アイツは薙切の中でも最弱!? (あつあげのてんぷら)
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1.はじまりの季節

 新年明けましておめでとう御座います。
 そして初投稿です。
 二つの意味で初です。
 極星寮でのほのぼのライフを書けたらいいです。


 空は青く晴れ渡り、満開の桜から溢れた花びらが中を舞う。春の吹雪は若く希望に溢れた少年少女の新たなる一歩を祝福するかのように彼らを優しく包み込んでいた。

 ここは遠月茶寮料理學園。料理を学べるだけでなく、中学高校それぞれの教育課程もとれる一石二鳥な学園。

 それだけではない。ここでは調理教練だけでなく調理理論、栄養学、公衆衛生学、経営学等の専門的な各種座学を学ぶことが出来る。敷地内には数多くの調理棟があり、種々の調理器具や提携する生産者からの食材等の環境設備も充実している。ここ遠月学園には真の料理人になる為の全てが揃っているのだ。

 

 遠月学園高等部一年の始業式。一人の少女が名を呼ばれ、舞台へと上がった。絹のように光輝く流れるような金色の髪。処女雪のように白くきめ細かい滑らかな肌。アメジストのように澄んだ深さを湛える紫眼。胸は豊かに実り、腰はくびれ、チェックのスカートの下からは魅惑的な脚が伸びる。その少女は美しかった。

 彼女の名は薙切えりな。人類最高、絶対的な味覚、神の舌を持つ女王。そして、天才的な料理人。

 えりなは丁寧な所作で学年章を受け取った。彼女の一挙手一投足に会場の至る所から溜め息が漏れた。

 彼女が壇上から降り幕の外へと消えていくと、次に姿を現したのは右目に傷跡のついた大柄な老人。遠月学園総帥にして、日本の料理業界を牛耳る食の魔王。そして薙切えりなの祖父。薙切仙左衛門だ。

 

「諸君、高等部進学おめでとう!」

 

 仙左衛門は朗々と語り始めた。

 今ここに、多くの原石達が集っている。そして、その内の九十九パーセントは一パーセントの玉を磨くための捨て石である。そう仙左衛門は宣言した。

 話は続く。

 遠月においては無能と凡夫は容赦なく切り捨てられる。つまりは退学。千人の一年生が進級する頃には百人になり、卒業まで辿り着く者を数えるには片手を使えば足りるであろう。そう仙左衛門は断言した。これは決して大袈裟な誇張表現ではなく、過去の多くの捨て石と選ばれ抜かれた玉の例を見てきたから言える事実。

 

「その一握りの料理人に君が成るのだ!!」

 

 仙左衛門の言葉に少年少女らはその身を震わせる。慄いたのではない。武者震いだ。彼らは高みへと目指す事を改めて決心しているのだ。

 

「研鑽せよ」

 

 会場中がざわめいた。皆一様にその心は勇んでいた。

 その中、とある一人の少年は例外であった。

 少年の名は薙切六義。今舞台に立つ仙左衛門の孫であり、えりなの従兄弟。そして薙切最弱を自称する男。

 彼だって一端の料理人である。今の話が心に響かなかった訳ではない。祖父への尊敬の念はより深まった。では何故か?

 それは、六義が一つの疑問をもっていたからである。

 

「お祖父様……少し話を盛りすぎな気がするなあ……」

 

 六義はぽつりと呟いた。

 いやいや、いくら何でも捨て石と玉の比が九十九対一は言い過ぎでしょう。卒業するまでの人は片手で足りるって……。確かにそういう年もあったようだけど二桁いくこともそう珍しくはなかった筈。遠月は卒業到達率十パーセント以下なのに、一パーセントと言っちゃうの盛りすぎでしょう。そう六義は心の中でそっとツッコンだ。

 なんとも言いがたい温い感動に浸りながら、六義は周囲の級友の様子を窺った。

 皆その表情は不敵な笑みを浮かべていたりと逞し……いや、自分と同じ例外がもう一人いたようだ。

 

「だ、大丈夫……恵ちゃん?」

「全然大丈夫じゃねぇべさ……。うぅ……もうやだ……。ぜったい私が捨て石一等賞だよ……」

 

 六義の友人であり、同じ寮に住む三編みの素朴な雰囲気の女子。田所恵。

 恵は涙目で背中を丸めて縮こまっていた。顔は生気が失せたように青白く、生き生きとした周囲の中に彼女だけが暗く沈んでいた。

 

「顔を上げるんだ恵ちゃん! 恵ちゃんはちょっと上がり症なだけで、本当は料理が上手だって極星寮の皆も言ってるじゃないか。恵ちゃんならきっと大丈夫だよ。いつもみたいに笑顔だよ」

「ありがとう六義くん……。でも私……進学試験で最下位だったんだ……」

「へ? ………………と、とにかく笑顔が大切だよ! 笑いは元気の源。ほら、何か楽しい事を考えるんだ」

「今ちょっと間があったよね……? うぅ……やっぱり私は……」

「な、何か楽しい事を考えるんだ! 美味しいものとかさ!」

「美味しいもの……お母さんの手料理……。うん、そうだよね。笑顔で送り出してくれた村の皆の期待に応えないとダメだよね」

「そうそう、その調子。笑顔には笑顔で恩返し。頑張れ恵ちゃん!」

「ありがとう六義くん。少しだけ元気出たかな」

 

 顔の青白さは戻っていないが、恵は弱々しくはにかんだ。

 六義はその様子を見てほっと胸を撫で下ろした。自分と違い彼女はこんな所で潰れていい人じゃない。

 

 六義が恵を慰めている最中にも式は滞りなく進んでいった。いつの間にか転入生の紹介へと移っていた。

 遠月において編入は珍しい。それは編入試験を受ける人がいないからではない。合格する人がいないからだ。編入試験は入学のものと比べて格段に難しい。

 六義も中学二年途中からの編入であったが合格はギリギリであった上に、同じく試験を受けた多くの者の中では自分以外に二人しか合格者がいなかった。

 

「やー……なんか高い所からすんませんねー。初心表明でしたっけ? まいったなー、やんなきゃダメすかー? 壇上でとかこそばゆいっすわー」

「いいからさっさとしなさい!」

 

 赤髪で左眉に傷のある少年が壇上に上がっていた。なんともヘラヘラとした口調で緊張感に欠けた喋り方だ。中々始まらない初心表明に進行役の教師から怒鳴り声が飛んだ。

 赤髪の少年は堪えることなくポリポリと頭を掻いた。

 

「えっと……、幸平創真っていいます。この学園のことは正直踏み台としか思ってないです」

 

 会場中が静まり返った。

 

「思いがけず編入することになったんすけど、客の前に立ったこともない連中に負けるつもりはないっす。入ったからには……」

 

 赤髪の少年、幸平創真はビシッと人指し指を立てて宣言した。

 

「てっぺん獲るんで」

 

 会場の誰もが目を見開き口を半開きにし、唖然とした表情のまま固まっていた。

 三年間よろしくお願いしまーす、と創真はマイクから離れペコリと頭を下げた。彼なりの誠意ある態度なのだろうが、先の不遜な物言いのせいで台無しであった。

 瞬間、怒号が飛んだ。

 

「テメエェェこらあ!!」

「ぶっ殺すぞ編入生ェ!!」

「ワレェ! 東京湾に沈めたろかァァ!!」

「編入生殺すべし。ハイクを詠め!」

「ひぃぃ!」

「め、恵ちゃん!?」

 

 怒鳴り始めた周りの同級生達に驚いた恵はまた泣き出してしまった。六義も急ぎ宥めた。

 創真は悠々と退場していったが、怒号の声は未だ止まない。頭上には罵声に混じって本や靴、筆箱、卵などが飛び交っていた。多くの人が三年間よろしくしたくないようだ。

 始業式は終盤になって混乱を極めていた。たった一人の少年によって。

 六義は驚嘆した。遠月でてっぺんを目指す。なんと無礼な編入生だろうか。なんと命知らずだろうか。彼の発言で多くの生徒が敵に回っただろう。しかし、六義は創真からただならぬ何かを感じた。多くの人外料理人たちとふれあってきた六義だから分かる。六義は幸平創真という男に心底興味が湧いた。

 

「うぅぅ……変な編入生も入っきちゃうし……。もう穏やかに過ごせる気がしないよぅ……」

「恵ちゃん、出てる! 口から魂みたいなのが出てるよ! 涼子ちゃーん、悠姫ちゃーん、峻くーん! ヘルプミー!」

 

 六義の助けを求める叫びは怒り狂った生徒たちの怒号に飲み込まれ、友人たちのもとに届くことは叶わなかった。

 

 

 

 

 六義は極星寮の一室、自分の部屋のベッドに横になっていた。今は普段から着慣れた作務衣姿だ。制服はハンガーに掛けてブラッシングをし、クローゼットにしまってある。

 六義はごろりと寝返りをうった。深呼吸をし、束の間の平穏を楽しむ。

 今日は始業式だけで終わりだったが、授業が始まれば一気に忙しくなる。遠月においては安穏と出来る機会も場所も少ない。それ程までに厳しく実力主義なのだ。今日の友は明日も友とは限らない。下手に油断するとすぐに足下を掬われる。同級生だけではない。先輩も後輩もだ。なにせ遠月には“食戟”と呼ばれる独自のルールがあるのだから。

 六義がぼうっと天井を眺めていると、彼のスマートフォンが鳴り出した。表示されている名前は、薙切えりな。

 六義はしばし逡巡すると通話ボタンをタッチした。

 

「もしもし、千々石ミゲルです」

『誰よそれ。登録された番号にかけたのにどうやったら知らない人が出るのよ』

「えりなちゃんから電話をかけてくるなんて珍しいね。何か御用?」

『本邸にあなた宛の進学祝いが届いていたわよ。取りに来なさい。ついでに私の仕事も手伝いなさい』

「ああ、十傑になったから味見の他にも仕事が増えたんだね。緋沙子ちゃん大変そうだなあ」

『むしろ俄然燃えていたわ』

「お、おお、流石“秘書子”だなあ……」

『その呼び名、緋沙子の前で言ったら激怒するわよ』

 

 えりなは純粋培養された薙切家の令嬢である。そのためプライドが高く自信家であり、やや選民的な傾向がある。だがそれも、豊かな才能とそれに怠らない努力で培った確かな実力に裏打ちされているからこそだ。

 しかし薙切の姓を持ってはいるが、色々とワケアリである六義と生粋の薙切一族であるえりなの仲は悪くない。それはえりなが本当は心根の優しい少女であり、六義の今までの努力を認めてくれているからだと六義は勝手に思っている。

 そうでなければこんな軽口を言い合えるような、これをえりなが聞いたら憤慨するであろうが、えりなの数少ない友人の一人にはなれなかったはずだ。

 

「じゃあ、明日取りに行くよ」

『なによ、今来なさいよ』

「いやあ、本邸はぼくにとって居心地悪いし、あまり歓迎もされていないだろうし。それにこれからちょっと予定が入りそうだから」

 

 六義はチラリと伝声管の方を見た。

 

『やあ、六義くんいるかい? これから皆で進学進級の祝賀会をやるんだ。六義くんもおいで!』

「はーい! 今行きまーす! ……ほらね、えりなちゃん」

『ほらね……って。電話越しの私には分かるわけないじゃない!』

「うーん、えりなちゃんなら分かると思ったんだけどなあ……」

『あなたの中の私ってどんな人間なのよ!』

「完璧超人だけど中々素直になれない可愛い従姉妹……かな?」

『分かったわ。あなた宛の荷物は全て捨てていいのね』

「ストーップ! ごめん、冗談だよ! マイケル・ジョーダンだよ! これから一色先輩と寮の皆で進学お祝いパーティーをするから行けないんだ!」

『最初からそう言いなさいよ。まったく……』

 

 えりなは呆れたように溜め息を吐いた。電話越しの六義にまで聞こえる大きさだった。

 

「明日の朝一……四時くらいに取りに行くよ」

『それはかえって嫌がらせね……。放課後でいいわ』

「りょーかい!」

 

 じゃあまた明日、と六義は電話を切った。

 六義は起き上がり、うんと伸びをした。欠伸が一つ溢れた。これから向かう場所はパーティー会場である二○五号室。丸井善二の部屋。勿論本人には無許可だ。

 どんな品を差し入れようかと考えながら、六義は扉を開けた。



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2.うわさの編入生

 今年度最初の授業はフレンチの実習だ。

 この授業は始まる前に先ずクジ引きが行われ、それで決まったペアで調理を行う。調理の評価は二人共通でだされるため、下手な人とペアになると自分も大怪我を食らう可能性がある。しかも今後特別な事情、例えば相方が退学になる等の事がないと変わらないため、このクジ引きは非常に重要なのだ。

 六義は隣の友人を見た。

 

「恵ちゃんと同じクラスで良かったよ。ぼく知り合い少ないからさ。ペアも同じになれるといいね」

「うん。私も六義くんだったら心強いかな。ぜったいにあの始業式の人とだけは避けたいな……」

 

 六義と恵の視線の先にいるのは、始業式で全生徒に向けてとんでもない啖呵を切った少年。幸平創真。

 創真は周りからの敵意のこもった視線に気づかないのか、それとも敢えて無視しているのか、暢気に口笛を吹いていた。

 二人はそれぞれクジを引いた。残念ながら書かれていた番号は違うものであった。

 

「あちゃあ、残念ペアじゃなかったね」

「そうだね。ええと、私のペアの人は……」

 

 恵と六義は辺りを見回した。

 皆も同じようにペアの相手を見つけるために、自分の番号を声に出して探していた。

 

「すんませーん! 俺と同じ十二番の人って誰すかー?」

 

 恵は急ぎ自分の番号を確認した。十二番だ。

 次いで声の主の姿を確認した。幸平創真だ。

 恵は絶望した。

 

「ど、どうしたの恵ちゃん!? この世の終わりみたいな顔してるけど!?」

 

 突然泣き出した恵に六義は狼狽した。確か恵ちゃんの番号は……、と思い出し彼女の視線の先、創真の掲げるクジの番号を見て得心した。

 

「恵ちゃん……ドンマイ!」

「うああああん!!」

 

 六義でもこればっかりはどうしょうもなかった。自分のクジと交換してもいいが、それだと先ず自分のペアの許可をとらなくてはならないし、人見知りの恵が不安だ。創真と交換してもらうという手もあるが、自分のペアが絶対に嫌がるだろう。六義はせめて創真があの大言壮語を実行出来る実力者である事を、友のために祈るしか出来なかった。

 高校は平穏に過ごすという希望を絶たれ体の力が抜けた恵はクジの紙を落としてしまった。紙はちょうどすぐ近くにいた創真の足下に落ち、創真はそれを拾った。

 

「あー、俺も同じ十二番なんだ。俺は幸平創真だ。よろしくなー……って何で泣いてんだ?」

「た、田所恵です……ナンデモナイデス……」

 

 涙を流しながら愛想笑いを浮かべるという高等テクニックを披露する恵に、六義は憐憫の情を抱かずにはいられなかった。

 

 六義はきゅっと襷を固く結んだ。

 六義は調理をする時も作務衣を着る。前掛けをつけ、そして襷掛けで袖が邪魔にならないように固定する。これが六義の基本スタイルで、昔から馴染んでいる格好だ。勿論、作務衣は普段使いのとは別物である。

 遠月では調理時の服装については衛生的であればこれといった規則はないが、他の生徒は学園で購入出来るコックコートを着ている人が多く調理実習の時は目立っていたため、いつも少し居心地の悪い思いをしていた。薙切という名字のせいか、その視線も好奇心や物珍しさの中に警戒心が見え隠れしていた。だが、今日は全く視線を感じなかった。それもこれも、今日は六義以上の注目の的があるからだ。

 その的はと言うと、玉ねぎを片手に遊びながら相も変わらず緊張感のない表情を浮かべていた。

 実家の店名だろうか。来ているTシャツの左胸と背中には“お食事処ゆきひら”というプリントがなされている。有名店の子息令嬢が集まる遠月では珍しく、聞いたことのない名前に六義は首を傾げた。別に遠月に通う学生全てが有名店のであるわけではないが、それを抜きにしても自分の家の店の制服を着る。つまりその店の名を背負うという人はそうそういない。そんな事をするのは店に大きな誇りを持ち、自分の実力に相当の自信がある者だけだ。

 創真の隣では、恵が必死の形相で手の平に人という字を書いては飲み込むのを繰り返していた。顔色も悪く、かなり緊張しているようだ。これには創真も少しばかり引いていた。

 見かねた創真は声をかける。

 

「……えっと、田所さんだっけ? なんで親の敵のように『人』の字を飲んでんの?」

「あ! ……こ、これは緊張しないように……って思ってですね……」

 

 恵は所々つっかえながらも創真に応答していた。

 しかし、チラチラと自分の方に助けを求めるように視線を泳がせているのを六義は気づいていた。やはりここは助けに行くべきなのだろうか。だが創真の所へ行くということは、火中の栗を取りに行くようなものだ。

 六義はしばし逡巡した後、覚悟を決めた。

 

「こんにちは。幸平創真くん……だったよね?」

「アンタは確かさっき田所と一緒にいた、えーと……」

「ぼくは薙切六義。漢数字の六に仁義の義でムクサって読むんだ。名字呼びはあんまり好きじゃないから気軽に下の名前で呼んで欲しいな」

「ああ、よろしくな六義。俺は幸平創真だ」

 

 六義と創真は互いに握手をした。

 六義は周りの視線を痛い程感じていた。多少は見られるという事に慣れていると思っていたが、これは尋常ではなかった。明確な悪意や敵意を感じ取れてしまうのだ。言うなれば、殺気がだだ漏れの状態だ。冷や汗が出てしまいそうだ。

 六義は先程からこの濃密な殺気に耐えていた恵を心の底から称賛した。後で飴玉をあげようと思った。

 

「そのゆきひらっていうのは実家のお店?」

「ああ、下町の小さな定食屋なんだけどさ、近所じゃ結構人気なんだ。是非食べに来い……って言いたいところだけど、今はワケあって休業中なんだ」

「じゃあ、始業式で言っていた『客の前に立ったこともない連中に負けるつもりは無い』っていうのも……?」

「ゆきひらは俺と親父の二人で切り盛りしてたんだ」

「なるほど。現場叩き上げからくる自信って事か」

 

 確かに創真の手はつい先日まで中学生だったとは思えない程に洗練された料理人のものだ。遠月の一年生でも同じような手を持つ者は少ないだろう。料理の基礎的な知識技術を学ぶ中等部とは違い、不足の事態でも柔軟な対応が求められる実践的な高等部では現場を知っているという事は大きなアドバンテージとなる。

 どうやら幸平創真は口だけではないようだ。六義の彼への興味は増した。

 

「ああ、そうだ。恵ちゃんって仕事は丁寧に出来るんだけど、人見知りで少しどんくさい所もあるからその時はよろしくね?」

「もちろんだぜ。ペアなんだから相方をサポートするのは当たり前だろ? 随分な心配だなー」

「まあ、遠月は色々とあってね……。心配でお節介をやいてしまうのはぼくの悪い癖なんだ」

 

 六義は苦笑いをした。

 

 六義は自分の調理台へと戻った。もうすぐで講師が到着して授業が始まる。

 事前に調べた情報によると、講師はあのローラン・シャペルだ。シャペルは遠月で特に授業内の評価が厳しい事で有名。無慈悲に無表情で評価をつけるその姿から“笑わない料理人”と呼ばれ恐れられている。最初の授業からいきなりハードルが高そうだ。流石高等部だなあ、と六義は一人実感した。

 六義は隣を見やる。講師がシャペルである事を知っているのか、自分のパートナーは全くの無表情であった。いや、それは違う。クジ引きで初めて顔をあわせた時からこのパートナーは無表情であった。

 

「ええと……多々良木識ちゃんだよね? さっきから別の所をうろうろしていてごめんね」

「大丈夫です。問題ありません」

 

 すげなく返答された。碧の黒髪をサイドテールにした彼女は怒っている、というよりは興味がないといった様子である。もしかしたら気づいていなかったかもしれない。

 今後の事もあるためもっと仲良くなれないものかと六義は思案した。

 

「識ちゃんはあまり創真くんの方を見ていなかったみたいだけど、ああいうのは気にしないタイプ?」

「いきなり名前呼びですか……。構いませんが」

「ごめん、嫌だった?」

「問題ありません」

 

 識は淡々と答えた。

 顔はこちらを向いているのに何故か目が合わない。自分の後ろの壁に焦点が合っているような気が六義はした。もしかして嫌われているのだろうか。

 

「彼については何も思わなかった、と言えば嘘になりますが、然程興味はありません。力なき者ならばすぐに退学なるでしょうから」

「なるほど……。ちなみにぼくに対して興味は……?」

「ありません」

 

 識は当然の如く言い切った。

 清々しいまでの無関心さに六義は少し泣きたくなったが、歯に衣着せぬ発言にはむしろ好感が持てた。薙切という名字を聞いた時も識は顔色一つ変える事なかった。肝が座っているというか、確固とした自己同一性を持っている。

 六義は羨ましいと思った。

 

「先生、もう来るみたいですよ」

「へ?」

 

 六義が振り返るのと教室の扉が開くのは同時だった。

 

「おはよう。若きアプランティ達よ」

 

 シャペルは鷲のように鋭い眼光で教室を見回した。幾人かがそれに気圧されたかのようにたじろいだ。さっきまでのざわついていた教室の空気さえも今は静まりかえっている。

 

「厨房に立った瞬間から美味なる物を作る責任は始まる。それには経験も立場も関わりはない。私の授業では『A』を獲れない品は全て……」

 

 誰かが唾を呑み込んだ音がした。

 

「『E』と見なす。覚えておくがいい」

 

 六義は頭を抱えたくなった。別に自信がない訳ではない。只今年度最初の授業からこの難易度だとは思いもしなかった。評価が厳しいなんてものじゃない。学園側が完全に生徒を篩にかけにきている。

 何より一番心配なのは恵だ。六義の調理台は教室後方にあるため恵の後姿しか見えないが、何やら魂のような物が恵の頭上に浮かんでいるのを確認出来た。

 隣の識はやはり顔色一つ変わっていない。むしろそれが当然。A以外を獲るつもりがないようにも見える。非常に逞しい。

 

 この授業で作る品はブッフ・ブルギニョン。牛肉の煮込みブルゴーニュ風だ。

 フランス東部にあるブルゴーニュ地方は温暖な気候と平坦な土地を持ち、古くから農業が盛んである。またその風土を生かしたブドウ栽培によるワインの醸造でも有名であり、その赤ワインを使った牛肉の煮込み料理、ブッフ・ブルギニョンはフランスの代表的な家庭料理の一つである。最初の授業で作る品としてはそこまで難しくはなく適切と言える。

 しかし、料理の基礎がしっかりと身に付いていなければこの品は成り立たない。恐らくシャペルは生徒が中等部までの復習が出来ているかを量ろうとしているのだろう。

 

「Commencez à cuire!」

 

 シャペルの号令で一斉に調理が始まった。



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3.笑わない料理人

 六義達も早速調理に向けて動き出した。

 

「薙切君は白板を確認してきて下さい。私は肉の下処理に入ります」

「レシピを見ていないのに分かるの? あと六義でいいよ」

「先程見て覚えました。問題ありません」

「ここから白板まで結構な距離があるし文字も小さいと思うんだけど」

「問題ありません」

「へえ……目が良いんだね……」

 

 ブッフ・ブルギニョンは本来、一晩ワインに浸けた牛肉を弱火でじっくりと煮込んだ料理だ。二時間で完成させるにはしっかりと肉が柔らかくなるまで煮込まなければならない。それを考慮してか白板のレシピも簡易な物だった。だが余裕を持ってその時間を確保するためには下拵えを手早く済ませる必要がある。いつの間に決まっていた分担によるとガルニチュールは六義が担当するようだ。

 六義は識の手元を見た。筋取りも丁寧で中々に手際が良い。

 

「自分の作業に集中して下さい」

「あ、ごめん」

 

 視線に気づいた識はじろりと睨んだ。六義は黙って野菜を切り刻んだ。

 

「言っておきますが私は一番早く提出するつもりですので、しっかりついてきて下さいね? 生意気な編入生に格の違いを見せつけてあげたいので」

 

 やや挑戦的とも取れる言い方だった。表情も変わらず、口では興味がないと言っていたようだったが、内心はかなり熱くなっているようだ。見かけ程クールではないのかもしれない。

 従姉妹と少し似ているなあ、と六義は思った。あちらもかなりの負けず嫌いなのだ。というより薙切一族には負けず嫌いが多いのだ。現総帥も若い頃はかなりのやんちゃだったらしい。

 

 薄力粉をまぶし表面を焼いた肉を鍋へと移し、ワインでブーケガルニと共に煮込む。灰汁取りをし、炒めた野菜、トマトピューレを加えて更に煮込めばほとんど完成だ。

 六義は一息をついた。周囲を見回しても自分らのペアより進んでいる人はいないようだった。一番で提出が出来そうだ。

 恵と創真のペアも順調に進んでいるように見えた。相変わらず恵は緊張でガチガチであったが、創真の緊張感のなさが良い感じに作用しいつもより動きが良い。創真も恵にそれとなくフォローを入れたりと随分とペアワークに慣れていた。案外あの二人は良いコンビかもしれないと六義は思った。

 それに反して自分のペアは……と六義は隣の相方を見た。識は煮込みの段階に入ってから微動だにしていない。未だにろくに目も合っていない。やはり相性が悪いのだろうか。いや、それでも作業に支障がないという事は逆に相性が良いのだろうか。

 本当に彼女は鉄仮面のように表情が変わらない。

 

「今、何か失礼な事を考えませんでしたか?」

「いやあ、まさかそんな事はねえ…………。あはははは」

 

 六義はまた睨まれてしまった。笑って誤魔化す。

 

「薙切君、そろそろ盛り付けに入るので用意をお願いします」

「りょーかい。それと六義でいいよ」

 

 肉と野菜を皿に盛り付け、煮汁で作ったソースをかける。これで完成だ。

 出来た品をシャペルの前に持っていった。やはり一番のようだ。

 

「シャペル先生、審査をお願いします」

 

 シャペルは無言でフォークで肉に切れ込みを入れた。肉はほろりと崩れ、フォークはするりと沈んでいった。

 シャペルの目が見開かれる。

 

「白板のレシピ通りならこの短時間でこの柔らかさにはならないと思うのだが、君たちはどんな手品を使ったのかね?」

 

 シャペルは睨むように問いかけた。

 識はそれに憶さず答える。

 

「肉の下処理の際、炭酸水に漬け込んでおきました」

 

 炭酸に含まれる炭酸水素ナトリウムには肉のタンパク質を分解し柔らかくする効果がある。そのお蔭で長時間煮込む事なく、短い時間で仕上げて提出する事が出来たのだ。突然隣からプシュリと炭酸の封を開ける音がした時は六義も驚いた。

 シャペルは一口大に切った肉を食べた。ゆっくりと齟齣し、飲み込む。六義達は祈るようにそれを見守っていた。

 

「うむ。味も申し分ない」

 

 シャペルの口許は綻んでいた。それは、あの笑わない料理人が微笑んでいるように見えた。いや、実際に笑っているのだろう。

 六義はほっと安堵した。隣の識もやはり表情は変わらず当然といった様子だったが、小さくガッツポーズをするように拳を握り締めていたのを六義は見逃さなかった。

 シャペルはニヤリと笑った。

 

「多々良木・薙切ペア、十二分にAと評価出来るな」

「ありがとう御座います」

 

 識の思惑通り六義達は早々と一抜けを出来た。周りからも驚きの声が上がっていた。

 六義はその視線にむず痒さを感じながら後片付けを始めた。

 

「凄いなあ。識ちゃんのお蔭で一番乗りだよ」

「当然です」

 

 識は一切照れる事なく言い切った。

 識は誉められても相変わらずの無表情を貫いていて可愛げがない。シャペル以上に笑わない料理人だ。笑えばきっと可愛いいだろうに。六義にはそれがどうしようもなく勿体ない事に思えた

 六義は洗い物をしながら恵達の様子を窺った。何かトラブルがあったのか慌ただしい雰囲気だ。恵に至っては半泣きで絶望そのものといった顔だ。創真も恐い顔をしている。

 そんな彼らを悪い笑みを浮かべながら見ている二人の男子。偶発的なトラブルではない。人為的な嫌がらせだ。

 六義は腹がたった。

 

「薙切君に出来る事はありませんよ」

 

 識が言った。

 

「厨房にトラブルはつきものです。それにこの課題は二人一組と決められています。薙切君が助太刀に入ったら、それは料理長の指示を無視した事と同義です」

「分かっているよ。分かっているからこんなに苛立っているんだよ」

「そもそも、これは全て彼が蒔いた種です。彼の挑発に彼等が乗っただけの事。まあ、彼等も料理人としては失格なのですけどね」

 

 六義はもう一度二人を見た。創真の様子が変わっていた。手拭いを頭に巻いている。それだけじゃない。目が別人のようだ。これが創真の本気なのだろう。

 今から間に合わせる気なのだろうか。いや、絶対に間に合わせるという気迫で充ちていた。

 そこからは怒濤の勢いだった。創真はレシピをほとんど無視していた。恵も創真の気にあてられたのか、目に涙はなく真剣な表情だ。短く出来るものは極限まで短縮。残り三十分しかなかった筈なのに二人は品を完成させた。

 識ですら驚愕の表情を隠せていなかった。

 

「おあがりよ」

 

 シャペルの前に二人の作ったブッフ・ブルギニョンが差し出された。

 シャペルは肉にフォークをあてた。肉汁を溢れさせながらも、肉の弾力がフォークを押し返す。柔らかい。

 

「君たちの組にはアクシデントがあったようだが……どうやって完成を?」

「それなら、使ったのは……」

「ハチミツだよね。創真くん」

「おう……ってなんで六義が説明してんだよ! ってかいつの間に!? えーと、煮込む前の肉にハチミツを揉み混んで、下味をつける時にも使いました」

「成程……タンパク質分解酵素『プロテアーゼ』か!」

 

 シャペルは驚きの声を上げた。

 

「な、なんでそんなこと知ってたの?」

「六義たちも炭酸水を使ってただろ? それで思い出したんだよ。そーいやハチミツも使えんじゃん、てさ。前にパイナップルが使えるって料理本で読んでさ。キウイやコーラ、ピーナッツバターでも試したけどダントツはハチミツだったな。ほら、田所も食ってみな」

「創真くん、ぼくもいいかな?」

「ああ、いいぜ」

 

 どうやら識の時間を短縮した方法がヒントになっていたようだ。思わぬ所で塩を送っていた。

 シャペル達は一口食べた。次の瞬間、各々の表情には満面の笑みが浮かんでいた。

 

「C'est merveilleux. 幸平・田所ペア、Aを与えよう」

 

 教室内が驚きに包まれた。まさかあの編入生の、よりによって急拵えのような品がシャペルを笑わせるとは誰も予想だにしていなかったからだ。

 

「ただ、Aより上を与える権限を私が持ち合わせていない事が残念でならないがね……!」

 

 シャペルはニヤリと笑った。

 

「御粗末!」

 

 六義は自分のパートナーを見やった。澄ました顔をしているが、固く握られた拳は微かに震えている。彼女も恐らく気づいているのだろう。どちらの品がより美味か。

 六義の食べ比べた感想では、自分達のペアの品の方が柔らかかった。炭酸水に漬け込む時間が少し長かったのだろう。その分肉は弾力を失い、旨味を逃がしていた。その点創真達の品は揉み混む事でそれを防ぎ、味付けもハチミツの甘さと風味がマッチしていた。

 識は静かに創真に歩み寄った。

 

「幸平創真君……でしたね」

「ん? あんたは確か六義の……」

「多々良木識です。始業式のあの言葉……本気だったようですね。楽しみです。次は負けません」

「あー、よろしくな多々良木。……俺って何に勝ったんだ?」

 

 青春だなあ、と六義は思った。こうして料理人は育っていくのだ。

 

 

 

 

「えりなちゃーん。荷物取りに来たよー」

「遅かったわね」

「朝気づいたんだけど、えりなちゃんって今日はちゃん研と食戟があった筈だよね。疲れているかなってさ。それにぼくもこう見えて色々と忙しいし」

 

 六義は昨夜した約束通り学園内の薙切家邸宅へと訪れていた。小さい頃は一時期ここに住んでいた筈なのだが、やはりどうにも落ち着かない。廊下の幅からして寮の部屋より大きいのだ。一体それに何の意味があるのだろうか。利点と言ったら、精々大型動物が通りやすいという事しか六義は思いつかなかった。

 

「あんなのすぐに終わったわ。ここで待っていれば良かったのに」

「いやあ、ここの空気はどうも苦手でねえ。罰当たりな気がするんだよなあ」

「相変わらずの貧乏症だな」

「質素倹約は美徳だよ、緋沙子ちゃん。あ、お茶ありがとう」

 

 えりなの秘書である緋沙子が淹れた紅茶を六義はすすった。茶葉の良さを最大限に生かす淹れ方だ。いつも通り美味しい。

 

「そういえば今日、授業で中々面白い子がいたんだよね。たった三十分でブッフ・ブルギニョンを仕上げたんだ」

「あなたが気に留めるなんて珍しいわね」

 

 六義は嬉々として語り出した。えりなも穏やかにそれを聞いている。

 平穏なよくある光景の筈なのに、緋沙子は何故だか嫌な予感がした。

 

「それでさ、肉にあらかじめハチミツを揉み込んでいたんだよね。それを食べたシャペル先生もハチミツのように蕩けた笑顔をしちゃってさ。普段は怖いけど、笑顔は結構可愛いかったなあ。写真を撮れたら良かったのに」

「へえ、あのシャペル先生が……! 興味深いわね」

 

 シャペルの名前が出てきた事により、緋沙子の予感は確信へと変わった。

 

「六義、まさかその子というのは……」

「さすが緋沙子ちゃん、察しが良いね。あのゆ――」

「待て! それはえりな様の前では禁句――」

「き平創真なんだ」

 

 間に合わなかった。緋沙子は心の中でそっと自分の主人に謝罪した。

 緋沙子は意を決してえりなを窺った。

 えりなはピシリと時が止まったように固まっていた。

 

「……ちにしないで……」

「あれ……えりなちゃん……? 顔が物凄く恐いよ……!?」

「私の前でその名前を口にしないで!!」

「ほあっ!?」

 

 六義は思わずひっくり返りそうになった。ここまで激怒したえりなを見たのは久しぶりだった。何処からかゴゴゴゴという効果音まで聞こえてくる気がする。どうやら自分は地雷を踏んでしまったらしい。

 助けを求め緋沙子を見たが、彼女は静かに首を横に振っていた。

 六義は泣きたくなった。



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4.極星に集う

 いつの間にかお気に入り登録件数が百件を越えていました。
 拙作を御愛読いただき真にありがとう御座います。
 今後もまったりとマイペースに更新していく予定です。
 それでは暫しの間、六義の学園生活にお付き合い下さい。


 六義は自室で自分に送られてきた入学祝いの品を開けていた。フランスにいる母からの物。今は自分とは姓の違う父からの物。孫バカな祖父からの物。大きさも形も重さも三つ見事にバラバラだ。その中でも一際大きな祖父からの物を六義は先ず開封した。

 祖父といっても仙左衛門の事ではない。仙左衛門は六義の外祖父であり、これの送り主は父方の祖父、愛子義一だ。義一は仙左衛門の旧友であり、同じ遠月の卒業生でもある。会社を経営していたが今では完全に引退し、田舎で気ままに隠居生活を送っている。しかし、その影響力は未だ根強く業界に残っている海千山千の傑物だ。

 ここまで運ぶのにかなり苦労した箱を開けると、中には義一が所有している山で採れたであろう大量の筍が密集していた。それは重い筈だ。

 一番上には達筆な字で『仲間と共に喰らえ』と書かれた短冊が乗っていた。後で寮の皆にお裾分けしよう。どれも桐の箱に入れられて売られていそうな程にかなり上等な物ではあるが、到底一人で消費出来る量ではない。

 

 次は割れ物注意のマークがついている母からのを開封した。

 中にあったのはコニャックとペアグラス。一体どういう意味なのだろうか。

 料理に使えという事だろうか。それとも良い人と飲めという事だろうか。だったらポートワインの方が相応しい気が……いや、そもそも自分はまだ未成年だし、そんな相手もいない。という事は早く彼女でも作れという事なのか。大きなお世話だ。六義は溜め息を吐いた。

 ふと箱の底を覗くとポストカードがある事に六義は気づいた。母が描いたらしきブドウ畑の風景画だ。実に心が和む。

 隅にはメッセージが書かれていた。

『愛しの六義へ。高等部進学おめでとう。お祝いに、以前に絵を描きに行った所の名産品を送ります。とても美味しいですが、少し大人の味です。今度お母さんが日本に帰った時にはあなたの元気な姿を見せてください。何か手料理をご馳走してくれると嬉しいです。お母さんより』

 母は何も考えていなかったようだ。大人の味というより、大人しか味わってはいけないという方が正しい。周りの人達は止めなかったのだろうか。

 グラスには母のイニシャルが小さく彫ってあった。自分でデザインしたのだろうか、少々アーティスティックな形だ。

 六義は母には昔から少し天然な所があった事を思い出した。

 

 父からのは最も小さく軽かった。

 包みを開くと、中にあったのは手紙と一冊の古い本。手紙をさっと流し読む。書かれている内容は取り立てて面白い事も書かれておらず普通だった。だが、手紙と違い本の方は今の六義にとってはとても価値のある物だった。

 表紙は擦りきれて所々傷んではいるが物としての状態は良く、まだ十分に本の機能を果たしている。なにせ二百年も昔に書かれた本なのだ。希少価値も高く、この状態で残っている方が珍しい。

 題は“豆腐百珍”。江戸時代中期に書かれたベストセラーの料理本だ。その名の通り、よく知られた一品から珍しい一品まで全て合わせて百種類もの豆腐料理が記載されている。その後も大根百珍や蒟蒻百珍などの所謂『百珍物』と呼ばれるジャンルがブームとなった。豆腐百珍はそれの火付け役なのだ。二百年以上前に書かれた本と言えども、そのレシピに沿って再現した料理は現代でも十分に美味に感じられる。

 六義は以前にも、ここ遠月に編入する前に居た場所でも同じ物を読んだ事があった。だが、やはり自分が好きに出来る一冊があるのは良い。ページを捲る度に一々緊張しないで済むのはありがたい。

 

 六義が豆腐料理のあれこれに夢を膨らませていると、伝声管から誘いの声が響いてきた。声の主は一色慧。極星寮に住む唯一の高等部二年生で寮生全員のお兄さん的な存在だ。普段から裸エプロンや褌一丁でいることが多く、それらの露出癖を除けば爽やかな好青年である。

 誘いの内容は極星寮新入りの歓迎会だった。恐らく中等部に入学したての新一年生あたりのだろう。いつの間に入寮していたのだろうか。六義は新入りについては何も聞いていなかった。

 極星寮には入寮するのに独自のルールがある。それが極星寮名物でもある“入寮腕試し”だ。内容は実にシンプル。極星寮の寮母である大御堂ふみ緒の舌を唸らせる事だ。食材や料理のジャンルは問わない。単純に自分の料理人としての資質を見せつければ良いだけだ。

 これだけを聞けば簡単そうに思えるが、そうは問屋が卸さないのが現実だ。それは何故か。審査をする大御堂ふみ緒その人が問題なのだ。

 ふみ緒はこれまで幾人もの学生の料理を味見してきた。その中には遠月の卒業生達も数多く含まれる。ありきたりの品では舌の肥えたふみ緒を満足させる事は到底叶わない。学園内でも“極星の聖母”と呼ばれ畏れられる存在なのだ。そして決してふみ緒を“極星の鬼婆”などと呼んではいけない。若い頃はかなりの美人だったのだ。

 ちなみに六義はこの腕試しを知らずに極星寮に来て大いに慌てた経験があった。入寮の挨拶回り用にと引っ越し蕎麦を持ってきていたので、後は厨房にあった余り物を使いなんとか一発合格する事が出来た。もしそれがなかったら学園内の薙切家邸宅に泊まる羽目になり、とても居心地の悪い思いをしていただろう。

 今回の新入りは六義の知らない間に入寮が決まっていた。という事は六義が荷物を取りに行っていた間に腕試しを合格したという事だろう。今年はまだ誰も入寮希望者が来ていなかった筈なので、新入りも一発合格をしたに違いない。腕に期待が出来そうだ。

 六義は筍の詰まった箱を抱えながら階下へと下りていった。

 

「ふみ緒さーん、お祖父ちゃんからまた野菜が届いたので皆で食べましょう」

「んん? 今月は随分と立派な筍じゃないか。ホントにアンタのお祖父さんは毎月律儀だねえ。ちゃんとお礼を言っといておくれよ」

「りょーかいです!」

「ああ、それと歓迎会に行くならソコにあるブリ大根を持っておいき」

「うわあ、美味しそうですね。ありがたくいただきます!」

 

 六義はブリ大根を片手に部屋を出ていこうとした寸前、何かを思い出したようにふと歩みを止めた。

 

「そういえば、新入りの人ってどんな料理を作ったんですか?」

「サバ缶を使ったハンバーグ定食だよ。あり合わせの食材でアタシを満足させるなんて、中々面白いヤツだよ。腕試しを知らずにここに来るなんてバカをしでかしたのも、アンタ以来だったしね」

「うへえ……。ふみ緒さん、それは言いっこなしですよ……」

「まったく……それで合格をだしちまうなんて、アタシも老いたもんだよ。極星寮から多くの十傑を輩出していた頃なんかは入寮希望者が後を絶たなくってねえ。その上……」

 

 この展開は非常に不味い、と六義は勘づいた。ふみ緒の十傑自慢は長いのだ。とても長いのだ。足音と気配を消しながら猫のようにこっそりと部屋を出ていった。

 六義は料理を落とさないよう慎重かつ意気揚々と階段を上がっていった。新入りは一体どんな人物なのだろうか。どんどんと期待が高まっていく。

 歓迎会会場となっている二○五号室の扉を開けると、既に人は揃っていた。紙コップや料理の乗った皿が広げられている。会はもう始まっていた模様だ。

 

「お待たせました。皆揃っているみたいですね。もう乾杯しちゃいましたか?」

「遅かったじゃないか、六義くん。乾杯ならまだだよ。ちょうど今屋根裏から呼びに行こうと思っていた所だったんだ」

「ちょっとふみ緒さんのところに寄っていて……あ、このブリ大根はふみ緒さんからの差し入れです。それにしても今日は人が多いですね。いつもなんてぼくと一色先輩と恵ちゃんだけなのに」

 

 六義は部屋をぐるりと見回した。部屋にいるのは六義を含めて十名。皆寮生の中でも特に仲が良く、割と出席率の高い面々だ。高いと言っても今日のような宴会自体が毎日のようにあるため、彼らが参加しているのは週に一回程度だ。なので三人しかいない時は面子的にもわいわいと騒ぐことはなく、自然と極星寮の敷地内にある畑の話になってしまい宴会というよりは収穫した野菜の試食会という有り様になっている。

 その中でも見慣れない顔が一つ。六義はその顔を見知ってはいたが、まさかここで再び合わせるとは思ってもいなかった。

 

「へえ、新入りって創真くんの事だったんだ。よろしくね」

「まさか田所だけじゃなく六義も同じ寮だなんて奇遇だな。こっちこそよろしく頼むぜ」

 

 六義は創真の隣に腰を下ろした。創真を挟んだ六義の反対側には恵がいるのだが、何かあったのだろうか。酷く落ち込んでいるように見えた。あまり触れない方が良いように六義は感じた。

 

「あら、二人はもう知り合いだったの?」

 

 近くに座っていた長い黒髪をストレートに伸ばした少女。榊涼子が二人に声をかけた。涼子の胸元が大きく開かれた煽情的な服は少々目の毒だ。

 

「うん。最初の授業で一緒だったんだ。創真くんと恵ちゃんがペアで、その縁かな。その時の創真くんは凄かったなあ。なんとあのシャペル先生を笑わせたんだよ!」

「へえ、それは本当に凄いわね……!」

「ええ! あの表情が石膏で固まったかのように笑わないせいでいつもロダンの考える人みたいな顔してるシャペル先生が!? 幸平すごいじゃん!」

「ふっ……まあな」

 

 創真は照れたように鼻を掻いた。

 

「悠姫……それはちょっとシャペル先生に失礼よ……」

 

 涼子は先程シャペルは考える人発言をしたお団子頭の少女、吉野悠姫を優しくいさめた。

 悠姫はテへッと自分の頭をグーで小突いた。快活な性格の悠姫は極星寮ではムードメーカー的な存在である。

 

「皆飲み物は行き渡ったかい? そろそろ乾杯をしようじゃないか」

「あ、涼子ちゃんジュース取って」

「いいわよ、はい。幸平くんもどうぞ」

「あ、ども……」

 

 創真は自分のコップに注がれたジュースを見つめた。少し濁りの混じった無色の液体。立ち昇る果物の芳香。少し視線を変えると、目に入ったのは手書きのラベルの貼られた一升瓶。創真は嫌な予感がした。そしてその予感が合っていない事を祈りつつ、ジュースの正体を涼子に訊ねた。

 

「おい……コレ……まさか密造……」

「ただのお米から出来たジュースよ☆」

「あ、それとも創真くんは金色の麦茶の方が良かった?」

「いや六義、そーいう問題じゃ……!」

「大丈夫だよ。度数一パーセント以下はソフトドリンクの範疇だから。まあ、詳しくは調べていないけどね……」

 

 創真は戦慄した。

 まるで無法地帯ではないか。本当に大丈夫なのだろうか。自分はやっていけるのだろうか。創真は一番無害そうな人物に聞いてみる事にした。

 

「なあ、田所……ココって大丈夫なのか……?」

「創真くんならすぐに馴染めると思うよ……」

「さあ、各自手に飲み物を! それでは極星寮の新たな仲間、幸平創真くんの入寮を祝って……乾杯!!」

「「「「「乾杯!!」」」」」

「か……乾杯……」

 

 極星寮。またの名を変人の巣窟と呼ばれる遠月学園唯一の学生寮の賑々しい夜は今始まったばかりであった。



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5.終わらない宴

 微キャラ崩壊注意。


「出たぁー!」

「一色先輩のー!」

「「「「「気付いたときには裸エプロンイリュージョン!!」」」」」

 

 先の言葉は何処かへ。創真はすっかり極星寮の空気に馴染み、ノリノリだった。たとえ先輩が一瞬で裸エプロンに着替えても、疑問を持たず気後れもせずに大笑い出来る。創真もまた寮の面々に負けず劣らずの変人であった。

 宴が盛り上がるにつれ、皿の上も空になっていく。事前にそれなりの量を用意していたのだが、そこは育ち盛り食べ盛りの学生達。次々にぺろりと料理を平らげていく。いくら追加してもキリがない。

 

「メシだ! メシが足りねーぞ!」

 

 気分の高揚した創真達はガハハハと笑い出した。まるで酔っぱらいのようだ。普段は人が良くイジられやすいあの善二も別人のような笑い声を上げていた。

 

「はい、真の八杯豆腐。豆腐百珍の妙品の一つを再現してみました」

「コイツは肴に持ってこいの味付けだぜ!」

「昔の日本人侮り難し!」

 

 創真と善二は間髪を置かずに完食した。

 六義の出した真の八杯豆腐は出汁四杯、醤油二杯、酒二杯の計八杯の割合のスープで短冊に切った豆腐を煮込んだ料理。大根おろしを添えて食べる。非常にお手軽かつ美味なので、もう一品おかずが欲しい時に便利なのだ。

 新しい皿が追加された。

 

「……今日燻した分。スモークチーズと三種のジャーキー」

「スモーキーな塩味がたまんねえ!」

「伊武崎の仕事にハズレ無し!」

 

 前髪で目の隠れたチャーミングな髪型の伊武崎峻は、さも当然といった様子でちびりちびりとジュースを飲んでいた。彼は無口なのだ。だが極星寮生らしくノリは良い方だ。

 

「おらぁ、裏の畑で今朝採れたての野菜のかき揚げだ!」

「不味いわけが無い!」

「大地の恵みに感謝!」

 

 創真と善二はざくざくと音をたてながら手掴みで熱々のかき揚げを頬張った。

 これを調理したタンクトップのよく似合う青木大吾も、うはははと笑っていた。本人が気に入っているのか、慧が褌でいることが多いように彼はいつもタンクトップ姿だ。

 

「うははは。どうだ美味いだろう? 美味いに決まってんだ!」

「先週の俺の作ったエビフライの方が旨かったけどな」

「ああん? 極星一の味音痴が何言ってんだコラ。料理人なら皿で語ってみろや」

「ッッ等だ。その喧嘩買ってやるよ。八分ほど待ってろ……!」

 

 いつもVネックを着ている佐藤昭二の呟きを耳聡く聞きつけた大吾がそれに噛みつき、少々柄の悪い二人のメンチの切り合いが勃発した。この光景は極星寮ではもう見慣れた場面だ。何故かいつもどちらともなく自然とこの様になるのだ。大抵はこのまま殴り合い……にはいかずに料理対決となる。

 

「ちょっとぉ! そうやって毎回作りすぎるんだから程々にしなさいよねっ! しかも二人とも揚げ物ばっかりだから、毎朝胃がもたれるのよ!」

 

 しかも二人の実力は拮抗している為に中々勝負がつかず料理ばかりが増えていくのだ。審査員役の他の寮生が毎度無理矢理食べさせられ、翌朝胃もたれを患い起床するという害を被っている。二人は揚げたてが一番美味しいからという理由で、ラップをかけて冷蔵庫で保存するのを嫌がるのだ。

 とうとう堪忍袋の緒が切れた悠姫が注意するが、二人は全く聞く耳を持たない。むしろ、二人して悠姫を煽り始めた。

 

「「うるっせえジビエ女!!」」

「お前の部屋周辺、いつも獣臭ぇんだよ! ってかお前も若干臭ぇんだよ!」

「油だったらお前の平らな胸にしまっておけばちょうどいいだろうが!」

 

 二人の声が重なり合った。この二人一見いがみ合っているようだが、その実結構相性が良い。趣味嗜好が似かよっているのだ。かえってその為に些細な見解の相違で睨み合いになる事が多い。喧嘩するほど仲が良いとは彼らの事なのだ。

 

「だぁ~れが貧乳だってぇ? …………アンタ等の皮を剥いでやろうか?」

 

 ゴキバキと指を鳴らしながら、底冷えのする声で悠姫は迫った。彼女は禽獣を使った料理が得意な為そういった処理はお手の物。皮を剥ぐなんてのは朝飯前なのであった。

 悠姫の般若の形相に大吾と昭二は身を震え上がらせた。

 

「ちょっと、悠姫ったら落ち着きなさいよ……」

「う……うおーん! 涼子みたいな恵まれた人に私の気持ちが分かるもんかぁ!」

「ゆ、悠姫ちゃんお願いだから落ち着いて~!」

「うおーん! 私の味方は恵だけだよぉ!」

「え……う、うん」

 

 余程悔しかったのかそれとも飲み物のせいなのか、感情の昂った悠姫は恵に抱きつき泣き出してしまった。恵は少し戸惑いながらも優しく抱き止め、小さな子供をあやすように悠姫の頭を撫でた。

 大吾と昭二は部屋中から突き刺さるまたかと呆れるような視線に耐えかね、申し訳なさそうに縮こまった。

 

「……大吾くん。昭二くん」

 

 ビクン、と大吾と昭二は脊髄反射したように同時に背筋を伸ばし、正座に直った。

 声の主は六義だ。怒っている。

 

「二人共、女の子に向かって臭いとか貧乳とかブサイクとか言っちゃ駄目じゃないか。男子同士なら冗談の範疇で済むかもしれないけど、女の子にはどれも悪口だよ。悪口とかそういう事を考えるなとは言えないし出来ないけど、いくら頭に血が上ってカッとなっても口に出す前に自分が何を言おうとしているのか一瞬でも良いからよく考えて欲しいんだ。相手が何て思うのか。言ったら自分はどう思うのか。決して気持ちの良い事じゃないはずだよ。もし言ってしまったとしても、後でも構わないから一旦頭を冷やして同じ事を考えて欲しい。そして自分がした事をちゃんと反省して、それから謝りなさい。相手はまだ怒っていてすぐに許してくれないかもしれない。でもどちらかが先に謝らないと、ずっといがみ合いが続いたままになる。でもそれだと、いつまで経っても仲直りなんて出来ないんだ。それはとても悲しい事だとぼくは思うよ。だから悠姫ちゃんに謝りなさい」

「男子でも充分悪口じゃ……」

「ブサイクとは言ってな……」

「まずは謝るのが先!」

「「……はい」」

 

 大吾と昭二は小声で返事をした。

 六義は怒ると恐い。恐いといっても怒鳴り散らしたり、ふみ緒のように凄みがある訳ではない。こんこんと説教を続けるだけだ。ただ、それが長い。そしてくどい。酷い時は数時間正座のまま諭されなければならない。それがとても恐ろしいのだ。

 スマン。言い過ぎた。と二人は謝罪の言葉を伴って頭を下げた。

 悠姫は恵の太股に突っ伏した顔を上げた。

 

「グスン……小屋掃除一週間したら許す」

「「……はい」」

「さあ、これで皆で仲直り」

 

 大吾と昭二は神妙に頷いた。

 

「おー。なんか六義って学校の先生っぽいな」

「いや、ただのお節介バカだろ」

 

 創真は感心し、伊武崎はさらりと毒を吐いた。

 場が丸く収まり、また賑々しく宴が続くかと思われたのも束の間。突然、悠姫が不敵に笑い始めた。

 不穏に思った創真は周りを振り返るが、ほとんど全員が何事も無かったかのように寛いでいた。自分と同じようにいぶかしんでいるのは六義だけだ。

 

「ククク……今『はい』って言ったね?」

「ゆ、悠姫ちゃん……一体どうしたの?」

「名付けて、泣いたフリでジビエの小屋掃除手伝わせちゃおう大作戦。大・成・功☆」

「なっ……なんだってええええええええ!!!」

「ぶふぅぅぅっ!」

 

 六義は驚きのあまり叫んでしまった。その大きな声は館を飛び出し、夜の森中に響き渡る程だった。

 六義の大絶叫に驚いた創真は思わず口に含んでいたジュースを吹き出してしまう。飲みこみかけていた分が気管に入り創真はむせた。隣の恵が心配そうに背中を擦ってくれているのがありがたい。

 

「うっせーぞ、六義!」

「大吾くん! だって悠姫ちゃんは嘘泣きをしてたんだよ! 何でそんなに冷静なの!?」

「いや、薄々そんな予感はしてたけどな。むしろそこまで驚いてるお前にこっちが驚くわ」

「そんな、昭二くんまで……!?」

 

 六義はガクンと膝をつき項垂れた。かなりショックだったようだ。今にもよよと泣き出しそうであった。いや、既に若干涙目である。

 

「六義って……意外と天然なんだな……」

「いや、意外とどころかドが付くほどの天然だぜ。しかも毎月これと同じ様な事がある。見ていて不安になるくらい嘘に鈍感すぎる。そのくせ他人の心配ばかりしてるから、なおさらタチが悪い」

「へえー。伊武崎って周りの事よく見てんだな。スゲェ」

「別に……そんなことねぇよ」

 

 溜め息混じりの伊武崎の発言に、創真は少しからかいを含めながら褒めた。

 伊武崎はぶっきらぼうに否定したが、多少の照れがあったのか顔を隠すように紙コップをくわえてうつむいてしまった。

 二人の様子を見ていた涼子がススと近寄ってきた。

 

「ふふ。伊武崎くんって一見クールで他人に興味無さそうだけど、本当はかなり友達思いなのよね」

「へー。そうなのかー」

「だからそんなこと……何だよ。何笑ってんだよ榊……! 幸平まで!」

 

 ニヤニヤニタニタと笑っている創真と涼子に伊武崎は声を荒げたが、二人はそれを意に返さずに笑い続けていた。いくら反論しても「照れ隠し」や「ツンデレ」と解釈されるため、これはもう何を言っても無駄だと悟った伊武崎は拗ねたように顔を背けてしまった。

 少しやり過ぎたかしら、と涼子は肩を竦めた。

 

「悠姫ちゃん……君って人は……コラー!」

「ゲッ、六義激オコだ……。嘘泣きはちょっとやり過ぎちゃたカナ? テへッ☆」

「『テへッ☆』じゃないよ! 嘘全部が悪いとは言わないけど、こういう使い方は駄目だよ。しかもよりにもよって嘘泣きなんて。女性の涙は男にとって弱点だから、そうそうむやみやたらに使ったらいけないんだ。涙は本来自分が悲しい時や嬉しい時、感動した時に自然と流れるものであってそれを道具として扱う事、まして嘘に使うなんてもってのほか。そもそも嘘自体、他者からの自分への信頼を裏切る行為であって、そんな事をしたら簡単に信用を失ってしまう。信用はそう容易には手に入れ難い人間の一つの財産であって大事にしなくちゃいけないんだ。だから人に何か手伝って欲しい事があるなら、嘘をつかずに本当の事を正直に伝えるべきなんだ。相手にだって都合はあるから断られるかもしれない。でも誠心誠意お願いすれば快く引き受けてくれる人だっているんだ。だから相手を陥れて無理矢理言うことを聞かせるのは恥ずべき行いなんだよ。どうしてもそうしなければならない場合もあるかもしれない。でもそういう時はちゃんと後で謝ろう。こういう理由があってそうしたんだって。相手は許してくれるかもしれないけど、その分の信用は失うことになる。でも、嘘をつくという事はその覚悟をするという事なんだ」

「さっきよりも長い……足が痺れ……」

「それから……」

「まだ続くの!?」

 

 正座で六義の説教を聞いていた悠姫は痺れて立てなくなった足を擦っていた。助けを求める視線を周囲に投げ掛けても、皆が呆れたように苦笑いしていた。自業自得なのだろう。悠姫は本当の涙目になった。

 

「ゆ、幸平ぁ。あんた新入りなんだし、こう引っ越しソバ的なのないの?」

「お? んじゃー、俺の新作料理でもどうだ?」

「コラー! 悠姫ちゃん、話を変えようたってそうは問屋が……それは!!」

 

 悠姫は苦肉の策に創真に話を振った。ないと言われればそれまでなのだが、運良く何か手持ちがあったようだ。創真も待ってましたとばかりにタッパーを取り出した。この際話をうやむやに出来ればなんでもいいので、悠姫は痺れた足でハイハイしながら近づき箸をのばした。

 六義はそれを青い顔で見守っていた。なにせその新作料理というのが、最初の授業の後創真と仲良くなった六義と恵が昼休みに試食したものと同じだったからだ。

 “スルメの蜂蜜漬け”。一口食べると、身体中をヌルヌルとした悪寒が駆け巡るような感覚に襲われる。つまり、凄く不味い。恵に至っては泣き出していた。六義もかなり堪えた。

 この事を悠姫に伝えるべきか六義は逡巡した。ふと創真と目が合った。六義の心中を察したのか、創真は口の前で人差し指を立てニヤリと笑った。六義達が食べる前にも同じ笑みを浮かべていた。嗜虐的な笑みだ。

 ここで黙っていて悠姫にお灸を据えるという考えも無い事はなかったが、六義はどうしても心を鬼にする事が出来なかった。自分はまだまだ甘いと自嘲する。しかし、自分にはやはり友を見捨てることなど出来ない。六義は悠姫を止める決心をした。

 

「悠姫ちゃん! それを食べては……」

「いただきま……ずぅぅううううっ!!!」

「ごめん、それ失敗作だったわ」

 

 遅かった。悠姫は倒れ伏した。

 

「…………悠姫ちゃん、ごめんなさい」

「あ、ゲソのピーナッツバター和えもあるぞ。食うか?」

 

 六義は自分の不甲斐なさに、創真を怒る気力も湧かなかった。




 吉野悠姫×イカの蜂蜜漬け。
 触手…………アリだな。


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6.新星と春一番

 お久し振りです。
 私情、主に受験ですが、色々と忙しかったために投稿が遅れてしまいました。
 書き溜めも無いので投稿ペースは依然としてゆっくりなままですが、蕎麦のように細々と長く続けていきたいです。


 六義は床に転がっている空き瓶を広い集めケースにしまった。空いた皿は積み重ねて、一階の調理場の流しに置いておく。食べたお菓子の包みなどのゴミはあらかじめ用意しておいた大きめのゴミ袋に放り込む。みるみる内に部屋が宴会が始まる前の状態に戻っていった。

 六義は率先して部屋の片付けをしていた。特別綺麗好きという訳でもあるのだが、それよりも六義がしないとすぐに散らかってしまうのだ。六義が極星寮に来る前は宴会の度に相当酷い有り様だったらしい。お蔭で善二からはとても感謝されたが、六義の記憶が正しければ一番散らかしていたのは善二本人だった。

 と言っても全員が片付けをしない訳ではない。全くしないのもほんの数人だ。恵は何も言わずに六義を手伝うし、峻や涼子も気をきかせてくれる。ならばそれほど散らからなさそうだが、その片付けをしないほんの数人、特にノリの良すぎる数人が片付けをする人に絡む為、結局プラスマイナスゼロむしろマイナスになるのだ。

 普通ははた迷惑な行為なのだが、六義自身はそういった事を全く気にしていない。むしろ推奨している側である。散らかるのもそれだけ皆が宴会を楽しんだ証拠だと思っているので、片付けをする羽目になっても苦にはしていない。そもそもお節介や世話をやくのが癖になっている為、嬉々としてやるのだ。たとえそれほど散らかっていなかったとしても、六義は自ずから動いていただろう。

 それだけではない。宴会は終盤になるにつれはしゃぎ疲れた者から一人、また一人と寝落ちしてしまう。皆の寝顔を見ながら後片付けをする。六義にとってはそれも一つの楽しみなのだ。

 一段落のついた六義は愛用の急須でお茶を淹れて一服した。渋味を抑えたお茶が、少し腹も膨れはしゃぎ疲れた体にじんわり染みこんでいった。

 

「創真くんも飲む?」

「サンキュ。それにしてもワリーな、俺だけ座ったままで」

「今夜は創真くんの歓迎会なんだから全然気にしなくて良いよ。むしろ大したお構いも出来なくてこっちが悪いくらい。材料があれば豪勢にお寿司なんかを振る舞えたんだけどね」

「六義くんの言う通りだよ。創真くんは今夜は何も言わずに歓迎されてくれ。あ、六義くん、お茶ありがとう」

「そこまで言われたら……んじゃ、お言葉に甘えさせていただくっすわ」

 

 寝落ちした寮生に風邪を引かないよう毛布をかけてまわっていた慧が二人の会話に割り込んだ。格好は変わらず裸エプロンのままだ。創真もまだ慣れていないのか、いまいち目の置き場に困っている様だった。

 慧は気づいていないのか、それともこの状況を楽しんでいるのか、依然と静かに微笑みを湛えたままだ。

 

「この歓迎会をもって、晴れて創真くんも極星寮の一員だ。最早家族の一人みたいなものだから分からない事、困った事があれば遠慮せずにどんどん質問してくれよ。改めて極星寮へようこそ。よろしくな!」

「うっす。こちらこそよろしくっす!」

 

 創真と慧はがしりと握手を交わした。

 ぴくり、と創真の眉が動いた。料理人はその手でおおよその実力が測れる。徹底した少数精鋭教育の行われる遠月では高等部二年に進級するだけでもそれ相応の才能と努力を必要とし、一年との差は歴然である。その上、慧は二年の内でもトップを争う実力者だ。おそらく、創真は慧の手に触れた時にその一端を感じたのだろう。自然と創真の口角は吊り上がり、不敵な笑みを浮かべていた。

 六義はその様子に少し不穏な物を感じながら見守っていた。

 

「さて、料理も尽きてきたし、僕が何か作ろう」

「あっ、ぼくが作りますから一色先輩は座っていて良いですよ」

 

 皿が空になっている事に気づいた慧は厨房へ向かおうと立ち上がった。

 当然の如くお節介根性が疼いた六義は慧を呼び止めた。慧は座ったままで、仕事は自分に任すよう促す。

 

「そうは言っても、また六義くんは片付けばかりであまり食べれていないんじゃないかい? 働き者の後輩は嬉しいが、少しは僕にも先輩振らせてくれよ」

「いいえ。先輩はおとなしく後輩に仕事を譲ってください。気を遣うのは後輩の役目です」

「その後輩が無理をしないよう注意するのも先輩の役目なんじゃないかな?」

「ぼくは無理してませんし、好きでやってるんです。一色先輩は分かって言っているでしょう? 白々しいですよ……」

 

 いつもならあっさりと引いてくれる筈なのに、今日は妙に食い下がってくる慧に六義は違和感を覚えた。だからといって譲るつもりは毛頭無い。勿論そこに対抗心などはある訳もなく、六義の行き過ぎた親切心からだ。また六義は根が素直な性格の為に慧に何か考え、例えば新入りの実力を試す、などという腹積もりがあったとしてもそれを予測したり察する事は無理な相談なのだ。

 高々自分の歓迎会に出す料理が原因で口論を始めた二人に、何だか尻の据わりが悪くなった創真は小さく手を挙げた。

 

「あのー……間をとって俺が作りましょうか?」

「だから創真くんも気を遣わなくて良いんだよ。ぼくに任せて」

「いやいや、そうは言っても俺が出したのってスルメの蜂蜜漬けとゲソのピーナッツバター和えだけだぜ。失敗作しか出さないのって何か悪いじゃん?」

「そう思っているなら、失敗作を嬉々として食べさせないでよ……」

「いやー、ワリーワリー」

「悪い悪いと言いながら、創真くんは絶対反省していないでしょ!」

「そんなことねーよ」

「嘘だあ! だって目が笑ってるもん!」

「だから、そんなことねーって」

「あー、目を背けた! 肩だって震えてるし、絶対笑ってる!」

「別にそんな……ぷっ、く、あははは!」

「ほら、やっぱり!」

「ちょ、やめろって! 脳が揺れる……ははは!」

 

 堪え切れずに声を上げて笑いだした創真を、六義は肩を掴みガクガクと揺さぶった。創真は笑いながら必死に止めようとするが、かえってそれが六義にとって火に油を注ぐ事になっていた。

 そんなじゃれつく二人を尻目に、慧は顎に手をあてて黙考していた。慧はかなり見目が良い為にその格好はとても様になりそうなものだが、身に付けているエプロン、いや、それ以外を何も身に付けていない裸エプロンが素材の良さ全てを台無しにしていた。

 何かを思い付いたのか、突然に慧はパチンと両手を打った。二人の注意がそれに向かい、当然その動きも止まる。

 

「そうだ、皆で作ろうか!」

「「……はい?」」

 

 二人は揃って返事をした。

 

 六義は一階の厨房にいた。慧の提案、というか思い付きで三人の料理の食べ比べをする事になったのだ。これじゃあちょっとした料理勝負じゃないか、と六義は溜め息を吐いたが、慧が企んでいたのがそのちょっとした料理勝負であることには少しも気がついていなかった。

 その後の話し合いでメインにはたまたま余っていた鰆の切り身を使い、春をテーマにした一皿を作る事になった。

 六義から見て創真はかなりノリ気だった。既に頭に手拭いを巻き、彼愛用の出刃包丁を取りだし用意は万端のようだ。慧は裸エプロンで腕組みをしている。まだどんな品を作るのか考えているのだろうか。六義も襷掛けをし気合いを入れた。作る品は決まった、後は開始の合図だけだ。

 

「あ、準備が出来た人から調理を始めていて良いよ」

「それは先に言っておいてくださいよ……!」

「おっし、やるか!」

 

 六義と創真は同時に調理を始めた。

 六義は出汁の用意をした後、鰆と同じく春の代表的な食材である筍を手に取った。これは先日祖父から送られてきた物で、皆に振る舞おうとあらかじめ宴会が始まってすぐに灰汁取りを始めていたのだ。灰汁が抜けていそうな小ぶりな物を選んで皮を剥き、薄く切って出汁につけておく。

 筍の灰汁の抜くにはまず筍に切り込みを入れ糠、鷹の爪と一緒に柔らかくなるまで茹でる。そして、それを数時間そのままにして冷ますのだ。筍が冷えていく段階で灰汁が抜ける為、どうしても時間がかかってしまう。

 次に鰆を適当な大きさに切り分け、付け合わせも加工しておく。

 ふいに隣の方からガガガガという何かの破砕音と機械の駆動音が聞こえてきた。ぎょっとした六義は思わず振り返ってしまった。どうやら慧がフードプロセッサーを使い、緑色をした何かを細かくしている様だった。同じく音に反応して振り向いたであろう創真と目が合ってしまった。六義は苦笑いをし、何事もなかったかの様に調理に戻った。

 気を取り直した六義は筍で挟んだ鰆をフライパンで焼き始めた。両面に焼き目がついたら蓋をして蒸し焼きにする。中まで火が通ったら皿に盛り付けをし、仕上げに葛餡をかけて完成だ。

 

「よし、出来ました」

「こっちはもう完成してるぜ」

「じゃあ、早速食べ比べを始めようか」

 

 一足先に完成させていた慧が微笑みながら待っていた。とても楽しそうだ。

 

「二人の品も楽しみだけどまずは僕のから。さあ、冷めないうちに召し上がれ」

「いただきます」

「お、美味そう! いただきま~す」

 

 六義はしっかりと手を合わせ、創真は待ってましたと言わんばかりに早速箸をつけていた。

 慧の品は鰆の焼き物だった。ふわりと山椒の香りが鼻を擽る。恐らくこれは鰆の山椒焼きなのだろうが、どうやら普通の山椒焼きとは違うらしい。鰆の身の下に薄緑のソースが敷いてある。これがこの品の肝なのだろう。

 六義も箸を伸ばした。ほぐした鰆の身を口に入れ、思わず唸ってしまう。

 

「う~ん、流石一色先輩ですね。とても美味です!」

「ありがとう。六義くんの口に合って何よりだよ。創真くんも気に入ってくれたかな?」

「…………美味い、です」

「そうかい、それは良かった」

 

 創真は驚愕という表情をしていた。慧の品が創真の予想を遥かに上回る美味しさだったのだろう。慧の料理は他の寮生とは格段にレベルが違う。

 暫し圧倒されていた創真だったが、持ち直すとすぐに闘争心剥き出しの不敵な笑みを浮かべ始めた。まるで予想以上の強敵に喜んでいるようだ。慧は変わらずに人好きのする笑顔のままでその様子を見ていた。

 

「この鰆、とっても丁寧に焼き上げられていてほくほくとした食感と山椒の香りがたまりません!」

「ああ、そして何よりこのソース。優しい甘味がとろりと鰆に絡まって、その旨さを何倍にもを引き上げている! これってまさか……キャベツ!?」

「御明察、これは春キャベツのピューレだよ」

 

 春キャベツと鰆。同じく春を旬とする二つの食材は言うまでもなく相性が良い。その春キャベツをピューレにする事でその甘さと風味を引き立たせるだけでなく、とろとろのキャベツとほくほくの鰆が更に口の中で渾然一体となり美味しさが増すのだ。口の中が華やかな香りに溢れる様はまるで穏やかな陽気の中で花が咲き誇り、生き物達が目覚め暖かな風に包まれる春そのものだ。

 二人は春爛漫の世界を堪能した。

 

「さて、そろそろ次の品にいこうか。僕もお腹が空いてきたよ。じゃあ、創真くんのは最後のお楽しみという事で……六義くん、良いかな?」

「あ、はい。それにしても先にこんな品を出されれるなんて……。一色先輩のせいでハードル上がったじゃないですか、もう。創真くん、あんまり期待しないでね」

「いやー、スゲー楽しみだわ。超期待」

「うっ……いじわる」

 

 六義は少し涙目になりながら自分の皿を給仕した。創真は人をからかう事が好きなようだ。今も六義を見てはにやりとあざとく笑っている。

 六義にはえりなの他にもう一人従姉妹がいる。彼女も創真と同じ様に他人をからかっては面白がる性格をしている。六義の経験上、そういった相手には下手に対抗したりせずに受け流すのが一番なのだ。かと言って全てを綺麗に受け流し過ぎるのもいけない。六義の経験では、拗ねてしまった彼女を彼女の従者と一緒にご機嫌取りをする羽目になった事がある。適度な反応も必要なのだ。

 

「さあどうぞ『鰆の筍はさみ焼き』です」

「へー、六義も和食か。見た目は……面白いな」

「なるほど、そう来たか。これはある意味君らしい品なのかな……?」

「そ、そんなにまじまじと見てないで早く食べてくださいよ!」

「失礼。それではいただくよ」

「いただきまーす」



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