東方雷魔伝~the story of magician's master~ (溶けた氷砂糖)
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第1話

 さぁ、と木々を撫でる風が先の見えない獣道を過ぎていった。薄暗い森は他を寄せ付けない不可思議な威圧感を放ち、人を立ち入らせないように警告している。それはむしろ人間の為を思っての行為であるとすら言えるだろう。森を住処とする植物は皆一様に人を食らうことすら辞さない、人間の言う食物連鎖から外れた存在なのだから。魔法の森と呼ばれ、何の用心も無しに人が入れば二度と戻っては来ないだろうその森に住居を構えるものは実は普通思われるほどに少なくない。ただ、その多くは妖怪や魔法使いといった人ならぬ者達で、本当に純粋な人間というものはおそらく一人も住み着いてはいない。瘴気に当てられ、草木の栄養にならずに済むには人間は余りにも弱すぎた。

 だから、そんな恐ろしい森の中を一人口笛を吹きながら歩いている青年も当然人間ではない。異国を思わせる黒い装いは内の白いシャツとコントラストになってよく映える、高い背と整った顔立ちも相まってかなりの美丈夫だと言えるだろう。白金に黒のメッシュが入った奇抜な髪を後ろで結び、地面に届きそうな長さの髪先を左手でくるくるといじりながら、もう片手にはキノコがたんまりと入ったカゴを抱えている彼は、一見無防備に身体を晒しながらも、辺りに魔力を撒き散らして自分を狙う不埒者を牽制している。魔法使いである彼にとって、不思議な触媒の数多く集まる森への対策は至って単純ながらも大きな効力を発揮していた。

「さてと、今日の飯は何にしようか」

 きっかり一曲分口笛を吹き終えた彼は魔法使いらしからぬ台詞を独りごちながらいじっていた髪の毛を下ろす。魔法使いに通常食事など必要無いが、彼は日頃の生活において食事を何よりも大切にしていた。それは、彼────ヴィグラス・ウォーロックは生粋の魔法使いである。しかし、彼には人間としての記憶も生まれつき備わっていた。機械に囲まれた世界で単調平凡な生活を行っていた頃の記憶。彼のその記憶によるところの転生というものをしたのだと理解するのにそう時間はかからなかった。そして自分が生まれ落ちたのは、かつてやっていたシューティングゲーム、東方projectの世界であることも彼は次第に理解した。

 まるで物語のようだと最初こそ喜んだ。作品内のキャラと触れ合うことが出来るのだと夢を膨らませもした。食事を取らなくても良い感覚だけは理解出来ず、親に嗜好品として贅沢するなと怒られたりもしたが、自分は物語の主人公なんだと信じて疑わなかった。その儚い妄想はすぐに打ち破られることになる。

 現実と小説は違う。魔法使いとしての才能はそれなりに持ち合わせていたものの、当然何の修練も無く快刀乱麻の活躍が出来るはずもなく、修行によって幼い頃の記憶は埋まってしまった。

 一人前になり出奔するも、ゲーム内の時間よりも昔に生まれたということと、実際に幻想郷という舞台がどこにあるのか知らなかったことのせいで、自分の記憶にあるキャラクターとは殆ど会うことが出来なかった。長年の旅は自分を大きく成長させてはくれたのだが、同時に苦労も多く、最終的に彼は普通に魔法使いとして生きることに決め、原作への介入という野望を諦めた。その結果、紆余曲折あり幻想郷へ来たものの、彼が出会えた原作キャラは両の指で数え足りるほどしか居らず、仲の良いなどと言える相手は一人しか居なかった。それも友人というよりは腐れ縁と言った方が適切な間柄だ。

 自分で踏みしめて作った道を歩き、羽織っていた黒いマントが翻るのを押さえながら、魔法の森深くにある自分の家へと足を急がせる。深い意味などはなく、ただなんとなく嫌な気配がしたからだ。その予感は家に近づく程に強まる魔力によって確信に変わる。ようやく見慣れた赤い屋根の家が見えてきた頃には、彼の顔は諦めと嫌悪で歪んでいた。それでも開けないと始まらないと自分に言い聞かせて彼は決死の覚悟でドアを開ける。

「おーかえりっ」

「勝手に人の家に入んじゃねえ」

 一人暮らしのはずの彼を出迎えたのは、艶やかで色気のある声。声に似合わず可愛らしい口調でヴィグラスに手を振ったのは緑色の髪を腰まで伸ばした女性。ナイトキャップのような帽子を被り、魔法使いのような衣装を着ている彼女の年齢は見た目から窺い知ることができない。顔立ちが良いことは疑いようもないが、身に纏う雰囲気が年端もいかない少女のようにも、或いは長きを生きた妙齢の美女のようにも思わせる。今はやや幼いと感じさせる表情を浮かべて一人用の椅子に腰掛けているが、地に着くはずの足は無く、代わりにもやもやとした雲のようなものが彼女の下半身を包んでいた。

「魅魔、てめえは何度不法侵入したら気が済むんだ」

「あたしが来たいと思った時に居ないアンタが悪い」

 こめかみをひくつかせるヴィグラスを更に煽り立てるように笑う彼女こそヴィグラスが唯一軽口を交わす相手であり、彼が出会えた数少ない原作キャラの一人であった。

 といっても、ヴィグラスは彼女のことを詳しく知っている訳では無い。何故なら彼女はいわゆる旧作キャラと呼ばれる、比較すれば些かマイナーなキャラクターであったからだ。怨霊の魅魔、コアなファンから人気が根強く、前世の彼も名前と風貌くらいは知っていたが、そこまで踏み込んだ知識を持っている訳では無い。ただ今までの経験から挑発に乗ってもこちら側の利点は一切無いと分かっていた彼は大きく溜息を吐いて怒鳴りそうになっていた心を落ち着かせた。どうせ彼女が来る理由なんて決まっている。自分の神経をすり減らすよりも多少言いなりになって帰ってもらった方が気が楽だと彼は判断した。

「いつものでいいのか?」

「おお、さっすがヴィグラス。話が早い」

「てめえ何回たかりに来たか忘れたとは言わせねえぞボケ」

 おおよそ女性に浴びせるには相応しくない暴言を吐きながら、ヴィグラスはテキパキと体を動かして、整頓された棚からティーセットと茶葉を取り出す。イギリスから直接仕入れた高級品、かつての王女の名を取ったクイーンアンである。ヴィグラスはこのブレンドが好きだった。濃い味だが飲みやすいからだ。しかし、魅魔が何度もたかりに来るようになって自分で飲む量は少なくなっている。それでも魅魔を無理矢理追い出したりしないのは彼が根っこのところでお人好しだからだろう。ついでに美人に弱いのだ。

 魔法でお湯を沸かし、ポットに入れ、茶葉を加える。魔法を使った方が温度の調整も楽なので彼はめったにお湯を沸かさない。それでも紅茶ならば様々な挑戦を兼ねて普通にお湯を沸かすのだが、今はそこまでするのが面倒なのだろう。魅魔にいいお茶を煎れるだけ無駄だと思っているのかもしれない。

「あ、そうだ。カップは二人分お願いね」

「あ?」

 二人分も何も二人しか居ないだろう、真意が掴めずに眉を顰めたヴィグラスは、魅魔の座っている椅子の後ろにしがみついて震えてる少女にようやく気が付いた。金色のあどけない癖毛が肩に掛かっている、まだ二桁の年齢にも達していないような幼い女の子だ。やや異国風の顔立ちで、将来はなかなかの美人になるだろうが、ヴィグラスには面識が無く、魅魔にも全く似ていない。着ている服は人里の人間が良く着ているような臙脂色の着物だ。妖力、魔力、霊力は感じられず、百パーセント混じり気なしの人間だと彼は判断する。

 そこからのヴィグラスの行動は速かった。縮地と勘違いしそうなほどに、流れるような動きで魅魔の目の前まで歩み寄り、反応できてない魅魔の頭に優しく手を下ろす。まるで子供をあやすようなその手付きに魅魔の思考が僅かに止まる。そのせいで彼女は咄嗟に逃げることが出来なかった。

「どっから攫ってきやがったこのクソ幽霊!」

「痛い痛い痛いぃ!」

 手加減一切無しのアイアンクロー。魔法使いが肉弾戦には適さない種族であるとはいえ、ヴィグラスは長年放浪の旅を続けてきた、それも男である。力自慢の人間くらいの腕力は持ち合わせているので、アイアンクローもそれなりに痛い。耐性が無いからか涙目になって逃げようとする魅魔にもさらに容赦なく力を加えていく。どうせ嘘泣きだろうと分かっていたのと、今までの鬱憤が溜まりに溜まっていたのだろう。ぎりぎりと頭蓋骨の軋む音がして、魅魔が暴れる元気すら無くなったところでようやく彼は手を離した。頭を抱えてうずくまる魅魔を尻目にヴィグラスはポッドから三人分のカップへお茶を注ぐ。金色の髪の少女はより深く椅子にしがみついていたものの、逃げ出す様子もなく、また泣き出すようにも見えない。肝が座っているのか、状況をまだ把握出来ていないのか。どちらにしても面倒が無くていいとヴィグラスは現実逃避気味に思った。

 思考が遥か彼方に飛んでいきそうになったのを慌てて戻し、ヴィグラスは転移魔法で地下の倉庫から魅魔が座っているのと同じ種類の椅子を取り出した。元々は四つセットの洋椅子なのだが、そのうち一つは知り合いに持っていかれてしまい三つしかない。もう一つを死守しておいて正解だったとヴィグラスは一人賞賛しながら、椅子の一つを幼い少女に勧め、自分も残った椅子に腰を掛ける。

「で、何か申開きが有れば言ってみろ」

「ううっ、幾ら何でも酷すぎやしないかい? こんないたいけな女の子に」

「世間は怨霊をいたいけとは言わない。ついでに誘拐まで重なれば立派な悪霊だボケ。退治するぞ」

 ヴィグラスは乱暴に脚を組み、紅茶を啜る。人間を襲うのは自然の摂理であるとはいえ、人間の記憶がある彼にとって人を攫うなんてのは好ましくない。自分の預かり知らぬところであれば別に気にしないが、曲がりなりにも知り合いが関わっているとなれば話は別だ。身なりは悪くないし捨て子にも見えない。そうだとすれば何処かの家の娘であることは自明であった。しかし、魅魔の答えはヴィグラスの予想とは少々異なっていた。

「いや攫ってきたわけじゃないんだよ。むしろ保護したというか」

「保護だァ?」

「なんか勝手にひっつき回ってきてさ。捕まえようとすると逃げるし、人里の外までついてくるから仕方なくここに連れてきたんだよ」

「人里を出ては、ない」

「おい、魅魔?」

「いや付きまとってきてたのは本当だってば!」

 慌てて弁解する魅魔にもう一度アイアンクローをかましてやろうかとも考えたが、二度目はおそらく避けられてしまうので必死に我慢する。手を少し構えただけでひっ、と悲鳴を上げて頭を抱えるのだから不意打ちはもう通用しないだろう。ヴィグラスは魅魔から目をそらし、初めて喋った女の子の方に向ける。理由なら本人から聞いた方が何倍も早い。そうしてじっと顔を見てみると、彼の頭の中に何処かで見たことがあるという感覚がふつふつと湧き上がってくる。

「なあ、お前。どうしてこいつに付きまとったんだ?」

 出来る限り怯えさせないよう優しい声色で尋ねる。魅魔に散々暴力と暴言を振るった後でどれほどの効果があるのかは微妙だが、少女はぴくりと肩を震わせただけで、目はしっかりとこちらを見据えている。やはり芯の強い少女だと考えていたヴィグラスは、重ねて言おうとした口を、少女が意を決して息を吸い込んだのを見て噤んだ。少女は何度か深呼吸をして、裏返った大きな声で叫ぶ。

「私を魔法使いにしてください!」

「・・・・・・・・・・・・は?」

 しばらくの沈黙と、間の抜けた声しか出せなかった。ヴィグラスは、強い意志を持った目をした少女を見て自分が感じていた既視感の正体に思い当たる。

「失礼だが、名前も聞いてもいいか?」

「き、霧雨魔理沙です!」

 霧雨魔理沙。それはヴィグラスの予想していた名前と一字一句同じだった。東方projectの主人公の一人であり、白黒と呼ばれる魔法の森に住む人間の魔法使い。人間ながら妖怪達と対等に戦えるという稀有な存在である。魅魔と師匠関係にある、という設定もあったかもしれない。少なくともヴィグラスに取って、知識の点だけで言えば魅魔よりも遥かに詳しく知っている相手であった。何と言ってもほぼ全ての作品に登場しているキャラクターなのだ。その過去の話は作品内ではそこまで多く語られていないが、まだ魔法使いでなかった頃の彼女であることは容易に窺い知れる。

「つまりお前は魔法使いになりたくてこの馬鹿を追っかけ回してたんだな」

「馬鹿ってのは酷くないかい?」

「人里で人攫うような身の程知らずには馬鹿ってのがお似合いだ」

 酷い酷いとまたうるさくなってきた魅魔を無視して、ヴィグラスは優しい表情を顔に貼り付けたまま、無言のまま頷いた少女に手を差し伸べる。

────パシンッ

 乾いた音が小屋の中に響く。驚いた顔の少女と無表情の青年。あーあと魅魔が溜め息を吐いた音が残された沈黙を支配した。

「馬鹿にするな」

 底冷えするような恐ろしい声で、あくまで穏やかにヴィグラスが言う。抑えきれない怒りが元々長身であったはずの彼の体をさらに一回り大きく見せた。立ち上がり、少女の前にたったその姿は、まだ一メートルにも届いていない少女にはそびえ立つ壁のようにも見えただろう。少女は威圧され、眦に涙を浮かべている。

「魔法使いなんてのはな。てめえが、思っているような、甘ったれたもんじゃねえ」

 言葉を区切るように語るヴィグラス。彼の脳裏をよぎるのはかつての経験だろう。生まれ持った魔法使いであったために彼がした苦労を、目の前の少女は一切分かってない。ただ見た目に良さそうな面だけをつらまえて勘違いしている。彼に原作に近付けようなんて意思はなかった。妖怪と戦うなんてそれこそ大馬鹿者のすることだ。必要が無いのならば逃げるだけでいい。勘当されなければ、彼女は人里から出なくとも生きていけるのだ。むざむざ命を危険に晒すような真似は彼にとって許し難い悪徳であった。

「人を殺す覚悟があるか? 人に殺される覚悟はあるか? 悪いこともしてないのに嫌われて、火炙りにされることを許せるか? 魔法使いなんかより人間の方がよっぽどか真っ当な種族だ。ガキの甘ったるい妄想でなられちゃ困るんだよ。俺達は嫌われてナンボの種族だ」

「・・・・・・・・・・・・」

「分かったならさっさと帰れ。邪魔だ」

 乱暴に投げられたカップが壁に当たってかちゃりと音を立てる。強化魔法を掛けていたためにヒビが入ることはない。それでもヴィグラスからの拒絶を示すには十分な効力を有していた。少女は着物の袖を掴んで俯いている。何かを言い返したい、でも言い返す言葉も気概も無い。袖を強く握る手が震えているのが何よりの証拠だった。

 それ以上愚かな少女に言葉を掛けるつもりのないヴィグラスは魅魔に目配せする。連れて帰れ、とそう言いたいのだろう。彼にとって無謀な少女の行く末など欠片も関係しないというのに、わざわざ魅魔に護衛をやらせようとする辺りはとんだお人好しである。魅魔も彼の意志を汲み取って椅子から降りる。足が無いので宙に浮かびながら少女の肩に手を掛けようとするが、その手は力いっぱいに払われた。涙を湛えた目を拭い、少女は一人で小屋から飛び出してしまう。

「は?」

「あの子、一人で行っちゃったねえ」

「んなっ軽いノリで言ってんじゃねえ!」

 呆気に取られ、しばらく身動きが取れなくなっていたていたヴィグラスも魅魔の言葉で我に帰り、少女が護身の手段を何も持っていなかったことを思い出すとすぐさま後を追って飛び出していく。残された魅魔は自分も同じように飛び出すか逡巡し、出る幕は無いと再び椅子に座った。早くも冷め始めていた紅茶を飲み干し、ヴィグラスは投げ捨てたカップを拾い上げる。

「やっぱり、本当のことを言った方が良かったかねえ」

 誰に聞かせるでも呟きは、主の居ない小屋に虚しく響き渡るだけだった。

 

 

 魔法の森はお世辞にも生命が生存するのに適した場所であるとは言えない。霧雨魔理沙がその話を父から聞いたのはさらに彼女が幼い頃だった。まだ言葉の意味も完全には理解出来ない時分だったが、何故か彼女はその時の会話を今でも覚えている。魔力に汚染された土壌は真っ当な生命を吸い続けることで存在を保ち、適応した木々が高く伸びるので陽の光も当たらない。いつも薄暗く、雨の後には地表から上る魔力が霧のように森全体を包み込んで方向感覚を狂わせてしまう。そのせいで動き回る動物などは殆ど住み着いていなかった。代わりに進化し続けたのがキノコなどの菌類である。木々が根っこから吸い上げた魔力を奪い、成長して食い破る。進化の過程で動物のように移動する菌類も現れ始めた。人であろうと容赦無く食らうそれらが魔法の森の危険性を高めているのは間違いない。けしてあの森には入るな、帰れなくなるぞ。多くの人にそう言われ続けたが、彼女は今その意味を心から理解していた。

 木の幹の中で体を丸くして息を潜める。怯える表情は叫びそうになる唇を血が滲む程に噛み締め、少しでも自らの存在を虚ろにしようと折りたたんだ膝を自分の胸に近づける。その背後、木を隔てて見えない場所からは巨人が踏み締めているかのような大きな足音が絶えず響いている。魔理沙の側からは見えないがおそらくは彼女が先程から逃げ続けている相手だと見て相違無いだろう。大の大人よりも大きな背丈、魔理沙の胴体よりも太いだろう、発達した腕のような菌糸。彼女は見てしまった、妖怪と比べても見劣りしない恐ろしい存在を、人間を餌と見る捕食者を。治まらない身体の震えを必死に誤魔化しながらただ足音が遠ざかるのを待つ。彼女の小さな体では動きのノロマな奴からも逃げられない。そして捕まってしまえば妖怪ですら命が危ぶまれる程の危険な存在だ。

 居なくなれ、居なくなれ。少女の願いも叶わず、それが哀れな少女の元へと一歩ずつ静かに、だが彼女にも分かるほど明確に近付いてくる。どうして、悲鳴は声にならない。我慢しているのではない、喉が声を出すことを拒絶しているのだ。本能が彼女に声を出させないのだ。ただ掠れた息だけが耳朶を打つ。下腹部には生暖かい液体が彼女の体から染み出して体を火照らせていた。気を失うことが出来たならば彼女にとってどれだけ幸福であっただろうか。彼女の胆力が彼女を更なる恐怖に陥れていることには気付かない。もっとも、気付いたところで、その場から逃れるすべのない彼女に意味など無いのだが。

 足音が地響きと変わらない程に大きくなる。元々一寸先を見通せるほどの明るさしかなかった洞に影が差し、上げてはいけないと分かっていても魔理沙は顔を上げざるを得なかった。そして見てしまった。到底目とは言えない蠢いたそれが、彼女の姿をしっかりと知覚し、あまつさえ舌舐りとすら取れる挙動をしたことを。

「いっ、いやあああああ!」

 初めて声が堰を切って溢れ出す。それは少女にとって限界そのものであった。恐怖が理性を完膚なきまでに打ち砕き、狂ったように叫びたい衝動に駆られ、喉が潰れるのも構わずに声を張り上げる。今更そこに羞恥心や正気などがある筈もない。空を飛ぶの鳥の如く甲高い声は魔法の森全域にまで響き渡っただろう。そこに棲む妖怪や魔法使いは何事かと耳を傾けたかもしれない。それでも到底人里には届かないし、妖怪などが彼女を助けるはずがない。彼女の望む助けなど来ない。

 

────ただ一人を除いては。

 

「スパーク」

 何処からか聞こえてきた声と共に目の前の怪物が弾かれたように一歩下がり、彼女の元に僅かな光明が差す。二度目の宣言とともに怪物はもう一度大きく仰け反った。今度はぶつかった正体が何なのか魔理沙にも見ることが出来た。それは少女が雨の強い日に数える程だけ見ることの出来た、瞬く間に光って消える雷だった。焦げた匂いが立ち込めているのは、雷によって怪物の一旦が焼き切られたせいか。口を思わせる空洞から空気の震えるおぞましい雄叫びをあげて、怪物が魔理沙から雷を放った相手へ向き直る。怪物の意識が自分から逸れた今、魔理沙は今こそが逃げる好機なのではないかと思ったが、洞から顔を覗かせるだけでそこから出ようとは思わなかった。彼女の本能がじっとしているのが一番安全であると判断したからだ。実際、逃げた先で似たような化け物に遭う可能性も有り得たため彼女の選択は正解であった。そして彼女は覗かせた顔から自分を助けてくれた恩人の顔を見た。

 特徴的な白金色と黒のメッシュ。異国の物だろう白黒の服と御伽噺の魔法使いを思わせる大きなマント。右手には先に赤く丸い物体が付着した杖を構え、左手には見たこともない字の本を開いている。その姿は魔理沙が、そして多くの人々が想像する魔法使いそのものであった。だから、彼女が彼のことを理解するのに僅かな時間を掛けてしまったのも仕方の無いことであっただろう。普段の粗野な印象とはまるで違い、一種の神々しさすら感じさせる彼は、杖の先端を怪物に向ける。三度放たれた雷がさらにそれを洞から遠ざけた。その隙に彼は走り、洞を背に向けるようにして立ち止まる。

「おいクソガキ、まだ生きてるか」

 乱暴な言葉遣いで話しかけられて、ようやく彼女は我に返る。そして同時に自分を助けてくれたのか理解した。

「ヴィグラス、さん・・・・・・?」

「どっかで名乗ったか? いや、あいつが俺の名前呼んでやがったな。まあいい、これに潜ってろ。すぐ終わらせる」

 ヴィグラスはマントを外して魔理沙の方へ投げ飛ばす。魔法道具(アーティファクト)でもあるそのマントは外敵から身を守る効果があり、彼は魔理沙に包まって目を瞑っているよう命令した。おろおろとする魔理沙も足音が再び近づいてくる恐怖に負けマントに飛び込んで周りを隠した。

 それを確認したヴィグラスは杖を地面に突き刺し、本を手放す。重力に従って落ちるはずの魔道書は魔力によって浮かび上がり、強力なエネルギーフィールドを杖を中心として展開し、城壁となって怪物の足を止める。同時に作られた大木の高さにも匹敵する大きさの円に手を触れ、ヴィグラスはおおよそ聞き取ることの不可能な言語で呟き始めた。ルーン文字がその度に円の外枠を囲むように現れては貼り付けられていく。一周回り終えた部分が歯車の如く動き出し、最後の一文字を描くまで怪物はヴィグラスに向けて歩みを進めることすらままならなかった。圧倒的なまでの実力差。それでも彼は手を抜かない。それが死に繋がると身をもって知っているから。殺しすぎなくらいがちょうどいいのだと信じているから。そして何よりも、力に勝るものなど無いと確信しているから。

Blitz Satol unehrlich gewalttätiger Existenz durchbohren(雷よ 邪知暴虐なるものを穿て)

 ヴィグラスの形のいい唇から流暢に紡がれる言葉、大陸の向こうで使われる言語が魔法陣に力を与える。極彩色の六芒星が魔法陣から浮かび、辿るための道を作り出した。その中を光に包まれた彼の力が駆け抜けていく。だっ、と地面に軽々と飛び降りる音がした。目の前の怪物にも劣らぬ大きさの影が彼を覆う。

 呼び出したのは馬の姿を模した、目の前の相手より遥かに凶悪な怪物であった。頭上にそびえる一本角、摩擦と共に火花が散る(たてがみ)。先刻の魔理沙の悲鳴にも劣らぬ嘶きとともに雷が周囲を砕き、大地を割った。

 ヴィグラスが得意とするのは転移魔法を発展させた召喚魔法である。こことは違う世界。幻想のさらに幻想が蔓延る世界からゲートを繋ぎ、自分の従属を呼び出すのが彼の戦い方だ。たとえ相手が大妖怪であろうと、召喚に成功したならば遅れを取ることはない。ヴィグラスが指を弾いた次の瞬間、彼らの嫌う太陽にも劣らぬ目を焼くような眩い光と大槌で鉄の壁を思い切り叩いたのかと錯覚するほどの轟音と共に、怪物は跡形もなく消えていた。残っているのは焦げた怪物から立ち上る黒い煙と鼻につく焦げた臭いだけだ。呼び出した一角獣(ユニコーン)も敵が消滅したのを確認して白い煙のように消え、危険が既に去ったことを確認してからヴィグラスは洞の中から少女を引っ張り出す。

「おい、って気絶してやがる。しかも漏らしてやがるのかよ。クソめんどくせえ」

 失禁していた少女からするむっとした生暖かい空気に顔をしかめ、ヴィグラスは手で触れるのを嫌がって魔力でマントごと彼女を持ち上げた。彼女は死んだように動かない。召喚時の魔力にあてられて気を失ってしまったのだろう。人里に連れていくのが本来の仕事だろうが、彼は人里には行きたくなかった。理屈ではなく感情的な判断は、拒絶。もしくは恐怖であるとも取れる。歪んだ顔はどうするべきか困り果ててさらに皺を深くし、彼は杖を地面から引き抜いて自分の頭を強く叩いた。考えるまでもないと思ったからだ。そこで迷う自分が情けないと喝を入れたのだ。

「とにかく、うちに引っ張り戻すしかねえか。あのアマなんでこんなことしやがったんだ。ああもう腹が立つ」

 どれもこれも全てこの愚かな少女を連れてきた怨霊のせいだ。もし帰ってきた時に魅魔が居たら再びアイアンクローをかましてやろう。ヴィグラスはそう心に決めて、未だ目を覚まさない少女を連れ家への帰り路を急いだ。

 




書いてみたかった転生者者を書いてみました。衝動的に書いたので続きを書くかは未定。

評価貰えたら頑張るかも(チラッチラッ


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第2話

続きました。転生ものなのに転生直後をかかないという暴挙に出ていますが、これにはちゃんと理由があったりするので許してください。何でもしますから


「さて、そろそろ本音を話してもらおうか」

 自分勝手な怨霊をどうやって引きずり出そうかと考えていたヴィグラスだったが、魅魔は彼の予想に反して家の中でさながら家主のごとく寛いでいた。流石のヴィグラスもこの暴挙には唖然として何も言えなかった。魅魔はその隙を突くように浮かび上がっていた少女を抱き抱え、失禁していることを確認してから彼女の服を脱がす。ヴィグラスは即座に目を逸らし、魅魔が少女を彼のベッドに勝手に寝かしつけるまで視界に入れないようにしていた。別に年端もいかない少女に欲情する様な変態ではないが、目を逸らさなければ魅魔にうるさく何か言われると分かっていた。それが終わってようやく彼は自分の椅子に座る。魅魔も残された椅子に乗り、そうしてヴィグラスが放ったのが冒頭の一言であった。

「やっぱりバレてたか。ヴィグラスはこういうの本当に鼻が利くよねー」

 対する魅魔もそれほど驚いた様子はない。全て手のひらで転がされていたのではないかと疑いたくなる。昔から用意周到で意味深長な彼女なら有り得ない事ではない。そのことが彼をさらに苛立たせる。良いように動かされたことではない。わざわざ回りくどい手口を使われたことについてだ。

「あの服、相当な値打ちもんだ。それに本人の肌が白い、日頃から外に出ているようには見えない」

 おおかた何処かの箱入り娘だろう、と彼は聞く。彼女の素性は知識としては知っている。しかし自分に知識があることは誰にも教えたことは無い。だからこそ念押しするような、あたかも推論であるかのように彼女は聞く。魅魔は何も反論しなかった。元々するつもりがないのか、ただ静かにヴィグラスの話を聞いている。紅茶を淹れ直すべきだったか。重い雰囲気は喉に悪い。詠唱呪文も扱う彼に喉の渇きはより凶悪に意識を揺さぶる。しかし彼に一度話を止めるという選択肢は選べなかった。むしろ少女が起きてしまう前に話を終わらせてしまうべきだとすら思う。

「ついでに基本飛んでるてめえがついてこられるってのもおかしな話だ。だけどな、そんなことはどうでもいい」

 今までの話の時点で既に魅魔の話は論破されたはずだった。ついてこられるはずが無いと、少女には霊力も妖力も、ましてや魔力も持ち合わせていないのだから。それでも、他に簡潔な言葉でそれを説明する言葉を持たなかった彼はあえてその言葉を使った。

「あの魔力量はいったいなんだってんだ・・・・・・!?」

 ヴィグラスのこめかみには冷や汗が流れていた。

 魔力というものは水に例えることが出来る。万物に作用し、或いは魔力そのものが形を変えて作用する。あくまで使用される力のことであり、それ単体では力を持たず、また存在も出来ないエネルギーが魔力だ。そして魔力を水に例えた時、魔法使いの身体は革で作った水袋に近いものがある。貯めておける(魔力)には限りがあり、それを超えてしまえば零れてしまう。使い続けることで伸ばしたり、継ぎ接ぎして内容量を増やしたり、はたまた別の水筒を用意することで本来扱える以上の魔力を使うのが魔法使いだ。もちろん通常の人間にもその魔力袋はあるが、中身は空である上に入る量もなけなしだ。修行をしなければ自然中を流れる水を掴むことは出来ない。

 だが、魅魔が連れてきた少女。霧雨魔理沙は少々異なっていた。彼女の魔力袋は人間の域を超えた異常な大きさを持っていたのだ。中身が空であるとはいえ、現時点で既に何百年も修行したヴィグラスに劣らぬ程の魔力を貯めておける。修行をすれば彼よりも遥かに大きなものになるだろう。それだけならばまだいい。ヴィグラスでも平均よりは多く持ち合わせているが、生まれつきそのような才能を持っている者だって居ないわけではない。彼が言っているのは彼女の出自だった。

「どうして人間の子があんなモン持ってやがる」

 先程の話は種族としての魔法使いに限った話である。魔力量は親の血に大きく依存する。だから魔法使いは血統を大事にするのだ。過去に英雄視さえされた大魔法使いの家系ならば彼女の魔力量もけしておかしな話ではない。だが、一般の人間から出てくるはずの魔力量では無いのだ。必要に駆られなければ生物は進化しないように、魔法という概念を知らなければ魔力を持つはずがない。いや、魔法を知っていたって長年の蓄積が無ければ存在しえないものだ。しかし、霧雨魔理沙は現に異常、もはやそうとしか言いようのない水準にまで達している。一度はエルフの取り替え子ではないかと疑ったほどだ。取り替え子なら人間の基準で語ることすら間違いなのだと思えたから。そして魔力を用いて調べた結果、彼女は正真正銘の人間だった。

「分かってて連れてきたんだろ。答えろよ」

 魅魔は何も言わない。答えるつもりがないのではない。口元を手で隠していることから、どう説明すればいいのか悩んでいるようだった。魅魔も曲がりなりにも魔法使いの一端である。彼女が気付かないで連れてきたとは考えづらい。いや、分かってて連れてきたのだと考える方が自然である。

「いやー、私もあの子の体質については知らないよ?」

「あ? じゃあなんで」

「だってさ、あの子独力でも魔法を覚えようとするよ」

 魅魔の言葉にヴィグラスは言葉を止めた。独力で魔法を覚えるなんて聞いたことがないし、魔術書を持ち合わせていても不可能だ。彼女の言っていることは言葉の綾だろう。つまり、少女がそれだけ魔法に執着しているということを言っているのだ。

「あの子はいわゆる座敷牢って奴でね。外の世界をほとんど見たことがない」

 それは初耳だった。彼の持つ知識の中では霧雨魔理沙という魔法使いは実家から勘当されているという知識だけで、その背景については書かれていない。まさか軟禁されているとは心にも思っていなかった。

「なんでそんなことを知ってやがる」

 ヴィグラスが聞くと、魅魔は悪びれることもなく答えた。

「そりゃ私が忍び込んで聞いた話だからね」

 黙る青年に言葉を続ける怨霊。魅魔が語ったのは、彼女の魔法的素養の話ではなかった。彼女の人には珍しい金色の髪。特殊な髪の色というのはその者に魔術的、妖力的な才能のあることを示している。だから彼女が普通の人間と違うことは家のものにはすぐに分かったようだ。しかし、少女の家は人里でも力のある家、それも商人の家系だ。変な噂が立つのを恐れたのだろう。彼女を屋敷の一室に閉じ込めてしまった。会う人全てが他人行儀で触れようとせず、彼女は腫れ物のように扱われ続けた。殺さなかったのは外聞を恐れてか、それともなけなしの愛情というものがあったのか。どちらにせよ、彼女は孤独であり続けた。

「そんな時に私がやってきたってことさ」

 魅魔がさもつまらなさそうに言う。出会いたくなかったと言わんばかりの言い方だ。それが今から三ヶ月前の話。彼女はたまたま出会った少女にせがまれて様々な話をした。その中にはヴィグラスの話も入っていて、それを聞いたヴィグラスは嫌そうに顔をしかめる。自分の話をされるのは誰だって気分の良いものではない。しかもそれが魅魔と出会った時の話であるとなれば、彼は思い出したくもなかった。それで、と過去の話に逸れ始めた魅魔に続きを促す。むりやり切られた魅魔は不満そうな顔を隠そうともせずに話を元に戻した。

「それで、魔法を習いたいと言い出したのが今から一週間前」

 何故魔法を習いたいなどと言い出したのか。すやすやと気持ちよさそうに寝ている少女が魔法に関わるきっかけは魅魔で間違いない。しかし、彼女の体質は本人にも教えてないと言う。

「魔法使いがそんなにいいもんに見えたのか」

「少なくともあの子にとってはね」

 ぎしり、とヴィグラスの椅子が軋んだ。掴んでいた肘掛けの先端が砕けて彼の手の中に収まっていた。彼なりに思うことがあるのだろう。ヴィグラスはそれを床に投げ捨てた。それでもまたささくれだった肘掛けを握りしめる。滲む血がぽたりぽたりと床に広がった。

「あの子は存在意義を求めてる。あの時の私と同じさ。今までの自分が生きていないように思えるんだよ。閉じ込められて自由の意味も知らなくて。そんなときに映った魔法使いってのが何よりも輝いて見えたんだろうね。だから彼女は魔法使いになろうとする。たとえ一人だろうがそれは変わらない。ヴィグラスだって分かるだろう? 鳥籠から飛び出した鳥はもう戻れないんだよ。彼女にはもう選択肢がない」

「・・・・・・てめえは、だからってあいつをここに、俺の所に連れてきたってのか」

「それが最善だと思ったからさ」

 最善、魔法使いにすることが最善なのか。ヴィグラスは喉の奥から込み上げてきた叫びを必死のことで押し留めた。彼女にそんなことを言っても仕様がない。あくまでも自分の経験でしかないのだから。かっと血の昇った頭を冷やすために椅子により深く座り込み、大きく深呼吸をする。魅魔は続きを話すのを止めた。ヴィグラスが落ち着くのを待っているのだろう。

 息を整えて、ヴィグラスは魅魔の言葉を反芻した。そして当然のことに思い当たる。魅魔があの少女の味方をするはずがない。魅魔がお人好しなんかでないことは彼自身よく知っていた。あの少女が魔法使いにならなければ危険である、その理由があるのだ。それが無ければ辻褄が合わない。ハッと顔を上げたヴィグラスに呼応して魅魔が懐から何かを取り出した。それは魔力の篭ったおはじきだった。

「これは?」

「あの子の作った魔法道具(アーティファクト)さ」

「あいつの・・・・・・!?」

 ヴィグラスが驚愕の表情で霧雨魔理沙が作ったというおはじきを改めて眺める。何の効果も付与されていない、魔力があるだけのアイテムだ。だが、その魔力はヴィグラスのものでも魅魔のものでもない。むしろ自然界に存在する希薄な魔力をむりやりに集めたような印象を与える。魔力を持たない少女が作ったと信じるにはまだ根拠が足りないが、彼はそれを信じることにした。信じたというよりは、口を挟んでも意味が無いのが正確な所だが。

「もちろんあの子が意識して作ったわけじゃない。いや、それの方が問題なんだけどね。あの子の才能は本物だよ。もしかしたら噂に聞く次代の巫女にも劣らないかもしれない。だけど学んだことのないあの子には、絶対に魔力の使い方は分からないよ」

 もし変に魔力を持ってしまったあの子が暴発させたらどうなるか、分からないわけではないだろう? 魅魔は意地の悪そうな問いを投げかける。そう、学ばずとも魔力を集める力を持ってしまっている少女が、無制御のまま魔法に似たものを使おうとすれば、辺りには何も残らないだろう。おそらく部屋一つでは済まない、家一つで済めば良い方だ。最悪の場合人里その物が地図から消え去るかもしれない。そうすれば幻想郷そのものの危機だ。かつては外の世界で生きていた彼らも今幻想郷が無くなれば存在を保っていられるかどうか分からない。前世の知識を持っているヴィグラスは生きていられないだろうと確信する。

「私が教えるってのも考えたんだけどさ。私は人にものを教えたことなんてないし、そもそも私は住処を持ってないからね。あの子を無事に育てる自信は無い。殺すのは殺すのでどうにも勿体ないし。だったらアンタに預けるのが一番良いと思ったんだよ。私よりもはるかに長い経験を持っている」

「だったら俺が魔法を教えることが大嫌いだってことも知ってるだろうが。魔法使いならこの森に他にも居る。そっちに渡せばいいんじゃねえのか」

「はっはっは、私は会ったこともない連中を信用したりなんてしないよ。変に弄られて周り巻き込んだ自滅でもされたら堪ったもんじゃない。あの人形遣いの嬢ちゃんになら任せられるかもしれないけど、あっちも強情な人嫌い。どうせ説得に骨を折るんだから、それならより信用出来る方を選ぶさ。アンタの方が長生きだろう?」

「本当にそれだけの理由か?」

「ん? まあ、ちゃんと理由を説明すれば、アンタなら断らないと思った、ってのもあるけどね」

 お人好しだから、と彼にとっては不名誉な言葉で締め括られる。露骨に嫌な顔をするヴィグラスだが、突然立ち上がると、深く眠り込み、もう数時間は起きないだろう無垢な少女の前に立つ。召喚魔法に使ったのとはまた別の魔道書を取り出して、羽ペンで空中に文字を描き出す。

「何をするつもりだい?」

「封印を掛ける。教育するにもあの魔力量は邪魔だからな。半減くらいはさせておくさ」

「引き受けてくれるのかい?」

「土手っ腹に風穴開けられてえか」

 振り向かずに言ったヴィグラスに圧されて魅魔はふるふると首を振った。

 

 

 封印を終わらせたヴィグラスは魅魔を強制的に帰らせて、自分も家から外に出る。夜の森はわずか視界の先すらも闇に溶かしてしまい、ただ言いようのない不安だけをひたすらに煽り立てる。ヴィグラスは灯りを点さないまま、足元を気にするそぶりもせずに歩を進める。向かう先は森の更に奥深く。間違っても他の誰かが居る場所には行きたくなかった。それは孤独になりたかったからではない。

「いい加減覗き見はやめろ」

「やっぱり気付いてらしたのね」

 何処からか聞こえてくる艶かしい声。みしり、と歪みで裂ける音がして空間が切り開かれる。その中から数え切れないほどの目が彼を射抜く。底知れぬ不安を掻き立てる無機質な目。ヴィグラスは初めてこれを見た時に、醜悪な見た目や直接的な危害が無くとも、恐怖というものは容易く感じられるものなのだと思い知らされた。ク・リトルリトル神話の怪物を想像させる無数の目の狭間から姿を現したのは、輝くばかりの黄金の髪を振り撒く少女。見た目だけならば霧雨魔理沙より二つか三つ年上に見えればいい方だろうか。夜だというのに日傘を差し、似合わない紫のドレスを揺らして彼女はそこに立っていた。

「時空の歪みがあったからな。そんなのをずっと開いておけるのはアンタくらいしか居ない」

「それに気付くのも大概だと思うのですけれど」

「俺の専門に近いからな。それで、ずっと盗み見して何の用なんだ、紫さんよ」

 あらあら、とわざとらしく首を傾げる少女。余りにも幼い所作だが、放たれる妖力は、彼女が抑えていることを加味せずとも冷や汗を流す程度にはおどろおどろしい。八雲紫、ヴィグラスの知識の中にもある大妖怪だ。幻想郷を構築しているのは他ならぬ彼女であり、作中でもトップクラスの実力を持つとされている。彼も実際に会った時に格の違いを痛感した。底が見えないのだ。彼女の能力がどれだけの力を秘めているのか分からない。彼女の境界を操る能力は、ヴィグラスの召喚魔法に似た部分もあるが、根底がまるで違う。文字通り次元が違うのではないかと疑われる程に、彼女の能力の汎用性は高い。

「あら、お邪魔してはいけなかったかしら」

「アンタと俺はそんなに親しい仲だったか?」

 八雲紫とヴィグラスは一度しか顔を合わせたことがない。どうしてこのタイミングで姿を現すのか、ヴィグラスは静かに警戒レベルを上げていた。紫も張り付いた胡散臭い笑みで自分が開いた時空の隙間に腰を下ろす。

「先ずはあの女の子を引き取ってくださったことに感謝しますわ」

「アンタに感謝される謂れは無いな」

「貴方にとってはそうかもしれませんわね。でも私にとってもあの子の扱いにはほとほと困り果てていましたの」

「どういうことだ?」

 ヴィグラスが聞くと紫は薄く笑って目を細めた。スキマの目にも劣らない威圧感と引き込まれそうな妖艶さを併せ持つ視線は、彼をただ苛立たせるだけに終わる。格上相手にそのような態度を取れる。その点で紫はヴィグラスのことを評価していた。大妖怪とは得てして対等な相手を持てない宿命を持っているから、軽口を叩く相手は貴重なのだ。もう少し未来の話で、博麗霊夢が妖怪に好かれるのと同じ理屈である。

「簡単なこと。殺すか、生かすか。どちらにするべきかという話」

 どこでだって優れた才能の芽を摘むのはやるせないことだから。幻想郷は全てを受け入れる、その理念を掲げたのは彼女だ。同時に幻想郷の崩壊という危険性も考えれば彼女が悩むのは道理である。しかし、ヴィグラスにはどこかが引っ掛かった。何か明確な矛盾があったわけでもないが、何処か足りないものがある。嘘を言っているようにも思えないが、真実をありのまま語っているようにも思えない。だからヴィグラスは聞いた。

「本当にそれだけか?」

「それだけ、とは?」

 紫が怪訝そうな顔つきになって聞き返す。日傘がくるりと回されて、放つ妖力が僅かに強くなる。

「他にも何か、隠してるんじゃないかって話だ」

 紫はしばらく何も答えなかった。ヴィグラスはこの瞬間に何かが裏にあると確信する。前世からの知識も大いに含まれた偏見ではあるが、本当に何も無いのなら適当なことを言って煙に巻かれるだろうと思っていた。それが何も言われないのは、彼女が何かを隠していて、なおかつ彼に話しても大きな問題は無いということだ。だからヴィグラスは待った。力づくでなんて無謀なことはしない。そうすれば捕まえることも出来ず、聞くチャンスも失われる。実力差は誰よりも理解していた。

「あの怨霊の言うとおり、貴方は勘が良い。そうね、貴方には話してもいいでしょう」

「やっぱり何かあるのか」

「ええ、幻想郷の新しい仕組みについてですわ」

 仕組み。と言われてヴィグラスの頭に浮かぶのは、東方Projectというゲームの真髄。

「スペルカードルール」

「スペルカード・・・・・・」

「ええ、放つ攻撃の美しさで勝敗を競う、実力差を埋めるシステムですわ」

「弾幕ごっこか」

 言ってからしまったと思った。弾幕ごっこなんて単語は今の幻想郷には無い。もし紫が同じ単語を思い浮かべていたとしたら、不審がられるのは間違いなかった。しかし、紫はキョトンと目を丸くしてそれからにやりと得意気に笑った。

「なかなかいいセンスをお持ちなのね。それ、採用しましょう」

「マジかよ」

 疑われないのは良かったが、重要な単語をこんな簡単に決められてしまって良かったのだろうかと少し悲しくなるヴィグラス。紫はそれを呆れられていると思ったのかごほんと大きく咳払いして話を逸らした。

「とにかく、人間でも妖怪と戦えるって形が欲しいのよ。そのためには人間側にその弾幕ごっこが出来る子が居ないといけない」

「それがあのガキってことか」

 弾幕ごっこの名称には触れないで、ヴィグラスは彼女が魔理沙を弾幕ごっこの参加者に仕立てあげようとしていることを察する。しかし人間ならば博麗の巫女が居る。わざわざ他の人間を連れてくる必要があるのか。そう問うと紫は首を縦に振った。

「むしろ博麗の巫女ではいけないのですわ」

「どうしてだ?」

「博麗の巫女はそもそも妖怪と戦うだけの力があるからスペルカードルールの恩恵が薄いというのが一つ。もう一つは、博麗の巫女を倒せる、というのがこのルールの根幹だから」

「・・・・・・つまり結界を気にせず妖怪が暴れられるようにしたってことか」

「御名答」

 ヴィグラスに取っては知っている知識だから当たり前だが、紫からは察しの良く話の分かる魔法使いに見えたことだろう。紫がここから先を話すのは、彼が信頼出来る相手だと判断したからかもしれない。協力者として彼のことを求めたのだろう。

「最近妖怪が大人しくなっているのは知っているでしょう?」

「大人しいってよりは、か弱くなってるな。昔ならもっと暴れ回ってるだろうに、人里の外でも夜は静かなもんだ」

「ええ、それは博麗の巫女に一方的に退治される存在に、妖怪がなってしまったということなの」

「妖怪が力を蓄えられなくなったってことだな」

 博麗の巫女は結界を守る存在、そして同時に妖怪退治も司っている。妖怪は巫女を殺すことが出来ないのに対し、博麗の巫女は気兼ねなく全力を振るえるのだから妖怪側に覇気がなくなるのは致し方ないことであった。だが、それは妖怪が人間に恐れられなくなるということである。幻想郷の理念が崩壊しかかっているのだと紫は語る。妖怪の山に住むことを許された妖怪なら名前だけで恐れられ、生き延びることが出来るが、名前も知られていない動物の怪異や驚かせることだけが能の低級妖怪には今日の飯すら得がたいものだろう。

「特に先代の巫女は人間の味方として真面目だったから」

「妖怪のために人を囲ってたのが、人に妖怪が飼われてんのか。本末転倒だな」

 ヴィグラスの皮肉に紫は言葉を返さない。返せないと言った方が的確だったろう。先代の巫女はどうしようもなく人間好きだった。無論妖怪好きで成り立つ役割でもないのだが、魔法の森に引き篭るヴィグラスにも噂が届くほどに、妖怪に容赦の無い人間の味方だった。倒す必要の無い妖怪すらも退治してしまうほどに。その結果妖怪が弱体化したのは自然の摂理である。

「だけど、スペルカードルールなら妖怪を救える」

「それで恐れが得られるのか?」

「ええ、妖怪が人間相手に力を示せれば、あとは妖怪という名前のみで糧は得られますわ。その力を示す手段が弾幕ごっこ」

「なる程ねえ。よく考えられたものだ。で、俺はあのガキに弾幕ごっこでも教えてりゃいいのか?」

「いえ、スペルカードルールの構想まだ完成してませんわ。知っている存在は最低限にしておきたい。私が頼みたいのはもっと簡単なこと」

「・・・・・・あれを魔法使いにするなってことか」

「本当に、察しの良い御仁ね」

 紫はこくりと頷いた。この魔法使いというのはあくまで種族のことである。つまり人間をやめさせないでくれ、と紫は頼んでいるのだ。魔法使いならばそれこそ吐いて捨てるほど居る。だが、魔法の使える人間はおそらく一人も居ない。その特異性を失わせないでほしいということだろう。

「ま、元から魔法使いにするつもりなんざねえけどな」

「あらそうなの?」

「魔法使いになったところでいいことなんか一つもねえ。生まれた時からってんなら仕方ないが、人間をわざわざ魔法使いに下げる必要は無い」

「随分と卑屈なのね」

 卑屈と言いながらも紫は心の中で驚いていた。人外というのは多かれ少なかれ自分の種族にプライドを持ち合わせているものだ。魔法使いは探求者でもある故に、彼らの持つ自尊心は他よりも高い。しかしヴィグラスは自分達魔法使いを人間より下にあると見ていた。ヴィグラスにある前世の記憶と、今の体になってからの苦い過去が彼にそう言わしめているのだが、事情を知らない紫には伝わらない。彼女からは魔法使いが幻想の存在であることをよく理解した聡明で皮肉屋な魔法使いにしか映らない。その評価もけして間違いではないのだが、多少過大評価のきらいがあることは否めないだろう。魔法使い嫌いの魔法使い。ヴィグラスとはその程度の存在でしかないのだから。

「でも、それなら安心ですわ。貴方に任せることが出来る」

「アンタに任される謂れはねえ」

「ふふ、そうね」

 小馬鹿にしたような笑みにヴィグラスの眉間の皺が増える。紫がわざと煽った言い方をしていることを理解しているのだろう。煽られて怒っているというよりも煽られたそのことが気に食わない様子だ。紫も煽られた訳では無いのだと即座に理解して話を戻す。

「いずれ、博麗神社に連れてきてもらうこともあると思いますわ。そのときまで、弟子の教育頑張ってくださいね」

 それだけ言い残して紫はスキマの中へと消えていく。残されたヴィグラスは流れ出る汗を手で拭おうとして、未だ流れた血を拭き取っていなかったことに気付き、治癒魔法で傷を治す。見た目には何もなくなったがじんじんと滲むような痛みは気付いてしまったらなかなか消えない。

「クソッ、嫌な予感しかしやがらねえ」

 傍にあった木を素手で殴り、ヴィグラスは苛立たしげに吐き捨てる。生まれ落ちた当時は夢にまで見た原作キャラとの邂逅。しかし現実を知ってしまった彼には面倒ごとの匂いしかしなかった。元々原作への介入などという絵空事はとうに捨てていたのだ。今更目の前にぶら下げられても困る。彼にはチートと呼べるような強力な能力など無いのだから。

 兎にも角にも先ずはあのガキと話さなきゃならんのか。ヴィグラスはこれからのことを思い出してさらに憂鬱になったが、だからといって放り投げるわけにもいかないと考える程度にはお人好しでもあった。

 家に戻ると少女はようやく目を覚ましていたようで、ベッドから出ないまま辺りをきょろきょろと見回していた。動かない方が賢明だと考えたのだろう。入ってきたヴィグラスと目が合って、少女は喜びとも落胆とも、或いは恐怖ともつかない曖昧な表情を浮かべて目をそらす。ヴィグラスは気にもせずに、壊した椅子を修復し、もう一度腰掛ける。そして少女の反応を顧みずに一方的に言い放った。

「今日からてめえは俺の弟子だ。死にたくなけりゃ言う事を聞け」

 これが普通の魔法使い、霧雨魔理沙が産声を上げた瞬間であった。

 




少女二人と主人公が会話するだけで1話が終わってしまった件。次回からはちゃんと魔法修行の話をやると思います。
紫さんはヴィグラスとまともに喋ったことなかったけど今回のでだいぶ面白いと感じた様子。ヴィグラスは面倒くさいのが増えそうだと憂鬱そうです。

っていうかヴィグラスの能力出そうと思ってたのに出てないや。たぶん次回出ます。


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第3話

「これは何ですか?」

「そいつはハライタケって言ってな、妖力に反応して発光する。魔法の触媒にも使えるな」

 机の上には書き掛けの便箋と、広げられた風呂敷があり、いっぱいに物が置かれている。多種多様なキノコ類だ。そして机の上に並べられたキノコの一つを少女が指差す。背の高い青年が指差された奇妙な形をしたキノコについて逐一教えてやっていた。魔法使いになるための修行、その初めは触媒に関する知識を得ることだった。魔法使いにとって触媒とは、言うなれば自転車の補助輪のようなものである。魔法を行使する際に足りない分の魔力を補填する。そのために魔法使いは触媒を用意する。逆に言えば魔力量さえ足りていれば触媒を使う必要は無いとも言える。ヴィグラスも普段は手間のかかる触媒など使わないし、魔理沙も本来の魔力量だったならば知る必要は無かっただろう。しかし、今の彼女はヴィグラスから封印を受けている。本人の預かり知らぬ所ではあるが、今の彼女は人間程度の魔力しか持てなくなっているのだ。強大な魔力は扱うことも困難だ。長年魔法に携わってきた者ならともかく百も生きていない少女に出来る道理は無い。ヴィグラスは彼女に普通の魔法使いとして成長してもらうつもりだった。封印を解くのは彼女が大人になって人間を辞めることを決めた時で良い。人間で居るならば魔法など必要ないのだから。

 それにしても、とヴィグラスは心の中で呟く。まさか、自分が霧雨魔理沙にキノコについて教えることになるとは。彼の知識にある彼女はキノコを良く触媒として使っていた。だから転生して魔法使いになっていた彼もキノコを主に用いていたのだ。それが巡り巡って彼女に知識が渡っている。矛盾しているようで矛盾していない、不可思議な事実に自嘲せずには居られなかった。

「お師匠様、これは」

「そっちはドクツルタケだ。毒があるから間違っても食おうだなんて思うなよ」

 白いキノコに触れようとした少女の手を払う。触ったくらいならば害は無いが、少々ヴィグラスも神経質になっているようだ。人間の弟子など取ったことが無いし、そもそも魔法を教えたことすらもまともにないのだ。強いて言うなら魅魔が適当なことをやってるのを見かねて助言を幾つかしたくらいで、当然物を教えるということを知らない。

 気を取り直して並べられたキノコを一つ一つ簡潔に説明していく。さっきのハライタケのように魔法に使えるもの。ドクツルタケのように毒があって危険だが、だからこそ薬品を作るのに適したもの。もしくはただ食用になり、似た形の毒キノコが無いキノコ。教えられるだけ教えるのが彼の仕事だ。命を預けられた責任だと彼は考えていた。魔理沙も真剣な表情でヴィグラスの説明を聞く。確かにその姿だけ見れば師弟のように見えるだろう。魔法を後回しにすることに魔理沙がもっと駄々をこねると思っていたが、彼女は案外に冷静だった。現実家であったと言いかえてもよい。自分が今するべきことが何なのかを理解していて、ヴィグラスに反発することにメリットがないことも分かっていた。

 ヴィグラスはそんな少女の健気な様子を見て、気付かれないように溜息を吐く。彼女には才能が溢れている。魔法使いとしての、探究者としての限りなく大きな才能が。知らないことを学ぼうとする好奇心と、身の程を知り、けして境界線を越えない慎重さ。もし魔法使いの道を選ばなければ商人としても大成したはずだ。ただ一つ、必要の無かった才能が彼女の正しい人間として生きる道を塞いでしまった。そのことがヴィグラスには残念でならなかった。

 そして彼にとってさらに憂鬱な相手もそろそろやってくる頃合だ。普段ならば一週間に一度くらいの頻度だったのに、魔理沙を弟子にとってからは何故か毎日決まった時間にやってくる困った悪霊。

「やあ元気にやってるかーい!?」

「あっ、魅魔様」

「来やがった・・・・・・」

 意味も無く高いテンションでやってくる魅魔に目を輝かせる魔理沙と諦観した様子で頭を抱えるヴィグラス。正反対の反応だが、魅魔はその程度でへこたれるようなやわい精神は持ってない。そうでなければ疾うの昔に自我を失うか昇天していただろう。むしろそうであってくれれば良かったのに。憎まれっ子世にはばかるとはこのことか。ヴィグラスはまた一つ何か学んだような錯覚すら起こしていた。

「で、まだ魔法は教えないのかい」

 一頻り反応を楽しんだ後、魅魔は唐突に尋ねる。冗談半分、本気半分といったところだろうか。流石にまだ早いのは分かっているが、魔理沙が魔法を使うのを見てみたいのかもしれない。だが、ヴィグラスはすぐに否定の言葉を返す。

「そんな段階じゃねえ。触媒なんてのは本当なら数年間掛けて学ぶもんだ。お前がおかしいんだよ」

 おかしい、というのは僅か半年で魔法の基礎を修めた目の前の怪物のことである。最初は魔理沙ではないが独力でやり切ろうとして魔法の森を焼け野原にしかけたのだ。目に余ったヴィグラスが簡単な説明と初心者向けの教本を放り投げたら自分独特の魔法を作り上げてしまったのだ。もちろん構成は甘く、まだ本に書いてある基礎魔法の方が幾分か使えるのではないかと思うようなお粗末な出来栄えではあったが。オリジナルの魔法を作り出すというのはかなりの労力を必要とする。魔理沙にも劣らない天才であったのだろう。本人はそんな大層なことをしていないと嘯いているが。

「この子はおかしくないの」

「・・・・・・優秀ではある」

 少なくとも昔の自分よりはよっぽどか吸収しているだろう。教えた物事を実に良く覚えているのだから。半年では足りないが、一年少しで魔法を学ぶ段階に入れるだろう。ゲームではもっとお調子者というイメージがあったのだが、実際こうして教えていると陰鬱な秀才という印象を感じる。これから変わっていくのか、それとも本来はこんな性格であったのか。どちらにせよ、自分の中での魔理沙像を修正しなければならないと思ったりもしていた。煩いよりはマシだとヴィグラスはそれ程気にもしていないのだが。

 それよりも問題なのは魔理沙が魅魔のことを尊敬の眼差しで見ていることだ。もしかしたら原作での性格は彼女のせいかもしれないと思うと追い出したいところではあるのだが、どう足掻いても魅魔を完全にシャットアウトすることなどできない。せめて悪影響だけは与えないでほしいものだが、当の本人は何処吹く風と気侭な相手だ。

「それで今日はこれから何しに行くんだっけ」

「キノコ取りだよ。一人でも見分けがつくようにならなきゃ困るからな」

 隠す必要も無いのでヴィグラスが投げやりに答えてやると、魅魔の表情が僅かに固くなる。無意識のうちの、むしろ何かを隠そうとして起きた硬直だが、ヴィグラスは目敏くもそれに気付く。

「なんだよ」

「いや・・・・・・」

 魅魔は一度口篭るが、意を決して再び口を開く。

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「・・・・・・いつまでもここに置いとくつもりはねえ」

 返事には幾らかの間があった。そっぽを向いたヴィグラスがどんな表情をしているのかは分からない。

「それは、そうなんだけどさ」

「馬鹿な事言ってねえでついてくるんなら準備しろ。てめえを待つつもりはねえぞ」

「・・・・・・うん、そうだね」

 魅魔は追及しなかった。ヴィグラスの態度がおかしいことには気付いていたのに。煩いから黙れ、邪魔だから出ていけというのがいつもの彼の反応だ。魅魔のことなんて欠片も気にしないし、魅魔もそんな関係が普通だと思っている。悪口を叩き合うのがお似合いな二人の関係。そう表現するには今の彼は優しすぎる。まるで触れてほしくないことがあるかのように感じられた。繊細で、ガラスのように脆い。分かっていても見たことのない彼の調子に圧されたのもある。だけど、何よりも今口に出せば自分を抑え切る自信がなかった。

「魅魔様も一緒に来てくれるんですか?」

「そうだねえ。ま、誘われたしね」

「嫌なら来なくてもいいんだぜ」

「行くに決まってるじゃないか」

 皮肉な言い方をするヴィグラスだが、やはりその台詞にキレはない。先の探り合いを全く理解出来なかった魔理沙はただ無邪気に喜んでいる。その幼さが二人の間に浮かぶ気まずい雰囲気を吹き飛ばしてくれるようだった。

 

 

 まだ昼頃だというのに魔法の森は相変わらず暗い。それでも今はヴィグラスが魔法で灯りを飛ばしているからそこまで恐ろしさは感じない。獣道であるとはいえ先がはっきり見通せるからだ。魔理沙が前を歩く二人の服の裾を握っているのは、単純な魔法の森への怖さというよりも襲われた記憶が残っているからだろう。身に染みた恐怖はそう簡単には消えない。ヴィグラスだって魔法の森に良くない思い出の一つや二つ持っているし、あまりとやかく言うつもりもなかった。別にこんな陰気臭い場所でなくても触媒は取れるし、無理して居場所を決める必要はないのだから。ただ、魔法の森が一番適しているのは間違いないので、出来れば克服してもらいたいものである。

「で、キノコってのは大抵陰気臭い所に生えてる。例えばこういう腐った木の裏とかな」

 触るのを怖がる魔理沙には目もくれずに腐り果てた木片をひっくり返すと、ぞろぞろと蜘蛛の子を散らすように虫が逃げていく。虫嫌いなら気を失ってもおかしくないような光景に魔理沙が声にならない悲鳴を上げる中、魅魔が手を出して自生していたキノコを引っこ抜いた。赤く細長いそれを見て魅魔は嫌な顔をする。

「さっさと捨てろ」

「あいよ」

 言われるがまま、魅魔はその赤いキノコを燃やしてしまった。雑な扱いに火事にでもならないだろうかと彼は眉を顰めるが、そこは魅魔も魔法を学んだ身である。見事にキノコだけを燃やし尽くして、周りには火の粉一つ残っていない。

「今のキノコは危険だから見つけても絶対に触るなよ」

「は、はい」

 まだ虫を見た怖気が取れていないのかかくかくと機械のような首肯だけを返す弟子に早く慣れろと言いたくなるのを堪えながら、さっき魅魔が拾い上げたキノコの説明を始める。カエンタケと呼ばれる比較的有名なキノコだ。触れるだけで皮膚の爛れるという毒キノコの中でも危険な性質を持っている。魔法使いですら迂闊に扱えば危険な代物である。魅魔の霊体という特性があったからこそあの程度で済んだのだ。ただの人間である魔理沙には危険過ぎる。

 魔理沙がより強くしがみつくようになったのをやや鬱陶しく思いながらもヴィグラスは森の探索を続ける。灯台下暗し、という言葉もあるように自分の身近というのはなかなか見えないものだ。だからこそよく見て知っておかなくてはならない。いざというとき役に立つように、或いは足を取られてしまわないように。

 自分達で動くキノコ、動物に寄生するキノコ。人間には想像しえないようなものはたくさんある。それに今回はキノコに限ってこそいるが、それ以外の薬草や毒草にも触媒になるものは存在する。歩きながらそれぞれを詳しく説明するのは骨が折れることだろう。面倒そうな顔をしてはいるものの、苦しい顔一つしないところヴィグラス本人も楽しんでいるのではないだろうか。魔理沙もようやく奇っ怪な生態系に慣れてきたのか少しずつ自分からも動き始めるようになってきた。魅魔も常に寄り添うように彼女の後ろをついていき、危険なものには触れさせないようにしている。その姿はどうしてだかピクニックに来た家族のようにも見えた。好奇心旺盛な娘に過保護な母、無口で無愛想な大黒柱。団欒の空間に新しい影が現れたのは、綺麗な池の畔で小休憩を挟んでいる最中だった。

「あら」

 座るのに手頃な大きさの石に腰掛けたヴィグラスの耳に、鈴の震えるような透き通った声が届く。少し高く聞こえた声はおそらくは少女のものだろう。少しの驚きと親しみを感じさせるのは、相手が自分達のことを知っているからだろうか。ヴィグラスには聞き覚えがない。しかし呼びかけられたからには知り合った仲なのだろう、そう思って振り返った彼の目が捉えたのは、確かに記憶にある姿だった。一足先にその正体に気付いた魅魔が喜びの声を上げる。

「おお、アリスじゃないか」

「貴女が居ると嫌な予感しかしないのよねー」

 愛想笑いを引き攣らせながら、手をわきわきと動かす魅魔から一歩後退る金色の髪と赤いカチューシャの特徴的な少女。人形のようだと形容するのが正しいのだろう整った顔立ちに西洋風の服装。彼の記憶にあるアリス・マーガトロイドという少女と瓜二つである。いや、彼の記憶は前世のものなのだからアリス本人で間違いないか。現に魅魔は彼女のことをアリスと呼んでいる。

「あー、誰だか分からんかった」

「ああヴィグラスはほとんどアリスと会ってないからね」

「昔はもっとちびっこくなかったか?」

「前に会ったのが何十年前だと思ってるのかしら」

 実はヴィグラスは昔にアリスと顔を合わせたことがある。その時も魅魔に怒鳴ったものだった。しばらく顔を出さないかと思ったら、突然メイド姿の幼女を引き連れて戻ってきたのである。聞けば魔界に行ってきて力づくで言うことを聞かせてきたというのだから魔理沙の時よりもさらにタチが悪い。魔界は魔法使いにとってメッカと呼ばれる場所である。空気の代わりに濃密な魔力に溢れ、魔界に住む人々は魔力を摂取するだけで生きていけるという。ヴィグラスも過去に何度か修行も兼ねて行ったことはあるが、誰かと友好関係を築くこともなく帰ってきていた。そもそも街に入らなかったのだから人と出会う機会もなかったし、そのつもりもなかったのだ。そんな場所に何故魅魔が行ったのか。それは当時あったある問題が影響していた。

 先々代の博麗の巫女の頃だったのだが、博麗神社の裏手に魔界へとつながるゲートが開いたのだ。その代の巫女は異変と認定し解決に向かったのだが、なんとその時に興味半分で後ろを尾けていったらしい。開いた口が塞がらないヴィグラスを他所に魅魔は土産話を幾つもしてやったが、その土産の一つが件の少女だった訳である。その後紆余曲折を経てメイドは魔界に返されたが、数年前くらいから再び幻想郷に修行としてやってきたのだ。ヴィグラスも話くらいは聞いていたが、成長した彼女を見るのは初めてだったので、声で気が付かなかったのも無理のないことだろう。

「で、てめえも休憩か?」

「まあそんな所よ」

 アリスの側を漂う人形は水筒を抱えていて、どうやら新鮮な池の水を取るのが目的らしい。魔法使いという種族は水を飲まずとも生きていけるが、必要が無いことと必要としないことは違う。要らないと分かっていても頭が水を欲するのだ。アリスもそんな所だろうとヴィグラスは適当に当たりをつけた。

「でも噂は本当だったのね」

 アリスは下がった足を前に進め、今度はこちらに近付いてくる。興味の対象はヴィグラスでも魅魔でもない。初めて見る相手に怯えて魅魔の後ろに隠れている魔理沙の目の前までやってきて、その頭を優しく撫でた。驚きに肩を震わせるが、敵意が無いことは少女なりに分かっていたようで、逃げ出そうとする様子は無い。むしろ撫でられて気持ちが良さそうに顔を綻ばせている。

「噂って何のことだ」

「あの白黒魔法使いが弟子を、しかも人間の子を引き取ったって」

 ヴィグラスが白黒魔法使いと呼ばれるのはそれ程珍しいことではない。白とも取れる髪色に黒のメッシュ。服装ともかみ合って白黒と呼ぶのにまさに相応しい格好なのだ。それなりに名は知られている。しかし、どうしてそんなことが噂になるのか。魔法使いはそもそもが閉鎖的な連中の集まりである。自分の研究結果を盗まれてしまわないように他人との関わりを絶つのだ。逆に他人の研究を知ろうと風聞には常に耳を傾けているが、誰々が弟子を取ったなんて一銭にもならない情報が出回るのは不自然ではないだろうか。

「自分のことになると案外ズボラなのね」

「どういう事だよ」

「魔法の森で一番の古株は貴方なんでしょう? 皆貴方の知識を得ようと躍起になってるのよ」

 だから些細な噂も耳に入るのだとアリスは言った。確かに自分がここにやってきた時は誰も住み着いてはいなかったが、まさかそんな扱いをされているとは思わなかった。ヴィグラスは今一度自分の家のセキュリティを強化しなければならないと心に誓った。ただ、先を取られて困る研究など今はしていないのだが。

「それで、貴方達は何をしてるの? ピクニック?」

「そんな所よ」

「ちげぇよボケ」

 適当なことを言う悪霊を黙らせてから「触媒の調達だ」と素っ気なく説明する。

「思ったよりも本格的に教えてるのね」

「半端は嫌いなんだ」

 これは事実であった。中途半端なことをしてメリットなど無い。封印さえしてしまえば実は魔理沙を弟子にとる必要などは無かったとも言えた。当面の危機は去ったのだから何食わぬ顔して人里に戻してしまえば良かったのだ。それをしなかったのは、ヴィグラスが魔理沙の能力を封じたことに罪悪感というものを感じていたからである。いや、罪悪感と言うのには少々利己的なものだろうか。八雲紫の言う通り優れた才能の芽を摘むことが憚られたのである。それに封印がいつ解けるかも分からない。だから魔法使いとして必要な知識だけは教えこもうと考えていたのだ。そんなこと他の誰にも、魅魔や魔理沙にさえも言うつもりはなかったが。彼には言えない理由がある。

「へえ、成長したら面白そうね。最古の魔法使いの唯一の弟子か」

「誰が最古だよ。そんな歳食ったつもりはねえぞ」

「外の世界で魔法使いなんてもうほとんど居ないじゃない。千年を生きる魔法使いなんて貴方くらいしか知らないわ」

「それでも魔界では若輩者なんだろうな」

 魔界はそれこそ何万年の単位で生きている存在ばかりだ。千年などこちらでも妖怪なら簡単に越えてくる。平安時代なんて妖怪達が最も跋扈していた時代だ。天狗や鬼のような大妖怪なら普通にそれだけの歳を重ねているだろう。

 しかし、ヴィグラス程の魔法使いが少ないのもまた事実である。彼と同じ頃に生まれた魔法使いは後一人か二人でも居れば良い方では無いだろうか。せいぜいが二、三百歳くらいだろう。その年齢を越えたら魔法使いの数が急速に減少する。どうして若い魔法使いばかりなのか、その理由を身をもって知っている彼は思考をそこから先には伸ばさずに叩き切った。

 アリスはそこまで言葉に深い意味は持たせていなかったようで、あっさりと話題を別のものに変えた。

「それに、貴方の専門がなんだか未だに知らないのよね」

「召喚魔法ってことくらい誰でも知っているもんだと思ってたがな」

 人の弟子のことまで知っているような連中だ。一番隠してないことを知らないはずはないだろう。何か思惑があってカマをかけているのか。

「どうも引っ掛かるのよね。でも聞くのはマナー違反よね」

「ああそうだな」

 ヴィグラスの専門は転移魔法と召喚魔法で間違い無い。しかし、ヴィグラスはアリスに対して警戒を強めた。といっても、これも秘密というほどのものでもなく、魅魔辺りは知っているのだが。魅魔しか知らないとも言えるが、そもそも彼の話し相手が彼女くらいしか居ないので仕方の無いことだろう。

 そんな話をしていたら時間はあっという間に過ぎていた。他にも世間話をしていたせいもあるが、そろそろ最初に思い描いていたルートに戻らなければ日が暮れるまでに家に帰れないだろう。魔理沙に夜の森はまだ早過ぎる。ヴィグラスは次の場所に移動することを決めて、魅魔達に声を掛けた。

「おい魅魔、魔理沙。休憩は終わりだ」

「もう行くのかい?」

「元々長居するつもりなんかねえよ。来客があったから長引いただけだ」

「そう、どうやら邪魔しちゃったみたいね。それじゃあ魔理沙ちゃん。また会いましょう」

「またねーアリスお姉ちゃん」

 歩き出すヴィグラスにつられて魅魔と魔理沙もカルガモの群れのように後ろについていく。アリスはもう少し池に留まるようだ。優しい笑顔で手を振る姿がヴィグラスの記憶に重なって、彼は目を背けた。見続けてしまえば必ず彼の古傷を抉ることになるから。

「色んな魔法使いが居るんですね」

 魔理沙が声を弾ませる。アリスに遊んでもらえたのがよほど嬉しかったのか、子供らしい感情だ。そして、アリスが本当に優しい性格であることも彼女は見抜いている。子供は悪意に対して人一倍敏感だ。他の変な魔法使いに出会わなくて良かったとヴィグラスは思わないでもなかった。もっとえげつない性格のものも少なくないのだ。吐き気を催すような相手にも何度か会ったことがある。

「しっかし、人気者だね。最古の魔法使いさんよ」

「うるせえブン殴るぞ」

「おお、怖い怖い」

 少しだけだが、元の調子に戻ったヴィグラスを見て、魅魔は嬉しそうに笑うのだった。

 

 

 十分過ぎるほどの触媒を集め、魔理沙が歩き疲れて動けなくなったのを切っ掛けにしてヴィグラス達は自分の家に戻ってきた。魔理沙は今は魅魔の背中ですやすやと寝息を立てている。

「随分はしゃいでたねこの子」

「もっと大人しい奴だと思ってたんだがな」

 魔理沙は初めこそ袖にしがみついていたものだが、途中からは自分で探し始めるようになり、ヴィグラスが保護魔法をかけて自由に探索することを許可したのだ。だから途中から思い描いていたルートから離れてしまったが、このような理由でなら構わない。自分の意思で足を運ぶことは魔法使いとして最も大事な素養だ。失敗を恐れては成功は得られない。それでも魔理沙のはしゃぎようは驚くほど激しいものだった。その姿にヴィグラスは思わず魅魔が二人居るのではないかと疑ったほどだ。

「今まで発露の仕方を知らなかっただけだよ」

 それもお前みたいだな、とヴィグラスは思ったが口には出さなかった。初めて彼女に会った時も、彼女は内に溜めた感情を捨てることが出来ていなかった。出来ていないのに、投げ捨てようと振り回すものだから周りを傷付けてばかりいた。発露ではなく鈍器として用いていたのだ。誰かが壊さなければならなかった。その役割がヴィグラスに回ってきたのは何よりも不幸であろう。思い出したくもない記憶だ。

 そんなことを考えてたら魅魔は話を変えてきた。あの頃の話をするとヴィグラスの機嫌が悪くなることを知っているからだろう。つまり、同じことを魅魔も考えていたのだ。

「ところで、机の上にあった書き掛けの手紙はなんだったの。放り投げていったけど緊急の用事じゃなかったとか」

「なんでお前そんなとこ見てんだよ・・・・・・」

「偶々目に入ったのさ。それで何、ラブレター?」

「退治すんぞクソ幽霊。あれはちょっとした依頼だよ」

「依頼?」

「ああ」

 ヴィグラスはそれ以上答えなかった。魅魔は少しムスッとしながらも、背中に魔理沙が居るから悪戯を仕掛けることも出来ず膨れっ面で彼の横を歩く。

「ねえ」

「なんだよ」

「・・・・・・なんでもない」

「そうかてめえはそんなに喧嘩売りたいか」

「いやいや違うって。本当に何でもないから」

 勇気を出そうとしたが無理だった。行く前に一度むりやり切られた会話。あれはどういうことだったのか。心の底では分かっているが認めたくない気持ちが彼女の喉を震わせたが、聞いてしまえば認めざるを得なくなるという恐怖が彼女の息を塞き止めた。

 またも言葉が無くなる瞬間。ヴィグラスがポツリと言葉を漏らす。それはきっと魅魔に向けたものだったのだろう。独り言のような声で、明らかに話しかけていた。

「霖之助に魔法道具(アーティファクト)の作成を頼むつもりだったんだ。あれはあいつに宛てた手紙だ。香霖堂に居てくれればいいんだが、どうやら霧雨道具店の方に居るらしいからな。お前にでも持って行かせようとしたんだ」

 森近霖之助。ヴィグラスが魅魔の次に会話を多くしている原作キャラである。といっても悪友なんて関係ではなく、とことんビジネスライクなのだが。彼に魔法道具の作成を依頼しようとしたのは単純に原作にそういう設定があるからだ。霧雨魔理沙の使っていたミニ八卦炉は霖之助の作である。それに、ヴィグラスの愛用している杖も彼に作ってもらったものだ。アイテムを作らせることに関しては彼を越えるものは居ない。おそらくは河童ですらも越えられないだろう。

 だが、魔法道具は必ずしも必要という訳では無い。それなりに自分を確立した魔法使いは使うことを好むが使わないオーソドックスな魔法使いも少なくない。魅魔にはやはり何処か焦っているように思えた。最悪の予想だけが彼女の頭を離れない。

「ん、ん・・・・・・?」

「起きたか。もう家だ」

 まだ眠そうな呻きを上げながら大きな伸びをするのを背後に感じる。魔理沙が起きたことで二人の間に残るしこりは隠された。けして消えた訳では無い。

 彼女が願わくば希望の光となるように、悪霊であるはずの魅魔はそんなことを背中の幼き少女に願っていた。

 



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第4話

今回はちょっと短め


 草木も眠る丑三つ時。闇の中にぽつりと灯りだけが浮かんでいる。夜は妖怪の時間だが、魔法使いはむしろ日中に活動することを好むというのに、ヴィグラスは自分で作り出したその魔法の灯火だけを明かりにして、机に向かい羽ペンを羊皮紙に走らせていた。特にヴィグラスは人間だった頃の記憶から夜はいつも早くに寝ていたのに、わざわざ起きているのは今でしか出来ない事があるからだ。手癖のまま書き間違えて、消しゴムでは消えないインクを魔法で取り除く。こんなときはパソコン、とまでは望まなくてもノートやシャープペンシルくらいは欲しくなるものだ。羽ペンの方が使い続けている時間こそ長いものの、魂に染み付いた記憶は簡単には消えない。機械に頼った世界で生きた彼に取っては近代的な道具の方が遥かに使いやすかった。外の世界の年代を予測するに、紫に頼めば手に入るかもしれないが、そんなことをすれば彼女はヴィグラスのことを疑るだろう。聡明な彼女ならその先まで気付いてしまうかもしれない。自分の過去を知られることだけはどうしても避けたかった。前世の記憶、そしてゲームの知識(未来の記憶)。紫ならばいったいどう悪用するか検討が付かないからだ。ヴィグラスは八雲紫という妖怪のことをまだ信用していなかった。そもそも彼が信用している相手など魅魔と森近霖之助くらいだが、彼が他人に心を開かない事実を軽視しても、彼女は疑わしいと感じられる。妖怪の賢者とまで言われる程の大妖怪だ。原作にある知識以外にも後ろめたいことを腹に一つも二つも隠しているのだろう。

 それに、使いにくいのは事実だが、今使っているペンに愛着が無いわけでもない。古臭い相棒は自分がまだ若かった頃から使っている何百年を超える代物だ。こまめに手入れし、魔法で保護しながらも使い続けた結果、魔力を帯びて魔法陣を書くことにも転用出来るそれをそう簡単に変えられるものでもない。魔法陣を書くのに良く用いられるのが血である以上、代用品があるだけでかなりの価値を持っている。

 こうして、物を書いている時が、紅茶を一人で飲んでいる時と並ぶ、ヴィグラスの最も安らげる時間だ。魔理沙はぐっすりと眠っていて起きる気配は無く、うるさい悪霊もやってこない。孤独で居られる僅かな一時。筆を止め、窓から覗く弓なりの月を見上げながら、ほう、と息を吐く。それはいつもの諦観混じりの疲れた調子ではなく、心からリラックスしているような、落ち着いた雰囲気。彼を知る者からは驚かれるかもしれない、どことなく優しさを感じさせる顔付き。ヴィグラス・ウォーロックという魔法使いの本質が其処には有った。長い生命の中ですり減った心の一端はこんな時にしか出せなくなっていた。

 静かに浮かぶ月が太陽の光を反射して青く光るのを詩人が如く見つめ、再びペンを走らせ始めた。カリカリと呆気なく紡がれる文字の音が谺して、ヴィグラスの耳朶を打つ。意識が音に傾いたとき、風切り音も混じっていることに気が付いた。こんな夜中にやってきて、しかも飛んでくる相手なんてヴィグラスは一人しか知らない。優しげな雰囲気はすぐさまなりを潜め、如何にも面倒くさいといった顔に変わる。

「こんな夜中になんだ」

「いや、灯りが見えたからちょっとね」

 ヴィグラスが窓を開けてやると、魅魔も心持ち大人しめの口調で窓の前まで降りてくる。魔理沙を起こさないように気をつけているのだろう。外からのそよ風がヴィグラスに僅かな違和感を運んできたのだが、彼はすぐにそれを忘れた。否、忘れようとした。それは魅魔の台詞に対するものだ。しかし、彼女の思考など何を考えて行動してるのかも分からない。妖精なんかと似たものだ。深い理由があるわけでもないだろうと切り捨てる。ヴィグラスにとって今一番重要なのは至福の時間を潰されたことだ。これだけで叩き出すには充分な理由だが、魔理沙が寝ているのに騒ぐわけにはいかない。苦虫を噛み潰したような顔で耐えているヴィグラスを他所に魅魔は彼の手元にあった羊皮紙に気が付く。

「また魔導書を書いてるのかい」

「まあそんなところだ」

「こんな夜中に精が出るねえ」

「あいつが寝静まらないと書く時間が取れねえからな」

 魔理沙が邪魔をすることなどないだろうが、ヴィグラスの方が腰を落ち着かせられないのだ。やや潔癖症なヴィグラスは他人がいることを何よりも嫌う。現に今も筆を置いてしまっていた。魅魔が居座っているのにおちおち書いてなどいられない。

「どれどれ」

 それをいい事に魅魔が先程までヴィグラスが書き込んでいた羊皮紙に目を落とす。魔法の基礎から事細かに書いてあるのは魔理沙への教本にするためだろうか。しかし、魅魔の顔は怪訝なものに変わる。

「へえ、普通の文字で書いてるんだね」

「それがどうした。あのガキに使わせるんだ。別に暗号化する必要なんてないだろうが」

 魔道書とは本来自分の研究を後世に残すためのものであるが、同時に自分の能力を誇示するための存在でもある。赤の他人に研究成果を奪われないためにも通常は暗号化し、魔法を持って他人には見えないようにする。それを読むことが出来るのは書いた本人と、本人に認められた一握り、そして著者よりも高い能力を持つ魔法使いだけである。

 しかし、ヴィグラスが書いていたのは端々の尖った癖のある日本語。暗号もかけられてないし、魔法でロックもされていない。それこそ唯の人間でもなんと書いてあるか分かる程に易しい。もちろん、一般人が読んだところで内容を理解できるとも思えないが、こんな魔道書を書く魔法使いなどほとんど居ない。魔理沙に読ませるため、というのは最もらしく聞こえるが、直接教えてやればいいだけの話である。

 それでも魅魔は追及しない。

「ん、そうだね。いやてっきりもっとレベルの高い奴かと思ったから」

「自分の研究なんてやってる暇ねえよ」

「一時期は必死にやってたくせに」

「いつの話だいつの」

 ヴィグラスの記憶の中でもそんなことをしていたのは何十年も前、それこそアリスがメイドとして拉致されるよりも昔の話である。忘れっぽい彼女が良く覚えているものだ。自分が過去に仕出かした不始末は綺麗さっぱり忘れているのに。

「あっ」

 そうだそうだ、と魅魔が何かを思い出して小さく手を叩く。

「ちゃんと例の手紙送っといたよ。報告明日にしようと思ってたけどせっかくだから今言っとく」

「おう、それ明日になったら忘れてやがるパターンだな」

「そん時はヴィグラスから聞いてくれるでしょ」

 几帳面なヴィグラスのことをよく知っているからこその一言だが、言われた方は不愉快極まりない。自分を当てにされるのは嫌いだ。他人に頼られてもろくなことがない。

「まあまあ、ちょうど明日からしばらく戻ってくるって言ってたよ」

 ヴィグラスが膨れているのを感じ取った魅魔は宥めるような口調で霖之助からの言伝を伝える。それも面白くないヴィグラスはチッと舌打ちを一つする。だが、告げられた内容自体は本人にとって喜ばしいものだったようだ。僅かに口角がつり上がる。

「そいつは好都合だな。いつ帰ってくんのか分からねえよりもよっぽどいい」

「すぐに行くのかい? まだ魔法も教えてないのに」

「教えてねえからだよ。魔法道具ってのは性能が良ければそれで良しってもんじゃねえ。どれこれ構わず使いこなせんのはお前くらいだ」

 魔法使いらしからぬ魅魔の発言に呆れかえって、そして相手が誰なのかを思い出して。諦観の思いで息を吐く。魅魔に魔法道具の話をしても無駄だ。根本的にズレているのだから。

「え、なんで?」

「相性ってもんがあるんだよ」

 好奇心に満ちた目でこちらを見つめてくる悪霊に顔を引き攣らせながら、彼は丁寧に説明してやる。

「合わないもんは使えねえ。合ってるってのにも程度がある」

 例えば野球選手のグローブやサッカー選手のスパイクを想像してもらえば分かり易いだろう。サイズが違えばそもそも扱うことは出来ないし、サイズが合っていても人によっては使い心地が全く異なる。実力のある魔法使いほど自分に合った魔法道具を好んで使う。ヴィグラスの杖も、霖之助のところへ数年通い続けて共に作り上げた至高の一品だ。或いはアリスの使う人形もその一例と言える。

 魔理沙は天才だ。もう数年もすれば魔法を人並みに扱えるようになるだろう。その時に合わせて魔法道具を与えてやるつもりだった。その時の魔力量ではおそらく妖怪に太刀打ちできないから。人の身で何年修行しようが魔力というものはそう簡単に増えはしない。スペルカードルールに参加させるならその部分を補う必要がある。しかし、魅魔はまだそのことを知らない。だからこそ別の可能性に目を向けてしまっているのだろう。

「私には分からないや」

「お前にはな。知らなくてもいいことだよ、普通なら」

 ヴィグラスの普通とは、魔法使いとしてなのか。それとも人間としてなのか。魅魔には判断することが出来なかった。

 

 

 翌日、ヴィグラスは魔理沙の世話を魅魔に任せて、魔法の森の出口へと向かう。目的地は香霖堂。魔法の森の外れ、妖と魔法使いの境界に構えられた道具屋だ。入口周りには雑多なガラクタが投げ捨てられ、控えめに掲げている看板が無ければ廃屋と勘違いしてしまいそうな埃かぶった外見のせいで、中に人の気配はない。前情報では少なくとも一人は居るはずなのだが、その気配すらないのはおそらく店の奥にある自宅に篭っているのだろう。商売っけのない店主ならば有り得ることだ。

 積み上がったガラクタはヴィグラスから見れば懐かしさを感じさせる外の世界の電化製品であったり、彼が思わず古いと思ってしまうような古代の品だったりと統一性がない。その殆どを彼は説明できるのだが、店主に知恵を貸したことは一度もない。店主の性格からして面倒なことになるのが分かりきっているからだ。

 ヴィグラスが今にも壊れそうな木製の引き戸を乱暴に叩くと、奥の方からどたどたと室内で何かが動く音がする。その音が近付くのを待たずに彼が引き戸を開けると、大きなテレビを跨ぐような格好で青年が止まっていた。ずれた眼鏡を直し、胡乱な目でこちらを見据える。ヴィグラスの白金の髪よりはやや煤けた、灰色に近い白髪をぼさぼさと頭で掻きむしり、青年は唯一整理された机に戻っていく。そのついでに放置されていた椅子を一つ引っ掴んで自らと向かい合うように机の前に置いた。そこに座れ、という意思表示だろう。ヴィグラスもそれに従う。大の男が動いたせいで舞った埃に咳き込みながら、品物と思われる床のガラクタを避けて進む。

「やあ、何年ぶりになるかな」

「最後にあったのは三十年前くらいじゃねえか?」

 その時はどうして顔を合わせたのだったか。もしかしたら杖の整備をしてもらったのかもしれない。あの頃は魔法の森の治安が悪かった。幾つか理由はあるが、一つは先代巫女の人間贔屓に妖怪達が反発したこと。そして、外の世界で細細と暮らしてきた魔法使い達に幻想郷の存在が大々的に知れ渡ったことだ。新参者の中には特に柄の悪い魔法使いが多かった。自分の研究のために篭りきりになることが多い種族だが、他人の研究を奪うことに喜びを見出す輩も少なからず存在する。才能の無い魔法使いはどうにかして這い上がろうともがき、優秀な魔法使いの知識を盗もうとするのだ。悪知恵を働かせれば、世間知らずの不意を討つのは難しいことではない。ハイリターンが待っているなら、危険なことに足を踏み込むのはおかしなことでは無かった。

 狙われる魔法使いの中にはヴィグラスも当然含まれている。ヴィグラスの家を狙うのは流石に無理だと感じたのか、盗人は直接彼を襲ってきた。ヴィグラスも適当に追い払っていたのだが、何度か襲撃を受け、撃退する中で杖の調子がおかしくなってしまった。そこで人里に身を潜めようとしていた霖之助に様子を見てもらったのだ。彼が無理を言うくらいには森近霖之助という半妖は信頼出来た。

 それで、と霖之助が声のトーンを一段階下げる。

「あの子が、君の元に居るというのは本当なのか」

 あの子、とは考えるまでもなく魔理沙のことだろう。霖之助が昨日まで働いていた霧雨道具店は彼女の実家だ。座敷牢にされていたとはいえ、霖之助がその存在を知っていても不思議なことではない。それも見据えてわざと手紙に魔理沙の名前を載せたのだ。そうすれば彼が早くに帰ってくる可能性が高くなるから。

「ああ、あの悪霊が連れてきやがった。色々有って今は俺の弟子になってる」

「返そう、とは思わなかったのかい?」

「返してもらいたかったのか?」

 ヴィグラスが問い返すと霖之助はその端整な唇をきっと結んで黙り込む。霧雨魔理沙が()()()()()()ことはただの人間にだって分かることだ。彼ならその異常性が魔力に依ることも気付いているだろう。そして、彼女を返して欲しいのかと問われれば、店としては要らないと答えることも分かっている。元々が一般に知られていない娘なのだ。居なくなってもらった方が都合が良い。最初から存在しなかった。そうしてしまった方が遥かに楽だ。見つかる可能性も世話をしなければならないという気苦労も無くて良いのだから。霖之助が返答しないのは、自分の答えが倫理的に許されるものでは無いと知っているからだ。半分が人間である彼は人道というものに執着している節がある。人も食べなければ夜はぐっすりと眠ってしまう。人里で暮らし、人に混じるのもある種の引け目を感じているからだろう。

 ヴィグラスにもその心の動きは多少理解出来たが、彼はそんなことを気にする程純粋ではない。むしろ反論が出ないのなら好都合だと話を続けようとする。

「あれの魔力は一応封印したが、まあ将来的には魔法使いになるんだろうな。そこで、だ」

「・・・・・・魔法道具の製作を頼みたい、ということだね。でも、あの子が君の所に来てまだ一年も経ってないだろう。随分性急じゃないか」

「早め早めにしなきゃいけねえ理由があるんでな」

「理由は・・・・・・教えてくれなさそうだね」

「教える必要がねえな」

 スペルカードルールの話はしない。紫は知ってる者は少ない方が都合が良いと話していたし、それが急ぐ理由には繋がらないからだ。ヴィグラスだけが、弾幕ごっこの時代がそう遠くない未来に訪れることを知っている。紫も魔理沙の才能から薄々勘づいているかもしれないが、それが僅か数年の先であることまで予想しているだろうか。彼女もあと十年は掛かると考えている口ぶりだった。だから彼の行動は不可解に感じられるかもしれない。彼女は今ここに来ていない。スキマを使っていれば歪みで分かるから間違いない。

「まあ今すぐってわけじゃねえ。また魔法も使えねえからな。ただ実際に会うなり何なりした方が作りやすいだろ」

「そういう割には既にどんなものを作るか思い付いてるみたいだけど」

「あ? どうしてそうなるんだよ」

「なんとなく、だけど。君がそんなふわふわした注文をしそうにはないからねその杖の時だって大枠は既に君が考えていた。材料の都合と細かな論議でそれなりに時間は掛かったけど」

「・・・・・・チッ」

 霖之助は時々恐ろしい程の勘の良さを見せることがある。流石は幻想郷でも随一の知識人、といった所だろうか。ヴィグラスは無理に隠す必要が無いことを再確認してから口を開く。

「八卦炉だ」

「八卦炉?」

 正確には原作(ゲーム)で霧雨魔理沙が使用していたミニ八卦炉だ。少ない魔力を増幅してくれるあの装置なら魔理沙と相性も良くなるだろう。

「八卦炉というと仙丹を煉るのに使うと言われているあれかい?」

「ああ、魔力を熱に変換して増幅させる。鋼鉄だって焼き殺せる炉だ。魔法道具としちゃ一級品だろ」

「君は全く無茶な注文をしてくれるね」

 八卦炉といえば本来神様が扱うような代物だ。それを神格化されている訳でもないただの半妖に作れと言うのだから確かに無茶だろう。しかし、霖之助は笑っていた。どうしようもなくなった時の乾いた笑いではなく、新しい玩具を見付けた子供のような、無邪気で卑しさも同時に感じさせる笑顔。請け負った、と受け取っても構わないのだろう。

「そんじゃ俺は帰るぜ」

「言うだけ言ってさよならかい。代金はしっかり頂くからね」

「分かってるっての」

 ヴィグラスは来た時と同じように足元に注意しながら店を出ていく。その後ろ姿を見送って、霖之助は椅子にもたれ掛かった。ヴィグラス・ウォーロックという魔法使いが苦手だった。性格に難がある訳では無いが、常に何かを見透かして、そして諦めているような目が変に不安を煽るのだ。例えば今回、ヴィグラスはこの依頼を受けることを確信していた。悟られていたからと言って対応を変える程霖之助は狭量ではなくとも、気分の良いものではない。ヴィグラスが知識として持っている未来を彼は知らないのだから、その反応は自然である。とはいっても、こちらを見透かしたかのような態度を取るのは何も彼ばかりではない。彼よりも頭が回る八雲紫、本当に心を読む古明地さとり。直感だけで真意と真実を見抜いた先代の博麗の巫女に比べればヴィグラスの視線など可愛いものだ。霖之助が嫌うのはその奥にある諦観。全てに絶望しておきながら死ぬことだけを否定する姿勢。それが霖之助には恐ろしい。自意識過剰なのかもしれないが、ヴィグラスの根底に自分と似たものが燻っていると感じていた彼には、自分の末路をまざまざと見せつけられているような気がしてしまうのだ。

 ヴィグラスの過去を霖之助は知らない。いや、この幻想郷に彼の生い立ちを知っている者など居ない。一番付き合いの長い魅魔ですら、二百年と少しの間しか関わりがなく、最も大きな情報網を持つ紫ですら千年以上生きていることと大陸から渡ってきたことしか掴めていない。今のヴィグラスを形作る切っ掛けを誰も知らないのだ。霖之助が初めて会ったのはだいたい百年程前のことだ。突然店にやって来て、杖を作って欲しいと頼まれたのだ。珍しい依頼だと二つ返事で了承した。自分は古道具屋で魔法道具の職人ではないのだが、心得はあったので試してみたい気持ちもあったのだ。何処から嗅ぎつけてきたのかという疑問もあったが、ある妖怪のために道具を作ったことがあったのでそこから噂でも流れたのだろうと深く考えはしなかった。

 そうして完成したのが件の杖だった。二人で長く議論して作り上げた一品だったからか、ヴィグラスは滅多に見ることの出来ない嬉しそうな表情──僅かに口角がつり上がっていただけだが──を見せていた。無愛想な顔に似合わず気風は良い方で、何処からかき集めたのか少なくない金額を払われて自分の方から遠慮してしまいそうになったくらいだ。技術に対する正当な対価だと言われては反論する言葉がなく、素直に全額受け取ったが、それよりも驚いたのはヴィグラスの杖の話を聞き付けた幾多の魔法使いが彼の元を訪れるようになったことだ。その時に知ったことだが、ヴィグラスは魔法使いの中でも一目置かれている存在らしい。千年を生きる、妖怪ならさほど珍しくもない年月が魔法使いにとっては神にも匹敵する偉業なのだと、霖之助に魔法道具の作成を頼みに来た魔法使いは言った。その理由までは話してもらえなかったが、分かったのはその年月によって魔法使いの尊敬を一身に集めているということだった。散々に貶すものも居たが、聞いている限りただの嫉妬でしかなく。憧れの対象である事実は揺るがない。

 その彼が弟子を、それも人間の少女を取ったのは大きな衝撃だろう。弟子入り志願をして手酷く追い返された魔法使いも居た。あまつさえ弟子の魔法道具を直接依頼しに来るなど、彼の人柄を知る者からは信じられない。

 しかし、個人の事情に口を出すほど霖之助は不躾な人間ではない。過去へと落ちていた思考を引き上げ、また別の、彼から感じた違和感の正体の考察にシフトする。

「随分と顔色が悪そうだったが、普段からあんなだったかな」

 しばらく考えても答えが出ないと理解した霖之助は傍らの本を手に取って、すべて忘れるように頁を開いた。

 




次回からはちょっと作品内の時間を進めます。
この調子で行くと無駄に長引いてしまうので、一二年程時計の針を動かしてからのスタートということで


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第5話

半年前から執筆していた作品よりも評価が良くて嬉しいやら寂しいやら・・・・・・

そんなこんなで第5話です。
さらっと前話より時間が進んでいるのでご注意ください。


 彼の目に映るのは赤、朱、紅。三つの色が網膜を焼く。一つは燃え盛る小屋の色。一つは掲げられた旗の色。そしてもはや動かない人の色。血に塗れ、倒れ伏す姿は自分の知っていた物とは余りにもかけ離れていた。少し垂れていて、彼女の優しさを如実に表していた目は痛みによって大きく見開かれている。好んで着ていた若草色のドレスは茜で染物でもしたかのように紅く、もはやどれだけ洗おうと元の色合いを取り戻すことは無いだろう。糸のようにすらりと伸びていた黄金色の髪は振り撒かれ傷付き、色白で無駄な肉のついていない美しい肢体に力は入らず、呼吸の音も聞こえない。絶命しているのは誰の目にも明らかだった。瞼を閉じれば容易に脳裏に浮かぶはずの輝かしい笑顔は、どうやっても彼女の表情とは結びつかない。

 

「あぁ・・・・・・うそ、嘘だろ」

 

 喉から絞り出された声はか細く、誰の耳にも届かない。いや、例えはち切れんばかりの勢いで叫んだとしても最も届けたい相手は答えてくれないだろう。信じられない、信じたくない。こんな光景を想像しないわけではなかった。むしろ今までこうならなかったことの方が奇跡に近いと分かっていた。しかし、そこに倒れているのは自分の筈だ。けして皆に愛されていた彼女ではない。馬鹿にされ続け、忌み嫌われていた自分の方が殺されるべきだったのだ。だってそうでないと不公平ではないか。

 魔法の技量は彼女の方が上だった。人々の助けになっていたのも彼女だ。自分はただで後ろをついて回って見ていただけだ。彼女の近くに居て、彼女と同じことをした気持ちになっていただけだ。愚鈍で卑怯なのは自分。それなら、罰を受けるのは自分の方だろう。それなのに、槍で貫かれたのは彼女で、自分は糸の切れた人形のようにへたりと地面に座り込んでいる。

 

「魔女は死んだ! 魔女は死んだ!」

 

 戦闘に立ち、赤い十字の旗を掲げる男が声を張り上げる。いつも自分たちに良くしてくれた青年だ。歳は彼よりも遥かに下だが、彼よりも遥かに大人らしく、いつも皆のまとめ役だった。たった一ヶ月前までは気さくに笑いかけてくれたのに今は鬼のような形相で後ろに続く人間を扇動し、自分を殺そうと近寄ってくる。その途中、両者を結ぶ線にある彼女の体は、何の躊躇もなく踏み躙られた。ぎしゃり、という悪趣味な音に嫌な顔を浮かべる者は居るが、罪悪感を感じているのは誰一人として居ない。あの少女がほんの少し前まで自分達と陽気に過ごしていたことなど忘れてしまったかのようだ。何が楽しいのか笑い声まで聞こえる。人間は自分達が何を殺したのか理解しているのか。理解した上での嘲笑なのか。

 

 彼女が何をした。彼女は確かに魔法使いだ。魔女と言い換えることは可能かもしれない。しかし、彼女が扱っていたのは治癒魔法だったし、魔法を使うことを好まず、長年集めた薬草の知識で村に貢献していたはずだ。巷で流行っている病と彼女は何の関係もないというのに、人間達は結びつけてしまった。何故だ。魔女とはそれだけで虐げられなければ、殺されなければいけないのか。

 

 ()()使()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ぞっ、と背筋に冷たい物が走った。囁きかける自分の声が何処か遠くから聞こえる。絶望を知った弱虫な魔法使いが感じたのは恐怖ではない。

 有り得ない光景、彼の中であってはならない光景。どうしてこうなった、自分達は悪くない、悪いのは、悪いのは奴らだ。人間だ。

 魔法使いとして生まれ落ちて初めての情動。怒りなんて生易しいものではない。大罪たる憤怒(ira)でもまだ足りない。殺意という言葉を使うことも躊躇われるほどの負の感情。熱狂的な雄叫びを上げていた人々も彼の異様さに気付き、立ち止まる。神の御旗を掲げる者が恐怖に脅えるのか。自分達は神の代行者だと嘯いておきながら、少しでもこちらが目を向ければメドゥーサに睨め付けられたかの如く動きを止める姿は三流の喜劇よりも滑稽だ。彼も脆弱な肉塊を嘲笑う。

 彼の身に宿るのは彼ではない彼。失われることのない悪意。全てを飲み込む絶対的な感情。目の前のガラクタを砕いて粉微塵にして、そして塵芥を固めてもう一度叩き潰し、冒涜してもなお足りない怨念が彼を覆い隠す。

 

「・・・・・・壊す」

 

 殺す、とは言わなかった。そんな言葉を使うだけの価値もない。殺されるのはイキモノだけだ。この男達が生物を名乗るなど烏滸がましい。立ち上がり、屍喰鬼(グール)のように曲がった背でゆらりゆらりと歩く。でくの坊と馬鹿にされた大きな図体も、悪鬼の雰囲気と重なれば容易く恐怖の対象になりうる。幻想の世界でも夢物語と謳われる悪魔、返り血を浴びて純白の髪の一部分だけが赤黒く染まりきった彼の姿は、神への冒涜者そのものを思わせた。

 

「こ、殺せ! 我らが神のた────」

 男の上擦った声が途中で途切れる。火が映し出す影が不気味な姿を見せた。司令塔を失った体は瞬時に物言わぬ肉塊へと変わる。立つ意志がそこに無いのだから、首無しの身体が重力の働くままに地面に崩れ落ちるのは誰でも理解できるはずだった。しかし、彼らは支えようとも、避けようともしない。誰も何が起こったのか分からなかった。ただ、忽然と男の首が消えた。まるで最初からそこに存在しなかったかのように。二枚の写真を続けて見せられた、そんな表現が最も近いだろう。非現実的な光景は他の人間をフィルムの外へ追いやってしまった。そのせいで、吹き出した血が彼らの顔に勢い良く降り掛かっても、愚鈍な人間達は現状を理解するのが追い付かない。

 

 そして、その間は明らかに致命的であった。

 

「みんな・・・・・・ぶっ壊してやる」

 低い呻きと共に彼がまた足を踏み出す。まだ距離があるのに、彼の持つ悪意によって彼等の間にある空間は、たった一歩で繋ぎ止められていた。捕食者が、殺人鬼が、逃れようのない天災が目の前に姿を見せたことでようやく事態を把握した人間(愚図)共が慌てふためき、彼に背を向けて逃げ惑う。人間の誇りはそこには無く、在るのは生物としての下等な生存本能だけ。さっきまでの威勢を完全に失った姿を見て、彼は静かに笑い、そして──────

 

 

 じっとりと湿った掌を見つめ、ヴィグラスは荒い息を整えないまま体を起こした。息は切れ、心臓が何倍も大きな音で脈打っているのが分かる。全身が雨に降られたかのように汗で濡れているのが気持ちが悪い。寝ている間に叫んでしまわなかったか、という彼の懸念は、魔理沙がこちらに来る気配が無いことで解消される。彼女が起きてこないということは、おそらく声を上げてはいないのだろう。助かった、と彼は安堵した。こんな姿を見られるわけにはいかない。今の自分を鏡で見たならば、思わず叩き割ってしまうほどに軟弱で悲愴な表情をしていることだろう。そんなことは容易に想像できた。

 

 汗が冷えてしまうのは体に悪い。まだ夜が完全に開けた訳では無いが、タオルで体を拭くだけでもしてしまおうと彼は自分のベッドからのそのそと歩き出す。自分の足が床を僅かに軋ませる音が廊下に響くが、反応する者は誰も居ない。魔理沙はまだ寝ているし、魅魔も最近は毎日という程の頻度では来なくなっている。魔理沙を弟子に取ってから既に二年の月日が経過しているのだ。魔理沙のことを気にかける必要はなくなったと考えたのか、それとも単に飽きてしまったのかは定かではないが、ヴィグラスにとっては様々の意味で都合が良かった。

 居間の箪笥から白いタオルを取り出し、簡素な寝間着の上を脱ぐ。傷だらけで、魔法使いらしからぬ鍛えられた身体が現れ、三日月よりも少しだけ大きな月の光に照らされる。上着は汗をしっかりと吸い込んでいて、再び着る心持ちにはなれない。それならばいっそ上も下も履き替えてしまえと新しい寝間着も続けて取り出す。箪笥を閉めると、ぎぃ、と嫌な音がした。周りを気にしてから上半身を拭き、上を着てからズボンを脱ぐ。完全に着替え終わった後、ヴィグラスは寝床に戻ろうとしたのだが、眠気はもう何処かに雲散霧消していた。夢を見た時にすっかり醒めてしまったのだろう。これではどうやっても眠れそうにはない。

 

 そう、夢。夢だ。どうしてあの夢を見たのか。ここ二百年は見ないで過ごすことが出来たというのに、魔理沙が来てからはもう三回目だ。彼女の存在が記憶を呼び覚ます切欠になってしまったのか。さらに伸びた髪を三つ編みにした、彼女の後ろ姿は確かに似ているかもしれない。活発な姿も近いと言えば近いだろう。しかし、ヴィグラスは魔理沙にその姿を重ね合わせたことは無い。もうずっと昔の事だ。今更思い出すほうがおかしい。そう心では理解していても、夢の中には彼女が変わり果てた姿で現れる。口汚い言葉で罵ってくれれば楽なのに。貴方は悪くないと優しく微笑みかけてくれれば自分はこんなにも苦しまずに済むだろうに。彼女は何も言わない。ただ体を血に染めて彼にこう囁くのだ。()()()()と。彼に対して言っているのか、それとも突然牙を向いた世界に対しての言葉なのか、ヴィグラスには見当がつかない。だから彼は自らを縛る鎖から抜け出すことが出来ずに、正確に言えば捨てる決心を出来ないでいるのだ。

 

 駄目だ、昔のことを考えないようにしなければ。過ぎたことなのだから、もう引き返せないことなのだから。いつまでもそんなことを気にしては気分がもっと重くなる。弱った心が自分にまた悪夢を見せてしまうのだ。

 ヴィグラスは寝間着のまま扉を開けた。どうにかして息苦しい今の感情を変えたかった。外に出ると爽やかな春の夜風が乾き切らなかった肌に当たる。固まった体をほぐすために大きく伸びをすると、服の中を擽るように風が通り抜けた。もう冬は過ぎたとはいえ、まだ夜風は冬とそう違いが無い。脇腹を急に冷やされたヴィグラスはゴホゴホと咳き込んでしまう。体の弱い魔法使いに夜の寒風は少し辛いものだ。ヴィグラスは喘息は持ってないが、それでも体の良い方ではない。

 

「やっぱ、春はまだ冷えるな」

「そんな薄着をしているからではなくて?」

 

 ヴィグラスの鼓膜を揺らしたのは彼の苦手とする妖艶な女性の声。やって来たのはつい先程だと分かっていても背筋が凍るような威圧感と、含みを持たせた喋り方のせいで、ずっと前から見張られていたのではないのかと不安に心を掴まれそうになる。しかし、それを表に出す程ヴィグラスは若年者ではない。長く生きるモノは得てして相手の恐怖心を煽ってしまう。それが望むにしろ望まざるにしろ、強者を強者たらしめているのだ。呼びかけられただけで(おのの)いていては食い物にされかねない。それを理解しているヴィグラスは意識して普段と変わらない口調で答えた。

 

「・・・・・・そいつもあるかもしれねえが、大妖怪サマが後ろに突然現れたから怖気が走ったのかもな」

「デリカシーの無い人。こんなか弱い少女に怖気だなんて器が知れますわよ?」

「さらに怖気の走るようなことを言うんじゃねえよ。アンタが少女だなんてタチの悪い冗談だ」

「へえ、面白い事言うのね」

 

 ヴィグラスに掛かる重圧が途端に膨大になる。彼の皮肉が八雲紫(しょうじょ)の癪に障ったのだろう。無論脅し以上の意味は無いのだが、発せられる妖力は並大抵のものではなく、ヴィグラスも今まで感じたことのない規模だ。流石幻想郷最強と噂されるだけのことはある。天狗を上回り、吸血鬼すらも上回る。鬼と戦ったことは無いが、それにも比肩するとみて間違いない。ヴィグラスは内心冷や汗をかく思いだったが、表情は変えず、むしろ不遜な態度を貫き通す。

 

「は、それで怒る時点で認めたようなもんだ」

「ほん、っとうにデリカシーが無いわね」

 紫が放っていた妖力を萎ませる。彼の胆力に認めたのではなく、強情さに呆れてしまったようだ。ヴィグラスはまた汗で冷えてしまいそうな体を翻して彼女の方へ立ち直る。左手にはいつの間にか愛用の杖が握られており、右手には羽ペンが構えられている。臨戦態勢、という言葉の相応しい格好に紫はくすりと笑みをこぼした。馬鹿にしたのではない。大妖怪に片足踏み入れるだけの実力を備えているのに、けして気を抜かないその姿勢に感心したのだ。力を持つものには油断がある。余裕を持つ事が実力者の特徴だ、とも言われる程だ。隙を突かれた程度ではびくともしないのが彼女達なのだから、心に緩みがあるのは当然だろう。

 しかし、ヴィグラスは違う。前世の記憶を色濃く受け継いでいることと、自身の経験のせい。そして大妖怪を前にしているという事実を冷静に認識する頭があるからこそ、彼は友好的な相手にも気を許さない。笑われたことも彼は眉を顰めるだけでやり過ごした。

 

「お願いがあるのだけれど、聞いてくれるのかしら」

「突然後ろに回り込むような奴が信用出来るとでも?」

「非礼はお詫びしますわ。だけど、これは貴方にしか頼めないのですもの」

「・・・・・・例の新ルールの話か」

「ええ」

 

 弾幕ごっこ、と言い掛けてヴィグラスはやめた。少なくとも今の名付け親は自分であるが、迂闊なことを口に出すのを恐れたのだ。自分が決めてしまった名称に一種の気恥ずかしさがなかったといえば嘘になるが、それは些細なことである。

 ともかく、紫が広めようとしているスペルカードルールの話である事はすぐに分かった。そして自分にしか頼めないこと。それだけでどんな頼みなのかは想像が付く。彼女の式(八雲藍)では駄目なこと。とでも言ってしまえばいいのだろうか。

 

「私と弾幕ごっこをして頂けませんこと?」

「なんで俺なんだ」

 

 即座に返した答えは否定でも肯定でもなく疑問。少女の遊びなのだから男の自分が出てくるのは不自然だろう。八雲藍は主人に対して全力を出せないから仕方が無いとしても、幻想郷に有力な女妖怪は幾らでも居る。原作の知識を取り除いても、風見幽香や射命丸文の噂は何度も聞いたことがある。何も自分である必要は無い。もしくは博麗の巫女とやってもいい。どうせ天才なのだから自分よりも上手いことやってくれるだろう。

 紫はどう答えるのか。ヴィグラスは彼女が口を開くのを待つ。どのような理由なのか。妖怪の賢者ならばそれ相応の理由がある筈だ。ただ思いついたから、だなんてありふれた理屈の欠片もない答えは望まない。

 

「一つは、貴方がこの事(スペルカードルール)を知っている数少ない存在であり、最も実力を備えていると思われるから」

 

 それは想定内の模範解答。これだけなら肩透かしだ。ヴィグラスでも簡単に思いつく。もしそれだけならば彼は魅魔にでも押し付けるつもりだった。どうせやるということは魔理沙と、未だ会ったことのない今代の巫女、博麗霊夢にも見せるつもりだろう。それならば十中八九魅魔もついてくる。そうすればスペルカードルールのことを知ることになる。先にしようが後に回そうがたいした違いはない。それならば彼女の方が本来の意味からして適任だ。弾幕ごっこはあくまで女子供の遊びでしかない。そこにヴィグラスが介入する道理はない。

 しかし、一つというからには他にも理由があるということ。ヴィグラスは固い表情のまま次を促す。紫は珍しくもしばらく躊躇うポーズを見せ、端正な唇をゆっくりと開いた。

 

「貴方が、誰よりも()()()弾幕を見せてくれると思ったから」

 

 言葉が出なかった。ヴィグラスには弾幕ごっこについての知識があるのではないか、と紫は言外にそう聞いたのだ。それもある程度の確信を持って。自分に知識があることがばれたのか。一体何処から。それに例えミスを犯していたところで、そんな荒唐無稽な結論に至るわけがない。未来の知識を持っているなど、彼女のような聡明な者ならば尚更自分の論の馬鹿馬鹿しさに笑いをこらえられないだろう。何故ならば、未来とは定まらないモノだ。予定説なんて都合のいい理論は的外れで、特に彼女のように世界の理に干渉することの出来る能力を持つならばそのことは痛い程よく知っているはずだ。それならば、どうして。

 目を見開かせたヴィグラスは目まぐるしく回る思考を一点で止まらせてしまい、咄嗟に取り繕うことも出来ない。それを知ってか知らずか、紫は一つ一つ言葉を選んで区切りながら話す。その様子はさながらブロックを崩さずに積み上げようと気を張っている幼子か。微笑ましくも取れる動作も、ヴィグラスにとっては詰めを確実にするために一手を考える智将に見えてしまう。

 

「確証はありませんわ。理由も分からない。だけど貴方は弾幕ごっこを知っている。私にはそう思えてならない」

「・・・・・・どうしてだ」

 やっとのことでヴィグラスは反問の言葉を捻り出す。

「分からないと言ったでしょう。でも、そうね、あえて述べるならば、弾幕ごっこという言葉。貴方はまるで最初から知っていて口にしたように見えた」

「そんな理由かよ」

「ええ、そして今の態度で確信に変わったわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ヴィグラスは答えない。答えられるはずがないだろう。知られてはならない相手に気付かれてしまったのだ。様々な感情が頭の中で交錯し、絡まり合い、形にならず共倒れする。

 

「勘違いしないでほしいの。私は貴方の素性について詮索するつもりはありませんわ」

「・・・・・・あ?」

「貴方が例え何を知っていたとしても、おそらく私には過ぎた知識でしょう。扱えないものを手元に置いておけるほど私は肝が据わってない」

 それに、と紫は続ける。

「せっかくの有力な協力者をそんなことで失うなんて、勿体無いと思わない?」

「厚い面の皮で良く言うぜ」

 

 いつものように嫌味を返してはおくが、ヴィグラスには紫が心にも無いことを言っているようには聞こえなかった。信用されているとも受け取れる。彼が警戒を解かないのは彼女に問題があるからではなく、中身が単純に納得出来ないからだ。

 一つ目は理解出来ない答えではない。八雲紫が何処まで知っているかも分からないヴィグラスの記憶を恐れるのは自然なことだ。強大な(知識)は取り扱いも困難を極める。それが自分の未来も含めてのものなのだから、普通なら場を引っかき回して本来よりも劣悪な状態にしてしまうのが関の山だろう。ヴィグラスは八雲紫ならば自分の思いもよらない使い方で悪用するのではないか、という憧れめいた意識がどうしても頭か離れずに警戒していたが、彼女本人が出来ないと述べただけのことだ。そこに嘘を吐く必要性はない。どちらにしろヴィグラスに教えるつもりは無いのだから。

 しかし、二つ目の理由はどうか。文面通りに受け取れば、紫がヴィグラスのことを高く評価している、それだけのことである。そう多く顔を合わせた訳でも無く、自分など赤子の手を捻るよりも簡単に殺せそうな相手から出る言葉だとは思えない。そもそもヴィグラスは表にはあまり出さないものの自分の実力を酷く下に見ている。彼の大妖怪に認められるだけの力を自分は持ち合わせていない。だから彼にとっては不自然で不可解なことに感じられる。

 

「謙虚なのは良いけれど、自分の実力を測り間違えるのは矮小な相手のすることよ」

「自分のことは自分が良く分かってる。実力があれば何でも出来るわけじゃないってこともな」

「そう。だから私は貴方を高く評価するのよ。感情的で冷静で、相反する二つを持ち合わせている。私には到底真似出来ないわ」

「それで褒めてるつもりか。とんだお花畑だな」

「私としては素直に褒めているつもりよ」

 

 あっけらかんと答えられてヴィグラスは沈黙する。八雲紫とは自分が思っているよりも子供っぽい性格だったのではないだろうか、という仮説が彼の頭をよぎる。彼女の言動全てにおいて自分は深読みし過ぎているのかもしれない。少なくとも、目の前の少女は相手を手の平で転がすとか、言葉巧みに騙すとか、そんなことは好まない性格であることは確かなようだ。そんなことをするくらいなら大真面目に頼むか、力ずくで言う事を聞かせるタイプらしい。ある意味では大妖怪らしく、妖怪の賢者としてはそれらしくない。策を練らないその在り方はヴィグラスにとって好感が持てるものだった。誰もを不快にさせる言葉選びも対等に軽口を叩く相手を望んでいるからと捉えれば受け流すことが出来る。

 

 ヴィグラスの紫に対する疑念は初めて会った頃に比べればかなり薄れていた。心を許すことはなくとも、一々言葉の裏を探す必要は無い。こうしてヴィグラスに自分を信用させることまでが全て計算のうちだとしたら相当なものだ。ヴィグラスも多くの人間を、妖怪を、魔法使いを見てきた。それを欺けるのならば、気を付けた所で彼女の思惑を防ぐことなど不可能だ。だったら警戒するだけ神経の無駄遣いというものだろう。こんな腹の探り合いも必要無い。騙すか騙されるかの戦いをしていたのは彼の方だけだろうが、彼が負けを認めたのだ。憎まれ口で本心を覆い隠すことなどしなくていい。

 彼は詳しい話くらいは聞いてもいいと思い始めていた。

 

「話を戻すか。俺と例の新ルールを試したいって話だったな」

「そう。博麗霊夢。今の博麗の巫女と貴方のお弟子さん。その二人に弾幕ごっこを見せてあげたいの」

「そいつを皮切りにしてスペルカードルールとやらを普及させていくってか」

「これからの幻想郷を導くのは彼女達だと思いません?」

「それは完全に同意見だ」

 

 新しき者には新しき役割が、古き者には古き者なりの役割がある。八雲紫のことを古いとは欠片も思わないが、博麗霊夢や霧雨魔理沙が未来を作っていく新しき者であることは疑いようがない。一つの時代に生まれた別のベクトルの天才同士、そこに運命によって定められた歯車が無いはずがない。時代の変革期である、ということだ。幻想郷にとってだけのものか、それとも外の世界すらも巻き込む規模にまで達するのかは分からないが、ヴィグラスも歯車を回すために動くことはやぶさかではない。古き者として、知識を持つものとしては当然の帰結だ。

 

「まあ、構わねえよ。無償で動かされるつもりもねえがな」

「それはもちろん。何がお望みかしら」

「賢者の石」

 

 賢者の石とは錬金術における伝説の物質。卑金属を金属に変えることが出来るとも、不老不死をもたらすとも言われるが、ヴィグラスの告げた賢者の石とはそんな都合の良いものではない。実際の賢者の石とは高純度の魔力を大量に保持した自然界の結晶。普通魔力を閉じ込めようとすれば多かれ少なかれ、影響が出て本来の魔力とはかけ離れてしまうものである。しかし、自然に作られた賢者の石はまだ染まっていない真っ白な魔力を含んでいる。そのため、魔法使いの間では最高の触媒とも呼ばれる貴重品で、金塊に換算しようものなら山一つ分は悠に消えるだけの価値を持つ。間違っても軽々しく要求するものではない。

 ヴィグラスはこの要求が通ることを確信していた。八雲紫の能力ならば賢者の石を作ることが出来るからだ。境界を操る程度の能力はただ魔力が込められただけの石を賢者の石に変えることなど造作もない。そして、紫もさして迷う素振りを見せることなく了承した。

 

「良かった。貴方に断られたら代わりを探すのに苦労する所でしたわ」

 ほっとした表情を浮かべる少女の姿は、さっきまでの大妖怪ではなく、本当にただのか弱い少女にも見えた。

 

「それでやるったって何時にするんだ。あまり早くにやるなんて無理だぜ」

「それもそうねえ」

 

 彼にスペルカードの構想が無かった訳では無いが、頭の中だけのものを即座に実体に変換できる訳では無い。実際に使用したことがない状態ならば、修正を含めて最低でも三日、魔理沙に魔法を教えながらになると一週間は作成に要する。紫だっていつでも時間を取れるわけではないだろう。幻想郷の管理者としてするべき仕事はけして少なくない筈だ。

 紫はしばらく扇で口元を隠し、考える素振りを見せる。頭の中のスケジュールを整理しているのか、即答はしない。うん、と唸ってから次の満月の日、太陽が頭上に昇っている頃でどうかと聞いてきた。次の満月の日と言えば十日後のことだ。スペルカードを作るには充分な猶予だろう。

 

「博麗神社に来てくだされば大丈夫ですわ。参拝客なんて来ませんもの」

「主でもないのに言い切るのかよ」

「主より詳しいのだから当たり前じゃない?」

 

 紫が誇らしく答える。主より詳しいとは随分と尊大だが、誰よりも博麗神社と長く関わっているのは、祀られている誰とも知らぬ神様を除けば彼女なのだから、本当に自分が詳しいと考えているのだろう。

 

「俺にはどうでもいいことだけどな。とりあえず、そういう事で良いんだな。これで終わりなら俺はそろそろ寝させてもらうぜ」

「ええ、おやすみなさい」

 

 まさかされるとは思っていなかったのか、別れの挨拶にヴィグラスは少し戸惑い、そして一言も返さずに家の中へと戻っていく。無礼な態度にも紫は腹を立てることなく、スキマを開いて夜の闇に消えていった。

 




次回弾幕ごっこ(かもしれない)


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第6話

大変お待たせしました弾幕ごっこの開始でございます。

やはり戦闘描写は慣れないものですねぇ


 森の中の開けた場所、太陽を塞ぐように生い茂る木々から逃れた日光が照らす中、少女が杖を構えている。鍔の広い黒帽子は彼女には合っていないのか、少しずらすと視界を覆ってしまう。西洋風の白黒の衣服を纏い、杖の先端を正面に向け、両足で立つ姿は魔法使いと呼ぶに相応しい。緊張で鼓動の音が大きくなる。散らされそうな意識を集中させると、ゆっくりと息を吐いた。再び空気を取り込むだけの心の余裕は彼女には無い。頭がくらくらするが、杖の切っ先は絶対に動かさない。僅かな揺れが命取りになる。そんなことはないのだが、完璧主義者の彼女は一つのミスも許せない。彼女は身体中が酸素を求めるのを我慢し、最良のタイミングを待ち続ける。

 時間にしては数秒もない。しかし、ストーブに手を当てている時間が長く感じられるように、彼女自身は何分も経っているような錯覚を起こす。いつまでも続くのではないか、そんな彼女の不安は訪れた好機によって拭い去られた。今しか無い、彼女はそれを逃さず、しっかりと掴んで話さなかった。

 

「ナロースパーク!」

 

 甲高い叫びと共に魔法陣が展開される。杖を中心として円型に広がる魔力が青く光り、張り巡らされた網目に込められた意味を連れて再び中心に戻ってくる。そこから放たれるのは一条の雷光。かつて見た光よりも一回り小さな線だが、確かにそれと同じ光が目標に向かって伸びていく。横に走る稲妻が向かうのは、彼女が睨みつけていた視線の先、地面に突き刺さり建てられた木製の的。如何にも手作りといった、壊れることを前提にした的をナロースパークは轟音を鳴らし吹き飛ばす。粉々に砕け、焼け焦げた破片が周りの木々を襲い、強靭な生命力に跳ね返される。その幹には既に何本かの破片が刺さっていた。

 当の少女は緊張の糸が切れたのか、呆けた表情でその場に座り込む。腰が抜けてしまったのか、まだ自分の成果を信じることが出来ていないのか、すぐには立ち上がることが出来ない。それでも、やがて現実に思考が追いついてきて、少女は喝采の声を上げた。彼女にとって初めての成功だった。魔力を扱うステージは楽に乗り越えたのだが、それを実践で使える魔法にまで形作るのに半年以上の時間をかけていた。ずっと挑み続けていた課題を解決した喜びは一塩だろう。彼の師匠に言わせれば、半年程度で身に付けることに先ず無理があると答えるだろうが。その師匠は今は居ない。用事があると言って朝から出掛けてしまったからだ。師匠に成果を見せることが出来なかった事だけが惜しまれるが、帰ってきてから見せればいい、と彼女は一人納得する。

 

「上手く行ったじゃないか」

「はい、魅魔様!」

「最初は本当に出来るのか、って感じだったけど。どうにかなるもんだね」

 

 師匠ではないが、同じくらいに尊敬している相手。自分を薄暗い世界から連れ出してくれた恩人。或いは洒落を込めて恩霊とでも呼ぶべきか。本人は自らのことを悪霊などと名乗っているが、おぞましさなんて何処にも無い緑髪の少女。

 魅魔は座っている魔理沙の頭を撫でてやる。師匠であるヴィグラス・ウォーロックが飴と鞭でいう鞭ならば、魅魔は彼女にとって飴に近い存在だった。ヴィグラスが別段厳しい修行を貸すことは無いが、何処か距離を取られていることは魔理沙も理解していた。親身になってくれていることはなんとなく分かる。しかし、彼女だってまだ甘えたい年頃だ。親のように接してくれる魅魔に懐くのは当たり前のことだろう。

 

「魅魔様はお師匠様が何処に出掛けたのか分かりますか?」

「ん、知ってるよ」

 

 魅魔は日光を手で遮りながら、太陽の位置を確認する。夜明けからは随分時間が経ち、そろそろ昼時に差し掛かる頃合いだ。

 

「ちょうどいいし、そろそろヴィグラスに会いに行こうか」

 

 悪戯を隠した子供のように魅魔は笑う。幼い魔理沙にはまだその意味が分からなかった。

 

 

 悪霊が少女を連れて空を飛ぶ。体に負担をかけないためのゆったりとした飛行は、人間の少女にとって二度目の光景だった。遠く届かない雲がいつもよりも大きく、近く見える。うろこ雲が小さく区切ったパンの一欠片なら、太陽は宙に舞うくずを面白おかしく照らし出す部屋のランタンだ。雲を掴むようとはよく言うが、そんな無理難題も今なら出来る気がした。

 

 見上げた後は、当然地上を見下ろす。地に足を付けて立っていた魔理沙には、天と地の境目から見える光景は目新しい。初めて空中散歩に連れられた時は周りを楽しむ余裕なんて無かったから、こうして遊覧飛行している実感が未だ感じられない。今でも一人で足を踏み入れること躊躇ってしまう、恐ろしくて、広大な魔法の森は手の平に収まるミニチュアになり、簡単に握り潰せてしまいそうだ。試しに伸ばした右手を何度か開閉させてみる。パーの時は指の隙間から見えていた緑が、グーに握られた時には綺麗すっぽり消えてしまう。それが面白くて何度か繰り返していたが、手を避けてみるとあっさりと恐怖の森は復活してしまった。少し残念な気持ちになりながら、揺らされ続けるのにも飽きた魔理沙は自分を抱き抱えている魅魔に話しかけた。

 

「何処に向かってるんですか?」

「んーとね、博麗神社」

「えっと、博麗神社って、あの博麗神社ですか?」

 

 博麗神社の名前は魔理沙も聞いたことがあった。というよりは、幻想郷に住むもので知らない者はいないだろう。結界を維持するための博麗の巫女が住まう神社。そこに住むのは妖怪と人間の調停者(バランサー)であり、先代においては疑うまでもない人間の味方。間違っても魔法使いが立ち寄るような場所ではない。敬愛する師匠に何かあったのだろうか、と不安が頭の中をよぎるが、まさかヴィグラスに限ってそんなことはないだろう、何より、ヴィグラスに危険が及んだのなら魅魔が黙っている筈がない、と思い至り安堵する。

 

「さ、そろそろ到着するよ」

 

 魅魔が指を差す方へ首を向けると、大きな赤い建造物を遠目に確かめることが出来た。二本の柱に乗せられたようにもう一つの円柱がくっついている様は門のようなものだろうか。端的に言えばそれは鳥居であったのだが、一般常識が欠けている魔理沙には表現する言葉が見つからない。

 

「あれは、なんて言うのですか?」

 

 魔理沙が魅魔に尋ねる。小さな魔法使いは誰かに質問することに躊躇いを覚えない。人に聞くことを恥ずかしいと思わないし、そんな無価値な自尊心で学ぶ機会を失うのはとても勿体無く覚えたからだ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とはよく言うが、それを素知らぬ顔で実践できるのが魔理沙の長所であった。

 

「あれは鳥居だね。一般的には人間の世界と神の世界を分断するものと考えられているものだ。天照大御神を天岩戸から引きずり出すために鳴かせた常世の長鳴鳥にちなんだ鳥の止まり木だとされてるね。一説には、神社が作られる前にもうあったらしい」

 

 些か専門的知識も混ざった魅魔の説明にも魔理沙は熱心に聞き入っている。二人とも好奇心旺盛であるから、その知識はいつも深い領域まで入り込む。ヴィグラスも同じような性格なのだから、これは彼に影響されたものかもしれない。彼自身は否定するだろうが。

 

「降りるよ。しっかり捕まってな」

 

 そうこうしている内に、鳥居は眼前まで迫っていた。魅魔が速度を落として少しずつ降下する。元々がそれ程の速度ではないのだが、体の軽い魔理沙はそれでも吹き飛ばされそうになる。肩にがっしりとしがみついて、魅魔も魔理沙を抱き寄せて鳥居の前に降り立つ。

 

「わあ・・・・・・」

 

 思わず感嘆の声を上げる。博麗神社の赤鳥居は外の世界に存在するという他の神社と比べても巨大だ。魔法の森にある樹齢何千年という木と比較してもその大きさは色褪せることはない。まして、魔理沙は大木以外に大きなものを見たことが無いのだ。その存在感に圧倒されるのは当然であった。

 魅魔に手を引かれて、鳥居をくぐり抜けると、またしても大きな建物が彼女を出迎える。それは神社の本殿であり、博麗の巫女が独りで住む巨大な家であった。ヴィグラスの家だって、三人が寛いでいても狭苦しさを感じない程度には広いはずだが、目の前の屋敷はその家がいくつも入ってしまいそうだ。博麗の巫女はここに一人で住んでいる。

 寂しいな、と魔理沙は思った。家が広いとなれば羨ましがるのが子供の常だが、そんな感情を抱いたのは、魔理沙が一人きり閉じ込められていたからかもしれない。自分が居たのは狭い部屋だったから、取り残されたような孤独は感じなかったが、この広い家に一人で暮らしていたならば、心の奥に巣食う孤独はどれだけのものだろうか。

 

「遅かったな」

 

 賽銭箱の上で足を組み、頬杖をかいていたヴィグラスがぶっきらぼうな声で二人を出迎えた。神をも恐れぬ所業だが、本人からすれば紫に勧められたから座っていただけに過ぎないし、本来怒るべきはずの博麗の巫女は、紫が賽銭を入れたらあっさりオーケーを出した。本人は降りるに降りられずにただ憮然としていただけである。そういう意味ではヴィグラスは彼女達の来訪を歓迎していた。

 

「これでギャラリーは揃いましたわね」

 

 今度はヴィグラスの横からスキマを広げて境界の大妖怪が現れる。傍らにはヴィグラス以上にむすっとした顔の、紅白衣装が特徴的な少女も引き連れて、いつものように扇子を口に当てて隠しながら一礼した。魔理沙は新たな来訪者に怯え魅魔の後ろに隠れ、魅魔も彼女を庇うように立つ。魅魔と紫の間に面識はない。妖怪の賢者についての噂は聞いていたし、今回顔を合わせることも知らされていたが、たとえヴィグラスの紹介と言えど油断はしない。なにしろ、自分達に欠片も悟らせず彼に接触し、ここまで話を進めていたのだから。ヴィグラス自身が気付かれないように気を配っていたとはいえ、警戒するのは当たり前だ。

 礼を終えた紫は扇子を閉じ、凛とした声で話し始める。

 

「初めまして。私、今回の催事を取り仕切らせていただく八雲紫と申しますわ」

「あたしらはヴィグラスに呼ばれてきたんだけど。アンタが面白いものを見せてくれるってことで良いのかい?」

「ええ、正確には私と彼の二人が、ですけれど」

「弾幕ごっこ、だったっけか。ヴィグラスから軽く説明は受けてるけど、どうしてあいつなんだい? 妖怪の賢者様なら幾らでもお相手は見つかるだろうに」

 

 魅魔の質問は、ヴィグラスがしたものと大差ないが、その意味合いは大きく違う。彼女の質問はいわば八つ当たり、自分の預かり知らぬところで動いていた計画に機嫌を悪くしているだけだ。彼のように機知に富んでいるわけではない。だから、紫も本当に大切な部分は話さない。それを話すことはヴィグラスからの信頼を失うことだから。彼女がどこまで理解しているのかは分からないが、少なくとも連れて来られた霧雨魔理沙はヴィグラスについて何も知らないだろう。彼の有用性を理解していればこそ、彼女に対してはぐらかすのは道理である。

 

「だってお友達が少ないんですもの。お相手が居たって弱くては話になりませんわ」

「へえ、大妖怪のくせに交流関係は狭いんだ」

「魔法使いよりは多いけれどね」

 

 引き合いに出されたヴィグラスはフンと鼻を鳴らし、皮肉の一つも返さないまま空へ浮かび上がった。愛用の黒いマントが風にたなびく。魔法使いなら帽子でも傾けそうな流麗な動作だが、生憎と彼は帽子嫌いだ。代わりに白銀の髪を根本からいじる。早くしろ、とそう告げる無愛想な魔法使いの主張に、悪霊を弄んでいた大妖怪は名残惜しそうにそれに応える。紅白の少女に二、三言話しかけて、彼女の背中を魅魔達の方へ押し出す。軽い体を押しやられた少女が文句を付けようと振り向いた時には、紫は既に扇子を畳んでスキマの中に潜っていた。

 

「前座はお嫌いかしら」

「つまらねえのはな」

 

 冗長なのは性に合わない。杖を構える彼から十分な距離を取って、何も無い空間から現れた八雲紫も相対する。彼女の纏う雰囲気が変わる。信用ならない奇妙な妖怪から、誰もが畏れ敬う紛うこと無き大妖怪へと。魅魔はさっきまで抱いていた妬みも忘れて目を見開く。さっきまでと同一人物とは思えなかったからだ。オンオフは誰にだって存在するし、魅魔自身も感情の落差は激しい方であると自覚していた。その彼女ですら驚く程の変貌。果たしてどちらが真実なのか。

 

「スペルカードは三枚。被弾は一回。それでよろしいかしら」

「最初からその予定だろうが。さっさと終わらせようぜ」

 

 ヴィグラスが基礎的な魔力弾を浮かび上がらせる。青、緑、橙、黄色と色鮮やかな光球が彼の周りを衛星が軌道を通るかの如く飛び交う。

 八雲紫は掌を上に向けた。紫と基調とした、輪郭の曖昧な妖力が、不規則にゆらゆらと揺らめき、小型の刃、例えるならクナイのような姿へと変貌していく。お互いの総量は変わらない。相手の姿もかき消されて見えない中、ヴィグラスからは、八雲紫が笑ったような気がした。

 八雲紫は手を振り下ろし、ヴィグラス・ウォーロックが杖の先端を突き付ける。それが始まりの合図だった。お互いの弾幕が弾け、ちょうど二人の距離の中心で混ざり、刹那絶妙なコントラストを生み出して襲い掛かる。網の目を潜り抜けるかのようにヴィグラスは宙を蹴る。右に避ければ、計算されたように二つの凶刃が迫り、彼は下に飛び上がって軸からズレる。そこに更に置かれていたクナイを新たに生み出した魔力弾で相殺し、岩場を走り抜ける獣の動きで隙間へ身を滑らせる。紫の位置を気配で把握し、背後に陣取っていた彼女へ顔を向けないままでレーザーを撃ち放つ。ノーモーションの動作だろうと当たるとは思わない。むしろ、まだまだ小手調べの段階だろう。まだ一枚も切り札を切っていないのだ。この程度で終わってしまっては困る。

 紫は意表を突くように放たれた光線を最小限の動作で躱した。どれだけ回避困難な状況だろうと絶え間なくバラ撒かれる魔力を紙一重でやり過ごし、チリチリと肌を焼かれる感覚を心地よく感じながら、今度はより多くの弾幕を作り出す。ただでさえ不規則だった軌道が、今度は動き回る魔法使いを取り囲む。上下左右前後死角無く襲い来る脅威を回避することなど、背中に目でもついていなければ不可能だ。彼女自身ですら放たれてしまえばスキマを使う以外に選択肢は無いのだから、スペルカードルールの趣旨には合わないかもしれない。それを理解しながらも彼女が容赦無くグレーゾーンに足を踏み込んだのは、必ず避けるという一種の確信があったからだ。

 しかして、現実はそうなった。ヴィグラスの姿がまるで煙か蜃気楼であったかのように掻き消える。紫ですらもその所在を把握するのに僅かながらの時間を要した。致命的ではないにしろ、絶対的な隙。ヴィグラスにとって攻めない手はない。

 

「夢符『砕けた夢』」

 

 振り向いた彼女を待っていたのは、トランプ大のカードを胸の前に掲げる相手。宣言と共に彼の背後に空間の揺らぎが生じる。何かが現れる、紫は直感的にそう感じた。揺らぎを知覚できる彼女にしか気付くことはできなかっただろう予備動作。もし境界を操る程度の能力がなければ、次の攻撃を予測すること出来なかっただろう。

 揺らぎから撃ち出されたのは西洋風の両刃の剣。それが二十、三十。さらに盾を貫く槍、鎧を断つ刀。魔力で作られた贋作として、様々な武具が射出される。勢いは止まることなく、その姿はさながら秘宝を惜しげも無く使う王者。恐ろしきはその量だけではない。中には霊力を宿している剣も存在している。本来ならばありえない事だ。模倣しただけの劣悪品に霊力は宿らない。だが、これら全てはヴィグラスが保有するれっきとした魔剣妖刀の類いである。誰よりも構造を知る彼だからこそ、その特異性まで不完全ながら再現することができるのだ。現界させる魔力、真に迫る模倣、ヴィグラスの実力の高さを感じさせる。

 しかし、実際には一々これら全部を生み出しているわけではない。当然だ、そんなことをしていては魔力がいくらあっても足りない。それを補完してくれるのがスペルカードだった。

 

 ただの紙切れ一枚と侮る事なかれ、スペルカードには弾幕を記憶する能力がある。一度記録してしまえば、殺傷能力を取り除かれるという欠点はあるが、消耗無しに再現することができるのだ。これが、新ルールが妖怪と人間の間の戦力差を塞ぐ決定的な理由の一つ。死力を尽くす戦闘では、どうしても地の力で劣る者は、優る者に勝てない。例え全力の二倍を出し切ったとしても、相手はその何倍も力を秘めている、なんてことはたいして珍しくもないからだ。だが、弾幕ごっこならば被弾は一度きり、多くとも回数は限られている。残機が三と百では覆しようもないが、三本先取ならば弱小妖怪にも、妖精にだって勝ち目がある。

 もちろん、だからといって大妖怪のアドバンテージが失われたわけではない。スペルカードルールは、言うなれば同じ土俵に立てるようになっただけで、実際の実力差が縮まったわけではないのだから。例えば一度に記録できる弾幕の量が違う。甘いもの、厳しいものを比べれば密度は何十倍と違うだろう。

 また、一度の弾幕に組み込めるパターンも、強者と弱者では雲泥の差だ。一度しか使用しない弾幕ならともかく、何度も繰り返し用いるスペルでは、同じ形ばかり撃っていてもいずれ攻略されてしまう。その為、一つのスペルにも数種類の弾幕を用意しておくのだ。基本は変わらず、ただし同じ避け方は出来ないように、逃げ場をけして潰さないように。

 

 ヴィグラスの弾幕は未だ試作段階の状態で六十の組み合わせを記録させていた。元々が針の穴に糸を通すような精度での回避を要求する難関スペル。それが何十とあるのだと考えれば、その恐ろしさが分かるだろう。

 

「その程度かしら」

 

 しかし、相手は妖怪の賢者。無間の闇の深さすら計算してのける女傑。プログラミングされた動きなど避けることは難しくないし、彼女にとって六十という数字は児戯にも等しいちっぽけな数である。針の穴を粒子が通り抜けるのが容易であるように、速さすら異なる凶器の群れを風に揺れる稲穂よりもしなやかな動きで躱し続ける。

 

「偉そうな口叩く割には、さっきから避けてばっかだな」

 

 ヴィグラスの挑発に、紫は扇子で口元を隠す。図星を突かれた、と彼が受け取ったのは半分は正解だった。贋作の刃を圧し折るのに弾幕五つ分の妖力が必要であることは理解していた。序盤で相手のペースに乗らせるわけにもいかず、避けることも不可能でないため、反撃は現実的な手段には成り得ない。そう、避けることが出来るから、彼女は防戦という選択肢を選んだのだ。

 

「それに、こいつで終わりじゃねえ」

 

 ヴィグラスの手から、大量の魔力弾が放たれる。さっきまでのある程度指向性を持った弾幕とは違い、動きに規則性も、もはや敵性すらも感じられない。

 いわゆるバラ撒き弾、という奴だった。砕けた夢は、彼が模倣した武具の射出と、その場その場で作り出す完全ランダムな弾幕の二枚重ねになっていたのだ。そのパターン数は、無限。こうなれば、途端に難易度は跳ね上がる。これまで針の穴程度で済んでいたのが、今度は粒子の海を抜けていく光子の如き速さと正確さが必要とされる。幾ら八雲紫でも、目の前に広がる火花と、絢爛豪華な弾幕を前に、躱し切るという絶対的な自信は持てなかった。十回やれば七回は無傷でやり過ごせるだろう。しかし、三回は落とされる可能性がある。弾幕ごっこもまだ序盤、ここで出し惜しみする場合ではなかった。

 彼女も袖から取り出したカードを掲げ、品位を失わない落ち着いた、色気のある声で宣言する。

 

「結界『生と死の境界』」

 

 それは優美なドレスだった。豪勢な衣服を身に纏い、死の舞踏を以って客人を持て成す女公爵。彼女を取り囲む弾幕はそう形容するのが相応しかった。弾幕の種類としては特筆することは無い、彼女を中心として渦巻きのように楕円球の青白い妖力弾が、ヴィグラスの弾幕によく似た丸い塊が、赤く見せ掛けばかりの巨大な光球が、黄色く、或いは水色に輝く弾幕がバラ撒かれる。相手を倒そうというつもりのない単純な構成。彼や彼女程の実力なら鼻で笑うような幼稚なスペル。それなのに、ヴィグラスはしてやられたと唇を噛む。

 量が違うのだ。五つぶつけなければ破壊できない弾幕ならば、五倍撃てば良い。それで足りないのなら六倍にすれば、いっそのこと十倍にすれば圧倒出来る。子供じみた理論だが、それが出来るのが大妖怪の特権だ。逃げ場を作らなければならないデメリットも彼女には関係ない。

 対するヴィグラスとしては、大技の模倣武具を全滅させられるわけにはいかない。バラ撒き弾と違って記録された弾幕には限りがあるのだ。必然、バラ撒き弾は紫の弾幕を撃ち落とすことに比重が向けられる。それが彼女の狙いだと分かっていても、最善の行動を取るしかない。

 ランダムだった弾幕が指向性を帯びたことで、起こり得る可能性が無限から有限へと成り下がる。紫は口元を綻ばせ、甘くなった弾幕の壁をすり抜けていく。彼女の頭には既に有限のパターンと、その打開策が練り込まれていた。

 

「くそったれ!」

 

 スペルカードに記録されていた弾幕を使い切り、主力である武器の類は全て破壊された。ルールに照らし合わせれば、彼のスペルカードは破られたことになる。残りは二枚。最初の一枚に劣る訳ではないが、力技で突破された後では心許なく感じられる。やはり生まれ持った才能とは厄介だとヴィグラスは心の中でもう一度舌を打ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 紫の弾幕は先程も述べたように量が多いだけである。普通はそれだけでも避けるという選択肢が嬲り殺されるものだが、彼はそちらは大きな問題ではないと結論付けた。頭が一つあればそれで十分、足りなくなることはない。

 問題は効果的な攻め手が存在しないことだった。このままでは後出しジャンケンをされて負けてしまう。かといってスペルカードを使わずに追い詰める自信は無い。相手にスペルカードを使わせて、それを破る方がまだ幾分か勝ちの目が存在する。ヴィグラスは最低限の牽制だけ放って、紫の次の手を待つことにした。

 

 八雲紫の弾幕が打ち止めになり、ただのクナイに戻る。互いの表情だけ見れば、涼しい顔をして、扇子で自らを仰ぐ紫と、額に滲んだ汗を拭い、歯を食いしばっているヴィグラス。どちらが優勢かは一目瞭然だ。しかし、他人が思っている程紫は余裕でいるわけではなかった。

 

 予想外、と言い換えるべきかもしれない。彼女の予定ではまだスペルカードを切るつもりは無かった。一枚目をやり過ごしてから、数の有利で追い詰める手筈だったのだ。それが一枚を、もっと後半で使う筈のカードを切ってしまった。油断があったつもりは無い。ヴィグラスに言わせれば十分慢心しているのだろうが、それでも気は一切抜かなかったつもりだ。使わされたのは単純に彼が強かったからだ。

 特に、生と死の境界は疲れ果てた相手を絶望させる為のスペルカードだ。正常な思考が出来るなら避けられる筈のものを、目に見える脅威ですり減らした精神力を打ち砕くことによって捕らえるスペル。ここで追い詰めるための手札を切ってしまったのは痛い。

 

「本当に、貴方は強いわね」

「安い挑発かよ。人の本気を手抜きでやり過ごそうとした奴に言われてもな」

「ええ、貴方を甘く見ていた」

 

 だから、と彼女は言う。さらにもう一段階、身に纏う圧が変わったのはヴィグラスの気のせいではないだろう。弾幕も、紫のクナイだけだったのが、水色のものも増えて単純に倍になっている。しかも、それぞれ速度が違うという本気ぶりだ。

 

「ここからは全力で行かせてもらうわ」

「俺としちゃそのまま余裕こいて負けてもらった方が楽なんだがな」

「そういうわけにも行かないでしょう。強者を相手に弱者を装うのは失礼だわ」

「買ってくれるのは勝手だがな」

 

 軽口を叩く間も二人は弾幕を避け、弾幕を放つ。ヴィグラスも魔力弾に加えてレーザーを多発するようになり、スペルカードを用いない部分での攻防が激化している。この状態で会話を成立させる二人には驚愕という他ない。

 

 レーザーで挟み込まれた紫が池の鯉のように滑らかに空を泳ぐ。三百六十度どの方向にも回るレーザー付きの光球もクナイで破壊して、お返しとばかりに今度は三倍のクナイでヴィグラスを狙う。

 数で落とされる彼ではない。自分の領域だと言わんばかりに自在に空を駆け、紫の弾幕を叩き落とす。どちらも拮抗した状況を崩すには至らず、二人の戦いは千日手の様相を呈してきていた。

 

 これは我慢比べ、先にスペルカードを使用した方が大きく不利になる。それが分かっているからこそ、両者は逸る心を抑えているのだ。

 二人の弾幕ごっこはまだ、最高潮にすら達していなかった。

 




ヴィグラスのスペルカードである「夢符『砕けた夢』」は某慢心王の財宝みたいな感じです。設定的には赤い弓兵ですが


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第7話

弾幕ごっこ後半戦。
言葉が被らないようにするのって難しいですね


「凄い……!」

 

 魔理沙は顔を輝かせた。師匠の戦いぶりを見たのはこれで二度目。一度目は初めて出会った時。怪物茸との戦闘は一方的な蹂躙だった。それも強さを表現するには十分で。だけど二度目、あれ程強そうな妖怪と渡り合っている。どう撃つのかも分からないような弾幕を躱し、たくさんの武器を背後に作り出す姿は壮観だ。

 魔理沙はまだ未熟だ。ヴィグラスと紫の実力も、情勢がどう傾いているかも分からない。それでも自分と彼らにある、塞ぎようのない圧倒的な隔たりは理解していた。

 

「あんなの、花火みたいなものじゃない」

 

 つまらなさそうに、興を削ぐ一言を言うのは、紫が連れてきた紅白の少女。最初の言葉を皮切りに、唇を尖らせて不平不満を垂れ流す。許されるのならば早く帰ってしまいたい。そんな思惑が表情から見て取れる。

 

「まあまあ、じゃあ花火だと思って楽しみなさいな」

 

 魅魔が不服そうな少女を宥める。そもそも、神社の奥に引っ込もうとした彼女を捕まえたのは魅魔だ。彼女は子供二人を連れて賽銭前の階段に座る。少女は今、魔理沙と並んで彼女の膝の上に座らされているから逃げることが出来ない。ばたばたと踵で膝を蹴りつける。子供の脚力では魅魔は動かせない。

 

「だいたい、なんで私達がこんなもの見なきゃいけないのよ」

「えー、面白いよー」

「別にアンタは面白くても私は面白くないし」

 

 というかアンタ何者よ。少女は魔理沙を睨む。どうしてなのか、先程からよく自分に話しかけてくる。見たことはない。いつも一人だった彼女にとって、馴れ馴れしく迫ってくる相手には覚えが無かった。覚えがあるのは胡散臭い親代わりと滅多に出てこない堅物な狐くらいのものだ。

 魔理沙はきょとんとして、目を丸くする。そっか、と勝手に頷いて、勝手に納得する。

 

「私、魔理沙って言うの。あそこで戦ってるのは私のお師匠様なんだ」

「……ふぅん」

 

 貴方は? と尋ね返す魔理沙に少女はしまった、と思う。自分のことを話すのは嫌いだ。嫌いというより苦手だ。そもそも人付き合いの経験も少ない彼女が慣れている筈もない。元々口下手な彼女が、さらに無愛想になる。

 

「……霊夢。博麗の巫女よ」

「霊夢……って博麗の巫女なの!?」

「何よ、驚くことでもないでしょ」

「だって、博麗の巫女ってもっと怖いものだと思ってたから」

 

 魔理沙の中にある博麗の巫女のイメージは、主に先代のものだ。どうしようもなく人の味方であり、善悪問わず妖怪の敵。その余りの執念に、助けてもらう側の人間すらも彼女を恐れた。間違っても自分と背丈の変わらない不器用そうな少女ではない。

 

「悪かったわね、強そうでも何でもなくて」

 

 比較されるのが嫌いなのか、霊夢はさらに唇を尖らせる。

 

「えっと、そういうことじゃなくて」

 

 怒らせてしまったと思った魔理沙は手をぶんぶんと振り、否定する。

 

「なんかね、ホッとしたの」

「ホッとした?」

「私、同じくらいの歳の友達って居なかったから。やっと出来そうな友達が怖い相手だったらどうしようって」

 

 正確には対等な友人と呼べる者すら居なかったのだが。

 霊夢を怖いとは思えなかった。博麗の巫女と聞いた後でも、何処か似た部分を感じ取っていた。

 

 それは孤独。

 

 誰にも心を開けなくて、ずっと自分の中に押し込めている時の胸が張り裂けそうな苦しさ。声を出し方を忘れてしまいそうな、うるさく鳴り響く寂しさ。自分がようやく片足抜け出した、その中に彼女が居ると思えた。

 

「友達って」

「嫌、かなあ」

 

 霊夢は沈黙する。友達とは何なのかが分からない。彼女にも、自分達が似た物同士だということは分かっていた。ずっと一人ぼっちで、自分以下は誰もいない。最下層の牢に閉じ込められた囚人仲間。違うのは、彼女が差し出された手を受け取ろうとしないのに対して、目の前の少女は既に刑期を終えていること。

 

 今、自分の前には牢屋の鍵がぶら下げられている。それを手に取れば、孤独からは開放されるだろう。しかし、彼女は外の世界を知らない。全てに手が届く囚人としての世界しか彼女の中には無い。怖かった。もちろん今よりずっと過ごしやすい世界かもしれない。自分が笑える世界かもしれない。だけど、牢の中に居た方が幸せかもしれない。一寸先は闇か。それともやっぱり光なのか。

 

 少なくとも、目の前に居る少女の楽しそうな笑顔は眩しかった。ああなれたら、とは自分でも思う。反面、自分が素直に笑っている姿など想像出来ない。

 笑顔が作れない。それは彼女のコンプレックスだった。作り物ですら顔が引きつってしまう。何度紫に注意されたことか。女の子は可愛い顔をしてなくちゃ、そんなことを大真面目に語る紫が面白くて、オバサン臭いと言ったら吊るされたことがあったっけ。霊夢は答えを出すのが怖くて、昔のことを思い出して紛らわそうとした。

 

「良かったぁ」

 

 魔理沙の声で我に返る。我に返ると答えを出さなきゃいけなくなって、それが嫌で、もっとぶっきらぼうになる。

 

「何がよ」

「だってそんなに嬉しそうにしてくれてるんだもん」

 

 霊夢は慌てて自分の口元に触れる。大丈夫、いつもの仏頂面。変わらない、変われない。

 

「あっ……」

 

 安心したその矢先、端が緩んだのが分かった。ちょっと上を向いている。たぶん今の自分は笑っているのだろう。初めての経験だった。だけど、不思議と悪い気分はしない。笑うってこういうことなのか。霊夢はいつになく冷静に理解出来た。

 今笑ったということは、私は彼女と友達になりたいのか。きっとそういうことなんだろう。他人事みたいにそう思った。彼女の中に無い感情だったから、まだ上手く自分のものに出来ない。だけどなんとなく分かってはいる。似た物同士は惹かれ合うのだろう。

 

 魔理沙が手を差し出した。霊夢は少しためらって、その手を取る。

 

「友達になろう?」

「仕方無いわね」

 

 綻ぶ口を抑えきれず、精一杯生意気そうな表情で。霊夢は応えた。魔理沙が嬉しそうに笑う。

 

 二人の頭の上に自分達より少しだけ大きな手が乗せられた。わしゃわしゃと頭を撫でられる。二人が慌てて見上げると、魅魔が優しげに二人を見つめていた。

 

「仲良くなれたようで何より何より」

「ちょっと、やめてよ」 

 

 くすぐったそうに体をくねらせて、霊夢は魔の手から逃げようとする。恥ずかしいからだろう。魅魔は構わず撫で回す。

 

「でも、そろそろヴィグラスの方も見てやりな。動き始めたよ」

 

 頭上ではスペルカードが発動されたのか、眩い光が昼間だというのに辺りを照らしていた。

 

 魅魔は既に理解していた。この戦いは、今膝に乗っている二人の為にあるのだと。少なくともヴィグラスはそのつもりなのだと。

 だったら、彼女が彼の力になれるのは、目の前の光景を二人に見せることだ。伝えることだ。彼らの思いを。

 さっきまでより少しだけ真面目に見始めた博麗の巫女を微笑ましく思いながら、魅魔もまた観戦することに意識を集中させた。

 

 

 先にしびれを切らしたのは紫の方だった。本当に彼女が我慢出来なかったわけではない。その気になればこの程度の応酬は何年でも続けられるだろう。彼女がスペルカードを切った理由は別の所にある。

 これはデモンストレーションだ。次世代の少女達に新しい幻想郷のルールを教えるのが役目。その意味では勝敗など毛ほどの興味もない。大妖怪としての矜持はあるが、負けてしまっても、大妖怪を打ち負かせるルールであると認知させることが出来るから問題は無い。しかし、冗長なのはいけない。

 たいした動きもないつまらない試合になれば、彼女達は興味を無くしてしまうかもしれない。特に霊夢などは元から乗り気ではないのだ。竜頭蛇尾になってしまうことだけは避けたかった。だからスペルカードを宣言した。自分が不利になっても構わない。場を動かすことが第一の目的なのだから。

 

「罔両『ストレートとカーブの夢郷』」

 

 紫が二番目に選んだのは、またもや数で押すタイプのスペルカードだった。魔法使いは緻密な計算に強い代わりに身体能力が劣る傾向にある。ヴィグラスの今までの動きから、彼がその常識にそぐわず体術も心得ていることは理解していた。それでも質より量を選んだ。というよりは、質においてヴィグラスを討ち取れるイメージが浮かばなかったのである。

 

 不可思議な軌道、知覚しにくい弾道。そのどちらも真髄は無意識にある。どこぞのさとり妖怪も操るあの無意識だ。彼女が何故力に劣る妖怪ありながら、僅か未来において弾幕ごっこの強者として数えられるのか。

 その答えは簡単。気付かなければ避けられない。意識の外からの攻撃は、たとえそれが貧弱な張り手だったとしても、正面から打ち出された突きに勝る。つまるところ不意打ちである。

 

 しかしこの両者において、不意打ちなんぞはまるで意味を持たない。かたや妖怪の賢者。説明するまでもない。相手が考えれば考えるほど、彼女にとって弾幕は容易なものになる。

 そして、ただの魔法使いであるはずのヴィグラス・ウォーロック。彼に小手先の技が通用しないのは、彼の専門が召喚魔法、いや転移魔法だからである。八雲紫にこそ劣るものの、空間把握能力は常人のそれを遥かに超えている。空間そのものに限った話ならば、スキマを使う権限を与えられた八雲藍よりも鋭敏に異常を察知するだろう。特に紫の用いる変化形の弾幕はほとんどが境界を操る程度の能力を組み合わせたものだ。仮に撃とうとも、全て知覚されて逃げられる。

 

 故に数で攻める。どちらにせよ当たらぬのなら、より相手を疲れさせる選択を選ぶ。大妖怪らしい合理性だ。

 こうなると厳しいのはヴィグラスの方だ。体力においては彼は紫に及ばない。持久戦に持ち込まれると苦しいのは明白だった。

 

 両側から挟み込むように襲い来る弾幕から下に逃げ込み、目の前の大玉を打ち壊す。息を吐く間も無い猛攻は、先程ヴィグラス自身が紫に仕掛けたスペルカードと大差ない。ただ違うのは弾幕の密度だけで、それが何よりも違っていた。

 

「……チッ」

 

 響いたのは彼のマントを掠めた弾幕の音か、それとも一歩遅ければ撃ち落とされていた彼の舌打ちか。

 このままでは分が悪い。ヴィグラスは思考を張り巡らせる。紫のスペルはまだ半分しか効力を発揮していない。ただでさえ力の差があるのだ。避け切ったところで神経をすり減らしてしまうだろう。相手の切り札一枚と引き換えならば悪くないレートかもしれない。しかし、相手は八雲紫だ。そして、最初のスペルカードを見てしまっては、それが懸命な判断とは考えられない。スペルカードで撃ち返すにも、一枚一枚の価値が違う。

 どちらに転んでも不利。それならば、最も忌避すべきはこのまま墜とされることだ。いわゆる抱え落ちというのが、魔理沙達に見せるショーとしても、紫との真剣勝負にしても最悪のパターン。

 結果、彼は手札を切らざるを得なかった。懐から二枚目のカードを取り出し、宣言する。

 

「寓話『マザーグースアポトーシス』」

 

 現れたのは巨大な、赤く塗られた本だ。金の装飾を施されているが、表紙には何も書かれていない。魔力で作られた点を除けば何の変哲も無いただの本だが、まさか何も起こらないなんてことはないだろう。もちろん意識を集中させるための偽装(フェイント)である可能性もあるが、紫はその可能性は低いと判断した。低いというより、意味が無い。たとえ他の所から撃ち出したところで紫には避け切る自信があった。そしてそれ以上に、ヴィグラスの心境を彼女は理解していた。

 ヴィグラスは誰よりも弾幕ごっこを重く見ている。それは発案者の紫よりもずっと強く。その理由は知らないし、知る必要も無い。ただ、彼が正々堂々とした弾幕ごっこらしい弾幕ごっこを望んでいることは良く分かる。

 彼は目的のためにならどんな手段も選べる人間だ。たとえ卑劣な手を使ってでも勝たなければならない場面なら、彼は喜んで卑怯者の汚名を被ることだろう。だからこそ、今は正面からぶつかってくる。

 

 本が開かれる。白紙の頁がぱらぱらと風に吹かれた。何も起きない。何も飛び出して来ない。ただ真っ白な紙があるだけだ。予想外の攻撃が来る気配も無い。

 

(何が狙いなのかしら)

 

 予想されるのは、条件を満たした時に発動するタイプのスペルだ。本来なら弾幕ごっこの最中に細かな条件付けなど自殺行為でしかない。その為に紫は選択しなかった手段。しかし、目の前の魔法使いならば、使いこなしていても不思議ではない。何しろ先駆者だ。自分の思いつかなかった弾幕を知っていることもあり得る。

 条件付き弾幕だとして、先ずは起動条件を探るべきか。普段ならば地雷を踏み抜く真似はしたくないのだが、今回は臆病風が吹いたような戦いは出来ない。そこも計算しての選択だろう。

 紫は笑う。ヴィグラスに好きに動かされてるのは気に食わない筈なのに、何処かで嬉しく感じている自分も居た。今まで知恵比べをする相手など居なかった。人間は愚かだし、妖怪は腕っ節を疑わない。月の連中は訳の分からない超科学に頼り切り。そもそも頭脳戦で張り合える相手が居なかったのもあるが、強者ほど深く物事を考えないせいで彼女はいつも勝ち続けた。月への侵攻は失敗したが、あれは元々の技術レベルが違い過ぎただけで、戦術面においての負けは無かったと思っている。月への全面戦争を仕掛けて惨敗したというのに、紫が最強の妖怪であることを人間に知らしめた、その事実が彼女の自信を裏付けている。

 

 八雲紫は力と知恵を兼ね備えた最強の妖怪だ。それは間違い無い。腕っ節なら敵う妖怪も居よう、彼女よりも知恵が回る者ももしかしたら居るかもしれない。境界を操る程度の能力は異常なまでに広い適用範囲のせいで、一見どうしようもなく強いように見えるが、それでも局地的に超えてみせる能力はある。ただ、それら全てを兼ね備えて、かつ、高い水準で戦いに取り入れてる妖怪が居ないのだ。

 獅子が子鹿を狩るのに罠など使用しない。罠を使う人間は凶悪な爪など持たない。釣り竿があるのにわざわざ池に飛び込む馬鹿は居ない。紫は爪も罠も釣り竿も全て持っていた。だから獅子よりも、知恵者よりも、釣り人よりも強い。分かりやすい話だ。

 

 最近になってだが、彼女はようやく自分と似た戦い方をする相手を見つけた。彼女よりも力は弱い、頭も回らない、能力など有るのかすら分からない。それでも自分の喉元を食い千切りかねない猛獣。それが今相対する無愛想な魔法使いだ。

 力を持たないからこそ驕らず、知恵が無いからこそ知識を求め、能力を努力で補っている。本来あるべき油断がどこにも無い、彼女にとって最も戦いらしい戦いの出来る相手だ。

 その相手がこれみよがしに罠を張ってきた。鬼が出るか蛇が出るか、どちらにしろパンドラの箱を開けない道理は無い。

 

「邪魔な本ね。それで盾のつもり?」

 

 馬鹿にするのは安い挑発だ。同時に楽しんでいる自分を隠すためのブラフでもある。

 

 白紙の本に大量の弾幕が吸い込まれる。スイッチとして最初に考えられるのは三つ。時間と攻撃と合図だ。この内紫から条件を満たせるのは二番目だけ。だから試した。今この時においてはヴィグラスを倒そうという心積もりは欠片もなかった。

 

 どうだ、と期待する紫の心境に反応したのか本に変化が生じ始めた。様々な色が頁に模様を描き始めたのだ。見た感じは子供のクレヨン。ぐにゃりぐにゃりと覚束ない動きで線が引かれていく。作られる模様を打ち消すように紫は弾幕を放ち続けた。彼女にしては短慮であったと言えるだろう。どんな効果であるかも把握していないのに、ただただ無駄に弾幕を放る。

 ヴィグラスの顔付きが険しくなった。紫がわざと本を狙っていることに気がついたのだろう。自分を叩く気が失せている。それは好ましくも疎ましい事態であった。自尊心が傷付けられた部分もある。だが、次代の少女たちを忘れて紫自身が楽しんでいるように見えたことが気に入らなかった。

 

 まあいい。ヴィグラスにとっては好都合だ。彼は静かにスペルカードが効力を発揮する時を待つ。本来ならばもっと早いはずだが、紫の弾幕がそれだけ複雑なものだったのだろう。自慢の本はようやく頁を捲り始めた。

 

 突然だった。紫ですら、何かが起こることを期待していなければ避けられなかったかもしれない。本が撃ち出した弾幕を彼女は間一髪で躱してみせた。堰を切ったように溢れ出す弾幕を紫は距離を取ることで逃れる。まだ自分のスペルカードは動いている。弾幕の撃ち合いで負けるつもりは無かった。パワーならこちらが優っているのだ。攻撃をスイッチにしていたということは、反射型の可能性もある。それでも自分なら勝てる。

 

 その自信が彼女の判断を鈍くした。

 

 おかしいと感じたのは彼女のスペルカードが切れる直前だった。押されていた。倒せないのは分かる。しかし自分が撃ち負けていたことに気付いたのは、思った以上に自分の躱すべき弾が多かったことを理解した時だった。

 まさか、紫は改めて自らの弾幕と、本が生み出す弾幕を見比べる。彼女の嫌な予感は当たっていた。自分の妖力弾はほとんど打ち消され、大回りして相手の弾幕は襲いかかってきていた。それはまるで、()()()()()()()()()()()()()()()のようだった。そういうことか。相手の弾幕が魔力弾でなかったことを理解し、紫は今更この弾幕の真意を理解する。

 

 自殺作用(アポトーシス)とはよく言ったものだ。この弾幕にはそもそも決まった形など存在しなかったのだ。スイッチが必要だったのは、弾幕を作成するため。彼女の行動はやはり裏目に出ていたのだった。

 このスペルの本質は、相手の弾幕に対するメタゲーム。起動さえさせれば撃ち負けることは絶対に無い。そういうコンセプトで作られたスペルカードだ。そして、必ず相手の弾幕を上回るということは、相手の弾幕が強ければ強い程、発生する弾幕も強大なものになる。

 更に言えば、特性上、相手のスペルよりも必ず長く場に残る。使いどころは難しいが、ハマれば想像するどんなスペルよりも上に行くスペックを持ったスペルカードである。

 

「くっ……」

 

 効力が切れてしまえば、また紫が襲われる番だ。ヴィグラス自身の発想では辿りつけないラインを超えた弾幕は、紫をもってしても容易に避けられるものではない。一進一退の攻防。紫は弾幕を放つことを放棄した。どちらかに寄ったままでは墜とされる。幸いにして、ヴィグラスのスペルも発動に時間が掛かったせいで長くは続かない。相手を疲れさせようとしてこちらも疲れてしまった。自分の想定を軽々と越えてくる魔法使いを改めて賞賛する。驚くべきはこれでもまだ彼は得意な魔法をほとんど使用していないことだ。

 

 召喚魔法は弾幕ごっこには不向きだ。だから彼が使わないことに違和感はない。得意技を封じられた上でこれだけハイレベルな戦術を練ってくるのが驚異的なのだ。

 

 暴風雨の如く吹き付ける弾幕を、流れに沿うように体を滑らせて避けていく。わざわざギリギリまで引き付けるのは、彼女が放ったスペルが、弾幕から距離を取るほど回避が困難になるスペルだからだ。自然、そのメタであるヴィグラスのスペルも、それと似通った形になる。掠めていく弾にこれ以上無い緊張を感じながら、紫は踊るように空中でステップを踏む。

 汗をかいたのは久し振りだった。もう数十年は、いや百年近くはこんな戦いをしたことは無かっただろう。幻想郷を作るために、様々な勢力の妖怪たちを一度に相手にした時以来の昂揚だ。まだ終わらせたくない。こんなところで終わりたくない。ヴィグラスが感じた通り、紫は当初の目的を見失いかけていた。見開かれた目が彼女の本能を物語っている。

 

 対するヴィグラスは恐ろしい程に冷静だった。元々乗り気ではなかった彼である。彼女みたいに戦いに呑まれることはない。客観的に、自分の勝ち筋を計算して、あまりの可能性の低さに唇を噛む。もう負けてしまおうか、とも思った。デモンストレーションとしては十分な役割を果たしただろう。歯止めが効かなくなる前に上手い具合に終わらせてしまえ。

 しかし、紫はそれをけして許さないだろう。興奮したこの状態じゃ迂闊に手を抜けば殺されるかもしれない。一人ならば逃げ切れる可能性もあるが、三人まとめてはおそらく不可能である。こちらはこちらで八方塞がりだ。

 

 そして、ヴィグラスのスペルが終わる。紫は肩を上下させて、どうにか荒い息を整えていた。それを許す訳はなく、すぐさま新しい弾幕で紫をつけ狙う。紫が落ち着いてしまえば勝ち目が無くなることを理解していた。撃って撃って、休ませる隙を与えない。

 

「随分、余裕が、ないのねっ」

「余裕こいて勝てる相手じゃねえからな」

 

 紫は辛うじて残っているような印象だった。ここまで彼女を追い詰めた相手がかつて居ただろうか。多くの制限があり、紫がスキマの使用を控えているとはいえ、或いは弾幕ごっこという弱者が強者に勝つ為のルールであったとはいえ、ヴィグラスの実力を疑問視する意味は無いだろう。

 紫の勝ち筋はもはや一つしか許されていなかった。彼女らしくないシンプルな手段だけ。それでも彼女は勝つために躊躇無くその手を取る。

 

「紫奥義『弾幕結界』」

 

 紫は最後のスペルを宣言した。自らの名を冠した、現時点では最も優れたスペル。彼女はどうしてもヴィグラスの意識を逸らさなければならなかった。万が一墜とせれば良し。無駄撃ちに終わっても回避に動いてくれれば猛攻からどうにか逃げ延びることが出来る。そうすれば彼の最後のスペルをやり過ごすことも不可能ではないだろう。尤も、ヴィグラスが攻撃の手を緩めてくれる可能性も低いのだが。

 

 紫は両手にスキマを生み出した。相変わらず気味の悪い目玉だらけのそれを、彼女は体を一回転させ、遠心力を用いて思い切り投げ飛ばす。弧を描いて二人を取り囲んだスキマはゆっくり動きを止め、一際大きな亀裂を生じさせる。

 

 逃げるためではない。身構えたヴィグラスには分かっていた。記憶の中と、実際の経験は似ても似つかないものだが、このスペルには見覚えがあるのだ。今までのもあった。攻略法なんて大層なものは思い付かなかったが、どんなものかは薄っすらと理解している。

 ここから飛び出してくるのは無数の弾幕だ。全方位を取り囲む面倒なスペル。過去の知識(ゲーム)では二次元の動きだったが、本来は三次元であるべきだろう。小手調べの時も取り囲むような弾幕は放たれていたが、あれが何度も何度も隙間無く押し寄せてくるなんて、想像するだけで背筋が寒くなる代物だ。

 それでも想像出来るだけマシだと、ヴィグラスは気力を振り絞る。実際のところ、彼にも限界が近付いていた。元々の実力差が天と地程もある。どうしようもない格上との戦いはこれまでも何度か経験してきたが、いつまで経っても慣れるものではない。相対するだけで精神を削られていく。紫が戦いに酔っているとはいえ、それを勘付かせない鉄面皮は流石だと言えよう。

 

 弾幕が飛び交う。スキマがまた軌道に沿って回り始めたのだ。中心はそのまま、三次元に円を描いていく。弾幕の鳥籠と形容するのがもっとも適当だろう。思ったよりも速度がある。次々と撃ち落としていくが、ジリジリと距離を詰めていく妖力弾がヴィグラスの逃げ場を奪っていく。ちらりと目をやると、紫は既に囲いの外から逃げていた。攻撃の手が緩まった今、息を整えるには十分な時間を与えてしまったことだろう。疲れ切ったヴィグラスに逆転の秘策は無い。転移魔法で逃げることも考えたが、どうせ逃げた先でまた捕らえられるだけだ。転移魔法は膨大な魔力を消費するし、逃げ切ることは不可能。

 

 最後に一枚、墜とされる前に残ったスペルカードを使用するべきだろうか。肌をチリチリと焼く距離まで弾幕が近付いた時、ヴィグラスは懐から虎の子を一枚を取り出して宣言────出来なかった。

 

 喉がからからに乾いて声が出ない。使いたくないスペルカードであったことは間違い無い。しかし、自分が作り出した中で一番威力のあるスペルカードだ。自分の選択は正しいはずだ。それなのに、身体が鉛のように重く、喉に何か張り付いてしまったように、心が自らを締め付けてしまう。

 目を見開いた先の弾幕が、鼻の先まで辿り着いていた。最初の一文字も発することが出来ないまま、爆炎が彼をを包み込んだ。

 

 

 それまでの激闘がまるで嘘偽りであったかのように、余りにも呆気ない幕切れだった。爆発で煤だらけのヴィグラスは、俯いたまま服の汚れを払っている。ダメージを受けた様子はない。これも弾幕ごっこの利点の一つだろう。どれだけ激しく戦おうと一般人でなければ死に至ることは無い。

 何故最後にスペルを発動させなかったのか、まだ興奮冷めやらぬ紫が上空でヴィグラスの襟を掴んだ。目は冷たく光り、いつも胡散臭い微笑をたたえている優美な唇は真一文字に結ばれている。何か罵倒するつもりだったのか、勢い良く開かれた口が、彼の表情を見てにわかに閉じた。

 

「わざと負けたつもりじゃねえ」

 

 腹の底まで響くような重苦しい声だった。言い訳、であることは間違いないのだろう。彼が死力を尽くして負けたわけではないのだから、わざと負けたと受け取られても仕方が無い。それでもなお、彼の言葉には大妖怪を黙らせる気迫があった。相手に叩きつけるものではない。自分の内側に燃え盛る炎を、どうにか喉の奥に押し込めているような、ちろちろと隠しきれない熱が籠もった言葉だった。

 

「ただ()()()()()。それだけだ」

 

 彼の言葉の意味を紫は理解していない。しかし、彼女はヴィグラスの心境を理解した。嘘ではないと、彼の中に潜む何かが、彼の動きを縛り付けたのだと。

 彼女は何も言わなかった。言えなかった。ヴィグラスは自分の判断を鈍らせるようなことはしない。その彼が動きを止めたのは、彼にとって、心を包み込む程の理由があったからだ。一般論なら幾らでも口に出来るが、彼の生い立ちを知らない紫に、投げ掛けられる言葉は無い。

 紫はしばらくヴィグラスの胸ぐらを掴んだまま立ち尽くしていたが、やがて手を話すとスキマを使って霊夢たちのもとへ戻っていった。

 

 ヴィグラスは一人空に浮かんだまま、空を見上げていた。虚ろな目で、何を見ているのかも分からない。

 誰とも顔を合わせたくなかった。最近になって、隠していた自分の弱さが表に出てくることが多くなってきたような気がする。それがどうしてなのか、彼は分かっていたが、気付かないふりをした。

 

「くそったれ……」

 

 小さく吐き捨てる。そして、彼も転移魔法でその場から姿を消したのだった。

 




次回はまたちょっと時間を進める予定。といってもせいぜい一年程度ですが


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第8話

お久しぶりです。とりあえず投稿。


 春告鳥の鳴き声で目を覚ます。長かった冬も終わり、魔法の森にも鮮やかな草花が目を出すようになってきた。腐葉土からすくっと伸びるツツジや、薄暗い森には不似合いなハクモクレンの香りがまだぼやけていた意識をはっきりとさせる。

 鼻をひくつかせれば、パンの焼ける香ばしい匂いが下の階から漂ってきた。人生で十回目のパンによる食事に朝から気分が良くなる。

 

 伸びをして、固くなった体をほぐすと魔理沙はベッドから起き上がった。背中にかかる金色の髪を指で梳く姿は、初めてここで目を覚ました時よりも大人びている。成長した体は柔らかみを帯びてより女性らしく、子供から一端の女の子へ成長する兆しを見せていた。

 

 身だしなみも程々に、魔理沙はまだ真新しい階段を駆け下りる。魔法の森に生えている樹木を用いた階段は、らったった、と小気味好い音がした。彼女はこの音が好きでいつも乱暴に降りているのだ。

 

 一階に拵えられたリビング兼ダイニングでは、彼女の師匠が紅茶片手に朝のブレイクタイムを楽しんでいた。

 

「遅かったな寝ぼすけ」

「えー、まだ日が昇ったばかりじゃないですか」

「いつも起きてくる時間より三十分遅い」

 

 たかが三十分、と魔理沙は思ったが師匠の言うことは正しい。実験の時に三十分も時間を間違えれば命が危ない。普段の気の緩みがいざと言う時に出てこない保証は何処にも無いのだ。

 

 魔理沙は師匠の言いたいことを察して押し黙り、少し申し訳なさそうに席に着いた。ヴィグラスが指を鳴らすと、焼き上がったばかりの食パンが皿に乗せられた状態で魔理沙の前に飛んでくる。テーブルの上には冷えた牛乳がコップに注がれていた。

 

 食事の用意をするのはいつもヴィグラスである。かつて魔理沙が手伝おうとした時期もあったが、邪魔になると撥ね付けられてしまった。彼曰く、自分で作った物以外は信じられないと。それは魅魔のことを言っているのだろう、と魔理沙は思った。というのも、魅魔が勝手に料理を作った挙句、ヴィグラスを失神させたという笑い話を彼女から聞いていたからだ。成長したといえどまだ少女。魔理沙にはヴィグラスの顔の曇りに隠された本当の意味を窺い知ることができなかった。

 

「師匠、今日はパンなんですね」

「紫の奴が勝手において行きやがったからな。捨てる訳にもいかねえ」

 

 もちろん毒の類いが入っていないことを確認してからである。

 

 家から滅多に出ない彼らの食卓は、主に貰い物で賄われていた。野菜や茸は森からだが、主食となる米や麦についてはヴィグラスが何処かから持ってくるのだ。食うに困ったことの無い魔理沙はその異常性を理解していないが、魅魔に言わせればどうしているのか長年の謎である。

 

「いただきまぁす」

 

 魔理沙がパンを齧ると、ふっくらとした食感と、仄かな香りが口の中に広がった。テーブルに置かれたマーガリンには目もくれず、一心不乱に小さな口を動かす。ご飯一杯も食べるのに苦労する小食な彼女も、この時ばかりは健啖家となる。もきゅもきゅと小動物のように咀嚼し、ごくりと喉を鳴らして胃に流し込み、とどめとばかりに牛乳を飲み干す。もう一枚程度ならぺろりと平らげてしまいそうだ。

 これだけ美味しそうに食べてもらえたならば、例え焼いただけだとしても、作った者冥利に尽きるというものだが、ヴィグラスの表情は無愛想なまま。元々明るい表情など見せないことを知っている魔理沙は気にも止めないが、傍から見れば随分雰囲気の悪い食卓だ。

 

「ごちそーさまでした」

 

 食べ終えた後、皿洗いは魔理沙の仕事だ。普段自分で家事をするヴィグラスが、珍しいことにこれだけは魔理沙に命令している。暖かくなってきた春先はまだ良いのだが、少し前、冬の季節なんかは冷たいし、指がひび割れるしで大嫌いな仕事だった。師匠も実はそうなるのが嫌だから自分に押し付けているのではないか、と彼女は密かに疑っていたりする。

 それでも文句を言う訳にはいかないので、魔理沙はいつものように二人分の皿を運ぶ。その先には川から組み上げた水の入った桶がある。彼女はいつも水汲みまでさせられるのだ。これもヴィグラスの言いつけで、彼曰く、「自分で魔法を使う分には構わないが、人の魔法に頼るな」ということらしい。糠で汚れを落とし、木の実を泡立てて一枚一枚(と言ってもほんの数枚しかないのだが)丁寧に洗う。

 

 そうして朝の日課が終われば、これもまた日課のようなものだった。

 

「師匠、魔法を教えてください」

「断る」

 

 どうして、と叫びたくなる気持ちを必死に抑える。躍起になって森へ駆け出さない分、出会った頃よりは大人になったということだろう。それでも、苛立ちにも似た感情は収まらない。

 ヴィグラスが今まで魔理沙に教えたのは、魔法の基礎理論と必要な触媒、それから水を沸騰させるだとか、精神を落ち着けるなどの簡単な魔法。そして、いざという時身を守るためのナロースパークだけ。それ以上のことは自分で作り上げるものだと言って一言を口を出さずにいた。

 師匠の言い分は理解できるし、彼女自身教えてもらうだけのつもりはない。しかし、目の前に高い目標がある。それから何の力も得られないのが悔しかった。

 

「どうしてですか」

「お前は何度言われても理解できないのか?」

「納得できないから聞いてるんです」

 

 ヴィグラスは彼女の方を向かない。椅子に腰掛けたまま動かず、難解そうな魔道書に目を向け、まるで彼女との会話には何の価値もない、とでも言うかのように素っ気無い返答を返すだけだ。

 

 彼女は薄々と、ヴィグラスが自分を魔法使いにするつもりなど、今になっても全く無いことに気が付いていた。それらしいこと言ってはいるが、筋が通っていてもこじつけで、本音は感情的な部分にあることを悟っていた。それならばどうして自分を弟子なんかに取ったのか。尊敬こそしていても、彼女は失望と怒りを感じないわけにはいかなかった。

 

 不意にノックの音がして、二人の険悪な雰囲気は霧散した。誰だろうか、魔理沙には訪問者の正体が思い当たらない。そもそも、数えるほども客が来ない家だ。来ると言えば喧しい悪霊か、胡散臭いスキマ妖怪くらいのもので、どちらもノックをするなんて礼儀は持ち合わせていない。かと言ってそれ以外の来客は予想もつかない。

 ヴィグラスも同じ気持ちだったようで、訝しげに眉を顰めながら扉越しに誰だ、と問い掛ける。その手には既に杖が構えられていて、魔力がじわりと集められ始めていた。

 

「急にごめんなさい。アリスよ」

「アリス!?」

 

 魔理沙が驚愕と喜びの入り混じった声を上げる。知り合いの名前を出されては開けないわけにもいかないので、ヴィグラスは張り詰めた意識をより一層引き締めながら扉を開けた。間違い無くアリスである。誰かの変装ではなく、また何かに操られている様子も無い。そこまで判断してヴィグラスは警戒を緩めた。その代わり、空いたスペースに疑問がふつふつと沸き起こってくる。

 

「何の用だ」

「ちょっと触媒を借りたくて。冬の間に切らしちゃったのよ」

 

 私としたことが迂闊だったわ、とアリスは恥ずかしそうに頬を掻いた。その姿は至って自然体で、何か裏があるようには見えない。事実、魔理沙はアリスらしくないとは思いながらも、彼女の言葉を信じていた。

 

「そうかよ」

 

 しかしヴィグラスは恐らく嘘だろうと察していた。彼女らしくもない、というのも理由ではあったが、何より今触媒を借りに来るという事態そのものが不自然だったからだ。まだ冬の真っ只中であるなら理解できるが、今はもう雪解けの時期である。よほど重要か、或いは特別なものでもなければ触媒如き自分で取りに行ける季節だ。誰かに頂戴しなければならないほどの触媒を軽い態度で借りに来ることなど有り得ない。相手がヴィグラスならば尚更だ。

 それに何より、彼女は触媒を使用しない。人形と糸の魔法を扱う彼女にとって、極一部を除いた触媒など無用の長物であるし、それ以外の魔法を仮に研究していたとしても、自力でやってのけるだけの魔力と技量が彼女にはある。

 

「何が足りない」

「ジギタリスを幾つか。もう少しすれば一斉に咲くのだけれど、今入り用なの」

 

 不審がられていると分かったアリスは言い訳するように言葉を重ねる。ジキタリスは春に咲く毒草だが、確かに今の時期はまだ少し早い。秋にも取れないわけではないが、切らしていても違和感のあるものではないだろう。それ故に嘘くさい。魔界生まれの生粋の魔法使いがほんの一ヶ月二ヶ月も待てないせっかち者である筈がない。近くに月が良い形になる訳でもなし、今でなければならない理由は無いのだ。演技はともかく言い訳は下手らしい。

 

「まあいい。持ってけ」

「ありがとう。代わりと言ってはなんだけれど」

 

 ごそごそと手元から何かを取り出そうとするアリスを手で制し、ヴィグラスは魔理沙のことを指差す。

 

「代わりにそいつを連れてってくれ。一日で良い。最近うるさくて敵わねえんだ」

「師匠!?」

「えっと……彼女を一日預かっていてほしい、ということかしら」

「そんなとこだ」

 

 ヴィグラスは薬品棚から厳重に管理された紫の花を取り出してアリスに放り投げる。そして、さっさと行ってくれと言わんばかりに追い払う仕草をして、読んでいた魔道書に目を落とした。魔理沙は困惑して目を丸くしていたが、段々怒りの感情のほうが勝ってきたのか、親の敵でも見るかのような顔をしてヴィグラスを睨む。

 

「分かったわ。魔理沙ちゃん、行きましょう」

 

 アリスが魔理沙の手を引く、反抗するようなことはしなかった。ただ、魔理沙はいつまでもヴィグラスから視線を逸らさなかった。

 

 

 安請け合いするものじゃなかった。アリスは心から後悔した。元々関わりあるわけでもなし、放っておけばよかったのだ。そう今更嘆いても時既に遅し。もう二時間近くもの間、自分の椅子の上で体育座りをしてむすっと押し黙った他人の弟子の扱いなどどうすればいいのか彼女には分からない。

 元々は魅魔が、魔理沙の様子をちょっと見てきてほしいと頼むものだからつい了承してしまったのだ。アリスが行けば魔理沙も喜ぶと言われては断りづらい。報酬の土蜘蛛の糸に釣られた部分もあったがそれは気にしないことにして。

 

「何か喧嘩でもしたの?」

「……別に」

 

 わざわざ奮発して淹れた紅茶だというのに、魔理沙はカップには手もつけない。問い掛けにそっぽを向いて、石のように固まっているだけだ。目尻には涙が浮かんでいて、ちょっとした切欠で小さなダムは決壊しそうだ。ただでさえ年下の面倒など見たことないのに、泣かれたら手の付けようがない。どうすればいいのかも分からず、そわそわした様子でアリスもソファに腰を下ろす。本当は魔理沙を座らせるべきなのだが、今の彼女は梃子でも動きそうにないので仕方がない。

 ヴィグラスと魔理沙の喧嘩など想像もできないが、きっとお互いに譲れないものがあったのだろう。一見、二人共頑固に見えるがその実適応力が高いのは、アリスもよく知っていることだ。多少のことでこじれるとは思えない。

 

「き、きっとヴィグラスにも何か考えがあるのよ」

 

 言ってから、しまった、と彼女は思った。どうにかして彼女の気を引こうとしたのだ。その結果地雷を踏んでしまっては本末転倒であろう。慌ててお菓子を勧めても、出してしまった言葉は戻らない。案の定魔理沙の目元に溜まる水滴は限界を超え、ぽたぽたと雫が抱えた膝に落ちた。我を忘れて喚いたりはしない。そんな事ができないくらいに彼女は大人びていた。

 

「師匠はさ、私を魔法使いにするつもりなんか無いんだ。何も教えてくれない」

 

 掠れそうな声で呟いた彼女の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。感情が溢れ出すのを、必死に抑えているようだった。強い子だ、と思うのと同時に魔理沙の言葉に違和感を覚えた。

 魔法使いにしたくないのなら、最初から何も教える必要は無い。アリスは魔理沙の過去を、ヴィグラスが彼女を弟子に取った経緯を知らないが、彼が無責任な男で無いことくらいは知っている。かつてアリスが魅魔に拉致されて彼の前にやってきたとき、今すぐ返すよう魅魔を叱りつけたような男だ。だから、中途半端に教えただけで投げ出すとはとても思えなかった。

 

「魔理沙の気持ちは良く分かるけど、いったん落ち着きなさい」

「落ち着いたら何か変わるの?」

「もう一回考えてみて、ってことよ」

「何回考えたって同じさ! ずっと頼んで、ずっと断られてるんだもの。自分で見つけ出せとかそれっぽいこと言って、逃げるんだ。私に魔法を教えたくないから!」

「……そうしないと後で困るってことかしら」

「何が困るんだよ!」

「えっ、ああいや何でも無いわ。忘れて。でも、魔理沙を魔法使いにする気が全くないってことはないと思うわ。だってそれなら、貴女を捨ててしまった方が楽だもの。そうじゃないんだから、きっと彼にも事情があって、教えられない理由があるのよ」

 

 抑えきれなくなってきた感情を寄せた眉間の皺に集めて、魔理沙は椅子を蹴った。がらんと大きな音がするのを気にもとめず彼女はアリスに食って掛かる。対してアリスは、年若い彼女の剣幕に圧されながらも、落ち着いていた。魔理沙の言葉から、一つの結論に辿り着いたようだった。

 

「なんとなく、彼が貴女に魔法を教えられない理由は分かるの。でも、それを貴女に言う事はできないわ」

「なんで」

「あくまで推測だから、そして彼個人の問題だからよ」

 

 アリスははっきりと言い放った。彼女は想像は最低のもので、魔理沙に言うことすら憚られた。ただ一つ言えるのは、魔理沙はまだ魔法使いとしても人間としても幼すぎるということだった。

 

「分かんないよ……」

「まだ分からなくてもいいわ。ただ、そうね……後でこっそり家を覗いてみましょう。もしかしたら、彼が何を考えているのか分かるかもしれないわ」

 

 出来うる限り精一杯の優しい笑顔で語り掛ける。魔理沙はまだ納得していないようだった。当たり前だろう、いくら姉の様に懐いてるとはいえ、彼女の言葉をそう簡単に信じることは難しい。だけど、アリスの言葉を無碍にすることも出来なかった。力無く頷いて、目元を拭う。

 

「とにかく、お菓子でも食べましょう。私の焼いたクッキーなの。きっと元気が出るわ」

 

 勧められたお菓子に、魔理沙は遠慮がちに手を伸ばした。

 

 

 ことん、とカップを置く音がした。ヴィグラスの目の前には魔理沙用の魔導書が広げられており、分厚いそれは既に半分が埋められている。初めは基礎の部分、誰にでも読めるように一般の言語で書いていたが、それなりのテクニックを要する部分になってからは魔法でプロテクトを掛けている。ちょうど内容の少し下のレベルの防御機構だ。最低でもそれを解ける技量が無ければ読ませられないということである。

 自分の持てる技術を全て詰め込もうとしたので、未だ十分の一も書ききれていないが、人間の寿命で考えるなら多過ぎるほどである。それでもヴィグラスは筆を止めない。できる所まで、彼女が辿り着けなくても構わない、むしろ辿り着くことのできない部分まで書く必要があった。

 

「忙しいから、帰ってもらえると助かるんだがな」

 

 ヴィグラスは一人そう呟いた────ように見えた。それが間違いであったことは想像に難くない。けらけらけらと笑う女の声が部屋中に響き渡る。魅魔の声ではない。紫ならばこんな品の無い笑い方はしない。今までに聞いたことのない声だった。

 

「それだったら扉を開けてちょうだいよ」

「知らない奴を家に入れる程不用心じゃねえよ。相手が魔法使いならなおさら、な」

「あはは! 神経質だねぇ! だからあのちびっ子もここから逃がしたのかい?」

「中堅魔術師程度にそんな気遣いしねえよ」

 

 女の姿は見えず、彼のひとり語りに見える。しかし、そこには確かに彼以外の誰かが居た。振動を伝える魔法だ。ヴィグラスの家は赤の他人が入り込めないよう常に結界が張ってある。それを正攻法で破れるのは今のところ魅魔くらいのものだ。だから彼女は音を使ってヴィグラスにコンタクトを取った。その目的は考えるまでもない。

 

「てめえに渡すようなもんはねえぞ」

「あは、無理矢理奪っていくから問題無いね」

 

 最古の魔法使いと呼ばれるヴィグラスは、当然多くの魔法道具を持っている。それは彼が現在進行形で使ってる羽ペンだってそうだし、召喚魔法に用いる魔導書も、霖之助が作った杖だって、他の魔法使いから見れば喉から手が出るほど欲しい代物だ。

 だが、魔法の森に住まう魔法使いならば、彼から奪い取ろうなどとは考えない。敵わないことを知っているからだ。ヴィグラスの実力は大妖怪には届かないが、魔法使いの中ではトップクラスの更に上、雲の上の存在と呼ぶに相応しいのだ。幻想郷が生まれた直後には身の程を知らない新参の魔法使いも居たが、今ではもう見ない。不敵に笑う彼女を除けば。

 

「とりあえずはこの面倒な家をぶち壊しちゃおうか」

 

 あっけらかんと言い放つ女の声にヴィグラスの眉がひくついた。一度作り直した家を数年で壊されるのは彼にとって許せないことだった。

 外に膨大な魔力が集まるのを感じる。おそらくは前もって準備していたのだろう、プロテクトごと家を破壊しそうな熱量は無視出来ない。

 

「ごーぉ、よーん、さーん」

「出りゃ良いんだろう」

「話がわっかるぅ」

 

 熱量が霧散する。魔法を解いたわけではないだろう。一時的に逆戻りさせただけで、ヴィグラスが出てきた瞬間に叩き付ける心積もりであることは明白だ。

 書きかけの魔導書をしまい込み、羽ペンと杖を持って玄関へと向かう。私服の時間を邪魔されて──それもどこの誰とも分からぬ相手に──苛立ちが募っている。たまには大人気もなく本気を出してしまおうか。そんなことを考えてしまうくらいには。

 

「さっさと何処へでも消えちま……!?」

「かかったね」

 

 ドアを開け一歩踏み出した刹那、彼の力が抜き取られていくような感覚が全身を走る。足元がふらつく事はない。ただ、羽ペンも、杖も反応しなくなった。

 

「私以外の魔力を奪うトクベツまほーぅ! どうでしょ辛いでしょなんてったって最高傑作だもの!」

「なるほどな」

 

 他人の魔法に解除するのは苦手でも、自分の魔法を構築するのは大の得意らしい。直感型の魔法使いには珍しくないが、それなりに研鑽は積んでいたらしい。ヴィグラスの魔力のほとんどを吸い取ってしまったこの陣は、彼を以てしても解くのには時間が掛かる。しかし、目の前の女は既に魔力を集め直していた。

 

「じゃあ、死のっか」

 

 巨大な球体にまとめられた魔力がヴィグラスを狙う。咄嗟に家から離れ、森の奥へ向かうが、恐ろしいまでの熱量は彼の動きを追って曲がる。

 

 轟音。地面をえぐり、砂埃を巻き上げて魔力弾は消滅した。余波が木々を薙ぎ倒して、ただでさえ開けた場所にあるというのに、更地を広げてしまった。

 

「あはは! 最古の魔法使いとか言って魔法が使えなきゃザコじゃん!」

 

 勝利を確信した女が高笑いを上げる。周りに敵が居ないが故に無防備なその背中。

 

 それを蹴り飛ばした。反応することも出来ず、女は思い切り吹き飛ばされ、地面に倒れ込む。

 

「い……ったぁ!?」

「悪かったな、魔法の使えない雑魚でよ」

 

 ヴィグラスには傷一つない。それどころか砂一粒付いていなかった。苛立ちを噛み殺した顔で杖で地面を突く。魔法が使えないので何処かへ飛ばしてしまうことも出来ず、かといって倒れている女を殴りつけるほど畜生のつもりもない。立ち上がるのを待っていたヴィグラスの姿は、彼女にはさぞ余裕綽々に見えたことだろう。取るに足らない相手だと馬鹿にされたように思ったかもしれない。どちらにせよ、彼女の思考は今の一瞬で塗り潰された。

 

「ぶち殺してやる」

「やってみろよ」

 

 立ち上がった女が叫ぶと地面に魔法陣が出現し、大量の魔力弾を生み出した。さっきのものよりは一回り小さいが、魔法の使えないヴィグラスでは一発で致命傷だろう。それが広がり、彼を取り囲んだ。逃げ道を塞いでしまうつもりだろう。

 

「甘い」

 

 ヴィグラスに向けて撃ち放とうとした瞬間、魔力弾が四散する。魔法は使えないはずだ。いや、完全には封じ込めていないかもしれないが、それでも相殺できるだけの魔力は残されていないはず。驚愕に染まる女の顔に、彼は何事もなかったかのように杖を突いた。

 

「どうやって」

「教える馬鹿がいるかよ。さっさと帰れ、次はその喉元狙うぜ」

 

 少なくとも今この時点においては格下であるはずの相手に、翻弄された挙句、情けまでかけられた。女のプライドをズタズタにするにはそれだけで十分だった。

 余裕を完全に失い、金切り声を上げながら女は地面の魔法陣を大きくする。さらに巨大で、さらに多くの魔法が浮かび上がる。効かなかった手をもう一度使うのは、彼女から冷静さが失われている何よりの証拠だ。

 再び魔力がばらばらに散った。彼女には何をやったのかも分からないままだ。やっていることは至極単純なことなのだが。

 ヴィグラスの魔力は完全に吸い取られた訳ではない。今の魔理沙よりも少ない量だが、彼はその状態からでも発動できる魔法を作り上げていた。なんてことはない、彼女と同じ魔法弾の類だ。ただし、それは余りに小さく、彼女の魔力弾をすり抜けるほどの大きさしかない。

 そして、魔力を一所に集める魔法には核となる部分が存在する。ヴィグラスは小規模な魔力で核だけを正確に撃ち抜いたのだ。引力を奪われた魔力は繋がったままではいられず、霧散してしまったのだ。

 

「さて、忠告はした」

 

 殺しはしない。それは彼の信条に反する。しかし敵に対して容赦することもない。ヴィグラスが一歩踏み出す。女が怯えて後退る。勝敗はもう決した。

 

 がさり、と草の根を掻き分ける音がした。それは不幸にも女の逃げようとしている側だった。

 

「なに、この魔法陣は……」

 

 なんでだあの馬鹿! ヴィグラスは内心で舌打ちした。魔理沙を連れたアリスが、唐突に消えた自分の魔力に慌てていた。同時に怯えていた女の顔が笑顔に歪む。

 ヴィグラスが駆け寄るよりも早く、女が二人を捕まえに掛かった。いち早く察したアリスは魔法陣の外に出ようとしたが、慌てたままの魔理沙は行動がワンテンポ遅れる。それが命取りになった。

 

「形勢逆転って奴だよねこれ」

 

 女が勝ち誇った声で言う。魔理沙を掴み、さながら銃を突きつけた強盗のように彼女を人質に取った。アリスが人形を使って助けようと指を動かすと、女は魔理沙の首に爪を突き立てた。首筋を赤い血が流れ落ちるが、虚ろな目をした魔理沙は一切の反応を見せない。今の一瞬で意識を奪われたのだ。

 

「動くなよ。あんたの大事なお弟子さんがどうなっても良いのかい?」

「……本当に面倒くせえ」

 

 吐き捨てながらも、ヴィグラスはその場から動かない。女が指をパチンと鳴らすと、地面がえぐれ、土が凝り固まって岩のようになる。魔力弾が封じられたから、今度は物理的な質量で押し潰そうとしたのだろう。それを見ても、ヴィグラスは指一つ動かさない。

 

「死ねよ」

 

 土塊が鳥以上の速さで彼を襲う。鈍い音がした。砂煙が起こり、彼の姿が覆い隠される。動いた様子はなく、直撃したのは間違いないだろう。

 

「ヴィグラス!?」

 

 アリスの悲鳴が響く。砂埃の晴れたあとには、千切れた四肢らしきものと、だくだくと流れ出る赤黒い血があるだけだった。

 

「あっははははははははは! ばっかじゃねえの! まあこれでうざったい奴は死んだし、このガキもぶち殺して、てめえもぶち殺して全部頂いてやるよ!」

 

 アリスは何も答えなかった。ただ悲しそうな目で女を見るだけだった。茫然自失となっているのか、それにしても反応がおかしい。

 まあいい、殺してしまえば何も変わらない。そう思って女は捕まえていた魔理沙の首を刎ね────ようとした。

 

「あれ?」

 

 さっきまでしっかり押さえ込んでいたはずの少女の姿は何処にもない。驚いて周りを見渡すと、特徴的な白黒の髪が目に入った。

 

「よう、何を頂くって?」

「え、なんで、死んだはずじゃ」

 

 ヴィグラスが魔理沙を抱き抱えて、女に杖を突き立てていた。たとえ一度は避けていようと、どうせ魔法は使えないのだ、もっと丁寧に殺し直せば。そんなことを考えた女の中で何かが切れた。体には何の異変もない。しかし、幾ら力を入れても地面が動き出す様子がない。魔力も集まらない。

 

「残念だがタイムオーバーだ」

 

 自分以外の魔力を奪う魔法。魔法使い殺しとも言える魔法に対して、最も古い魔法使いはとうの昔に結論を出していた。つまり、格上には役に立たないということだ。逆説、格下にはこれ以上なく有効であるとも。戦いながらも自分の魔法が解析され破られて、さらにはやり返されたことに女はすぐに気付いた。気付いたところで手遅れだった。

 

「この時代遅れのジジイが!」

「うるっせえよ。とりあえず、寝てろ」

 

 罵声を吐く女だったが、ヴィグラスが何事か唱えた途端に彼が恐ろしく見えた。女の全身が死の警鐘を鳴らしていて、それなのに体は動かない。こんな感覚は初めてだった。結局、女は自分より強い相手と当たったことが無かったのだ。ヴィグラスの本気の魔力を当てられて、さらに彼の「相手に圧をかける魔法」の効力を余すところなく浴びて、彼女は意識を手放した。

 

 気を失った女を魔法で適当なところに吹き飛ばして、ヴィグラスはアリスを睨みつけた。

 

「なんで戻ってきた」

「貴方が魔理沙に対して魔法を教えるつもりがあるのか、それを確かめに来たのよ」

「随分とお節介なことだな」

 

 アリスの言葉に彼は鼻で笑う。

 

「教えられることは教えた。こんなガキができる事なんてたかが知れてる」

「本当にそうかしら。まさか教えられないなんてこと」

「黙っとけ」

 

 右腕にしがみついていた魔理沙をアリスに向かって放り投げる。

 

「俺には俺のやり方がある。口を出すな」

「教えるつもりはあるのね?」

 

 なおも続くアリスの言葉にヴィグラスはしばらく黙った後、ひっそりと呟いた。

 

「必要があればな」

「そう、それだけ分かれば十分よ。彼女はお返しするわ。自分の弟子なら自分で面倒見て頂戴」

 

 アリスは飛んできた魔理沙を糸で丁寧に抱え上げ、ヴィグラスに押し返した。そして、自分の仕事は終わったと森の中へと帰っていく。

 

「……ちっ」

 

 よくよく見れば泣いた跡がある弟子の姿に、ヴィグラスはため息を吐いた。




なかなか筆が進まぬこの現状


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第9話

久々ですね。艦これの方にかまけて全然書いてませんが、そもそも自由気ままな不定期更新なので仕方が無いです。たぶん次も何ヶ月も後でしょう


 少女には記憶が無かった。自分がいつ生まれたのかも、自分の名前も。気が付けば自分はそこに居て、誰かに言われるわけでもなく死なないで来た。ただ、代わりにどうして自分が生まれたのかは知っている。

 

 怨むために生まれてきたのだ。呪うために我が存在はあるのだ。それさえ分かっていれば彼女は十分だった。人を憎めば良いだけなんて、なんて楽なのだろう。

 人を殺してさえいれば彼女は彼女で居られた。だから、彼女の周りにはいつも骸が転がっていた。自分が美人と形容できる姿であったことは分かっていたので、ちょろそうな女を演じては男を引き摺り込み貪っていた。

 そんなことを何年繰り返していただろうか。存在意義にのみ存在の確証を委ねていた彼女は、雲一つない新月の空に無愛想な魔法使いと出会った。

 

 最初はいつもと同じカモだとしか思わなかった。せいぜい見慣れない衣服を着ていることと、帽子から覗く銀髪が女のように長いことくらいしか、普通の人間と変わらない。

 

「お兄さん、私を助けてくれませんか?」

 

 使い古した手口で、彼女は男に近付いていった。村と村の間にある古小屋を探して住み着き、物乞いを装って男に声をかける。そしてのこのこ近寄ってきたところを殺すのだ。失敗したところで不憫な物乞いとしか思われない、楽な方法だった。まして、今の住処は数日前にやってきたばかり。男が初めての獲物だ。そういう意味で彼女は油断していたのだろう。相手が自分のことなど知っているはずがないと。

 

「お願いします。お恵みを、どうか」

「……お前、いつからここに居る」

 

 男が口を開いた。最初は気付かなかったが、右手に杖をついている。飾り気のない素朴なものだ。別段足が悪いようには思えないが、と僅かな違和感が彼女の頭をよぎる。

 

「ええ、もう三年は前になるでしょうか。私はある商家に仕えておりました」

 

 しかし、経験ゆえの慢心が彼女の直感を曇らせてしまった。いつものように偽物の過去を話し始める。豪商の使用人であったが主人に慰み者にされ、挙句に子ができたと知るや捨てられた。赤子は流れ、自らも死の淵を彷徨った。奇跡的に息を吹き返せば今度は悪徳な医者の取り立てに追われ、人目を避けながらこうして物乞いをしている、と。陳腐で悲惨な末路を涙ながらに語る。

 

 忘れないよう毎回同じ話だ。彼女は自分で作り出した物語が好きだった。或いは、自分がこんな人生を歩んでいたのなら、という願望があったのかもしれない。怨む記憶が無い。だから怨むに値する記憶が欲しい。だから彼女は自分の話に酔って相手のことを顧みない。男の目が鋭くなっていくのに気付かない。

 全てを聞き終えた後、男は大きくため息を吐いた。

 

「なるほどな」

「どうか、どうかお恵みを。何だって致しますから」

「何だってするのか」

「ええ」

「だったら」

 

 下世話な命令でもされるのか。彼女は成功を確信した。男が杖を持ち上げたときも、密かに釣り上がる口角は動かない。

 

「いっぺん死んでみろ」

 

 ばちん、と視界が白く染まった。何が起こったのか、彼女には理解出来なかった。たとえしっかりと観察していたとしても、分かりはしなかっただろう。

 杖から放たれた雷撃が彼女の脇腹をえぐり取った。支えを失った上半身がぐにゃりと曲がり、衝撃が彼女を吹き飛ばす。失われた体から血が流れることはなく、黒い煙が上がって傷口を覆い隠すだけだ。

 

「なん、で」

「理由がいるのか、悪霊」

「悪霊……誰が!」

 

 彼女は激昂した。失敗したのなら逃げるべきだった。それが出来なかったのは男が言い放った「悪霊」という言葉のせいだろう。自分はその在り方に納得している筈だったのに、男が口にするだけで耐え難い怒りが沸き起こってくる。

 しくじったのだ。不幸な女を演じる必要はもう無い。殺す、気に入らないこの男を惨たらしく殺してやる。首を刎ねるために彼女は腕を振り回した。伸びた爪は骨を砕くことも容易いだろう。不意打ちにも似た攻撃を男は間一髪のところで避ける。掠めた帽子が空を舞い、どろりと腐り落ちた。

 

 不思議な髪色をしていた。全体的には銀色の髪なのに、前髪の一部分だけがどす黒く染まっている。それはまるで血で染め抜いたかのようで、何故か彼女の不安を大きく掻き毟る。

 憎い。怖い。妬ましい。羨ましい。殺したい。逃げたい。死にたくない。死にたい。様々な感情が彼女の中で交錯する。ただ変な髪であるだけだ。何を気にすることがあると叫ぶ声もする。しかし、彼女には無意味なものに思えなかった。

 

「随分と積もり積もった悪意だ。お前はそれを誰に向ける」

「誰にだって向けるさ。誰だって殺すさ。もちろんあんただって」

「それで心は晴れるのか。晴れねえだろうな」

「黙れぇ!」

 

 男の言葉が突き刺さる。彼女は怨むことしか知らない。怨んで怨んで怨み尽くす、その先を見たことが無い。底なし沼に自分から埋まっているようなものだ。

 

 彼女は腕を振り回す。女の細腕ではない。長年、意味も無く積み重ねられた憎悪は鬼にも匹敵する破壊を引き起こす。呪いにも等しい死を振り撒く。一度喰らえば致命傷。それが絶えず襲いかかるのだ。男は杖を支えにしながら曲芸じみた軽業でひたすらに避け続ける。挑発的な物言いの割には逃げる一方だ。それすら彼女の怒りを買う。

 

 動きが速くなる。ぶおん、と風切り音がして、男の外套を掠めた。即座に男は外套を取り払う。地面に投げ捨てられたそれはどろどろに溶け腐っていった。そして、男の姿が月明かりのもとに完全に明らかになる。

 

 どうしようもなく異質だった。もちろん初めから普通の格好などしていなかった訳だが、そういった目に見える部分の違和感ではない。空気というべきか、男の周りだけ何処か歪んで見えるのだ。そこに男以外のナニモノかが棲み着いているような恐ろしさがそこにはある。

 

「俺が憎いか」

 

 男が口を開く。未だその声に焦燥の色は無い。無視してしまえばいいのだ。こんなにも気持ち悪く、腹立たしい男の言葉に耳を傾ける必要などどこにも無い。それなのに、彼女の心は勝手に答えてしまう。

 

「ああ、憎いね。どうしようもなく憎い。今すぐそのはらわた引き裂いてやりたいくらいにさ」

「俺もそうだ」

 

 何故だか分かるか。男が問う。彼女は考えてしまう。悪霊と呼ばれた彼女を、いったいどうしてこの男が憎むというのだろうか。分からない。当たり前だ、彼女はこの男の生い立ちなど知らないのだから。分かるような気がする。それもまた当たり前だ。

 

「同族嫌悪って奴だよ」

 

 彼女の胸元に穴が開く。雷撃ではない、そこだけ急にぽっかりと穴が空いた。

 

「がっ……は……」

 

 意識が飛びそうになる。知らない記憶が頭の中を掻き回して、自分という存在が希薄になるような錯覚に襲われる。

 

 私は誰だ。名前など無い。必要としなかったからだ。逆に言えば何があろうと私は私であるということだ。それなのに、今の彼女には自分が 生きている(死んでいる)自覚が持てない。

 

「お前は悪霊だ。そんなものは見れば分かる。ついでに一つ教えておくならば、悪霊ってのは生前の怨み辛みで成るものだ」

 

 男は杖を地面に打ち付ける。何か更に行動を起こそうとする様子はない。苛立ちを杖にぶつけた、というのがしっくりくる。

 

「だからこそ聞くが、お前は何を怨んでいる」

「そんなもの決まってるじゃないか」

 

 彼女は吠える。黒い煙に覆われた部分も、手品めいた動きで失われた腸も元通りになっていた。目を剥いて、爪を構え、歯を食いしばる。緑髪のケダモノは喉元を食い千切ることしか考えていない。

 

「世の中全てだよ」

 

 密度を増し、凶器と化した怨念を浮かび上がらせ、女はそれを機関銃の如く撃ち出す。

 

「笑わせるな」

 

 そして全てが撃ち落とされる。男の周りに浮かぶ質量を持った光が怨念と衝突し、相殺される。まるで浄化されるような光景に女は唇を噛み締めた。

 

 だが、男の表情は女の凶相が可愛らしく思えるほど、憤怒によって歪んでいた。限界まで見開かれた目は悪鬼羅刹を思わせる。噛み切れた唇から流れ出る血液はさながら夜の王。

 女はここでようやく気付いた。自分が相対しているのは人間などではない。人の皮をかぶった恐ろしい別の何かなのだと。

 

「世間知らずのクソガキに、怨める世界があるものかよ」

 

 背後から飛んできた光に、女の体はぼろぼろに引き裂かれた。

 

 

 男はただ一人そこに立っていた。血を吸った髪は黒に染まり、死の喜びに体は打ち震える。周りにはおびただしい数の死体。人だ。それは紛れもなく人であったものだ。そんな当たり前のことが疑わしくなるほど奇妙にねじれ、穴空きになり、赤く染まっている。それらに浮かぶのは一様に苦悶の表情。全てが自らの死を感じながら逝ったのだろう。痛みと苦しみ以外に感情は無く、怨みすらそこには残らない。

 

「ははっ、はははっ、あはははははははははははは!」

 

 男は狂ったように笑う。死体を蹴り飛ばし、踏み付け、心臓を抉り掴み上げる。命を奪った感触はその手にある。ぬめりとした気持ちの悪い感触をけして失ってなどいない。本来は人であったものを親しみと敬意を込めて握りしめ、愉悦を持って潰す。殺戮の自覚はあれども葛藤も倫理観も無い。彼にとって命は玩具であり、自分のものですらもそれは変わらない。

 

 そうしないと男は自分を保っていられなかったのだと理解できた。

 

 場面が動く。阿鼻叫喚の地獄絵図から最後の審判へ。笑っていた男は膝をついて項垂れている。首筋に刃を当てているのは六枚羽の天使。青とも白とも取れる格好が黒ずくめの男と対照的だ。

 

 男は目を瞑っていた。何処か安らかな表情だった。或いは祈りを捧げていたのかもしれない。来世に期待しようなんて馬鹿げたことは考えていない。後悔はなく、懺悔もない。なるべくしてなったと運命を受け入れるつもりのようだった。

 

 天使は困っているようだった。一息に首を刎ねてしまえば良いのに躊躇っている様子だ。

 口が動く。独り言のようにも、問いかけているようにも聞こえる。男からの返事は短かった。それからちらりと天使を見上げて、まるで早くやれと言わんばかりに睨む。

 

 そして、男の首が宙を舞い────────女は目を覚ました。

 

 ここは、ねぐらにしていた古小屋だ。まだ薄ぼんやりとした頭でそう思った。覚えていたことに彼女は驚く。彼女の記憶はいつも混濁して、怨みつらみに塗り潰され、雪のように溶けてしまう。いつも覚えているのは怨みと人を食うための偽りの記憶だけ。それは、ずっと変わらない生活を送ってきたからかもしれない。どうせ人を食うだけの存在、どんな餌でも違いはないし、わざわざそんなものを覚える必要も無いからだ。

 だけど、今夜だけ──或いは昨夜だけ──は違った。あの男が同属と言った理由が今ならなんとなく分かる。夢の中で見たあれは、自分よりも醜悪な、怨念が凝り固まった存在だ。あの男はそこから何かを経て怨みを乗り越えたのだろう。

 羨ましかった。妬ましかった。それでももはや怨みは無かった。こんな気分は初めてだ。

 

 あの男はもう何処かに行ってしまったのだろうか。女は体を起こし、辺りを見渡す。何も無いあばら家には自分だけだ。男の姿は何処にもない。諦めきれなくて、まだ重い体を引きずって外に出ると、頭上から声がかけられた。

 

「もう動けるとはな。全く嫌になる」

 

 屋根の上に男が座っていた。煙管をくわえて、星を見ている。毒のある言い草だが、男の顔も晴れやかであった。

 

「なんで殺さなかったの?」

「俺がお前を殺し切れると思うか。もし思うんだったらそりゃ買い被りすぎだ」

 

 蜂の巣にしたというのに一晩も経たずに復活する。気絶しているうちに殺し続けたとして、先に力尽きるのは男の方。なんでもないようなふりをしているが、言われて見れば男はまだ疲労が取れていないようだった。

 

 女は上に登ろうと思い、少し考えて諦めた。近付けば遠ざかる、そんな気がした。

 

「アンタは、どうして生きていられるの」

「死にたくないから、で十分だろ」

「そうじゃない」

 

 なんて聞けば答えてくれるだろうか。女の意図は男に伝わっているのか、いないのか。

 言葉を選ぼうとしても、適切な言い方が見つからない。結局、変に誤魔化しなどせず、単刀直入に聞く。

 

「アンタはどうやって怨みに克ったのか。それが知りたいの」

「……読み取りやがったのか。いや、俺が()()()()()()だけか」

 

 男の顔が曇る。

 

「別に、克服したわけじゃねえ。ただ死んだってだけだ」

「死んだ?」

「ああ。俺の真似をしたところでお前のためにはならねえよ。結果は一緒でも、過程が全くの別物だ」

「それでも良いから。聞かせて」

 

 女は懇願した。たとえ何の役に立たなくても良い。それでもただ、自分以外に()()()()()()が居たという確信が欲しかった。男は顎に手を当ててしばらく考え込んでいた。本人からすれば消してしまいたいような歴史。だが、目の前の女が同じ轍を踏むのを黙って見過ごすのも、自分の手で殺してしまったように思えてならないのだ。

 

「話すよりも、直接伝えた方が速え」

 

 そう言うと男は屋根から飛び降りた。縁が折れたのかぱらぱらと木くずが落ちてくる。それを手で払い除けながら男は前に立った。

 

「ちょっと手え貸せ」

 

 言われるがままに手を出すと男は自分の手でそれを包み込む。

 

「……!?」

 

 その瞬間、女の頭の中に知らない光景が流れ込んだ。今までにもよくあった、心の奥深くにある記憶ではない。自分ではない誰かの、紛れもなくこの男の記憶だ。

 

 生まれた時の驚きも、幼い頃の美しく儚い日々も、脆く崩れ去った平穏と、彼の中に生まれた憎悪も全て彼女自身が経験したかのように染み入ってくる。死んだ、という男の言葉の意味がよく分かる。

 無辜の人々を引き裂く血も涙も無い自分の姿を、何処か遠くで眺める自分。世界を怨む心が、本当の精神から離れて生まれ落ちた。二人の間に繋がりは無く、男は自分が殺人鬼に堕ちていくのをただ眺めていただけだ。

 

 段々と夢で見た光景に近づいていく。煌々と燃える街の中で笑う道化を冷めた目で見つめる。男の意識は殺意に飲み込まれそうになっていた。

 

 時が流れる。テレビの早送りのように殺戮ショーが展開され、クライマックスは彼女の見た天使の姿。

 

 自分とよく似ていた。出会い、殺し合い、敗北する。そこに運命の絡む余地は無く、純然たる偶然として、二度と起きてしまった奇跡として、その景色は在った。

 力を使い果たし、膝をつく男。天使が問い掛ける。

 

────何故、貴様の心は安らいでいる。これから死ぬ、その時に何故貴様は悔いぬのか。死を恐れぬのか。

 

 やっと聞こえたその問い掛け。その答え。

 

────死ぬのも、予定通りだからな。

 

 さあひと思いにやってしまえば終わりだとでも言うかのように、視線を上げる。刃を握る天使の手に力が入り首が空に飛ぶ。夢の終わりだ。

 

 ここからは現実。その物語は終わらない。

 

 男の首は繋がっている。飛んでいったのは幻だったのか。一番驚いてるのは死んだ筈の男だった。

 

────なんで殺さねえ。

 

 男が食ってかかる。伝えられているだけの彼女には分かる。間違いないなく片方は、殺人鬼は死んだのだ。男は共犯者ではあるかもしれないが、それ以上に傍観者であることを天使も知っていた。

 

────死すべき者は死にました。これ以上、無益な殺生をするつもりはありません。

 

 無機質で冷酷な天使の姿はもうそこにはない。そこにあるのは人の心とはかけ離れながらも慈愛に満ちた、絵画に描かれそうな天の使いとしての姿。

 

────違う。誰も死んでねえ。

────いえ、貴方にも分かるでしょう。彼は死んだのです。貴方とは無関係に。

────あいつは俺だ。あいつの罪は俺の罪だ。どっちが悪いなんてことはねえ。

 

 男はなおも食い下がる。男にとって彼は自らの怒りの代弁者であった。それは即ち自分自身であることと同義。

 

────いいえ、貴方と彼は違います。ただ、どうしても貴方が彼の罪を共に背負うというのなら。

 

 天使が続きを話す、その直前で女は現実に引き戻された。最後の言葉は聞き取れなかった。男があえて聞かせなかったのだろう。

 

「今のは」

「俺の記憶。を俺が思い出していた」

 

 伝える程度の能力。彼は自分の先天的なその能力を、また異なる彼の記憶からそう呼んでいた。どんな力なのか、説明するのは容易いようでなかなかに難しい。

 

 端的に言ってしまえば、自分の思考を相手に送信する能力である。だが、使い勝手は最悪だ。何故なら使用している間、自分の思考は相手に筒抜けになってしまうから。それと意識して発動している間、自分は他のことを考えられないから。少し思考が逸れてしまえばすぐに効力を失う。そしてそもそも、思い浮かべる物事にも限界がある。そのせいで頭一つで送れるのは精々音だけか、限界まで行使しても映像くらいのものである。

 

 ただ、彼だけは例外だ。彼の内側には死してなお残る亡骸がある。空っぽの思考の器。分かりやすく現代的に言えば、完全並列思考能力とでも呼んでしまおうか。極限まで能力を行使しながら、平然と活動が出来る。逆鱗に触れるような物事があっても、もう片方が冷静であることもある。

 

 その全てを男は女に話した。誰も知らない秘密を出会ったばかりの彼女に話したのは、彼女を見ていると失われたもう一人を思い出すからであろう。わざわざ足を止めて、彼女を糾弾したのも、影を追っていたからに過ぎない。

 

「分かっただろ。俺とお前は同属だ。だけど、全く別もんなんだよ。お前の参考になるようなことなんか何もねえ。無様で、救いが無いだけだ」

「そんなの分かってたさ。でも救いを求めたって良いじゃないか」

 

 女の悲痛な言葉が響く。

 

「そんなもん俺の知ったことか。救われたきゃ自分で足掻け」

 

 それだけ言って、男は夜闇に姿を消した。掴もうとした手は宙を掴み、残された女一人がその場に崩れ落ちる。

 

 ただ、その混ぜかえった心の奥底に灯った火は、消えなかった。

 

 

 

 

 

 

「……さま、魅魔様! 聞いてますか!?」

 

 彼女を呼ぶ声で目を覚ました。目の前には口を尖らせた魔理沙の姿が見える。ここはヴィグラスの家か。そして座っている椅子が、自分が普段専有しているものであったことにも気付く。うっかり眠ってしまっていたようだ。本来ならば睡眠なんて必要ないというのに。自分がどんどんと人間に近付いて来てしまったような気さえする。

 

 家主は何処かへと出掛けているようで、何処にも姿が見えない。普段ならこの机で紅茶を飲んでいるか、面倒そうな実験を行っているのか。それか今でこそ余り見られなくなったが、魔理沙に魔法を教えているか。どれにせよ、彼女が寝ていたことには気が付いた筈だろうに。

 

「ごめんごめん、何の話だっけ」

 

 魅魔が聞き返すと魔理沙は頬を膨らませる。出会ったときには男か女かも曖昧になるような姿だったのに、いつの間にやらすっかり女の子っぽさが板についている。もっと大人になれば、さぞかし美人になるのだろうな、と魅魔はふわふわと頼りない頭で思った。たかだか数年ですらも、人間には長過ぎる。

 

「師匠が何も教えてくれないんですよ!」

「まぁだヴィグラスと喧嘩してるのかい」

「喧嘩じゃありません!」

 

 大きな声で怒られた。彼女なりに言いたい事は山ほどあるのだろう。ヴィグラスは魔法は自分で学ぶものだと一辺倒なことしか言わない。

 

 しかし、彼女はきっとヴィグラスのような魔法使いになりたいのだろう。彼が使う魔法を、自分も使えるようになりたいのだろう。ヴィグラス自身がそれに気付いているかどうかは分からない。頭が切れるようでいて、肝心なところで爪の甘い男だ。全く気が付いていないのかもしれないし、或いは分かった上で追い返そうとしているのかもしれない。

 

 彼の歩く道は茨の道だ。それも、致死に至らないだけの毒針がそこら中に散りばめられた、痛みと苦しみの先にしか見えない大穴。真っ暗で、一度落ちれば地面に潰れることも、這い上がって日の光を見ることも叶わなくなる。

 霧雨魔理沙は天才だ。おそらく彼が辿り着くのにかけた年月よりも遥かに早く、その地獄に身を投げることになる。その時、今も落ち続けている彼のように耐えていられるだろうか。

 

 魅魔はそうは思わない。魔理沙が弱いと言っているのではない。ヴィグラスが強いと褒め称えている訳でもない。彼の為に作られた地獄への片道切符は、彼だけが乗り越えられるものだ。魔理沙には誰かの後を追うのではなく、我が道を進んでもらいたい。きっとヴィグラスも同じ思いでいることだろう。

 

「ヴィグラスは頑固者だから引っ込みがつかなくなってるのさ。一旦諦めたふりをして自分の力を磨いてみな。あいつが忘れた頃にもう一度頼んでみれば、案外すんなりOKしてくれるかもしれないよ」

 

 きっと、お前には無理だと言っても、彼女が意固地になるだけだ。

 

 ふと外に目を向ければ、闇の帳がそろそろ落ちてこようかという時間だった。魔理沙が来てから、ヴィグラスが夜まで帰って来ない、なんてことは随分数を減らしたように思えたが、今日は珍しくその日なのかもしれない。そうしたら、魔理沙を守るのは魅魔の役目だ。

 

「忘れた頃に、って何十年掛けなきゃいけないんですか!」

「いやいや、ヴィグラスは意外と忘れっぽいから大丈夫さ。この前なんか三回連続で同じ罠に引っ掛かったんだから」

 

 こういうモードに入ると魔理沙は面倒くさい。宥めつつ、彼女の食い付きそうな話題へと話を誘導する。

 

「罠?」

 

 予想通り食い付いた。なんだかんだと言って師匠のことが気になって仕方がないのだ。せっかくだからとびきりの面白い話をしてやろう。腹を抱えて転げ回って、さっきまでどうして怒っていたのか忘れてしまうくらいの話を。

 

「魔理沙が来る前なんだけど、あたしがこっそりこの家に忍び込んで魔法結界の設定をいじったんだよ」

「さり気なく魅魔様凄いことやってませんか?」

 

 今まで数多くの魔法使いが挑戦したであろうが、ヴィグラスの結界を解読したのは魅魔だけである。

 

「どんないじり方したんです?」

「ヴィグラスが家に入った瞬間に包んだ大福が腹に向かって撃ち出されるようにした」

「それで師匠のお腹に大福が……!?」

「一回目出力失敗してさあ、痛みに耐えてるヴィグラスとかかなりレアだったと思うよ」

「師匠、そういうの意外と引っ掛かるんですね」

「次の日も同じ手に掛かったよ。寸前で受け止められたけど」

 

 魔理沙からでも、こめかみを引くつかせているヴィグラスの顔は容易に想像がついた。魅魔が相手では怒ったところで暖簾に腕押しだったであろうし、同情の念も湧くものだ。

 

「三回目なんか傑作でさぁ」

「誰が傑作だって?」

「そりゃもちろんヴィグラ、ス……」

 

 低い声が背後からした。恐る恐る振り返ると、その頭蓋を掴まれる。逃げ出そうと試みるも手遅れ。

 

「だからそれは痛いってぇぇ!?」

「師匠、帰ってきてたんですね」

「たった今な」

 

 悪評撒き散らす悪霊にアイアンクローを決め終えると、帽子掛けにいつもの黒帽子を掛けていつもの席に腰掛ける。

 そして、唐突に言った。

 

「明日の夜、霖之助んところ行くぞ」

「香霖のとこ!?」

 

 魔理沙が顔を輝かせる。頭を抱えていた魅魔もすぐさま復活して聞き返した。

 

「そりゃまたなんで急に」

「紫の思い付きだよ。元々霖之助のとこに顔出すつもりじゃ居たんだがな」

 

 ミニ八卦炉を扱うのは魔理沙だ。それならば彼女にも製作の過程を見せておくのはけして悪いことじゃない。魔理沙が霖之助のことを慕っていることも知っていたから、近いうちに会わせるつもりでは居た。

 

「明日、流星群があるのは知ってるだろ」

「そういや、そんな話もしていたね」

「それならいっそ博麗の巫女も連れて祈願会でもやるかって言い出したんだよ」

「霊夢も来るんですか!?」

 

 親しい人物二人と同時に会えるとあって魔理沙のテンションはうなぎのぼりに上がっていく。さっきまであんなにも膨れていたのが嘘のようだ。なんだかんだと言っても、まだ目先の楽しみに心を奪われる無邪気な子供であるということだろう。

 

「それまた不思議な話だねえ」

 

 魅魔が意味有りげに呟く。ジッとヴィグラスを覗き込んでいたが、彼はなんだ、と言うだけで気にすることも無い。

 

「ヴィグラスがそういうのに乗るのって珍しいなって」

「都合が良いからな」

「都合が良いから、か」

 

 魅魔にはこれからの知識など無い。この流星祈願会が魔理沙の将来に影響を及ぼしうることなど知りようがない。それでも、ヴィグラスが何かを企んでいることだけはなんとなく分かる。遠く離れてしまったようでいて、どうしようもなく似たもの同士の二人は、互いに気付かれたくない秘密を抱えたまま生きている。

 

「俺はさっさと寝るぞ。邪魔すんなよ」

「はいはい」

 

 居心地が悪くなったのか、座ってから何もせずに立ち上がり、彼の部屋へと戻っていく。小躍りしている魔理沙を、横目に、魅魔はヴィグラスの後ろ姿をずっと眺めていた。



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第10話

昔のお気に入り作品がリバイバルしていたので初投稿です。

そういえば畳んでいなかったなと思ったので、ちゃんと畳もうと思いました


「流星、か」

 

 夜空を掛ける宇宙の塵芥を眺めながら、ヴィグラスは呟いた。香霖堂の近くにそびえる大木。その下では茣蓙を敷いて魔理沙と霊夢、それから霖之助と紫が並んで星を見ている。団欒の雰囲気がどうにも馴染めずに、彼は一人離れていた。

 

「当たり前っちゃ当たり前のことなんだがな」

 

 彼女達に馴染めないのは、自分が異物であるからだ。これから始まっていくだろう物語にヴィグラス・ウォーロックという人物は居ない。それは自分が最もよく知っている。前世の記憶通りにシナリオを進めよう、ズレが発生しないようにしよう。そんな考えは彼の心には無い。全てはなるようになるだけで、ならないようにはならない。ただ、世界からの疎外感を感じ始めていた。

 

 孤独の次は疎外か、と自嘲気味に唇が緩んだ。自分勝手に生きて、自分勝手に傷付き続けてきた人生だ。予定調和なのかもしれない。

 宴であるにも関わらず、ヴィグラスは水を呷る。酒はどうしても苦手だった。過去に鬼に遭遇したことがあるが、酒気を帯びた息だけで気を失うかと思った程だ。魅魔には案外子供っぽいところもあるものだと笑われたが、生来のものはどうしようもなかった。

 

 また流れ星。視線を落とすと、本当の少女二人は目を輝かせて空を見ている。瑞々しい感性で、それはきっと彼女たちの未来に大きな影響を与えるのだろう。残った保護者は慈しみをもってそれを見守っていた。それだけで一枚の絵画になるような綺麗さだった。

 

「急だから何かと思ったけれど、まあ二人が楽しそうならそれで良かったかもね」

「老けたな」

「成長したって言ってよ」

 

 先程までは何処にいたのやら、いつの間にか隣まで登ってきていた悪霊が保護者顔をしているのをからかうと、珍しいことに誤魔化すわけでもなく、不機嫌な表情を隠しもせず怒る。

 

「でも、ま、さ。かなり久々に気を張ってないヴィグラスが見られたのも良かったよ」

「……俺はいつだって同じだ」

「かっこつけなの知ってるからね」

 

 魅魔はヴィグラスの白銀の髪をつまんで持ち上げる。髪は女の命という言葉ばかりが有名だが、魔法使いの髪は男のものでも触媒としては十分だ。彼の髪は魅魔と遜色ない長さを持っていて、普通ならば絶対に他人には触らせない大切なものである。しかし、それを無造作に弄られてもヴィグラスは黙ったままだ。怒り慣れすぎて諦めているという側面もあるが、確かに、気が緩んでいるのかもしれない。霧雨魔理沙の前で師匠として、八雲紫の前で歴戦の強者として表情を固くしている彼が、ただの魔法使いでいられる少ない瞬間の一つだった。

 

「まさか、死ぬつもりじゃないよね」

「なんだ、藪から棒に」

「紫からまたなんか頼まれてるんでしょ、見てりゃ分かるよ。紫はともかくヴィグラスは思い付きで動くの好きじゃないからね」

「無駄が嫌いなだけだ」

 

 魅魔の言葉は否定しない。死ぬつもりは毛頭ないが、全くの事実無根でもなかったからだ。

 

「で、何を頼まれたのさ」

「あったとして、お前に話すことじゃない」

「ケチ」

「それで結構」

 

 ヴィグラスは大木から飛び降りる。魅魔から逃げるように。

 

「……一人で抱え込むんじゃないよ」

 

 彼女はその背中を追うことはしなかった。追えば更に躍起になることが分かっていた。ヴィグラスという魔法使いは冷静で、感情的だ。一度決めたことは梃子を使っても動かない。それが魅魔には悔しかった。

 

「死んだら、怨むからね」

 

 

 流星群の日。幻想郷の内と外で同じ空を見上げる日は、迷い人が来ることも多い。ただ、此度の迷い人は悪辣で残虐であるらしい。

 

 目を疑う程に真紅の屋敷。固く閉ざされた門の前には中華服の少女が一人。朱の髪をだらしなくぶら下げて、目を瞑ったまま侵入者を待つ。

 

「紅魔館に、何が御用でしょうか」

 

 瞼を開いた先に居るのは白黒の魔法使い。杖と羽ペンを手に持って、魔導書を浮かばせている。その目の光は、月明かりに照らされて分からない。

 

「新参者が道理も知らず暴れるつもりだと聞いてな」

 

 魔法使いの足元に魔法陣が浮かび上がる。それが、門番を害する意図があることは、魔法に疎い彼女でもすぐに分かった。

 

「少し痛い目見てもらいに来たんだよ」

 

 光弾が叩きつけられる。門番は紙一重で直撃を避けたが、守るべき門はその質量でひしゃげてしまった。脅威であると判断した門番は、即座に構えを取る。

 

「紅魔館の門番、紅美鈴。我が主の敵として貴方を排除します」

「やれるもんならやってみな」

 

 美鈴は一息で魔法使いの懐に潜り込む。火力は厄介だが耐久は人以下。彼女の知っている魔法使いの知識に照らし合わせれば、これで勝負は着く筈だった。

 

 掌底を杖でいなす。足払いを飛んでかわし、空中で無防備になった体を狙った裏拳は魔法陣で防がれた。そのまま反撃とばかりに飛び出す光弾が彼女の腕を灼く。

 

「くぅっ」

 

 練気で拳を守り光弾を弾く。追撃の詠唱が聞こえ、すぐさま蹴りで距離を取った。自分の攻撃が全て防がれ、あまつさえ反撃までされたことに美鈴は驚愕する。身体強化の魔法か、いやそんなものを使っている様子はない。シンプルな肉弾戦の技量にて、彼女の武術は相殺されていた。

 

 体力勝負に持ち込めば勝てるだろうか。短い時間で彼女は思考する。おそらく、持久戦ならばこちらに分があるだろう。しかし、それは一度でもまともに喰らえば死にかねない、相手の魔法を全て凌ぎ切るという前提で成り立つ。

 

 はあ、とヴィグラスはため息を吐いた。想定よりもずっと腕が立つ。彼の視点では、この門番を倒してもまだ五行の魔法使いや吸血鬼の主が控えているのだ。消耗している場合ではない。

 紫から頼まれたのは『暴れる心つもりの吸血鬼を調査、できるなら先んじて叩いてほしい』というもの。主を引きずり出さなければ意味が無いのだ。

 

「……こいつだな」

 

 魔導書のページがぱらぱらとめくられ、あるページで止まる。六角形の特殊な魔法陣が三重に重なり、砲塔の形状をなす。

 ヴィグラスの得意とするのは召喚魔法。使役には様々な条件が絡む。望むものを何でも呼び出せる都合の良い魔法ではなく、自身の力で屈服させ、契約を結ばなければならない。けして使い勝手の良い魔法ではない。

 だが、そのラインさえ乗り越えてしまえば、どのような相手にも相性勝ち出来る万能の魔法へと変わる。

 

「行け」

 

 射出された巨大な質量は美鈴に向かって一直線に飛んだ。かわすか落とすか、瞬時の判断を迫られ、彼女は叩き落とす方を選ぶ。腕全体を斜めに振り下ろし、飛んできたものを払い落とす。ぐにゃり、と今までに覚えのない感触がした。地面に叩き落としたのに落下音はせず、不定形の塊がぶよぶよと蠢いている。

 

「ブロブ……!」

「なんだ、知っているのか」

 

 ブロブ、俗にスライムとも呼ばれるそれはゲームに出てくるものとは違う。粘液の体は物理攻撃に強く、切断されても癒着するために生命力も高い。魔法使いや、それに類する能力の持ち主であればそれ程苦戦しない怪物だが、紅美鈴という妖怪にとってはどうだろうか。

 

「クソッ」

 

 巨体によるのしかかりをすんでのところで回避する。血流が巡っているわけでもない怪物には気を用いた攻撃は効果が薄い。むしろ下手に手を出せば飲み込まれて窒息することだってありうるだろう。

 一方でブロブの比して緩慢な動きでは美鈴を捕らえるには至らない、いわば千日手。門番にとっては歯がゆいことこの上ないだろうが、ヴィグラスにとってはそれで十分だった。

 

 門番を置き去りにして門を飛び越えようとした刹那、僅かな空間のゆらぎをヴィグラスは感じ取る。直後現れて数十本のナイフを彼は外套を回して叩き落とした。

 

「何やってるの、門番なのに」

 

 魔理沙や霊夢とそれほど変わらないように見えるメイド服の少女。だがその目は、既に戦士の、いや暗殺者のものだ。

 

 十六夜咲夜。紅魔館の瀟洒なメイド。ツイてないと舌打ちをする。ヴィグラスが知る年代で考えればまだ戦力になっていないのではないかという甘い期待があった。だが、そうもいかないらしい。

 

「咲夜、相手を見くびらないで」

「……魔法使いか」

 

 動けない大図書館の魔女、パチュリー・ノーレッジ。今度は二人を同時に相手しなければならない状況のようだ。まだ大トリが残っているというのに、随分なハードモードではないか。

 

 魅魔を連れてくるべきだったか。考えが頭をよぎってから振り落とす。彼女では加減が出来ない。紫からの依頼は殲滅も辞さないものだったが、彼個人の考えとしては殺してしまうわけにはいかなかった。

 

 少なくとも、パチュリー・ノーレッジだけは。

 

「厄介だな」

 

 時間停止と併用して撃ち出されるナイフを防ぎ、パチュリーの精霊魔法を同じ精霊魔法で打ち消す。彼女の魔法は、ヴィグラスではなく美鈴を足止めしているブロブに向かっていた。これを止めなければブロブが撃破され、三対一の構図になってしまう。そうなれば、如何にヴィグラスと言えど勝ち目は薄い。

 

「時間が惜しい、さっさと決めようか」

 

 先ずは一人、一番御しやすい相手から落とす。

 

「ええ、そうね」

 

 彼の周囲を今まで以上の数のナイフが取り囲む。その上で、逆手に持った十六夜咲夜本人が背後から首元を狙う。

 獲った。彼女は確信した。時間停止に反応できるだけでも驚きだが、何度も出来る芸当ではない。腕を振り抜くと、侵入者の首が宙を舞う。

 

「何やってるの!?」

 

 パチュリー・ノーレッジの叫びは僅かに遅かった。何が、と聞き返す間もなく、彼女の体は糸によって雁字搦めにされる。地面に向けて自由落下を始め、途中の木に引っかかったことで辛うじて激突は避けたものの、彼女の脳内は混乱に埋め尽くされていた。

 

「動きが素直で助かるな」

 

 首をはねた筈のヴィグラスは無傷だ。肩には小さな蜘蛛が乗っかっていて、咲夜を捕らえたのがその蜘蛛が放った糸だったのだとパチュリーは理解する。もちろんただの蜘蛛ではない。それもまた、ヴィグラスの召喚魔法で呼び出した使役物だ。

 

「次はお前だ若造」

「……甘く見ないことね」

 

 若造と呼ばれパチュリーの顔色が強ばる。研究に費やした時間がそのまま強さや価値に繋がる魔法使いにとって若く見られることほど侮辱的なことはない。彼女とて百年を生きる魔法使いなのだ。

 

「今日はとても調子が良いの。これで沈みなさい」

 

 彼女は空に手を掲げる。魔力が熱を帯び、いつしかそれは何倍もの体積を大きな球体となって夜の幻想郷を照らした。

 

()()()()()()()

 

 今のパチュリー・ノーレッジが持つ最大級の魔法。彼女自身、一度は危険過ぎて封印した魔法。膨大な熱量は魔力を介さずとも相手を焼き尽くす。核を撃ち抜く、なんて甘い方法は対抗手段になりえない。これはもはや魔法ではなく、ただの破壊なのだから。

 

「はっ」

 

 だから、ヴィグラスは笑ってみせる。同じ魔法使いとして、彼と彼女ではとてつもない才能の隔たりがある。僅か百年と少しの研鑽で、その魔法技術はヴィグラスの五百年に匹敵していた。魔力量もまた、ヴィグラスよりパチュリーの方がずっと多いだろう。

 

「甘く見るなよ」

 

 杖を回し、ロイヤルフレアに正面から立ち構える。

 

Die Sonne geht unter(夜よ、訪れよ)

 

 それは、太陽とは真逆の絶対零度。いや、マイナス二百七十三度では収まらない。吸熱の魔法陣。

 

「この熱量を全て冷却しようと言うの……!?」

 

 無謀だ、パチュリー・ノーレッジは吐き捨てる。数千度にも達する熱を、たかが一魔法使いの力で打ち消せる訳がない。彼女自身、指向性を持って放たれたら防ぐことは出来ないと確信しているのに。こんな島国に潜んでいる田舎者に出来る筈がない。

 

「一つ、言っておいてやる」

 

 ロイヤルフレアが、水蒸気を上げた。

 

「お前のその魔法は、五百年前には通り過ぎた」

 

 その温度は急激に減少し、ついにはゼロに至る。熱を閉じ込めていた魔力は霧散した。

 

「う、そ……」

「まだやるか?」

 

 ヴィグラスの体に魔力はまだ残っている。それは正確ではないとパチュリーの洞察力は見抜いてはいた。

 彼が持つ杖。そこから魔力が流れ出し、補給し続けている。おそらくは、長い年月をかけ少しずつ溜め込んできた余剰ストック。それはいったい、パチュリー何人分に匹敵するだろう。

 勝てない、彼女はそう確信してしまった。杖がなければ、あと百年後だったなら。たらればの話は現実には意味がない。ヴィグラス・ウォーロックという魔法使いは彼女の何倍もの魔力を貯蓄していて、百年は先の魔術を知っている事実に変わりはない。

 

 不敵な笑みを浮かべながら、ヴィグラスはクリアなままの思考で考える。彼の知識に従えばあと一人、もしくは二人。かつて相対したことのある吸血鬼を考えれば、二人を相手取ることは不可能だろう。何より、それまでの三者に魔力を使い過ぎた。そろそろ潮時かもしれない。何も一人で皆殺しにしろという話ではないのだ。ここまで優位に勝負を運べたのは、ひとえに彼だけが持つ情報によって、ある程度の有利を得ていたからに過ぎない。それでもなお想定以上の消耗をさせられている。

 

「凄いじゃない。パチェまで負けちゃうなんて」

 

 拍手の音が聞こえる。背丈の一等低いドレス姿の少女が、ゆっくりと歩いてくる。青とも銀ともつかぬ髪をナイトキャップで隠し、笑みからはみ出した鋭い犬歯が彼女の凶暴性をこれ以上なく主張している。

 背筋に冷たいものが流れる。かつて八雲紫と相対したときと同じ、隔絶した実力差を思い知らされるプレッシャー。

 

「レミリア・スカーレット」

「私の名前を知っているのね。愚かな侵入者さん」

 

 紅魔館の主、永遠に幼き紅い月がそこに居た。逃げるか、それはもう不可能だ。

 

「あなたにはとても興味があるのだけど」

 

 あくまで自然体、それが何より恐ろしいものであることをヴィグラスは知っている。

 

「敵対者を逃がす趣味は無いわ」

 

 次の瞬間には血で象られた深紅の槍が彼を貫いていた。

 

 

「やっぱり居ない」

 

 ヴィグラスの家に入り込んだ魅魔は、部屋の主の姿が見えないことに嘆息した。どうせそんなことだろうとは思った、と眠っている魔理沙を起こさないように彼の書斎まで歩いて行く。

 

「隠し事が上手なのか下手なのか分かんないね。何か隠してるってことはすぐバラすくせに。それが何なのかは教えちゃくれない」

 

 何処に行ったのかまるで見当がつかない。書斎に何か手がかりが残っていれば良いのだが。彼がそんなヘマをする筈が無いと分かっていて、それでも何か動いていないと落ち着かない。

 

「ん……」

 

 書斎に入ってすぐ、彼女は違和感を覚えた。

 部屋があまりにきれい過ぎる。元々散らかす方ではないとはいえ、生活感すら消してしまうほどの潔癖症ではない。夜逃げでもしてしまうかのように、誰かが居たという痕跡を全て消してしまっている。

 何より、彼がずっと書き綴っていた魔導書すら消えていた。

 

「嫌な予感がする」

 

 魅魔は自分の髪をぎゅっと握る。真夜中に、心がずっとざわついている。怨霊の勘と言うべきか。

 

「死期を察した猫じゃないんだからさ。こういうのは本当にやめてよね。魔理沙を一人にするつもりなの?」

 

 私を一人にするつもりなの? とは言えなかった。

 

 不意に空が明るくなって彼女は窓から外を覗いた。雲間に隠れていた月が姿を現したのか、その予想は完膚なきまでに外れる。

 

「なにあれ」

 

 太陽がそこにあった。パチュリー・ノーレッジの放ったロイヤルフレアという魔法であることは見抜けずとも、偽物であることは魅魔にもすぐに分かった。そして、ヴィグラス・ウォーロックがその炎と同じ場所に居ることも感じ取る。異変があれば、それはヴィグラスに寄るものだ。長年の腐れ縁が結論を一瞬で導き出す。

 

「やっぱりそういうことじゃないのさ!」

 

 玄関まで戻る時間も惜しい。窓を開け、そこから魅魔は飛び立つ。秘密主義の親友を助けるために、誰よりも速く飛び立とうとその髪をたなびかせた。

 

 

 手応えの無さにレミリア・スカーレットは眉をひそめた。肉を切り裂いた感触が無い。魔法使いが骨と皮だけで生きているようなひ弱な生命体であることは理解しているつもりだが、それでも不自然過ぎた。だが、現に目の前で貫かれ血を吐いた男が死んでいるではないか。そこでようやく彼女は状況の異様さに気がつく。

 

 血の匂いがしない。

 

Durchdringen(貫け)

 

 身を捻ったレミリアの右半身が吹き飛ぶ。衝撃はなかった。まるでその空間だけが抉り取られたかのように、彼女の体は消滅した。

 

 ヴィグラスの得意とするものは転移魔法。座標を合わせ、遙か那由多へと飛ばしてしまう。肉体ではなくその空間に作用する防御不可能の一撃。言葉にすれば無敵の一撃だが、実際はとても実戦で使える代物ではない。戦っている最中に相手の位置まで正確に座標計算し、完璧なタイミングで発動する。コンマ一秒でもズレれば虚無を動かすだけだ。一発限りの隠し玉は、吸血鬼に致命傷を負わせるには至らなかった。

 

「やってくれるわね」

 

 失われた部分の血が脈動し、新たにレミリアの体を作り上げる。失われた服の部分も血が覆い隠し、傍目には大怪我のようにも見えるだろう。だが、即死でなければ吸血鬼の再生能力の前には掠り傷と同じだ。

 

「名前を聞いてあげるわ。光栄に思いなさい」

「なんだ、死ぬ前に相手の名前を聞いておきたいって感傷か?」

「違うわよ。名前が分からないと墓標に書く文字も刻めないじゃない」

「言ってくれる」

「それに」

「それに?」

「私の名前は知られているのに、あなたの名前が分からないのは不公平でしょう?」

 

 子供っぽい理屈だ。相手は知ってるのに自分が知らないのはずるい。そんなワガママが許されるだけの能力が彼女にはある。は、とヴィグラスは笑ってみせる。

 

「ガキのワガママに付き合ってられるか」

「そう、残念」

 

 再びレミリアが大地を蹴る。偽の景色を伝えて誤魔化すのももう通用しないだろう。彼は杖を手放し、魔法陣から彼女のものによく似た槍を取り出すと真っ向から打ち合う。

 

「ぐっ……」

 

 いくら身体能力を魔法で嵩増ししても、鬼のパワーには敵わない。ゴム毬のように弾き飛ばされ、大樹を足場にしてどうにか体勢を立て直す。すぐさま地面に向かって飛び落ち、体を一回転させるようにして追撃するレミリアの横を通り抜けた。さっきまで居た大樹がバターのように斬り落とされた。

 

「いい武器ね」

「吸血鬼にとっちゃ曰く付きさ」

 

 串刺し公がオスマン・トルコを撃退する際に使われた、無数の血を吸った呪いの槍。数千もある槍のうち一つではあるが、逸話が持つ狂気は銘品と呼ぶに足る。

 

Blitz(雷よ)!」

 

 雷が降り注ぎ、一角の獣がいななきをあげる。ヴィグラスが使役する中で最も強い幻獣だ。降り注ぐ雷鳴に流石のレミリアも足を止める。しかし、

 

「邪魔よ!」

 

 彼女が生み出した弾丸一つで一角獣の体が消し飛ぶ。そして、そのままヴィグラスへと無数の弾丸が降り注ぐ。一発一発が致死性の弾幕を地面を駆けて避け続ける。その間にレミリアの手には二本目の槍が握られていた。

 

「スピア・ザ・グングニル」

「ッ! マザーグース・アポトーシス!」

 

 投擲された槍が突き刺さるぎりぎりのところで、開かれた魔導書が槍を吸い込んだ。一瞬の静寂、そして反射するように赤い槍がレミリアへと向かう。初速を超えた一撃は、彼女の右手によって簡単に掴まれた。

 

「なんでもありね、あなた」

「テメエに言われたくはねえな」

 

 紙一重のところで凌いではいるものの、趨勢は明らかだった。かたや肩で息をする魔法使い。かたや手痛い反撃を一度受けただけの吸血鬼。

 

「やっぱり名前が知りたいわ。死ぬ前に教えてちょうだいよ」

「断る……つったろ」

「そ」

 

 もう一度槍を振り抜こうとする、その眼の前で異変は起きた。

 

「げほっ、ごほっ」

 

 ヴィグラスが血を吐いて膝をつく。咳が止まらず、手で口を押さえて動くことすらままならない。地面に這いつくばり、立ち上がろうと何度も足に力を込め、苦痛に顔を歪ませる。

 レミリアは槍を下ろし、警戒しつつ立ち止まった。自分の一撃が何処かに当たっていたか? 答えはノー。腹立たしいことではあるが、こちらの攻撃は全ていなされた。もし身体能力が同等だったなら、負けていてもおかしくなかった。では、自分と戦う前に何か傷を負っていたか。それも違う。パチュリーと咲夜が軽くあしらわれていたのはこの目で見ていた。美鈴も違う。彼女の攻撃に遅効性のものは無い。

 

「あなた、病に侵された身で戦っていたというの……?」

 

 考えられるのはそれしか無かった。魔法使いは不老だが不死ではない。傷で死ぬこともあれば、病に沈むこともある。パチュリーだって喘息持ちだ。程度は違えど似たような境遇と言える。だが、立つのも不確かな体であれだけの大立ち回りを演じていたということが、彼女には信じられなかった。

 

「だったらどうした。テメエは命を獲りに来た相手が隙見せてるのにぼうっと立ってんのか」

 

 肺尖カタル。それがヴィグラスの持つ病の名前だった。いずれは治療され、恐ろしくはなくなる病。だが、この時代にはまだ、そしてヴィグラスが掛かった時代にはまだ一つの治療法すら存在しなかった。発覚した時点で死が確定した呪い。紫にも、魔理沙にも、魅魔にも伝えていなかったタイムリミット。

 だが、この命のやり取りで、明日の死など関係ない。

 

「そいつが傲慢じゃなくてなんなんだ……!」

「なっ」

 

 レミリアの足元に巨大な魔法陣が浮かび上がる。逃げようにももう間に合わない。

 いったいいつから。準備している素振りは見せなかった。いつの間にこれ程大規模な術式を用意していたのか。

 

「杖……!」

 

 パチュリーの言葉にレミリアの視線も動く。そう、最初にヴィグラス投げ捨てた杖。森近霖之助謹製の魔力を貯蔵した杖が、遅効性の罠となってずっと魔力を張り巡らせていた。先程までの戦い全てがフェイク。自分の病さえ仕掛けの時間稼ぎに使ってみせ、檻の中に閉じ込めてみせた。

 

「……ヘブンスパーク!」

 

 眩い光が降り注ぎレミリアを包み込む。魔力をそのまま破壊力に変換して叩き込む。シンプル故に最も居高い威力を誇る魔法。如何に吸血鬼といえど直撃すればただでは済まない。

 

「はぁ……」

 

 ヴィグラスの限界が近いことも事実だった。自分の魔力も、杖に蓄えた魔力ももう残ってはいない。血を失って視界が霞む。体を起こしていることも苦しくなり、仰向けに寝転んだ。照らす月明かりを影が覆う。

 

「……まだ、動きやがるか。バケモノめ」

「それはあなたの方でしょ。ここまで完璧に手玉に取られたのは初めてよ。負けを認めても良いくらい」

 

 魔力の奔流を全身に浴び、ボロボロになったレミリアが彼の側に立つ。何度体が滅んだかは分からない。吸血鬼出なかったならば間違いなく死んでいただろう。

 紅き槍を彼の首元に当てる。だが首を刎ねることはない。

 

「……どうして殺さない」

「敗者に勝者を殺す権利があると思う?」

「甘ちゃんが」

「それはあなたもでしょ?」

 

 負けを認めたのは、手玉に取られたからだけではない。

 

「あなたは二度、私も殺せる機会があった」

 

 一つは右半身を削り取った時。もう一つは今。彼女を罠にはめ、全ての魔力をぶつけた時。確実に殺せたかは定かではない。だが、()()()()()()調節していたのは分かる。

 

「それにも関わらず殺さなかった。だというのに私がここで息の根を止めるなんて。プライドが許さないわ」

「……好きにしろ」

 

 不貞腐れて倒れたままそっぽを向く。どちらにしてもヴィグラスに反抗する力は無い。結局は強いものに生殺与奪の権利は与えられるのだ。彼女が殺さないと決めたなら、彼にはどうしようもない。

 

「知られているからって名乗り忘れていたわね。私はレミリア・スカーレット、紅魔館の主よ。三度目になるけど、あなたの名前を聞かせてちょうだいな」

「……」

 

 彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「……ヴィグラス・ウォーロックだ」

「ヴィグラスね。ねえ、あなたの魔法本当に凄かったわ。パチェにも教えてあげてよ」

「悪いが……弟子は既に一人居るんでな。これ以上はキャパオーバーだ」

「そう? それは残念ね」

 

 レミリアは特に落胆した様子もなく。

 

「咲夜! 丁重にお帰ししてあげなさい。病人よ」

「……かしこまりました」

 

 やっとのことで蜘蛛の糸から脱出した咲夜は不満そうに鼻を鳴らした。一手で無力化されたのが悔しかったのだろうか。それでも主の命令は絶対だ。美鈴を呼び寄せ、ヴィグラスを持ち上げようとする。

 たった一夜の間に行われた魔法使いと吸血鬼の戦いはこれにて幕を閉じた────筈だった。

 

「ねえ、お姉さま。殺さないのなら私が()()ちゃっても良い?」

 

 その場に居た全員が、恐怖で強張った。子供らしく甘ったるい声は、けたけたと挑発するように笑う。

 

 

 

 

 

「──きゅっとしてドカーン」



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