東方喰種! 現代入りしたルーミア (YSHS)
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お待たせ! プロローグしかなかったけど、いいかな?

R-15とありますが、残酷描写が入るのはもっと先になります


【1】

 

 『あんていく』という喫茶店には、世間には絶対に知られてはいけない秘密がある。その秘密というのが、従業員の全員が喰種(グール)であることである。而して、僕がそれを知っていて、尚且つその『あんていく』で働きだした事の仔細は、僕が喰種であるからと類推するのは間違ってはいない。ただ否定しておきたいのは、僕は生まれつきの喰種ではないということだ。元は人間の、半喰種。詳細は端折るが、喰種の内臓を成り行きで移植したら変化してしまった次第なのである。

 

 さて、今しがた、『あんていく』の従業員には喰種しか居ないと言ったものの、早速それに疑念が湧きあがるような要素が出てくる。それが、この店のお手伝いをしているという十代前半の小柄な少女ルーミアちゃんなのだ。

 

 この娘は、フルネームだとRumia(ルーミア) Nox(ノックス)というらしいのだが、どうも彼女はファミリーネームを意識していないみたいで、彼女を知る人から聞くと、名乗る際にはファーストネームのほうだけなのだとか。

 

 喰種は人肉を喰らう種族で、それゆえに身体能力は非常に高く、また赫眼という、狩りの際には目が赤くなる性質を持つ。この娘も、人肉を喰らい、そして常時目が赤い。身体能力も人間のそれを凌駕していると聞き及んでいる。それだけを聞けば彼女は単なる喰種である。ただ、彼女は普通の喰種とは決定的に違うところがあるのだという。

 

 確かにルーミアちゃんは人肉を食う。だが、普通の食べ物も、実に美味しそうに食べる。その証言として、彼女はよくつまみ食いをするのだとか。

 

 また、彼女は常時目が赤いと言及されたが、かと言ってそれが必ずしも喰種の赫眼であるとは限らない。まず赫眼とは、中央の瞳が、凝固しかかった血液のように赤黒くなり、白目だった部分は真っ黒に染まる。これは、瞳と白目の色を近くすることで視線を悟られにくくするためである。で、彼女の場合は、この赫眼の特徴に当て嵌まらない。白目の部分はちゃんとある。瞳の部分は、赤は赤でも鮮やかな赤の虹彩。これは目の色素保有率が低い、謂わばアルビノの目ということになる。

 

 ちなみにルーミアちゃんはアルビノではない。色素は薄いだろう。しかしそれは、せいぜい髪の毛の色が完璧な金色であったり、肌がほとんど日に焼けていない象牙色である程度のことである。

 

 ところで、どうして僕がここまで彼女の、主に外見的特長について知っているのか。言っておくと、僕に人をじろじろ観る趣味はない。知る機会があっただけなのだ。彼女は、何故か僕に懐いているようで、一緒に居る時間が長いのである。

 

 今も一緒に居る。僕の隣を歩きながら、その辺にあった植物から取った葉っぱで草笛を吹いている。

 

 白いブラウスに赤いネクタイ、その上に真っ黒なベスト、黒いロングスカート着用している。白い靴下と赤いローファーを履いている。髪は金髪のボブカットだが、左側頭部辺りの髪の毛が一部――本人は知らないの一点張りだが――不自然に削れている。

 

 さて、今僕たちが歩いているのは、僕が通う上井大学のキャンパス内であるわけだが、隣を歩くルーミアちゃんが大きな音で草笛を吹くものだがら、どうしても注目が集まってしまう。また最初のほうでは、彼女は西洋人らしいビスクドールのように整った顔立ちをしているものだから、そんな少女がキャンパス内を僕――明らかに兄妹ではない――みたいな者と闊歩しているのだから、周囲からの注視時間は長くなっていたものだった。

 

 今となっては、所謂マスコット的な扱いをされており、草笛の音を聞いた者が――女学生が多い――駆け寄ってきては彼女を猫可愛がりする状態だった。

 

 僕としては、授業があって常に彼女のそばに居るわけにはいかないから、放っておくとフラフラとタンポポの綿毛みたいにどこかへ行ってしまう彼女の足止めをしてくれるのは有難いことではあった。さては、食い意地が張っているルーミアちゃんに食べ物を与えてくれるのも同じく有難いのであった。

 

 授業のため一旦離れた後で、授業が終わった今、ルーミアちゃんは何かを食べている。

 

 「何を食べているの?」

 

 僕は何気なく訊いた。

 

 「シュークリームだよ」

 

 「美味しい?」

 

 「うん」

 

 「ふうん、良かったね」

 

 素っ気ないやり取りに聞こえるだろう。けれども、彼女は本当に美味しそうに食べていて、食べることに集中しているから口数が減るのであり、決して彼女が冷たいわけではない。

 

 喰種は普通の食べ物が食べられない。口に含もうものなら、瞬く間に吐き気を催す不快な味が口の中に広がる。そうなれば食べ物なんてとても飲み込めたものではない。けれども、喰種は人間社会に溶け込んでいるのだから、当然普通の食べ物を食べられるような演技を習得しているはずである。彼女もそーなのかーもしれないが、僕の中では違うと、根拠は薄いけど確信していた。

 

 人間の感覚というのは思いの外鋭敏なもので、例えば喰種が人間の食べ物を美味しそうに食べる演技をしていても、どこか違和感を感じるものなのだ。ただ、喰種という存在を認知していても実感を持たない世間の人々は、その違和感を気のせいか何かとして、あまり気にも留めないから気が付かないのである。

 

 ルーミアちゃんからは、僕がどんなに彼女のことを注意深く観ても、そんな違和感は看取されなかった。

 

 シュークリームの最後の一口を頬張り、手に付いたわずかなクリームを舐めて、ルーミアちゃんは僕へ顔を向けた。

 

 「たしかお勉強はこれで全部終わりだよね。じゃあ行こっか」

 

 微笑んでいるのか呆けているのか判らない顔で、ルーミアちゃんはそう切り出した。

 

 「うん、そうだね」

 

 そんな彼女を見ていると、僕は、今後ルーミアちゃんと接する上で、彼女がどんな人格であるかを判断しあぐねてしまうのであった。

 

 【2】

 

 幻想郷最東端にある博麗神社。最近になり、宵闇の妖怪ルーミアの行方が知れないという事が判明し、大騒動とまでは行かずとも、幻想郷の中核を担う者たちの間ではちょっとした騒ぎになっていた。

 

 「たかが弱小妖怪一匹に、どうしてここまでの騒ぎになるのでしょうね」

 

 折りしも博麗神社に訪れていた少女、東風谷早苗は胡乱に呟いた。

 

 「ねえ、霊夢さん、どう思います?」

 

 彼女は社殿の縁側に腰掛けながら、現在近くで境内を竹箒で適当に掃っている巫女に、博麗霊夢に話を振った。

 

 「どうって、何をよ」

 

 「ほら、宵闇の妖怪が失踪したって、妖怪の賢者たちが騒いでいるそうじゃないですか。あの妖怪って、ルーミアってそんなに大それたものなんですかね」

 

 「まあ……少なくとも、ただ失踪しただけだったら何の問題もないわね。尤も問題なのは失踪先よ」

 

 「と言うと?」

 

 「もし、ルーミアが外の世界に行ったとしたら……多分、大変な事になりかねないってこと」

 

 早苗は首をひねりながら、勿体ぶらないでくださいよ、と言った。

 

 「端的に言えば、ルーミアは元々は、鬼の四天王にも匹敵するような大妖怪だったのよ」

 

 「大妖怪! あれがですか?」

 

 早苗は瞠目した。

 

 「でも、あのルーミアですよ。人型だからって、確かに有象無象の妖怪よりも強いのでしょうけど、何の訓練も受けていない人間が対処したなんて事例があるくらい弱っちい妖怪でしょう。それに『幻想郷縁起』にも――私の見落としでなければ――強かったなんて記述はされていなかった」

 

 『幻想郷縁起』というのは、ここ幻想郷の妖怪たちをはじめとした、それらに関する情報が綴られた書物である。人間の生活の安全を確保するために、妖怪の実態、危険区域、理解や対策などを伝播する目的で作られた物なのである。

 

 しかし、情報を広く一般に知らしめるためであると言うことは、即ち、長すぎて解りにくいものとならないようにする必要があるということである。つまり、詳らかに記すにしても、最低限かつ平易な書き方になる。故に、その辺の他愛もない妖怪はまとめて扱われ、ルーミアのような弱小妖怪などの項は、あまり書かれないのである。

 

 「所詮あれは、人が創った歴史がしたためられた書物の一つに過ぎないのよ。宵闇の妖怪が強かったという『歴史』さえ消してしまえば、たとえ、あれを知っている個人が寄り集まっていたところで、それを拡散させてしまえばいいだけのことよ。勿論、矛盾は残るでしょうね。だけれど、縦しんばその矛盾に気付いて真実を知ったところで、それを知った個人がどう足掻こうとも、為せることは何も無いわ。良い線まで行って管理者に消されるのが関の山よ」

 

 鷹揚な足取りで霊夢は社殿へ近づき、その辺に竹箒を立て掛けて、早苗の隣に座った。

 

 「そんな、『歴史』の抹消なんて無茶苦茶じゃないですか。大体、宵闇の妖怪が元々強かったなんて『歴史』を無くす理由なんてそうそうないじゃない、せいぜい個人的な動機くらいですよ。だからと言って、おいそれと『歴史』の抹消なんて出来るはずが――」

 

 「ここが常識の通じる世界ならね」

 

 霊夢は、早苗の言葉を遮るような大きく通る声音で言った。

 

 「里の守護者――早苗も知っているでしょ――上白沢慧音が『歴史』を食べ、あとは、個人で宵闇の妖怪について知っている者たちの、その情報を共有しているという部分の『境界』を八雲紫が断ち切ってしまえば……」

 

 ちらりと彼女は早苗を見やった。

 

 それならもしかして、と早苗は神妙な面持ちで呟いた。

 

 「そもそも、宵闇の妖怪なんていう、如何にも強そうな妖怪がどうして弱いとされているのかしらん」

 

 と、霊夢。

 

 「そりゃあ、ラスボスっぽい敵が一面のボスなんて出オチを狙ったからでしょう」

 

 「それは飽くまで、あのビール神が何を狙ってルーミアをあのポスト置いたかの説明じゃないの。そうじゃなくて、東方の世界の中で、どうしてルーミアが弱いかということよ」

 

 「なぁんだ、そっちのことか。ちょっと勘違いしちゃいました!」

 

 えへへ、と、早苗は茶化す調子で笑ってみせた。

 

 「それでその解釈についてだけど――」

 

 霊夢は、徹底的な無視を決め込む姿勢を見せつけた。

 

 「――少なくともこの話の中では、筆者は、東方の世界で明らかにされていないこと……もしかしたらこの先永劫に明かされないこととかには、正しい答えは無いと見立てているわ。例えばルーミアのあのリボンとかは、何かを封印している御札とは公式に言われていて、ファンはそれを、ルーミアの本当の力を抑えるためのものなどと予想を立ててはいる。けど、実際には答えなんてなくて、ファンに各々想像させて楽しませるためのどうでもいい設定だというのが筆者の推測、もとい憶測よ」

 

 「じゃあ、少なくともこの話の中では、ルーミアの強さには根拠があって、弱くなったのにも訳があると言うんですね」

 

 「ええ、そうよ」

 

 ふと霊夢は立ち上がって、社殿の中のちゃぶ台の上に置いてある、二つの湯呑みの内片方に急須の中の茶を――中に落ちた茶葉の粕が混ざるように左右に軽く振ってから――注いでそれをあおった。茶は既に冷えていたようで、心地良さそうに息を吐いた。

 

 「オジサン臭い」

 

 「あんたが長々と喋らせるからでしょう。で、どこまで話したっけ」

 

 「ルーミアの解釈を語る上での前提までは話しましたね」

 

 「そう。それじゃあ――」

 

 と、霊夢が話を再開させたところで、

 

 「その前に、お茶を貰えませんか、私も結構話したもので喉が渇いちゃって」

 

 黙って霊夢は、急須の中の茶の残りを、もう片方の湯呑みに注いで早苗に渡した。ありがとうございます、と言って早苗は受け取った。

 

 「茶粕が濃くて飲みにくいと思うけど、いいかしら」

 

 「ま、多少はね?」

 

 湯飲みを軽く揺らしてから、平然と早苗は茶を飲んだ。

 

 「どうぞ」

 

 彼女は手で促す。

 

 「まず、妖怪が存在する上で、最も重要な必要条件は何かしら」

 

 「人間からの恐怖ですね、神様で言うところの信仰みたいなものでしょう」

 

 「そうね、妖怪というのは、人の物や現象に対する畏怖とかから生まれた存在。九十九神だって、人が物を大切にするよう啓発するために、子供を脅すのと同じように創られたとも考えられるわ。百年も使わずに九十九年で捨てちゃうと、器物が持ち主を恨んで化けて出てくるぞってね」

 

 「そういった話が人々の間に浸透し、その集団の意識が妖怪を存在させる事となった。だからこそ、妖怪は噂通りの習性を持つというわけですね」

 

 「そういうこと。そしてそれを支えているのは人間からの恐怖。で、いつの時代も人間は宵闇に対して恐怖を抱いているわね? たとえどんなに光を作ったとしても宵闇が怖いことには変わらない、それどころか暗闇に対する耐性が減る可能性だってある。いわんや、人間の宵闇への恐怖の権化たるルーミアが、その『信仰』を受けているはずの彼女が、どうして弱くあるのかしらね」

 

 「あっ、確かにそうですよね。殊にこの幻想郷では妖怪の存在が認知されているのだから、ルーミアは強いというのが至当なはず。それだけじゃない、宵闇への恐怖は外の世界でも続いていて、その世界で彼女が活動する事に因って、人を喰う宵闇の恐怖が喚起されたら、或いは……」

 

 早苗の言葉尻がすぼんだ。何かを話そうとしてはいるが、まとまらないようで、沈思しながら眼があちらこちらに泳いでいた。

 

 「碌な事が起こりそうにないわね」

 

 そんな早苗を尻目に、霊夢は言った。

 

 「霊夢さん……」

 

 早苗はおもむろに喋りだした。

 

 「私、とても嫌な予感がするんですけど、……どう思います」

 

 「どうって、今言った通りじゃない、碌な事が起こりそうにないわねって。どうしたのよ、そんなに色めき立って」

 

 興奮気味の早苗とは対照的に、霊夢は至って冷静であった。そんな彼女を見て、早苗は戸惑っている。

 

 博麗霊夢には、文字通り神懸り的な鋭い勘がある。たとえ、雲を掴むような事に於いても、勘を働かせて適当に動くだけで須臾にして物事を解決してしまうのである。今にしても、早苗は霊夢の勘に答え合わせを求めたのであろう。しかし返ってきたのは肩透かしなものだったのだ。

 

 「私、途轍もなく嫌な予感がするんです。何か大事なことを忘れている、否、顕在意識上では忘れていても潜在意識下ではおそらく覚えていて、それから推し測ったことがあるんだって。杳として判らないけど、きっと何か大変な事が起こるかもしれないと感じるんです」

 

 早苗はずいっと顔を霊夢に近づけながら捲くし立てた。渋い顔で霊夢はそれを押し戻す。

 

 「どうせ考えすぎでしょう。同じようなことを諄々考え込んでいるから、あれやこれやと色々な可能性が浮上してきて、その中で自分にとって関心が強いものを針小棒大に推すのよ」

 

 「常に最悪を想定して行動すべきです! 何があなたをそんなに暢気にさせるんですか!」

 

 「勘よ」

 

 霊夢は即答した。

 

 「霊夢さんの勘だってたまには外れはしますよ。さあ、うかうかしていられません、宵闇の妖怪について調査をしに行きましょう!」

 

 勢い良く早苗は立ち上がると、渋る霊夢の両肩を引っつかんで立ち上がらせた。

 

 「面倒くさいわねぇ……。第一、当てはあるの?」

 

 そんなの決まっているじゃないですか、と、早苗は如才無い返答をした。

 

 「宵闇の妖怪の歴史改竄に一枚噛んだと思しき人物、上白沢慧音さんのもとにです」




反応が芳しかったら、また、気が向いたら更新すると思います。


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この辺にぃ、美味いコーヒーの店があるんですよ

目指せ、閉じコン!(迫真)


 【1】

 

「はい、これ持っていって」

 

 「うん」

 

 ルーミアちゃんから、彼女が作った軽食を受け取った。ハムと半熟玉子とレタスの他ソースを掛けたシンプルなサンドイッチと、イチゴやキウイなどを挟んだサンドイッチである。人間のお客の注文だ。

 

 ちらりとルーミアちゃんを見やる。彼女はハムを一枚ほどつまみ食いしてから、また作業に戻った。

 

 端のほうからちびちびと、咥えながら食べていて、美味しそうだった。物凄く食べたくなってきた。

 

 喰種になってから、一度だけハムを口にしたことがある。とても不味かった。あの激烈な味を未だに憶えているのに、僕は懲りずに、人間だった頃に食べたハムの味を恋しがっている。でも今はどうだ。僕が食べられるハムと言ったら、どこぞのキチガイ盲人が叩き売りしている鎌倉ハム(・・・・)くらいとは。

 

 不条理極まりない。

 

 喰種は生き延びるために人を喰う。ルーミアちゃんもまた、並ならぬ事情を以って人を喰っている。けれでも彼女は普通の食べ物の味も楽しめる。その差がどんなに大きなことか、失った今ではしみじみ解る。もう、親友と一緒に美味しい物について語り合うことも、母を思い出すためのパンケーキの味を感じることも叶わぬ。あの味の記憶は次第に薄らいでゆき、人肉の美味とそれ以外の不味によって塗り替えられるのか。

 

 「研、どうかしたの?」

 

 「どうもしないよ、ありがとう」

 

 ルーミアちゃんの声で現実に引き戻された。僕はいつの間にか彼女をじろじろと凝視していたようだ、と、ようやく実感した。そんな僕に対して、怪訝な表情を見せるでもなく、ひたすら不思議そうな眼で僕を見ていた。そんな彼女に、僕の中に芽生えたコンプレックスを知る由なんてありはしない。

 

 羨ましい限りだ。それすらも僕は羨ましい。いや、妬ましい。パルパル。

 

 テレビやドラマで、味覚を失った人が苦悩する様を見て、脚を失う事に比べて軽いように思っていた自分が浅慮に思えた。何か一つでも無くなるだけで、これだけの無力感を味わうことになるなんて。

 

 「カネキ君、大丈夫かい? ひどく調子が悪そうだけど」

 

 両手に持ったサンドイッチを、それを注文したお客の所に運び終えた後の事であった。心配そうにそう声を掛けてきたのは、この『あんていく』の従業員の古間円児という男性だ。

 

 「いえ、大丈夫です」

 

 「だって、今にも倒れてしまいそうだよ」

 

 「いえ本当なんです、大丈夫です……」

 

 「気分が悪いんだったら、少しの間休憩すべきだよ?」

 

 「本当に、大丈夫ですって……」

 

 一寸語調が強くなってしまった。

 

 「そ、そう? それなら良いんだけど、……気分が悪くなったら僕がカバーするから、気兼ねなく言ってね」

 

 古間さんは遠慮した風に、無理に僕に構おうとはしなかった。良かったのかもしれない。あれ以上踏み込まれたら、思わず怒鳴ってしまいそうな気分だった。否、たとえ僕の感情が苛立ちに膨れていたとしても、場所を考慮できないほど冷静を欠いてはいない。が、彼に辛く当たってしまっていただろうというのは想像できた。

 

 「カネキ君」

 

 横から店長の声が聞こえた。それは気遣うようなものでありながら、どこか僕をたしなめるようにも感ぜられる低い声であった。

 

 「君は少し、具合が悪く、疲れているようだね。恰も良くもうすぐ君のシフトは終わりなことだし、後は彼に任せて上がりなさい。ついでに、コーヒーを飲むと良い、それで倦怠感も多少はマシになる。ねえ、円児君、カネキ君にコーヒーを淹れてあげてくれるかい」

 

 「かしこまり!」

 

 古間さんはそう弾んだ調子で言った後、僕へ視線を移し、ウィンクをした。先ほどの事などなかったとでも言うかのようだった。

 

 僕は店の奥へすごすごと引き下がり、更衣室で店の制服を脱いだ。その後休憩室に入り、その辺のソファに腰掛けた。

 

 こうして幾分か冷静になってみると、僕の具合が古間さんに感取られたのは、何も僕がそれを隠すのに失敗したからではないのだと実感された。赤ん坊が自身の気持ちを訴える手段として癇癪を起こすのと同様に、僕は自身の感情を、無意識の内に周囲へ示そうとしていたのだ。古間さんからの気遣いを拒絶こそしたけど、本当は構ってほしかった――なんて矛盾した動機があった。

 

 部屋の扉が開いた。入ってきたのはルーミアちゃんだった。コーヒーを乗せたトレイを持って、僕の前にカップを置いた。

 

 「やっぱり気分が悪かったのね」

 

 いつも通りの表情と声調でルーミアちゃんは口を切った。

 

 「まあ……そういう日もあるんだ。やたらとアンニュイで、何事も悪いように受け取っちゃう」

 

 「そーなのかー」

 

 ルーミアちゃんは両手を横に大きく広げて言った。空っぽの相槌だ。僕の言ったことを理解した上での返しではない。

 

 馬鹿馬鹿しくなった。

 

 日によって気分が変わり、特に理由もなく嫌な気持ちになるのは誰にでもある。そこに年齢は関係ないだろう。だけれども、大きくなって、歳を取って、色々なことが解ってきて考える世界が広がってくると、嫌なことをあれこれ憂慮するようになる。酷い時は、自分に関係のないことまであげつらって煩悶する。殊に僕のような、大人でも子どもでもない、そして社会を知らず吹っ切れられずに燻ぶっている若輩なんかは、まさにこのように自身の憂悶を他者に聴かせて、浅ましく同意を求めようとする。

 

 こんな小さな女の子に、僕は何てものを求めているのか。

 

 「そーなのかー」

 

 また言った。

 

 「ごめんね、これは勝手な言い訳だったよ。……ところで店長に伝えてきてくれるかな、もうちょっとだけここに居たいって」

 

 僕は――何を遠慮しているのか――おずおずとルーミアちゃんに頼んだ。

 

 「うん、いいよ」

 

 彼女はそれだけ言って、小さく手を振りながら部屋を後にした。扉が閉まる音を最後に、この部屋からは音は消え失せ、代わりに耳鳴りが僕の頭の中に流れだした。

 

 当初僕は、古間さんが上がるまで待っていようかと思っていたのだが、彼がいつ上がるか分からないのだから意味がないとして却下した。

 

 ならどうしようか。何がしたくて僕はこうして鎮座しているのだろうか。

 

 次第に落ち着かなくなり、コーヒーを飲み干した後には、部屋の中を特に理由もなく歩き回ったりしながら、次回古間さんと相対する時には何て声を掛けようかと思案していた。

 

 自分からやっておいて何だが、こうして誰も居ない部屋で何もせずにいるのは苦痛だった。普段であれば一分の時間も惜しんで帰途につくものだけれど、今回の場合は、こう、戒律を破ってしまった僧が罪悪感から座禅を組むが如き心持ちで、ここにしばらく留まることを決めてしまったのである。

 

 とは言え、それは一時的な情緒のもとに下された決断でしかないのだから、僕の気はこの一時間の内に変容してしまった。それにつれ、それまでの自分の心情のあまりの痛々しさに恥ずかしくなり、すぐさま僕は帰ろうと思い至ってそそくさと扉の方へ足を向けたのだが、僕が歩きだそうとした直後、部屋の扉が開いた。

 

 「やあ、カネキ君」

 

 扉から顔を覗かせたのは古間さんだった。

 

 「こ、古間さん。えっと……仕事のほうは?」

 

 「今日はもう上がりさ、トーカちゃんもカヤちゃんも来たしね、あとは二人に任せても大丈夫さ。これから帰るんだよ。そのついでに――ルーミアちゃんから君が元気ないと聞いたものだから――ここに寄ったんだ」

 

 「ああ……」

 

 温和な声でそう言われて僕は、古間さんは僕に気を使ってくれているのだと悟った。と、同時に、自分の過ちのことが思い起こされて、それに混じって、何とも言えない申し訳なさがこみ上げてきた。

 

 「あの時はすみませんでした。気分がちょっとすぐれなくて……いや、体調のほうは問題ないんですけど、今日はどうも情緒が不安定で……」

 

 謝らなければと思った。そんな考えが先走って、出した謝罪の言葉に続いて、頭に浮かんでいたことがのべつ幕なしに、混ぜこぜになりながら出ていった。出てくる言葉は弁解ばかりで、ひどく情けなかった。それに伴って、古間さんへの、また店長やルーミアちゃんへの、延いては『あんていく』そのものへの罪悪感が強くなっていった。

 

 「そっか」

 

 ほっとさせられるような声音で古間さんは相槌を打って、

 

 「そういう日もあるよね。そんな日は本当に辛いよ。今までの自分の考えが、全て楽観的なもので、自分はこれから絶望の毎日を送るのかなって、不安な気持ちになるよね?」

 

 「え……はあ……」

 

 僕は、何と返答したら良いものかと迷い、結局気の利いたことは何も言えず素っ頓狂な返事をした。これでは肯定なのか相槌なのか判りやしない。

 

 「すると、周囲に気を配る余裕が無くなっているものだから、身の周りのものが無価値に思えてきて、省みようと思わなくなっちゃうよね。こんな奴に好かれなくったって、嫌われたってどうでもいい。自暴自棄になっている今の自分に、そういった価値観があるのだと、自分に言い訳をしてしまって」

 

 彼はゆったりと、時間を掛けて語った。

 

 その言葉を、じっくりと噛み締めていると、はたと目が熱くなった気がしたかと思うと、涙が――溢れるとまでは行かなくても――目の中に溜まるのを感じた。

 

 その涙と共に湧き上がる情熱に駆られて、

 

 「そう、なんです……」

 

 やっとの思いで僕は、小さい声ながらもその言葉を搾り出した。それに続けて、

 

 「でも、やった後に自省の念に苛まれるんです。居ても立ってもいられず、こうして意味不明な行動に出て、そして――」

 

 なかなか適当な言葉が浮かばなかった。そう考えながらも、古間さんが気になって仕方がなかった。でも、ばつが悪くて顔は見られなかった。気長に待ってくれているのが、僕にとっては、待たせてしまっているという負い目でしかなかった。

 

 「――謝りたかったんです……」

 

 ようやく出たのが、そんな安直なものだった。それしか無かった。

 

 「古間さん、折角心配してくれたのに、にべもなくあんな態度を取ってしまって、本当にすみませんでした!」

 

 深々と僕は頭を下げた。はっきりと、必要なことを解りやすく。実にしっくりと来た、端からこうすれば良かったのだ。

 

 「大丈夫だよ、君の反省の気持ちを受け取ることが出来たんだし」

 

 とは言えその証は必要かも知れないね、と古間さんは紡ぎ、

 

 「そうだ、カネキ君、僕にコーヒーを淹れてくれないかい?」

 

 虚心坦懐にそう結んだ。

 

 「えっ? でも、僕はまだ接客しか出来ないし、お客に出せるようなコーヒーも淹れられないですし、その……」

 

 「なあに、そんなに気にする必要はないさ」

 

 古間さんはいつも通りのキザっぽい口調に戻って、

 

 「仕事先の先輩たる僕が、後輩の君の腕前を知らないわけにはいかないからねぇ」

 

 だけれど、声質のせいか、単に喋り方が変わったようにしか思えない。少なくとも、さっきまでの優しそうな彼を目の当たりにしていた僕にはそうとしか思えなかった。

 

 思わず吹き出してしまいそうだ。

 

 「それじゃあ、やってみます」

 

 僕は準備に取り掛かった。豆、ミルやドリッパーなどの、コーヒーを淹れるための道具は部屋の中に揃っていた。従業員が休憩がてらにコーヒーを飲むために置かれている物である。

 

 フィルターをセットしたドリッパーをサーバーの上に置き、そこに十から十二グラム程度の中細挽きにしたコーヒーの粉を入れて、揺らすなどしてならす。そこに、まず二十cc程のお湯を注ぎ粉を蒸らし、ある程度時間を置いて、それから、『の』の字を描くように四十cc程を注ぐ。次に水面が少し下がったら、また四十ccを注ぐ。三回繰り返すと、最初の二十ccも合わせてちょうど百四十ccのコーヒーが出来上がる。

 

 言うは易く行うは難し。素人と玄人の間の一体どこに違いがあるのやら、未だに、お客に出せるようなものは出来上がらない。

 

 これにしても、ドリッパーにあるコーヒーの粉の上にある灰汁の具合がいつも通りであることから、きっといつもの雑味の残ったものであるに違いない。

 

 かと言って、出さないわけにもいかず、僕はそれを出した。

 

 「どうぞ」

 

 その際、自分の手が震えているような気がした。

 

 彼は一口、二口と飲んでいき、ふうむ、と声を出して、

 

 「コーヒーの淹れ方には定評がある僕にはまだまだ及ばないなぁ。けれど、この味は満更素人が出すようなものではない。カネキ君、君の腕は確実に上がっているようだね」

 

 人差し指と親指を広げて顎に手を持っていき、評論家よろしくの調子で彼は喋った。

 

 「良かった」

 

 僕はほっと胸をなでおろした。

 

 まだまだとは言われてはいるが、確実に進歩しているという評価は、僕を安心させるには十分だった。

 

 「カネキ君、君も随分練習してたしね。トーカちゃんの指導以外でも、わざわざ自前でコーヒードリッパーとかを買って、練習してるんでしょ?」 

 

 「うっ……」

 

 出し抜けに図星を突かれ、顔が熱くなった。きっと僕は赤面している。

 

 「ヒデから聞いたんですか……」

 

 ヒデというのは、僕の小学生の時からの親友だ。引っ込み思案でクラスに溶け込めない僕を気遣ってくれたのが最初で、それからは中学高校、同じ大学に受かって現在に至る。 

 

 「人の口には戸が立てられないってね」

 

 言われてみればそうかもしれない。練習台としてヒデに僕のコーヒーを飲ませているのだから、僕がバイトしている事の繋がりで『あんていく』の面々と世間話をして、それが話題に持ち上がるのは自明の理のはずだ。

 

 「あははは。ま、そんなに気を落とすことはないよ。コーヒーを気に入って、それにこだわりだすのは当然のことさ。特に喰種なんかは、一部例外を除いて食事という娯楽が無いものだから、その代替としてコーヒーにこだわりを持つのさ」

 

 「あっ……」

 

 僕は喰種という単語に反応した。けれど、先ほどまでの時とは違って、沈鬱な気にはならなかった。それどころか、あの時の僕はどうしてこんな些細なことをうじうじと悩んでいたのか。否、理屈では理解していても、気持ちの上ではそうではないのだ。さしずめ、気落ちした人の気持ちを理解しきれないのと同じだろう。

 

 古間さんは続ける。

 

 「特に君の場合、元々人間だったわけで、甚だしい環境の変化で戸惑っていることなのだから、君がああなったのは、にべなるかなというものなのさ。何か大事なモノを喪失すると、当座でそれを受け入れることは出来ない。が、いつまでも現実を見ていないわけにもいかないから、悲嘆を以って受け入れようとするんだ」

 

 「ええ、まさにその通りですね」

 

 その大事なモノというのは肉親も当て嵌まるだろう。大切なモノを失うのはこれで二度目なのだから嫌でも解る。

 

 「古間さんにも、そういった時期があったんですか?」

 

 「あったよ。『20区の魔猿』なんて呼ばれたりしてね、捜査官狩りってことをしていたのさ」

 

 「そ、捜査官狩りですか?……」

 

 捜査官狩りとは、読んで字の如く、捜査官を抹殺することである。それがどういう意味を示すのか。

 

 喰種は捕食を動機として人間を襲う。しかしながら、復讐や見せしめ、はたまた白人によるアボリジニ狩りさながらにスポーツ感覚で行われるものである。いずれにしろ不穏当な話であるのは否めない。特に復讐というのは、自らのやっていることが正当なものであると信じて疑わないのだから、本来の憎悪の対象が曖昧であるゆえに無意味な人殺しを続ける。

 

 「そう、捜査官狩りさ」

 

 今目の前に居るこの人が、僕が礼を失しても大人な対応でケアをしてくれたこの人がそんな恐ろしいことをやっていたなんて、どうして信じられるだろうか。

 

 「そこで芳村さんに拾われたんだけど、当時の僕は、俺みたいなクズに優しくする酔狂な奴なんていねぇ、この世の中にはそんな冷徹な奴しかいねえ、きっとこのジジイも腹に一物抱えてるに違ェねえってね。この想念は、今にしてみれば、僕も若かったんだなあって。世界の全てを知った気になっていたのさ」

 

 彼は自嘲気味に語った。

 

 「人にはいろいろ過去があるんですね」

 

 月並みな感想だった。あまりにも感じることがあったので、それしか思い浮かばなかったのだ。

 

 「過去ありて今ありってね」

 

 しかし、その時が過ぎてようやく感想が形になる事がある。

 

 何でもないような他人の半生を覗いてみると、意外に興味深いと感ぜられる。平々凡々な他人の人生なんてつまらないなんてことはなく、他者の半生とは、五木寛之の『青春の門』のように巧みに情景を描写すればそれだけで面白い物語に化けるものだ。

 

 尤もこんな感想、人との会話が苦手な僕には到底言えることではないが。

 

 「じゃあ、ルーミアちゃんには、どんな過去があるんでしょうね」

 

 何を思ったのか僕は、ルーミアちゃんのことを訊いた。

 

 「いやあ……」

 

 古間さんは戸惑っている様子だった。

 

 「言うのははばかられるけど、彼女はちょっと難しいよねぇ……」

 

 僕は思わず頷いていた。

 

 「芳村さんが言うには、たまたま人を襲っているところに出くわして、親もいないみたいだから、捜査官に捕まる前に保護したらしいんだけど、それ以上詳しい素性は分からないんだ。良い子ではあるよ。仕事は手伝ってくれるし、何よりも素直だ。でも、あの微笑を見ていると気がそぞろになってくる。微笑んでいるように見えて、もしかしたらあれが彼女の無表情なんじゃないかって思うと、彼女の心中には何か闇があるんじゃないかって邪推してしまうんだ。普段は普通の、天真爛漫な女の子らしい振る舞いをしているけど、時折、大人顔負けの見識を垣間見せる事があるのがそれを倍化させてしまうんだよね……」

 

 彼は、言葉尻を、いつものような軽い感じにして誤魔化そうとしていたようだが、内容が内容なだけに、そして僕がそれに共感してしまった事でそうはならなかった。

 

 けれど僕は、彼の述懐には概ね同感したものの、彼が感じるものとはまた別のものを、ルーミアちゃんに抱いていた。

 

 「僕は、コンプレックスを感じるんです」

 

 「コンプレックス?……」

 

 出し抜けにそんなことを言われて、彼は訳が解らないとばかりに僕の言葉を宛然と返した。

 

 「劣等感のことではないんです。彼女と一緒に居ると――その、申し訳なくなると言うか……」

 

 「申し訳ないって? 負い目でもあるのかい?」

 

 「いえ、いえ。言葉の綾です。でも、それぐらいしか表現できなくて」

 

 古間さんは、僕の言葉にますます当惑するばかりだった。解るようで解らない、そんな風だった。

 

 かくいう僕も、自分の気持ちを感覚的には解っていても、理屈で説明できないでいた。

 

 【2】

 

 人里にある寺子屋。それは朝八ツ(季節にもよるが大体午前八時あたり。ここでは、幻想郷には定時法が伝わらなかったため不定時法が採用されているという設定)から始まり、昼八ツ(午後二時)に終わる。早苗が霊夢を連れて上白沢慧音に話を聞くために人里へ赴いたのは九ツ半(午後一時)を回った頃だった。皆昼食を食べ終えて授業を始めている頃だったので、二人はその辺の蕎麦屋で昼食がてらに時間を潰した。それでも足りなかったので、茶屋に入って団子を一皿、茶を数杯程飲んでさらに時間を潰したのである。

 

 子供たちが家に帰る時刻になって、皆寺子屋から出てきた。そんな彼らに入れ替わりで二人は寺子屋の中に入った。

 

 「おや、霊夢に早苗。どうした」

 

 口元を綻ばせて二人へ顔を向けた女性。この人こそが、里の守護者こと上白沢慧音である。一見して理知的な佳人であるが、その半分は人間でもう半分は白沢(はくたく)という半人半獣なのである。

 

 「訊きたいことがあるんです」

 

 早苗は愛想良く切り出した。彼女は一旦愛想笑いを――多少は笑みを残して――崩して、

 

 「宵闇の妖怪についてなのですが」

 

 「ふむ……」

 

 慧音は微笑を解いた。

 

 「ああ、そう来るとは予想していたよ」

 

 再び、今度は少し困ったような微笑を浮かべた。

 

 まあ座りなさい、と二人は慧音に促されて、先に霊夢が座って続き早苗が座った。

 

 「やっぱり――『食べた』のですね?」

 

 食べた、というのは『歴史』のことだ。この上白沢慧音には、歴史を食べる程度の能力というものがある。

 

 「さる方からの頼みでね」

 

 「そのさる方というのは、八雲紫のことですか?」

 

 慧音は、きょとんとした顔をした。

 

 「いや、違うが。頼んだのは彼女ではない」

 

 「ち、違うんですか?」

 

 「そうだ。彼女に関する『歴史』を食べてほしいと言ったのは――先代博麗の巫女だよ」

 

 「えっ……」

 

 それを聞いて面食らった早苗は、すぐさま、隣に居る霊夢の方を向いた。

 

 「……知ってましたね」

 

 早苗は、胡散臭そうと言うような眼で霊夢で見た。

 

 「まあ、裏づけはなかったし。それは、これから慧音の話を聞いてみれば判るんじゃない?」

 

 そう言って霊夢は慧音へ視線を向けた。ああそうだな、と慧音は話し出そうとした。

 

 と、その時だった。

 

 「おおい、霊夢ぅ!」

 

 やけに大きな音を立てて引き戸が開き、やかましい声が響いた。

 

 「……萃香か」

 

 萃香と呼ばれた、両側頭部から角を生やした少女は、片手に持った瓢箪を傾けながらどやどやと霊夢たちのほうへ歩いてきた。

 

 一見幼い少女に見えるこの者は、こう見えても鬼の四天王の一人であり、大の大人どころかこの幻想郷の大抵の者たちが敵わない戦闘力を有しているのである。今彼女が持っている瓢箪の中身にしても、中身はほとんど純粋なアルコールと言っても過言ではない強烈な酒が入っており、それをがぶ飲みしてもこうしてへべれけで済んでいるところを見ればただ者ではないと判るだろう。

 

 無論、斯様な実力者を、これまた人あらざる者たる上白沢慧音が推量できないはずもなく、彼女は、いつでも動けるように居住まいを、気取られないようにほんの少しだけ崩していた。

 

 「おっと、そんなにいきり立つなよ……」

 

 萃香が口角を上げながら言うと、慧音はビクリと肩を竦ませた。

 

 「何の用だね?」

 

 「お前をかどわかしに来たのさ……」

 

 ――なあに冗談さ! と言って萃香はからからと笑った。

 

 「わはははは! でもさ、お前みたいな良い女をさらってやりたいってなァ本音だよ。私の素性を推し量った上でそんな居丈高な振る舞いを敢えてするとは、なかなか気骨のある女だとは思わないかい、なあ霊夢?」

 

 呆れた様子で霊夢は、女の私に訊くかしら、と嘆息しながら呟いた。

 

 「で、用件のほうだけどさ。暇潰しに人里散歩してたらな、霊夢と早苗が一緒に居たなんて話を聞いたもんでさ、それが『カラス』の奴の耳に入ったみたいで、博麗の巫女と守矢の巫女が組んで異変か! なんてデカイ声で独り言を言うもんだから、皆それを真に受けてがやがやしてたわけなんだ。それで霊夢、実際どうなんだ。異変を起こすってんなら、私は力を貸すよ。でもその代わりドカンと盛り上げて――」

 

 「そんなわけないでしょ」

 

 霊夢は拳を萃香の鼻面へ叩き込んだ。生身の、何の特別な力もまとっていない人間の拳を受けたところで鬼には大したダメージにはならないらしく、いてっと萃香は呻いて後ろにすっ転んだ。

 

 「何でい。そいじゃあ一体何なんだ?」

 

 「早苗がね、宵闇の妖怪について調べたいって言うもんで。その道連れとして引っ張られて来たのよ」

 

 ほほう宵闇の妖怪か、と萃香は興味深そうな様子を見せた。

 

 「懐かしいなぁ……。久しく会ってないけど、元気してるかな」

 

 「知ってるんですか?」

 

 萃香の発言に早苗が食いついた。

 

 「知ってるも何も、何度か勝負したからな。いやあ、強かったなぁ。また闘いたいもんだね。今はどうしてるんだい」

 

 「どうって、力を失って弱小妖怪になったわ」

 

 「マジか! スペルカードルールが流行ってからとんと話を聞かないと思ったら、まさかそんなことになっていたとはねぇ」

 

 そう言えばあの時言っていたのもスペカを予見していたからなのか、と萃香は呟いた。しかし、その音は口の中に篭もっていたので霊夢らには聞かれなかった。

 

 なるほどルーミアを知っているのか、と慧音。

 

 「とすれば、ちょうど良い。私が宵闇の妖怪の『歴史』を探るより、実際に相見えた者から聞いたほうが良いかもしれない。萃香殿と言ったかな、是非ともお願い出来まいか」

 

 慧音は会釈程度に、一寸うやうやしい口調で頼み込んだ。

 

 萃香は、止してくれやい、と渋い顔をした。

 

 「わざわざそんなへりくだらなくたって、ひとこと言ってくれればいくらでも話してやるからさ」

 

 それにさ、と萃香は続ける。

 

 「あんな面白い奴との思い出なんて、話したくてずっとうずうずしてたんだ」

 

 「そうか、恩に着る」

 

 「だから止しておくんなよって。……そうだ、きょうだい相手なら畏まる必要なんてないだろ。どうだい、あんた、私ときょうだいにならないかい」

 

 「え? いや、えっと……」

 

 慧音は少々困ったような顔で頬を掻き、逡巡していた。

 

 今まで普通に滔々と喋っていたものだから失念していたであろうが、この萃香は現在酔っ払っているのである。いや、むしろ酔っ払っているからこそ、ああも饒舌になっていたとも言える。今だって慧音にきょうだいとなることを持ちかけたのだって、人としての正義を以って萃香に反抗しようとした彼女を本当に気に入ったというのもあるだろうが、酔っ払い特有の気前の良さというのもあるはずである。

 

 そんなこんなで尻込みしている慧音の様相を気にせず萃香は、

 

 「ありゃりゃ、そういえば人間にやっても大丈夫な酒がないな」

 

 ううむ、と萃香は唸った。

 

 と、このように、いつの間にか勝手に話を進めていたのである。

 

 「今から用意してもいいんだろうけど……そうすると話のテンポが悪くなるよな。すまないね、きょうだいの契りは後にして、ひとまずルーミアの奴の話を始めようか」

 

 「そうしてくれ……」

 

 疲れたと言う顔で慧音はぽつりと返した。

 

 じゃあ何から話そうか、少しの間萃香は考え込み、

 

 「まずあいつの性格だけどな――」

 

 萃香は人差し指を立てながら低い声でそう言う。慧音と霊夢はそのままの姿勢で、早苗は顔をずいっと、前屈みになって次の言葉を待った。そうしてしばらくの沈黙を挟んだのち、

 

 「――嫌な奴だった!」

 

 憮然として、しかしそこはかとなく快活な様子で言った。

 

 霊夢と、萃香の言動に慣れてきた慧音は少しだけ脱力した。それだけで済んだ。だが早苗は、力んでいたところに肩透かしを食らったものだから、前のめりに体勢が崩れた。

 

 「もう本当さ、偏屈だったよ。普段はあまり喋らないくせに、珍しく長々と喋ったかと思いきや、人を喰ったみたいな屁理屈こねて人を煙に巻く、そんなんだったさ。いや、人を喰ったって言っても物理的にじゃなくてな……、まあそんなことは置いといて。とにかく斜に構えててな、いけ好かなかったんだよ。アツモノにビビってナマスなんか吹いちゃってさ」

 

 最早酔っ払いの管巻きである。霊夢は聞こえよがしにそう言ったが、萃香は話すことに夢中で気付いていない。

 

 「でもさ、私はあいつのこと好きだったよ。何たって、喧嘩を売れば買ってくれるし、何だかんだ言って付き合い良いし。それに先見の明もあった。妖怪の賢者として『上』の輪の中に入るかどうかの打診を受けていたくらいだからなぁ」

 

 「そんなにですか……」

 

 呆然として早苗はそう言った。

 

 さて――と

 

 「余興はこれくらいにしといて、宵闇の妖怪の物語について語ろうじゃないか」

 

 萃香は口を切った。

 

 「とは言え、私の知らぬところもあるだろうから、そこは、きょうだい、お前に補完を頼むよ」

 

 そう前置きをして、萃香は語り始めた。




IBK姉貴はレズでホモ、はっきりわかんだね。


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お母さんこわれる

Sleeping RAPE! The senpai who become a beast.




 雨というのは昔から嫌いだった。

 

 いや、雨を好きなんて言う人はあまりいないのではないか。冷たく、煩わしく、そしてベタつく。傘を差して歩くと手がふさがる、そうすると本が読めない。それに、鞄の中に入れていた本が、いつの間にか濡れてよれる事さえもあった。

 

 特にこの時期なんかは、もうすぐ冬なものだから、雨はとても冷たい。

 

 ルーミアちゃんは、雨が好きだと言っていた。僕は大して驚きもせず、そういう人もいるのだな、という感想を抱いた。

 

 「うわっと……」

 

 そんなことを考えていたら転んでしまった。同時に、手に持っていたトレーと、上に乗っていた、コーヒーが少しだけ残っているコーヒーカップを落としてしまった。幸いにしてカップは割れずに済んだが、中身がトレーの上と床にぶちまけられてしまった。

 

 「何やってんだよ、すっトロイな!」

 

 僕のバイトの先輩兼教育係の霧嶋(きりしま)董香(トーカ)ちゃんが、呆れたような叱責を飛ばしてきた。

 

 僕はドジが多い。それでこそ、トーカちゃんが僕のドジに慣れてしまうくらいには。しかしながら、ここ最近ではそれがなりを潜めていた。そのため、僕は久方ぶりの叱責を頂くのであった。

 

 「わはーははは!」

 

 ルーミアちゃんは両手を広げたポーズのまま笑った。目を細め、口角を上げて八重歯を見せる。その様は無垢な少女である。当たり前だが、僕には彼女のそれが新鮮に見えて仕方がない。と、そんなことを毎回感じるのである。

 

 「ルミも笑ってないで布巾持ってきて!」

 

 「はーい」

 

 やがてルーミアちゃんが布巾を持って現れ、彼女はそれを僕に投げて渡した。僕はすぐさま床を拭いた。床に飛んだ液体はさして多い量ではなかったので、一分も経たないうちに終わった。

 

 僕がそれを終えて少しした折、ベルの音と共に店の扉が開いた。そこから姿を見せたのは、僕の親友であるヒデこと――ひでではない――永近(ながちか)英良(ひでよし)であった。

 

 「大将、やってる?」

 

 「屋台じゃないんだぞ、ヒデ」

 

 僕がそう切り返すと、ヒデはくつくつと笑った。

 

 「やあ、ルーミアちゃん、トーカちゃん、今日も可愛らしいねえ」

 

 「こんにちは、英良。あなたも相変わらず、……軟派ね」

 

 「ははは……」

 

 思わぬ切り返しに、ヒデは一瞬どう返したものかと困ったような顔をし、結局苦笑をしたのだった。

 

 「ち、ちょっとルミ! ごめんなさい、えっと……英良さん?」

 

 「いや、いや、気にしないでちょうだいよ。この娘とは、お互いに知らないわけじゃないしさ。ね、ルーミアちゃん」

 

 「そーなのかー」

 

 すっとぼけた調子で、ルーミアちゃんは目を逸らしながらいつもの口癖を言った。

 

 「ちょ、それはないって! 見捨てないでくれえ!」

 

 ヒデはオーバーなリアクションをしてみせた。トーカちゃんがくすぐったそうな笑い声を上げ、俄かにその場には和やかな雰囲気が流れる。

 

 「で、注文は何にするの?」

 

 と、ルーミアちゃん。

 

 「そうだなあ……ウィンナーコーヒーにしようかな」

 

 「ウィンナーコーヒーね。ご一緒にシャウエッセンもいかが?」

 

 「なるほど、これが本当のウィンナーコーヒー……ってお約束かよ!」

 

 「わー!」

 

 ヒデからのツッコミに弾かれるように、子どもの劇のやられ役よろしく彼女は奥へ下がっていった。

 

 彼女が居なくなると、途端に場は静まり返りだした。トーカちゃんは誰かが言葉を出すのを待っている様で、ヒデはというと、ルーミアちゃんが居なくなった事でリズムが崩れたのか言葉を探している様子だった。そして僕は、何か言わなくてはと思いながら思案していたものであったが、結局何も思い浮かばずに閉口を貫き通す事となったのである。

 

 「いやあ……」

 

 と、ヒデが切り出す。僕とトーカちゃんは、いま将に話そうとするであろうヒデを見やった。

 

 「ルーミアちゃんが居ると、いつの間にか主導権が持ってかれちまうよなぁ……」

 

 呆然と僕はヒデを見つめていた。何の反応を示さなかった。けれども僕は、彼の言葉に俄然共感した。

 

 「子どもって、そういう感じですよね」

 

 トーカちゃんが小さく笑いながら言って、まあ私の偏見かもしれませんけど、と結んだ。また少しだけ間を置いて、

 

 「知り合いの子どもで――と言ってもそこまで小さくありませんけど――女の子がいてですね、その娘は随分とおとなしいんです」

 

 「ああ、そういう子いるよね」

 

 と言いながら、ヒデは僕に視線を流した。

 

 「な、何だよ……」

 

 「いや、昔のカネキを思い出してな」

 

 からかうような眼だ。

 

 でも事実だ。何とか言い返したいけれど、気の利いた切り返しをしたいけれど、かなしいかな僕はそうしたユーモアやウィットというのは持ち合わせてはいないのである。

 

 「お待たせしました、ウィンナーコーヒーです」

 

 そしてうれしいかな、ちょうど注文のコーヒーを届けにきたルーミアちゃんという助け舟に乗ることが出来た。

 

 「ああルーミアちゃん、ちょうど良かった、今話が終わったところなんだ」

 

 「おいおいカネキ、逃げるなって――」

 

 ヒデが言い終わらぬうちにルーミアちゃんが、

 

 「そーなのかー」

 

 と言ってコーヒーをヒデの顔に押し付けた。

 

 「あつっ!あちち! や、やめてくれ、ちょっと!」

 

 カネキ助けてぇ、と、ヒデは押し付けられるカップを片手で押さえながら、もう片方の手で僕に救いを求めた。

 

 「余裕そうじゃないか、まったく……」

 

 子どもの悪戯に付き合うとは、つくづくノリの良い奴だと思う。

 

 「ほら、ルーミアちゃん、そろそろ」

 

 彼女の肩に手を置いて、それを合図に彼女は悪戯を止めた。

 

 「いやあ悪いな、カネキ。お前最高。からかってごめんよ」

 

 「調子のいい奴だなあ……」

 

 ぷっと後ろでトーカちゃんが吹き出すのが聞こえた。

 

 その後のことは、わざわざ詳細に話すことでもないだろう。せいぜい、ヒデがコーヒーを啜りながら僕を冷やかしたりトーカちゃんと話したりするだけであった。それ以外でなら、他愛もない世間話くらい。

 

 そういえば、その世間話をしている中で、喰種に関する話題が上がった。熱しやすく冷めやすいことに定評のあるヒデが、今度はあろうことか喰種に興味を持ったのである。

 

 そぞろな気だ。

 

 「じゃあそろそろ帰るわ」

 

 ヒデはお代だけ置いて立ち上がった。

 

 「ああ、またね、ヒデ」

 

 他に何か言おうかと思ったが、考えている間にヒデは店を出てしまった。

 

 僕は何だか嫌な予感がした。

 

 「カネキ」

 

 トーカちゃんの無機質な声が呼んだ。

 

 「あのヒデって奴のことだけどさ。もし正体がバレたら――あいつ殺すからね」

 

 低く抑揚のない声。僕の胸から首元までに鳥肌と寒気が走った。

 

 「そ、そんな――」

 

 何とか反論を返そうとするも、何の言葉も紡げなかった。先ほどのヒデの、喰種に興味があるというのを聞いたことが尾を引いていたのだ。

 

 「殺したくなきゃ、死ぬ気で隠しなさい」

 

 トーカちゃんは僕に言い聞かすように反駁した。

 

 辺りには重苦しい空気漂った。そんな中で僕は頭の中で彼女の言葉を反芻した。

 

 気をつけよう、と、僕は最終的にそれだけを決意した。

 

 そんな時であった。店の入り口が、またもやベルと共に開いたのである。扉の開け方から慌しさを感知した僕は、吃驚したように首をそちらへ向けた。入ってきたのは女性と女の子だった。

 

 「リョーコさん!」

 

 トーカちゃんは目を見開いて、リョーコと呼ばれた女性に駆け寄った。

 

 「カネキ、タオル!」

 

 「あっ、うん!」

 

 トーカちゃんからの注文で、リョーコさんと女の子がずぶ濡れであることに僕はようやく気付いた。せかせかと僕は店の奥にあるタオルを持ってきた。

 

 トーカちゃんは、僕が持ってきた幾枚かのタオルから二枚程取ると、二人に渡した。二人はそれを受け取ると顔や髪を拭いた。

 

 「ごめんなさいね、迷惑掛けて」

 

 申し訳なさそうにリョーコさんが言った。

 

 「いえ……」

 

 トーカちゃんは気を使ったらしい口吻で応えた。

 

 僕は眺めるようにリョーコさんと女の子を観ていた。気の弱そうな、いや物腰柔らかそうな女性であった。女の子のほうは、眼を伏せて身を縮こまらせている。そうしておもむろに視線を上げて、たまたま僕と眼が合うと、途端にまた怯えたように眼を伏せて、ますますリョーコさんに身を隠すようにくっつくのであった。

 

 よく似ている。母娘であるのが判った。

 

 女の子のほうが、僕に怯えたような様子を見せて、後ろめたい気持ちになった。そのままに視線を少し横にずらすと、視界の端に動くものが見えた。反射的にそちらへ目を向けると、いつの間に居たのか――というか存在を忘れかけていた――ルーミアちゃんが居た。

 

 彼女は女の子のすぐ横に着く。女の子はまだ気付いていない。ルーミアちゃんが女の子の肩に手を乗せると、女の子は即座にその方へ振り向き、ルーミアちゃんの顔があるのを認識して、

 

 「わっ……」

 

 と小さく驚きの声を上げて咄嗟に顔を引き離した。

 

 「ル、ルミちゃん!」

 

 女の子はパッと顔を綻ばせた。

 

 「ひ、久しぶり! えっと……元気だった?」

 

 「うん、元気だよ、雛実ちゃん」

 

 いつものポーズを取ってルーミアちゃんは応えた。

 

 「うん、うん!」

 

 会話が成立しただけなのに、ヒナミちゃんと呼ばれた女の子は嬉しそうに、何度も頷いた。続けて彼女は、あのねあのね、と、どもりながら自分のポケットの中から一枚の葉っぱを取り出すと、

 

 「見ててね」

 

 と、葉っぱを唇に押し当てて息を吹いた。出てきた音は風を切る音のみだった。ヒナミちゃんは、あれれと眉をハの字にして首をかしげ、もう一度息を吹いた。しかしやはり、変わった音は出ない。彼女は顔をしかめ、躍起になってその後何度か葉っぱを吹いた。

 

 そして何度目かで、ようやく変わった音が鳴った。

 

 「あっ!」

 

 と彼女は声をあげ、もう一度吹いてみた。今度はしっかりと音が出た。物と物をこすり合わせた音みたいに聞こえる、またオカリナの音にも似ていた。

 

 「ほら、出来たよ!」

 

 得意な顔で言うと、

 

 「そーなのかー」

 

 ルーミアちゃんは例のポーズのまま莞爾として微笑んで言った。

 

 「そーなのだー」

 

 ヒナミちゃんもそれを真似て応答した。

 

 わはー、と二人は同時に声を上げた。よく解らない応酬だ。合言葉のようなものだろうか。

 

 そんな二人のやり取りを見ていて、トーカちゃんとリョーコさんは相好を崩していた。

 

 「ねえ、ルーミアちゃん、……折り入ってお願いがあるのだけれど――」

 

 リョーコさんが遠慮がちに話しかけた。

 

 「お客さんが来るまで……ううん、少しの間だけ、ヒナミの相手をお願い出来るかしら」

 

 「うん、いいよ。私が暇な間でよければ」

 

 快くルーミアちゃんは首を縦に振った。

 

 「行こう、ヒナミちゃん」

 

 「うん!」

 

 そうして二人は、仲良さげに手を繋いで奥へ行った。 

 

 先ほどまでの厳かな雰囲気とは打って変わって、少しだけ空気がやわらいだ。あの二人の子どものおかげかもしれない。

 

 「カネキ、あんたも一旦奥へ引っ込んでて」

 

 「え?」

 

 「だから、引っ込んでてって。私はちょっとリョーコさんと話があるから」

 

 「うん、……でも僕が引っ込む理由は?」

 

 トーカちゃんからつれないことを言われて少々ムッとし、僕はいささかの逡巡もなくそう訊いた。

 

 「ううん……」

 

 彼女は視線を落として刹那の間を置き、

 

 「立ち入った話だから、あんたが聞くと面倒くさいことになる」

 

 平然と答えた。

 

 「……そう」

 

 僕はそれだけを言って、彼女の指示通りに奥へ下がることにした。

 

 ところでさカネキ、とトーカちゃんに引き止められた。

 

 「あの娘らにコーヒーでも運んであげてほしいんだけど、頼める?」

 

 「ああうん、いいよ。……ん? あの娘らってことは、ルーミアちゃんにも?」

 

 彼女はコーヒーを好まないはずだ。そもそも、飲んでいるところを見たことすらない。

 

 「そう。ヒナミの目の前でジュース飲ませるわけにもいかないだろうし」

 

 なるほど、と僕は合点した。おそらくだが、これは彼女本人の要望だろう。

 

 店内のコーヒー豆を使うわけにも行かないので、休憩室の豆を使うために僕は早速そこへ足を向けた。店内から奥への扉に入って、僕は息を一つ吐いた。

 

 「それにしても……」

 

 トーカちゃんが今さっき、立ち入った話だからと言って僕を追い立てたことだが――、きっと嘘だろう。立ち入った話と言うなら、大方あの母娘がここに来たことについて話し合うことだろう。が、僕より古いとはいえトーカちゃんにそんなことを、店長が任せるはずがない。話の内容といったら、せいぜい店長に報告する事柄程度だろう。

 

 彼女が嘘を吐いてまで僕を遠ざけたかったのは、けだし彼女が僕を面倒くさい奴と知り抜いているからかもしれない。近くで話を聞かれ、後で質問されたら面倒だと思った上での行動なのだろう。

 

 僕は嘆息した。失望したからではない、図星だからである。確かに思うところもある。しかしながら、こうして得心している自分がいる。

 

 いつまでも女々しく消沈していても際限ないので、無理矢理気持ちを切り替えて休憩室へ向かった。部屋の前に着くと、中から女の子二人の話し声が聞こえた。片方が何かを説明していて、もう片方がそれに相槌を打ったりリアクションを返しているように思えた。

 

 自身の中のためらいを抑えつけて、さっさと僕は扉をノックした。どうぞ、という声が聞こえたので、ゆっくりと扉を開ける。その際、失礼します、とやけによそよそしいことを僕は言った。

 

 「ああ研じゃない、どうかしたの?」

 

 とルーミアちゃんから問われた。僕は、気の利いた言葉が咄嗟に思い浮かばなくて、数瞬の間黙考した挙句、

 

 「トーカちゃんから、君たちにコーヒーを持っていけって言われてね」

 

 と、結局このように安直に用件を言うのだった。

 

 「それはちょうどよかった。じゃあお願いしようかしら」

 

 部屋に入り、彼女らの横を通って、コーヒーを作るための道具のもとへ行く。その時、見られているような気がした。横を通る際、一瞬だけ二人のほうへ視線を向けた。ルーミアちゃんは、テーブルに広げた何かの雑誌を見ていて、彼女の隣に座っていたヒナミちゃんは、顔こそ僕の方を向いていたけど僕を見てはいなかった。

 

 部屋には沈黙が流れた。

 

 「研も聴く?」

 

 コーヒーの用意をしていると、出し抜けにルーミアちゃんがそれを破った。

 

 「何を?」

 

 これ、と言ってルーミアちゃんは雑誌を見せた。彼女が見ていた雑誌は宇宙についてのことだった。

 

 「多元宇宙?」

 

 というページが僕に見せられた。

 

 「私かて深く理解しているわけじゃないけど、雛実ちゃんに訊かれたから、私が理解している部分だけを解説していたところなの。で、今解説していたのは、三角形の内角の和が百八十度であることなんだけど」

 

 と言って彼女はヒナミちゃんを見やった。

 

 喰種は、喰種対策法なる法律によって人権が認められておらず、大抵の喰種は戸籍を持っておらず、まともな教育が受けられずに読み書きすら出来ない者もいるらしい。ヒナミちゃんもその一人であるなら、三角形の内角の和の解説が必要なのはむべなるかなというものだ。

 

 「それで、その三角形の内角の和と多元宇宙とどう関係があるの?」

 

 「詳しい証明は省くけど、三角形の内角の和が百八十度というのは絶対的だよね。でも例外があって、球面とかゆがんだ空間に貼り付けるとそれを証明できなくなるの。尤もこれは多元宇宙に直接的には関係はないけど」

 

 「じゃあ、どんな感じに関わるの?」

 

 そう訊くと、まあそんなにせかせかすることはないわと言い、

 

 「ある学者が、宇宙に漂う放射線を測ったんだけど――」

 

 「ホウシャセンって何?」

 

 とヒナミちゃんが訊いてきた。

 

 「素粒子っていう、目には絶対見えないとても小さな粒が、高いエネルギーを持って空間を飛び回っていて、それが放射線。宇宙にはそれが多量にあるんだ」

 

 僕がそう簡単に説明すると彼女は、ふうん、とひとまず理解したような様子を見せた。ルーミアちゃんが、続けるよ、と一言断ってからまた喋りだした。

 

 「その放射線のムラを測定して点を作り、その出来た点と点を結んで出来た図形に三角形を描いてみたところ、ほぼ百八十度だったらしいわ。つまり平坦だったってわけ」

 

 「ちょっと待って、今、ほぼ百八十度って言ってたよね? だとすれば、必ずしもそれで宇宙が平坦だって言えないんじゃないかな」

 

 「そう、まさにそこなの。例えばこの地球、球体ではあるけど、そこら辺の地面に適当に大きな三角形を描いたところで内角の和は百八十度を超えたりはしないでしょう。それと同じで、宇宙は私たちの想像を絶する広大さであるってことなの。それに、とある研究では、宇宙の膨張――宇宙が膨張しているのは知っているよね――の際、量子ゆらぎっていう現象が起きるから、必ずしも均一になるわけではないらしいの」

 

 「ということは、その三角形を貼り付けた空間は所詮宇宙の一部分でしかなくて、宇宙はもっと歪んでいるってことかな」

 

 僕が言うと彼女は、そうね、と同意した。

 

 「そういうことから、宇宙の外にはさらに広大な何かが在って、そこにはこの宇宙とはまた別の様々な宇宙が在るって説を後押しすることになったってわけ。そしてそれがどんな感じのものであるかも諸説あるらしいの。インフレーション理論とかだと、まず母宇宙があって次に子宇宙が出来、それからさらに孫宇宙という具合に、泡みたいに宇宙がいくつも在るんだとか」

 

 「なるほど、それは夢がある話だね」

 

 「でしょ」

 

 「ううん……ちょっと難しいかな」

 

 ヒナミちゃんは渋い顔をして言った。

 

 「難しく考えなくてもいいと思うよ」

 

 僕はフォローをしてみる。

 

 「感覚的には解っているだろうし、そこから噛み砕いて解釈をすれば、きっとさ」

 

 「う、うん」

 

 彼女は僕の目を凝視しながら、はっきりくっきりと声を出してくれた。そんな彼女に僕は微笑で返した。

 

 ふと視線を逸らすと、ある物が眼に入った。

 

 「あれ、それって高槻泉のやつ?」

 

 え、と彼女は、僕が示した本に顔を向け、うん、と頷いた。

 

 「高槻泉を読むなんてね、凄いや。あ、それは短編集か、なら比較的簡単かも……。ねえ、君はその中で何の話が好き?」

 

 僕が柄にもなく滔々と喋り、少し戸惑いながらも彼女は、

 

 「えっと……コヨトキ、アメ、かな」

 

 「コヨトキアメ……ああ、『小夜時雨(さよしぐれ)』だね。『黒山羊の卵』の先駆けになったやつだ」

 

 僕は勝手に独り言を言っていた。はたとそんな自分に気付いて、眼だけを動かしてこっそりヒナミちゃんを見やると、彼女は僕をぼんやりと見つめたのち、

 

 「あ、あの!」

 

 と彼女は短編集を開いて、

 

 「これは何て読むんですか?」

 

 と尋ねられて、彼女が指した単語を見る。それは――。

 

 「紫陽花(あじさい)、だよ」

 

 「アジサイ? お花の?」

 

 「そう」

 

 「それじゃあ、こっちは?」

 

 彼女はやや浮き立った様子で次の単語を指した。

 

 「これは、薄い氷と書いてハクヒョウ。でも他にも、ウスライって読み方があるんだ。こっちのほうが、響きとしては良いと思う……思わない?」

 

 「ううむ……、私としては、この前と後の淡々とした雰囲気とかリズムを考えると、ハクヒョウのほうがピッタリな気がする」

 

 「あっ、確かにそうかも……。凄い感性だね」

 

 すると彼女は、えへへとくすぐったそうに笑った。可愛らしいものであった。人見知りこそすれど、人懐っこい子であるらしい。

 

 なら、と僕は、

 

 「ねえヒナミちゃん、君がよければだけど、これから暇があれば君に単語を教えてもいいかな?」 

 

 意を決して提案してみた。

 

 「いいの?」

 

 その提案に彼女は、口元に僅かながら嬉しさを見せて聞き返した。それに対して僕は、うん、とだけ言って微笑み掛けた。

 

 こうして僕とヒナミちゃんは誼を持つ事となった。それからの数日間、僕は暇さえあれば彼女に単語を教えていた。高槻泉の本を中心として、小説の中にある難しめの語を教えた。僕が彼女に新たな語を教えるたびに、彼女は、自分のメモ帳にそれを記録していた。物覚えも良く、勉強熱心な印象を受けた。

 

 そんな日々が続く、いつまでも。そんな風に思っていた。

 

 ある日の事だった。リョーコさんがおろおろと、席に座り物憂げな表情をしながら悩んでいるようだった。

 

 「どうかしましたか?」

 

 僕が声を掛けると、

 

 「ええ、ちょっと。ヒナミが、お父さんに会いたいとぐずりだして」

 

 そんなすぐに教えてくれるあたり、彼女も相当参っているのが感ぜられた。

 

 ヒナミちゃんは休憩室に立て篭もっているらしい。僕がその部屋の前に行くと、中からすすり泣く彼女の声が聞こえた。そんな彼女に憐憫の情がはたと湧き、沈鬱な気になった。

 

 あの母娘は、ここ数日間ずっと『あんていく』に軟禁されている状態だった。最初のほうは気が付かなかったけど、日に日に二人の表情が不安に苛まれているものとなっていけば、さすがに気付いた。

 

 僕は一層、ヒナミちゃんに単語を教えるのに力を入れていた。できるだけ彼女が楽しめて、自身の境遇を忘れられるように。でもついに限界が来てしまったのか。

 

 「あの、詳しく聞かせてもらえますか?」

 

 事情を聴きだすのが目的ではなかった。ただ、リョーコさんの心情を吐露してもらえれば、彼女も少しは楽になるだろうと思ってのことだった。

 

 少しばかり彼女は渋ったが、軽い説得をしたら、とつとつと話してくれた。

 

 曰く、彼女の夫、笛口アサキさんは昔、何やら怪しげなことをしていたのだという。しかしヒナミちゃんが生まれてからはそこから離れていたが、最近になって昔関わっていた危ない人が訪れてきて、現在に至るとのこと。

 

 「ヒナミが、お父さんが夢に出てきたと言って――今思えばそれが切欠だったのかも――それから彼の話になったんです。そうしてあの娘が、いつお父さんに会えるかと訊いてきて、しばらくは会えないと言ったら、ああなってしまって……」

 

 「嫌なことは極力考えないようにするけど、自分が欲しいものというのはなかなか頭から離れないものですよね。すると、今まで我慢していたものが一気に爆発したのかも」

 

 「ええ、きっとそうなんでしょうね……。因果応報と言うのか、昔やらかした事が今になって帰ってくるなんて。でも、昔はそんな事をしていても、彼は優しい人なんです。ヒナミにも私にも優しくしてくれて……」

 

 寂しげに微笑んだ。

 

 「あなたも――アサキさんに会いたいですか?」

 

 「え?」

 

 「ヒナミちゃんが寂しいのなら、あなたもやっぱり同じ気持ちなんじゃないかって思って」

 

 僕の指摘に、彼女は唇を震わして、ええ、と喉に声を篭らせながら答えた。

 

 「……ありがとうございます、愚痴ったら少しだけ楽になりました」

 

 「いえ、いえ」

 

 さて、と彼女は立ち上がった。

 

 「私もいい大人で、母親でもあるのだから、しっかりしないと。あの娘がああなったのも、私の気分が伝染ってしまったからに違いありません」

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「ええ! ヒナミもまだ子どもなんだから、母親である私が不安を取り除いてあげないと。私が甘えてたら、ヒナミが甘えられませんもの」

 

 悲壮な表情だった。黙って頷き僕に背を向け、彼女は店の奥に消えていった。僕は心配になり、見に行こうかと思った。けど余計なお世話かと躊躇した。が、結局行くことにした。

 

 店の奥の廊下の、角を曲がってしばらく行くと休憩室がある。僕は角の陰に身を隠して向こうの様子を窺った。

 

 「ヒナミ、そろそろ出てきなさい」

 

 「いや!」

 

 案の定、話しかけるリョーコさんに、意気地になっているヒナミちゃんの構図。

 

 「どうしてお父さんに会えないの? 会いたいよ、何で駄目なの!」

 

 「いい加減にしなさい!」

 

 痺れを切らしたリョーコさんが、怒鳴りがちに言った。中から聞こえてきていたヒナミちゃんの訴えがピタリと止んだ。それを受けてリョーコさんは、やってしまったとばかりに辛そうな表情をした。

 

 「……ごめんね、ヒナミ。お母さん、言い過ぎたわ」

 

 先ほどまでの凛とした声音から一転して、いつもの優しげなそれで再び語り掛けた。

 

 「偉そうに言っていたけれど、実を言うとね、……お母さんも寂しかったの。でもそんなこと言ってられないって我慢していて、それをヒナミにも押し付けちゃって。本当にごめんね。本音はお母さんも――あの人に、お父さんに会いたいんだ……」

 

 涙ぐんだ声で諄々と。それでも彼女は泣き出すまいと、顔を一寸上に向けて深く息を吸って吐いた。しばしの静寂ののち、ドアノブがゆっくりと動き、扉は軋む音を立てながらゆっくりと開いた。開いていく扉の隙間から、顔色を伺うような、ヒナミちゃんのうるうると揺れる(まなこ)が覗いた。

 

 小さく開いた扉の隙間をすり抜けるように彼女が出てきた。

 

 「あの……」

 

 ヒナミちゃんが切り出した。でも少しの間ためらってから、

 

 「ごめんなさい、お母さん……わがまま言って」

 

 涙声で謝った。

 

 リョーコさんは、ううん、と首を横に振った。

 

 「お母さんもね、ヒナミと全く同じ気持ちだったから、あなたのこと言えないの」

 

 そう言って彼女はヒナミちゃんを抱きしめた。お互いにそれ以上何かを言うでもなく、ひたすら。すれ違っていた気持ちが、リョーコさんの告白によって交和したのだ。一旦は出来た溝が埋められ、あの母娘の仲はいとど深まったように思えた。

 

 僕はその場を後にした。店内に、仕事に戻った。

 

 結構な時間を置いて、二人は店内に入ってきた。リョーコさんの目は、あんまり涙を流していなかったからかそのままであったが、ヒナミちゃんは相当泣いていたため未だに赤い。

 

 「仲直り出来たんですね」

 

 白々しくも僕は言問う。

 

 「ええ、おかげさまで」

 

 爽然とリョーコさんが言った。

 

 二人は、先刻までリョーコさんが座っていた席に着き、わきあいあいと話しだした。

 

 「ずっとヒナミに寂しい思いをさせてきたのだから、お母さん、ヒナミにお詫びに何か買ってあげたいんだけど、何がいいかな」

 

 「え、いいの?」

 

 ええ、とリョーコさんは微笑んだ。まさに母子の会話。

 

 羨ましいかぎりだ。

 

 しばらくして僕に待機時間が与えられたので、休憩室でヒナミちゃんに単語を教えていた。教えていたのは、彼女が持っている高槻泉の短編集に出てくる語だ。もうすぐコンプリート出来そうなのである。

 

 「で、次は何を教えてほしい?」

 

 ううんと、と彼女は、残り少ないページを捲って語を探した。数分後になって、最後のページを捲ると、

 

 「無い! 全部憶えたよ!」

 

 「本当に? おめでとう!」

 

 僕は拍手を贈った。えへん、と得意げに彼女は胸を張った。

 

 と、ちょうどその時、リョーコさんが部屋に入ってきた。

 

 「あら、ヒナミ、単語を教えてもらっていたのね」

 

 「うん! ほら!」

 

 とヒナミちゃんは母親に単語をメモした手帳を見せた。

 

 「全部憶えたんだよ!」

 

 まあ! とリョーコさんは嬉しそうに驚嘆した。

 

 「やったわね、ヒナミ。カネキさん、ありがとうございます」

 

 「いえ、大したことは。……それでは、僕はこれで」

 

 「うん、またね!」

 

 ヒナミちゃんは僕に小さく手を振った。それに手を振り返しつつ、僕は部屋を出ようとした、その時、掴もうとしたドアノブが動き、扉は開かれた。扉の向こうにいたのはルーミアちゃんだった。

 

 「ああ、ルーミアちゃんも待機?」

 

 「ううん、もう終わり。雛実ちゃんは――これからお出掛けね?」

 

 知っていたような口振りだった。聴いていたのだろうか。

 

 「うん、だから支度しなきゃ! お母さんがね、私にプレゼントを買ってくれるんだ!」

 

 「そうなの、良かったね。じゃあ――バイバイ」

 

 うふふ、とヒナミちゃんが可笑しそうに笑った。

 

 「すぐには行かないよ。それに、バイバイはおかしいんじゃないかな、それだとお別れの挨拶みたい」

 

 ルーミアちゃんは目を細めて、その可愛らしい見た目とはかけ離れたような、たおやかな微笑みを浮かべて二、三度小さく頷いた。

 

 僕は部屋を出た。

 

 扉を閉めて数呼吸置き、会話が始まった。カネキお兄ちゃんが、とヒナミちゃんの声が聞こえた。どうやら僕が話題に上がったらしい。僕はそのまま何となく聞き耳を立てる。

 

 「カネキお兄ちゃんのおかげでね、この本の単語が全部憶えられたんだよ」

 

 「凄いね。大体どれくらい?」

 

 「えっとね……四十語くらい!」

 

 「そんなに? 良かったね」

 

 「うん! お兄ちゃんには感謝しなきゃ。えへへ……お兄ちゃんって本当優しいよね」

 

 「そーなのかー」

 

 「そーなのだー」

 

 「……最初に比べて仲良くなったみたいね、随分と。ところで雛実ちゃんは、研のことは好き?」

 

 「えっ? ……え、えへへ……」

 

 ヒナミちゃんの照れくさそうな声が聞こえて、次にリョーコさんのくすぐったそうな笑い声が、扉を越えて聞こえてきた。

 

 僕はこれ以上は無粋かと思い――いや、面映いような気がして、そそくさとその場を離れた。

 

 待機から離れて仕事に戻った。すぐに仕事は終わった。僕は更衣室で着替えて帰り支度をした。一旦休憩室に寄ってコーヒーを飲もうかと、部屋に入った。中ではルーミアちゃんがくつろいでいた。あの母娘は居ない。

 

 「ヒナミちゃんたちは行ったみたいだね」

 

 「ついさっきね。雛実ちゃん、本を買うみたい。もっと語を憶えて、お父さんを驚かそうって意気込んでた」

 

 「元気そうで何よりだよ。あの時はどうなるかと思ったけど」

 

 「雛実ちゃんがぐずりだした事?」

 

 「そう、そう」

 

 ふうん、と独り合点が行ったように彼女はそんな声を出した。

 

 「あのくらいの年齢の子は、やっぱり感情が不安定だから、当然かも」

 

 と、唐突に彼女は語りだした。

 

 「人間は前頭葉、即ち理性が最も進化した動物だけど、逆に言えば理性は一番新しい機能なわけだからその発言力も弱い、故に感情には抗えない。捜査官が動いている外をウロチョロするのは危険だと分かってても、それでも軟禁状態はあの娘には堪えるはず、そうだと思わない?」

 

 「え……うん……」

 

 何でもないというような顔で、出し抜けにそんな理路整然としたことを語られて僕は当惑した。

 

 「そうしてストレス解消のために出掛けて、もし捜査官に感付かれたら。あの母親だったら、きっと雛実ちゃんを、自身を犠牲にしてでも助けるでしょうね」

 

 ねえ研、とルーミアちゃんから囁くように問いかけられた。

 

 「いやしくも研が、あの二人が捜査官に襲われている現場に居合わせたら――あなたは二人を助けられるかしら?」

 

 「と、当然だよ! 目の前で知り合いが死にそうになっているのに、助けない手は無いよ!」

 

 僕はムキになっていた。

 

 「研ならそう言うと思ってた」

 

 ルーミアちゃんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 

 「ねえ、研、あなたは喰種対策法についてどう思う?」

 

 「……これまた突然だね」

 

 戸惑いながらも、僕の頭の中ではそれについてのことが思い浮かんだ。

 

 喰種対策法。それは読んで字の如く、人を喰らう亜人たる喰種に対処するためにしかれた法律ある。喰種にはあらゆる人的権利が無い。だから喰種には殺人罪が適用されない。憲法違反のように思われるが、何と違憲ではないのである。

 

 喰種の歴史は古く、それだけに社会の喰種への意識は深い。その最たるものが憲法である。日本国憲法が起草された時にも、当然の如く喰種には人権が保障されないと言及されていたのであるとか。

 

 僕はそれをそのまま、噛み砕かずに話した。彼女は特に大きな反応を示さなかった。

 

 「それは仕方のないことよね。誰だって、自分を殺すかもしれない人種が近くに居るなんて状況に耐えられるわけがないんだから」

 

 「まあ、そうだけど……」

 

 反論できない理屈だった。確かに、喰種の存在を許すことは、つまるところ殺人を見逃すという事になる。そんな事になれば、人間の殺人罪への倫理的意識にも影響を及ぼすことになる。たとえ道徳心に矛盾することでも、喰種対策法は必要なものであると思った。

 

 でも、とルーミアちゃんが、

 

 「世の中にはもっと極悪で、生かしておいてはいけない人間もいる。なのに法律はそんな人間にも人権を適用して、善良な喰種を絶対に擁護はしないなんて、変な話」

 

 冷笑気味に結んだ。

 

 「……さて、と」

 

 僕はいたたまれなくなって、

 

 「そろそろ帰らなきゃ」

 

 そう言って話を切った。

 

 僕が、行こうかと彼女に顔を向けると、

 

 「ううん、私はもう少しここに居る」

 

 彼女は首を横に振った。いつもだったら一瞬の迷いもなくついてくるはずなのに。僕は怪訝に思った。

 

 「今日はちょっと気が向かないから」

 

 「そう。そんなこともあるのか」

 

 内心では釈然としないが、だからといって、今深く追求するのは駄目なような気がし、諦めることにした。

 

 僕は黙って部屋を出た。

 

 「そういえばコーヒー飲むの忘れてたな。……ま、いいか」

 

 外では時雨が、運の悪い事に強めに降っていた。おまけにもうすぐ冬なのだから寒い。

 

 「コーヒー飲んでおけばよかったな」

 

 ぼやきつつ、傘を広げて歩き出す。

 

 当然だが、道は傘を差している群集で溢れていて、体は離れているのに傘の端っこはくっついている。非常に歩きづらかった。道路側のほうがすいている気がしたので、そちらを歩いていた。

 

 家までの道すがら、僕はそぞろに嫌な予感がした。さっきのルーミアちゃんの不吉な言葉のせいだ。

 

 彼女の論だけならまだ良かった。しかし、僕にはそれを補強するものがあった。

 

 つい最近、店長のすすめで、喰種のためのマスクを作ることとなった。トーカちゃんから聞くには、近頃CCG捜査官が、それも取り分け強い捜査官がここ二十区に配置されたのだそうだ。ヒデから聞くところに拠ると、二十区は他の区よりも比較的安全だったらしいのだが、やれ『ラビット』やら『大喰い』やら『美食家』やらの強力な喰種のおかげで、それなりに強力な捜査官が配置されているとのことらしい。

 

 それがさらに強化されているのか。それが不安の種なのかも分からない

 

 ふとある時、視界の端に動くものが見えたので、反射的にそちらへ眼が行った。それで僕は驚いた。リョーコさんと一緒に買い物へ行ったはずの、

 

 「ヒナミちゃん?……」

 

 が、僕が居るほうとは反対側の歩道を傘も差さずに走っていたのだ。

 

 「ヒナミちゃん!」

 

 僕は大きな声で呼び掛けた。

 

 「カネキお兄ちゃん!」

 

 彼女は僕に気付いた。僕は、恰も良く車が少なくなっている隙に歩道の柵を越えて道路を無理矢理横断して彼女のもとへ辿り着いた。

 

 「助けて!」

 

 僕が何事かと尋ねるより前に、彼女はそう言って僕の手を掴んだ。

 

 「お母さんが!」

 

 それを聞いて、僕の心拍が急に上がった。案内してと僕が言うや否や、彼女は僕を引っ張って走り出した。

 

 ああ、嫌な予感が的中してしまったのか。でももしかしたら別の事なのかもしれない、と希望的観測めいたことが頭を過ぎった。とにかく僕の頭の中には、――早く着け、早く着け。いや着くな、もっと遅れろ――、と相反した想念が同時に浮かんでいた。

 

 ある所で路地裏に入った。どこに着くものかと思いながらついていく。すると音が聞こえた。日常ではありえない、何かがぶつかり合う音。

 

 僕はヒナミちゃんを引き止めて、その音の源がある直前の角の陰に身を隠しながら様子を窺った。男二人の背中が見えた。一方は若く丈夫そうな大柄な男、もう一方は白髪が肩近くまで伸びた男。その次に肩からクリーム色の翼のような何かを生やしたリョーコさんが地面にへたりこんでいるのが見えた。さらに奥に、銃を持った男が二人も居る。

 

 「やれやれ」

 

 白髪の男が言った。

 

 「折角Aレートは下らない赫子だというのに、肝心の本体のセンスがその程度では、せいぜいBレートがいいところだろう。まあいい、その赫子は私が有効に活用してやろうじゃないか……」

 

 男は持っていたアタッシュケースらしき物を開き、中からそれを引っ張り出した。象牙色の、背骨みたいな鋸状のそれ。

 

 それを見たリョーコさんが小さく金切り声を上げた。僕のもとに居るヒナミちゃんもそれを見て飛び出そうとした。それを僕が、体と口元を押さえつけた。

 

 そうしながら僕は思案した。否、思案する振りを、自分に向けてしていた。マスクがない、顔を見られてしまう。戦い方を知らない。僕が出ていっても無意味だ。

 

 「さて……せめてもの情けとして、辞世の句を聞かせてもらおうじゃないか」

 

 白髪の男の顔は見えない。だが彼がどんな表情でいるのかがありありと頭に浮かんだ。

 

 どうしようもなかった。

 

 男は武器を構えたままリョーコさんを凝視していた。顔を伏せていた彼女が顔を上げる。綺麗な笑顔だった。おもむろに口を開く。そして――。

 

 首が飛んだ。

 

 「残念――時間切れだ」

 

 いやらしく言った。

 

 リョーコさんの首の断面からは数メートルも血が、さながら噴水のように飛び上がった。心臓の鼓動そのままに、吹き上がる血は勢いに緩急があった。やがて血を出し切るに伴ってそれは顕著になり、勢いが止まると、ぶくぶくと断面からわずかに血が飛び上がったのち、途絶えた。

 

 彼女の首が飛んだ瞬間、咄嗟に僕は、抱えていたヒナミちゃんの目を覆った。その直後に彼女は絶叫した。この娘の息が止まってしまうのではないかという危惧もせずに、遮二無二彼女の口を押さえた。

 

 どうしようもなかった。

 

 助けられなかった。僕が弱かったから。強ければ助けられた。マスクがあれば、違う、フードを被るなり傘で顔を隠すなりしてあの二人に奇襲をして、リョーコさんを逃がせたのではないか。そんな案が次から次に出てきても、既に栓なきこと。

 

 そうでなくても、他にもあったのではないか。もしも、今日さえやりすごしていれば。ヒナミちゃんが、母親に買ってもらう物を決めておらず、出掛けるのを保留にしていれば。ならば、ヒナミちゃんが、本を買うのを決めることとなったのは誰のせいだ。

 

 僕だ。

 

 僕が余計なことをしたから。

 

 脳裏をリョーコさんの最後の顔が過ぎった。

 

 やめてくれ、そんな優しい眼で僕を見ないでくれ。




ぬわああああ疲れたもおおおおおおん! きつかったっすね執筆。やめたくなりますよぉ、もう執筆……。


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クインケこわれちゃ~う↑

邪剣『夜』行きましょうね~。


【1】

 

 宵闇の妖怪ことルーミアが一体いつの時代から存在しているのか、またそのルーツは不明である。

 

 宵闇の起源イコール彼女の起源であるとするとして、なれば何を宵闇の起源とするか。朝昼というのは地球に太陽の光が当たる時間帯のことで、宵というのはそれが当たらない時間帯ということ。そう考えれば、即ち宵闇の正体は宇宙であるのだから、宇宙の始まりこそが彼女の起源となる。そこに行くと、ルーミアはクトゥルフの神々に通ずるものがある。

 

 また、我が国の最高神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天岩戸に篭った事件に於いて、太陽が隠れたことに因って暗黒の世界が続いた。その事態に乗じて悪神や悪霊が跋扈していた事を慮れば、一応それも宵闇の妖怪の起源と言っても差し支えないかもしれない。要するに神話を苗床として生まれた妖怪だということである。

 

 他にもある。西洋の神や精霊であるという説だ。西洋と言えば十字教の唯一神のことを想像するであろうが、西洋の各地ではそれ以外の神や精霊も信仰はされていた。闇を崇拝する者たちがいたこともありえなくはない。して、その異端の神や精霊は、中世暗黒時代にテンプル騎士団によって悪魔(デーモン)へと堕とされた。これもルーミアの起源としては申し分ないものと思われる。

 

 かくて、宵闇の妖怪ルーミアの始まりを描写するのは非常に困難であるゆえ、彼女がどうして日本に居るのかということや、いつの間に幻想郷に居住していたのかということの整合性は考えない。ここに語られる彼女の物語の始まりは、十五世紀中期あたりとする。

 

 十五世紀中期。その時代では、将軍家の家督争いを発端として勃発した応仁の乱を皮切りに、世に謂う戦国時代が幕を開けたのはご存知であろう。

 

 宵闇の妖怪はそれを、足利尊氏が将軍となった時期の、彼と対立する後醍醐天皇が吉野へ逃れて天皇家が南北に別れた時代の頃から予見していた。これに興味を持ち、同じくそれを予見していた者どもと――ただの悪ノリ――共謀し、赤松満祐の足利義教暗殺などのいくつかの事件を促すことで時代の移り変わりを速めていた。

 

 応仁の乱が始まり、そしてのちに足利義視が西軍に歩み寄ったりなどがあり、乱に参加していた者たちは自分が何のために戦っているのかが判らなくなっていき、誰も何の得も無いままに乱は終息を迎える。

 

 宵闇の妖怪をはじめとした冷笑家らは、乱の後に残された混沌の中にて時代の流れを観ていた。今まで、実力はあっても権威のない者どもの憤懣をも見抜いていた。たびたびの下克上などの様相を観て、自身の予想がいよいよ確信に近づいていた。

 

 そうして、織田信長なる大名の上洛の報せを聞き、彼女らはますますほくそ笑むのであった。

 

 大なり小なり、人間はいつも争っていた。動機も様々だった。しょうもないことでの喧嘩、思想の対立、覇権争い、などなど。概ねは、人が自らの感情に振り回されて起こっていた事だった。

 

 強者が弱者を狩り、弱者は腐心して強者から身を護る。同格の者と、何かの所有権を賭けて争う。何かを傷つけながら生き延びている。それを責める者は誰もいない、その代わり、自分のモノを傷付けられた被害者が加害者に憎悪を抱いたり報復をすることはある。

 

 この世に正義なんてものは無い。必要も無い。

 

 ただし秩序は要る。それさえあれば、どんなに熾烈な闘争でも天は許してくださる。

 

 これが彼女の思想。彼女自身が見た世界から感じ取った、自然の摂理に従って生きることであった。

 

 彼女の不可思議な来歴の一部の紹介はここまでとして、次に少し昔話をせねばならない。

 

 昔々の話である。

 

ある所に、ある妖怪が居た。乱暴者で、とても力があり、名はそれなりに知られていた。

 

 「おい小娘」

 

 その妖怪が、ある少女へ居丈高に声を掛けた。

 

 「腹が減った」

 

 妖怪は身の丈十尺(およそ三メートル)以上。頭は常人よりも大きく、そしてその顔よりも長い牙が生えていた。胴体はゴツゴツとした岩肌だった。細い首元に、腹はでっぷりと膨らんでいた。およそ優しい風貌ではなかった。普通の人間であったら、まず身が竦んで動けなくなるであろう恐ろしさを孕んでいた。

 

 「私もお腹すいた……」

 

 声を掛けられた少女は、呆けたように、相手を見ずに暢気にもそう返した。そんな少女の様子を見て、妖怪は哄笑した。

 

 「……お前、俺が怖くないのか? それとも死にたいのか?」

 

 妖怪は声を低くし、顔を少女に近づけて言った。

 

 「何で?」

 

 それでも少女は、どうでもいいと言う風に問い返した。無論相手を見てはいない。それで妖怪はさらに不機嫌になる。

 

 「俺はお前を喰いたいという意味なんだぞ。……それでもその態度でいられるかッ!」

 

 怒声を立てる妖怪を、少女がようやく見た。

 

 そう思いきや、彼女はせせら笑うように息を吐いた。

 

 「私を喰べるって?」

 

 その瞬間、辺りに重苦しい緊張感が漂いだした。今まで吹いてたそよ風が静まり、ジッと何かに覆いつくされるみたいな圧力が掛かり暑苦しい。周囲の畜生が一様に息を殺し、この場から音が消え去る。

 

 妖怪は呼吸も忘れ、脂汗をかき、その場から動くことすらままならなかった。

 

 「それ」

 

 少女の声に反応して、妖怪がビクリと体を跳ねさせる。

 

 再び妖怪が少女を見ると、彼女は妖怪のある所を指差していた。妖怪はその指が示す所を見やる、そこは妖怪の腰である。そこには、一振りの剣が帯びてあった。

 

 「何?」

 

 「こ、これは……」

 

 言われるままに説明しようと妖怪は口を開きかけた。だが、

 

 「これは……南蛮の連中が……」

 

 仔細を話そうとするが、話が纏まらず、即興で喋ろうにも言葉が上手く出てこず、結局、南蛮人から奪ったという情報を推測できる程度のことを喋ったきり、それ以上は何も話さなかった。

 

 ふうん、と少女は剣を見つめながら感嘆の声を上げた。

 

 「ちょっと見せて」

 

 そう言うや否や、悠然とした足取りで少女は妖怪に歩み寄り、相手の腰にある剣に手を伸ばす。少女が近づくに伴って重圧は濃くなる。それでも妖怪は逃げなかった、否、逃げられなかった。

 

 剣を取った少女は、その柄を握り、鞘からゆっくりと抜いた。それを見て少女は、ふむ、と声を出した。

 

 その剣は、柄はシンプルな装飾が施されていて、少女が両手で握ってもまだ余る程に長かった。柄元から伸びる刀身に反りはなく、両方に刃があり、また刀身の中央には文字なのか模様なのか判然としない彫刻が施されていた。磨いた銀の如く、夜空の光を反射していた。

 

 少女は、剣に刻まれた謎の文字をしげしげと見ながら、ぶつぶつと何かよく解らないことを呟いていた。やがて読み終わり、口元に笑みを浮かべた。剣を逆手に持ち、もう片方の手で刀身を掴み、おもむろに彼女は切っ先を自身の胸に当てた。

 

 一瞬の間も置く事なく自らの胸をそのまま刺し貫いた。

 

 瞠目する妖怪を尻目にもせず、少女はその体勢を少しの間続けたのち、剣を引き抜いた。剣が彼女の体から抜かれると、その刀身は先ほどとは明らかに違う物となっていた。

 

 剣は夜空に向かって掲げられる。

 

 刃は鮮やかに赤く、月の光を受けて妖しい輝きを放っていた。刀身は、凝り固まった血と同じくらい黒く、また刀身に彫られていた謎の文字は、これまた刃と同様に赤く発光していた。

 

 少女が、掲げていた剣を軽く振り下ろすと、鈍く重厚な風切り音が鳴った。彼女の表情には嬉々とした情が瀰漫していた。胸には、傷口はおろか衣服の破れさえ、もう無かった。

 

 「ああ……」

 

 ここに来てようやく、妖怪は悔恨のため息を吐いた。自分が睨んだ相手が、まさかこれほどまでの存在であるとは、愚かにも哀れにも知らなかったらしい。

 

 そう、彼女は知る者ぞ知る宵闇の妖怪その者なのであった。

 

 だが後悔先に立たず、既に目の前の少女の風貌をした妖怪は無慈悲な眼で、哀れな妖怪を凝視していた。宵闇の妖怪は、手に持った重そうな剣を、その体格では想像も出来ない力で軽々と振りかぶっていた。哀れな妖怪はここでやっと身体が動くようになり、背を向けようとしたものの、時既に遅く、宵闇の妖怪が剣を横に薙ぐことでその胴体を吹き飛ばされた。後には肩から上と腰から下の部分のみが残った。

 

 試し斬りを終えた宵闇の妖怪は、手首だけで剣を軽く振り回し、鼻歌を歌う調子で満足そうに笑った。

 

 彼女は目の前に小さな『闇』を出現させ、そこに剣を突き入れた。剣はその闇に吸い込まれるように消えていった。その後、次に彼女は、自身が殺した妖怪の死体の処理を始める。地面に直径三尺ちょっとの『闇』を出現させて、そこへ妖怪の残骸二つを放り入れる。残骸二つはその闇の中すぐさま飲み込まれていった。

 

 その後、この妖怪を行方を知る者はいない。なぜならこの『闇』は、あらゆる物を暗闇の中へ隠してしまうからである。

 

 彼女の闇の中では光が存在できない。而して、可視光線のみならず不可視光線も通さない。現代技術を以ってしても、彼女の『闇』の中に入ったモノを探しだすことは不可能である。

 

 こうして、またもや哀れな妖怪が一体この世から完全に存在を抹消された。それを為して宵闇の妖怪は一言、

 

 「お腹すいた……」

 

 【2】

 

 今日、トーカちゃんが怪我をして帰ってきた。傷口周辺の衣服を染める血が痛々しかった。

 

 店長は殊更には何も言わなかった、その代わり、彼女をたしなめるらしい口吻で、変な手掛かりを残してはいないかと訊いた。トーカちゃんは無言で否定していた。

 

 その場から立ち去った彼女に、僕が救急箱を持っていこうとすると、

 

 「放っておきなさい」

 

 と店長は言った。

 

 「でも……」

 

 「自分の不始末は自分で片付ける、これが『この界隈』での暗黙の了解。白鳩に手を出すというのはそういう事だよ、カネキ君」

 

 毅然として店長はそう結んだ。ちゃんと筋の通った理屈であった。でも僕は……。

 

 「僕は……そこまで冷静でいられません」

 

 僕は敢えて反発した。

 

 「もしも僕が何か不始末をしたら、その時は躊躇せずに僕を切り捨ててください」

 

 それだけを言い捨てて僕はトーカちゃんの後を追った。わざわざ店の方には行かないだろうと踏んで、とりあえず裏の方へ向かった。その途中で、ルーミアちゃんが居た。

 

 「董香を探してるの?」

 

 「うん、そうなんだ。トーカちゃんは裏へ?」

 

 「多分そうだと思う。……あれは捜査官にやられたね」

 

 ルーミアちゃんは淡々と言った。

 

 「でも、董香のやったことは、あながち間違ったことでもないって思う。二十区から捜査官を退けさせる事は叶わなくても、とりあえず、あの時現場に居合わせた捜査官を全員消せば、雛実ちゃんの顔を知っている奴は居なくなるわけだし。似顔絵は作られているだろうけど、やっぱり最後は顔を直に見た人が判断しなきゃならないし」

 

 「う、うん……」

 

 淡々と恐ろしいことを言っている彼女に、僕は少しだけおののいた。

 

 「トーカちゃんの居所を教えてくれてありがとうね」

 

 どういたしまして、と彼女は僕の肩を叩いて横を過ぎて行った。

 

 ところで、彼女にそこまでの身長はあっただろうか。

 

 「まあいいか」

 

 僕は裏へ向かった。トーカちゃんは建物の壁に、缶コーヒー片手に寄り掛かっていた。彼女に近づくと、気配に気付いたのか彼女はこちらを振り向いた。

 

 「んだよ……」

 

 忌々しそうに彼女は言う。

 

 「手当てをしなきゃ」

 

 「別に要らねえし。どっか行けよ」

 

 「でもさ――」

 

 「うだうだ鬱陶しいンだよ、人間のくせにさ!……」

 

 振り向きざまに彼女は僕に、まだ中身が少し残っている缶を投げつけてきた。

 

 「僕だって半分は喰種だよ……」

 

 僕は嘆息して途方に暮れた。このまま放っておくわけにもいくまい。かと言って、意気地になっている女の子に対し、どのように接すれば良いのか。女の子どころかヒデ以外での人間関係すらも疎い僕には分からない話だった。

 

 「どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ……」

 

 思わずこぼすと、

 

 「あ?」

 

 「い、いや……」

 

 ドスの利いた声で振り向いてくるトーカちゃんに僕はたじろいだ。

 

 「な、なんかさ、あの人たちは善人なはずなのに、世の中にはもっと悪どい輩が跋扈しているというのに、どうして喰種ってだけでって思ってさ……」

 

 ふん、と彼女が鼻を鳴らした。

 

 「決まってんじゃん、喰種だからでしょ。白鳩の管轄は喰種であって、人間の極悪は警察の管轄なんだし。どっちも、そこに個人の善悪なんて関係ない」

 

 すると彼女は苦々しげに、自らを嗤笑するみたいに鼻で笑った。

 

 「そんなの分かってるっつうの、でもそんなんで割り切れっか。私みたいな器用な悪党がおめおめ生き残って、あの母娘みたいな不器用な善人が殺されるなんてさ……」

 

 そう言って彼女は頭をわしわしと掻く。僕は彼女に何を言えば良いのか分からなかった。

 

 「ヒナミを二十四区になんて、あんな糞の掃き溜めになんて行かせはしない」

 

 ――ちくしょうめ。

 

 彼女は弱音を吐いた。

 

 解っているのだ。自分のやっている事が無駄であると。それでも割り切れなくて、あんな行動を起こした。でもその動機を語るとなると、ヒナミちゃんを救うなんて矛盾したものが出てくる。

 

 つくづく救われない。

 

 「あの、僕も手伝えないかな」

 

 「はあ?」

 

 「ヒナミちゃんを助けるのに。えっと、僕は人殺しは出来ないから、でも人は殺せなくても手伝えることはあるかもって」

 

 チッと舌打ちを彼女がした。

 

 「お前に何が出来るってんだよ、足手まといだ」

 

 「お願いだ、手伝わせてよ。このまま君独りに任せて自分は何もしないなんて、やり切れないんだ」

 

 「ああ、はいはい。解ったよ、好きにしろ」

 

 渋々と彼女は言った。

 

 「ありがとう」

 

 僕が言うと、その代わり、と僕の肩を押してきて、

 

 「お前がヘマした時には、迷わず切り捨てる、いいな」

 

 「最初からそのつもりだよ」

 

 僕は自分の覚悟を前面に出して返した。

 

 ここまで来たら、いっそ彼女の道連れになってやろうじゃないか。

 

 そうして最後には自分の決断が誤りであると悟り、後悔する。そんなのは承知の上だ。いざその時が来て、自分がどう思うかという想像力は、今の僕には無い。

 

 さて、こうして利害の一致で僕とトーカちゃんは組む事となったわけだが、――結論から言うと、はかばかしい成果は得られなかった。

 

 何をしたかと言うと、まず僕たちは数日間程度、トーカちゃん曰く作戦に必要な場所を探すための地理の調査を行い、その後CCGの二十区支部局へ偽の情報を流しに行ったのである。二人して高校生に――トーカちゃんが通っているのとは別の学校の生徒に――変装してだ。それで受付まで行ったは良かった。しかし、喰種であることがバレたのか、はたまた単にヒナミちゃんの情報がそんなに欲しかったのか、リョーコさんを殺害した捜査官によって奥へ引きずり込まれてしまいそうになったのである。

 

 その道中には、Rcゲートという喰種が通ると反応する物が設置されており、僕は件の捜査官に引っ張られてそこを通ってしまったのだが、どういうわけか反応しなかったのである。理論は判らないが、どうやら僕のような半喰種には反応しないらしい。

 

 こんなわけで、虚偽の情報提供による捜査撹乱は、失敗とまでは行かないものの危険な領域へと踏み込む事となった。

 

 変装していたし、それに喰種であるとは完全には思われていないが、もし喰種として例の捜査官に遭遇しようものなら、その瞬間僕はさらに危険な境地に立たされるかもしれない。

 

 ――気を付けなくては。

 

 「あんたさあ、もっと落ち着けなかったの?」

 

 「えっ……」

 

 『あんていく』への道すがら、唐突にトーカちゃんから文句を言われた。

 

 「あんなうそうそ視線を泳がせてさ、ゲートをちらちら見てたら怪しまれるに決まってんだろうが! 何が、最初からそのつもりだよ、だ!」

 

 「ご、ごめん」

 

 あの時に僕が言ったことを一言一句正確に言われてしまい、僕は赤面した。偉そうに啖呵を切っておいて、あんな間抜けな失態を犯してしまうとは。

 

 こうして、店に着くまでにさんざんなじられた。ほうほうの体で店に入る。

 

 「研に董香。ちょっと、どこ行ってたの」

 

 出迎えの代わりに、不満顔のルーミアちゃんが問い詰めてきた。

 

 「ちょっとね」

 

 この誤魔化しはいくら何でも白々しかったかもしれない。

 

 「ところで、ヒナミちゃんは居るよね?」

 

 「雛実ちゃん? あの娘なら多分居るんじゃない? それがどうしたの」

 

 「いやあ――」

 

 咄嗟に言葉が思いつかず、少しだけ間を稼ぐ。

 

 「えっと……あんな事があってまだ間もないし、心配で……。自暴自棄になって飛び出したりはしてないかなって……」

 

 いまいち煮え切らない答え方だ。ルーミアちゃんも、ふうん、と訝しげに僕の顔を覗き込んできた。そうなると、途端に意味もなく後ろめたいような気がしてきて落ち着かなくなる。

 

 「それもそうよね。さっきだって、時々あの捜査官に対しての恨みが垣間見えてたもん」

 

 「そ、そうなの……」

 

 それはちょっと想像付かない。

 

 「ううん、恨みと言っても、どちらかといえば無意識な感じだったかなあ。お母さんを恋しがって慨嘆するんだけど、お母さんが死んだ原因があの捜査官って認知っぽかったから」

 

 「だから心配なんだ」

 

 もしも、その恨みを僕が聞いていたとしたら。母を失う悲しみと怒りを同じく知る僕には、きっと……。

 

 僕がそんなことを考えていた折、

 

 「ルーミア!」

 

 突如トーカちゃんが血相を変えて飛び出してきた。

 

 「ヒナミはどこッ!」

 

 「ど、どうしたのさ、トーカちゃん。ヒナミちゃんがどうしたって……」

 

 「居ないんだよ、ヒナミが!」

 

 「えッ、そんな……」

 

 何て事だ。まさか僕の言ったことが、あろうことか現実のものとなるなんて。

 

 「ル、ルーミアちゃん! ヒ、ヒナミちゃんは本当にさっきまで居たの?」

 

 「うん、確かに居たよ。最後に見たのは、研たちが帰ってくるより前だったかな」

 

 「それはどれくらい前?」

 

 「ううむ……、大体二十分前?」

 

 「もう二十分近くも経つのか……、急がなきゃ。ねえトーカちゃん……あっ、もう居ない!」

 

 既にトーカちゃんは外に出ていて居なかった。慌てて僕も、彼女の後を追って外へ飛び出す。と、その直前に僕は、先日出来上がって受け取った僕のマスクの存在が喚起され、まずは更衣室のロッカーからそれを取り出してからヒナミちゃんの捜索に出た。

 

 心当たりは無く、やみくもに探す他無い。思いつきに浮かんだ場所に足を運ぶだけであった。しかりやはり見つからない。

 

 懐の中に入れてあるマスクを衣服の上から触り確かめる。このまま見つかるのが遅れ、彼女が捜査官に見つかった暁には……。

 

 「ん? 携帯が……」

 

 ふと僕の携帯が震えているのに気づいた。見ればトーカちゃんからの着信であった。

 

 「もしもし、トーカちゃん?」

 

 「ああ、カネキ! ヒナミが見つかった」

 

 「本当! どこで?」

 

 「重原小学校付近の水路。ほら、CCGに流した偽の情報の……」

 

 「よし解った。なら、お互いに店に向かって、途中で合流しよう」

 

 「……ああ、解った」

 

 トーカちゃんからの返答を受け、通話を切って早足に僕は帰途に着いた。さしあたり僕の危惧は杞憂に終わり、ほっとしたような……。逸る心持で帰路を急ぐ。

 

 しかし、急げば急ぐほど、何かを見落としているみたいな不穏な想念が立ち篭め、段々と足の速さが落ちてきて。そうして不意に僕の頭に、とある疑問が降って湧いた。

 

 ヒナミちゃんはどうしてあそこに居るのだろう。

 

 ひとたび疑問が起こると、途端に悪いことばかりが、あたかも正しいことであるかのように湧き上がってくる。或いは、僕らが提供した情報に従って例の場所に調査へ赴いた捜査官らが、その中で邪知に富んだ者が――僕をゲートに引きずり込んだあの捜査官とか――あの場所へ何某かの仕掛けを施していたのだとしたら。

 

 「解りました、重原小学校の水路ですね」

 

 折りしもそんな時に、聞き覚えのあるワードが耳に入ってきた。足を止めて僕は声のしてきた方へ眼を向けた。

 

 「あッ……」

 

 その人を見た瞬間、僕の予感が的中したと、何も強い証拠があるわけでもないのに、強く確信した。

 

 あの時の、リョーコさんを殺したほうとは別の、もう片方の箱持ち捜査官であった。

 

 その捜査官が携帯を切り、歩き出した。それを見て何を慌てたのか僕は、何の考えもなしに、懐からマスクを取り出して着用し、僕は捜査官の前に飛び出した。

 

 突然、マスクを被ったよく解らない輩が立ちふさがってきたものだからか、捜査官は、特に強く身構えるわけでもないけれど、手に持ったアタッシュケースをしっかりと握り締めつつ僕の出方を窺っていた。

 

 相手が先に来るわけでもなく、かといって闘い方が分からない僕は、どう出たものかと逡巡していた。次第に息苦しくなって、僕はマスクの口元にあるジッパーを開けた。篭っていた吐息が開放されたようなすがすがしく空気が入ってくるのを感じる。

 

 その時になってようやく僕は、自分がマスクをしているのを思い出した。

 

 そうだ、今はこんな所でまごついている余裕は無い! トーカちゃんだって言っていたじゃないか、捜査官といっても所詮は人間、力任せにぶつかってやれば実に呆気なく吹っ飛ぶのだ。

 

 それなら僕がやらなければならないことは、がむしゃらに闘ってやること以外に無い。

 

 僕は無鉄砲に捜査官へ突っ込み、思いっきり拳を振りぬいた。相手はそれをあっさりとかわし、僕の右横に回りこむ形となっていた。間髪入れずに僕は左拳を相手の胸に入れてやった。しかしそれが効いた様子を相手は見せなかった。

 

 ふん、と呆れたように鼻を鳴らした捜査官は、僕の左手を掴むや否や、外側にひねることで僕の身体を裏返し、その後自身の側へ引っ張り僕の重心を傾けさせた上で脚を引っ掛け、呆気なく僕の身体は地面に引き倒された。

 

 「稀にお前のような奴は見掛ける。こんな具合にねじ伏せて、暴行罪や公務執行妨害の現行犯として警察に引き渡している。だが今回は事情が違う、私は急いでいるんだ」

 

 淡々と告げると、捜査官はさっさとその場を離れていった。僕は少し身体を起こして見る。急ぎ足でありながら悠然と歩く様を見て、途端に自分に下された屈辱が自身の中で誇張されてゆき、飛び上がらんばかりに立ち上がってまた僕はあいつの背中に向かって、足にあらん限りの力を篭めて、足が速度に追い付かずもつれながらも、とにかく走った。

十中八九、足音は向こう側からはばれている。それが良いか悪いかも考えずに、

 

 「ぶん殴ってやる」

 

 という気持ちの下で、またもや捜査官に殴りかかった。

 

 しかし例によって、飛び掛りながら右ストレートを繰り出したところ、拳をいなす要領での回転で回避され、さらにその回転に乗せた肘が、いつの間にか僕のわき腹にめり込み、堪らず僕は勢いを止めた。

 

 それでも僕はどうにか耐え切り、反撃した。当然それもかわされる。捜査官は後ろに飛び退き、しげしげと、僕の様子を窺うように佇んた。怪訝な面持ちで、手に持ったアタッシュケースを握りなおしたかと思うと、親指で持ち手の部分にある何かを押した。

 

 ケースの部分が開いて落ち、持ち手を掴んでいたはずの手には何故か金属の棒らしき物を掴まれていた。長い金属の棒の端に、赤く発光するドス黒い円柱状の塊があって、そこから生える血管のような物が棒部分に巻き付いていた。

 

 あれがクインケか。

 

 俄然僕の身体に緊張と興奮の気が流れ、熱を帯びてくる。心臓から送り出される血液さながらに、首へ、顔へ、そして左目へそれが集まるのを感じた。ジクジクとした、痛みとも圧迫感ともつかないこそばゆさが左目周辺を苛む。

 

 「体格と手ごたえが釣り合わないと思って探りを入れたものの……、やはり喰種だったか」

 

 なるほど、と合点が行った調子で、

 

 「貴様、ラビットの仲間だな」

 

 僕は何も答えず、相手の次の言葉を待った。

 

 「このままお前を問答無用で駆逐しよう、――そうは思いはしたが、一つ訊きたいことがある。お前がラビットの仲間だとしたら、……中島さんを殺したのはお前か?」

 

 捜査官の顔つきが険しいものとなった。

 

 「中島さん?」

 

 「ラビットが殺したほうとは別の捜査官だ。どうだ、お前が殺したのか? それとも別の奴か? ……どうなんだッ!」

 

 険しくも落ち着き払った態度を崩さなかった捜査官が、突如として豹変したように怒声を上げた。

 

 「どのような状態で中村さんの遺体が見つかったのか、お前は知っているか? 首から上だけだったんだぞッ! それもただの生首じゃない、顔の皮を丸ごと剥がされていて、歯が全部引っこ抜かれていた。それがCCGの支部局の中に堂々と置かれていたんだッ! 唯一身元を証明する物といえば、一緒に置かれていた捜査官手帳のみ……」

 

 「酷い……」

 

 今の状況すらわすれて、思わず僕はそんなことを呟いた。

 

 「何が酷いだ、お前の仲間がやったことだろうがッ」

 

 「ち、違う! そんなこと僕はやっていない、それに僕はまだ人を殺してなんかない! みんなだってそうだ、そんな残酷な事を仕出かすなんて……」

 

 「ああそうだろうな、あれはラビットの手口じゃない。そもそも二十区にあんな見せしめじみたマネをする奴はいなかった、人間の仕業という線もあるくらいだ……」

 

 捜査官は視線を下げ、憤怒と悲哀が綯い交ぜにした面相を見せた。まあいい、と、再び精悍な顔つきへと戻った。

 

 「中村さんの殺害に関与しているにしろ、いないにしろ、……私が貴様を駆逐することには変わらん」

 

 そう言って相手はクインケを構えた。

 

 僕がそれを見て身構えるまでのわずかな間を突かれ、捜査官は人間とは思えない速さでこちらへ突進してくた。僕がそれに反応し、両腕を胴の前で固めた。しかし相手は、スピードに乗せて棍棒で突きを放ち、防御ごと僕を跳ね飛ばした。

 

 何とか立ってはいられたものの、両腕がビクビクと痙攣し、鈍い痛みがすみずみまで響いて、重くて上がらなくなっていた。その無防備な状態でも容赦なく捜査官は狙い、僕は相手の棍棒を胴体にまともに喰らい、吹き飛ばされた。

 

 胴の骨が砕けたかというくらいの鈍い痛みが僕を地べたに押さえつけた。その回復を待つために僕は、その間じゅう悶絶してた。そうこうしている内に捜査官は近くまで寄ってきて、僕が回復しきる前に棍棒の先端で僕の顔を押さえつけた。

 

 「どうした、何故赫子を出さない」

 

 ――なめてるのか。

 

 僕の顔面に棍棒を押し付け、そのままグリグリとにじる。無駄だと分かりつつも、両手で棍棒を押し退けようとする。しかし、向こうからの力が一層強くなるばかりでどうにもならない。

 

 「お前らはどうして、平気で人を殺しながら、のうのうと生きていられる。同じ人間と自称するなら、何故人を殺してまで生きようとする。悪人になってでも生き延びたいか。善人のまま死のうとは思わないのか」

 

 わざわざ棍棒に入れる力を緩めて、僕にしっかりと聴かせるよう、一言一句、ゆっくりとはっきりと語る。

 

 「貴様らに、喰種に家族を殺された遺族の気持ちが解るか、親を失った子の気持ちが解るか。いつも当たり前にしてくれていたことが、もう受けられないと知った子どもの気持ちが!……」

 

 自身の吐き出した言葉を噛み締め、それにつれて徐々にまた感情が昂っていく。

 

 「この世界は間違っている!……。歪めているのは――貴様らだッ」

 

 捜査官がそう結ぶと、僕の頭に受ける圧迫感が一気に増していく。頭蓋骨が軋む。頭の形が変わっていくのが判る。

 

 ――いや違う。

 

 相手の言い分への反発と、鈍痛による興奮に因るものなのか、痛みは僕の行動を阻まなかった。

 

 親を失った子どもの気持ちが解るか。答えは肯定だ。なぜなら僕の母親は、僕の伯母に殺されたのだから。それに僕だけじゃない。ヒナミちゃんも、人を殺した経験も無いのに、母親が人殺しの喰種として抹殺された。あの娘の気持ちはどうなる。

 

 それに、正しいことのために自殺が出来るほど、人間は生に無頓着じゃない!

 

 憤怒の如く頑固な僕の思念が、僕の相手への反論が全く正しいことであるとさえ信じさせる。

 

 やっぱり駄目だ。この捜査官をここで逃がしてはいけない。たとえ殺してしまうかもしれなくても、僕には止める義務がある!

 

 僕の、内から湧き上がった暴力的な想念に呼応するかのように、腰の辺りが熱くなる。肌に内側から刃物を押し当てられている不安な感覚がした次の瞬間、僕の腰から強大な何かが溢れてきた。

 

 その一部が地面を擦りつつ捜査官の脚を掬わんと薙ぎ払われる。いち早く気づいた捜査官は、咄嗟に後ろに飛び退いた。そのおかげで僕は解放され、痛みを堪えて素早く立ち上がる。

 

 「鱗赫……」

 

 僕の腰から生えたこれを見据えながら捜査官が呟いた。

 

 鱗赫と呼ばれた、鮮やかな赤い表面に蛇模様の鱗があしらわれたこの赫子の数は三本。ゆらゆらと、さながら水に浮かぶ髪の毛みたいに揺れるこれは、僕が意識するとしっかりとそこに僕の意思が流れているのが判った。

 

 僕はキッと相手を見据える。

 

 捜査官が突進してくるのが見えた。一瞬遅れて僕はそれを防ごうとしたが、僕の腕が前面に来るより遥か前に、赫子が相手のクインケを阻んだ。相手は一寸顔をしかめたが、阻まれた事にはさほど驚いた様子はなかった。

 

 そのまま赫子とクインケの力が拮抗し、押し合いが続く。しかし、人間と喰種の力の差というものが、やがて人間側を劣勢へと追い込む。それを見越してか、捜査官は僕をクインケで突き飛ばしつつ後ろへ飛び退いた。だがすぐにまた僕との距離を詰め、今度は僕の赫子を弾く。赫子を押し退けて無防備な状態にするのを狙っているのか。

 

 僕がそれを認識している間に、相手はさっさと僕の赫子を三本とも退けてしまった。僕は身構えた。けれど相手は僕の胴体を狙わず、退けた赫子の内の一本に棍棒の先端を落とし、地面に擦り付けながら自身の方へ引っ張った。腰と赫子の繋がりが断ち切れた鋭い痛みが僕の身に走る。

 

 捜査官は、バランスを崩した僕の隙を逃さず、赫子が一本なくなった事による空きを狙って棍棒を突き出す。

 

 やられる、と僕は思い身構えた。

 

 その時、まだ生きている残りの二本の赫子が、僕を引っ張るように動くことで僕の身体が反転した。同時に、相手から突き出されたクインケに真っ向からぶつかっていき、接触するや否や相手のクインケを横に弾き逸らした。

 

 クインケを逸らした赫子はそのまま真っ直ぐ伸びていった。僕は見えなかったものの、小さく生々しい手応えが伝わってきた。

 

 不意に恐ろしくなって、捜査官へ身体を向けた。赫子は相手の腹の端に浅く刺さっていた程度だったのか、激しい出血は見当たらなかった。

 

 相手が怯んでいる隙を突いて、僕は赫子をクインケに叩きつけ、これを破壊した。

 

 捜査官は、唐突に手に持った重みがなくなり、体勢が悪かった事も相まって、よろよろと背中から倒れた。その際、衝撃で傷口がさらに広がって、傷口付近の衣服にますます血が掛かった。捜査官は苦悶の呻き声を上げた。

 

 僕はそれに近づく。相手は気づき、僕から離れながら立ち上がって、片手で傷口を押さえ、もう片方の手で壊れたクインケの柄を握り締めていた。精悍な顔つきで僕をねめつけ、武器を破壊されてもなお闘志を醸し出していた。

 

 その悲壮な有様を見ていると、今の僕の立場からすれば、殺すのが可哀想になってくるのである。そんな折、僕の脳裏に悪魔が囁いた。

 

 ――殺してやらなきゃ。

 

 僕は即座にそれを却下した。けれども僕の頭の中では、この捜査官にトドメを刺す場面がありありと浮かんでいた。僕が命を奪い、相手は沈黙する。もう僕が何をしても、誰が何をしても彼は何の反応も示す事は無い。

 

 ぞっとした。

 

 それでも悪魔は囁き続ける。こいつはリョーコさんのみならずヒナミちゃんにまで手を掛けようとしている。それに思想が合わない、決して相容れない。ここで殺さなければ危険だ。

 

 このように囁かれ続けたところで、それが僕の人殺しへの戦慄を上回る事は無かった。

 

 「逃げてください……」

 

 呻くように僕は言った。

 

 「何だと……」

 

 「殺したくないんです」

 

 心の奥から殺意が滲み出てくるのを感じる。僕の理性がそれをせき止めている。決壊する心配はないけれど、殺意を押さえつけている感覚が怖かった。

 

 「貴様、どこまでも私をコケにするつもりかッ……」

 

 「違うんです!……」

 

 そう僕が感情混じりに言葉をひり出すと、腰の赫子がそれに反応してわなないた。突如赫子が暴れだし、僕の前方に居る捜査官を攻撃せんと突き出された。だが、そのことごとくが外れた。

 

 まるでそれは、本気で攻撃しようと思ったものの、すんでのところで躊躇して最終的にわざと外したようなものに思えた。

 

 「お願いです……」

 

 僕は出来るだけそっと言った。何が何でも自分は人殺しをしないと固く決意している。その決意の感情が高じて、自然と顔に力が入り、意味もなく呼吸が荒くなる。果ては感極まって、悲しくもないのに涙が溢れてきた。

 

 呆然と捜査官が僕を見ている。

 

 「僕を人殺しにしないでください……」

 

 相手が逃げ出すのを待ちきれなくて、僕はのろのろとその場から逃げ出した。後ろの捜査官が何をしているのかを考える余裕がなく、とにかくその場から離れることだけを考えて歩いた。

 

 しばらく歩いて、ついに耐え切れずに足を止めた。近くにある手すりに掴まらなければ立っていられないほど、気力が衰えていた。

 

 ポツリと僕の首筋に、冷たい何かが数的降ってきた。吃驚して僕は上を向くと、また数的程が顔に掛かった。

 

 雨だ。

 

 二、三滴掛かる程度だったそれは、しばらくすると数が増え、雫の大きさが増していき、一分も掛からずに本格的になり、僕の服をずぶ濡れにしていった。

 

 「どうして殺さなかったのかしら……」

 

 自分でも訳の解らない口調で独り言を呟いた。

 

 「敵討ち以前に、あれはヒナミちゃんを狙う追っ手なのに。あれさえ消えてしまえば、あの娘の顔を知る捜査官は一人だけになるのに、私情でそれを見逃したなんて、一体どういう了見なの……」

 

 ああ、リゼさんだ。僕をこの世界に引きずり込んだ諸悪の根源。今度は僕を暴力の世界へいざなおうとしているのか。

 

 赫子を通して僕の内側へ入り込み僕の精神と一体化して、責め立てて、僕の心を壊して洗脳しようとしている。

 

 頭を掻きむしった。これがリゼさんの仕業であろうとなかろうと、僕の、あの捜査官を殺さなかった後悔による煩悶は変わらない。

 

 当て所の無い複雑な気持ちのままにひたすら掻きむしった。掻きむしるたびにどんどん気分が悪くなってくる。

 

 後ろに気配を感じた。

 

 「誰ぇ……」

 

 振り返ると、誰かが居た。小さな女の子が、そこに佇んでいた。

 

 唐突に、今までの嫌な気持ちがその娘へ向いていくのが判った。

 

 「ちょうどよかった。今ね、私、お腹すいているの……。ねえ、お嬢ちゃん」

 

 僕の中の彼女が、調和していく。次いで僕の中の感情の矛先が、目下の女の子へ『転移』していくのが見える。

 

 理性もなく僕は女の子へ襲い掛かった。もうこれが正しいのだと思い込んでいた。この凶暴さを仕舞うためには必要な犠牲なんだと。

 

 背中の二本の赫子を振り回しながら彼女へ向かい、二本とも突き出す。が、それは何かに防がれた。突然彼女の前に、黒い――否、赤黒い物が現れたのだ。

 

 それは彼女の背中から生えていた。煙のようでありながら、翼としての体裁を持つ何かが。彼女を護るように、僕の赫子を遮っていた。

 

 僕はさらに赫子を押し込んだ。けれども向こうもこちらに負けない力で押し返してくる。

 

 ある瞬間、向こうが一際大きい力で押してきた。彼女の前面で閉じていた翼が開き、その衝撃波で、赫子ごとを仰け反らせた。そしてその無防備な僕の胴体に、彼女が振りかぶった拳をぶち込んだ。衝撃が、腹だけでなく隅々まで襲ってきて、あえなく僕は吹き飛ばされた。

 

 地面に仰向けに転がった僕を、内臓が締め付けられる痛みと呼吸が上手く出来ないことによる苦しみが襲った。自身の現在の状況すら考えている余裕もなく、僕はひたすら苦痛にのた打ち回っていた。

 

 そこに容赦なく女の子が乗り掛かってきた。彼女は、苦痛に荒ぶる赫子を自身の翼で二本とも押さえつけた。次いで彼女の両手が僕の首に掛かった。物凄い力で締められて、呼吸が一切できず、顔も熱く、せき止められた血液で頭が膨らんだ感覚がした。

 

 赫子がより一層暴れる。それでも彼女の翼は、赫子の先端近くを押さえて逃がさなかった。どうすることも出来ず、やがて僕は、抵抗する気力すらも衰えていった。だんだんと意識が沈んでいく。死にたくない、そうは思いつつも僕は、生きることを諦めていった。

 

 そこで解放された。

 

 少女が僕の上から退いた。僕は思いっきり息を吸った。あまりに慌てていたものだから、雨ごと吸い込んだことでむせてしまい、咳き込む。彼女から受けた打撃によるダメージからは既に回復していたから、呼吸は正常に行えた。冷たく新鮮な空気が体内に満ち、熱くなっていた身体が冷えていく。心地良い、安心感を得た。

 

 「落ち着いた?」

 

 まだそばに居た彼女に声を掛けられた。

 

 「うん……」

 

 思わず返事をして、そこへ目を向けると、

 

 「ル、ルーミアちゃん! ……どうしてここへ」

 

 「だって、雛実ちゃんがどっか行っちゃったんでしょ、放っておくわけにはいかないじゃない」

 

 「だからって、危ないじゃないか」

 

 「大丈夫だって」

 

 ほら、と彼女がどこかを指差した。僕は示された方を見る。するとそこには、

 

 「ヨモさん!」

 

 コートを羽織った男の人が居た。彼の名前は四方蓮示と言い、彼も『あんていく』の一員であるが、店での業務を行っているわけではなく、普段は自殺スポットなどを回って自殺者の死体を集めている。

 

 「……ルーミアから連絡を受けたんだ、……研が捜査官と交戦している、とな」

 

 言いながら、懐を探って取り出した物を僕に差し出した。紙に包まれたそれを受け取る。グニグニした気味の悪い感触がした。これは……。

 

 「……喰え。空腹で感情が高ぶりやすくなっている、それに――」

 

 ヨモさんが僕を、僕の背中から生えた物を指差した。力なくへたって垂れる三本の赫子、うち一本は捜査官との闘いで千切れてしまっていた。

 

 「――赫子の再生が出来ていない。それに空腹の時に赫子を出すと、なかなか引っ込まない事がある」

 

 ――だから喰え。

 

 ヨモさんは、冷然としながらもどこか哀愁を漂わせて僕に告げた。それを受けて僕は、ちょっとの間紙包みを見つめて、観念して包みを開けた。スーパーで売っている豚肉牛肉とあまり変わらない色の肉が見えた。これが人肉だとは、とてもじゃないが思えない。というより思いたくない。

 

 僕はそれ以上考えることはやめて、今は食欲のままに肉をかじることにした。

 

 それにしてもさ、とルーミアちゃんが切り出す。

 

 「研はさ、あの捜査官と対峙してどうだった?」

 

 「どうって……」

 

 一旦僕は肉を食べるのを止めた。

 

 「あの捜査官の言っていたことが人類を代表する言葉だとして、どう思ったの?」

 

 「……何とも言えないよ。親を失った子どもの気持ちが解るかって言われて、まず先に、ヒナミちゃんはどうなるんだって怒りが来たんだ。だけどこうして冷静になってみると、向こうの言い分を無視してはいけないって思うんだ。すると、自分のやっている事が間違っているような気がしてきて……」

 

 そんなに真に受けることはないでしょ、と彼女は当たり前のように言った。

 

 「人間は、他人が誰かを殺した時には、その人を、人を殺すような性格なんだって決めつけたがる。けど、いざ自分が殺人を犯したとなると、動機があった仕方がなかったって弁解する。

 それにあの捜査官がああ言ったのは、前々から思っていたからじゃなくて、多分だけど、少し前に喰種に親を殺されてCCGに保護される子供を見たからだと思う。何かに対して評価を下す際、日常の中の、例えば広告だとか何気ない会話や風景から得た情報が評価を左右したりする場合があるの。だから、あの捜査官は少し前に喰種の被害にあった子供たちを見たから、あんなことを言ったんじゃない?」

 

 とにかくさ、と一呼吸置いて、

 

 「あの捜査官はただ喰種が気にくわなくて、その正当な理由を考えた結果があの言い分だったってこと。人間にしろ喰種にしろ、どっちもどっちって、はっきり判るのね」

 

 と結んだ。さて、と彼女は切り替えた。

 

 「早く董香たちの所へ行かなきゃ」

 

 あッと僕は声を上げた。そうだ、こんな所で油を売っている場合じゃなかった。

 

 僕は残りの肉をさっさと口に詰め込んで、二人に手招きをしながら走りだした。

 

 走りながら僕は後ろを窺う。二人がついて来ているのが確認できた。そのまま走り続ける。向かう場所は、たしか重原小学校の水路。先ほどの捜査官が通話しているのを鑑みれば、トーカちゃんたちが、あの捜査官の上司に襲撃されているのが推して測れた。

 

 とにかく僕は急ぎ、重原小学校付近の水路へ辿り着いた。水路にはトーカちゃんたちは居なかった。

 

 「どうしてだ……」

 

 焦燥に駆られながら探していると、どこからか人の叫び声が聞こえた。その方向を見やると、水路の向こう側にトンネルが見えた。水路に下りて、その中に入る。薄暗い中、人影が見えた。二人立って……いやもう一人、壁に背を預けて座り込んでいる者が居た。

 

 「トーカちゃん、ヒナミちゃん」

 

 僕が声を掛けると、立っていた二人がこちらを向いた。

 

 「カネキ……」

 

 トーカちゃんは、腹に、何かで貫かれたらしい大きな傷を負っていた。

 

 次に僕はヒナミちゃんを見やる。彼女には何ら外傷が見られない。が、背中からは、血のついたクリーム色の赫子と思しき物が生えていた。

 

 「ヒナミちゃん、それって……」

 

 彼女は、話し掛けてもまるで反応せず放心していた。壁に寄りながら腰を下ろしている人を見ると、案の定、リョーコさんを殺したあの捜査官であった。右手と左足が欠損して、致命傷こそ見当たらないが、深手を負って身動きが取れないでいるらしかった。

 

 「もしかして雛実ちゃん、やっちゃった?」

 

 後ろでルーミアちゃんがヒナミちゃんに問い、彼女はは黙って頷き、その後小さく嗚咽を漏らした。

 

 「くくく……、お仲間が来たか」

 

 捜査官は不敵に笑った。

 

 「悔しいなぁ……、こうして負傷していなければ、この場で皆殺しにしてやりたいところだったんだが」

 

 特に……貴様だッ、と彼は、口から血を飛ばしながらヒナミちゃんを、これまた邪悪な笑みでねめつけた。

 

 「745番、貴様はどうしてそうも足掻き続けるんだね、ドブネズミさながらに。お父さんとお母さんがが恋しくないのか? しかも世の人たちは、貴様らが生きているだけでも、それは迷惑だというのに。断言してやろう……、生に縋ったところで貴様らが人間と住めるなんて事は無い」

 

 てめえッ、とトーカちゃんが、同じく傷口が開くのも無視して捜査官に掴みかかった。

 

 「いい加減にしろッ、ヒナミの両親を殺したのはてめえじゃねえかよ! 父親も、そして母親を目の前で殺しやがって。それに飽き足らず、ヒナミをこんなにまで追い詰めやがってッ。それでも人間か! 生きたいって思うのは許されねえのかよ。人並みの暮らしがしたいって、願うだけでも悪いのかよ。この正義の味方気取りがッ」

 

 息巻いて彼女は拳を振り上げた。

 

 「……止せ」

 

 だがヨモさんがそれを掴み、彼女は捜査官から引き離された。その様を見て、捜査官は愉快そうに哄笑した。

 

 「ははははは! 私が正義の味方だって? 馬鹿も休み休み言いたまえ」

 

 「何だと!」

 

 「確かに私は、貴様らがこの世に必要ない百害あって一利なしの存在として駆除しているつもりだ。しかしだな、それと同時に、貴様らに強い憎悪を抱いていて、それを糧にして活動している。言うなれば、感情に振り回されているのだよ、私は。なあ、そうだろう745番、……いや、笛口雛実。お前も、私が憎くて憎くて仕様がないのだろう!」

 

 ヒナミちゃんがビクリと身体を震わせた。

 

 「私がどうして、鼻の利くお前が辿り着けるように母親の首をここに置いたなんていう、見え透いた罠を仕掛けたのか気づかないか? 私には分かるぞ。自分の大切な人を失ったりして悲しい時には、何かを憎むことが一番楽なのだからなあ……。そしてお前は敢えて私の罠に掛かり、憎しみのままに私を殺そうと画策した。……だが結局それは出来なかった、いざ私を前にしてみると、相手を攻撃しようと意気込みまではしても、攻撃するには至らない。縦しんば攻撃を繰り出しても、無意識がわざと外させる、或いは攻撃を弱めてしまうのが関の山よ。くくく、恥じる事は無い、私も新米の時分には同じだった。むしろ私はそれを計算に入れていたくらいだ。尤も最後の最後に見事外したがね」

 

 俄かに僕は戦慄した。トーカちゃんが息を呑む音が聞こえた。

 

 はじめ僕は、この捜査官は狂っているものだと思っていた。だが違った。

 

 「ち、違う。ヒナミは……」

 

 ヒナミちゃんが、捜査官の推理を否定しようとした。

 

 「復讐しても悲しさは消えないと?」

 

 先回りして捜査官が言った。

 

 「それはな、自身の成し遂げたいことが出来なかった時、自分の決意は何だったのかと悶々とした気分になって、自分が何故踏み止まったかに尤もらしい言い訳を付けようとする働きだ……。まあ当然、お前は母親が死んだ事の悲しみを思い出していたのだろうな。そんなもので、自分の認めたくない『影』を糊塗しようとしたのだ」

 

 「違う……違うよぉ……」

 

 彼女はむせび泣きながら、呻くようにしきりに言っていた。

 

 感受性の強い彼女は素直に、不倶戴天の憎しみを抱いているはずの相手からの言葉を聴いて、こうして受け入れ切れずに煩悶してしまっていた。まんまと彼女は捜査官の術中に嵌っていた。

 

 「一つ良いことを教えてやろう。人殺しをはじめとした悪行を行う者に、温かで幸福な人生はやって来ない。そしてお前は、いつか必ず、それが憎悪ゆえか愛情ゆえかは判らないが、人を殺すだろう」

 

 やっぱりこの捜査官は狂ってなんかなかった。彼は正常だ。ただそう見えただけで。

 

 「ゲスが!……」

 

 トーカちゃんが悔しそうに、呻くように言った。拳を握り締め、震わせていて、それを見ている捜査官は実に嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

 「ふうん……」

 

 その中で、一人だけ違う雰囲気の者が居た。それはルーミアちゃんだった。

 

 「真戸呉緒、昭和五十×年、一月二十四日生か……」

 

 おもむろに彼女は、手に持った黒い何か――多分財布――から免許証と思しき物を取り出して、そんなことを読み上げた。

 

 「いつの間に!」

 

 捜査官は慌てた様子で自身の懐を探った。ルーミアちゃんは、落ちてたよ、とあっけらかんとした態度で答えた。

 

 「か、返せ!……」

 

 捜査官は、手袋をはめている左手を伸ばした。その手袋を摘んでルーミアちゃんは引っ張り、するりと手袋は脱げた。そしてその左手にあったのは……。

 

 「ああっ……」

 

 「ふむ、ふむ、結婚指輪……。年齢的にありえるかなとは思ったけど、やっぱり既婚者か。もしかして子供も…いるのかな?」

 

 「ふん、どうだろうな」

 

 捜査官は憮然と言った。それに対して何かを見出したようにルーミアちゃんは口角を上げ、

 

 「私の知り合いにさ、あなたの被害にあったっていう人がいてね」

 

 唐突に語りだした。

 

 「ああ、普段は、そこに居る金木研って人と一緒なんだけど、いつも一緒ってわけじゃないのね。それで、たまに研から離れている時があるんだけど、その人とはその時に知り合ったの。手品師らしくて、色々な手品を見せてもらったんだ。あんな仕掛けをどこに隠していたんだって、本当にびっくりしちゃって」

 

 と、何やら関係のない話が続くものだから、

 

 「何が言いたい」

 

 と捜査官が業を煮やした。

 

 「ん? ああ、そうだった、あなたの被害にあったことについてだったっけ。それで、友達を殺されたらしくてさ、ひどく恨んでいたのよ。あの人だけじゃなくて、他にもあなたの被害にあったって人がいるらしくてね。それで興味を持って、知っていそうな捜査官から聞いてみようかと思ったの。でも支部局に行くわけにもいかないから、こっちからその人の家に出向いたってわけ。向こうは、大した情報を渡していないと勘違いしていたようだけど――」

 

 と可笑しそうに笑い、

 

 「あの情報でも結構まずいものだって知らないなんて。本当、とんでもない、抜け作よね……」

 

 明らかな挑発をした。

 

 捜査官に近づいて、目の前で屈みこんだ。

 

 「本当に、色々な人に恨みを買っているようね。それで――」

 

 と捜査官の免許証を突きつけた。

 

 「その人たちに、あなたの名前と、奥さんの忘れ形見の存在を教えたら、どうなるのかしらね」

 

 彼女はどんな表情をしているのだろう。後ろ側に居る僕らには見えない。

 

 彼女の顔をただ一人見ていた捜査官は、ゆっくりと目を見開き、続いて視線を泳がせる。今まで静かだった呼吸が次第に荒くなっていき、

 

 「やめてくれ……」

 

 ついには弱々しく懇願した。

 

 「やめてくれ……、あの子にもしもの事があるなんて、死んでも死にきれん!……」

 

 それまでの鬼畜の様相が嘘のように、一転していじらしい、一人の父親となった。

 

 彼が伸ばす手を避けて、後ろに若干下がりながら彼女は立ち上がった。

 

 「自分の因業が自分自身にのみ降り掛かるとは限らない。人はいとも容易く鬼になれるけど、……鬼は人にはなれないのよ。……さて、とどめを刺さなきゃね。私たちの正体を知られてしまった事だし」

 

 淡々と結び、ルーミアちゃんはそこから離れた。

 

 それに立ち代ってヨモさんが捜査官の前に立つ。

 

 「やめてくれ……、やめてくれ……、死にたくない……」

 

 捜査官はうわ言のように懇願を続けている。その前に立ち、ヨモさんは赫子を出した。

 

 「ヨモさん?……」

 

 いつまでもそのままで何も起こらなかったもので、僕は尋ねた。

 

 「研……」

 

 暗く沈んだ声で彼が僕の名前を呼んだ。

 

 「雛実たちを、向こうに連れて行ってくれ……」

 

 「……」

 

 その瞬間、僕は悟ってしまった。

 

 「……早く」

 

 「はい……。三人とも、行こう」

 

 「え……、うん……」

 

 僕が声を掛けると、まずヒナミちゃんが反応した。が、トーカちゃんは、捜査官の方を見て放心していた。

 

 「……トーカちゃん」

 

 直接声を掛けて、彼女はハッと我に返って僕を見た。

 

 「……行こう」

 

 一寸戸惑ったように、僕と捜査官を交互に見やってから、彼女は俯きながら歩き出した。

 

 歩きだす二人の後に続き、僕もその場を後にした。勿論、ルーミアちゃんは僕について来ていた。

 

 「鬼は人にはなれない」

 

 後ろでルーミアちゃんが呟き、僕は振り返った。

 

 「これ、私の知り合いが、さっき言ったのとは別のもっと前からの知り合いがね、言ってたんだ」

 

 いけしゃあしゃあと彼女は語る。それに対して僕は、湧き上がる感情があまりにも複雑すぎて、結局何も返答をせずに、再び前を向いて歩き出すのであった。

 

 なお、後日僕は、件の中村という捜査官の殺人事件について調べてみたが、奇怪なことに、結局それらしいニュースは見当たらなかった。




今更だけど、キャラの書き分けを考慮すると、ルーミアの喋り方は難しいと思った(小並感)。

テストがあるため、次回の投稿は今までで一番遅れるかと思います。単位のためなんです。許してください! 何でもしますから!

【追記】

中島さんの名前が中村さんになってました、完全に私のミスです。すみません!  許してください、何でもしますから!


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手本見せてやるから、見とけよ見とけよ~

 お待たせ! (話に)メリハリ少ないけど、いいかな?

 


【0】

 

 『亜門鋼太郎の手記』

 

 中嶋さんの死体が発見されたのは、十一月十三日未明。CCG二十区支部局入り口付近に、歯を全て抜かれ皮を丸ごと剥ぎ取られた、彼と思しき首が捜査官手帳と一緒に放置されているのが発見された。人相が無く、歯型も採れなかったため、血液などから本人と断定された。

 

 捜査官手帳に仕込まれた発信機には故障が見られないのにも拘らず、手帳の移動の軌跡は判らなかった。犯人が、首から下をどこに隠したのか、また如何にして捜査官手帳と首を持ち運んだのかは依然として不明のままである。

 

 この事件は喰種に関する情報の規制によって一般には報されていない。とは言え、この事件に於いて、喰種がやったとされる強い証拠が見つからない。にも拘らずどうして、あたかも喰種の仕業のように扱われているのか。それは、ある喰種の存在があるからだ。

 

 『空亡(そらなき)』という、赫子痕を一切残さずに獲物を捕食する喰種が、近頃二十区で活動している。目撃した者に拠れば、それは真っ黒な球体と共に現れ、犠牲者をそこに引きずり込むとのこと。そのような特徴から、とあるテレビゲームに出てくるキャラクターの名前の初期案を取って、そう命名されたのである。

 

 『745番』を追跡している最中の私に襲い掛かってきた、あの眼帯の喰種。奴は十中八九、ラビットの仲間だろう。

 

 ラビットが草葉さんを殺害し、その直後に中嶋さんが殺された。これが偶然でないと仮定すると、ラビットと、中嶋さんを殺害した犯人は――仲間であるかどうかまでは判らないが――少なくとも何かしらの繋がりがあるということになる。

 

 空亡による事件の現場から採取された歯型と指紋は子どものものであるらしい。だがあの眼帯の喰種は、身長や体格からして高校生、見積もって大学生といったところ。

 

 あの時私が問い詰めたのは、眼帯が奴について何か漏らさないものかと睨んでのことであった。しかしあいつは何も知らない様子だった。判ったのは、あいつにはラビット以外の仲間がいるということのみ。

 

 また十一月十五日、重原小学校付近の水路にて俺は、上司の真戸呉緒上等捜査官が死亡しているのを発見した。

 

 現場からは二種類の赫子痕と、彼のを除く二人分の指紋が検出された。片方はラビットのものと合致、もう片方は『745番』笛口雛実のものだった。真戸さんの体からも赫子痕が検出されたが、いずれも致命傷とはなり得ないもので、致命傷となった外傷からは赫子痕が検出されなかったらしい。

 

 また現場からは、真戸さんの左の手袋と財布が持ち去られていた。

 

 この事件では空亡の、指紋や歯型などの痕跡は発見されなかった。調書では空亡は関与していないとして、奴について言及はされていない。だが、私の勘はそうは思っていない。

 

 何故、彼の手袋と財布は持ち去られたのか。考えられることは、それらには犯人の痕跡が、例えば指紋が残っていたということだ。私の勘が正しければ、この件にはきっと奴が関わっているに違いない。

 

 しかしもう一つ不可解なことが、右手の手袋の存在だ。

 

 真戸さんの切断された右手は、彼の近くに落ちていた、それも目立つ所に。それをどうして見逃す事があるだろうか。指紋を残さないように気を回すくらいなら、もう片方の手袋も回収するはずだ。

 

 やはりこれらの足掛かりは、わざと残されている。私の勘はそう囁いている。奴が私の見立て通りの狡猾な者であるなら、そうとしか考えられない。

 

 現在俺は、局内では不吉な者として敬遠されている。『745番』に関わる人たちが死んでいく中で生き残っている私は、謂わば死神のようなものなのだ。

 

 それは満更ただの偏見ではないのかもしれない。

 

 【1】

 

 捜査官撃退後からの次の出勤日。その日は大学が午前中に終わる曜日なので、早くにバイトを入れている。その日の電車での出来事である。

 

 僕が電車で座っていたところ、ある駅で停まった時に乗車してきた盲目の人が、ちょうど僕の前に立った。僕は逡巡した後、立ち上がってその人に、どうぞ、と声を掛けた。が、そんなもので伝わるはずがないので、今度はその人の肩に手を置いて、また同じように声を掛けたのである。その人は、あっと僕の方へ顔を向けて、

 

 「あら、空きましたか?」

 

 と尋ねられたので僕は、はい、とこれまたボソボソした声で返答をした。

 

 「ええとどこら辺が空きましたか?」

 

 こちらです、と僕は思わず、今さっきまで自分が座っていた席を指差したが、盲目の人にそれはないとすぐさま気づいた。相手の肩に手を置いたまま、何とか席の前まで誘導して座らせる。

 

 「すみません、ありがとうございます」

 

 面映い。席を譲った事もそうであるが、何より、やり取りのぎこちなさで物凄くばつの悪い。そんな気持ちを引きずりつつ、次の駅で降りた。

 

 「偉いね」

 

 と、先刻の事の一部始終を見ていたルーミアちゃんが僕に言った。

 

 「放っておいても他の人が席を譲ったかもしれなかったけれど、それでも偉いと思う」

 

 「正直、あれが正しいことだったのか。あの人は、席に座る必要はあったのかな、むしろ僕の行いは有難迷惑だったんじゃって思うと」

 

 大丈夫でしょ、と彼女は虚心坦懐に答えた。

 

 「確かに、目が見えなければ平衡感覚がに影響があるだろうけれど、めくらだったらそういうのには慣れているかもしれない。でも、親切にされるのはそれほど悪くはないんじゃないの」

 

 「ううむ……」

 

 「随分と気が沈んでるわね」

 

 うん、と僕はひと言分の間を挟み、

 

 「僕が席を譲ったのって、どちらかというと差別意識に近いんじゃないかなって思ってさ」

 

 別にいいじゃない、と首を傾げつつ彼女は、

 

 「ほら、『善人なおもって往生を遂ぐ、況や悪人をや』っていうでしょう。差別は本能だからね、仕様がないね」

 

 言い切って、それ以降は何も語らなかった。

 

 まさか年下の女の子から悪人正機を説かれるとは、面食らった。以前、古間さんが言っていた彼女の見識にはつくづく驚嘆させられる。大人びているというか、諦観しているのか。

 

 大人びたといえば、近頃彼女の身長が異様に伸びている気がする。僕が『あんていく』に来た当初では、小学生くらいの身長しかなかった彼女が、今では僕の肩辺りにまで伸びている。ボブカットだった髪の毛も、今では背中まである。

 

 「何か?」

 

 「いや、何でもないよ」

 

 何のこともない瑣末な違和感などはすぐに薄れる。店に着く頃には、最早僕は全く別のことを考えていた。

 

 して、店の中に入ったのだが。

 

 「よう!」

 

 と、見知らぬ人に、いきなり強く肩を叩かれたのである。何事かと瞠目していると、

 

 「お前、箱持ちを退けたんだってな!」

 

 の一言で僕は悟った。

 

 どうも、あの時の戦闘の現場を、目撃した者がいたらしい。

 

 案の定目の前の人は、別の人を引っ張ってきて、

 

 「こいつがさ、狩りの最中にたまたまお前が捜査官と闘っていたところに出くわしてさ、それで最後まで見てたんだ」

 

 と、わざわざ説明した。

 

 「やるじゃねえか、英雄! その調子で、二十区の白鳩をぶっ飛ばしてやってくれや」

 

 彼はまた僕の肩を叩いて、自身が居た席に戻っていった。

 

 不本意な気持ちだった。僕は捜査官をヒナミちゃんから遠ざけようとして闘ったけど、彼らを二十区から駆逐するために活動してるわけじゃない。僕の中に潜むリゼさんに引っ張られるままに相手を攻撃してしまったのだ。

 

 「複雑な顔してるわね」

 

 ルーミアちゃんが、可笑しいと言う風に言った。

 

 「楽しそうだね、君は」

 

 僕はぶっきらぼう気味に返し、その後すぐに自分の大人気のなさを感じた。

 

 僕らは更衣室に向かった。エプロンだけ掴んでルーミアちゃんはすぐ部屋を出た。僕は着替えてから仕事に入る。

 

そうしてそろそろお客が来るという頃に、扉が開いたのである。ベルが鳴ったのに気づいて、

 

 「いらっしゃいませ」

 

 と声を掛けて目を向けた先に立っていたのは、質感の良さそうな赤いスーツを着た男性であった。

 

 ゲッ……、とトーカちゃんが後ろで呻くのが聞こえた。

 

 「ううん、良い匂いだ。やっぱりここは落ち着くね……」

 

 うっとりとしたような綺麗な声で彼は言った。

 

 「そうか、帰れ」

 

 けんもほろろな返事をトーカちゃんがした。

 

 「相変わらず冷たいなあ、霧島さんは。とは言え、そこが君の魅力でもある……」

 

 「気色ワリィんだよ、キザ野郎が……」

 

 眉間に皺を寄せてトーカちゃんが彼を睨む。

 

 「さっさと用件を言ったらどうなのさ、月山」

 

 どうやら彼は月山という名前らしい。

 

 「そうしたいところだけど、生憎と芳村氏に直接の用件なんだ」

 

 「店長は今留守にしてる。伝言預かってやっから、それでさっさと出てけ、仕事の邪魔なんだよ」

 

 「いや、プライベートなことだから、伝言を頼むわけには行かないんだ」

 

 「はあ? そしたら店長に会うのにてめえがここに来る回数が一回増えンじゃねえか、ふざけ倒せ!」

 

 トーカちゃんからの罵詈雑言に、紳士的な体を保っていた月山さんもついには苦笑して頬を掻いた。

 

 同情混じりに僕が二人を眺めていると、ちょうど月山さんと眼が合った。おや、と彼が不思議そうに僕の方へ寄ってきて、

 

 「そこの眼帯の子、新入りかい?」

 

 「え、ええ、はい」

 

 ふうん、と彼は、

 

 「君、名前は?」

 

 「か、金木、金木研です」

 

 「そうか、カネキ君か……」

 

 と顔を近づけてきたのである。その際、彼の吐息が首筋や頬に当たった。心なしか匂いを嗅がれた気がする。

 

 「不思議な――」

 

 ぼそぼそと彼が何かを呟くのが聞こえた。

 

 「よろしくね、カネキ君。僕は月山習と言うんだ。君とはそれなりの付き合いになりそうだね、今度ゆっくりと話でも……」

 

 「よし自己紹介は終わったな月山、さっさと帰ってくれ月山。あと気持ち悪いんだよ月山」

 

 と勢い良く捲くし立てるトーカちゃんによって、月山さんの話が打ち切られた。

 

 「まったく、それは無粋というものだよ、霧島さん。もっとさ、落ち着きを持とうよ。そんなにせかせかしていると、余計に気がせかせかしてくるものなんだからね」

 

 それじゃあ僕はお暇するよ、というような穏やかな口調をついぞ崩さずに、彼は店を出る事となった。

 

 「それじゃあね、カネキ君、……また会おう」

 

 そう言い残して、彼は店から出ていった。

 

 「まったく、何だよあれ」

 

 「随分と煙たがっているね。でも、どうしてそんなに。あの人は?」

 

 「当たり前でしょ。私はね、あいつを見ると虫唾が走んだよ……」

 

 寒がるように身を竦ませて、さもおぞましい物を見たかが如く顔をしかめて彼女は言った。

 

 「二十区の厄介モンだよ。あんたも、あいつには気をつけときな」

 

 ――きっと眼を付けられた。

 

 彼女に拠ると、彼はCCGに『美食家(グルメ)』と呼称され、二十区に捜査官を呼び寄せる一因となっているらしい。

 

 「あの人が……」

 

 確かに、彼は妖しいものを醸していた。しかしながら僕は、彼の容貌や所作から滲み出る高邁な雰囲気から、俄かに彼女の言を鵜呑みにすることは出来なかった。

 

 「ああ、習が来てたの?」

 

 ルーミアちゃんが出てきた。

 

 「やけに董香が騒がしいと思ったら」

 

 と、からかう眼で彼女は言った。

 

 「知ってるの?」

 

 「少しはね。おもしろい人よ。教養が高いみたいだし、研とも相性が良いかも。語学が堪能らしいから、外国語の本も読めるみたい」

 

 「へえ……」

 

 僕は外国語は一切出来ない。英語の成績にはそれなりに自信はある。が、英語の本を読めるような言語能力があるわけではない。

 

 原著が読めるということは、その本の執筆者の気持ちを、より一層理解できるかもしれない。

 

 それに僕は、引っ込み思案で、ヒデを置いて他に知り合いがあまりおらず、本について語り合える仲間が全くいない。そんな僕としては、そうした読書家は大変魅力的だった。

 

 さて、と彼女はきびすを返し、

 

 「そろそろお客さんが来るかもしれないから、滅多なことを言うのは控えましょ」

 

 人間が来るかもしれないから、と結んで彼女は奥へ消えた。

 

 僕はトーカちゃんを見やった。彼女は何かを言いたそうに僕を見返したが、入り口のほうを気にしている素振りを見せたのち、

 

 「とにかくあいつには気をつけろ」

 

 とだけ言って仕事についた。

 

 それからは、特筆するような事もなかった。覚えることが多くて戸惑っていた作業も、今ではすっかり板に付いて作業と化して、それをいつも通りにこなしている内に勤務時間は過ぎていく。家に帰って、今日やった講義の内容のノートを何となく眺めたりして時間を潰し、夜になったらシャワーを浴びて、寝る。ほぼいつも通りに一日が終わったのである。

 

 その日以後のバイトの日の事である。今日も今日とて、普段と――面倒臭いお客に絡まれた事を除けば――変わり映えのない時間を過ごし、同じように一日を終えた時。

 

 「研、……こっちへ来てくれ。それと……、動きやすい服も持ってだ」

 

 と、ヨモさんに呼ばれたのである。その日は体育の授業があってたまたまジャージを持っていたので、それに着替えてから、言われるがままについて行った。そうして連れてこられたのは、地下の、まるで戦時中に造られた防空壕みたいな場所であった。

 

 コンクリートで塗り固められた天井や壁のその空間はやたらと広かった。体育館に迫る広さだ。一体ここで何をしようと言うのだろう。

 

 「研、先日の……捜査官と闘った時のことは憶えているか?」

 

 「あの時、ですか?」 

 

 「そうだ。実際に捜査官と対峙して、……手応えはどうだった」

 

 「素手じゃほとんど歯が立ちませんでした。特に、クインケ……を出された時には、赫子がなければどうしようも……」

 

 それだ、と彼は指摘した。

 

 「あの時のお前の赫子捌きを見ていたが、どうもお前は赫子に引っ張られているようだった。赫子を操り切れないのは致し方ないが、鍛えた捜査官相手には格闘も通用しないともなると目も当てられない事になる」

 

 「でも僕は、出来るだけ闘いは避けたいと思っていて……」

 

 「……残念だが、この間の一件でCCGにマークされてしまっただろうな……。お前が乗り気でなくとも、向こうが仕掛けてくる。戦意がないというなら尚更だ」

 

 そう言って、来ていたコートを脱ぎ捨て半袖一枚になった彼は、ファイティングポーズを取って、

 

 「行くぞ」

 

 と僕に一声掛けるや否や、いきなり左拳を突き出してきたのである。反動を全くつけず繰り出されたそれは僕の頬にあたる。

 

 「ちょっ……」

 

 僕はそのまま二、三発程そのジャブで殴られる。反射で頭を左右に振ってそれらを避け始めた直後、彼は僕の動きを先読みした右ストレートを放ってきた。それも辛うじて回避。しかしまたもや左で、今度はレバー辺りを小突かれ、それに気を取られると即座に右フックを喰らう。そしてトドメとばかりに額に膝蹴りを叩き込まれ、僕は仰向けにダウンする。手も足も出なかった。

 

 と言うより出せなかった。殴ってしまうと、相手が激昂して、より強い攻撃で急所を抉られるのではないかと怖気づいてしまうのだ。それ以前に、殴りかかってカウンターを取られるのが怖くもあった。

 

 上のような具合に、この後さんざんしごかれた。体育の授業ではあまり汗をかかなかったのに、この運動のせいですっかりジャージがしっとりしてしまった。

 

 終わった後にヨモさんが、

 

 「よけるのはまともに出来るようだが……、他はまるで駄目だな……。これからは、仕事の入っている時は必ずここに立ち寄るんだ、稽古を付けてやる」

 

 「……はい」

 

 息を切らしながら僕は、とりあえず彼の厚意を受け取ることにした。僕はきっと弱い自分を無くしたいのだろう、……そういうことにしておこう。

 

 「ところで……、俺はこの後寄る所がある。そこに、お前に会いたいという奴が居るんだが……、お前も来るか」

 

 「……はい」 

 

 考えるより先に空の了承の返事が出た。応えた後になって彼の言っていたことが解り、最早断れる空気じゃないと思い、結局僕はにホイホイついて行くのであった。

 

 つれて行かれた場所は、十四区の『Helter Skelter』というバー。到って普通のバーのように見える。

 

 「ここですか?」

 

 「そうだ、ここだ」

 

 とヨモさんは言ったっきり、静止していた。開けろということなのだろうか。おずおずとしながら僕は扉を開けた。中の様子を窺いながら、ゆっくりと開けていく。すると……。

 

 「ババアァーッ!」

 

恐ろしい顔の老婆が迫ってきて、

 

 「ババアァーッ!」

 

 僕は絶叫を上げる。

 

 「ババーン」

 

 心臓が弾けてしまいそうなくらい仰天した。

 

 ところで三人目のは誰だろう。

 

 僕はもんどり打たんばかりに飛び退き腰を抜かす。そんな僕の上から溌剌とした笑い声が降ってきた。

 

 「いやあ、ウーさんのマスクは最高だねえ! で、この子誰?」

 

 と言って、その人はマスクを取った。赤い髪の毛の女性であった。

 

 というか、見ず知らずの人を驚かそうとしたのか。

 

 「こいつがカネキだ」

 

 彼女の問いに、ヨモさんが代わりに答えた。

 

 「ああ、この子が! 話は聞いてるよ!」

 

 どうぞ入って、と言って彼女は僕を引き起こし、僕は店の中へ連行された。

 

 こういったバーの中に入るのは初めてだ。

 

 「ようこそ、私の店へ!」

 

 席についた僕は、キョロキョロと落ち着き無く辺りを見回していた。そんな僕の様子を面白がって、さらに彼女は笑った。

 

 「カネキ君、久しぶり」

 

 僕の横に座った――さっきこの女性と一緒に僕を驚かした――男性に声を掛けられた。独特のパンクファッションに、常時赫眼の瞳。

 

 「あ、ああ……ウタさん……」

 

 彼の名前はウタと言い、僕が以前あつらえたマスクを作ってくれた人だ。で、その店の名前は……。

 

 「うん、ハイサーイ」

 

 「ぐっ……」

 

 不意打ちで言われて僕は吹きだし、ボロが出てしまった。

 

 「やっぱり、そう読まれていたんだね」

 

 ウタさんはしみじみと言った。

 

 「す、すみません……」

 

 マスクを作ってくれた彼の店の名前は、『HySy ArtMask Studio』と言うのだが、この最初のHySyを、僕は見た直後ではハイサイと勘違いしていたのである。本人に出迎えられた際に、彼が店の名前を口にすることで、失言をする前に僕は正確な名前を知ることが出来たのだ。

 

 「まあ気にする必要はないよ、きっとDyDo(ダイドー)のせいだよ」

 

 哀愁漂わせながら彼は言った。何と返せば良いのか僕は考えあぐね、そののちに、

 

 「あははは……」

 

 と無理に笑った。

 

 「ウーさんと蓮ちゃんから聞いてるよ」

 

 と、あの女性が委細構わず喋りだした。

 

 「二人して同じ話題を出しといて私だけってのも癪だったから、会えて嬉しいよ。この店の店主イトリよ、よろしくぅ!」

 

 「は、はあ、よろしくおねがいします」

 

 「そんなに硬くならんでもいいよ、カネキチ君」

 

 「カネキチじゃないです」

 

 と言う僕をスルーして、カウンターの裏から彼女は何やら取り出そうと屈んだ。

 

 「ところで、三人とも、知り合い同士なんですか」

 

 「そう、そう。四区に居た時からの腐れ縁でさ。昔はさ、蓮とウタって凄っごく仲悪かったのよ。で、そのせいで四区荒れちゃって」

 

 「今では仲良しだけどね、僕たち」

 

 と、ウタさん。

 

 「本っ当参っちゃったわよ。カネキチも想像してごらんなさいな、鉄面皮の大男にパンクファッションの色んな意味で危なそうな奴が睨みあってるとこ」

 

 と、イトリさんに具体的に言われて、思わず想像した。

 

 「ううん、それはおっかない……」

 

 カウンターから顔を上げた彼女の両手には、片方にはグラス、もう片方にはドロドロの何かが入ったボトルがあった。それを彼女はグラスに注ぐと、はい、と僕のほうへ差し出した。流されるままに僕は受け取る。

 

 「安心しなよ、それにはアルコールは入れてないから」

 

 カウンターから出て僕の隣に座った彼女は言った。

 

 匂いを嗅いでみると、確かにアルコールは入っていないらしい。むしろ、しつこいまでに芳わしい匂いが鼻腔を満たしてくる。

 

 何と言うか、葡萄酒にしては透明度があまりにも低く、それとドロドロしていると言うか。

 

 「これって……もしかして」

 

 「そ、血だよ。お酒として出すんだったら、これにスピリタスだとか甲類焼酎だとか入れて出すの。中には本格焼酎を入れて、血酒の中に混ざる不快な味を楽しむ人もいてね」

 

 ここだけの話、とイトリさんは内緒話をするように手の甲で口元を隠しつつ、

 

 「メタノールも入れてたりして……」

 

 「えッ!」

 

 「嘘、嘘っそーん! あっはっはっは! まあ、戦後の動乱期とかだったら、あり得たことだけどね。メタノールを水で薄めて出す偽粕取り焼酎にあやかって、粕取り血酒! 詐欺としての製造以外にも、度胸試しとして飲まれていたらしいのよね」

 

 「やっぱり、戦後は相当荒れていたんですね」

 

 「それどころか、軍隊に多くの喰種が紛れ込んでいたなんてのもあったくらいよ、戦場では人肉に困らないからね。それに、死者の多くは、国が喰種の食料用に保管して、遺族のもとに帰ってきたのは結局一部なんてね」

 

 「国が喰種のために? そんなまさか……」

 

 喰種対策局は国が創った組織である。その国が喰種のために人肉を確保しているなど、言語道断のはずだ。

 

 「でも、何のために」

 

 「例えば、喰種にやってほしい仕事があるとかね。一番解りやすいやつだと、特殊慰安施設協会(RAA)とか」

 

 「RAAって、Recreation Amusement Associationのことですか?」

 

 「そう、そう、そのRAA。当初では私娼に募集を掛けていたけど、集まってきた人が少ないという事で、一般の女性にも破格の報酬で募集を掛けた。けれども、それでも足りないってんで、上が独断で喰種の募集もしていたらしいのよ。勿論、根拠もあるわ。私の知り合いの婆さんがね、それに参加していたの」

 

 「なるほど……、彼女の証言が虚偽じゃないのだとしたら、それは本当に……」

 

 タブロイド誌に載っていそうな話だ。

 

 戦後と言えばさ、と唐突にイトリさんが切り出す。

 

 「カネキチさ、喰種のレストランって知ってる?」

 

 「喰種のレストラン……。いえ、全く。喰種の情報には疎いものだから……」

 

 ただでさえ、一般に出回っている喰種の情報には疎いのに、どうして斯界の事情を知っていようか。

 

 「して、戦後とその喰種レストランにどんな関係があるんですか」

 

 「いやね、飽くまで噂なんだけどさ。闇市時代に、喰種に人肉を提供していたのがアングラにあってさ、それが現在まで喰種のレストランとして残っているらしいのよ」

 

 「何だか信じられないですね……。CCGはどうしていたんですか」

 

 「戦後だからこそ喰種の活動が活発で、CCGはてんてこまいってとこでしょうね。けれども、あまりの多さにさすがの連中も目を回してて、その隙に周到に逃げまくっていたんだって」

 

 「まるでヤクザのシノギだ……」

 

 ヤクザと喰種が繋がっているというのは聞いたことがある。何となしに読んだタブロイド誌に載っていて、それに拠れば、ヤクザからすると喰種は死体処理にはそれなりに便利らしい。故に喰種とヤクザにはちょっとした繋がりがある、と。

 

 それでもヤクザがCCGから摘発を受けないのは、やはり彼らもそれなりにCCG対策をしてるからだろう。殊に暴対法の布かれた昨今に於いては。

 

 まあそれは置いといて、と肩を叩かれた。

 

 「もし、喰種のレストランについて何か情報が入ったら、是非とも私に教えてくれたまえ!」

 

 イトリさんは気軽な笑いを見せた。

 

 こうして僕は喰種のレストランの存在を知ったのである。

 

 後日僕は、件のレストランに行く機会を得る事となる。その過程を、まずは語らねばなるまい。

 

 イトリさんのバーに行く以前の日に、大学で月山さんに遭遇したのである。

 

 その日の時間割は、ちょうど昼前の講義が空いていたので、屋外にあるテーブル席でゆったりとコーヒーでも飲みながら――珍しくルーミアちゃんとは別行動をしていた――独りくつろいでいた。その正面に座ったのが彼であった。

 

 「つ、月山さん?……でしたっけ。どうして上井大学に……」

 

 そう、彼は別の大学に通っているはずなのだ。

 

 ふふっと艶やかな笑みを浮かべると彼は、

 

 「君に会いにさ……」

 

 僕は当惑した。

 

 「安心しなよ、変な意味じゃないからさ」

 

 どうやら僕はからかわれていたらしい。そうして彼はくすぐったそうに笑った。

 

 「君に興味が湧いたんだ。聞くところに拠ると、君はなかなかの活字中毒らしいね」

 

 「は、はあ、恐れ入ります……」

 

 「そんなに畏まることはないよ、僕たちは同士なのだからさ」

 

 そよ風に吹かれた水面のようにたおやかな笑みを浮かべながら彼は言った。

 

 「本は実に良いものだよね。自分の行きたい世界に、どこへでも連れていってくれる……。たった一つのセンテンスを読む、それだけでも様々な夢想に耽ることが出来る。読み手の意識が作者に近づくだけ、本人の気持ちを深く味わえる……、尤もこれは持論なんだけどね。僕は、作者の意識が詳細にに描かれている西洋文学が好きだから。お喋りを厭う日本文学を好む人ならば、きっと別の意見を語ってくれるはずさ」

 

 「海外文学がお好きなんですか。もしかして、原著も読んでいたり?」

 

 「出来るだけ読むようにしているよ」

 

 限界はあるけどね、と頬を掻きながら彼ははにかんだ。

 

 「出来ることならドストエフスキーやツルゲーネフも原著で読んでみたいのだけれど、如何せんロシア語がね。英語以外ではフランス語やドイツ語あたりなら出来るんだけど」

 

 憂いた表情で彼はこのように語る。ルーミアちゃんの言っていた通りの人のようだった。もしかしたら、根は優しい人なのかも。

 

 「時にカネキ君、きみ、高槻泉を読むのかい?」

 

 彼は、僕が手に持っていた本に視線を移して口を切った。

 

 「え? ええ、はい。一見して繊細なようで、それでいてしっかりとした――力強い文章に惹きつけられると言うか……」

 

 と、やや要領を得ない調子で僕は喋くった。

 

 「僕も君と同じ気持ちさ」

 

 彼は小さく頷きながら、にっこりと微笑んだ。それで、そうか高槻泉か……と呟いたのち、

 

 「そう言えばさ、僕の知っているカフェに、本好きのマスターがやっている所があってね、噂では高槻産泉も偶さかそこに来るとか。よければだけど、今度一緒に行かないかな?」

 

 「高槻泉が!」

 

 という具合に、何の猜疑もせずに僕は、彼と一緒にその喫茶店に行く約束を取り付けたのであった。で、その約束の日というのが、イトリさんのバーを訪れたすぐ後の日だった。そこで例の喰種レストランのことを、月山さんに教えられたのだ。

 

 そして、リゼさんの行きつけでもあるらしい。

 

 僕を騙し、喰おうとしたその人。上から降ってきた鉄骨に押し潰され、息絶えたその身から取り出された臓器で僕は生きながらえ、そして喰種になった。

 

 喰種としての僕の――母親。

 

 無意味に僕は、彼女について知る機会を欲した。それが僕を後押ししたのだ。

 

 斯様ないきさつを以って僕は、例のレストランに辿り着いたのである。

 

 それに、月山さんの様子の変容が気になったのもあった。本人からは、彼女とは懇意にしていて、仲は良好であったと告げられはした。が、僕が、具体的にどんな関係であったかを問うと、刹那彼は沈思し、その後凄まじい形相で、手に持ったコーヒーカップを握り潰したのである。

 

 そしてそのカップに思わず触れた際に僕は指に切り傷を負った。慌てて月山さんは、ハンカチで僕の傷口を覆った。だが不可解なのは彼の挙動だった。それまでとは一転して、どこか逸っていたような。

 

 そんなこんなで、その約束の日。

 

 待ち合わせの時間と場所で僕らは落ち合う。しかしすぐには例のアレには行かなかった。彼の案内の下に僕が連れてこられたのは、スポーツクラブだったのだ。で、そこで何をやったのかと言うと、『スカッシュ』と呼ばれるものである。

 

 スカッシュというのは、テニスコートの半分くらいの、四方が壁に囲まれたスペースにて一対一で行うスポーツだ。前方の壁にゴムボールを当てて、跳ね返ってきたそれを相手がまた前方の壁に打ち込んで返すという、ラリーゲームと言うべきか。

 

 まるで囚人の暇潰しだ。

 

 ところがこのゲーム、存外に難しい。ゴムボールがよく跳ねるので、微妙に動きが読みづらい。また、背後の壁に当たるくらい強くやられると、前に跳ね返っていくボールを、追うように打つ必要がある。月山さんはそうしたいやらしいボールこそ打ってこないものの、僕は元より運動が苦手で、而してスカッシュに不慣れな事も相まって余計に出来ない。

 

 「君はどうも、運動は不得手みたいだね」

 

 苦笑気味に彼は言う。

 

 「僕の知り合いでも、君ほどの……運動が苦手な人は珍しいね」

 

 彼の運動神経が良いものだから、余計に面目ない。

 

 終わった後は、建物に備え付けられたシャワールームで汗を流す。そんなこんなで、とうとう喰種レストランに向かう。その道すがらで月山さんが、

 

 「上質な食事をするのなら、良き運動をした後が最も適している、カネキ君もそうは思わないかい?」

 

 「とは言われても、さっきも見た通り僕は運動が苦手だし、あんまりその考えには……馴染みが無いと言うか」

 

 よく解らない会話ののち、彼はとある建物の前で止まった。そこは、人気の少ない雑居ビル。国家機関の目を盗んで経営されていると言うからには地味めな外装であることは想定していたが、まさかここまでとは。

 

 無関係者が偶然発見するなんていう事が無いように工夫のなされた入り口から入り、僕らは地下へ行った。案の定、行き着いた先にはレッドカーペットの敷かれた豪奢な空間が在った。で、とある豪華な扉の前で、

 

 「先に着替えをしないとね」

 

 このレストランには服装規定(ドレスコード)があるらしく、僕と彼はそれぞれ別の更衣室へ行く。案内された所で、まずシャワーを浴びることを要請された。格式高い空間に迷い込み、緊張をしていた僕は、何の疑問もなしに言われるがままにシャワーを浴びたのである。スカッシュの後にシャワーを浴びはしたが、さすがに外の、東京の空気に曝されているのは頂けないのだろうか。

 

 シャワーを浴びた後に僕は、用意されていたスーツの群を見た。これまた瀟洒で巨大なクローゼットの中に並ぶ様々なフォーマルスーツ。僕にはサイズ以外の違いがちっとも判らなかった。それで自分のサイズのスーツを適当に引っ張り出して着た。

 

 違いなんて判りっこないと言いはしたが、着てみると、成程心地良いものであった。『注文の多いレストラン』じみた注文の多さは、やはり格式の高さだろうか。

 

 このレストランではドレスコードの他にも、完全会員制というものもある。で、その会員権の取得には、招待制が採用されている。また、喰種は死亡率が高いので、ここはほとんど常に会員を募集している状態で、顧客の入れ替わりが激しいのであるらしい。なお、リゼさんを除き、月山さんは過去に一度、会員権を与えたことがあるとのこと。

 

 スーツを着終えたら、今度は待機室らしき部屋へ連れていかれた。シンプルなヴィクトリア朝めいた内装の、趣深い部屋である。僕が来る時には、既に二人の先客が居た。

 

 片方は、眼鏡を掛けた男性で、もう片方はふくよかな体系の女性であった。

 

 「あ、また一人来たのか。いやあ、良かった、二人だとどうも気まずくてね」

 

 と、男性が話し掛けてきて、

 

 「私、翔英社のトーキョーグルメの記者の小鉢と言います」

 

 名刺を手渡してきた。

 

 「照英? ……あ、僕は金木研です」

 

 「カネキ君ね。見たところ、高校生かな」

 

 「いえ、大学生です」

 

 「ほほう、学生でこんな所に来る機会に恵まれるとは、君は本当に運が良いね! 僕なんて、御手洗さんに――あ、御手洗さんっていうのは、今日僕をここに連れてきてくれた人ね。食通仲間なんだ。それで、その御手洗さんに紹介されたようやくここを知ったんだ。本当に悔しいねぇ……、東京の隠れレストランなんて知り尽くしているものと自負していたんだけど……。とは言え、不定期で場所を変えるレストランなんて、そうそう見つからないよなぁ……」

 

 という具合に、目の前の饒舌な人の相手をして時間を潰していると、まもなく部屋に、妙な真っ白い仮面を被った給仕服の女性が、ワゴンにコーヒーカップとクッキーの皿を乗せて入ってきた。彼女は僕たちに、準備が出来るまでもう少し待てという旨を伝えて出ていった。

 

 「このクッキー……」

 

 小鉢さんはクッキーを一口食べて言った。

 

 「パサパサしていて、味が薄いな」

 

 と聞いて、僕も一枚食べてみたところ、

 

 「うっ……」

 

 かつて感じていた甘みとサクサクとした食感、今ではその良さが解らなくなっていた。味そのものは同じなのに、出てきた感想は、甘ったるい土を固めて焼いたみたいな味というものであった。

 

 小鉢さんは、そんな僕を見て若干訝しげに見てから少し笑い、

 

 「それはちょっと大げさなんじゃないかなあ。確かに妙な味だけど、これが貴族的な味なのかもしれないよ」

 

 と言われて、僕は瞠目した。食通という自己紹介をされてから、妙だとは思っていた。明らかに人間の食べ物であるはずのこれを、微妙という言葉で片付けるとは。

 

 「私、ブラックコーヒーって苦手なのよね。せめて砂糖と牛乳でも一緒に持ってきたらどうなのかしら」

 

 と、ふくよかな女性はぼやいた。やはりおかしい、砂糖だったら、喰種でも摂取できる物はあるが、牛乳は摂取できないはずだ。

 

 或いはこの人たちは人間なのか。だとしたら、どうして喰種のレストランに連れてこられたのか。

 

 考えられることといえば、この人たちはここの食材として運ばれてきたということだ。でもどうして、僕がこの人たちと一緒に居る状況になっているのか。

 

 もしや僕は人間と間違えられたのではないか。

 

 喰種から人間と誤認されて捕食されかけた経験は何度かある、大抵の原因は人間と同じ匂いを放っていたからというものであった。もしもあの時、僕が月山さんが連れてきた食材だとスタッフに思われていたのだとしたら、あり得ることだ。あのコーヒーから漂う変な匂いも、犠牲者に一服盛ろうというものなのかもしれない。

 

 と、そのような考えに至った折に、

 

 「お食事のご用意が出来ました。どうぞこちらへ」

 

 一瞬、僕は人間ではないと言おうかと思いはしたが、この二人の人間の前でいうのがはばかられた。忍びないくらい気が引けるが、この二人の命は諦めるしかない。周到に会場を変えるまでに徹底しているなら、ここを知った人間を生かして帰すわけがない。

 

 致し方ない、連れていかれた場所で事情を話すしかないだろう、として黙って僕は後に付いた。で、案内された場所というのが、とても広く殺風景な広い空間だった。その中央にポツンとテーブルと、人ひとりくらいは横たわれるほどの鉄板があった。

 

 「ほほう、鉄板料理か!」

 

 小鉢さんは、自信の置かれた立場を露知らず、そんなことを言った。申し訳ないという感じのもの哀しい気持ちがこみ上げてきた。

 

 僕らが席に着いたその時、パッと眩い光が点いて、つい視線を下に向けて光を避けた。

 

 どこからか歓声が聞こえてきた。上を見ると、この空間の壁の上の部分が開いていき、そこから客席のようなものが現れたのである。歓声はそこから出てきていた。

 

 「皆様、お待たせ致しました」

 

 という司会らしき人の声。

 

 「ただ今より、本日のディナーの解体ショーが始まります」

 

 そのアナウンスが流れると、客席の中に居る集団はますます沸き立った。

 

 「まず最初の人間! 仲介はTR様となります!」

 

 と、客席の中にスポットライトが当てられ、前に出てきた仮面を被った男性がお辞儀をした。

 

 「み、御手洗さんっ!」

 

 ぎょっして小鉢さんは驚愕した。それを無視して、TRと呼ばれた男性はマイクを受け取り、

 

 「彼は忙しい中でもジムに通っておりまして、その引き締まった肉の食感は、さぞ心地よいものでしょう! 存分に味わいください」

 

 「続いて二人目! 仲介はPG様となります!」

 

 次にスポットライトが当てられたのは、白い服を着た、ピエロのマスクを被った男性だった。

 

 どこかで見たことあるような……。

 

 「そ、宗太ッ!」

 

 今度はこのふくよかな女性だった。

 

 「あ、あんた、私を騙してたのねッ! け、結婚してくれるって約束は……」

 

 「え? 嘘だけど。いやあ、さすがに君のような豚とは嫌だなぁ……亜美ちゃん。俺ってば面食いだし」

 

 「あ、怪しいとは思ってたわよっ、私と一緒に居る時にはほとんど食事なんてしなかったし、その度によく解らない言い訳なんかして! 馬ァ鹿! 判ってたんだよ!」

 

 「アア、アア、キチガイが何か叫んでおりますねえ、意気の良いことに。皆さん、そこの女には、本日に備えて脂ぎった食事をたっぷりと取らせておりますので、さぞ肥えている事でしょう。そのトロトロの脂、とくとご賞味ください」

 

 糞がァ! と、亜美と呼ばれた女性は激しく地団太を踏んだ。

 

 「それでは本日のメインディッシュ! 提供は、MM様でございます!」

 

 「あ、あの!……」

 

 僕が声を掛けるが、司会は無視をした。

 

 「皆様!」

 

 如何にも特等席という感じの、一番上の真ん中辺り、そこに月山さんは居た。

 

 「今回のメインディッシュは……何と喰種です!」

 

 「えッ……」

 

 彼はあろう事か、僕を食材として紹介したのである。

 

 「き、君が、喰種?……」

 

 小鉢さんと亜美さんが目を丸くして僕を見た。客席のほうも騒然となっている。不満が混じっている声が聞こえた。

 

 月山さんが、静粛に静粛に、と声を張った。

 

 「皆様、周知の通り、私も喰種は粗雑な味であると存じ上げております。しかしながら――」

 

 月山さんは懐から、フリーザーパックに入れたハンカチを取り出し、開けたそれを下の客席の方に投げた。すると、そこに居た人たちは俄かに浮き立ち、そこから身を乗り出して僕の方を見やってきた。

 

 僕は見えた、あのハンカチに付いた血を。あの血は僕のだ。

 

 「喰おうとしていたのか……」

 

 嵌められた。まさに煮え湯を飲まされた気分だ。あんなに優しくしてくれたのは、ただ僕を喰いたかったからだったなんて。どうして僕は学習しない。

 

 「そう、彼は喰種にも拘らず人と同じ匂いを、それも極上の香りを醸しているのです。さあ……、彼のような身からはどのような味が染み出るのか!」

 

 語尾を強くした演説をすると、今までで最も激しいの喝采が起こった。

 

 「さて!」

 

 それらを制止するように、司会が口を切った。

 

 「この三人の人間を解体する本日のスクラッパーは、マダムAの飼いビト、タロちゃんでございます! それではマダムA様、何かおひと言を」

 

 と、今度は金髪の、髪の毛を両サイドで団子状にまとめた女性にスポットライトが当てられた。

 

 「ええ、皆様! 本日は、タロちゃんに温かい声援をお願い致しますわ!」

 

 甲高い声で彼女がそう言ったその直後、僕らの前方にある巨大な扉が開いた。それで中から現れたのは、身長が明らかに人間のそれではない、赤い頭巾を被った上半身裸の巨漢であった。

 

 「ひ、ひいっ!」

 

 巨漢の姿に恐れをなした亜美さんが、僕らが入ってきた扉に走っていった。

 

 「あ、開かないっ!……」

 

 しかし扉は、獲物を逃がさないらしかった。その間にも巨漢は、タロは悠々とこちらへ足を運んでくる。

 

 「えっと……よろひく、おねがいひます!」

 

 その容貌には不釣合いな、元気の良い幼児言葉でタロは言った。

 

 「あは、はは……」

 

 小鉢さんが力なく笑いだした。

 

 「そ、そうか! これはハプニングレストランなんだ!」

 

 唐突な言葉だった。

 

 「僕もさ、以前ヨーロッパで、ドッキリ付きのレストランに行ったことがあってね。ドッキリと料理をいっぺんに楽しめる愉快なレストランなんだ!」

 

 彼は、喰種であるはずの僕に言った。出来ることなら、その言葉に縋りたいものであった。

 

 そうこうしている内に、タロはまず小鉢さんの方へ歩み寄り、のし掛かった。相変わらず彼は大口を開けて笑っている。

 

 「あははははは! す、凄いなッ、まるで本物だ! こんな迫力のあるドッキリは初めてだあ!」

 

 タロが、手に持っている糸ノコギリを腕に押し当てた。それでも彼は、まだドッキリだと信じて、疑わなかった。

 

 糸ノコギリが一気に引かれる。痛いッ、と小鉢さんは金切り声を上げた。断続的に彼は叫び、やがて動物の鳴き声のような絶叫を、息の切れるまで上げ続けた。

 

 「ぎっこ! ぎっこ! まずいっぽーん!」

 

 タロは片腕を切り離し、それを客席に投げた。興奮した喰種たちがそれに飛び付いた。

 

 「素敵よぉ、タロちゃぁん! その調子で頑張ってぇ!」

 

 タロの飼い主マダムAは、猫撫で声を響かせた。タロは反応して立ち上がり、両手を大きく振って、

 

 「ママァ!」

 

 と、無邪気な返答をした。その間にも、小鉢さんはズルズルと、タロから逃げんと地面を這っていき、最早一片の希望の無い野太い声で叫んだ。

 

 「こ、これ……ハプニングバーじゃねえっ!」

 

 まあ確かにここはハプニングバーなんてエッチな店ではない、エッチはエッチでも地獄(HELL)のほうだけど。

 

 ギャグじみた死に際ではあるが、今の状況に立たされた僕からすれば洒落にならない。人間、こうしたパニックに直面すれば、途端に頓珍漢なことを言いだし、而していやに冷静になったりするものだ。

 

 タロは引き続き、小鉢さんの解体に勤しんだ。まずは手足を、各々の付け根にある太い動脈を外して切り取っていった。それが終わると、例の鉄板に断面を押し当てて焼き、止血を施した。その次には腹を割かれた。しかし、小鉢さんには、もう激しい絶叫を上げる気力は残っていないようだった、その代わり、苦悶の挙動が瞭然と見えた。

 

 ホルモンがタロによって引きずり出された。タロは乱雑にそれをまとめて切り取ると、一口サイズに千切って四方八方の客席にばら撒いたのであった。

 

 「その調子よぉ、タロちゃん! 腸を千切るのを見せ付けるなんて、百点満点よぉ!」

 

 この店は狂っている。生きた食材を、拷問を掛けながら解体するなんて。

 

 人を殺して命を繋ぐ生き様に耐え切れなかったのか? 自らの心を悪に染めて切って、罪咎の重責に耐えようとしたのか?

 

 どちらにしろ、僕は彼らの気持ちを理解したくはない。

 

 ようようと最初の解体は終わった。タロは僕らに目を向ける。僕は亜美さんのそばに寄り、背中に隠した。ふくよかな体型では大変だろうと思ってのことかもしれない。

 

 「僕から、なるべく離れないようにしてください」

 

 と、言い切る前に、僕は彼女に背中を蹴られた。

 

 「ちょっ……」

 

 脂汗をかき、見開いた目で僕を見ながら彼女はわずかに口角を上げ、

 

 「あんた……、私の代わりになって、囮になって死んでよ……」

 

 またもや僕は煮え湯を飲まされた。引きつった笑い声を発しながら彼女は逃げていった。逃げる彼女の背中を見ていると、不意に影が僕を覆った。振り返れば、そこにはスクラッパーが佇んでいる。

 

 だがタロは、前屈みになって僕をじっと覗き込むと、

 

 「メインディッヒュ……、あてょ回し!」

 

 と言って亜美さんのほうを追い始めた。

 

 しかし、なかなか彼女は捕まらなかった。タロが鈍足なこともあるだろうが、何よりも、デブであるはずの彼女の足が速い。あんなデブだったら走る時に相当ハンデになり得るだろうに、彼女のフォームにはブレがあまり見られず、呼吸も整っているらしかった。デブにあるまじき逃げっぷりだった。

 

 その追いかけっこにもいよいよ終わりが見えた。ここには出口は無い。走り続けたところで、体力が切れれば捕まるのは当然の事。だがその前に、彼女が不審な倒れ方をした。そう、やっぱり先刻のコーヒーには痺れ薬か何かが盛られていたのだ。そうして彼女は捕まり、高々と掲げられた後……。

 

 ぎゃあっ、という亜美さんの叫び声。ぐぐもった金切り声が聞こえた。全身を鉄板に押し当てられたのだ。

 

 これは客席にも不評であった。ちゃんと水を掛けて汗を洗え、と、ツッコミをする調子で声がそこらで上がっていた。

 

 これにて二人目は終了し、残るはメインディッシュ――僕の番が来た。

 

 どうすることも出来ず、あえなく僕は捕まった。片手で軽々と、僕の肩辺りを掴んで、その糸ノコギリを僕に押し当てた。ギリギリとそれが引かれ、服を破り、肌へ。

 

 だが、なかなか切れない。ギザギザしたものが僕の肌を這うのみで、それどころか向こうの刃が歪んでいた。

 

 きょとんとしているタロの隙を見て、僕はタロの手から脱した。がっかりしたという風な空気が客席に漂う。

 

 けれども安心は出来ないらしい。しばらくしてスタッフが下りてきて、タロに何やら大きなアタッシュケースらしき物を……。

 

 「あれは!……」

 

 渡された相手から、持ち手にあるスイッチの存在を教えられ、タロはそれを押す。そして中から出てきたのは、巨大な妖しく光る金鋸。見るだけで僕のが粟立たつあれは――。

 

 「クインケ……」

 

 喰種である僕にはそう来るのか。

 

 タロは僕にゆっくりと歩み寄ってきた、僕は後ずさる。少しの間それが続き、ついに僕の背中が壁に当たった。その瞬間、タロはクインケを横なぎに振るった。僕はそれを間一髪でよけた。

 

 次もまたどうにか回避。クインケから受ける重圧は相変わらずであった。しかしどうだろう――、以前捜査官と対峙した時よりも、――怖いことには怖いけれど――危機感が薄いと言うか。

 

 振り下ろされたクインケが地面を割る。それを足場に僕は、タロの頭に蹴りを入れた。手応えは――無かった。

 

 ギロッとタロの瞳が見えた気がした。野獣のような眼光に一瞬僕は怯み、その隙にタロの空いている片手で、今度は首を締め上げられた。

 

 首の血管が張り詰める感覚がする。反射的に僕の首には力が入っていく。意識はまだはっきりしていた。ルーミアちゃんに締め付けられた時よりも大分楽だ。

 

 僕の胴を狙わんと振るわれたクインケを、僕は脚を上げて避ける。そして僕は、自分を持ち上げている腕を跨ぐ要領で、僕の首を支点に時計回りに回って、その回転に合わせて相手の顔を蹴った。タロの、僕を掴んでいた左手はその一連の動きに因って僕を放し、ひっくり返って手のひらが上に向いた。

 

 そんな状態を見ていたら、僕の脳裏に、ある格闘技の技術が浮かんできたのである。その知識に従って僕は、タロの左腕を引っ張って関節を伸ばし、僕の膝を叩き込んでへし折った。

 

 僕は着地し損ね、一旦身体を地面に打ち付けてから素早く立ち上がって、タロから距離を取った。

 

 タロは涙交じりの呻き声を上げ、尻餅を突くように倒れて、地面に転がりながら泣き叫んだ。

 

 到底子どもとは感じられない野太い声であるはずなのに、僕にはそれが可哀想に思えた。急に申し訳なくなってくる。

 

 上からマダムAのヒステリックな声が降ってくる。そうなって、僕は、現在自分の置かれた状況を思い出す。たとえタロをどうにかしたところで、ここに集まっている喰種の群を押し退けて脱出するなんて、果たして出来るだろうか。

 

 そんな僕に、またしても逆境が襲いくる。

 

 不意に身体に倦怠感がやって来た。不快な刺激が手足に流れ、立っているのも億劫になってくる。そのうち僕は膝をつき、立てなくなっていた。

 

 それとは対照的に、タロはマダムAからの激励と一緒に、徐々に骨折の痛みに慣れてきていた。

 

 「ご覧の通り、当レストランでは、コーヒーを飲まなかった者のために待機室には薄くガスが流されております!」

 

 司会はそう観客に説明した。

 

 確かに、エアコンやらにガスの装置を仕込んでおけば、ガスを流せるかもしれない。

 

 「タロちゃーん! 頑張れ! それ、あんよが上手! あんよが上手!」

 

 声援と共にタロは立ち上がり、折れた片腕をぶらぶらと揺らしながら僕へ向かってきた。それでも僕の身体は言うことを聴いてくれない。

 

 動けなくなった僕にとっては、クインケが存在するだけで相当な恐怖がこみ上げてくるのだ。タロが近づいてくるにつれて、僕の鼓動がどんどん速くなっていくのが判る。

 

 どうにかしなきゃ、どうにかしなきゃ。しきりに頭の中で言い続けるも、言うだけでは何も浮かばない。僕の頭は思考すらしてくれなかった。

 

 ついにタロは僕の目の前で止まり、クインケを振り上げる。重圧が僕に降り掛かる。結局何も浮かばない。

 

 もう名案なんてどうでもいい。とにかく、無理矢理にでも、僕の身体を動かさなければ!

 

 クインケが振り下ろされた。僕はもう気合で脚を動かし、拳を突き出したタロに突撃した。すると驚く事に、痺れていたはずの僕の脚は軽々と身体を持ち上げ、物凄い力でタロの胴体を殴りつけたのである。タロの巨体は吹っ飛ばされ、一気に僕から引き離されたのだった。

 

 僕は、だらしなく口を開けて、天井を仰ぎながら荒い呼吸をしていた。そうしていると、周囲が、今までとはまた違うどよめきを起こしていた。

 

 「せ、隻眼の喰種っ!」

 

 マイクを持っていた司会は、口調を乱して言った。それに気づいて僕は左目に手をやる。目蓋の周囲の血管が浮き出ていて、妙な脈動を放っていたのである。

 

 どうやら、恐怖に因る興奮で、僕の喰種としての力が暴発してしまったようであった。

 

 かと言って僕の身体から薬が抜けたわけでもなく、僕は再び地に倒れ伏していた。

 

 「タロちゃん! ほら、もうひと息よぉ! ファイトーッ!」

 

 またしても、マダムAからの声援に顔を向けて頷き、タロは痛がるのをやめてさっさと復活してしまった。腕を折ってやったのに、腹に強烈な一発もやったのに、不可思議な強靭さを以ってまた向かってくる。

 

 対する僕は、喰種の力が暴発しても、気合を入れて相手にやっと一発入れる程度。あの巨漢を退けることは期待できそうもなかった。

 

 観客は皆喰種。それぞれの戦闘能力は不明だが、月山さんはどうだろう。たしか彼の異名は『美食家(グルメ)』。僕の知る限りだと、戦闘慣れしていることが推測できる。

 

 今回、彼は僕を珍しい食材としてここに連れてきた。上質な人間の肉の匂いを醸している稀有な喰種として、僕を喰らわんと。それで僕が隻眼の喰種であるとしたら、一体彼はどのような反応を示す。

 

 僕は顔を上げて、月山さんの方を見た。騒然となっている集団と同じように彼は、しかしどこか嬉々としたように手すりから身を乗り出していて、――悶えているようだった。もしあれが喜びに満ちた上での反応であったら、どうだろうか。

 

 もしかしたら、僕を独り占めにせんと、当面は生かしてくれるように図ってくれたりはしないだろうか。

 

 否。

 

 彼の今までの紳士的な振る舞いは、僕に友好的であるという点を除いて概ね本物である、と、僕はそう確信していた。そんな人が、卑しい独り占めというさもしい行為に、どうして至ろうか。

 

 万事休す……かもしれない。

 

 だが、その時だった。

 

 僕の目の前に誰かが躍り出てきたのだ。その者は、きょとんと小首を傾げているタロに向かって凄まじい勢いで突進していき、飛び上がってタロの顔面に蹴りをかましたのである。またしてもタロは吹っ飛び、背中を壁に打ち付け、地面に跳ね返された。

 

 突如として現れた乱入者。上質そうなブラウスに赤いネクタイと、その上に黒いベスト。黒いロングスカートを履き、白いソックスと赤いローファーを履いている。そして顔には真っ黒い、ベールのような物が掛かっている。彼女は僕の方を振り返って、

 

 「大丈夫、研?」

 

 と、両腕を左右に広げて言った。そう、あのポーズだ。

 

 「君は……」

 

 気づいて僕が、その正体を言おうとした時、

 

 「レ、レディR! 一体何を……」

 

 スタッフらしき人がそう言った。

 

 「レディ……R?……」

 

 彼らは彼女を知っているのか?

 

 彼女は僕に顔を向けたまま、

 

 「災難だったね、研。後は私に任せてちょうだい」

 

 ついでに狩りのお手本も見せてあげるから、と結んで彼女は僕に背を向けた。

 

 鷹揚な足取りで彼女はタロに向かっていく。タロのほうは、腕をへし折られたり、大きく殴り飛ばされた、そして仕事の邪魔をされて蹴り飛ばされたりで、もう怒り心頭という体であるらしかった。愚直で、標的を順番通りに襲うタロでも、さすがに乱入者のほうに恨みがましい眼を向けていた。

 

 悠然と歩く乱入者に向かって、憤り混じりに早足で歩くタロは、ある程度近づくや否やいきなりクインケを振るったのである。が、乱入者はそれを易々とかわした。力任せにクインケを振るってその勢いに釣られて体勢を崩したタロの隙を乱入者は突いて、飛び上がり、蹴りを見舞った。今度はタロは吹き飛びはしなかったが、怯みはした。その間に乱入者は、タロの持ったクインケを両手で掴み、またもう一度タロを蹴ってこれを奪ったのである。

 

 一瞬にして武装解除(・・・・)を成した乱入者は、奪ったそれを宙に放り、柄をキャッチした。その後、片手で軽々と大きく振りかぶって、タロの両脚を一刀両断し、今度は機動力を奪い(・・・・・・)、ダルマ落としよろしく地面に落としたのであった。

 

 当然タロは激痛に泣き叫ぶ、それでも乱入者からは一切の容赦は看取されなかった。彼女はクインケを放り捨てると、助走をつけて右手を振りかぶり、勢いをつけてタロの胸部にそれを突き立てた。

 

 激痛に身悶えていたタロは、突然自らの胸に手をぶち込まれた圧迫感に、苦しそうに硬直したのち、ビクビクと揺れだした。間髪入れずに乱入者は右手を引き出す。その手には、ある物が握られていた。

 

 黄色い何かに(おそらく脂肪である)覆われていてところどころにピンク色が見える、脈動するそれは――まさしく心臓である。

 

 乱入者は一瞬それを見やった後、一気に潰した。血がまだ残っていたのか、血が幾分か飛び散った。が、既に大量の返り血を浴びていた彼女には今更な量だった。

 

 「マ……マ……。マ、マッ!……」

 

 タロにはまだ息があったが、乱入者はそれを尻目にもしないで、

 

 「ねえ、習!」

 

 と、月山さんの居る所へ目を向けて大声で口を切った。

 

 「え、あ……、どうしたんだい、レディルー……レディR!」

 

 どもりがちに月山さんは応答した。

 

 「研が隻眼だって判って、皆あまり良い反応をしなかったようだけど、それで彼を出しても大丈夫なの?」

 

 「ああ、まあ……、確かにそうかも、しれないね……」

 

 あまり肯定しているようには見えなかった。

 

 「でさ、ここは研を喰べるのはやめにして、この飼いビトを出すことで手を打たないかしら。それと、研にも何かお詫びをしたほうが良いんじゃない?」

 

 ちょうどあなたが私にしたのと同じように、と結んだ。

 

 月山さんが息を呑んで硬直したのが見えた。彼は一呼吸置いて、

 

 「あ、ああ! そうだね、さすがにこのハプニングはやり過ぎた! 皆様、まさか彼が世に言う隻眼であるとは思いもよりませんでした。さすがにその肉を皆様にお出しするのはどうかと思われます。つきましては、マダムAの飼いビトのほうを、皆様にお出しするということでどうでございましょう!」

 

 月山さんは目に見えて動揺していた。観衆の皆も、その変容ぶりに困惑しているようだった。

 

 だが、その中で一人だけ、違う反応を見せた者が居た。

 

 「じょ、冗談じゃないわよぉ!」

 

 マダムAである。彼女はヒステリックにうわずった声で言い立てる。

 

 「私の可愛い可愛いタロちゃんをさんざんいたぶっておいて、挙句の果てにディナーに出すなんてどういう了見なのッ!」

 

 「マダムA、落ち着きください。何も私は、あなたから勝手に物を奪うような真似は致しません。代わりの飼いビトを仲介しましょう。年齢は十五、六の少年なんてどうでしょう。端麗な顔つきで、肉付きのほうも上等なものを用意致します、どうでしょう?」

 

 このような条件を提示した。うう、とマダムAは呻いているようだった。

 

 そんな彼女に、誰かが寄ってきて耳打ちをしだした。すると、今まで興奮していた彼女はみるみる内に消沈していったのである。

 

 耳打ちをしていた者が離れてからマダムAは、

 

 「ええ、構わないわ! 可愛いタロちゃんを喰べるのも、なかなかどうして乙なものかもしれないわね!」

 

 相変わらず声はうわずっているが、先ほどとは打って変わって余裕があるような振る舞いを見せた。

 

 一体全体どうなっているのか解らない。

 

 混乱する頭で僕は、答えを教えてくれとばかりに、乱入者の彼女を見上げた。けれども彼女は、顔に掛かったベールのような物を上げて、ニッコリと笑顔を見せるのみであった。




 休載明けにメリハリの無い話ですみません。本当だったら幻想郷に関するエピソードも書こうと思ったのですが、如何せん文字数が多すぎて、読む人が疲れてしまうのではないかと思ったもので。

 それにしても、嘘設定書くの楽しすぎて草。


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ざけんじゃねえよオイ!誰が生かしていいっつったオイオラァ!

 遅れてすみません、まさか一ヶ月以上も掛かるとは思いませんでした……。

 それにしてもチカレタ……。


 【1】

 

 僕の通う上井大学は文系から理系までの様々な学部があり、その中でも薬学部は難関として知られている。で、そこに、西尾錦という僕の一つ上の先輩が所属している。

 

 彼との初の邂逅は、とても良いものとは言えない。僕が喰種と化して間もない時分、空腹に耐えかねて街を彷徨っていた折に、どこからともなく馥郁と漂ってきた甘美な匂い。それに釣られて僕は、路地裏にて喰種が人を捕食している現場に遭遇したのである。が、直後のその喰種は、突如現れた西尾先輩によって首を吹き飛ばされたのであった。西尾先輩は、ここは自分の喰場(喰種が狩りをする上で定めたテリトリィ)であると主張しだし、たまたま居合わせただけの僕にも襲い掛かったのである。が、直後に現れたトーカちゃんが彼を追い払い、僕は難を逃れて『あんていく』と出会ったのだ。

 

 だが、彼との因縁はそこでは終わっていなかったようで、後日、ヒデの紹介で僕は彼と思わぬ再開をしてしまった。当然相手は、以前に僕から受けた屈辱を(やったのはトーカちゃんだけど)憶えていて、見せしめにヒデを喰らおうとした。しかし、緊急時の防衛本能が働いて赫子が発動し、返り討ちにして深手を負わせて、またしても難を逃れたのである。

 

 ところでここからが本題なのだが、最近十四区で、喰種のゴロツキに襲われていた西尾先輩を発見したのだ。

 

 知らない顔ではないということで、何となしに、一緒に居たルーミアちゃんと協力してそのゴロツキたちを追い払って西尾先輩を助けた。

 

 彼は、以前僕が追わせたダメージから未だに回復しきっていなかったようで、具合が悪そうで、不機嫌のあまり、自身を助けた恩人であるはずの僕らに悪態までついたのだ。路地裏に放置してやりたい衝動を心の内に浮かばせながら、僕らは西尾先輩を彼の住まいまで送り届けたのであるが。

 

 その住まいに居たのが、西尾先輩の恋人である西野貴未さんだった。彼女は西尾先輩が喰種であることを承知の上で彼と付き合っているらしい。

 

 「人間として生まれたから幸せに生きられている」

 

 そう彼女は言っていた。

 

 それを聞いて僕が思ったことは、この人は人格者であるとか、西尾先輩は恋人に恵まれたとか、そういったものではなくて、ヒデは僕を受け入れてくれるだろうかという、不安と希望が綯い交ぜになったものであった。

 

 ところで気になったことがある。

 

 西尾先輩を彼の住まいに送り届けて、その際に貴未さんに危うく殴られかけたのでだが、それで僕を認識すると、

 

 「あのナルシー男じゃない……」

 

 と言っていたのである。彼女に拠れば、このあいだ上井大学にやって来た月山さんを見て、西尾先輩がナルシー野郎と言っていたらしいのである。いかに西尾先輩が人間不信であるとは言え、どうやら月山さんは結構な鼻つまみ者であることが分かった。

 

 もう一つ、――これは僕の気分の問題だが――気になったことがある。

 

 帰り道でルーミアちゃんが、

 

 「果たして、あれを生かしておくのは喰種として正しいことであるのかしらん? たとえあれが信用できる人間でも?」

 

 僕はその問いに、即座にイエスと答えた。喰種と人間の間に、そういった寛恕が生まれるのなら理想的である。

 

 高らかに切り返しはした。そうでもしないと、自分の言っていることが正しいかどうか揺れてしまいそうでもあった。でも僕の言ったことは正しかったはずだ。

 

 そうは思いつつも、僕は何だか釈然としない気持ちになった。

 

 という過去の話があった。

 

 さて、現在僕はバイト中である。が、今日は来ているだろうと思っていたトーカちゃんが、どうしてか居ない。怪訝に思って店長に尋ねてみれば、

 

 「あの娘なら、体調を崩したということで今日はお休みだよ」

 

 という事なのであった。それで店長は、

 

 「カネキ君、きみ、彼女のお見舞いに行ってあげてはくれないかな。彼女の部屋は、この建物のどこにあるかは分かるだろう」

 

 「どうしてですか?」

 

 「君が来てくれれば、あの娘もきっと喜ぶはずさ」

 

 「はあ」

 

 少し照れ臭い……ような。

 

 「また、けんもほろろに言われちゃいそうですけど……」

 

 「ははははは」

 

 店長は何故か微笑ましそうに笑った。

 

 「ふうむ、むしろ君は、トーカちゃんから好かれているほうだと思うよ」

 

 「でも僕、いつもトーカちゃんに手間を掛けさせているし……」

 

 いや、と店長は遮るように言った。

 

 「トーカちゃんがCCGの捜査撹乱する時、君が手伝いを申し出てくれて嬉しかったはずさ。まあ、行くか行かないかは君次第だ、無理強いはしないよ」

 

 話はそれっきりだった。それ以降彼は、僕にトーカちゃんのお見舞いを促すらしい真似はしなかった。それで僕は、トーカちゃんの代わりにシフトに入った入見カヤさんに訊いてみたのだが、例によって、強制とは言えない程度のお願いだけをされて、了承するか否かは僕に投げられたのであった。

 

 わざわざ僕が行く必要もないだろう。しかしながら、強制性はないとて頼まれ事を断るなんて、それも店長を無下にするのは後ろめたい。

 

 そうして悩んでいると、ツンツンと肩を叩かれた。振り向くとルーミアちゃんが居た。

 

 「私も董香のお見舞い行ってもいい?」

 

 「え? いいけど、どうしたの」

 

 「雛実ちゃんが居るだろうから。最近あまり会ってないし」

 

 「ああ、そうなんだ」

 

 あの一件の後、ヒナミちゃんは結局『あんていく』に残ることになった。僕たちの策が、紆余曲折はあったものの回り回って功を奏したおかげでもある。で、ルーミアちゃんもヒナミちゃんとは会えているはずだが、あの一件の後なだけにその回数は少ないのだろうか。

 

 何にせよ、普段は妙に達観したルーミアちゃんが折角、友達に会いたいという歳相応な様相を見せたのだから、願いは叶えてあげるべきだろう。

 

 そういうわけで、仕事終わりに僕ら二人はトーカちゃんの部屋へ向かった。部屋の前に来て、逡巡してから僕はチャイムを鳴らした。しばらくして扉が小さく開き、隙間からトーカちゃんが顔を覗かせた。

 

 「何」

 

 「ああ、うん、店長から、トーカちゃんが体調を崩したって聞いて。それで、お見舞いにでも行ってあげてって言われてさ」

 

 と、滔々と僕が答えると、一瞬トーカちゃんは眉をひそめ、

 

 「来たくないってんなら、さっさと帰ればいいでしょ。こちとら、そんな気で来られてもちっとも嬉しくないくらい機嫌が悪いんだから……」

 

 いかにも機嫌が、具合が悪そうな低い声で言われて、ここで無理に行くのは宜しくないのではないかと遠慮――というか逃げたい気に駆られた。

 

 しかし、

 

 「まあ、まあ、そんなにいきり立つことはないから」

 

 ルーミアちゃんが間に割って入ってきた。

 

 「それにさ、研だって、嫌々ここに来たんじゃないからさ。割と乗り気だったし。ああ、それと、もしかしてだけど雛実ちゃんもそこに居たりしない? 私はどちらかというとあの子目当てでね」

 

 と、彼女が行った直後に、部屋の置くからドタドタとせわしない足音が来、小さく開いていた扉が更に開かれて、トーカちゃんの下辺りからヒナミちゃんの顔が飛び出してきたのであった。

 

 「ルミちゃん、カネキお兄ちゃん!」

 

 嬉しそうな顔で彼女は、靴も履かずに出てきた。

 

 「うわあ、何だか久しぶりに会った気がする!」

 

 「うん、うん。最近あんまし会えてないから」

 

 早速、二人の少女は、他愛もない会話に花を咲かせだす。そうしてとんとん拍子に、ヒナミちゃんは自分の親友を上げたのである。勿論、トーカちゃんに一言断ってから。

 

 「ええと……、僕も上がってもいいかな。出来るだけうるさくはしないから……」

 

 部屋に上がっていく二人を見ていたトーカちゃんは、そんな僕を一瞥して、

 

 「チッ……。まあ上がりなよ」

 

 と、扉をそのままにして奥へ引き下がった。自分でも判るくらいしどろもどろ気味に僕は部屋へ入った。

 

 冬に入りかけている今の時期、現在の時間帯では傾きがちな日差しが内に入ってきて、部屋は燃えるように照っている。部屋の中央にある低い小さなテーブルに、日の光を背にヒナミちゃんは座っており、そのはす向かいにルーミアちゃんは座っていた。それで僕はルーミアちゃんの正面の所に座ったのである。

 

 「手ぶらで来たってわけか……」

 

 だるそうな面相のままトーカちゃんが、気だるげに言った。

 

 「いやあ、突然、行こうって思ったものだから」

 

 僕は、ボケた調子で喋って誤魔化そうとしたものの、トーカちゃんは呆れたみたいに僕を見るだけで何も言わなかった。傍らのヒナミちゃんとルーミアちゃんは、気づかずにお喋りを続けている。

 

 そんな微妙な空気が漂っている場に不意に響いたチャイムの音で、流れが多少変わった。

 

 「何だよ、今日は来客が多いなぁ……」

 

 うんざりした声を出しながら、トーカちゃんは玄関へ向かう。扉の開く音が聞こえてきて、次に、

 

 「よ、依子!」

 

 びっくりした彼女の声が聞こえて、何事かと、四つん這いになって僕は玄関のほうまで行き、覗き込んでみた。トーカちゃんは、来客を前にして立ちすくんでいた。その来客というのは、茶髪にボブカットの、色白で丸顔な、トーカちゃんと同じくらいの年頃の女の子だった。手には、鍋らしき物を持っている。

 

 「わざわざ見舞いに?……」

 

 トーカちゃんが切り出した。

 

 「う、うん、トーカちゃんが今日休んだものだから、心配になっちゃって。ほら、トーカちゃんってばお昼はいつもパンと水だけだし、もしかしたら普段の食生活も」

 

 「そんな気に掛けることなんてないのに」

 

 優しそうな、気遣うらしい口吻でトーカちゃんは、来客の依子と呼ばれた娘に接している。

 

 「ん? この靴……、アヤト君が帰ってきたの?」

 

 と、依子ちゃんは、置いてあった靴を見て言った。勿論あれは僕の靴だ。

 

 アヤト君というのは、誰のことだろうか。そんなことを思いつつ、再び玄関の様子を見てみると、ふと依子ちゃんと目が合った。彼女は目を丸くして僕を見ると、急に神妙な顔つきになり、

 

 「ト、トーカちゃん、もしかしてあの人……」

 

 何やら勘繰っているみたいだ。

 

 え、とトーカちゃんがこちらを振り向き、僕を認識するや否や苦々しげな表情になって、友人の方へ向き直り、

 

 「いやいや違うから!」

 

 と弁明しようとするも、その友人は聞く耳を持つ様子は無く、両手で持っていた例の鍋をトーカちゃんに差し出し、これ作って来たから彼と一緒に食べてね、と言い含めてから素早く後ろに下がり、トーカちゃんにガッツポーズを見せてから扉を閉めてしまった。一連のことを見てトーカちゃんは、呆然と、受け取った鍋を持ちながら佇んで、しばらくして視線を落としながらまた部屋の中へ戻ってきた。当然、僕とは目を合わせようとはしない。

 

 「なんか、ごめんね。うーん、変な誤解を生む事になっちゃって……」

 

 「知らん」

 

 憮然として言う彼女を前に、僕は一旦は口をつぐんだものの、その沈黙がどうにも耐え難く、

 

 「そ、それ、どうするの?」

 

 彼女がキッチンに置いた鍋を僕は一瞬見てから、言った。

 

 「どうするって、食べるに決まってんじゃん」

 

 厳かな面持ちで彼女は黙って箸を取った。

 

 「もしかしてだけど、体調を崩したのって……。もしかして……」

 

 僕を見ようとも、言葉を聴こうともせず彼女は、

 

 「いただきます」

 

 料理を口に運んだ。口に入れてすぐ彼女は、喉から空気を漏らしながら苦悶の表情を見せ、キッチンのカウンターに両手を乗せて体重を預け、下を向いた。激しかった呼吸の音はなくなり、下顎が動いている。咀嚼しているのが判った。そうして口の中の物を飲み下し、息をついた。

 

 「僕も手伝おうか?……」

 

 無鉄砲にも思わず僕が言うと、

 

 「いらねえし。これは私んだ」

 

 と、申し出を付き返して、すぐさままた料理を口に入れた。同じように苦悶と格闘し、時間を掛けてまた飲み込む。だが、三口目で彼女は、鍋の中の料理を見つめたまま固まったのだった。

 

 やっぱり僕も手伝ったほうがいいのでは、と思い僕が口を開きかけた瞬間、

 

 「ちょっと頂戴」

 

 と、横からルーミアちゃんの手が伸びて、鍋の中身を一つまみ口に入れて、視線を上辺りで泳がせながら、

 

 「うん、おいしい!」

 

 このように残酷なことを言ってのけた。

 

 愕然としてトーカちゃんはルーミアちゃんを見る。気づいてルーミアちゃんはトーカちゃんを見上げて、輝かしい笑顔で応えた。

 

 その笑顔から逃げるように、トーカちゃんは、何でもないと言う顔で再び鍋へ眼を向けて、またえずきつつも料理を一口食べた。

 

 その後、ルーミアちゃんは、この料理を食べたいと言い出した。当然トーカちゃんはそれを渋ったが、彼女一人では食べることは難しいことと、やっぱり食べ物は美味しいと思える人が食べるものだということを遠回しに説かれ、結局半分ずっこすることになったのであった。

 

 で、僕はというと、トーカちゃんに追い出されたのである。ルーミアちゃんが普通の食べ物をを食べられる様をまざまざと見せつけられて業腹だったのか、途端に悲しそうに、不機嫌になって僕に難癖を付けてさっさと追い出したのだ。

 

 建物から出ると、先ほどの、トーカちゃんの友達の依子ちゃんが居た。

 

 「あ……」

 

 彼女は僕と目が合うと、多少は驚きはしたが、すぐに納得した顔で、

 

 「こんにちは、やっぱりトーカちゃんに追い出されました?」

 

 人懐っこい笑みで話し掛けてきた。

 

 「まあ……」

 

 僕は肯定してから、話そうにも仔細を言うわけにもいかず、口ごもった。

 

 「やっぱりってことは、もしかして分かってた?」

 

 はい、と笑いながら彼女は応えた。

 

 「トーカちゃん、学校だとあまり人を寄せ付けないから。グループになって話す機会があっても、踏み込んだ会話は全然しないみたいだから」

 

 「ああ……」

 

 「そうなるといよいよ誰もトーカちゃんに近づかなくなっちゃうから。だから、トーカちゃんと仲良くなるとしたら、根気よく話し掛け続けるか、それともトーカちゃんが心を許してくれるような人がいてくれたらなって思ってて……」

 

 「うん」

 

 トーカちゃんだって、好きで独りでいようとしているわけじゃない。いや、独りのほうが楽だとは言ったり思ったりはするだろうが、概ねそれは孤独の虚しさへの慣れと逃避に因るものだろう。

 

 「トーカちゃん、アヤト君が――弟君が家出しちゃって帰ってこなくて。両親もいなくて、たった一人の弟までどこかに行っちゃって、本当は寂しい思いをしているかもしれないんです。……私がこんなことを言うのは図々しいとは思うけど、よければ、今後もトーカちゃんと仲良くしてもらえませんか?」

 

 依子ちゃんもまた、根気よくトーカちゃんと話し続けてようやくあんな間柄になれたのか。

 

 「そうさせてもらうよ、家族が居なくなる気持ちはよく解るから」

 

 僕が快く答えると、パッと彼女は顔を明るくし、

 

 「良かった! じゃあ、これからもよろしくお願いします。……トーカちゃんも、こんな素敵な彼氏さんが出来て幸せだと思いますよ!」

 

 あっ、と僕が、彼女がしている誤解を解こうと口を開くより前に、彼女は僕へにこやかに手を振りつつ雑踏の中に紛れてしまったのである。探して追いかける発想は、ありはしたもののやろうという気は起きず、仕方ないとして僕は帰路につく。すると、

 

 「あの、カネキさん……ですよね」

 

 喧騒のさなかで聞こえた自分の名前に、立ち止まって僕は辺りを見回す。もう一度呼ぶ声が聞こえ、それを頼りに見やると、

 

 「たしか、西尾先輩の――貴未さん」

 

 と、僕が認識すると、彼女はうやうやしく僕へ会釈をしてから、

 

 「あの、人肉って……どうすれば手に入るんですか?」

 

 「えッ」

 

 慌てて僕は、もっと人気のなさそうな場所へ移動するように彼女へ促した。で、その場所へ来てもう一度僕は聞き返した。

 

 「その、人肉とは一体……」

 

 「錦君の傷が、全然塞がらないんです!……。もうコーヒーでも誤魔化しきれなくて」

 

 これを聞いて、俄かに僕の身体に緊張が走った。正当防衛とは言え、その傷は僕が負わせたものだ。いわんや、あの正当防衛の件は彼女には与り知らぬものであるのだから、尚更だった。

 

 「……それで人肉を」

 

 「はい……」

 

 弱った。生憎と僕は狩りなんてものは出来ないし、かと言って人殺しを推奨する真似は出来ない。『あんていく』の貯蔵庫に例のアレはあるけども、鍵は店長が持っている。縦しんば空いていたとしても、勝手に持ち出すのは……。

 

 「あの、知り合いに掛け合ってみれば、もしかしたら……」

 

 とは言うものの、良い見通しが立っているわけではない。

 

 彼女は目を見開いておもむろに顔を上げた。歯切れが悪い僕の言葉にも、希望を見出している眼だ。

 

 「ほ、本当ですか?」

 

 「出来る限りのことはします」

 

 その期待に応えようとしたのか、僕は彼女の目を真っ直ぐ見て、明然と言った。すると彼女は希望が見えたという感じの情を顔に浮かべた。

 

 「は、はい、ありがとうございます! よろしくお願いします!」

 

 目じりに涙を浮かべながら彼女は言い、深々とお辞儀をした。数歩程下がりながら、また深く頭を下げると、その場を去っていった。その喜びようが、もし僕がしくじった場合を考えると、却って心苦しくなる。

 

 で、僕は夜分に『あんていく』に行って、例の冷蔵庫を調べてみたが、案の定鍵は掛かっていた。期待をしていたわけではないが、こうして実際に頓挫してみると、消沈するものだった。

 

 五里霧中の気で、明かりの無い店内へ戻ってきた。静謐な月明かりで青白く照らされ、影が際立つこの部屋。何も動くわけのないこの空間で、僕は視界の端に何やら動くものを見えた感じがして、ついそこを向くと、窓の外に、薔薇が添えられた手紙が置かれているのが判った。不可思議に思いそれを取って見ると、

 

 『金木君へ』と始まり、

 

 『今夜〇時にディナーを楽しもう。夕方に君が会話をしていた女性は既にお連れしている。三人で素敵な夜を楽しもうじゃないか』

 

 差出人は月山さん。

 

 僕がそれを読み終えて数瞬した頃、店の扉が慌しく叩かれた。それに釣られて僕も、慌ててその扉を開けた。扉を開けると、何かに当たって鈍い音がした。見下ろすと、西尾先輩が頭を抑えて倒れていた。

 

 「西尾先輩! 何があったんですか!」

 

 倒れている彼を無理矢理起こして尋ねた。

 

 「き、貴未が、帰ってこねえんだ……。何か知らねえか」

 

 青ざめて力ない顔だった。僕は例の手紙を見せようかどうか逡巡し、

 

 「あの、これ……」

 

 と、手紙を見せた。西尾先輩は最初こそ胡乱げに見ていたが、次第に顔をひくつかせて、怒りの形相を顕にしたのである。

 

 「何だよ、こりゃあッ!……。何でよりによって月山が……」

 

 取り乱した彼を見て、言い訳めいた口吻で僕は、

 

 「月山さんの狙いは僕です、僕が行って貴未さんを……」

 

 と早口で言うと、

 

 「俺も行く……」

 

 西尾先輩は項垂れながら言った。

 

 「でも、その体調じゃ……」

 

 「頼む……」

 

 いじらしく彼は、項垂れた体勢のまま僕の肩を掴み、言った。

 

 あんなに思ってくれている恋人を思い、やり切れないという気持ちは何んとなく解る。このまま不安を抱かせたまま残しておくのは、果たしてどうだろうか。

 

 月山さんの狙いが僕であるのなら、彼を連れて行っても大丈夫かもしれない、という安易な考えで、結局僕は西尾先輩と一緒に月山さんのもとへ向かうことにしたのである。

 

 手紙に書かれていたディナーの場所とやらは、町外れのこれまた人気の無い場所にある教会であった。中から何やらオルガンの音が聞こえてくる。おそらく月山さんだ。確信して僕は中に入った。ステンドグラスから入る僅かな光と、ところどころに灯された蝋燭の明かりに照らされて薄明るい。身廊の奥にある祭壇の上に貴未さんが横たえられている。その横隅にあるオルガンの前に彼は座っていた。

 

 「ベートーヴェンはお好きかな、……カネキ君」

 

 「月山ァ!」

 

 西尾先輩は月山さんの姿を認識するや、体調が最悪にも拘らず血を吐くような叫び声を上げた。

 

 「む? 君を呼んだ覚えはないのだが……」

 

 「貴未を返せ!……」

 

 「残念ながら、それは出来ない」

 

 オルガンの席から立って月山さんは、祭壇の前に来て、大仰に手のひらで彼女を示し、

 

 「この女性は今宵の晩餐のスパイスだ! カネキ君に、最高の鮮度で食べてもらいたいのさ。否、正確には、カネキ君“が”喰べながら、カネキ君“を”喰べたい、……そういうことさッ!」

 

 「何だ、それは……」

 

 変態としか言いようがない……。そんな気持ちが顔に出ているのが、自分でも判る。それほどの狂気。彼はそんな僕の表情をちゃんと見ておきながら、眉一片も面持ちを崩さず、

 

 「折角、君を喰べてもよいというお許しが出たのだからね……、こだわるのは当然のことさ」

 

 「お許し?」

 

 それは一体誰のお許しなんだ。

 

 「ざけンなッ!」

 

 僕がその疑問を呈するより前に、西尾先輩が、祭壇の前に佇む月山さんへ向かって突進したのだ。が、重心がぶれていて、速くはあるが覚束ない。それを月山さんはあっさりといなして当身を喰らわせ、軽々と振り回したかと思うと、会衆席に投げ飛ばしたのだった。

 

 「君はそこでオヤスミ」

 

 さて、と月山さんは僕へ目を向けた。が、その時には既に彼は僕の目の前まで、物凄い速さで迫ってきていたのである。

 

 咄嗟に僕は拳を突き出したものの、避けられ、突き飛ばされた。それも弱く突き飛ばされたようで、僕はよろけるだけであった。体勢を立て直して月山さんを見やると、彼は口元にうっすらと笑みを浮かべながら、僕に手招きをしていた。

 

 その自信満々な姿勢に、僕は怖気づいた。身構えて僕は、ゆっくりと月山さんに近づいた。僕の様子に感づいてか、ますます彼は余裕の様を見せた。

 

 様子見で軽く拳を突き出した。弾かれる。次に腹を狙った。だが身を捻ってかわされた。突き出した僕の腕を掴まれ、腹に蹴りを入れられ、顔に拳を一発。

 

 「ふむ、ぎこちないね。実際に人を殴る蹴るの経験はないようだ。いや、むしろそれが自然かな」

 

 腕を抱え込まれ、背負い投げで床に叩きつけられる。そして間髪入れずに腹へサッカーボールキックを受けた。筋肉が一気に収縮して、締め付けられる苦しみが僕を襲う。

 

 「さて、さて、さて。次はどんな攻撃をご所望かな」

 

 その瞬間の事。

 

 「普通の不意打ち」

 

 どこからともなく響いた声。月山さんの頭辺りを影が過ぎた。同時に血しぶきも。軽く着地した影の正体は、

 

 「トーカちゃん!」

 

 彼女は不敵に笑っていた。

 

 「うふ、ふふ。これは、これは……。久しぶりに、かすり傷を」

 

 目の辺りからポタポタと血を垂らしながら、月山さん。

 

 「次はそんなかすり傷で済まさねェ、そのいけ好かない顔をギッタンギッタンにしてやる。ついでに金玉ぶっ壊して使い物にならなくしてやらァ」

 

 「言葉遣いがダーティだよ、霧島さん」

 

 顔を上げた月山さんの顔は、目の辺りを真一文字に切り裂かれていた。しかしそれはじわじわと、それでいて目に見えて消えていった。

 

 「効いてない……」

 

 「それもそうさ、浅かったからね」

 

 でも、と月山さんは目を見開いて笑い、

 

 「桐嶋さん、昔の君だったら、もっと深く踏み込めたはず。どうしてそれをしなかったのか」

 

 「なあに、ただの挨拶代わりよ」

 

 「ふっ、そうかい」

 

 月山さんは一瞬目を逸らした。逃さずトーカちゃんは突っ込む、直後に月山さんは近くの会衆席を蹴っ飛ばした。大きめの破片となって来るそれを彼女はかわし、拳を突き出した。

 

 「良い反応だ!」

 

 避けつつ月山さんは喋る。

 

 「憶えているかな、僕らの初の邂逅を。君はフォーティーン、僕はエイティーン! 割れた黒曜石さながらの鋭い美しさが湛えられたあの瞳が……僕は忘れられない」

 

 「キモイッ!」

 

 トーカちゃんの足が月山さんの横っ面にぶち当たり、倒された彼は、近くにあった会衆席に上半身を預ける形となった。

 

 「それほど君に夢中だったということさ……」

 

 そろそろ僕も加勢しなければ、と、僕は立ち上がった。立ち上がると、彼女と視線が合った。一瞬だけ目を合わせ、同時に月山さんへ視線を戻す。二人がかりで襲い掛かった。

 

 だが、月山さんはトーカちゃんの脚を払い彼女の体勢を崩させる。と、彼女の体を抱えて僕に投げつけた。反射的に受け止めるて、殊の外の重さに僕は倒れる。僕の上のトーカちゃんが蹴り飛ばされた。素早く彼は僕に馬乗りになった。そして手を貫手の形にすると、僕の腹へぶち込んだ。

 

 途轍もない圧迫感を感じ、一瞬遅れて、腹を突き破られたのが判った。胴体の筋肉が瞬時にして締めつけられるのを感じる。漏れ出す空気を吐き、大声が出そうになるも、痛くて痛くてあまり出せなかった。嘔気も出てきた。

 

 「トレビアンッ! 味が絡みつくぞッ、何だこれはッ!」

 

 満悦の気を全身で表現したようなポーズを取る月山さん。そこを隙と見たか、トーカちゃんが襲い掛かる。が、あらかじめ察知していたらしい動きで攻撃は捉えられる。そうして地面に引き倒したのだった。

 

 それで出てきたのは赫子だった。肩甲骨の下辺りから、紫の帯状の物が生えてきて、月山さんの腕に巻き付いた。先端は鋭利に尖っている。

 

 月山さんは、倒れているトーカちゃんのすぐ近くまで来ると、赫子で追い討ちを掛けた。彼女は鈍く呻いた。すると彼女は首をもたげて相手を睨みつけ、脚を伸ばして股間を蹴り上げたのだ。堪らず月山さんは、赫子を引き抜き後ずさった。

 

 「クソがァ!」

 

 トーカちゃんは勢い良く立ち上がると、間を詰めて頭突きを喰らわせた。唸り声を上げて相手を担ぎ上げ、高く放り投げると、落ちてきたそれを蹴り飛ばしたのである。しばらくトーカちゃんは、身構えながらそれを見て、力が抜けたように後ずさり、僕の所まで来ると腰を落とした。

 

 「さすがに、やばいな……」

 

 「ごめんね、こういう事になるなんて。……僕が浅慮だった」

 

 トーカちゃんは鼻でせせら笑った。

 

 「構いやしねえよ。こっちはどうせ、向こうと共倒れかお前の道連れになるかもしれないのを承知で来たんだからな」

 

 にしても、とトーカちゃんは呻く。

 

 「多分、依子の料理を食ったのがいけなかったんだろうな。それに肉弾戦だと分が悪い。赫子が出せればいいんだけど……」

 

 赫子……。

 

 そうだ、赫子があれば。向こうも赫子を使ってきているのであれば、こちらもそうしなければ分が悪すぎる。

 

 だが問題は肉だ。普通の料理で体調が悪い彼女を回復させる肉が必要だ。

 

 ……いや、ある。

 

 「ねえ、僕の肉を食べてみたら、どうかな」

 

 は? と、こちらの正気を疑うような眼でトーカちゃんは見てきた。

 

 「どうなの、僕の肉で回復できる?」

 

 「出来るだろうけど……」

 

 「なら早く! じゃないと月山さんが……」

 

 僕は月山さんの方へ顔を向ける。もう彼は、今のダメージから回復して立ち上がっていた。むしろよくここまでもったものだ。

 

 トーカちゃんの方へ目を戻して僕が頷くと、彼女はためらうように顔をしかめた。

 

 「ちょっと頭どけろ」

 

 そう言って彼女は、僕の首筋へ顔を近づける。言われた通りに頭をどけると、一気にかぶり付かれた。食いちぎられ、痛みは少し遅れてやって来た。

 

 「おい、僕のだぞッ!」

 

 前から、上擦った月山さんの声が届く。見ると彼はこちらへ走ってきて、右腕の赫子を振るいだした。

 

 だが。

 

 「アホか」

 

 いきなり前に飛び出してきたトーカちゃんとぶつかりと、止められた。肩辺りから霧状に噴出される、羽のような赫子が、相手の赫子を阻んでいる。

 

 「ここにてめえの物なんてありゃしねえンだよ」

 

 月山さんを赫子越しに突き飛ばし、更に追撃を仕掛けた。拳と足の攻撃に加え、赫子をブレードのように固めた赫子による斬撃だ。間合いが空くと、羽から赫子の結晶を飛ばして牽制。その隙に間を詰めて、再度攻撃する。

 

 その攻撃を受けている当の本人の顔には、だんだんと歓喜の情が湧いてきている。

 

 「素晴らしいよ、霧島さん!」

 

 若干余裕が衰えながらも、月山さんは賞賛の言葉を、戦闘中にも拘らず放った。

 

 「赫子の相性――甲赫と羽赫の相性を感じさせない活気が、今の君には満ち溢れているッ! あの時の情景が喚起される! ああ、願ってもいないオードブル! 神に――感謝だ」

 

 月山さんは甲赫と、トーカちゃんのブレード状の羽赫がかち合った。互角のように見える。しかし、月山さんが体重を掛けたことで、彼女は仰け反った。

 

 その状態で、彼の甲赫に変化があった。帯状の赫子にヒビが入り、肥大したのだ。ビキビキと鈍い音を上げて肥大している。トーカちゃんは呻き声を漏らして更に仰け反る。肥大を終え、入ったヒビが修復されると、月山さんは一気に腕を振るった。声を発する間もなく彼女は押し返された。体勢を崩された彼女に、瞬時に彼が追撃をした。辛うじて彼女は羽赫で防ぎはしたが、あまりの勢いに吹き飛ばされた。

 

 何てことだ。明らかに火力に差がある。そこを重点的に攻められている。復調したトーカちゃんでさえ、月山さんを止めることは叶わないのか。

 

 またしても月山さんの攻撃によって彼女が吹っ飛ばされた。だが今度は少し違う。飛ばされた先で、彼女はしっかりと着地した。喰らう直前に、力に逆らわずに敢えて流されたのだ。で、その稼いだ時間を活用して、トーカちゃんは月山さんと距離を取った。敏捷性の差か、どうにか彼女自身の土俵まで持ち込んだ。

 

 だがそれでも、戦況が一転するというわけでもない。良くて五分と言ったところだ。飛ばされた、羽赫の結晶群は、甲赫の盾には歯が立たない。下手に近接すると返り討ちに遭って逆戻りになる。

 

 こちら側が有利になるような、そう、月山さんの機動力を落としてやれば。

 

 敵の機動力を奪うのは狩りの基本。いくら甲赫が強固でも、脚を失ってふんばりが利かなくなれば。そこなら羽赫でもとどめをさせるはずだ。

 

 僕は月山さんの動きを注視した。この空間内を縦横無尽に飛び回るトーカちゃんに対して、月山さんはせいぜい数メートル程飛ぶのが限度の鈍重さ。

 

 「行ける」

 

 それを口にした途端、僕の腰の内側から何やら圧迫感を感じた。皮を食い破られた痛みと共に、僕の赫子が飛び出すのを感じた。腹に穴を開けられた僕の身体とは違い、頼もしいまでに力強く蠢いていた。

 

 この安心感を得、僕は赫子を会衆席に隠して機会を窺う。心なしかさっきよりも明瞭に場の状況が見える。

 

 月山さんは、トーカちゃんが一際強い攻撃を与えると、大きく後ろに飛び退くらしい。なら、次に彼女が大技を繰り出した時が好機だ。彼女の動きを見るようにするべきだろう。

 

 一手、二手、三手。大きな攻撃こそしないが、彼女の攻撃がだんだんと激しくなっていくのが判る。攻撃に出し惜しみをあまりしていないようだ。焦りすら感ぜられる。

 

 トーカちゃんの攻撃が大振りになった。月山さん目掛けて放たれたそれを、彼は避け、大きく跳んだ。すかさず僕は、赫子に依る機動力の補助を受けて、月山さんの脚を狙って跳ぶ。ドンピシャで彼の膝に蹴りを当たった。彼の膝はちょうど向こうにあった柱とに挟まれ、小気味良い音と手応えが僕の足に伝わってきた。

 

 僕と月山さんはその場に落ちた。地面に落ちた彼のほうは、膝への苦痛にのた打ち回った。また僕も、腹の傷に負担を掛けたため、痛みでそこを動けないでいた。が、僕にはトーカちゃんがいる。既に彼女は月山さんに近づいており、追い討ちを掛けんとしていた。

 

 「終わりだ、月山!」

 

 ブレード状の羽赫が振り下ろされた。

 

 が、それは鋭い音を立てて弾かれた。甲赫に依って弾かれた。上半身だけの力で振るわれたそれは、大きな力を生むとまでは行かなくとも、重さと勢いだけで羽赫を弾いてみせたのだ。

 

 不意に攻撃を崩されてバランスを崩したトーカちゃんを、彼は片足と手で素早く立ち上がって、相手を担ぎ上げ、僕の上の落とした。彼女が落ちてきたことで僕の腹が圧迫され、血が更に出る。そこへ月山さんが、体重を掛けてのしかかってきた。

 

 「これだけ長引いた戦いで疲れた羽赫の攻撃を防げないわけがないだろう……」

 

 目を血走らせ、憤怒しているのか笑っているのかも判らない顔だった。

 

 「カネキくぅん……」

 

 トーカちゃんを隔てて僕の肩が掴まれた。

 

 「一口でいいんだ……、是非とも君を食べさせてくれ……」

 

 「ふざけんなっ」

 

 と、羽赫を振ろうとしたトーカちゃんだが、それも押さえつけられた。そうして月山さんは、おもむろに大きく口を開けて、僕に迫ってきたのである。

 

 その口が僕を喰らおうとしたまさにその時、彼の身体が急にわなななき、呻いた。ぎこちなく彼が後ろを向いた。彼が振り向いたことで、僕にも、彼を攻撃した者の姿が見えた。そこには西尾先輩が居た。

 

 「ニシキ、君……。きみは、ゾンビかい?……」

 

 憎々しげに月山さんが言う通り、西尾先輩は気息奄々の顔色となっていた。が、赫子を出すだけの体力は残っていたようで、彼の尾骨辺りから生えている赫子は、月山さんの甲赫の根元辺りに突き刺さっていた。

 

 「ああ、死んでもてめえなんかに、貴未を喰わせやしねえ……」

 

 そう言って、突き刺していた赫子を、月山さんの赫子ごと引き抜いた。月山さんの赫子は彼の肩から抜けると、空中で枯葉の如く散っていった。

 

 「こ、この……」

 

 西尾先輩に月山さんは掴みかかろうとした。が、それも、押さえつけられていた赫子が自由になったトーカちゃんによって遮られた。彼女へ視線を戻す頃には既に遅く、彼は空中に放られ、落ちてきたところを彼女の赫子によって上半身と頭のおよそ半分ほどを吹き飛ばされたのだった。

 

 床に投げ出され、ぐったりとなった。と思いきや、痙攣する具合に動いたのである。

 

 「ははっ、はは……」

 

 笑っている。顔の半分を失ってもまだなお、笑っている。その状態のまま彼は僕へ目を向けた。彼の僕への、食への執着を見せ付けられて、僕はおののいた。

 

 「カネキくん……、後生だよ……。本当に……、一口だけでも……いいんだ」

 

 それをトーカちゃんが蹴り飛ばした。そしてこう言った。

 

 「自分の肉でも喰ってろよ」

 

 吐き捨てて彼女は、祭壇の方へ歩いていった。

 

 「あとはこの女だな……」

 

 赫い眼で貴未さんを見下ろしながら、赫子を肥大させて言った。

 

 「てめえ、トーカ!……」

 

 覚束ない足取りで、それでも力いっぱい西尾先輩は走っていき、トーカちゃんと祭壇の上の貴未さんの間に割って入った。

 

 「どけ、……と言ったところでどかねえだろうな、きっと」

 

 「トーカちゃん!」

 

 僕はがむしゃらに声を上げた。それに反応して彼女は、顔を少しだけ僕の方へ向けた。

 

 「駄目だよ……」

 

 「何が駄目だって言うんだよ。私に、この女を殺すべきでないという理由があるってのか?」

 

 彼女は花で笑った。

 

 「ねえ、トーカちゃん、西尾先輩にとってその人は……僕にとってのヒデや、君にとっての依子ちゃんなんだ」

 

 話の続きを促すような佇まいで彼女は僕を見ている。

 

 「西尾先輩も、そして君も、他人を警戒して独りでい続けて、その中でやっと声を掛けてくれた大切な人だっていうのは同じはずでしょ」

 

 ――アホくさ。蔑みの眼で彼女はそう吐いた。

 

 「『あんていく』には入見さんや古間さん、四方さんに店長がいる。万に一つでも依子に私の正体が露見したその時には、……あの人たちが私の代わりに始末してくれるでしょうよ」

 

 瞬間僕は息を詰まらせた。

 

 「喰種ってのは、殊に人殺しってのはそういうもんだ、カネキ。なあニシキ、お前もそのはずだろ。お前は前にカネキを襲った時、あいつとあいつの親友との友情をを嘲笑ってたよな。親友の振りをして、いつか喰らってやろうとかそんなことを言ってただろ。それだけじゃない、お前が今まで殺してきた輩にだって大切な人はいた、その逆もまた然りだ。ここに来て、自分だけおめおめ幸せに生きていこうだなんて、そんな虫の良いこと言える立場じゃねえだろ、お互い」

 

 厳然と西尾先輩を見下ろして彼女は、冷たい言葉を浴びせ続けた。

 

 言われた当人は、自らの恋人に縋り付きつつも、その言葉を受けて悄然としたみたいに顔を伏せた。

 

 そんな彼の様子を尻目にして、ゆっくりと彼女は赫子を肥大させたのである。その気配に気づいたのか、彼はハッと顔を上げて、攻撃態勢を見せたトーカちゃんを認識し、

 

 「やめろっ!」

 

 その言葉を切っ掛けとして、羽赫から結晶が飛ばされた。しかしそれは貴未さんには当たらなかった。咄嗟に西尾先輩が、自らの恋人を自分の身体で覆って庇ったのだ。

 

 急に動かされて、その煽りを食った二人の身体は祭壇から落ちた。床に血が広がり、西尾先輩は、呼吸はあるがそのまま動かなくなった。

 

 うっ、と小さく声が聞こえた。

 

 女性の声だ。トーカちゃんの声ではない。もしやと思い、貴未さんを見ると、彼女が身じろぎするのが見えた。落ちた衝撃か、はたまた西尾先輩に護られた際に起きたのか。

 

 「ニシキ君……」

 

 自身を護ってくれた彼の名前を呼び、次に彼女は悲鳴混じりに息を吸い、

 

 「ニシキ君っ! 血が……」

 

 恋人から出るむせ返るような血の臭いに酷く慌てふためく。呼吸を乱し、どうすればよいのかも判らず、ひたすら彼の頭を抱えて顔を撫でながら呼び掛ける。

 

 その上を影が覆った。それに気づいて貴未さんは、トーカちゃんの存在に気づいた。ギラギラ、メラメラと揺曳する片翼の襲撃者を見上げ、呆けていた。ハッ、ハッ、と断続的に息を吐き続けている。

 

 しかしそれは、だんだんと柔らかくなり、落ち着いていく。そうして今となっては、こちらにも聞こえないような穏やかな呼吸となってるのであった。

 

 そのままで彼女はこう言った。

 

 「綺麗……」

 

 ギョッとしてトーカちゃんは固まった。言った本人は、自分で言ったことに驚愕し、口元へ手を持っていって視線を泳がせていた。固まったままトーカちゃんは、ゆっくりと肩を弛緩させ、据わらない首の動くままに視線を辺りに漂わせていた。

 

 僕は貴未さんを見やった。自身の頓珍漢な発言の恥ずかしさが込み上がってきているらしく、俯きながら肩を竦ませ、赤面していた。

 

 「あ……」

 

 彼女は視線を前に戻してからそう言った。何かと思い、彼女の目の先を見れば、そこにはトーカちゃんが居なかったのだった。音も無しに、忽然と消えていた。

 

 急ぎ僕は教会を出、辺りを探した。先刻の戦いの興奮の余韻に、僕の身体の感覚は鋭敏になっていて、その五感が何かを察知した。確証はない。けれども確信を持って僕はその気配を追った。気配の先は、車や誰かが来そうな道路ではなく、付近の林の中だった。やはり彼女はそこに居た。

 

 「トーカちゃん……」

 

 名前を呼ぶと、振り向いた。疲れきったという風に目をしょぼつかせ、力なく僕を見た後、再び顔を向こうに向けてしまった。

 

 「何だよ」

 

 「お礼を、言っておかないとって……。見逃してくれて」

 

 ほとんど思いつきの言葉だが、嘘ではない。彼女は自嘲と嘆息が入り混じった息を吐いた。

 

 「情けねえよ、あんなチンケな言葉で、逃げ出してさ」

 

 「でもあれで良かったんだと思うよ。あれが正しかったんだ……」

 

 事実を言うというより、説得とか、言い聞かせるという感じの口吻であった。

 

 「てめえの理想を押し付けてくんじゃねえよ、あの女は本来だったら殺さなきゃならなかったんだっ……」

 

 「まさか! 人を殺す解決の仕方が正しいなんて……」

 

 「じゃあ『あんていく』はどうなるんだよ。もしも、あの女を生かしたことで『あんていく』に迷惑が掛かったら、どうなんだよ。ヒナミも、また居場所を失う事になる。お前は、店長は古間さんに迷惑掛けて平気なのかよ」

 

 「……店長たちも、きっと協力してくれる。君の言ったようにならないように協力すれば……」

 

 「人が死ぬかもしれないんだぞ、それも一人だけじゃない、何人もだ。いや、下手すれば、死ぬよりも酷い目にだって……。てめえの良心に振り回されて、ヒナミをそんな危険なところに曝すってのか、オイ!」

 

 そのような喝破と一喝を受けて、僕は萎縮し、消沈した。何かを言おうと口を開こうとするも、結局何も思い浮かばず、ただ歯噛みするだけであった。

 

 「人を生かすってのはそういうことなんだよ、カネキ! 非道でも確実に生きる道を選ぶか、それとも勝手に仲間の命を――覚悟もしていない女の子も――危険に巻き込んででも大団円を為そうとするのか、どうなんだ!」

 

 言い切った彼女は、こちらに一切顔を向けず、肩で息をしていた。鼻をすする音が、彼女が息を吸うたびに聞こえる。

 

 「分かってるよ。無駄だって分かっててもさ、大切な人は殺されたくないだろうよ、ニシキの気持ちは解るっての。私だって、依子を死なせたくない、みすみす依子を殺させたくない」

 

 声を低く落とし、だけど落ち着いたように彼女は紡ぐ。

 

 「今はまだいいんだ、依子に気づかれるって展望はない。もし気づかれたらっていう想像はしても、そんな遠いこと、上手く想像できるわけがないじゃん。でもそれはただの逃避で、現にこうして、あの娘を殺さなくちゃならない時が来るかもしれないって思うと、怖くて仕方がないんだよ。私はどっちを殺せばいいんだ、どっちを生かせばいいんだ。依子か? 『あんていく』の皆か? そんな無責任な決断が、今出来るわけねェだろ」

 

 けどさ、と、声を震わせながら深く息を吸い込んで、

 

 「ニシキの気持ちは解るって言ったけど、今すぐ解るわけじゃない。ニシキからすれば大切でも、私からすればどうでもよくて、危険因子の女なんだ。だからこそだ。当人じゃ殺せないから、こうして空気の読めない第三者が判決を下してやる必要があるんだろ」

 

 一気に空気を吐き出した。

 

 「もうどっか行けよ、放っとけ」

 

 そう言って彼女は、近くの木に寄りかかって、肩を預けて座り込んだ。

 

 僕は少しの間まごついて、

 

 「あのさ、……もう少しだけ、一緒に居ていい? お願い、何も話さないから」

 

 返事はなかった、その代わり拒絶もなかった。だから僕は黙って彼女の隣に座ったのである。

 

 冬の寒空の下で、肌はどんどん冷えていくのに、身体は火照っていたので、しばらくは寒くなかった。何もせず、互いが傍に居るのを感じながらひたすら、空に浮かぶ月を何の感傷もなしに眺めていた。

 

 ところで後日。ルーミアちゃんが、不意に貴未さんのことについて、次のように言ってきた。

 

 「確かに、あの女の人の気持ちは本物よ。でも、初めて遭遇した喰種が自分の大切な人じゃなくて、どこかの赤の他人だったら、もっと別のことを言っていたことじゃない? そしてその気持ちを持ったまま、恋人の正体を知ったら、自分の過去の感情に引っ張られるままに評価を変えたりして……。ともかく、あの美辞麗句は、自分の大切な人に言ったのであって、喰種に言ったとは限らないとは思わないかしら」

 

 【2】

 

 『亜門鋼太郎の手記』

 

 またしても空亡(そらなき)の犠牲者が出た。今度は若い女性だ。

 

 現場は本人の住まいのアパートの部屋。あちこちに攻撃の痕が残されていた。死体のほうは、車に轢き潰された動物の如き、見るも無残に食い荒らされていた。喰種の犯行と見て警察から捜査を依頼されたCCGは、まず女性と交際していた男性を疑い、尋問した。自分の恋人が――死体の状況は伏せてあったが――殺されたと知って、当然男は動転した。だんだんと自分に突きつけられた事実を受け入れていき、ついに男は自暴自棄になって『尻尾』を出した。

 

 二十区の喰種にしては強い喰種ではあったらしい。突然であったのもあって、捜査官が何人も負傷した。中には腕の切断を要する者も出た。しかし幸いにして殉職者は出なかった。

 

 無事にこの喰種は駆逐、事件は解決に到った。そう調書に記されようとしたのだが、どうも俺には腑に落ちないことがあった。それは男の言動だ。

 

 確かに我々は、男に疑いを掛けてはいたが、鎌を掛けてはいない。それどころか、まだそんなに言葉を交わさぬ内に男に恋人の死を伝えたのだから、何もあの段階で正体を露見させる必要もないはずだ。自分の恋人を殺されたのならあの反応は妥当だが、自分で殺したのならおかしい。あれが演技だったとしても、何のメリットがあったというのだ。

 

 そういった疑問から、俺は現場の調査を続行した。その結果出てきたのが、空亡の痕跡だったのだ。

 

 赫子痕と思しきものは、解析の結果では赫子痕とは出なかった。かと言って、現場の破壊状況は生身の人間では作れるものではない。死体に残されていた歯型や指紋は、以前空亡が残した物と合致。残虐な手口も奴のものだ。これらの証拠は丁寧に残されていた。まるで我々に見せ付けようとしているかのようだ。誘導か、挑発か。だが少なくとも、私をイラつかせているのは確かだ。

 

 ところで、今回の事件は、一体どういう意図を以って為されたのであろうか。

 

 単なる気まぐれの食人という可能性もある。しかしながら、今回の事件も何某かの意図があってのことだとしたら。

 

 例えば、事件発生の前日に、とある教会で喰種同士の争いがあった。中には死体らしきものはなかったが、その代わり二種類の赫子痕が発見された。片方は美食家、もう片方はラビットだ。これは飽くまで憶測に過ぎないが、ラビットと空亡に関連があるのだとしたら、この事件と教会の件とには多少の関係がある可能性もある。

 

 畢竟これもただの邪推だ。これでは真相に辿り着くには心許ない。しかしながら、可能性が少しでもあるのなら、記憶の片隅にでも置いておいても差し支えないだろう。

 

 して、この事件の捜査をするにあたって、手始めに被害者西野貴未の周囲の人間関係をもう一度洗い直そうかと思う。

 

 【3】

 

 幻想郷に、『幻と実態の境界』が引かれてまもない頃の事。その当時、既に宵闇の妖怪は幻想郷内に入って気ままに暮らしていた。

 

 で、その彼女が今何をやっているのかと言うと、妖怪の山と呼ばれる所にて、そこに住む天狗たちと大立ち回りを演じている最中なのであった。

 

 そもそもの事の発端は、宵闇の妖怪が山に侵入したことに因るものである。否、侵入と言うより、流されてきたと言うべきか。何を思ったのか、空で風に吹かれながら、海のクラゲさながらに漂っていて、そのまま妖怪の山まで流されていった次第なのである。彼女も妖怪の山のことは知っていた。鬼を頂点、その下に天狗、河童の格差社会が築かれている所。また余所者に対して排他的で、入ろうものなら間違いなく攻撃されるであろう。それを知った上で彼女は、

 

 「まあいいか」

 

 という具合に、ちょうど山のふもとの森の上を漂っていたところを撃ち落とされたのだった。それで今に至る。周囲四方八方を、山伏の恰好をした奇抜な風貌の者たち、つまり天狗らに囲まれている。亥の刻(二十一時から二十三時)を前にして最初に彼女と交戦した白狼天狗どもは、既にその数多が、宵闇の加護を得た彼女によって昏倒せしめられており、今は急遽他の天狗も混じっての交戦であった。

 

 様々な方から襲いくる天狗らを、千切っては投げ、千切っては投げる。その動きは、彼女の途方もない生の間で研鑽されており、武術に相通じるものがあるが、似通っているだけで武術の洗練された動きとは程遠い、荒々しいものであった。相手が振るう剣を奪い、斬る、刺す。相手の攻撃に合わせて、殴ったり蹴ったりや、脚を引っ掛けてからの追い討ち。敵を一人捕まえてそれを敵に投げる。などなど。

 

 「ふむ、ふむ。それで、先に仕掛けてきたのはあなたではなくこちら側、というわけなのですね?」

 

 と、筆と紙を両手に、宵闇の妖怪の周囲を飛び回る烏天狗の少女。宵闇の妖怪から事情を聞きだしてはいるものの、その目的はこの争いを鎮めるための交渉ではない。天狗社会に於いて烏天狗とは、現代で謂う所の新聞記者を担う者たちであり、彼女も今回の件の取材として宵闇の妖怪にこうして聞き込みをしているのである。が、実を言うと本来彼女は加勢するために駆り出されたのであって、取材をするために来たのではない。ありていに言えばサボリだった。

 

 「そーなのだー」

 

 向かってきた相手の頭を蹴り飛ばして宵闇の妖怪は応えた。

 

 「けれどもこれはやり過ぎなんじゃないですかねぇ……」

 

 烏天狗の少女は周囲の惨状を見回して言った。

 

 「それに、さすがに天狗だって、鬼ほど血の気が多いわけでもないし、何もここまで争いを広げることはなかったのではないですか?」

 

 「だって喧嘩売ってきたんだもの。こっちから売ることはしないけど、喧嘩は必ず買うわよ」

 

 宵闇の妖怪はまた一人敵を捕まえ、頭と足をひっくり返して、一気にその脳天を地面に叩き付けた。

 

 「あやや、それは怖い。しかしながらどうして、撃ち落とされるくらいこの山に近づいたので? ここを妖怪の山と知っていれば、撃ち落とされる領域まで来る前に引き返すはずですが……、ひょっとしてご存じないのですか」

 

 「いや、知ってたけど」

 

 「あやややや! 知ってて入ったんですか! 十中八九攻撃されることを承知で?」

 

 烏天狗の少女はおもしろそうなものを見る眼になった。ふむふむと頷きながらひと通りのことを書き終えると、適当に別れの挨拶をしてさっさとどこかへ飛んでいってしまった。

 

 交渉役が来たのはそのすぐ後である。現場に着いた交渉役はまず、仲間の臨戦態勢を解かせ、下がらせた。その次になって、宵闇の妖怪との交渉に臨んだのである。

 

 「で、貴女はただこの山に流れてきただけであり、今すぐ攻撃をやめればおとなしく引き下がる、ということでよござんすね?」

 

 交渉役はこのように、慇懃な口調で話をまとめた。

 

 「如何にも」

 

 「然らば、こちらも攻撃をやめ、それ以降は貴女には今回の件に関することで手を出さない、それで手打ちにしましょうか」

 

 「ええ、それでお願い出来るかしら」

 

 そぞろにつまらなそうな顔で彼女が言った時であった。

 

 「ちょっと待てい!」

 

 高く、よく通った勇ましい女の声が、闇夜の中から響いたのである。俄かに辺りの天狗どもがどよめいた。それで周囲から、天狗とはまた違う、屈強な、頭から牛のような角を生やした者たちが姿を現した。そうなると天狗たちのどよめきも一層強くなる。何せ、たった今現れた角を生やしたこの者たちこそ、この山で頂点に位置すると言われている、鬼なのだから。

 

 あちらこちらの影の中から次から次にと現れ、宵闇の妖怪を取り囲んでいた天狗どもは、いつの間にか鬼に囲まれていたのだった。天狗たちは一斉に頭を下げた。それによって宵闇の妖怪は、鬼たちと目が合った。とかく連中は、宵闇の妖怪を、値踏みする眼で見ていた。彼女の方を見やりながら、隣に居る者と何やら話していたり、首を捻ったりする者もいる。

 

 「どうして鬼が出張ってくるのかしら?」

 

 それまでとは打って変わって宵闇の妖怪は、愉快そうな面相を見せて、

 

 「せっかく交渉が綺麗にまとまるところだったのに、上がそれじゃあ示しがつかないじゃない」

 

 と、ある方向へ目を向けた。視線が向けられた方に居た鬼どもは、自分の後方を見るや否やすぐさま道を開き、それへ向かって膝に手をついてコウベを垂れたのである。またもや暗闇から現れたのは、二人の、女の姿をした鬼であった。片方は、両側頭部から少々歪んだ形の角を生やした十にも満たない幼い女の子の姿をしていて、もう片方は、額から鉄火の如き赤い角を生やした長身の女性。そして二人とも手首に、鎖の付いた鉄の枷を嵌めていた。

 

 大きいほうの鬼の脇には、先ほど宵闇の妖怪に色々と質問をしていた烏天狗の少女が抱えられていた。彼女は宵闇の妖怪と目が合うと、泣いているのか笑っているのかも判らない面相で手を振った。それを見ると宵闇の妖怪は、片眉を落として微笑した。

 

 「それで、何が不服なの?」

 

 「よくぞ訊いてくれた!」

 

 小さいほうの鬼が前に出て、片手を腰に当てもう片手を突き出して言った。

 

 「私は悲しい! 実に悲しいぞ! 勝手に奥へ入っていたとは言え、警告も無しに撃ち落した挙句、やって来た連中ことごとく返り討ちにされて、あまつさえビビッて何のお咎めも無しにむざむざ帰してしまうたぁな!」

 

 口調自体は、背伸びをした幼い少女が、呂律の回らない舌で大人びた注意をしているに見える。けれども、それを聴いていた交渉役は、途端に目を剥き半ば口を開き、怯えたらしい様子で狼狽し、うそうそとしだしたのである。

 

 小鬼が、そこでだ! と言って、

 

 「この山の首領をやってる鬼の、その四天王を相手に白黒付ければ、誰も文句は無いんじゃないかい」

 

 と、大きいほうの鬼が言った。

 

 「おい勇儀、お前が仕切るなよぉ!」

 

 ピョンピョンと跳ねる小鬼。

 

 「この山の頂点である私たちに、あんたの力を示してみなよ。それならあんたも、折角来てすごすごと帰っていくなんて言わずに、ゆるりとこの山を散策できる。悪くはないんじゃないかい」

 

 「悪くはないわね。ところで、如何様にして力を示せと?」

 

 宵闇の妖怪は大鬼のほうに言った。それを見て小鬼も、チェッと舌打ちをしてむくれ、さすがに諦めたらしかった。

 

 「内容は至って単純さ」

 

 と言って大鬼は――脇に抱えていた烏天狗の少女を離して――、片手に持った大きな、一升は入りそうな盃に酒をそれいっぱいに注ぐと、

 

 「この盃に入った酒を、私に一滴でもこぼさせたらあんたの勝ち。――そら、単純だろう」

 

 気の良い風に大鬼は言うのであった。

 

 「なら、いつ始めるのかしら」

 

 「そっちの都合が良ければいつでも。合図が欲しいなら、萃香が――こっちの小っこいのがやってくれるよ」

 

 ニッと大鬼が笑う。

 

 「ぬう……、ふざけやがって!」

 

 小鬼が憤慨した。少しながら涙も見える

 

 「もういいよ、勝手にしろい! ほれ、合図は出してやる、だからさっさと始めろ!」

 

 それを見て大鬼は頷き、宵闇の妖怪に再度顔を向け、

 

 「こっちは大丈夫だとさ。そっちはどうだい」

 

 「うん、問題はないわ。合図をちょうだい」

 

 そう言って宵闇の妖怪は手で促した。確認するや否や小鬼は

 

 「はいよ」

 

 とぶっきらぼうに言って、近くにあった木を、八つ当たり気味に蹴りつけた。木は根元近くから折れ千切れ、高く飛んでいったのだった。

 

 尻目に見ていた宵闇の妖怪は、こっそりくつくつ笑う。再び大鬼に目を戻し、軽く息を吐いた。そうしておもむろに歩き出す。大鬼は盃を片手に、静かに眺める。宵闇の妖怪が近づくにつれて、ある異変に大鬼は気づいた。

 

 暗い。亥の刻を回ったとしても、ここまで暗くはならない。周囲の物が黒く霞んでいき、真っ暗闇がやがて個々を孤立させた。暗闇の中、大鬼は一瞬の気配と違和感を気取った、暗闇が晴れたのはそれの直後。手に持った盃が消えていた。すぐさま振り向き、ちょうど自分の背後で、盃を片手に背を向けて歩いていた宵闇の妖怪を見た。盃を奪ったのは宵闇の妖怪だったのだ。歩きながら宵闇の妖怪は口元に盃を当てて傾け、その酒を飲んだ。ゆったりと時間を掛けて飲み干すと、ほうっと白い息を吐いた。

 

 「まさかとは思うけど――」

 

 と、口元に薄い笑みを表し宵闇の妖怪は口を開く。ゆっくりと振り向いた。

 

 「四天王相手に、私が馬鹿正直に力ずくで向かってくるとは思っていたりはしないわよね?」

 

 盃の裏の窪みに指を引っ掛け、ふるふると回す。互いの視線が合う。耳鳴りが聞こえてきそうな静寂が流れる。両者とも無表情、そして一瞬の笑み。

 

 宵闇の妖怪はまた大鬼に背を向け、歩き出した。同時に二人の笑みは消えた。瞬間、大鬼は激しい音と共に飛び出した。相手との間を詰め、拳を振りかぶり放つ。それが当たる直前、宵闇の妖怪は剣を取り出す。それを背中に回す。大鬼の拳は剣の腹にぶち当たった。が、そのあまりの衝撃。それを受けた剣に宵闇の妖怪は押された。余波に因って、煽りを食った周囲の木々は揺れに揺れ、余波が天狗や鬼どもをのけぞらせた。

 

 彼女は背中に回してあった剣を前に振る。受けた全衝撃を預けて振るわれ、衝撃は逃がされた。剣の振るわれた先にあったモノのことごとくが破壊された。これほどの惨状を出し、ようやく宵闇の妖怪は踏み止まった。

 

 止まった宵闇の妖怪は、自らの手に持った大剣を自身の目の辺りまで持ち上げて、眺めるように見た。そこに居た者の誰もがその姿に、大剣に畏怖の念を抱いた。刻み込まれた鮮血色の奇妙な文字群、一切の光を許さない真っ黒な剣身、それと紅い刃。

 

 剣を下げて宵闇の妖怪は顔を大鬼に向ける。じっと宵闇の妖怪を凝視してた大鬼と目が合った。

 

 「鬼が約束を反故にする気?」

 

 詰問するように言うと、すまないね、と大鬼が返答をした。

 

 「けど我慢できなかったんだ。どうしても、あんたにぶつかってみたくってね」

 

 申し訳なさそうに大鬼は微笑んだ。

 

 まあいいわ、と宵闇の妖怪は剣の切っ先を向けた。

 

 「そっちが喧嘩を売ると言うのなら、喜んで買うから」

 

 宵闇の妖怪の背中から、真っ黒な翼がゆっくりと現れた。広げられると、それはドス黒かった。真っ黒で、しかしどこか赤っぽい。

 

 「恩に着るよ」

 

 「断ってくれりゃあ良かったのに」

 

 小鬼のほうは頭の後ろで両手を組み、口を尖らせて言った。

 

 聞こえない振りをしているらしい顔で、大鬼は足を広げて腰を落とし、構えた。同様に宵闇の妖怪も構えた。両者共に身じろぎ一つもせず、視線も逸らさない。須臾の隙もない。その場の者の誰もが、畜生たちでさえも息を殺している。辺り一体からは音はおろか、気配すらも消えた。

 

 長い、長い時間が過ぎた。

 

 宵闇の妖怪の姿が突如消えた。否、飛び出したのだ。文字通り瞬く間に。彼女は剣を振った。この距離だとちょうど切っ先が大鬼に当たる。上体を反らしつつ大鬼は後ろに飛び退いた。そこを狙って宵闇の妖怪が一気に肉薄する。勢いに乗せて突きを放った。回避によって大鬼の重心は後ろに寄っている。だが大鬼は、その無理な体勢から足を伸ばし、剣身の根元近くを蹴り、これを上へ飛ばした。

 

 その反動を利用して大鬼は素早く体勢を立て直した。するや否や大鬼は、出鼻を挫かれた宵闇の妖怪に後ろ蹴りを放つ。間一髪で宵闇の妖怪はそれをかわした。負けじと宵闇の妖怪も足払いを仕掛ける。それを大鬼は跳んでよける。続いて来た肘も防いだ。

 

 そうこうしている内に、宵闇の剣はすぐそこの高さまで落ちてきてた。所有者たる彼女はそれをいち早く察知していた。

 

 後ろへ飛び退いた。当然大鬼も追いかけてきた。宵闇の妖怪は蹴りを放つ。と、そこへドンピシャで剣が落ちてきた。剣は見事に蹴り足に巻き込まれ、大鬼の胴体へぶち当たった。大鬼は吹き飛ばされた。

 

 宵闇の妖怪は自らの剣を足で軽く上へ蹴り上げ、それが降りてきたところを掴んだ。手首で軽く振って調子を確かめてから、再び大鬼を見やった。相手は既に立ち上がっていた。剣の当たった所には切創はなかった。さすがは鬼の四天王である。

 

 「やっぱり、やるもんだねぇ」

 

 大鬼は軽く咳き込んで言った。

 

 「良い時代だとは思わないかい」

 

 艶やかに微笑む。

 

 「血で血を洗う最高の時代かしらね」

 

 宵闇の妖怪も同様に莞爾として微笑した。

 

 二人は同時に構えた。直後に大鬼が距離を詰める。目の前まで迫り、大鬼は右拳を繰り出した。宵闇の妖怪は避けた。左拳が弧を描いて放たれる。堪らず宵闇の妖怪は後ろへ下がった。

 

 しかし大鬼は逃がさず距離を詰め直す。そうしてまた右拳が放たれる。よけきれず宵闇の妖怪は剣の腹でそれを受けた。弱めとは言え鬼の拳。防御を崩された。出来た隙間に向けて再度右拳を打たれる。宵闇の妖怪はそれを外側に身を振って避ける。そして左拳を、伸びた相手の右腕の下を通し、下顎狙って突き上げた。が、辛うじて大鬼は顔を引かせた。拳は唇を掠めて空振った。

 

 すぐさま宵闇の妖怪は右手の剣を振るう。相手は後ろに跳んでよけた。おかげで両者の間に距離が出来たのだった。

 

 大鬼は宵闇の妖怪のこめかみ狙って右を振るう。上体を前に屈ませるように宵闇の妖怪はそれをよけ、相手の懐に潜り剣の柄頭で脇腹を殴った。強烈な一撃だ。そのまま大鬼の後頭部目掛けて剣が振るわれる。だが屈んで大鬼はそれを避けた。間髪入れずに力任せに剣の軌道は折り返される。上体を反らしつつ大鬼は後ろに下がってそれを回避した。

 

 直後に大鬼は宵闇の妖怪の剣に飛び付いた。大鬼は相手の腹に蹴りを入れる。相手の力が緩んだ。剣を奪う。

 

 宵闇の妖怪は蹴り飛ばされた。それこそあり得ないくらい。物凄い勢いで飛ばされた。

 

 そのまま彼女は、山のどこかの、急な斜面の所に叩きつけられた。轟音と共に、衝撃波で周囲の地形が歪んだ。しかし彼女に悶絶している暇などはない。大鬼が、奪った剣を、宵闇の妖怪の吹っ飛ばされた先に投げたのだ。それが真っ直ぐ宵闇の妖怪に向かってくる。彼女はその場で横に転がってよけた。剣が斜面に突き刺さり、それに因って更にそこが滅茶苦茶になった。ひとまず宵闇の妖怪は、突き刺さった剣に手を引っ掛けて、斜面のその場に留まり、様子を見始める。

 

 一方、鬼側。

 

 先ほどから、これほど白熱した戦いを見せつけられて、観戦していた鬼たちもだんだんと血が滾っていっているのだった。その中でも特にうずうずしていたのは、他でもない、萃香と呼ばれた小鬼だった。自分もあの鬼と同じで四天王の一人であるはずなのに。また、無碍に扱われて業腹なのもあった。

 

 自分も戦いたいという当て所のない気持ちがついに暴走したのである。小鬼はその気のまま、自身の能力『密と疎を操る程度の能力』を使い、周囲から岩を引き寄せた。続いて、萃めたそれを更に圧縮して、人体よりも遥かに巨大な岩を造った。

 

 「勇儀ぃ!」

 

 そしてそれを、大鬼の方へ投げたのである。名前を呼ばれて大鬼は振り向くと、いきなり巨大岩がやって来たので、思わずそれを受け止めたのだった。

 

 「何すんのさ!」

 

 と怒鳴っても、小鬼は、

 

 「やれ! やれ!」

 

 このように興奮のままに叫び散らすのみで、大鬼からの文句なんぞは最早聞こえていないらしかった。

 

 しかしながら大鬼も、戦いの中で膨れ上がった興奮もあった。何の疑問も持たず、にやりと笑うと、またしても宵闇の妖怪の飛んでいった方へ投げたのである。

 

 その岩が向かってくるのを宵闇の妖怪も当然また見ていた。彼女は剣を斜面から引き抜くと、三歩四歩ほど走って、大きく跳躍した。背中の翼で勢いを加えながら、真っ直ぐとその巨大岩に突っ込んでいった。

 

 すると何と、剣を大きく振りかぶり、巨大岩へ思いっきり叩きつけて、跳ね返したのだ。巨大な物が空気を押し退けつつ凄まじい勢いで、投げられた方へ返っていく。やはり大鬼もそれを見ていて、受けて立つとばかりに、彼女もまた意気揚々と上空へと跳び上がったのであった。

 

 空気を強靭な脚力を以って踏み固め、空中でどんどん速さを上げて巨大岩に迫る。そして巨大岩を思いっきり殴った。今しがたのと同様に巨大岩はまたしても弾き返された。それはまた弾き返され、そして更に弾き返される。このような応酬がしばらく続く。

 

 岩の返し合いをする内、次第に両者の距離は近づいていく。何回も繰り返されると、ようよう両者の距離は、岩を隔てるのみの所まで迫っていくのである。片や叩き切り続け、片やぶん殴り続ける。岩の表面に走るヒビが次第に全体を覆いつくしていく。

 

 ある時を契機に、岩の両側で両者が――見えていないはずなのに――示し合わせたかのように同時に、渾身の力を込めて振りかぶった。直後に両側からの壮絶な衝撃に挟まれた岩はついに砕けた。

 

 細かく砕けたとて、元は巨大な岩から出来た破片は大きい、それらが山の各所に降り注ぎ、これまた迷惑極まりない甚大な被害をこの山に満遍なく与える。それでもこの二人はお構いなしだった。行く手を阻んでいた障害がなくなり、晴れてぶつかり合おうとしていた。

 

  ぶつかる瞬間、大鬼は例によって拳を放った。宵闇の妖怪は刺突の構えを取っていた。だが不意にその体勢を崩す。大鬼が放った拳は宵闇の妖怪の耳を掠めた。その代わり宵闇の妖怪の足が大鬼の胴に入った。大鬼が出していた勢いは一挙に殺され、そのまま宵闇の妖怪が大鬼の上に乗っかる形で落ちていく。

 

 二人は山の裾野の、ほとんど平坦な所に落下した。落ちた所を中心に衝撃の波紋が広がった。

 

 大鬼の上に乗ったまま、宵闇の妖怪はその場で地団太をする具合に大鬼を踏んづける。大鬼は一寸地面にめり込む。更に足踏みを続ける。執拗な乱打。刹那の内に大鬼の全体が地面にめり込んだ。

 

 宵闇の妖怪は最後のひと踏みをして跳び上がり、剣を振り上げる。トドメとばかりに対象を凝視。落下を始める。落ちる勢いに乗せて剣を振り下ろした。

 

 が、止められた。

 

 大鬼の両掌が剣を挟んだのだ。

 

 両者の力が拮抗する。剣が大鬼の顔に近づく。大鬼はそれを相手側に押しやる。そうして一瞬大鬼は自身の方へ引き、一気に押し返した。いきなりの事に宵闇の妖怪は平衡を崩した。その隙に大鬼は起き上がり、宵闇の妖怪に掴み掛かる。抵抗する間もなく宵闇の妖怪は大鬼によって投げ飛ばされた。

 

 またも飛ばされた宵闇の妖怪は、今度は壁面や急斜面だとかに激突するということはなく、山のどこかに地面に着地した。足の着いた地面を抉りながらどうにか踏ん張って止まった。一息ついて、自分が剣を落としてしまっていることに気づく。が、どこに落ちたかは、あの剣の所有者である彼女には大方判る。剣の気配がする方へ進んでいくと、崖に出た。とても高い崖だ。下に広がる木々があまりよく見えない。

 

 剣の気配は近かった。剣は縁の結構下、崖の半ばより上に突き刺さっていた。覗き込み宵闇の妖怪がそれを確認すると、ふと宵闇の妖怪は目線を少々上げて、崖の下に広がる森を見た。

 

 遠くのほうで、木が異様に揺れていたのだ。まるで巨獣が荒々しく突き進んでいるみたいに、それは次第に宵闇の妖怪に近づいてきている。

 それを確認して宵闇の妖怪は、その崖の縁に立ち、倒れ込むように落ちていった。崖の壁面に足を着け、下に向かって駆け抜ける。

 

 宵闇の妖怪のもとへ向かう者は、崖の下まで来ると一気に跳び上がる。それで顔を見えるようになる。その者はやはり大鬼だった。大鬼もまた壁面に足を着け、崖を駆け上がっていくのである。

 

 宵闇の妖怪は崖を駆け下る途中、壁面に突き刺さっていた剣を引っ掴んで抜いた。同時に大鬼も攻撃の態勢に入る。

 

 その兆候が見えたのは、大鬼がとある一歩を踏んだ時であった。彼女が壁面を踏みしめると、それだけでその周囲が揺れる。それは遠くの者でさえ判るくらいに。

 

 四天王奥義『三歩必殺』。

 

 この大鬼――星熊勇儀の最後の切り札とも言える必殺の一撃。ただ三歩の――それでも相当な距離を進めるが――移動に乗せた打撃という、至極単純であり、それ故に最凶の破壊力を孕んだ一撃である。

 

 そうして二歩目が出る。

 

 今までの行動の通り、宵闇の妖怪はそれに真っ向から攻撃するつもりは毛頭ないだろう。剣を構える振りをしつつ、いつでもその壁から飛び上がって避けられるように、脚に力を入れている。

 

 三歩目が踏まれた。その瞬間であった。

 

 突如、宵闇の妖怪の背後に、何者かが近づいてきた。それを宵闇の妖怪は察知する。振り向こうとした。しかしそれよりも前に、彼女の背中に凄まじい打撃が加えられた。宵闇の妖怪は大鬼を巻き込んで落下していった。

 

 これまた破壊的な衝撃波が広がる。それを生み出した者たちは、二人して地面にめり込んでいた。

 

 「あいたたたた……」

 

 打たれた背中をさすりながら宵闇の妖怪が起き上がり、

 

 「うう……、頭がガンガンする……。あ、元からだった」

 

 と、大鬼が頭を抱えながら起き上がった。

 

 二人は、純粋な決闘に横槍を入れた張本人に、恨みがましい眼を向けた。

 

 だが。

 

 「げえッ、華扇!」

 

 大鬼が目を剥いた。

 

 そこに佇んでいたのは少女だった。両側頭部にある何かを隠すようにそこに布を被せていて、手首には、大鬼と小鬼に付いているのと同じ鉄の枷が嵌められている。

 

 その肩には、先ほど大鬼と一緒に居た萃香という小鬼が担がれていた。

 

 「いい加減にしなさいッ、この馬鹿者ども!」

 

 大鬼は苦々しげに、心底面倒臭そうにため息を吐いた。

 

 「今何時だと思ってるの! 亥の刻の鐘がとっくに鳴っているのよ!」

 

 「いやあ、悪かったよ。でもさ、ほら――」

 

 と、大きいほうの鬼が宥めようとするも、

 

 言い訳するんじゃありません! と少女は一喝した。

 

 「大体! ただの喧嘩で山を壊す事がありますか!」

 

 こういった流れで、大鬼、小鬼、宵闇の妖怪は、三人仲良くよく解らない説教を長時間もの間受ける事となったのである。

 

 端々に細かい薀蓄が挟まれている、難解な喝破を何時間も聞かされ、適当にそーなのかーとでも流そうものなら説教の量は更に増大する、さしもの宵闇の妖怪もこれには堪えた。

 

 最初では、意識せずとも言葉は聞こえているものだが、長い時間聞いていると、次第に疲労が溜まってきて言語の理解が困難になってくる。そうなった頃にようやく三人は解放されたのだった。

 

 解放されて、大きいほうと小さいほうの鬼は、ふらふらと逃げるように去っていった。宵闇の妖怪も同様に帰ろうとしたのだが、

 

 「ちょっといいかしら」

 

 少女に呼び止められた。

 

 うんざりしたように宵闇の妖怪はため息を吐いて、黙って振り返った。しかし彼女が振り返ると、少女は黙って手招きだけをして、背を向けて歩き出したのである。首を捻って宵闇の妖怪はその後に続く。しばらくついて行くと、会所と思しき所まで来たのであった。

 

 中に通されて、相手は座り、宵闇の妖怪もまた促されるままに座った。

 

 「随分と、人から怨嗟や恐怖を買っているようね」

 

 茶を出した後、出し抜けに少女はそう言った。

 

 「はて、何のことかしら」

 

 ズッと茶を啜る。

 

 「とぼける必要もないわ」

 

 と言って、少女は左右の小さな布を取り払った。

 

 現れたのは角だった。ただしそれは根元近くから折れていて、断面のみが髪の毛から覗いていた。

 

 「私には判る。あなたの周りから、あなたに弄ばれた者たちの鬼哭が聞こえる……」

 

 脅すようでもない、如何にも落ち着き払った居住まいと声音。

 

 「自分の置かれた境遇から脱しようと、あの娘たちと一緒にこの国へ来た。でもそこでも私たちは、人並みの暮らしは出来なかった」

 

 朗読するように少女は語り出した。

 

 「生きるためとは言えど、私たちは、未来永劫救いは許されない過ちを犯した。人から物や命を奪うだけでなく、その血までも……」

 

 それでも、と繋ぐ。

 

 「それらの罪はすすがれ、赦される日はいずれ訪れてくると、虫の良いことに私たちはそれを信じきっていた」

 

 それがこれよ、と、淡々と言った。

 

 「やがて私たちは殺されたわ、でもそれだけで今までの罪は拭い切れなかった。死ぬことも許されなかった私たちは、鬼としてこの世を、修羅の如く彷徨い続ける」

 

 「要するに――」

 

 宵闇の妖怪は言う、

 

 「あなたたちは謂わば悪霊や怨霊の近似であるというわけね」

 

 意地悪そうな笑みを浮かべて。

 

 ええ、と、少女は憤慨するとか慨嘆するという様子も見せず、静かに肯定した。

 

 「この罰は、自然に依ってもたらされたもの。誰かが私たちに罰を与えるために起こした現象なんかではなく、殺された私たちが勝手になったもの……」

 

 少女は少しだけ憂いの表情を見せた。

 

 「人は鬼になれるけど、……鬼は人にはなれない」

 

 【4】

 

 むかしむかしの話でございます。

 

 大陸の、ある所に四人の少女たちがおりました。血のつながりはないかもしれませんが、まるで本当の姉妹であるかのように仲むつまじいものでございました。この娘たちには名前がありません、人間以下の扱いを受けておりました。謂わば奴隷でございます。

 

 あるじに引っ張られながら色々な所を転々とし、ついには船に乗せられ、となりの島国へと渡ることとなりました。そこでその娘たちは、自らを繋いでいた鎖をなんとか外し、そこから逃げ出したのでございます。

 

 ですが、そこでその娘たちが人並みの幸せを手にすることができたかと言えば、そうでもございませんでした。物心つく前から奴隷で、身寄りのない娘らには、よすがとなる存在がなかったのでございます。それでやむにやまれず、その国で、人を襲って物を奪いながら生き延びることを選びました。その際、自分らと似たような立場に置かれた、捨てられた子供や老人を引き入れて行っておりました。

 

 そのような悪事を重ね、また次第に仲間も増え、彼女らの悪名は人々の間でささやかれるところとなりました。そのころには立派な山賊です。

 

 そうして一つの集団として固まってきた折、筆頭となっていた四人の少女の中の、末妹にあたる少女が、ここの頭になりたいと言い出したのです。上の三人の少女は多少は渋りはしましたが、肩書きだけというならと、これを許しました。

 

 けれども、それにはその末妹なりの考えがあってのことでございました。

 

 末妹は四人の中で一番小さい娘でした。当然、上三人へ、自分の弱さの負い目があったのでございます。ですから、自ら山賊の頭となることで、いざという時にみんなを護ろうとしたのでしょう。

 

 やがてその者たちは、京の大江山という山に辿りつき、そこへ住み始めました。

 

 そしてある朝、彼女らは異変に気づきました。なんと自分の頭に、牛のような角が生えていたのです。そうです、彼女らは鬼となっていたのでございます。

 

 人を襲い、初めの内は罪の意識に苛まれていたものだけど、だんだんとそれも薄れ、ついには自分らのしていることの後ろめたさを感じなくなった。それだけの罪を犯したからこそでした。

 

 ですが、こうして鬼となった彼女たちは、ようやく思い出したのでございます。

 

 これによって最も動揺したのは、筆頭四人の中で長姉にあたる少女でした。彼女は自身の頭から生えていた角を折ると、そこへ布をかぶせて隠してしまいました。

 

 自らの罪悪を思い出したその者たちは、どうにか救われたいと思い、色々と考えました。考えに考え、その果てに導き出したものが、いつか自分たちにも罪を拭う好機が訪れるかもしれないというものでした。こうして日々自らの罪を悔い改め、待ち続けていれば、必ずその罪をあがなう機会を恵まれる、と。それは奇しくも、はるか西方の地で信じられている宗教の考えと似通っているものでした。

 

 その矢先でございます。

 

 ある時、彼女らのもとに、とある一行が訪ねてきました。一晩泊めてくれというもので、彼女らは快く彼らを受け入れました。

 

 その晩はご馳走を出し、一緒になって楽しく騒ぎました。彼女らに角が生えていようとお構いなしです。それどころか、名前のない彼女らに名前をつけてさえくれました。

 

 その時彼女らは決めました。彼らこそ友として大切にすべきであると。きっとこれは、自身の罪をあがなう機会を、天の神様が恵み賜ったのだと、固くそう信じていたのでございます。

 

 けど、世界はそんなに優しくありませんでした。

 

 その夜、彼女らが寝静まった頃を見計らって、その一行は彼女らの首を刎ねました。彼らは、大江山に住む鬼を退治するためにやって来たのであり、彼女らはその鬼として退治されたのでございます。

 

 たとえ天が許したところで、彼女らによって悩まされた者たちの恨み辛みは消えません。人を殺したらその事実は何があろうとも消えません。畢竟、罪をあがなう機会を求めるのは虫の良い話であったのでしょう。

 

 彼女らが女の身であるのにも拘らず、ただひたすら殺すためだけに一行は刀を振るい続けました。よもや彼女らは、人としても女としても見られておりませんでした。

 

 その中で、筆頭の長姉だけは、腕を切り落とされながらも一人だけ逃げ延びていました。ですが、切り落とされた腕の傷が元で、まもなく命を落としました。

 

 けれども、彼女らの生はそこでは終わりませんでした。

 

 鬼となっていた彼女らは、殺されたことによって人間の肉体を失い、完全なる鬼となりました。

 

 時を同じくして長姉も、鬼として目を覚ましました。目が覚めて彼女は、失った自分の腕を捜しに行きます。そのために、自分の腕を切り落とした者を探し出し、長い時間を掛けてついに見つけたのでした。彼女は自分の腕の存在を確認すると、その者の養母に化けて襲撃し、見事腕を取り返しました。

 

 が、その時の彼女は人の身ではなかったのです。取り返したのはまだ人間の部分が残っていた頃の彼女の腕、ということは、彼女は腕を取り返していながら依然として腕を失ったままという矛盾した状態となります。

 

 こうして彼女の欠けた腕の所には、煙のような幻肢のみがくっ付けられたのでございます。彼女はこれからも、もうこの世にありもしない、失った自分の腕を捜して彷徨い歩くのでございます。

 

 あの娘たちは、どこでまちがえたのでしょうか?

 

 幼い頃より人間以下の扱いを受け、それが嫌で逃げ出したところで真っ当な暮らしもできず、生きるために無我夢中で人を襲い、その後罪悪感に駆られて、救われたいと思った。それはまことに自分勝手なことでございましょうが、それを求めずにはいられないのが人間というものでございます。

 

 天網恢恢疎にして漏らさず。




 うん、これは傑作だ!(錯乱)


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おじさんやめちくり~(挑発)

 また一ヶ月(ピネ)だ! また一ヶ月(ピネ)だ!! 

 おい作者(ピネ)ェッ!!


【1】

 

 貴未さんが殺害された事件と、その事件が元で西尾先輩が喰種であることが露呈して討伐された。これらの事があってまだ数日。『あんていく』は、何事も無かったかのように、まるで例の事件のことなど自分らには与り知らぬとでも言うように、至って平然として営業をしていた。

 

 教会での一件の後、西尾先輩は『あんていく』に入ることとなった。仲間になったはずなのだ。にも拘らず、皆冷淡なまでに平然としていた。僕が彼の名前を口にしようものなら、ただ黙って僕を強く凝視し続けるのみで、誰もがその話題を避けようとしている。

 

 仕方のないことなのかもしれない。と言うのも、僕も彼らの気持ちを身を以って知ることになったからである。

 

 大学でヒデと一緒にいたとき、CCGの捜査官が、それもよりにもよって僕が以前対峙した捜査官がヒデに、西尾先輩や貴未さんに関することの聞き込みをしたのだ。僕は、顔は努めて平静を保ってはいたけど、心臓が早鐘を打って、息苦しさを感じていた。もしヒデが、以前西尾先輩を僕に紹介したことがあったとでも言おうものなら、どうなっていたかと思うと気が気でない。

 

 こういうわけで、嫌でも僕は『あんていく』の皆の意を汲むことになったのだった。

 

 さて、夕方となった。しかし客足はほとんどない。たまに人間のお客が来る程度である。

 

 「鳩が増えたからね……、こういう時は皆外に出たがらないんだよ」

 

 トーカちゃんは言った。

 

 ルーミアちゃんも、仕事がないということもあって、カウンター席に座りながら、脚をぶらつかせて、草笛を吹いていた。

 

 そういえば、と僕は彼女に訊いてみる。

 

 「ルーミアちゃん、草笛をよく吹くよね」

 

 彼女は草笛を吹くのを止めて、

 

 「前に住んでいた所では、これでも結構な暇潰しになったから。他にも遊び方はあるんだけど、生憎と東京にはそんな気の利いた物がなくって」

 

 「へえ。ルーミアちゃんって、森林の多い所に住んでいたの?」

 

 「大昔の風習が未だに残ってるとこ」

 

 「そんなにか……」

 

 トーカちゃんが驚いたように言った。けれども僕としても同感だった。昔の風習が残っている所なんて、結構な田舎ということになる。つまりここ東京から遠く離れていたり、或いは交通の便がほとんどないということになる。

 

 「じゃあ――」

 

 俄かに興味が出てきて、もっと深く訊いてみようかと思ったのだが、タイミングの悪い事に来客のベルが鳴った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 反射で入り口の方へ顔を向けて僕らは挨拶をした。で、その客というのは、何やらガラの悪そうな男と、パーカーのフードを被って顔をガクマスクで隠している男女が数名の、如何にもな集団であった。

 

 「店長は居るか」

 

 ガラの悪い男が、ずかずかと入ってきて言った。

 

 「え? あの、店長ですか……」

 

 「店長はどこかって訊いてんだ!」

 

 ガラの悪い男は、ずいっと顔を近づけてきた。

 

 「いや、あの、店長は……は今ここにはおりませんけども……」

 

 「じゃあどこ行ったんだ、あぁ?」

 

 と、僕の胸倉を掴んで揺すってきたのである。

 

 「ちょっと!」

 

 トーカちゃんが制止しようと割って入ってくる。

 

 「いきなり来てそれはないんじゃないの、コーヒーの一杯でも注文したらどうなのさ」

 

 「コーヒーだぁ?」

 

 低い声で言って、ふむ、とガラの悪い男は考え込んだ。そうして数秒程したのち、じゃコーヒーを一杯、とナチュラルに注文したのであった。

 

 「おう、お前らもどうだ」

 

 と、仲間の人たちにも勧めたが、その人たちは、いえ、と首を横に振って遠慮した。

 

 男を席に座らせ、僕とトーカちゃんはその正面辺りに座った。ちょっとして、男の前にルーミアちゃんがコーヒーを出した。

 

 「俺は万丈数壱、十一区から来た」

 

 一口飲み、万丈という男は切り出した。

 

 「金木研です。……あの、万丈さん、店長は今おりませんので、御用でしたらお伝えしておきますけども……」

 

 すると万丈さんは、

 

 「いや、店長の他にも、お前らにもちょいと訊きたいことがあってよ……」

 

 そう言って、ずいっとこちらへ顔を寄せて、

 

 「リゼさんのことなんだが――」

 

 リゼさんが?……。

 

 俄かに僕の胸が波打つ。

 

 「彼女が、どうかしたのですか?」

 

 僕が言うと、万丈さんは少し息を吐き、そしてまた吸った。

 

 が、

 

 「ん?」

 

 と彼は何かに気づいた様子で、怪訝そうな顔で僕を見た。

 

 「お前!……」

 

 「えっ……」

 

 僕の肩を掴んで彼は、顔を更にこちらへ近づけて、すんすんと鼻を鳴らしたのである。

 

 「てめえ! 何でてめえからリゼさんの匂いがするんだよッ!」

 

 「い、いや! あの、僕と彼女は、別に……」

 

 「何、『彼女』だと……、今彼女っつったかァ!」

 

 「ち、違います! 違います! 彼女と言っても、ガールフレンドというわけじゃなくて!……」

 

 「ガ、ア、ル、フレンドだとぉ? ちくしょう!」

 

 という具合に、ますます激昂した万丈さんは拳を振り上げた。駄目だ、完全に耳を貸してくれない。僕が、殴られる腹を決めて身を強張らせた折、

 

 「いい加減にせい!」

 

 トーカちゃんが、万丈さんの振り上げた腕を掴んで止めたのである。

 

 離せ、と彼は怒鳴り散らし、自身の掴まれた手を振り解こうともがくも、ただ揺れるだけで一向に手は離れなかった。そうこうしている内に、トーカちゃんが万丈さんに一発拳をかますと彼は、まるで平衡感覚でも失ったかのように随分あっさりと昏倒したのであった。

 

 殴った当人であるトーカちゃんはいささか渋い顔をして、

 

 「自分から失神するのか……」

 

 彼女は困惑した。

 

 仕方がないので回復するまで寝かせておこうかと思ったが、トーカちゃんが、

 

 「喰種だし、大丈夫でしょ」

 

 無理矢理万丈さんを起こしたのである。

 

 起きた彼に、僕は水を一杯差し出した。

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「あ、ああ……、すまねえ。カネキっつったか? お前、良い奴だな」

 

 「いえ、いえ」

 

 「何つうか、好感の持てる男だ。それならリゼさんも、もしかして……」

 

 「あのう、そのことなんですけど……」

 

 僕はおずおずと万丈さんの誤解を解いた。僕の言い分を聞いて、彼は口をあんぐりと開けて、しまったと言うような面相を見せ、すまねえ! といきなり土下座をしだしたのだ。

 

 「思えや、俺はお前がリゼさんの『コレ』かと決め付けていた!」

 

 「いえ、激情に駆られて暴走するのは誰にでもあることだし、ほら、まずは頭を――」

 

 「いや! こうでもしねえと俺の気が済まねえ!」

 

 相手からの勢いに、僕は何を言ったものかと、ただ黙って僕は万丈さんが床に額を擦りつける様を見ていた。しばらくして彼はゆっくりと頭を上げた。

 

 「それで……リゼさんは今どこに居るんだ?……」

 

 「か、彼女は、ですね……」

 

 それを訊かれて僕は言葉に詰まった。彼女は死んだ、果たしてそれを安易に言っていいものか。

 

 「彼女は、もうここには……」

 

 死んだ、とははっきり言えなかった。

 

 「……そ、そうか」

 

 万丈さんは目に見えて消沈した。

 

 こうして完全に、リゼさんの死亡を万丈さんに教える機会は無くなった。そう実感すると、やっぱり言うべきだったのではという、ちょっとした後悔の念に駆られる。

 

 「すみません、お役に立てなくて」

 

 僕は、役に立てなくて済まないという態度で言った。

 

 「いや、気にすんな、あの人は嵐みたいな人だからよ……。けどな、万が一リゼさんに会えたらだが――、そん時は伝えてほしいことがあるんだ、……逃げてくれってよ」

 

 「どういうことなんですか?」

 

 「……数ヶ月前のことだ」

 

 低く声を落として万丈さんはとつとつと語り始めた。

 

 かいつまんで言うと、ある日突如、十一区に『アオギリの樹』という組織が現れ、瞬く間に区を制圧、次にそこのCCG捜査官を襲撃し始めたらしいのだ。

 

 「今でこそ奴らの下っ端だが、連中がリゼさんを探してるって情報くらいは耳にしたんだ。詳細は分からん、だが碌なことじゃねえってのは予想できる。あんたらも、悪いことは言わねえ、奴らがここに来る前に二十区を離れるこった」

 

 彼が語り終えたその時だった。突如店の窓が外から割られた。そうしてそこから、小柄な少年が入ってきて、万丈さんに目を向けるや否や万丈さんを蹴り飛ばしたのだ。

 

 「まったく、何チンタラやってんだオイ。雑用一つも出来ねえのか? したらてめえらに何の値打ちが残るってんだ、おぉ?」

 

 「アヤト……」

 

 トーカちゃんがその少年の名前と思しきものを呼んだ。アヤトと呼ばれた少年は彼女の方へ振り向き、せせら笑うような面相を見せた。

 

 「おう、トーカ……、久々だな」

 

 やはり、以前依子ちゃんが口にしていた、アヤトというのは彼のことなのだろう。

 

 「どこほっつき歩いてたンだよ」

 

 「なあに、ちょっとした社会勉強だよ、世の中の汚さから目を背けて何も学ぼうとしねえ、馬鹿な姉貴とは違ってな……」

 

 「で、学んでどうすんの、デカイ犬に吼えまくる小っこい犬さながらに他人様に噛み付くってわけ?」

 

 「小っこい犬? 俺がそれなら、差し詰めてめえは、遠吠えする負け犬ってところか」

 

 と、二人が言い争いをしている時、

 

 「もういいかな、アヤト君……」

 

 またもや来訪者が二人程、店の扉から入ってきた。

 

 「入ってもいいよね」

 

 白いスーツを来た白髪の巨漢。

 

 「おじゃましまぁす……」

 

 と、もう一人の、坊主頭のオカマが扉のプレートをCLOSEDにひっくり返して入ってきた。

 

 「……ヤモリか。よくここが分かったな」

 

 アヤト君が煙たそうな面相で巨漢を見た。露骨に舌打ちまでした。しかし巨漢はそれを意に介さず、ニタリと笑いを浮かべ、

 

 「万丈君たちを尾けていたんだ、なかなか優秀な子たちだねぇ……」

 

 ねえ、と、ヤモリと呼ばれた男は万丈さんに目を向けた。

 

 「リ、リゼさんならここには――」

 

 口を開いた万丈さんの顔面を、ヤモリは蹴った。

 

 「そんなことは訊いてないし……、口を開いていいとも言っていない」

 

 それにしても、と言ってヤモリは僕へ視線を流した。

 

 「臭うなぁ……」

 

 ズン、と僕の方へ迫ってくる。

 

 「嫌いな臭いだ、プンプンと漂っていやがるんだもんなぁ……」

 

 迫り来るヤモリに気圧されて僕は後ろへ下がった。そしてそのままカウンターまで追い詰められる。それでもヤモリは僕へ顔を近づけてきた。堪らず僕も上体が後ろへ反れた。

 

 「ねえニコ、こいつでいいかな」

 

 流し目でヤモリは、連れのオカマに言った。

 

 「別にいいんじゃないかしら、さっさと連れてっちゃいましょうよ」

 

 ニヤリとヤモリは笑い、僕へ目を向けなおして、その直後にいきなり横からトーカちゃんの蹴りがヤモリに飛んできた。それをヤモリはブロックし、弾き返した。

 

 「連れてくだと? ふざけんな!」

 

 尻目がちにヤモリは彼女を見やり、それで失笑気味に嘆息をした。次の瞬間、ヤモリの手の甲が彼女の顎を打擲した。いともあっさりと彼女は後ろに倒れた。

 

 「たしか君も、アヤト君と同じで羽赫だったんだよね。でもそれにしては鈍いねぇ」

 

 「トーカちゃん!」

 

 僕は思わず彼女へ駆け寄ろうとした。が、その前に首が、ヤモリの腕によってカウンターへ押さえ付けられた。

 

 「誰が動いていいっつった」

 

 喉仏ごと押さえつけられ、首の骨がずれる感覚がした。嘔吐感がこみ上げ、えずこうとするもそれは許されず、動こうとする喉も押さえつけられ更に苦しい。相手は鼻から激しく唸り声をひり出し、込める力をどんどん強くしていく。

 

 けれども、ある時を境に、不意に力が緩まった。 さりとてまだ押さえ付けられている状態だが、少しだけ楽になってきて、見るとヤモリが別の方を向いているのが分かった。

 

 「何見てんだよ」

 

 ヤモリは、自身が向いている先にいる――ルーミアちゃんに向かってドスを利かせた声で言った。

 

 「別に」

 

 彼女は然有らぬ体で応えた。

 

 「……」

 

 その声が気に障ったのか、ヤモリは僕を放って彼女の方へ歩いていった。

 

 「おい……、やめろよ……」

 

 そう言ってトーカちゃんが、身体起こそうとするも、起き上がれないでいるようだった。僕の方もまた、意識が朦朧としていて自由に動けなかった。そうこうしている内にヤモリは既に彼女の前まで来てしまった。

 

 ルーミアちゃんはカウンターの椅子に座って、カウンターを背もたれ代わりにしながら、目前に居る巨漢を見上げていた。対する巨漢――ヤモリは、憤怒の面相をするわけでもなく、かと言って笑わず、目線だけで彼女をねめつけている。

 

 まずい。このままだと、間違いなく彼女はヤモリの手に掛かる。そう判ってはいるのに、僕の身体は言うことを聞いてくれなかった。

 

 そうしてヤモリの睨みはどんどん強くなっていく。それとは対照的に、相変わらずルーミアちゃんは冷めた眼のまま、眺めるらしい態度でヤモリを見やっていた。

 

 「ふん……」

 

 ヤモリは一瞬だけ彼女から目を離した。

 

 だが。

 

 突如ルーミアちゃんの首を引っ掴んだかと思えば、彼女の小柄な身体を一気に持ち上げたのだ。

 

 それを見て意識が一瞬にして覚醒した。

 

 僕とトーカちゃんがヤモリに飛び掛ったのは同時だった。しかし僕の手が届く前に、腹を何かに貫かれた。それは赫子。ヤモリの腰から生えた棘の生えた物だ。それが僕の腹を背骨ごと貫いている。下半身が重力に引っ張られる。胴と脚が引き千切られてしまいそうな苦しみが僕を襲う。

 

 苦しみの中でチラッと、未だにルーミアちゃんはヤモリの手で締め上げられているのが見えた。おそらくトーカちゃんも妨害されたのだろう。

 

 痛みに慣れてきて、ようやく周囲の光景が瞭然と見えてくる。締め上げられているルーミアちゃんの向こうで、トーカちゃんが倒れ伏しており、その彼女とヤモリの間にアヤト君が立っていた。

 

 「弱いなトーカ、親父とダブるよ……」

 

 手首をぶらぶらと振ってアヤト君が一言。

 

 トーカちゃんは緩慢な動きでどうにか体を起こす。歯噛みして音が鳴る。次の瞬間、赫子を出してアヤト君に飛び掛かる。それを彼は同じく赫子で防いだ。

 

 「弱いだと……、私たちを護るために死んだんだぞ!……」

 

 怒鳴り立てるトーカちゃんを赫子越しに見て、アヤト君は鼻で笑った。

 

 「そもそも、人肉しか喰えねえ俺たちが、人間と仲良くやっていこうなんて頭湧いてるとしか言いようがねェだろ」

 

 トーカちゃんの赫子が弾き返される。その隙にアヤト君が彼女へ蹴りを入れた。

 

 「止しとけよ、まだ頭ぐらついてンだろ」

 

 寝とけ! というアヤト君の一声と共に、トーカちゃんの頭が踏んづけられて、彼女は完全に気を失ったらしかった。

 

 一部始終を見ていたヤモリはそれを見届けた後、再びルーミアちゃんに目を向けた。顔をしかめ、彼女へ顔を近づけて、

 

 「何だその眼は」

 

 威嚇する低い声で恫喝した。すると、ルーミアちゃんは、自身を掴み上げている腕に自分の手をポンと乗せた。訝しげにヤモリはそれを見ている。

 

 やがてヤモリ、ウッと一声呻き出す。

 

 ギリギリという締め付ける音が、僕のほうにも聞こえてくる。ルーミアちゃんの首からではない、ヤモリの腕からだった。締め付けられているヤモリのほうも、それをやめさせようとするように、彼女を締め上げる手を更に強めている。

 

 「このガキィ……」

 

 犬が唸るみたいに憎々しげな、威嚇の声。

 

 「何だその眼は……」

 

 「ねえヤモリ、もうやめときなさいよ、そんな小さな子ども相手に」

 

 と、連れのオカマがヤモリの肩を叩くと、睨む眼をヤモリはそのオカマに向け、直後に、空いている左手で腹を貫いたのだ。驚愕と、苦しみの呻き声をオカマは上げた。

 

 「うるせェんだよ、このホモ野郎がよォ!……」

 

 その喚きと同時にヤモリの腕が一層力む。それと共にルーミアちゃんの首が、一気にへし折れたのであった。

 

 彼女の頭は、ダラリと横に折れていた。首の骨が繋がっているなら、首は完全に横になるまで倒れたりはしないが、彼女の首はまるで骨が外れたかのように、不自然なまでに倒れていて、ぷらぷらと揺れていた。

 

 ぞわっとした。血の気が引いた。

 

 チッ、とヤモリは舌打ちをした。そして、たった今殺した少女の死骸を、無造作に投げたのだ。その死骸はカウンターの縁に当たってから、その向こうへと落ち、小さく軽い体が床に投げ出されたあっけない音を立てて、それっきりとなった。

 

 「ああッ……」

 

 不意に僕は暴れだした。動かなくなってただの重しと化した下半身なんてお構いなしに、遮二無二腕の力だけでもがいていた。自分の腹を背骨ごと貫く、棘の付いた赫子を掴んで、これを抜こうとしていた。そんな僕を見て、ヤモリはうっすらと嗜虐的な笑みを浮かべる。それで、僕の腹を貫く赫子を、傷口を抉るように動かしてきた。

 

 身体が固まりそうな激しい痛みが僕の全身を襲う。それでも僕はもがくのを止められなかった。何も出来なかったのを否定するために、動かずにいられなかったのだ。

 

 「てめえもウゼェんだよ、さっきっからッ!」

 

 ヤモリはそんな僕を、カウンターや床や、テーブルに叩き付けるのだ。鈍痛が全身を覆ってくる。しかしそれでも僕の身体は動き続けた。そんな僕を止めさせようと、ひたすらヤモリは僕を叩き付けてくる。

 

 互いにもう何もお構いなしだった。万丈さんや、連れのオカマが止めに入っても、ヤモリはまるで見向きもせず、僕もそれ以外には何があるのかすら分からなかった。

 

 しかし、いくら興奮していると言っても、僕は疲弊はしていた。だんだんと力が抜けていく。それでも精一杯もがきはしたが、やっぱり力が落ちていくのが分かる。思考すら単調になっていき、やがては周囲の景色がぼやけてきて――。

 

 そしていつの間にか僕の意識は暗転していた。

 

 気分では未だにヤモリに抵抗していた。

 

 けれどもそれは既に終わっていた。

 

 僕は今夢を見ている……のかもしれない。いや、追憶と言うべきか。

 

 先日、伯母が死んだ。死因は、忘れた。別れの言葉を交わす間もなく、実にあっさりと死んだらしい。

 

 僕の家は母子家庭だった。父は僕が物心付く前に死んだと聞かされていた。だから母は、家計を支えるために、昼はパート――夜は清掃員――空いた時間で家事と内職をしていたのだ。伯母は、そんな母から、金銭に余裕がないと言って金を無心していたのだ。その度に母から聴かされていたのが、

 

 「損をしたっていいのよ……、優しい人はそれだけで幸せなの……。傷付ける人より、傷付けられる人、よ……」

 

 僕はそれに唯々諾々と頷いていた。ただ母への親愛と尊敬のままに。

 

 その結果が過労死だ。

 

 いくら母から優しさというものを諄々教えられていたとしても、僕は、母を死なせた伯母が赦せなかった。

 

 そうして独りになった僕を引き取ったのが、件の伯母なのである。僕は知っている、彼女は僕の母を過労死に追い込んだ事に罪悪感を抱いていて、その贖罪として僕を引き取ったのだ。

 

 嬉しくはあった。だから、迷惑を掛けないようにと良い子になるよう努力し、勉強も頑張った。そしたら彼女は僕の頬をひっぱたいてきたのだ。

 

 当てこすりか、と。

 

 妹も――僕の母――また、狡賢く立ち回っていた、と。

 

 その時僕は、

 

 「そうか……、伯母さんは、母さんと僕が端から嫌いだったのか。だからあんな意地悪を……」

 

 それは邪推に近いが、事実でもあっただろう。

 

 その事があって、僕はますます伯母を、……延いては彼女の家庭までもを憎んだ。

 

 それだけ憎かったのだ。本当に憎かった。喪失感すらも、伯母への憎悪に費やしたと言っても過言ではない。でもそれなのに――、死んでほしいくらい憎いのに――。

 

 身内が死んだというだけで、こんなにも哀しい。

 

 ところで、伯母には一人息子――即ち僕の従兄がいるのだが。僕と彼は取り立てて仲が良いわけではない。伯母が僕を嫌っていて、僕が伯母を憎んでいるにより、微妙な間柄ではある。が、かと言って本当に仲が悪いわけでもない。

 

 で、伯母の葬式にて、久方ぶりに彼と再会したのである。話し掛けてきたのは向こうのほうだった。無表情で彼はとつとつと、挨拶から始まり、ちょっとした四方山話を挟んで、亡くなった伯母のことについて語りだしたのであった。

 

 僕が伯母の家庭から離れて以降、彼女は、居なくなった僕のことを案じていたのだと言う。僕や、僕の母に対しての行いを、償いたかったのだと。伯母の良人――つまり僕の伯父も、自身の妻の感情を宥めずにいたことを後悔していたらしい。

 

 もっとしっかりしていさえすれば、こんなすれ違いが起こることはなかった、と彼は語った。

 

 ――すまなかった。

 

 一言だけの謝罪。しかし彼の慙愧が一杯々々詰め込まれていた。

 

 本当に、世の中何が良くて、何が悪いのか判ったものではない。伯母が死ぬことに因って、ああして腹を割って話し合うことが出来て、ようやく和解するが出来た。人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。

 

 僕の追憶――夢はここまでだ。

 

 気が付いたら僕は、暗く狭い何かに詰め込まれていた。寝袋らしき物であるのが判る。壁にもたれ掛かるように僕は放置されていた。

 

 不意に目の前の暗闇が裂け、光が見えた。どうやら僕はこの袋から解放されるらしい。

 

 そこに居たのはアヤト君だった。

 

 彼は出し抜けに、立て、という指示を出してきて、僕が立ち上がると次は、ついて来い、と言うや否や僕に背を向けて歩き出した。とりあえず僕はそれに従った。

 

 「ねえ、アヤト君……だったよね」

 

 アヤト君は立ち止った。振り向いて、僕の胸倉を掴んで、

 

 「口には気を付けろよ、クンじゃねえサンだ、サンを付けろデコ助野郎。それと、これからはお前は余計な口を出すな、人形みたいにじっとしてろ、いいな」

 

 突き飛ばすように僕の胸倉を離し、再び彼は僕に背を向けて歩き出した。

 

 それにしても不気味な場所だ。どこかの廃墟か。以前はどのような所だったのか分からない。こういったことを考えている内に、アヤト君の仲間と思しき人たちが居る部屋まで来たのであった。異様な集団だった。めいめい奇妙なデザインの仮面を被り、同じようなマントを被っている。万丈さんたちも居た。

 

 その中でも特に異様だったのが、部屋の奥で、壁に背中を預け膝を抱えて座り込んでいる、素肌を包帯で覆い隠し、マントを被った人――少女?――。それと、その両脇に佇む二人。片方の男は、白髪に真っ白な肌、白いコートを首元まで隠すように着ており、口元を覆うタイプの赤い仮面を着けていた。そしてもう片方は、大きな口の描かれた仮面を被っていて、直立不動のままピクリとも動かない不気味な男だった。

 

 「タタラさん、こいつです」

 

 アヤト君は僕を、その佇んでいる二人の白いほうの前に突き出して言った。

 

 「ほう」

 

 白い男は反応した。どうやらこの男がタタラというらしい。

 

 「こいつが、リゼ持ちか……」

 

 タタラはおもむろに僕の肩に手を置いた。

 

 次の瞬間。タタラは僕の腹を貫いてきたのだ。

 

 「ふむ……、これは……。なるほどな、確かにリゼのだ」

 

 僕の腹から、貫いた腕を引き抜き、

 

 「だが弱いな……、戦力になりそうなものかと、思ったんだがなあ」

 

 僕は絶叫も発せず、腹を抱えて蹲るように倒れた。彼はそんな僕に一瞥もくれず、淡々と述べている。

 

 「こいつは、アヤト、お前にやる。俺からすれば、使い道のない奴だ。煮るなり焼くなり、好きにするといい。あいつらと同じ扱いで、十分だろう……」

 

 と、万丈さんたちを見やって言った。

 

 その後僕は無造作に、万丈さんらと一緒の部屋に監禁されたのだった。そこには、万丈さんに同行して『あんていく』に来ていた面々の他にも居た。小学生くらいの男の子とその母親の親子まで居る。

 

 ここに監禁されてから、僕は万丈さんと目を合わせられなかった。嘘を吐いたのだから。それが半ば僕のせいでもあると思うと、どうにも申し訳ない気持ちが募ってきて……。

 

 「なあ、カネキ」

 

 突然万丈さんが口を切った。

 

 「は、はい……、何ですか?……」

 

 「お前……、リゼさんのこと……」

 

 案の定の言問いだった。

 

 「……はい、知っていました」

 

 「そうか……」

 

 「すみません……、嘘を吐いて……」

 

 いや違えんだ、と万丈さんは微笑んだ。

 

 「そりゃあよ、リゼさんが死んじまったのは悲しいけどよ、でも俺はカネキに何か悪いことを思っているわけじゃあねえんだ。ただ、お前が俺のことを考えて、敢えてリゼさんのことを黙っていたのが嬉しいんだ」

 

 「でも……」

 

 「いいから気にすんなって」

 

 それよりよ……、と彼は急に神妙な顔つきになり、

 

 「お前、一緒にここを脱走しねえか?」

 

 「脱走!」

 

 思わず僕は大声で聞き返して、万丈さんがシィッ! と人差し指を口元に当てた。

 

 「店でちらって見えたんだけどよ、お前、隻眼……なんだよな?」

 

 万丈さんのその言葉に、えっと周りが声を上げた。

 

 「それ本当なんですか、万丈さん!」

 

 仲間の内の一人が言った。

 

 「見間違いじゃなけりゃな。で、どうなんだ、カネキ」

 

 僕に視線が集まる。少し逡巡して僕は、

 

 「ええ、僕は元人間の……半喰種なんです。あの人たちが言っていたリゼ持ちというのは、彼女の臓器が――もしかしたら彼女の赫包が――僕に移植されたことなんです」

 

 「なるほどな、そりゃあ心強いぜ。何たってあの人は相当だったからな。……まあいい。それで、この話はどうする?」

 

 「僕で役に立てるのなら、喜んで引き受けさせてもらいますけど」

 

 「よっしゃ!」

 

 万丈さんは膝を叩いた。

 

 「そうと決まれや、早速作戦会議ってもんだ。ほれ、お前ら真ん中に寄れ」

 

 その万丈さんの指示で、彼の取り巻きをはじめ、皆が僕と万丈さんのもとへ寄り集まってきたのである。それで円形に並び、頭を中央に寄らせたのだった。

 

 「察しの通り、奴らは相当の手練れだ、雑兵一つとっても赫子の扱い方ってもんを解ってやがる。その中でも幹部連中は輪を掛けてやばい。で、その幹部連中が、まずアオギリのリーダー、通称隻眼の王。その側近ノロとタタラの他に、十三区で幅を利かせてたっていうヤモリ――店でカネキを嬲った奴だ。それと方々の区で暴れまわってたところを拾われた霧島アヤトに、どこかの区で喰種組織のリーダーをやっていた瓶兄弟だ」

 

 霧島アヤト……。やはり彼はトーカちゃんの弟なのか。

 

 「その幹部連中の外出周期で出来る穴を突く。まずアヤトは、タタラと一緒に組織の会合のために、月曜日を基点として六日ごとに外出する。ヤモリは四日ごとに町へ。瓶兄弟は基本的に外出はしない。つまり――」

 

 四と六の最小公倍数の日、即ち十二日ごとに、このアジトの戦力は少しばかり手薄になるというわけか。

 

 「前回の十二日目から、今日は何日目ですか?」

 

 「七日だ、次の十二日目まではあと五日ってところだな」

 

 「五日かぁ……」

 

 それまで何もされないと良いのだが。

 

 結局、この心許ない作戦に、革新的なアイデアが出ることなく、その日はお開きとなった。

 

 次の日。僕たちは、アオギリの構成員たちが狩ってきた人間の肉を裁く作業を宛てがわれた。ひどく嫌な気持ちになる作業だ。僕が小学生の時分、豚の屠殺ビデオを見たことがある、当然気分が悪くなった、ましてや人間の肉なんて……。

 

 「うえっ……、こりゃあ……」

 

 誰かがえずいたのが聞こえて、何となしに僕は目だけでそこを見やった。

 

 「こりゃぜってえヤモリさんが殺ったやつだろ……、きったねえ……」

 

 そう言って、自身が処理していたそれを摘み上げた。瞬間、息をするのを忘れるくらい僕は絶句していた。

 

 よもや人間なのかも疑わしい凄惨な赤と肌色の塊。いくつかの塊が繋がっていて、それらを繋げているのは、赤い筋のような何か。ところどころから突き出ている、潰し砕かれた骨が……。

 

 息が荒らぐくらい深い呼吸をして、ようやく僕は目の前の作業に目を向けた。が、それも人の死体なのだ。思わず僕は目を閉じた。

 

 これはただの肉だ。ただの肉だ。分解してしまえば、いずれただの肉とそう変わらない形になるはずだ。

 

 「カネキ」

 

 声が掛かって、はっと我に返った。声の方を見れば、隣で作業をしていた万丈さんが居た。引き続き彼は唇をぼそぼそと動かす。

 

 「少し寄越せ」

 

 彼は自分の作業台を人差し指で指した。

 

 「でも……」

 

 「俺はこう見えて作業が速いんだ、それに今なら監視も見てねえ、きっとバレやしねえ」

 

 刹那だけ僕はためらい、しかし結局はこの惨たらしい作業に耐え切れず、少しだけ、本当に少しだけ渡したのであった。

 

 その瞬間、

 

 「オイッ、そこのお前ェ!」

 

 監視の怒号が飛んできたのだ。見れば恐ろしい形相でこっちの方の誰かを睨み付けて、足音を大きく鳴らしながら歩いてきている。

 

 けれどもその監視は僕らのほうを無視して、

 

 「このガキッ! 泥棒が!」

 

 見咎められたのは、小さな男の子だったのだ。監視がその子の手首を掴み上げると、その手に肉が握られているのが分かった。その子を監視は地面に引き倒し、つま先で腹を突いた。

 

 「ま、待ってください!」

 

 万丈さんがそれに止めに入った。

 

 「こいつぁ俺の指示です! コウトだったら、このチビだったら上手く盗めるかと思ったもんで!」

 

 万丈さんは、コウトと呼んだ男の子と監視の間に入って、素早く頭を下げた。監視はそれを冷めたように見つめてから、

 

 「頭を上げろ」

 

 と言い、万丈さんがそれに従い、ゆっくりと頭を上げる。彼の目が監視を上目で見えるくらいまで頭を上げたとき、いきなり監視は彼を殴り飛ばしたのである。

 

 「今日はこれくらにしといてやる、……次は承知しねえぞ」

 

 低い声で監視は言いながら去っていった。

 

 こうして、僕の過酷な奴隷生活の一日が終わったのだ。

 

 その日の部屋。僕らに与えられた食料は、何とただの骨の欠片だった。凝固した血や髄の破片がこびり付いたそれが数個程、手のひらに転がる。

 

 「ちっ、俺たちは犬以下かよ」

 

 誰かがそうぼやいた。

 

 まさに僕らは使い捨ての、ティッシュみたいに、乱暴に扱われた挙句には無造作に捨てられる程度の物なのだろう。

 

 「ふぅ……」

 

 さっきの男の子――コウト君がため息を吐いた。

 

 そうだ、この子は未成熟だ、僕らが倒れるよりも前に力尽きてしまうかもわからない。

 

 あのさ――、と僕が声を掛ける直前、

 

 「コウト、俺の分を少し喰っとけ」

 

 「えっ……」

 

 コウト君は、一瞬嬉しそうな顔をした後、すぐ思い止まったらしく俯き、

 

 「……ううん、大丈夫だと……思うよ」

 

 いいから喰え、と万丈さんはコウト君の手を取って、骨の破片を握らせた。

 

 「俺くらい図体がでけえと、少しくらい喰わんでもへっちゃらなんだよ!」

 

 そう言って彼は笑ってみせた。……と思いきや、すぐさま、ぐぅ……と腹が鳴る音が部屋に木霊したのである。

 

 「締まらねぇ……」

 

 誰かが、笑いながら言った。

 

 「あはは……。万丈さん」

 

 少し笑ってから僕は彼の名前を呼んで、僕の分の骨を差し出した。

 

 「僕の分を少しどうぞ、僕はまだここに来て日が浅いんで」

 

 「うっ……、わ、悪いな……」

 

 僕が差し出した骨を見て彼は揺らぎ、自身もやっぱり辛かったからなのか、その逡巡は須臾にして途切れ、申し訳なさそうな、照れ臭そうな面相で彼はその骨を取った。

 

 僕は、いや僕らは、こうしてお互いに励まし合って、どうにか五日を越えようとしていたのである。先述の慰め合いにしても、もしかしたら僕らは、ああしてほっこりドラマを演じることで日常を再現しようとして傷を舐め合っていただけに過ぎないのかもしれない。

 

 いや、駄目だ。この過酷な生活の中で、すっかり僕の心は荒んでしまっている。今は何日目だ? ……五日目か。

 

 今日の分の作業を終えた後、僕らはここを脱走する。

 

 疲れた状態での脱走だ。だけれども僕は、一刻も早くこの時間が過ぎ去っていき、それに至ることを切に願っている。

 

 さて、いよいよ脱走の時が来た。

 

 今までの生活で疲弊した身体でも、希望に縋ることで気力が溢れてきて、それが疲れを少しだけ忘れさせてくれる。

 

 「あともう少しなんだ」

 

 建物の外に出ること自体は簡単だった。そもそも僕たちは労働力であって、捕虜や重要人物というわけではないから、監視などといったものはつかない。巡回する者も、内部から逃げ出す者を見るというよりも、侵入者を迎え撃つというようなものであった。

 

 建物の裏口から出て、すぐ目の前の森へ入り、僕たちは建物から出来るだけ速く離れることにした。遠ざかる建物を見て、張り詰めていた僕の胸は次第にほぐれていった。安心していたのかもしれない。

 

 それが悪かった。

 

 僕たちの前方に、いつの間にか巡回が現れていた。建物から離れることに夢中で、僕たちはそれに気づくのが一瞬遅れてしまったのだ。その一瞬が命取りで、僕らが相手を仕留めるより前に、そいつは大声を上げていた。仕留めてその声が途切れても、この静かな夜の森にその声は響き渡っていた。

 

 僕は慌てて背後の建物を見た。

 

 相も変わらず、例の建物には月の光と影のみが映えている。僕は少しの間だけ、その様子を眺めていた。動く様子はこれといって見当たらない。

 

 僕の鼓動が少しずつ安堵していく。

 

 「……」

 

 瞬間、建物の上のほうの窓から何かが飛び出した。

 

 「来たぞッ、走れェ!」

 

 万丈さんが叫んだ。

 

 その声に反応して僕は背を向けて走り出す。

 

 全力では走らない。僕が前に出ると仲間を置いていきそう。だから僕は後ろを走っている。逃げる。逃げる。逃げる。とにかく走った。

 

 相当走った。そんな気がする。追っ手を振り切れたのか判らない。追跡の足音はしない。気配を感じない。もしかして逃げられたのか。走り名が僕は後ろを見た。

 

 ほとんど見えない暗闇の中。ちらちらと何かが見える。次第にそれははっきりしてくる。そして姿を現すのは追跡者。

 

 「き、来た!……」

 

 僕は喉からの掠れ声を出した。

 

 ひたすら走る。時折後ろを、不安のままに見る。相手との距離は判然としない。

 

 「あっ!……」

 

 前で誰かが転んだ。僕はその刹那の間に、止まるか止まらないか逡巡する。その内にその人を追い越していた。

 

 「お母さん!……」

 

 コウト君が叫んだ。彼の母親が転んだようだ。

 

 彼の母親は手を前に突き出し、這いずり気味に起き上がろうとする。しかしその間に追っ手は彼女に肉薄している。奴は赫子を出す。そして彼女へそれを振るった。

 

 そこへ万丈さんが飛び出した。相手の赫子をその身で受け止め、コウト君の母親に当たらなかった。

 

 「行けぇ!」

 

 彼はコウト君の母親をさっさと起き上がらせる。彼女の背中を押して走らせた。

 

 「カネキ! こいつは俺が相手にする、お前はあいつらを頼む!」

 

 「でも万丈さんが!」

 

 「早く行けぇ!」

 

 もう一人の追っ手がやって来たのが直感的に判り、僕は万丈さんの声に弾かれるようにその場を走り去った。

 

 仲間はどこだ。僕がもたついている間に遠くに離れてしまったのか。少し心細くはあるが、それで良いのかもしれない。

 

 そんなことを思っていたら、どこか別の場所から叫び声が聞こえた。僕は嫌な予感がしてその方へ向きを変えた。それで案の定仲間が、もう一人の追っ手と思しき者に襲撃されていたのである。

 

 倒された仲間の内の一人に、追っ手は赫子を出して飛び掛かる。それを見て僕は駆ける。あらん限りの力で。その時僕の腰に例の違和感が来た。僕はそれをあまり気にせず拳を振りかぶる。そしてその追っ手の脇腹にぶつけた。

 

 どうやら相手の赫子は、僕が無意識に出した赫子が弾いたらしい。相手はそのまま数メートルは吹っ飛んだ。

 

 「大丈夫ですか!」

 

 「あ、ああ、大丈夫だ。ありがとう、カネキさん!」

 

 僕は彼らに背を向けて、追っ手に向き直った。

 

 「ここは僕に任せて、先に行ってください」

 

 「でもそれだとカネキさんが……。そんな真似は出来ない!」

 

 「いいから行くんだッ!」

 

 後ろを向いたまま僕は恫喝するように叫んだ。その声を聞いてか、少しして後ろで何人かが、再び走り出すの音が聞こえた。

 

 「必ず助けに来ます!」

 

 後ろからそれが聞こえてきて、彼らの気配は消えた。

 

 僕は再び追っ手を睨んだ。相手はじっとこちらを見ている。隙を窺うというより、むしろわざわざ待っていたかのように、構えもせず、ただ静かにたたずんでいるらしかった。

 

 完全になめられている。

 

 少しだけ不快になった。

 

 相手へ僕は肉薄する。そうしながら僕は赫子を突き出す。相手は自身の赫子――おそらく尾赫――で、やって来る攻撃を往なしながらかわした。僕は三本の赫子を動かす。それも捌かれた。

 

 動く相手の動きを、僕は読む。その軌道上へ先回りした。ボディブロウを一発。相手は両腕でブロック。続いてアッパーも。相手は顎を上げて余裕で避けた。

 

 僕は赫子を繰り出そうとしたが、その前に相手が自身の赫子を使って、僕の三本ともを弾いてしまった。そうして無防備になった僕の胸部へ相手はストレートを叩きこんでくる。僕はそれを両腕でブロックしようとする。しかし上手く衝撃を殺しきれずよろける。間髪入れずやって来たフックをどうにかよける。反対側からもフックが飛んでくる。僕はそれを腕で防ぎつつ後ろへ飛び退いた。

 

 僕が地面を着いた直後、相手は赫子を飛ばしてきた。僕は一瞬反応が遅れた。しかしどうにか、態勢を立て直したらしい僕の赫子が防いでくれた。

 

 「ふん……」

 

 相手はそう一声出すと、何故か後ろに下がり始めたのだった。如何にも落ち着き払った様子で、僕を見据えたままゆっくりと。その後ある所で、相手は足を止めた。それと同時にその背後から、こちらへ向かってくる人影が見えた。その人影は何かを引きずっている。それはどうやら人のようだった。

 

 「あッ、万丈さん!」

 

 何と引きずられている人は万丈さんだったのだ。また、それを引きずっているのは、さっき僕らを真っ先に追いかけてきて、万丈さんが引き付けていた追っ手の一人だ。

 

 その最初の追っ手は、自分が引きずっていた万丈さんを投げ出した。

 

 「まだ生きているぞ」

 

 その追っ手ははっきりとそう言った。

 

 「俺たちを退けて保護すれば、助かるかもなぁ……」

 

 わざとらしく、もう一人のほうが言った。

 

 僕は身構えた。

 

 すると、今まで僕と戦っていたほうの追っ手が、後からやって来たもう一人のほうに近づき、少し顔を近づけた。僕には聞こえないが、様子からして何かを話しているみたいだった。

 

 話し掛けられていたほうは、話が終わると軽く頷いて相方の肩をポンと叩き、二人はお互いに離れた。彼らは僕の左右斜向かいまで来たところで止まった。

 

 一体何をしようというのか。

 

 僕がその疑問を考える間もなく、二人は僕に向かって飛び掛かってきた。二人同時に赫子を飛ばしてきて、僕は同じく赫子でそれらを防いだ。が、片方はフェイントだったらしく、僕の赫子を受けると見せかけて僕の背後に回ったのであった。

 

 それに一瞬気を取られ、前に残っていたほうが僕に再び攻撃を繰り出し、それを防ぐことで僕の背中の防御が手薄となる。そこへ背後のほうが、赫子で攻撃をしたのである。それは僕の赫子の根っこ、即ち赫包への攻撃であり、僕は三本の赫子の内一本を失ったのであった。

 

 僕はすぐに横方向へ逃げた。だがそれも読まれていた。先回りされて蹴りをお見舞いされ、吹き飛ばされた先に居たもう片方の者によって、また一つ赫包を潰された。

 

 残りは一本。

 

 僕は我武者羅に暴れ、どうにかそこから離脱しようとした。

 

 だが甘かった。

 

 残る一本の赫子を片方が押さえつけ、その隙にもう片方がまたもや僕の背中を赫子で突いたのである。僕はそれに押され、その押された先にあった木にぶつかり、磔にされたのであった。

 

 しばらくそうされた後、背中に突き刺されていた赫子が一気に抜かれ、僕は仰向けに地面へ落ちた。

 

 二人が近づいてきて、仰向けになった僕を覗き込んで、次のように言った。

 

 「赫子に依存したやり方だな、動きを見れば瞭然だ。だが一つ教えといてやる。赫子の性能だけで戦うには限界がある。その上に胡坐をかいて上手く行くほど、この世界は甘くはない」

 

 さて、と片方が口を切った。

 

 「こいつら、どうする。もう用済みだし、始末しておくか」

 

 「いや、生かしておこう、残りの脱走者を誘き寄せるにはお誂え向きだろうからな」

 

 いやその必要はないよ、という声がその時響いた。

 

 「……ヤモリ」

 

 追っ手の片方が低い声で呟いた。僕は追っ手二人が声を出した方を見た。そこには本当にヤモリが居たのだ。

 

 「残りの人なら――」

 

 ほら、とヤモリは、片手に持っていた黒い塊二つを地面に投げた。重い物が地面に落ちる鈍い音を立ててそれらはこちらへ転がってきた。

 

 それは首だった。

 

 僕らと一緒に脱走した人二人が、生首となって転がっていたのだ。

 

 瞠目して僕はヤモリの方へ再び目を向けた。ヤモリの背後には、さっき僕が逃がしたはずの人たちが、青ざめて身震いしながら立っていたのだ。

 

 脱走は――完全に――失敗したのだ。

 

 僕はヤモリを凝視した。彼は微笑んでいた。店で見たあの恐ろしい形相ではない、穏やかな笑みだった。

 

 自らの顔を凝視している僕にヤモリは気づいた。そして口角を更に伸ばし、一層笑みを深めたのである。

 

 【2】

 

 『亜門鋼太郎の手記』

 

 つい最近、篠原幸紀さんに久しぶりに会った。彼は、俺がCCGのアカデミーにいたころの教官で、俺の恩師でもある。今では特等捜査官として活躍している。

 

 その篠原さんから、とある人物を紹介された。名前は鈴屋什造という。元は、ビッグ・マダムという喰種のもとで、文字どおり飼われていた身であったらしい。それゆえかその人格は破綻している。初対面のとき、俺の目の前で、人間を平然と半殺しにしてみせたのは記憶に新しい。

 

 しかしこれも、人間をペットとして飼おうなんてことを考える、狂った人格の喰種のせいでもあるのだろう。そう思うと、この鈴屋の言動は――たしかに許せないことだが――どこかうら哀しく感じられる。

 

 その憤りを篠原さんに話したところ、彼が言ったのはなんと苦言だった。

 

 ――喰種はたしかに抹殺するべきだろうが、それと同時に彼らが人間であることも考えなければならない。

 

 と、そう言っていた。

 

 だが、奴らを人間として見たところで、何になるというのか。奴らは生まれた時点で殺人者だ。そいつらが人間であるからといって、同情するべきことなのか?

 

 そう返したところ、次のように返された。

 

 ――最初に喰種を殺したときの感覚をよく覚えている。罪悪感に満たされていた。でもどこかに達成感があった。次第に罪悪感は薄れていき、それとは反比例して達成感はどんどん膨らんでいった。でもその達成感でさえ、だんだんと慣れてきて、今では喰種を殺したときに感じるすべての感覚が希薄になってしまっている。

 

 ならどうして喰種捜査官を続けているのかと切り返すと、彼は、

 

 ――仕事だからな。

 

 なのだと。

 

 【3】

 

 伊吹萃香は、自分が仕掛けた罠を虎視眈々と見つめていた。そこに獲物が掛かるのを待っているのである。

 

 彼女がこんなことをしているのは、今日訪ねてくる知り合いと食べる鍋に入れる肉のためであった。

 

 しかし一向に掛からない。どうしてか、罠の近くに動物は来るのだが、引っ掛からないのだ。今朝方から始めて、かれこれ三刻程経つが、掛からない。いつもだったら力づくで捕らえるところを、気まぐれで罠で捕らえようとしたのが間違いだったのかもしれない。

 

 「まったく頭の良い畜生どもだ」

 

 そう独りごちた、その時だった。

 

 「わあ!」

 

 という声と共に、罠が動く音がしたのだ。おっ、と首を上げて立ち上がり、一瞬で罠の所へ行った。そこで彼女は、如何なる動物も掛からなかった自身の罠に掛かっている者を見て、

 

 「ぶわっはっはっは!」

 

 腹を抱えて笑い出した。

 

 掛かっていたのは、今日彼女のもとを訪ねるはずの者、萃香の知り合いである宵闇の妖怪だったのだ。

 

 「あったま悪ぅ! 頭悪すぎだろ! 猪も引っ掛からなかったのに! うはははは!」

 

 「笑ってないで早く助けてよ」

 

 憮然として宵闇の妖怪は言った。

 

 その後、宵闇の妖怪は萃香に引き上げられ、二人は酒盛りの準備を始めた。肉のほうは、結局萃香が力づくで猪を捕らえたのであった。

 

 「初めからそうすれば良かったのに」

 

 「えへへ……」

 

 煮えてきた鍋を二人で囲い、両者は互いの盃に酒を注ぎ、乾杯をして呷った。

 

 「ところで、何か土産話はないのかい?」

 

 「ん?」

 

 「どうせまた、幻想郷の外に出て、上方なり江戸なり行っていたんだろう?」

 

 「まあね」

 

 「じゃ、何か適当に、話でも聴かせておくれよ」

 

 別に大した話はないわ、と宵闇の妖怪は一言断り、

 

 「芝居町があやうく無くなりそうだったことくらいかしら」

 

 「へえ、そんな事があったんかい」

 

 「老中水野忠邦が、庶民は贅沢をしてはいけないって御触れを出したんだけど、役者が贅沢をしてそれが庶民に移ってしまう思って、危うく中村座と村山座と守田座の三座まで取り潰されるところだったんだけど、北町奉行がそれに反対してくれたおかげで、浅草に移転するだけにとどまったみたいよ」

 

 「水野の野郎も馬鹿な真似しやがるねぇ。あいつ、いつか痛い目みるだろうさ」

 

 けっ、と萃香は盃の酒を大口開けて飲んだ。

 

 「結構すぐ来るかもしれないわよ、それ」

 

 「ほう、そりゃどういうことだい」

 

 「現南町奉行――鳥居耀蔵。おそらくあの男に裏切られることでしょうね。というか、私の気の合う仲間がね、その仕込みをしたらしいのよ」

 

 「相変わらずお前らは、くだらないことをやってるんだなぁ」

 

 げらげらと萃香は笑った。

 

 「まあ縦しんば鳥居が上に行ったところで、彼奴を恨む者なんてごまんといるでしょうし、もって数年といったところかしら」

 

 「そう言やあ、鳥居って二年前にも殺されそうになってたよな。切っ掛けはたしか、鳥居が南町奉行所のお目付け役花井虎一を使って行った、蘭学者弾圧の一件だったかな。花井はその後、麹町の路上で何者かに喉を一突きされて殺されたんだったか。で、次に狙われた鳥居だな。父親の命日に寺へ来たところを近くの塔から鉄砲で狙われたが、偶然それが当たらず九死に一生を得たってわけだ」

 

 「よく知ってるわね」

 

 「私だってたまには江戸へ行くさ」

 

 それにしても、と、伸びをしながら萃香は後を被せる。

 

 「盛者必衰ってやつだね。世の盛衰ってのも、春の夜の夢みたいなもんで、一たび風が吹けばいとも容易く飛んで行っちまう。そのうち、将軍家も滅んじゃうのかねぇ……」

 

 「すぐに来るでしょうね」

 

 「ほう、そう思うのかい。して、どんな風に?」

 

 「海の向こうから、異国の船が日本を開国しにやって来るとか。おそらくその国の目的は、自分の国を大きくするため。ということは、歴史はそんなに深くはないと思う」

 

 「自分んとこのもんを取り尽くしちまったもんで、奪いに来たってこともあり得るんじゃないかね」

 

 へへへ、と萃香は冗談を言ったみたいに笑った。

 

 そこへ宵闇の妖怪が、ところで、と声を掛けた。

 

 「私が預けていた物、持ってきてくれたかしら」

 

 「ああ、それならここに……」

 

 と、萃香は自分の近くに置いておいた、布で包んだ板状の物を宵闇の妖怪へ渡した。宵闇の妖怪がその布を外すと、それは彼女の大剣であった。

 

 これは、以前、萃香の友人が宵闇の妖怪の剣に興味を持ったらしいということがあり、そこで萃香は、宵闇の妖怪に頼んでその剣を借りて、件の友人にしばらく調べさせたのである。

 

 「それで、その友達とやらは、どんなことを言っていたの?」

 

 「私は頭使うことが苦手だから、あんまし詳らかなことは言えんけど、かいつまんでなら教えられる。まずその剣の用途は、儀式用だそうだ」

 

 「へえ、儀式用……」

 

 と宵闇の妖怪は自らの剣をまじまじと見た。

 

 「それにしては飾り気が足らないような気もするけど」

 

 「まあそんなことは置いといて。そんで、それは大陸の、遥か西の地で造られたんだ。表面には血が付いていた痕があって、どうやら生贄を殺したりしてたらしい。腹に刻まれている文字は、その土地で使われていた文字の一種で、元々は石や木に刻み付けて妖術とかをやるためのものだったんだが、ある奴らがその文字を使っていた集団と分かれて、のちにその文字を独自に発展させたのだと。あいつもこの文字を解読したみたいでさ、ところで訊くが、これには何て書いてあるんだ?」

 

 「そうねぇ……なんか、自分たちが崇拝している存在を自分たちが如何に敬っているかの証拠を示しますって内容だったかしら」

 

 「そう、そう、あいつもそう言ってたな。お前がこの文字を読めたのも、きっと同一視のおかげだろうな。閻魔さんがお地蔵さんと同じだって言われたり、支那で一番偉い神さんが、日本に来ればそれなりに偉いって程度になるのと同じやつさ」

 

 しかしながら、と萃香は続ける。

 

 「妖怪だとか神様っていうのは、本当にいい加減なもんだね。似た奴だって理由だけで、他人様のもんを勝手に使えるんだからな」

 

 「所詮は人間が創ったものだからでしょうね」

 

 「と言うと?」

 

 「自らの始まり、不思議な物事、人情とか。そういった実体(形而下)に名前や形を与え、その集団の意識の内に浮かぶことで神や妖怪は――幻(形而上)は出来上がる。そしてその集団をはじめ、それを知ったり信じたりする者は、それらが見えるようになる。そういうことよ」

 

 「何だよ、それじゃあこの世の不思議なことやその力ってのは、人間の妄想で出来てるってことか? じゃあ、それらを実際にこの世に存在させる源は何さ?」

 

 「そもそも、今私たちが見ているこの世は、実際はどういう形をしているのかしらね」

 

 「意味が解らんなぁ……、何が言いたいんだ」

 

 萃香は目を回した。

 

 「確かにこの世というものは存在しているのかもしれない、でもその風景を私たちは、ありのまま見ているかどうかは判らないでしょう。今私たちが見ている青い空だって、ただ私たちが青く見えているだけで、実際は違う物なのかもしれない。同じく地面も、もしかしたら」

 

 つまりは、と苦々しげに萃香は口を開く。

 

 「この世に事実は無く、在るのは解釈のみってわけかい」

 

 「そういうことね」

 

 宵闇の妖怪は頷いた。

 

 「さればこそ人間は、自身の周囲の実体(形而下)を、そこから創り出した幻(形而上)と結び付け、あたかもそれらが存在しているように感じているのよ」

 

 「なるほどね、何となくだけど解った気がするよ、……気がするだけだけど。即ち、この世を最も歪めているのは、他でもない人間自身だったってことかい、しかもそれで損をするのは人間だけと来たもんだ」

 

 さあて、と言って萃香が立ち上がって、鍋を見た。それは話の途中でも無意識の内に食べていたからか、いつの間にか空っぽになっている。萃香はそれをどかすと、その辺の木の枝を放り投げて火を強め、その後宵闇の妖怪の隣に腰を下ろして、また酒を飲み始めた。

 

 「とすると、元々は人間だった私らが、ある日突然鬼になったってのも、その人間の妄想だからかい? 私らが死んだ後もこうして鬼として存在し続けているのも?」

 

 「それもあるのだろうけど、一番はやっぱり――」

 

 ニヤニヤと宵闇の妖怪は萃香の顔を覗き込み、

 

 「あなたたち自身が勝手に気に病んでいるのが原因なんじゃないかしら」

 

 萃香の頬を指でツンツンとつついた。

 

 横目で萃香は、そうしている宵闇の妖怪を眺め、しばらく無表情でいた。そうして次第にその頬がぴくぴくと持ち上がり、

 

 「くっくっく……」

 

 不気味な、喉から出したような笑い声を立て始めた。少しの間笑ったのち、ふうと一息吐いて肩を落とした。そして一呼吸の間を置いてから、

 

 「私はさ、お前の強さだとか、付き合いの良さだとかはなかなか好きだよ。でもな……」

 

 と、萃香は無造作な笑みを浮かべながら宵闇の妖怪に顔を寄せて、相手の肩に手を置いた。

 

 「お前のその意地の悪いところや狡いところがマジで嫌いでさぁ……」

 

 肩に置いた手に力と重さを掛けて、ぎりぎりと宵闇の妖怪の肩は下がっていく。宵闇の妖怪はそんな相手を、とぼけた笑みを顔に浮かべて見ていた。

 

 「もしもお前が幻想郷の敵になってお尋ね者になった暁には……、そん時はお前もお陀仏だぜ」

 

 そう結んで萃香はゆっくりと、相手の肩を押さえ付けていた手をどけた。宵闇の妖怪は、今しがたまで押さえ付けられていたほうの肩を回し出した。

 

 「私はな――」

 

 おもむろに萃香は、独り言を話すみたいな具合に語り出した。

 

 「私たち鬼はな、他人様から恨みを買って、お天道さんの届かない陰の道を歩く渡世、謂わば天下の嫌われもんだ。だからこそ筋ってもんがあるのさ。――悪人は悪人らしく、善人面はしねェってこった」




嘘設定はロマン、はっきりわかんだね。


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汚濁の巫女(前編)

 お前何サボってんだよぉ、執筆よぉ!(ホモは無責任)。三ヶ月も執筆サボリやがってよ、あぁ?

 レポートがめっちゃ出たしバイトが上手く行かないしでリアルが色々と忙しく、おまけに執筆の進みも悪いで、いつの間にかこんなに経ってました(半ギレ)。出来るだけ早く、夏休み前には投稿しておくべきかなと思ったので、仕方なく前編・後編で分けてで投稿します(ホモは責任感が強い)。


 【1】

 

 「ふむ……」

 

 椅子に縛り付けられている僕の足の指をペンチで挟みながらヤモリは唸った。

 

 「そろそろ次の一本を、打とうかな……」

 

 そう言ってヤモリは注射器を取り出した。中には何やら透明な液体が入っている。Rc細胞抑制剤と言うらしく、喰種の体内に在るRc細胞なる物を抑制することで、通常の方法では傷付かない喰種を、人間と同じように傷付けられるのだという。

 

 注射器が僕の目に突き立てられ、それを注入された。ヤモリが僕の目に注射器の針を刺したのは、硬質な表皮を持つ喰種でも、粘膜であれば普通の針でも通るからだ。

 

 四度目となれば……いや、これよりも激しい苦痛を味わわされた身である僕には、もうそれに悶絶する気力もない。

 

 「じゃ、続きを始めようか……」

 

 僕の足の親指がペンチで挟まれる。

 

 「さてカネキ君、……千引く七は?」

 

 これが再会される時は、いつも決まってこの質問から始まる。

 

 「ねえ、千引く七は?」

 

 ヤモリは飽くまで静かに言った。

 

 「……きゅ、九百九十三」

 

 「よし、よし、そうだねぇ。ならもう一度、……千引く七は?」

 

 「九百九十三……」

 

 「もう一度!」

 

 「九百九十三っ……」

 

 「もっとだ!」

 

 「九百九十三ッ!」

 

 千引く七は、九百九十三。千引く七は九百九十三。千引く七は――。

 

 ヤモリは僕の足の親指をねじりだす。僕は叫んだ。そしてもう片方の足で地団太を踏む。気狂いみたいに僕は上体を跳ねさせていた。

 

 足の指の関節が外れた感覚。それがふくらはぎを上ってくる。不快感が一気に僕の腹へ上ってきた。けどもう吐けない。もう胃袋は空っぽだ。

 

 皮を引き千切られた痛みと共に、僕の足の指の一本が取れた。耐えがたい苦痛が後を引く。でも今の僕にしてみれば、それは大した痛みではない。

 

 僕の反応の何がおもしろかったのか、ヤモリは今までよりも上機嫌に鼻歌を歌いだして、ペンチに挟んだ千切れた僕の足の指を、そばに置いてあったバケツの中に、僕の足の指が大量に入ったバケツの中に放った。

 

 「このバケツを君の指でいっぱいにするんだったら、あと何本の指が必要かな?」

 

 僕が今こうしているのは、万丈さんたちを助けるためだった。

 

 脱走に失敗してアオギリに捕まった僕らに、ヤモリはある取引を持ち掛けた。

 

 奴の下に来るなら、残りの生き残ったメンバーを生かしておいてもいい、と。

 

 当然僕は、仲間の制止を振り切ってそれに飛びついた。それがこの様だ。こうして奴の趣味で――奴が自身の欲望をぶつけるために――拷問をされている。

 

 再びヤモリは僕の前に屈み込み、ペンチでまた僕の足の指を挟む。ねじる。僕は叫ぶ。しかし奴は聞き入れない、むしろ楽しんでいる。

 

 「九百九十三引く七は?」

 

 笑いを堪えているらしい声でヤモリは問う。

 

 「九百八十六ッ!……」

 

 絶叫と共に僕は答えた。指が足から千切れたのはそれと同時だった。

 

 「ほら、続けなよ」

 

 ガチン、ガチンとペンチが鳴る音が聞こえた。

 

 「九百七十九……、九百七十二……」

 

 奴は僕に、拷問の最中はこうして千から七を引き続けるように強要している。最初は意味も解らずそれに従った。今ではその意味が嫌というほど解る。

 

 この『作業』を繰り返しているから、僕は拷問の恐怖から目を背けていられる。でもその代わり、狂気の世界にも逃げ込めない。それを重々解っていながら僕はこの『作業』に縋りつく他無かった。

 

 ヤモリは僕の残りの足を一気にねじ切った。膨大な痛みの洪水が僕に叩き付けられた。足が、無くなってしまった気がした。

 

 ヤモリの笑い声がこの場所に響き渡っている。僕の頭の中にまで響いているのかというくらい大きい声だ。

 

 「九百五十一!……、九百四十四!……、九百三十七!……」

 

 うわ言のように僕は作業を繰り返している。ひたすら。正気を保たんとして、――そうして我が身を護らんとして。それがどんなに僕を苦しめるものだろうと、どんなに無意味なことであろうと、今の僕では長い目で物事を見ることは叶わない。

 

 項垂れながらそれを続けていると、不意に頬を撫でられた。すべすべとした、絹糸のような、温かい女性の手である。心地良さで顔を綻ばせて僕は顔を上げる。

 

 「リゼ……さん……」

 

 目の前で前屈みに僕の顔を覗き込んでいたリゼさんは、

 

 「お久しぶり……カネキ君」

 

 莞爾として微笑した。

 

 「どうしてここに……」

 

 周りを見てごらんなさい、と彼女に言われた。気づいて左右を見渡してみると、そこには何も無かった。延々と白い世界が広がっていて、その真っ只中に、椅子に座った僕と、佇む彼女が存在しているだけだ。

 

 「ここは……」

 

 「夢の世界よ」

 

 「夢の世界、だって……」

 

 思わず聞き返して僕は気づいた。

 

 疲れていない。

 

 先日の脱走、追っ手との交戦、ヤモリからの拷問、それら全てに因る疲労が嘘みたいに消えている。

 

 うふふ、とリゼさんは笑った。

 

 「夢の世界では何でも有りなのよ。当然、あなたが何を考えているのかなんて私にはお見通しだし、あなたがこれからどんな運命を選択するのかも、私は知っている……」

 

 「あなたは……誰なんだ」

 

 「私は私よ、本物ではないけど。私の正体が知れるかどうかはあなた次第……。ここは夢の世界――、つまり、普段は超自我が抑圧していることが具現化する世界、けれどもそれは必ずしもそのままというわけじゃなくて、歪んだ形で現れることもある」

 

 リゼさんは僕の周囲を周りだした。視界の袖に彼女の姿が消える。

 

 「教えてください、僕はこれからどうなるんですか」

 

 「いずれ分かるわ、……いずれね」

 

 彼女は僕の後ろまで来たらしく、彼女の声は後ろから聞こえた。そうして左の方まで彼女は歩き、やがて左側から姿を現した。

 

だがそれはリゼさんではなかった。

 

 「君は……ルーミアちゃん……」

 

 瞠目して僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女はにっこりと笑った。

 

 「君も、やっぱり本物じゃないんだよね……。じゃあ誰なんだ?」

 

 だから言ってるでしょ、と囁くようにルーミアちゃんは言った。

 

 「ここは夢の世界。私の正体が知りたければ、自分の胸に訊いてみるしかないのよ。ほら――」

 

 と彼女が言うと、周囲の様相がいつの間にか、本当に忽然と、まるで最初からそうであったかのように変わっていた。今まで真っ白ばかりで何もない空間に、椅子やテーブル、戸棚などの家具、カーペット、フローリングが現れたのだ。そして僕はこの場所を知っている。ここは僕が幼い時分に、母と一緒に住んでいた部屋だ。

 

 あ……、と僕は声を漏らした。思わず椅子から立ち上がろうとした。その時、僕は椅子に鎖で縛り付けられていることを思い出した。しかしその時には既に僕は立ち上がっていた。

 

 「ほら、夢だから……」

 

 リゼさんが横に居て、僕の肩に手を置いた。

 

 「それで――あそこで内職をしているのが、あなたのお母さんかしら?」

 

 リゼさんが示した先には、ローテーブルの前に座って、造花の内職をしている、僕の母の後ろ姿があった。

 

 「……母さん」

 

 「そう……あの人がね……。それじゃあ――」

 

 彼女がそう言って振り向くと、その先には玄関があった。ちょうど扉が開いて誰かが入ってくるところだった。

 

 それは僕だった。まだ幼い――小学生くらいの時のだ。

 

 ただいま、と当時の僕は声を張った。

 

 「可愛いわね」

 

 テーブルの椅子に腰かけて、頬杖を突きながらリゼさんは言った。

 

 「ところで、あれは何をしているの?」

 

 彼女が指したのは、当時の僕が、内職をしている母さんに、これ何て読むの? と訊いているところだった。

 

 「僕は当時やっぱり小学生だから、分からない漢字が多かった。それで、僕の母さんは、それらの漢字に振り仮名を振ってくれたんだ……」

 

 子どもだったから仕方がなかったとは言え、日がな一日働き詰めの母に、あれは酷だったかもしれない。

 

 「もう少し、気を遣えれば良かったのに……」

 

 母への負い目と、感謝と、尊敬の気持ちが綯交ぜになった複雑な気持ちが胸から横隔膜までを漂う。

 

 「あら? 今度はお母さん、お仕事かしら。それであなたは独りでお留守番……」

 

 リゼさんの言葉で、僕は彼女の視線を追うまでもなく、玄関の方を見やっていた。

 

 ちらりと母の後ろ姿が、閉まりゆく玄関の扉から見えた。

 

 「寂しくなかった?」

 

 その口吻は問うようなものではなく、どちらかというと僕に語らせようとするものだった。

 

 「強がってはいたけど、やっぱり寂しくはあったかな……。でも――」

 

 ある部屋への扉を見やって僕は語る。

 

 「父さんの書斎にある本で、それを紛らわせたんだ」

 

 当時の僕はその部屋へ入っていった。僕もその後を追って部屋に入り、扉の近くで、部屋の中にある机で独り一心不乱に本を読む当時の僕の背中を見つめた。

 

 時々、迷ったように唸っては、独り得心したり、諦めの嘆息をして先へ読み進めていっている。

 

 「凄い量の本ね」

 

 リゼさんが居なくなり、先ほどまで彼女が居たところには、代わりにルーミアちゃんが立っていた。

 

 「ああ、全部父さんのだよ」

 

 僕はもう、特に気にせず語ることにした。

 

 「僕が物心つく前には、もう鬼籍に入っていたんだ」

 

 「謂うなればこれらの本は、あなたの父親の形見というわけね」

 

 「そうなるね……」

 

 形見であることは、僕としても納得だ。あの本を読んでいる時に、もしも僕にも父さんがいたらと夢想をしていたのは事実だ。僕の頭の中に、知識で、時には理想を混ぜて、父親像を造り上げていた。

 

 そう言えば、とルーミアちゃんは口を切る。

 

 「幼い子供は、母親から離れる際に、寂しさを紛らわすために母親の代わりとしてヌイグルミやタオルに愛着を持って、それを肌身離さず持つようになるというのがあってね」

 

 「ああ、ウィニコットの『移行対象』っていうやつだね」

 

 「もしかして形見というのは、それに近いものなのかも――」

 

 「そうなのかな……」

 

 解るような、解らないような。

 

 「大人でも、そういう子どもと同じような行動をする場合って、あるのかな」

 

 「デカルトは自分の娘が幼くして命を落としたものだから、のちに一体のフランス人形を購入してそれにフランシーヌという名前を付け溺愛した。それだけじゃないわ。詩人の高村光太郎も、妻を失った際には、妻が生前大切にしていた人形を常に懐へ入れて持ち歩いていたのだとか」

 

 有名な話だ。

 

 「人間は、堪えがたい事態に直面すると、ともすれば自分が幼かった頃に心が『退行』する。大切な人を亡くすという堪えがたい事態に直面した人は、或いは、その『移行対象』の時期まで『退行』するものなのかもしれない――」

 

 それはちょっと恣意的な解釈なのではないかと思った。

 

 「形見を持つ人にだって色々いるんじゃないかな?」

 

 「でしょうね。人はめいめい様々な動機で、死者が遺した物を保有していて、それら全てをひっくるめて形見と言うんだから。例えば、幼い時の研が、亡き父親の書斎で本を読むのだって、父親が居ないことの空虚さを埋めるための『摂取』とも取れるのだから……」

 

 彼女の語りはそこで終わった。すると、突如彼女の周囲から闇が現れ、彼女を包んでしまったかと思うと、それは部屋全体へ広がっていったのである。何もかもが飲み込まれ、須臾にして僕を残して何も無くなってしまった。

 

 だが闇はすぐに晴れた。明かりがパッと点くみたいに、同じ場所が姿を現したのだ。僕はと言うと、最初居た所に戻されていた。

 

 ここに僕は居ないようだった。けど母は居た。

 

 玄関に立って、開いた扉の向こうに居る誰かに、茶色い封筒に入った何かを渡している彼女の姿があった。

 

 彼女の姉――僕の伯母だ。

 

 金に余裕が無いからと言って、ああしてうちに金を無心しに来る。それに因ってうちの家計は更に切迫したのだ。それを補填するために母はますます仕事を増やしたのだ。

 

 伯母の背中を見送ると、部屋に戻って母は、ついさっきまでやっていた内職の作業に戻っていった。

 

 作業はそこまで捗っていないらしかった。彼女は内職で扱っている物を手に取って、作業を再開しようとするも、疲れたように溜息を吐いて、そのままローテーブルに突っ伏し、眠りに落ちてしまった。

 

 僕は押し入れから薄めの毛布を取り出して、彼女の肩に、そっと掛けた。

 

 「随分と静かに眠っているわね……」

 

 今度はリゼさんが、僕の後ろに立っているようだ。

 

 「まるで死んでいるみたい……、本当に生きているのかしら?」

 

 その言葉で僕が血の気が引き、

 

 「そんな馬鹿な……」

 

 母の首筋に指を当てた。何だか肌がぬるいような気がした。

 

 脈は――無かった。 

 

 「え……」

 

 僕がそれを認識すると、ぬるいという程度だった母の肌が、一瞬にして冷たくなった。

 

 「そんなっ!」

 

 思わず立ち上がって顔を上げた。そしたらそこはもう僕の住んでいた所ではなくなっていた。

 

 真っ白な壁に、真っ白なカーテンの、病室。

 

 視線を下に戻すと、これまた白いベッドに、すっかり色が抜けきって青白い肌の僕の母が、白い毛布を掛けられて横たえられていた。

 

 枕元辺りに、もう何も返事をしてくれない母に、縋りついてすすり泣く当時の僕の姿があった。

 

 力が抜け、首筋や肩に鳥肌が立つのが分かる。呼吸が浅くなって、息苦しいはずなのに、その苦しさの実感が湧かない。

 

 「あーあ」

 

 リゼさんではない別の、高い声が僕の耳元で囁かれた。

 

 「死んじゃったわね……」

 

 僕の首がガクンと落ちた。吃驚して次に頭を上げた時には、もう夢の景観は消えて、元の部屋に、ヤモリから拷問を受けていた部屋に戻ってきていた。

 

 「気が付いたかい?」

 

 横でヤモリが、両手で拷問用のペンチを弄りながら言った。

 

 息を荒げて僕は自分の状況を見る。両手は後ろに鎖で縛られ、両足首は椅子の足に鎖で繋がれ、胴は椅子と共に鎖で巻き付けられている。

 

 何も変わっていない。あるとすれば、夢を見る前には片足の指だけが千切れていたのに、今はもう片方の足の指も全て無くなり、断面ではうぞうぞとした物が蠢き、じっくりと指を再生している。

 

 「何だか、まるで何も憶えていないように見えるねぇ。僕が君の指をねじ切っている間にも、君はしっかりと千から七を引き続けながら、絶叫をしていたのに」

 

 まあいい、とヤモリは、近くにあるトレーにペンチを置き、その隣に置いてあった虫かごから何か、黒くて細長いものを取り出して、

 

 「こいつを見てくれ、どう思う?」

 

 僕の顔に近づけたのである。

 

 ムカデだ。それも飛び切り大きなもの。

 

 ヤモリの指に摘ままれて、不快な鳴き声を上げて身を捩って逃れようとしてい、その度にてらてらと黒い甲が光を反射している。

 

 「トビズオオムカデって言うんだ、国内最大級のムカデさ……。で、こいつをね、君の耳に入れてみようかなって、思うんだ」

 

 ヤモリは目をひん剥いて笑う。込み上げてくる笑い声を抑えようとヤモリは唇を引き結んで鼻の穴を膨らます。しかしそれは、イビキのような音と共に漏れ出てきている。

 

 「い、嫌だ……」

 

 僕は首を、強く横に振った。いや振ったというより、打ち震えると言ったところかもしれない。

 

 「やめて……、お願いします!……。……やだ! やだッ、やだッ、やだッ!」

 

 だがヤモリはその僕の哀願に一切耳を傾けることなく、僕の頭を腕で抱え込み押さえつけ、僕の耳を上に向けさせると、そこからムカデを押し込んできた。耳の中に圧迫感が来る。蠢くムカデの脚が耳の壁を引っ掻く。ずるずるとムカデの身が入っていき、鼓膜辺りまで到達する。しかしまだ、全部が入りきってはいない。更に奥まで押し込まれ、鼓膜が突っ張り激痛が走る。

 

 僕は金切り声を上げて一層暴れる。

 

 耳が破裂したのかという衝撃と痛みが来る。あとはじりじりと僕の耳が、僕の頭が、ムカデに占領されるだけだった。

 

 ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、々、々、々、々、々、……。

 

 頭の中でムカデがほくそ笑んでいる。その高笑いを僕に聴かせようとしている。嫌悪感が内から湧き上がり、肌の表面へ出て、全体を駆け巡る。

 

 僕は笑い出した。苦痛を誤魔化そうと、とにかく声を張った。それでも足りないから、笑い出した。頭の中の雑音を消そうと哄笑した。

 

 雑音の怒涛の中でも、あいつの声は、ヤモリが笑う声は聞こえていた。

 

 次第に痛みに慣れてきて、声を出す気力も衰えてきた僕は、今は大声を出すのをやめて歯を食いしばり、痛みをやり過ごしている。

 

 ヤモリには、特に何も感じていないように思える。

 

 「もう……殺して……。殺して、ください……」

 

 この苦痛から逃れたい気持ちのままに、無意味な懇願を続ける。今の僕にとってあいつはそんな偶像的な存在なのかもしれない。

 

 「いや、まだまだ……」

 

 二つの――いや二人の人間をヤモリは引きずってきて、僕の前にそれらを投げ出した。その二人は呻き声を上げてから、おもむろに顔を上げて、僕と目が合った。

 

 片方は女性、もう片方は男の子。それも見たことのある二人だった。

 

 「ねえ、君、名前を教えてくれるかな?」

 

 と、男の子のほうの髪の毛を掴んで、ヤモリは顔を近づけて言った。

 

 男の子は首を引っ込めて自身の顔をヤモリから遠ざけて、目を逸らし、震えていた。

 

 ゴッという鈍い音がした。男の子の顔面をヤモリが地面に叩き付けたのだ。しかし彼の顔は、打ち付けた所が赤くなっているだけで、鼻からも鼻血は出ていなかった。おそらくヤモリも手加減をしたのだろう。それもわざと。

 

 母親が悲痛な声を上げる。

 

 「君の名前を、教えてくれるかな?」

 

 優しげな声で微笑みながら、ヤモリはもう一度言った。

 

 「コ、コウト……」

 

 泣きそうな面持ちで男の子はそう答えた。

 

 「そっか、コウト君かぁ……、じゃあそこの女の人は君のお母さんだね? だそうだよ、カネキ君」

 

 意味深にヤモリは僕を見て、一層笑みを深めた。

 

 「ここでカネキ君に、一つ質問があるんだ……」

 

 いきなりヤモリは、その親子の首を、それぞれ片腕で締め上げて、それから僕の前に突き出して見せつけてきたのである。

 

 「これからこの二人の親子の内、母親か子どものどちらか、それか両方を殺そうかと思うんだ。そこで、この二人の内どちらを殺すかを、君に決めてもらいたいというわけなんだけど……」

 

 ほんの少しの間、僕はその残忍な選択を押し付けられた実感が湧かなかった。しかしすぐに現実に引き戻され、まざまざとそれを見せられる。

 

 「ねえ、どっちを殺す?」

 

 ニヤニヤ、ニヤニヤ。

 

 「君が選んでくれなきゃ、……僕が二人とも殺しちゃうけど」

 

 ひたすらヤモリはニヤニヤ笑い続ける。

 

 こいつはきっと、最低でもこの親子の内どちらか一方を殺す。それは分かっている。でも僕にはどちらかを選択するなどというものは考えなかった。

 

 「やめろよ」

 

 「あ?」

 

 「やめろよ!……。選べるわけがないだろッ。殺すんなら……僕を殺せばいいじゃないかッ!」

 

 顔を突き出した僕は言った。どれだけ無駄なことだと分かってはいても、こうして懇願して、いずれ相手は赦してくれるのではないかという期待が、どこかにあった。

 

 いや、或いは、その期待はただの現実逃避なのではないか。

 

 いやらしい笑いを浮かべながら、ヤモリは僕の顔を見ている。元々細かった目は、最早閉じているというくらい細められ、口角も、これ以上やると裂けるのではないかというくらい、引き伸ばされている。そうして僕の懇願する様を、情けなくなっていく相好を見て楽しんでいるのだ。

 

 突然ヤモリは、自分の脇に抱えた親子の内、コウト君のほうの顔を床に叩き付けだしたのである。コウト君の顔はしばらくヤモリによって床に押し付けられていた。引き上げられたコウト君の顔は、まさに恐ろしさと驚愕を混ぜた表情となっていた。自分の鼻から垂れる尋常じゃない量の鼻血にも気が付かないようだった。

 

 「ああ、ああ……」

 

 せせら笑う嫌らしい顔でヤモリが僕を見た。

 

 「その情けない恰好、恥ずかしくないの?」

 

 それを言った瞬間ヤモリは、またコウト君を地面に叩き付けだした。今度は一度なんかじゃない。短い間隔で、何度も何度も打ち付けたのである。

 

 「ほらッ! 君がッ! 選ばないからッ! こうなるッ!」

 

 コウト君の顔を床に打ち付けつつ、ヤモリは僕を喝破した。それからコウト君の頭を、今までよりも一層高く持ち上げると、

 

 「自分の無責任な善人ヅラに――酔ってんじゃねえぞッ!」

 

 コウト君の頭の骨から怪しい音がした。

 

 当然それを母親も聞いていて、猿のように甲高い声で、やめてッ、殺さないでッ、私が代わりになりますッ、というようなことを、延々と叫んでいる。

 

 「お願いしますッ!」

 

 と、母親が縋るような眼で、僕を見た。

 

 「私はどうなっても構いません! お願いしますッ、犠牲にしてください!」

 

 その時僕は、こっちを見る彼女の眼に何かを――物狂いの言葉とはまた違った、意志を見た。

 

 俄かに辺りが、静かになった。ヤモリがコウト君を責める音が無くなったのだと僕が認識したのは、少ししてからだった。僕はヤモリを見る。奴は、今までの引きつった顔を引っ込ませて、無表情で僕を見据えてきている。

 

 コウト君の呻き声と、彼の母のや僕の荒い息が響く。

 

 「で、カネキ君はどうするの?」

 

 無言の空気を破ったのはヤモリだった。

 

 「どっちを選ぶの?」

 

 これ見よがしにヤモリは、もう気息奄々となったコウト君の頭を掴む手に力を入れた。

 

 「ねえ、ねえ、ねえ」

 

 ゆらゆらと、コウト君の頭を上下に揺らしてから、ヤモリはじっと僕を見ていた。そのまま、しばらく何も動かずに、ゆっくりと時間が流れた。

 

 僕はヤモリからの視線が耐えられず、奴から目を逸らして、視線を泳がしだす。視線がヤモリの足元へ落ちて、それはそのまま床を流れる。そうしていると、コウト君の母親と目が合った。顔に汗をびっしょりとかいて、まとまっていた髪から垂れた毛が額に張り付いていた。

 

 「ああ、ああ……」

 

 不意にヤモリが口を切った。

 

 「もういいよ」

 

 そう結んで、背中から、不気味な色の赫子を生やした。それからコウト君を地面に投げ出し、赫子を上に伸ばしてから、先端を下に、ぐったりとうつ伏せに倒れているコウト君の背中に向けた。

 

 「待ってくれッ!」

 

 思わず僕は叫んだ。

 

 「ん?」

 

 と、しらじらしくヤモリは反応を示した。

 

 「待って……、待って、ください……」

 

 決断をしたわけではなかった。それは浅挙だ。でも僕は止めざるを得なかった。

 

 「……何かなぁ? 今僕は忙しいんだけど。主に、この二人を始末するのにね……。それとも何か、どちらを殺すか決めたのかい? 今なら、その決断力に免じて、受けてあげるけど……」

 

 と言ってヤモリは僕へ顔を近づける。

 

 もうどうしようもない気がした。ここまで来たら、もう……。

 

 だから僕は……。

 

 「母親のほうを……」

 

 「ん? 母親を――どうするんだい」

 

 わざとらしくヤモリは、そんなすっとぼけた振りをした。

 

 「母親のほうを、殺してください……」

 

 尻すぼみになりながも僕が言い切ると、ニヤリとヤモリが笑った。

 

 「ははははは! コウト君、今の聞いたかい。カネキ君はねえ、僕に、君の母親を殺せと頼んできたんだ!」

 

 いち言いち言を強調してヤモリは、コウト君の耳元で、大声で言うや否や、すぐ隣に居る母親の首根っこを引っ掴んで後方に投げ、轟音のような音と共に、あの禍々しい茨のような赫子を出し、仰向けに倒れた彼女をそれで、哄笑上げながら滅多刺しにしだしたのだ。

 

 肌が泡立つのを感じた。実に楽しそうにヤモリは、僕とコウト君の目の前で喜々として処刑を実行している。ただ単にその行為を楽しんでいるんじゃない、この状況を楽しんでいるのが看取される。

 

 奴が陰になって見えないが、おそらく胴体だけじゃない、脚や、腕や、首や頭にも赫子の先端を突き刺しているだろう。奴の赫子が彼女の身体を突くたびに、それだけでおびただしい量の血が四方八方に飛び散るのだ。

 

 やがてヤモリは、興奮と若干の疲労で息を切らしながら、次第に赫子を動かす速さが衰えていかせ、最後にオマケとばかりに激しい一突きをお見舞いしてから、大きく息を吐いた。

 

 あいつはこれを、僕が根負けしてどちらか一方を選ぶことを狙っていただと、今になってようやく気付いた。踊らされていたのだ、僕は。だからこそ、死ぬような暴行を二人にしては寸止めということを、ヤモリは行っていたのだ。

 

 「ううううううう……」

 

 僕の足もとからコウト君の悲痛な呻き声が聞こえてきた。それはすすり泣いているのか、怨嗟の声を発しているのか、はたまた叫ぼうとしても気力がないからなのか、判然としない。

 

 それに僕が気を取られている間に、僕の後ろに回っていたヤモリの手が僕の両肩にそっと置かれ、

 

 「全部、お前が悪い」

 

 罪人を責める審判のようにこわごわとした口吻で、ヤモリは耳元で囁いてきた。

 

 これまでの苦痛と、たった今繰り広げられた惨劇を目の当たりにした僕の精神は、するするとその言葉を馬鹿正直に受け取る。後は打ちひしがれて、そのあまりやり切れなさにうなだれるだけだった。

 

 「ああ、僕の頭の中でムカデが笑っている……」

 

 ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、ジッ、々、々、々、々、……。

 

 我が物顔で僕の頭の中にて笑うムカデがありありと脳裏に浮かんでくる。

 

 「わはーはははははは!」

 

 不意に、少女らしい高い笑い声が響いて、思わず首をもたげると、ルーミアちゃんが僕の目の前で笑っていたのが分かった。彼女はいつものように両腕を左右に広げ、片足のつま先でクルクルと回っていた。

 

 「おお、厄い厄い。ま、そういうものよ、研、世の中っていうのは。わはーはははは!」

 

 そう言って彼女はまたひとしきり笑うと、出し抜けに次のように語った。

 

 「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。日く、人情とは人間の情慾(ぱっしょん)にて、所謂百八煩悩是なり」

 

 語り終えて、彼女は静かに僕を見下ろした。

 

 「坪内逍遥の小説神髄――だよね、それ」

 

 そう僕が切り出すと、ご名答、と彼女は応えた。

 

 小説神髄とは、坪内逍遥という作家が、明治期に発表した評論だ。小説を書く際、登場人物の内面を、心理学者のような立場で考えて描き、次に世の中の様子や風俗を描く。所謂写実主義のようなものである。

 

 ルーミアちゃんは再び口を開いた。

 

 「曲亭の八犬伝に出てくるみたいな完全無欠のヒーローの話なんて、今時流行らないわよね。だから今の時代、創作に登場する主人公は大抵の場合、人間臭いものになっているし、とは言え、あまりにも人間に近過ぎると、今度は読者から感情移入されなくなる。人のことを慮ろうとするも、まずそれを為すだけの器が足りず、言動がしょっちゅう変わって、最終的には自分勝手なことに帰結してしまう。ともすると、いじましい奴だって嫌われたりもする。だから作家たちは、人間臭いながらも、その人物の中に英雄的なものを組み込もうとするわけ――」

 

 僕の前をぶらぶら歩きながら彼女は語った。それである区切りのところで彼女は再び僕の方へ目を向け、そしてニヤニヤと笑いだしたのである。

 

 「研、あなたはまさに、坪内逍遥が神髄の中で語った人物像に、近いんじゃないかしら」

 

 責めるらしいものではなかった。馬鹿にしているという具合だ。が、一概にそう言うのも、何だか釈然としない。どちらかというと、遮二無二自分の生き方を貫き通そうとして足掻き、空回る姿を嘲笑っているというのが一番近いのかもしれない。

 

 僕が何かを言うおうか迷うっている間に、彼女は後をかぶせた。

 

 「それで、その小説神髄に足りないものを見出した二葉亭四迷が、のちに坪内逍遥を訪ねて自分の考えを語って、逍遥の後押しで発表したのが『小説総論』なんだけど――」

 

 と、そこで彼女は一つ咳払いをしてから、また次のように語りだしたのである。

 

 「凡そ形(フォーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依つて(あら)はれ、形は意に依つて存す。モノの生存の上よりいはば、意あつての形、形あつての忌なれば、孰を重とし、孰を軽ともしがたからん」

 

 中略、と挟む。

 

 「小説に勧懲、模写の二あれど云々の故に模写こそ小説の真面目なれ、さるを今の作者の無智文盲とて、古人の出放題に誤られ、痔疾の療治をするやうに矢鱈無性に勧懲々々といふは何事ぞと、近頃二三の学者先生切歯(はがみ)をしてもどかしがられたるは、御尤千万とおぼゆ。――主実主義(リアリズム)を(かろ)んじて、二神教(ヂュアリズム)を奉じ、善は悪に勝つものとの当推量を定規として、世の現象を説んとす」

 

 二葉亭四迷は、小説に於いては『形』と『意』があるとして、特に『意』を重んじていた。たとえ『形』があれど、『意』が伴っていなければ薄っぺらいものとなってしまうということである。また、清廉な英雄主人公が、悪辣な輩を懲らしめる勧善懲悪、善悪の二神教(ゾロアスター)ばかりであることを批判していた。

 

 「例えば、世の中の作家の中には、何かの影響を受けたり、或いはオマージュと称して別作品のワンシーンや言い回しをパクったりする人も居る。とは言え、パクるというのはある意味で悪いことではないわ。それどころか、人に迷惑を掛けない範囲で推奨されている。文豪ですら古典文学からパクっているのだから、一概にパクりがいけないとも言えない。問題なのは、パクっておいて上手く換骨奪胎を為せないことよ。とあるシーンに感動して自身の作品に同じようなシーンを描いたはいいけれど、そのシーンにたどり着くために必要な描写の積み重ねを怠って、結果的に駄作にしてしまう者が居る……」

 

 と、出し抜けに捕鯨問題を槍玉に挙げるようにそう言ったのち、まあそんなことはどうでもいいか、と彼女は心底どうでもよさそうに嗤った。

 

 「私が最も言いたいのは、英雄が信念を持って活動して勝利を収める時代は、もう百年以上も前に終わったということよ、――そう、創作の中ですら」

 

 前に話したかしら、と彼女は前置きしてから、

 

 「世の正義が悪を懲らしめることは往々にしてあるけれど、本当の巨悪はもっと深い闇の中に存在していて、これは正義には裁かれない。いつだって巨悪を抹殺するのは正義ではなく別の巨悪、――それも覇権争いなんていう益体もない事のさなかで」

 

 ああ、これは前にも彼女から聞いたことがある。いつだったかは憶えていないけど、確かに彼女は言っていた。

 

 「本当に、難儀よね」

 

 リゼさんが忽然と現れ、言う。目は僕ではない別の方を向いている。その視線を追うと、

 

 「ヒデ!」

 

 自分の顔から強張りが抜けていくのが分かる。あれはまさしくヒデの後ろ姿だった。僕の声に反応してヒデはこちらを向いて、――忌々しそうな眼で僕を見た。

 

 「あ……、え……」

 

 俄かに僕の唇はわななき、言葉を紡ぎだせなくなった。

 

 「何で黙ってたんだよ」

 

 恨みがましい低い声で言う。

 

 「カネキ、お前は腰抜けだ。いつもいつも、悲嘆するばかりで、ちっとも積極的に行動を起こさない。いつも誰かに引っ付いて動いてばかりだ。ああ、……お前がもっとまとも、なら……」

 

 歯切れ悪い語尾。その時、突如としてヒデの首が、怪しい音を立てて折れた。

 

 「ヒデッ!……」

 

 僕が名前を呼ぶのと同時に、彼に手を掛けている者が姿を現した。――その正体はヤモリだった。ヤモリはそのままヒデを持ち上げた。人の頭なんぞ簡単に掴めてしまう両手でヒデの首を締めあげ、それからグニグニと、ヒデの首を粘土のように揉んで、ギチギチと砕いていった。

 

 「やめろぉ!」

 

 叫ぶ僕なんて意に介さず、ヤモリは邪悪な笑みを浮かべながら、ヒデの首を弄び続けていた。

 

 ヒデと目が合った。瞳孔が開き、生気の無い眼を揺曳させながらも、しっかりと僕へ視線を向けて、ぼそぼそと口を動かしていた。声は発しておらず、何を言っているのかは聞こえないが、僕にはそれが呪詛であるらしいことが分かっていた。

 

 「やめてくれ……、そんな眼で見ないでくれ……」

 

 思わずそんな弱音を吐くと、ヒデはますます恨みがましい面相となり、口の動きもまるでお経を読んでいるのかというくらいせわしなく動き続けていくのである。

 

 項垂れて目を閉じ、目の前の光景から目を逸らす。なのに、僕の頭の中では、目の前の光景がはっきりと見えていて、無駄だった。直接見るのも、間接で見るのも変わりはなかったが、それでも僕は、目を逸らし続けるを禁じ得なかった。

 

 しばらくして雰囲気が違うことに気づいた。ヒデの怨嗟の囁き声と、肉と骨が混ざり合うような生理的に嫌な音は消え去り、また肌が粟立つ不穏な空気が静まっていた。おずおずと僕は首をもたげて、ゆっくりと目を開けた。そこにあったのは、『あんていく』の店内の光景であった。

 

 その風景には既視感があった。当たり前のものであるはずなのに、どこか特別な空気を感じた。

 

 そのまま視線を流し続けていると、カウンター席に誰かが座っているのを、ようやく見つけた。僕はぎょっとした。確かに、考えてみれば最初からそこに座っていたような気がした。なのに僕はそれが見えなかった。

 

 そうこうしてぼやっとしている内に、彼女の隣に、また人影が一人増えた。いや、僕が認識出来るようになったと言うべきか。それはヒナミちゃんだった。

 

 二人はカウンターを背にそこの椅子に腰掛け、ただ僕へ無感情の視線を向けるのみだった。またその様にも既視感があった。

 

 これらの次に、今度はカウンターの裏から何かが現れた。ゆっくりと、何かに持ち上げられるように、その姿は次第に明瞭になってくる。日本人にはない金色の髪の毛、赤い瞳、象牙色の肌、小柄な体躯。

 

 ルーミアちゃんだ。

 

 彼女の身体を持ち上げていたのは、またしてもヤモリだった。どこまでも追ってくる。ヤモリは、ルーミアちゃんの首を後ろから片手で掴んで、ぐりぐりと動かす。そうすると彼女の首は傀儡のように不自然な動きを為す。

 

 当のルーミアちゃんは、目を大きく開いたまま、瞳を上のほうにやり、口が力なく開いていてそこからだらしなく舌が垂れていた。それはどこか笑っているようにも見えた。そして何故か両手でこちらにピースをしていた。

 

 気味悪そうな顔でヤモリはそれを見た後、まるでゴキブリでも扱うかのようにルーミアちゃんをこちらの方へ放り投げてきた。彼女の体はヤモリの手を離れると、それまでの動きが嘘であったかのように、途端に活気が戻った具合に、空中で体勢を立て直し、軽い音を立てて僕の隣に着地をした。

 

 「ほら、しっかり見て、見て」

 

 ルーミアちゃんに気を取られていると、彼女は僕の顔を再びヤモリとトーカちゃんらの方へ向けさせた。

 

 僕が目を戻すと、いつの間にかヤモリが、カウンターを越えてトーカちゃんとヒナミちゃんの前に佇んでいたのに気づいた。ヤモリは、僕が再び注目するのを待っていたとばかりに動き出し、二人の首を引っ掴んで持ち上げると、一気に二人同時に首をへし折ったのだ。

 

 「あ……、ああ……、そんな……」

 

 絶句のあまり叫ぶことも出来なかった。ヤモリはそのまま二人の身体をなぶり始めた。それでも僕は何も出来なかった。

 

 叫ぶことすら。

 

 もう疲れた。嘆くのにはもう飽きた。たまには激情のままに暴れたい。

 

 やがて、ヤモリが二人をなぶる音は、さながら消えゆく山彦のように聞こえなくなった。周囲の風景も消えて、また真っ白な空間が十方に広がっていた。

 

 僕の両肩に、優しく、温かい手が置かれる。

 

 「ね、解ったでしょ。これがあなたの――母親の思想(ミーム)の結果。あなたが負う損害は、何もあなた自身にばかり降り掛かるとは限らない……」

 

 リゼさんは僕の耳元で、諭すように囁いた。

 

 それは何よりも心地良くて、――解放的で、――納得の行く、――しっくりと来る言葉だった。

 

 いつの間にか、僕の頭の中で渦巻いていた何かが、すっかりと沈静していた。抑うつによく似た倦怠感が、頭から四肢までに浸透してくる。その代わり僕の頭はクリアだった。僕の思考を混沌へ陥れる有象無象の悪魔の囁きはことごとく沈黙していた。その精神的な静寂の中に、彼女の言葉はよく響いたのだ。

 

 「神や仏が居なさって、悪を罰してくださる」

 

 それを言って少しの間僕は口を閉じる。僕の言ったことに口を出す者は居ない。

 

 僕は続ける。

 

 「母さんが、以前言っていたことだ。……思えばあれは、母さんにしては、ちょっと過激だったかもしれない。穏当なことを言っておきながら、どこか憎悪が入り混じったような……」

 

 いや、違う。

 

 不意に思い出した。

 

 「母さんは確かに優しかった、でもいつもそうだったわけじゃない、機嫌が悪い時だって勿論あったし、それに何よりも――」

 

 ようやく思い出した。それと同時に僕の『歴史』が……、『幻想』が……、生きることの意味のよすがとなっていたものが凍りついて、粉々に砕けた。

 

 「母さんは、時たまに僕に、理不尽な打ち打擲を加えていたんだ。激しい音を立てながら扉を開けて帰ってきた時……、僕がぐずりだした時……、僕が書斎で本を読んでいるといきなり入ってきて……。何かと理由を付けては僕を床に引き倒して、組み敷いて、単調な打擲をしてきたんだ、……それはもう発作だった」

 

 何でだろう、告発をしているはずなのに、懺悔をしている気分だ。口から吐き出す時は辛いけど、出した後になると余裕が出てくる。

 

 「太母――グレートマザー、と言うのかもしれない。母親は、子どもがどんなでも受け入れてくれる優しい存在だけど、でもそれと同時に、子どもの何もかもを操り、支配しようとする独善的な存在でもある、――つまり二面性を持った存在なんだ。僕はその悪い側面から目を逸らして、善い面ばかりを見ていた」

 

 そうだ、完璧な人なんて居やしないんだ。僕が憎んでいた叔母だって、畢竟、自分の業苦に苛まれる、ただの人でしかなかった。僕はそれを知って、彼女への考えを幾分か改めたのだ。

 

 それと同様に、敬愛する僕の母も、所詮はシングルマザーでの子育てに限界を感じていた一人の女でしかなかった。

 

 全知全能の神なんかじゃなかった。

 

 神託は絶対に正しい。故に、如何なる疑念を持とうとも、それに従うべきだ。

 

 それがまやかしだったら? 神が居ないとなれば、何が正しいのだろうか。本当の意味で自分を肯定出来るのは。

 

 ――自分自身だ。

 

 「あなたの正体は――僕自身だ」

 

 リゼさんの目を見据えて、僕は高らかに言った。彼女は嬉しそうに笑った。

 

 「さっきルーミアちゃんが言ってた通り、僕は人間臭い人間なのかもしれない。自分の大切なものを害されたら、当然激怒する。その相手を、殺っつけてやりたいって思うんだ。でも母さんの教えを守って、僕は優しい人間を演じていた、そうすることに依って、集団から無害な存在として扱われたい、承認欲求が働いていたんだ」

 

 忸怩としたものを感じる。けれども、それへの慨嘆や憤怒はあまりなかった。

 

 「心の中にあった暴力性を、僕はリゼさんへ押し付けていたに過ぎなかった、でも実際には僕の中に彼女は居なくて……」

 

 僕が狂暴になったのは、リゼさんが僕の中に入ったからではない。僕の腰辺りにある、赫子という武器が、僕の暴力性を顕著にさせたのだ。

 

 僕はそれらをとつとつと語り続けていた、リゼさんがもうここには居ないのにも拘わらず。代わりにルーミアちゃんが居た。

 

 僕が黙ると、彼女は口を開いた。

 

 「あなたは幼い頃から、とても優しい教育を受けてきた。それはあなたに、アレクセイ・カラマーゾフに通じるような優しい信念を造らせた。でも大きくなってみれば、自分の行いを自省しては苦しむドミートリィ・カラマーゾフでしかなかった」

 

 諧謔的な口吻だった。

 

 「君は――何者なんだ」

 

 「私?」

 

 ルーミアちゃんは、それを待っていたとばかりに、口角を引き延ばして笑み、

 

 「私はあなたの闇よ」

 

 こうして、カネキは自分自身を客観的に見るようになった。

 

 『怪物との戦いを避けよ、さもなくば自分もまた怪物となる。お前が深淵を見つめる時、深淵もまたお前を見つめているのだ』 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 善悪の彼岸 一四六節

 

 【2】

 

 遠くのほうで銃声が聞こえる。それと爆発音。

 

 ヤモリはそれに耳をそばだててから、カネキに視線を戻した。

 

 「どうやら、ここにCCGが攻めてきているらしい、誰かが情報を漏らしたのかな」

 

 カネキの髪の毛は、度重なる苦痛の果てに、すっかりと色が抜けて白くなっていた。椅子に縛り付けられたまま、項垂れて、廃人のように身じろぎ一つしなかった。

 

 だがカネキの心は壊れていない。むしろ平静であった。

 

 雨の日に屋内でけたたましい雨音でも聞く気分でカネキはヤモリの言うことに耳を傾ける。

 

 「僕たち『アオギリの樹』は、当然ながらCCGを殲滅する気でいる。だがその前に、人間に与する集まりである『あんていく』もまた、アオギリの殲滅対象なんだ……」

 

 ヤモリは手に持っていた自らのマスクを懐に仕舞い、口角をいやらしく吊り上げて嗤った。

 

 「カネキィ、奪われろよォ……。最後に全部、喰わせろォ!」

 

 言いながらヤモリはカネキへ顔を近づけていく、すると、カネキがいきなり顔を上げてヤモリの顔へ唾を吐きかけた。

 

 「喰ってみろよ」

 

 カネキは嗤笑して言った。

 

 「……」

 

 その距離のままヤモリは、吐きかけられた唾を手の甲で拭って、じっと無表情を張り付けていた。しかし口はわずかにもごもごと動いており、その内では歯ぎしりがされているだろうことが知れた。しばしの膠着が続いて、ヤモリも怒りが爆発するのを堪えられるくらいには落ち着いた頃。唐突にヤモリは哄笑しだした。

 

 「やっぱり君は最高だなあ!……」

 

 そう言うや否やヤモリは赫子を二本出した。先端をカネキに向けてその頭上から力任せに振り下ろす。だがカネキは当たる直前に、自らを束縛していた鎖を千切って避けた。ヤモリの赫子は椅子と地面のみを抉る。その粉塵の煙が辺りを覆い隠した。それに紛れてカネキは素早くヤモリの背後に回る。手に残った錠と鎖を相手の首に巻き付ける。ついでに自身の両足をヤモリの背中に当て思いっきり引っ張った。

 

 「ほら、どうした、喰ってみろよ」

 

 カネキはヤモリの顔に噛み付いた。突如襲ってきた激痛にヤモリは一層暴れる。その衝撃で、ヤモリに巻き付いていた鎖は千切れた。カネキはヤモリの背中を蹴って後ろに飛び、離れたところに着地した。

 

 「ぐうッ、クソッ!……、クソッ!……」

 

 カネキに喰い付かれた箇所の肉が見事に喰い千切られていたのだ。怒りのあまりヤモリは獣のような悔しげな声を上げた。

 

 「てめえ、俺を……喰いやがったなァ!……」

 

 息を荒げて言うヤモリを意に介さずカネキは、

 

 「不味いな」

 

 口元に付いたヤモリの血を拭って言う。

 

 「雑味が肉の味を完全に打ち消してるな」

 

 ヤモリが赫子を放った。カネキはそれを掻い潜りながらヤモリへ瞬く間に接近し、飛び蹴りを浴びせた。

 

 それを読んでいたヤモリはカネキの蹴り脚を掴む。その脚が折れても離さないとばかりに強く掴まれたカネキの脚から、骨の折れる乾いた音が出る。

 

 一方カネキは、折れても構わないと言うかのようだった。眉一つ動かさないでいる。反対の脚を振り上げ、ヤモリの脳天へ見舞わせた。不安定な体勢から放たれたそれにはあまり威力はない。が、ヤモリは地に伏すこととなった。

 

 地面に着地してカネキは、折れた脚をさっさと修復する。治りきった直後、顔を上げようとしたヤモリの顔を蹴り飛ばす。ヤモリの身体は隅のほうまで飛んでいく。壁に激突し、激しい粉塵を巻き上げた。

 

 しばしカネキは、向こうで巻き上がった粉塵の煙を眺めていた。その中で、煙が不自然に動くのを見た。薄れていく煙の中に人影を見出した。ヤモリが立ち上がったのを察す。

 

 「殺すッ!」

 

 ヤモリの咆哮が響く。

 

 「殺すッ! 殺すッ! 喰う……、ぐっちゃぐちゃになるまで……喰い殺すゥ!」

 

 その背中から這い出た赫子は、それまでの警告色めいたものとは違う。充血しているみたいに赤かった。頭部を覆い、右腕に纏わり付き、ヤモリの身体を侵食していく。右腕に侵食したほうは、太く、長く、凶悪な形を成していく。そうして強大な触手を形成した。

 

 それをヤモリは地面に叩き付けた。脚に力を溜め、カネキを睨む。力任せに地面を蹴り、まっすぐカネキへ突進していった。相手目掛けてヤモリは赫子を突き出す。先端が開き、その赫子はカネキに伸びていった。

 

 一瞬カネキは、それへ突っ込むフェイントを掛けてから後ろへ飛ぶ。ヤモリの赫子はそこの地面を抉った。ヤモリはその地面を赫子で掴んだまま腕を引した。するとその反動で凄まじい勢いで前進。赫子を振り上げ、凄まじい攻撃をカネキへ叩き付ける。

 

 それをカネキは避け、隙が出来たのを見て、ヤモリの懐へ素早く突撃した。ダッシュの勢いを乗せたボディブロウを浴びせる。

 

 手応えはあった。しかし様子がおかしい。全く怯んでいない。

 

 ヤモリがほくそ笑むのを見た。カネキは急遽後ろへ退避しようとしたが、追い掛けてきた赫子によって胴を捕捉される。地面に二、三度叩き付けられた後、投げ飛ばされた。カネキの身体は壁に激突し、そこにクレータが出来上がった。

 

 確かに手応えはあった。だがそれでダメージを与えられないらしかった。ヤモリは今、どうやら怒りのあまり痛覚が鈍化しているみたいだ。殴った際に少し硬いようにも感じた。おそらく皮膚の下にも繊維状の赫子が入り込んでいるのだろう。

 

 少しして、壁にめり込んでいたカネキは地面に降り立った。

 

 「さすがに赫子なしじゃ、分が悪いか」

 

 そして四本の紅い赫子を展開した。

 

 カネキはヤモリを見据える。奴は、まだ殴り足りないとばかりに身体を震えさせている。

 

 互いに赫子を向ける。

 

 両者、折り曲げた人差し指を親指で押し、パキリと鳴らした。

 

 それを合図とばかりに、同時に飛び出した。

 

 一瞬にして距離が縮まる。それよりも早く、ヤモリは赫子を突き出し、カネキのほうも、四本の赫子を一つにまとめて繰り出す。二つの巨大な赫子がぶつかり合う。

 

 だが、カネキのほうは正面からまともにぶつかることはしなかった。相手の赫子を逸らす程度にとどめたのだ。

 

 ヤモリの赫子は伸びきっていた。そこを狙っていたのだ。伸び切って強度が下がった赫子にカネキは自身の赫子をぶつけ、それを千切り飛ばした。

 

 今まであった質量を失ったヤモリはその場でバランスを崩した。その隙を突いてカネキはヤモリの下顎を殴った。そしてヤモリの身体を踏み台に高く飛び上がり、腕に赫子を巻き付けて振りかぶる。落下の衝撃に乗せてヤモリの首筋を殴り、昏倒させた。

 

 頸椎に損傷を与えたことに因り、ヤモリはその間は動きを封じられる。が、喰種の再生力を以ってすれば、それも一時的なものとなるだろう。

 

 うつ伏せに倒れているヤモリの背骨を、カネキは全体的に、執拗に殴った。いくら、皮膚の下に赫子があって頑丈になっていようとも、赫子の力を纏った打撃は効く。

 

 徹底的に無力化したのを確認し、カネキは一息吐いた。そこで、自身の耳の中にある不快感を思い出した。その中へカネキは指を突っ込んだ。拡張される痛みを我慢して更に指を深く入れると、何やらもぞもぞ動くものに触れた。それを、耳の壁に押し付けるようにして引っ張り出す。その際、激痛が、耳を中心として頭に広がった。

 

 出し切ると、頭の中が空っぽになったような気がした。異物が入っていた不快感は消えたが、その代わり、壁の脆い洞窟が支えを失って崩壊するような喪失感を味わうこととなった。

 

 耳から出てきたのはムカデだった。ヤモリがカネキの耳に無理矢理入れたあのムカデだ。

 

 力なくグネグネと動くそれを眺めながら、カネキは自身の赫子をヤモリの四肢へ突き刺した。

 

 ヤモリは激痛に叫ぶ。

 

 「今度はこっちのが訊く番だ」

 

 持っていたムカデを放り捨て、カネキは言った。対してヤモリはすすり泣いていた。恐怖と悲しみが入り混じったもの。カネキは、ヤモリを踏み付けている足の裏に、ヤモリが縮みこもうとしているのを感じた。

 

 「千引く七は?」

 

 構わずカネキは続けた。

 

 「九百……九十三……」

 

 「更に引くと?」

 

 「九百……八十六……」

 

 「更に引くと?」

 

 「九百……七十九……」

 

 カネキはそこで訊くのをやめた。それでもヤモリは、強迫観念に駆られたように、七を引き続けていた。

 

 「僕を拷問している時、たしかあなたは、共食いをすると強くなれるとか言っていたな」

 

 ヤモリの腰の辺りを、探るように撫でる。最も脈動の強い所に当たり、そこが赫子の出所――赫包のある所であると判断した。

 

 「僕を喰おうとしたんだから、僕がそっちを喰ったところで、文句は言えないよね……」

 

 言ってカネキは、ヤモリの赫包にかぶり付いた。赫子の素となる物が口の中に入ってくる。カネキが感じたものは、ただの雑味であった。

 

 肉のほうとは比べ物にならないくらい不味かった。あれは肉に雑味が染み付いているという程度の分、まだマシであった。だがこちらは、その雑味の塊なのだから、それはもう暴力的なものだ。

 

 不味いと承知でカネキは、そのまま喰い続けた。その不快な味に何度か戻しそうになったが、腹に力を入れ、吐瀉を我慢する際の痛みに耐えながら、ひたすら腹の中に押し込んでいった。

 

 どうにか喰い終わってカネキは、地面に倒れこんだ。喰うだけで気力を相当使ったのだ。今カネキの胃の辺りは、どくどくと脈打っていて、彼はそれを感じていた。

 

 「この世界は間違っている……」

 

 唐突にカネキは呟いた。

 

 「あなたもまた、この間違った世界に歪まされたんだ。それは同情に値するけど、僕には関係ないし、それどころか敵なんだから、あなたがどうなろうと僕の知ったこっちゃない……」

 

 そう結んでカネキは立ち上がった。

 

 その時だった。

 

 「なら、この世界は最初っから歪んでいるということになるわよね。それってむしろ正常なんじゃないかしら」

 

 突如掛けられた声にカネキは振り向いて、それから瞠目した。

 

 「ルーミアちゃん……」

 

 そこに居たのはまさしくルーミアだった。以前ヤモリに折られたはずの首は、嘘のように元に戻っていた。それこそ、あの光景がただの白昼夢だったと思えるくらいに。

 

 また血にまみれてもいた。彼女はいつもの服に、赤い、フード付きのマントを羽織っていた。赤いそれは血を吸っていて、今は血が乾いて黒ずんでいる。彼女の顔や手足などの露出している部分は、真っ赤に染まっている。それでいて彼女は、何事も無かったような振る舞いを呈していた。その自然さにはある種の恐怖があった。

 

 ルーミアは、虫の息のヤモリのそばまで行き、屈んでそれを覗き込んだ。

 

 「弱者にとっては狂った世界だけれど、それが辛いというなら、いっそ楽しんでしまえばいい、そう思わない?」

 

 カネキのほうに顔を向け、艶然と笑った。

 

 「どうしてここに」

 

 「研が心配だったからよ。あのあと、皆が帰ってきてね、それで『あんていく』総出で研を助けに行こうってなったの。本当は私も雛実ちゃんもお留守番のはずだったんだけど、雛実ちゃんが聞かなくって、私も研が心配だったから、ついて来たってわけ」

 

 立ち上がってルーミアは、自身のポケットを探り、ある物を取り出してカネキへ差し出した。

 

 「はい、あなたのマスクよ。CCGも来ているみたいだし、顔は隠しておかないとね」

 

 大丈夫よ、とルーミアはたおやかな声音で紡ぐ。

 

 「たとえあなたがどこまで行こうとも、私は常にあなたと一緒に居る。……決して逃がさないから」

 

 結んで、彼女は歩き出す。

 

 「ルーミアちゃん」

 

 カネキは思わず、呼び止めるように名前を呼んだ。立ち止まってルーミアは半身だけこちらに向いた。

 

 「僕は確かに、アレクセイみたいな善人を演じていて、内面はドミートリィと同じだったのかもしれない。すると、そんな僕を言い表すなら、イヴァン・カラマーゾフがピッタリなんじゃないかなって思うんだ」

 

 藪から棒にこのようなことを言うなんて、カネキ自身も、まさか自分が狂ったのではないのかと思った。現に目の前のルーミアも、眉をひそめて怪訝そうな眼になっていた。

 

 「アレクセイ? ドミートリィ? カラマーゾフ? 言ってる意味がよく解らないんだけど」

 

 ルーミアは、カネキの出した人名の意味すら理解出来ないでいるようだった。




投稿してしばらくはコメントや評価、お気に入りの増減が気になって何度もマイページを覗く……覗かない?


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汚濁の巫女(後編)【番外】

 注意と謝罪

 今まで失念しておりましたが、実はこの物語、脇役ながらオリキャラが出てきます。今回がそのオリキャラが出る話なのです。実はタグに入れるの忘れておりました。

 が、実際にそのオリキャラを描いてみて、やっぱり脇役オリキャラで『オリキャラ』タグはどうかと思い、かと言って『脇役オリキャラ』というタグを入れる意義はあるのかと疑問に思いまして、しばらくはタグ追加を見送らせていただきます。

 あっ、そうだ(唐突)。投稿が遅れてすみません。許してください! 何でもしますから!


【3】

 

 『亜門鋼太郎の手記』

 

 アオギリの樹のアジトへの襲撃の会合のために本部への招集が掛かった。その際、篠原さんから、彼の現パートナーを紹介されることとなった。が、しかし、その本人は道に迷ったらしく、交番から連絡が来たのだ。それで俺たちは、それを迎えに行くことになった。

 

 交番に着いた時、そこには、白髪の中性的な者が、今まさに警官に襲い掛からんとしている状況があった。それを見るや否や篠原さんは血相を変えてそれを止めに入ったのである。なお、その止め方は、力づくという風でもなく、どちらかというと諭すという風であった。

 

 その騒動が収まり、篠原さんから、その白髪の奴が件のパートナーだと紹介された。その白髪の奴は、篠原さんが紹介を終えると、改めて名前を名乗ったのち、へらへらと笑いながら挨拶をしてきた。それは社会人としては礼儀に欠けたものであり指摘しようと思ったのだが、何やら不穏な雰囲気を感じ取って私は、ついそのまま挨拶を返したのである。

 

 それにしてもその男(篠原さんの談が正しければ男であるはず)鈴屋什造は、小柄で中性的ということから始まり、奇妙な風貌であった。白髪だが、染めたという感じではない。肌は異様に白く、眼は若干赤い。アルビノというやつだろうか。また身体の至る所に、糸が張り付いている。これは後で聞いたところに拠ると、ボディステッチと呼ばれるもので、薄皮の部分に針を通して糸を身体に縫い付けるファッションなのだとか。

 

 ところで、鈴屋が警官に襲い掛かるところを阻止した際、俺は、篠原さんがあそこまで顔色を変えたことに疑問を感じた。確かに、警官を襲うのは相当まずいことではあるが、しかし俺にはややオーバーなように思えた。なので直接篠原さんに訊いてみたところ、どうやら鈴屋はあの警官を本気で半殺しにするつもりであったらしい。

 

 鈴屋はこれまでに幾度も傷害を働いており、一応死者は出てはいないものの、これからのことを考えれば相当大きな悩みである、と。

 

 とすれば、確かに今回の事は危なかった。何せ相手は警官だ。今までに起こした傷害事件はどうにかなっても、警官に手を出したとあれば、もう庇いきれないだろう。

 

 正直なところ、彼はこのまま捜査官にしておくのは不安である。真戸さんをはじめとして、喰種捜査官の中には人格の破綻した者が居るのは否定出来ない。が、そんな彼らでも飽くまで攻撃する対象は喰種のみに定めており、人間に対して害を及ぼすことはあまりない。もし居たとしたら、その者は発覚次第、それ相応の罰を受けることとなる。けれども鈴屋は現に人に対して害を為している。人を傷付けてはいけないという社会常識も見受けられない。彼はまず精神ケアを受けるべきだ。

 

 だが、俺がそう進言しても、篠原さんは首を横に振った。ケアをするにはあまりにも狂暴過ぎるとのことだ。だから喰種捜査官として活動させることで、その衝動を発散させるのだという。

 

 そう言った篠原さんは、どこか自身を恥じているように見えた。

 

 次に篠原さんは、鈴屋には人と関わらせることが必要だと言っていた。普通の人間の、普通の振る舞いというものを見せてやらなければならないのだと。それを俺に頼んできたのだ。

 

 どうしてそこまで鈴屋にこだわるのかと俺は訊いた。それで俺は、鈴屋の過去を知った。

 

 篠原さんが言うには、鈴屋は元々はビッグマダムと呼ばれる喰種の飼いビトであった。そこでさんざん、なぶりになぶられて、人殺しとその解体までやらされていた。鈴屋は、それに順応しようとした結果、人としての常識が壊れてしまったのだ。

 

 あれもまた、喰種に因って何もかもを歪められた、被害者なのか。

 

 途端に俺の鈴屋への感情には同情が混じった。その幾ばくかの同情から、俺は篠原さんの頼みを受けた。

 

 しかし篠原さんは、普通に接してやるだけでいいと言った。

 

 優しくしてやることも大事だが、腫れ物に触るような扱いでは駄目だ。良いことをしたらちゃんと褒めてやり、悪いことをしたら――攻撃されないよう注意を払いながら――ちゃんと叱ってやってほしい、と。そして何よりも大事なのは、鈴屋什造という人間を受け容れてやることなのだと。

 

【4】

 

 イヨウロッパの文化が国内に流れてきておよそ十と余年。ある夏の日の幻想郷。今日も今日とて宵闇の妖怪は、自身の能力で、照り付ける太陽の光を凌ぎながら空を漂って昼間を過ごした。

 

 そのようにして時間を潰した後、太陽が将に沈まんとした逢魔時の事である。

 

 「今日も暇だなぁ」

 

 これから、宵闇の妖怪にとっての一日の本番に入るにあたって、彼女はどう過ごそうか思案していた。ここのところ、彼女は暇で暇で仕方がなかった。ある時を境に、彼女が懇意にしていた、妖怪の山に住んでいた鬼たちがどこかへ去ってしまった。黒船来航から将軍家没落。その後の、体制の改革に因る激動の時代で、ある程度の暇潰しが出来るのだが、どうにも彼女は気乗りしなかった。

 

 故に彼女は退屈だった。

 

 「何をしよっかなぁ……」

 

 そう言って適当な所へ目を向けた折である。木漏れ日の無くなった森の中で、数人の子供が彷徨っているところを認めた。

 

 彼らは人里の子供であった。見ての通り、道に迷っていた。まだ日がカンカンと照っていた時分に、いつも通り遊んでいたのだ。だが今日は少々違い、事もあろうに彼らは、幼い故の好奇心から人里から更に離れた所まで来てしまった次第だった。

 

 やがて子供たちは疲れて、座り込んで顔を伏せる子もいれば、声を上げて泣く子供もいた。もうこうなってしまっては、無事に家へ帰ることは叶わない。そのうち、森の中をうろつく妖怪に見つかり喰い殺されるのみである。

 

 宵闇の妖怪の顔には瞬く間に喜びの情が瀰漫した。

 

 「人殺しでもするか!」

 

 うきうきと彼女は、その子供たちの所へ一直線に降下していき、

 

 「死ねーッ!」

 

 と叫ぶ。

 

 「うわーっ、バケモノだあっ!」

 

 満面の笑みで叫びながらよく分からない者が自身らに迫ってくることに気づいた哀れな子供たちは、声を上げた後に一瞬遅れて、まさしく蜘蛛の子を散らしたかの如く走り出した。

 

 四方八方に散らばった子供たち。そんな彼らを、宵闇の妖怪は適当に追いかけた。所詮は子供、焦る必要は無い。一人、また一人と捕まえていった。その度に命を奪っていく。粗方狩り尽くすのに、そんなに時間は掛からなかった。

 

 そして後にはひぐらしの鳴き声のみが残る。

 

 一通り狩り終えた後、宵闇の妖怪はその死骸らを一ヵ所に集め、そして喰いだした。死骸が着ている邪魔な衣服は取り去る。丸裸にしたそれらを彼女は、色々な食べ方で貪っていった。

 

 まだ硬直していない柔肌を舐めて、それから皮を噛んで剥がしていってから食べたり。或いは豪快に胸や腹からかぶり付いてみたり。手足の先からチビチビと齧っていったり。食べることすら楽しんでいるようであった。

 

 思う様食べ尽したのち、宵闇の世会は、自らが喰い散らかしたその獲物の残骸らを見て、満足そうに笑った。可笑しいから笑うのではない。満足したという嬉しさから来るものであった。そうしてひとしきり笑った。

 

 食べ残しの死体には、一応まだ生命は残っていた。なので宵闇の妖怪は、それらを自身の剣に取り込ませた。

 

 この剣にはとある性質がある。その性質というのは、生物の、特に人間の生命を好んで喰らうというものである。喰われた生命は――月日が経つに連れて劣化していくが――剣の中に溜まっていき、この溜め込んだ生命は持ち主である彼女に流入させることが出来る。これを使えば、たとえ致命傷を負ってもそこから復活が出来るのである。

 

 そして、全てを喰らい尽したそのあと、あることに気づいた。

 

 何気なしにその死骸を数えていると、どうも違和感を覚えたのだ。数が合わないような気がしたのである。そこで、自身の先ほどの、子供たちを発見した時の記憶を引き出してみる。果たしてそこには何人居たか。

 

 朧げな記憶の中の光景で、どうにか子供たちの人数を数え上げていった。すると、

 

 「あ、一人足りないや」

 

 と彼女は呟く。

 

 そこでまた彼女は考え込んだ。今から探して仕留めるか、それとも放っておこうか。

 

 生かしておけば面倒な事になる。かと言って、今更探し出すのは面倒臭い。それに、面倒事は、確かに面倒臭いけど、刺激的で楽しい。

 

 と、両方のadvantageを考えてみたものの、物臭なところのある彼女は須臾にして飽き、思考を中断してしまった。結局、生き残りは探さないということにしたのである。そうして彼女は伸びをして、一息吐いてから、再び飛び上がって薄暗い空を漂いだしたのであった。

 

 さて、宵闇の妖怪が飛び去った後、近場の草陰から子供が一人這い出てきた。この子は、宵闇の妖怪に殺された子供たちの仲間である。彼女が襲撃してきた時、この子も例に漏れず、恐怖の中でがむしゃらに逃げ出していた。そこまでは他の子と同じであった。が、この子は足を挫いて動けなくなってしまい、早々に、逃げることを諦めて近場の草陰に隠れたのである。そして幸運にも、その隠れ場所は追っ手の視界から逃れ続けていたのだった。

 

 同時にこの子は不幸でもあった。

 

 まさかそこが、宵闇の妖怪が子供たちの死骸を集めた場所を見ることが出来る場所だったとは。

 

 この子は、自らの友達が惨たらしく喰われていく様をまざまざと見せつけられた。惨憺たる光景にこの子の息は詰まった、そのお陰で存在を感知されなかった。加えて、この子はそのまま自失して彷徨い歩き、幸運にも妖怪に遭遇することはなく、軽い擦り傷や切り傷を除いて無事に、人里へ帰還したのであった。

 

 全ては偶然の事である。

 

 これらの偶然がこの子にとって幸福なのか不幸なのか、それはこの先のこの子の人生を慮れば、断定出来るものではないであろう。

 

 また宵闇の妖怪も然りだった。

 

 この、生き残った子供が、宵闇の妖怪の容姿や特徴ををはっきりと憶えていて、これを大人たちに伝えることが出来た。それによって人里は宵闇の妖怪の情報を手に入れて、また更に、近頃突如として現れた謎の巫女――博麗の巫女に依頼する決心をした。

 

 これは単なる一過性の出来事ではない。宵闇の妖怪に、向こう百年は絡み付く因業の引き金となるのである。果たしてこれが彼女にとって僥倖となるか否か。その答えは、百年後の彼女のみが知る。

 

 次の日の朝。

 

 今日も今日とて太陽は眩しい。いつものように宵闇の妖怪は闇を纏って空中を漂っていた。もう昨日の事など忘れきっていた。最早あれらは、彼女が今までに殺した人間の内の一部に過ぎなかった。だから彼女は、無警戒に、堂々と空をふわふわと飛んでいた。

 

 その時、宵闇の妖怪に向かって何かが飛んできて、彼女に貼り付いた。宵闇の妖怪がそれに気づいた瞬間、それは爆発し、あおりを食って彼女は地面に叩き付けられた。これ自体は彼女にとってのdamageには、あまりならなかった。問題なのは、彼女を撃ち落とした飛翔体のほうだった。

 

 「一体何が……」

 

 宵闇の妖怪は目を白黒させていた。爆風を表面的に受けたはずなのに、――まるで内側から爆破されたような、――その爆風の中に含まれる毒素に身体を蝕まれていく苦しみに悶えていた。

 

 今しがた受けた攻撃に因って、宵闇の妖怪が纏っていた闇の能力が解除されてしまった。その上ここは彼女にとっても都合が悪い場所でもあった。森の中であるのだから、当然、大小様々な樹木がある。が、枝葉が少なく、そこら中に木漏れ日があり、彼女からすれば障害物の在る陽の下であった。

 

 「見つけたわよ」

 

 宵闇の妖怪の耳に、高く、あどけない女の子の声が届いた。その声の主である女の子は、宵闇の妖怪が目を向けるのには眩しい、日当たりの良すぎる場所から聞こえてきた。

 

 「そろそろ姿、お天道様に見せてもいいんじゃない? お嬢さん?」

 

 相手は特異な格好だった。巫女服と思われるそれは、赤い、西洋の人間が着るような服とよく似たdesignで、袖は服の本体から分離していた。

 

 「あなた、たしか博麗の巫女とか言う……。なるほど、仕掛けたのはあなたね」

 

 苦悶から立ち直った宵闇の妖怪は、立ち上がりながら言った。

 

 「やっぱりあなた、人間ではないわね。ま、尤も、一人までなら大量殺人犯じゃないから大丈夫だけど」

 

 「嘘吐け、絶対私を始末しに来たんだゾ」

 

 「あら、分かっちゃった? ええ、そうよ、あんたを殺っつけてほしいって頼みがあったのよ。というわけで、とにかく、ここから出ていってくれる?」

 

 「ここは誰のものではないわ。強いて言うなら、ここ幻想郷は人里を除いて全域が妖怪の居場所と言ったところかしら」

 

 「この世から出てってほしいのよ」

 

 不敵な笑みを薄く浮かべながら巫女は言った。

 

 次の瞬間、巫女が腕を突き出すように振るった。すると彼女の袖から紐状の物が飛び出した。それは宵闇の妖怪にまっすぐ伸びていく。宵闇の妖怪は上体を横にずらしてよけた。が、伸びてきたそれは突如曲がり、宵闇の妖怪の首に巻き付いた。巻き付いたそれは凄まじい力で彼女の首を絞めつける。人間を遥かに凌駕する膂力のある彼女の首すらも折る力だった。

 

 宵闇の妖怪は、巫女の手から伸びているその紐状の物を掴んで引っ張る。巻き付いている紐状のそれの力は相当なもの。だが、巫女の腕力はやはり人間程度でしかない。宵闇の妖怪が引っ張る力にあっさりと負け、巫女は体制を崩した。それによって巻き付いている紐状のそれは弛み、その隙に宵闇の妖怪は剣を取り出しそれを切断した。

 

 ここでは分が悪い。そう思い宵闇の妖怪はその場から駆け出した。

 

 しかしそれは許されなかった。

 

 彼女が駆け出して、ある所を踏んだ瞬間、途轍もない力がその脚を捕らえたのだ。トラバサミに似た衝撃だった。が、ただの畜生を狩るためのそれとは違う。生半可な力では傷を付けることすら出来ないはずの妖怪の脚を損傷させたのだ。

 

 その正体は御札だった。見ると、宵闇の妖怪が踏んだ所には、御札が数枚散らばっていて、その地面からまたトラバサミを模した御札の連なりが彼女の左足首に食い込んでいたのである。

 

 この仕掛けを剣で破壊して宵闇の妖怪は立ち上がろうとする。けれども、片足を失くしたばかりで、その場でよろめく。ちょうど近くにあった木に左肘を突いてもたれ掛かった。そして宵闇の妖怪は気づかなかった、自身がもたれ掛かっている気に貼られている御札の存在に。

 

 それが突如爆発し、あおりを食った宵闇の妖怪は吹き飛ばされた。更に、飛ばされた先にはまた、御札の束が仕掛けられていた。彼女がそこに落ちると同時に、その御札から発せられた結界の力が彼女を上空へと弾き飛ばす。陰が一切無い上空へ、宵闇の妖怪は闇を纏う間も無く、無防備なまま放り出された。そしてある高さまで来ると、今度は、上空に張られた結界に弾かれて、再び地面に叩き付けられた。

 

 一連の仕込みに、さすがの宵闇の妖怪もしばらくは立ち直れないでいた。そこへ件の巫女が近づきてきた。けれども彼女は、ある程度近づいたらそれ以上は近づかず、距離を保ったままその辺をうろうろとしだしたのである。

 

 「結界を張っているのは上のほうだけよ」

 

 落ち着き払って巫女は言う。

 

 「地上では障害物や、私が仕掛けた術で突破は難しいけれど……、上だったら何も仕込んでいないし、私の定めた領域の外に簡単に出られる。……ただし、私の追跡を振り切れればの話だけど」

 

 巫女は、手に持った御幣を手で弄んでいた。その御幣は紙垂(紙の部分)が半分近く千切れていた。先ほど彼女が伸ばして宵闇の妖怪の首に巻き付けたのはのはまさにこの紙垂であり、千切れているのも、宵闇の妖怪によって断ち切られたからである。

 

 玉串に残った紙垂を巫女は、掬い上げるように持ち上げて、その手を根元のほうまで持っていくと、小さく勢いを付けて引き千切った。そうして懐から御札の束を取り出すと、玉串へ装着する。それで玉串を一つ振ると、束になっていた御札が縦に伸ばされ、それらの角と角が繋がった紙垂らしい形となった。またもう一回、今度は仕付けるようにそれを振ると、その御札の連なりはたちまち紙としての柔らかさを失い、鋸状の剣の形を取った。手首を回して巫女は、確かめるようにこれを振り回し、まだ立ち直りきっていない宵闇の妖怪へ、その切っ先を向けた。

 

 「さて、仕切り直しと行きましょうか。さっきは、あんたの力量を見誤って油断したけど、――今度はしないわ」

 

 ほら立ちなさい、と巫女は叱咤を飛ばしながら、手に持った剣を振るう。振られた剣は彼女の腕の動きに合わせて、空中で剣の形を解き、鞭の形で宵闇の妖怪を襲う。素早く宵闇の妖怪は、跳ねる勢いで、倒れていたところから飛び退いてよけた。それで足で着地したが、先ほどの先手を打たれたことで損傷した左脚と左腕はそのままであり、機動力は削がれた状態となっていた。

 

 失った機動力を補うために、宵闇の妖怪は背中から黒い翼を出した。素早く動くにしては些か大き過ぎる物だが、無いよりはマシであると思われる。ただ、動き続けることには向いていないようで、だからこそ宵闇の妖怪はその場に留まって、相手を迎え撃つ体勢を取った。が、肝心の相手は仕掛けてこない。

 

 宵闇の妖怪の一挙一動を警戒するわけでもない、張り詰めたものが無い。冷静を保ってしげしげと彼女を、巫女のほうは観ている。

 

 しばしの膠着状態が続く。

 

 最初に手を出したのは宵闇の妖怪であった。彼女は妖力を固めたものを何発か巫女に向けて撃ち出した。別段惑う様子も巫女は見せない。手に持った剣を鞭の形体に切り替えて、それら妖力の弾を打ち落としたのだ。

 

 あの武器は厄介である。剣と鞭を切り替えることで近距離と中距離に対応し、もし紙垂の部分が掴まれても、これをpurgeしてまた新たに御札の束を付けることで再構成が出来る、全く合理的な武器だ。

 

 それに加えて周囲には巫女の罠。宵闇の妖怪が受けただけでも、その場に釘付けにする、爆発する、結界の応用による跳ね飛ばしがある。日が落ちた後ならまだしも、今は朝で、さてはここは日影が少なく、太陽の光が彼女の感覚を鈍らせる。罠の察知は難しい。

 

 今度動いたのは巫女のほうだ。彼女が御幣を一振りし、飛んでくる攻撃を宵闇の妖怪が防ぐ。続いて二振り目もよけ、三振り目で宵闇の妖怪は、飛んでくる紙垂に剣を振る。すると紙垂は見事に剣に絡み付く。それでいきなり強く引っ張ると、その力に巫女の足の踏ん張りも利かず、凄まじい勢いで宵闇の妖怪の方へと引き寄せられる。

 

 その刹那の最中に巫女は、剣に絡まった紙垂を操ってこれを解放し、すぐさま剣状に戻して、引き寄せられた勢いに乗せて宵闇の妖怪へ斬り掛かった。それに対し宵闇の妖怪は、柄を握る手に力を込めて一歩前に出、巫女のその剣の軌道上に叩き付けるように剣を振るった。二振りの剣のぶつかり合いで、妖怪の力と人間の力では話にならず、巫女のほうの剣は見事に破壊された。

 

 そのあおりを食って巫女は空中で体勢を崩された。だが彼女はそれも読んでいた。彼女は自分が飛ばされた先にある木に向かって御札を投げつけ、そこに緩衝の性質を持った結界を貼り付けた。そこにぶつかり、緩衝からの反発を利用して飛び出す。先ほど宵闇の妖怪にかち合う際のものに劣らぬ速度だ。しかし宵闇の妖怪にとっては、目で追えないものではない。

 

 宵闇の妖怪は手首を動かして剣を構える。そして飛んでくる巫女とぶつかり合うところで、切り上げを放った。

 

 それを巫女は、あろう事か蹴りで迎え撃った。常人では捉えられない速度で放たれた斬撃を、巫女は剣の腹の部分を蹴ってやることで吹き飛ばしたのである。無論彼女の目でその剣筋は追えない。が、巫女は剣の軌道と速さを読むことで実行したのだ。

 

 相手の予想外な行動に虚を突かれ、宵闇の妖怪は剣を蹴り飛ばされる。剣は木や地面を跳ねながら遠くに飛ばされていき、草や倒木などの陰に隠れて見えなくなった。さりとて、宵闇の妖怪であれば、どこに剣が飛ばされようとも感覚的にその正確な位置を知ることが出来、回収は容易。しかし巫女がそれを許さない。武装が解除されたところを巫女は畳み掛ける。鞭状にした御幣を宵闇の妖怪に巻き付けて引っ張り、木漏れ日の下へ引きずり出した。すかさず巫女は肉薄し、剣の形体に切り替えて斬り付けた。

 

 数度程、巫女の攻撃をいなしてから、宵闇の妖怪はそこから飛び退いて離脱した。翼を近くの木の幹に叩き付けて軌道を変えながら飛んでいく。着地地点に妖力の塊を飛ばしてそこに何もないことを確認してから地面に足を付けた。

 

 その時、不意に何かの力によって宵闇の妖怪は後ろに吸い寄せられた。その先で彼女は背中を木に打ち付け、そのまま固定された。そこへ間髪入れず巫女が、伸ばした紙垂で宵闇の妖怪の胴を突き刺す。その状態から紙垂を縮めることで、巫女は宵闇の妖怪へ引き寄せられるように飛んでいく。そして勢いのままに蹴りつけた。

 

 巫女の足には御札が仕込んであり、それによって威力は普通の蹴りよりも強烈だった。しかし宵闇の妖怪は、気力を振り絞って相手に向かって手刀を振った。巫女は後ろに跳んで避けた。その隙に宵闇の妖怪は、自らに突き刺さっている紙垂を引き抜く。この無理な行動が身体に負荷を掛けるが、彼女はそれを押して巫女へ突っ込む。反射的に巫女がそれを避けると、宵闇の妖怪はそのまま向こうへと飛んでいった。

 

 戦局は巫女に確実に傾いている。生命線というほど宵闇の妖怪は剣に依存しているわけではないが、かの巫女を素手で相手にするのは得策ではないのは確かだ。

 

 巫女が仕掛けた罠に注意を払いながら、宵闇の妖怪は自分の剣のある所へ向かっている。

 

 真正面にあった木をよけた直後である。巫女が紙垂を伸ばした。その切っ先は、たった今宵闇の妖怪がよけた気を貫通する。それから宵闇の妖怪の背中を射抜き、彼女を引き戻して、またもやその背中を木に打ち付けさせた。

 

 宵闇の妖怪の腹から突き出た鋭いその紙垂は、更に伸び、彼女とその木に巻き付いて縛り付けてしまった。その手応えを御幣越しに感じ取って巫女は、そこへ向かって歩き出した。彼女の足取りは悠然としたものだった。焦る必要は無いのだと、御幣から伝わる感覚で判るからだ。

 

 ようよう巫女は、宵闇の妖怪が磔られている木の所まで来た。宵闇の妖怪は、激しく暴れるでもなく、はたまた弱々しく抵抗するでもなく、――諦観したような、――後はただ結末を待つのみという風な、落ち着き払った様子で、自身の正面に回る巫女を見据えていた。

 

 黙然として巫女は、宵闇の妖怪を縛り付けている紙垂を御幣から引き千切ると、その玉串に御札の束を付け、また新たな紙垂を作り出す。それを脇差程度の長さに固めると、間髪入れずに宵闇の妖怪の胸に突き刺した。肌を突き破る音、刃が肉に食い込む音がして、命を貫く手応えが巫女の手を震わす。その後、見る見るうちに宵闇の妖怪の顔から精気が抜け、そうして彼女は静かに一息吐いて、目を瞑った。

 

 巫女は玉串を握りしめたまま、ゆっくりと肩を弛緩させ、溜まっていた息を吐き出した。

 

 その瞬間だった。

 

 突如後ろから何かに、正面の宵闇の妖怪の亡骸ごと串刺しにされたのだ。

 

 それは剣だった。先刻巫女が宵闇の妖怪の手から弾き飛ばした物あれだった。

 

 一体全体どういう事なのか分からないまま、巫女は、たった今自分が仕留めたはずの妖怪を見た。

 

 「そんな……、どうして……」

 

 血反吐を吐きながら巫女は言った。

 

 宵闇の妖怪の口元はほくそ笑んでいたのだ。青ざめた顔ながらも、しっかりと口角を上げて笑っていた。すると、彼女の顔にはたちまち精気がみなぎり、カッと目を見開いたのである。巫女にやられた左腕と左脚も、受けたdamageも全て元通りだった。

 

 これは、この剣の特性である、犠牲者から吸収した生命を自身に流入させたことで回復したのである。

 

 「今度からは、化け物の持っている武器には、たとえ武装解除しても気を付けることね。――特に、持ち主と武器の間には」

 

 巫女の背中に宵闇の妖怪の手が回る。その手は、巫女の背中に突き刺さっている剣身に添えられた。

 

 直後に剣は更に深く突き込まれ、それが巫女にとっての致命傷となった。じわじわと出ていた血が、途端に溢れだすように流れ出ていく。さっきとは逆に、今度は、巫女のほうの顔から見る見るうちに血の気が失せていく。そうして、今にも吐瀉をしそうな、断続的な呼吸を巫繰り返していた。

 

 「い、嫌よ……」

 

 巫女は泣き出しそうな声をひり出した。

 

 「まだ、死にたくない!……。やっと……、やっと見つけたのに……。誰にも虐げられない、私の存在を許してもらえる居場所を!……」

 

 このように悲痛なことを、うわ言のように吐露し続けていた。震わせながらも手を、宵闇の妖怪の腕に持っていき、強く掴む。既に多量の血が流れ出て、意識すらも朦朧としているはずなのに、その力はますます強くなっていくばかりだった。

 

 やがて、巫女から流れ出る血の勢いが弱まるに連れて、その力は次第に弱まっていき、ついに彼女は事切れた。

 

 剣を通じて、巫女の生命が途絶えたことを確認した宵闇の妖怪は、自身と巫女を串刺しにしている剣を引き抜いて地面に降りる。彼女の腹には、剣で刺されたらしい跡は無かった。勿論、服も破れていない。

 

 地面に降りて、まず宵闇の妖怪は思案した。巫女が使っていた武器のことが気になるのだ。近距離から即座に遠距離に切り替えられるというのはなかなか便利である。どうにか自分もあれを模倣出来ないだろうか。そう思い、宵闇の妖怪は自分の剣を持ち上げて、しげしげと見た。

 

 おもむろに宵闇の妖怪が、左手で拳を作って剣身を叩く。すると、甲高い金属の音と共に、剣の腹には、『く』の字形の節目が等間隔に出来上がったのである。

 

 出来上がったそれを宵闇の妖怪は、試しに一振り。横薙ぎに振られたそれは残像の影となり、弧を描きながら周囲の木々に傷を付けていく。そして振られた後、その正体が明らかとなる。それは所謂、蛇腹剣という物であった。剣身は『く』の字形の節目から多数に分離して、これら分離した剣身に一本の黒い針金が通っている。鞭のようにしなり、鋸の原理で対象を切り裂く。

 

 再度宵闇の妖怪は剣を二、三回程振って、一旦剣型に戻した後、遠くにある倒木に向かって突きを繰り出した。蛇腹剣の切っ先は真っ直ぐ伸びていき、見事にその中心を穿つ。宵闇の妖怪がそこから引っ張れば、倒木は強烈な勢いで彼女の方へ引き寄せられていった。宵闇の妖怪の方へ向かって飛んでいる倒木から蛇腹剣の切っ先が引き抜かれ、彼女はそこから完全に剣の状態へと戻し、飛んできたその倒木を一刀両断で切り捨てた。

 

 ふむ、と一つ唸り、顎に手を当てて宵闇の妖怪は沈思した。遠近両方への攻撃については文句は無い。が、あの巫女のように、使い捨てては再生するという機能が無いため、やや不満が残る。

 

 とは言え、そこはやはりいい加減なところのある宵闇の妖怪で、すぐに妥協の頷きをして、さっさと剣を仕舞ってしまったのである。

 

 して、今肝心なのは、この、宵闇の妖怪を襲撃して返り討ちにされた巫女のことである。宵闇の妖怪は博麗の巫女については耳にしていたし、この巫女がそれであると推察していた。それで妙なのは、この巫女の持つ霊力の性質である。

 

 先ほど宵闇の妖怪は、巫女と一緒に剣に貫かれている時、剣を通してこの巫女の霊力や生命に触れていたのであるが、人間の霊力や生命力にしてはどうも淀んでいた。人間の霊力というのは、妖怪の持つ妖力などと違って、清涼で、透き通った水と形容される爽やかな感じがする。それに対してこの巫女の霊力は、やや温く、塵よりも細かい異物が入っているように感じるのだ。

 

 それに、霊力を巡らす身体の構造にも甚だしい差異があった。その差異というのは、霊力の巡り方は勿論、その回路に、別のものが繋がれているというものである。で、その繋がっているものというのが、感情のこと。具体的に言えば、『憎悪』や『怒り』などの、激しいnegativeな感情のことだ。

 

 端的に言えば、神か妖怪の手が入っている。

 

 今までに宵闇の妖怪も、このように、改造が施された人間を見たことがあるが、ここまで画期的なものは見たことがない。

 

 感情を使って霊力の増大や強化はまだ序の口で、その際のenergyを利用して永久機関を構築している。。ただでさえ、霊力と感情を繋げることは途方もないことなのに。それに、不安定で扱いにくいはずの感情を巧く制御するtheoryと機構を組むとは。

 

 これが単なる精神のことだけならまだしも、霊力などの神秘が関わるのなら話は別だ。本来、妖怪や神、霊力や妖力は存在しないモノである。伝承などが伝播し、それによって人々の精神に根付いた神秘が、人々の認知に入り込むことで存在しているのだ。

 

 つまるところ、そうした神秘の力と精神の二つの要素が在るとなると、個人と他者、人と神秘などの『相対的な精神(・・・・・・)』を考慮しなくてはならなくなる。

 

 粗削りではあるが、ここまで複雑なtheoryを組むとしたら、個人が考えるだけのものでは難しい。それこそ、学問として体系化された叡智が必要となるだろう。斯様なものを作り出せる者と言って、心当たりのある者はただ一人しか居ない。

 

 そう、八雲紫だ。

 

 伊吹萃香からの伝聞でしか宵闇の妖怪は知らないが、八雲紫ならば、このような無茶苦茶なことを考え出し、実行に移せるはずである。そう彼女は考えている。

 

 頬を掻きながら宵闇の妖怪は、博麗の巫女の亡骸を見下ろす。この巫女を勝手に殺して、果たして八雲紫はどう出るだろうか。やはり、怒る可能性が一番だ。そしてもしこの予想が当たったとしたら、よもや宵闇の妖怪は逃げられないことは請け合いである。

 

 「よし」

 

 そうと来れば、彼女が考える、現在自分がするべきことは、八雲について調べることである。

 

 差し当たってすることは、この巫女の亡骸を人里の住人に発見させることだ。早朝が好ましい。人が集まったところに紛れ込んで、人里へ潜入する。そこから、博麗の巫女の死亡の報を聞いた人里の反応を観る。じっくりと。

 

 博麗の巫女の亡骸を抱えて、宵闇の妖怪は飛び立った。夏場はすぐに死体が腐敗する。丸一日もあれば下腹部のほうから腐っていく。それに森の中の虫が死体を食い荒らすだろう。巫女の遺体が損壊したところで構わない、むしろそのほうが宵闇の妖怪にとっては良い。が、崩し過ぎて身元が判りにくくなることもある。それに宵闇の妖怪は、八雲紫について嗅ぎまわるつもりではあるが、殊更に挑発したいわけではない。どうせ彼奴とはいずれ衝突するのだろうから、わざわざ急ぐ必要も無い。

 

 まず死体を保存するために、冷たい環境が要る。この時期、そのためには冷気を操る能力だ。この幻想郷であれば、そんな能力を持つ者はいくらでも居る。とりあえず彼女は、その辺に居る、冷たい環境を用意出来る奴を捕まえて巫女の亡骸を冷やさせた。その後、自身の住処にこれを移して、後は放置である。彼女の住処に押し入って、中にある死骸を勝手に食おうなどと考える馬鹿は居ない。

 

 そうして彼女は、その日一日はふらふらとあちらこちらを漂い、ひたすら平坦な時間を過ごしていた。剣に溜め込む生命ののこともあるが、彼女はそのまま放置していた。物臭な彼女の狩りは、気まぐれか、たまたま遭遇した人間をとりあえず食うというものであるからだ。で、そんな出不精のくせに、彼女は退屈そうだった。明日の事もあるから、それが待ち遠しくて、尚更であった。

 

 人間の男女を二人見つけたので、狩る。片割れの脚を叩き切って、もう一人のほうをとっくりと味わい、その後、脚を切ったほうを食らった。腹は減っていなかった宵闇の妖怪は、二人の生命のほとんどを剣に喰わせた。

 

 その後、宵闇の妖怪は住処に戻った。巫女の亡骸を見張るという名目だが、ただ単に面倒になっただけであった。その辺の葉っぱで笛を吹いたり、手笛で梟の真似をして遊んだり。自分が襲った子供が持っていたお手玉で遊んだり。

 

 だんだん空が明るくなってきたので、日の出の前に、巫女の亡骸を抱えて人里へ向かう。入り口には見張りが居るので、空に僅かに残る夜の気配に紛れて、卯の刻の鐘が鳴る少し前の時間に、巫女の死骸を落とした。

 

 パァンッという、鉄砲が響くような――あるいはそれよりも甲高い――音を立てて、死骸は地面に激突した。それと共に見張りは、空から降ってきたモノとその音に腰を抜かして、その落ちてきたモノの正体を見、絶叫を上げた。

 

 この時分は、各々の家で女房が朝飯の準備をしているので、今の破裂音と絶叫を聞いた者たちが、すぐに集まってきた。死体が振ってきたというだけで相当な事件なのに、その死体が博麗の巫女のものであると知れ渡ると、瞬く間に辺りはpanicとなった。

 

 この混乱の隙を見て宵闇の妖怪は人里へ紛れ込んだ。その辺の路地裏に潜み、人々が出歩く頃になって出てきた。

 

 勿論、変装も忘れない。自分が襲った人間から剥ぎ取った着物を着て、日本人にはあり得ないその髪の毛と、人に恐れを抱かせるような赤い瞳は、自身の『宵闇を操る程度の能力』を活用して黒く染めている。

 

 そうすればもうこの通り、どこからどうみても、ただの器量の良い一町娘にしか見えない。

 

 わざとおどおどと振る舞いつつ往来を歩きながら、人々の話に耳をそばだてる。もう辺りは博麗の巫女の件でもちきりだった。

 

 表向きには人里はいつも通りであった。しかし人々の心を穿って観れば、明日は我が身の恐怖、それから目を背けて笑う男衆、宵闇の妖怪からの報復を恐れる自警団、そして何も知らない子供たち。

 

 これらの様相を見て、宵闇の妖怪は、それはもうご満悦であった。彼らは、すぐそこに自身の恐怖の元凶が、堂々と闊歩しているのにも気付かない。そんな彼らを嘲笑いながら、自身に向けられる恐怖の感情をとっくりと味わっていた。

 

 それで、肝心の博麗の巫女について。

 

 彼女の出現はおよそ数年前で、人間では決して倒せないであろう巨大な妖怪を倒したことから、たちまち名が広まった。で、その数年間で、彼女の顔を知る者は誰一人として現れなかった。つまり彼女は幻想郷の生まれ育ちではないということになる。

 

 そこで宵闇の妖怪は、巫女が今際の際に言っていたことを思い出した。

 

 ――やっと見つけたのに……。誰にも虐げられない、私の存在を許してもらえる居場所を!……。

 

 言葉は違えど、似たような悲愴さを醸すことを言う者を、宵闇の妖怪は何度か見てきた。而して、そういった者たちは、得てして強力な霊能者であった。閉鎖的な村に住む者だったり、或いはそこの信仰にもとる性質の力を持っていたり、めいめいまちまちであった。

 

 とすると、博麗の巫女は、幻想郷の外のどこかで、霊能者としての才能を持って生まれたばかりに忌み嫌われた娘と考えられる。その境遇から、当て所の無い憤懣を溜め込んでいて、それを八雲紫に利用された。

 

 ところで、宵闇の妖怪が見た博麗の巫女は、時間帯と場所、それと周囲の状態を整え、万全を期して向かってきた慎重な性格であった。そう思いきや、まるで怒りをぶつけるみたいに激しい攻撃を仕掛けてくるなど、大胆不敵なところもあった。つまり、感情が安定しないのだ。

 

 宵闇の妖怪が思うに、ひょっとすると、八雲紫がいじくった影響なのではないか。何しろ、感情で霊力を増大し、そのenergyで永久機関まで構築しているのだから、その感情を制御するのは困難なはず。

 

 現に人里の住人からも、博麗の巫女が情緒不安定であるらしき声もあった。

 

 さて、博麗の巫女に関する情報は粗方揃った。八雲紫の直接の情報は、少なくとも人里の者たちへの聞き込みで得られるものではないから、あまり意味は無いだろう。けれども、間接的な情報もあるだろうし、ということで、もう少しの間だけ人里に滞在しようと、宵闇の妖怪は決めた。

 

 変装しているとは言え、妖怪の身で人里を歩くのには、少々慎重にならなければならない。

 

 というのも、人里には勘の鋭い者は勿論、注意しなければならない人物が二人居る。

 

 一人目は、稗田家八代目当主、御阿礼の子こと稗田阿弥。能力としては普通の人間、或いはそれ以下であるが、妖怪について書いているからか、人外に対しては敏感で、近づきすぎれば気取られる恐れがある。

 

 続いて二人目は、上白沢慧音。一応、普段は人間だが、その半分は白沢という幻獣であり、満月の夜になるとその正体を現す。人間時は『歴史を食べる程度の能力』を持ち、白沢時では『歴史を創る程度の能力』を持つ。この能力がまた厄介なのである。

 

 人里に潜入することなど、宵闇の妖怪にとっては造作もない。それどころか、彼女以外にも人里に勝手に入り込んでいる妖怪も居るくらいだ。が、皆一様に、かの二人には注意を払っている。

 

 しばらく人里に滞在して、宵闇の妖怪は人里を出て、自身の住処に戻る。

 

 ところで、ここで一つ、とある矛盾について説明をしなければならない。ここ幻想郷で誰も気付かない。人里の住人も、人妖も、神も。ごく一部の者を除いて誰も言及しない矛盾だ。

 

 まず、前提として、少なくともこの時代の人妖は凶暴であった。故に人との間には絶対的な溝があった。またこういった閉鎖的な人里は、ややもすると余所者に厳しく、排他的だ。だからこそ人々は、人里の中には、人間以外の存在を入れたがらない。

 

 しかし実際どうだろうか。何百年も前の人間が、転生を繰り返して、今も生きている。半人半獣の妖怪が人里の守護をしていることについては誰も言及しない。御阿礼の子が何度も転生していることも、上白沢慧音が半人半獣であることも、人里の誰もが知っているはずなのに。

 

 人外をはじめとした余所者はほとんど受け付けず、それを今も守っているのだと彼らは思い込んでいながら、御阿礼の子や上白沢慧音はこうして堂々と人里で生活を営んでいる。

 

 相反する二つの思考が同時に存在する二重思考(Doublethink)。これはさながら、矛盾の『境界』をいじくられたかのようである。

 

 閑話休題。

 

 住処に戻って、一晩程、宵闇の妖怪は考えた。もし、此度の件で八雲紫が激怒して、後々襲い掛かってきたとしたら、どうすれば生き残ることが出来るだろうか。幻想郷の管理をしていると知られているくらいだから、相当な力を持っていると考えてもよいだろう。或いは、本気で殺り合ったら、宵闇の妖怪の生はそこで終わりとなる。

 

 とすれば、別の方向で血路を開くべきで、そのためには八雲紫の情報が必要不可欠となる。が、これから八雲紫を調べる上で、猶予は少ないと考えるべきである。せいぜいのところ、一ヵ所にしか行けないとする。なれば、この一ヵ所はどこにすべきか。

 

 そのうち、カンカンと照っていた太陽が西の山の方まで来て、今にも沈みそうな時分となった。

 

 欠伸を一つして、伸びをした彼女は、ふらふらと住処を出てとある場所へ向かった。聞き込み調査をしに行くわけであるから、その手には『手土産』がある。特に今から行く場所――妖怪の山は尚更である。

 

 妖怪の山は、幻想郷で最も人妖の数が多く、規模や力で言えば最大の勢力となる。かつては鬼がてっぺんで、その下に天狗が居たが、人間を見限ったと言って鬼は山を離れてどこかへ消えてしまった。その後、目の上のタンコブが消えたことで天狗が山を仕切りだし、増長していった。それに因り、規範は甘くなり、下っ端の妖怪は幅を利かすようになったのであった。

 

 具体的に言うと、妖怪の山には嘘が跋扈し始めたのである。

 

 この独裁体制の妖怪の山に入るのは容易ではない。現に宵闇の妖怪も、裾野の辺りで、警邏の天狗に捕まっていた。以前、まだ妖怪の山に鬼が居た時分は、彼らと誼を持っていた宵闇の妖怪は、鬼らとappointmentがあれば簡単に入れた。それが今はこれだ。たとえ宵闇の妖怪が、どんなに力を持っていたとしても、天狗らは面子のために彼女を入れないように苦心する。

 

 それだけに、天狗の彼女に対する応対は堂に入ったものである。彼らは宵闇の妖怪が、ケダモノに見えて意外と理性的であることを知り抜いている。彼女は、相手が多少居丈高であろうとも、喧嘩を売るという意思が無い限りは――例外はあるが――ほとんど全く攻撃をしない。

 

 であるから、応対に当たる天狗は、山に入れないという意志をきっぱりと表し、かつ宵闇の妖怪を下手に刺激しないような態度でいる。いつもであれば、やがて宵闇の妖怪が根負けして引き下がるのであるが、今回は違う。

 

 「あやややややや!」

 

 ふざけた調子の声がして、宵闇の妖怪と、彼女の応対に当たった天狗との間に、鴉天狗の少女が突如として降り立った。

 

 「これは、これは。お久しぶりですねえ! 毎度おなじみ、清く正しい射命丸文です!」

 

 やかましくそう言って、射命丸文と名乗った彼女は、後ろで喚き立てる天狗を無視して宵闇の妖怪に相対した。

 

 「この手土産、茨華仙に見せてあげてくれないかしら」

 

 と、宵闇の妖怪が、手土産の一部を紙に包んで文に差し出すと、

 

 「これを茨華仙殿にですね、承知しました!」

 

 文は矢継ぎ早に了承して受け取り、轟音を立ててさっさと飛んでいってしまった。天狗のほうも、いくら文と宵闇の妖怪が凄まじくても、止めそこなったことに頭を抱えて、どう報告すればいいのだ、とうずくまった。

 

 文が飛んでいって、まだ刹那の間に、彼女が飛んでいった先で、今度はまた違った感じの轟音が響いた。そして何かが跳躍してきて、宵闇の妖怪の前に降り立った。

 

 飛んできたのは、両側頭部にお団子型の布を被せた少女、件の茨華仙であった。華仙は息を弾ませており、その脇には、今さっき手土産を彼女に店に行った射命丸文が抱えられていた。抱えられている文も、さすがに涙目になりながら苦笑を浮かべていた。

 

 このようにして、宵闇の妖怪は、幾度かうまうまと妖怪の山に出入りしていたのである。

 

 場所を移して、華仙の屋敷。

 

 宵闇の妖怪が持ってきた手土産というのは、軍鶏の肉であった。

 

 「ほら、あなたも手伝ってちょうだい」

 

 言いながら歌仙は、いそいそと、宵闇の妖怪の持ってきた軍鶏を食べるための準備を始めていた。はいはい、と、やや呆れ気味に宵闇の妖怪は従った。

 

 脂と水気で鈍い光を僅かに放つ新鮮な軍鶏の臓物を、味噌を溶いた出汁の中に、ササガキにした新牛蒡やら、葱やら、豆腐やら、白滝やらと一緒に並べていく。しばらく煮ていくと、鍋がぶくぶくと沸いてくる。味噌の匂いが立ち上ってきて、そろそろといった具合に彼女らは鍋に箸を伸ばした。

 

 二人して、この熱いのを、ふうふう言いながら食べると、これまた何とも言えない相好で、うーん! と感激の声を上げた。また二口、三口と食べていき、やがて汗をかく。それをぬぐいぬぐい、冷酒を舐めるように飲んで、また食べた。

 

 ある程度食べると、二人の食欲も大分落ち着いてきたのか、

 

 「それで、用件は?」

 

 歌仙が切り出した。

 

 「単刀直入に言うと、命の危機だから助けて」

 

 「その割には楽しそうだけど」

 

 歌仙の言う通り、宵闇の妖怪はニコニコとしていた。

 

 「で、あなたを助けて私に何の得があるの」

 

 「まあ、まず前払いとして、天狗たちの相談役という名目でやや不自由な生活をさせられているあなたの補助を、うちの子たちにさせてあげる」

 

 「ふむ……」

 

 他の鬼が去る中、唯一歌仙だけは残った。鬼というのは実力主義で、総じて強硬派である。が、彼女はそんな彼らの中でただ一人の穏健派であった。これが彼女と他の鬼たちの間に溝を作り、鬼たちの移住を機に両者は袂を分かつことになったのだ。それで彼女は山では孤立し、隠居を余儀なくされた。だが彼女には、この山全体の戦力を単独で相手に出来るだけの力量があった。それ故に天狗らは彼女を疎み、相談役を頼むという名目で彼女を半ば軟禁状態に置いたのである。

 

 鬼の中で数少ない穏健派である歌仙は、それだけに天狗に近くはあったが、あるところで決定的に違かった。その最たるものが、保守派であるか革新派であるかだった。

 

 天狗は、鬼とは別の方向で誇り高い種族であるが、元々は自惚れた修検者の成れの果てでもあり、故に傲慢である。保守派と言えば聞こえは良いが、その実状は、老害が地位を独占し、排他的で、旧弊的な慣習にいつまでも縋り付こうというものであった。

 

 歌仙の主張は、行き過ぎた保守はやめて、必要な新と旧を取捨選択するべきだというものだが、旧弊的な価値観に捕らわれた者からはただの革新派としか捉えられなかった。

 

 これが、歌仙が孤立した一番の所以である。

 

 「それだったら間に合ってるわ。私には、あの娘を筆頭に手駒が居るもの」

 

 『あの娘』とは、射命丸文のことだ。天狗たちの中にも、歌仙の思想に共感した者たちが居た。その彼らの助けがあったからこそ、歌仙はこうして、軟禁状態でもそれなりに自由が得られているのだ。

 

 「内と外の両方に味方が出来るのは大きいと思うわよ。それに、手駒の中に紛れている不埒者のあぶり出しをするのも、少しは楽になるんじゃないかしら」

 

 「一理あるわね」

 

 「話を聞く気にはなった?」

 

 「内容次第ね、とりあえず言ってみなさい」

 

 「じゃ、まず、どうして私の命の危機なのかと言うと、そもそもは私が博麗の巫女に目を付けられて、粛清に来たあの娘を返り討ちにしてしまったからなの」

 

 「博麗の巫女ね、なるほど。以前萃香から聞いたのだけれど、八雲紫も博麗の巫女には相当力を入れていたようね。あの力を活用すれば、幻想郷のbalanceを整えることが出来るし」

 

 「そして人間は妖怪に対して極端に怯えることがなくなり、崇拝と畏怖の適度なbalanceが出来、人里は更に活気が増して平和になることでしょうね。――上手く行けばの話だけど」

 

 この宵闇の妖怪の発言に歌仙が僅かに反応したことを、宵闇の妖怪は見逃さなかった。

 

 そこで、と宵闇の妖怪が後を被せた。

 

 「八雲紫が考える今後の幻想郷を造るに当たって、今最も邪魔な存在と言えば、やっぱりここ妖怪の山しかないなって思うのよね」

 

 「ええ、その通りよ。特に一番の厄介者は天魔でしょうね。天魔は幻想郷の今後を考えるだけの分別はあるようだけど、それも当てにはならない」

 

 「で、内通者が居れば、あれらを押さえ付けることも訳が無なくなる――」

 

 と、宵闇の妖怪が言い切る直前、

 

 「同時に、あなたに取り入ろうとする不逞の輩も押さえ付けられる」

 

 歌仙が紡いだ。

 

 それを聞いて宵闇の妖怪は、視線だけを歌仙に移して押し黙った。

 

 その様子から、歌仙はあることを確信した。

 

 昔、まだ鬼が妖怪の山に居て、宵闇の妖怪が山に偶さか訪れていた時分、天狗の上層部の中には、彼女を利用しようと水面下で動いていた者たちが居た。そのことごとくを宵闇の妖怪は、ある時はその手合いの部下を見せしめに嬲り殺したり、またある時は四天王の喧嘩のどさくさに紛れて破壊活動を行ったりして粉砕していた。

 

 当時、歌仙からすれば、宵闇の妖怪のその行動は不自然であった。というのも、彼女の知る宵闇の妖怪とは、他人のいざこざに自分から首を突っ込んで引っ掻き回すのが趣味の陰険な奴、というものであった。そんな彼女が、妖怪の山の政治事情に乗らなかったのが歌仙には解せなかった。

 

 そこで歌仙は、宵闇の妖怪が好むことと厭うことを分けて考えた。そこで浮かび上がったのが、宵闇の妖怪は、何かの事柄を第三者の立場で俯瞰することは好きだが、深く入れ込むようなことは嫌うというものであった。ともすると、不条理の中に安定を求めている、と考えられる言動まである。

 

 安定とは即ち保守。

 

 これは歌仙の憶測だが、宵闇の妖怪は、可能な限り変動の無い流れを求めていながら、その明敏過ぎる頭脳からの強迫的な衝動に突き動かされているのではないか。

 

 これらのようなことを、決定的な根拠が無いながらも、歌仙は確信していた。

 

 歌仙は、自身を凝視する宵闇の妖怪の眼を見ながら、憫笑を浮かべた。

 

 「ふ、ふ」

 

 歌仙の微笑に釣られるように宵闇の妖怪もまた口から笑いを漏らした。

 

 「天狗を押さえ付ける機会が出来て嬉しいのは、あなたも同じでしょう。少なくとも、傲慢な天狗の脅威から人間を守れるのだから。――そうすることであなたは人間の味方であるという立場が手に入る」

 

 今度は歌仙が固まった。

 

 「かつてはあなたも人で、人としての心がまだ残っているからこそ、あなたも人の味方になろうと思える。ええ、それはあなたが人であったことの証左。普通の妖怪ではなかなかないことよね、……茨木華扇さん」

 

 歌仙は片頬を上げて苦笑した。さすがに、嫌味については宵闇の妖怪のほうがうわ手だったようで、これ以上は下手なことは言わないという風に息を吐き、

 

 「人に物を頼むにしては随分と失礼な態度ね、私を信用していないのかしら」

 

 「腕は信用しているわよ、でも裏切るかどうかは別よ。万に一つそんな事があった時に、後腐れが無いように別れられるようにね……」

 

 あら、と、歌仙はとぼけたように、

 

 「鬼は嘘を吐かないわ。大丈夫よ、少なくとも今は裏切らないから」

 

 清々しい宣告をした。

 

 俄かに二人の間には重苦しい沈黙が流れた。

 

 しかしその沈黙はすぐにほぐれる。

 

 「ふ、ふ……」

 

 おもむろに宵闇の妖怪が笑い出したのだ。

 

 「うふふ、ふふ……」

 

 続いて歌仙も笑い出した。

 

 「ふふふ……」

 

 「うふふふ……」

 

 相好を崩して両者は、互いの目を見つめ合いながら、いつまでも笑い続けていたのであった。




 今更ですが、戦闘には基本的に重要な部分は入れていないので、戦闘が好きではないと言う方は、戦闘開始から決着時まで飛ばして、どうぞ。


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迫真反アオギリ部

 大変遅れてしまい、申し訳ありませんでした! もうこの話飽きたんだよ! と言われるかもしれませんが、まあ投稿滞ってたからね、しょうがないね。


 「こっちよ」

 

 手招きをするルーミアに、カネキは続いた。現在二人はアオギリのアジトの脱出の最中であるが、その前に『あんていく』の仲間と合流して、カネキ奪還が完了したことを告げて回る必要がある。

 

 しばらく彼女について行くと、見覚えのある所に来た。ある角まで来ると、そこはまさしく見知った廊下の様相である。ここを真っ直ぐ行って突き当りを曲がれば、あそこに着くはずだ。

 

 「研、どうしたの」

 

 ルーミアが振り返って言った。

 

 「ちょっと用事を思い出したんだ、行かなきゃ」

 

 カネキは駆け出した。自身の考えた通りに、真っ直ぐ言って突き当りを曲がった。そうして程なくして、確信した折、カネキの向かう先の方から金属を叩くような鈍い音が響いてきた。また更に近付くと、今度はすすり泣きらしい声が聞こえてきて、男性が悔恨するような声も聞こえてきた。

 

 その場所に行くと、牢屋がみたいな部屋がある。声はそこから聞こえてきていたのである。カネキはここを知っている。今現在、万丈たちが閉じ込められている所だ。

 

 カネキは、彼らが居るであろう鉄格子の部屋の前まで来た。

 

 「だ、誰だッ!」

 

 中の万丈たちは、近付いてきたカネキの存在に気付き、警戒しだした。

 

 「万丈さん、僕です、カネキです」

 

 鉄格子の間から覗いて、顔を見せる。すると万丈たちは、目を見開いて、口を半開きにしだしたのであった。

 

 「カネキ……。カネキ、なのか?……」

 

 「ええ、そうです、あのカネキです。遅くなってすみません、でももう大丈夫です、ヤモリは僕が始末しました」

 

 カネキから告げられて、ますます万丈らは驚いた。

 

 「始末って、あのヤモリをか! マジかよ……」

 

 「厳密にはまだ死んではいないけど……、でも赫包を喰ってやったから、あれからどうなるかは僕の知ったことではないです。……そんなことより、今はまずここから出ましょう」

 

 言うや否やカネキは、下がって、とひとこと言って、万丈らが下がったのを見てから赫子で鉄格子を破った。

 

 「お友達は見つかったみたいね」

 

 不意に、カネキの後ろから声を掛けてきたのはルーミアだった。

 

 「お、お前! たしか首を折られて……」

 

 「喰種だって、首折られたくらいじゃ死なないのなんていくらでも居るじゃない」

 

 ルーミアはそう結ぶと、それはさておき、と前置きして、

 

 「お友達は救出したことだし、早くみんなに伝えなきゃね」

 

 歩き出した。

 

 カネキが彼女に続いて振り向こうとする時、視界の端にとあるものを認めて、思わず動きを止めた。それはコウトだった。

 

 コウトはあの後結局、ヤモリに生かされていたのだ。どうしてかというのは、コウトのカネキを見る眼で明白である。母親を殺された、当て処のない恨みがカネキに向けられるのは当然である。

 

 「コウト君……、あのさ……」

 

 声を掛けようとすると、コウトはそれまでの恨みがましい目つきをやめて、目を伏せる。近付き、顔を合わせようすれば、コウトのほうは、気まずいという風にそっぽを向いて目を合わせようとしない。

 

 「お母さんのことは、その、本当にごめん。あの時点でヤモリは始末してさえいれば……」

 

 と言うと、最初コウトは表情をピクリと動かした。その後動揺のままに視線を泳がせていて、次第に息も荒くなって、感情の発露が見え隠れしていった。涙を抑えるように鼻をすすり、

 

 「うるさいよ……、謝ったところで何になるんだよッ……」

 

 これを皮切りに、溢れだす激情が増していく。さながら、水をせき止めていた壁に亀裂が入り、そこから溢れる水が次第に増えていくかのように。

 

 「お、おい、コウト……。カネキはお前のことを――」

 

 「うるさいッ! こいつのせいでお母さんは死んだんだ! ヤモリを殺せるんだったら、最初からそうしていれば……。もう……、早くどっか行けよッ!」

 

 コウトはカネキを突き飛ばした。よろめいてカネキは、呆然として、それでいてどこか悟ったように立ちすくんでいた。それがコウトは気に入らないらしく、今度はカネキを押して、破れた鉄格子の外へ押し出したのである。

 

 「どっか行っちまえッ!」

 

 怒りと悲しみが綯交ぜになったコウトの顔を、カネキは見ていられなくて、目を背けた。それでもコウトからの視線は感じた。カネキ自身への純粋な怒りではなく、何か他の感情が入り乱れた、コウトの困惑気味の視線を。

 

 それに向き合おうと一瞬目を向けるも、耐えきれずカネキはすぐに目を逸らす。所在なく彷徨う視線が、ちょうど万丈を認め、カネキは視線を万丈に合わせて、

 

 「あの、僕はこれから、『あんていく』のみんなに撤退を伝えに行かなきゃいけないから、もう行きます。……どうかご無事で」

 

 このように旨を告げて、そそくさとその場から逃げるように走り出した。廊下を出てルーミアと合流した、どうやら待っていたらしい。彼女は何も言わず、黙って走り出した。カネキもそれに続く。

 

 コウトのことは、しばらく置いておく。自分もそうだったからだ。

 

 母が死んだ時、目の前の現実が認められなくて、反発に変化したその気持ちが怒りとして表れた。程経て現実が見えてきて、泣いて、後は受け入れるだけだった。

 

 あの子が落ち着いたら、その時膝を交えて話し合い、和解しなければならない。コウトの母を死なせた罪をチャラにしようというわけではなく、物事に決着を付けるために。

 

 一旦建物から出た。そこかしこから銃声が聞こえてくる。たまに爆音も響いてくる。依然として抗争はCCGと喰種らの闘争は、やや下火にはなってきたものの、続いているらしい。

 

 「ところで、みんなはどこに居るのか見当は付いてるの?」

 

 カネキが訊くと、

 

 「実のところ、皆目見当も付かないの」

 

 ルーミアはあっけらかんと、

 

 「本当だったら雛実ちゃんと一緒にカヤのそばで待機しているはずだったんだけど、こっそり抜け出して、建物に入ったんだ。その時には警備は無くなっていたから、どこからでも入れたし、みんながどこから建物に入っていったのかすら分からないの」

 

 このように言った。

 

 カネキはこれを聞いて、少しばかり落胆して、ほとんど息を吐くだけに等しい小さな嘆息したが、すぐさま、そう言えばルーミアはこんな娘だったという考えに至り、今度はむしろ安堵をした。

 

 「ごめんねえ、研」

 

 と、手を合わせて、この場には不相応なにこやかな笑みを浮かべるルーミア。それを無視してカネキは、

 

 「なら、やみくもに探すしかないのかな」

 

 近くの棟に、ふと目をやって、目を見開いた。

 

 建物の屋上に目が行った際、数人の人影があって、現在交戦している様子であった。あそこに居る者たちはいずれも、人間には不可能な機動力と跳躍を見せていたのだ。つまりあれは喰種同士による抗争で、考えられるとしたら単なる仲間割れか、もしくは『あんていく』のメンバーが交戦しているかである。

 

 直後にカネキは駆け出した。中に入って階段を上がることを考えたが、それでは手遅れになってしまいそうだった。そこでカネキは、近くにあった木に飛び乗って、それで小さめの建物に飛び移ってそこの屋上まで登った。そこから助走をつけて、件の建物の屋上に向かって跳躍する。飛距離は足りなかった。が、赫子を屋上のへりに伸ばして、引っ張った反動で一気に屋上へ飛び上がった。

 

 着地する直前、そこに居るのがアオギリのマントを着ている者ばかりなのを見た。敵味方が判別出来ず、やむなく赫子で牽制し、安全に着地をした。

 

 赫子の牽制によって舞い上がった粉塵が晴れてきて、異様な光景が見えてくる。赤いマントの者たちの中に、アヤトが居た。彼は、マントを羽織っている者をうつ伏せに組み伏せていた。

 

 「何だ、生きてやがったか……。俺はてっきり、もうとっくにあの変態にぶっ殺されてると思ってたよ」

 

 アヤトは口元に付いた血を袖で拭って立ち上がった。彼は何を喰っていたのか。

 

 見ると、アヤトが組み伏せていたのはアオギリの人間ではなかった。あれはトーカだ。彼女は背中の肩付近を、羽赫の赫包辺りを喰い千切られていた。荒い息と共にビクビクと彼女の身体は痙攣しており、今にも死にそうなくらい弱っているようだった。

 

 「……トーカちゃんに何をしたんだ」

 

 「何って、見りゃ分かんだろ、侵入してきたから排除してんだよ。赫包を破壊してやるのが一番良いのさ、再生力を大幅に落とせるんだからな。もう勝負は有ったのさ」

 

 アヤトはしたり顔をして、トーカのわき腹をつま先で小突いた。

 

 「彼女から――離れろ」

 

 「そんなわけにいくかよ。そら、見ろよこれ、なあこの無残な姿よォ、なあ、オイ」

 

 と、アヤトは周囲を見渡して見せた。辺りには何人かのアオギリの構成員が、大量に血を流して横たわっていた。トーカがやったのだろう。数人を相手にして、その内の何名かを彼女は仕留めたのだ。

 

 「こっちは部下が殺られてンだ、その張本人をみすみす逃がしましたってわけにはいかねえンだよ、ボケが!」

 

 「なら仕方がないな……」

 

 カネキがそう言った時だった。

 

 瞬間。

 

 突如として誰かが乱入した。

 

 乱入者は手近なアオギリの構成員を三人程、一瞬の内に仕留める。それだけに留まらず、アヤトに足払いを掛けると、瞬時にトーカを抱えてカネキの横に移動したのだ。

 

 足もとを掬われる直前になってアヤトは反応した。転倒は免れなかったものの、受け身を取り、追い打ちを掛けられないよう即座にその場から飛び退いた。

 

 「くそっ、誰だッ!」

 

 体勢を立て直したアヤトは、自分を襲撃したであろう者、今カネキの横に奪還したトーカを置いている者を見やって、一瞬目を見開いて、また細めた。

 

 「なるほど、やっぱり首を折られた程度じゃあ死なねえかもな。或いはあの時はわざとヤモリにやられたってところか……」

 

 「別にわざとってわけじゃないわよ、向こうが勝手に怯えただけ」

 

 ふん、とアヤトは鼻を鳴らした。

 

 さて、とルーミアは口を切る。

 

 「今のでそっちは三人脱落して、あなたを含め三人。もうここまで来ると、さすがに私たちを取り逃がすわけにはいかないわよね」

 

 「かもなァ……。当然、逃がしゃしねェよ、ここでてめえらまとめてぶッ殺してやる。見ろよ、そっちの馬鹿姉貴なんか気絶してやがるぞ、そいつを護りながら俺らから逃げおおせられっか」

 

 「さて、どうかしらね。出来るかどうかは、研次第……」

 

 と、ルーミアはカネキを見やって微笑んだ。

 

 「えっ?」

 

 と、急に話を振られてカネキは戸惑った、それに委細構わずルーミアはカネキの腰をトンと叩いて、

 

 「後はお願い」

 

 直後、脱兎の如く駆け出したのだ。

 

 呆気にとられてカネキは一瞬遅れて、待ってと言おうとして手を伸ばす。瞬間、二人の者が駆け出す音が耳に入る。これはアヤトの他の、二人のアオギリ構成員だ。

 

 二人の構成員は、ルーミアの逃走を阻止せんと追いかけたのだ。片方は羽赫で、もう片方は甲赫。まず機動力のある羽赫が先行して、飛び上がる。その矢先、ルーミアがそちらへ振り向いたのであった。

 

 「待てッ、お前ら!」

 

 叫びながら構成員二人を引き留めたのはアヤト。一体彼は何を見たのか。

 

 だが既に遅かった。

 

 突如、疾走するルーミアが消えたのだ。否、消えたのではなく、折り返したのだ。相当な速さでいたのにも拘わらず、減速の間すらも無く。そうしてルーミアは、現在空中に飛び上がっている羽赫のほうの真下まで来て、跳躍する。その羽赫の足首を掴むと、地面に叩き付けた。

 

 また瞬時にルーミアはその場から飛び出す。今度は甲赫のほうに蹴りを喰らわした。辛うじて甲赫のほうは反応して、赫子で防御。が、それに因って肩が無防備となった。ルーミアが、甲赫の赫子を纏う相手の腕の根元を叩くと、相手の肩関節と鎖骨、それと肩甲骨が一斉に砕ける音が響いた。

 

 そこへ羽赫の結晶の弾丸が飛んできた。今さっきルーミアに地面へ叩き付けられた羽赫のほうの物だ。

 

 反応してルーミアは、甲赫のほうを盾にしてこれを防いだ。

 

 結晶を放った羽赫は、上体を起こした体勢となっていた。ルーミアの攻撃のダメージから立ち直りきっていないらしく、移動出来ないでいる。

 

 と、今度はまた別の羽赫の結晶が飛んできた。こちらはアヤトに依る攻撃だ。素早くルーミアは、甲赫のほうをそちらに向けて防ぐ。そこを隙と見てか、羽赫のほうがまた結晶を飛ばす。しかしまたもやルーミアはそれを防いでみせた。

 

 甲赫のほうを持ち上げて盾にしたまま、ルーミアは羽赫のほうに突進していった。押し返さんと羽赫のほうは結晶を撃ち返すも、意に介さずルーミアは突っ込んでいく。そしてルーミアは、甲赫のほうの体を、まだ立ち上がっていない羽赫のほうへ投げ付けた。

 

 対して羽赫のほうは、背骨のダメージから既に回復していたのか、それをよけて上へ跳んだ。

 

 されどもルーミアはそれをしっかりと読んでいて、羽赫のほうが飛び上がるよりも一瞬早く跳び上がっており、羽赫のほうを再び地面に打ち落とした。

 

 地面へうつ伏せに激突した羽赫のほう。落下の力を利用してルーミアは、羽赫のほうの首筋を踏み付け動きを封じた。

 

 勝負は付いたと言っても過言ではない。まずはルーミアは、甲赫のほうの腕を、肩甲骨辺りから赫包ごと引き千切ると、それを甲赫のほうの頭へ突き刺した。次に、首の骨をやられて地面に倒れたままの羽赫のほうの頭を掴み、そのままねじ切ったのであった。

 

 この間は実に短い。およそ十秒と少しの間に為されたのである。

 

 「くそッ! あの馬鹿ども、あんな単純な手に引っ掛かりやがってッ!」

 

 そう毒づくアヤトを見て、カネキは得心した。ルーミアは、遁走することで自らを餌に敵を引き付けたのだ。まんまと敵二人は引っ掛かり、ルーミアによって仕留められたというわけである。もしあそこでアヤトまで来ていたらどうなっていたことか。或いはアヤトも諸共沈黙させられていたかも分からない。

 

 カネキはルーミアの戦いぶりを直接、まともな精神状態で見たことはないが、彼女なら出来るものと、どういうわけか納得していた。

 

 再びルーミアは、カネキの近くへ寄ってきて、そこに寝かせてあるトーカを担ぎ上げると、

 

 「じゃ、私はみんなを呼んでくるから、研は後をお願いね」

 

 それだけを残して、そこを後にした。

 

 「あッ、おい、待ちやがれッ!」

 

 というアヤトの制止は全くの無視であった。

 

 その時はもうルーミアはそこには居なかった。何故かは分からないが、ここの屋上の周囲に黒い霧のようなものが現れて、アヤトやカネキの視界を遮って、これが晴れる頃には彼女は消えていたのだ。

 

 まるで大切な物を風に攫われてしまったみたいにアヤトは放心していた。カネキのほうも、何だか狐につままれた心持ちで、ルーミアのあの、人を小馬鹿にしたよく分からない行動を反芻するのであった。

 

 ふう、とアヤトが腰に手を当て深く息を吐いた。彼は俯いて、おもむろに首を横に振る。それで唐突に、哄笑混じりの咳を一つした。

 

 「なあ……」

 

 アヤトは誰にともなく声を掛けて、思わずカネキが、

 

 「ん?」

 

 と反応を示した。

 

 「俺はこれからどうすりゃいいんだ?」

 

 いやにアヤトは落ち着き払っていた。

 

 カネキにはアヤトの今の気持ちは分からない。ルーミアに翻弄された憤りを抑えるために、敢えて平静を装っているのか、はたまた彼女が去ったことで訪れたこの寂寞とした空気に当てられたことで、却って落ち着いているのか。或いは、この惨状を、上にどう報告したものかと途方に暮れているのかもしれない。

 

 「出来れば見逃してほしいんだけど」

 

 回答に困ってカネキは、つい直球でそんなことを言った。

 

 「出来るわけねえだろ、そんなん……」

 

 アヤトは顔を上げた。その顔は憮然としていた。

 

 そして唐突に、ガンッという鈍い音を立てて、近くの手すりを蹴ったのだ。

 

 「あああ! ちくしょう!」

 

 と、次いで、吠えるように絶叫を上げると、肩から出ていた赫子を一層増大させたのである。

 

 「とりあえず、てめだけはぶっ飛ばす! もう面子なんてどうだっていい、俺はお前が気に食わねえンだ。特にその眼がな! 知った風な綺麗事を語ってるみたいで気に食わねェ……」

 

 カネキには、今のアヤトはただ虚勢を張っているように見えた。もうここで戦う理由も必要も無いが、心の内に残った、詮方ないわだかまりがアヤトを駆り立てているのだ。

 

 自分としても毒気が抜かれていて脱力気味なのだが、せめてこれだけはという気持ちでカネキは構えた。

 お互いに見合う。けれども周囲の喧騒が耳に付く。集中出来ていない証拠だ。

 

 尤もそれは向こうも同じであろうが。

 

 さして膠着状態にもならず、この睨み合いはすぐに解けた。

 

 先手を打たんとアヤトが飛び出した。カネキに急速に接近するその間に、アヤトは赫子の結晶を撃ち出す。カネキはそれを自身の赫子で弾きつつ、横に回避した。

 

 アヤトによる結晶の弾幕が追ってきて、カネキは相手の周囲を回ってそれから逃げる。

 

 羽赫は燃費が悪く、特に弾幕は最もRc細胞を消費する。それ故に、エネルギィ節約のためにアヤトは一旦弾幕を打ち切った。そこにカネキは突っ込んでいく。相手の方の、敢えてややズレた方向へ突進していった。

 

 アヤトは結晶を数発撃って迎え撃つも、あらかじめズレた方に進んでいたカネキはあっさりと回避。両者の距離が縮んできて、再びアヤトは赫子をカネキに射つ。その攻撃をカネキは赫子で弾き、アヤトへ肉薄して拳を入れた。これをアヤトは肘で受けようとするも、カネキの拳はアヤトの上腕を掠めて胴体に当たる。しかし衝撃の一部がアヤトの腕に行ったことで、ダメージは減衰していた。

 

 カネキはアヤトに捕まれる。すかさずアヤトはカネキの顔面に頭突きを入れた。

 

 負けじとカネキも相手の腹に膝を入れる。堪えてアヤトがカネキの腰にタックルで組み付く。

 

 腰に組み付くアヤトの背中にカネキは肘を打ち、投げ飛ばした。アヤトは鉄柵にぶち当たる。そこへカネキが赫子を放つも、ジャンプでよけられ、鉄柵の上部分だけが破壊された。

 

 アヤトからまた結晶が放たれる。だが発射の勢いは弱く、結晶の一つ一つも小さく、数も少ないため、カネキは簡単に回避出来た。

 

 度重なる戦闘と、今の激しい戦闘に、赫包のRc細胞の蓄えが底を突いたのだ。

 

 空中で集中が発散しているアヤトの隙を突いて、カネキが飛び上がった。アヤトもそれに気付いてまた結晶を繰り出すが、カネキは腹を括って真正面から突っ込み、アヤトを捕まえた。そしてそのまま下に落とした。

 

 次の瞬間、肉を突き破る音が響いた。今しがたカネキが破壊した鉄柵が、落ちたアヤトの胴体に突き刺さったのだ。鉄柵は上の部分が吹き飛んで、柱の部分が剥き出しで杭状になっている。

 

 アヤトは絶叫した。が、声はあまり出なかった。胴へのダメージに因るものだ。

 

 通常の武器では傷付けられない喰種だが、不意打ちなどの場合はその限りではない。アヤトは空中で仰向けの体勢のまま、杭状になった鉄柵が下にあると思わなかったために、胴を貫かれたのである。

 

 カネキは、アヤトの腹から突き出た鉄棒を掴むと、これを力任せにひん曲げた。これでアヤトは無力化出来たと言えよう。

 

 ここに来てカネキは、肺に溜まっていた空気を一気に吐き出す。若干呼吸は乱れている。

 

 一方アヤトは、身体を起こそうとするも、力が出ないようで、そのままぐったりとした。息も絶え絶えだが、生きてはいるらしい。

 

 「一つ訊いていいかな」

 

 言問うカネキ。アヤトは反応をこれといった反応は示さないが、カネキは勝手に続ける。

 

 「『あんていく』でのことなんだけど、あの時、ヤモリに向かっていくトーカちゃんを、君は殴ったよね。でも何だかそれが不可解なような気がしてならないんだ。いや、あのシチュエーションなら自然なんだけど、僕にはどうも不可解だったんだ。何が不可解なのかは分からないけど……」

 

 そう言って沈思する。

 

 あの時、ヤモリがカネキに絡んでいた時、突っ込んでいったトーカをアヤトは妨害した。カネキは、あの場を取り仕切っていたのはアヤトだと踏んでいた。で、その時、ヤモリがトーカを返り討ちにすると事態はますますかき乱されるわけだから、現場を取り仕切る身としては、あの時トーカを妨害するのは正しい判断であっただろう。

 

 それにアヤトはあの後、トーカを挑発してヘイトを自身に向けさせた。そうすることでトーカを沈黙させられる口実が出来たわけである。

 

 なお、あの時はヤモリはルーミアにまで絡んでいて、それで更に興奮した。これを慮ると、ヤモリがトーカを攻撃してまた更に増長することを防げたのだから、英断であろう。

 

 何のおかしな点も無いはずだ。

 

 「でもどうしても違和感を感じるんだ。あの時の君は、合理的な判断をしたというより、むしろ感情で動いていたようにも見えた。トーカちゃんを挑発するのだって、ただ単に冷徹だったってだけじゃなかったんだ」

 

 カネキは悩んでいた。自分の推察は、もしかしたら思い違いなのかもしれない。論理的に考えたらそれで済むのに、どこかでアヤトの内の情を疑いきれなくて……、でも明瞭な推測には至らなくて……。

 

 「くくく……」

 

 アヤトは憐れむように、或いは嘲るように、力無く笑った。

 

 「てめえを見てると、うちの親父を思い出すよ、……ああ、馬鹿な男だったさ。まるでこっちの心の内を見透かしたみたいに、知った風な口を利いてたよ」

 

 彼の言葉ははっきりとカネキに聞こえた。とは言え、そのために無理をしていたからか、アヤトは血を吐きながら咳き込む。されどもカネキは、アヤトがまだ何か言いたいということを汲んで、敢えてアヤトを止めずに先を促した。

 

 「人間と共存するためには、人間と同じ物を食べられなきゃいけないとか言って、吐きそうになりながら、隣人がくれた煮物とかを食ったり……。だが最後には、その親切な隣人の通報のおかげでくたばったわけだ。……俺はああはなりたくねえもんだッ! だってよ、隣人の気持ちになって考えてみろよ。喰種っつう、人を喰うかもしんねえ連中から、私はあなたを食べません、だから仲良くしましょうとか言われて、信じられると思うか。人肉しか喰えねえ俺たちは、現状でどうやって人間とオテテ繋いで生きて行けってンだ!」

 

 このように滔々と語るとアヤトは、これまでより一際激しく血反吐を吐き出し、息を荒げながらも、その眼には憎悪を、それとそこはかとない虚しさが混じった感情が湛えられていた。一方でカネキは、そんなアヤトの様に、妙な既視感を覚えた。

 

 「君は……」

 

 カネキはとつとつと語り始める。

 

 「君の感情には、何だか親しみを覚えるよ。……どうして君が、唐突にそこまで語ってくれるようになったのか、何となく分かる。君やトーカちゃんのお父さんに、それだけ僕は似ているんだろうね。トーカちゃんもそうだった。僕のことを半端者とかいって蔑んで、僕の理想論を冷笑しておきながら、何だかんだで僕に優しくしてくれる――」

 

 要領を得ない。頭の中に浮かんだことが、次から次に出てくる。

 

 「僕も親を失った。君の気持はよく分かるよ。僕の母さんは、自己犠牲の精神を徹底して、そこを付け込まれて命をすり減らして――死んだんだ。悲しかったし、寂しかった。中学の頃にその感情がぶり返して、今度は母さんを憎みもしたさ。母さん、あなたの言っていた自己犠牲の精神は、結果的に僕を寂しくさせたよって。あなたは僕に、自分の実の息子に、同じように死ねと? でも今となっては……」

 

 当時の自分をこうして俯瞰して、そして見えたものは、何も無い所に向かって喚き散らす自分――虚しさだった。

 

 所在無さげにカネキは視線を動かして、嘆息するように一つ息を吐いた。

 

 「僕は、君がトーカちゃんに乱暴をしているところに乱入して、当初は半殺しにしてやろうかと思った。全身の二百十五本の骨の内、百十三本をへし折るという、文字通りの半殺しを……」

 

 カネキは失笑した。

 

 「でも君がルーミアちゃんに手玉に取られている様を見て、溜飲も下がったよ。君もまた、彼女に弄ばれて業腹になって、もう何が何だかって感じなんでしょ」

 

 「……かもな」

 

 このようにアヤトは気のない返事をした。適当に聞き流しているのか、はたまた彼自身も何やら物思いに耽っているだけなのか。

 

 それからカネキは、そぞろに居たたまれない気になって、その重苦しい空気の中黙ってそこを後にした。アヤトの方に背を向け、この建物の屋上から降りようと手摺りに足を掛けた折、不意に背後で、鉄が瞬時に引きちぎられる音と、アヤトのものと思しき呻き声が聞こえたので、振り返るともうそこには誰も居なかった。ただアヤトの血痕を残して。

 

 何の気配も感じなかったはずだった。なのにアヤトは、カネキがすぐ近くに居るにも拘わらず回収された。

 

 ひどく薄気味悪い。

 

 あの瞬間、カネキに気付かれずにあのような芸当が出来るものが自分の近くに居たと思うと、まるでうそ寒い風に撫でられたように肌が粟立つ。

 

 「研!」

 

 名前を呼ばれた。きっとルーミアだ。振り返れば案の定彼女だった。カネキが飛び越えようとした鉄柵の向こうにある、隣接した建物の屋上の中心辺りで、手を振っていた。

 

 不思議にも安堵は無かった、むしろ、胡散臭く信用出来ない、自称味方を前にしたみたいな……。

 

 「みんなを見つけた! 敵に鉢合わせない道も確保したから、ついて来て!」

 

 さりとて、その実績に裏付けられる実力は心強いことこの上ない。

 

 意気揚々と告げてきたルーミアは、返答を待たず背を向けて走り出した。カネキも黙って後を追う。彼女の言った通り、道中では捜査官にも敵対喰種にも遭遇しなかった。時たま手負いの敵と鉢合わせる事もあったものの、その時はルーミアによってあえなくとどめを刺されるのであった。

 

 そして、敷地内を出る頃には、あれほどやかましかった銃声や破壊音はすっかり鳴りを潜め、ただ寒々とした静寂の空気が流れるようになった。ルーミアの後ろをゆっくりついて行きながらカネキは、先ほどまで居たアオギリのアジトの建物を眺めていた。元々廃墟だったあれらの建物群は、多少壊れた程度ではあまり変わらなかった、けど、連れてこられた当初の印象と、脱出した今の印象はまるで違うものに感じられた。

 

 ふと、視界の内に人影が入った。それは遠い所に立っていたが、にも拘らず大柄な男であると判る。黒い大きな剣のような物を肩に担いでいる。きっと捜査官。こちらの方を、明らかに見ていた。ところが、その捜査官らしき男は、こちらを眺めているばかりで、襲い掛かってきたりとか、仲間を呼んだりといったことはしてこなかった。その様にカネキは既視感を覚えた。デジャヴなんかではない、あの佇まいは確かに見たことがある。

 

 しばし膠着する。

 

 その後。互いに、黙って背を向けた。相手の挙動には一切注意を払わず、同時に踵を返して。

 

 「お知り合いかしら」

 

 ルーミアが尋ねてくる。

 

 「知ってるでしょ」

 

 それに雑に一言で返す。

 

 白々しく彼女は首を傾げて微笑んでみせた。

 

 二人は再び歩き出した。

 

 道中、安全のある場所の、その辺の木に、負傷したトーカが座って背を預けているのを見つけた。既に意識は戻っていた彼女は、まず目の前をルーミアが通り過ぎるのを見て、次いでルーミア後ろを歩いて来たカネキを見、安堵したように表情を崩した。

 

 更に先には、あんていくの面々も居た。さては、

 

 「万丈さん……、それに皆さんも……無事で良かった」

 

 「あんていくの奴らは、これで全部みてえだな、その様子だと」

 

 万丈は肩を弛緩させて、ほっと一息吐いて言った。

 

 「はい、お陰様で」

 

 微笑みながらカネキは僅かにこくこく頷いた。それから芳村店長の方を見て、芳村店長もまたいつもの優しい眼を合わせた後、鷹揚に頷いた。隣に居た入見や、ヨモとウタもまた同じように。なお、古間のほうは店で留守番をしている模様。

 

 「お兄ちゃん!」

 

 ヒナミはカネキに駆け寄ろうとした。が、かつては真っ黒だったカネキの髪の毛が、今は全て真っ白になっていて、而してそこはかとない悲壮を纏っていることに戸惑いを覚えて、その足をつい止めた。

 

 「お兄ちゃん?……」

 

 もう一度ヒナミは、こわごわと、覗き込むように、顔色を窺うように呼び掛けた。

 

 「どうかした、ヒナミちゃん」

 

 カネキは努めて明朗な表情をその顔に貼り付けて返した。彼とて、ヒナミから滲み出る当惑に気付かないわけがない。

 

 えっと……、とヒナミはまごまごと口籠った。それに対して急かすような真似を、カネキはしないようにした。

 

 と、そこへ、

 

 「雛実ちゃん」

 

 ルーミアがヒナミの横に来て、優しく声を掛けて一呼吸置いてからそっとヒナミの肩に手を置いた。ちらっとヒナミはルーミアを見る。そしてもう一度カネキに目を向けてから、少しの間躊躇した後、こわごわとカネキに歩み寄っていった。

 

 「カ、カネキ……お兄ちゃん、だよね」

 

 「ああ、うん。すっかり髪の色が変わっちゃったけど、うん、僕だよ」

 

 「そう……。あのさ、あの、お兄ちゃんが生きてて本当に良かった……。その……、えっと……、おかえりなさい」

 

 ヒナミは、どういう顔で迎えればよいのか分からないのか、その顔には安堵した笑みと、不安げな顔が交互に浮かんでいた。とにかく安心させようと、カネキはそっと彼女の頭を一撫でした。

 

 「ああ! カネキくん、無事なようで何よりだよ!」

 

 と、耳障りなほど甲高く声を掛けてきたのは月山だった。

 

 当然これは無視。しかし一応、社交辞令として会釈はしておく。どうして彼がここに居るかというのは、大方見当は付くし、それに興味も無い。

 

 「んーっ!」

 

 カネキの後ろでトーカが、立ち上がって伸びをした。

 

 「ったく、これでまた明日も学校行かなきゃなんないってのが辛いな……。こちとら、ただでさえ羽赫だから燃費悪いってのに、赫子は喰われるわ、傷の治りは遅いわ、腹は減るわ、踏んだり蹴ったりだってーの!」

 

 「そうだね……」

 

 「あとさ、あんた、その若白髪どーにかしなよ、目立つったらありゃしない」

 

 カネキの頭髪を指差してトーカは、いつになく親しみのこもった、からかう口吻で言った。

 

 自分の髪の毛を撫でながらカネキは、照れるように相好を崩した。

 

 「いや――」

 

 と、カネキが口を開く。

 

 「僕は『あんていく』には戻らないよ」

 

 そう結んでカネキは、表情を変えぬまま視線を逸らした。

 

 「は?」

 

 対するトーカは、二度見しながら素っ頓狂な声を上げた。

 

 「僕は――『あんていく』からしばらく離れるよ。ちょっと、やりたいことがあって……。準備が必要なんだ、調べなきゃならないこともある、時間も……あんまりない」

 

 「ちょ、ちょっと待って、訳分かんないンだけど……。あのさ、こっちはね、死ぬかもしれない、下手をすれば面が割れて、今後大手を振って外歩けないかもしれないってリスク冒してまで救出しに来たんだけど。それをあんた、無下にするっての?」

 

 彼女は、顔に怒りを浮かべたりでも、悲しさに緩むわけでもなく、ひたすら訳が分からないといった面持ちでカネキを詰問していた。顕著に表に出ていないだけで、その内にふつふつと悲憤絡み合った情が煮えているのが透けていて、耐え切れずカネキは顔を背けた。

 

 俄かに気まずい静けさに包まれる。

 

 「な、なあ、カネキ」

 

 とそれを破ったのは万丈だった。

 

 「今回は、本当に助かった。その……、俺にも手伝わせてくれ、役に立たねえかもしんねえけど、きっと助けになるからよ。パシリにでも、それか『盾』にでも、……要るかどうか分かんねえけどよ」

 

 弱腰な風だった。それでも、彼はカネキを見据え、言った後もきまり悪そうでありながらも、真っ直ぐカネキの眼を見ていた。

 

 「助かるよ」

 

 カネキは、さも頼もしいという体で微笑み、万丈へ手を差し伸べた。

 

 「そっちがよければ、一緒に来てほしい」

 

 「あ、ああ!……」

 

 安堵したように万丈は頷く。

 

 またその時、雰囲気を壊すように、横合いから拍手の音が聞こえてきて、

 

 「素晴らしいじゃないか、それは!」

 

 相も変わらず空気を読まない立ち振る舞いの月山が、大仰に腕を広げながら後を被せる。

 

 「カネキ君、是非ともこの僕も君について行こうじゃあないか! そちらのムッシュ・バンジョイが『盾』であるならば、差し詰め僕は君の『剣』……、絶対に君に損はさせないさ」

 

 と、ナイトの誓いさながらに跪きながら結んだ。

 

 「……」

 

 カネキからの冷ややかな視線を受けても、あたかも何事も無いように。

 

 「カネキ、そいつは止したほうがいい……。俺はこいつと会ってまもないけどよ、頭おかしいってのは分かる」

 

 カネキは万丈のほうを一瞥する。彼の進言を聞き流すのではなく、飽くまで認めた上で、それから至って穏やかな眼を向けて小さく頷いた。再びカネキは月山へ視線を戻すと、無感動に顔を緩ませ、

 

 「月山さんの戦力は、この身で知っています。手を貸してくれると言うなら、是非お願いします」

 

 ただ……、とカネキは一つ置いて、月山の耳元へ口を寄せると、

 

 「ちょっとでも余計な真似をしてみろよ、その行いを絶対に後悔させてやる……」

 

 抑揚無く囁いた。

 

 「ほう!……」

 

 俄然月山は悶えだし、その弾みで息を漏らすのであった。その様は周囲から見ても顕著であり、その場の誰もが顔をしかめる。

 

 「ふう……。ああ、全て承知しているよ、カネキ君……、勿論だとも……。その上で僕は君に仕える所存さ……。ああっ、あの時君を食べ損なったのは僥倖だったッ!……」

 

 いよいよ自らの変態性をあけすけにしだした月山に、最早誰も見向きもしなかった。

 

 「ルーミアちゃん、あのさ――」

 

 「んー?」

 

 ふとカネキから声を掛けられて、おもむろにルーミアは応えた。あれだけの激戦の中を、敵を蹴散らしながら進んでそれなりに疲弊していたたためか、ちょうど伸びをしていた彼女のその返事は間延びしていた。

 

 こちらを見上げるルーミアを前にして、カネキは彼女の目を見据えたまま、しばしの間、フリーズした機械のように静止していた。数秒程して視線を落とし、それからもう一度彼女の目を見やり、

 

 「君も来てくれないかな、……頼むよ」

 

 その場に居る何人かが瞠目してカネキとルーミアを交互に見た。取り分けヒナミが、一番強い衝撃を受けたようで、その瞬間、えっ、という声を上げた。彼女以外に声を上げた者はおらず、彼女のその一声は全員の耳に、印象深く響いた。

 

 ふうん、と、ルーミアは相槌を打ち、

 

 「いいよ、研についてってあげる。元よりそのつもりだったしね……」

 

 と。

 

 邪知を臭わせる声音で、実にゆっくりと、意味深長に告げたのである。

 

 その時カネキは、自分の中で強張っていた何かが、徐々に、徐々に力を失っていくの感じた。安堵でも、安心でもない、どちらかというと観念したような感覚だった。もう自分に逃げ場は無いのだと思った。前に進もうが、後ろに下がろうが、関係ない。どこまで行っても纏わり付かれて、先方が満足するまで取り憑かれ続けて、その果てに……。

 

 限りなく絶望に近いけれど、そう形容するにはあまりに不明瞭。ただ言えるのは、進み続ける事しか残されていない自分は、これからも手放しに進み続けるのだろう、――広大な暗闇の中で光を求める蟲けらの如く。

 

 やおらカネキは、いつの間にか俯いていた頭を持ち上げて、トーカに目線を合わせて、

 

 「じゃあね、トーカちゃん」

 

 虚心坦懐な調子でカネキは別れの言葉を告げた。

 

 「カネキ……、あの……、私も――」

 

 「たまにはコーヒーを飲みに行くよ」

 

 訥々とトーカは何かを言おうとしていて、それを敢えてカネキは遮って言ったのだ。

 

 「君のラテアート、あのウサギの絵のやつ、不格好っちゃ不格好だけど、それが何だか味なんだよね。……僕は好きだな」

 

 畳み掛けるように喋って、それでもカネキはその微笑に一抹の綻びを現わさなかった。一方のトーカは、提案しようとした、けれど言い出しづらいことを言えなかったことで、安心と悔いが同居した面持ち――食いしばった歯を、引き結んだ唇で隠して、涙を溢すまいと目を細めた顔を見せたのであった。

 

 そのままトーカは一切何も言わず、顔を隠すようにカネキへ背を向けると、さっさとその場を後にしてしまった。

 

 ほっとカネキは息を吐いた。が、その息は寒さに震えてるかのように頼りなかった。『あんていく』の彼らは、そんなカネキの様子を見て、何とも言えないでいた。

 

 苦笑交じりにカネキはその場を後にし、つかの間独りの時間を得た。

 

 ふと空を見ると、夜空には、優しいながらも力強い光を放つ月が浮かんでいた。あれは十五夜ではない、でも、十六夜なのか待宵なのかは判らない。

 

 どこか既視感がある光景だ。そう、あれは、あの棍棒の捜査官と対峙した時のだ。彼はその時、この世界は間違っている、と言っていた。歪めているのは貴様ら喰種だ、とも。

 

 「本当にそうなのかな」

 

 ここ地上から大気層を通して見える、あの茫漠たる宇宙を見ていると、そぞろに疑問が湧き上がってくる。例えば、あの燦然と輝く月は、今は地上の半分を照らし続けているけれど、その光は宇宙からすれば、残り火よりも儚い明かりでしかない。それに、あの光は元来は月のものではなく、太陽の光が跳ね返ったもの。その太陽の光は、これまた地上の者からすれば途方もないエネルギィを孕んでいるのだが、しかし、その太陽よりも偉大なる恒星はこの宇宙に山ほどある。

 

 もし、この世界が歪んでいるとするのなら、真に歪めているのは、強いて言うなら――

 

 「この世界に存在するモノ全て」

 

 さりとて、ミクロな人間らの視点でそう結論付けたところで、畢竟僭越に過ぎないのではないか。もっと、マクロな視点で見れば、この世界はどう映っているのかも分からない。或いは、この世界は、法則だっているように見えて実は、ただ物凄く粗いだけの乱数の世界なのかもしれない。

 

 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや

 ――史記




 ……実を言うと、もうエタってしまうおかなと考えていたのですが、にも拘らずコメントをくれた方々がいらっしゃってくれて、居ても立ってもいられず、恥知らずにも投稿してしまいました。(ホモは気まぐれ)
 次の投稿も未定で、完走する保証はありませんが、もし宜しければお付き合いお願いします(大胆な告白は女の子の特権)。


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ラストまでの展開について

 最新話かと思って開いた方には色々な意味でガッカリさせるでしょうが、タイトルの通り、もし完走まで行けたらこんな展開になっていましたという、事実上の失踪宣言です。

 何かの拍子に再燃することも無きにしも非ずですが、やはり望みが薄いので、この『ネタバレ』の投稿を敢行することと相成りました。


【結末】

 

 最終的にはトーカなどの原作で生き残る主要人物が有馬に始末され、CCG側も亜門を除いて再考戦力の大部分がルーミアに掃討される。アオギリも壊滅。

 

 生き残ったけど大切な人を失った、されど仇は既にどこかへ消えてしまった、カネキと亜門とアヤトは、負の感情を抱えて悶々とこれからも彷徨していく。

 

 カネキは失意の中、自身の命を投げ出すような状態であったけど、ヒナミや月山らが駆け付けて叱咤し、どうにか立ち上がって、今後も歯を食いしばって生きることを決意していく。

 

 亜門はアキラをはじめとして多くの仲間を失ったことで、強い復讐心にとらわれる。そしてこれからも、自身を鍛えては、いずれ仇を取らんと喰種狩りに明け暮れる。『亜門の日記』では、主にヒデや什造らと交流して少しずつ馴染んでいくことが描かれる予定で、だからこそ仲間をやられた復讐心がひとしおになる。

 

 アヤトの場合、姉トーカを慕っているのに、ついぞ素直になれないまま死に別れてしまい、放心したままあてどなくさまよい続ける。

 

 ルーミアはその後、ようやく紫に発見されて幻想郷に連れ戻され、霊夢によるお札のリボンを付けて元に戻るといった感じですね。その際、「やっぱり私にはこれが無いとしまらないのかー」と、二次創作ルーミア特有のセリフを言って終了。

 

【過去幻想郷編】

 

 まず過去幻想郷編では、初代博麗の巫女あののち、当然ルーミアは八雲紫によって的に掛けられるわけだが、遭遇して少しの間小競り合いをしたのち、ルーミアが紫に交渉。あの博麗の巫女はまだ未完成の上体であったため、その完成の手助け。それと、幻想郷という領域もまだ未完成であり、また妖怪の山の天狗らなどの不穏分子の弾圧・排除などをして、幻想郷を成り立たせるという交渉をし、紫はこれを承諾。

 

 

 その後時代は飛んで一九九〇年代。吸血鬼異変が起こる。ここでは、レミリアの父親を討伐するという、某先代巫女のオマージュ的な感じだった。で、無事レミパパを討伐したのルーミアだったけど、幻想郷の弱体化や、強力な余所者の侵入から分かる外の世界の変化など、色々と憂いて、生きるのに倦んだ彼女は、先代巫女に頼んでお札リボンを付けてもらい、自らの知能と力を退化させ、韜晦することにした。

 

【この物語でのルーミアについて】

 

 当初思い浮かんだ構想としては、東京喰種での現代日本で、その更に上の超自然的存在として、単に物語を引っ掻き回すだけの、謂わばトリックスターの役回りであったが、様々な方面に作用させるとなると強大な力があった方がいいかなと思って、結果、このような怪物が出来上がった。メアリー・スー乙。

 

 で、その果てに彼女の目的や立場を考えたところ、謂わばルーミアは不条理の権化というのが妥当と考えた。平たく言うなら、強大な悪役が全てを破壊しつくすこと。

 

 人間は、生きる上で様々なものを残そうとするが、しかしいくらそんなことをしようとも、いつかは地球は滅びるし、宇宙も限界を迎え、すべてが無意味になる。そうと分かっていても、人は何かを残さずにいられない。

 

 ルーミアはそれを冷笑していて、その起点としてカネキに引っ付いていた。臍を噛もうとするように理想ばかりを追い求め、その果てに挫折し、自分にとって邪魔な人間は排除して自らの周囲の世界を守ろうとする妥協をするカネキは、ルーミアにとって格好の標的であった。そうしてあがこうとするカネキを曇らせることが、本編でのルーミアがカネキに執着する目的であった。

 

 その一方で、ルーミアは感傷的な一妖怪という側面もあった。幻想郷編では主にそんな彼女の裏面を描くことが目的。二面性のある奴。

 

 『闇』という途方もない概念の化身として存在している彼女には、色々な情報が入り込んでくる。お陰で色々な事柄を知れるようになったものの、それだけに疲弊していた。

 

 そうして考えることに疲れたから、彼女は眠ることにした。

 

 というのが、彼女にとってのストーリー。

 

【紫の目的】

 

 この物語では紫=メリーを採用。離れ離れになった蓮子と再会するために、ずっと『今は幻想郷と呼ばれている場所』に留まろうとした。そのためには幻想郷の永久的な維持が必要でで、そのためには外の世界への干渉及び調整は欠かせない。月については、全体的にどういう見方をしているかは設定していないが、少なくとも幻想郷にとって脅威になっていることと、永遠に関する技術が欲しいという目的はある。

 

 以上のことから、紫は最終的に外の世界侵略と月の征伐を目論んでいる。実は既にルーミアの捜索は完了していたが、ルーミアに外の世界に干渉させることでの実験のために、ルーミアを泳がしていた。で、十分なデータが取れたので、回収に動き出した次第であった。

 

【結論】

 

 ただの救いの無い中二ストーリーでした。書き忘れたことがあるかは分かりませんが、あったら今後書き足していくかと思います。




 これまで読んでくださっていた方、お付き合いありがとうございました。

 それにしても、どうにも私は連載物が続かない。江戸川乱歩みたいに、息の短い短編執筆者なのかなと感じます。


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