱は彼女と共にいた。

 たったそれだけで――それこそが幻想郷を変えるキッカケとなった。

 

 彼女が信綱に対して抱く感情は単なる友誼や尊敬に留まらず、椿を殺したことへのわだかまりや無邪気な信頼を寄せる彼への愛情など、様々なものが入り混じったものになっている。

 それでも椛と信綱は互いを信頼しており、無二の相棒であるとも思っている。

 現時点でIFエンドルート待ちの人。ノッブが迫れば受け入れる程度には好意を持っている。

 

 ちなみに信綱が鍛錬を最も施している存在でもあるので、本人の想像以上に近接戦闘では強い。泣いて手足を切り飛ばされながら行っていた修行は無意味ではなかった。

 

 

 

 

 

 椿

 

 信綱が殺した知り合いの妖怪。彼女のコンセプトは『妖怪らしく間違い、妖怪らしく報われない最期を遂げる』でした。もうメタ視点でバッドエンドが約束されている人。

 が、彼女が報われない最期を遂げることと、彼女の死が全くの無意味であることは別問題。彼女の死によって信綱は自身に適した戦い方を見出し、椛は幻想郷の共存を願った。

 そして信綱は彼女に対して辛辣な対応をしていたが、なんだかんだあの三人での時間は嫌いではなかった。それを聞いて壊す決心を付けてしまったのが彼女の決定的な間違いであり、同時に信綱の狂気を見抜けなかったことが最大の不幸。

 ちなみに彼女の長刀がなければ信綱は途中で死んでいた可能性が高い。それほどにあの刀は彼にとって有益なものになっている。

 

 

 

 

 

 博麗の巫女

 

 文字通り。激動の幻想郷において、それでもなお自身の役目を果たしきった存在。

 まあ正直なところ異変の解決の主体である黒幕の退治は信綱がやっていたが、その他の人々の守護や不安に対する拠り所としては十全に機能していた。

 信綱とはお互いに二十歳前からの知り合いで、信綱がいざという時の避難場所に使い、巫女もまた彼に愚痴を言うという愚痴仲間。

 しかし博麗の巫女と呼ぶことはあっても、あくまで個人を見続ける信綱との付き合いは彼女にとって嬉しいものであり、それは彼が狂人であるとわかった後も変わらなかった。

 自分が役目を終えた時は信綱のもとに転がり込んで、余生をアイツと一緒に茶でも飲んで暮らそうと思っている。婚姻はそのために必要なプロセスの一つに過ぎない。

 

 現時点で愛情を持っているわけではないし、彼が別の人を選んでも良き友人としては変わらないのでいいかなぐらいにしか思っていない。だが、形だけとはいえ結婚をすれば多少は変化するかも……?

 

 

 

 

 

 霧雨勘助

 

 信綱の親友にして、霧雨商店の旦那。

 快活な性格はそのままに商人としての経験を積んでいき、その人柄も相まって霧雨商店をより大きくすることに成功した。農家出身だが、意外な才能は意外な場所に転がっているもの。

 火継の家とも契約を交わしており、その伝手である程度珍しい物が見つかるのが利点でもある。無論、ある程度でしかないので重要な部分は勘助の頑張りによるものである。

 そんな彼だが、幼なじみである伽耶と結婚をして息子も生まれ、息子である弥助に店を任せようとしている。役目が終わったら信綱や伽耶と三人で子供のように、とは行かなくてもあの頃のように過ごしたいらしい。

 

 

 

 

 

 霧雨伽耶

 

 勘助もそうだが、動乱の時代で妖怪との戦いや駆け引きが主だったため、あまり動かせなかったことがちょっと未練。でも満遍なく動かそうとするとキャラが増えすぎてて正直キツイというのが現状。長編を書くなら出すキャラは予め決めておこう! お兄さんとの約束だ!

 

 さておき、彼女は勘助を支える良き妻であり、弥助を優しくも厳しく育てる賢母であった。信綱とのつながりは勘助を通じてという形になるが、彼を英雄という色眼鏡で見ることなく友人として接し続けたため、信綱もその辺りに感謝している。

 また勘助には不得手な損得勘定の計算が上手くできるため、勘助と二人で店を盛り上げてきた。夫婦仲は今なお良好。

 

 

 

 

 

 上白沢慧音

 

 人里に昔から住んでいる半獣。信綱にとって頭の上がらない人でもある。

 やや頑固な部分はあるものの、それを差し引いても公明正大であり品行方正な模範的人間。大体この人を見習っていれば真人間に育つ。

 ただし本人の興味がある話になるとムダに長く要領を得ない内容になるという、最大にして唯一の欠点がある。遊びたい盛りの子供には眠りに誘う子守唄にしか聞こえないだろう。

 

 幻想郷全体を覆う動乱の中、英雄としてこの上ない活躍をしてみせた信綱を生徒として誇らしく思っている。そしてだからこそ、もう後のことは任せてくれと彼の幻想郷での役目にピリオドを打った。

 元より彼は阿礼狂いであり、御阿礼の子の側仕えこそが本来の職務なのだ。幻想郷のことはただ単に余力があったからやっているだけに過ぎない。それでもなお共存を成し遂げた彼の功績は認めるが――それにおんぶに抱っこではいけない。

 ここから先は自分たちの役目であると信綱の背を押した人。今の彼女の楽しみは彼らと自分たちで作り上げていく幻想郷を生きること。

 

 

 

 

 

 河城にとり

 

 名も無き河童からランクアップ。性格とかに変化はなし。

 相変わらず人見知りのくせに図々しく、好奇心旺盛でがめつい。羅列するとダメ人間感が出るが、実際結構ロクデナシの方。

 とはいえ小心者な一面もあり、あまり大それた悪事は働かない。そんなことをしたら天狗と人間を両方敵に回すからやってられないという部分もあるが。

 

 それとは別に人間のこともちゃんと盟友であると思っている。まあ思い込みだが、人間も敵対的よりは友好的の方が良いということで特に誤解は解いていない。

 青年の頃の信綱を知っている存在であり、あのままぐだぐだと適当に話して終わる関係であると思っていたらまさかの英雄に大出世という、信綱の素性に一番驚いた人物。

 目下の目標はあまり感情を表に出さない信綱を驚かせる機械を作ること。

 

 

 

 

 

 射命丸文

 

 奔放なようで真面目。アウトローぶっているが根っこは天狗社会の歯車。そんな感じの烏天狗。

 他の烏天狗のように何か役目を課せられているわけではない、という点ではかなり自由にさせてもらえている待遇のため、奔放というのもあながち間違いではないが、その実有事に際しては天魔の忠実な部下であることを課せられている。

 風を操る程度の能力を所持しており速度だけなら天魔に匹敵、ないし凌ぐほどの実力を持つ。が、出てくるタイミングが微妙に悪く、信綱が天狗の騒乱を収めた時には実力で抜かされていた。人間怖い。

 

 本人的にははっちゃけたいのに周囲がそれを邪魔し、なおかつ当人の気質もヤバい騒動はどうにかしなければならないと根っこも真面目なため、天魔の指示に動かざるをえないという本末転倒な状態。

 これでも天魔にはちゃんとした忠誠を誓っており、天狗全体にとっての悪影響を見逃すタイプではない。

 目下の悩みは自由奔放な天狗になりたいのに、周りからは真面目な烏天狗だと思われていること。悪ぶりたいお年ごろ。

 

 

 

 

 

 天魔

 

 男のオリ天狗なんて出してどうなるかと内心ビビりながら出した人。受け入れてもらえて安堵している。

 信綱が人間の英雄ならば彼は天狗の英雄。信綱と同じように武力に長け、智謀にも優れる天狗の頭領。

 特に政治的手腕は卓越しており、八雲紫とも対等以上に舌戦を交わせる。天狗の存続を第一義に考えているため、決して沈む船には乗らないなど時勢の見切りもできている。

 

 性格は飄々としてとらえどころがなく、有事の時以外は大体不真面目。あまり自分が働き過ぎて周囲の力がなくなることを恐れている――と言えば聞こえは良いが、本質的にサボり癖がある。文は彼のこき使える手足であり、同時に彼の目付役でもある。

 政治的な嗅覚に優れていることは前述したが、同時に先のことも見据えており、どこかで人間と妖怪は顔を突き合わせて話す必要があると考えていた。信綱はそんな時に現れた人間の英雄であり、彼にとっての奇貨でもあった。

 阿礼狂いという事前情報は持っていたが、その上で信綱を見極めて彼に肩入れすることを決める。一度肩入れを決めた後はかつての支配者である鬼にも歯向かうなど、自分が肩入れした相手にはそれなりに義理堅い。それはそれとして沈むとわかった船には乗らないが。

 最近の悩みは自分たちはかなり頑張ったはずなのに、未だに楽ができないこと。早く後進が育って欲しい。

 

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット

 

 外の世界からやってきた吸血鬼。外の世界ではそこそこ悪逆も働いていた。

 幻想郷にやってきて最初の挨拶は派手にやろうという考えから吸血鬼異変を起こす。その頃は自分を退治できる人間がいるなど夢にも思っておらず、妖怪相手への挨拶のつもりだった。

 蓋を開けてみれば異変の黒幕に頭を垂れる天狗に、解決に来た僅か二名の人間と妖怪一人と、彼女にしてみればかなりの肩透かしを受ける。

 ――が、予想外のことはまだ続く。取るに足らない人間だと思っていた男が美鈴を瞬殺し、コウモリ越しの自分にすら殺意を向けてきたのだ。正直そこまでされるほど酷いことをしたと思っていなかったので、内心驚いていた。

 レミリアが直々に相手をしても彼はなお強く、しかも吸血鬼退治の名誉に酔うことすらなく淡々と屠殺されかけたところを紫と博麗の巫女に救われ、命拾いする。

 

 強い者と美しい者を尊ぶ彼女は世界で最も強い(主観)自分を打ち倒した信綱に惚れ込み、以来人里にちょくちょく訪れるようになる。

 彼に心底惚れこんでおり、しょっちゅう自分の元に来ないかと勧誘をするが、彼女が惚れ込んだのは何ものにも染まらず己の役目に徹する彼であるため、もし自分に傅こうとする時が来たら殺すつもり。チョロそうに見えて超面倒くさい仕様。

 

 自分以外の連中の大半を見下しているが、見下すことといじめることは同義ではない。飴玉の施しはありがたく受け取るし、親切にされればお礼も言う。何より信綱との約束があるため、人里に危害を加えるつもりはない。

 誇り高い吸血鬼としての性質と見た目通りのお子様な性質を併せ持っており、性格は割りと愉快。信綱に冷たくあしらわれて涙目になることもあれば、彼の前で渾身のギャグを披露して滑ることもある。

 ――そしてまた彼女も大妖怪の一角であり、天狗の騒乱の折に人里へやって来た天狗を退治し、鬼退治にも一役買うなど並大抵の妖怪は歯牙にもかけない実力を持つ。

 やって来たばかりの頃の幻想郷も信綱を中心に面白いことが起こっていたが、今の変わりつつある幻想郷もそれなり以上に好きな模様。きっとこれから先の未来も面白おかしく生きていくのだろう。

 

 余談だが、墓場からスケルトンを作らせて人里を襲い、混迷の坩堝と化した人里を嗤い愉しむというルートもあった。その中には阿七の遺体も含まれており、事態の対処に当たった信綱がそれを発見し、全てを理解した彼が全火継を投入して紅魔館を滅ぼしに行くストーリー。妖怪殺すべし、な色合いが強まった信綱が幻想郷を血と混迷渦巻くものに変えていたことだろう。レミリアの運命? そら死一択よ。

 

 

 

 

 

 紅美鈴

 

 レミリア・スカーレットの従者にして紅魔館の門番。まだ咲夜さんがいないので屋敷内の雑事もやっている。

 脳天気でお気楽な性格をしているが、レミリアへの忠誠は本物。有事の際には彼女の忠実な下僕として働くが、普段は彼女の気まぐれと無茶振りに涙目になっている。

 妖怪としての格はさほど高くなく、再生力と武術が持ち味。かなり凶悪な組み合わせではあるのだが、いかんせん信綱とは相性が悪かった。おまけに阿礼狂いとして全てを灰燼にする気だった信綱の殺気と目を間近で見てしまい、彼にトラウマがある。

 それでも主人が信綱にご執心なためちょくちょく会いに行かされる悲しい人。でもなんだかんだレミリアに付き合う辺り、健気である。

 最近ようやく苦手意識程度になってきたが、百鬼夜行異変の折に彼の姿を見てしまいトラウマが再燃した模様。

 

 

 

 

 

 星熊勇儀

 

 百鬼夜行の主。語られる怪力乱神。かつて大江山にて覇を唱えた鬼の一角。

 豪放磊落、天衣無縫、鬼に横道なし。何事も正面から突き進み、罠があろうと策があろうと正面から食い破る生粋の鬼。

 吸血鬼異変の際に力を見せた信綱を萃香より聞きつけ、彼がもっと強くなるのを待って百鬼夜行を起こす。唯一にして最大の誤算であり最上級の幸運だったことは、信綱は本気の自分さえも退ける強者になっていたこと。思い立ったが吉日と動かれていたら信綱は死んでいた。

 およそ霊力がなければ刃を通すことすら難しい肉体に、よしんば通したとしてもすぐさま治ってしまう再生力。そして振るわれる豪腕はかすっただけで人間をひき肉に変える。

 強い、固い、しぶといの三拍子揃った悪夢のような妖怪。鬼か、鬼だった。

 要するに霊力を使わずに彼女の腕や首を落としただけでも、信綱の技量には目を見張るものがあったということである。よもや霊力も自在に操れるとは思っておらず、鬼を相手に切り札を隠していたという信綱の策にハマって敗北。

 しかし極論を言ってしまえば手札の切り合いである戦闘において、鬼の首魁を相手に出し惜しみをしたという胆力に勇儀はむしろ感心していた。そのため勝敗がついた以降も信綱と勇儀の間に隔意はなく、人里で会ったら普通に話もする仲に。

 

 レミリアのように表にこそ出さないものの、彼女も本気の自分を打倒した信綱に惚れ込んでおり、彼の死後も人間に手を出さないことを自分に課している。

 

 

 

 

 

 伊吹萃香

 

 小さな百鬼夜行。見た目が小さくても秘める力は八雲紫に匹敵する大妖怪。多分読者の間ではやらかした方の鬼という認識がある(推測)

 

 大江山で人間に騙されても人間を愛する勇儀とは対照的に、彼女は若干人間不信の気があった。しかし内心では自分の不信を覆す気持ちの良い人間が現れることを望み続けており、勇儀はそれを見抜いていた。

 そんな折に見つけた火継信綱という名の英雄に目をつけ、地底で百鬼夜行を画策し引き起こす。

 

 彼女にとっていくつかの誤算があったとすれば、目当ての存在である信綱は意外なほど方方の妖怪に好かれており、地上の勢力である殆どが彼の味方をしたことと、当の信綱は真っ当な英雄などとは程遠い狂人のくせに、星熊勇儀をかすり傷のみで倒してしまうほどの強者であったこと。そして――阿礼狂いとなった彼の強さは常軌を逸していた。

 鬼の大将を屠殺のように殺す信綱に彼女が抱いた感情は異様であり、悔しさであった。全力を尽くしてなお届かない理不尽。本来ならば人に理不尽を与える側である妖怪が、人間に理不尽を感じてしまったのだ。

 そしてそちらと同時に戦ったとある白狼天狗の願い――彼女の願いをより一層尊く感じることになる。

 あれ以来、萃香は人間に対する感情を割り切ることにした。彼らの大半は弱く脆く小賢しいが――中には彼のような規格外も現れる。

 信綱は阿弥を危険な目に遭わせた萃香を蛇蝎の如く嫌っているが、萃香は理不尽に斬り刻まれてもあまり信綱を嫌ってはいない。彼女も鬼だけあって、強い存在は好きらしい。

 

 

 

 

 

 橙

 

 信綱の腐れ縁にして悪友。信綱は右肩上がりの成長をずっと続けていてどんどん力の差が開いているのが最近の悩みな妖猫。

 お調子者で誰に対しても調子よく接するが、意外と人見知りな面も持っていて天狗などが相手だと萎縮してしまう。

 信綱との付き合いは子供の頃に遡り、彼との付き合いは長いため彼が英雄になろうと鬼を倒そうと全く態度を変えずに子分扱いを一貫している。

 すぐ調子に乗るわ、何かと信綱を子分にするわで信綱はよく彼女の耳を引っ張っている。手入れがされていて結構さわり心地は良いらしい。

 

 実は萃香との戦闘では橙の関わるルートが草案として存在し、その時は萃香との戦闘中で壊れた武器の代わりを椛が投げ、それを取ったけど攻撃が間に合わない信綱のために橙が妖術で炎を出し、一瞬だけ目のくらんだ萃香の隙を信綱が突いて倒し切るというもの。

 信綱の昔なじみと一緒の友情パワーだ! という王道な流れを構想していたのだが、いざ実際に書いてみたら鬼がうじゃうじゃいる場所に阿弥たちを連れてきた時点でノッブマジ切れ不可避だよね、と気づいてしまいああなった。許せ。

 

 

 

 

 

 八雲紫

 

 信綱の天敵にして、色々考えているようで実はあまり考えていない、けど全く考えていないこともないスキマ妖怪。

 ほぼメタ視点の情報量を誇り、読者と殆ど情報の差異がない稀有な存在。あまり下手に動かすともう全部こいつ一人で良いんじゃないかな状態になるお人。今回は誰も彼もが彼女に対して不信感を抱いているからこそ動けないという理由をつけた。

 

 少年の頃は適当におちょくれる相手程度の認識だった信綱が、吸血鬼異変を境に急速に知名度と腕を上げていく過程を眺めていた。

 無闇な争いは好まず、敵を増やすより味方を増やした方が良いという合理的思考を持つ彼が、共存を願い始めたことにより彼女は見守ることを決断する。

 下手に自分が手を出して物事をこじれさせるよりは、彼の手に任せた方が上手くいく――紫は紛れもない狂人に何かを感じ取り、全てを賭けた。

 その賭けは見事に成功し、幻想郷は紫が長年夢見た人妖の共存する理想郷への道を確かに歩み始めた。

 全てを成し遂げてみせた信綱に対して侮る気持ちはもはやなく、己と対等の存在として認めている。

 なお当の信綱は彼女のことをあまり好ましく思ってはおらず、面倒なことを押し付けてくれたババア程度の認識。そのため彼女がやってきても対応は結構辛辣。

 

 例え信綱が死んでも彼女は幻想郷に多大な貢献をし続けた彼のことを終生忘れず、胸に刻み続けることだろう。




ワチャワチャと書くことが多いキャラと少ないキャラがいますが、お話の中で大体語ったキャラは比較的少なくなったり、出番のないキャラは減っていきます。

次回からは阿弥のいなくなった幻想郷を書いていく予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IFエンド 阿礼狂いを愛した御阿礼の子のお話

阿弥ルート
映姫とお話した後、涙を流すこともなく普通に帰った後のルートです


 四季映姫と話を交わした日の夜、阿弥は一人部屋の中で考え事をしていた。

 

「私は……あの人のことが好き」

 

 口に出して、阿弥は自分の胸が高鳴らないことにちょっとした感動を覚える。

 なにせ映姫と別れて部屋に戻ってから信綱を下げて部屋にこもり、ずっとこれだけを口にし続けていたのだ。

 

 ようやく慣れることができた、と阿弥はほっと安堵の息を吐く。

 

「…………」

 

 迷いや躊躇いはある。口に出すことの禁忌も理解しているつもりだ。

 彼は阿礼狂い。御阿礼の子のために生き、御阿礼の子のために死ぬことを生まれる前から宿命付けられている存在。

 彼に御阿礼の子を否定する機能などついていない。彼女が口に出したことは全てが正義であり、彼女が否定したものは全てが悪となる。

 

 その彼に自分の想いを告げてどうなるか。それは自らの恋心を自覚した今であっても想像がつかない。

 

 彼は困惑するだろう。御阿礼の子に狂っているとはいえ、それは狂愛では決してない。そんな利己的な感情に振り回されるほど生易しい狂気ではない。

 自らの心を完全に殺し、自分たちに仕えようとする。それが彼ら阿礼狂い。

 その信綱にこの想いを告げることは無意味かもしれない。火継信綱個人の感情は向けられないかもしれない。

 

「……だけど」

 

 阿弥は知っている。信綱が笑顔を見せるのは決して自分の前だけではないということを。

 霧雨商店の店主。幼年の頃より知り合いだったという白狼天狗。彼らと一緒にいる時の信綱が確かに楽しそうにしているのを知っている。

 問いかけねば終われない。阿弥は最後に自分の胸へ問いかけ、やはり揺るがない自分の想いに従うことにした。

 

 廊下に出て、信綱の部屋を目指す。彼は側仕えをしている間は稗田の家に一室を持つ。

 前に見たことがあるが、半ば私室と化しているようで彼が雑務に使う書類や書物がうず高く積まれていたのを覚えている。

 本人は阿弥の前でやることではないとあまり見せたがらないが、阿弥は慣れ親しんだ墨の香りが嫌いではなかった。

 

 ドクドクと心臓がうるさい。こんな夜更けに殿方の部屋を訪ねるなどはしたないと思う気持ちがいくらか。これから想いを告げに行くということへの緊張と恐怖が半分。残りは信綱が眠っていないだろうかという不安があったが――

 

「阿弥様、まだお休みになられていないのですか?」

 

 最後の心配は無用だった。信綱は寝間着にも着替えず、刀も腰に差した普段通りの背筋を伸ばした姿勢で阿弥を見つめていた。

 

「信綱さんはまだ寝ないの?」

「主より先に休む従者などおりませんよ。それより寝つけないのですか? でしたら白湯でもお持ちしますが」

「あ、ううん。そういうのじゃないから大丈夫」

「ふむ……」

 

 信綱は曖昧な表情でうなずき、阿弥の行動がわからないとばかりに首を傾げる。少なくとも寝つけないというわけではなさそうだ。

 もう夜も遅く、あまり眠るのが遅れると明日に支障が出てしまう。しかし、それを頭ごなしに言ったところで効果は薄い。

 

「……では、少し夜風にでも当たりましょうか。今宵は星も月もよく見えますよ」

 

 月明かりで微かに照らされ、薄暗い廊下であっても信綱が微笑んだことと手を差し伸べてきたことはわかる。

 彼に他意はないだろう。ただ純粋に阿弥のことを慮っての提案であることは阿弥にも読み取れた。

 しかしそれで何も思わないかと言えば話は別で、まして信綱への想いを自覚した阿弥には特大の爆弾でもあった。

 

「…………」

「? どうかされましたか、顔を赤くされて」

「な、なんでもない! なんでもないから! それより少し火照っちゃったから夜風に当たりましょう!?」

「は、はぁ……」

 

 赤くなってしまった頬をごまかすように信綱の手を引いて縁側に向かう。

 縁側は信綱の言うとおり煌々と輝く月が庭を照らし、星が微かに瞬く美しい夜空が広がっていた。

 

 幻想郷において星空は珍しいものではない。だが、日が沈めば仕事が終わる彼らにとって夜空とは眺めるものではなく、眠っている間に過ぎ去るものだ。

 阿弥も信綱に健康のためには早寝早起きであると教えられているため、こうして夜空をただ眺めるというのは珍しかった。

 

「すごい……! 星空ってこんなに目を奪うものだったのね! 記憶にあるのとは全然違う!」

「あまりはしゃぎ過ぎぬよう。興奮されては眠れなくなりますよ」

 

 信綱ははしゃぐ阿弥をたしなめるが、強く止めることはなかった。彼女の笑顔こそ至上のものである彼にとって、今の彼女を止めたくはなかったのだろう。

 少しでも星空を近くで見ようと可愛らしく背伸びをしている阿弥の隣に腰を下ろし、彼女が座るのを待つ。

 そうしてしばらくは夜空を眺める時間が続き、やがて阿弥も信綱の隣に座る。

 

「星がこんなに綺麗なんてわからなかった。信綱さん、誘ってくれてありがとう」

「喜んでいただけて何よりです。しかしどうされたのですか? 普段ならもうお休みの時間だと思いますが……」

 

 信綱の言葉に阿弥は何も言わず、星空を見上げる。そして彼の視線を受けながらおもむろに口を開いた。

 

「……私、もうあんまり長くはないの」

「……っ、そう、ですか」

 

 信綱が息を呑むほど驚くのは珍しいが、こと御阿礼の子に関しては当然のこととも言えた。

 彼が愛し、全てを捧げる存在である御阿礼の子。しかし彼女らは長く生きることができず、三十年足らずでその生涯を終えてしまう。

 その事実を直視し、信綱の声が僅かに震える。

 

「あとどのくらい時間があるかはわからないけど、もう十年はない。信綱さんもそれは知ってると思う」

「……そのようなことを言わないでください。私はあなたが長く生きると信じております」

「うん、ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。でも事実は事実」

 

 阿弥の言葉に信綱は何も返せない。ただ、何かを堪えるように声を絞りだす。

 

「……どうか、生きたいと仰ってください。私はそのために万難を排して願いを叶えましょう」

「ううん、私が欲しいのはそういうのじゃないの。もっとささやかで、もっと大切なもの」

 

 それを言ったら信綱は自分の元から遠ざかってしまう。彼の言葉に嘘はなく、阿弥が生きたいと一言言えば彼は外法呪法邪法全てに躊躇わず手を染めて、何としてでも阿弥を生かそうとするだろう。

 そんなことになったら信綱と一緒にいられない。それは長く生きることよりも辛いことだ。

 

「信綱さん。私は笑っていたい。楽しく、幸福に」

「は。私もあなたが幸福に過ごすことこそ望みでございます」

 

 そう言って信綱は頭を垂れる。

 阿弥はその頭に触れようとして僅かに迷い、それでも彼の頭をそっと触れる。

 

 ――勇気を出そう。この人の意識を変えるために、まずは自分から一歩を踏み出さなくては。

 

 

 

「信綱さん。――私はあなたと一緒に幸せになりたいと思っています」

 

 

 

「……え?」

 

 呆然とした顔で信綱は頭を上げる。予想の外の外、夢にも思わない方向からの言葉であると、信綱の聡明な知性は答えを導き出してしまったのだ。

 唇が震え、声にならない声が信綱の口から生まれる。

 その様子を見て、阿弥は小さく笑いながら畳み掛けることにした。主導権は譲らないのが鉄則だと彼も言っていた。

 

「――火継信綱さん。あなたを家族としてではなく、一人の男性としてお慕い申し上げます」

「……阿弥様、それは」

「冗談や酔狂などでは断じてありません。私はあなたに恋をしている」

 

 目を見開き、驚愕以外の言葉がないとばかりに呆然としていた信綱の身体が弾かれたように阿弥から離れる。

 そして次に行ったことは姿勢を正し、阿弥に対して床に額づけることだった。

 

「――申し訳ありません。私が出過ぎたばかりにそのような気持ちを抱かせてしまいました」

 

 その姿勢を見ても阿弥は悲しいとは思わなかった。これが阿礼狂いとしては正しい反応であり、続く言葉も予想ができた。

 だからこそ阿弥は穏やかに微笑み、懸想する者の名を呼ぶ。

 

「信綱さん」

「私はすぐにでも側仕えを退き、他の者を宛てがいましょう。良縁をお望みでしたら私から人里に働きかけます」

「信綱さん」

「我々はあなたの従者であり剣です。我々は道具で良いのです。そのようなことを仰らないでください」

「こら、信綱さん」

「うぁっ」

 

 少々行き過ぎたので、阿弥は信綱の額を叩いて静かにする。

 特に鍛えてもいない少女の、何の力も込められていない手を信綱は避けられないで受け止める。その瞳は阿弥に対する申し訳無さと困惑に彩られていた。

 

「私の好きな人を道具だなんて言わないで。悲しいわ」

「ですが、阿弥様」

「それにそのようなこと、なんて言うのもなし。私があなたに恋をしたのが間違いみたいでしょう?」

「恋をすることは良きことです。ですが私のような面白みに欠ける男などより良い相手が必ずいます」

「いないわ。私にとって信綱さんより素敵な人はいない。いたとしても見つけられない」

 

 時間もないし、とまで続けはしなかった。そこまで言わなくても信綱は阿弥の言外の意味もしっかり読み取ってしまう。

 激痛を堪えるような顔になり、信綱はうなだれるしかなかった。

 なんと反応すれば良いのかわからない。このようなことは御阿礼の子の歴史も、火継の歴史においても存在しない。

 

 これが御阿礼の子以外のことなら良かった。それなら信綱は感情を排して合理で物事を考えることができる。

 だが、今回はそうではない。御阿礼の子が阿礼狂いに恋をした。その事態に対してどう対処するのが正解なのか、信綱には判断ができなかった。

 

「……どうして、ですか?」

「特にこれだ、と言えるキッカケがあるわけじゃないの。自覚をしたのは映姫様とお話をした時」

「何を話したのですか?」

「もう私には時間がないこと。そう遠くない未来で私は生まれ変わるために死ぬ」

「…………」

「それを考えた時、私の胸によぎったのは一つの想い」

 

 うなだれる信綱の頬に手を添え、そっと持ち上げる。彼の端正な顔は涙にこそ濡れていなかったが、途方に暮れていることはよくわかった。

 不思議と阿弥の心は落ち着いていた。想いを告げに行くと決心し、廊下を歩いていた時の心臓の鼓動がウソのように静かになっており、凪のような心持ちで言葉を紡ぐことができた。

 

「――あなたと一緒にいたい。家族としてではなく、一人の男女として」

「阿弥様……」

 

 信綱も徐々に落ち着きを取り戻していく。困惑していても現実が変わらない以上、受け入れてどうすべきか決めなければならない。

 正直なところ、信綱は阿弥の言葉を全く想像していなかった。青天の霹靂も良いところである。

 受け入れるか、断るか。単純に返答はこの二つになる。それはどうあっても変わらない。

 

 阿礼狂いの在り方を考えれば断るべきだ。自分たちは彼女の幸せの一助になれれば良いのであって、彼女の幸せそのものになるつもりはない。御阿礼の子を自らの生き様に巻き込むことは何としても避けたい。

 だが、断れば彼女は泣くだろう。それは阿礼狂いとして最悪のことでもある。御阿礼の子を泣かせた側仕えなど前代未聞だ。

 

 しかし受け入れることはできるのか。前述した通り、自分は阿礼狂いだ。御阿礼の子に付き従い、彼女のために生きることが生まれる前から定められている。

 これが自分の意志で決めたことなのかどうか、信綱でも判断がつかない。そんな自分が彼女の好意に応えるなど、おこがましいにも程がある。

 

 断ることも受け入れることもできない。生まれ持った歪みの極地とも言える答えに到達してしまい、信綱はパクパクと口を動かすことしかできなかった。

 

 そんな信綱に阿弥は小さく笑い、困り果てている彼に声をかけていく。

 

「ねえ、信綱さん。今考えていること、当ててあげようか?」

「……え?」

「自分はこの人が好きであると胸を張って言えるのか。そんなところでしょう?」

「……その通りにございます。阿弥様もご存知の通り、我々は生まれた時からそう決まっております。私自身の意思はそこになく――」

「信綱さんは私と一緒にいられて幸せ?」

「もちろんでございます」

「だったらそれでいいと思うの」

「え?」

 

 しかしこの想いは――という信綱の言葉を待つことなく、阿弥はゆるゆると首を横に振る。

 

「確かにあなたは特殊な人で、私も特殊な人。でも、あなたは私と一緒にいるのが幸福で、私はあなたと一緒にいるのが幸福。それだけわかっていれば人を好きになれると思う」

「阿弥様……」

「あなたを父と呼ぶ形でもきっと私は幸せになれる。――だけど、私はあなたと恋人になりたい」

 

 頬に添える手を増やす。両手で顔を挟まれ、阿弥の顔以外が見えなくなった信綱に阿弥はとびきりの笑顔を浮かべた。

 

「難しいかもしれないけど、私を見て欲しい。私を――ただの女である阿弥を愛して欲しい」

「阿弥、様」

「信綱さんが嫌だって言うならもう仕方がないと諦めます。全ては一夜の悪夢にしましょう。――でもどうか、どうか真剣に答えてください」

 

 阿弥の瞳が揺れる。涙が溢れそうになる相貌を見て、信綱の心は急速に固まっていく。

 

「……お気持ちは嬉しく思います、阿弥様」

「…………」

「一つだけ。一つだけ聞いていただきたいことがあります。全ての返事はその後で」

「……はい」

 

 信綱の顔を挟んでいた両手が離れ、阿弥と信綱の間に距離が生まれる。

 信綱は従者としての距離を保ちながら阿弥の前に正座し、真剣な面持ちで阿弥を見据える。

 

「何度でも申し上げますが、私は阿礼狂いと呼ばれる人種です。あなたのために生まれ、あなたのために死ぬと宿命付けられ、またそれに一切の疑問を持つことなく殉じる一族の人間です」

「ええ、知ってます。それでも、好きなのです」

「はい。阿弥様のお気持ちを疑う心は毛頭ございません。問題は私のことです」

「信綱さんに?」

 

 阿弥は首を傾げる。阿弥のことを一人の少女として愛せないことであれば、阿弥は気にするつもりはなかった。

 他人の愛や恋の存在を証明するなど誰にも出来はしない。重要なのは自分の心にどれほどの確信を持つことができるか、だ。

 その点で言えば阿弥は信綱に抱く想いを恋であると確信しているし、逆に信綱は阿弥に向ける感情が狂気の類であると確信しているのだろう。

 

「はい。私は阿弥様にするようなことを阿七様にもしてきました」

「知っているわ。記憶でしか知らないけど、その時の阿七は間違いなく幸福で――」

「――同じことを阿求様にもするでしょう」

「あ……」

 

 そう、信綱たち火継の人間は御阿礼の子に狂気とも言える感情を向けるのだ。

 稗田阿弥に、ではない。御阿礼の子に、である。

 そこに含まれるのは阿七、阿弥、阿求の三人。阿求はまだ生まれていないので阿礼男なのか阿礼乙女なのかはわからないが、どちらにせよ信綱は最大限の愛情を注ぎ大切に守ろうとするだろう。

 

「仮に私があなたの想いに応え、愛したとしましょう。悲しい仮定になりますがあなたが亡き後、阿求様がお生まれになられた時に私が存命ならば――きっと、阿弥様にしてあげたことと同じことを阿求様にもするでしょう」

「それは……」

 

 それが阿礼狂い。彼らにとっては御阿礼の子であることが至高の存在の証であり、それは誰が相手でも例外はない。

 一人の御阿礼の子を恋人にしても、また次の御阿礼の子に全てを捧げてしまう。そういう一族なのだ。

 

 阿弥もそれを理解したところで信綱は腰を折り、ゆっくりと頭を垂れて床に額づく。

 

 

 

「――お願いします。どうかあなたを私の最後にしてください。それが私の望みであり、あなたの想いに応えるために通すべき筋です」

 

 

 

 完璧な所作とともに信綱が放った言葉に、改めて阿弥は自分のしようとしていることを理解する。

 これは紛れもない禁忌だ。この恋の先に未来はない。

 阿弥は遠からず寿命を迎え、それに付き従う信綱もまた彼女に同道する。

 

 だが、もう戻る道はない。他でもない阿弥がその道を断ち切ってしまった。

 

「――わかりました。本当は阿求にも伝えたかったけれど……それが信綱さんの望みならば」

「ありがとうございます。――本当に、ありがとうございます」

 

 万感の思いがこもった信綱の言葉を聞いて、阿弥の胸になんとも言えない思いが去来する。

 彼にとっても苦渋の決断だったに違いない。御阿礼の子に長く仕えることができるというのは、彼にとって紛れもない幸福だ。

 それを捨て去り、阿弥に尽くそうとしている。その有り様は紛れもなく狂っていて――阿弥にとって何よりも愛おしかった。

 

「――お慕いしております、阿弥様」

「あ……」

 

 信綱の口からその言葉が出たと同時、阿弥は自分の身体が抱きしめられていることに気づく。

 腕を引かれ、信綱の腕には少し小さいくらいの身体を痛まない程度に強く抱きしめられて、阿弥はそっと息を吐いて彼の背中に腕を回す。

 

「ああ――好きです、信綱さん」

 

 互いにそれ以上は何も言わず月の光の下、二人の影を重ね合わせる。

 やがて何を言うでもなく互いの顔が近づき、一つになっていくのであった。

 

 

 

 

 

 それからの時間を阿弥は信綱と共に過ごした。

 無論、好意を伝えることがなくても二人が共にいることに変わりはない。だが、想いを伝えることで確かに変化もあり、それを阿弥は心から幸せそうに受け入れていた。

 

 信綱もまたどこにあるかわからない彼自身の心を探すことに苦心しながらも、阿弥の前で嘘をつくことだけはなく彼女の隣に居続けた。

 恋人でもあるのだから呼び捨てにして、という阿弥の願いは従者でもある彼の最後の一線に関わるのか固辞されているが、従者として以外の部分においても彼女の愛に応えたいという意思があった。

 

 あまり遠出をするようなことはなくとも、人里の中や家の周りを散歩するだけでも以前と関係を変えた二人は互いに手探りながらも幸せそうに笑い合っている姿だったとは彼らの姿をよく知る慧音の言葉。

 

 そんなこれまでと同じようでありながら確かに違う、それでいて何ものにも負けない幸福な時間。それは夢のようなものであり――夢のように短くもあった。

 

「……楽しかったね、信綱さん」

「はい、阿弥様」

 

 阿弥が信綱に想いを告げた時と同じ、満点の星空の下で阿弥と信綱は言葉を交わす。

 互いにそれが最期であると言葉にせずともわかっていた。それだけの時間を二人は共有していた。

 だからこそ、彼らはことさらに普段通りに話す。

 

「……あはは、もう話すことが思い付かないや」

「私も阿弥様も、たくさんのことを話しました。楽しいことも、苦しいことも、面白いことも、悲しいことも」

 

 信綱が阿弥に寄りかかる。従者としては考えられない姿勢だが、阿弥も嬉しそうに信綱へ体重をかける。

 お互いがお互いを支え合う。そんな形のまま二人はこれまで交えてきた心を思い返していく。

 

「信綱さんが私の想像より多くの女の人と知り合いだったこととか、博麗の巫女様と好い仲だって噂されていたこととか、ね」

「あれは私も初耳でした。本当に驚きましたよ」

 

 弁解するようにつぶやく信綱に阿弥は忍び笑いを漏らす。噂の真偽を確認しに行ったら巫女も驚いていたので、人里の中でだけ勝手に広まっていったものである。

 まさか二人とも気づいていなかったとは、と阿弥は思わず笑ってしまったことを思い出す。あの時の二人の顔は彼女らに失礼だと思っていても笑ってしまうものがある。

 

「阿弥様こそ椛とあれほど仲が良いとは思ってませんでしたよ。あの短い時間であそこまで仲良くなるとは驚きました」

「ふふっ、思えばあの時が信綱さんに恋をした時なのよね。最初に相談したのが椛姉さんで良かった」

 

 きっと椛には阿弥の悩みの答えも見えていたに違いない。それでも答えを言わず、阿弥に悩めと言ってくれた誠実さに心から感謝している。

 阿弥と信綱が結ばれたことを心から喜んでくれた、妖怪らしからぬほどに人懐っこい彼女は今日も妖怪の山で哨戒に勤しんでいるのだろう。

 

「……ふふふっ」

「ははっ」

 

 話題があっという間になくなったことがおかしくて笑ってしまう。逆に言えばそれぐらいしかお互いに違う時間を過ごした部分がないのだ。

 それだけの時間を信綱と阿弥は共有した。そしてそれはこれからも続いていく。

 

「……ね、信綱さん。信綱さんはいつも私を待ってくれていたよね」

「そんなことはありませんよ。阿弥様の後ろに付き従うのが私です」

「でも逢引の時とかは私を引っ張ってくれたじゃない」

「あ、あれは……ああするのが良いと聞きまして……」

 

 ちなみに情報源は信綱の身近な夫婦である霧雨夫妻。あんまりあてにならないな、と実感したのは彼らの助言を実行してすぐだった。

 そのことを阿弥に言うと面白そうに笑って身じろぎをした。

 

「信綱さんは信綱さんらしくでいいのよ。それがきっと一番楽しくて、私も嬉しいことだから」

「一回で身に沁みました……。それに阿弥様もこうすることは嬉しいようですし」

 

 信綱は阿弥の身体を支えながらも器用に身体をひねって、その頬に触れるだけの口づけを落とす。

 阿弥も慣れたものでくすぐったそうに目を細め、口元に微笑を浮かべた。

 

「ん、ふふっ。信綱さんもやっと慣れてくれた」

「人目のあるところではできませんけどね」

「それは良いのよ。こういうのは衆目に晒すものじゃないわ」

 

 阿弥もまた信綱の頬に唇を触れさせる。自分からするのは良くても阿弥からされるのは別なようで、信綱は身体をぎこちなく硬直させる。

 その様子を見た阿弥はこれまたおかしそうに笑い、信綱の膝に勢い良く頭を乗せる。家族であった時から変わらずこの場所は阿弥の特等席だ。

 

「ああ、おかしい! 楽しくって、おかしくって、幸せで――本当、夢のような毎日だった」

「だった、ではありません」

「え? でも、」

「私はずっとあなたの側に居続けます。これまでも、これからも――」

 

 その言葉の意味を察し、阿弥は淡い微笑みを浮かべる。

 阿弥の死に同道しようとする彼に悲しみを寄せることは不義理である。これは阿礼狂いとしての宿命に対する彼なりの反抗でもあるのだ。

 全ての御阿礼の子を同じように愛するのなら、そうなる前に命を絶つことで阿弥に向ける慕情を唯一無二のものに昇華する。それが彼の選んだ道だ。

 彼の死に対して思うところはある。自分の恋人はもっと凄い人間であるという確信もある。

 

 ――だが、そんな人間が自分のために死ぬことにどうしようもない喜びを覚える自分がいることもまた、真実だった。

 

 そういった想いを胸にしまい、阿弥は目を瞑る。

 瞼の裏によぎるのは信綱と過ごした記憶だけに留まらず、歴代の御阿礼の子の思いもまた蘇っていく。

 彼らの歩んできた道を思い、そして自分たちが歩み続けた道を想い、阿弥は精一杯の笑顔を信綱に向けた。やはり自分が最期の言葉とするならば、これしかない――

 

 

 

 

 

「愛しております、信綱さん――」

 

 

 

 

 

 微笑み、そして逝った阿弥の身体を膝の上に置き、信綱は静かに息を吐く。

 阿七もそうだが、自分の膝の上には御阿礼の子が好む何かがあるのかと聞きたくなってしまうほど、彼女らは死に場所に自分の膝を好む。

 しかしそれはどうでも良いこと。今やるべきことは決まっている。

 

「……少しだけ待っていてください」

 

 悲しみはない。阿弥は自分が彼女の道の伴をすることを許してくれた。御阿礼の子のいない世界で生きろと命じはしなかった。

 

「私もすぐ追いかけますから――」

 

 淡く微笑み、信綱は阿弥の華奢な身体を抱き上げて庭の中心に立つ。

 星空を彩る月の輝きを見上げていると、信綱の足元から白い炎が立ち上っていく。

 やがてそれは信綱の足から徐々に登って行き、白炎は彼の身体を余すところなく舐め尽くそうとする。

 

 この日のために作り上げた霊力による炎の術。自らの霊力を瞬間的に燃やし、着火することで自らの身体を焼くという誰も使わないであろう術。

 骨も残さず燃え続ける白炎に身を委ね、信綱は阿弥の身体を強く抱きしめる。

 そして何もかもを焼く炎が全てを燃やそうとした最期の刹那、信綱の口から彼女の愛に応える言葉が漏れる。

 

 

 

 

 

「――俺もあなたを愛しているよ、阿弥」

 

 

 

 

 

 そうして、一人の阿礼狂いと彼を愛した御阿礼の子の物語は幕を下ろす。

 先に繋がるものはなく、ただただ彼と彼女の間でだけ完結した物語であった。

 二人の自己満足だと言われればその通りとしか言い様がない。しかし――

 

 

 

 

 

 彼らは紛れもなく幸福だった。それだけは揺るがぬ事実として存在し続けるのだ――




Q.なぜこのタイミングで出したのか?
A.本編終わった後に出したら阿弥の印象薄れてるに決まってんじゃん(真顔)

というわけで阿弥エンドです。彼女の愛に応える=ノッブは彼女と運命を共にするという、まさにEndingになるわけなので、本編では想いを告げることができませんでした。

阿弥がほんの少しだけ欲張って、信綱はほんの少しだけ阿弥の想いを御阿礼の子の中でも特別視した。そんなルートです。

これで後残ったEndingは本編と椛だけだ……あの白狼天狗、なんで御阿礼の子でもないのにIFエンドもぎ取ってるんだろうね?(不思議そうな顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

変革の時代 -あるいは、終わりの始まり-
阿弥のいない世界


 茫漠とした顔で空を見上げていた。

 初夏に差し掛かり太陽の輝きが一層強く感じられる中、その人物――信綱は何を見るでもなく空を見上げ続ける。

 

「ほら、お茶が入ったわよ」

 

 人里よりも高い場所にある博麗神社で空を見ていた信綱は、隣に茶が置かれたことに曖昧な声で礼を言う。

 

「……ん、ああ」

「……全く」

 

 巫女は信綱の気のない返事にため息をつきながらも、それ以上何かを言うことなく自身もまた隣に座る。

 阿弥の葬儀が終わってから大体この調子だ。人里での姿は知らないが、フラリと神社にやって来ては何をすることもなく縁側でぼんやりと空を見上げるだけ。

 

 いつまでも飽きずに空を見る姿には巫女の知っている信綱の姿は微塵もなく、下手に突いては壊れてしまいそうな危うさが感じられた。

 

「…………」

「…………」

 

 静かに茶をすする音だけが聞こえる。

 夏の夜長の子守唄になりそうな虫の音も、耳をつんざく蝉しぐれもまだ季節ではない。適度に暑く、適度に涼しい過ごしやすい季節。

 春から夏へ、新緑から翠緑へ、自然の僅かな変化が美しい時間だ。

 それでも彼は空を見続ける。まるでそこにしか見えない何かを見つめるように。

 

「……ねえ」

「どうした」

 

 やがてこのままでは埒が明かないと、意を決した巫女が信綱に話しかける。

 ここに来る頻度が増えた最初の頃は、阿弥のこともあったのだとある程度彼女も気を遣ったが、その気遣いはいつまでも続くわけではない。

 いい加減、彼の口から自分の状態ぐらい聞き出しておきたかった。

 

 これまでは巫女の言葉にも生返事か無反応を貫いていた信綱も、今度はしっかりとした口調での返答が来た。

 

「その……やっぱ、辛いの?」

「辛くないとでも思ったか?」

 

 首を横に振る。阿礼狂いと呼ばれるほど御阿礼の子に入れ込む彼らが、御阿礼の子の死に絶望を覚えないはずがなかった。

 特に信綱と阿弥の仲の深さは巫女も知っている。家族と見紛うほどに連れ添い、彼女が生まれてからずっと側に居続けたのだ。その絶望たるや、巫女の最悪を遥かに上回るものだろう。

 

 巫女の返事に信綱は静かに息を吐き、ポツポツと話し始める。

 

「……初めてだったんだ。あの方が生まれてから亡くなるまで、ずっと仕えた御阿礼の子は」

 

 ちなみに彼の家でそんなに長く仕えた火継はいない。幼少の頃から隔絶した強さを示し続けている信綱が色々と例外だが、巫女も彼以外の阿礼狂いは一人を除いて知らないため、何も言わなかった。

 

「先代の人はどうだったの?」

「俺より歳が上だった。十年と少し仕えて、あの方もまた遠くへ逝ってしまった」

 

 比べるのもおこがましいが、彼女の時は仕方がないと思えたのだ。信綱は未だ年若く、弟のように思っていた阿七が彼の未来を願うことは何の不都合もない。

 だが、阿弥は別だ。自分を父と慕っていた愛娘が父に生きろと言って自分は遠くへ逝ってしまうのだ。父より先に逝く娘など親不孝以外の何ものでもない。

 

「……俺を父と慕うのなら、俺より後に死んで欲しかった」

「……そう」

 

 何も言えない。家族というものに縁がない巫女であっても、彼の抱いている絶望が底知らずの深さであることくらい、想像がついた。

 迂闊に話しかけてしまったことを巫女が後悔し始めていると、信綱はいつの間にか巫女の方に合わせていた相貌を微かに緩める。

 

「……まあ、いつまでもこうしてはいられない」

「え?」

「生きろと言われた。後を頼むと言われた。ならば生きるしか道はない」

 

 そう言って信綱は立ち上がる。その足取りはここに来た時のような幽鬼のそれではなく、確固たる信念に裏打ちされた力強いものだった。

 そこまで見て、巫女はようやく博麗神社が彼が勝手に立ち直るまでの時間潰しの場所に使われていたことに気づき、口元に変な笑みが浮かぶ。

 

「……全く、人の家を勝手に駆け込み寺扱いするんじゃないわよって、昔に言ったでしょう」

「そう言ってくれるな。人里じゃ何かとうるさいんだ」

「へえ?」

「俺が阿礼狂いなのは周知の事実でもある」

 

 三十年、信綱が彼女と共に人里で過ごした姿を知っているものは多い。

 信綱が悲嘆に暮れているから気を遣ってくれるというのはありがたいが、信綱はそういった悲しみなどは共有せず一人で抱える方だった。

 なにせ――御阿礼の子に関わる悲しみだ。一欠片たりとも他の誰かに渡してやる義理はない。

 

「邪魔をしたな。しばらくは来ないだろうさ」

「あーあ、あんたが来た時に出したお茶は良いお茶だったんだけどなー」

 

 いや、あれは安物の茶だろう、というツッコミはしないことにした。こういう時に嬉しいのは気遣いである。

 

「次来る時は玉露と酒でも持ってきてやろう」

「やった! 言ってみるものね!」

 

 酒と茶だけで機嫌が良くなるのだから安い方だと思いながら、信綱は巫女に別れを告げて神社から立ち去るのであった。

 

 

 

 現状、信綱はこれといってやることがない。

 人里での信綱の仕事はほとんど終わり、後は若いものに任せている状態。火継の役目にしたって御阿礼の子がいない今、信綱たちは食うに困らない程度の日銭を稼げば良かった。

 

 日銭にしたってもう年老いた信綱がやるようなことはない。というより、なにかやろうとすると休んでいろと言われてしまう。そんなに働き過ぎに見えたのか不思議でならない。

 当主としての裁可が必要な仕事以外の雑事は部下に任せてある。もう彼のやることは火継の家にある離れに部屋を移して日がな一日鍛錬に勤しむかやってくる妖怪の相手をするくらいだ。

 

「なんだか隠居した老爺のようだ」

「いや、ようだも何もその通りなんじゃ……」

「私は嬉しいけどね。こうして会いに行っても邪険にされないし」

 

 そんなわけで信綱は現在、飽きもせずにやってきたレミリアたちの相手をしているのであった。

 

「霧雨商店はあっちだぞ」

「いい加減家に入るくらい良いじゃない!?」

 

 そして今でも対応は辛辣なもの。今はもう彼女をさほど嫌ってもいないのだが、今さら対応を変えるのもおかしい気がするため、この対応を変えるつもりは特になかった。

 

「それでなんの用だ」

「おじさまに会いに来たの。阿弥が死んで、あなたはどうなったかしら」

「…………」

 

 無言で視線に力を込める。レミリアの後ろに控える美鈴が思わず身体を強張らせてしまうほどの威圧に、レミリアはむしろ心地良さそうに笑う。

 

「阿弥が死んでから腑抜けた、なんて噂があったけど嘘みたいね。おじさまの殺意は曇りがなくて素敵よ」

「…………」

「……まあ、阿弥が死んで思うところがあるのは私も同じだけれど」

 

 不意にレミリアは感傷に浸る顔になり、何かを懐かしむように目を細める。

 その様子に対し信綱は殺意以上に疑問が浮かび上がる。彼女は阿弥に対してそれなりに入れ込んでいたが、それだけのはずだ。

 

「初めてなのよ」

「なに?」

「私ね、あの子なら手に入れられると思っていたの。……そんなに怒らないで。おじさまがいるから手を出すつもりはなかったわよ」

 

 美鈴の日傘から離れ、縁側に座る信綱の隣にレミリアは腰を下ろす。

 日光を遮り、色濃い影ができる場所を選んだそこはレミリアにとって思いの外涼しく、目を白黒させた。

 だがそれも一瞬で、すぐにレミリアは普段とは違う静かな表情で語り始める。

 

「それなりに気に入ってて、それなりに欲しかった。だけど……こんなに早く死ぬなんて反則でしょう。私が欲しかったのは生きている阿弥であって、死んだあの子じゃないのよ」

「…………」

「生まれて初めてよ。今まで多くの人間や妖怪を殺して欲しいものを手に入れてきたのに、たった一人の人間に死なれてこんな気持になるのは初めて」

「……ならばお前はどうするつもりだ」

 

 信綱の問いかけに対し、レミリアは以前に博麗神社で信綱がそうしたように空を見上げる。

 太陽は見えずただただ蒼天だけが広がる空に手を伸ばし、彼女はつぶやいた。

 

「どうもしないわ。――でも、別れは辛いものだってのは理解した」

「……お前」

 

 何かが変わっている。本質が吸血鬼であることに変わりはなくとも、彼女の中で何かが変わっている。それを信綱は不本意ながら続いてしまった付き合いの長さで直感する。

 

「前に話した妹とも向き合ってみようと思うの。……阿弥の死を知ることは運命だった。今ならそんな気がするわ」

「ふざけるな。あの方の死がそんな都合の良いものか」

 

 大体、運命ごときに彼女を殺させるはずないだろう。レミリアの目の前にいる男は人間の道理など十や二十も軽く蹴飛ばした存在だ。今さら運命など物ともしない。

 一切の迷いなく言い切る信綱の目を見て、レミリアは軽く笑った。

 

「そうね。おじさまと阿弥が運命に負けるなんてあり得ないわね。失言だったわ」

「わかれば良い。……それで、妹と話すとはどういう意味だ」

「そのまんまよ。いつでも会えると思っていた人がいつの間にか消えている。それはきっと誰にでも適用される道理。おじさまにも、私にも」

「……お前は簡単には死なないだろう」

「おじさまが来た時、あのスキマたちが来るのが遅ければわからなかった。案外、私もおじさまも今を生きている理由なんてそんなちっぽけなものよ」

 

 何かの偶然で助かっているようなもの。そう言いたいのだろう。

 信綱はレミリアの言葉に対しうなずくこともなければ、否定することもなく沈黙を貫く。

 

「……そのちっぽけな奇跡が来ない時が来ると?」

「それが来なくなった時が私の終わりでしょうね。おじさまと違って私は寿命とかも遠い話だし」

「だから話すのか」

「そうね。――時間は限られている。阿弥の死を見て久方ぶりに思い出したわ、この感覚」

 

 そこまでを真摯な表情で言って――次の瞬間には信綱の胸に飛び込む体勢になっていた。

 

「だからおじさま! 私にも構って頂戴って痛い!?」

「なんとなく読めてしまった自分が憎い」

 

 縁側に足を伸ばして座っていたにも関わらず、吸血鬼のレミリアの速度を越えた挙動で信綱はレミリアを回避し、彼女の顔は縁側の床とぶつかる。

 吸血鬼よりも速く動くということをやりながらも信綱の顔に得意そうなものはなく、レミリアの動きが読めるようになるほどに長くなってしまった付き合いを嘆くものだった。

 

「せめておじさまが死ぬまでには優しさを頂戴!?」

「死ぬまでには考えておいてやる。まだ死ぬ予定はない」

 

 阿求も任されているのだ。あと二十年は現役でいる予定である。

 その言葉を聞いたレミリアは満足そうな、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべて美鈴の元に戻ろうとする。

 

「――そう。おじさまとの付き合いもあと二十年なのね」

「…………」

「今日はこれで帰るわ。次に来る時には阿弥のお墓を案内してもらえないかしら。日本の様式にはまだ慣れないけど、花を捧げるのはどこの国でも共通でしょう?」

「……俺は幻想郷の流儀しか知らん。阿弥様の墓に何か……は、しないか」

 

 信綱は軽くため息をついてレミリアの言葉を受け入れる。彼女に対する反応が辛辣なのは自覚しているが、それとは別に嫌ってもいないつもりだ。

 

「お前は阿弥様を友人だと言った。その友情が人間のそれと違わないことを祈ろう」

「人間とまるっきり同じかどうかは保証しないけど、いなくなった友人を貶める真似はしないわ。吸血鬼の誇りにかけて」

「……ならば信じよう」

 

 彼女は自らの矜持について非常にうるさい。それは信綱も知っており、その筋金入りの意思の強さは言葉にせずとも認めているところだ。

 

「それじゃあまたねおじさま。……おじさまは長生きしてくれると嬉しいわ。血も吸わせてくれるとなおよし」

「寝言は寝て言え。それと花は薔薇を頼む。阿弥様が好んでいたが、紅魔館ぐらいでしか手に入らん」

 

 稗田邸は和風の庭園のため、いきなり薔薇を植えると全体の調和を乱しかねなかったため、阿弥を喜ばせることは泣く泣く断念していた。時間さえあれば庭を広げて一角に作りたいと思っていたのに。

 

「もう元通りみたいね。次も変わらない姿を見せてくれることを期待するわ」

「さっさと帰れ」

 

 にべもない信綱の言葉に、しかしレミリアはこれでこそ信綱だと言わんばかりに笑みを深めて去っていくのであった。

 ようやく一人になった信綱はレミリアが来たことにため息をつくと、彼女がしていたように空を見上げる。

 

 何かが変わりつつある。幻想郷の変化に連なり、それぞれの存在が変わり始めている。

 きっと阿求が生まれた時、幻想郷は今より良い物になっているだろう。

 そう考え、信綱の唇が微かに弧を描く。

 

「見届けるのも悪くはない、か……」

 

 慧音の言葉が今になってようやく理解できた気がする。自分の手で作っている間はあまり意識することもなかったが、自分の手を離れた幻想郷を眺めて生きることは楽しいのではないかと思えるようになったのだ。

 ……そんな考えに至ってしまうほど、歳を食ったということでもあるのだが。

 

 とにもかくにも側仕えの仕事がない現在、信綱の身分は楽隠居の爺だ。日がな一日釣りをするも、自警団相手に稽古を付けるも自由だ。

 

「どうしたものか……」

 

 そしてこの男、やることがないという状況が嫌いな性分でもあった。阿弥の側仕えをしていた時の忙しさにすっかり慣れてしまっている。

 むむ、と頭を悩ませながら信綱の時間はゆっくりと流れていくのであった。

 

 

 

 

 

 それは阿弥の墓を掃除している時のことだった。

 阿七、阿弥、そして歴代の御阿礼の子が眠る墓を汚れ一つ許さないとばかりに丁寧に掃除していると、横から足音が聞こえてくる。

 

「……花を供えたいのですが、良いでしょうか」

「……お前なら構わん」

 

 そっと墓から離れ、その人物――椛が墓前に花を供えるのを見つめる。

 人懐っこい笑顔もこの場では浮かべず、ただただ粛々と阿弥の前に花を置く彼女の姿は、普段からは想像もできないものだった。

 静かに置かれた花の前で手を合わせ、彼女の冥福を祈ってから椛の目は信綱の方を向く。

 

 椛は信綱の顔に何かを見たのか、聞きづらそうな顔をしながら口を開いた。

 

「その……大丈夫、ですか?」

「大丈夫、とは何がだ?」

「いえ、あの……阿弥ちゃんがいなくなって、です」

「問題ない、と言えるような者がいればそれは火継ではない」

 

 それは当然、信綱にも当てはまる。御阿礼の子と二度も死別した悲しみは一生癒えることなどない。

 しかし時間はそんな信綱の悲しみを他所に無情なまでに流れていく。

 

「それでも生きるしかない。後のことを任された身である以上、あの方の最期の望みは完璧に叶える」

「……そう、ですか」

 

 椛は言いたいことを飲み込んでうなずく。

 本当なら休むべきところまで来ているというのに、彼に休むという発想がないのではどうしようもない。

 

「……辛いと思ったら言ってください。君の代わりはできませんけど、支えになるぐらいはできると思ってますから」

「もう十分頼っている」

 

 それだけ言って信綱は椛の供えた花を汚さないように掃除を再開する。

 椛も花を供えただけで終わるつもりはなかったようで、信綱が掃除を終えるのをじっと見つめていた。

 

「……君は」

「うん?」

「これからどうするつもりなのか、聞いてもいいですか」

「どうするもこうするもない。やるべきと思ったことをやって、阿求様が来るのを待つだけだ」

「いつになるかも……いえ、その時にあなたが生きているかもわからないのに?」

「それが火継だ」

 

 そこに疑問など持たない。自分の生涯が全て徒労に終わり、何一つ報われることなどなくても、いつ現れるかもわからない御阿礼の子のために一生を捧げられる。

 一切の逡巡なく言い切るその姿に、椛は彼に対する認識をさらに深めていく。

 

 彼にとって御阿礼の子以外は全て有象無象であり、そしてその中には自分すら含まれる。

 戦場において自分の命を使い捨てることに留まらず、その人生すらも彼にとっては大して価値のあるものではない。

 

「……あなたがボロボロの姿で次の御阿礼の子の前に姿を現しても、あの子はきっと喜びません。もういい歳なんですから、身体には気をつけてくださいね」

「体調管理ぐらい初歩の初歩だ。お前こそ変な輩に目をつけられないよう注意しろ」

「あはは、私の目をお忘れですか」

「お前は変なところで抜けているからな」

「あ、ひどい!」

 

 むう、と頬を膨らませる椛に信綱は軽く笑う。

 それが鼻で笑われたと思ったのかさらに椛が機嫌を悪くするが、さすがに笑った意味を懇切丁寧に説明する義理はなかったので無視してしまう。

 

「そろそろ行くぞ。あまり墓前で騒がしくするものではない」

「あっと、そうですね。君はここにはどのくらいの頻度で?」

「月命日には必ず顔を出す。後は状況によりけりだ」

 

 さすがに御阿礼の子がいる時には頻度も下がる。今いる御阿礼の子を見ずに過去の御阿礼の子を見るなど侮辱に他ならない。

 が、それもいなくなっている今現在、しかも半分隠居の状態で暇な信綱はしょっちゅう顔を出していた。無論、しっかりと墓前に供える花などを用意した上で。

 

「それより戻るぞ。お前も暇なら来い」

「いや、私は人里で見回りの仕事が……」

「暇だな、来い」

「人の話聞いてます!?」

 

 椛のツッコミを無視して歩くと、後ろから大きなため息と足音が聞こえてくる。なんだかんだ言って着いてきてくれるようだ。

 

「……お前は」

「はい?」

「阿七様が亡くなられた後の俺を覚えているか?」

「……まあ、だいぶ憔悴していた様子は覚えてますね」

 

 平静を装っていてもさすがに二十にも満たない若造。椛の目には悲嘆に暮れているようにしか見えなかった。

 

「今の俺はどう見える?」

「同じですよ。あの時と同じ、親とはぐれた子供みたいな顔です」

 

 椛の例えに信綱が渋面を作るが、答えは変わらない。

 あの頃に比べて表面上は普段通りだし、言葉にも揺れはない。彼と親しくなければ変化はわからないだろう。

 だが、椛には崩れ落ちそうなところを必死に取り繕っているように見えた。

 そのことを椛が正直に話すと、信綱は言葉に詰まった様子を見せて大仰なため息をつく。

 

「……お前にそこまで見抜かれるとは修行が足りないか」

「いや、大事な人に先立たれて悲しいのは誰だって同じだと思いますよ?」

「変な同情はいらん。この悲しみは阿弥様より賜った最後の贈り物だ。誰にも共有などさせるものか」

「君のそういうところは嫌いじゃないけど面倒だと思います痛っ!?」

 

 うるさいので耳を引っ張って黙らせる。橙とはまた違った手触りでよく手入れされているのがわかった。

 面白いのでわざと耳の毛を逆立てようとすると、椛は俊敏な身のこなしで信綱から距離を取る。さすがに橙よりは用心深いらしい。

 

「子供ですか君は! 図星を突かれたからって引っ張らないでください!」

「減るものでもないだろう」

「毎日の手入れ時間が増えるんです!!」

 

 怒られたので肩をすくめて歩き出す。椛は肩を怒らせながら、信綱の手がすぐには届かない場所を維持しつつ歩いて来る。

 気を紛らわせるためとはいえ、少々からかい過ぎたかもしれないと自省した信綱は言い訳も兼ねて口を開く。

 

「まあ、あまり心配してくれるな。阿弥様に強く生きると言ったのは俺だ。少しもすればまた剣でも振るようになる」

「……それ、今思いついた台詞ですよね」

 

 長い付き合いだけあって見抜かれてしまった。

 さてどうしたものかと考えていると、椛の手が信綱を引いてくる。

 

「む」

「少しすれば、なんて言う暇があるのなら私の警らに付き合ってください。どうせ暇なんでしょう?」

「……わかったよ。戻ってもやることはないのでな」

 

 と、そこで一つだけ信綱が手がけているものを思い出す。

 妖怪関連の話ではない。そちらはすでに自分の手を離れつつあるので、何かあった時の相談役や裁可が必要な時の判子押しぐらいしかしていない。

 ちなみに相談役として上手くやる方法は具体的な道を提示することではなく、相手に意図した道を取るよう誘導することであると最近学んだ。閑話休題。

 

 それとは別に信綱が自主的にやっていることは日課である鍛錬と――本の作成だ。

 椛には話しているが、彼自身の動き方や剣の振り方、敵の動きに対してどのような防御をしてどのような攻撃を合わせるか。そういった動きを細かく分解し、可能な限り噛み砕いて記したものになる。

 

 どうにも自分は教える側としてはあまり向いていないのがわかった。相手のできる範囲を見極めることはできているつもりなのだが、精神面での部分――要するにやる気の部分があまり重要視できていないらしい。

 信綱もそうだが、火継の一族は阿礼狂いであるが故に自己への評価が低い。

 常人にしてみれば命懸けの修行などよほどの理由がなければやらないだろうが、阿礼狂いはそれが力への近道ならば一切迷わず実行できる連中しかいないのだ。それは御阿礼の子が自分の代には生まれないとわかっていても変わらない。

 

 そんなわけなので信綱は自分が死んだ後にも力を求める存在が現れることを願い、そしてそれが強くなれる一助となるために自分の動きを残している最中なのである。

 その本の存在を思い出し、信綱は隣を歩く椛を微かに目を細めて見る。

 

「…………」

「……? どうかしました、じっと見てきて……ハッ!? 耳は触らせませんよ!!」

「違うわ戯け」

 

 警戒して距離を取る椛に、信綱はつくづく馬鹿なことをしたと自分に呆れてため息をつく。

 その様子が普段と違うように見えたのか、椛は打って変わって信綱に近づいてくる。警戒しているのか無警戒なのか判断がつかない少女である。

 

「どうしました、今の反応はいつもと違いましたよ?」

「……まあ、良いだろう」

「何がですか?」

「今話すような内容ではない。行くぞ、阿弥様の墓参りに来てくれた礼にメシぐらいなら奢ってやる」

 

 話題をそらされた、と椛は長年信綱と一緒に過ごしてきた時間で答えを出す。

 しかしこうなった信綱は簡単に口を割らない。都合が悪くなると暴力に訴えてくるし、真っ当に問い詰めてものらりくらりとかわされてしまう。

 だから椛はせめてもの抵抗としてこれ見よがしにため息をつくことにする。この男と一緒にいて退屈や平穏とは無縁になるという諦観と、ある種の了承の意も兼ねて。

 

「……まあ、良いですよ。君は迷惑をかける時はあらかじめ言ってくれますからね」

 

 無理難題であっても、その時は信綱が一番危険で重要な部分をやっている。そのことを椛はよくわかっていた。

 

「だからどうした」

「言わないということは悪いことではない、ということです」

「…………」

 

 椛の言葉に信綱は声に詰まった様子でうなり、返事をすることなく歩き出す。

 その背中を追いかけて、椛は少しおかしく思ってしまいクスリと笑う。

 小さい背中で必死に走る姿を知っているはずなのに、いつの間にか彼の背中を見ることが当たり前になってしまった。

 それだけ長く一緒にいたということ。自他ともに狂人であると認めるこの男と。

 

「……本当に物好きなやつだな、お前は」

「ええ、物好きなんです。あなたと一緒にいられるくらいには」

「そのようだ。――これからも頼むぞ、椛」

「はいっ」

 

 これからも迷惑をかけるという意味だというのに、弾んだ声で返事をされてしまい信綱は肩をすくめるしかない。物好きもここに極まれりである。

 しかし――だからこそ背中を預けるに相応しいのだろう。

 

 信綱は自分の後ろを着いてくる椛の存在に、ほんの少しだけ笑みを浮かべるのであった。




早めに完成するじゃろ? あとはこれを土曜に投稿しようと思うじゃろ?
気付くと今投稿しておるんじゃ(真顔)

そしてやたらとヒロイン力の上がるもみもみ。お互いの好感度が高い上、付き合いも長いので丁々発止のやり取りに。
でもヒロインルートはIFルートです(強弁)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新しい娯楽

研修も終わり明日から実務……フフフ怖い(震え声)


「お呼びとあらば即参上! どうも、清く正しい射命丸文です!」

「おう、来たか。まあ座れ」

 

 天魔の部屋に勢い良く入ってきた文を、天魔は苦笑いと共に受け入れる。もう彼女のこの登場にも慣れてしまっていた。

 本当に危ない時は忠実な部下なのだが、普段ははっちゃけようと色々破天荒なこともやるため、地味に面倒な部下である。

 

 そんな彼女をとりあえず座らせて、天魔は手に持っていた紙束を投げ渡す。

 

「ほら」

「あや? これは一体なんですか?」

「まあ読んでみろ」

 

 天魔に言われた通り文は手元の紙に視線を落とす。

 文字と白黒の、しかし驚くほど精巧な絵が乗っている書物で、その中には情報がびっしりと書き込まれていた。

 どこそこで何があった、どこそこではこんなことが起きた。ある人物が珍しい物を発見した、などの情報が紙の上では足りないとばかりに踊っている。

 

「はぁ、すごいですねえ。こんなもの、どこで手に入れたんです?」

「それ自体はたまたま山に流れ着いていた外の世界のものだ。んで、用途はスキマのババアが言っていた」

 

 天魔が今の外の世界を知らないからとこれ見よがしに嫌味な物言いだったが、別に気にする程のことでもない。もっと重要な局面で負けなければ最終的には勝ちなのだ。彼女はその辺りがまだわかっていない。

 

「用途とは?」

「新聞、というやつでな。近くで起こった情報をまとめたものらしい」

「はぁ。しかしこんなに濃い内容ではあまり頻繁には出ないのでは?」

「聞いて驚け、日刊だ」

「日刊……日刊!? こんなものが!?」

 

 天魔の口から聞かされた情報にさすがの文も驚愕に目を見開き、手に持つ新聞に目を落とす。

 

「こんなたくさんの情報が毎日……外の世界はすさまじいですねえ」

「全くだ。情報の更新が早過ぎる世界ってのは息苦しくていけない」

 

 なにせ妖怪は得体の知れないものの総称だ。新聞のような情報の塊が毎日発行されるとあっては、とてもじゃないが正体不明を維持することなど不可能である。

 と、そこまで文を驚かせたところで天魔は肩をすくめる。

 

「……と言っても情報源がスキマだし、どこまで信じりゃ良いのかはわからんがな」

「ちょっと!?」

「まあ話は最後まで聞け。オレはお前を驚かせるために呼んだわけじゃない」

 

 重要なのは天魔が紫の話す新聞に価値を見出したことである。別に新聞が週刊だろうと月刊だろうと、中の情報の大半が嘘八百だろうとどうでも良かった。

 

「文、お前これを真似てみる気はないか?」

「真似、するとは?」

「この狭い幻想郷で、しかもオレらは足の速さが取り柄の天狗だ。今はまだ人里との交流があってそれなりに抑えられているが、どうせまた遠からず退屈になり始める」

「まあ、それは妖怪の宿命みたいなものでしょう」

「ごもっとも。だが、退屈を紛らわせる手段をいくつも用意することは悪いことじゃない」

「……話が見えないのですけど」

「単刀直入に言ってやろうか? ――情報で幻想郷を盛り上げてみようぜ、ってことだよ」

 

 情報の価値は時間とともに劣化するものが大半である。

 誰かの家の子が生まれたといった慶事とて三ヶ月も前なら大した意味もないように、情報というのは出来立てにこそ多大な価値がある。

 そして天狗は足の速さと空を駆ける速度には誰にも負けない自信のある種族だ。となればやることは一つ――

 

 

 

「幻想郷中を駆け巡って、面白そうな情報を紙にまとめて発行するんだ。競争する形にしたって良い。――この新聞がオレたち天狗の新しい娯楽だ」

 

 

 

「……それの先駆けを私にやれと?」

 

 ようやく天魔の言いたいことが理解できてきた文は好奇心半分、警戒心半分の様子で天魔を見つめていた。

 天魔という男は有事にはとにかく頼りになるのだが、平時は仕事をサボりたがるわ、気づいたらいなくなってるわ、その癖どこからか利益だけは引っ張ってくるわでとにかく行動が読みづらいのだ。

 しかしどうやら今回は真面目なものらしい。天魔は子供のような稚気溢れる笑みを浮かべながらも、眼光は別の何かを見据えているものだった。

 

「おう。お前の速度で幻想郷のあらゆる場所から情報をかき集めて来い。そんで情報をまとめて新聞にするんだ」

「はぁ……それは誰がやるんですか?」

 

 情報を集めることは別に構わない。今までだって天魔の命令で色々な場所へ情報収集をしたこともある。

 しかしそれをまとめるのは話が別だ。しかも新聞にするからには一日で集めた情報を、その日のうちにまとめて紙に記さなければならない。さすがにそこまでやれるほど速さに自信はない。

 

「は? お前がやるに決まってんだろ」

「無茶言わないでくださいよ!? 一人でできる文量じゃないですよこれ!!」

「何もそこまで情報をかき集めろとは言わねえよ。適当に集めて、適当に書いて、適当にバラ撒けってことだよ」

「……本当ですか?」

「ここまで壮大な嘘なんてつかねえって。とにかくやってみろ。お前の結果次第でオレも次の手を考える」

 

 これは天狗の歴史に新たな項目を刻む栄誉に与っているのか、あるいはただ単に手近な人柱――もとい試金石がなかったから自分で試しているのか、文には判断がつかなかった。

 

 

 

 そして文は今現在、空を飛んで人里にかじを切っているところだった。

 口では色々と言ったが結局のところ、彼の言う新聞が天狗の新しい楽しみになるのなら願ってもないことであり、文としても興味のあることだった。

 

 というわけで情報を集めに行くことになり――真っ先に向かっているのは人里のとある家である。

 今現在、というよりだいぶ前から妖怪たちが話す人間の中心であり、今なおその名声は留まるところを知らない人物の家――要するに阿礼狂い、火継の家である。

 

 彼ら、というより特定の人物の生まれた家であり、その強さの根源に迫ったとなれば新聞第一号の人気はうなぎ登り間違いなし。実に幸先の良い始まりになるというわけだ。

 

「ということで突撃取材と行きましょう! なに、いくらあの人が規格外だからって上空からなら問題ないはず……!」

 

 そんな風に思っていた過去の自分は、きっと何もわかっていない愚か者だったのだろう、と文は後に語った。

 

 火継の屋敷を発見するまでは良かった。人里からはやや離れた場所にある大きな屋敷。ともすれば規模では稗田邸以上のものがある屋敷だが、そんなに多くの場所を取る理由は道場があることだ。

 上空から見ている文の目には、そこかしこで打ち合い、殴り合い、切磋琢磨と言うには少々剣呑に過ぎる鍛錬に励む火継の人間が映っている。

 阿礼狂いとしての名を人妖に轟かせているのはただ一人だが、それ以外の人間もまた弱いかと言われたら違うと答えよう。それぐらい、文の目から見た若者たちの技巧は研ぎ澄まされていた。

 

(ふむ――これなら白狼天狗ぐらいならどうにかなるかもしれませんね。人間にしては強い、といったところでしょうか)

 

 とはいえ、あくまで人間にしては、だ。さすがに烏天狗である自分と比較しては相手が可哀想である。

 彼らの情報も一応頭の片隅に留めておいて、文は本命である人物を探す。

 椛から経由した情報だが、なんでも最近は半ば隠居の状態にあり、離れの方で生活しているとかなんとか。なので彼がいるとしたら離れの近くだろう。

 

「お、発見っと」

 

 噂をすればなんとやら、と文の目に木刀を握って佇む壮年の男性の姿が飛び込んでくる。

 もう年齢の上では六十に到達するというのに、今なおその肉体と眼光に衰えは見えない。誰を相手にするでもなく木刀を握って立っているだけだと言うのに、その場所だけ空気が違う感覚すら覚えてしまう。

 

 やはりあれは規格外の中の規格外である。通常の阿礼狂いは妖怪を相手に戦えるが、烏天狗や鬼を退けられるほどではないというのに、あの男だけはそんな道理を平然と踏み越える。

 彼の情報をバラ撒けばそりゃあもうあらゆる勢力が食いついてくるに違いない。紅魔館の主は彼にご執心だし、百鬼夜行すらも退けた彼の情報を欲しがらない存在の方が少ないだろう。

 

 そんなわけで文は遠間から件の人物の観察を始めようとして――視線が合う。

 

「――ッ!?」

 

 かなりの上空を飛んでおり、また気配には細心の注意を払っていた。おまけに太陽を背にしているので、彼の目には眩しくて見えないはず。

 だというのに、文は男性と目が合ったという確信があった。そしてその確信が彼女の身体を硬直させる。

 

 逃げるか、退却するか、撤退するか。全部同じ意味の選択肢が文の脳裏をよぎっている中、文と目の合った人物は意外なことに手を振ってきた。

 おや、これは存外に友好的? と文は訝しむ。天狗の騒乱の時は抜身の刃と言うのがピッタリだった彼も、歳を取ることで丸くなったのだろうか。

 

 不思議に思いながらも文は距離を縮め、彼の挨拶に答えようと自分も手を振る。

 彼は片手で手を振りながら、もう片方の何も持たない手を隠すように半身になっていた。

 ――もう片方に何もない?

 

「あやや、お久しぶり――ぁぶっ!?」

 

 疑問に思う間もなく、後頭部を何かが強打する衝撃が脳天を貫く。

 急速に閉じていく視界の中、文の目に映ったのは放り投げられたであろう木刀と、自分のことを険しい顔で見据える男性の姿であった。

 

 ――前言撤回。この男は相変わらず抜身の刃である。

 

 

 

「で、なんの用だ」

 

 そして今現在、文は男性――火継信綱の前で正座をさせられ、詰問をされている最中だった。

 

「いやあ……出会い頭に木刀投げてくる人には教えたくないかなぁ、なんて……」

「石抱きが望みらしいな」

「話します! 洗いざらい話しますから拷問はご勘弁を!?」

「最初からそうしていればいいんだ。というか正面から来い。俺たちだって正面から訪ねてきた者を無下にはしないぞ」

 

 上空で何かを探るように飛ばれているのでは信綱も警戒せざるを得ない。おまけに逃げる様子もないと来れば捕まえて話を聞く必要も出てくる。

 信綱も信綱で余計な仕事が増えたと頭痛を堪えているのだ。物理的に頭が痛いぐらい耐えて欲しい。

 

「もう一度聞くぞ。用件はなんだ。内容次第では石を抱かせてやる」

「やめてくださいってば! そんな剣呑な話じゃないんですよ! ただちょっと天魔様からの用事なんですって!」

「……なに?」

 

 占めた、と文は内心で思いながら言葉を続ける。妖怪に対しては傍若無人を地で行く信綱も天魔の言葉とあらば無視はできない。

 文は他人への説明が上手く行くよう天魔の部屋から無断で持ちだした新聞を一部、取り出して信綱に手渡す。

 

「これを見てください」

「……なるほど、瓦版をまとめたものか。……見たところこれは一日の情報が集約している。日刊となると……外の世界から流れ着いてきたものだな。これがどうした」

「あなたの頭の中が気になってきましたよ割と本気で」

 

 天魔といい信綱といい、彼らには自分たちでは見えない何かでも見えているのではないだろうか。

 文は内心の動揺が表に出ないように気をつけながら、信綱の慧眼を褒め称える。

 

「あやや、さすが! さすがは天魔様と対等の立場につかれているだけはあるご慧眼です! それは新聞と言うんですが、今度私ども天狗がそれをやってみようという話が出ておりまして」

「ふむ」

「それで先駆けとして私がやっているんですよ! 何かあったら天魔様が責任も取ると言ってます!」

 

 そして文は躊躇なく上司である天魔を売ることにした。

 彼は責任を取るとか一言も言ってないが、こうなったら一蓮托生である。

 

 が、信綱の目は胡散臭いものを見るような目から変わらない。むしろ背後に天魔がいると聞いて疑いは一層強まったような気さえしてくる。

 

「……それは構わないが、肝心な質問に答えてないな」

「あや?」

「ここに来た用件をお前は話していない」

「それは取材を協力しようとですね……」

 

 それを言うと、信綱は文に見せつけるようにため息をつく。そしてため息をついている信綱を呆けて見ていた文の額を軽く小突く。

 

「あやっ」

「だったら正面から、ちゃんと戸を叩いて来い。こそこそと空から見られると俺も無視できん。取材とやらは相手の許可を得てからやるものだろう」

「うう、はい、以後気をつけます……」

 

 少なくとも火継の家はちゃんと正面から訪ねようと心に決める文だった。次は木刀じゃなく鋼の刃が飛んできそうで怖い。

 しかし御阿礼の子のためならどんな倫理や常識だろうと、顔色一つ変えずに踏みにじる一族の人間に真っ当な理屈を説かれるのは、どこか受け入れがたいものを感じる文だった。

 

「わかれば良い」

 

 信綱は文がうなずいたのを見て、僅かに放っていた威圧を霧散させる。そして彼女の前に腰を下ろした。

 

「で、何が聞きたいんだ」

「……え? 答えてくれるんですか?」

「大方、俺の情報を広めれば妖怪たちに見てもらえるとかそんな魂胆だろう。聞かれて困るようなものはない」

「……適当なこととか嘘を言ったりしませんよね?」

「天魔の耳にも入るだろうし、どうせその時に確認が取られる。嘘をつく意味がない」

 

 政治的なやり取りで嘘をつくというのは、それが露見した時も考えなくてはならない。

 露見した時には相手を排除する準備が整っている、ないし露見しても笑って済まされるようなものにするのが人妖でのやり取りの鉄則だ。

 基本的に殺し合いはご法度で、狭い空間の中で嫌でも顔を突き合わせる関係なのだ。おまけに妖怪は世代の交代がないため、一度ついた嘘でもよく覚えている。

 一時の嘘で後々の関係悪化など、バカバカしいにも程がある。そのため、信綱は妖怪とのやり取りで嘘をついたことはなかった。聞かれなかったことを言わなかったことはあるが。

 

「おおお……正直なところ、正面から言っても門前払いを食らって何も聞けないと思ってましたよ……!」

「俺はどこまで偏屈で狭量な人間だと思われているんだ……」

 

 彼女の評価をここまで歪めるような何かがあっただろうか、と信綱は少しだけ自分を省みる。

 ……そういえば天狗の騒乱の時、彼女の前で多くの烏天狗を斬り刻んだ覚えがあった。あれで自分への目が変わってしまったとしたら何も言えない。というよりあれ以外原因が思いつかない。

 

 天魔からはそこそこ評価されているからか、他の天狗の評価を失念していた。

 この際だから徹底的に嫌われて、自分が死んだ後の抑止力にしてしまう手も思い浮かんだが、すぐに却下する。負の感情で抑え込むと反動が予測できなくなって後が怖い。

 

「まあ良い。これを機に俺への悪感情を減らしてもらうことにしよう。良い記事にしてくれ」

「悪感情というか、人間への畏れ? まあこの話は置いておきましょう。それでは最初の質問です。あなたの強さの理由は何ですか?」

「強さに理由など求める時点で弱者だろう」

「すいません今のなかったことにお願いします!!」

 

 なんで人間のくせに特に理由らしい理由もなく強いのだこの男は。

 

「で、では……最近凝っていることはなんですか?」

「霊力の稽古だ。以前に見た博麗の巫女の結界術を見よう見まねでできないか試していてな。簡単なものなら最近ものになりそうな――」

「はい今のは私が聞かなかったことにしますねー!!」

 

 聞きたくない。この男が百鬼夜行を退けた前より強くなっているとか周知の情報にしちゃいけない。多分妖怪の中から人間恐怖症が出てくる。

 

「なにかご趣味とかありませんかね!? あ、この人にも人間らしい部分あったんだー、ってくすっと笑えるような!」

「そう言われてもな……せいぜい山釣りぐらいだぞ」

 

 しかもあれは御阿礼の子がいない時期にしか行わないことだ。御阿礼の子の側仕えをしている時は効率優先で刀を使って強引に魚を集めている。

 が、それでも良かったのか文の顔が目に見えて輝く。

 

「そうそう、そういうのでいいんですよ! あ、もっと可愛らしさを強調するためにお花を育てる趣味があるとか付け加えません?」

「いや、稗田邸の庭は全て俺が整えているぞ。あれは趣味ではないだろう」

「……あなたに関しては情報をこっちで加工した方が色々と捗る気がしてきました」

 

 少なくとも信綱の口から出た情報をそのまま広めたら誰も得しない結末になりそうだ、と文の第六感が叫んでいた。

 

「そんなものか」

「そんなものです。私どもも娯楽として作りますから、情報の正確さよりも面白さ優先になるでしょうし」

「まあ良いだろう。よほど目に余るものでない限りは大目に見る。せいぜい上手くいくことを願おう」

「あやや、それでは私はこれにて――」

 

 後は適当に何か面白そうなことを集めてまとめれば新聞としての体裁は整うだろう。

 そう考えて立ち上がろうとした文の頭に信綱の手が上から乗せられる。

 恐る恐る顔を上げると、そこでは信綱が威圧感溢れる笑みを浮かべていた。

 

「よほどのものを書いた場合は……わかるな?」

「は、はいっ! はいぃっ!! 不肖射命丸文、肝に銘じます!!」

 

 信綱への取材は頻度を減らそう、と決意する文だった。命がいくつあっても足りない。

 こうして、天狗の間では徐々に新聞という名の娯楽情報を提供する習慣が流行るようになっていくのであった――

 

 

 

 

 

「よう、弥助。商売人が板についてきたな」

「あ、信綱様! 今日はどんな用向きで?」

 

 手土産を片手に霧雨商店を訪ねると、元気の良い店主の声が飛んで来る。

 信綱より下の世代は信綱の活躍に幼少の頃から触れてきた世代でもあるためか、今でも歩く度に尊敬の視線が向けられてむずがゆい。

 弥助も若い頃は信綱の華々しい活躍に魅せられたクチで、今なお彼の信綱へ向ける視線は色濃い尊敬があった。

 

「昔みたいにおじさんと呼んでくれても構わんよ。勘助が腰をやったと聞いてな。見舞いだ」

「親父でしたら上で静養中です。信綱様が来たら喜びますよ」

「そうするか。ああ、それとほら」

 

 上に続く階段に向かう前に、信綱は手土産を入れた袋から一つを掴んで弥助に手渡す。

 すでに袋からはみ出していたものではあるが、茶色くて細長いそれを見て弥助は首を傾げる。

 

「これは?」

「山芋だ。お前もそろそろ子が欲しいだろう」

 

 直球な言葉に弥助がたじろぐ。昔だったら信綱もあまり口にするような言葉ではなかったが、自分が子供のように思っている彼なら良いだろうと思えてしまう。

 

「昔、勘助の婚姻祝にこれを渡してな。あの時は気まずかったぞ」

「……はははっ! 信綱様もそういう失敗をするんですね」

「まあ、俺なりの夫婦円満の手助けというやつだ。じゃあ後でな」

「はい! 親父が怪我をしたんで信綱様もお気をつけて!」

 

 そう言って商売に戻っていく弥助を信綱は眩しそうに見ながら、二階に登っていく。

 かつては勘助がいた場所に今は彼の息子が立っている。どうしてかそのことがとても尊く感じられたのだ。

 

「よう、勘助。見舞いに来たぞ」

 

 養生していると言われた部屋に入ると、布団で横になっている勘助とその側に座っている伽耶がいた。

 信綱は伽耶の隣に腰を下ろし、手土産の袋を伽耶に渡す。

 

「ん、おお! 悪いなあ、見舞いなんて来てもらって。大したことないのに」

「ダメよ、あなた。いつまでも若い頃の気分のままで重い物を運ぼうとするから……」

「ははは、お前ならやりそうだ」

「味方がいない!? やっぱお前みたいには行かないなあ。どうしても身体が重くなる」

「俺みたいなやつが何人もいても怖い話だろう。それが普通だ」

 

 信綱は今持って肉体の衰えを感じたことはなかった。肉体の強度も常人とは一線を画するため、普通に木を片手で引っこ抜くぐらいは朝飯前である。

 

「山で集めた薬草を使った湿布と痛み止め。後は適当に集めた山の幸だ」

「ありがとう。でも薬なんて作れたの?」

「子供の頃に仕えていた阿七様はお身体が弱くてな。その時に覚えた」

 

 あれ以来、御阿礼の子が病気になった時の薬は全て信綱が用意していた。さすがに動けない時は泣く泣くかかりつけの医者に任せていたが。

 そのことを話すと、勘助と伽耶の二人は顔を見合わせて苦笑する。何かおかしなことを言っただろうか。

 

「なんでも。ノブ君は相変わらずだなって思っただけ」

「昔っから何でもそつなくこなして、自分から興味を持ったことはあっという間に身に着けて。何回羨ましいって思ったかわからないくらいだ」

「そんなものか。俺はあまり気にしたことはなかったな」

 

 必要と判断したものを取り入れていただけであり、例え覚えが悪かったとしても信綱は何かを学ぶことをやめることはしなかっただろう。

 彼にとって物事はできるできないではなく、やるべきかそうでないかの違いでしかない。御阿礼の子のためになると判断すれば、自分の中で捨てられる全てを捨ててでも習得するだけである。

 

「それはそうと、下で弥助の顔を見てきたぞ。あいつも一丁前に商人になっているな」

「まだまだ半人前だよ。おれがあいつぐらいの歳の時は――」

「私に銭勘定を頼んでいたかしら?」

「そ、そうだったかな?」

 

 伽耶の言葉に勘助の言葉が勢いを失い、視線が彼女からそらされる。どうやら思い当たるフシがあるようだ。

 

「仲が良くて結構なことだ」

「仲が良いって言えばお前は結局独身貫いたよな……。家の問題とか大丈夫なのか?」

「何かと忙しい時期だったからな。うやむやになっていた」

「あら? 私は他の人がノブ君は博麗の巫女様と好い仲だって話すのを聞いたけど……」

「なに? 初耳だぞそれは」

 

 彼女が巫女の役目を終えたら信綱が養うことになっているためあながち間違いでもないのだが、思わず聞き返してしまう信綱だった。

 

「んあ? おれも聞いたことあるな。誰かを娶らないのはそのためだって」

「ふむ……まあ丸っきり間違いというわけでもないが」

「お、本当だったのか? お前に好きな人がいたとはなあ」

「友人ではあるが、その手の感情があるわけではない。役目が終わった後の巫女を俺が引き取るだけだ」

 

 少なくとも勘助と伽耶のように互いに愛し合うような間柄ではない。そう伝えているのだが、二人は生暖かい笑みを絶やさない。

 

「……二人ともなんだ、その顔は」

「いやいや、お前もちゃっかり相手は見つけてんだなって思っただけさ」

「うんうん。御阿礼の子以外どうでも良い! って言ってても、ノブ君も男なんだなって」

「…………」

 

 反論する気力も沸かなかった。伽耶の言葉は事実だし、巫女との間に彼らの考えるような甘ったるいものがあるわけでもない。

 が、二人の間ではそれが事実となってしまっているようだ。否定するのも面倒くさいだけである。

 

「……もうそれでいい。しかしその様子だとまだまだ元気そうだな」

「おう! 孫の顔を見るまでは絶対に死んでやらんって決めてんだ!」

「右に同じく。弥助たちもそろそろ子供ができると良いんだけど」

「子供は授かりものだ。時節が来れば大丈夫だろうさ」

 

 子供の話はあまり縁のないことでもある。弥助は息子のように思っているが、彼を育てるのはこの二人である。そしてもう一人の娘に関しては手を伸ばしても届かない。

 

「……にしても、年取ったよなあ」

「藪から棒にどうした」

「いやあ、こんな爺さんになるなんて昔は思ってたか? おれは全然考えなかった」

「俺も似たようなものだ。あまり変わったとも思っておらん」

 

 人の動かし方や妖怪相手の対話方法など色々と覚えることはあったが、それが成長につながったとは思っていなかった。変わったと思えるのは椛の願いを叶えたいと感じたことくらいである。

 

「お前はどうするんだ? もう隠居するのか?」

「阿求様が生まれるまで待つ。それで三度仕える。……死ぬまでな」

「……そっか。お前ならそう言うんだろうなって思った」

 

 この歳になっても変わらず御阿礼の子に狂い続ける信綱を勘助は眩しい物を見るように、それでいて遠くに行ってしまう何かを悔やむように目を細める。

 

「おれはそこまでは付き合えないけどさ。おれたちは最後まで友達だよな」

「……当たり前だ。俺と友人でいてくれたこと、感謝している」

 

 勘助の言葉の意味を察してしまい、信綱は目を閉じる。

 そうだ。もう別れは御阿礼の子だけに留まらない。自分の後を考えなければならないというのは、自分だけの話ではないのだ。

 椛や橙は子供の頃から変わらぬ姿を見せていたが、勘助たちは違う。

 

(多分、この二人も俺は見送る側に立つのだろうな)

 

 それと博麗の巫女も。人間の寿命という点に関しては信綱も彼らも違いなどないというのに、不思議と確信が持てた。

 恐らく勘助も察しているのだろう。信綱がこの面子で最も長く生きることを。でなければあんな言葉は出てこない。

 

「……なんかしんみりしちまったな、悪い。それより今日は家でメシ食べていかないか? お前が持ってきてくれた山の幸使ってさ」

「そうだね。ノブ君も一緒にどう? 弥助も喜ぶと思う」

「……お言葉に甘えさせてもらおうか。ありがとう」

 

 二人の申し出に信綱も小さく笑みを浮かべて快諾する。

 しかし、彼の頭の中ではこうして集まれる時間は後何度あるのか、とそんなことを考えてしまうのであった。




新聞開始。原作前には結構流行り始めることでしょう。
なお記念すべき最初の記事のインタビューはヤバ過ぎてお蔵入りになる模様。

ノッブは長く生きる予定なので、否応なしに友人たちの死も見ていかなければならないという。まあ阿礼狂いなので御阿礼の子に死なれるよりダメージは少ないですが。

こんな感じにぼちぼち原作の方に近づけていく期間になります。お付き合いいただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

次の時代の足音

 信綱はその日、紅魔館に呼ばれていた。

 普段ならそっちから来いと突き返すところなのだが、招待状を持ってきた美鈴が泣きながらすがりついてきたのと、鍛錬とたまにやってくる椛と大将棋を打つくらいしかやることがなかったという――ぶっちゃけてしまえば暇だったので了承した次第である。

 

 その返事を聞いたレミリアが小躍りをしたとかどうとか言っていたが、そこは興味がなかったので聞き流す。

 

 そうして呼ばれた信綱は美鈴と美しい庭の整え方について話したり、美鈴から紅茶の淹れ方を習ったりと、実に充実した時間を過ごすことができた。

 

「ねえ、家主は? 家主の私は!?」

「いたのか。部屋に戻って寝てていいぞ」

「早起きしたのに!?」

「今は昼だぞ」

「吸血鬼は夜行性なのよ!!」

「おじさまに会いに行くためとか言って、最近は昼型ですけどね」

 

 習性は生活習慣で直せるもののようだ。それはさておき、全く自分の方を構ってくれないレミリアが涙目で寄ってくるので、信綱はしかめっ面になりながらも相手をしてやる。

 

「全く……お前はどうしたいんだ」

「え……こんな日も高い時間にそんな大胆なことを聞いちゃうって冗談! 冗談だから帰ろうとしないで!?」

 

 と、このようなやり取りもあったが最終的には招待された客である信綱が折れて、本気で泣きそうになっていたレミリアの相手をしたのはここだけの話。

 

 そうして今は帰り道の魔法の森を歩いていたのだが――

 

「……ふむ」

 

 聞き慣れない足音が信綱の耳に届く。

 獣やそれに類する妖怪ではない。それにしては不用心に過ぎる。

 しかし人間はこんな場所には来ない。キノコを取るにしてももっと森の浅い場所で行う。

 

 信綱は大して気にも留めないが、魔法の森は年中瘴気の渦巻く危険な場所だ。

 常人が下手に奥まで踏み込むと瘴気にアテられて、意識が混濁したところを妖怪に食われてお陀仏である。

 それでもここに廃屋が残っているのは――昔の人間は森の瘴気をどうにかするアテがあったのだろう。失敗に終わってしまったようだが。

 

 さて、信綱にとっては危険な場所ではないにしても、ここは十二分に危険な場所であることは確か。

 人妖の共存が始まってもそれを良しとしない妖怪もいるし、共存なんて言葉が浮かばないほどに理性のない妖怪もいる。

 

 そんな中で信綱以外に人がいることがあるのだろうか。

 いたとしたら全く己のことを顧みない愚か者か、自殺志願者の類だろう。

 信綱は軽くため息をつく。せめて自殺なら自分に感知できない場所でやって欲しいものだ。

 気づいてしまった以上、無視を決め込むのは後味が悪い。万に一つ、自分のことすらよくわかっていない大馬鹿者なら慧音の下へ引きずって半日は説教をしてもらう必要がある。

 

 信綱は足音の聞こえた方角に足を向けて――大きな廃屋の前でそれが止まる。

 

「そこで何をしている」

「っ!?」

 

 廃屋の前に突っ立っている男性に声をかけると、大げさなほどに肩が震える。信綱の接近に気づいてなかったらしい。

 振り返ったその容貌は慧音のそれと近しいような銀髪を持つ、人間離れした雰囲気を持つ青年だった。

 眼鏡を掛けており、その風貌はお世辞にも戦う人間のようには見えない。

 

「繰り返すぞ。そこで何をしている」

「え、っと……あなたこそどうしてこんな場所に? ここは魔法の森と呼ばれる場所で瘴気が渦巻いていて……」

「そうだ。だから俺は警告に来た。……どうやら無用の心配だったようだが」

 

 この男が人間でないことは一目でわかる。人里の住民は大体把握している彼にとって、銀の髪を持つ男など見たことも聞いたこともなかった。

 男性は信綱の言葉を聞くとほんの少しだけ眉を下げる。どうやら申し訳ないとは思っているようだ。

 

「それは悪いことをしてしまった。僕はご覧の通り人間ではないから、この森の瘴気は大丈夫なんだ。だから僕のことは気にしないで良いよ」

「……そうも行かなくなった」

 

 流暢にこちらと話す男性を見て、信綱は確かめなければならない要素が増えたことにため息をつく。

 半ば楽隠居の身とはいえ、人里の守護を担う者。どこに所属しているともわからない上、人語を解する理性も持つ非人間と来たら素性を確認せざるを得ない。

 剣呑さを増していく信綱とは対照的に、男性の顔色には変化がない。頼りないとも穏やかとも評価できる静かな表情だ。

 

「人里は知っているな? 俺はそこの守護者の役目についている。お前のような存在を無視はできない」

「やあ、これは参った。僕は無縁塚の近くで居を構えているんだけどね、今日は下見に来たんだよ」

「下見?」

「うん。僕は将来店を持ちたくてね。だけど正直なところ騒がしいところは好きじゃない。人里に家を持たない偏屈者なのもそこが原因なんだ」

「……店を持ちたい理由と矛盾するだろう」

 

 店というのは客があって成り立つもの。だというのにこの男はその客が多いことを望まないという。どうやって生きていくつもりだろうか。

 

「あなたの推測通り僕は人間じゃない。食事も睡眠もあんまり必要としないんだ。だから趣味で店を持つくらいならどうにかなるというわけさ」

「……一応確認するが、人里に害意はないな?」

「ないよ。僕は荒事が苦手だ。むしろ人里には隠れた貢献をしていると自負しているよ」

「隠れた貢献?」

「無縁塚に捨てられる無縁仏の供養は僕がしている。と言っても、最低限天冠と襦袢を着せるくらいだけど」

「それでは貢献の意味にならない……いや、なるほど。その代わり身ぐるみを剥ぐわけだ」

「彼らの身なりを整えているんだから、等価交換と言って欲しいね。それらを人里から調達に来た人たちが見つけやすいように置いているんだ」

 

 だったらお前が持って来いよ、と思うが口には出さない。彼は人里に属さない存在である以上、人里の者たちが危険な目に遭わないようにする義理はない。

 

「……わかった。人里に害意がないならとやかくは言わない。お前がどうなろうとお前の責任だ、好きにしろ」

「いや、あなたの質問に答えたんだから僕からも色々と聞いていいかな?」

「…………」

「そんな渋い顔をしないでくれ。無茶苦茶なことを言うつもりはないんだ。ただ――人里へはどうやって行けば良いのかな?」

 

 妖怪と思しき青年の言葉を聞いて、信綱の足元の地面が爆ぜる。

 次の瞬間には青年の首に刃が突き付けられて、その皮に刃が食い込む手前で止められている。

 青年の顔色に変化はない。もしこれが見えていたとしたら驚嘆すべき胆力である。

 

「……変化はない、か」

「いや、心臓がバクバク言っているよ。正直、あなたが地面を蹴った瞬間も見えなかった」

「意外に驚かないな」

「あまりそういったことが表に出にくい性分でね」

 

 どちらにせよこの一撃が見えないなら脅威にはならない。人里を内部から支配しようとしている、と考えるにはこの青年は些か呑気に過ぎる。

 警戒し過ぎか、と信綱は刀を収めて軽く頭を下げる。

 

「……警戒し過ぎた非礼を詫びよう」

「僕の言い方も悪かったからおあいこにしよう。で、質問には答えてもらえるかな?」

「理由を言え」

「やれやれ、手強いな」

 

 さして困った様子も見せずに肩をすくめる青年。

 信綱は眉を潜めて彼の答えを待つ。どうにもやりづらくて仕方がない。

 

「さっき言った通り、僕は店をやりたい。道具を集めて、それらを持つべき人の手に渡してやりたいのさ」

「なぜ」

「道具が好きだから、かな。それに僕は不思議な能力があって――あなたの刀、天狗が鍛えたものだね」

「……道具の銘でも見抜く力か?」

「似たようなものとだけ言っておくよ。ああ、そんなに使い勝手の良いものでもないから安心して欲しい。あなたの危惧することは何も起こらない」

 

 脅威となる能力ではない。彼も人畜無害であると言っているし、疑いを向けるべきではないのだろう。

 だが、それと彼を信用することは別問題である。

 

「……その力を活かして道具屋をやりたいと?」

「ああ。蒐集家になるという手もあるんだけど、やはり道具は持つべき人の手にあるべきだ。となれば不本意ながら客商売は外せない。そして店をやるからにはちゃんとした修行が必要と来た」

「商人の修行でもしたいのか?」

「そうなるね。これでも体力は人並み以上にあると自負しているよ」

「人里に妖怪が入れると?」

「そこは気長にやるさ。別に今すぐ店をやりたいわけじゃなくて、いつかの目標だからね」

 

 人里の情勢には疎いらしい。今の人里は妖怪の来訪を拒絶するものではなく、いつも通り仲間であると受け入れるものになっている。

 ……無論、問題を起こさなければの話だが。問題を起こしたら自警団に協力する烏天狗と火継の人間が漏れなく捕まえにやってくる。

 

 しばし悩んだ末、信綱はこの男の言うことを聞くことにした。

 ここで断っても男性は次の機会を待てば良いと言うだけだろうし、だったら懐に飛び込んで彼という人物を見定めてみたかったのだ。

 

「わかった。ちょうど人手が欲しい店も知っているからお前を連れて行ってやる」

「本当かい? あなたは僕を丸っきり信じていないように感じていたけれど」

「信じてなどいない。が、お前の害意を疑うほどでもない。お前にやる気があるのなら、知り合いの店を紹介する」

「願ってもない申し出だ。でも良いのかい? 僕が人里で問題を起こしたらあなたの責任になりかねない」

「別に構わん。問題を起こしたらその時は俺の手で殺すだけだ」

「……物騒だね、本当に」

 

 素性もよくわからない非人間を里に受け入れようとしているのだ。かなり譲歩していると信綱は自負していた。

 

「来るなら来い。来ないなら二度と俺の前に姿を現すな」

「もちろん行くよ。ああ、あなたの名前を聞いても良いかな? 僕の夢の第一歩を押してくれた恩人だ」

「呪いが怖い。お前から名乗れ」

「風情がないなあ……。僕は……そうだな、じゃあ森近霖之助でどうだいって痛い!?」

「ふざけているのかキサマ」

 

 今考えたような偽名を名乗られて人の名を聞き出そうとは良い度胸である。

 信綱はすでに一発放った握りこぶしをさらに固く握り締め、目の笑っていない笑みを浮かべた。

 

「ははは俺をからかうのか良い度胸だ死にたいようだな死ね」

「待て待て待ってくれ!? 僕は色々な土地でそれぞれ別の名前を名乗っているんだ! だけどどの名前にも愛着を持っている! 今名乗ったのも幻想郷での本名だよ!」

「その理屈が通じるなら親の名付けが無意味になるわ戯け」

「……すまない、その理屈なら僕には名前がないんだ。親の顔を知らずに育った口でね」

「なぜ」

「生まれついての半妖なんだ。人間と妖怪の合いの子さ」

「…………」

 

 信綱は少しだけ静かになり、舌打ちとともに拳を下ろす。

 

「商人には向いてないぞ、お前」

「自覚はあるよ。でも道具が好きなんだ。仕方ない」

「……紹介した店から逃げようとかは考えるなよ」

「そこまで無礼じゃないつもりだよ。せっかくの好意を無下にはしない」

 

 胡散臭い、と信綱はしかめっ面のまま後ろの半妖――霖之助が歩いてくるのを確認して、人里へ戻り始めるのであった。

 

「ちなみにどんなお店か聞いてもいいかい?」

「人里でも大きな店だ。基本、なんでも揃う」

「お、いいね。僕は道具を好むから、知識も相応にあると自負している。求められれば一つ披露するけどどうかな?」

「骨董品ならともかく、日用品に薀蓄はいらないだろうよ」

「残念だ。じゃあそれは僕の店を持った時の楽しみにしよう」

「休憩所ぐらいには考えてやろう」

 

 この時の信綱は知らなかった。彼の語る薀蓄の八割が彼の勝手な推測と妄想による、長ったらしく難解なものであるということを。そしてそれを何度も聞かされる身になるということを。

 それを聞く度に信綱は彼に霧雨商店を紹介してしまった自分をほんの僅かに後悔するのだが――それはまた別の話である。

 

 

 

 

 

「――霊夢」

 

 紫は肘を机の上に置き、口を隠すように組みながら重苦しくつぶやいた。

 

「霊夢を見たのよ」

「……へえ」

 

 彼女のつぶやきを聞いていた巫女は生返事を返すと、隣で茶を飲んでいた信綱の耳元に口を寄せる。

 

「ねえ、まさか紫の奴とうとう……」

「言ってやるな。痴呆は往々にして自覚がない。下手に指摘すると激昂する可能性がある。ここは適当に合わせて藍に連れて帰ってもらって――」

「あなたたち失礼過ぎるわよ!?」

 

 話を聞かれていたようで、涙目になった紫が机をバンバン叩く。同時に頭上に開かれたスキマから金ダライが落ちてくるが、巫女は軽く避けて信綱はどんな手品を使ったのか指一本で落下の勢いを殺し切って放り投げる。

 特に怒る様子も見せずに信綱は紫の言葉に反応を示す。人が巫女と茶を飲んでいる中、いきなり押しかけてきた彼女に対する挨拶は終わったので本題に入るのだ。

 

「で、霊夢がどうした。その手の技能は巫女の専売特許じゃないのか」

 

 霊夢とは予知夢の別名であり、昔には平家物語の一節などに出てきた単語だ。信綱も側仕えとしての教養で覚えていた。

 博麗の巫女も予知夢や神降ろしの話については詳しいようで、彼女も理解の様子を示しながらも首を傾げる。

 

「え、私そんなもの見たことないんだけど」

「そこの術より殴った方が早いとか言い出す不良巫女はさておき、私も驚いたわ。スキマを操れるとはいえ、私自身がこの手の夢を見るとは思ってなかったもの」

「じゃあただの夢だろう」

「そんな曖昧なものじゃなかった。もっとハッキリと、それでいて現実味のある夢だったのよ」

「わかったわかった。で、どんな夢だったんだ」

「なんだかものすごくおざなりな対応をされている気がするわ……」

 

 対応自体は適当だが、紫がいうからには何かしらの意味があるのだろうとは思っていた。

 ただの話の種に夢の内容を持ち出すほど、彼女の頭がお花畑だとは考えていない。百鬼夜行異変の手前辺りから彼女が意外と適当な性格であることは知っていたが、さすがにそこまで低く見てはいなかった。

 

「新しい巫女の夢を見たのよ」

「……私の次、かしら」

「ええ。その子はきっと今までに類を見ない巫女になるわ。この変わりつつある幻想郷をもっと楽しく、もっと素敵に変えてくれる。そんな巫女に」

「絶賛だな。そんなに面白い巫女だったのか」

「まさに幻想の申し子って言っても過言ではないくらいにね」

 

 どんな少女なのかはわからないが、紫が楽しみにしていることは伺えた。

 これから先の幻想郷に求められるのは単純な強さではない。幻想郷の調停者以外の何かを求められる世界で生きることになる初めての巫女は、未来の幻想郷をどう変えてくれるのだろう。

 

「夢の中であの子はこう言ったわ。――楽しかったわ。また今度、遊びましょう、と。ねえ、これがどんなにすごいことかわかる!?」

「興奮するな鬱陶しい」

 

 高揚に頬を赤く染めた紫が迫ってくることに信綱は嫌そうな顔をしながら、巫女と一緒に彼女の身体を押し返す。

 紫を押し返した巫女は彼女の言葉を聞いて、何かを懐かしむように目を細めた。

 

「そっか。あんたが見た夢では人と妖怪が争わないで遊べる世界になっていたのね」

「ええ、そうよ、そうなのよ! あなたはそれがどんな偉業かわかるわからないわよねって痛い!!」

「誰がそこまで尽力したと思っているんだ殴るぞキサマ」

「その手の早さは筋金入りね……」

 

 何やら興奮している紫を殴って鎮め、信綱は大きなため息を吐く。せっかく神社で巫女とのんびりしていたというのに、彼女の来訪のせいで台無しである。

 さておき、信綱とて人妖の共存に力を尽くした一人。紫の語る内容の意義がわからないほどこの事業に価値を見出していないわけではない。

 

「その頃にはお前が考えているルールも施行されているのだろうな」

「でしょうね。それにもうすぐあなたの役目も終わるわ」

「……夢で見たからとかそんなこと言わないでよ?」

「あながち間違いでもないわね。私が見た予知夢ではもうすぐあの子を拾うとあった。あの子が来たらあなたの役目はおしまい。成長するまでの間ぐらいは藍と私でどうにかするわ」

 

 紫の目が優しげに細められ、博麗の巫女の肩にそっと置かれた。

 

 

 

「過酷な使命に負けることなく務め上げてくれて、本当にお疲れ様でした。あなたがいなければ今の幻想郷はきっとなかったでしょう」

 

 

 

「……どうってことなかったわよ。こいつのお陰でね」

 

 巫女はぐ、と何かを堪えるように息を呑むと隣で茶をすする信綱へ、強引に肩を組んできた。

 信綱は露骨に迷惑そうな顔をしたが、彼女の目尻に光るものが浮かんでいることに気づくと、喉元まで来ていた抗議の言葉を諦観のため息に変えた。

 

「ふふ、私は良い人間に恵まれたわ。博麗の巫女もそうだけど、あなたみたいな人が人里から出てきたのが一番嬉しい誤算ね」

「俺に言うな」

「じゃああなたがご執心の白狼天狗にでも言えば良いのかしら?」

「……ふん」

 

 椛のことを引き合いに出され、信綱は機嫌を損ねたように鼻を鳴らす。

 どうにも彼にとっての弱点はあの白狼天狗らしい。彼女に累が及ぶのは彼にとって避けたいことのようだ。

 本人にも自覚はあるのだろう。でなければあんな念入りに隠したりはしない。

 

 御阿礼の子を引き合いに出すよりよほど操りやすいと言えた。御阿礼の子を引き合いに出すと、一部では紫すら凌駕しかねない能力を全て活用して信綱は相手を殺しにかかるはずだ。

 

「ともあれ、二人ともお疲れ様。もうすぐ新しいルールも決まるし、二人はこれからの幻想郷を眺めていてもいいのよ」

「別に幻想郷に興味はない。俺は御阿礼の子に仕えるだけだ」

「ま、私はのんびりさせてもらおうかしら。アテもあるし、好きなだけ食っちゃ寝させてもらうわ」

「穀潰しに食わせるメシはないぞ」

「巫女として一生分働いたわよ!?」

「俺より働いてから言え」

「それを言ったら誰も一生休めないと思うのだけど……」

 

 阿弥のいた時代は本当に忙しかったと紫も認識している。

 それに彼は今でも忙しない、というほどではないが仕事はしていると聞いている。本当にいつになったら休むのか紫の方が知りたいくらいである。

 それにしても、と紫は前々から気になっていたことを尋ねることにした。当たり前のようにいるので気にしていなかったが――

 

「ところで、なんであなたが博麗神社にいるのかしら? あなたと博麗の巫女、接点は吸血鬼異変ぐらいよね?」

「そこから接点を持ち続けるかは当人たちの気持ち次第だろう」

「こいつ、見合い話が嫌で逃げてたのよ。逃げ場所がここだったってわけ」

「……っ!!」

 

 巫女の説明を聞いた紫の首がぐりん、と音が聞こえる勢いで信綱から背けられ、口元に手を当てて必死に身体の震えを堪えていた。

 信綱は憮然とした顔で黙りこくる。巫女の言っていることが事実なので、下手に口を開いても言い訳にしかならない。

 

「っぷ、くくく、あははははっ! まさかあなたがそんなしょうもないことで逃げていただなんて、お腹がよじれそうって本当にねじろうとするのはやめて!?」

 

 笑いを堪え切れなかったのか机をバンバン叩いて笑い始めた紫を、彼女の言葉通り腹をねじり切ってやろうと近づいたところ彼女は慌てて笑いを引っ込めた。

 

「……昔の話だ。あの時は色々とやることが多かったのでな。誰かを娶ったところで構ってやる余裕がなかった」

「あら、意外なお言葉。あなたのところは子供を産んだらお役御免みたいなものだと思っていたのだけれど」

「男児が産まれたら阿礼狂いになる。狂人を産むための母体にさせておいて、役目が済んだら放逐など鬼畜の所業だろう」

 

 自分たちは狂人の集まりではあるが、犬畜生の集まりでは断じてない。いざとなったら全てを踏みにじる者にだって、可能な限り通すべき筋ぐらいは存在する。

 愛することだけはできないが、それ以外の要望には応える。食うに困らぬ資産を与え、火継の家に住まわせて最低限の仕事だけで済むよう配慮もする。

 子供を産んだ後の人生も好きにさせている。家を出たければ出れば良いし、そうでなければ情こそないものの夫婦として生きるのも良い。

 

 と、そこで信綱は軽いため息をつく。今の考え方は信綱の考え方であって、他の阿礼狂いが同じ考えだとは限らないことを思い出したのだ。

 そもそも、人里での評価を聞く限り自分は阿礼狂いとしてかなり優しい方のようだ。他者との軋轢を作ってでも御阿礼の子に全てを捧げる者も多く、信綱にとっては片手間でしかない優しさが片手間でない者も多くいるらしい。

 

「……少なくとも俺は無碍にしたくはなかった。それ以外にも幻想郷のことや阿弥様のこともあった。結局のところ、時節の問題だったのだろう」

「ま、あんたは人里での立場とかもあったけどね」

「俺が乗り気でなかったことも含め、総じて間が悪かったとしか言い様がない」

 

 別に後悔するようなことでもない。勘助と伽耶という親友同士の夫婦を見ていたので彼らの尊さは理解しているつもりだが、同時にあの輝きが自分のような狂人に似つかわしくないことも把握している。

 真っ当な人間を自分に付き合わせることはない。付き合うとしたら、それは互いに変人同士ぐらいが良い塩梅なのだ。

 

「あら、独り身ならちょうど良いじゃない。橙の相手にぜひ――いだだだだ! 頭が割れる!?」

「なぜお前は事あるごとに橙を勧めてくる。せめて藍にしろ」

 

 どこまで自分は童女趣味だと思われれば良いのだろうか、と信綱は紫の頭をゲンコツで挟んでグリグリと動かしながらため息をつく。

 女性の好みは、と問われて即答できるほど考えているわけではないが、少なくとも橙や萃香のような童女に見える存在に欲情する性格ではない、と声を大にして言いたかった。

 

「うう、痛い……」

「言葉には気をつけろ。大体、あいつと俺が夫婦になるなどゾッとする」

 

 というより、橙が夫婦の概念を知っているかすら疑問である。例え知っていたとしても、子分と親分の関係とか何か間違えて覚えてそうで怖い。

 橙のことを嫌っているわけではないが、そういった意味での好きでもなかった。むしろあれにそういった意味での好意を持つ大人がいたらそれはそれで恐ろしい。

 

「ちょっと」

 

 紫と信綱が結婚についての話をしていたところ、二人を横目に茶を飲んでいた巫女がふと口を開いた。

 

「あら、どうしたの? あ、あなたが巫女を引退した後の話? それなら私が口利きして適当な場所を――」

「そいつ、私が貰う予定だから」

「……は?」

 

 巫女の口から出てきた言葉をまともに処理しきれず、紫はあんぐりと口を開けて呆けた表情になる。

 信綱は巫女が自分からそのようなことを言うことにやや意外そうな顔をしたが、特に何かを言うことなく肩をすくめるに留めた。

 

「老い先短い女の人生の一部をもらうだけだ。大したことではない」

「律儀に付き合ってくれる老い先短い男には感謝してるわ」

「いやいやいや!? え、なに? あなたたちそういう関係だったの?」

 

 巫女と信綱は同時に首を横に振る。信綱は阿礼狂いであるから当然として、巫女の方も狂人である彼を愛しているなどとは口が裂けても言えない。

 

 だが、それで一緒になれないかと言われれば否である。信綱は彼女を愛さないとしても、彼女の境遇に憐れみを覚えたのは事実だし、自分にできることであればしてやろうとも思った。

 その一つが彼女の引退後は自分が引き取るということだ。そのためには婚姻という過程を経る必要があって、巫女もそれを了承している。

 

 二人からしてみればそれだけの話。しかし説明を受けた紫にとっては自分の見知った人間同士の婚姻。驚かない理由の方が少なかった。

 話を聞いた紫は驚きと呆れの合いの子のような曖昧な表情になり、やがて顔に手を当てて大きなため息をついた。

 

「はぁ……もう良いですわ。当人同士で完結しているのでは、私が何を言っても蛇足にしかならないもの」

「そう膨れるな。正直、実現するとは思ってなかった口約束だ」

「あ、それは私も思うわ。途中でどっちか死ぬと思ってたし」

「物騒かつ卑屈な未来予測はやめましょう!?」

「俺たちの時代に妖怪が起こした異変を数えてみろ」

「すいませんでした!!」

 

 紫が起こしたわけでもないのに謝ってしまう。彼女も信綱の動向を見守る立場を選んだため、巻き込まれた人間の代表である二人にこのことを突かれると強くは出られなかった。

 これが政治の場なら適当にはぐらかすのだろう、と考えて信綱の口が小さな笑みを作る。彼女も立場としての気を使わない部分では、意外なほど普通の少女にしか見えなかった。

 ……無論、妖怪の賢者であることも忘れてはいけないのだが。気を抜くことと油断することは別である。

 

 紫は信綱の視線に目ざとく気づくと、自分の姿を省みたのか咳払いをして真面目な顔を取り繕った。

 

「こほん。……とにかく、二人ともお疲れ様。後のことは任せて、好きに生きなさいな。夫婦になるでもなんでもするが良いわ。あなたたちの尽力、私は一生忘れないから」

 

 別に覚えてもらいたくてやったわけではない。だが、覚えてもらえることはありがたいことである。

 

 信綱と巫女は顔を見合わせ、そして紫の言葉にまんざらでもないように肩をすくめ合うのであった。

 

 

 

 

 

 紫の語った言葉の通り霊夢と名付けられた少女が、幻想郷にやってくるまであと少し――




香霖と霊夢(まだ生まれてすらいない)のお話。香霖は不思議と動かしやすい。

そして巫女は今度こそ正式に役目を解かれました。その辺りのお話はまた今度。



私事になりますが、とりあえず書けたら投稿するスタイルですので、投稿日数が変動することもありますがご容赦ください。遅くなる時はさすがに一言いれます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夫婦としての生活

 役目を終えた博麗の巫女と、幻想郷の変革を成し遂げた人里の英雄の婚姻話は瞬く間に人里に広まった。

 

 元より好い仲ではないかという噂が二十年以上前にあったが、よもや今になってその話が現実になるとは誰も思っていなかったようで、まさに青天の霹靂であった。

 とはいえ英雄であった彼の仕事量は尋常のそれではなく、巫女もまた彼女が幻想郷の調停者で在り続ける間は婚姻が許されない立場だ。あの当時は互いが想い合っていたとしても結ばれること自体が不可能だ。

 

 彼らは隠しているわけではないが、あまりひけらかしているわけでもないため、情報がとにかく少なかった。そもそも接点はいつからあったの? というほどである。

 人里で並んで歩いている様子はたまに見かけたが、あれだって人里の守護を担っている彼が仕事上の話をしていたと言われれば終わりである。邪推するには情報が足りない。

 

 このように情報が少なく、同時に話題性にも富んだ彼らの話は錯綜に錯綜を重ね、尾ひれがついたどころではない話になっていくのであった。

 

「まったく、あそこまで捻れると一周回って面白くなるわ」

「同感だ。実は俺にはすでに妖怪の恋人がいたがお前が諦めきれずにその妖怪を手にかけたとか、笑いを堪えるのが大変だった」

 

 そして渦中の二人は今現在、華燭の典をめでたく挙げて火継の離れにて自分たちの噂話を酒の肴にしているところであった。

 いかに人里の英雄と博麗の巫女であったものという話題性に富んだ組み合わせの話とはいえ、華燭の典は神聖なもの。話題性だけで踏み込んで良い領域ではない。

 また、身内もいなかった巫女に合わせて火継の側も殆どの者が参列しないという、通常の華燭の典に比べてもなお簡素なものになった。

 

 ついでに言ってしまえば二人とも若くないどころか、老い先短い老人同士だ。いかに見た目が年齢に見合わないほど若く見えたとしても、彼らの精神的に華やかなものは無理がある。

 送ってきた人生を見れば華やかな部類に入るのかもしれないが、彼らの性格はそういったものとは無縁である。巫女は食うには困らなかったが娯楽とは縁遠く、信綱は阿礼狂いであった。

 

 信綱は特に要望がなく巫女も文句はなかったので、華燭の典を行った後そのまま巫女の新たな家になる火継の家へと戻ってきた次第である。

 

「はぁぁ……これでおしまいかあ」

「お前が相手の場合、巫女の役目は誰がやるのかと思ったら意外な人選だったな……」

 

 人里の方から有志を募るという形式にいつの間にかなっており――なんと変化した紫が巫女の役を務めていた。

 人里と付き合いの薄い博麗の巫女は気づかなかったものの、人里の住人は大体把握している信綱は察してしまい、普段以上に硬い表情だったのはここだけの話である。

 

 見慣れた巫女服でも、先ほどまで纏っていた白無垢でもなく、簡素な装束に着替えた巫女が大きく伸びをして巫女としての使命によって蓄積された疲労をほぐす。

 信綱はそんな巫女の様子を無表情に見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「使命が終わるというのはどんな気持ちだ?」

「んー……実感が湧かないっていうのが一番ね。なんか明日もまた神社で掃除する毎日が待ってそう」

「それぐらいなら良いんじゃないか? 博麗神社に金輪際関わるなと言われたわけでもないだろう」

 

 亭主関白を発揮して嫁を束縛するつもりなど毛頭なかった。

 彼女の人生は彼女のものであり、信綱が家に引き取ったのは彼女が自由に生きるための(よすが)を得るためでしかない。

 が、それを言うと巫女は何やら微妙な顔になって頭をガシガシとかく。

 

「んー……いいや、しばらくはここでのんびりする」

「それも良いだろう。俺は離れで生活しているから、好きな部屋を使え」

「は? いやいや、夫婦は同じ部屋で寝るものでしょう」

「……なぜ?」

 

 もう婚姻という形は通したのだ。あとは彼女の自由に生きれば良いと言っているのに、彼女はなぜか夫婦としての在り方にこだわりたがる。

 それが信綱には理解できなかった。彼女はもう博麗の巫女でなく、一人の人間として生きれば良いのだ。自分に付き合う必要性などどこにもない。

 信綱が首を傾げていると、本気で理解していないことを悟った巫女が立ち上がって信綱の手を引く。

 

「あ、おい」

「良いから来なさい。私だって憧れとか夢とかあるのよ」

「それは今の状況と関係しているのか?」

「してるわ、すごくね」

 

 そう言われては信綱もおとなしく引きずられるしかない。彼女の願いを叶えるための行いだ。最後まで責任を持つのが筋というものだろう。

 連れて来られたのは離れの一室。信綱が普段暮らしている部屋だ。

 女中の手ですでに寝る準備が整えられており、後は布団に入って眠るだけの用途しか備えていない場所を見て、巫女はズカズカと部屋の中に入っていく。

 

「自分でも今更だ、って思うんだけどさ。一応私の旦那になったからには聞いてほしいのよ」

「……わかった」

 

 彼女の様子から色々と察することができた信綱は、微かな自嘲のため息とともに巫女の言葉を待つ姿勢になる。

 

「巫女の役目を終えたらやってみたかったことの一つが、誰かのお嫁さんになること。普通の村娘みたいに、格好良くなくても良いから自分のことを誠実に見てくれる人と結ばれたかった。……まあ、引退する年齢とかを考えたら無茶苦茶な内容だけどね」

「…………」

 

 自分と結ばれた時点でその夢は破れているのではないか、と思ったが口には出さない。茶化して良いものと悪いものは分けているつもりだ。

 

「その夢は一応叶ったわ」

「俺が相手で、か?」

「あんたは御阿礼の子を優先するけど、ちゃんと私を見てくれる。器量も良いし、まあ及第点ね」

「…………」

 

 なんで上から物を言われねばならないのだ、と信綱は感じながらもこれまた口に出さない。この巫女なりの照れ隠しだと思えば許容できなくはない。

 何より今は彼女が珍しく私心を語っているのだ。無粋な一言で終わらせるのはもったいない。後々弄れるネタを増やすのは今後の生活においても重要である。

 

「そしてこれは言ってみたかった台詞なんだけど……」

 

 布団の上に正座をして、信綱の目から見ても綺麗な所作で三つ指をついて頭を下げる。

 

「不束者ですがよろしくお願いいたします……ってね」

 

 最後まで言い切っておけば信綱も多少は心動かされたかもしれないというのに、肝心なところで羞恥に負けたのかおどけるように舌を出す巫女に対して信綱は大きなため息をついた。

 

「……本当に物好きな女だ。そこまで夫婦に夢を抱いていたのなら、俺を選ぶ理由など尚更ないだろうに」

「ちょっと違うわね。夫婦自体に理想を持っていたわけじゃないわ。だったらさすがに尻に敷ける相手を選ぶわよ」

「それはそれで幸せの形の一つだとは思うがな」

 

 誰かに意思を委ねるのは心地良いものだ。正しさも間違いも、全て相手に委ねれば良いのだから自分は一個の機能であると位置づけることができる。

 御阿礼の子に全てを捧げていられる時間はそういった意味でも幸せだった。無論、彼女らが重荷に感じるようであれば自分たちが背負うが。

 

「私が望んでいたのは当たり前のように当たり前の時間が過ごせることよ。妖怪退治を頼まれることもなく、結界の修繕を指示されることもなく、幻想郷の調停者なんて面倒なことを考えることももちろんなく――私が私のまま、あるがままに生きたかった」

「ではさっきのあれもその一つか」

「旦那を待つ貞淑な嫁、っていうのも女の夢でしょう?」

「お前の夢だろう。全体とひとまとめにするな」

 

 言いながら、信綱はこちらを見上げる巫女に手を伸ばす。

 トン、と軽く押された巫女の身体は簡単に傾いで布団の上に倒れ込む。

 

「お前が望むなら夫婦としての役割を果たすが」

「そんな情緒のない台詞は無粋よ。あんたはどうしたいの?」

「どうでも良い――わかった、冗談だ。待て」

 

 腕の中に組み敷いた彼女の熱に浮かされた目が一瞬で底冷えしたものに変わったため、慌てて言い直す。本心を言って良い場面ではないらしい。

 

「……繰り返すが、俺はお前を愛することはない。それは俺にはわからないものだ」

「ええ、知ってるわ」

「……だが、お前に何かしてやりたいと思っているのも事実だ。お前がいてくれたことには感謝している」

「……ん」

 

 巫女の顔が直視しづらくなり、信綱も視線をそらす。この手のことに慣れていないのはお互い様である。

 いい歳にもなって何をやっているんだ、と思わなくもないが仕方がない。縁のないまま歳を重ねてしまった自分たちの責任だ。

 

 

 

「――大事にする。それが俺に言える精一杯だ」

 

 

 

「十分よ。……それと――」

 

 巫女の腕が信綱の首に回され、その耳元で何かが囁かれる。

 

「今のは?」

「名前よ、名前。もう博麗の巫女じゃないんだし、いい加減そっちで呼びなさい」

「……わかったよ。――」

 

 博麗の巫女の名前を知っている人間は、恐らく自分だけだろうな。そんなことを思いながら、信綱は彼女に求められた役割に徹することにした。

 すなわち――夫婦としてあるべき姿をとるということである。

 

 

 

 

 

 実のところ、彼女と夫婦になったといって信綱の方で何かが劇的に変わるということはなかった。

 寝起きする場所に変化もなし。一日の動きにもさほど変化はなし。一番大きく変わったことといえば彼女の名前を聞いたことくらいである。

 

 その名前にしたってもう職務をやめたからか、人里の者たちからは先代様と呼ばれることとなり、結局彼女の名前を呼ぶ者は自分ぐらいしかいなかった。

 

 巫女改め先代の方は、火継の家で生活するようになって生活が一気に変わったようで、日々その事実を噛み締めているようだった。例えば――

 

「ああ……毎日人がいるってなんて素晴らしいのかしら!」

「……何が嬉しいんだ?」

「博麗神社に住んでいた頃は大体朝から晩まで一言もしゃべらない日々ばっかりだったのよ。嫌になるわ」

「誰も来なければそうもなるか」

「術の訓練とかもずっとできるものじゃないし、やることといえばお茶を片手に空を眺めるか、境内の掃除をするか、本堂の掃除をするか。そのどれかよ」

「……まあ、同情はしよう」

 

 信綱だったら一日修行でも全く苦にならないが、彼女は戦える人間とはいえ精神は常人だ。それも難しい。

 その影響か今の彼女は信綱の話し相手をするでも、未だ強い影響を持つため人里での相談相手になるでも、あるいは火継の家での雑用をこなすことでも、何でも楽しそうにやっていた。

 つまらない顔をされるよりはマシだ、と判断して信綱も彼女の様子に口を出すことはしなかった。これが本来の彼女の姿なのだろう。

 

「あまりに暇すぎて境内の砂利を数えるとかやってた時もあったわ。あとは木目を数えたり」

「…………」

「ちょっと、ここ笑うところよ」

「笑えんわ戯け」

 

 言葉に重みがありすぎて怖い。自分でも辟易する生活を子供の頃から成熟した大人である期間を全て費やしていたとなっては、さすがの信綱も彼女に対してかける言葉が見つからなかった。

 

「それにしてもここは良いわねえ。あんた以外の連中も意外と優しいし、妖怪が来るから退屈もしないし。旦那がちょっと無愛想なのが玉に瑕だけど」

「無愛想で悪かったな。……っと」

 

 ケラケラと笑う先代に憮然とした声を返すと、ふと信綱が立ち上がる。

 視線が空の方に向いた信綱につられて先代もそちらに視線を向けるが、彼女の目には何も見えない。

 

「俺の友人の白狼天狗だ。もうすぐ来る」

「……なんでわかるの?」

「なぜわからないんだ?」

 

 質問に質問を返されてしまい、言葉に詰まってしまう。ずい分前から思っていたことだが、この男と自分では見えているものが本当に違うのではないだろうか。

 そして信綱の言葉通り、少し待っていると先代にとっては見慣れない、信綱にとっては見慣れた哨戒装束に身を包んだ白狼天狗がやってくる。

 相変わらずの人懐っこい笑みを浮かべた白狼天狗――椛は信綱の方へ寄ってきて祝いの言葉を述べていく。

 

「こんにちは。まずはご結婚おめでとうございます」

「そういうのはいらん。お互い必要に迫られてやったことだ」

「ま、喜んでもらえるのは良いでしょ。私もあんたも、別にひけらかしたくてやったわけじゃないけどね」

 

 実にサバサバとした返事をする二人に椛は微妙そうな顔になる。

 確かにこの男が結婚すると聞いた時には心臓が飛び出るほど仰天したが、蓋を開けてみれば納得できるようなできないような、とにかく表現のしづらい微妙な感情が湧いてくる。

 

 確かにこの男ならやりそうというか、御阿礼の子が絡まなければ自分の伴侶であろうと無頓着になることにうなずけてしまう。

 

「……ちなみにご結婚の話はどちらから?」

「役目が終わった後、誰かの家で過ごしたいとこいつが言っていたから俺から言い出したな」

「正直、こんな歳まで生きられるとは思ってなかったわ」

「この人たち荒んだ人生歩んでるなあ……」

 

 妖怪が跳梁跋扈する狭い世界で人妖双方の天秤を担う存在と、人間の側に立って妖怪と策謀、武力双方で戦ってきた存在だ。普通に考えれば途中で死ぬ方が自然とも言える。

 とはいえあまりにも希望を捨てすぎではないだろうか、と仄かに思う椛であった。

 

「で、今日はなんの用だ?」

「え? いえ、お祝いだけですけど……」

「暇なら稽古に付き合え」

「あ、ちょっと急用を思い出したんで帰りますね!」

 

 信綱から背を向けて逃げようとして――何かに肩を掴まれる。

 彼がまた超人的な身体能力を存分に発揮して追いついたのか、と思って振り返ると、そこには彼女の想像の外の存在が佇んでいた。

 

「まあ待ちなって白狼天狗。私はお前と人間の稽古に興味があるんだけどなあ」

 

 雄々しく立つ二本角。腰に下げる伊吹瓢。手足についた鎖。そして力強く友好的な笑みを浮かべる――伊吹萃香がどこから来たのか椛の肩を掴んでいたのだ。

 

「おい、そいつは良いがお前を家に入れることを許可した覚えはないぞ」

 

 その萃香の後ろではすでに刀を抜いた信綱が彼女の首に刃を添えていた。

 彼の後ろの先代は驚いた顔をしているため、どうやら彼は実体化する前から萃香の存在に気づいていたようだ。

 

「いいじゃんいいじゃん。この様子を見る限り、多分気づいてたんでしょ?」

「当たり前だ」

「ねえ、うちの旦那ってかなりおかしくない?」

「鬼の私を一方的に斬り刻める時点で今更だっての!」

 

 萃香は陽気にケラケラ笑いながら信綱の刀から離れ、椛の方へ歩み寄る。

 その様子に信綱は微かに握った刀に力を込め、それを見守る。椛に何かしようとしたら、反応すら許さず首を落とす気概があった。

 

「別になにもしないよ。私はどっちかって言うとお前よりそこの白狼天狗の方が好きだし」

「……名前は言いませんからね」

 

 椛は露骨に警戒した様子で萃香から距離を取る。

 彼女はしがない白狼天狗でありたいのだ。鬼の首魁から目をつけられるなど厄介事以外の何ものでもない。

 

「ああん、つれないねえ。いいじゃん、名前ぐらい」

「……用事があるのはそいつと俺だろう。俺に用件を言ったらどうだ」

「ん? いや、私を打ち倒した勇者であるそこの白狼天狗を鍛えた稽古ってのはどんなものか、興味があるだけだよ。絶対に見せたくないってんなら諦めて帰るさ」

「…………」

 

 椛から助けてください、と言わんばかりの目で見つめられてしまい、言葉に困る。

 さてどうしたものか。断ることもできるのだが、その場合満足しなかった萃香が椛を付け回すかもしれない。

 とはいえそれを言い出したらキリがない。萃香の気配を読めるのは信綱だけであり、彼も四六時中椛と一緒にいるわけにはいかないのだ。

 

「……まあ良いだろう。山でやっているような激しい内容にはしない。ここでやるぞ」

「お、そうこなくっちゃ!」

「あいつの稽古かあ……骨は拾ってあげるわ」

「誰か助けてください!?」

 

 逃げたら萃香が怖い。ここに残ったら信綱が怖い。そして先代は助けてくれそうもない。

 詰んだ、と椛は涙目になりながら渋々信綱の前に立つ。さあ、今日はどんな手管で自分の手足を切り飛ばしてくるのか――

 

「今、お前には俺がどう見える?」

「え? そりゃ普通に立っているように見えますけど……」

 

 相変わらずの袴に装束と、手足の動きが見えにくい服装のおかげで普通に佇んでいるようにしか見えなかった。

 椛の答えに信綱は鷹揚にうなずき、稽古の内容を話し始める。

 

「今回、俺はすでにお前に攻撃する方法を定めている。簡単な例を挙げるなら左足で踏み込んで右の斬撃をお前の胴に奔らせる、といったものをな。それを見抜け」

「はぁ……どうやって?」

「よく見ろ。今のお前ならできると考えている」

 

 無茶苦茶な、と悲鳴を上げそうになる椛だったが、信綱の表情に揺らぎはない。つまり彼女ならできると一片の迷いも持たずに信じているのだ。

 ……諦め癖が顔を出したが、何事もやってみなければわからない。やらなければ変わらない。痛い思いも苦しい思いもゴメンだが、彼の付けてくれた稽古が自分を鍛えてくれたのは確か。

 

「間違っていても怒らないでくださいよ……!」

「内容次第だ」

 

 にべもない信綱の言葉に唸りつつ、椛は言われた通りに信綱を見つめる。

 千里眼も用いてあらゆる方向から見て、彼の立ち姿から全てを見抜かんと凝視を続け――

 

「……右の踏み込みを引っ掛け、返す左足で地を蹴って私の後ろに回り込む。この際腕による牽制の攻撃が左から首、右から袈裟懸けを狙う。私はそれに反応してしまい、背後に回り込まれたことへの対応が遅れるまで織り込み済み。慌てて反転したところを狙って武器を持つ腕を切断、動揺したらそのまま四肢を奪う。しなければ喉を突いて身体を硬直させ、改めて無力化。……こんなところですか」

「よし、正解だ。やればできるじゃないか」

 

 自分の考えていた行動をほとんど読み切られたことに、信綱は満足そうにうなずく。

 今回は試金石として少々動きを単調にしてみたが、これならもう少し普段通りの動きでも大丈夫そうだ。

 

「……よしっ!」

 

 椛は自分の信綱を見た上での予測行動が間違っていなかったことに手応えを感じた笑みを浮かべ、拳を握った。

 普段は意識していなかったが、改めて見ると予想以上に見えてくる情報というのは多いのだと実感した。信綱はこれを平時から見ていると思うと、彼の人間離れした勘の鋭さや洞察力の深さにも納得ができるものである。

 

「なあなあ元博麗の巫女さん。あいつら気持ち悪い。いやすごいのはわかるけど」

「奇遇ね、私もそう思ったわ」

 

 なお、周りからの理解はこれっぽっちも得られなかった。

 二人が音も立てずにそっと距離を取るのを見て、信綱は心外だと言わんばかりに声を上げる。

 

「お前な。相手を観察するのは戦いの基本だろう」

「あんたと一緒にするな!? そこの気色悪い白狼天狗並には見ないわ!」

「き、気色悪いって……」

「というかあんたたちは結構長い間一緒に稽古してたんでしょ? だったら付き合いの長さでわかることとかもあるんじゃない?」

 

 ちょっと傷ついた顔をしている椛だったが、彼女を慰めることはせずに信綱は萃香の方に視線を向ける。

 

「ふむ……一理あるな。小鬼、お前もこいつに見られてみるか?」

「よし来た! 鬼が見られることにビビってられっか! どこからでもかかってこい!」

 

 二つ返事で引き受けてくれた萃香が椛の前に立つ。

 力強い笑みを浮かべ、雄々しく仁王立ちする姿は見た目以上の迫力を椛に与える。

 この威圧感だけは信綱には真似できないものだ。生まれついた頃より強者であり、また彼女自身にも強者としての誇りがなければ出せないものだ。

 

「えっと……真っ直ぐ踏み込んで右で殴る。外れたら左で殴る、それも外れたら足の鎖を振り回して動きを縛って、殴りに行く、です」

 

 そして強者であるゆえに彼女には小細工という三文字が存在しない。

 正面からいってぶち破る。避けたら当てに行く。受けたらそれごとぶっ飛ばす。実に単純明快で、実にわかりやすい強者の論理だ。

 

「おおー……天眼もかくやという見切り! いや、素晴らしい! やっぱお前さん、私のところに来ない? メッチャ可愛がるよ?」

「まだ死にたくないので遠慮します。しかしなるほど、君はこれができたから今までの相手にも勝つことができたんですね」

「お前はそうかもしれんな……」

 

 尊敬の混ざった椛の視線に信綱はため息で答える。

 椛に課している稽古の内容を、信綱はより高い精度で行うことができる。

 しかしそれで妖怪が殺せるなら苦労はない。あくまでこれは自分の命を守るための最低限の防御であり、攻撃まで保証するものではないのだ。

 

 確かに一太刀浴びせるならこれでできるだろう。人間が相手なら一撃で事足りる。だが妖怪はそうもいかない。

 椛の言っている読みを絶え間なく行うことで攻撃を読み切り、自分の安全を確保した上で自分は攻撃を浴びせ続ける。

 それをすることで信綱は今まで勝ってきた。中には信綱の予想を超えて振るった拳の風圧だけで傷を与えてくるバケモノもいたが、あれは数えないことにする。

 

「まあ良い。今の感覚は忘れるな。では次の稽古に行くぞ」

「あ、まだあるんですね……」

「当たり前だ。小鬼は下がってろ」

「へいへいっと。まあ鬼退治の英雄の家で鬼が騒ぐってのはダメか」

 

 信綱の言うことに逆らうつもりはないのか、萃香はおとなしく縁側の方に座って伊吹瓢を片手に見物の姿勢になる。

 先代の巫女は椛と信綱の稽古を気持ち悪がれば良いのか、それともすごいと思えば良いのかわからない曖昧な表情で眺めていたが――そんな彼女に信綱が手を伸ばす。

 

「お前も暇なら手伝え」

「……あんたは本当に変わってるわよね」

 

 形式上の妻である彼女のため息に信綱は首を傾げる。はて、なにかおかしなことを言っただろうか。

 

「なんでもない。旦那のワガママに付き合うのも醍醐味ってやつかしらね」

「ワガママ扱いされるのは心外なんだが」

「まあいいわ。私も身体を動かすのは嫌いじゃないし」

 

 抗議を無視された信綱が憮然とした面持ちになっていると、そんな彼の隣に先代が立って椛の方を向く。

 

「あんたはこいつと長いのよね」

「え? ええ、まあ……」

「こいつが結婚したって聞いた時、どんなことを思った?」

「物好きな人がいたなあ、って思いました」

 

 あけすけな物言いに先代も笑ってしまう。だが彼女自身も同じことを思っているので否定はできない。

 

「我ながら変わっているとは思うわ。自分でもこいつのどこが良いのかわかんないくらい」

「嫌なら去ってくれて構わんと言っているだろう」

「でも、不思議と嫌いにはなれないのよ。頭おかしいってわかってるし、その時が来たら見捨てられるってわかってるのに」

「あはは、わかります。私もそこまでわかっていても彼とは友人でありたいと思いますから」

「そ、仲良くやっていけそうでよかったわ。旦那を立てる貞淑な嫁としては旦那の付き合いも認めていかないといけないもの」

「……貞淑な嫁は旦那の言葉を無視しないと思うが」

 

 何やら先代と椛の間でわかり合えるものがあったらしい。それは良いことだが、自分がダシにされていることが納得できかねる、と信綱は不満気に腕を組んで縁側にいる萃香に話しかける。

 

「ひどい話だとは思わないか、なあ」

「好かれてるんだから良いんじゃない?」

 

 どうやら味方はいないようだ。信綱はこれ見よがしに大きなため息をついて、先代の隣に戻っていく。

 

「稽古に戻るぞ。人をダシに笑う余裕があるなら厳しくしても大丈夫そうだ」

「しまった藪蛇!?」

「ちなみにどんな稽古をする予定だったの?」

「俺とお前の二人がかりをこいつがいなす稽古」

「下っ端の白狼天狗に求めすぎでは!?」

 

 妖怪の山で見れば十把一絡げも良いところな白狼天狗が、鬼退治の英雄と博麗の巫女を同時に相手するなどどんな悪夢だ。

 椛は現実の理不尽さに涙を流したくなるが、それをしたところで信綱は手心を加えてはくれない。むしろ流せる涙があるうちは大丈夫、とか言い出して余計に稽古に力を入れそうだ。

 

 要するに、やってやるしかないのだ。椛は諦めたように自らの武器を構える。

 

「……ああもう、どうなっても知りませんからね!」

「よく言った。手加減はしないぞ」

「全力で行きますから手加減してください!!」

「かなり情けない台詞を臆面もなく言い切ったわね……」

 

 やぶれかぶれという言葉が当てはまりそうな勢いで突っ込んでくる妖怪と、それに対して手加減をしながら相手をする人間。

 なんだかチグハグな関係だが――この一時ぐらいはそれでも良いのかもしれない。きっと今だけしか目にできない光景だろうから。

 

 かつて博麗の巫女と呼ばれ、幻想郷の調停を担った彼女もまたその手に霊力を集め、相対する妖怪に振るっていくのであった。

 

 

 

 

 

「ううむ、ありゃ強くなるはずだ」

 

 当然ながら、博麗の巫女と信綱という人間最強の二人組を相手に戦えるはずもなく。

 半泣きで逃げ回る椛を眺めながら、萃香は一人酒を呷る。

 

「本人に自覚はないだろうけどね」

 

 萃香の見立てでは信綱は椛に対して、彼女自身の力がどの位置にあるかを教えていないように感じられた。

 あるいはそれすらも信綱の思惑通りなのかもしれない。身の丈に余った力は容易に所持者を食い殺す。

 

 しかし――こと白兵戦の技術において、椛はすでに目を見張るだけのものを身に着けている。

 

「一応、人間ほどじゃないけど私も動きは見えにくくしたつもりなんだけどねえ」

 

 実にあっさり見抜かれてしまったことには驚愕を覚えたものだ。

 萃香にはできない芸当だし、恐らくあの巫女にも相手の動きを口に出せと言われてあそこまでの精度は出せないだろう。

 

「……あれ、白兵戦なら結構いい線行くんじゃね?」

 

 本気の自分なら押し潰せる。天魔は技術で叩き伏せることができる。ならば他の妖怪は?

 妖力も白狼天狗相応である以上、あまりにも上位の妖怪は難しいかもしれないが――

 

「烏天狗ぐらいなら十分なんとかなるだろうな、ありゃ」

 

 一対一ではなく、相手が複数でも白兵戦の土俵ならば戦える。そんな印象を萃香は覚えるのであった。

 

 

 

 

 

 信綱が椛に稽古をつけ始めた目的は、すでに果たされていたのだ――

 

 

 

 

 

「無理! 無理ですって! もう武器ないし死んじゃう!?」

「大丈夫大丈夫なんとかなる」

「そうそう、あんた結構避けるしもうちょっとイケるって」

「誰かこの二人を止めてください!?」

 

 なお、当の白狼天狗本人はヤバい稽古相手が増えたことを泣きながら嘆いているのであった。




愛はないけど、相性は良いという不思議な関係の二人。
ノッブにとって彼女を大事にすることと愛は別の場所にあるようです。

巫女改め先代のお方は「普通」に憧れていましたが、これはこれで悪くないなと思っています。ノッブの周りは退屈だけは無縁になる仕様になっているので。

そしてなんか気持ち悪いことを始める椛とノッブ。描写は少なかったですが、椛もこれぐらいはできるという目安です。
白兵戦というカテゴリの中であれば中の上か上の下ぐらいにはなっていたり。ノッブ? ほぼトップです(真顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

山での一時

 山で釣りをしていると、大体色々な存在が寄ってくる。

 

「やっほ、盟友! 今日は何を狙ってるんだい?」

「山女魚だ。新鮮なうちなら刺し身にもできる」

 

 川面から顔を出した河童に信綱は特に驚くこともなく応対する。もういい加減一人の時間がないことには慣れてしまった。

 家では先代が大体何かしらしているし、人里では衆目が集まる。外に出ても妖怪の目が鬱陶しい。

 しかし、気心の知れた相手であればある程度は許容しようと思えるようになっていた。いつの間にか自分も変わっていたのだろう、と自身の内でつぶやく。

 

「んー……今日はこの辺に山女魚がいないよ?」

「…………」

「あ、ちょっ、やめっ! 無言で釣り針飛ばさないでよ!?」

 

 何が釣れるかわからないまま釣り針を垂らすのが醍醐味だというのに、この河童は風情というものが全くわからないらしい。

 しかめっ面で釣り竿を操って針を動かしてしばし河童と戯れた後、信綱はため息をついて再び針を垂らす。

 

「あれ、山女魚はいいの?」

「本気で狙うなら釣り竿を使わない方が早い。今はこの時間そのものを楽しんでいるんだ。これがわからないからお前は河童なんだ」

「なにその罵倒!?」

 

 水場から上がり、信綱の近くに腰を下ろした河童――にとりはゴソゴソと背負っている荷物をあさり始める。

 

「いやあ、だけど会えて良かったよ。今日はちょっと見せたいものがあってね」

「見せたいもの?」

「うん。ミミズ君百七十二号がちょうど……」

「待て、今袋から見えたおよそミミズとは思えない巨大なものはなんだ」

 

 というより、この前の三十五号からどれくらい進んだというのかが謎である。まだあれから数年程度しか経過していないはずだが。

 

「ん、これ? ミミズ君の新作。ちょっと欲しい機能詰め込んだら釣り針に刺さらない大きさになったけどまあ良いよね!」

「良くないに決まっているだろうが戯け」

 

 もはや本末転倒である。相変わらずこの河童は手段と目的がすぐに逆転してしまう。

 この調子では自分が死ぬまでぎゃふんと言わされることはないだろうな、と思いながら信綱はにとりを見る。

 

「あ、見たい?」

「遠慮しておく。それよりどんな機能を詰めた?」

「え? 腕が伸びたり飛んだり爆発したり……まあ普通の機能だよ、見る?」

「遠慮しておく」

 

 その機能は釣具に必要なのか問い詰めたいところだが、どうせ夢中になっている間に気づいたら付けていた、という答えしか返ってこないだろう。

 

 釣り竿の重みが増える感覚が指に走ったと同時、指の力を微細に操って巧みに竿を動かす。

 魚との格闘は全て釣り針を通して行われる。指先に神経を集中させて、釣り針から抜けないように体力を奪ってやらなければならない。

 

「よ、っと」

 

 信綱はもはや熟練と呼んでも過言ではない手さばきであっという間に釣り上げてしまう。

 丸々と肥え太った魚が一尾、元気よく岩の上を跳ね回っている。それを見てにとりが信綱に拍手を送ってきた。

 

「よ、名人! 相変わらず手慣れたもんだねえ」

「一応、これで日銭を稼いでいるのでな」

 

 尤も、信綱が働く必要はもうないのだが。

 しかし何もするなと言われたら暇すぎて死ぬ自信がある。働き続けた影響か、何もしていない時間が耐えられなくなってしまった。

 

「んじゃこれも店に卸すの?」

「ああ。様子見も兼ねて霧雨商店に行くつもりだ」

「様子見?」

 

 にとりの疑問に答えず肩をすくめるに留める。

 魔法の森で出会った仮名森近霖之助のことが気になっているのだ。

 今の幻想郷で人と妖怪が一緒に働いているのは珍しくあっても不思議なことではないので、噂話にもなっていないが気になるものは気になる。

 ……あまり考えたくない可能性で、あっという間にクビになったという説もあり得ると思えてしまうのがあの男の特徴だろう。正直、商売人に向いているとは今でも思っていない。

 

「俺が紹介した男が働いている。上手く行っているか、という様子見だ」

「へえ、盟友もそういうの気になるんだ」

「ただ人を右から左に動かすだけなら全く気にしないがな……」

 

 紹介した相手は友人の店なのだ。これでやつが店に大損害を与えたとあっては、信綱も引け目の一つは覚える。

 

「上手く行っていることを願うばかりだ。……さて、よくよくお前とあいつは縁があるな」

「んぁ? あいつって誰さ」

 

 信綱の言葉ににとりが怪訝そうな顔をした瞬間、茂みから勢い良く何かが飛び出してくる。

 

「お魚――ふぎゃっ!?」

 

 魚にかける嗅覚と執着はさすがの猫、とも言うべき橙が飛び出してきて――信綱にその頭を掴まれて地面に押さえつけられる。

 

「いきなり飛びかかるな。危ないだろう」

「いや、盟友の対応の方が危ないんじゃ……」

 

 しかもにとりの目から見て信綱の顔に焦りも驚愕も全くなかった。恐らく橙の接近にはもっと前から気づいていたのだろう。

 それがわかっているなら自分から声をかけるなりできるはずだが……このような対応になるのは、良く言えば彼にとってこの猫に遠慮はいらない存在と見るべきか。

 

「頑丈な妖怪だ、問題はない」

「痛いことに変わりはないって……」

「離せーっ! お魚寄越せーっ!!」

 

 この子はこの子で元気だなあ、とにとりは暴れる橙を見てしみじみ思う。

 全くへこたれた様子が見えない辺り、信綱の対応でよかったのかもしれないと思ってしまう。

 

「全く、いきなり飛び出すなと何度言えばわかるんだ。俺も人間なんだ。突き落とされれば死ぬかもしれないんだぞ」

「あんたがそのくらいで死ぬわけないでしょ? 馬鹿なの?」

「ごめん盟友、私もその猫の言葉に同意する」

「人間と妖怪を隔てる壁は未だ大きいようだ。嘆かわしい」

「もっと違う何かだと思うけど……」

 

 どちらかと言えば常識の範疇にいるか、そうでないかの違いである。にとりも橙も妖怪として見れば標準的な存在であるのに対して、信綱はその範疇からあまりにも外れている。

 とはいえそれぐらいの存在でなければ幻想郷の変革を成し得なかっただろうし、ある意味時代が求めた寵児であるのかもしれないが。

 

 馬鹿を見る目と変なものを見る目に晒され、信綱は口元を不満そうに引き結ぶ。しかし釣り竿は相変わらず巧みに操られ、またも魚が釣り上げられる。

 

「そんな顔をするのなら魚をやらんぞ」

「ああ、冗談冗談! あんたも私の子分にしては優秀よね! 褒めてあげるわ!」

「やめろ鬱陶しい」

「褒めたのに!?」

 

 だからといって童女にしか見えない彼女に頭を撫でられると無性に腹が立つ。しかも下心が見えているだけにタチが悪い。

 

「で、お前は魚に釣られて来たのか? 大きな釣果だ」

「この場所で釣りをしているなんてあんたぐらいでしょ? 友達のところに来ちゃ悪い?」

「……子分なのか友人なのかどっちなんだ」

「友達で、子分! なにかおかしいところがある?」

「…………もう良い」

 

 自信満々の笑みとともにそのように言われてしまい、信綱も抵抗する気が失せてしまった。

 大仰なため息をついて、橙の方に釣れた魚をいくらか渡す。

 

「ほら、持っていけ」

「やたっ! ねえ、何か火を熾せるものある?」

「その辺の葉でも使え」

 

 釣り竿から視線を外すことなく、信綱が片手で葉が山のように積まれている場所を指差す。

 風などで葉が積もることはあるが、それにしても少々不自然なほどの盛り上がりである。

 

「……ねえ、盟友。もしかしてあの葉っぱってさ……」

「…………」

 

 にとりの言葉に信綱は答えないが、彼がやっていたことは明白である。

 恐らく魚の匂いに釣られて橙がやってくることまで予期して、彼女が魚を焼くのに使うであろう葉を集めていたのだ。

 

「盟友もさ、その優しさをもう少しハッキリ示したら良いと思うよ」

「何のことかわからんな。たまたまだろう」

 

 にべもない返事だが、彼なりの照れ隠しだと思えば微笑ましい。老人と呼べる年齢になっても変わらないものはあるのだと、彼が少年の頃から知っているにとりも笑みが深くなる。

 あるいは優しさを見せてしまって、橙と昔のように悪態をつくことのできない関係になるのを嫌がっているのかもしれなかった。

 

「おさかなおさかなー」

「相変わらず魚のことばかりだなお前は……っと」

 

 またも一尾釣り上げる。橙が目を輝かせてそれを見るが、取り合わないで魚籠にしまう。

 

「ああ……」

「三尾やっただろう」

「え? 一人一尾じゃないの?」

「……全く」

 

 魚籠にしまった魚をもう一尾橙の方に放り投げる。

 妖怪の動体視力と言うべきか橙は投げられたそれを見事に枝に刺して受け止め、喜々として焚き火にかけていく。

 知り合った頃から何ら変わらない橙の様子に信綱の視線が和らぎ、その様子を目ざとく見つけたにとりが肩を突っついてくる。

 

「ほらほら、優しいってことを認めれば楽になるんじゃないの痛ぁっ!?」

「すまん、手が滑った」

「盟友が今さら手を滑らせるわけないだろ!?」

 

 白々しい台詞とともに竿が急に動いてにとりの頭を叩く。

 頭を押さえたにとりが非難の目で見つめてくるが、無視して釣りに戻る。

 にとりも信綱が反応を返さないことが面白くないのか、再び彼の隣で魚が釣り上げられるのを眺め始める。

 

 入れ食い、というほどでもないが食いついた魚は必ず釣り上げているため、舞うような魚の動きは見ていて飽きない。

 しばしそうしていると、後ろの方から魚の焼ける良い匂いが漂ってくる。

 その匂いを嗅いで、ふと何かを思い出したように信綱が竿をにとりに渡して立ち上がる。

 

「少し持っていろ、すぐ戻る」

「へ、あ、ちょっと?」

 

 信綱は老人とはとても思えない身軽な体捌きで、ひょいひょいと岩を降りて川岸に降りる。

 岩陰に隠れて見えなくなってしまった、と思いながらにとりが釣り竿を持っていると信綱は宣言通りすぐに戻ってくる。

 その手にはにとりがこよなく愛する緑で長いアレ――要するにきゅうりが握られていた。

 

「お、おお!? きゅうり! きゅうりじゃん! なんで!?」

「来ると思ったから用意しておいた」

 

 にとりに会えなければ帰りにでも食べれば良いのだ。損をすることはない。

 

「魚焼けたよー」

「わかった。お前も来るだろう?」

 

 当たり前のように手を差し伸べてくる信綱に、にとりはなんだか胸の詰まる気持ちになる。

 妖怪と人間の付き合いというのは破綻することが多い。価値観の違い、死生観の違い、もっとわかりやすく、変化するものとしないものの違い。

 信綱も人間の例に漏れず成長し、老いているというのに、出会った時から見た目の変わらない妖怪に対して何も言わない。

 ある意味彼が常人とは違う精神を持っているからこそ成立するものだろう。彼にとって妖怪も人間も大差はないのだ。

 

 彼のように振る舞える人間は今後増えるかもしれないし、そうではないかもしれない。

 どちらにせよこの時間は貴重なものである。そのことを胸に刻みつけて、にとりは笑うのであった。

 

「……へへっ、もちろん!」

「はい、あんたの分」

「いつも俺の分はいらんと言っているだろう」

「皆で一緒に食べた方が美味しいってこと、知らないの? 知らないわよねあんたみたいな仏頂面じゃイタタタタ!?」

「余計な一言が多いんだよお前は」

 

 最初の言葉だけなら自分も何も言わなかったというのに、と信綱は橙の耳を引っ張る。

 

「ん?」

「痛い痛い……って、どうかしたの?」

 

 ふと違和感を覚えた信綱は橙の耳を握ったまま橙の顔を見る。

 彼女もいつもと違うやり取りに不思議そうな顔で信綱の顔を見上げてくる。

 

「手触りが悪いぞ。体調でも悪いのか?」

「え? そんなことないはずだけど……昨日は自分でやったからかも」

「……ふむ」

 

 わさわさと信綱の手が橙の耳を撫で回す。普段引っ張っている時と比べると僅かに指に引っかかる感触があった。あまり触っていて良い気持ちにはならない。

 仕方がない、と信綱は内心でため息をついてその場に腰を下ろす。

 

「ちょっと座れ」

「あ、ちょ!?」

 

 橙の頭を押さえて強引に座らせる。信綱の膝の間に強制的に座らされた橙は非難の目で見てくるが、取り合わずに手櫛で彼女の耳を撫でていく。

 

「あは、あはははは!? くすぐったいからやめなさい!」

「頭を動かすな、手元が狂う」

 

 最初の方はくすぐったそうに身をよじっていた橙だが、信綱の指先はすぐにコツを掴んだようでさほど時間をかけることもなく心地良さそうな顔になる。

 

「ん、もうちょっと右」

「ここか」

「そうそう、そこそこ……あふぅ」

 

 橙は緩んだ顔のまま魚に手を伸ばし、もむもむと幸せそうに食べ始める。

 耳の毛を整えることに集中している信綱はいつも通りの無表情だが、どこか穏やかに感じられる空気をまとっていた。

 そんな二人の様子ににとりも思わず顔をほころばせてしまう。普段は悪態をつき合っているが、やはりなんだかんだ言って仲は良いのだ。

 

「ほら、こんなところでいいだろう。次からは気をつけろ」

「ん、ありがと。あんたも次からは私の耳を引っ張らないようにしなさい」

「お前が調子に乗らなければ考えてやる」

「ほんと、爺になっても口が減らないんだから」

「面倒な奴らの相手ばかりしていたからな」

 

 人里でも自分たちの家をより盛り上げたいと思う輩と腹の探り合いをし、更には信綱以上に政治に長けているであろう妖怪を相手に策謀を巡らせたこともある。

 自分はそういった時勢の見切りが苦手であると自負しているのだが、自分以上にできる者もいなかった。

 今にして思えば自分が表に出ることなく、根回しや遠回しな言葉だけで相手を操ってしまえば良かったのだと理解している。

 ……そこまで考えて、今の自分の思考が八雲紫のそれと似通っていることに気づいてしまい、顔をしかめたのはここだけの話だ。

 

「お前たちだと面倒なことを考えないで良いから楽だ。これからも脳天気なままでいてくれ」

「あんた私のことバカにしてるでしょ?」

「お前の性格は珍しいと言っているんだ」

 

 貶してはいないが、褒めてもいなかった。この辺りの言い回しは海千山千の連中とのやり取りで覚えたものである。

 

 橙は自分の分を食べた後も信綱の膝から離れようとはしなかった。

 彼女も自分がなにもしなければ信綱が耳を引っ張ってくることも、暴力を振るうこともないといい加減学んでいたようだ。

 信綱も彼女のことは気にせず自分の魚に手を伸ばして食べ始める。にとりも幸せそうにきゅうりを頬張って、食事に集中することで生まれる静寂が訪れた。

 

「……ねえ」

 

 静かに、しかし熱心に何かを食べる音が微かに聞こえる空間を破ったのは橙の声だった。

 それが自分に向けられていると察した信綱は魚を食べる手を止めて、橙の声に応える。

 

「なんだ」

「あんた……さ、今何歳?」

「六十二だ」

 

 もう阿弥が亡くなって六年になる。先代となった巫女と結ばれ、森近霖之助を名乗る怪しい半妖に出会い、相変わらず信綱の周りでは退屈とは無縁の時間が流れている。

 橙は信綱の答えが聞きたくないものだったのか、顔が一瞬だけ悲痛に歪む。

 

「……あんたも死ぬのよね」

「そうだな。そこの河童と初めて会った時のような土左衛門にはならないようにするが」

「ん、そっか。もうそんな付き合いか。人間ってのはあっという間に成長してあっという間に死んでいくねえ」

 

 にとりはすでに死別という事実を受け入れているのか、寂しげに微笑むもそれだけだった。

 

「あんたは死ぬのは怖くないの?」

「なぜ死を恐れる必要がある?」

「なぜって……」

「俺がどういう人間なのかわかっているだろう。俺の命は御阿礼の子が望めば簡単に終わらせられるものだ」

 

 死ぬことで自分という人間が永遠に消える? そんなちっぽけなことで御阿礼の子が喜ぶのなら笑って死ぬ。それを寸暇の迷いすら抱かず選べる人間が阿礼狂いだ。

 橙の目には信綱の常と変わらぬ無表情がさっきまでの暖かみのあったものと違い、どこか無機質に見えた。

 

「……私は嫌よ。子分が死ぬなんて」

「別に子分になった覚えはない。……そうか、藍が俺に言ったのはこのことか」

 

 まだ信綱が少年の頃。橙、藍と初めて知り合った時に言われたことを思い出してしまう。

 あの子をよろしく頼む。そろそろ人間を知るべきだ、という趣旨の言葉を。

 

 人間と妖怪の価値観、死生観の違いに耐え切れず人間が離れていくのを見せて成長を促すつもりだったのか。

 はたまた一緒に居続けて死ぬ姿まで見ることによって、人間と妖怪の違いを実感させるつもりだったのか。

 真相は彼女の胸の中。信綱には彼女の心中まで理解することはできないし、できたとしてもどうしようもない。人妖の寿命の差は厳然として存在し続けるのだから。

 

 信綱は橙の耳を再びゆっくりと撫でる。さざ波の立っているであろう彼女の心を落ち着かせるように。

 

 

 

「――思い出せば良い。その方法を俺は伝えたはずだ」

 

 

 

 信綱は阿七のことを忘れない。彼女から贈られた硝子細工を大切にし続ける限り、自分の中に彼女は存在し続ける。

 他の連中だって、彼女らからもらったものがある限り忘れることはない。忘れろという方が無理なほどデタラメな連中ばかりだが。

 

 良い機会か、と信綱は橙を膝の上からどかしてその手を取る。

 前振りもなく立ち上がらせたため、目を白黒させている橙の顔を見て口を開く。

 

「お、お?」

「人里に行くぞ。鈴でも首輪でもおむつでも買ってやるからそれを見て思い出せ」

「誰がおむつなんて買うか! 一言多いのはあんたも同じよ!」

「どっちもどっちだと思うけどなあ……。あ、盟友、私にも今度ね!」

「あの時の釣り竿では足りんか」

「足りないね。盟友と会った瞬間は思い出せても、過ごした時間を思い出すには足りないよ」

 

 得意げな笑みとともに言われてしまい、信綱は肩をすくめるしかなかった。

 いつか彼女の機械も自分の部屋に並ぶ時が来るのだろうか、と少しだけ考えるもののすぐに諦める。

 信綱が催促でもしなければ一生できないだろう。今度会った時に手近なものを分捕ってしまうか。

 少々物騒なことを考えながら、信綱と橙の二人は人里への道を歩いて行くのだった。

 

 

 

 

 

「よう、景気はどうだ」

 

 橙を伴って霧雨商店を訪れると、もうすっかり店長の貫禄が出てきた弥助が朗らかな笑みを浮かべて出迎えてくる。

 

「あ、信綱様! 本日は……妖怪の子と一緒ですか! どんな御用で?」

「ちょっとした雑貨を見に来た。それとこれを。そろそろ飯時だろう」

 

 魚籠に入っている新鮮な魚を見て、弥助は嬉しそうな顔になる。ここでは大半のものを取り扱っているため、夕食前のおかずを考える主婦にちょうど良いと思っているのだろう。

 

「ありがとうございます! お礼は……」

「後で取りに来させる。今日は客としてでもあるし、火継の人間としてでもある」

「んぁ? なんかあるの?」

 

 公人としての役目でもあると言った信綱に興味を持ったのか、雑貨を興味深そうに眺めていた橙が聞いてくる。

 そんな橙に信綱は見慣れない銀髪の男が近寄っていくのが見えた。

 

「妖怪の少女か。人里も本当に様変わりしたなあ。ところで君、その商品に興味があるのかい?」

「え? あ、うん……」

 

 いきなり横から出て、しかも橙から見れば結構図体の大きい男。信綱のように見慣れた相手でもない銀髪の男――霖之助に対して橙はあっという間に気圧されていた。

 

「お目が高い。それ自体は何の変哲もないものだけどね、それが道具として作られた時期には相当古いものがあるんだ。当時の人が何を考えていたかまではわからないけど、推測ならできる。僕なりの見解としては――」

 

 どうやら語りたがりなのは本当らしい。橙が全く相槌を打っていないというのに、霖之助の口から流れ出る薀蓄は留まるところを知らない。

 ある意味相手が無反応だからこそできることだ。信綱なら殴って黙らせるか完全に聞き流す自信があった。

 

 橙はチラチラと信綱の方に助けを求める視線を寄越してくる。

 仕方がないと信綱が一歩を踏み出して霖之助を止める声を出そうとした瞬間、横から信綱より早く動いた影があった。

 

「おい霖之助! お前また根も葉もない薀蓄流してんのか!」

「うわ、親父さん!? っと……あなたも?」

「俺より店長の話に耳を傾けたらどうだ。橙、こっちに来い」

「あ、うん……」

 

 霖之助が説教をされる場所に居合わせても何の面白みもないので、信綱はとっとと橙を呼び寄せて別の方を向かせる。

 

「何か適当に見繕ってこい。さっきの男は俺がこの店に紹介した男でな。一応、あれの様子を見る義理がある」

「わかった。……類は友を呼ぶって本当なのねってイタタタタ!?」

「あれと一緒にするな」

 

 珍しく信綱の声音に本気の色が混ざっていた。どうやら霖之助と同類に扱われるのは本心から嫌なようだ。

 橙の耳を適度に引っ張って解放した後、信綱は説教が続いている弥助と霖之助の方に足を向ける。

 

「弥助、ちょっとそいつを借りたい」

「信綱様、こいつになにか話でも?」

 

 霖之助に説教をしていた弥助だったが、信綱が声をかけるとすぐに笑顔になって応対してくれる。

 見上げた商売人根性だと思うが、どうせなら説教なんて人の見えないところでやって欲しいというのが本音だった。

 ……それを言ったら霖之助の教育をしっかりしろという話にもなるので、あまり強くは言えないが面倒である。

 

「ああ。そんなに時間は取らせない。説教なら後でたっぷりとやってくれ」

「助かった……わけでもないのか。でも僕に話って一体?」

 

 霖之助はこれから待つ憂鬱な未来に肩を落としながらも、信綱と話をする姿勢を見せてくれた。

 そんな彼に信綱は険しい顔で口を開く。

 

「この店に紹介したのは俺だ。お前の様子ぐらい見知っておく義務がある」

「あなたは真面目だね。でも心配はいらない。ちょっと悪癖が顔を覗かせることもあるけど、僕は全ての修行に真剣に取り組んでいるよ。誓っても良い」

 

 弥助の方を横目で見ると、同意するようにうなずいていた。

 同時にあの語りグセさえなけりゃ……とつぶやいてもいたので、彼もなんだかんだ霧雨商店には馴染んでいるようだ。

 

「店の話は?」

「最初にしたよ。そういうのを言わないのは後々での不義理につながるからね。親父さんも了承して稽古を付けてくれるし、本当に頭が上がらない」

「長く居られても困る人材だろうからなお前は……」

 

 霧雨商店を任せるには少々不安が大きすぎるというのに、霖之助は妖怪としての寿命も持っている。

 長く居着かれて霧雨商店を任せようなんて話が出たらそれこそ終わりである。弥助の判断は英断と言えた。

 

「自覚はあるよ。残ってくれと言われても残るつもりはない。人里に根付きすぎるのは性に合わないからね」

「その方が良い。お前は人間と一緒にいるよりは一人でやっていく方が向いている」

 

 人間の集落で長命種がやっていくには、それこそ慧音のような献身と人徳が必要になる。

 信綱には真似ができないことだし、目の前の男は言わずもがなである。

 霖之助も信綱の言葉に困ったように笑うしかなかった。

 

「……でも、あなたには感謝しているよ。僕は人混みが苦手なだけで人間が嫌いなわけじゃない。僕が自分の店を持つことになっても人間との関わりが途絶えることはないだろうし、その時は是非あなたにも来て欲しい」

「気が向いたらな」

「ではあなたの気が向くような商人になるまで努力するとしようか。人をその気にさせるのが上手い人だ」

 

 そんなつもりで言ったわけではない、とツッコムのは非合理的だったので黙っておくことにする。

 弥助に話が終わったから存分に説教していいぞ、と目線で伝えてから信綱は橙の方に戻る。

 

「良いのは見つかったか?」

「……これ」

 

 妙に恥ずかしそうにしている橙が差し出してきたのは涼やかな音の鳴る鈴だった。

 

「これ買って」

「わかった。お前が食い物以外を頼んでくるとは少し意外だな」

 

 橙が真面目そうにしているのがおかしく感じられてしまい、憎まれ口も兼ねたからかいの言葉を口にする。

 彼女もらしくないことをしていると思っていたのか、顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。

 

「ふん! これが終わったらまた買ってもらうんだから! この前よりもいっぱいね!」

「腹を壊しても知らんぞ」

「大丈夫よ、本当に辛かったらあんたは助けてくれるでしょ?」

「自業自得なら助けん。というか大将が子分に助けを求めるな」

 

 それはどうなんだ、と信綱が言うと橙はきょとんとした顔になる。

 

「え? 大将って何でもできなきゃ駄目なの?」

「……全てが完璧に、というのは難しくてもそう在るべきだろう」

「私は違うと思う。大将ってのは子分を守れれば良いのよ。それで子分が大将を支える。それが群れの長ってことだと思う」

「……お前は俺を守ったか?」

「だってあんた、守ってほしいなんて一度も言わなかったじゃない」

「言えるか阿呆」

 

 橙に助けを請うなど末代までの恥だ。自分に子供はいないので、火継の跡継ぎはいても信綱の血を継ぐものという意味では自分が末代なのだが。

 

「じゃあダメよ。守ってほしいって一言言えば、きっといろんなやつが助けてくれたわよ?」

「……そうか」

 

 明確に助力を請うたのは椛ぐらいだったかもしれない。それ以外は言うことを聞かざるを得ない状況にするか、レミリアのように自らの矜持に背かない存在を使うかのどれかだった。

 他者の力を借りるのではなく、利用することに長けていた。橙のような在り方もまた一つの形であると、信綱は目を細めて彼女を見る。

 

「……なによ?」

「いいや、なんでもない。ほら、大切にしろよ」

 

 正面から言ったらまた調子に乗られるだけだ。

 信綱は胸に抱いた感想を言うことなく、彼女の手に鈴を乗せる。

 橙は大事そうにそれを胸に持ち、仄かに赤らんだ顔で信綱の顔を見上げた。

 

「……大切にする」

「なら良い。行くぞ、あまりここにいても店主の説教が聞けるだけだ」

「あ、じゃあアレ食べたい!」

 

 切り替えの早いやつだ、とすでに駆け出している橙を眺めながら信綱は呆れた顔になる。さっきまでのしんみりした雰囲気はどこに行ったのやら。

 だが橙はあれで良い。あの脳天気で底抜けに明るい声がないとどこか調子が狂う。

 

「ほら、早くお金出しなさいよー!」

「……自分で払う姿勢を見せるくらいはしろ」

 

 しかし底抜けに明るくても調子に乗られると困るのが彼女でもある、と信綱はため息を一つついて彼女の方へ歩いて行くのであった。




もう出ることもないだろうし、今のうちに出してしまう裏設定。

橙に弱音を吐くと大将として頑張ろうとする。もう休んでいいから私に任せなさい! と言って頑張ってくれる。結果? 言うまでもないが可愛いに代えられるものはない(真顔)

なおノッブは基本他人に弱みは見せないため、お蔵入りになった設定。



最近椛エンドの草案ばかりが浮かんでくる。書く……いやそれをやったら本編のEndingが辛くなる……。
というかEndingは両方共浮かんでいるんだ。後はそこまでたどり着くだけなんだ(血を吐くマラソン)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

友との語らい

 その言葉は、楽隠居状態の爺同士で旧交を温めようと誘ってきた勘助の言葉だった。

 

「外に行きたいんだ」

「今まさに外にいるだろう」

 

 霧雨商店で飲んでもいいのだが、そこだと勘助は伽耶に酒量を制限されてしまうらしい。信綱は自分からはあまり飲まない上、飲んでも酔わない体質なので特に何かを言われたことはなかった。

 

 なので二人は人里の中にある適当な店に入って飲んでいた。

 もう今や共に一線を退いた二人の老人だ。信綱は今でも刀を腰に差して歩いていれば道行く人からすぐにわかってしまうが、武器を持たずに服装も簡素な着流しに変えればすぐに人混みに紛れる。

 そうして二人は焼き魚や焼き鳥を肴に酒を楽しんでいたところ、冒頭の言葉に戻る。

 

 唐突な勘助の言葉に首を傾げながらも、信綱はそのままな言葉を返す。

 

「そうじゃなくてよお。人里の外に出たいんだって」

「里の外?」

「おう。子供の頃に自警団で外の見回りするくらいだろ? おれとかはさ」

「大半の人間がそうだろう。別にお前だけという話じゃない」

 

 信綱のように頻繁に里から出る方が稀なのだ。一人で外を出歩くには、今でも残る妖怪の脅威に対抗する手段が必要になる。

 博麗の札やお守りを使うのが一般的だが、あれは使い捨て。使い捨ての道具に命を預け切って外に出ることを生業にしたがる者はなかなかいない。

 いなくなるとなるで困るのがクセモノとも言えるが、その時は火継の人間が仕事にすれば良い。命の危険くらい特に気にしない一族である。

 

「まあそうだけどな。でもお前がいるんだし、行ってみたいものは行ってみたいんだよ」

「ふむ……」

 

 あるものを使おうとする姿勢はまさしく商人のそれである。

 信綱は内心で感心しながら、彼の意見に応えられる場所を頭の中に書き出していく。

 

「……伽耶も連れて、か?」

「おう。子供の時みたいに、ってのは無理でも三人で遠出がしたい」

「となると危ない場所は無理だな。無縁塚とかあの辺りは危険過ぎる」

 

 外敵から守るだけならなんの問題もないのだが、あの場所は長時間いると精神が蝕まれる。いかに信綱の武芸が優れていても、彼らの心までは守れない。

 

「さすがにその辺は行きたくないぜ。霧の湖とか妖怪の山とか……、そんな感じの場所でいいんだよ」

「だったら妖怪の山だな。俺もあの辺りは慣れているから案内もできるし、付近の妖怪は襲ってこない」

「本当か? 意外とおとなしい妖怪もいるんだな」

「いや、襲ってこなくなるまで殴り倒した」

 

 信綱としては殺さないだけ温情だと思っている。襲ってこなければ採ってきた山菜や魚を一部渡しているので、共生はできていると言えるだろう。きっと、多分、向こうの恐怖の上に成り立っていても。

 

「……お前に驚かされるのは一生続くみたいだなこりゃ」

 

 それを聞かされた勘助はもう驚くのも通り越した苦笑いを浮かべる。

 思えば寺子屋に通っていた頃から信綱には驚かされていた。

 最初の頃はその出来の良さに。ちょっと大人になってからは彼の精神に。そして大人になってからは彼の輝かしい活躍に。今は彼の築き上げてきた伝説と呼んでも過言ではない逸話の数々に。

 どれも今となっては誇らしいものだ。自分が生涯の友人と呼ぶ目の前の男は、幻想郷の誰にもできなかったことを成し遂げたのだ。

 そのことを伝えると、信綱は心外だという顔になって首を横に振る。

 

「俺は火継の人間だ。強いのが当然の家に生まれ、なるべくして強くなった。俺はお前の方がすごいと思っている」

 

 勘助が信綱を尊敬するように、信綱もまた勘助を尊敬していた。

 阿礼狂いである自分と友人であり続けられる精神の強さ。農家に生まれ、商人など経験したこともないだろうに、見事に霧雨商店を人里でも一番の店にしてみせた手腕。そしてその中にあってなお失われなかった彼の快活な性格。

 どれも信綱にはないものであり、彼のような人間こそが最も尊ばれるべきだと心から信じていた。

 信綱がそれを伝えると今度は勘助が違うとばかりに首を振る。

 

「強くなったのはお前が誰よりも頑張ったからだろ。そりゃ確かに才能とかあったかもしれないけどさ、一番大切なのはそれだ」

「だとしても。それで磨いた力は役に立ったかもしれないが、後に残せるものではない。お前のように形に残るものの方がよほど立派だ」

 

 今後の幻想郷において信綱の磨いた力は無意味になる。ならなければならない。

 暴力と闘争が振るわれた忌まわしい時代の中を生き延びた力というのは、誰にも負けない暴力に他ならないのだから。

 互いに譲らないことがわかると、信綱と勘助は同時にため息をついて酒を呷った。これでおあいこという意味である。

 

「……これ以上はやめよう。なんか喧嘩になりそうだ」

「そうだな。で、伽耶も連れて行くとしたら妖怪の山だな。良い釣り場も知っているし、山菜採りの場所も知っている。綺麗な滝のある場所も知っているぞ」

 

 帰り道も把握しているし、はぐれても椛がいれば探すこともできる。

 食事は適当に魚なり山菜を採ってくれば良い。霧の湖で妖精に気配を尖らせながら散策するよりよほど楽しそうに思えてきた。

 

「よく知ってるなあ。よし、じゃあ今度そこに行ってみようぜ!」

「わかった。三人で行くんだな」

「……おう。三人で遊びたいんだ」

 

 三人で、ということを強調する勘助に信綱はどこか得心が行ったようにうなずく。

 

「今日は前祝いだ! 乾杯!」

「何を祝うと言うんだ……」

「孫ができたことに決まってんだろ!」

「そういう大事なことは最初に言え!?」

 

 珍しく信綱がツッコんだ瞬間だった。

 

 

 

 そして当日。信綱は待ち合わせの場所に定めた人里の門前に立っていた。

 早朝の少々肌寒く、日光に暖められていない風が吹き抜けていく中、信綱は腕を組んで立ち尽くしている。

 少々早く来すぎただろうか、と暇なので頭の中で現在手を付けている本の内容の精査を始めた。

 一読しただけの本などはさすがに難しいが自分で書いている本だ。一言一句覚えておくことくらい造作もない。

 

(奴に渡すことも含めて……まあ良しとしよう。残りは一つ)

 

 自分の回顧録、というほど立派なものではない。ただ自分が生き延びてこれた要因の一つである武術について、可能な限り詳細に書き残しただけのものである。

 無論、中には信綱以外に真似のできないものも多々ある。言っていることはわかるが実行は無理だと言うような滅茶苦茶なものも含まれている。

 

 とはいえいつかはそれができる者も出てくるかもしれない。

 自分という存在が生まれたのだ。他には生まれない理由もないだろう。

 

 故にそちらに問題はない。どのみち活用されるのは死んだ後の話なのだ。あまり信綱が気を揉んでも仕方がない。

 もう一つ、問題は別のところにある。こちらは信綱が死ぬまでには是が非でも完成させたいもの。

 実を言えば阿弥が亡くなった時から調べていたことでもある。それは――

 

「よう、悪い悪い! 待たせたな!」

 

 と、そこで信綱は思考を打ち切る。顔を上げると視界の先に勘助と伽耶が寄り添って向かってくるのが見えた。

 ふと、もう半世紀以上昔になる子供の頃の姿が幻視された。

 なかなか背が伸びないことに悩んでいた信綱と、子供の頃から体格の良かった勘助。そしてそんな勘助の影に隠れていた伽耶の姿。

 あの頃はそれが当然で、それ以外の知り合いもほとんどいなかった。あれからすぐに信綱は阿七の側仕えに就任し、椿ら天狗の手ほどきを受けるようになったから三人でいられる時間は思いの外短かったのだが。

 

「お待たせ、ごめんね。勘ちゃんがなかなか起きなくて」

「良いさ。お前もこいつと一緒になって苦労したのではないか?」

「うん」

「初耳だぞそれ!?」

 

 信綱も適当なからかいの言葉だったのに即答されて驚いていた。長年連れ添った夫婦の仲に亀裂を入れてしまったかもしれない。

 

「でも、勘ちゃんと一緒にやる苦労なら楽しいよ。どこに行っても、何をやっても楽な道なんてないんだから」

「伽耶……」

「よし、行くぞ」

「浸らせろよ少しは!?」

 

 親友同士の夫婦仲がより深まる場所を見せつけられても反応に困るだけである。

 外に繋がる門の警備をしている歳若い自警団の青年たちに一声をかけてから外に出る。

 その際、前に稽古をつけた時のことを思い出したのか顔を青くして敬礼していたのが特徴的だった。

 

「ノブ君、何かしたの?」

 

 山に続く道を先導して歩いていると、後ろから伽耶が話しかけてくる。

 顔を真っ青にしていた自警団の者たちが気になったようで、ほんの少しだけ視線に力がこもっていた。

 

「稽古以外には何も」

「こいつの稽古とか滅茶苦茶キツそうな気がするぜ……」

「失礼な。俺が本気で稽古をつけるのはできると判断したやつだけだ」

 

 他のも矢面に立たざるを得ない相手などには真剣に鍛錬を施していた。鍛錬で流した汗の分だけ実戦で流す血の量が減る。

 鍛錬で血を流すかもしれない? 身体を鍛えるのに生傷はつきものである。

 

「あいつらにつけた稽古なんて大したものではない。第一、勘助にも付けたことがあるだろう」

「いや、あの時はおれが自主的に頼んだものだし、お前も最低限だったよな?」

「当たり前だ。生兵法は怪我の元と言う。最低限の護身以外教えるものか」

 

 教えるとしたら本気で教えるし、最低限で良いなら最低限で済ませる。

 信綱が教えたからといって妖怪を相手にするには十年以上の歳月が必要だし、いざ実戦で出しゃばられても困るだけだ。

 

「それより。お前たちの方こそ良いのか? 孫ができたんじゃないのか」

「弥助のかみさんの腹にいるってわかっただけだよ。あいつも一人の親になるんだ。ここが踏ん張りどころってやつさ」

「……継がせる気なのか?」

「まあな。伽耶と弥助に苦労させたくないって一心であそこまでやったんだ。残せるものは残すさ」

「でも、まだまだ甘いって思ってるみたい。勘ちゃんだってあのくらいの歳には色々大変だったのにね」

「あ、言うなよ!? それを言ったらこいつの方が大変だったろ? なにせ幻想郷を動かしてたんだぜ?」

 

 勘助が信綱の方を指差してくるが、信綱はその言葉を否定するように首を振る。

 

「何をもって辛いと感じるかは人それぞれだ。俺は俺の苦労があったが、お前の苦労と比べることなどできないし、意味もない」

「……大人びているというか真面目というか。昔っから変わらないな」

「でもそれがノブくんの良いところだと思う。真面目だけど杓子定規ってわけでもなくて、話せば意外と理解してくれるところとか」

 

 狂人であることの隠れ蓑として使っている規律の範疇で考えているだけである、と言おうと思ったがやめておく。

 その隠れ蓑にしてももう半世紀以上の付き合いだ。馴染み過ぎて自分の一部になっていても驚きはない。

 

「あ、それは思った! 普段はむっつりした顔なのに、話すと意外とちゃんと答えるんだよ! 子供の時とか慧音先生に頭上がらなさそうだったし!」

「生徒が教師を敬うのは当然だろう」

 

 結果として今でも頭が上がらなくなってしまったのはご愛嬌だ。というか成人とみなされるようになって、あの人がいかに偉大な人か思い知らされた。

 自分の生きた年数の倍かそれ以上。それだけの間、人里に奉仕を続けて真っ当に笑っているのだ。

 人間への愛という点において、彼女ほど深い人はいないだろう。人間の生も死も一緒に見続けて、自分だけが取り残されて、でもまた笑って。

 幻想郷への愛情なら八雲紫に及ぶものはいないが、人間への愛情ならば慧音が頂点に立つだろう。何かと比較するようなものではないが、信綱はそう思っていた。

 

「さて……そろそろ道が険しくなってくる。辛くなったら言ってくれ、休憩を取る」

 

 三人の視界の先には人間の踏み均した道などどこにも見えない。細い獣道すら見えないそこは、生い茂る木々さえも人間の出入りを拒んでいるように見えた。

 その中を信綱は気負った様子もなく踏み込んでいく。不思議と信綱が足を伸ばした場所は人間が通れる程度の幅が存在し、まるで彼の歩みに合わせて山が道を作っているようにすら感じられた。

 

 手慣れた、というよりは日課をこなすように淡々と歩いて行く信綱の後ろを続きながら、勘助が声をかけてくる。

 

「お前は普段大丈夫なのか?」

「今回は平坦な道を選んでいる」

 

 信綱一人なら強引に身体能力に物を言わせて通る道もいくらか存在する。が、今回はそれを使うと大惨事にしかならないので封印していた。

 

「では行くぞ」

 

 その言葉とともに信綱の身体はどこに何があるか全てわかっているように、その身体と身にまとう服を汚れさせることなく山道を進んでいく。

 太陽の光も届かない薄暗い空間で慣れていなければ――否、慣れていても装備無しでは自殺行為にも等しいその場所を、信綱は二人の安全も確保しながら先に進む。

 

「おお……ノブがひょいひょい歩いて行く……」

「間近で見たことがなかったけど、とても同い年とは思えないね……」

「なるべく俺の歩いた場所を通って欲しい。そこは安全が確保されている」

 

 ある程度進んだら二人が来るのを待ち、そして再び信綱が安全確認も兼ねて先行する。

 勘助と伽耶の二人も老齢であるというのに息を弾ませて着いてくる。まだまだ足腰は健康なようだ。

 

「意外と体力あるな。俺もあまり他人とは比べないが」

「ノブと……一緒に……するなよ! 結構一杯一杯なんだから……さ!」

「勘ちゃんや弥助の面倒を見るなら……このぐらいの体力はないとね!」

 

 立派なものである。信綱は感心しつつ、そろそろ目的地に到着することを告げる。

 

「この先に一先ずの目的地がある。とりあえずそこで一息入れよう」

「汗一つかかないのな、お前……」

「慣れだ」

 

 半世紀以上通っていれば嫌でも慣れてしまう。それにこの場所でひたすら岩を括りつけて走り回るなどもやったものだ。

 二人が信綱の通った後を必死に歩いて行くと、不意に視界が光に満たされる。

 

「眩し――」

 

 思わず手で日陰を作って、半ば反射的にその光景を視界に収めようとする。

 次に浮かんだ感想は、言葉では言い表せないものだった。

 

「わぁ……!」

 

 彼らの感激には理由として人里からほとんど出なかったことが挙げられるだろう。

 他にも鬱蒼とした薄暗い森の中を歩き続けていたこともある。

 

 だが、そんなちっぽけな理由を吹き飛ばしてしまうくらい、彼らにとって自然が生み出す光景は胸に迫るものがあったのだ。

 

 せり出した岩がゴツゴツと並び、それらを縫うように流れていく澄んだ清水。

 ぽっかりと開けた空間故か、太陽の光が淡く降り注いで木々の緑は翡翠のように透き通っている。

 

 生まれてこの方、人里から外に出たことのない二人にとってその光景は絶景と言うに相応しいものだった。

 

 二人が感動に立ち尽くしているのを横目に信綱はその中に踏み入っていき、近くの岩場に二人を手招きする。

 

「ほら、こっちで座って見た方が良い。ここいらで少し休もう」

「あ、ああ……」

 

 二人の足取りはどこか夢見心地のようで、自分がこのような空間に来られたことをまだ受け入れ切れていないようだ。

 そんな二人の様子をおかしく思ってしまい、信綱は小さく笑う。

 

「はは、そんなに珍しいか」

「珍しいなんてもんじゃないぜ! お前はずっと前からこの景色を知ってたんだろ? 羨ましいなあ」

「うん。でもこれがノブくんの役得なのかもしれないね。外に頻繁に出る人たちはみんなこういうのを知っているのかなあ」

「さてな。あまり景色まで楽しもうという人は少ないかもしれん」

 

 景色を楽しむとは余裕があるということである。もはや勝てない妖怪の方が少ない信綱はまだしも、他の者たちにその余裕があるとは限らない。

 その点で言えば勘助と伽耶も非常に貴重な体験をしていると言えた。なにせ彼らを守っているのは、幻想郷で最も強い存在の一人。

 彼で守り切れない事態があったら、それはもう幻想郷そのものが危ない状況である。

 

 そうして三人は景色を楽しみながら散策を始める。

 信綱は普段まじまじと見ることのない景色を見るという行為を、二人の守護も行いながらやっていく。

 しかし彼にとって大事なのはどちらかと言えば勘助と伽耶の二人の方だった。

 仲睦まじく手を取り合って歩き、景色を楽しんでいる夫婦を信綱は目を細めて見守る。

 

 なんの因果か自分も彼らと同じ夫婦になってしまったが、あれは別である。大事にするという点では特別な意味があるが、彼女を勘助や伽耶と同一視はできない。

 

「メシはどうすんだ?」

「今用意する。少し待て」

 

 信綱が魚を素手であっさりと川面から採ってきたことには二人とも苦笑いをしていたが、まあ些細なことだろう。元より彼が色々と人間離れしていることを知った上で今まで友人を続けてきたのだ。

 

「おお、美味い! 釣りたて……とはちょっと違うけど、採れたてってこんなに美味いのか!」

「思えば、私たちが口にしている魚ってノブくんたちが採ってきたものなんだね。なんだか面白い」

 

 自然の中での昼食を堪能した後、三人は焚き火を囲んでこれまでのことを思い出すように話し始めた。

 

「あの時は大変でさ。皆が助けてくれなかったら店たたんでたかもしれねえ」

「そんなに不味いことがあったのなら教えてくれれば良かっただろう」

「それじゃダメだ。お前だって大変だったんだし、おれはおれで頑張らなきゃお前に胸張れないからな」

「……そうか。だが何も教えてくれないのも友達甲斐がない。どうしようもない時は教えてくれ」

「いくつになっても男の子だねえ。勘ちゃんも」

「けじめの問題なんだよ、これは」

 

 信綱が力になってやれなかった苦労話を悔いていると、なぜか勘助が少しだけ対抗するような顔になったりもした。そして話は続き――

 

「俺の時は……そうだな。一番面倒だと思ったのは人里に人妖交流の区画を用意することだったな。今ある場所を広げるにも時間がかかる。かと言ってもともとある場所を使うのは反対が激しい」

 

 殴れば言うことを聞くだけ妖怪の方が楽だとすら思えた部分だ。

 信綱も人里に属する人間のため、何かとしがらみが多い。

 

「ああ、なるほど……で、どうやったんだ?」

「入念な下準備と懇切丁寧な説得」

 

 議決が行われるような場合は予め味方を増やし、そうでない時は信綱に動かせる利益と事業そのものの将来性を説いて回った。

 あの時ほど慣れないことをした覚えはない。正直、適当に事故か何か装って葬ってしまった方が後腐れがないと思ったことさえある。

 それでも成し遂げることができたのは――信綱の名がすでに妖怪にも知れ渡るほどの名声を持ち得ていたことだろう。人里でも英雄として名高かった信綱の頼みを断ったとあれば、彼らも困るはずだ。

 ……そのことを利用して脅しに近いこともやったが、結果として利益は出たのだ。遺恨は残らないよう苦心したから大丈夫だろう。

 

「伽耶は何が大変だった?」

「弥助を育てていた時かな。もう子供が二人に増えたみたいだった」

「その子供っておれか!?」

「ははははは! 伽耶も言うようになったな」

「母親だもの。もうおばあちゃんだけど」

 

 伽耶も結婚してたくましくなったものである。かかあ天下と言うべきか、母の肝っ玉は妖怪なんぞ歯牙にもかけないのか。

 三人で一緒に何かをやったことこそ少なくても、彼らは確かにそれぞれの道に邁進していた。形は違えども苦しい戦いを乗り越えてきたことを確かめるように会話は弾んだ。

 

 やがて日の高い時間も終わり陰りが見え始めた頃、信綱は不意に焚き火を手頃な棒に移して即席の松明を作る。

 

「ん、そろそろ帰るのか?」

「いや、最後に見せたいものがある。そろそろ頃合いだ」

「頃合い?」

「ああ。ここから少しだけ歩くぞ」

「あ、この前話していた滝のこと?」

 

 伽耶の言葉に首肯だけを返し、信綱は可能な限り平坦な道を探して歩き始める。

 どこを歩いているかもわからない山の中よりは楽な道だが、それでも人の手の入らない自然の道。

 山道に歩き慣れていない二人は息を切らし、それを信綱は励ましながら登って行く。

 

「まだ……着かないのか?」

「いや、もう目の前になる。……俺のとっておきだ」

 

 信綱にしては珍しく相手が驚くのを楽しみにしているような言葉だった。

 

「うお――」

 

 そしてその言葉はすぐに現実となる。

 この場所に来た時にも言葉を失ったが、眼前に広がる光景は夢幻にすら思えてしまうほど美しかった。

 

 話に出ていた滝が大きな音と共に澄んだ水を吹き散らし、水底まで鮮明に見える鏡のような水面に小さな飛沫を立てる。

 人の手も妖怪の手も入らない。自然のみが作り出した光景に――太陽の光が加わる。

 

 半分だけ顔を覗かせる夕日が滝を照らし、雲霞のごとき滝の流れが一面夕焼け色に染まる。

 鏡の水面は黄昏時の光を存分に蓄え、全てのものをその光で橙色に染め上げている。

 目に映るもの全てが同じ輝きに染まる空間で、ただただ二人は圧倒される。

 

「ここだけは見せておきたかった。阿弥様がご存命の時にも連れて行ったものだ」

「す、げえ――」

 

 得意げな信綱の言葉にも反応が返せないほど、二人はその光景に目を奪われていた。

 信綱は彼らの感動に水を差すことなく、静かにその場に佇んで二人が正気に戻るのを待ち続ける。

 やがて日の暮れが本格的になるとともにその光景はゆっくりと輝きを失い、夜の帳に隠されようとしている辺りで信綱が改めて声をかける。

 

「……そろそろ帰ろう。俺一人ならまだしも、二人に夜の山道は危険だ」

「あ、ああ……」

 

 こくこくと今でも夢から帰っていないような動きでうなずいて、二人が信綱の後ろについてくる。

 さすがに暗くなりつつある山道でそれは危険なので、山に入る辺りで二人の額を小突いて気付けをしておく。

 

「うぁっ」

「きゃっ」

「あれを見た感動が大きいのはわかるが、そろそろ戻ってくれ。俺が二人とも抱えて帰れば良いのか?」

 

 ちなみにやってやれないことはない。人間二人ぐらい、持ちにくいということ以外は特に苦労もない。

 だがそれを聞いてようやく普段の状態に戻ったようで、勘助は首を大きく振って気合を入れる。

 

「おっとっと……悪い悪い。でもお前も人が悪いぜ? あんな隠し玉があったなんて」

「あれを初めて見た時は俺でも心動かされたからな」

 

 景色に感動したことなど皆無と言っても良い阿礼狂いが、である。それだけで自然の凄まじさがわかるというものだ。

 そうして三人は家路につき、何事もなく人里の方まで戻っていく。

 里の中へ続く門をくぐり、三人は移動の疲れをほぐすように大きな息を吐いた。

 

「妖怪に本当に会わなかったな……」

「睨むだけで帰る雑魚ばかりで助かった」

「あ、いたの?」

「言えば怖がるだろうと思って黙っていた」

 

 そう言って信綱は肩をすくめ、彼にしては珍しく稚気のある笑みを浮かべる。

 

「孫に話す土産話ができたな。俺からのお祝いとでも思ってくれ」

「おっと、それとこれとは話が別だぜ。ノブには孫の面倒も見てもらわないとな」

「うんうん。ノブくん、口では色々というけど面倒見が良いし」

「解せぬ」

 

 わかっていますよとばかりにうなずかれるのが妙に腹立たしかった。

 しかし何を言っても聞いてくれそうにない。信綱は肩を落とし、せめてもの負け惜しみを口にする。

 

「……手が空いて、弥助からも求められたらな」

「それで十分だよ。多分、おれはそこまでいられないから」

「私も。きっとノブくんより長生きはできない」

「…………」

 

 なんとなく。根拠も何もないただの勘。しかし信綱がこの面子の中で最も長く生きると思っていたように、二人もまた信綱が一番長く生きると理解していた。

 だが、それは信綱にとって親友とも呼べる存在との別れを意味しており――彼は小さく、深いため息をつく。

 

「……そうか」

「と言っても、まだまだ死ぬ予定はないけどな! 孫に爺ちゃんって呼んでもらうまで絶対死なん!」

「ふふ、じゃあ私はお婆ちゃんって呼ばれるまで頑張ろうかしら」

「そうしてくれ」

 

 まだ時間はある。けれどそれは確実に減っており、もう残りは少ない。

 御阿礼の子の死には及ばない。涙を流すことはないだろう。しかし、それで何も思わないかと言われれば違うわけであり。

 彼らの死を想像してもあまりに動かない自分の心と、それでも生まれるなんとも言い難い不快な感情。

 

「…………はぁ」

 

 信綱はそれらの感情に名前を付けることなく呼気に隠し、静かに吐き出していく。

 

 

 

 新たな時代の足音が迫るということは、古い時代の終わりということでもあり――彼らは着実に終わりへと向かっているのであった。




そろそろ霊夢出そうと思っていたのに、気づいたらノット東方キャラのみのお話になっていた。

じ、次回は確実に出すから(赤ん坊だけど)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最後の役目

 霊夢と名付けられた少女が紫の手によって連れて来られたのは、つい最近の話となる。

 それ自体に思うところはない。新しい博麗の巫女がやってきてよかったね、程度である。その少女もたくましく成長して幻想郷のために頑張ってくれるだろう。

 ……本来ならそこで終わるはずだったのだ。

 

 先代の巫女はそこから博麗神社に住み込み、紫と藍の教育を受けて博麗の巫女として成長した口だった。

 だから今回もそうなると信綱は予想していた。紫が教育を施すのだろう、と。

 

「あなたたちにお世話を頼みたいのよ」

「なぜ」

 

 だから信綱は紫がこの話を持ってきた時、本気で彼女の真意が読めなかった。

 隣りにいる一応は妻である先代も目を丸くしている。

 

「俺はお前たちが博麗の巫女を育てているのだと認識していたぞ」

「それは正しいですわ。事実、あなたまでは私たちが面倒を見ておりましたもの」

「とりあえずその口調をやめろ、鬱陶しい」

「出会い頭から辛辣ね本当に!?」

 

 そちらの方に慣れてしまっていた。ちゃんと取り繕うことも腹芸もできるのだが、どうにも彼女の本質は少女のこちらに近いように思えてしまう。

 信綱のささやかな気遣いで場の空気をほぐした後、彼は改めて茶を片手に紫に真意を問う。

 

「で、なぜだ。こいつならわからなくもない。だがなぜ俺まで巻き込む」

「あら、百鬼夜行すら退けた人間の英雄を見ておいて欲しい、というのは理由にならない?」

「もう過去の話だ」

「今でもできるんでしょう?」

「あの時より上手く解決して見せるわ戯け」

 

 今度は無傷で、二人同時だろうと倒してやる。そんな気迫が信綱の身体にはあった。

 負った怪我は痕も残らないかすり傷のみ。人間の被害は先代のみが知る火継の人間が一人。そして鬼との禍根も残らない。

 そんなおとぎ話のような結果を手繰り寄せておきながら、この男はそれすら満足には値しないようだ。

 より正確に言うのなら自身の身体に怪我を負ってしまい、阿弥に心配をさせてしまったのが一番の後悔らしいのが阿礼狂いである所以だ。

 

「それに私は新しいルールの調整に忙しいのよ。おおよそは定まってきたけど、細かい部分や安全面の配慮が大変なんだから」

「そちらはそちらで頑張ってくれ。俺は門外漢だ」

 

 弾幕、という形で霊力や魔力を放って戦う、ということまでは聞いていた。

 必要になったらその時に覚えれば良い。今は紫たちが頑張るのを静観しているのが吉である。

 

「とにかく! あなたまで積極的に関われとは言わないけど、そちらの先代の巫女には是非とも頼みたいのよ」

「私? 自分で言うのもあれだけど、私ってあんまり才能豊かな方じゃないと思うわよ?」

「案外、そちらの方が人に物を教えるのは上手いかもしれません。何より、妖怪の私が人間に教えるとなるとやはりどこかで歪みが出てしまうものでしょうし」

「なぜそこで俺を見る」

 

 妖怪に戦う術を教わったという点では先代も信綱も同じである。師匠の優秀さや本人の才覚には全く違うものがあるのだが。

 

「けど……あんたは私以外の代にも教えていたんじゃないの?」

「教えていましたわ。でもそれは彼女らがあまりにも早く逝ってしまったから。子供は嫌いじゃないけど、皆がお婆ちゃんになることもなく死ぬのは堪えるのよ?」

 

 寂しげに微笑む彼女の顔に嘘はなく、本心から先代以前の博麗の巫女の早逝には心を痛めている様子が伺えた。

 それでも幻想郷のために手心を加えない辺り、さすが幻想郷の賢者といったところである。

 

「ううん……」

「なかなかうなずかないわね……。それじゃあとっておきを言うとしますか」

 

 承諾の意思を見せず迷っている様子の先代と、紫にはまだ言いたいことがありそうだと見抜いて静観を貫いている信綱。

 その二人を前に紫は稚気たっぷりの笑みを浮かべ、そっと身を乗り出して先代の耳元に口を寄せる。

 

「――母親気分、味わってみたくない?」

「っ!!」

「……何か吹き込んだのか」

 

 丁寧にスキマまで活用して信綱には聞こえないように、その言葉は先代の耳に届いた。

 

「私なりの心遣い、というやつですわ。もちろん私の思惑もあるけれど、立派に役目を果たした先代さんには幸せになってもらいたいもの」

「……その言葉、信じていいのね?」

 

 先代の探るような、すがるような瞳に紫は微笑んでうなずく。

 決心がついた先代は火継の家主である旦那の方を見る。

 

「……ねえ」

「別に構わん。俺はお前の人生を束縛するつもりはない。もうすぐ阿求様もお産まれになるらしいから、そちらにあまり注力はできんがそこは許せ」

 

 実は最近、映姫に招集を受けている身である。吸血鬼異変が起きる直前、まだ大人になって間もなかった頃に一度訪れたきりの、三途の川まで彼女に招待されているのだ。

 

「ん、ありがと。そっかそっか、私が母親か……」

「なるほど、そういう説得か」

「あなたが頑張っても良かったのよ?」

「抜かせ。俺の血など混ざったら狂人になる」

 

 年齢的に出産など無理というのもあるし、何より信綱という阿礼狂いの血と博麗の巫女の血。混ざってどうなるかは予想がつかなかった。

 

 それでも信綱は半ば確信を抱いていた。

 もしも自分の子ができた場合、それは絶対に阿礼狂いに目覚めるだろう、と。

 

 半ば自虐に近い信綱の言葉だったが、先代は特に何かを言うことなく肩をすくめるに留める。

 基本的のこの男が自分本位になるのは御阿礼の子が関わる場合のみで、そうでない場合は意外なほど受動的なのを知っているからだ。

 故に彼の言葉の真意は狂人が生まれるとわかっていて先代に負担をかけたくない、という彼なりの気遣いに端を発しているのだと先代は友人、夫婦と形を変えながらも共にいた時間で見抜いていた。

 

「それじゃあ私が博麗神社に通う形?」

「そこは二人にお任せするわ。時節を見計らって術の方もお願い」

「ん、了解」

 

 そう言って先代が火継の家から再び神社の方に通い始めたのが先日。

 そして今は――

 

「ねえ聞いて聞いて! 霊夢ったら可愛いのよ! ちっちゃい手で私の手なんて掴んできちゃって! もうたまらないわ!」

「あーはいはい」

 

 全力で娘である霊夢を猫かわいがっている状態だった。

 親バカとはまさにこのことか、と彼女の霊夢に対するノロケを辟易した顔で聞き流す。

 

「あんたも見てみればわかるって! あの子は誰よりも可愛いわ、私が保証する!」

「御阿礼の子が世界で一番可憐に決まっているだろう、何を言っているんだ」

「…………」

「…………」

『表に出ろぉ!!』

 

 こんな形で夫婦喧嘩になるとは思わなかった、と信綱は後に語る。

 ちなみに無駄に強い夫婦の喧嘩であるため、火継の人間は言うまでもなく騒ぎを聞きつけてやって来た妖怪すらも止められず、怒りが自然鎮火するまで喧嘩が続いたことはここだけの話である。

 

 そんなこんなで信綱もこの状態の先代には近づかない方が良いと学び、避難先に霧雨商店を選んだのだが……

 

「やあ、よく来たね。この前からずっと考えていたんだけど、この道具の起源を僕なりに――」

「お、ノブか! 最近よく来るなあ。さてはうちの孫娘の可愛さにやられたな?」

 

 店に入っては霖之助の毒にも薬にもならない薀蓄を聞かされ、勘助に会っては少し前に生まれた孫自慢をされる。

 どこに行ってもこの調子で、信綱もいい加減に悟る。

 

 これに付き合うのは面倒なだけだ、と。

 

 うんざりした様子で信綱は適当な茶店に入り、茶をすする。

 自分の家では先代がうるさい。霧雨商店は孫バカと薀蓄がうるさい。

 人里の中で信綱が安息を得られる場所は限られていた。

 

 子どもたちや若い大人を始めとして、もう信綱の活躍をその目で見ていない世代も出てきてはいるのだが、逆に言えば今こそ盛りである三十代や四十代は信綱のことを知っているのだ。

 早く阿求に仕えることに専念したい、と信綱は些か現実逃避も混ざった考え事をしていると対面の席に人が座る。

 顔を上げると、そこにはニコニコと楽しそうな笑みを浮かべる慧音の姿があった。

 

「……何が楽しいんですか、先生」

「はは、そんな荒んだ目で見るな。聞かされる我が子可愛さにうんざりしている、といったところだろう?」

「……先生も経験があるので?」

「聞き役になったことはな。あいにくと話す側に回ったことはない」

 

 信綱は少々意外そうな顔をする。人里で過ごす半獣というだけあって、誰かと結ばれた話がないのは別に驚かない。妖怪と人間が大っぴらに関われるようになったのは最近の話である。

 しかし彼女ほど人間が好きな存在ならば、孤児を引き取って育てた経験ぐらいあると思っていたのだ。

 

「人間の子供は人間が育てるべきだ。それに私は寺子屋で手一杯だからな。やんちゃな悪ガキの相手だけで自分の子供まで欲しいとは言ってられないさ」

「……先生がそう言うのなら構いません。私も似たようなものです」

 

 自分のような狂人に子供は育てられない。仮に育てたとしても、阿礼狂いとしての教育を施してしまうだろう。

 そんな意図を込めた信綱の言葉だが、慧音には違うように受け取られてしまい、心配そうな目を向けられてしまう。

 

「なんだ、先代との関係は悪いのか?」

「……違います。この前喧嘩はしましたけど、そこまで仲が悪いとかはありませんよ」

 

 彼女が形だけでも夫婦としての時間を求めるのなら、御阿礼の子がいない今だけそれに応えるのも吝かではなかった。

 なので信綱は自分なりに彼女を大切にしていると自負しているし、彼女もまた信綱を通して夫婦という形の夢を叶えている。

 と、それを伝えたところ慧音は心配そうな顔から一転し、ニヤニヤと笑い始める。

 

「なんだなんだ、お前の実情は知っていたから結構心配していたのだが……案外お似合いじゃないか。この歳で婚姻とは羨ましいな、このこの」

「先生、率直に言って気持ち悪いです」

「容赦無いな!? 私はお前をそんな子に育てた覚えはないぞ!?」

「私も先生に育てられた覚えはありません」

 

 というか誰かに育てられた気がしない。血の繋がった親はいたが母親は顔も知らず、父親は自分が捨て駒として使った。

 ……こうして考えると笑ってしまうくらい親子の情とは無縁の生活を送ってきたものである。

 それでも信綱が曲がりなりにも真っ当に成長できたのは――

 

「……こうはなるまい、と思う反面教師ぐらいしか私の人生にはいませんでしたよ」

 

 事あるごとに自分をさらおうとし、あの手この手で殺しにかかったり誘惑をしてくる傍迷惑な烏天狗ぐらいしか思い浮かばなかった。

 もう一人の白狼天狗の方は友人としての付き合いだったため、あまり育てられたという感覚はない。

 

「む? それは私……じゃないよな?」

 

 反面教師という言葉で自分のことかと思った慧音が恐る恐るといった顔で信綱を伺ってくる。

 確かに誤解を受けても仕方がない、と信綱は感傷に浸っていた思考を切り上げて慧音の不安を払う。

 

「違います、安心してください。……ところで、私に何か用があるのでは?」

「む、そうだった。お前といるとつい余計な話が出てしまう。それもこれもお前が話題に事欠かないからだな、うむ」

 

 ひどい言い草である。信綱は抗議したそうな目で慧音を眺めるも、彼女は取り合ってくれない。

 

「話だが――お前の半生を歴史書に載せたい。今度私に付き合ってくれないか?」

「構いませんよ。自分が何をやったかは理解しているつもりです」

「ありがとう。お前ももう歳だ。死んでからでは正確な歴史の記述は難しいからな」

「あまり派手に書かれても肩身が狭いですけどね」

「安心しろ。歴史書なんて堅苦しく書いてなんぼだ。それに正確性こそ歴史には求められる。きっちり、しっかり、公平に、お前の偉業を書き記してやるさ」

 

 なんだか余計な逸話まで盛られそうで不安を感じてしまったのは、胸の奥にしまっておくことにする。

 

「……ただ、一つだけお願いがあります」

「うん? なんだ、なんでも言ってくれていいぞ」

「御阿礼の子の歴史が知りたいのです」

 

 信綱の言葉の意味がわからず、慧音は首を傾げる。

 御阿礼の子の歴史など、信綱ほど長く仕えた――いや、火継の人間ならば誰もが一言一句違わず暗誦できるはずだ。

 そのことを告げても信綱の表情に迷いはない。

 

「いいえ――あなたが編纂の際に隠した御阿礼の子の歴史が知りたいのです」

「……っ!」

 

 信綱の指摘に慧音は息を呑む。和やかな空気は消え失せ、鋭く細められた信綱の目に射竦められる。

 慧音は背中に冷たい汗が流れるのを感じ取る。

 

 一貫して人里の味方であった彼女は信綱からこのような視線を受けることはなかった。

 彼も慧音のことを尊敬し、阿礼狂いなりに彼女に対して敬意を払っていたことは周知の事実。

 その彼が今、慧音に対して敵を見る、とは行かなくても返答次第では武力行使もやむなしと決めている目を向けていた。

 

「……なぜ、私が歴史を隠していると思った?」

「百鬼夜行の折に人里を隠したでしょう。あの時に思い至ったのです。あなたは公平だが、同時に人里を愛している。――知るべきでない真実を隠すことだってあり得る」

 

 そもそも幻想郷の人間は情報が少なすぎる。有事の際に妖怪と戦う役目を持つ信綱でさえ地底の存在を知らず、幻想郷の情報も慧音と御阿礼の子の作成する書物が頼みの綱だ。

 ならばその情報を与えられる存在――例えば、昔から人里に住まう彼女ならば情報を管理できるのではないか。そう考えたのだ。

 

「……御阿礼の子は求聞持の力がある。例え私が隠したとしても彼女らは覚えているだろう」

「そうですね。ですがあの方にそこまでの面倒はかけられない。――俺は真実が知りたい」

 

 第一、歴史書と顔を突き合わせて史実との違いを探るなど御阿礼の子の記憶があっても気の遠くなる作業だ。

 そんなことをするつもりは信綱にもない。ただ、知りたいことは一つだけなのだ。

 

「隠していることを全て曝け出せなんて言うつもりはない。知らないなら知らないで構わない――あの方の短命の理由が知りたい」

「――」

 

 慧音は全てが腑に落ちた心持ちで信綱の目を見る。

 険しく細められ、虚偽は許さないと輝くその瞳の奥に、慧音は確かに懇願の色を読み取ってしまう。

 何の事はない。彼は昔も今も変わらず、御阿礼の子のために動いているだけなのだと理解すると同時、彼女の口は彼の期待を裏切る言葉が出る。

 

「……すまない、知らないんだ。私がここに来た時、すでに御阿礼の子は短命だった」

「……そう、ですか。お手数おかけして申し訳ありませんでした」

 

 この場は私が、と言って信綱は言葉少なに立ち去ろうとする。その背中に慧音は彼の真意を問うべく口を開く。

 

「待て! お前はどうしてそんなことを知りたがる!」

「……言うまでもないでしょう。私はいついかなる時でも、あの方のことだけを考えて生きています」

「ではなぜ今になって真実など……」

「私もあの方が選んだことであれば何かを言うつもりはありませんでした。――ですが、選択肢がないのとあるのは全く違う」

 

 あの日、阿弥と永別をした時に決めたことがある。そしてそれを自身の最後の役目だと己に課した。

 信綱は常と変わらぬ強い意志を感じさせる瞳で慧音を見据え、その言葉を口にする。

 

 

 

「――あの方の短命の軛を断つ。それが最後に成すべきことだ」

 

 

 

 子が父より先に逝くなんて、あってはならないのだ。

 

 

 

 

 

 慧音と別れた信綱は三途の川を訪れていた。

 映姫に呼び出されたことと、信綱も彼女に対して御阿礼の子の真実を聞くことと、目的が一致していた。

 

 妖怪の山を通り抜け、中有の道を通って川岸に到着した信綱は霞がかって向こうが見えない川面を見据える。

 そんな信綱の前に現れたのは、いつか見た二房の髪を結んでいる赤毛の死神だ。

 

「ほいほい、お兄さん死人……じゃないな。どうやってこんな場所に来たんだい?」

「閻魔に呼ばれてきた。久しいな、死神」

「んー? お兄さんみたいな人間と知り合いになった覚えはないけど……」

「御阿礼の子に関する話だ」

 

 その言葉を出した瞬間、赤毛の死神――小野塚小町は頬を引きつらせて信綱を見る。

 

「お兄さん、まさか……スキマと一緒に彼岸に来た小僧かい?」

「そのまさかだ。あの時は世話になったな」

「うわ、見違えたね。人間だから見た目が変わるのもそうだけど魂の強度が桁外れだ。お兄さん、どんだけ修羅場くぐってきたのさ?」

「魂の強度とやらの基準はわからんが、百鬼夜行に巻き込まれた程度だ」

「普通死ぬわ!? っと、映姫様に呼ばれてんだったね。案内するよ」

「…………」

 

 小町が差し出してきた手を信綱はすぐに掴まなかった。

 むしろ何か躊躇するように彼女を警戒している。

 

「どうしたのさ?」

「……そちらに渡ったら戻って来られないとかないだろうな」

「あはははは! 安心しなよ、映姫様が責任持って帰してくれるって! 呼びつけておいて向かったら帰れないなんて理不尽、あの方が許すもんか!」

 

 その他にもこの死神が胡散臭いという理由もあるのだが、そちらは黙っておく。

 ともあれ信綱が小町の手を掴むと、その瞬間視界が切り替わる。

 川面の風景は信綱の後ろに存在しており、視界の先には彼岸花の咲き乱れる景色が広がっていた。

 

「死人は船で運ぶんだけどね。今回は急がせてもらったよ」

「助かる。お前も変わらずサボっているのか?」

「休憩だって。あの一休みが効率を良くするのさ」

 

 本当に変わらない。信綱は肩をすくめるだけに留めて、本来の目的を果たすべく歩き出そうとする。

 

「ああ、待ってよ。ちょうどいい暇つぶし――もとい、道案内も兼ねてあたいも一緒に、」

「その必要はありませんよ、小町」

「ぅげっ!?」

 

 すでに信綱の前に佇んでいた少女――四季映姫が悔悟棒で口元を隠し、しかし冷たい目で小町を睨んでいた。

 

「彼を迅速に連れてきたことはほめて差し上げます。よくやってくれました」

「あ、あはははは……お褒めに与り光栄です……」

「ですが、その後は通常の業務に戻るように命じたはずです。彼の道案内までやれとは言っておりません」

「うぅぅ……」

「良いですか? そもそもあなたは――」

 

 淡々と続く映姫の説教に小町がすがるような視線を投げかけてくる。

 その目は助けてくれと雄弁に語っており、半ば涙目にすらなっていた。

 仕方ない、と信綱は軽くため息をついて口を挟むことにする。

 

「……俺を呼んだのはこの説教を見せるためか?」

「む、失礼しました。あなたがいるのに小町へのお説教を優先するわけにはいきませんね」

「あ、じゃああたいはこれで――」

「ああ。そいつへの説教など後でいくらでもできる」

「っ!?」

 

 今にも逃げようとしていた小町から騙したのか!? と言わんばかりの視線が来るが、信綱は取り合わない。

 そもそも普通に仕事をしていれば受ける謂れのない説教なのだ。信綱が助けたところで説教が後になるか先になるか程度である。

 これが事故なら助け舟も考えるが、自業自得なのだ。助ける義理などこれっぽっちも感じなかった。

 そんな思いから口を開いた信綱を映姫は感情の読めない瞳で見つめる。

 

「……ふむ、優しさと甘さの区別をつけているのですね。善いことです」

 

 どうでも良い相手にはどうでも良い対応しかしないだけである。信綱は映姫の評価に肩をすくめる。

 

「過大評価だ。それより話があるのならそいつをどこかへやってくれ」

「言われずとも逃げるよっ! この裏切り者ーっ!」

 

 助けるという約束すら交わしていないのに裏切り者呼ばわりされてしまった。

 彼女がいなくなった方向を少しの間眺めていたが、すぐに気を取り直す。彼女が怒られようと怒られまいとどちらでも良かった。信綱に影響はない。

 

 改めて信綱は映姫に向き直り、彼女の言を待つ。

 そんな彼に映姫は小町に向けていたものとは別種の、柔らかな眼差しを向ける。

 

「さて、まずはご足労頂き感謝します。幻想郷に新たなルールが策定されるとの話、聞いておりますよ」

「別に構わん。俺もあなたに聞きたいことがある」

「ふむ? まあまずは私の用件を済ませてしまいましょうか」

 

 閻魔に質問とは珍しい、と映姫は首を傾げる。

 彼女は信綱に対して比較的好意的だが、それは彼が普段は自らの狂気を律して善行を行っているからこそ。死者を裁く閻魔と生者の線引は行われている。

 元来、生者の質問に死者が答えることは許されない。彼の質問も、内容次第では映姫も口を閉ざすだろう。

 信綱はそれを知っているのか、読めない無表情のまま映姫の言葉にうなずいた。

 

「ああ、呼び出した側の用事を先に済ませるのが筋だろう」

「では――御阿礼の子が間もなく転生することはご存知ですね?」

「愚問だな」

 

 すでに紫から聞かされている。信綱はひび割れるようにシワの増えつつある己の手を拳に変え、少年の頃と何も変わらない狂気と理性の同居した瞳で映姫を見た。

 

「俺の成すべきことは定まっている。俺が生まれるより前からずっとな。そんなことを聞くために呼び出したのか?」

「今のは万が一――いえ、億が一の確認程度です。ここからが本題になります」

「早く話せ」

「やれやれ。私自身にあの子を泣かせてしまった負い目があるとはいえ、その言葉遣いは感心しませんよ」

「うるさい」

 

 彼女も誰かが言わなければならない役目を果たしたのだろう。それは信綱にもわかっている。

 しかし、阿弥の傷ついた蒼白な面立ちを思い出すと、どうしても彼女に対して好意的になれない自分がいた。

 

 やはり自分はどこまでも御阿礼の子に狂った存在なのだろう。

 道理に適っていようと、それが誰かが背負うべき貧乏くじであったとわかっていても、御阿礼の子が辛い思いをした。それだけで信綱の胸中には言い知れぬ怒りが浮かんでくるのだ。

 自分でも制御できない怒りと苛立ちを極力表に出さないようにしていると、映姫は軽くため息をついた。

 

「失敬、本題に入りましょう。――あなたは最期の御阿礼の子にどう接するつもりですか?」

「今までと何も変わらん。全霊を尽くし、全てを捧げる。それだけだ」

「……私も彼女らには思い入れがあります。願わくば幸福を手に入れて欲しいと。だからこそ問わねばならない」

 

 

 

 ――あなたは自らの死をどうするおつもりですか?

 

 

 

「…………」

「何も考えていない、なんてはずがない。私はあなたを高く評価している」

「……俺に側仕えを辞せ、と?」

「あなたの死を見せないという点において、それもまた一つの選択肢だと思っております」

 

 映姫の言葉に信綱も内心で同意する。

 彼自身も考えたことはあるのだ。阿求と共にいられる時間は間違いなく自分の方が先に尽きる。

 自惚れでなければその時、阿求は悲しむだろう。泣くだろう。信綱が感じる痛みの一部を感じてしまうだろう。

 彼女に看取って欲しいと思うのは信綱のワガママであり、それが彼女を悲しませることに繋がるのなら信綱はその願いを諦められる。

 だが――

 

「……それは必要なことだ」

「誰にとって?」

「御阿礼の子にとって。――俺が死を見せることで彼女たちは俺の呪縛から放たれる」

 

 物騒な言葉に映姫は眉をひそめる。呪いという点なら、御阿礼の子らが彼に課した生きろという願いの方がずっと重いのではないか。

 

「あなたの、呪縛?」

「……俺は阿七様、阿弥様、そして阿求様の三代に仕える。あの方たちは求聞持の力で俺のことを覚え続けるだろう。なら、区切りは絶対に必要になる」

 

 仮に信綱が姿を隠したら、彼女らの頭には一つの可能性が浮かぶだろう。

 

 ――もしかしたら彼はどこかで生きているのではないか、と。

 

 幻想郷には人間以外の存在が多く住まう。彼らの中には人間から化外に変わる手段を知っている者もいるかもしれない。いや、確実にいるはずだ。

 それらの可能性に頼るつもりは毛頭ないが、死ぬ姿を見せずに隠れたらその可能性が頭をもたげるだろう。

 

 そうなったが最後、御阿礼の子は終わらない妄執にとらわれてしまう。

 いるはずのない自分の存在を求めてしまうなど、あってはならぬこと。自分などに縛られて良い人ではないのだ。

 

「俺の死を以って俺という存在を終わらせる。歪んだ希望は時に何よりも醜悪になってしまう。……あの方がそのようなものに囚われてはいけない」

「……あなたの決意、確かに聞き届けました。……本当に苦労をかけさせてしまいますね、あなたには」

 

 まるで御阿礼の子の親のような台詞であるが、彼女にはそれだけの思い入れがあるのだろう。信綱は気分を害した様子もなく首を横に振る。

 

「それが役目で、やりたいことだ。お前が聞きたいことはそれだけか?」

「ええ。どちらにとっても悲しい結末になるような考えを持っていたのなら、あなたを説得することも考えていましたが――愚問でしたね。あなたを信じられなかった己が恥ずかしい」

 

 根底に狂気があるこの男を信じ切ることができなかった自らの不明だ、と映姫は申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「いや。あなたが御阿礼の子のことを考えての言葉であることはわかっている。どうか頭を上げて欲しい。俺はあなたに謝罪をさせるために来たわけじゃない」

 

 そう言って信綱は映姫の謝罪を受け取らない。彼がここに来た目的はそれとは別の場所にあるのだ。

 呼び出した映姫は彼にも用事があるということを思い出し、不思議そうな顔で問うてくる。

 

「ああ、そんなことを言っておりましたね。伺いましょう。但し、(閻魔)あなた(生者)は本来相容れない存在であることをお忘れなきよう」

「それはあなたの判断次第だ」

 

 信綱はゆっくりと彼女から後ずさり――踏み込みの距離を測るように――離れてから、その言葉を口にする。

 

 

 

 

 

 ――御阿礼の子の短命の原因を知っているか?

 

 

 

 

 

 そう告げた彼の目は、閻魔を相手に戦うことも辞さない輝きを宿していた。




もうじき阿求の時代が始まり、物語も佳境から終わりに差し掛かります。というか終わりに入ってます。

全体で80……90話は行かないかな、多分。
そしてノッブは最後の大目的を定めました。

『御阿礼の子の短命をどうにかする手段を探る』

阿弥との別れに言った台詞が全て。子が親より先に逝ってはならない。
その願いを持って彼は進むことでしょう。

あの時言わせた台詞があんな意味を持ってくるとは……(他人事)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

御阿礼の子の仕組み

「こんな感じか」

「そうそう、術式に狂いはなし。込める霊力も適正。非の打ち所がないわ」

 

 信綱は先代の立会のもと、両手の間の空間に仄かに輝く霊力を集める。

 以前までは見よう見まねで覚えたもので十分だと思っていたものの、それでは足りないと判断するようになったのだ。

 

「全く、教え甲斐がないわね。一度教えたらすぐものにするし、応用も完璧。この調子じゃ博麗の術まで覚えられそうだわ」

 

 実は先代と何でもありの組手をしている時に見ていたため、夢想封印などの秘伝でなければある程度は模倣できていた。

 本格的に見せてもらえるなら秘奥だろうと容赦なく盗むつもりだが、それは今は関係ないので省く。彼が求めているのはそういった力ではない。

 

「にしても一体どういう風の吹き回し? いきなり霊力の扱いを教えてくれなんて。あんた前から使えてたじゃない」

「見よう見まねの独学より、誰か先生がいた方が熟達も早い。それに知りたいことがある」

「知りたいこと? 自分の限界とか?」

「違う。霊力を扱って何ができるか、だ」

 

 妖怪が妖力を持つように、人間は霊力を持つ。妖怪に対して強い効果の見込めるそれは、あるいは人間という種を作った何かが与えた唯一の剣なのかもしれない。

 しかし信綱はそれを積極的に使うことはなかった。資質によって左右される部分の大きい力を使うよりは、子供の頃から手に馴染んでいる鋼の刃の方が信頼できた。

 

 これまではそれで良かった。襲い来る脅威は直接的なものばかりで、その力で薙ぎ払ってやれば大体が解決した。

 だが――今、信綱が解決しようとしているものはそれではどうにもならない。

 

 御阿礼の子の短命。火継の誰もが知り、多くの者たちがそれに挑み、結実することなく潰えてきた悲願。

 阿七も阿弥もそれを嘆く様子はなかった。信綱はそれを知っているからこそ彼女らの選択に口を出すことは今までしてこなかった。

 

「御阿礼の子が短命な理由。お前は知っているか?」

「は? ……単純に身体が弱いから、とかじゃないの?」

「誰もわかってないらしい」

「おい」

 

 いきなり話題を変えてきた信綱に律儀に付き合ったのに、この返答。先代の目がじっとりと湿り気を帯びるのも無理はない。

 

「人里の守護者として付き合いの長い慧音先生も、彼女に幻想郷縁起の編纂を命じた八雲紫も。あの方が転生するまでの監督役を務める四季映姫でさえも。誰も知らなかった」

 

 どれもそうそうたる顔ぶれである。彼女ら全員に聞いても、信綱が望む答えは返ってこなかった。

 八雲紫との話には先代も同行していたため、その場で気になったことを聞いてみる。

 

「紫とかは嘘ついてるとかないの?」

「本気の殺意をぶつけているのに嘘をつく理由はないだろう」

「タチの悪い……」

 

 もはや八雲紫と同等の域に至った力を躊躇なく脅しに使っていることに、先代は呆れた顔を隠さない。

 人妖の共存を成し遂げた英雄であっても彼は阿礼狂い。その辺りのことを失念しかけていた先代は気持ちを引き締めることにした。

 御阿礼の子がいない時間だから彼が狂う理由などないと思っていたが――とんでもない。彼は今も変わらず御阿礼の子に狂っていた。

 

 椛の願いを受けてではない。老齢を迎え、御阿礼の子のために生きる彼が自覚した己の願い。

 時間が限られるということの悲痛さを改めて理解し、遠くへ逝ってしまう者の悲哀と残された者の嘆きを知った。

 

 人は死ぬ存在。それは変えられない。だが、親より早く子が死んで良い道理などどこにもない。

 次は自分が死ぬ番だ。ならばせめてあの方に選択肢を遺そう。

 

 これまでの火継が挑み、敗れた願いに挑む時が来たのだ。

 

「誰もわかっていないなら可能性がある。俺があがいてもどうにもならない理屈がすでに定まっているより遥かにマシだ」

「……そう」

 

 先代は信綱の目がかつてないほどの意志に燃え盛っているのを見て、何も言わないことにした。

 こうなっている彼にはどんな言葉も届かないだろうし、悪事をしようというわけではないのだ。

 それに何より――こうして目的のために迷わず足を進められる彼の姿は嫌いではなかった。

 

「……頭がオカシイのは私も同じか」

「なにか言ったか?」

「なんでも。でもあんたが理屈の方から知りたいってんなら、座学の方を教えるわ」

「できるのか?」

 

 信綱はやや意外そうな顔になる。生まれる性別を間違えたとしか思えない言動をたまにするこの先代が、そういった知識をしっかり持っているとは思っていなかったのだ。

 

「あんたみたいに才能には恵まれなかったからね。死に物狂いで覚えたのよ」

「いずれにせよ助かる。最悪、自分で体系化する可能性も考えていたんだ」

「……あんたは相変わらずデタラメね」

 

 ここまでかけ離れていると嫉妬する気持ちすら湧き上がらない。

 彼も彼で努力を怠っていないからだろう。黙々と基礎の鍛錬を繰り返す姿も、ここで住むようになってから何度も眺めている。

 信綱は先代がそんなことを思っていることなど露知らず、彼女の話を聞く姿勢になっていた。

 

「……ま、あんたが言うなら霊力の理屈について講釈垂れてみようじゃないの。出来の良い嫁をもらえたことに感謝すると良いわ」

「感謝している。だからこそ好きに生きないのか不思議だが――待て、なぜ戻ろうとする」

「とりあえずあんたが学ぶべきは女心だと思うわ。割と切実に」

 

 解せぬとばかりに首を傾げる信綱に、先代は大きなため息をつくのであった。

 本当にこの男は技術とかそういったものの熟達は恐ろしく早いのに、人の心理を慮るといったことはいつになっても苦手なままだ。

 だが、それを仕方がないと苦笑で済ませようと思ってしまう程度には、先代も信綱という男について理解を深めていた。

 

(霊力の扱いさえ覚えれば、御阿礼の子にも希望が見える)

 

 先代の背中を追いかける信綱は相変わらず御阿礼の子について考えていた。

 自分の手と先代の背中を見て、共に六十代とは思えない若々しさと活力を保っている肉体に目をやる。

 

 霊力を扱えることによって肉体が活性化し、全盛期を保ちやすくなる。これを応用してやれば御阿礼の子の寿命にも可能性が見出だせるのではないだろうか。

 

(……ことはそう簡単でもないか)

 

 そんな希望を信綱は自分で否定して息を吐く。

 この程度でなんとかなる程度の問題ならとうの昔に誰かがやっている。

 信綱は映姫との対話、そして八雲紫との対話を思い出し、改めて自分が挑むことになるものの難しさを知るのであった。

 

 

 

 

 

「――わかりません」

 

 映姫の返答に対し、信綱は抜刀すら辞さない剣呑な空気を出して彼女を睨みつける。

 が、映姫は涼しい顔でそれを受け止める。自らの答えに対する恥を何一つ持っていない者特有の姿だ。

 

「わからないものをわからぬということに何か問題でも?」

「とぼけるな。お前は初代の御阿礼の子から見知っているはずだ。何かしら知っているだろう」

「あいにくとご期待には添えられませんよ。私と彼女たちの付き合いは主に彼女がこちらに来た後です。生者であった頃の彼女など、阿弥ぐらいしか知りません」

「……む」

 

 確かにこれでは知る由もないのかもしれない。死後の存在に寿命の長短を聞いてもどうしようもない。

 だが、それでも転生という仕組みの関係に彼女は関係していると睨んでいる。信綱は追及の手を緩めない。

 

「しかし、転生の仕組みそのものにはお前が関係しているだろう。そちらの危険などが関係するのでは?」

「転生の仕組み自体は他の人に適用するものと同じですよ。私が許可しているのは同じ幻想郷で、人間に生まれることだけです」

「どういう意味だ?」

「輪廻転生。これは前世での経験を活かしより良い次生を送り、徐々に解脱を目指すための仕組みです。それは何も御阿礼の子だけに使われる仕組みではありません」

 

 あなたも死後は例外ではないですよ、と言われて眉をひそめる。

 

「……人間が死んだ後、人間以外に転生することもあるのか」

「無論です。その者の功徳にもよりますが、虫や獣になることもありますよ」

「生まれる場所は幻想郷以外も含むのか」

「それももちろん。外の世界は幻想郷とは比べ物にならないほど広い。ここに生まれるだけでも相当な幸運を使うことになるでしょうね」

「……お前は本当にあの方が短命な理由を知らないのか?」

「私は確かにあの子に入れ込んでいますが、それで公私混同はできません。彼女より早く消える命もあるのです。あの子だけを特別扱いはできない」

「…………」

「そんな目で見られても困ります。私は閻魔大王。何もかも不条理で不平等な世界において公平であることこそが役割の存在。私すら不平等になったら誰が衆生を裁くというのです」

 

 映姫の信念が感じられる言葉だった。信綱もここまで言われては引き下がるしかない。

 改めて実感する。目の前の存在に対して少々気が抜けていた。

 確かに彼女は衆生の幸福を心から望んでいるし、不条理な死や悪意に心を痛めているのも確かだろう。

 

 だが、彼女は紛れもなく死後の自分たちを裁く閻魔大王であり、決して人間が踏み入ってはならない領域の存在なのだ。

 

「……剣で脅しても無駄か、これは」

「さて、無為とは言いませんよ。私は裁く者であって戦うものではありません。あなたと刃を交えたら無事には済みません」

「どちらのことだか」

「どちらでしょうね」

 

 ふふ、と笑う映姫に信綱は久しぶりに心胆が冷えるのを感じる。

 やはり彼女は規格外だ。勝てる勝てないの問題でなく、根本的に存在する場所が違う。

 切った張ったでどうにかなる相手ではない。戦って負けるとは思わないが、戦って状況が好転する予想が全くできない。

 

「……済まない、少し性急になった」

「ええ、時間がないと焦るのはわかりますが他者に当たられても困る。あなたは少し自分が他人に与える影響というものを学んだ方が良い」

「理解しているつもりだ」

「つもりではダメです。きっと、あなたは自分で思っているより多くの存在に影響を与えていますよ」

「…………」

「理解し難い、という顔ですね。まあ良いでしょう。それらが如実に現れるのは先の話です」

 

 基本的に言葉は簡潔に済ませる映姫だが、今の言葉は信綱にはわからないものも混ざっていた。

 首を傾げる信綱を映姫は微かに微笑んで眺め、やがて踵を返す。

 

「私が尋ねたかったのはそれだけです。では火継信綱。――次に会うときは、きっとあなたを裁く時でしょう」

「……四季映姫!」

 

 去りゆく彼女の背中を呼び止める。

 振り返ることなく立ち止まった彼女の背中に、信綱はなんと声をかけるべきかほんの少しだけ思い悩み――

 

 

 

「――これからも続いていくであろう御阿礼の子のことを、よろしく頼む」

 

 

 

 悩んだ末、自分が最も大切にしている者を案じる言葉を投げかけるのであった。

 ある意味では当然のことであり、映姫は阿七や阿弥以前から御阿礼の子の面倒を見ていた。

 それでもなお、信綱はそれを言っておきたかった。彼にとって一番大切なのはやはり御阿礼の子で、映姫は信綱が見られない彼女らの姿を知っているのだから。

 

 その声を聞いた映姫は微かに肩を震わせる。笑いを堪えているように見えるその後ろ姿は、しかしこちらに顔を見せることなくひらひらと片手を振って遠ざかっていく。

 彼女の言うとおり、これが彼女との最後の会話になるだろう。次に見える時は信綱が死んだ時だ。

 

 もう言うべきことはない。彼が心配するのは御阿礼の子のことだけであり、自分のことではない。自分が死んだ後の裁きを気にする必要性は感じなかった。

 自分は死ぬ時まで御阿礼の子に全てを捧げ続ける。その事実さえあれば地獄に堕ちようと構わない。

 

 信綱もまた踵を返し、映姫とは別の方向に歩き出す。

 それが生者と死者を裁く者。本来交わるはずのない者たちの邂逅の終わり。

 これはただそれだけでの話で――信綱が自らに最後の役目を課した瞬間でもあった。

 

 

 

 

 

「……八雲、紫」

「どうしてこの場所がわかったのか……なんて言うのは無粋かしら。ねえ先代さん」

「この場所を探るのは苦労したわよ。おかげさまで現役時代より結界が上手くなっちゃったわ」

 

 苦笑する先代と、それを見て同じく苦笑する八雲紫。

 目と目で通じ合っているような二人の理解を他所に、信綱はかつて幻想郷の共存を成し遂げた時と同じ――否、それ以上の苛烈な意志を持って彼女と相対していた。

 

 場所は八雲紫の住まう場所。マヨヒガではなく、正真正銘スキマ妖怪の居住地だ。

 先代を巻き込み、自分でも彼女の教えのおかげで腕を上げた結界術を駆使して擬似的なスキマを開き、その中にある彼女の家に到達した。

 

 到着した彼らを待ち受けていたのは、日傘を差して淑やかに佇む紫の姿だった。

 まるでこの場所に彼らが至るのを予期していたように、そして彼らが訪れることが一つの儀式であるかのように荘厳な気配をまとっている。

 

「……八雲紫。お前に聞きたいことがある」

 

 対する信綱はいつもと変わらない――否、楽隠居の状態になってからは外で持つことはなかった二刀を携えて紫と向き合う。

 

「剣呑な目。でも、昔のあなたはそんな感じだったわね。ここ最近のあなたはずいぶんと優しかったわ」

 

 私を少女のように扱いもしていたし、と紫は妖しく微笑む。

 信綱はそれに対して軽く肩を動かして返答とする。無駄口を聞くつもりもないようだ。

 

「また余裕がないわね。前のあなたは……今とあまり変わらなかったか」

「同感。ま、目的に進むこいつの背中は嫌いじゃないけど」

「あばたもえくぼというやつかしら。お爺さんお婆さんでも結ばれると変わるものね」

「うっさいわね。見た目は若いんだから良いのよ」

 

 先代と紫は信綱以上に長い付き合いを持っているのか、丁々発止のやり取りを続けていく。

 

「で、霊夢の方はどう?」

「可愛いわよ。母さん母さんって私の背中をついてきて。もう最近は神社に泊まり込みよ」

「あらあら、旦那さんが寂しがっているんじゃないの?」

「――聞きたいことがあると言ったはずだが」

 

 慣れた様子で話が広がっていくのを、信綱は静かな声でせき止める。

 会話をぶった切られた先代は仕方ないとばかりに肩をすくめて、信綱の隣に立つ。

 

「悪いわね、紫。にっちもさっちも行かない状況になったら――私はこいつの味方をする」

「仮にも博麗の巫女がそれで良いのかしら?」

「元、よ。御役目から解放されたんだし、私は私の味方したい方を味方するわ」

「――スキマ」

 

 再び信綱が話を遮る。

 声色は冷たく、これ以上話を続けるようなら無理やり終わらせると言わんばかりだった。

 紫は浮かべていた微笑みを扇子の向こうに隠し、信綱と相対する。

 

「……あなたたち火継の人間がそれを探し続けていることは知っておりましたわ。そしてそのどれもが志半ばで潰えたことも」

「そうだな。一通り見たが、どれも大して役には立たなかった」

 

 薬による治療法。指圧や按摩などによる微弱な肉体改造。食事法。神頼みなんてものもあった。

 幻想郷縁起の編纂以外で外に出ないのであれば、火継の側仕えであってもこの程度である。どれも御阿礼の子の現状を打破するには遠く及ばない。

 

「人里の守護者に聞いた、閻魔大王に聞いた。どれも知らないと言われた。ならばお前はどうだスキマ妖怪。御阿礼の子の仕組みそのものを考案したお前は何も知らないのか」

「…………」

 

 紫は信綱の鋭い眼光を受け、しかし微動だにすることなく口元を扇子で隠したまま目を細める。

 

「答えろ、八雲紫。俺はここまで来たぞ」

「……ええ、そうね。あなたが力を示し始めた時からこんな日が来ることを予感していましたわ」

 

 不意に紫は背を向けて、家の中に歩いて行く。

 日傘で見えない彼女の背中にはどこか哀愁が漂っているように感じられ、信綱と先代の二人が口をつぐむほどだった。

 

「家で話しましょう。長い話になるでしょうし」

「……わかった」

 

 初めて訪れることになる八雲紫の家だが、中は意外なほどに普通だった。むしろそれなり以上に大きな家に住む信綱にしてみれば質素にすら映る。

 視線の様子に気づいたのか、紫が小さく笑う。

 

「普段は藍と二人暮らしよ。あまり広すぎては掃除が大変になってしまうわ」

「…………」

 

 こいつが掃除などするのだろうか、という疑問が信綱と先代の頭に同時に浮かび、思わず横に目を向けると目が合ってしまう。

 何も聞かなかったことにしよう、で同意するまで時間はかからなかった。そっと心中で藍の苦労に両手を合わせ、信綱は橙が将来において彼女に振り回されないことを密かに願う。

 

 二人の視線を他所に紫はパチンと指を鳴らすと、三人分のお茶がスキマから現れる。

 躊躇わず口をつける先代と信綱。二人とも修羅場をくぐってきていたので、今さらその程度で驚きはしなかった。

 

「それ、毒が入っているって言ったら?」

「毒が回る前にお前から解毒剤をぶん取る」

「右に同じく」

「……あなたたち、時々発想のレベルが同じになるわよね」

 

 溢れる武力に物を言わせた脳筋発想と言うべきか、時間がないことを理解した上での最短を選んでいるだけなのか。

 おまけにとにかく強いから面倒だ。信綱一人でも至近距離である今は危うい上、先代まで一緒になると対処に苦慮する。というか戦闘になったら多分負ける。

 紫は咳払いで空気をごまかし、信綱と先代の二人が見る中でゆっくりと口を開く。

 

「……結論から言ってしまうと、私も彼女の短命の原因は知らないのよ」

「…………」

「そんな怖い顔をしないで頂戴。無い袖は振れないわ」

 

 刃のように鋭く磨かれた殺意が紫の首に注がれ、背中を冷たい汗が伝うのを抑え切れない。

 下手な受け答えをしたら素っ首を斬り落とす。そんな意気がありありと感じられる気配の持ち主は一人しかいない。

 親しい友人の前で見せることはなくても、基本的にこの男は抜身の刃のようなものなのだ。

 

「むしろ私が対策を打っていないのが不思議かしら」

「……いや、お前なら方法を知った上で隠している可能性がある」

「あら、どうして?」

「それが幻想郷にとって利益となるならお前は許容するだろう」

 

 さすがに見抜かれている。長い付き合いとなったことも含めて、彼は八雲紫という存在をよく理解していた。

 少女然とした姿も、老獪な政治家としての姿も、どちらも正しく彼女の本性であり、その実態は幻想郷を愛する賢者なのだと。

 賢者であるが故に無為な犠牲は出さない。だがそれは決して犠牲を許容しないというわけではなく、最小限の犠牲で最大限の利益が得られるならそれを行う。

 それが集団を率いる者に必要な資質であり、紫は幻想郷という集団を作った存在としてその才覚を過不足なく持っていた。

 

「……それは認めるわ。でもこれは本当。本来なら百年以上続く転生周期や、そこまでして転生してなお三十年足らずの寿命。幻想郷縁起の編纂を頼んだ側としても、この状況に利益なんて一欠片もない」

 

 ずっと生き続けて壊れられても困るのだけれど、と言って紫も手元のお茶をすする。

 信綱も彼女が早く死ぬことを止めるためだけに、彼女を死ねない存在にするつもりはなかった。それはただの本末転倒にしかならない。

 

「……手はないのか?」

「妖怪の力を取り入れる方法はあの子が望まなかった。閻魔大王に話を持ちかけてもなしのつぶて。他にも魂そのものの改ざんという手はあるけれど、影響は私にも予想できない」

 

 そこで紫は意味深な目で信綱を見るが、彼はその視線に気づいても込められた意味には気づかない。

 普段の――あらゆる物事を客観視している彼ならば気づいたかもしれない。

 だが、今回は彼が当事者で影響を受けるのは御阿礼の子という、彼が最も冷静でいられない状況だった。

 

「その魂の改ざんとやらは成功するのか?」

「言ったでしょう、どうなるかわからないって。上手くいくかもしれないし、目も当てられない惨状になるかもしれない。伸るか反るかの大博打……と言うには、少々分が悪いけどね」

「論外だ」

「そうね。だからあなたも魂からのアプローチはやめておいた方が良いわ。あれは私でも持て余す部分」

 

 自嘲するように口元を歪める紫。その姿を見て、二人のやり取りを静観していた先代が口を開く。

 

「……ねえ、あんたもしかしてその魂を弄る方法、使ったことがあるの?」

「……どうしてそう思ったのかしら?」

「失敗を後悔するような口ぶりに聞こえたから。まあ一番の理由は勘だけど」

 

 紫は自分の失敗を恥じ入るようにゆるゆると首を振って、話は終わりであると言外に告げる。

 

「ごめんなさい。少し話がそれたわ」

「どうする? 追及する?」

「……いや、構わん。重要なのはそこではない」

 

 彼女が過去にどんな所業をしたとしても、それが御阿礼の子に関わる部分でなければ何かを言うつもりはない。

 ある意味ではものすごく関わっているのだが、信綱はそこには気づかなかった。

 

「手を打とうとしたことはあるんだな?」

「もちろん。長く生きられないということは、時間が少ないということ。時間が少ないということは、幻想郷縁起の編纂に当てられる時間も減ることに繋がる。……実際、レミリアのことを知るにはあなたがいなければ阿弥の代では難しかったでしょうね」

「あのままだったら阿弥様が夏を迎えられたかも怪しかったぞ」

 

 老人や子供が倒れる霧の中で、生まれたばかりの赤ん坊が生きられるはずがない。

 そうなっていたら信綱は怒りのままに霧を生み出した妖怪を斬り刻んでいたことだろう。

 

「他に天狗や鬼も。彼女らの知識もだいぶ古くなっていたわね。おかげさまで阿弥の作った幻想郷縁起は最近とは思えないくらい分厚くて立派なものになったわ」

「阿弥様のお作りになられた幻想郷縁起がつまらないものであるはずがなかろう」

 

 当然、阿七が作ったものも信綱にとっては唯一無二の至高の一品である。

 確かに記した知識という面で見れば差が生まれるのは仕方がない。

 だが、それでも阿七は精一杯人里のことを想って書いた。自分の知ったことを記し、伝えることで少しでも妖怪の被害を減らそうとしていた。

 彼女の思いが無駄とは言わせない。それは信綱にとって絶対に許せないものである。

 

 ほんの少し追憶に意識を飛ばした信綱だが、小さな呼気でそれを押し流す。

 そして静かに瞑目すると、静かな口調で紫に問いかける。

 

「……お前でも知らないのか」

「仮説ならいくつかあるけれど、確かめる手立てがないわ。それとも――」

 

 そこで紫は言葉を切り、口元を大きく禍々しく歪めた邪悪な笑みを形作る。

 

「次の御阿礼の子を人身御供にでもしてみる? 一代の犠牲だけで後の御阿礼の子が普通に生きられるなら私としては利益の方が大きいもの。あなたも――」

「冗談は顔だけにしておけ。お前も御阿礼の子に思い入れがあるのだろう」

 

 挑発するように発せられた紫の言葉に対し、信綱は静かな表情で対応した。

 これには隣で話を聞いていた先代もおや、という顔になる。

 良くも悪くも御阿礼の子が関係すると冷静さを失うのが彼の特徴といえるのに、今はそれがない。

 

 ある意味において彼を狂人足らしめ、そして人間足らしめる部分でもある彼の一面が影を潜めていた。

 

「なぜそう思うのかしら」

「そんなことができるなら、人妖の共存も始まりつつある今に行うのは愚の骨頂だろう。新しいルールが施工された幻想郷を誰が著す?」

「私だって常に最適解を選べるわけじゃないわ。妖怪は単なる気まぐれで人を殺すこともあるのよ?」

「それが妖怪の本質なら、俺は妖怪を滅ぼす道を歩んでいただろうな」

 

 紫の言う妖怪の姿をとある烏天狗から学んだ。そして同時に、こんな自分と友達でいてくれた白狼天狗も見てきた。

 半世紀以上気まぐれが起きていないのなら、人間にはそれで十分である。百年後、二百年後に彼女が気まぐれを起こしたとしても、その時に自分は生きていない。

 

「あまり侮ってくれるな。俺が御阿礼の子を引き合いに出せば冷静さを失うとでも思っているのか」

 

 本気で御阿礼の子に手を出すなら、むしろ頭は冷える。絶対に殺すということだけを考えれば良いので、頭に血を昇らせる必要自体存在しない。

 紫は信綱が静かな表情で彼女の在り方を見透かすような瞳をしていることに、肩をすくめて参ったと降参を表明した。

 

「参りましたわ。先代もそんなに睨まないで頂戴。あなたと彼の二人を敵に回すなんてゾッとしませんわ」

「お前の悪戯に付き合うつもりはない。……本当に知らないんだな」

 

 無言の首肯。信綱はもしかして、と思っていた希望も消えたことに微かにため息をつく。

 

「……誰か一人くらいは可能性があると思っていたんだがな」

「手を探さなかったわけではないわ。でも、それじゃどうにもならないくらいあの子の根は深かった。……あなたが進むとしても、間違いなく茨の道になるわ」

「愚問ね」

「愚問だな」

 

 紫の言葉に対し、先に答えたのは信綱ではなく先代だった。

 予想外だったのか意外そうな二対の瞳が先代に集中する。

 

「……なぜお前が言う?」

「あら、私が旦那自慢するのはおかしい?」

「え、自慢? 自慢だったの今の?」

 

 紫が信綱に答えを求めるような視線を送るが、信綱が知りたいくらいだった。

 変なものでも食ったんじゃないかと心配すら覚えて先代の方を見るが、彼女はいつも通りの泰然自若とした佇まいで二人の視線を物ともしない。

 なんとも言えない空気が少しの間続き、信綱が皆に聞こえるように息を吐くことでそれは途切れる。

 

「……お前はそういうやつだな」

「ええ、あんたもわかってきたみたいで何より」

「あなたたち、意外と割れ鍋に綴じ蓋だったのね……」

 

 この二人がくっつくと聞いた時には心底仰天したものだ。

 蓋を開けてみれば意外……というのは失礼かもしれないが、二人とも良い関係を築けているらしい。

 

 御阿礼の子以外に興味がないと公言しながらもなんだかんだ他人への面倒見が良い信綱と、他人との距離を置きがちではあるが、情の深い本質を持つ先代の巫女。

 そしてそれらを見抜くことのできる直感と観察眼を二人は持ち合わせていた。ある意味において、二人がこの関係になることは必然であったのかもしれない。

 

 子供の頃から面倒を見ていたに等しい先代の巫女が、彼女なりに幸せになっていることに紫が目を細めていると、信綱が紫の方を見て口を開く。

 

「最後の確認だ。……阿求様で転生の周期は元に戻るのか?」

「その予定ですわ。……もうあなたも一緒にはいられないでしょう」

 

 阿七、阿弥、阿求。例外と言うに相応しい異例の早さでの転生周期は、次の代を以って終わりを迎える。

 後にも先にも信綱だけだろう。二桁の歳にもならない頃から火継の最強を名乗り、三代の御阿礼の子に仕えることになった者は。

 

「……その時は御阿礼の子を頼む。記憶を持って生まれ変わるあの方は、変わらぬ人がいることに安らぎを覚えるようだ」

「ええ、言われずとも。他ならぬあなたの頼み。無下にはいたしませんわ」

「……なら良い」

 

 自分の試みが潰えたとしても、彼女は一人ではないようだ。

 その事実に心の軽くなる感覚を覚え――信綱は決意を固める。

 

 

 

 この生命が終わるその前に、御阿礼の子の短命に挑もう。

 

 

 

 

 

 そしてしばらくの後に稗田阿求が生まれ――彼にとって最後の御阿礼の子がやってきたのであった。




一つの時代が産声を上げるということは、一つの時代は終わりを迎えるということ。
これにて変革の時代は終わりを迎え、次からは幻想の時代に入っていきます。

もう彼が表立って動くことはほとんどありませんが、彼にとって何よりも代えがたい目的が存在する以上、彼は最期まで御阿礼の子にとっての英雄であり続けるのでしょう。



やっと阿求が出てきた……(あっきゅんが書きたくて話を書き始めた人)

あ、異変の話も書くんで阿弥の時代ほどではなくても、そこそこ長くなる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場人物紹介

書かれてないキャラが居る? 許せ、この時代で主要っぽいなと思ったキャラのみだ(吐血)

キャラが多いから全部出そうとすると間延びしてしまう! というか三十年かけた阿弥の時代と十年弱のこの時代じゃ無理がある!!

というわけで登場人物紹介です(濁った目)
あんま長い時代でもなかったので書くことも少ないため、見なくても問題はありません。


 火継信綱

 

 本作の主人公であり、もう立派な老人である。変革の時代終了時点で66歳。いつ死んでもおかしくはない。

 新しいルールが施工され、人妖の共存が成る前――吸血鬼異変に始まり、多くの騒動を解決し、共存への道標を作った幻想郷にとっての英雄としての役目はすでに終わった。

 そしてその武力を以って、人里を守る守護者としての役目も一線を退いた。

 

 これら全て、他者より求められたからやったに過ぎないことを全て終え、信綱はようやく阿礼狂いである自分自身の願いを自覚する。

 彼はやはり生まれてから死ぬまで阿礼狂いであり、行動は全て御阿礼の子のためにある。

 自らの在り方を再確認し、彼は再び歩み始める。最初で最後になるであろう、彼自身の願いを抱いて。

 

 武力、政治力、知力、およそ個人が持つ力は全てが傑出しており、どれもが人間の枠組みどころか妖怪と比してもトップクラスの才覚を持つ。

 その力が求められる未来がもう来ないことを願いながら、御阿礼の子の寿命をどうにかすべく行動中。結末がどうなるのかは誰にもわからないが、何かしらの結果は残すのだろう。

 

 

 

 

 

 先代の巫女

 

 博麗の巫女からクラスチェンジ。一応は霊夢が博麗の巫女という形式になるが、小さな子供である彼女の代わりに巫女の真似事もまだ続けている。

 博麗の巫女を退役した途端、信綱と婚姻を結んだことは人里のみならず妖怪も仰天する大ニュースだった。

 確かに妖怪を退治する人間同士、という接点はあったものの博麗の巫女と阿礼狂いがどうして!? という驚愕が大きく、噂はあっという間に幻想郷を駆け抜けて尾ひれが大量にくっついていった。

 

 曰く、彼らは出会った時から愛し合っていたが身分が邪魔をしていた。曰く、かつては殺し合いに近いことをしていたが、いつの間にか惹かれ合っていた。曰く、実は信綱の側には妖怪の恋人がいて、さらに巫女も彼に懸想をする三角関係があった。などなど。男女の噂話の常か、大体ノッブが悪者になっていた。

 

 とはいえ人の噂も七十五日。おまけに結ばれた二人は特に何か問題を起こすことも変なことをすることもなく、実に普通にいつも通りの生活を送っていたため、すぐに消えていった。ちなみに嫁入り。

 

 サバサバとした性格で細かいことは気にしないが、根は真面目。本質的に情も深く、面倒見も良い。

 博麗の巫女時代はどこにも肩入れできなかったため、その役目が終わった後は好きなように生きているようだ。

 

 そこには夫となった信綱への献身も含まれており、彼は名目上のそれとしか思っていないが、彼女にとってはそれなり以上に大きな意味を持っている。

 自分のために全てを投げ出すようなことはないが、それでもいつか自分が死別する時まで彼は自分を嫌わないだろうし、自分も彼を嫌わない。そんな関係。

 きっと最後の最期、旅立つ彼女の顔には微笑みが浮かぶのだろう。

 

 

 

 

 

 犬走椛

 

 こいつが出ると読者の反応がやたらと良くなる妖怪側のメインキャラ。

 もともと出した理由については前回話したので、今回は彼女の能力について話そうと思う。

 千里先を見渡す能力の持ち主である――という当たり前のことではなく、ノッブと戦いまくって鍛えられた白兵戦の方である。

 ノッブ以外と剣を交えた経験が少ない上、百鬼夜行の時もノッブのサポートについていたという認識を持っているため、自分の強さに全く自覚がない。

 ――が、白兵戦というカテゴリで見れば通常の烏天狗なら複数を相手取って大立ち回りも可能なほど、彼女の剣術は研がれている。

 もう当初の目的である烏天狗を越える白狼天狗になるというものは叶っているのだが、ノッブは敢えてそれを教えないことで彼女のさらなる成長を促している。

 才能があるとは思っていないが、自分の鍛錬になんだかんだ言ってついてきてくれる。信綱にとっては見放すことのできない存在の一人なのだろう。

 

 信綱は子供の時は彼女を見上げ、成長してからは彼女を見下ろして今は亡き椿とともに三人で歩んできた。

 その時間が彼を作り上げたのは一面において事実であり、椿との殺し合いの結末が幻想郷の変革のきっかけとなった。

 

 誰も知ることはないし、記されることもないが、それでも変化の魁となったのは彼女であることに変わりはない。

 

 信綱が御阿礼の子以外で大きな感情を向ける存在の一人。ある意味、妻である先代の巫女より大事にしている。彼女のことをどこか神聖視しているフシもあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 霧雨勘助

 

 霧雨商店の店主であった。もう今は息子の弥助に後を継いでもらい、信綱と同じく楽隠居状態。

 信綱とは子供時代からの付き合いであり、今なおその付き合いは続いている。

 一時は狂人である彼から離れることも考えるほどだったが、今は彼との付き合いが続いたことを心の底から誇りに思っている。

 信綱の活躍を聞いては親のように喜び、また彼が助力を願う時は援助も惜しまなかった。

 そんな彼だが、最近の楽しみは生まれた孫娘の相手をすること。もう幸せの絶頂と言わんばかりに甘やかしている。

 

 

 

 

 

 霧雨伽耶

 

 上記の勘助の妻。良妻賢母として夫と息子を支え、独り立ちした息子を見て目を細めている。

 彼女もまた信綱とは寺子屋からの付き合いで、彼がそういう家の生まれであることも家柄上、結構最初の頃に知っていた。

 それでも普段から見る彼の姿がとても狂気に落ちるような人に見えなかったことと、それが知れ渡った今でも彼は決して無感情でなくむしろ情の深い類であると知っているため、付き合いを変えることなく今に至る。

 勘助とともに一線を退いた今、彼女は静かに夫に寄り添っている。彼女の幸せは今も昔も変わらず、好きになった人の隣りにいることなのだろう。

 

 

 

 

 

 森近霖之助

 

 後の香霖堂の店主。今は霧雨商店で修行中。

 もともと無縁塚に居を構えており、そこで無縁仏の供養や物漁りをして暮らしていた。半妖のため、食事も睡眠もほとんどとらなくて問題がない。

 そうして集めた物に囲まれ、その使い方などを夢想しているうちにこれらの使い方を知る人たちに渡したいと思うようになり、今に至る。

 すごくざっくばらんに言うと道具を愛し、知識に生きる趣味人。生きるために働く気はないので、ある意味幸せな人。

 

 信綱とは出会い方こそ割りと物騒だったものの、紹介してくれた店は厳しくも面倒見の良い店主と大らかな大旦那。そしてそっと手助けをしてくれる大奥方と、あまり人と深く関わってこない彼をして大恩を感じるほどの店を紹介してもらえたため、非常に感謝している。

 ……同時に彼が人里で成し遂げたことの一部も耳にしているため、あまり怒らせるのはやめておこうという決心もしている。

 ちなみに天狗の騒乱は人里では感知できていない出来事なので、これは伝わっていない。主に吸血鬼異変と百鬼夜行異変の内容が人里で有名なエピソードとして残っている。

 

 

 

 

 

 上白沢慧音

 

 人里の守護者。もはや長老に近い信綱にとって頭の上がらない数少ない人。

 彼女が人里に関わり始めたのは御阿礼の子で言うところのおよそ四代目ぐらいになる。

 そのため彼女は御阿礼の子の短命を知ってはいるが、どうしてそうなっているかなどの仕組みまでは知らなかった。

 自身もまた歴史の編纂を行うため、妖怪の対策本を作る御阿礼の子とはその関係でよく話す。

 代々の御阿礼の子が短命で死に、彼女と同じ時間に生きた人間が皆死んだ頃に転生する彼女を見てきて、何かできることはないかと心を痛めながらも表に出すことなく友人として付き合ってきた。

 

 信綱が現れ、そして御阿礼の子が笑って旅立ったのだと確信できるほど彼が御阿礼の子に尽くす姿を見てきて、心の底から祝福をしていた。

 

 だから彼女は自らにできることで御阿礼の子に伝えようと思うのだ。御阿礼の子三代に渡って仕えた男が幻想郷に対して行ってきた偉業の全てを。

 求聞持の力を持つ彼女にとっては不要であっても、忘れゆく人々にとっては大切な役割を果たす。

 そうして皆の心に何かが残るなら――きっと、御阿礼の子も喜ぶことだろう。

 

 

 

 

 

 河城にとり

 

 最近、人里ではそこそこ真面目な方の河童と認識されつつある妖怪。実際は信綱の制裁が怖くて真面目にやらざるを得ないだけ。

 目的よりも手段が優先される上お調子者の困った妖怪だが、本気で悪いことはやろうとしないため、信綱も彼女に対してはため息を連発しながらも面倒を見てしまう。

 信綱を驚かせようと釣具であるミミズ君の改良に余念がないが、もはやミミズ君とは呼べないナニカになりつつある。すでに釣り針には刺さらない上、魚が食いつくサイズではなくなっている。

 

 日々楽しそうに生きている彼女ではあるが、これでも人間との死別をすでに経験した存在であり、信綱のことももう受け入れている。

 しかしそれが彼と過ごす時間を無為にするものではない。死んだ時はきっと悲しいけれど、決してそれだけではないことを彼女は知っている。

 人間が死んでも妖怪は変わらない。時々思い出しながら、彼の作り上げた人間と妖怪の生きる幻想郷を面白おかしく生きていくのだ――

 

 

 

 

 

 橙

 

 実は登場している人物の中でもトップクラスに面倒見が良いという裏設定を持つ妖怪。

 お調子者で子供っぽく、あんまり強くもないけれど、自分の子分と認めた存在に対しては決して見捨てず、何があっても助けようとする。

 弱音を吐いたら自分に任せろと言ってくる性質。ある意味ダメ男製造機。ノッブは人間としてはおかしい部類であってもロクデナシではなかったため、お蔵入りしてしまった。

 そんな彼との付き合いもかれこれ半世紀。信綱から感じ取れる匂いが徐々に老いを帯びていることに気づいた橙は、いつか彼とも永別する時が来ることを理解する。

 そのことに恐怖はあるが、同時に彼の言葉も彼女の胸に息づいていた。

 

 死んだ人を道具の力なしに思い出すのは辛い、と。

 

 だから彼女は鈴をもらった。これを見る限りあいつのことを思い出せるように、と。

 

 

 

 

 

 射命丸文

 

 文々。新聞が発行されつつあるため、割りと今は忙しい天狗。カメラは多分河童からちょろまかしてる。

 天魔からの指示で始めたものだが意外と自分の書いた情報が皆の目に触れるということは快感であり、のめり込みつつある。

 しかしそれでも皆が求める情報には信綱や火継の人間が関わるものも多くあり、またどこかで彼と顔を合わせなければならないのが憂鬱。嫌いというわけではないのだが、どうにも厳格な彼には親しみやすさというものが欠けていた。

 

 ……まああれが笑顔で近づいてきたら殺されることを真っ先に考えなければならないのだが。

 

 元来、弱者を見下し強者におもねる天狗ではある。あるが、天魔が人間と共存することを選んだ以上、それに従うのが役目であると考えている。だからお前は根が真面目なんだよ、とは言っちゃいけない。

 

 

 

 

 

 天魔

 

 妖怪の山で暗躍中。ゴメン嘘ついた、悠々自適のお気楽ライフ満喫中。

 お山の大将があんまりフットワークが軽くては示しが付かない、という大義名分のもと、天魔としての姿ではなく変化をして遊びまわっている。有事の際は真面目だが、それ以外は基本的に人生が楽しい人。厳格で真面目な信綱とはあらゆる意味で対照的。

 しかしそれで彼の優秀さが陰るかと言われればそうでもなく。人間の英傑が信綱ならば彼は天狗の英傑として、天狗と部下である河童を導くことにかけて彼の右に出るものはいない。

 

 最近は新聞を流行らせようとしている。天狗の退屈しのぎが主目的のため、情報の信憑性はある程度無視する方向で、基本的にお祭り騒ぎの内容を書き出す方針にしている。

 

 最近の悩みはスペルカードルールが制定された後、妖怪と人間の勢力をどのように分けていくか。概ね以前の形で問題ないと思うのだが、なぜか最近悪寒が走る。具体的にはどっか他所の勢力がいきなり妖怪の山にドカンとやって来そうな気配が。

 

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット

 

 ノッブ大好き吸血鬼。ズタズタに斬られ、血反吐撒き散らかしたあの戦いで惚れ込むという、率直に言って頭の病院に行った方が良いんじゃないかと言わざるをえない子、と美鈴は密かに思っている。

 ちょっと、いやかなり嗜好が特殊だが、それ以外は割りと普通な妖怪。気高く、美しいものを好む有り様はさすが紅魔館の主とも言うべきものを備えている。

 

 友人でもある阿弥の死を見ることによって、生物とは死ぬものであると再認識。そして終わりは誰にでも唐突に訪れる。

 妹との対話を決意し、現在は対話を実行しようとしている――が、あと一歩が踏み込めない状態。

 しかしこれもいずれは越えていくのだろう。兄弟との距離感が掴めないなんて悩みは人間と同じようなものであり、そんな悩みで彼女が足を止めるはずはないのだから。

 

 

 

 

 

 八雲紫

 

 境界の賢者。幻想郷の全てを愛し、同時に彼らを守るためならいかなる悪行にも手を染める覚悟を持つ者。

 御阿礼の子のシステムの根幹に関わり、火継の家のシステムにも関わっているある意味全ての元凶。火継の一件については元凶と言うより、被害者と言った方が近いかもしれないが。

 少女らしく色恋に目を輝かせる姿も、管理者として冷徹に物事を切り捨てる一面も、どちらも偽ることない彼女の本性。

 前者の方を知る者は稀で、彼女が認めた相手にしか見せない姿でもある。つまり信綱は紫がその姿を見せても良いと思われるほどに認められているということ。

 とはいえ彼女が優れているのは管理者としてであり、その中での勢力争いの調整――要するに政治面での能力は天魔や信綱に比べると一歩劣る部分がある。

 天狗の舵取りを千年以上続けている天魔は仕方ないかもしれないが、信綱にまで抜かれているのは納得がいかない模様。

 

 

 

 

 

 四季映姫

 

 幻想郷の閻魔大王。死者を裁く者。公明正大で絶対平等な裁定者。

 死後の御阿礼の子を監督する者としての役割を持っており、信綱にとってもかなり重要な存在に当たる。

 信綱以上に厳格で公正。信綱は事情の説明さえあればかなり柔軟に対応するが、彼女は頑なに秩序に則った立ち振舞をする。

 それは彼女が全てに平等でなければならない閻魔大王であり、自分が何か不正を成してしまった場合、裁かれる魂に不誠実だと考えているからである。

 

 とはいえ私人としての彼女はやや堅物のきらいがあるものの優しく、慈愛に溢れる人物。だらしない人物を見るとついお説教をしてしまうのはご愛嬌。

 信綱との相性も別に悪いわけではなく、お互いに秩序を守る者として敬意を払っている。彼の狂気は知っているがそれで成し遂げたことに変わりはないと思っており、信綱への評価はかなり高い。

 

 人妖の共存のため、何も手を出さず見守ることを選んだ八雲紫。

 そして短い一生を走り続けている者全てに善き生を送るようにと願いながら見守る四季映姫。

 

 信綱は意外と多くの妖怪に見守られて今に至っている。

 きっと彼の死後を裁く彼女の口元には、己の生を全力で駆け抜けた彼への労いの笑みが浮かぶのだろう。




次回から阿求の時代――幻想の時代になります。

そして仕事先が忙しくなりそうなので投稿間隔は怪しくなります(白目)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想の時代 -稗田阿求-
幻想の担い手の萌芽


 阿求が生まれ、信綱はそちらの世話に入るようになった。

 元気の良い女の子で、赤ん坊の頃からやんちゃに暴れ回るくらいだ。

 阿七、阿弥、阿求と女が続くが、もともと生まれる性別は男と女の二択しかないのだ。二分の一が三回続いたところで八分の一。そう驚くような確率ではない。

 

「すごい元気だけど大丈夫なの?」

「元気があるのは良いことだ。身体が弱いよりはな」

 

 その様子を見ていた先代はちょっと顔が引きつっていたが、信綱はむしろ感激した様子だった。

 基本的に御阿礼の子の行動なら全て肯定する上、彼が見てきた御阿礼の子は阿七も阿弥も成人女性と比べると身体が弱い部類であった。

 阿七と阿弥。二人の願いを受け取っていると錯覚してしまうほど、阿求は元気に成長している。それが信綱には嬉しかった。

 

「それでお前の方はどうなんだ。ぼちぼち博麗の巫女としての修行を開始する頃だろう」

「あー……うん、そのことで相談があるんだけどさ」

 

 先代は気まずそうに後頭部をかいておずおずと話しかけてくる。

 

「何かあったのか?」

「……あの子、天才だわ」

「ふむ?」

 

 先代の口から出てきた言葉に、どういった意味があるのかと聞き返してみる。

 

「本当なら霊力とかって感じるだけでも難しいのよ。専門の修行を何ヶ月もやってようやくってものなの。でもあの子はすぐにそれをやってみせた」

「俺もできたぞ」

「あんたは人間じゃないから」

 

 ひどい言い草である。信綱は人外を見るような目で見てくる彼女に何とも言えない目をしながら、続きを促す。

 

「それで私も色々教えようと思ったんだけど、そこで困ったことになったのよ」

「困ったこと?」

「どうもあの子、自分が才能あることに気づいちゃって修行を怠け始めて……」

「……それはもう当人の気質ではないか?」

 

 信綱は自分の才能があると自覚した後も修行は怠らなかった。

 とはいえそれはあくまで自分が強くあることの目的が、御阿礼の子のために生きるという一つに絞られていたという点もある。

 目的もなく強くなれと言われて常人が努力できるかと言われると難しい。

 

 しかし話の流れは読めてきたため、今度は信綱の側から確認をする。

 

「お前の時はどうしていたんだ? 人間というのは基本的に差し迫ったものがないと動かないものだぞ」

「私がどうして博麗の巫女になったか忘れたの? 先代――今はもう先々代か。その人が妖怪に食われて死んだって聞いたからよ」

「……そうか、なるほど」

 

 次は自分が死ぬ番だ、と言われて何もしないのはよほどの馬鹿か、あるいは全てを諦めた者だけだろう。

 そうやって死に物狂いで生き続けて、結果として夫まで得るのだから人生わからないものである。

 

「でも今はそんな必要性も薄くなりつつある、でしょう?」

「と言っても、力があるに越したことはないぞ。話の通じる妖怪ばかりというわけじゃない」

 

 致命傷を負って末期の時に後悔しても遅いのだ。そうならないように師匠役は心を鬼にして鍛える必要性があるのだが――。

 

「…………」

「…………すいません、憎まれ役をやっていただけないでしょうか?」

 

 要するに、そういうことである。信綱は彼女が両手を合わせて拝んで来るのを見て、ため息をつく。

 

 いかに先代の語る霊夢が天才であると言っても、先代を相手に勝てるわけではない。信綱には勝てずとも彼女とて博麗の秘伝を修め、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた博麗の巫女なのだ。

 その彼女が霊夢に手が出せないのは――端的に言ってしまえば親バカという結論だ。

 

「全く……嫌われることが怖いなら親などやるものではないぞ」

「う……本当に悪いと思ってるって。情操教育は私がしっかりやるから!」

 

 彼女にとっては娘というより孫に近いのかもしれない。可愛がりたい気持ちには理解を示すが、やるべきことはやっておいて欲しいと思う信綱だった。

 

「それにいつかはあんたも関わるのよ?」

「なぜ」

「紫に頼まれてるじゃない。あんたの強さを教えてやれって」

「……あれはそういう意味か」

 

 紫の考えまで透けて見えてしまい、信綱は吐くため息の数が増えていく。

 しかし現実を嘆いても未来は変わらない。そして今後の新しい幻想郷を担っていくであろう博麗の巫女が弱いのは、信綱としても安心できない。

 それに今はまだ阿求の世話もそこまで忙しいものではない。これが本格的に寺子屋に通い始め、幻想郷縁起の編纂が始まると構っていられなくなる。

 

「……わかったよ」

「本当!?」

「但し、俺の流儀でやらせてもらう。死なせるようなヘマはしないが、かなりキツくする」

「全然構わないって! いやあ、断られたらどうしようかと思ってたのよ。愛してるわ!」

「はいはい。話も終わったところで朝餉にするぞ」

 

 今日の朝食は信綱が作っている。阿弥が亡くなってからは火継の主人として女中の仕事を奪うような真似はしていなかったが、阿求の食事は自分が作るのだ。サビ落としも兼ねて作らせてもらった。

 その際、料理を作る女中の顔色が良くなかったので休むように言っておいたが、彼女の体調は大丈夫だろうか。

 

「なんであんたの作る料理は私より美味しいのよ……」

「料亭の料理は男が作るだろう。似たようなものだ」

「いや、言ってる意味がわからん」

 

 味噌汁を一口飲んだ先代が女中と同じように顔色が悪くなったが、まあこちらは些細なことだろう。

 そうして朝食を終えた信綱は博麗神社の方に足を向ける。

 先代や有志の手によって整備された道を歩く。彼らもいつまでもこの場所の整備ができるわけでもない。いずれは今の博麗の巫女に託す時が来るのだろう。

 

 境内に続く階段を登った先に、先代の語る少女――博麗霊夢は存在した。

 昔の先代を連想させる脇の開いた巫女服を身に付け、大人が使う箒を小さな身体で一生懸命操って掃除をしている。

 年の頃は十にも満たない。この小さな少女が基本は神社で一人暮らしというのもすさまじいものがある。先代が可愛がる理由にもうなずけるというものだ。

 

 そんな彼女だが、信綱がやってきたことに気づく様子もなく箒を相手に悪戦苦闘しており――飽きたのか放り投げてしまう。

 

「もう知らない!」

「…………」

 

 怒りたくなる理由には理解を示せたので、暇があったら子供用の掃除道具でも作るかと考える信綱。

 渋々引き受けたはずなのに、言葉すら交わしていない相手のことを考えてしまう辺り、彼もなんだかんだ面倒見が良い。

 

「……巫女がその様子は感心しないな」

 

 とはいえあの姿はどうかと思うので、一応注意の声をかける。

 霊夢はやって来ていた信綱の存在に気づかなかったようで、ビクッと肩を大きく震わせてから信綱の方を見る。

 

「……誰?」

「お前の母親から聞いていないか?」

「……今日は私に稽古を付けてくれる人が来るって」

 

 霊夢の視線にはありありと警戒の色が浮かんでいた。

 こんな小さな少女に自分のような体格の良い男が話しかければ当然か、と思いながらも信綱は自らの役目に徹することにする。

 

「俺がそれだ。火継信綱という。よろしく」

「……あんた、母さんの知り合いなの?」

「言葉遣い」

「え?」

「言葉遣いに気をつけろ。話し方一つでも人に与える印象は大きく変わる」

「別にいいもん。あんたに好かれたくないもん」

 

 相手を見定め、どんな存在なのか聞こうとする目端を持ちながら同時に子供らしい部分もある。

 あまり子供の相手が得意とは言えない信綱には難しい相手だった。

 

「お前の言葉遣いで母親の教育も見えてくる。……初対面の相手ぐらいには丁寧な言葉を使え」

「……あなたは母さんの何ですか?」

 

 母親を引き合いに出すと聞いてくれる辺り、悪い子ではないのだろう。

 子供らしい万能感と少女然とした天衣無縫な在り方。二つが混ざるとこんな風になるのか、と信綱は内心で感心しながら彼女の質問に答える。

 

「旦那」

「……え?」

「俺はあいつの夫だ。やつを母と呼ぶなら、俺は父ということになるか」

「……じゃあ父さんって呼べばいいの?」

 

 先代の夫であることを伝えても、霊夢の顔に驚きはない。

 代わりに浮かぶのは探るような瞳。彼女も子供ながらに直感で気づいたのだろう。

 この男に真っ当な父親役をやるつもりは毛頭ない、と。

 

「やめてくれ。父さん以外なら好きに呼んでくれて構わない」

「……じゃあ爺さんで」

「それなら良い」

 

 父さん、という呼び方は阿弥にのみ許したものである。霊夢に罪はないが、そこを譲る気はなかった。

 

「さて、俺が来たのは他でもない。お前に稽古を付けるようにと頼まれたからだ」

「いらないわよ、そんなの」

「ほう、なぜだ?」

「母さんが教えたこともそうでないこともすぐにわかるの。なんて言えば良いのかな。コツ? そういうのが簡単に掴めちゃう」

 

 そういう霊夢の顔には年頃の少女らしからぬ憂いのようなものが浮かぶ。

 

「母さんはすごい褒めてくれたけど、そんなにすごいことをした自覚がないの。これは当たり前のことなんじゃないの?」

「比べられるやつがいないのは問題だな……」

 

 自分が優れているか劣っているか。そんなものは同年代か同じ立場の存在がいなければわからない。

 この少女にとって世界の全ては先代の巫女しか存在しないのだろう。

 

「お前の母親に勝てるとは思わないのか?」

「今は無理。でも、多分何年かすれば無理じゃなくなる」

「それで修行はいらないと」

「必要になったらやる。でも今は必要じゃない。それだけ」

「そうかそうか、よくわかった」

 

 信綱は霊夢の言い分に深くうなずき、同意を示す。

 昔の自分を見ている気分だった。阿七の側仕えを始めたばかりで、彼女の力になれない焦燥感ばかりが募って何もできなかった自分。

 いくら武術の才覚があっても、彼女の身体を癒やすことはできない。力だけで守れるものなどたかが知れていると知らなかった自分。

 そしてその武芸でさえ、妖怪と比べたらちっぽけなものでしかないと思い知らされた時の悔しさ。

 

 力を求めるのに必要なのは目的だ。大きな目的のために力が必要とあれば、人は嫌でも努力をする。

 しかしそれだけでもいけない。それではやがて努力が惰性と化し、目的に向かう歩みも弱まってしまう。

 幸か不幸か、比べるなら間違いなく不幸の部類だが、信綱は椿という烏天狗にそれを教えられた。

 

 ――自分は何もできない。臓腑を押し潰すような屈辱が己を強さに駆り立てた。

 

 彼女に与えるべきは強さを求める燃料だ。信綱はかつての自身の経験から、そう結論を出した。

 

「……では、こうしよう」

 

 信綱は霊夢からゆっくりと距離を取ると、その場に刀を置いて両腕を前に構える。

 

「お前はなんでも使っていい。俺は素手で、この場所から一歩も動かない。この状態で俺に一撃、ないし一歩でも動かせたら――」

「動かせたら?」

「お前は一切の修行をしなくていい。お前の母親にも俺から伝えてやる」

「……本当? 私、多分爺さんよりは強いわよ」

「その認識が正しいなら、お前は丸儲けだと思うが?」

 

 挑発するようにニヤリと笑い、手招きするように腕を動かす。

 いくら頭の回転が早かろうと所詮は子供。霊夢は明らかな挑発であると理解しながら、ムッとした顔になる。

 

「良いのね? 怪我しても知らないからね!」

「構わん構わん。殺す気で来い」

 

 霊夢の手に札と針が握られる。先代のように体術はまだ使わないようだ。

 そしてふわりと小さな足が地面から離れたことには、少々の驚きを見せる。

 

「飛べるのか」

「母さん曰く、空を飛ぶ程度の能力、だって。降参するなら今のうちよ?」

「…………」

 

 無言で来るように手を動かすだけ。

 霊夢は一瞬だけ心配するような表情を浮かべるが、挑発された怒りの方が上回ったようで浮かび上がったまま針と札を飛ばす。

 そうして、二つの影は激突し――

 

 

 

「まあ、こんなものか」

「あんたそんな強いなんて聞いてないわよ!?」

 

 当然のように信綱が勝利した。

 霊夢の小さな身体は地面に倒れ伏し、その上に信綱が腰掛けている。

 さすがに体重を乗せたら不味いため、最低限動きを封じる程度の重さしかかけていない。

 精も根も尽き果てた様子の霊夢であるが、悔しい気持ちはあるようでジタバタと手足を暴れさせていた。

 

「さて――お前は弱い」

「……っ!」

 

 顔だけが動いて信綱を睨みつけてくる。視線に力があったら射殺せそうなものだ。

 取り合うことなく信綱は言葉を続けていく。自分に才能があると思っている輩は、一度鼻っ柱をへし折るのが手っ取り早い。

 才能があろうとなかろうと関係ない。この少女がこれから立ち向かうであろう妖怪は理不尽の塊なのだ。どんなに稀有な才能があったところで、磨かなければ潰えておしまいである。

 

「動きが甘い。術の使い方がなってない。空を飛べる優位を理解していない。身体に関しては仕方ない部分もあるが、何もかも甘い」

「…………」

 

 淡々と彼女の欠点を指摘していくと、霊夢の頭が震えているのがわかる。

 彼女の身体から降りて、その顔をのぞき込む。

 

「悔しいか?」

「……っ!!」

 

 ぐん、と音が聞こえそうな勢いで彼女の顔が信綱から背けられる。

 が、その目に涙が浮かんでいるのを信綱は確かに見た。

 霊夢の頭を押さえつけ、自分と目を合わせさせる。

 涙で一杯になっている瞳で、それでも信綱から目を離すまいと睨みつけるその胆力に信綱は内心で笑う。

 

「悔しいなら――強くなれ。誰よりも、何よりも、俺よりも。そうすれば、もう今みたいな思いはしなくて済む」

「……私って弱いの?」

「今は弱い。だが、俺と先代の稽古を受ければ必ず強くなる。強くする」

「……ほんとう?」

 

 うなずき、彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫で回し、目に溜まった涙を拭いてやる。

 彼女の矮躯を立たせ、服についた砂も払うと信綱は立ち去ろうとする。

 

「敗北を悔しいと思うなら必ず強くなれる。……今日はここまでにしておこう。稽古は次から始める」

「……爺さん!」

 

 立ち去ろうとした後ろ姿に霊夢が声を投げる。

 振り返った彼に、霊夢は気になっていたことを聞くことにした。

 

「……あんたはどのくらい強いの?」

「昔に色々やっていた程度のものだ。俺より強いやつは結構多いぞ、この幻想郷は」

 

 ちなみに強い奴が多くいても、信綱に勝てるのは少なかったりする。単純な膂力や技量でどうこうなる領域からはすでに外れていた。

 

「ああ、俺からも言うのを忘れていた」

「なに?」

「――お前は強くなれる資質がある。腐らせないよう精進しろ」

「……わかった! 絶対あんたより強くなってやる!!」

 

 負けん気が強いのは良いことだ。昔の自分も椿からはあのように見えたのだろうか。

 

(……あちらの方が可愛げがあるな)

 

 泣いた覚えすらない。今と大して変わっていなかったから、さぞ可愛げのない小僧だったことだろう。

 だがそれが良い、と真顔で言い切る変態――もとい阿呆が彼の師匠役を務めたことが幸運だったのか不幸だったのか。多分不幸だったのだろう。椛がいなかったら喰われていたかもしれない。

 

 ともあれ、信綱が見ても霊夢は才気あふれる少女に見えた。

 昔、後継者を探していた自分なら目を輝かせていたであろう、自らに匹敵するかもしれない才の持ち主だ。

 変に怠け癖が付く前に悔しさという楔を打ち込むこともできた。

 

 未来の幻想郷を担う少女だ。先代からも引き受けた手前、全力を尽くそう。

 

「――という流れで稽古をつけることになった」

「十歳にもなってない子供に何やってんのよゴラァ!!」

 

 そして事の顛末を先代に報告したところ、殴りかかられたのはここだけの話である。

 

 

 

 

 

「こーりん、本読んでー!」

 

 本を両手で抱える小さな少女が青年に声をかけると、青年は困ったように眉をひそめる。

 

「やれやれ、魔理沙。言っているだろう。僕は親父さんに任された店が忙しいと――」

「読んで!」

「……少しだけだよ」

「やったー!」

 

 こーりんと呼ばれた青年――森近霖之助は仕方がないとばかりにため息をつきながらも、どこか楽しそうな笑みを浮かべて魔理沙と呼ぶ少女が自分の膝の上に乗るのを待つ。

 

「今日のお話はなんだい?」

「これ!」

「わかったよ。じゃあ少しだけ――」

「あ、お爺ちゃんのお友達!!」

 

 霖之助が読み始めようとしたところで、魔理沙の注意があっさりと別のところに向く。子供というのは気まぐれなものである。

 とはいえ霧雨商店の大旦那の友人と来たら相手は限られる。知り合いは多くいても、大旦那が親友だと言っているのは一人だけなのだ。

 

「いらっしゃいませ。こんな格好で申し訳ない」

「久しぶり! お爺ちゃんなら上にいるよ!」

 

 元気の良い魔理沙の言葉に信綱は膝を折って彼女と目線を合わせ、柔らかい眼差しで彼女を見る。

 

「今日は君のお爺さんに会いに来たわけじゃないんだ。お店に買い物に来たんだよ」

「そうなの? お爺ちゃん、喜ぶと思うけど……」

「また今度な。ほら、君の父親に渡してくれ」

 

 売り物になる山菜と手土産の菓子を魔理沙に渡すと、彼女は店の奥にあっという間に駆け込んでいく。

 あの子も大人になるにつれてお淑やかさを身に着けていくのだろう、と少々感慨深くなりながらも霖之助と顔を見合わせる。

 

「子供の扱いが上手いね」

「お前ほどじゃない。子供の相手は苦手だ」

 

 なるべく機嫌の良くなりそうなものを用意して感情を操っているのだ。子供の気まぐれに勝てる気はしない。

 

「香霖とはな。お前が将来付ける店の名前が覚えられたか」

「発音の違いだろうね。霖之助と香霖だったら後者の方が赤ん坊の耳に覚えやすかったのだと思うよ」

 

 そう言って苦笑いを浮かべるものの、霖之助の目に本気で困っている様子はなかった。

 信綱も意外と付き合いが長くなったこの半妖の青年に小さな笑みを浮かべる。

 

「お前もずいぶんと出世したものだ。紹介した時は長続きするかどうかも疑わしかったのに」

 

 最近はすっかり商売人も板について、弥助が忙しい時には店を任されるほどになっていた。

 何かと薀蓄を語りたがる悪癖がある以外、この男は頭の回転も速いし肉体も頑丈だ。その上で経験を積んでいるのだから、霧雨商店にとって大いに貢献する逸材だろう。

 

「真面目に修行しているって言ってるだろう? あの子がもう少し大きくなったら満を持して自分の店を持つつもりだよ」

「弥助からは引き止められなかったのか?」

「男に二言はない、って快く送り出してくれるそうだ。本当にあの人には感謝している。もちろん、あなたにも」

「今生の別れというわけでもあるまい。弥助とはこれからも付き合うのだろう?」

「偉大な親方であり、掛け替えのない親友だ。半妖の僕に商人としての教えを授けてくれたことだけでなく、家族として迎えてくれたことには一生足を向けられない」

「俺にまで頭を下げようとするな。感謝はこの家の人だけで十分だ」

 

 こちらにも心からの感謝を捧げようとする霖之助の言葉を受け取らない。

 信綱がやったのはこの店を紹介するだけであり、そこから先の修行や勘助たちとの関係には一切触れていなかったのだ。

 

「それより買い物がしたい」

「やれやれ、感謝を受け取ってもらえないのは辛いのだけどね」

「だったら態度で示せ。少し量が多いが、こちらを頼む」

 

 持って来ていた紙を手渡し、霖之助が中身を改める。

 中に書かれているのは新しい墨や紙の他、稗田邸に運ぶ食材や日用品の類だった。

 

「少し日数がかかるものもあるけど、良いかな?」

「ああ。すぐに運べと言うつもりはない。稗田の家にやっと火が灯ってな。古くなってしまったものの入れ替えが大変なんだ」

 

 無論、阿七や阿弥がいない時代にも手入れを怠ったことはない。ないが、食材は十年持つものなど稀だし、日用品だって十年以上の使用に耐えうるものは少ない。

 なので御阿礼の子が生まれた時は色々と大変なことが多いのだ。新たな女中の雇用など、面倒なものもある。

 

「ははぁ、なるほど。ではすぐに用意させて運ばせてもらうよ」

「頼んだ」

 

 目的はそれだけなので、話すことがなくなる。

 戻って手を付けている仕事の続きでもやろうかと思っていたところ、霖之助が付き合いの長さを懐かしむように口を開いた。

 

「しかしあなたも元気だ。僕が会った頃にはすでに五十を越えていたと思うけど」

「正しいぞ。勘助と同い年だ」

「となるともうすぐ七十か……。妖怪から見れば短くても、人間には十分な年齢だ。自愛した方が良いよ」

「体調管理を疎かにしたことはない。お前こそ半妖だからと適当な生活をするのはやめておけ」

「ははは、肝に銘じておくよ」

 

 こいつは銘じるだけだな、と信綱は霖之助の適当な返事に確信を持つが、特に追い打ちをかけるようなことはしなかった。

 

「お前が体調を崩すとあの子が泣くぞ」

「はは、魔理沙にも困ったものだよ。もうそろそろ寺子屋に通う歳なのだから、僕ばかりと遊んでないで子供たちと遊べばいいのに」

「さて、なんとなくわかっているのではないか? お前がもうじき店を辞めることを」

「そうかもしれない。子供というのはたまに鋭くなる」

 

 しかし、と信綱は目を細めて彼女たちのことを思い返す。

 魔理沙は今でこそ元気いっぱいな少女だが、あれで霧雨商店の一人娘。いずれは礼儀作法なども覚え込まされて一人の男性と結ばれるのだろう。

 そして霊夢もまた、成長したら先代以上に腕の立つ巫女として幻想郷を守るのだ。喜怒哀楽が激しく先代より遥かに自由に見える彼女だが、その実何よりも大きなものに縛られている。

 

 新たなルールも間もなく施工される。見込んでいる効果が出るかは未知数だが、それでも昔の幻想郷に比べれば良いものになるのだろう。

 そんな幻想郷を担うであろう少女たちのことを思い、信綱は瞑目する。

 

「どうかしたかい?」

「……昔みたいな騒動が起きないことを願っていただけだ」

「難しいんじゃないかな。妖怪というのは退屈には勝てない存在だ。僕が言うからには間違いない」

「だとしても。暴力だけが解決手段にはなってほしくない」

 

 あれは人間が不利に過ぎる。御阿礼の子以外がどうでも良い信綱とて、同胞が被害に遭うのに良い顔はしない。願わくば新たなルールで暴力よりも楽しく平等になって欲しいものだ。

 

「僕と初めて出会った時は暴力に訴えて来た気がするけど……」

「こちとらか弱い人間だ。得体の知れない相手に用心するのは当然だろう」

「か弱いという言葉には首を傾げるけどね」

「腕が斬り飛ばされたら終わりなんだぞ俺は」

 

 妖怪の誰もが口をそろえて化物と言ってくるが、自分は首が斬られたら死ぬし、四肢のどれかが落ちても戦闘不能になるほど脆い存在なのだ。心外にもほどがある。

 妖怪相手に無傷で勝つのがすごい? 無傷で勝つか重傷で相討ちか死ぬかの三択なのだから、勝ち続けていれば無傷になるのはある意味当然の話である。

 

 そのことを正直に伝えても霖之助は困ったように笑うばかり。完全に取り合ってもらえていない。

 信綱は大きなため息をついて踵を返す。

 

「そろそろ戻る。あの子にはお前が持っている魔法使いの本でも読んではぐらかしてくれ」

「これは魔理沙に頼まれた本だよ。魔法使いってあの年頃の子が憧れるものなのかな」

「さあな。あの子の好みに口を出すつもりなどないさ」

「はは、僕にもないよ。あの子には健やかに育って欲しいものだ」

 

 魔理沙のことを話しながら、今度こそ店を出る。

 後ほど、お菓子のお礼を言おうと思ったのにすでに帰った信綱を探す魔理沙に、本をしばらく読み聞かせることになったという霖之助の愚痴を聞く羽目になったのは別の話である。

 

 

 

 

 

 そして、彼らは知らなかった。

 この魔理沙という少女。後の幻想郷において、スペルカードルールを用いて異変を解決する有名人となっていくことを。

 彼らが望んだ淑女とは全く正反対の道を歩んでいくことに、未来の信綱は面倒を見るのも大変だとため息をつくのであった。




まず出すべきはこの二人だよね、ということで霊夢と魔理沙の登場です。

霊夢がこの後努力嫌いになる理由? ヒント、ノッブの修行法


次回のお話? いつになるだろうね(真顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人と妖の交わる場所

「今日の稽古はこんなところか」

「鬼……」

 

 なぜ自分が稽古をつけた者は、皆同じ台詞を言うのだろうか。

 鬼は加減ができずに殺してしまうと言っているのに。

 博麗神社裏手の稽古場で一歩も動けないとばかりに疲労困憊状態の霊夢に、信綱は淡々と課題を伝えていく。

 

「今後も俺はお前に身体の動かし方を教える。術に関しては母親に聞け。そちらは俺も専門じゃない」

「嘘言うんじゃないわよ! あんた私より結界上手いじゃない!?」

「基本ぐらいなら簡単だろう」

 

 ちなみに先代に見せたところ、無言で殴りかかられたのは別の話。

 さすがに彼女と同等の強度はないが、術の精度や構築速度にはある程度迫るものがあるようだ。

 

「簡単だけど! 爺さんどんだけ強いのよ!」

 

 そして霊夢も信綱と同等に近い才覚の持ち主。基本的に信綱にできることは彼女にもできる。

 

「基礎の訓練を怠らないことだ。霊力はあれで奥が深い。精度を上げる修行は毎日行え」

「えー……」

「俺が毎日やっているんだ。同じことをしなければ俺に勝とうなど夢のまた夢だぞ」

「ぐっ……やってやるわよ」

 

 負けん気が強くて結構なことである。下手に諦められてしまうと乗せるのが面倒になるのだ。

 

「その意気だ。さて、身体を動かすのはここまでにしよう」

「もう休んでいいの!?」

「部屋で座学に決まっているだろうが戯け。出した課題はやっておいただろうな」

「鬼! 悪魔! 鬼畜! ロリコン!」

「やってないのか?」

 

 どこで覚えたのか聞きたいような単語で罵倒してくる霊夢だが、信綱は無視して確認を取る。

 

「やったわ、やったわよ! でももう一歩も動かない! 疲れたーっ!!」

 

 もはやヤケになったのか、霊夢は仰向けに寝っ転がってジタバタと駄々をこね始めた。

 いかに才気煥発と言えど彼女は子供。それも信綱のように気狂いではなく実に真っ当な感受性の持ち主。

 人間、ムチばかりでは動かない。ではどうすれば動かせるようになるのか。

 答えは実に簡単で、アメを与えてやれば良い。

 

「そうか。終わったら人里で菓子でも買ってやろうかと思っていたが、要らないか」

「……人里に行けるの?」

 

 むくりと身体を起こす霊夢。動かないとは何だったのか。

 

「お前もここに一人は暇だろう。ああ、疲れているなら仕方がない。お前も動けないようだし、今日はここで座学と行こうか」

「い、行く行く! 人里行きたい!」

「だったらまずは勉強だ。早く終わらせたらその分だけ人里を見る時間も増えるぞ」

「買ってくれるお菓子とかは増える!?」

「夕飯が食べられなくなるまでは買わんぞ」

「やったーっ! 爺さん大好き!!」

 

 この調子の良さは先代譲りかもしれない。そしてあれだけ厳しくしてもお菓子を買うだけで好きに転がってくれるのだから安いものである。

 部屋に駆け込んでいく霊夢の後ろ姿を眺めて、信綱はそっと息を吐く。

 

「……慧音先生より上手く教えるようにしよう」

 

 そして自分の通ってきた道と同じ轍を踏まないよう、肝に銘じるのだった。

 

 

 

 かつてない集中力を発揮した霊夢の底力によって、あっという間に課題を終わらせた二人は人里の方に来ていた。

 

「はぐれるなよ」

「目立つ服だからわかるんじゃない?」

「小さいからなお前は」

「これから大きくなるのよ! だからあれ買って!」

「全く……」

 

 自分の周りには自分にたかろうとする少女が多い。霊夢は仕方ないが、橙や椛も気づいたら信綱にたかろうとする。

 他に金銭を使う用途があるわけでもないので、別に構わないと言えば構わないのだが。

 小さめの大判焼きを一つ買い、霊夢に渡す。

 

「熱いから気をつけろ」

「だいじょうぶだいじょうぶ……あちっ!?」

「言わんこっちゃない。見せてみろ」

 

 小豆まみれの口内を見て特に火傷していないことを確かめると、信綱は霊夢の手にある大判焼きを半分に割る。

 

「これなら冷めるのも早くなる。気をつけて食べろよ」

「わかった、ありがと爺さん」

「……次からは母親と来た方が良いぞ」

「でも爺さんの方がいっぱいお菓子買ってくれそう」

「…………」

 

 先代はケチなのだろうか。別に言ってくれれば金ぐらい渡すというのに。

 そうやってしばらく色々なものに興味を示す霊夢を連れ歩き、人里を歩いていると慧音が道の向こうからやってくるのを見つける。

 

「む、信綱。阿求の世話は良いのか?」

「よく動き、よく眠る子です。今は眠っておられますよ」

「爺さん、この人は誰?」

 

 無言で霊夢の頭にげんこつを落とす。

 

「痛っ!?」

「初対面の人にはどうするんだったか」

「……この人はどちら様ですか」

「うむ、よくできました。私は上白沢慧音と言う。人里の寺子屋で教鞭を執っている」

 

 げんこつの落ちた場所を押さえながら涙目で聞いてくる霊夢に、慧音は目線を合わせて柔和に微笑んで自己紹介をする。

 

「信綱、この子は? お前の子ではないだろう」

「博麗の巫女ですよ。先代に頼まれて教育しているんです」

 

 ちなみに稽古の方向性は信綱が必要だと感じたものを全て教え込む形になっている。教養も覚えさせようとしているのはそのためである。

 彼女の才能は恐らく信綱が一番理解できる。自分と同等の領域まで至れと言うつもりはないが、せめて自分の教え子として恥じないだけのものを身に着けて欲しいのだ。

 

「そうかそうか。君、名前は?」

「……博麗霊夢」

「うむ、霊夢か。良い名前だ。時に信綱、霊夢の学校はどうするつもりだ?」

「私と先代で教える方針ですが」

「それは良くないな。この年頃の子なら同い年の子と遊ぶことも勉強の一つだ。それに二人とも誰かに教えた経験は少ないだろう。ここは私に任せてだな……」

 

 あなたに任せると不安が残る、とは言えない信綱だった。

 何を言うべきか迷っている信綱の内心を見抜いたのか、霊夢がそっと手を引いてくる。

 

「私はどうでも良いけど、爺さんはどうするの?」

「……ちょっとこの子と話しますね」

「ああ、いくらでも待つぞ」

 

 慧音の了承を得て、信綱はしゃがみこんで霊夢と顔を合わせる。

 

「……この人は良い人なんだ」

「見ていてなんとなくわかったわ。きっと楽しいんだってことも」

「それは否定しない。お前も同い年の友達が欲しいか?」

「どっちでも良いけど退屈なのは嫌」

 

 要するに欲しいということである。寺子屋に入る前の歳のくせに、なぜこうも言い回しが素直でないのか。

 ……自分も椿に対しては似たような言葉遣いだったかもしれないと思い返すと、あまり注意する気にもなれなかった。

 

「毎日は難しいがたまになら考えよう。しかし――」

 

 信綱はそこで深刻な顔になり、霊夢はそれに慄いたように固唾を呑む。

 

「しかし、なに?」

「……寝ないようにしろ。俺から言えるのはそれだけだ」

「は? どういう意味?」

「良いからうなずけ、な?」

 

 いつになく真面目な顔で言われてしまったため、霊夢はコクコクと首を縦に振るしかなかった。一体あの慧音という温和そうな人に何があるのか。

 

「話はついたか?」

「ええ。折を見て連れて行きます」

「そうしてくれ。ではな霊夢。君が来るのを楽しみに待っていよう」

 

 自然な所作で霊夢の頭を一撫でして、慧音は去っていく。

 撫でられた頭を押さえて、仄かに顔を赤らめた霊夢は彼女の背中を見つめる。

 

「……撫でられた」

「そうだな」

「母さんにもよく撫でられるけど、違った感じ」

「そうか。嫌だったか?」

「……ううん」

 

 存外、この博麗の巫女は色々な人に愛されるようだ。

 先代みたいに境内の砂利を数えて暇をつぶすような巫女にはなってほしくない、と思いながら信綱は霊夢の手を引いて人里を歩いて行くのであった。

 

 

 

「――というわけで今度寺子屋に連れて行ってくれ」

 

 そして事の次第を先代に報告するのが暗黙の了解となっていた。

 霊夢に稽古をつけさせるための方法が彼女にとって許しがたいものだったようで、今度から逐一彼女に報告することが義務付けられてしまったのだ。

 面倒なことこの上ないが一度引き受けたことを放り投げるのも気が引けるため、信綱は彼女と晩酌を傾けながら霊夢と過ごした時間のことを話すのであった。

 

「はいはいっと。あんたもかなり面倒見が良いわよね。あの子、私が行くと爺さんに何買ってくれたって自慢をするのよ?」

「それ以外にもあるだろう」

「まあ八割以上はあんたが鬼のように厳しいって愚痴ばかりだけど」

「だろうな」

「でも嫌っている様子じゃなかったわ。案外子供に好かれるのかもね、あんた」

 

 ケラケラ笑いながら酒を呷る先代に信綱は何も言わず、自分の分の酒を飲む。

 

「……でも、博麗の巫女が人里に受け入れてもらえるなんてね。私の時は誰も来てくれなかったわ」

「…………」

 

 そう言って信綱を流し見る先代の目には、どうして私の時には来てくれなかったのか、という思いが込められているように見えてしまう。

 

「……今は俺がいる。それでは不満か?」

 

 過去の話をされてもどうしようもないので、信綱は今この状況について語ることにした。

 確かに彼女の過去は決して良いものではないだろう。だが途中で死ぬこともなく無事に役目を終えることができたのだ。その時点で先々代の巫女よりはまともな人生である。

 信綱がそれを伝えると、先代は呆気に取られたような顔で信綱を見てくる。

 

「なんだ」

「いや、あんたが慰めてくれるのは珍しいなって」

「家内を気遣うのはおかしいか?」

 

 そう言うと、彼女は杯に顔を隠してしまう。はて、何かおかしなことを言っただろうか。

 

「……勘違いしそうになるでしょ。あんたが私を好きになったって」

「それはないから安心しろ」

「うっさい。乙女の夢を壊すな」

「乙女……?」

 

 杯を持つ手が裏拳として凄まじい勢いで迫ってきたので首を傾けて避ける。ここにいるのはいつ死んでもおかしくないような爺婆しかいないと認識していたのだが。

 霊力を使える影響か、今でも二人の容姿に顕著な老化は見えていない。強いて言えば信綱の髪に最近、白髪が混じりつつあることくらいである。

 

「はぁ……なんか昔のことを考えるのがバカバカしくなってきたわ。今はまあ、それなりに幸せだし」

「なら良いだろう」

「……ん。ほら、もうちょっと付き合いなさいよ」

「二日酔いにはならないようにしろ。酒癖の悪い母親などあの子も嫌だろう」

「気をつけるわ。……ね、もう少しそっちに近づいても良い?」

 

 信綱が返事をする前に先代は立ち上がり、改めて信綱の隣に座り直す。

 何を言っても来るのではないか、と信綱はため息で了承の返事とする。

 

 肩と肩が触れ合う距離まで近づいた先代としばし無言で酒を飲む。

 

「……こんな時間が過ごせるんだから、博麗の巫女も悪くないのかもしれないわね」

「そうか」

 

 やがて彼女がポツリとつぶやいた言葉にうなずいて、信綱は酒気の混ざった息を吐く。

 そうして、二人の時間はゆっくりと流れていくのであった。

 

 

 

 

 

「当主様、お客人が尋ねておられます」

 

 部屋で書物に没頭していた信綱を、女中の声が現実に引き戻す。

 

「入れ」

 

 書面から顔を上げずに、信綱は無造作にそれだけを言う。

 

「……は? お客人は今、外の方で待たせてありま――」

「化かされる経験が多くてな。この家にいる存在の発音と仕草の癖は全て覚えてある」

「…………」

「――天魔。暇なら正面から来いと言ったはずだがな」

「……参ったねえ。というか旦那、前より人間離れしてないか?」

 

 変化の術を解いて入ってくるのは、天狗の首領である天魔。

 信綱とはしばらく顔を合わせていないのだが、相変わらず楽しそうな笑みを浮かべている。

 

「なんの用だ。見ての通り俺は忙しい」

「そうそう。まずは御阿礼の子が転生したことを寿ぎに来たんだ。おめでとう」

「その言葉が本心なら受け取ろう」

「信用ねえの。まあ良いさ、本命は別だ」

 

 信綱が書物に注意を向けているため、天魔は自分で適当な場所にあった座布団を引っ張ってきて座る。

 目の前の男はちゃんと礼を尽くせばそれなりに礼を返すが、そうでない場合は全くもって冷たくなる。変化の術で化かそうとした今回、彼の優しさは期待できない。

 

「本命とは?」

「おう。貸しておいた天狗をそろそろ返してもらうってのが一つ」

「その後のことは考えているのか? 今の人里はもうどこでも妖怪が見られる場所だ。人間の自警団だけでは抑止になり得ない」

「人間の自警団に貸しておいた天狗を返してもらって、天狗の警備団として人里には協力させてもらう。要するに所属をハッキリさせたいってだけさ」

 

 天魔の言い分には納得できる部分があるので、うなずいておく。

 そこでようやく信綱は書物から目を離し、天魔の方に視線を向ける。

 

「椛はどうする?」

「一旦山に戻ってもらって、そこからはあいつの自由だ。命令で人里に行かせて、問題を起こされるくらいなら向こうから募る形にする」

「数が集まらなかったらどうする」

「文に任せる」

「憐れな……」

 

 サラッと面倒な仕事ばかり任される文に同情の気持ちが湧くが、それだけだった。

 

「まあそこは旦那の気にすることじゃあない。なんだかんだ人里に馴染んだ奴もいるだろうし、ひょっとしたら愛し合うような奴も出てくるかもしれん」

「まだ二十年と少しだろう」

「二十年もありゃ好いた腫れたは十分だ。天狗社会は代わり映えしないからなあ……」

 

 妖怪の社会であれば百年二百年だろうと世代の交代がない。だからこそ天魔がずっと山を治めているし、世代が変わらないから託せる者も出てこない。

 

「いい加減楽になりたいもんだ。遊んでなきゃやってられんよ」

「お前は割りと天職な気もするが……」

「天職であっても、千年以上続けてりゃ飽きるってもんだ。その点で考えればスキマは本当にすごいと思う」

「そういう観点もあるか」

 

 妖怪にしかわからない価値観だろうが、千年以上同じことを続けられるというのは一種の才能だろう。信綱なら途中で飽きて投げ出す自信がある。

 御阿礼の子が絡んでいたら? 万だろうと億だろうと兆だろうと飽きることなどあり得ない。

 

「そうそう。顔ぶれが変わらないからやり取りも変わらない。やり取りも変わらないし、相手の知恵もわかっちまうから、考えることも変わらない。うんざりする」

「俺にはわからん感覚だ」

「わかられても困るさ。旦那は特に長命種になったら色々と不味い」

 

 儚い人間という言葉が嘘に見えるくらいに信綱は力を付けた。この力を保ったまま長命種にでも転身したら、八雲紫が死ぬほど頭を悩ませることだろう。

 彼が存在を許されているのは成し遂げたことへの実績と、彼がもうすぐ死ぬ人間であるからという二点である。そうでなければ幻想郷の大半の勢力を敵に回して勝てる可能性のある人間など放置するものか。

 

「なる気もない。俺は一生人間だ」

「知ってるよ。……全く、長く顔を合わせれば嫌になるってのに、それでも好敵手になりそうな人間が死ぬのは堪えるね」

「俺が死んだら面倒事が減るだろう」

「面倒事、大歓迎。妖怪なんてそんなもんだよ」

 

 つくづく妖怪というのはわからない存在だ。状況が混沌としている方が楽しいなど、信綱には一生理解できない感覚だ。

 

「話はそれだけか?」

「ん、こんなもんだ。一番重要なのは天狗を一旦返してもらうのと、その後新しく組織した面子でそっちの警備に回らせるってこと。あと個人的に旦那と話したかった」

「……いつもの油断ならないお前はどうした。お前なら自分の感情だろうと計算に入れて状況を動かすだろう」

「それができるからって、いつもやってるとは限らないだろ? オレだってたまには感傷に浸りたくなるし、四六時中面倒くさいことを考えているわけじゃない」

 

 面倒くさいという点には同感の信綱だった。特に天魔や紫との交渉は気を抜くと容赦なく自分たちに有利な条件をつけてくるため、一字一句聞き逃せない神経をすり減らすものになる。

 もう一線から退き、自分の言葉にも大した意味がない今となっては気にする必要もないことである。最悪、この場で素っ首を落として行方不明にすれば良い。

 

「……なんか寒気がしたんだが、なにか物騒なことでも考えなかったか?」

「いつも考えていることだ。問題ない」

「物騒な考えであることと矛盾しないよなそれ!?」

 

 さすがに細かい、と信綱は舌打ちでごまかす。

 天魔は信綱の出会った時から変わらない態度に苦笑しながらも、部屋から出て行く気配はない。

 

「……そろそろ出て行って欲しいんだが」

「そんな冷たいこと言うなよ。ちっとは旧交を温めようぜ」

「お前と友誼を結んだ覚え自体がない」

「相変わらずひっでえなあ」

 

 信綱のにべのない返答も予想の範疇だったのか、天魔は笑って受け流す。

 その図太さには見習うべきところがあるのかもしれない。見習ったらいけない部分かもしれないが。

 

「……何が望みだ?」

「お、そうこなくちゃ。ちっと外で歩こうぜ」

「まあ良いだろう。部屋にばかりいるのも気が滅入る」

「変化するけど誰が良い? 希望があるなら聞くぜ?」

「可もなく不可もない男か女」

「適当でかつ難しいところを狙ってきたな……」

 

 今日の夕飯に何が良いと聞かれて、なんでも良いと答えられた子供のような心境の天魔だった。というより範囲が広すぎて希望が全く読めない。

 

「じゃあとりあえずこれで」

「…………」

「待て、冗談だから無言で刀に手を伸ばすのは待て。嫁に化けたのは悪かったって!」

 

 先代の顔になったのでとりあえずその顔をそぎ落としてやろうと思ったら、慌てた天魔が普通の人間の男に変化しなおす。

 ちなみにこれが御阿礼の子だったら本気を出して殺しにかかっていただろう。さすがにそんな見え透いた虎の尾を踏む気はなかったらしい。

 

「旦那、意外と情に厚いよな。認めた相手には気遣いもするみたいだし」

 

 外を歩く天魔の脳裏によぎるのは、彼と最も親しい友人である椛の存在だ。

 ある意味最も容赦がなく、そしてある意味最も信頼されている彼女は、自分の立場がどれだけ貴重なものか理解しているのだろうか。

 天魔の思考を読んだのか、隣を歩く信綱は憮然とした顔で答える。

 

「最低限の礼儀さえ守るなら、こちらも礼を失する真似はしない。それだけだ」

「はは、堅物だねえ。もっと肩の力を抜いた方が長生きするぜ?」

「憎まれっ子世にはばかるという言葉を知っているか?」

「繊細な奴より図太い奴の方が長生きってことだろ。ひどい話だよな。オレほど繊細な心を持っている奴なんて二人といない」

「心と神経は別だからな」

 

 他者の心の機微が理解できなければ群れの長など続きはしない。その点で言えば天魔は繊細な心の持ち主だろう。それはそれとして鋼の神経を持っているが。

 

「手厳しい。まあそれはさておいて……すごいもんだな」

「何がだ?」

「こうして歩いていることだよ」

 

 天魔の指し示す方には人も妖怪も区別なく歩いており、それぞれの営みを形成している光景が存在した。

 最近は人里に移住を考える妖怪も多いようで、彼らに対しての働き口なども検討されている段階だ。

 信綱が交流区画を整備して二十年と少し。妖怪にとっては短い時間だとしても、人間にしてみれば子供が大人になるには十分な時間である。

 

「人間の動きに合わせると変化も目まぐるしい。目が回りそうだ」

「俺はむしろ遅い方だと思っていたが」

「殺し合って、断絶して、お互いに顔も合わせないで。そんな期間が幻想郷の時間の大半だったんだぜ? それを二十年で変えちまった。オレやスキマ、吸血鬼の姫さんと色々時節が重なったにしろ、中心は旦那だ」

「お門違いだな。俺は人間と妖怪の共存にさして価値は見出していない」

「ほう、初耳。そんじゃ何が一体旦那を――」

 

 と、そこで天魔は顔を上げる。

 視線の先には見回り中の天狗がいて、彼女は二人の見知った白狼天狗――犬走椛だったのだ。

 彼女は信綱の姿に気づくと、親しそうに手を振りながら駆け寄ってくる。信綱もそれを見て軽く手を上げることで応えた。

 

「よう、しっかり働いているようだな」

「はい。君は散歩ですか?」

「そんなところだ」

 

 天魔はそっと信綱の影に隠れようとする。

 今の自分はただの村男。信綱は英雄であるが人里の住人。人間と一緒に歩いている姿など不思議でもなんでもない。

 

「で、天魔様はどうして化けてるんですか?」

 

 しかしそんな希望を椛は意識せずあっさり破壊する。

 

「て、天魔? 誰ですかそれは? 私はちょっと英雄様に用があって――」

「いえ、歩き方が明らかに天狗特有のそれでしたし、手足の筋肉の動かし方が天魔様と同じでしたよ。僅かに背中に体重がかかる歩き方は翼を持つ天狗特有です」

 

 天魔は驚いたような顔を演出し、自分は潔白だと言おうと思ったら椛に遮られた。しかも言っていることの内容が天魔をして絶句せざるを得ないもの。

 ちょっと目端の利く天狗程度にしか思ってなかったが、いつの間にこんな一芸を身に付けたのか。

 ここまで見抜かれているのにごまかそうとするのもバカバカしい。天魔は苦笑しながら、村男の雰囲気からいつも通りのものに変わっていく。

 

「参った参った。人混みの中なら文にも気づかれないと思ったんだが。とんだ大穴だ」

「ああ、やっぱり天魔様でしたか。君は気づいて?」

「話し方でな。音の聞き分けは別としても、喉の動きに注目すればわかることもある」

「なるほど。覚えておきます」

「お前ら怖えよ」

 

 率直に言って変態だと口を滑らせそうになりながら、天魔はなんとかそれだけを絞り出す。

 椛は何を言っているのかとばかりに首を傾げていた。もしかして今の観察眼は彼女にとって特別なものではないのだろうか。

 

「……なあ旦那。椛ってあれぐらい普通にできるのか?」

「そこまで難しくないだろう。慣れれば簡単だ」

「わかった、旦那に聞いたオレが馬鹿だった」

 

 あの洞察力を四六時中発揮しろなど天魔でも無理がある。不可能ではないが、恐ろしく疲れるだろう。

 天魔は椛の方を見て、自分がいかにすさまじいことをしたのか全く理解していない彼女の頭を軽く叩く。

 

「いたっ」

「お前さんは哨戒が天職かもしれんな。もうちっと頭が回ってたらオレもヤバかった」

 

 ちょっと本腰据えて椛の処遇を考えねばならなかっただろう。

 これだけの洞察力を備えているなら、少し信綱から教われば人心掌握ぐらい容易く行えるはずだ。

 そうなっていたら彼女の影響力の高まり具合を危惧して、何かしらの対策が必要になっていた。最悪、殺すことも視野に入れねばならないほどの。

 

「は、はぁ……」

「お前はそのままでいいということだ。それよりお前も来い。少し三人で歩こう」

 

 信綱は天魔の僅かな言葉からそれを見抜いたようで、さり気なく話題を変えて歩き出す。

 椛もそちらにつられていく。それを見て天魔も内心で信綱に感謝しながら後ろを歩く。

 

「あ、はい。でも珍しいですね。最近は天魔様、大体天狗の山にいたと思うんですけど」

「お前がオレの動向を知っていることが怖いが……まあ、今は文の動きの管理や河童共の見張りとかで忙しいからな」

「河童の見張りをお前がやっているのか」

「あんまやりたがる奴がいないんだよ……」

 

 誰が好き好んでちょっと目を離したら爆発事故を起こしかねない奴の見張りがしたいのだろうか。信綱だってゴメンである。

 河童に知己のいる椛は、やや煤けた気配を発している天魔に困ったように笑いかけることしかできない。

 

「大っぴらに人里で商売できるようになったからだな。人の流れが活発になるのは良いが、同時に見張りの目も光らせなきゃならん」

「天狗の里でも問題を起こしたことが?」

「あるある。全自動羽つくろい機とか作って、その実羽をむしり取りまくる機械とかもあったんだぜ? あれは痛かった……」

 

 こいつも被害者かよ、とは信綱と椛二人の感想。河童の創造力には舌を巻くものがあるが、同時にその傍迷惑ぶりも度肝を抜くものがある。

 二人がなんとも言えない顔で天魔を見ていることに気づいたのか、天魔は軽く咳払いをして視界に広がる人妖の共存を見つめた。

 

「まあ――昔より今の方がよっぽど楽しそうだ。そう思わねえか、椛?」

「――はい。代わり映えのしない日々に倦んだ人たちも、息の詰まりそうな閉塞感も、今は感じません。幻想郷の全てが光っている」

 

 もはや交流区画のみならず、人里全体で当たり前のように繰り広げられる人妖の日常。

 それらを見つめて目を細める椛の脳裏には何が去来しているのか。

 椿の死を知って、共存を決意した瞬間のことかもしれないし――もしかしたら、場所を区切っての人妖の共存が成し遂げられたあの日のことかもしれない。

 

「天魔」

「うん?」

「あの日、共存と答えた俺に賛同してくれたこと、感謝している」

「……そりゃこっちの台詞だ。あのどうしようもない閉塞感を打ち破ってくれるような奴を待っていたんだ。感謝したいのはオレの方だ」

「珍しいな。お前がそんなことを口にするなんて」

「今はただの村男。村男は腹芸も演技もしないっての」

 

 肩をすくめる天魔の姿に信綱は軽く笑う。

 信綱は椛の隣に立ち、天魔にも手を差し伸べる。

 

「ほら、行くぞ。お前が見たかったものを見せてやる」

「……ハハハッ、あんたはやっぱり人誑しだよ!」

 

 何を言っているんだ、という信綱の顔とその隣で苦笑する椛。どうやら彼女も信綱の言葉に翻弄された口のようだ。

 天魔は信綱の隣に並び、そのまま三人で人里の中を歩いていく。

 

 

 

 ――人間一人と天狗が二人。奇しくも、信綱にとって最も馴染みのある人妖の姿がそこにはあった。

 

 

 

「……椛」

「はい」

「満足したか?」

「……いえ、まだまだです。これから幻想郷はもっと良くなっていく」

「そうか。だったら見届けないとな」

「はい。――あなたがいなくなっても、私は変わらず幻想郷を見続けます」

 

 椛がポツリとつぶやいた言葉に、信綱が返事をすることはなかった。

 ただ、一言だけ。

 

「お前になら、託しても良いのだろう」

 

 椛にも聞こえない声量で、その言葉は虚空へと溶けていくのであった。




子供なので最低限の加減をしつつ、色々と教えこむノッブ。やるからには手抜きとかしない人です。

そして天魔。適当に生きているように見えて、色々と考えている。でも色々考えているけど適当。
彼もきっとスペカルールが制定された後の幻想郷でも適当にのらりくらりと生きていくことでしょう。いきなり山の中腹にドカンと神社ごとやってくるとかなければ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

姉の悩み

しばらくは霊夢出ずっぱりの予定。新しい主人公だからね、きっちり書いていきたいしね。


「はっ!!」

「ありがたいな、武器をくれるのか」

 

 霊夢の双手が振るわれ、光を浴びて微かに煌めく退魔針が信綱目掛けて飛んで行く。

 本来なら霊力を纏わせて対妖怪に使うものだが、針が刺されば痛いのは人間も変わらない。

 急所に刺されば殺傷性もある。しかし霊夢にはそれを躊躇う余裕など一切なかった。

 

 このジジイを相手に出し惜しみなんてしたら、一瞬で殺される。

 

 事実、霊夢が投げた針は全て空中で掴まれて相手に武器を渡したも同然の結果になっている。

 

「返すぞ」

「っ!」

 

 軽く手首を返す。たったそれだけの動作で投げられる退魔針は、しかし霊夢が全力で投げたそれに匹敵する速度。

 だが、霊夢は空が飛べる。軽やかに宙を舞い、飛んでくる針を全て避けて信綱の方を見据え――

 

 ――眼前に迫る追撃の針を見る。

 

「――っ!?」

 

 咄嗟に首をひねってなんとか避ける。当たっても骨に弾かれるであろう額を狙っていたのだけがせめてもの優しさか。

 しかし、避けることに集中してしまった上、首をひねったことにより視界から相手を外してしまった。

 当然、信綱にそれを見逃す理由などなく。

 

「投げ物は相手の回避先に置くように使え。ただ投げるだけでは当たらん」

「きゃ――」

 

 空中にいる霊夢へ結界を足場に接近し、その頭を掴む。

 そしてそのまま地面に重力に従って急降下を始める。

 

「――終わりだ」

「きゃああああああああああああああ!!」

 

 無論、直撃する直前で勢いを緩める。彼女に傷を負わせるような失敗はしない。

 地上に着地した信綱は掴んでいた頭を離し、霊夢の顔を見る。

 ふてくされたような、悔しそうな。そんな顔で霊夢は信綱を見上げていた。

 

「……また負けた」

「そんなにすぐに勝てると思っていたのか」

「真面目に修行すればすぐだもん。母さんも術の成長がすごいって褒めてくれるし」

 

 口ではそう言いながらも、先は長いと霊夢は感じていた。

 この男に負けて以来ちゃんと言われた通りの修行をしているというのに、今なお武器を持たせることもできていない。完全に遊ばれている。

 

「そちらは俺も見てやれんからな。成長著しいのは良いことだ」

 

 そんな彼女の悔しさなど全く知らぬとばかりに信綱は霊夢の頭に手を伸ばし、軽くその頭を撫でてやる。

 撫でられた霊夢は驚いたように頭を押さえて、信綱から距離を取る。

 

「なぜ逃げる」

「いや、爺さんが褒めてくれるなんて思わなかった」

「お前は俺をなんだと思っているんだ」

「子供をいじめるのが趣味な鬼畜」

「課題追加な」

「ほら鬼畜!!」

 

 絶対に無理な課題は出していないのだ。こなす霊夢が悪い、と責任転嫁しつつ信綱は霊夢から背を向ける。

 

「今日の予定はわかっているな?」

「あ、うん。寺子屋に連れてってくれるの? 本当に? 騙して山で修行とかないわよね?」

「もう一度聞くがお前は俺をなんだと思っているんだ」

「優しくて強いお爺ちゃん」

「心にもないことを言うな気色悪い」

「こんな爺さんで母さんは良いのかしら……」

 

 達観したようなしみじみとした声音で、霊夢は信綱の妻という先代のことを案じるのであった。

 そうして寺子屋に行くことが決まった霊夢は部屋から勉強道具を持ち出していると、信綱も何か包を持って外で待っていた。

 

「お待たせ。……爺さん、それは?」

「弁当だ」

「母さんの!?」

 

 目を輝かせる霊夢。一応彼女はここで一人暮らしをしているが、まだ子供であることもあり先代はほとんど毎日ここで食事を作っていた。

 彼女の料理も自炊をずっと続けてきたからか、十二分に美味しい部類に入る。まして愛娘に食べさせるもの、手を抜くなどあり得るはずもない。

 だが、今回はそうではなかったので信綱は首を横に振って否定する。

 

「俺が作った」

「なんだ、爺さんが……爺さんが!?」

「なぜ二回も俺を見る」

「爺さんって料理できたの!?」

「できないと言った覚えはないな。そら、行くぞ」

「あ、待ってよ!」

 

 霊夢が小さい足で追いかけてくるのを待ち、彼女の速度に合わせて人里に向かっていく。

 そうして着いた寺子屋の前には慧音がニコニコと笑いながら霊夢のことを待っていた。

 

「よく来てくれたな、二人とも。霊夢もおはよう」

「おはようございます。えっと……今日はお願いします」

「ああ、任された。良い教育を受けているな」

 

 ちゃんと初対面の人と、尊敬できる人には敬語を使うように教えこんだ甲斐があるというものである。

 特に霊夢は天衣無縫な気質があるのか、誰が相手でもへりくだることやおもねるということをしない。

 それ自体は別に信綱とは関係がないので、好きに振る舞って好きに恨みでも買えば良いんじゃないだろうか、と言いたいところなのだが、自分が教えるとなれば話は別だ。

 

 博麗の巫女という役目を担う以上、どうあがいても余計な恨みや妬みを買うのは必至なのだ。

 この上さらに自分の言動で恨みを増やすなど愚の骨頂以外の何ものでもない。自分から進んで負の感情を買いに行くなど馬鹿のすることである。

 なので信綱は霊夢に最低限の礼法と相手への接し方も教えるようにしていた。

 

「では信綱。後で彼女を迎えに来るのか?」

「そちらは先代に任せてあります。元より彼女の面倒は一部だけしか見ない取り決めですから」

 

 というより阿求も生まれている今、信綱が優先すべきなど一つしかないのだ。霊夢の教育に関してはそれをしている間にできた時間で、という約束になっている。

 霊夢のことを嫌っているわけではない。天稟の持ち主であり、若年ながら負けん気も相応に強いのだ。誰かに稽古を付けていて、相手の強くなる速度に楽しさを覚えるなど初めてのことだった。

 しかし、それでも自分は阿礼狂いである。自分の楽しみなど御阿礼の子のために生きること以外にあり得ない。

 そう考え、信綱は自分をやや険しい目で見てくる慧音に頭を下げる。

 

「申し訳ありません。私は彼女の親にはなれません」

「……そうか。お前ほど長く生きたのならひょっとして、と思ったんだがな」

「私は変わりませんよ。そのつもりなどないのですから」

 

 そう言って、信綱はその場を下がる。去り際に寺子屋に入った霊夢を一瞬だけ見て、何かを言うことなく立ち去っていく。

 彼女には自分と先代以外のつながりが必要なのだ。どちらも老齢であることもさることながら、自分は完全に常人とは違う価値観に生きている。

 子供時代に知り合うのが先代と自分の二人だけでは、彼女の情操教育に多大な歪みをもたらすことは想像に難くなかった。

 

 彼女が博麗の巫女であっても友人を作ってはいけない道理などない。物好きな人間は探せば一人や二人、いるものである。

 自分と友人でいてくれた勘助や伽耶のような存在を得てもらいたい。そんなことを願って、信綱はその場を後にするのであった。

 

「爺さん、あの人の授業メッチャ眠くなるんだけど……」

「……寝なかったか?」

「ゴメン、意識飛んだ」

「……感想は」

「冗談抜きに天国が見えた」

「そうか……」

 

 後日、期待していたものとは違う――しかしある意味で予想通りな報告を霊夢から受けて、ほんの少しだけ肩を落とすことになった。

 

「だからあれほど念を押しただろう」

「だって知らなかったんだもん! あの人の授業があんなに詰まらないなんて! どうなってるのあれ!?」

 

 慈愛あふれる微笑みと明朗快活な口調から紡がれる、ある種手品とすら思える要領を得ない上無駄に長い教訓話。

 公私に渡って付き合い続けてきた信綱でもあれを何度も聞きたいとは思えないものだ。

 それをよく遊び、よく眠ることが仕事の子供が聞いたらどうなるのか。結果など目に見えている。

 

「……人里の人間が誰しも一度は通る門だ」

「…………爺さんも?」

 

 無言でうなずく。寝たのは一度だけだが、眠気に襲われたのは一度や二度では聞かない。

 

「だったらなんとかしてよ!」

「バカを言うな。俺が子供の頃どころか、俺の父親すら子供の頃から寺子屋をやっているんだぞ」

「その時からあれなの!?」

 

 目をそらす。下手の横好きというべきか、そもそも才能がないのか。

 向き不向きは何にでも存在するが、あの人はそれが少し極端に出てしまっているのだろう。人間、欲しい才能ばかりが手に入らないとはよく言ったものである。

 

「爺さんの方がよっぽど上手じゃない。先生に教えてあげたら?」

「途方もなく落ち込むのが目に見えているからやめておく」

「爺さんにも頭の上がらない人はいるのね」

「あれ以外は本当に素晴らしい人だからな……」

 

 霊夢の頭にできた特大のたんこぶを氷を包んだ布で冷やしながら、話題を変えることにした。慧音の教え下手についての愚痴を語り合ったところで誰も幸せにならない。

 

「で、どうだった?」

「……まあ、悪くはないわ。みんなお子様だけど」

「お前もその一人だ。良いか、お前は俺が鍛えているから身体も頭も同年代に比べれば優秀だろう。――だが、人というのはそれだけではない」

 

 頭が良くても解けない問題などいくらでもある。力が強くても解決できない事態などいくらでもある。

 信綱にだってどうにもならない問題というのは存在する。ましてや子供の霊夢など、できないことの方が多い。

 

「お前は博麗の巫女だ。今は先代が代わりにやっているが、いずれは一人でここで生きることになる。……そうなる前に友人でも作れ」

「……爺さんは友達っているの?」

「寺子屋からの付き合いがな。俺には過ぎた友人だ」

 

 彼が見せた輝きを知っているからこそ、信綱は霊夢にも友人を作ることを願うのだ。

 今はまだ価値がわからずとも、それは決して無為になることはない。

 

「……それに、お前の母親は友人がいないことを悔いていたぞ」

「母さんが?」

「ああ。境内の砂利を数えて暇をつぶしていたくらいだ」

「うわぁ……」

 

 霊夢の顔が青ざめる。未来の自分を想像したか、母親の見たくない醜態を思い浮かべてしまったか。

 母親の威厳が失墜したことに許せ、と内心で彼女に謝罪しつつ、信綱は言葉を続ける。

 

「そうなりたくなければ人里に行く理由ぐらい作れ。友人はそのためでも構わん」

「それでいいの?」

「ああ」

「だったら楽でいいわ。好きな時に一人になれるってことだし」

 

 お前にそんな器用な真似はできない、と思っているが口には出さない。

 この霊夢という少女、口では色々と達観したようなことを言うが、その実お人好しで困っている人も放ってはおけない性質だ。

 博麗の巫女が守らなければならない掟――平等であれ、ということを教えるにはまだ早いのだ。今ぐらいは好きにさせてやって構わないだろう。

 信綱は十分に冷えたであろう霊夢の頭に手を乗せ、その目を見る。

 

「……なによ」

「知り合いを増やせ。輪を広げろ。一人を好むのは、多くの人を知ってからでも遅くはない」

「……?」

「子供は難しいことを考えずに遊べということだ。さて、稽古でもするか」

「あ、ちょっと友達との用事思い出した!! 魔理沙ってうるさいやつなんだけど、無視するのも悪いわよね!!」

 

 さっきまで言っていたことを一瞬で翻して逃げようとする彼女の首根っこを掴む。

 恐る恐るといった様子でこちらを振り向く彼女に、信綱は笑みを浮かべてやる。

 

「――さ、やるぞ」

「鬼――!!」

 

 この日を境に、霊夢は信綱の鍛錬から逃げるために友達を増やすようになったのはまた別の話である。

 

「解せぬ」

「……まあ、良いけどね。友達が増えるのは悪いことじゃないし」

 

 ちなみに先代からは結果良ければ全て良しということで許してもらえた。

 

 

 

 

 

 レミリアはよく人里にやってくる。

 美鈴を伴ってやってくることもあれば、一人で日傘を片手に人里をふらふらと歩いていることもある。

 総じて言えることとして、概ね人里にいる彼女は暇をつぶすためにやってきているため、目一杯楽しもうと気力はつらつとした姿を見せていることが多い。

 そんな彼女が今日も人里に来て、真っ先にある家を訪ねる。

 

「はぁぁぁぁ……」

「…………」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

「…………」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

「…………」

 

 レミリアが顔を上げた先にいるのは、五十年前に自身を打ち負かした存在が机に向かって黙々と書き物をしている姿だ。

 筆がなめらかに動き、文字が綴られていく様を眺めながらレミリアは自分の方に向くように手を伸ばし、顔をこちらに向けさせる。

 

「ねえ、そろそろ反応してくれると私は嬉しいかなって」

 

 強引に顔を動かされた側である信綱は迷惑そうな顔を隠さず、冷淡な口調で告げてくる。

 

「忙しいから帰れ」

「傷心の私を慰めようとかないの!?」

「傷心だったのか。てっきり集中したい俺に対する嫌がらせだとばかり」

「さすがにそこまで陰険じゃないわよ!?」

 

 もう十二分に邪魔はされているので、信綱は眉間に手を当ててシワを揉みほぐすようにしながら改めてレミリアと相対する。

 

「で、なんの用だ。何もない? じゃあ帰れ」

「勝手に自己完結しないで!? 用はある! すっごいあるから!」

「面倒な」

「言い切った! 隠す気も見せずに面倒だと言われた!」

 

 実際面倒なものは面倒なのだから仕方がない。

 彼女がここまで凹んでいるように見せる内容など、信綱には一つしか思い当たらない。

 そしてその思い当たった内容は信綱が力になれるかわからない――否、ほぼ確実に力にはなれないものだ。

 通常の関係ならある程度定石というものがある。しかし彼女の関係は常人のそれとは一線を画する。

 

「大方妹のことだろう。力になれんと思うから他所をあたってくれ」

「そこまでわかってるのに面倒だって言い切られたことがショックだわ……」

 

 うなだれるレミリアだが、立ち去ろうとする様子はない。諦める気はないようだ。

 じっと懇願されるように見上げられ、信綱は渋面を作りながら大きなため息をつく。

 

「……話だけは聞いてやる。その上で俺が無理だと判断したら諦めろ」

「やった! おじさま大好き! 愛してる!」

「お前は一度決めたら曲げないからな。遺憾ながら、誠に遺憾ながらそれぐらいはわかる」

 

 パッと顔を輝かせるレミリアと向かい合い、彼女の話を聞いていく。

 

「フラン……妹の話は覚えてるかしら? だいぶ前の話だと思うけど」

「覚えている。全てが破壊できる能力を持っていて、地下に幽閉されているお前の妹のことだろう」

「なんで覚えてくれていたのか理由を聞きたいような……あ、ゴメン、やっぱ言わないで。それ聞いたら今度こそ泣きそう」

 

 特に理由などなく、信綱は大体の話の内容は忘れない。阿礼狂いである彼にとって御阿礼の子以外は全て等しくどうでも良い存在だが、そうであるがゆえに誰の話だろうと覚えておくようにしていた。

 どうでも良い存在であることと、彼らを軽視しないことは矛盾しない。彼らが自分にとって重要な情報を持っていないとも限らないのだ。

 なのでレミリアの話も覚えていた。それを当人に伝えると今度こそ崩れ落ちそうなので黙っておくが。

 

「話を戻して。その妹と対話を試みたのよ」

「有言実行は好ましいな」

「勇気が出たのは最近だけどね」

 

 ちなみに話題に出たのは阿弥が亡くなってすぐの頃である。今は阿求が生まれているので、大体十年以上は二の足を踏んでいる計算になる。

 そのことを指摘すると話が長くなると第六感で察し、信綱は何も言わないことにした。妖怪の尺度で考えれば十年の足踏み程度、短いものなのだろう。多分。

 

「で、話に行ったのよ。スペルカードルールのこととかもあるし、その辺を伝えに行こうとね?」

「結果はどうなった?」

「全然ダメ。蛇蝎の如く嫌われて……ってほどではないけど、やっぱり良い感情は持たれてない。メッチャ冷淡な対応された」

 

 そのことを思い出したのか、レミリアは再び机に突っ伏す。

 結果が予想できていなかったわけでもないはずだ。それでもこれだけ落ち込んでいる辺り、彼女は彼女なりに妹を愛しているのだろう。善意が物事をこじれさせた例などいくらでもある。

 しかし信綱は予想できた反応があったこと自体に感心の声を上げた。

 

「なんだ、意外と健全じゃないか」

「え?」

「自分を幽閉した相手に良い感情など持つはずがないだろう。そこで慕情を向けてくる相手の方が恐ろしい」

「…………言われてみれば、確かに。喜んで飛び込んでこられたらそっちの方が困惑するかも」

 

 信綱の観点はなかったようで、レミリアは口元に手を当てて驚愕する。

 どんな理由があっても自分を地下に幽閉したレミリアを妹が嫌うのは当然の話であり、レミリアにも予想できていたことだ。

 そう、予想通りの反応(・・・・・・・)をしてきたのだ。気が触れていると言われていた妹が。

 

「参考までに聞くけど、おじさまが阿弥に幽閉されたら気を悪くする?」

「別に。それがあの方の幸福に繋がるならそれ以上の喜びはない」

 

 それでもう一度会いに来たなら喜んで相手をするだろう。レミリアの妹のような真っ当な感情は持たない。

 

「あ、私の妹ってだいぶマシな気がしてきたわ」

 

 その考え方は五十歩百歩の可能性が極めて高いが、あえて指摘はしなかった。どのみち苦労をするのはレミリアである。

 

「でも悪感情通り越して無関心に近いのよ……どうしたら良いと思う?」

「それも予想通りだろう。ずっと顔を合わせていないならそれはもう他人と変わらん」

「まあ、その通りだけど……おじさまは両親とかはどうしていたの?」

「母の顔は知らん。父はいたが、別に家族とは思わなかった」

 

 ついでに言えば吸血鬼異変の際に戦った烏天狗とのそれで、彼を肉壁として使うことで勝利をもぎ取っている。

 父のことをちょっと便利な道具程度にしか思っていなかったのだ。ある意味レミリアのところ以上に不健全な家族関係だと自分でも思う。

 

「家族じゃないならどうしていたの?」

「普通に顔を合わせれば話もするし、総会の時には剣も交えていた。まあ、仕事上の相手程度か」

「無視とかしないの?」

「それをすることによる利益が何かあるのか?」

 

 別に嫌っているわけではないのだ。ただどうでも良いだけで。

 信綱はレミリアの質問から彼女が妹にされたことのおおよそを理解し、指摘する。

 

「お前、無視されたんだな?」

「うっ……その通りです、ハイ」

「だったらまだマシだということもわかったな?」

 

 無視をするというのは、本当に無関心ならできることではない。

 相手がそこにいるとわかっていて、そこから自分の意志で見なかったことにする。

 要するに見えているのだ。きちんと意識されているのだ。ずっと幽閉して顔も合わせていない妹と、なまじ普通の姉妹のような会話ができる方が恐ろしい。

 

「ハイ。そして私の妹はだいぶ健全だということもわかりました」

「わかってくれて何よりだ。お前がすべきことはわかるな?」

「根気良く話していこうと思います」

「それが無難だ。大体、幽閉してからどのくらいの年数が経つ?」

「……四百年以上、かな?」

 

 信綱はその時間の長さに腕を組むしかなかった。さすがに妖怪の尺度は人間のそれとは全く違う。

 自分がレミリアの妹なら、レミリアのことなどさっさと忘れて地下での生活を楽しくすることを考える。

 意識してもらえるだけまだ情は失われていないのだろう。これもまた妖怪の特徴と考えるべきか。

 

「本来ならその年数の分、ちゃんと向き合い続けて信頼を稼げと言うのが定石なんだぞ。無碍にした時間は長く、しかしよりを戻す時間は短くしたい、というのがどれだけ自分に都合の良い理屈か、わからないお前ではあるまい」

「はい……」

 

 いつの間にかレミリアは正座して信綱の言葉を聞いていた。

 そのようにかしこまられると逆に困ってしまう信綱。偉そうなことを言っているが、自分の言葉は基本的に狂人が人里でやっていくために身に付けた条件反射のようなものである。

 理屈の上ではこうだ、という誰でも少し考えればわかることを述べているだけなのだ。

 

 とはいえレミリアは紅魔館の主であり、相談できる相手は紅魔館の面々を除いたらロクにいない。

 かなり自由に生きているように見えるが、あれで彼女も部下に対して見せてはいけない一線ぐらいは決めてあるはず。

 そう考えると信綱の元に来るのは、彼女なりに甘えているのかもしれなかった。自分より明確に強く、自分を打ち負かした相手にこそ、自分の全てがさらけ出せるのだと。

 

「なになに、じっと見てきて。……ハッ!? まさか恋!?」

「ちょっと真面目に考えてやろうと思ったがやめた」

「ウソウソ冗談ですレミリアジョーク! ホントすんませんっした! 自分空気読めてませんでした!」

 

 ……無論、今のはただ単に信綱の考え過ぎであり、彼女は全てが素の自分という可能性も捨て切れないのだが。

 ペコペコ頭を下げるレミリアに特大のため息をついて、信綱は自分の時と照らし合わせて方法を考えていく。

 

「……お前、どこまで覚悟できる」

「へ、覚悟?」

「そうだ。その妹と仲良くするために、どこまで犠牲にできる?」

「どういう意味か聞いてもいいかしら」

 

 信綱の言葉が決して冗談や虚言の類ではなく、本気で言っていることを読み取ったのだろう。

 レミリアは自然と佇まいを正して彼の言葉に耳を傾けていた。

 

「言葉通りの意味だ。お前も四百年以上幽閉してきた妹とよりを戻すのが、いかに虫の良い考えかぐらい理解できているだろう」

「まあ、そうね」

「殺されても文句は言えない。それだけのことだな?」

「……そうね」

 

 それを聞いてうなずく。実は妖怪の世界にとって四百年幽閉されることはちょっと頭にくる程度で済む話、とかだったら打つ手がなかった。

 彼女の事例であれば、ある程度は自分の体験が流用できるだろう。

 

「だったら簡単だ。それを教えてやればいい」

「どういうこと?」

「お前に殺されても構わない。それだけの覚悟を持って会いに来たと伝えろ」

「……意図はあるのよね?」

「俺が昔、友人に同じことを言われた。俺に友情など示したところで返してやれる保証などないというのに、それでも友誼を示した男がいる」

 

 あれを見た時思ったのだ。自分は狂人であり、それは終生変わらずとも――目の前の男の決意を自分の手で踏みにじりたくはない、と。

 

「俺と同じである保証などない。ひょっとしたらお前が殺されて終わるだけかもしれない。――だが、お前が妹にそれだけのことをしたと自覚があるのなら、捨てて初めて見えるものもあるはずだ」

「……私に勇気がなくて、それを示すことができなかったら?」

「さて、時間が解決するなんて陳腐な言葉もある。幾星霜の年月が必要かは知らんが、いつかお前が大人になった時に解決するかもしれないし、あるいは永遠に仲違いしたままかもしれん」

 

 別に珍しいことではない。兄弟だから、姉妹だから仲良くしなければならないなんて道理はない。近しいからこそ許せないなんてものも世の中にはありふれている。

 火継の家にも兄弟は存在する。どちらも阿礼狂いなので、御阿礼の子の側仕えになる唯一人になるために互いに互いを敵視していることだろう。

 

「確認するぞ。お前は妹と仲を取り戻したいんだな?」

「……ええ。思えば私が逃げて、私が蓋をしたようなものよ。虫の良い話だっていうのは自分が一番よく理解している。――だから、命を懸けるわ」

 

 瞳を閉じて自らの胸に手を当てる彼女の姿に、信綱は何も言わず瞑目する。

 彼女にとって譲れない一線なのだろう。誰であれ真摯な願いを笑うほどの畜生になるつもりはなかった。

 

「……そうか」

「ええ、そうなの。わらにもすがる思いでおじさまのところに来たのだけれど、無駄ではなかったわね。覚悟を決められたわ」

「……俺は当事者ではない。何を言っても第三者の戯れ言以上にはならないし、一番辛いのはお前だ。だが――良い結果になることを願っている」

「――」

 

 レミリアは目を見開いて信綱を見る。大体辛辣なことを言ってきた信綱が優しいことを言うのに驚いてしまったのだ。

 そんな顔をされたことに、信綱はやや心外そうな顔になる。

 

「……俺は人の真摯な願いは笑わん。それは俺にとっての御阿礼の子と同じくらいに重いのだろう」

「そ、それと一緒にされるとちょっと自信ないけど……でも、そうね。おじさまにそう言ってもらえると嬉しいわ」

「帰るか?」

「そうさせてもらうわ。おじさまと話す時間も惜しいくらい、あの子の顔が見たいの。……今になって気づくなんて遅すぎるかしら」

「お前の努力次第だ。なに、心配するな。お前が失敗してその妹が暴れたとしても、人里に被害が来る前に俺が殺してやる」

 

 後先考えるような性格だとも思っていないがそれでも後のことを考えないで済むよう、信綱も軽口を叩く。

 

「それを聞いたら、頑張らないわけにはいかないわね」

 

 困ったような、嬉しいような。レミリアが信綱に見せる表情としては珍しい部類のそれを浮かべて、彼女は信綱の元を去っていくのであった。




次回は閑話になるかもしれません(フランとレミリアのお話)
霊夢が出ずっぱり? 何の話ですか?

ノッブはフランのことはなんかおっかない能力があって幽閉されている、ぐらいしか知らないので、割りと言っていることは適当です。狂気を持っていると言われてもどんなものか知りませんし。

でも狂人としての観点は持っているので、レミリアの力にはなれます。自分を閉じ込めた相手が会いに来たら怒る? 当たり前じゃね? といった風に。ノッブの場合は本文にある通り。

閑話を書かなかったら次回は椛が出る予定。あとはいい加減あっきゅん出さんとな……!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 ある姉妹のお話

フランとレミリアのお話になります。主人公はほぼ出ません。


 最近、にわかに周りが騒がしい。

 音も光も届かない静寂の中、静かに本を読んで過ごすのが自分の趣味であり、ルーチンワークであるというのに。

 

 うるさいのは嫌いだ。苛々する。

 苛々するというのは良くないことだ。時に殺意すら浮かぶこともあった。

 そして今日もまた、ドタバタとうるさい足音が聞こえてくる。

 

「……はぁ」

 

 ここ百年ほど、自分の周りは明るくて本を読むのに楽だ。

 いつの間にか大図書館に居着いていたあの紫の魔女のおかげである。

 姉の友人であるということが欠点だが彼女の知性には見るべきものがあった。あまり饒舌でなく、話し過ぎると喘息の発作を起こしてしまうので長話ができないのが辛いところだ。

 

 この足音はその魔女ではない。彼女は意外と動きたがるが、喘息と運動不足が相まってロクに動けない。こんな軽快な足音など夢のまた夢だ。

 うるさいのがまたやってきた、と少女は手元に置いてあった本を手に取る。

 文字の海に目を落とすと同時、扉が勢い良く開かれて今日もまた鬱陶しい相手がやってくる。

 

「へいフラン! フランドールちゃん! 今日もお姉さまがやってきたわよ!」

「…………」

 

 無視して本を読む。うるさいのは相手にしないのが一番だ。

 フランドールと呼ばれた黄金の髪と宝石の羽を持つ吸血鬼は、白銀の髪と蝙蝠の羽を持つ姉の来訪を心の底から嫌がっていた。

 なぜってほら、うるさいのは嫌いなのだ。

 

「あら? 今日は本を読んでいるのね。よっしゃ、私が読んであげるわ!」

「…………」

 

 手を伸ばしてフランの読む本を取ろうとしない辺り、最低限の気遣いはある。これすらなかったら、フランは姉であろうと殺していた自信があった。

 どうにも自分は気が触れているらしい。自分では自覚がないが、周囲がそう言うのならそうなのだろう。

 

「むかーしむかし、あるところにお爺さんとお婆さんがおぅふっ!?」

「ちょっと静かにして」

 

 勝手に盛り上がって勝手に絵本を読み始めたので、蹴っ飛ばして黙らせる。

 本を読みながら放たれる蹴りだが、そこは吸血鬼。レミリアのみぞおちに深く突き刺さった。

 

「おぉぉぉぉ……! な、なかなか腰の入った良い蹴りね……」

 

 上述の通り、適当に放ったものである。フランは姉が苦悶の声を漏らすのも気にせず本を読む。

 知識というのは素晴らしい。知識の翼を広げて旅立つ想像の世界は、フランの周りをあっという間に豊かな世界へと変えてくれる。

 なまじ外の世界を知らないがゆえに、フランの想像は自由だ。無知であるからこそ許される空想の世界。そこでは吸血鬼は当たり前に人間と暮らし、たまに出てくる吸血鬼よりも強い人間たちと仲良く生きる。

 

 大体の本でも人間は吸血鬼より弱いとあったので、空想の世界でぐらい逆転させてみたかったのだ。対等な存在がいるということは、想像により深みを持たせる。予定調和の世界など考えてもつまらないだけだ。

 さておき、フランが本を読みながら意識の片隅を空想の世界に飛ばしていると、受けたダメージの回復したレミリアがゴキブリのように這い上がってくる。

 

「不死鳥! そこは不死鳥でお願い!?」

「燃え尽きて死んでくれない? あとうるさい」

「……! ……!! ……!!!」

 

 無言で、なおかつ足音や衣擦れの音まで消したレミリアが器用にフランの周りをうろちょろする。うざい。

 フランは自分の額に青筋が浮かぶのを自覚する。いつもなら無視していれば勝手に出て行くはずなのに、今日に限ってやたらとしつこい。

 

「……ねえ」

「っ! なに、フラン――」

「うるさい。――殺すよ?」

 

 睨みつけ、軽く手のひらを開いたり閉じたりする。

 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。フランにとって、世界の全ては破壊できるものに分類される。

 どうせ全部同じならば、その中でも自分に利益をもたらすものを重宝するのは当然の話であり、本は彼女にとって優秀な相棒だった。

 

 この姉は――正直、理解し難い存在だった。

 わからないものは遠ざければ良い。遠ざけても近づくのなら、その時は壊せば良い。

 これでも気は使ったのだ。ならばもう良いだろう――

 

「構わないわよ」

「……本気?」

 

 眉をひそめる。いつもの姉ならば、適当なところで切り上げて帰っていくというのに。今日はなかなか退かないし、脅しても態度が変わらない。

 もしかして自分に殺しはできないと高をくくっているのだろうか。であれば心外も良いところである。世界が全て硝子細工のフランにとって、肉親であろうと殺すことは容易い。

 

 ――幽閉される前にお前の前でそれをしてみせただろう。

 

「馬鹿にしてる? 血縁だから殺せないとでも思ってるの? 私がオマエの目の前で殺した――」

「ええ、覚えているわ。でも、それを考えるのなら私は顔を出さない方が良い。違う?」

「……だったらなんで来るのさ。鬱陶しいよ」

 

 訳がわからない。気が触れていると言ったのはそちらではないか。幽閉したのはそちらではないか。

 フランは自分より早く生まれた姉が言うのなら、間違いはないのだろうと考えてその通りにしていたのだ。

 音も光も届かない空間は孤独だが心地よい静寂があった。自分を脅かすものも、煩わしいものも何もない。目をつむり、静かに眠っていればそれなりに幸せだった。

 

「まあでしょうね。実にご尤もな意見だわ」

「知的な言葉使わないで、なんかイライラする」

「知的な要素あった今の言葉!?」

 

 なので静寂の空間に押し込めた張本人であり、そして今その空間を破壊しようとしているレミリアの行動が、フランにはわからなかった。

 閉じ込めるなら一生閉じ込めておいて欲しかった。この地下にあるものはフランのお気に入りのものばかりの、踏み込まれたくない空間なのだ。

 

「お姉様は地上で好きに生きれば良いじゃない。私はお姉様に関わりたくないの」

 

 というより、可能なら誰とも関わりたくなかった。言語が衰えない程度の、必要最低限の付き合いさえあれば良かった。

 人との関わりは、フランにとって未知の領域だ。未知の領域であるということは、どんな結果になるかわからないということ。

 フランには常にその関係を一瞬で終わらせる力が備わっている。だが、その力を使うことに今はあまり良い印象を持っていなかった。

 

 破壊するということは、その存在を終わらせるということ。十巻まで続く小説を三巻で終わらせてしまうことに等しい。

 あるはずだった残りの命はどうなるのか。そして見たいと思った結末すらも捻じ曲げてしまった果てに、自分の手元には何が残るのか。

 

 幽閉されるきっかけとなった事件のことを、フランは自分の過ちであると定めていた。まあ人生そんなこともあるさ、程度の罪悪感だが。

 

 故に能力を使いたくはないのだ。世界は硝子細工で壊すことは造作もないが、自分の手で直すことはできない。あるいはそれは、二度とお目にかかれないほど美しいものであるかもしれないのに。

 

「ここでじっと本を読んでいたい。たまに入ってくる骸骨も、妖精メイドもどうだって良い。食糧さえくれるなら私は一生ここにいる」

「……どうしてそう思うのか、聞いてもいいかしら?」

「お姉様でしょう? 私の気が触れていると言って、ここに閉じ込めたのは」

 

 それにもう地上で過ごした年月より地下で過ごした年月の方が遥かに長いのだ。フランがこちらでの生き方に適応するのも当然の話であり、慣れ親しんだ環境を変える理由が見当たらないのも当たり前のことであった。

 とはいえそれを素直に言ってやるのも、なんだか姉に譲った気がして癪だ。なのでフランは意図して禍々しい笑みを口元に浮かべ、レミリアの顎に手を添える。

 

「それとも。お姉様は私に狂っていて欲しいのかしら?」

 

 それはそれで構わなかった。周囲が自分を狂人と呼ぶのなら、きっとその通りなのだろう。であれば狂人の振る舞いも可能である。

 フランのそれを見たレミリアは一瞬だけ気圧されたように慄いた顔になるものの、すぐにグッと下腹に力を入れて喝を入れる。

 

「私は――あなたと話がしたい」

「私にはないわ」

「私にはあるの。恥知らずなことを言っている自覚はあるわ。だから殺したくなったらいつでも殺してくれて構わない」

「……そんなことが言えるなら――」

 

 フランは自分が何を言おうとしているのか理解してしまい、言葉を途中で切ってレミリアを突き飛ばす。

 

「……出てってよ。お姉様は私からこの場所まで奪うつもりなの」

「……わかった、また来るわ」

 

 もう来るな、という言葉は不思議とフランの口からは出なかった。

 入ってきた時とは打って変わって、静かに部屋を出て行く姉の音を背中越しに聞き取り、フランはベッドに身を投げ出す。本を読む気はすっかり消えてしまった。

 

「はぁ……」

 

 自分の場所が侵略されるのは誰だって腹が立つ。レミリアにとっての紅魔館がそうであるように、フランにとってはこの部屋が自分の場所だった。

 それが今、フランの世界をこの場所に押し込めた張本人の手によって壊されようとしている。

 本当なら怒り狂っていてもおかしくないことだ。地上の自由を奪われた自分が、せめて地下で好きに生きようとすることの何が悪い。

 

 だというのに、本気で怒れない。いや、頭に来ているのは確かなのに殺そうという気になれなかった。

 自分で自分がわからない。さっさと殺してしまった方がフランの好む静寂は早く戻ってくるというのに、なぜかそれをする気になれない。

 

「……寝よ」

 

 考えるのも億劫だ。空想の世界は自分を慰めてはくれない。鬱々とした気分ばかりが募る前に寝てしまおう。

 フランは何も知らなかった。知識ばかりが多くなる世界にあってなお、自分の心の見つめ方さえも知らない少女だった。

 身も蓋もないことを言ってしまえば――頭でっかちになってしまった子供なのである。

 

 憐れむべき点はただ一つ。そんな子供に与えられてしまった、世界を硝子細工に変貌させる力の存在。

 良かれと思ってやった。お気に入りの硝子細工(レミリア)に手を上げようとした硝子細工(父親)を破壊した。

 

 弾ける血の赤も、ぶちまけられた内臓の臭気も、真っ赤に染まる骨の破片も。フランにとっては全てわかってやったこと。

 褒めてもらえると思った。掃除を頑張った幼子のようにご褒美がもらえると思った。だからこそ無邪気に笑った。

 

 

 

 ――気が触れている。それがフランに下された評価だった。

 

 

 

 そしてそれ以来、この地下で静かに過ごしている。

 結局のところ、自分は姉が好きだったのだろうか。四百年以上も経過してしまった今となっては、もはや遠い過去の記憶。答えなど出せるはずもない。

 では今はどうなのだろう。……それも四百年顔を合わせていなかったのだ。わかるはずもない。

 

「……うるさいなあ」

 

 脳裏によぎるレミリアの姿が鬱陶しい。何も考えず本の世界に没入していたあの頃がはるか昔に思えてしまうほど、フランの思考は姉の姿で埋め尽くされていた。

 自分はどうしたいのだろう。何か言い表せないものが腹の中に溜まっていく感覚を覚えながら、フランは今日も快眠とは程遠い眠りへと落ちていくのであった。

 

 

 

 

 

「今日も私が来たわよ! しかも今日はおやつ付き!」

 

 あまり眠れた気がしなかった。フランは眠気の色濃く残る頭を揺らしながらレミリアを迎える。

 寝起きの目にはレミリアよりも、レミリアの手にあるクランベリータルトの方に目が行く。

 爽やかなクランベリーの甘みとタルト生地のサクサクとした食感が相まって、なんとも言えぬ幸福感が広がるのがたまらないのだ。

 最近は手に入る食材の関係上、なかなか作れないとかで出てくることは稀だがフランの大好物であることに変わりはない。

 

「んー……お姉様、頂戴」

「へっへっへ、物で釣る作戦はだいせいこ――うっ!?」

 

 眠かったのでレミリアの手からタルトを奪い取ると、彼女を蹴っ飛ばして壁に叩きつける。今は彼女の妄言よりも食べ物が欲しかった。

 

「いただきまーす」

 

 もそもそと口に運ぶ。その間レミリアは悶絶していたが自分の腹を満たすことに比べたら些細なことだ。

 

「さ、最近お腹を蹴られたり罵倒されたり痛い目しか見ていない気がしてきたわ……」

「あ、もう帰っていいよ」

「似たようなことをよく言われるからそっちは慣れてるわ!!」

 

 帰れと言ったのに、なぜか胸を張るレミリアがよくわからなかった。

 フランは聞こえるようにため息をついて、ベッドの側においてあった本を手に取る。

 

「ねえフラン、少しお話しない?」

「気が触れている妹と話したいの?」

 

 オマエがそう呼んだくせに、そんな意味を言外に含ませた皮肉にレミリアは苦痛を堪えるような顔になるものの、帰る素振りは見せなかった。

 

「……あなたが本当におかしいのかを確かめたいの。……ごめんなさい、少し正確な言葉ではなかったわ。それに家族のことになるとつい茶化しちゃうのも私の悪い癖ね」

「…………」

 

 ムカムカする。レミリアの言葉を聞いていて、フランは自分の臓腑の底から何かが湧き上がってくることを自覚する。

 その感情をどのように処理すれば良いのかわからないフランの困惑を他所にレミリアの言葉は続く。

 

「あなたの気が触れていてもいなくても、どちらでも構わない。……今まで理由も話さず急に押しかけてきて悪かったわ。さぞかし困惑したことでしょう」

「どちらかと言うと鬱陶しいの方が大きかったかな」

 

 フランの言葉にレミリアは困ったように笑うばかり。

 そうして彼女は決定的な。それこそ今のような無関心と一方通行の感情の関係のままではいられない――決定的なそれを口にする。

 

 

 

「――あなたと、もう一度姉妹になりたいの」

 

 

 

「……私、お姉様って呼んでいるけど聞こえてなかった?」

 

 知らず、拳が握り締められる。それがどんな感情に基づいてのものなのか、フランにはもうわからなかった。

 紡がれる言葉は静かなものであるが、すでにフランの頭は沸騰寸前に煮えたぎっていた。

 名前のつけられない思いがグルグルと腹の中を渦巻き、頭を赤熱させていく。

 

「それが形式上のものであることくらい、私にもわかるわ。私は――幽閉される前みたいにあなたと仲良くしたいの」

 

 レミリアの言葉を聞いて、フランの中で何かが固まった。

 殺意ではない。彼女を一瞬で壊すことは容易いが、それではフランが納得できない。

 

「…………だ」

「フラン?」

「今さらだ!!」

 

 レミリアの胸ぐらを掴み、床に叩きつける。吸血鬼の暴威を受けた床が凹み、ひび割れるが知ったことではない。

 

「オマエが言ったんだろう!! 私は狂っていると!! オマエが閉じ込めたんだろう!! 私の居場所はここしかないと、オマエが言ったんだ!!」

 

 倒れたレミリアへ馬乗りになり、フランはその拳を振るう。

 力の上手い伝え方を知らない子供の殴り方。しかし振るわれるは怒りの魔力がこもった吸血鬼の双腕。同種の頭であろうと陥没させるに足る威力があった。

 

「…………」

「四百年! いや、そんな時間なんてどうだって良い!! 自分の都合で閉じ込めて、自分の都合で謝るのか!! ――私はオマエに振り回される人形じゃない!!」

 

 殴っても殴っても治る。夜の吸血鬼はうんざりするほどしぶとい。

 いっそ壊してしまおうか、という誘惑がフランの脳裏に浮かぶがすぐに却下する。この力を使っては本当に一瞬で終わってしまうのだ。まだ――自分の怒りは収まってなどいない。

 

「私にはもうここしかないんだ!! 皆、皆オマエに奪われた! 関わらないならそれでも良いって思ってたのに、どうして……どうして今になってそんなことを言う!!」

 

 もっと早くに言ってくれたのなら、違う答えがあっただろう。あの日、父親を殺した理由が思い出せなくなってしまうほど時間が経っていなければ、フランは姉への感情が消え失せることなどなかっただろう。

 激情のままに口から紡がれる言葉を、フランはどこか他人事のように驚愕すらしていた。

 

 というより、激情を言葉にするに耐え得る喉をまだ持っていたことに驚いていた。普通に会話をすることは稀にあったが、こんな風に叫んだことは幽閉される前にも記憶にない。

 自分にもこんなに強い感情が残っていたのか。フランは感情に従ってレミリアの喉元に手を這わせる。

 そしてさっきまでとは一転して静かな、それでいておぞましさを感じさせる声を姉の耳元でささやく。

 

「私も昔は子供だったからね。お姉様が何を思って、何を奪ったのかなんてわからなかった。でも今ならわかる。――お姉様の大切なもの、全部奪ってあげようかしら?」

「…………」

 

 これまで無言でフランの暴力を受け続けてきたレミリアの表情が強張る。

 きっと恐怖に強張っているのだ、と相手を屈服させる快楽に浸ったフランがそう考えたのは一瞬。

 次の瞬間には殴っていた手を掴まれ、あっという間にレミリアがフランの身体を下にしていた。

 

「え、えっ?」

「――私だって、それぐらいわかってるわよ!!」

 

 フランは何も知らない。馬乗りになった相手であろうと、隙さえあれば簡単にひっくり返せることなど。本による知識ばかりが増えてしまっていたがために、実際に動かすことでわかる知識というものが絶望的に不足していた。

 要するに経験。レミリアにあってフランにないものが、この場においての主導権を握る一因となっていたのだ。

 

「自分がどんなに都合の良いことを言ってるかなんて! 私が勝手に遠ざけて、それが悪いことだって気づいたから謝る? ふざけるなって話よ!! 私がフランの立場だったら問答無用でぶっ殺してるわ!!」

 

 ならなぜ殴る、とフランはレミリアの拳を受けながら思う。

 悪いとわかっているのなら近づかないなり何なりできただろう。謝って許されることではなく、また自分が同じことをされて怒るのなら、フランの怒りもわかるはずだ。

 

「それでも!! それでもやるしかないのよ!! あの頃みたいに笑うことができなくても! またあなたと一緒にいたいって思っちゃったんだから!!」

「――巫山戯るな!!」

 

 レミリアは一度握った優位を手放さない利点を知っていた。ある人物から嫌というほどその身で味わわされた。

 だが、この場においてはフランの執念が勝った。

 憤怒が力となり、レミリアの身体を強引に突き飛ばして立ち上がる。

 

 その手には魔力で作られた炎の剣が握られ、レミリアに対して向けられていた。

 

「謝ってどうにかなるとでも思ったのか! そんなはずないのよ! 私も! オマエも! もう取り返しなんて付かないんだ!!」

 

 良かれと思って父親を殺した自分。そんな自分を遠ざけて蓋をしたレミリア。

 どちらも等しく許されないことをした。もはや何も知らず笑っていた頃には戻れないのだ。

 フランはそれを受け入れて自分の空間に閉じこもろうとした。レミリアもそれに甘えて何もしていなかったが、彼女は外の世界に出る自由があった。

 

「違う!!」

 

 レミリアはフランの言葉に反論する。その理屈だけは認めるわけには行かなかった。

 自分の行いを無意味と認めるようなものであるし、何より彼女が見てきたものはそんな理屈を鼻で笑うようなものばかりだった。

 人間との関わりの中で学んできた。取り返しの付かない出来事が確かに存在しても、その後に新しい形を築くことはできるのだ。

 

「あなたが殺したお父様はもう戻らない!! 私はあなたから一度逃げ出した!! ――でも私たちがもう姉妹に戻れないなんてことは絶対にない! あったとしても認めない!!」

 

 フランが炎の剣を作ると同時、レミリアもまた魔力の槍を作り上げる。

 紅の色に輝くそれに、レミリアはその場で即興の名を付ける。

 

「あなたともう一度姉妹になる!! なってみせる!! ――グングニル!!」

「だったら燃やしてあげる! そんな愚かな妄想も何もかも! ――レーヴァテイン!!」

 

 どちらも吸血鬼伝承の生まれたルーマニア地方――欧州の神話から取られた名前。

 片や勝利をもたらす槍の名を。対し妹はその槍の担い手を滅ぼし尽くした魔剣の名を。

 自らの意志を貫いて勝利を求めるレミリア。過去は覆らず、罪悪も消えることはないと叫ぶフラン。

 両者がぶつかり合った瞬間、紅魔館は今までにない激震に包まれるのであった。

 

 

 

 

 

 結論から言うと、二人の勝負に決着はつかなかった。

 部屋があった、という面影すら見えなくなるほど激しい戦いを行った二人は、精も根も尽き果てた様子で膝をつく。

 

「や、やるじゃないフラン……胴体がぶった切られた時は死ぬかと思ったわ」

「お、お姉様こそ強かったわよ……。外で遊んでばかりいたわけじゃないんだ……」

 

 減らず口を叩き、やせ我慢で余裕の笑みを浮かべようとして、そこで二人とも崩れ落ちる。

 もう動く気力も何もない。――だからこそ普通に話すことができる。

 

「……フラン」

「なに」

「謝れというならいくらでも謝るわ。私はあなたにそれだけの仕打ちをしたし、殺されたって文句は言えないことをしてきた」

「知ってて来たお姉様って、率直に言ってバカなんじゃないの?」

「バカじゃなきゃこんなことやらないわ」

 

 取り返しの付かないことだと承知の上で突撃を繰り返していたのだ。馬鹿でなければ誰もやらないだろう。

 だがレミリアが望むものを手にするには、それをする必要があった。だから彼女は迷わず行った。それだけの話である。

 

「……わかんないよ」

「フラン?」

「私にはわからない。お姉様がそんなに必死になって求める姉妹の価値なんて。それは今まであったものを壊してまで手に入れる価値があったの?」

「私にとってはあった。……あなたはどうかしら」

「……わからない」

 

 フランは倒れていたことで回復したのか立ち上がり、レミリアから背を向ける。

 それを見たレミリアも立ち上がり、フランの背中を見る。

 

「……これ、直しておいてね」

「わかってる。美鈴に後でやらせるわ」

「なら出てって。私は眠いの」

「…………」

 

 顔は見えない。しかし声音から感じ取る彼女の心は否定を表しているように聞こえた。

 ここまで言ってダメだったのなら、もう本当にどうしようもないのかもしれない。レミリアの心に諦観が浮かび、彼女らしからぬ弱々しい表情になる。

 

「……そう。騒がせて悪かったわね、フラン。……あなたが嫌がるようなら――」

「……次は」

「え?」

 

 フランの首が動き、レミリアに横顔だけを見せる。

 その横顔は身体を動かしたものとは違う赤みが差していた。

 

「……次は、いつ来る」

「……フラン」

「勘違いしないで。もう部屋を壊されたくないから、心の準備がしておきたいだけよ。私はまだそんな気にはなれない」

 

 言葉以上の意味は本当にない。さっきの戦いで本音をぶつけ合えたかもしれない。お互いのことを理解できたかもしれない。

 それでも四百年の溝は深い。レミリアもフランも、すぐに普通の姉妹になるには時間が経ちすぎていた。

 だが、レミリアは一歩を踏み込んで、フランはそれに応えた。それは決して揺るがぬ事実でもあり――

 

「あ……え、ええ! 次はちゃんと部屋に入る時はノックするわ!!」

「いや、もっと前から話を持って――」

「フランのお休みの邪魔しちゃいけないわよね、それじゃお休み! 良い夢を見るのよ!!」

 

 思い立ったが吉日と言わんばかりの行動をやめて欲しいというフランの願いだったのだが、叶えられることはなさそうだ。

 誰が見ても舞い上がっているレミリアはまるで羽の生えたような足取りで部屋を出て行ってしまい、フランはそれを見送ることしかできなかった。

 

「……はぁ」

 

 今から追いかける気力など残っていない。それに自分の意図を伝える手間もある。

 面倒なので次来た時に嫌味を言って発散するとしよう。

 フランはなんとか燃え尽きていないシーツを寄せ集めて一日分の寝床だけは確保する。

 およそベッドに寝ていた時とは比較にならない寝心地の悪さだが、一日ばかりの辛抱だ。

 

 これでは今日眠るのは苦労するだろうな、とフランはすでに蕩け始めた意識の中でぼんやり思う。

 意識が完全に眠りに落ちる寸前、フランは一つのことに気づいて小さな笑みを漏らす。

 

 

 

 ――そういえばお姉様のこと、うるさいとは思わなくなったな。

 

 

 

 慣れてしまったのか、それともフラン自身が気づいていないだけでまだ彼女を姉として慕っている部分があるのか。

 答えはわからないが――そう悪い気分ではないのだ。きっと良いことなのだろう。

 その日、フランは夢も見ないほどの深い眠りを久方ぶりに享受するのであった。

 

 

 

 

 

「おじさまの助言通りにやったら変化があったの! おじさま素敵、抱いて!!」

「帰れ」

「フランの時に学んだの、おじさまのそれは照れ隠しだって」

「本心だ」

「さあおじさまの本心をさらけ出して! 私が受け止めてそうやって仲は進歩していくの!」

「帰れ」

「あれ、無限ループ!?」

 

 フランとの関係が進展とは行かずとも、変化があったことを喜んだレミリアが報告に行ったところ、いつも通り過ぎる辛辣な対応を受けたのはまた別の話である。




このお話でのフランちゃんは頭でっかちの子供、というイメージで書いてます。本を読んでいるから知識はあるけど、肝心な部分がまだわかっていない。

そして話に出ることもなく死んだスカーレットパパン。良いよね、殺しやすいし(暴言)
まあなんか事件があって、犯人は良かれと思ってやったフランちゃんで、おぜうはそれを見てビビって幽閉してしまった、という顛末だけわかっていれば問題はありません。

グングニルとレーヴァテインとかなんか色々と壮大ですが、要約すると昔の事件で疎遠になってた二人が盛大に喧嘩してちょっとだけ仲良くなったお話です。先はまだ長い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

いつか訪れる別れの前に

これから休日出勤だぜフゥーハハァー!!(白目)はい、今月は更新頻度落ちそうです。
さすがに23時帰宅の日々では小説が書けん(´・ω・`)


「せいっ!!」

 

 霊夢の小さな拳と足が縦横無尽に動き、相手の身体に一撃入れようと忙しなく動く。

 空を飛ぶ程度の能力を所持するため、彼女は誰よりも空を浮くことが得意だ。

 それを活かして放たれる攻撃は軌道が読みづらく、時に意図しない方向から来ることもある。

 

 とはいえ空中に浮かんで行う攻撃は踏み込みができない。体重を乗せることも空中に浮いていればできない。

 必然、霊夢の動きは勢いと遠心力で攻撃の重みを増す方法になり――信綱から見れば、地上で戦うよりも隙が増えているように見えてしまう。

 

「攻撃は最大の防御というがな。下手な攻撃は相手にとってはカモでしかないぞ」

「え、きゃっ!?」

 

 片手の掌で全てを捌いていた信綱が、受け止めた足を握って反撃に出る。

 一瞬だけ足を強く握り、解放。お前の足を折ることなどいつでもできた、と行動に含ませて霊夢の腹に強めの掌底を放つ。

 と、そこで霊夢がニヤリと笑うのを信綱は確かに見る。

 彼女は自分から後ろに飛ぶことで攻撃の勢いを弱め、どうにか戦闘不能になることだけは避けて跳躍し――姿が消える。

 

「――これで!!」

「甘い」

 

 後に亜空穴と名付けられる瞬間移動に近い術。それによって信綱の後方上空に一瞬で現れた霊夢に対し、信綱は振り返らずその手を伸ばす。

 その手は全てが予定調和であるかのように、攻撃に転じようとしていた霊夢の足を掴み取る。

 

「嘘っ!?」

「あんな目で、しかも意味の感じられない跳躍などしてもなにか来ると警戒を強めるだけだ。やるなら予備動作なく、そして引っ掛けも織り交ぜろ」

 

 相手がいきなり目の前で消えたら後ろを警戒するのが鉄則である。尋常の一騎打ちの経験以上に、一対多の戦いに慣れてしまっていた信綱にとって、背後の警戒は当然のものだった。

 そして掴んだ足を今度は手放さず、地面に向かって振り下ろす。

 

「きゃ――」

 

 霊夢の身体が地面に叩きつけられる前に手を放し、彼女の身体を片手で支えてやる。

 そして地面に立たせて、信綱は悔しそうな涙目でこちらを見る霊夢に改善点を伝えていく。

 

「終わりだ。引き出しが増えるのは結構なことだが、どう使えば相手の隙を作れるのか考えろ」

「考えたわよ! 爺さんがあっさり対応するのがおかしいだけだって!」

「ある程度以上強い妖怪は大体こんなものだ。天狗は風の流れでお前がどこにいるかなど簡単に理解するだろうし、鬼になると避けたと思っても風圧で身体が持っていかれる。吸血鬼は恐らく肉を切らせて骨を断ってくる。人間は一撃受けたら終わりで、向こうはそうではない」

「なにそれ理不尽」

「それが妖怪だ」

 

 本当にうんざりするくらいしぶといのだ。霊力が使える分、多少は楽かもしれないがそれでも多少止まり。戦いを劇的に変えてくれるほどの効果は見込めない。

 

「だから強くなれ。お前は将来、妖怪と一人で戦うことになる。そうなっても負けない力がないと……」

「ないと?」

「お前の母親の上。先々代のように誰に知られることもなく妖怪の腹の中、だ」

「…………」

 

 ぶるっと身震いさせる霊夢。少々脅かしすぎたかもしれないと思いながらも、何かを言うことはなかった。

 侮るくらいなら恐れる方が良い。恐れで力が発揮できなくなっても困るが、恐れているなら逃げを考えることができる。侮っていたらそれすら浮かばない。

 

「さて、ここで身体を動かすのはこのぐらいにしておこう」

「え? まだ組手五本ぐらいしかやってないわよ? ……まさか、休み!?」

 

 ちなみに全力で身体を動かして行う何でもありの組手のため、五本もやっていれば十分多い部類に入る。

 普段は二十、三十と人間の限界に挑戦しているような回数を行っており、霊夢もそれが普通だと感じてしまうようになっていた。

 ともあれ瞳を輝かせる霊夢に対し、信綱はその期待を裏切るように首を横に振る。

 

「残念ながらハズレだ。今回は場所を変えて組手を行う」

「場所を変える? どうして?」

「いつも開けた場所で戦えるとは限らないということだ。森に逃げ込んだ妖怪を退治するには森に入る必要がある」

 

 空を飛べる霊夢にとって、空間の限られる森での戦いは全く別物になるだろう。

 ならば今のうちに体験させておくべきだと判断したのだ。

 

「やること自体は変わらん。だが、場所が違えば戦い方も変わってくるし、勝手も変わる。ぶっつけ本番よりは前もってやっておいた方が良いだろう」

「それはそうだけど……爺さんは大丈夫なの?」

「どういう意味だ?」

「爺さんは森の中とかで戦えるの? ほら、爺さんの戦い方って結構正統派な感じするし」

 

 そう見られていたのか、と信綱は内心で感心する。

 確かに自分の戦い方は系統立った武術に基づいている。平地での戦いは基本的に火継の戦闘術と、実戦で身に付けた動きでどうにかしていた。

 その観点で言えば霊夢の言葉は正しい。一般的に邪道とは正攻法で勝てないからこそ行う奇策であり、通常の力で勝っていれば必要はないという考えだった。

 

「よく見ているな。今日の夕餉は好物にしてやろう」

 

 そしてそれを見抜いた霊夢に対する褒美は忘れない。子供のやり方を引き出す方法もいくらか慣れてきていた。

 ……実際のところは爺さんと呼び慕う男が見せる優しさそのものに霊夢は喜んでいるのだが、その辺りには気づいていなかった。

 

「やったっ! って、実際のところはどうなのよ?」

「お前はどう思う? 素直に感じたところで構わないから言ってみろ」

「え、うーん……ここで戦うよりやりやすそう、かな? 私の動きが制限されるって言っても、爺さんだってそれは同じでしょ?」

「うむ、残念ながら不正解だ」

「え?」

「――俺は狭い場所で戦う方が得意だ」

 

 その後、有言実行とばかりに森の中での組手を行ったが、霊夢は方向感覚と相手の気配が読みにくくなる森での戦闘に散々苦戦させられることになる。

 

「ほらほら俺はここだぞ」

「天狗か何かかジジイ――――!!」

「もうそこに俺はいないぞ」

「げっ!?」

「そら、終わりだ」

 

 縦横無尽に木々の間を蹴って動きまわる信綱に、霊夢は何もできず撃ち落とされるのであった。

 そしてどんな戦闘でも霊夢以上の強さをあっさり出してしまう信綱に、霊夢はほんの少しだけ人間不信に陥りかけたのだがそれはまた別の話である。

 

 

 

 

 

 九代目となる御阿礼の子。稗田阿求は元気な少女だった。男勝りとすら表現しても良い。

 信綱からしてみれば身体の弱い阿七、阿弥と続いていたので丈夫な子は嬉しいくらいなのだが、日々泥だらけになって帰って来るのは心臓に悪いのでやめて欲しかった。

 子供は失敗するのが特権でもあり、無茶をする自由がある。しかし時に無茶で済まない場合もあるのだ。

 信綱は四六時中目を光らせているが、それでも子供の命はほんの一瞬で潰えることもある。

 だから許されることならいつだって見守っていたいのだ。

 

 ちなみにこれを先代に話したところ、全く理解できないという反応をもらった。理解のない妻で残念である。

 同い年に生まれた友人もいるため、今は彼女と毎日遊び回っている。

 そんな二人が目に余る危険なことをしないよう、密かに目を光らせつつ、彼女の遊びという名の冒険の戦果を聞くのが信綱の日々になっていた。

 

「それで小鈴ったらお菓子を落として大泣き! 仕方ないから私のお菓子を半分あげたの」

「阿求様はお優しいですね。ご友人も笑ったことでしょう」

「食べる前は半泣きだったけど、食べたらすぐ笑い出したわ! きっとお祖父ちゃんのお菓子のおかげよ!」

「恐縮です。しかし、小鈴嬢にとって一番嬉しかったのは阿求様の優しさですよ。菓子をあげるとは良いことをしましたね」

 

 膝の上で一生懸命語る阿求の頭を優しく撫でる。

 彼女が自分に望むのは祖父という役割。であれば信綱は信綱なりにそれを演じるだけである。

 ……もう御阿礼の子の家族であることにも慣れてしまったのか、今の姿が演技なのかどうかは自分にもわからないのだが。

 

「えへへへへ……」

 

 はにかんだように微笑む阿求。ゴツゴツと固く、しかし優しい祖父の手を堪能してから、阿求は立ち上がって机の前に座り直す。

 

「さて、父さ――んんっ! お祖父ちゃんが頑張ったから今の人里は妖怪が当たり前のようにいるわ」

「ええ、阿求様がお産まれになるまでの間に、交流区画を徐々に人里全域へ広げる試みを行っておりました」

 

 それは恐らく数年の後に完成すると見込んでいた。そして完成すると同時に人間と妖怪の蜜月は終わりを告げるだろう。

 

 これまではどちらもおっかなびっくりに交流していた――要するに非日常の部分だった。それが日常に変わる時が来ているのだ。

 日常になれば様々な軋轢も生まれるだろう。家族でも喧嘩をすることがあるのだ。全く違う価値観の持ち主同士で摩擦が起こらないはずもない。

 そういった意味で言えば、信綱が死んだ後こそ本当に人妖共存の試練はやってくるのだ。

 

「うん、お祖父ちゃんの言いたいことはなんとなくわかる。私も日々遊んでいるように見せかけて、人里の様子を見ていたの!」

「左様でございますか。阿求様は慧眼であらせられる」

「……ごめんなさい、遊びたかったから遊んでました」

「ええ、知っております。子供は遊ぶのが仕事ですよ。ですが、同時に見ていたのも事実でしょう。そういった意味で阿求様は聡明です」

「うぅ、お祖父ちゃんの意地悪……」

 

 手放しで褒め称える信綱に、阿求は顔を真っ赤にして縮こまる。おふざけが通じない固いところは彼の欠点とも言えるところだったというのに、今の彼はそれすらも逆手に取っていた。

 阿求が照れてしまっているので、信綱は話題を変えることにする。今の彼女を眺めていられるのは至高の幸福だが、そんな自分の幸福より御阿礼の子を考えて行動するのが阿礼狂いである。

 

「それで市井を眺めて阿求様が感じたこととは一体何でしょう?」

「あ、えっと……幻想郷縁起の中身を変えたいと思ったの」

「縁起の中身を?」

 

 はて、と信綱は首を傾げる。あれは妖怪の対策本であり、共存が成し遂げられた今でもあの本の重要性は揺らいでいない。

 なにせこちらは儚い人間の集まり。百年もすれば今いる人間は皆死に絶え、全く新しい人間が生まれてくる。

 そんな中で正しい歴史を伝えるなど土台無理な話であり、妖怪との仲が悪化する時も確実に来るはずだ。

 そうなった時、人間が一方的に蹂躙されないためにも情報は必須である、と信綱は考えていた。

 自身の考えを伝えたところ、阿求にも同意するようにうなずかれる。

 

「私もそう思う。今は良くても未来はわからない。お祖父ちゃんが言いたいのはそういうことよね?」

「はい。無論、今より良くなるのが理想ですが、そうはならない可能性も考慮すべきでしょう。そういった意味で対策を怠るべきではないかと」

「お祖父ちゃんは私の提案に反対?」

「まさか。今のは私の意見であって、阿求様が一顧だにする必要などございません。阿求様が望まれるのであれば、私はそれを叶えるために微力を尽くします」

 

 ことの正否などどうでも良い。阿求が望むならそれが正義であり、阿求が否定するならそれが間違いだ。

 

「ありがと、お祖父ちゃん。……私は未来をより良いものにしたいから、私にできることをしたいの。だから幻想郷縁起を単なる対策本から変えてみたい」

「どのように変えたいのか、心算はあるのでしょうか?」

「うん。まだ大雑把だけど人間との価値観の違いや面白いところ、良いところも書いていきたいの。もちろん、危険度とかは載せるよ?」

「ふむ……それでは見目なども見てもらえるように、絵も入れましょうか。阿求様が求めるのは単純な読み物ではなく、娯楽としての一面も持つ縁起ですよね?」

「そう、それ! お祖父ちゃんさすが!!」

「褒めてもおやつが豪華になるくらいですよ」

 

 要するに効果はあるということである。さすがに体調を崩すほどの量は与えないが、基本的に甘えられたら際限なく甘やかす方だ。

 

「見てためになって、読んで面白い! そういう幻想郷縁起を作りたいの!」

「それが阿求様の願いであるなら、私も喜んでお供いたしましょう」

「うん。それで……その、お祖父ちゃんは大丈夫?」

「ご心配には及びません。今でも元気は有り余っているくらいです」

 

 比喩抜きで。人間、四十や五十になれば若い頃とは違うことを思い知ることが多いと聞くが、今もって信綱の身体にそういったものを感じたことはなかった。

 身体の動かし方に熟練しているというのもあるだろう。若い頃と同じ動きを、あの時より少ない動作で再現することができる。

 

「それにもうすぐ新しいルールも制定されます。それらの先駆けとして阿求様の幻想郷縁起は大きな価値を残すでしょう」

 

 微笑む信綱に阿求も笑い――ふと、大人びたそれになる。

 

「……ねえ、父さん」

「何でしょう、阿求様」

 

 その呼び方に阿弥を思い出すも、信綱は阿求の名を呼ぶ。今、目の前にいるのは阿七と阿弥の記憶を持った阿求なのだ。彼女の奥にある懐かしい影よりも、阿求の方を見なければ彼女に失礼である。

 

「父さんはずっと頑張ってきたよ。こうして今だって私に仕えてくれる。……それに甘えてまた私はワガママを言ってしまう」

「仰って良いのですよ、阿求様。私の幸せはあなたの側にいることです」

「……私はお祖父ちゃんとどのくらい一緒にいられると思う?」

「私はあなたが願うなら――」

 

 離れたくないと言うのなら人間をやめよう。そう言葉を続けようとして、頭を振って阿求に遮られる。

 

「ダメ。お祖父ちゃんは頑張ってきたから、休まなきゃ」

「……それで阿求様は大丈夫なのですか?」

 

 信綱の心中にあるのは不安。自分の死後のことではない。そちらは安心できるように動いてきたし、後のことを任せそうな存在にも心当たりがある。

 しかし、自分の死が彼女に悲しみをもたらしてしまう。それは本意ではなかった。

 そう信綱が問いかけると、阿求はどういったものか悩んだ様子になる。

 

「……確かに、お祖父ちゃんと別れるのは辛いと思う」

「でしたら――」

「でも、それが私の役目だとも思ってる。ノブ君、父さん、お祖父ちゃん。人間はいつか死んで、後の人に託していくものなの。私はずっと見送られる側だったけれど、お祖父ちゃんは私が見送りたい」

 

 年齢に見合わない成熟した瞳で、阿求は信綱を見る。

 その目には阿七、阿弥、阿求と三代に渡って彼女の側に居続けた存在に対するあらゆる想いが凝縮されており、信綱は咄嗟に言葉が出なかった。

 代わりに浮かぶのは微笑み。自分が御阿礼の子を思うのは当然のことだが、彼女にここまで思ってもらえるとはまさに阿礼狂い冥利につきるといったものだ。

 

「……では、一つ約束をしましょうか」

 

 信綱は穏やかに笑ったまま、膝の上にいる阿求の前にそっと小指を差し出す。

 

「約束?」

「ええ。――私は遠からずあなたの前で暇乞いを致します。その時に笑って暇を出してください」

 

 死は、いつ来るかなど生者にはわからない。しかし阿七、阿弥と看取ってきた信綱には自分の死が来る瞬間を、予見することができる自信があった。

 具体的な時間まではわからないが、脈絡もなく理解する時が来るのだろう。――今が自分の死ぬ時である、と。

 その時が御阿礼の子に暇を願う時であり、彼女との永遠の別れの時となる。

 そしてその別れに涙はあってほしくない。阿求の泣き顔を見たくない、という自分のこと以上に御阿礼の子が大切な阿礼狂いらしいワガママ。

 

「……っ、わかった。お祖父ちゃんの前では絶対泣かない。だからお祖父ちゃんも……笑ってね?」

 

 いつかはわからない――しかし必ず訪れる別れを想像してしまったのだろう。阿求の目には涙が溜まっていた。

 それが溢れぬよう指で拭い、信綱は笑うことにした。彼女が泣くまいとしているのだ。心配をかけまいとしているのだ。ならばそれを無にするのは失礼だろう。

 

「ええ、もちろん」

 

 小指と小指が絡まり、指切りが行われる。

 

「ゆーびきーりげーんまーん……」

 

 約束を破っても針千本は飲めなさそうだな、と信綱は心の中で苦笑しながら約束を交わす。

 笑って彼女たちを見送った自分が見送られる存在になる。そのことに対して浮かぶのは悔いではなく、強い充足感。

 阿七と阿弥が己の短い生を駆け抜けたように、自分もまた生に区切りを付ける時が近づいているのだ。

 阿求に見送られて旅立つのだ。それはきっと良い物になるに違いない。

 

 信綱はいつか来る別れの時を穏やかな気持ちで迎えられるだろうという確信を、この日に獲得したのであった。

 

 

 

 

 

 その日、椛が家にやってきた。

 もう人里の自警団に協力するという役目は終わっているので、純粋に私用ということになる。

 今となっては大手を振って天狗も人里に来れるようになっているが、珍しいこともあるものだと信綱はそれを迎え入れた。

 

「あ、あのですね……」

「どうした」

 

 ちゃんと玄関から、変化をすることもなく訪ねてきてくれたのだ。信綱も無下にはしない。

 部屋に案内し、冷たい茶を用意したのだがどうにも彼女の様子がおかしい。

 

「えっと、その……ああ、恥ずかしい……」

「……?」

 

 具合が悪いとかそういった意味ではなく、妙にそわそわしているのだ。

 顔を赤くし、耳や尻尾が所在なさ気に揺れている。

 一体何が恥ずかしいのか、皆目見当もつかない信綱には首を傾げるしかなかった。

 

「……ええい、女は度胸!!」

「普通に話せば聞こえるぞ」

 

 何やら覚悟を決めた椛がいきなり大声を出しても信綱は特に声を荒げることもなく淡々と応じる。これがレミリアだったら嫌味の一つは飛んでいた。

 決意を固めた椛は机を挟んで相対している信綱に上半身をグッと近づけ、眼前に迫る。

 その気迫に何事かと信綱は静かに動ける姿勢へと変わっていくが、椛はそれにも気づかずそれを言い放つ。

 

「してください!」

「……何を?」

「一つしかないですよ、あれです!!」

「思い当たるフシが全くない」

 

 信綱の冷静なツッコミも興奮している椛には届かない。

 感極まったのか涙すら浮かべて、椛はすがるように言葉を続ける。

 

「橙ちゃんにはやったのに私にはできないんですか!?」

「だから何を」

 

 魚をあげたことだろうか。いやしかしそれは椛にもたまにやっている、と自分で否定する。

 橙にしてあげて、椛にはしていないことなど思いつかなかった。強いて言えば会うときに土産を持って行ったことがないくらいか。

 

「すまない、話の流れが本当にわからない。一から説明してくれ」

「ですから!! ――毛づくろいですよ!!」

 

 ちなみにこれらのやり取りは実に中途半端に女中の耳に入り、それを経由して先代の耳に届いたことで信綱は全く謂れのない襲撃を受けるハメになるのだがそれは別の話である。

 

 

 

「最初からそう言え」

「いやぁ、橙ちゃんに自慢されまして」

 

 何が恥ずかしかったのかわからないまま、信綱はとりあえず椛の頼みを引き受けることにした。毛づくろいを頼まれたくらいで怒るような人格ではないつもりだ。

 うららかな日差しの暖かい縁側に場所を移し、椛が持ってきた櫛を片手にあぐらをかく。

 

「耳で良いか?」

「尻尾もお願いします」

「頼むとなると図々しいなお前……」

 

 先ほどまでの恥ずかしがり様は何だったのか。訳がわからないと首を傾げつつ、きっと白狼天狗には白狼天狗の羞恥を感じる部分があるのだろうと割り切ることにした。

 一周回って開き直ったのか、椛はあぐらをかく信綱の膝の上にいそいそと座り、耳が彼の目の前に来るようにする。

 

「さあ、お願いします。橙ちゃんが自慢したその腕前を見せてください!」

「そんな自慢されるようなものでもないと思うが……」

 

 あの時は手櫛で適当にやっただけである。それを言っても椛の楽しみに水を指すだけだろうと思い、口には出さない。

 ふぅ、と軽く息を吐いてから信綱は椛から受け取った櫛を彼女の耳に通していく。

 

「わふ……」

「こうしてみると本当に犬だな」

「狼ですよ」

「狼は人に毛づくろいなど頼まないだろう」

「じゃあ人懐っこい狼なんです」

「人それを犬という」

 

 とりとめのない話が二人の口から流れていく。椛は耳を撫でる信綱の手と櫛に気持ち良さそうに耳を揺らし、その度に信綱はたしなめるように手で耳を元の位置に戻そうとする。

 

「あまり動くな、やりにくい」

「いやあ、つい」

「櫛を刺すぞ」

「うっ、君は怒ると本当に実行しそうで怖い……」

 

 妖怪なんだから別に問題ないだろう、という思考が透けて見えたのか椛の動きが大人しくなる。

 よしよしと信綱の手は毛並みをさらに細かく整えていく。二度目となればコツも掴み、おおよそ橙や椛が心地良いと感じる箇所もわかっていた。

 

「はふぅ……誰かにやってもらう毛づくろいって気持ちいいですねえ」

「同意を求められても困る」

「橙ちゃんが自慢する意味がわかりましたよ。君は言葉は刺々しいですけど、手はとても優しいですから」

 

 首を傾け、こちらに顔だけを見せて微笑む椛。

 なんだか見透かされている気がして不満な信綱はせめてもの減らず口を叩くことにした。

 それが椛の笑みを一層深める結果になるとわかっていたとしても、である。

 

「……その口ぶりだと誰かにやってもらうのなんて初めてなのに、なぜそんなことを思うんだ」

「自分でやると意外と大変なんですよ? ですから手付きが乱暴か優しいかくらいはすぐにわかります」

「そんなものか。……耳はもう良いだろう、尻尾を出せ」

 

 信綱にはわからない感覚だが、だからといって否定する気にもなれなかった。

 椛を膝から下ろし、彼女が自分の膝の上で腹ばいになるのを見てポツリとつぶやく。

 

「なんか腹立つ」

 

 人の身体の上でだらけられているような気持ちになる。さっきまで整えていた耳を引っ張りたい衝動が無性に湧いてくる。

 

「私もなんだかすごい失礼なことをしている気になります。人に尻尾の毛づくろいをしてもらう時ってどうすればいいんでしょう?」

「俺が知るか。……尻尾を切り離して俺に渡せば」

「それ本末転倒って言いません!?」

 

 自分で言ってそう思ったので諦めることにする。

 これ以上姿勢について議論をしても答えが出そうにないので、妥協をしてこの格好のまま始めることにする。

 耳を梳いた時と基本は変わらず、滑らかに櫛が動く感触に椛は身体を震わせる。

 

「気持ちいいです……」

「尻尾があるってどんな感覚なんだ?」

「私にとってはこれが当たり前ですよ。逆に尻尾がないのはどんな感覚なんです?」

「……なるほど、わからんな」

 

 人間に尻尾は生えない。生えたとしてもどうなるかなど想像もつかない。それは椛にとっても同じことなのだろう。

 話題も尽きたのか、サラサラと信綱が毛並みを整える音と、椛の心地良さそうな吐息だけが聞こえる静寂がやってくる。

 

 引き受けたからには真面目にやろうと集中して自分の尻尾を睨む信綱に、椛はどこかおかしな気分になる。

 思えば少年の頃から一緒にいた存在に、毛づくろいまでさせてしまうとは人生わからないものだ。

 普段の自分ならこの手のことは頼まなかっただろう。さすがに羞恥心が勝るはずだ。

 

「……君も歳を取りましたね」

「なぜそう思う?」

「見た目のこともそうですけど、こうして匂いを嗅いでみるとわかります」

「加齢臭か」

「君は自分でできる範疇の身だしなみはしっかり整えてるじゃないですか、違いますよ。多分鼻が利く妖怪にしかわからない感覚です」

「ふむ」

 

 椛がそう言うのならそうなのだろう、と信綱は軽くうなずいて毛づくろいに戻ろうとする。

 

「……あんまり何度もわかりたい感覚ではないですね。別れが迫っているって否応なしに理解させられます」

「今になって毛づくろいなんて頼むのはそのためか」

「あはは、わかっちゃいます?」

「本当にやって欲しいならもっと前から言ってくるだろう」

 

 何十年一緒にいると思っているのか。椛はその手のことにはきっちり線引をする方であると思っていたし、その見解は間違っていないと確信を持っている。

 そんな彼女が流儀を曲げてまで言ってきた。その意味ぐらいは理解しているつもりだった。

 

「なあ、椛。この櫛はもらってもいいか」

「え? 別に良いですけど……どうして?」

「交換だ。後で本をやる」

「本、ですか?」

「ああ。いつだったか話した――俺の戦い方を記した本になる」

 

 彼女の身体が強張るのが膝から伝わる感触でわかる。

 信綱は一段落ついた毛づくろいの手を止めて、彼女が身体を起こすのを待って話し始めた。

 

「この家に置いておく。慧音先生に預ける。色々と案は考えたが、お前に預けるのが一番信用できそうだ」

 

 ちなみに真っ先に却下したのは家に置いておくこと。未来の側仕えがそれを見たとしても、自分の動きに過去の側仕えを見出されるとか不愉快以外の何ものでもないと考えたためである。

 

「……どうして私に預けようと?」

「どちらでも構わないと思ったからだ」

「どちらでも?」

 

 言っている意味がわからなかった。首を傾げる椛に、信綱は自分の考えを話していく。

 

「人々に伝えていく必要があるかどうかはお前が決めれば良い。ないならお前がただ持っていれば良い。……それがあれば忘れないだろう」

 

 自分は阿礼狂いであり、誰に忘れられても――それこそ御阿礼の子に忘れられても彼女の幸せの一助になれるなら構わない人種だ。

 そのことに偽りはない。例え彼女が自分を忘れたとしてもそういうこともあるだろうと受け入れられる。

 

 しかし、受け入れられるといってもそうなって欲しいかと言われれば否である。

 本当に珍しいこともあると信綱自身も理解しながら、彼は椛に忘れて欲しくないと願ったのだ。

 

「俺と……椿のことを知るのはお前だけになる。忘れないで欲しい」

「……忘れませんよ。毛づくろいしてもらった時の優しい手付きも、稽古には鬼のように厳しくなることも。阿礼狂いですけど、意外なほど情に厚いことも。……阿礼狂いだからこそ、友人を手に掛ける残酷さも。何もかも忘れません」

 

 そう言って微笑む椛の姿に、信綱は穏やかに目を細めてうなずくのであった。

 

 

 

 ――忘れないで欲しい。阿礼狂いにそう願われたただ一人の存在として、椛はこれからも生きていくのだろう。




ノッブから見て、椛はかなり特別な枠に入ってます。忘れないで欲しいという願いを持つ程度には。なおこれでも椛ルートは本編ではない模様。

ちなみに椛ルートは椛が攻める側です。というか基本ノッブが攻めるのはあんまありません。御阿礼の子以外は割りと受け身なので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

これまでとこれから

たまたま今日の休みがもぎ取れたため書き上げて投稿
明日以降の休み? ちょっとわかりませんね(震え声)


 その日は朝から忙しなかった。

 別に信綱の話ではない。彼はもう隠居の身であり、阿求の側仕えと日々の稽古、霊夢の面倒を見ることぐらいしかやることがない。

 とはいえ同じ部屋で寝ている先代よりは大体早く起きて、朝の稽古を行うのが日課でもある。

 なので信綱は今日も今日とて庭先で剣を振るい、霊力と結界の鍛錬を行っていたのだ。

 

 朝食は先代が作ることもあれば、女中が作ることもある。阿求が起きる前から起きており、食事自体はきちんと摂っているのだ。

 そして先ほど先代が博麗神社の方角に文字通り飛んで行くのが見えた。今日の朝餉は女中の作ったものになるだろう。

 

 一日の活力になれば何でも良いが、できれば美味しいものの方が良いのは誰だって同じである。

 もう少し剣を振って汗を流してから朝餉にしよう、と一日の始まりを考えたところで視界の端に再び先代の姿を捉える。

 その姿はみるみる大きくなってあっという間に屋敷の中庭に降り立ち、慌ただしく信綱に詰め寄ってくる。

 

「ねえ、薬ってどこにある!?」

「傷に塗る薬ならどの部屋にも置いてある。病気の薬なら俺の部屋にある」

「ありがと、霊夢が熱出してるのよ! ちょっと今日は戻るの遅くなるわ!」

 

 ほう、と信綱は軽く驚いたように眉を上げる。昨日までは健康であっても子供の身。身体も出来切っていない子供は簡単なことで体調を崩してしまう。

 

「子供はすぐに体調を崩す。なるべく離れてやらないことだ」

「わかってるって! でもあんたやけに詳しいわね?」

「阿弥様のお側にいたのは誰だと思っている」

 

 赤ん坊の頃から旅立つ時まで、ずっと彼女の側に居続けたのだ。子供の世話などお手のものである。

 先代は意外な一面というべきか、言われれば納得できる知識の多さにうなずいて、信綱を指差す。

 

「あんたも時間があったら来なさい。あの子もなんだかんだ爺さん爺さんって懐いているみたいだし」

「もう何もかも信じられないという顔になっていたと思うがな……」

 

 森で撃ち落とされ、平地でも倒され、最後の手段である空中戦でも信綱が勝っている。

 霊夢にとって信綱は今なお底の見えない、昔に色々やっていたでは説明がつかないほどに強い存在となっていた。

 それは全くの事実なのだが、霊夢はあいにくと神社からなかなか出られない身。信綱についての情報を知る機会が得られていなかった。

 

「阿求様の側仕えで時間ができたらな。熱冷ましは戸棚の上から二番目だ。とりあえず全部持っていけ。薬の用途と効能は紙に書いてある」

「ありがと! じゃあ後でね!!」

 

 先代は手に薬の入った風呂敷を持って再び飛び上がっていく。

 余談だが、信綱の言っていた熱冷ましのある戸棚には子供用の薬が入っていた。

 作ったのは信綱。阿七、阿弥の側仕えをしている間にすっかり薬や医療にも詳しくなっていたのだ。

 特に阿弥の世話をする中で病気をしてしまう度に医者を呼ぶのでは、彼女の全てを支える側仕えとして問題があると判断したため医術も修めている。

 

「あれは阿弥様に合わせた比率だから……ちと霊夢には弱いか」

 

 他の患者を見た経験こそ多くないが、御阿礼の子の身体については誰よりも詳しい自信があった。

 特に子供の頃は体調が崩しやすいと言っていたのは書物の知識でもなんでもなく、彼自身の経験談なのだ。

 そしてそういった時に子供は例外なく欲しがるものがある。

 

「……まあ、そこはあいつがいるから大丈夫だろう」

 

 誰かがそばにいること。

 先代はきっと付きっきりで霊夢を看病してくれるはずだ。

 自分は手の空いた時間に様子を見に行けばいい。さすがに体調を崩している霊夢に稽古や課題を押し付けるほど鬼畜ではなかった。

 

 自分は自分の役目を果たそう。阿礼狂いである以上、阿求の側仕えを疎かにすることは絶対にないのだ。

 

 

 

「う……」

 

 身体が熱い。頭の中で鐘が鳴っている。喉が焼ける。息が詰まる。

 およそ模範的な風邪の症状を全てその身で受けて、霊夢は寝込んでいた。

 微睡みと半覚醒を繰り返し今が夢なのか、起きているのか、それすらわからないまま熱い息を吐き出す。

 

 さっきまで先代が濡らした手ぬぐいを変えてくれていたものの、今は出てしまっている。

 霊夢でも食べられるものを作ろうと一言伝えてあるのだが、残念ながら霊夢の記憶には残っていなかった。

 誰もいない部屋で自分の苦しい息遣いのみが聞こえる。

 そうなると霊夢は急に不安を覚え始める。これまではほとんど一人であっても何も感じなかったのに、なぜか今は一人でいることがとても心細い。

 

「……ぐすっ」

 

 鼻をすするのは息が詰まっているからか、はたまた泣きそうだからか、霊夢にもわからないまま布団を頭からかぶり直す。

 そんな時だった。襖が開いて、誰かが入ってくる音がしたのは。

 母さんではない、と熱に浮かされた頭でもわかる。あの人は入る時は一声かけてくれる。

 布団の中で考える霊夢を他所に入ってきた者は一直線に布団に向かってきて、立ち止まる。

 

「……起きているだろう、顔を出せ」

「……爺さん?」

 

 熱で赤くなった顔を布団の外に出すと、そこには霊夢が母親と同じくらい見慣れた存在――一応は父にも当たるのだが、本人の希望で爺さんと呼んでいる信綱の姿がそこにあった。

 

「あいつから熱を出したと聞いて来た」

「……爺さんは来ないと思ってた」

 

 まだ子供ではあるが、霊夢は敏い子供だ。そのため信綱が自分以外の何かに執心であることを見抜いていた。彼にとって自分は片手間に面倒を見てもらえる程度の存在でしかないことも。

 それを悲観するつもりはない。愛情は母親からたっぷり与えられているし、片手間でしかなくてもその間は信綱もちゃんと自分を見てくれている。

 しかし、だからこそこういったことで来てくれるとは思っていなかったのだ。

 

「時間ができたのでな。さて……」

 

 信綱は霊夢の返答を待たずに枕元に座ると、その手で霊夢の額に触れる。

 剣を振るって振るって振るい続けて。樹皮のようにすら感じられる固く冷たい掌が心地良かった。

 

「ん……」

「だいぶ高いな。熱冷ましは飲んだか?」

「母さんが、お腹に何か入れないと辛いって……」

「あいつはどこに?」

「今、お粥作ってる……」

「一応、水だけでも構わないくらい効能は弱いんだがな……」

 

 元々は阿弥に飲ませるために作った薬だ。阿弥が食物すら受け入れられない時のために、効果自体は弱めになっている。

 仕方がない、と信綱は懐から何かを取り出す。

 

「それは……?」

「見舞い品は果物と相場が決まっている。少し待っていろ、切ってくる」

「あ……」

 

 霊夢の手が伸びて信綱の袴の裾を掴む。

 

「どうした」

「……ここにいて」

 

 寂しいから、とまで言うことはできず霊夢はあらぬ方向を見ながらそれだけポツリとつぶやく。

 

「……そういうのはあいつに言うべきだぞ」

 

 信綱も霊夢の感情を読み取ったのか、軽くため息をついて座り直す。そして枕元にあった水差しから水を注いで霊夢の側に置く。

 

「上半身だけでも起こして、ゆっくりと飲め。そして休め」

「……ん、爺さんはどこも行かない?」

「お前が休むまではここにいてやる」

「……ありがと」

「礼を言う余裕があるなら寝ることだ」

 

 そっと信綱の手が霊夢の額に触り、汗で張り付いた髪を梳いていく。

 慣れた手付きのそれに霊夢は安心したように目を細め、やがて浅い眠りへと入っていくのであった。

 

 

 

「……ん」

「あ、起きた。熱は大丈夫?」

 

 霊夢が目を覚ました時、意識を失う直前まで信綱がいたと記憶している場所には母親である先代が座っていた。

 

「……爺さんは?」

「もう戻ったわ。お前がいるなら大丈夫だろう、目を離してやるなって言ってね」

「……そっか」

 

 ほんの少しの寂寥感。彼が真っ当な人間でないことは霊夢にも理解できているが、そうであっても感情とは別物。

 霊夢が寂しげな顔になったのを目敏く見つけ、先代は小さく笑ってしまう。

 

「……何笑ってんのさ」

「いいや、予想通りだなって。体の調子はどう? 痛いところとかない?」

 

 予想通り、という先代の言葉が気になったものの、とりあえず言われた通り辛い箇所を探してみる。

 寝起きだからか、頭もずいぶんと軽くなっている。この分なら食事をして薬を飲んで一晩休めば、明日には治っているだろう。

 

「うん、だいぶ良くなってる」

「……ここまであいつの言った通りか。嫉妬しちゃうわね」

 

 先代は霊夢の具合が良くなっていたことに安堵しつつ、同時に信綱が戻る前に言っていたことを思い出す。

 

「熱冷ましも飲ませたようだし、起きればだいぶ落ち着いているだろう。そうなったらこれを差し出してやれ」

「あんたは良いの?」

「お前が見ていた方が良いだろう」

 

 相変わらず自己評価が低く、しかも霊夢に対する思い入れも先代よりは浅いはずなのに、先代以上に霊夢をよく見ている。

 霊夢の家族は自分である、とも思っている先代は少しばかり悔しい気持ちを彼に抱いていた。

 

「母さん、さっきから何言ってるの?」

「んー、ちょっとね。ほら、あいつからの差し入れ」

 

 先代は困ったように笑いながら、自身の背中に隠してあったものを出す。

 盆の上には桃が置かれており、食べやすいように小さく切られていた。

 水気の滴る上等な果肉と、風邪に冒された鼻でもわかる甘い香りに霊夢は目を輝かせる。

 

「まだあるからゆっくり食べるのよ」

「母さん、食べさせて!」

「まったく、甘えん坊なんだから。はい、あーん」

 

 ひな鳥のように食べさせてもらいながら、霊夢は風邪を引くのも悪くないかもしれないと思う。こんな風に母が優しくしてくれて、爺さんも面倒を見てくれた。

 もぐもぐと甘い桃を食べていると、霊夢はふと先代のことが気になってくる。

 信綱が悪い人間じゃないのはわかる。稽古は鬼よりも厳しいが、それ以外の時は霊夢の疑問に大体答えてくれて、希望にも応えてくれる面倒見の良い性格だ。

 が、同時に真っ当な人間でないこともわかる。彼と人里を歩いている時に受ける視線は尊敬が多分に含まれているが、中には確かに畏れとも言うべき何かが存在しているのだ。

 

「……ねえ、母さん」

「ん? もうお腹いっぱい?」

「爺さんと母さんって夫婦なのよね?」

「あー……まあ、そうね」

「爺さんって変人じゃない?」

「……ああ、あんたは知らないのか」

 

 普通、娘とはいえ自分の旦那が変人ではないかと聞かれれば、多少は驚くなりたしなめるなりあるだろうに、先代はどこか納得した表情になった。

 

「知らないって?」

「知らない方が良いことよ。私も結構悩んだからね」

「……爺さんと一緒にいること?」

「んー……」

 

 先代は話すべきか僅かに逡巡するが、話すことに決める。

 彼が一生変わらない狂人であることは早めに教えておかないと、どこかで取り返しがつかなくなる。彼を普通の人と同じに思ってはいけないのだ。

 もしも霊夢が何も知らず阿求に敵意を向けたら。信綱は何の躊躇いもなく霊夢を殺しにかかるだろう。かけた時間も向けた愛情も何もかも、あっさりと捨てて。

 

「まあ、子守唄代わりにするにはちょっと物騒だけど話してあげますか」

「なんか想像ができないわ……」

 

 というより今でも先代と信綱が夫婦であることに納得がいかない霊夢だった。

 それを聞いて先代はちょっとだけ面白そうな顔になる。

 この子供に少しばかり自分の話を聞かせてやろうと思ったのだ。特別な日ぐらいしか誰も来なかった自分の神社に、平気な顔でやってくるあの男のことを。

 人それを惚気と言うのだが、それを指摘できる存在はこの場にいなかった。

 

「じゃあ話してあげる。あいつと私がそもそも出会ったのは……」

「…………」

 

 楽しそうな顔で話し始める先代を見て、霊夢はぼんやりと踏んではいけない何かを踏んでしまったのではないかと思う。

 その予感が的中したと実感したのは、三十分以上止まらずに話し続ける先代の声が子守唄になりつつあった頃だった。

 

 

 

「爺さん」

「どうした」

「母さんってものすごい愛が深いタイプだと思う」

 

 後日、風邪明けからかやけにげっそりとした霊夢からそんなことを言われ、信綱は気負った様子もなくうなずく。

 

「知っている」

「爺さんは母さんに何かしてあげてるの?」

「束縛はしていない。求められれば応える。それだけだ」

「もっと母さんを大切にしなさい!」

「俺なりにしているつもりだが……」

「デートにでも誘えばいいのよ!」

「俺が誘ったら熱があることを疑われると思うぞ」

 

 それにあれは意外と出不精だ。霊夢がいるから足繁く博麗神社に行っているものの、何もなければ縁側でお茶を飲んで一日過ごしたがる性格である。

 信綱はそれに付き合うことが多かった。先代に誘われたということもあるし、あの時間は信綱にとって肉体の休息とも言える時間だ。

 彼女の距離感は自分にとって心地良い。以前にそれを伝えたことがあるのだが、彼女はそっぽを向いただけだった。ちなみにその日の夕飯は信綱の好物が多かった。

 霊夢が妙に先代との関係について詳しくねだってくるため、その辺りの話をしてみたところ、霊夢がうんざりした顔になる。

 

「爺さんも愛が深いっていうか、面倒見が良いよね……釣った魚には餌を与えるというか」

「見捨てる理由もないし、可能なら良い関係を築きたくなるものだろう」

「これだけじゃないってところがタチが悪い……」

 

 完全に合理性だけだったら先代も離れていた。信綱という男の面倒なところは本人も言っている通りの狂人であるくせ、妙に嫌いになりきれない性格をしているところだ。

 合理だけで動いているかと思いきやそうでもない。かといって情だけに寄ることもなく打算も合理も存在する。計算も働いているが、そこに彼自身の感情がないわけではない。

 だから霊夢も彼を嫌いになれない。鬼も泣き出すと思うほどの稽古を課しているにも関わらず、だ。

 

「お前があいつの面倒な話を聞いたのはわかった。それはそうと身体は大丈夫か?」

「あ、うん。一日寝たら熱は下がったみたい」

「ふむ……」

 

 霊夢の額に手を当てて、平熱であることを確認する信綱。

 子供の体調は簡単なことで崩れやすく、しかも下手に安心するとまた熱を出す可能性がある。

 

「身体がだるいとかは?」

「一日寝てたから、そのぐらい」

「……そうか。今日はあまり身体を動かさず、座学を中心にするぞ」

「へ? ……爺さん、私の風邪が感染った?」

「病み上がりが一番危ないんだ。特にお前ぐらいの子供はコロッと倒れる」

 

 人間、倒れる時は本当に呆気ないのだ。軽い風邪をこじらせてあっさり死ぬ子供も多くはないが、皆無というわけではない。

 信綱も霊夢が阿求に手を出すとかがない限り、手塩にかけている弟子に手を抜くつもりはなかった。

 

「……たまには風邪も悪くないかも」

「なにか言ったか?」

「なんでもない!」

 

 その日、霊夢は妙に機嫌が良く信綱の課題に挑戦をしていくのであった。

 

 

 

 

 

「お久しぶりです! 清く正しい射命丸文ですよー!」

 

 見慣れない長方形のものを片手に、文がやってきたのは信綱が人里を歩いている時だった。

 人好きのする――しかしどこか胡散臭い笑みを浮かべながら、文は気安い調子で信綱の方に近寄る。

 

「珍しいな、一人か?」

「いつもいつも天魔様と一緒にいるわけじゃないですからね!? 今日は人里で取材中です!」

 

 はい、と文が見せる手帳にはびっしりと文字が書き連ねてあり、彼女の几帳面な性格が推し量れるようであった。

 なかなか真面目にやっているようだ、と信綱は感心してその手帳を返す。

 

「熱意があるのは良いことだ。ところでそれは?」

「お、よくぞ聞いてくれました! これはカメラと言いまして、強い光を当てて景色を紙に残すことができるんです!」

「ほう、外の世界のものか?」

「それを基に河童が作りました。さすがに数はありませんけど、烏天狗様にならどうぞどうぞと快くくれましたよ」

 

 それは脅迫というのではないだろうか、と内心で思うも口に出すには至らなかった。本当に問題があったら天魔が動いている。

 小さく息を吐いて話題を押し流し、歩き出すと文も隣を歩いてくる。

 

「なぜついてくる」

「いやあ、あなたについて書いた記事は反響が大きいんですよ。知られざる英雄の一日! みたいな感じで」

「昔の話だ。今はもう隠居の爺以外の何ものでもない」

 

 百鬼夜行以来、妖怪が暴れることもなければ信綱がその剣を振るうこともない。

 もうあれから二十年以上が経過しているというのに、今なお信綱が行ったことへの名声は途絶えていなかった。

 

「妖怪は良くも悪くも根に持ちますよ。あなたのことも死んでからだって忘れないでしょうね」

「人里だと少しずつわからない人も増えているというのに……」

 

 面倒な話である。信綱は何にも煩わされることなく阿求に仕えていたいだけだというのに。

 

「あはは、良いことじゃないですか。知ってもらえるっていうのは、自分が怒る部分も知ってもらえるってことですよ」

「俺の一族がどんな呼ばれ方をしているか知らないわけじゃないだろう。人里で知らん奴はいない」

 

 阿礼狂いの名は信綱にのみあるように思われるかもしれないが、実際は火継の一族皆がそうなのだ。

 彼らも平時は人里に混ざって仕事をしている。その中で生まれる狂人と常人の摩擦は日々信綱の頭を悩ませていた。

 

「おかげで火継の連中が起こした揉め事は大体俺に来る。俺が死んだらどうなるんだ全く……」

「なるようになりますよ。あなたが生まれる前だってそうだったんでしょう?」

「お前の新聞作成もなるようになった結果か?」

「最初はそうでしたけど、今は楽しんでますよ。情報に目を光らせるのも悪くはありません」

「流行りそうなのか? だとすると人里でも何か考える必要があるのだが」

 

 供給過多になられても困るだけなのだと伝えると、文は困ったように笑う。

 

「幻想郷は狭いんです。多くの天狗が飛び回って情報を集めたら一日も持たないです」

「道理だな。となると日刊は諦める形か」

「そうですね。私たちも仕事ではなく趣味という形になりますので、あんまり信ぴょう性とかには期待しないでください」

「お前の情報を当てにしたことはあんまりない」

 

 大体椛に頼んで裏取りを行っていた。あの頃は味方もロクにおらず、しかし警戒する相手は数多くいたというあまり思い出したくない時間だった。

 なぜか自分を慕ってくる吸血鬼。何を考えているのかわからない八雲紫。虎穴に入らねばならない天狗。放置したら明らかに不味い地底。

 我ながらよく全てに対処できたものだ、と信綱は内心で自画自賛をする。これも偏に御阿礼の子がいたおかげだろう。

 などと考えていると、文は大仰に傷ついた仕草をして片手でそっと目元を拭う。

 

「酷い!? 昔は人里離れたひと目につかない場所で逢瀬を繰り返した仲じゃないですか!」

「おいやめろ、後々面倒になるからやめろ」

 

 人里の面々がぎょっとした顔で見てきたため、信綱は辟易した顔で止めることにする。

 これを放置すると噂話があっという間に広がって先代の耳にも届き、彼女の機嫌が悪くなるのだ。

 そうなると何かと面倒だから止めようとしているのだが、文にはそれが信綱にとっての弱味に見えたようだ。

 

「私、嘘は言ってませんから! だからまたあの誰も知らない廃屋で熱い時間を痛い!?」

「好奇心猫を殺すということわざを知っているか? 知らないだろう。冥土の土産に覚えておけ」

「あれ、冗談抜きに命の危機!?」

「まだ何か言いたいことがあるなら聞くぞ?」

 

 僅かに微笑みすら浮かべての言葉に対し、文はちぎれんばかりの速度で大きく首を振る。

 危ない。ちょっとでも調子に乗ると彼は躊躇せずに首を落としにやってくる。

 彼が許容するのは自分に被害が出ない範疇であって、そうでない場合は情け容赦なく潰しにかかる。

 

「いえいえいえ何もないです! 新聞屋的に脅迫には屈しないとか言ってみたいですけど!」

「ほう?」

「強者に媚を売るのが天狗です! ですから刀に手を添えるのだけはご勘弁を!!」

「全く……」

 

 何が勘弁して欲しいって、勝てる絵図が全く思い描けないのが勘弁して欲しい。いい歳どころかいつ死んでもおかしくない年齢だというのに、今でも文以上――いや天魔以上の強さを誇るのが恐ろしい。

 もはや彼に勝てる妖怪など何人いるのか。文の思いつく限りではちょっと浮かばなかった。

 

 ちょっと厄介な相手程度の認識だったのに、いつの間にか自分を追い越して遥か高みに至っていた。そのことに文は柄にもない感慨を覚える。

 

「……にしても、あなたも大概よね。私が目をつけた時は吸血鬼退治ぐらいしか目立った功績もなかったのに」

 

 砕けた口調で話し始めた文に、新聞の話は終わったのだと直感した信綱も応えていく。

 

「それがあれば十分だと思うぞ。お前たちが散々異変を起こしたんだろうが」

「そう言われると返す言葉もないわ。妖怪にとっても激動の時代だった」

 

 肩をすくめる文の姿に、信綱はふと疑問に思ったことを聞いてみる。

 天魔や椛らが今の幻想郷を気に入っているのは知っているが、文の思いを聞いていなかったと感じたのだ。

 

「……お前は今の幻想郷をどう思う?」

「どうって、天魔様から聞いてないの?」

「お前自身の意見だ。良かれ悪しかれ、思うところはあるだろう」

「んー……あなたは私など気にしていないと思っていたのに。もしかして本当に気があったり?」

「……俺にとって大半の存在は等しい存在だ。天魔もお前も例外ではない」

 

 さり気なく椛はその中に入っていなかったが、文は気づかなかった。

 彼も出会った時から変わらない。その事実に苦笑して文は素直な気持ちを話しだす。せっかく聞いてくれるのだ、言わない手はない。

 

「――悪くないと思ってるわ。あなたは知らないでしょうけど、以前の妖怪の山って本当に退屈だったの! 誰も彼も同じことの繰り返し! 敵もいないのに哨戒ばかりやらされる下っ端に、少し上を見たら権力闘争に明け暮れる大天狗! 烏天狗の中にも派閥とかが生まれて大変ってものよ!!」

「社会構造を持つ集団の宿命だな。人里だって似たようなものだ」

 

 とはいえ人間は世代の交代が短い。同じ仕事も三十年続ければ引退を迫られるし、人間は六十年と少し生きれば死んでいくものだ。

 もしもそれらがなく、ただただ惰性で仕事が続いていくとしたら――それは、文の言うように心底から退屈を感じてしまうものなのだろう。

 

「もう本当にうんざりしていたわ! 正直、吸血鬼異変があった時に向こうについた奴らの気持ちがわかったわ! 私は天魔様に仕事を与えられていたから行かなかったけど!」

「あの時からか、お前との縁も」

 

 天魔としてはやってきた妖怪の実情が探れれば良かった程度のものだろうが、それであの頃は無名だった信綱を見出したのだから世の中わからないものである。

 

「でも、あなたと知り合ってからの幻想郷は楽しいわ。鬼が来た時なんてもう終わりだと思ったけど、あなたは見事に退けた。喉元過ぎればってわけじゃないけど、振り返れば笑い話にできる」

「結果良ければなんとやら、か」

 

 一応人死も出ているので信綱としては笑えない話だが、あれを知っているのは信綱と先代の二人だけだ。文の反応が一般的には正しいものとなる。

 

「それで今は新しいルールに新聞。やることが多すぎて目が回りそう! 素敵!」

「退屈が毒なら忙殺が薬とは……」

 

 きっと仕事が山積みになっているのを見て目を輝かせるのだろう。信綱としては近づきたくない相手の部類である。仕事など少ないに越したことはない。

 などということを考えていると、ふと文の顔が穏やかな――人間をずっと見続けてきた妖怪特有の全てを見透かすそれに変わる。

 

「だから、ええ――この幻想郷が続いていくことを私も願ってるわ。あなたが懸念するようなことは今のところ存在しない」

「……その目は好きになれんな。何度見ても慣れるものではない」

 

 多くの妖怪にそんな目をされてきた。まるで自分のやっていることが全て彼女らの掌の上にいるかのような錯覚がして、信綱はあまり好きではなかった。

 実際のところは彼女らを何度も心底驚愕させているが、妖怪にとっては自身の予想が覆されること自体も楽しいことなのだ。

 

「あら残念。私はあなたのことは嫌いじゃないわよ。きっとしばらくは忘れない」

「お前に覚えてもらおうとは思っていない」

「へえ、じゃあ誰に覚えてもらいたいのかしら、興味が有るわね」

「さてな」

 

 真面目に相手をするだけバカを見るだけだ。

 差し迫った状況なら別だが、これからの幻想郷で彼女らは適当にのんびりと生きていくのだろう。

 そしてその彼女らを相手するハメになるのは恐らく霊夢だ。信綱は彼女が今後出会うであろう一癖二癖どころか癖しかない妖怪のことを思い、少しだけ同情する。

 文はそんな信綱の様子を見て、顎に手を当ててうなり始める。そして名案とばかりに輝く彼女の顔には、妖怪としての顔はもう浮かんでいなかった。

 

「ううむ……では、今日の取材はこれにしましょうか! 題して――幻想郷の英雄の想い人とは!? でいかがでしょう!」

「御阿礼の子以外にいると思うのか」

「思いませんです、ハイ。でもこの際だから、あなたと交友関係のある妖怪を全部書いて煽れば――」

「お前の首が空を舞うだろうな」

 

 物理的に。

 いくら彼女たちの新聞作成が娯楽目的とはいえ、自身に被害が来るのは御免被りたい信綱だった。

 理解は示してくれるだろうが、それはそれとして機嫌を悪くする先代の姿が目に浮かんでしまい、信綱は自分で自分に苦笑する。妻の機嫌を取る夫とは、まるで自分が真人間になった気分だ。

 

「まあ良いだろう。ここで会うのも何かの縁だ。聞きたいことがあるなら答えてやる」

「赤裸々な子供時代のお話とかでも!?」

「無論こちらに面倒が来ない範囲で、だ。来た場合は……さて、場所を変えるか」

「そこで話を変えないでください!? なに、下手な記事書いたらどうなるの私!?」

 

 悲鳴を上げながらも、信綱から離れようとはせず着いてくる文。なんだかんだ彼女との付き合いも長くなった。

 最初は天魔の言葉を伝える仲介役だったが、信綱が普通に天魔と顔を合わせるようになってからも付き合いが続いている。

 椿とは似ても似つかない性格だが――自分はなかなか天狗に対して縁がある。

 これから先の幻想郷では彼女の新聞がみなを楽しませるのだろう。そんなことを思って、信綱は歩くのであった。

 

 

 

「……ところで、あなたの家にも文々。新聞は行っていると思うのですが、あれの扱いはどうなってます?」

「軽く眺めた後で竈に放り込んだ」

「かなりひどい扱い!?」

 

 娯楽に縁の薄い自分にはあまり楽しみが見出せないのだけが残念であった。




なにげにあやややとも付き合いは長い方です。おぜうとほぼ同時期なので。
そしてぼちぼち時間を進めていかねば。紅魔郷、妖々夢、萃夢想ぐらいはやりたいので。
ほぼダイジェストというか、ノッブの視点的に人里から動かないので霊夢のケツを蹴っ飛ばすぐらいですけど。



誰か私に夏休みをください(白目)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

別れの時

「そろそろ実戦を経験させようと考えている」

「ダメよ、まだ早いわ!」

 

 朝餉の折の会話で、二人は霊夢の育成方針について話し合っていた。

 といっても彼女にいつ実戦を経験させるか、という極めて物騒なものだったが。

 信綱は早期に経験させた方が良いと考え、先代はもっと力つけてからでも遅くはないという考えだった。

 

「遅かれ早かれ妖怪との戦いは避けられない。いつでも万全に戦えるとは限らないんだ。実戦は早い方が良い」

「そういうあんたはいつ戦いを経験したっていうのよ。何かあってからじゃ遅いのよ!?」

「六歳の時に烏天狗に襲われた。逃げ切れたのは僥倖だった」

 

 それからその烏天狗に目をつけられて修行を付けさせられたというのだから、人生何がどう転ぶかわからないものだ。そして結局その天狗も殺すことになってしまった。

 全部話す必要はないが、ある程度をかいつまんで話すと先代は信綱の壮絶な人生に絶句していた。

 

「……まさか十歳にもなる前に妖怪と戦って、しかも生き残る人間とか想像外だわ」

「俺だって戦いたくて戦ったわけではない。事故だ」

「まあそれはさておいて、あんたが早めの実戦を推すのはそれが理由?」

「そうだな。相手が雑魚でも強者でも、見えてくるものがある」

 

 敗北は人を強さに駆り立てる。勝利は自らの力に自信を持たせることができる。

 そしてどちらにしても、霊夢は悟ることだろう。

 ――自分を鍛えている存在はこの程度ではない、と。

 

「幸い、と言ってはあれだが、自警団の方から話が来ている。畑荒らし程度の悪さしかしない獣から化生した妖怪だと思われている」

「それ普通の獣の可能性もあるんじゃない?」

「否定できんが、妖怪の可能性も無視できない。若い衆ばかりの自警団では荷が勝つ」

 

 万が一があってからでは遅いのだ。

 普段は天狗の方に任せるか、火継の人間を投入してしまえばあっさり片がつく問題なのだが、今回は信綱がその話を引き受けていた。

 

「表向きは俺が受けた仕事だ。霊夢には実戦の空気と、できるなら何かしらを掴んで欲しい」

「そこまで言うなら良いけど……当日になって阿求の方に行くとかやめてよね」

「…………」

「なんか言いなさいよ!?」

「……そうなったらお前が行ってくれ」

「ああもう本当に面倒よねあんたのそういうところ!!」

 

 返す言葉もなかった。直す気もないのだが。

 ともあれ話がまとまったところで信綱は朝餉を終えて立ち上がる。

 

「それじゃあ俺は阿求様の側仕えをしてくる。お前は霊夢にさっきの話を伝えてくれ」

「ん、わかった。ああ、そうだ」

 

 何かを思い出したように先代が立ち上がり、首を傾げながら信綱の方に歩いてくる。

 

「あの子があんたをデートに誘えってうるさく言ってくるんだけど、何か心当たりない?」

「一応あるにはあるが……」

 

 本気だとは思っていなかった。親が子に世話をされるとは、霊夢から見て先代と信綱の二人は相当危うく見えたのかもしれない。

 

「あんたを誘ったらどうなる?」

「お前に全て任せる」

「うん、知ってた」

 

 先代が遠い目になる。この男は頼めば自発的に動くが、そうでないなら受動的に流される。相手に何かやりたいことがあるなら、それに任せてしまうのだ。

 たとえ間違いであっても自分で相手を喜ばせようと考えたものが欲しい時もあるのだが――信綱に期待するのは難しいと言わざるを得なかった。

 

「……相手を喜ばせるために自分で何か考えたことってある?」

「あるに決まってるだろう。そのぐらいの気遣い、近所付き合いには必須だぞ」

「それを私に向けたことは?」

「手ぶらで行くのもあれだから茶と酒は持って行ったはずだ」

「あれが気遣いかー……」

 

 間違ってはいないのだが、もう少し即物的でない方向での気遣いが欲しかったと思う先代だった。

 ……しかし、信綱だって相手の反応が悪いものを続けて持って行ったりはしない。結局のところそれを先代が喜んで受け取っていたのが原因とも言えた。

 

「まあ良いわ。あんたがいきなりそんなものに誘ってきたら頭でもぶつけたんじゃないかと疑うだろうし」

「……話はそれだけか?」

「ん、今度また縁側でお茶飲むのに付き合ってよ。あれが一番落ち着くからさ」

 

 思えば先代と信綱の時間は大体神社で茶を飲む時間に集約される。

 お互いの愚痴をこぼすにしても、適当な近況報告にしても、全て茶を飲みながら行われていた。

 そんな有意義と無意味の中間くらいの曖昧な時間が積み重なって、今に至っているのだ。

 だから自分たちにはこれが相応しい。そう考えて、先代は肩の力を抜いた笑みを浮かべる。

 

 それを受けた信綱は微かに相貌を緩め、穏やかな雰囲気を作る。先代を大事にするといった言葉に嘘はなく、彼は彼なりに妻となった彼女を大事に思っていた。

 それが御阿礼の子との天秤では儚く潰えるものであったとしても、天秤にかける時が来るまで特別な存在なのも確か。

 

「ああ。俺もあの時間は落ち着けるから好きだ」

「……珍しく好きって言ったわね」

「そう言った方がお前が喜ぶと思っただけだ。さて、いい加減俺は行くぞ」

「あ、ちょっと!」

 

 先代が呼び止めるも、信綱はさっさと出て行ってしまう。

 残された先代は参ったというように額に手を当ててため息をつく。

 

「ったく、やればできるのになんでやらないんだか」

 

 もっと私心を表に出すようにすれば彼の魅力は今以上に増していくはずだ。時に人は合理と情だけでなく、その人自身の願いを見たがる。

 信綱にはそれがない。いや、阿礼狂いとしての願いはこの上なくハッキリと表明しているが、信綱自身の願いを出すことは滅多にない。

 婚姻という形を通して、この家で暮らし始めた先代でも数えるほどしか見ていなかった。

 

「……ま、らしいといえばらしいか」

 

 理由を色々と考えたが先代は気にしないことにした。

 七十も過ぎた今になってまで続く癖だ。一生治らないだろう。

 それにそのぐらいの欠点があった方が可愛げがあるというものだ。

 先代は信綱への結論が出たところで、気分よく今日一日の予定について考え始めるのであった。

 

 

 

 そして後日、信綱は先代お手製のお祓い棒を持って肩に力の入っている霊夢を伴って、魔法の森に足を踏み入れていた。

 

「……さて、今来ている場所を答えろ」

「魔法の森。えっと……年中瘴気っていう、常人には毒になる成分が出ていてあまり深くまでは入れない場所」

「よし、正解だ。俺やお前は霊力で体内を守れるから普通の人より長く滞在できる。今回の目的は?」

「妖怪……だと思うものの退治。理由は人里の畑が荒らされたから」

 

 概ね期待通りの答えが得られたことに信綱はうなずき、落ち着かせるように霊夢の頭に手を置く。

 

「よろしい。自警団の見張りが魔法の森に逃げこむのを確認している。今日はここを見ていくぞ」

「見つからない時はどうするの?」

「一日探して見つかる範囲にいないほど奥地に住んでいるならもっと強力な妖怪になるだろうし、そうなると大体人語を解して人里にちょっかいはかけない」

「どうして? 人間を罠にハメるとかもできるようになるってことでしょ? そっちの方が楽じゃない?」

「人里には人里の守護者がいる。それにあそこでの殺し合いは幻想郷のルールとしてご法度だ。これを破れば、人間のみならず妖怪まで敵に回す」

 

 そこまでして人里の中の人間を襲いたい酔狂な輩もいないだろう。

 と、そこで耳慣れない単語を耳にした霊夢が首を傾げる。

 

「人里の守護者? 博麗の巫女が人里を守るんじゃないの?」

「その辺りは説明していなかったか。博麗の巫女というのは基本的に事件が起こってから動くものだ。だが、事件が起こってからしか動かない者だけとなると、一度で人里の機能が壊滅しかねない事件が起こったらどうなる?」

 

 そのおかげで助けを頼めなかったのが天狗の騒乱である。

 明らかに不味いと推察はできたが、推察だけで博麗の巫女を動かすことはできずレミリアに頼んだという経緯がある。

 

「あ……じゃあ守護者っていうのは事件の予防に務める人ってこと?」

「人里の中で解決できるものは解決してしまうという側面もある。それに妖怪が攻め込んできた時に戦える戦力も必要だ。博麗の巫女だけがそれでは色々と不安が残ってしまう」

 

 博麗の巫女は一人きりなのだ。未だ年若い少女に人里全部を任せるというのも、あまりにも無様だ。少女一人に縋らなければ生きられない世界であるなら、それは世界の仕組み自体を変えなければ遠からず潰える。

 

「そんなわけで、人里の側でも妖怪と戦える人材がいるわけだ。人里で守護者を担っているとなると慧音先生を連想すればいい」

 

 信綱も昔は守護者の役割を担っていたが、今はもう一線を退いているため言う必要は感じなかった。

 それに霊夢が少し興味を出せばすぐにわかる内容でもある。自分で知りたい情報は自分で集めて欲しいという意味も込めて黙っておくことにする。

 しかし霊夢は信綱の事情になど全く興味を持たず、むしろ別のところに驚愕していた。

 

「先生が!?」

「俺が子供の頃から教師だと言っているだろう。あの人はそれだけ長く人里に尽くしてくれているんだ」

「な、なるほど……だから爺さんも頭が上がらないんだ」

「そうだな。さて、そろそろ進むぞ」

 

 信綱は霊夢からあまり離れないようにしながら、魔法の森に踏み入っていく。

 霊夢は忙しなく辺りをキョロキョロと何かを探すが、信綱はそういった様子を見せずに確信を持って歩を進めていく。

 

「爺さん、こっちの方角で合ってるの?」

「お前はどっちの方角に行った方が良いと思う?」

「……爺さんと同じ。なんとなく、だけど」

「ふむ……」

 

 この勘の良さは博麗の巫女特有のものなのだろうか。思えば先代も妙に勘の鋭い時があった。

 ……それでも先々代の博麗の巫女は良い結末を迎えられなかったのだから、勘だけに頼っても死ぬ時は死ぬということである。

 となれば信綱の役目は霊夢に勘以外の考え方を教える、ないし勘の理論武装をできるようにするだけの知識を与えることだ。

 

「いい機会だ。ものの見方というのを教えてやろう」

 

 信綱は刀を鞘に収めたまま腰から取り外し、地面を軽く叩く。

 霊夢の視線が地面に向いたところで説明をすべく口を開いた。

 

「足跡が見えるか?」

「……言われればそんなのがあるかな、くらいにしか」

「まあこの辺りは慣れだ。これを見るだけでも多くの情報が得られる。例えば、体重のかけ方から二足歩行なのか四足歩行なのか。深い部分があれば爪があると見ることができる。それに――」

 

 視線を地面から上げて、木に着目する。

 

「獣から化生した妖怪は獣の特性を残すことが多い。匂い然り、習性然り。お前には縁のないことかもしれんが、狩りに似ている」

「……そういうので行き先がわかるの?」

「本命かどうかまではわからないが、可能性を一つ潰すことはできる」

 

 より詳しく言えば今もそこかしこから感じる視線や、生物の息遣いなども感じ取れれば言うことなしである。

 信綱にとってこの森は様々な異形が息を潜める異空間に感じられた。

 と、普段信綱が感じていることを伝えると、霊夢から訳のわからないものを見る目で見られてしまう。そして確かな不安が霊夢の瞳にあることも見抜き、信綱はある言葉を告げる。

 

「――まあ、この辺りは俺も歩き慣れているからどこに何があるのか大体知っているだけだ」

「今までの講釈は何なのよ!?」

「自力で得られる情報が多くて困ることはない、ということと――未知の相手との戦闘が予想される場合は下準備を怠らないこと、だな」

 

 霊夢の頭を軽く撫でると、彼女は一瞬だけ安心したような表情を見せ、すぐに恥ずかしがって顔をしかめてしまう。

 十にも満たない年頃で素直になれないとは一周回って面白さすら覚えてしまう。とはいえ他人の性格にどうこう言えるような立場でもないので、そちらは先代に全て任せることにする。

 

「今回は俺がいるからよほどのことがない限り大丈夫だが、お前は今後一人でこの森に入る時が来るかもしれない。そうなった時、頼れるのは自分だけだ。用意は怠るな」

「……わかった」

 

 信綱の言葉には重みが感じられたため、霊夢は素直にうなずく。

 とにかく強くて容赦がなく、その割に面倒見が良いということぐらいしか知らないが、口ぶりから読み取れるのはこの男が想像を絶するような人生を歩んできたことくらい。

 

(……考えてみたら、私って爺さんのこと何も知らないなあ)

 

 先日聞かされた先代の話はなかったことにする。指摘すれば本人は否定するだろうが、あの顔は幼い霊夢でも分かる程度には緩んでいた。

 何を思って、どんな人生を歩んで今に至るのか。火継信綱という人間のできる過程が気になってくる霊夢だった。

 と、そんなことを考えながら信綱の後ろを歩いていた霊夢だが、信綱が普段通りの仏頂面を露骨にしかめたことに気づいた――次の瞬間には片手で抱き抱えられていた。

 

「う、わっ!?」

「緊急事態だ、稽古をつけるどころじゃない」

 

 森を走っているとはとても思えない速度で疾走する信綱が、珍しく表情に焦燥を浮かべていた。

 霊夢は片手で抱えられたまま、信綱の顔を見上げて疑問を口にする。

 

「な、なにが起こってるの?」

「人と妖怪が近くにいる。人里でない限り、そんな状況は――」

「……襲われてる!?」

 

 霊夢も目を見開く。これは確かに稽古どころではない。

 袖に用意してある札と針の感触を確かめ、何かあった時のために備えておく。

 ……ひょっとしたら酸鼻な死体を見る可能性もある。それらを含めて心の準備をして――

 

「札と針を用意しておけ。――いた!」

 

 発見の声と同時に見たその少女を見て、霊夢は自分の心の準備がいかに脆いものか思い知る。

 状況は最悪一歩手前。今にも食べられそうな人間と、今にもかじりつきそうな獣の妖怪。

 妖怪であることは口から漏れる妖力と瞳に浮かぶ獲物を甚振る――ただの獣にはあり得ないそれが証明していた。

 

「魔理沙!?」

 

 一瞬先には首から先が消えてなくなるであろう友達の姿に霊夢の頭が真っ白になる。

 真っ白になった頭が届かないとわかっている手を伸ばそうとして――妖怪の姿が消える。

 いや、妖怪の姿だけではない。魔理沙の姿も霊夢の視界から消えていた。

 

「え……?」

「――全く、危機一髪だな」

 

 横から聞こえる信綱の声は平時と何も変わらない。まるでこの状況すら何の苦慮もせずに対応できると言わんばかりの余裕がある。

 否、すでに対応していたのだ。

 振り返って見た妖怪がバラバラに斬り刻まれ、霧に溶け消えようとしていた姿を見て、霊夢は魔理沙と同じように呆然とするしかなかった。

 

「……今の、爺さんがやったの?」

「俺以外に誰ができる」

 

 何も見えなかった。信綱との稽古はすでに二年以上続けているというのに、何が起こったのか抱き抱えられている状態にあってもわからなかった。

 魔理沙が妖怪に襲われたことと言い、信綱がそれを一蹴したことと言い、目まぐるしく変わる状況に目眩を覚えてしまう霊夢。そんな彼女を信綱は地面に下ろし、立たせると魔理沙の前に立つ。

 その目は険しく、並の大人であっても竦んでしまうような威圧感があった。

 

「さて――なぜ君がここにいるのか、聞かせてもらおうか。魔理沙」

「あ……えと、その……キノコを取りに来ようと思って……」

「なぜ」

「……お爺ちゃんとお婆ちゃんの具合が、良くないってお父さんたちが話してた……」

「そうか」

 

 信綱は険しい顔のまま魔理沙の頭にげんこつを落とす。

 ゴン、と重たいものが頭にぶつかる音が響き、霊夢は思わず目を瞑ってしまう。

 魔理沙はげんこつの落ちた場所を押さえて涙目で信綱を見上げるが、まだ信綱は険しい顔をしていた。

 

「俺や霊夢が気づかなかったら、お前が味わう痛みはこんなものでは済まなかった。あの妖怪は恐らく獲物を甚振ってから殺す心算だった」

「あ、う……」

「人里の外は危険だと慧音先生やお前の両親も伝えていただろう。祖父母を想う気持ちは立派だが、お前はそのために家族が悲しむことをした。お前が助かったのは単純に運が良かっただけだ」

 

 何か一つ、少しでも遅れていれば魔理沙は妖怪に傷つけられて一生治らない傷を負うか、あるいは壮絶な苦しみの果てに死ぬかの二つだっただろう。

 霊夢は泣きそうな魔理沙が見ていられずに声をかけようとするが、その前に信綱に睨まれて動けなかった。

 

「何度も聞かされているだろうがもう一度言うぞ。――人里の外は危険なんだ。お前みたいに身を守る術のない子どもが出て良い場所ではない。身に沁みてわかっただろう」

「…………」

 

 涙を瞳に溜めたまま魔理沙がうなずく。それを見て、信綱はようやく険しい顔をやめて魔理沙の身体を抱き寄せる。

 

「ふぇ?」

「家族を想う気持ちは尊いものだ。次からは考えて行動しろ。……何かあった時に悲しむのはお前の家族なんだ」

 

 信綱も驚いていたのだ。親友の孫娘を目の前で死なせてしまったとあっては、勘助たちに合わせる顔がない。

 それでも軽率な行動を取った魔理沙を叱る役目は必須であり、それはこの場で自分にしかできない役目だった。

 

 魔理沙も状況の激変に次ぐ激変で上手く回っていなかった頭がようやく回ってきたのか、やっと自分が安全な場所にいることを理解して、涙が溢れだす。

 そのまま信綱の胸に顔を埋めて泣き始めてしまい、信綱は困ったように背中を叩いてあやすしかなかった。

 

「……今日のところは戻るか」

「さっきのあれが目当ての妖怪だったの?」

「恐らくな。どんな状況であっても人を害した妖怪は無視できない」

「そう、何もなくて拍子抜けしたわ」

 

 なんでもないように肩をすくめる霊夢だが、見ればその手足に震えが走っているのがわかる。

 友人が襲われる場面を見てしまったのだ。何も思うなという方が難しい。

 信綱は空いた手を霊夢の方に伸ばし、その真っ白になるほど力の込められた小さな手を握る。

 

「爺さん?」

「帰るぞ。人間は、妖怪に何も奪われなかった。その事実だけを噛み締めろ」

「……魔理沙はどう?」

 

 霊夢が魔理沙のことを言うので、片腕で持ち上げている魔理沙の様子を伺う。

 人の体温に抱かれて泣いていたからか、すでに寝息が聞こえていた。

 その様子を霊夢に教えると、霊夢は本心を悟られるのを厭うようにそっぽを向く。

 

「……無事でよかった」

「そうだな。……お前の役目もわかっただろう」

 

 人里への帰り道を片手に霊夢。片腕に魔理沙を抱えて歩いて行く。

 周囲に危険な存在がいたら対応できない格好だが、信綱の顔にそういった焦りはなかった。

 森の浅い場所であれば睨むだけで逃げるやつが大半だ。さっきのように人を襲おうと考える方が少ない。

 あれも恐らくは魔理沙のように狙いやすい子供が一人で歩いていたから狙っただけなのだろう。信綱を相手に襲いかかる度胸があるようには見えなかった。

 

「……魔理沙みたいな人って多いの?」

「人里だけで供給は完結しない。この子が言っていたようにキノコや山菜、獣肉を求めて外に出る人は必要になる」

「どうやって採ってるの? 妖怪と出くわしたら終わりとかじゃないんでしょう?」

「魔除けの札だ。それを使って妖怪から気づかれにくくするらしい。お前はまだやったことがないだろうが、これも博麗の巫女の仕事でもある」

 

 ちなみに信綱は使ったことがない。博麗の巫女と知り合う前から、ただの妖怪相手なら苦もなく倒せるようになっていた。

 

「ふぅん……爺さんが私に読み書きを教えたのもそのため?」

「いや、人として当たり前の教養を教えただけだ。その辺りは今度祝詞の模写をざっと千回ほどやらせる予定だ」

「うげ……いや、やるけどさ」

 

 さすがの彼女も自分以外の人命が自分の作る札にかかるとあっては、真面目にやらざるを得ないと理解しているようだ。

 信綱は軽くうなずいてやる気を出している霊夢を褒めるようにその手を握る力を強くし、魔法の森の帰り道を歩いて行くのであった。

 

 

 

 人里が見えてきたところで、信綱は霊夢の手を離して彼女の方を見る。

 霊夢は一瞬だけ寂しそうな顔になるも、信綱にそれを悟られまいと気丈に振舞っていた。

 

「お前は神社に戻るなり俺の家に行くなりしていろ。俺はこの子を家に送った後に話をしていく」

「……お爺ちゃんとお婆ちゃんの具合が悪いってこと?」

 

 霊夢の察しの良さは先代以上だ、と内心で嘆息してうなずく。

 その吐息の意味は友人の死が近いことを嘆くのか、あるいは別の何かなのか。信綱には判別がつかなかった。

 

「……ああ。寺子屋からの付き合いだ」

「そっか。……私は母さんのところに行ってるから、爺さんは行って来なさいよ」

「そうさせてもらおう」

 

 年齢に見合わない気遣いを受けて、信綱は微かに唇を釣り上げてもう一度霊夢の頭を撫でる。

 

「次からはいらん気遣いだ。……今日は俺の家で夕餉にするか」

「爺さんと母さんの食事風景が想像できないんだけど……」

 

 ある意味親子水入らずの時間であるが、霊夢には信綱と先代という、今でもなんでこの二人が夫婦になっているのかよくわからない二人の食事風景の方が気になっているらしい。

 

「普通に食べているぞ」

「無言の冷たい空間で、とかじゃないよね? 実は私に一生もののトラウマ植え付けようとかじゃないよね?」

 

 仲睦まじい姿が思い浮かばないのだ。先代はなんだかんだ信綱に対して情の深い一面を覗かせているが、信綱の方から先代への気遣いが霊夢には見受けられなかった。

 しかしそこまで警戒される謂れなどないと思っている信綱は呆れたように肩をすくめる。

 

「安心しろ、先代はお前にべったりだろうさ。最悪、俺は置物か何かだと思えばいい」

「爺さんのその物言いも正直どうかと思うけど……まあいいか。んじゃ、後でね」

 

 口では軽く言っているものの、霊夢はウキウキした様子で火継の家の方へ飛び去っていく。やはり母親は格別のようだ。

 信綱はそれを見送った後、腕の中ですやすやと眠る魔理沙を抱え直して霧雨商店に向かう。

 

「へいらっしゃ……魔理沙!? 信綱様、どうして!?」

「後で話すから、とりあえず寝かせてやってくれ。疲れたんだろう」

 

 叶うならあんな危険な体験、忘れてしまった方が良いのだ。それはそれとして説教はしてもらうが。

 なんで魔理沙が信綱の腕に抱かれて眠っているのか、全く事情がわからない弥助は戸惑いながらも奥の部屋に通し、魔理沙を布団に寝かせる。

 そして来客でもある信綱にお茶を出したところで信綱が事情を説明した。

 

「――という次第でな。本当に危ないところだった」

「魔理沙がそんなことに……ありがとうございます、信綱様!!」

 

 事の次第を話し終えると弥助は平伏しそうな勢いで信綱に頭を下げるが、信綱はしかめっ面でそれを受け取りたがらない。

 

「偶然だったこともあるし、元を正せば子供が一人で外に行くことに気づけなかった自警団、ひいては火継の面々の問題だ。むしろこちらが詫びる側だ」

 

 定期的に里の周囲は徹底的に見て回ることにしようと心に決めていた。大人では通れない場所でも、子供であれば通れることもある。

 そういった点で考えると橙のような童女に見える妖怪でも使い道はある。今度彼女に頼んでみるか、などと考えながら信綱は話を切り上げる。

 

「用件は以上だ。あの子が事の次第を覚えていないようならお前から外には出るなと言っておいてくれ。怖い思いは忘れた方が良い」

「はい、もうこれからは一歩も家から出させません!」

「それはそれで俺が仕事せざるを得ないからやめろ」

 

 溺愛を通り越して親バカになりそうだ、と信綱は弥助の気合の入りように苦笑する。

 とはいえ娘が危険な目に遭ったと言われれば心配するのも当然だろう。魔理沙が何も覚えていなかったらご愁傷様だが、なんとか受け入れて欲しいものだ。

 

 ……この溺愛による反発が原因で将来、魔理沙が人里の外で暮らすようになってしまうのだが、神ならぬ信綱には与り知らぬことであった。

 

「さて、勘助たちは起きているか? 話がしたい」

「あ、はい。ですが、その……最近は少し具合が悪くて……」

「魔理沙から聞いた。だからこそ今のうちに話しておきたい」

「……二階の方にいます。お声掛けはご自由にどうぞ」

 

 弥助はなんとも言えない顔をした後、信綱に無言で頭を下げて店の方に戻っていく。

 その姿に無言で感謝の会釈をし、信綱は目当ての人物がいる二階に向かう。

 部屋に入ると、そこには揃って窓際で外の景色を眺めている老夫婦の姿があった。

 

「……勘助、伽耶。来たぞ」

「ん、ノブか。ちょうど会いたいって思ってたんだ」

「ずっと思ってたんだ。間が良いよね、ノブくんは」

 

 振り返って笑う二人の姿に信綱は避けられない別れが近づいていることを実感してしまい、言葉少なに否定することしかできなかった。

 

「……たまたまだ。隣、座るぞ」

 

 二人のそばに近づき、腰を下ろす。すると勘助と伽耶の二人も外の景色から視線を外し、信綱と向き合う。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 言葉はなかった。信綱は何かを言う必要を感じなかったし、二人も穏やかな笑顔でこちらを見ている。

 ほんの僅か、胸にこみ上げるものを感じる。それは彼らの友人でいられたことへの満足感か、あるいは去っていく者たちへの嘆きか。

 そうして、しばし無言の時間が流れた後、三人は示し合わせたわけでもなく同時に頭を下げる。

 

 

 

『――今まで、ありがとうございました』

 

 

 

 他に言うべきことが見つからなかった。

 信綱は自分を狂人であると知っていてなお友人でいてくれた二人への感謝を。

 勘助と伽耶は人妖の共存を成し遂げ、幻想郷の歴史にその名を刻む英雄となった信綱がずっと自分たちとの友誼を忘れなかった感謝を。

 

 それぞれがそれぞれの感謝を告げて、三人は笑う。

 その笑いはしばらく途切れることなく続き――彼らは笑ったまま別れた。

 

 

 

 

 

 

 そして数日の後――信綱は二人の親友と永別する。どちらも布団の上での大往生だった。

 それを伝え聞いた信綱の顔に驚きも悲嘆もなく、ただ静かな表情で葬儀の日程などを確認するだけだった。

 

「……いいの?」

 

 共にいた先代は常と変わらぬ信綱の様子に、心配そうな顔で話しかけてくる。

 

「人間はいずれ死ぬ。遅いか早いか、その違いだ」

「……そ、わかった。あんたは一人になりたいみたいね」

 

 しかし、常と変わらぬ中に何かを見たのだろう。先代は言葉を重ねることなく部屋を出ていき、信綱は一人になる。

 誰もいない部屋の中。信綱は一人になったことを確信すると深く、静かに息を吐いて、そして一つの言葉を口にする。

 

 

 

 ――二人とも、お疲れ様。

 

 

 

 それが、彼らの最期に向ける労いの言葉だった。




書こうと思った主人公が人間だったので、必然的に出てきた人間側のオリキャラ二人組。
でも人間だからこそこうした別れも必定となります。

ここからぼちぼち時間の進行が加速していって原作に寄って行くと思います。しっかり描写したいけど、するとそれはそれで進行が遅れるというジレンマ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

今よりもっと遠くを担う者

休みを……休みをください……(休出して0時ごろに帰ってきた人)


 物言わぬ石の塊の前に立ち、信綱は何を言うでもなくその場に佇み続ける。

 風が涼しい――と言うにはやや肌寒い秋から冬に変わる境目。その中で信綱は寒さに震えることもなく、ただ何かを見出すようにじっとそれを見つめる。

 石には文字が刻まれ、そこには霧雨家之墓と書かれていた。

 

「…………」

 

 言うまでもなく勘助と伽耶、二人の墓である。

 結ばれてから死ぬまで、時に喧嘩をしながらも仲睦まじく生きてきた二人には死後も一緒でいて欲しいと息子が願い、この形になった。

 名実ともに新たな霧雨商店の大黒柱となった弥助は、頼もしさを感じさせる顔つきで信綱に頭を下げてきた。

 

「信綱様と一緒にいられたから、二人は楽しそうでした。自分も、小さな頃に母と歩いていたことを覚えています」

「……だとしたら喜ばしいことだ。お前もこれからは一人で霧雨商店を盛り上げていくことになる。何かあったらいつでも来い」

「はは、家内と一緒にやっていきますよ」

 

 そう言って、泣きじゃくる魔理沙を連れて店に戻っていったのが少し前の話。

 信綱は飽きもせずその場に佇み、何かを思うように瞑目していた。

 

「……お前はここにいると思ったよ、信綱」

「……慧音先生ですか」

 

 目を開き、振り返る。そこには普段見慣れた教師としての服装ではなく、黒一色の喪服に身を包んだ慧音が静かに、哀しげに微笑んでいた。

 慧音と同じく喪服に身を包む信綱の隣に立ち、そっと両手を合わせる慧音。そんな彼女の様子を信綱は無言で見守る。

 

「……とうとう、お前と同じ時期に寺子屋に通っていたのはお前だけになってしまったなあ」

「もうそんなになりますか」

「お前もだが、勘助と伽耶の夫婦も十分長生きな方だよ。……残念ながら、成人してすぐに亡くなった者もいる」

 

 そう語る慧音の顔には、儚い人間への嘆きが含まれていた。

 なぜこんなにも簡単に死んでしまうのか。もっと幸せになってほしいと願う者たちはなぜ幸せになれず死んでいくのか。

 世の不条理や理不尽を飲み干したような、深い色を持った瞳に信綱は何も言えず押し黙る。

 

「……すまない、どうにも人の死に慣れないのは私の悪い癖だな。辛気臭くていけない」

「先生のそれは美徳だと思います。あなたほど長く人里で生きて、それでも人の死を悲しむことができる人を私は知りません」

 

 慧音は力なく笑うが、信綱はそれを掛け値なしに尊いものだと思っていた。

 ――少なくとも、今の自分よりはよっぽど上等だ。

 言葉には出さずとも、それ以外の何かで意思が透けていたのだろう。慧音は信綱の言葉に照れることなく、むしろ何かを心配するように信綱の顔をのぞき込む。

 

「お前はどのくらいここに?」

「葬儀が終わってからずっとここにいます。そろそろ戻ろうと思ってました」

「そうした方が良い。野風に吹きさらしのままではお前まで体調を崩してしまう」

「そうします。……先生は、二人が亡くなったことが悲しいですか?」

「まあ、な。子を成し、孫を成し、霧雨商店を広げ――およそ非の打ち所がない幸福な人生だっただろうし、私から見ても立派に生きたと思う。だが、どうしても寂しい、悲しいという気持ちは消えんよ」

「……その方が嬉しいと思います」

 

 寂しい、悲しいということは、惜しむということだ。慧音は確かに勘助と伽耶の死を惜しみ、彼らが遠くへ逝ってしまったことを嘆いているのだ。

 三途の川の向こうで、二人も苦笑していることだろう。慧音に悲しまれるのは辛いが、悲しんでくれるのは自分たちのことを思ってくれる証拠である。

 

「お前はどうなんだ、信綱。私にばかり言わせるのは不公平じゃないか?」

「……もどかしい、というのが正直なところです」

「もどかしい?」

 

 慧音の言葉にうなずき、信綱は二人の眠る墓石と向かい合う。

 寺子屋の頃から一緒だった友人と死別したのだ。何も思うところがないわけではない。

 彼らと言葉を交わせないことを惜しいとも思うし、残念にも思う。

 

 

 

 ――だが、それだけだ。

 

 

 

 悲しみはない。寂しさもない。ただ、気に入っていた飯屋がなくなっていたような、そんな小さな喪失感。

 だからこうして立っていたのだ。今はまだ彼らの死を実感できないだけで、悲しみは後から来るのではないかという淡い期待を抱いて。

 尤も、その期待は慧音との会話で潰えたことが確信できてしまったのだが。

 

「悲しむべきなのに、涙を流すべきなのに、心が揺れない。自分でも驚くくらい、何の感慨も浮かばないんです」

「信綱……」

 

 どうやら、ここ最近の平穏な時間で自分は勘違いをしていたようだ。

 椛ら妖怪と言葉を交わし、霊夢を鍛え、阿求の側に仕え、先代と共に眠る。そんな穏やかで殺伐としたものが何もない時間。

 

「少し、自分がまともな人間になったと錯覚してしまいました。――自分は死ぬまで御阿礼の子に狂っていると知っていたのに」

 

 彼らの死を悼んでやれないことに後ろめたい気持ちはある。だが、それでも信綱は自分の道を変えようとは思わなかった。

 ある意味において彼らの死こそが、信綱を阿礼狂いとしての実感を強く持たせることになってしまっていた。

 生まれてから死ぬまで。自分は御阿礼の子に狂い、それ以外の全ては些事。些事に心煩わせる理由などなく――まして悲しむ必要などどこにもない。

 

 瞳に強い意志が浮かぶ信綱を慧音はなんとも言えない顔で見つめ、何かを言うことなく話題を変える。

 

「……この墓にはこれからも来るのか?」

「命日には来ます。それ以外はわかりません」

「そうか。……二人のことを忘れてやるなよ」

「言われずとも大丈夫ですよ」

 

 そう言って立ち去る信綱の後ろ姿を眺め、慧音はポツリとつぶやいた。

 

「忘れてやらない辺り、お前は優しいやつだよ。信綱」

 

 もう終わってしまった二人のことなど、彼にとっては忘れても良い存在だろうに。それでも忘れないと言い切ったことに慧音は顔を綻ばせる。

 人間も妖怪も、誰の記憶からも忘れ去られてしまう時が本当の死だ。その意味で言えば人里の人間は誰一人死んでいないのだろう。なにせ慧音が皆覚えている。

 

 勘助と伽耶の二人も生き続けるのだろう。彼らとの思い出を御阿礼の子とは比べられないほど矮小なものであると位置付けながら、それでも決して忘却しようとは思わない男の心の中で。

 

 自分も戻ろう。戻って歴史書の編纂に戻らなくては。

 歴史とは大きなうねりのようなものだ。しかし、その中にある流れは小さな波が寄せ集められて生まれる。

 勘助も伽耶も、人里に生きる全ての人間がその小さな波の一つ一つだ。書き損じがあってはいけない。

 

 そうしてできたものが誰に読まれることのない難解なものになったとしても、その時代に生きた者たちを記した本の意味が消えることはない。

 慧音は自らの生を駆け抜けた者たちを思い、そしてこれから先の道を歩いて行くであろう子供たちを思い、再び前を向いて歩き出すのであった。

 

 

 

 

 

「むー……」

 

 橙は膨れていた。私怒ってますよと言わんばかりに頬を膨らませ、非難するような目で相手を睨みつける。

 しかし相手――信綱は柳に風とばかりに涼しい顔。自分が悪いことをしているなどとは微塵も思っていない顔だ。

 

「そんな顔をしてどうした」

「どうしたもこうしたもないわよ!! 人が遊びに来たらいきなりこれってなに!?」

 

 人里に遊びに来たら問答無用で首根っこを掴まれて、人里の外周を歩かされているのだ。腹の一つも立てなければ嘘というものである。

 橙の怒鳴り声を聞いて信綱はぽんと自分の手に拳を置く。すっかり説明を忘れていた。

 

「おお、そういえば事情を話していなかったな。お前はもう俺の中で協力することになっていた」

「勝手に決めないでくれる!? 私だってあんたにお菓子を集りに行く崇高な予定があったのよ!」

「それのどこに崇高な要素があるのか俺には全くわからん」

 

 しかも金を払うのは自分ときた。どうせ自分に会いに来たのだからやることに大して変わりはないではないか。

 それでも怒っている橙に信綱はため息をついて、仕方がないと肩をすくめる。

 

「……わかったよ、俺の頼みを聞いてくれたら菓子ぐらいなら買ってやる」

「ほんと!?」

「菓子だけだぞ」

「十分十分! ほら、さっさと終わらせるわよ!」

 

 菓子と時間だけで済むのだから安い。本来なら普通の給金を払わなければならない作業なので、橙が余計な知恵をつけないことを願っておく。

 

 事の発端は先日にあった、魔理沙が無断で里の外に出てしまったことだ。

 人里の外が危険であると口を酸っぱくして教わっているというのに、それでも子供というのは決まり事を破りたくなるもの。

 彼女のような子がもう一度出ないためにも、信綱の方で何か対策を練る必要があった。

 次は死んでしまうかもしれないのだ。それらを子供の自己責任で済ませるのは、彼女らの先達として醜悪に過ぎる。

 

 自警団にはすでに伝達済みだが、それだけでは弱い。人の意識をいくら変えたところで限度がある。再発を防ぐには根本的な原因に目を向ける必要があった。

 子供たちが外に出てしまう理由、ではない。子供たちが外に出られる方法である。

 大人が見張っている正門からバカ正直に出るはずがない。となれば子供にしか通れない道がある、と考えるのが自然だ。

 

 魔理沙がどうやって外に出たのかも含めて、信綱は子供が外に出やすい道や場所を探すことにしていた。

 そして蛇の道は蛇という言葉もあるように、子供の道を探るには子供に聞くのが早い。

 

 霊夢に頼んでも良かったのだが、彼女は空が飛べるのでその辺の子供しか通れないような道に興味は示さない。

 レミリアも思い浮かんだが、彼女はそんなまどろっこしい道を探すぐらいなら正面からぶち破れば良いじゃない、と言う姿がありありと浮かんだため却下した。

 そこで信綱は橙に白羽の矢を立てたという経緯である。

 そんな事情を説明すると、橙はふんふんと興味深そうに何度もうなずいて、胸を張った。

 

「要するに私にしかできない頼みごとってわけね! 大船に乗った気持ちで任せなさい!」

「…………」

 

 とても不安だった。本当に大丈夫だろうかこいつ、と思いながらも顔に出すことなく信綱は橙を伴って里の外縁部を回っていく。

 

「あ、そこそこ! そこの茂み! ちょっと見て!」

「……小さなくぼみが見えるな。通れるか?」

「猫なら通れるし、子供でも通れるんじゃない?」

「なるほど、外縁部の修繕案件としてまとめるか……」

 

 しかし予想に反して橙はよく見ていた。もう自分では見つけられない抜け穴をすさまじい勢いで見つけていく。

 

「意外だな、ここまでやる気を見せるとは思っていなかった」

「なに言ってんのよ。子分に頼られて張り切らない親分はいないわ!」

「俺はまだお前の子分なのか……」

 

 いつの間に認定されたのか本当にわからない。実害はないので気にしていないが、この妖猫の子分認定の境界は気になるところだった。

 人里外縁の地図を片手に橙と歩いていく。隣を歩く橙は腕を頭の後ろで組んで機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。その調子に合わせて首元に光る鈴が伴奏のように音を鳴らしていた。

 

「楽しそうだな」

「そりゃそうよ。ようやく子分が頼ってくれたんだもの。それってつまり、私が親分だって認めるってことでしょ?」

「全く違うわ戯け。適材適所というだけだ。とはいえ、今回は確かに頼っているが」

「じゃあなんでも良いわ。子分の面倒を見るのも親分の仕事だし」

「…………」

 

 無性に耳を引っ張りたい衝動に駆られるが、頼っていることもあるので堪えることにする。

 彼女には一回限りだけでなく、定期的に見て回ることを頼みたいのだ。そうなるとなるべく彼女の機嫌は良い方に傾けておく必要がある。

 ――と、そんな打算じみたことを考えて、信綱は自分で自分の発想を否定する。

 

 この猫にそのような小難しい計算は意味がない。最も効果的な頼み方など、彼女が何度も言っていることではないか。

 

「……なあ」

「なあに?」

「時々でいいから、こうして里の外を見てくれないか。子供の抜け道というのは大人にはわからない」

「大人だって子供だった時期があるのに、不思議よね」

「同感だ。だが本当にわからなくなる。自分でも驚いた」

 

 自分だったら真っ先に排除するような非合理的な道を、子供は何の迷いも持たずに選べる。そしてその選択が時に大人の思惑を越えた結果を手繰り寄せてしまう。

 そういった子供たちに対抗するには、こちらも子供の目線を持つ味方が必要になる。橙はその意味で言えばうってつけと言えた。

 なにせ自分が会った時から変わらない妖怪だ。いつか成長するにしても、その時まで見てもらえるなら百年以上は確実だろう。

 

「ん、子分の頼みだもの。もちろん良いわよ」

「助かる。で、仕事の報酬だが――」

「良いって。老い先短い子分の頼みぐらいタダで聞くわ」

「そういうわけにもいかん。対価の絡まない約束ほど不安なものはない」

 

 とはいえこれは突発的な頼みごとではなく、れっきとした仕事の依頼になる。

 橙の人間性を疑うわけではないが、大半の人間は無償で何かをし続けられる精神は持っていない。

 信綱は御阿礼の子に関わることであれば無償で、生涯同じことを続けることも可能だが、この猫にそんな精神は期待するだけ無意味である。

 

「具体的な話はスキマかその式に回すと思うが、人里で使える金銭でいいか?」

「え? あんたにたかるから大丈夫じゃないの?」

「俺が死んでからも続けてもらうんだぞ」

「う……」

 

 橙の耳が困ったように垂れ、彼女の手が自分の首で揺れる鈴に触れる。

 

「……難しいことはよくわかんない。藍さまに相談してみる」

「そうしてくれ。……言い方が悪かったな。作業に戻るぞ」

 

 自分の死を嫌でも意識させる物言いになってしまった。信綱は失言してしまったと顔をしかめ、歩き出す。

 こういう時は別のことをさせてしまうに限る。言葉を尽くしてどうにかなる問題ではないのだ。

 

「……あ、あそこのくぼみも通れそう。あと、あの辺りは木が腐りかけ」

 

 橙も頼まれごとはしっかりこなしており、やや言葉が少なくなったものの信綱にありがたい情報をもたらしてくれる。

 

「どのみち修繕は必要だったか……」

「これ、どのくらい直してないの?」

「正確なところは知らんが、年数回は見て回って修繕しているはずだ。……とはいえ、外から見るのがおざなりになるのも仕方がない」

 

 人里の中にいる妖怪は安全だが、人里の外で出くわしたらそうでない可能性もある。

 それに今までの人里では外に出たら命懸けという認識があった。こればかりはすぐに変わるものではない。

 そしてその危険な外で、外縁のどの部分が壊れているかを念入りに探せるほど余裕がある者は少なかった。

 

「内側だと家とかで見えない部分もあるだろうしな……。お前に頼んで正解だった」

「褒めるんなら態度で示してほしいわね! 具体的にはお菓子で!」

「はいはい、わかったよ。……うん?」

 

 魔理沙が出て向かった場所でもある、魔法の森がある方向を重点的に見つめていると、ふと見慣れた人影が信綱の視界に映る。

 銀の髪をした人里の人間は少なく、まして男とくれば一人しか浮かばない。

 橙は以前に薀蓄を語られたことが嫌だったのか露骨に顔を歪めるが、信綱は構わず声をかける。

 

「なぜ外に出るのか、聞いてもいいか」

「君たちこそこんな場所で何を?」

「魔理沙みたいな子供が出ないようにするための修繕部分の確認だ」

「ああ、あれには肝を冷やしたよ。っとと、失礼、あなたの質問に答えていなかったね。

 ――実は、そろそろ独立しようと思っているんだ」

 

 今回は独立する店の下見さ、と言って半妖と呼ばれた存在――霖之助は微笑む。

 信綱は橙が背中に隠れるのを感じながら話を続ける。

 

「……俺とお前が会った場所か?」

「あそこも結構気に入ってるんだけど、もう少し人里に近い場所にしようと思ってるんだ。ほら、そうすれば次に魔理沙が魔法の森に来た時、僕のところに来るかもしれないだろう?」

「魔法の森の門番に近い役目でもするつもりか?」

「まさか。ただ僕は人里にほど近く、しかし一人になりやすい場所に店を構えたいだけだよ。……尤も、僕も鬼じゃないから、迷い込んでしまった子供を人里に案内するぐらいはするだろうけどね」

 

 要するに遠回しな彼なりの優しさである。彼にできることで、彼の目的と阻害しない。その範囲で魔理沙のような子供が出ないよう行動する。

 毒にも薬にもならない薀蓄が得意な、霖之助らしい気遣いと言えた。殆ど役に立たない、でも全く無駄というわけでもないという実に微妙な一線である。

 

「……まあ良いだろう。お前なら危険を避けることもできるだろうし、弥助から許可ももらっているはずだ」

「もちろん。親方への不義理は絶対にしないつもりさ。こんな時期にやめるのも酷かとは思ったけど、ここであまり僕が力になってしまうと後々不味いことになりかねない」

 

 勘助と伽耶が亡くなったことによる、店の影響は皆無に等しい。すでに隠居の二人組。店の経営への関与も一切していなかった。

 だがそれと周りに一切の影響が出ないことは同義ではなく――一人息子の弥助にしてみれば両親を同時に喪ったことになる。

 少なからず仕事にも影響が出るだろう。そんな時に霖之助が力を発揮しすぎてしまうと――彼に頼る構図ができてしまいかねない。

 

 そうなってしまうと霖之助の店を持つ目的は遠のき、霧雨商店も霖之助に頼ること前提のものになってしまう可能性が生まれる。

 それはどちらにとっても幸福な未来ではない。なので霖之助は今の時期にこそ独立を願い出たのであった。

 

「幸運、というより親方の慧眼だね。親方はそうなる可能性を見抜いていた。僕の独立も快く認めてくれたよ」

「そうか。……お前は店を持っても弥助たちとは交流を持つのか?」

「もちろん。僕の店では扱えない素材を卸す店にもなるし、両親を亡くしたばかりの親友もいる。何か力になれるなら喜んで力になるつもりさ」

「そうしてやってくれ。あれも今は辛い時期だろう」

「ああ。近いうちに店を開いたら、あなたにも是非来て欲しい。そこの妖猫もね」

「絶対イヤ!」

 

 橙は信綱の後ろに隠れて、顔だけを出して舌を出して拒絶する。どうやら以前いきなり薀蓄を語られたことを根に持っているようだ。

 信綱も初対面の相手にそれをやられて距離を取らない、とは言えないので霖之助を擁護することはしなかった。

 

「ははは、残念ながら嫌われてしまったようだ。僕も誰彼構わず語るわけじゃないんだよ? ちゃんとその道具を大切にしてくれる人を選んでいるつもりだ」

「相手からすればいい迷惑だろうけどな……」

 

 これが為になるならまだしも、よく聞くと霖之助の想像の割合の方が多そうな内容なのだ。信綱も彼の薀蓄は右から左に聞き流していた。

 

「っと、あまり話し込んでいると日が暮れてしまう。魔法の森で夜を迎えたくはないから、僕はそろそろ失礼するよ。あなたも歳だ、仕事は程々にした方が良いよ」

「お前たちがもっと頼れるようになったら考えよう」

「はは、これは一本取られた」

 

 霖之助は笑いながら森の中に入っていく。信綱の力になるつもりはないようだ。

 彼の心配は特にしていなかった。元より魔法の森以上に危険な無縁塚で暮らしていたと話していたし、何らかの自衛手段は持っているのだろう。

 木々に隠れて霖之助の姿が見えなくなると、橙が信綱の後ろから出てくる。

 

「……あいつ、苦手」

「得意な奴はいないだろうな」

 

 そして親分を標榜しているくせに子分の背中に隠れて良いのだろうか、と思う信綱。

 しかし橙はそんな信綱の生暖かい視線に気づくことなく、信綱の着物を掴んだまま見上げてくる。

 

「あんたは結構話してたじゃない」

「友人の店で働いていたんだ。そりゃ顔も合わせる」

 

 何度も顔を合わせれば慣れるというものである。霖之助は少々語りたがりで、その内容が毒にも薬にもならないだけで決して悪い人柄ではない。

 魔理沙に好かれているように子供相手の面倒見も良く、修行にも真面目に取り組んでいた姿を知っている。

 それにレミリアや紫のように突拍子もないことを言い出したりはしない。妖怪の言葉に振り回されてきた信綱からすれば、まっとうなことを言うだけでもまともな人格だと思えてしまう。

 

 総じて森近霖之助という存在は、玉に瑕な部分はあれど好ましい存在という評価に落ち着いている。

 彼が開く予定の香霖堂という名の店にも、暇さえあれば寄るつもりだった。

 

「それより再開するぞ。今日中に修繕箇所は見積もっておきたい」

「あ、うん。でも修繕はどうするの? あんたの話だと外って人が行きたがらないんでしょ?」

「別の妖怪に頼む。鬼にでも頼もうかと思っていた」

 

 百鬼夜行の折、壊滅状態になった河童の里を直したのは伊吹萃香だ。

 後で聞いたところ、以前よりも綺麗になったという意見すらあった。

 彼女のみならず鬼は優れた大工の技術を持っていると聞く。真面目に仕事をしてくれるかは不安要素だが、そこは勇儀辺りを仲介すれば良かった。

 が、そんな思惑は橙にとってどうでも良いものだったようで、彼女は何か別の部分で感動に浸っていた。

 

「鬼を顎で使える……つまり、親分の私のほうが偉い――イタタタタ!?」

「子分の力を自分の力と錯覚するようでは良い群れの長にはなれんぞ。あと調子に乗るな」

 

 変な勘違いをして問題を起こされても困るので、耳を引っ張って釘を差しておく。

 

「冗談! 冗談だから離してー!!」

 

 涙目になってこちらから距離を取る橙の姿を見て、信綱はため息をつく。

 こんな調子で自分が死んだ後は大丈夫なのだろうか、という心配が多分に含まれているものだった。

 

「ううー……子分のくせに……」

「子分になった覚えなど一度もない。そら、行くぞ」

「あ、待ってってば!」

 

 きっとこの猫は自分がいなくなってからもこうやって生きるのだろう。

 調子に乗りやすく、色々と失敗もして、それでも周りから見放されることだけはなくて。

 

 成長した姿というのが全く思い浮かばないがそれはそれで彼女らしいのだと思えるぐらいには、信綱は橙のことを信じている。

 思い浮かばないというのは想像できないというわけではなく、自分の想像を越えるだろうという信頼からだった。

 

「……お前は」

「うん、どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

 

 皆と仲良くしろと言うつもりだったのだが、そんな当たり前のことを言う必要はないだろう。

 なにせこの妖猫、不思議と誰かと仲良くなることは上手い。

 阿礼狂いである自分ですら友人だと言ってのけるのだ。大半の連中とは上手くやっていけるはずだ。

 

「? 変なの」

「変で悪かったな」

「悪いだなんて言ってないわよ。ま、あんたみたいな変な奴でも私は見捨てないから安心しなさいって痛い痛い!?」

「調子に乗るな」

 

 前言を撤回しよう。やはり彼女の成長には不安が残る。

 信綱は橙への不安と信頼、両方を混ぜたため息をついて彼女の耳を解放し再び歩き始める。

 

「いい加減仕事を終わらせるぞ。お前が頼りだ」

「……!! 橙様に任せなさい! あんたのお願い通り、これから先も何年だって続けてあげるわ!」

「期待はしないでおこう」

 

 猫は気まぐれとも言うし、すぐに飽きるだろう。

 そんな風に軽く考えていた信綱だったが、だからこそ次の橙の言葉には驚いてしまった。

 

「期待しなさいよ!? いいもん、あんたがいなくなってからもずーっとやってやるんだから!!」

「……それは頼もしいことだ」

 

 驚きを表に出さず、肩をすくめるだけに留める。

 それがまた橙の癇に障ったのか、信綱を指差して高らかに一つの宣言をする。

 

 

 

「絶対! ぜーったい! あんたが作ったものを私がもっと良いものにしてやる!」

 

 

 

 だからあの世で指をくわえて見てなさい! と言い切る彼女の姿に信綱は小さく息を吐く。

 

「……なら今は仕事を真面目にやることだ。終わったら菓子ぐらい買ってやる」

「まずは小さな一歩からってことね! 藍さまも言ってたわ!!」

 

 意気揚々と尻尾を揺らして歩く橙の後ろ姿に、信綱は彼女が見ていないことを確かめて微かに笑う。

 信綱が積み上げたものを守ろうとする者は何人かいたが、良くしてやると言ったのは彼女が初めてだった。

 

 天魔に、レミリアに、紫に言われても響かなかったであろうその言葉が、橙の言葉だと不思議と腑に落ちる。

 計画性も何もない、ただの童女にも等しい彼女の無鉄砲な言葉がなぜか心地良い。

 

「ほらー! 置いてくわよー!!」

「……やれやれ、お前だけが張り切っても何もならないというのに」

 

 こちらに手を振る橙に追いつき、二人は並んで仕事を再開していくのであった。




ここまでのお話(要するにノッブのお話)とこれからのお話(橙のお話)といった感じのお話でした。

何かと不安なところはあるけれど、きっと良い方向にしてくれるだろうと思わせる何かがある。ある意味ノッブ以上の可能性を秘めている妖猫です。
お前ホント出世したな(元々はノッブとのやり取りが楽しいからチョイ役から出世させたキャラ)

次回? とりあえず23時まで会社から解放されない生活が終わったらかな……(白目)
入社早々、先輩直々にかつてない修羅場だとか言う状況に放り込まれてますが私はなんとかやっています(震え声)

(追記)あ、サブタイトルちょっと変更しました。少し前のお話と被っていたので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

先代の巫女と阿礼狂い

休みをください(定型文)

8月の労働時間235時間だったってよHAHAHA!
なおやっぱり問題あったみたいで9月は休みが取れそうです。配属したての新人が残業してもサラリーシーフにしかなりませんよねそりゃ。


 信綱が博麗神社の階段を登り切ると、霊夢が仁王立ちしていた。

 先代と似た博麗の巫女装束を身にまとい、両腕を組んでやってきた信綱を見下ろす。

 そう、見下ろしていた。わざわざ空まで飛んで信綱より視線を高くして。

 無表情を装ってはいるものの、その顔には隠し切れない得意げなものが浮かんでいるのを信綱は怪訝そうな目で見る。

 

「……なぜ空を飛んでいるんだ」

「ふっふっふ……はっはっはっはっは!!」

 

 ごく当然の疑問を口にすると、霊夢は待ってましたと言わんばかりに笑い始める。

 うるさいので黙らせようと拳を握ると、霊夢は慌てて距離を取って話を再開する。

 

「今日こそ! 爺さんの稽古は終わりにしてもらうわ!」

「どういう意味だ?」

「爺さんに勝ったら稽古はしなくて良いんでしょ! 初めて来た時そう言ってたじゃない!」

 

 別に今勝ったところで信綱は霊夢に稽古を付けることをやめたりしないが、曖昧にうなずいておく。

 理由はわからないが彼女がやる気を出しているのだ。わざわざやる気を削るようなことは言わないで良いだろう。

 

「まあ、そうだな。うむ」

「そして私はずっと辛酸を舐め続けてきた……というか爺さん強すぎ! 手加減とかしなさいよ手加減!」

「で、何が言いたいんだ?」

 

 未だに武器も使っていないのだから手加減しまくっているのだが、これも霊夢には言わず先を促す。

 そうすると霊夢は腕を組んだまま胸をそらし、得意満面な顔で言い放つ。

 

「今日は秘策があるわ!! 母さんからようやく教えてもらったこれで、爺さんに勝つ!!」

「……流れが読めてきたな」

 

 大方、先代から大技の類を教えてもらったのだろう。

 信綱は軽くため息をついて、その場で構えを取る。

 

「――御託はそこまでにして構えろ。口を回すだけでは勝てんぞ」

「わかってるわよ。じゃあ――食らえ、夢想封印!!」

 

 

 

 

 

「で、今日は俺の稽古を日が暮れるまでやりたいんだったか。見上げた心がけだ」

「うー! うー!!」

 

 数分後、そこには涙目で握り拳をぶんぶん振り回しながら信綱を見上げる霊夢の姿があった。

 確かに彼女が披露した技は博麗の技術の中では奥義に類するものだった。まだ齢にして十に届くかどうかと言った年齢でそこまで身に付けたのは偏に彼女の才覚だろう。

 信綱もそれは認めている。これまで泣こうが喚こうが稽古の手を抜いてこなかった甲斐があるというものだ。

 だが、奥義一つで力関係が逆転してしまうほど、信綱と霊夢の間にある力量差は小さなものではなかった。

 

 普段の霊夢ならそのぐらいのことはわかっただろう。今回は先代から奥義を教えてもらったことと、子供らしい誰かに自慢したい気持ちが合わさったに違いない。

 信綱は霊夢の頭に手を乗せて、振り回される拳が届かないようにしながら話し始める。

 

「だいぶ先代のものとは毛色が違ったが、確かに秘奥の一つなのだろう。その歳でよく習得した。そこは褒めてやる」

「うぇ? そ、そう? ま、まあ母さん曰く私って天才みたいだし? 爺さんに褒められてもこれっぽっちも嬉しくないし?」

 

 照れているのか嬉しいのか、視線を右往左往させながらの霊夢の言葉に信綱は一切の関心を示さなかった。

 事実は事実と認めるだけであり、そこでの彼女の反応は気にしていない。

 

「だが、無策に放った攻撃が当たるはずないだろう。お前から見た俺はそんなに楽な相手か」

「……なんで何も考えずに撃てば勝てる、なんて思ったんだろう私」

 

 負けたことで頭も冷えた霊夢が真顔で聞いてくるが、信綱は知らんと肩をすくめるだけだった。

 霊夢の額を小突いて、改善点を言っていく。

 

「いたっ」

「無意味な行動をするな。必ず自分の中で行動に意味を持たせろ。無駄な動きばかりをしていて勝てるほど、戦いは楽ではない」

 

 奥義を当てたいのなら布石を打つ。削り殺したいのなら自身の消耗を抑え、相手の消耗を強いる。

 戦いに勝つと言っても色々あるが、どれにしても自分なりの目的を持つ必要があるのは間違いない。

 

「例えば?」

「先ほどの夢想封印で勝ちたいのなら……そうだな。俺が避けられない状況を作るか、避けても問題ないようにすれば良い」

「フェイントに使えってこと?」

「そういう手法もある、というだけだ。取捨選択はお前に任せる」

「取捨選択……」

 

 考え込み始める霊夢の様子に、信綱は良い傾向だと視線を和らげる。

 自分で考えて短所を改善していくようになるのは喜ばしいことだ。信綱も霊夢をいつだって見守っていられるとは限らないのだ。

 というより、自分は御阿礼の子と天秤にかけたら迷わずそちらを選ぶので、霊夢には遠からず一人で頑張ってもらう必要があった。

 

 阿求が寺子屋を卒業し、幻想郷縁起の編纂を開始しようと考え始めているのだ。

 当然ながら信綱はそちらを優先するため、霊夢に稽古を付ける時間は今より確実に減る。

 

「俺は明日以降はしばらく来てやれん。おそらく稽古は先代とやることになる」

「本当!?」

「目を輝かせるな戯け。今回は組手以外にも別のことを教えるぞ」

「別のこと?」

「稽古の手前の軽い体操みたいなものだ」

 

 余人から見れば十二分に修行と言っても差し支えない内容だが、今の霊夢ならおそらく容易に騙せ――もとい、丸め込める。

 何せ彼女の稽古は自分が一手に担ってきたのだ。先代にも口裏を合わせてもらえば彼女は自分以外の相手と行う稽古を知らないままになる。

 知っていれば修行であっても、知らなければ体操で押し通せる。

 

「体操?」

「うむ。健康のために誰もがやることだ。お前なら簡単にこなせるだろう」

 

 誰もがやるが、信綱の考えているものと同等のものは誰もやらないだろう。やるとしたら戦闘を生業にする者ぐらいである。

 無論、そんなことは欠片も伝えずに信綱は霊夢にその内容を教える。

 

 霊夢はそれをふんふんと興味深そうに聞いていく。

 爺さんと慕う男は言動に容赦こそないが、間違ったことは言わないし疑問にも何でも答えてくれる。

 よもや騙しているなどとはまるで思わず、霊夢はその内容を覚えていき、そして律儀に実行していくことになる。

 

 ……この事実が明るみに出るのはもうしばらく先の話だが、その時の霊夢はあのジジイぶっ飛ばす!! と怒髪天を衝く様子だったそうだ。そして負けた。

 

「――以上だ。今日はやらんでいいが、明日からやるように」

「わかった。じゃあ今日のところはこれで……」

「さて、お前が負けたら今日は一日稽古に付き合うんだったか」

「そんなこと言ってないわよ!? やだー! 誰か助けてー!!」

「お前はそう言っている者を助ける側だ」

 

 博麗神社の裏手、いつも二人が稽古場にしている場所に泣き叫ぶ霊夢を引きずっていくのであった。

 

 

 

「少し意外だったな」

 

 その日の夜、信綱は縁側で晩酌を傾けるでもなく月を見上げる先代の姿を見つけ、その隣に茶を用意して座る。

 

「ん、ありがと。……うわ、なんでお茶まで私が淹れたのより美味しいのよ」

「家にいれば誰だって茶を飲む。御阿礼の子とて例外ではない」

 

 そして御阿礼の子の側仕えをするのが火継である。彼女らが口にする茶を最高のものにすることなど、もはや必須項目と言っても過言ではない。

 

「いや、それは過言だと思うけど……まあ良いか。で、何が意外だって?」

「お前が奥義を教えたことだ。もう少し先延ばしにすると思っていた」

「その予定だったんだけどねえ」

 

 先代は困ったような嬉しいような、曖昧な表情で笑って茶をすする。

 

「あの子、本当に才能あるのよ。私から教えることがもうほとんどないくらい」

「だから奥義か?」

「実はもう一歩先があるんだけど――こればっかりは自分で覚えてもらうしかないのよ。でも、言い換えれば私が教えられるのはあれが全て」

 

 母が娘に嫉妬すら覚えてしまうほどに、あの子は才能に満ち満ちていた。

 教えたことは難なくこなし、応用までお手の物。しかも空を飛ぶ程度の能力の影響か、先代ですら扱えないような技もすでにいくつか覚えていた。

 

「だから私の役目はほとんど終わりかけ。さすがに組手で負けるつもりはないけどね。術が使えることと、操れることはまた別だし」

 

 それに精度についてはまだまだ甘いの一言である。知識を一足飛びに覚えることは不可能ではないが、それらを操る技術は地道な修練がモノを言う。

 霊夢はどちらかと言えば感覚派でその感覚にも天賦の才を持つが、彼女の才覚を持ってしても先代に並ぶには未だ遠い。

 

「そうだな。目一杯壁を見せつければ良いさ」

「そうするつもり。……それで私の役目はおしまい。残るのはなんだろうな……」

「母親だろう。親の役目まで放棄するのは感心しないぞ」

 

 信綱は当たり前のことを言ったつもりだったが、先代は目を見開いて信綱の顔をまじまじと見つめてくる。

 なにかおかしなことでも言っただろうかと言動を振り返っていると、先代は急に笑い出す。

 

「……あははははっ! あんたに言われるなんて思わなかったわ!」

「お前が当然のことすら忘れていただけだ」

「ん、ありがとね」

 

 一頻り笑った先代は穏やかな視線になり、隣の人間のことを愛おしそうに見る。

 

「そうね、私はあの子の母親。あの子が私より強くなっても、立派になっても。それは絶対に変えない」

「それで良いだろう。あれは俺の目から見ても才能があると思うし、成長もしている。――だが、まだ十歳の子供だ」

 

 しかも自分のような阿礼狂いでなく、普通の人間の。

 妖怪退治に連れて行けば緊張で固くなり、友人が危ない目に遭っていたのが怖くなって、信綱の家でご飯を食べた後に一緒に寝たいと言い出したり、寺子屋で皆と一緒に勉強するのを表には出さないが楽しみにしているような。

 当たり前のことで笑い、当たり前のことで怖がり、当たり前のことで泣く。信綱とは似ても似つかない感情豊かな少女だ。

 

 それらを包み隠さず伝えると、先代は嬉しそうに微笑んでみせる。

 

「そんなに考えてくれる人がいてくれて私も嬉しいわ。あの子は幸せね」

「……そうだろうか」

 

 今でこそ子供でいられることが許されている。しかし遠からず彼女は博麗の巫女として立たねばならなくなる。

 そうなっても自分の意志を通せるだけの力を与えているつもりだが、全てに平等な彼女の姿は信綱には想像できなかった。

 

「幸せよ。――心配してくれる誰かがいる。それだけでもすごい支えになるの。私も何度も折れかけたけど、あんたのおかげで耐えることができた」

「俺のおかげ?」

 

 意味がわからないと首を傾げる。彼女に何かをした覚えなどなかった。

 そんな信綱の様子に先代はおかしそうに笑い、一つ一つ自分の支えとなったものを語っていく。

 

「博麗神社を、私を訪ねてくれる誰かがいる。なんてことのない話ができて、愚痴をこぼせる友達がいる。……博麗の巫女の役目を終えても、こうして一緒にいてくれる人がいる」

 

 いつの間にか信綱の肩に先代の頭が乗り、流し目が信綱を見ていた。

 信綱はそんな先代の様子を静かに受け止め、ゆっくりと言葉を選んで口を開く。

 

「……お前にとってはそれが何よりも大切だったんだな」

「ええ、あんたにとっての御阿礼の子と同じくらいに」

「そうか……そうか」

 

 信綱は先代を愛することはない。例え彼女が自分を愛したとしても、その愛に応えることはしない。

 できるできないの問題ではなく、そもそもそんな機微自体が存在しないのだ。

 だが、それでも信綱は彼女が心から大切にしているものを自分から破壊しようとは考えず、むしろ尊重したいと願う人間性を持っていた。

 

 肩に寄りかかる先代に片腕を回し、彼女を抱き寄せて顔を自分の胸に当てる。

 

「お前が離れない限り、俺はお前と一緒にいる。忘れるな、――」

 

 耳元でささやくように彼女の名前を口にすると、先代は顔を上げないまま信綱の背中に手を回してくる。

 ずっと一人だった博麗の巫女がようやく手にしたのは、誰の目から見ても危ない存在で、けれど確かな優しさも持つ狂人だった。

 ――それで構わない。狂人であろうと変人であろうと、彼は博麗神社に足を運んで自分に会いに来た。その事実だけが彼女にとって重要であり、それがあれば十分だ。

 

 そうしてしばらくの間、二人の影は一つになって互いの体温を共有し合うのであった。

 

 

 

 

 

 信綱は用件がなければ自分から居酒屋に足を運ぶことはない。

 成人した頃から今に至るまでついぞ酔うという感覚が覚えられなかった彼にとって、酒とは友人との対話を円滑にするための道具か、あるいは付き合いで飲むものでしかなかった。

 先代は酒をよく飲むためそれに付き合って晩酌を傾けることはあるが、それもせいぜい二、三杯程度である。

 

 このように酔わない体質であることを信綱は誰にも言っていなかった。

 聞かれなかったこともあるし、酒が飲めないわけではないのだ。言う必要を感じなかった。

 

 ところが、それを言う機会が先日あった。先代の酒盛りに付き合っていた時の話である。

 杯をどんなに傾けても顔色一つ変えることのない信綱を訝しみ、先代が聞いてようやくその事実が周知のものとなったのだ。

 

「で、なぜ俺をここに連れてくる」

 

 そして信綱は初夏のだんだん短くなりつつある夜の月明かりの下、先代に首根っこを掴まれて居酒屋に来ていたのであった。

 

「酒は皆で楽しむものよ。あんた一人だけ素面ってことは、酔い潰れた人の面倒とかも見てきたんでしょ?」

「店の主人に任せて帰っていたぞ」

「……それでよかったの?」

「酔い潰れるのは向こうの責任だろう」

 

 最低限、店主に気遣いはするように言い含めておいたのだから優しい対応だと思っている。

 

「酔いたいと思ったこともないし、味がわからないわけでもないんだ。別にいいだろう」

「ダメよ。それじゃ私が面白くな――んんっ! 酒の楽しみがわからないのは人生の損失よ」

「…………」

 

 信綱の目が恐ろしく冷たくなるが、先代はひるまない。無駄としか思えない度胸を発揮され、信綱はしぶしぶ椅子に座り直す。

 

「……お前が潰れるまでだぞ。今は阿求様が休まれているから付き合っているんだ」

 

 もうじき寺子屋を卒業して、幻想郷縁起の編纂が始まる。それから少し遅れてスペルカードルールの普及も始まる予定になっている。

 つまりまだまだ信綱に休みはないということである。もう自分から表立って異変解決に尽力はせずとも、彼が動くべきことは山のようにある。

 しかしそれは未来の話であって、今の話ではない。先代の言葉に従って酒を口にする余暇ぐらいはあるのだ。

 

 信綱は椀に注がれた酒を飲み干し、向かいの先代を見る。

 すでに飲んでいる速度も量も倍近い。味わうという発想がないのだろうか、と信綱は思いながらも口には出さない。酒の楽しみ方は人それぞれである。

 

「ぷはぁ、美味い!! 倒れても介抱してくれる……もとい、相方がいると酒が進むわぁ」

「…………」

 

 視線に温度があるとしたら信綱の視線は氷点下を遥かに下回っていた。この女、飲み過ぎた時の介護役に自分を呼んで、あわよくば酔う姿も見たいという魂胆ではないだろうか。

 本音を言えば酔っても放置したい。だが、さすがに妻である彼女を放置して帰るとなると噂話が怖い。

 世の中何が原因でつまづくかなど誰にもわからないのだ。自分だけでなく御阿礼の子にも累が及ぶ可能性を考えるなら、あまり下手な行動はしない方が良いだろう。

 

「……全く。二日酔いになっても面倒は見ないからな」

「ぶっ倒れても面倒見てくれるんでしょ。甲斐甲斐しい旦那を持てて幸せだわ……ってああっ!?」

 

 先代の飲んでいる酒をぶん取り、彼女が取り返そうとする前に飲み干してしまう。

 

「今決めた。お前にこれ以上酒は飲ません。頼んだものは全部俺が飲む」

「酷い! 鬼! 悪魔! 私から酒を奪うなんて血も涙もないわ!!」

「酔っぱらいの戯言だな。人を体よく使おうとしたバツだと思え」

 

 涙目で睨んでくる様子は霊夢とそっくりである辺り、血が繋がっていなくても親子と言うべきか。

 こんなところで実感したくはなかったと思いながらも、容赦なく彼女の椀に注がれた酒を飲み干していく。どうせ酔わないのだ。彼女を酔わせて世話をするぐらいなら自分で飲んだ方がマシである。

 などと思い、杯を取り戻そうとする先代を片手で押さえながら酒をグビグビと飲み干していると、肩に手が置かれる。

 

 力強く、人間とは思えない大きさの手だった。事実人間ではないのだろう。

 残念なことに信綱にはその手の持ち主に心当たりがあった。なにせ彼女の拳を間近で見たのだから間違いない。

 

「――よう人間! こんなところで会うたあ奇遇じゃないか! 私も相伴に与らせてくれよ!」

 

 十年来の親友に会うような気安さを持ってその人物――星熊勇儀は豪快に笑い、信綱の隣に座る。

 彼女は信綱がもう一度刃を交えろと言われたら御免被りたい相手の一人である。あの時より腕を上げた自信はあるが、小さな失敗が即死に繋がる相手と戦いたいかと言われたら別問題だ。

 とはいえ嫌っているわけではない。正面から向かってきて、終わったら後腐れもないというのはやりやすくて良い。力さえ示せればこの上なく信用できる相手だ。 

 

「……お前か。地上に来ているとは」

「呼んだのはそっちじゃないか。真面目に働かない鬼どもの監督役ってことでさ」

「つい先日だぞ。仕事だってまだ先の話だ」

「おっと、バレちまったか。まあ私がお前さんに会いたかったからだってことで良いじゃないか!」

 

 わっはっは、と笑いながらバンバンと肩を叩く。

 鬼の膂力で叩かれると冗談抜きに肩が砕けそうになる。信綱は顔をしかめて勇儀から距離を取る。

 

「やめろ、痛い」

「っと、悪いね。どうにもお前さんは人間って気がしない。鬼とかと一緒に歩いている気分になる」

「…………」

 

 褒められているのだろうが、そんな気がしない信綱だった。

 と、勇儀と向かい合っていた信綱の肩にまたも誰かの手が置かれる。今度は小さく暖かい、人間の掌だ。

 

 振り返ると先代が据わった目で信綱を見ていた。

 予想していなかった彼女の行動に思わず身体を硬直させてしまう。

 

「…………」

「…………」

「……何か言ったらどうだ」

「……そいつとの勝負は私が先よ」

「お前も酒ばかりだな……」

 

 以前にもあったなこんなこと、と信綱は酔いとは違う頭痛を覚え始める。

 勇儀もまた先代のことを思い出したようで、実に楽しそうに自らの杯を取り出して机の上に置く。

 

「おお、おお! そうだったそうだった! お前さんとの飲み比べも中途半端に終わってたんだ。よっしゃ、今日は飲み直しと行こうか!!」

「普通に飲め。でないと俺は帰るからな」

 

 勇儀の登場から明らかに信綱に向けられる視線が増えているのだ。主に店員からの懇願の視線が。

 

「何よ、ノリが悪いわね」

「悪くて結構。お前たちが暴れたら俺しか止められないだろう。そうなったら店にも迷惑がかかる」

「はっはっは、あの時もそうやって連れて行かれたっけか! んじゃ別の趣向にしよう」

「別の趣向?」

「何も量を飲むだけが酒の楽しみじゃあないだろ?」

「え、違うの?」

 

 先代の言葉に信綱と勇儀の視線がなんとも言えない生暖かさになる。仮にも以前は神社に暮らしていたのだから、酒の知識など常人よりはあるはずなのに。

 

「利酒でもやるつもりか?」

「うんにゃ、早飲み」

「…………鬼に期待した俺が阿呆だった」

「わかりやすくて良いじゃない。利酒なんて味のわかる高尚なやつがやればいいのよ」

「お前はそれで良いのか……」

 

 やはり彼女は生まれる性別を間違えたのではないかと思ってしまう信綱だった。

 しかし、と勇儀は信綱と先代の二人組を見て首を傾げる。

 

「ところで二人はなんでここに? いや、巫女さんはわかるけど、お前さんはあんまりこういう場所は来ないだろ?」

「こいつに連れて来られた。別に嫌いというわけではない」

「ふぅん、意外と付き合いが良いのか。私ももっと早く誘っておけば良かったよ」

「お前の誘いは受けるかわからんがな」

「良いさ良いさ、誘って断られるんなら諦めもつく。押して押して押しまくればいつかうなずいてもらえるかもしれんしね」

 

 なあ人間、と勇儀は信綱に意味深な目を向けてくる。

 付き合いが長くなってしまった相手の誘いは意外と断らない、ということを見透かされているようだった。

 元を正せば先代の誘いだって断ろうと思えば断れたのだ。彼女も心底嫌がる人間を無理に飲ませようとはしないはずだ。……多分。

 

 そして信綱も自分の意思は表明するため、本当に来る気がなければ口に出していた。

 それをしなかったということは、口ではしぶしぶと言った体を装いながらではあるが、彼もこの時間を悪くは思っていなかったのだ。

 自分はひょっとしてわかりやすい人間なのではないだろうか、と信綱は憮然とした顔で目を瞑る。

 

「……早飲みならお前たちだけでやれ。俺は見ているだけで十分だ」

「へへへ、そうこなくっちゃ。ほら巫女さん、今日こそ雌雄を決しようじゃないか!」

「上等! 旦那の前なんだからいい格好見せないとね!」

 

 早飲み勝負に勝つことがいい格好を見せることに繋がるのだろうか、と甚だ疑問な信綱だった。

 

「……待て、ほぼ同着だった場合はどうなる」

「あん? そりゃ飲み直しに決まってる。どっちかが勝つまでやるんだよ、さあ構えな!」

「もう構えてるっての! じゃあ始めるわよ、一、二の――」

「おい待て、それじゃ二人が潰れたら結局俺が迷惑を被る――」

『三!!』

 

 信綱が止める間もなく二人は杯を傾け始めてしまう。

 もはや垂直になっているのではないかと思う角度まで上がっている杯で、二人の顔は見えなくなっている。

 信綱はそんな二人を交互に見て、幾つかの案を頭の中に並べていく。

 以前のように無理やり引きずってしまうか、二人を置いてさっさと帰ってしまうか、あるいは適当に片方の妨害をして勝負を早く決めさせるか。

 

「……仕方がない、か」

 

 色々と考えた結果として、信綱は黙って見ていることにした。

 先代が望んだことは信綱と一緒に酒を楽しむことで、勇儀も信綱と酒が飲みたいと言っていた。

 二人の願いを自分が面倒だという理由だけで拒否するのは気が引ける。御阿礼の子が絡んでいたら考える余地などないが、自分の問題ならば話は別だ。

 それに店員からの視線は未だすがるように自分に向けられている。これを無視するのも面倒だ。

 

 と、理由を心の中に並べて信綱は二人の飲み比べを眺めていることにするのであった。

 

「……吐いても知らんからな」

『そこからが本番よ!!』

「そうなったら止めるぞ、さすがに」

 

 胃の中身をぶち撒けてまで続けられる飲み比べなど悪夢以外の何ものでもない。店員の目がいよいよ涙目になっていた。

 ……結局、何かあった時の面倒は自分が見なければならないのだ。ならば開き直って楽しむ努力をした方が建設的である。

 

 信綱は鬼と人間が飲み比べをする光景を呆れたように、しかしどこか楽しそうに眺め、その夜は更けていくのであった。

 

「頭いたい……」

「そうか、俺は阿求様のところに行くぞ」

「苦しむ嫁は無視……?」

「自業自得だ。存分に苦しんで反省しろ」

 

 そして翌日、案の定先代は二日酔いに苦しむことになるのだが、その面倒までは見なかった信綱であった。彼の優しさは無制限ではないのである。

 

 

 

 

 

「お祖父ちゃん、そろそろ幻想郷縁起の資料作成を始めようと思うの」

「そろそろ時期だとは思っておりました。僭越ながら阿求様の居られない間の資料はまとめてあります」

「ありがとう、お祖父ちゃん。でも私、思ったことがあるのよ。聞いてくれる?」

「もちろんでございます」

 

 阿求と信綱。二人は阿求の私室にて幻想郷縁起の話を進めていた。

 スペルカードルールが施行される前の僅かな時間。今のうちに知らなければならない情報は少ない。

 

「まず、幻想郷には色々な妖怪がひしめいているということ。そして妖怪同士の勢力争いも起こっていることを阿弥の時に痛感したの」

 

 考えてみれば当たり前だよね、と阿求は笑う。

 しかし信綱としてはあまり笑えない情報だった。

 

「……天狗の騒乱の折に、でしょうか。でしたら阿弥様を危険にさらしてしまった私の不始末です。かくなる上は腹を斬ってお詫びを――」

「待って待って!? 今のはお祖父ちゃんを責める言葉じゃないから! むしろ嬉しいことだと思ってるから!? お祖父ちゃんは阿弥を守り抜いたでしょ!?」

「本来ならば守る事態そのものをなくすのが一番なのです。……まあ、この話は置いておきましょう。後ほど改めて私に罰を頂ければ」

「いや、罰するつもりなんてこれっぽっちもないからね!? と、とにかく! 私が思ったのは勢力って言えるほど大きなものって天狗ぐらいだってこと!」

「ふむ……? 確かに道理です。紅魔館などは主が大妖怪であり、並の妖怪以上に強い存在が多いからこそ勢力として成立している部分があります」

 

 美鈴も普通の妖怪よりは強いのだ。鍛え抜かれた五体から繰り出される拳法は脅威的の一言である。

 ……尤も、彼女の強さはある意味道理に則ったものであり、そんな理屈を笑って踏みにじる大妖怪を相手になると通じないのが悲しいところだ。閑話休題。

 

 信綱の指摘に阿求は目を輝かせて同意を示す。察しの良い相手がいるということは彼女にとっても考えの整理に丁度良かった。

 

「そう、それ! お祖父ちゃんの言う通り、紅魔館はレミリアさんの意向に従っている部分が強いと思うの。逆に妖怪の山は天魔様、地底は星熊勇儀……さんがそれに当たるのかしら?」

「詳しいところはわかりませんが、そうなるかと。それぞれの勢力の頂点に立つものが全てを取り仕切っている印象です」

 

 天狗の里は上意下達が基本となっているが、横のつながり同士も深いため派閥が生まれている様子だった。

 と言っても、やはり天魔が頂点に立っているのは変わらないだろう。彼の考え一つで天狗は容易に人間の敵にも味方にもなるはずだ。

 

「うん、だから――レミリアさんとか天魔様とか、そういった人たちを呼んでお話するのを聞けないかな、って考えたの」

「互いの考えを見よう、と?」

「お互いが相手に抱いている感情も見えるだろうし、険悪でも人里で争うことを選ぶような愚か者はいないと思うから。それに幻想郷で生きていく以上、できるなら仲良くしていきたいでしょう?」

「阿求様の仰るとおりです。それが阿求様の願いであるなら、どうぞ私を存分に使ってください」

 

 阿求の慧眼には平伏するばかりである、と信綱は頭を垂れて阿求に一層の忠誠を誓う。

 そんな信綱を困ったような目で見ながら、阿求は今後のことを話していく。

 

「実際にやるかどうかは新しいルールが施工されてからになるけどね。それより今は――古くなってしまった情報を新しくしたいの」

「古くなってしまった情報、ですか? しかし鬼や天狗は阿弥様がすでに……」

「もっと古い情報があるのよ。お祖父ちゃんが生まれるより昔に取り決めた情報が」

「む……」

 

 信綱は自分の頭にある過去の情報を探っていく。御阿礼の子の幻想郷縁起は見るなと言われた阿七と阿弥のもの以外は全て目を通し、一字一句暗記しているのだ。

 

 過去にあって、今にない。口ぶりから推察するに強大な妖怪、それも人の手に追えないほどの。

 となると条件は自然と絞り込まれる。そんな妖怪が積極的に人間を襲っていたのなら、博麗の巫女やスキマ妖怪まで出張って討伐に動くはずだ。今に至るまで人里が存続していることから、その妖怪の脅威は去っていなければおかしい。

 つまりその逆。――その妖怪は極めて強力だが、決して話が通じないわけではない。取り決めを作れる(・・・・・・・・)程度には話ができるのだ。

 

 そこまで信綱が絞り込んだところで阿求が口を開いた。残念ながら時間切れのようだ。

 

「お祖父ちゃんが知らないのも無理はないんだけどね――新しいルールができる以上、無関係なままでもいられないから会いに行かないといけないの」

 

 そう語る阿求の目には強い覚悟が浮かんでおり、何が起ころうと目的を達そうとする意思が感じられた。

 

「阿求様、私がついております。例えその妖怪がいかに強大であっても、私は等しく勝利してみせましょう」

「……ありがとう、お祖父ちゃん。一緒に行きましょう。私も会うのは本当に久しぶりだけど――太陽の畑に」

 

 太陽の畑、と聞いて信綱にも納得の感情が生まれる。

 なにせその場所は慧音から口を酸っぱくされて教えられる、超危険地帯。

 とある大妖怪がその場所を拠点にしており、人間に対する友好度も非常に低く、危険度は恐ろしく高い。

 

 

 

 

 名は――風見幽香と言う。




先代さんはすごく愛の深い人であり、誰も来ない博麗神社に、そして巫女へ会いに来る人で良ければ誰でも良かった部分があります。
そうなると超絶ダメ人間でも面倒を見てしまう辺り、ダメンズウォーカーの気があるとも。相手がノッブだったのは幸運だったのか不運だったのか。

そして始まる縁起の編纂。どうなるのかは次回に詳しく。
ゆうかりんのお話が終わったら原作に近づいていくと思います。
スペカルールの普及とか、魔理沙の家出とかその辺をやったら、紅魔郷スタートといった感じの流れを想定しています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

風見幽香という大妖怪

来週にようやく夏休みが取れる……! なおペルソナ5に全てを費やす予定


 単刀直入に言って、信綱は人里で得られる情報をあまり信用していなかった。

 

 地底の話、そして阿弥と付き添って行った縁起の作成。そして彼自身が妖怪を見て抱いた感想。

 それらをまとめて、彼は人里の情報には信ぴょう性に疑問が残るという結論を出した。

 

 もっと早く気づくべきだった。人里において対妖怪の情報を担っているのは御阿礼の子であり、慧音である。言い方が悪いことを承知で言ってしまうなら――この二人の情報だけが人里で知りうる妖怪の情報なのだ。

 

 仮に二人が談合し、伝えるべきでないと判断した真実があって隠した場合、それを知る術は人里の人間には存在しない。

 それは信綱も例外ではなかった。地底の話を知らなかったように、彼は多くの妖怪と知り合いではあるが、会ったことのない妖怪に対する情報は人里の人間と大差はない。

 

「……風見幽香、か」

 

 書物で得た情報を額面通りに受け取るのなら、近づくこと自体が間違っている存在。自然の暴虐のように、人間に歯向かうという選択肢そのものが浮かばない相手。

 阿七も阿弥も話に出さなかった。それはつまり、風見幽香とやらに話を聞きに行くこと自体が危険だと判断したのかもしれない。

 

 今になって阿求が行くと言い出したのは――スペルカードルールが施工される直前である今こそ、彼女から改めて話を聞き、またこちらもスペルカードルールの存在を教えようという思惑があるのだろう。

 これからの幻想郷の変化は幻想郷全体に及ぶ。危険だからと伝えずに放置して、後々問題になったら後悔してもしきれない。

 

「風見幽香、ですか?」

「ああ、お前ならなにか知っていると思ってな」

 

 というわけで、信綱は安全にことを済ませるために椛の協力を仰いでいるのであった。

 彼女との鍛錬を終えた後、信綱は手元にある紙に風見幽香の情報をまとめたものを椛に渡す。

 

「人里で知ることができる情報の全てだ。お前の方は何かあるか?」

「ううん……私も聞いたことがありません。多分、私が生まれるより前から活動している妖怪です」

「お前が名を聞いていないということはお前が生まれた後、ないしそれ以前から殆ど表立った活動はしていないということか」

 

 そうなりますね、と椛がうなずくのを見て信綱は考察を深めていく。

 長く生きた妖怪は自分の領域と定めた場所からあまり動かなくなる、と聞いたことがある。

 それを体現している妖怪を見た覚えがないため信じられる情報かは怪しいが、あまり間違ってはいないのだろう。

 妖怪というのは生きた年数に比例して力を増す。その増した力で暴虐の限りを尽くすような妖怪がいたら、人里が壊滅しているかその妖怪が死んでいるかの二択である。

 

「おそらく人間や妖怪を害することに積極的な妖怪ではないのだろう」

「はぁ。だとするとどうしてこんな危なそうに書かれているんです?」

「レミリアと同じだ。自分の領域に入られることを厭っている。俺たちはお前の領域に行かないから、お前もこちらに来るな、そんなところだろう」

 

 例え人間を虫けら扱いできるほどの力量がある妖怪であっても、その虫けらがひっきりなしに押し寄せる状況は嫌がるはずだ。なにせ虫である。小さくても鬱陶しいことに変わりはない。

 そして人間も虫のように死にたい人はいない。要するにお互い争ってもロクなことにならないので、見なかったことにしましょうということである。

 

「でも行くんですか?」

「少なくとも話し合いはできる、ということだ。新しいルールのことを教えずに、不用意に踏み込んだ人間が殺されたら戦いは避けられない」

「君が戦うと?」

「状況次第だが、無視はできんだろうな」

 

 そうなったら信綱は歴史書に危険と記されるような妖怪を相手に戦わなければならなくなる。

 それは面倒だし疲れるので、そんな未来にならないためにもできる手は打っておくのである。

 

「というわけで、太陽の畑を見て欲しい。お前なら気づかれずに見られるだろう」

「君は気づいたじゃないですか。正直自信はありませんよ?」

「天魔を相手にごまかせるなら大丈夫だ。仮に気づかれてもけしかけた責任は取ってやる」

「よし、じゃあ遠慮なく」

 

 いざとなったら俺に任せる気だこいつ、という信綱の呆れた視線に負けず、椛はその千里を見渡す眼を持って太陽の畑を見る。

 夏になりつつある今の季節、向日葵の咲き乱れる場所を探せば良いのだから楽といえば楽である。

 

「……あ、いた。花の世話をしていますね」

「ふむ、確か本にも四季の花が咲いている場所をうろついているとあったな」

 

 花が好きなのだろう。どの程度の好きであるかはまた別として。

 

「…………ずっと花の世話だけをしています」

「太陽の畑は広いのか?」

「ちょっと一人でお世話するには無理がありそうです。一日かかりますよ」

「妖怪なら不可能ではないのだろうな」

「ないですけど……普通飽きますよ。花は育てても何も話してくれませんし、妖怪は飽きで心が死んだら終わりです」

「ふむ……」

 

 何かタネがあると考えるべきか、はたまた花の世話だけをしていれば全てが満たされる性格なのか。

 信綱も御阿礼の子の世話さえできれば他は何もいらないが、風見幽香も同じ性質を持っているのかもしれなかった。

 

「わかった、それだけわかれば十分だ。助かった」

「これぐらいなら良いですよ、見るだけですし。……で、今日はどんなお礼があるんですか?」

「簡単なら礼はいらないだろう」

「あー疲れた! 疲れました! あんな大妖怪を見るなんて神経すり減らします!」

「…………」

 

 なんて図々しいやつだ、と信綱は渋面を作る。しかし椛は長年の付き合いからか全くひるまない。

 

「……お前は何が望みだ」

「最近人里で美味しい大福があるみたいです。奢ってください」

「臆面もなく言い切ったな……まあ、それぐらいなら構わん」

「それで大福を食べながら大将棋をしましょう。やっと君が強くなってきて嬉しいですよ」

「時間ばかりが増えていくのでな」

 

 手がけている作業は多いが、阿弥の生きていた頃ほどではない。信綱も御阿礼の子が絡まない仕事を四六時中やっていられるほど殊勝な性格ではないので、休憩ぐらいはする。

 その時、暇だったからと大将棋の手をいくつか考えていたのである。

 元々時間潰し以上の意味を見出していなかった頃から、椛相手の勝率は二割あったのだ。策や打ち方を考えるようになった今では五割から六割ほどに上昇していた。

 つまり、椛にとっても勝つか負けるかわからない楽しい時間が送れるということになる。

 

「……わかった。時間がある時にな」

「はい、楽しみにしてます。君はこれからどうします?」

「居場所の確認はした。ならば次にすべきは直接会いに行くことだ」

「阿求ちゃんと一緒に行くんじゃないですか?」

「阿求様が向かわれる場所だからこそ、俺が先に言って伝えておくべきだろう」

 

 いきなり人の領域に足を踏み入れるのでは向こうも良い顔はしないはずだ。

 取材でもあるので、予め詳細な内容を伝えておくのは人とのやり取りの鉄則である。

 それを椛に教えると、椛はなんとも微妙な顔になる。

 

「……私にはいつも前振りなしに無茶苦茶なこと言うじゃないですか」

「それはそれ、これはこれ。お前なら良いだろう」

「いや無茶振りは良くないですからね!? もう……」

 

 椛に盛大なため息をつかれてしまい、信綱は変なことを言っただろうかとむしろ首を傾げる。

 この男は付き合いの長い相手への遠慮は本当にない。無邪気な信頼と受け取るべきか、ただ単に能力を把握しているから限界ギリギリを見極めているのか。

 抗議の言葉が椛の頭に浮かぶものの、どれも口には出なかった。代わりに一つの言葉が出る。

 

「……これは大福だけでは足りませんね、君には色々と付き合ってもらいますよ」

「面倒な」

「そこで言い切る辺り、本当に君らしいと思ってしまう自分が居ます……」

 

 何が悲しいのか、と信綱は肩を落としてうなだれる椛に首を傾げるのであった。

 

 

 

 太陽の畑。名は体を表すように夏になると向日葵が咲き誇るその場所は、しかし人間たちの領域からは外れていた。

 霧の湖のように年中霧がかかっているわけではない。道中が飛び抜けて危険というわけでもない。ある妖怪さえいなければ、そこは絶好の行楽地として人里に愛されたことだろう。

 

 曰く、迷い込んだ人間を殺して肥料にしている。曰く、戯れで妖精を虐殺する嗜虐趣味。曰く、人間の決して立ち入ってはならない存在。

 

「……今さらだな」

 

 慧音の記した歴史書から得られた情報を頭の中でまとめ、信綱は軽いため息でそれらを横に置く。

 人間の立ち入ってはならない存在? そんなもの、自分がどれだけ相手にしてきたと思っているのだ。

 

 日光のない夜においてほぼ無敵とも言える再生力の吸血鬼。政治の傑物である天魔。かつて地上を席巻した覇者である鬼の首魁。そして幻想郷の全てを掌握するスキマ妖怪。

 

 およそ幻想郷で強者と呼べる妖怪はほぼ全員が顔見知りとなっているのだ。今さら妖怪の前評判ぐらいで恐れる理由はない。

 迷うことなく歩を進め、信綱は太陽の畑に到着する。

 

「……っ」

 

 目に痛い、と思ってしまうほどに向日葵が咲き乱れ、太陽の煌めきを受けて黄金色に輝いている。

 ここに来た目的は花を見ることではないというのに、信綱の口から感嘆の息が零れる。

 彼も稗田邸の庭を整える関係から花の知識は持っている。その彼をして見事の一言しか出ないものだった。

 

「花が好きな人間に悪い人はいない、とは花屋の娘の言葉だったか」

 

 花が好きでもロクでもない存在はいるらしい。信綱は特に気負うこともなく太陽の畑の中に踏み込む。

 なるべく花は傷つけないように歩く。わざわざこの場所で花の世話をして生活する妖怪だ。花を傷つけて良い関係が築けると思うのは傲慢だろう。

 

 信綱にとってはすでに風見幽香がどのような妖怪なのか、ある程度推測がついていた。そのため――向こうから出向いてくることも予想ができていた。

 向日葵で埋め尽くされた視界の端に赤い花弁が映る。否、それは向日葵の中から新たに現れた一輪の花だった。

 

 草木色の髪を夏の風になびかせ、赤を基調とした幻想郷では比較的珍しい洋服をまとった少女だ。

 禍々しさを覚えるべき真紅の瞳も彼女の雰囲気からだろう、薔薇の花びらのように感じてしまう。

 淑やかな仕草で日傘を差し、楚々とした佇まいは花に囲まれた空間であることも働き、一枚の絵画のようにすら見える。

 

 少女はそのまま静かな足取りで信綱の前に歩み寄ると――無造作に日傘を突き出す。

 

「――」

「あら」

 

 身体を横にずらし、その傘を回避するとそこで初めて少女は信綱という人間を見つめる。

 

「人間はこの場所に来るなと伝えたはずなのに。彼女らは自分たちで突きつけた要求すらこなせないのかしら」

「彼女らが誰かは知らんが、それは正しく働いている。今も人里ではこの場所は危険地帯扱いだ」

「ならあなたはどうして……ああ、いえ、わかったわ」

 

 話の途中で少女はあらぬ方向を見たと思うと、合点がいったように何度もうなずく。

 率直に言ってしまうなら、彼女にしか見えない存在がいるのだろう。そしてそれができる理由にも信綱は候補が浮かんでいた。

 

「……花と会話ができるのか」

 

 ずっと一人で生きられるほど、妖怪は頑健ではない。これは肉体面の問題ではなく、精神面の問題だ。

 精神が摩滅しないと仮定するなら妖怪はいくらでも生きられるだろう。だが、妖怪は常に外部からの刺激がなければ生きられない。

 こればかりは精神に重きを置いた妖怪の弱点とも言える箇所だ。人の畏れが必要で、その上で娯楽も必要不可欠。妖怪にとって、娯楽は食事や睡眠以上に生きるための糧なのだ。

 

 そして目の前の少女はそれを持っていないように思えた。花と一緒にいるだけで幸せな存在であることは間違いないだろうが、相手もなしに百年単位で行えるものではない。

 となれば答えは限られてくる。――その花が彼女にとっての話し相手なのだ。

 

「へえ、人間にしては賢しいじゃない。花も語る有名人は違うわね」

 

 ニィ、と少女は立ち居振る舞いの淑やかさからかけ離れた嘲笑を浮かべ、信綱から背を向ける。

 

「有名人?」

「ええ、花が言っているわよ? 幻想郷を変えた人間、って」

「…………」

「有象無象なら惨たらしく殺して見せしめにするつもりだったけれど――興味が湧いたわ。来なさい」

 

 有無を言わせない足取りで彼女が進んでいく。

 信綱は阿求がいつ訪ねるかの手紙を渡しに来ただけなのでこの場で話をしても構わない、というか虎穴に入る必要性を感じていないのだが、この様子では言い出せない。

 仕方なしに彼女の背中をついていく。その際、ふと気になったことがあったので信綱は彼女に問いかけてみる。

 

「殺した人間は肥料にしないのか」

「私が穢らわしいと思うものを、なんで花にあげなければならないのよ。その辺に置いておけば鳥や獣が食ってくれるわ」

「…………」

 

 振り返らずに返ってきた言葉に尤もな話だとうなずきかけてしまう信綱だった。

 

「……火継信綱だ。昔の人里を知っているなら、阿礼狂いの名で呼ばれている」

「覚えてないわ。人間の顔も名前も、興味ないもの」

「そうか、でお前の名前はなんだ?」

「風見幽香。あなたの言葉次第では最後に覚える名前でしょうね」

「その言葉は返してやる。有象無象と見下す者に殺されるのも、妖怪の末路としてはありふれたものだろう」

 

 そう言うと少女――風見幽香はくつくつと日傘越しに肩を揺らす。

 そして上機嫌な足取りで再び歩き始める。信綱の言葉は彼女にとってへりくだる以上に心地良く聞こえたようだ。

 

(……変におもねる真似をしなくて正解だったな)

 

 彼女に必要なのは傅く態度ではなく、対等であろうとする姿だ。

 滑稽に見えているのか、はたまた喜ばれているのか、答えはわからないが、彼女が上機嫌なら言うことはない。それに――

 

(――鬼と同等。どんな妖怪かはわからないが、相当な年数を生きている。正面から事を構えたい相手ではない)

 

 星熊勇儀や伊吹萃香らに勝るとも劣らない強さの持ち主。理不尽に踏み潰されるのではなく、理不尽を踏み潰す側の存在。

 仮に戦った場合、結果は勇儀と戦った時と同じように無傷で勝利するか即死するかの二択になるだろう。

 負けるとは思わないが、戦いたくはない。そんな評価が信綱から幽香への評価となった。

 

 

 

「どうぞ、お口に合えば良いけど」

 

 紅魔館にあるようなティーカップに注がれた茶を飲むと、信綱は僅かに顔をしかめる。

 

「……慣れない味だ」

「ハーブティーは口に合わない?」

「飲み続ければ慣れるだろう。お構いなく」

「構うわ、あなたの嫌がる顔が見たかったんですもの」

「…………」

 

 嗜虐趣味は本当のようだ。信綱がハーブティーを飲む様子を実に楽しそうに眺めている幽香を見て、内心でため息をつく。

 

「お代わりはどう?」

「一杯で結構。お前の茶を飲むために来たわけではない」

「そう、残念。で、話の前に少し良いかしら?」

「内容次第だ」

「――人間の中ではあなたが最強?」

「さて、人と比べたことがないからわからんな」

 

 妖怪とは散々戦ってきたのでわかるが、答える義理は感じなかった。

 まともに取り合われていないと感じたのか、幽香が不機嫌そうな顔になる。

 

「久しぶりに来た人間だから愉しみたいのに、つまらないわ」

「童女の悪戯に付き合ってやるほど暇ではないんだ」

「私が、童女?」

 

 きょとん、と呆気に取られた顔になる幽香に、信綱は自分で感じていることを口にする。

 

「わざわざ俺の嫌がる顔を見ようとする。相手の出方を図るような言い回しをする。大方、考えていることはどうすれば俺の困った顔が見られるか、といったところだろう。

 ――嗜虐趣味ですらない。ただ、人の困った顔が見たいだけの子どもと何ら変わらん」

 

 嗜虐的と言えば聞こえは良いかもしれないが、実態はそれに尽きる。

 結局、誰か相手がいなければ成立しない嗜好であるのだ。構って欲しい子ども以上の意味が信綱には見出だせなかった。

 そのことを指摘すると幽香は呆けたように口を開いていたが、やがてくつくつと笑い始める。

 

「ふふふ……初めてよ、私を相手にそこまで言い切ったのは。よほどの命知らずか、あるいは私を相手に勝てると勘違いしちゃったお馬鹿さんか」

「何を言っている。――お前は俺に勝てると思っているのか?」

 

 顔に浮かんだ笑みは変わらないものの、真紅の瞳が剣呑な色を宿す。

 それを受けても信綱は変わらず、ハーブティーを不味そうにすすっていた。

 並の妖怪なら竦んで動けなくなるような殺意が幽香から発せられるが、それにも信綱は動じない。

 

「……やれやれ、人間はこれだから鬱陶しいのよ。大半は虫も同然なのに、時折無視できない輩が湧いて出る」

 

 やがて、殺気を霧散させた幽香が砕けた雰囲気になって話し始めた。どうやら信綱は彼女にとって対等足りうる相手であると認められたようだ。

 信綱は彼女の人間を知っている口ぶりを意外に思い尋ねてみる。

 

「人間という種族に理解があるように見えるが」

「何も知らずに人間は愚かだ、と言い張るのはそれこそ愚かでしょう。私は誰かを虐めるのは大好きだけど、陰口を叩くのは嫌いなの」

 

 やるなら正面から堂々と、圧倒的な力で叩き潰す。

 実に大妖怪らしい意見を述べられ、信綱は盛大なため息をつく。どいつもこいつも妖怪はロクデナシばっかりだ。

 

「だからある程度は人間との暮らしも体験してみたわ。その結果として、私はここにいる」

「花に囲まれて暮らすことを、か」

「ええ、人間より花の方が好きなんですもの」

「……やはり縁起に乗せてある内容は脅しか」

 

 阿弥と共にレミリアを取材した時にも同じ結果になったため、幽香の情報についてもそうだろうとは思っていた。

 大体、近づくこと自体が間違っているような人間に対して危険な妖怪が野放しにされていることなど、八雲紫が許容するはずない。

 幻想郷で暮らしている以上、人間に対する感情が悪いものであっても妥協はしてもらう必要があるのだ。

 ……もう一つの可能性として紫でさえも言うことを聞かせられないほど、彼女が強いというものが存在するが――そうなったら自分が戦えば良い。

 

 信綱の言葉に幽香は驚く様子もなく首肯する。

 

「ええ、ご名答。私は四季の花々が咲き乱れる場所で過ごしていたいの。その時間に人間は不要。だから来るなと言った。私もそちらに迷惑はかけない、という条件もつけてね」

「そしてそれは実現していた、と」

「あなたが来るまではね。こう見えて結構苛立っているの。穏やかに続いていた時間が外部の、しかも人間の手によって崩されたんですもの」

「そうか。では俺が対話を選ぶだけの理性があったことを幸運に思うべきだ」

「本当に口の減らない男。騒がしい男は嫌いよ」

「口の回る女だ。存外、一人に飽いていたのではないかと思ってしまうな」

「――」

 

 薄い笑みを浮かべていた幽香の顔が無表情なそれに切り替わり、無造作に日傘が信綱の顔面めがけて振るわれる。

 椅子を傾けて避けた信綱は日傘を突き付けられたまま、やや意外そうな顔で幽香を見る。

 

「なんだ、図星か」

「騒がしい男は嫌いだと言ったのが聞こえなかったかしら」

「箸にも棒にもかからない戯れ言なら雑音以下だろう。お前が騒がしいと言うからには、何かしら琴線に触れるものがあったとしか思えないな」

「私が、一人を寂しいと思っているですって?」

「墓穴を掘るとはこのことか。俺は飽きたのか、と聞いただけで寂しいのか、とは聞いていない」

 

 ぐ、と幽香が微かに息を呑み、頬を赤らめる。

 ある意味予想通りとも言える姿に信綱はやりやすい、と感じてほくそ笑む。

 

 花に囲まれて暮らしていたためか、人間を相手にする悪辣さが足りていない。

 だから単純な駆け引きに面白いように引っかかる。嗜虐趣味を自称するのも、彼女なりの鎧だと思えばいっそ微笑ましい。

 人間のことを見てきたとは言っていたが、人間の生活に混じったわけではないのだろう。人間を観察し、それだけで結論を出してしまった。こうして言葉を交わして行う勝負もあることを理解できなかった。

 

 存外、この妖怪は素直なのかもしれない。いや、純粋なのだろう。でなければ嫌いなもの(人間)を遠ざけて好きなもの()に囲まれて暮らそうなんて発想は出ない。

 

「……殺すわよ」

 

 そしてタチの悪いことに、彼女には自分にとって都合の悪い存在を排除できるだけの力が備わっていた。

 これまでの人生において信綱と似たような言葉を言った者達は皆、彼女の暴力で消し飛ばしてきたのだろう。

 

「やめておけ。図星を突いた相手を殺して溜飲を下げるなど、名の知れた大妖怪のすることではない」

「…………」

 

 幽香は無表情で信綱を睨みつける。だが、その視線の意味は困惑であることを信綱は見抜いていた。

 対人経験が少ないならば、大妖怪らしい振る舞いも知らないはずだ。

 

 つまり――どうしたらいいかわからないからとりあえず睨んでいるのである。

 

 意外と弄ると楽しい相手かもしれない。見目や所作からは想像できないほど、この妖怪は何も知らない。

 とはいえ、彼女も自分の調子が出ている時は良いのだ。そして力も大妖怪の一角に恥じないだけのものを持っているのだから、相手の調子に乗せられた時の対処法を求めるのは酷とも言える。

 相手の調子を崩す、ということは言い換えれば自分の調子に持ち込めていない――要するに不利な状況を覆すための技術だ。大妖怪として、確かな強者として生きてきた彼女が知らないのも無理はない。

 

 さて、と信綱は幽香への評価を内心で切り上げて話を戻すことにする。

 彼女が意外なほど素直な人格だったのは収穫としておいて、今は本題に入らねば。それにこれ以上突くと暴れそうで面倒でもある。

 

「俺の言葉ぐらいで一々揺れるな。――さて、俺がここに尋ねてきた用件を伝えよう」

 

 殺意にも、暴威にも全く怯えた様子を見せない信綱に幽香はため息をついて椅子に座り直す。

 

「……調子の掴めない男ね。で、なに?」

 

 むしろお前に調子を掴める相手がいるのか、と思うが口には出さない。余計な茶々入れは物事をこじらせるだけである。

 

「近いうちに幻想郷に新しいルールが作られる。知っているか?」

「噂程度にはね。スキマのババアが教えてくれるんじゃないかしら」

「かもしれんな。人里としてはそれで問題が起きる前に、お前の人間への対処を改めて確認しておきたい」

「変わらないわよ。不用意に来るなら殺す、来ないなら私からも仕掛けない。……まあ、花に害がないようなら、来る相手を追い返す程度には済ませてあげるわ」

「それで十分だ。……あとはそれを近いうちに来る御阿礼の子に伝えてくれ。俺はその前振りみたいなものだ」

 

 幽香の顔が露骨に嫌そうになる。今ので終わりじゃないの? と顔が語っているようだった。

 残念なことに阿求は妖怪との取材にかなり積極的だ。信綱が幽香から直接聞いた情報を伝えたとしても自分の目で見ない限り、納得はしないだろう。

 であれば是非もない。幽香がどんなに嫌がっても、信綱は阿求の意思が最優先である。

 

「まあ、うむ――また今度顔を合わせるが、その時には大妖怪としての格を見せてくれると助かる」

「……これだから人間は嫌いなのよ」

「そう言って好きなものとだけ触れ合っていた結果だ。受け入れろ」

「…………」

 

 

 

 これ以降、幽香が人里にちょくちょく出没しては花屋に寄るようになるのだが、今回の一件とは何の関係もない話である。

 ……きっと。




色々悩んだ結果、ゆうかりんは花とばかり触れてきたから嘘や駆け引き上等な人間相手のやり取りに慣れていないことになりました。
自分のペース握っているときは強い(ドS)けど、受けに回ると弱いタイプです。でもクッソ強いからタチが悪いとも。

ちなみに大妖怪と書いた存在の力量差は大体団子になるように意識しております。

おぜうは夜の間ならどの相手にも互角以上だけど、日中はどの相手にもキツイ。

天狗は足が滅法速くて天魔が率いた時の集団性や統率力がハンパないけど、鬼と相性が極悪。

鬼は力こそパワー! でシンプルイズベストな強さ。天狗と相性が良い。但し基本的に横道とか策謀という言葉がないため、罠にハメるなり何なりは簡単。

ゆかりんはこれ一個あれば何でもできる! 一家に一つは欲しいスキマの能力があるため、万能性は群を抜いている。でも直接戦闘になった場合はあくまでトリッキーな技にしかならない上、彼女の意思で仕掛けられる技である以上、彼女の攻撃傾向を見抜ければ対策は不可能ではない。

ゆうかりんは魔力もぶっ飛んでいる以外は概ね鬼と同じ。他の勢力が喧嘩を売らないのも、勝ったところで得られるのが花畑だけで、代わりに受けるであろう被害がメッチャ大きくなることが目に見えているため。ぶっちゃけ襲う旨味がない。

ノッブはノッブだから。以上、終わり、解散。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想郷縁起の第一歩

「さて、今日のところはこのぐらいにしておこう。お前の話は面白いが、中身が濃すぎる」

「我ながら波乱万丈の人生だな、とは思ってます」

 

 信綱は慧音の寺子屋にある応接間に招かれて、彼女の歴史書に残すための取材を受けていた。

 最初は一度の取材で済ませる予定だったのだが、信綱の口から語られる話に慧音がついていけず、回数を分けることになっていた。

 人間一人の歴史である以上、可能であれば一年ごとに事細かく記して行きたいのが慧音の要望なのだが、信綱の送ってきた人生の密度は一晩で語り切れるものではなかった。

 

 そして今日も慧音は信綱の口から語られる彼の半生に頭痛すら覚え、呆れたように信綱を見るのであった。

 

「ううむ……何度聞いても信じがたいな、お前の人生は。幼少の頃に烏天狗に襲われて、それが縁で稽古をつけてもらうようになり、それがお前の強さの源泉とは」

「源泉であるかどうかはわかりません。結局、彼女も私が殺しました」

 

 原点を語るなら、信綱は幼少の頃に無意識に行っていた戦法を意識して行うようになっただけだ。

 すなわち――相手に一切の攻撃を許さず、かつ自分の攻撃を全て相手に叩き込む方法である。

 椿との修練は基礎能力や技術を磨くものであり、逆にあの戦法は忘れかけていた。彼女が思い出させてくれなかったら、信綱はどこかで死んでいただろう。

 

「一応は師弟関係だったのか?」

「隙あらば私をさらおうとする烏天狗と、それを止めようとする白狼天狗に救われながら、ですけど」

「認めているんだな、その烏天狗を」

「……力を求めていた私に力を与えてくれた。その点については感謝しています」

 

 それはそれとして自分の敵になったことは許していないが。御阿礼の子を害そうとするなど万死に値する。

 慧音は歴史書の編纂にあたって用いる眼鏡をかけて、ふむふむと紙に信綱の言葉を書き記す。

 

「火継の人間が虚偽を語るとは思っていないし、彼らの歴史を記したこともあるが、やはりお前はその中でも群を抜いているな」

 

 まるでおとぎ話の序章を執筆している気分だ、と慧音は困ったように笑う。

 信綱は自分の意志でそうなったわけではないと、憮然とした顔になる。

 

「私は巻き込まれていただけです。力を求めたことは事実ですが、彼女らの起こす異変を歓迎したことは一度もありません」

「わかっているさ、そう怒るな。そうして研いできた刃が陽の目を見るのは吸血鬼異変で相違ないか?」

「はい。それまで私は妖怪と切った張ったをした経験はほとんどありません」

 

 雑魚妖怪を一撃で倒したことはあれど、力量の拮抗した相手との鎬を削る戦いは経験がなかった。

 

「そこでお前は父親を犠牲にしながらも巫女と共に吸血鬼を退治し、異変を解決。……本当だろうな? お前の口ぶりだと、ほとんど巫女の助けを借りたようには聞こえないが」

 

 じろり、と眼鏡越しの視線が信綱に刺さるが、信綱は平然とした様子で理由を話す。

 

「彼女とスキマ妖怪の助けはありましたよ。でないと殺されていました」

 

 レミリアが信綱に。

 その言葉に慧音は疑わしげな表情を隠さないものの、信綱がこれ以外の答えを言うつもりがないことを察するとため息で押し流す。

 

「……全く、平気な顔で嘘をつくような大人になって。先生は悲しいぞ」

「嘘はついていませんよ。それに答えられることには誠実に答えています」

「そういう小難しい言い回しはやめてくれ。私は政治は苦手なんだ」

「知ってますよ。少し意地が悪かったですね、申し訳ありません」

 

 苦手、というより根本的に向いていないのが上白沢慧音という半獣である。

 政治というのは大を生かし小を殺す作業でもある。自らの所属する勢力の趨勢が自分の手で決まってしまう以上、時に取捨選択が迫られる時もある。

 信綱はそれを合理的に選ぶことができた。慧音はどうしても切り捨てられる誰かを選ぶことができなかった。

 

 どちらが優れているという話ではない。慧音の感情は正しいものであり、誰かを慈しむということは尊いことだ。

 それに彼女にも自覚はある。だからこそ彼女は長命種であるということを理由に、政治には参加しないのだ。

 彼女にとって人里の子らは皆教え子。教え子同士で優劣をつけて切り捨てる、というのは彼女にとって何よりも耐え難いことなのだろう。

 

「……話を戻すぞ。吸血鬼異変を解決後、お前は里での知名度を上げていったな」

「ええ。英雄と呼ばれるのは今でも慣れませんが」

「うむ、先生は鼻高々だったぞ。……そしてしばらくの間は阿弥の子育てみたいなことをしていたか」

「そうですね。振り返ってみれば、阿弥様の生きた頃は最も幻想郷が騒がしい時代でもありました」

「そうだな。……さて、確認もこの程度にしておくか。お前の人生はここからも波乱があるのだろう? 百鬼夜行だけでなく」

 

 確信を持って語っている慧音に、信綱は困ったように曖昧な表情になるしかなかった。

 

「やれやれ、予想以上に大変な人生だな。だがそれぐらいでなければ幻想郷の変革は成し得ない、か。ありがとう、信綱。今日聞いたことは私がしっかり歴史に遺そう」

「感謝します。では私は阿求様と共に出る用事があるのでこれで」

「うん? 今日は何か用事があったか?」

「ええ、幻想郷縁起の編纂を開始しようと阿求様が仰っております」

 

 信綱の言葉に対し、一息入れてお茶を飲んでいた慧音が朗らかに笑う。

 

「ほう、阿求は元気の良い子だからな。早速外が見たくなったか。どこに行くつもりなんだ?」

「太陽の畑に行こうと決めてあります」

「ぶふっ!?」

 

 慧音がお茶を吹き出して咳き込んでいる。信綱は彼女の背中をさすりながら首を傾げた。

 

「何か驚くようなことでも?」

「あ、当たり前だ! あの場所は危険だと教えているだろう!?」

「しかし、新しいルールを教えるためにも誰かが行かねば」

「ぐ、そ、それは……もっとお日柄の良い日にだな!」

 

 どんな日だ、と呆れる信綱。ちなみに今日は爽快な夏晴れである。

 

「まあ行くことは決まっておりましたので。大丈夫ですよ、阿求様には指一本触れさせません」

 

 正面戦闘になったらわからないが、口での勝負で負ける気はしなかった。

 慧音は普段と同じ様子で阿求の元へ戻る信綱を見送り、頭痛を堪えるように額を押さえてつぶやいた。

 

「まったく、私から見ればお前も十分問題児だよ」

 

 

 

「よっし、じゃあ太陽の畑へ行こう!」

 

 えいえいおー、と気合を入れている阿求の後ろを、信綱は穏やかな表情で見る。

 

「道中はそんなに難しい場所はありません。阿求様の足でも十分行ける場所です」

「結構近くにあるのよね。誰も近づかないけど」

 

 阿求は細い顎に小さな指を当てて考え込む姿勢を見せる。

 御阿礼の子としての好奇心ではなく、稗田阿求自身の探究心だった。

 信綱にとっては悲願とも言える健康な肉体を持って生まれた彼女は、その身体を存分に使って自らの好奇心を追求していた。

 

「先生の教えの賜物でしょう。それと阿求様、よそ見をされると転びますよ」

「大丈夫だいじょうぶ……きゃっ!?」

 

 言った側から石につまづきそうになる阿求の身体を抱き抱え、たしなめるように額を小突く。

 

「いたっ」

「ここはもう人里の外です。道も整備はされていませんから、こういったことも起こり得ます。私がおりますから怪我をさせるつもりはありませんが、ご自身でもご注意ください」

「はぁい。ごめんなさい、お祖父ちゃん」

「わかっていただけるなら幸いです。さあ、行きましょう」

 

 阿求を立たせ、その手を繋いで再び歩き始める。

 阿求も里の外は危険であると御阿礼の子の知識で知っているため、大人しく信綱に手を引かれて歩く。

 

「……お祖父ちゃんに手を引かれるのって、こういう気分なんだ」

「む、気分を害されたのでしたら離しますが」

「ううん。お祖父ちゃんの手、大きくて好き」

 

 こうして手をつないでいると、阿求の心が喜んでいるのがわかるのだ。

 転生を繰り返しても全ての記憶が引き継がれるわけではない。阿弥の記憶はまだしも、阿七の記憶は大分摩耗してしまっている。

 しかし、それでも家族となった人間は忘れない。阿七の頃より立派になって、阿弥の頃より年老いて――それでも御阿礼の子の側に居続ける信綱は、彼女らにとっても掛け替えのない人なのだ。

 

「えへへ、こうして手を引かれると思い出すなあ。阿七の時とかはお祖父ちゃんが手を引かれていたっけ」

「……子供の頃の話です。あの時は早く大人になりたいと思っていましたよ」

「今じゃお祖父ちゃんだね。大人になってどうだった?」

「……時間がもっとゆっくり流れて欲しい、と思いました」

 

 そうすれば御阿礼の子と一緒にいられる時間が増える。歳など取らなくても良いから、少しでも御阿礼の子の側にいたかった。

 しかし時間は無慈悲に、残酷に、平等に時を刻んで命数を削る。阿七も阿弥も信綱から離れてしまった。

 その悲しみは今も胸に息づいているが――阿求に見せるべき姿が独りよがりな悲嘆であってはならない。

 

 目を細めて幸福そうな笑みを浮かべ、信綱は自らの手に収まる阿求の小さな手を優しく握る。

 

「……阿求様。ご自身を阿弥様や阿七様と比べないでください。私にとってあなたは唯一無二のお方です」

「でも、私はあなたにとって最後の御阿礼の子になるんでしょ? だったら一番になりたいって思うの」

「阿求様はそのままでよろしいのです。元気に外を駆け回り、こうして縁起の取材に赴き、小鈴嬢らといった友人と遊び――あなたは転生する御阿礼の子でありますが、同時に稗田阿求という少女でもあるのです」

 

 あるがままに生きて欲しい。信綱ごときの願いで彼女らの生き方を歪めてしまうなど、それこそ侮辱に他ならない。

 それに阿求は知らないのだ。阿七や阿弥のように病弱な身体でなく、健康な身体に生まれついている時点で信綱にとって悲願とも言える存在であることを。

 お淑やかになる必要などない。お転婆なぐらいで良いのだ。そうして元気でいる姿を見ているだけで信綱の心は満たされる。

 

「……ん、ありがとう。じゃあお祖父ちゃんの願い通り、私は私で元気に行くわ!」

「ええ、私もお供します」

 

 元気を取り戻して信綱を引っ張る勢いで歩き始める阿求に、信綱もまた頬を緩めて歩いて行くのであった。

 

 

 

 

 

 なるべく穏便にことを済ませたい。それは信綱と幽香、双方に共通している見解だ。

 その心は事を荒立てても良いことが全くないというのが大きい。自分に得のない面倒事など誰だって御免である。

 幽香から見れば信綱はなんか急に現れた人間で、しかもやたらと強い。腹立たしいことに正面から戦ったら負ける可能性の方が高い。

 信綱から見れば幽香は面倒事の塊だ。彼女が御阿礼の子に手を出したなら是非もないが、そうでもなく人里を積極的に害するわけでもない妖怪。しかも戦ったら死ぬ可能性が排除しきれない。

 十回戦えば八回は勝てるだろうが、二回は死ぬ。別に退けない戦いというわけでもないのだ。無用な戦闘はしないのが一番である。

 

 二人の見解は一致し、前回の話し合いでも面倒事は少なく手っ取り早く終わらせよう、というのが共通していた。

 

 しかし、そういうわけにもいかない状況というのが世の中には存在して――

 

「え、えっと……」

「…………」

「……そう睨むな。今回は事故だ。他言するつもりはない」

 

 もはや涙目にすら見える目で幽香から睨まれ、信綱は珍しくどうすればいいのかわからないと困った顔になっていた。

 隣には阿求がいるが、先ほどの衝撃から立ち直れていないのか困惑した様子で信綱の袖を握る。

 

「あんたの心には刻まれてるじゃない! 忘れなさい!」

「叫ぶな、阿求様が驚く」

 

 机をバンバン叩かれても困る。信綱は幽香がいつ暴れ出しても良いように阿求を後ろにかばいながら、言葉を続けていく。

 

「お、お祖父ちゃん、大丈夫?」

「問題ありません。――そう怒るな。別に不思議だとは言ってない。あり得る可能性の一つとしては考えていた」

「……どういう意味よ」

 

 ぶすっとした幽香だが、信綱が口を開くと話を聞く姿勢を見せる。

 大妖怪としての矜持なのか、陰口は嫌いと公言しているからか、彼女は正面から話を聞いてくれるのが救いである。

 

「お前は誰かと触れ合った経験が少ないと言っただろう。そして花に囲まれている。感性が成熟しないのはある種当然の帰結だ。だから――別に歌いながら花の手入れをしていたとしても不思議だとは思わん」

 

 おまけに興が乗ったのかラララと歌い始めた辺りで阿求たちが到着したので、話がこじれ始めたのだ。

 いつ来るか具体的な時間を伝えていなかった点は信綱側の落ち度とも言えるが、それにしたって幽香に一方的な被害者顔をされる謂れはない。

 信綱も困っているのだ。阿求を連れて来る時は大妖怪としての風格を見せて欲しいと言った矢先にこれである。どうやって方向修正したものか。

 

「一々言わなくてもいいわよ!! さっさと帰るか死ぬか選びなさい!!」

 

 信綱にやっていたことを完璧に指摘された幽香は、真っ赤になって憤怒の形相で詰め寄る。

 彼女の噂を知っている者なら腰を抜かして逃げ出すところであるものの、信綱は動じない。この妖怪がどういった妖怪なのかはすでに理解していた。

 

「他言はしないと言っているだろう。そもそもこの場所にお前以外の人間を近づけさせないための取材だ。俺たちを追い返したらどうなるかわかったものではないぞ」

 

 暗に言いふらすぞ、と告げると幽香は悔しそうに歯噛みする。

 

「……っ! 卑怯な……!」

「ああ、もちろん殺そうとしても逃げるぞ俺たちは。それとこれは全く関係のない話だが、最近人里では新聞という瓦版が流行っていてな。噂話が広まる速度が馬鹿にならない。いや今の状況とは全く無関係だが」

「お祖父ちゃん、結構意地悪……」

 

 阿求がぼそっとつぶやくが、幽香を相手に手を緩めるわけにもいかないのだ。

 理屈で折れてくれる境界を見極めて突かないと、後先考えずに暴れかねない。そうなると逃げるのも面倒になる。

 適当に暴れさせてガス抜き、とするには幽香は少々強すぎる。これでも細心の注意を払って言葉を選んでいるのだ。

 

 ぐぐぐ、と幽香は真っ赤な顔のまま唸っていたが、やがてヤケクソになったように背中を向ける。

 

「……お茶を用意するから長居しなさい。そして私の恐怖を骨の髄まで染み込ませなさい」

 

 過ぎたことは変えられないので、とりあえず一緒にいる時間を増やして印象を変える機会を増やそうという魂胆のようだ。

 

「紅茶で頼む。阿求様がお好きなものだ」

「絶っ対に屈服させてやる……!」

 

 全く動じない信綱に幽香は正面から屈服させる――すなわち、言葉で勝ってやると戦意をたぎらせるのであった。

 

 茶を用意しに行く幽香を見送り、阿求はそっと信綱の着物の袖を引く。

 

「なんでしょう、阿求様」

「風見幽香……さんって、お祖父ちゃんの知り合い?」

「知り合ったのは本当に最近ですけど、そうなります」

「……幽香さんってどんな人?」

 

 おずおずと聞いてくる阿求だが、答えはすでに彼女の中に出ているようだった。

 なので信綱は微笑んでその答えを告げる。

 

「ご覧の通り、素直で世慣れていない純粋な妖怪ですよ」

 

 

 

 妖怪とは人間を襲うものである。それは信綱が生まれる前より続いていた摂理であり、形を変えて今後も継続していくであろうもの。

 しかし、意外と人間に混ざって生活をしていたという者は多い。天狗も鬼も吸血鬼も、皆何らかの形で人間と関わりを持ち続けていた時期が存在する。

 対して幽香にはそれがない。八雲紫と同じような一人一種族として生まれ落ちたのだろう。額面通りに人間を襲い、飽いて花と共に生きることを選んだ少女。

 

 恐ろしい存在であることに間違いはない。言葉でのやり取りや駆け引きが苦手であることなど、圧倒的な暴力に比べれば些細なものだ。

 だが、恐ろしい存在であることと素直な存在であることは両立する。そして陰口を嫌う彼女の性質を利用すれば、彼女の苦手な舌戦に持ち込めるのである。

 

「ほら、お茶よ」

「……ふむ、阿求様もどうぞ。これは見事です」

 

 出されたお茶を先に一口飲む。酔ってしまうと錯覚してしまうほどの芳香が漂い、琥珀色の液体が喉を嚥下すると陶酔感にも似た感覚が生まれる。

 以前に出されたハーブティーとは雲泥の差だ。信綱も素直に賞賛するしかないものである。

 

「これも花の持つ力よ。こと花について、私より詳しい者は幻想郷にいないわ」

「すごい! お祖父ちゃんの淹れた紅茶より美味しい!」

「…………」

「ふふん、落ち込むことはないわ。なにせ私を相手に花で勝負を挑んだことが間違いだったのよ」

「阿求様の一番になれなかった、未熟な私には腹を斬って詫びることぐらいしかできません」

「待って待って待って!? 今のは言葉の綾というか、お祖父ちゃんも頑張ればこれぐらい大丈夫だから!」

「これぐらいとは聞き捨てならないわね」

「すいませんでした!」

 

 面倒な人しかいない!? というのは阿求の心の叫びだった。口に出したら信綱がまた際限なく落ち込んでしまうので黙っておく。

 幽香は幽香で信綱に張り合っている様子があり、信綱は見た目こそ普段通りなのだが阿求のように付き合いが長い者が見ると落ち込んでいるのがわかる。

 よし、話題を変えよう、という結論に阿求が至るまで時間はかからなかった。

 

「そ、それでですね! 幽香さんに会いに来た理由の方はご存知でしょうか!」

「……ふん、そのこと。新しいルールが来るから私の対応も知っておこうって魂胆でしょう」

「よくご存知ですね」

「そこのジジイに教えられたわ」

 

 道理で最近知り合ったというわけだ、と阿求は納得する。信綱という人間――阿礼狂いが自分のためにどれだけ心を砕いているかは理解しているつもりだ。

 幽香は退屈そうに頬杖をついて阿求に言葉を投げかける。

 

「――私の対応は変わらない。花を傷つける人間は大嫌いだし、誰であれ私の領域に入った者に容赦もしない。縁起には興味本位で来るような連中が減るように載せなさい」

「そちらはわかりました。新しいルールの方についてはどのように考えてます?」

「……あんたも変わらないわね。妖怪の話になると眼の色が違うわ」

「ええ、私も御阿礼の子ですから」

 

 縁起の取材が始まったことで信綱も意識を切り替えたのか、阿求の後ろにそっと立つ。何が起こっても対応できるよう、身体に力がこもっているのが幽香からも見て取れる。

 だいぶ昔にも同じようなことがあった、と幽香は柄にもなく昔を振り返る。

 但しその時の側仕えは脅威に感じなかったし、向こうは幽香のことを恐れているように見えた。

 

(まあ、今の私を見て恐れる理由なんてないか)

 

 内心で嘆息しつつ、幽香は阿求の質問に対する答えを探す。

 幽香も自分が醜態を晒している自覚はあるのだ。普通ならまず殺して証拠隠滅を図るような代物だが、それをするのは幽香の矜持が許さない。許さなくなった。

 なにせ大妖怪としてあるべき姿でないと言われてしまった。確かに都合の悪い事実を隠すように何かを殺めるのは無様だ。負けを認めるようなものだ。それは大妖怪云々以前に風見幽香が自分を許せない。

 故に幽香は二人に手を出さない。すでに口で負けてしまっている――と本人が思っている以上、暴力で黙らせるのは自分が屈服したも同然。

 

 屈服させるには正面から叩き潰さなければならない。この男に、敗北の二文字を、心の底に刻み込む。

 言葉で負けたのなら、言葉で勝たなければ風見幽香は風見幽香足り得ない。

 

 ……そんな風に思ってしまい、信綱にとって都合の良い土俵に上がってしまう時点ですでに信綱の手中にあるようなものなのだが。

 そもそも敵であるはずの信綱の言葉を疑っていない(・・・・・・)幽香にそれを気づけというのは酷な話だった。根っこが素直だと信綱が評したのはこの辺りが原因である。閑話休題。

 

 幽香は頬杖をついたまま口を開き、阿求の質問に答える。

 

「面倒だとは思うわ。でも悪いとは思ってない。詳しいところは知らないけれど、そのルールに則る限りはある程度暴れても大目に見てもらえるというわけでしょう? 手慰みの一つにはなる」

「では幽香さんも肯定的と?」

「乗ってやっても良い、ぐらいかしら。それはそれとして花を荒らしたら殺すけど」

「はい、ではそのように。なるべく普通の人が近づかないようにします」

「……それと、容姿を載せるのはやめて頂戴。私の方から人里に行くことがあるかもしれないから」

「理由を伺っても?」

「ん」

 

 幽香が顎で指し示したのは、阿求の横にいる信綱。

 信綱もこれには身に覚えがないようで眉を潜めていた。同時に阿求の呆れた目が何よりも痛い。

 

「お祖父ちゃん、また……?」

「阿求様、またと言われるのは心外です。私はこいつを人里に誘った覚えが微塵もありません」

「そいつに負けたのよ。私は勝つのは好きだけど負けるのは大嫌いなの。それにそいつもうすぐ寿命でしょう? 勝ち逃げされるなんて私の矜持が許さない」

「もう負けたことで良いから面倒事を起こさないでくれないか」

「負けを認めるなら勝者の希望を阻めるはずないわよね?」

 

 そう言って微笑む幽香の姿はまさしく一輪の花とも言うべき可憐なものだが――信綱にしてみればこいつ面倒くさい以外の感想が抱けないものだった。

 阿求の視線が呆れたものから同情の混ざったものに変わる。阿七の時は知らないだろうが、人里で妖怪が見られるようになった阿弥の頃から信綱が色々な妖怪に絡まれているのは知っていた。

 

 力が強いというのも考えものである。力が弱ければ屍を晒していたので、強くならざるを得なかった事情もあるのだが。

 

「……阿求様、どうされます?」

「ではこうしましょう。一つ、人里で無闇な騒動を起こさないこと。二つ、ちょっかいを出すのはお祖父ちゃんだけ。三つ――この紅茶の淹れ方をお祖父ちゃんに教えてあげること」

「……呆れた。側仕えを差し出すの?」

「ええ――信綱さんがあなた程度にどうにかされるはずありませんから」

 

 ニコリと、何の隔意もなく微笑む阿求。

 その顔は自身の側仕えである信綱を微塵も疑っていないもので、例えこの場で何が起ころうとも自分たちは傷一つ負うことなく帰ってこれる、と確信しているものだった。

 

「……少し見ない間にずいぶんと言うようになったじゃない。妖怪の恐ろしさをもう忘れたわけ? たった数十年、人間と妖怪が交流をした程度で?」

「忘れるはずありませんよ。でなければ幻想郷縁起の編纂を続けようなんて思いません。ですがあなたこそ忘れないで頂きたい。――その恐ろしい妖怪を倒したのは他ならぬ人間です」

 

 空気が歪む、そう感じてしまう濃密な殺気が溢れる――前に、信綱が阿求の隣に立つ。

 その手は刀の柄に添えられており、これ以上の狼藉を主に働くのなら容赦はしないと感情の失せた瞳が物語る。

 人間の瞳ぐらいで驚く理由は幽香にはない。しかし、それは目の前の男の力量を軽視することにはつながらない。御阿礼の子を守る阿礼狂いの恐ろしさは花も語るほどである。

 一触即発の空気になりかけるが、幽香が不機嫌そうに顔をそらすことでその空気は霧散する。

 

「……本当に変わらなくてうんざりするわね。いいわよ、あなたの要望を飲みましょう。私も目的以外のことで煩わされるのは本意じゃないわ」

「ええ、交渉成立ですね。幽香さんとは今後の幻想郷でも仲良くしていきたいです」

「ふん、抜け抜けと。あと私のアレを載せたら殺すから」

 

 アレとはなんだ、と突いて調子を崩す手が信綱の脳裏に浮かぶものの却下する。これ以上彼女の機嫌を損ねたら暴れ出しそうだ。

 潮時だろう、と阿求と信綱の思考が一致したようで二人は瞬く間に帰り支度を整えていく。

 

「では幽香さん、お邪魔して申し訳ありませんでした」

「全くね、おまけにジジイまで連れて来て迷惑千万よ」

「ではな。阿求様が命じられた以上、約定を守った上で人里に来るなら相手にはなってやる」

「雪辱は忘れないから覚悟なさい」

「…………」

 

 はぁ、と目一杯大きなため息をついて信綱は阿求と共に幽香の家から出て行く。

 残された幽香は今までの会話で変なことを口走ったりしていないか、などと額に手を当てて自省し――次の瞬間には握り拳になっていた。

 机にぶつける真似はしない。自分の苛立ちを愛する草木にぶつけるなど無様に過ぎる。草花を愛すると公言している彼女にとって何よりも許しがたい行為だ。

 

 胸中に渦巻くのは相手への苛立ちもそうだが、自分への苛立ちが大半を占める。

 妖怪すらも恐れる風見幽香はどこに消えたのか。まるで些細な言葉に翻弄される少女のようではないか。

 暴力という名の理不尽を振るい、小賢しい彼らを灰燼に帰せば良いではないかと甘い誘惑があることも否定はしない。

 

 だがそれはもはや敗北宣言と同義。口で勝てないので力に訴えますと喧伝するようなもの。たかが人間と見下す相手にする対応ではない。

 それもこれもあのジジイのせいだ、と幽香は自分に向いていた怒りを半ば八つ当たりのように信綱に矛先を変える。

 

 あの老爺も長くないはず。十年は確実に持たない。であれば勝ち逃げされる前に勝負を仕掛けるのは当然の話である。

 幽香は今後しばらくの予定に花の世話以外に人里を訪ねる用事を組み込んでいく。

 その姿は誰が見ても人里に遊びに行く少女というよりは、カチコミをかける妖怪の姿にしか見えなかったが――不思議と、楽しそうな雰囲気を纏っていた。

 

 

 

 

 

「……お祖父ちゃん」

「なんでしょう、阿求様」

「幽香さんって、意外と怖くない?」

 

 帰り道、阿求と信綱が手を繋いで歩いていたところ、阿求がポツリとこぼした言葉である。

 その言葉に対し、信綱はハッキリと首を横に振って否定する。

 

「いいえ、あれは恐ろしい妖怪ですよ。世慣れていないから言葉回しが苦手なだけで、彼女がその気になって耳を塞げば彼女一人で人里の壊滅は可能です」

「お祖父ちゃんでも止められない?」

「万に一つはしくじる可能性があります。まして私が死んだ後に来られたらどうしようもない」

「……誤解はしちゃいけないってこと?」

「どちらも彼女の性質である、ということは理解して頂きたく」

 

 言葉で負けて悔しがる彼女の姿も本質の一つだろう。だが同時に、過去にあれだけ恐ろしく語られただけの所業も行っている妖怪なのだ。

 

 理解するのは構わない。しかし侮るのだけはいけない。それはお互いのためにならない。

 

 阿求もまた妖怪の恐ろしさを御阿礼の子としての記憶で知っている少女。信綱の経験から来た言葉に神妙な顔でうなずく。

 

「うん、初めてだからちょっと油断してたかも。幽香さんは可愛く見えたけど、妖怪なんだよね」

「ええ。それも恐ろしく強く、人間が好きでもない」

「わかった。やっぱり人間が近づいちゃダメな場所ね、太陽の畑は」

「そうなります。慧音先生にもお伝えして厳重な注意をしてもらいましょう」

 

 そう言って、信綱が苦みばしった顔になったことに阿求は首を傾げる。

 

「お祖父ちゃん?」

「……その面倒な妖怪が私のもとに来るのですね」

「あはは、そこはお祖父ちゃんを信頼しているわ。お祖父ちゃんならできるでしょう?」

 

 阿求の言葉に込められているのは純然たる信頼であり、御阿礼の子三代に渡って支えてきた男に不可能などないと心の底から信じきっているものだった。

 無論、そのような言葉を向けられて阿礼狂いが言うべきことなど一つしかない。

 

「阿求様のご命令とあらば、是非もありません」

「ん、よろしい」

 

 阿求は信綱の言葉に満足そうにうなずき、凝り固まった身体をほぐすように空に向かって大きく伸びをする。

 

「んー! 阿弥の時は怖かったって話だったけど、そんなこともないし今日は良い日だわ! 帰ったらお祖父ちゃんのお菓子を食べて編纂を頑張らないと!」

「いえ、戻ったら湯浴みをして休まれた方がよろしいかと。妖怪と相対するのは想像以上に疲れることです」

「大丈夫大丈夫! 私、全然怖くなかったし辛くもなかったもの! きっとお祖父ちゃんのおかげよ!」

「確かに殺意などは私が防ぎましたが、阿求様ご自身が行われていたお話には関与できないので――」

 

 言葉を最後まで続ける前に阿求は駆け出してしまう。元気が良いのは素晴らしいことだが、自分の調子がわからなくなる時もあるらしい。

 

 

 

「……あの、お祖父ちゃん?」

「どうかしましたか、阿求様?」

「……なんか、今になって怖くなってきちゃった」

「でしたら暖かい湯でも飲まれると良いですよ。すぐご用意いたします」

「……今日は一緒に寝ても良い?」

「……ええ。悪夢など見ないよう、ずっと側におりますから安心してお休みください」

 

 案の定、妖怪の恐怖に襲われた阿求が夜中に信綱を訪ねてくる一幕があったが――この場では些事だろう。




ゆうかりんは大妖怪としての力も矜持もあるけど、なんか変な方向で発揮されているお人です。時に脳筋プレイは何よりも恐ろしいのですが、ノッブの口車に乗っているため(限度を超えないかぎり)行いません。

あっきゅんは元気のいい少女であり、同時に三代に渡って仕えてきたノッブを知っているため、阿七よりも阿弥よりも無邪気な信頼をノッブに寄せています。

そしてこれより幻想郷縁起の編纂が始まった以上、残っている出来事はスペカルールの施行、魔理沙の家出、他いくつか程度です。
それらが終わったら紅魔郷から原作が開始していきます。ノッブは表立って動きませんので、異変の解決そのものはダイジェストになると思いますが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スペルカードルール

残業代が出ようと残業はクソであると実感した8月9月でした(0時に帰って風呂入って寝る生活を送っていた人)

10月は書けそうだけど、今度はPCのキーボードが怪しいという。rの反応が悪いとら行が打ちにくくて辛い。


 スペルカードルール。それはこれまでの幻想郷から生まれ変わるという願いを込めて作られた一つの掟。

 争うのなら力でなく心を。誰かに見せられない凄惨な戦いではなく、誰かを魅せられる美しいものを。そして――人間と妖怪がどちらも同じ土俵で遊べるように。

 

 暴力を用いた戦闘は生きた年数の分だけ経験が増える。百年単位で生きる妖怪に人間が経験で勝つことはどうやっても不可能だ。

 ならばどちらもやったことのない未知の戦い方を作ればいい。そうすることで初めて人間と妖怪は同じ場所で同じものを見ることができるようになる。

 

 合理とはかけ離れているだろう。粋ではあっても有意義では決してない。必死に生きようとしている者から見れば遊びのようなもの。

 ――だがそれでいい。無駄が楽しめない世界など息苦しくて仕方がない。全力を尽くして殺し合い、誰も喜ばない結末になるぐらいなら全て遊びでごまかしてしまえばいい。それを道化と笑うなら笑えばいい。

 

 そういった願いの込められたルールは今日、再び集まった者たちによって話し合われることとなった。

 

「もう粗方は完成したのよ。あとは周知方法だけ」

 

 紫の主導で始まった会合で、最初に口火を切ったのはやはり紫だった。

 集められたのはレミリア、天魔、信綱の三人。伴もおらず、この場にいるのはスペルカードルールの創始に関わった者たちのみである。

 

「文字にもまとめてあるようだが、浸透させるには時間がかかるだろうな」

 

 文字や言語を理解する知性のない妖怪は言うまでもなく、そうでない妖怪にも覚えさせるには時間がかかる。ここに揃っている面々は皆が勢力の長と言える力を持っているが、それで自分の勢力下に遍く声を届けられるかと言われたら別問題である。

 

「ま、私のところは問題ないわね。メイドの妖精は適当に楽しそうだって言えば良いでしょうし、他の連中には私から言えば大丈夫」

「天狗と河童はなんとかなる。ウチは上意下達だからな。腹に何か抱えていても、オレの命令に表立って逆らう気概のあるやつはいないだろう」

「人里はそもそもできる者が限られる。人里の守護者である上白沢慧音ぐらいだ」

 

 三者三様の答えを聞いていき、紫はふむふむとうなずいていたところで疑問を覚えて信綱の方を見る。

 

「あなたは覚えないのかしら?」

「避け続けても勝てるルールだろう。俺は……どうにも、向いていないらしい」

 

 実は先代を付き合わせて試したことはあるのだ。ただその時の返答が、

 

『なんかあんたの攻撃、殺意があって怖い。首とか落とされそう』

 

 と言われてしまい、椛にも試してみたところ同じ返事が来たため、自分に娯楽の戦いは向いていないということがわかってしまったのだ。

 

「一応カードは用意してある。使えと言われれば使う用意もある……が、基本は回避に専念する、ないし人里が明確に害される場合にのみ戦うぐらいだ」

「あなたは本格的に一線を退くのね」

「そうなるな。もう七十も過ぎた爺だ。人間としては長く生きた方だろう」

「あなたも先代も衰えという文字をどこかに置いてきてるわよね……」

「あいつは結構衰えている。繕っているのは見た目だけだ」

 

 元々出不精で有事の時でもない限り動きたがらないので、あまり人目につかないだけである。

 そのことを伝えると紫がニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて信綱を見る。

 

「……なんだ」

「いえいえ、あなたが意外と彼女をよく見ていて嬉しいだけよ」

「愛せないとはいえ家内だ。それなりに気は遣っている」

「……ハッ、おじさまの愛人になれば私にも気を遣って――スミマセン、冗談ですからそのゴミを見るような目はやめてください」

 

 何を言っているんだ、という目で見ていただけである。もし本気で言っていたらレミリアの評価が急降下どころではなかったので、ゴミを見ていたというのもあながち間違いではないが。

 

「話を戻すぞ。周知させるのは良いがどう従わせるかだ。大半は良いとして、こいつらの部下以外の連中はどうする?」

「ああ、そこは――こうするつもりですわ」

 

 紫の口元が歪み、次の瞬間には彼女の言葉が頭に直接響く。

 スキマを使ったものである、とすぐに理解できた三人だが、それぞれが顔をしかめて不愉快そうな顔をする。人の脳裏に直接声が届けられて良い気分にはならない。

 

「――と、まあこうやって頭に直接刷り込みます。無論、一定以上の知性があるあなたたちには不快になるだけですが、数の多い妖精などにはこれで十分でしょう」

「数の多い場所さえなんとかなるのなら、問題はないか……」

「ええ、手抜かりはありませんわ」

 

 そこはさすが妖怪の賢者と言うべきだろう。信綱たちが骨子を考案し、彼女が長い月日をかけて作り上げたルール。実際に運用しなければわからない点はあるにしても、彼女の知慧が及ぶ限りの対策が講じられている。

 

「で、今後の異変にはこれを用いるのよね。解決役も同じくスペルカードルールが使えるもの。おじさまはお役御免ね」

「そうなるよう動いてきたつもりだ」

 

 異変の解決役である博麗の巫女にも稽古は施した。まだまだ未熟の一言だが、それでも最初に会った時からは比べ物にならない力を身に付けている。

 信綱の言葉にレミリアがうんうんとうなずき、我が意を得たりと手を高々と掲げて人差し指を立てる。

 

「つまり! ――ここの面子の誰かがわかりやすい異変を起こしてやって、目印にした方が良い訳でしょう?」

「……まあ、そうなるわね」

 

 反応したのは八雲紫。仮にスペルカードルールが周知されたとしても、それが用いられる大規模な何かがない限り、ルールそのものが自然消滅しかねない。

 そうならないためにもどこかで祭り――要するにスペルカードルールを使った異変が必要になるのは確かだ。

 

「じゃあ私がやる! 幻想郷が無視できないようなデッカイ異変を起こして、博麗の巫女を迎え撃ってやるわ!」

「……いやにやる気だな」

 

 顔を輝かせているレミリアを信綱は訝しげに見る。確かに彼女は新しいものを好む傾向があるが、これは普通の様子ではない。

 そんな信綱の疑問にレミリアは当然だと言わんばかりに胸を張って答える。

 

「おじさま、その年に初めて降る雪をこの国の言葉でなんというかしら」

「初雪」

「……例えが悪かったわね。じゃあその初雪が誰にも踏み荒らされていない状態をなんていう?」

「処女雪……ああ、なるほど」

 

 レミリアの言いたいことがなんとなくわかってきた。吸血鬼らしいと言うべきか、とにかく一番になりたがる子供の考え方か。

 

「処女――そう、処女! 素晴らしい響きよね処女! まさに私のためにあるとしか思えない言葉! 吸血鬼とイコールで結んでも良いと思うわ!」

「ほう、舶来の鬼は吸血鬼と呼ばれるだけあって、乙女との話が多いのか」

「まあね! 実際処女の血って美味しいし! で、その処女異変を私がやりたい! というかやらせろ!」

「待て、今聞き捨てならない台詞があった気がするぞ」

「外の世界から持ってきたものだから安心して」

 

 処女の血をどこから持ってきているのか、という信綱の疑問に対し紫が答える。

 しかしそれは結局、他所の人間に負担を強いているだけではないかと信綱がしかめっ面になったところ、紫は小さく笑う。

 

「わざわざ隔意を買うような真似はしておりませんわ。盗んでもさらってもいませんからご安心を」

「……まあ良い、確かめる術はないんだ。で、こいつの方針で良いのか?」

「構いません。どのみち、先駆けは必要になるのですからやりたい人がやれば」

「決まりね。んふふ、ドでかい一発をかましてやるわ……!」

「但し、異変とは最終的に解決されてこそです。スペルカードルールで勝ったのならまだしも、負けたら潔く終わりにすること。良いわね?」

「もちろん。遊びは本気でやるからこそ面白いけど、遊びが遊びでなくなるのは醜悪なだけだもの」

「……人里に被害が及ぶようでも困るからな。そうなると人心の安定のために俺が動くしかなくなる」

 

 もう一線を退いたと言い張って若い連中にやらせても良いのだが、それで被害が増大するようでは目も当てられない。

 基本は彼らに任せるとしても、それは被害が怪我で済む範囲だ。人死が出るような場合は信綱が出るつもりだ。

 

「じゃあそれでいきましょう。周知含めやることはまだまだあるから、今すぐやられるのは困るけど時節は任せます」

「ん、任された。博麗の巫女の初陣を飾れるなんて、これはもう処女奪ったも同然じゃ痛い!?」

「殺すぞ」

「なんでおじさまが怒るの!? 今の話関係あったって痛い痛い!?」

「うるさい」

 

 なんとなく腹が立ったのでレミリアの頭をゴリゴリと拳で押さえながら、信綱は霊夢も面倒な妖怪に絡まれるのだとそこはかとない同情心を抱くのであった。

 

 

 

 

 

「…………」

「…………」

 

 なんか浮いてる。それが信綱の最初の感想だった。

 阿求が縁起の資料編纂で一日家にこもるため、霊夢に稽古をつけようとやってきたらこれである。

 

 その浮いてる存在――霊夢は信綱がやってきたことを察知すると、口元を歪めて得意そうな顔になっていく。

 

「…………」

「何か楽しいことでもあったか?」

「ふっふっふ……今日こそ長く苦しい稽古の終わりだと思うと笑いが止まらないわ!!」

 

 はっはっは、と高笑いを始める霊夢に信綱は眉をひそめる。いつの間に勝ったら稽古が終わりなどという認識になったのか。

 そして理由もわからない。先代が彼女にまた大技でも教えたかと考えたが、そうなった時は先代から一言あるはず。そうでないとすると彼女の自信が読めなかった。

 

「ほう、秘策でもあるのか?」

「ええ、そうよ、その通り! 今回の勝負は――これよ!!」

 

 霊夢が巫女装束の袖から取り出したのは何枚かのカード――スペルカードだった。

 それを見て信綱もようやく得心が行く。確かにスペルカードルールなら信綱も素人同然であり、彼女と土俵は限りなく同じになる。

 

「爺さんはカードを用意していない可能性が高い! つまり私が不戦勝! 勝った!!」

「持ってるぞ」

「えっ」

「持っていると言っている」

「なんで!? これって女子供の遊びじゃないの!?」

「それで意思決定をするのだから、覚えて損はないだろう。とはいえ……」

 

 信綱は腰を落とし、その場にどっしりと構える。

 

「俺にその手の遊びが向いていないのは――まあ、お前もわかるだろう」

「うん」

 

 即答されたことに物申したい気持ちはあったが、自覚もあるので何も言わずに話を進める。

 

「だからスペルカードブレイク――お前が使うカードを全て避け切ることで俺の勝ちとしたい」

「……わかった! 今度こそ私が勝つんだから!! 使うカードは五枚!」

「良いだろう。かかってこい」

 

 霊夢がその手に携えた五枚のスペルカードを大きく振りかぶり、新たなルールでの戦いの火蓋が切って落とされるのであった。

 

 

 

「よし、俺が勝ったから稽古三倍な」

「鬼! 悪魔! 血も涙も情けもない! というかなんで勝てないの!?」

 

 そもそも絶対に避けられない弾幕は作れないルールである。ならばよく見ることに長けた信綱にとって、スペルカードの法則を見抜くことは難しいことではない。

 

「スペルカードは絶対に避けられないものではない。遊びである以上、双方に勝機があるべきという考えから生まれたルールだが、言い換えれば元々勝てない相手にはもっと勝てなくなることもあるということだ」

「なんで初見のカードの法則見抜けるのよ!?」

「パターン探しだ。全体を見ていればそう難しくはない。お前でもできるだろう」

「……私が爺さんに勝つにはどうしたら良い?」

「地道に力をつけろ。強さに近道はないぞ」

 

 そう言うと霊夢は力なくうなだれるが、そこに信綱の手が置かれる。

 

「んぁ?」

「とはいえ、弾幕ごっこの範疇なら良い腕だった。スペルカードルールでなら誰よりも強くなれるかもな」

「……爺さんより?」

「女子供の遊びとして作られたルールだ。俺のような爺は入れんよ」

 

 自分が振るう暴力は使わない方が良いのだ。使わないに越したことはないが、不要になる時はなかなか来ないため霊夢にはその力を持ってもらう必要がある。

 故に加減はしない。力というのは余計な厄介事を呼び込む可能性を生むかもしれないが、その厄介事を解決するのもまた力なのだ。

 

「……爺さんはスペルカードルールができる前の戦いを知ってるの?」

「人間の中でなら、誰よりも。昔は色々と騒がしかった」

 

 レミリアの異変の話もあるためこれからも騒がしくなるのだが、そこは伝えない。彼女にはスペルカードルールが流布された幻想郷での主人公を頑張ってもらおう。

 一番最初だけは事情が事情のためこちらで仕組んだものになるが、それ以降は皆が勝手にやっていく。

 信綱は人里に被害が出るような状況でない限り人里から動かず、せいぜい霊夢の尻を蹴っ飛ばしに行くぐらい。全てが終わった後に阿求を伴って話を聞くぐらいだ。

 

「――霊夢」

「な、なに? 爺さんが私の名前呼ぶなんて珍しいわね」

「お前ならきっと、俺より上手くやれる。遊びで済まなくなる戦いなんてない方が良いんだ」

 

 殺して殺されて。泣くのはいつだって第三者だ。

 信綱は自身と椿の至った結末に涙を流した白狼天狗の姿を思い浮かべ、苦い顔になる。

 

「どうしようもない時もある。やらなきゃやられる時もある。譲れない時もある。――だがそうでない限り、全部遊びで済ませてしまえ」

「爺さん……?」

「いたずらに誰かを傷つけないようにしろということだ。力を振るうべき時はよく考えろ。でないと余計な恨みや憎しみに足を引っ張られるだけだ」

 

 霊夢には信綱の言っていることの半分も理解できなかった。信綱も余計な恨みを買わないことはしていたものの、実感として得たのは大人になってからだ。

 理解できずとも良い、と信綱は鷹揚にうなずいて話を切り上げる。

 

「……忘れなければそれで良い」

「……わかった。爺さんの言葉は胸に刻む」

「それでは稽古を始めるぞ」

「ごまかせると思ったのにぃぃぃぃ!!」

 

 なんか良い感じに決意している表情から一転し、泣いて逃げようとする霊夢を引っ張っていき、弾幕含めた稽古を再開するのであった。

 

 

 

「あんたが言うと含蓄あるわね、それ」

 

 その日の夜、霊夢に教えたことを先代に伝えると、先代は同意するように笑ってみせる。

 

「妖怪と人間の戦いなんて、死ぬか殺すかのどっちかだったわね」

「そうだな。少なくとも他人に見せられるものではない」

 

 斬っても斬っても治る妖怪と、彼女らを殺すべく斬り刻み続ける人間。

 身を守るための戦いが大半だったのだから、間違ったことだとは思っていない。正しいことをしたと胸を張って言える。

 だが、あの光景を他者に見せられるかと言われたら首を横に振る。

 信綱が御阿礼の子の前で戦いたがらないのは、戦いという行為自体が彼女を傷つけかねない凄惨な光景を生み出すからである。

 

「……変わるのね、幻想郷も」

「良いことだ。今までに比べればずっとな」

「それもそっか。……これで私たちはいついなくなってもいいってことだ」

 

 その言葉が先代らしからぬものであったため、信綱は訝しみながら先代を見やる。

 

「……どうした? 具合でも悪いのか?」

「ううん、そういうのじゃない。ただ、ほら、私もあんたも人間であって、もういい歳した爺さん婆さんでしょ?」

「そうだな」

 

 信綱も少しだけ、ほんの少しだけ自分の死期が近づきつつあるのを感じている。

 おそらく五年以内。レミリアが初めての異変を起こした前後辺りが自分の寿命だろうと、薄々察していた。

 そして信綱には見えている。見えてしまっている。長い年月を見届けてきた瞳が見抜いてしまっていた。

 

 先代の纏う気配は死にゆくもののそれであり――それはきっと自分より早く来るであろうことを。

 

「なあ、――」

 

 先代の手から杯を取り、彼女が飲んでいた途中のそれを飲み干して名前をつぶやく。

 杯を奪われた先代は驚きと非難を混合させた顔で信綱を見たが、彼の視線の意味を察して静かに信綱の言葉を待つ。

 

「……俺で良かったのか?」

 

 やがて出てきた言葉は躊躇いを感じさせるものであり、先代の顔がしかめっ面になるのも当然のものであった。

 

「呆れた。まだそんなこと考えてたの? 十年以上いるじゃない」

「……佳い良人を演じられた自信がなかった。それだけだ」

 

 いや、演じるという言葉自体が失礼なのか、と信綱は思う。

 彼女のことは可能な限り大事にしてきたつもりだが、それでも御阿礼の子との天秤だったら御阿礼の子を選び、彼女と夫婦として在ろうとしたことはなかった。

 求められれば可能な範囲で応え、彼女の願いが叶えられるよう気遣いもした。

 しかし、それだけだ。信綱は世間一般で言うところの良き夫にはならなかった。

 

 先代が普通の家庭などに憧れを抱いていることを察していながら、それでも阿礼狂いとしての自分を優先したのだ。

 正直、自分だけが彼女を幸せにできた、などとは口が裂けても言えないと信綱は思っていた。

 そのことを伝えると、先代は呆れて物が言えないとばかりにため息をつき、信綱の手にあった杯を取り返す。

 

「んー……私があんたをどう思ってるか教えてあげても良いけど、やめた」

「なぜ」

「あんたのその顔見てたら、なんとなく」

 

 訳がわからない、と怪訝な顔になる信綱に先代は小さく笑って杯を片付けに立ち上がる。

 そして立ち上がって信綱の横を通り抜ける際、彼の頬に唇を寄せて触れる。

 

「あ、おい――」

「先に寝てるわ。まあ、私のことは――死ぬ間際にでも教えてあげる」

「…………」

 

 怒ってはいないようだし、悪く思われてはいないのだろうか。

 信綱は誰もいなくなった縁側で静かに息を吐き出し、何をするでもなく月を眺め続けるのであった。

 全く――人の心はいつになってもわからないことだらけである。

 

 

 

 

 

「親父の馬鹿!!」

 

 そんな叫びと同時に、陽の光を受けて燦然と輝く黄金の髪をなびかせた少女が霧雨商店から飛び出し、所用でやってきていた信綱の横を駆け抜けていく。

 

「おっと」

「待て、この馬鹿娘!!」

 

 次いで霧雨商店の店主が顔を出し、出ていった少女を追いかけようとするが足の速さが全く違う。あっという間に小さくなる少女の背中を見て、店主は荒い息を吐く。

 

「ぜぇ、ぜぇ……ったく、あの馬鹿娘!」

「ずいぶんと鈍ったな、弥助」

「はぁ? おれがいつ鈍ったって……うぉっ、信綱様!? こりゃお恥ずかしいところを……」

「自警団にいた頃はもう少し動けたと思うが」

「いや、それは何十年も前の話ですよ……ああ、もう。魔理沙に追いつくのは無理か」

 

 見えなくなってしまった少女――魔理沙の向かった方角を信綱も見て、視線を弥助に戻す。

 

「で、何かあったのか? あの子の髪は綺麗な濡羽色だったはずだ」

「へぇ、それが……とりあえず店に戻りましょう。お茶をお出しします」

「わかった。あの子はいいのか?」

「多分霖之助のところに行ってるだけです。あそこに店を構えてくれてありがたいですよ」

 

 人里から離れており、なおかつ信頼できる人物がいる場所と来たら香霖堂しかない。

 なるほどとうなずいて、信綱は霧雨商店の奥に通されていく。

 そこで香ばしい匂いを漂わせるほうじ茶を片手に、信綱は弥助が口を開くのを待つ。

 

「……信綱様に悩みを聞いてもらうなんて恐れ多いかもしれませんが、よろしいですか?」

「そう言ってくれるな。隠居の爺に愚痴をこぼすものだと思え」

 

 畏まられても困ってしまう。もういい歳の爺さんなのだ。

 と言っても、弥助たちは信綱の活躍を直に見た世代でもある。未だ彼の活躍が色濃く記憶に残っているのだ。

 

「……実は、うちに置いてあるマジックアイテムを魔理沙が起動させちまったんです。あんな風に髪の色が変わったのも、それが原因で」

「マジックアイテム?」

 

 天狗のところから来るのは河童の作った道具や、天狗の技術で作られた工芸品や武器などが主だったはず。

 耳慣れない言葉に信綱が眉をひそめると弥助がすぐに補足をしてくれた。

 

「はい。霖之助が扱えないからと卸してくれたものと、あと紅魔館から時々来るんです。中には使い方さえわかれば誰でも扱えるようなものがありまして」

「ふむ、本人の資質がいらないものか」

「大半はそうなんですけど、霖之助はたまにそうじゃないやつも持ってくるんです」

「……まあ、あの力ではな」

 

 道具の名前と用途がわかる程度の能力。その名の通り、名前と用途はわかるが具体的な扱い方まではわからないという、役に立つんだか立たないんだかわからない能力が森近霖之助の持つ能力だった。

 それに彼は道具の作成もお手の物だったはず。作ったは良いものの、用途を考えていなかったから霧雨商店に持ってきた可能性もある。

 

「それで霖之助が持ってきたものに触ったら、魔理沙の髪があんなことになっちまって……それだけなら良いんです。霖之助をどやして戻せば良いんですから」

「問題は魔理沙にそれが使えた、ということか」

 

 魔法は信綱にも扱えない分野になる。必然、魔力についても知識はほとんど皆無に等しい。

 知ってそうな人物に心当たりはあるが、頭を下げたくない人物だ。

 吸血鬼異変で霧を出し、阿弥を苦しませた彼女に頭を下げるなど、御阿礼の子のためでもなければ死んでも御免だった。

 

「そうなんです。あいつ、小さい頃から魔法使いとかそう言った本が好きだったでしょう? それですっかり魔法使いになる! なんて言い出して……」

「憧れていた存在と同じになれる素養があったとなれば当然の話だな」

 

 実際のところは本人から聞かないとわからないが、喧嘩になるのも当たり前だと納得できるものだった。

 信綱は確認するように一つ一つ弥助に話しかけていく。

 

「お前は魔法使いになってほしくないんだな?」

「ええ、まあ……どんなものかわかりませんし、それに危ないこともあると思います。またあんなことになったら……」

 

 ぶるっと身体を震わせる弥助を見て、信綱は魔法の森で魔理沙を助けたことを思い返す。

 魔法使いに詳しいわけではないが、少なくとも戦力として期待できる存在になることは確かだろう。

 そうなったら信綱は人里を守護するものとして彼女の力を使う時が来るかもしれない。危険な妖怪を倒してこいと言う側になるかもしれない。

 弥助もそこまで考えているのだろう。寒いわけでもないのに、彼の顔は蒼白になっていた。

 

「……お前は」

「え?」

「お前はその意思をちゃんと伝えたか? 魔法使いになることで想定される危険と、あの子の死がどれだけ自分にとって恐ろしいものか、魔理沙に話したか? 子供の戯言と頭ごなしに否定しなかったか?」

「そ、れは……」

 

 言葉に詰まる弥助を見て、半ば予想通りであると内心で嘆息する。

 魔理沙の考え方は信綱から見ても子供っぽく感じるし、弥助のように深くは考えていないだろう。

 だが、それでも彼女なりに考えて選んだ決断のはずだ。それを親とは言え、頭ごなしに否定されれば頭にくるのも当然の話だ。

 

「あの子はお前に対して夢を語った。浅慮で、周りが見えてなくって、愚かしいと思うものであっても、自分の心を語った。……お前だけそれをせずに否定するのは不公平だろう」

「……言えってことですか。自分の娘に、親バカそのものな自分の心を話せと」

「それを言わずに理解をもらおうと考えるのはあの子に甘え過ぎだ。恥ずかしいと思うなら酒の力でもなんでも使え。言うのと言わないのでは大きな違いだ」

 

 ピシャリと言い放った信綱に弥助は諦めたようにうなだれるが、そんな彼の肩に信綱の手が置かれる。

 

「お前はお前なりに全力であの子を理解しろ。そして理解してもらえるようにしろ。それで駄目なら俺がなんとかする」

 

 魔理沙が父親を慕っていた頃を知っているのだ。まだ決定的な破綻には程遠い。

 親友の息子と孫が仲違いする姿など、遠くに逝ってしまった二人に顔向けできない。

 肩に置かれた手を弥助は感動したように見つめ、そして照れ臭そうに笑う。

 

「……なんか、ガキの時も同じようにしてもらいましたね。おれ、信綱様の世話になってばかりです」

「人間、誰しも完璧にはなれない。誰かが失敗したのなら、誰かが支えれば良い」

「信綱様も失敗とかするんですか?」

「今だってやっている」

 

 親子の在り方など阿礼狂いからすれば遠い姿だというのに、偉そうに説教している今この瞬間が彼にとっての失敗みたいなものだった。

 それに――

 

「真正面から人と向き合えるお前は俺より立派だよ、弥助」

「信綱様……?」

 

 弥助が何かを言う前に信綱は彼から離れ、出口に向かっていく。

 

「乗りかかった船だ。このまま香霖堂に寄って魔理沙の意見も聞いてくる。お前は戻ってきたあの子と話す用意をしていろ」

「あ、待ってください!?」

 

 弥助の言葉を聞くことなく霧雨商店を出て、信綱は人里の魔法の森側の出口に向かい始める。

 いつも通りの無表情な顔の下には様々な思考が渦巻いており、二人の仲が戻って欲しいと思う反面で、彼女が魔法使いとしての力を得た時のことも考えていた。

 

(……人里の防衛力は多いに越したことはない。できるなら力になって欲しい)

 

 そう考えてうんざりする。親友の孫が人里で貴重な戦力になるかもしれないとわかった途端にこれである。

 しかし手を抜くわけにもいかない。人里が守れずに困るのは御阿礼の子であり、それだけはなんとしても避けねばならないことだ。

 

 せめて彼らが納得して自分の道を進めるようにしよう。

 信綱は自分が導き手みたいな役回りになっている現状に苦笑を浮かべながら、香霖堂への道を歩いていくのであった。




大変お待たせしました。

次回は魔理沙、霖之助のお話ともう一つみたいな感じです。
それが終わったらいよいよ原作開始……だと思う、多分、きっと、メイビー。



異変の解決には付き合いませんから、あっきゅんの側にいながら適当に話している感じです。全部終わった後に霊夢や異変の黒幕から話を聞く程度になるかと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新しい時代の始まりと旧い時代の終わり

 それは魔法の森の入り口にほど近い場所に建っている家だった。

 家の前には雑多なものが所狭しと置かれており、何も知らないものが見ればゴミ屋敷か何かという印象を覚えるだろう。

 申し訳程度に香霖堂という名前の彫られた看板がなければ、そこに人が住んでいることすら気づかず、ただの廃屋として通り過ぎる。そんな見た目の家。

 

 その中に信綱は迷うことなく足を踏み入れ、声を出して店主を呼ぶ。

 

「店主、いるか」

「あいにくと開店休業中だよ。あなたが来た理由はわかっているけどね」

 

 香霖堂の店主――森近霖之助は勘定を受け取る定位置に座り、困ったように笑って店の奥に視線をやる。

 

「魔理沙が来た時は二重に驚いたよ。いきなり泣きながら来たのもそうだけど、何よりあの髪だ。吃驚仰天とはあのことを言うんだと実感した」

「今はどうしてる?」

「なだめて話を聞いたら怒りが湧いてきたみたいでね。迎えが来るまで帰らないそうだ。あなたは迎えに?」

「そんなところだ。事情はどの程度?」

「子供が泣きながら話す事情程度には」

 

 要するに何も知らないも同然ということだ。それでも魔理沙を受け入れて彼女の好きにさせてやる辺り、霖之助も意外と情が深い。

 

 信綱はこの件に関してどちらの側に立つつもりもなかった。

 こうなったらありがたいな、という展望ぐらいは持っているが、そのために魔理沙や弥助の意思を捻じ曲げるつもりはない。

 善意の第三者という立ち位置を崩していない信綱は俯瞰的に二人の事情を話す。霖之助は興味深そうに聞いていたが、自分の持ってきたマジックアイテムが原因であると知るとしくじったと苦い顔になる。

 

「しまった……あれは紅魔館に渡してもらおうと思っていたんだ。あそこの魔女なら扱えるだろうからね。かと言って僕が直接赴くほど信頼関係もないから、親父さんに渡してもらおうと思っていたのに」

「魔理沙が魔法の才があることは?」

「知っていたら持っていかない。僕だって驚いているんだ」

「だろうな。それに霧雨商店ぐらいだからな、紅魔館との接触があるのは」

 

 交流の始まった直後、勘助がレミリアと対話を交わした。その事実をレミリアは尊重し、雑貨は霧雨商店で買うようになっており、また彼女が戯れに用意した外来の道具を霧雨商店が買い取ることになっていた。

 いずれは香霖堂でマジックアイテムのやり取りが行われるのかもしれないが、それは今ではない。信綱は納得したようにうなずき、店の奥を見る。

 

「少しあの子と話してくる。……お前はどうなって欲しいんだ?」

「危ないことはして欲しくないのが本音だけど、それで魔理沙たちの意思が曲げられるのは不本意だ。だから、まあ……親父さんも魔理沙も納得した道を歩んで欲しい、かな」

「……そうか」

 

 霧雨家は人の縁に恵まれる何かを持っているのかもしれない。

 自分などと友人でいようとした勘助たち以外は、と心の中で注釈を付けて信綱は店の奥に入っていった。

 

「魔理沙、いるか?」

「……爺ちゃん? なんでここに?」

 

 見慣れない金色の髪を持つ少女――魔理沙は目元を赤く腫らし、涙の跡が見える顔で驚いたように振り返る。

 霖之助や弥助が迎えに来るならわかるが、ほとんど関係のない信綱が来たことに驚いたのだろう。目をまんまるに見開いていた。

 

「たまたまお前が店から飛び出すのを見かけたんだ。大体の事情は聞いている」

「……爺ちゃんは戻れっていうの?」

 

 不貞腐れたように睨んでくる魔理沙。すっかり大人に不信感を持ってしまっているようだ。

 最初に弥助の方に行ったと聞いたので彼の味方だと思われているのだろう。

 信綱は親友の孫を相手にどう対応したものかと頭の片隅で悩みながら、言葉を選んで口を開く。

 

「お前はどうしたい?」

「え?」

「弥助からどうしたいかは聞いた。お前からも聞くのが筋だろう」

「……笑わない?」

「本気で言っているのなら」

 

 それに若い頃から妖怪と一緒に生きてきた信綱にとって、魔法使いになりたいことぐらいで驚きはしない。

 なれる力があって、なりたいならなれば良いのでは? 但し周りからの納得を得る努力はした方が良い、ぐらいのものである。

 今回は相談を持ちかけられた相手が相手なので尽くせる範囲で力を尽くすが、縁もゆかりもない他人ならこのぐらいの対応である。

 

 無論、魔理沙はそんな信綱の心境など露知らず、大好きな祖父の親友である彼の落ち着いた言い回しにすっかり信じる気持ちになっていた。

 

「……私、魔法使いになりたい」

「昔、ここの店主に読んでもらっていた本のように、か?」

「それもある。それもあるけど……もっと別の理由」

 

 ポツポツと語り始める魔理沙の言葉を途中で遮ることなく、信綱は静かに聞いていく。

 

「絵本で読んだ魔法使いになれるならなりたい。父ちゃ――親父の言うがままに花嫁修業とかして、誰かと結婚するより、自分の力で道を作りたい」

「そうか。続けてくれ」

 

 名家に生まれた者の宿命かもしれん、と信綱は弥助のことを思う。

 彼も少年の頃は信綱の活躍に魅せられて、店など継がず英雄になると息巻いていたものだ。

 火継の家は数に入れない。生まれた時から御阿礼の子に狂うことが宿命付けられている以上、選択の余地すら存在しない。

 

「でも、それ以上に憧れている子――やつがいるんだ」

「……無理に言葉遣いを変える必要はないぞ。君が礼儀正しい子だってことは知っている」

 

 そして優しいことも信綱は知っていた。それは間違いなく美点であり、消す必要のないものだ。

 そう教えるものの、魔理沙は意固地になったように頭を振る。

 

「自分を変えたいんだ! 今のままじゃ何にもできない! 親父の決められた道を歩くだけだ!」

「それの是非は置いておこう。……父親に逆らってでも叶えたい目的があるんだな?」

「……ああ。私はあいつに――霊夢みたいになりたいんだ」

「…………」

 

 予想外の人物が出てきたため、信綱は僅かに目を見開く。

 霊夢の話にも魔理沙は出てきたから友人であるとは思っていたが、よもや魔理沙の側は霊夢をそんな風に思っていたとは知らなかった。

 

「……霊夢みたいに、とは?」

「頭が良くって、運動もできて、面倒見が良くって……あいつ、博麗の巫女なんでしょ?」

「そうだな。今は先代が役目を果たしているが、いずれは彼女が巫女になる」

 

 そうなるための教育を自分が施しているため、同年代との力量差は仕方がない。

 ……とはいえ、それを魔理沙に告げても納得はしないだろう。第一、魔理沙にとって自分は祖父の友人ぐらいの認識のはずだ。

 魔理沙は信綱の内心の懊悩を無視し、強い意志を感じさせる瞳で信綱を見据えた。

 

「博麗の巫女の隣に立つんなら、霧雨商店の娘じゃダメだ。それこそ魔法使いとかとんでもないものじゃなきゃ、私はあいつに胸を張れない」

「それは違う。霊夢には霊夢にしかできないことがあって、君には君にしかできないことがある。君ができることを全力でやっているなら、どんな形であってもあいつに胸を張れるはずだ」

 

 そもそもあれは才能こそあるものの、それ以外は結構適当な性格である。

 今でも隙あらば信綱の稽古をサボろうとするなど、なかなかに根性のある怠け癖があった。

 

 あいつに対してそんな真面目に悩むだけ損だとは言えず、信綱は昔に弥助に対して言ったことと同じ内容の言葉を告げる。

 しかし魔理沙は信綱の言葉に対しても首を横に振り、自分の意思を示す。

 

「私は――あいつの隣に立ちたいんだ。友達でいたいんじゃない。あいつに認められるような、そんな関係になりたいんだ。そのために魔法使いになりたい」

「……決意は固いようだな」

「爺ちゃんにも邪魔はさせない。いいや、邪魔されたって絶対に諦めない」

 

 この意思の強さはどこから遺伝したのか。信綱は魔理沙の目から遥か昔、自分が狂人であると知ってなお友人でいたいと言ってくれた親友の面影を見出し、ため息をつく。この家の面倒を見ることになるのは運命か何かなのだろうか。

 

「……だったら、その内容を余すところなく父親に伝えろ。理由もなしに魔法使いになりたい、では誰も納得せんぞ」

「誰の理解もなくたって良い。私一人でも……!」

「――甘えるな」

「え?」

 

 冷たい、ともすれば冷酷にすら聞こえる声音で魔理沙の言葉を信綱は否定した。

 これまでは親友の孫であることもあって優しく対応していたつもりだが、ここからは違う。

 魔法使いになるということは霧雨商店の娘であるという立場を捨てることであり、それは人里の庇護からの脱却も意味する。

 お前が選んだ道はそういうものなのだと教えるためにも、ここで優しくするわけにはいかなかった。

 

「自分の親すら納得させられないまま、お前は魔法使いになろうとしているのか? そんな考えを持っているようではお前が霊夢に並び立つなど夢のまた夢だ」

「なんで――」

「お前の親だ。お前の話を一番聞いてくれる存在だ。説得させるなんてある意味一番簡単な相手だ。……それすらしようとしないなら、お前の夢は必ず潰える。断言しても良い」

 

 魔理沙は苦難の道を歩もうとしている。その第一歩すら満足にこなせないのなら、踏破などできるはずもない。

 これでもうなずかないようなら、信綱は無理やり彼女を弥助のもとに連れ帰るつもりだった。

 挑戦することが若者の特権であるなら、絶対に失敗するとわかっている道に進ませないようにするのが大人の特権だ。

 

「……わかった。戻って親父と話してみる。……親父にも理解されないんじゃ、確かに魔法使いなんて無理だよな。魔法使いって、もっと綺麗なものだし」

「その意気だ」

「……でもさ爺ちゃん。爺ちゃんは私の願いって子供っぽいとか思わなかったのか? 親父は全然話も聞いてくれなかったけど」

「うん? 思ったとも」

「爺ちゃん!?」

 

 思いはしたが、それと話を聞かないことは別問題である。

 何であれ、真剣にその道を志していることを笑うつもりはなかった。

 それは尊いものである。娘のために真剣になれる弥助も、自分が目指すものに真摯である魔理沙も、どちらも等しく尊ばれるべきなのだ。

 

「思ったが――お前の決断を笑うつもりはない。夢を叶えるために躍起になれるのは子供の特権だ」

 

 夢が潰えるか花開くか。結末は誰にもわからないが、何かを追いかけ続けたことはきっと自分の中で意味を持つ。

 そして何かあった時の尻拭いは自分がやればいい。子供は向こう見ずに前を走るのだから、その後ろを支えるのは大人の役目であり、勘助たちから任されたことでもある。

 

「戻るぞ。そして弥助とちゃんと話し合え。夢を追うのか諦めるのか、どちらにしても自分で選ぶんだ」

「わかった! 爺ちゃん、ありがとう! 私、先戻ってる!!」

 

 夢を笑わず肯定したのが嬉しかったのだろう。魔理沙は弾んだ声で信綱に礼を言うと、あっという間に香霖堂を飛び出してしまう。

 この辺りは危険でもないので良いが、あの向こう見ずっぷりはどこから来たのだろうと首をかしげる信綱だった。

 

「……魔理沙は恵まれている。あなたのような良い大人がいて、親の愛情もたっぷり受けているからね」

「俺ほど向いていない存在もいないだろうがな」

「いいや、物事を俯瞰的に見られるのは一種の才能だ。あなたは大人の意見にも子供の意見にも寄らず、どちらも平等に見ることができる」

「どちらも大差ない。それが良いものであることぐらいしかわからん」

 

 全ては塵芥。御阿礼の子と比べれば――否、比べることすらおこがましい。

 だからこそ信綱は御阿礼の子以外の全てに対して平等だが、自身のそれを美点であると感じたことはなかった。

 

「だったら、どちらも適当に聞き流してしまえばいい。それをしないで、ちゃんと旦那とも魔理沙とも向き合って話すのはあなたの美点だ」

「本来ならお前にやってほしかったんだがな」

「よしてくれ。僕みたいな趣味人の言葉は真剣に生きる人には届かないよ」

「言葉に背景も何もあるものか。言うべきことを、伝えるべき相手に伝えるだけだ」

「背景も何も関係ないのなら、あなたが言っても同じということだ」

「……その口の上手さで魔理沙の相手もしてやってくれ」

 

 信綱はこれ見よがしにため息をついて香霖堂の出口に向かう。

 その後ろ姿に霖之助からの声が投げかけられる。

 

「僕は裏方に回らせてもらうよ。あの子がどうなるにしても、慕われていた兄貴分としての役目ぐらいは果たすさ」

「なら良い。俺も戻るぞ」

「まいどあり。次は何か商品も買ってくれると嬉しい」

「買うに値するものがあればな」

「手厳しい。趣味で店を始めたというのに営業努力までしなければならないとは。世の中ままならないものだ」

 

 お前ほど自由なやつはそうはいない、と思ったが口には出さなかった。どうせ言うだけ無駄だという意味で。

 その代わりの大きなため息を返事として、信綱は人里に戻っていくのであった。

 

 その後――父と娘の間にどんな話があったのか、信綱は聞いていない。

 だが、魔理沙は魔法使いを目指して人里を出て、弥助は彼女を勘当することでそれを後押しした。その事実のみが彼の知りうる事実だった。

 

 そして後日、弥助が泣きながら酒を飲んでいたのを止めたことだけが信綱の知る事実だった。

 故に彼らの間にはきっと色々な話があったのだろう。思いの丈をありったけぶちまけて話し合ったのだろう。

 

 魔理沙は自分の道を歩き始め、弥助はそれを見送った。霧雨商店の娘が人里を捨てる以上、勘当の処分は避けられないものだったが――不思議と弥助の顔に凹んだそれは見受けられなかった。

 

「あいつは胸張って自分の道を歩いてます。おれが落ち込んでちゃあ、あいつも心配してしまうでしょう」

「……そうか。良い結果になったようで何よりだ」

「最高とは言えませんけどね。でも、おれも魔理沙も納得して選びました」

 

 ならば良いのだろう。どんな形になっても彼らが親子であることは変わらず、弥助は魔理沙の活躍を待って、魔理沙は自分の願いに進み続けるのだ。

 彼らの道が最悪の形で終わらないよう願って、信綱は今後も彼らを見守っていくのであった。

 

 

 

 

 

 その日は朝から寒かった。

 火継の庭では霜が降り、踏みしめる度にパキパキとひび割れるような音が響く。

 

 信綱はそんな寒い早朝であっても、上半身をさらけ出した格好で朝の鍛錬を行う。

 物心ついた頃から握り続けている刀を今日もまた振るい、ただ御阿礼の子だけを思って力を求め続ける。

 それに疑問を持ったことなどないし、持った時が阿礼狂いとしての終わりなのだろう。御阿礼の子のために鍛えているこの瞬間、信綱は何も考えることなく無心に牙を研ぐ。

 

 しばらくの間剣を振るい続け、汗を流してから信綱は自室に戻る。

 そこで稽古用の服から外用の服に着替え直し、彼の一日が始まるのだ。

 

 部屋ではまだ先代が眠っている。稽古に付き合う時もたまにあるのだが、大体の時は惰眠を貪っていた。

 すやすやと無防備な寝顔を晒す先代に信綱は小さくため息をついてから、彼女を起こすという日課をこなす。

 

「おい、もう朝だぞ。起きろ」

「ん、ふぁ……」

 

 とはいえ寝起き自体は悪くないのが救いでもある。信綱が身体を揺すって声をかければすぐに起きるのがありがたいところだ。

 ……いや、元を正せば起こさずとも起きるのが一番楽なのだが。

 

 そうして起きた先代は寒そうに寝間着の襦袢を重ね合わせながら上体を起こし、不思議そうに自分の手を見つめる。

 

「あれ?」

「どうかしたか?」

 

 先代のあげた声に信綱が応えるものの、先代は無視して自身の手を穴が空くように見続ける。

 

「あー……そうか」

 

 やがて納得したようにうなずき、先代は寝起きで乱れた髪をがしがしとかきながら信綱に声をかける。

 

「ね、夜に時間ってできる?」

「藪から棒にどうした」

「いいから。できるの? できないの?」

「……阿求様のお休みになられた後なら可能だ」

「それで良いわ。じゃあ絶対にその時間に来ること」

 

 絶対、と念を押す先代に首を傾げるものの、信綱にはハッキリとした理由が思い当たらなかった。

 それほどに先代の様子が普段と何も変わりなかったのだ。相手の死期すらぼんやりと見えている信綱の観察眼をも欺くほどに。

 

 もしもこの時、彼女の様子に気づけていたのなら――それでも、彼は阿礼狂いとしての役目に殉じただろう。

 結局、どちらでも答えは変わらない。変わらないが――もしもを考えてしまう程度には、彼の心に残る出来事となった。

 

 

 

 その日の夜、信綱は阿求が休むのを見届けてから火継の家に戻っていた。

 唐突に兎鍋が食べたいと所望し始めた阿求のために、信綱が山に入ってサクッと冬眠していた兎を狩ってくると信じられない顔をされたという事件があったが、まあ些細なことだろう。

 大人を困らせたいと思うのは子供なら一度は思うことであり、阿求のも子供らしいワガママだったが――顔色一つ変えずに叶えてしまう祖父がいたことが幸運であり不幸である。

 

 大好物である兎鍋が食べられて嬉しいのと、祖父の困った顔が見たかったけど見られなかった微妙な心境で、阿求は自分が困ったように笑うしかなかった。閑話休題。

 

 今日の作業は基本的に資料の編纂に終始しており、風見幽香の新しい項目作成などで大忙しだったのだ。

 幻想郷縁起の編纂については御阿礼の子に任せられた役目であり、信綱でも肩代わりすることのできないものだ。

 それ以外の手伝いは全て行うが、それでも一番大変な部分は阿求がやるしかない。そのことに心苦しさを覚えつつも使命に邁進する阿求の姿に感動を覚える一日だった。

 

「……まだ起きていたか」

 

 明日も続く阿求の仕事を少しでも楽にするべく、雑務をこなしていたら夜も更けてしまっていた。

 先代との約束を忘れていたわけではないため、現れた信綱はバツの悪そうな顔をしていた。次があればこちらを優先するという意味ではなく、より効率的に作業をこなせなかったという意味で。

 

 呼び出していた先代は遅くなった信綱にも怒った様子は見せず、むしろ笑って彼を招く。

 阿礼狂いが御阿礼の子を優先することに腹を立てていたら、この男の妻など務まりはしない。

 

「そりゃ起きてるわよ。呼びつけておいて先に寝るほど薄情じゃないわ」

「いや、そこで待つのは寒いだろう」

「良いのよ。ほら、座んなさい」

 

 彼女とよく晩酌を傾ける時に座る、縁側の一角に並んで座る。

 冬の寒さも本格化してきており、外で酒を飲むには些か辛い環境だ。見れば先代の手は白を通り越して赤くなっており、ずいぶんと待たせてしまったことがわかった。

 遅れてきた罪悪感も相まって、先代の手が見ていられなかった信綱はその手を取って自分の手で包む。

 

「……ほら、これで少しはマシなはずだ」

「あ……ありがと」

「待たせた俺が悪い。部屋に戻って火鉢でも焚いてやる」

「ん、その前に話とかしていい? すぐ終わるからさ」

「……ここでしなければならない話なのか?」

「ここでしたい話。ちゃんと部屋には戻るから、良いでしょう?」

「……お前の身体に良くないんだがな」

 

 そこまで言われては信綱も強く拒絶できない。せめて先代のことを心配している風の言葉を口ずさんで、信綱は先代の話を聞く姿勢になる。

 そんな信綱に先代は頬を緩めると、視線を空に上げて静かに語り始めた。

 

「私にも色々と夢があるってことは前にも話したわよね」

「ああ。だから俺の元から離れてその夢を追いかけてくれと言った」

「なんで離れなかったか、その理由はわかる?」

「……夫婦でありたいからだろう。お前がそう言っていた」

 

 だったらなおのこと自分を選んだのか疑問だったが、そこはもう考えないことにしていた。

 狂人に人の心はわからず、まして女心ときたら未知のものにも程がある。

 信綱の内心を先代は露知らぬまま、彼の言葉にうなずいて話は続いていく。

 

「正解。今だから言っちゃうけどさ、私って旦那となる相手にはあんまり求めてなかったのよ。誠実であってほしいって願いだって、博麗神社に来るような連中なら大体そうでしょ」

「……まあ、そうだな」

 

 無頼漢と呼ばれる存在も人里にはいるが、大体は守護者である信綱と慧音がとっちめておしまいである。

 その彼らの中に命の危険すら存在する道を通って、わざわざ博麗神社に通おうなどという信心深い者はいないだろう。

 信綱はそれを利用して、人里の煩わしさからの逃げ場所に使った形となる。

 

「正直、一緒にいてくれるなら誰でも良かった。そりゃもちろん、家庭内暴力とかはお断りだけどさ」

「お前相手に暴力を振るえる人などそうそうおらんわ」

 

 仮にも博麗の巫女。その実力は大妖怪に匹敵し、戦闘力で見れば人里でも頂点にいておかしくない存在だ。

 そんな彼女に手を上げる度胸のある人間などいても困る。問題が起こった時に頭を抱えるのは自分なのだ。

 

「んで、あんたと一緒にいた時間だけど、悪くなかった――ううん、楽しかった。人間も妖怪も、皆あんたと一緒だと楽しく笑ってた」

「……向こうが勝手に笑っているだけだ。俺が楽しいと思ったことはあまりない」

「少しはあるってことでしょ、十分よ。皆が楽しそうに笑って、私もその中に混ざって、たまにあんたと一緒に月を眺めて――幸せってああいうものなんだって実感した」

「…………」

 

 すでに信綱は先代の様子に気がついていた。今、この話をする理由にも思い至っていた。

 だが、その上で彼は何も言わなかった。彼女の言葉を最後まで聞き届けるのが自分の果たすべき役目だと思い、先代の意思を尊重することにしたのだ。

 

「……俺で良かったんだな」

「夫婦になった当初はあんた以外でも良かった。――でも今はあんたじゃなきゃ嫌」

「そうか。……そうか」

 

 息の詰まる感覚を覚え、信綱は胸に溜め込んでいた空気を深く、ゆっくりと吐き出す。

 その様子を見た先代はおもむろに立ち上がり、二人の部屋を指差した。

 

「ここで言いたいことは終わり。続きは部屋で話しましょ。実を言うと布団はもう敷いてあるのよ」

「……だったらそこですればよかっただろう。俺も寒い思いをしないですんだ」

「気にしない気にしない。今日ぐらい私の好きにさせなさい」

「……仕方ないな」

「そこで妥協してくれるところ、私は好きよ?」

 

 あけすけに好意を伝えられても、どう相槌を打ったものか困ってしまい信綱は軽く肩をすくめるに留めた。

 信綱はやや覚束ない足取りの先代を連れて部屋に戻り、一組だけ敷かれた布団に彼女を寝かせる。

 部屋は火鉢が焚かれていたのか、外とは比べられないほど暖かい。

 

「ありがとうね。やっぱ布団の上って最高だわ」

「そんなものか」

「ま、死に際としては最高の類でしょ。……気づいていたでしょう?」

「……途中からな。朝の時点では気づかなかった。……気づいてやれなかった」

 

 もしも、彼女のことをちゃんと想う良人だったのなら見抜けただろうか。そんな思いが首をもたげ、信綱の顔に影が差す。

 阿礼狂いである以上、御阿礼の子以外がどうでも良いのは確かなはず。にも関わらず先代のことで思い悩む辺り、完璧主義と言うべきか生真面目と言うべきか。

 

 もっと肩の力を抜いたら良い、と先代は思うものの口には出さない。

 生真面目に、やるべきと思ったことに対して全力で向かっていく愚直な性根がなければ今の幻想郷はあり得ず、また先代がこの男を好きになることもなかった。

 

「良いのよ、あれは私が気づかせないように演技したんだし。……あ、一つだけ忘れてた」

 

 先代は袖を探って赤い布を取り出し、信綱に渡す。

 受け取ったそれを障子越しの月明かりに照らして見ると、可愛らしい飾りのたくさんついた装飾具――いわゆるリボンであることが伺えた。

 

「これは?」

「霊夢にあげて頂戴。私からの形見ってわけじゃないけど、力を込めてあるから何かあった時守ってくれる……かも」

「イマイチ信頼しづらいな……」

「う、良いのよ。万一の保険なんだから。使わないに越したことはないわ」

「霊夢に別れは言わないのか。悲しむぞ」

「そこはお願い。私も女だってことね」

 

 言っている意味がわからない、と眉をひそめて先代を見下ろす信綱に対し、布団に横になっていた彼女は笑って信綱の頬に手を添える。

 

「最期はあんたに看取って欲しかった。……あんたにとってはいい迷惑かしら?」

「……阿求様が休まれている時間で良かったな。日中だったら、俺はそちらを優先していた」

「……あんたらしいわ」

 

 力なく笑い、先代は先ほど信綱がやったように大きく、深く息を吐く。

 それが最期であると、信綱はこれまで多くの人間を見てきた経験から読み取れてしまい、表情が凍りつく。彼女の死に悲しみが見出だせない自分がいることを、悟られたくなかったのだ。

 

 そんな信綱の顔を、先代は何もかもわかっているように愛おしげに撫でる。

 

「まあ――総じて、悪くない人生だったわ。巫女の役目をやり切って、可愛い娘がいて、あんたと一緒に過ごした時間は幸せだった」

「……それなら良かった」

「ええ、良かった。とことん愛せる人もできたし、それに――」

 

 

 

 ――泣いてくれる男も捕まえたし。

 

 

 

「…………」

 

 信綱は不動の表情のまま、彼女の命が消え行く瞬間を見届けている。

 もう目を閉じた先代にそれを見ることは叶わずとも、十年連れ添った良人の行動が頭に浮かぶのだろう。微かに微笑んで全身から力を抜く。

 

「私はもう十分。先に逝って待っててあげる」

「……ああ、おやすみ――」

 

 頬に添えてある手を握って、信綱は先代の耳元で彼女の名を囁く。

 それを聞いた先代は安心したように小さく、無邪気に笑った。

 

「ええ――おやすみなさい。あなた」

 

 その言葉とともに信綱の頬に添えられていた手が落ちる――前に信綱がそれを取る。

 部屋に満ちていた暖かさが全て消え失せたような心地だった。彼女の存在がそれだけ大きな意味を持っていた事実を、信綱は嘆息とともに受け入れる。

 

 なぜ彼女の手を掴んだのか、自分にもよくわからない。

 あるいは彼女の暖かさを惜しいと思ったのか。御阿礼の子に狂った自分が。

 

 ……いいや、考えてみればまだ少年だった頃からの付き合いで、夫婦にもなった相手の死。何も思うなという方が不自然だろう。

 信綱は自分に言い聞かせ、そっと握っていた彼女の手を胸元で組んで置いてやる。

 一息つこうと信綱は部屋を出て、その際に彼女の触れていた頬に指が向かう。

 

 

 

 

 

 頬は、濡れていなかった。

 

 

 

 

 

 信綱は月を見上げるように空を仰ぐ。何かを堪えるように拳を握り、そして吐き捨てるようにつぶやいた。

 

「……泣いてなどいないではないか。馬鹿が――馬鹿が」

 

 強く握られた信綱の拳からは、まるで涙のように赤い雫が垂れていた。




先代も亡くなり、とうとう人間で信綱と同世代に生きていた者は一人もいなくなってしまいました。
でも彼の歩みはもう少しだけ続きます。

さて、先代さんの願いですが――誰かを愛したかった。愛されたかったわけじゃないのがポイントです。
博麗の巫女として全てに平等に生きてきた分、それが終わった後は自分の好きなものを好きなだけ愛したかった。その枠に入ったのが霊夢と信綱になります。
ともすれば重いと表現しても良い愛情ですが、信綱はそれを受け入れて彼も彼なりに先代を大事にした。
この結末に先代は一片の悔いも持っていないことでしょう。



そして魔理沙と弥助の話については閑話で書くかもしれないし、二人の口から語られる形式になるかもしれません。何はともあれ次回は霊夢と魔理沙のお話を書いて、次々回辺りから紅霧異変開始……だと思う!(多分)

もうすぐ一年……ここまで長くなるとは誰が思ったか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残されたものは前を向き、幻想は始まる

 霊夢は泣かなかった。

 先代の死を信綱より告げられた時も。その身体が荼毘に付され、儚い骨と化していく時も。

 葬儀主となった信綱が先代のために集まった人間に感謝を告げて、葬儀が終わった後も。

 彼女はずっと唇を引き結んで、先代との別れに耐えていた。

 

「……爺さん」

 

 そんな霊夢がようやく口を開いたのは、葬儀が終わって信綱と二人きりになった時だ。

 

「……なんだ」

「母さんとはもう会えないのね」

「ああ」

「……私が博麗の巫女になる時が来た、のよね」

「……ああ」

 

 もう歳も十を過ぎており、あと少しすれば成人も間もなくというところまで来ている。

 先代の巫女も同じ年頃で博麗の巫女になったはずなので、博麗の巫女という役目を果たすには丁度良い年頃なのだろう。

 

「じゃあ、泣いてなんていられない。博麗の巫女になったんだから、私はしっかりしないと」

 

 だが、今の彼女は見ていられなかった。

 肩に力が入り、使命感に押し潰されそうになっているちっぽけな少女にしか見えなかった。

 

「…………」

 

 信綱の冷静に合理を考える部分は、このままの方が良いとささやく。霊夢は元々怠け癖があり、それが今は影を潜めているのだからこのままやってもらった方が人里の利益は大きいはずだ。

 

 だが、それを非効率的だと言う自分もいた。人間、向き不向きがあるのは当然のことであり、不向きなことをやらせたところで長続きはしないのだ。

 

 その点から見て、今の霊夢は彼女に向いている心構えだとは思えなかった。

 唇を固く引き結んで――涙が溢れまいと必死に我慢しているように――人形のように無表情になって、博麗の巫女たらんとしている。

 

「もう私は博麗の巫女。全てに平等でないといけない立場なの。……だから爺さんも私と関わらないで、人里で暮らしなさい」

「……お願いというのはこういうことか」

 

 霊夢は普通の少女だ。普通に笑って、普通に泣いて、普通に人の死を悲しむ。

 だから泣けば良いのだ。母親の死に涙を流すことは恥ずかしいことではなく、それは博麗の巫女であっても変わらない。

 先代は自分が死んだら霊夢が気負うこともわかっていたのだろう。その様子を信綱が気づくこともわかっていたのだろう。

 

 信綱は小さく息を吐き、膝をついて霊夢と目を合わせる。

 霊夢の真っ直ぐな、それでいて今にも泣きそうに揺れる瞳を正面から見据え、彼は言葉を紡ぐ。

 

「確かにお前は博麗の巫女だ。一人でやっていく時が来たと言うのならその通りだろう。先代はお前ぐらいの歳から博麗の巫女を始めたと聞く」

「……うん。その頃から母さんは神社で暮らしていたんでしょ」

「そうだな。お前も明日からは神社で一人暮らしだ。俺もあまりそちらには行ってやれん」

「……うん、わかってる」

 

 すがるような霊夢の瞳に罪悪感は刺激されるものの、それで阿求との時間を削るつもりもなかった。

 しかし、悲しみの感情のはけ口にぐらいはなれると思っている。

 

「――霊夢」

「え?」

「この場にいるのは博麗の巫女ではなく、博麗霊夢という母親を亡くして途方に暮れている少女一人だ」

「爺さん……」

 

 呆けたように見上げてくる霊夢の顔を見て、後ひと押しだと感じた信綱は言葉を重ねていく。本心であり、同時に自身の異質さを浮き彫りにしてしまうその言葉を。

 

「……俺は、あいつの死を悲しめない」

「爺さん?」

「俺の分も涙を流してくれないか、霊夢。でないとあいつは家族の誰にも泣いてもらえない女になってしまう」

 

 それは先代の死に相応しいものではない。自分のような気狂いと一緒にいて、それでも幸せを謳った女なのだ。彼女の良人として彼女を尊重したかった。

 だが、どうあがいても自分が阿礼狂いであることは変わらない。御阿礼の子以外の死で涙は流れず、心も揺れない。

 その事実に痛ましいものを覚える程度には思い入れもあるが、涙を流せない事実は変わらない。

 

 それらを霊夢に包み隠さず伝えると、これまで堪えていた瞳がみるみるうちに涙で溢れていく。

 

「……爺さんは、ずるい」

「なんて言ってくれても構わない。お前が俺に怒るのは当然のことで――」

「違うわよ! 私が怒ってるのはそこじゃない!!」

 

 霊夢が怒鳴って自分の胸に飛び込んできたので、少し動揺してしまう信綱。

 正直、先代の死が悲しめないことに対して罵られると思っていたのだ。霊夢が先代と共にいた時間より長く一緒にいて、その死に悲しめないなど異常ここに極まれりである。

 だというのに霊夢は違うと言った。もっと別のところに怒っていると言った。皆目見当もつかない。

 

「悲しくないって言ってるのに! そんな顔しないでよ爺さん! もっとヘラヘラしてよ!! 悲しめないことが悲しい(・・・・・・・・・・・)って顔しないでよ!! 怒れないわよ!!」

 

 霊夢は信綱の胸に顔を埋め、嗚咽混じりの怒声をあげる。

 

「爺さんは普通と違うことくらいわかってる! だったらそれらしく振る舞ってよ! 優しくしないでよ!! そんなことするから爺さんも悲しいんじゃない!!」

「……すまない」

「直すつもりもない、なら……っ! 謝るなぁ……っ!!」

 

 霊夢の小さな腕が信綱の服を掴み、涙が溢れていく。

 信綱は何も言わず、その身体を抱きしめて涙が服を濡らすままにする。

 

「母さん、母さん……っ!!」

「……お前はそれで良い。それで良いんだ。泣かないことは強さの証明にはならない」

 

 そうしてしばらく、信綱は霊夢に胸を貸し続けて先代を思うのであった。

 

 

 

「……爺さん」

「どうした」

「なんで、爺さんのことお父さんって言っちゃ駄目なの」

「……母親から聞いていないか?」

「爺さんの口から聞きたい」

 

 そう言って泣き腫らした顔を信綱に向ける霊夢。

 だが、すがるそれは感じられず、あるのは真実を信綱の口から聞きたい、という意思だった。

 信綱はほんの僅か瞑目し、言うべき内容を頭の中でまとめてゆっくりと口を開く。

 

「……お前はどこまで俺のことを知っている?」

「メチャクチャ強くて、母さんの旦那さんで、人里でも色々な人に慕われてて――恐れられてる。妖怪からも、人間からも」

「……他には?」

「母さんも、慧音先生も、爺さんと一緒に歩いていた時も、こんな単語が聞こえた」

 

 そこで霊夢は一度言葉を切り、ずっと抱きついていた信綱から距離を取る。

 そして信綱の目を正面から見て、しかし恐る恐るといった風体でその言葉をつぶやいた。

 

 

 

 ――阿礼狂い。

 

 

 

「……これ、どういう意味なの? 母さんも慧音先生も、皆爺さんのことを普通とは違う人って言う。ただ強いことを言っているんじゃない。もっと何か、根っこの部分がズレているって」

「お前はその答えを知っているはずだ。万に一つの事故を防ぐために先代から聞いているだろう」

「爺さんの口から聞きたいって言った。……諦めさせてよ。でないと爺さんに頼っちゃうから」

 

 別に頼ることは悪いことではない、と言いたかったが霊夢の顔を見ていると何も言えなかった。

 これは彼女なりの独り立ちの儀式なのだ。自分は一人であると言い聞かせ、誰かに依存することなく自立し――全てに平等である博麗の巫女たらんとしているのだ。

 

「……わかった、教えよう」

 

 その意思を克明に読み取った信綱は、ある部分を除いて彼女の意思を尊重することにした。

 先ほどの話で霊夢が自分についてどの程度知っているかは大体わかった。後は言葉を選ぶだけである。

 

「……阿礼狂いというのは俺だけを指す名称ではない。俺含めた一族全体を表す言葉になる」

「爺さんの一族……火継って名字の?」

「ああ。火継の家に生まれた子供は、誰もが例外なくその狂気に堕ちる」

「阿礼狂いってやつに?」

 

 うなずく。御阿礼の子についての知識は、慧音の寺子屋で勉強していれば問題なく知っているはずだ。そちらの説明は省いて話を続けていく。

 

「御阿礼の子そのものに対し、自分の全てであの方の力になりたい、という狂気だ。あの方の力になれるのなら親であろうと殺し、つい先刻まで笑い合っていた友ですら惨殺できる――そんな感情」

 

 特に親を殺すというのは自分も通った道である。友人だった烏天狗を殺すために、血の繋がった父親を肉壁にしたのだ。

 そしてあの時の行動に今なお、一欠片の後悔も抱いていない。異常と言わずしてなんと言うのか。

 

「……じゃあ、爺さんがお父さんって呼ばれたくないのは――」

「今の御阿礼の子である阿求様の先代、阿弥様が俺のことを父と呼んでいた」

 

 故にこの呼び名は阿弥だけのものである。御阿礼の子である阿求は望めば構わないが、霊夢がいくら望んだところでその願いは叶えられない。

 霊夢はそれを聞いて信じられない、信じたくないといった様子で唇をわななかせる。

 

「……爺さんも、そうなの? 御阿礼の子っていうのが望んだら、誰だって殺すの?」

「……ああ。あの方が望むなら、人里の住民であろうと皆殺しにする。守ろうとしていたことなど忘れて、御阿礼の子の力になれるという喜びだけを抱いて」

 

 お前も例外ではないと続けるのは酷であると判断し、言わなかった。

 しかし爺さん――霊夢の中ではとうに父親となっていた存在の狂気に満ちた言葉を受けて、霊夢は目を大きく見開く。

 自分が望んで聞いていることではある。あるが――覚悟が足りていなかったと霊夢は痛感していた。

 

 霊夢のその顔を見て信綱は微かに顔を歪ませる。自分の話した言葉に嘘はないが、そうなって欲しいわけでもないのだ。

 時が来れば迷わず実行するが、来ない限り信綱は良き隣人を演じ続けるだろうし、霊夢の教育係を放棄するつもりもなかった。

 

「俺にとって、御阿礼の子以外はどうでも良い。友人も、妻も、誰であろうと御阿礼の子が望めば簡単に捨てられるものでしかない。……だが、どうでも良いから大事にしないというわけでは決してない」

 

 霊夢に頭に手を置いて、意識して相貌を緩ませる。

 彼女のことも嫌っているわけではないのだ。時が来たら捨てるものであっても、その時が来るまで信綱は霊夢のことを見捨てるつもりはなかった。

 

「だから俺なりに先代を大事にした。お前を強くするという役目も、お前が拒絶しない限り続けていく。……家族にはなってやれんが」

「……爺さんのそういうところ、ずるいと思う」

「そうだな。阿礼狂いが人間の真似事をしているんだ。どこかしらで歪みが出るのも当然の帰結だ。お前が嫌なら近寄らないようにするが」

「そうやって相手に選ばせようとするのがずるいと思う!」

 

 ビシっと自分を指差して鼻息を荒くする霊夢に苦笑してしまう。

 自分の異常性を伝えてなお、歯に衣着せぬ態度が取れるのは一種の才能である。先代だって一時期は迷っていたのだ。

 

「俺の要望は伝えただろう。後はお前次第だ。いつかお前を殺すかもしれない男に鍛えられるのが嫌なら拒絶すればいい。俺はもうお前には近づかない」

「私が来てもいいって言ったら?」

「今まで通り、阿求様の側仕えを続けてできた時間でお前の面倒を見る。そこで手は抜かない。お前を全力で鍛え上げて、先代に負けない博麗の巫女にする」

 

 霊夢の顔が複雑なものになる。当然だ。自分の価値観を委ねる相手がいて、その人物が望んだら躊躇わず殺すと宣言しながら、これまで通り面倒も見ると言っているのだ。

 通常、何かに入れ込めば入れ込むほど、それを切り捨てるには苦痛が伴う。それは先代の死に思うところのある信綱とて例外ではないはず。

 それでも彼は自分から何かを拒絶したりはしない。疲れたりしないのだろうか、と霊夢は思ってしまう。

 

 そんな自分の思考に気づいて、霊夢は小さな自分の手で額に手を当てる。先代も似たような悩みを持ったのだろうか、と思うと少しだけ嬉しいような腹立たしいような。

 そもそもなんで子供の自分がこんな枯れかけの爺さんの対処に苦慮しなければならないのだ。

 後で爺さんに甘いものでもおごってもらおう、と心に決めて霊夢は口を開く。

 

「……こんなことを思う時点で私の負けか」

「どうした?」

「なんでもない。……私は爺さんが優しい人だって信じることにした。そりゃ、普通の人とは違うのかもしれないけど、悪い人ってわけでもないはずだから」

「……そうか。それがお前の答えか」

 

 奇しくも先代の出した答えと同じそれに、霊夢は到達していた。

 信綱はそれに気づいて、しかしそれを言うことなく霊夢の答えを受け入れる。

 

「……わかった。では俺は今後もお前を鍛えていって良いのだな?」

「手心を加えていただけると私がさらに爺さんを好きになるかも!」

「好かれたくて師匠役ができるか。先代の組手の分も俺がやるぞ」

「前言撤回! 爺さんは優しくない!!」

「俺もそう思う」

 

 なぜ友人となった人物が自分を優しいと評するのか、今でもよくわからない。面倒見が良いと言われるのはなんとなくわかるが。

 

「子供には優しくって母さんが言ってた!」

「では少し優しくしてやろう。頭を出せ」

「ん? なになに?」

 

 無防備に頭を出してくる辺り、本当に信頼はしているのだろう。稽古の時は鬼だが、それ以外では決して無駄なことをしないのが信綱という人間であるのだと。

 信綱はこちらに向けられた頭から髪を一房取り、先代から預かっていたリボンを器用に結んでやる。

 やがて頭を上げた霊夢は後頭部に結ばれたリボンの感触を不思議そうに確かめる。

 

「これはなに? 爺さんのプレゼント?」

「先代だ。お前にと用意したものになる。……俺に胸を張る必要はないが、母親には胸を張れる生き方をしろ。そうすればあいつも喜ぶだろう」

「……ん、わかった!」

 

 子供らしい満面の笑みを浮かべる霊夢に、信綱はもう大丈夫だろうと思って肩の力を抜くのであった。

 

 

 

 ――博麗霊夢という新たな博麗の巫女が、スペルカードルールにおける最強の存在として名を上げることになるのは、もうさほど遠くない未来のことである。

 

 

 

 

 

 その日は阿求の側仕えをしていた時のことだった。

 

「ふぅ……」

 

 黙々と紙面に情報を書き連ねていた阿求が顔を上げ、その小さな肩を揉むように動かす。

 後ろで控えていた信綱はその様子を見て、休憩を入れることを提言する。

 

「阿求様、一息つかれてはいかがでしょう。今はさほど忙しい時期でもありませんし、根を詰める理由はないかと」

「あ、うん。それじゃお祖父ちゃんの言う通り休憩にしようかな。お茶を淹れてくれる?」

「こちらに」

「もう淹れてあったんだ……」

「阿求様をお待たせさせるわけにはいきませんから」

 

 阿求がどう返事をするかも予測できていたのだろう。優しい緑茶の色合いと、添えられている鮮やかな色合いの練切が阿求の目を楽しませる。

 

「わ、綺麗なお菓子。どこで買ったの?」

「作りました」

「うん、お祖父ちゃんならなんとなくそう言うだろうなって思ってた」

 

 だんだんこの男の出鱈目ぶりにも慣れてきた。阿七の頃は彼が未熟で、阿弥の頃の記憶は持っているが、彼のことに対する記憶が不自然に薄れている。

 ……それでも末期の折、彼を家族であると呼び慕った記憶だけは感情すらも思い出せそうなくらい、克明に残っているのが阿求には不思議だった。転生すれば記憶の大半が失われるとはいえ、ある種の意図を感じてしまう。

 

 それはさておき、阿求は用意された白い花細工の練切を眺めて、何を題材にしているのか尋ねてみることにした。

 

「お祖父ちゃん、この花は……椿? 花びらの形に似ているけど」

「ご慧眼の通り、椿が題材です。時期としては些か外れていますが、先日雪のように白いそれを見つけたので」

「へえ、椿の花が好きなの?」

「……さあ、どうでしょう」

 

 自分でもわからないとばかりに曖昧な微笑みを見せる信綱に、阿求は可愛らしく首を傾げる。

 どんな質問をしても明確な答えが返ってくる信綱にしては歯切れが悪い。不思議に思い――阿求の中で電撃が走る。

 

「ハッ――まさか、お祖父ちゃんが昔に愛し合った妖怪とか!?」

「全く違います」

「ハッキリ否定された!」

 

 御阿礼の子の言うことは全肯定な阿礼狂いである信綱でも承服しかねる内容だったようで、珍しさすら覚える口調で断言された。

 

「そもそも私にそのような妖怪はいませんよ。浮いた話などありません」

「でもお祖父ちゃん、女の人の知り合い多いよね。女の子がキャーキャー言うような恋物語とかないの?」

「ご期待には添えられないかと」

 

 今もこれからも家内となった者は先代ただ一人であり、それだけで十分である。

 妖怪の知り合いには少女が多いが、彼女らをそういった目で見たことはない。妻ですらそういった目で見たことはないのだ。他の妖怪にそんな目が向けられるはずもない。

 

「そっか。私もお祖父ちゃんがそういうことしてる姿って思いつかないんだけどね」

「阿求様こそ懸想する相手などはおられないのですか?」

「わ、私? まだ十歳なのに早いよぉ」

「恋をしている、とまでは行かずとも良いな、と思う相手ぐらいはいるのでは?」

 

 信綱に言われて阿求も顎に手を当てて考えてみるが、どうにもピンと来ない。

 幼馴染である小鈴ともたまに恋愛ものの本を見て話すことはあるが、男の人をそういう目で見れないというか、無意識にある人と比べてしまうというか。

 

「…………」

「阿求様?」

 

 自分に恋とかそういうのが縁遠いと感じてしまう第一要因が目の前の人物にある、と直感した阿求は信綱のことをじっとりとした目で見る。

 信綱はそんな阿求の視線の意味に全く気づかず、微笑んで阿求を見るばかり。

 

「……私に恋人とかができなかったらそれはお祖父ちゃんのせいだと思う」

「ふむ? なぜでしょうか?」

 

 真顔で聞かれてしまい、阿求の方が言葉に窮してしまう。

 だが仕方ないと思うのだ。考えても見て欲しい。自分が生まれるより前から側にいて、全てを自分に捧げてくれる人がいる。

 しかもその人物は人里で英雄と呼ばれるほどの活躍をし、人里で妖怪との共存を可能にした立役者だと言う。おまけに阿求の身の回りの世話は全て彼が行ってしまうほど、文字通り何でもできる。

 無意識に比べている部分があるかもしれない、と阿求は一人納得して、練切を口に運ぶ。

 

「お祖父ちゃんは今のままが素敵ってこと! ん、練切美味しい!」

「それは良かった。ところで、先ほどは一体何をまとめていたのですか?」

 

 阿求が休憩に入ったのを見て、信綱は話題を変えることにする。いつまでも同じ話題を引っ張っても疲れてしまうだけだし、なんとなく自分に塁が及びそうな気がした。

 

「ああ、英雄伝の項目に誰を追加しようか考えていたの。お祖父ちゃんは当然として、霊夢さんとか霖之助さんとかも入れようかと思って」

 

 幻想郷縁起において知るべきは妖怪の脅威だけではない。その脅威に抗することのできる存在もまた貴重なため知るべき内容となる。

 信綱は言うまでもないとして、以前はここに先代も名を連ねていたが、今は今の時代の人里を守る英雄の名が必要だった。

 

「ふむ……香霖堂の店主は怪しいところがありますけどね」

「あはは、私もそう思う。でも魔法の森に居を構えている辺り、全く心得がないってわけでもないはずよ」

「確かに。力が皆無ということはないでしょう」

 

 天狗や鬼とは比べられないだろうが、それでも妖怪と戦える可能性がある存在は貴重である。

 火継の面々も妖怪とは戦えるが、人間対妖怪の基本は人間の集団で一体の妖怪を叩くことだ。火継の衆もその例に漏れないため、英雄の項目には入れられない。

 

「あとは霊夢さん。寺子屋でたまに一緒になったけど、博麗の巫女としてはどんな感じなんだろう?」

「――強くなりますよ、あれは。間違いなく先代を上回る博麗の巫女として大成するでしょう」

 

 断言する信綱に阿求は目をパチクリさせるものの、すぐにその情報を紙に書き込んでいく。

 信綱が霊夢の稽古相手をしていることは彼の口から聞いており、その彼がここまで褒めるのだから間違いはないという信頼に基づいたものである。

 

 他に誰がいるだろう、と考えたところで信綱がふと思い出したように手を叩く。

 

「ああ、あともう一人心当たりがあります」

「え? 人間で妖怪と戦えそうな人ってまだいた?」

「ええ。最近頭角を現しつつある者がいます」

 

 予想以上に早かった、というのが信綱の感想だった。進むべき道を定めた後の成長の早さは誰の血筋なのか。

 

「誰々? 私の知り合い?」

「寺子屋で会っていたはずですよ。――霧雨家の長女です」

 

 

 

「よっ、爺ちゃん! 今日も見回り?」

「お前は人里に買い出しか? 元気そうで何よりだ」

 

 信綱の前に現れたのは黒と白のエプロンドレスを着て、おとぎ話の魔法使いが被るようなとんがり帽子をつけた金髪の少女。

 手にはこれまたおとぎ話の魔法使いが使うような箒が握られており、見目だけで言えば魔法使いに憧れる少女そのものだ。

 いや、事実その通りなのだ。今や彼女は魔法を扱うことができる人間であり、魔法使いを目指す少女となっていた。

 

 少女――魔理沙は霧雨商店の一人娘であった頃に見せたそれより快活な笑みを浮かべ、信綱の周りを歩く。

 どうにもあの日の相談に乗って以来すっかり懐かれてしまったらしく、魔法の森に居を構えるようになった今でも人里に買い出しに来た時などは信綱の元に顔を出すことが多い。

 あるいは信綱の口から弥助に報告が行くのを期待しているのだろう。互いに合意の上とはいえ、勘当された娘が父親にちょくちょく顔を出すのは問題がある。

 

「へへっ、魔法使いの修行も結構順調なんだぜ? 香霖は色々と作ってくれるし、勉強も割りとなんとかなってる」

 

 帽子の裏側で手を組んで、箒を横に持ちながら魔理沙が近況を報告する。

 信綱はそれをうなずいて聞いて、親友の孫娘が人生を謳歌していることに満足げな笑みを浮かべた。

 

「そうか、それは良かった」

「ああ! まだまだ普通の魔法使いだけど、絶対に霊夢の隣に並ぶんだ!」

 

 最初の意気込みが失われていないようで何よりである。

 と、そこまで信綱は孫娘を託された人間としての顔で受け止め――そこからは人里の守護者である顔に変わる。

 

「時に――妖怪退治などはできるか?」

「……っ」

 

 魔理沙の顔が強張る。当然だ。彼女が急速に腕を上げていると言ってもそれは魔法使いとしての技術であり、決して妖怪退治の技術ではない。

 まして彼女はこの前まで人里の住民だったもの。妖怪を退治する者たちに庇護される側の存在だった。

 

「今後も人里と関わりを持ち続けるなら、何か人里に利益をもたらす必要がある。霖之助ならば商品を卸すといった、な。お前がもっと腕を上げたのならマジックアイテムを売るといった手もあるが……まだ難しいだろう」

「……霊夢はもう、妖怪退治とかしているのか?」

「霊夢と比べるな。他のことで競争するのは止めないが、妖怪退治でそれは命に関わる」

 

 ちなみに霊夢は信綱が見守る中で何度か妖怪退治も経験している。

 当人いわく、爺さんの方が百倍怖いとのことだった。閑話休題。

 

「わ、わかったって。そんなおっかない目で見ないでくれよ爺ちゃん。爺ちゃんに睨まれるとなんか知らないけど、身体が竦んじまうんだ」

「……そうか」

 

 彼女が子供の頃、魔法の森で妖怪に襲われかけた事件のことだろう。本人は覚えていないようだが、あの時はかなり強めに叱った覚えがある。

 とはいえ親友の孫娘に怖いと言われるのも思うところがあり、信綱は言葉少なに視線を切る。

 

「ともあれ、近いうちにお前に妖怪退治を頼むかもしれん。それを受けることで報酬を渡し、人里での取引も許可が降りる」

「できなかったら?」

「死に物狂いで腕を上げろ。お前一人を贔屓するわけにはいかない」

 

 と言っても最初からそれができる人は少なく、まして魔理沙の力量も判断がついていないため、最初は簡単なものにするつもりであった。

 それを伝えたら油断するかもしれないので言葉では脅しておく。甘やかすのは魔理沙のためにならない。

 

「……おう! 大船に乗ったつもりで任せてくれよ爺ちゃん! ミニ八卦炉もあるし何だって来い、だ!」

「ミニ八卦炉?」

「香霖が作ってくれたんだ。魔法使いになるなら持っておいた方が良いって言われて」

 

 魔理沙が懐から取り出した台座の付いた八角形のそれを眺めて、信綱は軽く顔をしかめる。

 そこに使われている金属が非常に貴重なものであることが理解できてしまったのだ。どこでこんな逸品を見つけたのか問い質しておかねば。

 

「…………」

「爺ちゃん?」

「……いや、なんでもない。なくしたりするなよ、大変珍しいものだ」

「わかってるよ。もうこれがなきゃ生活できないね! 魔法の媒介にもいいし、最高の相棒だぜ」

 

 白い歯を見せて元気よく微笑む魔理沙に、この様子ならそれなりに難しいものでも大丈夫かもしれない、などとさり気なくひどいことを考える信綱であった。

 

 ――これもまた、普通の魔法使いであるこの少女が後の紅霧異変で名を轟かせる前の一場面であった。

 

 

 

「――ということがありました。その後私が割り振った妖怪退治をこなしておりましたので、英雄伝に載せる価値はあるかと」

「お祖父ちゃんの顔の広さには驚かされるわ……。でも、それは確かに考えた方が良いわね」

 

 信綱はこの話を思い出し、阿求に魔理沙の名を英雄伝に載せることを進言した。

 阿求は腕を組んで魔理沙のことについてどう取材したものかと軽く考え込むが、すぐにやめる。

 

「……こう言ってはあれだけど昨日の今日でいきなり異変解決、なんてことはないでしょう。人里に来た時にでもお祖父ちゃんから軽く近況とか聞いておいてくれないかしら?」

「かしこまりました。ただ、これは一切の根拠がない私の勘になりますが――あれはおそらくこれからの幻想郷で伸びる人材だと思います」

「その心は?」

「彼女は優しい子です。血なまぐさい戦いには向きませんが、スペルカードルールでの戦いは向いていると思いました。……ただの勘ですけど」

 

 少なくとも自分よりは向いているはずです、と言うと阿求が一も二もなくうなずいたのが悲しい。そこまで向いていないだろうか。

 

「お祖父ちゃんがそう言うなら間違いないと思う。それなら……魔理沙さんがもう少し有名になったら改めてお話を聞きましょうか」

「それがよろしいかと。……幻想郷縁起も本格的に変わっていきますね」

 

 阿七、阿弥の内容とはガラッと違うものになりそうだ。妖怪の対処方法だけでなく、彼女らの使うスペルカードも記していくものになるのだろうか。

 完成したものを信綱が見ることはないだろう。だが、自分がいる間は精一杯彼女の力になろう。

 

「うん。これからもっと楽しくなる幻想郷を私が記すの! それはきっととても素敵なこと!」

「ええ、私も微力を尽くします」

 

 柔らかく微笑むと、阿求もまた微笑み返してくれる。

 二人は互いに微笑みながらこれからの幻想郷縁起について話し合い、時間が緩やかに流れていくのであった。

 

 

 

 

 

 それから少しして――人里は紅い霧に覆われる。

 

 

 

 

 

 後に語られる紅霧異変。解決に導くは新たな博麗の巫女。

 新しい時代の幕開けはすぐそこまで迫っていた――




次回より紅霧異変開始です。なお基本的にノッブの目線で書いてますから、異変の内容自体はあんまり触れません(身も蓋もない)

主に異変解決に向かった霊夢と魔理沙――ではなく、人里で異変についてくっちゃべるような感じになります。異変が解決したらおぜうとかも登場してくる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

紅霧異変の始まりと悪魔の犬

ノートPCのRキーがついにご臨終した……。USBでキーボードを繋いでいるが打ちにくくて仕方がない。


 信綱は外につながる門前に立ち、手だけを里の外に伸ばす。

 手に紅い霧がまとわりつき、しかし手に色が残ることはない。

 

「……ふむ」

 

 魔力がこもっている。但しそれは人に害を及ぼすものではなく、ただ単に霧に色をつけるだけのもの。

 長時間浴びても影響はないだろう。霧であることは確かなので、身体が濡れて気持ち悪いくらいだ。

 

「どうですか?」

 

 紅霧が幻想郷を覆ったのを知らせに来ていた椛が聞いてくる。

 信綱は軽くうなずいて、得られた情報を椛に伝えていく。

 

「人間に害がない霧だ。妖怪にも害はないだろう。博麗の巫女が解決するのを待てば良い」

「そうですか。天魔様は静観の姿勢を決めているみたいですけど、君も静観するんですね」

「いつまでも爺がでしゃばるものではない」

 

 というか自分と天魔は仕掛け人側である。これで自分たちが解決したら自作自演にしかならない。

 何も知らない椛は何やら感心したようにうなずいて、一つ大きな伸びをする。

 

「じゃあ騒がなくて良いってことですか」

「そうなるな。不安がっている者たちに適当な説明をしておく必要はあるが」

「どんな説明を?」

 

 椛は人里の周り――不思議と霧が漂っておらず、お椀に覆われたようにこの場所だけ霧から免れている現状を見て、尋ねてくる。

 

「博麗の巫女が事前に結界を張った、とでも言えば良い。良い箔付けだ」

 

 自分がやっておいた、でも良いのだが老い先短い老人の名声より、これから先がある霊夢の信頼につなげた方が建設的である。

 

「天狗の方はどうだ?」

「気にしてませんね。むしろ烏天狗の皆さんは新聞を作る良い機会だと張り切ってました」

「情報は鮮度が売りとも言うからな……」

 

 言い換えれば、情報しか売らないとも言う。

 天狗はもう自分たちが当事者にでもならない限り、周辺をうろちょろして情報を集める賑やかし以上にはならないだろう。

 ……あの集団が本気で動き始めたらそれはそれで恐ろしいので、賑やかしに留まってくれるならありがたい話だ。

 

「お前はどうして?」

「いや、君が動かないにしても周りの情報はほしいかな、と思いまして。君はこの異変を誰が起こしたのか、知っているんです?」

「昔を忘れたか。こんな真似をする輩など一人しかおるまい」

 

 信綱がそう言うと、椛は困ったように笑う。

 椿を手にかけ、吸血鬼を切り刻んだあの時のことを思い出してしまったのだ。

 あの時と今は状況が違うとは言え似ていることに間違いはないのだから、連想してしまうのは許して欲しいところである。

 

「あはははは……確か、吸血鬼の人とは人里を襲わせない約定を交わしたんでしたっけ」

「そうだな。これもその一環だろう」

 

 信綱はそう言って、人里を覆っている――逆に言えば、人里にはこれっぽっちも入っていない――紅霧を眺め、小さく息を吐くのであった。

 

 

 

 人里以外の場所を紅霧で覆う。それがレミリアの起こした異変だった。

 普通に考えるなら人里に異変の黒幕がいることを真っ先に疑われてもおかしくない状況だが、幻想郷の主だった強者は揃ってそれを否定する。

 

 人里には鬼より怖く、天狗以上に知恵の回る人間が居座っているのだ。そのお膝元で彼の目をかいくぐって異変を起こそうとする猛者など幻想郷にはいない。

 それにその人間も紅霧を出すような奇術妖術の類は扱えない。よって犯人は半世紀前にも同じことをしたレミリアであると容易に判別できた。

 

「……あの吸血鬼は懲りないな」

 

 そのことを告げに椛を伴って慧音の家に向かうと、彼女は頭痛を堪えるように額に手を当てる。

 

「昔のようにはならないでしょう。今はもうスペルカードルールが普及しております」

「ああ、聞いたところによると妖精も使うようになったとか。どうやって知らせたんだろうな」

「私には思いもよらない手法でしょう。それより人里としての対応はどうします?」

「……まあ、実害が出ているわけでもないし、一日二日程度で作物に大きな影響があるわけでもない。異変は早めに解決するに越したことはないが、お前に動く気はないようだ」

 

 無言で笑う。もう七十も後半の爺に異変を解決させるようなら、それは次代の連中が育っていないことを憂うべきことなのだ。

 それに霊夢なら大丈夫だろう、という楽観もあった。まだまだ未熟ではあるが、ことスペルカードルールに関しては凄まじいものがある。

 

「私に動くつもりはありません。博麗の巫女を動かした方が早いですよ」

「やれやれ、その割には精力的に動いているじゃないか」

「不安は少ない方が良いですから」

 

 信綱の話ではない。人里の住民の話である。

 全ての事情を知っており、よしんば予想外の事態が起こったとしても対処できる自信のある信綱は良い。

 信綱に及ばずとも力のある慧音、椛もまた大概のことでは動じない。

 

 だが大半の住民は違う。人里の人間とは本来力なき民であり、知識なき民だ。

 彼らにはこの霧が自分たちを舌なめずりしている獲物の嘲笑にしか見えないかもしれない。何の知識もないまま触れるのは危険であると考えるかもしれない。

 そして異変を引き起こしたのが妖怪である以上、妖怪への隔意が生まれるかもしれない。

 

「と言っても、人里の方たちも妖怪との交流が始まってから、図太い人も増えましたけどね」

 

 椛の言葉に慧音、信綱も同意する。特に子供の頃から妖怪を見慣れている若者たちは、今さら紅い霧が出たくらいで動じたりはしないようだ。

 しかし不安を全く感じていない者ばかりというわけではない。信綱は慧音の出したお茶を飲み干すと、立ち上がる。

 

「では行くぞ。自警団に説明して、あとは先生の方に向かうように話しておきます」

「わかった。私の方も普段通りに生活して不安を持たせないようにしよう」

「お願いします。あまりに解決が遅いようでしたら、私が博麗の巫女をせっつきに行くつもりですから、そちらもお伝え下さい」

「はは、了解。……あの子も私の教え子だ。無理はしないよう伝えておいてくれ」

「確かに伝えておきます」

 

 そう言って信綱は椛を伴い、再び人里の外に戻っていく。

 寺子屋を出ると隣を歩く椛が信綱に声をかけてくる。

 

「君も大変ですね。表舞台を退いたと思ったら、今度は裏方ですか」

「しばらくの辛抱だ。博麗の巫女がなんとかしてくれる、という信頼さえ得られれば後は寝ていられる」

 

 逆に言えばそれがない今は、信綱が動く必要があるということである。

 霊夢の怠け癖だけが心配の種だが、異変が起きたら速やかに解決するよう口を酸っぱくして言ったので、効果があると信じたいところだ。

 

「さて、自警団には俺の部下が行けばいいし、人里で伝えるべき相手には伝えた。後は結果を待つだけだ」

「そうですね。じゃあ行きましょうか」

「お前は戻って天狗の仕事をしたらどうだ」

「これも仕事の一環ですよ。一緒に暮らす相手の安全を守らないと、私たちも立ち行かなくなります」

「……全く」

 

 ため息を一つついて、それを無言の抗議としてみるが椛は取り合わない。

 椛はそんな信綱の様子に笑いながら昔のことを思い出していく。

 

「あはは、こうしていると思い出しますね。吸血鬼異変があった直後のことを」

「あの時は山の稽古場で会ったか」

「ええ。それが今や人里で堂々と会っても誰も不思議に思いません。たった半世紀で変わったものです」

「お前は人里でも長かったからな」

 

 阿弥が亡くなり阿求が生まれるまでの間、彼女には人里で天狗側の存在として自警団に協力してもらっていた。そのため異変が起きている今でも、誰かに疑われることなく人里に来れる。

 

「俺はそろそろ阿求様の側仕えに戻る。お前の相手はできんぞ」

「別にいいですよ。阿求ちゃんとお話でもしてます」

「…………」

 

 そういえばこいつは阿弥様の友人だった、と信綱は渋面を作る。それはつまり、阿求とも友人になれる可能性が高いということだ。

 なぜか椛と阿弥が一緒になると、自分が蚊帳の外になる可能性が高かった。阿求の時も同じようになるのだろうか不安でならない。

 阿求が望むなら是非もないが、そうでないなら椛は遠ざけたい。御阿礼の子と一緒の時間が削られるのは勘弁である。

 

「……阿求様が望んだらな」

「もちろん、無理にとは言いませんよ。ダメなら潔く諦めて茶屋で休みます」

「働け」

「千里眼って便利ですよね」

 

 椛も図太くなってしまった。一体何が彼女をこんなにしたのか、と信綱は嘆かわしげにため息を吐く。

 ……思い当たる無茶振りがいくつかあったため、この思考を切り捨てることにする。悪い方向に転がったわけではないので大丈夫なはずだ、きっと。

 

 そうして二人が稗田邸に足を向けた時だった。椛と信綱の視線が同時に動き、一点に集中する。

 信綱の顔には珍しく驚愕のそれが張り付いており、状況に対する強い困惑が見えた。

 椛も同様に幻想郷のほとんどを見渡す千里眼を持っていながら、それを見抜けなかったことに驚きを隠せない。

 

 そう――何もなかった空間に一瞬で一人の少女が現れたのだ。

 

 見慣れないが、信綱には女中の着る服のようだと連想させる異国の服に身を包み、嫌でも夜を想起させる月光の如き銀髪が頭を垂れる少女の顔を隠している。

 

「――お初にお目にかかります。噂はかねがねお嬢様より伺っておりました」

 

 上げられた顔は予想以上に若く、信綱から見たら幼いとすら表現しても良いものだった。

 おそらく霊夢や魔理沙とそう歳は変わらない。せいぜい二、三の差だろう。

 

「……紅魔館はいつから人間まで住むようになったんだ」

 

 最近は紅魔館に顔を出しておらず、レミリアとの顔合わせも紫らとの会合で済んでいた。

 おかげで気づけなかった。まさか彼女にこんな鬼札があったとは。今の自分に感知できないものなど多くないと自惚れていた。

 

「私が来たのはつい最近です。そうですね……五年ぐらい昔、ということにしておきましょうか」

 

 馬鹿にしてるのか、と信綱は眉をひそめるが、少女の顔は至って真剣なもの。

 本人も覚えていないのか、思い出したくない過去なのか、あるいは――

 

「……お前がいつから幻想郷にいるのかなどどうでも良い。……いや、人里の出だったら根の深い問題がありそうだから困るが」

 

 信綱に感知させない手段――確実に何らかの能力を所持しており、なおかつ少女と形容してもおかしくない年齢で紅魔館に所属している。

 どう考えても楽しい事情があるとは思えない。事情の根が人里にあった場合、信綱は彼女に謝罪しなければならないかもしれなかった。

 

「お優しいのですね。ご安心を、私は外の世界出身です」

 

 信綱の思考をどこまで読んだのかはわからないが、少女は口元に手を当てて楽しそうに微笑む。

 どうやらここで事を構えるつもりはないようだ。これまでのやり取りからそう判断し、念のための確認を行う。

 

「椛」

「大丈夫です。重心にも動きはありませんし、懐や腿に仕込まれているナイフにも手が伸びる気配はありません。さっきのあれがもう一度あったらわかりませんけど……」

「タネに見当はついている。後手になるが対処は可能だ」

 

 具体的にどういった原理が働いているかはわからないが――任意で行える類の能力であることは確実だ。

 であれば、この状況に対して彼女の取りうる行動を予測すれば対処は難しくない。

 信綱は落としていた重心を持ち上げ、煩わしいことが増えたというため息をこれ見よがしにつく。

 

「……で、何のようだ」

「お嬢様より言伝を預かっております」

「いらんから帰れ」

「それでは私が困ってしまいますわ」

 

 口元に手を当ててクスクスと笑う。その姿だけ見れば年相応の少女なのだが、言葉は信綱の顔をしかめさせるに十分なものだった。

 

「どうせ異変の黒幕は私だ、とか早く博麗の巫女を動かせ、とかそんなところだろう」

「ご慧眼の通りです。そしてこうも言っておられました――私の言うことを予想できるということは、私に対して愛があるに違いな痛い!?」

「すまん、あまりのおぞましさについ拳が」

「君も大概あの人に対してひどいですよね……」

 

 本当に思わず、と言った体で拳が出てしまい、余裕綽々の態度を取っていた少女の目尻に涙が浮かぶ。

 もう半世紀も経つというのに、未だにレミリアへの対応は辛辣の二文字だった。

 

 そしてもののついでと言わんばかりに信綱は少女の首根っこを引っ掴み、その身体が逃げられないようにしてしまう。

 

「あ、あら?」

「黒幕の部下がここにいるのも何かの縁だ。――痛い目見たくなかったら持っている異変の情報を洗いざらい話してもらおうか」

 

 拒絶したら本当にひどい目に遭わされるのだろう。それが容易に想像できてしまい、少女の頬を冷や汗が伝う。

 レミリアが絶賛していたからどんな人間なのかと思いきや、ここまで手が早い人間だとは思っていなかった。

 

「……すみません、そこの白狼天狗さん」

「……はい、なんでしょう」

「この人、怖くないです?」

「割りと昔からこうですよ」

 

 とりあえず敵には容赦しません、と椛が言うと少女は諦めたようにうなだれるのであった。

 

 

 

「茶屋で話を聞くだけ菩薩の対応だと思っているのだが」

「問答無用で捕まえてそれは通らないと思いますよ? あ、私はあんみつで」

「全くです。それに私は本気ならいつでも逃げ出せますから。それはそれとしてみたらし団子でお願いします」

 

 なんて図々しい奴らだ、と信綱は場所に茶屋を選んだことを後悔し始める。

 これなら火継の家にでも連れ込んで石でも抱かせてやれば良かったか、などと非道なことを考え始めると少女がブルリと寒そうに両肩を抱く。

 

「……なんでしょう、急に悪寒が」

「霧のせいだろう。おかげで日照が減って肌寒い」

 

 嫌味を言ってみたものの、少女に堪えた様子はなかった。

 

「あ、そうそう。私、十六夜咲夜と申します」

「すごい今更な自己紹介!?」

「火継だ。名前は主人にでも聞け」

「君も自分を崩しませんね本当に!」

 

 相手に合わせる時など尊敬できる相手か、そうした方が利益のある時だけで十分である。

 信綱は咲夜と名乗った少女に対し、微かに眉根を寄せたしかめっ面のまま話しかけていく。

 

「さて、この霧について知っていることを話してもらおうか」

「パチュリー様が出した霧である、ということぐらいしか。お嬢様は私たちに全ての思惑を話してはくれませんでしたから」

 

 当然だろう。スペルカードルールを広めるために全て仕組んだものです、とバカ正直に言える者はいない。

 信綱も人里の守護者としての体裁を保つため、咲夜から事情を聞かねばならないのだ。

 

「あとはそうですね……あなたのこととか、お嬢様から耳にタコができるほどに聞かされましたよ?」

「ロクなことではないだろう」

「あなたがいかに凄烈に自分を倒したか、どれほど凄絶な戦いを繰り広げたか。そしてその過程で芽生える信頼とかにも――」

「後半部分は嘘だから信じるな」

「あら」

 

 レミリアのことだ。話している間に興が乗ってついついあることないこと織り交ぜたのだろう。

 彼女を倒したことがあるのは本当だが、それは決死の戦いの果てに、というわけでもなければ剣を交えて彼女に対して理解が深まったとかもない。

 ただ先手を取って刻み続けた。それだけの話である。

 

「……全く、来るなら門番の方にしてほしかった」

「妬けてしまいますわよ? そちらの白狼天狗が」

「え、私!? いや、私に振らないでくださいよ!?」

「すみません、話題に乗り切れていないようだったので」

「この人の話を途中で遮ると後が怖いんですよ」

「後で覚えておけよお前ら」

「ほら!」

「大変ですね」

「あなたもですよ!?」

 

 咲夜という少女と話してわかったことは、彼女が微妙に天然の混じった性格であることと、大した情報は持ってなさそうということである。

 今まで会ってきた妖怪とは別の方向で面倒だ、と信綱はこの歳になっても減らない気苦労に癖となってしまったため息を吐く。

 

「……お前はどうして紅魔館に?」

 

 口から出たのは純粋な疑問だった。

 彼女の能力が強力なのは言うまでもなく、だからこそ殊更に疑問だった。

 

「ああ、それでしたら単純な順番です」

「順番?」

「ええ。私がこちらに流れ着いて初めて会ったのが紅魔館の面々でしたので」

「……なるほど。それに外の世界からわざわざ一人で来る理由も限られるか」

「ここに来たことまで含めて、偶然と幸運が重なったようなものですよ」

 

 咲夜の口ぶりから大体境遇が読めてきた、と信綱は腕を組んで彼女を見る。

 外の世界と幻想郷の違いは一概にわからないため何とも言えないが、彼女の言葉から察するに外の世界で良い扱いは受けなかったのだろう。

 さらに外の世界は人間の世界になっていると紫が漏らしていた。人間の世界で良い扱いを受けない、となれば人間以外の存在に惹かれるのもうなずける話だ。

 

「俺はいいのか? お前が嫌っている人間だろう」

「別に嫌ってはいませんよ。思うところが皆無というわけでもありませんが、振り返ってみれば私を厭う声にも納得はしています。それにあなたはなんだか人間という気がしませんから」

「八十間近の爺を捕まえて言うことがそれか」

「老人は私が反応できない速度で首根っこを掴んだりしませんわ」

 

 うんうんと横でうなずく椛に腹が立ったので、そっと耳の毛を逆なでする。

 すぐに気づいた椛は非難轟々といった様子で信綱に叫ぶ。

 

「あ、何するんですか! 毛づくろいは大変なんですよ!」

「あら、マイ櫛をお持ちで」

 

 咲夜は椛が懐から櫛を取り出していそいそと毛づくろいを始めるのを、興味深そうに眺めていた。

 

「白狼天狗が珍しいのか?」

「ええ、まあ。幻想郷に来てからというもの、大体紅魔館の中にいましたから。おかげで妖精と吸血鬼は嫌というほど見慣れましたけど」

「別に出歩くことを禁止されていたわけでもないだろうに」

「見ての通り、メイドですから」

 

 そう言って咲夜は頭のプリムを指差す。信綱はわかったようなわからないようなあいまいな気持ちだったが、とりあえず相槌を打っておく。

 

「人里に来たのも初めてでして。お嬢様の口から度々出ていましたけど、天狗を見るのは初めてですわ」

「この異変が終わったら紅魔館に大勢来ると思いますよ。今の彼らは新聞作りで頭が一杯ですから」

「ふふ、楽しみにします」

 

 話題が途切れ、咲夜と椛が甘味を口に運ぶ時間が訪れる。

 椛と自分はもう慣れた人里の菓子を、咲夜は興味深そうに食べていた。

 視線に気づくと、咲夜はやや照れ臭そうにしながら言い訳のように口を開いた。

 

「い、いえ。紅魔館の食事は私が受け持っているので、これは研究の一環です」

「まだ何も言ってないぞ」

「あ、それならあそこのお店が美味しいですよ。研究のためなら一度行ってみて損はないかと」

 

 咲夜の言葉に反応したのは椛だった。人懐っこい彼女は大体の存在と知り合いになれる上、今回は同じ店で甘味を食べているからか妙な仲間意識も持っているようだ。

 信綱はさっきまで警戒していた相手によく声をかけられるな、と呆れた顔になるものの、止めることはしなかった。

 紅魔館の従者と来れば長い付き合いになるのは目に見えている。それならなるべく良い印象を持ってもらうに越したことはない。それはそれとして異変の黒幕の一味でもあるため警戒は怠らないが。

 

「……念のために確認するが、人里を害するつもりはないんだな? レミリアの意向だけでなく、お前の意思としても」

「ご安心を。主が傷つけぬと決めている存在を傷つけるなど、メイドの誇りに反しますから」

 

 その言葉には仕えるものとしての矜持を感じさせるものであり、咲夜もまた自らの忠誠をはばかることなく唱えていた。

 信綱はそれを見てようやく肩の力を抜いて、咲夜への警戒を最低限のものに切り替える。

 

「従者として、か。それなら信用できそうだ」

「ええ。私は犬ですから。犬は主には忠実なんですよ?」

 

 

 

 ちょっと休憩しすぎました、とやや慌てた様子で立ち去っていく咲夜を見送っていると、椛が気になっていたことがあったと口を開く。

 

「ちょっと意外でした」

「何がだ」

「あの人への警戒をすぐに解いたことです。従者であるってそんなに重要なことですか?」

「一つの指針にはなる」

「指針と言うと?」

「俺と同じかそうでないか、だ」

 

 信綱にとって誰かに仕えるとはその身命は言うに及ばず、望むなら倫理も心も全て主に捧げることだ。

 さすがに自分がおかしいのは理解しているが、他の人も自分ほどではなくても似たようなものだろうと思っていた。

 ……一応は従者の役目でもある美鈴辺りが聞いたら全力で首を横に振る内容だった。彼女もレミリアへの忠誠は本物だが、それで信綱と同じ献身を求められても困るだけである。

 

「つまりあれは死んでも主の不利になることはしないはずだ」

「その理屈はおかしいと思います」

 

 椛にそれを伝えたら馬鹿を見るような目をされてしまった。

 だが、信綱は自分の見立てが多少は外れていても、極端にズレていることはないと睨んでいた。これにはそれなりの根拠も持っている。

 

「いや、おかしくない。――人間が妖怪の下に傅く理由など、単純な力で脅されているか、妖怪の力や性格に心底から惚れ込んだ場合ぐらいしかない」

「む……そう言われると確かに。人間が妖怪の下僕になることはありませんでした」

「真意はレミリアのみが知っているだろうがな」

 

 咲夜の能力を惜しいと思ったか、と考えるがこれはすぐに切り捨てる。

 彼女はまともな損得勘定をきっちり行った上で、自分のやりたいように動く性格だ。理由の一部にはなるかもしれないが、本質には至らない。

 単純な気まぐれかなにかだろう、と信綱は考えを終える。どうせ異変が終わったらレミリアの方から咲夜の自慢に来るはずだ。

 

「これも変化の一種だろう。共存の形は一つではない」

「お互い満足しているなら良いんですかね。君は妖怪を下僕につけたいと思ったことはあります?」

「山のようにある」

 

 人間より知恵も体力もあって、個人で優秀なものも多い。手足に使えるならどれだけ便利かと考えたことなど数知れない。

 というか阿弥の時代に殆どの妖怪を一人で対応した頃を信綱は忘れていなかった。もう一度やれと言われたら言った奴の首を落としてでも拒否する。

 それを椛に伝えると、やや意外そうな顔をされた。

 

「君はなんでも一人でやりたがる方だと思ってました。実際できていましたし、問題ないのだとばかり」

「任せられる人がいたらそうしていた。だがあいにくと昔の人里に魔法使いはいなかったし、博麗の巫女は異変の予防には動かせなかった」

 

 手足のように使える妖怪がいたらどれほどありがたかったか。

 しかし現実は厳しく、信綱があの当時に動かせそうだったのは頼りにならない妖猫と白狼天狗が一人だけ。

 あの当時を思い返して信綱は隣を歩く椛に視線を向ける。

 

「……? どうかしました?」

 

 当人に自覚は薄いかも知れないが、彼女にはかなり助けられている。

 もしも一人、自分の手足にできる存在が選べるとしたら椛を選ぶだろう。実力の高低はさほど重要でなく、信綱にとって信頼できることが何より大きい。

 

「……なんでもない。お前は変わらないと思っただけだ」

「? はい、妖怪ですからそうそう変わりませんよ」

 

 そういう意味ではないのだが、懇切丁寧に説明するつもりはなかった。

 信綱は肩をすくめて返事とし、椛を伴って人里の中を再び歩き始めるのであった。

 

 

 

「……それと後で稽古やるぞ」

「しまった茶屋での一件を覚えてた!?」

 

 

 

 このようなやり取りもあったが、それはまあ些細なことだろう。




咲夜さん登場。出すタイミングを考えていたら原作が始まっていたため、もうこの流れでいいやと登場させました。やや天然入っているけどおぜうへの忠誠は本物なイメージ。おぜうが語るノッブ相手だったので態度も丁寧め。

次回で霊夢の尻を引っ叩いて異変解決に動かし、後は阿求と人里で過ごして異変は終了しそうです。異変解決は基本ダイジェスト。焦点は終わった後になる。


それとこれは余談ですが、ノッブと椛が組んで戦うと軽く悪夢になります。背中を任せられる相手がいるのでノッブは全神経を攻撃に注いでますし、かといって椛を狙うと意外と戦える白兵能力で粘られている間にノッブがやってきて死ぬ。
両方とも遠距離の対策がないことが弱点ではありますが、弱味を二人とも理解しているため、魔法の詠唱などが見えた時点で椛が千里眼で発見し、ノッブが接近して潰すという流れに。

ノッブ一人だと死ぬ可能性が消えない相手は幻想郷トップクラスにちらほらいますが、椛と組むとその可能性が消えます。なので意外なほどのキーパーソンだったり。本人に自覚はありませんが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IFエンド ずっと、いっしょ(デッドエンド、エログロ注意)

一周年記念ということで書いてみました。誰のエンドかはタイトルでもう予想が付く人は付くかもしれません。
タイトルにもありますが、今回のお話はそういったものです。苦手な人は苦手だと思いますので、一日限りで消すことも視野に入れています。


 振り返ってみれば、至極当然の帰結なのだろう。

 道理に則っているとはとても言えない、しかし強くなるため手段を選ばなかった。

 

 それをする理由があった。危険も承知していた。だが、心の何処かで驕りがあった。自分ならばなんとかなると、根拠もなく思ってしまっていた。

 だからこれは道理に合わないことをしてしまった憐れな男の、当然の結末なのだ。

 

「あ――」

 

 受け損ねてしまった剣が自分の胸を深々と切り裂く。

 皮膚を裂き、肉を断ち、骨を砕き、内臓まで達するその刃は間違いなく致命。

 

 少年は膝から崩れ落ちながら、震える手で内臓が溢れぬよう手で押さえる。

 もはや思考は朧なものになり、定まらない焦点で自分を切った妖怪を見上げた。

 

「……えっ?」

 

 妖怪もまた今の一撃で全てが終わってしまうなど思いもしなかったようで、呆然とした顔で少年と自分の剣を交互に見ていた。

 これが治せる傷であったのなら、彼女が秘薬を使ってでも少年を生き永らえようとしただろう。

 だがこれはもうそんな段階を過ぎており、彼の命は数分と持たず消えていくことが決定していた。

 

 少年は妖怪への恨みなどすぐに忘れる。そんな贅沢なことを考える余裕などとうに残っていない。

 外気に触れようとする内蔵を必死に手で押さえ、浅い呼吸と朦朧とした意識の中でも立ち上がろうとする。

 

 まだ死ねない。あの方の許しがあるまで死ぬことは許されない。妖怪になろうと、あの人を悲しませる結末だけは許されない。

 だと言うのに、人間の身体はこんなにも軟弱で、儚い。一太刀斬られただけでもう動かなくなろうとしている。

 

 しかし少年はそんな人間の肉体に鞭打ち、己の意志力のみで身体を動かす。

 一歩、また一歩、と少年は覚束ない足取りではあるが、確かに自分の意思で歩く。

 

「…………」

 

 妖怪はその姿に何も言わず見続ける。この結末になったことに自分の責任がある以上、少年のあがきを最期まで見届けるのが自分の使命であると言うように。

 少年はそんな妖怪の思惑など知ったことではないと動き続け――限界はすぐに訪れる。

 

 元よりこの場所は妖怪の山。人間ならとうに死んでいなければおかしい斬撃をその身に受け、今の今まで生きていただけでも驚嘆すべき事実。

 そこにさらに少年は自分の意思で絶命せんとする肉体を現世に留め続け、あまつさえ動いてみせた。

 もはや奇跡と呼んでも過言ではない。その事実だけで少年は賞賛に値すべき意思を示した。

 だが、彼の求める結果には至らず――彼は少し歩いたところで倒れ込む。

 

「……?」

 

 最初は自分が倒れていることにすら気づけなかった。口内に入る不快な土の感触でようやくそれを理解しただけ。

 胸から溢れる血が土を赤黒く染めていく。もう、動く力は残されていなかった。

 

「あ……」

 

 それでも少年は動こうとする。身体から溢れる中身など気にする余裕もない。動いているというより、震えているといった方が正確な指先で、土をかいて進もうとする。

 しかし、もう誰の目にも悪あがきにしか見えないそれはすぐに終わり――少年の瞳から光が消えていく。

 最後の最期、少年は力になりたいと思い、全てを捧げたいと思い、そして自分の結末で彼女を悲しませてしまうことに対し、上手く動かない唇で謝罪する。

 

「阿七様。申し訳、ありませ――」

 

 

 

 少年は動かなくなった。その事実を妖怪――烏天狗の椿は彫像のごとき無表情でその目に刻みつける。

 手塩にかけて育てたと言っても過言ではなく、同時に一歩間違えば死ぬ鍛錬を課し続けたのも事実。

 彼はそれに耐えられなかった。自分の油断と彼の驕り、双方が重なって起こった不幸な事故。

 

「……終わっちゃった、か」

 

 椿は上手く動かない頭でその事実をどうにか受け入れようとする。

 彼女の顔に浮かぶのは諦観でも悲嘆でもなく、むしろどこか興奮すら覚えているもの。

 

「ああ、うん。私はいつかキミと殺し合いがしてみたかったけど……これもまた結末の一つ、だよね」

 

 以前に決めたことではないか。彼を強くするために自分はできることを全て尽くす。

 その上でいつか自分を追い越すほどに強くなったら、その時は対等な存在として人と妖怪、何の気負いもなく殺し合いたいと願っていた。

 妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。その構図に則ってこそ、人妖は古来の在り方を取り戻せるのだと信じていた。

 

 そしてそれが何らかの要因によって潰えてしまった時は――

 

「私が飼ってあげる、って言ってたのに……」

 

 物言わぬ躯となった少年の身体を仰向けに転がし、虚空を映す瞳を閉じてやる。

 そして土まみれとなっている唇を自身の唇で塞ぐ。

 半開きのままの口に自らの舌をねじ込み、まだ温かくぬめっている少年の口内を舐っていく。

 やがて口を離した椿は自らの舌で撹拌した唾液を飲み込み、上等な酒を飲んだように蕩けた目で彼の身体に覆いかぶさる。

 

「あは……っ!」

 

 不肖の師匠としての役目として埋めてやろうかとも考えたが――とんでもない。こんな上等な人間の肉、貪らねば嘘というものだ。

 大体、この少年は椿も憎からず思っていたのだ。狂気的に強さを求めるひたむきさも、水を吸うように日に日に上がっていく力量も、殺意と敵意の混ざった瞳で、しかし決して目をそらすことだけはしない強さも、この少年の全てが愛おしかった。

 

 もはや椿の頭に彼を殺した事実はすっぽり抜けていた。どのみち殺し合う予定だったのだ。たまたま自分が勝って、向こうは負けた。その程度の違いでしかない。

 正式に向かい合って人妖の在り方を確かめたわけではないが、これもまた一つの結末だろう。

 すなわち――負けた人間は妖怪に貪られるのである。

 

 椿が指を鳴らすと局所的な風が起こり、少年の身体に付着している土が飛んで行く。

 これからとっておきの食事をするのだ。些細な汚れもあってはならない。

 

 まずは血だ。椿は自らが切った胸に唇を当て、その舌で少年の血を舐め取る。

 

「ん、美味しい……」

 

 妖怪にとって人肉の摂取は生きる上で必要というわけではない。人間の畏れさえあれば食事など極論、必要ないとすら言える。

 つまり妖怪は精神の充足こそが食事に近いというわけだ。さて――では彼女が心底焦がれ続けた少年の肉体は彼女にとってどんな味がするのか、説明するまでもなく。

 

 椿にとって少年の血はもはや味覚で表現できるものではなかった。脳髄を蕩かせ、胎の奥が甘い火で焦がされる。

 目の奥がチカチカする。頭の中は深い悦楽で爆発寸前。椿は淫蕩な笑みを浮かべて少年の血を舐め取っていく。

 

「あ、はっ、なにこれ、たまんない……!」

 

 ここまで我慢していた相手もいなかったため、椿は焦がれに焦がれ続けた相手の味というものを知らなかった。

 血だけでこうなのだから、肉まで食べたらどうなるのか。椿は背筋に走る退廃的かつ破滅的な快楽にゾクゾクと身震いさせる。

 

 腰が悩ましげに動き、少年の下半身にこすりつけていることにも椿は気づかないまま、彼女は夢中で少年の上半身を舐る。

 邪魔な服は剥ぎ取り、鍛え抜かれた肉体を走る赤黒い血と黄ばんだ脂肪、その奥に見える内臓が彼女の心をこの上なく昂ぶらせる。

 

 すでに頭は快楽に侵されきっており、正常な判断などできはしない。何度絶頂を迎えたのかも曖昧だ。

 少年を貪る口と頭以外はすでに椿の意思を離れて動き、より大きな快楽を求めて少年の身体に自らの身体を擦り付ける。

 

「あぁん……!」

 

 口から意図しない嬌声が溢れる。それで初めて、椿は自分の下半身が彼の下半身に擦り付けられていることに気づく。

 少年の着ていた袴は血以外の液体で濡れそぼっており、椿は自分の興奮がいかに大きなものなのか思い知り、つい笑ってしまう。

 だがここで止まる気は毛頭ない。余人が見て畜生の交わりであったとしても、椿にとってこの瞬間は唯一無二の何者にも代えがたい時間だ。

 

 椿は熱に浮かされた欲情のまま、少年の傷口から牙を突き立てる。

 血が、肉が、脂肪が、骨が、内臓が。彼を構成していた五体が自らの口を通して身体に入り込み、椿は前後不覚の快感に襲われる。

 

「――っ!!」

 

 ビクビクと全身が打ち上げられた魚のように震える。これで身動きが取れず、快楽が逃がせなかったら気が触れていた。そう確信できるほどの快感だった。

 喉元が微かに動き、咀嚼した少年の肉を慎重に飲み込む。

 

 嗚呼、これで名実ともに彼と一つになれた。その事実に椿は恋を叶えた少女のように微笑み、血に塗れた唇が弧を描く。

 この肉体を全て貪り尽くした時、自分は少年と一つになって生きることができるのだ。

 少年の肉体が椿を生かし、椿は少年を生涯忘れることなく自らの肉体に刻みつける。

 

 もう、止まらなかった――

 

 

 

 そうして椿は全てを貪り尽くし、彼を構成していたものはもはや衣服と刀、そして彼の血で濡れた地面だけになる。

 

「ああ……最高の時間だったよ」

 

 椿は陶然とした笑みを浮かべ、至福のひと時としか言いようのない時間を振り返っていた。

 

 肉を食らえば快楽で目眩がし、臓物をちぎれば腰が快楽に砕け、目玉と脳髄をすすった時など絶頂に次ぐ絶頂でどんな味かも覚えていない。

 おかげで食べ終わった後もしばらく、あまりの快楽で身動きが取れなかったほどだ。

 

 だが何事にも終わりは訪れるものであり、少年の肉体は有限だった。

 毛一筋に至るまで肉体全てを貪り尽くし、前後不覚の快楽もさざ波のように引いていく。

 椿はほぅ、と艶っぽい吐息をこぼし、自らの体内に収まった少年の肉体を慈しむように自身の身体を抱く。

 

「これで一つになれたね。欲を言えばキミの子も孕んでみたかったけど……」

 

 さすがに高望みというもの。こんなことで小さな後悔を生むぐらいならもっと前に襲っておけば良かった、と椿は独りごちる。

 これから先のことなど何も考えていない。彼女にとっては先の瞬間が自身の人生の絶頂であり、後のことは全て些事だった。

 ただ、自分が愛した少年と一つになれた事実だけを受け入れて、椿は愛おしい男の名を呼ぶ。

 

 

 

 

 

 ――信綱。キミと私はずっと、いっしょだよ――

 

 

 

 

 

 




ということで椿エンドでした。彼女がエンディングを迎える=ノッブは死ぬという身も蓋もない結末。ただまあ、修行風景の事故としてはあり得たものなのでノッブは結構危険な橋を渡っていたということです。ライフ的にも貞操的にも。

当初は書く予定はなかったのですが、椛エンドの草案をいくつか考えていたらこれの原型が浮かび上がりました。
すなわち全てをやり遂げて死んだノッブを椛が食べてずっと一緒だよ、という妖怪と人間の価値観の違いが最後の最後で出てくるというエンディング。

しかし読者が求めているのってこういうオチじゃねえよな、とボツにしようとしたところ、これ椿エンドに流用できるんじゃね? と思いついて今の話になりました。コンセプトはグロ、エロ、退廃的。でも椿は幸せ。

この後の幻想郷がどうなるか? 阿七がどうなるか? 知らん、そんなことは私の管轄外だ。



阿礼狂い投稿一周年記念になんでこんなイロモノ書いたんだろうね、私。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

異変を解決する者たち 里に残る者たち

 信綱は紅霧のせいでわかりにくいが、夕暮れ時に博麗神社への道を歩いていた。

 怪しい紅い霧の影響か、博麗神社までの道中に感じる妖怪の気配も今は静かなまま。

 元よりこの辺りの妖怪は大人しいのが多く、そうでないのは大体信綱が霊夢に積ませる実戦経験の相手として叩いている。

 

 それでも妖怪の脅威が完全になくなったとは言い難いが、その辺りは天狗に頼んで護衛を付けるなり人を増やすなりでどうにかなる。閑話休題。

 

 信綱はその道を一人で歩き、境内に続く長い階段を登って行く。紅い霧は当然のように博麗神社にも蔓延していた。

 

「おい、霊夢。起きてるか」

「あ、爺さん」

 

 境内に到着した信綱が霊夢を呼ぶと、彼女はすぐに出てきた。

 母親の形見となったリボンを後頭部で結び、先代の着ていた巫女服を少女らしい可愛らしさでアレンジを加えたものを着ていた。

 

「異変が起きていることには気づいているだろうな」

「そりゃまあ。こんな紅い霧が出るなんておかしいでしょう」

「うむ。で、異変の解決は博麗の巫女の役目になるわけだが、お前は準備していたのか?」

「うん。もうすぐ出るつもり」

「なぜ今まで待っていたんだ?」

 

 霧が出てからそう時間は経ってないので、まだ霊夢が異変解決に動いていないことを責めるつもりはなかった。

 ただ純粋に疑問だったのだ。常在戦場、というわけではないが可能な限り準備は怠らないように教えたはずだ。

 

「ん? そうした方が良いってなんとなく思ったのよ」

「……なるほど、ならば俺からとやかく言う筋合いはないな」

 

 もう異変解決は霊夢に一任しているのだ。その彼女がまだ行くべき時ではないと判断したのなら、信綱が何かを言うことはできない。

 

「まあ爺さんが言いたいことは何となくわかるわ。人里は私の勘なんて知らないでしょうし、私がさっさと動いて異変解決した方が爺さんも嬉しいんでしょう?」

「ありがたくはあるが、そのために無理をしろとまで言うつもりはない。スペルカードルールで比較的安全だが、絶対の安全なんてものは存在しない」

 

 それを言うと霊夢は紅い霧の中でもわかる程度に頬を赤らめ、爺さんと呼び慕う男性を見上げる。

 

「……爺さんは私が心配ってこと?」

「そうだな。この異変が終わってもどこかの誰かが異変を起こすかもしれない。後先考えずに怪我をするのは俺としても困る」

 

 そう言うと霊夢はがっくりと肩を落とす。聞きたかったのはそんな合理的な理由ではないのだ。

 しかしそれを言ったところで信綱にはわからないだろう。霊夢は仕方がないと気を取り直して、力強い笑みを浮かべた。

 

「ま、爺さんは安心して待ってなさいって。私がこの異変を華麗に終わらせてみせるからさ」

「……そこまで言うなら信じよう。助力というわけではないが、一つアドバイスをしよう」

「え? 爺さんの編み出した必勝法とか?」

「そんなもの相手より早く動いて早く斬れば十分だ。異変を解決するにあたっての心構えだ」

 

 信綱は霊夢と視線を合わせ、自分が異変を解決する際に心がけていたことを伝えていく。

 

「まず――異変を起こしたやつは悪だ」

「悪?」

「そうだ。異変というのは幻想郷全体に影響を及ぼす騒動を指す。引き起こすのは大体妖怪で、あいつらは自分の楽しみのために傍迷惑な騒ぎを起こす」

「なにそれ超迷惑」

「だろう。だからお前は異変を解決するのなら、お前が正義だ。異変を解決していることを話して、自分の邪魔をする相手は全部敵だと思え」

 

 信綱はそうしてきた。邪魔をしないなら放置。邪魔するなら潰す。味方になるなら受け入れる。

 無論、口八丁手八丁で味方に引き入れられるのならその方が良い。だが、いかなる事情があっても異変を解決している者たちを邪魔するのなら、それは幻想郷に不利益をもたらしているに等しいのだ。

 

「て、敵? 爺さんにしては……いや、爺さんらしいけど、過激なこと言うわね」

「邪魔してこない相手を倒す必要はない。余計な手間を増やすだけだ。だが邪魔をしてくる相手がいたら容赦するな。敵味方の区別はハッキリつけろ」

 

 少なくとも吸血鬼異変において信綱はそういう対応を取った。邪魔してきた椿を殺し、邪魔をしなかった文を受け入れ、そして美鈴を使って最短で異変解決の道を辿った。

 

「ある程度結果論にもなるから一概に言えない部分もあるが、基本はこれで間違いない。異変があって、異変を解決しようとする限り、お前は絶対に正しい存在だ」

「……後で恨まれたりしない?」

「する時もあるだろうし、そうでないこともあるだろう。だが、これが博麗の巫女の役目だ」

「……だから爺さんは私に無闇に敵を作るなって言ったのね」

 

 霊夢はようやく合点がいったというようにうなずき、額に片手を当ててため息をつく。

 なるほど確かに。異変解決でどのみち恨みを買うのだから、そうでない部分で余計な恨みを買う余裕はないのだ。それではいずれ積もり積もったものでがんじがらめになってしまう。

 

「わかった。邪魔する相手に容赦はしない。スペルカードで叩き落としてあげる」

「その意気だ。これで伝えることは伝えた。そろそろ俺は戻るぞ」

「あ、ちょっと待って!」

 

 霊夢に呼び止められ、信綱はどうしたのだという顔で振り返る。

 すると霊夢はもじもじと手を動かし、ためらった様子で信綱の方を見た。

 

「……私、これが異変解決の初陣なわけでしょ?」

「そうだな」

「爺さんは心配してくれてるんだよね?」

「まあ、そうだな」

 

 理由を言えと言われたらいくらでも合理的な理由が浮かぶが、霊夢に怪我をしてほしくないというのも本心だ。

 それを聞いた霊夢は一瞬だけ顔を輝かせ、そしておずおずと伺いを立てるように口を開いた。

 

「じゃあ……その……上手く解決したら、褒めてくれる?」

「……そんなことを言ってくるとは思わなかったな」

 

 少々予想外の台詞が来たため、信綱は目を丸くして霊夢を見る。

 これでも彼女の才能を伸ばすため、彼女が求めるものはちゃんと与えてきたつもりだったのだ。先代にも任された手前、鍛錬にも情操教育にも手は抜かなかった。

 それに霊夢が言ってくるのはもっと大きなワガママだと思っていた。信綱が驚いていたのは、彼女が望んだことが予想以上に小さなことだったからである。

 

 しかし霊夢にはそう聞こえなかったようで、言い訳をするように言葉を重ねる。

 

「だ、だって爺さん、口では色々言ってくるけど頭とか撫でてくれないじゃない」

「撫でてほしかったのか」

「……うん」

 

 そういう霊夢の顔は紅霧の中でもわかるほどに赤くなっていた。

 先代の分まで、と努力はしていたものの、ここまで懐かれるとは思っていなかった。あれだけ自分の狂気を伝えたと言うのに、危機感が足りてないんじゃないだろうか。

 

 そこはかとなく霊夢の将来に不安を覚えながらも、信綱は呆れたように霊夢の頭に手を伸ばす。

 リボンで留められている髪は崩さないようゆっくりと頭を撫でてやり、信綱は口を開く。

 

「……異変を解決したら感謝されるのは当たり前のことだ。俺からはお前が上手く異変を解決したらある程度願いを聞いてやる」

「なんでも聞いてくれるの!?」

「そうは言ってない。叶えられる範囲で、だ」

 

 具体的には阿求との時間が削れない範囲である。

 霊夢はそれでも十分だったようで、顔を輝かせて何度もうなずく。

 そして勢いのままに飛び上がり、巫女の勘がささやく方角に身体を向ける。

 

「わかった! よーっし、異変なんてぶっ飛ばしてくるわ!」

「気をつけろ。命懸けの戦いじゃないんだ。気楽にな」

「わかってるー!」

 

 そう言って霊夢の姿が紅霧に消えていく。

 信綱はそれを見送り、静かにため息を吐いた。

 異変を解決すれば感謝されるなど、そんな当たり前のことですら先代の時には自分しかやらなかったのだ、と思ってしまった。

 

 やはりどう考えても異常だった。いくら力があるからと言って、危険なことをやらせている事実に変わりはないのだ。せめて労いぐらい心を尽くすのが当然だろう。

 百鬼夜行の終わりから人里も変わった。先代の巫女も混ざって宴会ができるようになった。その変化はきっと霊夢の代にも続いていく。

 

 あの年頃の少女が誰からも感謝されずに戦い続け、それを当然と受け止めるなど大人として惨めに過ぎる。

 信綱は一息で意識を切り替え、霊夢の暮らしている家の方へと足を向けた。

 差し当たって――異変を解決してきた彼女が食べるものぐらいは用意してもバチは当たらないはずだ。

 

 

 

 

 

「おおおおお……!」

 

 少女は人里の外を覆っている紅霧に触れ、感激に打ち震える。

 自分の代にはまだ起こっていなかった異変が、このような誰の目にもわかる形で起こったことに感動しているのだ。これで今代の幻想郷縁起にも厚みが出る。

 

「すごいすごい! わ、手が赤くなってない! やっぱりこれって普通の霧じゃないのね!」

「阿求様の仰る通りです。微量ながら魔力を含んでいるようで」

「やっぱり人間の身体には毒とか!?」

「このぐらいなら霧で濡れる不快感の方が強いかと」

 

 言い換えると人が出しているため、その人物の気分次第では危険な代物に早変わりするとも言えるが、その辺りは考えても仕方がない。

 信綱は異変の情報が欲しいと言い出した阿求のために、安全な人里で紅霧異変の概要を説明しているところだった。

 

「――とまあ、私が知り得る情報はこの程度です。博麗の巫女は先ほど動きましたし、早ければ今日中に解決するでしょう」

「へえ、お祖父ちゃんがそこまで言うって、霊夢さんはそんなに腕利きなの?」

 

 人里の寺子屋で勉強している時は、冷めた雰囲気を装っているくせに誰かが遊ぼうと誘うと嬉しそうな顔をして。

 そして誰かが困っていたらいつの間にか近くにいて、力になってくれる面倒見の良い少女という認識だった。

 

「スペルカードルールの範疇でなら相当です。まだ不慣れな面々が大半の幻想郷では頂点を取れるかと」

「そんなに! じゃあお祖父ちゃんより強いの!?」

「今は私の方が強いです。ですがこれから先はわかりません」

 

 自分には先がなく、彼女には存在する。可能性の有無というのは大きい。

 しかし阿求は信綱が弱気とも見れる言い方をしたことに対し、逆に頬を膨らませる。

 

「わからないなんて言わないで! 私のお祖父ちゃんは誰よりも強くて優しくて、私の大好きな家族なんだから!」

「……阿求様がそのように仰るのであれば、私は誰にも負けませんよ」

 

 微笑み、阿求と視線を合わせてその頬を撫でる。

 阿求は心地良さそうに信綱の手に自分の手を添えて、目をつむる。

 祖父と慕うこの男性と一緒にいると、楽しいと感じること以上に心が不思議と落ち着くのだ。

 それはきっと、転生して記憶の大半が失われようと消えない彼との絆なのだろう。

 

「……ん、お祖父ちゃんの手、暖かい」

「しわがれた手で良ければいくらでもお貸しします」

「お祖父ちゃんの手、私は大好き。固くてゴツゴツしてるけど、すごく優しいの」

 

 御阿礼の子にそのように評してもらえるとは光栄の極みだった。

 信綱は阿求に向ける微笑みの下に望外の喜びを隠し、今の時間を噛み締めていると――ふと茂みから音がする。

 

「――阿求様、お下がりください」

 

 意識を一瞬で切り替えた信綱が阿求を人里の側に隠し、矢面に立って音のする方に立つ。

 

「な、なに? 妖怪?」

「恐らくは。この霧で必要以上に近づいたのでしょう」

 

 出てくるなら退治する。出てこなければ放置。そう心の中で対応を決めていると、ガサガサと茂みをかき分ける音が徐々に遠のいていくのがわかった。

 

「ふむ……どうやら逃げたようです」

「妖怪が人間から逃げることってあるの?」

「元が動物から化性した場合、ままあることです。肉食獣なら別ですが、基本的に彼らは争いを好まない」

 

 だから山の中で妖怪にあったとしても、落ち着いていれば意外と襲われないものだ。慌てて逃げて背中を見せてしまうと殺される可能性がむしろ上がってしまう。

 信綱は肉食獣の妖怪だろうと素手で叩きのめせるため、あまり気にしていない情報である。

 

「ここまで来たのも偶然でしょう。とはいえ一応、自警団の見張りは増やしておいた方が良い」

「自警団の指揮はまだお祖父ちゃんがやってるの?」

「まさか。私が近辺で妖怪の気配を感じたと言って、異変の間だけ見回りを強めてもらうだけです。か弱い老人の頼みを断る自警団ではありません」

「あはは、お祖父ちゃんったら冗談が上手くなったね!」

 

 か弱い老人だと言った下りで阿求にも笑われてしまう。これでも齢七十八の老人も老人なのだが、あまり年齢に応じた扱いを受けないのが不思議でならない。

 ともあれ阿求が笑ってくれるのなら何よりである。信綱は思考を切り上げて阿求に手を差し出す。

 

「そろそろ戻りましょう。また霧に紛れて妖怪が出ないとも限りません」

「はぁい。あんまり霧に触れていても濡れちゃうものね。でも、この光景は幻想郷縁起に残さないと!」

 

 熱心に周囲の風景を模写していく阿求。彼女は妖怪の脅威を文字として残すだけでなく、絵に記すことにも積極的だった。

 本人曰く筆が走った時の内容は少しばかり現実の光景と違うこともあるが――よりわかりやすい脅威として知ってもらえるのなら良いのだろう。多分。

 

「……阿求様、この辺りに霧の魔力で苦しみ悶える人はいませんよ」

「い、いいの! これぐらい辛い異変だったって方が妖怪の畏れも得られるでしょ?」

「……八雲紫が検閲することも忘れないようお願いします。何かあった時に困ってしまうのは阿求様ですから」

「う、はぁい。少しでも多くの人に見てもらいたいのに、難しいものね」

「阿求様が頑張っておられるのは伝わっておりますよ。評価する人はするものです」

 

 人里から出ない人間にとっては無用の長物だった過去の幻想郷縁起と違い、阿求の作っているそれは現代の妖怪との付き合い方も書かれているのだ。

 あとは広める方法さえ考えれば、阿求の幻想郷縁起は過去の御阿礼の子に負けない素晴らしいものとなるだろう。

 

 余談だが、阿礼狂いである彼らにとって幻想郷縁起の優劣は一切ついていない。全てが唯一無二として認識されている。

 

「では戻りましょう。霧で冷えたでしょうから、戻ったら熱い茶を入れます」

「ありがと、お祖父ちゃん。それじゃあ戻りましょうか」

 

 そう言った時だった。信綱の表情が阿求に向ける穏やかなものから、険しいものになって人里の外に向けられたのは。

 

「お祖父ちゃん?」

「……覗き見は感心しないな、魔法使い」

 

 ほぼ警戒の必要はないと判断していたが、それでも万一を考えて阿求を庇える立ち位置に移動して、信綱は茂みに隠れている気配に声をかける。

 声をかけられた存在はじっと動かない様子だったが、信綱の視線が動かないことを知ると観念したように歩み出てくる。

 

「外で暮らすようになってから初めて知ったけどさ。爺ちゃんの勘はどうなってんだよ……霊夢よりおっかないぜ」

「勘ではない」

 

 ただ自身の五感を外界に広げるだけである。修練と慣れさえ積めばある程度は誰にでもできる。信綱が最も自信を持つ力の一つだった。

 なにせか弱い人間の肉体。妖怪の攻撃など一撃受けたらひき肉になってしまう。そうならないためにも、相手の攻撃を確実に察知する方法は必須である。

 

「あ、魔理沙さん、こんにちは」

「おう、こんにちは。阿求と爺ちゃんは何してんだ?」

「幻想郷縁起の取材です。類似の異変は前にもありましたけど、これはこれで珍しい異変ですからしっかり残さないと」

「やっぱ異変か。早いとこ霊夢をせっついて解決しに行かなきゃな」

「うん? お前も行くのか?」

 

 意外と言えば意外であり、納得できると言えば納得できる。そんな心境だった。

 元々は村娘である魔理沙は、異変について自身が解決するものではなく、誰かが解決するものとして教わってきているはずだ。

 しかし同時に霊夢と対等でありたい魔理沙にとって、異変解決は格好の手段でもある。これで彼女に先んじて異変を解決して見せれば、知名度もうなぎ登り間違いない。

 

 魔理沙は信綱の言葉に照れるように帽子の後ろに手を回し、ニッと笑う。

 

「おう! スペルカードルールでの異変解決なら私にも目はあるだろうしな。これがガチンコの勝負だったらさすがに無理だろうけど……挑むだけならタダだ。行かない理由はないね」

 

 そう言い切る魔理沙の目にはギラギラとした力への渇望が見えており、自身の力になる可能性を一縷であろうと逃しはしないと輝いていた。

 確かにスペルカードルールの施工された今、異変解決に参加しても昔ほどの危険はない。弾幕ごっこで負けてもまた挑み続ければ良いのだ。

 命がある限り、心が折れない限り、彼女らはいくらでも異変解決に挑む権利がある。

 

「では早く動くことだ。もう博麗の巫女は動いているぞ」

「うげ、マジかよ!? 霊夢のことだから腰が重いものだとばっかり思ってた!」

 

 なんであいつが素早く動いてんだ!? と慄いた様子の魔理沙から信綱はさり気なく目をそらす。

 自分が尻を叩いたとは言いづらい空気だったため、黙っておくことにする信綱だった。

 そして白々しい顔のまま、信綱は魔法の森を指差す。

 

「霊夢はこっちの方角に向かっていった。今ならまだ追いつけるかもしれん」

「よっしゃ、教えてくれてサンキューな爺ちゃん! この異変で霧雨魔理沙の名前を知らしめてやるぜ!」

「頑張ったら幻想郷縁起にも乗せますよ! 私がしっかり書いてあげますから!」

 

 日頃の行いも、と阿求が小さくつぶやいたのは魔理沙には聞こえなかったようで、彼女は上機嫌に箒にまたがってあっという間に見えなくなってしまった。

 紅霧に紛れて飛んでいく黒い影を見送り、信綱は阿求の方を見る。

 

「以前にもお伝えしましたが、あれが最近頭角を現している霧雨商店の一人娘です」

「寺子屋で何度か一緒になったことがあるから知ってるわ。でも、あんな蓮っ葉な性格だったかしら?」

 

 外に飛び出す前の魔理沙は大きな商家の娘らしく、お淑やかで礼儀正しい少女だった。

 それは信綱も知っている。そして今も本質は変わっていないこともわかっている。

 

「彼女なりの見栄です。ああやって気の強い振る舞いをすることで自身を鼓舞しているのでしょう」

「ふぅん……そんなに頑張ってまで霊夢さんの隣に並びたいのね。霊夢さんがすごいのか、魔理沙さんがすごいのか」

「どちらも、でしょう。互いにとって良い刺激だと良いのですが」

「お祖父ちゃんが言うなら大丈夫よ。……それより私としては魔理沙さんが私の家の資料を持っていくのをなんとかしてほしいんだけどね」

「ああ、あれなら私が模写したものですよ。本物は別に保管してあります」

「えっ」

 

 阿求が驚いたように信綱を見るが、信綱はなんてことのないような顔で説明を続ける。

 

「香霖堂の店主から聞いてましたからね。あれは甘えられる相手を見極めるのは得意のようなので、一応念を入れて作成しておきました」

「え、えっ? じゃあ持ってかれたのって……」

「私の手間が増えるぐらいでさほど問題はありません。……次やってきたら罠も仕掛けてありますし」

 

 魔理沙が実際にやってくるかどうかは半信半疑だったため、一度は見逃した。

 二度行うようであれば信綱も対策を取る。さすがに親友の孫娘と言えど悪事は見逃せない。

 捕まったらとりあえず河童にやったのと同じ説教をしよう、と決めてある信綱だった。

 

「ともあれ彼女と博麗の巫女が動いているのです。私たちはのんびりと待ちましょう。幸い、人里に霧は入ってこないようですし、すぐに終われば人々に不安を与えることもありません」

「ん、そうだね。じゃあ戻っておやつにでも――あ、小鈴」

 

 改めて人里に足を向けようとした時だった。一件の長屋から大きな飾り鈴で髪を結ぶ少女――阿求の友人である本居小鈴が出てきたのだ。

 

「ありがとうございました! 今後とも鈴奈庵をご贔屓にー!」

 

 爛漫な笑顔でそう言って長屋から出てきた少女を見て、信綱と阿求は合点がいったようにうなずく。

 紅い霧が出ているため、仕事にならない人々も多い。彼らが暇つぶしに本を求めて、貸本屋は嬉しい悲鳴を上げているのだろう。

 

「こんな時でも精が出るわね、小鈴」

「ふぇ? あ、阿求! とお爺様!」

「……別に自分のことは好きに呼んでくれて構わないぞ?」

 

 阿求と同年代の少女にお爺様、などとかしこまって呼ばれるのはむず痒いというか、居た堪れない気持ちが湧いてくる。

 しかし小鈴はそんな信綱の言葉を笑って拒否する。

 

「いえいえ、お父さんとお母さんが阿求のところのお爺様はすごい人だって言ってましたから! ね、阿求?」

「ちょ、ちょっと小鈴! お祖父ちゃんのことは良いでしょう!?」

 

 自分のいないところでどんな話が繰り広げられているのか気になる信綱だったが、口には出さない。阿求が隠したがっているようだし、側仕えとして踏み込まないのが吉と判断したのだ。

 信綱は阿求の後ろに下がり、彼女と小鈴のやり取りを傍観するだけになる。子供同士の会話に大人が混ざるのはおかしいし、何より自分は阿求の従者である。従者が主人より出過ぎるなどあってはならない。

 

「小鈴はどうして家にいないの? 今は異変の最中で何があるのかわからないのよ?」

「そうは言っても本を借りに来る人とか、返しに来ない人とかいるんだから仕方ないじゃない。特に今日とかはみんな家の中にいるからか、本が読みたい人が多くて大変!」

「意外なところが忙しくなるものね……。てっきり、退治屋とかその辺りだけが忙しくなると思ってたわ」

「私も今日は家の中で一日本が読めると思っていたわ……」

 

 儚い夢だった、と肩を落とす小鈴。それでも両親の手伝いをちゃんとする辺り、彼女も優しい子なのだろう。

 そんな小鈴は自分の事情を話したのだから、次はそっちも話せと言わんばかりの目で見つめてくる。優しい子だとは思うが、好奇心旺盛なのは良し悪しである。

 

「阿求たちは何してたの?」

「幻想郷縁起の取材ね。ほら、こんな異変が起きたってことはちゃんと残しておかないと」

「お爺様も一緒に?」

「そうだな。霧の影響からか普段より近くまで妖怪が来ている。君も気をつけた方が良い。自警団も最善を尽くしはするが、危ない場所には近づかないのが一番だ」

 

 特にこの小鈴という少女は好奇心旺盛な性質を持っている。今はまだしも、将来的に何かやらかすような気がしてならない。

 願わくば人里に迷惑をかけるようなことはしないで欲しいものだ。妖怪も混ざっている今の自警団は、それなり以上に目端の利く集団なのだから。

 

「はぁい。今日はお店も閉まってるし、これで私のお手伝いも終わり。戻ったら読みかけの本を読まないと」

「相変わらず本好きね」

「阿求みたいにいつか書く側にも回ってみたいけどね。ああ、でも最近は少し面白そうな本も見つけたの! 今度阿求にも見せてあげる!」

「期待はしないでおくわ」

 

 異変の最中であっても変わらない小鈴の様子に阿求は笑ってうなずく。

 信綱も阿求に同年代の友人ができることは好ましいと思っているため、口には出さなかった。

 じゃあねー! と手を振って鈴奈庵への道を走っていく小鈴を見送って、信綱は改めて阿求に手を伸ばす。

 

「良いご友人に恵まれて何よりです」

「トラブルメーカーっぽいけどね。でも製本が楽しくなるのは良いことよ」

 

 阿求は信綱の手を握って微笑み、家への道を歩いていく。

 そうして――翌日には紅い霧も消え、太陽が昇るのであった。

 

 世は全てこともなし。異変が起ころうともそれは全て解決するものであり、いつかは終わるものである。

 信綱がいなくなった後もこうして幻想郷は続いていくのだろう。

 

 

 

 

 

 ……それはそれとして、後々小鈴は信綱の懸念した通りに騒動を起こすようになるが、それはまた別の話である。

 

「爺さんは言ってたわ。悪気があろうとなかろうと、起こしてしまったことの責任は取らないといけないって」

「れ、霊夢さん……?」

「そして子供に与える罰は幻想郷生まれである以上、一つしかない、とも」

「あの、隣にいる良い笑顔の慧音先生は一体」

「先生、半日コースでお願いします」

「あいわかった。さ――たっぷり話し合おうか、小鈴」

「嫌あああぁぁぁ!?」

 

 などという風景があったとかなかったとか。




異変が起きたよ! 霊夢たちの尻を叩いたよ! 解 決 
ということで次話からは霊夢たちの武勇伝を聞きながら、おぜうがやってきてなんやかんや話し、宴会やら後日談が入ってきます。
それがしばらく続いた後、妖々夢が始まっていく感じです。

90話で終わるだろうか……100話行くかもしれんな……(震え声)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

紅霧は晴れ、日常は続いていく

 紅い霧が幻想郷を覆う異変が起きて、解決までは僅か一日だった。

 朝に霧が出て、翌日には晴れていた。これだけ見ればたまたま自然の悪戯か何かで、偶然起こっただけのようにすら見える結果である。

 紅い霧が一週間や二週間と出続けていれば不安に思うものも出ただろうが、一日ではそれも生まれない。

 

 そんなわけで人里は今日も今日とて、日々の仕事に励む者たちの声で賑わっているのであった。

 

 信綱はそんな喧騒の聞こえてこない自室で、阿求とは別の視点で描かれた異変のまとめを行っているところだった。

 筆は止まることなく滑らかに動き続け、文字が綴られていく。一日で終わったためまとめる内容も少ないが、魔理沙や霊夢から詳しい話は聞いておく必要があった。

 

 これらをまとめたら阿求の元に持っていき、後は霊夢たちにも話を聞こうと一日の予定を頭でまとめていくと、信綱は不意に顔を上げて筆を置く。

 

「話があるなら出てきたらどうだ、八雲紫」

「……本来なら人間に知覚できないものですが、あなたにとってスキマは隠れ蓑にすらなりませんか」

 

 信綱の視線の先の空間から黒い空間――スキマが開き、その中から穏やかな表情の八雲紫が現れる。

 

「一度コツさえ掴めれば難しいものではない。それで何か用件でも?」

「ああいえ、特に重要な話ではありませんわ。ただ、あなたが関与しなかった異変についての感想を聞いてみたくって」

「スペルカードルールの手応えとかも、か?」

「その辺りは私も確認しましたわ。あなたが鍛えた博麗の巫女はずいぶんと腕利きね」

 

 大方、霊夢たちが異変を解決する様子をスキマで見ていたのだろう。彼女の考案したルールがどう運用されるのかも含めて、実際に目で見なければわからないことは多い。

 

「腕利き、とは」

「霧を出した魔女も、黒幕の吸血鬼も、どちらも鎧袖一触――というほどではなかったけど、弾幕ごっこという領分でちゃんと打ち負かしていたわ」

「そうか」

 

 口では淡々と事実を受け入れただけのようだったが、信綱は内心で安堵していた。

 一人でやっていけるよう鍛えたつもりだが、それが身になっているかは実戦にならないとわからない。本番に弱くて練習に強いタイプというのもありえるのだ。

 なので信綱は表情に出さないようにしながら、彼女の無事と努力を内心で褒めていた。これは会った時に何か奮発しても良いかもしれない。

 それを紫は目敏く気づき、スキマで信綱の隣に移動してこのこの、と肘で突いてくる。

 

「あらあら? あなたも誰かを心配するなんてことあるのね。これは明日は雪が降るんじゃ痛い!?」

「鍛えた弟子を心配するのは当然だろう」

 

 彼女を捨て駒にするために鍛えたわけではないのだ。子供の頃から面倒を見ている分、彼女に対する思い入れも相応に持ち合わせている。

 それを告げると紫は幻想郷の管理者に似つかわしくない、しかし妖怪の賢者に相応しい優しい笑みを浮かべた。

 

「ふふ……あなたがここまで真面目に親の役割を全うするとは思っていませんでした。先代が亡くなった時に手を離すものとばかり」

「霊夢が望んだらそうするつもりだった。やつは望まなかった。それだけだ」

「ええ、ええ。私も遠からずあの子と顔を合わせるけど、話をするのが楽しみな子になったわ。未来の幻想郷も安泰かしら」

「さて、それは俺の役目ではないな」

 

 そういうと紫は優しい笑みを消し、信綱の顔色を伺うように表情を静かな凪のようなそれに変える。

 

「……あなたも終わるのね。先代と同じように」

「人間だからな。当然の結末が訪れるだけだ」

「……別に今すぐというわけではないのでしょう?」

「時が来たらお前にも教えるつもりだ。頼みもある」

 

 これから死ぬ者の願いを無下にはしないだろう、と言うと紫は困ったように笑う。

 酷薄なようであり、彼女の信念を感じさせるものであり、同時に優しい、そんな微笑みだった。

 

「死にゆく個人の頼みを聞いていたら幻想郷の管理者なんてできませんわ。……でも、あなたは特別。人と妖怪の共存を叶えたあなたの願いなら、私は幻想郷の秩序を乱さない範囲で全力を尽くしましょう」

「力を尽くした甲斐があったな。八雲紫にここまで言わせるとは」

「私も変わった――いえ、あなたに変えられたということですわ」

 

 人間の中には信綱のように煌めく輝きを持つ者が現れる。そして彼らは人々を変え、世界を変える力を持っている。

 それを信綱という男は幻想郷の妖怪に知らしめ、人間と妖怪が同じ場所で暮らし、生きるということを成し遂げてみせた。紫ですら未だ途上にあった悲願に到達したのだ。

 

 紫は信綱に感謝している。それこそ、彼に見せる態度とはかけ離れているほどに。もう許されるなら抱きしめて頬ずりしてキスしても惜しくないくらいに感謝しているのだ。

 ……実際にやったら抱きつく前に拒絶されて殴られる未来しか見えないのだが。

 

 信綱はそれを知らない。椛の願いを叶えた結果として紫の願いも叶えた、というのが信綱の見解であり、あまり彼女に感謝されるようなこともしていないと思っていた。

 そのため紫の言葉に対し、怪訝そうに眉をひそめる信綱に紫は小さく笑う。

 

「ふふっ、知らないのならそれで構いませんわ。さて、話を異変に戻しましょうか」

「ああ、事の顛末はどうせ後から黒幕が家に来るだろうから気にしないが、解決はどうなった?」

「そのことなんだけどね、少し予想外のことがあったわ」

「ほう?」

「博麗の巫女が異変を解決した。これは本当。レミリアを彼女が退治するのを私はしっかり見た。でも話はそれで終わりじゃなかったの」

「白黒の服を着ている魔法使いか?」

「知ってたの?」

 

 さすがの紫も人里から出た存在まで詳しくはないようだ。

 信綱は彼女の簡単な経緯と今回の異変解決に参加した流れを話すと、紫はひどく感心したようにうなずく。

 

「なるほどなるほど。あなたの時といい、意外なところから意外な才能が発掘されるものね」

「あれはそういう血筋なのかもしれんがな……」

 

 農家から商人になり、更に人里一の大商家にまで発展させた信綱の親友の血を引いているのだ。信綱からしたら意外ではあるが、納得できることでもあった。

 

「彼女がどうかしたか?」

「詳しい話は吸血鬼の子から聞けるでしょうから省くけど、あの子は単純に異変を解決する以上に意義あることをやってのけたかもしれないわ」

「ふむ……?」

 

 紫の言っていることの意味がわからず眉をひそめる信綱。紫はそんな彼に意味深な笑みを向けるだけでこれ以上の説明は行わなかった。

 そして話すこともなくなったのか、紫は自らの後ろにスキマを開いてその中に身を沈めていく。

 

「そろそろお暇しますわ。次に異変が起こったら私も表に出ようかしらね」

「やっと人間とまともに関わる気になったのか。いつまで引きこもっていれば気が済むのかと思っていたぞ」

「その言い分はあんまり過ぎません!? 暗躍していたと言って欲しいですわね!」

 

 その暗躍には信綱も天魔も、人間と関わりながら一枚噛んでいた。人と関わったら不可能なことを言っているわけではなかった。

 彼女の気質と言うべきか、それともただ単に身一つで人間と関わることに二の足を踏んでいただけか。

 どっちでも良いと内心のため息で押し流し、信綱は去りゆく彼女に声を投げる。

 

「後の人里は頼むぞ。俺もそう長くはいられない」

「……わかっております。この場所がなくなるのは妖怪にとっても致命的ですし、何より――私も居心地の良い場所を失いたくありませんもの」

 

 紫は儚げに微笑み、そしてスキマに消えていく。

 彼女が何を思ってあの顔を見せたのかはわからない。だが彼女にとって何か悲しむべきことでもあったのだろう。

 信綱はそう考えて彼女に向けていた思索を切り上げる。これ以上は考えても詮無きことであり、考えたところで何かが変わるわけでもない。

 それより今は阿求に渡す資料の作成を急ぐべきだ。信綱は再び資料の作成に没頭していくのであった。

 

 

 

 

 

「はぁい、おじさま。結構張り切って異変を起こしたのに、あっさり解決されちゃったわ」

 

 レミリアがやってきたのは、ちょうど彼女から話を聞こうと阿求と考えていた時のことだった。

 日傘を差すのは美鈴から咲夜に変わり、異変で退治されてもケロッとした顔のレミリアが信綱に対して親しげに話しかけてくる。

 

「阿求様」

「うん、行ってきて。レミリアさんの目当てはお祖父ちゃんみたいだし、私の取材は機会を改めて、ということにするわ」

「かしこまりました。すぐ追い出して戻ります」

「あれ、そんな流れだった!? 普通にお話してきて良いから! 今の聞こえてたレミリアさんがちょっと泣きそうだから!」

 

 阿求にそこまで言われては仕方がない。信綱はレミリアと咲夜を伴って別の部屋に移動する。

 

「……はぁ」

「あの、そこでこれ見よがしにため息を吐かれると私も凹むんだけど」

「あら、お嬢様。最近は無碍に扱われるのもなんだか心地よくなってきたとか仰ってませんでした?」

「一言も言ってないわよ!? そろそろ優しさを頂戴!?」

「相変わらずうるさい奴らだ……」

 

 付き人が美鈴から咲夜に変わっても何も変化がない。信綱は呆れた顔で二人の前に座り、口を開く。

 

「で、異変はどうだったんだ?」

「幻想郷を覆う紅い霧! 立ち向かうは若き博麗の巫女となんかついてきた魔法使い! 屋敷を彩る鮮やかな弾幕! 美しさを求めた私が言うのもあれだけど、十二分に見応えあるものになったわ。絵に残したいくらいよ。霊夢がやってきたのを私が出迎えた瞬間とか」

「問答無用で弾幕撃ってきましたけどね」

「あれはおじさまを彷彿とさせたわ……」

 

 しみじみと思い出すようにうなずくレミリア。彼女にとって吸血鬼異変の終わり方は良かったのか悪かったのか、信綱にはわからないことだった。

 

「手応えはあったか?」

「そのことなんだけど。おじさまもしかして霊夢に何か吹き込んだ? 動きにどうもおじさまの影がチラついたのよ」

「もしかしても何も、あれは俺が鍛えたぞ」

「道理で。戦いの進め方とか、おじさまそっくりだったわ。私がちょっとでも隙を見せると容赦なく食い破ろうとしてくる辺りなんて、あの時の戦いみたいでゾクゾクしたもの」

「お前もあの頃と同じではないだろう」

 

 一度何もできずに負けた経験があるのだ。対策を取らずに同じ負け方をするほど、目の前の吸血鬼は白痴ではない。自らの強さを頼みとする妖怪である以上、その強さで負けた相手への敬意と対策は怠らないはずだ。

 

「まあね。一回は落としたけど、後は向こうにやられたわ。まあ見事見事。あの美しい弾幕の避け方や撃ち方含めて、霊夢は私のお気に入りね」

「だったらそっちに行ってくれ」

「おじさまと霊夢は違うの。霊夢は見てて飽きない美しさ。おじさまは見ていて惹かれる美しさね」

 

 机に頬杖をついてニコニコと楽しそうに笑うレミリアに、信綱は訳がわからないと顔をしかめる。

 

「霊夢は宝石。輝いている姿は見ていて飽きないし、これから更に輝きを増していくでしょう。対しておじさまは炎。絶対に迷わず、絶対に揺れず、一度も翳ることなくその魂を燃やし続けている」

 

 そう言ってレミリアは眩しいものを掴むように信綱の目に手を伸ばす。彼女の目には、その瞳の奥に今なお翳らず、揺るがない炎が見えているのだろう。

 

「私を羽虫と呼ぶやつがいたら殺すわ。でも、おじさまの炎に惹かれることを羽虫と呼ぶのなら、その通りなのでしょうね」

「…………」

「おじさま、私はあなたが欲しい。――うなずいたら、殺すけど」

 

 レミリアが愛する炎は御阿礼の子に狂った炎だ。自分に傅く炎に何の価値もない。

 太陽に焦がされる夜の住人だからこその視点に信綱は呆れた顔をする。彼にとってレミリアの言葉は面倒以外の何ものでもないからだ。

 

「知っている。それに俺は余計な恨みは買わない主義だ」

「余計な恨み?」

「お前にはもう忠誠を誓う者がいるだろう」

 

 視線だけで咲夜の方を見る。表面上は無表情を取り繕っているが、内面に何が渦巻いているかは誰の目にも明らかだった。

 それに気づき、レミリアは自嘲の笑みを浮かべる。

 

「……やれやれ、私もまだまだね。一つのことに執着しすぎて大事なものを見落としてしまう」

「お前には俺以外にも大切なものがあるだろう。手に入らないものに執着する暇があるならそちらを見ろ」

「……そうね。咲夜、あなたを不安にさせてしまったかしら」

「いえ、そのようなことは……」

「あるみたいね。これが終わったらお茶にしましょう。その時に私の考えも伝えるわ」

「……かしこまりました」

 

 言葉少なに頭を下げる咲夜にレミリアは労いの言葉を投げ、改めて信綱に向き直る。

 

「――さて、それじゃあ私の用件に入りましょうか。――あの黒い魔法使い、あれはなに?」

「うん? 博麗の巫女ではないのか?」

 

 予想外の言葉に信綱は怪訝そうな顔になる。

 異変を解決したのは霊夢である以上、彼女の話になるとばかり思っていたのだ。

 レミリアは真剣そのものの表情で信綱を見据え、真実を求めていた。

 

「あの子にも興味はあるわ。でもそっちは私が自分で訪ねればいいだけ。だけどあの魔法使いは別なの」

「……話の前後が読めないな。事情を説明しろ」

 

 下手に教えたら報復に出る、なんてことは考えていなかった。レミリアがそれを良しとしない矜持を持っていることくらいは知っている。

 

「妹のことは知ってるわよね」

「お前から聞いた程度なら」

「あの魔法使い、道に迷ったのか私の方に来ないでそっちに行ったのよ」

「地下、だったか。俺も詳しくは知らないが」

 

 レミリアと咲夜がうなずく。魔理沙は何を間違えたのか、レミリアのいる方ではなくその妹のいる方に向かってしまったらしい。

 適当に歩いていれば持ち前の勘で最善を選べる霊夢と違い、彼女は普通の人間だ。間違えてしまうのも無理はなかった。

 

「フランにも一応スペルカードルールは教えておいたし、私も結果しか知らないからなんとも言えないんだけどね。あの魔法使いと会ってからフランが外に興味を持ち始めたのよ」

「ほう」

 

 それが良いことなのか悪いことなのかはわからないため、曖昧にうなずいておくだけに留める。

 

「だから聞きたいの。あの魔法使いはフランに何を言ったのか。何をしたのか。私にはできなかったことを簡単にやってのけた彼女は誰なのか」

「知ってどうするつもりだ?」

「どうするもこうするもないわ。姉として妹を引っ張ってくれたことに感謝するだけよ」

 

 迷いなく言い切ったレミリアに咲夜が物言いたげな顔になる。

 彼女が頭を下げるということの意味。そして十六夜咲夜という存在がいても変わらなかった現実をあっさり変えてしまった少女への嫉妬や羨望。

 それらが無表情を装った顔の裏に隠れていることを、信綱は年齢から来る直感で見抜く。

 

「お前は周りが見えているようで見えていないな」

「ど、どうしてそれを? パチェとかにいっつも言われることを?」

「とまあ、この通り子供の主人だ。愛想を尽かしたのならさっさと出ていくのが吉だぞ」

「まさか――あなたは主人が未熟だからと離れるのですか?」

 

 愚問である、と即答されたことに信綱は唇を歪めてレミリアを見る。

 レミリアは今の言葉が誰に向けられたものなのかを理解し、僅かに頬を赤らめた。

 

「うー……おじさまったら意地悪ね」

「俺がお前に意地の良い面を見せたことがあったか」

「自覚はあったのね……。咲夜、この人みたいになっちゃダメよ。仕える人間として一つの極地かもしれないけど、これはなったら人生終わりな部類だからね」

「肝に銘じます。とはいえ、個人的には従者の先達として学ぶところは多そうですが」

「とりあえず私心をなくすところからだな」

「お嬢様、彼のようになれない無力な自分をお許しください」

 

 なんかもうスタート地点からして違う、と咲夜は期せずして正解にたどり着いていた。

 レミリアは咲夜の言葉を聞いて苦笑するものの、咎めはしなかった。自分が欲しいのは私心を持たない人形ではなく、むしろ私心を狂気に昇華させた者なのだ。

 咲夜はそれを目当てで拾ったわけではない。信綱のような従者が欲しいと思ったのは否定しないが、彼女を拾ったのは――

 

「許すわ。――その代わり、レミリア・スカーレットの従者、十六夜咲夜の名を幻想郷に轟かせなさい」

「仰せのままに」

 

 彼女に、別の可能性を見出したからなのだ。

 レミリアは信綱に顔を向けて笑いかける。

 

「ね、良い従者でしょう?」

「……さて、お前がそう思うのならそうなのだろうさ。話を戻して魔法使いのことだが……あれは魔法の森に住んでいる。名は霧雨魔理沙」

「霧雨? あそこのお店の?」

 

 レミリアは出てきた名前に目を白黒させる。彼女の知っている霧雨の家は商人の家であり、間違っても魔法使いが出てくるような家ではなかった。

 

「今の店主の実娘だ。詳しい事情は省くが、色々あって魔法使いになっている。スペルカードルールがある今だからこそ出てきた芽とも言える」

「ふぅん、なるほど。今度会いに行ってみるわ」

「そうしてくれ。殺さないようにな」

「善処するわ。私の用件はこれでおしまい。最後にこれだけ聞いたら帰るわ」

 

 そう言いながらも、レミリアは立ち上がって部屋の外に出ようとしていた。これから口にする内容に対する答えを理解しているように。

 

「――阿求は、私のこと覚えてるかしら?」

 

 寂しげな笑みと共に放たれた言葉に対し、信綱は瞑目して慎重に言葉を選ぶ。

 阿求はレミリアのことを知っていた。だがそれは覚えているというより――

 

「……本人に聞くのが筋だろう」

「その言葉で大体わかっちゃったわ。……そっか、阿弥にはもう会えないのね」

「あの方はもういない。今、稗田の家の主人は阿求様だ。それを忘れるな」

 

 自嘲するように微笑むレミリアに信綱はにべもない言葉を返す。

 レミリアが阿弥のことを忘れないのは良い。だが、それで今いる阿求を見ないのは看過できない。

 それにレミリアが感じているであろう痛みは、これからも人間と関わるのなら受け続ける痛みだ。

 彼女の後ろにいる咲夜とて人間であり続ける限り、死は必ず訪れるのだ。

 

「……会いたくないと言うのなら、多少の便宜は図る」

 

 信綱の口から出た言葉はレミリアを気遣うものであり、彼女が望むなら自分たちと会わない方が良いという提案でも会った。

 いつか訪れる人間の死に彼女が傷を負ってしまうのなら――それは会わない方が良いこともある。片方が傷つき続ける関係は健全とは言えない。

 

「それは逃げよ、おじさま。私は誇り高き吸血鬼。未来が変わらなくても、私の選ぶ道は変わらない。……気遣ってくれたのは、嬉しいけど」

 

 そんな意図で出てきた信綱の提案をレミリアは一蹴する。

 そして信綱に背中を向け、無言で恭しく頭を下げる咲夜の手を取って外に向かっていく。

 

「また会いましょう、おじさま。次は阿求も交えて、ね」

「……わかった」

「では失礼致します。……次は個人的に会いに行くかもしれません」

「む? なぜ――」

 

 意味深なことを咲夜が言い残したため理由を問うてみようとするものの、すでに二人は空に浮かび上がっていた。

 追いかけて聞くことも考えたが、阿求の元に戻るという大義の前には咲夜の台詞など砂塵にもならない。

 信綱はすぐに思考を切り替えて阿求の元へ戻っていくのであった。

 

「阿求様、ただ今戻りました」

「あ、おかえりなさい。レミリアさんはどうしたの?」

「異変を起こした後の所感等です。阿求様とはまた改めて場を整えたいと話しておりました」

「ん、じゃあレミリアさんの都合が良い時に話を聞かせてもらいましょう。どんな人なのかは……まあ、お祖父ちゃんとのお話で少しわかったけど、楽しみ」

 

 やはり覚えていない。楽しみな気持ちを隠せない阿求の無邪気な笑顔でそれが確信できてしまった信綱は、しかしそれを表情に出すことなく微笑み返す。

 彼女にそれを指摘しても傷つくだけであり、それは信綱にとって避けるべきこと。故に取るべき行動は決まっていた。

 

「……きっとご期待に添えると思いますよ。彼女は子供であり、同時に誇り高い吸血鬼です」

 

 彼女の在り方に価値は見出しているのだ。誰に依ることもなく、自らの誇りに依って立つ姿は確かに人を惹き付ける。

 天魔のように自分の強みを自覚しているかはわからないが、同時にそれが彼女の魅力になっているのだろう。

 

「お祖父ちゃんも信じてるの?」

「昔は嫌ってましたが、今はそうでもありません。彼女は自らの価値を証明した」

「……そっか。お祖父ちゃんは長生きだから、色々な妖怪と色々あるんだね」

「不本意ながら。ですが、阿求様や阿弥様の縁起の助けになっているのなら望外です」

 

 そう言うと阿求はふわりと優しく微笑む。

 阿七のような優しさを、阿弥のような喜びを、そして阿求らしい活発な感情をのぞかせるそれを見て、信綱はレミリアの話していた阿弥に会えないという言葉を思い出す。

 

 違うではないか。阿七も、阿弥も、これまでの御阿礼の子だって皆、阿求の中に息づいている。

 同一視するわけではない。それは阿求に失礼だ。

 だが、確かに引き継がれているものもあるのだと思えた。

 

 今までの信綱ならわからなかった。自分と阿弥のことで手一杯だった彼には継承の意義を見出だせなかった。

 多くのものを見てきて、一つの時代が終わる姿と始まる姿を見た。

 終わってしまうことには悲しみと痛みを伴うが――それだけでは決してない。

 

 霊夢は先代の技と彼女の教育を受けて、立派に博麗の巫女として初陣を飾った。

 魔理沙は勘助、弥助譲りの行動力で新たな道を切り拓いている。

 

 そして阿求は御阿礼の子としての使命を自分なりに果たそうと阿七、阿弥とは違う形での幻想郷縁起を作ろうとしている。

 信綱にはそれが何よりも嬉しかった。阿七、阿弥が歩んできた軌跡は無意味ではないのだと実感できた。

 

「……ええ、本当に。多くのものを見てきました」

 

 これからもそれを見続けていくのだろう。阿求の側仕えを辞する、その時まで。

 阿求もまた、信綱の表情から多くのものを感じ取ったのだろう。何かを言うことなく静かに首を振り、信綱の手を取る。

 

「じゃあ、今日はそのお話が聞きたいな。お祖父ちゃんのことだから、一杯あるんでしょう?」

「阿求様が望まれるのなら、いくらでもお話いたします」

 

 身体の弱い阿七や阿弥のためでもあったのだ。阿求に聞かせる内容は山のようにある。

 

 さて、相手は求聞持の力を持つ御阿礼の子だ。

 痛快で、愉快で、笑顔になれる。そんな話を自分の中から探すとしよう――




時代は変わっていくけど、ちゃんと変わらないものもあるというお話。
ノッブは一つの時代の中心であり、今は新たな時代の始まりを見届ける側に立っている。

……とはいえ、それを惜しむ人もいるわけです。なので異変でも稽古でもなく、純粋に戦闘となる場面がもう一つだけ追加される予定です。入らなかったら? 没になったと思ってください(真顔)

初陣を見事に勝ってきた霊夢がご褒美をねだってきたり、なんか咲夜さんが押しかけてきたり、紅い霧が出て植物に大迷惑なんだけど! とゆうかりんがキレてきたり、そんな感じの話が出て――春が訪れない異変が始まる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

紅霧の晴れたある日

 霊夢はウキウキしていた。

 異変の解決は見事に勝って終了した。我ながら上手く行ったと自画自賛するほどに。

 怪我もなし。異変の黒幕である吸血鬼は相応以上に手強く、そこで弾幕を受けてしまって服は破損したが、それは霖之助に押し付けた。

 

 何やら魔理沙も異変解決に出てきたようだが、紅魔館で会っていないので詳しくは知らなかった。

 子供の頃にあんな危険な目に遭ったのだから人里にいれば良いのに、と思わなくもないが、彼女の人生は彼女のもの。自分が口を出すのもあれだろう。

 

 ともあれ、あれだけ上手く異変解決ができたのだから、きっと爺さんは褒めてくれる。そう信じていたのだ。

 

「だから爺さん! 今日ぐらい稽古の手を緩めて!」

 

 いつも通りやってきた信綱がいつも通り組手を始め、それが三回続いた辺りで霊夢は自分の期待が砕ける音を確かに聞いた。

 その上今回は霊夢が異変解決をした後――つまり本格的な実戦を経験した後のことだったので、信綱の側にも気合が入っていた。手加減とかして欲しいと霊夢は切実に願っている。

 

「却下」

 

 しかし信綱は無情にも霊夢の懇願を却下する。

 稽古で手を抜いて困るのは霊夢なのだ。十分な実力を持たず実戦に臨み、死んでしまったら元も子もない。

 

「鬼! 血も涙もない! うら若き乙女をいじめて楽しいわけ!?」

「割りと」

「楽しいの!?」

 

 霊夢の成長速度は見ていて飽きない。一を教えれば十にして返ってくるというのはなかなかに心地良かった。

 とはいえ一を聞いて十を知る程度(・・)の才能だけで幻想郷の魑魅魍魎とやっていけるかと言われたらそうではないため、努力を怠ってはいけないことを教えているのだ。

 

 霊夢にそれを言ってしまうと持ち前の怠け癖が顔を出してしまうので、適当に言葉を濁してごまかす。

 霊夢は爺さんの知りたくない一面を知ってしまった――具体的に言うなら阿礼狂いについて知った時並の絶望を顔に浮かべていたが、些細なことだろう。

 

「続けるぞ。スペルカードルールが用いられる異変では使う機会がないかもしれないが、体捌きは重要だろう」

「うー……わかったわよ。あ、そういえば」

「どうした」

「爺さんと母さん、どっちが身体を動かすのは得意なの? それに二人とも夫婦なんだし、一緒に稽古とかしたの?」

「白兵なら俺の方が得手だった。あれは体術に結界を織り交ぜたものを使っていたからな」

 

 妖怪相手の殺傷力という点では霊力の扱いに熟達した先代の圧勝だが、単純な技量では信綱が上回っていた。

 先代から霊力を盗み見るまで、鋼の刃と己の肉体一つで戦っていたのだから当然といえば当然の話である。

 

「一緒に稽古は?」

「俺が霊力の扱いを教えてくれと言ったり、逆に向こうが身体の動かし方を教えてくれと言ったり、何度かあった程度だ」

 

 信綱は御阿礼の子のために日々精進することを当然のように受け入れているが、先代は違った。

 巫女の役目を終えた後は信綱の家でのんべんだらりと暮らし、ごくたまに信綱の修行を見ているくらいだった。

 彼女の幸福は穏やかな一日にこそあった。当たり前の日常を当たり前のように過ごす中にこそ。

 

「…………休憩はこのくらいで良いだろう。今日は時間があるからとことん付き合ってやろう」

「異変を解決したかわいい娘に対するご褒美は!?」

「? だから稽古を一日付けてやると言っているではないか」

「それご褒美なの!?」

 

 違っただろうか、と首を傾げる信綱を見てこれは本気だと悟ってしまう霊夢。

 冗談ではない。一日神社にいて料理を作ってくれたりするならまだしも、稽古を一日ずっとなど正気の沙汰ではない。信綱は平気でも霊夢は御免こうむる。

 なので霊夢がそれを白状すると、信綱は考え込むように顎に手を当てる。

 

「ふむ、一応俺なりにお前が喜びそうなものを考えたつもりだったのだが……」

「ゴメン、何がどうなって一日稽古になったのか全くわからないんだけど」

「お前は俺と一緒の時間を過ごしたがっているように見えたからな」

 

 よくわかっているのに、なぜ結論が一日中稽古というものになるのか理解に苦しむ霊夢だった。

 頭痛を堪えるように額に手を当て、ため息をついて霊夢は信綱の前に立つ。

 

「爺さんの好意を無下にするのも悪いし、午前中は付き合ってあげる。その代わり午後は私に付き合ってもらうからね!」

「まあ良かろう。では始めるか。しばらく反撃はしないから好きに打ち込んでこい」

「遠慮なく――ハッ!!」

 

 霊力によって強化された拳と蹴りが信綱に迫り、信綱はそれらを一つ一つ受け流していく。その構図がすぐに完成する。

 大柄な大人である信綱と、まだ肉体も完成していない少女の霊夢。体格差は明らかだが、その体格差故に霊夢は人が意識しづらい下段からの攻撃を行える。

 

 腿、股間、下腹部。どれも手を下に向ける、ないし足を使う必要がある対処に苦慮する箇所だ。

 しかし信綱は苦もなくそれらを受け流す。力の方向を丁寧に誘導され、一撃必殺の攻撃をいとも容易く相手の隙に転換してしまう。

 

「このっ!」

「当たれば勝てる、なんてバクチに頼ろうとするな。相手に良いようにされるだけだ」

 

 霊力のこもった一撃。直撃さえすれば信綱とて昏倒は免れないものであると双方ともに認識している。

 だからこそ霊夢には何が何でも当てようという気負いが生じ、信綱はそれを見抜いて攻撃への対処が簡単になっていく。

 顎を刈り取ろうと放たれた昇天脚を首を傾けるだけで回避しながら、信綱は口を動かして霊夢の動きを指摘していく。

 

「技術で相手の方が上だと理解したらなるべく動きを小さくしろ。決定打を受けなければ機会は必ず来る」

「まだまだ!」

 

 口では諦めていない風に言うものの、霊夢の動きは脇を締めて隙を極力排したものになっていく。

 そうなると信綱がいくら受け流したところで決定的な隙にはつながらない。受ける威力も減るが、一撃受ければ死ぬ人間の戦い方はこれが最良だった。

 

「良いぞ、人間は妖怪の一撃を受けたら死ぬ。殺られる前に殺るのではすぐ頭打ちになる。自分の攻撃は全て当てて、相手の攻撃は全て避けるか受け流す。それを徹底しろ」

「簡単に、言わないでよっ!」

 

 徐々に息の切れてきた霊夢が苦し紛れに蹴りを放つ。

 信綱はいつも通りそれを受け流そうとして――霊夢の足が止まる。

 

「む」

「取ったっ!」

 

 霊夢が足を上げることによって信綱に生まれた死角。それを使って霊夢はスカートに仕込んでいた退魔針を信綱の顔目がけて投げる。

 どうせ当たるとは思っていない。しかし避けるなら首が。掴むなら手がそれぞれ使われる。その瞬間を狙って流れを自分のものにする。

 一度の実戦を経験したからか、霊夢は信綱が好む戦法の実用性を理解できていた。

 

 すなわち――主導権は何が何でも自分が持ち続けろ、ということである。

 

(避けるか、受けるか。どっちでもいい! それで生まれる隙に私が攻撃を入れる!)

 

「――悪くない判断だが、少々見せ札が露骨過ぎたな」

「へ? きゃっ!?」

 

 信綱がどのように動くのか。それに集中しすぎてしまい、霊夢は信綱の足が自分の足を刈り取ったことに気づけなかった。

 同時に信綱の手は退魔針を全て掴み取り、霊夢は尻もちをついてしまう。

 

「いたたたた……」

「針を投げて隙を作らせるまでは良い。だが常に相手の全身を視野に入れるようにしろ。特に能力を持つ相手ならなおさらだ」

 

 針を地面に落とし、尻もちをついた霊夢を起こしながら信綱は彼女に戦い方を教えていく。

 信綱は能力を持たないがために、攻撃自体は非常に素直だ。どこぞの鬼のように足で地面を叩いたら、地面が隆起してくるとか炎を操るとかの摩訶不思議な技はない。

 足を振れば蹴りが、拳を振るえば打撃がそれぞれ物理法則に従って来るだけだ。

 

「予想できない攻撃などいくらでもある。異変を解決してきたのならわかるだろう」

「うん。なんか時間を止めるとかいう変なメイドとかもいたし」

「それらに対処するためにも、常に思考を止めず相手の全身を見続けるんだ。全く何の予兆もなしに能力を行使する輩は多くない」

 

 目の動き、微妙な身体の変化。本人がいくら消そうとしたところで消えない癖はある。それらに気づく、ないし誘発するのが能力を持つ妖怪相手の土俵に立つ方法である。

 

「ん、わかった」

「よし、では再開するぞ」

「はぁい……」

 

 がっくりと肩を落としながらも霊夢は改めて構え直し、信綱との稽古に没頭していくのであった。

 

 

 

 その後、霊夢は稽古でかいた汗を流そうと風呂に向かい、信綱は彼女の入る風呂の用意を外で行っていた。

 霊夢は湯船でバシャバシャと気持ち良さそうに足を動かしながら、外で温度調節をしている信綱に声をかける。

 

「それでさあ、爺さん」

「どうした、ぬるいか?」

「そっちじゃない。……私は異変を解決したのよ」

「そうだな」

「爺さんと一緒に戦った雑魚とは違う、本当に強い妖怪とも戦ったのよ」

 

 レミリアと相対した時の感覚は今でも覚えている。

 気を抜いたら一瞬で喰われる。信綱と稽古していた時にも感じなかった、生物としての格の違い。

 膂力、速度、再生力。どれを取っても桁違い。その気になれば一瞬で自分はひき肉になる。そんな存在。

 

「うむ、それがどうした」

「……あんまり怖くなかった」

 

 しかし、霊夢はそれらに恐怖を覚えることはなかった。

 脅威であることは認識した。本当に殺し合ったら勝ち目が薄いことも理解した。だが、本当にどうにもならないという絶望は生まれなかった。

 

「それはお前の感覚が麻痺していたからか?」

「ううん、違うと思う。……爺さんと比べたから、だと思う」

 

 幼少の頃から稽古をつけてもらい、今なお本気を出すことすらできていない父親代わりの存在。

 昔はとにかく強い程度の認識しか持っておらず、彼の力量が幻想郷でどの程度なのかなど、考えたこともなかった。

 だが今は違う。紅魔館の主という、幻想郷のパワーバランスの一角を担う存在と相対して、確信を持ったことがある。

 

「前にも疑問だったけど、今はもっと疑問。――爺さんはどのくらい強いの?」

「……あそこの吸血鬼と俺を比べて、どちらが勝つと思う?」

「爺さん。レミリアが弱いとは思わなかったけど、爺さんの方が強いと思った」

 

 実際に戦ってみたらわからないだろう。信綱がいくら強いと言えど、肉体は人間。一手でも間違えれば簡単にすり潰される存在に過ぎない。

 けれど霊夢には信綱の負ける姿が想像できなかった。例え生と死が紙一重の戦いであったとしても、勝つのは信綱だと確信が持てた。

 

「……まあ、否定はしない。昔の人里では妖怪が隣人ではなく外敵だった。それらから身を守るために戦ったこともある」

「レミリアとも?」

「もう半世紀近く昔にな」

「……そっか。やっぱり爺さんって人里でどうこうってより、幻想郷を見渡しても強い方なんだ」

「そうだな。幻想郷で強いとされる妖怪とは一通り戦った」

 

 そして生きているということは、つまりそういうことなのだろう、と霊夢は湯船に肩まで浸かりながらぼんやりと思う。

 よくもまあ昔の自分はこの人にちょっと修行すればすぐ勝てるなどと思えたものだ。おそらく彼は人間の枠組みに留まらず、幻想郷という枠組みで見ても上位に位置する実力を持っている。

 

「どうしてそんなに強くなったの?」

「妖怪が外敵だと言っただろう。御阿礼の子の使命を思い出してみろ」

 

 霊夢はブクブクと口元をお湯に沈めて泡を吐き出しながら、寺子屋で学んだ人里の歴史について思い出していく。

 

「妖怪の対策本である幻想郷縁起の編纂……なるほど」

 

 今や妖怪は隣人となっているが、昔はそうではなかった。ではその中に飛び込む御阿礼の子の危険はどれほどのものなのか。

 当然のように側仕えには強さが求められる。信綱はその中で突出した強さを見せたということだ。

 

「そういうことだ。そして俺は次の世代に自分の跡継ぎを作るのは無理だと判断した」

「それはわかる」

 

 即答されたことに物申したくはあったが、飲み込んで先を話し始める。

 

「……うむ。で、それなら俺がすべきことは次の世代では武力の必要ないようにすれば良い。それが最も御阿礼の子のためになると考えた」

 

 本当の理由はそれだけではなく、むしろ今言った理由の方が後付についたものに近いが、そちらは黙っておく。この理由も全て嘘というわけではないのだ。

 

「それで今の幻想郷を作ったの?」

「俺だけではない。多くの妖怪と人間が同じように考えた。それで今が作られている」

「ふぅん、みんなうんざりしてたならもっと早く仲良くなれば良いのに」

「お前は自分から友人を作りに行けたか?」

「う……」

 

 言葉に詰まる。霊夢という少女は普通の少女であり、誰かに甘えたくなる時もある。

 だがそんな時でも顔を赤らめてもじもじと恥ずかしそうに言ってくるのだ。

 そんな彼女に素直になれ、なんて言われたい人はいないだろう。

 

「そういうことだ。キッカケは誰だって欲しいものなんだ」

「そっか。爺さんがそのキッカケになったのね」

「不本意ながらな。……それはそうといい加減上がれ。のぼせるぞ」

 

 だんだん霊夢のためにお湯の温度を調節するのが面倒になってきた信綱は、うんざりした様子で霊夢に声をかける。

 

「えー、温くならないお湯って気持ちいいんだもん」

「ではこれが異変を解決したお前への褒美でいいか」

「今すぐ上がるからちょっと待って!!」

 

 ザバァ、とお湯をかき分ける音が聞こえ、次にドタバタと戸を開く音が聞こえてくる。どうやら急いで風呂から上がり、着替えているようだ。

 この様子では人里でも彼女に振り回されるのだろう。老体なのだから多少は労って欲しいところだ。

 

「やれやれ、甘えたい盛りか……」

 

 小さくため息をついてそれを受け入れることにする。霊夢に付き合っていられる時間はあと僅かであり、それが過ぎてしまったら今度こそ彼女は一人で博麗の巫女として生きていくことになる。

 それがどれほどの辛さか、先代を見てきた信綱には理解ができた。そして厳しい役目であっても、誰かがやらなければならないものであることもわかっていた。

 

 霊夢の母親は遠くに旅立ち、信綱もまた旅立ちの時は近づいている。勘の良い霊夢にはそれが薄々わかっているのかもしれない。

 そう考えれば彼女の甘えっぷりにも納得が行く。もうすぐいなくなるのだから、目一杯甘えなければ損というものだ。

 

「爺さん、おまたせ! じゃあ人里行こ!」

 

 可愛らしいアレンジの施された巫女装束を纏い、霊夢が肩を弾ませて来る。

 その顔にはこれから信綱と買い物に行くことへの期待がキラキラと表れており、信綱は肩をすくめるしかない。

 

「俺は忙しいんだ。あまり時間は取らせるなよ」

「わかってるって! ほら、ただでさえ少ない時間は有意義に使わないと!」

「全く……」

 

 存外、この巫女は一人にならないかもしれない。一度懐いた相手には人懐っこく、素直な少女なのだ。

 人間は相手を選ぶかもしれないが、博麗の巫女が関わることになる相手など大半が妖怪。無駄に気が長く、人間を見抜くことにかけては右に出るものもいない彼女らなら、霊夢の本質を見抜いてからかうに違いない。

 

 自分がいなくなった後も、霊夢の周りにはいつも誰かがいるようになるのだろう。

 そんな未来が幻視できた信綱は、微かに口元を歪めて笑みの形を作り、霊夢と二人で人里への道を歩いていくのであった。

 

 

 

 

 

 信綱は心労を覚えたことはあまりない。

 御阿礼の子が関わることであればそれは多大な喜びを抱いてやるべきことであり、そうでないことであっても煩わしいと思ったことはあれど、どうにもならないと絶望したことはほとんどない。

 

 阿弥の側仕えをしていた頃、いきなり八雲紫ら八雲の面々が家に押しかけてきた時は胃痛を覚えたが、あれは例外としておく。今ならあの三人が来たところで余裕を持って対処できる。

 しかし、対処ができるからといってそんな事態が起きてほしいかと言われれば否であり――

 

「……本当に来たのか」

「なによ、来たら相手をするって言ったのは嘘だったわけ?」

 

 目の前に座っている少女――風見幽香の来訪に信綱は頭痛を覚えてしまうのであった。

 幽香はとっても不機嫌です、という感情を隠しもせずしかめっ面で信綱を睨んでおり、彼女がそんな顔をする理由に心当たりのある信綱は微妙に顔を合わせづらかった。

 

「……俺は家の場所を正確に教えた覚えはなかったはずだが」

「花屋で聞いたわ。火継の名前を出したら目を輝かせて教えてくれたわよ。それとあそこの花屋、結構良い品揃えね」

 

 だったらそこで満足して帰れよ、と思うものの口には出さないでおく。

 曲がりなりにも家に来れば相手をすると言ったのは自分だ。素直に来た幽香の心象を無闇に損ねるのは良くない結末しか待っていないだろう。

 

「……場所を変えるぞ。一応庭がある」

「花は?」

「景観を壊さない程度だが、ここよりは多いだろうさ」

「なら良いわ。そこの不自然なバラとか、見ていて壊したくなるから」

「やめろ」

「手入れはしっかりしているようだからやめておくわ。花もあなたに恨みはないみたいだし、誰かからの貰い物?」

 

 これは紅霧異変の首謀者を教えたらレミリアが死ぬんじゃないだろうか、などと考えてしまい、幽香の質問は無視して庭に向かうことにした。

 幽香は無視されたことに対し、さらに顔をしかめるものの文句は言わずに着いてくる。

 そうして案内された庭を見て、幽香は微かに感心した様子で庭を眺めた。

 

「……これはあんたが?」

「人目も入るし、阿求様が来ることもある。見目を整えるのは当主の仕事だ」

 

 そう言って信綱が縁側に座ると、幽香も同じように信綱の隣に腰を下ろす。

 傍目から見れば人間の男が絶世の美女と呼んでも過言ではない少女を侍らせているように見えるが――とんでもない。信綱にとって彼女は毒花以外の何ものでもなかった。

 腹の底から込み上がってくるため息を押し殺しながら、信綱はわかりきっている相手の用件を尋ねる。

 

「で、何の用だ」

「わかってるんでしょう? この前の霧よ」

「予想はしていた。防げなかったわけでもないだろう」

「当然。私の周囲は完璧に防いだわ。でも知らない場所で好き勝手されて良い気はしないの」

「お前は俗世と関わりたくないのではなかったか……」

「私から手出しはしない。但し向こうから手を出した場合は別。それに不本意ながら、ほんっとうに不本意ながら人里に来る用事もあったし」

 

 二度も言う必要があったのか、と思っていると信綱の眼前に指が突きつけられる。

 細くて白い指だが、微かに土と花の匂いが混ざったその指は、幽香が魔力さえ込めれば信綱の頭など簡単に破裂させられるものだ。

 

「花にももっと色々なものを見た方が良いと言われたのよ。一番身近で思いつくのはあんたしかいなかったわ。だからこうして足を運んだわけ」

「…………」

 

 花に説教されるような幽香の生活を憐れむべきか、思いつく人物が自分しかいない幽香の人間関係を嘆くべきか、それともただ単に迷惑なので怒るべきか、信綱にはわからなかった。

 それらの言いたいことを飲み込み、信綱は呆れたように肩を落として口を開く。

 

「……じゃあ、しりとりでもするか?」

「子供か私は!」

「りんご。言えなかった方の負けで」

「ごま!」

(まり)

 

 律儀に付き合ってくれる辺り、本当に素直な人格である。これで力さえなければ信綱も強気な子供を相手にする気分でいられたのだが。

 適当に口を動かして幽香としりとりの体裁を取りつつ、どうすればこの少女が満足して帰ってくれるかを考える信綱。

 

 わざと負けたらそれを見抜いて怒るだろう。かといって勝ちに行くとそれはそれで拗ねる。変に洞察力はあるくせに根っこが素直というのは面倒でたまらない。

 しりとりに持ち込んだこと自体が間違いだったかもしれない、と信綱は考えなしに口から出した言葉を僅かに後悔する。

 過ぎてしまったことをどうこう言っても仕方がない。信綱は立ち上がって部屋に戻る。

 

「り、り、り……ちょっと、どこ行くのかしら」

「本格的に頭の運動にしようと思ってな。少し待っていろ」

 

 そうして持ってきたのは将棋の盤だった。駒もすでに並べられており、すぐにでも始められる状態になっていた。

 

「口で負けたお前が口で勝ちたい。それはつまり、頭の回転で俺に勝ちたいということだ」

「……しりとりをしつつ、将棋でもあんたに勝てば良いわけね」

「いや別にしりとりはもうどうでも良い――」

 

 信綱が否定する前に幽香が駒を動かし始めてしまっていた。瞳は爛々と挑戦的な輝きを宿しており、絶対に勝つという意気込みがありありと伺えた。

 ……しりとりしながらの将棋になんでそこまで熱意を燃やせるのだろうか、と思ってしまったことは内緒にしておく。彼女に言ったらまた顔を赤くして暴れるだろう。

 

 自分だけが見ている分なら気にすることもないのだ。わざわざ指摘して彼女にとって忘れたい思い出を増やしてやる必要はあるまい。

 先送りにした方が後々もっと最悪な形で彼女の思い出になるんじゃないか、と思考がささやくがそちらは無視することにした。その時はもう死んでいるはず。死んだ後の責任まで取りたくない。

 

「……ちなみに俺はこれを結構やっているから、いくらか駒を落としてやった方が平等になると思うが」

「嫌よ。そんなので勝っても嬉しくないわ。さあ、しりとりも再開するわよ」

 

 しりとりと将棋を同時に行うというチグハグな勝負で勝って嬉しいのかこいつは、と一周回って感心してしまう。この少女の素直さと言うか、目の前のことに対してののめり込み方は半端じゃない。

 彼女を下手に他の妖怪と触れ合わせたら逆に不味いんじゃないかと思ってしまう信綱。

 この見た目と行動、言葉遣いに反して根っこが非常に素直なことがバレてしまったら、良いからかいの標的である。この幻想郷において、突いて面白い箇所を突かない輩はいないのだ。

 

 もう自分の時間も残りわずかだろう。そして大部分は御阿礼の子に捧げることが決まっている。

 ……が、それ以外の時間の少しぐらいなら、この妖怪に割いても良いのだろう。主に自分が死んだ後に騒動を起こしてほしくないという理由で。

 彼女には見た目だけでなく、中身も淑女になってもらおう。今のままでは不安で仕方がない。何の拍子に爆発するかわからない特大の爆弾を相手している気分である。

 

「王手」

「ああっ……!?」

 

 ということで容赦なく勝ちに行くことにした信綱。自分と継続的に関係を持ち、その上で彼女の根っこを育ててやる必要がある。

 なぜこの歳になって妖怪の面倒を見なければならないんだ、と思いながらも投げ出すことはしない。彼女の成長は御阿礼の子にとっても有益になるだろうし、逆に放置は彼女にとっての害となる可能性がある。

 

 例えなんとか勝ち筋はないかとすでに詰みの盤面を必死に眺めている子供のような少女であっても、大妖怪であることに変わりはないのだ。彼女が本気で暴れた際の被害は想像もつかない。

 

「ま……負けた……」

「負けは素直に認めるのか」

「負けたのに負けを認めないのは気高いのではなく、ただ無様なだけよ。負けるのはもちろん悔しいけれど、これを糧にしてやるわ」

「勝利に貪欲なのは結構なことだ」

 

 そしてその性格もできれば失ってほしくはないものである。今は微妙に方向性が違っているが、彼女のこの大妖怪としての矜持を大切にする在り方は好ましく思っているのだ。

 

「もう一回! もう一回やるわよ!」

「せめて明日にしろ。今のままだと千回やっても俺が勝つぞ」

「……やってみなきゃわからないでしょう」

「それは勝敗が明確に決まらない場合だ。王を取られたら負けな将棋でそれは通じん」

 

 知識を蓄え、相手の裏をかき、自らの策に陥れる。幽香が信綱に望んでいるであろう、知略を駆使した勝負がここにあった。

 

「俺に口で勝ちたいのか、それとも知恵で勝ちたいのか。どう勝ちたいのかは知らないし興味もない。ただ勝ちたいのならこの場で俺の首を取れば良い。その気になればできるだろう」

 

 この場で信綱に勝ち目は薄い。刀も一振りしか持っていない現状、戦闘になったら五分五分が関の山。それで勝っても相討ちになる可能性の方が高い。

 それを聞いた幽香は負けを認めた時以上に不愉快な顔になり、そっぽを向く。

 

「すでに出た結果を力づくで覆して何が楽しいわけ? 侮るのもいい加減にしなさい。この大妖怪、風見幽香にあるのは正面突破のみよ。相手の得意分野で打ち勝ってこそ、相手の本気で悔しい顔が見られるってものでしょう」

「…………」

 

 結果として悔しい顔をしているのはお前だけだぞ、と指摘したらまた機嫌を損ねるだけだろう。

 

「……わかったよ。お前の勝負に付き合うと言ったのは俺だ。多少は付き合ってやる」

「言われずともそのつもりよ。例えダメと言っても押しかけるわ」

 

 本当に実行するだろうから、御阿礼の子との時間にかち合わないことを切に願う信綱だった。さすがにこんなしょうもない理由で命懸けの勝負はしたくない。

 幽香は持ってきた日傘を差し、中庭に立つとそのまま浮かび上がっていく。

 

「ではごきげんよう。――次は絶対勝つ」

 

 最後にドスの利いた声で宣戦布告をされてしまい、信綱はもう遠くに行ってしまった幽香の背中を見てため息をつく。

 異変解決に参加しなくて良くなったというのに、どうして自分のところには未だ厄介事がやってくるのか。

 いつになっても煩わしいことは消えないものである。自分はただ御阿礼の子に仕えていたいだけなのに。

 

 信綱はままならない――というか思い通りに進んだことの方が少ない自分の人生を振り返って、もう一度大きなため息をつくのであった。

 

 

 

「全く、人間のくせに生意気ったらないわ。頭も腕も私より強いとか……」

 

 ブツブツと小声でつぶやきながら少女――風見幽香は帰路にあった。独り言であっても相手が自分より強いことを認めるところで声が低くなっていたが、そこはご愛嬌である。

 思い返すのは先ほどまで知恵を競っていたあの男のことだけだった。ここ最近は花の世話の他にあの男を負かす方法を考えるようになっていた。

 ……その方法がしりとりと将棋を同時に行うことになったのは、少しばかりどうかと思ってもいた。

 

 そもそも、風見幽香は聡明な妖怪だ。でなければいくら突出した力があっても、一人で生きていけるはずがない。

 物心ついた頃から一人で生き、戯れに人間の暮らしを眺めて、やってきた妖怪や人間を蹴散らして、気づいたら大妖怪になっていた。

 物事の大半を思い通りに進められる力があるのだから、それを振るわないのは嘘だろう。幽香は道を阻むものは容赦なく排除して今の世界を築き上げた。

 

 そこに至るまで――幽香は自分は悪意に鋭いと自己分析していた。

 彼女の生命を脅かす悪意。彼女自身の力を利用しようという悪意。見目麗しい少女を自分のものにしようとする悪意。

 長く生きていれば悪意にさらされることも多くなる。特に自分のように人間に馴染める気質でなく、かといって人間から逃げるように暮らすのも負けた気がして嫌だと思ってしまう人種は特に。

 

 故に幽香はそこに悪意があるのなら見抜ける自信があった。どれだけ口当たりの良いことを言っていようと、そこに自分を利用する気配があれば見逃さない。

 

 しかし、あの男は違う。

 確かに自分を利用する気配はあった。だがそれは決して自分のためではなく、自分の主のためだった。

 それ以外についても悪意もなければ利用する気も感じられない。本心から幽香が近づいてくるのを鬱陶しがっている様子しか見えなかった。

 どうでも良いと思われるのもそれはそれで癪である。そのくせ、幽香が来ることを拒まなかったり来たら来たで面倒そうにしながらも相手をするなど、相手の意図が読めない。

 

「全く、不愉快極まりないわ……。負け続けることもそうだけど、わからないことが一番腹が立つ」

 

 どうせあの男はもうすぐ死ぬ。死んだら幽香の抱えている謎も永遠にわからずじまいになってしまう。そうなる前にせめて糸口だけは掴んでおきたい。

 差し当たって考えるべきは――次も将棋の勝負になるだろうから、その時までに戦略を考えておくことだ。

 

 

 

 空を飛んで帰路につく幽香の顔は間違いなく不機嫌なそれであり、本人もそう感じているだろうが――どこか、楽しげな空気でもあった。

 

 

 

 ちなみに彼女は霧の出した相手のことをすっかり忘れており、思い出したのは帰ってからになるが――花は守ったしまあ良いかと流してしまうのであった。

 ……目先のことに集中してしまう悪癖については――信綱が指摘しない限り、自覚はされないのだろう。




ポンコツ度合い高めなゆうかりんですが、相手に自分から突っかかっている状態であり、なおかつノッブがそうなるよう誘導しているのでそうなっている感じです。
一人の時は割りと冷静だったり。けど目先のことに頭が行っちゃうので、その辺りを突かれると弱かったり。
とはいえ彼女は目先のこと以外考えなくても良い存在です。極論、花と自分のプライドさえ守られるなら良いので、大局を見る必要が薄い。

力は間違いなく大妖怪だし、精神もそれに類するだけのものを持っています。悪意に敏感なので、利用されないだけの術もちゃんと心得ている。
だからこそ悪意も利用する気もなく、ただ風見幽香個人を見て、彼女の性格を見てその上で面倒だとしながらも相手をするノッブがわからず、しかも自分より強いからつきまとっているわけです。ノッブからすればいい迷惑です(真顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

咲夜の一日修行

ちょっとエクステラをプレイしていて遅くなりました。アルテラは良いぞ……次のアルテラピックアップが来たら全力を出さざるを得ない。


 なんか庭にメイドが立ってる。

 それが早朝の鍛錬に出ようとした信綱の最初の感想だった。

 朝っぱらから面倒くさい予感がひしひしとして頭痛を覚えながらも、信綱は口を開く。

 

「……一応聞くぞ。そこで何してる」

「旦那様をお待ちしておりました」

「無断で人の家に入ったことで自警団に通報していいか」

「捕まえられるものなら――あっ」

 

 咲夜は流れるようにそう言って――直後、動けなくなっている自分の足に驚いて口元に手を当てる。

 見れば足元には白色の光を放つ結界が張られており、下手に動けば足首が切断されるエゲツない状況になっていた。

 思わず、といった風に咲夜が信綱に視線を向けると、彼は実に煩わしいと言わんばかりの渋面を作りながら、長刀を携えていない方の手で印を組んでいた。

 

「能力に自信を持つのは結構だが、そう何度も見れば対策の一つぐらい立つ。転移する、といった類ではないだろうしな」

「なぜそうお思いになったのでしょうか?」

「足元の筋肉の動きで一発だ」

 

 他にも服のシワなどで彼女が歩いて移動をしていたことが読み取れていたが、その辺りは伝えない。種明かしをする際には対策を取られても問題ない部分を伝えるものだ。

 それを聞いた咲夜は心底から感服した様子で吐息を漏らし、足が動かせない状態で見事な所作でお辞儀をする。

 

「――さすがでございます。いきなり現れた不躾をどうかお許し下さい」

「世辞はいらん。なぜこんな時間に訪ねてきた。まだ日も昇っていないぞ」

「お嬢様は夜行性ですから、私も問題はありません。そして本日旦那様をお訪ねになったのは、お嬢様の命令ではありません」

「……?」

 

 意図が読めない、と眉をひそめる信綱。

 そんな彼に咲夜は深々と――ともすれば主人にする所作よりも深い敬意を込めて、改めて頭を下げる。

 

「お願いします――この十六夜咲夜を弟子にしてください」

「……なに?」

 

 ちょっと何を言っているかわからなかった。

 信綱と咲夜は誰かに仕える従者という点では同じだ。

 しかし仕事の内容は全く違うはず。

 

 信綱は阿求の身の回りの世話のみならず、彼女の家の維持や彼女がやらなければならないこと以外の全てを受け持っている。阿礼狂いである彼にとって、御阿礼の子に関わる作業を誰かに任せるというのは耐え難い苦痛だった。

 咲夜の仕事内容は知らないが、少なくとも信綱と同じくらいの忠誠と能力が求められるものではないだろう。というより、そんなものをレミリアが求めてきたら咲夜は怒って良い。

 

「意図が読めんな。お前にはその能力があるだろう」

「はい。ですが私の先達とも言える旦那様の手際を見ることは勉強になるかと思い、参じた次第です」

「ちなみにレミリアは?」

「手紙を置いて来ました」

 

 それは家出と言うのではないだろうか、と思ったが口には出さないでおく。言っても言わなくても変わらないという意味で。

 追い返すのは簡単だ。だが、それでこの少女が諦めるかと言われたら首を傾げる。

 おまけに霊夢から聞いた話を総合すると、彼女は時間に関係する能力を持っている。単純に追っ払って、もう来ないと安心するのは難しい。

 

 であればここは適当に付き合って彼女の好奇心を満たしてやった方が良い。遠ざけられたものを手に入れようとするのは人の性だが、懐に入れてしまえば興味を失うことが多いのだ。

 

「……阿求様に伺いを立てて了承が得られたら。それと一日だけだ」

「十分です。それでは短い付き合いになるかもしれませんが、よろしくお願いします」

「……はぁ」

 

 好奇心旺盛で紅魔館の話も聞きたがっている阿求が断るとも思えないし、今日は一日面倒なことになりそうだとため息をつく信綱であった。

 

 

 

「まずは何をするのでしょうか」

「早朝は鍛錬だ。従者たるもの、主の危機を事前に払うのは基本となる」

 

 御阿礼の子は幻想郷縁起の編纂のため、どうしても危険な場所に行くことがあるが、そうであっても可能な限り危険を排除しておくのが役目である。

 時に文書で。時に武力で。彼女に向かう危険を少しでも減らすため、信綱含む阿礼狂いは日々文武の修練を怠らない。

 

 咲夜の主であるレミリアと違い、御阿礼の子に戦う力は皆無なのだ。だからこそ側仕えである信綱に求められる力は大きくなる。

 

「だから幻想郷のどんな妖怪が相手でも勝てる力を得れば問題ないわけだ」

「それはおかしいと思いますわ」

 

 信綱が鍛錬するに当たっての基本的な指針を話したら、何を言っているんだこいつは、という目で見られてしまった。

 そんなにおかしいことを言っているだろうか、と疑問に思いつつ信綱は長刀を構えた。

 その様子を見た咲夜はニコリと笑ってナイフを取り出す。

 

「相手がいた方が鍛錬になるのでは?」

「お前程度では稽古にならん」

「……む」

 

 にべもない信綱の言葉を受けて、咲夜の表情がムッとしたものに変わる。

 喜怒哀楽で言えば楽の表情が多く、にこやかにしていることが多い咲夜ではあるが、ここまで言われては黙っていられないようだ。

 少し驚かせよう。そんな気持ちで自らの能力――時を操る程度の能力を発動させ、微動だにしない信綱の後ろに回り込んでナイフを突きつけて――

 

「そら、読みやすい」

「嘘……!?」

 

 突きつけたナイフが握られていた。振り返りもせずに振るわれた長刀が咲夜の首筋にピタリと当てられ、その動きを縛る。

 時間を止めている間、確かに信綱は動いていなかった。だというのに、時間の停止を解除した瞬間にこれだ。訳がわからない。

 

「種も仕掛けも不要な一芸だ。第一、お前が能力を使って俺が対処ではお前の稽古にしかならん」

「……それもそうですわね。では私は見学をさせていただきます」

「そうしておけ。役に立つかは保証しないが」

 

 最初に会った時もそうだが、この男は底が知れない。

 主であるレミリアは驚くほど彼に執心で、同時に彼をこの上なく尊重しているように見えた。

 欲しいものは絶対に手に入れようとする子供っぽい――もとい、強欲な主人なのに、なぜかこの人間に対してはそうしない。

 

 それがなぜなのか、咲夜にはまだ理解が及んでいなかった。

 

 そうして信綱の朝の鍛錬――手元を見る限りそう速くもないはずなのに、なぜか受け切れる気が一切しない斬撃を見届けた後、移動を始めた信綱の後ろをついていく。

 

「……身体を清めるだけだ。来なくていいぞ」

「ですがあなたのそばにいないと私は捕まってしまいます。一応、無断で入った身ですし」

「……後でレミリアに犬の躾はしっかりやっておけと言っておこう」

「ところで朝餉の支度は手伝った方が良いですか?」

 

 いきなり話題が変わった。都合が悪かったのか、それともただ単に天然か。

 信綱は疑わしげな半眼になるものの、特に何かを言うことなく上半身の着物を肌蹴て井戸水を組み上げ、頭からかぶる。

 

「あら、眼福ですわね」

「何がだ」

「そのお身体です。失礼ながら、お歳を聞いても?」

「七十八だ。我ながら長く生きたと思っている」

 

 勘助らのように人里で過ごしたわけでもなく、あまり長生きできる生き方をしたつもりもなかったが、気づいたらこんな歳まで生きていた。

 三代もの御阿礼の子に仕えることができたのだから文句などあるはずもない。頑健な肉体に産んでくれたことは顔も知らぬ母親には感謝している。

 

「まあ」

 

 咲夜は信綱の歳を聞いて目を見開く。三十代、とまではいかずとも五十代ぐらいだと思っていたが、予想以上に歳を取っていた。

 そして肉体もそうである。鬼の顔が伺えるほどの背中からわかる、巌の如き肉体。

 女性では難しいであろう、鍛錬に鍛錬を重ねた極地とも言える肉体を見て咲夜は感嘆の吐息を漏らす。

 

「その肉体を作るための努力に敬意を表します。私には想像もつかないような鍛錬を重ねたのでしょう」

「さてな。朝餉の仕込みをするから行くぞ」

「はい」

 

 そうして信綱は咲夜を伴って稗田の屋敷に足を向ける。昨日はたまたま所用で火継の家に戻る用事があったのだ。

 まだ女中も起き出さない朝方、二人は厨房に入って朝餉の支度を行っていく。

 

「お前は見るだけだ。阿求様にお出しする食事に万一があってはいけない」

「わかりました。さすがにあなたの仕える人にちょっかいは出しません」

 

 出したら命が危ないどころの話ではないだろう、と咲夜は自らの直感が告げる危険信号に従うことにした。

 事実それは間違っておらず、もし彼女が信綱を試そうと時間を止めて悪戯でもしようものなら――その不埒な腕は容易く斬り飛ばされるだろう。そして首が宙を舞う。

 信綱との付き合いは浅いどころか、まだ二度目であるというのにその光景が克明に脳裏に浮かんでしまい、咲夜は背中に走る悪寒をこらえて見学に徹する。

 

 見るだけでもわかるが、信綱の調理の技術は驚嘆に値するものだった。

 手際、速度、丁寧さ。どれを取っても咲夜より上だ。

 年季、経験、それらが絶対的に違う。咲夜はまだレミリアに仕え始めて五年程度しか経っていないが、彼は誰かに仕えて半世紀以上――単純に考えても十倍以上の差がある。

 

 信綱は何を思って御阿礼の子に仕え続けたのか。彼女らに尽くすためにどんなことを考えたのか。今、それらの一端を知ることができるのは間違いなく咲夜にとってのプラスになる。

 彼を訪ねた時に見せていた穏やかな態度は消え去り、真摯に何かを学ぼうとする視線になって信綱の一挙手一投足に見入っていく咲夜。

 

 そんな彼女の視線を受けながら、信綱は朝餉の仕込みを終え、作り上げてしまう。

 

「あら、もう完成させてしまうのですか? まだ主は起きていないはずですが……」

 

 それともここの主人はレミリアのように何度も起こさないで良い人物なのだろうか。だとしたら羨ましい話である。

 レミリアはなかなか起きない割に、それで食事が冷めたりすると嫌な顔をするのだ。

 

「阿求様は熱いものが苦手でな。出来たてをすぐにお出しすると火傷してしまう。それに昨日は床に入るのが少し遅かったようだから、多少起きるのが遅くなっても良いものにしてある」

「そこまで考えてらっしゃることは素直に尊敬しますけど、どこでそこまで知ったんですか?」

 

 この人間の仕え方は真似して良いものと、真似したら人間の道を踏み外しそうなのが混在していて怖い。

 それを告げると信綱は何かおかしなことを言っているだろうか。いや、言ってないと反語でそれを否定した。

 

「俺は阿求様の側仕えだ。あの方が一人になりたがらない限り、俺はあの方の側に侍る。これぐらいできて当たり前のことだ」

「……一応、覚えておきます」

 

 いつか自分も彼のような芸当ができるようになるのだろうか。従者の先達の形が見えて嬉しいような、恐ろしいような。

 そんなことを考えている間に信綱は出来上がった膳を持って歩き出す。ちょっと考えたくない自分の未来予想図に思いを馳せていた咲夜もそれに続き、阿求の部屋の前まで来る。

 

「お前は部屋に入るな。客人に寝顔を見られるのは阿求様も望まれないだろう」

「わかりました。寝起きの会話も聞かれるのは恥ずかしいでしょうから、私は離れております」

「…………そうしてくれ」

 

 咲夜は来た道を戻り、話し声が聞こえないと思われる距離まで離れていく。

 信綱はそれを見送って、どうして自分にその気遣いが成されないのか、と嘆きつつ阿求を起こしに部屋に入る。

 

 ちなみに部屋に入るなと言った理由は信綱が口に出した理由も正しいが、一番は御阿礼の子の寝顔を見るのは自分以外に許さないというものであった。

 なにせ御阿礼の子の側仕えになるのは阿礼狂い――火継の人間全てが望む場所。火継でもない有象無象が見て良いものではない。

 

 信綱は音も立てずにふすまを開き、すやすやと眠っている阿求の枕元までそっと歩み寄る。

 そして常日頃から騒がしい妖怪に拳骨を落としたり、タカリにやってくる妖猫の耳を引っ張っている手が、彼女らが見れば目を剥く優しい動きで阿求を起こす。

 

「阿求様、朝でございます。阿求様」

「ん……朝……?」

 

 阿求が眠そうに眼を半分ほど開き、祖父と呼び慕う男性の顔が映っているのを見て、安心した笑みを浮かべる。

 

 ――今日もまだお祖父ちゃんは元気だ。

 

 いつか信綱が暇乞いをすることは確定しており、それはもう目の前まで迫っている。

 あと何ヶ月、何年、時間が残っているのか阿求にはわからないが、五年はない。それは理解できた。

 

 信綱がいなくなり、自分は生きて毎日を過ごしていく。想像しようと思っただけで目眩がしてしまう。

 だが、それは否応なしに訪れる瞬間なのだ。恐れても、受け入れても、死は平等に訪れる。

 だから喜ぼうと阿求は考えた。信綱と過ごせる一日一日に感謝し、彼がどれだけ自分に尽くしてくれているのか噛み締めて、日々を過ごそうとしていた。

 

「……ん、おはよう。お祖父ちゃん」

 

 今日も元気な信綱の顔が見られた。それだけで十二分に幸運なことなのだ。

 阿求は寝起きで上手く思考がまとまらない――それ故に日頃から心がけていることが表に出て、幸せそうに微笑む。

 

「ええ、おはようございます。本日は気持ちのよい晴天です。そろそろ春の芽吹きが聞こえる頃ですよ」

 

 そんな阿求に信綱もまた微笑み、一日が始まっていくのである。

 

 

 

 着替えまで信綱にやらせるのは恥ずかしいと思っているため、着替えは阿求一人で行う。

 生まれて間もない時は私がしていたのですが、と残念そうな顔で信綱に言われてもそこは譲れない。というか赤ん坊が誰かに着替えさせてもらうのは当たり前のことだ。

 

 そして着替えも終わった頃、ようやく阿求の口に丁度良い温度となった朝餉が出され、朝食が始まるのだ。

 信綱も阿求のお願いで一緒に食事を取るように言われているので、そこで信綱も朝食となる。

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 朝はあまり食べる方ではない阿求であっても、色々な味が楽しめるよう粋を凝らした食事である。

 野菜、魚、肉。それぞれが少しずつ、なおかつ阿求の好みの味付けで、さらに苦手なものがあっても気づかれないようにする。

 そこまでやっていながら、信綱は側仕えとして当然の役目であると何も言わない。料理とは誰かに食べてもらうものであって、誰が作ったかを誇るものではないのだ。

 

 ……ちなみに歴代の側仕えでそこまでやっているのは信綱くらいのものだったりする。他の側仕えはそこまで手が回らない。

 なにせ月に一度の総会で負けたら側仕えは交代なのだ。六歳の頃から今に至るまで七十年以上勝ち続けている信綱がおかしいのである。閑話休題。

 

 食事を終え、お茶を飲んで朝の一服をしたところで信綱が口を開く。

 

「本日の予定の前に少しお耳に入れたいことがあります」

「ん? 今日は集めた資料を元に幻想郷縁起の執筆と、あと小鈴のところに借りた本を返しに行くくらいだったはずだけど」

「はい、その通りです。……非常に心苦しいのですが、私の方の事情です」

 

 心底苦々しいという表情になる信綱。朝は何の気まぐれか咲夜の頼みを聞いてしまったが、よく考えなくてもそれはこの愛しい主との時間が削られるに等しいのだ。

 後々咲夜に目をつけられかねないということを差し引いても、断っておけば良かった。

 しかし残念ながら阿求に伺いを立てると言ってしまった。信綱は渋々という表情がありありと伺える様子で阿求の顔を見る。

 

「え、なになに? お祖父ちゃんの方の事情? なにそれすっごい気になる!」

 

 とても顔を輝かせて信綱を見ていた。

 なにせこの祖父、本当に何事にも如才がないのだ。無理難題を言ってみたつもりでも軽くこなしてしまうし、急にお茶が飲みたくなった、とか言ってみたらすでにお茶が用意してあったとか、当たり前のようにやってくる。

 そんな信綱が嫌そうな顔をする何か。ものすごく気になるのは孫娘として当然ではないだろうか。これは確かめないと気になって幻想郷縁起の作業に手がつかない。

 

 ということを言うと信綱はグッと言葉に詰まり、心から困っているのがわかった。もうその姿が見られただけでも阿求は今日一日楽しく過ごせそうだった。

 

「……実は紅魔館のメイドから私の仕事が見てみたいと言われまして」

 

 そして信綱の口から出てきた言葉によって、阿求は今日という一日がさらに良いものになることを確信するのであった。

 

「メイドさん? 紅魔館のメイドって、妖精メイドじゃないの?」

「最近になって人間のメイドを雇ったようです。人里の人間ではなく、外来人の」

「え、なにそれ聞いてない。ここ数年の話?」

「はい。紅霧異変の取材もまだ行ってませんし、阿求様がご存じないのも無理はないかと」

「ん、あれ? お祖父ちゃんは知ってたの?」

「私も紅霧異変の時に向こうから接触された時に知りました。能力持ちですから、阿求様がお会いになる価値はあると愚考します。……それはそれとしてお嫌でしたら私が追い返しますが」

「ううん、お客様をもてなさないのは稗田の当主として大問題です! だからお祖父ちゃん、その人こっちに呼んできて?」

「……かしこまりました」

 

 ニッコリ笑ってそう言ってくる阿求に逆らうすべなど、何一つ持っていない信綱だった。

 でも阿求様が喜んでいるみたいだしまあ良いか、と思いながら信綱は咲夜が来たことを前向きに受け止める。

 阿求もどこかでレミリアたちに話を聞く必要はあったのだ。その時の手間が一つ減ると思えば自分が面倒なことぐらい大したことではなかった。

 

 そうして呼び寄せた咲夜が文字通り一瞬で出てきたため、阿求が驚いたりそれを見た信綱が咲夜に剣を抜きそうになったりとあったが、それでもどうにか互いの自己紹介を終えることに成功する。

 

「信綱さんの仕事ぶりを参考にしたい、ですか……」

 

 阿求は咲夜の事情を聞いて、興味深そうに腕を組む。

 これは信綱が考え事をする時の癖のようなもので、阿求も御阿礼の子としての威厳を出そうと思って真似をしているのだ。効果の程はさておいて。

 咲夜は微笑ましいものを見る目で自分の願いを話していく。

 

「ええ。誰かに仕える者という点で見れば、私と旦那様は同じです。それにこの方のお話はお嬢様から常々聞かされておりましたから、個人的にも興味がありました」

「それで信綱さんの仕事はどうなんですか? 何か咲夜さんに迷惑とかかけてませんか?」

「私が一方的に迷惑をかけ倒してますわ」

 

 朝からいきなり押しかけられたことを考えれば咲夜の言う通りなのだが、阿求はそれを謙遜と受け取ったらしく、咲夜への敬意を深めていた。

 いきなり話題の切り替わるマイペースな部分や、時間を止めて悪戯をしたがる部分を除けば、彼女の立ち居振る舞いは信綱も認める瀟洒なものなのだ。

 まともなことを言ってまともな振る舞いをしていれば、咲夜より子どもである阿求の歓心を買うことは考えられることだった。

 

 ……実際のところを知っている信綱は呆れたような半目で咲夜を見ていたが。

 

「それで阿求様が望めば、になりますが本日はこの少女が私の後ろをついて回ることになります」

「私はもちろん大歓迎です! 紅魔館のお話とか色々聞けそうですし! 咲夜さん個人のお話にも興味ありますから!」

 

 阿求はどこにでもいる年頃の少女としての顔ではなく、幻想郷縁起の編纂者たる御阿礼の子としての表情でそう言ってくる。

 それはつまり自分の従者について回ることを許可するから、自分の知りたいことには全て答えろ、という要求であった。

 

 無論、咲夜に断る道はない。断ったら屋敷裏、という視線で信綱が睨んでいることが第一。第二に自分のことを話すだけで信綱の作業が見られるのなら、そのぐらい安いというのが挙げられる。

 

「……私のお話で良ければ喜んでお話しますわ」

「じゃあ今後人里にどんな形で関わっていくのか、とかもお願いしますね! あ、もちろん紅魔館全体じゃなくて咲夜さん自身のお考えで結構ですから!」

 

 自分のことを話すのは問題ないが、この興味津々な少女の質問に洗いざらい答えるのは、非常に大変なことではないかと思ってしまう咲夜であった。

 

 午前中はそうやってほとんどが取材に費やされることになってしまった、と咲夜はずっしりと肩に疲労感を覚える。

 稗田阿求という少女を甘く見ていた。よもや私生活では何をしているか、とか人里とどのように関わっていきたいか、などという辺りまで聞かれるとは思っていなかった。

 

 信綱は阿求の後ろについて咲夜の話をまとめ、阿求は自らの好奇心が存分に満たされてツヤツヤとした顔になっていた。

 なんだか信綱の見学というより、それにかこつけて良いように話をさせられているような気がしてならないが、最初にお願いをしたのは自分である。

 今から逃げようものなら、絶対に信綱がレミリアに嫌味を言って咲夜にも返ってくる。

 

「……はぁ」

「あ、咲夜さん、疲れました? すみません、私ったら自分のことばっかり……」

「ああ、いえ、申し訳ありません。こうして話をするというのは慣れておらず……」

 

 幸いというべきか、話を聞きたがる阿求が面倒な子でないことは救いだった。好奇心旺盛なキラキラとした瞳で次は次は、と年下の子に話をねだられるのは悪い気がしない。妹がいたらこんな感じだろうか。

 と、咲夜と阿求が互いに恐縮してしまい話が途切れてしまったところを見計らって、信綱が口を開く。

 

「……そろそろ良い時間です。阿求様、休憩も兼ねて昼食にいたしましょう」

「あ、もうそんな時間? だったら午後からはお祖父ちゃ――信綱さんの好きにしていいよ。咲夜さんは信綱さんの仕事が見たいって言ってるんだし、私も午後は小鈴に本を返さないと」

「かしこまりました。お気をつけてお出かけください」

 

 おや、と咲夜は意外そうな目で信綱を見る。

 阿礼狂いと呼ばれるほど御阿礼の子に入れ込む人間が、あっさりと阿求が一人になることを許容するとは思っていなかったのだ。是が非でもついていくのだとばかり思っていた。

 

 そんな咲夜の疑問に答えたのは三人で食べた昼食が終わり――信綱が咲夜にも気づかない間に作っていた――稗田邸の掃除を始めてからとなる。

 

 紅魔館ほどではないが、稗田邸も十二分に広い屋敷だ。そのため掃除には信綱一人だけでなく、女中の手も借りることがある。

 しかしそれもあくまでごく僅かな人数であり、大半は信綱が掃除をする。

 阿求がよく使う書庫や阿求自身の部屋は言うまでもなくチリひとつ残さず、それ以外の部屋についても丹念に磨いていく。

 

 一日だけとは言え咲夜も見習いなので掃除の場所を任された。ここは自分の従者としての技量を発揮する場面だと思い、力を入れて掃除をして信綱が確認している時だった。

 

「そういえば、あの子は一人で大丈夫なのですか?」

「阿求様か。俺も本心を言えばあの方の側にいたい」

「そう言うと思ってました。ですからあそこで阿求……様の言うことを受け入れたのが不思議で」

 

 午前中のお話で咲夜は阿求とかなり親しくなったと思っており、意図せず呼び捨てにしそうだった。

 それを耳ざとく気づいた信綱に凄まじい目で睨まれてしまい、慌てて敬称を付ける。

 そんな彼女を一瞥し、信綱は再び咲夜の仕事ぶりの確認に戻りながら口を開く。

 

「……人間、一人になる時間も必要ということだ。俺はそうでなくとも、阿求様ぐらいの年頃の子が俺のような老爺と四六時中一緒では息が詰まる時もある」

 

 無論、阿求に問えば違うと否定するだろう。赤ん坊の頃から――否、阿求が生まれる前から阿求に仕えてきた人間(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)を遠ざけるなどあり得ない。

 とはいえ、それでもずっと一緒にいれば思うところも出てくるはず。人間、誰かと一緒に居続けるというのは意外なほどに体力も気力も使うものなのだ。

 

「それに俺がいては阿求様のご友人も遠慮してしまうだろうからな。遠慮せずに付き合える友人は貴重だ」

「……あなたの口からそのような言葉が出るとは思いませんでしたわ」

 

 言葉も行動も、全てが御阿礼の子を至上としているとはばからないくせ、当たり前のことを軽視しない。

 紅魔館が全てであり、今後も紅魔館に全てを捧げるであろう咲夜には新鮮な言葉であり、同時にそういった友人がいるのだろうか、という自問自答にもつながる言葉であった。

 

「俺とて友人ぐらいいた。人間の友人はもう死んだが、妖怪ならそれなりにいる」

「……交友関係が広いのですね」

「自分ひとりでできることなどたかが知れている上、考え方も偏る。それを避けるためにも知り合いは多いに越したことはない」

 

 但し、自分の本分である側仕えに支障が出ない範囲に限る。

 そう言うと咲夜は感心したように何度もうなずき、自分も考えてみますと言って話が途切れる。

 そして少しの間、信綱が咲夜の掃除ぶりを確かめて、こちらもまた感心した声を出す。

 

「……ほう、意外と丁寧だな。細かい箇所も綺麗に掃除されている。レミリアは良い従者を拾ったものだ」

「あ、あら?」

 

 これまた驚いてしまう咲夜。確かに力を入れて掃除はしたが、ここまで素直に褒められるとは考えていなかった。咲夜は信綱を従者として完全な先達だと思っていたのだ。

 わたわたと落ち着かない様子で髪や頬に手を当てる咲夜を見て、信綱は不思議そうに見てくる。

 

「どうした、何を慌てている」

「い、いえ。そんな真っ直ぐに褒められるとは思ってなくて」

「良い仕事をしたのなら賞賛するのが当然だろう。その年頃で見事なものだ」

「う、うぅ……」

 

 すっかり顔を赤くしてしまい、もじもじと地面を見る咲夜だった。どうやら褒められ慣れていないらしい。

 

「ほ、他の部屋も掃除してきます! それと旦那様! 今日はあなたの仕事を見せてもらうのですから指摘をもらわないと困ります!」

「後で紙にまとめておく。その方がお前も手間が省けるだろう。あと掃除はもう終わったぞ」

「えっ」

 

 かなり気合を入れて掃除したため通常より時間がかかったとはいえ、咲夜は時間も止めてズルをしたというのに何を言っているのだろうかこの男は。

 信じられないものを見る目で信綱を見るが、嘘や冗談という雰囲気ではなかった。どうやら本気で終わらせたようだ。

 

「……つかぬことを伺いますが、この部屋の掃除って旦那様はどのくらいで終わらせます?」

 

 ちなみに咲夜は細かいところの掃除も丹念に行って三十分ほどかけた。

 

「手際よくやれば五分もかからん」

「……本日一日、旦那様のお仕事を勉強させてもらいます」

 

 やはりこの人間は底が知れない。人間的に見たら間違っても参考にしちゃいけない部類ではあるが、従者として見たらある種完成された存在だ。

 仕える姿勢や信念はさておき、その技巧には見るべきものがある。咲夜は改めて信綱に頭を下げるのであった。

 

 

 

「阿求様がお戻りになられるまでは俺も手が空く。部屋の掃除も済ませたら、後は庭の手入れ、風呂の用意などを終えていく」

「庭の手入れまで旦那様が?」

「側仕えと言うからには、阿求様を目でも楽しませられなければな」

「……私も今度美鈴に聞いてみます」

「そうしておけ。一人で全てができずとも、できることが多いに越したことはない」

 

 などという話の後、信綱は稗田邸で自分にあてがわれた部屋に入る。

 

「ここは?」

「側仕えである俺の部屋だ。私室のようなものだな」

 

 阿求もここに来るのか、私室であってもピカピカに磨かれていた。

 巻物がうず高く積まれており、数多くの書籍が綺麗に整頓されている几帳面な部屋だ。

 

「……墨の香りがしますね」

「書き物をすることが多いのでな。阿求様が戻られるまではここで時間を潰す」

 

 そう言いながら信綱は素早く紙と筆を用意して何かを書き始める。

 

「私は何をすれば?」

「今は自由だ。汚さなければ屋敷の中を見て回って良いし、俺に聞きたいことを聞いてくれても良い。一日限りの弟子とはいえ、引き受けた以上適当にはやらんから安心しろ」

 

 この面倒見の良さがお嬢様に好かれる秘訣かしら、と思いながら咲夜は敷かれた座布団に腰を下ろす。スカートのため、中は見えないよう気を使いながら。

 聞きたいことはもう思いつかないが、屋敷を見回る気にもなれなかった。午前中に阿求を起こす前、信綱から一通りの案内は受けていたのだ。

 

 こうして部屋で書き物をしていることと言い、色々な面で信綱は咲夜のために時間を割いているのだろう、ということが伺えた。

 

「……本日はいきなり押しかけてしまい申し訳ありません」

「別に構わん。妖怪連中が俺の都合など考えないのはいつものことだ」

 

 不本意ながら慣れてしまった。そのため信綱にとってはこの程度、迷惑をかけられたことにも入っていない。普段より厄介な面倒事がやってきた程度である。

 

「それに理由自体は真っ当だった。お前の主人みたいに暇だから遊んで、と来られるよりよほどマシだ」

「……私は喜ぶべきなのでしょうか。それともお嬢様の奔放さを謝るべきなのでしょうか」

「言っても聞かないだろうから喜んでおけ」

 

 それきり、会話が途切れる。

 信綱は自分が言うべきだと考えたことがない限り口を開く方ではなく、咲夜もまた話したいことがほとんどなくなってしまっていた。

 技術上の疑問は道すがらで聞いてしまい、彼自身のことについても聞けば聞くほど訳がわからなくなるので、途中で諦めた。

 なんかもうそういう存在なのだと割り切った方が咲夜の精神安定上、望ましい。

 

 気まずい、というほど切迫した沈黙ではないが、それでも僅かに居心地の悪さを覚える時間。

 咲夜は色々と信綱から聞いた言葉を思い出していき、自然とそれが口をついて出た。

 

「……私も友人を作ってみようと思います。紅魔館の方たちは仕えるべき人、という目で見てしまいますから」

「その方が良い。あの門番辺りから始めていけば良いだろう」

 

 最初に声をかけるべき人まで考えていたのか、と思うと頭が下がった。

 本人にしてみれば手間のかからない範囲で、後々の面倒事を減らそうとしているだけだと言うだろうが、咲夜にとってはありがたい教えだった。

 

「――ありがとうございます。やはり本日、あなたの元を訪ねて正解でした。私には技術以前に学ぶべきものが多くある」

「俺も似たようなものだ。いつになっても学ぶことがなくなることはない。だから、まあ……俺が暇な時であれば、俺が学んだことを教えてやる」

「よろしいのですか?」

 

 二度と来るなと言われそうだと思っていた咲夜にとって、その言葉は驚愕に値するものだった。

 なんだか今日は驚いてばかりだな、と咲夜は他人事のように思いながら信綱の言葉を待つ。

 

「知られて困るものではないだろう」

「教える手間とかはどうなります?」

「そんなことを考えられるのなら、お前は俺に何かしらの利益を提供してくれるだろうよ」

 

 というかレミリアに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ。

 散々人の家に悩み相談に来るくせ、彼女は全くと言っていいほど信綱に利益を与えていない。

 それでも彼女を拒絶しないで来たら付き合っているのだから、彼の面倒見の良さはある意味筋金入りである。

 

「さて、そろそろ阿求様もお戻りになられる。この後は阿求様のおやつを作って、お前から聞いた資料の編集をして、夕餉を作るぐらいだがお前はまだ来るか?」

「――ええ、今日一日は旦那様の弟子ですもの。しっかり学ばせて頂きます」

「そうか。だったら付いてこい。そして悪戯はするなよ」

「はい、もちろん」

 

 阿礼狂いとしての在り方は真似できないだろうし、おぞましいものだとも思うが、同時に彼自身の人間性には尊敬すべきものがあると確信できた。

 先達として付き合うのであれば、能力を使うべきではない。ただの十六夜咲夜として勉強するのが正しい姿だろう。

 

 そう考え、咲夜は普段通りの瀟洒な――しかしいつもより柔らかな雰囲気をまとった笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

「ねえねえおじさま。なんかおじさまのところに行ってから、咲夜が綺麗になったっていうか振る舞いが柔らかくなったっていうか、諸々成長した感じなんだけど心当たりない?」

「ない」

「またまたご冗談を。美鈴とも仲良くなったって聞くし、最近じゃ異変の解決に来た霊夢とか魔理沙とも話すようになったって言ってるのよ? おじさまが何かしたとしか考えられないわ」

「それは彼女の努力だろう。俺が指示したわけではない」

「ふぅん。でもいきなり押しかけてきたメイドさんを一日相手にするとか、おじさまも老いてますますお盛ん――ごめんなさい! 謝るから日光は許してぇぇぇ!?」

「全く……」

 

 後日、やってきたレミリアと話して、信綱は改めて咲夜の爪の垢を煎じてこいつに飲ませた方が良い、と真剣に思ってしまうのであった。




阿求の側仕えをしている最中のノッブの弟子入りをするという、地雷原でタップダンスどころじゃない暴挙をしている咲夜さん。
もうちょっと悪戯心が顔を出していたら、首が飛んでいた(物理)かもしれません。

でもノッブの一日をこういう形で書いてみたかった。あっきゅんが一人になりたそうだな、と思ったら一人になるようにしています。だいたいその時間がノッブの自由時間みたいな感じです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔理沙の災難で幸運な一日

 初春の仄かな暖かさを感じさせる日差しも届かない、鬱蒼と茂った森の中。

 目には見えず、しかし確かに感じる瘴気が漂うこの場所は魔法の森と呼ばれている。

 

 昔はこの場所でも人間が住む試みが行われたのか廃屋が随所に存在し、主のいない家々が森の不気味さに拍車をかけている。

 今となっては獣すら寄り付かない、ただただ朽ち果てるのを待つばかりの家が点在する森の中を、一人の男性が進んでいく。

 

 足取りに迷いはなく、瘴気に怯む様子もない。最低限の武装である刀を一振り携えて男性――信綱は歩いていた。

 理由は至極単純。この森で暮らしている駆け出し魔法使いの少女、霧雨魔理沙の様子を見てきて欲しいと、彼女の父親と兄貴分に頼まれたからである。

 

 父親に頼まれるのは構わない。彼は商人であり、魔法の森のような危険な場所に踏み入って良い人ではないのだ。危険に対処できる信綱に任せるのは何ら間違ったことではない。

 だが兄貴分――霖之助は違う。彼もまた魔法の森に居を構えている以上、ある程度は腕に覚えもあるはずだ。その彼に頼まれるのは納得が行かない。

 

「全く、後でどうしてくれようか……」

 

 とりあえず香霖堂で何か貴重な物を見つけたら値切りまくって安く買おう、と心に決めながら信綱は魔理沙の家を目指す。

 場所自体は霖之助から聞き出しているため、道に迷うことはない。

 そうしてたどり着いたのは廃屋を多少綺麗に掃除した、という程度の古めかしい建物だ。

 

 信綱は扉を叩いて返事を待つ。誰も居ないのなら部屋で待たせてもらうつもりだった。

 いくら瘴気に耐性を持っているとは言え、四六時中薄暗い場所にいて気が滅入らないかと言われれば否である。

 幸い、魔理沙は家にいたようでバタバタと騒がしい音が部屋の中から聞こえてきた。

 そして勢いのまま扉を開いて、訪ねてきた人物が信綱であることに気づいて目を見開く。

 

「はいはい、誰だよこんな時間に訪ねて来るのは――爺ちゃん!?」

「久しぶりだな。息災そうで何よりだ」

「あ、ああ……。い、いやいやいや! なんで爺ちゃんがここに!?」

「霖之助とお前の父親から様子を見てくるよう頼まれた。部屋に入るぞ」

 

 そう言って信綱は部屋に入っていく。

 魔理沙は咄嗟に扉の前で止めようとするが、信綱はヒラリとかわして中に入ってしまう。

 

「あ、ちょっと待って――」

「……ふむ」

 

 部屋の中は惨憺たる光景だった。

 そこら中に服や魔法に用いる瓶、本などが散乱しており、足の踏み場もないと言えるほどだ。

 魔法の実験をしている影響だろうか、部屋の中から漂ってくる異臭は外の陰鬱な森の匂いが芳しく思えてくるものだった。

 栽培しているのか、それとも自生したのかわからない部屋の隅のキノコが部屋の惨状を物語っていると言えよう。

 

 信綱はその光景に顔をしかめる。

 従者として常日頃から部屋を綺麗にするよう心がけていることもあるし、親友の孫娘が自堕落な生活を送っているのを正せないのでは、あの世で彼らに会わせる顔がないとも思っていた。

 

「じ、爺ちゃん、これはだな! そう、一見散らかっているように見えるけど、実は計算に計算を重ねて私の取りやすい場所に全てが配置された――」

 

 魔理沙は信綱が顔をしかめていることに気づいて、どうにか弁解しようと上手い言い分を頭の中で必死にこねていく。

 なぜかは知らないが、この祖父の親友である男性に睨まれると身体が竦んでしまうのだ。

 普段から仏頂面ではあるものの、近寄りがたい雰囲気までは持っておらず、話しかければ優しく対応してくれる人であると魔理沙は知っているのに、どうしてか怒られることを異様に恐れている。

 が、そうして出てきた言葉はいかにも片付けられない人の言うような内容であり、信綱はそれを迷わず一刀両断にする。

 

「掃除しろ。手伝うから」

「ハイ……」

 

 有無を言わさぬ語調に何も言えず、うなだれる魔理沙であった。

 そうして魔理沙は寝床付近の着替えや魔法瓶を片付け始め、信綱は床の拭き掃除などを開始していく。

 

「うへぇ……爺ちゃんが来るなんて聞いてないぜ……」

「言ってないからな。今後もたまにこうして見に来るから、整理整頓はしっかりするように」

「気ままな一人暮らしのはずなのに……」

「その一人暮らしの結果があれだろう。さっき見た部屋が綺麗だったら俺もこんな小言は言わん」

 

 常日頃から綺麗にしてあれば、信綱は魔理沙を褒めて健康に気を遣うよう言って、差し入れでもして帰るつもりだったのだ。

 拭き掃除を終えた信綱は手近にあった本を一冊手に取ると、その表紙に眉をひそめる。

 

「……ん? こんな本、香霖堂にも人里にもなかったぞ?」

「あ、それは――爺ちゃん、開いちゃダメだ!!」

 

 中身を改めようとした信綱の手から魔理沙が本をひったくろうとする。

 ここにある本は全てが魔導書の類である。魔導書とはそれ自体が一種の妖怪に近い存在であり、正しい順序で読む、ないし魔導書の誘惑に抗える精神力の持ち主でなければ、魔導書に喰われてしまう危険なものだ。

 魔理沙から見てわかることとして、信綱は魔法使いではないということだけは確か。

 そして魔法使いでないということは、魔導書に抗う手段は己の精神力のみということ。

 

 その危険性を感じ取った魔理沙が慌てて手を伸ばし――

 

「――そんな危ないものを放り出しておくんじゃない」

「うぎゅっ!?」

 

 信綱に本の角で頭を叩かれ、悶絶する羽目になった。

 

「う、うごおぉぉぉぉ……! 頭が、頭が割れる……っ!!」

「俺以外の人間が見ていたらどうするつもりだったんだ。弥助がこれを見てみろ、大惨事だぞ」

「はぁい……悪かったよ、爺ちゃん。でもそれは借り物なんだ。わかりやすいところに置いておかないと向こうも困るだろ? 私だってずっとここにいるわけじゃないんだ。向こうが必要になった時にいつでも返せるようにしておかないと」

「お前から返しに行けば良いだろう」

 

 チッチッチ、と魔理沙は何もわかってないな、というように指を振る。

 

「甘いぜ爺ちゃん。向こうは本物の魔法使いサマだ。実力も経験も寿命だって私とは段違いだ。弾幕ごっこならそりゃ負けるつもりはないけど、魔法の知識量や技術じゃ逆立ちしたって勝てない」

「ふむ」

「だけど、そんな先達がいるってのは大きなアドバンテージだ。なにせ向こうの通った道を走るだけである程度はお手軽に強くなれる」

「一理あるな。で、本を借りたこととどう結びつく」

「私なんてどうせ百年も生きられないけど、向こうは千年だって余裕な人種なんだ。だから私の寿命分ぐらいなら借りていっても良いかなって――あ、爺ちゃん、待って。無言で側頭部に拳を当てるのやめて」

 

 あの世でなんと勘助たちに詫びれば良いのだろうか。孫娘が魔法使いの道を歩み始めたのは良い。本人も家族も納得していることに口を出す権利はない。

 だが魔法使いになり始めた孫娘がこそ泥になっているなど、どう弁解すれば良いのだ。

 

「一度痛い目に遭わせた方が良さそうだな……」

「なに恐ろしいこと言ってんだよ!? 大丈夫だって! 取り返しに来てないんだから問題ないイダダダダ!?」

「そういう問題じゃない。誰のものであろうと盗んで良いという性根が問題なんだ」

 

 買わなくて良い隔意を買うのは愚者のすることである。

 信綱の持論であり、それを実行して生きてきた。

 そしてそんな信綱から見て、魔理沙の生き方は実に危なっかしいと言わざるを得なかった。

 人里の外で生きるだけでも危険な上、その上さらに他の魔法使いから本を盗んできていると来た。命がいくつあっても足りやしない。

 

「借りた本を全てまとめろ。後で返しに行くぞ」

「後でって……爺ちゃんも来るのか?」

「身内の不手際は責任を取るものが謝るべきだろう」

 

 何を当たり前のことを聞いているんだ、という顔で信綱が魔理沙を見る。

 彼にとって魔理沙は親友の孫娘であり、人里と契約を結んでいる魔法使い――有事の際の部下でもある。

 部下である以上、彼女の問題は自分の問題と同義だ。彼女の失敗が人里に迷惑として来ないとも限らない以上、共に謝罪をするのは当然の帰結である。

 その辺りを告げると、魔理沙は不服そうな顔で信綱を見た。

 

「いや、でもさ、これは私が勝手にやったことだし、爺ちゃんには何の関係も――」

「ある。お前の祖父から面倒を見るよう頼まれた。それにお前は妖怪退治という形で人里に貢献している。お前にもしものことがあった場合、それは人里にとっても、個人的な心情としても損が大きい」

 

 一人で生きると言っても、他所と完璧に関係を断てるわけではない。

 彼女は実家との関係性は薄れたが、後見人に近い役目を果たしている信綱との接点は未だに存在し、そして生活の基盤である衣食は人里で頼らざるを得ない関係上、人里との接点も持ち続けている。

 

 そして信綱は人里の守護者であり、戦力という形で人里に利益を与えてくれる者のまとめをしている立場だ。私人としても公人としても、魔理沙を無視する選択肢はなかった。

 それらの理由を魔理沙に教えると、魔理沙は難しい顔で被っているとんがり帽子をさらに目深に被る。

 

「……一人で生きるって難しいんだな」

「そうだな。好きなことに集中したくても、余計なしがらみばかりが寄ってくる」

 

 信綱にもよくわかる悩みだった。なにせ自分の人生、妖怪に振り回されてばかりだったのだ。

 御阿礼の子に仕えたいだけだと再三言っているにも関わらず、厄介事や面倒事や異変が向こうから寄ってきた。

 それらの経験則から言って、信綱が言うべきことなど一つしかない。

 

「――諦めて受け入れろ。それでいかに素早く面倒事を処理できるかを考えることが自分の時間を増やす秘訣だぞ」

「爺ちゃんはどうやってたんだ?」

「面倒なことは素早く、かつ自分の利益になるように動いていた。例えるなら、本を盗んだりしないで力のあるものの助力をいつでも受けられるようにな」

「むぐ」

 

 魔理沙が口をつぐむ。

 まだまだ素直になれず、しかし信綱の言い分にも一定の理を見出している様子だった。

 そんな彼女の頭を帽子越しに軽く叩く。

 

「わからずとも覚えていれば十分だ。――さて、掃除を再開するぞ」

「……わかった。爺ちゃんもいるんだし、今日は徹底的に掃除するか!」

「霊夢もそうだが、お前たちは本当に遠慮というものを知らんな……」

 

 とはいえそれぐらいの方がこちらも気を遣わずに済む。

 信綱は勝手のわからない魔理沙の家の中を、魔理沙の指示の元で掃除に励むのであった。

 

 

 

「よっし! 一通りは終わりだな! 爺ちゃんのおかげでピカピカだ!」

 

 そうして一刻もした頃には、魔理沙の部屋は信綱が来た時とは見違えるようになっていた。

 自生していたキノコも魔法瓶もすっかり片付けられ、魔理沙の基準ではあるが整理整頓をきっちりした棚に収納されている。

 信綱は台所周りや床などの箇所の掃除を重点的に行っていたが、不意に魔理沙が掃除していた部分を指で拭う。

 その手にまだホコリがついてくるのを見て、信綱は呆れの混ざった半目で魔理沙を見る。

 

「……まだ汚れがあるようだが」

「爺ちゃんは私の姑か!? ここまでやれば十分だろ!?」

「……仕方がないか。しかしこれっきりではいかんぞ。日々少しでも良いから掃除をするように」

「へいへい……」

 

 明らかに嫌そうな様子ではあったが、ちゃんとうなずいたので信綱は魔理沙を信じることにした。

 次の抜き打ちでダメだったら、今度は徹底的にやるだけである。

 さておき、と信綱は次に魔理沙の格好に着目した。

 

 人里で見かける時と同じく、黒と白のエプロンドレスにとんがり帽子。

 いつも通りの格好だ。何ら不思議なところなどない。

 ……他の服はどこにあるのだろう。信綱が掃除をした時に違う服を見た覚えがない。

 

「ときに魔理沙。お前、服はどうしているんだ?」

「へ? 魔法使いっていう形から入ろうと思って、似たようなのが何着かあるけど……」

「洗濯はしているか?」

「…………」

 

 無言で視線がそらされた。

 ある意味霊夢以上に難敵である、と信綱は頭痛を覚え始めてしまう。

 霊夢は修行はサボるが、生活に関しては最低限こなしており、魔理沙は自己鍛錬には余念がないが、生活がズボラ極まりない。

 こんなところまで対照的にならなくても良いだろう、と思いながら信綱は魔理沙を見る。

 

「洗濯するぞ。脱げ」

「いやいやいや何言ってんだよ爺ちゃん!?」

「服など適当にシーツにくるまっていれば良いだろう。脱げ」

「待て待て待て待て本気か爺ちゃん!? いや本気ですね服に手をかけるのやめてー!?」

 

 帽子を剥ぎ取り、逃げようとする魔理沙の首根っこを引っ掴んで逃げられないようにする。

 そうして魔理沙の服を剥いで洗濯をしてしまおうと服に手を伸ばし――家の扉が開く。

 

「魔理沙、この前渡した魔導書の解読は進んでる? 良ければお茶でもしながら話を――」

 

 親しげな言葉とともに現れたのは信綱に見覚えがない人物だった。

 白のケープを羽織り、青を基調とした服をまとい、頭には赤いリボンがカチューシャのように巻かれている。

 美しい金髪と蒼眼も相まって、人形じみている印象を与える少女だった。

 

 その少女は信綱と魔理沙の置かれている状況を見て目をパチクリとさせた後、ものすごく気まずい状況に出くわしてしまったと頬を引きつらせる。

 

「…………ゴメンナサイ、お邪魔したわね」

「いやいやいや助けてくれよ――アリス!!」

 

 

 

 魔理沙からアリスと呼ばれた少女を、信綱と魔理沙は有無を言わさず家に引きずり込む。あらぬ誤解を受けて困るのは魔理沙も信綱も同じである。

 そして今は魔理沙が必死にアリスに事情を説明しているところだった。

 

「だから違うんだって! 私と爺ちゃんはそんなんじゃないんだって!」

「いえ、何も言わなくていいわ魔理沙。世の中、色々な嗜好があるべきだし、あなたがそういう類の人間であったとしても差別するつもりも今後の付き合いを変えるつもりもないわ。だから、そう――もう少し離れてくれない?」

「思いっきり付き合い変わってるじゃねえか!? そんな余所余所しく距離取るなよ!?」

「……俺も妻がいた身だ。それにこんな小さい少女に欲情はしない」

 

 話がこじれそうになっていたので、信綱も落ち着いた様子で注釈を加える。

 そもそも彼の中では見られて困る場面でもないのだ。魔理沙とアリスが慌てている理由の方がわからない。

 

「理由を説明しておくと、俺は彼女の後見人のようなものでな。久しぶりに様子を見てみたら部屋は汚いわ洗濯はしていないわで、彼女の服を洗濯しようとしていたところだ」

「わざわざ魔理沙が着ている服を剥いでまで?」

「これがほぼ一張羅だぞ。頻繁に洗濯しているようでもないし、良いだろう」

「……まあ、確かにちょっと臭うわね、魔理沙」

 

 信綱の時は問答無用だったため抵抗したが、アリスに言われて魔理沙はようやく自覚を持ったようだ。

 自分の服を嗅いで、おずおずとアリスに視線を向ける。

 

「……乙女的にグレーゾーン?」

「レッドゾーンよ」

「人としても問題あるぞ」

 

 汚れるのは仕方がない。こんな森に住んで魔法の鍛錬もしているのだ。

 だが、それを放置するのはいただけない。衛生面の悪化が思わぬ病気や怪我を招くこともあるのだ。

 

「……ちょっと身体洗って来るわ。爺ちゃん、悪いけどアリスの相手頼むわ」

「うむ、ゆっくりしてこい」

 

 アリスと信綱、双方に言われてしまって凹んだ様子の魔理沙が風呂場に行くのを見送り、信綱は改めてアリスと相対する。

 彼女は魔理沙に向けていた親しげな顔を消し去り、感情の読めない無表情でこちらを見ている。

 

「……一応、立場の説明をしておこう。俺はあの子の後見人みたいなものをしている。今回魔法の森に来たのも、彼女の様子を見に来ただけだ」

「それを証明する手立ては?」

「お前の知性次第だ、と言っておく。疑いたければ疑えば良い」

 

 探られて痛い腹があるわけでもないのだ。好きに探れば良い、という信綱の態度にアリスは微かに眉をひそめた。

 

「……まあ、良いわ。そんなに接点が多くなるわけでもないだろうし、これだけは確認させて頂戴」

「拝聴しよう」

 

 

 

 ――あなたは魔理沙の邪魔をするの?

 

 

 

 感情が読めない――そう意識しているアリスの瞳の奥には、確かな激情が渦巻いており、それは魔理沙への友情が揺らめいて見えるものだった。

 周りに好かれやすいと言うべきか、その人柄が周囲を惹き付けると言うべきか。

 信綱はかつて自分が惹き付けられた親友の魅力と同じものを魔理沙が備えていることに、口元を笑みの形に歪ませた。

 

「さて、邪魔というのがどれを指しているのかは知らないが、魔法使いの道を歩むことを止めるつもりはない。彼女が自身に納得できるまで進めば良いさ」

「……そう。それなら良いけど」

 

 アリスの瞳にあった警戒心が薄れ、代わりに信綱に対する奇異の視線が強まる。

 人里の住人のはずなのに、魔法の森の奥地まで苦もなく来れる実力を持ち、同時に魔理沙の道にも理解を示す人物。

 ハッキリ言って謎だらけである。いや、名前も聞いていないのでわからないことの方が多いのは当然でもあるのだが。

 そんな彼女に信綱はやや意外そうな目を向けていた。

 

「にしても意外だな。君はてっきり魔理沙から魔導書を盗ま――もとい、持ち出されている存在だと思ったが」

「間違ってないわよ。――っと、いい加減自己紹介もしないのは不味いわね。アリス・マーガトロイド。魔理沙と同じく、魔法の森に居を構えているわ」

「火継信綱。人里の守護者だ」

「へえ、道理で。相当自信はあるということかしら」

「想像に任せよう」

 

 自分を完全に知らない相手というのが新鮮だったこともあり、信綱はあまり自分の情報を出さないことにした。

 相手が読めない、という警戒で見てくるアリスに信綱は話題を変えていく。ここで話すべきは自分のことではなく、魔理沙のことだ。

 

「あの子を害するような真似をしない限り、君を害するつもりはない。魔法使いになるのが反対なら、とうに連れ戻している」

「……それもそうね。ごめんなさい、少し早合点していたみたい」

「気にしていない。それより魔導書については良いのか? 問題があるようなら無理にでも返させるが」

 

 アリスの様子を見る限り問題はないようだが、一応聞いておく。

 それを聞いてアリスは肩をすくめ、困ったような笑顔で風呂場に消えた魔理沙の方向を見た。

 

「最初はどうしてくれようかと思ったけどね。目利きが確かというか、感性が動物じみているというか、絶妙に私が使わなかったり、必要ないものしか持っていかないの。それであの子の技量にも見合ったものを持っていくとなると、もうある種の特技ね」

「……では、実害はないのか?」

「それに本当に使うものは別の場所に置いておくものよ。手近なもので満足してくれるなら安いわ」

「ふむ……問題はないんだな?」

 

 アリスは迷う素振りもなくうなずく。

 魔理沙は昔から甘え上手なところがあるとは思っていたが、ここまで来ると一種の技能である。

 本人に自覚はないだろう。あったら悪女も真っ青だ。

 

「実害があったらこんな風に訪ねたりしないわ。それに魔法使いとしての視点が増えるのは良いことでもある。まだまだ未熟だけど、だからこそ私にはない観点を持っている」

「……だったらなおのこと俺から言うことはない。切磋琢磨できているのは良いことだ」

「そうね。人間の相手がいると研究にもハリが出る」

 

 そう言って微笑むアリスの顔は正しく友人のそれであり、信綱は魔理沙が良い縁に恵まれていることを確信するのであった。

 

 

 

 アリスの持参した紅茶を三人で飲むと、アリスはさっさと帰ってしまった。

 研究も真面目にやっているようだし次の課題でも用意しておくわ、とだけ言い残して戻っていく後ろ姿を眺め、魔理沙は悔しそうに顔を歪めてテーブルに突っ伏す。

 

「アリスとパチュリーってのが私の知ってる魔法使いなんだけど、二人ともすげえんだ。魔女としての格は桁違いでさ。逆立ちしたって勝てそうもない」

「……ふむ」

「最初は霊夢に勝ちたいって一心だったけど……今は違う。もっと勝ちたいものが増えたんだ」

 

 信綱は静かに決意を燃やす魔理沙の頭に手を置く。よくよく良い縁と出会いに恵まれ、また本人も努力を怠らないのがこの一族なのだろう。

 

「――さて、久方ぶりにお前の近況を聞こうか。紅い霧が出た時のお前の活躍も聞いておきたい」

「ん? 黒幕を退治したのは霊夢なんだし、霊夢に聞くんじゃないのか?」

「そっちはもう聞いた。幻想郷縁起の編纂としても異変に参加した者全員から話は聞きたい」

 

 これは信綱が個人的に魔理沙を気にしているのもあるが、同時に阿求が編纂する縁起の資料集めでもあった。

 

「……そっかそっか。じゃあ爺ちゃんに話してやるよ、私の異変解決を!」

「頼む」

 

 魔理沙の口から語られる内容は概ねレミリアから聞いた通り、彼女のいる場所ではなく地下に向かってしまったものになっていた。

 そこまでは良いのだ。パチュリーを弾幕で下し、大図書館でちょっと本を借りていった話についても別に気にしない。彼女は阿弥を害した魔女だ。信綱が同情する謂れはこれっぽっちもない。

 

「魔女を倒すとは成長したな。よくやった」

「お、おう……?」

 

 些か以上に私怨の混ざった褒め言葉が信綱の口から紡がれ、魔理沙は戸惑いながらそれを受け取る。

 あまり表情を変える方ではない信綱がなぜか清々しい顔になっていたのだ。不審に思うのも当然である。

 

 そして話は続いていく。地下に迷い込み、たまたま出くわしたメイドを倒し、探索を進めて――一人の吸血鬼と出会う。

 

「フランって言ってさ。宝石みたいな綺麗な羽と私の髪より綺麗な金髪で――目が紅かった。あの目で見られただけでマジでヤバいって思ったね」

 

 霊夢もレミリアと相対した時に感じた生物としての格の違い。それをまた魔理沙も感じ取っていたのだ。

 その感覚は妖怪との戦闘において重要になる。人間は妖怪相手ではまず存在からして格下であることを受け入れ、それをどう覆すかで勝負が始まっていく。

 

「それでどうしたんだ?」

「うん、もう死ぬかと思ったけど、フランは普通に不審者を見る目で誰? って聞いてきただけだったんだよ。それで私が外からやってきた魔法使いだって答えたら、すげえ興味持たれた」

「ふむ。そもそも地下にいる時点で何かしらの事情はあるだろうな」

 

 レミリアから聞かされているのでおおよその事情は知っているが、あえてとぼけて推測の体を取る。

 信綱が興味を持っているのは本物の大妖怪と相対した魔理沙の対応である。

 魔理沙は信綱の意図など知る由もなく、信綱の言葉に対して正解だと言うように手を叩いた。

 

「そう! そうなんだよ! フランのやつ、昔っからずっと幽閉されてるって話でさ! でもひっでえなそれ、って憤ると不機嫌そうな顔になるんだよ! 不思議だと思わないか爺ちゃん?」

「面倒な性格をしているのだな」

 

 レミリアは子供っぽくワガママだが、同時に通すべき筋と自分の心をきちんと理解している。

 フランの方は――話を聞いている限りだと、大人のように振る舞えるが、自分の心が振る舞いに追いついていない印象を受けた。

 

「そうなんだけど……まあそこは良いや。んで、どうせ今から黒幕を追いかけたって無駄だろうし、暇そうだったフランに弾幕ごっこしようぜって誘ったんだ。そしたらメッチャ驚いた顔で見られた後に罵られた」

「なぜだ?」

「幽閉されている自分に手を伸ばすなんて超がつくバカしかいないって言われた」

 

 そう言う魔理沙ではあったが、顔には罵られた怒りではなくむしろ自分は誇らしいことをしたのだという輝きが溢れていた。

 きっと魔理沙の脳裏には、その台詞を言った後のフランの姿も克明に映っているに違いない。

 

「目がキラキラしてた。私のことをバカだって言ってるのに、誘ってくれたのが嬉しくて仕方ないって顔だった。……まあ弾幕ごっこでは軽く死にかけたけど、楽しんでくれたみたい」

「……なるほど」

 

 フランという吸血鬼のことを信綱は見ていない。故に詳しいことは何もわからない。

 ――だが、その少女が魔理沙に興味を持ったことだけは確実であると理解できた。

 

「今でも紅魔館はたまにパチュリーから本を借りに行くけど、その時にはフランとも話したりしてんだ。人里での話とか、あいつ結構興味津々なんだ」

「そうか。……お前は今後もそのフランとやらと付き合いを持つのか?」

 

 多分大変なことになるだろう。力のあるものが妖怪に好かれるとは、そういうことである。

 だが、魔理沙はそんなことを知るはずもない。迷うことなく笑い、大きくうなずいた。

 

「ああ! なんか放っておけないしな。多分行ったら鬱陶しそうに見られるけど、来なきゃ寂しそうな顔になりそうだし」

「……そうだな。頑張ると良い」

 

 フランと友達であることで訪れるであろう苦難は一つや二つでは利かないはずだ。

 その未来の苦労を労う言葉を今のうちに言っておく。

 

 信綱にも、レミリアにも、霊夢にもできなかったことをこの少女はやろうとしている。

 それがどれほどの意味を持つのか、きっとまだこの少女は知らないのだろう。

 その意味を信綱が見届けることはなく、どのような結実になるかもわからない。

 

 ただ――それが魔理沙にとって良いものとなることを願うばかりであった。




魔理沙は魔理沙で主人公しているというお話。霊夢に負けず劣らず彼女も色々なものに好かれます。
ただ、妖怪に好かれた結果どうなるかは大体ノッブを見ればわかると思います。

もう一話だけ入れて――妖々夢が始まります。そして終わったらほぼ間髪入れずに萃夢想も始まりますので、いよいよ終わりが見えてきています。

ここ最近はまともっぽそうに振る舞っていたことの多いノッブですが、妖々夢が始まればそれは消えるかもしれません。なにせ異変の内容が……ね(遠回しに)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

霊夢と阿求の不思議な一日

書きたい場面を書くの楽しいぃぃぃぃ!!(キラキラした目)


 それは完全に偶然だった。

 神社の食糧の備蓄が減ってきたので、買い出しに来ている途中の話だ。

 人里まで文字通り飛んできた博麗の巫女、博麗霊夢は寒さで白くなる息を吐いて、行きつけの店まで歩いていく。

 

 今の人里では天狗などが飛んで来ることも多いため、店の真上に直接飛んでいっても良いのだが、お店のお婆ちゃんが毎回驚いた顔をするのが心苦しく、歩くことにしていた。

 そうして歩いている途中で――視線の先に一人の男性を見つける。

 もう人里の長老と言っても過言ではない歳であるのに未だその動きに衰えはなく、寒さに背中を丸める者たちの中で背筋を伸ばして歩く立派な装束をまとう人物だ。

 稽古相手として苦手意識を持ち、狂人として近づきがたいものも感じ、同時に家族としては大好きなその人物――火継信綱を見つけ、霊夢は駆け寄ろうとする。

 

「あ、爺さ――」

 

 普通に手を振って近づこうとして、はたと思い至り口をつぐむ。

 幸い――というか奇跡とも言うべきことに信綱は霊夢に気づいた様子がない。

 

 ならばこれは千載一遇の好機ではないか、と霊夢の心がささやく。今なら信綱の後ろをこっそり尾行して、彼の知られざる一日を知るチャンスではないか。

 幸いまだ買い出しはやっていない。つまり手ぶらで動ける。

 おそらくこんな好機は二度と来ない。同じ状況があったとしても、今度は信綱が霊夢に気づいて声をかけるパターンだろう。霊夢が信綱に気づき、信綱が霊夢に気づかない。そんな奇跡は二度も起こらない。

 

 行くべきでしょう私、と霊夢の中の面白いことを至上とする自分がささやきかけてくる。

 しかし、同時にやめときなさいよ私、という霊夢の中の慎重な自分もまた声を上げていた。

 

 なにせ相手は霊夢が戦って一度も勝てていない男だ。彼の過去を全部知っているわけではないが、自分以上の修羅場をくぐってきたことは想像に難くない。

 今は何かの間違いで自分だけが気づけているが、尾行などやれば瞬く間にバレて折檻を受ける未来が容易に想像できてしまう。

 彼は間違ったことを言わないし、理不尽なことも――まあ、稽古以外では言わない。頑張れば褒めて、だらければ注意する。そういう道理に則ったことを道理に則って言ってくる男だ。

 

 その彼に対して尾行を仕掛けて怒られない未来が想像できるだろうか。否である。

 きっと見つかった時には翌日の稽古五倍とか、そういう霊夢が絶望できるお仕置きが待っているに違いない。

 

 そこまで考え、霊夢の頬に冷たい汗が流れる。落ち着いて考えた結果、得られるリターンと背負うかもしれないリスクが全く見合っていない。

 やっぱり諦めて買い物に戻ろう。そしてもう一度会ったら荷物持ちでもお願いしよう。そのぐらいなら引き受けてくれるはずだ。

 そう考え、霊夢はため息とともに店に戻ろうとして――

 

「あ、霊夢さんじゃないですか。こんなところで何してるんですか?」

「――阿求、ちょっと爺さんの後を尾行するわよ」

 

 信綱の後を尾けることを一秒も迷わず選択するのであった。

 

 

 

 霊夢と阿求はこそこそと道の端を歩いて信綱の後を追う。

 道すがらに霊夢は事情を話しており、それを聞いた阿求は目を輝かせて祖父の後を追うことに同意していた。

 

「私も興味あります! 普段のお祖父ちゃんが何をしているかって全然知らなくて……」

「私も知らないわ。でも私一人だと見つかった時が怖い。そこで――」

「私が霊夢さんを庇えば霊夢さんは怒られないという寸法ですね!」

 

 完璧である。霊夢と阿求は完全に一致した利害を確かめ、お互いにうなずき合う。

 ここに同じ男性を家族と慕う少女たち二人の同盟が結成され、信綱の後を追っているという経緯である。

 

「ところで爺さんは何してるの?」

「多分見回りです。私が小鈴と遊びたいな、とか思った時はそっと離れてくれるので」

「……なんでそういうのがわかるのかしら」

「お祖父ちゃんは私のお祖父ちゃんですから」

「……確かに。爺さんならやってのけそうね」

 

 誇らしげに胸を張る阿求と、爺さんなら不可能ではないだろうと思ってしまう自分がおかしくて霊夢の口元から笑いが溢れる。

 そして二人は信綱を追いかけ、市場の方に入っていく。

 

 阿求の記憶の中にある阿七の記憶では、この場所は人間たちが思い思いに店を出して大層賑わっていた場所だった。

 今は――妖怪もその中に混ざり、あの頃よりもさらなる賑わいを見せている。

 寒さに負けない威勢のよい喧騒と道々に並ぶ商品を少しでも値切ろうと交渉に励む者たち。そして彼らの間を飛び交い、情報を集めていく烏天狗の姿。

 すでに人里ではどこでも妖怪の姿が見られるようになっているが、この空間はそれが特に顕著で、この場所だけ別世界のような錯覚すら覚えてしまう。

 

 霊夢と阿求はそれを呆けた様子で眺め――信綱が歩いていくのを見て慌てて追いかける。

 

「すごいわね。私はあんまりこの辺りの市場ってやつには来ないんだけど、熱気が凄まじいわ」

「私もです。買い物に出る時は大体お祖父ちゃんが一緒で、行くお店も霧雨商店とかでした」

 

 気を抜いたら人混みであっという間に迷子になりそうな空間を、信綱の姿だけを頼りに歩いて行く。彼の一本芯の通った立ち居振る舞いは見つけやすくてありがたい。

 

「なんで爺さんはこの辺をうろついているのかしら」

「やっぱり人が多いからだと思います。人が多いってことは、それだけの価値観があるということで、そのぶつかり合いも多くなります」

「なるほど、やっぱり目的があったのか……あっ!」

 

 信綱が市場を歩いている理由がわかって、感心したようにうなずいていた霊夢が唐突に声を上げ、阿求の手を引いて人混みに紛れるようにする。

 

「きゃっ、霊夢さん、どうかしました?」

「今、財布をスリとった人がいたの。んで、爺さんが一瞬で気づいてそれを捕縛した」

 

 阿求には全くわからなかった。信綱が人間離れしているのはその通りだと認めるが、信綱に負けない速度でスリに気づいた霊夢も十分に人間離れしていると思ってしまう阿求だった。

 

「じゃあ一旦離れた方が良いですよね」

「見つかったら終わりよ。ちょっと離れて様子を見ましょう」

 

 こっそりと店と店の間の暗がりに隠れ、そこから顔だけ出して信綱の様子を伺う。

 後ろ手を押さえられた盗人が天狗の自警団に突き出されている光景が目に入り、間もなく騒ぎが収まることが想像できた。

 

「天狗に渡すんだ」

「はい。あの辺りは空から見た方が発見が早いですから、烏天狗や白狼天狗の方々が見回っているんですよ」

「へぇ、人間はどうなの?」

「居住区とか人里の外縁部とか、その辺りですね。妖怪が見て回ると安心できないって声もありますから」

「ふぅん……」

 

 人里で暮らしていない霊夢にはわからないことばかりである。

 しかし、意外と人里は上手くやっているようだ。

 

「動き始めたわね、追うわよ阿求」

「合点です、霊夢さん!」

 

 そうこうしているうちに信綱が再び歩き出したため、霊夢と阿求は再び追いかけ始める。

 十分に距離を取って信綱の後ろを追っていると、信綱は不意に足を止めて誰かと会話を始めた。

 

「む、足を止めた」

「あ、椛さんです。妖怪の山を哨戒している白狼天狗なんですけど、昔は人里での警備もしていたみたいで人里にも馴染んでいるんです」

「よく知ってるわね、阿求」

「お祖父ちゃんとも子供の頃から知り合いだそうです。その縁で私とも仲良くしてます……ハッ!」

 

 途中である事実に気づいた阿求が慌てて霊夢の手を引き、わざと人の多い場所に入っていく。

 阿求の焦りようは尋常でなく、霊夢は手を引かれながら不思議そうに聞く。

 

「ちょっと、どうしたの?」

「あの人、能力を持ってます! 千里先まで見えるって能力が!」

「あ、それは詰んだわね」

「諦めるの早いですね!?」

 

 しかしどうしろというのだ。千里先が見えるなら霊夢たちなどどこに隠れても無駄である。

 短い尾行だったな、と霊夢がこれまでの時間に思いを馳せていると、意外なことに信綱と椛は普通に別れてしまう。

 

「あ、あれ?」

「なんか普通に離れるじゃない。もしかして見つからなかった?」

「……かもしれないです。椛さん曰く、見たい場所をちゃんと決めておかないと頭がパンクするって」

「たまたまこっち見られてたらアウトってこと……」

 

 信綱に未だ気づかれていないことと言い、なんだか九死に一生を拾いまくっている気がしてならない。

 

「まあ何にしても見つかってないならラッキー。このまま追うわよ」

「ですね! あ、今度はお店の前で止まりましたよ!」

 

 阿求が興奮したように指を差す先には、寒い中であるというのにござを敷いて店を出している河童の少女がいた。

 緑のつなぎに青い髪。見た目こそ人間に近いものの、それらが妖怪であると雄弁に語っている。

 

「河童のお店ね。装飾品とかは河童の右に出るものはいないって聞いたことがあるわ」

「私もです。……実はこの花の髪飾り、お祖父ちゃんが阿弥に贈ったものなんですよ」

「む、それを言ったら私だってこのマフラーは爺さんに買ってもらったものよ」

 

 むむむ、と阿求と霊夢はほんの一瞬だけ顔を見合わせて対抗するように見せ合うが、すぐにやめる。

 彼が御阿礼の子を優先することはわかり切っていることである。

 ……だが、霊夢に寒さで風邪を引かないようにと贈ったマフラーの価値が揺らぐものでもないのだ。

 要するにもらったものを比較するのではなく、素直に喜ぼうという話である。

 

「あの河童とも知り合いなのかしら?」

「そこまではちょっと……あ、でも結構親しそうですし、知り合いなのでは?」

「みたいね。あの河童、リュックサックから何か取り出そうとして――あ、爺さんが無理やり止めた」

 

 河童の頭を鷲掴みにして強引に。

 離せー! という声がこちらまで聞こえてきそうな様子でジタバタする河童に、信綱は霊夢たちから見てもわかる呆れた顔になって一言二言告げた後、河童のお店を後にする。

 

「あ、離れた」

「追いかけましょう、霊夢さん!」

 

 誘った霊夢が言うのもあれだが、阿求にここまで興味を持たれる信綱は災難だなと言わざるを得なかった。

 きっと後で信綱の知り合いについてあれこれと聞かれるのだろう。

 

(爺さん、ゴメン。でも怒られたくないから許して)

 

 反省しているようでその実一切の反省が見えない謝罪を心の中でしていると信綱が不意に立ち止まり、空を仰ぐ。

 今度はなんだ、と釣られた霊夢と阿求も空を見ると、信綱の元に近寄る烏天狗が見えた。

 

「あれは……射命丸文、だったかしら」

「霊夢さん、ご存知で?」

「異変を解決した時にやってきたわ。文々。新聞に載せたいから取材良いでしょうか、って」

 

 ちなみにもらった新聞は貴重な紙として重宝している。情報としての価値? 娯楽の暇つぶしとしてはそこそこである。神社で暇を持て余すことの多い霊夢としては結構ありがたかったりする。

 

「そうなんですか。お祖父ちゃん、本当に顔が広いのね……」

「同感。いや、あの天狗はわかるけど」

 

 信綱から聞く断片的な情報のみではあるが、彼は伝説と呼ばれるにふさわしいだけの偉業を成し遂げていることはわかる。

 それを考えれば情報を求める天狗が群がるのも理解できた。あの射命丸という天狗が微妙に信綱から距離を取りたがっているのはわからないが。

 

 信綱と文は数分の間立ち話を続け、それで欲しい情報が得られたのか手帳を片手に持った文は再び空に戻っていく。

 それを見送った信綱は再び歩き出し、今度は市場の出口に向かっていく。

 

「あ、もう市場から出るみたい。見回りは終わりかしら」

「ですね。あ、今度は男の烏天狗です」

 

 まだ妖怪と会うのか、と霊夢は信綱にある種の戦慄すら覚えてしまう。

 ここまで妖怪の知り合いが多ければ、妖怪との付き合いに辟易するのもわかるものである。

 

「男の烏天狗なんて珍しいわね」

「というより、お祖父ちゃんに男の人の知り合いがいたことが驚きです」

「さり気なくひどいこと言うわね、阿求……」

 

 阿求の中での信綱の評価が聞いてみたいところだが、こらえておく。

 霊夢たちの視線の先では信綱と男性の若そうな烏天狗が会話している。

 

 烏天狗の方は実に親しそうに、それこそ十年来の親友と接するように会話を楽しんでいた。

 対して信綱は顔をしかめて嫌そうな空気を発し、一言一句に気をつけながら話しているように見えた。

 しかし烏天狗はそれすらも楽しんでいるようで、そのまま揃って歩き始めてしまう。

 

「あ、マズイ。並んで歩き出したわ」

「どうしましょう、さすがに烏天狗とお祖父ちゃんの二人はごまかせませんよ」

「それを言ったら爺さん一人でも怪しいけどね!」

 

 ともあれ尾行は続行する。どうせバレても阿求という錦の御旗がある以上、その場で怒られることはないのだ。

 ……後で怒られる可能性は極めて高いが、その辺りは考えないことにする。

 

 なるべく人混みに紛れるように阿求と霊夢が並んで歩いていく。

 視線の先には信綱と烏天狗が話しながら歩いている姿が映り、剣呑な空気を出す信綱と朗らかな烏天狗で非常に対照的だった。

 

「お祖父ちゃんが……振り回されてる、のかな?」

「かもしれない。というか、爺さんを不機嫌にさせて楽しめる奴なんているのね……」

 

 幻想郷は広い。霊夢の中では信綱に逆らえるものなどいないと思っていたのに、その彼と対等以上に話せる存在がいるのだ。

 阿求と霊夢が普段は見られない信綱の様子を面白そうに見ていると、信綱らの前に大柄な女性が現れる。

 

 成人男性として見ても体躯の大きい部類に入る信綱をさらに上回る巨躯の持ち主で、見上げる霊夢たちの目には立派な一本角が飛び込んでくる。

 

「鬼まで来た! 爺さんの交友関係本当にどうなってんの!?」

「あ、烏天狗の人がそそくさと逃げていきます!」

 

 相性って大事なんだな、としみじみ思う阿求たちであった。

 信綱は鬼の少女を見上げ、普通に会話を始める。鬼の少女も豪快に笑ってそれに答え、信綱の肩をバシバシと叩いた。

 

「脇腹に肘がモロに入ったわね」

「痛そう……」

 

 そんな鬼の少女に対しても信綱は容赦なかった。

 霊夢と阿求には知る由もないが、巨躯の鬼の少女――星熊勇儀の膂力は尋常の鬼すら上回るものなのだ。その力で肩を叩かれては砕けてしまう。

 肘鉄だけで済ませているだけ、信綱の対応は優しい方ですらあるのだ。絵面として問題があるのは確かだが。

 

 鬼の少女は痛みに顔を引きつらせながらも、信綱から離れようとはしなかった。

 かなりの入れ込みようであることが二人にも伺え、改めて信綱という人間がどういう人生を辿ってきたのかわからなくなってしまう。

 

 その鬼の少女も信綱に手を振って別れ、飲み屋に入っていってしまう。鬼は大酒飲みと聞くので、酒飲みの人間たちと楽しむのだろう。

 そして移動を再開した信綱を追いかけようとして――足はすぐに止まる。

 

「今度は慧音先生?」

「先生は仕方ないか。それにしても……歩けば棒に当たるくらいにお祖父ちゃんの知り合いって多いのね……」

 

 美しい銀髪を翻し、学士帽のような帽子を被った少女――上白沢慧音は霊夢も阿求も知っている人物だ。

 非常に立派な人物で寺子屋の教師を霊夢や阿求のみならず、信綱ですら子供の頃に教わったというほど続けている、信綱とは別方向の偉人である。

 ……だが、授業が難解かつ話し方も複雑なことから、子供たちには半ば子守唄のようなものであることだけが難点であった。居眠りでもしようものなら容赦なく頭突きが降ってくる。

 

 信綱も慧音には常に敬意を払っており、よほどのことがない限り丁寧な態度を崩さない。彼にとって頭の上がらない数少ない人物なのだ。

 

「先生と爺さんって仲が良いわね」

「人里での守護者という点では仕事内容も同じですから、よく話すんですよ。あと歴史書の編纂もしてますから、幻想郷縁起の関係で私とも話します」

「爺さんだけじゃなくって、阿求にも縁があるんだ」

「はい。ですからお祖父ちゃんと先生の付き合いは長いです」

「私も博麗の巫女として人里の守護者とお話することもあるでしょうし、覚えておいた方が良いわね」

「ですね。霊夢さんは覚えておいた方が良いかもしれないです」

 

 慧音がどれだけ人里に影響をもたらしているかを二人で再確認していたら、慧音と信綱は手を振って別れていく。

 慧音は市場の方に向かっているため、お互いに見回りをしていたらたまたま顔を合わせたとかそういった状況なのだろう。

 

「おっと、移動するわね。もう誰が来ても驚かないわ」

「そうですね。お祖父ちゃんはもう幻想郷の大半の妖怪と知り合いだと思った方が良さそうです」

 

 阿七と阿弥の記憶を辿っても、彼が妖怪と顔を合わせている場面は多くない。

 阿弥、阿求が生まれる前に知り合った妖怪が多いのか、それとも側仕えの役目を放り出さないまま知り合いを増やしていったのか。

 どちらにせよ彼が相当数の妖怪と知り合いで、なおかつ多くの妖怪から好かれていることは確かだった。

 

「……ん、あれ、レミリア!?」

「あ、レミリアさんと咲夜さん。レミリアさんは早速お祖父ちゃんに抱きつこうとしてますね」

「え、あの二人そういう関係なの!?」

「違いますよ、殴りますよ」

「阿求!?」

 

 ヤバい相方がちょっと怖い、と霊夢が阿求の将来に不安を覚え、同時に信綱とレミリアの関係に首を傾げる。

 レミリアと知り合いなのは良い。彼女は五十年前に吸血鬼異変を起こし、信綱が退治することで異変を解決したという話は知っている。

 だが、なぜレミリアはあんなにも信綱に構ってオーラを出しているのだろうか。ちょろちょろと信綱の周りを回る様子は子犬のようである。

 

「あ、拳骨が落ちた」

「レミリアさん頭抱えて涙目で見上げてますね。あ、もう一発」

 

 容赦ないなあ、という感想を同時に覚える二人だった。

 信綱も決してレミリアが嫌いなわけではないのだが、つい鬱陶しくなると手が出てしまっていた。

 

「嫌われてるのかしら、レミリア……」

「うーん……話す時は普通に話しますし、お祖父ちゃんは本当に嫌いな相手なら話そうともしませんから、嫌ってはいないと思いますけど……」

「……なんかキャラ的にそうなってるとかかしら?」

「……かもしれないです」

 

 二人は知らない。レミリアも有事の際にはきっちり信綱の期待に応えるため、信綱は彼女のことを信用していることを。

 

「しかしめげないわね。まだ構って構って、ってやってるわ」

「これでレミリアさんが普通の格好をしてたら、抱っこをせがむ娘ですね」

「あはは、言えてる。……あ、爺さんがついに折れた」

 

 霊夢と阿求が見ていると、信綱が呆れた顔をしながらもレミリアと言葉を交わしていた。

 レミリアの顔が喜色満面になっているところを見る限り、嫌味や罵倒を言っているわけでもないのだろう。普通に近況の報告などをしているのかもしれない。

 

 そうしてしばらくの間立ち話が行われ、満足したのかレミリアが信綱から離れていく。

 

「お、話も終わったかしら」

 

 また移動開始するかと思っていたら、今度は咲夜が口を開いて信綱と話す姿が見えた。

 

「咲夜まで爺さんと? 接点なんてあったかしら……」

「あ、咲夜さんはお祖父ちゃんと接点ありますよ。以前にお祖父ちゃんに一日だけ弟子入りしたんです」

「弟子ぃ? 爺さんと咲夜に何の共通点が……あったわね」

 

 そういえば信綱の本来の役目は御阿礼の子の側仕えであった。どのくらい続けているのかわからないが、おそらく相当な期間を続けていることは霊夢にも予想できた。

 

「どんな指導をしたのかは知りませんけど、あれ以来人里でも物腰が柔らかくなったって評判なんですよ」

「ふぅん……そういえば私と話すようになったのも結構最近ね。あの時はどうしたのかと思ったけど、そういうことか」

 

 咲夜についての情報が共有できたところで視線を戻し、信綱と咲夜が会話しているところに戻す。

 信綱は相変わらずの仏頂面だが、役目を同じくする咲夜が相手だからかどこか空気が和らいでいる。

 咲夜もまた信綱と話をしていて楽しそうに笑っており、同時に手元に小さな紙も用意してあることから、勉強も怠っていないことがわかった。

 

「……楽しそうね」

「お祖父ちゃんも咲夜さんに物を教えるのは楽しいみたいですよ。自分の技術をまとめたものとか作ってましたし」

「私の時にもそういうのを作ってよ……」

 

 自分より目をかけてもらっているではないかと、霊夢は咲夜に嫉妬に似たものを覚えてしまう。

 自分の時はひたすら実戦あるのみと組手ばかりやらされ、その都度問題を指摘するやり方だ。

 咲夜のように鍛え方を紙に記してもらえるのなら、その方が良いに決まっている。書かれている内容さえきっちり覚えたらサボれるのだ。素晴らしい。

 

 霊夢のいじらしいのか邪なのかわからない念が横に漏れていたのか、阿求はそれを違うと否定してきた。

 

「ううん……咲夜さんに教えているのは技術です。特定の手順に沿ってやれば、誰だってある程度は同じ結果が出せるものです」

「……? 阿求?」

「対して霊夢さんにお祖父ちゃんが教えているのは、戦い方のはずです。それだったら、ひたすら実戦で覚えていくよりない……と、思います」

「…………」

 

 自信はないのだろう。だんだん尻すぼみになっていく阿求の言葉を聞いて、霊夢はほんの少し考え込む。

 信綱は教えることについて区別をする人間か。

 否。一度やると決めたら全力でやるのが信綱という人間であると、霊夢ですら知っていた。その彼が今さら出来の良し悪しで見捨てることなどするはずがない。

 それに――一番はもう決まっているのだ。二番目以降を揉めたところでさしたる意味はない。

 

「……阿求」

「はい」

「あんたの爺さんって罪作りよね。あんたが一番だって決まってるのに、他を見捨てないんだから」

 

 態度も言葉もハッキリと御阿礼の子が至上であると明言していて、その上でなお他者の相手もしている。

 それは彼の人間性とも言えるし、優しさとも言えた。

 

「でも、それがお祖父ちゃんの魅力だと思います」

「……爺さんに育てられた私が言う台詞じゃない、か。阿求も爺さんには感謝しなさいよ」

「いつもしてますよ。きっと霊夢さんが思うよりずっと深く」

 

 なにせ阿求の心には阿七、阿弥の記憶も一部とはいえ存在するのだ。信綱への思い入れは霊夢より長い。

 たった一人、自分の家族となってくれた存在だ。阿求は向ける笑顔で、言葉で、態度で、常に信綱への感謝を込めている。

 それはきっと――彼と別れる時まで変わらない。

 

「……阿求?」

「……あ、ほら! お祖父ちゃんが移動を再開しましたよ。追いかけましょう!」

「あ、ちょっと!」

 

 常と違う阿求の様子に霊夢は訝しむが、疑問が口に出る前に阿求が霊夢の手を引いて動き出してしまう。

 何も聞かないで欲しい、という願いが阿求の小さな背中から感じられてしまい、霊夢は何も言えないまま信綱の尾行を再開するのであった。

 そうして信綱が次に足を止めたのは――

 

「もうここまで来たら来るんじゃないかと思ってたけど、魔理沙が来たか……」

「魔理沙さんも知り合いですよ。魔理沙さんの祖父がお祖父ちゃんの親友だとか」

「親友! 爺さんがそう言ってたの!?」

 

 信綱がそこまで言うとは相当である、と思った霊夢は阿求に聞き返すが、阿求は哀しげに首を振った。

 

「……もう亡くなってます」

「……爺さんと同年代なら当たり前か。ごめん阿求」

 

 親友と言うからにはきっと付き合いも長かったのだろう。

 霊夢の母である先代も信綱と夫婦関係であり、彼女との付き合いも長かったと聞いている。

 そういった長い付き合いの人間が皆死んでいき、自分は生きている。その事実をどう思っているのか。

 

(……阿求に仕えられているから文句などあるはずもない、とか言いそうだけどね)

 

 などと霊夢が考えている間にも魔理沙と信綱の話は続いていた。

 魔理沙も信綱に懐いているようで、後頭部に腕を組んで笑っている。

 信綱も信綱でそんな彼女に対し、穏やかな様子で応えていた。

 

「親友の孫娘ってことで面倒見ているのかしら」

「だと思います。お祖父ちゃん、頼まれて引き受けたことに手は抜きませんから」

「それは知ってる」

 

 今でも時間ができたら霊夢の稽古に欠かさず来ているので身にしみていた。ちょっとぐらい手を抜いて欲しい。

 

「で、魔理沙とも別れて……甘味処に入っていったわ」

「お祖父ちゃん、結構甘いものとか好きなんですよ。私と一緒に出かけた時なんかはよくぜんざいとか食べてます」

「そういえば爺さんはお菓子とかも作れたわよね……」

 

 霊夢もたまに信綱の食事を食べることがあるが、今でも納得の行かない美味しさだった。あんな仏頂面のくせに作る料理はとても繊細なのだ。

 その時に菓子も出た覚えがある。あの時は買ってきたものだとばかり思っていたが、あれも実は信綱が作ったものかもしれない。

 

「……くちっ」

 

 と、霊夢が改めて信綱の摩訶不思議な存在っぷりに頭を抱えていると、隣の阿求が小さなくしゃみをする。

 それで気づいたが、自分も阿求もずいぶんと長い間外にいた。信綱の後を追いかけていたのであんまり冷えを意識していなかったが、一度寒いと認識してしまうともう止まらなかった。

 

「……私も寒いし、そろそろ戻りましょうか。阿求が風邪引いたら爺さんに殺されるわ」

「あ、あはははは……ですね。これ以上身体を冷やす前に帰りましょう」

 

 霊夢と阿求は最後に一度だけ信綱の方を見て、帰ることにした。

 彼は二人が尾行していたことなど全く知らないとばかりに熱い茶を片手にくつろいでおり、そんな彼の隣と正面には食べる人もいないのにほこほこと湯気を立てるぜんざいと、あつあつの酒饅頭が置かれていた。

 

 

 

 ――なぜ信綱の前に置かれていない?

 

 

 

「…………あー」

「霊夢さん?」

 

 全てを察した霊夢は額に手を当てて空を仰ぐ。なんかどっと疲れてしまった。

 阿求はそんな霊夢にどうしたのかと声をかけるが、霊夢は無言で信綱の方を指差すばかり。

 

「……爺さん、私たちのこと気づいてるわ」

「へ?」

「ほら、あのぜんざいと酒饅頭。爺さんが食べるんだったら自分の前に置くわよね。わざわざ隣に置いたりしないわ」

「…………本当ですか?」

「本当よ。ほら、阿求を手招きしてるじゃない。とっくの昔にバレてたのよ」

 

 今までの努力はなんだったのか。そう思うと疲労感が溢れるが――今は寒さをしのげれば何でも良かった。

 阿求と霊夢は一度だけ顔を見合わせ、そして同時に茶屋に駆け出して行く。

 

 最終的に信綱のことがわかったとは言えないが、彼の交友関係の一端が見られただけでも十分な収穫である。

 この後茶屋ではきっとお説教が待っているはずだが、霊夢たちの足取りは軽やかだった。

 

 これはそんな春になる手前の、冬の一日であった。

 やがて冬が終わり、暖かな春がやってくる。

 

 

 

 

 

 ――そして春はまだ、来ていなかった。




前話を投稿してから七時間ちょいで一万字が書けるとは思わなかったぜ……(やり遂げた顔)

ノッブもだいぶおかしい人間関係してるよね、というのを霊夢や阿求から見たお話です。ノッブはあまり自分が何やったか、とかを話しませんから霊夢たちにはなおさら不思議に映る。
ノッブはいつから霊夢たちに気づいていたか? 多分皆様は私と同じ想定だと思うので、あえてご想像におまかせします。

そして次回からは春雪異変が始まります。ノッブも人里の春を奪われちゃたまらないので動きます。どの程度動くかは……まあ、主人公を食って異変解決はしないとだけ言っておきます。もう主人公は霊夢と魔理沙、咲夜になっています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少女は春を奪い、人はそれを知る

「春が奪われる?」

 

 なんだそれは、と信綱の顔が困惑に彩られる。

 春というのは季節のことであり、時節によって訪れるものである以上、目に見えるものではないはずだ。

 何かの比喩かとも思ったが、それを告げてきた椛の顔に冗句のそれはなかった。

 

 場所は稗田邸の中庭。

 もう雪解けが始まっても良い時節であるにも関わらず、未だ雪がうず高く積もっていた。

 しかしそれを信綱は不思議に思っていない。季節の訪れなど誰も明確にはわからない上、昔を辿っていけばこれぐらいの時期まで雪が残っていることなど珍しくもなかった。

 

「お前が見た、というわけではないだろう。仮にそんな術があったとしても、お前にそれを理解する知識はないはずだ」

「すごい失礼ですけど、まあその通りです。ですがこれは天魔様が仰っていたことなので、本当のことのはずです」

「天魔が?」

 

 そうなるとさすがに無視できない。妖術などの妖しい術に対する知識に関しては信綱もあまり自信がない。

 天魔や八雲紫はその手の術の専門家とも言える。彼らがそういうのであれば、一考の価値がある。

 

「……本当にそんな方法があるのか?」

「あるみたいです。春という概念そのものが奪われれば、春が来るはずもなく、冬が続いていきます」

「夏は来るのか?」

「そうかもしれませんけど、春が来ないで夏が来ても作物が育ちませんよ」

「道理だな。さすがに黙認はできんか」

 

 春に田植えを行い、夏に世話をし、秋に収穫する。それが人里で行われる農業の形だ。

 その春をすっ飛ばされては田植えができない。備蓄はあるが、一年丸々越せるようなものではない。

 そして冬が続くということは身体の弱いものにとっても辛い環境だ。

 死者が出る可能性まで考慮すると、放置はできなかった。

 

「……奪われている、ということは実行者がいるはずだ。妖怪の山はどうなんだ?」

「黙認です。私たちは人間に比べれば寒さにも暑さにも強いですし、天魔様はさほど気にしている様子もありませんでした」

「……ふむ」

 

 妖怪の山は文字通り妖怪の集まる場所だ。

 妖怪というのは通常の食物による食事をあまり必要としない。彼らにとって最も必要なのは人間の畏れであり、それ以外は娯楽となる。

 極論、人里の人間が死滅するようなことでもない限り、妖怪は困らないのだ。

 そして人里には信綱が未だ存命で十全に動くことができる。

 その事実を天魔は知っている以上、問題視するまでもないと考えている、と推測できた。

 

「結局、中心はここということだ」

「え?」

「お前の情報を聞いた俺が動くところまで天魔は予測していたということだ。確認するが、人里にはまだ来ていないんだな?」

「はい。私も天魔様に言われて千里眼で幻想郷を見ましたが、それらしきことをしている少女を一人見つけています。あと、天魔様からもこちらに来るよう指示を受けました」

「そいつが近づいてきたら俺に報告するだけで構わん。春を奪われるのは見過ごせない」

 

 春が奪われて冬が続いた場合、それは明確に人里にとっての不利益となる。

 騒動程度なら構わない。それすら許さないのであれば異変そのものを許容していない。

 だが、それは人里と御阿礼の子に害がない場合に限る。

 それが破られた場合は――スペルカードルール以外での防衛が許可されていた。

 

「博麗の巫女を動かして、その間に来るようだったら追い払う。そんなところだろう」

「殺すつもりですか?」

「相手次第だ」

 

 脅かすだけで帰ってくれるのならよし。相手が容易く御せる相手でもよし。

 別に人里に害がないのならどこで春を奪っても構わないのだ。それで理解してくれるのであれば、信綱も面倒なことをしないで済む。

 

「俺は阿求様に報告する。霊夢には……一応、これも試練だ。自分で異変に気づけないようではな」

 

 予め異変に気付ける知り合いがいることを実力に含めても良いが、あいにくと自分はもうすぐいなくなってしまう。

 いつまでも自分に頼るような形になるのは避けたかった。

 

「ああ、私も一緒に行きます。人里に留まってもやることがありませんし」

「お前が来ると阿求様の関心がそちらに行くのがな……」

「子供みたいなワガママ言わないでください。私だって阿求ちゃんと話したいんです」

 

 阿求との時間が減るのは辛いが、阿求の意向を確かめもせずに断るのは阿礼狂いとして失格だ。

 仕方がない、と信綱は特大のため息をついて、椛を伴って阿求の元へ戻るのであった。

 

 

 

 案の定というべきか、阿求はやってきた椛との会話に夢中になってしまい信綱は外で待つことになった。

 自分に話せないこともあるのだろう、と理性で納得はしているが微妙に受け入れられない心持ちで憮然とした面持ちになり、虚空に目を向ける。

 

「――スキマ、いるのだろう」

「…………」

 

 返事はない。しかし、信綱はそこに何かがあることを確信していた。

 反応がないならこっちからスキマをこじ開けてでも、と思ったところで小さくスキマが開き、ぬっと手が出てくる。

 その手には紙が握られており、信綱の前で広げられる。

 

『寒いのは嫌だから暖かいところで』

 

 腹が立ったのでその腕を掴んで無理やり引きずり出すことにした。

 紙を握っている手を掴み、強引に引っ張る。

 

「……フンッ!」

「キャッ!? さ、寒い寒い寒いー!」

 

 ズルリとスキマから出てきた紫は寒さに震えて二の腕の辺りをさすりながら信綱を睨んでくる。

 そんな彼女を信綱は心底呆れた目で見ながら、自分の部屋を指差す。

 

「――さて、寒いのは俺も嫌だから部屋に行くか。火鉢ならあるぞ」

「最初からそこで呼んでくれないかしら!? 寒いのは嫌だって言ったじゃない!」

「お前にも俺の感じている寒さを味わってほしくてな」

「いやがらせ以外の目的ないわよね!?」

 

 無視して部屋に行く。紫はいそいそとスキマに潜り、身体を外気から守っていた。

 ……あのスキマの中は暖かいのか寒いのか、しょうもない疑問が浮かぶものの追及はしなかった。あの空間に入るような用事はもう来てほしくない。

 

 自室で火鉢を焚き、仄かな暖かさが部屋に生まれたことでようやく人心地ついたのか、紫は火鉢に手をかざしたまま安堵の息を漏らす。

 

「ああ、寒い寒い……。私は寒いのは嫌いなのよ。家に戻ったら藍にくっつかないと」

「橙はどうしているんだ?」

「こたつで丸くなってるわ。藍も橙も元を辿れば動物から化性しているから、どちらも寒さにあまり強くないのよ」

 

 飼い主に似るのでは、という言葉が浮かぶが口には出さなかった。寒さ暑さについての好き嫌いまで論じるつもりはない。

 さて、そのように寒さに震える紫を呆れた顔で見つつ、信綱は口を開いた。

 

「――用件については予想ができている。今回の異変のことだろう」

「……わかるかしら」

「春を奪う、というのはさすがにわからなかったがな」

 

 発想の違いを思い知った気分である。

 どんな思考回路を持っていればそんな発想が出るのか聞いてみたいくらいだ。

 

「それにお前は次の異変で霊夢の前に姿を現そうか、とも言っていた。だったら異変の内容ぐらい把握していて当然だ。黒幕ともつながりがあると推察できる」

「ご明察。あなたといい天魔といい、話が早いのは楽ですけど面白くはありませんわね」

 

 最近は手駒に取れる存在が少なくてつまらない、と紫が平常通りの空気を作り出して妖しく笑う。

 信綱はそんな紫を前にして、彼女が聞きたいであろう質問の答えを先に言ってしまう。

 

「……俺が異変解決に出る気はない。もうその役目は博麗の巫女のものだ」

「ではあなたは人里から動かないと?」

「そのつもりだ。――そしてだからこそ、人里の防衛は行わせてもらう。寒さが続くのは阿求様のお体に悪い」

 

 それに春が来なければ秋に収穫する作物の田植えもできない。

 阿求の身体を慮って、そして人里の危機も考えて、無視はできなかった。

 

「そこに手加減は?」

「しない。阿求様については譲れん」

「そうですわよね、あなたはそう言いますよね……」

 

 がくりと紫が肩を落とす。

 とはいえ信綱が阿礼狂いなのは紫も知っているため、残念ではあるが予想外ではない、といった様子で気を取り直す。

 そして扇子で口元を隠し、意味ありげな視線で信綱を見た。

 

「一つ、取引をしない?」

「しない。話は終わりか?」

「そこは乗ってきなさいよ、話が続かないでしょう!?」

「どうせ自分の知っている情報を全部吐くから、春を奪いに来た者を見逃してやって欲しいとかそんなところだろう」

 

 うっ、と紫が言葉に詰まる。ほぼ図星だったようだ。

 黒幕とつながっているのだから、春を集めている者ともつながっていると考えるのは自然な流れだ。だがそれがどんな存在なのかまでは信綱も把握していない。

 見逃して欲しい、という部分については当てずっぽうである。

 

「……可能な限り、で構いませんから。今の幻想郷で人死はなるべく出したくないの」

「同感だな。だから俺も人里を守る必要があるわけだ」

 

 言外に止めたければお前が止めろ、と告げる。

 春を集めている何者かを紫は知っているのだから、彼女の口から人里を狙うのを止めろと指示を出してもらいさえすれば、信綱は人里の防衛を考えなくて済むのだ。

 

「……さすがに無理よ。そこまで明確に私が人里の味方はできないわ」

「だったら俺が迎撃に出る。場合によっては後顧の憂いを断つために殺すかもしれない」

「やめた方が良いわ。これはあなたを友人として思う私の警告。あの子は怒らせると怖い」

 

 真剣な色を持った紫の言葉に信綱は一瞬だけ視線を横にそらし、思考に沈む。

 どうやら異変の黒幕と紫は友人関係、ないし親子関係にあるようだ。でなければあの子、なんて言葉は出てこない。

 

(……さて、どうしたものか)

 

 ここで紫から強引に聞き出してしまえば、異変の黒幕に最短で到達できるだろう。

 今は完全に信綱の間合い。紫がスキマに逃げ込む前に捕まえることは容易だ。

 そして面倒事のタネはさっさと摘んでしまうに限る。放置していても面倒事が大きくなるだけなのだ。

 

 そこまで考えて、信綱は自分の思考に苦笑する。

 いつまで一線を張るつもりでいるのだ自分は。もう能動的な解決は霊夢たちに任せているではないか。

 能動的に動くのは自分ではない。ならば己の役目など決まっている。

 

「――俺は人里の防衛のみに注力する。それ以上はやらないし、それ以外もやらない。だが、それだけは万全に行う。実行犯に来てほしくないならお前から言え。俺は来るのなら警告した後、迎撃をする」

「警告はするのね? できれば手加減も」

「未遂のうちは俺も加減ぐらいする」

 

 あくまで未遂の間だけは、である。人里の春が奪われたのなら、それは明確に阿求を害した存在とみなすため、そこからは容赦できない。

 だからこそ天魔が先手を取って椛を送ったのだろう。すでに春が奪われていた場合、信綱は阿求を害する敵を排除するという思考で動き始めてしまう。

 その時の彼に遊びであるスペルカードルールは通用しない。遊びだからこそ本気で真摯に――などと言っても、阿礼狂いであることに一切の遊びはないのだ。

 

 しかし、そのような状況になる事自体、信綱にとっても好ましくはない。阿求が害される事態など最初からあってはならない。予防に動けるならそれが一番である。

 

「ではあなたは異変の解決に動くつもりはない、と」

「防衛ができている間はな。人里の春が奪われたら――阿求様のために動く」

 

 御阿礼の子のために動く。それはつまり、それ以外の全てを塵芥とみなして邪魔するものを灰燼に帰すということ。

 そうなったら人死が出てもおかしくないし、異変で人死が出ればスペルカードルール自体の意義が揺らぐことになる。

 

 ――そんな些細なこと、この男は気にも留めず阿求を守るだろう。

 

 であれば幻想郷を守るのは天魔と紫でやるしかないわけだ。信綱は基本的に守護者ではあるが、阿求に害が及ぶ場合は幻想郷の秩序など鼻で笑ってくる。

 なぜこんなに自分が胃の痛い思いをせねばならないのだ、と紫は内心でこんな異変を起こしやがった親友に毒づきながら安心させるように笑う。

 

「安心なさい。あなたが守る限り人里は安泰でしょうし、そのために白狼天狗もいるのでしょう?」

「……だと良いが」

 

 おおよその方針が定まったところで、紫はスキマを開いて立ち上がる。

 

「では私はこれで失礼。今回は私も博麗の巫女の顔を拝みたいから、少しばかり異変に加担させてもらうわ。――ああ、もちろん春を奪うことにはノータッチだからその刀に手は添えないでくださいお願いします」

「……あまりに長引くようなら俺から霊夢に教えるからな」

「その時は博麗の巫女を叱りなさいな。では――ごきげんよう」

 

 消えていく紫を見送り、信綱は一人大きなため息をつく。

 霧で幻想郷を覆うことといい、幻想郷の春を奪うことといい――妖怪の考えることは発想が大きすぎてついていけない。

 全くもって迷惑千万である。信綱は今なお自分が動かなければならない事態があることに、もう一度大きなため息をつくのであった。

 

 

 

 

 

 狼とは冬でも狩りを続ける動物である。

 理由としては群れで狩りをしている関係上、獲物の減る冬場は必然的に空腹の期間が多くなってしまい、そもそも狩りをしなければ生きていけないという世知辛い事情があったりするのだが、そこはさておく。

 要するに信綱が言いたいのは、冬であっても狼から化性した白狼天狗が活動的なのは当然であるということだ。

 

「だから働け」

「えー」

 

 いつも通りの無表情、しかし明らかに苛立っているのがわかる声音で信綱が話す先には、こたつでだらけきっている椛の姿があった。

 春を奪う輩が来たらすぐに伝えるよう指示してあるため、人里にいるのは構わない。

 とはいえ、だからといって人の家に入り浸り、こたつでゴロゴロとみかんを浪費するだけの生活を許可した覚えまではなかった。

 

「えー、じゃない」

「外、寒いじゃないですか。雪降ってますよ雪」

「お前な。昔は普通に冬でも哨戒していただろう」

「誰もやりたがらない役回りを押し付けられただけですよ。私だってゴロゴロできるならそうしたいんです」

 

 そう言って椛は再びみかんの皮をむく作業に戻る。

 すでにみかんの皮が机の上に散乱しており、結構な数を食べたことがわかるというのに、一向に指が止まる気配が見えなかった。

 

「…………」

「あ、見回りに行くのならどうぞ。安心してください、ちゃんと来たら教えますから」

「行くぞ。穀潰しに食わせる飯はない」

 

 だんだん椛のだらけっぷりに腹が立ってきたので、首根っこを引っ掴んで強引にこたつから脱出させる。

 

「あ、ああーっ!? 私の楽園が!?」

「人の家で楽園なんて作るんじゃない。見回りに行くぞ」

「寒いのは嫌いだって言ったじゃないですか!?」

「俺だって好きでもないわ」

 

 寒いと体調を崩しやすくなる。信綱も自分の体調にいつも以上に気を配る必要が出て来るし、阿求の健康には細心の注意を払わなければならない。

 いや、阿求の体調管理は常に完璧にしているのだから、平時と変わらないと言われればその通りであった。

 

 こたつから離れたことに涙目になっている椛を引っ張り、無理やり椛の武器である大太刀と盾を持たせる。

 それでようやくやる気になったのか、渋々椛は信綱についてくる姿勢を示した。

 

「全く……人里に来たからには堂々とサボろうと思ったのに……」

「俺の前でよくサボろうなんて発想が出るな……」

「君は成果さえ出せば何も言わなそうな印象でしたし」

 

 成果を出して、周囲との軋轢を生まないようにしていれば何も言わないだけである。

 個人でできることなどたかが知れている上、そのために全体の調和を乱そうとまでは思っていなかった。

 その点で言えば椛は信綱の極めて個人的な事情――ぶっちゃけてしまえば気分的になんか嫌だったのだ。

 

「お前が怠けるのを見ていると腹が立つ」

「すっごい適当な理由!?」

 

 椛はなんでこんな面倒な男に引っ張られているんだ、と肩を落としており、これが信綱の極めて珍しい行動であることには理解が及ばなかった。

 基本的に信綱は合理で行動する。行動の理由を問われれば、すぐに利益を並べ立てて理路整然と自分の行動の合理性を説くことができる。

 信綱が適当かつ曖昧な理由で説明を終えるというのは、言い換えれば遠慮をしていないということでもあるのだ。

 

 ともあれ、椛はそんな信綱の行動の意味に気づくことなく、信綱と並び立って見回りを開始する。

 雪がしんしんと積もり続ける静かな空間を、人々が寒さに背を丸めて歩いていく。

 先日から雪が続いており、外を出歩いている人々の顔もどこか疲れが伺える。連日の雪下ろしで疲弊しているのだろう。

 

 椛と信綱は人々の様子を見ながら、彼らを慮るように声を潜めて話す。

 

「みんな疲れた顔してますね」

「雪下ろしは重労働だからな。それに寒いと気が滅入る」

「暖かい飲み物が欲しくなります。あまり続くようなら対策も必要では?」

「続くようなら改めて考える。別に不作だったわけでもないし、食糧に困ることはないはずだ」

 

 この冬が多少長引いたとしても、乗り切れる自信はある。

 それにダメなら天狗の里から借り受けるか、紅魔館から融通してもらえば良い。借りにはなるが、それはその年の作物で返すようにする。

 

「しかし、ここ最近の雪の量はさすがに多くてな。市場の方もござを敷く場所すら確保できんから、今は閑散としている」

「さすがに冬は静かになりますね。その代わり飲み屋とか甘味処が大繁盛ですけど」

 

 椛は道の途中にある甘味処に熱い視線を向けながら、これ見よがしに信綱の前で赤くなった手に息を吹きかけている。

 まだ酒じゃないだけ優しい方だと思うことにした信綱は、同じく椛に見せつけるように大きなため息を吐いて、甘味処に入っていく。

 

「やった! 君のそういうところは嫌いじゃありませんよ」

「俺はお前のそういうところが嫌いだ」

「そうやって心にもないことを言う減らず口も嫌いではありません」

 

 割りと本心だ、と思いながら熱い茶を片手に信綱はお汁粉を頼む椛を眺めていた。

 そしてやってきたお汁粉をふぅふぅと冷ましながら食べていく姿を見て、ふとつぶやく。

 

「……俺はお前のお守りではないのだがな」

「私も君のお目付け役ではありません。ところでお団子も一緒に頼んでいいですか」

「食い過ぎるなよ。後で動けなくなっても知らんからな」

「じゃあ遠慮なく!」

 

 ここでやめておけという言外の警告でもあったのだが、椛は華麗に無視してお代わりを注文し始める。

 もう怒る気にもならない信綱は外の雪景色を見て、茶をすすっていく。

 

 雨は地面に砕ける時に音を出すが、雪にはそれがない。

 甘味処で寒さをしのぐ人々の声が聞こえなければ、本当に無音の空間が形成されるだろう。

 子供ならこの景色も楽しめる。子供は難しいことなど考えずに雪合戦に思いを馳せていれば良い。

 しかし大人はそうも行かない。雪下ろしは危険で面倒な上、また雪が降れば同じ作業の繰り返しになる可能性が極めて高いのだ。

 

 いわば終わりのわからない勝負。春がいつ来るかなど誰にもわからない以上、その時が来るまで雪との勝負は終わらない。

 もしも人里の春が奪われて、雪が続くようであれば――それは作物が育てられない以前に、人間が雪に殺される可能性も生まれてしまう。

 

 そうならないためにも防衛は万全に行う必要があるのだが、防衛はあまり効率の良いものではない。

 なにせ相手側に主導権を全て与えているも同然なのだ。いつ、どのように攻めてくるか向こうは好きに決められ、こちらはそれに合わせて動くしかない。

 いつ、の部分に関しては椛がいるから問題ないとはいえ、信綱としては好ましい手段ではなかった。面倒事の種はさっさと摘み取ってしまうのが一番なのだ。

 

「食い終わったら見回りを再開するからな」

「こんな寒い中で犯罪なんてする人もいないと思いますけどね。なにせ人が少ないってことは、獲物も少ないってことですから」

「だろうで見回りが休めるか。常に可能性を考えて動くべきだ」

「相変わらず生真面目ですね。寒いから大変でしょうに」

「だからお前に付き合わせているんだ」

「そして相変わらず人使いが荒いです……」

 

 がっくりと肩を落とす椛の脳裏には何がよぎっているのか。

 信綱が椛に頼み事をする時は無茶ぶりをする時と相場が決まっているため、思い当たるフシが多すぎて特定できなかった。

 これまでの無茶ぶりやら鬼畜な稽古内容が一気に思い出されたのだろう。信綱にありったけ集るように甘味を貪り始めた椛を呆れた目で見る。

 

「太るぞ」

「妖怪はそんな体型変わりません! 大体君は昔から私に対してなぜか知りませんが、やたらと無茶ぶりを――」

「俺はできると判断したものしか他人には任せない」

 

 椛なら泣き言をこぼしながらも、なんだかんだやってくれるだろうという信頼があるのだ。

 それらを伝えようと言葉を探していると、不意に椛の顔が真面目なものになり、食べかけの甘味を放って立ち上がる。

 

「どうした」

「――来ました。真っ直ぐ人里に向かってます」

 

 それが誰か、などと問う意味はなかった。

 信綱と椛は雪の降りしきる中を走って人里の門に向かい、迎撃の姿勢を作る。

 

「どのような流れを想定してます?」

「警告はお前がやれ。それで退くなら良し。駄目だった場合はお前が押さえろ」

「え、私がですか?」

「ああ、お前に任せるのが適任だ」

 

 信綱の言葉に違和感を覚え、椛は眉を潜めながらその疑問を解き明かそうとするものの、時間がそれを許してはくれなかった。

 

「――そこの女の子! 止まりなさい」

 

 普段の様子からは想像もできない鋭い声が椛の口から発せられる。

 呼び止められた少女は雪のような白髪と黒いリボンを付け、白いシャツに緑のベストをまとっており――肌が異様に青白く、何やら珍妙な人魂みたいな物体が付き従うように浮いている。

 死者、ないし幽霊であると言われても納得してしまうほど、少女の容姿には血の気がなかった。

 腰には長刀と短刀、二つの刀が差してある。細身な少女に扱いきれるとは思えなかったが、おそらくこの少女も見た目から人間を想定してはいけない存在なのだろう。

 

「白狼天狗と人間? 不思議な組み合わせもあったものね」

「君が春を奪っていることはわかっています。――ここから立ち去りなさい。この場所は人が生活を営む場所。妖怪と違い、春が奪われることへの被害が大きい」

「知ったことではないわ。私はただ役目を果たすだけ」

「無論、一方的な要求の押し付けはしません。ここの春を奪わないのであれば、他の場所の春はいかようにも奪ってくれて構いません」

「一部分だけを集めないくらいなら、全部集めてしまった方が手っ取り早い。そうでしょう? お前たちから春を奪い、そしてこの里からも奪い、幻想郷から春を奪う。私のやることは変わらないわ」

 

 会話になっていない、と信綱は椛と少女の話を評価する。

 少女にとって脅威とすべきなのは白狼天狗である椛のようで、自分には一瞥すらくれなかった。

 そして少女の中ではもう対話も終わったと判断したのか、長刀をスラリと抜き放って椛に向ける。

 

「下がれ、なんて言うつもりはないわ。どうせ最終的には全部の春を奪うのだから。ここであなたとそこの人間の春も奪っておしまい」

「……どうしても引く気はないのですね?」

 

 椛が最終確認をするように問いかけをして、少女はそれに答えず不敵に笑うばかり。

 話は終わった、と判断した信綱は静かに歩いて椛の前に立つ。

 

「椛、もう良い」

「……あ!」

 

 椛の横を通る時に彼女の顔が推定妖怪の少女と負けないくらいに青ざめる。どうやら信綱が彼女に任せた役割を正しく理解したようだ。

 止めてほしい、というのは春を奪う相手のことではない。それは必要な条件であるのだから、役割を分担する意味など存在しない。

 ならば椛に求めている止めてほしい相手など一人しかおらず――

 

「春を奪うことは止めないのだな」

「人間も白狼天狗も言うことは同じね。――だったら返す言葉も同じ。抵抗しなければ痛い目には遭わないわよ?」

「そうか、そうか。いや、十二分に把握した」

 

 

 

 

 

 ――お前はあの方の敵だな?

 

 

 

 

 

 御阿礼の子の障害を排除せんとする、自分を止めろと言っていたのだ。




手加減はするし、殺すつもりもない(椛が止めれば)

阿礼狂いが前後の事情説明だけで御阿礼の子を害するやつに手心を加えるわけないじゃないですかやだなあ(白々しい顔)
でも殺すと何かとマズイのも理解できているので、椛にぶん投げているわけです。無茶ぶりとも言います。

阿礼狂いになっているノッブと椛のタッグに、白兵戦で、単騎で勝負を挑む妖夢。
この場合の両者の倍率を答えよ(ヒント:ノッブに賭けると賭け金が減ります)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いと白狼天狗

 魂魄妖夢は人間ではない。半人半霊という、生者と死者の間に位置する種族だ。

 人の血も混ざっているらしいが、寿命、身体能力、妖力を扱う点から彼女は妖怪側に位置する存在と言える。

 

(威勢の良いこと言ってるけど、半霊と同時に仕掛けて人間は一撃で倒す! 返す刀で白狼天狗を狙う!)

 

 故に妖夢は人間を侮っていた。妖怪は人間を食らうものであるがため、歯牙にもかけない存在であると認識していた。

 だからこそ彼女は前傾の姿勢を取り、半霊との合せ技でケリをつけてしまうつもりだった。

 

 人間は妖怪に勝てない。通説として見るならば間違いではない。事実、妖怪と人間でどちらが強いかなどと問われたら大半は妖怪であると答える。

 

 だがしかし、忘れるなかれ。

 

 

 

 そんな驕り高ぶった妖怪を殺すのもまた、人間であるのだ。

 

 

 

「……は?」

 

 妖夢は自分の現状に対し、呆けた声を出す。

 前傾姿勢になり半霊と共にいざ突撃、という瞬間だったはずだ。

 事実、足には雪の地面を蹴った感触が残っている。

 

 ――だと言うのになぜ、自分の体は後ろに飛んでいるのだ。

 

 姿勢はバラバラ、着地もできず背中から雪に落ちる。そんな形振り構わない跳躍。

 武芸の心得も何もない素人の動作だった。例えるなら獣に遭遇した人間の愚行とも言えるがむしゃらな動き。

 

 それが今の妖夢だった。思考の前に肉体が勝手に反応し、距離を取った。

 その事実に妖夢は呆けるしかない。なにせ頭の中では一刀で人間を昏倒させ、そのまま白狼天狗に突撃する姿まで思い描いていたのだ。

 現実との乖離に妖夢の頭は混乱していた。

 

 そして、今の行動が自分の命を救ったのだと気づくのに時間は不要だった。

 

「な……」

 

 先ほどまで立っていた場所。その場所に今は別の存在が立っている。

 その手にはいつ抜いたかもわからない刀が一振り握られ、幽鬼のごとき佇まいでその場にいた。

 

「……避けたか。そこそこ本気で振るったが」

 

 独り言としてつぶやかれるそれに、妖夢は初めて自分は彼に攻撃されたのだと知る。そして自分はそれを回避したのだとも。

 しかし、妖夢にその事実を喜ぶ時間はなかった。

 

「あ――」

 

 男の顔が間近で見えた。見えてしまった。それが侮りと驕りの存在した妖夢の心を微塵に砕いてしまう。

 あれはマズイ。あれだけはヤバい。妖夢の肉体と精神、思考全てが危険であると絶叫していた。

 

 ヌルリと嫌な汗が全身から噴き出す。足は震え、口は乾き、歯はカチカチと噛み合わない音を奏でる。

 

 この場に留まったら死ぬ。動こうとしても死ぬ。逃げようとしても死ぬ。一か八か攻撃を試みても死ぬ。

 詰み。この男をその気にさせてしまった時点で、自分に勝ち目など万に一つも存在しないのだと思い知らされてしまった。

 

 圧倒的な格の違い。ひょっとしたら祖父である妖忌以上の使い手。それが今、本気で自分を殺そうとしている。

 いいや、死ぬこと自体が恐ろしいわけではない。死を操る者に仕える彼女にとって、死とは慣れ親しんだもの。恐れる理由などない。

 本当に怖いのは――自分が無価値であると証明されること。

 

 この男は自分をいとも容易く殺すだろう。それこそ蟻を潰すように。

 彼はそこに何の意味も見出さない。無駄無価値無意味。妖夢の全てを否定する透徹の瞳が物語っている。

 

「…………」

「あ、あ……!」

 

 男はその場に佇んで動かない。能面のごとき無表情で妖夢を見据え、手元の刀を握りしめるだけ。

 それは獲物で嬲る算段を立てているようにも見え、同時にただ見ているだけというチグハグな印象を与えるものだった。

 

「…………」

「うぁ……!」

 

 沈黙が続く。男は刀を持ったまま微動だにせず、茫洋と妖夢を見続ける。

 だが、しびれを切らしたのだろう。恐怖に震え、動けないでいる妖夢に対して小さく息を吐くと、彼女に向かって歩を進め始める。

 

 一歩。また一歩。雪の地面を踏みしめて迫る自らの死に妖夢は動けない。

 怯えるままに男を見上げ、男はやがて妖夢の間近に迫る――前に、間に割って入る影がいた。

 

 雪のような白い天狗装束。生えている髪も尻尾も雪の色。

 ちっぽけな白狼天狗がただ一人、妖夢の前に立って男と対峙する。

 

「――逃げなさい」

「え?」

「逃げなさいと言ったの! あの人の怖さは身にしみたでしょう!! 人里を害することは遊び(弾幕ごっこ)じゃ済まされないの! そうなるとこの人が動く!!」

「あ、あの」

「立てないなら這ってでも逃げなさい!! そんで飛びなさい!! もう誰も幻想郷で殺し合って良い人なんていないの!!」

 

 叩きつけるような白狼天狗の叫びに、妖夢の膝がようやく力を取り戻す。

 未だ震えは収まらないが、どうにか動くことだけはできる。覚束ない足取りで立ち上がりつつ、妖夢は目の前にいる白狼天狗の背中を見る。

 

 大きいわけではない。自分よりは上背があっても華奢な少女の背中だ。

 彼女もまた男を恐れているのだろう。妖夢が見てもわかるほどに緊張している。

 しかし、手足に震えはない。勇気か義務か、あるいは使命か。彼女自身を構成する何かが彼女に踏みとどまる力を与えている。

 

 その源泉が何なのか、一人の人間として気になるが――今は生きることが第一である。

 妖夢は迷いと恐怖を振り切るように顔を振り、一目散に空を飛ぶのであった。

 

 

 

 空を飛んで逃げようとする少女を、信綱もまた空を飛んで追いかけようとする。

 小さな結界をいくつも作り、それらを足場にして少女に追いすがってその首を切り落とす。

 別段難しいことではない。――彼の目の前で大太刀と盾を構える椛がいなければ。

 

 信綱は自分を止めろと言ったことなどすでに思考の彼方に置いており、御阿礼の子を害する少女を滅することしか考えていなかった。

 

「そこをどけ」

「どきません」

 

 信綱のおよそ温度というものが感じられない冷徹な声を聞いても、椛に揺らぎは見られなかった。

 確固たる決意を持って、椛は信綱と対峙する。

 

「どいたらあの子を殺しに行くでしょう。どきません」

「……だったら、俺を止めてみせろ」

 

 その言葉を皮切りに、信綱は椛を無視して少女を追いかけようとする。

 もとより彼の目的は御阿礼の子を害した少女ただ一人。椛をわざわざ相手にして余計な時間を使うつもりはなかった。

 

 ――それを読んでいた椛は空を飛ぼうとする信綱の軌道を予測して大太刀を振るい、その動きを阻害する。

 

「む」

「させない!!」

 

 邪魔をする羽虫を払うように信綱が無造作に刀を振るう。

 それを椛は全て受け流し、切り払ってみせる。

 

 甲高い鋼の音が雪の静寂の中に響き渡り、両者が改めて対峙する。

 だが信綱の思考は少女の方に向いており、未だ椛の方を敵と認識はしていないようだ。

 

(彼は一刀。それも椿さんの刀は持ってない! そして注意は完全にあの子に向いている。――勝ち目はある!!)

 

 椛は自分たちから徐々に距離を取っていく少女を認識していない。すでに自分の千里眼は目の前の男に全て注いでいる。

 一挙手一投足に留まらない。呼吸の間隔、心臓の鼓動、体重の動き。火継信綱という肉体を構成するありとあらゆるものを見続ける。

 

 まず端的に言って――信綱が本気で自分を排除しようと思ったら、その時点で勝機は消える。せいぜい一分の時間稼ぎが限界。

 彼が刀を二振り持ってきていたら、その時点で詰んでいた。彼の本領は妖怪殺しを追求した二刀流であり、その状態の彼を相手にするのは無理だった。

 

 どちらの条件も今は成立している。彼は椛を見てはおらず、同時に刀も一刀しかない。そして自分は彼に全力を注げる。

 

 ――止めることは不可能ではない。千に一つ、あるいは万に一つかもしれないが、可能性はある。

 

 御阿礼の子を害する者を消そうとする前の彼はここまで予期していたのだろうか。だとすれば大した慧眼だが、同時に大迷惑にも程がある判断だ。

 

「……ああもう! これが終わったら貸し一つじゃ済みませんからね!!」

 

 再び飛び上がろうとした信綱に大太刀を振るう。

 信綱からの反撃は実に適当。鬱陶しい雑魚を相手にするものと何ら変わらない。

 尋常の妖怪ならそれで片がつくだろう。事実、彼の剣閃は本気の時とは雲泥の差であっても、針の穴に糸を通すような精密さで放たれている。

 下手に受ければ武器ごと切断されてしまう。抗う術を奪ったら彼は何の気負いもなく椛を無視して、少女を追いに行くはずだ。

 

 

 

 ――そんな適当な斬撃で、これまで彼の剣術を見続けてきた白狼天狗が倒せるものか。

 

 

 

「はあああぁぁぁ!!」

「……ッ!」

 

 椛は振るわれた信綱の斬撃を全て防ぎ切り、反撃すらもやってのける。

 盾と大太刀。守備と攻撃。双方を使い分けて時に刀を盾で受け流し、あるいは斬られても手足には届かない盾の部分はそのまま斬らせてしまうことで、彼の攻撃を無傷でいなしていた。

 反撃に振るわれる大太刀もまた、信綱の行先を阻むような的確なものばかり。まるで信綱がどのように動こうとしているのか、全て理解しているようなものだ。

 

 それも当然。椛は信綱がどのような動きで逃げた少女を追いかけようとしているのか、全てわかっている。

 御阿礼の子を害そうとした少女が憎いだろう。許せないだろう。――故に最短距離で彼女を殺そうとするはずだ。

 椛には信綱の思考が手に取るように読み取れる。元々付き合いが長くなると割りとわかりやすい性格をしているのだ。今の彼の思考を読むことなど、造作もない。

 

 ……尤も、これも相手が天魔や八雲紫であればさすがの彼も本気で相手をしようとする。

 これが成立するのは彼と付き合いが長く、御阿礼の子を預けても良いと判断されるほどの信頼を獲得し、阿礼狂いの彼であっても無闇に殺そうとしないだけのものを持っている必要がある。

 

 要するに、彼女だけ。烏天狗の部下、鬼や大天狗などの大妖怪から見れば木っ端も木っ端。妖力だって強いわけではない。ただちょっと視界が広いだけの、下っ端天狗。

 ――そんな白狼天狗の犬走椛ただ一人だけ。御阿礼の子以外で阿礼狂いを止める権利を有する存在なのだ。

 

 斬撃の応酬は留まることを知らず、不協和音も集まれば音楽となる。

 鋼と鋼がけたたましくぶつかり合う音楽を奏でながら、椛は自分にもよくわからない咆哮を発する。

 

「オオォ――!!」

「っ!」

 

 苛烈さを増していく斬撃に信綱は顔をしかめ、舌打ちを一つ。

 そう、舌打ちをしたのだ。先ほどまでは取るに足らない相手であると判断し、無視しようとした相手であるにも関わらず。

 それを椛は激しくなる戦闘の中で聞き逃さなかった。信綱の目が少女ではなく椛自身を見据えたことに気づいた。

 つまり――椛が拮抗できる限界が来てしまったということ。次に振るわれる刃は椛の大太刀を容易く破壊し、返す刀が椛の手足を切り落とすだろう。

 

 これはもう決定したこと。椛の持つ手札では逆立ちしてもこの未来を変えることは叶わない。

 信綱の剣を最も多く見て、受けてきた椛であってもこれが限界。未だ彼と彼女の間にはそれだけの隔たりがある。

 

 ――そんなこと、ずっと彼の剣を受け続けた椛に理解できぬはずがない。

 

 次の一太刀で終わる。それは変えられない。

 だが椛の敗北が明確になるのは返す刀を受けた瞬間だ。

 武器が破壊され、手足が斬られるまでの刹那。それが椛に許された己の意思で行動できる時間。

 

 

 

 取るべき行動は、決まっていた。

 

 

 

「――」

 

 まず一太刀。

 これまで打ち合ってきた大太刀がまるで綿菓子のように容易く切り落とされる。

 持ち手のなくなった刀身はズルリと雪の地面に落ち、その重さで雪を凹ませた。

 そして――刀身を斬られる前に椛が手放していた大太刀の柄が信綱の胸に迫っていた。

 

「っ!」

 

 大太刀を破壊したとはいえ、根本から切り落としたわけではない。

 それに白狼天狗は妖怪の中で見れば弱い部類であっても、妖怪であることには変わらない。

 膂力は人間とは比べ物にならず、そんな彼女の投げた柄が当たったら重傷は免れない。

 

 彼が二刀を振るっていたのなら、もう片方の刃で払って終わりの拙い策。

 しかしそれがないこの状況下において、信綱はそれを避けざるを得なかった。

 

 半身になってそれを回避し、同時に踏み込んで椛の手足を切り落とそうと迫り――

 

「やああああぁぁぁぁ!!」

「――っ!?」

 

 自分から死地に飛び込む椛に、今度こそ息を呑む。

 もはや芸も何もない、ただの飛びかかり。

 椛は姿勢を低くし、さながら狼のごとく疾駆して信綱の懐目指して一心に進んでいく。

 その距離、僅か二歩。信綱の側からも踏み込んでいたため、距離そのものは非常に短い。

 

 だがその二歩、信綱がただで詰めさせるはずもない。

 驚愕は一瞬。信綱はすぐに冷静になり、落ち着いて椛の手足を切り落とすべく刃を振るった。

 一太刀。それを椛は地面に落ちた大太刀の刃を拾い上げ、信綱の太刀を受ける。

 

 当然、それはすぐに斬られて椛の肉体を切断せんと迫る。

 だが障害が何もない斬撃に比べれば、肉体への到達時間は落ちる。

 その一瞬で一歩を詰める。残り、一歩。

 

 それはすでに壊れかけの盾と盾を持つ腕を犠牲にすれば詰められる。

 椛はかつて伊吹萃香と対峙した時と同じ方法で信綱の斬撃をしのごうとして――失策に気づく。

 

「――俺の武器は剣だけだと思ったか、戯け」

 

 刃を振るうのでは攻撃は一方向に限定されてしまう。

 ならば手放せば良い。すでに結果の見えた行動に固執する意味などない。

 信綱は今まで振るっていた刃をあっさりと捨てて、拳を握る。

 妖怪に打撃は効果が薄いと言っても、全くの無意味でもない。強く殴れば昏倒もする。

 意識を奪えばこちらのもの。刀を回収して少女を追いかけて殺せば良い。

 そして双手は椛目がけて振るわれ――

 

 椛は、それを避けなかった。

 

 歯を食いしばり、意識を落としかねない箇所だけを防御し、その拳を受けるままにしたのだ。

 なぜ? などと問う理由は不要。それはこの状況こそ椛が願ったものだからである。

 攻撃をする側と受ける側。そして今は互いの腕と身体が触れ合っている状態。

 

 

 

 ――すなわち、今なら妖怪の膂力で押し倒せるということ。

 

 

 

 拮抗は一瞬。拳を受けても怯まず進む椛に対し、信綱は抗う術を持たない。

 本来であればその力を受け流してしまうことなど容易い。だが、相手が椛であることが災いした。

 こういった状況下で自身の取り得る行動がすでに読まれてしまっていたのだと、信綱は椛に両の手首を掴まれた瞬間に理解させられる。

 力比べになれば当然、信綱に勝ち目などなく――彼の肉体は雪の上に投げ出されるのであった。

 

 

 

「さあもう諦めてください! 私がこうしている限り君に自由はありません!!」

 

 馬乗りになった椛が信綱の手足を押さえつけて叫ぶ。

 それを信綱はどうにかしようと手足を動かすが、妖怪の膂力の前に人間はどうしようもない。

 手首だけでも動くなら技術で脱出は可能だが、椛はそれも警戒して押さえ込んでいる。

 その姿勢のまま時間が十秒ほど流れ、信綱の顔に徐々に呆れの色が生まれてくる。

 

「……さすがに今から追いかけても無理、か」

「…………」

「そんな目で見るのをやめろ。もう追いかけるつもりはないから手を離せ」

 

 信綱の瞳に理性の色が戻り、声も平時のそれと変わらないものになる。

 阿礼狂いである時の透き通った殺意は綺麗に消えていた。

 さすがに未遂の状態である彼女を、地の果てまで追いかけて殺そうという熱意はなかったようだ。

 

 椛はそんな信綱を見て慎重に、ゆっくりと拘束を外して彼の頭上で大きなため息を吐く。

 

「はああぁぁ……寿命が百年縮んだ……」

「普段の稽古と大差ないだろう」

「大有ですよ!! 逃げたらあの子が死んじゃうでしょう!!」

「それぐらいじゃないか?」

「大変なことです!!」

 

 信綱は耳元で聞こえる椛の声にうるさそうな顔をするが、こればかりは言わせて欲しい椛だった。

 

「大体、君は私に無茶苦茶なことばっかり言い過ぎなんです! 今回のこれはなんですか! 私に全部任せて自分だけやりたいことやるってどうなんですか!!」

「わかったわかった。悪かったとは思っている。だからいい加減離れろ、寒い」

「反省の色が見えるまで離しません!」

 

 どうやら本格的に怒らせてしまったようである。

 仕方がないと、信綱は椛に理由を説明することにした。

 

「……俺は阿礼狂いだ。だから御阿礼の子を害そうとした奴を放置はできん。あれはもうどうしようもないことだ」

 

 開き直るわけではないが、これは信綱の信念でもあるのだ。

 御阿礼の子こそ至高であり、その至高の輝きを穢そうとする輩は滅殺すべきである。

 その信綱の言葉に椛はうなずく。伊達に彼と一緒にはいない。そのぐらいの性質は理解している。

 

「ええ、それはわかります」

「だがそれではマズイこともわかった。俺とて無闇に殺すことが幻想郷にとって良いことだとは思わん。

 ……しかし同時に阿礼狂いであることも変えられん。優先順位はもう決まっている」

「……だから、私に任せたと?」

「そうなるな」

「もし私がいなかったら?」

「どうしようもなかったな。殺す前に八雲辺りが気づいて止めることを祈るぐらいしかなかった」

 

 今の幻想郷において自分は異物である。

 全てを遊びで解決すべきだと願いながら、御阿礼の子に関してはそうできない。

 御阿礼の子が害される可能性があるとわかった途端、彼は暴力で吹き散らそうとしてしまう。

 それが今まで積み上げた平和を崩すものであったとしても、信綱は幻想郷の英雄である以前に阿礼狂いとしての在り方を優先させる。

 

 だからこれでも悩んでいたのだ。椛がいなければ防衛もままならなかっただろうし、春が奪われたと気づけば信綱は異変解決――否、異変の黒幕を殺しに動いていただろう。

 天魔が椛を送ったことも含め、信綱は色々と多くの妖怪に助けられて今に至るのだ。

 その辺りの理由を説明すると、椛の顔に浮かんでいた怒りがだんだんと呆れたものに変わり、信綱の拘束を解いて立ち上がる。

 

「……君は本当に変わりませんね」

「一生変わらん」

「みたいです。仕方がないから今後も異変があった時は君の元に行くようにします。君を放置するとどんなことになるかは今回でわかりましたし」

「ああ」

「……何か言うことがあるんじゃないですか?」

 

 そう言うと信綱は顔をしかめ、しかしすぐに諦めたようにため息を吐く。

 

 

 

「――ありがとう。お前がいてくれて助かった」

「ん、許します。……この後お酒をおごってくれたら、ですけど」

 

 

 

 

 

「あの子やっべえわ」

「紫、いきなりスキマを開いたと思ったらそんな声出してどうしたの?」

 

 ことの一部始終を見ていた八雲紫は思わず素でそんな声を出してしまい、向かいでお茶を飲んでいる親友に首を傾げられてしまう。

 

「ああ、なんでも……あるわね」

 

 紫は目の前の親友――冥界の白玉楼の主である西行寺幽々子にどのような説明をしたものか、と頭を悩ませる。

 

「紫?」

「もうすぐ半人前の子が帰ってくるだろうけど、優しくした方が良いわよ。ちょっとお化けを見たどころじゃない恐怖体験をしているでしょうから」

「……ああ、もしかして異変解決の専門家さんに倒された、とかかしら?」

「違う違う。だったら恐怖体験なんてしないでしょ?」

 

 的はずれな幽々子の言葉に思わず笑ってしまう。

 しかし幽々子が知らないのも無理はない。冥界はつい先日まで幻想郷とは隔絶された世界だったのだ。

 良い機会だと思い、現し世と幽世を隔てる幽明結界を緩めたものの、幽々子とその従者である妖夢は地上のことなど全く知らないも同然。

 

「あなた、幻想郷の春を集めてこいって言ったでしょ。それって当然、人里も含まれるわよね」

「ええ、そうなるわね。でもあの桜が咲いたら返すから心配しないでも良いわ」

「……ま、そこの是非はどうでも良いわ。異変である以上、博麗の巫女が解決するのが当然だし」

 

 紫はその結末に疑問を持っていない。幽々子はスペルカードルールに則った異変を起こしているからである。

 スペルカードルールは所詮ごっこ遊び。本当に叶えたい願いがあるのなら使う必要などないものだ。

 それを使う以上、幽々子は失敗しても大して問題ないと判断しているに違いない。

 彼女が咲かせようとしている桜――西行妖の顛末を紫は全て知っているため複雑ではあるが、それは話に関係ないので流すことにする。

 

 地上では弾幕ごっこが基本となって人妖の区別なく遊ぶ時代となっているし、妖夢と幽々子がそれに従ってくれるのも良いことだ。しかし――

 

「遊びじゃ済まされないこともあるのよ。特に人里は」

「……どういうことかしら?」

「人里にはこわーい守護者様がいるの。鬼も逃げ出すほどのおっかない人が、ね」

 

 頭の上に二本指を立てて鬼を表現する紫に幽々子は上品に笑う。

 

「あらあら、紫がそこまで言うなんて相当恐ろしいのね」

「そりゃあもう。ある意味閻魔大王以上に怒らせたくない人よ」

「そこまで言われると興味が出てくるけど……遊びで済まない、というのは?」

「春が奪われたら大変ですもの。人間は寒いってだけで死ぬんだから」

 

 そして人里の守護者の登場である。しかも人里にとっては遊びでもないため、弾幕ごっこも使わない。

 それを紫が言うと、幽々子は怪訝そうな顔になる。

 

「人里の守護者でしょう? スペルカードルールに則ってないと勝てる勝負も勝てなくなりそうだけど……」

 

 妖夢は未だ半人前だが、それでも妖怪だ。通常の人間よりは長く生きており、身体能力だって人間の比ではない。

 紫は甘い甘いと言わんばかりにチッチッ、と幽々子の前で指を振る。

 

「いるところにはいるのよ。今の幻想郷に変えてみせた本物の英雄……ごめん、ちょっと盛った。なんかすごい英雄が」

「一気にグレードが落ちたような変に上がったような……」

「だってあいつ、真っ当な英雄とは口が裂けても言えないし……」

「本当にどんな人か気になってくるわねそれ」

 

 紫も幻想郷の管理をして長いが、あそこまで英雄性と狂気が入り交じった存在も初めてだった。

 こほん、と咳払いでごまかして紫は説明を続ける。

 

「と、とにかく! 人里はメチャクチャ強い守護者が守っているのよ。弾幕ごっこであっても、そうでなくても、妖夢には手も足も出ないでしょうね」

「あら、そんなに?」

「そんなによ。まともにやり合ったら私だって危ういわ」

「そんなに!?」

 

 幽々子の目が見開かれる。それはちょっと人間の領域に収めて良い存在なのだろうか。

 紫も甚だ疑問に思っていることではあるが、いるものはいるのだから仕方がない。

 それに彼の恐ろしいところは力量ではない。もっと別の場所に彼の怖さはある。

 

「……まあ、本当に恐ろしい人だから万一があるかもと思ってスキマで見ていたんだけど、大丈夫そうね」

「妖夢を見ていてくれたのかしら。だとしたらお礼を言わないとね」

「私のためでもあるから気にしないで良いわ。というか本当、万一があるとシャレにならないから……」

 

 妖夢が殺されたら幽々子は怒るだろう。そして下手人である信綱に手を出すだろう。

 そこに正当性などないにしても、感情は理屈ではない。死を操る彼女が怒ればいかに信綱とて危うい――

 ……気があんまりしないのはさておき、どちらも全力を使った戦いになることは確実。

 そしてどちらが勝っても人妖の間には亀裂が走る。

 

 どうして自分がこんな胃の痛い思いをしなければならないんだ、と紫は幽々子と信綱を内心で罵倒する。

 とはいえそれも過ぎたこと。見事に信綱を止めてみせた白狼天狗に感謝しながら、紫は喉元を過ぎて気兼ねなく話せるようになった信綱のことを話すのであった。

 

 

 

 

 

「で、結局どんな人なの?」

「頭おかしいやつ?」

「疑問形!? え? というか紫、その人と友達なのよね!?」

「友人だとは思ってるけど、間違いなく気が触れているとも思ってるから……」

「友達は選んだほうが良いわよ、紫」

 

 信綱のことを話したら幽々子から真顔で心配されてしまったのではあるが――まあ、些細なことである。




椛お前すっげえな(真顔)
条件がかなり椛の優位になっているとは言え、ノッブから一本取るとは誰が思ったか。私も書いててビビった。
でも椛は一番最初に共存を願った妖怪としての信念があるからね。メッチャ主人公力発揮するけど仕方ないよね。ノッブがあれだし。

原作キャラを殺そうとするオリキャラを食い止める白狼天狗。どっちが主人公かな?

というわけで椛VSノッブでした。ノッブが余所見している間ならワンチャンあるという椛も剣術という点なら相当な部類に。天魔相手でも剣術勝負なら防戦可能という裁定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春の奪還に動く者たち

 霊夢の朝は早い。

 日の出とともにむくりと布団から身体を起こし、眠気の残る頭をかきながら身だしなみを整えていく。

 

「ふぁ……」

 

 あくびは出るものの、二度寝をする気配はない。なにせやることの少ない博麗神社。基本的に寝るのも早ければ起きるのも早い。

 もそもそと巫女服に着替えていき、最後にリボンで髪を結んで完成。いつも通りの格好の出来上がりである。

 

「ん、よし。今日も元気っと」

 

 今日は寒く、未だ雪は積もり続けている。なので霊夢は父親代わりの人から買ってもらった、上質なマフラーを首元に巻いて外に出る。

 

「おーおー、積もってる積もってる。また今日も雪かきかあ……」

 

 毎日毎日、よくもまあ飽きもせず降り続けるものだ。もう春になっていても良いというのに、自然というのは気まぐれなものである。

 霊夢はぶつぶつ愚痴をこぼしながらも、雪下ろしの道具を片手に空に上っていく。

 こんな時に父親代わりの人が来たのなら喜んで雪かきをお願いしているのだが、彼はここ最近顔を見せていない。

 雪が長いし人里も人里で忙しいのだろう、と霊夢は自己完結する。全く顔を合わせないわけではなく、人里では普通に会話もするのだ。

 

 霊夢は手慣れた様子で神社の雪下ろしを行っていく。彼女はまだ子供だが、幼年の頃から神社で暮らしているのだ。この場所で暮らすための勝手はもう身体が覚えている。

 ものの一時間もかからず雪下ろしを終えると、霊夢は道具を片付けて境内に出る。

 

 そろそろ腹の虫が空腹を訴えてくる時間だが、あと少し我慢である。これから父から教わった体操をするのだ。

 ひどく疲れる上、本当に必要なのか疑問ではあるが、あの人が言ったことであれば間違いはないはず。

 事実、あの体操を始めてから病気や怪我は圧倒的に減ったのだ。効果はあるに違いない。

 

「さて……始めますか!」

 

 霊力を高め、構えを取る。

 霊夢の霊力に呼応した陰陽玉が二つ、彼女を守るように付き従う。

 針や札は使わない。毎日行う鍛錬――もとい体操で消耗品を使うのは補充が面倒になるだけである。

 体術の型、霊力の向上、そして仮想敵である父とのイメージトレーニング。

 多くのものが組み合わされ、より高い効果が見込めるように――その分の体力消費は度外視されている――作られた体操を霊夢は行っていくのであった。

 

 

 

 自身の発する熱で周りの雪が溶けている中で、霊夢は最後の型を終える。

 

「ふぅ……よしっ!」

 

 始めた当初は午前中ずっと動けなくなるくらいの疲労を覚えたが、今となっては慣れたものである。

 霊夢はいい汗かいた、と額の汗を拭いながら神社より見える朝日を見る。

 空は雲一つなく、冬の透き通った空気が澄み渡る青空をくっきり描き出していた。

 今日は一日、雪も降らず良い天気になるだろう。霊夢は良い一日になりそうな予感に頬を緩ませる。

 

「――うん、いい朝。今日も一日頑張ろう!」

「いやいやいやいや待て待て待て!?」

 

 清々しい顔で一日を始めようとした霊夢だが、いきなり横から入ってきたツッコミで遮られてしまう。

 一体誰だ、と声の方向に首を向けると、そこでは霊夢の友人である霧雨魔理沙が信じられないものを見るような目で霊夢を見ていた。

 

「魔理沙じゃない。どうかしたの?」

「お、おう……いや、お前って努力とかそういうのって嫌いじゃなかったっけ?」

「嫌いよ。痛いし苦しいし泣きたくなるし。……まぁ、褒めてもらえるのは嬉しいけど」

「じゃあ今のあれはなんだよ」

 

 魔理沙が硬い表情で聞いてくることに霊夢は首を傾げる。

 

「体操でしょ? 毎日人里でもやってるって聞いたわよ」

「んなわけあるか!? あんな体操毎日できる人間なんていねえよ!?」

「……ウソ?」

 

 霊夢はこれまで父の言葉に疑いを持ってこなかった。

 さすがにおかしいなぁ、程度の違和感は覚えていたが、それでも父の言っていることであれば損はないだろうと思って続けていたのだ。

 

「こんなのが里の誰にでもできたら妖怪退治とか余裕だろ? 自警団だって無理だと思うぞ」

「で、でも爺さんはこれを体操だって」

「お前の爺さんも大概だな……」

 

 というか誰だよ、と魔理沙は霊夢が祖父と慕っている人物についてつぶやく。

 特徴を聞けばすぐに魔理沙も知っている共通の人物であるとわかるのだが、魔理沙の関心は霊夢にそんなことを教えた祖父よりも霊夢が日々行っている努力の方に行っていた。

 

 なにせ霊夢に追いつくために日々努力しているというのに、彼女にまで努力されたら追いつけるはずがない。

 才能が違うことなど、当事者である魔理沙は痛いくらいに実感しているのだ。

 せめて努力している理由だけでも聞こうとしてみたら、今の霊夢の反応である。そもそも努力を努力と思っていなかったようだ。

 

「普通気づくと思うけど、霊夢のやってたことって努力とかじゃなくて修行のレベルだぜ? よく毎日やってたな」

「……本当に人里ではやらないの?」

「おう」

「……努力って朝から日が暮れるまで延々と組手を続けることじゃないの?」

「相手によっては死ぬなそれ」

 

 誰だよこいつの努力のハードル上げまくったやつ、と魔理沙は霊夢が爺さんと呼ぶ人物に恨み節を吐く。

 努力が嫌いと公言していたから普段は怠けているのかと思いきや、実は霊夢にとっての努力が他人から見れば修行とか拷問の領域であったなど誰が想像するか。

 魔理沙は目標が遠のく足音を確かに聞きながら、霊夢の顔を見る。

 

「あ、あのジジイ……!!」

 

 自分が騙されていたことにようやく理解が及んだのか、わなわなと拳を震わせて怒りを堪えている様子だった。

 これは放っておいたらジジイとやらを追いかけて行ってしまうかもしれない。

 そうなると面倒なので魔理沙は話題を切り替えることにした。彼女が言いたいのは霊夢の父の人間離れっぷりではないのだ。

 

「まあ怒る前に私の話も聞いてくれよ」

「なに」

 

 剣呑な空気を隠そうともしない霊夢だが、魔理沙は物怖じせずに話し始める。

 基本的に素直にならず、照れ屋な霊夢を相手にするには多少の図々しさが必須となる。

 

「ここ最近、ずっと寒いどころか雪だってまだ降り続けている。――こりゃ異変だろ。霊夢だって春が来ないのはうんざりしてたんじゃないか?」

「……確かに、変だなとは思ってたけど」

「だろう? 冬が長引いて喜ぶとくれば雪女とかの妖怪が定番だ。私らでちょちょいと話を聞いて異変だったらそのまま解決しちまおうぜ」

 

 この状況が異変なのかそうでないのか。それがわかるだけでも情報としての価値はある。

 だからここは行くべきだろう。無駄足に終わろうと無意味になることはない。

 

 ――と、霊夢は魔理沙の提案に乗るべきだと囁く自分の勘への理論武装を行って、うなずいた。

 

「ま、そういうのを調べるのも博麗の巫女のお役目ね。これから朝ごはんを食べてから行くけど、あんたも食べてく?」

「その言葉を待ってました。いやぁ、わざわざ朝早くに来た甲斐があるってもんだぜ」

「その辺でつららでもかじってなさい」

「減るものじゃないし良いだろ」

「神社の食糧が二人分減るわよ、全く……」

 

 寺子屋時代の魔理沙はもう少しおとなしかった気がするが、あれから数年も経てば人間は変化するのだろう。

 霊夢は大きなため息――不思議と父親代わりの人に似ている――をついて、仕方がないと割烹着を来て朝食を作り始めるのであった。

 

 

 

 

 

「珍しいこともあるものですね」

「いや、ははは。面目ない」

 

 その日、信綱は慧音の元を訪ねていた。

 これといった用事が信綱の側にあるわけではなく、むしろ信綱が慧音に呼び出された形になる。

 その用事とは信綱が目を見開くほどに驚くべきことであり――慧音が風邪を引いたのだ。そもそも半獣って風邪を引くのか、という点でまず驚いた。

 

 慧音の家を訪ねると普段の服ではなく襦袢だけを身に着け、熱で赤くなった顔でバツの悪そうな顔をした慧音が待っていた。

 そんな彼女の要請に応えて、今は彼女のための薬を調合している最中だった。

 

「しかしなぜ普通の医者ではなく私を呼んだのですか?」

「昔から人間用の薬は効果が薄いんだ。彼らの技量云々ではなく、私の身体が問題なのだろう」

「だから私ですか……」

 

 人里で最も妖怪の知り合いが多い人間は信綱以外にいない。

 しかも人妖の共存が成されるずっと前から妖怪に鍛えてもらったという話もある。彼の人生は妖怪とともにあったといっても過言ではなかった。

 そして彼には医術の心得がある。元は阿七や阿弥といった御阿礼の子のために磨いたものであるが、人間や妖怪に適用されない道理もない。

 

「私も先生の薬を作った経験なんてありませんし、風邪に特効薬なんてのもありません。せいぜい滋養強壮ぐらいですよ」

「わかっている。それに……あれだ。お前とは公私に渡って長い付き合いになったからな。私も変な遠慮をしないで済む」

「……先生ほどの方であればみんな、喜んで助けになると思いますよ」

 

 言いながら、粉末を作るために動かしていた薬研の手を止め、できた粉末を懐紙の上に乗せる。

 

「できました。こちらを飲んだら後は栄養のあるものを食べて暖かくしてゆっくり休んでください。病気を治すには自分の体の抵抗を高めるのが一番です」

「ああ、そうさせてもらおう」

 

 慧音が苦そうな顔で薬を飲み干すのを見届けると、信綱は彼女の横であぐらをかいて腕を組む。

 

「本当に珍しいこともありますね。先生が風邪を引いた姿など、この歳まで生きて初めて見ました」

「私も本当に久しぶりだ。半分妖怪である以上、私の身体は普通の人間よりよほど丈夫なのだがな。今回の寒さは堪えたらしい」

 

 困ったように笑う慧音だったが、顔色自体は悪いものではない。熱が上がって赤くなっているのも、肉体が病を追い払おうとしている証拠だ。

 本当に体調が悪いとその熱すら出なくなる。

 阿七はしょっちゅう体調を崩しながらも、熱だけはなかなか上がらなかった。

 そんな彼女の姿を見てきたのだから間違いない。彼女のために磨いた医術がこんなところで役立つとは思わなかった信綱だった。

 

「お前はどうなんだ? 呼びつけておいてあれだが、感染(うつ)すと私も罪悪感がある」

「生まれてこの方体調を崩したことがないです」

 

 そうであるよう徹底的に体調管理を行った賜物でもある。御阿礼の子の側仕えは何より身体が資本なのだ。不摂生などできるはずもない。

 それを差し引いても一度も体調を崩さないのは、我ながら恵まれた肉体を持ったものだと顔も知らない母親に感謝したものだ。

 その話をすると慧音はどう反応したものか困ったような笑顔を浮かべた。

 

「お前の母親となると、もう生きてはいないだろうな。というより、お前が人間の中では最高齢だ」

「でしょうね。顔も名前も知りませんが、どこかの墓に葬られているのでしょう」

 

 火継の家で一生を終えたのなら火継の墓に入るが、それなら子供の頃に一度くらい顔を合わせてもおかしくないはず。

 おそらく自分を産んだ後は火継の家を出て普通に暮らしたのだろう。

 火継の家に入る以前の名字など信綱には知る由もない。自分を産んだ母親は自分と関わらず生きて死んだ。それだけである。

 

 他人の事情であれば痛ましい感情の一つも覚えるが、自分のこととなると一切の感慨が湧かなかった。

 なにせ自分は阿礼狂い。父親さえも己のために使い潰したヒトデナシ。そんな人間の親であるなど、誰が認めたいか。

 

「まあ、私は構いません。大して気にもしていないことです」

「だろうな。全く、情に厚いのかそうでないのか……」

「それは周りが決めることです」

 

 そう言って信綱は立ち上がる。いつまでも病人と話していても、相手が休めないし自分に感染する可能性が増えるだけである。

 

「私は戻ります。先生は少し働きすぎですので、これを機に養生してください」

「お前ほどじゃないさ。とはいえ、人と比較することも虚しいか。言われた通りゆっくり休むとしよう」

「はい。――きっともうすぐ、暖かくなりますよ」

 

 信綱が外に出ると、相も変わらぬ頬を刺す寒さが襲ってくる。

 いい加減霊夢が動いても良い頃合いだろう。気づかずとも、魔理沙辺りは動いているかもしれない。

 

 もう博麗の巫女が異変を解決しなければならない時代は終わったのだ。弾幕ごっこのルールに則り、正しく動くのなら誰であっても異変を解決する権利がある。

 いずれにしても自分は待っていれば良い。誰かに後事を託すというのは実に身軽な気分だ。

 

「旦那様」

 

 と、そんな信綱の後ろに声がかかる。

 振り返ると、そこには紅魔館のメイドを務めている咲夜が普段通りの女中服を身にまとい、佇んでいた。

 

「お前か。レミリアはいないようだが、どうかしたか?」

「本日は情報収集に参りました」

「情報収集?」

「ええ。お嬢様はこの寒さが続く原因を春を奪う異変が起きていると考えたようです」

「……あいつが?」

 

 彼女にそんな難しいことを考える頭があったのか、と本人が聞いたら泣き出しそうなことを考える信綱。

 そんな彼の思考がわかったようで、咲夜は小さく微笑んで種明かしをする。

 

「実はパチュリー様が遠見の魔法で春を奪っている輩がいることを知ったんです。その時にはもう紅魔館の春は奪われていましたけど」

「面子の問題か」

「それもありますが、パチュリー様が四季の元素を集めにくくなるから早く解決しろ、とうるさくて」

 

 お嬢様は雪遊びができると結構嬉しそうなのですが、と可愛らしく小首をかしげる咲夜だった。

 レミリアがあまり他人に知られたくないであろう事実を知ってしまったことに、信綱は微妙な顔になるが口には出さなかった。

 さすがに子供っぽい遊びで楽しんでいることを突っつく気にはなれない。信綱にも情けは存在する。

 

「それでお前は異変の解決か? スペルカードルールに従っている限り、咎められる謂れはないが」

「そのようなものです。冬が続くとお鍋が美味しいですけど、そろそろ春の山菜が恋しいですから」

 

 幻想郷に馴染んでいるようで何よりである。

 ともあれ、信綱としては知っている情報を教えるのもやぶさかではなかった。

 避けたいのは信綱が霊夢に教えることで霊夢が初めて異変に気づくという――いわば霊夢が受動的になってしまうことを避けたかったのだ。

 咲夜は自分から動き、数多く存在する選択肢の中で信綱を頼るという選択をした。能動的な行動であれば信綱も嫌がる理由はない。

 

「で、俺に何を聞きたいんだ? 知っていることなら答えるぞ」

「じゃあ異変の黒幕がいる場所とか」

「知ってたら教えている」

「ですよね。では最近変わったことは?」

「春を奪いに来る輩が来たから撃退した。名前は知らんが、人相は覚えている」

「こちらにも来たのですか。襲撃者も愚かなことを」

 

 咲夜はそのようなことをつぶやいているが、実は今の言葉でも情報は与えているつもりだ。

 信綱を知らない妖怪はそう多くない。その中で異変を起こせるような大妖怪になるとさらに限られる。

 そしてもしも信綱の知る妖怪が黒幕であった場合、絶対に信綱と事を構えることは避けろと厳命するはずだ。誰だって遊びで部下の命を捨てるつもりはない。

 

 つまり、この時点で幻想郷の既存の勢力は候補から外れるのだ。

 中にはもう一度信綱と戦いたいという連中もいるかもしれないが、それなら直接信綱に勝負を挑むだろう。

 

「俺も詳しくは知らないが、妖怪の山は違うだろうな。あそこも春を奪われたと言っていた」

「そうでしたか。人相書きもいただけましたし、候補が一つ減っただけでも収穫です」

「なら良い。異変解決、頑張ってくれ」

「微力を尽くします。では失礼します」

 

 優雅に一礼して飛んでいく咲夜を見送り、信綱は再び歩き出す。

 霊夢に魔理沙。そして咲夜。三人も解決しようと動く人間がいるのだから、幻想郷は安泰だ。

 

 異変を起こして騒ぎたい輩は騒ぎ、解決したい輩はそれらを退治する。

 人間と妖怪の関係としてはおよそ理想的だろう。これからもこの調子で続いていって欲しいものである。

 信綱はそう願って、気持ちよく歩き始めるのであった。

 

 

 

「さ、今日も勝負するわよ!」

「…………」

 

 信綱の願いは道中で風見幽香と出くわすことによって、五分で終わりを告げることになった。

 鼻息荒く、目を輝かせて――言葉を飾らず言えば子供のような無邪気な顔で将棋盤を持ってきた幽香に、信綱はズキズキと痛むこめかみを押さえる。

 人が気持ちよく歩いていたらこれである。自分のめぐり合わせの悪さというか、間の悪さは死ぬまで治らないらしい。

 

 外で遭遇し、家まで案内するのも面倒だったので適当な店で将棋盤に駒を並べていく。

 店員が露骨に迷惑そうな顔で見てくるが、ちゃんと食事を頼んだので相殺していると信じたい。

 

「……将棋盤なんて持っていたんだな」

「たまたまよ。大妖怪が人間を打ち倒すために努力なんてすると思う?」

 

 そうは言うが駒を並べる手つきの淀みなさを見るに、かなりの練習を重ねたのが丸わかりである。

 

「大妖怪とは努力せずとも強いのではなく、現状を認めて打開ができるものを指すと思うがな」

「……ふぅん。あんたの会ってきた妖怪ってそうなの?」

 

 幽香は並べ終えた将棋盤から視線をそらさず、あくまでそれとなくと言った体を装って聞いてくる。

 信綱にはそれが手に取るように理解できていたものの、指摘してやることはせずに素直に教えることにした。

 

「妖怪としての在り方以上に、己の魂に従う妖怪がいる。千年、自分の手足である妖怪の繁栄を願って動き続けた妖怪がいる。手酷い裏切りにあってなお、力強く笑う妖怪がいる。己の願いのために自分の誇りさえも捻じ曲げて目的を遂げようとする妖怪もいる。

 ……そして、自分の心を他人に見せたがらないくせに、誰よりも人間と仲良くしたい妖怪がいる」

 

 レミリア、天魔、勇儀、萃香、紫。いずれも信綱が出会い、大妖怪であると認めるにふさわしいだけの実力、在り方を持っていた者たちだ。

 彼女らに何が共通しているかと問われても、信綱には答えられない。

 矜持を大事にする者もいれば、誇りなど犬に食わせてしまえと宣う輩もいる。

 

 だが、信綱は彼女らが大妖怪であり、決して油断してはならない存在であるという認識を変えることはないだろう。

 幽香はそれを聞いて興味深そうにうなずく――前に首を横に振って信綱を嘲るように笑う。

 

「ふ、ふん。ちょっとは妖怪に詳しいようね。伊達に幻想郷の英雄ではないか」

「お前がどんな在り方を目指しているのか。それは俺には与り知らぬことであり、興味があることでもない」

 

 ウソである。幽香にはせめて真っ当な在り方になってもらわないと後々、自分が困るのが目に見えているため、幽香がどのような答えを出すのかは興味津々だ。

 先行の幽香がパチリと駒を動かすのに合わせて、一瞬も迷うことなく駒を動かす信綱。

 未だ本気を出すには至らない。その事実に幽香は憎々しげに信綱を睨むが、指す手に淀みはない。

 

「だが、大妖怪とは自分で名乗るものではなく、他者によって与えられる称号のようなもの。少なくとも自分からそれを名乗っている妖怪を見たことはない」

「…………」

 

 幽香からの返答はないが、意識がこちらに向いていることは確信できたため、気にせず続けていく。

 

「お前の力は凄まじい。それは認めよう。俺が今まで会ってきた大妖怪に全く引けを取らない」

「……当然よ」

 

 言葉少なに答え、幽香は再び盤面に集中する。

 もう趨勢は決しかけており、信綱の動かす駒が自在に幽香の陣地を蹂躙しつつある状況だった。

 まだ詰みには至っていないが、この調子では遠からず詰むだろう。

 そのような状況にあって幽香は苦々しい顔をしているものの、その顔に諦めは見えなかった。

 

「……俺がこう言ってしまうのもあれだが、お前は誰にも知られず花畑にいた方が良かったのかもしれない」

「孤高の大妖怪、とでも言いたいわけ。――巫山戯ないで。井の中の蛙がそう名乗るなど滑稽以外の何ものでもないわ」

 

 反逆の一矢が幽香の手より放たれる。

 予想だにしない方向からの攻撃に信綱の目が僅かに見開かれた。

 

「私は負けない。今、あんたに勝てなくても挑んで挑んで挑み続けて、いつか必ず勝つ。力であっても、知恵であっても」

「……そこまで言えるのなら立派な在り方だ」

 

 負けることが好きな存在はいないが、ここまで極まった者もそうはいない。

 勝つことに貪欲なところは信綱の知るどの妖怪にも見られないものだ。

 負けを認めるのも度量の一つであることは確かだが、勝利への渇望もまた度量である。

 なまじ優等生のように、知った風で諦められるよりよほど好感の持てる姿勢だ。

 

「私はね、孤高でいたいんじゃない。誰とも関わらない孤高なんて、ただの逃避と何も変わらない。悔しいけど、あんたを見て教えられたわ」

 

 実に久しぶりの来客であると同時、本当に久しぶりに己に敗北感を与えた男だった。

 信綱にとっては大したことではなかったかもしれないが、自分が負けたと思ったのならそれは負けなのである。

 そして負けは取り戻す主義である以上、信綱につきまとうのは当然の流れと言えた。彼にとってはいい迷惑だが。

 

 信綱は幽香の一手で揺らぎかけた地盤を整えながら、気持ちの確認をするように口を開く。

 

「知らない方が良かったのではないか?」

「冗談。あんたが死ぬ前に私のところに来てくれて感謝しているくらいよ。これで私はもっと上を目指せる」

「その向上心は見習いたいものだ」

 

 彼女の一矢は見事だったが、それで勝敗が覆るものではなかった。

 再び流れは信綱に傾き、今度こそ信綱の勝利は揺るがないものになっている。

 

「む、むむむ……」

「ところで。今の異変は察知しているのか?」

「春を奪いにきたってやつ? 適当に弾幕で追っ払ったわ。スペルカードルールとやらで戦うのは初めてだったけど、あれはあれで悪くないわね」

「なら良い」

 

 というか命を奪いに行った自分より上出来である。

 しかしそれをおくびにも出さず、信綱はしれっと話を流してしまう。突かれて都合の悪い部分は早めに飛ばしてしまうに限る。

 

「異変の解決なんて面倒だし、博麗の巫女に任せるわ。それより今はあんたとの勝負よ」

「そうか。王手」

「ぐっ」

 

 悔しそうに息を呑む幽香だが、ここ最近の勝負で将棋の流れは理解できている。

 盤面を読む限り、もうどうしようもない。詰みの状態になっていた。

 

「……ま、参りました」

 

 喉元で唸り声を上げていた幽香だが、やがて敗北を認めてがっくりと首を落とす。

 それを受けて信綱も鷹揚にうなずき、勝負は終了した。

 

「うむ、対戦ありがとうございました。まだ全戦全勝だな」

「花の世話をしている時もずっと考えていたのに……!」

「考え方の慣れだ。いずれ追いつく」

 

 幽香は妖怪だけあって思考の速度自体は信綱より早いのだ。

 それでも勝てないのは、偏に信綱が想像の埒外から手を打っていることに帰結する。

 要するに、彼女は相も変わらず目の前のことで頭が一杯になってしまうので、彼女の注意が及んでいない場所で利益を取っているだけに過ぎない。

 ちゃんと周りを見ることを覚えて、それぞれの対処を覚えた時が幽香の勝つ時である。

 

 勝利にこだわり、さりとて外道に落ちることもない彼女の在り方そのものは好ましいと思っているのだ。

 後は少し周りを見ることと、相応の振る舞いを覚えれば彼女は気高く美しい、誰もが憧れる高嶺の花として咲き誇ることだろう。

 

「もう一回! もう一回勝負よ! さっきので何か掴みかけたから!」

「……それはわかったから、いい加減お前も何か食べろ。店主が凄まじい目で見ている」

「人里のお金なんて持ってないわ!」

「威張って言うな。……全く」

 

 面倒なやつに絡まれるのは信綱の宿命のようだ。

 諦めたようにため息を吐いて、信綱は再び将棋を打つのに没頭していく。

 パチ、パチ、と駒を指す音が静かな店に響き、信綱と幽香は無言で盤上の勝負を続ける。

 そんな中、今度は幽香からおもむろに口を開いた。

 

「……ねえ」

「どうした」

「……あんたに勝てたらそれは誇って良いことなのかしら」

「それを決めるのはお前自身だ。自分に胸を張れることなら誇れば良い」

「……じゃあ、そうさせてもらうわ」

「そうすると良い。すぐに勝たせるつもりはないが。――王手」

「ウソ!?」

 

 ぐぬぬと必死に打開策を探す幽香を見て、信綱はほんの少しだけまんざらでもないため息をつくのであった。

 なんだかんだ、愚直な存在の面倒を見るのはそう嫌いではない信綱だった。

 

 

 

 

 

 ――それは幻想郷に春が訪れる、ほんの少し前の出来事である。




霊夢、とうとう真実に気づく。ノッブはウソつかないと思った? 残念!
魔理沙も咲夜も異変解決に動きます。次回ぐらいでもう妖々夢は終わってます。

妖々夢が終わったらおぜうや橙を書いて――すぐに萃夢想が始まります。妖々夢の解決祝とかで宴会を作ればすぐに起こせる異変ですから。

その異変が終わったら、とうとうこの物語も幕を下ろす時が来ます。100話……は少し越えるかもしれませんが、110には行かないでしょう。

そしてゆうかりんはこれまでとは違ったタイプの大妖怪として書いてます。人と関わりが少なかったから何ものにも染まっていないけど、それでも器は十二分。方向性さえ与えればすぐにでも花開く存在です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春の奪還と鬼の蜜月

ちょっとFGOの採集決戦に挑んでいて遅くなりました。バルバトスは強敵でしたね……(プレイヤーが)


 白玉楼の庭師兼剣術指南役である魂魄妖夢は最近、悩みを覚えていた。

 というのも人里を襲った際に受けた恐怖体験に始まり、ここ最近で調子の良かった試しがない。

 

 人里を襲った時は本当に九死に一生を得た気持ちだったし、それは間違いではないはずだ。自分を助けてくれたあの白狼天狗は無事だろうか。

 気にはなるものの、主である幽々子から春を集めるように指示を受けている手前、自分の都合を優先するわけにもいかず次に花畑へ向かった。

 

 今度は弾幕ごっこで出迎えてくれたものの、恐ろしく強く手も足も出ないまま撃墜されてしまった。

 花と植物を連想させる美しい弾幕で、自分の弾幕を優雅に避ける様は手の届かない高嶺の花を連想させ、同性である妖夢も少し見惚れたくらいだ。

 

 薄く微笑み、日傘を携えて無数の弾幕を放つ姿は主人の幽々子に勝るとも劣らない。きっと普段の生活も優美で淑やかな女性の憧れるものなのだろう。

 

 ……実態は日がなとある男にどうやって勝つことかしか考えておらず、しかもしょっちゅうその人物に打ち負かされては悔しい思いをしているのだが、想像の中では人はどこまでも高みに至るものである。閑話休題。

 

 さておき、自分はどうにも幻想郷の中ではあまり強くないのではないか、というのが妖夢の悩みだった。

 生きた年数は浅くとも、剣の師匠である魂魄妖忌に鍛えられ、死を操る亡霊である幽々子に仕えて日々精進をしてきた。

 努力を怠らず、毎日毎日飽きもせずに剣を振るった。半人半霊としての身体能力、半霊との連携、純粋な剣技。どれも自身が思いつく限りの鍛錬をしてきたつもりだ。

 

 大妖怪と目される存在に勝てないのは仕方がない。根本的な年数が違う以上、差が出るのは当然のことである。

 しかし、人間に勝てないのはどういった理屈だろうか。というかあの男は人間だろうか。

 手も足も出なかったどころではない。手も足も出さなかったのだ。戦おうとする前に身体が奴との戦闘を拒否し、次いで心が折られてしまった。

 もう一度あの男と相対して、まともに剣を振るえるかはわからない。いや、おそらく振れないだろう。

 剣術を使う者として悔しいが、彼の技量は自分より上だ。

 全てを見ていないので断言はできないが、場合によっては師匠である妖忌以上の使い手かもしれない。あるいは死を操る亡霊すらも殺してしまいそうな気配を感じた。

 

「あれは本当にマズイって言ったんだけどなあ……」

 

 幽々子と紫の前で人里はマズイという進言はした。

 主人の願いは叶えるものであり、彼女のためなら命も惜しくないとはいえ、一時の暇つぶしのために死ぬつもりはない。

 彼女の親友である紫は妖夢の言葉にうんうんと力強くうなずいていたのが気になったが、幽々子は半信半疑と言った様子だった。

 恥も外聞もなく泣きついてどうにか幽々子に人里は免除してもらうことを取り付けたのは、我ながら英断だったと妖夢は自分を褒める。いや、褒められた行動ではないが。

 その様子を見ていた紫は普段なら妖夢の様子に笑っているところなのに、なぜかその目は同情に満ちたものだったのが気になる。

 

 そんなわけで一通りの春を集めた妖夢は白玉楼の門前で見張りをしながら、幽々子が西行妖に春を捧げに行くのを待っているのであった。

 

「……この異変が終わったら、修行の旅でも出ようかしら」

 

 修行しても勝てるイメージが浮かばないのが難点だが、現状に甘んじるままでは一層の精進は見込めない。

 強さを求めるのなら、より自分を過酷な環境に置く必要がある。流水こそ己の身を引き締めるのだ。

 

 と言っても、妖夢は冥界生まれの冥界育ち。この場所から出たことはあまりなく、修行の旅と言ってもどこに行けば良いのか皆目見当もつかない。

 はぁ、と妖夢はここしばらくで頻度の増えたため息をついて、桜が舞い散る長い階段を見下ろした。

 

「……全く、人が物思いにふけっていても侵入者はやってくるのね」

 

 この辺りにいた霊が騒いでいる。変化の少ない冥界においてそのような事態が起こる理由など、一つしかなかった。

 妖夢は楼観剣の柄に手を添えて静かに待ち構える。

 結局、人里で恐怖体験をしてから人や妖怪からの春の奪取はできなかった。

 人間か妖怪、一人ではたかが知れているが、それでもないよりはマシだろう。

 そうしてやってきた赤と白の巫女服に身を包んだ少女を見て、妖夢は口を開く。

 

「――あなた、人間ね。ちょうどいい。あなたの持っているなけなしの春を全ていただくわ!」

「私の邪魔をするってことは異変の黒幕側ねよし落ちろ!」

「なんかすごい既視感あるんだけど!?」

 

 一切の躊躇も対話すらなしに弾幕を放ってくる少女に、妖夢はつい最近似たような相手に襲われたなあ、などと遠い目で自らも迎撃に出るのであった。

 命の危険が格段に少ない弾幕ごっこであるだけまだ有情なのだろう、と心の何処かで安堵しながら。

 

 後日、なんだかんだ仲良くなった巫女の少女から誰に鍛えられたのかを聞いて、深く納得したのは別の話である。

 

 

 

 

 

 信綱は相も変わらず椛を伴って見回りをしていた。

 どうにも先日、春を奪いにやってきた少女を追い返したのが原因で椛からの信用がなくなってしまったらしく、見回りに出る時は彼女が一緒になるようになっていた。

 

「お前が仕事熱心なのはありがたいが、方向性が不本意だ」

「いや君、同じ状況になったら同じ行動をするでしょう」

「当たり前だ。阿求様の敵を生かしておく理由など一つもあるまい」

「だから私が一緒に動くしかないんじゃないですか……」

 

 不本意だと言って不満そうな顔をしているくせ、一切の改善が見られない信綱の物言いに椛は困ったように耳を垂れさせる。

 こういう男だとは前からわかっていたが、よもや止める役目まで任されるようになるとは思っていなかった。

 もしももう一度、あの少女が春を奪いにやってきたのなら、今度は死に物狂いで説得しようと心に決めている椛であった。

 説得の失敗が少女の命と自分の命に直結しているとあっては、簡単に諦めるなどもってのほかだ。

 

「それに、まだお酒を買ってもらってませんからね。せっかく買ってもらうんだから、良いのをたくさん買ってもらわないと」

「……程々にしろよ」

「残念、容赦はしません」

 

 いつもは容赦していたのだろうか、と信綱は半目で椛を見るものの彼女に堪えた様子はなかった。

 

「まあ良い、約束は果たそう。では行くぞ」

「よっしゃ、酒買ってもらえるなら頑張るか」

「はいっ」

 

 そう言って二人は歩き出し――すぐに中心にいた男に対して呆れた目を向けた。

 

「天魔様、一声かけましょうよ……」

「そこはもう少し驚けよ。せっかくわざわざ変化の術で化けて、歩き方も変えて来たってのに」

「癖っていうのはそんなに簡単には変わりませんよ。それに千里眼で自分の周囲は常に見ています」

 

 この白狼天狗、なんか会う度に面倒な一芸を覚えてやがる、と天魔は内心で驚愕する。

 本人に自覚はあるのだろうか気になって仕方がない。風のうわさでは阿礼狂いと直接対決で食い止めたとも聞くし、これは本格的に自分の手駒に入れることも考えて良いかもしれない。

 

「どこでそんな手品覚えたんだ?」

「俺が教えた。害を与えるとなると直接触れることが大抵の場合で必要になるからな」

「前々から思ってたけど、旦那の厄介なところは旦那だけを潰せば良いってもんじゃないところだよな」

 

 信綱の薫陶を受けた白狼天狗はご覧の通り、今や天魔であっても無視できない一芸を身につけつつある。

 それに信綱を倒したところで、遠からず死ぬ彼は自らの死後も人里――もとい御阿礼の子が健やかに生きていけるだけの布石を打っているはず。

 なにせ政治の勝負でここまで天魔が煮え湯を飲まされた相手だ。その人物の業績を天魔は正しく評価する。

 

「まあ良いや。オレは旦那を敵に回す予定もなければ人里を潰す気もない。んで今日来た理由だけど、ぶっちゃけ暇だった」

「天魔様……」

「そんな目で見るなよ。春を奪われたから大天狗が報復しろってうるさいけど、好きに行けば良いんだよ。スペルカードルールに則ってるなら、誰が異変解決したって良い時代だ」

「それでどうしたんだ?」

「不満を溜め込むのも問題の先送りだからな。この異変が終わったら大規模な宴会でも開いてみようかと思ってる。ガス抜きさせてやらんと爆発した時の規模がでかい」

 

 そう言って微かに遠い目をする天魔の瞳には、かつて袂を分かってしまった大天狗が浮かんでいるのだろう。

 それが読み取れてしまった信綱は大きなため息をつく。同情や罪悪のものではなく、呆れたそれを。

 

「お前は手足に入れ込み過ぎだ。いつまでも忘れないくせ、切り捨てる決断は迷わないなど、お前の心が無事で済むものではないぞ」

「――だからオレが頭張ってるのさ」

 

 そう言って天魔は椛の頭に手を置き、その瞳に政治家としての色ではなく、全ての天狗に幸あれと願ってきた天狗の首魁としての色を浮かべる。

 椛はその目に何も言えなくなっていたが、信綱は構わず口を出す。

 

「であれば味方を天狗以外に増やすことだ。お前の関係は身内に寄り過ぎだ」

「ほう、その心は?」

 

 信綱の言葉に興味を示したのか、その理由を問うてくる天魔。

 対し信綱はわからなかったのか、と逆に意外そうな顔になりながらも答える。

 

「……妖怪も人間も、一人でできることなんてそう多くない。結果論になるが、あの時の天狗の騒乱は俺がいなければ被害はもっと拡大していただろう」

 

 別におかしなことではない。信綱は盛大に切った張ったして、多くの烏天狗を地に落としてその五体を切り刻んだが、致命的な一線を越える傷はつけなかった。

 事実として、あの争乱で死んだのは首魁である大天狗のみだった。

 

「ま、旦那がいてもいなくても、遠からず起こっていただろうな」

「そうなっていた場合の被害はどう睨んでいた」

「……一人二人、じゃあ済まなかっただろうな。オレの未熟だって痛っ!?」

 

 言ってもわからないようなので肘を強めに脇腹に入れてやる。

 脇腹を押さえて痛そうに顔を歪める天魔に、こんな簡単なこともわからないのかと呆れた顔になって信綱は言ってやる。

 

「未熟だと思うのは良い。俺だっていつも思っている。――だが、それでもやらなければならない時がある。そうなった時、頼れるのは自分以外の相手だろう。もう隠す必要もないが、俺はあの争乱の折、こいつに助けてくれと言った」

 

 椛の腕を掴んで引き寄せる。

 椛は一瞬だけ驚いた顔になったものの、すぐに落ち着いて信綱の隣に立った。

 彼女のできることは信綱に比べれば遥かに少ない。彼女より多くのことを、彼女より上手くやれる相手も信綱は知っている。

 だが、信綱が御阿礼の子を任せるとしたらそれは椛以外にはあり得ないと言い切れた。それほどに彼女を信頼していた。

 

「俺もお前も一人で多くのことができる存在だ。だからこそわかる。――それで守れるものなんてたかが知れていると断言できる」

 

 信綱が誰とも交友を持とうとせず、ただ孤高に己の力だけを追求していたら――きっと、御阿礼の子を守り抜くことはできなかっただろう。幻想郷を襲ってきた嵐に呑まれて砕けていたに違いない。

 たった一人の主を守ることさえこれなのだ。天魔の語る天狗の全てを守るなど、一人でできることではなかった。

 

「頼れる存在を作れ。強くなくて良い。権力がなくても良い。自分が心から信頼できて背中を預けても良いと思える存在だ」

「……なるほど、確かに。それはオレにはなかったかもしれないな」

 

 天魔は信綱の口から語られるそれを、苦笑いと共に受け入れる。

 根っこの方は明らかな狂人のくせ、言うことは真っ当なのだから面白い。

 

「旦那にとっては椛がそれか?」

「そうだな。こいつは俺の無茶ぶりにも応えてくれた」

「いや、無茶ぶりって自覚があるなら自重しましょうよ!? 毎回死ぬかと思ってるんですよ!?」

「お前以外に任せられないから頼んでいるんだ。それにお前から首を突っ込んだものもあるだろう」

 

 百鬼夜行の時など、椛は萃香に自ら勝負を挑んでいた。

 人妖の共存を望んだ最初の一人であると、誰でもない自分に胸を張るために。人妖の共存を成し遂げつつあった人間に胸を張るために。

 あれは別に信綱が頼んだわけではない。椛もあのまま戦わなければ、信綱が萃香を殺して話は終わっていただろう。

 ……その結果が今と同じになるかどうかは別として。

 

「何にせよ、俺にはこいつがいた。お前にはいたか?」

「……目的が同じだと思っていた大天狗も、離反する時はするからなあ。旦那みたいに利害を越えた関係を持つってのは今さら難しい」

「え、あれ? もしかして褒められてます?」

「当たり前のことを言っているだけだ」

 

 ずっと同じ光景を見てきたのだから、これからもそれを見続ける。

 それだけのごく当然のことだと信綱は思っていた。

 信綱と椛。天魔も知らない昔に出会った頃はわからないが、今となってはほとんど全ての面で信綱が椛を上回るようになり――それでも、決別はしなかった二人。

 

 意識せずとも共にいられる。そうなれる関係を築くのにどれだけの時間が必要か。

 天魔は本人が当たり前のように手にしているものを微かに羨み、苦笑して再び歩き出した。

 

「ま、仲良きことは美しきかなってことさ。身体も冷えてきたし行こうぜ。酒でも飲んで身体を暖めないと」

「そうですね。奢りですし、いくらでも飲んで良いんですよ!」

「限度があるに決まっているだろうが戯け」

 

 天狗も鬼も大酒飲みで有名な妖怪である。彼らに付き合ったら信綱の財布が消し飛んでしまう。

 最近はそんな妖怪に飲み比べで勝負を挑むことに意義を見出した人間もいると聞くが、率直に言ってバカなんじゃないだろうかと思う信綱だった。

 

「……いや待て。なぜ天魔にまで酒を奢らねばならない」

「良いじゃねえか、ここで会ったのも何かの縁だって」

「お前のことだからどうせ俺を探していたんだろうが」

「椛に酒を買う場面だとまでは思ってなかったさ。だから十二分に偶然だって」

「まあまあ。あんまり怒ってばかりだとお酒も不味くなりますから」

 

 なんて図々しい奴らだ、と信綱が胸の奥からため息を吐いていると――天魔の姿が消える。

 

「む?」

「あれ、天魔様? ……あ」

 

 何事かと信綱と椛が天魔の遠ざかる理由を探すと、椛が一瞬だけ早く答えを見つけた。

 大きな酒樽を片手にのしのしと人里を歩き、行く先々で声をかけられては律儀に返事をしている一人の少女。

 そしてその少女の隣を意気揚々と後頭部で手を組んで歩く小さな少女。

 両者に共通していることは――雄々しい角が生えていることだった。

 

 そんな少女二人――星熊勇儀と伊吹萃香がこちらに向かってくるのを見て、信綱と椛にも納得が生まれる。

 

「あいつ、本当に鬼が苦手なんだな」

「あの二人が山を支配していた頃からの付き合いでしょうし、色々あるんだと思いますよ」

 

 その割には萃香と勇儀は天魔を嫌っている様子がない辺り、不思議な関係である。

 ともあれ二人が近づいてくるので、信綱と椛もその場に立って会釈をする。

 

「おお、鬼退治の勇者たちじゃないか! 今日は一体どうしたんだい?」

「俺たちは見回りだ。お前たちこそどうした」

「雪で倒壊した家屋の片付けを頼まれてたんだよ。ついでに新築も済ませてお礼にと酒樽をもらったのさ」

「けが人はいなかったのか?」

「ぺしゃんこになるような崩れ方じゃなかったしね。私らの手にかかれば一時間もいらないよ」

 

 鬼は優秀な大工と聞いていたが、予想以上だった。

 これで気まぐれでなおかつ酒飲みのため、しょっちゅうサボってムラがあることを除けば理想的と言えよう。

 

「ほう、よくやったな」

「これくらいお安い御用さ! んで、お二人さんは暇かい? 今からこいつを適当な飲み屋に渡して、つまみと一緒に飲もうって萃香と話していたんだ」

「俺は構わんぞ」

「そっか、駄目なら仕方がない――って良いって言った!? 萃香がいるのに!?」

「オイちょっと待ちな勇儀。今のどういう意味さ!?」

 

 言わずともわかるだろう、という目で勇儀と信綱から見られてしまい萃香は怯んでしまうものの、諦めずに口を開く。

 

「ケジメは付けたし、ここ最近は真面目にやってるんだ。一緒に酒を飲むくらい許してくれるだろう?」

「お前と二人きりはゴメンだがな」

「ひっでぇ!?」

「まあ今回は構わん。こいつに奢る酒もこれで済ませられ――安く上がるからな」

「あ、ずるいですよ!」

「そこの白狼天狗も来るのかい? 私らは大歓迎だけど、そいつは萎縮しないか?」

 

 勇儀が聞いてくるが、萃香はチッチッと椛の代わりに指を振る。

 

「私らが心配することじゃないよ。なにせこいつは私を打ち倒した天狗の勇者だ」

「ほう、勇者! 勇ましいやつは大好きだ! よし、一緒に飲むか!!」

「勝手に私のこと過大評価しないでくれません!? 私はただのしがない下っ端天狗ですよ!!」

 

 悲鳴のような椛の言葉だったが、勇儀や萃香はおろか信綱すらもその言葉に対して反応しなかった。

 

「君まで!?」

「俺が鍛えているんだ。下っ端であることと弱いことは同じではないぞ」

 

 信綱はこともなげに言うが、椛の周囲には自分より遥か上の相手しかいないのだ。

 自分の周りで同程度の格の妖怪など、河童のにとりと妖猫の橙ぐらいである。

 特に信綱と一緒にいて知り合う妖怪は大半が大妖怪だった。彼女らと比べると格の違いを感じてもおかしくはない。

 しかし、そんな椛の弱気に萃香は肩をすくめて苦笑いをする。

 

「んむ、人間の言う通り。お前さんはもう少し自分の強さに自信を持った方が良い。でないと負けた私が惨めだ」

「う……」

「……難しいようなら気にするな。惨めどうこうを語るなら、俺に負けた連中は皆そうだ」

 

 困ったように眉を歪める椛の頭に、信綱の手が置かれた。これ以上は見過ごせないと判断したのだろう。

 額面上の性能で言えば人間である信綱が一番下である。体力も膂力も、どちらも妖怪に匹敵するものではない。

 だが、それでも並み居る大妖怪を打ち倒してこの場に立っている。その事実に萃香も勇儀も呵呵と笑う。

 

「それ言っちゃおしまいだっての! ――さ、一緒に飲もうぜ! 今日は朝まで飲むぞ!」

「まだ日も高いぞ」

「鬼の飲みに付き合うんなら、そんぐらい覚悟しろってことさ!」

「頑張ってくれ」

「なに私を生贄にしようとしてるんですか!? 君も一蓮托生ですよ!!」

 

 そっと椛を置いて逃げようとしたら、逆に彼女に手を掴まれて逃げられなくなってしまった。

 面倒な相手に絡まれてしまった、と信綱は苦い顔になりながら酒飲み二人と椛を連れて、店へと入っていくのであった。

 

 

 

「で、人間たちは今の異変は気づいているのかい?」

 

 入った店で出された川魚のなめろうと焼き魚、煮魚といった魚をつまみに勇儀と萃香がグビグビと軽く一樽分の酒を飲み干してしまうと、ふと口を開いてきた。

 信綱は付き合いで最初の一杯だけ飲み干し、後はうんざりした顔で二人が飲むのを見ていたが、話が振られたためそれに返答する。

 

「こいつが教えてくれた。こいつは天魔から聞いたらしい」

「ふぅん、天魔の坊主も鼻が利くようになったもんだ」

「お前たちは気づいていたのか?」

「私は普段地底にいるからどうでも良かったけど、萃香は気づいたようだね」

「ま、疎と密を操る手前、四季の濃淡はわかるのさ。今年は春が不自然に少ない――いや、一度は出てきた春を誰かが奪っている痕跡があった」

 

 自慢げに話す萃香に信綱は感心した顔になる。その辺りの能力による感覚は信綱にはまるで理解できないものだ。

 

「俺には春を奪うという発想自体がわからなかった。規模が大きすぎないか?」

「珍しくはあるけど、不思議ってほどじゃないよ。それに解決はされるんだろう?」

「されなきゃ滅びるだろうが」

「まあまあ大丈夫だって。最悪の場合は人間が出張れば簡単だ」

「……はぁ」

 

 そんなに簡単な問題ではないのだが、困った連中である。

 信綱はため息を吐いて近くにあった焼き魚を食んでいく。春を待ち望んで脂を溜めた身が美味だった。

 

「今起こってる異変は良いんだよ。私らがやったことじゃないし、私らが関われることでもない。問題は次だ」

「次?」

「うん、次に異変を起こすなら私も関わりたいなって」

「…………」

「そんな目で見ないでよ。ちゃんと弾幕ごっこのルールには従うよ。約束したじゃないか」

 

 鬼は約束を破らない。それ自体を疑っているわけではない。

 ただ、萃香は物事を恣意的に解釈して行動する可能性がある。嘘でなければ大丈夫、という考え方の持ち主だ。

 人里に害をなすつもりはない、というのは信じて良いだろう。その部分は信綱が直接交わした約束だ。それすら守らない鬼だったら、勇儀が萃香を殺している。

 

「……約束を守るのならとやかくは言わん。状況次第でもあるが」

「ん、それで良いよ。お前さんが文句を言うほどなら素直にやめる」

「私は今のうちに関わらないことを宣言しておこうかね。本当に久方ぶりに鬼退治されたんだ。もうちょい余韻に浸っていたい」

 

 無関係を公言した勇儀は向かいの席に座っている信綱の肩をバシバシ叩く。

 本当に骨が砕けかねないのでやめろと口を酸っぱくして言っているのだが、一向にやめる気配がない。

 

「その腕切り落とすぞ。お前の力加減は洒落にならん」

「ははは、ゴメンゴメン! お前さんが相手だとこっちも遠慮しなくて良いから気が楽なんだよ!」

 

 信綱の苦情を勇儀は豪快に笑い飛ばし、酒を呷る。

 それを見た萃香も負けじと酒を飲み、そんな二人の飲みっぷりに周囲が囃し立て始める。

 鬼の首魁が二人に人里の英雄が一人。妖怪なら大抵の存在が顔を知っている三人が一堂に会しているのだ。興味を持つ輩が出るのも当然と言えた。

 

 信綱はそれらの視線を察し、横で場の空気に呑まれかけつつある椛の腕を突く。

 

「ここは俺がどうにかするからお前は戻っていろ」

「え? ですが……危険では?」

 

 椛の言葉に信綱はその通りだとうなずく。酒を飲んで勢い付いている鬼を止めるのだ。危険以外の何ものでもない。

 しかし、この場に留まり続けていても椛にできることはなく、自分たちと一緒にいたことで余計な好奇の目を向けられる可能性が増えるだけである。

 

「ここにいてもできることなどないだろう。だったら俺の代わりに見回りを頼む」

「……わかりました。君はいつも大変ですね」

 

 面倒事は外からもやってくるし、内側からもやってくる。

 椛は道を歩く度に知り合いと出会い、そして加速度的に厄介になっていく物事に巻き込まれてしまう信綱に同情の視線を向ける。

 信綱はそんな椛の視線を受けて不服そうに鼻を鳴らした。

 

「いつものことだ。それにこの二人を一緒にいさせるのなら俺が見張っていた方が安全だろう」

 

 万が一にも酔っ払って騒ぎを起こされた場合、その面倒事の規模は今の状況を遥かに凌ぐものになるというのは想像に難くない。

 

「君、絶対に貧乏くじを引く星の下に生まれてますよね」

「俺に付き合ってきたお前も大概だぞ」

「私は自分から選んできたから良いんです」

 

 自分の答えと何が違うのだ、と信綱は呆れた目で見るものの、椛のしたり顔は変わらない。

 どうやら自分と椛の間には明確な差異がある、と椛は考えているようだ。

 その理由が気になったものの、追及する時間はない。

 信綱はさっさとどこかに行けと片手を振り、椛は勇儀と萃香が競うようにして酒を飲むのを横目にその場を去っていく。

 

「ぶはぁ、美味い!! んぁ、白狼天狗はどうしたよ?」

「俺の代わりの見回りを頼んだ。お前たちの見張りは俺がやる」

「良いよ良いよ! 一緒に飲んでくれるんなら大歓迎さ! もういっちょ乾杯と行こうか!!」

 

 萃香が景気良く椀を掲げると、勇儀もそれに追従するように盃を掲げる。

 信綱は仕方がないとため息を一つついて、自らもまた盃を手に取った。

 

「何に乾杯するんだ?」

「そんなもん決まってる! ――私たちの蜜月に、だ!」

 

 裏切りによって一度は終わり、そして再び見えた鬼と人間の蜜月。

 その終わりはきっと悲しいものになるだろう、と信綱は鬼の首魁である二人を見ながら思う。

 この二人と同じ速度で歩めるほど、人間は強くない。

 

 だが、それは今ではない。

 きっと彼女らも心のどこかでいつか訪れる終わりを意識しているはずだ。

 その上で今を謳歌することを決めた。ならばその決意を嗤う理由などどこにもない。

 

「乾杯!!」

「……乾杯」

 

 信綱は盃が割れる勢いでぶつけている二人のそれに、自らのそれを重ねるのであった。

 

 

 

 

 

 ――そして彼女らが外に出た時、桜の芽吹きが始まっていた。




ノッブが鬼の二人組と酒を飲んでいる間に異変は解決するという適当ぶり。異変の内容については霊夢の口から語らせることになると思います。

そして妖々夢も終わったので、レミリアの最後のお願いや春が来たのでノッブと遊びに来た橙、そして騙されていたことを知ってキレた霊夢のお話などをして――すぐに萃夢想が始まります。
萃夢想が終わったら物語も本当におしまいです。ノッブが自らに課した最後の役目を果たして、本編は終了となります。

1月……2月中には終わる……と信じたい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雪解けと芽吹き

あけましておめでとうございます。
残り短い付き合いにはなるでしょうが、今年も拙作をよろしくお願いいたします。


 春が訪れた。

 言葉にすればたったそれだけ。しかし幻想郷全体を覆っていた白い雪景色が、急速に土と緑の春らしい風景に変わっていく様を見ると、本当に春が奪われていたのだと実感してしまう。

 わずか数日で雪は綺麗に溶けてしまい、新緑の芽吹きと桜のつぼみが目を楽しませる。本格的な春が訪れ、桜が咲き乱れる前のほんの僅かな時間。

 

「異変が解決した途端、こうも変わるとはな……」

 

 信綱は博麗神社に向かう階段を登りながら、感心してつぶやく。

 春を奪う輩がいたことは知っているし、実際に顔を合わせたこともあるが、こうして一気に冬から春へと変わっていく様子を見せられてしまうと、彼女が本当に春を奪っていたことがわかる。

 言い換えればこれだけ一気に変わるような春を奪っていたのだから、もしも異変が長引いていたら本当に洒落にならない事態になっていたかもしれないとも考えてしまう。

 

 いずれにせよ、異変は霊夢たちの手で解決されたのだろう。

 信綱は労いと異変の詳しい話を霊夢から聞こうと博麗神社への階段を登り切り、霊夢を呼ぶ。

 

「おい、いるか?」

 

 返事はなし。買い出しに行く彼女と入れ違いになっただろうか、と首を傾げる。

 基本的に移動は徒歩なので、空を飛ぶ彼女と入れ違いになることは時々起こる。

 いないのなら待たせてもらおうと、信綱は先代が神社の主をしていた頃からの習慣で賽銭箱に賽銭を入れ、願いもないのに儀礼的に鈴を鳴らす。

 

 ガランガラン、と鈴の音が人気のない神社に響く。

 これでも返事がないということは本当に留守なのかもしれない。間が悪いが、こんな時もある。

 信綱は慣れた動きで神社の居住区の方に足を向け――

 

「死ねジジィ!!」

「危ないな」

 

 上空より叩き込まれた夢想封印を紙一重で回避する。

 弾幕を全て避けた後、信綱は上空にいた霊夢を真っ直ぐ見据えた。

 彼女の瞳には爛々と怒りが渦巻いており、鼻息荒く信綱を見下ろす。

 

「チッ、軽く回避してんじゃないわよ! わざわざ鈴を鳴らして気配を読めなくなるのを待ったってのに!!」

「そんな怒気混じりの視線で見られていると緊張してしまう」

「まあ良いわ。私も今ので仕留められるとは思わなかったし」

「で、なぜこんなことをする?」

「自分の胸に聞いてみなさい!! 心当たりはあるでしょう!!」

「ありすぎて見当がつかない」

 

 霊夢が泣き叫んでも稽古の手を緩めなかったことだとするなら、ほぼ日常的にやっているのでどれが襲われる理由なのか逆にわからない。

 正直にそのことを言ったところ、霊夢は一瞬だけ怒るのも忘れてツッコミを入れてくる。

 

「爺さんどんだけ私をいじめてきたのよ!?」

「一応できることとできないことの加減は見極めてきたつもりだぞ」

「私がどれだけ苦労してるかわかってる!?」

「課題を与える側が受ける側の苦痛をわからないはずないだろう。俺も昔通った道だ」

 

 一歩間違えれば死んでいた椿との鍛錬に比べればマシだとすら思っている。多少の怪我はあるかもしれないが、命に関わるような危険なものはないはずだ。

 

「爺さんは私をバケモノにしたいの!?」

 

 その理屈だと自分はバケモノなのか、と信綱は半目で霊夢を見る。

 しかし霊夢は何かおかしなことを言っただろうか、と小首を傾げられてしまう。どうやら彼女の中では自分は人間の区分に入っていないらしい。

 このまま話していても埒が明かないと考え、信綱は話を進めることにした。

 

「で、結局なぜ俺が襲われるんだ」

「覚えてないとは言わせないわよ!! ――体操のことよ! よくも騙したわね!!」

「……ああ、あれか」

「魔理沙があれは修行だって言ってたわよ! それに人里の人たちもあんな体操しないって! 何か言うことあるなら言いなさいよ!!」

「まだ気づいてなかったのか?」

「ぶっ飛ばす!!」

 

 修行とか努力と言ってしまうと霊夢はサボる可能性が高かったので、適当に嘘をついたことは信綱も認める。

 とはいえそれが今の今までバレずに続いていたことには少し驚いていた。

 なので率直な感想を言ったところ、霊夢は先代そっくりの怒り方で信綱に弾幕を放ってくる。

 

「一辺死ねジジィ!! 素直にやり続けた私がバカみたいじゃない!!」

「お前が真面目にやってくれて俺は嬉しいがな」

「嬉し……い、いえ、騙されないわよ!! どっちにしたって騙したことは事実なんだから!!」

 

 真面目にあの体操を続けたことを素直に評価したところ、霊夢の表情に一瞬だけ喜色が浮かんだ。

 しかしそれも一瞬で、霊夢は再び怒り顔で札と針を構えてしまう。

 

「まあそこは認めよう。修行とか言ったらお前はサボるだろうから言い換えたのだが、騙したと言えばその通りだ」

 

 努力を怠らないようにという配慮ではあるが、騙したことに変わりはない。

 いつかバレるだろうと思っていたものが今バレた。それだけの話である。

 

「お前の気が済むまで攻撃していいぞ。こっちから反撃はしない」

 

 信綱がそう言うと、霊夢は弾幕を放つ手を止める。

 そして上空から信綱を見下ろしたまま、何かを決意したような表情になっていく。

 

「……私はね、もう二つの異変を解決したの」

「そうだな」

「前回も今回も、どっちも一筋縄ではいかない相手だった。でもおかげで得られたものがある」

 

 ゆらり、と霊夢の手が翼のように広げられ、その身体から目に見えるほどの霊力が溢れ出る。

 何か来る、と信綱は僅かに腰を落として警戒の度合いを引き上げる。

 今の彼女を侮ってはいけない、と信綱の経験が叫んでいた。

 

「母さんが教えなかった夢想封印の先の先。爺さんに見せてあげる。――夢想天生!!」

 

 その言葉とともに、霊夢は文字通りあらゆるものから浮いて――

 

 

 

「ふむ、こういう技か。興味深い」

「やっぱバケモノだ爺さん!!」

 

 三十分後、そこには霊力を使い果たして倒れる霊夢と、そんな彼女の背中に腰掛ける信綱の姿があった。

 例によって体重はかけていないが、精も根も尽き果てた霊夢にはそれをどかす力も残っていない。

 

「あらゆるものからの干渉を無効化する。とんでもない性質だが、維持するお前の霊力は有限だったな」

「なんで初見でそんなのわかるの!?」

「慣れだ」

 

 大半の物事にはちゃんとしたカラクリが存在する。能力を知ってさえいれば、そこを起点に思考を広げて正解にたどり着くことなど、さほど難しいことではない。

 特に信綱は八雲紫や伊吹萃香といった訳のわからない能力を操る連中を知っている。予想外のことをしてくることが当たり前だったのだ。そう考えれば霊夢の能力も驚くほどではない。

 

 だが、三十分は戦っていたのも事実。であれば次はもっと多くのものから空を飛び、持続する時間も伸ばせば、体力勝負となって信綱を倒すことも不可能ではないはずだ。

 

「うぐぐ、こうなったらもっとこの技を磨いて――」

「やめておけ」

「え?」

「やめておけと言っている。お前のそれは、不完全であるべきだ」

 

 信綱は至極真面目に、そしてどこか優しく言い聞かせるようにその言葉を告げた。

 どういう意味かわからない、と霊夢が首だけ動かして信綱を見る。

 信綱は倒れ伏す霊夢を立たせて、腰を曲げて彼女と視線を合わせる。

 

「あれを使ったお前は半透明に見えていた。推測だが、単純な物理法則からも浮いているのだろう」

「うん。爺さんの攻撃も効かないと思う」

「ではなぜ俺にお前の姿が見えた?」

「え?」

「本当にあらゆるものから浮いてしまえるとしたら――お前は俺の認識からも浮いていたはずだ」

 

 そして霊夢自身の敵意も浮いてしまう以上、もしもあの夢想天生という技が完璧に発動したら――霊夢は誰にも認識されず、誰も認識をしない。漂う雲のような存在になってしまいかねない。

 そのことを霊夢に教えると、彼女は寒気がしたのか二の腕を擦っていた。

 

「う……」

「今の分なら構わない。遊びで使うのも良いだろう。――だが、それ以上は目指すな。それは博麗霊夢という個性を殺しかねないものだ」

「で、でもこれなら爺さんよりも強くなれるって……」

「お前一人がそんなに抱え込む必要はない。自分一人で駄目だと思ったら魔理沙でも咲夜でも頼れば良い」

 

 幻想郷の秩序を維持するために、他人の手を借りてはいけないなんて道理はない。

 それに、と信綱は先ほどの夢想天生をしのいでいた時に気づいたことを告げていく。

 

「お前、あの時半分意識が飛んでいただろう」

「なんでわかったの!?」

「攻撃が単調過ぎた。曲がりなりにも俺と組手をしてきた相手の対応じゃない。とはいえ任意で発動と終了はできるようだし、お前は意識だけで俺の攻防を俯瞰していたと考えるのが妥当か」

「爺さん本当に人間? 実は母さんから博麗の巫女の技を聞き出したとかない?」

「ないから安心しろ」

 

 使えないとも言わないが、そこは黙っておく。

 

「それで――お前はその結果を誇れるか?」

「誇り?」

「戦いを俯瞰して、仮に俺が敗北したとして。それをお前は自分の成果であると胸を張れるのか?」

「…………」

 

 霊夢はうつむいて黙ってしまう。

 きっと彼女の脳裏には夢想天生を使って勝った光景が浮かんでいるのだろう。

 信綱は何も言わず彼女が答えを出すのを待つ。

 やがて顔を上げた彼女は、首を横に振った。

 

「……ううん。きっと爺さんに胸は張れない。これは私の頑張りも否定してしまうようなものだから」

「そうか。別に胸を張れると言ったらそれはそれで構わなかったが」

「良いんだ!?」

「自分だけが持っているものを有効活用しないのもおかしな話だろう。とはいえ――そう言ってくれたことは嬉しいぞ」

 

 霊夢が空を飛ぶ程度の能力を有効活用して生きていくのも間違いではない。

 戻ってこれない危険こそあるものの、夢想天生は非常に強力な技だ。それを使いこなして強くなる、と言えば信綱にそれを否定することはできない。

 地道に力を付けていくのと夢想天生を使いこなす。どちらが楽かと言えば確実に後者なのだ。

 だが、それは霊夢に追いつこうと必死な魔理沙の努力を徒労とあざ笑う行為であり、真っ当に生きている全ての存在につばを吐く行動だ。

 負けるよりは勝つ方が良い。けれど、その勝ち方にも気をつけねば人は簡単に一人になってしまう。

 

 霊夢はそれを選ばなかった。努力嫌いの怠け者ではあるが、ロクデナシにはならなかった。

 自分のような人間に面倒を見られながらも、真っ直ぐ成長してくれたことが信綱には嬉しかった。

 信綱は霊夢の頭に手を置いて、そっとその頭を撫でてやる。

 

「あいつの娘だな。曲がったことが嫌いなところはそっくりだ」

「う……うー!」

 

 霊夢は先ほどまで怒っていたことも忘れて、嬉しいのと照れくさいのが半々に混ざった顔でされるがままになっていた。

 どう答えれば良いのかもわからず、うなり声を出している霊夢に信綱は少しだけ笑う。

 

「今日は人里で何か買ってやろう。博麗の巫女は異変解決が使命だが……まあ、このぐらいは良いさ」

「本当!?」

「うむ、今日の稽古を終えたらな」

「あ、夢想天生の消耗が急に……」

「始めるか。午前中だけで勘弁してやる」

「やっぱ爺さんは鬼だ!!」

 

 またも逃げ出そうとする霊夢の首根っこを掴み、稽古を始めていく。

 博麗の秘奥を習得したと言っても、霊夢が変わるわけではない。努力が嫌いで、喜怒哀楽をハッキリ表し、曲がったことが嫌いな普通の少女。

 そんな彼女だからこそ、多くの人が彼女の周りに集まってくるのだろう。

 信綱は彼女を中心にこれからも変わっていくであろう幻想郷を思い、そっと笑うのであった。

 

 

 

「……ちなみに、夢想天生は破れないわけではないぞ」

「えっ」

「五分五分だったからやらなかっただけだ」

「五分五分で失敗するってこと?」

「うむ。五分でお前ごと殺しかねなかった」

「なんで!?」

「浮いているのなら手を伸ばせば届くだろう。当然の理屈だ」

「いやいやいやいや!?」

 

 ……よくよく考えたら、この爺さんを相手にするのに空を飛ぶ程度では不安にも程があったな、と霊夢が自分を省みたのはここだけの話である。

 

 

 

 

 

「エライ目に遭ったわよコンチキショウ!」

「いきなりどうした」

 

 人里で久しぶりに橙の姿を見つけたので声をかけてみたところ、いきなり蹴りを放ってきたため避ける。

 

「どうしたもこうしたもないわよ! 人が家でぬくぬくしてたら博麗の巫女がやってきて問答無用でぶっ飛ばしてきたのよ!!」

「一応話は聞いてきただろう。お前が突っぱねたとしか思えんな」

 

 霊夢には弾幕ごっこの勝負になる前に話をするように教えている。問答無用で倒すのは自分から情報を得る機会を無にするも同然なのだ。

 だが、聞き方というものもある。橙はこちらが下手に出れば気前よく知っていることはなんでも教えてくれるが、上から聞くとなかなか教えてくれなかったりする。

 

「お前が大変な目に遭ったのはわかったが、俺に当たるのは筋違いだぞ」

「むー! 今日は機嫌が悪いの!」

「子分は親分のご機嫌取りではないぞ。気を悪くすることは構わんが、他人に当たるのは良い群れの長ではないな」

「耳を引っ張るなー!」

「攻撃してきたのだから反撃も当たり前だろう」

 

 耳を引っ張られながらも懲りずに蹴りを放ってくる橙だったが、しばらく戯れているとさすがに落ち着いたのか静かになる。

 落ち着いたところで耳から手を放し、橙に背を向けて歩き出す。

 

「ほら行くぞ。どうせ暇なんだろう、雪で人里の防壁が一部腐っているかもしれんし、見回りに行くぞ」

「あ、忘れてた。ハイ」

 

 信綱の言葉を聞いた橙は思い出したように懐を探り、一枚の紙を取り出してきた。

 何事かと広げてみると、そこには大雑把な円形の中にいくつかの書き込みが記されているものがあった。

 

「これは?」

「あんたのことだから外の方を見るだろうって思って、ついでにやっといたの」

「これではどこがどこだかわからんぞ。せめて方角を記せ」

 

 信綱に言われずとも自発的に動く辺り、彼女なりに信綱が死んだ後も安心できるようにという心遣いなのだろう。

 それ自体はありがたいが、まだまだ橙を一人にするには不安が大きそうだった。

 

「あっ!」

「やはり忘れていたか。最低限、どちらが北かだけでもわかれば良いから、次からは気をつけろ」

「はぁい……。難しいわね、こういうのって」

「お前はいつか藍の仕事を手伝うのだろう。予行演習だと思っておけ」

「わかった。大きな群れって大変なのね。維持するにも色々と手間ばかり」

「お前も猫の長じゃないのか?」

「気ままにやって、たまに集まるぐらいだもの。一つの場所にずっといるなんて猫の性に合わないわ」

 

 その理屈で行くと橙がマヨヒガに住んでいるのはおかしいのではないか、と思うものの黙っておくことにする。

 よくよく考えれば彼女もしょっちゅう妖怪の山で跳ね回っていたし、マヨヒガは住処というより止まり木の方が近いのかもしれない。

 

「そうか。……まあ、自発的にやってくれたことは良いことだ。今後もこの調子で頼む」

「ふふん、もっと褒めなさい」

「じゃあ行くぞ。結局、お前の見たものが正しいのか確認も必要なんだ」

「あ、無視すんな!?」

 

 下手に褒めちぎると絶対に調子に乗って余計な失敗をする性格だと、信綱は長い付き合いで理解していた。

 彼も多くの人を使ってきた身として、下の者を成長させる術は心得ている。

 その経験が橙は適度に煽って負けん気を刺激しつつ、あまり調子に乗らないように誘導してやるのが吉と告げていた。

 

 橙を伴って雪の残る外壁部分を見ていく。

 陽の当たる場所の雪はほとんど溶けているのだが、外壁の根元など日当たりが悪い場所ではまだ残っている箇所も存在した。

 その中を見ていき、雪の上からでもわかるほどの腐食が見受けられる部分を確認していく。

 信綱は橙から受け取った紙の内容と修繕が必要そうな部分が同じであるかを、紙を片手に確認しながら不意に口を開いた。

 

「ときにお前、冬の間は顔を出さなかったがどうしていたんだ?」

 

 単純に近況を聞いてみただけでそれ以上の意図はないのだが、橙はそれを心配と受け取ったのかニンマリとした笑みを浮かべる。

 

「ん? なに、橙さまが恋しくなったの?」

「違う」

「いやー、慕われる親分は辛いなぁー。こんな仏頂面で不機嫌が服着て歩いてるような人間にまで慕われるとかさっすが私ってイタタタタ!!」

「調子に乗るなと何回言えば良いんだお前は」

 

 彼女との付き合いも半世紀以上に及ぶ。その間、何度彼女をたしなめただろうか。

 信綱はうんざりしながら橙の耳から手を放し、話を再開する。

 

「で、どうだったんだ?」

「あんた散々私の耳を引っ張っておいて言うことがそれ!?」

「お前がしょうもないことを言い出したらこうするのが自然だろう?」

「あんたはほんっとうに私を敬わないわよね……!!」

「敬う理由が今のところないからな」

 

 彼が今なお敬意を表し、常に丁寧な態度を崩さないのは慧音ぐらいのものである。

 基本的に妖怪連中は尊敬できる相手の方が少なく、人間はもう自分が一番の年長者になってしまった。

 

「むー……まあ良いか。冬の間は藍さまに言いつけられた稽古ばっかりやってたわ。ふふん、妖術の腕前も上がったのよ」

 

 そう言う橙の掌から妖術で作られた炎が浮かぶ。

 そしてその炎は指先に移っていくと、親指、人差し指とそれぞれの指の頂点をゆらゆらと動いていく。

 どんな風に腕が上がったのかはわからないが、精度が良くなっているのだと言うことは伺えた。

 

「ふむ、研鑽を積むのは良いことだ。お前も成長しているんだな」

「これでもっとあんたにも頼ってもらえるわね! 親分は子分に頼ってもらわないと!」

「別に妖術が使えるからと言って頼るわけではないぞ」

「なんで!?」

「できることが増えることは良いことだ。だが、人が人を頼るのはそれだけではない」

 

 最終的に頼るかどうかは信用できるかに直結する。いくら能力があっても信用できなければ相応の物事しか任せられない。

 実はその点で言えば橙はそれなり以上に信用していると言えるのだが、素直に言うとまた調子に乗りかねないので黙っておく。

 伊達や酔狂で百鬼夜行の話を彼女にしたわけではないのだ。信用していなかったら言わなかった。

 

「じゃあどうすれば私を頼るの?」

「そもそもお前はどんな形で頼られたいんだ?」

「あんたがどうしようもない問題にお願いします橙さま、と言われて頼られたい」

「一生ないな」

 

 というかこの歳になってどうしようもない問題に直面したくない。もう幻想郷の進退を決める問題とかは霊夢に任せてある。

 橙の願望を即答で否定したため、橙が不満そうに頬をふくらませるものの気にせず歩を進めていく。

 そして半分ほど回った辺りで、今度は橙が口を開いてきた。

 

「ねえ」

「どうした」

「あんたってさ、先のことって考えたことある?」

「先のこと?」

「うん。こうなりたい、とかああなりたい、って未来の自分を考えたこと」

「ふむ……」

 

 橙に言われ、信綱は律儀に自分の半生を振り返って考えてみる。

 ロクデナシの烏天狗がいたので、彼女のようには間違ってもなるまいと心に決めていたが、それぐらいだ。

 御阿礼の子の力になる、というのは信綱にとって当たり前過ぎて意識することでもなかった。御阿礼の子の力になれない阿礼狂いなど何の価値もない。

 

 ではどんな自分になることが御阿礼の子にとって最も良い形であるか考えたことがあるか。

 それは信綱にとって、すぐに思い浮かぶものではなかった。

 

「……ない、な。自分に何が足りていないか、などを考えることは多かったが、お前の言う方向で考えたことはほとんどない」

「見本になる人がいなかったから?」

「それもあると思う」

 

 同じ阿礼狂いは六歳の頃に自分が頂点に立った。人里には尊敬できる者たちもいたが、彼らは皆普通の人間であると一線を引いていた。

 信綱自身の未来とは希望を描くものではなく、当然のように研鑽を積んで至る場所という認識でしかなかった。

 我ながらよく幻想郷の将来とか考えられたものだ、としみじみ思ってしまう。あれも椛の願いのためであり、阿弥の安全のためであると言ってしまえばそれまでだが。

 

「手本もいなかったし、俺は俺で適当に必要と思ったことを取り入れただけだ。結果としてここまで生きられたんだから、そう間違いではなかったのだろう」

「ふーん、だからそんなしかめっ面の人間になるのね。自分を鍛えることしか頭にないんだし」

「鍛錬に余念がないことは認めるが、それとこれとは関係ない」

「あるわよ。だってあんた、ずっと足元ばっかり見てたってことでしょ? 手本がいないってことは、周りの人はみんなあんたより下ってことだし」

「……別に庇護の対象として見ていたわけではない。自分は自分、他人は他人と線引していただけだ」

 

 橙の指摘に言葉に詰まってしまい、信綱は自分でもごまかしのようであると思ったことを口にする。

 当然ながらそれは見抜かれており、橙は生暖かいような同情したような、信綱からしたら非常に腹の立つ眼差しでこちらを見てきた。

 自分にばかりこのようなことを言わせた橙に腹が立ってきたので耳を引っ張ろうと手を伸ばしたら、俊敏に避けられた。読まれていたらしい。

 

 信綱から距離を取った橙は自慢げな顔で胸を張り、自分は違うと言い張る。

 

「私は違うわよ。目標がたっくさんあるもの! 藍さまみたいに格好良くなりたいし、紫さまみたいに頭も良くなりたい!」

「スキマのあれは半分インチキだと思うが……」

 

 なにせ情報の入手方法が反則じみている。スキマを介すれば千里眼を持つ椛に頼っている自分どころか、最大勢力である天魔すらもしのぐ情報を得られるのだ。

 その有り余る情報があれば、誰に対しても優位に立てるのはある意味当然の帰結とも言える。

 無論、本人の地頭がなければできないことであることも事実。信綱は将来、橙が紫と同じようにスキマを操る日が来るのかぼんやり思う。

 ……自分の一生どころか、十回人生をやったとしてもたどり着けなさそうな気がするが、それでも良いのだろう。妖怪の時間はほぼ無限大である。

 

「まあ目標があるのは悪いことではない。その調子で是非とも頑張ってくれ。どこぞの河童のように他人に迷惑をかけることなく」

「うん! でも藍さまも紫さまも目標と考えるには遠いのよ。わかる?」

「わからんでもない」

 

 橙と彼女らの差を考えると、一目瞭然どころの話ではない。未だ木っ端妖怪の分類である橙と、大妖怪とも言える藍と紫。

 正直、この目標を語るのが藍の式である橙でなく椛だったら、頭は大丈夫かと心配しているところだ。

 

「藍さまはそういう時は身近な目標を作っていった方が良いって言ってた」

「道理だな。高い山であっても、まずは一歩一歩進むしかない」

「そうそう。よくわかってるじゃない、目標なんてなかったのに」

「御阿礼の子の力になるのなら研鑽は不可欠だ」

 

 その研鑽もがむしゃらにやっていれば良いというものではない。文武の双方を求められる以上、優先して覚えるべきことを選ぶのは重要である。

 ちなみに信綱にとって物事は今学ぶべきものか、後で学ぶべきものかの二択となっている。何がどこで役立つかなど誰にもわからないのだ。閑話休題。

 

「あんたはいつも通りバカなのはさておいて――私はあんたを目標にすることにした!」

「何を言っているんだお前は」

 

 人のことをバカだと思っていると言った直後にこれだ。

 信綱が思わず真顔でツッコんでしまうのも無理はなかった。

 すると橙は自分は間違ったことなど何も言っていない、と自信に溢れた顔で理由を説明し始める。

 

「だってあんた、腕も頭も良いんでしょ? 藍さまとか絶賛してたし、鬼だって倒しちゃうんだから」

「まあ、うむ」

 

 多分、力の強い弱いで言ったら藍より強いだろうな、という自分の推測は言わないことにする。

 

「でも藍さまはもっと強いのよ! きっとあんな鬼だってコテンパンよ!」

「ああ、うむ、そうだな、多分」

 

 藍の力量を見たわけではないが、さすがにそれは厳しいのではと思う信綱。

 どのみち確かめる機会など来ないはずだから、気にすることもないのだが。

 

「じゃあまずはあんたよ! いつかあんたみたいに当たり前のように誰かを助けられるようになったら、その時には立派な親分になれる気がするの!」

「別に当たり前というわけではないのだが……」

 

 御阿礼の子との時間を削らない範疇で行っているだけである。

 平時は御阿礼の子の力となるべく鍛錬を積み、そうでない時はいざという時に助けてもらえるよう人々の信頼を稼ぐ。

 改めて言葉にすると絡繰じみた動き方である。基本的に信綱の行動は全てが打算を含んだものになる。

 とはいえバカ正直に説明して橙の夢を壊す意味もない。橙の見ているものと実態が異なっていたとしても、目標であることに変わりはないのだ。

 

「いいの! もう決定したんだから! はい、私の目標はあんたね!」

「……何かを言う気にもならんな」

 

 呆れてものも言えないとため息をついて、信綱は再び歩き出す。

 その後ろを橙がついてくるのを確認して、もう一つ小さな吐息を漏らす。これではどちらが子分かわかったものではない。

 

 信綱は後ろを歩く少女がいつか自分のような力量を手にする時が来るのかと考えると、ある種の戦慄と不思議な充足感が生まれるのを感じる。

 我ながら意外だが、どうやら自分はこの妖猫に期待しているらしい。

 

 椛に向けている彼女ならできる、という期待とは別種のもの。

 橙ならいつかそこに到達するだろう、という将来への期待だ。

 

 自分は多くのことができたが、その大半を御阿礼の子に捧げた。

 このお調子者の猫はきっと違うことにそれを捧げるだろう。

 それは多くの人が喜ぶことであり――いつかの未来で、彼女が多くの者たちを束ねる存在になる予感をさせるに十分なものだった。

 

「好きにしろ。お前が何を目指すのかはお前の勝手だ」

「好きにするわ。差し当たって、あんたが死んでも忘れないよう覚えないとね!」

 

 いつの間にか機嫌が戻ったのか、手を少し伸ばせば耳に届きそうな距離で笑う橙に、信綱は肩をすくめて歩くのであった。

 

 

 

「……ちなみに、俺のような狂人になる必要はないからな?」

「なるわけないわよ!?」

「そうか、それは良かった。御阿礼の子の側仕えを狙っていたならこっちも相応の手段に出ていた」

「あんたの実力は目標にするけど、あんたの中身だけは間違っても真似しないことにするわ」

 

 このようなことを言われてしまい、自分はひょっとしてかつての椿と同じ立ち位置なのではないか、とほんの少し悩んでしまったのはここだけの話である。




霊夢、夢想天生に到達する。まあ永夜抄時点で到達してたみたいだし問題ないよね!
今回は燃料切れでノッブが勝ってますが、霊夢がもっと夢想天生の練度を高めれば彼女が勝つことは可能です(ただしその場合の霊夢の人間性は保証しない)

そして橙はノッブを目標にすることに決めました。椛と同じぼ最初期からの知り合いである彼女はノッブと同じ目線で立つことよりも、彼を追いかける形にしました。
椛は実力では追いつけずとも、彼と同じものを見ようとした。
橙は同じものを見ようとはしなかったが、実力で追いつこうとしていると、対照的になるよう意識はしています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

外に憧れる吸血鬼と彼女が見たいモノ

 それは今日も今日とて妹の部屋に転がり込み、うだうだと時間を潰していた時のことだった。

 最近は部屋に入っても何も言われなくなってきたため、自分も好きに彼女の部屋に出入りしている。

 どちらかと言えば自分はアウトドア派で外で遊ぶ方が好きなのだが、今は妹に合わせて本を読んでいる時のこと。

 

「ねえ、お姉様」

「なに、フラン?」

 

 もはや諦めたのか、それとも部屋の一部であると考えることにしたのか、当然のように部屋に居座る姉――レミリアにフランは不意に声をかける。

 

「ちょっとお願いがあるんだけど」

「なになに? 妹のお願いなら大半聞くわよ」

「外に出てみたいの」

「うんうんわかった外ね……外ぉ!?」

 

 レミリアはフランの口から出てきた言葉に仰天し、思わず二回聞き返してしまう。

 そんな姉にフランは露骨に鬱陶しそうな表情になる。

 

「お姉様うるさい。もうちょっと静かに驚けない?」

「い、いや、もっと早く言い出すものだとばっかり……」

「だってここ、居心地良いんだもん。私が四百年以上かけて良くしていった場所ですし?」

「すいませんでした!!」

「別に謝ってほしいわけじゃないよ。こうして部屋で本を読むのも嫌いじゃない」

 

 もしも幽閉されなかったら、ということを考えはするものの、結局何も思い浮かばずにやめてしまう。

 過去は過去で今は今。幽閉されていた時も苦痛ばかりではなかったのだ。

 ただ少し、ほんの少し静寂を苦しいと思った時もあっただけで。

 

「でも、魔理沙は外の世界のことをすごく楽しそうに話す。人里であったこととか、最近やった弾幕ごっこのお話とか」

「あ、ああ、あの魔法使いね。パチェが本をよく盗まれるって愚痴をこぼしてたわ。その割に対策は立ててないみたいだけど」

「あれも一つの交流なんじゃない? 魔理沙もパチュリーが本当に必要そうな本は持っていかないみたいだし」

 

 辟易した様子でため息をついているのに、しばらく来なかったりすると非常にわかりやすくそわそわし始めるのだ。仮にも魔女があんなに単純で良いのだろうか。

 話がずれてきたな、と思ったフランは軌道を修正して話を戻す。

 

「で、私が聞いているのは私が外に出ていいか悪いか」

「ダメだって言ったら?」

「魔理沙に頼んでこっそり連れて行ってもらう」

「それ脅迫って言わない!?」

「ちゃんと選ばせてあげてるだけ有情じゃない?」

 

 うぐぐ、と悩むレミリア。

 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を持っているフランがその気になったら、こんな地下室などあっという間に破壊される儚い牢獄に過ぎない。

 

 いや、実のところ外に連れて行くことに問題はないのだ。

 フランの様子は実に落ち着いたものであり、自分より冷静なんじゃないか、と思う時さえもある。

 だが能力の性質上、万一を考えねばならないのも事実。

 何かが起きてしまった時、それはレミリアのみならずフランにも悪影響を及ぼす可能性が極めて高いのだ。具体的には人里のとある守護者が怖い。

 

「……た、タイム!」

「許可。誰を私に付けるかって話でしょ?」

「なんでわかるの!?」

「そりゃあ、まあ。私がなんで幽閉されているかって理由ぐらいわかってるし」

 

 フランは理解できているようにつぶやくものの、その顔にはどこか寂しげなものが混じっているのがわかった。

 こんな顔をさせて良いのかレミリア。否、それは違うだろうレミリア。

 姉たるもの、妹に寂しい顔をさせてはならないのだ。幽閉したくせに何を言っているんだ、という内心のツッコミは無視。

 

「あ、お姉様以外でお願い」

「なんで!?」

「だってお姉様ってうるさそうだし。身内の恥を見たくはないから」

「あなたにとって私の立ち位置ってどうなってるの!?」

「うるさいなあ。それで答えは?」

 

 どうしたものか、とレミリアは頭を悩ませる。

 外に出ると言っても、霧の湖や魔法の森の散策だけでは満足しないだろう。

 となるとやはり人里が一番見応えがある。人と妖怪の往来が絶えない市場など、あそこにいるだけで一日退屈せずに時間が潰せる。

 

 では誰をお供に付けるか。真っ先に浮かぶのは咲夜と美鈴だが、彼女らは万に一つ暴走してしまったフランを止められるかという点で疑問が残る。

 

「む、むむむ……」

「……そんなに悩むこと? というか私、そんなに危ない風に思われてるの?」

「外の世界は危険がいっぱいなの! あなたに万一があったら本当にマズイのよ!?」

「あ、うん」

 

 予想外な姉の剣幕にフランは思わずうなずいてしまう。この姉がここまで必死になるなど、外の世界は一体どうなっているのか。

 

「……一日! 一日だけ時間を頂戴フラン! その一日で私が信頼できる人にお願いするから!」

「お姉様、屋敷の外に友達いたの?」

「そろそろ怒るわよフラン!?」

「良いじゃない。あの時の喧嘩の勝ち負け、今度こそ決めましょう?」

 

 挑発的な笑みを浮かべてレーヴァテインを作り出すフランに、レミリアは感情の赴くままにグングニルを作って応える。

 この二人で過ごす時間は大体、最後にこうした姉妹喧嘩とも言い切れない何かをすることで終わりを迎える。

 いささか以上に過激なやり取りだが――これもまた、ほぼ不死に等しい再生力を持つ吸血鬼同士の戯れなのだろう。

 ……部屋の修繕が大変であると咲夜と美鈴が愚痴をこぼしあっているのはここだけの話である。

 

 

 

 騎士が槍と盾を片手に打ち合いをしていた。

 片方が鋭く槍を突き出すと、もう片方が円形の盾を使って巧みに受け流す。

 受け流された方もまた上手い槍捌きで体勢を崩すことなく、追撃に供える。

 

 槍と盾、というのは攻守に優れた組み合わせであると同時、形が非常に限定される形でもある。

 細身の槍と盾であれば話は別だが、馬上槍と見紛うような太い槍と身体の半分を隠す盾では、手足の動きがどうしても阻害されてしまう。

 それ故、傍目から見る分には突きを防ぎ、突きを返すという単調なものになってしまいかねない。

 だからこそこの場面をいかに上手く魅せられるかが腕前の見せ所と言うべき点であり――

 

「わ、すごいすごい! まるで踊ってるみたい!」

「ええ、見事なものです」

 

 アリスの操る人形たちは彼女の細くしなやかに動く指に操られ、他者に見せるための派手な動きを繰り出して見物人を楽しませる。

 今回の人形劇はわかりやすく身分違いの恋物語で、万国共通で親しまれる題材だ。

 仕える騎士に恋をしてしまった姫と、彼女を愛しながらも自分の身分に悩まされる騎士の物語。

 人形劇という形式を取るため、話はさほど長くない。盛り上がりを重視して、動きも多く見る人を飽きさせないようにできている。

 

 やがて物語も佳境に入りアリスの淡々とした、しかし聞き手を惹き込ませる感情を宿した声が最後の締めを行う。

 

「――かくして姫と騎士は結ばれ、幸せな日々を過ごしたのでした」

 

 人形と共に一礼。そして沸き起こる大喝采。

 人形劇を見ていた時も騒がしかった見物人の声は、ここに来て最大の盛り上がりを見せる。

 それは阿求を肩車することで人形劇を見ていた、信綱らも例外ではなかった。

 阿求は自分を支えている祖父にすっかり興奮した様子で話しかける。

 

「すごく面白かった! お祖父ちゃん、こんなのどこで知ったの!?」

 

 今回の人形劇は信綱が阿求を誘ったのだ。

 寒い日が続き、来る日も来る日も部屋の中で資料の編集と文字を綴るばかりの阿求を慮り、春の陽気が暖かい今のうちに気晴らしでもされてはいかがかと。

 ちょうど彼女を楽しませられる娯楽にアテもあったため、この信綱の提案は見事に阿求を楽しませることになった。誘った彼としても阿求が喜んでいる姿が見られて万々歳である。

 

「彼女本人から聞きました。これから戻るでしょうし、少し話でもしましょうか?」

「いいの?」

「話しかける時節を見計らえば難しくはありません。阿求様、一旦降ろします」

「わかった。でも本当に大丈夫?」

「ご安心ください」

 

 興奮した観客によるおひねりが投げ込まれることもあるが、彼女は金銭は受け取らない主義だったため、それらを静かに微笑むことで拒絶する。

 彼女は一仕事を終えた汗を拭きながら、群がってくる人々に愛想笑いを浮かべながら荷物をまとめていく。

 荷物をまとめて戻ろうとするアリスだが、興奮した人々の喧騒は収まらず、すぐには帰れそうにない。

 普段はこんなに大盛況にはならないはずなのに、今日に限って人が多い。どうしたものかと内心で困っていると、救いの声が投げかけられる。

 

「お前たち、あまり彼女を困らせるな」

 

 語り部であったアリス以上に淡々として、それでいて無視できない静かな迫力を持つ声。

 人里で自警団としての時間を過ごした大人たちは皆、一度は聞いたことのある声に思わず振り返ってしまう。

 そこに立っているのは人里で最も歳を取った老爺であり、同時に人妖が入り乱れる人里の秩序の維持を担っている守護者であった。

 

「一仕事を終えた後だ。労ってやるのも良いが、そんなに引き止めてやるな。あんな面白い劇を見た後だ、仕事にも気合が入るだろう」

 

 言っている内容に特別なものはない。ごくごく当たり前のこと。

 しかし彼の口から出ると、不思議とそれが大きな意味を持っているように聞こえてしまう。ある種の年の功がそこにあった。

 人々は信綱の言葉を聞いて、その興奮をアリスにぶつけるのではなく隣の友人と話すことや、仕事の活力につなげるように気合を入れ直すことに変わっていく。

 

 程なくして観客は思い思いにアリスに礼を言い、それぞれの持場に戻っていった。

 僅かな言葉であっという間に人々を動かしてしまったことに、アリスはぽかんと呆けた顔で信綱を見る。

 隣に立つ仕立ての良い服に身を包んだ少女を守るように立っており、守られている少女はどこか誇らしげな顔をしていた。

 

「……驚いた。あなたはこういった娯楽に興味を示さないと思っていたわ」

「そっちの人形劇に許可を出したのは俺だぞ。どのようなものか、確認ぐらいするさ」

 

 蓋を開けてみればこの人気なのだから、もっと早めに来て欲しかったとすら思ったくらいである。

 彼女の人形劇があれば、吸血鬼異変の時の白霧でも少しは明るくなっただろう。

 

「その子は?」

「初めまして、稗田阿求と言います! すっごく面白い人形劇でした!」

 

 興奮で顔を赤くした阿求がペコリと頭を下げて自己紹介をする。

 その可愛らしい様子にアリスも目元が緩むが、この少女と信綱の関係性については疑問が増すばかりだった。

 

「丁寧にありがと。アリス・マーガトロイドよ。それで……この子との関係は? 孫娘?」

「俺の主人だ」

「主人……主人!? あの、主人と従者のあれ!?」

「その通りだが、なぜそんな変なものを見る目で俺を見る」

 

 御阿礼の子に阿礼狂いが仕えることなど、人里に住んでいれば常識である。

 アリスは魔法の森にかなり昔からいたようだが、その辺りの事情には未だ疎いため、信綱と阿求の関係に驚いてしまう。

 そんなアリスに阿求が大きく胸を張って、信綱と続いてきた関係を説明する。

 

「お祖父ちゃ――信綱さんは私が生まれるずっと前から家に仕え続けているんです! もう七十年以上もですよ!」

 

 阿求は信綱がどれだけの期間、心を砕いて自分たちに仕えてきてくれたのか、まるで我がことのように喜んで説明していく。

 その様子は先ほどの人形劇を見ていた時よりも興奮しており、頬が林檎のように赤くなっていた。

 

「阿求様、私が仕えているのは稗田家ではなくあなたにですが――」

「話をややこしくしないためです!」

「かしこまりました」

 

 確かに知り合って間もないアリスに、御阿礼の子の説明をしても混乱させるだけだろう。

 信綱は自分が口を挟むのは補足を求められた時だけにしよう、と心に決めて二人の会話を眺める方に回る。

 

 アリスも阿求の説明に理解が及んだのか、冷静さを取り戻して子供の相手をするように阿求と話していた。

 いやいや相手をしている様子はなく、意外と面倒見が良いことに信綱は内心で感心する。

 阿弥に仕えていた頃の異変に次ぐ異変で騒がしかった幻想郷で、誰とも関わらずに魔法の研究をしていたと聞く少女だ。もっと根っこは冷めていると思っていた。

 

「――そう。あなたと彼が一緒にいる姿がちょっとわからなかったから、驚いちゃったの。ごめんなさいね?」

「良いんです。信綱さんは外だと結構怖いって聞きますから!」

「それはわかるわ。彼、いつも顔が硬いもの」

 

 誰から聞いた話だそれ、と信綱は頭痛を覚えてしまう。

 基本的に調子に乗った相手や、面倒なことをやらかそうとしている輩以外には普通に接しているつもりなのだが。

 信綱が自分の振る舞いに一抹の疑問を抱いていると、阿求が信綱の方に駆け寄ってくる。

 

「お祖父ちゃん、アリスさんが少しお話でもしないかって! 良いよね!?」

「もちろんでございます。とはいえ立ち話もよろしくありません。こちらへ、良い店を知っています」

 

 そう言って阿求とアリスを連れて適当な店を探して歩いていると、アリスが信綱の隣に並ぶ。

 

「少し意外だったわ。あなたはてっきり人里の守護者が生業だと思っていたから」

「阿求様の側仕えが主だ。守護者の方が兼業になる」

「あなたのような歳でも仕事ってあるのね」

「ほとんどお飾りだがな」

 

 実際、守護者と言ってもやることは空いた時間に見回りをする程度である。

 他の煩わしい事務作業などは全て別の若い者にやらせてあった。ただでさえ色々な妖怪に絡まれて面倒事が増えるのだ。別の誰かができることであれば容赦なく任せていた。

 

「ああ、それと……阿求様は好奇心旺盛なお方だ。おそらく質問攻めになるだろうが、頑張ってくれ」

 

 先ほど阿求がこっそり耳打ちしてきたのだ。

 いい機会だから、この人も幻想郷縁起に乗せるための取材もしてしまおう、と。

 確かに阿求はまだ生まれて間もないため、天真爛漫な子供の部分が多く存在する。

 だが――それでも彼女は転生し、知識を受け継いでいく御阿礼の子であるのだ。

 その彼女がここ最近で人里に現れるようになった人形遣いを無視するはずがない。

 

 信綱にはアリスのほんの少し先の未来が克明に予想できていたが、それ以上何かを言うことはなかった。

 なにせ阿求の願いなのだ。信綱がそれを叶えるために動くのは当然のことである。

 

 

 

 そうして一時間ほどアリスは阿求の質問攻めに遭い、疲れきった表情で店のテーブルに突っ伏す。

 

「つ、疲れた……一仕事終えた私を労うってのはなんだったの……」

「あ、あはははは……で、でも、個別で私のお屋敷に招くともっと時間がかかりますよ?」

「妖怪の対策本のための取材でしょ!? 妖怪側が疲れ果てるぐらいに人間が図々しいってどういうことなの!?」

 

 そこは妖怪に怯えて質問などは短く済ませようとするのが人の感情ではないだろうか。

 根掘り葉掘り聞いて、むしろ妖怪の弱点から何まで丸裸にしてやるぜ、とも言うべき意思が感じられたことにアリスは呆れたような、驚いたような顔で二人を見る。

 阿求は自分が聞きすぎたと自覚していたのか、恥ずかしそうに身体を縮める。

 対し信綱は何を不思議なことを言っているんだ、という顔だった。

 

「……あなたは全く疑問に思ってなさそうだけど」

「この程度で怒るようなら人里ではやっていけないだろうよ」

「試金石も兼ねてるってわけ?」

「度量を試されているのかもしれんぞ?」

 

 アリスが鋭く睨みつけてくるが、信綱は涼しい顔のまま。

 阿求にも心配している様子はない。なにせ隣に世界で最も信頼できる人がいるのだ。何が起ころうと対処してくれると信じられる人が。

 

 睨み合っていたのは数秒にも満たなかった。

 アリスは諦めたようにため息をついて、その後仕方がないと気の抜けた笑みを浮かべる。

 

「ま、次からは普通に声をかけてもらえると前向きに考えましょうか」

「信綱さん、この人ってもしかしてものすごく優しい?」

「あの人形劇を見ればわかるかと」

 

 信綱がこれまで会ってきた妖怪たちの中で、最も少女らしい少女のように見えた。

 見た目のこともそうだが、人形劇で好む題材もよく言えば王道、悪く言えばありきたりなもの。

 そして最後には王子とお姫様が一緒になる、というこれまたありがちな結末が多いのだ。

 

 娯楽という観点で見れば正しいが、信綱はそれが単純にアリスの趣味であることも理解していた。

 

「あれは実益も兼ねたものよ。研究テーマの一環」

「研究テーマ、ですか?」

「そう。完全な自立人形の創造。今回の人形劇も一種の動作確認ね」

「予め決められた動きに従う人形を、糸で微調整した形か」

「一から十まで指で操ることもできるけどね。でもそれじゃあ滑らかな動きは出せないわ」

 

 質の良い人形劇にならないでしょう? と言って微笑むアリス。

 実益の部分とは関係のない観客の反応までこだわっている辺り、意外と凝り性なのかもしれない。

 

「なるべく多くの人に見てもらいたいのよ。その方が違和感とかあったらすぐ気づくでしょうから。だから今後とも贔屓にしてくれるとありがたいわ」

「やっているのを見かけたら必ず見るようにします! アリスさんの人形劇、とっても可愛いですから!」

「ふふ、ありがとう。お代は任せても良いのかしら?」

「長々と引き止めてしまった詫びではないが」

「じゃあそろそろ失礼するわ。戻って人形の手入れをしないといけないから」

 

 そう言って颯爽と去っていくアリスを見送り、阿求はほう、とため息をつく。

 

「格好いいなあ、アリスさん」

「ほう、どの辺りがですか?」

「親しみやすいけどちゃんとしてるっていうか、色々と考えててできる人っていうか……」

「確かに彼女はそういったところがありますね。私にもわかります」

 

 仕事を頼んだらテキパキとこなしてくれそうな感じである。

 もっと早く人里に来てくれていたら、面倒事を押し付けることができたかもしれない。

 

「お祖父ちゃんは立派、って感じの格好良さ。アリスさんはできる人って感じの格好良さ、かなあ」

「見習うべき人が多いことは良いことです。阿求様にもこうなりたい、と思う方はおられるのですか?」

「うーん……そんな先のことはまだ考えたことがないかな。今は幻想郷縁起の編纂が楽しいし」

「……そうですか」

 

 阿求の言葉に信綱は何も言わず、ただ微笑んで話を切り上げる。

 

 先を考えることができない。これも一つの短命の弊害である。

 ただでさえ短い命が幻想郷縁起の編纂、転生の準備でさらに大きく制限されるのだ。

 阿七も阿弥も本当の意味で自由な時間はごく僅かだった。

 その僅かな時間を阿七も阿弥も、家族と穏やかな時間を過ごすことに費やした。

 彼女らが告げた願いなど、信綱に生きて欲しいというささやかなものだけ。それすらも次の御阿礼の子を慮ったものであって、自分の願いというわけではない。

 

「……そろそろ戻りましょうか。阿求様も資料の確認があるでしょう」

「そうだね。アリスさんのお話も聞いたし、そこも見直さないと。後は春が奪われたって異変のお話も聞きたいし……今回の幻想郷縁起はすごく面白いものになりそう!」

 

 ちなみに阿求は春が奪われるという話を聞いて、特に驚かずに受け入れた側だった。

 話を聞いてみると遥か昔にも似たようなことがあったらしく、昔の幻想郷はどれだけの修羅場だったのかと思ってしまった。閑話休題。

 

 ともあれ、今すべきは阿求の願いを最大限叶えることである。

 信綱は恭しく頭を垂れ、彼女の手を取って家への道を歩いていくのであった。

 

 

 

 

 

 そしてレミリアが何かを決意した表情でやってきたのは、その後すぐであった。

 伴を付けず、一人で日傘を差して佇むレミリアに何かを感じ取り、信綱は何も言わずに自身の部屋に通す。

 

「用件は手短に。今は阿求様が作業をしておられる」

「ん。でも何も聞かないで部屋に通してくれたことにまずは感謝するわ」

「……お前との付き合いも長いからな」

 

 もう彼女の様子だけで本気なのかそうでないのか、わかるようになってしまった。

 その事実に信綱は小さいため息一つで受け入れ、レミリアの話を促す。

 レミリアはためらうように二度、三度と信綱の方を見ては顔をそらすことを続けるが、やがて信綱の目を真っ直ぐに見据え、ささやくような声で願いを口にする。

 

「……妹の見張りをお願いしたいの」

「構わんぞ」

 

 一度口から出てしまえば後は早い。レミリアは自分のお願いしていることがどれだけ危険で、そして彼にとっての利益の少なさをちゃんとわかっていた。

 

「もちろん、話に聞いているだけでも危険だって言いたくなるのはわかるわ。代わりと言ってはなんだけど、私にできることであればなんだって力になる――今、なんて言った?」

「構わないと言った」

 

 目をまんまるにしてレミリアは信綱の顔を見る。

 思いっきり無理難題を押し付けてやろう、とかどうせいつも言っているような適当なものだろう、という投げやりな態度でもない。

 常と変わらぬ凪のような目でレミリアを見返し、ちゃんと話の内容を理解した上でうなずいていると確信できる様子だった。

 

「な、なんで?」

「普通なら真っ先にお前がやると言い出すことを任せるんだから、それなりの事情があると考えるのが当然だろう」

「ま、まあ合ってるけど」

 

 理由は妹のワガママだと言ったらどんな顔をするのか、少しだけ気になるレミリアだった。

 しかし、そんなしょうもないことを考えていられるのも次の瞬間まで。

 

「それに人の真摯な願いは笑わないと言ったはずだぞ」

「……おじさま」

「お前は真面目に頼む時とそうでない時がわかりやすい。

 以前にも言っていたではないか。お前にとっての妹は俺にとっての御阿礼の子と同じ価値があるんだろう」

 

 自分の全てを捧げても構わないと思える相手。それがレミリアにとってのフランのはず。

 その彼女が信綱を信じて任せたいと言っているのだ。可能な限り力になるのが友人の役目である。

 友人である、という部分だけを伏せて伝えたところ、レミリアは感動したように唇を震わせた。

 

「なんで本当に困ってる時はちゃんと助けてくれるのよおじさま素敵結婚して!」

「唐突に川遊びがしたくなってきた。河童への土産は流水にさらした吸血鬼で良いか」

「それは勘弁して頂戴!? 日光と流水は本当に痛いから!?」

 

 きっと咲夜が助けてくれるだろう、と信綱はレミリアの真面目な話も終わったのだな、と半目で見て思う。

 とはいえレミリアのそれは大体冷たい対応の信綱であっても、ちゃんとした真摯な願いに対しては応えてくれることへの感動を隠す意味合いも含んでいるのだが、そちらには思考が及ばなかった。

 

 すっかりいつもの調子に戻ったレミリアを呆れた顔で見ていた信綱だが、不意に立ち上がると棚から何かを取り出す。

 

「対価というわけではないが、俺からも頼みがある」

「あら、何かしら? おじさまが私に頼み事なんて珍しいわね」

「お前だけというわけではない」

「ふぅん?」

「だが、これから頼むことは俺の全てを懸けたものになるとだけ言っておく」

「大体予想もできたけど、それでもこう言いましょう。――私はあなたを裏切らない。あなたに倒された日に交わした誓いは今でも忘れてないわ」

 

 交わした誓いと言うが、そこまで上等なものだっただろうかと首をかしげる信綱。

 一方的に切り刻んで勝敗を確定させ、その上で無理難題を突きつけた気持ちだった。

 とはいえ快諾してくれるレミリアの言葉を疑う理由もないと、信綱は切り替えて棚から取り出したものを渡す。

 

「中身を見てくれ」

「これは……」

 

 怪訝そうな顔でそれを見るレミリアだったが、内容を理解した途端に目を見開いて信綱を見る。

 

「お前に渡した理由。他の奴らに渡す理由、わかるな?」

「……ええ、把握したわ。私はこれを持っているだけで良いのね」

 

 レミリアの瞳には多くの感情が揺らめいていた。

 これを受け取るという時点で、信綱は自らの時間が少ないと告げているも同然なのだ。

 薄々と感じていた別れは目の前まで迫っている。その事実にレミリアは哀しげに笑う。

 

「早速戻って見せてもらうわ。妹については日が決まったら連絡する」

「わかった。頼むぞ」

「……ええ、頼まれたわ」

 

 日傘を差したレミリアはあっという間に空を飛び、稗田の家を遥か下に見下ろす。

 そして信綱より渡されたものを手で弄びながら、そっとつぶやくのであった。

 

 

 

「――ここまで想ってもらえるなんて、あの子が羨ましいわね」




できる女アリスとおぜうのお話。
アリスの人形劇に対抗したにとりが機械で同じものを作ろうとして大騒ぎになるとか草案はあったのですが、書くと長くなりすぎるので泣く泣くボツに。

次回はフランちゃんウフフとノッブが遭遇してなんやかんやするお話になりそうです。このあたりからぼちぼち宴会の話題とかが出てきて、萃夢想の用意をしていくような流れ。
多分、この辺りが最後のほのぼのというか、萃夢想終わったらもう死ぬ準備整えるお話ぐらいになりそうなので、ご了承ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フランの外出

執筆小説に名前をつけずに保存すると数字の羅列が付くということを初めて知りました(真顔)
そして寒さで風邪を引いてしまう今日このごろ。もう引きましたが、熱が38度越えた時はインフル疑いました。検査の結果否定されましたけど。


 信綱が紅魔館の入り口で待っていると、案内で一緒に来た美鈴が朗らかに笑って話しかけてくる。

 

「お嬢様にお呼ばれして来るとは珍しいですね。何か用事でも?」

「主から聞いてないのか? 奴の妹が外に出ると言うから、その見張りだ」

「はぁ……はいっ!? お嬢様、あなたに頼んだんですか!? そんな毒をもって毒を制すみたいな発想で!?」

「この場合の失礼は俺なのか、その妹なのかどっちなんだろうな」

 

 阿礼狂いと同じ扱いをされている妹とやらを憐れむべきか、それとも同族である吸血鬼をして狂っていると言わしめた少女と同格の狂気を持っていると言われている自分が怒るべきか。

 どちらにしても失礼なことに変わりはない。どうしてくれようかと考え始めたところ、美鈴がそっと距離を取った。読まれたらしい。

 

「し、失礼しました。ですが、妹様のことは……」

「大体のところは聞いている。あいつもあれで意外と厄介なものを背負っているようだな」

「まあ、そこは長く生きていれば相応に色々ありますよ」

「お前は力にならないのか?」

「なれ、とお嬢様が仰れば身命を尽くします。ですが、今までのお二人の関係はとても危ういものでした」

 

 小さなお節介がどんな劇薬になるかわからない状態だった。

 美鈴は危険を犯してでも二人の仲を改善させる賭けに出るより、時間が彼女らの関係を改善させる何かを連れてきてくれると信じることにした。

 結果から言えばレミリアはフランと向き合う決意を固めたが、同時に過ぎた時間が彼女らの溝をより深くしていた。

 

「関係自体がなかったと聞いていたが」

「爆発寸前のまま、関係が止まってしまったんですよ。今は規模こそ大きいですけど、ちゃんと姉妹喧嘩するようになってくれて嬉しいです」

 

 ちょっと修繕が大変ですけど、と言って笑う美鈴の顔は、彼女らを見守る者としての暖かさがあった。

 美鈴にも相応のものがあるのだろう。いつからレミリアに仕えているかは知らないが、彼女にもそれ以前の人生があって、彼女なりに考えていることもあるのだ。

 

「そうか。咲夜も同じ見解なのか?」

「咲夜さんが来た頃にはすでにお嬢様と妹様の交流がありましたから、私とは似て非なる考えですね。

 私は時間があの二人の歩み寄る決意を育ててくれると考えました。咲夜さんは自分が何かするまでもなく、いずれあの二人は仲の良い姉妹になると考えているようです」

「ふむ」

 

 美鈴と咲夜のスカーレット姉妹に関する見解は割りとどうでも良かった。こちらに火の粉が来なければどうなってくれても構わないという心境である。

 そのようなことを美鈴と話していると、不意に彼女が辺りの気配を気にするように顔を動かす。

 

「どうした」

 

 不思議に思った信綱が声をかけると、彼女は声をひそめて信綱に耳打ちをする。

 

「……咲夜さんが来た理由なんですけど、一種の情操教育なんです」

「情操教育?」

「はい。いつか妹様が外に出たいと願われる時のために、儚く脆いけど、大きな輝きを見せる人間が欲しいとお嬢様が仰ってました」

「……それは」

 

 阿弥との死別が理由なのだろう、と信綱は半ば直感でレミリアの考えを見抜く。

 彼女は阿弥が死んだことによって、どんな存在であっても終わりが訪れることを実感し、妹と話すことを決意した。

 

 人間は妖怪と違い長く生きられない。いつか不意に、何の前触れもなく消える時が来る。

 レミリアはその姿から時間の有限を学んだ。妹は何を学ぶのだろうか。

 いずれにしても、それは決して妹にとって悪い方にはならない。その確信を持ってレミリアは咲夜を迎え入れたのだ。

 

「咲夜が死ぬ人間であることを、教えるためか」

「壊さずともいつか消えて、それでも色褪せない何かを残す、と言ってました」

「…………」

 

 咲夜の命を弄んでいると考えるべきか。それとも人間の命に妖怪なりの敬意を払っていると見るべきか。

 信綱には判断がつかなかった。真意を知っているのはこの場で話している美鈴ではなく、当事者であるレミリアと咲夜の二人だけだ。

 故に何も言わないことにする。この行いの是非を決めることができるのは咲夜だけであり、自分ではない。

 

「そうか、好きにしてくれ。人里と阿求様に迷惑がかからないのならどうでも良い」

「あれ、結構重たい話をしたのに!?」

 

 わかってて言ったのかこいつ、と信綱は美鈴を軽く睨む。

 そういった他人の深いところが関わるような問題は本人の口から聞くか、頼まれでもしない限り深入りはしない主義である。

 信綱は御阿礼の子が一番大事で、彼女が所属する集団である人里を守る義務があるが、それ以外はどうでも良いものだ。

 

「お前たちの事情だろう。お前たちがどうにかするのが筋だ」

「そ、それはその通りですけど――痛い!?」

 

 困ったような美鈴の額に何かが刺さる。それが咲夜の使うナイフであると理解したと同時、信綱の前に咲夜が現れる。

 

「躾のなっていない門番で申し訳ありません。美鈴、お客様と長話をしろとは言ってないわよ」

「す、すみません……」

 

 起き上がった美鈴の額にはもう傷がなかった。彼女自身の再生力の高さもそうだが、ナイフ自体も浅く刺さっただけなのだろう。

 余人は驚くが、当人同士はただの戯れ。その程度のものである。

 

「門番の仕事に戻りなさい。終わったら差し入れするから」

「……! はいっ!」

 

 美鈴の顔が目に見えて明るくなり、喜んで門番の仕事に戻っていく。

 

「人使いが上手いな」

「仕事仲間で、友人ですから。休憩時間には話したりもするんですよ」

「そうか。で、お前が来たということは――」

「はい。妹様の準備ができましたので、ご案内いたします」

「わかった」

 

 咲夜の後ろをついて歩いて行く。

 日光を嫌う吸血鬼の館だけあっていつ来ても薄暗いが、春が訪れている今の期間は適度に過ごしやすい室温が保たれていた。

 ろうそくの灯された渡り廊下を歩いていると、不意に咲夜が口を開く。

 

「私は、後悔しておりません」

 

 それが何を意味しているか、信綱は先ほどまでの話ですぐに理解できた。

 

「聞いていたのか」

「どんな思惑があっても、お嬢様たちに私が救われた事実は変わりません。誰がなんと言おうと、私にとってはそれだけが真実です」

「……では人間として死ぬ姿も見せるつもりか?」

「好きに生きるだけです。私の人生にどんな価値が見出されるのか、それは私の死んだ後のお話ですから」

「……そうか、そうだな」

 

 経緯には少なからず打算があったのだろう。だが咲夜はこうして微笑み、自身の人生を謳歌している。

 そのことを批判する権利など、誰も持ち合わせてはいない。

 

「お前たちの事情だ。そちらで話し合って好きにしてくれ。俺からは何も言わない」

「ありがとうございます」

「なぜ礼を言う」

「あなたは物事がこじれそうになると口を出してきますから」

 

 信綱が静観する選択をした場合、それは大体の場合において当人同士でなんとかなると彼が判断していると言い換えることができる。

 基本的に物事が円満に動いている方が自分も楽ができると思っているため、こじれそうな物事には口を挟むことが多い。

 

「当たり前だ。人里に害が及ぶかもしれない状況を放置できるか」

「妹様の件も?」

「それは別の理由だ」

 

 レミリアの妹の話にも信綱はさして積極的なわけではない。

 ただ、今後も妹――フランが継続的に人里に来る場合、それは幻想郷縁起に載せた方が良い存在となる。

 阿求のそばにいられる時間はあと僅か。自分の体が動くうちに、幻想郷のパワーバランスの一角を担っている吸血鬼の妹を見定めておきたいのは当然の理屈だ。

 

 能力の詳細も概ね聞いている。レミリアには悪いが、フランの様子が人里へ訪れるのを認められないほど危険であったら、こちらも方法を考える必要がある。

 

「こちらでお待ち下さい。お嬢様が妹様を連れてまいります」

「なんだ、部屋に直接行くのではないのか」

「その……お嬢様と妹様が一緒になると……よく、その……」

 

 しどろもどろな咲夜の様子で、ものすごく言葉に困っているのが見て取れた。

 四百年近く断絶していた関係なのだから、喧嘩の体裁になるだけマシなのではないかと思う信綱だが、いかんせん四百年の断絶は人間には想像がつかない。

 咲夜がそう言うのならそうなのだろう、と自分を納得させて信綱は再び待つ姿勢になる。

 

「ところで、どのように妹様を案内する予定なのでしょうか」

「相手次第だ。日暮れ前には戻すようにする」

「かしこまりました」

 

 仮にも吸血鬼が朝から出かけて、日暮れの前に家に戻るというのはどうなのだろうか、と思う信綱だったが、言葉には出さなかった。

 なんでもレミリアは朝型になっていると聞くので、きっと吸血鬼の夜行性は矯正可能なのだろう。

 そんなことを考えて待っていると、視界に動くものが見えてくる。

 

 薄暗い紅魔館の中でもよく見える金色の髪を一房、頭の横で結ばれている。

 顔立ちはなるほど確かに。双子と言っても納得してしまうほど姉にそっくり。強いて言えばこちらの方が子供っぽく(・・・・・)見えるぐらい。

 閉じた日傘を片手に、宝石のような羽を動かしながら少女は澄ました様子で咲夜に話しかけた。

 

「待たせたわね、咲夜」

「――お待ちしておりました、妹様。お嬢様はどちらに?」

「一緒に歩きたくないって言ったら無言で部屋の隅に座っちゃった」

「後で回収しておきます」

「ん、お願い」

 

 レミリアの日頃の扱いが透けて見えるやり取りだが、信綱はさしたる関心を示さず金髪の少女を見る。

 少女も信綱の視線に気づいたようで、その顔をまじまじと見つめて不思議そうな顔をする。

 

「あなた、男の人?」

「そうだな」

「男の人を見るのはすごい久しぶり。あなたがアイツ――お姉様の親友?」

「親友ではないが、知り合いだ。お前の案内を頼まれている」

「ふぅん……男の人ってなんだか恐ろしい見た目ね」

「…………」

 

 そんなに恐ろしい表情を作った覚えはなかった。友好的な表情も作ってないため、無機質だと言われたら事実であるが。

 ちょっと自分の顔立ちについて考えている信綱を横目にフランは咲夜に確認を取る。

 

「咲夜、本当にこの人が?」

「左様でございます。それと妹様、くれぐれも外にいる間は彼の指示に従うようお願いします」

「わかってる。それすら嫌がるんだったら一人で出ているわ」

 

 ふい、と咲夜から顔をそらし、信綱の方に歩み寄る少女。

 少女は信綱を見上げ、その小さな手を差し出してきた。

 

「お姉様から話は聞いていると思うけど、フランドール・スカーレットよ。姉に狂っていると言われた私の手、掴める?」

「子供の手を払いのけるような大人になった覚えはない」

 

 信綱は差し出された手を迷うことなく掴み返す。

 吸血鬼であるからか、その手は人間のそれとは一線を画する冷たさだった。

 

「……私はあなたより何倍も長く生きているわ」

「そうだな。だが子供だ」

「むぅ」

 

 フランは気分を害したようにむくれた顔になるが、子供であると言われてムキになる時点で信綱からすれば子供である。

 くぐもった笑いをこぼし、信綱はフランの手を握ったまま紅魔館の外に向かっていく。

 

「では一日彼女を借りるぞ」

「行ってらっしゃいませ」

「ん、行ってくるね」

 

 咲夜に見送られて外に出ると、フランは日傘を差して信綱から少し離れる。

 

「じゃあ行きましょうか。この辺りは私もよく歩くから目新しくないわ」

「一日は長い。今から驚いているようでは疲れてしまうぞ」

「……ん、わかった。ここはあなたの言葉を聞き入れてあげる」

 

 美鈴が門前で大きく手を振って見送っているのを尻目に、二人は霧の湖に到着する。

 

「パチュリーが言ってた。霧の湖ね」

「年中霧が覆っていて、おまけに妖精がたむろしている。妖精と遊びたいなら話は別だが、通常はさっさと通り抜ける場所だ」

「ふぅん、妖精と何して遊ぶの?」

「最近は弾幕ごっこになる」

「妖精も弾幕を使うんだ。家の妖精メイドは咲夜が教えたのだとばかり思っていたわ」

 

 フランの澄ました様子を微笑ましく思いながら、信綱は霧の湖を通って魔法の森に入る。

 自然の風景が生み出す感動は、しかし残念なことに霧の湖、魔法の森、どちらも薄暗くて危険な場所であるためか、フランの琴線に触れるようなものではなかった。

 

「魔法の森だ。瘴気と呼ばれる毒素があって、その影響からか妖怪が多い。魔理沙はここに住んでいる」

「へぇ、あれはなに?」

 

 フランは木の根元にある突起――要するにキノコに興味を示したようで、とてとてと駆け寄っていく。

 

「キノコだ。魔法の触媒になるとも聞くし、食用のものもある」

「これは食用?」

「多分違うからやめておけ。それと生で食っても不味いだけだ」

「不味いならいいや。毒ぐらいなら食べてみるのも一興だと思ったのに」

「…………」

 

 フランの疑問にだいたい答えていた信綱が急に無言になったため、フランは信綱を見上げる。

 信綱は紅魔館を出た時と変わらない様子だったが、どこか楽しげな空気を身にまとっており、フランはそれに首を傾げた。

 

「どうしたのさ?」

「なに、楽しんでいるようで何よりだと思っただけだ」

「……楽し、い?」

 

 信綱の言葉にきょとんと首を傾げるフラン。

 言葉の意味がわからなかったのか、フランはブツブツと自問自答するようにつぶやく。

 

「楽しいってどういうもの? 本で読んだ時に見たのは気分が弾んで笑顔が溢れるようなもの。今の私はそう見えていたの?」

「…………」

 

 信綱はその様子を見ていたが、何かを言うことはなかった。

 感情の答えというものは誰かに与えてもらうものではなく、自分で見つけるものである。

 通常なら余人との関わりと比較の中で見つけていくそれを、見つける機会すら得られなかった少女に微かな同情すら覚えてしまう。

 

「……ねえ、おじさん」

「なんだ」

「私の何を見て、あなたは私を楽しそうって思ったの?」

「何かに夢中になっているのは、楽しいということだろう」

「夢中になる?」

「知識を経験に結びつけたい。キノコのこともそうだし、地理のことも。俺にはお前が貪欲に知的好奇心を満たしているようにしか見えなかった」

「……うん。それは正しい、と思う」

 

 フランは自分の感情に自信がないように胸に手を当てる。

 

「義務や義理でやっていたわけではないだろう。やりたいことをやっているんだ。もしお前が心の底から嫌々やっていたとしたら誤解を詫びるが」

「……ううん、おじさんのそれが当たっていると思う。そっか、私は楽しんでいたんだ……これが楽しいって感情なんだ」

「さて、お前がどう感じるかは自由で、お前がそれにどんな名をつけるかも自由だ。好きにすれば良いさ」

「わかった。でも良いの? 私がこれから向かう先は人里で、私は妖怪。しかも身内の吸血鬼が狂っていると評価を下して幽閉した。人里に来たら暴走するかもしれないよ?」

 

 実際、フランにもわからないのだ。

 これまで見てきた人間は咲夜に魔理沙、そして目の前の男性のみ。

 どれも一人ずつ会ってきた。同時に顔を見たことはほとんどない。

 そんな自分の乏しい人間関係で、人間の大勢いる人里に行ったらどんな反応をするのか、自分でも予想ができなかった。

 

 そのことを告げると、信綱は別にどうということはないとばかりに首を横に振られた。

 

「その時は俺が止めて屋敷に戻す。少し早く今日の外出が終わる程度だ」

 

 暴走の内容次第では二度と屋敷に戻れなくなる可能性もあるが、些細な違いである。どちらにせよ信綱と二度と会わないのは変わらない。

 フランは信綱の言葉に驚いたように表情を動かす。

 

「吸血鬼って人間よりすごく強いって聞くけど、あなたにとってそれは大したことじゃないの?」

「人間よりすごく強い妖怪の相手に慣れてしまってな。今日の目付役をお前の姉から頼まれたのもその理由からだ」

 

 もう一つの理由はもしもフランの気が本当に触れていて狂気を発したとしても、信綱なら意に介さず戦えるだろうというものもあった。

 しかしそれをフランに言っても機嫌を損ねるだけでしかないので、黙っておくことにする。

 

「ふぅん、まあ良いわ。おとぎ話とかで出て来る吸血鬼殺しになれると良いわね?」

「これ以上老人を働かせるな。そろそろ行くぞ。この調子だと里に着くまでで日が暮れる」

 

 思わせぶりなことを言ってみたがるのは姉妹共通である。

 信綱は肩をすくめてそれに答え、魔法の森から出るべく再び歩き始めるのであった。

 

 フランはそんな信綱の背中を追いかけながら、一つの楽しみを見出す。

 かつては絵本や自分の空想の中でしか思い浮かばなかった、吸血鬼を打ち倒す人間のお話。

 それを実現させた人間がいるのかもしれない。しかも自分のすぐそばに。

 そんなことを考えながら、フランは芯の通った美しい歩き方をする信綱の背を追いかけていくのであった。

 

 

 

「こっから先は人里だから、妖怪なら妖怪って言って欲しい……って信綱様か。お疲れ様です」

「ご苦労。この子を連れて入るがいいな?」

「信綱様のお連れでしたら誰でも構いません。レミリアちゃんによく似てますけど、もしかして?」

「妹だ」

「……どうも」

 

 慣れた様子で話す信綱と門番を眺めていたフランだったが、自分に視線が向くと居心地が悪そうに身じろぎする。

 そんな人に慣れていない少女に門番の男性は安心させるように笑い、その懐から飴を取り出す。

 

「ははは、そんな縮まらなくても良いよ。ほら、飴ちゃんをあげよう」

「……あ、ありがと」

「あれ、反応が悪いな。レミリアちゃんはもっと喜ぶのに」

 

 両手に乗せられた飴を見ながら、自分の姉は人里でどのような扱いを受けているのか気になるフランだった。

 お椀のように形作った両手で受け取った飴を眺めたまま、フランと信綱の二人は人里に入っていく。

 

「……もらっちゃった」

「お前の姉はよく飴をもらっているぞ。あそこの門番は半分レミリアの相手をするための門番みたいなものだ」

「お姉様って人里の何なの?」

「基本、暇そうな子供だな」

「吸血鬼ってそれで良いのかしら……」

 

 フランも吸血鬼のなんたるかを語れるほど知っているわけではないが、少なくともレミリアの在り方が吸血鬼の在り方に真っ向から喧嘩を売っていることだけはわかった。

 自分がふっかけた約束を守っているだけなので、信綱はそこには何も言わないでおく。彼女も外の世界にいた頃は今のような振る舞いはしていなかったかもしれないのだ。

 

 信綱からの返事がなかったため、フランは答えを得ることを諦めてもらった飴玉を口に運ぶ。

 砂糖の優しい甘みを最初に受け取り、柑橘系の果汁も入っているのか甘酸っぱい匂いが口内に広がっていく。

 普段から食べている咲夜の作る料理とは違うが、これはこれで悪くない味だった。

 

「ん、美味しい」

「それは良かった。さて――見たいものはあるか?」

「…………」

 

 飴玉を包んでいた紙をしまうと、フランは改めて眼前に見えている光景に圧倒される。

 人も妖も区別はない。同じ場所で暮らし、同じものを見て、同じように笑っている。

 まるで絵本の世界だ、とフランは目眩すら覚えてしまう。いつの間に外の世界はこんなことになっていたのか。

 

「……お姉様はこれをもっと前から知ってたんだ」

「あれも……まあ、この光景の一因にはなっている」

「ふぅん、アイツが自発的に協力するとは思えないんだけど」

「それは彼女に直接聞くべきことだろう。俺はあいつに頼み事をしたことはあるが、あいつが何を思って引き受けたのかまでは知らん」

「人間と妖怪は相容れないっていう通説は正しいの?」

「概ねは。今でも妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治するという構図そのものは変わっていない」

 

 ただ殺し合う以外の道が生まれただけである。

 これから先のことは誰にもわからない。奮闘虚しく以前までの幻想郷に逆戻りするかもしれないし、あるいは従来の人妖関係を覆すような未来が訪れるかもしれない。

 

「弾幕ごっこね。あれはよくできた遊びだと思うわ」

「あれの根幹を思いついたのはレミリアだ」

「……あんな子供だましの遊び、流行った理由がわからないわね」

 

 見事な掌の返し方に信綱は吹き出しそうになってしまう。

 フランも自分で苦しいことを言っていると思ったのか、その顔がどんどん羞恥に染まっていき、やがてズンズンと歩き出す。

 

「い、良いから行くよ! もっと色々なところが見たい!」

「だったら適当に歩くか。興味を惹くものがあったら言えば良い」

 

 そうして二人の人里での時間は始まっていくのであった。

 

 

 

 フランは背筋を伸ばして歩く信綱の後ろをついて歩きながら、自分のことをぼんやりと考える。

 自分は狂っていると姉に言われた。その姉は自分と仲直りをしようと四苦八苦しているが、今もってなお狂気の否定はしていなかった。

 それはつまり、レミリアから見て自分という存在は狂っていると見られているのだ。

 

 では、狂気とはそもそもなんだろう。

 

 簡単だ。人と違うことである。

 人には人の。妖怪には妖怪の。ある程度共通する規範とも言うべきものが存在する。

 フランにはそれがわからない。彼女にとって人も妖怪も等しく壊せるものでしかない。

 彼女にとっては人も妖怪も木々も地面も何もかも、その気になれば壊せる儚い硝子細工だ。

 あまねく全てを硝子細工としてみていることを狂気と呼ぶのであれば、それはその通りなのだ。

 

「ねえ、おじさん」

「なんだ」

「何もかもを壊せる力を持って生まれたとしたら、おじさんはどうする?」

「なぜそんなことを聞く」

「比較。私は一度これで盛大に失敗して、今まで幽閉される羽目になった。おじさんなら好きに使うの?」

 

 なまじ家族のためになんか使うから話がこじれてしまったのだ。

 富のために使えば簡単に大富豪になれるだろう。私利私欲に使う道ならいくらでも思いつく。

 

「別に。必要なら使うし、必要ないなら使わない」

「その必要の判断はどこで付けるの?」

「俺の主人が望むか望まないか」

「その主人の判断が間違っていたら?」

あの方の考えが間違っているはずがない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 一片の迷いもない回答に、しかしフランは違和感を覚える。

 咲夜も似たようなことを言うだろう。だがそこにあるべき主人への信頼というものが感じられない。

 そもそもそれ以外の答えが存在しない、と心から信じている声だった。

 なんてことのない、ただの言葉遊びで投げかけたものであるにも関わらず、フランは寒気を覚えてしまい立ち止まる。

 そんなフランに横から衝撃が加えられ、バランスを崩してしまう。

 

「きゃっ」

「おっと」

「む、すまない。足元が見えていなかった」

 

 幸い、倒れる前に信綱が気づいてその身体と日傘を止めたため、日光にさらされることはなかった。

 フランが視線を上げた先には、僅かに青みがかった銀色の髪をなびかせた少女がフランを見下ろしている。

 その顔は驚愕と申し訳無さが併存しており、フランの身体を支えている信綱に説明を求めるように瞳が揺れていた。

 

「レミリアの妹です。ずっと紅魔館にいたそうですが、今日は外に出ているため私が案内しています」

「ああ、そうだったのか。レミリアの面影が見えたからつい驚いてしまった。怪我はないか?」

 

 その少女――慧音は膝を折るとフランの前に手を差し伸べ、柔らかな慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

 ふわりとした暖かい笑顔を見せられ、フランは思わずその手に自分の手を重ねてしまう。

 

「あ、うん……」

「それは良かった。人里には何をしに?」

「えと、ただ見て回りたかっただけ……」

 

 フランが慣れない人を相手に四苦八苦していると慧音の視線が上に、つまり信綱の方に向く。

 

「信綱。この子は見た目通りの子供のようだ。行くアテがないのなら寺子屋はどうだ?」

「彼女は本当に人に慣れておらず、情緒に不安な部分があるとレミリアから聞いています――む」

 

 信綱の言葉は途中で慧音に額を小突かれて遮られる。

 彼女は柳眉を逆立て、腰に手を当てて信綱に怒りを見せた。

 

「仮にも大人が子供の前でそんなことを言うんじゃない。子供を信用していないと言っているようなものじゃないか」

「私は姉から聞いた事実を――なんでもないです」

 

 信綱も子供を無闇に疑うような真似はしない。ただそれはそれとして、フランを最もよく知っているレミリアの言葉も軽視しないだけである。

 しかしそれを言おうとしても慧音には通じないだろうと思い、言葉を取り下げる。情も理も肯定する自分の言葉は、時に酷薄に聞こえてしまうと学んでいた。

 

「わかればよろしい。さて、君さえ良ければ寺子屋――要するに子供たちの学び舎を見ていかないか?」

「…………」

 

 本当に良いのだろうか、という視線でフランは信綱に答えを求めるように見る。

 好きにすればいい、というように信綱は肩をすくめた。

 問題を起こしたら自分が止めれば良いだけである。そして問題を起こしさえしなければ何をしても構わなかった。

 

「良いの? 私、自分で自分がよくわからない吸血鬼なのに?」

「子供は皆そんなものだ。信綱もいるから、安全についても問題はない」

 

 また子供呼ばわりである。

 信綱といい目の前の人といい、自分を子供扱いする人間ばかりである。

 少なくとも姉よりは知性的に振る舞っているはずなのに、とフランはいささかの不満を覚えながらもうなずく。

 

「でも一つだけ聞かせて。どうしておじさんもあなたも、私のことを子供って言うの? お姉様にはそんなことは言わないよね」

「ふむ……やや難しい質問だが、こう答えようか。――君は自分のことがまだよくわからないのだろう? それが子供の証だと私は考えている」

「自分が……わからない」

 

 オウム返しのようにフランがつぶやくと、慧音は普通の子供たちはそんなこと気にしないがね、と笑う。

 

「君は今、考えることによって成長しようとしているんだ。私はその手助けをしたい」

「……おじさんは私をなんで子供だと思ったの?」

知らないことを知らない(・・・・・・・・・・・)からだ。お前は姉より落ち着いた振る舞いができているが、あれはあれで自分が何も知らないことを理解している」

 

 外の世界に触れてきた影響か、それとも紅魔館という一つの勢力の頭目として立ち続けた結果か。

 おそらく本人にも自覚はないだろうが、それでもレミリアは信綱や慧音が対等に見るべき相手として確立していた。

 信綱の答えはやや難しかったのだろう。首を傾げるフランに信綱はそれ以上の言葉は続けなかった。

 

「何かの折に思い出せば良い。今はあの人についていこう」

「……ん、わかった」

 

 外に出れば多くの答えが得られると思っていた。

 だがそんなことはなく、フランの持つ疑問は深まるばかり。

 

 自分は子供なのか。ならば大人とは何か。

 自分は狂っているのか。正気と狂気の境界はどこにあるのか。

 

 自分の前を歩く二人はどちらも答えを知っている様子で、しかしフランにそれを伝えるつもりはないらしい。

 知っているのなら教えて欲しいものだ。先人の知恵とはそのためにあるのだろう。

 フランはそのことに不満を覚えながらも、二人の後を追いかけていくのであった。

 

 

 

「あらフラン。お帰りなさい。外はどうだった?」

「眠かった。というか寝た」

「寝た!? おじさま、どういう場所に連れて行ったの!?」

「色々と考えることは増えたけど、有意義な時間だった」

 

 そう言って自室に戻っていくフランを見て、レミリアは今日の外出で何があったのか、信綱を問い詰めようと決意するのであるが――些細なことだろう。




もっと色々書きたかったけど、長くなりすぎるので断念。
基本的にフランちゃんは大人と子供が焦点になってます。狂気と正気の境界についてはまた別問題。

ノッブはフランは子供扱いしますが、レミリアは子供扱いせず、対等な人間として扱います。それで対応が雑なのは仕様です(真顔)
レミリアはあれで大事な場面では外さないので、フランとはその点でも対照的になっています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

河童と天狗

「大宴会をやる?」

「そうそう。あれ、盟友聞いてない?」

「初耳だ」

 

 暖かな陽気の下、川に薬草の採集に来ていた信綱はにとりの話す情報に眉をひそめる。

 

「妖怪の山でやるのなら俺が知らないのも無理はないと思うが」

「いやあ、博麗神社でやるって話だよ。盟友なら真っ先に聞いてもおかしくないと思うけど」

「ふむ……」

 

 採集の手を止め、きしむ腰を叩きながら信綱は思案を巡らせる。

 

「……まあ、そんなこともあるだろうさ。あまり自発的に情報を集めるわけじゃない」

 

 元々人から聞かされない限り、能動的な情報の収集はしていない方である。

 放置したら明らかに不味い問題があるのなら話は別だが、今はそうではない。

 何かあったら椛が教えてくれるだろう。自分はのんびりと阿求の側に侍っていれば良い。

 そう思って信綱は手元の薬草――元気に走り回るから生傷が多い阿求のために集めている――を大切そうに撫でる。

 

「そんなもんか。でも楽しみだよ、博麗神社と来たら桜の名所じゃないか! 私も春には山の上まで登って見ていたものさ!」

「確かにあそこの桜は絶景だな」

 

 まだ博麗の巫女が霊夢ではなかった頃。よくあの場所で先代と一緒に、ままならない現状への愚痴をこぼし合ったものだ。

 大抵の場合で酒を持ち出す先代を止めるのが信綱の役目だったが、今にして思えばあれは先代なりの甘え方だったのかもしれない。

 自分の暴挙を止めてくれる誰かがいることを喜んでいたのだろう。信綱が酒を取り上げると妙に嬉しそうだったのを覚えている。

 

「……先代の奴は掃除が大変だと愚痴っていた」

「先代って言うと、盟友の嫁さんか。なになに、惚気?」

「違う」

 

 ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべるにとりに、信綱は憮然となってそれを否定する。

 彼女は自分を愛したが、自分は彼女を愛さなかった。その己が彼女を語るなど無礼に違いない。

 そんな霊夢と先代が聞いたら噴飯物どころか殴られても文句は言えない考えを持ったまま、信綱は強引に話題を変えた。

 

「で、お前も宴会とやらに出るのか?」

「まあね。大っぴらに博麗神社に行けるなんて初めてだし、私も楽しみだよ!」

「言われてみれば、あそこは不可侵の場所だったか」

 

 妖怪も人もあの場所で争うことは許されていない。

 かつての百鬼夜行の折に鬼が向かっていたため、有名無実というかその気になれば破れる掟ではあるが、破って問題ないのはそれで八雲紫の不興を買っても問題がない大妖怪ぐらいである。

 

「博麗の巫女は妖怪退治もするし、あんまり行きやすい場所じゃなかったね。でも今代の博麗の巫女は懐っこいって聞くし、妖怪ならだれかれ構わず退治するとも聞かないし、結構話しやすいんじゃないかと思うよ」

「異変の時に容赦はしないだろうがな」

 

 自分の教えを守っているのか、それとも霊夢自身の気質かは知らないが良いことである。

 誰かに好かれるというのは大切なことだ。

 好かれるということは、いざという時力になってもらえるということでもある。

 そういったものは目に見えることはなくとも、確実に霊夢の利益になる。

 

「まあそれはわかった。せいぜい楽しんでこい」

「ん? 盟友は来ないの?」

「誘われていないだろう」

「じゃあ一緒に行こうよ。はい、今私が誘った」

「……阿求様に話をしてからな」

 

 おそらく参加することになるだろう。妖怪が集まるような宴会など、阿求が無視するはずがない。

 普段は話の聞けない妖怪から話を聞く好機であり、なおかつ楽しそうなことである。御阿礼の子としても、稗田阿求個人としても面白いものだ。

 

「ん、わかった。そんで盟友は何してたの? 釣りってわけじゃなさそうだけど」

「薬草摘みだ。もう終わった」

「そんじゃ少し話さない? 盟友に見せたいものがあるんだ」

「いつぞやのミミズ君は結構だぞ」

 

 この前人里で見せようとされた時、造形としておぞましい物体になりすぎていて信綱でさえ嫌悪感を覚えたのは記憶に新しい。

 あれと同じものを見せられたら思わず彼女を川に叩き込んでしまうだろう。河童だから大したことはないだろうが。

 

「今回は自信作だって!!」

「あと何回お前のそれを聞くことになるんだろうな……」

 

 いい加減手段と目的が逆転していることに気づいて欲しいものだ。

 

「まあ良い。次に見せるものがしょうもないものだったら叩き壊すからな」

「ひどい!? 結構材料だってやりくりしてるんだよ!!」

「なおさら手段と目的が逆転する理由がわからん……」

 

 河童は普段何を考えて生きているのか、聞いてみたいものである。

 信綱は呆れきった表情になるが、帰る素振りは見せない。なんだかんだにとりに付き合う心積もりのようだ。

 にとりはそれがわかり、嬉しそうに背負っている鞄を探っていく。

 

「ふっふっふ、今度のは本当に自信作だよ! なにせ盟友のアドバイスを逐一取り入れたんだ!」

「それができるならもっと前からやれ」

「正直、独創性とか意外性に欠けるから私としては面白くないけどね!」

「お前のは独創性と書いて爆発と読み、意外性と書いて故障と読むだろうが」

 

 市場で彼女が何回小規模な爆発を起こしたか、数えるのも馬鹿らしい。

 最初は怖がって皆が彼女のござから離れたというのに、もはや慣れてしまって誰も気にしなくなってしまった。

 

「さあ刮目せよ! これこそミミズ君……号だ!」

「おい待てお前今明らかに番号を忘れて――」

 

 信綱のツッコミは無視された。

 にとりの手にはうねうねとうごめくミミズ状のナニカがある。

 このミミズの造形すら久しぶりに見た気がする信綱。以前は人の腕の形になっていたものもあった。

 

「……うむ、ミミズのように見えるな」

「でしょう! しかも半永久機関で動き続けるよ!」

「で、数は?」

「百ぐらいなら一日あれば作れるね!」

「それはすさまじいな」

 

 素直に驚愕する。この河童がまともなものを作ってきたという点と、そのまともなものの性能の良さの二つに。

 にとりは得意そうに胸を張り、これまでの苦難を語っていく。

 

「ここまで長い道のりだった……。盟友ったら何を作っても喜ばないんだもの」

「俺の忠告を最初から聞いていればもっと早くできたと思うが……」

「私にも技術者としての矜持があるのさ」

 

 その矜持で道を見失っていたのだから世話はない。

 信綱もよもや自分が生きている時に完成したものが拝めるとは思っていなかった。

 手の上でうねうねと動く物体を睨んだまま、信綱はなんとも言えない気持ちでにとりを見る。

 

「……で、これをどうするんだ?」

「釣りに使ってよ。爆釣間違いなしだよ!!」

「気が向いたら考えよう。これはもらって良いのか?」

「いいよいいよ。元々盟友にあげるために頑張ったんだし」

「……なら、好意はありがたく受け取ろう」

 

 自分が生きている間にあと何回釣りをするかという疑問もあるが、好意に変わりはない。

 信綱はありがたくそれを受け取ると、今度は自身が懐を探って何かを取り出す。

 

「代わりと言うわけではないが、これをやろう」

「ん、なにこれ?」

「お前の見よう見まねで作った釣具だ。あの釣り竿の側にでも置いておけ」

 

 手慰みに作った、とは見えないくらいその釣具は丁寧に作られており、にとりはそれを見て息を呑むと同時に信綱を見上げる。

 常と変わらぬ無表情で、しかし信綱の目はここではない遠くを見ているように感じられた。

 

「盟友、これって……」

「お前にはもう思い出す人がいる。それと一緒に思い出せば良い」

 

 つまり、これはいつか話していたにとりが忘れないための道具だ。

 信綱に残された時間は少ない。もしかしたら妖怪の山でにとりと顔を合わせるのはこれが最期になるかもしれない。

 そのため今日この場所に来たのは、薬草を採る以外にもこれを渡す目的があったのだ。

 

「…………そっか、盟友もそんな歳か」

「十分生きた方だ。できることなら山も谷も少ない方が良かったがな」

「あはは、そりゃ無理だ。盟友は色々なものに愛されてるよ」

 

 その愛は決してまともな方向ではないだろう。

 信綱は災難ばかりに見舞われた自分の半生を振り返り、肩をすくめる。

 普通の人生を生きたとは言えないが、退屈しない人生ではあった。

 

 何より御阿礼の子に三代も仕えることができた。

 転生の期間が短くなる時期に生まれ落ちたことと言い、自分は過去の火継では誰も成し得なかったことを成し遂げられたのだ。

 阿礼狂いにとって最大の誉れであり、幸福である。これ以上の人生など望むべくもない。

 

「……さて。用事がないなら俺はもう戻るが良いか?」

「あ、時間あるなら家に寄っていってよ。お茶ぐらいは出すからさ」

「……ふむ、まあ良いだろう」

 

 にとりに会うことが目的の一つでもあったのだ。

 彼女の家を訪ねてお茶を飲むくらいの時間はある。

 信綱がうなずくとにとりは嬉しそうに川に入り、遡っていく。

 

「ほらほら、早く来ないと置いていくよー!」

「少しは案内をしろ。全く……」

 

 さすがに川の流れに逆らって泳いでいく自信はないので、信綱は川岸の岩から岩へ飛び移ることで移動していく。

 そうして人間と河童の組み合わせは、山の頂上付近にある河童の里へと向かっていくのであった。

 

 

 

 河童の里は川沿いに作られており、常に騒がしく何かを組み立てる音が響き渡っている。

 川沿いに集落があるのは彼女らが水辺に住む種族であるということも一因だが、もう一つの理由には騒音がひどいため川辺に押し込んでしまおうという天狗の事情も絡んでいた。

 しかし河童はそのような天狗の思惑はつゆ知らず、今日も今日とて大好きな機械いじりに励むのであった。

 

「最近は人里からも機械が流れてきたり、色々といじれる素材が増えてるんだ! これも盟友さまさまだよ」

「以前はこの近辺だけだったのか?」

「天魔様もあんまり積極的じゃなかったしねえ」

 

 なんでだろうね、と湯呑みを傾けながら不思議そうな顔をするにとりだった。

 しかし信綱には天魔の考えが非常によくわかってしまい、曖昧な表情になるしかなかった。

 そりゃすぐ手段と目的が逆転するような連中の好き勝手にはさせたくないだろう。それをする刺激か利益のどちらかがない限り、彼らの行末を左右させる身で無茶はしない。

 

 というか現状、河童に好きにさせているだけでも信綱は天魔を尊敬しているくらいだ。

 自分だったら間違いなく手綱を握り続けて自由など与えない。

 

「……なんだろ。なんか寒気が」

「泳いできたからだろう。最近の機械いじりとやらはどうなんだ?」

「お、聞いちゃう? それ聞いちゃう? って言っても、最近は天狗がみんな新聞に夢中だから、それに関わるものを作っていることがほとんどかな」

「道理で最近、新聞が多く出ているわけだ」

 

 昔は週に一回どころか、月に一回でも出れば多い方だったというのに。

 最近は異変が続いていることもあって、多くの天狗が新聞を作ることに熱中している様子だった。

 信綱の元にも何人か天狗が来ており、新聞を配る姿を見た覚えがある。燃料が向こうから来るので楽ができているとは女中の言。

 

「まあ向こうは趣味で作ってるからねえ。最近だと情報だけじゃないのもあるんじゃない?」

「そうだな。飯の情報を載せてくる新聞もあるし、中には自作の小説だけを載せてあるものもあるくらいだ」

 

 しかも意外と人気がある。

 幻想郷の新聞として真っ先に思いつくのは一番最初に始めた文々。新聞であり、知名度も群を抜いている。

 それに対抗するためには同じ方法ではダメだと考えたのだろう。

 にとりはそれを聞くと顎に指を当て、不思議そうに首を傾げる。

 

「それって新聞っていうの?」

「知らん。あいつらは新聞と言っているから良いのだろう」

 

 誰かが困っているわけでもないのだ。信綱が介入する必要性は感じなかった。

 と、そんな風ににとりと最近の妖怪の山の情勢について話していると、玄関の扉が勢い良く開く。

 

「こんにちはー! 清く正しい射命丸ですけど、以前頼んでいたカメラの修理ィィィィィ!? な、なんであなたがこちらに!?」

 

 勢い良くやってきたのは文だった。入ってきて早々、信綱が部屋にいることに仰天してしまう。

 そういえば自分がにとりと知り合いなのを知っているのは僅かしかいないな、と思いながら信綱は肩をすくめる。

 

「俺が誰と知り合いでも良いだろう。にとり、客だぞ」

「あ、うん。カメラの修理だったよね。レンズの調整が終われば完成だから、上がって待っててよ。すぐ終わらせちゃうからさ!」

「え、この人と二人で!?」

「そうだけど……何か問題ある?」

 

 この世の終わりみたいな顔をされてしまうと、信綱もほんの少しだけ自分を省みてしまう。そこまで嫌われるようなことをしただろうか。

 

「俺は構わんぞ」

「わ、私も大丈夫ですよ、ええ! いつまでも人間に苦手意識を持ったままじゃいられませんから!」

 

 苦手意識なんて持たれていたのか、と信綱は驚いた顔で文を見てしまう。

 文は気まずそうに信綱の対面に座って、にとりからお茶を受け取る。

 

「んじゃ、後は適当にしててよ。私の部屋で何か音が聞こえても気にしないでいいから」

「わかった。俺も適当なところで帰る」

「はいよ、人間。楽しかったよ」

 

 ひらひらと手を振って、軽い言葉とともににとりが部屋に入っていく。

 その言葉がこの場での別れだけでなく、永遠の別れに対する言葉であることも気づきながら、信綱は何かを言うことを選ばなかった。

 彼女はそれを望んでいないだろう。ならば彼女の意思を尊重したいと思ったのだ。

 

 さて、と思考を切り替えて信綱は対面にいる文を見据える。

 

「で、お前は俺が苦手らしいな」

「……まあ、その……はい」

「昔は俺をからかって遊んでいたではないか」

「今やったら首が落ちるどころじゃないですよねそれ!?」

 

 別に苛立つ程度で首を刈りに行くほど狭量ではないつもりだった。

 からかいの度が過ぎれば信綱もそれなりの手段に出るが、度が過ぎなければ許容する方でもあると自負している。

 

「俺が明確に報復を考えるのは不利益が出る場合だけだ。ちょっと苛立つ程度でそこまでの報復はしない」

「本当ですか……?」

「レミリアとかどうなるんだ」

 

 あれは基本的に信綱に迷惑しかかけていない。

 有事の時には信頼できるが、今の幻想郷で信綱が動かざるをえないような有事はない。

 つまり今の彼女は信綱にとって百害あって一利なしの存在である。

 と、当人が聞いたら恥も外聞もなく泣き出しそうなことを考えながら話すと、文は納得したようにうなずいた。

 

「そう言われればそうですね」

「だろう。お前は新聞を作るからあんまり面倒なことは話せないが、それ以外だったら来れば普通に相手をする」

「あやや、そう言えば最初に新聞を作る時にも同じようなことを言われましたね」

「まあ、苦手意識を持つことにも理解は示すが」

 

 仏頂面か無表情であり、身につけているものも公人として、あるいはかつての英雄としてみすぼらしくないよう威厳を出すものを意識している。

 堅苦しい言い回しも多く、誰とでも仲良くなれるような勘助や弥助とは正反対の態度であったと思っている。

 意識して嫌われるつもりはないが、とっつきづらい印象は受けるだろうなと考えていたのだ。

 

「俺に近寄ってくる連中の方がおかしいのだろう。お前のそれが反応としては正しいはずだ」

「ふむ、しかし意外とあなたは小さい子に好かれますよね。最近ですと博麗の巫女とか魔法使いとか紅魔館のメイドとか」

「さすが、文屋だけあって情報は早いな」

「あなたの付き合いの広さにも驚かされてばかりですよ。で、実際のところはどうなんです?」

 

 付き合いが広いというか、自分が関わっている狭い範囲の連中が揃いも揃って幻想郷で有名になっているというか、とにかく複雑な心境の信綱だった。

 第一、霊夢と魔理沙はともかくとしても咲夜は向こうから寄ってきたに等しい。あれを付き合いに含めて良いのか疑問が残る。

 

「来るなら相手をする。こちらに用事があれば訪ねる。その程度だ」

「自発的に訪ねたりはしないんですか?」

「用事があれば、と言っているだろう。霊夢と魔理沙は俺が半ば後見人のようなものだから、面倒を見る事情がある」

「おや、魔理沙さんは確かご両親ともに健在だったはずですが」

「人間で魔法の森に入れるのは俺くらいだ」

 

 だからちょくちょく足を運んでいるのだ。

 その度に魔理沙は嫌そうな顔をするが、せめて信綱を安心させるような生活をして欲しいと切に願っている。父親に娘は自堕落な生活を送っていますと報告する身にもなって欲しい。

 その辺りのことも話そうかと思ったものの、文に話すと赤裸々な新聞になってしまいかねない。そこまでするのはさすがにはばかられる。

 

「……まあ、あれの生活態度については本人に聞いてくれ。俺からは何も言えん」

「その態度だけである程度は推測できますけど……。年頃の女の子の生活を暴くほど無遠慮じゃありませんよ」

「ははは、人の生活を根掘り葉掘り聞こうとした天狗が言うと説得力が違うな」

「あれだって一応当たり障りのないようにしたじゃないですか!?」

「当たり障りのない内容しか話さなかったんだ」

 

 あの頃の自分の影響力はだいぶバカにできないものになっていた。

 そんな中で幼少の頃からの付き合いである妖怪の名前を挙げてしまうと、彼女らに悪影響が及ぶ可能性があった。

 これでも常日頃から言動には気を配っているのだ。彼女らの生活を好き好んで壊したいわけではない。

 そのようなことを話すと、文は不意に表情を和らげて信綱を見る。

 いつぞやの椛にも同じ目をされた覚えがある、と信綱はいつになってもあまり好きになれないその目――歴史を知る者が歴史を作る者に対して向ける瞳を真っ向から見つめ返す。

 

「……本当、強くなったものよ。私が初めて見た時はちょっと面白そうな人間が出てきたってぐらいだったのに、あなたはいつの間にか私すら追い越して強くなっていた」

「強くなければ死んでいた。それにあの頃は色々と考えることが多くて面倒だった」

 

 妖怪の事情に翻弄されるだけの人里。そんな状況に怒りを覚えていた慧音。そして共に育ってきた妖怪と人間が殺し合うなどおかしいと叫んだ椛。

 妖怪の事情も見てきた。人間の事情も見てきた。全てどうでも良いと謳う阿礼狂いとしての心もあった。

 その上で共存の道を選んだ。道程は面倒なものばかりだった、とそこで信綱は文を見る。

 

「お前を相手にするのも大変だった。後ろにいるであろう天魔は何を考えているかわからんし、お前もお前で真面目なのか不真面目なのか読めなかった」

「あはははは……その節はご迷惑をおかけしました?」

「…………」

「あや?」

 

 何とも言えない微妙な表情で黙ってしまった信綱に文は目を丸くする。

 言うべきか言うまいか、非常に悩んでいる様子が見て取れる信綱の様子に文は何事かと顔に焦燥が浮かぶ。

 

「ど、どうかしました?」

「……いや、これはお前に言って良いのかわからなくてな……」

「そこで黙らないでくださいよ!? むしろ気になりますから!!」

「……多分、傷つくぞ?」

「そこまで言われて気にならない方がおかしいですって! というかその不自然な優しさはなんですか!?」

 

 この男に気遣いなんて感情があったのかと思ってしまったくらいだ。いや、日々の話を聞く限り結構面倒見が良いという話は聞いているのだが。

 信綱も文の言葉を聞いて腹が決まったようで、文に真っ直ぐな視線を向けてくる。

 

「――お前ぐらいだ」

「はい?」

「お前ぐらいしか、過去の出来事を突いて殊勝に謝るようなやつはいない」

「は、はぁ……?」

 

 何が言いたいのだろう、と文は怪訝そうに眉をひそめる。

 そんな彼女に信綱はなるべく婉曲に済ませようとしていたものを話すことになるのであった。

 

「……根が真面目過ぎる。お前は根本的に適当に生きることが向いていない」

「え、っと……?」

「目下の相手ならともかく、自分より上の相手にはへりくだってしまうのがその証拠だ」

 

 天狗らしいといえばその通りなのだが、天魔は相手が誰であってもあの態度を崩そうとはしないだろう。

 常に飄々と、誰に対しても大胆不敵に。話がどんな方向に流れても必ず天狗の利益は持っていく。

 あれはそういう男であり、その際に過去にやったことは全て忘れる便利な頭を持っている。

 今は見ているものが同じだから味方と呼べるものの、敵に回したいとは絶対に思えない存在の一人である。

 

「お前は多分、天魔を真似しているんだろう」

「ふぁっ!? な、なな何を根拠に……」

 

 その態度でバレバレである、と言うのは簡単だが黙っておくことにする。

 千年の間、天狗を導き続けた天魔に憧れる天狗がいても何らおかしいことではないのだ。

 しかしそれでも適材適所というものがある。その点から見て、文が天魔と同じようになるのは難しいと言わざるを得なかった。

 

「それ自体が悪いことだとは言わん。だが、その様を天魔に笑われるのを見るのは忍びない」

 

 率直に言ってオモチャになってるぞ、と告げると文は自分でも薄々自覚があったのか、恐る恐る信綱を見た。

 

「…………似合ってませんでした?」

「普段は気にならないが、お前が焦っていると気になる」

 

 どうにも素の言動は真面目なんだろうな、と感じてしまうのだ。

 その実直さがあるからこそ、天魔も文を色々な意味で重用しているのだと考えられた。

 根が真面目であるから仕事を任せられる。だけど悪ぶった振る舞いをしたがるから、天魔は面白い思いができる。まさに良いことずくめだ。

 

「……言いたいことはわかりました。いえ、実のところ私にも無理があるんじゃないかな、とは思っていたんですよ」

「ああ、うむ。余計なことだったら謝罪するが」

「いえいえ、このまま天魔様に笑いものにされるよりはマシですよ」

「あれも適当なところで教えていたとは思うがな……」

 

 天狗のことを考え続けてきたというのは伊達ではない。その中には文の幸せも含まれているはずだ。

 文は神妙な顔で信綱の忠告を受け止めると、しかしその顔に新たな決意を燃やして立ち上がっていた。

 

「――ですが! 私は諦めませんよ! 焦った時に素が出るんなら焦らない余裕を持てば良いんです! 私も天狗の端くれ、それぐらいやってみせますよ!!」

「……まあ、お前が選んだことに文句は言うまい」

「ええ! こうしちゃいられません! ちょっと博麗の巫女をからかって遊び――もとい、彼女で練習してきます!」

 

 そこで練習とか言うから真面目なんだな、と思ってしまうと告げる前に文は出て行ってしまった。

 本当に速度だけは凄まじいものがあると思いながら茶を飲み干す。そろそろ自分も行かねば。

 にとりの入っていった部屋の方を一瞬だけ見て、出て来る気配がないことを確かめると信綱も立ち上がる。

 おそらく何かを言っても聞こえないだろう。そう思い、信綱は何も言わずににとりの家を後にするのであった。

 

 

 

 妖怪の山は幻想郷の地上では最も高い場所になる。

 最近では風のうわさで幽冥結界なるものが緩み、冥界と顕界の境界があいまいになって行き来が可能になっているなどの話を聞くが、それでもここが地上を一望できる場所であることに変わりはない。

 

 そしてそんな山の山頂とも来れば、もはや見えないものの方が少ないくらいになってしまう。

 

「――と、まあこの場所はオレのお気に入りの隠れ家なんだ」

 

 天魔を訪ねた信綱が案内されたのはそんな場所だった。

 山頂付近、天魔の邸宅が存在する場所よりさらに上。これより上には何もない、そういった場所に唯一存在する開けた場所。

 適度な風と適度な日当たり。そして眼下に広がる風景は幻想郷を切り取った写真のようにすら見えた。

 

「良い風と良い景色だ」

「だろ? 仕事が面倒――もとい、サボりたくなった時はここに来るんだよ」

 

 どう言い換えたのだろうか、と思うものの口には出さない。天魔が面倒な仕事を嫌っているのは周知の事実である。

 

「にしても珍しい風の吹き回しだな。旦那がわざわざこっちに来るなんて」

「たまたま近くに寄る用事があっただけだ」

「はぁん、椛の家にでも寄ったのか?」

「違うとだけ言っておこう」

「んじゃあの河童か。また変な機械でも作ったから見せびらかしてたんだろ」

「今回はまともなものだった」

「明日は槍が降るな」

「そうかもしれん」

 

 真顔で言い切る天魔に信綱も同意する。驚いたのは自分も同じなのだ。

 

「そちらは最近どうなんだ? 異変の度に静観を決め込んでいるようだが」

「そろそろ息抜きが欲しいってくらいだよ。紅霧異変の時は新聞配達で大忙し。今回の春を奪う異変はオレらにしてみりゃ大して問題でもない。むしろ異変ばっかりでオレたちがてんやわんやさ」

「情報の更新が多くて疲れるということか?」

「それもあるし、幽冥結界が綻んで冥界に行けるようになってるからな。いずれ冥界見学ツアーとかできるんじゃないか?」

「冥界についての情報もあるのか?」

「……ま、スキマのババアとつるんでいると必然的にな」

 

 どうやら天魔は春を奪った異変の黒幕についても多少の知識はあるようだ。

 話したい内容とも思えないので、信綱は特に追及はしなかった。

 どうせ幻想郷縁起で調査に行くのは変わらない。

 

「宴会の話は?」

「萃香が直接オレに持ってきた。騒ぎたい天狗を見繕って参加するつもりだけど、絶対に一筋縄ではいかないだろうな」

「そうか」

 

 信綱は言葉少なにうなずいただけだった。

 天魔がわざわざ直接持ってきた、と言っているのだ。それはつまり、萃香の意図も大半読み切っていると推測できる。

 直接という言葉が出る意味は誰が主催なのか理解しているということであり、萃香が主催となればその能力を使って悪事を働くことなど容易に想像がつく。

 

「旦那こそ良いのか? また異変を起こされるんだぜ?」

「一度目は大目に見る。博麗神社で宴会をやることに否やはない」

 

 普段からあそこで祭りも行っているのだ。妖怪と人間が集まって宴会をすることにも文句はない。

 ただ、異変とするからには何かしらの変化もあるだろう。それが人里に害をもたらすようなら忠告して、人里に被害が行かないようにしてもらえれば良かった。

 妖怪と異変を解決する者が異変に巻き込まれるのは別に構わないのだ。

 弾幕ごっこという力で幻想郷を生きようとしている者たちがそれに気づけないのは彼女らの未熟であり、それを助ける義理はない。

 

「そうかい。……にしても変わるもんだね。まさかたった数十年で、博麗神社に妖怪が大っぴらに入れるようになる日が来るとは」

 

 起こった異変とそれによって生まれた周囲の状況を話していると、天魔が不意に眼下に広がる幻想郷を見下ろしてつぶやく。

 

「不服か?」

「まさか。人妖の共存を願った者として願ったり叶ったりだ。これまで歴史ってのは人間が作るものだとばっかり思ってたのに、いつの間にか妖怪も主役ときた。その変化に少し驚いているだけさ」

「同じ場所に住んでいるんだ。より良くしていこうと思うのは当然の話だろう」

「ご尤も。んで、今回は確か紅魔館のメイドも異変解決に参加したんだったか」

「そうだな。向こうにも向こうの事情はあったらしい」

「こりゃ妖怪の山から異変解決に出る奴らが出ても不思議じゃないな。楽しみだ」

 

 そう言って笑う天魔の様子は本当に楽しそうで、これからの未来を待ち望んでいることが伺えた。

 

「明日が楽しみなんて久しぶりだ。幻想郷はもっと楽しく、騒がしくなっていくぞ!」

「お前は見届けていろ。俺は程々で良い」

「旦那は休んでくれていいぜ。ここから先は気の長い妖怪の本分だ。どこまで賑やかになるか見届けてやるよ」

 

 きっとこの男の思考に信綱との別れは入っていないのだろう。

 なにせ自分たちで作り上げた幻想郷があるのだ。

 人妖の共存に再び亀裂が入らない限り、自分たちの意思は生き続ける。

 それを見続けている間、彼の目には一緒にやってきた天狗も人間も全てが等しく映っているに違いない。

 

「……そうだな。土産話に期待するとしよう」

「ああ、任せとけ」

 

 長い付き合いになり、今でも油断はできないが――それでも同じものを見てきた同士として、信綱は天魔と同じ光景を共有するのであった。

 

 

 

 

 

 後日、天魔が信綱の墓前にちょくちょくやってきては、新しく来た神様とその巫女のトラブルメーカーっぷりに愚痴をこぼすようになるのはここだけの話である。




もうぼちぼち出てこなくなるキャラクターもちらほらいます。
多分最後に萃夢想で顔を合わせたら終わりのキャラも出ることでしょう。

残りは(多分)十話以内だと思います。どうか最後まで拙作にお付き合いいただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

冥界の主従との邂逅と萃夢想の始まり

 その日、信綱は自室で書き物をしているところだった。

 阿求が幻想郷縁起にまとめるための資料を、霊夢と魔理沙から聞いてきたのだ。

 

 どうやら今回の異変は黒幕側にとっても予想外の事態が起こったようで、彼女らも弾幕ごっこではない本物の死線をくぐってきたらしい。

 なんでも春を集めて咲かそうとしていた桜が暴走しかけ、黒幕と霊夢たちが急遽手を組んで終わらせたとかなんとか。

 その場所に居合わせていれば信綱も何かしらの対応はしただろうが、終わったことに対してさほどの関心はない。全員無事だったのだから良かったねとしか言いようがない。

 

 霊夢はその戦いで夢想天生を習得し、八雲紫との顔合わせもしたようだ。胡散臭いけど悪いやつじゃなさそう、と初見で彼女の性質を見抜く辺り博麗の巫女らしいと思ったのはここだけの話。

 

 魔理沙も魔理沙で命懸けの実戦には思うところがあったらしく、今まで以上に修行に力を入れているとのこと。部屋を見に行く度に汚れも増しているのは勘弁して欲しい。

 

 とにもかくにも、彼女らの武勇伝混じりの話をまとめて阿求に伝える必要があるのだ。

 近いうちに彼女らを稗田邸に招いて詳しい話を聞く予定もあるが、その前に自分の方で概要だけでも作っておいて損はない。

 信綱は彼女らから聞いた話を、おそらく真実である内容と多分見栄を張っているものに選別してまとめていると、障子越しに女中の姿が映る。

 

「信綱様、お客人です」

「客? 容姿は?」

 

 基本的にこの家によく来る妖怪連中は女中も名前を覚えている。来たらそちらの名前を告げるはずだ。

 人間が相手なら大体事前に話を持ってきてくれるため、信綱が覚えている。

 どちらでもないとなると、信綱にも確認の必要があった。

 

「白い髪の女の子と、桜のような雰囲気を持つ女の人です。通しますか?」

「ふむ……」

 

 どちらも心当たりがない。白い髪だけで言えば椛や慧音が有り得そうだが、どちらも女中とは顔見知りである。

 

「信綱様をお呼びして欲しいとのことでした」

「……俺を呼ぶのなら行かないわけにもいかないか」

 

 おおよその推測は立った。

 信綱が全く知らない人物であり、異変が終わった直後に自分を名指しで訪ねて来る人間とは思えない二人組。

 順当に考えて、異変に関与していた妖怪と考えるのが筋だろう。

 

「応接間に通せ。俺が行く」

「かしこまりました。お気をつけて」

 

 女中の言葉にうなずいて、信綱は応接間の方に歩いて行く。

 たまたま火継の家に戻って行う作業があって幸いだった、と内心でひとりごちる。

 稗田邸であったら阿求の耳に入れる必要があり、そうなったら好奇心の強い主はきっと会いに行くと言い出すだろう。

 信綱としては初対面で危ないかどうかもわからない相手には、まず自分が会ってから判断したいと思っているので今回の形が理想的だった。

 とはいえ後で一部始終を阿求に報告する必要がある。聞ける情報はこの場で聞いてしまいたいところだ。

 つらつらと考えをまとめて、信綱は襖を開いて応接間に入る。

 

 入った瞬間、二対のそれぞれ違った視線に晒される。

 片方は強い敵意と、同量の怯えを含ませた白い髪の――この前の異変で顔を合わせた少女の目。

 もう片方は初めて見る人物で、信綱のことを見て納得したような、どこか驚愕したように目を丸くしていた。

 

「待たせて失礼。俺がお前たちの探している人里の守護者――火継信綱だ」

「ええ、初めまして。冥界の白玉楼の主人をしております、西行寺幽々子と申します」

 

 名乗った信綱に応えるように桜の少女――西行寺幽々子が楚々と礼をする。

 その所作にはひどく高貴な身分を伺わせるものがあり、信綱は微かに驚いたように眉を動かす。

 

「ほら妖夢。自己紹介は?」

「……魂魄妖夢、です」

 

 幽々子の言葉に渋々といった様子で白い少女――妖夢が名乗る。

 その顔には明らかに私納得いきません、というのが書かれており、信綱は嫌われたものだと肩をすくめるしかなかった。

 

「さて、冥界の主人とは先の春を奪う異変の黒幕、と考えてよろしいか?」

「はい。あなたのことは紫よりかねがね」

「良い話かどうかは聞かないでおこう。とはいえスキマから話を聞かされているのなら、俺の素性もある程度は理解していると見て良いはずだ。――なぜここに来た?」

 

 ひょっとしたら自分は妖夢のことを未だ憎んでおり、彼女の姿を見た瞬間に阿礼狂いとして彼女の首を狙う可能性だってあったというのに。

 信綱の話が出ているのなら、もういつ死んでもおかしくない老齢の人間であることは知っているはず。

 少しの間顔を合わせないようにするだけで良かったのだ。

 にも関わらず彼女はここに来て、わざわざ会う必要のない信綱の前に姿を出した。その真意を尋ねておきたかった。

 

「いくつか理由があります。一つ目はこちらにいる妖夢が迷惑をかけたことを謝るため」

「不要だ。異変を起こしたものが退治されることによって全ては決着となる。遺恨を残すような被害も出ていない以上、それは受け取れない」

 

 仮にこれで御阿礼の子にも被害が出ていたらこの場で首を落としているが、そうではないのだ。

 阿求が体調を崩したということもなく、ただほんの少し長い冬を満喫していた。

 信綱にはその事実以上に重視すべきものなどない。

 

「自分が何をしたかわかってるのかしら……」

「同感だ。春が奪われたら身体の弱い子供などが倒れていたかもしれん」

 

 妖夢のつぶやいた愚痴に信綱は反応し、律儀に言葉を返す。

 

「お前は奪いに来た。俺は抵抗した。それだけの話であって、そこで俺を非難されても盗っ人猛々しいなとしか言えんぞ」

 

 人里の春を奪いに来た妖夢と、人里の春を守るために戦った信綱。

 どっちに正当性があるかなど火を見るより明らかである。

 手法にいささか問題があったのは認めるが、妖夢に非難される謂れはなかった。

 

「む……」

「恨む相手が違うだろう。お前が恨むべきは未熟な己自身だ」

「…………」

 

 悔しくてたまらないという顔になっていたが、妖夢はそれ以上言うことなく押し黙る。

 結局、彼女の力が足りなかったことが彼女の悔しさの根幹なのだ。

 信綱の力量を見抜けなかったこと。打ち合うことすら敵わずに心が折られてしまったこと。そして今なお雪辱を果たせないこと。

 

 信綱は策を弄したわけでもなく、問答無用で殺しにかかったわけでもない。

 正面から相対し、話し合いで解決できるのならそうしたいという意向も示した。防衛側として後々の遺恨を残さないための方法はちゃんと取っている。

 それを妖夢が突っぱねたのだから、武力行使も已むなしと判断するのは当然の帰結である。

 

 その過程で嫌われるのは仕方がないと受け入れており、今さら好かれる気もなかった。

 これで彼女との付き合いが長くなるのなら考えるが、どうせ自分はもうすぐいなくなる。死ぬ前ぐらい好きにさせて欲しい。

 

「それで他の理由は? いつまでも睨まれているというのも居心地が悪い」

「あら、それは失礼を。妖夢、少し目をつむってなさいな」

「……かしこまりました」

 

 幽々子に言われたとおりに目を閉じる妖夢に、律儀なものだと信綱は呆れたように肩をすくめる。

 どうやらこちらの冥界の主人はなかなかにやり手らしい。

 この歳になってそんな面倒な相手、知りたくなかったというのが本音だった。

 

「もう一つの理由はあなたという人間を見てみたかったから。冥界がどのような役割を果たしているか、ご存知かしら?」

「……いいや、知らないな」

 

 三途の川の向こう側にあるのは閻魔大王である四季映姫の座す是非曲直庁であると聞いていた。

 冥界に関してはつい最近、顕界と隔てていた幽冥結界が緩み、空を飛べるのであれば行き来が可能になった場所という知識しかない。

 

「お前とそこの従者を見るに、死者が関係している場所だとは思っている。特にお前は生気がまるで感じられん。死体と話している気分だ」

「間違っていませんわ。私、亡霊ですから」

 

 そう言って微笑む幽々子に信綱は眉をひそめた。

 亡霊、という言葉に僅かな疑問を覚えたのだ。幽霊や亡者という言葉を使わなかったことに意味があるのでは、と信綱は経験則から磨かれた直感で察する。

 昔からこの手の相手が無意味なことを言うことは少ない。たいてい、こういった言葉は相手を試すために紡がれているのだ。

 

 まだ試される時が来るとは、と辟易しながらもこれが妖怪の特徴だと割り切ることにした信綱。

 別段、不利益があるわけではないのだ。あまりいい気分でもないだけで。

 

「亡霊が死体、か。冥界の管理者が言うのであれば無意味ということはなさそうだ」

「慧眼の通りです。そちらの説明はまた後日といたしましょうか」

「そうだな。その話を聞くのに相応しい方は別にいる」

 

 阿求の前でやるのが良いだろう。これから交流があるというのであれば、幻想郷縁起にも載せる必要がある。

 

「ですが冥界の役割についてはお話しておきましょう。冥界とは、死後の裁きを受けて転生、あるいは成仏することを選んだ霊魂の羽休めをする場所となります」

「…………」

 

 幽々子の言葉を聞いて信綱はほんの僅かに瞳が動揺の色を宿す。

 だがそれもすぐに落ち着きを取り戻し、幽々子の言葉を待つ姿勢を取った。

 

 一瞬、ほんの一瞬だけ阿七や阿弥のことを考えたのだ。

 しかし彼女らは転生するまでの間、四季映姫の元で手伝いをして過ごすと聞いている。

 幽々子との関わりは映姫以上ではないだろう。あわよくば転生の仕組みなどについても聞き出したかったが、この口ぶりだと映姫より知っているとも思えなかった。

 

「生者から死者となった際に記憶の大半は失われることはご存知かしら?」

「強く焼き付いた記憶は残るという程度なら知っている」

「そうですね。ですが、記憶をなくしても不安のない世界、というのは素敵でしょう? 私はそういった場所を彼らが次に旅立つまでの休憩場所として管理しているのです」

「……そうか」

 

 彼女の言葉が正しいとするのなら、彼女の管理している白玉楼とやらには信綱が今まで斬った妖怪や、彼が看取った友人たちもいたと推測することができる。

 だがそれを口に出すことはしなかった。

 生者と死者は交わらない。疑問の答えを知るのは死んでからで良い。

 

「その冥界と顕界の行き来が容易になった以上、幻想郷で名高いあなたの顔を見ておきたかったというのは理由としては薄いかしら?」

 

 だが、心底楽しそうに微笑んでいる幽々子の顔を見ていると、死者と生者の境が曖昧になったような錯覚を覚えてしまう。

 いや、今後はそうなっていくのだろう。彼女の言うように、冥界に生者が行くことが可能になっているのだから。

 となれば、信綱が幽々子に求められていることも察することができた。

 

「……冥界の情報はこちらで制限をかけさせてもらう。少なくとも生者が死者に会える、なんて夢想はしないようにな」

「あら、気を使わせてしまいました?」

「よく言う。こちらは通すべき筋は通す。後はそちらの度量を見せてもらおうか」

 

 誰かを試すというのは、自分がその誰かより上であると思っていなければできないことだ。

 そして試される側は往々にしてそれを理解していることが多い。つまり愉快な気分にはなれない。

 なので信綱も相手にプレッシャーを与えることにした。一方的にされて黙っておいて、付け上がられてしまうと対等な関係を築くのが面倒になる。

 自分が侮られることで人里も低く見られるとなれば、さすがに無視できない。

 

 なお、そんな二人のやり取りを妖夢は目を閉じて見ていなかったが、空気は読めているようで冷や汗をかいていた。

 心なしかまぶたに力が入っているような気もする。そんなに見たくない光景だろうか。

 

「……何をお望みかしら」

「聞いて良いのか?」

 

 容赦なく有利な条件出すぞ、と言外に脅す。

 すると今まで優美に微笑んでいた幽々子の表情が強張り、一瞬だけその瞳が鋭く信綱を射抜いた。

 

「いえ、失言でしたね。……私からは冥界に来るものを可能な限り穏便に退去してもらうようにしましょう」

「後は人里に害を為さないことも付け加えてもらおうか。とはいえ、さすがにそれは理解していると思うが」

 

 彼女らの役目はすでに終わった存在の管理であり、今を生きている者たちを死者に変えることは含まれない。

 なので信綱としては人里に迷惑をかけず、生者と死者の境目をしっかり区別してくれるのであれば問題はなかった。

 そのためなら多少の譲歩も考えていたが、ここで下に見られるとロクなことにならないと感じたので釘を差しておく。

 

「後はこれが俺にとっての本命だが……」

「聞きましょう」

「幻想郷縁起の取材に付き合って欲しい。そちらの従者もだ」

 

 そのまま信綱は幻想郷縁起の概要を説明し、彼女らが納得するまでその意義を説いた。

 やがて話を理解した幽々子らは面倒そうな空気を醸し出していたが、断るという選択肢を信綱が用意しているようには見えなかった。

 

「……ええ、承りました。日を改めてそちらの取材に応える、という形で良いかしら?」

「それで良い。後は、そうだな……こちらはできればで構わないが、博麗の巫女と仲良くしてやってくれ」

 

 脈絡のない信綱の頼みに幽々子と妖夢は不思議そうな顔になるものの、信綱にも本気の色は見えなかったのでうなずいておくことにした。

 本当にできればやってほしい、程度の願いであれば覚えておくぐらいは損にもならない。

 

 うなずいたのを見て信綱は静かに息を吐き、それで話が終わったことが幽々子と妖夢の二人にも察せられた。

 

「では――短い付き合いになるが、よろしく頼む」

 

 

 

 帰りの道中、幽々子は後ろに控えるように飛んでいる妖夢に声をかける。

 

「妖夢」

「はい、どうされましたか幽々子様?」

「――よく頑張ったわね」

「は、はぁ……?」

 

 突然の褒め言葉に妖夢は目を白黒させる。

 その様子に幽々子はクスッと力の抜けた笑いを浮かべた。

 

「あの人のことは紫からある程度聞いていたし、実際に会ってみて判断すればいいと思ったけど――話を早めに切り上げて正解だったわ」

「早く切り上げたんですか? 幽々子様はまだ話したいことでもあったんですか?」

「欲を言えば、もう少しね」

 

 博麗の巫女と一緒に解決した西行妖の件もそうだが、それ以上に彼という人間の人となりを見たかった。

 あんな腹の探り合いで見るものではなく、紫とするような言葉遊びを通して確かめたかったのだ。

 

「でもあれは良くないわ。多分、あのまま話していたら私が一方的に知られて向こうは手札を隠し通すでしょうね」

「幽々子様がですか? 普段から紫様と言葉遊びとかまだるっこしいことをしているのに?」

「今のさりげない一言で、あなたが私を普段どう見ているかがよくわかったわ」

 

 斬ればわかるという、どう考えても別の意味がある妖夢の祖父――妖忌の言葉を額面通りに受け取っているイノシシ――もとい、直情的な妖夢にはわからない趣があるというのに。

 しかし、それと信綱との対話は別である。

 

 幽々子の管理している冥界には白玉楼以外の勢力が存在しない。

 顕界との行き来が可能になった後も、冥界を狙おうとする輩は生まれないだろう。

 つまり、彼女は勢力間の調整などを考えなくても良い立場にいるということになる。

 

 頭の回転には自信がある。言葉を選ぶ余裕もある。そう簡単に言葉の勝負で遅れは取らない。

 ――だが、海千山千の老獪な政治家ではなかった。

 

「場慣れ、というのかしら。向こうと私じゃ経験が違うわ」

「何を仰るのですか。幽々子様とあの人間では人間の経験の方が少ないに決まってます」

「あら、その理屈で言うなら妖夢が彼に勝てないのはおかしいんじゃない?」

「むぐ……」

 

 妖怪と人間の経験を同列に語るのは無理がある。

 そしてそれでも勝ちを掴む存在が現れるのが人間であり、あの男は正しく妖怪を討ち滅ぼす者なのだろう。

 すでに半身は死に浸っていると言っても過言ではないのに、総身にみなぎっている力の強さはまばゆいほど。

 紫が戦ったら危ういと言ったことも今なら理解できる。彼の距離で戦ったら死を操る間もなく殺されるだろう。

 

「もっと早く知り合えていたのなら、色々と話したいこともあったのだけれどね。こればかりはめぐり合わせの妙としか言えないわ」

「そんなに気に入られたのですか?」

「単純な好奇心よ。妖夢も気にならない? ただの人間がどうやってあそこまでの力を付けたのか」

「それは……まあ、気になりますけど」

 

 きっとあの人間はほぼ全ての期間を妖怪とともに過ごし、敵対的であった妖怪とも戦って生き抜いてきたのだろう。

 どのような道のりを経てあの人間が作られたのか。死者の魂を数え切れないほど見てきた幽々子にも気になることだった。

 

「紫から聞いた話だと、彼は二刀流の剣士みたいね。妖夢も学ぶところがあるんじゃないの?」

「え? ですが、私と戦った時は一振りだけでしたよ?」

「それじゃあまだまだ本気を出すにも値していないということよ。精進なさいな」

「でしたら私は本来の役目である幽々子様の剣術指南をしますけど――」

「さ、帰りましょうか!」

「あ、ちょっと幽々子様!? 逃げないでください!!」

 

 後ろから慌てて追いかけてくる妖夢を微笑ましそうに見ながら、幽々子は自らの居城である白玉楼への道を飛ぶのであった。

 

 

 

 

 

 博麗神社に続く道の途中に出店が立ち並び、人と妖怪が思い思いに酒の肴を売っていた。

 祭りや酉の市という形でちょくちょくこの辺りには出店が出て、人々の往来も増えることがあるが、今回はそれに比べるといささか出店の数は少ない。

 

 なにせこれから繰り広げられるのは宴会なのだ。当然のように酒も振る舞われるその空間において、子供たちが参加する権利は残念ながら与えられていない。つまり水飴などの甘いものは売られていないのだ。

 しかし今回は不思議(・・・)と誰もが集まっており、ひょっとしたら祭りの時以上の往来ができているのではないかと感じるほどの人数がそこにいた。

 

 信綱もまたそんな空間におり、隣ではしゃぐ阿求を連れて宴会に参加する者の一人だった。

 

「すっごい……こんなに大きなお祭り騒ぎなんて初めて!」

「幻想郷中の人妖全てが集まったような人混みですね。阿求様、はぐれないようお手を失礼いたします」

 

 隣を歩く主人の手を取ると、阿求は嬉しそうに微笑んで信綱の手を握り返してくる。

 そんな彼女に応えるように信綱も柔らかな微笑みを浮かべ、喧騒の中に足を踏み入れていく。

 

「この宴会、私の方も小鈴から誘われたんだ。小鈴は子供だからって宴会には参加できないみたいだけど……」

「ふむ。私は妖怪の山の河童から誘われましたね。……はて、小鈴嬢と河童はどのようにして宴会の話を聞きつけたのでしょうか」

「うーん……小鈴はご両親が話していたことを聞いたとかで筋は通るけど……」

「さて、それらは聞いてみればわかることです。早めに行かねば、良く桜の見える場所が取られてしまいますよ」

 

 話をやや強引に切り上げて、信綱は阿求の楽しめそうな話題に変えながら歩を進めていく。

 博麗神社はよく知っているので、あまり人目につかず桜を楽しめる場所も知っていた。

 もしもそれらが全て取られていたら――まあ、火継の連中を使って適当に騒動を起こさせて、その隙に奪ってしまえばいいだけである。

 

 それに異変の黒幕を信綱は知っている以上、これだけの人妖をどのようにして集めたのかも全てカラクリを知っていた。

 百鬼夜行異変の折、信綱が隠れているように指示を出した人々を戦場に萃めてみせた能力――疎と密を操る程度の能力を伊吹萃香が用いればこの程度、実に容易に行える。

 今回の宴会が終わり、萃香の話していた異変が本格的に姿を表したら信綱も阿求に事の真相を伝えて待てば良い。

 

 と、そんなことを考えていると信綱と阿求の側をのっそりと鬼の巨躯が通り過ぎていく。

 過去の絵巻物に載せられているような真っ赤な肌に雄々しく天を衝く一本角。

 簡素な服に身を包み、肩にはとても人間が一人で持てないような酒樽を軽々と担いでいた。

 その表情はうきうきとした楽しみを隠せないもので、これからこの酒で酒盛りを楽しむのだという顔がありありと浮かんでいた。

 

 見ればそんな鬼の周りに何名かの男がおり、こちらもまた楽しそうに酒樽を見上げている。

 人間も図太くなったというか能天気というか、慣れる生き物というか、酒が飲めるなら人類皆兄弟と言わんばかりに鬼に近寄っていた。

 

「わ、大きい……。鬼が地上に出ているなんて久しぶりね」

「そうですね。彼らは大半が地底に戻っているはずです」

 

 人間二人分に届くかと思うほどの巨躯であり、人里でも悪目立ちしてしまうことがあるため、彼らは彼らで地底での暮らしに戻っていた。

 地底は地底で楽しいらしく、彼らは地上で鬼の力が借りたい事態が起きた場合にのみ、星熊勇儀の要請によって動く存在となっている。

 

 これでは鬼の彼らも不満を溜めるのではないかと懸念していた時期もあったが、彼らは実にさっぱりとしたもので負けたんだから言うこと聞くのは当然だよな、と言わんばかりに平然としていた。

 それでも納得の行かない者も数名はいたが、全て信綱が叩きのめすことで平和に収まっている。

 

「今回は地上に来たのかな。できることなら鬼の人たちからも話を聞いてみたいけど……」

「彼らは気のいいさっぱりとした性格の者も多いですが、短気な輩も多いです。阿求様が望まれるのならば私が場を整えますが、伊吹萃香と星熊勇儀の話でよろしいかと」

「そうだね。阿弥の時に鬼の話はいっぱい聞いたし」

 

 それに、と阿求が顔を上に向けると意図を察した信綱が阿求の小さな体を抱き上げ、視線を高くする。

 大人と同じ視線を得た阿求の目には、天狗や人間が入り混じって動く風景にピョコンと飛び出すように鬼の巨体が混ざっているのが見えた。

 阿求は地面に下ろしてもらうと、信綱の顔を見上げて笑う。

 

「鬼もこんなにたくさんいるし、全部から聞いて回っていたら幻想郷縁起が埋まっちゃうわね」

「誰も読みたがらない厚さになることは確実でしょう」

「あははっ、辞書みたいになったら私だって読みたくないわ!」

 

 そこで阿求は一旦深呼吸をして、幻想郷縁起のことをひとまず横に置くことにする。

 今日は信綱に誘われて宴会に来たのだ。細かいことは後に回して今は楽しむことに集中すべきだろう。

 

「――さ、行きましょうお祖父ちゃん! きっと神社では霊夢さんが首を長くして待ってるわ!」

「あれも今回のような大きい催しは初めてでしょう。きっと忙しさに目が回っていることでしょう」

「お祖父ちゃんは助けに行くの?」

「差し入れぐらいはしますが、私が主体となっては彼女のためになりません。これも経験です」

「霊夢さんには厳しいのよね、お祖父ちゃん」

 

 うんうんとしたり顔でうなずく阿求に、信綱は困ったように笑う。これでもかなり甘い方だと思っているのだが、周りからは厳しくしていると思われるらしい。

 それにしても阿求と霊夢はいつの間に仲良くなったのだろう、と信綱は不思議に思う。

 彼女らの接点はほとんどなかったはずだが、以前に自分の後を尾行していた時から阿求と霊夢は友達になったらしい。

 

「ははは、これでも優しくしている方ですよ」

「霊夢さん、いっつもお祖父ちゃんの稽古が厳しいって愚痴ってるのに!?」

「厳しくない稽古では実になりません。師匠役は嫌われることを覚悟してやるものです」

「……その辺りが霊夢さんには伝わっているのかもね」

 

 信綱の言葉は厳しくあるが、実情は実力不足で霊夢に死んでほしくないという思いから来ているものだ。

 ……ようやくやってきた博麗の巫女があっさり死んでしまっては、人里にとっても幻想郷にとっても損失にしかならないため手抜きをしていない、という合理的な理由もちゃんと存在するが、信綱が霊夢を慮っているのも事実。

 そして霊夢は相手の気遣いを理解して喜べる感性の持ち主だった。

 

「さて、その辺りは彼女に聞いてみないとなんとも。……そろそろ向かいましょうか、あまりここで話していても人混みに呑まれるだけです」

「うんっ!」

 

 信綱は阿求の言葉に肩をすくめて曖昧に微笑んで霊夢が自分をどう思っているか、という疑問にフタをする。嫌われていないのであれば十分である。

 そうして信綱と阿求は並んで手を繋いだまま、博麗神社の境内に続く階段を登って行くのであった。

 

 

 

 

 

 ――そして、これが信綱にとって最期の異変となる萃夢想の異変が始まっていく。




多分意味はないだろうけど続けているしょうもないこだわり
・東方の原作キャラだけの描写だけは頑なに少女という単語を使うこと。ゆかりんだろうとゆうかりんだろうとゆゆさまだろうと。


どうでも良い情報を垂れ流しつつも萃夢想の始まりです。さすがにゆゆ様とみょんちゃんはあまり絡ませられん。
ここで色々な人と話しつつ、ノッブは死ぬ準備を着々と整えて行く感じです。もうこの異変以降は登場しないキャラも出てくるかもしれません。というか出ます(そうしなきゃ話が終わらない的な意味で)

もう終わりも終わりになった拙作ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

楽園の到達者

 博麗神社の境内に到着すると、そこはすでに人でごった返していた。

 出店の勢いは階段下のそれより遥かに大きく、祭り櫓の準備も鬼が主導して進めている。

 

「すごい人だかりね……。境内の方はもっと少ないと思ってたわ」

「これほどとなると、私も見たことがありません」

「私も初めて! でも、こういうのって素敵だなあ……」

 

 人も妖も垣根はなく、祭りを楽しむという共通の目的で笑い合い、酒を酌み交わしていた。

 祭りの様相を呈しているが、これはただの宴会だ。始まりの合図などなく、終わりの合図もない。

 各々が好きに飲み、好きに遊び、飽きたり疲れたら帰る。そんなお気楽なものである。

 きっとあの祭り櫓も楽しそうだからという理由だけで建てられ、騒ぎたい連中があの場所で騒ぐのだろう。

 

「まずは霊夢さんを探そうか。あ、その前に焼きそば買って!!」

「一つだけですよ。あまり食べすぎると後が辛くなります。店主、一つくれ」

 

 最近になって外の世界の知識が多く流れるようになっており、幻想郷にも食文化の変化が起きようとしていた。

 もとよりレミリアが来た辺りから洋食がチラホラと見受けられるようになったりと兆しはあったため、それが今になって如実に表れていると言った方が正確かもしれない。

 

 ちなみに信綱も洋食が作れる側の人間に当たる。

 阿求が食べたいと言った時に用意できないなど側仕えとして失格である、と未来の側仕えが苦労しそうな思想を持っていた。閑話休題。

 

 ソースの香ばしい匂いがプンプンと漂うそれを受け取り、信綱は阿求に手渡す。

 阿求は早速ハフハフと焼きそばを食べながら、再び人混みを歩き始めた。

 

「お祭りの空気で食べるとなんでも美味しいよね、お祖父ちゃん」

「同感です。ですが食べられる量が変わるわけではありません。ご注意ください」

「はぁい。あんまり羽目を外しても泣くのは私だもんね」

「その通りです。暴飲暴食のツケは自分自身が払わないといけません」

 

 先代などはしょっちゅう飲み過ぎのツケを支払っていたと記憶していた。

 彼女が死体のような顔色で自分に助けを求めてきた姿は、今でも鮮明に思い出せる。大体見捨てていたが。

 

「あ、お祖父ちゃんが奥さんのこと思い出してる」

「……なぜそう思うのでしょうか?」

「お祖父ちゃんが私のことをなんでも知っているから、かな?」

 

 答えになっていない答えだったが、阿求は自分でその答えに満足したらしく話を切り上げてしまう。

 信綱は阿求の言っていることがわからない様子で首を傾げながら、阿求と並んで歩く。

 そうして賽銭箱の前まで到着すると、そこでは多くの人に囲まれた霊夢の姿があった。

 

「え、出店の管理? それなら向こうの方に貼ってあるからそっち見なさい! 祭り櫓の順番? そもそも祭り櫓の建設自体に関与してないわよこっちは! そっちで好きに決めて! なに、迷子? 少ししたら一緒に探してあげるから泣くの我慢して待ってなさい!」

 

 元々誰が管理しているかもわからない宴会のわからない部分を聞かれているらしく、霊夢は四方八方から飛んでくる質問に目を回していた。

 それでもしっかり捌きながら、はぐれた親を求めて泣いている子供の手を引いてあげている辺り面倒見が良い。

 阿求はその姿を見て小さく笑い、信綱を見上げた。

 

「うふふっ、霊夢さんったらお祖父ちゃんみたい」

「私みたい、とは?」

「いっぺんに問題がやってきてもちゃんと解決しているところとか、口では色々と言うけど優しいところとか」

「私は彼女ほど素直ではありませんよ」

 

 信綱のそれは大半が打算だが、霊夢のは違う。

 彼女はそんな小難しいことなど考えず、ただ見捨てたら後味が悪いとかそういった単純な理由で誰かを助けているのだ。

 きっと自分などよりよほど上等な理由だろう、と信綱は肩をすくめた。

 

「助け舟を出しましょうか。今回は彼女の自業自得というわけではありません」

「うん。霊夢さんと一緒に宴会を楽しみたい!」

 

 二人が霊夢に話しかけに行くと、霊夢は忙しさに苛立った様子だったのがパッと明るくなる。

 

「爺さんに阿求じゃない! あ、今はちょっとダメ! この子の親を探してるから、後で来て!」

「それは良いが、他の質問は俺の方に来るようにしておけ。そうすればお前も少しは楽ができるだろう」

「お祖父ちゃんは博麗神社で知らないことなんてないはずですから!」

 

 先代が霊夢より少し上ぐらいの年頃から通っているためそれはその通りだが、信綱は阿求がそれを知っていることに首を傾げる。

 

「霊夢さんと話す時は大体お祖父ちゃんのことが中心なの。ほら、どっちにも関わってるでしょう?」

「それはわかりましたが、私のような面白みのない男よりも楽しいことはあるはずですよ」

「爺さんより面白い人生送ってる人なんてそうそういないんじゃ……」

「次の稽古は本気でやるか」

「しまった藪蛇!! 短い人生だったわ……」

「前に人里で一緒した時もそうでしたけど、本当に諦めるの早いですよね霊夢さん!?」

 

 完全に勝てないとわかると諦めるが、可能性が一縷でもあると彼女が判断する限り絶対に諦めないため、意外と諦めが悪いのは信綱が知っている霊夢の特徴である。

 今だって一生懸命になって子供の親を探しているのも、彼女はこの人混みの中であっても見つけられると信じているからだろう。

 そうして、霊夢に手を引かれた子供が親と再会するのはほんの少し先の未来であった。

 

 

 

「はー疲れた! ようやく一息つけるわ」

「お疲れ様です。途中で買ったお焼き、食べます?」

「ありがと、阿求」

 

 適度に冷め、しかし程よく暖かく塩っ気のあるお焼きにかじりつき、霊夢は幸せそうに頬を緩める。

 現在、彼らは神社の屋根に座って、喧騒を見下ろしながら一息をついているところだった。

 すでに屋根の上にも空を飛べる妖怪がチラホラと見受けられたが、それでも地上よりは少ない。

 

「あいつら、あんまり集まると屋根が抜けるってわかってんのかしら……」

「飛べるから問題ないのだろう」

「ここに住んでるのは私だけどね……。にしても、こりゃ宴会ってレベルじゃないわね」

 

 眼下には人、人、妖怪、妖怪の群れ。

 もはや地面の色を探す方が難しいくらいにごった返しており、春が来たことを祝う宴会とは到底思えなかった。

 

「これ、みんなは桜を見に来てるのかしら」

「あはは……でも、ここからだとよく見えますね」

「でしょ? こればっかりは巫女の特権よ」

 

 得意げに微笑んで、霊夢は楽しそうに祭りの人々を見下ろす。

 

「こんなに人が博麗神社に来るのなんて、お祭りの時ぐらいだから結構楽しいかも」

「霊夢さんは普段はここに一人で?」

「そ。まあ魔理沙が来たりレミリアが来たり、紫とかも来るから退屈はしないけど」

「退屈しないのは良いことだ」

 

 誰も来ないからと砂利を数えて暇をつぶすよりはよほど健全である。

 先代のことを思い出していると、ふと脳裏に今と似た光景が浮かび上がってくる。

 

「そういえば昔、あいつにも連れられたかな」

 

 信綱がポツリとつぶやくと、霊夢と阿求が同時に信綱の方を見た。

 

「母さんの話?」

「お祖父ちゃんの奥さんの話?」

 

 なぜそんなに興味津々なのだ、とたじろぎながらも信綱は記憶を辿って先代との時間を振り返っていく。

 

「え、ええ。あれとの付き合いは私が二十になる前のことでしたから」

「半世紀以上!」

「一緒にいた!」

 

 キャーキャーと興奮したように顔を見合わせる霊夢と阿求に、信綱は何が楽しいのかと疑問に思ってしまう。

 

「別に面白い話ではありませんよ。吸血鬼異変が終わってからしばらく、私に嫁をあてがおうとする輩から逃げる時の話です」

「聞きたい聞きたい! 母さんの話を爺さんの口から聞いてみたい!」

「私も知りたい! 英雄って呼ばれるようになったお祖父ちゃんと先代の博麗の巫女のお話は幻想郷縁起に載せなきゃ!」

「載せる必要性が感じられませんが……かしこまりました」

 

 年頃の少女はこういった話が好きなのかもしれない、と無理に結論を出すことにして信綱はかつての思い出を振り返り、明確な言葉にして語り始めていく。

 

 

 

 春が来るということはめでたいことであると言われている。

 その理由には長い冬が終わったことへの開放感も含まれているだろうし、再び一年が本格的に始まるという始まりの季節であることもあるだろう。

 ともあれ過ごしやすい気候になり、桜の開花はいつになるかと楽しみに思うのが春という季節である。

 

「で、めでたいついでに嫁を取れって話が来ているわけ」

「そうなるな」

「それが面倒であんたはこうして逃げてきたと」

「……そうなるな」

「……っ! ……っ!!」

 

 声も出ないといった様子で板張りの床をバシバシと叩き、目の端に涙を浮かべて笑う巫女。

 その巫女に対し、不本意極まりないとばかりに憮然とした顔になっている信綱。

 やがて笑い続ける彼女に腹が立ったのか、信綱が巫女の脇腹に手刀を入れて強制的に黙らせる。

 脇腹を打たれて痛そうにし、それでも巫女は笑って目尻の涙を拭う。

 

「はー笑った笑った。この一瞬で間違いなく去年より笑ったわ」

「うるさい。お前を楽しませる話題じゃないんだぞ」

「いや楽しいわよ? あんたの困ってる顔が見れないのが残念ね」

「……別に困ってなどいない。ただ面倒なだけだ」

「それを困ってるって言うのよ」

 

 意地を張ってみたものの、巫女の言葉に反論できず黙るしかなかった。

 巫女はそんな信綱の様子をおかしそうに見て、手元のお茶を飲み干す。

 

「ありゃ、もうなくなっちゃった。喋ってると喉が渇くのも早いわね」

「邪魔したなら帰るが」

「帰っても逃げ回るだけでしょ。お賽銭も入れてくれてるし、無下にしたりしないわよ」

 

 そう言って立ち上がって新しいお茶を用意しに向かった巫女を見送り、一人になった信綱は何をするでもなく上を見上げる。

 すでに八分咲きほどの桜が視界いっぱいに広がり、仄かに色づいた花弁がひらひらと舞い踊るそれを眺める。

 

 結婚とは基本的に縁起物だ。結婚をした後のことは誰にもわからない以上、なるべく良い縁起の時にやりたいと思うのが人情である。

 だから桜の開花も始まりつつある今、併せて人里の英雄となった信綱の婚姻話も出れば、めでたい話が二つになる。単純に二倍だ。

 それはきっと人里の機運を高め、さぞ沸き立つことだろうとは信綱にも予想できた。

 

 ――が、そこまで人里に挺身する義理はない。

 人里の守護者として、そして御阿礼の子らが健やかに生きられる場所を提供してくれる場所とはいえ、阿礼狂いの献身は御阿礼の子ただ一人に向けられるべきものである。

 あくまで人里の守護者は片手間。本業は御阿礼の子の側仕え。

 片手間の仕事で後々まで続くかもしれない厄介事を呼び込む気にはなれなかった。

 

「全く、どうして誰も彼も俺を放っておかないんだ。俺は阿弥様のお側にいたいだけだというのに」

「そんだけ有名人ってことよ。大変ね、英雄様」

「……その呼び方はやめろ」

 

 阿弥のためにやるべきことをやったらそう呼ばれていただけである。

 今後阿弥が行っていくであろう幻想郷縁起の編纂のため、可能な限り妖怪との距離を縮めようとは思っているが、結果がどうなるかはわからない。

 ひょっとしたら悪い方向に転がり、幻想郷の大罪人として名を残すかもしれないのだ。

 英雄とは人が無造作にかけてくる期待であり、応える気のさらさらない信綱にとっては煩わしいものでしかなかった。それはそれとして使えるのだから利用もするが。

 

 茶化すように放たれた英雄という言葉に苛立ったように返答しながら振り返り、信綱の顔が再び渋面に彩られていく。

 新しいお茶を用意してきたのだとばかり思っていたが、彼女の手に持つ盆に用意されているのは驚くべきことに酒だったのだ。

 どれだけ酒好きなんだ、と信綱は呆れてしまう。

 

「まだ日は高いぞ」

「こんな場所、祭りの時でもないとあんた以外誰も来ないわ」

「信心深い者がいるだろう」

「そういう人はちゃんと相手するけど、ちゃんと相手するからいつ来るかはわかるのよ」

「そんなものか」

「妖怪も出る危険な道を護衛まで付けてきて、それで肝心の私が買い出しに行ってましたー、なんて悲しいでしょ?」

 

 言われてみれば納得できるため、信綱は素直に首肯する。

 それで信綱は了承したと思ったのか、二つの盃に並々と注がれた酒の片割れを信綱に差し出す。

 

「はい、これ」

「……いや、俺は飲まないぞ」

「なんでよ。吸血鬼異変を解決した後の宴会では飲んでたじゃない」

「いい大人が昼間っから酒を飲めるか戯け」

「いい大人は昼間っからこんな場所に逃げてこないわよ」

 

 そう言って巫女は自分の分の盃を美味そうに飲み干す。

 信綱は呆れてものも言えないとばかりにため息をつき、自分の分を横に置く。

 

「あら、本当に飲まないの? 誰かが隣りにいる花見酒は最高よ?」

「誰かと書いて介抱する人間だろう。酔い潰れたお前の面倒は見ないからな」

「えー」

「そんな生活してると身体を壊すぞ。ちゃんと飯を食え」

 

 彼女が倒れて困るのは彼女自身であり、何より人里も困るのだ。

 それに信綱も逃げ場所にしているこの場所が使えなくなるのは非常に困る。

 ダメならダメで妖怪の山に逃げ込む手もあるが、あそこはあそこで知り合いが寄ってきて騒がしい。

 そういった私心しかない注意を信綱がすると、巫女はぽかんと口を開けて信綱を見ていた。

 

「どうした」

「え、あ、いや……な、なんでもない!」

「そうか」

 

 反応に気になるものはあるものの、別に追求するほどでもないだろうと判断して信綱は引き下がる。

 博麗の巫女は焦ったように盃に口をつけるが、ほとんど中身は減らないまま横目でチラチラと信綱を見ていた。

 なぜ見られているんだ、と信綱は自分の言動におかしなところがあったかと思いつつ口を開く。

 

「……俺が何かしたか?」

「うぇっ!? な、なんでもないって言ってるじゃない!」

「態度が全くそう見えない。気に障るようなことを言ったなら謝るが」

「あー……違う違う」

 

 巫女の反応がわからず眉をひそめる信綱に、巫女は観念したように息を吐いて盃を置く。

 そして信綱と同じように桜を見上げ、ポツポツと話し始める。

 

「……そんな風に心配されたの、久しぶりだった。というか前にもあんたにそう言われたっけ」

「心配?」

 

 人として当然の忠告をしただけだと思っている信綱は、その言葉の意味がわからず首を傾げる。

 

「酒ばっかりだと身体を壊すって」

「人が来ないから当然と言えば当然か」

 

 信綱が訪ねるようになる以前は、この巫女は本当に一人でやっていたのだろう。

 誰も来ない博麗神社で一人技を磨き、一人で寝食をまかない、一人で酒の味を覚えた。

 もちろん、人里とのつながりは存在する。博麗大結界を維持し、有事の際の妖怪退治も行う彼女を養うのは人里の義務のようなものであり、物資面では何不自由ない生活が約束される。

 

 だが、それだけだ。彼女には友人らしい友人もおらず、幻想郷のために戦う理由も博麗の巫女であること以上に存在せず、一人の時間を寂しいとわかっていながら一人でいるしかなかった。

 その人生に選択肢がなかったという点で言えば阿礼狂いと同じだが、曲がりなりにも自分の意志がある阿礼狂いと自分の意志すらなかった博麗の巫女では違う。

 昔の人々は何も思わなかったのだろうか。まだ年若い――それこそ親子と同じぐらいに歳が離れた村人もいるだろう――少女に危険な役割を押し付けることに。

 

 御阿礼の子以外がどうでも良い自分に怒る筋合いも資格もない。

 博麗の巫女のために怒り、彼女のために全てを投げ打つことができない以上、彼女の不幸に怒りをぶつけたところで責任を背負いたくない第三者の戯言にしかならない。

 しかし、それでも気持ちの良い話ではなかった。信綱は不機嫌そうにため息を吐いて巫女の言葉を待つ。

 

「……あんたは私を心配してるの?」

「当然だろう。お前が倒れたら人里にとって痛手であり、俺の隠れ家も一つ減る」

「隠れ家って……」

 

 微妙に巫女が望む答えとは違ったようだが、それでも納得したらしく巫女は嬉しそうに桜を見る。

 

「だから酒は程々にしろ。飲み過ぎで死んだ博麗の巫女なんて前代未聞だぞ」

「明日から考えておく……ああっ!」

 

 彼女に任せたら絶対に止まらないと察し、信綱は呆れてものも言えない様子で巫女の酒を取り上げた。

 

「やめろと言っているだろう。これは俺が戻しておく」

「ひどい! こんな綺麗な桜があるのに飲ませないとか鬼畜! 変態!」

「毎年見てるだろうお前は」

「誰かと一緒に見るのは別物なのよ!!」

「だったらそれで満足しろ。見る分には付き合ってやるから」

 

 必死に手を伸ばしてくる巫女をあしらいながら話していると、不意に巫女が抵抗を止める。

 

「……一緒に桜を見てくれるの?」

「さっきまでだって見ていた。酔い潰れたお前の世話は絶対やらんが、普通に桜を見るのなら問題ない」

 

 どうせ今は人里に戻るのも難しい。それなら酒を飲んで酔っ払った巫女の介抱をするより、並んで桜を眺めていた方がマシである。

 

「だから酒を片付けてこい。事あるごとに酒を持ち出すのはお前の悪い癖だ」

「酒が飲めないのは辛いけど……たまには良いか」

 

 肩の力を抜いた笑みを浮かべ、博麗の巫女はあっという間に酒を片付けて縁側に出る。

 

「ここも悪くないけど、もっとよく見える場所があるのよ。手、出して」

 

 そう言って手を差し伸べてくる巫女の目は屋根の方を向いており、信綱にも特等席とやらがどこか理解する。

 

「いや、不要だ。よっと」

 

 そしてそれぐらいの高さなら別に手を借りるほどでもない。文字通りひとっ飛びだった。

 縁側に立ち、地面を蹴り、屋根に軽々と着地する。阿礼狂いとしての身体能力なら造作もない。

 博麗の巫女の手を煩わせるまでもないと、信綱は善意でこの行動を取っていた。

 しかしやってきた博麗の巫女はたいそう納得行かないという表情になっており、信綱は首を傾げる。

 

「どうした?」

「……少しでもこいつに期待した私がバカだったわ」

「はぁ?」

 

 何を言っているのかわからなかった。

 

 巫女は自分の愚かさを呪うように片手で顔を覆って大きなため息をつく。

 それで意識を切り替えたのか、信綱の隣に座って桜を見下ろす。

 桜の木を幹から枝葉までを地上から眺めるのとは違い、桜の咲き誇る頭頂部が並ぶ――さながら桜で織られた敷物のようであり、違った趣を感じさせる。

 

「ここからだと桜が見下ろせるの。見上げるのも悪くないけど、こうやって桜の絨毯を眺めるのも悪くないでしょう?」

「贅沢な景色だ」

 

 これは桜が多くないとできない。一本だけでは上から見たところで大して意味はない。

 巫女が得意そうにするのもうなずける、と信綱は感心して巫女の隣に腰を下ろす。

 そうしてぼんやりと二人で桜を眺め続ける。

 

「――誰かと一緒に桜を見るのも悪くないわね」

 

 そんな風につぶやく、巫女の言葉は聞こえないフリをして。

 

 

 

 

 

「それで後は適当に桜を見て帰りました。……どうかしましたか、阿求様?」

 

 この場所で博麗の巫女――先代と見た話をすると、阿求は顔を喜びにキラキラと輝かせ、対照的に霊夢は何を思ったのかげんなりとした顔になっていた。

 

「すごく楽しいお話だった! やっぱりお祖父ちゃんと先代さんは仲良しだったんだね!」

「まあ、仲が悪かったら婚姻を結んだりはしないかと」

「母さんが私に惚気けた理由がよくわかったわ……」

 

 霊夢はかつて先代に信綱の話をねだったところ、信綱との出会いの話から延々と聞かされた思い出を想起してしまい疲れた顔になる。

 先代の葬儀の時、信綱は色々と言っていたが彼なりに先代との時間を大切に思っていたのだろう。

 でなければもう半世紀近く昔の思い出をあそこまで克明に語れはしない。

 

 そして自分は血の繋がりもなく、世間一般で言う親子とはだいぶ異なる関係ではあるが――この二人を両親と慕っているのだ。

 霊夢は気合を入れ直すにように自分の頬を軽く叩き、立ち上がる。

 

「ちょっと宴会の様子見てくる。またさっきみたいな子供がいないとも限らないし、魔理沙たちとも合流したいし」

「わかった。どうせ妖怪連中は片付けなどしないだろうから、体力は残しておけよ」

「覚えとくー!」

 

 霊夢は屋根の上から飛び、再び人混みの中に紛れていく。

 どんな心変わりがあったのかは知らないが、やる気を出しているのは良いことである。

 

 それより今は阿求と共に桜を見られる方が重要だ。

 信綱は柔和な微笑みを浮かべ、隣で楽しそうに桜を見ている阿求に声をかける。

 

「阿求様、お楽しみいただけてますか?」

「うん、とっても楽しい! こんな風に人も妖怪も垣根はなく、一緒に楽しめて……本当に楽園のよう!」

 

 そう言って喜ぶ阿求だったが、不意に目眩がしたように目元を押さえる。

 

「阿求様!?」

「あ、ううん、大丈夫。ちょっと私のじゃない記憶が見えただけだから」

 

 阿求の顔に消耗の色はなく、本当にいきなり浮かび上がってきた光景に驚いただけだと読み取ることができた。

 それでも信綱は阿求の身を案じて身体を支えながら、阿求の気をほぐすように穏やかな声で話しかける。

 

「……どのような記憶が浮かんだのですか?」

「んと、阿弥の記憶だと思う。場所もここじゃなくて、人里で……夕焼けに染まった里をお祖父ちゃんと並んで見て……」

 

 あの日のことだ、と信綱はすぐに思い当たる。

 阿弥が自分に生きてくれと命じたその日は、確かに今のような光景があった。

 人も妖も共に楽しむという点に違いはなく、一日の疲れを癒やすように酒を、食事を、団欒を求めに行く姿を眺めていた。

 

「……良い景色でしたか?」

「うん。なんでここで浮かんだのかはわからないけど――きっと、これを見た阿弥はとっても幸せだった。記憶からもそれがわかるくらい、キラキラした綺麗な景色だから」

「――それは良かった」

 

 阿求がどこまで見えているのか、信綱にはわからない。

 もしかしたら阿弥から見た自分の姿も映っていたかもしれない。

 しかし、答えを知るつもりはなかった。

 それは御阿礼の子である阿求だけの特権であり、信綱が踏み込んで良い場所では決してないのだ。

 

 きっと同じものを心に浮かべ、阿求と信綱が微笑み合って屋根の上から景色を眺めていると、二人の肩に手が置かれる。

 

「――九代目の阿礼乙女とは初めまして。そして久しぶりね」

「あなたは……」

「お前も来ていたのか、スキマ」

 

 信綱がスキマと呼ぶその少女――八雲紫は常と変わらず日傘を差し、超然と佇んでいた。

 だが顔に浮かぶ微笑みは見る人の疑心を煽るものではなく、どこまでも穏やかに、慈愛に満ちたそれだった。

 

「霊夢も頑張ってましたし、私からも労いの一つはかけておこうかと」

「お祖父ちゃん、この人が……」

「スキマ妖怪、八雲紫です。ご安心を、あなたに危害は加えません」

「あなたにそう言ってもらえるとは、少しは信頼を得られたと思っても良いのかしら」

「――彼女が何かするより私が倒す方が早いです」

「ええそうですよねあなたはそうですよね知ってましたわ!!」

 

 無論、それとは別に幻想郷の管理者としての信用もある。

 あるが、それは阿求の安全性を確約はしてくれないのでより確実な戦闘力の根拠を提示しているのだ。

 やけくそ気味な紫に信綱はさり気なく阿求を隠しつつ、話を続ける。

 

「で、何用だ? さすがにこんな場所で面倒な話は持ってきてないと思うが」

「当然ですわ。私も今日は純粋に宴会を楽しみに来ましたの」

 

 ほら、と紫がスキマを開くとその手に盃が浮かぶ。一目で高級であるとわかる硝子のグラスだ。

 そこに注がれている透明な酒を美味しそうに飲み干し、紫は阿求たちに微笑みかける。

 

「素晴らしい、の一言以外に言葉が浮かばないわ。ねえ、阿礼乙女であるあなたも私と同じでしょう?」

「――はい。今より遥か昔、まだ人と妖怪が争っていた時代に生きた最初の阿礼乙女――稗田阿礼はきっと、こんな光景を夢見ていた」

 

 紫の問いかけに阿求は御阿礼の子としての顔と、稗田阿求自身の顔を織り交ぜ――どちらでも幸せな顔で笑い、答える。

 

「そうね、その通り。私もあの子も、ずっとこんな未来を望んでいた」

 

 見てみなさい、と紫はいくつかのスキマを阿求らの前に開く。

 そこには多くの人と妖怪がいた。

 

 霊夢は人里の人々と話しながら、やってきたレミリアたちの相手をしている。

 魔理沙はアリス、パチュリーの三人と桜の側に陣取って酒を片手に何やら話し合っている。

 咲夜はレミリアの側に常と変わらず侍りながらも、手には酒が握られており美鈴と並んで仄かに顔が赤い。

 慧音はすでに酒を飲んでいたのか、泣きながら楽しそうに笑うという曲芸をして人里の者たちを困らせていた。誰彼構わず抱きついており、相当ハメを外していることがわかった。

 文は宴会の中を飛び回って面白そうな情報収集に余念がない。今はどの屋台が美味いか実地調査、という名目で食べ歩いているようだ。

 天魔は幾人かの大天狗と共に来ているようで、普段の様子に似つかわしくないしみじみとした表情で何かに思いを馳せながら、彼らと盃を交わしている。

 勇儀は何人かの人間と鬼を率いて屋台荒らしをしている。あの調子では用意した食物が残らず食い尽くされて、屋台の人々が急な収入に嬉しい悲鳴をあげるのもすぐだろう。

 橙は藍と一緒に妖怪の山では見られない桜に目を輝かせていた。

 そして椛は道中で合流したのだろう、にとりと一緒に宴会を見て回っている。不意に彼女の目が動くのは、こんな時でも――こんな時だからこそ周囲で何か起こらないか気をつけているのだろう。真面目なことだ。

 

 他にも多くの人間と妖怪がいる。もう飲み過ぎて気持ち悪そうにしている男の人間もいれば、そんな人間を介抱している女の妖怪がいた。

 無謀にも鬼に飲み比べで勝負を挑み、そして見事に負けた人間を勇気ある人間であると称える鬼がいた。

 彼らにも悩みはあるだろう。怒りもあるだろう。わだかまりもあるだろう。

 しかし今一時、この場所においてそれは全て放り投げられていた。

 

「――楽園、とはこの光景を呼ぶのでしょう。本当に、素敵な景色」

 

 うっとりと、許されるならこの瞬間を切り取って永遠に保存したいと、紫は一分一秒を惜しんで今を楽しむ。

 阿求もまたかつて稗田阿礼でもあった者として、その光景を愛おしげに眺めて横に立つ信綱の手をそっと握る。

 信綱は何も言わずにその手を握り返し、紫に視線を合わせる。

 

「……よくやってくれました、なんて言葉は大上段に過ぎるわね。とうに私とあなたは対等だもの」

「全てを俺がやったわけではない。理想は別のやつから借り受け、手段は皆で考えた。俺もその一翼に過ぎない」

「だとしても。阿礼狂いに生まれ落ちたあなたがその理想に到達したことが、きっと大きな意義のあるものだった」

 

 そう言って紫は深々と頭を下げる。

 心からの感謝を表すのは万の美辞麗句ではなく、ただ頭を下げることである。

 そんな風に感じられるほど、紫のそれは潔く、美しかった。

 

 

 

「――ありがとうございます。あなたが共存に力を貸してくれて、本当に良かった」

 

 

 

「……阿求様」

「私は受け取ってほしいな。お祖父ちゃんは幻想郷の誰にもできなかったことを成し遂げた。

 もちろん、一人じゃできなかったかもしれないけど……それでも、その中にお祖父ちゃんがいるのは確かだから」

 

 自分だけの力ではないと言っている以上、紫のそれは受け取れないと思っている信綱だったが、阿求に言われて考えを改める。

 人妖の共存は自分一人で行ったものではない。

 最初に願った椛がいなければ信綱が動くことはなく、願いに共感する天魔と紫がいなければ願いは願いのまま潰えていた。共存を試そうとした鬼がいなければ、今のような強固な関係は築けなかった。

 誰か一人が欠けても今の姿はできなかった。それは確信を持って言えることである。

 

 皆がいたからできたこと――それはつまり、その中に火継信綱という名の人間も含まれるということ。

 

 ならば紫の言葉も受け取る意味はあるのだろう。

 信綱は阿求と目で言葉を交わし、その手を離して紫の前に立つ。

 紫は一度顔を上げると、待ってましたとばかりに顔を輝かせて信綱に微笑みかける。

 それは幻想郷の賢者としての超然としたものではなく、少女としての可愛らしいものでもなく――

 

 

 

 

 

「あなたが――楽園の到達者でよかった。心からの感謝を、あなたに捧げます」

 

 

 

 

 

 賢者であり少女である八雲紫という存在の、心よりの笑顔であった。




宴会の規模が大きい? 意図して大きく書いてます(真顔)
萃夢想を最後の異変に選んだのは永夜抄前だから――というのもありますが、皆が集まる異変であるという意味もあります。
要するに集大成として相応しい。ノッブという人間が歩んだ軌跡を一望できる異変とも言えます。なので鬼も来ているし、天狗も来ている。

ちなみに回想の形で出てきた先代さんですが、IFのお話として先代ルートの草案があったりなかったり。本編終了後に冥界であれやこれやするお話です。蛇足感がしないかが心配の種。

そしてこれにて本作は完結――ではなく、幻想郷としての物語はほぼ終了です。後は霊夢が異変を解決するのを見守り、後を託せば良い。
となれば後に残るのは阿礼狂いとしてのノッブが最後の役目を果たすお話です。椛たちに別れを告げたり、ゆかりんたちにあれやこれや押しつけ――もとい、頼んだり。

本当にもう間もなく本作も終了となります。どうか最後までお付き合いいただければ幸いです(定型文)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

これからを担う少女たちと、これまでを担った人間

 霊夢は怒りに打ち震えていた。

 ここまでの怒りを覚えたのは生まれて初めてである。

 楽しみにとっておいた、爺さんに作ってもらったお菓子を魔理沙に取られた時以上の怒りだ。

 

 わなわなと拳を震わせ、口元がひくひくと引きつる。

 周りに誰も居ないことが幸いだった。いたら確実に怒りをぶつけている。

 

「あんの妖怪ども、本当に全く片付けてない……!!」

 

 やっぱり妖怪ってロクデナシばっかりだ、と霊夢は境内に散乱するゴミと散った桜の片付けを考えて、怒りを燃やすのであった。

 屋台の片付けだけはしっかりされているのが幸いで、人里の人間は祭り慣れしているのか片付けも手際が良かった。

 できることならあの調子で妖怪が汚した部分も掃除して欲しいものである。現実は悲しい。

 

「どうしたもんかな……これ」

 

 怒りもピークが過ぎると、残されるのは途方もない掃除量にうんざりする気持ちだけである。

 宴会の規模も霊夢が初めてどころか、父親ですら初めてと言うような大きさだったのだ。当然、出てくるゴミの量も規模に比例する。

 

 一日頑張って終わる量なのかすらわからない。どこから手を付けたものかと途方に暮れていると、階段を昇る足音が聞こえた。

 

「ん?」

「ひどい状態だろうな、とは思っていたけど……これほどとはね。少しだけあなたに同情するわ」

 

 やってきたのは陽の光を浴びて輝く白いプリムが眩しいメイド服の少女――十六夜咲夜だった。

 博麗神社の惨状に困ったように笑いながら、霊夢の方へ気安く近寄っていく。

 

「お嬢様が昨日は楽しかったですって。そのお礼代わりじゃないけど、手伝ってあげましょうか?」

「今のあんたになら抱かれても良いわ!」

「残念、私は普通に殿方が好きなの」

 

 咲夜に後光が差して見えた。

 仮にも神道の巫女としてその表現は良いのか、と疑問が飛んできそうだが、手伝いもしない神様と手伝ってくれる人間なら人間の方にありがたみを感じるのは当然だった。

 霊夢は感動したように――というか実際に咲夜に両手を合わせて拝みながらぺこぺこと頭を下げる。

 博麗の巫女が悪魔の犬に頭を下げている? この状況を解決できるなら犬にだって頭を下げよう。

 

「ほんっとありがと! もうこれ一人じゃ終わらないなって泣きそうだったのよ」

「こういう大規模な掃除は慣れよ。手際さえ良くなればすぐ終わらせられるわ」

「あんたの能力を使わなくても?」

「使わなくても。さ、始めましょう。終わったら人里で何か奢ってもらおうかしら」

「もうなんでも奢るわ! じゃ、私は神社の中をやるからあんたは外をお願い」

 

 袖をまくり、ムンとやる気を見せている咲夜と並んで、霊夢は気合を入れ直して掃除に励むのであった。

 

 

 

「やってみれば終わるものね……」

「でしょう? 外のゴミって言うのは目に見えているものだけだから、意外と楽なのよ」

 

 二人で、特に家事全般をやるのが仕事みたいな面のある咲夜もいたことで掃除は実に早く終わった。

 一日かかって終わらないかも、などと悲観していたものの、蓋を開けてみれば二時間もかからないものだった。

 霊夢は咲夜への感謝も兼ねて部屋に上げてお茶とカステラを出す。

 

「いやあ、助かったわ。やっぱり持つべきものは友ね」

「その理屈だと魔理沙はあなたを助けてくれるのかしら」

「あいつは次見つけたらぶっ飛ばす」

 

 光の消えた瞳で魔理沙への恨みをつぶやく霊夢に、これも友情の形だろうと咲夜は笑う。

 普段は丁々発止にやり合っているが、あれで両者に危険が迫っている時は実に息の合ったコンビになるのだ。

 なんとなく微笑ましい気持ちになりながら、咲夜はお茶と一緒に用意されたカステラをつまむ。

 口の中でほろほろと崩れ、上品な甘さと卵の風味を堪能できるそれに、微かに驚いた顔になった。

 

「……あら、美味しい。どこで買ったのか聞いても良いかしら?」

「ん? それ? 爺さんが作った」

 

 信綱はたまに霊夢に差し入れを持ってきてくれたりするのだ。

 普段は独り占めすべく隠しておくものであるが、咲夜には掃除を手伝ってもらった恩があるため提供していた。

 

「確かあなたのお爺さんはあの人だったわね。それなら納得だわ」

「あんたも爺さんのこと尊敬してるわよね。前見た時はびっくりしたわ」

 

 以前に阿求と信綱を尾行した時、咲夜が信綱に話しかける光景も見たことがある。

 初めて会った時よりも柔らかい笑みを浮かべて話す彼女の姿は、霊夢から見ても良い出会いになったのだとわかるほどだった。

 

「あら? 私と旦那様が話している姿って、あなたは見たことあったかしら?」

「え?」

 

 何気ない言葉だったのだが、よく考えたら霊夢は咲夜が信綱と親しいという情報は通常知り得ないものだ。

 ここでバカ正直に爺さんの後を尾けていたら見つけました、などと言ったら軽蔑の眼差しは免れない。

 何か適当な言い訳を考えねば、と霊夢は微妙に視線をそらしながら口を動かす。

 

「あーっと、爺さんが話してたのよ。レミリアとは大違いだって」

「ふぅん……あの人、自分の知り合いの話って誰かが尋ねない限りしない方だと思っていたのだけど、勘違いかしら」

 

 咲夜の推測が大正解である。

 あまり付き合いが長くなくてよかった、と霊夢は内心で冷や汗を流しつつ言葉を続ける。

 

「まあ私のことは良いのよ。今気になってるのはあんたと爺さんの関係よ。……まさか、母さんという人がいながら浮気!?」

「あり得ると思ってる?」

「自分で言っててないわー、と思った」

 

 今でも母さんと結婚したのが不思議なくらいなのだ。

 寝ても覚めても考えるのは御阿礼の子のことばかり。幼い霊夢にすら自分は阿求のことを優先して、お前はその合間に面倒を見る、と公言したくらいである。

 その彼に浮気をする甲斐性などあるはずがない。というかそんな暇があるなら御阿礼の子のために鍛錬をするだろう。

 

「お嬢様がご執心の相手だしね。私も少しは気になってたわ」

「ああ、なんか昔の異変の話だっけ?」

「ええ。私も聞いた話になるけれど、お嬢様が幻想郷に来た時の異変を彼が解決したとか」

「想像できるようなできないような……」

 

 今のような弾幕ごっこがあるわけでもない以上、人間と妖怪の勝負は命懸け――それも人間の側が圧倒的に不利な殺し合いになるだろう。

 信綱の死ぬ絵面が描けないのはさておき、そうして作られるのは凄惨極まりない光景のはず。

 それのどこにレミリアの惹かれる要素があるのか、人間である霊夢には全く理解ができない。

 

「異変を起こして、退治されたんでしょ? なんで爺さんが好きになるのかしら」

「それを言ったらお嬢様があなたのところに来る理由も全部否定してない?」

「言われてみればそうね。じゃあレミリアの頭がおかしいとか?」

「あり得るわね。お嬢様、ちょっと変わったものがお好きだし」

「おいメイド」

 

 仮にもレミリアに仕えるメイドがそれで良いのか、と霊夢は半目で咲夜を見るものの咲夜はきょとんとするばかり。どうやら天然で言ったらしい。

 基本的に真面目で振る舞いも瀟洒な美しい少女なのだが、たまに素でやっているのか計算しているのかわからない行動を取ることがある。

 霊夢はそんな咲夜に軽く笑い、まあ良いかと流す。どうせレミリアの耳には入らないのだ。気にするほどではない。

 

 さて、と霊夢は話している間に綺麗になくなったお茶とお茶菓子を片付け、立ち上がる。

 

「そんじゃ人里行きましょうか。あんまりここで管巻いてても日が暮れちゃうわ」

「ええ、見たい小物があったのよ。付き合ってもらおうかしら」

 

 咲夜も笑って立ち上がり、並んで神社の外に出る。

 こうして、幻想郷の少女たちの楽しい一日は始まっていくのであった。

 

 

 

「ところで何の小物が欲しいわけ?」

「手帳を切らしちゃってね。ついでだし可愛いものでも選ぼうと思って」

「ふぅん、あんたも手帳なんて使うんだ」

「お嬢様の願うようなメイドになるための精進は欠かせないの」

 

 口では自分に厳しいことを言う咲夜だが、霊夢と並んで歩くその表情は余分な力の抜けた優しいものだった。

 そういえば紅霧異変の折に会った時はもっと冷たい印象があったっけ、と霊夢は隣を歩くちょっと年上の友達を見る。

 

「どうかした?」

「いや、そんなことを言うあんたなら、私みたいなズボラな巫女とは付き合わないんじゃないかって思って」

「昔のままならそうしたかもしれないわね。あったとしてもお嬢様のお付きとか」

「で、どんな心変わりがあったの?」

「自分ひとりでできることなんて、たかが知れているって先達に言われてしまったの」

 

 先達、と言われて霊夢は首を傾げるもののすぐ答えにたどり着く。

 

「爺さんのこと?」

「ええ。一人では考え方も偏ってしまうし、視野も狭くなると言われたわ。話せる仲間を作ってみることも大事だって」

「私も爺さんに言われたっけな。懐かしい」

 

 まだ霊夢が寺子屋に通っていた時に言われたことだ。

 同年代の子供たちは皆、霊夢より頭も力も劣っていた。もしもあの時、信綱の言葉がなければ霊夢は勝手に子供たちに見切りを付けて諦めていたかもしれない。

 あれはそんな霊夢の性質を見透かしてかけた言葉なのだろう。

 他人に興味がなくて御阿礼の子が最優先だと公言しているくせ、決して他人を軽視しない彼らしかった。

 

「あなたも言われたの?」

「そ。これでも小さい時から爺さんにシゴかれてたから、同い年ぐらいの子たちがバカっぽく見えてたんだけどね。爺さんに言われて話してみたらやっぱ違ったわ」

 

 能力という点で見れば霊夢に敵うものはいなかった。

 しかし、彼らの考え方は霊夢のそれとは違い、色々な観点を持つものであり霊夢を驚かせるに値するものもあった。

 信綱が知るべきだと言ったのはそういうことだろう。それは一人では決して知り得ない知識だった。

 

「……お互い、他人に興味がなくなる前に忠告を受けた身ってことかしら」

「かもしれないわね、っと着いた」

 

 もっと冷淡な関係になっていたかもしれない、というあまり想像のできないもしもの可能性に思いを馳せていると、霧雨商店の前に到着していた。

 大抵のものはここで手に入る。ここで見つからなければ店主に聞けば気前良く教えてくれる上、次に来た時はちゃんと店にないものも取り揃えてあるのだ。

 中に入ると店主の気持ちの良い挨拶を受け、娘の近況を知りたがる彼に何か話をしながら買い物をするのだ。

 きっと楽しい未来になるだろう、と思いながら店の中に入っていく。

 

「はい、いらっしゃいませ――げぇ、霊夢!?」

 

 そうして店に入った霊夢たちを出迎えたのは男店主の声――ではなく、自分たちと同年代くらいの少女の可愛らしい声――率直に言ってしまえば霧雨魔理沙の声だった。

 彼女がここにいることは別に問題じゃない。なにせ霧雨商店は人里でも最大の規模。人里の外で暮らす魔理沙が利用することがあっても良い。

 だが今の彼女は店の内側に入り、店員の役をこなしていた。里の外で暮らすにあたって実家を勘当されたと聞いているが、これはどうなのだろうか。

 

「んぁ、魔理沙じゃない。あんた何やってんの?」

 

 魔理沙はトレードマークである魔女っぽく見えるとんがり帽子を落ち着かなさそうに動かし、視線を右往左往させながら言葉を紡いでいく。

 

「し、仕事だよ。バカ親父が二日酔いだって言うし、ちゃんとした給金も出るから午前中だけ仕方なくな、仕方なく! 割が良いんだよ!」

「へー、ほー、ふーん。家族仲が良くて結構なことね」

「違うって言ってるだろ!?」

 

 顔を真っ赤にして言ったところで説得力などあるはずもなかった。

 霊夢と咲夜は生暖かい笑みを浮かべたまま、魔理沙から離れて手帳を探し始める。

 

「おっと、この辺にありそうね。そういえば咲夜は魔理沙の事情は知ってるんだっけ?」

「魔理沙から聞いた話ぐらいしか知らないわ。出ていってやった、って聞いていたけど」

「私もそこまで詳しくはないけど、あの様子を見る限りだと意外と円満に話がついたのかもね」

「何にしても仲が良いことは美しいこと……霊夢、この二つならどっちが良いかしら?」

 

 手帳を真剣な顔で見ていた咲夜が二つの手帳を霊夢に見せてくる。

 一つは黒の装丁のシックな手帳で、白と黒のメイド服を着ている咲夜にはさぞ似合うと思われるもの。

 もう一つはリボンの模様が入った可愛らしい白黒の手帳。完全で瀟洒なメイドが選ぶとはなかなか想像できないもの。

 

 霊夢はその二つを見て迷わず後者の手帳を選択する。

 

「そっちの方が良いと思う。あんたが気に入ったのを使うのが一番でしょ」

「……わかっちゃう?」

「意外とね。それに爺さんもレミリアも手帳ぐらいで一々言ったりしないわ」

 

 気にするのは当人ばかりということである。

 咲夜は霊夢にそう言われて小さく笑い、黒の装丁の手帳を戻してもう一つの手帳を魔理沙の方に持っていく。

 

「こちらをくださいな、可愛い店員さん?」

「知らん。私はこの店とは何の関係もない」

 

 魔理沙は拗ねたようにそっぽを向いてしまう。どうやら生暖かい笑みを浮かべていたのがバレたようだ。

 どうしたものかと困ったように笑っていると、隣にいた霊夢が嫌らしい笑みを浮かべる。

 

「ふーん、じゃあ店員さんがいないなら仕方がない。これはもらっていきましょうか」

「なんでそうなるんだよ!?」

「だって店員がいないお店なんてあるはずないわ。つまりここはお店じゃない。置いてある物品を持っていくのだって構わないでしょう?」

「ぐ……そ、そうだよ! ここに店員はいないんだし、持っていっても良いんだよ!」

「良いことを聞いたわ。良いことついでに周りの人にも教えてあげないと。良いことはみんなで共有しないとね」

「はぁ!? おっま、そんなことやったら大損だろ!?」

「んー、魔理沙には関係ないんじゃないの?」

 

 ニヤッと笑いながら霊夢は魔理沙を見る。

 ぐぬぬと言葉に詰まっている魔理沙の横に音もなく近寄り、霊夢は魔理沙の肩に馴れ馴れしく手を置いてささやきかける。

 

「――で、何か言うことはあるかしら?」

「…………霧雨商店の店員はここにおります、お客様!」

「わかればよろしい」

 

 何かに負けたように打ちひしがれながらも、店員としての役目を果たす魔理沙に微笑みながら、咲夜は会計を済ませる。

 そして霊夢と霧雨商店を出ようとすると、後ろからやけっぱちになった魔理沙の声が届いた。

 

「今後とも霧雨商店をご贔屓ください!!」

 

 

 

「あっはははははは! 魔理沙ったら顔を真っ赤にしてたわね!」

「あんまりいじめ過ぎちゃダメよ。でも……ふふっ」

「咲夜だって笑ってるじゃない」

「可愛い反応だったからつい、ね」

 

 尤も、咲夜からすれば天衣無縫な霊夢も、蓮っ葉な女の子のようで女の子らしい一面のある魔理沙も、どちらも可愛い妹のような友達だった。

 年長者らしくしても、あるいは普通の友達のように付き合っても良い存在。それが咲夜にとっての霊夢と魔理沙だ。

 買った手帳を大事にしまい、咲夜は仕事の時とは違う笑みを浮かべる。

 

「――さ、この後は霊夢に美味しいものでも奢ってもらいましょうか」

「任せなさい。とっておきのお店を紹介してあげるわ!」

 

 霊夢と一緒に歩く二人の姿は、様相こそ尋常の人とは違えども――実に普通な女友達との買い物風景なのであった。

 

 

 

「いやあ、悪い悪い。昨日の宴会でちょっとハメを外しすぎた。魔理沙、助かった……ってどうした?」

「親父……店は私が守ったぜ……」

「どうしたんだよそんな燃え尽きた顔になって」

「もう店番とか頼まれたってやらないからな! 助けるのは今回限りだ!」

「魔理沙!? おおい、魔理沙ー!?」

 

 なぜか涙目の魔理沙が霧雨商店を文字通り飛び出していく事件がその後、あったそうだが――実に些細なことである。

 

 

 

 

 

「おじさまー、遊んでー」

「帰れ」

「宴会の時にも探したけど見つからなかったのよ! だから遊んで!」

「帰れ」

「咲夜は霊夢と遊びに行っちゃうし、美鈴はやってきた氷精の遊び相手になってるし、パチェはちょっとはしゃぎすぎて倒れちゃうし! やだ、魔女って貧弱すぎない?」

「…………」

 

 一人で盛り上がって一人で自分の友人の虚弱ぶりに慄いているレミリアに、信綱は苦み走った顔になる。

 相変わらず来るとうるさい輩だ、と頭痛を覚えながら作業の手を止めてレミリアの顔を見る。

 

「あ、相手してくれるの?」

「どうせ今回は暇つぶし以外の用件もあるだろう」

「……なんでわかるのかしら。いっつも思うんだけど、おじさまって私がお願いしたいことがあると必ず見抜いてくるの」

 

 その一瞬だけレミリアは紅魔館の主としての顔をのぞかせ、深い色を持った瞳で信綱を見る。

 実際のところを言うなら信綱も彼女が真面目な悩み事を持っていることは常にわかっているわけではなく、たまに見えるそれとない前兆や仕草を覚えているだけである。

 これをそのまま伝えるとまた彼女がうるさいので、黙っておく。

 良く見ていると言われたらその通りであるが、信綱は大半の人には同じだけの観察を行っている。

 

「さあな」

「ひょっとして……愛!?」

「作業の邪魔だから帰れ」

「茶化すのは私の悪い癖よねハイ! 謝るから話を聞いてください!」

「お前は本当に……いや、良い」

 

 真面目なのか適当なのかわからん、と言おうと思って思いとどまる。

 口に出したところでどっちも自分である、という答えが返ってくるに決まっていた。

 レミリアは遊んでいる時も戦っている時も、どちらも自分であるという意思を持っている。

 少なくとも、自分で決めたこと以外のことはやろうとしない性格であることは信綱にもわかっていた。

 

「まあ今日はお願いしたいことがあってきたんだけどね」

「そうか。帰れ」

「用件が終わったら帰るわ。――そこの鬼も含めて」

 

 レミリアは意味深な表情で中庭に続く戸の向こう側を見る。

 すると視線の先に一つの影が障子越しに現れた。雄々しい角が二つ天高く衝いている少女の影だった。

 

「……お前も気づいていたのか」

「その様子だとおじさまもね」

「そこの人間は前からわかってたよ。というか初見で見抜いてきた」

「おじさまだもの。私のこともほんの僅かな動きだけで見抜いちゃうし。こんなに見られているなんて愛し合ってるも同義じゃない!?」

 

 まるで自分のことのように誇らしげにするレミリアだった。

 信綱は無言で立ち上がると、レミリアの頭を鷲掴みにして中庭に通じる襖を開いて放り投げる。

 

「日光は痛いからやめてえぇぇ!?」

「で、何の用だ?」

 

 陽の光で焦げた匂いを発しながらも日陰に戻ろうとするレミリアを押さえつけ、信綱は来客の相手をし始めた。

 その来客――伊吹萃香は頭の後ろで手を組んで快活に笑う。

 

「いやなに、私の萃めた連中との宴会は楽しかったかなって思ってさ」

「やはりお前の仕込みか」

「気づいてたのかい?」

「普通に呼んであんなに集まるものか。それに特別な用件でもない限り鬼は地上には来ない」

「相変わらず人間離れしてるねえ。……それとそろそろ離してあげたらどう? なんかビクビク痙攣してるけど」

「今のこいつにとっての日光など大した意味もない」

 

 信綱がレミリアを無造作に部屋の方に放ると、全身から煙を出していた肉体がみるみるうちに再生する。

 そしてガバリと起き上がると涙目で信綱の方に詰め寄ってきた。

 

「ちょっと痛いじゃない! もっと優しく投げてよ!」

「怒るのそこなんだ!?」

 

 日光に晒されたことに怒っていない辺り、本当に気にしていないようだ。

 信綱は元気いっぱいのレミリアに何も言えないとばかりにため息をつき、改めて萃香と向き直って部屋に戻る。

 

「どうせお前の話はこいつの後だろう。先に話せ、子鬼」

「はぁい。おとなしく話を聞くとするわ」

「良いのかい?」

「構わないわ。私とおじさまはこうやって身体を暖めてから本題に入るだけだから」

「…………」

 

 信綱は無言で額のシワを伸ばしていた。どうやら彼としては不本意極まりない状態らしい。

 ともあれ、萃香は気を取り直して自分の要件を済ませようと口を開く。

 

「んじゃ遠慮なく――私の異変の内容について話しておこうと思ってね」

「人里を巻き込むのか?」

「昨日はかなり強めに萃めた。あれと同じじゃないけど、それでも何の用事もない連中は三日おきに宴会をするように萃める。場所は全て博麗神社」

「後はどれだけ早く異変に気づけるか、か」

「そんなところ。目的も一応あったんだけど、昨日で達成できちまった」

 

 ふむ、と信綱は曖昧にうなずく。

 萃香の目的もある程度は推測できるが、答えを信綱が知る必要はないと考えていた。

 彼女が異変を起こした目的は彼女と、その異変を解決する誰かが知っていれば十分である。

 

「だから後は今代の博麗の巫女ってやつを見定めようかなってところ。どのくらい早く気づくか、酒を飲みながら見物するよ」

「そうしてくれ。人里の連中はそう何度も来れるものではない。いずれ妖怪の方が増えていけばあれも気づくだろう」

 

 それにしても霊夢が正式な博麗の巫女になってからこれで三回目の異変である。

 最初の紅霧異変は信綱も仕掛け人側であったとはいえ、この短期間で二つも新たな異変が起こることに信綱は内心で驚いていた。

 自分の時はほとんど十年おきというものだった異変であり、それでも十二分に多い方だったというのに、ここ数年の間で三つである。

 弾幕ごっこのルールが予想以上に受けていると考えるべきか、ロクデナシの妖怪どもがここぞとばかりに騒ぎ始めたのか。おそらく両方だろう。

 

 信綱は霊夢の今後にそっと同情しながら、萃香の話す異変の情報をまとめていく。

 

「話の大筋は把握した。話はそれだけか?」

「んー、これはまあ引き受けてくれたら儲けもの程度の話なんだけど……」

「何かあるのか?」

「うん。――人間、もう一度だけ力を見せる気はないかい?」

「どういう意味だ?」

 

 眉をひそめる信綱に、萃香は顔を輝かせて大きく手を広げる。

 

「いつぞやの百鬼夜行みたいにだよ。人も妖怪もたくさん萃めて、その前で私と勇儀、人間が戦うんだ。もちろん、命懸けの勝負にするつもりはない。喧嘩は祭りの華だけど、殺し合いはご法度だ」

「真意を聞いておこうか。勇儀はともかく、お前は俺よりもあいつの方を評価している印象だった」

 

 あいつとはもちろん、萃香に本当の意味で負けを認めさせた白狼天狗のことである。

 自らの力量が劣っていることなど百も承知で、恐怖に手足を震えさせながら――それでも、譲れないもののために逃げずに向かってきた白狼天狗の少女を萃香は絶賛する。

 

「勇者としてはあちらを評価している。鬼退治の勇者かくあるべし、だ。だけど――純粋な力って意味ならお前さん以上はいない」

「…………」

「私はお前さんのことも高く評価している。……正直、その力を知らない連中がいることが悔しいとすら思う。これから消え行くものであったとしても、その最高位に至ったお前さんの力、知らしめてみたいと思わないかい?」

「別に。俺が力を求めたのはひけらかすためじゃない」

 

 考え方の違いだろう、と信綱は目の前の鬼が語る力について冷めた目で答える。

 萃香にとって力とは誉れである。鬼退治をも成し遂げたとくれば、その力はまさに一騎当千に相応しい。

 それほどの力が忘れ去られるのは悔しいという、ある意味において自分中心な考え方だ。

 

 対し信綱にとっての力は、あくまで御阿礼の子を護るためのものに過ぎない。

 彼女らを護れるという確証が得られるのであれば、自分の力量など子供以下でも構わないのだ。

 ただ幻想郷は魑魅魍魎が跋扈し、人間の力が圧倒的に弱い世界であったため、彼女を護るにはその頂点に立たなければならなかっただけである。

 彼は確かに幻想郷の変革を成し遂げた英雄であるが、その本質は阿礼狂い。彼の行動理由など、常に御阿礼の子以外にはありえないのだ。

 ……その理由を補強する意味で他人が使われることも稀にあるが。

 

「どうしてもやらない?」

「必要が感じられん」

「……ちぇっ、フラれたか」

 

 信綱が自らの考えを翻す気配がないとわかると、萃香は不満そうに唇を尖らせながらも話を引っ込める。

 この男を無理やり巻き込もうとすると大体御阿礼の子も巻き込まれる。御阿礼の子が巻き込まれたら彼に加減をする理由がなくなり、楽しい宴会が阿鼻叫喚の地獄になる。

 要するに本人が乗り気でない限りは手を出さないのが、お互い幸せに生きるコツなのだ。

 

「ま、仕方がない。せめてもう一度くらいは純粋な武技を味わってみたかったけど、負けた鬼が勝った人間にあれこれ指図する謂れなどあるはずもなし。素直に諦めるよ」

「そうしてくれ」

「じゃあ――また会えることを祈るよ、人間」

 

 そう言って萃香は霧と化して消えてしまう。

 せめて中庭から出て行け、と信綱はしかめっ面でそれを見送り、部屋の隅で待っていたレミリアに視線を向ける。

 

「待たせたな」

「別に良いわ。なかなか面白い話も聞けたし」

「……もうふざけるつもりもないだろう。本題に入れ」

「別にふざけてなんてないわ。私はいつも本気。これまでも、これからも」

 

 だから面倒なんだ、とは言わずに信綱は先を促す。

 レミリアは普段とはかけ離れた様子の、静かな凪のような無表情になって信綱の顔を見る。

 

「先に言っておくけどこれは私個人の純粋なお願いであって、複雑な事情とかは一切ないわ」

「ふむ」

「断っても恨んだりしないし、付き合いを変えるつもりもない。今まで通りおじさまにつきまとうわ」

 

 つきまとっている自覚はあったんだな、と信綱は心なしか温度の下がった目でレミリアを見る。

 しかし何かを言うことなくレミリアの言葉の続きを促した。

 レミリアは一旦言葉を切り、静かに深呼吸を何度か行い、気を静めて真っ直ぐに信綱を見る。

 そしてその言葉を――彼が幻想郷の英雄となった瞬間から抱いていた願いを口にするのであった。

 

 

 

 

 

「――もう一度、おじさまに挑戦する権利を私に頂戴」




とうとう100話に到達してしまった本作。こんなに長くなるとか人に軽々しく勧められないな、と思いながら投稿。

霊夢や咲夜は他人に興味を無くす前。魔理沙は親と決定的な仲違いをする前にインターセプトかましているノッブ。ただし他人への興味が一番ないのはこいつである。
興味がないものに迷惑をかけられるのは本意でなく、色々と未然に防いでいるだけです。ただそれが当人すらも気づいていないような悩みであったり、茶化すことなく真摯に話を聞いて導いているだけで。

自分の力はひけらかすものではないが、卑下するものでもないと考えているノッブ。そのため見せびらかす方面でなければ普通に願いを聞くこともあります。つまり次回は……?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人と妖怪の歴史の終着

「まったく、この前はひどい目に遭ったぜ……」

 

 魔理沙は自宅の前で凝った身体をほぐすように伸びをして、先日の不幸を嘆く。

 たまには親に元気な顔でも見せに行こうと柄でもない孝行精神を発揮したら、土気色を通り越して死人みたいな顔をした父親から問答無用に店番を任されてしまったのだ。

 割の良い仕事でもあったので黙ってやっていたら霊夢たちが来た。絶対にしばらくはあのネタでからかわれるだろう。

 しっかり給金はふんだくったので当分は生活に困りそうにないことだけが救いである。

 

「……よし、切り替えよう。いつまでも引きずってたって良いことはない」

 

 気合を入れ直すように自分の頬を叩き、やる気を復活させる。

 当面の金は入手できたのだ。ならばこれを機に研究漬けの日々を送ろう。数日は外にも出ない勢いで。

 

 生活を考えなくても良い金銭がある以上、魔理沙の関心が自身の力に向くのは至極当然のことである。

 彼女の生活をちょくちょく見に来ている信綱辺りが聞いたらしかめっ面で苦言を呈するような考え方だが、彼女が目標としている霊夢は本物の天才なのだ。

 並大抵の努力や生半可な覚悟で挑むつもりはない。やるからには全力で、他の何かを犠牲にしてでも挑むのが魔理沙の矜持である。

 

「そうと決まれば早速――アリスに朝飯タカるか」

 

 そして躊躇なく他人に迷惑をかけることを選ぶ魔理沙。きっとアリスが聞いていたら大きなため息をついていただろう。

 それでも拒絶するシーンが浮かばない辺り、彼女の面倒見が良いのか魔理沙が甘え上手なのか。

 

 部屋に置いてある魔法のほうきを取って外に出ると、視界の先に見慣れた人物を見つける。

 

「ん、爺ちゃん?」

 

 視界の先にいたのは魔理沙の後見人のような役割を果たしている、火継信綱その人だった。

 ただしその足取りは魔理沙の家に向かっているものでも、アリスの家に向かっているものでもない。

 霧の湖――並びに紅魔館の方面に一直線に歩いている姿に、魔理沙は不思議そうに首を傾げる。

 

「爺ちゃん、紅魔館に用でもあるのか?」

 

 声をかけようとはしなかった。声をかけたらかけたできっと小言が来るに違いないと思ったからだ。

 実際のところそれは間違っておらず、アリスに食事をタカろうとする話を聞いたら、ゲンコツが落ちていただろう。

 紅魔館に人間が向かうことの危険性は把握しているが、自分でも知っているような常識を信綱が知らないとも思えない。

 だから問題はないだろう、と判断して魔理沙は魔法のほうきにまたがりアリスの家に向かう。

 

「しっかし――あんな長い刀なんて背負って、何しに行くんだろうな?」

 

 

 

 

 

 普段、信綱は椿から奪った長刀は持ち歩かない。

 人里で振り回すにはいささか刀身が長過ぎる上、通常の刀はまだしもこれは代えが効かないもの。

 天魔に頼めば同じだけの刀はすぐにでも用意されるものだが、信綱は吸血鬼異変の時からこの刀だけは代えずに使っていた。

 

 それに百鬼夜行を乗り越えた自分であれば、よほどの大妖怪でない限り刀の一振りで事足りる。

 むしろ下手に二振り持ち、常在戦場の心意気でいたら他者に迷惑をかける可能性が上がってしまう。

 具体的には春を奪いに来た妖夢とか。あの時二刀を使っていたら、確実に椛もろとも殺していただろう。

 

 阿礼狂いである自分は、特定の条件では一切の加減ができない。

 それが後々の憂いを招くとわかっていても、御阿礼の子に被害が行く可能性を許容できないのだ。

 大体、人間との共存も成り、スペルカードルールも大幅に普及した今の幻想郷で信綱が二刀を振るわねばならない事態など来てはならないもの。

 

 もう使うことはないとすら思っていた。最後に持ち出したのは太陽の畑に幻想郷縁起の取材に行く時だろう。

 だがそんな刀を今回は持ち出している。

 理由はただ一つ、レミリアに向けるためだけに。

 真剣な表情で自分を見てくるレミリアの姿を思い出し、信綱はあの日の会話を思い出していく。

 

 

 

「おじさまは私を倒してから有名になっていったでしょう?」

「より正確に言うなら、お前を倒したという情報がどこかから漏れた時だ」

 

 あの日、異変を解決したのは博麗の巫女であり、自分はそれに同行しただけという内容に口裏は合わせてあった。

 信綱が人里で英雄と呼ばれ始めたのは、吸血鬼異変で出た被害者への対応が人里の歓心を買うものであり、異変解決にも同行した――妖怪と戦って生き延びられる人間であると証明したからに過ぎない。

 

 それとは別にあの日を境に多くの妖怪に目をつけられたが、それはあの烏天狗の射命丸文が自分の情報を広めたからだろう。

 

「そしておじさまは多くの危機を乗り越えてきた。時に知略で脅威を予見し、時に武力でねじ伏せて」

 

 私も使ってね、と意味ありげに微笑むレミリアに信綱は腕を組んで憮然とした顔になる。

 

「……あれはただの保険だ」

「その保険は有効に働いた。だったらそれは十二分に知略と呼べるわ。違う?」

「俺の話は良いだろう。さっさと目的を話せ」

 

 自分に挑みたいのはわかった。しかしなぜそうなのか、理由を話さなければ信綱もうなずけない。

 レミリアとの付き合いは長くなったが、それでも彼女が妖怪であるという事実を忘れたことはない。それも幻想郷の一翼を担うに値する大妖怪である。

 信綱が僅かに目を細め、睨むようにして見るとレミリアは再び佇まいを正して信綱と相対する。

 

「少し話がそれたわね。つまり、私が言いたいのは――私を倒した時のおじさまは今より弱かったってことでしょう?」

「…………」

「あの戦い。もしも紫も先代も手助けに入らなかったら――どちらが勝っていたかしら」

 

 信綱にもレミリアにも、その結末はわかっていた。

 レミリアの再生力を上回る殺傷力を持ち得なかった当時の信綱に、彼女を殺し切る術はない。

 故に多少の消耗は与えられたとしてもあの日、最後まで勝負が行われていれば勝者はレミリアだった。

 

「……負けを認めるつもりはない、ということか?」

「冗談。たらればの話で負けを認めないなんて無様を晒すつもりはないわ。負けは負け。誰がどう思おうと、当事者の私がそう言っているんだからそれだけが事実」

 

 例え信綱であってもその事実を覆そうとするのは許さない。

 そんな気迫が感じられる声に信綱は少しだけ頭を下げる。

 

「……済まない。お前はそういう奴だな」

「ええ、こういう奴なの。もう過ぎた勝負に対して何かを言うつもりはないわ。おじさまが勝者で私が敗者。その事実は永遠に覆してはならない」

「ではどうして今になって挑戦する、などと言い出す」

「確かめたいからよ。私を打ち倒して、天狗を打ち倒して、鬼を打ち倒して……おじさまがどこまで至ったのか、この身で知りたい」

「…………」

「おそらくこれが最後でしょう。だからお願い――私の焦がれた炎をもう一度だけ見せて欲しい」

 

 そういってレミリアは静かに机に頭を付けた。何の変哲もない、見る人が見れば娘が親にお願いをするような形の――大妖怪の真摯な頼み事である。

 信綱は静かに瞑目し、自分が抱えている様々な事情を鑑みる。

 彼女のお願いに利益はない。阿求のためにレミリアに対してすべきことはなく、受けるも受けないも信綱のさじ加減一つになる。

 

 しかし、思い返してみればレミリアとは戦いらしい戦いをした覚えがない。

 吸血鬼異変の頃は阿弥が危険な状態だったため、それを一秒でも早く解決すべく最短の方法しか選んでいなかった。

 先手を取って斬り刻み、一切の抵抗と反撃を許さず斬り続けるあれを勝負と呼べるのかは謎である。

 それでレミリアが自身の敗北を認めているので、これに関してどうこう言うつもりもなかった。

 

「……わかった。但し、約束だ――」

 

 

 

 

 

 結局、信綱は自分の意志で彼女の願いに応えることにした。

 なぜなのか、明確な理由はよくわからない。ただの気まぐれと言ってしまえばそれまで。

 椛や橙ほどではないが、彼女との付き合いも相応に長くなった。

 そして彼女は今でも信綱につきまとっている。

 彼女に好かれるような行動を取った覚えは吸血鬼異変の時どころか、これまでの人生を振り返ってもあんまりない。

 

 だが、それでも好意を向けられている事実に変わりはない。

 ならば一度くらいは応えても良いのかもしれない。最初で最後の――というには彼女はワガママの数が多かったし、彼女の深刻な悩みにも付き合った覚えがある。

 

(……よくよく考えると、俺はあいつにロクな目に遭わされた覚えがないな)

 

 天狗の異変の折や、百鬼夜行の折には手を借りた覚えがある。あの時は彼女の力が頼もしく思えたし、実際に彼女は信綱の期待に応えてくれた。

 しかし、言い換えればそれだけだ。それ以外の大半の時間、信綱はいきなりやってきた彼女の相手をして迷惑をかけられた覚えしかない。

 そして極めつけにこれである。もう少し自分のやってきたことを省みろと嫌味の一つは飛ばしても良かったかもしれない。

 

 そこまで考えて、信綱は軽く肩をすくめて再び紅魔館への道を歩き出す。

 まあ――それがレミリアという傍迷惑で子供っぽい、けれど確かに強大な吸血鬼である彼女の特徴なのだ。

 半世紀以上付き合っておいて、今さら迷惑の一つ二つ増えたところで大差はなかった。

 

 門前にはいつも通りの門番をしている美鈴が佇んでいた。

 春の陽気で適度に暖かく過ごしやすい日差しにやられたのか、ウトウトと船を漕ぎ始めている。

 自警団の見張りもこの時期は眠そうな眼をこすりながら見張っているので、こんな時でも門番とは大変だとこっそり同情しつつ、声をかける。

 

「おい、門を開けてくれ」

「ふぁ? ……へぇぁ!? し、失礼ですがどのようなご用件で!?」

 

 声をかけたら一瞬で覚醒する辺り、頭の一部は働いているのだろう。

 なぜか美鈴が門に背中を預けて身構えていることがわからないものの、信綱は質問に答える。

 

「主人に招かれて来た」

「その武装の理由を聞いてもよろしいですかね!? 正直、いつかのようにお嬢様を襲いに来た風にしか見えないんですが!?」

「あながち間違いでもないぞ」

「じゃあ私それを阻止しないといけないじゃないですか、うわーん!!」

 

 ただ聞かれたことに答えているだけなのに、すでに美鈴は半泣きになっていた。

 それでも逃げる素振りは見えない辺り、本当にレミリアは部下に恵まれている。うらやましい。

 

「あいつから家にどうやって入るかは聞いてない。別にあの日の再現をしても構わないが……」

「い、良いですよ良いですよ! 私だって密かに腕を上げているんです。そうそう何度も人間に遅れを取らないことを見せてあげます!」

 

 別に通してくれるなら襲う気はなかったのだが、美鈴は勝手に話を完結させて戦う姿勢に入ってしまった。

 門の前で不動の構えを取り、こちらの攻撃を誘う姿勢になっている彼女に信綱は軽くため息を吐く。

 

「一応、分析はしていたのか」

「はい! あなたの攻撃は徹底した先の先か、もしくは妖怪の力を利用した後の先! だったらこうして構えていれば不意は突かれません!」

 

 道理である、と信綱は美鈴の言い分にうなずく。

 どんなに早く動いたところで妖怪の目を欺く速度は出ない。基本的に信綱の斬撃は大半が牽制であり、本命の一撃は入れたらそのまま勝負を決めるものとなる。

 攻撃も鬼のような岩を砕くものではないため、相手が攻撃をして薄くなった防御に斬撃を徹すといった面が強い。

 そのため美鈴の取った方法は信綱への対抗策としては一つの正解であり――失策でもあった。

 

 信綱は長刀を抜くことなく左手で腰に差した刀の鯉口を切り、無造作に美鈴に歩み寄っていく。

 

「うっ」

 

 僅かに身じろぎをして身体をこわばらせる美鈴を気にせず、信綱はさらに近寄っていき刀の射程に彼女の身体を収める。

 そして彼女の意識が集中していることを理解しながら、その鞘から刀を走らせ――美鈴の足が刈り取られた。

 

「うわっ!?」

「刀に手をやったからって刀を使うとは限るまい」

 

 刀を持つ手に意識を集中させ、必然的に警戒が薄れていた足での攻撃に美鈴はいとも容易く尻もちをついてしまう。

 普段の美鈴なら引っかからないような攻撃。しかし、半世紀前に何もできずに斬り刻まれたトラウマは彼女に色濃く残っているのだろう。

 

「さて、門を開いてくれるならこれ以上は何もしない。開かないなら……いつかの再現だ。次も主が助けに来ることを祈るんだな」

「参りましたし門はすぐ開けますから命はご勘弁を!? 痛いのは嫌です!」

「賢明だ」

 

 もっと言えば信綱がここに招かれた事情をちゃんと聞いていれば避けられた戦いでもあるのだが、その辺りは美鈴の早とちりが原因なので何も言わない。

 

「うう……私も結構武術には自信があるのに……」

「俺に苦手意識を持ちすぎだ。結局、拭いきれなかったか」

 

 半泣きのまま門を開く美鈴に信綱は呆れたように肩をすくめる。

 出会い方がひどく物騒だったのは認めるが、今に至るまで苦手意識を持たれてしまうことには多少思うところがある。

 とはいえ今さら言っても詮無きこと。信綱は何も言わずに彼女が門を開けるのを待つ。

 

「こちらにどうぞ。……あの、お嬢様のことをあまりいじめないでくださいね」

「俺を何だと思ってるんだ……」

 

 ただ単に彼女が来るのが面倒だから冷たい対応になっているだけである。

 気分で嫌がらせをする相手など橙か椛くらいだ。

 

 変わらずビクビクした目の美鈴に見送られて紅魔館の中に入ると、音もなく咲夜がやってくる。

 咲夜は側にコウモリを侍らせて、静々とお辞儀をする。

 

「お嬢様からお話は伺っております。ようこそいらっしゃいました」

「……いや、隣にいるだろう」

「気分よ、気分。おじさまと最初に出会った日を再現しようと思ってね」

 

 コウモリから聞き慣れた少女の声がすることに、信綱は辟易した顔でため息を吐く。

 美鈴に事情を話していなかったことと言い、レミリアは自分と出会った時のことを再現するつもりのようだ。

 

「だったら門番を助けるのが流れになるはずだ」

「流石にコウモリの時に日光の下には出られないわ。霧で太陽が隠れているわけでもないし」

「その当時の話、お嬢様から耳にタコができるほど聞かされております」

「……良いから案内してくれ」

 

 阿礼狂いとして来たわけではないため、レミリアたちの空気にはついていけそうになかった。

 信綱は軽いため息で現状の面倒臭さを押し流し、咲夜に案内を頼む。

 こちらに、と咲夜とコウモリを伴って信綱はレミリアの部屋に案内される。

 

 部屋に入ろうとすると、咲夜はその場に留まる姿勢を見せたため信綱は訝しんで声をかけた。

 

「お前はどうするんだ?」

「私の役目はお嬢様のお部屋に案内することまでです。誰も介入するな、とのお達しでしたから」

「そうそう。挑戦者って観点なら私は自分に使える全てで挑むべきなんだろうけどね。美鈴はいてもいなくても大差はないし、咲夜だと万一が怖いでしょう?」

「俺はどうなる」

「おじさまは大丈夫よ。もし死ぬような怪我をしたら私がしっかり吸血鬼にして、阿求との別れはさせてあげるから。終わったら改めて殺してあげる」

「……やはりお前は妖怪だ。それもロクデナシの」

「もちろん。知らなかったの?」

「……知っていた」

 

 出会った当初から知っていた事実を改めて再確認し、信綱はため息とともに扉を開く。

 咲夜が頭を下げて見送るのを感じながら部屋の中に入ると、そこは以前に見た部屋より遥かに大きくなっていた。

 

「咲夜の能力も便利なものよね。時間と空間は密接な関係があるから、空間もある程度操れるとかどうとか」

 

 部屋の奥。豪奢な椅子に腰掛け、レミリアは片手で赤い液体の入った袋状の塊を弄びながら、信綱を出迎える。

 

「訳がわからん」

「私にもよくわかんない。でも便利なんだから使わないのも馬鹿らしいでしょ?」

「それはそうだが、お前たちでは紅魔館でも広すぎるだろう」

「大は小を兼ねる、よ。それに見た目より大きいってだけで来る人を驚かせられるのは結構楽しいわ」

「……咲夜の苦労が目に浮かぶようだ」

 

 どう考えても仕える主を間違えているとしか思えなかった。やはり主は御阿礼の子以外にあり得ない。

 信綱の思考が漏れたのか、レミリアは可笑しそうに笑う。

 

「あなたの主みたいに良い主人にはなれないだろうけどね。暴君は暴君なりに部下を思いやるものよ」

「……そうか」

「さ、無駄話はこれぐらいにして――始めましょうか」

 

 レミリアはそう言うと、これまで弄んでいた赤色の液体を喉の奥に流し込む。

 

「……ゲホッ。ああ、不味い」

「血液か」

「そう、久しぶりの人間の血。スキマ曰く、外の世界で人々の治療に使われるんですって」

「足りなくなった血の補充といったところか」

「私にはどうでも良いわよ。肝心なのはこれが人間の血であって、そしてクソ不味いってこと」

 

 やっぱり人間の喉笛から直に飲み干す血が一番ね、などと物騒なことをつぶやきながらレミリアはその血を飲み干した。

 途端、彼女の全身からおぞましい妖力があふれ出す。

 瘴気が部屋の空気を軋ませ、静謐な空間は凄惨な捕食場に姿を変える。

 明るい色を保っていた紅色の空間も、今や血と臓物の臭いすら漂わせるような不気味さを持っていた。

 

「ああ――人間の血を飲むのは本当に久しぶり」

「人間を襲ったわけではないから抵触しない、とでも言うつもりか」

「こいつは人間を殺して得るものではないわ。大勢の人間から死なない程度の血を集めて作られるものよ。誓って、幻想郷の人間から血はもらってない」

「……そうか」

 

 彼女は彼女なりに幻想郷で人間と生きるための方法を模索しているのだと思えば、何かを言う気にはなれなかった。

 信綱は一瞬だけ瞑目して意識を切り替え、腰を落として刀に手を添える。

 

「思えば、私が打倒された事実がおじさまを英雄に変えた」

「そうだな」

 

 吸血鬼を人間の身で打倒という事実が、彼を英雄に押し上げて妖怪相手の知名度を一気に高めた。

 そこから幻想郷の共存に舵が切られるのだから、世の中わからないものである。

 

「そして英雄となったおじさまはさらに多くの異変を退けて今に至っている。――始まりが私であるのなら、終わりを知る権利も私にある」

「…………」

「あの時はおじさまが挑戦者。次は私が挑戦者。……おじさまが剣を振るう、最後の瞬間を私に頂戴」

「…………」

 

 信綱はレミリアの懇願に答えない。

 ただ、何も言うことなく抜刀をするだけ。

 しかしそれこそが信綱の返答であると、レミリアは気づく。

 彼は戦う時は常に無口になる。相手に与える情報など一つもないとばかりに黙り込み、一切の躊躇と油断を排除して殺しに来る。

 

 ゾクゾクとした快感がレミリアの背筋を電撃の如く走る。

 ニィ、と口が喜悦の三日月を作り、そして――勝負が始まった。

 

 

 

 最初にレミリアが取った行動は前進――ではなく、後退だった。

 

「――」

「来ないのか、ですって? 冗談。おじさま相手に接近戦を挑んだ結果が吸血鬼異変でしょう」

 

 信綱の領域に入らないという強い意志を浮かべ、レミリアは背中の羽で部屋の中央に飛び上がる。

 部屋が広くなっているのは彼女が自分との距離を取りやすくするためか、と信綱は内心で舌打ちする。

 何が部下は介入させないだ。この場にいないだけで十二分に彼女の援護はしているではないか。

 

 とはいえ過ぎたことを言っても仕方がない。妖怪相手に正々堂々など語るだけバカを見る。

 故に信綱も吸血鬼相手の対策は取っていた。この程度の対策もしていないようなら戦う価値もないと見限るだけである。

 

 信綱は霊夢との稽古でやっているように複数の小規模な結界を張り、それらを足場にレミリアへの接近を行う。

 

「さっすが、霊力と一緒に結界も覚えていたのね!」

「霊夢を鍛えたのは俺だと言っただろう。博麗の術も嫌でも見えてしまう」

「ふふ、惚れ直しちゃうわ! ――でも、主導権は譲らない!」

 

 レミリアは追いすがる信綱から素早く距離を取ると、その手に魔力で編まれた鎖を作り上げる。

 

「スペルカードルールの副産物ね。魅せるために魔力で作ったものだけど――だからこそ、おじさまにこれは斬れない!!」

「――」

 

 鎖の先端には短剣のような刃が付いており、吸血鬼の膂力で振るわれるそれを受けたら骨も肉も貫かれるもの。

 おまけにこれは普通の刃では斬れない。ただの物質ならば鋼鉄だろうと斬れる自信があっても、レミリア自身の力で作ったこれには通常の斬撃では効果が薄い。

 舌打ちを一つして、信綱は自身に迫る鎖を見上げ――苦もなく切り捨てる。

 

「えっ?」

「――」

 

 自慢していた鎖があっさりと破壊されたことに呆けるレミリアを、好機と見て信綱は距離を詰める。

 通常の斬撃で効果が薄いなら、尋常でない斬撃を放てば良い。

 そして信綱は剣に霊力をまとわせ、妖怪に対する攻撃力を上げる術を所持していた。

 霊力の心得。結界術の会得。剣術、体術の練磨。

 半世紀前の信綱と比べるのもおこがましいほど、今の彼は妖怪に対する殺傷力を高めているのだ。

 

「しまっ――」

 

 霊力を伴い、白磁の残光と共に振るわれる斬撃がレミリアの身体を切り裂く。

 身を翻して避けようとしたところで、信綱の長刀は相手を逃さない。

 そして一度射程に捉えてしまえば、握った主導権を相手に渡す必要など一切ない。このまま勝負を終わらせて――

 

「――なんちゃって!」

「っ!」

 

 反撃の爪牙がレミリアより放たれ、信綱は驚愕とともにそれを紙一重で避けきる。

 顔に目がけて振るわれる爪を結界で弾き、その勢いを利用して距離を取る。先に与えた斬撃はすでに治癒するが、今の不可解な状況を解読するためなら安い買い物である。

 

 なにせさっきの斬撃――刃が通る端から治癒していく光景が見えたのだ。

 

(通常の斬撃だとしても治る速度が異常過ぎる。こんな速度、吸血鬼異変の時にも見られなかった。……考えられる条件は一つか)

 

 チラ、と横目で信綱は壁を見る。

 この部屋には窓がない。日光を厭う吸血鬼の部屋であるため当然とも言えるが、言い換えれば天候の状態がわからなくなるとも言える。

 信綱がこの屋敷に来た時は確かに昼だった。しかしそれではレミリアの急激な能力の向上に説明が付かない。

 となれば――

 

「手段を選ばん奴だ。――魔女に夜を作らせているな」

「正解! しかも満月の夜をね! もう種もバレちゃったしこんな小細工に意味はないわ!」

 

 レミリアは口元に禍々しい笑みを浮かべたまま一瞬で手に魔力の槍を作り出し、無造作に壁に放り投げる。

 吸血鬼の膂力、魔力が存分にこもったそれは分厚い壁を簡単に破壊し、その空に浮かぶ紅い月を輝かせた。

 

「私は夜の女王。今はあなたに挑む一人の吸血鬼。――挑む以上、あらゆる手段で勝ちをつかみに行くのは当然でしょう? これがあなたへの敬意よ」

「……否定はしない」

 

 人間より遥かに優れた肉体を持ち、大妖怪と呼ぶに相応しい実力を持つ吸血鬼。それがレミリア・スカーレットだ。

 その彼女がただ一人の人間を倒すためにあらゆる手段を使う。要は――それだけ手を尽くさなければ信綱には勝てないと信じているのだ。

 擬似的に作られたものとはいえ満月の夜に浮かぶ吸血鬼。相対するのはただ一人の人間。

 紅い月を背景に空に浮かぶ吸血鬼を前に、信綱は安請け合いしたかとため息を吐いてそれを見上げる。

 

「全く、楽には勝たせてもらえないな」

 

 もはや室内で戦う意味はなく、信綱もまた紅魔館の外に飛び出し屋根の上に立つ。

 状況は先ほどから都合の悪い方向にばかり転がっているが、自分の人生で都合よく物事が動いた方が少ない。これもそのうちの一つだと思えば気が楽だ。

 

「当然! 勝つのは私よ!」

「……それは、お前が自分で確かめて見るんだな」

 

 二刀を構え、結界を足場にレミリアへ向かう。

 対しレミリアはその手に魔力の槍を作り、破裂するような音と共に豪速のそれを投げつける。

 触れれば人間の肉体などはじけ飛ぶそれを、信綱は恐れた様子もなく首を傾けるだけで回避し、さらなる距離を詰める。

 

 勝利条件は変わらない。二刀を以ってレミリアを引き裂くこと。

 無論、レミリアもそれを知って警戒に警戒を重ねている。

 攻撃は魔力の槍を投げつけ、鎖を振り回すなどと徹底して距離を取るもの。こちらが少しでも近づいたら離れようとするくらいだ。

 

 しかし攻撃は嵐の如く苛烈。信綱はそれらを対処すべく紅魔館の敷地内を縦横無尽に跳ね回る。

 庭の噴水に着地したと思った次の瞬間には壁に足を付けており、そこからさらに屋根へ駆け上ってレミリアの追撃を避ける。

 

 信綱の攻撃手段は手に持つ刃の斬撃であり、距離さえ取れば著しく効果が下がるのは間違いない。

 しかし、そうなると相手も遠距離から攻撃するしか方法がなくなる。

 レミリアの本領は天狗に次ぐ速度、鬼に次ぐ膂力、そして両者をしのぐ再生力による接近戦でのゴリ押し。それ以外の攻撃は普通の人間にとって脅威になれど、信綱にさしたる効果はない。

 

 無数の鎖が飛び交う空間を縫うように走り、刃の一振りで跳ね上がった鎖が他の鎖を絡め取り、一つの大きな鎖になる。

 ただ数が多いだけなら利用すれば良い。ただ早いだけなら予兆を見抜いて当たらない位置に動けば良い。言葉にすればたったそれだけの理屈。だが吸血鬼の速度、膂力を前に行うには神業を要求される。

 一つ成功させるだけで一生自慢できるようなそれを、信綱はすでに百は行ってレミリアに向かっていた。

 

 レミリアは自分の技が利用され、弾かれ、時に制御そのものを奪われることに心から楽しそうに笑う。

 これこそ自分の追い求めた愛おしい勝者。武力だけでは立ち行かず、知略だけでもままならない。理想だけでは食い潰される。そんな幻想郷を駆け抜けたただ一人の人間。

 ――だからこそ油断も慢心もしない。彼の攻撃手段は斬撃ただ一つであるという弱点を容赦なく突く。

 例え効果が薄くとも皆無ではない。体力勝負になればレミリアが勝つのは必定。

 

 距離を取り、射程の外からチクチクと嫌がらせを続ける。誇り高い吸血鬼の戦い方とはとても言えないそれを、レミリアは迷わず選択する。

 

 そう、これは極めて単純な構図。

 レミリアは逃げ、信綱は詰める。攻撃はレミリアが。防御、回避は信綱が行うある種の予定調和。

 だからこそレミリアの思考にはある種の慣れが生まれていた。――生まれてしまっていた。

 そこまで含めて信綱の策であると気づくのは、策が成ってからであった。

 

 走り続けていた信綱は不意に足を止め、結界の上に立ったままレミリアと相対する。

 多少息は上がっているものの、未だ彼の目には輝きが灯っており戦意は尽きていないことが伺えた。

 

「――俺の勝ちだ」

 

 そしてその顔のまま、彼は勝利宣言をする。

 レミリアは何事かと訝しむものの、警戒は解かない。戦闘に際し彼が意味のない言葉を語るとも思えないからだ。

 つまりそれは彼にとって、もはや勝負が決したと判断しても良いだけの何かが成ったということであり――

 

 

 

 ――紅い月が溶け崩れ、陽光が自身の肉体を焦がす。

 

 

 

「ぐっ!?」

 

 突如出現――否、秘匿されていた太陽が再び現れたことにレミリアは驚愕と同時、視線を大図書館のある方へ走らせる。

 客人であり友人である魔女が術をしくじるとはとても思えない。だが、次に考えられるのは信綱以外に考えられず。

 その瞬間、電撃的な閃きでレミリアは答えに到達すると同時、自らの失策にも思い至る。

 

(しくじった! 私は――おじさまに時間を与えすぎた(・・・・・・・・・・・・・)!!)

 

 全ては後の祭り。太陽が現れたことで吸血鬼の夜は終わり、身体能力も再生力も常と変わらぬ領域に落ちてしまった。

 おまけに怯んだのを見計らって接近した信綱がすでに二刀を振りかぶっていた。敗北は一秒後の未来に確定している。

 

 嗚呼、とレミリアの口から安堵とも未練とも取れる吐息が漏れる。

 同時に彼女の腕はまだ負けていないと爪を立て、勝利を求める。

 

 しかし、伸ばした爪は信綱に届くことなく双刃が彼女の胸に突き立ち――傷をえぐるようにそれぞれが違う方向に振り抜かれるのであった。

 

 

 

 

 

「……俺の勝ちだ」

「そのようね」

 

 地面に落ちた後、レミリアの身体は信綱の手によって日陰に放り込まれ、休息を取っていた。

 すでに肉体の傷は完治しているものの、レミリアにこれ以上戦う意志はなかった。

 

「参った、参りました。今度は完敗。あれだけ準備したのに、それでも負けちゃった」

「お前が夜に挑んでくるのは予想できた。だからこそ、特別な結界を用意した」

 

 信綱は懐から一枚の札を取り出す。

 結界とは界を結び、境界を引くもの。攻撃をしのぐ防壁としてではなく、信綱はそれを本来の用途で使用した。

 ごく限定的ではあるが、昼の空間を作り出すための結界。

 およそ吸血鬼との戦闘でしか役に立たないであろう、今回限りの特別品だった。

 

「さすがに魔女の用意した空間内で使うのは不安があったのでな。お前も持久戦の腹積もりだったようだし、利用させてもらった」

「ふふ、そう。一気呵成にいつも通り攻めていたら勝てていたってこと」

「さてな」

 

 突っ込んでくるならそれはそれで対処していたが――勝率の話で言うなら、確かに白兵戦の方が高かっただろう。

 主導権を握った後は畳み掛ける。信綱の底知れなさを過剰に警戒しすぎ、慎重策を取ってしまったレミリアの失敗とも言えた。

 

「あーあ、慣れないことやってまで勝ちたかったのに、慣れないことをしたから負けるなんて皮肉ったらないわ。ね、おじさま。もう一回やらない?」

「やらない。これがお互いに最後の勝負だろう」

「……ええ、覚えているわ。約束ももちろん」

「なら良い」

 

 この勝負を受ける前に交わした約束――結果に関わらず、レミリアは今後スペルカードルール以外の勝負を一切行わないことである。

 

 今、自分とレミリアの交えた戦いは未来にあってはならないものである。

 この戦いの本来の結末は信綱が屍を晒すか、レミリアが灰に溶けるかの二択。

 どちらを迎えたとしても遺恨は残り、蚊帳の外にされた第三者ばかりが涙を流す悲しいもの。

 当事者ばかりが満足して何一つ生産的なものを生み出さない以上、これを続ける理由はどこにもない。

 

「……満足したか?」

「――最高に。おじさまの最後の戦いは私がこの身に刻んだ」

 

 誇るように自らの斬られた痕跡に触れ、レミリアは笑う。

 後世に残すべきでない、血腥い戦いの頂点に一度は立った人間の最後を刻み込んだ。

 人間に退治される妖怪にとって、何よりの誉れである。

 

 信綱は相変わらず理解できないとばかりに肩をすくめ――しかし、彼女に手を差し伸べた。

 

「妖怪の考えは理解できないが――お前の誓いは信じるに値する」

「――」

「後は任せるぞ、レミリア」

「……ええ、安心して休みなさいな。私はこれからの幻想郷をもっと楽しくするから」

 

 レミリアは差し伸べられた手を呆けたように見て、次いで微笑みとともにその手を掴んで立ち上がる。

 そしてしばしの間、二人は互いの手を握り続けるのであった。

 

 

 

 

 

 ――ここに、人間と妖怪が殺し合いを続けた歴史は一つの節目を迎えるのであった。




英雄としての道を歩み始めた切っ掛けとなった勝負で始まり、この勝負で終わる。
本当は紅魔館勢が勢揃いで戦う案もあったのですが、やっぱおぜうは一騎打ちをするだろうなと考えてこの形に(一騎打ちでも他の助力を借りないとは言わない)

自重も慢心も投げ捨てて挑んだのに、逆にそれが仇となってしまうという因果。ノッブはノッブでレミリアに正々堂々は全く期待していませんでした。
何かしらしてくるだろうなと思って対策を用意していたり。

そしてここで人間と妖怪が殺し合う歴史は一つの節目です。理性のない妖怪などの被害があったとしても、そうじゃない妖怪と人間が殺し合う未来がもう来ないことを願って、ノッブは剣を置いてレミリアはスペルカードルールのみに従って生きていきます。

もうあと数話(間違いなく2桁は行かない)ですが、どうぞお付き合いください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花の妖怪の矜持

「やってられっかチクショー!!」

 

 霊夢はもはややけっぱちになったとしか思えない勢いで、手元にある酒をラッパ飲みする。

 すでに顔は林檎のごとく赤く、明日が辛くなることは誰の目にも明らかだが、同時に止められない気迫があった。

 

「霊夢のやつ、荒れてんな……」

「仕方ないわ。ここ十日で三回も宴会があって、その片付けは全部自分でやってるんですから」

 

 魔理沙と咲夜はそんな霊夢の様子を見てそっと耳打ちを交わす。

 最初は咲夜が片付けを手伝ったものの、二度目はなかったので泣く泣く一人で片付けたのだ。

 そして一息つけたと思ったらまた次の宴会。それが終わったらまた次の宴会。やけ酒の一つも飲みたくなるものである。

 

「大体ねえ! 毎回毎回ウチの神社使うんじゃないわよ! だんだん人の数も減ってつまみも減ってくるし、ここは妖怪のたまり場じゃないっての!!」

「そりゃそうだ。このままだと妖怪神社って呼ばれちまうかもな」

「むがーっ! ちょっと魔理沙、あのへんの妖怪にマスタースパークぶち込んできなさいよ!」

「私も命は惜しいんでな。遠慮させてもらうぜ」

「うぅ、咲夜ぁ……」

「はいはい、よしよし」

 

 酔っ払って感情の制御が上手くできていないのか、甘えた声を出して霊夢は咲夜の胸に顔を埋める。

 仕方ないなと微笑み、咲夜は可愛らしい妹のような友人の頭を撫でてあげる。

 そうしてしばらくすると、少し酒が抜けたのか霊夢は恥ずかしそうに咲夜から距離を取った。

 

「……んんっ、ちょっと甘えすぎたわね」

「気にしないでいいわよ。甘えてくる霊夢も可愛いし」

「恥ずかしいから忘れろ!」

「照れ隠しに酒を飲むのはやめた方が良いと思うぜ。さすがに悪循環だ」

「うっさい、私は良いのよ!」

「良くないに決まっとるわ戯け」

「いだっ!?」

 

 追加の酒を飲もうとした霊夢を止める魔理沙だが、霊夢は聞く耳を持たない。

 しかし、そんな彼女の頭上からゴツンと拳が降ってきたため、物理的に彼女の動きが止まる。

 

「いったー……。ちょっと、いきなり叩くなんてどこの誰――」

「俺の声も忘れるほど酔っ払ったか」

「げっ、爺さん!?」

「お、爺ちゃん。やっほー」

「……旦那様、先日ぶりです」

 

 霊夢を呆れた目で見下ろしていたのは彼女の師匠役であり父親役である、信綱だった。

 片手に大きい包を持ち、腰に護身用の刀を一振り下げて、博麗神社を訪れていた。

 

「ちょ、ちょっと爺さん、どうしたのよこんな妖怪ばっかりの場所に来て」

 

 霊夢は自分が酔っ払っていることも忘れ、慌てて立ち上がって信綱の持つ包を受け取る。

 それは彼の持つ荷物が気になったということもあるはずだが、魔理沙と咲夜には親を心配する孝行娘のような仕草に見えた。

 

「連日、宴会が続いていると里の連中から聞いてな。差し入れだ」

「わ、やった! 爺さん、ありがと!」

「これぐらいは構わん。だが、お前ぐらいの年頃で暴飲はいただけん。まだまだ育ち盛りなのだから日々きちんとしたものをだな……」

「良いって良いって。こんな宴会の時に小言なんて聞きたくないわ」

 

 さっきまでは宴会が続くことにうんざりしていたのに、霊夢は都合よく宴会を持ち出して信綱の小言を遮る。

 信綱もこの場で言うのが無粋であると思ったのか、それ以上は何も言わずに下がった。

 

「お前たちも宴会に?」

「おう。霊夢が苦労してるのを見物しにな」

「いつも通り、お嬢様のお世話です。……先日はお嬢様ともどもお世話になりました」

「気にするな。あの吸血鬼の面倒事に一々目くじらを立てるのも馬鹿馬鹿しい」

 

 意味ありげに深々とお辞儀をする咲夜に霊夢と魔理沙は不思議そうな顔になるものの、特に追及はしなかった。

 咲夜もあの戦いを覚えているのはレミリアと信綱だけであるべきだと考えており、何かを言われても話すつもりは毛頭ない。

 

「それで爺さんは何の用? 見たところ阿求もいないみたいだし」

「様子見ついでに差し入れに来ただけだ。妖怪はつくづく暇な連中が多いと見える」

「そうね。もう人なんて数えるほどしかいないわ」

 

 そしてその数えるくらいにまで数を減らした人は、妖怪の方が圧倒的に多いこの空間でも平気な顔で楽しめる豪の者が揃っていた。

 明日の仕事は大丈夫なんだろうな、と信綱は呆れた目で彼らを一瞥する。念のため酔っ払って動けない場合の手助けは考えても良いかもしれない。

 無論、その場合は後で彼らにツケを支払ってもらうことになるが。

 

「あ、そうそう。差し入れってなに?」

「ツマミだ。腹に何も入れずに飲むのは身体に悪い」

「旦那様のお手製ですか?」

 

 霊夢が話していたところ、咲夜が横から入ってくる。珍しくその顔は好奇に彩られており、料理の内容に興味があることが伺えた。

 隠すようなことでもないため、信綱は咲夜の言葉に首肯する。こんな狂人でも霊夢の親代わりなのだ。

 阿求の食事を作るついでではないが、一緒に準備もできることで手を抜くつもりはなかった。

 

「私たちも食べて良いのですか?」

「霊夢一人では食い切れんだろう。魔理沙もこれを機にちゃんと栄養のあるものを食べろ」

「おっと、私にも波が来た。けど安心していいぜ、爺ちゃん。最近はしっかり栄養のあるものを作ってる」

 

 アリスが、という部分だけぼかして魔理沙は自慢げに笑う。

 信綱は魔理沙が誰に作らせているかも薄々察してしまい、半目で魔理沙を見るものの彼女に堪えた様子はない。

 魔理沙は甘え上手で、アリスは面倒見が良い。きっと大丈夫なのだろう、多分。

 また近いうちに魔理沙の家を抜き打ちで見に行こうと決心しながら、信綱は踵を返す。

 

「では俺は戻る。ああ、あと一つ」

 

 信綱は早速包を開こうとしている霊夢を制止して、包を指差す。

 

「その中にもう一つ包がある。それはお前に当てたものだから残さないように」

「……? わかった」

 

 中身のわからないものを指差された霊夢は眉をひそめるものの、すでに信綱は帰り始めていた。

 今から追いかけて聞くのも面倒だったので、それを脇に放って三人で信綱の作った酒肴を拝むことにする。

 

「爺ちゃん、料理なんてできたんだな。もっとこう……料理は女のやるもの! みたいなイメージだったぜ」

「見た目はそうかもね。でも爺さんメチャクチャ料理上手よ?」

「人は見た目によらないな……」

「まあ私と霊夢はあの人と結構接する関係だからね。魔理沙が知らないのも無理はないわ」

 

 信綱が料理上手であることを知っているのは御阿礼の子である阿求と霊夢、咲夜と他に火継と稗田の女中数名程度である。

 料理とは食べて味わうことが目的であって、誰が作ったかなどどうでも良いとすら思っている信綱にとって、自分の技術というのは教えるものであっても誇るものではなかった。

 

「まあ食べましょ食べましょ。そして飲み直しよ!」

「こりゃ明日は二日酔い確定だな」

「あ、私はもう良いわ。ちょっと味の研究するから」

「お前はお前でマイペースだな!?」

 

 誰も彼も好き勝手に過ごしている宴会なのだ。他人に合わせていたらあっという間に酔い潰れておしまいである。

 咲夜はいつになく真剣な表情で懐から可愛らしい手帳を取り出し、並べられた信綱お手製の料理を睨むように観察している。

 霊夢は霊夢でさっきまで荒れていたのは何だったのかと思うくらい上機嫌で、新しい酒をウキウキと探していた。

 これは覚悟を決めた方が良さそうだ、と魔理沙は諦めたように笑って座り直す。

 まだまだ楽しい宴会はこれからである――

 

 

 

「頭いたい……」

 

 翌日、霊夢は死人のような顔色で一人呻く。

 昨日一緒に飲んでいた魔理沙と咲夜はすでに帰っていた。泊まっていたら介護に使えたというのに薄情な奴らだ。

 信綱がこの光景を見ていたら特大のため息を吐いて、彼女に訥々と小言を言った後に先代にそっくりだと思っていることだろう。

 

「うぅ、気持ち悪い……」

 

 頭痛が響き、吐き気をこらえながら上半身を起こすと見覚えのない風呂敷が目に入る。

 

「あれ? ……そういえば爺さんが言ってたっけ」

 

 霊夢に用意したものらしいが、中身は結局見ていなかった。

 なんだろうと思ってのそのそと近寄り開けてみると、中から美味しそうな濃い草色の饅頭がいくつか出て来る。

 

「わ、お饅頭。でもなんで爺さんが私に?」

 

 不思議そうに思いながらも、霊夢はとりあえずそれを口に運ぶ。

 

「……にがっ!?」

 

 酔いも頭痛も吹っ飛んでしまうくらい苦かった。

 思わず目を白黒させて手に持つ饅頭を眺める霊夢。

 そのままもぐもぐと口の中で咀嚼し、飲み込む。徹頭徹尾強い苦味があったが、同時に丁寧に調理されたひき肉と野菜が入っており、朝食として見れば理想的な栄養の中身だった。

 そして後を引く。苦味が強いにも関わらず、一口食べ終わると次のが食べたくなる味だ。

 

「苦いけど美味しい……美味しいけど苦い……」

 

 あっという間に風呂敷に包まれていた饅頭を食べ尽くしてしまうと、霊夢は頭痛と気持ち悪さがすっかり消えていることに気づく。

 同時に風呂敷の底に一枚の紙が置かれていることにも気づき、それを取り出す。

 

「ん、なになに……」

『作り方を記しておくので、次からは自分で作るように。あと、暴飲暴食は程々に』

 

 お決まりの小言と一緒に作り方も書かれており、霊夢は自分の頬が緩むのを自覚する。

 同じ屋根の下で一緒に暮らすといった家族の在り方ではないが、こうして事あるごとに気にかけてもらえるというのは嬉しいことである。

 それにこれは二日酔いにもよく効く。次の宴会まで三日しかないのだから、これはありがたい――

 

「――いやいや、待って。おかしいでしょそれ」

 

 異常に気づく。なぜ次の宴会のことをすでに知っている。魔理沙や咲夜に聞いた覚えもないというのに。

 それになぜ三日後の宴会を当たり前のように受け入れている。昨日散々愚痴をこぼしたではないか。妖怪連中はこちらの都合など全く考えやしない、と。

 普段通りの霊夢ならそんな状況、認めるはずがない。一度や二度ぐらいならまだしも、三度四度も続くのならそれははた迷惑極まりないものにしかならない。

 抵抗して良いだろう。弾幕で追い出そうとして良いだろう。――それをする発想すら浮かばなかった。

 

「――異変が起こってる?」

 

 一度口に出すと、霊夢の中で連鎖的にこれまでの状況を受け入れていたことへの疑問が浮かんでくる。

 霊夢は顎に手を添えてしばし考えた後、無言で針と札、陰陽玉の準備をして外に飛び出す。

 

「これが異変なら――妖怪や人間に聞いて回ればいずれ大本にたどり着けるはず!」

 

 邪魔をしてくるなら全員ぶっ飛ばす。信綱から教わった対処法を忠実に実行し、霊夢は異変解決の空に飛び出していくのであった。

 

 

 

 

 

「あんた、この前の宴会には来てたの?」

 

 幽香が慣れた手つきで将棋を指しながら、不意に話しかけてきた。

 信綱もまた淀みない動きで応えつつ、盤上を見たまま口を開く。

 

「この前とはいつだ」

「十日前の最初の宴会。一番規模が大きいやつ」

「阿求様と一緒に行った。お前の姿は見なかったが」

「ふん、この私が誰かに誘われて行くようなタマに見える?」

 

 そもそも誘ってくれる相手がいるのだろうか、と信綱は不思議に感じるが口には出さなかった。

 知らない方が良いこともある。解決すべき面倒事を増やさないという意味で。

 

「ではお前は来なかったのか?」

「……博麗神社の桜は見事なものだし、一度だけ見に行ったわ。それだけ。人混みは嫌いだもの」

「そうか。……それで、いつぞやの答えはまだ探しているのか」

「あんたに勝った時に見つかる、とは思っているけどね」

「だったら無理だろうな。――王手」

「…………」

 

 信綱が無造作に置いた駒が王将を取れる位置にあることに、幽香は息を呑んで信綱を睨みつける。

 最初に指した時と比べれば格段に腕は上がっているのだが、視野を広くする方法に未だ不慣れだった。

 とはいえ最近は信綱も一部での勝負は諦めて他の場所で得を取る形にして、勝利を掴んでいるため結構危ない時もあったりする。

 感情が表に出やすい幽香は追い詰められると顔が引きつり、優勢だと判断している時は口元が緩むが、信綱は劣勢だろうと優勢だろうと自分の表情を変えたりはしない。

 現在も悔しそうに幽香が睨んでいても、信綱の表情には一切の変化がなかった。

 

「……ま、参りました」

「うむ、ありがとうございました。だいぶ腕を上げたな」

「お世辞はいらないわ。あんた、全然危なそうな顔してないじゃない」

「表に出していないだけだ。追い詰められた場面もいくつかある」

「……ふぅん、指くらいは届くようになったわけ」

 

 そういって幽香は不機嫌そうな顔のまま、盤の向かい側にいる信綱の頬に手を伸ばす。

 指一本で擦るように頬を撫で、撫でた指を見て幽香は再び不機嫌そうな息を漏らす。

 

「ふん、触っただけで崩れそうなくらいに脆いわね、人間の体って」

「そうだな。お前があと少し力を入れていたらえぐれていた」

「わかってて何もしないあんたも大概ね」

「日々言っているではないか。すでに出た結末を力で覆すなど、無粋に過ぎると」

 

 そう言って信綱は盤上の結果を指差す。

 信綱の側もかなり深くまで攻め込まれていたが、それでも王手をかけたのは信綱だった。

 だから幽香は暴力に訴えることはしない。倫理でも常識でもなく、誰でもない彼女自身がそれを認めない。

 

「だから安心ってわけ。……ハッ、大した能天気ぶりね。それだけの理由で妖怪が触れるのを許すわけ。頭にウジでも湧いてるんじゃない?」

 

 嘲るように、強がるように、悪ぶるようにそんなことを幽香は言い放つ。

 信綱はそれに対しても動じることはせず、淡々と言葉を紡ぐ。

 

「だったらそれに負けたお前はウジ以下の頭というわけだ」

「くそっ、ああ言えばこう言う……!」

「で、何が言いたいんだウジ以下」

「撤回するからその呼び方はやめなさい!」

「ほう、撤回。別に俺は頭にウジが湧いていても構わんぞ。ただお前がそれ以下になるだけで」

「ぐ……!!」

 

 顔を恥辱に赤く染め、涙の浮かんだ瞳でこちらを見上げる幽香。

 もう少し突けば彼女に謝罪させることはできそうだが、これ以上やっても面白い思いができるだけで得はなさそうなので信綱は話を切り上げることにした。

 

「……これでわかったと思うが、あまり相手を下すような言葉は使わない方が良い。自分より弁が立つ相手だと今のようになるし、そうでなくとも品格を下げやすい」

 

 そもそも信綱の知っている大妖怪の連中は生半可なことでは怒らないし、声も荒らげない連中ばかりである。

 あれを気品があるなどと表現するつもりはないが、平時は普通に接することのできる連中が、その本性を時折のぞかせるのが恐ろしいのだと信綱は考えていた。

 信綱にとっての大妖怪とは力の見せ所を理解している存在であり、本気を出すか否かを自分なりの境界でハッキリと定めている存在を意味していた。

 

「品格、品格ねえ……妖怪がそんなの気にする必要ってあるの?」

「以前にも話したが、大妖怪とは自分で言うものではない。他人からの評価に依るものだ。であれば大勢が気位が高いと判断するのはどんな相手だろうな」

「…………」

 

 ちなみにレミリアは信綱が大妖怪であると認めているだけで、人里からはなんかよく来る吸血鬼の女の子程度にしか認識されていなかったりする。

 ……というか彼女が紅魔館の主であると認識されているかすら怪しい。

 阿弥の幻想郷縁起には絵は載せておらず、人間友好度も極低と記されているだけのため、今のレミリアと結びついていない可能性が高かった。

 

 まあこれは問題ないだろう、と信綱は判断していた。

 遠い未来で彼女らが侮られるような時が来たら――その時は、彼女自らが夜の女王としての誇りとともに思い知らせてくれると信じていた。

 

 わからないのが幽香である。彼女はある意味、知られていないことが大妖怪としての恐ろしさにつながっていた。

 未知の相手は恐ろしく、既知になるとその恐ろしさは半減する。

 幸いというべきか、幽香のこの姿を知っている存在はごく限られる。筆頭である信綱も間もなく死ぬ以上、そのまま彼女が太陽の畑に戻れば再び彼女の好む花に囲まれた生活は戻ってくるのだ。

 

「花の妖怪よ。俺はお前がなぜそこまで大妖怪という称号にこだわるのかがわからない。阿求様はこれまで通りお前のいる太陽の畑を特級の危険地域として載せるはずだし、お前自身もそこから動かなければ平穏な時間は約束される」

「……あんたの考えてることは正しいわ。私も負けるのは大嫌いだけど、その考えが頭をよぎったことは否定しない」

「だろうな。お前は決して愚かではない。いや、むしろお前は頭の良い方だ」

「お世辞はいらないと言ったでしょう」

「本心だ」

「……ふん」

 

 淀みなく、しかしだからこそ嘘がないと信じさせる声に幽香はそっぽを向き、羞恥に頬を少し赤らめる。

 

「だから知りたい。なぜお前がそこまで頑なに大妖怪であることにこだわるのか。場合によっては俺も対応を変えねばならん」

「そこまで大層なもんじゃないわよ。負けるのは何より悔しいってことと――私が、私に恥じない自分で在りたいってだけ」

「…………」

「人間も妖怪も共存しようが殺し合おうがどうだって良いわ。どんな時でも私は私の在り方を変えるつもりは一切ない。花を愛でて、私に勝った人間につきまとって、自由に、穏やかに、たまに楽しく、私は咲いていたい」

 

 そう語る幽香の顔は自らの在り方を誇るそれであり、信綱は彼女に対する見方を改めることを決断する。

 

「……そうか。それがお前の在り方なんだな」

「ええ、そう。一人では見えなかった、風見幽香の本当の姿」

「見えていなかっただけで、一人でもお前はそれを体現していただろう」

 

 高嶺の花。地上の動きになど見向きもせず、ただ誰に見せるでもなく咲き誇り続ける一輪の花。

 それこそが花の妖怪風見幽香の導き出した――否、最初から持っていた答え。

 その姿を見て、信綱は軽く頭を下げる。

 

「一つ、お前に謝罪をしよう。俺はお前を見誤っていた」

「へぇ、あんたの謝罪なんて珍しいから受け取ろうじゃないの」

「俺はお前が最初、人慣れていない純粋な妖怪だと思っていた。……その評価自体が間違っているとは今も思っていない」

「認めるわ。あなたが来るまで私は何も知らず、何も考えずに花を愛でているだけだった」

「だが、あの時の俺はお前が人にもたらす影響を読み切れなかった。場合によっては俺がお前の心を人と友好的な方向に向けてやる必要があると思っていた」

「操ろうと思ったわけ。矮小な人間が――とは言わないわ。あなたはそれができるということをすでに証明している。……何度も、私を打ち倒してね……っ!」

 

 悔しいなら言わなければいいではないか、と思うがこれも風見幽香の在り様なのだろう。

 自分に対して嘘をつくことが全くできない。時にそれは親しみやすさを伴うこともあるが、本質は気高く在りたいという彼女の意気込みの表れだ。

 何を以て高嶺の花と称するか。信綱に確かな答えはなく、おそらく幽香も知らないはず。

 だからせめて自分を偽らないことで近づこうとしているのだろう。信綱はその努力を嗤わない。

 

「あなたのおかげで自分の再確認ができた。その点についてだけは感謝してあげる」

「俺もお前を知ることができた。……お前の気が済むまで、俺の時間の許す限りは付き合おう」

「あら、遠慮なくつきまとうけど良いの?」

「そうしなければ納得しないのだろう。不審に思うなら一つ話でも聞いていけ」

 

 信綱は自分から盤面に駒を並べ直し、新たな勝負を彼から仕掛けながらつらつらと口を開く。

 

「話?」

「ああ。俺がお前の相手をしようと思った理由だ」

「さっき言ってたじゃない。私を御しやすい方向に誘導しようって」

「なぜそう思ったか、その答えはあるか?」

「……人間に友好的じゃないからでしょう。それについて立ち位置を変えるつもりはないわよ」

 

 幻想郷縁起にも危険な存在であると教え、さらに太陽の畑に近づくまでの道のりにも危険であることを教える立て看板があるのだ。

 それすらも無視して人間が近づくのであれば、相応の痛い目を見せても問題はないと幽香は考えていた。

 

 そんな幽香の態度に信綱は別に構わないとばかりにうなずく。

 

「それは間違いじゃないが、正解でもない。――お前が他の妖怪と軋轢を産んだ時にこちらに面倒が来るのを避けるためだ」

「ハッ、じゃああんたの策が上手くハマっていたら、私は他の妖怪にも人間にも友好的に接するような性格になっていたってわけ。傑作だわ! あんたならやれそうって思っちゃう辺りが特にね!」

「そこまで変えるつもりはなかった。そう怒るな」

「ある程度は変えるつもりだったってことでしょうが!!」

 

 うむ、と信綱は隠す素振りも見せずに同意する。

 幽香は苛立ったようにその赤い瞳で信綱を射抜くが、相変わらず平然としていた。

 殺意に慄くなどといった真っ当な感情はこの男には無縁である。

 

「まあそれはさておき。……正直、お前は俺の知る妖怪とは思えないほどに素直だった」

「素直? 私が? 何を言って――」

「俺が仕掛けた勝負に乗ってくれる時点で素直だよ」

 

 そう言って信綱は将棋を指す手を一度止め、幽香をまっすぐ見る。

 幽香は言われて初めて信綱の掌の上にいたことを自覚したのか、頬を僅かに赤らめた。

 

「な、なによ」

「だから不安だった。変に煽られて力を振るうような振る舞いをされたら、人里に来る害が読めなくなる」

 

 本当に素直すぎて不安だったのだ。怪しい連中に何か吹き込まれそうで。

 その筆頭は自分だったのだが、そこには目をつむる。別に悪いことをさせたわけではないのだ。

 

「しないわよ、そんなの」

「今ならその言葉を信じられる。あの時は信じられなかった」

 

 それだけの話だ、と言って信綱は話を終わらせる。

 すでにこの将棋自体が信綱の仕組んだものであると暴露した以上、彼女に続ける意味はない。

 だが、一度始めたものを途中で放り投げるのも彼女としては問題があるらしく、継続の意思が彼女の指に挟まれる駒で示された。

 

「――だったら。ここからは純粋にあんたと私の知恵比べができるってことでしょう。あんたは私を認めて、私はとっくにあんたを認めてるんだから」

 

 楽しそうに笑う幽香に、信綱は軽くため息をついて付き合う姿勢を見せる。

 変に強がるくせに根は素直で、しかし一本筋の通った花の大妖怪。風見幽香。

 どいつもこいつも変にねじ曲がり、予想のできない性根を持っている信綱の知る大妖怪とは一線を画するが――己への妥協を許さない彼女もまた、大妖怪の一人なのだ。

 

「面倒な女だ」

「我ながらそう思うわ。でもこれが私。嫌なら突き放しても良いわよ? つきまとうけど」

「だったら自分にも得があるように考えた方が前向きだ」

 

 そして得は確かにあった。

 風見幽香という妖怪の素性を知り、在り方を知り、矜持を知った。

 彼女に対して過度の不安を持つ必要がないという、信綱にとって大きな情報が得られたのだ。

 琴線に触れない限り彼女は誰に対しても適度に強がり、恐れない連中は嫌々相手をしていくのだろう。ある意味自分と似た考え方である。

 

「俺にあまり時間がないのを知っているんだろうな」

「当然。だから今のうちに勝とうとしているんでしょう」

「……お前のその姿勢は尊敬に値するよ」

「だったらこれで平伏しなさい!」

「うむ、気持ちいいくらいに引っかかったな。――王手」

「嘘!?」

 

 自信満々に打った手を読まれ、あっさり王手をかけられて驚く幽香を見て、信綱は僅かに口元を緩めるのであった。

 放っておいても大丈夫だろうと思わせるくせ、どこか放っておけない妖怪の少女がそんな信綱の顔を見て、自分が嗤われているのだと機嫌を損ねるまであと僅か――

 

 

 

 

 

「うむ、俺の勝ちだな」

「ぐぬぬ……もう一回! もう一回!」

「その負けず嫌いを発揮させてしまったのは俺の失敗だな……」

 

 ……何回勝っても懲りずに挑んでくる幽香を見て、これは本当に自分が死ぬまで付きまとわれるのだろうな、と察してしまい、先ほどの笑みがため息に変わったのはご愛嬌である。




高嶺の花となって、俗世に関わらず咲き誇っていたいゆうかりん。なお自覚できたのがノッブに会ってからなので、彼が死ぬまで高嶺の花に戻るつもりはない模様。

自分に妥協しないという点においてはゆうかりんが一番強いです。
殺人に対する忌避感などもありませんが、弱者を潰すことは大妖怪のやることではないと釘を差されているためそちらも(積極的には)行いません。

そして異変に気づく霊夢。ノッブが萃香に甘すぎじゃない? と言われる場面も考えましたが、切り時が見つからずボツに。
多分霊夢たちの異変解決とノッブの死ぬ準備げふんげふん行動が並行します。ついでに言えば異変として認識されているので多分次話辺りで萃夢想は終わります。



実は100話突破より100万文字突破の方が個人的に印象に残っていたりします。私が読者だったらマジかよと思う長さです(真顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

半獣と半妖の未来

「かくしてお前は鬼退治の英雄となり、人妖の共存を盤石にした。めでたしめでたし、か」

「そこで話が終わってくれればどれだけ楽か」

「とかく世の中はままならないということだな。ははは」

 

 朗らかに笑い、休憩にしようと慧音が取材に使う眼鏡を外す。

 信綱もそれに従って身体を楽にして、手元の茶をすする。

 

 彼女の要請に従って始まった、幻想郷の英雄に至った人間――火継信綱の歴史を綴るという事業はある意味で予想通りに、またある意味で予想以上に難航していた。

 基本的に起こった事象のみを記すのが歴史であり、そこで彼が何を思っていたのか、どんな理由で行動を起こしたのか、などといった心情面は考慮する必要が薄い。

 しかしただ事実を羅列していくだけでも、彼と妖怪とのつながりは慧音の想像を絶するほどに多かった。

 

「幼少の頃は天狗や妖猫といった妖怪の山の妖怪。吸血鬼異変を境に幻想郷各地の妖怪。果ては地底に隠れた鬼とすら交流を結ぶか。私は一周回ってお前が心配になってきたぞ」

「その心配はもう三十年くらい早いと嬉しかったです」

 

 今から心配されてもどうしようもない。というか七十八の老人の未来を心配されても困る。

 ぼちぼち自分の死期はわかってきている。信綱は慧音の冗談に軽く笑って受け流す。

 

「ははは、あの時はお前も大活躍だったからな。私もお前を頼りにしていた」

「別に今でも頼ってくれて構いませんよ。先生のお願いを無下にはできません」

「そう言ってくれて嬉しいが、お前は一線を退いた身だ。こうして私の作業に時間を割いてくれているだけでもありがたいし、先生が生徒を心配するのは当然だ」

「もう生徒と呼ばれるような年齢ではありませんよ」

「なに、私が勝手にそう思っているだけだ。お前はもう私などより遥かに立派でたくましい」

 

 慧音は優しげに目を細めて信綱を見る。

 そういった無垢な信頼は信綱にとって居心地の良いものではなく、彼は慧音から視線を外し気味に茶を飲む。

 

「……そういえば。最近は吸血鬼の妹の勉強を見ているようですが、そちらはどうですか?」

「話題を変えたか、照れ屋なのは昔と変わらんな」

「どうですか」

 

 信綱が話題を戻す気はないとわかると、慧音は困ったように微笑んで信綱の話に乗っかってきた。

 

「聡明な子だよ。知識もあり、知恵もある。やや思考が狭いように見受けられる時もあるが、考え方というのも周りから教わる知識だ。自分一人では得られない見方や知見を会得すれば、彼女の自信にもつながるだろう」

「……あの子の事情はどの辺りまで?」

「特に何も。紅魔館の吸血鬼の妹である以上、相応の事情があるとは思っているがね。あの子や迎えに来るメイドが話そうとしない限り、聞かないのが筋だろう」

「…………」

「それにあの子は楽しそうに勉強している。あの顔を私の都合で曇らせたくない。言うにせよ言わないにせよ、彼女が勉強を望んで人里に害をもたらさない限り、私はあの子の味方だ」

「……彼女が先生の教えを受けられて良かった、と心から思います」

「褒めても何も出ないぞ?」

 

 くすぐったそうに笑う彼女の姿に、気負ったところは何もない。

 きっと本心で、いつも思っていることを口にしただけなのだろう。それは彼女にとって当たり前のことであり、ひょっとしたら言葉に出す必要すら感じていないことかもしれない。

 そんな風に考えられる彼女だからこそ、信綱は慧音に心からの尊敬を向けることができるのだ。

 

 自分が人里で対外的に作っている人格の一部は、慧音を参考にしている。

 生真面目で慈悲深く、やや堅物なきらいはあれど優しく暖かく、誰であろうと見捨てることは決してしない。

 彼女の行動や言葉を真似ることは、それだけで真人間に近い行動になると幼い信綱は無意識に理解していたのだろう。

 

「最近では妖怪も勉強したいと言う輩がいてな。さすがに人間と同じ教室での勉強は万一が怖いから、青空教室でも開こうかと考えている。夜行性の妖怪もいるだろうから、夜の部なんかも作ったりしてな」

「先生に休む暇がないではありませんか」

「今が楽しいのさ。それにさすがに一人でやるつもりはない。天狗の方でも知見の深いのが探せばいるはずだし、そういった者たちと話しながら進めていく」

 

 今が楽しい。そう言った慧音の姿を見て、今度は信綱が感慨深そうに目を細める。

 

「む、どうした。そんな嬉しそうな顔をして」

「……いえ。勘助と伽耶の婚姻が決まった時の話を思い出しまして」

 

 あの時、彼女は確かに妖怪に対する怒りを浮かべた。

 理不尽に晒され続け、抗う権利すら得られず、弱くて数が少ないという理由だけで搾取され続けた時代を知る者として。

 そんな彼女が今は妖怪と迎える明日を笑って話している。その事実が信綱には無性に嬉しかった。

 

 慧音も覚えていたのだろう。照れ臭そうに笑って頬をかいた。

 

「あはは……あの時の感情に嘘はないが、覚えていたとは恥ずかしいな」

「覚えますよ。いつも公明正大な先生が吐き出した私情でしたから」

「私情は結構素直に出している方だぞ? 元々誰かを叱るのはできても、自分のために怒るのは苦手なんだ」

「だったらそんなあなたでも怒るほどのものが溜まっていたということでしょう」

「やめてくれ。自分では不甲斐ないと思っていたんだ」

「ですが、あの時の言葉がなければ私は人と妖怪の関係について考えることはしませんでした」

 

 そして椛の願いを受けて信綱は人里の英雄としての役割を、妖怪との関係を共存に向けるものだと定義付けた。

 その英雄としての役目はすでに果たし終え、今は皆がそれぞれの形で共存をより具体的なものに昇華している。

 

「先生には本当に感謝しています。あなたがいなければきっと自分はここにいなかった」

「よせよせ。お前を導いたなんて言えるほど大それたことはしていない。誰に対しても等しく、私は教育を施しただけだ。何かを得られたのなら、それはお前自身の掴んだものだ」

 

 それでも、と信綱は言葉を重ねようとするが、慧音が本当に恥ずかしがっている様子から黙っておくことを決める。

 きっと彼女はこれからも変わらず寺子屋の教師をやって、居眠りする生徒には頭突きを贈り、時に厳しく、時に優しく、幻想郷の住民を見守っていくのだ。

 信綱が彼女への尊敬を込めて視線を細めていると、慧音は暑そうに手で自分の顔を扇ぎながら、話題を元に戻す。

 

「わ、私のことは良いだろう! そんなに褒めちぎられると恥ずかしくてどうかしてしまう! もう休憩は良いだろう、話を戻すぞ!」

「わかりました」

 

 慧音の強引な話題の変更に信綱は素直にうなずく。これ以上は彼女も本気で嫌がるだろう。

 

「では取材を続けよう。今日はお前がとことん付き合ってくれると言うからな。徹底的にやるぞ」

「ええ、こちらもそのつもりで参りました。鬼退治を終えた辺りまで話しましたか」

「そうだな。さあ、次はどんな話が出て来る。もうお前に関する話は何が来ても驚かん」

 

 そこまで荒唐無稽な人生を送っていただろうか、と己の人生を省みてしまう信綱だった。

 但し、結果は慧音が身構えるのも無理はないとわかってしまうような人生を送っているという、無慈悲なものだったが。

 半生を振り返り、言いたくないものと言って良いもの。後世に残すべきだと思うものを頭の中で分けていく。

 

「では次に話すべきはスペルカードルールの制定ですね。あれはかなり時間がかかった」

「弾幕ごっこか。八雲紫が配布した以上、彼女が主体になっていることは予想できるが……」

「それは間違っておりません。私やレミリア、天魔らを招集したのは彼女です」

「ほう。彼女が幻想郷の実情を最も憂いていたというわけか。さすが幻想郷の賢者と言うべきかな」

「……いずれにせよ、どこかで考えなければ行き着く先は袋小路でしたから」

 

 実のところ、誰も声をあげていなければ信綱が行っていたかもしれないことでもある。

 人間と妖怪の争いに命が懸からないものを。得るものなど何もなく、他者が泣くばかりの結末しかない関係に終わりを。

 

「…………」

「信綱?」

 

 なぜ、どうして、と。彼女と自分の共通の友人である彼女の慟哭は二度も見たいものではなかった。

 あるいは、彼女も殺していれば自分は今のような懊悩を抱かずに済んだのかもしれない。

 そもそもこのような御阿礼の子以外の些事に心煩わせている時点で、阿礼狂いとしては失格かもしれないが。

 

「私も必要であるとは常々思っておりました。あの時は私が剣を振るえば良かったですが、それは永遠にできることではない。私が死んだら人間の立ち位置は再び低くなりかねない」

「否定はできんな。お前は飛び抜けて優秀で――優秀過ぎた。お前一人で人里の評価のみならず幻想郷すらひっくり返したのは紛れもない偉業だが、お前に匹敵できる輩は妖怪にもほとんどいない」

「そうですね。だからこそ、後に続く道が欲しかった」

 

 人妖が関わりやすい土台を作ることはできた。

 関わりやすいということは諍いも起きやすいということ。そうなると、旧態依然の殺し合いでは人間が不利に過ぎる。

 故に双方が同じ土台に立てるもの――要するに両方が初めて扱うものを作りたかったのだ。

 弾幕ごっこの歴史は非常に浅く、人も妖怪も差がない。どちらも同じ時間を費やし、同じ条件で限りなく対等に戦うことのできるものになっている。

 

 無論、この点で言えば将来的には妖怪側に差ができるようになるが――そこは、未来の人妖がどうにかしてくれると信じよう。そこまで先の話は信綱にも見透かせない。

 

「いずれスペルカードルールは誰にでも扱えるように形を変えていくでしょう。より簡易に、より安全に、より楽しく遊べるものに。慧音先生はその辺りの歴史も綴るのですか?」

「当然だ。私も歴史という潮流の中に生きるものとして、より良い明日を願いながら過去の道程を綴っていく。それが半獣として生きる私の役目であると考えている」

 

 そう言うと、慧音は眩しそうに目を細めて信綱を見る。

 阿礼狂いの一族に生まれ、異例の速度で側仕えに就任し、阿七に子供扱いされることに不満そうにも嬉しそうにも見える顔だった少年がここまで来た。

 ここまで走ってきて――ここが彼の終着点だ。慧音はその事実を噛みしめ、それをおくびにも出さず明るい声を出す。

 

「……だからこそ! お前の行いはしっかり書物に残すべきなんだ。さあ、今日は夜を徹して取材するぞ!」

「いえ、阿求様の側仕えがあるので限度はあります」

「本当に変わらんなお前は!?」

 

 そしてそんな変わらない姿に、慧音は僅かな違和感を覚えた。

 阿求の側仕えを何よりも優先するのなら、この時間すらさっさと切り上げて帰ろうとするだろう。

 しかし、今の信綱は面倒そうな様子ではあるものの、慧音の話には付き合う姿勢を見せている。

 その様子が、慧音にはまるで憂いなく死を迎えるための準備に見えてならなかった。

 

 それらを伝えることはしない。言ったところで彼の命数が残り僅かなのは変わらず、彼は最期までその在り様を貫き続けるだろう。

 ならばできることはこの短い時間を有意義に使うことだけ。そしていつも通りに振る舞い、話ができるこの瞬間を慈しもう。

 何も特別なことではない。――慧音が人と接する時は常に心がけていることだ。

 

 この日は慧音の宣言通り本当に日が暮れるまで取材は続き、信綱は新たな歴史を綴ろうと子供のように目を輝かせる慧音に付き合い続けるのであった。

 

 尤も、当然とも言うべきかそうして作られた歴史書は極めて難解な言い回しの上、語られる内容が内容のため、彼の人となりを記した幻想郷縁起と比較すると実に知名度の低いものになるのだが――信綱には関係のないことである。

 

 

 

 

 

 香霖堂は基本的に――というか全体的に店主が趣味でやっている店である。

 品揃えは彼の好み。営業時間も彼の好み。当然、休みだって彼の好きに設定される。

 商売をナメているのかと言わんばかりの行動ではあるが、類は友を呼ぶと言うべきかそんな彼の店に集まる連中は揃いも揃って彼の事情などお構いなしにやってくるものばかりとなった。

 店主である森近霖之助は日々増えていくため息をつきながら、今日も今日とて博麗の巫女が押し付けてきた服の修繕や、面白そうな品物を持っていこうとする魔理沙をたしなめる日々を送っているのであった。

 

「だから僕にも少しぐらい役得があってもいいと思うんだ」

「そんな自由に生きられている時点で十二分に役得だろう」

 

 場所は香霖堂の居住区。店の奥にある寝食をする場所で霖之助は信綱と向かい合って酒を飲んでいた。

 性格そのものは物静かで知的な霖之助は、あまり騒がしいところでの酒宴よりもこうして気心の知れた相手と向き合って飲む酒の方を好んでいる。

 そうして彼は自分に商人の道を示してくれた恩人であり、友人である人間の英雄を招いて酒を飲んでいるところであった。

 

「しかし珍しいこともあるものだ。まさかあなたが酒肴まで持って僕のところに来るとは」

「魔理沙への差し入れのつもりだった。尋ねてみたらいなかった」

「少し前に霊夢が彼女を引きずっていたね。紅魔館のメイドも一緒だったと記憶している」

「ふむ」

「相当慌てていた、というよりは鬼気迫っていたかな? まるで異変解決をしているみたいだった」

 

 ほう、と信綱は感心の声を上げる。

 意外と気づくのが早かった。信綱の予想ではもう五日ほどは気づかず宴会を続けると思っていた。

 

「最初に気づいたのは霊夢だったのか」

「あの様子だとそうなるのかな。にしてもその口ぶり、あなたはすでに知っていたようだけど」

「昔取った杵柄というやつだ」

「へえ、差し支えなければ教えてもらっても良いかな?」

「構わん。かつて地底に隠れた鬼の首魁が一人、伊吹萃香が此度の異変の黒幕だ」

「人里での修行時代に聞いた覚えがあるね。あなたが倒した鬼だったか」

「あれは祭り好きなのだろうさ」

 

 鬼の決闘は多くの人間が見ている前で行うべきだと考えているに違いない。

 でなければ百鬼夜行の時に人里の人間を萃めるなんて所業、行うはずがなかった。

 結果としてそれは信綱の逆鱗に触れてしまい、あわや大惨事になりかけたのだがそこは彼女の責任である。

 

「俺はとうに一線を退いた爺だ。度を越さない限り動くつもりはない」

「もう時代は霊夢たちのものか」

「そういうことだ。気楽で喜ばしい」

「どうかな。あなたの顔は霊夢たちが心配で仕方がないという顔だけど」

「あまり俺を善人扱いするな。そこまで節介を焼くつもりはない」

 

 霊夢を鍛えたのは自分なのだ。彼女の力量は一番良く知っていた。

 弾幕ごっこなら彼女より上手いものを信綱は知らない。本物の殺し合いならわからないが、スペルカードルールの範疇でなら間違いなく最強の一角だろう。

 

「お前こそ魔理沙が心配ではないのか。弥助から頼まれているだろう」

「魔理沙はこれまで二度、異変の解決に赴いている。もう僕なんかより強いだろうし、状況の把握もできるはずだよ。負けん気も強いけど、無理なものは無理と見極める判断力も備えているさ」

「やけに持ち上げるな」

「親父さん譲りだよ、あの目利きは。ここで何度も良い商品を持って行かれた僕が言うんだから間違いない」

 

 そして霊夢にも隠しておいた良品ばかり持って行かれる、と霖之助は朗らかに笑いながら大損害の話をする。

 その話を聞いて、信綱は逆に渋面を作った。

 

「あの二人は……どこで遠慮というものを忘れたのか。好き勝手して人の信頼を失うと面倒だと言っているのに」

「本当に不味い人にはやらないと思うよ。あれは相手が僕だからこそできることさ」

「それで良いのかお前は……」

「まあ、ちょっと残念だけどあの二人なら仕方がないと思えるようなものばかりだよ」

 

 お人好しというか、ちょっと二人に甘すぎるのではないかと思う信綱。

 自分だったら罠でも仕掛けて捕まったところに、生まれてきたことを後悔するぐらいの罰を与えるところである。

 ちゃんと正面から言ってきたのであれば一考するが、勝手に持っていくのであれば容赦はしない。

 

「それに魔理沙や霊夢からは何かと気にかけてもらっている。魔理沙は無縁塚から道具を持ってきてくれることもあるし、霊夢は妖怪除けの御札とかを持ってくることもある」

「等価交換になっているのか?」

「妹分に頼られる兄貴分という役割ができる僕の役得含めて、サービス価格だね」

「……わかった、もういい」

 

 本人が不満に思っていないのだから問題ないのだろう。きっと。

 信綱は大きなため息をついて、手元の酒を呷る。

 芳しい吟醸香が鼻に抜け、喉を焼く酒精が胃に流し込まれる。

 味としてみれば上質。酒としては酔えない信綱には評価ができないが、霖之助の顔を見れば良い反応であることがわかった。

 

「あなたが持ってきてくれる酒は良いものばかりで嬉しいよ。安酒を大量に飲むより、良い酒を少しずつ飲むのが好きなんだ」

「俺の周りには飲めればなんでも良いという連中ばかりだった」

「はは、あなたの奥さんもそう言えば大酒飲みだったか」

「鬼と競い合うほどのな。しょっちゅう晩酌に付き合わされた」

 

 酔わない体質であることに感謝したのは良い思い出である。

 おかげで彼女に付き合わされてもケロッとした顔でいることができた。

 

「お前はどうなんだ。酒は」

「僕? 修行時代に親方と一緒に挨拶回りをした時とかにはよく飲まされたよ。僕はほろ酔いぐらいが好きなんだけどね」

「弥助は酒が好きだったな。あいつの父親も酒はよく飲んでいた」

「一緒に飲んだことが?」

「霧雨商店の大黒柱になる前から何度もな」

 

 霖之助と話をしていると、必然的に共通の話題である霧雨商店の話になることが多い。

 かつての友人を想うことができるこの時間を信綱は好んでいた。

 

「親方はあなたのことを大恩のある人だと言っていたけれど、大旦那様にも似たようなことを?」

「相談に乗ったことは何度もある。というか、弥助が生まれる原因の何割かは手伝っているぞ」

「……? どういう意味で?」

「おしどり夫婦として有名だったがな。あの二人がくっつくまで色々あったんだよ」

「そこにあなたが関わっていると。面倒見が良いのは昔からなんだね」

「相談に乗るだけなら誰でもできる」

「解決策を提示するのは難しいことだよ。僕に霧雨商店を教えてくれたように、あなたにはそれができていると思うけど」

「お前のことが信じられなかった。だからこちらで主導権を握りたかっただけだ」

 

 得体の知れない相手とは関わらないか、あるいはこちらで制御できるようにしてしまうことが肝要である。

 手綱さえ握ってしまえば、後はどうとでもできる。

 

「ふふ、だけど修行時代は楽しかったよ。多くの人妖が訪れる様を見て、幻想郷も本当に変わったのだと実感した」

「昔からここにいたのか?」

「あなたが生まれるより前からね。とはいえ、昔は人の来ない場所を選んで居を構えていたから、あなたが気づかないのも無理はない」

「ふむ……」

 

 霖之助が何を思って人と関わりを持ち始めたのかは彼にしかわからないが、少なくとも人里にとって悪い方向に作用しているわけではない。

 ……あまり良い方向に作用しているとも言い難く、毒にも薬にもならないと言うのが正確だが、霖之助に不満はないようなので何も言わないことにする。

 そうして話が途切れると、霖之助はゆっくりと信綱が持ってきた酒肴を口に運ぶ。

 味噌の濃い塩辛さと新鮮なイワナのコリコリとした歯ごたえ。それに香り付けと思われるゆずの香りが霖之助を楽しませる。

 

「……おお、美味い。酒が進む味だ」

「そうなるように作った」

 

 先代もしょっちゅう信綱を顎で使って作らせたものである。途中で面倒くさくなって手を抜いたことも何度かあるが。

 実に美味そうに酒と酒肴を食べる霖之助だったが、不意に真面目な顔になって信綱の方を見る。

 

「……時に、魔理沙はどうなんだい?」

「どう、とは」

「僕は戦う人間じゃない。魔理沙みたいな弾幕は撃てないし、魔法だって門外漢だ」

「そんなもの俺も同じだ。魔法は魔理沙の方が遥かに詳しいだろう」

 

 そして魔理沙以上に詳しいと思われるのが紅魔館の魔女と、アリスである。

 紅魔館の魔女であるパチュリーに聞くのは信綱の感情が拒否する。阿弥を害した彼女に頭を下げるのはよほどの利益が見込めない限り死んでも嫌だ。

 

「言い方が悪かったね。僕が言いたいのは、彼女はこの幻想郷で妖怪たちとやり合っていけるかどうか、ということだ」

「……これは俺の私見であり、これから話すことの一切を彼女に伝えないことが条件だ」

「約束しよう。どのみちあなたにも僕にも、あの子の人生を決める権利なんてないのだから」

 

 弥助も誘えば良かったな、と信綱は内心で思いながらも言葉を選んで口を開く。

 

「――向いていると思う。ひょっとしたら俺以上に」

「その心は?」

「これからの幻想郷で必要なのは武力でも知略でもなく、スペルカードルールにおける力だ。この遊びに長けていればいるほど、彼女の価値は高まっていく」

「最初期からやっている彼女は大きな価値があると?」

「もうある程度の妖怪には名を知られている。俺があの子ぐらいの歳の時は烏天狗一人倒せず、無名のままだった」

 

 弾幕ごっこの土俵であれば、魔理沙は普通の烏天狗程度なら相手にならないだろう。それだけ弾幕には上手くなっていると見ていた。

 烏天狗を相手に勝利が得られる。その時点で当時の信綱より先に進んでいると言っても過言ではない。

 

「通常の妖怪退治も問題なくこなしている。これはお前が贈った八卦炉の力もあると思うが」

「活用されているようで何よりだよ。それにしても絶賛するね。もう少し厳しい意見が出ると思っていた」

「能力に色眼鏡はかけない。スペルカードルールに強いというのは、それだけで重要な意味を持つ」

 

 むしろそうなるように仕向けたのだが。これで弾幕ごっこで負けても殺し合いなら負けない、とかになったらまた妖怪が優位の世界に逆戻りである。

 魔理沙はそんな信綱の意図に真っ先に順応した存在と言えた。

 

「へえ、すごいな。僕にはまだ年頃の娘のやんちゃにしか見えていなかったけど、もうあの子はそこまで力を付けていたのか」

「霊夢を追いかけて、という話だったがな。霊夢にはまだ届かずとも、十二分に強くなっている」

「霊夢はそこまで強いのかい?」

「幼少の頃を考えるとな……」

 

 魔理沙の努力は信綱でも手放しに賞賛するくらいだ。

 幼少の頃から信綱が全力で稽古を施していた霊夢と違い、魔理沙が修行を始めたのは比較的最近である。

 それでもう人間の中では霊夢に匹敵するほどに弾幕ごっこの力量を身につけたのだから大したものとしか言いようがない。

 

「まあそれはそれとして自炊はしっかりしてほしいが」

 

 彼女が将来どうなるのかはわからないけれど、できることが多くて困ることはない。

 花嫁修業、と大上段に構える必要こそなくても最低限の自炊はできるようになって欲しい信綱だった。

 

「あはははは……最近はアリスにたかっているとか聞いたな」

「やっぱりか。今度また抜き打ちで部屋を見に行く必要が出てきた。全く、老骨を安心させようとは思わないのか」

「皆あなたに甘えているのさ。一人でいると、自分をちゃんと見てくれる誰かが嬉しいものだよ」

「そんなものか」

 

 一人暮らしというのをしたことがない信綱にはわからない感覚だ。

 そもそも阿礼狂いである彼に、孤独なんてまともなものを感じる機能が付いているかも疑問である。

 

「そんなものだよ。……っと、酒がなくなりそうだ。まだあったはずだから、用意してこよう」

「いや、良い。俺はそろそろ戻る」

「そうかい? 確かにもう夜も遅いか。あなたが襲われることはないだろうけど、気をつけて」

「ああ」

 

 そう言って信綱は立ち上がり、香霖堂の出口に向かっていく。

 去り際、そんな彼の背中に霖之助の落ち着いた声が届いた。

 

「――毎度あり。あなたはこの店を開いて良かったと思えるお客さんだ」

「……何もめぼしいものは買わなかったがな」

「あなたは時間を売って、僕は友人との楽しい時間を買った。十分に商売は成立している」

「本当に口の減らない男だ」

「それが僕だからね。そうだ、どうせなら薀蓄の一つでも聞いて行って――」

「じゃあな」

 

 さっさと出ていった信綱の後ろ姿に苦笑して、霖之助は友人の背中を見送るのであった。

 

 

 

 

 

「……やっと来たかい」

「ええ、来たわよ。――あんたがこの異変の元凶ね!」

「――そうさ、その通り! この伊吹萃香様がお前達を萃めて宴会を起こし続けた黒幕さ!」

「やっと見つけた……! 人の家でさんざん宴会を開いてくれた落とし前、つけてもらうわよ!」

「ふふん、意外と早かったじゃないか。もうちょっとかかると思ってたんだけどね」

「お生憎様。博麗の巫女ナメんな!」

 

 ようやく異変の元凶にたどり着き、鼻息荒く中指を立てる霊夢に萃香は獰猛な笑みを浮かべた。

 

「うむ、さすがさすが。私の予想を越えた時点でもうお前さんは面白いよ。それに――その三人は一体?」

「異変について聞いて回ってる時に暇そうだったから引きずってきた」

「引きずられた一号だ。霊夢が異変だとか騒ぎ立てた時は何事かと思ったけど、まさか後ろに鬼がいたとはな。こりゃ面白くなってきたぜ……!」

「引きずられた二号です。概ね魔理沙と同じ感想だけど、鬼はお嬢様一人で十分だと常々思っておりましたから――あなたを倒してお嬢様にお届けしましょう」

「引きずられた三号……いやまあ、斬ればわかると斬りかかって負けた以上付き合うけど」

「……また面白い連中を揃えたもんだ」

「敵は増やすな、味方を増やせ! 四人でかかれば鬼だって余裕よ!」

 

 霊夢の後ろにいる魔理沙、咲夜、妖夢の計四人を見て、萃香は堪えきれないとばかりに嗤う。

 

「ハッ――ハハハハハハハハハッ!! 随分と侮られたものだな! 私を倒すのにたった四人?」

 

 萃香が手を一振りすると、彼女と同じ見た目、同じ気配の少女が新たに三人作り出される。

 疎と密を操る程度の能力。いつかの百鬼夜行と同じく、彼女は自分の力を分割して分身を作り上げたのだ。

 それに目を見開く霊夢たちに、萃香は侮られた妖怪としての怒りと鬼の矜持をその目に宿し、堂々と胸を張り宣戦布告をした。

 

 

 

「百鬼夜行の災害を前にその言葉を吐いた後悔、その身に刻んでやろうじゃないか!!」

「上等!! あんたをぶっ飛ばしてこの異変はおしまいよ!!」

 

 

 




リアルの方でドタバタしてしまい、少し遅くなりました。次はもう少し早く投稿できると思います。

慧音先生は模範的な大人というか、この人を見習ってれば真人間になるような人物をイメージしています。
こーりんは適当な趣味人だけど、身内のことはちゃんと考えているてきとーな兄貴分。適当とてきとーのニュアンスの違いは心で感じてください(無茶ぶり)

そして霊夢たちの場面はなんか良いところで終わってますが、ノッブが感知するところではないので次回には異変が解決しています。長く苦しい戦いだった……。

次回からは一気に巻に入ります。ノッブが残した課題を一気に終わらせて、椛と橙とのお別れも済ませる……済ませ……られたら良いなあ(願望)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最後に託すべきこと

 信綱が所要のために霧雨商店を訪れると、中から笑い声が聞こえてきた。

 

「やってるか、弥助?」

「――で、その時に私のマスタースパークがドカンと黒幕の身体を貫いてだな!」

「お、おう……鬼と戦ったとかまずおれはお前の身体が心配だぞ? って、お客さん――信綱様じゃないですか! いらっしゃいませ!」

「楽しんでいるところに悪いな。稗田の家でそろそろ少なくなってきた備品がある。万一がある前に補充しておきたい」

 

 そう言って信綱は弥助に必要なものをまとめた紙とその分の金銭を手渡す。

 それを見た弥助は大きくうなずき、金銭をしまい込むと立ち上がる。

 

「かしこまりました、すぐに用意いたします!」

「ああ、そう急がんでも良い。そこまで火急の用ではないから、今日中に運ばれるなら多少は後で構わない」

 

 魔理沙と積もる話もあるだろう、と信綱が魔理沙に視線を向けると、彼女は快活そうな笑みを浮かべた。

 

「ちょうど良いや、爺ちゃんも聞いていけよ! 私と霊夢たちの華麗な異変解決についてさ!」

「ふむ、興味深いな」

 

 異変の情報は貴重である。信綱はその現場にいなかった以上、情報を知る手段は彼女らの言葉しかないのだ。

 理想を言えば阿求の前でやってもらうのが良いのだが、そういった堅苦しい場所は霊夢も魔理沙も嫌がる。

 彼女らが気持ちよく話してもらえるうちに聞けるだけの情報を聞いておくのが良い。

 

「だろ? いやあ、黒幕の正体を知ったら爺ちゃんも驚くと思うぜ!」

「ほう。弥助も座ったらどうだ? 異変に挑んだ娘の武勇伝だ。聞いて損はないぞ」

 

 手近な椅子に腰掛けて、弥助を手招きする。

 彼は多少の戸惑いを見せたものの、やはり娘と語らう誘惑には勝てなかったのだろう。恐縮しきりな様子で信綱の隣に腰掛けた。

 

「や、やっぱり恐れ多いですね」

「まだ言うのか。普通に商談の時は気にしないだろうに」

「しょ、商売の時は別ですよ!」

 

 一線を退いて長いというのに、いい加減普通の客として扱ってほしいものである。

 信綱が困ったような呆れたような目で弥助を見ていると、不思議そうに思った魔理沙が口を開いた。

 

「……なあ親父。そう言えば昔っから親父って爺ちゃんにやたら腰が低いけど、なんかあんのか? 弱味でも握られてんのか?」

「は!? お前、この人におれがどれだけ世話になったか話してなかったか!?」

「聞いたかもしれんけど忘れた」

 

 身内ならともかく、他人の武勇伝など子供の頃に聞かされても眠くなるだけである。

 魔理沙の返答に弥助はわなわなと身体を震わせていたが、信綱は逆に魔理沙を擁護するようにうんうんとうなずいていた。

 

「昔の話だ。気にしないでいいと言っているんだがな」

「無茶言わないでくださいよ!? 信綱様は今だっておれの憧れなんですから!!」

「憧れ、ねえ……そういえば霊夢も爺ちゃんのことはあんま詳しくなかったな」

「昔のことなどひけらかすものでもないだろう。お前たちは人と妖怪が同じ場所で生きる幻想郷に生まれ落ちた。それで終わりだ」

 

 スペルカードルールも普及した現在、あの頃のような戦いの歴史など消した方が良いとすら思ってしまう。

 名誉のための戦いなどではなく、ただ成すべきを成しただけなのだ。

 

 信綱は今の状態に文句などないどころか、むしろ歓迎していた。

 あまり目立つのが好きな性根でもないのだ。ただひっそりと御阿礼の子に仕えていたいだけである。

 

「いいえ、おれは納得できませんね! 信綱様のしたことは広められるべきです!」

「親父がそこまで言うのもすげえな。どんなことやったんだ?」

「紅魔館からやってきた吸血鬼の退治に始め、人里で妖怪と会える場所の整備。果ては鬼退治まで――」

「――弥助」

 

 魔理沙の疑問に答えるようにまくし立てる弥助の言葉を信綱は静かに遮る。

 普段通りの声音だが、話を止める何かが含まれているそれに弥助と魔理沙は信綱の方を見た。

 

「お前は昔から決めたことに対してまっすぐ過ぎる。せめてこの場にいる当人の意思ぐらい優先しろ」

「で、ですが……」

「魔理沙。弥助の口からでは誇張が入りかねんから、俺がある程度話してやる。それで気が済んだらお前の話も聞かせてくれ」

「ああ、構わないぜ。しっかし、驚いたな。今の親父ってなんかミーハーなファンみたいだ」

「言い得て妙だな」

 

 しかも割りと本人にとって迷惑な方向である。

 自分が良いと言っているのだからそれで納得して欲しいのだが、と信綱は内心でため息をつきながら魔理沙と弥助の方を見る。

 

「まずは魔理沙の知識の確認からだ。お前はスペルカードルールが普及したのがごく最近だと言うのは知っているな?」

「当たり前だろ。んで、人里全体での妖怪との共存も比較的最近だ。二、三十年ぐらいか?」

 

 魔理沙の知識にうなずく。これならほぼ最初から話しても良いだろう。

 

「では話してやろう。吸血鬼異変は知っているか?」

「紅魔館が幻想郷にやってきた時の異変だろ? 死人が出たって習ったぜ」

「うむ。そしてそれを解決したのが当時の博麗の巫女で、俺の妻に当たる」

「だから霊夢は爺ちゃんと仲が良いのか……。あれ? 今の話だと爺ちゃんの自慢になりそうな部分がないぜ?」

「俺もその異変の解決に同行していた。あの当時のレミリアの姿を拝んだこともある」

 

 拝んだどころか彼女を切り刻んだのが自分だが、その辺りは伝えない。

 この異変の解決者は先代であり、自分はそれに同行しただけの人間。そういう取り決めだった。

 

「マジかよ。ってことはつまり……」

「スペルカードルールなし。足も速けりゃ力も強い妖怪を相手に刀一本で戦って、生き残った人ってことさ」

「へえ……」

「なんだよ、気のない返事だな」

「いや、だって普通の妖怪退治ぐらいなら私もやるしさ……。普通の人間に比べたら爺ちゃんはすごいってことか?」

「そんなところだ。もう立派な魔法使いであるお前と比べたら天と地の差だ」

「んなこたぁないですって! 信綱様はそこから人と妖怪の共存を取りまとめたじゃないですか!」

「あれも天狗が同じ道を見ていたからできたこと。俺一人の力では到底不可能だった」

 

 弥助には信綱が謙遜しているように見えるのかもしれないが、信綱にとってそれは全て真実を語っているつもりだった。

 今の自分であれば魔理沙は鎧袖一触に倒せる。だが、同じ年頃であれば不可能だと断言できる。

 

「あれ? 爺ちゃんの話に天狗って出てきたか?」

「言ってなかったか。俺は当時八代目の阿礼乙女――稗田阿弥様にお仕えしていた。阿弥様の主導で幻想郷縁起の編纂をすべく、妖怪の山に赴いたことがあったんだ。その時に天魔と知り合った」

「天魔、か……想像がつかないけど、やっぱ威厳がある感じなんだろうな……」

 

 その予想はある意味で大外れなのだが、真実を教える必要もないので黙っておく信綱だった。

 それに天魔に威厳がないわけではない。普通に想像するものとは多少毛色が違うだけであって、有事の際には全ての天狗が無条件に平伏するだけの覇気を持っている。

 

「その時に天狗の中で派閥間の内乱があったが、まあこれは省こう」

「いやいやいやいや、初耳ですよそれは!?」

「人里では大した騒ぎになっていないからな。天狗もほいほい人に話したりはしないだろう」

「その内乱はどうなったんだ?」

「今のように人間と共存すべきだという共存派と、逆に人間を支配しようという支配派。この二つが争って後者が負けた」

 

 負けたというよりは信綱が殺したというのが正確だが、これまた黙っておく。

 弥助の目がこの人は絶対巻き込まれたらタダでは起きない、という猜疑心に満ちたものになっているが気にせず話を続ける。

 

「それで人里で場所を区切っての妖怪との交流区画を整備。その後――鬼が来た」

「鬼って……」

「百鬼夜行だ。百人以上の鬼が幻想郷のあらゆる場所を蹂躙しようとやってきた」

 

 人里は言うに及ばず博麗神社に紅魔館、妖怪の山も襲われたらしい。

 博麗神社は信綱が送り込んだ火継の人間が、その身を犠牲にして博麗の巫女を人里に寄越し、紅魔館は自力で撃退。妖怪の山は地形を利用しての時間稼ぎに徹していたようだ。

 

「そこで戦う羽目になってな。生きた心地がしなかったよ」

「何言ってんですか! 人里が大騒ぎになってる中で、おれにも避難の手伝いをするよう指示してくれたり、一人で鬼に立ち向かったり……あの時の姿は絶対忘れませんよ!」

「やめてくれ。柄でもない説教をしたと思っているんだ」

「それで、戦いはどうなったんだ?」

 

 弥助から向けられる熱い尊敬の視線を鬱陶しく感じていると、横から魔理沙の好奇に満ちた瞳が向けられる。

 

「百鬼夜行の主を倒すことで終了となった。もう一度やれと言われても御免こうむる」

「……その鬼の名前って伊吹萃香って言わないか?」

「……よく知っているな」

 

 魔理沙の自慢したそうな顔と今回の異変の黒幕を知っている関係上、すぐに結びつけることができた。

 できたが、あえてとぼけることで魔理沙に気持ちよく話してもらうことにする。

 

「へへっ、その伊吹萃香。今回の異変で私たちが倒したんだぜ!」

「ほう、大したものだ」

「だろ? 親父も聞いたか? 爺ちゃんが大したものだってさ。私の活躍は幻想郷に広まってるってことさ!」

 

 魔理沙の言葉に対し弥助は反射的に反論しそうになるが、信綱が魔理沙には見えない角度で静かにするよう指を立てていたため何も言えなかった。

 何か言いたそうにしている弥助を横目に、信綱は穏やかな顔で魔理沙を激励する。

 彼女も霊夢と並んで今後の幻想郷に必要な人間だ。スペルカードルールの中では最強の一角になるぐらいはして欲しいものである。

 

「その調子で頑張ってくれ。スペルカードルールが広まれば広まるほどありがたい」

「おう! この調子でいつか霊夢も爺ちゃんも追い越してやるぜ!」

「その意気だ」

「じゃあ私は帰って魔法の練習するかな。親父も酒ばっか飲んでないで商売しろよー!」

 

 そう言って元気に走り去っていく魔理沙の小さな背中を見送り、信綱と弥助は顔を見合わせた。

 

「元気が良くて何よりだ」

「やんちゃすぎて頭を抱えてますよ。それより信綱様は良いんですか?」

「賞賛が欲しくてやったわけじゃない。それに結果だけを見れば魔理沙の行いと俺の行いに差はない」

 

 スペルカードルールを使ったかそうでないか程度の違いだけである。

 魔理沙たちは鬼に挑み、勝利した。信綱が二刀を以て彼女を下したことと何の変わりもない。

 

「魔理沙ぐらいの歳の頃は俺も剣を振るしかできなかった。成長したらどうなるか、楽しみですらある」

「……いつかあいつらが信綱様より有名になったとしても、おれは信綱様のことは忘れません。今の幻想郷の形を作ったのは間違いなくあなたです」

「……好きにすればいいさ。お前の考えを咎めるつもりはない」

 

 さて、と立ち上がる。魔理沙もいなくなった今、信綱にも霧雨商店で管を巻く理由がなくなってきた。

 

「そろそろ俺も行く。魔理沙は元気が良いが、私生活は非常に適当だ。時々見に行った方が良いぞ」

「はは、わかりました。最近来ている人形遣いの嬢ちゃんや外を出歩くのを仕事にしている人たちに話してみますよ」

「そうした方が良い。俺もいつまでも行けるわけではないからな」

「はい。……おれが生まれてからずっと、信綱様にはお世話になりっぱなしですね」

「大人は子供の世話がしたいものなんだよ。子供がいくつになっても」

 

 まして彼は親友二人の息子だ。信綱も彼の前では極力正しい大人として在ろうとしてきた。

 その姿が彼にとって良いものであったのなら、自分の見栄にも意味はあるのだと思える。

 

「信綱様の前ではずっと子供扱いですね。ですが、いつかはおれも信綱様のように、とまではいかずとも大きなことをしてみせますよ」

「無理はするなよ。ではな」

 

 そう言って信綱は立ち去っていく。おそらく次に彼と顔を合わせる時はないだろうと、薄々察しながら。

 感慨とも言い表せぬ胸の思いを一息に押し流し、信綱は再び歩き出す。

 別れを告げるべき相手はもう、残り少ない。

 

 

 

 

 

「で、異変を解決された感想はどうだ?」

「いやあ爽快爽快! 四人がかりだったとはいえ、負けは負けだ。私は満足してるよ」

「へぇ、今代の博麗はなかなかの強者か」

「んむ、才能もあるし努力も……嫌いみたいだけど、怠ってる様子はない。何よりスペルカードルールへの適応が段違いだ。これからの幻想郷では妖怪含めても最強になるだろうね」

「はっはっは! そんなに強いんならいつか戦う日も来るってものさ! いやあ、明日が楽しみってのは良い! 酒も美味くなるってもんだ!」

「肩を叩くな。砕ける」

 

 萃香、勇儀が気分良く話し、自前の酒をそれぞれ呷る様子を信綱は辟易した様子で眺めていた。

 頼みごとが彼女らにあるとはいえ、彼女らを火継の家に招いたのは間違いだったかもしれないと後悔すら覚えてしまう。

 今も馴れ馴れしく肩を組んでくる勇儀に肘鉄を入れ、距離を取っているところだった。

 いたた、と勇儀は信綱から殴られることさえもどこか嬉しそうに受け入れて、信綱が呼んだ用件を問う。

 

「んで、お前さんの頼みってのは何だい? ああ、断ったりはしないから安心しな。どんな願いであってもお前さんの頼みは聞き届けるよ。……できることとできないことはあるけどね」

「私も勇儀に同じく。負けは負けだ。それを覆す真似はしない。さすがに勇儀と同じくらいの献身は求められると困るけど」

「お前にそこまでの期待はしていない。約定を果たしてもらうのはどちらか片方だけで良い」

「ひっでぇ!?」

 

 萃香が文句を言ってくるものの、信綱は取り合わない。

 そもそも呼んだ人物がまだ全員集まっていないのだ。話を切り出すにしても同じ話を何度もするのは手間がかかる。

 

「頼みというのはあるものを預かって欲しいというだけだ。中を見れば必要な時節も自ずとわかるだろう」

「ふむ。預かるってことはいつか返すのかい?」

「それを必要とする事態が済んだらどう扱っても構わん。廃棄してもよし、手元に置くもよし」

「逆に必要な事態がある限りは持っていろと。良いよ、どこにあるんだい?」

「まだ渡すべき相手が全員集まっていない。来たら渡す」

「それまで残っている意味は?」

「特にない……と言いたいが、意図はある。だからしばし待て」

 

 そして叶うことなら酒をやめろと言いたかったが、二人の様子を見るに難しそうだった。

 

「お前さんがそこまで言うなら是非もない。萃香と酒盛りでもして待とうじゃないか」

「そうだね。人間、今回は私らが客人なんだけど、もてなしの料理とかはないのかい?」

「……はぁ」

 

 念のために用意しておいた食事が効果を発揮しそうで何よりだ、と信綱は二人に聞こえるように大きなため息を吐くのであった。

 

 

 

 すっかり酒臭くなり、換気のために開け放っていた障子の向こう側に軽やかに響く足音が信綱の耳に届いた。

 その足音の主は軽い調子を崩さないまま、障子の横から顔を出して信綱に挨拶しようとして――先客に顔をひきつらせる。

 

「げっ、萃香に勇儀の姐さん」

「んぁ、天魔じゃないか。お前さんが呼ばれてた相手か」

「立派な格好になったもんだ。私らがいなくなった後の妖怪の山はお前さんが支配していたか」

 

 鬼に対して苦手意識のある天魔は信綱を恨めしそうに見るが、彼は微かに頭を下げる以外の行動は取らなかった。

 さすがに罪悪感は抱いているのだが、この状況への助け舟は出せないという意味を天魔は正しく読み取り、常に浮かべているふてぶてしい笑みを二人の鬼に対しても浮かべた。

 

「あんたたちが人間を見限ってからはな。おかげさまで妖怪の山は平和だ」

「言うようになった。百鬼夜行の時も私に歯向かったし、だいぶ変わったね」

「群れの頭なんてやってると、誰が相手でも敵なら容赦しなくなるものなんだよ」

「くはっ! よく言った――っと、これ以上はやめておこう。人間の目が怖い」

「そうだな。にしても旦那よぉ、この状況は恨むぜ?」

「悪いとは思っている。あともう一人――は、すでにいるな」

 

 天魔の恨み節に信綱は軽く謝罪をすると、視線を別の方角に向ける。

 信綱の部屋にやってきていた三人の妖怪もそちらに視線を向けると、ゆっくりと空間に亀裂が生まれる。

 

 亀裂の端をリボンで縁取り、徐々に大きく、禍々しく開かれる無数の星と目が浮かぶ空間。

 その中に佇む一人の少女――スキマ妖怪の出現に皆は口を揃えて言った。

 

『そういうの良いから早く出てこい』

「あんたたちなんて大嫌いよ!!」

 

 常人であれば慄くであろう光景も、この場にいる面子にしてみれば見慣れたもの。

 なので演出とか面倒なのは省いて欲しいと言ったところ、スキマ妖怪である八雲紫はぷりぷりと怒って頭上に金ダライを落としてくる。当然のように全員が避けた。

 

 そうして集まった面子を見て、信綱はようやく本題に入る。

 

「さて、集まってもらった理由は簡単だ。――頼みたいことがある。受けて欲しい」

「……人里と妖怪の山、というような勢力での話じゃないってことか?」

「そうだ。これは何の背景もない俺の頼みごとであり、お前たちはただ一人の個人として考えて欲しい」

「……まずは内容を聞きましょう。答えがもう決まっている様子の妖怪もおりますけど」

 

 天魔と紫は二人の鬼を見る。

 鬼の二人は答えなど決まっているとばかりに胸を張っており、自らの答えに一片の迷いも持っていない様子が伺えた。

 自分の選んだ答えに迷いを持たないというのが、鬼の共通点なのだろうかと紫は血を吸う鬼である少女のことも考えて小さく笑う。

 

「内容は簡単だ。これから渡すものを持っていて欲しい。必要な時は中身を見ればわかる」

 

 そう言って信綱は手元に置いてあった箱から中身を取り出し、四人の前に広げる。

 

「レミリアにはすでに渡してある。あいつはお前たちのように説明が不要だったのでな」

「あの子はあなたにぞっこんですからね。中身を改めても?」

「構わん」

 

 四人がその――書物を手に取り、中身を見ていく。

 萃香と勇儀はその内容に首をひねっていたが、書物に記されている最後の言葉を見て顔が真剣なものに変わっていく。

 天魔と紫は中身を見てすぐに信綱の用意した書物の意味を理解し、驚愕に腰を浮かせて信綱の顔を見た。

 

「あなた、これ……!」

「必要になる時も理解できただろう」

「……オレたちは場合によってはこいつを隠す必要もあるんだぞ?」

 

 意味ありげな顔で信綱を見る二人の妖怪。

 その反応も尤もだと信綱は腕を組んでうなずく。この二人はおいそれと個人での決断が難しい存在だと言うのは前々から理解していた。

 二人に単純なお願いをしたところで状況次第では引き受けないだろうし、引き受けたとしても裏切るだろう。

 彼らは私人としての感情よりも公人としての全体の利益を優先する。そんなことは百も承知だ。

 

 

 

「――だからわざわざ鬼の二人を呼んでその前でお前たちに渡したんだ」

 

 

 

 そう、彼らは全体の利益を優先して約束を破りかねない。

 故に約束を破らせないようにする。約束を反故にされることを最も忌み嫌う鬼を呼びつけ、彼女らにも話を聞いてもらうことによって。

 そして鬼の二人も信綱が呼んだ意図を読み取ったのだろう。好戦的な笑みを浮かべて紫と天魔を睨んでいた。

 

「……っ!!」

「その本が必要ないと判断したら捨てても構わない。――だがこの頼みは是が非でも聞いてもらうぞ」

「ったく、タチの悪い脅迫だな……!」

「なんと言ってくれても良い。それだけ俺も本気だと言うことだ」

 

 紫と天魔は諦めたように座り直し、手元の書物を弄びながら信綱を見る。

 

「言いたいことはわかる。旦那にはそりゃあ思うところもあるだろうさ。こいつにそれを全て込めた。そう見ても良いんだろう?」

「ああ。俺の生きた証。俺が歩んできた道の集大成だ」

「…………」

 

 天魔はあぐらをかいた膝の上に頬杖をついて、片手で書物を眺める。

 しばらく何も言わずに眺めていたと思うと、不意に信綱の方を見た。

 

「――わかった。オレは引き受ける」

「ちょっと、天魔!?」

「そもそもオレらに他の選択肢はねえよ、スキマ。確かにこいつが使われた場合の影響はオレにも読めん。良い方向に向かうかもしれないし、悪い方向に行くかもしれん。……だが、それを理由に拒否はさせてくれないだろう?」

 

 最後の言葉は信綱に向けたものだったため、鷹揚にうなずく。

 これは頼みごとであり、同時に脅迫でもあるのだ。使うも捨てるも彼女らに委ねてはいるが、この場での拒否は絶対に許さない。

 

「第一、鬼を味方につけた旦那の言うことは断れねえ。もしもオレたちが我が身と部下可愛さに旦那を裏切ったりしたら、その時が幻想郷の終わりだ。ちっこい吸血鬼含め、鬼が一斉に反乱を起こしてな」

 

 この場にレミリアを連れてこなかった理由にも納得がいく。

 紫と天魔が彼女を説得するのを恐れたのだ。

 ほぼ万に一つの可能性ではあるが、紅魔館という一つの勢力の長でもある彼女なら信綱の行いに賛同しなくなる可能性があった。

 最後まで振り回されてばかりだな、と天魔は困ったように笑って信綱を――人間の友人を真っ直ぐ見る。

 

「…………」

「それに、まあ……旦那が全てを賭けることをオレも信じたい。オレは幻想郷の共存を旦那に賭けて、旦那は見事に勝った。次も勝ち馬に乗りたいってもんさ」

「……感謝する」

 

 信綱は言葉少なに天魔に感謝を示し、紫の方を見る。

 天魔と話している間に彼女も思考を終えたのか、真意を問う目で信綱を見返した。

 

「考えてみれば当然でしたわ。あなたがこれに関心を示さないはずがないもの」

「…………」

「上手くいくのなら私にとっても十二分に喜ばしい。……でも、私は失敗してしまった場合のことも考えなければならない」

 

 たとえあなたの思いを踏みにじることになったとしても、と言い切る紫の目には絶対に譲らない意思が込められていた。

 強く輝くそれは、紛れもなく幻想郷の賢者である彼女のみが持ち得る光。理想を掲げて千年以上の時を歩み続けた者にしか許されないものだ。

 だが、同時に彼女の瞳には迷いがあった。その時が来たら迷うことなく信綱の願いを切り捨てると選択した上で、その時が来ないで欲しいと心から願っていた。

 

「……でも、私だってなんとかしたかった。だから見極める時間を頂戴」

「ダメだと判断したら?」

「次に託す。あなたがここまで手を尽くしたものを一代限りで終わらせるのはあまりにも無為」

「……可能と判断したら」

「死力を尽くすわ。幻想郷の賢者として、あなたの友人である八雲紫として、あなたの願いのために命を懸ける」

 

 この迷いが晴れた時、彼女はレミリアにも匹敵する意思を持って信綱の力になろうとすることが信綱には理解できた。

 そしてもしも失敗に終わったとしても、彼女が無意味に終わらせない。信頼できる誰かに次が託される。

 予想以上の譲歩が引き出せたことに信綱は内心で驚きつつ、口を開いた。

 

「わかった。お前が納得するならそれで良い。受け取ってはもらえるんだな?」

「ええ。一字一句漏らさず覚えるわ」

「そうか」

 

 信綱は立ち上がると、この場に集まった者たちを見回す。

 鬼の二人は信綱の願いに何の思索もなく従うつもりであり、またそんな己を誇りに思っていることがわかるほどに表情が輝いている。

 天魔は仕方がないと言わんばかりに肩をすくめるが、浮かべる笑みは親しい友人に向けるそれ。

 紫は彼が自分に託した書物を大切そうに胸に掻き抱き、何かを堪えるような顔で信綱を見ていた。

 

 鬼の二人に牽制といざという時の暴れ役を任せた、脅迫という言葉以外に当てはまるものがない頼みごとであるというのに、恨まれる様子がないのが不思議なものである。

 

「もう内容は把握しているだろうが、最後の決断をお前たちに任せるつもりはない。

 ――俺はいつだってあの方のために生きてきた。だから全てはあの方に委ねる」

 

 責任の放棄と言われるかもしれないが、従者として主の道を決めるような真似はできない。

 信綱にできることは彼女がそれを願った時のためにあらゆる準備をしておくこと。

 だからこそ不要と判断したら捨てても構わないと言ったのだ。彼女らが望まないのであれば、信綱が己の全てを懸けて作成したものなど、塵芥にも劣る。

 

 そこまで言い切り、信綱は一つ大きく息を吐く。

 

 ずいぶんと回り道をした気もするし、あるいは最短で突っ走ってきたような気もする。

 だが、これで最後だ。事実上、信綱が阿礼狂いとして果たせる物事はこれで終わりとなる。

 妖怪に後を託すことになるとは自分の人生もわからないものだ、と微かに胸の奥で自嘲しながら、信綱は頭を下げた。

 

 

 

 

 

「――あの方がそれを望む時が来たら。お前たちがあの方の味方になってくれることを願う」

 

 

 

 

 

 返答はなく、否定もない。

 彼女らは皆それぞれが違う意思を胸に抱いて、それらを言語化することなく信綱の顔を見つめ続けるのであった。




伏線、というにはわかりやすすぎるものですが、そんな感じのものです。
ノッブに隠す気はあったの? と言われたらあんまありませんけど。



――残り二話です。あまり多くは語りません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

英雄のおしまい

 異変も終わり、宴会も三日おきなどというふざけた頻度ではなくなり、霊夢は上機嫌に神社の境内を掃除していた。

 信綱の持ってきた差し入れのおかげで異変に気づけたのだから、何が良い方向に転ぶかわからないものである。

 ともあれ異変は霊夢が解決したから宴会に悩まされることはなく、信綱から美味しくて便利な饅頭の作り方も教えてもらえた。

 結果だけ見れば良いことずくめとも言える。だからといってあの宴会はもう二度と来てほしくないが。

 

 気分良く鼻歌などを歌いながら掃除を続けていると、ふと階段の方に人の気配を感じる。

 まだ朝も早く、日は中天まで昇り切っていない。こんな時間に誰かが来ることなど珍しい。

 

「ん、朝早くに人が来るなんて珍しいと思ったら爺さんか」

「異変を解決したそうだな。霧雨商店に来ていた魔理沙から聞いた」

「へえ、ついこの前までは二度とあの店に近寄るもんか、って怒ってたのに」

「……何かあったのか?」

 

 不思議そうに首を傾げる信綱にちょっとね、と霊夢は言葉を濁す。

 彼女が店番なんてやっていて面白かったのでからかいました、と言ったら信綱は小言を言ってくるだろう。

 あるいは、相手をからかうにしても度が過ぎぬようにしろと釘を差してくるか。

 

「まあその話はいいでしょ。で、爺さんは異変解決の時の話でも聞きに来たの?」

「それもあるが、そちらは後で聞かせてもらう。今日来たのは稽古のためだ」

「あ、ちょっとこの後急用が……」

 

 そそくさと箒を片付けて逃げようとする霊夢の頭を掴み、逃げられないようにする。

 ぎこちなく振り返り、嫌そうな顔を浮かべる霊夢に信綱は笑みを浮かべてやった。

 

「さ、始めるぞ」

「鬼、悪魔! 異変を解決した娘に優しくしようとかないの!?」

「優しくはしている。甘やかしてはいないだけだ」

「優しさはどこ!?」

「……? 死なないよう細心の注意は払っているぞ」

「死なないのが優しさ!?」

 

 じゃあ何か。自分は今こうして生きて呼吸できていることが信綱の優しさだとでも言うのか。

 霊夢は相も変わらぬ信綱の調子にツッコミを入れていたが、それで状況が変わらないとわかると諦めたように首を振った。

 

「わかった、わかったわよ。爺さん、なんか知らないけどやる気マンマンみたいだし」

「そうだな。これが最後の稽古になる」

「それなら気合が入るのもわかるって――今、なんて言った?」

 

 サラリと告げられた内容に霊夢は信綱の顔を見て、徐々に彼女の顔が悲痛に歪んでいく。

 信綱が最後と言った意味を持ち前の勘で察してしまったのだろう。今にも涙が零れそうなほどに霊夢の瞳には涙が溜まっていた。

 勘の良さというのも良し悪しである。信綱は小さく息を吐くと、彼女の頭を撫でる。

 

「泣くなとは言うまい。家族が死ぬのは悲しいことだ」

「……っ、泣いてないもん」

「そうか。……だが、これが正しい形だ。先に生まれたものが先に死ぬのがあるべき人間の姿だ」

 

 信綱より先に霊夢が死ぬことの方が遥かに悲劇である。

 父より先に娘が死んでしまうことの悲しみを、信綱は今も色褪せず思い出せる。

 

「それに俺はまだ生きている。泣くのは俺が死んだ後にしろ」

「泣いてないってば!」

「目が潤んでいるように見えるが」

「ゴミが入っただけ!」

 

 霊夢は乱暴に目元を拭うと、何かを堪えるような顔で信綱を見上げる。

 

「稽古、始めましょ! 今日こそ私が勝つんだから!」

「……そうだな。その意気だ。俺も手加減はしないぞ」

 

 霊夢と距離を取った信綱は腰に差した刀を抜き放ち、霊夢に鋼の刃を向けた。

 

「――お前の力を全て見せてみろ」

「上等! 爺さんもいい加減若い力に膝を折りなさいっての!!」

 

 

 

「……結局一度も勝てなかった」

 

 霊夢は仰向けに寝転がり、雲一つない蒼天を見上げて悔しそうにつぶやく。

 小さな子供の頃から稽古をつけてもらい、博麗の巫女の秘奥である夢想天生に到達してもなお勝てなかった。

 この人に勝つのは不可能だったのか。そんなことを考えると悲しさや悔しさが綯い交ぜになって視界が滲む。

 

「そう悲観するな。俺の強さとお前の強さは毛色が違う」

 

 常と変わらぬ様子で倒れている霊夢に手を差し伸べる信綱に、霊夢は感情のままに上半身を起こして叫ぶ。

 

「っ、どう違うって言うのよ! 爺さんのそれは弾幕が通じない外敵用の強さでしょ!」

「そうだな」

「じゃあ私が爺さんより弱かったらダメじゃない! 私一人で人里を守れなきゃ――」

「霊夢」

 

 言葉を途中で遮る。それは霊夢が一人で抱え込む必要のないものであった。

 

「お前は一人じゃない。肩を並べて戦える仲間が多くいるだろう」

「でも!」

「それにもう人里は人間の手だけで守るものではない。……今は多くのものが一緒に戦ってくれる」

 

 そうなるように動き続けた。人里の価値を人間が住んでいるから、というだけでなく幻想郷の要となるように立ち回った。

 妖怪が来られるように整備し、彼らの助けを受けられるように人里の在り方を変貌させた。

 もうあの場所は妖怪の災害に怯える人々の住処ではない。幻想郷に生きるもの全てが利用する、人と妖怪の交流の要となったのだ。

 

 人間の手だけで守れば良いものではなく、妖怪の手だけで守れば良いものでもない。

 共通の敵が現れたのなら手を取り合えば良いのだ。それが信綱が戦っていた時代にはできず、今の時代ならできることである。

 

「お前は今のままでいい。どうにもならない時はスキマや他の妖怪がどうにかしてくれる」

「……爺さんの時は助けてくれなかったの?」

「あの時代の人里は最低限の保証しかされていなかった」

 

 主眼が人里の価値を上げることだったため、紫に任せるわけにもいかなかったというのが実情だが、霊夢にその辺りの難しい話は良いだろうと黙っておく。

 

「弾幕ごっこに興じ、危ない時は力を合わせて――そうやって、俺とは違うやり方でやっていけばいい」

「……ん、わかった」

「それでいい。稽古は欠かさないようにな」

 

 そう言って信綱は上半身だけ起こした霊夢の腕を取り、その身体を立たせてやる。

 

「……もう稽古は終わり?」

「そうだな。俺から教えられることは全て教えた、とは口が裂けても言えないが」

「まだまだ未熟ってこと?」

「お前は教えれば教えた分だけ強くなるからな。教えたいことは数多くあった」

 

 こちらもそれなりに楽しめた、と信綱は霊夢の頭をもう一度撫でてやる。

 

「後はお前から異変の話を聞くことになる。一旦汗を流して部屋でやるぞ」

「わかった」

 

 霊夢が風呂で汗を流した後、居住区である部屋に場所を移して信綱と霊夢は再び向かい合う。

 そして話を始めよう――としたところで、信綱は唐突に部屋の中を見回し始めた。

 

「…………」

「爺さん?」

「見た限り、薬がないようだが」

「へ? ああ、切らしちゃってたか。今度人里で買うから大丈夫」

「いや、好都合だと思っただけだ」

 

 信綱の言葉に首を傾げる霊夢だったが、詳しいことは後で話すと信綱に言われてしまう。

 では仕方がないと霊夢は肩をすくめ、今回の異変についての話を始めていく。

 

「まず異変の黒幕は伊吹萃香っていう鬼だった。私、魔理沙、咲夜に魂魄妖夢っていう冥界の庭師を引っ張ってきて戦った」

「ふむ、魔理沙の話には咲夜と妖夢とやらは出ていなかったな」

 

 とはいえそのぐらいの見栄は許容範囲なので特に気にしない。一人の話だけで異変の全容を掴むことなど不可能である。

 

「そしたら萃香ってやつは四人に分身したわ。あれ反則じゃない?」

「本人の力も四分割だ。道理に則っているし、それを言ったら四人がかりで挑んだお前たちも人のことは言えまい」

「うっ。……ま、まあ話を戻すわ。んで、どうにかこうにか倒して異変はおしまい。理由の方も萃香から聞き出したわ」

「ほう」

 

 その辺りは信綱も聞いていないことである。興味深そうにすると霊夢にもそれが伝わったのか、得意そうに話を続けていく。

 

「――もう一度鬼を地上に呼び寄せたかったんですって。でも結果的には最初の宴会で全部叶っちゃったから。後は私と戦ってみたかっただけ。いい迷惑よ」

「鬼というのはそういうものだ。強い存在と戦いたくて向かってくる。こちらの事情など考えもせずにな」

 

 鬼には迷惑ばかりかけられた身として、霊夢の言葉には非常に賛同できた。

 

「話としてはこんなところね。宴会がいっぱい続いたのが異変だから、爺さんもその辺りはよく知ってるでしょ?」

「そうだな。阿求様が異変についてまとめる時にも伝えておこう。それで異変を解決した後はどうなった?」

「萃香は満足したみたいに帰ってった。たまに私のところに来るとか言ってたけど、それぐらいかな」

「……そうか」

 

 信綱の見立て通り、霊夢は色々な人妖に好かれる性質のようだ。

 先代の時みたいに一人になることはないだろう。その確信が得られたことに信綱は感慨深くうなずく。

 しかし霊夢には信綱の沈黙が悪い意味に見えたようで、その頬を不満そうに膨らませた。

 

「なに、爺さんも妖怪神社みたいだって言いたいの?」

「そんなことを言った覚えはない。お前が楽しそうで何よりだと思っただけだ」

「楽しくないって! あいつら人の都合なんて全く考えないし、勝手に来て勝手に騒いで大変なんだから!」

「だが、一人じゃない」

「……うん」

 

 素直に認めた霊夢に信綱は目を細め、その肩を叩く。

 

「俺も妖怪に振り回されたクチだから言えることがある。――あいつらは何を言っても来るから諦めろ。少しでも自分に得になるよう考えた方が精神的に楽だぞ」

「爺さんも諦めたのね……」

 

 うむ、と重々しく首肯する信綱からはなんとも言えない哀愁が漂っていた。

 霊夢の生きた年数の三倍以上、彼は妖怪に振り回されて生きてきたのだろう。その言葉には鉛のような重さがあった。

 でもあんまり見本にはしたくないなあ、と霊夢はさり気なく失礼なことを思いながら苦笑する。

 

「それで私の話はこれぐらいだけど、爺さんからの話って?」

「ん、ああ。これだ」

 

 そう言って信綱は懐から一冊の本を取り出す。

 

「これは?」

「先代の作っていた料理の作り方をまとめたものと、俺の料理の作り方をまとめたものになる」

「爺さん、そんなの作ってたの?」

「時間のある時に少しずつな」

 

 驚いたように、しかししっかりと胸に抱きかかえる霊夢に信綱は淡々と霊夢に渡すものを説明していく。

 

「後は火継の家に預けてあるから、後で取りに来い。俺の名を出せば案内してもらえる」

「何があるの?」

「怪我をした時の薬に俺がいなくてもできる稽古内容。そんなところだ」

 

 他にも色々あるのだが全部説明するのは面倒であるのと、彼女もつまらないだろうと思いやめておく。

 重要なものは話したもので全てなのだ。昔に霊夢が欲しがっていた装飾品なども用意してあることは実利を考えれば伝える必要を感じなかった。

 しかし霊夢は全部を話していないそれでも十分だったのか、その顔を綻ばせる。

 

「……爺さんは私に甘くないんだっけ?」

「そのつもりだが」

「十分甘いわよ。そこまでするの、普通の親子だってないわ」

「真っ当な親ならお前が博麗の巫女をやることに反対するだろうよ」

 

 危険な役割を娘にさせたがる親はいない。

 信綱はそれを平然と霊夢に任せているのだ。彼女を甘やかしているとは口が裂けても言えない。

 そして危ない役目をさせている以上、できる限りで援助するのは当然の行為である。

 

「俺からの話は以上だ。お前からなにかあるか?」

「あ、えと……」

 

 もうこれで終わってしまう。そう思うと霊夢の心が焦燥に満たされて何かを言わなければと思うが、こういった時に口は上手く動かない。

 

「じゃ、じゃあ――ご飯作って!」

「昼はさっき作ったぞ」

「夕飯! 夕ご飯を作ってよ! ああいや、待って! 私も作る!」

「何が言いたいのかわからん」

「私と一緒に夕ご飯を作って! 爺さんは阿求のこともあるから、食べるのは私一人でいいから!」

「それぐらいなら構わんが」

「じゃあ行こ! 美味しい夕ご飯を作ってよね!」

 

 声を弾ませ、楽しそうに厨房に向かう霊夢に手を引かれながら、信綱は小さな笑みをこぼす。

 こんな風に喜怒哀楽をハッキリとした少女なのだ。すでに多くの人妖に好かれる片鱗も見せている。

 自分がいなくなっても彼女は大丈夫だろう。一人でもやっていけるだろうし、一人にさせないよう誰かがいてくれるはずだ。

 

 ――なかなかに悪くない時間だった。

 

 弟子のようであり、娘のようであり、そんな少女の背中に信綱は目を細めるのであった。

 

 

 

 

 

 信綱はある場所に向かっていた。

 三人が二人になってからも修練を重ね、汗を流していた場所。

 信綱にとって力を求める始まりでもあり、戦士としての信綱の原点でもある場所。

 

 場所は人里から遠く、妖怪の山の麓付近に当たる。

 山菜採りが生業の者であってもここまで来ることはないとされる場所に、信綱は向かう。

 

「あれ、あんたこんなところで何してんの?」

「……ここで会うとは思わなかったな」

 

 その道中、木々の上から聞こえた声に顔を上げるとそこには妖猫である橙が立っていた。

 ふふん、と得意そうな顔で木の上に立ち、腕を組む彼女に信綱は目を細めて口を開く。

 

「そこで何をしている」

「訓練よ。やっぱり猫たるもの、身が軽くないとね!」

「……降りてこい。声が聞き取りづらい」

「いーやっ! あんたを見下ろせるなんて気分良いわ!」

 

 腹が立ったので橙の立っている木に蹴りを入れてやる。

 妖怪並、とまではいかずとも超人的な身体能力を持つ彼の蹴りは、勢いが十分に乗っていれば木をなぎ倒すことも可能だ。

 木を折るつもりはないので多少手加減はしたが、それでも幹の方まで響く衝撃は木の枝に立っている橙を大いに揺らす。

 

「え、ちょ、わっと!?」

 

 しかしさすがは妖猫と言うべきか、ヒラリと軽やかに身を翻して別の木に飛び移る。

 信綱がじっとその木を見つめていると、また何かしてくると思ったのか諦めたように地面に降りてきた。

 その際に首につけられた鈴がチリン、と涼やかな音を立てる。

 

「まったく、手が早いのは昔っから変わらないんだから」

「俺が子供でお前が大人みたいな物言いをされるのは心外なんだが」

「違うの?」

 

 無言で橙の耳を引っ張る信綱だった。

 そうしてしばらく橙の耳を引っ張ってから、二人はちゃんと話をする姿勢になる。

 

「いたたたた……耳が取れちゃったらどうするのよ!」

「ちゃんと加減はしている」

「痛いのは変わらないのにぃ……」

 

 へにゃ、と垂れ下がった耳を橙は痛そうに押さえて、信綱の方を見上げた。

 

「で、あんたは何してんの? 魚釣りに行くんなら私も連れてって!」

「違う。昔、俺が鍛錬をしていた場所に向かっている」

「前に連れて行ってくれた場所よね。ほら、なんか白狼天狗と一緒にいた場所」

「よく覚えていたな」

 

 もう半世紀近く昔の話を覚えていることに信綱は驚愕した表情で橙を見る。

 橙は得意そうに後頭部で腕を組み、満面の笑みを浮かべた。

 

「まあね! あんたがとんでもない厄介事持ってきてくれた場所だし!」

「そんなことあったか?」

「当事者が忘れてどうすんのよ!?」

「冗談だ」

「真顔で冗談言うのやめなさい!」

 

 ちょっと涙目で怒られたので素直にうなずいておく。

 橙は信綱の行き先を聞いて、興味なさそうにそっぽを向いた。

 

「ふぅん。多分あの白狼天狗と会うんだろうし、私が行かなくても大丈夫よね」

「お前の俺に対する保護者のような目線は何なんだ一体」

「え? 私が親分であんたが子分。子分の面倒見るのは当然じゃない?」

「お前の子分であることを認めたことは一度もないからな」

 

 全く、と信綱は肩をすくめるしかない。

 

「……ん、あれ?」

「どうした」

 

 橙はそんな信綱の様子を見て、何を思ったのか不意に信綱の匂いを嗅ぎ始める。

 スンスンと匂いを嗅いでくる橙に何事かと思うものの、信綱は特に何かをすることなくその様子を眺めていた。

 やがて彼女が信綱から離れると、その顔は何かに堪えるように悲しみに歪んでいた。

 

「おい、どうした」

「なんでもない!」

「なんでもない顔には見えないぞ」

「なんでもないってば!」

 

 見たくないものを見てしまったように目を覆い、信綱から距離を取る橙。

 そんな彼女の尋常でない様子に、信綱は迂闊に踏み込んで彼女の心を乱そうとせず、その場であえて平坦な声を出すことで橙を落ち着かせようとする。

 

「……何か嗅ぎ取ったんだな」

 

 首肯。それに合わせて信綱は頭を回し、彼女がここまで取り乱す原因を探っていく。

 探るとは言ってもそこまで難しいことではなく、自分の匂いを嗅いで橙が取り乱す原因などそんなに多くは思い浮かばなかった。

 

「……もうじき死ぬのがわかったか?」

 

 ビクリ、と身体を震わせて動かない。しかしそれが何よりも雄弁な答えだった。

 信綱はそんな橙とせめて目線の高さだけでも合わせようと、膝を折る。

 

「もう鈴は渡してあるだろう。俺が死んだとしても、お前が思い出す限り俺はお前の中に存在し続ける」

「でも、だって……! もう会えないってことじゃない! 耳を引っ張られるのも! あんたの生意気を聞くことももうないってことじゃない! 悲しくないわけないわよ!!」

「……そうだな。知り合いが死ぬのは悲しいことだ」

 

 とめどなく涙が溢れ、橙の顔を濡らしているそれを見て信綱は橙の言葉を肯定する。

 別れは悲しく、辛いものだ。それは阿礼狂いである彼にも身に沁みて理解ができている。

 しかし、と信綱は言葉を続けた。

 

「お前にとって、俺と一緒にいた時間は悲しいだけか?」

「それは……違う、けど」

「なら、俺と過ごした時間に対する感想はどんなものになる?」

「……楽しかった」

「そう思ってくれるか」

 

 それ以上の言葉は続けなかった。そこまで言えば十分であると思ったのだ。

 信綱が何も言わずに橙の反応を待っていると、橙はぐしぐしと袖で顔を乱暴に拭いて信綱を見る。

 

「……子分!」

「なんだ」

「あんたが死んだら私は泣くわ!!」

「そうか」

「だけどあんたのことを思い出したら、私は笑ってあんたを思い出す! あんたは生意気で仏頂面で難しいことしか言わないし私にもすぐ意地悪するけど、お魚くれたりたまに優しかったり、耳を撫でてくれたこともあった!」

 

 叩きつけるように叫ぶ橙の目からはすでに涙が溢れていたが、信綱は止めずに話を促す。

 

「私がいつか大きくなってもあんたは忘れない! 生意気で仏頂面で意地悪だけど――優しい私の友達だって!」

「……そうか」

 

 信綱は慈しむように目を細めて橙を見る。

 思えば彼女との付き合いも小さな頃からのものだ。こんなに長くなるとは思っていなかっただろう。

 だが、難しいことを考えないでも良い彼女との付き合いは自分にとっても心地よかった。

 橙は泣き顔を見られたくないのか信綱に背を向けて、再び声を張り上げる。

 

「私はもっと修行するわ! あんたは邪魔だからさっさと行きなさい!」

「……ああ、そうさせてもらおう」

「……またね!!」

 

 これ以上ここにいても彼女を困らせるだけだ。

 そう察した信綱は何も言わず、橙に背を向けて目的地へと再び歩き出す。

 少しして、誰かが足早に走り去る音が信綱の耳に届く。

 橙のものであるとはすぐにわかったが、それが誰のもとであるかは考えないことにした。

 

 藍の胸に飛び込んで泣くのか、それともがむしゃらに修行に励むのか。

 どちらにせよ信綱が彼女にかけるべき言葉はもう何もない。後は彼女の問題である。

 ただ、一つだけ。彼女に伝えるべきでない言葉は存在した。

 

 

 

 ――頑張れよ。

 

 

 

 誰に聞こえることもないそのつぶやきだけを残して、信綱は再び歩き始めるのであった。

 

 

 

 

 

 目的の場所に到着し、信綱は何も言わず手頃な木にもたれかかって目を瞑る。

 するとすぐに上空から気配がやってきて、信綱の前に立った。

 信綱は閉じていた目を開き、その人物――白狼天狗の犬走椛を見た。

 

「……早かったな」

「予感、ですかね。今日、君はこの場所に来る。そんな予感がしたんです」

「動物の勘か?」

「さあ、どうでしょう。君との長い付き合いが気づかせてくれたのかもしれません」

 

 そう言って椛は微笑み、信綱が持っていた長刀に目を向ける。

 椿から奪ったものであると信綱が言っていたものと相違ないものであることに、椛は首を傾げた。

 はて、この刀を使うようなことは何かあっただろうか。

 

「今日は一体どんな用事があったんですか?」

「用件は一つしかない」

 

 信綱は背負っていた長刀を外すと、椛に差し出す。

 

「え?」

「やる。火継の家では俺が死んだら扱えるものがいなくなる」

「い、いえ、ですがこれは椿さんがあなたに……!」

「奪ったものだ。それに人里でこの剣の由来を知るものはいない」

 

 信綱が使い続けた刀として残されるか、あるいは鋳潰されて別の道具になるだけだ。使い手のいない武器ほど邪魔なものはない。

 

「使えと言うわけじゃない。だが、俺が持っていてもこの剣は由来も忘れられてしまうだけだ」

「……だから椿さんを覚えている私に、ということですか」

「そういうことだ。受け取れ」

 

 椛はしばらく逡巡した様子を見せていたが、やがて瞳に決意の輝きを浮かべてその長刀を受け取る。

 天狗によって作られた長刀であり、特殊な銘があるわけでも特別な作りになっているわけでもない。

 通常の刀に比べれば名刀ではあるが、それだけの変哲もない刀を椛は宝を抱くように抱きしめた。

 

「受け取ります。これがある限り私は椿さんを忘れません」

「そうしてくれ」

 

 信綱と椛はそれっきり何も言わずにただ景色を眺め始める。

 木々が鬱蒼と茂り、少し歩けば川が近くにある。ここで殺し合い寸前の稽古を行い、水場で身体を鍛えた時間は今も鮮明に思い出せる。

 

「……椿さん、君の成長をずっと楽しみにしていたんですよ」

「知っている。事あるごとに天狗さらいをされないか誘ってきていた。乗ったら殺されていたが」

「あはははは……。君も大変な人に目をつけられてましたね。思えば君が妖怪に付きまとわれる人生の一番最初は椿さんでした」

「椿だけだったら途中で死んでいただろうさ」

 

 彼女が少し手加減を失敗するだけで自分は簡単に死んでいた。

 それがかろうじて成功していたのは、椛がなんだかんだ防波堤になっていたからだ。

 

「そうかもしれません。でもそうやって強くなった君に椿さんは挑んで、殺されて――」

「……後悔はしていない。過程に思うところはあるが、それでもあいつは阿弥様の敵になった。容赦はできない」

「知ってます。私も……割り切ったとは言えませんけど、納得しています。椿さんは決定的に間違って、あなたはそれを見過ごせなかった」

 

 何か一つ。たった一つでも何かが違っていれば、あの結末は避けられたのかもしれない。

 しかし現実は残酷で、かつての三人の結末はあれしかなかった。

 

「そしてあの日から俺とお前は共存を願った。たらればで人の命を語るつもりはないが、あいつの死が俺たちにとっての奇貨だった」

 

 同時にあの結末があったからこそ、椛と信綱は人妖の共存を願うようになった。

 二人はそれを成し遂げた。信綱が主体となり、椛が勇気を振り絞り、それぞれがそれぞれの種族の限界を越えた結果を叩き出し、人妖の共存は成った。

 

「…………」

「…………」

 

 無言になり、二人はこれまでの軌跡を振り返って感慨に浸る。

 しばしそうしていたところ、椛が信綱を見て口を開いた。

 

「……ずっと前から君に聞きたいことがあったんですけど、良いですか?」

「なんだ」

「君はどうして私に背中を任せるんですか? もう君は私より強い知り合いや友人だって一杯いるじゃないですか」

「まだそんなことを気にしているのか」

「き、気にしますよ! 君は今や名だたる大妖怪とも友人になるほどの英雄で、私はしがない白狼天狗です。どうすればこんな関係になるのか、私が聞いてみたいくらいです!」

「あいつらは俺が英雄と呼ばれるようになってからの知り合いであり、友人だ。……俺が英雄と呼ばれる前の姿を知っている妖怪はそんなに多くない」

 

 妖怪の山にしかいないだろう。椿と椛を除けば橙とにとりぐらいだ。

 その中で誰が一番信頼できるかと言えば、やはり椛しかいなかった。

 

「俺は英雄などと呼ばれるような大層な人間じゃない。それはお前もよく知っているだろう」

「はい。君は本当はこうしている時間すら惜しいと思って、御阿礼の子と一緒にいたいと思う――狂った人です」

「正しい認識だ。――それがお前を信じる理由だ」

「え?」

「俺が狂人であると知識だけでなく実感として知った上で、それでも一緒にいてくれる。俺の本質も時が来たら殺されるかもしれないことも何もかも理解して、お前は俺の隣にいることを望んでくれた」

 

 だから信綱も椛を信じることにした。

 彼女を殺さなければならない時が来ない限り、彼女に全霊の信頼を寄せることにした。

 そして今、彼女を殺す時は来ていない。故に信綱が椛を信用するのは当然のことなのである。

 

「お前は俺の信頼に応えてくれた。これから先があったとしてもずっと、俺の背中を任せられるのはお前だけだ」

「……そういうことは臆面もなく言い切りますよね、君」

 

 信綱の言葉を聞いた椛は恥ずかしそうに身じろぎするが、赤らんだ顔は信綱からそらされていなかった。

 

「俺こそお前に聞きたいことがあった。良いか」

「その物言いだと私が拒否しても聞くように見えるんですけど」

「わかっているじゃないか。――なぜ、俺から離れなかった?」

「離れる、とは」

「前々から聞きたかったんだ。勘助もそうだが、お前もそうだ。――俺は狂っていると。優先すべき物事が人とも妖怪とも違うのだと何度も教えているのに、お前たちは離れていかない」

 

 自分がここまで人間臭くなったのは彼らの行動と言葉が一因にあるだろう。

 他にも多くの要因が絡み合ったのは間違いないが、それでも己を阿礼狂いとして人間性を失った存在にさせなかった理由は聞いておきたかった。

 

「……ふふっ、わかりませんか?」

「ああ、わからない」

 

 すると椛はそんな簡単なこともわかっていなかったのか、と吹き出してしまう。

 信綱が大真面目にわからないと口にすると、椛は信綱の方に近寄ってその額を指で小突く。

 

「む」

「そうやって真面目だからですよ。真面目だからちゃんと私たちと向き合って、ちゃんと自分は違う存在だと教えてくれて、ちゃんと私たちのことを考えてくれる」

 

 もしも、信綱がもっと適当に――一個の阿礼狂いとして人を傷つけることに痛痒を抱かない感性の持ち主であったら。

 椛はとっくの昔に屍を晒し、勘助たちも信綱とは疎遠になっていただろう。

 だが、椛の言葉を聞いた信綱は訳がわからないと眉をひそめた。

 

「……? 知り合いであろうと筋を通すのは当然だろう?」

「そこで当然だと言えるのが真面目ってことですよ。……そんな君だからこそ、私たちも応えたいって思ったんです。君は――あなたはきっと、いつか私たちを殺す時が来ないように心を砕くでしょうから」

 

 好き好んで知り合いを殺したいわけではないのだ。そうするのが当たり前だろう、と思うこの心も椛に曰く、真面目なものらしい。

 今まで自分のことを阿礼狂いという狂人と位置づけこそしていても、真面目であるとは思っていなかった信綱は呆気に取られた顔で椛を見る。

 

 椛はそんな信綱に微笑み、その身体を抱きしめる。

 

「おおきく、立派になりましたね。あなたの友人でいられたこと。相棒と呼んでもらえたこと。こうして最後に顔を見に来てくれたこと。全部、絶対に忘れません」

 

 信綱はされるがままになっていたが、彼女が身体を離すのに合わせて自らの拳を前に出す。

 

「……きっと同じことを考えているだろう。同時に言うのはどうだ?」

「良いですよ。これが私たちのお別れです」

 

 椛の出してきた拳と自らの拳を突き合わせ、同時に口を開く。

 

 

 

 ――あなたに会えて良かった。

 

 

 

 それが二人の別れの言葉。信綱が子供の時から一緒に歩み、共に走り続けてきた無二の相棒とのお別れ。

 しかし、その言葉を受けた二人の顔に悲壮なものは何もなく。

 最後の瞬間まで、二人は互いに会えたことへの誇りを胸に去っていくのであった。




書くべきことはもう定まっているので駆け抜けます。あわよくばこの三連休中に終わらせたい。



――次回、本編最終話。もはや他に言うべきことはありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿礼狂いに生まれた少年のお話

 その日は初夏の日差しがまばゆく、蒼天高く澄み渡った日だった。

 信綱はいつもと何も変わらない時間に目を覚まし、むくりと半身を起こす。

 

「…………」

 

 普段ならそのまま立ち上がり、鍛錬用の稽古着に着替えて外に出るというのに、今日に限ってその様子がない。

 ただひたすらに己の手のひらを見つめ、やがておもむろに立ち上がる。

 

「……行くか」

 

 部屋の隅に畳んである稽古着には目もくれず、信綱は外に出ていく。

 

 

 

 その日、信綱は物心ついた頃より続けていた日々の鍛錬を行わなかった。

 

 

 

 まず最初に向かったのは厨房である。

 まだ日が昇り切っていない今、女中たちも休んでいる時間だ。

 起きているのは朝の鍛錬を行う信綱と、そんな彼への朝餉を作る女中程度である。

 

「誰かいるか」

 

 厨房に入ると、食事の支度をしようと竈に火を入れていた女中がこちらを振り返った。

 

「おはようございます、信綱様。朝餉のご用意でしたら誠に申し訳ありませんが、もう少し待っていただいて――」

「いや、朝餉の話ではない。そちらは後に回して構わないから、火急の用を頼みたい」

「はぁ、なんでしょう?」

「火継の男衆を全員起こして、道場に集まるよう言って欲しい。最優先で頼む」

「かしこまりました。竈の火はお任せしてもよろしいですか?」

「構わん」

 

 阿礼狂いが最優先で頼む物事など、ただ一つしか存在しない。

 信綱以外の多くの阿礼狂いとも関わっているこの女中はそれを正確に把握し、主人に竈の火を任せて自らの役目を果たしに行く。

 

「……眼鏡に叶う、とまでは行かずともそれなりのがいれば良いが」

 

 残された信綱は竈の火を落としながら、そっと独りごちるのであった。

 

 

 

 戦うに足る者全てが集められた道場内で、信綱はゆらりと彼らの前に立つ。

 側仕えとしての在位期間はおよそ七十年。十にも満たない年齢の頃から御阿礼の子に仕え、今なおその強さに陰りの見られない、火継の歴史全てを紐解いても二人といない天才。

 もはや火継の面々から見ても生ける伝説であり、彼より後に生まれて先に死んだ者すらいるほどの期間、最強を維持し続けている。

 

 すでに今月の総会は終了し、此度もまた信綱が最強であることを証明するだけとなっていた。

 今になって自分たちを集めるのはどういった了見か。そんな瞳が信綱を射抜く。

 

「……さて、お前たちを呼び寄せた理由を言おう」

『…………』

「今からお前たち全員で戦え。勝ち抜いた一人は俺の部屋に来るように」

「どういう意味か聞いてもよろしいですか」

 

 年若い阿礼狂いの一人が信綱に問うてくる。

 皆、同じ疑問を持ち、そして同じ答えに至っているのだろう。

 その答えは正しいものであるという確信を持たせてやるべく、信綱はそれを告げる。

 

「――この勝負で勝ったものに明日からの側仕えを任命する。殺す気で勝ち取れ」

 

 なんなら一人二人殺しても構わん、と言うと道場の空間内に濃密な殺気が生まれていく。月に一度行われる総会の時と同じ空気だ。

 この調子だと久しぶりに死者が出るかもしれないな、と信綱は他人事のように受け止めて道場の外に向かう。

 彼らが人里の住人であるなら殺しはご法度だが、同族である阿礼狂いなのだ。

 御阿礼の子の隣に立つ戦いで負けて死ぬのなら本望だろう。弱い己への怒りで悪霊になりそうではあるが。

 

「俺が部屋から出たら始めろ。以上だ」

 

 そう言って信綱は道場の外に出て、戸を閉める。

 瞬間、空気を震わせる怒号が道場の中から響き渡り、肉を打つ音と骨の折れる音、木の武器がぶつかり合う音が耳に届く。

 信綱はそれに何の感慨も覚えない。この程度の音、火継の家では日常茶飯事である。

 むしろ開始早々に骨を折るなど、阿礼狂いとしての自覚が足りていないのではないかと思うくらいだ。

 側仕えとなることを目指すのであれば、主を心配させぬよう傷一つ負わずに勝つ技術も必要だというのに。

 

 そんなことを考えながら、信綱は自室に戻っていくのであった。

 

 

 

 腕を組み、瞑想をして待っていると一人の阿礼狂いがやってきた。

 頭から血を流している年若い阿礼狂いを信綱は一瞥する。

 

「お前が勝者か」

「はい」

「傷は」

「頭部の裂傷が少し。それ以外はありません」

「次は無傷で勝て。戦いが一度で終わるとは限らない」

「精進します」

 

 理不尽とも思える叱責でも、彼らに否定する理由はない。

 相手は御阿礼の子の側に最も長く居続けた者。

 彼の口から出て来る言葉こそが最も御阿礼の子のためになるのだ。阿礼狂いとして聞き入れる以外の道はない。

 

 そうして勝った阿礼狂いに信綱は部屋の隅に積まれている書物を指差す。

 

「こちらに阿求様についての情報が全てまとめてある。起床の時刻、好む食物、ご友人の関係、他にもあの方に関わる全てがある」

「はい」

「明日までに全て覚えて側仕えとして臨め。また、幻想郷縁起の編纂も未だ途上にある。妖怪と相対することも考えられるから今以上に力をつけろ。阿求様に毛一筋でも傷つけたら腹を斬って死ね」

「はい」

 

 そこまで言って、信綱は立ち上がる。

 

「明日から当主の部屋を使え。すでに仕事自体はお前たちに分けていたが、以降はお前の仕事になる」

「わかりました。明日よりの側仕えは私が行います」

「…………」

 

 本心を語るなら、目の前の阿礼狂いが妬ましくて仕方がなかった。

 阿礼狂いとしての本能に従い、この男の首をねじ切って己こそが最強であると証明したい。

 己の未熟で側仕えの座を奪われるのは構わない。いや、良くはないが納得できる。

 

 だが、己の寿命で死ぬから側仕えを交代するというのは初めての事態だった。

 そもそも通常は寿命が来る前に側仕えを交代している。

 信綱があらゆる意味で異例なのだが、異例故に信綱は自分より弱いものに後を託さなければならないジレンマに襲われていた。

 

 ああ、自分こそが火継の最強なのだから自分がずっと御阿礼の子に仕えていたい。人間であることへの倫理など阿礼狂いには何の意味もない。

 

「――」

 

 そうした己の願いを一息に押し潰す。

 優先されるべきは御阿礼の子の願いであり、自分たち阿礼狂いの願いではない。

 

 阿七は信綱に弟を求め、阿弥は信綱に父を求め、阿求は信綱に祖父を求めた。

 それぞれ形は違うが、いずれも家族という形を求めたことに違いはない。

 ならば家族としての役目を果たしきろう。己の死を以て、彼女らに家族という役割の終わりを教えに行こう。

 

 信綱はすでに書物に目を通し始めている阿礼狂いを一瞥もせず、部屋を出ていき最後の役目を果たしに行くのであった。

 

 

 

「阿求様、おはようございます」

「ん、おはよう。お祖父ちゃん」

 

 普段と変わらぬ調子で朝の挨拶を阿求と交わす。

 暇乞いをする時は今ではない。その時までは従者として彼女の力になるのは当然の帰結とも言える。

 

「本日のご予定ですが、いかがされるおつもりですか?」

「今日は縁起の編纂も一息ついたし、この前の宴会のお話はまだ霊夢さんたちの都合がつかないし……」

 

 阿求が可愛らしい指を動かして一日の予定を考えていく姿に、信綱は目を細めて側仕えでいられる瞬間を噛みしめる。

 やがて阿求はポンと両手を叩くと、今日の予定を信綱に話し始める。

 

「今日は一日オフの日ね! ここ最近忙しかったし、お祖父ちゃんも色々と動き回ってたでしょう? 今日ぐらいはゆっくり休んで?」

「仰せのままに。人里で気分転換でもされますか?」

「んー……今日はいいかな。お祖父ちゃんとも最近はお話できなかったし、今日はいっぱいお話したいな」

「阿求様の願いを断るはずがありません。では縁側に行きましょうか。今日は良い天気ですよ」

「うん!」

 

 伸ばされた阿求の手を取り、彼女と並んで縁側に出る。

 日差しで暖められた場所を選んで座ると、阿求は信綱の膝の上に腰を下ろしてきた。

 

「阿求様、こちらは日光で暖かくなっておりますよ」

「うん。だけど今日はお祖父ちゃんの膝の上が良いの」

 

 満面の笑みと共にそう言われては信綱も断れない。

 しょうがないですね、と困ったように笑って信綱は阿求をそのままにさせる。

 

「それで本日は何をお話しましょうか。最近あった出来事ですと、市場で河童が性懲りもなく爆発事故を起こしたことでしょうか」

「性懲りもなくって、結構頻繁に起こしてるの……?」

「月に二、三回は。下手人は毎回違いますけど、たまに何回かやるやつもいます」

 

 そのたびに本人が泣いて許しを請うまでお仕置きをしているのだが、一向に減る様子がない。

 もはや人間の側が河童の所業に慣れてしまった。今では口頭での注意に留めている。

 

「阿求様はどうでしょう。異変があった時にお忙しいのはわかりますが、小鈴嬢とは話されておりますか?」

「うん。小鈴は相変わらず本の虫ね。あんなので嫁の貰い手があるのかしら」

「頭の良い女性が求められる時もあります。慧音先生のように教師になる道もあるかもしれません」

「小鈴が先生だなんて想像できないわ。あの子、いっつも自分の興味のあるものばっかり優先させるんですもの」

 

 友人への愚痴をこぼしているが、阿求の顔は楽しそうに綻んでいた。

 信綱は相槌を打ちながら、そんな阿求を穏やかな瞳で見つめる。

 ここしばらくは彼女が忙しそうにしていたため、信綱も影に日向に尽くしていたが、あまり話す時間は取れていなかった。

 こういう時間さえあれば、他には何も要らない。信綱は改めて御阿礼の子に仕えてきた喜びを噛み締め、阿求の話を聞いていく。

 

「――それであの子、もう鈴奈庵にある本は大体読んじゃったんですって」

「すごいですね。となると彼女も最近は暇なのでは?」

「そうみたい。誰から聞いたのか知らないけど、妖怪の作った本にも興味があるとかなんとか」

「妖魔本ですか。あれはさすがに危険ですよ」

 

 天狗らと交流のある信綱も知っているものだが、実物を見たことはなかった。

 しかし妖怪が作成した本というだけでロクでもないものであることは想像に難くない。

 

「わかっているんだけど、やるなと言われるとやりたくなるみたいでね……」

「子供はそういうところがありますね。阿求様も私が危ないから止めて欲しいと言ったらムキになりますし」

 

 大人の言葉を聞かないのも子供の証左かもしれないと、信綱は毎日泥まみれになって帰ってきた子供の阿求を思い浮かべて笑みをこぼす。

 幻想郷縁起の編纂も始まり、家にいることが増えた今の阿求は多少お淑やかになっているが、本質は変わっていない。

 そんな信綱の目線の意味に気づいたのか、阿求は恥ずかしそうに顔を赤くしてぷんぷんと怒る。

 

「も、もう! お祖父ちゃんの意地悪!」

「申し訳ありません。ですが、意地悪で言ったわけではありませんよ」

「じゃあどういう意味で言ったの?」

「嬉しかったのです。あなたが健康な肉体を持っていることが何よりも」

 

 外で跳ね回り、多少の怪我などものともせずに遊んでくる彼女の姿が信綱には喜ばしかった。

 御阿礼の子という宿命を背負う限り、短命の軛も同時に彼女を縛り続ける。

 ならばその短い期間くらい、好きなことをして過ごしたいと思うことの何が悪い。

 

「……私より前の御阿礼の子のことね」

「ええ。阿七様は生まれつき身体が弱く、私が就任した時にはロクに外にも出られませんでした」

「知ってる。いつも部屋の中で本を読むか幻想郷縁起を書くか……。話し相手を探そうにも、歳の近い人もいなかった。お祖父ちゃんが来てくれたのを阿七はすっごく喜んでた」

 

 気の置けない子供であることも働き、阿七は心から信綱の存在を喜んだ。

 阿礼狂いであるが、阿七の力になりたいと精一杯背伸びをする少年に阿七の心は救われていた。

 他愛のない話をできることも、日々聞かされる彼が阿七のために行っている努力を聞くことも。月日が過ぎて大きくなった彼に手を重ねることも。

 もはや詳細は転生の際に記憶から消されてしまっている。

 

「阿求様はまだ覚えておいでで?」

「ううん、阿七の思い出はもうほとんど思い出せない。――でも、ここがお祖父ちゃんの子供の頃を覚えている」

 

 阿求は自分の胸に手を当てて、そこから広がる自分のものではない暖かな感情を受け止める。

 もう阿求には阿七がどんな思いで生きて死んだのかは思い出せないけれど。

 隣にはまだ子供だった信綱がいた。それは今も暖かく息づく心が覚えている。

 

「阿七も言ったと思うけど、もう一度言うね。――稗田阿七は、あなたと一緒にいられて幸せでした」

「……恐悦至極」

 

 阿求から阿七の話が出てくるとは思っておらず、不意打ち気味の感謝に信綱はぎこちなく微笑むことしかできなかった。

 そんな信綱の様子を見て阿求はクスリと笑う。

 

「あはっ、お祖父ちゃんもそんな風に困ったりするんだ。ちょっと阿七の気持ちがわかったかも」

「あの頃よりは成長したと思っておりましたが、まだまだのようです」

 

 あの日、阿七と永遠の別れをした時。年若く未熟な自分はロクな言葉をかけてやれなかった。

 今ならとは思ったものの、先ほどの会話でそれが難しいことが証明されてしまった。

 どうやら自分は咄嗟に口を動かすことが難しい性質のようだ。

 

「阿弥はどうだったの? お祖父ちゃんから見た阿弥って聞いたことないと思う」

「阿求様が目の前におられるのに、今この場にいない御阿礼の子の話をしても不快に思われると考えました」

「そっか。……うん、お祖父ちゃんが私を見ていないんじゃないか、って不安になっちゃうかも」

 

 今、信綱の膝の上で話をねだっている少女は稗田阿求ただ一人である。

 彼女の中に阿七の想いも阿弥の記憶も息づいているとわかった上で、信綱は阿求だけを見ていた。

 

「ですから、私からは何も言いません。無論、阿求様が望まれるのであれば思い出語りの一つも致しますが」

「じゃあ話してもらおうかな。阿七のお話はさっきしたから、次は阿弥のお話! お祖父ちゃんから見た阿弥を話して?」

 

 そうですね、と信綱は微かに考えて彼女を表現するのに相応しい言葉を探す。

 

「……私の隣を並んで歩いてくれた人、ですね」

「隣を歩いた?」

「ええ。阿七様には……お恥ずかしながら、私が手を引かれていた印象しかなかったので」

 

 成長し、身体が阿七より大きくなっても。ずっと信綱は阿七の後ろを歩いていたと錯覚してしまう。

 信綱の言葉に阿求は楽しそうに笑う。自分には祖父としての大きな背中しか見せていなかった信綱だが、彼にも未熟で可愛らしい子供の頃があったのだ。

 

「阿弥は違ったの?」

「私は成人し、阿七様の時みたいに不甲斐ない真似はしないよう心がけておりました」

 

 無論、誠心誠意お仕えしたという意味では阿七様も阿弥様も阿求様も同じです。そう言って信綱は膝の上にいる阿求の頬を撫でる。

 くすぐったそうにしながらも嬉しそうな阿求の視線に促され、信綱は話の続きを語っていく。

 

「幻想郷縁起の編纂に先立ち、多くの異変がありました。吸血鬼異変、天狗の騒乱、百鬼夜行」

「どれもお祖父ちゃんが立ち向かったんだよね」

「ええ。全ては阿弥様を守り、人里を守るために。そしてどれにおいても、阿弥様は私を信頼してくださった」

 

 彼女の脅威を払うために彼女を置いていかなければならない時もあった。

 その時でも彼女は自分に全幅の信頼を寄せてくれた。自分の側仕えに不可能などないと信じてくれた。

 そうして信じてくれることこそ、阿礼狂いにとって無上の喜び。信綱はただただ膨大な歓喜を以て阿弥に仕え続けることができた。

 

「あの方は私を信じ、私はあの方を守った。そういった意味では対等な関係だったとも言えます」

「む、私だってお祖父ちゃんを信じてるよ」

「もちろん、阿求様の信頼を疑うことなどあり得ません。ですが、阿弥様に仕えていた私にとって、その信頼は無二のものだった」

 

 動乱の渦中にあった幻想郷で阿弥を守り抜き、彼女が生まれてから旅立つまで側にいたことは信綱にとって生涯の誉れである。

 

「そして私はあの方を赤ん坊の頃から見守り続けました。――阿弥様が旅立つ時まで」

「……うん」

「最初から最後まで側にいた。そういった意味でも阿弥様は私の特別な人です。無論、阿七様と阿求様も同じように」

 

 阿弥は信綱を父と呼び慕っていたが、ある時にそれが途絶えた時があった。

 あの時、阿弥は悩んでいたのだろう。それも信綱が力になれない類の。

 信綱も彼女の力になれない自分に苛立っていた。

 お互いを思い、お互いに悩む。そうした過程を通ったことも含めて、信綱にとって阿弥は対等に手を取り合って動乱の時代を歩いた存在のように思える。

 

 阿求は信綱の独白を胸に染み入らせるように聞き届け、淡い笑みを浮かべる。

 自分の胸に当てている鼓動はきっと、信綱が語っているものと完全に同じ――というわけではない。

 父と信じた人に向ける信頼とは別種の、焼き焦がすような胸の高鳴り。

 この思いを言葉にするならば――

 

 これ以上を考えるのはやめよう。真実は阿弥の胸の中にしか存在せず、信綱は終生知る由のないもの。

 彼女は自分の感情を信綱に伝えなかった。どんな過程を、葛藤を経たのかも思い出せない阿求に彼女の代弁者となる資格はない。

 

「……じゃあお祖父ちゃん。私のことは?」

「阿求様、ですか?」

「そう。私はお祖父ちゃんにとって、どんな御阿礼の子?」

「……元気が良くて、活発で。時に私を困らせることもありますが――大切な家族です」

 

 愛すべき孫娘であり、敬愛すべき主人であり、自分の全てを捧げるに相応しい御阿礼の子は、信綱の言葉に満面の笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、お祖父ちゃん。その言葉が聞けて嬉しい」

「あなたが望むなら何度でも言いましょう。阿求様は私の主人であり、孫娘なのですから」

「えへへ……」

 

 照れたように微笑む阿求に信綱も柔らかく笑う。

 そうしてしばらくの間、信綱から見た御阿礼の子という話題に興じていた二人だったが、不意に信綱がつぶやきを漏らす。

 

「……そろそろか」

「お祖父ちゃん?」

「阿求様、少しの間で構いません。膝の上から離れていただけますか?」

「? うん……」

 

 どうかしたのだろうか、と訝しみながらも阿求は信綱から離れ、日向の暖かい場所に座り直す。

 そんな阿求に信綱は向き直り、背筋を伸ばした綺麗な正座で相対した。

 何事か、などと阿求が安穏とした考えを持つのも一瞬。信綱が深々と頭を下げる姿を見て、その意味を理解してしまう。

 

 

 

 

 

「――暇乞いを致します。阿求様」

 

 

 

 

 

「……っ!」

「阿求様に疵瑕があるわけではございません。ただ、もう間もなく私はあなたに仕えることができなくなる」

「……はい」

 

 すでに声が震えているのが阿求にも自覚できた。

 まだ阿求が子供の頃に交わした一つの約束。信綱がいつか永久の眠りにつく時、阿求に暇乞いをするという約束。

 信綱はそれを守ったのだ。ならば阿求も約束を守り、彼と笑ってお別れを告げねばならない。

 

 無理だ。こうして相対しているだけで手足は冷え切り、視界はグラグラと定まらないというのに。

 そんな阿求の内心を信綱はわかっているだろうに、それでも彼の言葉に淀みはない。

 一旦顔を上げた彼は、懐から一冊の本を取り出して再び頭を下げる。

 

「――最後の奉公を致します。それを以て暇乞いとさせていただきたく存じます」

「……奉公?」

 

 もうずっと阿求は信綱に助けられているというのに、まだ彼にとっては足りないものがあるのか。

 その疑問が浮かび、一瞬だけ阿求の心から家族の喪失という恐怖が消える。

 

「こちらをお受け取りください、阿求様」

「うん……お祖父ちゃん、これは?」

 

 暇乞いをする直前に本を渡され、阿求には意図が読めなかった。

 阿求に読んで欲しい本があるならもっと前に伝えるだろう。なぜ今になって、という意味が阿求にはわからない。

 そんな彼女に、信綱は特に間を置くこともなくサラリと内容を告げる。

 

「はい。あなたの短命の軛を解き放つ方法が記されてあります」

「え……えぇっ!?」

 

 思わず本を見てしまう。

 何の変哲もない本にしか見えないが、そんなこれまでの幻想郷の歴史において前代未聞なことが記されているのか。

 

「と言っても、私なりに研究を重ねた上での結論です。阿求様のお体で試すわけにもいきませんから、机上の空論と言ってしまえばそれまでです」

「……私に短命のこととか全然聞かなかったよね?」

「慧音先生や四季映姫、八雲紫らは阿求様より昔の御阿礼の子を知っておりましたから」

 

 彼女らの話を聞いて、信綱が自分なりに知見を深め、考察に考察を重ね、結論を出した。

 そうして得られた結論を信綱は阿求に話していく。

 

「その上でお話いたします。――こちらはその可能性が高い、というだけのものです」

「……でも、高いんだ?」

「はい。今、阿求様にお渡しした本と同じ内容のものを妖怪にも渡してあります」

「妖怪にも?」

「紅魔館のレミリア。妖怪の山の天魔。鬼の首魁である星熊勇儀と伊吹萃香。幻想郷の賢者の八雲紫。彼女らに渡してあります」

「そ、それってどういうこと!? なんで私の短命の話がそっちに飛ぶの!?」

 

 信綱が挙げた人物は英雄である信綱の知り合いであり、阿求との個人的なつながりは薄い。

 レミリアは友人であると思っているし、八雲紫との付き合いも長いと思っているが、他の三人は信綱の友人という印象があった。

 

「これは可能性が高いだけのもの。もっと時間があればより良いものが生まれるかもしれない。そう考え、彼女らに託しました」

「託した……」

「この方法が難しいのであれば、次代に託す。そしていつの日か、あなたを――」

「…………」

 

 信綱からの懇願されるような瞳を受けて、阿求は呆然とするしかなかった。

 自分の人生に信綱が寄り添ってくれるだけでも幸福だった。何の隔意もなく祖父と呼び慕い、彼の膝の上で甘えられるだけで嬉しかった。

 その思い出だけで良かったのに――この男はもっと大きなものを阿求に残そうとしているのだ。

 

 阿求の手元にある方法が可能か不可能か。そんなことは考えない。

 これは目の前の男が御阿礼の子のことを世界で一番考えて考えて考え抜いて、人生を歩んできた男の集大成なのだ。

 その執念を甘く見るなどあり得ない。彼は正真正銘――御阿礼の子に狂っているのだから。

 

「……私の短命を終わらせるのが、お祖父ちゃんの最後の奉公?」

「いいえ。私はあなたに道を遺したかった」

「道?」

「はい。短命でなくなったら、もしかしたら求聞持の力もなくなり、御阿礼の子としての使命が果たせなくなるかもしれません」

「……っ」

 

 信綱より告げられる内容に身体が固くなるのを阿求は自覚する。

 稗田の一族は代々求聞持の力により見聞きしたものを全て覚え、これらを活用することで幻想郷縁起の編纂に携わってきた。

 代々続いてきたそれを阿求の代で終わらせるかもしれない、というのは動揺を覚えて当然である。

 

「――ですが、あなたは生きることができる」

「お祖父ちゃん……」

「私は阿七様、阿弥様が使命を果たす姿を一番側で見てきました。その姿は何よりも尊いものであり、使命を果たして旅立った彼女らを侮辱するようなつもりは断じてございません」

「うん。それはお祖父ちゃんを信じてる」

 

 阿求の言葉に信綱は深々と感謝し、そして自らの思いを吐露する。

 

「……けれど、あのお方の気高さは他に道がないからのものです。生まれた時より御阿礼の子の使命を課せられ、逃げることもできず、短命の鎖に縛られた」

「…………」

 

 ともすれば侮辱に聞こえるかもしれないその言葉を、阿求は静かに受け止める。

 御阿礼の子が二度、使命を果たす姿を見てきた信綱の言葉なのだ。きっと彼は阿求よりも御阿礼の子のことを知っている。

 

「だからせめて、阿求様には選べる道を遺したかった」

「……私が御阿礼の子として生きるか、これを使って御阿礼の子として生きられなくなるかもしれない可能性に賭けるか」

「はい」

 

 それだけ言って話は終わりであると、信綱は再び頭を下げる。

 

「使うかどうかは阿求様にお任せいたします。ですが、もし使うことを選ぶのであれば――先に挙げた妖怪らが何を差し置いてもあなたの味方となるでしょう」

「……わかりました」

 

 信綱の話を全て聞いた阿求は、先ほどまで感じていた震えが消えているのを理解する。

 代わりにあるのは急にこのようなことを告げられた動揺もあるが――何よりも、胸が一杯になるような満ち足りた気持ちだった。

 今なら信綱の献身に対し、人生で一番の感謝とともに暇を出せそうである。

 

 阿求は平伏したまま動かない信綱の肩に手を置き、静かに彼の長い、本当に長い側仕えの任を解除する。

 

「この本を受け取ることで、あなたの暇乞いを受理します。本当に、本当に……お疲れ様でした」

「恐悦至極」

 

 やはり、声は震えてしまった。

 阿求は目尻がぼやけるのを覚えながら、それでも穏やかに微笑んで信綱にその言葉を告げた。

 それを聞いて信綱はゆっくりと身体を起こし、従者としてではなく阿求の家族として笑う。

 

「……では、ここから先は私のワガママです」

「え?」

「阿求様、こちらに」

 

 信綱は立ち上がろうとして、上手く立てないことを自覚する。

 もう本当に時間がないようだ。だが、まだ身体は動く。

 阿求に気づかれぬようごまかしつつ、縁側の手近な柱の方に近寄って身体をもたれかける。

 側仕えとしての信綱であればあり得ないような楽な姿勢になった後、信綱は阿求を側に招く。

 

 阿求が何の疑問も持たずに近寄り、信綱に顔がよく見えるよう近づく。

 信綱はそんな阿求の頬を優しく撫でて、言葉にできない感慨を胸に抱く。

 

 とうとうここまで来た。残された時間はわずかで、身体も自由が利かなくなった。

 もう間もなく、自分は御阿礼の子と永遠の別れをするだろう。

 だから、伝えなければ。阿七を見送り、阿弥を見届け、そして今、側仕えの役目を終え、一人の人間として看取られる番になった今こそ言おう。

 

 ずっと前から。それこそ阿七と死別した時から、一度で良いから言いたかったこの言葉を。

 

 

 

「――生きてください、阿求様」

 

 

 

「あ……」

「生きて、生きて、生きて――。成人し、酒の味を覚え。大人になって、恋をして。夫婦になって、子をもうけて。子が巣立ち、孫ができて。そんな当たり前の幸せを、どうか――」

 

 従者として、彼女を慮る言葉はすでに伝えた。

 だからこれは阿求が聞く理由などない、文字通りただのワガママ。

 英雄でもなく、従者でもない。火継信綱という名を持って生まれ、生きてきた一人の人間の最初で最後のワガママ。

 それを聞いた阿求は思わず口元を押さえ、零れそうになる嗚咽を必死に堪えた。

 信綱はそんな阿求の状態を理解し、それでもこれはワガママなのだと自らの願いを押し通す。

 

「ああ……! やっと言うことができた……! 阿七様に阿弥様、二人に託されて背負ってきた言葉を、やっと……!」

「お、祖父ちゃ、ん……!」

 

 阿求はもう息も絶え絶えだった。すでに涙は両目からとめどなく溢れ、それでも嗚咽だけはなんとか耐えている状況。

 別れる時は笑顔で、という約束を守ろうと必死に頑張る阿求の頬を伝う涙を、信綱の指が優しく拭っていく。

 

「こんな私でも妻を持ち、娘を持ち、孫を得られたのです。……あなたにそれができないなんて道理、あってはならない」

「……っ!」

「ですから阿求様、どうか、どうか――生きてください」

 

 そう言って、信綱は大きく、深く息を吐く。

 すでに視界には霧がかかり始めている。この霧が視界を全て覆った時が、自分の終わりだろう。

 だが阿求の顔を見ることはやめない。世界で一番美しいと思ったものを、この生命が終わるまで見ていたかった。

 

 阿求は信綱が優しく微笑み、流れる涙を拭ってもらいながら、その場に泣き崩れたい衝動をこらえて、その涙を袖で目元が赤くなるのも構わず拭い取る。

 そして精一杯に、最高の笑顔を浮かべて、信綱と目を合わせる。

 

「ぁ――」

 

 信綱は涙ながらに微笑む阿求の姿を見て、一瞬だけ呆けたような音が漏れる。

 彼を送り出そうと精一杯笑う阿求の後ろに、懐かしい影が見えたのだ。

 

 

 

 弟を慈しむように微笑む阿七の姿と、父を労うように微笑む阿弥の姿が――

 

 

 

「あぁ……!」

 

 信綱の瞳からも一筋、涙が零れ落ちる。

 世界で一番美しいと思っているものが、三つも同時に見られるとは。

 こんな望外の幸せがあって良いのか、ともう大半が霧に侵された思考でそれだけを思う。

 阿七、阿弥、阿求。三人の御阿礼の子に見守られ、信綱は微笑んで――

 

 

 

 

 

 ――生きてください、阿求様。

 

 

 

 

 

 阿礼狂いに生まれた少年は自らの物語の果てに、これまでと変わらず御阿礼の子の幸福だけを願い続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここに一人の人間の物語が幕を下ろす。

 人によっては英雄譚と言うだろう。人によっては到達者の物語と言うだろう。

 だが彼の――阿礼狂いとして生きて死んだ者の人生を語るならば、それは一つしかあり得ない。

 

 

 

 阿礼狂いに生まれた少年のお話は、ここに終幕を迎える――。










――以上を持ちまして本編の完結と相成ります。一年半弱の長い間、読んでいただきありがとうございました。
後書きなどは後で活動報告に載せることに致します。感想への返信も少し待っていただけると幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場人物紹介

人物紹介のフォントをあーでもないこーでもないと悩んだり、どうせなら私の所感も入れようとしたりしている間にこんなに遅くなってしまいました申し訳ありません(土下座)

ちなみに読者に媚びるげっふんげっふん、幻想郷を書くなら出しておきたいよね! という感じのキャラについては省いてあります。ご了承ください。


 火継信綱(ひつぎのぶつな)

 

 能力:そんな便利なものはない。

    ……強いて挙げるとするならば、御阿礼の子に狂う程度の能力。但しこれは火継の一族全員が例外なく所持している。

 

 好きなもの:御阿礼の子に仕えること。釣り。単純な物事。

 嫌いなもの:御阿礼の子が害されること。複雑な物事。

 

 得意なもの:やろうと思ったこと大体なんでも。

 苦手なもの:説教をすること。無垢な信頼を寄せてくる者。

 

 この物語の主人公にして、誰もが認める作中トップのキチガイ。不発弾の核弾頭。

 しかし多くの人妖や御阿礼の子に触れ合ったことで人間性も確かに獲得しており、真人間度合いも高いという難しい性根をしている。

 文武に優れた才覚と極めて高い倫理観に道徳観、また誠実さを持ち合わせており、その上で優先順位は動かない狂人。それが火継信綱という人物である。もう一度こいつを一から構築しろと言われたら無理と答える。

 

 基本的に対外的な顔は演技で作っており、生真面目な好人物を演じることで周囲からの好評を得やすいようにある程度意識して立ち回っていた。

 ……立ち回っていたが、その振る舞いを七十年以上続けることができたため、実は演技でもなんでもなく素の人格は真面目で優しい性格だというだけだった。

 ただ本人は椛に指摘されるまで実感しておらず、演技しているだけなのになんでこいつらは俺に寄ってくるんだろう、と割りと本気で不思議に思っていた。

 面倒見も良く、一度顔を覚えた相手が訪ねてくる限り、辛辣な態度こそ取るものの追い返したり無視をすることはなかった。

 そのため多くの人妖に好かれ、彼女らに影響を受けて、また与えながら彼の人生は過ぎていった。

 

 類まれな、などという言葉では収まらない才能の持ち主で、才能で見れば霊夢以上のものを持っている万能の天才。0から1を生み出す方向ではなく10の手間を1に、1の効果を10に跳ね上げる、いわゆる効率化の観点で優れた才能を持っている。

 全く新しい分野の開拓という意味ではほとんど力を尽くしていないが、すでにある技術の習得ペースは非常に早く、基本的にやろうと思ったことは大体一流以上にこなせる。

 また、当人の気質として努力を怠らない性格でもあるため、一度身につけたものは側仕えの仕事や戦闘に応用することが多い。

 英雄としての名声が大きいが、彼の本分は御阿礼の子の側仕えである。それ故に従者に求められるスキルはどれも非常に高いバランスで所持している。むしろ彼としてはこちらの方に力を入れていると言っても良い。

 

 後継者の育成にはさほど熱心ではなかったらしいが、それは自分の技術をまるまる受け継げる者がいなかったため。技術を遺すことには貪欲だったらしく、多方面に様々な書物を遺している。

 中には彼の武芸を記した本もあるらしいが――ある妖怪が持っているという情報以外、出回っていない。

 尤も、彼の人外じみた技術や観察眼を前提にした部分が多々あるため、真っ当に習得しようとしたら十年単位で時間のかかるものばかりである。

 しかし、それを持ち続けて鍛錬を続けるような奇特な妖怪がいたのなら――未来においては、彼の剣術を継承した妖怪も現れるのかもしれない。

 

 阿礼狂いに生まれた少年のお話とタイトルにあるように、これは基本的に彼の目線で物語が推移していく。

 その上で重要なのは彼自身が獲得した人間性を以て、他者にどのような影響を与えるか。ぶっちゃけチートじみた戦闘力とか知力、観察眼などは物語の進行を円滑にしたり、妖怪のお眼鏡に叶うための小道具に過ぎない。

 

 幼少の頃は導かれ、動乱の時代は共に歩み、幻想の時代では誰かを導いていた。

 彼にとっては年齢ごとのあるべき姿を演じていただけかもしれないが、経験則と知識から生まれる観察眼で得られたアドバイスは的確な物が多く、厳しいものながら相手を慮ったものとなるため、評判は良かった。

 

 どんな相手であろうと向き合ってくるのなら向き合うべきだ、という考え方の持ち主であり、彼に対して適当な対応をする輩には適当な対応しかしないが、怒りであれ好意であれ、正面からぶつかってくる相手にはちゃんと正面から応える。

 そのため抱えている悩みが矮小なものであっても、本人にとっては真剣なのだろうという考えで真摯に応対する。

 

 このように考えるに至った経緯として、慧音や椛といった真面目な性格の者と幼少の頃に多く関わり、なおかつ椿といった反面教師も得られたことが起因している。

 何が何でもこうはなるまいという姿を定め、ならばあるべき姿は、という点で彼女らを参考にした。それが今に通じる性格の原点となっていた。

 

 動乱の時代をその力と知恵で駆け抜け、人妖の共存の先駆けとなった、幻想郷の全ての人妖にとっての偉業を成し遂げた人物。

 彼にとっては降りかかる火の粉を払っていただけかもしれないが、その過程で多くの妖怪からの信頼を得ている。

 ……当然ながら、彼女らもただ倒されただけの人物にそこまでの信頼は寄せない。その後の対応でちゃんと悩みを聞いたり、真摯に対応するからこそ得られた信頼も存在する。

 

 そしてそんな時代を駆け抜けた彼の能力は大妖怪と比較してもトップクラスのものである。基本的に大妖怪の能力はある程度団子になるよう意識して書いていたが、信綱だけは大妖怪と二対一ぐらいなら普通に勝ち目があるような戦闘力に設定してある。

 知略の面でも紫や天魔と同等に政治での勝負ができるほどであり、人里の立場が大幅に向上したことの一因にもなっている。

 彼の死後、未来において酒宴の席などで『幻想郷最強は誰か?』という質問があったら必ず何名かは彼の名を挙げるほど、その勇名は刻まれている。

 余談だが、彼の戦闘力が本来の意味で発揮されるのは御阿礼の子が害された時――すなわち、全能力を相手の抹殺に向けた状態であり、そうでない時は手加減こそしないものの、本気にもなっていない状態となっている。阿礼狂いが本領を発揮するのはやはり御阿礼の子が絡んだ時以外にあり得ない。

 ちなみに阿礼狂いとして本気を出している時の戦闘力は二体程度なら大妖怪だろうと圧倒。三対一でようやく互角といった領域になる。

 

 幻想郷の創始者である賢者の悲願。人妖の共存を成し遂げた英雄は最後まで英雄ではなく、阿礼狂いとして在り続けた。

 それでも彼が最後に願った主へのワガママはきっと――英雄にならなければ得られない願いであっただろう。

 

 

 

 作者の所感

 

 キチガイだけど真人間。真人間だけど根っこの部分はキチガイ。幻想郷で一番強い存在は誰か? と聞かれたら人によって変わるけど、幻想郷で一番ヤバいのは誰? となると誰もがこいつを挙げるぐらいにはヤバい。

 

 基本的に彼の狂気性は御阿礼の子という他者に向き続けているため、時と場合によっては主のために自分の願いを押し殺すことのできる、いわゆる長編向きキチガイとして設定しました。

 これが徹頭徹尾自己中心的な狂気性だと、利害を無視して自分の願いを叶えるため物語がどうしても短くなりがちです。

 阿礼狂いという一族に生まれ、その中でも最強と目される資質を持って生まれた少年。それが彼です。

 実のところ設定した当初はここまでまともなキャラではなかったというか、そもそも妖怪との関わり自体ももっと少なくする予定でした。

 御阿礼の子とイチャイチャしている物語が書きたかったので、極力周囲との関わりを減らす予定だったのです。

 しかし博麗大結界が張られ、結界大騒動も起きて間もない幻想郷の人里で、そんな平穏な時間が過ごせるのかという状況だったため、必然的にボコボコと災難が彼に降りかかります。

 その中で彼が御阿礼の子と共にいる時間を増やすためには争いの種――つまり人と妖怪が争う状況自体を解決してしまえば良いという考えに行き着くのはある意味当然の帰結でした。

 

 そして後述しますが、椛の願いを受けて彼は人妖共存を成し遂げます。私としてはあんまり原作と乖離を作りたくなかったというか、それは霊夢にやってもらいたい気持ちもあったのでプロットの上では動乱の時代前後で人妖共存は成っていない予定だったのですが、その時にはもう火継信綱という人物は私の手を離れていました。

 

 阿礼狂いの天才に生まれたからこそ英雄への資格を得て、英雄になったからこそ人間性を獲得した。

 最初は英雄の名声を落とさない程度の演技だったかもしれませんが、ずっと続けば一つの真実。人間性が高いから実力を持って英雄になったのではなく、英雄になれる実力を持って、後から人間性を獲得したパターンの存在です。

 

 まあよくここまで成長したというか、真っ直ぐ歩めたものだと思っております。正直、どっかで原作キャラ死亡のタグが付くかもしれないと思ってました。

 彼自身としては御阿礼の子に始まり、御阿礼の子に終わる人生。ですが他者にとっては多くの救いと希望を与え、跡を濁すことなく最後まで英雄で在り続けた偉大な存在。

 彼の名は幻想郷の存在全てにとって、大きな意味を持つものとして語り継がれることでしょう。

 

 こんな奇特な主人公の物語。お付き合い下さりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 稗田阿七

 

 能力:一度見たものを忘れない程度の能力(求聞持の能力)。

 

 好きなもの:側にいてくれた弟のような子。可愛いもの。お散歩。

 嫌いなもの:苦い薬に痛い注射。全く良くならない病弱な身体。

 

 得意なもの:子供のお世話。自分の体の把握(いつ悪くなるかなどのペースがわかる)

 苦手なもの:運動。寒い日に一人で着替えること(子供の側仕えが来てからは彼に手伝ってもらっていた)

 

 物語中、唯一の信綱にとって年上の御阿礼の子であり、彼にとって姉のような存在だった。

 身体が弱く、おいそれと外に出ることも叶わない身体であり、そんな時にやってきた年下の子供に彼女の心は救われていた。

 話し相手であり、未熟な少年であり、大切な弟のような彼に阿七は多くのことを教える。

 合理のみが最善の道ではないこと。常に心配してくれる誰かがいたこと。そして御阿礼の子が生きてと阿礼狂いに願うことの意味。

 あらゆる面で信綱にとって始まりの御阿礼の子であり、彼の歩む波乱万丈の人生の発端になっている。

 当然、彼女にそのような意図はないだろうし、彼女を謝らせるような真似は信綱が許さない。

 ただ家族を思って放たれた言葉を、重く受け止めてしまったのは信綱が悪いのだ。

 

 彼女にとって信綱は弟であり、側仕えではなかった。ただ一人、信綱が側仕えとしての役目を果たせなかった人物とも言えるが、そんな彼女だからこそ信綱は後の二人の側仕えを十全に果たすことができた。

 信綱を導き、微笑みかけ、時に叱り、穏やかに手を引いて彼をただの狂人ではなく、阿礼狂いの英雄という存在へと変える切っ掛けを作った。

 

 今際の際、彼女に生きてと願われたことを信綱は終生覚え続け、いつかその言葉を自分が仕える最後の御阿礼の子に告げることを決心する。

 託された者が、誰かに託す。そうして御阿礼の子に何かを遺すことが、自分の最後の役目であると信じて。

 

 

 

 作者の所感

 

 穏やかで優しいお姉さん、素敵だと思いませんか?(欲望の塊)

 まあこれ以外に言うことがないというか、こんな欲望からこの物語は生まれています。

 性格も性質も違う、けれど記憶は確かに引き継がれていて、一人の人間に色々な面を見せてくれる儚い少女たち。そんなイメージで御阿礼の子三代を書きたいと思い、阿礼狂いに生まれた少年のお話は誕生しました。

 性格の設定も最初に仕える人であり、しかも人間で信綱より年上という物語の後半ではまず活かせないアドバンテージがあったためお姉さんらしく行こう、というのはすんなり決まりました。

 

 とはいえ、彼女が果たした役目こそがある意味一番大きなものでもあります。なにせ彼女こそが信綱にとってのスタート地点。彼女が間違った方向に導いたり、導くことをしなければ、信綱は普通の阿礼狂いとして途中で死んでいました。

 最善が最良の道とは限らない――すなわち、合理のみで計れる物事だけで世の中は動いていない。この事実に気付けるかどうかで信綱の人生はかなり変わります。

 変わった結果として、信綱は合理的でありながらも情を軽視せず、本人的にあんまり価値を認識できていないけれど、決して無意味とは言わない。そんな人間になっていきました。

 

 登場期間も全体を通せば一割にも満たない時間でした。もうここは私の見込みが甘かったとしか言いようがない。始めた当初は百話行くなど誰が思っていたか。

 ですが、彼女がいなければ物語がここまで続くことはなかった。それを覚えて頂ければ幸いです。

 

 

 

 

 

 稗田阿弥

 

 能力:一度見たものを忘れない程度の能力(求聞持の能力)。

 

 好きなもの:父であり、異性であるたった一人の人。紅茶。いつか空から見た雄大な景色。

 嫌いなもの:辛い食べ物。身体を全力で動かすこと。

 

 得意なもの:料理(側仕えは不安そうな目で見ていた)。忍ぶこと。

 苦手なもの:たまにやたらと過保護になる側仕えの人。奔放で振り回してくる人。

 

 生まれてから死ぬまでの間、ずっと側に信綱が居続けた御阿礼の子。動乱の時代の幕開けは彼女の生誕と共に始まっている。

 信綱にとっては大切な愛娘であり、彼にとっても初めてである幻想郷縁起の編纂を共に行っていった、ある意味において肩を並べて歩んでいた。

 彼女自身も阿七から受け継いだ記憶の中にある、大好きな少年が立派な大人になっていたことに喜びながら親子としての時間を過ごした。

 不安など何もなく、ただ元気に遊んで、疲れたら父におんぶしてもらって帰り、暖かい食事をお腹いっぱい食べて、明日を楽しみに眠る。

 そんな子供なら誰もが持つべき当たり前の時間を、他の子供より短いとはいえ満喫することができていた。

 これまでの御阿礼の子にはできなかった、子供としての時間を与えてくれた信綱には深く感謝しており、全幅の信頼を寄せていた。

 阿七の時のような弟に向けるものではなく、娘を絶対に守る親として、また異変解決すら成し遂げた最強の火継としての双方を以て。

 

 だから彼女には妖怪の山に行っても不安などなかったのだ。親を娘が心配するのは当然であっても、彼の力は阿弥が一番信じていたのだ。

 ただ自分が彼にどんな感情を向けているのか、その時はまだわかっていなかった。

 

 生まれた頃から――否、生まれる前から自分たちに全てを捧げてくれた男性。自分のために己を磨き、自分のために世界を変え、そして今でも、自分のために戦ってくれる。

 愛する家族であるはずだったその人に、家族に向けるものとは違う慕情が自分の胸にあると気づいた時、彼女は阿礼狂いと御阿礼の子という互いの立場の悲劇を理解する。

 短命な己と、そんな自分たちに変わらぬ姿を見せ続ける狂人。もしも自分たちが普通の男女だったのなら、などという仮定すらも見出だせない歪な関係。

 

 阿弥は禁忌であると理解した自らの感情に悩み抜き、最後には彼と共に家族であることを決心する。

 異性として見てもらいたい気持ちも確かにあったけれど――家族として過ごした時間を愛おしいと思う気持ちにもまた、嘘はないのだ。

 あるいは、ほんの少し欲張りになっていたら違う結末もあったかもしれないが――全ては詮無きことである。

 

 家族として生きると決め、彼女の最期もまた阿七と同じく信綱の膝の上となった。

 泣きそうな顔を必死に微笑みの形にして、心配させまいとする愛する人に抱かれ。この人を好きになって良かったと二重の意味で想いながら、彼女は旅立つのであった。

 

 

 

 作者の所感

 

 ヒロイン二人目。阿礼狂いに恋をしてしまった悲劇の少女であり、同時にその悲劇を穏やかで暖かい結末に変えた、心の強い少女。

 御阿礼の子と阿礼狂い。どう考えても歪な関係であるはずなのに、彼らはそれを少しも苦に思わない。

 御阿礼の子は変わらない彼らに安堵を見出し、阿礼狂いは御阿礼の子に仕えるために己の一生が無為に終わることすら受け入れる。

 百年以上の周期を経て生まれ変わる形だったらそれでよかった。先代の御阿礼の子に仕えた者はすでにこの世にはおらず、また新たな側仕えがつくのだから。

 しかし、彼女の時はそうではなかった。異例の短い周期での転生を終え、待っていたのは阿七の記憶からは見違えるように少年から大人へと成長した男性。

 阿七の記憶や自分を育ててくれたことから家族としての愛情を覚え、また彼も完璧に応えて十全な子供時代を過ごさせてくれた――情緒を発達させる余地を作ってしまった。

 故に彼女は側仕えの男性に信頼や家族愛から変化した愛情を抱いてしまった。これがただの父娘であったのならあり得ないだろう。

 だが、御阿礼の子として長い月日を生きた記憶を持っていること。その記憶により精神が通常よりも成熟してしまっていたこと。そして本来なら老成し、枯れたと表現しても良い精神に水を与えてしまった側仕えがいたこと。

 

 あらゆる物事が彼女に恋を教え、恋は彼女に禁忌を教えた。後述する椿に負けず劣らず間が悪いとも言えます。

 

 けれど、その感情に彼女はちゃんと向き合い、答えを出した。そしてその答えに殉じ、信綱に想いを告げることはなくただ家族として穏やかに一生を終えた。

 それが幸福であったのかどうかは彼女にしか知る由はない。しかし――彼女の死に顔は阿七に勝るとも劣らないほど、穏やかなものであったことでしょう。

 

 

 

 

 

 稗田阿求

 

 能力:一度見たものを忘れない程度の能力(求聞持の能力)。

 

 好きなもの:祖父。兎鍋。紅茶。

 嫌いなもの:熱すぎる飲み物。血や臓物の出るような絵巻物。

 

 得意なもの:体を動かすこと。笑顔。

 苦手なもの:夜に一人で眠ること。

 

 九代目の御阿礼の子。信綱にとって最期の御阿礼の子であり、信綱を看取る役目を持ったたった一人の子。

 なんだかんだ御阿礼の子全員が物語上、彼女らにしかできない役割を帯びている。そうなるように物語を作った。

 阿七、阿弥を見届けてきた信綱にとって悲願とも言える健康な肉体を持っており、普通の人と同じように遊ぶどころか活発に動くことすら可能。もうそれだけで信綱は何よりも嬉しかった。

 そうした体を持つからか、性格も活発で好奇心旺盛な冒険家気質。気になることがあったら体でぶつかっていくタイプ。信綱は割りとハラハラしながらそれを見守っている。

 

 短い期間での転生とは言え、時期が開いてしまうのは事実であり――再び生を受けた彼女の目の前には阿弥の知る頃よりさらに人妖の共存が成された幻想郷があった。

 阿七の時より、阿弥の時より輝いて見えるそれを少しでも良い形で残そうと幻想郷縁起の大きな変化も試そうとしている。それは信綱の生きている間に日の目を見ることはなかったが、きっと未来において大きな役割を果たすのだろう。

 

 信綱のことを優しくて頼れる祖父と認識しており、同時に彼が阿七と阿弥を支え切った最も優れた側仕えであることも理解していた。

 結果を示して荒事への信頼を勝ち取った阿弥と違い、阿求だけは最初から信綱のことを何もかも信じていた。だからこそ妖怪の住処に向かう時も緊張はあっても恐怖はなかった。

 

 同時に信綱が自分の目の前でいつか死ぬことも理解できていた。それが何よりも怖いものであるとわかっていて、けれどその恐怖は普通の人々が当たり前に背負うものであって。

 信綱は御阿礼の子である稗田阿求ではなく、普通の女の子である阿求にこそ自らの死を以て、人間が当然のように死んで後を託す存在であると教えるつもりだった。

 それを理解して、けれどやはり別れの時は悲しくてたまらなくて。――だけど、最期は笑ってお別れをした。

 

 信綱に託された可能性と未来を手に、彼女はこれからの幻想郷を生きていく。選択は全て彼女に委ねた上で、生きて欲しいと願った信綱の言葉とともに。

 

 

 

 作者の所感

 

 ヒロイン三人目。もうここまで来ると単なるヒロインというより、家族という意味合いの方が強いです。

 とはいえ信綱にとって最も大切な人というのがヒロインであると言うなら彼女こそが間違いなくヒロイン。

 課せられた役割は御阿礼の子の使命を感じさせないほど活動的な少女であることと、彼を看取ること。

 元気いっぱいなお祖父ちゃんっ子として書いていたのは意図的です。阿七、阿弥とお淑やかな――悪く言えば元気のない御阿礼の子を書いてきたので、最後の少女は元気にしたかった。

 

 彼女にとって信綱は世界で一番頼れる人であり、大好きなお祖父ちゃん。多くの困難を乗り越えて固くなった手のひらで撫でてもらうのが大好きだった。

 

 終わりを見届ける役割を帯びているだけとも言い換えられ、阿求自身が信綱に対して何かしらの働きかけをすることはない。

 しかしこれは彼女が信綱に向ける感情が少ないというわけでは決してなく、老齢に入って完成してしまった信綱に対してできる役割がなかったため。

 何より、三代に渡って仕えてくれたたった一人の家族を笑って見送るという、阿七にも阿弥にもできない偉業を果たしている。

 

 阿七、阿弥を看取った後に涙を流した信綱と同じように必死に涙をこらえて、それでも溢れてしまう涙を拭って、精一杯の笑顔を浮かべた彼女がいたからこそ、信綱は彼女に阿七と阿弥の面影を見出して逝くことができました。

 

 

 

 

 

 犬走椛

 

 能力:千里先まで見通す程度の能力。

 

 好きなもの:色々な景色を見ること。大将棋。

 嫌いなもの:手足が斬り飛ばされること。女心のわからない対応をされること。

 

 得意なもの:視ること。将棋。剣の鍛錬。

 苦手なもの:無機質な瞳。やたら偉い鬼に絡まれること。

 

 ほんの少し特殊な能力を持っていること以外、何の変哲も無い白狼天狗にして、本作主人公である火継信綱のバディを務めた妖怪。

 人懐っこくて礼儀正しい、けれど仲の良い相手には遠慮のないことも言う裏表のない性格。とてもではないが、人の上に立てるようなタイプではない。

 

 出会いは信綱が幼少の頃まで遡り、当初は彼に首ったけなある烏天狗のお供程度でしかなかった。そのため信綱への思い入れもさほど大きなものとは言えない。

 この段階で彼女が信綱を殺していても、とうとうやらかしたか程度で済んでいた。

 

 見方がハッキリと変わったのは吸血鬼異変の前後。

 信綱が正真正銘の化外であることを理解し、彼が椿を殺した異変。

 そしてそれを正直に椛に話すことが筋であると語る彼の胸で涙し、こんな結末が訪れない幻想郷にしたいと椛は決心した。

 最初はさほど熱を持っていなかったが、信綱が狂人ながらも不器用に人や妖怪と向き合う姿。閉塞感の漂っていた幻想郷などをその広い目で見続けて――共存すべきだという答えに至る。

 

 信綱はそれを聞き届け、椿や椛と過ごした時間を悪いものとは定義していなかった彼も同意し、幻想郷は共存の方向へ舵を切られていった。

 

 共存を目指す信綱に協力し、目覚ましい活躍を続けながらも自分のことを頼り続ける彼に応えようと、また彼女も努力していた。

 お互いに気の置けない友人であり、背中を預けるに足る相棒であり、同じ夢を見た同志であり。彼と彼女の関係は一言で言い表すには難しいほど長く、深く続いている。

 だからこそ椛は自身の感情に名前を付けなかった。付けてしまうと、きっとその方向に向かってしまうだろうし、何より信綱の無邪気とすら言える信頼に背きたくなかった。

 

 その感情に名前をつける時が来るとしたらそれは――

 

 妖力は白狼天狗相応で、身体能力も妖怪としてみれば中堅程度。雑魚と呼ばれるほどではないが、決して上位陣と並べられるほどでもないといった程度。

 しかし、剣術や体術に関しては信綱に鍛えられており、本人に自覚こそないものの白兵戦での防戦に限れば文や天魔、勇儀や萃香が相手でもある程度持ちこたえられる。

 今はそこまでが限界だが、信綱が遺した戦闘術の本を託されているため、遠い未来ならばあるいは――

 

 ともあれ、彼女は共存の果たされた幻想郷をこれからも生きていくことだろう。それを成し遂げた人間と一緒に歩き、同じ景色を見続けたことを何よりの誇りとして。

 妖怪の山の哨戒天狗である彼女は、今日もまた妖怪の山を飛び回り、幻想郷の営みを見続けるのだ。

 

 

 

 作者の所感

 

 ストーリーを真っ当な方向に持っていった第一人者。こいつがいなければ原作キャラ死亡あり、のタグがついていたことでしょう。

 

 ノッブは意識していないでしょうが、相当な献身を彼女に対し行っています。普通は人と妖怪が争わないで暮らす世界が欲しいと聞かれて、そんな世界を一緒に見たいと思っても幻想郷全体を巻き込んで行動はしません。

 それをやり遂げ、共存が成っても一貫して椛が願ったことだから叶えた、というスタンスを崩していない。普通ならヒロインにするような献身です。本人に自覚はありません。

 

 登場させた理由は以前にも書きましたが、オリ天狗である椿を出すに当たって一人だけだと話を膨らませづらいのでもう一人出そうと思ったのが切っ掛け。

 なんかチョイキャラで出せばええやろ! という適当な考えで出したキャラ。なのでぶっちゃけプロットを構築した当初から重要な役割を持つ予定はありませんでした。

 ですが、長く登場していれば長く描写する機会もあります。長く描写すれば、その分だけキャラに広がりが出て来る。キャラが広がれば、勝手に動くことも増える。

 

 下っ端天狗なのは物語を通して何も変わらず、一人では何もできないかもしれない。けれど彼女は何かを成し遂げられるけど、一人では何もしない少年とともにいた。

 誰とも関わらなければ阿礼狂いとして一個のシステムに徹していたであろう彼に叶えたいと思わせる願いを与えた。その点だけでも彼女の行った功績は大きなものである。

 そもそも他人に願いを与えてもらわなきゃ自発的に動こうとしない主人公に問題がある? アーアーキコエナーイ。

 

 ともあれ一人では何もしなかった人間と一人では何もできなかった妖怪。そんな二人が切っ掛けになって幻想郷の変化は始まったと思っていただければ大丈夫です。

 

 上記にもありますように色々な面を書いてきたキャラでもあります。色々な面を書くということは色々な感情も書くということであり、彼女が信綱に向ける感情はかなり複雑怪奇。

 どこぞのおぜうのようになびいてほしいからアピールするけど、それになびいたら自分の惚れた男じゃないから殺しにかかる、というような根っこが空間跳躍したような捻れっぷりではないですが、友情と異性愛、情緒面で色々と未熟だった彼に対する母性に椿を殺したことへのわだかまり。

 多くの感情を彼に対して向けていて、その上で椛は最後まで信綱と相棒であることを選びました。

 関係を変えたくなったら踏み込めば良い。変えないままでも信綱は変わらず自分を信用し、信頼してくれる。

 

 互いに背中を預けた時もあれば、互いに同じ方向を見た時もあった。信綱と最も付き合いの長い妖怪であり、彼がたった一人選んだ相棒である彼女は、もう閉塞感などどこにもない新たな幻想郷で彼の託したものとともに生きていくのだろう。

 

 

 

 

 

 先代の巫女

 

 能力:空を飛ぶ程度の能力

 

 好きなもの:酒。一人じゃない時間。家族。

 嫌いなもの:戦うこと。誰もいない部屋で眠ること。

 

 得意なもの:霊力の操作。結界術。独りでできる暇つぶし。

 苦手なもの:禁酒(そもそもできない)。早寝早起き。

 

 物語終了時に博麗の巫女を務めている博麗霊夢の先代を務めた博麗の巫女。

 当然ながら名前はちゃんとあり幻想郷縁起にも残されているが、もっぱら先代の呼び名で親しまれていた。彼女の名前を呼んだのは伴侶でもある彼だけだろう。

 現役の頃は人付き合いが極端に少なく、彼女自身も意図して最小限に留めていたフシがある。理由は人妖のどちらかに肩入れができないため、どちらとの関わりも必要最低限にしようとしていたため。

 

 役目に忠実に徹し、けれど隠しきれない寂しさを覚えていた時に信綱とは知り合う。

 最初は祭りの時の顔合わせだけであり、本格的に顔を合わせたのは吸血鬼異変の頃になる。

 家族が死んでも眉一つ動かさない精神性。吸血鬼を一方的に嬲る出鱈目な強さ。阿礼狂いとしての立ち位置を一切崩さず、紫とも対等に舌戦を繰り広げられる胆力。

 あらゆるものが異質な信綱に一度は恐怖を覚えるものの、その後の宴会で彼女なりに折り合いをつける。

 彼が狂人であることに間違いはないけれど、根っからの悪人では決してない。むしろ狂気に触れない限りはかなり優しい方であると持ち前の直感で見抜いたのだ。

 

 その姿に信綱も何か感じ入るものがあったのか、はたまた英雄として名を馳せてしまったから始まった婚姻話の猛攻から逃げるためだったのか、彼女の元をちょくちょく訪れるようになる。

 博麗の巫女であるから深入りはできない。そのことを言っても彼に変化はない。

 なにせ彼自身が阿礼狂いという人間とも妖怪とも違う存在なのだ。誰かに咎められたら考えるが、それもなかったので彼に気にする理由がなかった。

 そのため信綱は何の隔意もなくただ単に博麗神社を隠れ家にして、博麗の巫女と無駄話をするためだけにわざわざ神社まで足を運んでいたのだ。

 それがどれほど大きな巫女の救いになったか――それは彼女にしかわからないだろう。

 

 信綱との付き合いは二十代の頃から始まり、口約束程度とはいえ役目を終えた彼女を引き取るという約束も交わす仲。

 ……と言えば聞こえは良いが、どちらも適当な相手がいなかったからその場にいた相手に適当なことを言っただけの話である。後に実現したことに一番驚いているのは当人同士である。

 だが、彼女自身は信綱に救われたという自覚があるため、彼のことは憎からず思っていた。

 

 百鬼夜行異変が終わり、八雲紫より役目の終わりを言い渡された時に正式に婚姻を交わす。

 信綱としては大した意味を見出していなかったものの、先代となった彼女は大いにその関係を楽しんでいたらしく、縁側で隣り合って晩酌を傾ける姿などを火継の女中はよく見ていた。

 

 年老いてからの婚姻となったため子供を作ろうとは互いに考えておらず、しかし子供を抱きたいと思っていた彼女にとって霊夢の母親ができるというのは願ってもない好機であった。

 誰が見ても親馬鹿であると言わんばかりの甘やかしっぷりを発揮し、けれどちゃんと情操教育も行い、彼女は霊夢を育て上げた。

 尤も、博麗の巫女としての実力面や考え方などは信綱にも助力――というか肩代わりを頼んでおり、霊夢は先代が育てたというよりは信綱と先代の二人が育てたと言った方が適切である。

 

 ずっと孤独に神社で空を眺めていた彼女は、その役目を終えて初めて誰かが隣に立って空を眺めるようになった。

 彼女の隣で何かを語ることもなく、しかし離れることは巫女が望もうとしない限り行わず――彼は巫女の隣に立ち続けた。

 その事実がどれだけ彼女にとって救いとなったか、信綱は最後まで理解することができなかった。そして理解できず、悲しみの感情も浮かばなかった自分を不甲斐ない良人として責めている。

 

 そんな彼が冥界で彼女と再会したら――?

 

 

 

 作者の所感

 

 サバサバしているように見えて根っこが寂しがり屋の女の人、良いと思いません?(欲望)

 霊夢が出る前の時代を書くわけですから、当然ながら博麗の巫女も不可避なわけです。そんな形でこの人は作り出されました。言葉はアレですが、出そうと思って出したのではなく舞台的に出さざるを得ないキャラでした。

 とはいえ彼女には霊夢の母親としての役割と、信綱と並んで幻想郷を守る役目がありました。

 信綱の奥さんになる役目? そんなもん話の途中で生まれたに決まってんだろ最初からオリ主と博麗の巫女と結婚させようとするとかそこまでだいそれたことは考えないよ! 話の流れでやる時点で変わらない? せやな。

 

 だけど日々動き続けていないと落ち着かないワーカーホリックの気があるノッブの手綱を、御阿礼の子が関わらない範囲で握れる存在として意外と割れ鍋に綴じ蓋な関係となりました。

 なまじ一人でできることが多いために足を止めてのんびりするという発想が出にくい彼を、その首根っこを掴んで自分の隣に座らせ、一緒に空を眺めるように促すことができる。そんな関係に落ち着きました。

 

 霊夢と同じ能力を持っていますが霊夢ほど才能には恵まれず、夢想天生にも到達こそしているものの霊夢より不完全。あれは不完全であることが人間の証明とも言える(と解釈している)ので、一概に未熟扱いもできませんが。

 霊夢より才能が足りてない。だからこそ霊夢よりも地に足がついている。飄々としているように見えて、割りと根っこは悲観的だったりします。霊夢が奥義を覚えたから親の役目も終わりだと思ってしまう辺り特に。信綱が軌道修正しましたが。

 

 誰も訪ねて来ない博麗神社で一人技を磨き、生き残る術を黙々と鍛えていた彼女の幼少期は決して幸福なものとは言えないでしょう。

 だけど彼女を訪ねる者ができて、やがてその人物は彼女の伴侶となって、ともに娘を育てて最期には伴侶に看取られて逝った。

 今際の時、先代には信綱が自分の死に悲しみを見出だせないことを理解していた。

 しかし、そんな自分を悟られまいと必死に隠そうとする彼だからこそ、先代は彼を愛することができたのだ。

 伴侶の死を悲しめない己に悲嘆する信綱への想いを胸に、動乱の時代を駆け抜けた博麗の巫女は安らかにその一生を終えるのであった。

 

 

 

 

 

 霧雨勘助

 

 能力:一般人にそんなものはない。

 

 好きなもの:家族。友達。酒。商売。

 嫌いなもの:誹謗中傷。陰気な空間。

 

 得意なもの:人付き合い。ポジティブシンキング。

 苦手なもの:怒らせた妻。損得勘定の計算。

 

 今作におけるオリキャラその一であり、原作キャラである霧雨魔理沙の祖父に当たる人物。

 大らかで気前が良く、誰かと一緒の時間を過ごすことが大好きで人と人の縁をつなぐことが得意だった。商売人になったのはある意味運命だったのかもしれない。

 

 妻である伽耶とは家がほぼ隣同士で、同時期に生まれた子供ということで寺子屋に通う前からの付き合い。当初――というより告白されるまではずっと妹という認識で家族としての意識の方が強かった。

 信綱との付き合いは寺子屋からになり、積極的に人付き合いをする方ではなかった信綱を慧音にも仲介されながら引っ張っていくうちに仲良くなっていった。

 信綱の方も一度友誼を結んだ相手をないがしろにはせず、頼られれば応える面倒見の良さを持ち合わせていたため、付き合いは一生のものになった。

 

 とはいえ彼の家がどのように呼ばれているかを意識し始めた、大人になりたての頃はぎくしゃくした時もあった。

 阿礼狂い。畏敬と侮蔑、双方を込めて呼ばれる言葉を本人も名乗り、またその通りの価値観を持っていると何の感情も宿さない瞳で言われた時、彼は明確に恐怖の感情を覚えていた。

 覚えていたが――それでも彼は信綱と友人でいたかった。仮に友人でいられない時が来るとしても、あんな一方的な終わりであって良いはずがないと願った。

 勘助にとっても大きな決断であり、信綱にとっても大きな意味を持つものであった。狂っている自分と友人でいたいと言ってくれた勘助を、信綱は終生尊敬していた。

 

 霧雨商店の娘である伽耶と結ばれてから本格的に商売の道に進み始め、彼の人付き合いが上手い才覚はここで発揮されることになる。

 一見すると冷たく、踏み込んでこない限りは誰にも深入りしようとしないが、付き合ってみると面倒見が良い信綱とは違い、人との距離感を無意識のうちに測って相手にとって心地良い距離が取れるタイプの人付き合いの上手さを持っている。

 その力を活かし、霧雨商店を大きく広げていった彼の手腕は幻想郷に名を残すものでなくとも、讃えられるべきものである。

 

 縁に恵まれ、仕事に恵まれ、子に恵まれ。親友の手で激変していく幻想郷を、彼なりの戦い方で戦い抜き、幸せに生きた人間。

 妖怪であろうと商品を買って笑顔になるならお客様である。そんな考え方は息子にも確かに受け継がれ、多少形が変わって孫娘にも受け継がれているのだ――

 

 

 

 作者の所感

 

 実はこいつが魔理沙の祖父になるとか決めてなかった(暴露)。

 ただ筆が動いてしまったものは仕方がない。どうにか辻褄を合わせようと色々動いた結果、割りとそれっぽい立ち位置に収まったんじゃないかなと思ってます。

 出した理由は主人公が妖怪側と知り合うだけだと、人里側の描写が少なくなりがちになってしまうだろうとバランスを取らせるため。

 妖怪としか付き合っていない主人公が人里のために頑張ります! とか言っても説得力薄いだろうし、何より普通の人との付き合いも通して人里自体も描写してみたかった。

 結果として彼は私の予想を超えて信綱の懐に深く入り込み、信綱自身もそれを受け入れるほどに友人として確固たる絆を作り上げた。お前すげーよ(真顔)。

 もともとは農家の息子だったが、人付き合いが上手いという設定は最初からあったので商人に活かせるだろうと転用。そして魔理沙は商人の娘なのに魔法の才能があるという結果になったため、多分変な方向に豊かな才能を持ちやすい一族なんだと思う(他人事)。

 元農家→商人→魔法使い、と彼の一族の子どもたちは割りと奇天烈な方向に進みやすいのだろう。むしろ真っ当な息子の方がおかしいかもしれない。

 

 オリキャラの男主人公を出し、さらにオリキャラの男友達も出した。正直受け入れてもらえるか割りとビクビクものだったけど、特に何か問題が出なくてよかったと胸をなでおろしております。

 ……まあそれ言い出したら天魔とかどうなんだよって話になるけどネ!(後述)

 

 

 

 

 

 霧雨伽耶

 

 能力:パンピーにそんなもの(ry

 

 好きなもの:好きな人の隣にいること。手料理。

 嫌いなもの:陰湿な人。距離感の測れない人。

 

 得意なもの:頭を使うこと。料理。

 苦手なもの:明るく振る舞うこと。

 

 勘助と同時に出したオリキャラその二。物静かで控えめ。だけどここぞというところでは積極的になる女の子。

 幼い頃から自分の手を引いてくれた勘助に寺子屋時代から想いを寄せていたが、勘助はそれに全く気づいていなかった。二人の共通の友人である信綱すら途中から気づき、多少の気遣いはしていたというのに。

 とはいえ決して勘助が鈍感なわけではなく、ただ単に認識が家族からなかなか切り替わらなかったというのが理由にある。家族からいきなり異性として好きですと言われても普通は困惑する。

 

 伽耶自身も勘助の認識は察していたため、ちゃんと大人になるまで我慢して彼の外堀を埋めることに終始していた。その様子を見ていた信綱が密かに彼女を敵に回すのはやめようと決心していたのは別の話。

 そして十分に成長し、大人になったと同時に勘助に告白――をすっ飛ばして求婚した。結婚してからあの時は一足飛びに行き過ぎたと反省していたらしい。幸せになれたので文句があるわけでもないが。

 

 結婚してからは霧雨商店に婿入した勘助を影に日向に支え、ともに歩んでいった。頭の回転も早かったため、勘助の苦手な金勘定などは一時期彼女が一手に担っていたほど。

 子供が生まれてからは良妻賢母として霧雨家を支えていくことに。彼女がいなければ勘助はただの農家として終わっていただろうし、仮に商人になれたとしても霧雨商店ほど大きくはならなかっただろう。

 

 信綱とも仲の良い友人であり続けており、彼の本性を知った上で友人でいることを選んだ者の一人。

 勘助のように本性を直接見たわけではないが、それでも言動の端々に現れる価値観の違いなどから薄々察してはいたものの、彼女は最後まで踏み込むことを選ばなかった。

 たとえ踏み込んでも変わらないものがあり、同時に彼は決して悪人ではないことも理解していたため。

 それに勘助らと一緒にいる信綱の顔は穏やかで狂気性を微塵も感じさせない――巧妙に隠していたとしても――もので、伽耶が信頼するに値するものであったからである。

 

 いつか壊れるかもしれないと理解して友人として付き合い続け――最期まで彼らは友達であり続けた。

 家族としても息子と孫娘に恵まれ、幼い頃から好きで今なお最愛の夫に寄り添い続けた彼女の人生は、きっと幸福なものだったのだろう。

 

 

 

 作者の所感

 

 普段は控えめだけどしっかり手綱は握っている奥さんって素敵じゃない?(欲望の塊)

 

 一番最初から勘助とくっつけさせようと決めてたキャラ。無事くっついて私は嬉しい。

 彼女が商人の娘な時点で霧雨家の設定はほのめかす程度には出していた(霧雨家じゃなくても良くね? ってなった時のために確定はさせなかった)。

 だけどそうなると原作時間軸で魔理沙がぽっと出になることが避けられなかったため、霧雨家の娘に収まる。割りと私は序盤の頃に後からどうとでもなる種をまいておくタイプです。

 

 信綱の物語は幻想郷全体に及んでいたため相対的に影が薄くなりがちでしたが、彼女がいなければ魔理沙の父親が生まれない→魔理沙も生まれないので結構大きな役割は果たしています。

 信綱も彼女を気の置けない友人として扱い、彼女に対しては結構気安い一面も見せております。

 

 良き妻であり、子供を導く賢母であり、そして並大抵のことでは動じなくなった肝っ玉母さんである。勘助と一緒になって多くの苦労もしたし、喧嘩もした。

 でも全てが楽しく、愛おしい時間だった。彼女の幸せは最初からずっと、好きな人の隣にいることなのだ――

 

 

 

 

 

 霧雨弥助

 

 能力:原作キャラの父親になる程度の能力(適当)

 

 好きなもの:酒。商売。家族。

 嫌いなもの:二日酔い。

 

 得意なもの:父親譲りの笑顔。

 苦手なもの:怒った時の母親。

 

 上記の霧雨勘助と霧雨伽耶の間に生まれた子供。二人の名前を取ってこの名前になっている。魔理沙の名前はどこから来たか? 多分母方じゃないっすかね(適当)

 父親似の快活さを持った少年で、幼い頃から信綱が英雄としての名声を高めていく姿を目の当たりにした世代。

 そのため英雄というものに強く憧れていた時期があり、自警団に入る前から人里を駆け回って体を鍛えていた。

 しかし彼の努力は信綱のような英雄に至るものではなく、それを英雄として憧れていた信綱当人から百鬼夜行異変の折に突きつけられる。

 同時に彼にはできないことで貢献する方法がある、という言葉ももらっており、それが彼を商人への道に歩ませる転機となった。

 英雄に憧れていた少年は当たり前のように挫折を経験し、しかし立ち直って自分にできる道を見出した。

 ごくごく当たり前の、平凡な人間としての生き方を見つけて彼は霧雨商店を継ぐことになる。

 

 とはいえ商売の才能はあったらしく、父親から譲り受けた霧雨商店をさらに広げることに成功している。

 そして父親からのモットーである商品を買ってもらえるなら誰であろうとお客様、という言葉を胸に今日も彼は人間、妖怪分け隔てなく商品を売るのであった。

 そんな幸福の最中、可愛い一人娘の魔理沙に魔法の才能があることが発覚する。

 魔法使いになりたいと言う魔理沙の願いを子供の戯言と一蹴したが、信綱に諭されて正面から話すことを決意。ちゃんと子供ながらに考えていた魔理沙と向き合い、彼らなりに折り合いを付けた上での勘当処分となった。

 勘当とは言ってもお互いに納得しているため、普通に他人として話す分には問題ないだろうと父娘としての関係も破綻したわけではない。

 彼女が幻想郷に名を轟かせるのを耳に、英雄にはなれなかったけれど一人の親として立派に成長した彼は、今日もまた娘の心配をするのであった。

 

 霧雨商店で修行し、独り立ちした霖之助とは師弟関係であり、同時に親友でもある。共通の家族である魔理沙のことでよく愚痴を交わし合っているらしい。

 

 

 

 作者の所感

 

 オリキャラ同士が結ばれて生まれたオリキャラの子供であり原作キャラの親。

 こうして書くとものすごい地雷臭のするものを出したな私は(真顔)。

 彼に与えられた役割は魔理沙の父親となることであり、それ以外はあんまり大きい役割は与えていません。

 ですが、人並みに大きなものに憧れて、人並みに挫折して、人並みに立ち直って真っ直ぐ立つ、と人里に住む人間らしい人間を描けて割りと楽しいキャラでした。

 小さな頃からノッブの華々しい活躍を聞いたり、その本人から親友の息子ということで色々と面倒を見てもらっていたため、めっちゃ尊敬しています。

 

 とはいえノッブ自身はあまり褒められることを好んではいないため、彼には普段通りに接してくれと願いながらも、彼の期待を裏切らないよう振る舞っていました。

 

 本編より未来の幻想郷でも彼の役目は変わらず、人里に来る人妖に等しく商品を売っていき、時々魔理沙の自慢話を聞いていくことになるのでしょう。

 

 

 

 

 

 上白沢慧音

 

 能力:歴史を食べる程度の能力

 

 好きなもの:人間。子供。歴史。甘いもの。

 嫌いなもの:悲劇。理不尽。暴力。

 

 得意なもの:学問を教えること(本人談)。歴史の編纂。

 苦手なもの:政治的な考え。教え子である子たちの死。

 

 一話から出ている実は原作キャラでも一番最初に登場した人物。

 信綱が生まれる遥か昔から寺子屋を開き、子どもたちに学問を教えている本物の偉人。彼女のお陰で幻想郷の識字率は非常に高いものになっている。

 

 但しその授業が面白いかどうかは別問題で、彼女の授業を聞いて居眠りして頭突きを受けるのは人里の人間誰もが一度は通る道。信綱ですら例外ではない。

 しかし教え方に一難どころじゃない問題があっても、教師としては理想的な人物。

 良く子供たちを見て、一人の子がいたら友達を作ってやり、除け者にされるものがいたら庇ってやり、除け者にされないよう成長を促し、というように子供たちを真っ当な方向に成長させることにかけては彼女の右に出るものはいない。

 信綱も幻想の時代で霊夢や魔理沙と接する時の態度には、彼女の姿を真似したものがいささか以上に存在する。

 

 銀の髪をなびかせた美しい少女であり、人里に生まれた者たちが一度はお世話になる人物であり、そしてどれだけ歳を取ってもちゃんと自分たちを覚えてくれる、という人里全体が彼女の世話になっているようなもの。相手を叱ろうとする時の彼女に頭の上がるものは誰もいない。

 己が長命種である自覚もあるため、政治などの場で我を出すことはほとんどなく、自分が面倒を見るのはあくまで子供たちと道に迷える者たちだけというスタンスを一貫して取り続けている。

 これには人々の取捨選択が致命的に苦手という理由がある。全ての人間が彼女にとってかけがえのない教え子である以上、彼らを切り捨てることができなかった。

 

 後は人里から要請があれば自分にできる範囲で引き受けるという形で人里に奉仕している。

 

 半獣と、人間とは明確に違う種族であるため、そうして生きた時間や力を用いて人里の守護者のような役割を担っている。

 と言っても、主な役割は人里内での犯罪抑止がほとんどであり、外敵と戦う役目は他の者――本作では火継の一族――に任せることが多い。

 その影響で信綱との付き合いは非常に長いものになる。人里の代表に近いような立場になった彼もまた、人里の守護者という形で人里に奉仕をしていたため、ある意味同僚のようなもの。

 

 信綱の活躍を間近で見た、というわけではないが、彼の口から伝えられる内容を後世に残すために歴史書の編纂を行う。

 個人だけで歴史書を作るのは滅多にないのだが――人妖の共存を成し遂げた人物ならば、十二分に偉人として残す価値はあるだろう。

 

 信綱が亡くなった後の幻想郷を見届け、彼女もまた歴史書を記していく。

 かつての血腥いものなどではなく――未来への希望に満ちた過去の足跡を。

 

 

 

 作者の所感

 

 ノッブとは別ベクトルの偉人。この人を見習えば大体の人は真人間になる模範的人間。

 拙作ではかなり昔から寺子屋を開き、教師をしている設定のため、人里で彼女のお世話にならない人はいない状態でした。

 そして人里の守護者でもあるため信綱との接点も比較的多く、最初から最後まで信綱とは先生と生徒として互いに敬意を払う関係を保ちました。

 でしゃばりすぎず、さりとて影が薄くならず、良い感じの立ち位置を確保できたと思ってます。

 

 両親からの愛情を受けず、またそれをどうでも良いものと位置づける阿礼狂いの彼にとって、彼女の教えが最も根底に根付いているものでもあります。

 根幹が阿礼狂いであることは変わりませんが、それを隠すための土台は子供の頃に学んだことが多く含まれています。

 こうはなるまいと決めた烏天狗の姿や、かくありたいと願った半獣の姿。

 そしてお調子者の妖猫や一緒に居続けた白狼天狗などに影響されて、彼の人格は形成されています。

 

 ちなみに実力は大して強くありません。並の人間に比べれば十分強く、ただの雑魚妖怪であれば追い散らせますが、天狗や鬼が相手では分が悪い。

 

 

 

 

 

 火継信義

 

 能力:パンピーにそんなものは(ry

 

 好きなもの:御阿礼の子に仕えること。

 嫌いなもの:側仕えの立場が脅かされること。

 

 得意なもの:武術

 苦手なもの:特になし

 

 本作の主人公、火継信綱の実父であり彼が側仕えになる前に側仕えをしていた男。

 信綱が生まれる前は彼が火継の家で最も強い存在だったのだが、彼が生まれたのを契機にその立場は露と消える。

 齢六歳にして自身を打ち倒した息子のことをひどく憎悪しており、同時に側仕えとしての役割を果たして阿七を看取った彼のことを尊敬もしている。

 当然ながら親子間の愛情など一欠片もない。信綱は側仕えの場所を奪った許しがたい怨敵であり、狂おしいほどの嫉妬が常に渦巻いていた。

 ――それが当の信綱本人には何の痛痒も与えないと理解していながら。

 人間としては最底辺の男ではあるが、阿礼狂いとしてはよくある人間性である。

 

 彼の最期はそんな憎い存在である信綱の盾となって死ぬこととなったが――阿弥のために動いた吸血鬼異変の最中、阿弥の側仕えである信綱を守って死んだことには一片の後悔も抱いていない。

 なぜならそれは憎き敵を生かすための死ではなく――ただ御阿礼の子の力になれる死だったのだから。

 

 

 

 作者の所感

 

 主人公が木の股から生まれたわけにも行かないし、仕方がないから親父も出すか、という安直な考えで生まれた父親です(暴露)

 ノッブが一桁の歳から側仕えになるのは決定事項だったため、彼をどうフェードアウトさせるかは結構悩みました。老衰で気づいたら死んでいた、というのも主人公の異常性を出すには良いかなと考えたこともあったり。

 

 ですがもっと派手に主人公の異常性と、この一族はそういう気狂いの一族であると印象づけるためには別の死に様が良いと考え、吸血鬼異変の時に死ぬことと相成りました。

 ぶっちゃけあそこを逃したら本当に気づいたら死んでたオチになっていたと思います。

 

 

 

 

 

 椿

 

 能力:烏天狗だからといって能力持ちがポンポンいると思うな!

 

 好きなもの:強い人間。命がけの死闘。

 嫌いなもの:心の通わない戦い。争いのなくなりつつある幻想郷。

 

 得意なもの:子供の面倒を見る(自称)。色っぽいポーズを取ること。

 苦手なもの:真っ直ぐな好意。我慢。

 

 幼少の信綱に出会い、妖怪の中では最も早く彼の才覚を見出して稽古をつけた烏天狗。

 天狗の中では比較的若く、大天狗らの話す昔の人間と妖怪の関係というものを実感として得られていない。

 人間と妖怪の関わりが絶たれつつあり、倦怠感の生まれつつある幻想郷に辟易していた天狗で、この閉塞感を晴らすのは人間と妖怪の戦い以外にありえないと考えていた。

 

 そんなところで信綱と出会ったのが本人にとっての福音であり、運の尽き。

 十にも満たない年齢で烏天狗の自分を相手に不意打ちとはいえ逃げ切ったその才覚に深く惚れ込み、人間と妖怪の不干渉という暗黙の了解を平気で破って信綱と交流を深めていた。

 メキメキと実力をつけ、心身ともにたくましく成長していく信綱を側で見続け、やがて彼女は妖怪として人間に恋をする。相容れるはずのない、妖怪である自分のみが得をする利己的なものを。

 

 彼女の願いであった人間と妖怪の殺し合いの果てに得られる何かを、椿は愛情と名付ける。

 ――信綱の敵に回ったが最後、決して得られるはずのないそれを。

 

 結局、彼女の間違いは誰にも正されることなく、決戦の時を迎える。

 全てを理解した時、すでに彼女は取り返しのつかない場所まで来てしまっていた。その結末に至るはるか前から選択肢を間違えていた以上、彼女の結末は必然である。

 

 しかし、彼女が無意味な最期を迎えることと、彼女の死が無意味であることは別である。

 自身の人生に意味はなかったかもしれないが、彼女の死という結末は無意味ではなかった。

 

 それは椿より譲り受けた(婉曲な表現)長刀を片手に英雄としての道を駆け上がり、人妖共存を成し遂げた人間の姿が証明をしている。

 

 

 

 作者の所感

 

 意外と人気が出たことにビビっているキャラ。最初っから途中で殺す予定で出したので、椿エンドすら望まれた時には普通に驚きました。

 

 妖怪らしい妖怪、というのが基本コンセプトにある妖怪です。価値観が違い、愛の表現方法も違う。言動こそサバサバしていて付き合いやすいように見えるが、油断したらすぐに喉元をかき切られる。

 当然ながら人間と相容れる価値観ではありません。信綱と曲がりなりにも十年やっていけたのは彼女が自制したのと、椛が止めていたこと。そして信綱が察して決定的な決裂はしないようにしていたからです。

 それでも信綱が不意に見せた気まぐれで全ては崩壊し、彼女の破滅は決定的なものになる。彼女が死んだお話の後書きにも載せましたが、結局彼女は自分の欲望を満たすことしか考えていなかった。

 

 相手を見ているようで見ていない。最初から最後まで彼女は自分の目的のために動いていた。

 信綱も信綱で自分の目的のために動き、相手の目的――ましてや敵になった相手のことなど一考する価値もなく、信綱は彼女に一片の情けもかけることなく惨殺してしまう。

 

 最期の瞬間、彼女の思考は自らの間違いの後悔と、自分のことを椿という個人としてではなく一絡げな妖怪の一人としてしか見ない信綱に絶望を覚えて死んでいきました。

 

 ただ、彼女の死が全てのターニングポイントになります。彼女との戦いと武器により信綱は並み居る幻想郷の魑魅魍魎を相手に正面から戦える実力を手にし、彼女の死を嘆いた椛によって幻想郷は共存へと舵が切られた。

 椿自身にとって自らの死が絶望的なものであったとしても、物語としては大いに意味があった。ある意味彼女の真価は死んでから発揮されます。

 

 最初から最後まで自分勝手に生きて、自分勝手に間違えて、自分勝手に絶望し、自分勝手に死んでいった。

 ――それでも彼女は一人ではなかった。彼女の死という事実が幻想郷に小さな萌芽を生み出す。

 人間が一人と白狼天狗が一人。たった二人の間に芽生えた願いが、回り回って幻想郷の変革に至る。

 

 彼女は概ねこんな役割の持ち主でした。人気が出て嬉しい限りです。

 

 

 

 

 

 橙

 

 能力:妖術を扱う程度の能力

 

 好きなもの:お魚。主人。耳を撫でられること。

 嫌いなもの:耳を引っ張られること。ゲンコツ。

 

 得意なもの:魚とり。山菜集め(どこかの人間に連れ回されて覚えてしまった)

 苦手なもの:熱いもの(猫舌)。難しい話。

 

 八雲紫の式の式。いずれは八雲の姓も受け継ぐ可能性を持つ妖猫の少女。

 とはいえまだまだ彼女は子供に近く、修行と称して妖怪の山のマヨヒガに住んで日々を送っている。

 主人である八雲藍はマヨヒガに時々顔を出し、課題を出したり橙の世話をする形で橙は修行に励んでいた。

 

 お調子者で尊大と絵に描いたようなガキ大将気質だが同時に優しさも備えており、子分と認めた存在のことは何があっても見捨てず、一度友達だとみなしたら相手が誰であっても物怖じしない。

 この辺りが良い方向に作用し、信綱とは長い悪友としての付き合いを始めていくことになる。

 

 信綱と知り合ったのは彼が幻想郷縁起を届けに行くため、八雲紫の住居に向かうところの案内役になったこと。出会った当初はお互いになんだこの生意気な小僧は、という認識だった。

 しかし不思議と馬が合ったのか、幻想郷縁起を届け終えた後も二人はたまに妖怪の山で会う関係となる。あるいは橙も猫の子分がいるとは言え、一人でいることが寂しかったのかもしれない。

 

 どちらも素直ではないため友人であるとはなかなか認めたがらないが、双方ともにかけがえのない友人であると思っている。

 信綱は彼女ならば未来を託しても良いと思うほどの信頼を寄せ、橙は彼の作り上げた未来を決して蔑ろにはしない精神を持っていた。

 

 何より彼女は正しく人間を知らない妖怪であった。信綱以外の人間を知らない若い妖怪である彼女だからこそ、人妖の共存が果たされた幻想郷に最も早く馴染むことができた。

 それは彼女にとっては何の意味もないことであっても、大きな意味を持つものであった。

 

 

 

 作者の所感

 

 よくこんな出世したなキャラその二。その一? 皆まで言う必要はないですよね。

 元を正せば彼女をレギュラーにした理由は信綱との掛け合いが書いてて楽しいからという身も蓋もないもの。

 

 なのでそこまで物語上で果たす意味は大きくありません。どちらかと言えば彼女は未来の象徴としての意味をもたせました。

 まだまだ未熟でお調子者だけれど、光るものを確かに持っている。それが開花する姿を見ることは本編中になくても、遠い未来に必ず存在する。

 彼女の本当の役割はここではなく、彼らの作り上げた未来において重要な意味を持つものです。

 

 口が悪くてすぐに手が出て仏頂面で顔を合わせるなり人をこき使って、優しくなることも滅多にない。

 彼女にとって信綱とはまず悪口が先に出る存在であることは間違いなく――その後でかけがえのない大切な友人であったと誇らしげな顔で告げる存在である。

 自分がノッブの悪口を言うのは良いけど、他人に言われると我慢ならないタイプ。長い付き合いなのでなんだかんだ大切な時間であると認めています。

 

 信綱の死後、博麗霊夢の時代すらも遠い過去になった未来において、立派に成長した妖猫は今日も首に使い古された鈴を付けて、日々を歩んでいくのでしょう。

 

 

 

 

 

 河城にとり

 

 能力:水を操る程度の能力

 

 好きなもの:機械いじり。きゅうり。ロマン。

 嫌いなもの:ロマンの否定。妥協。

 

 得意なもの:機械いじり。工芸品制作。きゅうりの早食い。

 苦手なもの:コミュニケーション(店番をやる程度は可能)。

 

 山から戻らない人間を探していた信綱と出会い、そこから交流を持つに至った河童。

 臆病者で人見知り。だけど気を許した相手には図々しく、馴れ馴れしい。一度仲良くなるとうざったいが、仲良くなる前も結構うざったい面倒な性格をしている。

 

 妖怪の山の中腹あたりの川の畔で集落を形成しており、機械いじりが好きな種族として妖怪の山では名を轟かせている。主に適当なものを作って爆発事故を起こし、たまに形になるものを作ると誤作動を起こして大騒動を起こすという負の方向で。

 彼女らいわくロマンには勝てなかったという言葉で自爆装置やら暴走機構やらが付くのだからたまったものではない。

 真面目に作りさえすれば彼女らの手先の器用さは幻想郷でも随一なのだが、安定性が全くないのが困りものという面倒な種族である。

 

 基本的に自宅から出ないで機械いじりをするのが好きな妖怪だが、稀に釣りに来た人間と言葉を交わすこともある。にとりもそのクチで信綱――ではなく別の人間と交流を深めていた。

 たまに会った時に適当な話をして、適当に別れる。そんな大して面白くもない、けれど不思議と手放し難い時間をにとりは密かに楽しみにしていた。

 

 それが死別という形で終わることも覚悟はしていた。もとより人間と妖怪。過ごす時間の尺度が違うのだ。

 とはいえ、それが新たな人間との付き合いの始まりになるとまでは思ってなかった。

 名前も知らないのに、大切な友人であった老爺の遺体の前で刀を抜き、剣呑な視線を向ける青年との出会いはここになる。

 

 青年――信綱のことは最初のときは恐ろしい人間だとしか思っていなかった。初対面で刀を抜いてきたこともあるし、表情がほとんど変わらず冷たい声で話していた。

 そんな彼を前に老爺を弔いたいと告げるのはにとりにとって多大な勇気を要したというのに、それすらもにべもなく断られてしまった時は本当に目の前が真っ暗になりそうになった。

 だが、その後に老爺の釣り竿を放られ、それを受け取ってからはにとりの抱く信綱への印象は真逆になった。

 

 ちゃんと自分の属する人里への義務を果たしながらも、融通が利く限りで便宜も図ってくれる。決して冷たいだけの青年ではないのだと。

 

 そこから再びにとりと人間の付き合いが始まっていく。老爺の時と同じように、釣りに来る彼の話し相手になったり、彼の側にやってくる妖猫らと一緒に遊んだり。

 こんな関係が再び続いていくのだろうとずっと思っていて――信綱がにとりから見れば全くの天上人である妖怪からも目をつけられる人間であることに気づいてからも、それは変わらなかった。

 

 すでに一度は人間と死別しているのだ。たとえ相手がどれほど偉大な英雄であったとしても、人間と妖怪である限りそれは避けられない結末。

 だからこそ彼女は最後まで自然体であることを選択した。湿っぽい別れなど彼は好まないだろうと理解し、同時に自分もまた彼が最後ではないと確信して。

 なにせ――人間と妖怪の付き合いはこれからも続いていくのだ。何も彼が自分にとって最後の人間というわけではない。

 自分は未来においてもまた彼と同じように友人と作り、時に楽しく、時におかしくやっていくのだろう。それが人妖の共存を成し遂げた友人への彼女なりの餞である。

 

 ちなみにこれは全くの余談だが、釣りをしている彼をサポートするつもりで作ったミミズくんは後に商品化されて釣り人必携の道具になったとかならないとか。

 但し量産化はされておらず、割りとノリで余計な機能も付与されるため、安定性は著しく低いとかなんとか。

 

 

 

 作者の所感

 

 書いてて楽しいからレギュラー化したキャラその二。その一は八雲紫の式の式。

 

 登場させた当初はお互いに名前も名乗ってなかったのは、その時々でどんな立ち位置に当てはめても不自然じゃないようにするためです。

 彼女ににとりを紹介する流れにしようかな、とか色々と考えたけどそんな面倒なことするぐらいならこいつがにとりでいいよね、ということでにとりが誕生しました。

 

 割りとロクデナシだけど人間に友情を感じているのは本当で、なんだかんだ憎めないキャラという立ち位置を意識しておりました。

 ただ、彼女は戦闘力の関係上、出るタイミングがのんびりしたパートのみであったことが多かったため、お調子者の河童として見られているのではないかなと思っております。間違いでもないので問題はありませんが。

 

 彼女に課せられた役割は人間と妖怪の死別を見せることです。

 すでに亡くなっていた老爺との付き合いもそうですが、ノッブとの付き合いも最終的には死別という終わりを迎えます。

 それぞれの人妖がそれぞれの形で折り合いを付けていく中で、彼女だけは信綱の死を明確に悟りながらもサバサバとした別れ方をしました。

 信綱との時間が大切でなかったというわけでは決してなく、むしろ人一倍大切にしていた。

 彼女にとって人間とは必ず死に、自分たちを置いていく存在である。存在であるが、彼らとの思い出は自分の中で決して消えることはない。

 

 何より信綱は人妖の共存という幻想郷にとっても大きなことを成し遂げた。つまり今の幻想郷で人間とともに生きること自体が、信綱の願いとともに歩むも同然なのだ。

 故に彼女は一人ではない。人間とともに歩み続ける限り、彼女の中に信綱との思い出は生き続けるのだから。

 

 

 

 

 

 射命丸文

 

 能力:風を操る程度の能力

 

 好きなもの:楽しいこと。悪ぶってみること。仕事。

 嫌いなもの:鬼の相手。退屈。

 

 得意なもの:速さ比べ。情報収集。

 苦手なもの:煙に巻けない相手との対話。なんか気づいたら自分を越えていた人間らしき存在。

 

 風を操り、その速度と戦闘能力は大天狗はおろか天魔にすら匹敵すると謳われる烏天狗。

 陽気で社交的。誰に対しても慇懃な態度を取り、砕けた言葉遣いは本当に危ない時か気を許した相手にしか見せない。

 

 相手を煙に巻く言葉を得意としており、なかなか本心を見せないように立ち振る舞うものの根は非常に真面目。奔放なようでありながら、その実誰よりも天狗の社会に帰属している。

 事実として彼女は決められた役職を持たない代わりに天魔の指示に従う、直属の部下のようなものになって日々を過ごしていた。

 その付き合いも長く、天魔とは部下と上司という関係ながらも気の置けないものになっている。

 有事の際には忠実な部下であり、余計な思考や疑問を挟むことなく天魔の指示に従うことができるのは長年の付き合いが生み出した、天狗を導く首魁への絶対的な信頼によるもの。

 

 退屈を何よりも嫌っているため、何かと刺激的な物事を好む。

 そんな彼女が幻想郷を白霧で覆う異変に興味を示さないはずがなく、天魔の指示による諜報を行う過程で信綱に会ったのが彼との縁の始まりだった。

 当初は厄介ではあるものの勝利は可能という認識だったのだが、天狗の里での騒乱を終えてからはお互い万全の状態でよーいどんで戦った場合、ほぼ勝ち目がない領域まで差をつけられてしまう。

 

 こいつ人間じゃねえな、と思ったことと天狗の騒乱の折に阿礼狂いとして戦う彼の姿を見てしまったため、騒乱以降は微妙に信綱に苦手意識がある。

 信綱の側も気づいているのだが、彼女が周囲をうろちょろすると後ろの天魔含めて警戒しないという選択肢が取れないため、仕方がないと割り切っている。

 

 百鬼夜行が終結し、人妖の共存が本格的に始まった頃より天魔の指示で新聞作成に乗り出す。

 彼女が作り、彼女が刷り、多くの人妖が見るように作られたそれは天魔の根回しもあって瞬く間に天狗社会に広がり、今や一大ブームとなっている。

 彼女の作った文々。新聞はブームの火付け役となった新聞として絶大な人気と知名度を誇る。

 天魔からの言葉通り情報の精度には多少目をつむり、人々が楽しめる娯楽としての形が強いのが特徴。醜聞などはあまり載せすぎると天狗や新聞自体への悪感情を買いかねないと天魔より釘を差されているため、よほど大きな内容でない限りセンセーショナルには知らせない方針を取っている。

 

 現在は異変解決の立役者である博麗霊夢につきまとっているのだが、時折信綱と似た対応を取られてしまうためたまに苦手意識が浮かんでしまうのが最近の悩み。

 そしてそのことを霊夢に気づかれてちょっと心配されていること。人間に心配される天狗とか、と哀しくもありちょっと嬉しくもあり。

 

 

 

 作者の所感

 

 もっと早く出せば出番も増えていたと思う(小並感)

 こいつより上の階級である天魔を出して、そいつが天狗を導く立場であったため彼のほうがノッブと話す機会が多くなってしまい、微妙に出番を与えてやれなかった印象がある。許せ。

 

 彼女を出した理由は文ファンに媚を売る――もとい、天魔との渡りをつけるキャラであり、当時の幻想郷に倦んだ天狗その二を出したかったからです。

 退屈を嫌い、天狗の里を飛び出した椿とは対照的に退屈を嫌ってはいるけれど、それでも組織の歯車として働いて天魔の側にいるのが一番退屈を潰せると理解しています。

 

 色々と悪ぶったり奔放な様子を見せたりしますけど、本質的には天狗社会の歯車であり掟に忠実な天狗。どんな要因があったとしても天魔、並びに天狗を裏切るような真似だけは決してしません。

 表向きは自分本位ですが、その実誰よりも組織人。ノッブ含め自分本位な連中の多い幻想郷では結構珍しい人種です。

 自分のやりたいこととやるべきことがあった場合、やるべきことを選択できる妖怪です。

 

 もうちょっとノッブを振り回しても良かったかな、と思いますが天狗の騒乱が終わってからだとさすがに実力差が逆転しているので、根が常識的な文ではいじれなかった。

 ちなみにこれが天魔や紫だったら、たとえ実力差があったとしても躊躇なく弄ります。そしてノッブが苛立つ様も楽しみます。この辺りが大きな違いだったり。

 ……まあロクデナシ度合いでは文の方が遥かにマシです。基本的に大妖怪になればなるほど力を持ったロクデナシが多い幻想郷では希少とすら言える存在。

 

 

 

 

 

 天魔

 

 能力:能力なしの実力のみで今の地位に上り詰めたとか格好良くない?(中二病)

 

 好きなもの:妖怪の山に住まう存在全て。知恵比べ。

 嫌いなもの:他人に投げられない案件。自分たちを害そうとするもの。

 

 得意なもの:悪巧み。文をおちょくること。

 苦手なもの:昔の知り合いである鬼二人。肩の凝る会議。

 

 妖怪の山の頂上に住まう天狗。独自の階級社会を形成している天狗社会において頂点に立つもの。天魔とはその称号であり、彼自身の名前ではない。

 鬼が人間に敗北を喫する頃に天狗を導く長として就任し、それ以来千年以上に渡って天狗を導き続けてきた存在。

 外の世界での限界を察し、幻想郷への移住を決断したのも彼であり、その幻想郷においても紫の下にひれ伏すことなく一定の地位と権力を維持し続けてきた、紛れもない天狗の英傑。

 天狗の中での権力争い。幻想郷内での権力争い。妖怪の山内外の憂事はほぼ全て彼が片付けてきたと言っても過言ではないほど。

 

 千年以上に渡って道を踏み外す事なく天狗の地位を一定以上に保ち続けてきた手腕は折り紙つきで、その統率力も群を抜いている。ほぼ身振り手振りだけで完璧に彼の意図を読んで動ける部下も文以外に何名か存在する。

 縦社会の宿命か複数の派閥が天狗社会にも存在するが、それらの流れもある程度は掌握して被害が出ない範囲で意見のぶつけ合える環境を作り、自分が誤った方向へ進まないようにしている。

 ……サボり癖についても他の連中が仕事をできるように、と言い訳していたりもする。なお大体捕まる時は文に捕まって怒られる。

 

 ただ、一面ではそれが放任とも取れてしまうため大天狗の不興を買うこともあり、また他の天狗も彼と同じ視点を持てるわけではないため、時として彼の考えが誰も読めないことになることも。

 それが顕在化してしまったのが天狗の騒乱である。

 あれも背景を見れば信綱がやってきたことが火種であったりと複数の要因が存在するものの、彼にとっては長年ともにやってきた大天狗が自分に謀反を起こしたということが事実である。

 

 妖怪の山に住まう存在全てが彼の家族であり、同時に敵に回った場合は迷わず叩き潰せる相反した精神を両立させており、その在り様は阿礼狂いである信綱をして頭がおかしいと認めるほどのもの。

 飄々と立ち振舞、親しみすら感じさせる態度で相手と接しながらも眼光は政敵の隙を見逃すことなく捉え、ほんの僅かでもほころびを見つければ容赦なく食らいつく。

 信綱が生涯において最も面倒な相手が誰だったか、を挙げるなら確実に候補に入るであろう存在。同じ目的を見据えていたとしても、天狗寄りで進めるか人間寄りで進めるかで大きな違いが出る。

 

 彼自身の能力は政治に長けた面が強調されているが、素の武力も天狗の頂点として相応しいだけのものがある。

 鬼とは相性上の問題で難しいものの、他の大妖怪と比肩しても全く引けを取らない実力の持ち主。実は剣術とか信綱と同等に近かったりする。

 ……妖怪が有り余る時間に物を言わせて磨いた剣術をたかだか数十年の人間が越えている辺り、あいつ本当に人間じゃねえなと内心で思っていたりもする。

 といってもその数十年の間対等に舌戦を交わし、同じ方向を見ながらも知略を尽くした相手である信綱のことは信頼し、友人であると本心から思っている。

 

 信綱のいなくなった幻想郷において、今日もまた彼は天狗たちの未来のために動き続けるのだろう。

 ……彼が死んでからすぐに妖怪の山の中腹にドカンと神社ごと神様がやってきたことに本気で頭を抱えながら。

 

 

 

 作者の所感

 

 男のオリ天狗を妖怪の山の頂点に据えるという暴挙。

 彼の役目は穏健派の天狗として信綱と同じ人妖の共存を見据えること。但しノッブのようにある意味感情に基づいたものではなく、彼なりの合理的な判断によって現状では立ち行かなくなると判断したため。

 ごちゃごちゃと小難しい政治的なことも書くのならそのエキスパートがいても良い。そんな感じで天魔はキャラ付けをされていきました。

 

 政治的なあれやこれやに長けていて、天狗という総体の利益のためなら少数を切り捨てることができるけど、彼自身は天狗全てを間違いなく愛している。

 矛盾しているように見えますし実際矛盾しています。利益のために家族を切り捨てるのに、その利益は家族のためなのですから。

 到底千年持たないような信条の持ち主であり、そして見事に耐えきって両立させている。だからこそ彼は天狗の英傑足り得るのです。

 ノッブが人間の英雄ならば彼は天狗の英雄です。生真面目で何事にも全力な信綱と飄々としていて割りと適当な天魔で、そのあたりが対照的になるようにも意識しました。

 

 人妖の共存を見据えていたこともあって、割りと描写の機会も多かったので上手く書けたかと思っています。普段は適当で文に無茶ぶりしたりしてますけど、ヤバい時は天狗の頭として確かな姿を見せる。

 ノッブのことは対等にやり合える好敵手のようなものであり、同時に彼のためなら私人としての天魔は命を懸けても良いと思えるほどに感謝と信頼を抱いています。公人としての優先度は天狗のためなのでそちらは揺るぎませんが、そちらが揺るがない範疇なら最大限彼の味方になってくれます。

 根が政治家気質なので後述するレミリアのように表立って感情を見せたりはしませんが、彼も結構ノッブのことは大好きです。なにせ自分と対等に知略を交えて、自分に一泡吹かせることすら可能な人間でしたから。

 

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット

 

 能力:運命を操る程度の能力

 

 好きなもの:人間の血。強い存在。美しいもの。

 嫌いなもの:醜悪なもの。弱い存在。

 

 得意なもの:戦闘。一発ギャグ(自称)

 苦手なもの:妹との対話。日光浴。

 

 人体に有害な白霧で幻想郷を覆う吸血鬼異変を起こし、幻想郷にやってきた吸血鬼。

 妖怪の住まう楽園と聞いた場所に来たため、まずはとばかりに挑戦状を叩きつけたのである。

 そして解決に来た人間の片割れ――当時はまだ無名の人間であった火継信綱によって打倒される形で彼女は幻想郷の一員として認められることになる。

 

 傲岸不遜で冷酷無慈悲。侮蔑を決して許さず誇り高き夜の女王である一面を紅魔館という群れの長として確かに持ち合わせており、有事の際に自らと敵対したものには容赦なくその暴威を浴びせる。

 しかし、そうでない時は見た目通りの子供らしい一面も見せており、普通に人里にやってきては普通に遊んで帰ったりもするなど、ある意味一番気安く人間と接している大妖怪でもある。

 

 独自の美学の持ち主で、紅魔館や彼女の仲間たちはその美学に基づいて彼女が引き入れたものがほとんど。強いものを尊び、弱いものを蔑むその在り方は波長の合う者を強烈に惹き付けるカリスマでもある。

 またこれは単なる戦いの技量にとどまらず、心の強さや彼女が美しいと感じるものであるため、普通の人間であっても美しいと判断するに足る輝きを示したらそれなりの敬意を払う。

 

 そんな美学に則って、最強であるとはばからない自分を打倒せしめた信綱には心底から惚れ込んでいる。精神性から肉体まで全てを愛していると言っても過言ではない。

 欲しいものは力ずくで奪う性分でもあるため彼のことは本心から自分のものにしたいと思っている。思っているが――自分が惚れ込んだ信綱は阿礼狂いとして在る信綱である。

 そのため、自分に傅く信綱は自分の愛した信綱ではないと判断して殺してしまう。素直そうに見えてその実性根は捻じ曲がっている。

 

 反面、妹に関することでは奥手でなかなか一歩を踏み出せずにいたりもする。信綱が背中を押さなければ紅霧異変が起こる時まで何もできなかっただろう。

 

 後に不意打ちに近い形での勝負だった吸血鬼異変の時とは違う、正真正銘の一騎打ちを信綱に希望。

 一騎打ちの体を取りながらも夜を作り上げ、それを誤認させるために室内の空間を広げさせ、さらに徹底して信綱の苦手な遠距離で戦うなどあらゆる手段で勝ちを掴みに行ったが、それでも敗北してしまう。

 だがレミリアの顔に悔しさのそれはなく、最初に出会った時と変わらず彼が御阿礼の子に狂っていることを理解できたことが心底から嬉しかった。

 

 最初から最後まで自らの在り方を曲げず、貫き通した信綱に生涯変わらぬ敬意を表し続けるであろう彼女は、これからも彼と交わした約束を何一つ破らず生きていくことだろう。

 

 

 

 作者の所感

 

 すっごい面倒くさい内面だけど、不思議と書きやすいキャラだったりします。

 ノッブのことが大好きでたまらないのに、彼が自分になびくと殺すという大型地雷も良いところな性根の持ち主ですが、ノッブが核地雷持ちだったので相対的に見ればまだ安牌です(震え声)

 それ以外は大体の方向に全力投球するだけのわかりやすい性格です。基本的に彼女の行動に嘘はありません。遊んで欲しいと思うのも、なびいて欲しいと思うのも、でもなびいたら違うと思うのも全部彼女の本心です。

 

 ノッブに邪険に扱われて涙目になっている姿も、侵攻してきた鬼に対して啖呵を切る姿もどちらも彼女の本性。根っこが妖怪なのは変わらないため、ついさっきまで笑っていた相手であろうと殺すことに躊躇はありません。一瞬でギャグからシリアスに突入できるキャラです。

 

 おぜうは動乱の時代の最初に出てきただけあって、付き合いも長くなって色々な部分が書けて楽しいキャラでした。ギャグやるにもシリアスやるにも彼女がいると回しやすくてありがたい。どっちか片方しかできないキャラというのもほとんどいませんが。

 

 ノッブにつきまとう子供っぽいおぜう。醜悪なものを退けるべく本気を出すレミリア。妹との関係で悩みを吐露するお嬢様。全部間違いなく彼女の一面であり、それだけ色々書けたのだと思うと作者ながら嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 フランドール・スカーレット

 

 能力:ありとあらゆるものを破壊する程度の能力

 

 好きなもの:クランベリーを使ったお菓子。本。

 嫌いなもの:野菜。騒がしい場所。

 

 得意なもの:暇つぶしの空想。一瞬で眠る。

 苦手なもの:コミュニケーション。姉。

 

 レミリアの妹であり、彼女の手によって地下室に四百年もの間幽閉されていた少女。

 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を所持する彼女の価値観は人間とも妖怪とも違うそれであり、彼女にとって世界の全ては脆い硝子細工にしか見えなかった。

 肉親であるという情を感じられたこともなく、昔に父親を殺したのは姉のためではなくより気に入った硝子細工を残そうとした程度のもの。

 結果として姉の手で地下室に幽閉されることになるが、物理的な拘束などがあったわけでもなく、前述した通り全てが硝子細工である彼女にとっては、己の自由すらも硝子細工のように感じられていた。

 

 そして一人の時間で自分の行いを振り返ることも出来たため、幽閉されたことに文句はない。罪悪感もさほど感じておらず、まあ若気の至りだったよね、程度のものだが。

 また地下にいて多くの時間を本とともに過ごしたため、知識や想像力は非常に豊富。

 その影響で硝子細工であっても下手に壊すと物語の結末がそこで決まってしまうと感じ、能力を使うことに忌避感を覚え始めている。

 但し人と触れ合う環境が百年以上断絶していたため、情緒がまだ未発達。本を読むことで増えた知識で悟ったようなことは口にするが、実感を伴った言葉はほとんどない。

 

 四百年の幽閉に関してもすでに自分の中での答えが消えてしまっており、良いことなのか悪いことなのか、その判断すらもつかなくなっている。

 そのため姉であるレミリアに対しても自分を幽閉した姉、以上の感情が消えかけていた。このタイミングでレミリアが対話を試みたのは割りとファインプレー。

 

 レミリアとの肉体言語も交えた対話。紅魔館に新しくやってきたやや天然混じりのメイド。スペルカードルールによる紅霧異変で知り合った霧雨魔理沙との対話。

 諸々によって外への興味を持ち始め、レミリアの知る幻想郷最強の存在である信綱とともに人里を見学する。

 信綱に対する印象は何事にも答えてくれる博識なお爺さんで、なんか得体の知れないという割りと正鵠を射たもの。

 そこで知り合った上白沢慧音に寺子屋へ誘われ、咲夜や美鈴に連れられて時々寺子屋へ通うようになる。勉強そのもの以上に、そこで知り合える人や慧音との対話が楽しいらしい。

 

 知識はすでにあるため、あとは情緒と相応の振る舞いさえ覚えれば、彼女は姉にも負けない立派な吸血鬼になっていくことだろう。

 

 

 

 作者の所感

 

 個人的には結構好きなキャラです。姉よりエロそう(薄い本脳)

 

 出すのが遅くなった理由はノッブがこの子のこと気にする理由がないよね、というのと動乱の時代にこれ以上の揉め事を入れると後々のバランスが悪くなりそうだったからです。

 ……まあ出すのを忘れていたというのもありますが(小声)

 

 彼女の狂気性についてはかなり悩みました。確かな理性を持った上で平然と禁忌を犯す狂気はすでにノッブが持っている上、もっとわかりやすいテンプレ的な狂気はノッブの前に出したら殺す以外の道がなくなるよねというジレンマ。

 なので他者と違う価値観を持っているけど、そもそも他者と触れ合う環境がなかったため狂っているのかどうか自分でも判断がついていないという微妙な線になりました。

 ……今さらだけど主人公が狂気持ってるとかおかしくありません?(真顔)

 

 ノッブは生まれついての狂気持ちで、人里での生活や他者とのふれあいで取り繕う術や人間性を学んでいます。素の阿礼狂いのままで学ぶ機会が与えられなければ、一個の歯車として機械に徹してました。

 そういった意味で言えば彼女はノッブと同じように自らの価値観の歪さや他者の価値を学んでいる最中です。ノッブが物語を通して進んできた道を彼女もまた進んでいる。

 

 その結論が出るのは遠い未来かもしれませんが――魔理沙や霊夢がいて、心配してくれる姉もいてくれる彼女であれば、きっと美しい結論が出せることでしょう。

 

 

 

 

 

 星熊勇儀

 

 能力:怪力乱神を持つ程度の能力

 

 好きなもの:人間。酒。強い男。

 嫌いなもの:軟弱なもの。自分を男扱いする者。

 

 得意なもの:喧嘩。酒の早飲み。

 苦手なもの:小難しい話。

 

 かつては大江山を縄張りにし、人間に暴威を働いた鬼の四天王、星熊童子その人。

 幻想郷でもトップクラスに危険か、人間友好度が極端に低いため地上に出ることすら危険であると封印される地底――旧地獄で暮らしていた鬼の首魁。

 

 当時の人間にだまし討に近い形で倒されたことに対しては、卑怯だとは思っているものの恨みや憎しみがあるわけではない。

 ただ人間への愛情も薄れてしまっており、さらに自覚があったためこれを覆してくれる人間が現れることを心待ちにしていた。

 余談だが、彼女の人間への愛情とは鬼と人間が戦い合っていた頃のものであり、当然ながら人間と相容れるものではない。ぶっちゃけない方が人間にとっては圧倒的にマシ。

 

 しかし彼女にはある予感があった。根拠も何もないが、いつか自分の前に自分と同等に戦える人間が現れるという予感が。いまガチャを回せば当たる、みたいなアレである。彼女の場合は見事に当たったが。

 そんな折に吸血鬼異変を解決した男の話を聞き、実際に姿を見た萃香やお燐の言葉を聞いて予感は確信に変わった。

 

 そうして待ちに待って邂逅を果たした信綱への第一印象は――最高の一言だった。

 勇儀ほどではないとはいえ強大な鬼を何十体と屠り、息一つ切らさず返り血も浴びずに佇む男を前に、彼女は久しく忘れていた血の昂ぶりを思い出す。

 その昂ぶりのままに鬼の頂点としての膂力に体力、再生力を全て使い尽くして戦い――打倒された。人間を襲い、人間に打倒される。妖怪としての本懐をこの上なく果たした。

 

 結局殺されることはなく、信綱と交わした人間を襲ってはならないという約定を胸に彼女は人間と生きることになる。

 かつてのように人と妖の境が薄い夢のような時間。それが永遠に続くことなどありえないとわかっていて、その結末が残酷なものであることも理解して、その上で彼女は笑うことを選択した。

 

 なぜって――それが鬼だからである。いつか訪れる終わりに怯えるぐらいなら、笑える今を心から楽しむ。そして全てが終わった時には自分を打倒した英雄の墓守でもやろう。

 秘められた感情は誰に知られることもなく、今日もまた彼女は笑って日々を過ごすのであった。

 

 

 

 作者の所感

 

 さっぱりとした気質で書きやすいキャラ。もうちょっと乙女っぽい部分というか、可愛い部分が書けなかったのがちょっと心残りです。

 

 ノッブが阿礼狂いでない状態で戦った妖怪の中では最高クラスです。間違いなく死線を十や二十は越えている勝負になってました。

 ですが尋常な勝負であり、潔く負けを認めて鬼を抑える役目も果たしているのでノッブの方はさほど悪感情を持っていません。はた迷惑なのは変わらないけど、狙うなら御阿礼の子ではなく自分を狙うだろうし御しやすいという意味も含めて。

 

 地底のまとめ役であり、鬼の代表。地底は出す予定がなかったので鬼の首魁としての意味合いが強く出ました。荒くれ者だらけの鬼の頂点に立つ力は戦闘で遺憾なく発揮されています。

 めっちゃ強くてめっちゃ堅くてめっちゃしぶとい相手との正面対決という、人間側からすればクソゲー待ったなしの勝負を乗り越えて見事自身を打倒したノッブに対しては、実はレミリア並みの好感度の持ち主です。ただ彼女は秘することを是としただけで。

 

 なので信綱の死後は表向き普通に暮らしながらも、足繁く信綱の墓に通う姿が見られることでしょう。そして遠い未来で人間と妖が再び別れた時には、彼の墓を守るものになることでしょう。

 

 

 

 

 

 伊吹萃香

 

 能力:疎と密を操る程度の能力

 

 好きなもの:酒。喧嘩。

 嫌いなもの:人間。己。

 

 得意なもの:喧嘩。悪巧み。

 苦手なもの:純粋な意思。

 

 星熊勇儀と同じく大江山にて暴威を振るった鬼の四天王の一人、伊吹童子。またの名を酒呑童子という。

 名の通りいつでも酒を飲んでいるが、心底から酔ったことはかつて人間と楽しくやっていた時以外にない。いつも陽気に振る舞っているフリをしながら、その実冷めた目であらゆる物事を見下していた。

 

 かつての人間にだまし討されたことを切っ掛けに人間不信の気があり、百鬼夜行の折に信綱との勝負で人々を集めたのもこれに端を発する。

 星熊勇儀を打倒した相手でも信じきれず、多くの人々や鬼の見ている前での勝負にしなければそもそも安心できなかったため。

 結果としてそれは信綱の核地雷を踏んづけたため、人間不信どころじゃない状況に陥ってしまい、その事実については彼女も割りと反省していたりする。

 

 とはいえその勝負で鬼の暴威すら退ける力量を持った人間と出会えたこと。鬼の力を目の当たりにしてなお道を譲らず、見事に意思を示した勇者に出会えたこと。

 かつて人間にだまし討される以前の人々のあるべき姿を思い出すことができた。それはだまし討されて以来くすぶり続けていた火を燃やし尽くすに足るものであり、人間と妖怪の関係に決着をつけることができた。

 

 それ以降は勇者と認めたとある白狼天狗にちょっかいをかけたり、打倒した人間にちょっかいをかけたりと、日々を心から楽しく過ごしている。

 その姿が迷惑極まりないものであることは議論の余地がないが、決して他者に迷惑をかけたくてかけているわけではない。

 

 祭り好きである彼女も彼女なりに幻想郷を盛り上げようとしているのだ。……多分。

 

 

 

 作者の所感

 

 ラスボスとして出すのは予定してた人です。人間不信の鬼であり、彼女の試練を乗り越えることが物語の山場でした。

 本当ならノッブがこれまで培ってきた椛や橙との絆を駆使して戦う場面があったりしました。

 強大な鬼の力。疎と密を操る力でノッブの握る長刀が弾かれてしまう。あわや絶体絶命となった彼に自らの大太刀を投げ渡す椛と、それを受け取る時間を稼ごうと一瞬の、されど万金にも勝る時間を橙が妖術の炎で稼ぐ。そして武器を受け取ったノッブが見事に鬼を打倒する流れを考えてました。

 

 まあ実際はそもそも阿弥を鬼のはびこる戦場に連れてきた時点でノッブの取るべき行動とか決まりきってましたよね、と書いてて気づきました。

 なのであの場面はノッブが阿礼狂いとしての本性を最も強く表した戦いになっていました。相手の主義主張感情に一切の価値を見出さず、ただただ御阿礼の子を害した存在を排除する殺戮機械。

 もし他の鬼が割って入っていたら一瞬で殺されてましたし、ゆかりんも入るタイミングを間違えていたら首が落ちてました。

 

 ですが彼女が求めていたのは自らの不信さえも覆すような『戦い』であり、決して屠殺されることを望んでいたわけではありません。

 なのでノッブのことも実力自体はこの上なく認めていますが、彼女が本当に評価しているのは尋常な勝負で自分を下した、とある白狼天狗になっています。

 これから先の未来でも彼女は適当に酒を飲みながら、時々霊夢たちにもちょっかいをかけ、さらに時々椛にもちょっかいをかけて楽しく生きていくのでしょう。

 

 

 

 

 

 八雲紫

 

 能力:境界を操る程度の能力

 

 好きなもの:昼寝。謀略。恋バナ。

 嫌いなもの:幻想郷を乱す者。仕事。

 

 得意なこと:スキマを使った情報収集。

 苦手なこと:茶化すことなく人と対話すること。

 

 幻想郷の創始者の一人であり、スキマと呼ばれる摩訶不思議な空間を操りあらゆる物事を可能にする強大な能力を持つ、スキマ妖怪その人。

 

 実態も噂に違わず美しい金髪の少女でありながら、身にまとう空気は油断すると一瞬で呑まれかねない恐ろしいもの。

 スキマを使うことで幻想郷内の情報で彼女の知らないことはほぼないと言っても過言ではなく、内部で起こる事件はほとんど全てで彼女が主導権を握ることも可能だった。

 

 しかしそうして主導権を握り続ければ誰だって自分の領域にこもりたがるのが自明の理であり、信綱が生まれる前から続いていた人間と妖怪が触れ合わない幻想郷を作り上げてしまった原因でもある。

 そのことを認めて反省し、どうにかしようと思考するもののこれまでの振る舞いが作り上げてしまった印象は覆せない。スキマを使って上手く立ち回り過ぎてしまったがために、彼女は身動きが取れなかった。

 

 そんな中で現れた新たな御阿礼の子の側仕えである、火継信綱という名の才人を見て歴史が動く確信を持つ。

 妖怪と真っ向から戦い、下すことすら可能な少年。そんな存在を他の妖怪が放っておくはずがないと確信して時間を置くことを決める。

 

 そして訪れた吸血鬼異変において頭角を現し、さらには外からの新しい視野も手に入れることに成功した信綱を見て紫は本格的に信綱を見守ることに決める。

 彼ならばきっと――そんな山勘にも等しい直感を信じ、紫は自らの幻想郷を委ねる決断をした。彼女にとって一世一代の大博打とも言える瞬間だった。

 

 無論、信綱はそんなことは全く知らず――とはいえある程度予測はしながら走り続け、紫の思惑通りに人妖の共存を成立させる。

 この時点で紫が信綱に期待した役割はほぼ終わっており、後は待ち受けている百鬼夜行を致命的な形で収めることにさえならなければ良かった。

 

 ――そしてそこからは彼女の思惑を外れた結果となっていく。

 

 信綱は百鬼夜行を収めるどころか退けてしまう。強くなるとは思っていたが、良くて鬼の首魁二人とは相討ちが関の山だと思っていたのだ。

 相討ちどころか一人は真っ向勝負で打倒し、もう一人はほぼ屠殺と言っても過言ではないもの。人間ってなんだろう、とさすがの紫も考えてしまった。

 

 さらに萃香を殺そうとした信綱を止める過程で自分も表に出ることを約束させられ、表舞台に立つことを余儀なくされる。

 信綱も途中で自分のやっていることは紫の尻拭いに近いことであると気づいていたため、ここで帳尻を合わせにかかっていた。

 かくして、目をかけた人間は彼女の予想を越えた結果を出すことと相成り、それに伴って彼女も幻想郷の賢者ではなく、幻想郷に住まう一人の妖怪として人間たちと関わっていくことになる。

 同時に信綱のことを目をかけた人間ではなく、自分と対等の領域に到達した存在として友人のように接するようになる。

 ……信綱もそれに気づいており、別に友人だと思ったことはないと言ったら泣かれそうなので何も言わなかった。

 

 その後は対等の存在と認める者たちとともにスペルカードルールを制定し、信綱が鍛えた博麗の巫女の成長などを観察しながら春雪異変で霊夢の前に姿を現す。

 彼女からも胡散臭い妖怪だと思われて、内心自分の印象を変える方法に悩みながら彼女もまた幻想郷の空を飛んでいく。

 これから先も訪れるであろう、多くの異変と人妖の共存をとりまとめるために。

 

 

 

 作者の所感

 

 もうこいつ一人でいいんじゃないかな、状態を続けてしまったがために周りが誰も彼女に付き合わなくなってしまったというある意味残当な経歴の持ち主。やり合っても手玉に取られるだけの相手と真面目に取り合う必要はありませんよねそりゃあ。

 

 スキマを使った情報戦ではほぼ無類の強さを誇っており、それで色々とやりすぎてしまったので人妖が顔を合わせないようにしようという状態になってしまい、ゆかりん反省(๑ゝڡ◕๑)テヘペロ

 当初はそれでちょっと反省していたものの、その時間はあまり長く続かないとタカをくくっており、信綱が生まれた頃になってからはテヘペロとかしてる場合じゃねえヤベェ! となっていて割りとガチで焦ってました。

 そんな折にノッブが現れ、歴史の転換期が訪れていると長年生きてきた妖怪の直感で理解。ノッブの動向を見つつ、自身もこれから起こるであろう騒動に備えてました。

 

 それでも騒動が起こるのがかなり遅くなり、吸血鬼異変を起こしたレミリアたちに一定数の妖怪が流れていったことも鑑みてマジのマジにヤバい、という危機感を抱いてました。

 ただ、それは天魔も同じことを思っていたため、ノッブがレミリアを打倒した瞬間に諸々の勢力が動き始めました。但し鬼の胎動だけは想定外だった。途中で気づいたけど、ノッブはこの辺で死ぬかな、ぐらいにしか思ってなかった。

 

 それを覆し、さらにはゆかりんが夢見ていた形以上の共存を成し遂げたノッブへの好感度は非常に高いです。抱きついて頬ずりしてキスしても良いくらいにはテンション上がってます。やったら抱きつく前に殴られて終わりですけど。

 

 登場させた理由としては幻想郷での物語なんだからそりゃあ出すよね、というお約束とスキマという限界がわからない能力を使っている関係上、彼女が動きづらい状況を作るための基準値みたいな部分もありました。

 こういう状況なら彼女が動きづらいだろう、というのをまず頭で想定して動乱の時代の状況とかを書いてます。

 

 そして彼女は明確にこの後の未来でも霊夢とコンビを組んで頑張るのがわかっているため、ノッブが後を任せる相手として適切という理由もありました。

 

 序盤はなんかノッブを手玉に取る大物感を見せて、中盤は暗躍しつつノッブに任せるムーブ。そして共存が成ってからは対等な存在として書きました。魅力的に見えていたら幸いです。

 

 

 

 

 

 風見幽香

 

 能力:花を操る程度の能力

 

 好きなこと:花の世話

 嫌いなこと:花の世話以外の大半の物事

 

 得意なこと:妖精いじめ。将棋(不本意)

 苦手なこと:人付き合い。舌戦。

 

 太陽の畑のみならず、四季の花が咲き乱れる場所を転々と動いて生活している妖怪。

 これだけ聞くと大したことがないように思うかもしれないが、彼女の行動範囲は特級の危険地域として人間のみならず妖怪にも知られている。

 

 そういう風に記すよう過去の人里と交渉しており、結果として彼女の周辺は信綱が訪れるまで平穏が存在していた。

 だがいつまでも続くと思われていた安寧はスペルカードルールが生まれたことと、それを伝えるために信綱がやってきたことで終わりを告げることになる。

 

 人里の英雄になったばかりの彼であれば取るに足らないと一蹴できるだけの実力はあったものの、すでに彼は百鬼夜行すら退けた領域に至っており、彼女をして勝ち目が薄いと認めざるを得なかった。

 そうして誰かを懐に入れたことにより、そもそも彼女は人付き合いが極端に少ないため言葉での勝負に非常に弱いことが露呈してしまう。

 

 将来悪い人に騙されるのではないか。そして騙されたことに気づいた彼女が人里に害を成さないか。あと妖怪連中もイジれるのならイジるだろうし、人里に被害が来ても困るという信綱の思惑により、彼女は人里に定期的に来るよう誘導される。

 

 人一倍負けず嫌いであることも利用されて、ものの見事に引っかかった彼女は良いように扱われている自覚を持ちながらも逆らえず、信綱の口車に載せられていた。

 本人に聞けば間違いなく屈辱の時間であったと答えるだろうが、不思議と彼女が信綱に突っかかっていく姿は楽しそうなそれに見えたらしい。

 

 人里で武張った勝負を行うわけにはいかないというのはさすがにわきまえており、信綱が適当に提案した将棋で勝負をすることになる。提案した本人もここまで食いつかれるとは思っていなかったとのこと。

 思考が狭いというより、これと決めたら他が見えなくなるタイプで一部の場面に集中しすぎるあまり他の箇所で手玉に取られてしまう。

 

 それが災いして攻める手段の豊富な信綱に様々な方向から煮え湯を飲まされており、その度に心底悔しがる姿が人里ではよく見られていた。

 

 ――しかし、他に考えることが少なくなる戦闘においては大妖怪と比しても何ら遜色のないものであり、信綱が正面戦闘を避けたのは面倒であることもそうだが、戦ったら死ぬ危険が排除しきれないからである。

 殴り合いになったらマズイからこそ、信綱もわざわざ別の手法に誘導していた。それほどに彼女の力は脅威の一言。

 

 自分のいない場所で力を振るえば人里は容易に壊滅させられるだけの力を秘めており、その力を持った当の本人が人慣れておらず些細な言葉にすぐ引っかかる。

 信綱が彼女の性質を知った瞬間、本気で頭痛を覚えたらしい。

 

 そんな経緯で付き合いが始まっていき、積み重なっていく将棋の負けに苛立ちながらも同じ勝負を挑み続け、幽香はやがて自己を振り返る。

 しばらくはずっと花に囲まれる生活を送っていて知らなかったが、自分はどうやら己に恥じない自分でありたいらしい。

 

 負けることは屈辱だが、彼女にとって決定的な恥ではない。

 決定的な恥とは、そんな己に目を背けてしまうこと。

 それに気づいてから、彼女は己を高嶺の花でありたいと位置づける。

 

 信綱が生きている間は彼から勝利をもぎ取ろうと奮闘し、人とも関わる価値を見出だせば関わるようになるだろう。

 だが全ては己に対する糧とする。そうして咲き誇り続けるのだ。美しいものも汚いものも全て見て、それでもなお咲き誇る花は紛れもなく美しいのだから。

 

 

 

 作者の所感

 

 終盤も終盤に登場させたのにすごい人気で驚いた(小並感)

 

 スペルカードルールの話もあるのでどこかで出そうとは思っていたけど、出すとしたら超序盤か終盤の二択だった。序盤は何か? 大体六十年周期に起こる花映塚。忘れてました(白状)。

 

 もうここまで来ると役割もへったくれもありません。書いてて楽しいから出す、以上。

 ……というだけなのも味気ないので、彼女は成長する大妖怪としての一面を出してみました。

 

 めっちゃ負けず嫌いだけど、ただ負けず嫌いではない。言葉での負けを暴力で覆すのではなく、言葉で勝たなければ自分が納得しないという一点のみで意地を張り続ける少女です。

 成長性とか己への妥協のなさは幻想郷でもトップクラスです。彼女は一人で、一人だからこそ自分のために自分の力を磨くことができる。

 

 そして口には出しませんし、指摘しても認めたがりませんがノッブにも感謝しています。死んだら花の一輪ぐらいは添えてもらえます。

 ノッブも彼女の負けず嫌いは好ましく思っていたので、なんだかんだやってくる彼女の相手はそんなに面倒なものではありませんでした。

 

 彼女は今も昔も変わらず、ただ揺るがない己を目指して花とともに、たまに人妖と関わりながら生きていくことでしょう。

 

 

 

 

 

 森近霖之助

 

 能力:道具の名前と用途がわかる程度の能力

 

 好きなもの:道具の蒐集。静かな時間。

 嫌いなもの:騒がしすぎる空間。

 

 得意なもの:薀蓄語り(大体ハズレ)。商売(自称)。

 苦手なもの:タカリに来る巫女と魔法使い。

 

 もともとは無縁塚に居を構えていた妖怪と人間のハーフ。

 無縁仏の身柄を整える代わりに身につけていた遺品をもらっていくということをしており、そうして集めた外の世界の道具の用途などを考えたりして生活していた。

 

 そうして道具に囲まれる日々を送り、やがて彼は道具をあるべき人に渡したいように考えるようになった。

 そこで商人の修行をしようと思い立ったところで信綱と出会ったのが本編となる。

 

 彼のツテで霧雨商店を紹介してもらい、そこで彼は生涯の親友となる霧雨商店の店主と、その大旦那と大奥方。さらには店主の娘と霧雨家に連なる人物と出会う。

 人付き合いを避けるきらいのある彼をして大恩あると断言するに相応しい人々と出会い、彼の修行は穏やかに過ぎていった。

 

 親友となった店主の両親が他界したタイミングで自らも店を辞し、念願の自分の店を手に入れる。酷なタイミングであることは重々承知していたが、それを続けることがどちらにとっても良くない結果を招きかねないと判断していた。

 そうして店を持ったため、ここからは悠々自適な楽しい生活が待っている――と思ったのも数年程度。

 

 家を飛び出した魔理沙がタカリに来て、信綱に頼まれて巫女の服を作ったところ、たいそうお気に召した博麗の巫女にタカられ、何やら最近は紅魔館のメイドにすらタカられる。

 半妖であるため食事も睡眠も人間より必要でないとはいえ、ひもじい思いは誰だって嫌だ。とはいえ年下の子供、しかも手のかかる妹のように思っている子に強く出るのも大人げない。

 霖之助はこんなはずじゃなかった、とため息を連発しながら今日も店にやってくる子供たちの相手をしていくのである。

 

 余談だが、信綱との付き合いは意外とあったらしく、時折信綱が酒肴を持って香霖堂を訪ねる姿が見られたらしい。妖怪の友人は大半が少女である中、面倒なことを考えないで良い同性との付き合いは気楽だったのだろう。

 霖之助自身も高価な酒や上等な酒肴、そして彼自身の豊富な経験と知識による観点は歓迎すべきものだったのだろう。気の置けない友人として彼を歓迎していた。

 

 半妖として、道具を愛する者として、彼はこれからの幻想郷を生きていく。道具をあるべき人に渡し、また自らも道具の行く末を見届けるために。

 

 

 

 作者の所感

 

 魔理沙を出すならこーりんも出さないとね、という一粒で二度美味しい的な感覚で出しました(真顔)

 とはいえ幻想郷では数少ない男性のキャラということもあり、それなりに気を遣っています。

 ノッブは公私で多少は分けるものの、基本的に無骨一辺倒な言葉遣い。彼の親友である勘助は誰とも仲良くなれる気さくな言葉遣い。天魔は誰が相手でも人を喰ったような言葉遣い。結構男キャラの言葉遣いは意識してます。

 

 霖之助はある意味原作があるので一番ラクでもあり、再現が大変なキャラでもありました。まあ基本フィーリングだけどネ!

 落ち着いていて知的だけど、どこかズレている。口では色々言いながらも面倒見が良くて、頼まれごとには嫌と言えない性格。そしてたまにさらっとイケメンな台詞を言う。

 概ねこんな感じで書いています。ノッブも彼のことはやや、いやかなりズレているけど悪いやつではないと認識しているので、トンチンカンかつ無駄に長い薀蓄を語ろうとする時以外は普通に接します。

 

 ちなみに戦闘能力に関しては全くできないってわけじゃないけど、天狗とか鬼とかとは比べられないって辺りだと裁定してます。慧音先生とどっこいどっこいかやや下。

 ノッブのことは人里で修行を始めてから伝聞でのみ話を聞いている状態ですが、初対面の時に半妖としての身体能力でも一切見えなかった抜刀などがあるため、怒らせるのはやめておこうと心に決めてあったりします。

 

 ……ボツネタとしては香霖堂を訪れたノッブがその辺にあった古い武器を見つけて、霖之助が剣の由来を説明しようとしたところであっさりと抜き放ち、こーりんがマジビビリするもノッブが大して剣に興味を示さずに終わるという話を考えたりしましたけど、よく考えなくてもこの主人公に天下取らせるとか武器の目がフシアナすぎるわ、となって却下しました。

 

 

 

 

 

 十六夜咲夜

 

 能力:時間を操る程度の能力

 

 好きなもの:ピカピカの部屋。主人。可愛らしい小物。

 嫌いなもの:汚い部屋。冷めた食事。

 

 得意なもの:家事全般。ナイフ捌き。

 苦手なもの:素直な賞賛(照れてしまう)。クールで仕事のできる人という自分のイメージ(気づいたらついてた)。

 

 上品で瀟洒な振る舞いが特徴的な紅魔館の年若いメイド。年の頃は霊夢や魔理沙よりやや上か同年代といったところ。

 人里でも休みの時でもメイド服をまとっており、当人に理由を聞いてもメイドですから、としか返ってこない。筋金入りの忠誠心の持ち主かと思いきや、主を軽んじる発言をしてもあっさり受け入れたりと、やや天然気味な部分を持つ。

 

 信綱のことはレミリアからの話で一方的に知っていただけだったところ、紅霧異変を機に顔を合わせる。

 実際に顔を合わせてわかったことは仏頂面に反して意外と面倒見が良いというか、余計な苦労を背負い込むタイプであることと、レミリアから聞いた話以上の実力を持っているという確信である。

 

 その後、彼女は従者として見ても紛れもない先達である信綱に弟子入りを試みる。

 半ば以上押しかけではあったものの、きっちり面倒を見て自分の内面も見抜いたアドバイスをくれた信綱には感謝しており、個人的な付き合いも継続して持ち続けていた。

 

 自分の生きた年数の倍以上を主に仕え、ただその幸福のみを願って自らを磨き、彼女の環境である幻想郷の変革すら行った人間。

 目標にはなり得ないが、彼の歩んだ道と積み上げた結果には同じ従者として強く尊敬している。

 

 戦闘スタイルは服の随所に仕込んだナイフを使い、時を止めて不意を打つスタイル。

 信綱でさえも時間の止まった瞬間は認識できず、彼女との戦闘に関しては完全な後手になることが強制される。

 ……が、彼女の能力もまた任意で行うものであり、時間を止められる彼女が取るべき行動など不意打ち以外にあり得ないとも考えているため、不意を突きやすい隙をわざと見せることで攻撃を誘導し、対処することは可能。

 ちなみにスキマ妖怪にも同じ手法で信綱は攻撃を当てることができたりする。天魔たちと酒を飲んでいた時に話したところ、誰からも賛同を得られなかった手法だが。

 

 原作とほぼ同じタイミングに登場したため、信綱との付き合いは必然的に短くなる。

 しかし、その短い時間であっても決して無意味な時間にはならない。

 友人を作り、視野を広げてみると良いと教えられ、またその通りに友人を作って楽しく笑いながら、瀟洒な従者はより高みを目指すのである――

 

 

 

 作者の所感

 

 原作主人公勢、と作者は勝手に思っているので可愛く書くよう意識してます。

 

 振る舞いは上品で瀟洒。言葉遣いも丁寧だけど、たまに天然。可愛いものが好きで普通に女の子らしいところもあって、実は周りから仕事のできる人だと思われていることに悩んでいる。そんな感じをイメージして書いていました。

 

 ノッブとは同じ従者つながりなので結構尊敬しています。ノッブの方もちゃんと接してくる相手を無下にはしませんから、普通に面倒を見ています。割りと自分の技術を教えるのを楽しんでいたので、こっそりと咲夜が次に覚えるための技術を書物にまとめていたりしています。

 もう一人の従者? 初手幻想郷の春を奪うとかちょっとノッブ的に看過できない(真顔)

 

 おぜうへの忠心は間違いなく本物で、彼女のためなら命も懸けられます。

 無論、どこぞの阿礼狂いのように心から喜んで、というわけにはいきませんが、おぜうは咲夜にそれは求めていません。

 レミリアが信綱に見出したのは一切の迷いも恐れも持たず、ただ自らの狂気に殉じる美しさであり、咲夜に求めているのは人間が恐れながらも勇気と意思を持って立ち向かう――そんな、バケモノを退治する人間の美しさを求めているからである。

 

 そんなレミリアの思惑に気づくことなく――気づいたとしても変わらず、彼女は幻想郷の空を飛んでいく。

 人里に来たばかりの頃よりも柔らかく、優しくて魅力的な微笑みを湛えて。

 

 

 

 

 

 霧雨魔理沙

 

 能力:魔法を操る程度の能力

 

 好きなもの:魔法の修行。他人の作るご飯。

 嫌いなもの:説教。ジメジメした雰囲気。

 

 得意なもの:魔法。目利き(自覚なし)。

 苦手なもの:とある人物の説教。家事全般。

 

 霧雨弥助の一人娘であり、人里一に大きな商店となった霧雨商店の看板娘。そしていまは異変の解決役として幻想郷に名を馳せている魔法使いである。

 

 信綱の親友である勘助の孫であるため、信綱と彼女との付き合いは魔理沙が赤ん坊の頃から続いている。

 彼も人見知りせず、子供らしい無邪気な好意をぶつけてくる彼女を嫌ってはおらず、時折店にやってきては彼女を甘やかす姿が見受けられた。

 大人は子供を守るもの、という当たり前の理屈を守っているだけだと本人は言い張るが、なんだかんだ子供には甘かったりする。

 

 幼い頃は優しい家族に囲まれて元気に育ち優しさと活発さを併存させた少女らしい性格をしていた。

 優しい性格と活発な行動力が相まって、一人で里の外へ出るような無茶をすることもあったが、その時は信綱に助けられた後こっぴどく叱られている。

 その事件そのものは覚えていないのだが、信綱に怒られた経験は体に残ってしまっているようで、信綱のことは子供の頃から変わらず祖父の友人として大好きなのに、不思議と睨まれると頭が上がらなくなってしまうようになってしまった。

 

 そんな彼女は寺子屋時代に霊夢と出会い、人を惹き付ける彼女の性質や年齢とはかけ離れた能力に強く憧れ、同時に対抗心を抱くことになる。

 

 その段階ではまだ明文化はできていなかったものの、たまたま店にあった霖之助の持ってきていたマジックアイテムを起動してしまったことで彼女の人生は大きく動くことになる。

 魔力を扱う素養がなければ使えないマジックアイテムが動かせた――すなわち、魔法使いになる道が存在するということが発覚し、魔理沙は魔法使いになることを熱望する。

 

 父親である弥助は昔に魔理沙が魔法の森に一人で行って妖怪に襲われたことから、安全な人里で一生を終えて欲しいと願っていた。

 魔理沙は魔法使いそのものに夢もあったし、何より博麗の巫女として修行している彼女に追いつくには魔法使いぐらいにならなければ不可能だと考えていた。

 

 当然のように両者の言い分は激突するが――たまたま双方の事情を知った信綱が二人に腹を割って話すよう導き、大喧嘩の末のケンカ別れは避けられることとなる。

 このため勘当という処分にこそなっているが、親子仲自体は良好。そもそも衣食住を担っている店でもあるため、魔理沙が普通に利用することには何の不具合もない。

 

 現在は魔法の森で一人暮らしをしているが、修行にかまけてばかりのため部屋はいつも散らかりっぱなし。努力は嫌いだが家事はしっかり行う霊夢と、努力家だけど家事はしない魔理沙で対照的になっている。

 信綱がたまに抜き打ちで部屋を見に行っては魔理沙に説教しながら掃除をするのが定番の流れになっていた。

 ……信綱がいなくなってからはアリスが渋々その役目を引き継ぐことになるとかどうとか。

 

 異変解決役としては霊力を使う霊夢とは対照的に、魔法を使ったパワーあふれる弾幕で戦う姿がよく見られる。

 適当に進んでいれば異変の元凶にたどり着ける霊夢とは違い、元凶を見つけることについては霊夢に一歩劣るが、彼女の異変に臨む姿は元凶とは別の妖怪を惹き付けることもあり、その姿はすでに妖怪たちから注目を浴びている。

 霖之助お手製のミニ八卦炉を片手に今日も彼女は幻想郷の空を飛んで霊夢に追いつくべく修行を続けていくのだろう。

 

 

 

 作者の所感

 

 原作主人公勢二人目。ノッブとは赤ん坊の頃からの付き合いなので、本当に爺ちゃんという認識。

 妖怪の跋扈する魔法の森を平気な顔で歩き、人里の大人たちから聞こえるおとぎ話じみた伝説や霊夢がやたらと懐いていることから何かしらあるんだろうなーとは思っていますが、彼女だけはノッブが鍛錬をする光景や戦う場面を見ていません。唯一あった子供の頃のアレも忘れてます。

 

 なので魔理沙にとってノッブは口うるさいけど面倒見が良くて優しい爺ちゃん、という認識になっています。

 

 一度だけ霊夢、魔理沙、咲夜の三人とノッブが戦うシーンを考えたのですが、ノッブにそんなことする理由ないよね、ということであえなくお蔵入りに。彼も親友の孫娘の前で戦おうとすることは嫌がります。

 

 意外と書いてて女の子らしかったというか、蓮っ葉で誰に対しても物怖じしないように見えて、根っこは常識人というのが伝わるよう努力しました。

 そして人たらし。まあこれについては彼女の祖父が狂人を絆させているんですから、ある意味当然の帰結かなと。自覚して使えるようになったら魔性の女待ったなし。

 甘えて良い人を見極めるのも非常に上手で、ノッブはちゃんとしていれば小言も言わないため結構甘えられています。だらしなければ容赦なく小言とゲンコツが飛んでくるため、部屋がヤバそうな時は逃げてますが。

 

 戦闘力に関してはガチバトルになると若干怪しいところがあるものの、弾幕ごっこなら間違いなくトップクラスです。弾幕ごっこの範疇なら霊夢ともタメを張れますし、ゆかりんが相手でも互角に戦えます。

 素の殴り合い? 今の幻想郷でそれが起こること自体が問題なので大丈夫大丈夫(適当)。

 

 出て来る時代が時代で、背景も人里の生まれなので原作との乖離はかなり少ないキャラだと思っています。強いて言えば父親と喧嘩別れしていないことくらいですが、逆に言えばそれしかありません。

 

 

 

 

 

 博麗霊夢

 

 能力:空を飛ぶ程度の能力

 

 好きなもの:家族。だらけること。爺さんの稽古。

 嫌いなもの:努力。爺さんのシゴキ。

 

 得意なもの:博麗の秘術。弾幕ごっこ。他なんでも。

 苦手なもの:自分の気持ちを素直に表すこと。

 

 紫が外の世界から連れてきた少女で、これからの幻想郷を担う博麗の巫女。

 これまでは博麗の巫女の死が次代の博麗の巫女の選出だったのだが、動乱の時代を生きて乗り越えることができた先代は彼女を娘として迎え入れて引退することができた。

 

 そうして連れてこられた少女は――これまでの博麗の巫女に二人といない才覚の持ち主だった。十歳にもなる前に博麗の巫女が覚えるべき結界術や体術は一通り覚えてしまい、すでにその能力を活かした彼女にしか扱えない術の開発すら行っていた。

 しかし彼女の類まれな才覚とは裏腹に霊夢は怠惰を好み、努力するのが嫌な性格だった。なんでもやればできてしまう以上、必要に迫られた時にやれば良い。そんな考えが彼女を努力から遠ざけた。

 

 だが、必要に迫られた時に時間があるとは限らない。必要に迫られた時が命の危機だったらどうしようもないのだ。

 そこで霊夢の怠け癖に危機感を覚えた先代が一計を案じ、信綱が彼女の教育役という形で面倒を見ることになる。

 

 負けず嫌いな性格でもあることを初対面で見抜いた信綱に上手く誘導され、信綱とは定期的に稽古を行う関係になる。但し稽古日になると大体逃げ出しているため、追いかける時間も含まれる。

 逃げ出すと言っても本気で逃げているわけではなく、子供が大人から隠れるちょっとした遊びのようなもの。霊夢も信綱が真剣に自分と向き合っているのはわかっているため、その気持を無下にするような真似はできないのだ。

 

 先代のことは母さんと呼び本当の母親のように慕い、信綱のことも爺さんと呼んでなんだかんだ慕っている。本人は認めたがらないが、家族のことが大好き。

 

 空を飛ぶ程度の能力の影響からか天衣無縫な気質を持っており、あるがままの自分であることを尊ぶ性格。

 しかしあるがままであることとそれで好き勝手することは別問題。ただ自分勝手に振る舞っていることを自由とは言わず、やがて巡り巡って自分に悪因悪果として返ってくるだけだと信綱に教えられている。

 そのため彼女も無闇に軋轢を作ろうとはせず、よほど気に入らないことでもない限り誰が相手でもある程度は穏便に相手をしようとする。

 

 そして信綱、先代によって鍛えられた実力はすでに幻想郷でも無視できないほどになっている。

 特にスペルカードルールでは最強の一角であり、信綱も彼女に負ける可能性は否定しきれないほど。

 あらゆるものの干渉から浮いて無効化するという最強の能力、夢想天生もすでに扱えるようになっているが、こちらは信綱の勧めで今以上の練度にはしないよう注意している。

 理由としては極まってしまったそれは霊夢自身の人間性すら奪いかねないものであることと、彼女の意思が消えて自動化した攻撃で勝っても、霊夢自身がそれを誇れないため。

 

 またこれは信綱が意図したものであるが、他と比べられる環境が少なかったため、努力のハードルが異常に高かった。魔理沙に指摘されるまでずっと努力とは朝から晩までずっと信綱と組手をすることだと思い込んでいた。

 

 指摘を受けて自分が騙されていたと発覚した後も、信綱から教えられた体操だけは黙々と続けている。理由は信綱がちゃんと自分のことを考えて作ったものだから。口では色々言っても、家族は裏切れない優しい子である。

 

 信綱が亡くなってしまったことで、彼女は家族を全員失うことになる。

 ――だが、一人ではない。すでに彼女は多くの人妖に気に入られ、ひっきりなしに神社に訪れるようになっているのだから。

 

 母さんと爺さん。二人から色々なものを与えられた博麗の巫女は今日も今日とて、博麗神社にやってくる妖怪たちにため息を連発しながらも相手をしていくのだろう。

 

 

 

 作者の所感

 

 目指せ愛されいむ。ということで登場人物紹介の最後を締めくくるのは我らが主人公霊夢です。

 

 原作では見られない子供の頃も書くため、先代がお母さん役ならノッブにも何かしらやらせようと師匠役になりました。

 意外と父親としてもちゃんとしていましたが、残念ながら信綱の娘にはすでに阿弥がいた。阿弥を唯一無二であると考えるがために、霊夢に父親と呼ばせることだけは拒否しました。

 

 霊夢も霊夢で勘が鋭いためその辺りの機微を察し、基本的には爺さんと呼んでいます。

 それが崩れるのは彼女が精神的に弱っている時――すなわち、先代が亡くなった時だけは彼を父と呼ぶことを希望したりしています。ノッブは断りますが。

 

 超然とした幻想郷の調停者ではなく、普通の少女のように笑い、泣き、怒って成長していく。等身大の少女であり、それでいて心根には強いものを秘めた少女、という風に意識して書きました。

 

 異変の時にはノッブが教えたように邪魔するやつは全て敵、という考えで容赦がありませんが、それ以外であれば物言いこそキツイかもしれないけれど、面倒見の良い――彼女を育てた者が誰か知っていればすぐに連想してしまうほどそっくりに、彼女もまた幻想郷を生きていくことでしょう。




めっちゃ疲れた(小並感)

書きたいものを書くだけの本編より疲れた気さえします。あーでもないこーでもないと悩んでは消し悩んでは消しの繰り返しでした。
そして気づいたらこんなに遅くなってしまいました。誠に申し訳ありません。

次の先代ルートや椛ルートは書くものが決まっているため、早めにお届けできる……と良いかな(現場の始業時間が早くなって、夜遅くに書くのが難しくなっている人)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IFルート それはきっと果たされる未来の約束

書きたい話を書くだけというのはメッチャ楽(確信)
というわけで先代ルートです。本編後のお話になりますから、本編の余韻を壊したくないという方はブラウザバックお願いします。


「……ようやっと来たかい。もうすぐだと思って待ってたよ」

「別に待つ必要などないだろうに」

「とんでもない! お前さんがどんな数奇な人生を辿ったのか、聞かなきゃ損ってもんさ!」

「面倒な」

「あたいに見つかったのが運の尽きさ! ほら、乗った乗った――ってもう向こう岸!?」

「座礁してないか、この船」

「三途の川幅は死んだ人間が死後に向けられた気持ちや金銭の量で変わる。お前さんはよっぽどいろんな人に涙を流してもらえたんだろうねえ」

「……泣かれるのは好きではないのだがな」

「泣かれない葬式なんて虚しいだけだよ。ほら行った行った! こうなったら後で根堀葉掘り聞かせてもらおうじゃないか!」

「もう会わないと思うが……まあ、会えたらな」

 

 

 

 

 

「転生ですね」

 

 是非曲直庁。そこに入った青年を待っていたのは悔悟棒で口元を隠し、しかし隠しきれていない微笑みを浮かべた四季映姫の言葉だった。

 青年――火継信綱はその言葉に特に感慨もなくうなずく。

 

「あいわかった。では次はどうすればいい?」

「……意外ですね。殆どの人は下された裁きの理由を尋ねるものですが」

「尋ねたら答えてくれるのか?」

「罪人に理解をもらうのも裁く者の務めです。とはいえ、私の感覚を説明して理解がもらえるのは稀ですが」

「だろうな。他者を問答無用に裁ける者の世界など想像もつかん」

 

 肩をすくめる。映姫の方も説明するのは面倒だったようで、こくりと小さく首肯して話題を変える。

 

「しかし、ふむ……青年の姿ですか。通常、死後の魂は霊魂のみになって姿を形どることは珍しいことです。それに記憶もよほど強く残ったものでない限り消えてしまう。……あなたは別のようですが」

「他者と比べたことがないからわからん……が、年老いて死んでも心は変わらないということか」

「三つ子の魂百までとも言います。あなたは……生まれてから死ぬまで、変わらなかったようです」

「愚問だな」

 

 阿礼狂いとして生まれ、阿礼狂いとして死んだ。最期まで道を違えることなく、御阿礼の子に仕え続けたことは信綱にとって死してなお色褪せない誇りである。

 

「通常、記憶の欠落も見受けられるものですが……なにか思考にモヤがかかっているとかはありませんか?」

「さあな。何を忘れているかなど俺にはわからん」

「ご尤も。では今後のあなたについてお話しましょう」

「転生ではないのか」

「するにも準備が必要なんですよ」

「だが、裁かれる衆生の大半は転生だろう。いちいち時間がかかるというのは考えづらい」

 

 信綱の知識では死後の存在は再び輪廻転生し、功徳を積み上げて解脱に至るというものだ。

 そのため、よほど大きな罪を犯していない限り、地獄で罪を贖うことはなく転生に至るものだとばかり思っていた。

 そんな信綱の思考がわかったのだろう。映姫はクスクスと楽しそうに笑って理由を説明し始めた。

 

「まず転生をするにあたって、前世の記憶を完全に消す必要があります」

「道理だな。俺は常人より覚えているものが多いということか?」

「それもありますが、同時にあなたという魂を洗ってやる必要もあります。現世は穢れに満ちており、魂も多少は影響を受けてしまう」

 

 言っていることは理解しづらいが、要するに一から転生するために中古となっている魂を新品同様に磨くのだろうと解釈してうなずく。

 

「その上で――あなたの魂は外からの干渉を受けた形跡があります」

「なるほど」

「……驚きませんね」

「むしろ納得した。阿礼狂いなんて狂人揃いの一族が自然に発生するはずもない」

 

 驚くことなく淡々と事実を受け入れる信綱に映姫は何やら物申したそうな視線を向けるものの、特に追及はしなかった。

 彼にとって自分の一族が異常極まりないものであるというのは当然の事実のようだ。

 それが理解できる環境に身をおいてなお、狂人であり続けた彼の精神が映姫には理解できなかった。

 

 とはいえ信綱の魂の歪みは彼によるものではなく、彼のはるか昔の先祖によるもの。その責任を信綱に問うのは筋が通らない。

 

「そしてさらに、あなたは多くの試練を超えることで魂が練磨されている。このまま下手に転生をさせてしまうと――」

「させてしまうと?」

「赤子の肉体が耐えきれずに破裂するでしょうね。それほどにあなたの魂は一線を画している」

「……それは困るな」

「なのでこちらも入念に準備をさせてもらうというわけです」

「わかった。ではどうしていれば?」

「後ほど小町に白玉楼へ送らせます。冥界で生の疲れを癒やし、準備が整うまで待ちなさい」

 

 桜の少女と雪の少女剣士、二人が管理している場所だったか、と信綱は自身の知識を掘り返して首肯する。

 もはや阿礼狂いとしての使命も終えた身。特別動く理由がない限り、自発的に動くつもりはなかった。

 

 もう話すこともないと判断して踵を返そうとした信綱だが、映姫より再び話しかけられる。

 

「ああ、最後に一つだけ言っておくことがありました」

「……まだ何かあるのか」

「そんな顔をせずとも、一言だけですよ」

 

 辟易した表情を隠さない信綱に映姫は苦笑し、その次に慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

 

 

「――お疲れ様でした。あなたが御阿礼の子を支え切ったこと、彼女を見てきた個人として嬉しく思います」

 

 

 

「……お前に言われたからやったわけじゃない。俺が、俺の意思であの方に仕え続けた。それだけだ」

 

 変わらない信綱の言葉に映姫は感慨深そうに目をつむる。

 その目蓋の裏にはどのような思いが渦巻いているのか、信綱は自分より長い期間を御阿礼の子と過ごしたであろう閻魔の言葉をじっと待ち続けた。

 

「……八雲紫に御阿礼の子の転生スパンを短くするのを聞いた時はどうなるかと思いましたが、あなたが側にいてくれて良かったと、心から思います」

「閻魔大王としてか?」

「彼女を見続けてきた四季映姫個人としてでもあり、衆生の幸福を願う閻魔大王として、です」

 

 記憶を保持したまま転生する御阿礼の子であろうと、そんな御阿礼の子を守り抜いた阿礼狂いであろうと、閻魔大王の前では等しく衆生。

 衆生により良く生きてほしいと願うがゆえに裁きを下す閻魔大王は、厳正な瞳の奥に使命を果たしたものへの労いと慈愛の感情を浮かべ、笑うのであった。

 

 

 

 

 

 そうして白玉楼に連れられた信綱は、船を漕いでくれた小町に頭を下げる。

 

「助かった」

「これぐらいお安い御用だよ。お前さんの歩んできた人生についても聞けたし」

「死神などをやっているお前の方が面白い人生だとは思うがね」

「他人の人生が輝いて見えるのは万国共通ってことさ。ここから先の階段を登っていけば白玉楼だ。後はそこでのんびり疲れを癒やすと良いよ」

「そうさせてもらおう」

 

 生涯を通してみてもあまり疲労感を覚えたことはなかったが、小町の言葉は善意から来ているのでとりあえずうなずいておく。

 あまりに暇になったらどうしようかとも思い、その時になったら考えれば良いかと適当に放り投げながら信綱は階段を登って行く。

 

 無節操なほどに咲き乱れた桜が穏やかな風になびき、花びらを散らしていく。

 散った花びらが石段の上に積もり、灰色の無機質な石の色に艶やかな桜の色を添える。

 こんな景色が楽しめるのならば、確かに冥界は死後の者たちが安らぐに良い場所なのだろう。信綱も良い景色が見られることに悪い反応は示さない。

 

 気分良く歩いていくと、やがて階段にも終わりが見え始めてきた。

 視界を上げ、視線の先の門前で二人の少女が佇んでいるのを見つける。

 

「――お待ちしておりました。冥界の主、西行寺幽々子があなたを歓迎いたします」

「……覚えていないでしょうけど、お久しぶりです」

 

 穏やかな笑みを浮かべて信綱を待っていた桜の少女――西行寺幽々子と、彼女とは対照的に複雑そうな顔を浮かべた雪の少女――魂魄妖夢が信綱に頭を下げる。

 

「……ああ」

 

 信綱はそれに言葉少なに答え、彼女らの前に立つ。

 

「ここで世話になるのか」

「はい。部屋への案内は後ほど妖夢にさせます。それより今は――あなたを待つ人がおります」

 

 幽々子がそう言うと、妖夢がサッと動いて白玉楼への門を開いていく。

 徐々に明確になっていく屋敷内の風景に――一人の少女が立っていることを認識する。

 少女は照れたような顔で後頭部をガシガシとかきながら、信綱の方に歩み寄った。

 

「……なんて言えば良いかしら。久しぶり、が適切なのかしらね」

「…………」

「ん、私がいるのがおかしい? あんたほど悪巧み三昧の生活してたわけじゃないし、私も転生するのは当然でしょう。ちょっと長めに待たされているみたいだけど」

「…………」

 

 ペラペラと話していく少女の言葉に対し、信綱は反応を返さない。

 さすがに訝しみ、少女は信綱の顔を覗き込んだ。

 

「ちょっと、大丈夫?」

「……いや、すまない」

 

 

 

 

 

 ――お前は誰だ?

 

 

 

 

 

「ほんっとうにあの男は……! なんて薄情な男なんですか!! 半世紀以上連れ添った伴侶を忘れるなんて!!」

 

 場所は変わって中庭にて。妖夢は掃除箒を片手にプリプリと怒りを撒き散らし、縁側に座っている少女――かつて信綱の妻であった先代がその様子を見て苦笑する。

 

「結婚してからは二十年ぐらいよ。それにまあ……予想してなかったわけでもないわ」

「なんでですか! あんなハッキリ形を保っているなら、あなたと同じくらい記憶も保持していないとおかしいんです!」

「私だって霊夢や旦那ぐらいしかハッキリ覚えていないもの。あいつが主以外を覚えていなくても不思議じゃないわ」

「あなたはそれで良いんですか!?」

「良いわけないわよ。このままじゃ私の一人相撲じゃない。……ま、根比べといきますか」

 

 先代はそう言うと立ち上がり、台所に向かって歩き出す。

 

「あ、どちらに行くんですか?」

「お茶を用意してあいつのところ押しかけてくる。一緒にいれば思い出すものもあるでしょ」

 

 行ってしまった先代を見送り、一人になった妖夢は箒を置いてその場に立ち尽くす。

 妖夢と先代の付き合いは先代がこちらにやってきてからすぐに始まっており、そのさっぱりとした付き合いやすい気質や面倒見の良さを妖夢は心地よく思っていた。

 

 しかも霊夢が博麗の巫女に就任する前に博麗の巫女を務めた人であり、その実力は折り紙つき。稽古相手ができることは妖夢にとっても喜ばしい。

 

 だが、あの男はいただけない。

 無愛想で無骨。まるで抜き身の刀のような佇まいに振る舞い。きっと生きている間は辻斬りとかしていたに違いない、と妖夢は自分を棚に上げた罵倒を心の中で行う。

 言うまでもないが、彼女は初対面で殺されかけたこともあって、信綱への心象は基本的に最悪をぶち抜いていた。

 そこへあの言葉である。せめて覚えていれば家族を大事にしたのだと多少は評価を上げていたかもしれないのに、完全に忘れているなど言語道断。

 

「私が代わりに成敗すればよかったです!」

「ほう、誰をだ」

「もちろんあなたを――うひゃぁ!?」

 

 怒りに任せて箒を動かしていたところ、横合いから声が聞こえてきて驚いてしまう。

 視線を上げると廊下に信綱が佇んでおり、感情の乏しい顔が妖夢を見ていた。

 

「……何かご用ですか?」

 

 彼もここにいる以上は冥界の客人であり、妖夢は彼をもてなす立場だ。

 しかし個人的な感情では彼のことが大嫌いなため、自然と妖夢の声は冷たくなる。

 そんな常人なら怯みそうな妖夢の声だったが、信綱は特に気にせず話を続ける。

 

「先ほど、あの亡霊から部屋の案内をしてもらってな。手持ち無沙汰になったからうろついていただけだ」

「そうでしたか。先代さんがお茶を用意してあなたの部屋に向かうそうです。戻られてはいかがですか?」

「……それをする理由はないな」

「……っ、あなたの奥さんですよ!!」

 

 激高する妖夢に信綱は肩をすくめ、そのまま歩き始めてしまう。

 

「あ、どこへ行く!!」

「暇だから歩いていると言っている。適当に歩くだけだ」

「あの人はどうでも良いのか!」

「誘われたわけではない。俺が彼女にそこまでしてやる義理はない」

 

 信綱の言葉がいちいち妖夢の神経を逆なでする。

 相手は無手で自分は常に持ち歩いている刀がある。今なら確実に殺せるだろうし、ここで斬った方が彼女のためになるのではないだろうか、という考えすら浮かんでくる。

 

 殺意の混じった妖夢の視線を受けて、信綱は怪訝そうな顔になって口を開いた。

 

「……あの女が俺の妻であるとして、だ」

「絶対にそうだ。私はお前よりあの人の言葉を信じる」

「嫌われたな、当然か。――で、お前は俺に彼女を覚えていてほしいのか?」

「え……?」

「お前の言うように俺は人でなしだ。阿礼狂いと呼ばれた狂人で、御阿礼の子を優先する意思は今なお翳らない人間だ。――そんな男に覚えていてもらいたいのか」

 

 俺はゴメンだ、と吐き捨てるように言って、信綱は立ち去っていく。

 その場に残された妖夢は信綱のいなくなった廊下を睨みつけ、つぶやいた。

 

「――それを決めるのはあの人だ。お前じゃない」

 

 

 

「いやあ、あんたの部屋に行こうと思ったんだけどいないんじゃないかと思ってうろついててよかったわ。用意したお茶も無駄にならないし」

「…………」

 

 妖夢と分かれて数分。

 信綱はものの見事に先代の勘に捕まり、妖夢のいる場所とは違う場所の庭で並んで桜を眺めていた。

 上機嫌にお茶をすする先代とは対照的に、信綱は呆れたような困ったような顔で先代を見ている。

 

「ん、どうかした?」

「……いや、なぜ俺を誘う」

「こうしていれば何かを思い出すかと思って」

「……俺がお前の良人だったという話か」

 

 信綱の言葉に何も答えず、先代はただ微笑むばかり。

 

「そうねえ。愛しの旦那はなぜか私のことを忘れたみたいだけど」

「……そういう男だったということだろう。見限ってしまえばおしまいだ」

「さて、どうしようかしら」

「どうせ転生すればここでのことは全て忘れる。何よりここは死後の世界だ。生前の縁にとらわれる必要などあるまい」

「生前からの知り合いがいれば気になるものでしょう」

 

 のらりくらりと信綱の言葉をかわす先代に、信綱は苛立ったようなため息をこぼす。

 

「……妻を忘れるような薄情な男をなぜ追いかける。理解できん」

「私はあんたのことが本当の意味で理解できた時なんて一度もないわ」

 

 阿礼狂いの精神性を真の意味で理解できる存在など、同じ阿礼狂いだけだろう。

 しかしそれを告げる先代の顔に暗いものはなく、ある種の確信を持った顔で信綱を見ていた。

 

「答えになっていないぞ」

「あんたはそうかもしれないけど、私は覚えている。独りだった時に来てくれてどんなに救われたか。霊夢の面倒を一緒に見てくれたことも。……私を看取ってくれたことも」

「…………」

「さすがに転生したら消えるかもしれないけど。その時まで私はこの想いを無にしたくない」

「……相手は無にしたようだがな」

「さあ、どうでしょう?」

 

 何もかもわかっていると言わんばかりの優しい目で見られてしまい、信綱は憮然とするしかない。

 いつも以上の仏頂面でお茶をすする信綱を横目で眺めて、先代は不意につぶやいた。

 

 

 

「――あなた、意外と可愛いのよね」

 

 

 

 絶対の自信を持っているのだと伺える先代の言葉に、信綱は付き合いきれんと立ち上がる。

 予想されていたのだろう。信綱が立ち上がるのに合わせて先代も自分のお茶を飲み干す。

 

「春とはいえ、長居すると冷えるわね。場所を変えましょうか」

「つきまとうな、迷惑だ」

「たまたま私の行く方向にあんたがいるだけよ。あんまり神経質になるとハゲるわよ?」

「…………」

 

 ままならない人生というのは死んでも続くらしい。

 信綱は生前と今を振り返り、どちらにしても都合よく物事が動かないことを実感してため息をつくのであった。

 

 

 

 

 

 結局、彼女はついてこなかった。

 何がしたかったんだ一体、と内心で愚痴をこぼしながら信綱は外で何をするでもなく月を眺める。

 冥界では転生が決まるまで休むことが仕事のようなものとなる。

 しかし、いざ休んでいろと言われると困るのが信綱という男だった。

 

 釣りという趣味があると言えばあるものの、釣り竿も持っていない現状では何もできないし、魚を釣っても使いみちが浮かばない。

 かといって剣を振るのも面白くない。御阿礼の子の力になるのなら一切の休みを入れずに振っていられるが、自分のためとなると途端にやる気がなくなってしまう。

 

 総じて――信綱という男は、自分のために時間を使うのが極めて苦手なのだ。

 

 さっさと寝てしまっても良かったのだが、それはそれで味気ない。

 どうせなら冥界から見える月でも拝んでおこうと思い、部屋の外で誰を待つでもなく月を眺めているのが現状だ。

 

「…………」

「隣、良いかしら?」

「……ここの家主はお前だろう。俺の許可など不要だ」

「では遠慮なく」

 

 自身の隣に少女――西行寺幽々子が座る気配を感じながら、信綱は視線を月から動かさない。

 彼女に話したいことは何もない。何もない以上、信綱から口を開く理由はなかった。

 

「…………」

「……誰かを待っていたのかしら」

「なぜそう思う」

「あなたの隣、誰かを待っていそうな空間に見えたから」

「目の病気だな」

「あらひどい」

 

 にべもない信綱の言葉に、しかし幽々子はおかしそうにクスクスと笑う。

 

「人里で会った時のあなたとは別人ね。今の姿が素かしら?」

「…………」

 

 無言を貫く信綱だったが、幽々子はあくまで楽しそうに笑うばかり。

 やがて何を思ったのか、幽々子は指を伸ばして信綱の頬を突き始める。

 

「えいえいっ」

「…………」

「あ、ごめんなさいちょっとした冗談というか意地っ張りな男の人見てるとつい指が痛いからやめて!?」

「次やったらへし折る」

「警告でもなく事実を告げているだけのような言い方ね……」

 

 事実その通りなので信綱は訂正せず、視線を再び月に固定する。

 そんな信綱に幽々子は困ったように笑う。死んでもこの男が自分に辛辣なのは変わらないらしい。

 懲りた様子もないまま幽々子は信綱の憮然とした横顔を楽しそうに見つめていた。

 

「…………」

「…………」

「……何が用があるなら言え。鬱陶しい」

 

 最初は我関せずと無視を決め込んでいた信綱だったが、やがて苛立ちの方が勝ったのだろう。

 眉根を寄せ、睨むような視線で幽々子を射抜きながら信綱が口を開いた。

 

「いえ、特に用はございませんわ。ただ、この場所は特等席なの」

「月見などどこでもできるだろう」

「月見はどこでもできるわ。でも、ここから見上げる月が一番綺麗」

「…………」

「あなたもお目が高いわね。この場所を一度で見つけたのはあなたが二人目。一人目は――言うまでもなく気づいているようね」

 

 信綱の顔を見て察したのだろう。幽々子はクスクスと笑い、信綱は怒る気にもなれないとため息をつく。

 どうせ相手の中で答えは出ているのだ。付き合うだけ馬鹿馬鹿しいと、徹底的に無視する構えのようだ。

 これより先は踏み込むだけ痛い思いをするだけだ。幽々子は静かに立ち上がると、信綱に背を向ける。

 

「これ以上怒らせるのはやめておきましょうか。……でも、一つだけ」

「…………」

 

 

 

「――自分でも正しいと思えない意地を張るのはよくありませんわよ」

 

 

 

「せめて意地を張るなら確信を持ちなさいな。でなければ私やあの人にいじられるだけよ?」

「…………」

 

 何も答えない信綱に幽々子は仕方がない、と困ったように笑ってその場を立ち去るのであった。

 やがて誰もいなくなったことが気配でわかると、信綱は大きくため息をつく。

 まるで途方に暮れた子供のようなそれを吐き出し、信綱は独り言を漏らす。

 

「全く、死んでからの方が疲れるとはどういう了見だ……」

 

 

 

 

 

「はっ!!」

「っと!」

 

 振るわれる木刀を紙一重で避け、反撃の拳が妖夢の顔に迫る。

 一切の躊躇なく顔面を狙うそれに内心冷や汗を流しながら、それを回避。

 しかしそれが失策であったと実感するのは、拳を避けたにも関わらず殴られた衝撃が頬に走った瞬間である。

 大きく吹き飛ばされるも、かろうじて体勢を立て直して背中から落ちることだけは避ける。

 ジンジンと熱と痛みを発する頬を意図的に意識から外し、すでに構えを取っている先代を見上げた。

 

「……今のは一体?」

「結界を拳にまとわせるの。手の保護もできるし、結界で殴れば相手は痛い。一石二鳥ってわけ」

「結界ってそういう用途じゃないですよね!?」

「動き回る手を守る結界だからあんまり固い結界だと腕が動かせなくなるし、霊力込めてぶん殴った方が早いのは確か。でもできる手は多いに越したことはない。こんな風に、ね」

 

 パチリと茶目っ気あふれるウインクをした先代の顔を見て、妖夢は直感的にこの状況自体が危ないと理解し、その場を離れようとする。

 しかし時はすでに遅く、すでに妖夢の足元には先代が話している間に作り上げた多重結界の術式が輝いていた。

 あとはこれを起動するだけで妖夢は実に簡単に、何の感慨もなく消し飛ばされるだろう。詰みだ。

 

「……参りました」

 

 妖夢がうなだれたように敗北を認めると、足元の結界が霧散する。

 先代との稽古は大体いつも、こうして妖夢が手玉に取られる形で終わってしまう。

 

「はい、おしまい。未熟というより、視野狭窄ね。相手が何をしてくるか、というところに思考が及んでいない」

「斬れば全て同じでは?」

「それで馬鹿みたいに突っ込んで私を斬れた?」

「それは……」

「純粋に腕が立つ相手では相手にもされないでしょうし、同じくらいの相手でも知恵が回ればあっという間に手玉に取られるわ。なんでも斬りたいと思うのは結構……いや結構じゃないけど、目的のための思考というのを磨きなさい」

「目的?」

「戦いに勝つと言っても相手を下すことだけが勝利ではないってことよ。例えば……ほら、ちょうどいいところに」

 

 先代が指差す先にはフラフラと手持ち無沙汰そうに歩いている信綱の姿があった。

 どうにも暇を持て余してしまっているようで、白玉楼に来てからは何をするでもなくうろついている姿がたまに見受けられていた。

 そして暇だからか、時折厨房などにフラッと現れては料理などを作っているのだと厨房を預かっている亡霊が悔しそうに言っていたのを聞いた覚えがある。

 それを聞いた幽々子が彼を本格的に亡霊として雇ってしまおうかと考えていたことは秘密である。

 

 他にも妖夢が剪定しようとしていた部分の庭が綺麗に――本業の妖夢が見ても非の打ち所がないほど――整えられていたりと、随所で彼が無聊を慰めるために動いた形跡が見受けられた。

 

「あの人がどうかしました?」

「あんた、あいつに鍛えてもらいなさい」

「はぁ……はぁっ!? なんで私があんな人間に!?」

「あんたが嫌ってるのはわかるけど、あいつの強さは本物よ。それになんだかんだ面倒見も良いから、あんたがちゃんとお願いすれば手は抜かないはずよ」

「ぐむ……」

 

 先代の言い分に一定の理があると思い、唸る妖夢。

 あの男の強さは身をもって理解させられている。確かに教えを受けられるなら剣士として明確なプラスだ。

 個人的な好悪もあるのは事実だが――それはいずれ彼より強くなったら恨みを晴らせば良い。

 決心の付いた妖夢は先代に首肯を返し、信綱に駆け寄っていく。

 

「あ、あの!」

「なんだ」

 

 妖夢が声をかけると信綱は抑揚のない返答とともに、感情の読めない無表情で見つめてきた。

 その顔にかつての異変時に見た姿を思い出して怯みそうになるが、グッと堪えて口を開く。

 

「私に剣を教えていただけないでしょうか!」

「断る」

「教えていただけ……ないんですか!?」

 

 即答だった。一考する素振りすら見せなかった即答で、とてもではないが暇を持て余している人間の反応ではなかった。

 驚いている妖夢に信綱は説明するのも億劫な様子だったが、渋々口を開く。

 

「なぜお前に剣を教えねばならない」

「手持ち無沙汰そうじゃない! それにあなた、私よりも遥かに強いでしょ!」

「お前に教えるものなど何もない」

「なんで!」

「人里に何をしようとしたか答えてみろ。お前に教えても人間に害しかない」

 

 たとえ死んで生前の縁が全て切れたとしても、かつて人里で生きた者として同胞への不利益は見過ごせない。

 それに第一、彼女は人里を害するどころか御阿礼の子さえも傷つけようとした。未遂であり、すでに解決された異変だからさほど根には持っていないが、それでも所業を忘れることはない。

 

「お前は主のためなら同じことを何度でもする類だ。俺の主を害する可能性がある者になぜ教えを授けねばならない?」

「……霊夢とかは良いの?」

 

 信綱の指摘に妖夢が口ごもっていると、横からやってきていた先代の助け舟が出る。

 しかしこれにも信綱は軽く肩をすくめて答えていく。

 

「博麗の巫女が弱くて困るのは人里も同じだ。それに幻想郷の調停を担う役割の者が御阿礼の子を害するとも思えない」

「じゃあこの子もそうすればいいじゃない」

「……なに?」

「敵を増やすよりは味方を増やせ。あんたの常でしょう。この子がやったことは私も聞いたけど、次に同じことをするとも思えない」

「それを決めるのはこいつではなく、あの亡霊だろう」

「彼女もよ。もう異変の顛末で十分懲りたでしょうし」

 

 先代の言葉を受けて、信綱は無言で妖夢の方を見る。

 その目はもうあの方の敵にならないか、と問いかけているような、相手の意思を推し量るそれだった。

 ただの人間の目と侮るなかれ。彼のそれは幽々子をして敵わないと言わしめるほどのもの。

 妖夢は呑まれまいとグッと丹田に気合を入れて、決死の覚悟でその瞳を見返す。

 

「……私は未熟者だ」

「…………」

「お前に――あなたに比べれば天地以上の差があって、もっと強くなりたいと願っている」

「なぜ」

「弱いままでは自分の意思を通せない。……皮肉だけど、あなたが教えてくれた」

 

 善でも悪でも、何かを成すには力がいる。弾幕ごっこに形を変えても、その真理は不変だ。

 信綱は妖夢の言葉を聞いて、微かに眉を動かした。彼の琴線に触れる何かがあったかのように。

 

「もう幻想郷はスペルカードルールが普及されてるから、あなたや先代さんの使う技が必要な場面は少ないと思う。――でも不要にはならないだろうし、幽々子様が求められた時に力を振るえないのは恥」

「…………」

 

 感情の読めない瞳で妖夢を見下ろす信綱は、やがておもむろに彼女の隣を通り抜けて落とした木刀を拾う。

 ダラリと木刀を下げて、幽鬼のごとく妖夢に背中を向けたまま、信綱は口を開いた。

 

「……一つだけ約束しろ」

「なに」

「人里に害を及ぼす命令をあの亡霊が下したのなら、お前はそうならないよう立ち回れ。来てほしくない未来があるのなら、そんな未来が来ないようにするのが当然だ」

 

 主の命令は絶対服従。それは信綱もかつて従者だった者として理解を示せる。

 だが、主の命令を叶える方法が一つだけとは限らない。

 幻想郷縁起の編纂だって、信綱が適当にその辺の妖怪を問答無用で倒して引きずってあの手この手で話を聞き出せば終わったものもあるのだ。

 それをしなかったのは阿弥と阿求がそういったことを望まない心優しい少女であることと、手段を模索できるだけの視野を信綱が持っていたからだ。

 

 そしてその視野を与えてくれたのは信綱が生きている間に関わった人妖全てになる。

 故にこの未熟な剣士も知るべきなのだろう。幻想郷は閉じた狭い世界であるが、人間が一人で見渡せないほどに広い世界でもあるのだ。

 

「……これからお前に視野の広げ方を教える。あいにくと俺のやり方は剣を使う以外に知らないが……まあ、必要経費だ」

「何の必要経費!?」

「半人半霊と聞くし、多少熱が入っても死ぬことはあるまい」

「死ぬ危険があるの!?」

 

 教えを受けられることはありがたいが、なんだか剣呑な方向に向かっている気がしてならない妖夢。

 思わず隣にいる先代を見ると、彼女は無言で両手を合わせて拝んでいた。

 

「先代さん!?」

「言い忘れてたけど、あいつの稽古めっちゃキツイから。霊夢は泣き叫んでた」

「なんてもの私にやらせようとしてるんですか! ねえ!!」

「――二人とも、始めるぞ」

「しまった藪蛇!?」

 

 ぎゃーぎゃーうるさいので両方とも揉んでやろうと、信綱が木刀片手に振り返り、愉しそうな笑みを浮かべる。

 その心は久しぶりに身体を動かせること以外には何もないのだが――彼女らには悪魔が舌なめずりをしたようにしか見えなかったとか。

 

 その後、先代は死んで魂だけの存在になっても筋肉痛というものが存在することを、身をもって知る羽目になったのである。

 

 

 

 

 

 昼間は多少暇を潰せるようになっても、夜になればやることがなくなるのは変わらない。

 しかし、最近は夜になっても恒例の行事ができつつあった。

 

「花より団子、ってわけでもないけどやっぱり摘めるものは欲しいわよね」

「そうねえ。月を見てお団子を連想するんですもの、やっぱり昔から月とお団子は二つで一つなのよ」

「……訳がわからん」

 

 楽しそうに話し合う幽々子と先代の二人を横目で見つつ、信綱は呆れたようにため息をつく。

 幽々子曰く月見の特等席。初めて来た時、幽々子に散々からかわれた信綱は二度と来ない意思を固めていたのだが、先代に連れ出されたり幽々子に連れ出されたりと、気づいたらこの場所に毎日来るようになっていた。

 

 この場所に来てもやることは月を見上げてその日にあったことを話すだけという実のないものだったが、不思議と先代も幽々子もこの時間を嫌ってはいないようだ。

 信綱もどうせ引きずり出されるのならと団子や軽い菓子などを作っており、死んでも彼の面倒見の良さは変わらなかった。

 ……面倒を見なければならない相手がいるとも言い換えられるので、信綱にしてみればいい迷惑かもしれないが。

 

「ふふ、お客人が楽しんでくれて何よりです。いつもは人魂になっているからほとんど意思疎通も難しいんだけど、お二人とはちゃんと話せるから私も楽しいわ」

「そっちも会話できそうなのはあの子だけでしょう? 大変よねえ」

「……ええ、とても退屈なの。あなたたちが来てくれて嬉しいわ」

 

 答えるまでに一瞬の間があった。そこに信綱は何かしらの事情があると察するものの、口には出さないでおく。

 先代はもうすぐここを去り、新たな道を歩み始める。その前に余計な厄介事を引き寄せたくはなかった。

 

「それにしてもまだ思い出せないの? こんなに献身的に尽くしているのに」

「言葉の意味をもう一度調べてこい。お前が俺を引っ張り回しているだけだろうが」

「そうでもしないとあんた、私を思い出さないでしょう?」

「死んだ時点で大半の記憶は失われるのだろう。多少覚えていたことだって十二分に凄まじいことだぞ」

「そうねえ、大抵は人も妖怪も人魂になってしまうし。それでも生前に夫婦だったりすると、人魂でも一緒に寄り添っていたりするけどね」

 

 幽々子の言葉に信綱は一瞬だけ目を細める。

 自分より、先代よりも先に旅立った勘助夫婦はどうなったのかと思ったのだ。

 だが、幽々子の言葉を聞く限り不安に思う必要はないだろう。死ぬまで寄り添い続けた彼らは、死後も一緒に居続けたに違いない。

 

 信綱がそうして物思いに浸っていると、横から先代が首に手を回して引き寄せてきた。

 

「ほら、彼女の言葉通りなら私とあんたも一緒に居ないとおかしいでしょ? もっと近づきなさいよ」

「鬱陶しいから寄るな」

 

 先代の手を強引に振り払い、不愉快そうなため息をこぼすものの信綱にその場を離れる様子はなく、先代もそれを確信していたのか素直に離れていく。

 

「はいはいっと。ね、お代わりはないの?」

「結構作ったぞ。二人分には十分な量だ」

「あれくらいじゃ足りないわ。あなたの作るお菓子はどれも美味しいんですもの」

「…………」

 

 二人の催促に信綱は特大のため息をついた後、のそりと立ち上がって台所に向かっていく。

 

「追加を作るんなら良いわよ? さすがにそれは悪いわ」

「作り置きしたやつを持ってくるだけだ」

 

 言葉少なにそれだけ言って、信綱は二人の視線から消えていく。

 その姿を見送り、先代と幽々子は顔を見合わせる。

 幽々子は驚きながらも納得の感情を。先代はただ慈愛に満ちた微笑みをその顔に浮かべていた。

 

「……ね、あいつはああいうやつなのよ」

「半分くらい冗談で言ったのに、本当に用意しているとは思わなかったわ」

「このお月見も結構続いたからね。あいつも学習するわよ」

「私やあなたのワガママなんて突っぱねても良いのに。あなたの言っていた通り、貧乏くじを引く人みたいね」

 

 生前に顔を合わせた印象とは大違いである。

 道理に合わないことをすれば理路整然と反論するし、意外と気が短くてすぐに手が出ることもある。

 だが、そういったことをしなければ信綱は口では色々と言うものの、とても気の利く優しい人間であることがわかった。

 

「あなたが彼を好きになった理由がわかった気がするわ。彼、根っこは狂人かもしれないけど、とても人間臭い」

「そうなのよ。もっと肩の力を抜けば役目だけに集中できるはずなのに、全然そうしない」

 

 そこまで言って、先代は瞳に形容のし難い深い色を宿す。

 淡く憐れみ、深く愛し、強く彼を想う様々な感情の入り乱れたそれを、幽々子は僅かに目を見開いて受け入れる。

 

 

 

「ホント――最期に苦しむだけだってわかってたのに、変えなかったんだから」

 

 

 

 彼女の脳裏に浮かぶのは自身の最期の瞬間。

 手を握り、名前をささやいて、少しでも安らかに眠れるよう力を尽くして――表情だけは不動の男。

 悲しみを見出だせないことを悟られまいとしている彼の表情を、先代は直接見ていなかったが確信していた。

 

 自分との婚姻など口約束でしかなかったのだから破れば良かった。

 阿礼狂いであることは変わらないのだから、もっと冷たく無視すれば良かった。

 どちらかの行動を取っていれば、少なくとも彼が悲しめない己に嘆きを見出すようなことはなかっただろう。

 

 先代にさえ思いつく行動だ。彼が思わなかったとは到底思えない。

 それを選べば間違いなく楽になれただろうに、それでも選ばなかった。

 きっとその時の彼の思考は先代への不義理だとか、こんな自分に付き合ってくれた礼とか、自分がどれだけ苦しい思いをするかなど勘定にすら入っていなかったに違いない。

 

 そこまで考えて、先代は含み笑いを漏らす。こんなことまで考えてしまう時点で、自分も相当だ。

 そんな先代の様子を幽々子は染み入るように見て、感慨深く口を開いた。

 

「……ここまで愛されて、あの人は幸せね」

「さて、ね。あいつもあいつで面倒だからなあ……」

 

 冥界での信綱の態度のことだろう。

 幽々子は先代の答えがわかりきったものであると確信しながら、それでも彼女の口から聞きたくて言葉にする。

 

「薄情だって怒るかしら?」

「あいつらしいって笑う。あんたも気づいているんでしょう?」

「あなたほどの確証があるわけじゃないわ。私のはただの勘」

「じゃあ同じよ。私も勘だから」

「かつて博麗の巫女だった人の勘と同じなら、信じても良さそうね」

 

 そう言って幽々子は再び笑い――表情を真剣なものに変える。

 

「彼が戻ってくる前に言っておくけれど――もうすぐあなたはここを去るわ」

「だと思った。そんな予感がしていたのよ」

「私は単なる賑やかし。……どんな結末になるにしても、後悔だけはしないように」

「それは冥界の主人としての言葉?」

「あなたたちが悔いなく次生を迎えられるように願う、亡霊の言葉よ」

「――それはきっと、この冥界で何よりも心強い言葉ね」

 

 真剣味を帯びた幽々子の言葉に、先代は力強く笑って応えるのであった。

 

 

 

 

 

 そして、その日はやってくる。

 もともと先代は信綱より早く冥界に来ており、転生の準備自体も信綱より早く終わるもの。

 そのためこの日が来ることは必然であった。

 

 白玉楼の門前。彼女の次生の始まりを彩る灰と桜に見守られ、かつて博麗の巫女だった少女が立つ。

 見送るは彼女と懇意にしていた妖夢と幽々子。そして信綱。

 

 妖夢は彼がもう覚えていないから関係ないと突っぱねるのではないかと思っていたが、意外にも先代が来る前から門前に佇み、彼女を待っていた。

 冥界での暮らしで彼女に振り回されなかった日々はなかったのだから、彼にも思うところがあるのだろうと自分を納得させる。

 

「……ついにこの日がやってきましたね」

「そうね。ずいぶんと世話になったわ。桜も綺麗だったし、月も綺麗だった。死後の世界がこんな風に安らかなら、やるべきことをやった後に死ぬのも悪くない」

「ええ。これは生きてやるべきことを果たした者へのご褒美みたいなものですから。あなたたちは十二分に己の役目を果たしきりました」

 

 幽々子の言葉にくすぐったそうに笑い、先代は信綱の方に駆け寄っていく。

 

「あんたともこれでお別れかしら」

「……さあな。転生した後など誰にもわからん」

「それもそっか。でも無理とは言わないんだ」

「万に一つ程度なら、お前は平気で乗り越えて来るだろう。それぐらいはわかっている」

 

 憮然とした仏頂面でそう言う信綱に先代は笑みを深める。

 悲観的でも楽観的でもなく、淡々と現実を直視するこの男からこれだけの言葉が引き出せたということは、彼女にとって嬉しいことだった。

 

「ふふ、そこまで言ってもらえるなんて嬉しいわね」

「…………」

 

 先代の喜びようを見ても信綱は何も言わず、表情も変えない。

 それは見るものによっては彼の冷淡さが浮かんでいるように見えただろう。だが見る人によっては、必死に自身の感情を隠しているようにも見えた。

 そして先代はそんな信綱の表情を楽しそうに、実に楽しそうに見つめる。

 

「…………」

「…………」

 

 互いの瞳に互いが映る時間がしばし続き――やがて、先代が彼の耳元で口を開いた。

 

 

 

 

 

 ――演技、見ていて楽しかったわよ?

 

 

 

 

 

 先代の言葉を聞いた信綱に驚愕の色はなく、しかしゆっくりと彼女から距離を取る。

 恥じ入るように片手で自身の顔を隠し、やってられないとばかりにため息をつき、口を開いた。

 

「……いつから気づいていた?」

「最初から」

「だと思ったよ。全く……」

 

 かなり無駄な回り道をした、とぼやく信綱の額を先代は楽しげに弾く。

 それを素直に受け止め、信綱はやれやれと首を振るばかり。

 

「え、えええええぇぇぇぇぇ!? 覚えてたんですか!?」

「あら妖夢、気づいてなかったの?」

「幽々子様も!? え? じゃああの冷徹無慈悲な言葉は何だったんですか!?」

 

 どうやら騙せていたのは一人だけで、しかも騙しても大して意味はない少女のみだったようだ。

 自分に演技の才能はないらしい、と死んでから学んだ信綱は大人しく自分の行動を説明していく。

 

「大体の理由はお前たちに言った通りだ。……阿礼狂いであり、今この瞬間だって御阿礼の子がいればそちらを優先するような男に覚えていてもらうのが、本当にこいつのためになるのかわからなかった」

「それが夫婦になって一緒に連れ添った女に言う言葉?」

「……俺だって確信があったわけじゃない。お前の幸福を考えるなら、お前に聞くのが一番だろう」

 

 だが、それをして万一自分との付き合いを忘れたかった、と言われたら聞きに行った時点で失敗となる。

 故に信綱も演技を行ったのだ。自分でも正しいと思っているわけではない、拙い演技を。

 

 忘れたかったのならばそのまま忘れれば良い。信綱は多少思うところが生まれるかもしれないが、御阿礼の子以外は些事と割り切れる以上、心に傷を負うこともない。

 そうでないのなら、一言言えば良かった。それなら信綱は自分が馬鹿なことをしたと認めるだけで良いのだから。

 

 信綱が理由を説明し終えると、先代はやれやれと言わんばかりに肩をすくめて、もう一度彼の額を小突く。

 

「む」

「あんたなりに私のことを考えてくれたのは嬉しいけどね。もうちょっとお互いが幸せになれる道を考えなさいな」

「俺なりに考えたつもりだったんだが……」

「じゃあ最初の態度でもう決めて良かったでしょう」

「……お前の死に、悲しめなかった男をお前は望むのか」

「望むわ。私が死んで悲しくなかったことが悲しい(・・・・・・・・・・・・・)と思えるあなたを、私は望む」

「……馬鹿な女だ」

「そうね、馬鹿なの。今だってあんたは私のために泣いてくれると確信しているくらいには」

 

 そう言って先代は一瞬だけ信綱に近寄り、そして離れる。

 その間に何があったかは――顔を真っ赤にして手で覆いながら、それでも指の隙間から覗いている妖夢の態度が物語っているだろう。

 

 先代と信綱は気にせず、かつて博麗の巫女だった者と、阿礼狂いの英雄として生きた者として最後の会話を楽しんでいた。

 仮に次があったとしても、次に会う時彼らは博麗の巫女でも阿礼狂いでもないだろう。

 

「次の人生でも会えるかしら?」

「さあな。人間以外に生まれる可能性もあるらしいぞ」

「だとしても。あんたは会えると思う?」

「転生したことがないからわからん」

「夢がないわねえ」

「もとよりこういう男だ。……だがまあ、待つぐらいならできる」

「それって……」

「初めて会った時、俺からお前に話しかけた。次はお前の番だ」

 

 

 

 ――待っていてやるから、俺を探してみせろ。

 

 

 

 そう言って信綱は彼女以外の誰にも聞こえない声量で、先代の名をつぶやく。

 その言葉を聞いて、先代は嬉しそうに、心の底から嬉しそうに笑って信綱に背中を向ける。

 

「じゃあ私は先に行ってどんな場所なのか見てきてあげる! ――またね、あなた!」

 

 彼女が石段を下り始めると同時、風が吹いて桜の花びらを巻き上げる。

 視界全てを桜色に埋め尽くすそれに妖夢と幽々子は目を閉じ、次に開けた時には先代の姿はなくなっていた。

 

「……行っちゃいましたね」

「そうね。……あなたは、何が見えたのかしら」

 

 妖夢と幽々子が再び日々の仕事に戻ろうとしている中、信綱は瞬きもせずに彼女の消えた場所を見ている。

 そこに何かがあったのだろう。幽々子はある種の確信を持って信綱に問いかける。

 信綱は幽々子の問いに小さく笑いを零し、質問に答えることなく白玉楼の中に戻り始めた。

 

「あ、幽々子様が聞いているんですよ!? 全く、あの男は……」

「良いのよ、妖夢。今のは私が野暮な質問をしちゃったわ」

「今のがですか?」

「そう。独り占めしちゃいたいような素敵な景色が見えたのだと思うわ」

 

 頭の上に疑問符が浮かんでいるような顔をしている妖夢に幽々子も笑い、白玉楼に戻ってしまう。

 慌てて妖夢もその背を追い、白玉楼の日常が再び始まっていく。

 

 

 

 あの瞬間、信綱は目を閉じなかった。

 先代の最後の瞬間を見届けるのが、曲がりなりにも良人として在った自身の役目であると、桜吹雪の中でも彼女の背中を見続けていた。

 そこで不意に、見えたものがあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ――それはきっと、今までと何も変わらず月を見上げて語らう男女の姿で――




Q.これって結局どんなお話?
A.変なところで意地っ張りなノッブを先代とゆゆ様がイジるお話

ノッブがちょいちょい過去の話とかしてたり、そもそも一回しか会ったことのないゆゆ様や妖夢のことをちゃんと覚えている辺り、何も忘れてねえなこいつというのは早々にわかってもらえると思います。
その上でノッブは自分が彼女のことを覚えていることが、彼女を傷つけることにならないかと思って忘れたフリをすることにしました。基本的にこいつは御阿礼の子以外のために動くとなると不器用な方です。
また、これが本当に先代のためになるかもわからなかったため、ノッブ自身も結構適当に演技してます。バレたらバレたで良いや、という感じでした。

先代とゆゆ様はそんなノッブの意地も全部見抜いて、その上であえてイジってました。ゆゆ様は賑やかしですが、先代はほぼ惚気も同然です。この人、ノッブが自分のことを忘れているとは全く思っていません。



さて――後は本作の主人公の相棒を務めた彼女とのルートで阿礼狂いに生まれた少年のお話は本当に終了となります。具体的には作品分類が完結済みに移動します。
少し早い言葉になってしまいますが、ここまで拙作にお付き合いいただき、ありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IFエンド そして彼らの未来は幻想に続いていく

たいへんおまたせいたしました(震え声)

最後の最後だけあってメッチャ悩んで色々試行錯誤しました。
時系列としては阿弥が亡くなった直後になります。つまりルート分岐はあそこで行われてました。


 それは阿弥が旅立ってからしばらくのことだった。

 信綱は何をするでもなく妖怪の山に足を踏み入れては、ぼんやりと空を見上げるのが日課になっていた。

 

 通常、そんな上の空の人間が妖怪の山に入るのは自殺行為でしかない。

 しかし、心ここにあらずといった様子でも振るう剣さばきに揺らぎはなく、何を血迷ったのか襲い掛かってきた妖怪たちは全てが一太刀で存在を霧散させられていた。

 

 そんな風に自分を狙う愚か者を斬って、だが心は一向に晴れないまま信綱は今日も定位置である川辺の、腰掛けるのに丁度いい岩から空を見上げる。

 

「……今日もいましたか」

 

 そしてその状態の信綱とともにいるのが、彼とは幼馴染とも呼べる付き合いの白狼天狗――犬走椛だった。

 

「お前も来たのか」

「それはこちらの台詞です。人里にいなくて大丈夫なんですか」

「あまり騒がれたくなかったんだよ」

 

 信綱が阿礼狂いであることは周知の事実であり、同時に彼の持つ英雄としての名声も比類なきものになっていた。

 この二つが合わさっている現在、御阿礼の子が亡くなったことへの哀悼などを示してくる輩がいる。

 

 それ自体は良い。御阿礼の子の死が悲しまれないなど、それこそあり得ない。

 だが――自分に同情しようとする輩。それは許せなかった。

 

「この絶望も苦痛も、阿弥様が俺に与えた唯一のものだ。誰かに共有などさせるものか」

「……私なら良いのですか」

「お前は俺の本性を知っているだろう」

 

 下手に踏み込んでくるなら、お前であっても容赦はしない。

 言外にそう言っている信綱に椛は大きくため息をついて、信綱の隣に座る。

 

「だったら、こうしています」

「……何の意図が?」

「隣が暖かいって、結構ホッとしますから」

「……そうか」

 

 椛にそれ以上の意図はないのかもしれないし、あるいは言葉でなく信綱を慰めようとする彼女なりの気遣いがあるのかもしれない。

 しかし今はどうでも良いこと。信綱はこれ以上何かを言うことなく、再び空を見上げる作業に没頭していくのであった。

 

「…………」

「…………」

「……なあ」

「なんです?」

「……今の俺に付き合う意味なんてないぞ。自覚はあるが、抜け殻のようだろう」

「だったら、なおさら側にいないと駄目です」

「なぜ」

「抜け殻のまま、飛んでいきそうですから」

 

 上手いこと言ったと得意げな顔をする椛に怒る気にもなれず、信綱は軽くため息をついて視線を上に向ける。

 だが、次に口を開くまでの時間はそう長くなかった。

 

「……あの方は幸せだっただろうか」

「それを決める権利はあの子にしかありませんよ」

「そうだな、その通りだ。……それでもあの方に生きてほしかった」

「……私もそう思います。ただでさえ人間の一生は短いのに、なんでこんなに早く終わってしまうんでしょうね」

「俺が父であるなら、俺が先に死ぬのが筋のはずなのに」

「……はい」

 

 訥々と語られる信綱の心境に、椛は静かにうなずいて同意する。

 椛も阿弥のことは友人として知っているのだ。彼女の死に思うところは当然あるし、悲しいとも思っている。

 しかし、信綱と比べられるほどではない。己の半身どころか、全てであると言ってはばからない存在がその全てを失った嘆きに比べれば卑小と言わざるをえない。無論、比較するようなものではないが。

 

「……家族に死なれるのは悲しいな」

「はい」

「……お前にも家族はいたのか」

「私も阿弥ちゃんのことは妹みたいに思っていましたから。……正直、言い知れない感覚が胸にあります」

「そうか。……お前はもう立ち直っているのか」

 

 そう言って信綱は身体を起こし、立ち上がる。

 その姿には亡霊のごとき気配は漂っておらず、いつも通りの生真面目な空気をまとい始めていた。

 

「あの方は俺に生きろと言った。――ならば生きよう。この生命が果てるその時まで、あの方々に仕えよう」

「その意気です。ようやく調子が戻ってきましたね」

 

 誰にでもなく己の覚悟を語り、信綱は平時と同じ強い意志を宿した瞳で椛を見る。

 とはいえそれも一瞬で、次の瞬間には照れているのか彼女から視線をそらしながら感謝の言葉を告げる。

 

「世話をかけたな」

「これぐらい良いですよ。弱っている君が見られる機会なんて、そうそうありませんから」

「うん? そうだったか」

 

 椛のことは信綱も気の置けない相手だと認識している。

 自分でも無理だと思う頼み事をしたこともあるし、ままならない現状に愚痴をこぼしたこともある。

 弱みとはそういったものではないのか、と首をかしげる信綱だった。

 

「それは面倒だから言っているだけですよ。どれも自力でなんとかできるけど、他人に任せてしまいたいって心境の吐露です」

「あいにく手は二本しかないんだ。できることが多くてもやれることは少ない」

「だから私たちに任せた。でも、今回のことは違うでしょう?」

 

 御阿礼の子の死。信綱でも――万物であってもどうにもならず、不可避のそれ。

 信綱は阿礼狂いであるため、他の事象に心動かされることは滅多にない。

 ましてや打ちのめされることなど、これまでの人生にもなかったしこれからの人生にも存在しないだろう。

 言い換えれば、彼は御阿礼の子に関わることであれば容易に打ちのめされ、絶望するのだ。

 

 阿七の時、彼はより強くなるという己への誓いを支えとしていたため、弱みを見せることはなかった。

 だが今回は違う。親のように慕われ、信頼を寄せてくれた主人の死に信綱は弱り果てていた。

 意識してかどうかは知らないが、信綱はその弱みを見せる相手に椛を選んだ。

 

「ちょっと嬉しかったです。君は一人で落ち込んで、一人で立ち直ると思ってました」

「部屋にこもっていても気が滅入るだけだ。……まあ、気の向くままに動いていたらここに来たことは否定しない」

「だったら同じですよ」

 

 椛に笑われてしまい、信綱は機嫌を損ねたように憮然とした顔になる。

 真っ直ぐ自分に向けられる思いを苦手とするのは今も変わらないらしい。

 

 子供の頃から変わらない信綱の癖を見てさらに笑みを深める椛に、信綱は付き合ってられないとため息をつく。

 そしてもう一度空を眺めて、おもむろに椛の方へ向き直る。

 

「……丁度いい。お前に聞いておきたいことがあった」

「なんです?」

「阿弥様のことだ。以前、俺には相談できないことでお前に相談したことがあっただろう」

 

 信綱の言葉を受けて、椛は自身の記憶を振り返りながら首肯する。

 思い返されるのは信綱への感情に名をつけられず悩む阿弥の姿と、答えを出した阿弥の儚く美しい笑みの二つ。

 

「はい、確かにありましたけど……あれがどうかしましたか?」

「阿求様の代に同じ悩みが出ないとも限らない。そしてその時にお前が力になれるかわからない。――俺は全てにおいてあの方の力になる義務がある」

「……っ!」

「教えて欲しい。――どうして俺はあの時力になれなかった?」

 

 信綱の問いかけに椛は息を呑む。

 確かに阿弥は信綱が力になれない類の悩みを抱えて、椛や他者を頼っていた。

 とはいえそれは阿弥の感情の矛先が信綱に向いていたからであり、信綱以外に向いていれば彼に相談していたということは想像に難くない。

 

 しかし、阿求の代に同じことにならないか。信綱の疑問に対し、明確に否定できる要素を椛は持ち合わせていなかった。

 

「…………」

「答えたくない、というのは阿弥様のためだから認めてやりたいが、俺も引き下がれない。……御阿礼の子が受ける苦しみなど、少ないに越したことはないんだ」

 

 かつて、ある時期を境に阿弥が信綱と顔を合わせなくなった時期がある。

 あれは自身が不甲斐ないから起こったことであると、信綱は判断していた。

 もっと全ての悩みを聞けるよう振る舞い、立ち回っていれば避けられたもののはずだ。

 

 そんな風に己を責め立てる時期は一月ほどで終わり、阿弥はいつも通りに信綱と接するようになった。

 そう――いつも通りに、である。

 急に顔を合わせなくなって、それが終わったらである。何かありますと喧伝しているようなものだ。

 

「阿弥様が話した内容を全て語る必要はない。だが、俺に至らない点があったから阿弥様は苦しまれたのだろう。教えて欲しい」

「そんなこと! ……すみません、取り乱しました」

 

 信綱に至らない点などあるはずがない。常々、阿弥は信綱こそ最愛の家族であると胸を張って自慢していたのだ。

 そしてその最愛の家族に、それ以外の感情を持ってしまったからこそ阿弥は苦しんだ。

 もしもそれを伝えたら、信綱は自らの知らない感情を求めて遠くへ行ってしまうと思ったから。

 

「……あ」

 

 そうだ、と椛は理解する。信綱が理解しておらず、それゆえに阿弥が苦しんだものの正体を。

 だが、それは口で教えてどうにかなるものではない。彼自身が感じ取り、理解しなければ意味がないもの。

 自覚すると同時、椛は自身の頬に熱が集まるのを感じる。これを教えるということは言葉だけでなく、彼女自身にとっても大きな転機となる。

 

 言葉だけ伝えても彼には意味がないどころか逆効果になる。自身を狂人と正しく理解している彼だからこそ、その言葉の意味を理解できてしまう。

 そうなれば彼は阿弥にそのような感情を持たせてしまったとして、深い自責に駆られるだけだ。あるいは自らに側仕えの資格なしと判断して自害もあり得る。

 通常なら一笑に付すような椛の思考だが、相手は阿礼狂い。それぐらい平然とやってもおかしくない人間だ。

 

「何か思い当たるフシがあったのか」

「…………」

 

 故に、伝えるとしたら覚悟が必要になる。

 椛が知り得る感情の答えを、その身を以て教えなければならない。

 その覚悟が己にあるのか。そう自問し、椛は熱のこもった顔で信綱を正面から見据える。

 

「……どうした?」

 

 子供の時から何も変わらない仏頂面。瞳に浮かぶ意思は強く、数多の試練を乗り越えた彼の意思は幻想郷を動かすに足る輝きを宿している。

 彼との思い出を振り返ってみても、可愛げのある姿を見た覚えなどほとんどない。

 言うこと成すこと辛辣で、しかも椛を鍛える過程で何回手足をたたっ斬られたかなど数え切れないほど。

 これだけを見ればなんで自分が彼の友人なんてやっているのか、わからないと思うだろう。実際疑問に思ったこともある。

 

 しかしこれだけの人間でないこともまた、椛は知っていた。

 言うこと成すこと辛辣だが、見放したり見捨てたりはしない。手足を斬ってくるのは本当にやめて欲しいが、全ては椛が強くなるための鍛錬なのだ。

 意外なほど他人を慮っていて、誰であろうと誠実に向き合おうとする生真面目な性分を知っている。

 

 ――本当に、しょうがない。

 

 椛はこれから自分がやろうとしていることを省みて、内心で困ったように笑う。

 きっとこれは馬鹿なことだ。教えなくとも彼は勝手に進み、彼なりの結論を出して再び御阿礼の子と向き合うだろう。

 これを行う理由など、相手のためなどというおためごかしなものではない。

 結局のところ――自分はずっと、彼にこうしてやりたかったのだろう。

 

「――信綱」

「いきなり名を呼んでどうした……なぜ手を掴む」

 

 これから告げる内容は信綱にとって辛いものになる。

 彼がこれを知らない理由は阿礼狂いの一族に生まれたというだけ。

 ただそれだけで、彼は今に至るまでこの感情を知らないでいた。

 

 ずっと椛が信綱に抱いていた、大きな感情。

 椿とともに鍛錬した思い出。椿を殺した彼に向けた感情。共存を望みともに歩んだ日々。肩を並べ、背中を預けて脅威に挑んだ時間。

 目標の果てしなさにめまいを覚えた。人間と妖怪一人には重すぎる試練に笑いが溢れた。降りかかる苦難に苦悶を零したこともある。

 楽なものなど一つもなく――全てが愛おしく、楽しい時間だった。

 

「阿弥ちゃんが悩んでいたのは君が――愛を知らないからです」

 

 椛がそれを告げると信綱は怪訝そうな顔をして、次いですぐにその顔を青ざめさせる。

 やはり彼は察しが良い。今の言葉だけで阿弥が何を求めていたのか、自分は何を理解すべきなのか全て悟ったようだ。

 椛から距離を取るように動こうとする信綱だったが、動けない。そうなることを予測していた椛がすでに手を握っていた。

 

「そ、れは」

「君が悪いわけではないし、阿弥ちゃんが悪いわけでもありません。お二人の事情を知る私が断言します。全て妙なる巡り合わせの結果起きてしまったことです」

「だが!」

 

 こと御阿礼の子に関して、彼に妥協の二文字は存在しない。

 それを知らなかったことが阿弥に負担を強いてしまったというのなら、信綱は知って責任を取らなければならない。

 そんな自責の念に駆られる信綱を、椛は微笑んで見上げる。

 多くのことを経験し多くのことを知った彼であっても、知らないことに対して途方に暮れることはあるのだと思うと、どこか微笑ましかった。

 微笑みを浮かべたまま、椛はそっと自身の顔を信綱に近づけていく。

 

「私は、知ってます」

「何を……っ!?」

「動かないで。今、教えますから」

 

 椛が何をしようとしているのかわかったのだろう。信綱は無理矢理にでも手の拘束を振りほどき、離れようとする。

 だが、それも先んじて放たれた椛の言葉に硬直してしまい、上手くいかなかった。

 あるいはその瞳に何かを見出したのかもしれない。熱に浮かされ、潤んだ瞳の奥に信綱が知るべきだと感じたものがあったのかもしれない。

 

 動くなと言われ、驚愕の表情になりながらも律儀に動きを止めた信綱に小さく笑い、椛は高鳴る鼓動のままに信綱の顔に自身の顔を近づける。

 ずっと抱いていた感情に名前をつける時が来たのだ。この大きな、己の身を投げ出しても構わないと思えるほどの大きな感情に形を与える時が来たのだ。

 

 

 

 

 

 ――この感情は、誰に対しても胸を張れるもので――

 

 

 

 

 

「……伝わりましたか?」

 

 近づけていた顔を離し、椛は閉じていた目を開いて信綱を見る。

 驚愕の表情が貼り付いたままだったが、やがてゆっくりと状況を咀嚼するように何度もうなずいて、言い放つ。

 

「全くわからん」

「かなり勇気出したんですよ!?」

 

 一世一代と言っても過言ではないくらいに踏み込んだというのにこれである。

 しかし信綱も信綱で困ったように眉根を寄せており、椛の行動が心底理解できないと困惑している様子だった。

 

「そうは言うがな。口と口が触れ合って何が伝わると言うんだ」

「言わないでくださいよ恥ずかしい!?」

「どうしろと」

「もっとこう……感じ入ってくださいよ!」

 

 無茶苦茶なとぼやくものの、信綱は素直に瞑目して自身の感情を探り始める。

 やがて浮かんできたものはやはり、困惑が先立っていた。

 

「……正直な話、お前がこういうことをするとは思っていなかった」

「どうしてですか?」

「お前はきっちり人妖の線引をしていると見ていた。それが間違っているとは思わん」

 

 どれほど親しくなっても、そういった男女の関係を意識することはなかった。

 信綱にそういった機微がわかっていなかっただけ、と言われたらぐうの音も出ないが、それでも信綱は自身の見立ては正しいと感じていた。

 なにせ半世紀以上一緒にいて、彼女に感じているものは信頼のみだ。それはこの場での行動がなかったとしても終生変わらないだろう。

 信綱の指摘に椛は素直にうなずき、同意の姿勢を見せる。

 

「はい。君との付き合いはとても長いですが、私はそういったことは意識しないよう気をつけてきました。理由は二つ」

「二つ?」

「一つ目は椿さんが君のことを大好きだったから」

「…………」

 

 露骨に嫌そうな顔になる信綱を見て、椿には悪いが笑ってしまう。

 

「そこまで嫌いですか?」

「あれの好きは肉が好きとか野菜が好きとかそういった領域だ。レミリアと何ら変わらん」

「それは……まあ……確かに」

 

 信綱の言葉が全く否定できなかった。本当によくあの鍛錬を生き残ったものである。

 この話を続けても双方がロクでもない思いをするだけなのがわかったため、信綱は先を促すことにした。

 

「で、もう一つはなんだ?」

「君の信頼が嬉しかったからです」

 

 椛の言葉に信綱は疑問を覚えるように眉を寄せる。

 視線が細くなり睨むようになるものの、椛は動じない。

 こういう時の彼の行動は本心からわからない時だと決まっているのだ。本気で睨むつもりなら、視線に殺気も混ぜている。

 

「勘違いなら恥ずかしいですけど、君は私のことを一番信じている。違いますか?」

「いいや、違わない。俺が背中を預けられるのはお前だけだ」

 

 好意を表したり、友人であると認めることは恥ずかしがる信綱だが、自身の中で当たり前の事実であることを言うのは恥ずかしいことではないらしい。

 僅かな躊躇も見せずに首肯する信綱に、椛は照れたように笑って言葉を続けていく。

 

「はい、知ってます。ちょっとよく見える目以外に取り柄のない白狼天狗を信じてくれる君に背きたくなかった。私にできる精一杯で君の力になりたかった」

「十分助けられている。それでさっきの行動とどうつながる?」

「信頼に背きたくないと言ったでしょう? 今の関係を私の方から壊したくなかった。――だからこの感情に名前はつけなかった」

 

 そう言って椛は誇るように自身の胸に手を当てる。

 きっと彼女の胸の奥には、ようやく名前をもらって産声を上げた感情が暖かく息づいているのだろう。

 

「……今のを忘れろと言うのなら忘れるが――なぜ額を叩く」

「本当に君は女心がわかりませんね……」

 

 信綱としては気遣いのつもりだったのだ。

 額を小突かれたことに不服そうな顔をする信綱に、椛は呆れた目を向ける。

 次いで笑い、椛は満面の笑みで信綱を見上げた。

 

「多分、今日君がここに来ないで私に弱音も吐かなければ、こんな気持ちにはならなかったと思います」

「…………」

「先ほどの君を見て、私は自分の感情に名前をつけることにしました」

「……どんな、名前だ」

 

 信綱もここまで言われて何もわからないほど鈍感ではない。ただ、自身がその感情の矛先になるとは全く思っていなかっただけである。

 先を促すように聞かれた椛は誰はばかることなく、己が感情を謳い上げた。

 

 

 

 ――愛しています、信綱。

 

 

 

「君が――あなたが愛を知らないというのなら、私が教えます。君が死ぬその時まで」

「……なぜ」

「ずっとあなたと一緒にいたからです」

 

 今、愛と名付けたこの感情はきっと何色にも染まるものだった。

 信綱が今日ここに来なければ、この思いは友情として終生色褪せぬものとなっていただろう。

 しかし、彼はここに来た。ただそれだけの事実が、椛の抱く感情を愛情に変化させた。

 そのことを椛が信綱に伝えると、信綱は自分の行動を振り返ってほんの僅かに悔いるような姿を見せる。

 

「……ここに来たのは失敗だったか」

「嫌でしたか?」

「……よくわからん」

 

 本心だろう。愛していると面と向かって言われて、信綱は間違いなく混乱していた。

 阿礼狂いとして生きることを考えるなら断るべきだ。愛情を向けられているからと言って、自分にそれを返せる保証など皆無だ。

 このように考えてしまう辺り、自分は本当に愛情というものがわかっていないのだろう。

 信綱は胸中に浮かぶ考えに自嘲の笑みを浮かべる。

 

「お前の言うとおりなのだろう。俺に愛はわからない。……お前の想いには応えられ――」

「――るかどうか、これからの人生で見ていこうって話ですよ。あなたがなんと言おうと、私はあなたを愛し続けます」

「いや、俺がどういう出自かわかっている――」

「――から、やるんです。あなたに愛を教えるには、これぐらいしなければ到底届かない」

 

 自分の答えが読まれている。ことごとく先回りされていることに信綱は苦虫を噛み潰したような顔になる。

 長年の付き合いだけあって椛に引く様子はない。もう自分の中で出した答えに従って、信綱に死ぬまで寄り添うつもりのようだ。

 それが理解できてしまい、信綱はどうしてこうなったのだと片手で顔を覆ってため息をつき――受け入れることにした。

 

「……わかったよ。何を言ってもお前は止まらない」

「はい」

「……お前の想いに応えられるかわからない――いや、自分で言うのもあれだが分の悪い賭けだ」

「はい」

「それでも、来るんだな?」

 

 迷わずうなずく椛を見て、とうとう信綱は観念したように背中を向け、人里への道を歩き出す。

 その背中に椛は笑ってついていき、二人の姿は人里へ消えていくのであった。

 

 

 

 

 

 雲一つなく、蒼天高く澄み渡るある日のこと。

 百鬼夜行異変もすでに思い出話として笑える程度には時間も経ち良く言えば平穏な時間、悪く言えば暇な時間が再び戻ってきた妖怪の山の一角。

 

 天魔は自らの仕事場で、ごろりと横になって暇を持て余していた。

 

「ああ……暇だ」

 

 机の上に積まれていた仕事の書類に関しては部下に任せるものは部下に任せ、自身の采配が必要なものは全て終わらせた。

 あまりに暇なので、この書類を紙飛行機にでも変えて全て飛ばしてしまいたい、などというしょうもない考えが浮かぶことすらある。

 

 窓枠から見える空は綺麗に澄んでおり、見下ろす天狗の里は今日も今日で多くの烏天狗、白狼天狗が飛び交っている。

 最近は人里に買い物へ行こうとする天狗も増えつつあり、外部からの交流を取り入れることによって市場もにわかに活気づいている。

 百年単位で代わり映えのしない天狗社会なのだ。刺激があるのは良いことだ。

 

「オレもあそこに混ざってくるかな……」

 

 適当に店を冷やかして酒でも買って飲んでいようか。

 文にバレた時が面倒だが、その時はその時で彼女に怒られるのを肴にすれば良い。

 根が真面目なのに、一生懸命悪ぶろうと頑張る文の姿は天魔にしてみれば実に微笑ましい酒の肴である。

 

 天魔はしばし部屋で佇み、周りに人がやってくる気配がないことを確かめてから立ち上がる。

 

「――よしっ! サボって人里で酒でも飲むか!! 追加の仕事が来たら文に任せりゃ良い!」

 

 実に素晴らしいダメ人間の決意を固めていそいそと逃げ出す準備をしていると、窓の外から何やら声が聞こえてきた。

 

「んぁ?」

「――様!! 天魔様!! 大変ですよ大変大変!!」

 

 声が聞こえ、それが文だと理解できた瞬間、彼女が黒翼をはためかせて文字通り部屋に飛び込んできた。

 

「うぉっ!? 窓から入ってくるのは良いが、壁まで壊すなよ!?」

「そんなちっぽけなことどうでも良いですって!!」

「いや、ここオレの仕事場なんだが……」

 

 文は興奮した様子でぶんぶんと手元の紙を振り回しながら天魔に詰め寄ってくる。

 この壁は後で文の給料から差っ引こうと、風通しの良くなった自室を見て遠い目になる天魔。

 

 だがそんな風に落ち込むのも束の間。天魔は思考を一瞬のうちに切り替えて文を見やった。

 

「――で、何が大変なんだ。この間百鬼夜行が終わったばっかりだぞ? これ以上の騒動なんてまず起こらんだろ」

「起きたんですよそれが!! ほら、これ見てください!」

 

 そう言って文が叩きつけるように渡してきたのは、天魔が定期的に作るよう命じている天狗社会のかわら版みたいなものである。

 大天狗に反乱を起こされて以来、自分で部下の様子を見るだけでなく文を使って多方向から物事を見るよう心がけるようにしていたのだ。

 これもその一環であり、天魔の耳に入ってこないような些細な情報――それこそどこの誰が飲みすぎて失敗した、とかそういった話を文に集めさせていた。

 

「んー……どれもこれも似たり寄ったりだな。あんだけの騒ぎがあってすぐに騒ぎを起こそうなんて輩、そうそういるはずないだろ」

「烏天狗のとこじゃないです! 白狼天狗のところ見てください!!」

「白狼天狗ぅ? あいつらは基本哨戒内容の報告だけ……ってなんだ、婚儀?」

 

 白狼天狗が婚儀を執り行うそうで、文は鼻息荒くその場所を指差してきた。

 また珍しい、と天魔は思う。天狗社会は百年単位で代わり映えのしない社会だ。

 結婚しても良いと思えるほどに気の合うやつがいればさっさと結婚しているだろうし、逆に殺したいほど憎いと思うようなやつがいれば距離を取っている。

 

 天狗社会の変化する速度は遅くとも、対人関係を築く速度は人間と大差がないのだ。

 派閥と言ってもなんとなく気の合う奴らが一緒になっている間にできたものもある。

 

「珍しいな。幻想郷に来てから天狗が祝言とか初めてじゃないか? なんだ、お前行き遅れでも心配して――」

「そうじゃなくて!! 相手の方見てくださいよ!!」

 

 じれったいとばかりに文が紙を奪い、天魔の前に突き出してくる。

 何をそんなに混乱しているんだと思いながらも、天魔は素直に文の細くて白い指が差している場所を眺め――

 

「……はあぁっ!?」

 

 ようやく何が起こっているのかを理解し、彼もまた文と同じく心底から吃驚仰天するのであった。

 そしてほぼ同時期にレミリア、紫、萃香らもこの知らせを聞いて――あの男に妖怪の相手がいたのか!? という意味で幻想郷が震撼したのは別の話である。

 

 

 

 

 

 うららかな日差しの暖かい時分、信綱と椛は火継の邸宅にある縁側で日向ぼっこをしていた。

 白狼天狗という狼から化性した天狗だからか、彼女は外にいることを好む。

 暖かい日などは縁側で丸くなっている姿をよく見かけている。

 

 椛とともに暮らすようになって、信綱の周辺は大いに変化した。

 妖怪との共存を成し遂げた人間が妖怪と一緒になった、ということが大きいのだろう。人里のみならず、幻想郷そのものがちょっとした騒ぎになっていた。

 

 紫やレミリア、天魔らは信綱が妖怪と結ばれたと聞いて何事かとやってきて、その度に事情を説明するのが非常に面倒だと信綱は辟易していた。

 一緒にいる椛にも同等の苦労が行っている。嫌になったらいつでも天狗の山に戻ればいいとは常日頃から言っているのだが、今のところその様子はない。

 ……様子はないどころか、火継の女中と仲良くなり始めていて、人里に馴染むつもり満々にしか見えないため自分でも説得力の薄い言葉だとは思っているが。

 

「最近になってようやく落ち着きましたね」

「全く、俺が誰とどうなろうと問題ないだろうに……」

 

 強いて言えば先代との口約束になるが、信綱が言ったところ――

 

「ん? あんな口約束、本気にするほどのもんじゃないわよ」

「いや、言い出しっぺが破るのは問題があるだろう」

「あわよくばってぐらいだったし、それに会えなくなるってわけじゃないでしょ」

「……まあ、そうだな」

「これからも友達でいてくれるってんならいいわよ。結婚おめでとう」

 

 などと実に先代らしい言葉で逆に祝われてしまい、信綱がどう反応すれば良いのかわからず困ってしまうほどだった。閑話休題。

 

 ともあれ、信綱と椛は阿求が生まれる前の僅かな時間を二人で共有しているところだった。

 

「あなたの膝は暖かいですね……この場所も相まって暖かさが二倍です」

「俺は暑い」

 

 元が動物だからか、椛の身体は人より体温が高い。

 そのため信綱の膝の上はむしろ冷たいのではないかと思ってしまうのだが、椛は不思議と信綱の膝の上を好んで枕にしていた。

 今日も今日とて、彼女は信綱に膝枕をさせて縁側で丸くなっている。

 

「何が楽しいのかわからんな。というか暑くないか?」

「このぐらい平気ですよ。あ、あなたが暑かったら言ってくださいね」

「お前の身体が暑い。動物か」

「動物ですよ。元は」

「……犬を飼っている気分だ」

「何か言いましたか?」

「なんでも。……それといい加減、普通の口調で構わない。もう他人でもないだろう」

「そこはほら、慣れですよ。あなたに砕けた言葉を使うのは恥ずかしくて」

「今の状況よりか」

「今の状況より、です」

 

 何を言っても効果がないと察し、信綱がいつも通りの仏頂面になる。

 そんな信綱を下から見上げ、椛は嬉しそうに笑う。

 

 口では色々と言ってくるし、事あるごとに自分にそれはわからないと卑下するような言動が目立つが、それでも信綱は椛を拒絶しない。

 阿礼狂いとして生きることを考えるなら拒絶する方が間違いなく楽であっても、信綱にはその発想が浮かばなかった。

 

「……しかし、良いのだろうか」

「何がです?」

「阿弥様のことだ。お前の言葉と俺の推測が間違ってないなら、俺はあの方以外を愛すべきではないと思う」

 

 そもそも御阿礼の子に恋慕の情を抱かれる時点で阿礼狂い失格である。

 自分たちは御阿礼の子の幸せの一助であり、道具。

 道具は道具として彼女に侍っていれば良い。信綱はそのように、御阿礼の子が求めた役割に徹しただけだ。

 それで阿弥に悩みを負わせてしまったのだ。もしも本人が信綱に慕情を告げていたら、きっと信綱は側仕えの役割を辞そうとするだろう。

 

 ……それは御阿礼の子が愛を求めた時に、何も返してやれないことを心の何処かでわかっているが故の反応なのかもしれない。

 椛とともに暮らすようになって、信綱は薄々とそう考えるようになっていた。

 

「それであなたは阿弥ちゃんを愛せるんですか?」

「…………」

 

 だから椛の質問に対し、信綱は答える言葉を持たない。

 知らないものを軽々しく肯定はできない。人の心などわかった試しがない阿礼狂いとなればなおさらだ。

 言葉に窮する信綱を見て、椛は彼が話しやすいように疑問を投げかける。

 

「それとも、あなたは私を拒絶するべきだと思っているんですか?」

 

 信綱という男は御阿礼の子に関わることと、自身がやるべきであると判断したことに対しては迷いを持たない。人妖の共存もやるべきだと判断したからこそ迷わず動けたのだ。

 誰もが尻込みするようなものであってもやらねばならないと判断すれば迷わない。しかし、それは言い換えれば本人の意向が多分に反映されるものに対しては適用されない。

 要するに――この男はやりたいことを見つけるのがものすごく苦手なのである。

 

「……それは」

「拒絶するべきだと思ったのなら、とっくに私を追い出してますよね。それで私との関係が壊れたとしても、あなたは迷いません」

「そうだな。そうやって生きてきた」

 

 魑魅魍魎の跋扈する幻想郷で人間が妖怪と対等にやり合うには、やるべきことが山積みだった。ましてその中で誰も成し得なかった共存を願うのであれば余計に。

 その中で御阿礼の子を守り抜き、彼女らの一生を幸福に生きてもらうためには迷いなど持っていられなかった。

 

 しかし今はどうだろう。御阿礼の子の側仕えは終生行うが、それはまだ先の話。

 英雄として果たすべき役目もほぼ終わっている。全て果たしたわけではないが、今焦ってやるほどのものでもない。

 だからだろうか。今の信綱はやるべきことがなくなり、やりたいことを探している状態なのだ。

 

 信綱は何を言うでもなく空を見上げ、膝の上にいる椛の頭を撫でる。

 サラサラとした手触りが伝わると同時、椛がくすぐったそうに頭を動かして信綱の膝にこすりつけてくる。

 

「……何がやりたいんだろうな、俺は」

「探すのなら付き合いますよ」

「お前は何がやりたい――いや、失言か」

 

 今、信綱の隣りにいる。それが椛のやりたいことであると、すでに耳にタコができそうなくらい聞いていた。

 彼女が常々自分にささやく愛の意味を理解するまで、この関係は続くのだろう。

 

「はい、失言ですね。バツとしてこうしましょう」

 

 椛は微笑んで信綱の膝から身体を起こし、縁側に正座をして座り直す。

 そして自身の腿を優しく叩いて、信綱をそこに招く。

 

「私ばかりでは不公平ですからね。これでおあいこです」

「別にいい。それにお前の身体は暑いと言っている」

「さ、どうぞ」

 

 言葉と微笑みこそ優しいそれだが、実際は信綱の拒絶を考えていないものだ。

 信綱も拒絶することは問題ないと思っているのだが、断られるとは微塵も思っていない椛の顔を見ると何も言えなくなってしまう。

 

 仕方がないと諦め、信綱はそっと椛のふとももに自身の頭を預ける。

 阿七や阿弥と言った御阿礼の子からよくねだられていたため、膝枕することは慣れているがされることは慣れていない。

 彼女と一緒になって何年か経過し、その生活にも相応に慣れたと思っていても己の身を委ねるというのは緊張するものがある。

 

「緊張しなくても大丈夫ですよ。私はずっと、あなたの側にいますから」

 

 膝枕というより、膝に頭を載せているだけの信綱に優しく苦笑し、椛はささやくような声量で信綱の緊張を解そうと肩を撫でる。

 

「したくてしているわけではない。条件反射のようなものだ」

「……やっぱりやめます? あなたにとって苦痛ならやめますよ?」

「……辛いかどうかはよくわからんが、面倒だとは思っていない」

 

 明確に辛いと思ったことなど、御阿礼の子が苦しんでいる時か彼女らが旅立った時ぐらいである。

 それ以外の物事については面倒であったり厄介であるという感想を持ったことはあっても、辛いというような投げ出したくなる感想を抱いたことはなかった。

 

「お前が満足するならそれでいい。一日続けるわけでもないだろう」

「あなたが楽しいかが重要なんです。今、楽しいですか?」

「……どうだろうな。悪い時間ではないと思っている」

「だったら良かった」

 

 信綱の答えに納得したのか、椛は気分良さそうに信綱の頭を撫でる。

 信綱はそれを甘受しながら彼女の膝の上で思索に浸っていく。

 

 一緒に暮らすようになり、椛は問いかけをすることが多くなった。

 今が楽しいか。やりたいことは何か。自分に何かされることは苦痛ではないか。

 そんな信綱の心を探すような質問が増えている。

 

 信綱はその質問にどれも答えられなかった。

 物事を合理で突き詰め、情も思慮には入れるが実感はない。そんな生き方の疵瑕を突きつけられているような気分だった。

 人間は合理だけでは動かない。時に何よりも感情を優先して動くこともある。

 知識としても経験としても知っているものだが、信綱はそれを体感として知っていたのか、と言われると首を傾げてしまう。

 

 自分の行動は彼らの情を慮ったものだろうか。ただ、そうした方が向こうも気持ちよく動いてくれるという打算しかないのではないか。

 椛の言葉を聞いていると、自分の行いを振り返ることが多くなる。特にやるべきこともないからか、昔の出来事ばかりが信綱の頭に渦巻いていく。

 

「……お前は楽しいのか」

「はい、とっても」

 

 そう言って笑い、椛は信綱の頭を抱え込むようにする。

 

「暑い、狭い、苦しい」

「お嫌でしたか?」

「……嫌ではない」

「じゃあもう少しこのままで」

 

 抱え込む力が強くなる。

 まるで子を守る母親のようだな、と椛の姿を想像して思う。

 それでは自分は子供かと考えてしまい、今の状況からだとそう否定できない事実に唸ってしまう。

 

 愛を教えると宣言した白狼天狗は、今日も楽しそうに信綱の隣にいて。

 信綱は今日も自問自答をする日々を送る。

 阿礼狂いとしてではない、火継信綱自身の心を求める自問自答は彼にとって最大の難問であり、答えの出ないままに時間だけが流れていき――

 

 

 

 

 

 その日は満月の美しい晩だった。

 金色に煌めく月と夜天に輝く星々が地表を照らし、障子越しの部屋に微かな灯りを運んでくる。

 

 この場所で何が起きているのかわかっているのか、虫すら息を潜めていると錯覚するような静かな夜。

 部屋の中には一組の男女が向き合っていた。

 

「椛」

「はい」

 

 出会った時から今なお姿は変わらず、己に愛を教えるために妻となってくれた少女。

 そんな少女と向き合い、しかし今の信綱の顔に迷いはなかった。

 これから行うことはやるべきこと。そうすべきと判断したことなら、迷う理由などない。

 

「明日、阿求様に暇乞いをしてくる」

「はい」

 

 信綱の言葉に対し、椛の表情もまた不動。

 それがついぞ愛を理解できなかった己への失望なのか、それとも別の感情なのか。信綱は理解したくないと判断し、考えるのをやめる。

 

「実質、お前とも今日でお別れだ」

「はい」

 

 言うべきことが終わってしまうと、信綱は途端に言葉に困ってしまう。

 自分と寄り添ってきた妻との永の別れになるのだから、もっと何か言っておいた方が良いというのはわかるのだが、言葉が浮かんでこない。

 明文化できない何かに急かされるように信綱は口を開く。

 

「……すまない。結局、お前の言うものを俺は理解できなかった」

「……はい」

 

 信綱の口から出た謝罪の言葉に椛は初めて表情を変える。

 それは信綱の予想した悲痛なもの――ではなく、信綱に愛を教えると言った時から何も変わらない、慈愛に満ちた微笑み。

 

 なぜかその顔に罪悪感を覚えてしまい、信綱は視線をそらす。

 しかし椛はそんな信綱の頬に手を当てて、自身の方を向かせる。

 

「ちゃんと私の顔を見てください」

「…………」

「あなたがずっと考えていたのを私は知ってます」

「答えは見つからなかった。この問答もこれが最後だ」

「そうですね。でも、後悔はしていません」

 

 信綱の頬から手を離し、自身の胸に持っていく。

 そこに息づく何かを誇り、そこに息づく思い出を抱えて、椛は笑う。

 信綱が僅かに息を呑んだことは、当人すらも気づかなかった。

 

「――――」

「あなたに教えられなかったことは残念ですけど、私は私の想いに嘘をつかなかった。……あなたと一緒にいられたことは本当に嬉しい時間でした」

「…………」

 

 罵られるならまだ良かった。狂人に愛などわからないのだと言ってくれる方が気が楽だった。

 そう言ってくれるなら、信綱は自身の人間性など考えずに己の役目にだけ邁進することができる。

 笑わないで欲しい。こんな己に付き合ってなお笑っているなど、彼女の願いに応えられなかった自分が嫌になってしまう。

 

「…………」

「そんな悲しい顔をしないでください。あなたが気に病むことは何もありません」

 

 無表情を貫いているつもりだったのだが、椛にはわかったのだろう。

 労るように椛の手が信綱の頬に添えられて、そっと抱き寄せられる。

 

「あなたは十分頑張りました。隣で見ていた私が保証します」

 

 

 

 ――私はもう十分だから。あとはあなたのやるべきことをやって?

 

 

 

「…………」

 

 椛に抱きすくめられ、いよいよこの時間の終わりが見えてきていた。

 人生の一部として長い時間であり、狂人が愛を知るには短い時間だった。

 そこで初めて、信綱の脳裏にある言葉がよぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 ――惜しい。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ぁ」

 

 今、自分は何を思った、と信綱は目を見開く。

 御阿礼の子に関わることではない。仕方がないと割り切れることでもない。

 

 

 

 まさか阿礼狂いである自分が――この白狼天狗との時間を終わらせたくないなどと本当に思ったのか。

 

 

 

 時が来たら終わるとわかっているものではなく、たとえ御阿礼の子が彼女の死を望んだとしても、この時間を信綱の手で終わりにしたくないと、そう思ったのか。

 

「……っ!!」

 

 極限まで見開かれた目に意思が宿る。罪悪感に塗れていたものとは違う、確かな意思。

 椛に抱きしめられたことは何度もある。しかし、こちらから自分の意志で抱き返したことは一度もなかった。

 今からしても良いだろうか。今さらなどと拒絶されはしないだろうか、という逡巡はすぐにやりたいという衝動が上回った。

 

「あ……」

「――ありがとう、椛」

 

 彼女の背に腕を回し、強く抱きしめる。

 ようやく確信が得られた。探し求めていたものは本当にすぐ近くに存在した。

 故に彼女には教えなければならない――いいや、彼女に最初に教えたかった(・・・・・・)

 

 

 ――――。

 

 

 耳元でささやかれたそれに、今度は椛が大きく目を見開いた。

 しかしそれは信綱と違い一瞬のことで、すぐに感極まったように瞳を潤ませながら、信綱を抱く腕に一層の力を込める。

 

 過ぎていく彼と彼女の最後の時間を、星月夜だけが見つめていくのであった。

 

 

 

 結末は変わらない。彼は最後の最後、阿礼狂いとしての使命を果たしに行き、椛はそれを見送った。

 阿礼狂いに生まれ、阿礼狂いとして生きた少年なのだ。最期は御阿礼の子の側が相応しい。

 だが、そんな彼が人間になれた時間があったと言ったら信じるだろうか。

 幼少の頃から一緒で、阿礼狂いである彼をして相棒であると認めるほどの信頼を得た白狼天狗が、彼の人生に寄り添い続けてようやく得られた一瞬の時。

 

「ああ……」

 

 火継の家の玄関前。日も昇りきらない早朝から御阿礼の子の側仕えに向かった良人を見送り、椛は静かに深くため息を吐く。

 思い起こされるは昨夜告げられた言葉。

 あれは彼が自身の心を自覚した瞬間だった。あの一瞬が阿礼狂いに生まれた少年に与えられた人間としての時間だった。

 そこで彼なりに必死に頭を巡らせたのだろう。時間は少ないと理解していて、上手く己の感情を伝えられるかわからない不安を覚えながら、たどたどしい睦言を返してくれた。

 

 

 

 

 

 椛――多分、お前を愛している。

 

 

 

 

 

「多分、ってなんですか全く! 本当に女心がわかってませんね!」

 

 わかったのかわからないのかハッキリしない。そういう女心がわからない態度がいつも嫌いだった。

 ちゃんと理解するよう子供の頃から口を酸っぱくして言っていたのに、結局治らなかった。

 

「あんな言葉じゃ女の人は喜びません……!」

 

 目から涙がこぼれる。胸にこみ上げる歓喜がとめどなく涙を溢れさせていた。

 

「私、ぐらいしかっ……、喜びませんよ。それ、じゃあ……っ!」

 

 彼を愛してよかった。もとより見返りなど求めていたわけではないが、それでも強く思う。

 弱く幼い少年だった彼が強くたくましく育ち、阿礼狂いとしての精神に悩みながらも伴侶に対して誠実に向き合ってくれた。

 そしてあの言葉である。もう十二分だ。これ以上など何も要らない。

 

「信綱……っ! 私も、あなたを愛していますよ……!」

 

 ずっと、永遠に。

 その言葉は誰にも聞かれることなく――椛の中に永遠に残る誓いとなるのであった。

 

 

 

 

 

 そして場面は変わる。

 信綱の葬儀が終わり、御阿礼の子に新たな側仕えが就任することとなったのだ。

 

 阿求はそれを好意的に受け入れる気にはなれなかった。

 自分の側仕えは信綱ただ一人であり、それ以外を側に置くつもりはなかった。

 きっと信綱は自分の死後も考えて阿求のために心を砕いているだろう。それを無にすることを申し訳なくは思うが、三代に渡って自分たちに仕えてくれた家族の死を、そうすぐに別のものに代替したくはなかった。

 

 今日より側仕えというものを廃し、阿求が幻想郷縁起の取材に赴く時にのみ火継の護衛をつける。そういう形に変えてしまおうとすら思っていたのだ。

 そんな阿求の部屋の前に、一人の人間の影が現れる。

 

「――本日より阿求様の側仕えを任命された者になります。部屋に入ってもよろしいでしょうか」

「……それには及びません」

 

 硬い声で部屋に入ろうとする年若い青年を制止し、阿求は障子越しに青年と相対する。

 ここで阿求が自身の意向を告げれば話は終わりだ。この顔も知らない側仕えは阿求の前から消え、次に会う時は名も知らぬ護衛となるだろう。

 

 だが、それはあまりにも不義理ではないかと阿求の良心が訴える。

 阿礼狂いと呼ばれるほどに御阿礼の子に入れ込み、その一生を捧げ続けてきた一族に対し、いざ家族となってくれた阿礼狂いが死んだからもう終わりにすると一方的に告げるのは、いささか以上に酷い真似ではないかと思ってしまったのだ。

 

 決心は変わらずとも、せめて顔は合わせて話すべきだろう。

 阿求はそう考えて障子を開き――息を飲む。

 

 年の頃は阿求よりやや年上と言った程度。

 白い髪と赤みがかった双眸。白狼を思わせる面立ち。

 白狼天狗を示す耳や尻尾はないものの、完全な人間ではないということはまとう雰囲気で一目でわかる。

 そして何より――彼女の祖父を思わせる面影がそこにあった。

 

「本日より阿求様の側仕えをさせていただきます。火継(かえで)と申します」

 

 彼女の祖父、信綱を連想するとその声にも似通っている何かがあると感じざるを得なかった。

 

「……あなたの」

「はい」

「……あなたの両親を聞いても良いですか」

「はい。母は白狼天狗の犬走椛。父は先代の側仕えを務めておりました、火継信綱となります」

「どうして!?」

 

 信綱は一度もそんなことを言わなかった。

 彼の息子であれば自分にとっては兄にも近い存在であるというのに、なぜ?

 

 その疑問に対し、信綱の息子――楓は申し訳なさそうに眉尻を下げながら答える。

 

「私は父の血が強く出ています。母からの特徴は人間より少しだけ鋭い五感とこの眼ぐらい。それ以外は――阿礼狂いの血です」

「っ!」

 

 それで理解する。この少年がまだ子供の時に阿求の姿を見ていたらどうなっていたか。

 阿礼狂いとしての血に目覚めた彼は信綱に挑み、信綱は容赦なくそれを叩き潰すだろう。

 御阿礼の子の側仕えを狙うのであれば老若男女の境はない。親子であろうと等しく敵である。

 

 信綱が子供の頃、父を倒して側仕えの地位を得たように、楓もまた阿礼狂いとして目覚めていれば同じ道を辿っていただろう。

 但し相手は歴代最強の名を七十年以上維持し続けた正真正銘のバケモノ。結末など火を見るより明らかだった。

 

「故に私は本日初めて阿求様にお目通りを行っております。……なるほど、これが火継が持つもの」

 

 熱のこもった楓の視線を受けて、阿求は信綱が彼の存在を知らせなかったことに理解を示す。

 もしも信綱に子供ができたと言えば自分は会いに行っていただろうし、そうなったら彼の中に眠る阿礼狂いの血が目覚めてしまっていた。

 その果てに待つのは側仕えである信綱に挑む少年と、そんな少年を一切の呵責なしに殺す信綱の姿だ。

 

 阿求は二の句が継げなくなってしまう。

 もう側仕えの使命を廃そうと思っていたところにこれだ。

 彼に対し、自分はどのように接するべきなのだろうか、途方に暮れてしまっていた。

 

「…………」

「……父上よりお言葉を預かっております。阿求様が私をすぐに受け入れなかった時には言うように、と」

「っ、どんな言葉ですか!?」

 

 

 

 ――生きてください、阿求様。

 

 

 

「その言葉は……」

 

 信綱が死別した時と同じ言葉を聞いて、阿求の顔に呆然としたもの以外に一つの決意が浮かんでいた。

 

「阿求様が父上以外を望まないのであれば私は側仕えを辞すか、私が父上を演じましょう」

 

 あなたが望むのであれば、私が今日この時より火継信綱です。そういう楓の表情に迷うものは何もない。

 まだ少年と言っても差し支えない彼が自分の名を呼ばれなくなっても、構わないと本心から思っているのだ。

 

「……いいえ、それは必要ありません」

 

 阿求は楓の前に自身の小さな手を差し出し、微笑む。

 

「では……」

「お祖父ちゃんのことは絶対に忘れない。忘れないけど……それだけじゃダメ」

 

 楓が阿求の手を取り、立ち上がる。

 そして阿求と視線を合わせ、これから仕える主の言葉を待つ。

 

「――私と一緒に幻想郷を生きましょう」

「――それがあなたの望みならば」

 

 

 

 

 

 かくして、阿礼狂いに生まれた少年のお話は一つの区切りを迎える。

 だがそれは全ての終わりではなく、新たな始まりでもある。

 故に言うべきことは一つしかなく――

 

 

 

 彼らの未来に幻想の幸いあれ――




Q.これってどんなお話?
A.椛が押して押して押しまくるお話。

最後にふさわしいかは悩みましたが、一貫して阿礼狂いとして生きた少年が最後の最後に人間として愛を知る、というお話になりました。
ちなみに先代ルートは先代ルートでちゃんと人間になってますからあしからず。IFなんで多少の食い違いは無視してください(強弁)

椛の果たした役割は箇条書するとエライことになります。
・ノッブが死なずに力をつけて大人になるための手助け
・ノッブに人妖の共存という願いを与える
・ノッブに愛を教え、彼を人間にする(new!)

妖怪が人間にやる役割じゃない? 愛さえあればへーきへーき(震え声)

描写がワンパターンじゃね? とか言われるかもしれないな、と思ってますが、幻想郷でデートする光景もそもそも浮かばなかったのでこんな感じになりました。個人的なイメージですが先代とノッブは夜に月を眺めているイメージ。椛とノッブは日向ぼっこしているイメージです。

最後に生まれた楓少年は前から妄想だけはあった椛とノッブの子供です。
ノッブが結婚したと聞いて幻想郷が震撼し、その二人に子供ができたと聞いてもう一度震撼し、さらにその子供がノッブ譲りの才覚の持ち主であることが判明して三度震撼しています。
椛の千里眼とノッブの才覚、半妖の寿命があっておまけに阿礼狂い。ゆかりんと天魔の頭痛はもはやプライスレス。大変ですね(他人事)
椛とノッブが一緒になった幻想郷の未来では彼が阿求の側仕えであり、家族となって幻想郷の多くの異変に彼なりに立ち向かっていくことでしょう。



――これにて本当に阿礼狂いに生まれた少年のお話は完結となります。
火継信綱というオリキャラの辿っていたかもしれない道を全て書き切り、彼の物語はここに結末を迎えました。
ここまで書いてこられたのも皆様の感想や評価があってこそです。長い間のお付き合い、本当にありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 彼の生まれた理由

[壁]_・)チラッ
[壁]_・)ノ‐⌒ο
[壁]サッ

椛ルートを選んだ真ん中のお話です。あの時端折ったイチャイチャパートとも言う。


 自分が彼女を選んだ理由は、今なおわからない。

 彼女が求めてきたから、というのはあるだろう。基本的に自分は御阿礼の子が絡まない限り、何かを積極的に行う性格ではない。

 求められたから応える。絡繰のような在り方ではあるが、それを糾弾されたことはないのだ。問題はない。……ないはずなのだ。

 

 あの日以来、ずっと彼女は自分の隣で自分に微笑みかけてくる。

 きっと自分にしか見せない笑顔なのだろう。己が婚姻を結ぶと知った時に押しかけてきた妖怪も、皆彼女の笑顔を見ると納得した顔になって、次いで自分にこう言ってくるのだ。

 

 

 

 ――良い相手を見つけたのね、あなた。

 

 

 

 自分には御阿礼の子以外など不要である。そう公言しているのに、誰ひとりとして訂正はしていかなかった。

 それは結局、彼女たちの方が今の自分を理解しているということなのだろうか。

 

「…………」

「あなた、朝ごはんができましたよ……ってどうかしたんですか? 難しい顔で」

 

 妻となった少女が割烹着姿で入ってくる。

 呼ばれたことに顔を上げ、見慣れた顔の見慣れた声の少女が自分の家にずっといるという見慣れない状況に内心の戸惑いを覚えながらも、声には出さない。

 

「……いや、なんでもない。女中には言っておいたのか?」

「はい。妻となったからには、夫の身体を食事で労るのも重要ですから」

「誰が作っても飯は飯だ。面倒だと感じたら女中に言えば良い。俺は自分が食うものにケチはつけん」

 

 無論、御阿礼の子の口に入るのであれば全力で吟味するが、そうでないなら誰が食べても同じである。そこには自分も含まれていた。

 それを伝えると、妻である少女は呆れた顔で自分を見て、額を突く。

 

「む」

「それを聞いてやる気がもっと出ました」

「なぜ」

「あなたの口から美味しいって、言わせてみたくなったんです」

「……好きにしろ」

「ずっと、好きにしていますよ」

 

 妻の――犬走椛の満面の笑みを見て、男性――火継信綱は諦めたようにため息をつくのであった。

 

 

 

 ――自分が彼女を選んだ理由は、今なおわからない。

 

 

 

 

 

「おじさまが妖怪と結婚したって本当!?」

 

 ドタバタと慌ただしい音とともにやってきたのは、紅魔館の吸血鬼であるレミリアだった。

 息せき切らし、日傘も自分で持っている様子。どうやら自分ひとりで急いで来たようだ。

 信綱はいきなり中庭に飛んできた彼女に呆れた目をしながら、うなずく。

 

「ああ」

「どうして私じゃないのよ!?」

「お前を選ぶ理由はどこにある」

「……愛、とか?」

「俺にそんなものがあると」

「……ない、わね」

「だろう」

 

 来た当初こそ慌てていた様子だったが、信綱の言葉を聞いて徐々に冷静になってきたらしい。

 息を整えた彼女は信綱が座っている縁側の隣に腰を下ろす。

 

「じゃあどんな心境の変化があったのかしら。周囲から嫁を取れ、って言われたわけでもないんでしょう?」

「その手の話は二十年前に終わっている」

 

 周りが諦めたとも言う。いかんせんあの時期はやるべきことが山積みだったため、そんな余裕がなかったとも言えるが。

 あるいはあの時点でさっさと誰かを娶っていれば、ここまで面倒なことにはなっていなかったのだろう。

 結局、自分で選んだことが回り回って己を苦しめているのだと思うと笑えなかった。

 

「なおさら気になるわ。おじさまの心を射止めるのは私だと信じてたのに」

「それは絶対にないから安心しろ」

「ひどい!?」

 

 むしろ友人として付き合っているだけでも相当な譲歩をしたと思っている信綱だった。

 答えを聞くまで動く気のないレミリアを横目に見て、信綱はため息をついて話し始める。

 

「……俺がその手のことをわからないのはお前も知っているだろう」

「ええ」

「……俺にそれを教えたいと言ってきた女がいた。そして彼女が言うには、俺がそれを知るには俺に残された時間を全部一緒に過ごさなければならないと言った」

「……へぇ」

 

 レミリアの得心したという笑みが気に入らないが、信綱は話を続けていく。

 

「側仕えをしている時はほとんど稗田の屋敷に住み込みだ。こうしていられるのはせいぜい今ぐらいだろう。特にすることもないのだから、あいつに付き合わない理由がない」

 

 もう数年もすれば阿求が生まれるのだから、そちらを優先することになる。それは自分が阿礼狂いである以上絶対に曲げられない。

 だが、そうでない時間であれば彼女のために使うのはやぶさかではなかった。どのみち、一人だと暇を持て余すだけなのだ。

 

「ふぅん、へぇ、ほぉー」

「……なんだその顔は」

 

 自分の時間の使い方が下手なことも含めて説明したところ、レミリアにものすごく生暖かい目で見られた。

 能動的に生きるということに関して下手なことは笑われても仕方ないと思っているが、レミリアにそんな目で見られるのはさすがに不本意な信綱だった。

 

「いやぁ、おじさまったら色々と言ってるけど、ちゃんと相手に合わせてるのね。その調子で私にも合わせて痛い!?」

「殴るぞ」

「殴ってるわよ!? どうしておじさまは私に厳しいの!?」

「今までやってきたことを思い返してみろ」

 

 吸血鬼異変で霧を出して阿弥を苦しめるわ、連絡もなしに押しかけてこっちの時間を潰してくるわ、勝手に深刻な悩みを吐露されて相談役にさせるわ、信綱が優しくなる要素が欠片もない。

 

「で、その相手ってのはどこに――」

「もう来る。お前が来ていたこともわかっているから、茶を用意していたのだろう」

「ん? でも私、正面から来たわけじゃないわよ?」

「それでも、私の目は誤魔化せませんよ」

 

 穏やかな声とともに冷たい麦茶を盆に載せた椛がやってくる。

 そばに置かれた麦茶を飲みながら、レミリアは納得のいった顔で椛を見て――目を見開く。

 

「――へぇ」

「どうした」

「いいえ、なんでも。これは女にしかわからないわね」

「お前が女……?」

「それはさすがに失礼じゃないかしら!?」

 

 なんか寝ぼけたこと言ってるなこいつ、という目で見たところレミリアが涙目で撤回を求めてきたため、肩をすくめて謝意を表明する。

 椛はそんな信綱の様子を見て仕方ないな、とばかりに困った笑みを浮かべていた。

 

「はいはい。で、さっきの意味は?」

「うん。なんとなく予想はしてたの。おじさまを選ぶ人は誰か、ってのを考えると自然と候補は限られるでしょうし」

「……まあ、それはそうだな」

 

 阿礼狂いであると常日頃から言っているのに、それでも生涯の伴侶に自分を選ぼうとする奇特を通り越して馬鹿なんじゃないかと思うような人間、そうそういないだろう。

 というか信綱には自分を選びそうな相手が全く思い浮かばなかった。だから椛に愛をわからないのだ、と言われたら何も言い返せない。

 

「おじさまは友人としてならすごく良い人だと思うけど、ほら、やっぱり夫婦とかって自分だけを見て欲しいものじゃない?」

「同意を求められても困るが、一般的な意見としてはそうなんだろうな」

「あなたもそうでしょう? 白狼天狗さん」

「否定はしませんけど、それだけでもありませんよ」

「へえ、聞いてもいいかしら」

 

 何の気なしに聞いたのだろう。特段気負った様子のないレミリアの言葉だったが、椛の返答はレミリアが思わず瞠目してしまうほどの何かが込められていた。

 

「――私が知っている想いを、この人にも知ってほしい」

 

 椛の言葉を聞いて、レミリアはただ目を見開いて彼女を見つめ、次いで何も言わずに立ち上がる。

 

「どうした」

「なんでも。ただ、お邪魔虫はあんまりいちゃいけないって思っただけ」

「まだ気づいてなかったのか?」

「おじさまの考えるお邪魔虫とは違うわよ!? それにおじさまのお邪魔虫なら今後も続けるけど、奥さんのお邪魔虫にはなりたくないってだけだから痛い痛い痛い日光はやめてええええええ!?」

「なぜこいつには遠慮して俺には遠慮しない」

 

 本当にこいつは迷惑しかかけてこない、と信綱は長い付き合いになってしまった吸血鬼の少女に心底からのため息が隠せなかった。

 日光を浴びてブスブスと煙を出しながら暴れるレミリアを押さえつけていると、後ろで見ていた椛がやんわりと制止を求めてくる。

 

「あはははは……えと、そのぐらいでよろしいのでは?」

「つまり天日干しにして滅ぼしてしまえと」

「そこまで言ってませんよ!?」

「……全く、こいつに優しい顔をしてもロクなことにならんぞ」

 

 現在進行形でロクなことになっていない自分が言うのだ、間違いない。

 

「あ、でもちゃんと手は離すんですね……」

「こういうところで優しいから私も離れられないのよ。これはもう愛人にでもゴメンナサイゴメンナサイ冗談ですから二人がかりで私を抑え込まないで!?」

「外に縛って放置するか」

「川の水にさらすって手もありますよ」

「本当に冗談だから!? だから真顔で私を殺す算段をつけないで!?」

 

 渋々離してやると、レミリアは日に焼けてしまった部分の再生を待って改めて日傘を差す。

 

「軽い冗談はさておき、幸せそうで何よりだわ」

「そう見えるのか」

「ええ、きっと私以外の誰が見てもあなたたちは幸せに見えるでしょうね」

「理由を聞いても良いか」

「言うまでもないと思うけど――奥さん、すごく幸せそうに笑っているもの」

「俺は笑ってないぞ」

「おじさま、意外とわかりやすいのよ」

 

 答えになっていない言葉を投げかけられ、そしてレミリアは去っていった。

 蒼天に吸い込まれるように遠ざかる彼女を見送り、信綱は訳がわからないと息を吐く。

 そしてレミリアの座っていた場所に座って信綱を見てくる椛に説明をしてやる。

 

「……ああやってしょっちゅう家にやってきては無駄話をして帰るのが紅魔館の吸血鬼だ」

「苦労してますね、あなたは」

「苦労というほどではないが、とにかく面倒くさいというのが本心だな」

「でも、ちゃんと相手はしてあげるんですね」

「何を言っても懲りないから仕方なくだ」

 

 吸血鬼としての力を発揮して暴れるわけではないのだ。彼女の無聊を慰めるのが会話だけで済むのなら安いものである。

 彼女がいなくなったことで肩の力を抜いていると、ふと信綱の隣に暖かいものが寄り添ってくる。

 視線を向けたところ、椛がレミリアよりもさらに近く、信綱と肩が触れ合う距離まで近寄っていたことがわかった。

 

「どうした」

「いえ、その……少し、レミリアさんと丁々発止のやり取りをしていたのが羨ましくて」

「お前とも似たようなやり取りをしていると思うが」

「自分がしているのと、人がしているのを見るのでは違いますよ」

「そうか」

「そうです」

 

 言いながら椛は体温だけでなく体重までかけてくる。

 重いと言いたいところだが、この白狼天狗は存外に甘えたがりなのを知っていたため、信綱は何も言わないことにする。

 彼女を引き離す理由があるわけでもないのだ。理由がないのなら、好きにさせても良いだろう。

 

「あなた」

「なんだ」

「今、幸せですか?」

「……お前はどうなんだ」

「とても幸せです」

 

 信綱の顔がしかめっ面になる。

 愛せるかわからないと言って、今なお答えの見つからない男であるというのに。

 誰が見ても幸せであるとわかる顔で幸福を謳わないで欲しかった。それに値するものなど、自分は何一つ返せていないのだ。

 

「…………」

「あなたもいつか、私と同じ気持ちになったら教えて下さいね」

「……ああ」

「その時までずっと、私はあなたと一緒で幸せですって言い続けます」

「……ああ」

 

 彼女の体温を感じながら、信綱は今日もまた思索に耽る時間を過ごすのであった。

 伴侶となった女性への答えが出る時は、まだ遠い――

 

 

 

 

 

 子供ができた。

 跡継ぎが必要だった、というのは否定しない。

 火継の一族には信綱の眼鏡に適うものがおらず、次代への不安がなかったと言えば嘘になる。

 

 しかし自分はすでに老齢で、今さら子供を作ったところでその子が大成するまでいてやることができない。

 それに自分は阿礼狂いであり、幼い子に御阿礼の子の姿を見せて阿礼狂いの炎で焼き尽くしてしまおうと考えた男の息子である。

 

 生まれてくる子供に自分が同じことをしない保証はない。そしてそれが母体となった少女への最大の侮辱であることもわかっていた。

 

 彼女を娶った理由が最初からそれであるのなら割り切れた。子供は必要である以上、誰かが阿礼狂いを産み落とす役割を担わなければならない。

 そしてそれは阿礼狂いの男にはできず、女にしかできないこと。

 故に時節が来れば阿礼狂いは誰かを娶って子供を作る。相手は生活に苦しむ女につけ込むもよし、合意さえ得られていれば誰でも良かった。

 

 狂人の母体にさせる以上、阿礼狂いである彼らも最大限の配慮をする。流産などせぬよう細心の注意を払い、子が生まれた後は食うに困らぬ財を与えるなど、女の望みは大半に応えるようにしていた。

 

 だが――それは女を娶る理由が最初から次代の跡継ぎという一点に集約されているため。

 信綱のように彼自身を求めての婚姻となった場合、子供ができたらどうすべきなのか。信綱は知らなかった。

 

「…………」

「どうかしました?」

 

 腹に子がいると告げられた後、幸せそうに腹を撫でる椛を見て、信綱はなんとも言えない無表情――見る人が見れば途方に暮れた子供のような顔で彼女を見ていた。

 謝罪をする、というのが彼女を怒らせる行動であることはわかる。だが、次代の阿礼狂いを孕んでくれたことに感謝するのは謝る以上に、彼女を傷つける行動な気がしてならなかった。

 

「俺は……」

「……こちらに座ってください」

 

 何かを言わなければならない。だが、何を言えば良いのかわからない。

 二の句が継げない信綱を見て、椛は小さく笑うと自分の隣を優しく叩き、信綱を招く。

 彼がそちらに腰を下ろすと、椛は信綱の胸に自分の頭を当てて抱きついてくる。

 

「おい」

「ありがとうございます。私の願いに応えてくれて」

「……跡を継ぐものが必要だと思っただけだ。それに半妖の子となれば人間以上の力を持つ可能性も高い」

「それだけですか?」

「…………それだけだ」

「泣きそうな顔で言っても説得力がありませんよ」

 

 見透かされたように笑われてしまい、信綱は普段通りの憮然とした顔を作ろうとして失敗する。

 本当にどんな顔をすれば良いのかわからないのだ。謝るべきか、祝うべきか、それさえもわからない。

 

「あなたが気に病むことはありませんよ。あなたの子が欲しいと私が願って、あなたはそれに応えた。それにほら、こういうのは授かりものって言うじゃないですか。仏様が私たちに子宝を授けて下さったと思えば」

「……阿礼狂いと呼ばれた者たちにも、か」

 

 御阿礼の子の敵になるのなら神も仏も斬り捨てる狂人だが、お釈迦様は自分たちにも恵みを授けてくれるらしい。やはり祀られる程の存在は懐も大きい。

 

「生まれてくる子供はどうなると思いますか?」

「――阿礼狂いになる。これまでに例外がなかったからではない、俺の子(・・・)だからだ」

 

 それだけは確信があった。男児が生まれるか女児が生まれるかはわからずとも、どちらにせよそれは御阿礼の子に狂う宿命を背負う。

 白狼天狗の血を引いたところで何の意味もない。彼らの魂に施された呪いは誰であっても等しく阿礼狂いに堕としてしまう。

 しかし――

 

「……一つだけ、頼みがある」

 

 信綱は自分の胸に顔を埋めた椛が、自分の背中に信綱の手を誘導するのをされるままにしながらポツリとささやく。

 

「頼み、ですか?」

「ああ。……俺は生まれる子供が阿礼狂いになることは確信を持っている。だが、強くなるかはわからない」

 

 自分の跡を継ぐに相応しいだけの資質を備えているか、それはわからなかった。

 天才の子が天才になるとは限らない。また天才であったとしても、十にも満たない年齢で火継の最強を奪い取った信綱ほどの才覚かはわからない。

 

「……もし、俺から見て生まれた子供が後継に相応しくないと判断したら」

「はい」

「御阿礼の子に関わらせず、お前の子として妖怪の山で育てて欲しい」

「それは……」

「それが俺にできる子供への最大限の配慮だ。……頼む」

 

 阿礼狂いの血が目覚めてしまったら、信綱は同じ阿礼狂いとして一切の容赦ができなくなる。

 もしも自分に向かってくれば躊躇せず叩き潰すだろうし、最悪の場合は殺すことも考えられる。

 自分が死んだあとならばまだしも、生きている間に側仕えの座を狙うのであれば是非もなかった。

 

 そしてそれを行ったが最後、腹を痛めて産んでくれた椛への最大の裏切りになることはわかっていた。

 重ねるが、最初からそれが目的だったのなら割り切れる。

 子供を産んでくれた相手に配慮をするのも、生まれた子供を阿礼狂いの脅威とみなして潰そうとするのも、阿礼狂いとしてみれば正常なものだからだ。

 

「椛」

「はい」

「お前は俺たちの都合で選ばれた相手じゃない。お前の都合で俺を選んだ女だ」

「……はい」

 

 椛の背中に回された腕に少しだけ力を込める。

 上目遣いに見上げる彼女の目はどこか潤んでおり、熱を帯びていた。

 

「不要なことでお前を悲しませたくない。生まれた子供を俺の手で潰すなんてことにならないよう、聞き入れて欲しい」

「……はい」

 

 椛は何かを確信したように笑ってうなずき、再び信綱の胸に顔を埋める。

 

「そう言ってもらえて嬉しいです」

「なぜ」

「ちゃんとこの子の未来を考えているのがわかったことと――あなたなりに向き合っているからです」

「…………」

「私があなたの子供が欲しいと言ったのは、何も自分のためだけではないんですよ?」

 

 

 

 ――産まれる子を祝福してくれるって、信じていたわ。

 

 

 

 そう言って微笑む椛の姿に、信綱は記憶にない母としてのそれを見出して目を細める。

 

「……世間で言うところのそれとは違う」

「そうね。でもあなたにできる精一杯」

「……俺を試したのか?」

「信じていたの。自分勝手に押しかけた私を払いのけず、こうして受け入れてくれたことも含めて全部」

「……俺はそんなに上等な人間じゃない」

 

 必要がある。ただそれだけであらゆる理不尽も暴虐も是とできる外道が自分だ。

 そんな自分に信じているなどという言葉を使わないで欲しい。そんな何もかもを包み込むような愛情を向けないで欲しい。

 

 それに自分は応えられない。向けられる感情に応えようとしても、答えが今なお出せない優柔不断な男なのだ。

 

 言葉に出せない信綱を、椛は何もかもわかっていると彼を抱く腕に力を込める。

 白狼天狗の熱が強く伝わり、阿礼狂いの心に何かを伝えようとしてくるのがわかった。

 

「……答えはまだ聞きません。それはいつか訪れる時間の終わりで良いです」

「ああ」

「ですが、これだけは答えてください」

「なんだ」

「――私たちを大事にしてくれますか?」

「……ああ。その時が来るまで、俺はお前たちから目を背けない」

 

 それが彼女たちにできるたった一つの誠意だ。

 どれが正解かもわからない。ただ自分なりに良かれと思うことをやるしかない。

 そんな普通の人ならば誰もが当たり前のようにやることを、信綱は老年となった今に直面しているのであった。

 

 

 

 ――そして、産まれてきた子供を見て信綱は自身の後継ぎとすることを決める。

 その時の表情は――きっと、語られるべきではないのだろう。

 

 

 

 

 

「……と、まああなたが生まれる前にはそんな話があったのよ」

「そう、ですか」

 

 場所は変わらず、しかし相対する人物には変化があった。

 信綱がかつて座っていた場所には年若い少年が座っていた。

 白狼の髪と赤みがかった双眸を持つ少年は、見た目の上ではほとんど自分と変わらない少女に対して敬意を払っていた。

 さもありなん。この少女は少年の母なのだ。敬意を払わぬ方がどうかしている。

 

「俺――いえ、私は生まれた時より父上から凄絶な鍛錬を課されてきました。阿求様の側仕えに就任した今はその意味もわかりますが、あの時はわけも分からず力をつけていた」

「そうね。……あなたは私たちを恨んでいるかしら。私とあの人の都合で産まれて、あの人の都合に振り回されたことに」

「思うところが皆無、とは言いません。およそ真っ当とは言い難い少年時代でした。

 ……ですが、あの時間があったから私はここにいる。バカで怠け者だけど真っ直ぐな性根を持つ妹弟子もできた。――やはり、私は母上にも父上にも感謝しております」

 

 父と母。この少年は火継信綱を父に持ち、犬走椛を母に持つ存在なのだ。

 少年の言葉を聞いて椛は嬉しそうに微笑み、そして少年の頭を撫でる。

 

「ありがとう。……あと、私の前でそんなかしこまった言葉を使わなくて良いわよ。親子でしょう?」

「いえ、今の私は火継の当主であり、阿求様の側仕え――阿礼狂いです。狂人の息子などいない方が良い」

「はぁ、本当に変なところで頑固で真面目なのは血筋かしら」

 

 母親であっても他人であるべきだ、とする少年の言葉を椛はため息一つで押し流し、強引にその身体を抱きしめる。

 夫となった人物に比べるとまだ華奢で頼りなさが残る体躯を両腕に抱えると、少年が戸惑ったように身動ぎするのがわかった。

 

「私が何年あの人と一緒にいたと思ってるの? あなたが考えることも、言おうとしていることも全部わかるのよ」

「……では私の言葉の利もわかるでしょう。父上の尽力により阿礼狂いの風当たりはかなり弱まりましたが、それでも狂人である事実は変わらない」

「そうね。私もそれは嫌というほど思い知らされた。――その分だけ、あの人もあなたも他の物事に向き合うことも知っている」

「…………」

「――楓。あの人と私の可愛い子。誰かと知り合えたことを幸運であると言えるあなたを、私は信じてる」

「……何を、ですか」

「狂人と呼ばれて、事実その通りであっても。最後まで一人の人間としてあろうとすることを」

 

 少年――楓にとって父は恐ろしいものであり、同時に自分という人間を最期まで見てくれた人物でもあった。

 息子だからと頭ごなしにすることなく、一人の人間として話を聞いてくれることもあったし、妹弟子である博麗霊夢と一緒に遊んだこともあった。

 

 そして自分を抱きしめるこの母親は、そんな人物に寄り添ったのだ。楓が考えるようなことに対する問答はとっくの昔に通った道なのだろう。

 

「……母さん(・・・)

 

 少年の口からこぼれた言葉はこれまでの固い格式と礼儀に塗れたものではなく、一人の少年として不安に苛まれながらも課せられた使命から目を逸らすまいとする、愛おしい息子の姿だった。

 

「なに?」

「……俺、父さんみたいになれるのかな。阿求様も言っていた、三代に渡って御阿礼の子と家族になったただ一人の偉大な人みたいに」

「それは無理よ」

「母さん!?」

「だってあなたはあの人とは違うもの。同じようになんてできっこないわ。――でも、あの人にできなかったことがあなたにはできるはずよ。――私の千里眼とあの人の才覚を両方もらってきたんだから」

 

 だから落ち着きなさい、と椛は慣れた手付きで楓の背中を叩く。

 物心すらついていない頃、こうして赤子だった自分をあやしたのだろう。妙に落ち着くリズムを背に、楓は目をつむる。

 

「それにね、あなたの名前は父さんがつけたのよ?」

「父さんが?」

「ええ。私の名前と同じ意味。名前の意味をなかなか言わないから聞き出すのが大変だったわ」

「……どんな、意味でしょうか」

 

 

 

 ――自分が心からの信頼を寄せた者と同じ名を与えたかった。

 

 

 

「あ……」

「意地っ張りで、照れ屋で、そのくせ変なところは妙に素直で、なかなか愛は囁いてくれなかったけど、信頼だけはずっと迷わず謳ってくれた。これはあの人のとてもわかりにくい愛情なのよ」

 

 

 

 ――椛と同じ名を持っているお前も信じている。

 

 

 

 言葉に詰まる。あの人は今の自分が抱える熱――この熱を守るためなら何もかも焼き尽くし、灰燼に帰すことすら厭わない熱を持ったまま、それでも他者を信頼して妻を愛したというのか。

 どれほどの苦難を乗り越えたのか。どれほどの苦悩を乗り越えたのか。そして、その全てに一度も目を背けなかったのか。

 

「母さん」

「なに?」

「父さんは……すごい人だったんだね」

「ええ。ずっと心から信頼して――ずっとずっと愛し続けるに値する人よ」

 

 永い永い妖怪の人生を独占するに能うだけの生き方だった。

 誇るように言い切る母親の声を聞き、楓はそっと彼女の身体を離す。

 心身ともに活力がみなぎり、楓もまたこれから先に待ち受けるであろう多くの苦難に立ち向かう意思が生まれていた。

 

 阿礼狂いであることは生涯変わらず、変える気もない。

 ないが――その時が来ない限りは自分もやれるだけやってみようと思えたのだ。

 

「そろそろ戻るよ。阿求様の側仕えは何に差し置いてもおろそかにできないから」

「そうね。行ってらっしゃい、楓」

「――うん、行ってくる」

 

 楓は意気揚々と外に飛び出し、幻想郷の蒼天へと吸い込まれるように飛び立つのであった。

 椛はそれを笑顔で見送り、やがて楓の前では見せなかった伴侶にのみ見せる顔で、もう一度笑うのだった。

 

 

 

「蒼天高く、風心地よし。――幻想郷は今日も賑やかで楽しい一日ですよ、信綱」




ということで二周年記念です。椛ルートの時に書きたかったけど長くなりすぎそうで書けなかった部分や、楓の命名理由など。こんな理由があったのか……(真顔)

他にもノッブが存命のまま風神録に突入するお話(永夜抄はなんやかんやで飛ばす)やノッブの葬式の時の話を書くかなど色々と案はありましたが、風神録はどう考えても一話で終わらない。葬式はただ物悲しいだけになりそうなのでお蔵入りに。どうせ記念なら読んで楽しい方が良いよね! 去年の話? アーアーキコエナーイ

しかし原作キャラとオリ主の夫婦でその息子を出すとかとんでもないことをやらかしている気がしてならない。蛇足だと思ったら読み飛ばしてもらっても大丈夫です。



さすがに三周年目には期待しないでください(真顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 死とは、一つの区切りである

[壁]_・)チラッ
[壁]_・)ノ‐⌒ο
[壁]サッ

時系列はバラバラだったりします。当日だったり、少し前だったり、その後だったり。


 その人間が死んだ報せは、幻想郷全土にまたたく間に広まった。

 訃報を聞いた誰もが静かに目をつむり、納得したようにうなずくのは皆が薄々と感づいていたからだろう。

 彼は亡くなる少し前から、この時を予見していたように色々と動いていた。

 

 全てこの時のためであったと言われれば納得できた。英雄と呼ばれる以前から死に至るまで、およそ人間離れした行動をしても納得が得られるだけの信頼と実績を彼は積み重ねていた。

 

 多くの人妖に慕われ、畏敬を集めていた。当然、彼が死ぬのを聞いた時、皆の胸には悲しみの感情が溢れていた。溢れていたが――不思議と涙は流れなかった。

 

 

 

「親父、こんな感じでいいか?」

「ん、それでいいだろ。お前の体型に合って良かった」

 

 そう言って親子の会話をするのは、黒一色の喪服に身を包んだ駆け出し魔法使いである霧雨魔理沙と、同じく喪服に身を包んだ彼女の父親である霧雨弥助の二人だ。

 親と子。両方ともに物心ついた頃から見知っており、何くれと面倒を見てくれた人物の死であるため、魔理沙もこの時ばかりは実家に戻って葬儀の準備を進めていた。なにせ喪服など魔法の森の家には置いてないのだ。

 

 父親の準備が整うのを見て、不意に店の窓から空を一瞥する。

 彼の知り合いは魔理沙や弥助は言うに及ばず幻想郷全体に広がっていて、なおかつその大半から程度の差こそあれど慕われていた。

 そのため彼の死が知らされた現在、幻想郷は誰もが静かに彼の死を悼んでいるが――空は矮小な存在のことなど知らぬとばかりに晴れ渡っていた。

 

「……爺ちゃんが死ぬなんてなあ」

 

 どこまでも飛んでいけそうな空を見ていると、彼が死んだという話が嘘のように思えてくる。

 今もまだ、魔法の森で部屋を汚していたら彼が抜き打ちで見に来るんじゃないか、という気さえしているのだ。

 

「別に不思議なこっちゃない。親父とお袋も死んで、歳食ったやつが先に死ぬのは当たり前のことだ」

「親父は悲しくないのかよ」

「悲しいに決まってんだろ。物心ついた時から何回世話になってるか数え切れねえくらいなんだ。お前の面倒を見てもらったり、霖之助を紹介してもらったり、おれが商売の道に進むきっかけをくれたり……断言しても良いが、あの人がいなかったらお前は生まれてないからな」

「むしろどんだけ世話になってんだよ……」

 

 一周回って呆れてしまう。ほとんど人生の節目節目で彼の助力を受けているようなものではないか。

 でもまあ、と弥助は思い出を振り返るように顔を上げる。

 

「世話になりっぱなしじゃいけねえし、あの人はきっとそういうのも見越してると思うんだ。頭もすげえ良かったからなあ」

「ここに来るまで人里の色んな人を見てきたけど、やっぱ爺ちゃんってすごかったんだなあ……」

 

 間違いなく恐れられてもいた。しかしそれと同量か、それ以上の尊敬も集めていた。

 もちろん、魔理沙も彼のことを慕っていた。部屋を汚くしていると容赦なくゲンコツと小言が飛んできていたが、それは彼女が不摂生な生活を送って体調を崩してほしくないという、確かな思いやりがあったのだ。

 

「そうだな。あの人がいなきゃ今の幻想郷はなかったって思うくらい、大きなことを成し遂げた人だった」

「そっか。……じゃあ、頑張らないとな」

 

 もう二度と会えないという悲しみはある。あるが、それ以上に魔理沙の胸には大きな感情があった。

 

 ――託された。

 

 どうしてそのように思うのかはわからないが、とにかく自分たちは託されたのだと強く思うのだ。

 だから今、彼女は泣いたりうつむいたりすることなく前を見ることができた。

 

「行こうぜ、親父。きちんとお別れして、多分その時に大泣きして――明日から胸張って生きてくためにさ」

「ああ。あの人みたいに、ってのが無理でも。おれたちなりに頑張っていかないとな」

 

 

 

 

 

 天魔はその報告を聞いてうんざりしたようなため息を零し、自己嫌悪するかのように己の額に手を当てた。

 あまり見たことのない姿に文はやや驚いて彼の様子を見る。

 

「て、天魔様?」

「ん、悪い。ちと自分が嫌になってた」

「自分が嫌、とは?」

「政敵が死んでありがたいって気持ちが少しでも湧いた自分に嫌気が差したってことだ」

 

 彼と天魔の関係は一面を切り取れば政敵である。

 天魔は天魔の守護する妖怪の山を。彼は彼の所属する人里を。どちらも自分の所属する組織の価値を高めるべく、平時からあれこれとやり合っていた。

 

 見据えている方向性は同じで、長い付き合いになるため可能な限り両方が得をするよう互いに意識していたが――それでも細かい部分で損得は出てくる。

 その点で天魔と彼は何度も争い、そして自分が負け越していたと天魔は認識していた。

 

 そんな風に互いに利益を求めて争う関係ではあったが――同時に天魔は彼のことをかけがえのない友人であると思っていた。

 友人が死んだことを悲しむべきなのに、喜びの感情がほんの一欠片でも浮かんでしまったことが、彼にとって何よりも穢らわしいと感じたのだ。

 

「文、葬儀の話は出たか?」

「人里中がその話で持ち切りです」

「オレは葬儀に出る。お前は好きにしろ」

「私も行きますよ。昔も今も英雄だった人間の死という特ダネで――私も、苦手でしたけど彼のことは好ましく思ってましたから」

 

 鬼すらも退けた力量を持ちながら、最後まで彼は妖怪全体の敵にはならなかった。

 ちっぽけな妖猫でも、取るに足らない河童であっても、かつて異変を起こした吸血鬼であっても、彼は自分に友好的な妖怪を無下にはしなかったのだ。

 最後まで変えなかった彼の在り方は文も好意的に感じていた。彼自身の人間性は未だ苦手なままだが。

 そうか、と天魔は適当に相槌を打って腕を組む。

 

「……文」

「はい、どうしました?」

「オレは優秀だ」

「……はぁ?」

 

 突拍子もないことを言い始めた天魔を文は怪訝そうな顔で見るも、天魔は構わず話し続ける。

 

「知恵も武術も速さも、天狗の中でオレに敵うやつはいない」

 

 速度は文も天魔に追従できるだけのそれを備えているものの――紙一重で天魔の方が速い。

 ほんの僅かな差であるはずだが、文が能力に目覚めてから今に至るまでずっと僅差で負けているため、その紙一重は決して薄くはないのだろう。

 

「大妖怪の連中だってそうだ。相性の良し悪しがあったり、どっちか片方でオレを凌駕する奴がいても、それ以外ではオレが勝っていると断言できた」

「……そうですね。天魔様が最終的には勝利するのだと信じているからこそ、私もついていきますから」

 

 時に知恵で、時に武力で。遥か昔に入念な根回しがあったとはいえ、彼がたった一人で当代の大天狗と天魔を全て退けて天魔の称号を奪い取った日から、彼は全てに勝ち続けた。

 八雲紫との情勢争いにしてもそうだ。彼女の庇護下にありながら、天魔は妖怪の山の地位を決して崩すことなく今の今まで維持し続けている。

 

「誰かに負けるなんて許されない。オレは天狗の長であり、妖怪の山を治めるものだ。……だが、数十年前の倦怠はオレも蝕んでいたらしい」

「というと?」

「人間と妖怪が関わらない時間は退屈で仕方なかった。……今まで積み上げたものを崩す誘惑、ってのがあったのも否定はしない」

「天魔様……」

「お前だから言うんだぞ? オレが天魔を名乗る前からの付き合いなんだからな」

 

 極めて珍しいことだが、どうやらこの天狗の首魁は文に弱音を吐いているらしい。天魔としての彼は誰にも弱みを見せず、常に飄々と――虎視眈々と全てを睥睨しているので、ひときわ珍しく映る。

 ともあれ今は部下として対応するのではなく、とうの昔のものであった対等な友人として接するべきだろうと文は判断し、口を開いた。

 

「……あなたの愚痴を聞くのは久しぶりね。大天狗を殺した時だって何も言わなかったのに」

「あれはオレの力不足だ。旦那がいなけりゃ一人だけの死者で済んだかどうか」

「私とあなたがいたのだから、最終的な勝者は変わらなかったでしょうけどね」

「さてな」

 

 軽く肩をすくめ、天魔は部屋の窓から外を仰ぎ見る。

 

「……もっと遊びたかった。人間の一生は短くて早すぎる」

「あなたが彼のこと、そこまで買っていたのはちょっと意外に思うわ」

「オレと文武両方で互角以上にやり合える好敵手だったからな。両方でオレを凌駕しうる、ってのは初めてだった」

 

 八雲紫が相手でも、伊吹萃香が相手でも、あらゆる手段が使えるのなら最後に勝つのは己であるという自負が天魔にはあった。

 しかし、あの男は別だった。抱えている戦力など比較にならないだろうに、取れる手段の幅も天魔の方が圧倒的に大きいだろうに、それでもなんとかしてしまいそうな何かがあった。

 

「オレをああもやり込めたやつなんて後にも先にも旦那だけだ。本当に――楽しい時間だった」

「――それだけかしら?」

「あん?」

「それだけか、って聞いたのよ。あなたがあの人との時間を大事にするのは良いけど、それだけで今まで積み上げたものを終わりにするつもり?」

 

 文の詰問にも近い言葉を受けて、天魔は一瞬だけ目を見開く。

 普段は部下として扱い、今は昔馴染みとして扱っている彼女の言葉はハッキリと天魔を糾弾する意味が込められていた。

 

「彼が凄まじいのは認めるわ。吸血鬼も、地底の鬼も、花の妖怪も、スキマ妖怪も。彼を認めない輩は一人もいない。もちろん、私だって」

 

 彼が阿礼狂いと呼ばれることも理由にあるだろう。間違いなく狂っているのに彼が選んだ人間として生きるという、危うさを孕み歪んでいたその生き方に、彼女ら妖怪は尊いものを見出した。

 切り捨てなければならない場面に直面するまで何もかも背負うことを選んだ少年は、本当にその生涯を終えるまでほとんどのものを切り捨てなかった。

 

「でもね――あなたが背負い続けた私たちの価値は、決して彼に見劣りするものではないわ」

「…………」

「自分が背負っているものを貶めないで。……あなたはこれから先も妖怪の山を導いていく唯一人の天狗――天魔様なんですから」

「……文に言われちまうとはな。普段は自分に言い聞かせていたんだが」

 

 一つ、息を吐いて天魔は自身のまとう空気をいつも通りの――天狗の首魁としてのそれに切り替える。

 

「だが、たまには他人に言ってもらうのも悪くない。次はもうないだろうけどな」

「生意気。私はそんなに頼りないかしら?」

「まさか。さて、これからのケジメをつけるためにも、まずは我らが愛すべき人間を弔おう。――ついてこい、文」

「あなたの選んだ道をどこまでも、天魔様」

 

 

 

 

 

「――そう」

 

 彼の訃報を聞き、レミリアは静かにうなずいてカップの紅茶を飲む。

 報せを伝えたメイドの少女――咲夜は臣下の礼を取りながらも手が震えていたが、レミリアはあえて気づかないフリをした。

 

「はい。後日、葬儀を執り行うとのことでした」

「里の様子はどうだった?」

「程度の差こそあれど、誰もがあの人の死を悼んでいました」

「でしょうね。そうでなければ許さないわ」

 

 淡く、儚げに微笑んでレミリアはまだ中身の残っている紅茶のカップを置き、そこに自分の手をかざす。

 

「――咲夜、私のような吸血鬼は世間一般で言うところの悪であることは知っているわね」

「はい」

「あれじゃ言葉が足りてないのよ。吸血鬼というのは――存在そのものが神を冒涜し、辱める化外であると私がここに来る前にいた国では言われていたわ」

「……存じております」

「まあだからどうしたって話よね。存在そのものが罪です、と言われてハイすみませんでした死んで償います、なんて言うバカはいないわ」

 

 今の今までそれを気にしたことはなかった。そんなことより自分がどういった風に楽しく生きていくかを考えることの方が遥かに有意義だし、建設的だ。

 

「……咲夜。私は悪なのよ」

「……お嬢様、どうかされましたか?」

「つまり、私を打倒したおじさまは正義なのよ」

「申し訳ありません、話が――」

「今、私は生まれて初めて神さまってやつに祈っているの」

 

 レミリアの伸ばした手が震えていることに咲夜も気づく。

 その震えを押さえるようにもう一つの手も重ねられ、指と指が絡まり――何かへ祈る形となる。

 

「悪である私を倒したのだから、おじさまは安らかに眠る権利――義務があるのよ。誰にも邪魔されない、邪魔をされてはいけない義務が」

「…………」

 

 咲夜は何も言わずその光景を見ていた。何かを言うことが主への侮辱であると、根拠もなく思ったのだ。

 無言の静寂がしばし続き――そしてレミリアの生涯で唯一度の神への祈りが終わると、再びレミリアは紅茶に手を伸ばした。

 すっかり冷めてしまっていたそれを、しかし何も言わずに飲み干す。

 

「私がおじさまのことを愛しているのは知っているかしら」

「何度も聞かされましたから」

 

 人間に理解できるものではないが、レミリアは自分のルールに則って彼を真摯に愛している。

 愛されていた彼は迷惑そうな顔を隠さなかったものの、最後には一定の理解を示したのを覚えている。

 そして彼女は今なお自身の愛を過去形にしていなかった。それはつまり――死後も変わらず愛し続けると言っているのだろう。

 

「欲しいものは全部ぶんどる主義なのよ」

「それも存じております」

「おじさまのこともそりゃもう欲しかったわ。欲しくて欲しくて夜も眠れないくらいよ」

「代わりにお昼寝してましたけどね」

「でも――私が欲しかったのは絶対に自分の道を曲げなかったおじさまなの」

 

 吸血鬼、天狗、地底の鬼、スキマ妖怪、人と妖怪が関わりを絶っていた幻想郷の情勢そのもの。

 全てを前に彼は一歩も退かず、世界の変革さえ成し遂げて己の意思を貫き通した。

 あれこそがレミリアにとっての太陽だった。手を伸ばせば我が身を滅ぼしかねないと理解してなお、手を伸ばさずにはいられない輝き。

 

 血の一滴でも飲ませれば己に服従させることは可能だった。おそらく成功する機会もいくつかあった。

 しかし、そうして彼の道を捻じ曲げてしまったら、それはもうレミリアの欲しかったものではないのだ。

 

「それで結局、最後まで私のものにはできなかったんだけどね。やっぱり血を飲ませておけばよかったかしら」

「……その方がお嬢様は後悔されてますよ」

「咲夜がそういうのなら、その通りなのでしょう。咲夜こそおじさまが死んだことにショックを受けていたようだけど、大丈夫かしら?」

「先達として尊敬していましたから思うところはございますけれど、こちらがありますので」

 

 そう言って咲夜が取り出したのは一冊の書物だった。

 題名は書いておらず、紙も新しいもののようだが、すでに何度も読み返された痕跡が残っている。

 

「それは?」

「少し前に旦那様からいただきました。私の従者として学ぶべきことが書かれた本、というのが適切でしょう」

「え、なにそれ聞いてない」

「お嬢様には言うなと言われておりましたから」

「それで本当に報告しないってメイドとしてどうなのよ!?」

 

 多分教えたら自分にも頂戴とうるさいのが予想できたからだろう。

 それに内容は完全に咲夜宛に特化しており、これを自分以外の妖精メイドや美鈴に見せても理解はされないものだった。

 

「私や霊夢にいくつか作っているような口ぶりでした。あの方が何かを教えた人には何かしら遺しているのではないかと」

「おじさまも律儀ねえ……」

 

 一度でも面倒を見たら最後まで見ないと気が済まない気質なのだろうか。というより、一度受けたことを放り出すのが我慢ならないのだろう。

 

「……ところで、私には何かなかった?」

「お嬢様には? と私も聞いたのですが――」

「聞いたのですが?」

「あいつにくれてやるものなど何一つないと言い切られました」

「その情報を告げない優しさってあると思うの私!!」

 

 彼も面と向かっては言わなかったことを平然と言いやがったこのメイド、とレミリアはちょっとした戦慄を覚えながら肩を落とす。

 

「そもそも――物を渡す必要がないほど、お嬢様には託しているものがあるのではないですか?」

「……わかってるわよ」

 

 とうの昔に傷跡は消え、しかしレミリアの魂に消えない疼きを与えた斬撃のあった箇所を服の上から撫で、レミリアは彼より告げられた言葉を思い出す。

 

 

 

 ――後は任せるぞ、レミリア。

 

 

 

「それは忘れてないわ。……でもそれはそれとして物質的な何かがあっても良いと思うの」

「鼻で笑われました」

「せめてもうちょっと言い方を考えなさいよぉ!?」

 

 きょとんと首を傾げる咲夜にレミリアは頭痛を覚え、それを払うように頭を振った。

 

「ああもう――葬儀の日取りが決まったら教えなさい。絶対行くから」

「旦那様から教えるなと言われてますが」

「絶対教えなさいよ!? 嘘の日取りとか言ったら一生恨むからね!?」

「旦那様も流石に冗談だと仰っておりました」

「……あなた、おじさまの言葉ということにして好き勝手言ってない?」

 

 どうでしょう、と微笑む咲夜を見てなんか知らない間に強敵になった、とレミリアはため息を零すのであった。

 

 

 

 

 

「酒、飲まないの?」

「今は飲む気にゃなれん。最後ぐらい、酒を抜いた姿で見ておきたい」

 

 地底の一角。星熊勇儀がねぐらとして使っているあばら家で、二人の鬼が相対していた。

 小柄な鬼――伊吹萃香はいつもと変わらず手に持つ伊吹瓢から酒を飲み、勇儀は対象的に盃すら手に持ってはいなかった。

 

「勇儀は義理堅いねえ。私にゃ難しいわ」

「知ってるよ。これは私の好きにしていることだから萃香にまで求めるつもりはないさ」

「物の見方、価値観の違いってやつなんだろうねえ。ああいや、私もあの人間は高く評価しているよ? もうここから先、私たちを力業で正面から薙ぎ払うような人間は現れないだろうって確信もある」

「だが、所詮は一人の人間だ、って言いたいんだろ?」

「ん、正解。私にゃ人間ってのは群れを作って、子孫を作って、一つの物語を紡いでいるように見える。だからあの人間が死んでも、あの人間の遺した教えや人間がいる限り、私はそれを終わりまで見届けようって気になるのさ」

 

 それに今代の博麗の巫女は見ていて飽きないしね、と言って萃香はからからと笑う。

 彼女も決して悲しくないわけではないだろうに、それでも先を見ることができるのはやはり価値観の違いが大きい。

 人間を種族として見るか、個人として見るか。萃香は前者で、勇儀は後者だった。

 

「お前さんがそう言うならそれでいいんだろうね。私も今はこの蜜月を楽しもうって気になっているけど――多分、これが終わったら私も終わる」

 

 いつかきっと、今ではない未来で再び鬼が人間に裏切られる時が来たら。

 勇儀は自分の終の居場所を、己を打倒した人間の側にするつもりなのだ。

 それが理解できた萃香は酒を飲む手を止め、過去に思いを馳せるように目をつむる。

 

「……勇儀が後悔しないならそれでいいよ。私も勇儀も、自分で終わりを定めないとおちおち死ぬこともできやしない」

「全く、単純に強すぎるってのも考えものだね」

「違いないや」

 

 顔を見合わせて笑う。

 両者ともに共通している理想の死に方は、全身全霊を尽くした真剣勝負の末に敗北し首を取られることだ。相手が人間ならばなおよし。

 

 しかし一度は打倒されたものの、彼女たちは死を甘受することはできなかった。

 それ自体は納得している。敗者なのだから勝者の意向に従うのが当然であり、彼女らの死は望まれなかった。

 ……いや、一人は死を望まれていたものの、その場の情勢やら何やらで命を拾ったようなものだが。

 

 ともあれ、彼女らは一度は手にできたかもしれない死を遠ざけられたのだ。ならば次の死はいい加減、自分の好きに定めても良いだろう。

 

 萃香は連綿と続いていくであろう人間の結末を見届けるまで。勇儀は再び訪れた人と妖怪の蜜月が終わるまで。

 その瞬間が訪れた時、彼女らは誰に知られることもなく消えていく。

 

「にしても一途なもんだ。特に振り向きもしなかった人間に操を立てるかい」

「私は正面から挑んで正面から負けたからね。鬼に横道なんていらないんだよ」

「うっ、まああれは悪かったと思ってるよ。私の見通しが甘かった」

 

 あの一件については萃香も反省している。とりあえず彼に連なる一族と彼らが全霊を以て守護する人間は怒らせないようにしよう、と考えるくらいには。

 

「こっちも過ぎたことを言うつもりもないよ。嫌われていたけど、葬儀にゃ顔を出すんだろ?」

「もちろん。鬼退治の英雄様の死だ。盛大に送り出してやらないと失礼ってもんさ」

「騒がしいのは嫌いだろうけどねえ……」

「死人に口なしさ。本当にうるさいのが嫌いなら起きてくればいいんだよ!」

「それはそれで悪くないね!」

 

 騒々しいのを好まなかった人間が顔をしかめる光景を思い浮かべ、ゲラゲラと笑う。

 

「……ところで、勇儀ってあいつのことどのくらい好きなの? 聞けてなかったけど」

「愛しているとも。時節にゃ恵まれなかったが、どんな状況でもあの人間の味方をしようって決めているくらいには想っていたよ」

 

 当人に言ったところで鬼の力を借りなければならないような異変など起きてたまるか、と言われるのがオチだったと思われるが、勇儀はそれほどにあの人間を好いていた。

 無論、鬼の語る好意を人間の尺度と同じに見てはならないが、好意は好意。

 勇儀は秘することを是としたため彼は知らないだろう。あるいは気づいていても、面倒なやつに好かれている――要するにいつものことだと流していたはずだ。

 

 何かを思い出すように目をつむる勇儀に、萃香は酒から口を離して問いかける。

 

「……良かったのかい?」

「私が勝手に焦がれただけだ。困らせるつもりはないね」

「……自分の思いに正直になるのが鬼だと思うけどなあ」

「正直に決まってんだろ。これは、私だけが抱えていれば良い」

「あ、今唐突にわかった。これ惚気だ。私、惚気られてるんだ」

 

 遅いよ、と勇儀は笑う。

 胸を焦がす熱は今なお熾火のように静かに燃え続け、勇儀はそれを抱え続けることを選んだ。

 長く生きる鬼として見るのなら萃香の生き方が正しいだろう。しかし、勇儀は彼への想いを他のもので塗りつぶしたくはなかった。

 

 あの一戦。妖怪の時間から見ればほんの刹那と言っても良い――鬼と人間の正面対決。

 そんな至福の一時を瞑目して思い返し、うっとりと頬を染める勇儀の様子を萃香は辟易した顔で眺めていた。

 

「……こりゃ、確かに人間に言わないで正解だったかもね」

 

 色々と重いし歪んでいる。萃香は自分が鬼として真っ当な部類だとは思っていなかったし、だからこそ鬼らしい鬼である勇儀を尊敬していたが、やはり彼女も妖怪のようだ。

 知らぬが仏という部類である勇儀の想いを聞きながら、萃香は他人の惚気に巻き込まれてしまった面倒な気分を紛らわせるように酒をあおるのであった。

 

 

 

 

 

「橙はどうしているかしら?」

「鬼気迫る、と形容しても良い勢いで術の修行に勤しんでおります。なんでも、物質を固定化する術を知りたいそうで」

「――成程、あの子もいじらしいわ」

 

 妖怪の山のマヨヒガではなく、スキマ妖怪八雲紫の本居である家で紫と藍は話していた。

 話題は藍の式である妖猫のことで、彼女はあの人間が死んだ報せを聞いてからほとんど休まず修行に励んでいるようだった。

 

「で、具合はどうなの?」

「妖術の習得はよほど適性が高くなければ年単位で時間のかかるものですが、凄まじい速度で会得しています。無論、私や紫様と同じ領域への到達にはまだまだ年月が必要でしょうけど」

「でも、不可能ではないと感じたのね」

「――ええ。いつか必ず、あの子は私たちの大きな助けとなるでしょう」

 

 人間と触れ合ったことが良い起爆剤になったのだろう。その終わりまで含めて、あの人間は橙に消えない思い出を残していった。

 

「習得の目処は立ったので、今日は私から休むよう伝えてあります」

「ありがとう。もうすぐ彼の葬儀だものね。ちゃんと出てお別れはしないと」

「紫様も?」

「もちろん。幻想郷の歴史において初めて人間と妖怪の共存を――私の理想を実現してくれた大恩ある人間ですもの」

「…………」

「だから私に尽くせる最大の誠意を――って、藍、どうかしたの?」

「いえ、紫様ならあの人間の魂が冥界に行く前にちょろまかして自分のものにするくらいできたのではないかな、と」

「あなた私をなんだと思ってるの!?」

 

 藍の忠誠心を疑ったことは一度もないが、どうも彼女の中で自分が予想以上に悪辣な妖怪であるように認識されている気がしてならない。

 必要があれば躊躇いなど持たないし、謀略だろうと虐殺だろうとやってのけるが好んでやりたいことではない。

 スキマの力を使えば一人勝ちなど容易いのだ。そして一人勝ちし過ぎた結果が阿礼狂いの英雄が生まれる少し前の幻想郷――人と妖怪の関係が途絶したそれになってしまったので、反省しているのである。

 

「あのね。確かに彼が優秀であることは認めます。というか多分、演算能力や妖術方面以外は藍以上でしょう。部分的には私だって怪しいわ」

「はい。なので式にしてしまう考えも有りえたのではないかと」

「阿礼狂いを式にして、あの忠誠が自分に来るとは思えませんわ。むしろ魂を土足でいじくったことに怒って殺しに来る可能性も考えるとナンセンスよ」

 

 諸々上手くいった場合のメリットは計り知れないが、失敗した場合のデメリットは間違いなく紫と藍の命になる。

 仮に忠誠を誓ったとしても表向きか否かの監視は怠れない。阿礼狂いである、という一点だけでも彼を身内に引き込むのを迷わせるのに十分な理由だった。

 

「それに彼は人間の短い一生を十二分に幻想郷のために費やしてくれましたわ。これ以上を求めるのは酷というもの」

「それが紫様のお考えならば。私は彼との接点は比較的少なかったですが、それでも彼の功績を正しく評価しているつもりです」

「正しく評価していてあの言葉が出たのかしら……」

 

 自分の式ながら、たまに考えが恐ろしい。というか仮に彼を式にしたとして、橙にはなんと説明するつもりだったのだろうか。

 

「……私の理想は私一人では為し得なかったわ」

「紫様……」

「当然ね。人と妖怪の共存、なんて他者が存在する願いを私一人で実現しようとしたのがそもそも間違っていた」

「それは結果論です。紫様は紫様なりのやり方で、今の今まで幻想郷を維持してきました」

「だとすればその結果論で私は彼に多大な負担を押し付けてしまった。彼には本当に迷惑をかけたわ」

 

 当人も途中から気づいていたのだろう。面倒を押し付けられた紫に対しては割と嫌味な部分があった。

 

「彼は私の期待に見事に応え――私が想像していた以上の結果に到達した。これより先、霊夢が今以上に綺麗な楽園を作り上げていっても――最初にあの光景を作り出した人を決して忘れないでしょう」

 

 人も妖怪も一緒に酒を飲み、桜を見て、笑い合う。

 そんな光景を愛する主とともに手をつないで見ていた彼の背中は、紫の記憶に終生色あせないものとして刻まれている。

 

「これが最初よ。――さぁ、妖怪が人を忘れないということがどういうことなのか、冥界の彼が辟易するほどに教えてあげましょう?」

「かしこまりました」

 

 彼が幾度も転生し、やがて再び幻想郷に生まれくる時が来たとしても――紫は彼を何一つ忘れず言葉をかけるだろう。

 そんな決意を乗せた紫の言葉に藍はうやうやしく頭を垂れるのであった。

 

 

 

 

 

「……あんたはここに来ると思った」

「おや?」

 

 その日、椛が彼との鍛錬に使っていた場所に行くと、先客が佇んでいた。

 目元を赤く腫らし、首元に鈴を付けた妖猫――彼曰く腐れ縁である橙がそこに立っていたのだ。

 

「橙ちゃん。君がここに来るのは珍しいですね。普段は彼が釣りをしている場所に行っていたのに」

「見てたんだ。うん、今日まではあそこに毎日行ってた」

「……あの人に会えると思って?」

 

 椛の問いかけに橙はうなずく。未だ根深い悲しみをその瞳に乗せて。

 

「……あいつが死ぬなんて信じられなかった。人間だから弱い、とか脆いとかは藍さまから聞いてたけど、あいつ、全然そんな素振り見せなくて」

「そうですね。彼に弱いとか脆いは当てはまらないでしょう」

 

 本人に言わせれば妖怪に比べて遥かに脆いし弱いと憤慨していただろうが、多分誰も信じない。その弱くて脆い人間が百鬼夜行すら退けたのだから当然といえば当然である。

 

「でも、人間です。どんなに強くなっても寿命は絶対的に違う」

 

 百年にも満たない時間で自分たち天狗どころか、幻想郷の創始者である八雲紫すら凌ぐ領域に到達した人間であっても――寿命だけは変わらず人間と妖怪を隔て続ける。

 

「あんたは……」

「はい?」

「あんたは、あいつが死んだのは悲しくないの?」

「悲しいですよ。もう彼から無茶振りされることも、あの無邪気な信頼を向けられることもないと思うと悲しいです」

「じゃあどうしてそんないつもどおりなのよ!」

「それだけじゃないってわかっているからです」

 

 椛の答えに橙は逆に顔を歪ませた。

 まるで同じ言葉をすでに言ってもらっていたような反応である。

 

「今は悲しいですし、時間が経てば彼の声が聞けないことを寂しく思うこともあるかもしれません。――けれど、あの人と一緒に走り抜けた時間は全てが愛おしかった」

「……好きだったの?」

「でなきゃ一緒にいませんよ」

 

 そう言って困ったように笑う。彼はなかなか隙を見せないし誰かを信じるまで長い時間を要するが、一度信じると決めた者には時折、ひどく無防備な姿を見せる。

 彼と共に並んで歩いた軌跡は心地よかった。見上げた空はどこまでも広がっていた。

 あの輝かしい時間は自分にとって生涯の誇りになると、椛は確信を持っている。

 

「それに色々と託されちゃいましたから」

「託された?」

「はい。一番大きいのはこれですね」

 

 椛は背負っている長刀を外すと、橙に手渡す。

 受け取った長刀を見て、橙はすぐにそれが誰の手にあったものかを理解する。

 

「これ、あいつの……」

「もう使わないからと渡されました。あと、彼の動き方を記した本も」

「……できるの?」

「ま、まあ気長にやればいつかきっと……多分……」

 

 動きは細かく噛み砕かれ、椛にも理解できる内容にはなっていた。じゃあ実際にできるのかと言われたら無茶苦茶だと言わざるを得ない内容だが。

 なにせ一つ一つの動作に求める精密性が針に糸を通すどころではない細かさなのだ。しかもそれを百、二百と重ねて初めて一連の動作となる。

 一つでもしくじれば全てが崩れるような動きを、目まぐるしく状況の変わる実戦で使いこなしていたというのだから恐ろしい。伊達に人間の身で八雲紫らと同等の領域に至ってはいなかった。

 

 そんな動きを記した本を椛は受け取っていた。習得は本当に気の遠くなるような時間がかかりそうだが。

 内容を見ずとも察したのか、橙の気遣わしい視線に椛は乾いた笑いで答える。

 話題がそれた、と椛は咳払いをして強引に話題を戻そうとした。

 

「んんっ、と、とにかく私はこれらがありますから、彼のことを忘れようとしても忘れられないと思います。橙ちゃんはどうです?」

「最近、妖術を覚えたの。物質の固定化って言って、物を壊れにくくする術」

「その鈴のため、ですか?」

 

 こくん、と素直にうなずく橙に目を細める。

 これが彼の前だったら絶対に憎まれ口を言うだろうが、当人のいない場所では橙も彼との友情を隠そうとはしないらしい。

 

「……私も、忘れたくなかったから」

「それは、悲しいからですか?」

「違う。……うん、そう――楽しかったから」

 

 椛と話をして、彼女の託されたものを見て、そして彼が死んだことを悲しみながらも、共に歩んだ軌跡を誇らしげに語る彼女の姿が、橙にも影響を与えていた。

 死んだと聞いて、ずっと悲しかった。拭っても拭っても涙は流れ、何かに取り憑かれたように妖術を覚えた。

 

 悲しみが溢れていたから今の今まで気づかなかった。――自分が必死に守ろうとした思い出は、振り返って悲しむためのものではないのだ。

 

 振り返れば笑顔になり、また前を向こうという気力を生み出す、そんな輝かしい軌跡なのだ。

 橙の瞳がようやく悲しみを振り払い、いつもどおりの――彼の見慣れた勝ち気なそれに戻っていく。

 

「楽しかったから、あの時間を嘘にしたくないから、私は頑張る。……それに昔に囚われてたんじゃ、あいつ絶対笑うと思うし」

「あの人も本当に悲しんでいる人に追い打ちをかけたりは……かけたりは……」

 

 橙に対してはするかもしれない、という疑念が椛に断言をさせなかった。

 決して悪意があるのではなく、むしろ彼女への発破にはそれが一番であると理解しているが故に。

 

「……それで、少しは気が晴れましたか?」

「うん。やっぱりあんたが一番あいつとの付き合いが長いんだなってわかったし、悲しんでいるだけじゃダメだって思えた」

「なら良かった」

「それに良い相手も見つけたし」

「うん?」

 

 どういう意味だろう、と首をかしげる椛に橙は指を向ける。

 

「あいつを追い越そうとしてるやつ、初めて見つけた!」

「ええっ!? い、いやでもこれは私の自己満足というか趣味というか……」

 

 彼と同じことができるようになれたら良いなあ、ぐらいの考えでやっていたので、彼を追い越そうと大真面目に考えていたわけではない椛が慌てたように手を振るが、橙は気にしない。

 

「なんだって良いわよ。やってることは私と一緒なんだし。ねえ、競争しましょ!」

「競争?」

「そう。――どっちが早くあいつを追い越せるか」

 

 橙は遠い未来で立派に成長し、彼など足元にも及ばないぐらいに成長した自分を空想して顔を輝かせながら笑う。

 

「私は絶対いつかあいつを追い抜くわ。もっともっと術も覚えて、戦い方も覚えて、藍さまや紫さまの力になれるように強くなりたい」

「橙ちゃん……」

「だからあんたも頑張りなさい! きっとあいつの書いた本だからメチャクチャなこと書いてあるんでしょうけど、あんたは諦めないと思うから!」

「……どうしてそう思うんです?」

「友達だからじゃないの?」

 

 彼から託されたものを、友達だから手放すはずがない。そんな無邪気な――どこか彼を思い起こさせる無垢な信頼を受けて思わず笑ってしまう。

 なるほど、これは確かに彼と橙は腐れ縁になるはずだ。――だって、他者への信頼の向け方が恐ろしく似ている。

 

「……ふふっ、良いですよ。競争です」

「うん! 私も頑張るから、あんたも頑張りなさいよ! んで、あんたが負けたら私の子分ね!」

「た、多分その時の君は有名人でしょうからそれは遠慮したいですけど……それも良いかもしれません」

 

 彼に匹敵する力量を備える頃には、きっと目の前の妖猫は八雲の名を冠するようになっているだろう。

 その彼女の子分とか面倒なことになる予感しかしない。しないが、その頃の自分はきっと笑って引き受けるだろう、と思えていた。

 

 永遠に会えないことに悲しみはあるけれど決してそれだけでもなく。彼と交わした約束は確かに未来へ足を進める力になるのだと、椛は空を見上げて笑うのであった。

 

 

 

 

 

「どちら様でしょうか? ……おや、博麗の巫女様」

「どうも。その……爺さんが私に渡したいものがあるって聞いて来ました」

 

 彼の葬儀を終えた翌日。霊夢は火継の邸宅を訪ねていた。

 最後の稽古を終えた後で霊夢に渡したいものがいくつかあると言って、家を訪ねてこいと彼が語っていたものを取りに来たのだ。

 門戸を叩いた霊夢を出迎えた初老の女中にそのことを告げると、すぐに思い至ったのか案内を受ける。

 

 彼の家に来たのは昔に一度だけだ。初めての実戦を魔法の森で行い、危険な目に遭っていた魔理沙を助けた後、彼からここで泊まるよう言われていた。

 母親代わりの人と一緒にお風呂に入り、三人で食卓を囲み、二人の間に挟まって月を見上げた一夜の思い出を、霊夢は大切に抱えている。

 

「こちらの離れにございます。当主様はあなたのことをとても気にかけてなさいました」

「そうなんですか?」

「ええ。何かと時間を見つけては色々と用意しておられるようでした」

「…………」

「どうか、理解していただけると幸いです」

 

 女中は離れに霊夢を案内すると深々と頭を下げ、戻っていく。

 意外というか、納得できるというか、彼は火継の家の中でも慕われていたらしい。

 一人になった霊夢はふすまの前で何度か深呼吸を行って心の準備を整えると、意を決してふすまを開いた。

 

 かつて一度だけ、この部屋で眠った時は両手の先に先代と彼がいた。

 もうどちらも存在しない、本当の意味で主を失った部屋が無音で霊夢を出迎える。

 

「……誰も来ていないのね」

 

 阿求も来ていないのは少し意外だった。彼女を見続けながらその生涯を終えたとは、彼の骨が墓に納められた後、瞳を涙で泣き腫らした阿求の口から聞かされていた。

 自身の始まりが阿七であるなら、終わりは阿求である。阿礼狂いに生まれ、阿礼狂いとして生きた少年の選んだものは最後まで御阿礼の子だった。

 その彼が一体何を遺しているのか。霊夢は目の前にうず高く積まれ、埃よけの布がかけられているそれを前に立ち尽くす。

 

 彼のことだ。わざわざ他人に悪意を向けるような面倒なことはしないとわかっている。わかっているが、どうしても手が震えてしまう。

 彼の稽古は逃げ回っていたし、面倒なことからも逃げていた。最終的には捕まっていたけれど、面倒をかけさせていたのは確かだ。

 

 もし、もしも。この中にお前の相手は面倒だった、とかそういった思いを伝えるものがあったりしたら、と思うと霊夢の手は何かに固定されたように動かなくなる。

 

「……ええい! だったら来るなって話よ!」

 

 とはいえ迷ってばかりもいられない。第一、その迷いはここに来る前にやるべきことだ。もう目の前まで来ている以上、選択肢は一つしかないのだ。

 半ばやけになりながら霊夢は被せられている布を取る。そこには――多くのものが積まれていた。

 

「え、なにこれ?」

 

 ちょっと多すぎでは? と布が被せられている時点での感想が再び浮上する。さっきまでの怯えが消えるくらい、単純に物量があった。

 

「本と巻物と……薬棚?」

 

 薬棚の大きさ自体は一応持ち運べるものではあるが、三つも四つもあれば普通に大量の部類である。

 中に何が入っているんだ、と思いながら霊夢が適当に一つ開いてみると、中には塗り薬と思しき軟膏と使い方の紙が入っていた。

 

「なになに……切り傷、止血に使うように。で、こっちは……擦り傷、打撲に使うように……細かっ!?」

 

 他の薬棚も見てみると、生傷を負うことが多くなると想定される霊夢のためなのか、様々な用途の薬が所狭しと詰め込まれていた。

 時間のある時に用意していたと言うが、これほどの量を用意するのにどれだけの時間がかかるのか。おそらく霊夢が博麗の巫女として正式に活動を始める前から用意していたものだ。

 

「爺さんの面倒見の良さも大概ね……というかこんなに用意するとか、ものすごく面倒でしょうに」

 

 口ではそう言うものの、霊夢の口元は必死に緩むのを堪えている状態だった。

 本人はできる範囲で面倒を見ているだけだ、とか言っていたが、やはりなんだかんだ言って霊夢には甘かったりする。

 霊夢には過保護にすら映っているそれを、彼は当たり前だと言うようにやっていた。

 

「博麗の巫女をやらせるような親が良い親なわけない、か……そりゃそうかもしれないけどさ。でもやっぱり、爺さんは過保護だと思うわ」

 

 普通の人間の親であれば、娘に危険な役目を背負わせて確かに冷たいのかもしれない。しかし、博麗の巫女の親として見れば、彼は霊夢を育て上げ、影に日向に援助も怠らなかった立派な親に見える。

 そもそも霊夢が親として知っているのは先代と彼の二人だけなのだ。普通の親など知らない以上、霊夢が彼らを良い親だと思えばそれが全てである。

 

 さっきまでの怯えはどこへ行ったのやら。霊夢は上機嫌に薬を探り、使い方の記された紙の内容から垣間見える彼の心遣いを嬉しく思っていると、やがて書物の方にたどり着く。

 

「これはなんだろ……うわ、稽古メニュー」

 

 自分がいなくなってからもできる稽古の内容が目白押しだった。

 霊夢の顔がうんざりしたものになるが、書物を読む手は止まらない。自分を思って作られたであろう内容だ。面倒だと思うのは確かだが、だからといって投げ出すつもりもない。

 

 そうして稽古内容を記した書物と、実際の身体の動かし方が記された巻物などを読んでいくと――一枚の紙が霊夢の手に残った。

 まだあるのか、と稽古内容だと思った霊夢は常と変わらない調子で紙を開き、内容を見て絶句する。

 

「これ、手紙だ……! 爺さんから私宛の!」

 

 

 

 霊夢へ。

 

 これを読んでいるということは、俺はすでに死んでいるのだろう。お前からすれば鬱陶しい稽古相手がようやくいなくなった、と言ったところだろうか。

 

 冗談だ。さすがにお前の情を茶化したりはしない。なんでかは本当にわからないが、お前は先代と俺を両親と慕っていた。

 応えられずとも尊重することはできる。俺はお前の思いを否定しない。

 

 話がそれた。他の家に書簡をしたためることはあれど、親しい人間への手紙はこれが初めてだ。多少は大目に見て欲しい。

 さて、本題に入ろう。俺が死んだ後も幻想郷は続いていく。妖怪共はあっという間に退屈に負けて異変を起こすはずだ。

 俺は現役時代に三度の異変に立ち会った。吸血鬼異変、天狗の騒乱、百鬼夜行。どれも一筋縄ではいかないものだったが、それでもたった三回だ。

 お前はどうだ。博麗の巫女として活動を始めてからすでに三回の異変があったはず。もうその時点で、お前は俺と同等の数の異変を解決している。

 

 これは勘になるが、お前は今後も多くの異変に見舞われるだろう。妖怪共はこちらの都合などお構いなしだから諦めろ。

 

「……まあ、私もそう思うけど」

 

 霊夢は手紙を読み進める手を止めて、頬をかく。自分でも薄々これから先もっと色々な妖怪がちょっかいかけてくるんだろうな、ぐらいには思っていたが、皮肉なことに彼の言葉で確信が得られてしまった。

 諦めろ、という短い言葉の中に彼の諦観が感じられてしまい、乾いた笑いを浮かべながら手紙の続きを読み進めていく。

 

 すでに見ているかもしれないが、遺してある本は大半がお前への課題のようなものだ。しばらくはそれを稽古内容とすれば良いだろう。

 お前の成長を予測して稽古内容は考えてあるが、おそらく後半へ行けば行くほどズレが生じるだろう。お前にとって不要だと感じたら捨ててしまえ。それを以てお前につける稽古は終わりになる。

 その頃にはきっと今以上に多くの異変を解決し、博麗の巫女として立派に大成しているはずだ。

 

 そして薬についても同様だ。妖怪との正面対決は無傷で勝つか攻撃を受けて死ぬかの二択だから勝ち続ければ無傷になるが、弾幕ごっこではそうもいくまい。

 生傷が絶えないだろうから色々な薬を用意した。用途はそれぞれ紙に書いてあるので正しく使うように。これもいらないと思ったら捨ててくれて構わない。

 

「……ん、私が見たのはこれで全部だけど手紙はまだあるのね」

 

 課題の本に薬。彼が自分に遺してくれたものはこの二つだと思っていたのだが、よく見たらどちらとも違うものが確かにあった。

 

 中でも目を引いたのは霊夢が普段から使っている、トレードマークの大きなリボンと全く同じ意匠のリボンだ。手に取って見ると上質な布の手触りが伝わってくる。

 それを片手に持ちながら手紙の続きを読み進めていく。おそらく、自分が一番見たかったものはこの先にあるという自身の直感に従いながら。

 

 他の物は言ってしまえば瑣末事だ。お前の役に立つ、という観点で集めたものではない。自分でもこれを集めた具体的な理由はわからない。

 ただ、過去にお前が欲しがったものを集めてある。

 

「……子供の頃、母さんに欲しいってねだった小物だ」

 

 霊夢の手にあるのはいかにも子供が好きそうな綺麗なビー玉だった。

 それを見て霊夢は確かに思い出す。まだ霊夢が小さな子供の頃――母と手をつないで人里に行った時にねだったものだった。

 あの時は買ってもらえなかった。母が買ってくれなかったものを彼が買ってくれるとも思えず、話の種に一度だけ出したっきり霊夢自身も忘れていたもの。

 

 そういった目で見てみると、この場にあるおもちゃのようなものは全て、過去に霊夢が欲しがったものであることに彼女は気づく。

 

「爺さん、覚えて……」

 

 なぜ、とは言ってくれるな。俺も説明できない。ただ、お前に何かを遺そうと思い立った時にこれらが浮かんできた。

 だから集めてみたが、いざ手元に置いてみると自分でもわかるくらいに無節操な収集になってしまった。いらないと思うなら受け取らなくても良い。その時は女中に処分するよう指示してある。

 

 それとリボンだが、それは俺の方で用意した。母親が渡したものにはお守り程度の結界術が組み込まれているから、俺も見よう見まねで真似して作った。文字通りの予備程度に思っていれば良い。使わないのならそれに越したことはない。

 

「…………」

 

 霊夢は手にあるリボンを無言で握りしめる。

 確かによく見れば先代のそれとは違う毛色の術が編み込まれているのがわかる。わかるが、霊夢にとって重要なのはそこではなかった。

 仏頂面で口を開けば御阿礼の子ばかりの彼だったが、ちゃんとそれとは別に自分のことも考えてくれていたのが嬉しかったのだ。

 

「爺さん……」

 

 もう残り少ない手紙を読む霊夢の目尻には、本人も気づいていないのか涙が溜まっていた。

 

 お前に遺すものはこれで最後になる。阿求様には俺の生涯の集大成とも言えるものを渡すからか、お前に渡すものはどうしても物に偏ってしまった。そこは許せ。

 だが俺の真心を込めたものを贈る、とか言ってもそれはそれで気色悪いだろう。それに俺はお前ぐらいの年頃の少女が好むものはわからん。

 だから俺がお前にとって必要だと感じたものと、お前との日々を思い返して当たっていれば御の字だと思い、お前が欲しがっていたものをいくつか見繕った。今欲しいものではなかったら俺の選択を恨め。

 

 最後に、俺はお前を博麗の巫女の後継として、弟子として接してきたつもりだ。

 弟子を取るのは初めてだったが、お前は泣き言こそ多いもののよく俺の稽古についてきた。

 断言しよう、お前には才能がある。このまま磨き続け、実戦を重ねていけばいつの日か必ず俺を超えることができる。

 だから稽古を怠るな。俺は自分より強い人間には終ぞ出会えなかったが、お前がそうなることをどこか期待しているようだ。

 

 いつか遠い未来でお前が俺を超える日が来るのを、俺は確信している。

 

「……強くなれ、か」

 

 爺さんらしい、と笑って霊夢は手紙をたたむ。

 彼は最後まで霊夢の先行きを案じる師匠であり、彼女に一番大きな期待を寄せていた。

 一人で強くなる必要なんてどこにもないが、だからといって強くなることを疎かにしてもいけない。

 痛いのも苦しいのも大嫌いで、その二つがある努力も嫌いだけど――彼の期待を裏切るのは何より心が痛い。

 

 彼は肯定しなかったが、自分の母は先代の巫女であり、父は――

 

「うん?」

 

 と、そこで唐突に手紙をもう一度見る。

 終わりまで読んだと思ってたたんだ裏に、小さな紙が張り付いていたのが見えたのだ。

 なんだろうと霊夢は何気なく手に取って中身を見て、その内容に息を呑む。

 

 霊夢。俺はお前を子として扱わなかった。

 理由は阿求様の先代である阿弥様が俺を父と呼んだからだ。俺にとっての娘はあのお方だけで十分だった。

 だからお前に父と呼ぶことは許さなかった。それがどういった所業かわかっていて、俺は俺の都合を優先した。

 

 酷なことをしたとは思っている。罪滅ぼしというわけではないが――俺が死んだ後は俺を好きなように呼んでくれて良い。俺が想定しているその呼び方も認めよう。

 

「ぁ……」

 

 霊夢の口から小さな息が漏れて涙が一滴、手紙に落ちる。

 それは、つまり。自分と彼の関係を説明する時に彼は父親代わりの人間、なんてまどろっこしいことを言わないで済むのだ。

 

 俺が俺の事情をお前よりも優先したように。お前も死んだ人間の事情など気にする必要はない。好きに、誰はばかることなく言えば良い。

 どうしてかは本当にわからないが、お前は母親だけでなく俺にも懐いていた。これまでは一線を引いていたが、死んでしまえばないも同然だ。

 

 とはいえこれだけではいささか薄情か。死んだ後のことは好きにしろと言っているだけでしかないと指摘されたらその通りだ。

 故に最後はこの言葉で締めくくろう。面と向かっては言いづらいことも手紙でなら伝えやすい。

 

 

 

 ――幸せになれ。お前の親として、幸福を願っている。

 

 

 

「本当に、もう……っ!」

 

 パタパタと涙が手紙に落ちる。嗚咽が口から出るのをそのままに、霊夢は宝物を持つように手紙を胸に抱く。

 彼はわかっててやったのだろうか。いいや、わかってなどおるまい。霊夢でもわかるくらい、彼は肝心なところで鈍感で――それでもなぜかこちらの欲しいものをちゃんと与えてくる。

 

 今回だってそうだ。手紙の内容を信じるなら、これはただ単に霊夢に遺すもので何が適切か思いつかないからと手当たり次第に集めたものらしい。

 それで彼女が昔に欲しがったものまで律儀に覚えて用意するなど、生真面目にも程がある。そのくせなぜ集めたのかはわからないなど、もはや狙っているのではないかと思うくらいだ。

 

「昔、から……甘いのよっ! 私に!!」

 

 厳しい稽古も、面倒な勉強も、作ってくれた美味しいご飯も、頭を撫でてくれた大きな手も、全てが霊夢にとって嬉しいものだった。

 彼に言わせれば博麗の巫女には強くなってもらわねば自分が困る、というもっともらしい理由が返ってくるだろう。

 だが、霊夢に言わせればあれは博麗の巫女という大役を背負っていく自分が役目を果たせるように――志半ばで斃れることがないように、という願いに基づいた行動だった。

 

 巫女として強くなってほしいだけなら稽古だけつければ良かった。人里に連れて行く必要なんて微塵もなかった。

 だけど彼は幼い霊夢の手を引いて人里を見せてくれた。魔理沙たち友人と知り合う場所を用意してくれた。甘いお菓子を買ってくれた。勝手な行動を叱ってくれた。

 

「いつもいつも自分のためだなんて言って! 本当に自分のためになった行いなんてほとんどないじゃない! 合理的だとか言いながら、面倒見が良すぎるのよ!!」

 

 手紙を抱え、涙を溢れさせ、もう届かない相手への怒りをありったけ叫ぶ霊夢。

 ずっと思っていたのだ。彼はずっと己を阿礼狂いであると一線を引いて、そこだけは最期まで認めようとしなかった。いいや、気づいてすらいなかったものがある。

 

 

 

「――ちゃんと私も愛していたんじゃない! 父さん……っ!!」

 

 

 

 愛とは自分だけで完結しうるものではない。他者からの感覚も含めて初めて認識されるものだ。

 彼は――信綱は阿礼狂いである己が愛するのは御阿礼の子のみと定めた。他は全て余分に過ぎず、天秤にかけたら捨てられるものでしかない。

 けれど、彼は余分でしかないものを背負い続けた。本当に無意味なら切り捨てれば良いものを、より良く、より強いものが手に入ったら忘れてしまえば良いものを最期まで忘れなかった。

 

 霊夢にはそれこそが全てだった。物心ついた頃から面倒を見てくれて、歩む先を導いてくれて、こうして死んでからも自分に何かを遺してくれる。

 これが愛情でないなら何なのか。霊夢にとって、これは全て父親代わりの――否、父の(・・)愛情なのだ。

 

 誰も人が来ない離れであることを良いことに、霊夢はその場に崩折れて手紙を抱えたまま、葬儀の時にも出なかったほど大きな声を上げて、父の死を悼むのであった。

 

 

 

 

 

 時間は流れる。誰かが生まれても、誰かが死んでも、平等に。

 春が過ぎて夏が来て。明けない夜の異変があり、妖怪の山に新たな神が二柱やってくる異変があった。

 

 どれも異変が終わった後に話を聞くことくらいしかできなかったが、それが御阿礼の子の本来の役目であり、何より祖父への土産話になるのでそう嫌いではなかった阿求だった。

 

「今日もいっぱい色んなことがあったんだよ! あのね――」

 

 物言わぬ祖父の墓前に阿求は笑いながら日々の出来事を話していく。

 彼の墓はいつも色々なものが置かれている。誰が置いたのかすぐにはわからないものから、誰が置いたのか一発でわかるものまで。

 

「今日は……レミリアさんが来たんだね。この薔薇、お祖父ちゃんの家で見たことがあるもん。あとお酒があるから……鬼の人が誰か来たのかな?」

 

 時間の短い人間は良くも悪くも思い出にするのが早いが、妖怪は違う考えを持つ者も多い。

 唯一人に生涯の敬意を払う。気の遠くなる時間を生きる妖怪だからこそ重い意味を持つその選択を、阿求は誇らしく思う。

 自分や当代の博麗の巫女もいなくなってしまうほどの遠い未来の先。そこでもきっとこの墓は賑やかであり続けるのだろう。

 

「あ! この後小鈴のところに行って本を借りてこないと! 最近は外から人がやってくる異変が多くて書くことがいっぱいなの! じゃあ――またね、お祖父ちゃん!!」

 

 阿求は元気に手を振って走り出し、日傘を差して歩く珍しい人の横を通り過ぎて鈴奈庵のある方向へ向かっていく。

 蝉しぐれが聞こえ、遠い地平線の先に陽炎が映る夏の一日。幻想郷に生きる少女たちの一日はまだ始まったばかり――

 

 

 

「……大した人気者ぶりね。いつ行っても誰かしら来ていて、居づらいことこの上ないわ」

 

 日傘を差した少女――風見幽香もまた、彼の墓前の前に立って一人つぶやく。

 結局、彼には勝ち逃げされてしまった。不満は山のようにあるが、死人に鞭打ったところでどうにかなるものでもない。

 あるいは今から墓を掘り起こしてその遺骨を辱めれば溜飲は下がるだろうか? いいや、そんなことをすれば幽香は生涯、自分を人間一人にすら勝てず、その死を侮辱するしかできなかった惨めな妖怪であると位置づけるだろう。精神に依存する妖怪だからこそ、自己の定義というのは人間が思っている以上に重要なものだ。

 

「私はどうしてあんたが好かれてるのか全くわからないわ。口も態度も私の相手が面倒だって隠そうともしてなかったじゃない」

 

 少なくとも良い態度は見せていなかった。あれで多少は自分に敬意を払ったり丁重な態度をとったりしていれば幽香も多少は気分が良かった。

 良かったが、こうして死んだ後も訪ねに来るような感情を持つに至ったかはわからない。

 幽香が彼に対して抱く感情に好意的なものは一つもない。ないはずなのに、なぜかこうして足が墓に赴いてしまうのは本当に不明である。

 

「……どうしたいのかしらね、私は」

 

 それだけ言って幽香は眼前のちっぽけな墓を見る。

 ほんの少し力を入れれば破壊するのは簡単だ。跡形もなく消し去ることだって容易い。

 だというのになぜかそんな気分にならない。自分がどんな思いでいるのか、自分でもわからないまま時間だけが流れていき――

 

「……勝ちたかった」

 

 やがてポツリと漏れた言葉に、幽香はようやく合点がいったように何度もうなずく。

 

「勝ちたかった……ええ、私はあんたに勝ちたかった。勝って――それを誇りたかった」

 

 答えが出たことに気分を良くしたのか、その口元が不機嫌そうな一本線から僅かに弧を描く。

 そして墓に背を向けて、去り際に言葉を投げかけた。

 

「さようなら。この世で唯一人、私に勝った人。次は――今度こそあんたに勝てる私で来ることにするわ」

 

 そう言って小さな花を一輪、添えていった。

 

 

 

 以降、この場所に意味が生まれることはない。

 どんな異変があっても変わらず、どんな時間が過ぎても変わらず、墓はただ墓としてそこに在り続けるだけ。

 やがて時間が過ぎ、人間の中では由来を知る者もいなくなる。死者が生者の時間に追いつくことは永遠にない。

 

 けれどその場所は、不思議なことにいつも何かしらが供えられていたらしい――




場面が浮かんだ以上書くしかない。見てもらえたなら僥倖です。

ということでノッブが死んだことへの反応四方山話です。
なんだかんだ言って面倒を見た他人を見放したりせず、死んだ後の事も考えて色々と遺している。
本人は片手間だ、と言いますが当人にしてみれば十分愛情と呼ぶにふさわしいという。ちなみに本人が存命の時にそれを言ったら頭大丈夫? と心配されます。

ノッブの視点では愛しているのは御阿礼の子だけですが、比較にならないだけで他の連中も彼なりに大事にしていました。
そもそも合理を語るならおぜうに天魔やゆかりん、勇儀の姐さんやらを引っ張ってこれる時点で橙とかにとりとの付き合いなんて切っても良いわけです。でもノッブはそれをしなかった。それが答えです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EXTRA STAGE -風神録-
妖怪の山に住まう神々


浮かんだから書くしかない(一つとは言ってない)


 ある日、妖怪の山の中腹がまるごと消えた。

 比喩や冗談ではなく、そこにあったであろう木々の緑や大地の色が文字通り消えたのだ。

 

 そしてその代わりというように、人里からでもかなり大きいとわかる巨大な湖と神社が現れた。

 

「つまるところ、外の世界のものが幻想郷に流れ着いたようなものだろう。外来人や外来のものが流れ着くこと自体は不思議でもなんでもない」

「しかし、規模が大きすぎます。作為的な何かを感じずにはいられません」

「そうだな。だが侵略とかそういった可能性は排除して良いはずだ。それなら人里に来るのが一番効果的だし、何より動きを見せない理由がない」

「…………」

「我々はいつも通り生活していれば良いのさ。向こうから何か動きがあって、それがどんなものかはお前が見極めれば良い。信じているぞ――信綱」

「…………はぁ」

 

 自分の隣で妖怪の山を見ていた慧音から良い笑顔でそう言われてしまい、信綱は大きなため息をつくことしかできなかった。

 

 

 

 妖怪の山にいきなり神社と湖が現れる。

 特大の厄介事であることは一目見るだけでわかったが、信綱の側からなにか行動を起こすつもりはなかった。

 現時点で人里になにか明確な害があるわけでもなし、まずは当事者である妖怪の山が何かしら動くのが筋であると考えたのだ。

 ……今さら余計な面倒事を抱えたくないというのも切実な理由として存在する。

 

 とはいえ自分は御阿礼の子に仕える阿礼狂い。御阿礼の子からしてみれば、いきなり外の世界からやってきた神社とそこで暮らしていたであろう人物など。

 そんな面白そうなことの塊であるそれに興味を示さないはずもない。

 

「お祖父ちゃん! あの神社ってなんだろうね! 私、すっごい気になる!!」

 

 人里での騒ぎを耳ざとく聞きつけた阿求が信綱に肩車をねだり、肩車の上で目をキラキラさせている姿を見せられては何も言えなかった。

 自分が面倒? それは御阿礼の子の楽しみを邪魔する理由になるのか。いやならない。

 

「確かにこれまでの幻想郷にはなかったことです。しかしまずは妖怪の山の天狗たちが話をするでしょう。それに友好的な人物とも限らない。せめてどんな者たちがいるのかだけでも確かめてから取材に行きましょうか」

「うーん……天狗に先を越されるのは仕方ないか。でも絶対行こうね! 私の代の幻想郷縁起が厚くなるわ……!」

「ご無理をなさらぬよう。阿求様が倒れられては元も子もありません」

「はぁい。とりあえずしばらくは様子見だし、お祖父ちゃんも向こうからなにかあったらすぐ教えて!」

「かしこまりました」

 

 肩車の上から降りてくる、阿求の弾んだ声に信綱はうやうやしく答える。

 といっても、しばらく動きはないだろう、と考えていた。

 最初から何らかの目的を持って幻想郷に来たのであれば、もっと早く動いていても良いはずだ。

 それがないということは、幻想郷に来ること自体が目的であり、幻想郷に来てからの行動は特に考えていなかったという推測もできる。

 

 実際のところは当人たちに聞いてみないとわからないが、それは妖怪の山の仕事だ。彼らの領土に乗り込んできたのだから、そこに自分が首を突っ込んでも物事が複雑になるだけである。

 なのですぐに動く必要はない。そう考えて、信綱はしばらくはなにもないだろうと結論付けるのであった。

 

 

 

「――で、俺に現れた神社とお前の話し合いの立会人になれと」

「おう。当事者同士じゃ事情の押し付け合いになりかねないし、冷静に判断してくれる第三者が欲しい」

 

 信綱は神妙な顔で頼み込んでくる天魔を前に、頭痛をこらえていた。

 阿求にしばらくはなにもないだろう、と語った直後にこれである。いつだったか椛が言っていた、自分は貧乏くじを引く星の元に生まれているというのを笑えない。

 

「なぜ俺なんだ。中立な第三者という観点なら博麗の巫女だろう」

「博麗の巫女は平等であっても公平じゃない。あれの役目は幻想郷に害を為した連中の討伐だ。人妖どちらでも、な」

 

 幻想郷の調停者は誰の味方でもなく、ただ幻想郷の存続と異変の解決にのみ力を貸す。

 信綱や天魔が考えているような政治の話など、知る必要はないのだ。信綱もその辺りは霊夢に教えていない。

 

「……話し合いにはお前が行くのか?」

「向こうは頭が出るんだ。こっちも頭が出ないと話もまとまらんし、旦那を呼び出した理由が弱くなる」

「……人里からの代表であることは明言する。双方の言い分を聞いた上で、俺は人里に最も利益が大きい方に味方する。それでいいか?」

 

 信綱の物事に対する姿勢はいついかなる時も御阿礼の子のために。そしてそれに連なる人里のために、というものだ。

 天魔は妖怪の山に対して最大限の利益を取ろうとしているし、その考えはやってきた神社の方も同じだろう。

 だから信綱も自分の所属する集団に対する利益を追求する。必要なら謀略の一つも巡らせよう。

 

「それが欲しかった答えだ。この際だから言っておくが――オレはあんま冷静じゃない。これでも結構頭に血が上ってる」

「……理解は示そう。お前ほど妖怪の山を思っている輩を他に知らない」

「褒め言葉と受け取ろうか。で、妖怪の山はオレが冷静じゃない時に諌める奴がいない。旦那にはその辺りを頼みたいんだ」

「文は違うのか」

「オレが怒るってことは、文はオレ以上に怒ってるって見ていいぜ」

「……そこまで言うほどか」

 

 さすがにやや驚いた表情になり、信綱は天魔を見る。

 いつもどおりの飄々とした顔ながら、その瞳はどこかギラついた輝きを宿していた。

 それはこんな状況だからこそ利益を追求する輝きであり、妖怪の山に不躾にやってきた侵略者に対する怒りでもあった。

 なるほど確かに。今の状態の彼を放置するのは危険が大きい。万に一つも山の神社と事を構える、なんてことになったら天狗の自警団を借りている人里にも被害が及ぶ可能性が出てきてしまう。

 

「……わかったよ。俺としても妖怪の山の頂点はお前である方が望ましい。話し合いもせいぜい上手くいくよう努力しよう」

「助かる。礼に関しては……今、こっちが握ってる神社の奴らの情報、でどうだ?」

「どうせ椛に見てもらった内容だろう。だが、もらえるものはもらう主義だ」

「情報の出処に関しちゃご明察。けど種族に関しちゃ旦那も知らないものだよ。オレも遠目で確認した」

「……種族が違う?」

 

 外の世界から来るものなど、人間か人間の作ったと思われる何かだけだ。

 動きがなかったのは神社だけが幻想入りしてきており、中には誰もいないという可能性も疑っていたのだ。天魔の話でそれは否定されたが。

 

「おう。――旦那、神って言われて何を思い浮かべる?」

「……神? 仏像とかそういったものではなく?」

 

 天魔の神、という単語を聞いて思い浮かべるのは、験担ぎの意味も込めて家に貼られる札などだ。

 他にも流し雛という形で厄払いを行うこともあると聞いてはいるが――阿礼狂いという特大の厄を背負って生まれてきたからか、こちらにはほとんど関与していなかった。

 

「ん、まあ旦那の反応が正しいよ。八百万の神々が生きて人間と関わっていた時代なんてのは、もう遥か昔に終わっていたはずだ。今でも活動しているのはいるが、どれも信仰を失って全盛期の力なんて見る影もない」

「……力を失い、零落しているだけで実在しているのか」

 

 過去の幻想郷縁起にそういったものがいたことは知識として知っていたが、信綱が関与していた阿七、阿弥、阿求の幻想郷縁起には記されていなかったため、死んだものと思っていた。

 

「幻想郷にも何柱かいるぜ? 後で紹介してやるよ。で、今回幻想郷に来たのもそういった連中だ」

「待て。ということはつまり……」

 

 外の世界ではもう妖怪の住める場所はほぼ存在しないと言っても良いと言われるほど、幻想が廃れてきたと聞いていた。

 そんな場所で今の今まで暮らしてきた神であるのなら――

 

「旦那の考えてることが正解だ。――外の世界でやっていけてた程の神が幻想郷に来た。オレも確信があるわけじゃないが、全盛期はオレら以上の力があったかもしれない相手だ」

「…………」

 

 せめて自分が死んだ後に来てほしいと思う信綱だった。いや、死んだ後にやってきて人里と御阿礼の子に害を為されてはたまったものではないが。

 

「と言っても、今どの程度の力を持っているかはわからん。妖怪が人間の畏れを糧にするように、神は人間の信仰心を糧とする」

「幻想郷に来た直後では力を発揮できないと?」

「それでもどのくらい戦えるかはわからんがね」

 

 面倒極まりない話である。ズキズキ痛み始めたこめかみを揉みながら、渋々口を開く。

 

「……引き受けた以上、役目は果たす。というか、最低限どんなものか確認しないと危険過ぎる」

「だな。スキマも気になっているはずだし、オレたちで相手の出方くらいは図っておこうや」

「面倒な……」

「旦那がただ腕っぷしが強いだけだったらオレも声かけないっての。ま、当日は頼んだぜ?」

 

 単純な力だけで言うなら、弾幕ごっこの実力も今の幻想郷で重要な以上、博麗霊夢や霧雨魔理沙も選択肢には入る。

 が、これに各勢力間の政治事情などを含めて立ち回れる人間、となると限られてくる。

 妖怪の山に関わることであり、すでに被害が出ている現状、天魔も常に自分が冷静でいられる自信はなかった。表面は取り繕っても言動に出てくるかもしれない。

 そういった状況であっても信綱は一切動揺することも逡巡することもなく、やるべきと判断したことを実行するだろう。

 敵に回すと恐ろしいことこの上ないが、今はその迷いのなさがありがたかった。

 

「わかった。俺も阿求様がいずれあそこの神社に向かう以上、情報は欲しかった。実際に目で見て判断できる機会があるならありがたい話だ」

「そう言ってくれると助かる。んじゃ行くか」

 

 話が終わったと判断した天魔が立ち上がり、信綱に手を伸ばしてくる。

 それに眉をひそめ、神社との会合は今日ではないことを確認する。

 

「話し合いは今日じゃないはずだぞ」

「さっき話に出たろ? 幻想郷にいる神ってやつを紹介してやるよ」

「……面倒なやつはいないんだろうな」

「今まで騒ぎを起こしてないだろ? つまりそういうことさ」

 

 人間のように一筋縄では行かないのだろうな、というこれまでの人生経験から来る嫌な確信を持って、信綱は大きなため息をつくのであった。

 

 

 

 

 

「妖怪の山で活動している神はオレの知る限りで三柱だ。厄神、豊穣神、紅葉の神」

 

 鬱蒼と茂る森の中。妖怪の山の一角である比較的なだらかな森林地帯を、天魔と信綱が慣れた足取りで進んでいく。

 神に会わせてやるという天魔の言葉に乗って、彼の案内を受けているところだった。

 

「八百万の神々というだけあるな。全て力はどの程度なんだ?」

「今までの騒ぎに乗じても何もできない程度だよ。信仰に依る必要も薄いが、発揮できる力も相応に落ちている」

「ある種の適応か」

 

 信仰が得にくくなった現代において、力を落としてでも他者の信仰心に依存しなくなった。

 それも一つの生存戦略である、と信綱は興味深そうにうなずく。

 

「今回は厄神に会いに行く。あいつは活動範囲もわかりやすいし、オレや旦那なら接して問題もないだろう」

「何か問題でもあるのか?」

「旦那は厄神についてどの程度の知識を?」

「人里でたまに行われる流し雛の儀式で、そこに込められた厄を受け取る神だと」

 

 流し雛の儀式とは雛人形に己の厄を乗せ、幸福を祈る儀式である。

 験担ぎと言ってしまえばそれまでで、阿礼狂いである火継の一族は特に関心を示していなかった。そもそも阿礼狂いなんて一族に生まれ落ちた時点で特大の厄を背負っている。

 

「それだけわかっていれば十分だな。あいつ自身は懐っこいやつなんだが……性質上、厄を身にまとう。人間も妖怪も下手に近づいたら厄が移るってんで、大体一人でいることが多い」

「俺やお前は大丈夫なのか?」

「会ってみればわかるよ。そろそろ……っと、いた」

 

 天魔が指差す方向を見ると、幻想郷ではやや珍しいドレスに身を包んだ少女の姿が見えた。

 頭には長く白い縁取りのされた赤リボンを付けており、ドレスの仄暗く赤い色合いも相まって――失礼なのだろうが、彼岸花を連想させた。

 

「…………」

「不吉な、って思ったんだろ? それが正解だ。とはいえ……」

 

 無言を貫く信綱の内心を代弁すると天魔は気安い調子で歩いていき、少女の前に姿を現す。

 

「よう、久しぶり」

「あら? 天魔じゃない、久しいわね」

 

 天魔の気楽な声に、少女も思いの外陽気な調子で返答する。

 厄を集める神ということで勝手に陰気な性格を想像していたが、どうやら性質と性格は別物らしい。

 阿礼狂いだからって誰もかれも遠ざけるわけではないのと同じようなものか、と一緒にされたことを知ったら訴えても良い内容を考えながら信綱も少女の前に歩み出る。

 

「天魔と……人間? なに、天狗さらいのおすそ分け?」

「おっかないこと言うなよ。旦那をさらうとかオレでも無理だ」

「じゃあどういう関係よ。ああ、人間さん。私に近づかない方が……んん?」

 

 年若い少女の見た目と、少女の細く高い声だが、不思議と老成した雰囲気を感じさせる少女だった。

 とはいえ妖怪の見た目があてにならず、人間の尺度に当てはめる意味の薄さは百も承知。

 信綱は怪訝そうな顔でこちらに顔を近づけてくる少女に、何も言わず彼女の好きにさせてやっていた。

 

「……な、会わせたい人間って言うだけあるだろ?」

「……驚いたわね。この人間自身のまとう厄はものすごく濃いのに、魂はこれっぽっちも厄に染まってない」

「どういう意味だ?」

「ああ、自己紹介が遅れたわね。あと不躾に近づいちゃって失礼」

 

 少女はくるりと優雅に回って信綱から距離を取ると、両手でちょこんとドレスの裾を持ち上げてお辞儀をする。

 その様子は神が人間にするそれとは思えない、敬意のこもったものだった。

 

「厄神の鍵山雛と言います。あなたみたいな存在に会ったのは天魔以来よ」

「お前の目で見て普通とは違うのか?」

「ええ――厄にまみれているのに、芯は染まっていない。人よりずっと重い厄を背負って、それを背負い切っている人の証拠よ」

 

 つまり自分は人より不幸が多かったのだろうか、と思いながら天魔を見ると彼は肩をすくめて笑う。

 

「……ま、長く生きてりゃ相応に悪いこともあるもんだ」

「禍福はあざなえる縄のごとし、とは言うけれど、それでもやっぱり人によって厄というのは違ってくるわ。あなたも天魔も、まとう厄はすごい濃さなのに、それを微塵も感じさせないほど二人の魂は眩しい。……人間の方は、少し違うけど」

 

 そう言って少女――雛は信綱を見ながら困ったように微笑む。

 初見で自分のことを阿礼狂いであると見抜いた事実に信綱はやや驚き、そして彼女に対して警戒と同時に敬意を抱く。

 

「……本当に厄神なのだな。人里での流し雛は知っていたが、あなたの力は半信半疑だった。疑っていたことを謝罪しよう」

「いいのよ、そんなにかしこまらなくても。それにあなたや天魔みたいな人が相手だと、私も厄が移る心配をしなくて良いから気楽なの」

 

 厄が移る、という言葉を聞いた覚えがあったため、信綱は説明を求めて天魔を見る。

 どうやら天魔と自分は彼女にとって似ている性質のようだ。おまけに彼女は天魔に対して気安く近寄っていく。そのことから察するに――

 

「大体考えてる通りだよ。こいつは人や妖怪の厄を受け取る性質を持つから、常にこいつ自身が厄まみれだ。だから迂闊に寄れば人間だけじゃなくて妖怪も厄を受け取ってしまう」

「でも、二人は気にしなくても良いわ」

「なぜ?」

「私と一緒にいることで移る程度の厄なら、全部自分の力で払ってしまえるでしょうし」

「おい待て。それだと俺が余計な厄介事を背負う羽目になると聞こえるんだが」

「今更だろ?」

 

 さも当然のように言ってのける天魔に殺意を覚える信綱だが、自分の人生に面倒事がなかったかと言われたらこれまた首を横に振らざるを得ない。

 誠に、誠に残念だが、彼女から厄を受け取ったところで信綱にしてみれば厄介ごとの種が増える程度の――要するにいつもどおりのことでしかないのだろう。

 

「それに私も話し相手ができるのは嬉しいわ。天魔も気楽に話せる相手だけど、色々と忙しいみたいだし」

「早いとこ隠居したいもんだけど、あの神社の様子ぐらいは見ておかないとな」

「ああ、最近来たあれ? あちらにも神様がいたのかしら? だったら近いうちに挨拶した方が良いかしら」

「調子に乗られても困るしやめてくれ。近いうちにオレと旦那で乗り込む予定だから」

「いい加減面倒事から解放されたいんだが」

「別に断っても良いんだぜ? 後の保証はしないけど」

「…………チッ」

 

 あけすけな天魔の物言いに、信綱は苦虫を千匹は噛み潰したような渋面で舌打ちをする。

 放置して悪い方向に物事が進むのは勘弁である。なぜってそうなった時の方が自分に降りかかる面倒事の規模が大きくなる。

 自分に来る面倒事が減ることを祈って霊夢たちを育てたのだが、一向に減る気配がないのが悲しい。

 だが、天魔はそんな自分の反応こそが期待していたものだと言うように手をたたいた。

 

「それだよ、旦那。誰も彼もいつだって計算で動けるとは限らないってのに、旦那は損得勘定ができすぎてる。野となれ山となれって考えができない」

「お前たち妖怪が騒動ばかり持ってくるからだろうが」

「ご尤もで」

 

 幻想郷の人間は苦労ばかりである、と信綱がため息をつくと横合いからクスクスと鈴を転がすような笑い声がした。

 声の方向を見やると、雛が楽しそうに口元を押さえて笑っている。

 

「うふふ……口ではそう言っているし、実際に嫌いだとも思っているけれど、あなたは妖怪を憎んではいないのね」

「憎んで大人しくなるならいくらでも憎悪するがな」

 

 雛の指摘に信綱は気負った様子もなく同意する。

 騒動を起こす妖怪は嫌いだし、自分の主を害そうとする輩がいたら生きていた痕跡すら消し去るほどに憎悪するだろう。

 だがそうでない妖怪もいることを信綱は知っているし、彼女らまで一括りにする理由もなかった。

 そもそも妖怪全体をまとめて憎悪するほどの強い感情など、阿礼狂いとして見れば余分な機能でしかない。

 無論、それはそれとして人里を巻き込む程の騒動を起こした妖怪は殴り倒すが。

 

 その答えを聞いて雛はますます機嫌を良くしたように、笑みを深くする。どうやら信綱の答えはお気に召すものだったらしい。

 

「ふふっ。その考え方、とても素晴らしいと思うわ。天魔もそう思うでしょう?」

「さて、どうだろうね。旦那の見方はある意味恐ろしく平等で、公平だ。付き合いの短いものよりは付き合いの長いもの。善行と悪行なら善行。良いことをしている人には優しく、悪事を働いた人には厳しく」

「…………」

「間違っちゃいない。むしろそれが正しい評価の形だ。――だけど、それだけで世の中が全部回るか、ってなると話は別だ」

「……続けろ」

「人と人ならそれで良いさ。――それ以外の場合は?」

「事故、天災の類か」

 

 信綱が天魔の言葉を先んじると、二人の話を聞いていた雛は天魔の言いたいことがわかったのか、コクコクと小さく首を縦に振っていた。

 

「その通り。旦那はそういった災害を経験したことはないか?」

「人里全体が巻き込まれた、となると妖怪の異変が一番大きいな」

「それも人間にとっちゃ一種の災害だが――ここでの災害は自然とかそういったものになる。

 こっちは厄介だぜ? ――なにせ誰も悪くない。妖怪が悪事を働いたわけでも、人間が罪を犯したわけでもない。誰もが日々を慎ましく生きようとしているところへ理不尽にやってくる」

「…………」

「だが……そういった災害を割り切れるやつは少ない。疲弊もあるだろうし、財を失うこともある。家族が死ぬことだってある。そんなとき、人間はどうする?」

「……誰か、自分以外の何かに怒りをぶつけるのだろうな」

 

 ――正直なところ、御阿礼の子が無事なら誰がどうなろうと揺るがない自信はあった。

 知り合いや親友の家族が死ねば残念には思うだろうが、それだけだ。誰を怒っても意味がないのなら、それをする理由がない。

 それでも天魔の言葉に理解を示したのは――きっと、信綱の内にある人間性が答えてくれたのだろう。

 そして天魔は信綱の言葉を聞いて、そのとおりだと手を叩く。

 

「ご明察。――じゃあ、憎まれ役ってのが必要になるよな?」

「…………」

 

 いきなり災害に話が飛んだため意図が読めていなかったが、雛の表情を見てようやく理解が追いついてきた。

 信綱は静かな表情で口を開いた。

 

「もう大体読めた。そも、厄なんて人間にも妖怪にも見えない何かを集める神がいる時点で理解すべきだった。お前の言いたいことはそういうことだろう?」

「さすがにわかるか。――神ってのはだいたいそういうものだ。人間にも妖怪にも知覚できない概念、理不尽、そういったものを人形に押し込んだものを指す」

 

 天魔が妖怪の山で活動している神を話した時に疑問に思っているべきだったのだ。

 厄神、豊穣神、紅葉。――どれも具体的に目に見えるものではないものを司っている。

 雛や他の神々は力を落として幻想郷で生活している。力を落としていると言っても、流し雛の儀式などから見るに一切力を振るえないという程でもないのだろう。

 

 では――今まで外の世界でも生活できていた神というのはどれほどの力を持っているのか。

 

「……おい、天魔」

「ま、そういうことだ。オレもどんな神かまではわかってないから出たとこ勝負になるが、それなりにヤバい神が相手になると思っていた方が良いぜ」

「…………全く」

 

 吸血鬼、天狗、鬼、花の妖怪だけで自分の人生の山場など十分だというのに、騒動は向こうからやってくる。

 きっと、いや絶対一筋縄ではいかないと予測される近未来の光景がありありと想像できてしまい、信綱は大きなため息をこぼすのであった。

 

 

 

 

「ううん、あの人のまとう厄が一層濃くなったわ」

「騒動を持ってきたオレにもわかるな。雛が吸ってやったら多少は楽になるんじゃないか?」

「必要ないわよ。それぐらいで曇るような魂じゃないもの」

「ほう?」

「むしろあれね。嫌よ嫌よも好きのうちというか、天魔の力になれることを嫌がってる感じじゃないわ。騒動が自分に寄ってくる間の悪さは嫌いだけど、その騒動で知り合った人たち自体は嫌ってないわね」

「ほう、ほうほうほう?」

「良く言えば罪を憎んで人を憎まず。悪く言えば物事への無関心。彼自身は間違いなく全ての物事はどうでも良いと思ってるけど、周囲の人々はそうじゃないってわかっているから請われれば力を貸すし、それで喜んでくれるのは嫌いじゃないって感じかしら」

「なるほどなるほど。さすが腐っても神さま。人間観察はオレ以上か」

「腐っても、は余計よ。私は特に厄を見るから人を見る機会も多いってだけ。……あら、人間さん? なんで私の方に近づいてくるのかしら?」

「…………」

「待って。ねえ待って。その私の頭ぐらいなら握りつぶせるように開かれた手はなに? 落ち着いて、落ち着いて話し合いましょう? ほら、天魔もなにか言って――もういない!?」

「じゃ、話し合いの時になー」

「ああっ、飛び去った! ちょっと人間さん! 彼はどうでも良いの!? 好き勝手言って逃げちゃったわよ!!」

「…………」

「ご、ごめんなさい! ちょっとあなたみたいな人に出会えたのが本当に久しぶりだから、興奮しちゃったというか厄神としての領分を越えた部分まで見ちゃったというかついうっかり話し過ぎちゃったと言うかストップ! わ、私に触れると厄が移るから頭を握りつぶすように持つのはやめて!?」

「……別に今更厄が一つ二つ増えたところで大差ないのだろう」

「そうねその通りね私が言ってたわねアアアアアアァァァア!!」

「人が頭を悩ませてる横で好き放題言ってくれたな、ん?」

「あああぁぁぁごめんなさいぃぃぃ!?」

 

 頭を握られ、ジタバタと暴れる少女を見下ろしながら、信綱はまた面倒そうな奴と知り合ってしまった、と顔をしかめるのであった。

 

 

 

 ……これ以降、山で過ごしている信綱の前にちょくちょくこの懐っこい厄神がやってくるようになって、それに呼応したように他の神も姿を現すようになるのだが、それはまた別の話である。




Q.なんの前触れもなく妖怪の山にドカンと神社と湖が幻想入りしました。天魔の取りうる行動を答えよ。
A.戦争準備しつつ話だけは聞きに行く。相手の態度次第じゃ開戦不可避。ただそれやっても旨味が少ないので第三者(ノッブ)を巻き込みつつ対話の方向性も探る。

Q.雛に絡まれても厄は移らないの?
A.所持厄10000のやつに1の厄が移っても誤差やん?

ということでノッブが存命な状態での風神録編になります。早速神さまに絡まれるけど頑張れ(他人事)

本当なら風神録編を全編書き上げて不意打ち二段構えにしたかったんですけど、折り悪く仕事が忙しくなるなどで間に合わなかったのが心残りです。書き溜めてあるものと私がこれから書くものでもう少しだけ拙作の更新は続きます。

風神録が終わった後? 後のことは後で考えます(震え声)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

守矢神社の祭神

書き溜めはまだある……!


 まだ日も昇りきらぬ明け方の時間。信綱は妖怪の山を一直線に登っていた。

 足取りに迷いはなく、自重もない。木々から木々へ飛び移りながら登っていく姿はおよそ人間のそれとは思えない動きである。

 

 そんな動きを維持したまま信綱は河童の集落を抜け、天狗の集落に足を踏み入れていく。

 朝方の時間に哨戒する天狗もいるのだが、特に彼らの目をごまかすことなくある家に向かった。

 以前、当人より受け取っていた鍵を使い、扉を開いて中に入ると家主の微かな寝息が聞こえてくる。

 

「…………」

 

 ずかずかと中に入り、寝室に到着する。

 信綱が見下ろす少女はここまで自分が接近したというのに、未だ安らかな寝息を立てて夢の世界に旅立っているようだった。

 はぁ、と小さく息を吐いて信綱は布団を思いっきり捲り上げることにする。

 

「――起きろ、椛」

「むにゃ……ふぁ?」

 

 布団がなくなって肌寒さを覚えた少女――椛の目が薄っすらと開き、信綱と目が合う。

 八割以上眠りの世界に飛び立った様子のまま上体を起こし、椛は首をかくかくと縦に振る。

 

「ぁー……夢ね」

「夢じゃない。いい加減起きろ」

「痛っ!? この耳の引っ張り方は……うえぇぇぇ!?」

 

 彼女の目が自然に覚めるのを待つ理由もなかったので、眠気を表すように垂れていた耳を容赦なく引っ張る。

 それでようやく彼女の目が覚め、理性の光を宿した瞳が改めて信綱を見直し――今の状況を把握した。

 

「な、な、な、なんで君が私の家に!? というかなんでこんな時間に!? え、夜這い!?」

「そんなわけあるか。頼みたいことがあってきた」

「こんな朝っぱらに来るような用事ですか!?」

「まあな。天魔からも許可は取ってある」

「……天魔様からも? え、また何かやるんですか?」

 

 椛の言い分を聞くと自分が常に何かをやっているような気がしてくる。自分はいつも巻き込まれた問題に対処しているだけだというのに。

 最近とみに機会の増えているため息をもう一度ついて、信綱は話をすることにした。

 

「詳しい話は後でしてやる。だから早く着替えたらどうだ」

 

 信綱の言葉を受けて椛が自分の身体を見下ろすと、寝乱れた寝間着が起きて早々に動いたことでかなり際どい部分までめくれ上がっていた。

 自分の現状を把握した椛が顔を真っ赤にして信綱の方を見る。普段と変わらぬ無表情にどこか安心するような腹が立つような。

 怒ったところで信綱は椛の感じている羞恥はわからないだろうし、わからない彼に逐一説明をすることになったらもはや一種の拷問である。

 寝起きからドッと疲れた気持ちになりながら、椛は肩を落としてつぶやいた。

 

「……着替えるんで外で少し待ってください」

「わかった」

 

 意外なほど素直に出ていく彼の背中を目で追って、椛はもう一度ため息をつくのであった。

 

 

 

 

 

「……という次第でな。俺はこの後山に来た神社に行く」

「はぁ。確かに天狗の方でも騒ぎになってましたけど……まさか人里の君が真っ先に行くとは思ってませんでした」

 

 椛の家の居間にて、腕を組んで壁に寄りかかった信綱が椛に事情を説明していた。

 見慣れた天狗の哨戒装束に着替えた椛は、朝のお茶を片手に信綱の話を聞いている。

 

「で、俺が頼みたいことは二つだ」

「拒否権は?」

「天魔からお前を好きに使って良いという許可ももらってある」

「私の自由はどこに……いえ、君が私に頼みたい事情もなんとなくわかるんで良いですけど」

「ふむ、言ってみろ」

「君がいない間の阿求ちゃんと、あと山の神社から誰かが来たら見て欲しいってところでは?」

 

 合ってますか? という視線を向けられたため、信綱は正解だと首肯する。

 

「そんなところだ。何もないとは思うが、念には念を入れたい。俺も神社に行くのと阿求様のお側にいるのを同時にはできない」

「阿求ちゃんを優先するのが君では?」

「……阿求様にも頼まれている。俺だって阿求様のお側に居られるならそっちを選んでいた」

 

 御阿礼の子の意思を最優先するのが阿礼狂いだ。

 無論、本心では彼女の側にいたい。しかしその彼女が山の神社に興味津々である以上、是非もない。

 とはいえそれで彼女の護衛がなくなるのも問題がある。普段なら気にしないところだが、相手がどんな存在なのか殆どわかっていないのだ。用心に用心を重ねたかった。

 

 そんな信綱の心境も含めて椛に説明すると、彼女は相変わらずだと言わんばかりの困った笑みを浮かべた。

 

「本当に君は変わりませんね。それで私を引っ張り出したわけですか」

「他の連中には任せられんし、どうせなら千里眼を持つお前が適任だと思っただけだ」

「信頼してもらえている、って受け取ります。じゃあ朝ごはんを食べたら阿求ちゃんのところに向かいますね」

「頼む」

 

 話が終わったと思った信綱が口を閉ざすと椛は椅子に座って湯呑を持ったまま、信綱に何かを期待するような視線を向けてきた。

 

「…………」

「…………その目はなんだ」

「朝ごはん、作ってください」

「…………」

「あ、嫌そうな顔。阿求ちゃんに私がいきなり叩き起こされたこと、言っちゃいますよ?」

「お前にそんな遠慮する必要もないだろう」

「じゃあこれが今回の対価、ということにします。君だって私が無償で動くとは思ってないでしょう?」

「…………」

 

 正直な感想を言えば、このまま無視して戻っても椛は役目を果たしてくれるだろう、とは思っている。

 思っているが、多分その方が後で彼女の機嫌を取るのが面倒になる。あまり怒る方ではないが、怒らせると長引くのだ。なまじ付き合いも長いからご機嫌取りも見透かされてしまう。

 自分の都合に巻き込んだ対価が食事を作る程度で良いのなら安い方だろうと、信綱は自分を納得させることにした。

 

「……わかったよ。ありあわせでいいな?」

「美味しいのを作ってくださいね?」

「やると決めたことで手は抜かん」

 

 袖をまくりながら台所の方へ消えていく信綱の背中を見て、本当にいつ見ても真面目だなあと椛は笑いをこぼす。

 頼み事をする時は大体無茶振りばかりで、しかも前振りも何もなしに急なものばかりだが、それを仕方ないなと思って受け入れられる程度には、彼への信頼もあるのであった。

 ……なお、手は抜かないという彼の言葉は本当だったようで、どこにこんな食材があったのかと家主である椛が聞きたくなるような品目数の食事が出てきて、また笑うことになったのは別の話である。

 

 

 

「では頼んだぞ」

「頼まれた以上、きちんとやらせてもらいます。お任せください」

「俺は神社の方に行く。多分、おそらく、いやきっと、何事もなく戻って来れると信じたい」

「自分の言葉にぐらい自信を持ちましょうよ……」

「お前から見て、俺は何事もなく帰ってこれると思うか?」

「あはははは……」

 

 笑うしかないという椛の顔が何よりの答えだった。

 信綱もあまり期待はしていなかったので怒りもしない。ただ自分の人生のままならなさにため息をつくだけである。

 出来事が何一つ願い通りに進まないなら、自分の力で操るしかないのだ。今までと何も変わらない。

 

「阿求様の方は任せた」

「わかりました。最後に一つ聞いてもいいですか?」

「……なんだ」

 

 椛の質問が予想できたのか、信綱は露骨に嫌そうな顔になる。

 しかしその程度で怯むような付き合いではなかったので、椛は笑ってその言葉を紡ぐ。

 

「どうして私を最初に頼ったのか、聞いてもいいです?」

「……言わなくてもわかるだろう」

「君が私を頼ってきた時くらいしか聞けませんからね」

「……一番信頼できるのがお前だからだ。阿求様を一時でも預けられるのはお前しかいない」

 

 観念した信綱が自身の感情を素直に話すと、椛は照れたように頭をかく。言わせたのは彼女なのに、いざ言われると恥ずかしいようだ。

 

「……やっぱり慣れませんね。こういうのはたまに聞くくらいがちょうど良さそうです」

「言わせたのはお前だろうに」

「君だっていつも言うのを嫌がるじゃないですか。同じですよ」

「三つ子の魂百までと言うだろう」

「君は本当に百まで生きそうですけどね。――阿求ちゃんは任されました、君は君のやるべきことをやってください」

「そうさせてもらおう」

 

 椛の見送りを背に受けて、信綱は再び山の神社への道を歩き始めるのであった。

 

 

 

 

 

 一旦天狗の居住区から山を下り、中腹あたりまで戻っていく。

 河童の住処よりやや高く、天狗の住処よりやや低いその場所は、今や広大な湖と大きな神社が占領していた。

 

 山の上から来た形になるので参道などを無視することもできるのだが、今回は公人として会合に参加する身。多少の遠回りになろうとも、石段から登って参拝するのが筋だろう。

 相手が本物の神であるかどうかの前に、初対面の相手にこちらから礼を失するのは無礼ではなく不誠実である。

 いきなり不躾にやってきたのは向こうであるのだが、そのように考える辺り本当に生真面目だと椛が聞いたら笑ってしまいそうな思考の元、信綱は石段の元まで下りていった。

 

 山の獣道の途中から、綺麗に整備された石段が予兆もなく顔をのぞかせることに強烈な違和感を覚える。

 このような形で土地そのものが幻想郷に入ってくると、既存の地形に上書きをする形になるということを初めて理解する信綱だった。

 歓迎するのなら道の整備は必須だな、と信綱は今考えるべきことではないものをつらつらと考えながら、石段を登り始める。

 まだ日は昇りきらず、人々が朝の作業を始めていく頃合い。そんな時間を見計らってか神社の方から人影が一つ、人里の方へ飛んでいく。

 

「む……」

 

 向こうとて天狗と話し合いをするのが今日であるという情報ぐらいあるだろう。なのに今日、人里に人を送るか、と信綱は少々驚いたという風に眉を動かす。

 が、そちらは考えても詮無きこと。すでに椛を人里に向かわせているので、彼女がどうにかしてくれると信じるばかりだ。

 別に問題はないと考えていた。むしろ初対面の人を相手にするには、人懐っこい部分のある彼女の方が向いているのではないかと思うくらいである。自分はどうにも威圧感を与えてしまうらしい。

 

 ともあれ自分は自分の役目を果たそう、と思考を切り替えて再び石段を登り始めると頭上に小さな影が差す。

 

「おや、人間がやってくるとは。私はてっきり話し合いには天狗だけが来ると思っていたよ」

「…………」

 

 視線を上げると、石灯籠の上にしゃがみ込んで信綱を見下ろす少女の姿があった。

 逆光のため顔立ちなどは見えないが瞳は舐るように信綱を捉えており――その姿に言い知れぬ感覚が生まれる。

 これが人と神との明確な違いなのかはわからない。わからないが、信綱が最初に抱いた直感を話すならば、それは――舌なめずりしている獣を連想させるものだった。

 

「……貴殿がこの神社に住まう神か?」

「こんな辺鄙な場所に来る人間だ。さすがに知っているか。ま、自己紹介は後にさせてもらうよ。どうせ集まった時にやるんだし、二度手間は面倒だ」

「そうだな。一応、立場だけ先に言っておくと自分は人里の代表であり、今回の話し合いの見届人だ」

「天狗と神の話し合いで、火の粉が飛んできても困るってわけか。うんうん、実に人間らしく小賢しい手だ」

 

 嘲るように言う少女だが、その口ぶり自体に嫌悪はなかった。ただ当然のように人間が下である、という認識に基づいているだけなのだろう。

 特に気分を害することもなく、信綱は再び石段を登っていく。妖怪など人外の化生は基本的に人間を見下すのだ。いちいち目くじらを立てていたら身が持たない。

 ……人間を見下そうが尊敬しようが、ちゃんと共生して利益をもたらしてくれれば良いのだ。被害をもたらすなら容赦なく叩き潰すが。

 

 少女は信綱の隣に降り立つと、頭の後ろに手を組んで一緒に歩き始める。かぶっている市女笠にある目玉のような飾りがぎょろりとこちらを見つめてきた。

 

「……別に面白い話はできないぞ」

「期待してないって。ただ、どうやって来たのかは気になってる。まだ詳しくないけどさ、ここらへんが人間の生存域じゃないってことぐらいはわかるよ」

「天狗の側から請われてここにいる。道中の護衛ぐらいは付けてもらった」

「なるほど。んで、今は人間一人だけ、と」

 

 少女はふわりと浮かび、信綱の前に来ると小さな手で信綱の顎を持ち上げる。

 

「じゃあ今、私が気まぐれを起こせばお前の命はあっさり消えるわけだ」

「俺が戻ってこなかった場合、人里はお前たちとの取引に一切応じないよう話を付けてある」

「だったら操るって手もあるさ。八百万の神って言うだけあって、神にもそれぞれ性質や司る力に差がある。人間を操る力だって存在するよ?」

 

 禍々しく笑い、長い舌で舌なめずりをする少女を無表情に眺めながら、信綱はこの少女が絶対にロクでもない性質の神であると確信する。

 先日会った厄神など可愛いものだ。これは間違いなく人間に害を成す邪神の類だ。

 信綱はこれみよがしにため息をつくと、少女の手を払って再び歩き出す。とりあえず人間を脅したいだけの相手などこれまでいくつ相手にしてきたと思っているのか。

 

「あぁん、無視しないでってば。こんな風に私を見て話せるやつなんて久しぶりだからつい楽しんじゃったんだよ」

「お前の都合に付き合う義理はない。それに弱みを握っているというならお互い様だ」

「うん?」

「――山の神社から人里に来る者がいたら目を離さないよう指示してある。これ以上の言葉は必要か?」

 

 椛に見ておくよう頼んだだけで、実際に来たらどうするかとかは彼女に一任しているが、とりあえず下に見られるのも面倒なので釘を差しておく。

 少女の不敵な笑みが一瞬だけ消え、すぐに取り繕われるが信綱は見逃さなかった。

 

「さすが。長生きしているみたいだし、年の功ってやつかい?」

「お前たちみたいな輩の相手をすることが多かっただけだ」

「ふむん? まぁこれ以上話しすぎても後の楽しみがなくなるか。じゃぁ、人間――今度は天狗も交えて話そう」

 

 そう言って少女は今までの態度に似合わない、無邪気な笑みを浮かべて神社の方へ戻っていく。

 その姿を見て信綱は少女への評価を多少変えることにする。

 あれはほぼ確実に真っ当とは言い難い性質のはた迷惑な神だが――邪神ではない。

 今の笑顔を見て確信した。あれはおそらく人間に推し量ることが不可能な自然や何かの具現化と見た方が良い。そも、神を正邪善悪で図ること自体が無為である。

 

 しかし、と信綱は肩を落として大きく息を吐く。

 

「この歳になってまた面倒なやつと知り合うことになるとは……」

 

 しかもなんか懐かれそうな気配があって怖い。意図して嫌われるつもりはないが、好かれる態度だとも思っていないのだが。

 気を取り直し、今度こそ石段を登り終えて神社に向かう彼の背中はどこか哀愁が漂っているのであった。

 

 

 

 

 

 神社に到着すると、玉砂利の敷き詰められた参道と丁寧に磨かれた石畳の向こうに佇む本殿が信綱の視界に入る。

 石段を登っていたときから思っていたが、博麗神社とは普段の手入れに雲泥の差があると言わざるを得ない。霊夢にも自分の住まいなのだから綺麗にしろと日々言っているのだが、相変わらず彼女は自分の居住区以外は適当である。

 

「…………」

 

 どこに行ったものかと顎に手を当てて考える。

 霊夢のように居住区は別にあると考えるべきだろうが、話し合いはどこで行われるのか。神が相手である以上、本殿でやる可能性もある。

 と、信綱が思考していると本殿の方から人影が出てくる。紙垂のついた大きな注連縄を背負い、幻想郷全てを睥睨するような不敵な笑みを浮かべる少女だ。

 

「む、来たか。諏訪子から人間が来たとだけは聞かされていた」

「……貴殿もこの神社の?」

「本命として祀られている祭神って意味なら我がそれに当たる。諏訪子とも色々と事情があってな」

「その辺りは今回の事情とは関係がなさそうだ。――此度の天狗と貴殿の会合、人里の代表として立会人を請け負った、火継信綱と申します」

「八坂神奈子だ。我が守矢神社初めての人間の来訪者だ。歓迎しよう」

 

 ついてこい、と八坂神奈子と名乗った神は大仰な仕草で背を向けると居住区の方へ足を向けていく。

 その後ろに続いて綺麗に掃除された廊下を歩いていると、神奈子が背中越しに声をかけてくる。

 

「天狗の方はすでに到着済みだ。後は人間、ということでお前を待っていた」

「…………」

「はは、そう警戒するな。諏訪子から脅されでもしたんだろう? 全然怖がってくれないと不貞腐れていたぞ」

「怖がる理由がない」

「見た目か? それとも経験か?」

「慣れた。人間を脅かして楽しみたい妖怪ばかりでな」

「ははははは! さぞかし山あり谷ありの人生だっただろう。我が守矢神社を信仰すればそのような輩からも守ってやろうではないか」

「間に合っているので気持ちだけありがたく」

「むぅ」

 

 不服そうな声を漏らしながらも神奈子の歩みは止まらず、ある部屋の前で止まる。

 

「すでに諏訪子も天狗も待っている。お前が入ってきたら会合を始めようと思っていた。用意は良いか?」

「悪いと言ったら待ってくれるのか?」

「それはお前の用意が足りないと言うだけだ」

 

 そう言って小さく笑い、神奈子はふすまを開く。

 先ほど会話した少女がやってきた信綱を見て手をひらひらと振ってくる。

 そして天魔も信綱を一瞥だけしてきた。表情は固く、普段から見ていた飄々とした雰囲気は鳴りを潜めている。

 神奈子に示された場所に座ると、神奈子が手を叩いて視線を自身に集めた。

 

「さて、役者は揃ったことだし始めようじゃないか。まずは自己紹介と行こう。我は八坂神奈子。そっちは洩矢諏訪子。共にこの守矢神社の祭神だ」

「ま、私は隠居してるようなもんだけどね。メインは神奈子の方だよ」

「そう言うな。ここに来た以上、お前にも祭神として働いてもらうぞ」

「わかってるよ。外の世界からこうしてやってきた以上、第二の神生ってやつを楽しませてもらおうじゃないの」

「我も同じだ。外の世界は信仰が消え、祈りの代わりに科学が台頭した。我としても住みよい場所の方が都合が良いので、移住した次第である」

 

 ふむ、と信綱は二柱の神の言い分を紙にしたためていく。記録にも残しておいた方が後で阿求に話す時にも便利だろうと思ってのことだ。

 神々が幻想郷に来た理由としてはおおよそ信綱や天魔の予想通りと言えた。身も蓋もないことを言ってしまえば外の世界でやっていけないから幻想郷に来た――つまり人間たちから放逐された妖怪と何ら変わらない。

 

 なので信綱としては彼女らを特別扱いするつもりはなかった。これまでの妖怪と同じように、利益をもたらしてくれるなら歓迎するし、被害をもたらすなら相応の対応に出るだけである。

 

 信綱は一通り思考をまとめると、天魔の方を見る。

 部屋に入った時は硬い表情をしていた天魔だが、今見ると彼は普段どおりの飄々とした空気を出しながら片肘をついて二柱の言葉を聞いていた。

 尤も、内心をすでに彼自身の口から聞いている信綱には激情を抑え込んでいる姿にしか見えなかったが。

 

「ん、そっちの紹介と幻想郷に来た理由は終わりか。じゃあ次はオレだな。――妖怪の山を治めている天狗の頭領、天魔だ」

「それは称号だろう? 名前があるはずだ。神に名乗れぬか?」

「千年前から天魔を名乗ってんだ。もうこっちの方が馴染んでる」

「ならば我らも天魔と呼ぼう。では最後に人間か」

 

 三者三様の視線が信綱に向けられる。

 信綱は走らせていた筆を一度止め、三人の視線を一身に受け止めながら口を開く。

 

「此度の会合の立会人を請け負った人里の代表、火継信綱だ。会合を始める前に言っておくが、この場での立場は皆公平。双方、常に冷静に話し合いに臨むように。議論が白熱することは結構だが、乱闘沙汰はご法度とする」

「もしも乱闘が起きたら?」

「俺が止める。あくまで今回は話し合い。戦うのが目的ではない」

「勇ましいことで。本当に危なくなったら私らにすがっても良いんだよ?」

 

 諏訪子の言葉に信綱は肩をすくめるだけで答える。

 自分が止めるというのは比喩でも何でもない。持ってきてある刀でその首を落とし、物理的に静かにさせることを指す。

 天魔は気づいているだろうが、部屋に入った時点で全員が信綱の間合いにいる。怪しい素振りを見せたら即座に首を落とせる状態だ。

 

「では双方ともに実りある話となることを願う。――始めてくれ」

 

 信綱の言葉とともに会合が始まり、真っ先に天魔が口を開いた。

 

「そんじゃオレから言わせてもらおうか。――正直、天狗はおたくらをぶっ殺したいって連中が大勢だ」

「ほう?」

「そうだろ? 挨拶もなしに人様の領域に乗り上げてきて、しかもやってきた連中はそんなこと気にした素振りもなくよろしく、と来た。あんたらだって同じことされりゃぁ、報復に出なけりゃ面子も立たない」

「言うじゃないか。じゃあ私らをこの場で殺すかい? 天狗にそれができるとでも?」

「神の性質はオレも把握している。むしろ質問させてくれ。――信仰もなにもない今のあんたらがオレらを相手にできると思ってんのか?」

 

 信仰を得たらわからなくなる。だが、今なら殺すのは容易である。

 そんな意図を含ませた天魔の言葉を受けて、二柱の神から怒気が立ち上る。

 信綱は三者のやり取りを見ていて、呆れたようにため息をついて口を開いた。

 

「――天魔、少々煽りすぎだ。あまりこちらに火の粉が飛んでこられても困る」

「……っと、失礼。どうも冷静じゃなかったな」

「ん? 人間と天魔は知り合いなのかい?」

「言ってなかったか? 旦那の立会はオレが頼んだことだよ」

「おいおい、それじゃ公平とは言えないだろう?」

「俺は人里の利益で物事を考えているから安心しろ。――とはいえ、どちらも同程度の利益なら付き合いの短い方と長い方。公平(・・)に考えるなら長い方を優先するが」

 

 神々の怒気が信綱にも向けられるが、気にも留めない。

 そもそも――いきなり人の住処にやってきておいて、謝罪もなしに住民として扱ってほしいなど、それを認めたらそれこそ今まで幻想郷で暮らしてきた者に不公平である。

 幻想郷に来たこと自体を拒否するつもりはない。管理者である八雲紫の意向でこの場所は来るものを拒まない。

 だが、それは幻想郷に来ることだけであり、この場所で暮らしていくこととは違う。

 

 これからも同じ場所で顔を突き合わせる相手に不義理を働いて、何のお咎めもなしというのは筋が通らない。

 かつてやってきたレミリアたちも、その行いに対して信綱と先代の巫女が出張って彼女を退治しているのだ。あれも幻想郷に害を為して、退治されるという過程を経て幻想郷の一員となっている。

 

「別に即物的な利益なんて求めちゃいないさ。外の世界から来たばっかなんだし、ほとんど着の身着のままみたいなもんだ。――けどな、やってきたのはそっちで、被害を受けたのはオレらだ。まずやるべきことがあるんじゃないのか」

「……神に頭を下げろと?」

「今後の付き合いに持ち込むほど根腐れしちゃいねえよ。ただ、最低限そこはやってもらわんと付き合いも何もなくなるってだけだ」

 

 立場の上下を知らしめたいわけではない。そんなのは付き合いが始まってからのやり取りで決めていくことだ。

 しかし、まず被害を受けたものと与えたものの構図がある限り――その精算は行わなければ、付き合いを始める段階にすら到達しない。

 すなわちここで相手の誠意が見えないと判断した場合、天魔は躊躇なく彼女らを殺すということだ。今後の付き合いもないというのは、そういうことである。

 

「これでも譲歩してる方だぜ? そっちがやってきたことで住処を追われた妖怪も少なからずいるんだ。オレは妖怪の山を統治する者として、オレの庇護下にいる奴らの面倒を見る義務がある」

 

 信綱は腕を組んだまま、天魔を盗み見る。

 口調こそ飄々としたものだが、彼の瞳に今この瞬間にも燃え盛りそうな激情が秘められているのを信綱は読み取っていた。

 読み取っていたが、まだ大丈夫だろうとも思っていた。これ以上抑えられないようなら、改めて自分が止めに入るだけである。

 

「さて、そちらの返答は如何に。神の性質はオレも知っているが、ここは幻想郷。外の世界でやっていけなくなった者たちの最後の楽園だ。ここいらで一つ、度量ってやつを見せてはどうかい?」

 

 その言葉を受けてか、二柱の神々は呆気に取られたようなポカンとした顔になり、次いで得心した笑みが浮かぶ。

 なるほど確かに。外の世界でままならないからこちらに来たというのに、外の世界と同じやり方をして上手く行くはずもない。

 それにこの場所では彼女ら二柱を知るものなど皆無に等しいのだ。ならば神の在り方を自身で崩すのも一興と言えよう。

 

「成程、道理だ!! ここに来た以上、外の世界の常識だった妖怪や人間、神の関係は捨て去るべきか。確かに天狗が人間を立会に使うなんて光景を見ているんだし、今更我――私らが神と人の関係にこだわる理由も薄い。――不躾な来訪すまなかった、幻想郷の住人たちよ! しかしこちらにも事情あってのこと、寛大な処遇をいただきたい!」

「謝ってんのか開き直ってんのかよくわかんねえなこれ。つっても、神さまからここまで引き出せりゃ十分か。旦那はどうする?」

「お前が許すのなら許せ。許さないのなら許すな。お前の選択と行動を見届けよう」

 

 当事者でない信綱は二柱の神に思うところなどないのだ。頼まれた立会人としての役目に則り、話し合いの行く末を見届けるだけである。

 どこまでも生真面目に役目を果たそうとする信綱に天魔は笑い、皮肉げに唇を釣り上げて神奈子と諏訪子を見た。

 

「――良いぜ。規模はでかくなっちまったが、これもまた妖怪の山に訪れた変化と受け入れよう。オレから提示する条件は一つ。この場所に来たことで住処を追われた連中が騒ぎを起こしたら、オレたちと協同で解決策を探ること、だ」

「対等な条件で話せると考えても?」

「拒否権はないってこと以外はな。対等な関係でいたいんなら、そっちの尻拭いはそっち主導だ」

「道理だね。天狗が協力するのは?」

「頭が部下の面倒見るのは当然だろ?」

 

 一瞬の迷いもなく言い切る天魔の姿に、彼の度量の深さを改めて感じる信綱。

 自分だったら彼女らをしばらくは無償でこき使う契約かなにかを取り付けているところだ。そうしなければ割に合わないだろうし、他の人間たちを静かにさせる方便が立たない。

 信綱と天魔が話していると、雰囲気を威圧感のあるそれから親しみの持てるもの――おそらく素の態度――に変えた神奈子が話しかけてきた。

 

「助かるよ。今更取り繕うつもりもないし、話せと言われれば全部話すけど私らものっぴきならない事情ってやつがあってね」

「神奈子、良いの?」

「協力する方向にかじを切ったんだし、とことんやるべきよ。この場面で中途半端は悪い方向にしか転がらない」

「まあ同感だけどね。しかし人間も人が悪い。神を相手にあんな啖呵が切れるんなら私のことなんか無視してもいいのに」

「どんな相手かもわからないやつに自分から礼を失するのは、増やせる味方を減らすだけだ。……それで、二柱はそちらの事情を優先しつつもこちらと協調してくれる、という認識でいいか」

 

 二柱の神々からの首肯が返ってきたため、信綱は一旦肩の力を抜く。最悪の結末は避けられたと見て良いだろう。

 次に懸念すべきは彼女らが天狗たちにどう受け入れられるかだが――そこは天魔の采配次第だった。

 

「……天狗は大丈夫か? 一方的にやられておいて謝罪のみで許した、では不満が溜まるだろう」

「手は考えてあるから安心してくれ。そっちに迷惑は……極力少なくする」

「おい」

 

 多少は人里に被害が及ぶかも知れない、という天魔の言葉で大体何をやるのか読めた信綱が呆れた目を向けるが、天魔は苦笑いをするばかり。

 

「想像通りだと思うが、ここが限界だぜ? さすがにオレもこれ以上天狗を抑えつけるのはキツイ」

「……まあ、今までを考えると妥当ではある、か」

 

 スペルカードルールが施行されてから、天狗が表立った動きを見せたことは皆無と言っても良い。

 すでに紅魔館、冥界、鬼、迷いの竹林といくつもの存在が異変を起こす中、それでも天狗は動きを見せなかった。やったのはせいぜい新聞を作って情勢を煽ったり広めたりした程度。

 

「ここいらでオレらも幻想郷の一員ってことを思い出させないとな。その意味じゃ、この二柱の神が来たのはありがたい話だ」

「なんだい、さっきから二人の世界を作っちゃって。私らを利用する算段でもつけてるのかい?」

「そっちにも悪い話じゃない。んじゃ、オレの描いてる絵面を旦那含めて説明するか――」

 

 天魔の口から語られる悪巧みの内容と、神奈子の口から語られる事情を聞いて、信綱もまた思考を巡らせるのであった。

 ……神奈子から聞いた事情に関してはこれ絶対あとで面倒なことになるな、という経験から来る嫌な確信も抱いていたが。

 

 

 

 

 

 一方その頃、人里では――

 

「やってきました幻想郷! さぁ、何はともあれまずは布教活動を――」

「――こんにちは、山の神社の巫女さん」

「ふぇ?」

 

 何やら意気込んだ様子の、博麗の巫女とは対象的な青い巫女装束に身を包んだ少女が人里に降り立つと、彼女の前に二人の少女が立った。

 

 一人は哨戒装束に身を包み、狼の耳と尾を持つ穏やかそうな少女。

 もう一人は可愛らしい花の髪飾りが特徴の、元気そうな少女。

 二人はやってきた巫女服の少女に微笑みかけ、狼の耳を持つ少女が口を開く。

 

「あなたが来ることはわかってました。――少し、お話しませんか?」




Q.もしも天狗と神の関係が険悪になったらどうなってた?
A.ノッブがかなすわの二人を切って終わり。現時点でこの二人に協力する旨味が欠片もないので。

基本的にノッブも天魔も穏健派な方です。どうにか物事を丸く収める努力はする。ただそれでダメだと判断したら躊躇なくぶっ殺しに行くタイプでもあります。

とはいえ守谷の二人にも事情はあります。二人は是が非でも幻想郷に受け入れてもらわなければならなかった。それで下に見られるのも勘弁なので態度はデカかったですが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

現代に生まれてしまった現人神

風神録編終わるまではこのペースを維持したい(願望)


 糖蜜がキラキラと輝くあんみつを前に、少女は戸惑った声を出す。

 

「あの、本当に良いんですか?」

「もちろん。話がしたいと持ちかけたのは私たちで、場所を変えようと提案したのも私たちです。おもてなしをするのは当然でしょう」

 

 恐縮しきりな緑の少女に対し、白狼天狗の椛が柔らかく微笑む。

 

「椛姉さんの言う通りです! ここでは外から人が来ることなんてめったにありませんから、あなたは貴重なお客様ですよ」

 

 椛の隣に座る、子供らしく頬を赤らめた少女が胸を張る。

 その可愛らしさと微笑ましさに緑の少女も頬が緩む。

 

 いきなり妖怪と人間のコンビに絡まれた時はどうなるかと思ったが、友好的で良かった。あまり歓迎されなかったらどうしようかと不安だったのだ。

 

「ではご厚意に甘えまして……美味しい!」

「それは良かった。外の世界から来た人の舌に合うかはわかりませんでしたから。阿求ちゃんもどうぞ?」

「あ、はい。……ところでお金は」

「後で彼にツケます」

 

 爽やかな笑顔で言い切る椛に、阿求は困ったように笑うしかなかった。

 

「えっと、お祖父ちゃんがこんなことをする相手というのは信頼している証拠ですから……」

「それがわかっているから、なかなか怒る機会も来ないんですよ。こうしたささやかな仕返しくらい彼の無茶振りに比べれば可愛いものです」

 

 それに彼自身は山の神社に座す神との会合に向かっているのだから、信綱が一番危険な役割を背負っているのは変わらない。

 だからなんだかんだ怒りづらいし、大体何でもできる彼が頼ってくるのなら応えようという気になってしまうのは――そこまで含めて彼の困った部分であり、魅力なのだろう。

 

 ともあれ三人はとりあえず甘いものを食べて場を和ませ、一息ついたところで互いの自己紹介が始まった。

 

「私は山の神社――守矢神社の方から来ました。風祝の東風谷早苗と言います。厳密には違いますが、巫女のようなものだとお考えください」

「稗田阿求と言います。ここ幻想郷における妖怪や彼らに抗う英雄を記す本――幻想郷縁起の編者を代々務めています。本当は私の家族で従者が一人いるんですけど、今日はちょっと席を外しています」

「その代理で来ました。白狼天狗の犬走椛です。阿求ちゃんの話す従者の人と個人的な付き合いがあって来ましたけど、所属自体は妖怪の山です」

 

 とりあえずの自己紹介を終えて、緑の少女――早苗は不思議そうに首をかしげた。

 

「えっと、稗田……さんはわかりましたけど、犬走さんは……?」

「事情があって、と言いましたが人里では騒ぎを起こさない限り妖怪も普通に入れて、人間と仲良くする者もいる、とだけ覚えてくだされば大丈夫です」

 

 そして仲の良い人間のためであれば所属する組織を越えて協力し合うこともある、と言って椛は微笑む。

 実際のところはちゃんと天魔から椛を動かす許可を信綱はもらっているが、許可が降りずとも椛への協力は要請していただろう。そして椛はどちらの場合でも彼の頼みを断らない。

 

「それと名前で構いませんよ。公の場でもない限り、そういったことは気にしません」

「じゃあお言葉に甘えて。お二人はどうして私に?」

「はい。今回は私が早苗さんのお話を聞きたくて、こうして声をかけさせてもらいました」

 

 そう言って阿求が使い慣れた手帳を片手にニッコリ笑う。

 椛も笑いながら、信綱がどこまで読んで自分に今の状況を押し付けもとい頼んだのかを考えていた。

 

 一応の保険とは言っていたが、こうして人里に早苗がやってきたのを見ると、会合に合わせて誰かが人里に来ることまで読んでいたのではないかと思ってしまう。

 ……まあ多分、最悪の可能性まで諸々考えた上で椛に頼んで、そして彼の中で考えていた可能性の一つが実現したという形なのだろう。常日頃から自分の願い通りに物事が上手くいった試しがないとボヤいているのだ。

 

 椛が思索にふけっている間に阿求は好奇心に輝く瞳を隠さず、早苗に質問を投げかけていた。

 

「じゃあ早速――幻想郷に物や人が流れ着くことはたまにあるんですが今回みたいに土地ごと、というのは初めてです。事故とかではなく、意図的に幻想入りしたのですか?」

「そうですね。守矢神社の祭神であるお二柱――八坂神奈子さまと洩矢諏訪子さまの意向で幻想郷にやってきました。ただ、幻想郷がどういったものとかはわかっていなかったので、出てきた場所はあのようなところになってしまいました」

 

 阿求の質問に対し、早苗もあらかじめ聞かれることを予想していたのかハキハキとした口調で答えていく。

 しかし出てきた場所については不安に思っているところもあったようで、その表情はやや暗い。

 

「……確かに色々と問題がありそうですけど、何とかなりますよ。そのためにあなたも動いているんでしょう?」

「そう言っていただけると嬉しいです。神奈子さまはお前が気にする必要はないと仰ってましたが、やはり気になるものは気になりますから」

 

 今まさに守矢神社で会合が行われているであろう今日、人里に来たことから見るにこの少女は二柱の祭神から意図的に政治的な舞台から遠ざけられているのだろう。

 別段、自分の家に被害があったわけでもなく、すでに天魔と信綱が事態の収拾に動いていると知っている椛は実に気楽に早苗を慰めていた。

 どんな形で会合が終わるかはわからないが、あの二人なら悪いようにはしないだろうという信頼があるのだ。早苗の語る祭神がよほど非友好的な態度を取らない限り、彼らはやってきたものたちを無下にはしないはず。

 

 阿求は早苗の口から語られる二柱のことを熱心に聞いており、手帳に書き記す手が止まらない。

 

「ふむふむ、私もあまり神さまに詳しいわけではありませんが、二柱ともにかなり長い年月を活動してきた方のようですね」

「はい。正確な年数は私も知りませんけど、千年とかではきかないでしょうね」

「なるほどなるほど。そちらは後日お祖父ちゃ――私の従者と一緒に改めてお話を伺うとします」

「お祖父ちゃん?」

「この子が生まれる前からこの子の一族に仕えている人なんです。人間でかなりの高齢ですが、色々と凄まじい人ですよ」

 

 あらゆる意味で、という言葉は飲み込んでおくことにした。

 はぁ、とまだピンと来ていない早苗に椛は曖昧に笑うことでごまかす。

 妖怪のはびこる幻想郷で最強の一角に至り、政治にも長けた紛れもない英雄であり――阿礼狂いと呼ばれる狂人であるなど、上手く伝えられる自信がこれっぽっちもなかった。

 

 早苗の反応を見る限り阿求をむやみに害することもないはずなので、今のところ伝えなくても問題はないと椛は判断していた。

 

「私も今日は代理ですし、そちらには慣れている人が向かうのが良いでしょう。今、阿求ちゃんが聞きたいのはそのお二人ではなく――」

「はい! 早苗さん、あなたのお話を聞きたいです!!」

「わ、私ですか?」

 

 早苗の話は先ほどから自分の神社の祭神に終始していた。

 巫女のようなものと語っていたので正しい姿なのかもしれないが、阿求が聞きたいのは早苗自身の身の上や境遇だった。

 

「うーん……幻想郷で暮らしているお二人の御眼鏡に適う話かは保証できませんよ?」

「そんなことありません。外の世界で暮らしていたあなたのお話は全て貴重なものです!」

「あまり肩肘を張らなくても大丈夫です。茶屋での茶飲み話程度にあなたの話を聞かせていただければ、と」

 

 阿求、椛の言葉に早苗も何を話そうか悩んでいたものの、やがて力の抜けた笑顔を浮かべてうなずいた。

 

「えっと、はい。これも一つの布教の練習だと思います。では――」

 

 

 

 

 

「――という絵面を引いている。お二人にゃぜひとも協力して欲しい」

 

 場所は変わって守矢神社。人間と天狗、神との会合場所である。

 神奈子と諏訪子が謝罪をし、それを受け入れた天魔が現状の説明を行い、不満のガス抜きと彼女らを幻想郷に受け入れるわかりやすいイベント――要するにこれから起こそうと画策している異変の話をしていたところだった。

 

「……おい、天魔」

「良い手だろ? オレらが抱えてる問題も、そっちが抱えてる問題もいっぺんに片付けられるし、人里に害は行きにくい」

「断ったら?」

「その時はこっちが主導でやるだけだ。そっちに被害が行かないよう配慮はするが、オレも天狗の隅々まで指示を行き渡らせるのは難しい。どうなるかまでは保証できんね」

 

 運悪く勘違いした天狗がそっちに行くかもしれない、と暗に言っている天魔の言葉に諏訪子が頬を引きつらせる。

 乗らなくても致命的な状況にはならないが、後々を考えると絶対に得策ではない。

 

「なあ人間、この天狗タチ悪くない?」

「それには同意する」

 

 実質的な脅迫である。諏訪子の言葉に信綱も首肯して同意を示す。天魔はケラケラと笑うばかり。

 

「おいおい、そっちに配慮もしてる。人里にも配慮をした。そんでこっちは美味しい思いができる。良いことずくめだと思わないか? 旦那」

「最初からこの絵面を引いていたな、お前」

「さて、どうだろうね」

 

 無論、神奈子と諏訪子が友好的な関係を結ぶことすら突っぱねるなら躊躇なく殺すつもりだっただろう。

 しかしそうでないのなら、早速巻き込んで嫌でもこちら側に引き込む算段だったようだ。

 さっきまでは本気の殺意を見せていたのに、今はこの態度である。どちらが本心なのか? 間違いなく両方だ。

 

 相反している考えをさも当然のように持ち、どちらに転んでも自分たちが得をする方向に舵を切る。これを千年続けたからこそ、彼は今なお天魔の座にいるのだ。

 こいつの後継者とか一生現れないのでは? という自分を棚に上げた疑問を覚えながら信綱は口を開いた。

 

「人里としては害がないなら積極的に止める理由はない。巻き込まれる博麗の巫女には同情するが、妖怪どもが好き勝手するのは宿命だから諦めてもらおう」

「……なんか重さがある言葉だね」

 

 ついさっきまでお前にも絡まれていたんだよ、という嫌味は諏訪子の同情的な視線を見て引っ込めることにした。自分の身の上を語ったところでなんの意味もない。

 

「で、乗るか乗らないか。おたくらが決めるべきはそれだけだ。返答は如何に?」

「……ま、長い付き合いになるんだ。最初くらい仲良くやっていこう。――次はこうは行かんぞ」

「ハッハッハ、長生きしている神さま相手に知恵比べができるなんて天狗冥利に尽きるね」

 

 全く応えた様子のない天魔に神奈子は頬を引きつらせながら握手をする。

 あれはきっと怒りだろうな、と彼女の内心を推し量りながら信綱は話が終わったので立ち上がろうとする。

 と、そこへ諏訪子が割り込んできた。

 

「じゃあこっちの事情も全部話しちゃおう。神奈子もそれでいいよね?」

「異論はないし、一応躊躇いはあったけど今ので消えた」

 

 要するに天魔に巻き込まれたのだから、自分たちも巻き込んでしまおうという考えである。

 信綱は特に関わりがないはずなので逃げたいのだが、神奈子と諏訪子の視線は天魔ではなく信綱に向けられていた。

 

「なんだかんだ悪いようにはならないと思うよ。それに巻き込まれるのが私たちだけというのも面白くないじゃない?」

「さて、話もまとまったし俺はこれで――」

「逃がすと思う?」

 

 面倒なことになりそうだと経験則で理解した信綱が逃げようとするものの、背後から諏訪子の気配を感じて思いとどまる。

 多分、逃げたら本当になにかしてくる。呪詛か、あるいは神威か。どっちにしてもロクなことにならないのは確実だろう。

 渋々座り直すと、神奈子と諏訪子は神妙な顔で何から話したものか、と思案し始める。

 

「最初から全部言った方が良いでしょ。事情を知っていれば何か協力してくれるかもだけど、知らなきゃ協力も何もない」

「ふ、む……」

「ねえ二人とも。今から話そうと思う内容はあまり軽々に話す類じゃない、というのは理解してもらえる? あの子の道はなるべく狭めたくないのよ」

 

 人を食ったような態度だった諏訪子が真面目な顔になり、彼らに口を開く。

 その様子に、どうも本当になにか事情がありそうだと考えた信綱と天魔は顔を見合わせてうなずいた。

 

「内容次第だが、公表するような真似だけはしないと約束しよう。話の中身も多少は予想がつく」

「右に同じく。おたくらを陥れるのは大歓迎だが、そこはバチバチの知恵比べでやりたいんでね」

 

 両名の言葉を聞いた神奈子は少しだけ表情を和らげ、少女らしい笑みを浮かべた。

 先ほどまでは神徳とも言える威容にあふれていたが、こちらが素の表情らしい。

 

「ありがとう。そう言ってもらえる人たちが最初の人間でよかったわ」

「そっちが素か」

「これも公表はしないで頂戴。フレンドリーな神さまってのも悪くはないけど、やはり神はその威光があってこそだから」

 

 今の情報を話して彼女らの地位を落とす必要性があるとも思えないため、信綱はうなずく。天魔は軽く笑い、確約はしなかった。

 

「さて、お互い気も楽にしたところで話しましょうか。私たちが幻想入りしてきた本当の理由を」

「信仰が廃れた外の世界を捨てたのではないのか」

「一番大きな理由はそれだけどね。少し意味合いが違ってくるの。――時に人間、神が死ぬ条件って何だと思う?」

「……忘れられることだろう。妖怪は畏れ。神々は信仰。どちらも言ってしまえば人々の記憶に留まることだ」

 

 幻想郷に長く暮らしている妖怪にはその辺りを適応し、あまり畏れや信仰を獲得せずとも生きられるようになっているものもいる。先日会った雛はその一例になるだろう。

 だがそれは幻想郷での暮らしに時間をかけて徐々に性質を変化させていったということであり、目の前の神奈子と諏訪子には適用されない。

 

 信綱の答えが正しかったのか、諏訪子はニンマリと笑う。

 

「その通り。だけど現代の外では本当に信仰が薄れつつあってね。昔は一廉の権勢を誇った神々でさえも存在の維持が難しくなりつつある」

「今日明日、という話ではないけれど、間違いなく私たちも消え去る時が近づいていた」

 

 神々の話だ。実際にいつになるのか、信綱には想像もできない。

 しかし彼女らは間違いなく終わりが見えていたのだろう。近づいていた己の死期を語る神奈子の瞳に、信綱は自身と同種のそれを感じ取る。

 

「……初めに言っておくと、私たちはそれで良いと思っていたの」

「長いこと生きたしねえ。人間たちに祝福を授けることもあれば祟りをくれてやったこともあった。神奈子と本気の殺し合いもしたし、手を取り合って協力もした。……まあ、やりたいことは一通りやったからもう良いかなって気分だったんだ」

 

 神奈子と諏訪子は自身の死に前向きだった。どれほど生きたのかはわからないが、終わりが近づくのならそれもまた良しと受け入れられるだけの時を生きたのだろう。

 

「そんな時だよ。――あの子が生まれたのは」

 

 

 

 

 

「現人神、ですか?」

「ええ、そうです。人のまま神の資格を得たもの。それが私になります」

「ふむ……極めて珍しい事例ですね。私の記憶をたどっても阿礼の時代にそういったことがあったらしい、程度しかわかりません」

 

 現人神という言葉に対し、阿求は興味深そうに自身の記憶をたどり、椛は深く考えることなく感嘆の息を漏らしていた。

 

「これもひとえに守矢神社の御威光が為せる御業。どうですお二人も? これを機に宗旨変えというのは」

「祭神さまを見てから考えさせてもらいます。しかし、現人神というのは人が人のまま神になる――信仰を獲得することのはずです。早苗さんは外の世界でも活動を?」

「いえ、一応能力と呼べるものはあるのですが、お恥ずかしながら自分だけでの発動が難しいものです。ですが守矢神社への信仰が私にも影響を与えた――と神奈子さまは仰ってました」

「……早苗さんはあまり詳しい状態をご存知でない、と?」

「あはは、そういうことになりますね」

 

 照れたように笑う早苗に阿求は情報を書き留める手を一旦止めて、穏やかに笑う。

 その顔が先ほどまで見えていた、子供らしいそれとは一線を画する空気を帯びていることに早苗は気づかなかった。

 椛は敏感にそれを察したのか、早苗が読み取る前に口を開く。

 

「今日のところは早苗さんのお話が聞けたことが大きな収穫ですよ。これからも人里で布教活動を?」

「そのつもりです。あ、もちろん公序良俗に反する真似はしませんよ!」

「そんなことしたらさすがに放置できませんから!?」

 

 人里の守護者でもある信綱が彼女を容赦なく追い出すことだろう。彼は人里と御阿礼の子に害をもたらさない限り非常に寛容だが、害を与えた場合はその限りではない。

 

「あ、でも一つだけご注意を。三十年ほど前から、人里は人妖の双方が入れる場所となっています。あまり片方に肩入れした布教などをするといらぬ軋轢を生むかもしれません」

「そうなんですか? あ、言われてみれば椛さんは何も言われてませんね」

 

 椛の場合は人間と妖怪の交流が始まった黎明期の頃に、人間の自警団に十年ほど所属していた時期があったのだ。その時間が彼女を人里に受け入れられる下地を作っていた。

 

「あと、博麗の巫女の存在が大きいですね。人間と妖怪の天秤を傾けすぎないようにする調停者です」

「むむ、巫女ですか。つまり……私の商売敵?」

「どうでしょう。確かに神社ですけど、祭神もわかりませんよ?」

 

 本当に。阿求は博麗の巫女と個人的な親交を持っているが、彼女の口からそういった宗教的な話を聞いたことはない。彼女の父親代わりである信綱も知らないはずだ。

 しかし早苗は阿求の言葉を額面通りに受け取らなかったようで、こうしてはいられないと慌てて席を立つ。

 

「神社に住んでいて、巫女で、しかも幻想郷において長い歴史を持つ! これは新参者の私たちには大きすぎる障害です……!」

「そういう見方もあるんですね。私や阿求ちゃんはあって当たり前のものだと思ってました」

「その考えこそ私の敵なのです! あって当たり前と言われるほど根付いているものに対抗することの難しさが想像できますか!?」

 

 なにかスイッチが入ったのか、熱弁を振るってくる早苗に二人はとりあえずうなずいて話を合わせることにした。下手な反論は話を面倒にするだけだ。

 それに言っていることがまるっきり理解できないというわけでもないのだ。外の世界から来る人は新鮮な考えを持っているなあ、とむしろ楽しんでいるくらいである。

 

「こうしてはいられません! 神奈子さまと諏訪子さまにご報告を……あ、でも今日は大事なお話があるから外で待ってろと言われてました。ならば敵情視察を!!」

「あ、ちなみに博麗神社の方角はあっちです」

「情報感謝です!!」

 

 気分も高揚していたのか、椛の言葉にシュパッと敬礼のようなポーズを取ると、あっという間に博麗神社の方向めがけて飛び去ってしまった。

 阿求と椛はそれを茶屋で見えなくなるまで眺めた後、不意に阿求が椛に聞いた。

 

「……椛姉さん」

「なんでしょう」

「……楽しんでたよね?」

「ええ、まあ、はい。阿求ちゃんもちょっとは楽しかったでしょう?」

「う、否定できないけど……」

 

 はぁ、と阿求は困ったように笑うしかない。早苗の反応が見ていて楽しかったのは事実である。

 しかし飛び立っていった彼女を思い返すと、巡り巡って誰か――具体的には今日も守矢神社に赴いて話をしているどこかの誰かが面倒事に巻き込まれる予感しかしなかった。

 

「……お祖父ちゃんなら大丈夫よね」

「もちろん。彼ならきっとなんとかしますよ」

 

 あはは、と笑い合って二人はお茶のおかわりをもらうことにしたのであった。

 

 

 

 

 

「……?」

「どうかしたの、人間?」

「いや、ちょっと悪寒が」

「風邪? ダメだよ不摂生は。どうせ死ぬんなら私の祟りで死んでもらわないと畏れてもらえないじゃない?」

「お前の祟りで死ぬ予定もない」

 

 本心から心配している風にこちらを見ている諏訪子に憮然と言葉を返し、姿勢を正す。

 妙な寒気――具体的に言うならこの後絶対に面倒なことが起こるという、理解したくなかった感覚を覚えた信綱は一つ咳払いをして、話の腰を折ってしまったことを謝罪する。

 

「すまない、話がそれた。……現人神、というのが話の焦点だったか」

「そうだね。確かに人の肉体を持ちながら、神に至る資格を得たもの」

「……力の大小で誰でもなれるものなのか?」

「いんにゃ、神に至る才覚というのもあるんだろうけど、何よりその人間への信仰が不可欠だ」

「ふむ」

 

 信綱が見る限り、神奈子と諏訪子は両方とも混じりっけなしの神に見える。厄神と出会ったことで彼の感覚は神のそれを正しく覚えていた。

 

「……今日、この場にいないもう一人か」

「そうだね。早苗と言う子なんだけど、あの子が私らに幻想郷へ行くことを決断させた」

「……なるほど、意外と子供思いだ」

 

 神奈子の言葉を黙って聞いていた天魔が全て納得したようにうなずきながら、口を開く。

 

「わかったのか?」

「旦那もちょっと考えればわかるよ。その現人神とやら――最終的にはどっちになるんだ?」

「……人間としての寿命を終えるか、信仰が溜まれば神に至るのでは――そうか」

 

 天魔に遅れて信綱も神奈子たちが話す内容を正しく理解する。

 そう――信仰の廃れた現代において現人神に生まれるということの残酷さを。

 

「理解が早くて何よりよ。もう外の世界では私たちの姿を見ることも声を聴くこともできない人が大半だった。徐々に消えていく信仰に寂しさはあったけど、それが仕方ないと思えるくらいに人間は繁栄を謳歌していた」

「だから私たちの役目はもうおしまい。後はのんびり消えるのを待とう。……そう思った矢先にあの子が生まれた」

 

 生まれ落ちた時から、その少女は神奈子と諏訪子が認識できた。声だけでなく、姿かたちまでハッキリ認識できるほどの力を所持していた。

 

「声を聞けるだけならともかく、姿まで見えるとなると相当昔の人間じゃないと難しかった。本当――生まれる時代を間違えるにも限度がある」

 

 世が世なら稀代の巫女として名を馳せていただろう。二柱の神が太鼓判を押すほど、その少女の才覚は抜きん出ていた。

 

「ただ、それが今の時代だと悪い方向に働く。考えてもご覧よ、摩訶不思議な術やら何やらが一切駆逐され、科学という誰でも扱える便利なものが台頭した世界に、摩訶不思議な術の適性がメッチャ高いどころか、無意識の行使すら可能な子が生まれたんだ」

「……ひどく息苦しいだろうな」

「息苦しいだけなら良いさ、呼吸できてる(・・・・・・)。本当に、本当に間の悪いことにあの子は――私たちを認識できたからか、赤ん坊の頃から高かった力に磨きがかかっていった」

 

 彼女の話を聞く限り、人が神に至るには資質と信仰の両方が必要になる。

 資質は十分。ならば信仰があれば神に成れるのだろう。

 それが何の問題もなければ、彼女らはこうして幻想郷になど来ていない。つまり――穏やかな死をかなぐり捨ててでも幻想郷に向かうだけの理由がそこにあるのだ。

 

「恨んだよ。何を恨めば良いのかもわからないけど、とにかく恨んだ。あの子は私たちが何もしなくても神に成って――そして、信仰に依らないと生きられない神になった時点で、信仰のないあの子は消えてしまう。輪廻転生の輪に入ることすら許されない、本当の消滅だ」

「待て。神に成るには信仰が必要なのではないのか?」

「信仰ならあったさ、彼女の生家である守矢神社への信仰がね。ただ、これはあの子個人に向いた信仰じゃない。神に成ることができても、神に成った後の信仰にはなりえない」

「……タチが悪い」

 

 つまり、彼女は何もしなくても神に至り、そして神になった瞬間に存在を維持できず消え果てるというのだ。

 これこそ理不尽としか言えまい。神として生き、人間たちに理不尽を振りまいた側である守谷の祭神ですら、何かを呪わずにはいられなかったほどの。

 

「わかってもらえたかい? 私らはともかく――早苗はここでしか生きられないんだ。外の世界にあの子の居場所はない」

「新しいものだからこそ、過去の栄光にすがることすら許されない、か……」

 

 推測になるが、神奈子と諏訪子はその気になればどうにかなっただろう。相当昔から活動していたのであれば、その伝手を使うなりすれば二人が生きていく分には問題なかったはずだ。

 

「ここでなら私らを見える人間もいるように、信仰もかつてみたいに得られるはず。そうして得た信仰で早苗が神になっても大丈夫な基盤を作りたい。これが私たちが幻想入りを決断した理由よ」

「……天魔」

「嘘じゃないだろ。嘘をつくんなら外の世界に現人神が生まれたなんて荒唐無稽な話は入れない」

「嘘だと思ったわけじゃない。お前がどうするか聞こうと思っただけだ」

「別になにも? そっちの問題はそっちの問題だ。オレたちがどうこうしようってのが筋違いになる」

「同情して欲しくて話した……わけだけど! 覚えてもらえるならそれでいいよ。早苗のためってのが一番大きいだけで、どうせなら私たちもセカンドライフってやつを楽しむ予定だし」

 

 子供のためという理由だけで終わっていれば美談になったかもしれないのに、なんて奴だと信綱は嫌そうな顔になる。自分勝手な奴らばかりという点では妖怪も神も大差はない。

 諏訪子と神奈子は話も終わったと再び神としての威厳をまとい始めた。

 

「――さて、話はこれで終わりだ。お前たちはこれにどんな反応を見せてくれる?」




早苗さんと神奈子さまの知っている事情と知識には違いがあるという意味で、視点を飛び飛びになっています。基本的には神奈子さまの話が真実と見て良いです。

Q.早苗さんが幻想郷に行かずに現代で暮らしていたらどうなるの?
A.ある日唐突に神になり、その直後に彼女自身への信仰が足りず消滅。セルフバニシュデス。

ちなみにタチが悪いことに神として消えているため、魂が輪廻転生の輪に行かず本当の意味で消滅します。
神奈子さまが言っていたように、生まれる時代を完全に間違えてしまった少女です。ある意味ノッブ以上に。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

風神録の始まり

 その日は朝から妙な予感がした。

 嫌な予感、ではない。かといって良い予感でもない曖昧な感覚。

 普段から自分の直感には自信を持っているものの、こんなにもあやふやな状態は初めてだった。

 

「ううん、なんだかスッキリしない気分ね……空は綺麗に晴れているのに」

 

 ままならない自分の感覚に首を傾げながら博麗神社の巫女、博麗霊夢は境内を掃除する手を止めない。

 父親代わりの人が作ってくれた、自分の体にちょうど良い大きさの箒を操りながら手際よく落ち葉をまとめていると、空から人の気配を察知する。

 

「魔理沙?」

 

 たいてい、自分の神社に空から来るのは友人である魔法使いの少女か、日傘を差してやってくる吸血鬼とそのメイドか、白玉楼の庭師か、小柄ながら強大な力を持つ鬼ぐらいである。

 ……改めて数えてみるとまともに鳥居をくぐってくる奴がほとんどいない事実に霊夢は打ちひしがれそうになる。

 このままでは魔理沙も言っていた妖怪神社を笑えない。爺さんみたいに外を歩けば妖怪に当たるような生活はゴメンである。

 

 信綱が聞いたら無言で翌日の稽古量を倍にしそうなことを考えながら、霊夢は箒を操る手を止めて来客者を待つ。

 

「到着です! ……おっと、神前に出向くのですからちゃんと鳥居はくぐらねば……」

 

 勢いよく着地したと思ったら、いそいそと鳥居の端をくぐってきた青い巫女服の少女に、霊夢は眉をひそめる。はて、こんな少女は自分の知り合いにいただろうか。

 

「さて、ここにおられる巫女とは――」

「私のこと?」

「ひゃぁっ!?」

 

 何やら妙に意気込んで霊夢を探していた少女の前に姿を現すと、びっくりした声を上げる。

 

「あ、驚かせた? 悪いわね」

「い、いえ……えっと、ここが博麗神社で間違いないですか?」

「こっちの方角で他に神社なんてないわよ。博麗神社の巫女、博麗霊夢です」

 

 わざわざここまで来て道を訪ねに来ただけでもないだろう。

 霊夢は信綱から口を酸っぱくして言われている、初対面の人にはある程度礼儀に気を使うように、という言葉を彼女なりに守りながら自己紹介をする。

 

「あ、これはどうもご丁寧にありがとうございます。私は先日こちらに幻想入りしてきました。守矢神社の風祝を務めている東風谷早苗と言います」

「はい、よろしく」

 

 軽く頭を下げながら、内心で霊夢はある程度言葉遣いと礼儀に気を使うだけで、ここまで相手の態度は軟化するものなのだと若干驚きすらしていた。

 少々言葉の力というのを甘く見ていたのかもしれない。仮にここで天衣無縫にあんた誰? とか聞いていたらこの少女――早苗が再び気炎を上げていた可能性もある。

 

 自分を曲げたりごまかすことは大嫌いだが、それで面倒なことになるのも御免こうむりたい。そんな時、多少の言葉遣いだけで面倒を避けられるのであれば確かに効率的なのだろう。

 

(……爺さんの言ってたことの意味がやっとわかった気がするわ)

 

 まあそれを教えた当の本人は突っ立ってるだけで騒動が向こうからやってくる、人間台風みたいな人生を送っているのだが。

 博麗の巫女になってから何度も異変に巻き込まれている自分を棚に上げて、信綱の人生の波乱万丈ぶりを内心で笑いながら、霊夢は早苗に質問を投げる。

 

「で、その守矢神社の風祝とやらがウチに何か用? わざわざ来てくれたんだし、お茶ぐらい出すけど」

「それはまた今度……ではなく!! わ、私が今日ここに来たのは敵情視察のためです!」

「敵情視察? なんでまた?」

「聞けばここの神社は人里の皆さんの信仰を独り占めしているようなものではありませんか! つまり私たち守矢神社にとっては商売敵にも等しい!」

「……ああ、なるほど。外から神社が来るということはそういう観点もあるのね」

 

 今まで他の神社というものもなかったし、寺があったこともないため、そういった信仰の取り合いというのは霊夢にとって初めての言葉だった。

 

「あんたの言いたいことはわかったわ。私も博麗の巫女なわけだから、自分の神社は最低限守らないといけないわね」

「そう、その通りです! 私も守矢神社の風祝として御祭神さまを盛り上げていく義務があります!」

「うんうん」

「なので私とあなたはこれからライバル――好敵手として切磋琢磨していきましょう!」

「うんうん……うん?」

 

 そんな話の流れだっただろうか。というか早苗という少女がここに来たのは敵情視察が目的だったはず。

 なのにどうしてライバルとかそんな感じの話になっているのだろう、と霊夢は首をかしげる。

 

「えっと……」

「早苗でいいです」

「じゃあ早苗。あんた私のところには敵情視察で来たのよね」

「はい、これからの商売敵の顔をひと目見ておこうと!」

 

 むん、といばるように胸を張る早苗に妙な頭痛を覚えながら霊夢は話を続ける。

 これ多分面倒なことになるやつだ、と信綱もよく覚えている頭痛とそっくりなそれを感じていた。

 

「じゃあ私とあんたは敵同士なわけ」

「はい!」

「でも切磋琢磨していきたいわけ」

「はい!」

「敵になりたいのか友達になりたいのかハッキリしなさいよ」

 

 そう言うと早苗はうぐっ、と言葉に詰まった様子を見せた。どうやら自分で言っていることがおかしなことである自覚はあったらしい。

 しかしなぜああも居丈高に接しながら、最終的にはライバルになろうなどと言い出したのか。彼女の言い分なら傘下に下れ、ぐらい言ってもおかしくはないと思っていた。言ったら言ったでぶっ飛ばすつもりだが。

 早苗はなぜかプルプルと震えて顔を赤くしながら、ボソボソと言葉を発する。

 

「そ、それは……」

「それは?」

 

 オウム返しに聞き返すと、早苗は更に顔を赤くして後ずさる。

 何を隠そう、この東風谷早苗という少女――友達が欲しかったのだ。

 同年代の友人がいなかったわけではない。生来、明るく礼儀正しい性格の持ち主である彼女は外の世界でもそれなりに友人がいた。

 

 だがその友人とはあくまで彼女と同年代というだけであり、早苗が求めているような似た境遇、似た力量を持つ友人はいなかった。

 当然である。早苗の持つ資質は本来なら千年単位で早く生まれるべきもの。幻想の消えつつある外の世界で生まれて良い才覚ではない。そのような力の持ち主、世界中を見渡してもう一人存在したら御の字という領域だろう。

 

 なので早苗は幻想郷に来た時、ワクワクしていたのだ。やっと自分と同じように力を持つ少女と友だちになれる、と。

 そしてその楽しみは的中し、今彼女の目の前には博麗霊夢という一人の少女が立っている。

 間違いなく、巫女としての技量は彼女の方が上である。現人神としての力があるので戦ったらわからないが、早苗と互角かそれ以上の力の持ち主であることは確かだ。

 

 切磋琢磨するライバルというのも良かった。霊夢に話した内容に嘘はない。これからの商売敵であることも、好敵手になりたいことも、どちらも早苗の感じたことである。

 しかしそれを面と向かって問い質されると喉が止まってしまう。好敵手であり、友人。そんな関係になりたいと言うだけなのに口は上手く動いてくれなかった。

 

「け……」

「け?」

 

 

 

「決闘です! 私とあなた、どちらがより優れた巫女なのか決闘を申し込みます!!」

 

 

 

 この日、早苗は自分が追い込まれると斜め上のことを言い出すタイプだと身をもって思い知るのであった。

 

 

 

 

 

「では俺は先に戻る。ここから先は俺に関係はない」

 

 ひとしきり決めるべきことも決め、後は神奈子たちがことを起こすだけで良い段階になったので信綱は帰ろうとしているところだった。

 

「そうだな。解決は博麗の巫女に任せるし、人里からは何もないはずだ。オレも旦那のところに被害は行かないよう注意する」

「頼んだ」

「あれ? 人間、天狗の護衛はつけないの?」

 

 一人で山を下りようとする信綱に諏訪子が首をかしげる。最初に石段で会った時には天狗の護衛がいたと話していたのに。

 それを聞いた天魔が面白そうに片眉を釣り上げ、信綱に声をかけた。

 

「うん? なんだ、旦那。そんなこと言ったのか?」

「人間が一人でここまで来た、と言っても不自然だろう。方便だ」

「なるほど。オレがやってもいいが……ちょいとこの神さまと話すことがある」

 

 天魔の言葉に神奈子と諏訪子が揃って眉をひそめる。

 話している時もそうだったがこの天魔という男、妙にこの人間に敬意を払っている。

 普通、一勢力の長が護衛を買って出ようとするなんてまずありえない。

 

「もともと護衛などなくても問題ない。また後日」

「はいよ。旦那も壮健でな」

 

 軽く手をひらひらと振って、天魔は信綱が石段の下に消えていくのを見守る。

 律儀に石段の終わりまで歩いて下り、そこから無造作に山の中に踏み入っていく信綱を見て、諏訪子はため息をつく。

 

「なんだ。あの人間、この山で活動できるんじゃないか」

「まあ初対面なら旦那をただの人間と侮るのも無理はない。けど、オレが今日の立会を頼んだのは伊達でも酔狂でもないぜ?」

「ほう?」

 

 天魔の言葉に神奈子が興味を示す。軍神としての属性を持つ神奈子は強者が嫌いではないのだ。

 それに話してみたところ政治にも明るい。文武の双方に長けた人間というのは貴重である。

 

「あの人間が人里で最強、ってことかい? それでいて政にも長けている」

「ちょっと語弊があるが、それで間違っちゃいない。補足するなら旦那の力量は多分、幻想郷って枠組みで見ても上位に位置するってことか」

「……いやいや、人間だよ? あんたみたいな天狗もいる幻想郷で?」

 

 まだ僅かに話しただけだが、天魔という男の器は神奈子も認めるところである。

 懐は深く、多くのものを救う気概を持っていると同時に、敵とみなしたものを躊躇なく殺す苛烈さも持ち合わせている。

 実際の武力などはこれから見極めていく必要があるものの、弱いということもないだろう。大抵の状況は自力でどうにかできる自負があるはずだ。

 

「というかオレより強いぞ旦那。今日みたいな室内の白兵戦やられたらオレが一方的に殺される」

 

 数を揃えて、優位な開けた場所を用意して、そこから徹底して彼の弱点を狙い続ければ勝てるだろう。

 しかしそれらがなく、なおかつ彼の優位な距離で武器もなしに戦った場合、傷一つでも付けられるか怪しいぐらいである。

 

「……もしもの仮定で聞くけど、今回の話し合いが決裂に終わった場合の私らってどうなってた?」

「ん」

 

 親指で首を掻っ切る動作が何よりも雄弁な答えだった。

 

「……ちなみに誰が?」

「旦那」

「……ホラじゃなく?」

「そっちにゃ嘘つくかもしれんが、旦那の不利益になる嘘はつかねえよ」

 

 もう痛い思いはゴメンだ、と言って天魔は痛そうに胸を撫でる。昔になにかあったのだろうか。

 

「まあ信じるも信じないもそっちの自由だ。信じない場合の身の保証はしないし、旦那と敵対するぐらいならそっちを売るけどな」

「ずいぶんとご執心だねえ。そんなに大事なの?」

「もちろん――付き合いの長い友人だからな」

 

 天狗と長い親交を持って、それどころか天魔からも恐れられている。

 力量は見てみないとわからないが、侮って良い結果になると考えるのは傲慢だろう。

 少なくとも人妖の入り乱れる幻想郷において、圧倒的弱者の立ち位置な人間でありながら妖怪に最大限の敬意を払われるだけの実績はあると考えるべきだ。

 

「ああ、それと幻想郷では人間と妖怪の意思決定は昔ながらの戦いじゃなくなってる」

「風のうわさ程度には聞いているよ。なりふり構ってなかったけど、一切合切知らずに来たわけじゃないんだ」

「話が早い。スペルカードルールって言うんだが――」

 

 天魔が概要を話し、神奈子と諏訪子が感心の表情を浮かべながら納得した辺りで空から別の気配を感じ取る。

 

「ん? 天狗にゃ、今日この辺りには来るなって言っておいたはずだが……」

「おや、早苗?」

 

 三人が感じ取った気配は一直線に空を飛んできて、そのまま一切の勢いを殺さずに真っ直ぐ神奈子の胸に飛び込んできた。

 

「神奈子さまーっ!!」

「ぐふぅっ!?」

「うわ、思いっきり」

「話にあった巫女さんか。元気そうで何よりじゃないか」

 

 他人事なので笑うつもり満々な天魔に呆れた視線を投げかけながらも、諏訪子も面白そうに眺めるだけに留める。

 早苗は神奈子の胸に飛び込み、そのまま半泣きで事情の説明を始めていく。

 

「神奈子さま、私やってしまいましたーっ!!」

「お、ぉう……どうしたんだい? ほらほら、泣かないの」

 

 直撃した腹部が痛むのかだいぶ顔色が怪しいが、神奈子は慣れた手付きで早苗をあやす。

 見た目の上での年頃はさほど変わらないように見えても、神奈子と諏訪子は早苗の親にも等しい存在なのだと実感できる光景だった。

 

「うぅ……実は幻想郷唯一の神社の方に足を運んだんです。これからやっていく上で商売敵になると思いまして」

「ふむふむ」

「でも、出てきた巫女は私と同い年ぐらいで……ライバルになりたかった――ううん、友達になりたかったんです」

「そうかそうか。早苗のライバルになれる子がいたか、それだけでも幻想郷に来た甲斐が――」

「決闘を申し込んじゃいました!!」

 

 早苗の言葉を聞いて、無言がこの場を支配した。具体的には全員が何言ってんだこいつ、という目で早苗を見ていた。

 理由聞けよ、と諏訪子と天魔の視線を受けた神奈子が代表して口を開く。

 

「えーっと? 早苗、ちょっと私の耳がおかしくなったかしら?」

「決闘を申し込んじゃいました!!」

「同じこと言わないでいいから!? わかった、わかったわよ。で、何がどういった経緯でそんなことになったの?」

「私にもわかりません、気づいたら言ってました!」

 

 どうしろというのだ、と早苗以外の誰もが思う。当人にもわからないのであれば、その場にいなかった三人にわかるはずもない。

 

「そ、それで? その巫女さんはどうしたんだい?」

「自分でもなんであんなこと言っちゃったのかわからなくて……反応も見られず逃げてきちゃいました……ぐすっ」

「ああ、泣かない泣かない。大丈夫よー、多分私たちが聞いた話と合わせればファインプレーだから」

「ふぇ?」

 

 よしよし、と早苗の頭を撫でながら神奈子は視線を天魔の方に向ける。

 天魔は至極真面目な表情で腕を組み、口を開いた。

 

「なんか母親みたいだな、神さまも子供が愛しいか」

「この話の流れでそれ言う!?」

「冗談だよ。そこの嬢ちゃんの言い分を推測するに、博麗の巫女に喧嘩売ったってことだろ。――好都合じゃねえか」

 

 拍手喝采を送っても良い。天魔が求めていた理想的な形である。

 

 妖怪の山に座す守矢神社が、幻想郷で唯一つだった博麗神社に喧嘩を売った。

 十二分に異変と呼べる騒動である。そして何より、人里を無視した構図になっているのが素晴らしい。

 これなら信綱を納得させつつ、守矢神社の面々を手っ取り早く幻想郷のルールに馴染ませ、なおかつ鬱憤の貯まっている天狗の連中を騒動に引っ張り出して発散させることが可能だ。

 

 ニィ、と天魔は唇を釣り上げる。知略を巡らせ、縁を紡ぎ、運がそれを結びつけ――全ての物事を自分の思い通りに動かした瞬間こそ、天魔が最も好む刹那だ。

 

 

 

「お前たちも準備をしろ。――祭りの時間だ!!」

 

 

 

 

 

「で、早苗という少女が博麗神社に向かうのを見過ごしたと」

「べ、別に遅かれ早かれ行くと思いますから良いじゃないですかアイタタタ!!」

「なんか嫌な予感がするんだよ」

「それ君の感想じゃないですか痛い痛い!!」

 

 人里に戻ってきた信綱は椛から事の次第を聞いて、とりあえず彼女の耳を引っ張っているところだった。

 痛い痛いと喚く彼女を無視し、困った笑顔を浮かべている阿求に頭を下げる。

 

「申し訳ございません、阿求様。御身が危険にさらされていたかもしれないのに、私が側におれず」

「だ、大丈夫よ。お祖父ちゃんも大げさね」

「相手が何者かわからない、というのはそれだけで危険と判断するに十分な要素なのです。おい、聞いているか」

「千里眼でちゃんと見て判断しましたよ! だからいい加減離してください!?」

「私からもお願い。椛姉さんのおかげで私はとても楽しかったから」

 

 阿求にそう言われては是非もない。小さくため息を一つついて、椛の耳を離す。

 椛は素早く信綱から距離をとって阿求の側に寄ると、手ぐしで耳の毛並みを整え始める。

 

「全くもう……頼んだのはそっちじゃないですか」

「接触しろとまでは言っとらんわ」

「一任するって言ったのはそっちですよね。だったら私が見たものを阿求ちゃんに話して、阿求ちゃんと一緒に行こうってなるのはおかしいですか?」

「…………」

「ちゃんと護衛の役目は果たしましたよ。こう言ってはあれですけど――あの子ならいつでも倒せました」

 

 茶屋で話している最中、椛は一瞬たりとも早苗から目をそらさなかった。ほんの僅かでも攻撃の所作が見えたら即座に拘束できるよう準備していた。

 阿求の側を片時も離れず、何が起きても彼女を無傷で戻せるよう細心の注意は払っていたのだ。

 阿礼狂いの信綱と同じ、というのが無理であっても彼が自分に頼んできたという事実を裏切らないよう、気を払っていたのだと椛は主張する。

 

 信綱はそれを聞いて、額を手で押さえながら小さく息を吐く。

 どうにも椛が相手だと感情的になってしまう自分がいる。ここは素直に椛が羨ましかったことを話すべきだろう。

 

「……はぁ。悪かったよ、椛。阿求様のお側にいられるお前が妬ましかったんだ、許してくれ」

「本当にもう。そんなあけすけな理由を話されて許す人なんてそうそういませんよ」

 

 自分以外は、というのが言外に含まれているのだろう。怒気を収めた椛は仕方のない人、と信綱を見る目を細めた。

 彼が阿求を任せようとするのは椛だけであり、その内容について文句を言うのも椛に対してだけなのだ。

 それに、と椛はすでに千里眼で補足しているとある人物の接近に含み笑いを漏らす。

 

「まあいいでしょう。――きっとこの後、とても楽しいことになるでしょうから」

「……どういう意味だ?」

 

 信綱が不審そうに眉をひそめると、頭上から凄まじい速度を維持した赤い服の少女――博麗霊夢がやってきた。

 

「爺さん、あいつ知らない!?」

「あいつとは誰だ」

「山の神社の巫女よ! 私と似た青い巫女っぽいパチモンの服着てる!」

「霊夢さんのそれも巫女服とは言い難いですよ?」

 

 ボソリと呟いた阿求の言葉に霊夢は耳ざとく反応して指さしてくる。

 

「茶々入れしない! で、爺さん知らない!?」

「知らん。神社の方に戻ったのではないか?」

 

 先ほどから話に出ているが、信綱は早苗とやらに会った覚えはない。

 彼女らの話を聞く限り活発に行動しているようだが、ことごとくすれ違っているらしい。

 信綱の答えを聞いた霊夢は苛立ちをごまかすように頭をかく。

 

「あー、もう! 何なのよ一体!」

「俺も聞きたい。どうしたんだ?」

 

 霊夢が叩きつけるように事情を説明すると、椛と阿求は困った笑顔を浮かべ、信綱は本心からわからんと首をかしげる。

 

「爺さんはどういう意味だと思う!?」

「全くわからん。不思議な少女だな」

「でしょう? だからこうして問いただそうと探しているんだけど……」

 

 やっぱりあそこの神社しかないか、と霊夢は人里からも伺える守矢神社を見上げる。

 信綱もつられてそちらに視線を向けると、椛と阿求はひそひそと信綱の目を盗んで話をする。

 

「多分、素直になれなくて心にもないことを言った感じですよね?」

「私もそう思う。霊夢さんもお祖父ちゃんも鈍感なところがそっくり」

 

 バッチリ聞こえているそれをあえて無視して、信綱は霊夢とともに守矢神社を見た。

 

「……向こうに戻っているなら今は追いかけない方が良いかもしれんな」

「え? なんでよ?」

「理由は――あいつが説明してくれる」

 

 信綱が指を向けた先には、艶のある黒翼をはためかせた天狗――射命丸文がこちらへと文字通り飛んできていた。

 

「あややや、博麗の巫女を探していたのですがあなたも一緒でしたか」

「偶然だ。俺のことは気にせず続けてくれ」

「そうさせてもらいます。私もお仕事なので」

 

 無関係であると、言ってしまえば関わりたくなさそうに手をひらひらと振ると文は軽やかに笑って霊夢の方へ向き直る。

 そして仰々しい口調で語り始めた。

 

「――博麗の巫女よ。天狗らはこの度やってきた守矢神社を信仰することに決めた。ついてはお前の住まうちっぽけな神社を支配下に収め、信仰心は全て我らのものにしてやろう!!」

 

 堂に入った悪役らしい高笑いとともに、文は博麗の巫女にこの上なくハッキリした――異変を宣言した。

 

「……ふーん、それって、つまり」

「異変だよ、若き巫女。解決したくば守矢神社を目指すと良い。無論、妖怪の山に住まう魑魅魍魎と天狗の包囲網を抜けられれば――ちょぉっ!?」

 

 話はまだ終わってなかったが、とりあえず続きを聞くのが面倒になったので霊夢は退魔針を投げて話を中断させる。

 

「まだ口上は終わってませんよ!? いきなり攻撃をするとか卑怯だとは思わないのですかあなた!?」

「敵に時間も情けも与えるな。異変を起こすってことは私の敵でしょ落ちろ!」

「もうちょっと形式ってものを大事にしましょうよ!? ああもう、私は妖怪の山で待ちますからそこで勝負してあげます! だからこの場でスペルカード構えないで!?」

 

 万に一つ人里に被害が出たら、ことの成り行きを見守っているそこの男性が躊躇なく抜刀するのだ。

 そうなったら異変も何もあったもんじゃないので文は潔く逃げることにした。

 

 逃げると言ってもさすがは天狗。その速度は霊夢でも到底追いつけない速度であり、さすがの彼女もそれを見送る以外になかった。

 

「あー、もう! 早苗が私に喧嘩売ってきたのってこういうことだったのね! 上等じゃない、ぶっ飛ばしてどっちが上か教えてあげるわ!!」

「頑張ってくれ」

「爺さんからはなにかないの!?」

「天狗どもはお前に直接喧嘩を売った。――要するに人里は無関係だ」

 

 なので動くつもりはない、と言うと霊夢は言葉に詰まったように唸り声を上げる。

 

「むー……」

「……異変を解決した後で俺と阿求様が守矢神社に行くだろうから、会った時の話を聞かせてくれるなら菓子ぐらいは作ってやる」

「よーし頑張っちゃうぞー! 行ってくるねー!」

 

 現金なもので、信綱がちょっとしたご褒美を提案すると霊夢は機嫌良く妖怪の山へすっ飛んでいくのであった。

 それを見送っていると、横から阿求の小さな笑い声が届く。

 

「阿求様?」

「ふふっ、お祖父ちゃんがさっき会ってきたばかりなのに、霊夢さんからまたその話を聞くの?」

「私が会った時と、異変の時では見せる姿も違うでしょうから」

 

 本心でもあり、建前でもある理由を話すと、阿求は予想通りと笑みを深める。

 阿求はそのまま椛の手を取って、稗田邸への道を歩き始めるのであった。

 

「そういうことにしておきましょうか。ふふっ、椛姉さん、帰りましょう?」

「ええ、戻って彼の淹れたお茶でも飲みましょうか」

「出がらしを淹れてやる」

「阿求ちゃん、君のお祖父さんは私に冷たいんです」

「遠慮がないってことよ。あははっ」

 

 阿求に冗談めかして自分がいかに信綱に冷遇されているかを話す椛と、彼女の言葉の意味を全て正しく捉えて楽しそうに笑う阿求。

 そして信綱は不思議そうにその光景を眺めながら、彼女らの後ろをついて歩くのであった。




ということで異変開始です。つまりノッブの出番はほぼ終わりました(真顔)

次のお話では異変を眺めながら阿求や椛とのんびりくっちゃべって終わります()

なお拙作の早苗さんは基本的に礼儀正しいし優しいけど、追い詰められると本人もびっくりするような斜め上の行動に出ます。しかもそういう時に限って行動も言葉もなめらかになる。

Q.早苗さんと霊夢、実際どっちが強いの?
A.今の所霊夢が勝つけど、弾幕ごっこに慣れれば早苗さんも普通に勝ちます。ガチ勝負? 言わぬが花ってあるよね()


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

異変解決は外から眺めていたい

異変解決は外から眺めていたい(願望)


「わ、ここからも弾幕ごっこの光が見える」

 

 稗田の屋敷に戻り、信綱が用意した紅茶とクッキーをおやつに、阿求は縁側で妖怪の山にて繰り広げられている弾幕ごっこを眺めていた。

 

 レミリアが幻想入りした頃から食文化にも変化が訪れており、主のために技術を磨くことに余念がない信綱はその方面も取り入れている。そのため洋菓子や洋食を作ることも材料さえあれば可能である。閑話休題。

 

「私も実際に誰かがやっているのを見るのは初めてになります」

 

 阿求の隣に座り、信綱も弾幕ごっこの光を見る。

 霊夢のスペルカードを見たことは何度かあるが、他のスペルカードを見たことはなかったため、ひどく新鮮に映る。

 紫が主導し、自分と天魔、レミリアらで作ったルール――血で血を洗う暴力でなく、美しさを競うというそれは、誰の目も楽しませられるものになっていたようだ。

 

「……阿求様、楽しいですか?」

「うん、とっても! キラキラして、法則があって……見ていて全然飽きない!」

「それは良かった」

 

 阿求が楽しんでいるなら何よりである。

 かつて刃を振るい、血に塗れた光景をいくつも作って今の時代に至った信綱は、その光景を誰かに見せるべきではないと位置づけていた。

 弾幕ごっこに目を輝かせる阿求を見てそれは確信になる。誰かが見て嫌悪を覚える光景を作り出すのが戦いだと言うならば、それはやはり今の時代には不要なのだ。

 

 と、そんなことを考えていると信綱の隣に座っていた椛が紅茶に息を吹きかけて冷ましながら飲み、ふと気づいて顔を上げる。

 

「……あれ?」

「どうした」

「妖怪の山の異変なら、私もいないとまずくないですか?」

「今気づいたのか?」

「わかってたなら教えてくださいよ!?」

「別に良いだろう。後で何か言われたら天魔の指示を受けていたでも、俺に巻き込まれていたでも好きに言えば良い」

 

 椛を動かす許可を出したのは天魔なのだから、彼の命令に従っていたと言っても過言ではないのだ。

 それにいざという時は自分の名前も使えば良い。かつての騒乱の折、信綱の名前はただの天狗にも十二分な効果を持つようになった。

 

「……良いんですか? 君の名前を使っても」

「最初に巻き込んだのはこっちだし、その責任ぐらいは取る。第一、お前が行ったところで何ができるわけでもあるまい」

 

 仮に彼女がスペルカードを用意していてなおかつ凄まじい実力者、ということはないだろう。今の幻想郷でスペルカードルールに強ければすぐ噂になっている。

 

「む……その通りですけど」

「だったら開き直れば良い。それに……」

 

 信綱が視線を阿求の方に向けると、阿求は椛の方に笑顔を向ける。

 そして空いている自分の隣を叩いて彼女を招く。

 

「椛姉さんもこっちに来てお話しましょう? こんな風にお話ができて、とっても楽しいの!」

「阿求様以上に優先すべきものなど何もないだろう?」

「いや、君の理屈に巻き込まないでくださいよ……」

 

 至極真面目な顔で言い切る信綱に肩を落としながらも、椛は阿求の隣に移動する。妖怪の山に戻るのは諦めたらしい。

 

「でも君の言うことにも一理ありますから、今日のところはこうしています。私も阿求ちゃんと話したいですし」

「その方が良い。さて、紅茶のお代わりでも……む」

 

 信綱が立ち上がり、台所へ行こうとすると不意に空を見上げて顔をしかめる。

 釣られて椛も顔を上げ、その千里眼で誰が近づいてきているのかを察した。

 信綱は台所に向かおうとしていた足を反転させ、中庭に立ってそれを待ち構える。

 

「……魔理沙、人の家には玄関から来るものだぞ」

「急いでるから大目に見てくれよ、爺ちゃん」

 

 魔法の箒に乗って凄まじいスピードで来たのは、黒白のエプロンドレスに身を包んだ霧雨魔理沙だ。

 彼女は信綱の前に降りると、悪童そのものな笑みを浮かべながら妖怪の山の方を指差す。

 

「たまたま里に戻ってたらあれだ。どう見ても異変っぽいけど、目に見えるような騒ぎも起きてない。一体全体どうしたんだありゃ?」

「山の神社は知っているな? あれが信仰を独占するために博麗神社に喧嘩を売ったんだ」

 

 信綱が異変の概要を話すと、顔を輝かせた魔理沙が再び魔法の箒にまたがる。

 

「へぇ。ってことはありゃ霊夢と妖怪の山が勝負してるってことか」

「そうなるな。異変という形を取っているから、お前が参加しても良いはずだ」

「ははっ――願ったり叶ったりだ。場所もわかりやすいし、今度こそ霊夢より早く異変解決してやるぜ!」

「その意気だ。まだ時間もそう経っていないから、十分追いつける」

「おうよ! 私が異変解決したら爺ちゃんも褒めてくれよな!!」

 

 父親に褒めてもらえ、と言おうとする前に魔理沙の姿は妖怪の山に消えていた。

 話を聞かない輩が多くて困るとため息をついて、信綱は台所へ戻ろうとする。

 そんな彼の背中に椛が声をかけてきた。

 

「良いんですか、行かせちゃって」

「駄目だと言う理由もないだろう」

「無関係ですよ?」

「関係の有無で言うなら天狗も便乗しているようなものだぞ」

 

 守矢神社についたとか言っていたが、天魔の率いる天狗が神頼みにすがるはずないと信綱は考えていた。

 いきなりやってきた神を信仰するのと、千年自分たちを導いてきた実績のある首魁を信じるか、火を見るより明らかである。

 彼にどうにもならないことがあったら、それは誰もがどうすることもできない類だろう。そう思えるくらい、信綱は天魔を評価していた。

 

「一種の祭りだ。誰が行っても問題はない」

「そういうものですかね」

 

 というより目的自体が天狗のガス抜きであるため、信綱が語る以上の意味など本当に存在しない。

 それにどのような形であれ異変が終われば宴会をやる。宴会をやれば大勢集まる。大勢集まれば守矢神社の宣伝にもちょうど良い。

 

 天狗はおおっぴらに騒げて満足。守矢神社は知ってもらえて万歳。人里は宴会だけ参加すれば良いので八方どこにも角が立たない異変なのだ。

 強いて言えば霊夢が根に持つかもしれないが、あれはそういった尾を引く感情とは無縁のため、宴会で上等な酒でも振る舞えばコロッと忘れてしまうだろう。

 

「そういうものだ。お前も義務感から戻るのはオススメしないが、騒ぎたいのなら戻るのも手だぞ」

「んー……やめておきます。私もこれ以上の騒動に巻き込まれるのはゴメンですから」

「なぜ俺を見る」

「いやあ」

 

 椛に答えになっていない笑顔を浮かべられ、その意味が大体察せられてしまった信綱は憮然とするしかなかった。

 

「俺は阿求様のお側にいられればそれで十分だと言っているのに」

「もちろんお祖父ちゃんが一緒にいてくれるのは嬉しいけど、私はお祖父ちゃんが聞かせてくれるお話も大好きよ?」

「はっはっは私は生涯現役ですとも。どんな問題だろうと解決してみせましょう」

「いっそ清々しくなる身の振り方ですね……」

 

 椛に心底から呆れた目で見られるものの、信綱は特に気にしなかった。

 彼は阿礼狂いなのだ。御阿礼の子が黒を白と言えば白になるし、厭うべき面倒事も阿求が好きと言えば好きになるのが当然である。

 

「あ、お祖父ちゃん。紅茶のお代わり、頂戴?」

「かしこまりました。菓子はもう良いですか?」

「うーん……やめておくわ。これ以上食べると夕ご飯が入らなくなっちゃう」

「ではそのように」

 

 うやうやしく頭を垂れて下がろうとすると、阿求の隣で異変を見物している椛が手を上げる。

 

「あ、私はもう少しお菓子をください」

「俺の分なら食っていいぞ」

 

 やった、と躊躇なく信綱の残したクッキーを食べ始める椛を見て、相変わらず食い意地が張っている、とため息を吐くのであった。

 

 

 

 台所に行き、紅茶の準備を四人分(・・・)進めていく。

 そして一人分のものだけ先に注ぎ、信綱は何もない空間にそれを差し出す。

 

「……話したいことがあるんだろう。出てきたらどうだ?」

「……本当、あなたには何が見えているのやら。視界を同期させればわかるのかしら?」

 

 何もない空間から白磁の手が伸び、紅茶のカップを優雅に持つ。

 そしてスキマに腰かけた八雲紫が現れ、淡い微笑みとともに紅茶を口に含む。

 

「あら、美味しい。丁寧に淹れてありますのね」

「阿求様が飲まれるんだ。当然だろう」

「今度、ご相伴に預かりたいわね。外の世界で使われている最高級の茶葉を持ってきますので」

「だったら歓迎しよう。紅茶もそうだが、この手のやつは基本的にレミリアのところからしか入手が難しい」

 

 彼女がどうやって調達しているのかは本当に謎である。そもそもどうやって生活しているのかも知らなかったし、興味も持ってなかった。

 

「で、要件は何だ? 自分の代わりに守矢神社を見に行ってくれて感謝している、とかそういうのはいらんぞ」

「今ので私が言いたいこと全部言いましたわよ!! わかってて言ってるでしょう!?」

 

 無論、と信綱は鷹揚にうなずく。

 そもそも幻想郷に自分の意志でやってくるには紫の介在が不可欠であり、あれほど大きなものの幻想入りを紫が把握していないはずないのだ。

 だというのに、守矢神社が来てからはめっきり大人しかった。信綱と天魔が接触に動いたのも、紫が不気味なまでに静けさを保っていたというのも一因にある。

 

「まあ原因は十中八九、あの祭神の二柱だろうな。今回は利害が一致したから良いものの、あれは相当なやり手だ」

 

 今よりはるか昔、神とはそこに住まう人々の支配者だった。

 人間とは比べ物にならない力もあるだろうが、それだけで支配というのは行えるものではない。支配し、維持し続けるには力だけでなく知恵も必要になるのだ。

 つまり非常に長い期間、神としての力を保っていた神奈子と諏訪子は政治家としても恐ろしく優秀なのだ。

 

「まったく、俺だって得意だとは言えない分野なんだぞ。あまり俺を頼られても困る」

「あなた、得意でない分野はあれど苦手な分野はほとんどないでしょうに。天魔があなたのことをこの上ない好敵手と評価しているの、わかっていないわけではないでしょう?」

「行き当たりばったりで勝てる気がしないから、可能な限り準備を怠らないだけだ」

「その辺りまで含めて、政治というものの力量なんでしょうね。私はスキマがあるからか、どうにもあなたや天魔のようにはなれないわ」

 

 境界を操る紫の能力は強力無比だが、同時に彼女はあらゆる物事にスキマを使用している。

 スキマをどうにかできる状況、ないし場面さえ作れれば彼女自身の能力は――もちろん侮れないが、決してどうにもならない絶望的なものではなくなる。

 

 天魔や信綱との対話にしてもそうだ。スキマを使えばほぼ確実に勝てるが、スキマを使われたと察した時点で二人は対話の席から離れるだろう。当然である、結果が見えたものに拘る理由はない。

 

「切り札は切り時を間違えるなということだ。俺と人里は今回の件にこれ以上の深入りは無理だ。残るは天狗と守矢神社になる。まあ……見る限り同盟はないだろうな」

「そこは同意するわ。天魔も八坂神奈子も、どちらも船頭みたいなものですし」

 

 仮に同盟を組んだとしても方向性やらなにやらで揉める未来しか見えないのだ。

 むしろそうなって共食いをしてくれた方が人里に所属する信綱としてはありがたいのだが、さすがに天魔も神奈子も一筋縄では行かない。

 

「俺としてはいつも通り――面倒な相手が増えた程度にしか思わん。人里の勢力を維持するためにも俺が生きている限りは知恵を巡らせる」

「そうしてくれると助かるわ。私も幻想郷全体を守るものとして、人間たちも保護しなければならないけどあなたがいれば安心して任せられる」

「そうだな。だから俺としては俺にできない部分でお前が力を発揮してくれるのを期待しているんだが」

 

 今回のこともお前が上手くやれば俺の面倒はなかったんだよ、という嫌味も含めた言葉に紫はぐっと言葉に詰まらせた。

 

「……あなたと天魔が頑張るだろうからちょっとぐらい楽しても――あぁっ、冗談です冗談! だから頭を握らないで痛いぃぃぃ!?」

「俺は、阿求様に、仕えていたい、だけなんだ」

 

 細かく言葉を区切って言い聞かせるように、信綱は自分の手に頭を掴まれながら騒ぐ紫に告げる。

 全く、と気が済むまで頭を握ってから解放すると、紫は痛そうにこめかみをさすりながら自ら開いたスキマにずるりと半身を潜り込ませる。

 

「――さて、人間にここまでさせておいて私は動かない、というのは不義理に過ぎますわね。ここから先のことはお任せなさいな。宴会の段取りから守矢神社への説明、あとあなたの脅威を教えることまで全てやっておきますわ」

「頼んだ。俺はもう事情がない限り剣を振るうつもりはないのでな」

「その事情があった時が恐ろしいですわ……」

 

 具体的には御阿礼の子に危険が及んだ時だろう。そしてその時に抜剣した信綱は御阿礼の子の脅威となるものを全て物理的に取り除く。

 脅威の説明というのは実際に見せた方が早いのだが、見せる時が来たら相手の生命が終わる時である以上是非もない。

 紫は最近痛むことの多い胃をこっそり押さえながら、スキマへと身を投じるのであった。

 

 それを見届けて、信綱は手元の紅茶に視線を落とす。

 だいぶ話し込んでいたにも関わらず、未だ暖かな湯気と芳しい香りを漂わせているのは、きっと彼女が気を利かせたからだろう。

 それをある程度予測していた信綱は驚いた様子もなく、新しい紅茶を用意して阿求たちのもとへ戻るのであった。

 

 

 

「あ、お帰りなさい。ずいぶん時間がかかりましたね?」

「少しな。阿求様、お代わりになります」

「ありがとう、お祖父ちゃん。そろそろ異変も終わりそうよ」

 

 阿求に新しい紅茶のカップを渡すと、彼女は妖怪の山の方を指さした。

 視線を向けると弾幕の光が徐々に守矢神社の方へと推移していた。妖怪の山で絡んでくる妖怪を撃退し、霊夢が順調に進んでいる証拠だろう。

 

「やっぱり霊夢さんって強いのね……山の妖怪たちを相手に一歩も引いてない」

「ことスペルカードルールの範疇では相当でしょうね。異変もいくつか解決していますし、経験も積んでいる」

 

 霊夢の話していた早苗という少女では少々荷が重いだろう。あれの才覚は間違いなく自分に匹敵する領域であり、なおかつ経験もすでに重ねつつあるのだ。

 同年代で勝ち目を見出すとなれば、同じく弾幕ごっこで頭角を現している霧雨魔理沙か、能力自体が破格な十六夜咲夜ぐらいである。

 

「……しかし、こうしてみると争いも祭りの一つですね。形で言えば妖怪の山が博麗神社に勝負を仕掛けるという異変なのに、穏やかに見ていられる」

 

 一昔前だったら間違いなく血で血を洗う戦争である。

 そうなったら先代は確実に自分を巻き込むだろうし、自分は手札を増やすためにも紅魔館を巻き込んで大事にする。こちらも死なないために手段は選ばない。

 

「……うん、そうだね。私が覚えている阿七や阿弥の記憶にも、お祖父ちゃんが戦っていた姿ってほとんどない」

「阿七様はお体の都合で、あまり外に出られませんでしたから」

 

 大半を家で過ごす阿七の前で剣を振るう機会など、あったら信綱は側仕え失格である。

 狼藉者を瞬く間に排除した後、自身も側仕えの資格なしと判断して消えるだろう。

 主に降りかかる危険は降りかかる前に除去しておくのが基本だ。

 

「これは従者としての持論になりますが、主の前で戦うこと自体が好ましいものではありません。それは危険を未然に排除できなかった従者の失態になります」

「そうなんだ? 私はお祖父ちゃんが戦ってる姿も見てみたいって思うけどなあ」

「そこの勝敗に阿求様のお命がかかっているとあっては、私も死に物狂いにならざるを得ません」

「君の死に物狂いとか誰が止められ……いえ、なんでもないです」

 

 冬が終わらなかった異変の時はギリギリ未遂だったため、彼も完全ではなかった。

 では完全に彼が阿礼狂いとして狂気に身を委ねていたのはいつかとなると、百鬼夜行の時まで遡る必要がある。

 

 あの時でさえ、伊吹萃香をほぼ一方的に屠っていたのだ。今、彼が阿礼狂いとして本気になったらどうなるのか、椛には想像もつかなかった。

 いずれにせよ、これまで関わってきた人たちが総出で止める必要があるのだけは確かである。

 

「阿求様が私の剣を見たいと仰るのであれば、場を都合いたしましょう。ですが、そこで御身が危険にさらされることがあってはいけません。ご了承ください」

「はぁい。うふふっ」

 

 信綱の言葉を受けて阿求は素直にうなずき、同時に嬉しそうに微笑む。

 なぜか、と信綱が首を傾げると阿求は笑顔のまま信綱の手を取った。

 

「お祖父ちゃんは私のことを大事にしてくれるんだなって実感できて、嬉しかっただけよ」

「当然のことです。さて、私の剣が見たいとのことでしたが……」

 

 チラリ、と信綱が隣にいる椛に視線を向ける。

 これ駄目なやつだ、と色々察した椛の瞳が死人の如く濁るが、信綱は特に気にしなかった。

 

「ちょうどよく彼女がいることです。どれ、ここで一つやりましょうか」

「椛姉さんが良いの?」

「私と剣で打ち合える、となるとかなり限られてしまいます」

 

 剣以外も良いのであればレミリアや勇儀、萃香なども入ってくるが、剣術の領域での打ち合いとなると信綱が知る中で可能なのは天魔と目の前の白狼天狗ぐらいである。

 天魔は単純に彼自身の磨き上げた剣技が信綱に追従する域に達している。白兵戦の領域でも、お互い万全の状態で始めて三割は天魔が勝つだろう。

 椛は信綱の剣技を最も長く見て、打ち合った存在ということが大きい。信綱の好む剣筋や間合いは全て体が覚えている。

 ……天狗を千年率いて文武双方に長けている天魔をして、剣術の領域では信綱を相手に三割の勝率しか確保できないというのがどう考えてもおかしいのだが、誰もがそこにはあえて触れなかった。妖怪を殺す人間ってそういうもんだと思考を放棄したとも言う。閑話休題。

 

「天魔はおいそれと人里には来ませんし、相手としてはこいつが的確かと」

「へえ……椛姉さん、やっぱりただの白狼天狗じゃなかったんだ」

「彼と一緒にいて無茶振りばっかりでしたからね……」

「あ、打ち合えることは否定してない。じゃあお願いしようかしら。私、お祖父ちゃんと椛姉さんが打ち合っているところを見てみたい!」

「仰せのままに。御身の安全のためにも木刀を使いますが、そこはご納得ください」

 

 万に一つも鋼の刃で打ち合い、破片が阿求の方に飛んではことである。

 ひょんなことから信綱との稽古が始まりそうな椛は遠い目になっていたが、逃げる気配はない。ここで逃げて阿求を悲しませた方が、後で信綱に何をさせられるかわかったものではないと考えているのだろう。正しい判断である。

 

 ただ、と気になっている部分もあったので椛は中庭に立つ信綱にそっと耳打ちする。

 

「いつも通りの稽古にするんですか? こう言ったらあれですけど、私はほとんど逃げてるだけになりますよ?」

「わかっている。阿求様が見てわかる程度に加減もするから俺に合わせろ」

 

 普段と同じ内容だと確実に阿求の目がついていけない。火継の戦闘術と天狗の兵法が混ざった信綱の戦い方は三次元の動きが多い。

 多少でも武術を嗜んでいる者なら良いが、阿求はそういったこととは無縁の生活を送っているため、そんな彼女に信綱の動きを見せても混乱させてしまうだけである。

 

 信綱の懸念をある程度かいつまんで話すと、椛は合点がいったように首を縦に振った。こういう時、少ない言葉でも自分の意図を読んでくれるのがありがたい。

 

「だったら安心ですね! いやあ、君が普段と同じように私の手足を飛ばしてきたらどうしようかと!」

「阿求様の目が穢れるからそんなことはしない」

 

 それはそれとして椛の言葉に腹が立ったので、阿求の目が慣れてきた辺りで稽古の時と同じ攻撃もいくつか混ぜようと決意する信綱だった。

 

「君がいつもやってることですよ!?」

「血が出たり四肢が飛んだりすることはないから安心しろ」

「安心できませんよ!? え、というか木刀でも妖怪の手足って落とせるの!?」

 

 難易度も高く神経を使う上、実用性は皆無だが可能か不可能かで言えば可能である。

 懇切丁寧に説明してやる義理もなかったので椛の疑問には答えず、向き合って木刀を構える。

 

「それは体で確かめてみればいい。――始めるぞ」

「あ、なんか急にお腹が痛くハイ無理ですねごめんなさい!」

 

 痛む場所を叩いて痛みで上書いてやろう、とでも言うような信綱の視線を受けて椛は即座に姿勢を正す。

 阿求も見ている前だし、そこまで恐ろしいことはしてこないだろう、してこないはず、してこないといいなあ、と椛は諦観の眼差しで迫りくる木刀を防ぐべく、自らも武器を振るう。

 

 この日、稗田邸では木刀の打ち合う乾いた音と、それを楽しげに見る阿求の喝采が絶えない一日となるのであった。

 

 

 

 

 

 博麗霊夢は妖怪の山を上へ上へと飛んでいた。

 妖怪の山への侵入を阻んだ連中は全て倒した。一応、話して下がるなら見逃すつもりだったのだがどいつもこいつも人の話を聞きやしないため、容赦なく弾幕の海に沈んでもらっている。

 

 決闘なんていう奇天烈なものを申し込んできた東風谷早苗も倒した。守矢神社の祭神である八坂神奈子と洩矢諏訪子も倒した。強敵ではあったが、まだ弾幕ごっこに慣れていないため倒すこともそこまで苦ではなかった。

 向かってくる輩は全員倒したのだ。博麗神社に戻って良いというのに、霊夢はまだ飛んでいる。

 

 予感である。博麗の巫女としての直感が霊夢にささやくのだ。

 異変はまだ終わっていない。いいや、異変そのものはすでに終わっているが、まだ黒幕を倒していない。

 

「大体、守矢神社は私の神社のこと、誰から教えてもらったのよ。それに妖怪の山がそんなホイホイ新参者の神社になびくわけないじゃない」

 

 詳しい事情は知らないが、妖怪の山は霊夢が生まれてからずっと大きな騒ぎを起こしていない場所だ。

 大きな騒ぎが起きていない――言い換えれば絶対的な支配者のもと、極めて平穏に統治されていた場所とも言える。

 

「それに異変の話だって誰かから聞かないと知りようがないし、外の世界から来た奴らがいきなり弾幕ごっこするってのもおかしな話よ。――絶対、仕組んだやつがいる」

 

 自身の直感がささやく答えをもとに、霊夢はこれまで特に目を向けていなかった疑問を改めて口に出して、思考を整理していく。

 この考え方も信綱より教わったものである。直感によって答えには到達できるのだから、次に必要なのはその答えに道筋をつけて人に説明する方法だ。

 それは必要なのか? と信綱に聞いたことがあった。必要である、と即答が返ってきたのをよく覚えている。

 

「お前が何らかの事情で他者の力を借りた方が楽だと感じた場合――俺を頼る場合でも良い。そうなった時に必要となる」

「私が放置しちゃ不味いと思うから、じゃ駄目なの?」

「少なくとも俺は動かないな。人を動かしたければ理由が必要で、理由とは答えに到達する道筋だ。お前だって特に根拠はないけどこの修業をやれ、と俺から言ったら嫌がるだろう?」

「根拠があっても修行は嫌!」

「そうかそうか、やりたくて仕方がないか。可愛い奴め」

「やだーっ!! まだ死にたくなーい!?」

「細心の注意を払っているからそこは安心しろ」

 

 ……ちょっと余計なところも思い出してしまったが、霊夢は忠実に信綱の教えを守っていた。

 だからこそ――今、後ろに追いついてきた魔理沙を見て立ち止まる選択を取れた。

 

「――魔理沙」

「やっと追いついたぜ! 後追いにはなっちまったが、私もあの神社の奴らは倒してきたぜ」

「ちょっと私に付き合いなさい。私の勘と推測が外れてなければこの先に黒幕がいるわ」

「へ? そうなのか?」

 

 霊夢は自分の感じている疑問とそれに対する自分なりの推測を魔理沙に伝え、未だ雲に覆われて見えない妖怪の山の頂上を睨む。

 

「アテが外れたら弾幕ごっこでもなんでも付き合ってあげる。だから来なさい」

「良いぜ。へへっ、霊夢の勘が外れれば霊夢と戦えて、外れてなければ黒幕と戦えるんだろ? どっちにしろ私に損はない」

 

 力を貪欲に求める魔理沙の姿勢は嫌いではない。霊夢は異変の最中ということもあって厳しい顔になっていた表情を僅かに緩め、再び上を目指し始める。

 雲間を抜けるとそこには、天に最も近い頂があった。

 天を衝く、という言葉が当てはまるような山の頂点。そこに目的の人物がいると霊夢の直感が叫ぶ。

 

 ふと後ろを振り返ると、魔理沙以外は何も見えなかった。あまりにも高すぎて、幻想郷の全てが雲海に呑み込まれてしまったらしい。

 今、霊夢と魔理沙の幻想郷は雲海から僅かに顔を覗かせる山の頂点のみ。そしてそこに、一人の天狗が立っていた。

 

 霊夢たちに背を向けて、艶のある黒翼をはためかせる若い男性の烏天狗。

 魔理沙はそれを見つけた時、不思議そうに眉をひそめた。

 

「ん? 烏天狗か? 妖怪の山で散々落としたのに、まだいたのか」

「――魔理沙」

 

 さっさと落としてしまおうとミニ八卦炉を構えた魔理沙を、霊夢が制止する。

 そう、霊夢の直感は確かに叫んでいたのだ。

 

 

 

 ――目の前の天狗に喧嘩を売るな。死ぬぞ、と。

 

 

 

「霊夢?」

「……全く、勘が良いのも良し悪しよ」

 

 うかつな行動を取れば死ぬ、という相手を前にして霊夢はため息一つで恐怖を横にやる。

 レミリアや幽々子、萃香を前にした時も感じたものだ。今更怖気づくものでもない。

 確かに勝負を挑んで自分が勝てる可能性は少ないだろう。――だからどうした、人間が妖怪に挑むとはもとよりそういうものだ。

 それに自分はその妖怪を相手に勝ち続けてきた人物から鍛えられているのだ。妖怪を相手にする際の心得など骨の髄まで叩き込まれている。

 

「――そこの天狗!」

 

 霊夢はいつでも攻撃に移れる状態で鋭い声を発する。

 すると烏天狗はゆっくりと振り返り、その顔を愉しげに歪める。

 

「……へぇ、博麗の巫女様に異変解決で引っ張りだこの魔法使いさんか。よくここまで来たな」

「御託はどうでも良いわ。――あんたが今回の異変の黒幕でしょう」

「なるほど、巫女の勘を侮っていたか。――そうとも、その通り! オレが今回の絵面を書いた張本人さ!」

 

 黒翼を広げ、烏天狗は霊夢たちと同じ高度まで飛び上がる。

 腕を組み、不敵に笑うその姿に霊夢と魔理沙は無言で戦闘態勢に入る。

 

「おっと、意気込ませて悪いが、オレは戦う気はないぜ?」

「はぁ!?」

「スペルカードルールは女子供の遊びだ。男が入ったらおかしいだろうが」

「じゃあ大人しく私たちに撃ち落とされてくれるのか? それはそれでこっちが面白くないぜ」

「まさか。黒幕に気づいて、ここまで来たお前たちを手ぶらで帰すつもりなんてないさ」

 

 烏天狗が指をパチンと鳴らすと、彼の後ろに見覚えのある烏天狗がやってくる。

 

「あんた、新聞の……」

「ブン屋じゃないか。どうしてここに? ってか、私たち両方とも勝ったぜ?」

 

 霊夢の魔理沙の驚愕の声に、やってきた射命丸文は答えずに男の烏天狗の側に控えた。

 

「お呼びですか」

「ああ。年若く前途洋々な異変解決役の少女たちがここまでやって来た。――文、丁重にもてなしてやれ」

「ええ、了解です。――本気を出しても?」

「良いぜ、許可する」

 

 男の言葉を受けた瞬間、文から発せられる妖気の圧が桁外れに強まる。

 ビリビリと肌を粟立たせるそれに霊夢と魔理沙は目を見開いた。

 

「あんた、それ……!」

「こんな強かったのかよ!? いっつも人里を飛び回ってるのに!」

「ええ、ええ、もちろん。私――これでも結構強いんです」

 

 間違いなく大妖怪に匹敵する威容。それが付き合いのあった新聞屋の烏天狗から発せられているのが信じられなかった。

 しかし今目の前にあるのが現実である。射命丸文は本来、大妖怪に勝るとも劣らない実力の持ち主なのだ。

 そしてその彼女が恭しく絶対の忠誠を示している天狗はつまり、そういうことになる。

 

「オレの代理として文が戦おう。文が負ければ潔く負けを認めるさ。煮るなり焼くなり好きにしな。と言っても――黒幕を相手に挑むんだ、拍子抜けじゃつまらないだろ?」

「さっきは手加減してあげましたけど、今度は正真正銘の本気です。無論、二人がかりでどうぞ? さあ、本気で行くから死に物狂いで抗いなさい、人間!!」

 

 黒い線。そう形容するしかない速度で縦横無尽に空を駆ける烏天狗を相手に、霊夢と魔理沙はそれぞれスペルカードを握り、挑んでいくのであった。




当然ながら異変解決はダイジェストです。だってノッブそこにいないし(小声)

次のお話で後日談的なあれをやって風神録は終わりになります。それ以降はあったら別のお話として独立させる予定なので、今度こそこちらは完結になる……はず(小声)

Q.ノッブと打ち合えるのって誰がいるの?
A.剣術に限らなければレミリアや勇儀、萃香に幽香も当然入ってくるが、剣術に限ると作中では天魔と椛の二人だけになる。

Q.じゃあ椛って白兵戦だと相当強い?
A.割と。鬼の一撃喰らえば死にますし、レミリアの再生力には普通に押し負けますけど、防戦やらせたら相当鬱陶しいレベル。火力はないけどとにかく防いで粘ってチャンスに繋げられる。
ちなみに関係ないですけどノッブは攻撃全振りで攻撃こそ最大の防御を地で行くスタイルで、なおかつワンチャンスあれば一気に勝ちにいけます。だからこの二人が組むとヤバくなるわけです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

そして今日も幻想郷の一日は賑やかである

後日談的なあれこれ(なおこの話で出てくるキャラも居る模様)


 異変が解決してしばらくした後、信綱が普段と同じように阿求の側仕えをしていた時の話である。

 阿求の私室にて主がサラサラと書き物を綴っている様を後ろに控えて見ていると、阿求が凝った肩をほぐすように回し始めた。

 

「阿求様、本日は何かをしなければならないという用もないはずです。ご無理はなさらぬ方がよろしいかと」

「うーん……そうね。異変のお話はまだ向こうの都合がつかないし、霊夢さんたちから聞いた話だけでもまとめておきたいけど……」

「後ほど私の方で行いましょう。縁起の執筆は阿求様にしかできませんが、資料の編纂ならば微力ながらお手伝いできます」

「お願いしても良い?」

「仰せのままに」

 

 恭しく頭を垂れ、信綱は懐に入れていた書物を差し出す。

 

「……それは?」

「阿求様が本日必要になるかと思い、昨日のうちに作成しておきました」

「うん、お願いしたらそう来るんだろうなってちょっぴり思ってた」

 

 あはは、と笑いながら阿求は信綱の差し出した書物を受け取る。

 軽く中身を検分したところ、やはり完璧と言って良い内容だった。

 阿求が生まれる前から阿求に仕えているこの男性は、もはや主の言葉などなくても主の意思通りに動くのではないかと思ってしまうほどだ。

 

「あれ、今日はもうやることがないかな?」

「阿求様がやらなければならない、というのは残ってないかと。小鈴嬢のところへ遊びに行かれては?」

「この前行ったばかりで話したいことも今はないかなあ。あ、そうだ!」

 

 ぽん、と妙案を思いついたように両手を合わせた阿求は信綱の方を振り向き、とびきりの笑顔を浮かべた。

 

「椛姉さんから聞いたわ! お祖父ちゃん、釣りが趣味だって!!」

「はい? 確かに御阿礼の子がおられない間は釣りをすることもありましたが」

「今はしてないの?」

「阿求様とのお時間が一番大切ですので」

 

 山で魚を取ることがあっても、釣り竿を垂らして待つのではなく腰に下げている刀で取った方が早いのだ。

 阿求に説明すると、乾いた笑い声になっていたのが気になるが、些細なことだろう。

 

「あはははは……お祖父ちゃんは人間離れしてるなあって」

「他者に比べて優秀な自覚はありますが、妖怪とは比べられませんよ。私など半端なものです」

 

 その半端な能力で幻想郷の魑魅魍魎を相手に一歩も退かないのが凄まじいのである、と阿求は思った。

 

「そ、それでね! 今日はお祖父ちゃんが釣りをしているところを見てみたいなあ、って」

「ふむ……」

 

 信綱は腕を組み、阿求の部屋から外を覗く。

 雲もまばらに見える程度、気温も晩夏から初秋に差し掛かる適度に暖かく、涼しすぎない適温。

 

「……それでは山の方に行きましょうか。そろそろ紅葉も始まる季節です」

「お魚は何がいるの?」

「鮎と少々時期は早いですが公魚(わかさぎ)などが狙い目でしょうか。釣れたてをその場で焼くのも美味しいですよ」

「わ、楽しみ! 早く行こ、お祖父ちゃん!」

 

 キラキラと顔を輝かせた阿求に信綱も微笑み、釣りの支度をするべく立ち上がるのであった。

 

 

 

 今更な話だが、信綱は妖怪の知り合いが非常に多い。

 紅魔館の吸血鬼、妖怪の山に暮らす天狗と河童、地底の鬼、スキマ妖怪とそれに連なる式など、およそ普通に生きていたらまず一生関わらないであろう妖怪の大半を知っていた。

 

 その中でも殊更に多いのが妖怪の山の知り合いである。

 悪友と呼ぶのがぴったりな妖猫に河童、相棒である白狼天狗など、彼にとって重要な妖怪は大体妖怪の山で暮らしていることになる。

 

 そしてこれも今更な話だが、信綱は不思議と妖怪を惹き付ける。

 そういう気質でも持っているんじゃないかと思うくらい、歩けば棒に当たる頻度で妖怪と出会う。

 

 なので彼が山釣りなどに行った場合は――

 

「あら、人間さん。こんなところで会うなんて奇遇ねえ」

「嘘をつくな。俺を探していただろう」

「前々からここで釣りをしていた人がいたのは知っていたわ。でもあなただとわかったのは最近よ」

 

 当然のように、妖怪たちと出会うのである。

 先日知り合った厄神の鍵山雛が、最初に会った時と同じ懐っこい笑顔を浮かべてふわりと信綱の近くにやってくる。

 それを見て、信綱は隣で祖父が釣りをしているのを楽しそうに見ていた阿求をそっと遠ざけようとする。

 

「……おい待て、厄神。近寄ると厄が移る」

「ああ、安心して。厄が移るのは避けられないけど、その方向を制御するくらいならできるから。だから厄は全部あなたに行くわ」

「安心できる要素がまるでないんだが」

 

 それはつまり阿求に行く厄まで自分が引き受けるというように聞こえてならない。いや、阿求に厄を行かせるなど言語道断なので、それが防げること自体はありがたいことなのだが。

 

「あなたは……厄神様? 人間の前に姿を現すことがあるなんて知りませんでした」

「今代の阿礼乙女ね。知らないのも無理はないわ。私も普通の人の前に姿を現そうとは思わないし」

「じゃあ、どうして?」

「誰とも会わない生活って退屈なのよ。そして彼は私の厄が移ってもものともしない人間。話し相手にはうってつけだと思わない?」

「俺がお前と話す利益がまるで見えないんだが」

「ちょっとくらい良いじゃない。それとも厄神が人間と友人になりたいって思うのは間違いとでも?」

 

 正直そう思う、と言ったら雛は本気で受け取り、二度と信綱の前に姿を現さないだろう。

 出会った時と変わらない懐っこい笑みの中に、どこか怯えの色が混ざっているのを信綱は見逃さなかった。

 

「……あの後、戻ってからも俺の方で凶事はなかった」

「え?」

「お前から移る厄などその程度なのだろう。阿求様に移さなければ気にはせん」

「……うふふふふっ、やっぱり私の思った通り! あなた、とっても優しい人ね!!」

 

 雛は本当に嬉しそうに笑って信綱の近くに座り、片目を閉じてペロッと舌を出した。どうやらさっきの言葉は演技だったようだ。

 露骨に渋面を作るものの、おそらく拒絶したらしたで本当に立ち去るつもりだったことも理解できてしまい、信綱はため息を吐くことしかできなかった。

 

「……阿求様に少しでも厄を移したら死ぬと思えよ」

「そこは細心の注意を払わせてもらうわ。ね、ね、今って釣りでもしてるの?」

 

 親しげに話しかけてくる雛をため息であしらい、同時に釣り針にかかった感触を逃さず釣り上げる。

 

「わ、わっ! すごい、ピチピチしてる!!」

「今は魚籠に入れておきましょう。ある程度数が揃ったら落ち葉を集めて焼いて食べましょうか」

「はぁい。お祖父ちゃん、釣りも名人なんだね!」

「長く続けていただけですよ」

 

 謙遜したように言うが、阿求に褒められて悪い気はしない信綱だった。

 横から私は? 私は? という目で見てくる雛にも一尾はくれてやろうと考えていると、再び背後に気配を感じ取る。

 珍しいことに妖猫のそれではなく、信綱は振り返って誰がいるのか確かめる。

 

 そこにいたのは赤や橙といった暖色系の服を身にまとい、ブドウの飾りをつばの広い帽子につけた少女だった。

 芋にも似た甘い匂いを漂わせた少女は面白いものを見た、と目を丸くして信綱たちを見ている。

 

「あら……珍しい気配がすると思ったら珍しい組み合わせがいたわ」

「秋姉妹の妹さんの方じゃない。あなたも人間の気配に惹かれて?」

「厄神の気配を感じて、が正解よ。あなた、普段はこんなところまで来ないでしょう?」

 

 増えた。それが信綱の率直な感想だった。

 雛の気配を厄神のそれと感じ取れる存在はそう多くない。つまりこの少女は――

 

「あ、人間は知らないかしら? あれ? でもそこの阿礼乙女は知ってるわよね?」

「ええ、存じております。幻想郷の豊穣神、秋穣子さまですね?」

「そうそれ。あ、でもそんな畏まらなくていいよ。神社とかも持たずにフラフラやってる弱小神さまだし」

 

 脳天気に笑いながら穣子もまた信綱の近くに座る。雛の厄が移るのを恐れてか、若干距離は取っていたが。

 なんで居座るんだよ、と思いながら信綱は自己紹介のために口を開く。

 

「……御阿礼の子を知っているなら俺もわかるかもしれん。阿求様の側仕えをしている者だ」

「ふぅん? この子はお祖父ちゃん、って慕ってるみたいだけど?」

「お祖父ちゃんは私のところに仕えて長いですから。穣子さんは今日は一体?」

「さっき言った通り、雛がこの辺りまで来るのは珍しいからね。少し気になっただけ。雛はこの人間に会いに?」

「そんなところよ。それで今は彼の釣りを眺めているの」

 

 雛は楽しそうな笑みを浮かべながら、竿を操る信綱を見つめていた。

 近寄るだけで厄が移るのに、彼は何も言わず彼女の好きにさせている。それが雛にとっては嬉しかった。

 楽しそうな雛の気配にあてられたのか、穣子も近くの手頃な岩に腰掛けて信綱と阿求の様子を眺め始める。

 

「……理由はわかったんだろう。お前がここにいる理由はないと思うが」

「動く理由も特にないもん。私はちょっと歩き疲れて休憩して、たまたま人間がそこにいたってわけ」

「…………」

「あ、でもお供え物は大歓迎よ? お魚も立派な秋の実りだし」

 

 結局たかりたいだけか、と信綱は期待した目で釣り竿を見る穣子に呆れた視線を返し、釣りに戻る。

 阿求と二人だけでのんびり釣りができると思っていたのに、邪魔ばかりである。

 そんなことを考えていたところ、雛は不思議そうに頬に指を当てて穣子に視線を向けた。

 

「あら? そういえばあなたのお姉さんは――」

 

 雛がそんなことを言った瞬間、信綱は嫌な予感を覚えるのだがすでに後の祭りだった。

 ふと後ろを振り向いた信綱たちの前に、また一柱の神が姿を現す。

 物静かな空気をまとい、紅葉を連想させる色合いの服を着た――つい先ほど知り合った穣子そっくりの気配を持つ少女はその場にいるちぐはぐな面子を見て小首をかしげた。

 

「穣子、こんなところにいたのね……って、あら、人間と厄神?」

「お前が俺にもたらす厄が今わかった。俺と阿求様の時間を邪魔するのだな?」

「いえこれはあなた自身の生まれついた間の悪さだと思う痛い!?」

 

 とりあえず雛のせいだということにして頭を叩いておく。雛は叩かれた場所を押さえて涙目で見てくるが、気にせずやってきた神の方へ顔を向ける。

 

「以前に聞いたことがある。厄神、豊穣神、紅葉の神。この三柱が妖怪の山で活動している神々だ、と」

「物知りなのね、あなた。私は秋静葉。紅葉を司る八百万の神よ。妹がお世話になりました」

 

 ペコリと頭を下げるその姿に信綱は意外そうに眉を動かす。

 こんな風に最初から謝罪してくるとは思っていなかったのだ。

 

「あら、意外?」

「……初対面の人間にお供え物をたかってくるやつの姉とは思えないくらいにはな」

「あ、ひどーい。人間が神を敬うのは当然でしょー?」

「利益があれば、の話だ。お前が俺に何かしてくれるのか?」

「お供えしてくれたら加護をあげる。今なら体から甘いお芋の匂いが――」

「いらん」

「ちぇー」

 

 大して執着もしていなかったようで、穣子はケラケラ笑うばかり。

 そんな妹の様子を見てなにか思うところがあったのか、静葉も穣子の隣に座って信綱を眺め始めた。

 

「何が面白いんだお前ら」

「こんな風に神さまが揃うなんて滅多にないし、人間もせっかくなら楽しめば?」

「俺は阿求様と二人だけが良いんだが」

「まあまあ、お祖父ちゃん。私、こうやって皆とワイワイするのも楽しいよ?」

 

 阿求にそう言われては何も言えなかった。

 信綱は仕方がないと肩を落とすと、再び釣りに戻っていく。

 

「……釣りの邪魔はするなよ。それなら一尾ぐらいはくれてやる」

「わ、お供え?」

「寝言は寝て言え」

「んー……ま、いっか! お供えもありがたいけど、たまにはそうじゃないのもいいよね!」

「あまり神が露骨にたかるものじゃないわよ……でも、私にももらえたら嬉しいかな」

 

 辛辣な信綱の言葉もまるで堪えた様子がなく、穣子と静葉はそこに佇んで信綱が魚を釣るのを待つつもりらしい。

 雛は久しぶりに会った人間を見るのが楽しいのか、ニコニコと笑ってその様子を眺めていた。

 

「……何が楽しいんだ?」

「今この瞬間の何もかも、かしら?」

 

 そう言って雛は笑いながら阿求に目配せすると、阿求もまた楽しそうに笑う。

 どんどん増える神々に信綱は鬱陶しそうな顔を隠さないが、静かだった二人だけの釣りが賑やかになっていくのが阿求には嬉しかった。

 

「お祖父ちゃんの周りはいっつも色々な人がいるね」

「困ったものです。こちらが嫌がっても向こうから寄ってくる」

「好かれているってことよ。もちろん、私も!」

「おっと」

 

 阿求が祖父の背中に飛びつくように抱きつくと、信綱は穏やかに笑いながらその体重を受け止める。

 孫娘と祖父。その姿にしか見えない二人と神々が三柱。誰もが笑って同じ場にいることが、阿求には尊く輝いている物に見えたのだ。

 きっと、この時間は何ものにも代えがたい宝石のような時間になる。そんな確信にも等しい予感があった。

 

「お魚ちょうだい!! あ、やっほー子分!」

「誰が子分だ」

「お、盟友釣りしてる! ってなんかすごい大勢いる!?」

「おい、水場から来るな。魚が逃げる」

 

 阿求の予感は的中し、信綱の腐れ縁と言える妖猫の橙や河童のにとりまでやってくる。

 信綱はその度に面倒そうな顔を隠さず、にべもない言葉を放るのだが誰も気にしない。

 人見知りの気があるにとりですら、普通に水場から出て橙と話し始めるほどだ。

 

「…………」

「申し訳ありません、阿求様。このようになってしまって」

 

 もはや二人だけになるのは無理だと悟ったのか、信綱が困ったように頭を下げる。

 誰か一人ぐらいは来るかもしれないと予想していたが、これほどの数はさすがに予想外だった。

 賑やかを通り越してうるさいくらいの人数になってしまった。しかも大半は自分が目当てである。

 阿求の願いを叶えられていないのではないかと内心で不安に襲われながらの謝罪を、阿求は微笑んで首を横に振る。

 

「ううん、山の中でこんな風に賑やかな時間を過ごすなんて初めてだから、とっても楽しい!」

「……なら良かった」

 

 阿求の喜び方が本心からのそれだとわかったからか、信綱も安心したように穏やかな表情になる。

 そしてほぼ同じ時にかかった釣り針の魚を橙に放った。

 すでに焼く準備をしていた橙は器用に放られた魚を枝に受け止め、手際よく串刺しにしていく。

 

「おっと、もう焼いていいの?」

「いい、それなりに数は釣った。これも使っていいぞ」

 

 魚を入れていた魚籠も手渡すと橙は中身を確認して数を数える。

 ちょうど全員が一尾は食べられる数が釣れていることを確かめると、橙はニンマリと笑った。

 

「ん、ちゃんと全員分あるわね! 褒めてあげるわ!」

「たまたまだ。まったく、どいつもこいつも遠慮というものを知らんのか?」

「あんたが知らないものを私たちが知るわけないじゃなイタタタタ!?」

「人に無遠慮とか言うな」

「あんたはどうなのよ耳を引っ張るなー!」

 

 橙の耳を引っ張りながら憮然とした顔になる。

 これでもちゃんと礼を尽くす相手にはこちらも礼を尽くす方だと自負しているのだ。礼を尽くさない相手には遠慮など彼方に投げ捨てるが。

 

 基本的に妖怪は人間の事情などお構いなしな連中ばかりなので、妖怪を相手にする時は大体自然体でいることが多い信綱だった。こいつらに払う礼儀など一欠片もないと言わんばかりの態度である。

 

「まあまあ、盟友。これも盟友の人徳だよ。私も初めて見るけど、神さま三人に出会える人間なんてすごく貴重じゃない?」

「貴重どころか一生自慢できるよ。まあ人間はそういうの気にしないみたいだけど」

「もうそういうのは一生分経験した」

 

 それに異変解決は霊夢に任せているのだ。自分はゆっくりと残された時間を御阿礼の子とともに過ごしていたいだけである。

 ままならない時間にため息をついていると、静葉が何かを思い出したように両手を合わせる。

 

「……あ、山の噂で聞いたことある。数十年前に現れた人間の英雄が幻想郷を変革したって。で、その人間はまだ存命だって」

「…………」

「……まあ、どっちでも良いけど。人間は私たちをどうこうするわけじゃないでしょう?」

「むしろお前が俺をどうするか聞きたいんだが」

「別に何も? あ、私が手ずから色づけた紅葉とかお土産にいる?」

「いらん」

 

 そう、と静葉は感情の読みにくい顔でうなずく。

 情動が薄いのだろうか、と信綱は未だ詳しいとは言えない神を知る機会だと考えて観察してみたところ、視線が落ちており暗い空気をまとっていることから、ほんのり落ち込んでいるように見えた。

 静葉の隣に座っている穣子もついでに見てみると、にべもない信綱の言葉に傷ついた姉を慮っている眼差しだった。

 

「……似たもの姉妹だな」

「え? あんまり似てないってよく言われるけど?」

「そう思っているだけだろう」

 

 どちらも目が口以上に物を言っている。少し付き合いが長くなれば目だけで何が言いたいかもわかってくるはずだ。

 ……そんな長い付き合いになってほしくない、と内心で思う信綱だった。これ以上の面倒事など好んで関わりたいものではない。

 

 信綱の言葉がピンときていないのか考える様子の秋姉妹から視線を外し、阿求の様子を見る。

 

「まだなの?」

「んー、まだね! まだ匂いが生焼けみたいだし!」

「へえ、さすが妖猫。わかるものなんだね」

「ふふん、魚に関しては任せなさい。最高の焼き具合になったら教えてあげる!!」

 

 橙、にとりと一緒に魚が焼ける様を楽しそうに眺めているので、特に問題はないと判断して釣りに戻る。

 楽しそうに話しているのだ。自分が首を突っ込んで水を差すのもはばかられた。

 

 秋姉妹は何やら二人で話し込んでおり、橙とにとりは阿求と一緒に魚を焼いている。そして雛は優しげに目を細めて彼女らを見ていた。

 

「……何が楽しいんだ?」

「この空間に自分もいられる幸福を噛み締めてる、って言ったら大げさって言うかしら?」

「おいそれと人と関われないのだろう。別に笑うほどのものでもない」

「ふふ、ありがとう。――皆があなたを好きになる理由がわかるわ」

 

 静葉が話していた英雄は彼なのだろう、と雛は確信を持って信綱を見る。

 武勇? 知略? 強運? どれも英雄の条件ではあるが、それだけでは不十分である。

 英雄に必要なのは――時流の中心に立ち、その上で自ら道を選ぶことなのだ。

 

 大きな流れは本人の望む望まないに関わらず多くのものを惹き付ける。

 良いものもあるだろう、悪いものもあるだろう。あるいは、本人すら殺しかねないものもあるだろう。

 薙ぎ払うか、手を差し伸べるか、いずれにせよ彼は激動の時代の中で自ら信じた道を踏破した。

 今はもう残滓のようなものかもしれないが――それでも、多くのものを惹き付けるに十分な輝きを持っているのだ。

 

 尤も、当人は理解しているのか理解していないのか、雛の言葉に眉をひそめていた。

 おそらく理解していないのだろう。真っ当な気質ならわかるであろうことが、彼の出自故にわからなくなっているのだと人間の魂がわかる雛には読み取れた。

 しかし自分にはわからないと理解した上で尊重しようとするのは彼自身の人徳である。雛は歪みながらも真摯な輝きを放つ魂を眩しげに見る。

 

「……お前が何を言っているのかわからんな」

「良いのよ、わからなくても。老い先短くても、あなたと知り合えて良かったと思っただけ」

「そんなものか」

 

 わかったようなわからないような、適当な返事をして信綱は釣り竿を片付け始めた。

 もう終わりなのだろうか、と雛が顔を上げると背中から声が届く。

 

「お魚焼けたよー! 食べないと私が全部食べちゃうんだからー!」

「今行く。行くぞ」

 

 立ち上がった信綱が当然のように雛へ手を差し出す。厄が移るというのをすっかり忘れているのか、はたまた気にしても意味がないと開き直っているのか。

 どちらにせよ彼は自分の意志で手を差し伸べた。近寄ってくる相手を拒絶するのも彼の自由なのに、手を伸ばすことを選んだ。

 

「……厄が移っても手を払ったりしないでね? 傷ついちゃうわ」

「今更それを恐れるくらいなら最初から来るなと言っている」

 

 それもそうだと吹き出してしまう。あけすけに物を言うというか、一度決めたことに忠実なのか。

 雛が伸ばされた手を取ると、大きな力がかかって簡単に立ち上がってしまう。

 

 ――誰かに立たせてもらうなど、何年ぶりのことだろうか。

 

 あるいは初めてかもしれないそれを雛は微笑んで胸の奥へ大切にしまい、笑って皆が魚を囲む場所へ合流するのであった。

 

 

 

 

 

「おや、博麗の巫女じゃないか。先日の意趣返しで今度はそっちが敵情視察?」

 

 守矢神社で何をするでもなく佇んでいた諏訪子は、空の上からやってきた紅白の巫女を見つけて声をかける。

 異変の解決は全て弾幕ごっこで行われ、そこでの禍根は全て異変後の宴会で水に流される。

 

 まだ若い早苗は少し尾を引くかもしれないが、神奈子と諏訪子は長年生きた神だ。その辺りの割り切りも熟知していた。

 なので諏訪子は特に倒された恨みもなく霊夢を歓迎しているのである。

 

「そんな面倒くさいことするわけないでしょ。早苗、いる?」

「いるよー。呼んでこようか?」

「お願い。ったく、遊びに来るものだとばっかり思ってたのに全然来ないんだから」

 

 早苗を呼びに行こうとした諏訪子が立ち止まり、霊夢の顔をまじまじと見る。

 

「……なによ」

「いやなに。博麗の巫女は決闘ふっかけられたこととか気にしてないの?」

 

 早苗が当時何を思ってそんな言葉を口にしたのか。本人にもわからない以上、永遠に闇の中だろう。

 育ての親みたいな神奈子と諏訪子をしても何考えてんの? 以外の感想が浮かばないので霊夢も驚いただろうと思っていたのだ。

 

「別に? あの後弾幕ごっこやって私が勝ったじゃない」

「うん」

「だから私の方が強いってことでしょ?」

「うんうん」

「でもそれって今後はわからないわけじゃない」

「うんうんうん」

「だから向こうからまた来るかなって思ってたんだけど、なんかおかしかった?」

 

 つまり、霊夢はこう言っているのだ。

 あの決闘という言葉を、これからも弾幕ごっこで遊びましょうと。

 だから彼女は再び早苗と弾幕ごっこをしようと誘いに来ているのである。

 

 巡り巡って、というか明らかに不要な回り道だらけではあったが――早苗の当初の目論見は成功していたのだ。

 

 諏訪子は霊夢を興味深そうに見つめ、長い舌を出してけろけろと笑う。

 

「……くふふっ、あの人間も面白そうだけど、お前さんも面白そうだ。まったく、幻想郷には面白い人間が多くて神さまとしては嬉しいよ」

「はぁ?」

「いやいやこっちの話さ。さて、早苗だったね。ちょっと呼んでくるよ」

「この後他の連中も呼ぶんだから早めに頼むわ」

 

 なんともはや。狙ってやっているのだろうかと諏訪子は霊夢を見やるものの、彼女は気にした様子もない。

 完全に天然でやっているのだろう。何かを意識せずとも、多くの存在を惹き付ける在り方である。

 

 早苗が最初に出会った人間が彼女でよかった。きっとこの付き合いは何ものにも勝る宝となるだろう。

 諏訪子は内心で霊夢に感謝する。無論、表には出さないが。

 上機嫌に居住区の方へ入っていき、しばらくすると神奈子と早苗が霊夢の前に姿を現した。

 

「あ、あの、霊夢さん。先日は、その……」

「ん? 別に気にしてないから良いわよ。異変を起こしたけど、あんたたちは負けた。それでおしまい」

「そ、それじゃ私の気が済みません!」

 

 真面目なことである、と霊夢は早苗を感心した顔で見る。自分ならもう気にしてないと言われたらコロッと忘れていつも通り振る舞っている。

 というより、ここまで尾を引くような殊勝な奴らが自分の知り合いにいたかすら疑問である。誰も彼も人の迷惑など知ったこっちゃないという輩ばかりな気がしてならない。

 

「…………」

「霊夢さん?」

「……いや、ちょっと自分の知り合いの非常識ぶりを思い知って」

「類は友を呼ぶって言うって危なっ!?」

 

 からかい混じりにそんなことを言ってきた神奈子に博麗アミュレットをぶん投げるが、ギリギリで回避された。

 仮にも巫女のやることではないと神奈子は腕を組んで憤慨する。

 

「少しは神を敬ったらどうだ」

「うっさいわね、私のどこが非常識だってのよ」

「躊躇なく神に攻撃しかけるのが常識な世界とかたまったもんじゃない。諏訪子、ちょっと出てくる」

「はいよー。今日も天狗のところ?」

「そんなところだ。まったくあの狸、全然しっぽを掴ませない」

 

 神奈子は今、守矢神社の信仰を増やすべく天狗と交渉を重ねていた。

 天狗側も全面的に反対しているわけではなく、彼女らが生活できる程度の信仰には寛容だが、少しでも欲をかこうとすると釘を刺してくるという絶妙な対応をされている。

 さもありなん、守矢神社の相手は天魔が直々に行っているのだ。彼の目が黒い限り、出し抜いたところで最後に自分たちだけが笑う、という構図は難しいと神奈子も認めざるを得なかった。

 

「じゃあ私たちも行くわよ」

「あ、はい! でもどちらに?」

「んー、とりあえず適当に行けば誰かとぶつかるでしょ。弾幕ごっこやって、人里で買い物して、甘い物食べて……とにかく遊ぶわよ!」

 

 自分で話しているうちに楽しみになってきたのか、最後は霊夢が早苗の手を取って空に浮かぶ。

 早苗はいきなりの行動に驚きながらも嬉しそうに弾んだ笑顔を見せる。

 

「それじゃあ神奈子さま、諏訪子さま、行ってきます!」

「――ん、楽しんでおいで」

 

 軽い言葉ではあったが、そこには諏訪子の万感の思いが込められていた。

 なりふり構わず、なんとしても新たな神である早苗の生きる場所を確保するために幻想郷へやってきた。

 不安が一切なかったわけではない。すでに自分たちは零落した神の部類であり、彼女らと相対した天魔と人間は永遠に近い年月を生きた彼女らをして傑物と認めるしかないほど。

 

 彼らが滅ぼすことを選んでいれば呆気なく死んでいただろう。爪痕を残すことすら怪しい。

 だが、彼らは手を伸ばしてくれた。通すべき礼儀を通したのなら、幻想郷は全てを受け入れるという言葉の通りに受け入れてくれたのだ。

 そして今、早苗は楽しそうに笑っている。これ以上に優先すべきものなどなにもない。

 

 そんな風に物思いに浸る諏訪子の横で、神奈子も微笑みを浮かべて早苗に声を掛ける。

 

「早苗、一つだけ聞かせて頂戴」

「はい? なんですか?」

「――今、幸せかい?」

 

 

 

 

 

「はいっ、とっても!!」




ということで風神録編は終わりとなります。ここまで拙作に付き合っていただきありがとうございました。
完結と銘打っておいて懲りずに更新とかやってゴメンね! 本当なら全編書き終えてサプライズの二段構えを決めたかった(反省してない)

そしてエピローグで秋姉妹を出すという暴挙。決して忘れていたわけじゃないんです、ただ出すタイミングがなかっただけなんです(言い訳)
ちなみに雛はノッブへの好感度が初期から高め。基本、直接的な害がない限り来るものを拒まないノッブのスタンスは雛に結構クリティカルします。厄が移っても構わず手を取るとかまさにそれ(ノッブ的には今更厄が移っても誤差だと割り切ってるだけ)

この後は神奈子様が変わらず天魔とバチバチやり合って、諏訪子様は適度にノッブや霊夢に茶々を入れて、早苗さんが信仰を集めようと人里に行ったらなんかメッチャ頼られている英雄の存在に阻まれたりと頭を悩ませながら楽しくやっていく感じです。

あ、さすがに4周年目は期待しないでください。それをやるくらいなら開き直って別枠を作る(その場合楓主人公の永夜抄スタート)か、このお話がそっと連載中に戻ります。



Q.妖怪を拝みたい時はどうすればいい?
A.ノッブに張り付いていれば嫌というほど会える


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。