Double Xross~言葉の刃~ (クレナイ)
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オープニングフェイズ1 カオル Part0

 ゴールデンウィークという長い休みというのは、学生たちにとってはうれしいものだろう。

 若い者たちであれば友だちや恋人と一緒にどこか遠くへ遊びに行くだろう。普段発散しきれないストレスや欲求というものをさまざまな娯楽を用いて発散していく。中には勉強に打ち込む生真面目な学生もいるだろうし、部活に汗を流す学生もいるだろう。

 大人であれば、家族を連れて実家に遊びに行くだろう。年老いた両親は自分たちの孫の顔を見られるだけで幸せなのだ。そのようにして普段はほとんどできないでいる親孝行をしたり、ゆっくりと休んだりするだろう。

 そんな彼女も一般の者たちと同じようにゴールデンウィークはそれなりに満喫したつもりでいた。

 普段に増して厳しくなる朝の鍛錬だけはいただけなかった。

 名家の一人娘として護身術の一つや二つは身につけておかなければならないという言葉で取り組んできたことではあるが、鍛錬の内容からしてもはや護身術の領域を超えているのではないかと以前から思うようになっていた。

 しかし、それのおかげで彼女自身助けられた経験があるし、友達を助けたこともある。

 感謝こそすれど、毛嫌いまではしていなかった。

 今日もその鍛錬を終え、ゴールデンウィーク明けの授業開始初日に遅刻しないために手早く全身をぬらす汗をシャワーを浴びて流し、着替えを済ませて朝食を摂っていた。

 家は古くからの日本式の造りをしているが、さまざまな文明の利器があるなど、新旧が違和感なく融合していた。

 朝食は基本的に和風だ。彼女自身それに不満はないため文句は言わない。

 湯気を立ち上げている白米に味噌汁、焼き魚に青野菜のおひたしと漬物を少々。多すぎず少なすぎないという絶妙のバランスでそれらが用意されていた。

 手を合わせ「いただきます」と今日も料理を用意してくれた母親と目の前にある命に感謝して料理を口に運び始める。

 基本的に朝の食卓は彼女の他に母親と祖父母の四人で摂ることが多い。父親は忙しいということもあり、彼女が鍛錬をしている頃に食事を済ませてしまっていることがほとんどだった。

 一般人に情報を伝えてくれるテレビに電源が点けられており、チャンネルはニュース番組に指定されていた。男女のアナウンサーが政治や経済、社会全般で起きている出来事を伝えている。

 ちょうど視線を向けた時には何やら市議会の議員を務めていた男性が痴漢の容疑で逮捕され、議員職を失ったことが伝えられていた。警察に連行されている件の男性はすっかり憔悴しきった顔を浮かべており、まるで病院のようにも見えた。ひどくショックを受けているのか、一人では立っていられないほどふらついており、両脇から警察に抱えられ、まるで引きずられるように車の中に消えていった。

 いい大人が何をしているのか……。

 彼女、真宮カオルは軽蔑するような視線を消えていった男性に向ける。

 このような大人による痴漢行為は毎日のように日陰の下で行なわれている。それが発覚するのはごくわずかであり、今回のようになるのはよほどその行為をした人間が重要な職についている場合だろう。一般人であれば、偶然名前が新聞の隅に乗せられるかどうかくらいだ。

 今回被害を受けたのはどうやら女子高生らしく、身体を触られた瞬間に痴漢だと判断したようで、彼の手をつかみ大きな声で叫んだと言う。それだけで彼は言い逃れができなくなったのだろう。あとは列車が駅に着くまで法廷にかけられた被告人の心境であるしかなかっただろう。

 

「まったく市議会の議員が何をしているかねえ」

 

 祖母が朝食後のお茶を飲みながら、ボソリと呟いた。

 今日に限らず市議会の議員など公務員による犯罪や事故についてのニュースが多く流れるようになっていた。以前は教職員による援助交際であっただろうか。相手の少女が中学生ということもあり、相当大きく取り上げられていたように思う。

 自分が通っている学校でも、援助交際をしている生徒の話は噂で耳にする。彼女自身はどうでもいいと割り切っているが、その生徒たちの相手がニュースで取り上げられるような大人たちであると思うと不快感を覚える。

 そこでテレビから視線を外し、壁にかけられている時計を見る。すでに待ち合わせの時間が迫っているのに気づき、慌てて食器を手にして台所に片付ける。

 洗面所で自分の歯ブラシを手にして、歯磨きをしながら離れにある自分の部屋に向かい、荷物の入った鞄をつかむ。そのまま逆走して口の中をゆすぎ、整容に乱れがないかを確認する。

 

「あのゴリラとキツネは今日もいるでしょうね」

 

 脳裏に浮かんだ二人の教師のことを、それぞれの顔の特徴に当てはまる動物に例えて言う。顔だけではなく性格というのか、性質まで似ているのだから厄介この上ない。毎日校門前で行なわれている彼らによる厳しい整容検査に引っかかれば面倒くさい整容指導が待っているのでそれだけは未然に防がなければならなかった。特に問題はなく、時間を費やす必要はなかった。歯ブラシをコップに入れて元の場所に戻し、玄関に向かう。

 

「ほら、忘れ物よ」

 

 玄関で待っていた母親が差し出してきたのは、少女らしいピンク色のナプキンに包まれた長方形型の弁当箱だった。慌てていたせいか、はたまたゴールデンウィーク明け初日というせいかうっかり忘れていたようだった。一応財布の中身には困ってはいないが、せっかく母親が作ってくれたものを無碍にするわけにはいかない。

 

「ありがと、それじゃあ行ってきます」

 

 お礼を言って弁当箱を受け取り、元気よく家を出る。

 外に出ると、視界を白く染めるほど眩しい光を地上に降りそそいでいる太陽が目に入った。思わず目を細め、手をその前にかざすことで光を遮るようにする。空は吸い込まれそうに思うほど青く。まるで地上から海が空に移ってしまったのではないかと錯覚してしまうほどだ。その空に浮かぶ海を悠々と泳ぐ魚のように千切れた雲が幾万も存在していた。さらに、空を飛んでいる航空機が今だけは海を航海している船のように見えた。

 そんな風に情緒的に考えていると、どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。その後に続いてパタパタという地面を踏みしめる足音が聞こえる。仰ぎ見ていた顔を下ろし、視線をその音の聞こえてくる方に向けた。

 向こうからやって来た一人の女子生徒。耳が隠れる程度で動きに邪魔にならないようにするためということで短く切りそろえられている自分の髪と比べると、彼女のは生糸のように細く、黒曜石のような艶のある黒い髪は腰まで長く伸ばされており、頭頂部近くで黒い髪に映える白いリボンで括られていた。自分も通っている高等学校の指定制服に身を包み、彼女が第三学年であることを証明する赤いリボンが首元にあった。

 

「おはよう、カオルちゃん。今日もいい天気だね」

 

 ありきたりな朝の挨拶をしてくる。だが、そんな当たり前があることがどれだけ幸せなのか。カオルも「そうね。今日からまた始まる憂鬱な整容検査がなければ、もっとよかったんだけどね」とうんざりとした表情を隠すことなく言う。

 クスクス、と口元を手で隠しながら、控えめに笑う彼女。一つ一つの行動がかわいらしく、それが同性異性にかかわらず見ていて飽きないものだった。

 

「仕方ないよ。あたしたちの学校は規律に厳しいことで有名だから」

「多少のことは許してほしいわ。首元のリボンなんて窮屈で仕方がない」

 

 彼女たちが通っているN高等学校はN市に存在している高等学校の中でも最も規律の厳しいことで有名であり、それが伝統ともなっていた。規則正しい社会人を輩出するという学校目標の基で設立された当初から変わらずに力を入れていた。勉学に重きを置いており、規律に厳しいこともあってか比較的就職率や進学率は高い数値を維持し続けている。また、悪行に走る場合は即刻退学処分と厳しいため、ついていけなくなった生徒は自主退学をすることが多かった。しかし、三年後の始業した後は自分が目標とした進路を確実に進めるということもあり、けっして悪い学校ではないのだ。

 とはいえ、自分が卒業した後は両親が指定している一流大学に進学し、望んでもいない勉学に励み、卒業後は真宮グループ系列の会社に就職し、将来的には社長、そして、政略結婚が待っているだけなのだ。そんな敷かれたレールの上を走るだけの人生のどこに楽しみが見出せるというのか。唯一友人たちと過している時が最も充実していると感じられ、勉学などは二の次に思えていた。

 そんなカオルが登校時のわずかな時間で友人であり、幼馴染である杉山文乃との会話に楽しみを見出していないわけがなかった。

 彼女との間で話題に上がるのは特殊なものではなく、いたって普通の女子高生がするようなものだ。名家のお嬢様とはいえ、家の風貌のように古風な考えはもっていない。新しいものには興味は示すし、憧れたり、かっこいいと思ったりする芸能人や俳優はいる。雑誌もこっそりと購入して、休日友人と遊びに行った時に買いたいと思うものをリストアップしていることもある。彼女とは対極的に古風な考え方をもつ祖父母に見つかれば相談もなしに焼却処分されてしまうため、唯一理解を示してくれている母親だけが味方であった。

 彼女たちが通うN高等学校までは、ここから十キロ以上離れている。そのために登下校は列車を使うことになっていた。駅自体はそれほど離れた場所にあるわけでなく、歩いても十分もかからずに到着した。

 古かった駅は改修工事が進められ、すっかり生まれ変わったようにきれいな姿で利用客たちを出迎えてくれる。カオルたち以外にも下は高校生、上は通勤利用のサラリーマンの姿がある。これもいつも通りで、もう見慣れた光景だ。

 利用客は意外と多い方で、改札口を定期を翳してすんなりと通れても並んでいる列の最後尾に並ばざるを得ない時が多々ある。

 今日はやや前のほうに並ぶことができたが、今日の朝のニュースで流れていた痴漢による逮捕のことを思い出してしまい、周りに立ち並んでいるのが男性だと思うとやや憂鬱になる。

 列車が来るまでの間、人々はそれぞれ違った行動を示し、時間を潰す。ある者は読みかけの本を取り出し、ある者は必死に参考書を読み進め、ある者はイヤホンを耳にしてラジオを聞き始め、ある者は忙しそうに携帯電話で話をしている。

 そんな中カオルは何をするわけでもなく、ただ息苦しさを感じさせる人ごみの中で、列車が来ることを静かに待っていた。

 ――時刻は七時三十分きっかりだ。

 列車が線路を走る音が聞こえる。

 速度を落としながらであるが、人間にとって迫り来る列車というのは砲台のない戦車のようなもの。実物は見たことはないが、歴史系の本を読めば何も砲撃だけで人間を殺したわけでもなく、その地を走り続ける殺戮兵器は万力のような力で人間を押し潰したともあった。

 思わず耳を押えたくなるようなけたたましいブレーキ音をホームに響かせる。ゆっくりと停車し、そして、利用客たちが乗り込むのを待つように静かになる。

 カオルはいつも思う。技術が発展しているこのご時勢なのだから、新幹線以外の列車のドアも児童に開くようにすればいいのにと。コンビニやスーパー、デパートにあるような自動ドアのように。

 列の前に並んでいた者たちが一斉にボタンを押してドアを開こうとする。

 まるでインターホンのような音が鳴るとゴゴゴッ、という重低音を立てながらドアが開いた。

 それから他人の家に上がりこむように人々は中へと乗車していく。

 カオルと文乃もその流れに逆らうことなく乗車するのだった。



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オープニングフェイズ2 悠二 Part0

 ようやくオープニングフェイズが終了します。

 主な主要人物は二人。次回以降から、二人がどのような日常と非日常における戦いをするのか、楽しんでいただけると幸いです。

 それでは、どうぞ。


 ゴールデンウィークの最終日、少年は一人、自分の部屋だった場所で荷造りをしていた。

 荷造りといっても、ほとんどは大型連休に入る前に済ませてしまい、次の生活場所に引越し屋が送ってしまっているので、今残っているのは昨日洗濯をしていてまとめるのに間に合わなかった私服や貴重品くらいだ。

 六畳間のこの部屋とも今日でお別れだ。

 せっかく自分のためにわざわざ設計してもらい、あてがわれていた部屋であるが、もう井戸と戻ってくることはないだろうと思うと一抹の寂しさが生まれる。

 だが、この別れという経験は今までも何度もしてきたことなので、いちいち感傷に浸りきるということはしない。

 出会いがあるから別れがある。

 別れは悲しいものであるが、避けようのない運命なのだと、少年はこれまでの十年と少しの月日の中で学んでいた。

 小さなボストンバックのチャックを閉め終わると同時に閉められていたドアがノックされる。

 ドアの方に振り返り、「どうぞ」と、少年が声をかける。

 それを了承ととったのか、部屋の外にいる女性が「入るわよ」と言ってドアを開けて姿を現した。

 彼女は少年の実の姉である存在。年齢は七つ離れているなど年の差が大きいが、まるで同い年の女性を見ているかのように若々しい。二十代の女性に対してそのような感想を持つというのは果たして適当なのだろうかは分からない。色素が抜けきってしまい、雪のように白くなってしまっている少年の髪とは違い、生命観溢れる艶のある黒髪は腰まで伸ばされており、毛先のところでリボンで結われている。小顔に貼り付けられている一つ一つのパーツはどれも上等なものが選ばれているかのように、異性からすれば羨ましく思うほどだった。成人女性の平均身長に届くかどうかという背丈であるが、それが返って彼女のよさを際立たせているようにも見える。よく透き通って響くソプラノボイスは昔から聞いているものと変わりなく、懐かしさと寂しさを感じさせる。

 

「悠ちゃん、荷造りは……もう終わってるようね」

 

 悠ちゃんとは少年に対する彼女からの呼称である。

 手間取っているなら手伝おうという算段だったのだろうが、そこまで少年も子どもではない。残念そうな表情を浮かべている彼女の様子を見て、肩をすくめながら嘆息する。

 

「姉さん、もう昔の僕じゃないんだから大丈夫だよ」

「ううん、お姉ちゃんからすれば悠ちゃんはいつまで経っても悠ちゃんだよ」

 

 だから、その子ども扱いをやめてほしいのだが……。

 何年経とうとも、自分に対する接し方が変わらない姉にうれしいのやら恥ずかしいのやらうんざりするというのやら……そんな複雑な思いを抱く。

 しかし、自分がこの十八年間を五体満足というわけではないが、無事に生きてこられたのは彼女のおかげであることが大きい。結婚をして、彼女自身も大切な家庭を築いている中で普通ならば厄介者扱いするだろう弟の自分も一緒に養ってくれている。彼女だけではなく、彼女の夫の男性にも感謝しなければいけない。

 

「もう行くよ。時間だしね」

 

 そう言って床に置いていたボストンバックを手に取って、肩から提げるように持つ。

 心配と不安が入り混じった表情を浮かべながら、彼女は手を胸の前で組んでただ無言で少年のことを見つめる。

 

「大丈夫だよ、昔よりも僕、強くなったから」

 

 彼女のことを安心させようと、言葉を選んで言う。

 少年の事情については、彼女はよく知っている。今日この家を出て行かなければならない理由も、その事情が大きく関係していることも昔から続いていることなので理解はしていた。理解はしているが、納得はできなかった。どうして自分の弟が日の光を浴びることができないような非日常の世界で生きなければいけないのか。彼女は姉として、唯一の理解者として大切な弟という存在の彼のことを日常の世界に戻してあげようとこれまで必死に抗ってきた。だが、それは不可能なことだった。彼女自身も心のどこかで、それが不可能なのだと理解はしていた。

 しかし、それを認めてしまえば、彼が二度とこちらの日常の世界に目を向けることがなくなってしまうのではないかという不安があった。

 彼の言葉を聞いても、安心などできるはずがない。自分のことを安心させようと、無理に取り繕っているのだろうと思ってしまう。彼は、弟はとても優しい子だ。そんな優しい弟がどうして同じ人間を傷つけるようなことをしなければならないのか。実際に彼の所属している組織の仕事内容をこの目で見たわけではないが、一度自身の目で見たことのある彼の異常さが何かを傷つけてしまうものなのだと知っていたので、そう考えられたのだ。それを尋ねたところで、彼はけっして答えてはくれないだろう。うんと答えようが、ううんと答えようが自分が取る行動は一つだからだ。

 

「ごめんね、お姉ちゃんも一緒についていってあげられたらよかったんだけど」

 

 申しわけなさそうに、顔を俯かせて言う。

 少年は肩をすくませて、首を横にふった。

 

「何を言ってるのさ。もう、姉さんは結婚してるだよ? 昔のようにはできないよ。それに、してほしくもない。僕のせいで姉さんの人生がこれ以上めちゃくちゃになるだなんて、自分が許せなくなる……」

 

 これまでの中学、高校、大学という姉の進路はけっして安定したものではなかった。中学では一年ごとに転校を余儀なくなったし、高校の場合は毎日数十キロ離れたアパートから通わなければならなくなった。大学においては県そのものを離れることになったために卒業まであと一年とまできていたところで中退してしまった。ここでようやく結婚をして家庭を築いているというのに、それすら投げ出すなど、けっしてさせてはいけないと思っていた。

 

「悠ちゃん……」

 

 彼女は心配するように言う。

 彼は姉を困らせる――放っておくなどできないから。

 姉は彼を困らせる――自分のために人生を犠牲にしてしまうから。

 

「姉さん、本当にこれまではありがとう。もう、僕に構う必要なんてないんだよ」

「そんなこと……」

 

 まるで別れを告げられた女性のようによろよろと少年に近づく。

 部屋と廊下の境界線に立っている少年の背中に縋りつくように身体を寄せる。顔を埋めさせ、涙をこぼす。嗚咽交じりに、ただ「ごめんね」と謝ってくる。

 

「義則義兄さんによろしく言っておいて。姉さん、これからは自分の幸せのために生きてよ。姉さんが幸せなら、俺も幸せだから」

 

 肩に置かれている彼女の手をゆっくりと外しながら言う。彼女の手は意外と容易く外すことができた。だが、少年はそのことに対して驚くなどの反応は見せない。彼女の手が震えているのを最後に感じた。何も言わないのではない、何も言えないのだ。ここで口を開いてしまえば、見送りの言葉ではなく、引きとめようとする言葉が真っ先に出てしまうから。彼女は必死に耐えようとしているのだ、痛む心を、胸を押さえながら、口を一文字にしている。見えないが背中越しに揺れる瞳から向けられる視線が感じられた。

 だから、最後に言うのだ――今日この日まで自分のことを守ってくれた大切な(女性)に。精一杯の感謝と愛情を込めて。

 

「たくさんの愛情をありがとう、姉さん(悠香)。僕は幸せだったよ」

 

 そう言葉を残し、日常と非日常の境界線をまたぎ、日常へ別れを告げた。

 

 

 ――時刻は夕方になっていた。

 この分では、UGNのN市支部に到着するのは夜になってからになるだろうと思う。

 向こうの支部長は特に時間は指定してこなかったので、日付が変わる前に顔を出せばよいだろうと思う。

 少年、黒崎悠二は普通の人間ではない。普通という言葉がどのような定義なのかは分からないが、一般人とはかけ離れている存在であるのは間違いない。

少年にも少女にも見てとれる中性的な顔立ち、陽の光を知らないというような肌、色素が抜けてしまい、雪のように白くなった髪は短めに切りそろえられている。ユラユラとゆれているボストンバックを肩から提げながら、やや俯き加減になっている顔には哀愁が漂っているようにも見え、男女問わず思わず声をかけてしまいそうになるほど保護欲をそそらせる。男子高校生の平均身長にギリギリ達するという背丈のおかげで、道歩く人々の流れに巻き込まれず、マイペースで歩くことができている。

 悠二がN市に向かうために利用する駅のプラットホームに足を踏み入れた時には、すでに空は炎の海のように茜色に染まっていた。すでにそこには大勢の人々がやってきており、大方帰宅ラッシュなのだろうと思う。

 ホーム内のアナウンスが、駅への列車到来を告げる。昔気いたような懐かしの音楽とともに、ホームと線路との境界線上にある黄色い線よりも外側に下がるようにという注意の喚起のアナウンスがされる。

 ホームがここまで混雑しているのは、最寄の高等学校や周辺のオフィスビルの終業時間が大体似通っているからだった。この時間帯に起きる帰宅ラッシュ時にはプラットホームにおいてさまざまな言葉のやり取りが飛び交っているため、ひたすらに雑然としていた。

 このホームにやって来る列車に乗り、N市へと向うことになる。

 濁流のように押し寄せてくる雑然とした声であるが、日本人の元来持ち合わせた本質的なものなのか、列車の到着を待っている人々の列は乱れることなく、まるで軍隊のように整然とされていた。

 再びアナウンスが流れ、地響きを立てるかのようにホームに入ってきた列車がレールを小刻みに震わせた。

 ゆっくりと停車し、ドアが開けられると、吸い込まれるように利用客たちは列車の中へと入っていく。悠二も前を歩く人についていくように列車へと乗車する。

 どの車両も帰宅ラッシュということで利用客がギュウギュウ詰めになっていた。とてもゆっくりと座ることはできないようだ。あまり密集されるのは好きではない。できるだけすきまのあるところを選び、黙っていようと思った。

 開閉ドア付近にちょうどよく立ち位置があったので、そこに滑り込むようにする。同じ利用客たちに背中を向けるようにして、茜色から漆黒の闇色へと変わっていく空の景色を眺めながら列車が走り出すのを感じていた。

 ぐらりと大きく列車が揺れ、ゆっくりとレールの上を走り出す。利用客たちの身体も大きく揺れる。ところどころでうめき声が聞こえた。おそらく誰かの足を踏みつけたり、身体同士がぶつかったりしたのだろう。

 誰もが疲れた表情をしている。会話を楽しんでいる高校生の姿もあるが、笑顔の下には疲れた表情があるのだろう。笑顔という仮面をかぶり、それを隠している。

 今日も一日が終わり、明日という一日がやってくる。すでに終わってしまった今日という一日は明日という一日になれば昨日という一日、過去になる。現実は未来からすれば過去でしかない。ここにいる人々は当たり前のように今日を過ごし、明日を待っているのだろう。

 それが日常においては当たり前のこと。日常に生きる、彼らにとっては当たり前のこと。

 なら、自分はどうなのだろうか。

 非日常という、日常とは陰と陽、光と闇、正と負のような関係にある世界で生きている自分には今、つまりは現実しかない。

 過去などもはやどうでもいいことであり、未来など霧がかっていて、手を伸ばしたところで霞をつかむようなものだ。確かな明日はなく、それは蜃気楼でしかない。いつ自我を失うか分からないという恐怖と隣り合わせで生きている存在である自分にとって、未来というのはひどく恐ろしいものでしかなかった。

 N市には十分もかからずに到着する。悠二と同じように列車を降車する利用客たちの姿何人もいた。改札口を切符を入れて抜けて駅の外へと出た。

 すっかり夜になっており、闇色の空には星が瞬いてあった。見る人によってはその星が無限の可能性のように思えるのかもしれないが、非日常に生きる悠二にはそうは思えなかった。

 きれいだとは思う。だが、同時に儚いと思う。

 不意に駅前に止まっている一台の外国産の高級車のフロントライトが点滅する。

 それはまるで悠二のことを誘っているかのようだった。事実、それは呼び出しを意味する合図であり、悠二は駅前に止まっている車に向かって歩き出した。

 

「あら、遅い到着ね。心配で迎えに来ちゃったわ」

 

 サイドガラスを開けて、そこから顔を見せてきたのは一人の女性だった。

 女性にしては長身の身体を黒のビジネススーツに包み込んでいる。年齢は見た目からして二十代であろうか。腰まで伸ばされた黒髪はまるで日本人形のようにきめ細かな艶のある輝きを放っている。一般的に美人と称されるだろう顔立ち。どこかの社長秘書として働いていてもおかしくはない雰囲気。細目が言葉にあるように遅い到着を非難しているようにも見えた。だが、言葉通り、彼女の本心は心配だったのだろう。

 助手席に乗るように促され、悠二は断る理由もなかったので、そこに乗りこんだ。

 悠二が車に乗り込むと、女性はゆっくりと車を走らせる。

 N市は田舎とも都会ともとれない、なんともちぐはぐとした場所だった。中央地帯にはオフィスビルや大型ショッピングモールやら娯楽施設が立ち並んでいるが、そこから外側に離れていくにつれて田舎の色が濃くなっていき、悠二の新しく生活場所として提供されているアパートは最も外側、他の市と隣り合わせという境界近くにあった。

 

「向こうではそれほど大きな事件はなかったようだけど、身体に異常はないかしら?」

 

 まるで悠二のことを機械か何かと思っているかのような口ぶりだ。

 しかし、彼女のように上に立つものが他のUGN組織員のことを便利な道具か何かと思っている者は少なくない。

 テレビで言うならばリモコンが支部として、組織員たちはそれにあるチャンネルボタンなのである。彼女たち上司がそれを的確に操作することでうまく機能する。チャンネルボタンに不備があれば、必要な情報を得るための番組を見ることができない。そうでは困るということで、彼女はそのように尋ねてきたのだ。

 確かにN市と隣り合っているL市においては、UGNエージェントとしての大きな仕事はなかった。時々出現する覚醒したばかりで暴走している“オーヴァード”の鎮圧と保護が主な仕事だった。ほとんどが能力をまともに扱えておらず、不良が銃火器を扱っているようなものだった。とはいえ、何が起きるか分からないという点においては非常に危険な仕事でもあった。初めて“オーヴァード”として目覚め、UGNエージェントとして活動するようになってからもう二桁を超えようとしているなど、その手に関してはベテランと名乗っても問題はなかった。

 

「あなたには上にお姉さんがいたわよね。これまでも、あなたの異動に合わせて彼女も学校を転々としているようだけれど、今回は一緒ではないの?」

 

 当然のようにこれから新しく異動してくる組織員のことについては知っているようだ。当然向こうからこちらに資料は送られているだろうが、家族についてはあまり詳しくは描かれていないはずだ。

 そう考えると、彼女独自に調べ上げたと考えるのが妥当だろうか。

 何のためにそうしたのかは分からないが、大方組織員の弱みのようなものを握っておき、それをちらつかせて反抗できないようにしようとでも考えているのかもしれない。

 上に立つものがよくやるような手法だと思いながらも、窓から外の様子を眺めていた。

 

「姉については、関係ないですよね」

「ええ、確かに」

 

 何が面白くて、口元に笑みを浮かべているのか、悠二には分からない。

 会ってまだ数分の上司の人となりなどを理解できるほど、悠二は観察眼に優れてはいないし、その手の能力はもっていない。

 

「でも、不思議よね。弟のために自分のことを投げ出せるだなんて、普通はできないことよ?」

 

 こちらを見ず、まっすぐと前を向きながら彼女が言う。

 会ったこともない姉のことを分かったように言われるのは尺に障るが、正直なところ彼女の言う通りなのだ。自惚れているわけではないが、自分のために姉はこれまで自分の人生を棒に振ってきた。学びたいことも、やりたいことももっとたくさんあっただろうに。彼女の人当たりのよい性格ならば、もっと友人がいてもよかったのに。それらを犠牲にしてまで、自分について来てくれた。

 心配だから、ただそれだけの理由で。

 だから、家庭を築いた今、これ以上彼女の幸せを奪うわけにはいかなかった。自分のせいで彼女が不幸になるのは、許せなかった。これ以上そばにいられると、気がおかしくなりそうだった。

 

「どうでもいいことですよね」

「ええ、そうね」

 

 これ以上姉のことを話題にされるのは耐えられなかった。自分から切り捨てるように言えば、彼女の方もこれ以上は話題には上げないだろうと思った。

 想定内ではあったが、にべもなく言われ、内心ムッとした感情を覚えた。

 

「あなたには明日から高校生活を送ってもらうわ」

「潜入、ですか?」

 

 こう見えても、それなりに優秀な学業を修めてきたつもりだ。ある程度のランクの学校であればついていけなくもない。このような組織だった活動をするにはやはり最低限の学力というものは必要だった。そうでなければ使い捨てられるものか雑用のようなものばかりが押し付けられる。

 これまでも何度もそういった理由で小学校から潜入活動を行なってきた。この手で殺めた者だっている。姉は傷つけたくらいとしか認識していないかもしれないが、もうすでにこの手は血で汚れてしまっているのだ。そんな手で彼女の家庭を汚したくない。取り返しのつかないことになる前に、離れたかった。今回の異動には、正直なところ感謝していた。

 だから、断ることはしない。やるべきことをやるだけだ。

 非日常的な存在として、日常に溶け込む。それは非常に息苦しいことであるが、これが自分の役割なのだと割り切っていた。

 

「ええ。どうやらその学校に“オーヴァード”に覚醒した生徒がいるらしいの。表立った動きは見せていないから、一体誰なのかまでは把握できていないの」

「だから、僕に“オーヴァード”である生徒を特定、保護させようと?」

 

 ええ、と余計な言葉を抜きにして、彼女は肯定するように言う。

 

「必要な手続きと学校指定の制服の準備はこちらでさせてもらったわ。だから、何も心配する必要なんてない。あなたはやるべき任務を全うしてくれれば、それでいい」

 

 もちろんだ。言われるまでもない。

 悠二は口にすることはないにせよ、心中で呟いた。

 非日常の塊である高級車が、異物のごとく日常の世界を走る音だけが、悠二の耳に聞こえていた。



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ミドルフェイズ1 悠二 Part1

 悠二が生活場所として用意されたのは、非常に中央と支部から離れた場所にある古ぼけたアパートだった。

 昨日支部長の女性の車で送られてきてからはすぐに眠りに着いた。

 必要なものや向こうからこちらに送ったものはすでに輸送されており、茶色のダンボールだけが入室した時に悠二のことを出迎えてくれた。

 これまで姉と一緒に住んでいたときであれば、彼女が「お帰り。ご飯できてるよ」と笑顔で出迎えてくれていたのに……。

そう思ったところで、悠二は慌しく左右にかぶりを振って、その考えを掻き消した。

 何を考えているんだ、僕は……。

 その考えは、もう断ち切ったはずだった。温かな居場所など、もはやまともな人間ではない“オーヴァード”の自分にはありえないはずなのに。心のどこかでは、姉から与えられる温もりというのを求めてしまっており、それがなくなってしまったということで寂しく思っているとでもいうのか。これではまるで迷子の子どもではないか。

 悠二はそんな自分を心の中で嘲笑する。

 “オーヴァード”である自分に、居場所など必要ない。ただ与えられた任務を全うするだけ。それは人間ではなく機械のような生き方。

 だが、それをこの力に目覚め、UGNの構成員となった時からしてきた。

 もはやこの生き方以外は無理だ。だから、姉と一緒に生活していた時、うれしさもあったが辛さも同時にあった。

 自分の居場所は心温まる笑顔のあふれた日常ではなく、血汚れた薄汚い非日常なのだと。

 だから、この異動を受けた時には正直ホッとした。

 これ以上彼女の人生を狂わせずに済むと思ったからだ。

 彼女には、自分がつかむなど夢物語である幸せをつかむ権利がある、義務がある。そして、彼女のそれを奪ってしまう権利も何も、自分にはない。

 悠二はダンボールを漁って、学校に着ていく制服を取り出す。資料に寸法を測るのに必要な情報が記載されているため、違和感なく制服に着替えることができた。

 昨日以前に取り付けられていたのか、この古臭いアパートにはないはずの、これまた小型のテレビが設置されていた。居間の中央にちょこんと置かれた丸テーブルの上にはリモコンも置かれており、おそらく娯楽の一種として用意されたのだろうと思われる。

 情報収集において、テレビニュースというものはほとんどあてにならない。それぞれのテレビ局が独自に情報を集め、それを流しているだろうが、その中にはもっともらしく誇張表現させた情報もあり、それを正しいと視聴者に思わせてしまう。少しでも納得してしまえば、それが正しいと思ってしまう、否、思い込んでしまう。それは一種の洗脳だ。もちろん流す側にはそんなつもりはなく、善意でしていることなのであろうが、情報がものを言う構成員のような仕事にとって余計なものが含まれてしまうのは齟齬を招く恐れがあるかもしれないのだ。

 とはいえ、それは仕事におけることで、普段の生活においては不必要とは言えない。潜入先が高等学校ということになれば、周りに溢れている話題に敏感である生徒たちにある程度あわせる必要もあるため、最低限の情報は確保しておかなければいけなかった。

 とりあえず、テレビを点けてみる。

 適当にボタンを操作していくが、やはりニュース番組に落ち着いてしまう。それを流した状態にしておき、悠二はまた別のダンボールのフタを開ける。その中には逸れ一杯の携帯用栄養バランス食品が詰め込まれていた。四種類の味が楽しめる。

 適当につかんだ一箱を開けて、ブロックの形をしたそれを口にほうばる。それを咀嚼しながら、畳張りの床に座り込み、テーブルに肘を立てながらテレビに視線を向ける。

 ちょうど流れていたのは、市議会の議員が何やら痴漢行為で逮捕されたというものだった。逮捕された議員の名前は【大久保大介】。妻子のいる一議員でしかない男性。それ以上の目立った情報はないようだ。正直興味もないニュースだった。

 番組は天気予報に移った。悠二もすでに二袋目を完食するところだった。

 テレビの中では若い男女の気象予報士が丁寧な解説で予報を伝えている。どうやら今日から一週間、天気は晴れであるという。

 食事を終え、ゴミとなった入れ物などをゴミ箱に投げ入れる。

 必要な教科書や筆記用具を通学鞄に入れ、それをつかみ上げてから玄関へと向かう。

 靴を履いて、外に出る。

 盗まれるものは何もないが、一応鍵だけはかけておく。

 悠二の部屋は二階部分にあるため、階段を使って一階へと下りる。

 通路を歩いている際、同じアパートを利用している人とは会わなかった。もしかするとここに住んでいるのは自分だけなのではないだろうか、とあまりにも静か過ぎる辺りの様子に思わずそう考えてしまった。とはいえ、余計な騒音や気遣いに悩まなくても済むという点においては運がよかったのかもしれない。

 アパートから最寄の駅までは歩いて数分を有した。

 家を出た時間と照らし合わせると、遅刻する心配はないようだ。

 すでに用意されていたものの中には、駅を利用する定期券もあった。ご丁寧にも定期入れの中に納められていた。それをポケットの中から取り出し、駅員に見せて改札を抜ける。天気予報の通り、空は晴れており、太陽が顔を出している。時折頬を撫でるように吹く風の感触があった。

 再び風が吹く。悠二はおもむろに手を伸ばし、風をつかもうとする。

 だが、虚空を掠めるだけで、風は嘲笑うかのように、悠二の手をすり抜けてしまう。風には形もなければ、感触もない。色もなければ匂いもない。存在を認識しようとしても、形がないものを認識するなどということはできない。

 風は形がない。

 それでは存在を認識されない。なら、風は寂しいのだろうか。

 不意に自分の頬をつねってみる――痛い。

 自分には形がある、感触がある。色もあれば匂いもある。それは存在が認識出来ているということ。

 形のない風と比べると、形のある自分は認識されるので寂しくはない。

 しかし、この場所で自分のことを認識している人はどれだけいるのだろうか。もしかすると、誰一人として自分のことを認識していないかもしれない。

 だとすれば、それは風と同じ。

 だとすれば、自分は寂しいのだろうか。

 ここで始めて声をかけられる。男性だった。内容は邪魔だから早く歩け、というものだった。

 どうやら改札を抜けたところで何をするわけでもなく案山子のように棒立ちになっていたようだ。後ろから来た利用客にとってはじゃま以外の何物でもなかったのだろう。

 しかし、悠二は少しホッとしていた。それは誰かに認識されたから。

 日常を切り捨て、非日常に生きることを決めたが、やはり一人というのは寂しいものなのだろうか。

 誰かとのつながりを、無意識的に求めてしまうのだろうか。

 それでは、まだどこかで日常を求めているというのだろうか。

 共通の目的もなく、ただ列車の停車するホームへと他の利用客とともに向う。

 取り囲むようにして歩く利用客たちからの視線を感じる。一様に向けられている先にはブラブラとしてある制服の腕の部分。だらしなくしているのではなく、元々通すべきものがそこにないだけのこと。

 そう、悠二の左腕はなく、右腕だけの隻腕だったのだ。



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ミドルフェイズ2 カオル Part1

 友人で幼馴染である文乃とともに最寄の駅から電車に乗る。

 学校などの教育施設は身を寄せ合うようにして、N市の中央部に存在している。

 地価の高い中央部にわざわざ満書やアパートといった生活場所を確保するものは一握りのお金持ちだけで、それ以外の中級、下級層の者はそこから離れた場所に住宅を構えるようにしていた。

 カオルの家はその中でも例外的な存在で、真宮グループという大企業を経営している昔からの名家であるから中央部に家を設けることも可能であったが、代々受け継がれてきた屋敷を手放すことはできないだろうと、多少移動に不便があってもそれは目を瞑れるということでちょうどN市の真ん中にある屋敷に住んでいた。

 当然のように中央部にある学校に向かうにはバスか駅を利用しなければならない。使用人の車を利用するという手もあるが、やはり友人との付き合いを大切にしたいというカオル自身の意向から、そのようにされていた。

 改札を抜けて、停車している列車に乗り込む。

 カオルと同じように中央部に向う学生やサラリーマンの姿が見られる。

 いつものように帰宅ラッシュならぬ通勤ラッシュ。寒い冬の季節ではないにも関わらず、強制的におしくらまんじゅうのように身体を密着するはめになる。

 列車に多く乗り込んでいるのは学生よりもサラリーマンたちの方が多い。女性もいれば男性もいる。男性の方が割合的には多いだろう。

 年齢もさまざまだ。自分の父親と同じように四十代の人もいれば、それよりも若い、又は老けている人もいる。

 窮屈そうに眉をしかめている人もいれば、密着しているのが若い女性だということで鼻の下を伸ばしている人もいる。

 今日の朝のニュースが否が応でも思い出される。

 市議会の議員ともあろう男性が痴漢行為で逮捕――どんなに善良そうに見えても、心までは見抜くことはできない。

 第一印象は見た目からとはよく言われるが、外と内が必ずしもバランスが取れているとは限らない。逮捕された元議員の男性は憔悴しきった顔をしていたが、写真を見る限り元は整った顔立ちの男性だった。

 

「ねえ、向こうのドアのところに行かない?」

「えっ?」

 

 息苦しそうにしていると、隣に立っていた文乃が声をかけてきた。

 彼女は指をその向こうのドアを指しながら言う。

 確かに、今は自分も通っている学校の指定された制服を着た少年しかおらず、ゆっくりする場所としては最適かもしれないと思った。

 小さい箱に無理やり詰め込んだような状態になっている列車内にある肉壁を掻き分けるようにして、ようやくその場所に辿り着く。

 

「プハッ。やっと出られた……」

 

 大きく止めていた息を吐き出し、新鮮とは言えない新しい空気を吸い込む。

 通り抜けてきた肉壁の中は息もできないような、むさ苦しいものだった。

 汗と体臭が混じり合った、蒸せるような臭い。

 普段ならば幾分か空いているために、席に座ってゆったりと学校近くの駅に向かっているの だが、今日に限って乗り込んだ車両に多くの人が同乗した。普段別車両に乗る学生たちはこの地獄のような体験をしているのかと思うと同情を禁じえない。

 ここにきて、ようやく目の前に同校の生徒がいることに気づく。

 同じ第三学年であることを証明する赤色のネクタイ。左胸ポケットのあたりにつけられているネームバッチには【黒崎悠二】という名前が刻まれている。首元には校章と学年章のバッチが付けられているが、彼のような同級生がいただろうか。

 肩にかからない程度に短く切りそろえられた髪は、一本一本が糸のように細く、色素が抜け切ってしまっているかのように雪のごとく白い。少年にも少女にも捉えられそうなほど整った中性的な顔立ち。高校指定の男子用制服と、男子高校生の平均身長程度には背丈があるためか、かろうじて少年であると認識できる。陽の光を知らないような、女性ならうらやむ白い肌は車窓から差し込む太陽の光を眩しく反射している。

 第一印象は大人しそうな少年だ、というものだった。

 しかし、すぐに違和感のようなものを感じた。

 彼との間にある距離はわずか数十センチほど。手を伸ばせた届く距離にある。

 しかし、どうしたわけか、彼との間に見えない距離、隔たりがあるように感じたのだ。彼自身が意図的に明確な線引きをしているようにも思える。

 まるで彼と自分のいる世界が異なっているかのようだ。それは例えて言うならば、日常と非日常であろうか。

 カオルの視線は全体からある一点へと視線を釘付けにされる。そこにはだらしないとも取れるようにある制服の腕部の部分。袖口から見えるはずの手首から先がない。少年が自らの欠陥を隠そうともしていないため、その理由が分かってしまった。

 ――左腕がない。

 どうやら目の前にいる同級生と思わしき少年は左腕に欠陥があるようだった。それが生まれつきなのか、そうでないのかは分からない。無意識のうちにであるが、そのダラリと垂れている左腕部分を凝視してしまう。

 憐れむようにはしない。それは逆に彼のような人間にとっては侮辱と同義であるからだ。例え普通の人間とは違っていても、ハンディキャップを背負いながら懸命に生きている。憐れむというのは、懸命に生きている彼らを見下すようなことだった。

 

「僕に、何か?」

 

 声変わりをしているようであるが、男性にしてはやや高い声だった。

 やや長く彼のない左腕を凝視していたためか、不審がられたのだろう。

 

「何でもないわ。気に触ったのなら謝るわ」

 

 確かに自分の行為は彼からすればあまり気分のよくないものだっただろう。申しわけなさそうに言うと、彼は気にしていないというように首を横に振る。

 言葉のやり取りはそれだけだ。

 少年は相変わらず視線を車窓の外へと向け、目まぐるしく変わる光景に見言っているようだった。

 カオルは一緒に抜け出した文乃とともに空いている場所に立って、身体を休ませる。

 ドアのすぐ隣に立っていたためか、車窓から差し込む太陽の光が眩しかった。

 

 

 カオルが通っているN高等学校は駅の近くにある。

 三階建てのどこにでもあるような基本的な構造をしている。上の三階が第一学年、下の一階が第三学年の教室棟となっており、それぞれの階にある渡り廊下でつながっている反対側は特別教室棟となっている。

 特別教室棟の一階南側には大小二つの体育館へと続く渡り廊下があり、そこには各運動部の部室があった。体育館とは反対側に男女別の更衣室が設けられている室内プールがあり、授業以外では主に水泳部が利用している。

 教室棟の東側にはグラウンド、更に向こうには野球部用のグラウンドとテニスコートがあった。

 外装は建設されたばかりと言わんばかりに、太陽の光を反射している白に塗装されている。コンクリートとレンガ造りの外壁に囲まれており、ほとんど侵入は難しい。唯一解放されている校門の前には男女の教師が立っており、厳しい整容検査を実施していた。

 

「うわ、ゴリラとキツネがいる……」

 

 カオルはその様子を見て、うんざりとするような表情を浮かべ、げんなりと言う。

 

「大丈夫だよ、きっと」

 

 明るくそう言った文乃に背中を押されながら、カオルは校門へと向う。

 彼女たちがやって来るのに、女子生徒担当の女性教師が気づく。痩せ型で、朝からパリッ、とノリの利いた女性用スーツを着ている中年の女性だ。長い黒髪を頭頂部あたりでまとめている。鼈甲のフレームの眼鏡をかけた面長の顔のつくり、ややつり上がったように見える目が生徒たちの間で“きつね”と呼ばれる由縁だった。

 

「そこの二人、動かないで立っていなさい」

 

 各二列に整列させられ、整容について厳しい視点から検査が入る。わずか一センチのスカート丈の誤差であっても注意がされ、あからさまに違反している場合には厳重注意と反省文が待っていた。いくら注意を払っていても、次々と注意項目が告げられていく。それをどう修正するのかまで逐一説明されるのを、カオルは相変わらずげんなりとした様子で適当に聞き流していた。

 五分ほどでようやく解放される。これでも早い方で、長いと十分以上かかる生徒もいる。さすがにそれだけの時間を、特定の生徒だけにかけていられないので、学年と名前を名簿に記録し、昼休みや放課後に呼び出すようにしていた。女子生徒なら延々と続く長い説教が、男子生徒ならねちねちとしたものではなく、怒声によるものだろう。

 男子生徒の整容検査をしている男性教師。筋骨隆々と今となっては生きた化石としか言えない、ジャージ姿に竹刀を持つという一昔の体育会系教師であった。しかし、担当強化は家庭科というように見た目に反して細かな作業が得意だったりもする。

 校門を通った先には一直線に伸びている道がある。

 それを両側から挟むように緑の芝生が敷き詰められた庭園が緑のアーチを形成するかのようにある。緑の葉を茂らせた木々が左右対称的に植えられており、太陽の光を遮り日陰を形成している。昼食を摂るのに利用される東屋や昼休みに女子生徒がバレーボールで戯れるのに使われる広場などがあり、そのまま真っ直ぐ歩けば向こうに見えてくるのは生徒玄関であった。

 校舎の生徒用玄関に登校してきた生徒たちがまるで蟻が巣に戻るかのように入っていく。

 ロッカー式の靴棚が学年ごとに置かれており、カオルは自分の第三学年の自分のクラスと出席番号の書かれているロッカーから上履きを取り出し、履いてきた靴と交換する。

 第三学年であるカオルは文乃とともに一階にある自分たちの教室へと向うことにする。二人の教室はそれぞれ別であるため、途中で別れることになる。カオルは五組に、綾乃は三組へと向う。

 教室に入ると、社交的な性格をしている彼女には男女ともに多くの友人がいる。すでに登校していたクラスメイトたちが教室に入ってきたカオルに気づいて「おはよう」と声をかけてきた。

 そんなクラスメイトたちに対して、彼女も「おはよう」と笑顔で言う。

 自分の席に座り、机の横に鞄を引っ掛ける。

 そうしていると、クラスの中でも中のよい女友達が話をしに近づいてきた。

 

「休み明けだっていうのに、整容検査、面倒くさかったよね」

 

 相当参っているのか、両手を挙げて大げさに言ってくる。

 確かにいつものことであるし、この学校の伝統、校訓でもある。

 自由すぎるというのは無責任であるが、窮屈すぎるというにも息苦しくて参ってしまう。

 

「あのきつね、あたしのこと目の敵にしてるのよ?」

 

 なにやら問題があったようで、友人の一人が苛立ちを隠そうともせず、感情的に話し始める。黒髪にショートボブの髪型というように、清潔さと真面目さがマッチしている印象を与える女子生徒であるが、言葉遣いは正反対のやや乱暴なものだった。

 彼女もまた逆にあの女性教師に対して根に持っている感がある。

 今の髪の色は黒であるが、以前の彼女は明る目の茶色だった。けっして色気を出すつもりで染めたのではなく、両親の遺伝のためかもともと地毛でその色をしていた。だが、校則には“髪の色は黒色”と記載されているため、中学校までは許されていた彼女の髪が最初の整容検査で女性教師の目に留まり、黒く染めるように厳重注意がされたのだ。しぶしぶその指示に従ったが、その時の態度が悪かったせいか、あまりよい印象をもたれていないようだった。

 

「今日なんて持ってきていた雑誌を没収されたし。他のやつだって持って来てるのに、何であたしだけ!?」

 

 相当目を付けられているな、とカオルは同情する。

 

「ああ、またあのねちねち攻撃を受けることになるのか」

「まあ、何て言うの? ご愁傷様?」

「カオルはあれを受けたことがないから言えるのよ」

「本当。あれは拷問よ、精神的なね」

 

 彼女たちが言うように、カオルは注意されるものの呼び出されたことは一度もない。

 何人もの生徒が口をそろえて拷問だなどと誇張して表現するほどのものなのだ、いくらカオルだからといって精神的に無事では済むまい。

 そうならないようにするために、普段から最低限整容には気を配るのだ。

 まあ、重箱の隅を突くような注意はけっしてなくなりはしないだろうが。

 

「そうだ、ねえ知ってる?」

 

 話題を変えようと思案顔を浮かべていた女子生徒が、何かを思いついたようにハッとして口を開いた。

 楽しそうにしている様子から、何か興味を引きそうな話題なのだろうか。

 カオリをはじめとして、集まっていた女子生徒たちの視線が集中する。

 

「うちの学校に、転校生が来るんだって」

「へえ、こんな時期に転校生、ね」

 

 確かにゴールデンウィーク明けという、新学期が始まってからという中途半端な時期に転校してくるのには疑問を抱く。

 何かしらの事情があってこの時期にずれ込んでしまったり、急遽そうなってしまったりしたのかもしれないなど、色々な理由が考えられる。

 第三学年という受験生となってから大きく環境が変わるというのは、一体どういう心境なのだろうか。大学や専門学校に進学したり、一般企業や公務員に就職したりと、生徒たちはそれぞれの進路を決めなくてはならない時期である。カオル自身、一流大学に進学するということが、跡継ぎとなることを告げられた時から決まっていた。上に兄か姉がいればまだ選択肢はあったかもしれない。自分の将来を決めるという悩みをもつというのは、一体どんな心境なのだろうか。これまで用意されたレールの上を歩くだけだったカオルにはそれが分からず、むしろ憧れてもいた。

 思考内容がすっかりずれてしまっていたことに、カオルははっと気づく。

 考えても仕方がない。これまでも、そして、これからも何も変わらないのだから。

 盛り上がる話題はやはりその生徒がどんな人物なのか、というものだった。

 

「男子? それとも女子?」

「噂によれば男子らしいよ」

「どんな感じ?」

「うー……ん。見たわけじゃないから、分からないなあ」

「なら、どのクラスに転入するのかは、分かる?」

「それについても、何とも言えないかな」

 

 あまり詳しい情報は入手できていないようだ。

 そもそも、その噂をどこで入手したのか。

 まあ、転校生についての情報など所詮その程度だろう。詳しく知りたいのなら、職員室の学年教師たちの生徒名簿を漁るなどをしなければ無理だろう。見つかってしまったら厳重注意だけでは済まされないだろうが。

 このクラスに転入しなくても、自然と転校生ということでどのクラスの生徒からも一目は置かれるだろう。その転校生がよほどの不良か何かではない限りではある、が。

 ――しばらくすると担任教師が入ってきて、朝のSHRが始められる。

 教卓の後ろに立った男性教師が出席簿をその上に置いてから一度小さくゴホンッ、とわざとらしく咳き込む。

 何か重要なことを言い出そうとして、気持ちを落ち着かせようとしているように見える。

 さきほど転校生の話をしていたのでもしかしたら、と思ってしまう。

 それはカオルだけではなく、話をしていた女子生徒たちもらしく、意味ありげな笑みのある表情をしている。

 

「ええ、今日はみなさんに大事なお知らせがあります」

 

 よく聞く前振りをする。

 

「今日からクラスメイトが一人増えます。入ってきなさい」

 

 担任の言葉に答えるようにゆっくりとスライド式のドアがガラガラッ、と開いていく。

 そして、ゆっくりとした歩調で指定された男子用の制服に身を包んだ転校生の少年が中に入ってきた。

 入ってきた少年の容姿はこうだ――肩にかからない程度に短く切りそろえられた髪は、一本一本が糸のように細く、色素が抜け切ってしまっているかのように雪のごとく白い。少年にも少女にも捉えられそうなほど整った中性的な顔立ち。高校指定の男子用制服と、男子高校生の平均身長程度には背丈があるためか、かろうじて少年であると認識できる。陽の光を知らないような、女性ならうらやむ白い肌は窓から差し込む太陽の光を眩しく反射している。

 第一印象は大人しそうな少年――カオルはその転校生が今朝方に列車の中で同乗していた少年であると気づいた。

 名前は確か――

 

「――【黒崎悠二】です。小さい頃に事故で左腕を失くしていますが、私生活には支障がないので気にしないでください。趣味は読書。こんな時期に転校してきましたが、みなさんとは仲良くしていきたいです。よろしく、お願いします」

 

 そう黒崎悠二は、自己紹介の中で自分が隻腕であることを説明しつつ、ありきたりな挨拶をしてお辞儀をした。

 カオル以外の生徒たちの視線は黒崎悠二という全体からある一点へと視線を釘付けにされる。そこにはだらしないとも取れるようにある制服の腕部の部分。袖口から見えるはずの手首から先がない。悠二が自らの欠陥を隠そうともしていないため、その理由が分かってしまった。

 ――左腕がない。

 誰もが同時に思ったことだった。悠二は左腕に欠陥があるのだ。それが生まれつきなのか、そうでないのかは分からない。無意識のうちにであるが、そのダラリと垂れている左腕部分を凝視してしまう。

 しかし、悠二自身は慣れているのか、気にする様子を見せない。

 

「それでは黒崎くんの席は、そこの空いている席ということで」

 

 担任に指定された場所に黙って歩いていき、席につく。

 

「それでは、みなさん。黒崎くんとは仲良くするようにしてください」

 

 それから簡単な連絡事項が伝えられ、一時限目が始まるチャイムがなったということで、担任は教室を去っていった。

 

 

 真宮カオルから見る転校生である黒崎悠二は極々どこにでもいそうな平凡な男子高校生であった。人目を引き付けるような容姿をしているが、それだけだ。大人しそうな雰囲気は性格にも現れていた。

 一時限目が終わってからの数分間の休み時間の際、あっという間にクラスメイトたちに取り囲まれ、質問攻めにされた。

 しかし、表情にではせずとも内心では鬱陶しい、いい加減にしてほしいと思う状況でありながら、悠二は一つ一つの質問に対して律儀に応答していた。それで気分をよくしたクラスメイトたちはさらに質問を重ねたり、踏み込んだ質問をしたりするなどしていた。時折苦虫を噛んだような表情を浮かべるのが見えたが、それは一瞬だった。おそらくその表情に気づいたのはカオルくらいだろう。

 授業においても、県下でも学力レベルの高いN高等学校であるが、悠二は遅れることなくしっかりとついてきていた。早くクラスメイトと溶け込もうとして頑張ろうとしているようにも見える。指名された時には丁寧な解説を入れながら答え、隣のクラスメイトが質問に答えられないでいるとさりげなくフォローしているなどの姿が見られた。半日が過ぎただけでも、クラスにおいて悠二の好感度は高くなっていた。

 昼休みとなり、昼食をとるということで生徒たちはお互いに机をくっつけあったり、広い場所に移動したりするなどを始める。

 転校生の悠二もすっかり中のよくなっていた男子生徒たちに声をかけられている。

 

「なあ、黒崎、一緒に昼飯食べないか?」

「うれしんだけど、ちょっと用事を思い出したんだ。先に食べててくれる?」

「おう、早くしろよ」

 

 そう言うと、そそくさと教室を後にする。

 そんな彼の行動を、カオルは見えなくなるまで目で追っていた。

 朝の列車内での違和感もあってか、このように半日ずっと彼に対して視線を向け続けていた。勉強自体は優秀な成績を修めているために後れを取ることはない。予習すれば理解できないことはあまりない。この時ばかりは優秀な自分の頭脳に感謝していた。

 とはいえ高々一人の生徒にここまで意識を向けるというのはこれまでの人生では一度もありえなかった。それに、普段の自分なら絶対にしないことである、とカオルは無視することのできない違和感に若干の苛立ちを覚えていた。

 授業が終わり、昼休みになっても視線はどうしても悠二に向けられてしまう。それにどうしてかその用事というものが気になり、カオルは開こうとしていた弁当箱のフタを戻してしまう。ナプキンで包み直し、鞄の中に戻して席から立ち上がる。

 

「どうしたの、カオル?」

「早く食べようよ」

 

 疑問顔を浮かべながら、自分たちの弁当を開いて料理に箸をつけている友人たちが声をかけてくる。

 

「ごめん、ちょっと野暮用思い出したわ」

 

 適当に言い訳を繕って、席を離れようとする。

 不審がられるだろうかと思ったが、特に彼女たちは気にする様子もないようだ。

 とはいえ、されたらされたで、強引にでも教室を出て行こうと考えていた。

 友人たちに早く戻ってくるように、と言われながら、カオルは先に出て行った悠二を追かける形で教室を出て行った。

 出てからすぐに廊下を歩いて行く悠二の姿が見えた。

 どこに行くのだろうかと、適当な距離を保ちながらこっそりと後を追いかけていく。

 生徒玄関の方に曲がるかと思いきや、逆の右側へと角を曲がってしまった。

 反対側にある特別教室棟の南側には体育館や室内プールがあるが、こちらの教室棟の南側には現在の校舎が新しく建てられるまで昔使われていた、いわゆる旧校舎というものがあった。

 

「旧校舎? 何でそんなところに?」

 

 現在旧校舎は吹奏楽なら音楽室、料理研究部なら家庭科室や被服室、科学部なら理科系の特別教室など、特別教室棟にある教室を利用しているが、それが割り当てられていない文化系の部活が使用していた活動場所として利用していた。また、校舎の図書室にはない古い文献や卒業アルバム、学校誌、郷土史などが収められている図書室もある。しかし、それほど文化系の部活が多いわけでないため、旧校舎には空き室が多かったり、ほぼ物置として利用されていたりしていた。

 中に入ると放課後以外はほとんど利用されていないため、明かりが点けられていないからか薄暗く、廊下にはあまり掃除が行き届いていないためかほこりっぽかった。この旧校舎も面積こそ広くはないが、三階建てで、立ち入り禁止であるが屋上もあった。

 階段を一定の歩調で上がっていく。

 カオルも音を立てないようにこっそりと後を追う。

 普段はこそこそするよりも堂々としていることが多く、それが生に合っているため自然とストレスがたまる。

 ――どうしてこんなことを……。

 今になって自分の不審な行動に疑問を抱き、首を傾げたくなる。

 しかし、気になってしまうのは否定できない。多分、このモヤモヤとした感じの正体を突き止めなければ、ずっと付き纏うだろうというのは分かっていた。

 無理やりに自分を納得させながら、カオルは上へと続いている階段を上り、悠二のことを追いかける。無言のまま階段を上り続ける悠二であったが、三階についたところで一度後ろを振り返った。曲がり角でカオルはそれに気づき、ぎりぎりのところで引っ込んだので見つかることはなかった。しばらくこちらに視線をジィーッ、と向けていたが、何もないと思ったのか踵を返して、三階の廊下を歩いていき、カオルの視界から姿を消した。

 カオルはかすかに聞こえてきている足音が遠ざかっていくのを確認して、追かけるように階段を上がり、そっと顔だけを出して悠二の姿を探す。

 旧校舎の造りは現在の校舎とそれほど大きくは変わらず、長く伸びるようにしてある廊下の両側に各教室が左右対称的にあるというものだった。奥の方は屋上となっており、立ち入り禁止を示す境界線のように紐がつながれていた。

 悠二の姿は廊下に見当たらず、もしかしたらどこかの教室に入ったのかもしれないと考える。校則が厳しい学校であるが、携帯電話を校内で使ってはいけないというものはなかった。もちろん、授業中は教師の用意する回収箱に入れるということになっており、複数持っていない限りは使うことは不可能だった。例え複数持っていても、見つかったところで没収と厳重注意は免れず、重いペナルティも課せられることになっていたので、誰もそれをしようとは思っていなかった。

 しかし、昼食を摂らずに携帯電話を使うのならばわざわざ旧校舎に来る必要性はない。電話であれば、人気の少ない場所を選べばよいだけのことだ。だが、彼は教室から離れた場所にある、この旧校舎に足を運んだ。

 よほど誰にも聞かれたくないような内容の電話なのだろうか――そう思い、カオルは耳をそばだててみる。電話をしているのならばそれほど広くはない旧校舎である、声くらいは聞こえるだろうと思っていた。しかし、しばらく待ってみてもまったく悠二の声が聞こえてこない。それどころか物音一つしない。シンッ、とした静けさだけがこの場を支配しているようだった。

 ここにいても仕方がないと思い、カオルは三階の廊下を歩き、曇ったガラス窓から教室の中を一つ一つ覗き見ていった。三階にある教室はすべてが利用されていない空室で、机や椅子が整頓されたままという昔使用されていたままの状態であった。まるで教室の中だけが時間の止まっている世界のように見え、ドアが二つの世界を分け隔てている境界線のように見えた。

 

「ここにもいない……」

 

 どの教室を覗いて見ても、悠二の姿はなかった。

 

「どこに行ったのよ、まったく……」

 

 最後の一室を覗き終わったところで愚痴をこぼす。

 ふと屋上につづくドアの前に来ていたことに気づく。

 ――まさか、外に出たの?

 例え旧校舎とはいえ、目の前の屋上は立ち入り禁止にされている場所である。もしも、この紐を超えて外に出てしまっているのを教師に見つかってしまえば当然のように厳重注意がされる。転校生とはいえ、事前にこの学校についてのことは説明されているはずだ。ならばその行為がいかに愚かなことなのか、分かっているはずなのに。

 数段ある段差があるために、廊下からは外の様子は見えない。例え見えたとしても、ドアで隔てられているので、声までは聞こえない。“オーヴァード”として持っている能力を使えば何とかなるかもしれないが、こそこそとしているようで自分の生には合わない。それならば堂々と話を聞いた方がましだ。朝の列車でのファーストコンタクトがやや気まずいものだったので、ここで挽回することもできよう。

 校則違反をするのは怖いが、誰もいないことを確認し、カオルは意を決してドアノブに手をかけた。



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ミドルフェイズ3 悠二 Part2

 この世界の表、日常は平和だ。

 衣食住が満たされ、誰もが人並みの幸せを得られている。

 年々あらゆる面で技術が進歩し、人間は生態系の中でも最も優れ他存在になろうとしている。それ以上に、神の領域にまでも手を伸ばそうとしている者たちですらいるほどだ。

 街を出歩けば、そこにはさまざまな感情がある。

 その中でもやはり幸せという感情が埋め尽くしている。

 誰もが幸せを感じており、それに満足せず、さらに、大きな幸せを求めようとしている。

 彼らは知らない、世界の裏、非日常を。

 そこになど幸せはなく、あるのは飢え、苦しみ、怒り、悲しみ……あらゆる負の感情だ。

 飢饉で飢えに苦しむ。

 飢えのため、盗みを働く者たちがいる。

 我が子に幸あれと思いながら死んでいく者たちがいる。

 紛争によって怒りと悲しみが生まれる。

 理不尽にも戦いに巻き込まれてしまう者たちがいる。

 唐突に家族を、子どもを、恋人を奪われてしまう者たちがいる。

 そして、人間の姿形をしていながら、日常の世界から去らざるを得ない者たちがいた。

 彼らを“オーヴァード”と呼ぶ。

 “オーヴァード”とは、“レネゲイドウィルス”――あらゆる動植物、無機物に感染し、それの遺伝子構造を書き換え、そのものに超常的な能力を発揮させるようにするレトロウィルスのこと――の感染者が肉体的、あるいは精神的に大きな衝撃を受けてしまった時、それが活性化してしまって超人的な能力を手に入れてしまった人間のことを言う。

 彼らの存在を知るものは世界を見てみても数少ない。未だに公にされていないのは超人的な力を持つ“オーヴァード”が人間にとっての脅威になりえるかもしれないと、各国が社会の混乱を恐れているからだった。人間は国や人種を問わずに自分とは異なる存在を恐怖し、忌み嫌う傾向にある。もし“オーヴァード”の存在についての情報を一斉に公にしたところで、彼らの迫害は免れず、一般人への報復という名の殺戮の可能性を捨てきれない。

 そこで、“ユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワーク”、通称“UGN”と呼ばれる世界規模の組織があり、その組織が“オーヴァード”となった者を保護し、人間社会で一般人と何変わらぬ生活を送られるように支援している。最終的には“オーヴァード”が世界に受け入れられるようにすることを目的としている。また、その組織は“オーヴァード”への支援の他に、その力を自らの衝動に従うままに扱う者たちや“ジャーム”と呼ばれるもはや人間とはいえない、自らの衝動をまったくコントロールできず、理性を失ってしまった怪物、欲望の塊とも言える存在を廃除するという活動も行なっている。

 黒崎悠二はその“UGN”の構成員の一人であり、今回このN高等学校にはエージェントとして潜入していた。

 今回の潜入の目的は、この学校の生徒の中に最近になって“オーヴァード”に覚醒した者がおり、その人物の特定と保護だった。最近ということもあり、衝動による“レネゲイドウィルス”の活性化はそれほど進んではいないだろうと思われる。

 悠二がわざわざ旧校舎の屋上にまで足を運んだのには理由があった。

 ズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、組織の中だけで使われている番号に電話をかける。何度かのコールが鳴ったところでN市支部につながる、電話に出た担当者に支部長につないでほしいと自分のコードネームを添えて言う。担当者は「しばらくお待ちください」と事務的に言うと一度無音状態になり、数秒して向こうに支部長と思われる女性が出た。

 

『あら定時報告かしら?』

 

 電話越しに女性の声が聞こえる。

 顔は見えないが、昨日の車の中で一度も絶やさなかった微笑が今も顔に浮かんでいると、なぜか分かった。

 

「そうだけど、手懸かりの一つも見つけていないのに連絡する必要はあるの?」

 

 相手は支部長という上司であり、年上であるが、会話時の口調にはそれほど縛りはない。

 よほどのことがない限りは咎められることはないのだ。

 

『これまで所属していた支部ではそうしていなかったのですか?』

「……していたけれど」

『ならいいのです。それにまだ初日、転校生ということで何かと注目されているのでしょう?

 

 なら、仕方のないことです』

 柔らかな非難の言葉に、悠二は間を置いて素直に答える。

 組織活動では情報交換は必須だ。例え現状に変化がないとはいえ、定時報告はしなければいけなかった。

 確かに転校初日ということでクラスメイトたちに質問攻めにされ、予定していた学校内を歩くということができなかった。

 仕方のないこと、という一言で片付けられることならよいのだが。

 

「まだターゲットの特定はできてない。変化なし、かな」

『そうですか、分かりました。それでは引き続き任務を続行してください』

 

 現在の状況を報告し、最後に「了解」と一言言って通話状態を解除した。

 それと同時だった。

 ガチャリッ、というドアノブを捻る音に続いて、錆びた鉄が擦れる音が聞こえてドアが開かれた。

 ハッとして悠二は背を向けていたドアに向き直り、「誰だ!?」と警戒を強めて叫んだ。

 しかし、ドアは開かれた状態であるだけで、そこに誰かがいるわけではなかった。

 その代わりに、突然眩しいくらいあった空が曇った。

 一体何が――悠二は頭上を見上げるようにする。視線を上げた悠二の視界に入ったのは傘のように広がったスカートとその奥に見える白い女性用の下着だった。

 

「なっ……!?」

 

 衝撃のあまり、悠二は声を失う。

 恥じらいもなく大きく足を広げたまま跳躍していた一人の女子生徒が、その手に棍棒のようなものを握り締めて、振り下ろしてきたのだ。

 

「この悪党がっ!」

 

 慌ててその場から離脱しようとするも、悠二が行動に移ろうとするよりも先に少女の振り下ろした棍棒の一撃が右肩に叩き込まれ、激痛に思わず顔をしかめてふらついたところを鳩尾に膝蹴りを打ち込まれ、そのままお互いにもんどりうってコンクリートの地面に倒れた。

 もちろん下敷きになっているのは悠二で、悠二の上にいるのは襲撃してきた謎の女子生徒だ。

 彼女はなおも警戒を解くことなく棍棒の先を悠二の首筋にあてがっている。馬乗りになり、完全に主導権を握っている。

 ――感覚が鈍ったのか……?

 ここに来るまで伺うような視線を感じていたが、まさか彼女だったとは思わなかった。

 名も知らない女子生徒であるが、学年は同じ、確か今日の朝列車の中で顔を合わせた少女だ。特に気に留める必要はないだろうとばかり思っていたが、まさか襲撃されるとは思わなかった。

【この、悪党がっ!】

 襲いかかると同時に彼女が叫んだ言葉だ。

 まさかさきほどの会話を聞かれていた?

 しかし、会話の内容からすると怪しまれてもおかしくはない。

 表面上は目を白黒させている悠二。そんな彼に尋問するように彼女が話しかけてきた。

 

「ねえ、さっきの話を詳しく聞かせてくれるかしら?」

「な、何のこと……ですか?」

 

 意志の強そうな瞳から槍のごとき鋭い視線が向けられる。悠二はやや気圧されながらも、なんとかこの場を切り抜けようとしてとぼけるように言った。

 

「ふざけないで。わたし聞いてたんだから。あなたが映画とかで出てくるエージェントみたいな会話しているの」

 

 ――やっぱり聞かれていたのか……。

 胸中で舌打ちをこぼす。

 エージェントとしてはとんでもない失態である。

 彼女が関係のない人間であれば“ノイマン”の能力によって記憶操作をする必要があるが、逆に彼女が“オーヴァード”、今回のターゲットであった場合かなり危険な状況といえる。心のどこかに油断があったのかもしれない。

 とにかく適当にはぐらかさなければいけない。

 

「さあ、洗いざらい話しなさい。何の話をしていたの? 相手は誰?」

「か、家族だよ! お、親に電話してたんだ!」

「家族、親?」

 

 疑わしいというように見てくる。

 だが、悠二は今日転校してきたばかりの生徒だ。無事に半日を過すことができたことを伝えていたのだと、自分でも馬鹿らしいと思う言い訳を並べていく。わざわざ旧校舎に来たのも、みんなに聞かれるのが恥ずかしかったからだと。付け加えるようにして、けっして悠二が望んでしたわけではないと。

 

「ふー……ん」

 

 明らかに疑っている。

 何に対しての疑いなのかは分からない。

 

「なら、どうしてエージェント? みたいな、硬っ苦しい話し方をしてたの?」

「そ、それは……。ほら、この学校の校則は厳しいでしょ? それってまるで秘密結社のセキュリティみたいじゃん。だから、それを掻い潜って連絡を入れる……これってエージェントみたいじゃない?」

 

 一気にまくし立てるようにして言う。

 もちろん、悠二にはそんな趣味は一切ない。そもそも事実彼はエージェントなのだ。この学校に潜入しているのだ。

 

「……ばっかみたい」

 

 にべもなくそう言う。

 確かに彼女の言う通りだ、普通の人間が日常でそうしているのなら相当なマニアだろう。

 彼女の言葉に腹を立てたい思いはあるが、もっともなことなので言葉もない。

 しかし、これで彼女からへんな疑いをもたれて詮索されることがないことを願いたい。

 すると、突然どこからか声が聞こえた。

 

「どうしてさ!?」

 

 男性の声だった。

 まるで信じられないと言いたげなものだった。

 声が聞こえてきたのは旧校舎の裏庭からだった。

 この時間帯、旧校舎同様人気の少ない場所であるから何かをこっそりとするのにはうってつけの場所だった。

 悠二と女子生徒はその声が気になり、そっと錆付いた手すりまで近寄り、裏庭へと視線を落とした。

 裏庭にある大きな一本の木下に男女二人の姿があった。

 女子生徒に迫るようにしている男子生徒。女子生徒の方は気を背にしてしまっているため、逃げ場がないという状態だった。

 

「どうして俺じゃだめなのさ!? あの時俺と約束しただろ、あれは嘘だったのかよ!?」

 

 ヒステリック気味に、女子生徒の肩をつかんで激しく動かしながら言い立てる。

 

「わたしは雄一郎くんと付き合ってて……。それに約束って……」

 

 相当強くつかまれているためか女子生徒は痛みに顔をしかめている。

 拒絶の言葉を連ねるが、男子生徒は頑として認めようとしていない。

 何やら一悶着ありそうな雰囲気がする。

 けしかけているのは男子生徒の方であると一目で分かる。女子生徒の方はひどく怯えている様子だ。このまま見ていることもできるが、男子生徒の並々ならぬ気配から、余計な問題に発展しそうだという予感もある。

 その予感は悠二だけでなく、女子生徒も同様に感じているようだった。

 放っておけない、そう言いたげな表情をしながら彼女は踵を返して手すりのところから立ち去る。旧校舎を出て、裏庭に回ろうとしているのだろうと思った。

 そう、思ったのだ。

 

「ちょっと高そうだけど、いけるわよね」

 

 反対側の手すりのところに向った彼女は、そこから下を見下ろしながらそう言った。

 ――まさか……。

 悠二は嫌な予感を覚えた。

 そんな悠二の予感通り、彼女はスカートを閃かせながら、ヒラリッ、と手すりを飛び越えたのだ。あっという間に彼女の姿は悠二の視界から消えた。数秒後、ドサンッ、という地面に降り立つ音がした。

 

「な、なんてことを!?」

 

 予感は的中してしまった。

 悠二は振り向きはしたものの、彼女を助けようと動くことができなかった。

 しかし、下からの音にようやく彼女が飛び降りた手すりのもとへと移動して、見下ろす。

 すると何ともなかったかのように、飛び降りた彼女は着地した場所から裏庭へと走っていってしまった。

 

「無茶苦茶だ」

 

 屋上からの飛び降りだなんて普通の人間ならば即死は免れない。彼女が無事であったのはただ単に頑丈だったのか、それとも運がよかったからなのか。もしそうだとしても、彼女の行動には脱帽せざるを得ない。

 それとも――

 

「――まさか、彼女がターゲットの“オーヴァード”?」

 

 彼女が超人的な力の持ち主であるならば、この高さからの飛び降りなど不可能ではないだろう。ターゲットの性別が男性か女性かについては不明なのでけっして否定できないことだった。ならばそのターゲットの特定と保護を目的に潜入した悠二がとるべき行動が自ずと決まってくる。

 悠二は辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。

 もし飛び降りたのを見られたのならば、次からの行動に支障をきたしかねない。

 最大限の注意を払い、同じように悠二も屋上から数メートルある高さから飛び降りた。“オーヴァード”である悠二も無事に着地することに成功し、足を止めることなくすぐさま裏庭へと向う。

 

「あ、あいつのことが知りたいのならほ、放課後に旧校舎の三年四組の教室に来てくれ」

 

 二つの角を曲がったところでようやく裏庭を見渡せる。

 大きな存在感を与えるようにしている木の下に女子生徒を背中に庇うようにして立つ先ほど襲撃してきた少女と二人と対面するようにしてこちらに後ずさりながら捨て台詞を残している男子生徒が見えた。

 悠二と同じ第三学年であることを証明する赤いネクタイをしている。襲撃した女子生徒に庇われ、怯えるようにしている女子生徒に対して執拗に迫っていたようであるが、彼の容姿からはとても思い切った行動に出られるような人物とは思えなかった。ひょろりと細木が歩いているような体型。悠二よりも少しだけ高い身長であるが、庇護欲をそそらせるような感じはなく、むしろ情けなさを感じさせる。地味な眼鏡がそれに拍車をかけているようだった。

 逃げるようにこちらに向ってくる少年。胸辺りにあるネームプレートには【高山智樹】と刻まれているのが見えた。

 彼は角から姿を現している悠二を見て一瞬立ち止まるが、何も言わずその横を走り去っていった。悠二はそんな彼を呼び止めることも、背中を追うこともしなかった。

 彼の姿が見えなくなると、怯えていた少女はガクリと膝を折って座り込んだ。

 

「ちょっと、大丈夫!?」

 

 慌てた様子で、庇っていた女子生徒が同じようにしゃがみ込み、声をかける。

 緊張が一気に解けて脱力しているようだ。

 いくら彼のようなガタイがよいとは言えない生徒とはいえ、あれだけ脅すように迫られたのだから彼女のようになってしまっても仕方がないだろう。彼女が堂々と物申すような性格でないことも、ここまで問題を拡大させてしまった原因の一つだろう。

 

「ここで休むよりも、安全な保健室に連れて行った方がいいと思うよ」

「あなた、来てたの?」

 

 目を丸くして彼女が尋ねてくる。

 

「あれだけ迫られていたのを無視なんてできないよ。それに目の前で飛び降り自殺まがいのことをされたらなおさらね」

「うっ……」

 

 彼女が自分がした行動を内省しているようだ。

 彼女一人にだけペナルティが与えられるならまだましも、あの場に居合わせた自分まで巻き込まれるとなるのは御免被る。それに運悪く彼女が怪我をしたり、重体にでもなっていたらどうなっていたことやら。

 

「もうすぐ昼休みも終わる頃だろうし、とりあえず中に戻ろう」

「そう、ね。ねえ、あなた立てる?」

 

 肩を抱くようにしていた女子生徒の様子を見て、彼女は悠二の提案に対して肯定するように頷く。それから女子生徒を気遣うように話しかける。

 女子生徒はやや力なくではあるが、大丈夫であることを伝えるように首を縦に振った。

 そして、ちょどその時昼休みの終了を告げる鐘が鳴り響いた。



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ミドルフェイズ4 カオル Part2

 昼休みが終わり、五時限目が始まった。

 科目は数学、予習が前提で授業が進められて行くが、きちんとそれをこなしているカオルにとっては非常に退屈な時間でもあった。

 あの女子生徒は大丈だろうか――カオルはふと窓際から空に視線を向けながら考える。

 転校生である悠二の提案通り、彼女のことを保健室に連れて行った。精神的疲れからくるものだと、少し休めば大丈夫と保険医は安心させるように言った。

 彼女の名前は【弓塚あゆみ】。カオルは彼女の顔を見てもその名前を思い浮かべることはできなかった。社交的であると自負している彼女は普段からクラスメイト以外の生徒たちとも交流を図っている。そんな彼女にはたくさんの友人と知り合いがいる。だが、彼女の名前は頭にはなかった。それに少年の名前【高山智樹】も同様に、だ。おそらく彼女の目に留まらなかっただけなのだろう。気にすることなどない。

 それにしても智樹のあの迫りようは鬼気迫るものを感じさせた。

 よほど彼女のことを恋い慕っていると、恋愛経験のないカオルにも分かるほどだった。

 しかし、頑なにあゆみが拒む態度を示し続けていたこと、智樹の最後に捨て台詞として残していった言葉からして、彼女にはすでに彼氏、恋人がいることが推測できる。しかし、智樹の言葉が気掛かりだった。

『あ、あいつのことが知りたいのならほ、放課後に旧校舎の三年四組の教室に来てくれ』

 その言葉を聞いた時の彼女の反応は相当なものだった。

 言葉だけから推測するに、彼女の恋人は智樹と何か一悶着あったと思われる。しかし、誰が誰と付き合っているなどという恋愛についての話題を最近耳にした覚えはない。他の友人ならば知っているかもしれない。

 ちらりと教卓の方へと視線を向ける。数学担当の白髪頭の老齢の男性教師が教科書を片手に黒板にチョークを走らせている。

 こちらに対して背中を向けているので、カオルはルーズリーフの端を切って、それに【弓塚あゆみ】が誰かと付き合っていないか、という短文を書いて斜め前の席に座っている友人に向って投げた。

 小さく折り畳まれたそれは無事に友人の机の上を転がり、止まった。

 それを手にしながら、チラリッ、と肩越しにこちらに対して視線を向けてきた。

 カオルは顔の前で小さく手を合わせてお願いする仕草をする。するとその友人は仕方ないという様に肩をすくませてから、受け取ったルーズリーフの切れ端の短文に目を通した。

 切れ端から目を離して、もう一度こちらに疑問を投げかけるような視線を向けてくる。しかし、すぐに彼女も同じようにルーズリーフの切れ端に何やら文章を書き込み始める。それからまだこちらに背を向けたままであるのを見計らってこちらに向って投げて寄越してきた。

 机の上にコロリッ、と転がるそれ。カオルはそれを手にとって、開いて見てみる。

 

[確か一組の【藤堂雄一郎】と付き合ってるって噂があるわ。でも、彼最近学校に着てないらしいわよ。それにしても、どうしてこんなことを?]

 

 流石は新聞部の部長、自分の知らないような噂を知っている――などと感心する。

 やはり推測通り彼女は誰かと付き合っていたようだ。

 【藤堂雄一郎】……彼は確かサッカー部に所属しており、プレーも優れていながらそのルックスのよさから女子生徒たちからは密かに人気のある男子生徒だったような気がする。一組のクラスが進学ではなく就職希望者の集まりであるため、合同授業でも一組とはなることがなく、話す機械は皆無だったため、ほとんど彼については知らなかった。

 二人がどうして付き合っているかなどという野暮なことはどうでもいいこととして、そこになぜ【高山智樹】が間に入ってくるのかが分からない。

 それについて何か知っていることはないだろうかと、もう一度切れ端にその旨を書き込み、投げ渡した。

 受け取った彼女は嫌がる表情を見せず、何か面白がるような表情をチラリッ、と見せてから紙を広げた。さながら新聞記者が見せる顔だった。

 

「であるからして、この問題は」

 

 しかし、ここで背を向けていた数学教師がこちらに振り返った。

 ちょうどペンを走らせようとしていた彼女の手がピタリッ、と止まる。チラリとこちらを見て、さきほどカオルが見せたように手を合わせて謝る仕草をした。

 

「それでは問題を解いてもらう。きちんと予習はしているな、うぅん?」

 

 老眼の眼鏡を光らせながら全体を見渡して言う。

 こうなっては用紙のやり取りはできそうにない。

 詳しいことについては、じっくりと話しができる放課後に持ち越しになりそうだった。

 

 

 六時限目は移動教室であったためほとんど話をする時間がなかった。

 退屈な授業を終え、SHRの終わってからの放課後になっていた。

 この時間にあゆみは昼休み同様に旧校舎へと向かうだろう。恋人の安否が分かるかもしれない。そんな一縷の希望を抱いて、あの男子生徒の待つ教室へと。

 しかし、それが嘘であったら?

 昼休み同様強引に言い寄られるのが目に見えている。おそらく彼女は恐怖から萎縮してしまうだろう。拒絶の意を示したところで、あの男子生徒が簡単に折れるとは思えなかった。最悪実力行使に出てくるかもしれない。それだけは許すことはできない。

 とにかく新聞部の部長である友人を呼んで、話を聞くことにする。

 あの時一緒に現場に居合わせていた転校生、悠二の姿はいつの間にか見当たらなくなっていた。もうすでに旧校舎に向かったか、薄情にも帰宅してしまったか。

 

「カオル、それでさっきの続きだけどいい?」

 

 向こうの方から話しかけてきた。

 面白そうだと、部活に所属していない友人たちもカオルの机の周りに集まってきた。

 新聞部の部長、【鈴村紗音】はやや大きめの分厚いメモ帳を取り出した。

 

「えへへへ、これネタ帖なんだ」

 

 どうやらそれは彼女が高校に上がってからも続けている新聞部の活動において手に入れた情報やネタを書き記しているものだそうだ。全校生徒の名前や出身学校、現在の所属先や関連する噂などについて細かく書かれていた。やや踏み込んだものもあるらしく、壁に耳あり、障子に目ありだった。

 

「それで三人の関係だっけ? ええっとね、高山って言う男子生徒と弓塚さんは幼馴染で、お互い近所に住んでるよ」

 

 幼馴染――その言葉から、二人は今と比べて以前は仲がよかったことが分かる。

 二人の会話から、幼い頃に何かを約束しているようだった。おそらく恋愛絡み、子どもらしく、将来結婚しようなどとでも約束したのかもしれない。微笑ましい思い出のように聞こえるが、昼休みのことを考えると一概にそうは言えなかった。

 

「弓塚さんはサッカー部のマネージャーをしているから、多分部活関係で藤堂くんと仲良くなったんだろうね。よく聞くことじゃん?」

 

 確かにそうだ。

 おそらく紗音の言う通り、二人が恋人関係になったのは同じ部活に所属しているというのが関わっているのだろう。智樹はというと、特に部活に所属することもなく、所謂帰宅部だった。幼馴染であろうと、二人の間のつながりが薄くなっていたのは否めない。

 あゆみにとっての当時の約束というのは、子どもの時の思い出でしかないだろう。しかし、智樹にとってはそうではなかったようだ。今でも彼女のことを恋い慕っているようで、昼休みの一件は自分ではなく藤堂と付き合う彼女に対して怒りをぶつけるというものだったのだろう。女々しいにもほどがあろう。

 

「高山についてだけど、彼以前警察の世話になってるよ」

「えっ、本当に?」

 

 今回のことも相当であるが、まさかもうすでに警察が出張るほどのことをしているのかと思うと呆れる他ない。

 

「うん。何でも弓塚さんのことをストーカーしていたみたいで、彼女の両親が警察に連絡を入れていたみたい。すぐに見つかって補導されたみたい。謹慎処分だけで済んだみたいだけど、まだ懲りてないんだ」

 

 そう言う紗音は露骨に嫌がっているようで、眉をしかめている。他の女子生徒たちも気味悪がっている。正直自分も一人の女性としては彼にはこれ以上関わりたくないというのが本音だ。しかし、あゆみが大きな問題に巻き込まれるかもしれないという可能性があるので、ここで関わりを断ち切るわけにもいかなかった。

 黒板の上にかけられている時計を見る。放課後になってそろそろ三十分が経とうとしていた。そろそろ旧校舎の方に向かうべきだろう。

 そう思い、カオルは椅子から立ち上がり、紗音に対してお礼を言う。

 

「紗音、色々教えてくれてありがと。今度おいしいケーキおごるわ」

「え、本当!? だったら中央部にできた新しいケーキ屋さんのバイキングコースを所望するわ!」

「分かったわ」

 

 普通なら知りえない情報も教えてもらったのだ、これくらいのお返しは必要だろうと思って言った。

 やはり女性というのはスイーツに目がないのか、彼女も目を輝かせながら希望を言ってきた。彼女の言うケーキの新店についてはカオルもちょうど興味をもっていたことなのでちょうどよかった。

 他の女子生徒たちも行きたいと口々に言い出す。

 なら終末にでもみんなで行こうと約束をすることになった。

 おいしくケーキを食べられるよう、今回の問題を解決してしまおう――そう思いながら、カオルは教室を出て旧校舎へと向った。



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クライマックスフェイズ

 いつものように授業を受ける。

 ああ、退屈だ。

 俺はこんな退屈なことをするよりも、もっと大切なことがあるんだ。

 前に立っている教師が何かを言っている。

 でも、俺の頭の中にはあゆみとの思い出しか浮かんでこない。教師の話なんて、これっぽっちも耳に入ってこない。

 どうでもいい……。俺にとっては、どうでもいい話なんだ。

 鐘が鳴る。ああ、よく響く鐘の音は俺たちのことを祝福してくれているみたいだ。

 担任が何かを話している。

 でも、俺の頭の中にはあゆみとの思い出しか浮かんでこない。教師の話なんて、これっぽっちも耳に入ってこない。

 どうでもいい……。俺にとっては、どうでもいい話なんだ。

 SHRが終わって、俺は席を立つ。

 クラスメイトの声など雑音にしか聞こえない。俺は雑音を無視して教室を出る。

 向かう先は旧校舎。そこが告白の場所。俺とあゆみが結ばれる場所。誰にも邪魔されない場所。

 あゆみは騙されているのだ。洗脳されているのだ。

 彼女が自分以外を恋い慕うなどというのはありえないことなのだ。

 藤堂雄一郎、あの泥棒はもういない。今頃は当に息絶えているだろう。

 人殺しは大罪だ。実際あいつにトドメは刺していないが、致命傷であることなのは間違いない。ならばそれは罪だ。人間としてけっして許されることはない重罪だ。

 だが、それがどうした。もうすでに人間の皮を被ったバケモノであればそれは罪ではない、彼女のための救いだ。

 俺は彼女を救うために戦ったのだ。俺の前から彼女を奪っていった悪魔を討ち取ったのだ。あゆみは俺だけの姫君なのだ。騎士(ナイト)が攫われの姫君を救い出すのは当然のことなのだ。

 俺を待っているのはハッピーエンド。あゆみと結ばれるという最高の終わり。

 俺は覚えている。まるで昨日のように、だ。

 あゆみ、俺たちは約束したよな。

 あの公園でいつものように遊んでいた、あの時。

 おままごと、いつも俺はお父さんで君はお母さんだった。

 子どもやペットはお人形。

 君はよく笑ってくれた。

 君の作るご飯はとてもおいしかった。

 君はとても優しかった。

 そんな君は言ってくれたよね、約束してくれたよね。

 

『ねえ、智くん。大きくなったらわたしとケッコンしてくれる?』

『うん、いいよ。ぼくも大きくなったらあゆみちゃんとケッコンするよ』

『それじゃあ、約束ね』

『うん、約束。指切りしよう』

『いいよ。指切りげんまん』

『嘘ついたら、針千本の~ます』

『『指切った!』』

 

 あゆみ……、あゆみは嘘はついてないよね。

 あゆみ……、俺たちは約束したよね。

 あゆみ……、指切りしたよね。

 あゆみ……、約束を破ったら――

 

「――針千本呑まさないと」

 

 俺は向かう、彼女がやってくる場所に。彼女と結ばれる場所に。

 

 

 それは突然のことだった。

 カオルが校舎から旧校舎に続く渡り廊下を走っている時、突然学校全体を覆うようなうす赤色をした結界――“ワーディング”が発動し、生徒や教師たちが脱力するようにその場に倒れて行くのが見えた。

 

「これは……“オーヴァード”のしわざ? まさか、あいつが!?」

 

 カオルもまた別の理由から胸を押さえながら、地面に片膝をつく形で座り込んでいた。胸の奥から湧き上がる衝動。自分という殻を内側から破らんとして暴れまわっている衝動。

 壊したい、壊したイ、壊しタイ、壊シタイ、こワシタイ、コワシタイ……。

 理性による制御が利かず、思考が衝動に支配されそうになる。

 いつの間にかカオルの手には、鈍い銀色の輝きをした刃のある薙刀が握り締められていた。

 

「これしきのこと……、普段から鍛えている、のよ」

 

 必死に理性を総動員させ、暴れまわる衝動を抑えようとする。

 頭が割れるような激痛、目眩、嘔吐感がカオルを襲う。しかし、彼女はギリギリのところでそれに耐え切った。肩を大きく上下させて呼吸をし、顔には精神的な疲労の色を見せているが立ち上がった。

 

「三階、だったわね……、変なことをしていたらただじゃおかないわ」

 

 キッ、と表情を引き締めて渡り廊下から旧校舎の中へと入る。

 “ワーディング”を発動させるよりも先に人払いの結界か何かを張っていたのだろう。旧校舎の中にはほとんど人気がなかった。この旧校舎だけが学校全体を覆っている“ワーディング”の効果を受けていないようだ。

 普通の人間であるあゆみが“ワーディング”の効果で気を失ってしまっていたら元も子もないからだろう。彼女が旧校舎に入ったところで、念には念をということで“ワーディング”を発動させたのだと思われる。

 しかし、彼は見落としていた。自分と同じ力を持つ者が、この学校に彼の他に二人(・・)いることを。

 カオルは昼休み時に悠二を追かけたのと同じように階段を上っていく。今度はコソコソとする必要はなく、一気に駆け上がるようにしていく。三階に到着するとある教室から女子生徒の悲鳴と男子生徒の叫ぶ声が聞こえてきた。前者は弓塚あゆみ、後者は高山智樹のものだろう。

 ガラガラッ、と机や椅子が激しく倒れる音が旧校舎に響き渡る。彼らのいる教室が分かり、すぐさまカオルは薙刀を握り締めて向う。

 隠れる必要もなく、ガラリッ、と道場破りのごとき勢いでドアを開けた。

 時間が止まったように整頓された状態であった教室であったが、二人の間でやはり一悶着あったようで、無残な状態になっていた。

 

「な、何で動けるんだよ、お前!?」

 

 やはり彼は“オーヴァード”の力をよく理解していないようだ。カオルも人のことを言える立場ではないが、驚愕の表情を浮かべている智樹があまりに滑稽で、吹き出しそうになる。

 

「理由なんてどうでもいいのよ! それよりも彼女を離しなさい、あなたのやっていることは立派な犯罪よ!」

「う、うるさい、黙れ!」

 

 智樹はあゆみの上に馬乗りの体勢でいた。彼女の制服は無残にも引き裂かれており、その下に隠されていた白い肌と少女らしくかわいらしい下着が露出していた。智樹はあろうことか、彼女の身体をその手で触れ、今にも性的に襲いかかろうとしていたのだ。

 恐怖で涙目になりながら、喉の筋肉が硬直しているためか声を出せずにいた彼女であるが、まるで救世主のごとく現れたカオルの姿を見た瞬間、瞳にあった絶望の色の他に希望の色が浮かんだ。

 カオルに鋭く指摘された智樹はヒステリック気味に叫んだ。

 しかしその間にも、彼の手は彼女の身体から離れない。彼女の柔らかな胸に指が食い込む。

 

「あなたねえっ!?」

 

 もはや我慢ならないと、カオルは薙刀を構えて走り出した。

 普段朝の鍛錬で鍛えられたことが、こんなところで生かされるとは思わなかった。しかし、彼女を早急に救い出さなければいけない。腰高に構えられた薙刀を渾身の力でふりぬいた。

 狙いは頭部。逆刃を叩きつけて、気絶させることを選択した。

 あまりの速さに智樹は反応できない。

 仕留めた!

 カオルは手ごたえを感じた。得物を通して感じられる感触。

 しかし、それはあまりに硬く、目前の光景を見て瞠目した。

 そんな彼女を見て、ニヤリ、と智樹は嘲笑を浮かべた。

 

「無駄だよ。誰にも俺たちの愛を邪魔することはできないんだ」

 

 カオルが現れたというわずかな希望が生まれたためか、あゆみは暴れるなどの抵抗を試みる。しかし、それは逆に火に油を注ぐかのごとく、智樹の怒りを煽るものになる。

 碌に鍛えられていない細腕が振り上げられ、あゆみの左頬を殴る、殴る、殴る。

 今度は反対。右頬が殴られる、殴られる、殴られる。

 “オーヴァード”である彼の力は大の大人にも匹敵する。その力によって殴られた彼女の頬は痛々しく青くなり、腫れ上がる。

 

「どうして、受け入れてくれないんだよ。俺の何が悪いんだよ、あゆみ!?」

 

 愛故にか、彼の怒りは凄まじい。否、むしろ彼女を傷つけることが愛することのようになっている。

 今度は腹を殴る、殴る、殴る。

 胃からせり上がる嘔吐感。

 大きく咳き込み、床に胃袋の中身を嘔吐する。消化されずに残ったものと胃液が混ざり合ったものが床に水たまりを形成する。

 きれいだった彼女の顔は繰り返される殴打と嘔吐物によってひどく汚れてしまっていた。

 そんな彼女の顔を見て彼は醜いとは思わなかった。

 

「あゆみ、俺を受け入れてくれよ。あんなやつはもういないんだ。俺たちの幸せを邪魔するやつは、もういないんだよ」

 

 彼は笑っていた。

 自分が愛する女性がボロボロになっている姿を見て、胸に溢れるのは興奮という感情で、とめどなく溢れるその感情によって頬上気させ、鼻の穴を広げている。欲情し、喜悦の笑みを浮かべている。

 

「誰にも邪魔されない。俺たちは幸せになれる、幸せにしてみせる、幸せになれ、幸せだと言え」

 

 ゴギッ、という鈍い音が聞こえる。智樹があゆみの顔面を殴り、鼻の骨を折ったのだ。流れる涙と鼻水、鼻血が彼女の顔をグシャグシャにぬらしていく。

 もう抵抗することをあきらめ、あゆみは命乞いをし、助けを求めている。

 

「痛い、痛いよ……。もう、やめて」

「痛い? 俺はずっと前から胸が痛かったんだ。それはお前が俺を受け入れなかったからだ! 約束したよな、嘘ついたら針千本呑ますって」

「あ、あれは……もう昔の約束で」

「嘘をつくのか!? 受け入れろ、俺のことを! 約束だろ!? 俺たち、結婚する約束だろ、あゆみ!」

 

 心身的にも限界にきているあゆみの言葉に、まったく耳を貸そうとしない智樹。

 衝動に思考を支配された彼に、もはや理性的な言動は不可能だった。いくら彼女が正論を言おうとも、衝動に駆られた彼はそれを暴論で抑えてしまう。

 カオルは何とかして二人を守るようにして展開されている結界を破壊しようと薙刀を振るい続ける。刃が不可視の壁とぶつかり、激しい金属音と火花を散らせる。だが、傷一つ付けられず、刃毀れするたびに新しい得物を能力で作り出し、より硬度のあるもの、より切れ味のあるものを追求する。

 二人の会話、否、智樹による一方的な思いの押し付けを聞いて、カオルは何て歪んだ男なの――と彼に対する嫌悪を深める。

 確かに約束したあの時から智樹はあゆみに対して純粋な好意をもっていたのだろうと思われる。

 月日が経つにつれて、彼の思いは募っていったのだろう。

 だが、あゆみの方はその約束は幼い頃の思い出の一つでしかなかった。そんな彼女は、智樹が約束した日から募らせていた思いを知らずに、彼とは違う男性と付き合うようになる。それがいけないことだったわけじゃない。もしカオルが同じような立場に立っていたのなら、そのようにしているだろう。それは思い出の一つであり、恋を知らない子どもらしい行動であるからだ。

 だが、彼はそのように考えられなかった。

 募りに募っていた智樹の思いがあまりにも重すぎた。彼女が自分とは違う男性と付き合っていることを知った時、月日の数だけ募っていた恋心はひどく傷つけられたのだろう。おそらく彼が“オーヴァード”に覚醒したのはその時だろう。

 弓塚あゆみは高山智樹のもの――募りすぎた恋心がひどく歪んでしまった結果、彼の衝動は“加虐”となってしまった。

 自らの手によって彼女の心身に傷を付けていく。それが彼にとっては自らの所有物にしているように感じられるのだろう。まるで彼女に対して自らの所有物であると烙印を押すかのように。

 目の前で傷ついてく弓塚あゆみ。彼女をそんな目に合わせないためにここに来たというのに。完全に足止めをくらい、ただ指を噛んでみているしかできない。

 歯痒かった。“オーヴァード”という超人的な力に目覚め、それが他人にばれてはいけないものなのだと自覚してから十年近くが経っていた。ひた隠しにしながら、心のどこかではこの力を使う日が来るのではないかと思っていた。それが今日なのだと、ここに来るまでに理解した。

 だが、結果はどうだ?

 情けない――完全なる惨敗ではないか。

 ただ二人を覆うようにして展開されている絶対領域を破壊することもできない。

 もう何本も得物を作り直してきた。しかし、彼女はあきらめない。ここで手を止めてしまったら、きっと彼女も完全にあきらめてしまう、そう思ったからだ。

 壊れなさいよ、いい加減に!

 だが、そんな彼女の思いとは逆に、結界はびくともしない。智樹が再び彼女の顔面に狙いを定め、こぶしを振り上げた。

 

「いい加減にしなさいよ、あなた!」

 

 それを目にし、怒りのボルテージが振り切れたカオルは怒声を上げた。

 その声を裏切るように、彼のこぶしが虚ろな瞳をしたあゆみの顔面へと打ち下ろされる。その一撃が彼女の意識を完全に奪い、最悪生命をも奪いかねないものであると直感する。

 そして、次の瞬間にカオルの耳に聞こえてきたのは、こぶしが叩き込まれ、頭蓋を砕く音でも、あゆみの死前の声でもなかった。床を穿つようにして現れた無数の槍のように鋭い弾丸の雨によって引き起こされた衝撃と轟音の嵐が教室を呑み込んだ。

 

 

 UGNから派遣されたエージェントとしてN高等学校に潜入していた黒崎悠二もまた、カオルの後を追うようにして旧校舎へと入っていた。

 “ワーディング”が展開され、旧校舎のみが特殊な領域になるように人払いの効果のある結界が張られていることからようやくカオルが今回のターゲットではないと判断する事ができた。

 ならば、一体誰がターゲットなのだろうか。深く考える必要もなく、当てはまる人物が一人いた。それはカオルが警戒していた高山智樹である。

 あの鬼気迫るような態度は相当だと思っていたが、あれが衝動によるものであると考えれば彼が“オーヴァード”であると判断できる。また、結界など自らに有利な領域を作り出すのは“オルクス”の“オーヴァード”であると考えられる。

 彼は最近覚醒したばかりであると聞いているが、どこまで力を使いこなしているかは未知数である。今日の彼の様子からして、侵食が相当進んでいるだろう。覚醒してからの時間が短いにもかかわらず侵食が進んでいるのは、今回の女子生徒との一件が相当彼の心身に衝撃を与えたのだろうと考えられる。

 とにかく連絡を入れる必要があると、携帯電話を取り出し、支部長につないでもらえるように伝える。少しして、支部長である女性が電話に出た。

 

『その様子から、どうやらターゲットを特定したようですね。現在状況の報告を』

「ターゲットは“オルクス”の“シンドローム”をもった“オーヴァード”。現在学校全体に“ワーディング”を展開して、旧校舎に能力を使って領域結界を張っている。生徒、教師は旧校舎外だけれど、一人だけ女子生徒が巻き込まれている。一方的な思慕からの行動だけれども、かなり侵食が進んでいるようで“ジャーム”になる可能性が高い」

『保護は難しいですか?』

 

 悠二はここまでで手に入れた情報を伝える。おそらく向こうでは音声を録音し、データを採取、まとめているだろう。

 それは悠二にとってはどうでもいいこと。今彼が求めるべきものは交戦許可。侵食が進んでいる以上、彼の“ジャーム化”は免れないだろう。“ジャーム”になり、そこから正常な状態に戻ってきたのを悠二は見たことはない。データ上にもないことを考えると、奇跡以外には難しいのだろう。その奇跡すらあるかどうかも分からない。

 この期に及んで支部長の女性は保護を優先してくる。

 難しいことを言ってくれる――それが悠二の本音だった。悠二は彼女の質問に対して無言の返事をする。

 “ジャーム”となった“オーヴァード”は文字通り怪物、バケモノである。

 UGNにおいて、その衝動や“シンドローム”の種類から、識別するための名前を付けるようにしている。

 電話先の彼女も保護は難しいだろうと判断したかのように、小さくため息をつくのが聞こえた。

 

『……分かりました。保護が難しいと判断した場合、そのターゲットの殲滅を許可します。交戦許可を認めます。そして、ターゲットの識別は“アスモデウス”とします』

 

 悠二は「了解」と短く返事をして通話を切った。携帯電話をポケットにしまい、旧校舎の中へと入る。外とは別の領域となっているためか“ワーディング”の効果は感じられない。おそらく普通の人間である女子生徒を呼び寄せるためだろうと考える。

 これまでの任務でさまざまな能力を持つ“オーヴァード”たちと交戦してきた。今回のように自らに有利な領域を作り出す“オルクス”の“オーヴァード”とも当然にある。

 彼の衝動がどのようなものなのかは分からないが、何にせよ完全に衝動に思考を支配され、“ジャーム”となってしまえば恋心を抱いている女子生徒であろうと殺してしまうだろう。

 一般人が“オーヴァード”の引き起こす事件に巻き込まれないようにするためにUGNという組織は存在している。今回巻き込まれてしまった女子生徒を生きた状態で助け出し、ターゲットを殲滅することがミッションの内容だった。

 “オルクス”の“オーヴァード”に対して真正面から戦いを挑むのは愚策だろう。強固な絶対領域とも呼べる結界を生み出すことのできるのならば、それを突破するのは容易なことではない。

 彼らは自らの周りは絶対に安全であると意識的にしろ、無意識的にしろ思っていることが多い。確かに安全であるのは間違いないのだが、それが逆に自ら墓穴を掘っていることに気付いている“オーヴァード”は少ない。

 悠二は一階の教室のドアをすべて開けて、耳をそばだてる。

 “エグザイル”の能力によって聴覚と触角を強化する。全体に響くようにして聞こえてくるようにある音であるが、やり取りが行なわれている部屋の真下がもっとも大きな音や空気の振動が強いだろう。それらを強化した感覚器官によって感じ取ろうとする。

 そして、何度か旧校舎を揺るがす音が聞こえてから悠二は整理整頓され、比較的広く見える空き教室へと入る。

 この真上のある三階にいるのだろうと判断し、再び能力を行使する。自らの体内に感染している“レネゲイドウィルス”が活性化するのを、衝動が溢れようとしているのを通じて感じていた。

 ――まだ、大丈夫……戦える。

 頭痛、目眩、嘔吐感……さまざまな症状が悠二を襲うが一瞬のことだった。しっかりと足で立ち、戻ることのなかった左腕に意識を集中する。

 すると服に隠れている断面がまるで水が沸騰するように泡立ち、錬金術の効果をもつ“モルフェウス”の能力によって金属でできた擬似的な腕を生み出した。制服を引き裂いて姿を現した腕はただの腕ではなく、全体は金属質で鉄色をしており、指は鉤爪となり、手の甲からは伸びるようにしてブレードがあった。

 悠二はゆっくりとその異形のものと化した左腕を突き出すようにして天井に向ける。そして鉤爪状の指を圧縮空気によって弾丸のごとく射出した。それらは天井を易々と貫き、圧縮空気が解放されるとまるで破砕槌を叩きつけたかのような衝撃と轟音の嵐が発生し、旧校舎を大きく揺るがした。

 それによって天井が大きく崩れ、悠二の視界が一瞬ほこりと煙で灰色に染まる。

 天井に穿たれた穴から亀裂が全体に走り、完全に崩壊する。雪崩のごとく瓦礫が天井から降りそそぎ、二階、三階の教室が旧校舎から姿を消す。机や椅子とともに上から崩壊に巻き込まれたカオルたち三人の姿があった。

 

「痛たたたっ……。もう、いきなり何が起きたのよ」

 

 頭からほこりを被っているカオルは、髪の毛についたのをほろい落としている。

 突然の教室崩壊に巻き込まれたことにやや腹を立てているようだ。

 悠二の存在に気づき、目を見開くほど驚きを見せる。

 

「あなた、“オーヴァード”だったの?」

 

 存在を知らされていない一般人らしい問いかけだった。

 彼女自身“オーヴァード”の力を覚醒させているようであるが、自分以外の存在と出会ったことがないのだろう。

 カオルの腕の中には傷ついた女子生徒の姿がある。ぐったりとしており、気を失っているのがみて分かる。彼女は二人と居合わせていたようであるが、やはり“オルクス”の結界の前には正面突破は難しかったのが分かる。

 智樹が覚醒してわずかな日数しか経っていないが、侵食が進んでいるのを考慮すれば経験を無視するほどの力を発揮することができる。しかし、それを完全に制御できているかは分からない。

 瓦礫の中に埋まっていた彼が押しのけてむくりと起き上がるのが見えた。飛び出すほどに目を見開かせ、落ち着きなく動いている瞳は血走り、爛々と不気味に輝いている。

 カオルは腕の中で抱いていた女子生徒を教室の外に避難させる。廊下に横たわらせ、安静な状態にさせておく。応急処置が必要であるが、使えそうなものは近くにない。

 得物である薙刀を構えながら、教室に戻ってきた。

 

「お前たちも、邪魔するのか? 俺たちが結びつくのを、それほどまでに嫌だって言うのかよ」

「当然でしょ。あなたみたいな男性(ヒト)、誰だってお断りよ。彼女があなたを好いていると思ってたの? それって自意識過剰なんじゃないの?」

 

 まるで目の前に立つあゆみ以外の人間をすべて敵だと認識しているかのように、怒声を撒き散らす。

 二人には智樹の様子が、ほしいものを手に入れられないからと駄々をこねている幼子のようにしか見えなかった。

 否、事実そうなのだろう。衝動に任せた言動や行動。ほしいから手に入れようとする、それは幼子がすることと同じこと。

 愛するが故に自らの所有物にしたいということで、“加虐”の衝動に突き動かされてあゆみのことを傷つける。

 

「黙れぇ!? 俺たちの約束を知らないお前に、何が分かるんだよ!? 俺がこんなに愛してやっているのに、どうしてあゆみは俺のことを受け入れてくれないんだよ、おかしいだろ!?」

 

 すでに正気ではない彼に正論を言っても無駄である。逆に煽るだけに終わる。

 今の様子を見る限りでも、もはや保護は難しいと判断できる。

 悠二はいつでも動き出せるようにと、射出して空洞状になっていた指の部分に再び能力で鉤爪を生み出す。その鋭い爪が、彼の思いを引き裂かんと不気味な音を立てている。

 

「お前たちはあゆみを奪いに来た悪魔だな?」

「ちょっと、あなた」

「何を言っているんだ?」

 

 乱雑に自分の髪を掻き毟り、自傷行動をした知樹がさらに敵意を濃くした瞳を二人に向けながら憎悪をぶつけるように言った。

 落ち着きを取り戻したと思ったところでのその言葉に二人は理解が追いつかず、思わず首を傾げる。

 

「なら、助けなきゃな。だって俺は、俺はあゆみの騎士(ナイト)だから! ああ、あああぁ、うわあああああああぁぁぁっ!?」

 

 教室だけでなく、旧校舎を越えて、学校全体に響き渡るほどの絶叫が口から飛び出した。

 それが憎しみによるものなのか、それとも激痛によるものなのかは分からない。

 しかし、絶叫と同時に彼の身体に、明らかに異常とも言える変化が起きていた。見開かれた瞳からは生気が失せていた。四肢は有り得ないあさっての方向に折れ曲がり、ねじり曲がっていた。首がぐるりと一回転し、ゴギンッ、という鈍い音とともに、折れたかのように横に傾げた。手の指が数本はじけ飛ぶ。ボコボコッ、という泡立つような音とともに、彼の身体に黒い泡、空洞のようなものが生まれた。

 そして、地の底から聞こえるような声をもらしていた彼の身体が真っ二つに割れた。

 まるで高山智樹という殻を破ったかのように見えた。

 

「何よ、あれ……」

 

 呆然と武器を構えたまま、カオルがつぶやく。

 彼女は始めて見るのだろう、“オーヴァード”が完全に衝動に精神もろとも身体の自由を奪われてしまった“ジャーム”となる光景を。

 もはや衝動に駆り立てられるがままに力を振るう存在。

 どんな衝動を秘めていようとも、最終的に“ジャーム”がとる行動は共通している。破壊行動と殺戮行動だ。この学校全体の人間を殺しつくしても、それは止まらないだろう。学校が終われば、次は市に飛び出して行くだろう。そうなれば“ワーディング”の範囲外となるので、社会の混乱を引き起こす。そうならないためにも、この場でその“ジャーム”のことを殲滅しなければいけない。

 そこに現れたのは、もはや高山智樹の姿をしていなかった。

 姿形は牛、人間、羊の頭とガチョウの足、毒蛇の尻尾を持ち、その手には軍旗と槍を持っているおぞましい、悪魔と形容するに相応しいものだった。

 識別は七つの大罪の一つである色欲を司る悪魔、“アスモデウス”。愛欲によって狂ってしまった高山智樹に相応しいものだった。

 

「離れていろ!」

 

 戦闘経験もないカオルはこの場では足手まといだった。

 悠二はそんな彼女に言い放つと、床を蹴って“アスモデウス”へと走り出した。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 

 邪魔だと言われたような気がして、あまり気分がよくない。

 さきほどの嫌というほど自分の無力さを感じたばかりだった。

 確かに超人的な力を持っているに過ぎず、それを使いこなせているわけでない。

 明らかに戦闘慣れしているように見える悠二からすれば、足手まといに見られるのは仕方がないのかもしれない。

 だが、ここではいそうですか、と引き下がるほど真宮カオルは潔くはない。

 邪魔だと思われるなら、そうならないようにするだけだ。

 できる、できないというのではない――やるのだ。

 そう思うと自然と力が溢れてくる気がした。ギュッ、と力強く薙刀を構え、床を穿つほど蹴って飛び出した。

 先に走り出していた悠二のことをあっという間に追い越し、“アスモデウス”との距離をゼロにする。敵も一瞬で間合いに入ってこられるとは思わなかったのか、反応が遅れていた。弾丸のごとき勢いのままカオルは頭上に上げていた薙刀を力強く振り下ろし、刃でその身体を切り裂いた。

 傷からは闇色の泥のような血液が飛び出した。それを見て、彼がもはや人間ではなく正真正銘バケモノになってしまったのだと確信する。

 戸惑いなど必要ない――最悪を引き起こさせないために、ここで敵を殲滅するしなければいけないというのが伝わってきた。

 三つの頭が一斉に口を開いた。そこからは地獄の業火とも言える紅蓮の炎が二人もろとも教室を一瞬にして呑み込まんと迫ってきた。

 カオルに続いて飛び出した悠二が、左腕のブレードを横一線で炎を薙ぎ払うように振った。それによって発生した衝撃波が教室内を蹂躙し、机や椅子、瓦礫といったものを塵芥へと変えていく。不可視の刃の波となったそれが炎を切り裂いていく。

 だが、完全に消滅とはいかず、炎は木製であった旧校舎にあっという間に燃え移った。

 茶色がかっていた教室内が一瞬にして明るい赤色へと変わった。塗装が変わったのではなく、炎が壁を一瞬にして包み込んでしまったのだ。

 強烈な温度変化に、張られていた窓ガラスが膨張し、乾いた音を立てながら粉々に砕け散った。外から入り込んだ空気がさらに炎の勢いを助長させる。

 渦巻き、螺旋を描く炎がドリルのように二人に襲いかかる。

 脆くなった床を蹴って二人は左右それぞれに回避行動をとる。

 それが床を穿ち、火柱を発生させる。天井に容易に達したそれが、圧力によって木製の天井を貫き、あっという間に三階の天井を屋根もろとも吹き飛ばした。

 悠二は再び左腕を突き出すように構え、鉤爪を弾丸として射出した。圧縮空気が炎の壁を貫き、敵の身体を矢のごとく貫いた。開いた穴からはどす黒い血液が迸り、苦悶と怒りの声が響く。

 毒蛇の尻尾が鞭のようにしなり、カオルへと襲いかかる。それを超人的な反射神経で潜り込むようにして回避すると、頭上を通過するそれに対して薙刀を一閃させ、一刀両断してみせる。噴水のように血を噴き出す。獣のような叫び声をあげながら敵はたたらを踏む。

 イケル――!

 姿形は悪魔であっても、実力の差は明白だった。それは“ジャーム”となる前の“オーヴァード”の力に比例するからであろうか。

 しかし、細かなことは放っておき、とにかくトドメを刺す。

 狙いは頭部。

 人間であろうと、“オーヴァード”であろうと、“ジャーム”であろうと、頭部を切り離されればどうしようもない。

 カオルが構えていた薙刀を横薙ぎに振るった。まさに不可視の一閃とも言えるその一撃を防ぐことはできなかった。一つの頭部が宙を舞った。そのまま二つ、そして、最後の一つに刃が触れようとしたところで、カオルのわき腹に突き刺さるものがあった。

 “アスモデウス”が抵抗として振るっていた槍の側面ががら空きになっていたカオルのわき腹を捉えていたのだ。

 攻撃に集中していた彼女はその反撃に反応することができなかった。

 肋骨に皹が入り、砕けるのを感じた。そのまま弾き飛ばされた彼女は教室の壁に叩きつけられる。木製の壁が勢いよく弾き飛ばされた彼女を受け止めきれるわけもなく、壁を突き破って隣の教室にあった机や椅子をなぎ倒してようやく止まった。

 最後の最後で気を緩めてしまった自分を叱責する。

 地鳴りのような足音を立てながら近づいてくる敵を、カオルは上半身だけを何とか起き上がらせながら見つめる。

 構えられた槍の矛先が、まっすぐに心臓を狙っているのが分かる。

 トドメだと言わんばかりに振り上げられた槍が、杭で穿つように突き立てられた。

 矛先が肉体を貫き、穿たれた穴からは鮮血が迸る。

 カオルの声にならない悲鳴が響き渡る。

 殺すはずだった“オーヴァード”が存命であることに、残っていた頭部が瞠目する。

 足元に血の水たまりを形成し、そこに片膝をついたのは悠二だった。「ぐっ……」という呻き声をこぼし、激痛に歪んだ顔をうつむかせる。

 ――どうして……?

 カオルは悠二が自分を助ける理由が分からなかった。

 ――くそっ……。

 悠二は胸中で自らの失態に毒づく。

 普段の任務であればけっしてとらない行動だった。自分の命は自分で守る、それが当たり前だった。庇うなど自殺行為にも等しいことだった。いくらロイス(他者との絆)を昇華させることによって死から復活することができたとしても、無限ではない。それに頭を吹き飛ばされたら生き返ることもできない。

 だから悠二自身、なぜ彼女のことを助けようとしたのか理解できていなかった。気づいた時には、もうその場を飛び出し、彼女の前に立つようにしていた。心臓を貫かれ、生命活動が一時停止する。だが、彼の身体を侵食しようとする“レネゲイドウィルス”が心臓の高速再生を行ない、再び息を吹き返していた。

 

「まったく、だから離れていろと言ったのに」

「……」

 

 辟易としながら言う悠二の言葉に返す言葉もない。

 唇を噛み締め、必死に悔しさと情けなさに耐えている彼女を肩越しに見る。

 しかし、彼女がここまで敵を追い詰めたのもまた事実。

 被害者である女子生徒が傷つきながらも生きているのは、カオルがあの瓦礫の中で彼女のことを抱きとめていてくれたからだ。

 そのことには感謝しなければいけない。

 

「でも、おかげで被害は最小限に食い止められそうだ」

 

 そう言って伸縮自在の左腕を突き出し、敵の頭部を鷲づかむと、りんごを握り潰すように力を込める。頭部を捉えている鉤爪をゆっくりと閉じる。

 そして、頭部は握り潰され、血肉や脳漿が四散、紅色をした華を咲かせた。



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エンディングフェイズ

 戦いは終わった。

 悠二が三つ目の頭を潰すと、すべて頭部を失った“ジャーム”は完全に生命活動を停止させ、巨大なその身体を床に横たえさせた。

 完全に火が回り、いつ旧校舎が倒壊するか分からないということで悠二とカオルは気を失っているあゆみを連れて脱出した。外に出ると同時に、炎に包まれた旧校舎が音を立てて倒壊を始めた。一度崩れてしまえば、後はあっという間であった。一分も経たずに三階建ての旧校舎は跡形もなく崩れてしまい、盛大な焚き火が行われているという状態になっていた。

 “ワーディング”が解除されると、気を失っていた生徒や教師たちが次々と目を覚ました。旧校舎が燃えているとなれば学校全体はパニックに陥る。野次馬として向う生徒たちと危険を勧告する教師たちの姿がすぐに現れた。

しばらくすると、火事であることを通報したのかサイレンの音がけたたましく鳴り響き、消防車や救急車、さらにはパトカーが校内に入ってきた。

 火の勢いは凄まじかったが、消火活動によって徐々にその勢いは弱くなっていった。

 被害者であるあゆみはすぐさま救急車に乗せられ、近くの病院に搬送された。危険な状態であったが、搬送先がUGNと関わりのある病院であるので、大事には至らないだろう。

 火が完全に鎮火されてから消防員や警察による現場検証が行なわれるだろうが、ほとんどがUGN関係者であるから、瓦礫の下から識別名“アスモデウス”が発見されたところでなんら問題ではなかった。

 弓塚あゆみとともに“アスモデウス”、高山智樹の被害者となった藤堂雄一郎であるが、近くの廃棄工場から瀕死の重傷の状態で発見された。被害を受ける前と後の写真を見たが、端正な顔が見るも無残なものに変わり果てていた。全身に殴打された跡があり、四肢の骨は完全に折れており、筋肉にまで損傷が及んでいれば二度と動かせない可能性もあるようだ。

 戦いから一夜が開け、カオルはいつものように幼馴染である文乃とともに通学路を歩いていた。

 旧校舎が全焼してしまったが、校舎への被害は皆無であった。そのため旧校舎跡に立ち入り禁止になっただけで、普通どおり学校は開校される。

 昨日一日で人生において一度だってあるかないかも分からない、死ぬかもしれないという経験をした。あの時悠二が庇ってくれなかったら自分は今ここにはおらず、今日を迎え、日常を過すことはできなかっただろう。

 彼がUGNという組織のエージェントで、今回の件で潜入していたことを教えられた。やはり昨日の昼休みに電話をしていたのは、連絡をするためであったのかと自分の勘は正しかったのだと思う。

 それにしてもその件が解決してしまった以上、彼がN高等学校に留まる必要性はなくなってしまう。昨日転校してきたばかりではあるが、もう来ないという可能性も捨てきれない。UGNという組織が具体的にどのようなものなのかは知らない。だが、暗く、どこまでも深い闇を抱えているというのは、悠二の姿を見ていて何となく感じていた。

 “オーヴァード”であるが日常を生きている者――カオル。

 “オーヴァード”であるが非日常を生きている者――悠二。

 二人は似ているようで、まったく異なる存在だ。

 彼女は非日常を、昨日初めて知った。

 彼は日常をあきらめ、非日常を生きていながら、その脅威から日常を守ろうとしている。

 それがどれだけ辛いことなのか、彼が一体どのような闇を抱えているのか、カオルはまだ知らない。

 ならば、今日会ったら色んなことを話そう。

ウジウジ考えるというのは自分の生に合わない。

知らないなら教えてもらえばいいのだ。

話したくないのなら、少しずつ仲良くなればいい。そうすればいつかきっと教えてくれる。

 そう決意したら、モヤモヤとしていた気持ちが見上げた青空のように晴れ渡ったような気がした。

 そうと決まれば早く学校に向かおう。

 運がよければ、昨日のように列車の中で会えるかもしれない。

 そう思い、カオルは軽快に走り出した。

 

 ダブルクロス――二人の出会いは、さらなる戦いの始まりでもあった。



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あとがき

 はじめての方は、はじめまして。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。

 作者のクレナイです。

 ダブルクロス The 3rd Editionの二作品目を無事に投稿することができ、うれしい限りです。前作は魔法少女リリカルなのはとのクロスオーバーでしたが、オリジナルストーリーで展開させてみました、いかがでしたでしょうか?

 

 この作品での主人公は二人、真宮カオルと黒崎悠二で展開されています。

 二人は同じ“オーヴァード”ですが、カオルは日常を生き、悠二は非日常を生きているというように対照的な立場にいます。

 日常を生きていたカオルは、今回のことを経験して“オーヴァード”という存在を知り、自分と同じ存在が他にも多くいるということを知るなど、非日常の世界を垣間見ました。

 反対に悠二は、前半で日常を生きることを完全に諦め、非日常を生きていることを決意しました。しかし、心のどこかでこれまでの姉の献身的な努力の影響で日常を求めてしまっていることをチラつかせています。

 二人が力を覚醒させてしまったのは家庭が大きく関わっていますが、これは予定している第二部で明かしていきたいと思っています。

 

 第二部については現在もプロットと全体的な流れをまとめているところです。もう少し時間がかかると思いますので、それまで待っていてくださるとうれしいです。

 突如として非日常を知ってしまった少女と非日常を生きながらも日常を守ろうとしている少年の行く末はどうなるのか。

 次回も楽しんでいただけるように頑張りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 最後に、ここまで読んでくださった方に無上の感謝を、変わらず。

 それでは!



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