冬虫夏草 (鈴木_)
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01 アキラ

・アキラは13歳でプロになり、現在、海王高校に通う16歳の高校生。
・ヒカルは女の子です。しかも髪長い。プロでもなく院生でもない、ごく一般的な女子高生。
・原作での塔矢先生の奥さんの明子さんは、アキラが6歳の時に亡くなってます。
・内容はざっくり言えば、塔矢先生とヒカルが結婚してる話です。
・佐為は…佐為は……どこかにいるかもしれません。
・援サラならぬ、援棋士バンザイ!
・何が書きたかったかというと、塔矢名人が書きたかったんです。



【01 アキラ】

 

 

 

「アキラ、実は大事な話があってだな。再婚したい相手がいるのだが、お前は私の再婚についてどう思う?」

 

と、実の父親が突然切り出したその場は、自宅で毎週行っている碁の研究会を終えた直後で、自分の他に緒方さんや芦原さんをはじめとした門下生たちもいて、父親の再婚話云々より、外野に意識が向いた。

案の定、緒方さんは茶をすすりかけたまま、ビシリと硬直しているし、芦原さんはお茶が入った湯飲みを畳に落としているのに、それにも気付かずお父さんを凝視しているし、その他のメンバーも似たりよったりだ。

お願いです。

大事な話をするときは、場所と時間と空気を考えてください。

しかも、何で再婚話を相談された実の息子がこの場で一番冷静なんですか?

 

「……そうですね」

 

 

たったその一言で、部屋中の視線がお父さんから自分に一瞬で切り替わった。

ここは皆が帰ってから、ゆっくり話をしようと思ったのに、そんな自分のささやかな配慮と気遣いは不要なんですね。

とくに緒方さんの視線は、今すぐに返事をしなかったら、後でねちっこく無理やり白状させられそうなくらいガン見だ。

もちろんそうなってしまう気持ちは分かるが、いつ落としてもおかしくない湯のみを置いてからにしてください。

ボクはこぼしたお茶の後始末はしませんからね。

 

 

親の再婚話なんて一大事な話を、聞いてすぐに返事しなければならない状況に陥った息子の気持ちを、少しは察してほしい。

もっともボク自身もすでに母親を恋しがる歳でもないし、父親が別の誰かと結婚することを嫌悪する性質ではないと自負しているので、急に大勢の前で話を振られても、多少驚くだけで困りはしない。

コホンと咳払いを一つして、

 

「ボクはお父さんが決めた相手でしたら反対するつもりはありませんよ。再婚してもいいんじゃないでしょうか」

 

お母さんが亡くなってから10年余り。

毎日来てくれるお手伝いさんのほかにも、塔矢門下の兄弟子達が、常に家を出入りし、幼かった自分の遊び相手をしてくれたりたまに勉強だってみてくれた。

寂しいと思ったことはほとんどない。

碁に精進し構ってもらえることは少なかったが、お父さんが碁一筋に打ち込む姿はボクの憧れであり自慢でもあった。

そのお父さんが言う相手なら変な人じゃないだろう、たぶん。

 

「そうか、賛成してくれるか」

 

「はい」

 

返事をしたら、いつも険しい表情ばかりのお父さんが少し笑った。

やはり、お父さんも息子に再婚話を切り出すのは緊張していたらしい。

どうせ緊張するなら、ついでに話を切り出す場所も少しは考えてくれればよかったのに。

そういう一般常識はどこか抜けてるんだよな、この人は。

 

「お、……驚きました……先生の口から再婚のお話が出るとは……。アキラくんも驚いたんじゃないか?」

 

「まぁ、多少は驚きましたけど」

 

あなたほどではありませんよ、緒方さん。

 

「しかし、塔矢先生が再婚されたいとは、そのお相手とはいったい何時出会われたのですか?やはり囲碁の関係者で?」

 

 

はははは、とまだ驚き過ぎてきちんと呂律が回っていないのに、緒方さんがさっそくお父さんに再婚相手のあれこれそれどれを尋ねだす。

息子のボクを差し置いて、再婚相手のことを聞くなんて図々しいとは思わないのかと疑ってしまうが、やはりボクも本音は聞きたいのだ。

 

碁一筋の生活をしていて、どこでそんな女性を知り合う機会(チャンス)があったというのか

というか、碁命なお父さんのメガネにかなう女性がこの世にいたのですか?

 

「実はもうすぐ来ることになっている」

 

「え!?」

 

と、思わず声を上げたのは自分だけではなく、お父さんを除いた全員で。

あまりの展開の早さに、口角がひくひく引き攣ってしまった。

さっき再婚したい相手がいると言ったばかりで、もう相手が来ることになっているという筋書きはどこでどう作られたのか。

動揺している息子にさっさと勝負を決めるつもりなのか。

勝負を決めるヨセの正確さを、こんなところで発揮しなくてもいいのに。

 

そこにお手伝いのカヨコさんが部屋にやってきて

「先生、玄関に進藤さんというお客様がいらっしゃってますがいかがしましょう?お約束されてたそうですが……」

「ああ、来たか。私がいこう」

腰をあげ、お父さん自ら、玄関の方へわざわざ迎えに行ってしまう。

残された部屋では

「アキラくん!塔矢先生にそんな女性がいたなんて俺は聞いてないぞ!本当に知らなかったのか!?女の気配の一つや二つ気付かなくてどうする!?」と緒方さん。

「ボクにそんなこと言われても困ります!なんでボクが責められなきゃいけないんですか!」

「あの塔矢先生が!だぞ!?」

拳を堅く握り締め、強調してお父さんの名前を言う緒方さんの気迫に押されて、思わず後ろに仰け反ってしまった。

「碁にしか興味が無い塔矢先生に、再婚まで考えさせたんだ!相当な美人か銀座のホステスも真っ青な話上手か!とにかくっ、普通じゃないことだけは確かだ!」

「それを一言一句違えず、お父さんに言えばよかったじゃないですかっ」

「言えるわけがないだろう」

メガネの位置を正しながら、真顔で言う緒方に内心呆れつつ、廊下から近づいてくる足音を、自分の耳はしっかり聞き捉えた。

当然、周りにいるみんなもその足音に気付いたらしく、それぞれに居住まいを正して待ち構える。

足音は2人分。

すっと開けられる障子からまずはお父さんが入ってきて

「さぁ、入って」

部屋に入るよう促すお父さんの背中に隠れて、後ろにいるのだろう肝心の女性の姿が見えない。

「でもっ!やっぱり先生恥ずかしいよっ」

聞こえて来た声は、かなり若い気がした。

30は行ってない。

20代も怪しい。

10代の少女のような若々しい声。

「そんなことはない。アキラも結婚には賛成してくれた。何も心配することはないよ」

「だって……」

「さあ」

お父さんに手を引かれ、おずおずと入ってきた女性、もとい少女に、部屋にいた全員が目を見開き釘付けになった。

腰まで届きそうな長い髪は前髪がいくぶん明るく、大きな瞳に長いまつげ、通った鼻梁、薄い桃色の唇。

染み一つない白い肌は、恥ずかしいのか頬に赤みが差している。

顔だけでなく肢体もスラリと伸び、流行りの花柄のワンピースは膝上で、金の一粒ネックレスが胸元で可愛らしく光っている。

まさしく美少女。

ただし、どこからどう見ても10代の少女で、自分と同じ年頃に見える。

 

皆から向けられる視線に、少女は怯えたようにお父さんの背中に隠れてしまった。

もしかしたら結婚相手ではなく、結婚相手の娘さんじゃないかと現実逃避してしまいそうになった自分を、お父さんは容赦なく切り捨てる。

初々しい恥じらいを見せる少女を、お父さんは隣に座らせながら、

 

「進藤ヒカルさんと言う。アキラと同じ歳だ。入籍はすぐでもいいが、式は彼女が二十歳になってからを考えている」

 

お父さんの頭の中は、すでに結婚式のことに飛んでいるんですね。

 

自分と同じ歳なら今年16か。

それなら日本の法律でも女性の結婚が許されているから犯罪ではない。

一瞬、お父さんが性犯罪者に見えてしまったボクを許してください。

 

ただ、お父さんのそんな笑顔は、タイトルを防衛したり奪取したときでもボクは一度も見たことがありません……。

 

毎日、中年以上の男ばかりと碁を打ちながら、どこでそんな美少女と出会う機会(チャンス)があって、あまつさえお父さんのどこに彼女を口説く暇とワザがあったのですか?

 

 

 

 



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02 緒方

先生が再婚を考え、そしてその相手がアキラと同じ歳の少女というところまではなんとか理解することができた。

だが、しかし何故彼女なのかが理解できない。

はじめに再婚話を切り出されて、相手が普通ではないと直感したのは確かだ。

この10年、碁だけに生きてきた男を陥落させた女。

そして直感の通り、普通では考えられない相手が出てきた。

予想外そのもの。

下手な美人や口が達者な十人並みが出てくるより衝撃だった。

 

 

法律ギリギリの16歳の美少女。

 

自分ですら付き合う相手は面倒の少ない二十歳以上のボーダーを引いているのに、これまで一切女の気配が無かった50後半に差し掛かりかけた男が、16の少女に手を出すとは。

一見して犯罪だろう。

誰が見たって絶対そう誤解する。

しかし、勝負していたわけでもないのに、酷く負けた気分になるのは何故だ?

これは男としての沽券が自分にそう感じさせているだけなのか?

オレのボーダーラインも16歳に下げろということなのか?

もしかして今度の十段戦の挑戦者になった俺への盤外戦だったりすることはないよな?

だとすれば、塔矢先生は間違いなく桑原のクソジジイより狸ということになる。

 

落ち着け自分と、何度も言い聞かせ、大きく深呼吸をしてから、勤めて丁寧に

 

「お2人はいったいどちらでお会いになられたんですか?不躾とは自分自身思うのですが、先生とお嬢さんが出会うようなどんな機会があったのか、私などには全く想像つかなくてですね。差し支えなければ教えていただけないでしょうか?」

 

 

「オレっじゃなくて、私が、公園で小石を摘んでねっ、碁石を打つ練習をしてたら、石が指からすっぽ抜けちゃって、その石が塔矢先生に当たっちゃったんだっ」

 

質問したのは塔矢先生に対してだったが、先生ではなく進藤ヒカルと紹介された少女がしどろもどろに出会いを話しだした。

 

「偶然通りかかった公園で、まさか額に小石が飛んでくるとは思わなかったよ」

 

少女が話すその光景を思い出したのか、嬉し懐かしそうに先生は語る。

それはそうだろう。

誰が公園を通りかかって小石が額に直撃することを予測できただろうか。

だが、彼女の方も大の大人の額に石を直撃させるほど、どんな持ち方と打ち方をしたのか疑問に思える。

 

「それですっごい謝って、碁石を打つ練習してたって説明したら、先生が碁会所連れてってくれて、石の持ち方とか丁寧に教えてくれたんだよ」

 

少女も先生に釣られてか嬉しそうに話しを続ける。

なんだろう、このノロケを聞かされている気分は。

 

「はぁ……(5冠のタイトルホルダーの)先生が(女の子に手取り足取り)石の持ち方をですか、お優しいですね」

 

「うんっ、そしたら、先生の教え方すっごく上手で、私もすぐ石を打てるようになって、せっかく碁会所入ったんだし持ち方を忘れないうちにって一局打つことになったんだけど、石が打てるようになったのが嬉しくて、つい先生に勝っちゃったんだよね~」

 

「え?お父さんに勝ったんですか?」

 

反応したのは父親が16歳の少女の再婚話に魂を飛ばしていたアキラだった。

自分も一瞬聞き間違いかと思ったが、アキラもそう聞こえたらしい。

少女が名人である塔矢先生に勝ったのだと。

 

しかし、塔矢先生は笑顔で肯定し、

 

「ああ。見事にコテンパンにされてしまった」

「コテンパ……?」

塔矢先生がこんな、……再婚相手とはいえ、16歳の少女にコテンパン?

「まさか、負けるとは思ってなかったから衝撃でね。その場でプロポーズしたんだ」

「その場でプロポーズ!?」

なんて手が早いッ!!

「って!君もすぐプロポーズOKしたのか!?」

「まさか!でも私が打った中で一番先生が強かったし、先生すっごくカッコイイし優しいし、一緒に歩くとねっ、周りの人がみんな先生に注目するんだよ!」

 

顔の前で両手をブンブン振って否定しながらも、少女は最後はやはり塔矢先生を見てへにゃりと微笑む。

それはそうだろう。

けれど、その注目を集める理由は塔矢先生だけでなく彼女にも原因があるだろう。

ただでさえ何も知らない群集の中にあっても塔矢行洋の放つ雰囲気は異彩を放ちって近寄りがたいのに、その隣にこんな美少女が隣にいれば、誰だって目がいく。

 

しかも自分の聞き間違いではなければ、この少女は塔矢先生がカッコイイと言っていた。

もしやこの子は、ちまたで聞くところの枯れ専という類なのだろうか。

同じ年頃の異性には全く興味がなく、男の盛りを過ぎた、ちょっと哀愁漂う男性に惹かれるとかいう。

 

なんて勿体無い!

ストライクゾーンを自ら狭めてどうする!?

人生はまだまだ長いんだぞ!?

 

「だから別にいいかなって。でもすぐに私なんかが先生と結婚するのは気が引けちゃって、先生が自分に碁で勝てたらいいよってことになったんだよね」と笑顔の少女。

「うむ。あれから1年かけて先日ようやく勝つことができ、無事プロポーズを受けてもらえた」

「一年?さっきから気になっていたんですが……先生が一年がかりになるほど、彼女は碁が強いのですか?プロではないですよね?」

 

こんな美少女がプロになっていればそれだけで話題になって騒がれているだろうに、そんな噂は一度も聞いたことがない。

「ネットのsaiと言えば分かるかな、アキラも以前対局しただろう?彼女がsaiだ」

「saiッ!?彼女が!?本当に!?」

 

行洋が口にした名前に、思わず前のめりになってしまった。

saiといえば4年前の夏にネット碁に現われて以来、日中韓のプロ棋士相手にも蹴散らし連戦連勝無敗の正体不明の棋士の名前だ。

それがこの少女だというのだろうか!?

どんな皺が寄った老いぼれ爺かと想像していたのに、全く違うし、こんな少女があんな洗練された碁を打つのか!?

言ったのが塔矢先生でなければ、絶対信じなかっただろう。

以前、saiと打ったことのあるアキラなどは、絶句して何も言えなくなっている。

「えへ」

「君はこれからプロになる気は!?」

 

照れたように微笑む少女に早口で問うと

「全然」

あっさり否定された。

「そんなにつよいのに!?」

 

「強かったら絶対プロにならないといけないわけでもないんでしょ?別にプロにならなくても碁は打てるから。石持てなくてもネット碁だって打てたよ」

「しかし……」

 

「それに私までプロになったら、生活がすれ違いして先生とあんまり打てなくなるんだよね? プロの人って地方に行ったりとかするみたいだし」

「地方対局は確かにあるが、塔矢先生以外にもたくさんの、海外のプロ棋士とだって打てるんだよ?」

なおも食い下がった自分に、少女はさもそれが当然で、考える必要もないと言わんばかりに、

「いいの。塔矢先生と打つのが一番楽しいし好き。だからプロになんかならなくていいの。先生と一緒がいい」

と言って、塔矢先生を見やる。

先生も先生で、少女の答えがまんざらでもないのは、無言の中にも眼差しが穏やかになっていることから伝わってくる。

まぁ、その気持ちは分かる。

世界より自分1人を選んでくれたんだ。

こんな美少女にそこまで一途に想われて嬉しくない男はいない。

すっかり2人の世界が構築されてますね。

ああ、また負けた気分に……。

いやいや、まだ俺は負けていない。

結婚といえば、避けては通れないハードルがあるではないか!

「ち、ちなみに……ヒカルさんと呼べばいいのかな?」

「あ、ヒカルでいいです。さん付けってこそばゆいし」

「じゃあ、ヒカルのご両親は塔矢先生とのご結婚はすでに承知して?」

 

これが結婚するときの最大の難関だ。

いくら自分達がよくても、その家族までよいとは限らない。

ここで、すでに先生にヨセを決められ負けが決定しているアキラは除く。(役立たずがっ!!)

「うん!ウチのじいちゃんが先生の大ファンでね、あとお父さんとお母さんも私がいいなら結婚すればって。なんか、私がまだ赤ちゃんの頃、どっかの占い師さんが私見て、『この子は将来玉の輿だ』って言ったみたいで、先生を紹介したら、このことだったんだな~って納得してた。それに塔矢先生なら安心だって」

自分の娘の結婚なのに、なんて暢気な!

そんなインチキ占いを納得するんじゃない!

それでも年収一億超える人と結婚できれば、玉の輿と言えば玉の輿なんだろうが、その結婚相手はもうすぐ還暦だ!!

 



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03 アキラ

お父さんが再婚した。

それは別にいい。

お父さんがそれで幸せになれば、自分がとやかく言う筋合いではないと思う。

 

実際、婚姻届を市役所に提出して、晴れて義理の母にヒカルはなって、我が家に引っ越してきた。

はじめは突然女の子と一つ屋根の下で暮らすことになり、どうしたものかと悩んだが、元々ヒカルの性格がサバサバしているらしく、容姿以外の性格は至って男勝りだった。

そのお陰もあって、すぐに一緒に暮らすことに慣れ、都合が合えばお父さんだけでなく自分とも対局するようになった。(全敗中で一回も勝てたことがないが)

 

そして五十路(いそじ)の父と、16歳の女子高生の結婚はニュースでもエンターテイメントニュースとして多くの番組で報道された。

 

ウチにまでアポなしで取材にくる迷惑なテレビ局もいたが、一応ヒカルが一般人であることを理由に全ての取材を断っている。

50代の男と10代の女の子が結婚となれば、色々噂されたり、遺産狙いとか変な言いがかりを付けられることも少なくないが、一般人で女子高生ながら、彼女がsaiであったことがそれらをあっさり打ち消してくれた。

何しろ現役TOPの5冠の棋士にヒカルは勝つのだ。

一般的に上位で活躍する女性が少ない

一躍『天才囲碁少女』と、再婚よりもそっちの方が大きく騒がれた部分もある。

 

これまでずっと正体不明だったネット棋士の正体が16歳の女子高生。

そして晴れて自分の父と結婚。

囲碁の最強夫婦。

囲碁が2人を結びつけたのどうのこうのと、散々面白半分に報道し解説者達がはやし立てたものだ。

 

実際、ボク自身、ヒカルが負けたところを見たことが無いので、それについてコメントすることは無いが。

 

だいたい誰にも師事せず、自分ひとりで強くなったということからしてヒカルはおかしすぎる。

自分や周りがそう言うと、隣にいたお父さんがやんわりとなだめ、ヒカルの強さの秘訣について語ってくれたのだが、一度並べた棋譜や見た対局を全部覚えているなんてことがありえるのだろうか?

 

宿題の英単語ですらまともに暗記できないヒカルが、これまで打った棋譜を丸暗記している?

 

本人も『囲碁の棋譜だけは不思議と覚えちゃうんだよね~。これが少しくらい学校の勉強で発揮されたらテストでもう少しいい点取れるんだけどな~』と、のほほんとのたまったのには、流石に脱力してしまった。

彼女のような人種を、先天的天才というのですね

凡人がどんなに努力しても敵わない才能を彼女は初めから持っているんですね

そしてボクの眼の前でお父さんとベタベタしまくっているんですね

いいですよ。

ボクは1ミリたりともヤキモチなんて焼きませんよ?

男の視線を集めままくるくらい美少女のヒカルに、眩いほどの囲碁の才能があって、そんなヒカルを五十路のお父さんが奇跡でもって射止めたとしても、ボクはちっとも嫉妬なんてしませんよ?

ましてや、お父さんが再婚相手として連れてきた相手に一目惚れと失恋を同時にしたなんて、間違ってもないですから。

ただやっぱり、どうしてその相手は息子のボクと同じ歳の女子高生なんですか?

彼女がsaiだったとしても、『歳』だけは一生納得することは出来ないと思うのです。

 

「アキラくん、えらく塞ぎこんでるな。まさか負けたのか?」

 

棋院のロビーの椅子に座り俯いていた視界に、白のスーツパンツと靴が映り、眼の前で止まる。

白というだけでそれが誰か分かっており、それが気心知れた相手ということで、幾分反応が気だるげになってしまった。

「勝ちましたよ、緒方さん」

 

「ということは、アキラくんをそこまで気落ちさせる原因は彼女か?急に同じ歳の女の子と一緒に暮らすことになって気疲れするか?」

という緒方さんの声には、気遣いよりもからかっている節が強い。

なんだかんだとsaiの正体が知れて、しかも塔矢門下でお父さんの弟子という繋がりから、他の縁のないプロ棋士たちと違い、彼女と優先的に打てる身分はいいよな。

しかも住み込みの弟子とかじゃないし。

返事を返さず、溜息をついて俯き加減に視線をそらしたボクの隣に、緒方さんは断りもなく勝ってに座ってきた。

タバコくさいやつが未成年の近くに座るな。

 

「俺も先生の再婚話を切り出された瞬間は驚いたが、後でよく考えてみれば、決して悪い話ではないじゃないか。何しろ彼女がsaiだったんだ。これからはいつでもsaiと対局できると思えばいい。義理の息子のアキラくんが対局したいと言えば、喜んで打ってくれるんじゃないか?」

 

「そうですね……対局をお願いして何か用事が無い限り断られたことはないですよ。ただし、賭け付きですけど」

 

「賭け?何の?彼女の宿題を頼まれでもしたのかい?」

 

「それもたまにありますが、主に晩御飯を食べたあとの皿洗い担当決めです。基本的に皿洗いはボクと彼女の交代制なんですが、対局で負けるとその皿洗いを担当する日を押し付けられます……。家族だからこそタダでは打たせないとか言って……」

 

お陰ですでに今月の皿洗い担当は僕一色だ。

このままでは残りの今年一年、全部ボクの色にカレンダーが染まってしまいそうな勢いだが、それだけはなんとか回避したい。

 

 

「なるほど、いくら家族とはいえタダで対局するのはプロとして緊張感が薄れるということか。だが、それだと塔矢先生も家族だが?先生も彼女と対局するとき何か賭けているのか?」

 

やはりそこ(お父さんヒカルと賭けをしているのか?)にいきますよね……。

ボクだって同じ家族なのに、お父さんとだけ何も賭けてないのはおかしいと訴えた。

訴えたら、聞かなければよかったと心底後悔した答えが返って来た。

 

「……賭けてますね」

 

「何を?」

 

聞いて、地の果てまで引きやがれ。

 

「お父さんの腕枕権を賭けて……お父さんが負けると、その日の夜は彼女に腕枕しないといけないんです……。お父さんが勝てば、彼女から肩たたきしてもらえるんだそうです……」

 

言ったとたん、案の定、緒方さんの表情が固まった。

ざまあみろ

 

「……先生、わざと負け」

 

「てたりするわけないでしょう!!」

 

ボクだってヒカルから賭けの内容を聞かされたときは、緒方さんと同じことを考えたさ!

でも流石に勝負師なんだから、どんな餌を眼の前にぶらさげられても『負け』が何より嫌なはずだ!

けれど、勝っても負けてもお父さんにはいいこと尽くしじゃないか!

ずるいよ!

 

「いや、一緒に暮らしててそんなに精神削るようだったら、1人暮らしした方がいいと思うが」

 

「それは駄目です!ボクがいなかったら2人がコレ幸いと四六時中ベタベタして、お父さんは手合い日忘れて、ヒカルは学校に行かずに、2人でずっと囲碁打ってるに決まっているんですから!そんなことは断固ボクが阻止してみせます!」

 

握りこぶしを作って緒方さんに即決してみせる。

今でさえ朝まで打っているような2人を、ボクという監視の目が無かったらどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。

ボクが塔矢家の生活習慣を守る最後の砦なのだ!

 

「塔矢名人聞いたぞ。なんじゃ、16の娘っ子と再婚したそうじゃないか」

「ええ」

 

そこにちょうど話題の人物と、しゃがれた声が聞こえてきて、振り返る。

今日は高段者の大手合の日だから、2人が棋院で会話をしながら通りがかっても、なんら不思議ではないのだが、

 

「どうじゃ?夜の調子は?若いだけあって夜は大変じゃろ?」

 

桑原お得意の下世話な盤外戦に、眉間に皺が寄ったのが自分でも分かった。

本因坊にしがみつく執念深いこの老人は、本当に性質が悪い上に、下手に目上の棋士だということが一番の問題だ。

遊び半分にからかわれる低段の棋士が何人泣いたか知れない。

 

テレビで2人の結婚がどんなに騒がれようと、囲碁の関係者であれば、5冠のお父さんに面と向かって言える者はまずいないのに、この老人にかかれば、5冠であろうとも平気でからかいの対象となるのだから恐ろしい。

 

 

「ご明察恐れ入ります。はやり若さには勝てませんね。朝まで(ヒカルと対局)していると、どうにも(応手の)キレが鈍ってしまいます」

 

「朝までシて?」

 

お父さんの真面目な答えに、桑原先生も固まってしまっている。

 

下世話な話にも真面目に答えるお父さんの姿勢はボクも尊敬します。

尊敬しますが、今のは絶対誤解されましたよ!?

 

このまま放っておけば、間違いなくこの老人は面白半分に言いふらす。

そして明日には棋院関係者中に噂になっていて、ボクまで変な目で見られることになっている。

そんなことは絶対させてなるものか!!

 

「お父さんッ!大事な単語ははしょらないで下さい!誤解を受けるのはお父さんだけでなく息子のボクも(ついでに塔矢門下全員)なんですから!桑原先生!さっき父が言いたかったのは、朝まで彼女と対局していて、明け方はさすがに応手のキレが鈍ると言いたかったんです!決してそれ以外の意味はありませんのでよろしいですか!」

 

「ん、アキラどうした?」

 

突然現われ、血相をかかえて解説する息子の行動が全く理解出来ていない様子ですね、お父さん。

だったら夜まで待とうと思っていたことをここ(棋院の中で他人の目がたくさんあるところで)言おうじゃないですか。

「どうしたじゃありません!それこそ昨夜も明け方近くまで彼女と対局していたでしょう!?次の日学校がある平日は夜は11時までと決めたじゃないですか!?お父さんはよくても彼女は朝から学校があるんですよ!」

 

言われて、そういえばとお父さんは思い出したのか、両腕を胸の前で組んでうんうん頷き、

「すまん。どうにも時間を忘れて気がついたら朝だった」

 

「だったじゃありませんっ!眠る彼女をおんぶして学校に連れて行く僕のことも考えてください!」

 

自分は納得するまで打って、仮眠でも取ればいいさ。

でも眠る前に制服に着替えさせ(さすがに着替えは彼女1人でしてもらい、着替えるところは見てません)、朝ごはんを無理やり詰め込むように食べさせ、お腹いっぱいになったところで睡魔に落ちるヒカルを、ボクがおんぶして学校まで届けているんだ!

それが手合い日で、ボクも学校が休みならいいけど、他の平日だと完全にボクの方は学校に遅刻だ。

 

「涙ぐましいよ、アキラくん……」

 

メガネを外し、滲み出る涙をハンカチでつつましく拭く緒方さんに、

 

「そう思うんでしたら、今度からもし朝まで打ってたら彼女を緒方さんが車で学校へ送り届けてください」

 

よし。

これでボクの負担を少しだけど緒方さんに押し付けることが出来た。

 



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04 芦原

棋院に一番近いコンビニへ買出しに出たところ、偶然女流の桜野さんと遭遇し、彼女もこれから棋院に行くところだというので一緒に行こうということりなり、

 

「それで、塔矢先生の新婚生活ってどうなんですか?」

振ってくる話題は絶対それだよね、みなさん。

研究会に参加している塔矢門下の棋士を捕まえれば、そりゃあちょっとくらい聞きたくなる気持ちも分かるよ。

でも研究会内でのことなら分かるけれど、新婚生活のことまで分かるわけないじゃないか。

 

「3人とも仲良く生活しているみたいですよ。アキラもこれといって彼女に不満があるわけでもない様子だし」

 

「3人共通の趣味は囲碁ですものねー」

 

夫婦円満、家庭円満の秘訣は相互理解と共通の趣味だとか何とか、午後のワイドショーが言ってた気がするが、

 

「だけど……saiと知らず彼女を見つけた塔矢先生もだけど、彼女もよく自分の父親より年上の男と結婚する気になったと思うよ……」

 

男の方は若い子を掴まえたと賞賛されるかもしれないが、女の子の方を考えると……本当にその決断は正しかったのかと頭を捻ってしまう。

最後は本人同士がそれでよければ、いくら他人が何を言ってもどうしようもないんだけれど。

それでも、家政婦さん以外は男しかいなかったあの塔矢家に、可愛い女子高生がいる光景というのは、いまだに違和感がある。

「そうかしら?私は塔矢名人いいと思いますケド」

 

「えっ!桜野さんも枯れ専!?」

 

「違います!失礼な!そういう意味ではなく、付き合う恋人としてではなく、結婚相手としてよくよく塔矢先生を見れば、かなりイイ線いってると思いますよ」

 

「どこが!?だってあと数年で還暦だよ!?」

 

「経済力は今更言う必要なし。浮気の可能性もほぼゼロなのは、これまでの経歴が証明済み。容姿だって別にデブとか頭ハゲてるわけでもないし、至って和服の似合う渋い男性で十分通りますよ。オマケに先生は囲碁界No.1の実力者。saiだった彼女にしてみればこれ以上の好条件の結婚相手はいないと思いますね。まぁ、確かに塔矢先生のご年齢は考え物ですが、彼女が良ければ歳なんてどうでもいいんですよ」

 

「……女性が現実主義ってホントだったんだね」

 

 

「男が夢見がちなだけなんです」

 

そう断言されると、反論できません。

年下だけど、桜野さんの方が自分より人生達観しているんだね……。

って、棋院に入る建物の角から中の様子を伺って、長い髪を垂らした見覚えある後ろ姿は、

 

「ヒカルちゃん?」

 

「えっ?」

 

女子高生の制服姿の女の子がクルリと振り向けば、ほらやっぱり。

 

「芦原さんか、びっくりしちゃったっ」

 

「ヒカルちゃんこそどうしたの?こんなところで。塔矢先生に何か急用?」

 

 

「急用ってほどでもないんだけど、ちょっと……」

 

うっすら頬を染め、俯きつつもごもごと口ごもりながらも、ここ(棋院)にヒカルちゃんがわざわざ来た目的が塔矢先生ってことは当たりなわけか。

プロでもない自分が棋院に顔を出すのは気が引けると言って、あんまりここに近寄りたがらないこの子が来るからにはそれなりの理由があるんだろうけれど、恥じらいながらも来てしまうその理由に興味心をそそられないわけがない。

 

「芦原先生、その子、もしかして……」

 

おっと、今は自分ひとりじゃなかった。

桜野さんもいたんだった。

そして桜野さんの目は、まさしくハンター・・・・。

 

「えっと、紹介するね。こちらが塔矢先生と結婚した塔矢ヒカルちゃん。それと、こっちが桜野さん、塔矢先生や僕らと同じプロ棋士だよ」

 

「はっ、はじめまして!塔矢ヒカルですっ!!」

 

スクールバックと小さな紙袋を両手に抱え、90度以上腰を折ってヒカルちゃんが深々とご挨拶。

そういえば、塔矢先生の研究会に来るプロ棋士はみんな男だから、もしかして女性のプロ棋士にヒカルちゃんが会うのは初めてだったりするのかな。

 

「こちらこそ、はじめまして。桜野です……って……」

 

桜野さんの身体が、なんかフルフル震え初めて、あ、壊れた。

 

「可愛い――!!初めて見たけどホント美少女じゃないっ!テレビの言ってることなんて半分大げさだろうって思ってたのに、うんっ!塔矢先生やるわね!」

 

桜野さんの勢いに押されて、顔を横に向けられたり、さらさらロングヘアーの髪を触られたり、為すがままのヒカルちゃん。

そりゃあ、テレビもまだ未成年で一般人の女の子の顔を映すのは個人情報にひっかかるから、どの番組もヒカルちゃんの顔にはモザイクかけてましたもんね。

あとは同級生という他の生徒からの証言くらいでしか、ヒカルちゃんの容姿は知られていませんよ。

でも、女の人の目から見てもヒカルちゃんは美少女なんだなー。

同姓の目は厳しいっていうのに、すごいぞヒカルちゃんっ!

しかも可愛いだけじゃなく、囲碁も最強に強い!

 

「まぁまぁ、桜野さん。ヒカルちゃんがびっくりしているし」

自分が結婚した相手でもないのに、塔矢門下というだけで、ちょっと優越感に浸りながら、余裕ぶってヒカルちゃんと桜野さんの間に入ろうとしたら

「塔矢先生を探しているの?だったら私が先生のところまで案内してあげるから一緒に行きましょ」

あっさり桜野さんに無視され、ヒカルちゃんを棋院へ連れ去られてしまいましたよ、緒方さん。

普段大人しくてか弱い女性のこういうときの勢いって、なんでこんなに凄まじいんでしょうね……。

僕がヒカルちゃんを案内しようと思ったのに、まったく相手にもされてませんでした(涙)

僕に出来ることといえば、2人の後を追うくらいです。

しかも、

「芦原先生、私、ヒカルちゃんに棋院の中を案内しますから、塔矢先生が何していらっしゃるか聞いてきてもらえませんか?」

僕は喜んでパシリです。

 

笑顔で手を振って見送られ、足早に事務所に行けば、塔矢先生のスケジュールの打ち合わせをしているところだと聞かされた。

5冠もタイトル持っていれば、対局日程が過度に詰まってしまうから、ある程度、他の対戦棋士に都合をつけて日程調整しないといけないのは仕方ないことだよね。

その先生の負担を軽くするためにも僕ら下の棋士がもっと頑張らないといけないんだろうけれど、ヒカルちゃんと結婚してから、さらに塔矢先生ってば破竹の勢いで連勝してるから僕にはとても無理です。

ここは一発、緒方先生あたりに頑張ってもらうしかありません。

 

でも、打ち合わせ中の塔矢先生が、ヒカルちゃんが今、棋院に来ていると知ったらどんな顔をするのかちょっと楽しみだったり。

それを考えると、すぐすぐヒカルちゃんのところには戻らず、先生の打ち合わせが終わるのを待ってしまう。

 

30分ちょっとして、カチャリ、と部屋の戸が開き、待ってましたとばかりに振り向く。

「塔矢先生」

 

「芦原くん?どうかしたのかね?」

「実はヒカルちゃんが先生に用があるらしくて今棋院に来てるんですよ」

「ヒカルが?」

その名前に反応したのは塔矢先生だけじゃなく、事務所にいた事務員たちも同じで。

これまで一度も棋院に近寄ろうとしなかったヒカルちゃんが何故棋院に?と塔矢先生も首をかしげている。

そして事務員達も名前だけしか知らない、プロ以上に強い女子高生が、棋院に来ていると知ってざわつきはじめた。

いくらプロより強くても、本人にプロになる意思がなく、そして夫は現5冠の名人。

囲碁界にとってみれば喉から手が出るほど欲しい逸材なのに、塔矢先生という鉄壁の守りがいるから手が出せないんだよね。

南無阿弥陀仏!

「桜野さんがヒカルちゃんを棋院の中案内しているんで、すぐ呼んできます」

「いや、いい。私が行こう」

そういうなり、さっさと先を歩き始めた塔矢先生の後を気分良くついて行くのだけれど、すぐに周囲が変にざわついている気配に気付き、パタパタと足早にどこかへ向かおうとしている一人を捕まえて聞けば

「一般対局室で乃木先生が女子高生と対局しているらしいんですが、どうも乃木先生の方が負けそうらしくて」

「女、女子高生って……」

それってヒカルちゃん以外いないだろう?

しかも一般対局室って、プロじゃない一般の人が対局するところだよね。

そこで何で乃木先生とヒカルちゃんが打ってるんだい、桜野さん……。

 

塔矢先生と一般対局室に向かえば、すでにそこにはこんもり人だかりが出来ていて。

けれど塔矢先生の姿に気付くと、モーセが海を分けたように道が出来たので、感謝しつつ前へ行った。

そして中心には乃木先生と、予想通りヒカルちゃんが対局していた。

 

「桜野さん、塔矢先生連れてきたんだけど、何でまたヒカルちゃんが乃木先生と対局してるの?」

小声で桜野さんに尋ねれば、

 

「偶然すれ違ってヒカルちゃんを紹介したら、一局打とうってことになったんですよ。どうせ塔矢先生はスケジュールの打ち合わせでまだまだかかるって言うし、乃木先生にそんなこと言われたら私なんかじゃ断れないですよ」

うん、僕でもきっとそれは断れないだろうな。

けれど、塔矢先生もじっと盤面を見ているけれど、僕が見る限りでも……ヒカルちゃん強いよ、マジで……。

乃木先生の表情が険しくなってるし、脂汗かいてるじゃないか。

塔矢先生もだけど、ヒカルちゃんも何気にさらに強くなってるよね。

もう2人だけの世界って感じで、誰も2人の世界に干渉できません。

それからまた30分くらいして

「負けました……」

「ありがとうございました」

 

ヒカルちゃんが見事勝ちましたとさ。

そして人垣からもどよめきが起こった。

「信じられん……」

乃木先生が自分が負けた盤面を見ながら小さく呟く。

その気持ちは僕もよくわかりますよ。

女子高生に負けた事実より、女子高生がこんなに強いことが信じられないんですよね。

塔矢先生が女子高生で一般人のヒカルちゃんと結婚したことは知っていて、そのヒカルちゃんが半端なく強いことも知っていても、知っているのと実際打ってみるのでは全く違うんですよね。

 

ふう、と一息ついて、ヒカルちゃんは打った碁石を片付け、すぐに塔矢先生が隣にいることに気付き

「あっ、先生!」

 

「いい対局だった。乃木先生、ありがとうございました」

ヒカルちゃんに一局打ってくれた乃木先生に、塔矢先生が頭を下げ礼を言う。

「いえ、こちらこそありがとうございました。噂では聞いていましたが、本当にお強い。これでプロじゃないというのが信じられませんよ」

 

乃木先生の素直な賞賛に、塔矢先生は微笑みを返すだけで、ヒカルちゃんの方を振り向き

「ヒカル、私に用があると聞いたのだが?」

「ううんっ!そんな急ぎの用ってほどじゃないの!」

「しかしそのためにわざわざ棋院に来たんだろう?」

「えっと、それは……でも用ってわけでもなくて……棋院の帰りに先生に会えればいいなってくらいで……」

もじもじと両手の指を絡めてヒカルちゃんは俯いてしまった。

ほんと可愛いなー。初々しいなー。健気だなー。なんでこの子は塔矢先生がよかったんだろー。

「今日ね、家庭科の実習で……クッキー焼いたの……それでね、先生に食べてもらえたらなって……」

スクールバックともう一つ、持っていた小さな紙袋を先生の方におずおずと差出す。

その紙袋を受け取り中を覗いた先生も

 

「なるほど。では早く家に帰って一緒にお茶にしようか」

うーーーーーーーーわーーーーーーーーーー。

家庭科の調理実習で作ったクッキーをわざわざ渡すためだけに棋院に来たのか、この子はっ……。

家で待っていれば、いずれ塔矢先生は帰ってくるのに、少しでも早くクッキー渡したかったんだろーなー。

ていうか、五十路の男と女子高生に見せつけられるとは。

すでに塔矢先生の研究会で何度も見慣れているつもりだったけど、それが棋院だと破壊力と被害が半端無いよ。

2人のらぶらぶな光景に免疫のない周囲や、新婚生活に興味があったらしい桜野さんまで何も言えないみたいですよ。

「そっちのバッグも持とう」

クッキーの入った紙袋のほかに、ヒカルちゃんが持っていたスクールバックの方も塔矢先生が持とうとして

「ダメ!こっちはいいの!!」

ヒカルちゃんに思いっきり拒否された。

さっきまでらぶらぶだった相手をそこまで拒絶するような何がそのバッグに入っているの?という疑問はさらなるラブオーラで吹き飛ばされた。

 

「だからこっちは」

スクールバックを持とうとした先生の手をヒカルちゃんが握る。

つまり、さっき先生を拒否したのは、手を繋ぎたいためらしく……

「えへへ」

 

照れ笑いするヒカルちゃんの手を、塔矢先生も握り返し、すっごい満面の笑顔。

そりゃ、先生の手が両手ともふさがってたら手繋げないもんね。

 

「では帰ろうか」

「うん!」

「それでは失礼します」

「桜野さん芦原さんありがとう!それじゃっ!」

挨拶してからその場を立ち去るも、2人はしっかり手を繋いでいて、残されたこちらは死屍累々。

ヒカルちゃん、君はあんまり棋院に来ないほうがいいかもしれない。

君と塔矢先生のラブオーラに関係者だけじゃなく一般人までそのオーラに当てられそうだ。

 

その中でも特に乃木先生なんかは、塔矢先生とヒカルちゃんの姿にショックを受けたようで、瞬きすら出来ないでいる。

「乃木先生、大丈夫ですか?」

これは相ダメージ大きいなと思いながら声をかけると、ぐっと右手を握り締め

「わ、わしだってまだまだっ……」

それだけは絶対にナイナイ。

 

 



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05 桜野

「やられたわー。まさか、からかうどころか見せつけられるとはね……」

 

と、言い終わり様、持っていたカクテルグラスをグイと傾け、イッキ に飲み干す。

ジンをベースにした辛みがあるカクテルのはずなのに、ちっとも辛くないのは、昼間、名人夫婦に見せつけられたからなのかしら。

 

「桜 野さん、ペース早いんじゃない?大丈夫?」

 

「これが飲まずにいられますか。もう一杯、なんか辛いやつで。ていうか、芦原先生がペース遅い んじゃないですか?」

 

バーテンダーにお替りを注文し、隣でロックのウイスキーをチマチマ飲んでいる芦原先生を横目に睨んでやった。

 

思 い出すのは昼間、棋院で仲良く手をつないで帰っていく五十路の名人と女子高生。

何もしらなければ、仲の良い親子か、視点を変えて援助交際に疑われ かもしれない。

そんな年の差なんて2人には全く問題じゃないんだろう。

お互いがお互いを大事に想い、愛しあっているんだと感じた。

 

「羨 ましいわ~。私もあんな恋してみたいわ~」

 

周りなんて気にしないで自分が好きな人と手を繋ぎたいときに手を繋ぐの。

ぽ~っと、ま だ見ぬ相手に想いを馳せていると、芦原先生の向こう隣に座っていた趣味の悪い白スーツが、

 

「年の差結婚がしたいのなら、棋院にいくらでも ジジイがいるじゃいか」

 

「やめてください。ゼッタイありえませんから」

 

ただでさえ囲碁のプロ棋士というマイナーで特殊な 生業のせいで出会いが少ないというのに、棋院のジジイなんてもっと出会いのチャンスが減ってしまうような不吉なことを言うんじゃないわよ!このロリコン が!

 

「年上と付き合いたいって言ってるんじゃないんです!もっとこう胸がときめくような恋がしたいんです!」

 

「ときめきとか言うんだったら、塔矢先生たちは違うんじゃない?お互い、囲碁が強くてそれに惹かれたようなもんだし」

 

のほほんと、芦原先生が会話に 入ってきたが、逆に何を言ってるんだと思ってしまった。

あんなに塔矢先生に想いを寄せてるヒカルちゃんを前にして、ときめきじゃない?

 

そ ういえば、あの話をヒカルちゃんとしてたとき芦原先生たちはいなかったのか。

 

「そうじゃありません。ヒカルちゃんを案内していたとき、 聞いてみたんですよ。塔矢先生のどこがいいのか」

 

「それは……俺たち塔矢門下だと逆に師匠相手に失礼にあたるから聞けない質問だな……」

 

そ りゃぁ師匠の奥さんにどこがいいのか聞くなんて、弟子の身分では聞けないでしょうね。

 

「それで、聞いたらですね、彼女いわく『塔矢先生が 自分を初めて女性扱いしてくれた人』なんだそうで」

 

「何それっ!?あんなに可愛い子相手に女性扱いって!?」

 

「なんでも ヒカルちゃんって塔矢先生に会うまで、男まさりで制服以外でスカートも一度も履いたことなかったらしいですよ。自分のことも俺って言って、髪もお母さんに 言われて嫌々伸ばしてたとか。男勝りで髪長くないとほんとに男の子に間違われるからって」

 

「信じられんな……」と緒方先生。

 

そりゃあ、あのヒカルちゃんを見たら私だって信じられないけど、

 

「それで、塔矢先生と出合った初めの頃もパンツスタイルで男言葉使っていたら、塔矢先生に注意されたんだそうです。女の子が自分のことを『俺』というのはやめなさいって」

 

++++++

 

『だってもう俺に慣れてるから私って柄じゃないもん!いいの!俺はこのままでいいよ!』

 

『そんなことはない。君はちゃんとした女の子だよ』

 

『えー、女の子って柄じゃないよ』

 

『ちょっとそこの姿鏡の前に立ってごらん』

 

『え?』

 

『背筋を伸ばして、顎を引いて、胸を張って、少し左足は後ろに。ほら、たったこれだけで立派な女性だ。いきなりスカートを履いたり服装を変えなさいと言っているわけじゃない。何事も気持ちの持ちようだよ。心がけ次第で、君は見違えるほどすばらしい女性になる』

 

+++++++

 

「周りや親からも何度も男言葉を止めるように注意されてたらしいけれど、頭ごなしに言うだけじゃなく、実践して女性扱いしてくれた人は塔矢先生がはじめてだったそうで、しかもそれをすっごく大切そうに話すんですよ、これがまた」

 

本当に嬉しかったんだろうと思う。

頬をうっすら朱に染めて、それだけでこの女の子が塔矢先生にちゃんと恋しているんだなって分かってしまい、からかい半分に問うたこっちが反対に野暮なことを聞いてしまったような居たたまれない気分になった。

 

「今はあんなに美少女だけど、その美少女にしたのは間違いなく塔矢先生なんだわ。先生があの子を見つけて、男の子まさりだったあの子を立派な女性に磨いたんだわ。しかもヒカルちゃんも塔矢先生に恋して彼女なりに女の子らしくなろうと頑張った。もし、……ヒカルちゃんが先生と出会わずに男まさりだった頃のまま現われたら、今みたいに美少女って騒がれなかったんでしょうね。お互い囲碁が強いから惹かれただけじゃなかったんだわ」

 

「塔矢先生とヒカルがちゃんと恋ねぇ……想像つかないなぁ……」

 

隣の男2人は全く理解できないようで、眉間に皺なんか寄せて。

これだから男は駄目なのよ。

この様子じゃ女心を理解なんて一生できないでしょうね。

 

 

だからいつまで経っても彼女ができないし、出来ても長続きしないのよ、この2人は。

 

はぁ~、私もあんな恋がしたいわ。

 

「だから、お2人からもヒカルちゃんをプロになるよう説得してくださいよ!!」

「いきなり話が飛んだね……桜野さん……」

ええ、飛びますとも、芦原先生。

日中韓のプロ棋士をネット碁でけちょんけちょんに蹴散らしてきたsaiの正体がヒカルちゃんだったことはすでに周知だけれど、まさか元名人だった乃木先生をあんなにあっさり倒すとは予想外過ぎだわ。

女流ではなく本戦の上位で戦うことが出来る女性がいないことは、本当に悔しいんですもの。

だけど、彼女だったら、これまで女流と見下してきた男共を見返すことが出来る!

「だが、ヒカル本人にプロになる気が全くない」

「そこをどうにかするんですよ、緒方先生!」

「すでにどうにかしようとしたんだ。俺たち塔矢門下と、棋院関係者総がかりでな」

「それで駄目だったんですか?」

 

全く!!

大の男が揃いもそろってだらしが無い!!

 

「どうにか説得しようしたらね、塔矢先生が『ヒカルがプロになるんだったら私がプロをやめよう。そうしたら私がヒカルと一緒に行動すればいいわけだし、ずっと一緒にいられる』って言い出したんだよ……」

 

その光景を思い出したのか、話す芦原先生と一緒に緒方先生までげっそりとした。

って、妻がプロになる代わりに5冠の現役プロ棋士が引退ですか?

 

 

「いくら将来有望だからって、その代償に5冠のタイトルホルダーを失うわけにはいかないでしょ……。しかも塔矢先生、本気っぽいし……。それ以来、二度とヒカルちゃんをプロにしようと企てる者はいなくなったんだよ……。」

 

塔矢先生おそるべし……。

現役タイトルホルダーの引退を持ち出されたら、こっちはどうしようもないじゃない。

どこまでバカっぷるなのよ。

 

「当面、塔矢先生がタイトルを失うまで、ヒカルがプロになる話は無しだ」

 

「そ、そうですね……ヒカルちゃんまだ若いし、プロ試験受ける年齢制限までまだまだありますもんね……」

 

ということは、今の塔矢先生から想定するに、あと10年近くはヒカルちゃんがプロになる日は来なさそうね。

ちっ。

 

でも今は諦めても、いつか必ずヒカルちゃんがプロになって男共を見返す日がやってくるのよ!!

 

 



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06 緒方

偶然信号機の赤信号で車をストップさせたその交差点近く。

骨董店らしき店のウインドウを覗く見覚えある少女に、ハンドルを回し行き先を変更する。

本当ならこの道に路上駐車は良くなかったが、すぐに戻れると道路脇に駐車した。

どうせ見つけた少女を捕まえて、車で家まで送るだけだ。

「学校帰りに寄り道か?」

声をかけると、ハッとヒカルがふりかえる。

しかしその目は、見られたくないところを見られてしまったようなバツの悪そうな表情で、とにかく歓迎されていないことだけは確かだろう。

「緒形さん……」

「どれか気になるようなものでもあったのか?」

ヒカルに構わず話しを続け、ヒカルが見ていただろうウインドウを覗く。

そこには、思春期の女の子が好みそうなキラキラした装飾品などはひとつもなく、価値の分からない皿や茶碗が並べられているだけだった。

だが、ヒカルの視線は迷うことなく、並べられた皿の中から一点だけを見ている。

すると、1人店の中に入っていき、仕方なく後を追った。

「おじさん、店のウインドウに飾られてる四角の皿、いくら?」

おい。本気であんな皿が欲しいのか?

年頃の女の子が骨董なんかに興味持つのは少し早すぎるぞ。

「四角い皿?ああ、あれは50万だ」

皿がどれか見もせずに、女子高生にぼったくりもいいところだな、このオヤジ。

仮にも客相手に、そんな不遜な態度は見ているこっちも嫌な気分になる。

「もういいだろう、ヒカル。お前の小遣いじゃとても」

無理だと続けようして、ヒカルがスクールバックから財布を取り出し、中からカードを出したのは流石に眉間に皺が寄った。

カードの名義は「トウヤコウヨウ」。

いくら妻とはいえ、先生は16の女子高生にカードなんか持たせているのか!?

幸せボケ過ぎる!!

「カードで」

「やめろ、ヒカル。いくらなんでもその金額は衝動買いの域を超えてる!」

カードを差し出した腕を掴み、止めさせようとする。

しかし

「邪魔しないで!私はあのお皿が欲しい!絶対今すぐあのお皿が欲しいの!」

ギッ、と睨まれ、掴んだ腕を振りほどかれる。

素直に驚いた。

いつも能天気に笑って、悩みなど何もなさそうに、無邪気に塔矢先生にくっついて碁を打っているイメージしかなかったヒカルが、こんな鋭い目で誰かを睨むことがあるのか。

「おじさん、お願い」

「ま、毎度どうもっ……」

思わぬカモに、店のオヤジが、それまでの態度を一変させ媚び諂いながらヒカルからカードを受け取り会計処理していく。

頭痛で頭が痛い。

どんなに囲碁が強かろうと、ヒカルはやはりまだ世間知らずの女の子だ。

欲しいものがあると、無性に欲しくなり衝動買いをする。

しかも、塔矢先生のカードで買いたい放題。

すぐにカードを取り上げないと、金銭感覚が麻痺するぞ。

会計を済ませ、木の箱に入れられた皿をヒカルは受け取るて満足そうに大事に両手で抱えている。

「家まで送るから……」

呆れてそれしか言えん。

まだ金銭感覚が馬鹿になっていないうちに、しっかり修正しなくては。

「ホント?ありがと、緒形さん」

欲しいものが手に入って上機嫌のヒカルに重い溜息がもれる。

後でたんまり塔矢先生に叱ってもらわなくては。

そして塔矢先生にも弟子の身分で差し出がましいが、一言苦言を呈しておかなくては……。

女の衝動買いほど怖いものはないんだ。

「ただいまー!!」

 

「おかえりなさい」

 

「かよさんただいまっ!お腹空いちゃった!今日の晩ご飯何!?」

 

「はいはい、今日はヒカルちゃんの大好きなから揚げですよ。ですから、手を洗ってウガイして、あと少し待ってね」

 

玄関に入るなり、靴をそろえるのもそぞろに、ヒカルは台所へ走っていき、家政婦のかよさんに晩ご飯の催促。

50万の皿を買ったことを塔矢先生に報告するのは、後回しか。

マズイな。

これは本腰を入れて今からしっかり修正しなくてはならんな。

 

また溜息が……。

 

「塔矢先生……」

 

「ヒカルを家まで送ってくれたみたいだね、ありがとう。ところでどうしたのかね。そんな暗い顔をして」

 

暗くもなります。

頭も痛いです。

買い物依存症女の卵をこんな身近に見つけたんですから。

 

「実は、塔矢先生に大変言い難いことではあるのですが……」

 

と、さっきの出来事を塔矢先生に伝える。

いくら夫の年収が憶越えだろうと、16歳の女子高生にカードを持たせて、50万の衝動買いをホイホイさせるのはいかがなものか。

それが自分で稼いだ金ならまだいいが、自身は高校生で親と夫に食わせてもらっている身分なんだ。

そして、その50万も、二十歳になれば200万ぐらいをコンビニでサンドイッチでも買う感覚で買い物するようになる。

女という生き物は、実に末恐ろしいというのに。

 

どんなに目に入れても痛くないくらい可愛い妻でも、財布の紐だけはしっかり締めておかなくてはならない。

 

「なるほど。それはすまなかった。ヒカルにも後でしっかり言っておこう」

 

「カードを取り上げるおつもりは……」

 

「カードは、そうだね。やはり生活費や諸々があるから持たせておいた方がいいんだが、金額制限をかけておこう。それで高額な衝動買いは避けられるだろう」

 

結局、金額制限止まりですか……。

最善の予防策はやはりカードを取り上げるのが一番効果的なんだが、これ以上先生に強く言うことも出来ん。

くれぐれもキツク注意してくださいね、と念押しして塔矢家を後にしたが、さてどうなることか。

塔矢先生がどこまでヒカルに強く言えるか分からんが、今度から俺もしっかり目を光らせて注意する必要がありそうだな。

 

ハァ……。

 

また一つ幸せが逃げたじゃないか。

 

 

++++++++

 

 

 

ヒカルの部屋の障子が慣れた手付きですっと開き、行洋が部屋に入ってくる。

入る前に声はかけなかったが、ヒカルがそれに対して目くじらを立てることはなく、畳の上に敷かれたラグマットの上に直接寝転がり、むしろ行洋が部屋に来るのを待っていたかのように隣に行洋が耳触りの良い衣擦れの音を立て座るのを楽しそうに見ていた。

 

「緒方君に苦言をこぼされたよ」

 

「ごめんね、行洋が怒られちゃったね」

 

済まなそうにヒカルが謝るが、行洋は首を横に振り苦笑するだけで、一言も咎めることはなかった。

寝転がるヒカルの前に、木の箱から出されただろう皿を見て

 

「これが骨董店で買ったという皿かね?」

 

「うん。綺麗でしょ。でもね、このお皿にはちょっと仕掛けがあって」

 

言いながらヒカルは台所から持ってきたのだろう花瓶を皿に傾け、中の水を買ってきた皿に注ぎ入れる。

すると、

 

「ほぅ、これは見事だな」

 

思わず行洋の口から感嘆の声が漏れた。

水を入れたとたんに、皿の底に薄い桃色の花模様が浮き上がり、水を入れる前の皿とはまったく印象が変わった。

水を入れる前は皿の縁に描かれた藍の色だけが落ち着いた印象を与えていたのに、水を入れ花模様が現れると、華美過ぎない、けれど優美でとても美しい皿に生まれ変わった。

 

「花器は花を活けてこそ花器。弥衛門の傑作だよ。特別な上薬塗ってるから、他の作品とは違って見えるんだ。囲碁指南に招かれて京の御所行ったとき、一度だけ見たことあるから覚えてた」

 

うっとりとその美しい皿を眺めるヒカルに、行洋もまた微笑みを浮かべた。

 

 

 

 



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07 緒方

複数のタイトルホルダーであり、そしてそこにヒカルが来てからというもの、研究会の無い日でも、曜日を選ばず塔矢邸を訪れる棋士は少なくない。

その日も緒方を初め、倉田達数人が訪ねて来て、塔矢先生やヒカルと対局し検討していた。

そこに棋士でもなく、棋院関係者でもない訪問者が前置きなくやってきて

 

「なんでも、先日ヒカルちゃんがお皿を買われた店のご主人だそうで、そのお皿で話があるのだとか……」

 

困惑しながら、かよがどうしたものかと塔矢先生に取りつぐ。

ヒカルが皿を買った店の主人。

心当たりは俺にもある。

あの時のガマ蛙のような顔をしたあのインチキ臭いオヤジが何でここに来るんだ?

 

「分かった、隣の部屋で会おう。少し席を外すよ」

 

一言断り、先生は部屋を出て行くが、チラリと視界に入ったヒカルの顔は不安というより不満といった方が相応しい表情だった。

まるで塔矢先生に『行く必要はない』と無言で抗議しているみたいじゃないか。

 

「ヒカル、どこかでお皿買ったの?」

 

皿の件を知らなかったらしいアキラくんが尋ねると、不貞腐れながらヒカルは頷く。

 

「いくらしたの?」

 

「……50万」

 

「ごっ、50万ッ!?」

 

驚いたのは当然アキラくんだけじゃなかった

周り全員、倉田あたりはラーメン何杯食べれるかとか、アホな計算までしている。

だが下手にごまかさず、ちゃんと値段を白状したことは心の中だけだが誉めてやる。

偉いぞ、ヒカル。

 

「何でそんな高いお皿買ったんだい……?」

 

「だって……欲しかったんだもんっ……」

 

「欲しかったんだもんって……それだけで……。お父さんはそのお皿のこと知ってるんだよね?」

 

「知ってる……」

アキラくんが頭を押さえ、大きな溜息をつく。

それは、間違いなく先日の俺の姿そのものだな。

 

だが、イイ鴨を捕まえ儲けただろう店の亭主が、わざわざ買った相手の家に来るのは普通じゃありえない。

大体どうやって買った相手の家を調べた?

思い当たるのはカードを使った時の個人情報か。

トウヤコウヨウなんて、そう滅多に無い名前だし、囲碁のプロ棋士として知名度もある。

訪ねてきた相手は2人。

襖を隔てただけの隣部屋だから、静かにしていれば普通に隣部屋の声も聞こえてくるわけだが、興味深々でみんな聞き耳を立てている。

「皿を買い戻させて欲しいと?」

「はい、もちろん御迷惑料金も払わしてもらいます。やはり未成年のお嬢様にお売りするんは、非常識な金額やったと後で考え直しましてですな」

「そちら様のご配慮は分かりました」

「では買い戻させてもろて」

「いえ、皿はお返しする気はありません。確かに未成年のあの子が買うには少々高い買物ではありますが、ヒカル共々、私もあの皿を気に入っております。申し訳ありませんが、お申し出に応じるつもりはありません」

「そ、そんな!でしたら倍、いや三倍払いますよって!」

「いくらと言われましても、皿を返す気は毛頭ありません。お引き取りいただきましょう」

嘘だろう……

皿を店が買い戻したい?

しかもあんなに必至になって三倍払うとか……あの皿はただの安い皿じゃなかったのか?

「ご主人、もう結構ですので」

「しかしっ…」

ガマガエルとは違う声。

訪ねてきたもう1人か。

「大変失礼しました。仮にも勝負事を生業にしていらっしゃるプロ棋士の方に、下手な小細工は初めから不要でしたのでしょう。しかも、そのご様子ですと、皿の仕掛けにも恐らく気づいていらっしゃる。重ね重ね非礼をお詫びいたします」

なんだ、もう一人の方はえらく落ち着いた物言いだな。

「はっきり申し上げます。あの皿をそちら様の言い値で買い取らせて頂きたい。1000万、いえ2000万でもかまいません。どうかわたくしに譲っていただけませんか?」

…… な、なんだと?!

今度は、50万の皿を2000万で買い取りたいだと!?

「いくらお金を詰まれましても、返事は変わりません。ヒカルも私もあの皿を気に入ってます。どなたにもお譲りするつもりはない」

最後の方は、毅然とした拒否で先生は締めくくった。

襖を隔てず、塔矢先生の表情が見えなくても分かる。

塔矢先生は本気でいくら金を積まれても皿を譲る気はないのだ。

「……承知しました。これ以上何を言ってもお気持ちを変えて頂くことは無理でしょう。ただ、ご迷惑ついでと申し上げれば失礼なのですが、一目皿を見せて頂くことは出来ませんでしょうか?手に取って見る気はありません。一目でいい。そして可能でしたら確かめてみたいことがあるのです。どうかお願い致します」

「……ヒカル、聞いていたね?皿を持ってきなさい。お見せするだけだから。アキラ、お前は台所に行って、ボウルに水を汲んできなさい」

突然名前を呼ばれ、アキラくんがビクリとした。

だが、反対にヒカルは口を尖らせ不満そうな顔のまま立ち上がり部屋を出て行く。

そしてヒカルにつられるようにして、アキラくんも先生に言われた通り水を汲んでくるために台所へ向かった。

というか、何故皿を見るだけなのに、わざわざボウルに水汲んでこなきゃいけないんだ?

「君たちもこちらへ来るといい。弟子たちも一緒によろしいかな?」

「それは全く構いません。お弟子さんたちがいらっしゃっていたのですね。突然押し掛けてしまい、本当に失礼しました」

隣で声を潜め、盗み聞きししまったような気持ちはあったが、相手の了承を得たところで襖を開き、一礼して隣部屋に入る。

そこには顔面蒼白のガマガエルと、初老だがかっちりとしたスーツを着込んだ男がいた。

そして時間を置かず、皿が入っているのだろう木箱を持ったヒカルが現れ、アキラくんもボウルに水を汲んで戻ってきた。

 

だが、ヒカルの表情は思いっきり嫌そうな顔を隠す気もないのだろう。

不満顔で、しぶしぶ買った皿を気の箱から机の上に取り出す。

八方型の梅の絵が描かれた皿。

これが2000万。

どこにそんな価値があるのか、俺には全く理解できん。

 

「アキラ、その水を皿に注いでみなさい」

「は、はい」

塔矢先生に言われ、アキラ君がボウルに入れた水を皿の外にこぼさないよう気をつけながら注ぐ。

するとほのかにじわじわと薄い紅色が浮かびはじめ、

「うわっ、薄紅色の花模様が浮かんできた……」

「すごい……綺麗だ……」

芦原とアキラくんが感嘆の言葉をもらす。

水を入れたとたんに、それまで無地だった白地に紅色の花模様が浮かび上がってくる。

大事に飾っているだけでは絶対に気付かなかっただろう。

思わず自分もあまりの美しさに魅入ってしまった。

このなんの変哲もないこの皿にこんな仕掛けがあったとは。

「おお、なんと美しい。まさしく弥衛門の傑作、慶長の花器」

皿を欲しがっていただろう初老の男が、皿を見て感動したように呟く。

「慶長の花器?」

アキラくんの問いに、

「そうです。慶長の花器、江戸時代の初期、慶長の時代の天才作陶家、弥衛門が作ったと伝えられ、幕末の混乱期を最後にその所在が分からなくなっていた名器です。現在では、すでに割れて失われているとも噂されておりましたが、私は諦めずずっと探しておりました。そして、先日、この花器をこちらの骨董店で見かけました折、まさかと思いながらも、どうしてもすぐに買うまでには至らず、けれどやはり気になって数時間後に店に戻ったときには、すでにこちらのお嬢様の手に渡ったあとでございました。ご主人に聞けば、お嬢様はこの皿を一目見て購入を即断されたとか。それがこの花器を手に入れることができる分かれ目になったのでしょうね」

後悔を滲ませながら初老の男が語る。

確かにヒカルのあのときの即断は今思い出してもすごかった。

止める自分を振り払い、一括のカード決済。

だが、2000万以上の価値なら十分国宝級の価値じゃないか。

それが結果だけ見れば、たったの50万で手に入ったことになる。

 

「花器を手に入れることは出来ませんでしたが、こうして花器が今も存在していることを確かめることが出来ました。それだけでもこちらにお伺いしてよかった。本当にありがとうございました」

 

男が深々と頭を下げた。

その身体は微かに震えており、花器の美しさに本当に感じいっていることが、骨董に詳しくない自分にも分かった。

骨董店のオヤジと初老の男が帰ったあとは、真の価値が判明した花器を囲んで大騒ぎだ。

「すごいね!ヒカルちゃん!この皿がその慶長の花器?だってことに最初から気づいてたの!?」

「ううん。でも、一目で気に入っちゃって買っちゃった。家に持って帰ってからお水入れたら、その模様が浮かび上がって、私もびっくりしたんだ」

芦原に聞かれて、両手を顔の前で振って否定しながらも、ヒカルは少なからず誉められたことに照れ笑いする。

「でも!結果としてこれがスゴイ価値あるものだから良かったものの、いくら一目で気に入ったからって50万もする物をすぐに支払うのはどうかな!?一度お父さんやボクの相談するべきだったと思う!」

アキラくんの言うとおりだ。

君の言い分は100%正しい。

 

「ごめんって。もう二度と衝動買いなんてしないから、今回は許してよ?ね?」

 

ヒカルが両手を顔の前で合わせ、可愛らしく首を傾げて上目遣いに謝ってくる。

確かに可愛い。

普通の男ならこれをやられると、ころっと騙されるような仕草だ。

そう、女が男を騙すときに使う仕草。

免疫の無いアキラくんがさっそく騙されようとしている。

 

「まったくもうっ、今回までだからね!お父さんからもしっかりヒカルを叱ってくださいよ!」

「ヒカル、もうこんな高額な買い物をしてはいけないよ」

「お父さん!真面目に叱ってください!!」

 

アキラくんが噛み付くのも仕方ない……。

なんてその場凌ぎな適当な叱り方だ……。

叱る意味が全く無い……。

 

塔矢邸を皆揃って後にして、今日は思わぬ出来事があったが、……何か引っかかる。

消化不十分。

自分も買うのをやめさせようとした皿が、実は半端ない価値があるものだと判明して、まだ興奮しているのか?

だが、それでは無いと思う。

もっと違う……何か……そうだ。

元々を正せば、何でヒカルはあの皿に一目で惹かれたんだ?

骨董なんて今まで一度も興味ある素振りを見せなかったのに、どうしてあの皿にだけ興味を持ったんだ?

というか……

なんだ……なんか考えれば考えるほど、ありえない方向に……しかしそう考えると辻褄が合うようなことが考えつくんだが、もしかして、ヒカルはあの皿の価値に初めから気付いていたから、店のオヤジにぼったくられたような金額を提示されても、即決して買ったんじゃないか?

 

あの店の前でヒカルを見つけたとき、ヒカルは明らかに俺と遭遇したことを快く思っていなかった。

嫌なところを見られたという感がありありとあった。

それは衝動買いするところを俺に見られてしまうのが嫌だったからだと考えていたが、そうなるとヒカル自身も、自分が衝動買いをすることを自覚していることになる。

衝動買いをする輩は、そんなことは全く考えない。

買いたい衝動のまま動くのだから。

となると、ヒカルは衝動買いで皿を買ったのではなく、その皿の価値をしっかり考えた上で、購入を決めたことになる。

長年、慶長の花器を探していたというあの初老の男でさえ、一度は購入を躊躇ったのに、ヒカルは一目見て確信し購入した。

そのためには、皿が慶長の花器であると事前に知っておく必要があるわけだが、どうしてヒカルはその皿が慶長の花器だと気付いたのかという疑問点にぶつかるのだ。

 

……。

……、………、……。

何か、俺は踏み込んではいけない領域に脚を片足踏み入れているような気がするのは気のせいか……?

「緒方さん?帰りますよ?」

「先行ってろ、芦原。忘れモノだ」

踏み込んではいけない領域だと本能は訴えているのに、確認したい、知りたい欲望に勝てない。

元来た道を戻り、塔矢邸に戻る。

「失礼します」

花器を出していた部屋に戻ると、ヒカルは花器を片付けに行ったのか、ちょうどよく部屋には塔矢先生1人だった。

「一つ、確認しておきたいことを忘れておりまして」

「なんだね?」

「あれからヒカルに持たせているカードに、金額制限かけられましたか?」

平静を装い淡々と尋ねるが、塔矢先生から返ってきたのは微かな微笑と無言だけだった。

 

ビンゴ……。

俺の予想は当たっているらしい。

ヒカルはあの皿が慶長の花器だと分かっていたから買ったんだ。

そして塔矢先生もそれを分かっているから、ヒカルが使用できるカードに金額制限なんて付ける気なんて全くない。

ヒカルの好きにさせる気まんまんだ。

いや、むしろヒカルに好きなようにさせるための一つの手段として、金で片付くならいくらかかっても構わないとばかりに自分名義のカードを渡しているのかもしれない。

 

この様子では、先日俺が苦言を言った後、ヒカルを叱ったのかどうかもかなり怪しい。

塔矢先生の無言は、カードについてこれ以上詮索するなと、逆にこっちが釘を刺されているようなものだ。

「……差し出がましいことを申しました。失礼いたします」

塔矢先生の顔を見ることも出来ず、部屋を後にしたら、本当に芦原のやつが先に行っていてイラっときた。

いくら先に行っていろといわれても、兄弟子を待つのが弟弟子の役目だろうが。

1人だと余計なことばかり考えてしまうから嫌なのに。

 

あの夫婦。

単に囲碁が生き甲斐なだけのばかっぷると思っていたが、ちょっと考えを改めた方がよさそうだな。

++++++++

「あ~あ、せっかく誰にも気付かれずにこっそり手に入れられたと思ったのになー」

ダブル布団に潜り、行洋に腕枕してもらいながら、ヒカルは行洋の胸に顔をうずめる。

偶然通りかかった道で、偶然目に入ったソレ。

一目で気付いた。

ウィンドウに何気なく飾られたその皿が慶長の花器であると。

昔は京の御所、そして現在では皇居か、しかるべき場所に保管されているべき花器が、こんな場末の店に飾られていることに、ヒカルはいてもたってもいられなくなった。

 

けれど、まさか自分以外にも花器に目をつけていた者がいたとは。

 

「だが、 紙一重の差で手に入れることが出来ただろう?あと少し遅かったら、今日訪ねてきた相手の物になっていた」

「それはそうなんだけど。でも、あの皿の価値が皆にもバレちゃったからって、私が変に注目されちゃうのは嫌だ。特に緒方さん。私が買う瞬間に何で居合わせるかな。タイミング悪すぎ。さっきだって、私が偶然花器を見かけて衝動買いしたってことにしようとしても、なーんか納得してなさげだったし」

腕の中でぶーぶー文句を垂れるヒカルに、行洋は苦笑いした。

「あの皿をヒカルが慶長の花器だと知っていた上で買ったのではないかと、緒方くんが疑いはじめている節はあったね」

「やっぱり?もうヤだなー」

「だが、彼が知りえるのはそこまでだ。それ以上は、どうしようとも知り得る術はない。ヒカルが気にする必要はどこにもないよ」

「そう、かな?なんか引っかかるケド……ふぁ……」

ヒカルが眠たそうに大きなあくびをもらす。

「今日は昼間の客が来て疲れたんだろう。安心して眠りなさい」

 

腕枕している腕とは反対の手で、行洋の指がヒカルの長い髪を梳いた。

「んー。おやすみー、行洋」

「おやすみ、ヒカル」

 



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08 アキラ

研究会の時間になっても、部屋に現われないヒカルに、芦原さんがキョロキョロしながら

 

「アキラくん、ヒカルちゃんは今日は研究会でないの?」

 

「もうすぐ学校で文化祭があるらしくて、クラスの出し物の準備が間に合わないって言って、部屋に篭って何かしてるみたい」

 

「へ~、文化祭の準備か~、何だかんだってヒカルちゃん高校生なんだよな。勉強は嫌だけど、そういう皆でやる行事は俺も好きだったな」

 

自分の学生時代を思い出しているのか、芦原さんは両腕を組みながらうんうん頷く。

10代前半でプロ棋士になることも珍しく無い囲碁界では、高校へ進学せず囲碁一本に絞る人も多い。

もちろんプロ棋士としての仕事と対局をこなしながら、大学院にまで進む人も中にはいるが、あくまでごく一部だ。

ボクも中学のときにプロ試験に合格し、プロ棋士になったけれど、高校へは進学する道を選んだ。

その大きな理由として、囲碁だけの世界に篭りがちな生活をこれからして行くだろう上で、少しでも世間の視野を広げておくために。

 

ヒカルがウチに来てからというもの、研究会には必ず彼女も参加していたから、急にその姿が無いとなると変な違和感があった。

男だけの中の紅一点が無いという意味ではなく、彼女の持つ独特の緊張感と気迫が感じられないからだ。

普段は本当に頭が痛くなるほど、お父さんにべったりで我が侭で甘えたがりなのに(お父さんもお父さんでヒカルを絶対甘やかせ過ぎだし)、碁盤を前にすると別人になる。

タイトル戦で打たれた対局の検討をしては、誰も気付かなかった一手に気付き鋭く指摘してくるし、それが実際にヒカルと対局するとなると、公式手合でもないのに石を打つ手がじっとりと汗が滲み出るほど、圧迫感を覚えて緊張するのだ。

特に盤面をみやる真剣な眼差しは、その眼差しだけで本当に人を射ることが出来るんじゃないかと錯覚するくらい氷鋭としている。

 

これでプロでないというのだがら完全に詐欺だ。

 

そのヒカルが研究会に参加していない。

もちろんヒカルが研究会に参加しているのは、プロでなく、そしてプロを目指していない点から、完全に『自主的な趣味』の範疇だ。

参加していないことで、誰からも責められる謂われは無い。

けど、ヒカルがウチに来る前はそれが当たり前で自然だったのに、すっかり彼女の存在が無くてはならないものになっているのだと、今更ながらに気付かされる。

 

今日の研究会はどうも気が乗らないというか、集中できない。

簡潔に言えば、ヒカルがいないと調子が狂う。

それはボクだけでなく、緒方さんたちも同様らしく、気持ちがそぞろになっていることが見て取れた。

「どうも今日は皆集中できていない様子だね」

 

石を打ち、苦笑いしながらお父さんが、部屋にいる全員に対して言う。

勘のいいお父さんが、この空気に気付かないわけがない。

 

「申し訳ありません……。どうも集中できないというか……」

 

小さく頭を下げ、お父さんの言葉をすぐに認め緒方さんが謝る。

その表情は、集中できていない自身を叱咤するというより、集中できないことに戸惑っている様子だった。

 

「ヒカルの姿がないと気が抜けてしまうかな?」

 

「そっそんなことは!」

 

お父さんの指摘を緒方さんは否定しようとして、その周りが反論出来なければ無力に等しい。

緒方さんの隣に座っていた笹木さんが溜息をついて

「ほんと彼女がここにいることがすっかり当たり前になってたんだなって思いますね……。だらしが無いと言われればそこまでなんですが、女の子がいないって言うんじゃなくて、あの子という存在があるだけで糸がピンって張ったみたいに無意識に緊張して集中してるんですよね」

「俺もです……面目ない……」

笹木さんの正直な告白に芦原さんも続く。

ボク自身もそれに対して何か言うことはできない。

なにしろ、ボクも2人と同じなんだから。

緒方さんも2人を責めるようなことはせず、メガネの位置を神経質に正すだけだった。

「仕方ない、今日の研究会はこれで終わりにしようか。これ以上だらだらと続けていても意味がない」

研究会のお開きを宣言したお父さんに、ボクを含めて全員が頭を下げた。

意味の無かった研究会だったとしても、とりあえず終わったということで皆に振舞うお茶と茶菓子を芦原さんと取りに行く。

しかし、そこに今日の研究会が早めに終わった元凶がいた。

それもありえない格好で……。

「ひっヒカルちゃん!?なんて格好してるの!?」

一緒に台所に来た芦原さんが素っ頓狂な声を上げたが、その気持ちはボクも痛いほど分かる。

分かるけれど、芦原さんのようにボクも変な声を上げなかったのは、一つ屋根の下で暮らしている慣れと耐性があったお陰だろう。

「何って、メイドさん。今度、文化祭でウチのクラス、メイド喫茶するからその衣装だよ。市販品じゃなくて皆でオリジナルのメイド服作ろうってことになったから、カヨさんにお裁縫習いながら頑張って作ったんだ。似合う?」

白と黒のどこからどう見てもミニスカートのメイド服は、フリルがふんだんに使われてあって、ウェストもしっかり紐で締められて細さを強調している。

そのミニスカートから出ているスラリとした足も黒のニーハイソックスとかいう、太股中間まである長いソックスで、頭にもしっかりフリル付きのカチェーシャ。

その姿で、ヒカルは嬉しそうにクルクル回ってみせ、メイド服を見せびらかす。

「とっても可愛いわよ、ヒカルちゃん」

「ほんと?ありがとカヨさん!カヨさんが難しいところの縫い方教えてくれたからだよ!すっごい感謝!」

とっても似合っていると誉めてくれるカヨさんに、ヒカルも満足げにお礼を言う。

文化祭の準備が間に合わないって、メイド服を作るのが間に合わなくて、それで部屋に篭っていたのか……。

さすがに女の子の部屋を男が覗くわけにもいかなかったから、放置していたけれど、メイド服。

天国のお母さん、我が家にメイドがいます……。

「それより、なんで2人ともここ来たの?研究会は?遅れるけど少しでも出ようと思ってメイド服作りがんばったのに」

研究会が終わりお茶を取りにくるには早い時間に、怪訝に思ったのかヒカルが尋ねてくる。

 

「えっと…… 今日はなんとなくいつもより早く終わっただけだよ。ね、芦原さん」

「あ、うん!今日は特別!」

まさか、ヒカルがいなくて集中出来ませんでしたとは口が裂けても言えません。

「だったら、ヒカルちゃんがお茶持って行ったらどうかしら?せっかくメイドさんになってるんだし、先生にもその姿見てもらったらどう?」

カヨさん、余計なことは言わないでください!

「あ!そうだね!そうする!」

「だめだよ!せっかく作った衣装なのに、本番前にお茶零して汚したりしたら大変だろ!?」

「何それ!私がまるでこれからお茶零してメイド服汚すのが目に見えてるような言い方じゃん!」

「そういうことじゃなくて」

「お茶を運ぶのはメイドさんの仕事でーす!」

そう断言して、予めカヨさんが用意していただろう湯のみとお菓子が乗ったお盆をヒカルが持って研究会の部屋に行ってしまう。

まったく……。

「はい、お湯です」

「ありがとう、カヨさん……」

笑顔でお茶用のお湯の入ったポットをカヨさんから渡されました。

仕方なくヒカルの後について研究会の部屋に向かうが、部屋に現われたヒカルに、やはりお父さんを除いた全員が驚いていた。

「ヒカルちゃん!?なんでメイド服!?」と笹野さん。

声が上ずってますよ。

 

「今日はメイドさんごっこです。はい、お茶どうぞ」

メイドから差し出されたお茶を、戸惑いながらも嬉しそうに男どもは受け取り、美味しそうに啜る。

いつも男ばかりの世界でメイドなんて雑誌かテレビの中だけの映像だ。

多少興味がある者もいるかもしれないが、囲碁界で大っぴらにメイドが好きですと言って受け入れられるには難しいだろう。

「わざわざソレを着るために今日は研究会サボったのか?」

緒方さんの冷やかしにもヒカルは動じることなく、クルクル回ってみせた。

 

「違うよ。サボったんじゃなくて、今度の文化祭でうちのクラスの出し物がメイド喫茶になったから、自分で着るメイド服作ってたの。難しいところはカヨさんに教えてもらったりして」

クルクル回るついでにミニスカートと裾のフリルがふわふわ舞う。

ふわふわ舞うついでにチラチラ太股も見える。

なんか、今までメイドのどこがいいのか全く理解出来なかったけれど、なんとなーく、メイド喫茶に通う男の気持ちが分かったかもしれない。

これがチラリズムの極意というやつか。

なかなか奥深いものだったんだな。

「先生、似合う?」

「ああ、とっても似合っているよ」

「ほんと!?」

「もちろん」

メイド服を誉めてもらって嬉しかったのか、ヒカルはお父さんの腕にしがみつく。

その光景もすでに慣れたもので、研究会に来ている男全員、お茶を飲んだりお菓子を食べたり軽ーく流している。

みんなスルースキル能力を身に付けた、というより、スルースキルがしっかり鍛えられてないと、我が家(塔矢行洋)の研究会はやってられないと悟ったんだろう。

「ところで、今日の研究会が早く終わったのは何で?先生がこれから用がってどっかに行かないといけないからとか?」

このヒカルの一言にお茶をちょうど飲んでいた男数名が盛大にむせった。

特に緒方さんはお茶が肺に入ったみたいで、激しく咳き込んでいるし。

「そ、そんなことないよ、た、たまには研究会が早く終わる日もあるよ……」

ナイスフォロー、笹野さん!

 

「 ホントにー?つまんないのー。後で研究会出ようと思って、せっかく頑張ってこのメイド服早く仕上げたのにー」

頬を膨らませて不満を口にする。

その顔には一局打ちたかったとマジック文字で書かれているのがハッキリ見て取れた。

それにお父さんも気付いたのか、

「集中することも当然大切だが、同じくらいリラックスすることも大切だ。気分転換も兼ねて、今日は少し早めに終わったのだよ。しかし、そうだな……お開きと言った私が言うのもなんだが、残る者で少しいつもと趣向を変えて打ってみようか」

 

「趣向を変えてですか?先生」と緒方さん。

「ペア碁などどうだろう。ヒカルはまだペア碁を打ったことがないのではないか?」

「なにそれ!?知らないっ!」

お父さんの提案に、不満が一気に消し飛び、ヒカルは好奇心の塊になって瞳を爛々(らんらん)と輝かせているが、その様子に本当にペア碁というものを知らないのだと分かってしまう。

前々から分かっていたが、ヒカルは囲碁界にはほんと疎い。

お父さんが持っているタイトルの名前すら知らなかった。(でも何故か本因坊は知ってたんだよね)

タイトル戦や昇段のシステムに至っては、まったく興味がない。

 

碁が強いのは、碁そのものに興味があるからで、プロの世界には全く興味がないから囲碁界について知る気もない。

 

この両極端さは生まれながらなんだろうなとつくづく思う。

 

「ペア碁というのは2人で組になって交互に打つのだよ。つまり対戦相手も2人。自分だけじゃなく組になった相手の考えも視野に入れながら打たないといけないから、なかなか難しい」

「面白そう!打ってみたい!」

「分かった。では誰かペア碁をする者は……」

お父さんがペア碁に参加したい者を募ると、手を上げたのは……(ボクを含め)全員でした。

さっきまで集中できないとか気が乗らないとか言ってたやつは誰だ?

 

「なんだ、皆残るんじゃん」

その通りです。

君が研究会に出ると分かったとたんに、皆この気合の入れようですよ。

あまりの変わりように自覚があるのか、心苦しくてみんなお父さんを避けるようにして、顔は明後日の方角向いてます。

 

ああ、普段と同じはずなのに、冷ややかに感じるお父さんの視線が痛いのは決してボクだけではないハズ!!

 

「じゃあ、チーム組もう!私は先生と」

「それはダメ!ペア碁は普段打ちなれない者同士が組んで打つのが醍醐味なんだよ。ヒカルはお父さんと毎日たっぷり打ってるだろ?別の人と組むんだ」

「えーー!」

ヒカルに批難されながらも、僕の心は『ヒカルとお父さんが組んだら勝負は最初から見えている』だ。

この2人を組にして勝てる組なんて世界中にいるかどうかも怪しい。

そこからは結局、メイドさんが加わって皆でペア碁大会。

碁の研究会で真面目にメイドが混ざっているところなんてウチだけじゃないんだろうか。

 

けれど、一対一では勝てないけれど、ペア碁ならヒカルに勝てるかもしれないと、みんな異様な気合の入り様で、研究会が終わったのは夜もとっぷり深けた頃だった。

 

PS

次の手合日に棋院に行ったら、『塔矢名人は若奥さんにメイド服着てもらうのが趣味らしい』という噂が流れていたのは、誰が口を滑らせたのかな?ん?

 



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09 芦原

「緒方さん、……何でそんなに行く気満々なんですか?」

 

公式手合があるわけでもなく、囲碁関係の仕事でもない。

それなのに、いつもの白スーツを着込んで、みなぎるそのオーラは天敵桑原先生と対局するとき並みですよ……。

 

「何言っている、芦原。これが気合を入れずにいられるか」

 

「気合って、たかだかヒカルちゃんの高校の文化祭じゃないですかー」

 

「たかだかだと?甘いな、よく考えろ。ヒカルの通う高校は”女子高”だ!普通なら決して男が足を踏み入れることができない禁断の園!これで気合いが入らんヤツは男じゃない!」

 

他の歩行者がいる歩道で熱弁するこの姿を、棋院の関係者に見せたら、すっごい引くんだろーなー。

一見すると緒方さんって、クールな印象を受けがちで、本人もクールなつもりだけど、実際はかなりケンカっ早いし、思ってることが顔に出やすい。

 

 

それに緒方さんは知らないんだろうけれど、子供向けのイベントに必ず率先して参加するから、女流棋士の皆さんから影で『ロリコン』って呼ばれているんだよね。(だからって面白いから教えあげる気もないんだケド)

こうして女子高に現われたことが知れたら、彼女達になんて言われるんだろう。

 

でも、緒方さんが言うように、確かに男として『女子高』という響きに俺自身も惹かれるのは事実だ。

思春期の女の子たちが、全面、百合の花をバックに、きゃぴきゃぴうふふふな学校生活をおくる場所。

その男子禁制の女子高に入れる数少ない機会を逃す手はない!!

文化祭といっても共学のように、誰でも校内に入れはしないのだ!!

 

学校側から各生徒に配られる家族チケットがないと入れない。

チケットがないのに不埒にも校門を突破しようとする男どもは、校門のところで待ち構え、体育界系ハンマー投げ選手のような体格した女性に、簡単に放り投げられる運命が待ち構えている。

自分の子供さんの文化祭が重なったからって、俺にチケット譲ってくれたカヨさんに祈るほど感謝だ!!

 

「ところで、緒方さんは家族チケット持ってるんですか?チケットないと入れませんよ?俺はカヨさんに譲ってもらったチケットがありますけどね」

 

フフフン、と自慢げに内ポケットから家族チケットを取り出し、ピラピラ見せびらかす。

 

 

「それくらい俺が持っていないとでも?」

 

緒方さんに鼻で笑われた。

そして同じくウチポケットから家族チケットが出現。

 

「どうやって手に入れたんですか!?ソレ!!アキラくんから強引に奪ったんじゃ!」

 

「そんな真似するか。これは塔矢先生から頂いたんだ」

 

「塔矢先生から!?」

 

意外というか、何がどうしたら!?塔矢先生を相手にどんな口八丁手八丁使えばチケットを手に入れられるのか、俺にはさっぱり予想もできない!

すごいよ、緒方さん!!

ただのロリコンじゃなかったんだね!

緒方さんの見方が変わたよ!!

 

「先生は地方対局で今日までいない。だからせっかくのチケットを無駄にするのはもったいないから、先生の代わりに俺が行きましょうかと話を持っていったんだ」

 

「うわー、モノは言いようって、こういうことを言うんですね」

 

「見直したか」

 

いえいえ、逆です。

そんな胸張られても、自分の兄弟子ながら、呆れてモノもいえません。

 

「よし!芦原行くぞ!」

 

「はいはい、行きましょうね」

 

校門のところで、見張りの体育会系教師に思いっきり不審がられた視線を向けられたけれど、チケットは本物だからね。

文句は言わせない!(たとえ、連れが怪しい白スーツでも!!)

堂々と門をくぐりますよ。

 

「ここが女子高かー。なんか空気自体もフローラルな香りがしてる気が……」

 

「コロンと、清感スプレーだな」

 

緒方さんも同じことを思ったらしい。

クンクンと鼻で空気を吸うと、やっぱりさわやかフローラルだ。

以前、中学の頃の友人が進学した男子校の文化祭に行ったことがあったけれど、あのときは逆に食い物とムサイ汗の臭いしかしなかった。

それなのに、ここはすごくさわやかな香りと、甘い香りは焼き菓子とかの甘い香りかな。

本当に俺は今女子高にいるんだ……

 

(女子高生の)姿はなくとも空気が違う!!

女子高最高!!

 

校舎に近づけば、ちらほらと女子高生の姿が。

生徒の家族というには少々毛色の違う自分達(特に緒方さんの怪しい白スーツ)の姿に、微かに首をかしげ、視線が合うと恥ずかしいように逃げていってしまう。

ああ……本当に来て良かった……。

 

軽く見て回れば、クラスごとに展示物や出し物をしているところ、お化け屋敷からお化けらしい着グルミ着た子が汗をかいて出てきたのは面白かった。

 

「ちっ、どれもガキくさいな……」

 

小さな声だったけれど、緒方さんの愚痴を俺はしっかり聞き捉えましたよ……

 

「何を期待していたんですか……。ガキくさいって、高校生ならこんなもんでしょ?」

 

「これくらいの年頃なら、もう少し色気があってもいいんじゃないか?なんというか、本当に乳臭いというか、……(付き合うのは)面倒だな、ダメだ……」

 

「緒方さんに女子高生は絶対無理ですね。キレる姿が簡単に想像できるのでやめてください」

 

しかもキレたついでに俺に八つ当たりする流れも予測できます。

ヒカルちゃんと結婚した塔矢先生に変な対抗意識燃やしてるんだろうけど、人にはそれぞれ向き不向きがあると思いますよ?

 

 

「ホントだ!不審人物が紛れてる!」

 

後ろから聞き覚えのあって、しかもそれは聞き捨てならないよ、ヒカルちゃん……。

不審人物だなんて……。

探す手間は省けて嬉しいんだけど、もっと他に言いようがあると思うよ?

振り向いた先にはこの前着ていたメイド服。

プラス黒ぶちメガネの小道具。

 

「変なことを言うんじゃない、ヒカル」

 

 

「何で緒方さん白スーツなの?対局でもあった?ていうか、何でココに2人がいるの?家族チケットは?」

 

矢継ぎ早にヒカルちゃんが緒方さんに畳み掛ける。

しかもその質問はどれも的を得ているからすごい。

 

「カヨさんが子供の文化祭の重なって来れないからって俺にチケット譲ってくれたんだよ。それで緒方さんは……」

 

「塔矢先生が地方対局で来れないから、俺が代わりだ」

 

「えぇー……緒方さんが、先生の代わり………」

 

「その見るからに落胆するんじゃない。無駄になるチケットを俺が有効利用してやってるんだろうが」

 

 

上から目線の緒方さんだけど、ヒカルちゃんの不平不満の方が俺はわかるかな。

塔矢先生と緒方さんを比べれば、ヒカルちゃんの反応が理解できるよ……。

 

「で、どこだ、お前のクラスは。メイド喫茶してるんだろ?」

 

「うん!こっち!」

 

手招きするヒカルちゃんの後をついていくと、窓を白のレースで飾られた教室が現われる。

中には可愛いメイドさんがいぱーい。

メイド喫茶に行ったことがないし、雑誌でしか見たことないけれど、俺は思う。

これは16歳に限られた女の子しかいないメイドだから、さらに花園度が増しているんだと!!

 

「お客さん連れてきた」

 

「ヒカル、その人たち囲碁関係の人?」

 

「そ。塔矢先生の弟子の人達だよ。2人ともプロなんだ」

 

いきなりスーツな大人2人を連れてきたヒカルちゃんに、他のメイドの子が尋ねてきたので軽く頭を下げて笑顔もトッピング。

それに気付いて、あっちも軽く頭を下げて『いらっしゃいませ』って可愛らしい声でお招きしてくれた。

 

「席はこっちでいいかな?飲み物はコーヒーとアイスティーとオレンジジュースのどれか。一緒にクッキーがついてくるから」

 

「コーヒー」と一言だけ緒方さん。

 

「じゃ、俺はアイスティー」

 

「かしこまりました」

 

ペコリと頭を下げて向こうに行くヒカルちゃんの後姿を見送ってから、窓から校庭に視線をやる。

体育を受ける生徒の姿を、外部からカットするためか知らないけれど、この女子高の校舎は中心に校庭があって、その校庭を四方取り囲むように校舎がある。

その囲まれた運動場でも、屋台や出し物があって、生徒と校門をくぐりぬけれた一般人が騒いでいる姿が至るところに見られた。

 

膝上スカートな女の子もいるし、ハーフパンツだけど見ることも希少な体育着姿の女の子も。

中には何かのコスプレをしている子なんかもいて、自然に顔の筋肉がゆるんじゃうよ。

来てほんと良かった!

 

 

「鼻の下、伸びてるよ?」

 

「えっ!?」

 

鋭いツッコミと共に、机の上に注文したコーヒーとアイスティー、そしてクッキー数種類が置かれる。

 

「もうっ!2人とも!やらしいなぁ!ただでさえ囲碁マイナーなのに、他の子に変なイメージ与えないでよ!」

 

「馬鹿言え。俺がいつ鼻の下伸ばした?」

 

平静のフリしてヒカルちゃんが持ってきてくれたアイスコーヒーに緒方さんが口をつける。

 

「今。さっきの視線は絶対品定めしてた。だから緒方さん、皆からロリコンって言われるんだよ」

 

ゲッ……。

なんてことを、ヒカルちゃん……。

 

「……ほぅ?誰がロリコンだと?」

 

眉間に血管を浮かべた緒方さんがメガネの位置を正す。

緒方さんがメガネを触るときって、動揺を隠す他にも、込み上げる怒りを抑えているパターンがあるんだよね。

さっきのはまず後者だろうけど、なんで緒方さん、そこで俺を見るんですか?

ロリコンって言ったのはヒカルちゃんですよー?

 

「芦原、何故目をそらす?」

 

「いえ、校庭に可愛い子がいてですね……」

 

「お前知ってたな?あとで、じっくり聞いてやる」

 

ハハハハ……。

怖いなぁ、緒方さん……。

 

「今日は完全にメイドだけか?ここには囲碁部とかないのか?」

 

「さすがに女子高で囲碁部はないよ。緒方さん、碁の指導ついでに女の子と仲良くできたらとか思ってたでしょ?」

 

「芦原がな」

 

「ちょっ!緒方さん!!」

 

滑らかに濡れ衣着せないでください!!

 

 

「2人とも校内で変なことしないでよ?それじゃごゆっくり」

 

そういい残してヒカルちゃんは裏方に戻ったけれど……。

緒方さん、分かっているけどひどい。

 

そこに、

 

「失礼する」

 

「塔矢先生ッ!?」

 

「ああ、君たちも来ていたのか」

 

着ていたのかって、羽織袴姿で本当に自然に何で塔矢先生がここにいるんですか!?

地方の対局はどうされたんですか!?

まさかヒカルちゃんの文化祭を見たくてサボったなんてことは……ないだろうけど。

 

 

「塔矢先生、ではごゆっくり」

 

先生をこのクラスにまで案内してきたらしい細身でキツイメガネをかけた女性教師が、笑顔で頭を下げてクラスを出て行く。

緒方さんの俺が校内を回っていても、何もしてないのに見回りの女性教師の方から、そんな友好的な態度は取ってくれなかったのに……。

むしろ、さっさと学校から出て行けと言わんかのような冷たい視線しか向けられなかったのに……。

 

「今日まで岐阜ではなかったのですか?いつこちらにお戻りに?」

 

緒方さんが椅子をずらし、塔矢先生の席を作るので、俺は緒方さんのコーヒーをずらす。

 

「さっきだよ。対局は昨日で終わっているからね。朝のうちに出て、そのままこっちに立ち寄った」

 

「しかし、……先生は家族チケットお持ちでないですよね?どうして校内に入れた……」と緒方さん。

 

「校門に立っていらした女性の教師の方がなぜか私のことを知っていてね、快く通してくれたよ。」

 

「……はぁ、そうですか」

 

さすが塔矢先生。

五十路男と女子高生の結婚報道ですっかり有名人。

ノーチケットなVIP待遇。

 

塔矢先生との差を感じるなぁ……分かってるけどさ。

 

と、思いっきり強く教室の戸が開かれ、お帰り、ヒカルちゃん。

漫画の中なら『スパーン!』って効果音が挿入されてるな。

ただ、そのメイド服はミニスカートなんだから、気をつけないとパンツ見えるからね?

 

「先生ッ!?来てくれたの!?戻るの明日って!」

 

裏から全力で戻ってきたんだろう。

息を乱れさせている。

 

「ただいま、ヒカル」

 

「お帰りなさい!!」

 

メイドさんがお客様(先生)に大歓迎・全力ハグ中です。

これって別の子でいいから、『メイドさんからハグ』メニューとかないのかな?

 

「先生飲み物何にする?アイスコーヒーとアイスティー、それとオレンジジュース」

 

「緑茶は?」

 

「分かった!ないけどどっかから持ってくる!!」

 

無いのに持ってくるのか。

どこから先生の好む熱い緑茶を強奪してくるんだか。

そしてヒカルちゃんが去ったあとに、違うメイドさんが3名、この机にやってきて、

 

「あっ、あのっヒカルの旦那様ですよね?塔矢行洋先生?」

 

「そうだが、君たちはヒカルのクラスメイトかな?」

 

「はい!!いつもヒカルから先生のお話聞いてます!ヒカルってばいつも塔矢先生がカッコイイとか先生の自慢ばかりしてるんですよ!この文化祭の準備をみんなでしているときも、塔矢先生の対局を携帯ワンセグでこっそり見ながらしてて先生に注意されたり!」

 

「こちらこそ、ヒカルと仲良くしてくれてありがとう」

 

ニコリと笑うわけでもなく、頭を下げるわけでもなく、塔矢先生は姿勢を正したまま静かに瞼を伏せただけなのに

 

「「「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」」」

 

この黄色い歓声は何ですか?

この女子高は枯れ専の女の子ばっかりだとか?

そうなると緒方さんや俺の入りこむ隙がないんだけど。

 

囲碁の棋士はいつから女子高生にキャーキャー言われるほど人気になったんだろう。

これでバレンタインに塔矢先生宛てのチョコが棋院に大量に届いたりなんかしたら、若いやつらは最高に落ち込んでしまいそうだ。

 

「今度の名人戦も頑張ってください!応援してます!」

 

そう言ってから、塔矢先生とメイドさん3人で写メ取って(カメラマンはやっぱり俺だし……)満足げに戻っていく。

確かに今の季節は名人戦だけど、何で囲碁を全く知らなそーな女の子がそんなコアなことを知っているのか。

ヒカルちゃんあたりが話しているのかな。

何気にクラスの外から、野次馬らしき人影が数人中をうかがってるよーな。

 

俺も女子高生からこんな風に応援されたら頑張って予選なんか楽々勝ちあがっちゃうのに。

誰か俺のファンになってくれないかなー。

 

「先生!お茶持ってきた!!」

 

お盆に湯のみ、熱いお茶が入っているだろう急須、そしてクッキーじゃなく数種類が盛られた煎餅。

明らかに俺たちのメニューとは違うよ、ヒカルちゃん。

どこの職員室から強奪してきたんだい……?

 

「これは……ヒカルが焼いたクッキーは?」

「ッ!!待ってて!すぐ持ってくる!」

あー、さりげなく2人のイチャつきを見せ付けられましたよ、こんちくしょー。

当初に比べて慣れたつもりだけど、完全に無ダメージでスルーするのはまだまだ先が遠いです。

軽くお茶した後は、クラスの担任と塔矢先生が軽く話をして、校内をヒカルちゃんが(先生と手を繋ぎながら)案内して、岐阜から戻ったばかりで疲れているだろうからって3時前には学校を後にしたけれど。

塔矢先生を緒方さんが車で送った帰り、

「緒方さん……」

「言うな、芦原」

「だって……」

「だってじゃないっ!泣き言は対局にぶつけてから言え!」

それは分かってるけどさ!!

「塔矢先生なんであんなに女子高生に人気なんですかー!?おかしいでしょ!?いくらタイトルホルダーって言っても、囲碁人口は年配層が8割占めてるんですよ!?その中で若い女の子なんて一握り!それなのに塔矢先生ばっかり!!」

両手どころか四方八方に女子高生がわんさかと!!

校内を見学して回る塔矢先生の後ろには、女の子の列がずーらずら。

男は歳じゃない?内面?外見?いやいや、若い女の子の好みがさっぱり理解できないよ!!

それとも囲碁界っていう狭い世界にいる所為で、世間一般から俺が外れているとか?

禁断の園(女子高)に入れたことは嬉しいけれど、結果としては酷く打ちのめされた一日となりました。

 



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10 楊海

LG杯世界棋王戦が韓国で開催されるのに合わせて、各国を代表するプロ棋士が集まってくる。

予選はあるもののアマも参加出来る数少ないオープン棋戦とはいえ、

 

『えらく浮ついてる気がするが、LG杯ってのはいつもこんなもんなのか?』

 

棋戦が開かれる前夜祭のパーティで、周囲を見渡しながら他人ごとのように揶揄した。

自分がこの棋戦に出るのは今回がはじめてだから、LG杯の空気がどんなものか知らないが、どうにも国際交流だけではないざわめきがパーティ会場のいたるところで見られた。

 

さっきは場に慣れないと嘯いたが、なんとなしに皆が浮ついている理由は分かる。

何しろ、韓国語・中国語も分かるお陰で、皆が話している内容が筒抜けだ。

 

『冗談はよしてください。こんなに浮ついてるのは今年が初めてですよ。楊海さんも原因くらい俺が説明しなくてもお分かりでしょう?』

 

韓国語が話せるお陰で前に何度か話したこともあり、親しいと言えるくらいにはなったんじゃないだろうか。

すでに何度か大会に出場している経験者の太善が苦笑しながら、持ってきたワインを手渡してきたので受け取った。

 

『連れてきたらしいじゃないか。若くて美少女と噂の奥さんを俺らに自慢したいとか?』

 

『塔矢先生はそんなことされませんよ。仮に自慢だとしても楊海さんには都合よかったのでは?4年前に突然現われたsaiが、実は16歳の女の子だと判明して、しかも今日その子に会えるんだ。一度でいいから実際に会ってみたい、あわよくば彼女と一局打ちたいと考えている輩がここにはわんさかいます。もちろん、俺や楊海さんも含めてね』

『最初に現われたのが4年。彼女の歳を逆算すれば12歳であれだけの碁を打って、プロを平気で負かしていたことになる』

『羨ましい限りの才能ですね。LG杯はアマも参加できるんだから彼女も参加すればよかったのに』

『それであっさり優勝されたらプロの立つ瀬ないな』

『そうですか?案外、塔矢先生もそれを本気で考えて、彼女を出場させなかったんじゃないですか?』

『……優男な顔して、んな怖いことをサラリと言うヤツだな』

怖いことを笑顔で言うんだから、安太善も相当な曲者だよな。

外見がなまじ優しげだから騙されそうになるが、内面は実はかなり強かで、年上のこっちが度肝を抜くようなことをたまに平気で言う。

それも太善がそれなりの修羅場と対局をして培った強さがあるからだから、勝手に強がっているだけだと一蹴できないから困る。

『でも実際に彼女がsaiであるなら、実力的に優勝する可能性は十分にある。むしろ彼女が最有力になると俺は思いますよ。あくまで彼女が本当にsaiならば、ですが』

『お?疑ってんのか?』

『噂ほど当てにならないものはないです。相手の実力を見るには、やはり実際に対局してみなければ何も評価できませんよ』

『それは言えてる』

噂は所詮噂。

碁の実力を知るには対局するのが一番の早道だ。

『噂をすればですよ、楊海さん。お待ちかねの日本の皆さんが来られたようだ』

『おっ、噂の子はどーこかなー』

会場の入り口にぐるりと振り返り、興味津々探す。

噂の美少女、噂の美少女、どーこだーい?

隠れてないで出ておいでー?

 

『楊海さん、それはいくらなんでもあからさま過ぎですよ……』

 

『うるさい、彼女と対局したいと思っている輩がいっぱいいると言ったのはお前だろうが。他のやつに先を越される前にだな、俺が先手を……』

打つ、と言いかけて、口が開いたまま止まってしまった。

会場に出席していたほとんどの注目を集めているのに、そこを中心に静けさが波紋のように広がっていく。

数人の日本のプロ棋士らしき人物と、1人1人につく通訳。

そして日本の伝統的服装である羽織袴を着た塔矢先生の背中からちょこんと出している小さな顔。

 

『……まじで?』

 

塔矢先生、羨ましすぎる。

いや、本気でどうやって彼女を落としたのか教えてほしい。

噂は当てにならないとさっき太善が言って、それに俺も同意したが、噂になるにはそれだけのモノもあるんだな。

たかが噂も、されど噂。

馬鹿にしたもんじゃなかった。

日本人らしい大きな目、小さい顔、やわらかそうなストレートの髪を自然に垂らして、ミニのスカートが惜しげもなく健康美溢れる白い足なんか出しちゃって。

そんな子が50代の塔矢先生にぴたってくっついて……

 

『太善』

『はい。これは噂以上にキレイな子ですね。日本でもモデルとかしてるのかな』

 

『日本はこれで犯罪にならないのか?』

『日本の法律的には、女の子は16歳で結婚が認められるそうなので、問題ないはずですが?』

『俺、日本人になろうかな……』

『なるのは止めませんが、なったところで可愛くて若い子と結婚できる保障はありませんからね』

 

『くっ』

だよな。

ちょっと言ってみただけだよ……。

 

他のやつらも気になってはいるものの、塔矢先生に話しかけて一度に通訳できるのは1人のみ。

今は大会関係者が挨拶しているようで、それが通訳し終わるチャンスを待っているようだが、俺は違うぜ。

中国語、韓国語、そして日本語もほぼ完璧!!

俺に言葉の壁はないッ!!

「塔矢先生、お久しぶりです」

「楊海くん。そうか、今年の中国代表には君が選ばれたのか。これは手強いな、お手柔らかに頼むよ」

「まさか。それは俺の台詞ですよ。少しお会いしないうちに、先生も冗談がお上手になられましたね」

中国の国際棋戦で何度か顔を合わせたことがあるお陰で、塔矢先生も俺の顔を覚えてくれていたらしい。

実際、塔矢先生が覚えている海外棋士の顔は対局相手ならいざ知らず、検討に数回顔出したぐらいの相手の顔を、数年後に覚えていなくても、それはそれでしょうがないと思う。

しかし、名前を覚えていてくれたとなると、これから持って行く話の流れがずいぶんスムーズになってくれるというものだ。

「失礼ですが、そちらのお嬢さんがもしかして、先生が再婚されたというお相手ですか?」

平静の振りをして、さりげなく尋ねてみる。

一緒に視線を塔矢先生の隣に向ければ、丸い目を大きく広げて、こっちをじっと見ていた。

まさに小動物。

こういうのを日本の言葉でなんと言ったかな?

『不躾』……違うな、これは『興味深々』の方がどっちかと言えば近いかも。

 

「妻のヒカルだ。中国の棋士で楊海くんだよ」

「はじめまして、ヒカルちゃん」

けれど、塔矢先生が俺を紹介してくれても、ヒカルという名らしい女の子は、俺が話しかけるなり顔を不機嫌に顰めて、塔矢先生の羽織をぎゅっと掴み

「ヒカル?」

どうしたのか?と尋ねた塔矢先生の背中にすっぽり隠れてしまった。

おやおや、すっかり塔矢先生になついちゃってますことで。

 

「すまない、楊海くん」

「いえ。初めての国際棋戦のパーティだ。逆にいきなり声かけて怖がらせちゃったかも」

そういうと塔矢先生は苦笑しながら小さく頭を下げてくれたのだが!!

誰より先んじて先生に挨拶しにきた本題はというと、

「彼女がsaiだったんですね。失礼かと思うのですが、どうもまだ信じられませんよ。4年間も正体不明のままで半ネット伝説化しかけ、多くの人間を魅了する碁を打つ棋士が、実は二十歳も越えてないごく普通の女の子なんて」

「しかし、現実に彼女は私に勝った」

そう言ったのは、塔矢先生ではなく、いつの間にか近くに来ていた韓国の徐彰元先のこれまた流暢な日本語で。

って今、なんて言われました?

徐彰元先生に勝った?

「え?え?って、あ、ご無沙汰してます、徐彰元先生。先生はヒカルちゃんと打たれたことがあるのですか?」

 

「今朝、彼女と一局打ったよ。碁に歳は関係無い。本当に素晴らしい打ち手だ」

ストレートな賞賛を塔矢先生の後ろに隠れている女の子に向けて徐彰元先生が言えば、塔矢先生も説明を補うように

「実は、私たち2人だけ昨日からこちらに来ていて、昨夜は徐先生の家にお世話になった。それで今朝、ヒカルと一局打つことになったんだよ」

 

マジ?

 

「それで……ヒカルちゃんが勝ったと?」

 

「ああ。塔矢先生も本当にどこでこんな素晴らしい相手を見つけてくるのか、何かコツがあれば教えて頂きたいものです」

 

噂ではこの女の子が塔矢先生と真剣勝負で勝つというのは聞いていたが、これは半分以上、人の噂伝いに尾ひれ胸ひれがついた誇張話だと思っていたんだが、徐彰元先生にも勝ったとなると話は全く違うぞ?

韓国TOP棋士の徐彰元先生に勝つだけの実力があっても、この女の子がプロでないことは確実だ。

一般的に囲碁は女性は男性がどうしても勝っているのが現状で、まだ16歳という歳の女の子がアマのままプロに勝つのか?

そりゃあ、塔矢先生と結婚したなら、毎日でも塔矢先生と打てるだろうし、門下のプロ棋士、門下でなくても親しいプロ棋士とも打てるだろう。

そんな恵まれた環境ならどんな下手でも嫌でも強くなる。

それでも、強くなる程度も限度があるだろう?

「そいつは是非とも俺もヒカルちゃんと一局打ってみたいですね!」

 

塔矢行洋と徐彰元のお墨付き相手に、碁打ちとして惹かれないわけがない!!

「行洋ッ!!」

え?

行洋?行洋って、塔矢先生の下の名前だよな?

というか、天下の塔矢先生のファーストネームを呼び捨てにするなんて、どんな馬鹿……じゃなかった……。

 

「さっきからどうしたのだ?ヒカル?」

塔矢先生の名前を呼び捨てにしたのは、先生の背中に隠れていたヒカルちゃんだった。

しかも『行洋』なんて呼び捨てにして驚いたのは、会話していた俺や徐彰元先生でなく、周囲にいた者全員で。

瞬間どよめきまで起こったぞ。

いや、別に奥さんが旦那の名前を呼び捨てにするのは世間的にも普通なんだろうが、仮にも呼び捨てにした相手は、囲碁棋士で知らぬものはいない世界の塔矢行洋だぞ。

それを、こんな未成年な女の子が、頬を膨らませて駄々をこねる(=甘える)ように『行洋』って、オイ。

何か援助交際場面で出くわしたような見てはいけない場面を見ているような気分だぞ。

「気持ち悪いから、外の空気吸いに行こ!」

グイっと塔矢先生の腕を引っ張り、外へ連れ出そうとする。

塔矢先生もどうしたものかと困ったような表情になったが、

「徐さん、楊海くん失礼する」

一言断って、塔矢先生はヒカルちゃんに引っ張られるようにして廊下の方へ行ってしまった。

その後ろを、置いてかれまいと慌てて塔矢先生付きの通訳担当が追いかけていく。

「なんだ?何がどうしたんだ?急に気持ち悪いって……」

このパーティ会場に入ってきたときは、別に普通だったと思う。

それなのに、俺が声をかけたら急に不機嫌になって、気持ち悪いとまで言い出して、塔矢先生を連れて行ってしまった。

 

『俺、何か悪いこと言いました?』

後に残された徐彰元先生に韓国語で尋ねれば、答えたのは先生ではなく、会話に入ってこなかった太善だった。

『語学がいくらできても、女心は楊海さんには理解できないということですよ』

クスクス声を押し殺しながら笑う安太善のその分かったような口ぶりにムッとして

『俺のどこが女心が分からないって?』

『俺は日本語は分かりませんが、名前の末語に「ちゃん」って付けるのは、日本の子供に対しての言葉なのでしょう?』

『それがどうした?』

『恐らく彼女はそれが気に食わなかったんですよ。塔矢先生の妻として会場に出席したのに、楊海さんから子ども扱いされて、女としてのプライドに障ったんです。反対に彰元先生からは「ちゃん」付けは無かったと思います。だから彼女も徐彰元先生の言葉は塔矢先生の後ろで嬉しそうに聞いてましたよ?』

安太善が徐彰元先生に確認を取るように質問を振ると、徐彰元先生は否定せずに苦笑するだけだった。

つまり安太善の指摘を肯定したわけだ。

『女って、彼女はまだ16なんだろ!?日本語的にはちゃん付けが普通だぞ!?』

『でも、現に彼女は不機嫌になってしまった。 なまじ日本語を理解していたのが逆に仇になりましたね、楊海さん。楊海さんへの印象はこれで最悪だ』

あははは、と他人事のように安太善が笑う。

16歳で子供でも、女。

どんなに素晴らしい碁を打っても、気まぐれな思春期な女の子。

……ということか?

 

となると……せっかくsaiと打てるチャンスだったのに、これでパァってことになる。

しまった……やっちまった……。

 

『塔矢先生も、楊海くんに悪気があったわけでないことは分かっていらっしゃるだろうから、きっと彼女にも手ごろに取り成してくれるよ』

慰めのお言葉ありがとうございます、徐彰元先生。

気休めでも、大変ありがたいです。

『だといいんですが』

ハァ……

女心はよく分からんな

 

 

 



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11a 秀英

永夏と外で待ち合わせし、用事を済ませてから、いざ自分の家に向かう道すがら、辺りをキョロキョロ見渡し、何かを探しているような……ありていに言えば、道に迷ったような挙動の女の子が視界に入った。

声をかけてあげるべきか一瞬迷い、思い切って声をかけてみることにする。

永夏からはナンパかとからかわれたけれど、そんなつもりはもちろんない。

ただ気になったのは女の子の容姿だ。

前髪が眉のあたりで切られている。

それに着ている服も、シフォンの淡い色のワンピースにベスト、ジャケットと、日本人の女の子が好む『重ね着』というやつだろう。

韓国人なら誰にでも声をかけて道を尋ねればいいけれど、それが出来ないで辺りをキョロキョロしているのは、日本人で言葉が分からず道を尋ねようがないからだ。

 

「君、大丈夫?道に迷ったの?」

 

いきなり声をかけて驚かせないように気をつけながら、久しぶりの日本語で声をかけてみる。

これで実は韓国人でした、なんてことだったらマヌケだなとか考えが過ぎった。

けれど、振り向いた女の子は民族なんて関係ないくらい可愛くて、声をかけたこっちが驚いて反応が止まってしまった。

大きな目に長い睫、前髪だけが幾分明るいのは染めているのかな。

なんか、脳裏に一瞬、4年前に日本で毎日のように碁を打った知り合いの顔が過ぎったのは気のせいだろう。

前髪が明るいという特徴が似ているだけだ。

何しろあっちは男なんだから、こんなに可愛い女の子と比べたら罰が当たる。

 

でも、ハッと我に戻って女の子の様子を伺ってみるけれど、女の子は何も話さず、自分をじっと見てくる。

どこか日本語を間違っただろうか。

というか、やっぱり韓国人だったのかな。

 

「ど、どうかした……」

 

確認のためにもう一度日本語で恐る恐る話しかけてみたら、

 

「秀英?」

 

「え?」

 

「洪秀英だよね?」

 

「そ、そうだけど、何でボクの名前知って……」

 

ボクに日本人の知り合いの女の子はいないぞ?

でも、女の子はそんなボクを他所に思いっきり抱きついてきた。

 

「秀英っ!!」

 

「ちょっ!ちょっと!?えっ!?えええええ!?」

 

女の子に抱きつかれたのはきっと生まれて初めてだし、すっごく嬉しい。

反射的に押し返そうとしたら、女の子が予想外にふわふわで柔らかくてそっちの方が驚いた。

でも、え?え?君、誰!?

『秀英やるな。何時の間に公衆の全面で抱き合うくらい親しい女の子がいたんだ?』

 

『永夏!!誤解するな!!』

 

初めから一部始終を見ていた永夏がニヤニヤからかってきて、女の子に抱きつかれて気が動転しながらも断固言い返す。

分かってるよ。

ボクの今の顔は真っ赤さ!

 

ようやく少し落ち着いて離れてくれた女の子に、

 

 

「ご、ごめん……君がボクを知っているというのは分かったんだけど、ボクは思い出せなくて……君だれ?」

 

「ああ、そういえば、秀英と碁を打った頃ってまだ男勝りだったし、髪もショートだったもんね。ヒカルだよ私」

 

「へ?」

 

ワン モワ プリーズ

 

「進藤ヒカル。4年くらいまえ日本の碁会所でいっぱい碁打ったの覚えてる?もう忘れちゃった?」

 

「……進藤、ヒカルは覚えているけど………え?だってヒカルは男で………」

 

4年前に日本に行って、碁会所で毎日ずっと日本の子と打っていた記憶はある。

碁を打った相手の名前が進藤ヒカルだってことも忘れていない。

けれど、進藤ヒカルは男で、君は女の子では?

 

「あはははは。やっぱ男と間違えてる。自分のことも俺って言ってたしね、間違えられてもしょうがないんだけど、れっきとした女だよ」

 

「エーーーーーーーーーーー!?ヒカル!?進藤ヒカル!?碁石すらまともに持てなかったあのヒカル!?」

 

親指と人差し指で石をつまんで打つという初心者丸出しの打ち方。

碁の人気が落ちているという噂の日本らしいって初めて見たとき馬鹿にしたんだ。

でもすでに研究生だった自分が一回も勝てないくらいヒカルは強かった。

途中、石の持ち方を正そうとして一度挟むように石を持たせたら、打とうとした石が自分の方に飛んできて、それ以来危険だからってヒカルの石の持ち方を矯正しなかったんだ。

結局一度も勝てないまま韓国に帰るときは、悔しくて何日が悔し泣きしたんだっけ。

 

その進藤ヒカルが君?

「失礼な。ちゃんと碁石持てるようになったよ。それに石持てなくたって、秀英に一回も負けなかったじゃん」

 

グサッ!て言った。

今、絶対ボクの心臓に極太の言葉の矢が突き刺さった。

間違いない。

コレは進藤ヒカルだ。

 

「でも良かったー。外出たのはいいんだけど、道迷っちゃって困ってたんだよね」

 

アハハハと能天気に笑っている様は、よく見れば4年前の進藤の面影がないことはない。

やはり髪が短いのと長いのでは見た目に雲泥の差があるもんだな。(あと着ている服も)

 

「1人で韓国来たのか?家族の人は一緒じゃあ?それともこっちに知り合いが?」

 

とりあえず、どうして進藤が韓国にいるのかをまず尋ねたら、視線をそらして

 

「えっと、家族と一緒かな。うん。ちょっと用があって一緒について来たの。でも、言葉ちっとも分からないし、変な目で見てくるし、何言ってるかわかんない言葉で話しかけてくるし、つい走って逃げたら元来た道が分かんなくなった」

 

「変な目で見られて、逃げるね……」

 

進藤にとっては『変』な目だろうな。

そいつらは君に見とれていたんだよ、きっと。

でも本人にしてみれば『変』でしかないし、ナンパしても言葉が伝わらなければ、不審者だろう。

だからって逃げて道が分からなくなって迷子になるのも考え物だけど。

 

『オイ。何喋ってる?俺にも教えろ。結局知り合いだったのか?』

 

話の輪の外に放置されていた永夏がボクを睨んできた。

進藤に話しかけるまではニヤニヤからかってきたのに、知り合いっぽいって分かるととたんに睨んでくるんだから、永夏もまだまだ子供だよな。

 

『そうだった、ゴメン。彼、じゃなくて彼女、俺が日本の親戚の家に遊び行ったときに友達になったんだ。それで、家族と一緒にこっち来たけど道に迷ってたんだって。名前はヒカル、進藤ヒカル』

 

ヒカルの紹介が終われば、次は進藤に永夏を(嫌々ながら)紹介してやった。

 

「進藤、こっちは友人の高永夏、永夏でいいよ」

 

「こんにちは」

 

『なるほど、負けが続いてふて腐れていたお前を叩きなおした日本の『ヒカル』がコレか。俺は男だと思っていたが、女だったのか』

 

そういえば、永夏にはだいぶ前に『日本の進藤ヒカル』について話したんだった……。

話したボクは忘れていたけど、聞いた永夏は覚えていたのか。

大事なことはすぐ忘れるくせに、余計なことはしっかり覚えているんだから、永夏も相当性格悪いよな。

今更だけどー。

全然忘れてくれててよかったのにー。

「それじゃ、仕方ないか。どこにいたの?徒歩で移動できる範囲なんだよね?家族のところまで送っていくから」

 

「んー。いい。別に。どうせあと5時間くらいは終わんないだろうし、何もしないで待ってて、また変な人に声かけられるのヤだ。秀英、いま暇してる?」

 

「暇っていうか……」

 

これからボクの家で碁の勉強を永夏と一緒にしようと思っていたところだったんだけれど、ここで女の子を1人にするわけにはいかないよね。

 

「まぁ、暇かな」

 

「久しぶりに一緒に打とうよ。アレから少しくらいは強くなった?まだ私の全勝記録更新中でいいんだよね?」

 

そんな挑戦的な目で挑発されて乗らずにいられようか!!

その勝負受けて立つ!

 

「もちろん打とう!」

 

了承の返事をすれば、永夏にも確認を取る。

永夏が嫌だと言ってもボクは進藤と打つ!

『永夏、彼女も一緒にいいかい?』

 

『は?』

 

『これから彼女と碁を打つ。そして見返したいんだ!もう負け犬スヨンなんて言わせない!』

 

『……構わんが、女の子に負け犬秀英なんて呼ばれてたのか、お前……。まがりなりにもプロ棋士になったんだぞ。女の子相手に、ムキになるのもほどほどにしておけよ』

 

『それくらいわかってるよ』

 

アマの進藤相手にプロになったボクが本気で打つまでもない。

でも初めはプロと明かさないで打って、進藤を驚かせてやるんだ。

進藤から負けましたって言わせて、その後で実は……って(かっこよく)切り出す!

 

「時間は大丈夫?」

 

 

もう一度、進藤に確認を取る。

 

 

「五時間くらいは平気。携帯あるし、早く終われば連絡くれると思う。それから戻ればいい」

 

「近くにボクの親戚の人が経営してる碁会所があるからそこに行こう。個室もあるし、そこなら野次馬を気にせずゆっくり打てる」

 

「わかった!」

 

そう言って、自分の隣を歩き始めたヒカルの長い髪が動きに合わせて揺れる。

シフォンのワンピースなんかもスカートがふわふわだし、何気にいい香りがするのは何か香水でもしてるのかな。

睫なんかもすっごく長くて、肌も本当に白い。

確かに4年前のヒカルの面影が無いこともないんだけれど……どう見ても全然変わってるじゃないか(汗)

4年前、進藤が自分と同じ男だと思って疑いもしなかった。

ということは、何か?

ボクは女の子に負けまくっていたのか?

 

「なに?秀英」

 

ボクの視線に気が付いた進藤が急にこっちを見て、ボクと視線がばっちり合ってしまった。

両手を顔の前でブンブン振って否定すれば、

 

「いやっ、なんでもないッ!!」

 

『秀英、顔が赤いぞ?』

 

『永夏ッ!!』

 

反対側からまた余計な冷やかしがすかさず入って、さらに顔が熱くなった。

 

親戚の碁会所に着いて、マスターをしている叔父さんに一言挨拶をしてから、奥の席へ移動する。

一言、3人でゆっくり打ちたいと伝えたから、これで余計な野次馬は近寄らないだろう。

永夏は隣の席の椅子を引き寄せ、無言で観戦者になっている。

 

進藤と向かい合わせに席に座ると、この対局後に呆然としているヒカルが頭に浮かんで、顔がニヤけそうになるのを懸命に堪えた。

予想外の対局だけれど、願ってもいない対局だ。

これでボクの男としてのプライドが復活するんだ。

 

ボクがニギると黒は進藤になった。

そうだね、これくらいはプロとしてアマに黒を持たせてあげるべきだよね。

 

「私が先番か、久しぶりかも……」

 

 

「え?」

 

ポツリとつぶやいた進藤の一言に、碁盤から顔をあげた。

先番が久しぶり?

でもまぁ、確かにアマでもあれくらい打てたら相手がプロでもない限り、進藤に勝てる相手はいないだろうから、黒を持つこともそうそうないだろうな。

 

「なんでもない!お願いします」

 

「お願いします」

 

進藤にならい、ボクも深々と頭を下げた。

 

 



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11b 秀英

「負けました……」

と言ったのはボク。

「ありがとうございました。秀英、すっごく強くなってるじゃん」

 

「……そりゃあ、あれから頑張って」

 

プロにまでなったんだ。

それなのに進藤にはこうしてまた負けてしまった。

対局前に、永夏に言われた通り、一般人の進藤相手に勝ちが過ぎないよう注意しようとは思った。

思ったんだけれど、勝ちが過ぎると手加減とかそんな次元の問題じゃない。

 

「進藤もプロになってたの!?」

 

よく考えてみれば、自分がプロになっているんだから、あれから進藤もちゃんと碁を学んでプロになっていたとしても、何らおかしくない。

むしろあれだけ強くてプロの道を目指さないという方がおかしい。

それなのに、進藤の返事は満面の笑顔で

 

 

「なってないよ。でも、その感じだと秀英はプロになったんだ?すごいな!おめでとう!」

 

「ありがとうって、プロじゃない!?ホントに!?何で!?そんなに強いのにどうして!?」

 

「どうしてって、なる気がないだけで……みんなと反応同じだな~ハハ」

 

「じゃあこれから先もプロにはならないの!?プロになればボクなんか目じゃないもっともっと強い人とも打てるんだよ!?今よりもっと強くなれるんだよ!?進藤なら絶対トップ棋士になれるって!プロにならないなんて勿体無さ過ぎるよ!」

 

「多分、ならないかなー。それに別に家にいればプロ棋士の人たちとも普通に打てるしー」

 

『プロ』ということに全く興味なさげに進藤はのほほんとのたまう

。プロにならなくても、家にいれば普通にプロ棋士の人たちと打てるってどんな環境なんだ?

というか、こんなに強くてプロにならないという思考の人種を初めて見たかもしれない。

日本は韓国ほど碁の人気がないというから、それで進藤もプロになりたいと思わないのだろうか。

韓国だったら、プロ棋士になれるとしたら断る人間は絶対いないのに。

信じられない・・・。

 

「もっかい打つ?あと一回くらい打てると思うよ」

 

時計と相談しながら行って来る進藤に答えたのは永夏だ。

言葉は分からなくても、進藤が右手人差し指を上げるジェスチャーで、その意図を悟ったらしい。

 

『オイ、次は俺だ。見学は飽きた』

 

『永夏……』

 

なんだよ、その俺に打たせないと後でどうなってもしらんぞ的な脅しの目は……

ボクと進藤が打つ前まで傍観者気取りだったくせに、進藤が強いと分かった途端これなんだからな。

嫌になるけど、それを断れないボクって。

「次、永夏が打ちたいって。いいかな?」

 

「もちろん。お願いします」

確認を取ると進藤は快く承諾してくれて、渋々永夏に席を譲った。

プロ棋士になってまだ一年未満のボクと違い、永夏はすでにリーグ戦にも出場している韓国で若手ナンバー1の棋士だ。

その永夏に進藤がどう打ってくるのか、ボクも碁打ちの端くれだから、じわじわと興味が湧いてくる。

そういえば永夏は彼女に負けていたボクのことを馬鹿にしていたんだっけ。

あわよくば、永夏が進藤に負ければデカイ顔はさせない!!

って内心、冗談半分で企んでいたのが2時間とちょっと前でした。

 

『ありません……』

ウソ……。

永夏が本当に負けた……。

こんな見てくれだけど、碁の実力は本物なんだ。

それなのに、手を抜いていたとかポカをしたわけじゃないのに、永夏が進藤に負けた。

対局中盤から永夏の顔つきが本当に怖いくらい真剣なのは、横で見ていても分かった。

永夏が弱いんじゃなくて、これは進藤が強すぎるんだ。

 

「永夏が、負けましたって……」

まさかボクの人生で永夏の負け宣言を通訳する日が来るだろうとは一度も考えたことがなかった。

「ありがとうございました。うん、時間ぴったり!」

 

「時間?あっ」

 

進藤に釣られて店の壁にかけてある時計を見上げる。

家族の人が待っているか待ち合わせしているんだっけ?進藤は?

 

「打ってくれてありがと!そろそろ戻るね。秀英、道教えて欲しいんだけどいいかな」

 

「う、うん!家族の人、どこいるの?」

 

「韓国棋院」

 

『え゙……?』

 

そんな満面の笑顔で言う場所じゃないと思うよ、進藤……。

静止したボクに永夏が怪訝な表情で、片眉を上げた。

『秀英?どうした?』

 

『進藤が元々いた場所って韓国棋院らしくて・・・』

 

『そういえば、今ちょうど日本の塔矢先生たち日本のプロ棋士が棋院の方に来てるんじゃないか?彼女、それで誰か関係者と一緒に来てたとか』

 

『なるほど……』

 

さっき家族について来たと言っていたのは日本のプロ棋士の誰かが家族で、その人から囲碁を教えてもらっていたのだとしたら、こんなに進藤が強い理由も説明できる。

そうだよ。

それくらいなくては、進藤がこんなに碁が強い説明がつかないじゃないか。

きっと4年前にボクが日本に行って進藤と打っていた頃も、進藤はそのプロ棋士の人から指導を受けていたに違いない!

そうと分かれば、進藤を指導した日本のプロ棋士の顔を拝んでやろうじゃないか!!

 

店のおじさんにお礼を言って、進藤を連れて(永夏も当然のように一緒に)韓国棋院を目指すのみ!

 

「着いたよ」

 

「ほんとだ!ありがと!秀英!」

 

棋院の看板を指差せば、進藤も見知った建物らしく瞳を輝かせた。

そのまま棋院に入ると、

 

「秀英、お手洗い行きたいんだけど、どこ?」

 

「えとトイレはあっちの角を右に曲がったところだよ」

 

「ありがと!ちょっと待ってて!」

 

軽く駆け足で、進藤はトイレの方に行ってしまう。

そういえば、さっき碁を打った店でもトイレ一回も行ってないんだから、我慢してたのかな?

悪いことしちゃったな。

せめてお店を出る前に一度聞いておけばよかった。

と思っていたところに、いつも穏やかで冷静さを失ったり、取り乱すところを一回も見たことがない太善さんが、顔色真っ青、必死の形相で近づいてきて、・・・・・逃げる前に捕獲されました。

 

『秀英!永夏!いいところに来た!!』

 

そっちはいいところでも、こっちは絶対面倒ごとに巻き込まれる予感がビンビンです。

『太善さん?どうしたんですか!?』

 

『マズイことになった。非常にマズイ。もし最悪の事態になどなれば、韓国棋院は塔矢先生に顔向けできん!』

 

塔矢先生?

今回来ている日本のプロ棋士の塔矢先生のことだよね?太善さんが言ってるのって。

韓国棋院と塔矢先生に何があったら顔向けできないようなことが?

 

『実はだな・・・・、塔矢先生が韓国棋院に来られているんだが、一緒にその……奥様もいらしゃってだな……』

 

言葉を選ぶように話し出した太善さんの説明を補足したのは永夏だ。

 

『もしかして噂の16歳の女の子と結婚したっていうアレですか?ネット碁でプロ相手にも負け無しで正体不明だったsaiが、実は彼女だったとか騒がれてましたね』

 

永夏の話はボクもわざわざ聞こうとしなくても自然と耳に入ってきた。

50代の先生と16歳の女の子の結婚。

何かの冗談話かとボクは3日間は信じなかった。

 

『そうだ。その女の子が、塔矢先生の対局している中継を棋院の一階のTVで見ていたんだが、彼女のことを知らずに声をかけた相手に驚いて棋院を出て行ってしまったんだ……。しかも1人で……そのままもう4時間以上戻ってこない・・・・』

 

『別にその子が勝手に出て行ったなら、こっちはどうしようもないじゃないですか。韓国棋院の知ったことではないでしょう?大袈裟過ぎだ』

 

『本音と建前が違うことくらい、永夏ももう分かっているだろう?非はなくとも、外聞と責任はあるんだ』

 

『大人は面倒ですねぇ』

 

2人の話を傍らで聞いていて、ボクにもなんとなく要領はつかめた。

つかめても面倒に巻き込まれてしまったという思いは変わらない。

大人の事情ってやつは、本当に嫌だ。

 

『げっ、塔矢先生!検討も終わったのか?』

 

対局が終わり上の階から降りてきたのだろう一団の中に、羽織袴姿のどこからどうみても壮年の日本人の姿が目に入り、太善さんはさらに顔を青ざめて真っ白に近い。

塔矢先生も太善さんの姿に気付いたようで、

 

「太善くん、妻はどこだろうか?ヒカルの姿が見当たらないのだが」

 

『奥様はどこかだそうです』

 

塔矢先生の言葉を通訳され、太善さんはしどろもどろに答える。

こんなて太善さんは初めて見たゾ。

何かのパーティで絡まれそうになったら、これをネタにして逆に遊んでやろう。

 

・・・って、ヒカル?

塔矢先生、今・・・『ヒカル』って言った?

 

『えっと、その……実はですね……』

 

太善さんがどう答えるべきか思案しているその時………。

 

「先生!対局終わった?勝った?」

 

トイレに行っていた進藤が駆け足で帰ってきて、抱きついたのは塔矢先生。

しかも塔矢先生もそれが当たり前で慣れた様子で、進藤を抱きとめる。

「ああ、勝ったよ」

 

「ほんと?やった!」

 

「どこか外へ行っていたのかね?」

 

「うん!偶然友達に会って、碁会所で打ってた。しかも久しぶりに会ったらね、すっごく強くなってソイツ、プロになってたんだよ!」

 

「韓国のプロ棋士?」

 

「そう、こっちが友達の秀英。小学校の夏休みに秀英が日本に来ててよく一緒に碁打ってたんだ。それでこっちが永夏。さっき初めて一局打ったけれど、こっちもすっごく強かった」

 

クルリと進藤が振り返り、ボクと永夏を塔矢先生にそれぞれ指差し紹介してくる。

 

「秀英くんでよかったかな?」

 

「は、はいっ!!」

 

塔矢先生に名前呼ばれたよ、ボク!!

どうしよう!?

 

「その歳で日本のが出来るとは大したものだ。なにやらヒカルが迷惑をかけたようで」

 

「ちっとも迷惑じゃないもん!」

 

塔矢先生にしがみついたまま進藤が口を挟んでも、塔矢先生は気分を害することなく話を続ける、

 

「世話になった。さぁ、行こうか。徐さんが待っていらっしゃる」

 

「秀英じゃぁね。明後日までこっちいるから、もし時間が合えば明日また打と?」

 

バイバイと笑顔で手を振り、塔矢先生とこの場を後にする進藤の後ろ姿を、ボクは呆然と見送ることしかできません。

今日、進藤と久しぶりに再会してから、色々ありすぎて記憶が混乱しているのだけれど・・・・え?

塔矢先生がsaiだったとかいうめちゃめちゃ強い16歳の奥さんを同伴していて、それが進藤?

ボク、どこか間違ってる?

 

『オイ!?秀英!どういうことだ!何で彼女と仲よさげなんだ!知り合いだったのか!?』

 

『何と言葉をかけてやればいいのかわからんが、とりあえず失恋祝いくらいは付き合うぞ?』

 

うるさいよ!

2人とも!!

 

今はボクを1人にさせてくれっ!!

 



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11c 秀英

『女性はとても神秘的で謎めいた存在なんだよ』

 

幼い頃に父はボクにそう言った。

と言っても、クラスの女の子から苛められた直後だったので、父さんのそんな薄っぺらい言葉なんて右から左だ。

同じ歳なのに、自分より身長が高く、力も強いし、手も早い。

ちょっとでも口答えするようものなら、容赦無く言葉の暴力が浴びせられ、最悪に性質が悪いのは、やつらは集団でつるむということだ。

 

そのくせ、女が男を苛めると、男がだらしないと怒られ、男が女を苛めるとか弱い女の子を苛めるなって拳骨が落とされる。

暴力的で口達者でずる賢いやつらのどこがか弱いというんだ?

本当に理不尽だ。

 

 

■□■

 

 

LG杯が終わって行われる後夜祭に、全く出場予定のなかった僕にまで急遽仕事が割り振られた。

仕事内容は、はっきりしている。

一人でも知り合いがいたほうが和むだろうという通訳にかこつけたヒカルのご機嫌取りだ。

当然ボクははじめ断ったのに、それも『プロとしての仕事の一環』で強引に押し切られてしまった。

 

ハァ、とため息つきながら、視線だけ隣をチラリと向ければ、そこに塔矢先生の羽織袴の袖をちょこんと握ってくっついているヒカルの姿。

今回のLG杯に優勝した塔矢先生に関係者だけでなく取材陣も取り囲む。

 

日本が韓国中国に囲碁で追い抜かれたと言われて久しいけれど、塔矢先生だけは別格だ。勝負事は何より強さが一番だ。

その世界にあって、塔矢先生は韓国中国のトップ棋士を抑え、今回のLG杯で見事に優勝した。

 

さすが塔矢先生が『世界で最も神の一手に近い』って言われてるだけの実力を持ってると、決勝を観戦していたボクも改めて思った。

 

 

思ったついでに、一緒に隣で観戦していたヒカルもすごかった……。

ヒカルがまた韓国棋院を飛び出して迷子にならないお目付け役をしていたんだけれど、トッププロ棋士が集まった観戦室で、誰より対局予測を言い当て、鋭い一手をしたのはヒカルだったのだから。

その場にいた棋士は唸るばかりだ。

 

通常、観戦室の様子もブログやチャットなどで中継されるものだが、一般人で中継(観戦室の様子を写した写真など)されて顔が映るのは嫌だと拒むヒカルに、特ダネが目の前にぶらさげられているのに手を出せないもどかしさで、記者の皆さんが悔しそうに歯軋りしていた姿がなんとも可哀想だった。

前回、この観戦室で対局観戦しないで、たった一人一階ロビーの一般対局室観戦していたのも、写真に写りたくないのと取材を受けたくないのが理由だったのだというし。

顔は出さないからとか、お面かぶっていいからとか、モザイク入れるとか、あの手この手でどうにかヒカルをなだめ取材しようと頑張る記者さんの姿はいっそ健気だだったが、結局ヒカルは首を縦に振らなかった。

 

『秀英くん、ちょっと彼女に通訳してもらってもいいかな?』

 

『はい。どうぞ』

 

記者の一人から声をかけられ、通訳を承諾する。

 

『彼女がプロになるつもりがないのは分かったんだけれど、LG杯はアマでも出場出来る。今後アマのままでLG杯に出場するつもりはあるだろうか?』

 

「ヒカル、この先、LG杯出る気ある?」

 

受けた質問の文章をかなり省略し、簡単に要点だけヒカルに伝えた。

どうせアマでもプロでもヒカルが出場するとなれば話題性UPは確実だ。

要点はヒカルが出場する気があるかないか、それだけだ。

 

「ん~どうかな。とくに出場は考えてないけど……でも」

 

「でも?」

 

あれ?

どうせ塔矢先生と離れるのは嫌とか言って即断ると思っていたのに、いやに悩むな。

と思っていたら、ヒカルお得意の爆弾発言が炸裂した。

 

 

「秀英と永夏が出場するなら考えるかも」

そんな爆弾発言をボクが通訳しているときに笑顔で言わないでくれ。

素直に嬉しい言葉だけど、正直、今のボクにそれを通訳する勇気は断じてない。

『秀英くん?彼女、何って?』

『出場する気ないそうです(ボクと永夏が出場しないうちは)』

断固、ボクは嘘は言ってない!!

『そうか~、彼女の実力を考えるとこのままどの大会にも出場しないのは、すごく勿体無いように思えるんだけどね~』

そうですね。ボクもヒカルが出場しないのは勿体無いと思います。

でも、もしさっきヒカルが付け足したことまで正直に通訳したら、この会場が一斉に歓声に沸いて、貴方の書くだろう記事で、明日の囲碁関係のネット掲示板はボクと永夏がいつ出場出来るようになるか予想合戦と、もしヒカル出場が実現したときのことで話題沸騰ですよ。

だってLG杯だよ!?

各国の代表だよ!?

永夏は別として、ボクがLG杯に出場出来るとしたらあと何年かかると思っているんだ?

LG杯に出る前から重量級のプレッシャーじゃないか……。

まして、LG杯に出られないなら出られないで、それはそれで、ボクのせいでヒカルが出場しないんだって非難されそうだもん。

ここはボクの将来のために自己防衛に走らせてもらおう。

「少し、外に出ようか?会場の熱気に疲れたんじゃないかね?」

さりげなくヒカルを気遣う塔矢先生。

成熟した男って、塔矢先生のような人を言うんだろうな~。

ボクもあと何十年かしたら塔矢先生みたいに………はぁ………・

 

「行っておいでよヒカル。ボク飲み物取ってくる!」

ずっと人垣に囲まれて取材受けっぱなしだった塔矢先生も、それなりに疲れているはずだろうから、ここは機転を利かせて二人に少し休むように伝えて、飲み物を取りに走る。

 

サーバーで二人分のウーロン茶をもらい、零さないよう気をつけながら、廊下の椅子にいるだろう二人の姿を探していると、

 

「永夏くんとも打ったんだって?」

 

「永夏すごいよ!私と一歳しか変らないのにあそこまで打てるなんて信じられない!アキラと同じ、もしかしたらそれ以上かも!」

 

興奮気味に語るヒカルに、塔矢先生が苦笑している。

そりゃそうだよな。

いくら囲碁の話でも奥さんが別の男をほめまくっていたら、夫としていい気はしないと思う。

なまじ、ヒカルに悪気があって言っているんじゃないから、性質が悪いよ。

塔矢先生のように包容力と理解がある落ち着いた大人じゃなかったら、喧嘩の一つや二つしてそうだ。

 

でも、ヒカルは塔矢先生の苦笑をボクが考えていたのとは別の意味で捉えていた。

 

「大丈夫だって。心配しないで?ちゃんと手加減して打ったよ?」

 

え?

手加減って何?

永夏相手に、ヒカルは手加減してたの?

 

何かを言おうとした塔矢先生が口を開きかけてボクのことに気付き、複雑な表情をして曖昧に笑いながら再び口を閉ざした。

ヒカルも塔矢先生の視線の方向を追うようにこちらを振り向く。

でも、塔矢先生と違って、ヒカルはボクに気付くと、困り顔で何かを考えるように人差し指を顎に当て上を見上げた。

ややあって

「秀英、さっきの聞いちゃった?」

 

ニコリと。

それはそれは満面の笑顔で、ボクが知ってる女の子の中でもダントツで一番って断言できるくらい可愛いんだけど、なんでその笑顔に冷や汗が背中を伝うんだ?

正しく蛇に睨まれた蛙状態。

 

「ううんっ!!何にも!!何にも聞いてないよ!ボクは何も聞いてないし、誰にも何も言わない!!」

 

答えを導き出したのは本能だろう。

そう言わなければならないのだと、生物としてのボクの本能が訴えたんだ。

 

 

「そっか。やっぱり秀英好きだなー」

 

「えええええ!?」

 

すっ好き!?

何言ってるんだ!?

というか結婚した夫の前で別の男に好きって!?

 

「だからこれからもずっと好きでいさせてね?誰かに言ったりして、秀英を大っキライにさせないでね?」

 

笑顔で言われたんだけれど、内容は正反対だよ、ヒカル……。

 

ヒカルの言葉に硬直して、二人が会場に戻った後も、廊下にぽつんと立ち竦む。

 

 

お父さん、いままでずっとお父さんの話を馬鹿にしてきたこと謝ります。

ホンット!!ごめんなさい!!

お父さんの言う通り、女性は神秘的で謎めいた存在みたいです。

 



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