デジモンアドベンチャー それぞれの物語(タケル編) (アキレス腱)
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第1話 〜箱庭の少年〜

 

 

 

僕は、あの夏にたくさんのものを置き去りにしてきた。

 

 

 

 

もうずっと幼い頃から、それは心の中にしんしんと降り積もり、やがて塊となった。

置き去りの子供が膝を抱える。

大人であろうと足掻いた子供は、箱庭の平穏と普遍の絆を頑なに守ろうとした。

けれど、いつまでも“今のまま”であり続けることなどできはしない。

やがて変わっていく『仲間』、そして僕は世界の流れに身を投じる。

 

 

 

容赦なく降り注ぐ夏の日差しが、じりじりと地面を焼く。

校庭を取り囲むように植えられた桜の木は青々と葉を茂らせ、幾重にも伸びる枝に張り付いた蝉たちが、命の終わりに向かって鳴き続ける。

四角く切り取られた校舎の中、痛いほどの蝉の声に耳を傾けていた僕は、ふと隣に並ぶ気配に瞼を持ち上げた。

「今日も暑いね」

ふわりと紡がれた言葉、聞きなれた涼やかな声のもとを辿ると、やはりそこには彼女が立っていた。

肩まで伸びた茶色い髪はサイドを残して後方で結われ、流した前髪をすぐ下に並ぶ双眸と同じ色の赤いヘアピンが留めている。

涼やかな声を奏でた口もとには柔らかい笑みが浮かび、細い首が吸い込まれる生地の薄い夏用のセーラー服は、1年前初めて見た時よりも彼女の身体に馴染んで見えた。

色白のイメージだった小学時代と打って変わって、彼女の顔や制服から伸びる四肢は健康的な小麦色、とは言わないものの、インドアではないと分かる程度に日焼けをしていた。

その理由は中学入学と同時に、水泳部に入部するという誰もが意外と表した選択をしたからだ。

思った通りの人物を視界におさめ、僕はいつも通りの笑顔で答える。

「ホント、毎日暑くて嫌になっちゃうね」

「この暑いのに、私達のクラス次体育なの。屋内なのがせめてもの救いだけど」

「この炎天下で屋外なんて言ったら、ブーイングの嵐だろうからね」

「確かにそうかも」

二人で小さく笑いを零す、他愛もない会話。

「じゃあ、私そろそろ行くね」そう言って彼女は手を振って立ち去る。

すぐ脇を通り過ぎる時、微かにラベンダーの香りがした。

ほんの少し意外だと思い、僕は彼女の後ろ姿を目で追った。

水泳部での泳ぎこみのためか、心なしか引き締まった体はしなやかに映る。

凛としたその背には、もう以前のか弱い印象は重ならない。一緒にあの異世界を駆け抜けた時から、もう3年の月日が経ったのだと、改めて感じさせられる。

それでも、彼女を含めた『仲間』達との絆は健在であると確信していた。

そして、その絆は普遍であり、僕にとって絶大な安心感と安らぎを与えてくれるものであると信じていた。

いや、信じたかった。

世界を救うなどという大きすぎるスケールで、とても小学生ではあり得ない経験を経て、全てを乗り越えられる強さを手に入れたと、大切な『仲間』がいれば迷うことなど無いと、あまりに大きな勘違いをしていることに、この時の僕は微塵も気付いていなかった。

 

 

「で、相談って何だよ、賢」

放課後、僕の部屋にはかつて世界を救うために奔走した『仲間』である本宮大輔と一乗寺賢が訪れていた。

何でも賢が2人に相談があるというのだ。

中学の違う賢とは度々連絡を取り合ってはいるが、こんな風に相談を持ちかけられるのは初めてだった。

親友からの相談とあって大輔は意気込んでいるのか、言い出しにくそうにしている賢を正面に据えて直球の催促を繰り出した。

表情や態度からして言い難い内容であることは察しがつく上、賢の性格からして直球に直球で返すなんて真似はできないだろうと踏んだ僕は、「まあまあ、まずはお茶でも飲んで」なんて言いながら、冷えた烏龍茶の入ったグラスを勧める。

賢は歯切れの悪い返事をしながら烏龍茶を一口飲み込んで、大きな溜息を一つついた。

何やら深刻か、と思ったのは僕も大輔も一緒だったらしい。

大輔が真剣な面持ちで聞く姿勢に入るのが分かった。

僕も背筋を伸ばして少しばかり緊張を胸に賢の言葉を待つ。

30秒程の沈黙の後、賢は辿々しく話し始めた。

「あ、あの…2人は、その……女の子と、け、経験ってある…かな?」

「は?」

「いや、だから、その……キスの先、というか」

「キスの先!?」

最初こそ賢の言うことが分からずに首を傾げていた大輔が素っ頓狂な声を上げる横で、僕は「なるほど」と納得していた。

大輔の反応に、羞恥心を煽られた賢の顔が朱に染まる。

「賢、お前もしかして京とっ…〜っマジか!」

何やら予想が妄想と化して突き抜けた様子の大輔が雄叫びを上げると、賢が慌てて「ち、違うよ!まだしてない!」なんてプライベートを暴露する。

そう、賢は中学に上がって間もなく、同じ選ばれし子供の『仲間』である井ノ上京と付き合い始めた。

きっかけは京からのアプローチ。

人に好かれることに不慣れで、自分に自信が持てないでいた賢は、最初の内は向けられる好意に戸惑うことしかできなかったという。

しかし、惜しみない愛情と欲望に忠実なまでの京の純真さが、賢の心を捉えるのにさして時間はかからず、今ではすっかり尻に敷かれる形で彼氏という立場におさまっていた。

付き合い始めて1年、それなりの進展は期待されてしかるべきか。

男同士の話であれば高確率で話題に上がるものであり、思春期に差し掛かったことで変わりゆく心と身体に翻弄されながら、雑誌や先輩から見聞きした知識の使い所を妄想する日々を過ごすのは、男子の宿命とも言えた。

「まだってことは、もしかして未遂?」

「え、えっと…僕がというよりは、彼女が未遂?」

苦し紛れの笑顔が引き攣るのは、己の不甲斐なさに打ちひしがれてのことか。

賢の答えに粗方の事情を理解した僕は、敢えて直接的な質問を投げかけた。

「押し倒されたの?」

「はぁ!?京にか?」

大輔がすかさず反応するのと同時に、賢はバツが悪そうに目を伏せた。

「いや、押し倒されたっていうか、「何で1年も付き合ってるのに手を出してくれないのか」って叱られてしまって…」

「うん、それで?」

「それで、「賢がやらないなら私がやる」とか訳のわからないことを言い出して、服脱がされかけたんだけど…」

「で?で?」

言葉を進める度に賢が徐々にげっそりとしていくのが見て取れたが、先の展開が気になって仕方がないので、前のめりになる大輔を敢えて止めないでいた。

その時のことを克明に思い出しているのか、賢はどこか遠くを見るような目で続ける。

「いや、さすがに日曜日の真っ昼間から、しかも彼女の部屋でそんな行為に及ぶ度胸はありませんって弁解したら、今度は「賢の意気地なし」って泣かれてしまって…宥めようとしたらベルトに手を掛けられたので、慌てて京の両手を捕まえて止めたんだ、そしたら…」

「そしたら?」

状況的には制服を脱がされ掛け、ベルトまで外され掛けた半裸の賢が、泣き喚く京の両手を拘束している、という絵が僕と大輔の脳内に展開されている。

この絵が次にどう動くのか、大輔が期待の籠もった目で賢を見ると、それを受けた賢が渋い顔をした。

「京が今の大輔みたいな目をして僕を見てたんだよ、その思いっきり何かを期待する目!」

期待する何かが“ナニ”かなんて、言われなくても分かる。

だからといってできることとできないことがあるのだと、賢は思ったに違いない。

その後は、「できません」と「何で」の応酬が繰り返され、最後には怒り狂って手のつけられなくなった彼女から、自分の貞操を守りつつ部屋を脱出したという。

話し終えてぐったりしている賢の正面で、大輔が「何だよ、据え膳食わねーなんてよー」などと知った風な口を利いている。

優しいが故に、彼女を大切に想うが故に、賢が京と一定の距離を保っていたことを、僕はそれとなく聞いて知っていた。

しかし、それが京の不興を買うことになるなんて、賢も、僕だって思いもしなかった。

女心というのは難しいものだ。

賢だってそれなりに我慢していただろうに。

そう思うと、賢には同情を禁じ得ない。

可哀そうに、と内心で呟いて見せた。

この時の僕にとって、京が賢に求めざるおえなくなった理由も、賢の堅牢な理性が必死で抑え込んだであろう激しい性衝動もどこか他人事だった。

未経験であるが故の無知、未経験であるにも関わらず、耳年増、目年増であったために、それらを自分の中で処理することができると思い込んでいた。

京のように相手に押し付けることなど無いと、賢のように相手に応えられないなんて醜態を晒すことはないと、自分は少しばかり他人よりも冷静に物事を捉えられる大人であると思っていたから。

「ゴム買って出直せ!」などと短絡的な提案をする大輔に、「そんな簡単じゃないよ」と呆れる賢。

どう考えても早過ぎるとか、女の子にとっては大切だろうとか、少し優等生すぎる発言を繰り返していた賢が、やがて、女の子は初めてだと痛いって言うしとか、どうすれば満足してもらえるか分からないとか、こういうのは練習できないしとか、終いにはゴムの使い方がいまいち分からないと臆病風に吹かれ始めた頃、玄関から帰宅したのであろう母親の声が聞こえてきた。

さすがにこの話を大声でするわけにもいかず、ましてや親がいる空間での猥談は憚られたため、賢と大輔を送るとの名目で外に出た。

辺りはすっかり暗くなっていた。

マンションのエレベーターを降りると、1階には煌々と灯りを放つコンビニエンスストア。

それは、つい先ほどまで話題の中心だった京の親が経営している店でもある。

娘の京は時々両親を手伝って店番をしていることがある。

暗黙の了解のもと、コンビニの前を通る道を避けて迂回する道を選択した賢と大輔を見送った。

夜といえど、都会のしかも夏の夜は息苦しいような熱気が充満していた。

昼間に太陽の熱を蓄えたコンクリートから這い上がる熱気が足に纏わりつく。

夏休みも間近に迫る7月。

夏の暑さはこれからが本番だというのに、先が思いやられるなと溢した。

 

 

夏休み前日、終業式を終え、ガヤガヤと教室に雪崩れ込む生徒達。

バラバラと着席し、暑さに悪態をついて、小煩い担任からの話に耐え、礼を済ませると、途端に教室に開放感が広がった。

んーっと伸びを一つして、鞄を持って立ち上がると、狙い済ましたように数人の女生徒に取り囲まれた。

「あの、これからカラオケ行くんだけど、高石君も一緒に行かない?」

「いや、僕カラオケはちょっと…歌うの苦手なんだ」

「えー、じゃあボーリングだったらどう?」

「んー、ビリヤードだったら少しはできるんだけどねぇ。あ、でも僕、これからバスケ部の友達とご飯食べに行く予定があるんだった」

「えー!」

「ごめんね」

納得していない女生徒に笑顔で手を振り、教室を後にした。

集団は面倒、でも誰とも関わらないなんてことはできないし、したくない。

ただその対象は、自分にとって気の置ける『仲間』や、同じクラブで活動を共にする友人達に限定されていたが、一向に構わなかった。

部活の友人と合流し、帰り道にファストフード店で他愛のない会話をする。

明日からの夏休みは、週3回部活に通って、友人と遊んで、課題をこなして、8月1日になったら『仲間』とお台場に集って…この間から進展が無ければ、なんとなくぎくしゃくしているであろう賢と京を見て、やれやれと思って、少しばかり成長した『仲間』と思い出話や近況報告をする。

そこには、自分も、彼女もいて、去年と変わりない日々が繰り返されるだろう。

そう思った時、視界の端に今し方思い浮かべた少女の姿を認めて思わず立ち止まった。

中庭の銀杏の木の下、かけがえのない『仲間』の一人である彼女は、自分の知らない男子生徒と、『仲間』にしか見せたことのない笑顔で話をしていた。

男子生徒は背が高く、茶髪に日に焼けた顔と四肢は屋外運動部だろうことが伺える。

頭一つ分違う彼女を見下ろし、彼もまた、楽しそうな笑顔だ。

頭一つ分違う男子生徒を見上げる彼女の横顔は、見慣れている筈なのに、どうしてか酷く大人びて見えた。

急激に、世界から切り離される。3年前、兄を見上げる彼女の横顔は、あんなに近かった筈なのに。

あの頃の幼い面影を追いかけて、思考が白く染まる。漠然とした不安が全身を襲い、激しく傾いだ心を立て直すために過去を求めれば求めるほど、今目に映る横顔は幼さを脱ぎ捨てた別人のように思えてしまい、どうしようもなく胸が痛んだ。

 

何だ、これ。

 

まるで理解できない自分の心の乱れように頭を振り、再度視界に納めた光景は、何の変哲もない学校生活の1ページだった。

手を振って別れる男子生徒と彼女。

すると、彼女が僕を見つけて手を振った。

僕の知っている笑顔だった。

僕は軽く手を振り返し、小走りに近づいてくる彼女に歩み寄る。

夏の外気に晒され、少しばかり火照った頰は赤みを帯び、薄っすらと浮かぶ汗が見て取れる位置まで来ると、彼女は「タケル君、1学期お疲れ様」と涼やかな声で告げた。

「ヒカリちゃんも、お疲れ様」

ヒカリ、八神ヒカリは僕の、僕達の『仲間』だ。

「もう帰るの?」

「うん、部活の友達と約束があって」

「そっか、私も京さんと買い物に行くの」

「そうなんだ、京さん、賢とのことで何か言ってなかった?」

「え?何かって、愚痴はちょこちょこ聞くけど、何かあったの?」

「いや、順調かなって思って」

「そうね、今日聞いてみようかな」

何だか上辺を流れていくような会話だ、と心の隅で感じていた。

本当に聞きたいことはこんなことではないんじゃないか?でも何をどう聞く?彼女の交友関係は彼女のものだ。

そう内心で断じるのと裏腹に、口を突いたのは詰問調の問いだった。

「さっきの誰?」

しまった。

コントロールされていない声のトーンが、酷く不自然に耳に響いた。

彼女に気付かれる。

何を?

分からないけど、拙いと思った。

しかし、彼女は気付くどころか何やら慌てたようにどもり、「えーっと…」と言葉を濁す。

 

何、それ。

 

暗い声が喉につまる。

鉛を喉に押し込まれたように、急に息ができなくなった。

彼女はそれでも気付かず、暑さからくるのとは別の朱を頰に宿して「先輩なの」と呟いた。

サッカー部で、彼女の兄である八神太一の後輩であり、現サッカー部のキャプテンなのだと補足説明がなされる。

肩書きも立場も分かったけど、僕が聞きたいのはそんなことじゃない。

何で君は…

 

「お兄ちゃんから紹介されて、付き合って欲しいって言われて…」

 

思考をぶった切った彼女の言葉に、僕は唖然とした。

「太一さんの紹介?」

恐る恐る反芻すると、彼女は恥ずかしげに頷く。

で、付き合うの?なんて聞くまでもなかった。

彼女が兄の意向に逆らうことなどあり得ない。兄への信頼は絶大。

それは自分も同じであるから分かる。

そして、分かるが故に分かりたくないことまで分かってしまう。

彼女のことは誰より分かる、そう自負していたけど、こんなことを分かりたかったわけじゃない。

突如として溢れた心は、僕の中の小さな世界とルールを守るために働いた。

そしてそれは、幼い世界を打ち砕く。

 

「ねえ、君も僕を置いていくの?」

 

無意識に発した懇願に、彼女の表情は驚きに染まり、その細い腕を掴んだ己の手に、信じられない程の力が込められていたことに気付いた次の瞬間、歪んだ瞳に拒絶が見えた。

 

ああ、ダメだ。

 

全て分かった、そして終わった。

ずっと続いていくと信じてやまなかった、いや信じたかった安息の世界、平和な箱庭、ままごとのような日常、変化を否定する居心地のいい空間が、音を立てて崩れ去った。

 

「何てね、賢と京さんの次はヒカリちゃんかぁ。兄さんと空さん、光子郎さんとミミさん、最後にならないように気をつけなくっちゃ、僕も」

 

笑顔は簡単だった。言葉もスルリと喉から出た。

僕の異変を気のせいだと済ませてくれる彼女じゃないことは分かっていたけど、もはや誰も立ち入れないのだから構わなかった。

「じゃあね」と明るく別れを告げ、僕は新しい日常へと歩き出した。

必死に守ってきたミニチュアサイズの幸せを踏み越えて、胸の奥でとぐろを巻く重たい感情が全身を支配していくのを感じながら、僕は一度も彼女を振り返らなかった。

 

 

 

 

 




中学時代終了。
タケルの悩みスイッチが入り、鬱々と過ごす日々の始まりです。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第2話 〜8月1日〜

 

 

 

空は重いし、息は苦しいし、生きるのはかったるい。

高校に入学して半年、僕の視界は灰色だった。

あの日以来、僕は人が人に抱く感情の重さと醜さを身を以て知った。

僕が『仲間』に対して抱いていた友情や絆という崇高な幻想は、いつまでも現実を見ようとしない子供の逃避であり、『仲間』以外に心を許さない潔癖さが彼らに対する誠実さなどという大いなる勘違いが、単なる依存であるということ。

そして、自分が過去を何一つ乗り越えておらず、未だに失うことを極端に恐れ、他者との関わりを疑い、己の世界に閉じこもる臆病者であることに気付かされた。

かつての『仲間』達のなんと大人なことか。

デジモンカイザーなどという取り返しのつかないと思われたような過ちから立ち直り、他者との関係を築こうとする賢を始め、着実に進路を固定しつつある兄達の背はもはや遥か遠い。

次々と箱庭から飛び出す彼らに、知らず知らずの内に追い詰められていたのだと、今になって気付く。

そして、最後の拠り所であったはずの彼女さえも、自分の傍にはいてくれない。

この孤独に、寂しさに、悲鳴を上げた心が発したSOSは拒絶に塗り潰され、もはやここから這い上がる術など見つけられない。

 

「何が希望だよ…」

 

自分のどこに希望があったのだろうと思う。

こんなにも臆病で、恐くて、寂しくて、だというのに家族にも仲間にも本当の気持ちを吐露できない。

幼い頃の両親の離婚は、自分にとってあまりに重すぎた。

8歳の自分にとって、半身と言えるパートナーの喪失はあまりにも痛すぎた。

そして、立て続けに起きた非日常な出来事は、自己意識の拡大を助長し、壮大な目的を遂げた高揚感と達成感は一時的に心の穴を埋めた。

徐々に冷めていく熱が、冷えた溶岩がひび割れるかのごとく、心を割る。

もう血も出ないのに、痛くて痛くて仕方がない。

 

置いて行かないで。

 

涙も出ないのに、僕は毎日泣いていた。

そしてもう一つ、厄介な問題を抱えていた。

いつか賢が大輔と自分に持ちかけた相談を思い出す。

性行為。

それは動物が子孫を残すための生殖行為であり、本能だ。

知能を兼ね備えた人間に至ると、そこに感情が付属され、社会の形成とともに性の在り方は着実に変化してきた。

好きな人との性交渉、それは現代社会においては一般的な考えた方になっていた。

(あんなに辛いとは思わなかったなぁ…)

初めて激しい性衝動に駆られたのは、やはり中学2年の夏。

仮初めの安息が崩壊して間もなく、賢と京が一線を越えたと仲間内で話題になった。

野次馬根性丸出しで問い詰める大輔や、興味が先走る伊織に混じって、賢の話を聞いた。

そしてその後、迂闊にも想像してしまった。

彼女のこと、そして、彼女が付き合っているであろう先輩との情事にまで考えが及び、ジリジリと胃が焼かれる思いを味わった。もうそこからは地獄だった。

彼女に対し、仲間以上の感情を持っているのだと自覚するだけでも身が切られる思いだったというのに、更に追い討ちを掛けるドロドロと渦巻く嫉妬の炎と、気が狂いそうな程の彼女への支配欲、征服欲が次々と襲いかかる。

そんな危うい自分が恐くて、仲間にそれが知られるのが恐くて、彼女に知られるのはもっと恐くて、高校は誰とも被らない所を選んだ。

しかも通学に時間が掛かるからとの理由で、一人暮らしをしたいと我儘を通した。

母は心配したが、月に一度は顔を見せるという条件付きでOKをもらい、以前住んでいた世田谷区で一人暮らしをすることになった。

逃避だってことはわかってる。

でも同じ空間なんて耐えられない。

彼女の気持ちも、その後の動向も、何も知りたくなかった。

耳を塞いで、目を閉じて、兄からもたらされる彼女の兄経由の情報も全てシャットアウトして、取り敢えずの仲間ごっこを続けてきた。

でももう疲れた。

限界は近い気がしていた。

 

 

8月1日、その日、僕は集合時間より遥かに遅れてもまだお台場に辿り着けずにいた。

人身事故による電車の遅れが原因だった。

どうやら飛び込み自殺だったらしい。ごった返すプラットホーム。

駅員の交通整理と、構内のアナウンスが被って、どっちを聞けばいいのか分からない。

誰かが亡くなったのだと、誰もがその可能性を知っていながら、駅のホームはあまりにもそっけなかった。

灰色の人波の中に立って、僕は亡くなったのかもしれない誰かを思った。

何がその人をそこまで追い詰めたのか、相談できる人はいなかったのか、誰も助けてあげれなかったのか、家族はいるのか、恋人はいるのか、遺される人の気持ちは考えたのだろうか…。

そこまで考えて、僕は小さく頭を振った。

 

違うね、考えられなかったんだよね。

遺される人が悲しむとかじゃなくて、そうするしかないって、それしかこの状況からは抜け出せないから、それしか方法が見えなくなって、もういっぱいいっぱいだったんだよね。

きっと、今の僕以上に何かに絶望したから、だから最後の希望に縋ったんだ…時として死ぬことさえ希望になるんだ。

 

いつの間にか駅を抜けて歩道橋を歩いていた。

Dターミナルがメールの受信を知らせるメロディを発する。

もう皆の所に行く気分じゃなかった。

立ち止まって下を覗き込めば、自動車の群れ。信号が青に変わると同時に動き出し、直進、右折、左折と次々に交差点を横断していく。

暫く車の流れを見ていた。

ふと、吸い込まれそうな感覚に陥った。

足が軽い、頭が重い、身体が重心を失うように意識のコントロールから外れていく。

脳裏に浮かぶのは…。

グイっと後方に引っ張られる感覚に襲われ、同時にTシャツの丸襟が首に思いっきり食い込んで呼吸が止まった。

軽かった足が地面を捉え、驚いて振り返ると、そこには見たことのない黒髪の女の子が、自分の服の裾を掴んで立っていた。

「あ、えっと…」

どうにも状況が掴めずに惚けていると、女の子は髪と同じ真っ黒な瞳で見つめてくると、一言こう言った。

「いかないで」

鼓動が一つ、大きく跳ねる。

その後には、じんわりと胸に広がる痛みに似た感覚がやってきて、目頭が熱くなり、往来の場だというのに、誰とも知らない女の子の前だというのに、僕は泣き崩れてしまった。

後悔と、自責の念と、自分自身への罵倒が鳴り響く頭の中とは裏腹に、胸の内から湧き出る痛みに似た暖かさは、紛れもなく僕の生命を祝福している。

そして、目の前の女の子もまた、僕の生存を許容してくれているような気がした。

黒い髪、黒い瞳の女の子は、僕が泣き止むまで側にいて、背中をさすってくれていた。

涙が途切れる頃、改めて女の子を見やると、彼女は長いストレートの黒髪を耳に掛けながら立ち上がった。

それを追うように立ち上がり、強引に涙を拭って彼女と向かい合う。

彼女は長いストレートの黒髪を腰まで垂らし、白いノースリーブのブラウスに、細い首にはゴールドチェーンにハート型のトップがついたネックレスが光る。

腰にはライトブラウンの編み込みの飾りベルトを締め、紺色のスキニーパンツをロールアップして、足元は涼しげな白いサンダルを履いていた。

顔は酷く整っていて、二重の眼は大きすぎず小さすぎず、落ち着いた大人っぽい雰囲気は年上を予想させる。

唐突に恥ずかしさと申し訳なさに襲われ、僕は早口にお礼と謝罪を述べる。

「あ、あの、ありがとうございました。それから、すみません」

「もう平気?」

綺麗な声だった。

薄ピンクのルージュに縁取られた形の良い唇が動き、短く問いかける声は、決してミミのように澄んだソプラノではなかったけれど、ヒカリように涼やかではなかったけれど、よく通る響きを持っていた。

「はい、ご迷惑をおかけしました」

そう言って下げた頭に心地の良い感触を覚え、撫でられた、と感じて顔を上げると、彼女の黒い瞳と視線がかちあった。

「大丈夫だよ」

「え?」

訳が分からずに聞き返すと、彼女は僕の頭を撫でていた手を引き戻し、「じゃあね」と背を向けて去っていった。

ポカンとして彼女を見送った後、我に返った僕は時計を見て驚き、慌ててお台場に向かい、兄をはじめとする仲間から心配されたり叱られたりした。

最初にお台場に向かおうとしていた時ような、沈みきった気持ちは不思議と感じなかった。

彼女は誰だったのか、もしかしたら都合の良い幻だったんじゃないかとさえ思うような女の子の存在は、夏休みが明けても、未だに僕の心に焼きついていた。

 

 

高校1年の2学期が始まる。

僕の人生にとっての転機が訪れる。

 




あっという間に高校生。
オリジナルキャラ登場です。名前は次話で出てきます。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第3話 〜水崎マコト〜

 

 

 

新学期、夏休みを引きずる自堕落な高校生たちにとっては歓迎できない学校生活の再開。

僕にとっては別段変わらない毎日の始まりの筈だった。

この日、始業式を終えた僕は何となく屋上にやってきた。

屋上を取り囲むフェンスに寄り掛かり、校庭を見下ろしてみる。

そこには、新学期早々部活動に勤しむ運動部の生徒達がいた。

ぼんやりと陸上部のランニングを眺め、視線をテニスコートに向ければ、ラケットがボールを叩く音がやけに大きく響いた。

耳をすませば五月蝿い蝉の声の隙間から、生徒達の喧騒や、水泳部の飛び込みの音、校庭に鳴り響くホイッスルの音が聞こえてくる。

中学時代はあの喧騒の中にいたのになと思うと無性に寂しくなったが、あの世界を遠ざけたのは他ならぬ自分だった。

高校では部活に入らなかった。

中学まで続けていたバスケを辞め、何にもやる気を見出せず、無気力な学生を演じる。

母親の手前、成績だけはキープしたが、そんな自分を嘲笑う自分がいるのを感じていた。

加えて今日配付された進路調査票のことを思い出し、益々頭を抱えたくなった。

 

こんな自分が何になれるというのか。

 

将来への不安、それ以前に自分の存在価値、アイデンティティの確立に失敗しているというのに、自分の進路など考えられる筈がなかった。

ダラダラと親の金を食い潰して大学に進学するのだろうか、とありがちな未来を予想しては溜息を吐いた。

フェンスを背にして座り込もうとした時、屋上のドアが開く音が聞こえ、おもむろにそちらを見やる。

と、そこに現れた人物に視線は釘付けになった。

長いストレートの黒髪、眼鏡こそかけているものの、レンズの奥の黒い瞳と整った顔立ちは、あの日歩道橋で自分を助けてくれた女の子だった。

紛れも無くこの高校の制服に身を包んだ彼女に思わず駆け寄りたい衝動に駆られたが、一歩踏み止まる。

それは、彼女の後ろからもう一人、小柄な女生徒が姿を現したからだ。

きっと友人か何かだろう。そんな所に声を掛けるわけにはいかない。ましてやあの時の話なんてできるわけがない。

それに、もし今自分の存在が彼女にバレたら、あの日のことを女生徒に知られてしまうかもしれない。

いや、もし彼女が自分を以前から知っていたとしたら、既に知られてしまっているかもしれない。

自殺未遂ととられても仕方ない、いや実際そうだったのだろうけど、そんなことが学校の皆にバレたらと思うと、ゾッと背筋が粟立つのが分かった。

早くこの場から立ち去りたい、もしくは彼女達が立ち去ってはくれないだろうかと願う。

彼女達に背を向けるかたちで僕は携帯電話を弄るフリをして、この場から逃げるタイミングを測ることにした。

相変わらず何て情けないんだ。そう自分を罵倒した。

無操作のまま携帯の画面がブラックアウトする。

ハッとして、あまりにネガティブな自分にほとほと嫌気が差したが、命の恩人である人に対してこの失礼極まりない態度は何なんだと、己を叱咤するだけのモラルはまだ残されていたらしい。

携帯をポケットにしまい、一呼吸着いてから改めてお礼をしようと決意し、彼女達のいる出入り口に向き直った。

彼女と彼女の友人らしき女生徒は出入り口の扉のすぐ横、丁度日影になる位置に並んで何かを話しているようだった。

決意して早々で何だが、話の邪魔になってしまうんじゃないか、なんて消極的な考えがすぐに芽生える。

ああまた色々と言い訳を見つけて誰かと関わることを回避しようとしてるなぁ、と思ってしまった。

残暑厳しい9月の風が屋上を鈍く撫でる。

お世辞にも気持良いとは言えない暑苦しいだけの空気が、煮え切らない心の内と相俟って無性に倦怠感を助長させる。カシャンとフェンスの金網を握りしめて宙を仰いだ。

 

あー消えたいな。

 

痛いくらいに眩しい太陽も、抜けるような青空も、むせかえる夏の暑さも、眼下の喧騒も、全てが僕の頸を締める。

追憶の果てにあるあの夏の冒険さえ僕の苦しみを増やす一因でしかないことが、そういう風にしか考えられない自分が大嫌いだ。

 

後ろから扉が開いて閉まる音がした。

彼女達が帰ったのだろう。

結局彼女にお礼を言えなかったことに落胆し、半分以上は自分の所為だと懲りずに己を罵倒して再度フェンスに体を預けた。

何度目か知れない溜息を吐き出した時、近づいてくる足音に気が付いて慌てて顔を上げると、そこには制服の襟元を僅かに緩め、解かれたネクタイを風になびかせて歩いてくる彼女の姿があった。

「あ…」

思わず表情が緩み安堵の声が漏れた。多分、すごく間抜けな顔をしていたと思う。

「この間の子だよね、歩道橋の」

僕の目の前までやってきた彼女の言葉に心臓が跳ねる。

反射的に周囲に人がいないか確認してしまい、バツが悪くなって目を逸らして頷いた。

いつの間にか彼女の友人らしき女生徒はいなくなっていた。

誰もいない、その状況に後押しされたからというわけではないが、先ほど決意したお礼を言おうと彼女の顔を見た。

僕より少し背の低い彼女は女の子にしては背の高い方だろう。

中学後半から現在に至るまで、成長期というやつか、僕はかなり身長が伸びた。

1学期の身体測定では170cmの後半に差し掛かる所だったのだ。

とすると彼女は推定で165cm程度か。

すらりと伸びた四肢は細く、その華奢な体格が更に長身に見せていた。

あの日の彼女と違う黒縁眼鏡の奥の黒い瞳を真っ直ぐに見て、僕は改めて御礼を告げた。

「あの時は止めてくれて本当にありがとう。それと、落ち着くまで一緒にいてくれてありがとう。すごく助かった」

「ううん、余計なお世話だったらどうしようって思ったんだけど、良かった」

彼女はホッとしたように表情を崩して笑った。

こんな風に笑うんだ。

助けてくれた時は無表情っていうか、もしかしたら緊張していたのかもしれない。

それもそうか、自殺しそうな人を止めるかどうか悩んだ末に実行に移した直後なんて、表情が強張っていて当たり前だろう。

緊張の解けた彼女は、最初よりもずっと柔らかい印象になった。

「同じ高校だったんだね、さっきは吃驚した。すぐに声かけようかとも思ったんだけど、友達と一緒だったみたいだから」

「ああ、さっきの子はクラスメイト。少し進路のことで相談があるって言うから、話を聞いてただけで、別に友達じゃないんだ」

「友達じゃないんだ…」

印象が和らいだのも束の間、クラスメイトに対して何だか冷たい物言いに聞こえてしまい、笑顔がぎこちなくなる。

すると、彼女は僕の方を見て「だって」と鬱憤を吐き出すように続けた。

「あの子とは中学も違うし、ほとんど会話した記憶は無いし、いつも行動力のある子の陰に隠れて多数派に溶け込むタイプだから、常に少数派の私とはそもそも相性が悪いと思うんだよね」

「じゃあ、何で進路の相談なんてしてきたの?」

進路で悩むのは分かるが、何故友達でもない人間に相談するのかが不思議だった。

「友達には相談しにくいんだって」

「変なの」

「そうでもないよ。気持ちは分からなくもないから」

「ふーん、僕には分かんないや」

「まあ、分からないって人の気持ちも分かるけど」

「何それ、どっちさ?」

「どっちも分かるってだけ。私は友達にもクラスメイトにも相談しないもん」

「じゃ誰に相談するの?家族とか?」

「それもない」

「あー、先生?」

「情報提供くらいはお願いするかもね」

「合理的。分かった、誰にも相談しないで自分で決める?」

「それができたら一番ね」

「んー、正解は?」

「正解が欲しいの?」

「この場合はどうかな…いらないか」

彼女と僕は顔を見合わせて笑った。

彼女と話す時、何故だか言葉は飾らずスルスルと喉を通った。

いつも誰かと話す時には、一度内言語化した言葉を咀嚼してから取捨選択を行い、初めて口から送り出す。

でも、彼女との会話は驚くほど自然に内言語と遜色ない言葉でやり取りが行えた。

何故だろう、言葉遊びみたいで居心地が良かった。

もう何年もこんな風に誰かと会話したことなんてなかった。

君ともこんな風に話したかったな。

いつから僕は君と、仲間と、社会と、世界と上手くかみ合わなくなってしまったんだろう。

密かにここにいないヒカリを想う。

 

 

命の恩人の名前は水崎マコト。

2年D組。

予想通り歳上だった。

慌てて敬語に直そうとしたら、話しにくいからやめてくれと言われた。

図書委員をしているというので文学系かと思いきやバレー部に所属していると聞いて驚いたら、なんと入部の理由は前年度バレー部部長の強引な勧誘によるもので、しぶしぶ入部し、部長が卒業した今年度からは見事な幽霊部員だという。

しかも何やら合唱部や軽音楽部から助っ人を頼まれてはそちらに顔を出しているらしく、もはや所属先が曖昧だそうだ。

何でもできるんだ、と言ったら、まさか!とあっさり否定され、機械系にはとことん弱いし数字と記号は大嫌いと笑っていた。

自宅は世田谷区にあるらしく、自分も世田谷区で一人暮らしであることを告げると、いいね、とどこか薄れた笑顔で答えたことが気掛かりだったが、追及はやめた。

聞かれたくないことだってあるはずだ。それからもお互いのことを教え合うような会話が続き、気が付けば正午を過ぎていた。

さすがに日向での会話は暑い上に日焼けが怖いので、先程マコトとそのクラスメイトが話していた日陰に場所を移していたが、正午を知らせるチャイムが聞こえた途端、空腹感に襲われた。

するとマコトも同じだったのか、昼どうするの?と聞いてきた。

「んー今日は学食やってないし、そもそもこんな時間まで学校にいるなんて思ってなかったから、帰りにコンビニ寄って適当に済まそうと思ってたんだ」

「私も大体そんなとこ。すぐそこのコンビニでも行く?」

マコトが眼鏡を外して立ち上がりながら言う。

高校の正門を出てすぐの交差点にはコンビニがある。

学内の購買や学食に飽きた学生達の昼食やおやつの調達場所であり、帰り道の買い食いなどにも重宝されている。

僕も一人暮らしなのでよくお世話になる。

勿論自炊もするけど、毎日弁当を作るほどマメじゃない。それ以外にもなんとなく学生達の流れに乗って入店し、さして欲しいとも思わないペットボトル飲料なんかを買ってみたりすることがあった。

「そうだね、そうしようか」

マコトの意見に賛同して立ち上がる。

マコトは長い黒髪を手早くまとめてヘアゴムで括り、「じゃ、鞄取ってくるから」と言ってヒラリとスカートを翻す。

その後ろ姿に下駄箱で待っている、と投げかけると、「オーケー」と返事が聞こえ、直後にガチャンと扉が閉まった。屋上に一人になった。

いつになく屋上が広く感じられ、遠ざかっていく彼女の足音が聞こえなくなると僕は下駄箱に向かった。

 

さすがに校舎に残っている生徒は少なかった。

部活動も昼休憩らしく、先程までの号令や声援、怒号などは聞こえない。

下駄箱に寄りかかってマコトを待っている間、テニスウェアを身につけた女生徒が数人行き来した。

その内の何人かが、チラチラとこちらに視線を送ってくるのが鬱陶しい。

こんな時間に一般の生徒が残っているのが不思議なのか知らないが、放っておいてくれ。

周囲を行き交う他人の気配や視線、その奥の思惑まで想像してしまう自分が悪いのだと分かっていても苛々してしまう。

そして、その苛立ちを制御できずに垂れ流している自分に更に腹がたつのだ。

負のスパイラルだ。

何人目かになる女生徒の横目からの視線、その後のヒソヒソと耳に届く無声音に耐えられず、鋭く彼女等を睨みつけてしまった。

「やだぁ」「なにー」「こわっ」と女生徒達が口々に非難めいた声色を上げて走り去っていく。

あーあ、と心の中で自分の愚行を後悔するが、壁を殴りつけなかっただけマシかな、などと苦し紛れの自己弁護をしてみたりもした。

 

虚しい。何だよ、これ。

 

毎日の如くやってくる虚脱感に襲われそうになった時、よく通る声が僕を呼んだ。

「お待たせ、高石君」

振り返ると鞄を持ったマコトがいた。

フッと虚脱感が遠のく。

手慣れた動作で下駄箱に上履きをしまいローファーに履き替えたマコトは、僕の顔を見て何やら瞬きを繰り返した。

「どうかした?」

「いや、そんなに待たせたかなって」

「何で?」

いきなりそんなことを聞かれて訳が分からずにいると、彼女は少々申し訳なさそうに肩をすくめて言った。

「機嫌悪そうだから」

あ、と思って思わず片手で顔を覆った。

「ごめん、違うんだ」

マコトから顔を背けて、弁解しなければと騒ぐ心にせっつかれて、何をどう説明するかを整理する余裕もないままに言葉を続けた。

「水崎さんの所為じゃない。そんなに長くも待ってないし、これはただ…僕が」

「何だ、自己嫌悪でぐるぐるしてただけ?」

言い難くて言葉が詰まってしまった僕の言いたかったことをマコトはあっさりと言い放つ。

ギクリと身が固まる。

「ご、ごめん」

やっぱり他人に自分の苛々をぶつけるなんて最低だ。

いつかの自分が一番嫌っていたんじゃないか。

仕事が忙しい両親の衝突、不和、無理解、離婚。

あの夏の冒険の最中、極限の状況に追い詰められた幼い感情の暴走、兄達の喧嘩。

嫌だったのに、あれほど嫌だったのに、今自分は他人に同じことをしているではないか。

滑稽だ。

きっとマコトを不快にした。自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。

しかし、当のマコトの反応は予想と異なるものだった。

「いいよ、私が原因じゃないって分かったから。どうする?コンビニ行く?それとも気分じゃなければやめてもいいよ」

どうしてそんなにあっさり言えるんだろう。

しかも相手を気遣う言葉まで付け加えて。

それはマコトが思慮深いからなのか、遠慮しているのか、それとも天然か。

「ううん、行くよ。何か飲みたい」

「そ。じゃあ行こう」

先立って歩くマコトの後をついて、コンビニへ向かう。

僕にはそんなあっさり言えない。

相手の顔色を伺ってばかりいた僕は、相手の機嫌が悪い原因が自分でなかったとしてもすぐに納得できなかった。

それなら機嫌を直して欲しい、なんてとんでもない我儘なことを思っていたから。

だって、機嫌が悪いと分かっている相手と一緒にいるなんて辛い。

まるで自分が責められているようで、自分が悪いみたいで居た堪れなくなる。

結局は自分が居心地のいい場所を害されたくなくて、その場を上辺だけでも収めたいというエゴイズムだったのだと改めて思い知る。

何一つ相手の気持ちなど考えていないではないか。

みんなの為と言いながら、自分のことばかりだった愚かな自分に項垂れるばかりだ。

 

空調の効いた店内は涼しくて汗が沁みた制服を冷やし、肌にひんやりと纏わりつく。

肩から滑り落ちそうになる鞄を背負い直し、ペットボトル飲料がズラリと並んだ棚の前でぼんやりと商品のラベルを眺める。

マコトはパンのコーナーを行ったり来たりしているようだった。

僕は棚の下段中央に陳列されているジャスミンティーのボトルを手に取った。

「チョイスが女子ね」

「母の影響かな」

すかさず入るマコトのツッコミに答える。

いつのまにかパンを選び終わったマコトが隣に来ていたらしい。

僕の母親はコーヒーよりも紅茶派で、様々な茶葉を購入しては試飲し、季節問わずハーブティーなどは数種類が冷蔵庫にストックされていた。

一緒に暮らしていた中学までは、その中から好みの紅茶をチョイスして飲んでいた。

勿論、麦茶やウーロン茶などのストックもあったが、それらはもっぱら来客用だった。

マコトは「ふーん」と返事をして、迷うことなくミネラルウォーターを選んだ。

「水なんだ」

「水か炭酸しか買わないの」

「へぇ、変わってるね」

「よく言われる」

僕は紅茶が多いかな、なんて嗜好について話しながら会計を済ませる。

結局、僕は食べ物は買わなかった。

マコトは惣菜パンを2種類と昔懐かしいパッケージのグミを購入していた。

どうやらグミが好きらしい。

店を出て、どこで食べようかという話になる。

外は暑いし今更学校に戻るのも嫌だ。

公園は子供が遊んでいたり、保護者が日陰を陣取って井戸端会議している可能性が高いので無し。

ならばフリースペースがある施設へ行こうかと案を出したが、マコトが人の多い場所で食事はしたくないとのことで却下された。

散々考えを巡らせた挙句、最終的に僕の部屋になった。

これはマコトからの提案であり、それだけは自分からは言うまいと思っていた場所でもあった。

そりゃあ一人暮らしだし冷房もある。

多少狭いとはいえ二人で食事をするには問題ない。

そこそこのマンションなので防音設備も整っているため騒音の心配はなく、プライベート空間なのだから他人に煩わされることもない。

だがしかし、自分は男でマコトは女だ。

それでなくても面識の浅い異性を部屋に上げるというのは常識的にいかがなものかと思うのに。

何故マコトはこうもあっさりと…。

いつもの帰り道を、いつもは1人のところを2人で帰るのは何だか妙な気分だった。

それでも道中マコトとの会話は途切れることはなく、話題は尽きなかった。

猫が好き、犬が嫌い、コーヒーが飲めない、セロリが好き、甘エビが嫌い、歩くのは好き、走るのは嫌い、特に持久力は皆無、携帯はガラケー、着歌は嫌いで既存の着メロしか使わない、朝食は食べたり食べなかったり、米もパンも好きだけどコンビニのおにぎりは嫌い。

同じくらいの好きとか嫌いなものを僕も話した。

マンションのロックを解除してマコトを部屋に招き入れる。

間取りは玄関を入ってすぐ左手にトイレ、正面の廊下の途中にバスルームがあり、突き当たりにフロアが広がるワンルームだ。

フロアに入って右側の一角には仕切りを設けられたキッチン。

キッチンからフロアを見渡すことが可能だ。フロアの最南端には光の取り込みが抜群の大きな掃き出し窓。

ベランダもそこそこ広さがある。

西側の壁にベッドと本棚が配置され、東側の角にテレビ、その隣にチェスト、部屋の中央にはこじんまりしたラグが敷かれ、木製のローテーブルが一つある。

物は少なく、大半の物はクローゼットに納まってしまう。

唯一の小物はチェストの天板に置かれた写真立てだが、常に伏せてあるのであまり意味を成していなかった。

ローテーブルに買った品物を置き、マコトがトイレに行っている間にエアコンのスイッチを入れる。

送風口が開口して風を送り出す。

ネクタイを緩めようと手をかけて、暫く考えてからやめた。

Dターミナルと携帯をベッドに放り、鞄を脇に寄せて置いた。

トイレの水が流れる音が聞こえてきて、僕は少しばかり内容量の減ったジャスミンティーのボトルキャップを緩め、口に運ぶ。

「ありがと、あーお腹すいた」

トイレから戻ったマコトは自前のハンドタオルで手を拭きながらローテーブルの前に座り、自分の昼食をビニール袋から取り出した。

座った勢いで乱れたスカートの裾から、マコトの白い膝が覗く。

僕は敢えて見ないようにして窓の方を向いた。

多分、緊張してるのは僕だけだ。

そういえば、暫く自分でもシてない。

あの8月1日以来、胃を焼くような性衝動はすっかりなりを潜めていた。

良いことなのかはよく分からないが、ヒカリに対するあのドロドロとした感情に悩まされないだけでも良しとしていた。しかし、今はそれとは別の問題に直面していた。

自分が雄である事実は変えようもなく、この状況を作り出してしまったことを少なからず後悔する。

ほんの些細な仕草や香りが五感を刺激するのが分かる。

意識し過ぎだと思考を追いやろうとしても、すぐに引っ張られる。

ダメだ、ご飯食べたら帰ってもらおう。

そして、次からは軽々しく部屋に入れないようにしようと思うに至る。

そんな苦悩を知ってか知らずか、マコトは早々とパンを完食し、グミをつまんで満足すると、「場所提供ありがとう」と言ってあっけないほどあっさりと帰っていった。

拍子抜けすると同時に有り難かった。

あのまま長いこと一緒にいたらどうなっていたか分からない。

己の自制心の弱さに溜息が出る。

マコトが帰って1人になった部屋は、いつもよりも寂しげだった。

ベッドに身を投げ、深く息を吐いた。

「会いたいなぁ…」

寂しさからふと溢れた自分の声が、思い出しても辛いだけと分かっていても想わずにはいられない少女の顔を呼び起こす。

 

 

僕はあの頃も今も、少しも君のことを考えれていなかった。

そんな僕から皆が離れていくのは当たり前だよね。

いつまでもここから動けないでいる。

置いていかれたくないのに、動けない。

父さん、兄さん、みんな、ヒカリちゃん…エンジェモン…僕を置いていかないで。

小2の僕が泣いている。

 

 

目を覚ましたのは深夜だった。

目尻から溢れた涙がこめかみをつたってシーツにシミを作る。

重だるい頭と体を起こすと、重力に従う水滴が今度は目頭から溢れて鼻筋を伝った。

 

 

 

 




ネガティブ思考が止まらないタケルです。
暫くはオリジナルキャラが出張ります。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第4話 〜寂しさの色〜

 

 

始業式の日に再会して以来、僕は校内でマコトの姿を探すようになった。

モデル体型で美人の彼女だ、見つけるのは容易い。

彼女の容姿からして他の生徒に人気があるのではと思っていたが、観察しているとそうでもないことに気付く。

マコトはどちらかというと1人を好み、特定の生徒とはつるまず、つとめて地味な生活態度をとっていた。

昼は基本的に弁当を持参し、学食の隅のテーブルで食べているのを何度か見かけた。

放課後は週に1回、図書委員の仕事のために図書室のカウンターで仕事をしており、その他は合唱部や軽音楽部に顔を出していることもあるようだった。

成績は実力テストの結果が張り出された際、上位30番の中に入るくらいには頭が良いと分かった。

僕も50番前後をキープしているけど。

校内で会えば会話をし、たまに昼食を一緒にとることもある。

学校以外で会うことはあれ以来していないし、そんな機会もなかった。

友達かと問われると首を傾げたくなるが、ただの知り合いかと言われるとそれも違う気がした。

命の恩人、というのもあるけど、こんなに毎日目で追うなんてまるで恋でもしているようだが、マコトにはヒカリに対して抱くような感情は持っていなかった。

ただ一緒にいるのは居心地が良く、飾らずに話せるくらいには心を許している存在だった。

そんなことをぼんやり考えながら、今日の昼食、学食の日替わりランチを持って窓際のテーブルに腰を下ろした。

日替わりランチのメニューは和風ハンバーグとポテトフライ、サラダとミニトマト、コンソメスープに白米、デザートはオレンジだった。

そう言えばマコトはミニトマト嫌いだって言ってた、などとまた彼女のことを思い出す。

すると、正面のテーブルにコトンとグリーンのランチボックスの包みが置かれた。

反射的に顔を上げると、そこには今し方考えていた人物の姿があった。

「ここ、いい?」

「どうぞ」

「ありがとう」

短いやりとりの後、僕等は向かい合って昼食を食べた。

食べながら午後の授業なんかについて話して、マコトが今日は放課後に軽音楽部に呼ばれているのだということを知った。

なんとなく、「見に行ってもいい?」と口走っていた。

マコトは少しだけ意外そうな顔をしたけれど、「私は構わないけど、一応部長に聞いてみる」と答えた。

そして、すぐに携帯電話で連絡をしてくれて、「オーケーだって」と許可が下りたことを報告してくれた。

兄のヤマトがバンドをしているのを見ていたから特に珍しいというわけでもなかったけど、単にマコトがヴォーカルとして呼ばれていることを聞いて、どんな風に歌うのか見てみたかった。

 

放課後、マコトと連れ立って軽音楽部が練習場所にしているという倉庫に向かった。

兄もこういう場所で練習していたな、と思い出す。

空き倉庫の扉には手作りの看板が立てかけられており、練習中と書かれていた。

重たい扉を開けると、ギャンギャンとうるさいエレキギターの音やドラムの音が聞こえてきた。

部長らしき人物がマコトと僕の姿を見つけて駆け寄ってくる。

「やあ、待ってたよ、水崎。それと高石君、だっけ?」

「はい、突然お邪魔してすみません」

「いいよ、見学自体は何も問題無いから。君は何か楽器とかやってるの?」

「いえ、僕はなにも。兄が高校時代にバンドをやってましたけど」

「そうなんだ、まあゆっくりしていってよ。水崎、いける?」

部長はパイプ椅子を僕にすすめ、マコトに向き直る。

マコトは部長と二、三言葉を交わすと、僕に向いて「じゃ、私は1時間くらいいるけど、途中で帰りたくなったら部長に断って帰ってもいいから」と言い残してバンドメンバーのもとに歩いていった。

僕は用意してもらったパイプ椅子に座って、マコトの後ろ姿を見送る。

マイクスタンドまで行ったマコトはマイクを取り外し、音量やら何やらを調整しているらしかった。

こういうのっていきなり歌って喉を潰さないんだろうか。

声出しくらいするのかな、なんて思っていたら、マコトの準備が整うと、既に準備を終えていたメンバーの1人がカウントを取り、演奏が始まった。

知らない曲だった。

オリジナルなんだろうか。

曲の良し悪しは僕には分からない。

ただ前奏が終わって歌い出したマコトを見て、その歌声を聴いて、プロなんじゃないのかと本気で思った。

それほどに彼女の歌は上手くて、高音域の伸びとか、ビブラートだとか、技術的なものは詳しくは分からないけど、テレビやラジオから流れてくるプロのミュージシャン達のそれとあまり遜色ないのではとさえ思える。

何で部員でもない彼女がヴォーカルとしてのみ起用されるのかがよく分かった。

そりゃこれだけ上手けりゃ使いたいよね。

ただ歌ってる歌詞はどこか渇いていて、擦れているというのか、それは時折マコトが見せる寂しげな表情も相俟って、僕の心に棲み着いた孤独を揺さぶる。

曲が終わりに近づくにつれて、僕の心は寂しさに塗り潰されていった。

1曲歌い終わったマコトは、ここに来る前にコンビニで買ったミネラルウォーターで喉を潤し、チラリとこちらを見た。

僕は出来るだけ明るく装った笑顔で「すごく上手かった」という意味を込めて親指を立てて見せる。

すると、マコトはバンドのメンバーに何かを告げてから、こちらに向かって歩いてきた。

「すごいね、プロみたい。っていうか、プロにならないの?オーディション受けたり、スカウトされたりとかありそう」

隣までやってきたマコトは近くのパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろし、賛辞の言葉に少し照れくさそうな表情を見せる。

「ありがとう。でも音楽を仕事にするつもりはないの。これは単なる趣味」

「何か勿体無い気もするけど」

あれだけの歌唱力とマコトの容姿ならばアイドル的な人気を博しそうなのに。

まあそれでもテレビに映るマコトの姿を見たら、また置いていかれた気分になるだろうけど。

勝手なものだ。

隣に座るマコトは、ミネラルウォーターのペットボトルを手の中で転がしながら珍しく難しそうな顔で言った。

「仕事にしたら、歌うことが嫌いになりそうだから」

「え?」

意外な言葉だった。

好きなことを、やりたいことを仕事にできるなら、そんなにいい事はないんじゃないだろうか。

マコトの言葉に疑問符が浮かぶ。

彼女は少し困ったように笑った。

「ただ臆病なだけかもね。仕事ってなったら嫌なオファーも受けなきゃならなかったり、歌いたくない歌を歌わなきゃいけなかったりするじゃん、きっと。それが嫌なの」

「そう、なんだ。でも、嫌なことばっかりじゃないんじゃ…」

「うん。そうね、それすら言い訳で…私は、歌うことにどこか幻想みたいなものを持ってるのかも。歌っている間は自由だとか…まあ、単なる現実逃避なんだろうけど」

自嘲的な横顔。マコトが初めて見せるネガティブな感情に、僕は既視感を覚えた。

「ごめん、勝手なこと言った」

「高石君はすぐ謝るね。別に私が勝手に話しただけなのに」

「うん、でも…」

マコトの表情や言葉の端々に感じられたのは、寂しさだった。

寂しさは心に棲み着いてシクシクと痛みを訴える、今の僕のように。

その後、彼女は同じ曲を2回、別の曲を3曲ほど流して歌い(最後の曲だけ聴いたことがあった)、丁度1時間程で部活を切り上げることになった。

マコトについてきただけの僕もまた、彼女と一緒に退席することにした。

どうせ帰る方向は一緒だ。

日も暮れかけた帰り道を二つの影法師が並んで歩く。

9月も終わりに差し掛かると、夕暮れの風は涼しく、どこかしんみりとさせる。

寂しさが、じわじわと胸に広がって、身体まで蝕んでいくみたいだ。

こんな時は誰かに寄り添って欲しくて、温もりが欲しくて、独りではないことを確かめたくなる。

右隣を歩くマコトの無防備な左手を視界の端に映し、手を伸ばそうとして思い留まった。

彼女に縋ってどうする。

受け入れてくれるとも限らないのに。

いや、そもそも彼女は僕のことをただの後輩、良くて友達くらいにしか思っていないだろう。

それなのに、寂しさから逃れる為なんて身勝手な思いを押し付けるのは彼女に失礼だ。

心から覗く寂しさの誘惑を理性で押し付ける。

幼い頃から飲み込んできた寂しさは、まるで毒のように心に蓄積されている。

いつかこの重く苦い毒に、心だけでなく僕という存在全てが侵されてしまうのだろうか。

ぞわり、と言い知れぬ不安が背筋を這い上がった。

 

ああ、恐い。

寂しさに溺れるのも、誰かに縋りつこうとする弱さも、それを御せない自分が、つかず離れず隣にいる彼女の存在を壊してしまいそうで。

 

「水崎さん」

「何?」

立ち止まった僕につられる形でマコトの足も止まる。

「真っ直ぐ帰る?」

「どこか寄りたい所でもあるの?」

半歩振り返ったままの体勢で彼女は質問に質問を返す。

「ちょっとね」

「そう、じゃあ…」

私は帰るね、と言ってくれることを期待していた。

が、その期待は見事に裏切られる。

「一緒に行ってもいい?」

しっかりと向き直ったマコトの黒い瞳が僕を射抜く。

ダメだよ、そんなの。

「遅くなるけど」

「いいよ、別に」

ダメだってば。

「親が心配しない?僕は一人暮らしだからいいけど、水崎さんは…」

「平気。うち門限とかないし」

食い下がるマコトに違和感を覚えた。

「でも…」

「一緒にいたくないならそう言って」

言い淀む僕に、マコトは被せるように強い口調で言い放った。

心臓を鷲掴みにされたような絞扼感が襲う。見透かされた。

バツが悪くて、後ろめたくて、居た堪れなくなる。

けど違う、違うと言いたいのに、喉に鉛が詰まったようなあの感覚に呑まれて何も言えない。

それでも彼女に謝りたくて、僕はさっきあれ程躊躇った手を伸ばしてマコトの細い腕を掴んだ。

マコトは拒まなかった。

拒むどころか、自分の腕を掴んだ僕の腕が震えていることに気付いたのか、逆に「ごめん」と謝ってきた。

違う、何で彼女が謝ってるんだ、謝るのは僕の方で…。

「ホントにごめん。私、しつこかったね」

申し訳なさそうに目を伏せ俯くマコトに、益々罪悪感が募る。

「ううん…僕の方こそ、ごめん……」

ようやく絞り出した言葉は言いたいことの十分の1も賄えていない。

もう一度謝ろうと口を開いた時、それよりも早くマコトの小さな声が聞こえてきた。

「帰りたくなくて…でも1人も嫌で、だから…勝手なこと言って、困らせて、ごめん…」

喉まで出かかった謝罪の言葉を飲み込んでしまう程、その告白は衝撃だった。

押し殺した筈の寂しさがぶり返す。

否、彼女が溢す言葉から滲み出る寂しさが僕に伝染する。

マコトの腕を掴んでいた手が、恐ろしいほど自然に滑り降りて彼女の手を握りしめた。

喉の詰まりが溶けていく。

「僕も、帰りたくなかったんだ。1人の部屋に帰るのが恐くて…。でも、水崎さんと一緒にいて、水崎さんに縋ってしまうのも恐くて。迷惑かけたくなかったから…僕も、ズルくて、ごめん…」

本心は意外なほどすんなりと舌の上を滑った。

マコトは俯いたまま、それでも僕の手を握り返してくる。

いつもは凛とした印象の彼女が、この時ばかりは小さく見えた。まるで迷子の少女のように。

それは多分、僕も一緒だっただろう。

迷子の2人は手を繋いで日が暮れた夜の街を歩く。

行き先を話し合ったわけではなかったが、自然と足は僕の部屋に向かっていた。

 

 

マコトは窓際にペタンと座り、道すがら自動販売機で買ったミネラルウォーターのペットボトルを手の中で転がしながら、ぽつりぽつりと自分の話をした。

 

マコトの親は幼い頃に離婚し、一人っ子だったマコトは母親に引き取られた。

離婚の原因は両親の不和。母親は養育費の支払いを拒み、父親に二度とマコトに会わないと約束をさせたという。

勝手だね、と親を批難すると、マコトは小さく笑い、それでも女手一つで育ててくれたんだ、と言った。

その母親はマコトが中学2年の時、唐突に再婚を切り出した。

思春期だったマコトは猛反発し、家出を繰り返しては母親を困らせる日々を送った。

娘の反発ぶりに参った母親は再婚を断念、それ以来再婚を口にすることはない。

しかし一度出来た溝は埋まらず、それ以来母子の関係はぎこちないのだという。

今なら抵抗心を抑えて頷くこともできたかもしれないとマコトは話す。

母親の実家は東北で、父親は既に死別しており、母親とは確執があったらしい。

離婚後、頼るべき親も親類もなく、都心で幼い子供を抱えて生きていくのはどれほど大変だっただろう。

まだ子供の自分にはきっと想像もできない苦悩や苦労があったのだと思う、とマコトは呟いた。

きっと母親は辛かっただろうし、寂しかったのだろう。

そんな中、経済的にも精神的にも支えが欲しくて、再婚という道を選ぼうとした母親を、マコトは認めることができなかったのだ。幼い頃に父親を取り上げたくせに、今更何なんだと、勝手なことを言うなと。

確かに中学2年のマコトにとってはそれだけが突き付けられた現実だった。

けれど、母親も1人の人間であり、女である以上誰かに寄り掛りたくなることもあるのだと、支えてくれる相手が必要だったのだと、理解できたのはここ最近だそうだ。

そして、理解してしまったが故に母親を傷つけ、支えを奪い取ってしまったことへの罪悪感に苛まれた。

家に帰っても仕事で忙しい母親と顔を合わすことは滅多に無いが、たまに鉢合わせるとまともに目も見れない。

話もできず、居たたまれなくなって部屋に引っ込んでしまう。

次第に自分さえいなければ母親は幸せになれたのではないかと思うようになった。

母が早く帰宅する日や休みの日は、マコトは必ずと言っていいほど家を空ける。

今日も、そしてあの日もそうだった。いっそいなくなってしまいたい、そう思って街をふらふらしていた時、歩道橋である男の子に遭遇した…。

 

そこまで話を聞いて、僕はハッとしてマコトを見つめた。

マコトは窓の外に向けていた視線をゆっくりと引き戻し、ミネラルウォーターのペットボトルを膝に預けると、ベッドに座っている僕を見た。

「それが高石君だった。まるで誘われるみたいに歩道橋から身を乗り出して、どこかに行ってしまいそうだった。自殺っていう単語は浮かばなかった。ただ、いなくなってしまいそうに思えて…」

だからあの時マコトは「死なないで」ではなく、「いかないで」と言ったのだ。

「あの日、高石君に「いかないで」って言ったのは半ば無意識だった。

でも、泣き崩れる高石君を見て、私は気が付いたの。私も、いなくなってはダメだって」

それから、「大丈夫だよ」って自分自身にも言い聞かせる気持ちで言った、とマコトは笑った。

あの日から、少しずつマコトの中で何かが変わり始めたのだという。

母親との溝はまだまだ埋まらないし、過去の罪悪感に取り憑かれて苛まれることも、今日みたいに帰りたくなくて逃げてしまうこともあるけれど、自分の手が繋ぎ止めた何かが、確かに世界と自分を結んでいると信じられるようになったと、マコトは告げた。

はっきりと芯の通った声で、僕を見据えて、

 

「高石君に会えて良かったって思う」

 

そう言った。

形容し難い思いが込み上げ、僕は心が命じるままに身体を委ねた。

ギシッとベッドのスプリングが軋んで僕は立ち上がり、マコトの前まで歩いて行くと膝を折って彼女と同じ目線に降りる。黒い瞳の中に僕の姿が映り込んだ。とても穏やかな気持ちになるのを感じた。

あの日、マコトが引き止めてくれた後に感じた、痛みに似た温かさが、生命の祝福が蘇る。

「凄く嬉しいんだ、そんな風に言ってもらえたのは初めてだから…だから、水崎さんが嫌でなかったら、抱きしめてもいい?言葉じゃ、上手く言えなくて。その…恋愛感情とかじゃないから、安心して、っていうのも変だけど…」

余計なことまで口走っている気がして顔に熱が集中する。

でもこれは紛れも無い本心だ。

マコトはクスリと優しい笑いを零し、「うん」という言葉とともに頷いた。

両の腕を持ち上げ、華奢な肩から背中を包むように回すと、ほんの少し彼女を引き寄せ、残りの距離は自ら縮めた。

思った以上に細っそりした彼女の身体は柔らかく、温かかった。

触れた所から伝わる彼女の体温、穏やかな呼吸、心音。

やがて抱き締めている僕の存在を肯定するかのように、そっと背中に添えられる細い手。

寂しさに塗り固められていた心が、清水が染み渡るようにじんわりと解けていくのが分かる。

僕が感じているこの喜びを、温かさを、安心感を、マコトも感じていてくれたらいいなと思った。

 

 

その日、マコトは僕の家に泊まった。

どうせ明日は休みだったし、マコトの家に帰りたくない思いは残っていたようだったから。

2人で深夜番組を見ながら、僕の境遇について彼女に話した。

さすがにデジタルワールド関連は伏せたが、親のこと、兄のこと、大切なパートナーがいたということ、仲間のこと、そして忘れられずにいる想い人のこと。

置いていかれることへの恐怖が、今も自分を捕らえて離さないこと。

乗り越えられない自分を責めていること。

寂しさが雪のように積もっていくこと。

少しも楽しい話じゃなかったけれど、マコトは何も言わずに聞いてくれた。

そして話し終わった後、僕達は一つしかないベッドで抱き合って眠った。

彼女の胸に顔を埋め、その背に腕を回し、頭を抱き抱えられる形で、僕が寝付くまでずっとマコトは僕の頭を撫で続けてくれた。涙が出るほどの安らぎに抱かれ、朝までの数時間、僕は夢も見ずに深く眠った。

マコトへの感情は恋愛じゃない。

寂しさの色が近い、いわば同類だった。

 

 

それから、僕とマコトは一緒にいる時間がほんの少し増えた。

たまに昼休みに同じテーブルで食事をとったりするのは以前と変わらないけれど、マコトが家に帰りたくない時、または僕が寂しさに潰れそうな時、放課後から共に過ごして、僕の部屋で夕食を作り、一緒に寝る。

月に2、3回の頻度だったけれど、一人ではない空間で、人の温もりに触れる一時は、僕の心を救っていた。

 

 




類は友を呼ぶ、ということで。
まだ暫くオリジナルキャラが出張ります。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第5話 〜曇天〜

 

 

 

季節が巡り、新しい年を迎えた日の朝、珍しくマコトから電話があった。

今年の元旦は夜明け前から厚い雲が空を占拠し、昼過ぎから雪が降るというのはネットの天気予報情報だ。

大晦日から母親の所に帰っていた僕は、例に漏れず夜更かしをし、明け方に1時間程仮眠を取り、恒例になっている初詣のために午前中の内に押しかけて来るであろう大輔達の来訪を迎えるための準備をしていた。

時折やってくる眠気を欠伸でやり過ごし、母親の作った御節を盛り付けていた時、ソファに放ってあった携帯の着信音が鳴った。仲間の誰かからかな、と思い携帯を手にとって、待ち受け画面に表示された名前に驚いた。

水崎マコト。

携帯電話の番号こそ交換していたが、彼女から電話がかかってくることなど一度もなかった。

まさか新年の挨拶ではあるまい。

何かあったのではと、かつての自室に駆け込んで通話ボタンを押した。

『高石君』

「水崎さん、どうしたの?」

携帯のスピーカーから聞こえてきた彼女の声は、冬休み前に別れた時と変わりないトーンだった。

考えすぎだったかな、と思った矢先、

『私のお父さんね、病気でもう長くないんだ』

機械を通したどこか重みを無くした音声が耳に届き、僕は固まった。

あまりに唐突な告白に、頭の処理速度が追いつかない。

父親というのは離婚後一度も会うことのないままにいた実の父親のことだろうが、何故その父親のことが降って湧いたように話題に上がり、しかも病気、それも長くはないなんて…。

混乱する頭が叩き出したのは、そんな事実を知った彼女の心境、そしてそれを自分に告げずにはいられないほどに彼女を突き動かしたものがあるということ。

「今どこ?」

『…歩道橋』

どこの、なんて聞かなくても分かる。

だがしかし、遠い。くそったれ。

心の中で誰にでもない悪態をつくと、ダッフルコートと財布を引っ掴んで、驚く母親を尻目に携帯片手に家を飛び出した。重暗い曇天が視界に飛び込んでくる。

昼過ぎなどと言わず、すぐにでも降り出しそうな雲行きだ。

風はそれほど強く無いが、冬の冷気は容赦なく肌を刺す。

「今から行くから、すぐ行くから!それと、店とかに入れとは言わないけど、できるだけ暖かい所にいて!」

無茶だけど、でもどれくらい前からそこにいるのか分からないし、身体が凍えると心もキシキシと凍えてしまうから。

けれど、今のマコトに人がいる店に入れなんて酷なことも言えない。

だからせめて、と思う。

マコトからの返事はなかったが、震えたような吐息が漏れ聞こえてきて、僕はもう一度「すぐ行くから」と伝えて通話を終える。

そして、すぐにアドレス帳を開いて本宮大輔を探し当て電話を掛けた。

「何だよタケル、まだ早くねーか?」なんて呑気な第一声を遮って、「ごめん、初詣は僕行けない。ちょっと急用!」と早口に告げ、理由を問う大輔に、「友達が事故った」などと適当な理由をでっちあげて丸め込んだ。

次に母親に電話をして、突然飛び出したことへの謝罪と、理由を少々の嘘と真実を交えて説明した。

電車を乗り継ぎ、世田谷に向かう。

乗り込んだ電車はどれも普段からは考えられないくらい空いていた。

まばらな空席が目に付く。しかし座る気にはなれず、ドア付近の手すりに寄りかかった。

電車に揺られる時間が恨めしく、その間マコトがこの寒空の下、抱えきれないものに押しつぶされそうになっているのを思うと堪らなかった。

道すがらマコトの置かれている状況を色々と想像してはみたものの、どれも楽観できる結果には辿り着かない。

一人暮らしをする世田谷のマンションからならすぐだったのにな、などとどうしようもないことまで考えた。

目的の駅に到着し、電車の扉が開くと、いの一番に駆け出した。

まばらな人の合間を縫って駅から飛び出し、マコトと初めて会ったあの歩道橋に向かう。

途中、自動販売機でホットドリンクを二本購入し、再び走り出す。

彼女は移動しているだろうか。

少しは暖かい場所を見つけて、身を縮めているだろうか。

それとも…。

駆け上がった先で、歩道橋の欄干にもたれかかり、ぼんやりと車道を見下ろしている彼女を見つけた。

黒く長い髪を腰まで垂らし、真っ白なコートに身を包んで、コートの裾から僅かに覗く紺色のスカート、そこから伸びる細い足を包むのはライトブラウンのロングブーツだった。

僕はすっかり上がっている呼吸を整え、静かに、けれど足早にマコトのもとへ向かった。

「水崎さん…」

マコトの睫毛の長さが分かる位置まで近づいて名前を呼ぶと、さすがに気づいていたらしい彼女がこちらを向くことなく答える。

「ごめんね、なんか呼びつけちゃったみたいで…」

「そんなこと…僕が勝手に来ただけだから」

「うん…ありがとう」

マコトは手袋もマフラーもしていなかった。

欄干に添えられた白い指と、黒髪から覗く耳が赤味を帯びている。

僕はコートのポケットから先程買ったホットドリンクのペットボトルを差し出した。

差し出されたそれを、マコトがまじまじと見つめる。

「さすがに水は寒いしホットの炭酸は無いから、紅茶で我慢して。それとも緑茶の方がいい?」

そう言ってもう一本を取り出すと、マコトは可笑しそうに笑って「じゃ、緑茶にする」といって緑茶のボトルを受け取った。

凍えた指先を暖めてから、マコトは「数年ぶりだなぁ」と言って緑茶のキャップを捻り、一口飲んだ。

僕も隣に並んで紅茶のボトルを開封する。

急いで買ったので好みに合わせて厳選したつもりはなかったが、ちゃっかり自分の好きなメーカーのミルクティーだった。

ミルクのまろやかな口当たりと、いかにもペットボトル飲料として製品化された平均的な甘味が口の中に広がる。

湿った唇を1月の冷たい風が即座に冷やしていく。

相変わらず頭上には曇天が横たわっていた。

雪が降る前にどこか場所を移した方がいいかと思いマコトの方を見ると、彼女はキャップを閉めたペットボトルを手の中で転がしていた。

これは、自分のことを話す時のマコトの癖だ。

僅かな間を置いて、マコトは話し始めた。

「私ね、ホントはずっと前からお父さんとちょこちょこ会ってたの」

「…うん」

マコトの話を止めることはできなくて、僕は頷いた。

「お父さんから連絡してきてくれて、お母さんには内緒で、3ヶ月に1回くらいかな…食事に行って話して」

「うん」

「色々聞いたんだ。何してるのか、どこに住んでるのか、何で離婚したのか…とか。お母さんは何も教えてくれなかったから」

「…うん」

「だから、お父さんとお母さんの間に色々あったのも、それは仕方ないんだってことも、もう分かってる」

「……うん」

「でも、どこかでもう一度家族で暮らしたいって思ってた自分もいたんだよね。そんな夢見がちじゃないって思ってたのに、お母さんの再婚にあれだけ反対したのも、根本はそれだったのかもって今じゃ思う。叶うはずないって分かってるつもりで、それでも捨てきれない期待とか希望みたいなものがあったんだなぁって…さ」

「………ん」

「けど、さ……癌だって、もって半年なんて…そんなの……絶対無理じゃん」

不規則に途切れる声、弱々しく紡ぎ出される言葉に、僕はもう「うん」とさえ返せなかった。

痛いくらいにマコトの気持ちが分かってしまうだけに、微かな希望が絶たれようとしている現状が、鋭利なナイフのように心に食い込んでくる。

生きてさえいれば、例え可能性は限りなくゼロに近くても、ゼロにはならない。

まやかしだろうが、気休めだろうが、希望を持てるか持てないかでは大きく違う。

かつて彼女は、母親の再婚というゼロに向かう筈だった道を、母親との確執という代償を支払って阻止している。

けれど、父親が死んでしまったら、ゼロになってしまう。

それだけじゃない。

父親を失う。

想像しただけで恐ろしいのに、彼女にとっては差し迫る現実なのだ。

もって半年。あまりに時間は短い。

ペットボトルを握るマコトの手が震えていたのは、きっと寒さからだけではない。

震えながら俯くマコトは、強く歯を食いしばり、必死に何かを堪えているようだった。

マコトの心の悲鳴が今にも聞こえてきそうで、僕の心も軋んだ。

ギュッと縮められたマコトの肩に手を伸ばし、触れる手前で逡巡する。

この接触は果たして正しいのだろうか。

慰める術が分からない。

安易な言葉は逆に相手を傷付ける。

かといって、何をしてあげられる?何かしたいのに、人の生き死にの前に、僕は幼いあの頃と同様あまりに無力だ。

行き場のなくなった手を握り締め、引き戻そうとした時、その手に冷たいものが掠めた。

思い当たる正体を追って空を見上げる。

暗い灰色の雲から、はらはらと白い結晶が舞い落ちて来るのが見えた。

小さな氷の粒が頬や額に触れて水に変わる。

思った通り随分と早いじゃないか。

そう心の中で呟くのと同時に肩口にトスンっと何かがぶつかった。

慌ててそちらを見ると、僕の肩に額を寄せるマコトの姿があった。

「高石君…」

少しくぐもった声が届く。

「…水崎さん?」

「………寒いね…すごく」

最後は無声音だった。

マコトの息が空気を震わせる。

降ろしかけたままだった手で、マコトの頭に触れた。

髪の毛の一本一本まで冷え切っている気がする。

漆黒の髪を撫でるのを、マコトは何も言わずに受け入れていた。

 

 




色々な意味で曇天模様。
折れ線グラフで言えば降下中です。じき底辺。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第6話 〜解放〜








※この話はやや性的表現を含んでいます。苦手な方はサラッと流してください。









 

 

 

止む気配のない雪。

僕はいつかのようにマコトと手を繋いで世田谷の部屋に向かって歩いた。

すっかり冷え切ってしまったペットボトル飲料を、二人して空いている方の手でブラブラと遊ばせながら。

道中、マコトは世間話5割、朝食の催促2割、両親のこと3割の割合で話をした。

ただし、口数はいつもの3割減だった。

 

部屋に着くと、まずマコトの冷えた身体を温めるためにシャワーの使用を促した。

聞けば、僕に電話をしてきた2時間程前からあの場所にいたという。

「風邪引くよ」と少し呆れて僕が言えば、マコトは「どうせ冬休みだもん」と拗ねた子供のように反論した。

バスタオルと着替の必要性を問うと、バスタオルだけ貸してと答えが返ってきたので、今まで一度も使っていなかった白いバスタオルを出して渡した。

マコトがバスルームに消えた後、暖房がききはじめた室内で、僕は朝食の支度にとりかかる。

マコトとこの部屋で過ごす時は、最初の一回を除いて全て食事は自炊だった。

コンビニの弁当が嫌いというマコトの意見と、料理は得意ではないが嫌いではない僕のスキルの合わせ技とでもいうのか。

必ずしも美味しい料理が食べたいわけじゃないから、と言ったマコトは、もっぱら僕の作る卵料理を気に入っていた。

形の悪いオムレツ、出汁の効きすぎた出汁巻き卵、バターを多めに使ったスクランブルエッグ、半熟を狙って焼きすぎた3分の1熟目玉焼き、つゆだくの親子丼。

兄のように料理ができていたら、マコトの反応はどんなものだっただろう。

野菜室に残った野菜で簡単なサラダを作った後、ケトルのスイッチを入れ、トースターに食パンをセットする。

冷蔵庫を開けて卵を4つ取り出し、ボールに割りいれる。

最後の一個は割るのに失敗して殻がボールの中に転落した。

連続していたシャワーの水音が途切れた。

脱衣所の更に奥のバスルームの扉の開閉音が聞こえる。

もし調理中でなく余計な雑音が何もない状況だったら、薄い扉越しにタオルや衣服の衣擦れの音といった彼女の更衣の気配が聞いてとれたことだろう。

下手に意識してしまう要因が一つでも減って良かったと思う。

フライパンに落としたバターがじゅうじゅうと音を立て、芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

溶いた卵を流し込み、固まる前に手早く菜箸でかき混ぜる。

全体が固まり切る前に火を止め、二つに切って皿に移した。

使ったフライパンは流しに入れて水につけ、後ろで飛び上がったトーストをスクランブルエッグと同じ皿に乗せる。

その皿をテーブルまで運び、再びキッチンに戻ろうとした時、脱衣所に続く扉が開いてマコトが出てきた。

最初に見た白いコートを小脇に抱え、Vネックのモノクロのボーダーニットに紺色の膝丈スカート、ベージュのタイツは身につけていないようで素足だ。

黒い髪を高い位置で纏めて結い上げ、シャワーの水飛沫でほんのり湿ってしっとりとしている。

反射的に鼓動が跳ねるのは仕方がないとはいえ、すぐに言葉が出てこないのにはしくじったと思う。

こんな時に不謹慎だろ、と己の動揺を蹴飛ばして、無理やり口を開いた。

「紅茶とココア、どっちにする?」

不自然な間を押して、ケトルがカチンと音を立てて止まる。

マコトは「じゃあココア」と答え、窓際まで歩いて行ってコートと衣類を纏めて置いた。

僕は分かったと答えてキッチンに戻り、用意してあった二つのマグカップに、一つは紅茶のティーバッグ、一つはココアパウダーを入れる。

砂糖を入れるか聞いて、マコトはココアパウダーのメーカーを聞いた後にお湯で溶く旨を確認し、スティックシュガーで3本頂戴と言った。

「バスタオル、洗濯機に入れて置いたけど、いい?」

マコトに言われたスティックシュガーを出している所に声が掛かる。

いいよ、と答えながら顔を上げると、彼女は意外と近くに来ていて、有り合わせのサラダを入れたグラスボウルを持って運んでいく所だった。

「ありがとう」

「それ、私のセリフだと思う」

少し振り返ってそう言ったマコトは、勝手知ったるという風に冷蔵庫の扉を開けて、お気に入りの和風ドレッシングとトマトケチャップを取り出した。

僕はココアに砂糖を入れてマドラーで混ぜ、フォークとマグカップを持って彼女の後に続いた。

ローテーブルを挟んで座り、できたての朝食をとる。テレビはつけなかった。

新年の浮かれた特番だらけのチャンネルは、どこを回してもカンに触るだろう。

サクサクとトーストを齧る音がする。

マコトはトーストには何もトッピングしない。

何故かと聞いたら、昔好んでつけていたマーガリンが有害指定として販売中止になった国があると知ってショックを受けたから、と話していた。

僕は蜂蜜を垂らしてハニートーストにしてからパンの耳を齧る。

サラダは早い段階でなくなった。

いつもマコトはドレッシングをかけ過ぎるため、取り皿を別に用意するが、今日は用意しなかった。

たまにはひたひたのドレッシングに浸かるサラダもいいかな、なんて思って食べたけど、喉が渇いて仕方なかった。

もう二度とやらないと心に誓う。

スクランブルエッグにはトマトケチャップ、これはマコトも僕も一緒だった。

カチャカチャとフォークが皿に当たる音がする。

ワンルームに暖房の駆動音と僕達の食事の音、そして微かにバスルームから聞こえる水滴の音。

やがて、全てを掻き消すような耳鳴り。

 

 

 

 

まるで世界に僕達二人、取り残されたみたいだ。

 

 

 

 

1時間後、洗った食器やフライパンから落ちる水滴も無くなった。

その洗い物を済ませた人物は僕のベッドを占領してすやすやと寝息を立てている。

僕はベッドのすぐ横に座り、ベッドにもたれ掛かって彼女を見ていた。

昨日から一睡もしていなかったらしい。

うっすらと浮かぶ目の下のクマ。

先程まで結い上げていた髪は解かれ、幾重もの黒い筋となってシーツに散らばっている。

暖房の効いた室内で毛布は暑いのか、腰までを覆うにとどまっている。

Vネックから伺える鎖骨のライン、ピッタリとフィットするデザインのニットが強調するバストライン、目が行かないといえば嘘だった。

触れれば柔らかいことは知っているし、その温かさを恋しいとも思う。

それは僕の寂しさから。

でも、彼女が僕に求めるものは僕とは違う気がした。

その違いはまだ分からない。

思考の波に揺られていると、どこからかバイブレーションの音が聞こえてきた。

自分の携帯を確認するが、どうやら違う。

ならば彼女の携帯か。白いコートの中からくぐもった振動音を伝えてくる発信源を認め、どうするべきか迷った。

振動音が断続的に響くのを見ると、メールではなく電話だろう。

今し方寝たばかりのマコトを起こすのは忍びないが、もし彼女の母親からだったら?もし彼女が母親に行き先を告げていなかったら?心配しているのではないだろうか。

自分の母親のことが頭を掠めた。少しばかりの罪悪感を押しやって、僕は白いコートのポケットから彼女のライトグリーンの携帯電話を取り出す。

背面の液晶画面に表示されていたのは「父」の文字。

一瞬ドキリとしたが、すぐに携帯を持って寝ているマコトを揺り起こした。

「ん?」と薄眼を開けて、やや不機嫌そうな顔をするマコトに携帯電話を差し出す。

誰からの着信か分かると、マコトは携帯を受け取って起き上がり、「ベランダ貸して」と言ったが、冷えるからとの理由で僕が外に出ると進言した。

食い下がろうとするマコト、鳴り続ける携帯のバイブレーション。

あまり時間を掛けられないと、僕はダッフルコートを持ってさっさとベランダに出て、ガラス戸の向こう側にいるマコトの携帯を指差した。

マコトは納得していないようだったが、観念したように電話に出た。

こちらに背を向けて何か話し始めたのを見て、僕も戸に背を向けた。

ベランダには雪がうっすらと積もっていた。

未だに降り続く雪が、目の前に広がる街を白く塗りつぶすのはそう遠くない。

灰色に霞む街。大輔達はそろそろ初詣に出掛けただろうか。

毎年、02年の選ばれし子供のメンバーで初詣に行く。

大輔が言い出しっぺで、皆賛成して。

それから皆、必ず都合をつけては集まった。

(きっと僕が初めての欠席だな…)

マコトの所に来たことを後悔しているわけではないけれど、やっぱり、仲間が同じ時を過ごす時にその場に居られないのは寂しいものだ。

襟足から入り込む冷気に身を竦め、舞い散る雪から逃れるためと寒さを和らげようと、コートのフードを被った。

幾分と暖かくなる。

そういえば、と思い立って携帯電話を取り出して開くと、やはり何通かのメール。

Dターミナルはお台場の家に忘れてきたが、携帯にメールが入っているということは、あっちにも届いているだろうなと思った。

基本的にDターミナルは仲間内での優先的連絡方法になっていた。

通話が必要な時や個人的な内容はもっぱら携帯での連絡手段を使う。

一見面倒だか、登録されているアドレスは選ばれし子供に限定されているため、仲間内ので情報を共有したい時などは携帯よりも早く、優先順位が高い連絡であることが分かるため重宝していた。

それに、自分たちだけのネットワークというのは、特別感とともに安心感を、少なくとも僕には与えていた。

それに甘え過ぎていたのも、他でもない僕だったけれど。

メールBOXを開くと、見知った面々の名前がズラリと表示される。

その中で、『八神ヒカリ』の名前を見つけて指が止まる。

少しばかり躊躇った後、そのメールを開封した。

 

 

『タケル君

 

明けましておめでとう。今年もよろしくお願いします。

お友達は大丈夫でしたか?

一緒に初詣に行けないのは残念だけど、友達思いのタケル君らしいなとも思います。

私達は正午を目安にいつもの神社に向かいます。

その後は、いつものように伊織君の家でおはぎを頂いて、一乗寺君の家に行きます。

夕方までは一乗寺君の家にお邪魔していると思うので、もし体が空いたら来てください。

私も、皆も待っています。でも、無理はしないでね。

お友達、お大事にして下さい。

 

ヒカリ』

 

 

実に彼女らしい文面だと思った。

相手の状況や心情を気遣っての言葉の数々は、背景に見え隠れするヒカリの本心を上手くぼかしている。

唯一引っかかった最後から二行目を見つめ、密かに毒付いた。

(僕もキミのことを分かっていないけど、キミも大概僕のことを分かってないよね)

 

『私も、皆も待っています。』

 

そんな風に言われたら、未だに見苦しくヒカリを忘れられない僕の心は大いに揺れ動く。

会いたくなる。顔を見たくなる。抱きしめたくなる。

抱き締めて、その涼やかな声を奏でる唇を塞いで、華奢な体の何もかもを奪って、心も身体も手に入れたくなる。

身体の中心に熱が燻る。

ギュッと自分の腕で体を抑え込む。

消えろ。

幾度となく身を焼いた黒い炎の火種を、必死に理性で打ち消そうと試みるが、1度熱を持ったそれは、僕の意思に反して見る見るうちに大きくなっていく。

嫌だ、嫌だ、嫌だ。

もうあんな思いをするのは、あんな惨めで、辛い思いをするのはもうたくさんだ。

耐えきれずにガンッとベランダの格子を殴りつけた。

鈍い痛みが拳に残る。

ああ、何やってんだ。

虚しくて、虚脱感の中で激しく燻る黒い炎に苛立って、自分の不甲斐なさに身を屈めた。

カラリと遠慮がちにガラス戸を開く音が聞こえた。

マコトだろう。

電話が終わったのだろうか。それとも、僕の様子がおかしいことに気付いて様子を伺いにきたのだろうか。

でも、今は振り返って笑える自信がなかった。

マコトが辛い状況にあるのは分かっていたけど、こんな余裕のない状態では逆に彼女を傷つけかねない。

「ごめん、今はちょっと一人にして…すぐ戻るから」

マコトの方を見ずにそれだけ絞り出して、きつく眼を瞑った。

黒い炎を一刻も早く消し去るために。

しかし、いつまでたっても戸が閉められる様子はなく、マコトが何か言葉を掛けてくる様子もない。

頼むから一人にして欲しいと思いながらも沈黙を貫く。

抱えた膝に顔を埋めて、暗闇に閉じこもるように。

すると、ふっと隣に人の気配を感じて、思わず顔を上げてしまった。

そこには、僕と同じように膝を抱えてしゃがみこむマコトの姿があった。

何で。

そう問いたかったが、僕の目を覗き込んだマコトが呟いた言葉が、何もかも吹き飛ばしてしまった。

 

 

「一緒にいさせて」

 

 

真っ白になった。もう何も考えられなくて、僕はマコトを強引に抱き締め、無理やりに彼女の唇を奪った。

歯と歯が強くぶつかり、ガチッと硬質な音が聞こえる。

マコトがどう思うとか、力が強すぎやしないかとか、そんなことに頭は回らなかった。

僕は開きかけの戸の隙間に雪崩れ込むように、マコトの身体を室内へ押し倒した。

ばさりと黒い髪がフローリングの床に散らばる。見上げるマコトと目が合った。

 

 

拒絶される。

 

 

一瞬脳裏に蘇った恐怖。

振り払うように衝動に自我を譲り渡した。

僕はマコトを強引に犯した。

頭のどこかで、最低の行為だと自分を罵りながらも、もう止めることはできなかった。

 

 

「ごめん」

 

 

行為の最中、無意識に紡いだ謝罪がマコトに届いたかは分からなかった。

 

 

 

行為の終わりを迎えた後、室内に荒い二つの呼吸が入り乱れていた。

マコトに覆いかぶさる形で脱力した僕は、熱が冷めるとともに舞い戻ってきた理性の激しい断罪の声に打ちひしがれる。

自分のしたことがどんなことか、何てことをしてしまったのか。

マコトの顔を見るのが恐ろしくて顔を上げることができない。

 

絶対嫌われた。

いや、嫌われる所の話ではない、底なしに軽蔑されたに違いない。

 

激しい後悔に襲われる僕の背に触れるものがあった。

「…え?」

それがマコトの腕であり、その手は優しく僕の背をさする動きをしていると認識した時、僕は驚きを隠せなかった。

どうして。

僕は今し方マコトを欲望のままに犯したのだ。

彼女の意思を無視して、それは許されるものではない筈なのに。

だというのに、何故あの時のように、歩道橋で彼女に引き止められて泣き崩れた僕にしてくれた時のように、背中を撫でてくれているのか。

分からない、分からない。

僕の頭の中は混乱を極めた。

ガバッと顔を上げてマコト見下ろす。

そこには、いつも変わらない色を湛えた黒い瞳があった。

「ど…して…」

思わず口をついた。

マコトは顔色を変えることなく、僕の背に回していた手を、今度は僕の頬に添えた。

「苦しかったんだよね、ずっと」

滑らかな指が弧を描くように頬を撫でる。

そこには嫌悪も、軽蔑も感じられない声と、表情と、触れ方があって、僕の目に熱いものが滲んで溢れた。

重力に従って零れ落ちる涙は、ポツポツとマコトの頬を濡らす。

「辛かったね、ずっと1人で」

視界が歪む。

「ずっと、頑張ってきたんだね」

もうマコトの表情は分からなかった。

僕は泣いた。

8月のあの日に必死で殺した声を、行き場を無くした想いを、もはや隠すこともできず、マコトの胸に顔を埋めて、子供みたいに声を上げて泣いた。

マコトは、そんな僕を抱きしめて、頭を撫で続けてくれた。

 

 

 

 




底辺です。
これ以上は落ちません。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第7話 〜トラウマの姿〜

 

 

シャワーを浴びて部屋に戻ると、サイズの合わない大きなグリーンのTシャツと、裾を折り曲げた黒いジャージに身を包んだマコトがテレビを観ていた。

黒い髪は緩く一つに束ねてある。

ローテーブルの上には本日2杯目である飲みかけのココアが置いてあり、何故かもう一つ湯気の立ち上るマグカップがあった。

ここからでは中身は伺えないが、僕の分だろう。

僕は濡れた髪をタオルで撫でつけ、後ろめたさで一杯になりながらも、マコトの隣に人2人分の空間を開けて正座した。

「あの…すみませんでした」

腹を括って謝ると、マコトが振り返る。

と同時に思いっきり顔を背けてしまい、妙な沈黙が流れた。

全く腹なんて括れていないじゃないか。

バツの悪さと羞恥心とでマコトの顔が見れない。

すると、正面からやれやれとでも言いたげなマコトの溜息が聞こえてきた。

「気にするなってのは無理だろうけど、私は大丈夫だから。それに、高石君だけが悪いわけじゃないし」

あまりに冷静なマコトに僕の方が焦り出す。

何故一度も僕を責めないのか。

行為の後だって、詰って罵って殴ったっていい筈の彼女は、自分を犯した相手を慰めた。

理解できない。

「そんなっ…あれは僕が、全部」

悪い、と言うよりも早くマコトが口を開く。

「高石君が1人にしてってわざわざ遠ざけようとしたのに、無理にそばにいようとしたのは私だよ。ちゃんと警告してくれたのに」

「でも、それでもして良いことと悪いことはあるよ!あんな、無理矢理っ」

なんでこんなに冷静に相手を思いやれるのか理解できなくて、僕は思わず声を荒げた。

 

だっておかしいだろう。

僕は君を強姦したんだ。

本来ならこんな風に話すことなんて許されない筈なのに、何だって君はまだここに居続ける?

シャワー浴びて、僕の服を着て、僕の分の飲み物を用意して、何で今し方押し倒されていいように弄ばれた空間でテレビを観ているの?

なぜまた近くに座る僕を警戒しないで、そんなに真っ直ぐ僕を見ていられるの?

何で、何で何でなんで!?

乱暴に組み敷いた僕の気持ちを、理解って、汲んで、受け止めて、救ってくれたの?

 

彼女にぶつけたいたくさんの疑問が次々と口をついた。

そのどれもこれも、自分で口にしていて悲しくなる。

責めてくれ、詰ってくれ、そうでないと…。

矢継ぎ早に投げつけた疑問の数々を、マコトはゆっくり呑み込むように間を置いて、やっぱり負の感情の宿らない瞳で言った。

「私が一度でも嫌だって言った?」

「なっ…に…」

予想の斜め上を行き続ける彼女の返しに、僕は言葉が出なかった。

「確かに強引だったかもね。でも私は嫌じゃなかった。ただ乱暴なだけじゃなかったもん。ちゃんと優しかった。それに、高石君が凄く辛そうな顔してたから…」

「え…?」

「いつかの時みたいに、どこかに行ってしまいそうな気がした。今手を離したらダメだって思った。身体の痛みなんて大したことなかったよ、高石君を繋ぎ止めておけるなら。私にとって高石君は大事な人で、失いたくない存在なの。それは、前に高石君が言ったみたいに恋愛とはちょっと違うのかもしれない。けど、それでも大事な事に変わりないよ。いなくなって欲しくない。後で高石君が、それこそ死にたくなるくらい後悔するんだろうなとか、きっと何度も私に謝るんだろうなとか、償いだって言って自分を犠牲にしようとするんだろうなとか、簡単に予想できた。簡単に予想できてしまうくらい、高石君は優しい人。でも…」

 

 

それから後に語られたマコトの中の僕の姿は、多分全て的を射ていたんだろう。

 

 

冷めたココアを喉に流し込む。

甘さの好みが分からないから、砂糖はスティックシュガー3本分にしたと言っていたマコトの作ったココアは、僕には少し甘かった。

あの後、洗濯を終えたマコトの服をドライヤーとアイロンを駆使して乾かし、乾いた服に袖を通して彼女は帰っていった。雪も降っていたし、送ろうかと言ったら、その顔で?と泣き腫らした不細工な顔を指摘され、渋々断念し、玄関で見送った。

鏡で確認したが、確かに酷い顔をしていた。

寝不足と泣きっ面のダブルパンチで、とてもじゃないが他人には見せられない顔だった。

これじゃ仲間に合流することもできない。

まあ、それでなくても合流なんてできなかったけど。

こんな最低なことをしでかしておいて、のうのうとあの中になど戻れないし、何よりヒカリの顔をまともに見れる自信がなかった。

組み敷いて乱れていくマコトに、誰を重ねていたかなんて、今更確認するまでもないのだ。

 

「…最低だな、僕」

 

自分を嫌いになる要素しか無い。

でも…

 

 

 

『でも…

 

優しいけど、その優しさに潰されそうで危うい。きっとそれは寂しいせい。極度の“寂しがり屋”がいつも高石君の足下に蹲ってる。残される辛さを知ってる高石君は、置いていかれるのが恐くて泣いてるその“寂しがり屋”を置き去りにはできないから、いつまでもそこから動けない。友達が皆その場を離れてしまっても、大好きな人が行ってしまっても、高石君だけは離れられない。その“寂しがり屋”は高石君にとって厄介だけど大事な存在なんだね。でも動けない高石君は辛いよね。だからさ、ちょっとだけ視点を変えてみたらどうかな?その“寂しがり屋”の隣で、同じ目線になって蹲ってみて、その子の顔をよぉく見て…そしたら、もしかしたら…

 

自分を好きになれるかもしれないよ?』

 

 

 

何度も反芻したマコトの言葉をまた思い出す。

僕の足下の“寂しがり屋”。

その存在は何年も前からずっと感じていた。

命懸けで走り抜けなければならなかったあの夏に置き去りにしてきた、『寂しさの塊(トラウマ)』。ずっと向き合うことを避けて、でも逃げ出すこともできず、マコトの言う通り、身動きできなくなっていた。

『同じ目線で…』と投げ掛けたマコト。

できるだろうか。そろりと足下に視線を落とせば、そこには膝を抱えた“寂しがり屋”が現れる。

ギクリと心に緊張が走る。

 

 

何泣いてるんだよ。

いつまでもそんなんじゃダメだろう。

置いてかれる。

そんなんじゃ置いていかれるよ。

お父さんに、お母さんに、お兄ちゃんに、太一さんに、空さんに、光子郎さんに、ミミさんに、丈さんに…ヒカリちゃんにも!

 

 

ぼんやりと浮かぶ、蹲る“寂しがり屋”を叱りつけるもう一人の“寂しがり屋”がいた。

 

ああ、やっぱりお前もいるのか…。

 

妙に納得してしまった。

僕はもう一人の“寂しがり屋”のことも知っていた。

そいつはいつも僕の背中にいた。

頑なに足下の“寂しがり屋”を否定してきたそいつは、懸命に自分の正しさを信じてきた愚か者だ。

でも、そいつも必死で走ってきたんだ。

3年という時間では『トラウマ』を清算できず、孤独の中でとうとう誰にも弱さを吐露できないまま…。

 

でも、だからまた置いてきぼりなんだよ。

大輔に、賢に、京さんに、伊織君に、ヒカリちゃんにも。

 

背中にいるそいつに語りかける。

返事は無い。

足下の“寂しがり屋”は泣いたままだ。

深く息を吐き出して目を閉じ、再び開けた世界には、二人の“寂しがり屋”はいなかった。

 

 




タケルを縛るのは常に自分自身なのではと思っています。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第8話 〜仲間〜

 

 

初詣をドタキャンした僕を気遣ってか、冬休み中にもう一度02年の選ばれし子供のメンバーで集まろうと大輔が提案した。

本当に知ってか知らずか、いや彼の場合は間違いなく天然で、人に災い(救い)をもたらす天才だ。

誰よりも仲間と疎遠になることを恐がっているのは僕だと、無意識に知っているんだろう。

だけど、今の僕がそれを心底嬉しく、また心底憎らしく思っているなどとは毛ほども思っていない。

全く、昔も今も羨ましい限りだった。

集合場所はドタキャンした責任を取るということで、僕が世田谷の部屋を提供することに半ば強制的に決まった。

本当はそれだけは勘弁して欲しかったが、僕に発言権は無かった。

マコトをあんな風に犯した部屋に、仲間が、ヒカリが来る。

どうしても気が重かった。

気休めに朝から掃除をしてみた。

どんなに綺麗にした所で、拭いきれるものではないと分かっているけれど。

とりあえず、玄関から掃除機をかけはじめ、キッチンマットもローテーブルも退かして、這いつくばってベッドの下まで網羅する。

最後の窓際にやってきて、カーテンを持ち上げた時、キラリと光るものを見つけた。

掃除機の電源をOFFにしてよくよく見ると、細身のゴールドチェーンにハート型のペンダントトップが付いたネックレスだった。摘んで拾い上げると、シャラっと微かな音を立てる。

明らかに女性物のネックレスは、どこかで見たような記憶があった。

いつ?

ふっと夏に見た白いブラウス姿が蘇る。

マコトだ。

初めて会ったあの日、マコトが身につけていたネックレスだ。

そういえば、この間彼女はこの辺りにコートやらの荷物を置いていた。

きっと帰る時に落として忘れたんだ。

今度会った時に返さなければ。

なくさないよう、チェストの上、いつもは伏せている写真立てーー選ばれし子供の集合写真を納めたもので、今日は久々に立てたーーの横に置いた。

それから掃除の続きに取り掛かる。

全員が来るとなると6人。

ワンルームのこの部屋ではいささか狭いが、ベッドを活用すれば何とかなる。

あとは、一人暮らしに大きなカーペットなど要らないとデザイン重視で購入したラグを見下ろし、小さいよな、と呟く。

ベッドに2人、ローテーブルを隅に寄せたとしてもラグの上に納まれるのは2人かギリギリ3人。

となると、残り1人は冷たいフローリングの上。

大輔ならいけるか。

よし解決!と楽観的に完結しようとして、いやいや真冬にそれはないだろう、と思い直す。

クッションなるものはなかっただろうかとクローゼットの奥を探ると、一人暮らしをしてからこっち使われた試しのないブランケットを発見した。

さすがに埃くらい叩こうと思い、ベランダに出た。

今日の天気は快晴だ。

元旦の曇天など見る影もない。

バサバサとブランケットを払い、物干し竿に引っ掛けて天日干しまでした。

掃除が終わり、無事全員分の居場所も確保した。

あとは、と室内を見渡し、キッチンを覗く。

そこで流しの水切りに伏せられたマグカップを見て、全員分カップが無いことに気付いた。

これはどうしようもなくないか?

今から全員分のカップなど用意できるはずもない。

家にあるのは2つ。

「仕方ない、紙コップ買って来てもらおう」

誰に言うでもない独り言を呟いて、Dターミナルでその旨を仲間に連絡した。

お菓子は言われなくても京や大輔あたりが買ってくるだろう。

さて、あとは時間になったら最寄駅まで皆を迎えに行くだけだ。

 

 

2時間後、今年の02年選ばれし子供メンバーの初顔合わせとなった。

去年の8月以来だから、およそ半年ぶりだ。仲間達は、取り立てて大きな変化は見られなかった。

大輔は相変わらず元気だし、賢と京は順調のようだし、伊織は来年度から受験生になるようだが、決して無理をせず自分のペースで頑張っているようだ。

伊織は僕から見ても非常に上手く自分をコントロールしている。

幼い頃失くした父親の影に縛られることなく、しっかりと受け止めて生きているのが分かる。

かつてのジョグレス進化の相手である伊織のことは、他の人間よりも容易に理解できた。

多分それは本質が正反対だから。

僕達の中に限ってかもしれないが、ジョグレスの相手は基本的に陰陽の関係にある者同士で組まれていた。

そして、そんな伊織に救われたことは幾度もある。

真っ直ぐに、受け継いだ紋章の如く誠実に生きる彼の姿を、素直に羨ましいと思う。

僕には無いもの、成り得ないもの。

「タケルさん、これ母のおはぎです。元旦にタケルさんは食べられなかったから」

どやどやと部屋になだれ込み、各自自分の場所を確保している中、伊織がご丁寧に絞りの布で包んだ手土産を差し出して言った。

「ありがとう。わざわざ作ってくれたの?お母さんにも御礼を言っておいて」

「はい」

中学に入ってぐんと背が伸びた伊織は大分幼さを振り払っていたが、邪気の無い笑顔には昔の面影が被る。

その背後で京と大輔がベッド席を取り合っているのを見て、あの二人のあーゆー所は変わってなくて逆に安心さえするな、と密かに思った。

買って来てもらった紙コップを出して、飲み物を用意しようとキッチンに入り、作業を始めると、気配りやの女の子が後を追って来た。

「私も手伝うわ」

中学の頃より落ち着いた声音だが、相変わらず涼やかな声だ。

高校入学後、ますます綺麗になった彼女は、今日も薄っすら化粧をしていて、伸びた髪を今の流行りらしい編み込みスタイルで纏めている。

耳には小さな赤いピアスが光る。

小、中と印象的だったヘアピンはどうやら卒業したようだ。

そのことが、何だか少し寂しかった。

僕はしつこく縋る思い出の影や、チラリと覗いたマコトとの情事を消し去って、手伝いを申し出てくれた女の子にニッコリと笑顔を向ける。

「ありがとう。じゃあ、そこのケトルでお湯沸かしてくれる?」

「分かった」

狭いキッチンで互いに進路を譲り合い、各々役割をこなす。

チラリと盗み見た姿は、淡いピンクのタートルネックと、サスペンダーに繋がるのは白いショートパンツ、その裾から覗く太ももは膝上あたりから下は黒いニーソックスに包まれていた。

性懲りも無く可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みなので仕方がない。

けど、同時にやってくる切なさと後ろめたさに僕はその姿から目を逸らした。

僕は紅茶のティーバッグを人数分用意して、未だバタバタと騒ぐ残りのメンバーに向かって砂糖とミルクが必要な人の自己申告を要請する。

賢と伊織はすぐさま返事をしたが、場所取り合戦真っ最中である大輔と京には期待するだけ無駄というもの。

もういいや、二人はセルフサービスね、と言葉を投げて作業を再開した。

隣でケトルに水を注いでいたヒカリがクスクスと笑う。

「この間、一乗寺君の家に行った時もね、どっちが一乗寺君の隣に座るかってああやって言い争ってたの」

「どれだけ賢のこと好きなんだよ、あの二人。っていうか、両側に座れば良くない?」

「んー、いきさつとしては、京さんがお手洗いに行ってる間に皆が座って、その時は伊織君と大輔君が一乗寺君の隣に座ってたの。で、京さんが戻ってきたら…」

「賢の取り合いが始まったわけか。まあ、確かに伊織君か大輔かって言ったら、京さんなら間違いなく大輔にふっかけてくだろうね」

その場にいなかった僕でも容易に想像できてしまい、思わず吹き出す。

ヒカリも同じように笑った。

「ホント、京さんも大輔君も変わらないわよね」

元旦エピソードでひとしきり談笑した後、ヒカリは少し遠慮がちに、僕が初詣をドタキャンしたことについて触れた。

胸に小さな針を突き立てたような鋭い痛みが走る。

「メールでお友達は大事にならなかったって聞いたから安心したけど、結局元旦はタケル君に会えなかったから、ちょっと心配してたの」

「心配かけてごめんね。学校の友達で、病院とか行ったらちょっと遅くなっちゃって。前の日に夜更かししたのもあって、帰ったら疲れて寝ちゃったんだ」

ティーバッグを開封して紙コップに落としながら、元旦にメールでしたのと同じ言い訳をする。

彼女が聞きたいのはそんなんじゃないって分かっていた。

多分、何があっても仲間との時間を大切にしていた僕が、疲れたという理由で合流しなかったことに違和感を持ったから、だから敢えて直接聞いたんだ。

詳細は知らなくても、何かがあったと感じたから。

それは恐らく彼女だけじゃなく、ここにいる皆が感じたのだろう。

だからこうして集まってる。

どうか気付かないフリをしてくれと思う反面、仲間に縋りたいと思う弱さが顔を覗かせる。

けど、本当のことなど口が裂けても言える筈がない。

「でも、こうしてまた集まる機会を作ってくれて、僕は嬉しいよ」

だから笑った。

小学生の頃からしてきたように、本心をひた隠しにした笑顔そのままに。

「…うん。大輔君がね…やっぱり皆揃いたいって」

僕の笑顔にヒカリは僅かに戸惑い見せたが、すぐにその色を消し去って答えた。

「そうだね、こうやって集れるのって、すごく幸せなことだよね」

キッチンの向こう側に、どうやらベッド席を勝ち取ったらしい京の勝ち誇った顔や、負けた大輔の悔しそうな顔、苦笑いでことの流れを見守っている賢と伊織を見つめ、幸せという響きをどこか遠くで聞きながら僕は呟いた。

「…タケル君?」

ヒカリの不安げな呼び声に引き戻され、僕はほんの少し狼狽えたけれど、丁度いいタイミングでお湯が沸き、話を逸らすことに成功した。

人数分の紅茶を作り、砂糖とミルクを用意してテーブルに運ぶ。

既にスナック菓子がいくつか開封されており、どうやらテレビも大輔が勝手につけたようだった。

はてさて、集まったからといって何をするでもない状況がそこにはあった。

元旦ならば初詣に行くとか、各々の家を回って新年の挨拶をするとか、御節食べるとか色々あるが、今回はそれらが無い。近況報告も僕以外は皆元旦に済ませているし…。

「となると、だ。タケルぅ、お前の近況報告を集団面接方式で行う!」

言い出しっぺの大輔がブランケット席から高らかに宣言する。

「集団面接方式って…」

「当たり前だろ?お前しか残ってないんだから」

「それはそうだけど、僕だって皆の近況聞きたいんだけど」

と反論してみるが、これは逃れられそうにない。ドタキャンの負債は大きい。

仕方なく、僕はさしあたって変化の無い学校生活と、一人暮らしに漸く慣れてきたことなどを話した。当然、マコトのことは話さなかった。途中、大輔に「クラスに可愛いコいねーの?」とーかちゃちゃを入れられたが、軽くあしらってやった。

「タケル君の高校って偏差値割と高かったよね?勉強ついてける?」

高校入学後、丸眼鏡から楕円や四角、果ては半縁眼鏡や全縁眼鏡などの眼鏡バリエーションが豊富になった京の質問。ちなみに今日は楕円型のレンズに臙脂と黒のチェック柄のフレームのお洒落眼鏡だ。

「そうですねぇ、賢の高校ほどがつがつやらなくても何とかなってますよ」

「そっかぁ、アタシは常に中間なのよねぇ」

「京さんは得意分野でずば抜けてますからねぇ」

ペロッと舌を出した京に、すかさず伊織がフォローを入れる。

確かに彼女のパソコン方面への才能は素晴らしい。

ミミにパソコンオタクと称されるあの光子郎とその分野で会話ができる数少ない人間だ。

「京はその得意分野を生かしていけばいいよ。それは社会に出ても強みになる」

さすがに付き合って3年になる賢の彼氏らしい意見と、彼女の持ち上げ方には感心した。

案の定、京は賢の言葉に上機嫌だ。

「賢は将来どうすんだ?」

その賢に話題が向いた。

彼女である京の厳命で髪が切れないのだと言っていた彼は、長く伸びた髪を後ろで一つに束ねており、さながら現代の牛若丸だ。

大輔に問われ、賢は少し考えた後に「警察官になりたいと思ってる」とはっきりと答えた。

どうやら京以外は初めて聞くようで、一様に驚いた反応を見せる。

中でも最初に言葉を発したのは警察官である父を幼い頃に亡くしている伊織だった。

「そうなんですか。賢さんの頭脳と運動神経なら、将来の選択は幅広いだろうと思っていましたが…」

父親のこともあってなのか、一抹の不安を感じさせる表情だ。

そこに大輔が明るく被せる。

「かっこいーじゃん、警察官!あ、もしかしてお前その為に高校入ってから剣道とか始めたわけ?」

「実はそうなんだ。もともと何か武道はやってみたいと思っていたし、警察官の採用にも有利になるから、一石二鳥だと思って。僕の高校は剣道部が強かったから、それで」

大輔の勘が冴え渡る珍しい瞬間だった。

賢が大輔の予想を肯定し、周囲から感心の声が漏れる。

そんなに早い段階から将来を考えて動いていたのかと、正直、賢の先見にはショックを受けざるおえない。

過去を乗り越え、前に進む青年の何と眩しいことか。

それに比べて自分はどうだ。高校を決めた理由も、将来構想も、まるでスケールが違う。

賢の努力には素直に敬意を表したいが、同時に己の矮小さを思い知らされて惨めになる。

仲間達が口々に賢を賞賛する。

参ったなぁ、と心の中で呟いた。

いつだったか、彼がデジモンカイザーなんて名乗っていた頃、相対して口で負かし、殴り合った時、僕は明らかに彼を下に見ていた。それが今では…。

でもきっと賢は僕を下に見るなんてことは絶対にしない。

それは彼が紋章の由来になるほど優しい心の持ち主だからだ。

そして、何よりも犯した罪を認め、過去と向き合い、ドン底から這い上がって強くなった。

目を逸らし続けた僕とは違う。

皆の知らない所でそっと拳を握り締め、悔しさを堪えた。

そこに更なる追い討ちがかかる。

「八神さんは?」

賢の促しで、皆の視線が一斉にヒカリに集まった。

嫌な予感がして、ヒカリの言葉を聞きたくなかったが、遮る術などない。

ヒカリは「えっとね」と持っていた紙コップをテーブルに戻して話し始めた。

「保育士か教員か悩んでて、どっちの資格もとれる大学に行きたいなぁって。だから、多分私立大」

「へー、保育士とかヒカリちゃんにぴったりじゃねー?」

「確かに、想像に難くないですね。ヒカリさんなら子供達の気持ちも汲んでくれますし」

ヒカリの将来構想に、大輔と伊織が適性有りとの意見を述べる。

続く京や賢も肯定的なのは目に見えていた。

「保育士も教員も子供にとっては大きな存在だから大変だけど、やりがいがありそうだね。素敵だと思う」

「あっ、それでヒカリちゃん、中学から水泳だのピアノだのやり始めたの?賢みたいに?」

賢の時の大輔パターンで京が閃いたとばかりに暴露する。

そういえば、中学時代の彼女は水泳部。

知らぬ所ではピアノも習い始めていたらしい。

どちらも将来のためとは。

中学入学当初、何で水泳部なのか疑問に思って聞いたことがあったが、その時はヒカリは「今までやったことないことに挑戦したくて」と言っていた。

だが、そうではなかった。

少し考えれば、ヒカリが無計画に何かを始めるなど無いと分かりそうなものなのに、それを鵜呑みにした僕は何てバカなんだろう。

もうあの頃から、とっくに彼女に置いていかれていたんだ。

「そっかぁ、保育士とかって色々できなきゃなんねーのな」

「凄く専門的にできなきゃいけないわけじないけど、それでもこなせるようにはならないといけないから、今のうちからって思って」

「ヒカリちゃんってば計画的〜」

「そんなことないわよ、皆だってちゃんと考えてるじゃない」

「それでも中学生からスキルを獲得しようとするのは立派だと思います」

「そうよね〜、アタシなんて割と行き当たりばったりだしぃ」

「それで割と何とかなってしまうから、京は凄いよ」

ワイワイと仲間達が談笑している。

それはガラスの向こう側で、僕はたった一人で隔離されたような感覚で聞いていた。

「大輔君は?」

「俺?俺はねー…んー、どーしよっかなぁ、そろそろ言ってもいいかなー」

「何よ、もったいぶっちゃってー」

「俺はさぁ、ラーメン屋になる!」

力強い大輔の宣言に一同が唖然とし、後に大爆笑。

自分の夢を笑われた大輔が「笑うんじゃねー!」と喚く。

「いや、ごめん、可笑しくて笑ってるとかじゃなくて、大輔が事あるごとにラーメン屋行こうって言うのはこれだったのかって思って」

腹を抱えて「可笑しいわけじゃない」とか説得力ないことこの上ない賢が、思い当たる節を並べて弁解する。

「へぇー、どっか弟子入りでもするつもり?」

「もうぜってー教えねー!」

「まあまあ大輔さん。あまりに予想外だったので、皆さんちょっとびっくりしただけですから」

ベッドで転げていた京の質問を、すっかり拗ねてしまった大輔が撥ね付ける。

それを宥めようとする伊織。

いつもならここに乗っかる流れだ、喋らなきゃ、入らなきゃ。

 

 

でも何て言って?

ガラスの向こうに僕の声は届く?

 

 

頭の中で声がした。どこから…後ろから。

 

 

「ね、タケル君は?」

ビクッと体が震えて我に返る。

皆がこちらを見ていた。

何を問われているのか、どうしてそういう流れになったのか、意識を飛ばしていた僕には分からない。

咄嗟に答えられずにいると、問いかけたヒカリが怪訝そうな顔をする。

「タケル君?」

「っごめん、ぼーっとしてた、何だっけ?」

しまった、と思って慌てて取り繕う。

ダメだ、早くなんでも無いんだって皆に分からせないと…

 

 

 

ワカラセナイト

 

 

 

何だ、それ…。

 

 

 

唐突にはっきりと見えた綻び。

何度も歪に縫い合わせては、その糸に絡まり、徐々に動けなくなった。

足下の“寂しがり屋”と、背中の“寂しがり屋”と、立ち尽くす“僕”は、必死にその綻びを、醜いと思い込んだその傷を、誰にも見えないように塞ごうとしていたんだ。

 

 

 

 

「…タケル?」

「タケル、さん…?」

いつもと違う真剣な大輔の声がして、次に伊織の困惑した声がして、賢と京の気遣わしげな視線を感じて、その次に、

「タケル君?」

心配そうに覗き込む、恋い焦がれる人の眼差しが見えた。

深刻そうな表情の理由を、頬を熱いものがつたってから理解した。

「ごめん…急にっ…」

「ううん、そんなこといいの。それより、何かあったの?」

「…それは…」

ぐいっと袖口で涙を拭い、答えに詰まる。

ヒカリの後ろから大輔の声が降ってきた。

「言えよ、仲間だろ」

見上げると、いつの間にかブランケット席から立ち上がった大輔が、ヒカリのすぐ後ろまで来ていた。

じゃれ合う時とは違う、真剣な眼差しを向けてくる。

そうやって無意識に人に手を差し伸べる大輔が、本当に羨ましくて、有難くて、どうして今までこの手を取らずに来たんだろうと後悔した。

だから、今なのかもしれないと思った。

この手を取るのは。

大輔を、ヒカリを、伊織を、京や賢の顔を見渡して、フッと肩の力を抜いて笑った。

「…僕、今まで何も皆に言って来なかったよね」

初めて仲間の前で、肩肘張らずに笑えた瞬間だった。

 

 

 




大輔は奇跡が起こせる人らしいです。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第9話 〜寂しがり屋との邂逅〜

 

 

皆は、それこそ真剣に僕の本当の言葉に耳を傾けてくれた。

幼い頃の両親の離婚から、母を奪ってしまったために抱いた兄への罪悪感、あの夏の冒険で一度失ってしまったかけがえのないパートナーのこと。

そして、パートナーの死を受け止められず、その責を全て闇の力に転換して闇を憎んだこと。

以来、その闇を憎むことで自分を正当化しようとしてきたこと。

本当は認めなくてはならなかった弱さから目を逸らし、周囲に気付かれることを恐れて誰にも心の内を打ち明けられなかったこと。

話す間、何度も声が震えそうになった。

裸で冬の海に入るような心許なさと、本当のことを話して拒絶されたら、今更だと言われたらと思うと恐かった。

けど、今やっと、足下で膝を抱える“寂しがり屋”、泣いている小学2年生の僕の隣に座って、マコトの言った同じ目線で過去と向き合うことが出来ている気がして、何としても後には引けなかった。

そうすることで、背中の“寂しがり屋”も、同じ目線に降りてきてくれるようで、ずっとずっとできなかった何かができそうで…不安に震えながら、一縷の希望に心が騒ぐのもまた感じていた。

 

 

『苦しかったんだよね、ずっと』

『辛かったね、ずっと一人で』

『ずっと、頑張ってきたんだね』

 

 

話しながら、マコトの言葉が浮かんでいた。

そう、僕はずっと苦しかったんだ。

ずっと辛かったんだ。

一人で抱えて、悩んで。

でも弱音を吐いてはいけないと思っていた。

いつまでも泣いてばかりの子供ではいけないと思っていた。

だから…背伸びをして、大人ぶって、自分に嘘をついてきたんだ。

本当は寂しくて、誰かに頼りたくて、子供でいたかった自分を見て見ぬフリをしてきてしまったせいで、この歳になるまで気付くことができなかった。

けど…

 

 

『その“寂しがり屋”の隣で、同じ目線になって蹲ってみて、その子の顔をよぉく見て…そしたら、もしかしたら…』

 

 

そう、もしかしたら…だ。

次々こぼれる本音が、どうか仲間に届いているように祈る。

蘇る記憶に涙を浮かべることもあったけれど、そんな時、何故か僕の側にいる“寂しがり屋”が心強かった。

次第に背中の“寂しがり屋”も隣に降りてきて、心がスッと軽くなるのを感じることができた時、途端に理解した。

足下で泣いていた小2の僕。、そしていつも背中に貼り付いていた小5の僕。

本当に彼等を置いていってしまったのは、家族でも仲間でも彼女でもない、他ならぬ僕自身だったんだ。

 

 

『もしかしたら…自分を好きになれるかもしれないよ?』

 

 

ホントだね…マコト。

 

 

話し終えた時、僕は早くも今年一年分の精神力を使い果たしたかのような疲労感に見舞われた。

でも同時に、今までにないほどの期待と希望に満たされていた。

ただ一つ不安なのは、皆の反応だったが…

深呼吸をして、恐る恐る皆の顔を伺った。

すると、そこには恐れていたような拒絶や今更という色も空気もなく、涙ぐんだ素直な感情や、励ますような優しい面差しや、申し訳なさそうにけれど誠実な凛々しい表情や、ちょっと怒ったような、でも温かく強い笑顔があった。

「ずっと一人で悩んでたんだ、ごめんね、気付けなくって。何ていうか、あの頃からそんなに色々考えて苦しんでたなんて、アタシ自分の脳天気っぷりが恥ずかしいわ」

苦しんでいたと分かってくれる。

「何かあるのは分かっても、こっちからは何もできなくて、すまない。長い間、辛い思いを抱えていたんだな。でもタケルが自分から話してくれたっていうのが、すごく嬉しい。ありがとう」

辛かったことを受け止めてくれる。

「僕…ヤマトさんから聞いて何となくは知っていたんです。でも、何もできなくて、タケルさんを1人にしてしまって、すみませんでした。話してくれて、ありがとうございます」

ずっと一人でいたことを、心配してくれていた。

「タケル、お前もうこんだけ頑張ったんだから、これからは一人で悩むなよな!お前一人で頑張り過ぎて、何だよ。俺たちはそんなに頼りねーかよ。辛いなら辛いって言えよ、解決はできなくても、皆でその辛さを背負うくらいはできるだろーが!」

頑張ったんだと、認めてくれる人がいる。

 

 

ほら、だからもう…

 

 

僕の隣にいる“寂しがり屋”達の手を握り、それぞれの顔を見た。

ずっと置き去りにしててごめん。

見て見ぬフリしててごめん。

もう1人で泣かなくていいし、もう1人で頑張らなくていい。

寂しい時には誰かに頼っていい。

弱い自分を責めるんじゃなくて、何かの所為にするのでもなくて、受け止めて一緒に歩こう。

誰のせいでもなくできてしまう綻びや傷があるのは仕方がないけど、それをひた隠す必要なんて無い。

大丈夫だよ、僕はもう僕を許せる。

だから、一緒に行こう。

迎えに来たんだ。

 

 

小2の僕は、僕の手を握り締めて思いっきり泣いた。

…辛かったね、苦しかったね、もう置いていかないから。

小5の僕は、僕を見て無理のない子供らしい笑顔で笑った。

…ちゃんと歳相応に笑えるじゃないか、それでいいんだよ。

 

 

そうだよ、僕達はまだ子供なんだ。

これからゆっくり大人になろう。

 

 

 

 

 

「あー、やばい、涙腺崩壊してるよ、これ」

拭っても拭っても涙が溢れてきて止まらない。

初めてさらけ出した剥き身の心に、仲間の言葉は温かくて、擽ったくて、じわりと降り積もった寂しさの塊が溶けて流れ出す。

たちまち皆に囲まれ、ここぞとばかりに弄り倒された。

そんなじゃれ合いすらも、僕の心を温かくさせる。

ただ、その輪の中に彼女は、ヒカリはいなかった。

けれどこの時の僕は、それに気付くことはなかった。

 

 

 

そこからの仲間との会話(質問攻め)は楽しかったけれど、疲労感もまた結構なものだった。

やがて帰りの時間がやって来た時、やっと解放されると少しホッとしたのだが、それも束の間。

何と大輔が泊まらせろと言ってきたのだ。

すると、何故か賢までそれに便乗する。

そうなると京も黙ってはいないのだが、流石に女子は無しという圧倒的な男子陣の意見が採用された。

伊織は急な外泊は親にも申し訳が無いと律儀に辞退。

ヒカリの反応は薄かったが、京の泊まりが無くなった時点であり得なかったため、それ程気に留めなかった。

そうして女子2人と伊織を見送ろうとした時、事件は起こった。

浮かれて立ち上がった大輔がチェストにぶつかり、天板に乗せてあった写真立てが落下した。

幸いフレームにもガラスにも傷はなく、京に文句を垂れられながら大輔は写真立てをチェストに戻したのだが、そこで見つけてしまったのだ。

マコトが忘れていったあのネックレスを。

「あー!」

僕の本音暴露からこっち、テンションがおかしい大輔の絶叫が響き渡る。

「何よ、うるさいわねー」

一番近くでその叫びをくらってしまい、耳を抑えて悪態をつく京。

その横で、目を瞬かせる伊織。

同じように驚いた反応を見せる賢とヒカリの側で、僕は即座に状況を推理して青ざめた。

よりにもよって大輔に見つかった。

それもまだヒカリがいるタイミングで。

最悪の状況だけは避けたくて、予想される大輔の言動の先手を打とうと口を開くも…

「だいす」

「おいタケルー、これ彼女のかぁ?」

「!?」

失敗した。女物のネックレスを手にからかう気満々の大輔を、激しく殴りたいと思った。

ああ、皆に要らぬ誤解を与えてくれやがって、このミラクル天然トラブルメーカーが!などと僕が怒り心頭であることを知らないこの場の面々は、当然ながらこの大輔の発見に様々な反応を見せる。

「なになにー、タケル君彼女いたのー?」

目をキラキラさせて聞いてくるのはミーハーハッカー。

「大輔さん、人のプライベートに土足で立ち入るのは如何なものかと思いますが」

悪ノリな雰囲気のガキ大将を冷静にたしなめる出来た後輩。

「大輔、人の物を勝手に触るのは良くないよ。ましてやそれがタケルの物じゃないなら尚更」

ここにも冷静なツッコミを入れる牛若丸がいた。

残るヒカリは…何故か無表情で大輔を見ていた。

それはそれで、どう思われたのかが分からずに恐い所だ。

僕はヒカリの反応に気を配りながら、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる大輔に詰め寄った。

「違うよ、友達の。この間部屋に来た時に忘れていったんだよ」

これは嘘じゃない。

「えー、だってこれ女物じゃん」

「女友達くらいいるよ」

納得いかないらしい大輔からネックレスを取り返し、チェストの上に戻す。

「だって部屋に呼ぶんだろ?それってさぁ」

「だ、だから、そういうんじゃないってば!」

一瞬、先日のマコトとのことが浮かんでカッと顔が熱くなるが、慌てて頭を振って否定した。

これ以上余計なことを言ってくれるな、と内心で罵倒する。ヒカリの視線が気になって仕様がないが、直視できるほど神経は図太くない。

結局、京や大輔の尋問紛いな質問に辟易する僕を見かねて、賢と伊織が止めてくれた。

まあ、どうせ夜になったら大輔にまたしつこく聞かれるんだろうけど。

ただ、終始ヒカリが無言だったことが気にかかる。何かあったのだろうか。

ドタバタな別れ際では違和感の正体を確認する暇はなく、男3人で京とヒカリ、伊織を見送った。

 

 

 




漸く浮上しました。
次話は男だらけのお泊まり会です。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第10話 〜胸の内〜

 

 

さて、残った男3人は連れ立ってコンビニに出掛けた。

各々の好みで夕食を選んだ後、牛乳で作るココアが飲みたいという大輔の希望でパック牛乳を1本と、多数決でチョコレート菓子を2種類ほどカゴに放り込み、ジャンケンで負けた賢の奢りで会計を済ませ、温めを断って店を出た。

部屋までの帰り道、漫画の新刊の発売日だとか、新作ゲームがクソだとか、冬休み明けのテストが憂鬱だなんて高校男児らしい会話を繰り広げた。

3人でこんな下らない話をするのは久しぶりだった。

中二の夏、賢が京との肉体関係について相談を持ちかけてきて以来かもしれない。

思えば同級生で同じ選ばれし子供同士。

賢とのわだかまりが無くなったことで、距離が近づくのは必然だったのだろう。

しかし、ジョグレス進化のパートナーであった大輔と賢の間には強い結びつきがあり、更に僕は過去に囚われて本心をひた隠しにしていたために、2人の繋がりのやや外側にいた。

それなりに仲良くはやってきたが、今ほど砕けていられたかというと、そうではない。

2人と肩を並べられる今が、僕には堪らなく嬉しかった。

だが、やはりこのこそばゆい感覚にはまだ慣れない。

帰り着いた自室は暖房を点けっぱなしにしていただけに暖かく、男3人は上着を脱ぎ捨てて早速食事に取り掛かった。

主食にカルボナーラを選んだ賢と、五目あんかけ焼きそばを選んだ僕が順繰りで電子レンジを使い、その間大輔がカップラーメンを作るためのお湯とココアのための牛乳を沸かす。

賢と僕はミルクティーにすることで合意し、紅茶の用意をしてお湯を待った。

出来上がったインスタントな夕食をテーブルに並べ、BGMの代わりにテレビを点けると、相変わらず新年のバラエティ特番が流れた。

「小型のCDプレイヤーでも買ったらどうだ?持ち運びもできるし」

「それよりタブレットが欲しいんだよね」

「スマホにすりゃよくねーか?」

「携帯は今のが気に入ってるんだ。光子郎さんに相談してみようかな」

食事をしながら、暫く雑談が続いた。

テーブルの上の食べ物が綺麗に片付き、中央に広げたお菓子が半分ほどに減った頃、大輔があの話題をぶち込んできた。

「でよ、タケル。あのネックレス、ホントに誰の?」

チェストの上を顎で指して大輔が聞いてくる。

ベッドに寄りかかっていた僕は、「だから、友達」と面倒臭そうに答える。

「友達が何でお前の部屋来てネックレス外すんだよ、しかも女の」

「説明すると面倒なの」

「セフレか?」

「ばっ!?何言ってるんだ、大輔!」

大輔のとんでもない発言に顔を真っ赤にして反応したのは賢だ。

そのお陰で、僕が内心思いっきり動揺して一瞬硬直してしまったことがバレることはなかった。

「だってよぉ」

「タケルがそんなことするわけないだろ!」

何故か賢が弁解してくれているが、当の本人の僕は罪悪感でいっぱいだ。

マコトは決してセックスフレンドでは無い。

だがしかし、普通の女友達とも違った。僕とマコトの関係は複雑で、あまりに常識外れであることは承知している。

彼女では無いが、寂しい時に一緒にいて同じベッドで眠る相手。

そして、ついこの間強姦した相手。

なんて言えるわけがない。

しかし、大輔を納得させないことにはいつまでもこの話が引っ張られる気がしたので、仕方なく理由を話すことにした。

もちろん、肝心な部分は嘘を吐かせてもらったが。

 

 

「ふーん、学校の先輩ねぇ。その人頭いいのか?」

「うん、学年でトップ30以内。だから時々勉強教えてもらってるんだ」

「なーんだ、彼女だっつーなら色々聞こうと思ったのによー」

嘘の事情でとりあえずは納得した大輔だが、状況としては不満らしい。

そして聞きたいのはどうせ猥談だろう。

「ご期待に添えなくて申し訳ありませんねー」

「全く、大輔は悪ふざけが過ぎる。タケルはまだ八神さんが好きなんだろ?他に彼女なんか作るわけないじゃないか」

「ぶっ!!」

一つ面倒事を片付けて安心した所に、まさかの賢から爆弾を投下され、僕は二杯目に入れたココアを噴き出した。

「な、ななっ、何で!?」

「は?お前まだヒカリちゃんのこと諦めてねーの?」

予想外の側方射撃も相当なダメージである。

動揺から立ち直れないまま、みるみる顔が熱くなるのがわかった。

大輔にも賢にも、誰にも自分の気持ちは話していないはずなのに、何故賢も大輔も当然のように言ってのけた?

しかも「まだ」をつけたということは、随分前から知っていたことが伺える。

頭をフル回転させつつも飛び散ったココアを拭いていると、ティッシュを探し当てた賢が作業を手伝ってくれながらの追い討ち攻撃を仕掛けてきた。

「あれ、もしかして心変わりしたのか?」

「してない!してないけど、そうじゃなくて…」

「俺はてっきり中2でヒカリちゃんが彼氏作った時に諦めたんだと思ってた。俺と同じで」

絶妙なコンボにもはや反撃の糸口が見つからない。

じとっと双方の顔を睨みつけて僅かばかりの抵抗を見せた後、僕はついに観念することにした。

「いつから知ってた?」

ココア染みでマーブル模様のティッシュをゴミ箱に片付け、改めて2人に視線を向けて聞いた。

すると2人は、

「いつからって…」

「なぁ」

顔を見合わせてこの反応。何かムカつく。あの大輔までもがどこか哀れむような生暖かい目なのが更に。

「時期で言うなら小学生の頃からだろうね」

「ってか、今の今までバレてないと思ってたのかよ、お前」

またしてもこのコンビネーション。

さすがジョグレス進化のパートナーだけのことはある。

僕にとっては面白くないことこの上ないが。

「〜〜っ、何か大輔に言われると腹たつなぁ、もう」

正直に不満をぶつけると、大輔が「おいおい、俺だってそこまで鈍くねぇし」と反論するが、「どうだか」とほぼ同時にツッコミを入れた僕と賢のシンクロ率も中々のものだ。

賢の裏切りにやや勢いを削がれた大輔だったが、「大体なぁ」と胡座をかいた膝に頬杖を付いて言った。

「あの頃からあんだけ他の奴が入り込めない空気作っといて、何とも思ってませんとか、周りが納得するわけねーだろ」

「それは僕達よりずっと前から仲間だったからだろう?僕が合流した時の君達だって大概そうだったじゃないか」

「あ、そうだったか?」

「そうだったんだよ」

02年の選ばれし子供の中でも途中参加の賢は、その聡明な性格と明晰な頭脳で的確にその頃を分析していたらしい。「そうだったかなー?」なんて言っている大輔を余所に、僕は賢の言葉に妙に納得していた。

彼の言う通り、選ばれし子供という特殊な立場と経験は、僕達の間に通常のそれとは全く異なる仲間意識を生み、僕達だけに共有可能な空気を作り上げていた。

それはきっと、外部から観察したら異様なものだったんじゃないかと、最近は思うようになっていた。

賢もそう思ったのかもしれない。

誰にも立ち入らせない独特の、仲間以外をまるで拒絶するかのような、あまりにも居心地の良い空間。

僕の背中にいた小5の僕が守りたかった世界。

その中でも更に、僕と彼女は異様だったのだろうか。

それを賢に聞いてみたかったけれど、大輔がいると煩くなりそうなので口には出さなかった。

「僕が気づいたのはあの戦いが終わってからだよ」

そう言った賢の言葉の続きも気になったし。

 

 

 

 

携帯の液晶画面に表示されるデジタル時計が深夜の1時を刻む。

ベッドを大輔と賢に譲り、さすがに羽毛布団か毛布どちらかがないと凍えると言ってゲットした毛布にくるまり、ブランケットとラグを敷き布団代わりして横になっていた僕は、寝付けずに天井を見上げる。

昔から真っ暗が苦手な僕は、カーテンを少し開けて、常夜灯を点けて寝る。

今日も2人に了承を得てそうしていた。

円形のシーリングライトカバーの奥でほのかに灯る常夜灯のオレンジ色をぼんやりと眺める。

 

 

『戦いの中で仲間を守るのは当然だったけど、あの戦いが終わった後も、タケルは八神さんのことを守ろうとしてる感じがしたんだ』

 

 

あの後、賢が続けた言葉だ。

守る、か。

僕にとってヒカリは、初めて出会ったあの頃から守るべき存在だった。

兄や空に言われたからだけじゃない。

不思議な力を持つ彼女を、心優しく、誰かの痛みを自分の痛みのように感じてしまう感受性の強い女の子を、誰より理解し、心から守りたいと僕自身が思ったからだ。

同時に、ずっと守られる側にいた僕が誰かを守れるという立場に回れることが素直に嬉しかった。

けど、いつの間にかヒカリを守ることにアイデンティティを見出してしまっていた僕は彼女に依存し、戦いが終わってもズルズルと引き摺り続けた。

やがてそこに異性としての感情が絡み、もはやヒカリ以外を欲することなどできないくらいに重症化しているんだろう。

賢は他人をよく見てる。

 

 

『タケルは他の女の子に興味を示さなかったし、誰よりも八神さんを大切にしているんだろうって』

 

 

でも少し違うんだ。

ヒカリを守りたかったのは確かだし、大切だと思ったのも事実だ。

だけど実際に僕が誰よりも大切にしていたのは、『ヒカリを守る自分』、そして『誰よりもヒカリを大切にしている自分』だった。

頭の後ろで手を組んで、ゴロンと寝返りを打った。

視界が流れて、羽毛布団に覆われた男2人を追い越し、マットレスとパイプベッドの骨組みと暗いフローリングと、一番奥に部屋の壁が見えた。

今朝掃除したばかりなので埃は見当たらない。

暗闇の中で、ぼんやりと浮かぶ白い壁紙。

大輔か賢のどちらかが寝返りでも打ったのか、ベッドの軋む音がして、目線をそちらにやると同時に声が降ってきた。

「眠れない?」

小さく潜めた声。

上半身を少し起こした賢と目が合う。

「そっちこそ」

同じように潜めた声で返すと、賢は苦笑交じりに言った。

「そりゃあ、大輔と同じベッドじゃあね」

「替わる?」

「いや、いいよ。多分大丈夫。それより…少し話さないか?」

僕の提案を断り、今度は賢が提案を持ちかける。

それは僕が密かに思っていたことでもあった。

 

 

昼間の刺すような寒さと違い、深夜の冷え込みは服をすり抜けて染み込んでいくようで、思わず身を縮める。

上着を着込んだ賢と2人、ベランダに並んだ。

「さっき話してた時に聞いてみたいなって思ったんだ」

「僕から八神さんとタケルがどう見えていたか、って?」

室内での話の続きが始まる。

僕の質問を反復して、賢はちょっと考えてから答える。

「そうだな…最初の印象は、何となく似てるなって思った。性格とか外見じゃなくて、空気が」

「それはさっき話に出た仲間意識とは別?」

「うん。ちょっと言葉では説明しづらいけど、2人の持ってる本質が似てるのかも」

「本質ねぇ…」

それは僕達2人の紋章が『希望』と『光』であることからも伺えるのかもしれない。

他の選ばれし子供の紋章は個性の一部であるが、僕達は少し違った。

ヒカリの紋章は彼女の持つ不思議な力に由来するということは知っている。

では僕の『希望』は?希望ってなんだろう。

あの頃は、最後まで諦めない心が希望だと思っていた。

でも本当にそうなのか、そうだとしても今の自分にその心を持てる自信はないけど。

「似ていたから好きになったのかなぁ…」

「さあ、それは分からないけど。でもそういうこともあるのかもしれない。少なくとも僕には、あの頃の2人はお互いを支え合っているように見えたよ」

僕の独り言みたいな呟きに、彼女の嗜好に合わせてロン毛になった聡明な友人は言った。

そして、こう続けた。

「きっと君達の間には、2人にしか分からない何かがあるんだろうって思ってた」

2人してベランダの手すりにもたれ掛かり、白い息を吐き出す。

賢の言う「何か」は確かにあったのだと思う。

それが無くなったと思ったから、僕は気持ちを告げずにヒカリから離れた。

傷つくのが恐くて逃げ出したと言ってもいいかもしれない。

「気持ち、伝えてみようかな…」

「心境の変化かい?」

「散々逃げ回って、袋小路なだけかも」

「焦らなくてもいいんじゃないか?特に今は」

気遣わしげな賢の言葉に何故かと問うと、彼は「これが僕が話したかったことなんだけど」と前置きをしてから、真剣な目で僕を見た。

「今日のことは、タケルにとって心が動く大きな出来事だったと思うんだ。そういうことの後って、心は無防備で振れ幅も大きいから疲れやすい。だから、無理はしない方がいい」

言葉の一つ一つが説得力に満ちているのは、彼自身の経験則から出たものだからだろう。

大きな転機を迎えた僕の心は今、スポンジが水を吸収するようにたくさんの感情を吸い込む。

それは喜びであっても、悲しみであっても同じなのだと思う。

賢はそこまで考えてくれているのか。

聡明過ぎる友人に、僕のスポンジマインドが早くも過剰反応を見せる。

グッと唇を噛んで涙をやり過ごし、それでも歓びを訴える心を伝えようと、すぐ隣の賢の肩に軽く拳を当てた。

「ありがとう。ゆっくりやるよ」

「折角こうやって話せるようになったんだ。相談くらいは乗らせてくれ」

「頼りにしてる」

深夜のベランダで男2人、密かに笑いあった。

 

 

 

これからは、きっともっと沢山のことを話し合っていける。

僕は本当にいい仲間持った。

マコト、君がくれたきっかけが僕を大きく変えた。

君にもちゃんとお礼が言いたい。

 

 

 

 




賢とタケルはいい友達になれると思います。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第11話 〜許すこと〜

 

 

冬休みが明け、学校が始まった。

いつも通りの通学路なのに、不思議と色鮮やかな印象を受ける。

足取りも軽い。

何事も気の持ちようとは良く言ったもので、正しくその言葉を体現しているのが今の僕だった。

今までの息苦しさが綺麗さっぱりなくなり、空は高く感じる。

体の細胞が入れ替わったかのように、五感の全てが鮮やかに世界を受け止めていた。

賢の言った通り、このスポンジマインドによるキラキラ現象はエネルギー消費が激しいが、それすらも僕には嬉しい消耗だった。

 

その日の放課後、僕はマコトに会うために図書室に来ていた。

図書委員であるマコトは週1回、図書室のカウンター業務をしている。

室内に足を踏み入れ、カウンターの中にマコトの姿を見つけると、足音を抑えて近づく。

マコトも僕気付いたのか、少しだけ表情が動くのが分かった。

「珍しい、借りたい本でもあるの?」

「借りに来たのは本じゃないんだけどね」

聞く人聞いたら意味深な言葉だったかもしれない。

マコトも少々面食らったようで、瞬きを繰り返した後「何か顔つき変わったね」と鋭い一言が返ってきた。

続けて「終わるまで待っててくれるなら貸すよ」との素直な返事に、僕は笑って頷いた。

図書室にいくつかある読書スペース、その一番奥の窓際の席に腰を下ろした。

窓の外を見やると、バラバラと校舎を横切る生徒達の影があり、グラウンドからは金属バットがボールを叩く音、ランニングの掛け声などが聞こえてくる。

室内に意識を向ければ、本を探す生徒の気配、誰かがページをめくる音、図書室独特の本の匂いを感じる。

穏やかな時間が確かに流れ、その中に身を置いていることを実感する。

この空間でうたた寝とかしたら、すごく気持ち良さそうだなと思った。

まあ、そんなことしていたら、マコトに頭叩かれて起こされるだろうけど。

寝ずに待つために持ってきた本を開いた。

日が傾く頃、委員の仕事を終えたマコトがやってきた。

「お待たせ」

「お疲れ様」

短いやり取りの後、僕とマコトは学校を後にする。

門を出たところでマコトが、コンビニに寄りたいと言い、僕も賛同して、いつものコンビニへ向かう。

そこでマコトはコーラを買い、僕は無糖のストレートティーを買った。

話をするのに僕の部屋に行くかどうかを念のために聞く。

それは、元旦以来マコトが僕の部屋を訪れるのが初めてであり、不快感や抵抗感があるなら別の場所にしようと思っていたからだ。

気にするな、とマコトは言っていたが、そんなわけにはいかなかった。

マコトはそんな僕の考えを敏感に感じ取ったのか、「大丈夫だから、行こ。あの部屋落ち着くの」と答える。

その言葉にホッとした自分を叱り付けて、僕達は歩き出す。

歩きながら、僕は鞄からある物を取り出してマコトに差し出した。

それを見てマコトが目を瞠る。

「部屋で見つけて…ホントは気付いた時に連絡してれば、もっと早く返せたんだろうけど…」

それができなかったのは単に僕の都合でしかない。

遅くなってごめん、と付け加える。

「そっか、高石君の部屋で落としてたのか。通りで探しても見つからないわけだ」

片手で僕の差し出した物を受け取ると、マコトは言った。

その声はどこか湿っていて、まさか泣いてる?と思い顔を覗き込んだが、予想とは裏腹に彼女は笑顔だった。

持ち主のもとに戻ったネックレス。

細身のゴールドチェーンにハート型のペンダントトップがついたもの。

彼女の手の中で光るネックレスは、一層輝いて見えた。

「これね、お父さんが買ってくれたものなの」

彼女の口から出た「お父さん」という言葉にドキリとする。

マコトのお父さんは癌で、余命は半年と宣言されている。

元旦に彼女自身からもたらされた情報が蘇る。

あれからどうなったのか、それを聞きたい気持ちもあったが、マコトの横顔を見て口を噤んだ。

懐かしむような柔らかい笑顔。

どんな気持ちで「お父さん」を語るのか、知りたかった。

赤信号の交差点、立ち止まる人の群れ。

雑踏に消え入りそうな声でマコトは話し始めた。

「中1の秋にお父さんと食事に言った時にね、誕生日のプレゼントだって。コレ18金なんだよ。普通中1の娘にそんなもの渡す?」

分不相応過ぎて中学時代は付けることができなかったと、マコトは笑う。

離れて暮らす会うことを禁じられた娘に、せめてもの愛情表現だったのだろう。

父親としてできることを必死で模索した末に選んだのかもしれないが、娘からすれば的外れであった。

でもそれは仕方がない、私だってお父さんに何をしてあげればいいのか、何をあげればいいのかなんて分からない、と言えるマコトを大人だと思った。

「高校生になって、さすがにいつまでもつけてあげないのも悪いなと思って、私服の時にはつけるようになったの。初めてコレをしてお父さんに会った時、心なしか嬉しそうだった。あんまり顔には出さなかったけどね」

マコトの話から連想するマコトの父親は、勤勉で寡黙で不器用な印象を受ける。

年頃の娘の心情や好みに疎く、娘への愛情に溢れ、でもその示し方が下手で、誤解されやすく、きっと父親になりきれない人だと思った。

信号が青に変わり、動き出す人の群れ。

「お父さん、具合どう?」

「ん…もう治療する段階じゃないから、痛み止めで症状を抑えてる感じ」

「そっか…お母さんはこのこと」

「知ってるよ。っていうか、お父さんが病気だって、お母さんから聞いたの、私」

ちょっと驚いた。

でも考えてみれば当然か。

いくら離婚して絶縁状態だといっても、実の父親が死の間際にいるのを娘に告げないなんて、それはあんまりだ。

「元旦に?」

「ううん、もうちょっと前。冬休みに入ってすぐ」

僕に電話をしてきたあの日に知ったわけではなかった。

じゃあ、それまでは一人で抱え込んでいたのだろうか。

きっと苦しかったんじゃないかと思う。

「癌だって聞いてすぐにお父さんに連絡したら、入院してて…私思わず怒鳴っちゃった」

「どうして?」

「何で言ってくれなかったの、って。だって」

11月の終わりに会っていたのだと、マコトは悔しそうに呟く。

その時既に病に侵されていたであろう父親。

マコト自身、異常に痩せこけていた父親を見てさすがに心配になり、病院への受診を強く勧めたが、仕事が忙しくて疲れているせいだから大丈夫だ、といなされてしまったのだという。

不安を抱えながら日々を送り、冬休み初日に母親から父親病を告げられ、ショックだったに違いない。

なぜ言ってくれなかったのか。

そう怒鳴りつけてしまったというマコトの気持ちは、理解できるものだった。

「心配かけたくなかったって言うけど、こんな大事なこと、知らないでいた方がよっぽど心配かけられるより嫌だよ。少なくとも私は、黙っていなくなって欲しくない」

少し拗ねたような口調。僕は「うん」とだけ返す。

いなくなる人は、いなくなった後のこと、残していく人のことを、どんな風に考えるんだろう。

迫る死を見つめて、一番辛いのはその人かもしれない。

けど、残される人も、ぱっくりと口を開けた死を、その真っ黒な終焉を見つめている。

大切な存在を失う瞬間に恐怖しながら。

マコトは今、暗い深淵とその入り口に立つ父親を、喪失の予感を抱えて見つめているんだ。

あの夏の僕と同じように。

蘇る喪失の瞬間にギュウッと胸が締め付けられる。知らず知らずの内に眉を寄せる。

 

 

いかないで

 

 

叫んでも叶わないと、あの頃の僕は思っていた。

確かに叶わない。生きている以上、誰も死からは逃れられない。

だから、そんな叶わない望みは口にしてはいけないと、心がブレーキをかけるんだ。

でも、悲しみを吐き出すのは決して悪いことじゃない。

「それからお父さんとは話したの?」

「怒って電話切っちゃってからは、暫く連絡も、お見舞いも行かなかったんだけどね…」

「あのさ、それ」

僕はマコトに伝えたくて口を開くが、それは突き出されたマコトの人差指によって止められる。

「大丈夫、最後まで聞いて」

そう言ったマコトは、いつになく優しい顔をしていた。

「元旦の日ね、夜中にお母さんがお父さんのことで隠れて泣いてるのを見たの。お父さんと別れてから、お父さんって単語を出すだけでもヒステリックな顔を見せて、再婚までしようとしてたのに、やっぱりまだ好きなのかなとか、情があるのかなとか、お母さんも悲しいのかなって思ったら堪らなくなった。家を抜け出して、気付いたらあの歩道橋にいて…」

それで電話をかけてきたのだ。

僕は漸く理解した。

マコトは泣きたかったんだ。

抱えきれなくなった悲しみを吐き出したくて、泣きたくて僕を頼ったんだと。

それなのに、僕は…。

マコトにした仕打ち思い返し、頭を抱えたくなった。

彼女がどれだけ辛かったのか、分かってやれなかった。

自分にことにかまけて、泣かせてあげることもできなかった。

逆に僕が救われて、慰められて。

情けなくてマコトの顔を見ることができない。

勝手に打ちひしがれる僕を見て、マコトが慌てて「違う違う、だから最後まで聞いてってば」と言った。

折れそうになる心をなんとか支えて、マコトの言葉に耳を傾けることにした。

「もう、あの日のあれはお互い様なんだから。私が高石君に頼ろうとしたように、高石君も私を頼っただけでしょ?」

そんな単純な図式でしょうか、と思う。

泣く場所を探していたマコトと鬱屈した気持ちのやり場を求めていた僕。

どちらも誰かを必要としていたけど、相手にかける負担が桁違いだろう。

「何度も言うけど、嫌じゃなかったんだからあれは合意なの」

なんて無理矢理な理屈だ。

「それにね」とマコトは続ける。

「高石君がこのことで自分を許せないんだろうなって思った時、私は許そうって思った。すごく素直に。そしたら、許せないことなんてないんじゃないかって思えるくらい、心が楽になった」

「水崎さん…」

「お父さんも、お母さんも、高石君も、私自身も、全部許せるって思えたの」

すっきりとした顔のマコトを見て、僕は先日の仲間との出来事を思い出す。

あの時、僕も思った。自分を許せる、と。

それと同じなんだろうか。

 

 

気付けばマンションは目の前だった。

部屋に入って上着を脱ぎ、それぞれの定位置に座る。

コンビニで買ったペットボトルの中身は半分くらいにい減っていた。

マコトは僕が返したネックレスを取り出し、首の後ろで器用に留め金を留める。

チェーンと首の隙間に閉じ込められた黒い髪を持ち上げて降ろし、ペットボトルに手を伸ばして一口飲むと、キャップを閉めたソレを手の中で転がし始めた。

見慣れた彼女の癖。

「高石君の足下に“寂しがり屋”がいるって言ったでしょ?」

「うん、ホントに居たよ」

「そっか。あれね、私のことでもあったの」

「どういうこと?」

「前に高石君の昔の話を聞いて、何となく私と似てるなって思ってたの」

それは僕も同じだった。

マコトから感じた、同じ色の寂しさ。

「私の足下には“寂しがり屋”がいて、いつも私の服の裾を引っ張ってた。私はそれが嫌で嫌で、いつも邪険に扱ってたの。私を捕まえるその“寂しがり屋”が大嫌いで、でもそうやって毛嫌いしてる自分が一番嫌いで許せなかった」

「すごく、分かる…」

何より自分が許せないから、動けなかった。

マコトも同じだったんだと思うと、少し前の自分が救われた気がした。

そして、マコトがさっき言った言葉。

自分自身をも許せると語ったのを思い出し、じわぁっと込み上げてくるものを必死にこらえた。

きっと、マコトも自分のことを…。

 

「ねえ、高石君。自分のこと、ちょっとでもいいから好きになれた?」

 

「うん」と僕が答えると、マコトは「私も」と笑った。

同じ色の寂しさを持っていた僕達は、きっとお互いの中に同じものを見て、気付いて、そして理解した。

そこに生まれたのは恋とか愛とかじゃなくて、友情ともつかない不思議な繋がり。

お互いの寂しさを許容して受け入れる心の受け皿みたいな存在。

 

「水崎さんに会えて良かった」

 

いつかマコトが僕に言ってくれた言葉を、僕もマコトに伝えた。

「ありがとう」って笑うマコトは、もう僕にとってかけがえのない存在になっていた。

僕は改めてマコトにお礼を言い、そしてやっぱりこの間のことの償いがしたいと申し出た。

マコトは「それはもういい」と突っぱねようとするが、これに区切りをつけなければ、僕は残った最終課題について考えることもできない、と何とか食い下がる。

最終課題とは、ヒカリへの気持ちの整理をつけ、彼女に気持ちを伝えること。そのために、マコトへのけじめをつけなければ、踏ん切りがつかなかった。

事情をマコトに説明すると、マコトは「なら仕方ないか」と身勝手なお願いを呑んでくれて、暫し考え込んだ後にこう言った。

「じゃあさ、これからも私が寂しい時、一緒にいて」

「え、そ…そんなんでいいの?」

「ダメ?私この部屋でゆっくりするの結構好きなんだもん」

「それに、高石君の作るちょっとクセのある卵料理も気に入ってるの」と続けて笑う。

それは今までの関係をそのまま続けていくこと。

卵がきれる度にマコトのことを思い出し、スーパーに買いに出たあの日々に戻ること。

それは、図々しくも僕が願っていたことでもあったが、そんな資格は無いと諦めてもいた。

「ダメなんかじゃないけど、それって何か今まで通りだし、僕にとっても有難いから償いにならないんじゃ…」

自分への懲罰的態度を緩められない僕に、マコトは更に言い募る。

「ねえ、私たちはこれからも長い人生を生きてかなきゃならなくて、この先もたくさんの寂しいとか悲しいとかを抱えていくんだと思う。その中で、失うものも得るものもあって、もしかしたら私と高石君は全然違う場所で生きていくのかもしれない。でも今はここにいる。すごくたくさんの偶然が重なって出会って、友達でも恋人でもない変な関係ができあがって…1年前は想像もしなかったけど、自分が誰かに必要とされて、自分も誰かを必要とすることが嬉しいって思うの。だから、一緒に居られる時間を、私に頂戴」

生きていけば失うものがある。

マコトにとって直近のそれは父親なのかもしれない。

そして遠い未来では、僕なのかもしれない。

そうだとしても、今の僕達はお互いを必要としていることは否定できない真実だった。

「…うん」

観念したように、でも零れる笑みを隠さずに僕は頷いた。

 

 

 

自分の失態で失うかもしれなかった大切な存在は、その当人によって無事繋ぎとめられた。

これで僕に残ったのは最終課題のみ。

でも、焦らずにゆっくり整理するって賢とも話したばかりだったから、僕の心は落ち着いていた。

そう、この時までは…。

 

 

 

 




許せるか、許せないか。
きっと一番許すのが難しいのは自分自身なのではと思います。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第12話 〜向き合う覚悟〜

 

来訪者を告げるインターホンが鳴った。

郵便かな、なんて軽く考えて、テレビを見ているマコトを置いて玄関に向かう。

何の気なしに開けた扉の向こうに立っていた人物を見て、僕は固まった。

紺色のダッフルコートに白いマフラー、制服らしい紺色のプリーツスカート、校章らしき模様が刺繍された白いソックス、茶色いローファー、手には黒い学生鞄。

少しばかりバツが悪そうに俯いているその人は、僕の良く知る人物で、でも最も新しい記憶の風貌とは異なっていた。

ついこの間までは編み込んで結い上げるほどに長かった髪は肩口まで短くなっており、耳に光っていた赤いピアスは見当たらず、かわりに前髪を留める赤いヘアピンが光る。

 

どうして。

 

真っ白の頭に浮かぶ疑問。

何で彼女がここにいる?

格好からして学校帰りだろうが、彼女の通う学校はここからかなり距離がある。

だって距離があるから僕はここに住んでいて、だから平日に彼女に会うなんてことは、わざわざ会いに行くか来るかしなければ間違っても無い筈なんだ。

じゃあ、どうして彼女は目の前に現れた?しかもいつの間に髪を切って、まるで昔の彼女の面影を詰め込んだような姿で。

大混乱する頭の中と、やたらと早鐘を打つ心臓を押して何とか捻り出した第一声は、

「ど、どうしたの?」

挨拶もすっ飛ばした本音だった。

「あ、あの、その…突然来て、ごめんね」

「え、いや、うん…」

物凄く申し訳なさそうに謝られて、どうしていいのか分からなくなる。

彼女は今にも泣き出しそうで、それがますます僕を焦らせる。

「何かあった?」

「えっと…」

言い淀む彼女は中々僕の方を見ようとせず、何故か足元や部屋の奥を気にしているようだった。

そこでハッとマコトの存在を思い出す。

玄関には揃えられたマコトのローファーがあり、多分彼女の立ち位置から部屋の奥のマコトが見える。

もしかしなくても、誤解されている?

サーっと顔から血の気が引くのが分かった。

ネックレスを見つけられた時以上の気まずさに襲われ、目眩がする思いだった。

「あ、今、友達が来てて…」

本当のことなのに、何でこんなに後ろめたい気分になるのか、頭が痛い。

彼女はすっかり下を向いて「ごめんなさい」と呟く。

そんなに謝ることなんて無い筈なのに、本当にどうしたんだろうか。

明らかに様子がおかしい彼女を見て、僕は意を決した。

「ヒカリちゃん、ちょっと待っててくれる?」

できるだけ優しく言って、僕は部屋の奥へと戻った。

マコトが「どうかした?」とペットボトルを咥えたまま視線で聞いてくる。

僕は何と説明したものかと悩んだが、一言「最終課題が…」と答えた。

マコトは一瞬動きを止めて、それからペットボトルから口を離して「急展開だね」となんとも率直な感想を述べた。

全く同感だ。ゆっくりやっていくつもりだったのに、まさか最終課題が自ら転がり込んでくるとは。

しかもこんなに早く。

たった一言で全てを理解してくれたマコトは、すぐに帰り支度を済ませて立ち上がった。

こういう潔さとか、物分かりの良さがすごく有り難かった。

「ごめん」と謝ると、マコトは首を振って「話したいことは話せたから、大丈夫」と言った。

そして、「じゃ、また明日学校でね」と軽く手を振って玄関に歩き出す。

その後に続くと、玄関の外で立ち尽くすヒカリとマコトの後ろ姿が同じ視界に移った。

何て光景だ。よもやこんな絵を見ることになるなんて思いもしなかった。

玄関でローファーを履いて出て行くマコトが、すれ違いざまにヒカリに何かを囁く。

僕には聞き取れなかったけど、マコトのことだから余計なことではない筈だ。

マコトの黒髪が視界から消え、僕とヒカリが残される。

ヒカリはマコトの去った後を暫く見つめていた。

「待たせちゃってごめんね、中入って」

僕がそう言って促すと、ヒカリはぎこちなく頷き、「お邪魔します」と小さな声量で呟いて玄関に足を踏み入れた。

元気な彼女はどこへいったのか、本当に何があったのか、とても心配になる。

僕の後についてトボトボと部屋に入ったヒカリは、遠慮しているのか座ろうとしない。

マフラーをのろのろと解いて、ダッフルコートの前を緩めた程度だ。

「鞄、適当に置いてくれていいよ。あと、好きなとこ座って」

「うん…ありがとう」

そう言って、ヒカリはマコトがいた場所を避けて座った。

やっぱり誤解しているのだろうか、と思う。

彼女といるところを邪魔して悪いことしたとかなんとか。

どこかで弁解したかったけれど、まずはヒカリの用件を聞くのが先だと、自分の我儘を抑え込む。

とは言ったものの、座っても黙り込むヒカリに、僕は困り果てていた。

とりあえず…

「何か飲む?」

差し当たりのない会話から入って、なんとか本題に辿り着けたらと思って話しかける。

ヒカリは僕の方を見て「うん、ありがとう」とだけ答えた。

何をと聞きたかったけれど、そういう空気でもなかったので、僕は紅茶を入れることにした。

席を立ってキッチンに入り、お湯を沸かして紅茶の用意をする。

作業の傍ら、僕はチラリとヒカリの様子を伺った。

彼女はさっきと変わらない姿勢で俯いている。

 

(うーん、本当に何があったんだろう。太一さんと喧嘩したとか?仲間のことで何かあったのかな?)

 

二つのマグカップに紅茶を作り、砂糖とミルクと一緒にローテーブルに置いた。

「お待たせ、ヒカリちゃん」

笑顔を作って声をかけると、ヒカリはハッと顔を上げて「う、うん」と慌てた様子を見せる。

そしてまた沈黙。

間が持たなくて何度も紅茶を口に運ぶ。

味がよくわからない。

暫くそうしていると、ヒカリが漸く口を開いた。

「タケル君…」

「ん、何?」

内心動揺しつつも平静を装って聞き返す。が、

「さっきの人、タケル君の彼女?」

続いたヒカリの言葉にビシッと笑顔が固まる。

「ち、違うよ、学校の先輩で友達。たまに勉強教えてもらってるんだ」

必死に頭をフル回転させ、先日賢や大輔にしたのと同じ言い訳を引っ張ってきた。が、

「あのネックレス、あの人のだったのね」

よく見ていらっしゃるというか、今日は何でこんなにも直球なのだろうか。

「うん、まあ…」

「綺麗な人ね」

「うん、まあ…」

「よく、来るの?」

「いや、そんなに頻繁には…来ないよ」

「そう」

「うん…」

受け答えをしながら、何で僕への尋問みたいになってるんだろうと思う。

ヒカリが何を言いたいのか、何をしにきたのか、全く分からない。

「ねえ、本当にどうしたの?何かあったから来たんだよね?」

この状況に耐えられなくなってきた僕は、思い切って聞いてみた。

すると、彼女は一度肩を震わせ、でも意を決したように顔を上げた。

心なしか顔が赤いのは気のせいか。

久々に真正面から見る彼女の顔。

髪を切ったせいか、嫌でも昔の面影が被る。

あの頃よりも大人びた顔付き、艶を帯びた唇。

やっぱ可愛いなぁ、なんて思っているところに、とんでもない不意打ちがやってくる。

 

 

「タケル君は好きな人、いる?」

 

 

「……………………………え?」

 

 

耳に届いた彼女の言葉を理解するのに10秒ほど時間を要した。

同時に間抜けな声が口から零れた。

質問の内容は理解したし、その答えも持っている。

けれど、何この状況。

目の前のヒカリは真剣な眼差しで僕の答えを待っている。

いや、それを聞いてどうするの?

だって僕が好きな人はキミなんだから、質問に答えるということは即ち告白するということだ。

待て待て待て、いつかは気持ちを伝えたいと思っていたけど、それは気持ちが整理できたらの話で、今の何一つ纏まっていない心のままで告白なんてとてもじゃないけどできはしない。

「な、何でそんなこと、聞くの?」

答えを先延ばしにしたくて苦し紛れに聞き返す。

それが彼女を追い詰めるなんて、僕の考えが及ぶはずもなかった。

「あ、も、もしかして彼氏のことで何か相談事?」

ビクッとヒカリが反応して、傷ついた表情を見せた。

何だか拙いと思ったけれど、自分の気持ちを隠すことに必死になるあまり、フォローができずに更に余計なことを口走ってしまう。

「あの先輩とまだ付き合ってるんだよね?長く付き合っても悩みはあるだろうし…でもそういことなら相手のいない僕より京さんとか賢に聞いた方が」

「違うの!」

「!?」

珍しく声を荒げたヒカリに驚いて、逃避のために動いていた僕の口は動きを止める。

ヒカリの目には涙が浮かんでいて、僕は苦いものが喉の奥に広がるのを感じた。

ヒカリの話を聞こうと決めたのに、結局は自分を守ろうとして彼女を傷つけてしまったようだ。

「…ごめん」

クシャッと頭を押さえ、彼女の顔を見れないまま謝った。

次の瞬間、すぐ近くに人の気配を感じて顔を上げると、目の前にヒカリの顔があった。

ふわりと香るラベンダーの香り。

「っ!!??」

心底驚いて、あまりの動揺に飛びのこうとしてローテーブルの脚に腕をぶつけてバランスを崩し、そのまま床に倒れこんだ。

ぶつかった衝撃でテーブルの上のマグカップが音を立てて床に転がる。

遅れて感じたのは、上に覆いかぶさるまではいかないものの、足や腰に触れる自分のものではない他人の感触。

目を開けた先にいたのは、僕を見下ろすヒカリ。

「ヒ、カリちゃ…」

自分たちがどんな体勢でいるのかを自覚して、僕は今の状況のとんでもなさに息が止まりそうだった。

触れたくて狂いそうだった彼女がすぐそこにいて、アクシデントの結果の接触。

心臓がはち切れんばかりに脈打つのが分かる。

しかし、動けない。

金縛りにでもあったかのように僕は動けなかった。

僕を見下ろすヒカリの目に、何か熱情のようなものが宿る。

それが何か、思考を停止した僕の頭は理解しなかった。

「タケル君…」

こんな距離でこの声を聞くなんて夢でしかありえなかった、と思考がまともならそう分析したかもしれない。

でも、次のヒカリの行動は、例え思考がまともであっても分析は不可能だった。

近過ぎた距離がゼロになる。

唇に柔らかく湿っぽい感覚。

 

何だ、これ。

 

それがキスだとわかった時、僕は大慌てでヒカリを押し返し、起き上がって彼女から距離を取った。

それを拒絶と勘違いしたのか、ヒカリが泣きそうに顔を歪める。

「ち、違うっ、そうじゃなくて!」

何が違う?何がそうじゃない?そうじゃないのは、だってさっきのは…。

「な、何で…?」

唇に残る感触を指で探って、僕は漸くヒカリに問いかける。

ヒカリはペタンと床に座り込み、泣きながら「好きだから」と言った。

この状況で誰を?とは聞けるはずもなく、僕は有り得ない筈の現実に直面しているのだということを理解した。

「好き…?え、だって、ヒカリちゃんは…先輩と…」

「別れたわ。タケル君が好きなの。好きだって、気付いてしまったの…あの時に」

「あの時…?」

嗚咽を堪えてヒカリは話し始める。

ヒカリが僕への想いを自覚したのは、あの初詣の埋め合わせでの集まりで、あの日、今まで抱えてきた心の内を吐露し、泣きながら仲間に迎え入れられた僕を見て、彼女は強い独占欲を抱いたという。

そして、ネックレスの件もあって、彼女がいるのではと不安になったヒカリは、それを確かめるためと、想いを伝えるために来たのだそうだ。

なんて唐突な展開なんだ。

僕の知らない所で彼女がそんな風に思っていたなんて知らなかった。

いや、知る由もないんだけれど。

でだ、この状況はどうすればいいのか。

生憎と僕の思考はそろそろ限界を迎えていて、まともに状況判断が下せそうにない。

こんな所にも、スポンジマインドが影響していた。

「あの、さ…ちょっとだけ待ってもらっても、いいかな?」

泣いているヒカリにこんなことを言うのは心苦しかったが、僕にも限界がある。

時間が欲しい。

僕はできるだけ言葉を選んで、彼女を傷つけないように、考える時間が必要である旨を説明した。

泣いていたヒカリも最後には納得してくれて、彼女が泣き止むのを待ってその日は帰ってもらった。

ヒカリを見送った玄関で、僕は深い溜息と共にその場に沈み込んだ。

 

何だ、何なんだ、何がどうなってこうなった?

 

「やばい、一人じゃ限界だ…」

オーバーヒート寸前の頭を抱え、這うように部屋に戻り、携帯を探し当ててある人物に電話をかけた。

『もしもし、タケル?』

「賢、助けて…」

数回のコールの後、聞こえてきた友人の声に、僕は思わず弱音を吐いた。

『何かあったのか?あ、もしかして早まって玉砕したんじゃ』

「その方がまだ分かりやすかった」

『?』

 

 

 

賢はその日の内に僕の所まで来てくれた。

何て優しい奴だ。

僕の奢りで買った夕食を済ませ、賢にヒカリとのことを詳しく話した。

「ここにきて大番狂わせだな」

話を聞いた賢がえらく深刻そうに呟く。

僕は本日何度目になるのか分からない溜息をついて、ローテーブルに顔を沈めた。

茶色に染められる視界。

このくらい近くにヒカリの顔があった。

今でも信じられない。

「もー、どうしたらいいんだ…」

「どうって、気持ちを伝えればいいじゃないか。両想いなんだし」

さっきとは打って変わって軽い口調で賢が言う。

確かに状況は僕にとって好転したんだろう。

何せ切ない片想いだったのが、実は両想いになっていたのだから。

なのに素直に喜べない。

「そうなんだけどさ…」

「まだ落ち着かないか?」

「んー、何だろう。確かに色々落ち着いてないけど、そうじゃないんだ…」

ごろっと首だけ捻って賢を見上げる。

こめかみに冷たいテーブルの感触。

賢は頬杖を付いてこちら見ていた。

彼の美青年っぷりは年々拍車が掛かっている気がする。

「何か引っ掛かってるんだ」

「…何もないし」

畜生、余裕だ。

なんて思うと悔しくて、拗ねた子供のように吐き捨てた。

たちまち賢が笑って、僕は更にふて腐れる。

その後、賢が僕の機嫌を取ろうとするやり取りが繰り広げられた。

それはまるで兄弟のようで、僕には少し擽ったかった。

実の兄には小2のあの夏以来、甘えていない。

そういえば、賢は兄を亡くしていた。

それに、一度パートナーも。

彼の中にある喪失の記憶を、彼はどうやって埋めているのだろう。

ふと過る寂しさに、去来する過去に、どう向き合っているのか。

彼女である京が担っているのだろうか、親友の大輔だろうか、両親だろうか。

僕にとってのマコトのような存在は、彼にも、誰にでもいるのだろうか。

 

 

 

予感がするんだ。

ヒカリに想いを伝えて、たとえ付き合うことになったとしても、彼女は僕を理解しない。

僕の寂しさを、喪失の記憶を、理解できない。

でもそれは構わない。

何故ならそれを彼女に求めないから。

でも、それを彼女が許してくれるだろうか?

かつてお互いを理解することで繋がっていた筈の僕達は、恋人になることで全く違う関係を築くことになる。

理解ではない、共生に必要な関係を。

彼女に理解を求めない代わりに、僕は他にそれを求める。

マコトや賢のように、僕を理解してくれる人間に。

もしそれを彼女が拒んだら?

そしたら完全に僕達の関係は終わる。

もう僕は望んでしまった。

彼女との、理解ではなく共生の関係。

後戻りはできないんだ。

そこに踏み出すのが、まだ少し恐い。

 

 

 

という旨をマコトの部分だけ伏せて賢に話した。

彼は、本当に複雑な、酷く切ない顔で笑った。

ああ、彼も凄く悩んできたんだと、一目でわかる表情だった。

「京と付き合うって決める時、僕も悩んだ。仲間から恋人になること。京はあの性格で、感情に素直だからあまり深読みせず、良くも悪くも考え過ぎない。それは長所だし救われることも多いけど、悩まされることはその倍くらいあった。3年付き合ってるけど、今でも理解できない人だよ」

「大輔と似て単純そうなのに」

一つ年上のミーハーハッカーは、仲間内の突撃隊長と言われていた大輔と並んで感情の波が分かりやすい。

賢はクスリと一つ笑いを零し「2人が聞いたら怒るよ」と軽く僕を小突いた。

僕はペロッと舌を出して誤魔化す。

分かってるけど言ってみただけ、そんな意を込めて。

誰かと生きていくのは簡単じゃない。

両親を見ていてそれは嫌というほど思い知った。

けど、これからはその簡単じゃない世界に入っていくんだ。

そうして大人になっていくんだろうな、僕達は。

そう思った時、賢が含みのある笑顔で「タケル、知ってるか?」と聞いてきた。

「現代の科学でも人の脳機能は未だ解明されていない。僕達はそれほど複雑な生き物なんだ。誰かを理解するって、そのくらい途方もないことなんじゃないかって思う。ましてや彼女たちは異性なんだ。男と女の間には深くて暗い河があるそうだから」

「何それ、天の川?」

「さあ」

優しく笑う賢の顔は、「だから大丈夫だよ」って言ってる気がした。

 

 

 

 

「ところで、もう一ついい?」

本題を話し終えたところで、僕はもう一つ引っ掛かっていることを相談することにした。

ある意味こちらも深刻な内容なんだ、と言うと、賢はちょっと身構えた。

「何だ?」

「ヒカリちゃんに押し倒されてキスまでされたのに、反応しなかったのってどうなのかな?シャレになんないんだけど!」

「知らないよ、そんなこと!」

と勢いで返したものの、その昔賢は京に襲われかけた時、自分も同じような状態だったことを思い出す。苦い過去を思い出しているとは知らない僕は、1人で頭を抱えた。

「あぁ、恐いよー」

 

 

 




本命が突然転がり込んで来て混乱中です。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第13話 〜告白〜

 

 

決戦は金曜日。

ヒカリの予定も確認した上で、金曜日の放課後にお台場の海浜公園で会うことになった。

約束の日は朝から落ち着かないったらなかった。

というか、ヒカリの衝撃の告白からこっち、平静に過ごせた日などなかった。

毎日動悸はするし、勉強は手につかないし、人の話は頭に入らないし、少しもじっとしてられない。

食事は摂ってはいるものの、あまり味が分からず、夜も寝た気がしない。

この数日間、摂取する以上にエネルギーを消費していた僕は、決戦前に既にヘロヘロだった。

本日最後の授業はもはや、右から入って左に抜けるなんものではなく、そもそも耳にすら入る余裕はない状態だった。

刻一刻と迫る決戦の時に、またも心臓が暴走しそうだ。

ちゃんと覚悟を決めたから約束を取り付けたのだが、やはり小心者には荷が重いのだ。

バラバラと下校する生徒に混じって僕も学校を後にする。

気休めに栄養ドリンク買おうかな、と思って立ち寄ったコンビニで、偶然マコトに会った。

「魂抜けそうだけど、大丈夫?」

僕の顔を見て一番に出た言葉がそれだった。

そして、「あ、今日だっけ?最終課題の決戦日」と思い出したように言った。

「うん、これから行ってくる」

「そっか、まあ行ってらっしゃい。無事を祈ってるから」

マコトは暖かい声援と、餞別として栄養ドリンクを一本奢ってくれた。

コンビニでマコトと別れた直後、携帯に賢からメールが届いた。

内容は勿論、今日の決戦についてだ。

なんだかんだと今日まで相談に乗ってくれて、心配してくれていた彼は、やっぱり当日も応援のメッセージを送ってくれたようだ。

さて、マコトと賢から励まされたのだから、怖気づいてはいられない。

僕はドリンクを飲み干し、空き瓶をダストボックスに放り投げて歩き出す。

一度自宅に戻り、着替えてから決戦の地へと向かった。

 

決戦が何故お台場かというと、一番は思い出の地であることが大きいが、ヒカリの自宅があることや、彼女の通う高校から近いという理由からでもあった。

お台場海浜公園の駅に到着したのは夕暮れ時だった。

約束の時間にはまだ少しある。

携帯電話を開いて受信ボックスに新着メールが無いのを確認した後、自分が到着した旨を記したメールを彼女に送信した。

数分後、新着メールを知らせるバイブレーションがポケットを震わせる。

メールを開くと、あと5分程で到着すると書かれていた。

あと5分。途端に鼓動を耳の奥で聞くようになり、落ち着かなくなる。

会ったらまず何を言おうか、何度シュミレーションしても上手くいくイメージは湧かず、結局は決めかねていた。

そうこう考えている内に時間なんてすぐ経つもの。

コツコツという女性が履く靴に特有の足音がすぐ後ろで止まる。

小さく息を吸い込むような気配がした。

ゴクリと唾を飲み込んでから振り返ると、そこには待ち合わせの相手が立っていた。

「待たせて、ごめんなさい」

彼女は開口一番、ペコリと頭を下げて謝った。

短くなった髪の毛がサラリと揺れる。

「僕が早く着いただけで、そんな待ってないよ。寧ろ時間ピッタリだから」

思ったよりも言葉はスルリと舌の上を滑った。

顔を上げたヒカリがホッとしたように表情を緩める。

その顔を見て、良かったとこちらもホッとする。

落ち着いたところで漸く彼女の姿をしっかりと見た。

今日は赤いヘアピンはしておらず、サイドの髪を耳にかけていた。

その耳にはやはりピアスは無い。

ピンクベージュのポンチョコートは可愛らしい彼女のイメージにピッタリで、衿元のファーが暖かそうだ。

ダークグリーンと黒のチェック柄のミニスカートにキャメルのロングブーツ。

まあ、もっぱら目が行ったのはスカートとブーツの間の太腿だけど。

寒くないの?とか、誰に見せるの?とか思ったことは言わない。

さて、いきなり本題にも入りにくいので、僕は周囲を見回してから、展望デッキへと誘う。

ヒカリは素直に頷き、展望デッキまでの短い距離を、少し離れて並んで歩いた。

離れた距離の中に、緊張感が宿っているのが分かる。

コツコツと鳴るヒカリの足音にペースを合わせ、たどり着いた展望デッキからは、夕日に染まる東京の大パノラマが一望できた。

「キレイ…」

溜息とともに零れた感嘆の声には、僕も賛成だった。

そして、これからも綺麗な景色を見るなら、彼女と一緒がいいと思う。

「ヒカリちゃん」

真剣なトーンで呼んだ名前に、ヒカリは感じるところがあったのか、「はい」と敬語で答えた。

向き合う僕達の間を、冷たい冬の風が吹き抜ける。

見下ろす先の愛しい人。

初めて会った時、同じ目線にいた彼女は、大切な仲間で守るべき存在だった。

あの頃の純粋な気持ちが全く消えてしまったわけではない。

ただ僕達はそれぞれに、居心地の良かった箱庭から飛び出した先でもお互いが必要だと思った。

そこから新たに始まる関係は、昔のように綺麗で優しいものばかりではないと、もう知っている。

それでも、君と一緒がいいと思う。

グッと握りしめた拳はコートの陰で、顔に集中する熱は夕日のお蔭できっとバレない。

煩い心臓の音も、彼女には聞こえない。

だから大丈夫。

 

 

「僕はヒカリちゃんが大好きだよ。もうずっと前から。そして、これからもずっと」

 

 

一世一代の告白の声は微かに震えてしまった。

情けないなと思うけど、でもやっぱり無理だった。

改めて向き合った彼女が、自分にとってどれ程の存在なのか思い知って、それを手に入れられるかもしれないという期待と、失うかもしれないという恐怖が僕の中で大乱闘を巻き起こしていた。

だから、この先の言葉も、やっぱり震えてしまった。

 

 

「僕は君と一緒にいたい、一番近くで…誰にも譲りたくない」

 

 

君が好きだと言ってくれた日、僕は君を選ぶことで何を失うのか分かって、受け入れようと決めた。

少し前の僕では、喪失に耐えられなかったと思う。

そして恐らく、少し前の僕のままでは、君は僕を好きだなんて思わなかったんじゃないかって…。

失うことを受け入れる強さが、君を振り向かせるためには必要だったのかな、なんて思ったんだ。

 

 

「僕と付き合ってくれますか?」

 

 

必死に涙を堪えていた目の前の愛しい人が、「はい」と答えるのと同時に、その人は僕の胸に飛び込んできた。

僕は驚いたけれど、彼女が泣いているのが分かって、その顔を他の誰にも見られないように優しく抱き締める。

僕達は小2の頃からお互いを知っているけど、お互いがどれだけ相手を想って、悩んで、苦しんできたかはきっと知らない。

君と離れていた時間は、はたから見れば遠回りだったかもしれないけれど、僕達には必要だったんだって思うよ。

 

 

 

 

 

 

目を覚ますと、そこは懐かしい天井。

常夜灯の灯る薄暗い室内は綺麗に片付いていて、部屋の主が居ない間も掃除が行き届いていた。

少しだけ空いたカーテンから、日の光が筋となって差し込んでいる。

僅かに捲れた毛布の隙間から冷気が入り込み、僕は身を縮めて毛布を整えた。

同時に、隣の温もりが動く気配がして、毛布の中からにゅっと細い腕が伸びて僕の首に抱きついた。

「ヒカリ?」

その温もりの正体に呼びかけると、僕の肩口に顔を埋めた彼女は、まだ眠気の残る声で「タケル」と僕の名前を呼んだ。

寝ぼけているのだろうか。

首筋や肩をくすぐる彼女の髪や吐息、全身に感じる彼女の柔らかさと体温。

その背中に腕を回すと、彼女は擽ったそうに体を擦り寄せてきた。

 

 

 

あの告白の後、僕達は離れていた時間を埋めるようにお互いの話をした。

以前、こんな風に彼女と話せたら、と思った時のイメージそのままに。

あっという間に時間は過ぎ、夕食も摂らずに話し込んでいたことに気付いた僕達は、僕がかつて住んでいたお台場のマンションへ向かった。

道中、母親に連絡を取ったら、丁度泊まりがけの取材中だそうで、今日は帰らないのだと告げられた。

そんなことを聞いてしまえば、意識せざるおえない。

しかも、ヒカリに母親が留守である旨を伝えると、彼女は「じゃあ、泊まってもいい?」とかとんでもないことを言い出した。

家には友達と遊びに行って来ると言ってあるらしく、そのまま泊まると言えば別に怪しまれない、なんて付け加えられた。

いや、そういうことではなくて、と心の準備が全くできていないのに、こんな据え膳を目の前にチラつかせられたら、もう…。

先日、本命に怖気付いて男としての本能が機能しなかったら、なんて賢に言ったが、その心配は見事に消し飛んだ。

ヒカリの手を引いて、僕はいつ帰ってきてもいいようにと普段から持たされている鍵で、かつての自宅の玄関を開けた。

先にヒカリを中に入れて、玄関の鍵を閉める。

ガチャリと鍵の閉まる音が、外の世界とこの部屋を切り離す合図のように聞こえた。

振り返ると、ブーツを脱いで上がり框で待つヒカリの後ろ姿がある。

スラリと伸びた脚が見えて、僕は思わず手を伸ばしていた。

「タケル君っ?」

突然後ろから抱き締められたヒカリは驚いたような声を上げる。

「ごめん…食事、後でもいい?」

 

 

 

この状況で我慢できる男が一体どれだけいるのだろうか。

お互いの名前を呼び合い、求め合った。

そうして、今に至る。

 

 

 

ようやくこの腕の中に抱くことができた存在。

こうして抱き締めて体温を感じると、夢や幻ではないんだということが分かる。

ずっとこうしていたいとも思うけれど、一体今は何時なのだろうか。

首を動かして壁掛けの時計を見ると、朝の6時を回ったところであることが分かった。

良かった、寝過ごして昼前とかだったらどうしようかと思った。

今日は学校こそ休みだが、母が何時に帰ってくるか分からない以上、あまりのんびりはできないのだ。

「ヒカリ、そろそろ…」

「ん…ん〜」

腕の中の彼女に優しく囁くと、彼女はもぞもぞと布団の中に潜り込んでしまう。

何それ、可愛いんですケド。とか思ったけれど口にはしなかった。

「ヒカリぃ?」

毛布を捲って覗き込むと、彼女は更に奥に潜り込み、ギュウっと僕の腰に抱きついてきた。

「ちょ、ヒカリ、寝ぼけてる?」

「んぅ?」

僕の焦った声に、ヒカリはちょっとだけ顔を上げ、上目遣いにこちらを見た。

その目はまだ眠そうに揺れている。

やれやれ、もう暫くは起きないのかな、と思って僕もまたまどろみに意識を預けた。

 

 




漸くタケルとヒカリがくっつきました。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第14話 〜夢〜

 

『なるほど、それで今まで連絡ができなかったわけだ』

電話の向こうで友人は静かに怒っているようだった。

携帯から聞こえてくる少しばかり冷ややかに響く友の声に、僕の額には冷や汗が浮かぶ。

普段はとても優しいけれど、怒らせたら仲間内では光子郎の次に恐いと踏んでいる彼は、僕の決戦の行く末を気にして昨日の夜にメールを入れ、連絡が来ないことで心配になって電話を入れ、それでも応答がないので何かあったのではと気が気ではなかったらしい。

それもこれも、僕がヒカリに夢中になって携帯を放置していた所為であって、賢からの連絡に気付いたのは、二度寝から目覚めた昼過ぎだった。

夜の内に気付いて「上手くいった」と一言でも返しておけば良かったと後悔したが、それは後の祭り。

ヒカリがシャワーを浴びている間に謝っておこうと電話をかけ、まずは連絡が遅れたことを詫び、粗方の事情を説明して冒頭の言葉に繋がる。

「いやー、ホントにゴメンナサイ」

どうしても声が硬くなるのは、相手の顔が見えないからでもある。

『ふぅ』と電話の向こうでため息をつくのが聞こえた。

ビクッと身構える。

『便りがないのはいい便りって言うから、そっちの可能性を信じてたけどさ。でもやっぱり心配した。前日にあれだけビビって泣きついてきたから、上手くいかなかった時にどう励まそうか真剣に考えたのに』

「賢は最近言うことが古臭いね」

『真剣に考えた・の・に!』

「ハイ!大変申し訳ありませんでした!」

『まあいいさ、上手く行ったなら良かった。詳しくはまた改めて聞くとして…』

どうやらマジ怒りではなかったらしく、いつもの調子に戻った賢にホッとする。

大幅に連絡が遅れたことは、本当に申し訳ないことをしたと思う。

ヒカリに告白された時も然り、その後自分の気持ちを伝えると決めてからも、あれこれと不安に駆られる僕の相談に乗ってくれていたのは彼なのだ。

今度何か奢ろう、と思っているところに、賢のとんでもない発言がぶち込まれた。

『今度トリプルデートするから、来週の日曜は予定空けといてくれ』

「…は?」

何だって?

デート、はいいとして、トリプルって何?

誰と誰と誰と誰と誰と誰?

『行き先は鎌倉の予定だから、八神さんにも伝えておいて。当日は午前10時に鎌倉駅集合』

「ちょっと待って、賢!何でもう決定事項!?しかもトリプルって何?突っ込む隙を与えてください!」

淡々とスケジュールを説明する賢に慌てる僕。

そんな僕の反応を待っていたと言わんばかりに賢は噴き出した。

『あははははっ、京、大成功!』

そして、会話にはいない筈の賢の彼女の名前が飛び出した。

待て、いるのかそこに!?

ハッとして携帯の向こう、賢の声以外の音に耳を澄ます。

と、『でしょー?ざまーミロ!』と楽しそうな京の声が聞こえてきた。

「ちょっ、賢!?」

『あぁ、そうそう、言ってなかったけど京とスカイプ中だったんだ、今』

やられた。もしかしてさっきまでの会話もスピーカーとかにして聞かれていたのでは、と思うと恥ずかしさを禁じえない。

が、さすがにそこまで意地悪ではなかったらしく、賢は『タケルの言った内容は聞こえてないよ』と笑った。

「はぁ、心臓に悪い。で、トリプルって、そっちとこっちのダブルなら分かるけど、もう1組は?」最も気になった事を聞くと、またしても驚かされることになった。

 

 

 

 

後日。

「ねえタケル、トリプルデートは分かったんだけど、どうしてその前に作戦会議が必要なの?」

例のトリプルデートの前日、僕達は一乗寺家に向かっていた。

何でも、明日のデートの作戦会議なんだとかで賢と京に呼び出されたのだ。

「んー、何て言うか、作戦が必要なのは僕達や賢達じゃなくて…」

 

 

 

「あー、どーすりゃいいんだよぉ、なあ賢、タケルぅ!」

作戦会議と称して集まったメンバーの中で、初っ端からテンパってる奴が一名。

「どうって、ただのデートでしょ?鎌倉観光なんだし、名所回ってご飯食べて江ノ島行って…こんな王道なデートコースまで用意してもらって、どうもこうもないじゃん」

「そーじゃねーんだよ!」

賢と京が準備したガイドブックとピックアップしたデートコースをメモした紙を指して答える僕の眼前にテンパった友人が迫る。

その顔を押しやって、僕はため息をついた。

「何で大輔の初デートに僕達が付き合ってあげなきゃなんないのさ」

大輔に彼女ができた、と聞いた時には驚いたけど喜びもした。

けど、それでトリプルデートになる意味が分からない。

大輔にとって初めての彼女で、男女交際のイロハが分からないのは仕方がない。

というか、僕もヒカリが初めての彼女なんですケド。

まあそれはいいとして、恋愛初心者のためにデートプランの相談やお膳立てをするくらいなら協力するのもやぶさかではない。

大輔は大切な仲間であり、友人なのだから尚のこと協力は惜しまないつもりだ。

しかし、記念すべき初デートに他カップルがぞろぞろと、ってどうなんだと思ってしまう。

「まあまあ、タケルだって散々僕達に心配かけたんだから、これくらいしてあげても罰は当たらないって」

あからさまに不満げな僕を、向かいで別のガイドブックを開いていた賢がたしなめる。

京とヒカリの女子二人組はキッチンでおやつ作りに勤しんでいるためこの場にはいない。

頭を抱えてのたうち回っている大輔を尻目に、僕は賢に言い返す。

「でも、大輔の彼女って僕達と面識ないでしょ?せっかくの初デートに知らないメンツでなんて」

「いや、それは大丈夫だよ」

「何で?」

「大輔の彼女は京の友達で僕とも面識があるし、八神さんとは同じ高校で委員会が一緒なんだ」

「まさかの僕だけ初対面?」

「そう」

知らされた事実に少しだけショックを受ける。

ってか、何その繋がり。

それでも、選ばれし子供の仲間である自分達の輪の中に入るのは、中々キツイものがあるのでは、と思ってしまった。すると、それを察したかのように賢が続けた。

「それに、そーゆーのを気にする子じゃないんだ」

「…そうなんだ」

半信半疑で答える。

賢が言うのだからそうなんだろうと思うけど、やっぱり複雑な思いもあった。

他人が、僕達の中に入ってくる。

納得はしても妙な感覚だった。

そして、入ってくる相手のことを考えると少しだけ気の毒に思ってしまう。

「賢、タケル、手はいつ繋ぐんだ!?」

そんなことは微塵も考えていなさそうな大輔の切実な叫びに、僕と賢は口を揃えて「好きにして」と返した。

 

 

 

京とヒカリが揚げたてのドーナツを山のように乗せた皿を持って部屋に戻ってきた。

ペロッと舌を出して「作りすぎちゃった」と笑う京の隣で、申し訳なさそうにしているヒカリ。

部屋の中心にドーナツの山が鎮座し、甘い香りが部屋に充満する。

それぞれにドーナツを齧りながら、明日のプランについての話し合いが進んでいった。

そして、ある程度纏まってくると、やがて話題は大輔の彼女に移った。

「でさ、結局どんな子なの?歳とか性格とか僕何も知らないんだけど」

この中で唯一その彼女と面識が無い僕が大輔に聞くと、何故か答えは京から返ってきた。

「あのね、歳はタケル君達と同じで、性格は明るくてカワイイ子よ。あ、名前は初島ユウキっていうの」

「ユウキ…」

何てタイムリーな名前だ。図らずも大輔が受け継いだ紋章は『勇気』だった。

「高校はヒカリちゃんと同じで、お台場に住んでるのよ。でねでね!」

相変わらずテンションの高い京が、聞いてもいないその初島ユウキとの出会いから語り始める。

そもそもは、京がネットサーフィン中に彼女と知り合い、仲良くなったのが始まりだったそうだ。

よくよく話をしていくと、彼女はかつてディアボロモンとの戦いの時、京同様に応援メールを送った子供の1人であり、またアーマゲモンとの戦いも東京湾で見ていたのだという。

パートナーこそいないということだが、京が選ばれし子供であると知り、更に交流は頻繁になったらしい。

そして、彼女のたっての願いで大輔を紹介することになった、と。

「向こうは大輔のこと知ってたの?」

「そうみたい。というか、小学校は私達と一緒だったんだって。全く覚えてないんだけどね、あははー」

あっけらかんと言い放つ京。

思わぬ所で僕達との共通項が出てきた。

だが、京も言ったが、同じ小学校でも生徒数がかなり多かったため、たとえ同級生でも親しくない子のことまでは覚えていない。

それに、僕にとってあの頃は仲間が全てだったから、余計に記憶には残っていないのだ。

「それで、紹介してから2ヶ月くらいはお友達してたんだっけ?」

「3ヶ月だよ」

「そっかそっか、3ヶ月お友達して、つい先日めでたく彼氏彼女になりました〜って感じ」

何て大雑把な説明だ。

しかも、大輔との馴れ初めよりも、京との出会いの方に重きが置かれていた。

「何はともあれ、ヒカリちゃんもタケル君と紆余曲折を経てくっついたわけだし、大輔にも春が来た!明日は祝いのトリプルデートよ!!」

半分になったドーナツを掲げて高らかに宣言する京。

隣では賢が恥ずかしそうにしている。

というか、紆余曲折とか余計なお世話だけどね。

大輔にもう少し聞きたいことがあったけれど、場の主導権を握る京が僕達にターゲットを変更したため、付き合うまでの事の成り行きを説明する羽目になり、結局その日は満足に大輔の話を聞く事ができなかった。

かろうじて一乗寺家からの帰り道に聞く事ができたのは、告白は大輔からしたということと、彼女はデジタルワールドに興味を持っているということだった。

デジタルワールドに興味がある。

それは、デジモンが関わる事件に関与してきたからなのか、僕の中ではそれが少し引っ掛かった。

 

 

 

その日、僕は久しぶりにデジタルワールドの夢を見た。

心の中に引っ掛かっていた何かが夢を見させたのだろうか。

あの夏に駆けた世界、その世界の縮図でもあった始まりの島、その中央に聳える峻険な山、中腹に建つ場違いな洋館、壁に飾られた天使の絵。

白い翼の天使が、徐々に這い上がる闇に染まり、悪魔の様相を呈した。

音もなく、悪魔が絵画の牢獄から抜け出す。

左右に広げた翼から、天使の名残りが舞い落ちる。

デジタルワールドの夢を見て、泣かずに目を覚ましたのは久々だった。

あの世界の夢はほぼ決まって悪夢だったからだ。

最後に見たのはいつだったか。

もう何年も前のことだ。

何故今になって…。

毛布から抜け出し、カーテンを開けた。外はまだ仄暗く、日の出を待ちわびている。

今でこそ、あの世界を強く求めることも、酷く嫌悪することもなくなった。

それは、あの夏に囚われていた僕を解放したから。

緩やかに、あの世界を懐かしく思い出せるようになっていた。

だというのに、今更僕の中の何が、あの世界を求めたのだろう。

それとも、別の何かが…。

不可解な夢は気になったけれど、僕は誰にも話すつもりはなかった。

あの夢からは嫌なイメージを受けなかったから。

ただ、戦いが終わってからもあの世界の観測を続けている光子郎に、何か異常もしくは変化が見られていないかだけは確認しようと思い、Dターミナルでメールを送っておいた。

その返信は、今日のトリプルデートの待ち合わせ場所である鎌倉駅に着く直前に届いた。

内容は、あの世界に異常は見られていないとのこと。

些細な変化といえば、戦いの後からランダムで開かれるようになったゲートポイントが都心に一つ増えたことくらいで、これは時間をかけてゆっくりと増加傾向にあるということなので心配はないらしい。

何もないならそれでいい。

 

 

 

鎌倉駅で仲間達と合流する。

お台場組と一緒に現れた大輔の彼女は、赤茶色のショートカットに両サイドの一部のみ長く伸ばしたヘアスタイル、目鼻立ちはハッキリとして、特に真ん丸いくりっとした目が印象的な女の子だった。

背格好はヒカリに似ていて、華奢な体と平均的な身長、服装はボーイッシュだが、所々の小物使いがお洒落だ。

なるほど、京が言った「明るくてカワイイ」というイメージは的を射ていた。

そして、初対面の僕に対し「あなたが高石タケルさん!私、初島ユウキといいます。よろしくお願いします」と礼儀正しく挨拶をして握手を求めてくるあたり、社交的で積極的という印象も加わった。

「高石タケルです。大輔や京さんとは小学校からの友達です。こちらこそ、よろしく」

簡単な自己紹介を返し、差し出された手を握った瞬間、僕の中に鮮明なイメージが映画のコマ送りのように浮かび上がる。

直後、光の渦に呑まれるような感覚に襲われ、気がつくと現実に戻っていた。

先ほどのイメージが何だったのか、思い出せない。

一体、あれは…。

「タケル?」

意識を飛ばしかけた所をヒカリの声で呼び戻され、僕は笑って誤魔化し、その手を離した。

眼前の初対面の女の子が不思議そうにこちらを見上げてくる。

彼女の纏う空気が、唐突に色となって一瞬だけ僕の目に映り、そして消えた。

錯覚か?仲間が最初の行き先について話している間に、僕はヒカリにこっそりと耳打ちをする。

「ヒカリ、あの子と学校一緒って言ったよね?」

「そうよ、クラスは違うからあまり話す機会はないけど。委員会でたまに会うくらいかしら」

ヒカリも僕に合わせて小声で返してくる。

僕は少し躊躇ったが、僕以上に敏感に何かを感じてきたヒカリがもしかしたら同じものを感知しているかもしれないと思い尋ねた。

「あの子から何か感じたりした?」

「何かって?」

「えーっと、何かイメージが伝わってきたりとか、空気に色がついたり…とか」

自分で言ってて意味が分からなくなる。

何かと言われてもよく分かっていないので説明のしようがないのが実際の所だ。

取り敢えず、何でも構わないと言うと、ヒカリは首を傾げた。

「特に何も…タケル、何か感じたの?」

「ちょっとね」

上手く説明できないんだけど、と言うと、ヒカリは明らかに不安げな表情をする。

それを見て、僕は慌てて「でもきっと気のせいだよ」と咄嗟にフォローするが、ヒカリの表情は変わらない。

「何かあるなら言ってね。もう1人で抱えるのはナシよ」

やや強い口調が釘をさす。

ヒカリの忠告は、多分彼女自身の教訓だろう。

昔、本当の意味での始まりとなった光ヶ丘爆弾テロ事件と呼称されたデジモンとの出逢い。

あの事件を引き起こしたのは自分の持つ不思議な力だと、ずっと責任を感じて抱え込んでいた彼女だからこそ。

そして、僕には前科があるから。

「ありがとう。別に嫌な感じとかじゃないんだ。少し、何かが引っ掛かってて…」

「そう…もしまた何か感じたようならすぐ言ってね。私も注意してみるから」

「うん、ありがとう」

彼女の気遣いに感謝し、もう一度初島ユウキに視線を移した。

僕等の中に入っても少しも物怖じせず、この場に馴染んでいるようにすら見える。

そういう所は京に似ているのか、でも京とは決定的に何かが違う。

彼女の隣の大輔を見やる。

緊張でガチガチかと思いきや、初島ユウキと話す表情はいつもの大輔だった。

何だ、案外大丈夫そうじゃん。

昨日の様子を見ている限りでは、まともなエスコートができるのかと不安だったが、これなら問題はなさそうだと安心する。

その向かいで会話を先導している京、その隣の賢まで視線を動かして、あっ、と思い立つ。

賢は?賢は彼女から何か感じていないだろうか?

賢もまた、僕達とは違う世界を感じた経験がある。

移動中にでもそっと聞いてみようと思った。

まずは鶴岡八幡宮に参拝するのだ、と今回のプランの立案者である京が意気揚々と先頭をきる。

そういえば、何故に鎌倉なのか、という疑問を昨日の会議で聞いたとき、「時代は鎌倉よ!」という京の訳のわからない説明に首を傾げた僕に、少々呆れ顔の賢がこっそり耳打ちで理由を教えてくれた。

何やら最近観に行った映画の影響で、絶賛鎌倉ブームなんだとか。

大輔のデートの応援だとか言っておいて、本当は自分が行きたかっただけなのでは、と思ったが口には出さなかった。

丸めたガイドブックを振りかざして先頭を歩く京のすぐ後ろを賢、本日の主役であるはずの大輔&ユウキカップル、僕とヒカリの順に続く。

この配置だと賢と話すのは難しかったが、隊列はすぐに乱れた。

道の両脇に立ち並ぶ店に目移りする女子チームが、雑貨屋だお土産屋だと2軒と空けずに寄り道を始めたが最後、もはや男子は置いてきぼりだ。

僕にとっては好都合だったけど。

さして興味のない雑貨屋に引っ張り込まれ、女三人が二階のフロアに姿を消した後、僕は入り口付近で暇を潰している賢に寄って行って話を振った。

「賢、あの子のことなんだけど」

「初島さん?」

「うん、あの子に初めて会ったのっていつ?」

「え?そうだな、京から紹介されたのは半年くらい前かな。僕にどうしても会いたいっていう子がいるんだって言われて」

ガヤガヤと団体客が入ってくるのと入れ違いに店を出て、邪魔にならない場所に移動する。

賢の言葉を聞いて、昨日から引っ掛かっている何かが少しだけ輪郭を持ち始めたのを感じた。

「大輔より先に紹介されたの?」

「まあ、本当は大輔も一緒の予定だったんだけど、その頃は大輔、部活で忙しかったから」

「そうなんだ…」

「どうかしたのか?」

「いや……賢はさ、あの子から何か感じなかった?」

「タケル?」

僕の不可解な質問に、賢が怪訝そうな顔をする。

僕しか感じていないのか、もしくは白昼夢か。

一瞬過ぎった考えを、次の賢の言葉が打ち消した。

「君も、感じたのか?」

「!?」

僕は目を瞠った。

賢は先ほどまでの怪訝そうな顔を取り去って、酷く真剣な表情を浮かべている。

「最初に会った時、さっきのタケルの時みたいに握手を求められたんだ。彼女と握手した瞬間、何かが見えた。何だったかは覚えていないけど」

全く同じだった。

「僕も同じ…何かのイメージが見えて、光に飲み込まれたらそのイメージは消えてて。その後に、あの子の周りの空気に色がついたみたいに見えたんだ」

「色か…僕は音が聞こえた。乾いた木がぶつかるような感じの音が微かに」

「音…」

色と音。

それが何を意味するのか、まだ全くの未知だ。

最初に見えたイメージが何なのか思い出せれば、何か分かるのだろうか。

不可解な現象、心に引っ掛かって取れない違和感、やはり不快な感じはしないけれど、凄く気になる。

「その後また何か聞こえたり見えたりはしなかった?」

「いや、最初の一回だけだ。だから気のせいだったのかもしれないと思っていたんだけど」

僕が同じような体験をしたことで、思い過ごしや気のせいでは済まなくなった。

初島ユウキ。

彼女は一体何者なのか、そしてこの現象は僕達だけなのか、新たな疑念が生まれる。

賢曰く、京は特に何も感じなかったとのことだ。

まあ、何となく分かるけど。

僕は、ヒカリもまた特別何かを感じた訳ではないことを告げる。

賢は「そうか…」と少し顔を顰めた。

それは多分、僕と同じようにヒカリが不思議な力を持っていることを身に染みて感じたことがあるからだろう。

その彼女が何も感じない。

にもかかわらず、僕達だけに見えたり聞こえたりしていることが、更に疑念を深める。

するとそこへ、店の中で団体客に揉みくちゃにされて逃げ出してきた大輔がやってきた。

「あー、参ったぁ。おばちゃん達の力ハンパねー」

げっそりした様子の大輔に、ちょっと同情する。

女の子達はまだ降りてきていない。

僕は賢に目配せすると、賢は小さく首を振った。

うわ、もしかして通じた?

賢の反応に、ちょっと驚きつつも、内心で喜ぶ自分がいる。

「大輔には聞いた?」という無言のメッセージ。予想通り、賢は大輔には聞いてない。

僕は大輔を手招きし、「ちょっと質問」と切り出した。

「なんだよ?」

「あのさ、大輔の彼女」

「ん?初島がなんだよ?」

苗字で呼んでるんだね、まだ名前では呼べないのかな、なんて微笑ましい感想は横に置いといて、今は本題。

「その初島さんと会った時さ、何か感じなかった?」

「あ?何かってなんだよ」

やっぱストレートに聞かないと通じないか。

「例えば、何かのイメージみたいなものが頭の中に浮かんだり、その後に不思議な色を見たとか音を聞いたとか」

「イメージ?色?音?」

僕達が体験したものを言葉にするが、やはり抽象的すぎて大輔には伝わらない。

「んー、初島さんの周りにふわーって色のついたオーラみたいなのが見えたり、乾いた木がぶつかるような音が聞こえたりってことなかった?」

「はぁ?」

ダメか。今できる最大限の具体的な説明は功を成さず、ちょっと肩を落とす。

と、それを見兼ねた賢が助け舟を出した。

「大輔、前に初島さんのこと「笑いながら泣いてる奴」って言ってただろ?あれって何でそう思ったんだ?」

笑いながら泣く?その言葉は気になる。

表面的には笑っていても、心では泣いているということなのか。

そんな苦しい状態を、僕は身を持って経験した。

まさか彼女も?あくまで憶測の域を出ないため、大輔の返答が待たれる。

当の大輔は、斜め上に視線を向けて思い出すように話し始めた。

「ああ、あれか。あれは何ていうか、初島はちゃんとそこにいて笑ってんだけど、あいつはあいつじゃない何かを背負わされて泣いてるように見えたんだ」

「初島さんじゃない何か?」

「それが何かははっきり分かんねぇけど、そんな気がした。初島はさ、明るいし素直だし、時々間抜けだけど、いつも自分じゃない何かのために頑張っててさ、見てらんねぇ時があんだよ」

滅多に見ない大輔の真剣な眼差し。

またこいつは誰かを救おうとしているんだと思うのと同時に、初島ユウキは僕の予想とは異なるものを抱えているということに気付いた。

彼女は、僕や賢がそうであったように、自分の中に抱えきれないものを閉じ込めて苦しんでいる訳じゃない。

もっと違う、自分以外の何かを背負いこんで苦しんでいるんだ。

大輔は理屈ではなくそれに気付いた。そして初島ユウキも恐らく、そんな大輔の本質に意識的か無意識かは別にしても気付いたからこそ惹かれたんだ。

僕や賢が大輔に惹かれたのと同じように。

「俺、あいつに何も気にしないで笑って欲しいんだ。そんで、その顔を一番近くで見たい」

贅沢だろ?と惚気る大輔は、悔しいけど男前だった。

「言うねぇ、大輔。そんだけカッコよく言い切る割には、昨日からテンパったりしてたけど」

「う、うるせぇな!」

昨日の見事なテンパりっぷりを僕に指摘され、大輔が顔を赤くして怒鳴る。

いつもの調子になった所で、二階から女の子達が戻ってきた。

「あ、ねぇ賢、これどうかな?」

賢を見つけた京が真っ先に駆け寄ってきて、この雑貨屋で購入したのであろう、ちりめんの眼鏡ケースを見せながら尋ねている。

その後ろから、ヒカリと初島ユウキがやってきて、何やらお互いに購入した雑貨を見せ合っていた。

ふと顔を上げた初島ユウキと目が合う。

真ん丸い目が細められ、ニッコリと笑った。

その瞬間、またあの色が彼女の周囲の空気を染めてすぐに消えた。

ハッとする横で、賢の表情が変わったのを感じる。

まさかと思って隣を見ると、どうやらドンピシャだったらしい。

聞こえた。

そう賢の表情が言っていた。

ほんの一瞬。

ヒカリが気付いた様子はなく、大輔もまた平常通りに見えた。

 

 

何なんだ?

 

 

そに疑念は晴れないまま鎌倉観光は進む。

昼食は行く先々の店で目についた食べ物を買って食べ歩いた。

シラスほっとサンド、串焼き、クレープ等。

鶴岡八幡宮は各々のカップルで好きな順路を巡った。

参道を歩く間、ヒカリと話をしながら僕の頭の中を巡っていたのは初島ユウキのことだった。

そして、参拝を終えて皆と合流する時、もう一つ心に引っ掛かっていたことが、にわかに頭を占拠しはじめた。

 

 

少し日の傾いた空を背景にした江ノ島が対岸に浮かぶ。

まだまだ元気が有り余る大輔、京、初島ユウキが浜辺で波と戯れていた。

賢と僕、そしてヒカリはそれを眺めている。

やがて、初島ユウキが波から上がってこちらにやってくると、ヒカリに交代を要請した。

ヒカリはにこやかにそれを受けて、大輔と京の待つ波打ち際に走っていった。

今日初めてのスリーショットができあがる。

僕は弾んでいた息を整えた初島ユウキを視界に収め、目を細めてみるが、あの時のような色は見えない。

すると、初島ユウキがそに視線に気付いたのか、こちらを振り返った。

「何かついてますか?私」

「えっ、いや、そんなことないよ。大輔の彼女にしてはカワイイなぁって思って」

「そんなことないですよ。むしろ、私に大輔君は勿体無いくらいなんですからぁ」

慌てて誤魔化そうとして言ったのだが、あまりに素直で謙虚な答えにちょっと驚く。

と、初島ユウキはペロっと舌を出して「なーんて、彼には言ってないんですけどね」と悪戯っぽく笑った。

こうして見ると、普通の明るい女の子だ。

けど、何か引っかかる。

それまで黙っていた賢が口を開く。

「初島さん。初島さんは、何で京に僕や大輔を紹介してくれって頼んだんだい?」

「それは…」

「デジタルワールドに興味があるっていうのと、何か関係がある?」

賢の質問は、きっと僕の引っ掛かりと重なるものがある感じた僕は、初島ユウキの答えを待たずに畳み掛けた。

初島ユウキは僕達二人の顔を交互に見て、それから波打ち際の大輔を見て、「会わなきゃいけないって思ったんです」と答えた。

「1999年の夏、私は初めてデジタルワールドの存在を知りました。空に浮かんだ逆さまの世界。その次の年のディアボロモンのサイバーテロ。2002年の世界を巻き込んだデジモン騒ぎ。また立て続けに起きた東京でのアーマゲモンの事件。どれにも遭遇したのはきっと私だけじゃないけど、私が遭遇したのには意味があるって思っていたんです。大輔君達みたいに選ばれたわけじゃないけど、あの世界にずっと呼ばれている気がして」

「呼ばれている?」

反応したのは賢だ。

僕も少なからず目の色を変えた。

「はい。初めてあの世界を見た時、私は自分でも気付かない内にめい一杯手を伸ばしていました。必死に爪先立ちして背伸びして、届かない世界に向かって手を広げて。その後も、あの世界を感じるたびに手を伸ばし続けて、でも届かなくて。そんな時に京と知り合って、あの世界について色々話を聞いたんです。それで、あの東京湾でアーマゲモンを倒したデジモンのパートナーが京の仲間だって知って、何でか会わなきゃいけないって思ったんです」

「会ってみて、どうだったの?」

何かに突き動かされるように僕達の前に現れた初島ユウキは、大輔と賢と会って何を得たのだろうか。

僕の質問に、初島ユウキはパアッと顔を輝かせた。

「良かったです!私、大輔君に会えて凄く良かったって思います!」

キラキラと語る横顔はいつのまにか恋する乙女だった。

「そ、それだけ?」

少し脱力したような賢の声。

激しく同意見だ。

初島ユウキは「いいえ、もっといろいろあります!」と力強く大輔の良さを並べ立て始める。

そうじゃない、と思いつつも、止められない男二人。

しかし、彼女が最後に言った言葉とその表情だけは、僕達二人の中に強く残った。

 

 

「大輔君は手を差し伸べた相手を絶対に離さないで力強く引っ張ってくれる。私はずっと、そんな彼を探して、そして見つけたんです」

 

 

大輔は無意識の内に誰かに手を差し伸べ、救っていく。

それは彼の持って生まれた本質だ。

誰かを思う強い気持ちや人の痛みを真正直に受け止める情の厚さ、真っ直ぐで偽りのない性格は淀みなく誰かを導き、時には背中を押す。

彼が受け継いだ紋章の『友情』、『勇気』、そして恐らく彼の本当の紋章である『奇跡』。

僕や賢も、彼の友情に心を開き、彼に勇気を貰って歩き出し、彼の奇跡に救われた。

 

 

 

初島ユウキは、奇跡を探していたんだ。

彼女が背負う何かのために。

そしてその何かは、徐々に僕達の前にその全貌を現し始める。

 

 

 




少し長めですが、新しいオリジナルキャラも登場して、次の展開に移行します。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第15話 〜予兆〜

 

 

あの日以来、何かを予見するかのように頻繁にデジタルワールドの夢を見るようになった。

同じ夢もあれば、違う夢もあった。

天使が悪魔になる夢以外に、ダイノ古代境の最深層で炎の壁をただ見上げているだけの夢、オーバーデル墓地の隅に小さな花が芽吹く夢、遊園地の観覧車が回り続ける夢、はじまりの町にデジタマが生まれる夢。

それらの夢には共通点があった。

一つは誰もいないこと、二つ目は音が無いこと、そして三つ目は、どの夢にも嫌な感じがしないことだった。

目が覚めると決まって頭はクリアで、時間は夜明け前。

何を意味しているのだろうか。

未だこの夢を誰にも話さずにいることに僅かながらの罪悪感を感じながら、日々はあまりにも平穏に流れた。

 

 

 

 

 

ぼんやりと流れていく雲を見つめていた。

2月の空は高く、空気は澄んでいた。

隣でカサリと紙の擦れる音が聞こえる。

マコトが手元の歌詞カードをめくる音だ。

首を捻ると、イヤホンを着けて歌詞カードに目を走らせるマコトが見えた。彼女は僕の視線に気付くと、イヤホンを片方外して「何?」と尋ねてくる。

「次はどんな曲歌うの?」

「沖縄出身の女性アーティストの曲。大分前にデビューして、今は活動休止中なんだけど」

と言いながら外したイヤホンを僕に差し出した。

僕は上半身を起こしてそれを受け取り、耳に着ける。

その間にマコトが本体を操作して曲を頭出ししてくれた。

一つのイヤホンを二人で使うため、必然的に距離が近くなる。

僅かな無音の後に音楽が流れはじめた。聞き覚えのある前奏は、でもタイトルは思い出せない。

アーティストが歌い始める。どことなく幼さを感じさせる声色だが、歌う歌詞は恋人のいる男を慰める女の視点だった。そのギャップが少し危うい。

「水崎さんが好きそうだね」

「当たり。このアーティストの曲は好きで、アルバムも何枚か持ってるの」

感想と一緒にイヤホンを返し、それに答えながらマコトが受け取る。

ちょうど午後の授業の時間だった。

屋上を後にして階段を降りた別れ際、さっきの曲のタイトルをマコトに尋ねた。

マコトは歌詞カードをチラッと見てから、「儚いもの」と短く答え、手を振って自分のクラスに向かって行った。

 

儚いもの

 

それは何とも、複雑な気持ちにさせるタイトルだった。

けど、マコトが歌うのならピッタリかもしれないと思う。

ふと、マコトはいつまで歌を続けていくのだろうという考えが浮かんだ。

高校生の間は軽音部や合唱部で歌うのだろうが、卒業後はどうするのだろうか。

マコトはプロへの道は選ばないと言っていた。

それでも、僕はマコトに歌い続けて欲しいと思う。

彼女の歌を自分が聴きたいだけかもしれないけれど。

 

 

 

 

それからも、学校生活は滞りなく過ぎていった。

じきに三学期も終わり、春休みに入る。

春休みはバイトでもしようかと考えていた。

理由はヒカリとのデート費用の調達と、今後嵩むであろうプレゼント費用のための貯金だ。

お小遣いはそれなりに節約して貯めているが、一人暮らしをさせてもらっている手前、親に必要以上の負担を掛けないためにそちらを切り崩すわけにはいかない。

本屋に寄ったついでに持ってきたバイト情報誌を開きながら、チラリと携帯の時計表示に目をやる。

そろそろヒカリが来ると言っていた時間だ。

今日はヒカリのたっての願いで放課後に会うことになっていた。

しかも、こちらから出向こうかと言ったが、頑として自分が世田谷に来ると言ってきかなかったのだ。

最初はその理由がよく分からなかったが、約束してから数日経ってふとカレンダーを見て漸く納得がいった。

約束の日は2月14日、バレンタインデーだ。

世の女の子にとっては大切な日。

仲間内の彼氏彼女持ちも、きっと仲良くやっていることだろう。

大輔も今年は相手がいるわけだし。

まあ、そんなこんなで授業が引けてからすぐに帰ってきて軽く掃除をして待っている。

学校で何人かの女の子からチョコレートを貰って欲しいと声をかけられたが、彼女がいるので気持ちには答えられないと丁重にお断りした。

机やロッカーの中に入っていたものは仕方がないので持って帰ってきて、ヒカリの目に付かない場所に追いやってある。

そろそろこのバイト情報誌も隠そうと考えていると、インターホンが鳴った。

情報誌をベッドの下に放り込み、僕は玄関に向かう。

来訪者は待ち人であるヒカリだった。

部屋に招き入れ、準備していた紅茶を淹れてもてなす。彼女は一度家に帰って着替えてきたのだろう、白いブラウスシャツの上にピンクのカーディガン、グレーのスカート姿だった。

そして、いつものブラウンのショルダーバッグの他に小さめの紙袋を持ってきていた。

「外寒かったでしょ?」

「うん、今日は風が強くて」

ヒカリはマグカップを両手で持ち、冷えた手を温めている。

寒空の下を歩いてきたためか、耳が赤い。手を伸ばしてその耳に触れると、擽ったそうに肩を竦めて笑った。

そのまま顔を近づけ、お互いに唇を寄せる。

恋人と触れ合う幸せな時間、心穏やかな時。

唇が重なる瞬間、フッと連日見るようになった夢が去来する。

何かあれば話して、と言った恋人に僕はまだ伝えていない。

ごめんね、と心の中で謝って、触れるだけのキスをした。

ヒカリが用意してくれたのは、手作りのチョコレートだった。

家族や仲間にも作ったが、これは特別なんだと頬を染めながら説明してくれた。

1年前の自分には想像できなかっただろうな、ヒカリから本命のチョコレートを貰うなんて。

仲間へのチョコレートは毎年貰っていたけど。

その場で包みを開けると、正方形に区切られた箱の中にトリュフがおさめられていた。

ヒカリに御礼を告げ、トリュフを一つ摘んで口に放り込む。

ココアパウダーの苦味の後にチョコレートの甘さとカカオの香りが口いっぱいに広がっていく。

「美味しい」

「本当?良かった」

率直な感想を述べると、ヒカリはホッとしたのか安心した朗らかな笑みを零した。

 

 

あまりに満たされた毎日に、時々怖くなることもある。

けれど、今この瞬間の幸せは、自分以外の誰のものでもないのだと言い聞かせた。

 

 

ヒカリを最寄駅で見送ってマンションへ帰る途中、携帯がズボンのポケット震わせた。

取り出してみると、そこには見知らぬアドレスからメールが届いていた。

タイトルは無題。

ダイレクトメールは大抵弾くように設定してあるのだが、誰かがアドレスでも変えたのだろうか。

そう思ってメールを開くと、そこには一文字だけ「す」と表示されていた。

「す?」

スクロールするほどの容量でもなく、一文字だけのメッセージ。

悪戯か何かと思って削除しようとした時、アドレス欄に表示された文字列に目が止まった。

 

apocalypsis

 

誰かの悪戯。

そう思えれば良かったのかもしれないが、僕には思えない理由がある。

一気に不安が膨れ上がり、怒涛のように心の平穏を蹴散らしていく。

まず誰に連絡する?ヒカリ?いや光子郎さん?待て、悪戯でないと決まったわけじゃないのに、でもこれは、もし考えが的中していたら、今頃になってどうして…。

そこでハッとする。

今頃になって。

ごく最近そう思ったことがあった筈だ。

あの夢。

デジタルワールドの夢はまさしくなぜ今頃になって見たのだ。

もしかして繋がっているのでは?だとしたら、何を伝えようとしている?僕だけが夢を見て、僕だけがこのメールを受け取っているのか?

頭の中を飛び交う考えが纏まってくれない。

落ち着きたいのに、加速していく鼓動が邪魔をする。

知らないうちに手が震えていた。

恐怖か、不安か。

僕は震える指で携帯を操作し、今最も自分の近くにいる友人に電話をかけた。

コール音の一回一回が物凄く長く感じられ、耳の奥で幾重にも重なって響く。

このまま繋がらずに音に殺されそうな気さえした。

手が、足が、顔が急速に冷えて、凍えていきそうだ。

賢…。

祈るように目を閉じた時、永遠かと思われたコール音が途切れ、待ちわびた声が耳に届いた。

『タケル』

「賢っ」

『良かった、丁度電話しようと思ってたんだ』

いつも落ち着いている賢の声が、ほんの少しだけ焦っているように聞こえた。

でも僕には、それを気に掛けている余裕は無かった。

「賢、僕はどうしたらいい」

『タケル?』

「分かんないんだ、今頃になってこんなっ、夢だって毎日」

『落ち着け、タケル』

「メール、そうだ、賢のとこにもこれと同じようなメール来てないっ?」

『タケル!』

荒れた心が思い浮かぶままに言葉を紡がせていたが、賢の強い口調がそれを止めた。

滅多に怒鳴ったりなどしない彼に、僕は少しだけ冷静さを取り戻す。

そこへ、一呼吸置いてから落ち着いた声音で賢が言った。

『タケルの言うメールかは分からないけど、僕と京の所にも差出人不明のメールがついさっき届いた。断定はできないけど、恐らくデジタルワールドから』

「賢と京さんに…?」

告げられた事実に僕は呆然と呟く。

『今、他の仲間の所にもメールが来てないか、京が確認してくれてる。八神さんは?』

「今さっき電車で帰った」

『そうか…タケル、今日こっちに来れるか?』

「……うん」

賢の申し出は有難くて、力無く頷くしかできなかった。

今日一人でいたら、嫌な考えしか浮かばない気がした。

あの夢のことも、このメールのことも。

たった1通のメールが、それまでの心の平穏をぶち壊してしまった。

拠り所のない不安に苛まれていた頃のように、唐突に世界が色を無くしていく。

見上げると、空を覆う厚い雲から冷たい雫が落ちてきた。

 

 

 

 




平穏は長くは続きませんでした。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第16話 〜不安〜

 

 

夜、賢の家に辿り着く頃には、僕はずぶ濡れになっていた。

愛用の鞄が防水性で良かったと、この時ばかりは思った。

出迎えてくれた賢に思いっきり顔を顰められ、「バカ」と一言叱られた。

シャワーを借りた後で賢の部屋に行くと、パソコンに向かう京と電話をしている賢がいた。

僕が戻ってきたことに気付くと、京は片手を上げ、賢は「座っていて」と合図をして電話相手と話を続ける。

借りたタオルで髪を拭きながら携帯を開くと、案の定ヒカリからの着信履歴があった。

京からメールの確認がいって、それで電話をかけてきたのだろう。

すぐ返さないとと思ったけれど、持ち上げようとした腕がだるくて、そのまま腰を下ろして携帯を鞄に放った。

「…はい、分かりました。メールは全てそちらに転送しておきます……はい、よろしくお願いします」

電話をする賢の声が聞こえる。

その向こうで、京のタイピング音がする。

この部屋は暖かくて、さっきまでいた世界とは別物みたいに思えた。

電話を切った賢が京に何か話し掛け、京がそれに答えて作業を再開する。

いいコンビだよね、相変わらず。

沈んだ思考でもそう思えるくらい、二人のやり取りは自然だった。

やがて、賢が僕の前に腰を下ろした。頭に引っ掛けてあったタオルをのそりと首に落とし、僕はさっき放り投げた携帯を拾って、例のメールを開いて渡した。

「これか…僕達のと同じアドレスからだな。ただ本文の文字はバラバラ」

「そうなんだ…他はどうだって?」

「今の所、このアドレスからメールが届いたのは僕達と八神さんの四人だけだ。光子郎さんには今話をして、全部のメールを転送して調べてもらうことになった」

ヒカリにも届いていたのか。

益々、電話を返してやらなきゃと思う反面、怖くなった。

自然と厳しい眼差しになる僕に、賢は「まだ判断材料が少な過ぎるから、あまり考えすぎるな」と告げる。

分かってるけど、一度揺らいだ心は中々鎮まらない。

それに、夢のこともある。

「賢と京さんのとこには何て文字が送られてきた?」

「僕が『べ』、京が『の』、八神さんが『て』。全部平仮名一文字だ。それと、送られてきた時間はほぼ同時刻だけど、受信した時間で言うとタケル、僕、八神さん、京の順かな」

「何かのメッセージってこと?」

「そう考えるのが妥当だろうね。単純に受信した順に並べただけでも『すべての』って言葉になる」

「すべての…」

「こーんないかにも続きがありますってメッセージ、まだこれからメールが送られてくる可能性は大いにあるわね」

パソコンでの作業を終えたのか、京がクルリと椅子を回して振り返って言った。確かにその通りだ。誰が何の為にこんなものを送りつけたのかは分からないが、僕達に何かを伝えようとしている。

敵か、味方か。

いずれにせよ、先程賢が言ったように判断材料が少ないために何も動きは取れない。

「とにかく、泉先輩の解析を待ちましょ。全てはそれからよ」

昔よりもずっと年長者らしい雰囲気になった京は、それでも変わらない言い回しで静かに正論を紡ぐ。

主に僕に向けられた言葉に黙って頷いた。

ただ、一つだけ言っておかなければならないことがある、と僕は二人に切り出した。

「一月くらい前から、デジタルワールドの夢を見るんだ。それまではもう何年も見てなかったのに。最近はもう毎日」

「夢…」

そのワードに賢が僅かに反応する。

僕は構わず続けた。

見た夢の内容、音がないことや、人もデジモンも出てこないこと、不快な感じは受けないこと、目覚めは決まって夜明け前だということ。

そして、今回のメールの一件と無関係とは思えないということも。

僕の話を聞き終えた二人は、まず京が賢に目配せし、賢もそれを受けて頷く。

何の合図なのかと疑問に思っていると、賢が「実は…」と驚きの事実を語った。

「僕も最近になってデジタルワールドの夢を見るようになったんだ」

「!?」

驚きを隠せなかった。

まさか、賢もだなんて。

「僕の夢は砂漠か海が殆どで、誰も出てこないことや不快な感じがしないのはタケルの夢と同じだけど、少し違うのは音はあるけど色が無い。灰色なんだ、全部」

「色…僕の夢には色があった。かわりに音が無い…自分の足音すらも」

「そうか…」

「何か妙な感じね。同じデジタルワールドの夢で、賢の夢にないものがタケル君の夢にあって、タケル君の夢にないものが賢の夢にはある。しかも二人とも夢を見出したのはつい最近…」

京が腕を組んで思案顔をする。

共通点と相違点。

何だろう、引っ掛かる。

色と音。

僕達はつい最近もそんな話を…。

 

 

「初島ユウキ」

 

 

導き出されたのは、一月前に一緒に鎌倉に行った大輔の彼女。

僕が呟いた名前に察しの良い賢は気付き、京はクエスチョンマークを掲げた。

「確かに、彼女に接した時、僕は音を聞いて、タケルは色を見た。でも、それだけじゃ…」

「それだけじゃない。彼女はデジタルワールドに呼ばれている気がするって言った。僕達、いや大輔に会わなきゃいけないと思ったって!」

「でもそれだけだよ、タケル」

強く言い切る口調と鋭い眼光を見せた賢に、僕はぐっと言葉を詰まらせた。

京がはらはらとした様子で成り行きを見守っている。

「もしかしたら、何かあるのかもしれない。でも、彼女に関しても圧倒的に情報が足りない。今下手に憶測して決めつけてしまうのは早計だ。それに…」

賢は隣の京を気遣わしげに見やり、それで僕はハッとして自分の軽率さに奥歯を噛んだ。

京と初島ユウキは友達で、しかも大輔の彼女だというのに。

僕はまた、自分のことばかりだ。

分からないことが多すぎて、何一つ繋がっているという確たる証拠はないのに、全てが繋がっているような気がして、気持ちばかりが焦る。

情けない。

「ごめん」と詰まった喉から押し出した。

「いや、気持ちは分かるよ。でも今は落ち着こう。僕達の夢のことは光子郎さんに伝えておく。それと、初島さんのこともね」

こんな時、賢の優しさや冷静さは泣きたいくらいに嬉しくて、頼もしかった。

「あのぉ…」

事の流れを見守っていた京が、居心地の悪い中で発言権を求めて遠慮がちに挙手をした。

「ユウキに話、聞いた方がいい、かな?」

あまり気が進まないと顔に書いてあったが、それでも進言してくれたのは京なりの気遣いだろう。

賢は「京の気持ちは嬉しいけど、急ぎ過ぎは禁物。それに、京が無理することない」と優しく彼女を諭した。

京はホッとしたように、でも申し訳なさそうに頷いている。

それを見て、ヒカリのことが頭をよぎった。

ヒカリも、あの不可解なメールと意味深なアドレスに、不安を感じているかもしれない。

電話をして話をしなくちゃ、話をして不安があるなら、何か言葉をかけて安心させてあげたい。

でも、今はそれができる自信がなかった。

話をしたら、僕の方が彼女に甘えてしまいそうだ。

 

 

 

京を送るために賢が部屋を出て行って、10分ほど経っただろうか。

賢の母親が用意してくれた布団には入らず、掃き出し窓に張り付いて、雨が降り続く外を眺めていた。

まだヒカリに連絡はしていない、いや、正確にはできていない。

メールですら返事ができず、何度も携帯を開けては閉じ、開けては閉じてを繰り返していた。

また、パチンと音を立てて携帯を閉じる。

そして今度は開かず、握りしめて膝を抱えた。

何でも言うと約束したのに、もう抱え込まないと言ったのに、何をしているんだろう。

夢のことも、ずっと先送りにしてきた所為で何て弁解すればいいのか分からない。

急に何もかも上手くいかなくなる。

得体の知れない不安を前に、何かを失う予感ばかりが色濃くなっていく。

嫌だな、この感じ。

膝に顔を埋めて目を閉じた。

このまま賢が帰ってくるまで何も考えたくない。

そう思った時、手の中で携帯が振動する。

もしかしてヒカリか、と顔を上げると、意外な人物からの着信だった。

携帯を開いて通話ボタンを押す。

「…もしもし」

『高石君、水崎だけど』

「うん…どうしたの?何かあった?」

マコトが電話を掛けてくるのは元旦以来で、また何かあったのではと思わずにはいられなかった。

余裕があろうがなかろうが、今度こそマコトの力になれる機会を失うわけにはいかない。

その一心で平静を装ったが、それはすぐに杞憂に終わる。

『あ、特にそういうんじゃないの。ちょっと報せとこうと思ったことがあっただけで…』

「そうなんだ、報せとくことって何?」

『うん。三月に軽音楽部の三年生の卒業ライブがあるんだけど、私もそこで1曲だけ歌うの。だから、もし良かったらと思って』

マコトの声が、酷く遠い日常を語るように響いて切なくなる。そこに帰りたい、帰りたいのに。

「へぇ、凄いね。行くよ、行きたい」

上滑りする自分の声。マコトに気付かれるかもしれない。

『…じゃあ、詳しい日程とかメールで送っとく』

「うん、お願い」。

用件が済んでしまう。

マコトとの電話が終わってしまう。

僕と日常を繋いでいるのは、今のこのマコトとの電話のような気がして、切らないでと声には出さずに叫んだ。

『それじゃあ…』

「っ水崎さん」

思わず引き止めて、でもそれでどうするんだとすぐに考え直して、唇を噛んだ。

逃避だろ、これは。

『どうしたの?』

「……ううん、何でも、ない」

マコトはあの世界に何の関わりもない。

何を話してもきっと不可解なだけだ。

マコトはそれでも聞いてくれるだろうけど、何か話して巻き込んでしまうのが恐かった。

マコトはこの世界で、日常の中にいて欲しい。

『高石君?』

「ごめん、本当に何でもないんだ。ちょっと雨だから湿っぽくなってるだけ」

『そう…じゃあまた学校でね』

「うん、またね」

そうしてマコトとの電話が終わった。

じきに来月のライブの詳細がメールで送られてくるだろう。

きっと僕と日常を繋いでくれる。

祈るように項垂れた。

そこへ京を送って行った賢が戻ってきた。

僕の消耗した様子を見て、優しい友人はそっと近づき、僕の肩に手を添えた。

「まだ、悪い方に転がるって決まったわけじゃない」

「…うん」

「タケルが一人で抱え込むことでもないよ」

「……うん、ありがとう」

そう、僕には仲間がいる。

辛い時、苦しい時に頼ることができる仲間。

仲間、だけど…。

「賢…僕、ヒカリに…言わなきゃいけないのは分かってるのに」

夢のことも、この不安も。

けど、それを恐がっている。

いつかは知れるし、このまま僕が話さなくてもいずれ仲間の口からヒカリに伝わる。

そうなったらヒカリは怒るだろう。

何故言ってくれなかったのか、と。

「ダメだよね、こんなの」

「どうしてそう思う?」

「だって、彼女なのに…仲間なのにさ」

「彼女、だから躊躇うこともあるんじゃないのか?」

賢が隣に腰を下ろす。

僕は黙ったまま次の言葉を待った。

「色んなことがまだはっきりと分かったわけじゃない曖昧な状況で、危険があるかもしれない予感だけがある。そんな得体の知れないものに、たとえ仲間だとしても大切な人を巻き込みたくないと思うのは、自然なことだよ」

賢も同じなんだと感じた。

僕と同じように事の予兆を夢に見た賢も、不安の前に心の中で京を心配している。

それでもメールを受け取ってしまった以上、京も既に当事者だ。

彼女の意思を無視して蚊帳の外に、なんて横暴なことは出来るはずがないし、京はきっとさせてくれない。

彼女はかつて闇の海に迷い込んだ賢とヒカリを繋ぎ止めた。

どうしようもなく闇に引き摺られてしまう性質の賢を、京は決して一人にしない。

ある意味、大輔に似た鈍感さで賢をこの世界に繋いで、時に強引とも思えるほどのパワーで引きずり戻しもする。そう、京はそういう女。

でも、ヒカリは…。

「恐いんだ。ヒカリがこのことに関わって、またどこかに連れて行かれたらと思うと。ヒカリは僕達よりもたくさんの声を聴いて、何かを感じる力がある。もし万が一彼女が呼ばれてしまったら、僕には連れ戻せないんじゃないかって…っ」

「タケル…」

僕は大輔や京とは違う。

手を伸ばしてたとえ届いたとしても、ちゃんと帰って来れる自信がない。

僕まで引き摺られたらと思うと心が底冷えする。

「ヒカリを失いたくない」

小さな子供みたいな我儘を、賢は叱責するだろうか。

しかし、賢はどこまでも優しかった。

「タケル、もし何かがあって八神さんが違う世界に引っ張られたとしても、皆がいる。一人じゃできないことはたくさんある。それは僕も、大輔や京だって同じだ。だけど、皆がいればできることもあるから…だから、もしそんなことになったら、僕達皆で連れ戻そう」

まるで映画のヒーローみたいな台詞だ。

でも…

「…賢が言うと説得力あるなぁ」

噛み締めた奥歯を緩めて、情けなくだけど笑った。

賢は少し安心したような顔を見せた後、首を傾げて「そうかな?大輔の方が言いそうな気がするけど」と言ってみせる。

「大輔のは説得力とかじゃないから、ただの根拠のない自信だから」

「言えてる」

軽口を叩く元気は戻ってきた。

賢には感謝の言葉もない。

この調子だと、僕は賢に頭が上がらなくなりそうだ。

 

 

 




そう簡単に人は変われないのだと思います。
抱え込む性質は健在です。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第17話 〜手がかり〜

 

 

光子郎の解析結果は1日と待たずに出た。

発信元はデジタルワールドのダイノ古代境。

隠蔽も撹乱もせず、ダイレクトに送信されているという。

四人のメールが送られた順番は、送信履歴を確認しても受信順と誤差は無く、また他に送信した形跡は確認できなかったそうだ。

また、解析中に新たなメールが届くことはなく、こちらからメールを送ることは不可能だったらしい。

僕が不安視していた存在とアドレスの文字列の因果関係は不明で、火の壁には特に変化は無いというのがエージェントからの報告だという。

僕と賢の夢については、なんらかのメッセージの可能性があるとして、詳しく話を聞かせて欲しいと光子郎は申し出てきた。

初島ユウキについては現段階では情報量があまりに少なく、不確定要素の一つとして考えるということだ。

必要であれば接触して話を聞くことも視野に入れている、と。

今はとにかく、手元にある情報を整理して状況の把握と今後の対策を建てることが必要だ、というのが光子郎の意見だった。

発信元がデジタルワールドだと確定し、僕の心は益々ざわついた。

夢の話をするために光子郎の家に向かう間、隣を歩くヒカリにそれが伝わらないように願った。

僕は結局、ヒカリに何も言えなかった。

光子郎の前で賢と二人、夢の話をした時のヒカリの驚いた顔と、その後の「どうして」と訴える眼差しが僕の心に突き刺さった。

こうなるだろうと分かっていたのに、いざヒカリの目を見るとやはりきつい。

帰り道、「どうして話してくれなかったの?」と問うヒカリを前に、僕は暫く何も言えなかった。

「もう一人で抱え込まないって約束したよね?」

悲しげなヒカリの顔と声色に、責められていると感じてしまう。

「タケル」

何か答えてくれと名前を呼ばれ、僕は弾かれたようにヒカリを抱き締めた。

往来の場だとか、そんなことはどうでもよかった。

「タケル!?」

戸惑ったヒカリの声が、腕の中から聞こえる。

このまま、どこにもいかないでいてくれるだろうか。

ヒカリを失うのが一番恐い。

マコト、父親を失くそうとしている君は、こんな不安よりももっと確定的な絶望や恐怖の中にあるんだろう。

どうしたら君のように強くいられる?

全てを許すと笑った君のように、どうやったら喪失の恐怖に向き合える?

自分自身と向き合うことはできたけど、大切なものを失うことに、僕はまだどうしようもなく怯えている。

「ごめん、ヒカリ…言えなくて、ごめん…」

臆病なままヒカリを傷つける結果を招いてしまった自分が情けなくて、ただただ謝った。

ヒカリにしてみれば納得いかなかったかもしれないけれど、彼女は優しく抱き返してくれた。

 

 

 

それから暫くの間、デジタルワールドから新たなメールが送られてくることはなく、僕と賢が新しい夢を見ることもなく、僕達の夢の意味を誰もが測りかねていた。

 

 

 

冬の空に春の風が混ざり始める。

出会いと別れの季節でもある春が秒読みに入った2月の末、僕達は初島ユウキに話を聞くことを決めた。

大輔はあまり乗り気ではなかったものの、必要なら仕方がないしユウキが関係しているなら見過ごせない、と頷いた。

いつの間にか大輔は彼女の名前を呼び捨てにするようになっていた。

話は初島ユウキの家で聞くことになり、大輔の案内でお台場の彼女の家に向かった。

そこで、初島ユウキが高級ワンフロアマンションという桁違いの住環境に身を置いていたことを知る。

案内役の大輔を、同行者である賢と京、そしてヒカリと共に凝視すると、大輔は「俺も最初来た時はビビった」とそう遠くない過去を振り返った。

どうやら、初島ユウキの祖父母が資産家で、相当な金持ちらしい。

祖父は数年前に病で他界したそうだが、祖母は健在で、その祖母と二人でこのマンションに住んでいるという。

そこでふと両親の存在が抜けていることに気付いて質問すると、大輔は少し言いにくそうに「どっちもいないんだ」とだけ答えたので、それ以上は聞かなかった。

複雑な事情があるということは、言わずとも誰もが理解した。

「いらっしゃい、さあ皆さんあがってください」

初島ユウキは僕達を笑顔で迎えてくれた。

大輔は、以前から聞きたがっていたデジタルワールドの話を皆からもしてくれる、という名目で約束を取り付けたと言った。

彼女はきっと、待ち望んだ話が聞けると喜んでいるのだろう。

騙しているようで、誰もが居心地の悪さを感じていたと思う。

それは初島ユウキと約束をする前にも同じで、京と大輔は「嘘にはしない」と断言して、ちゃんとデジタルワールドの話を彼女にするつもりでいた。

通されたリビングは、狭いマンション暮らしの経験しかない僕達にはあまりに広く、一面を覆うガラス戸からの眺めは、さながら東京タワーの展望台のようだ。

映画館のスクリーンと見間違うほどのテレビや、高そうな大理石のテーブル、座り心地が尋常じゃなく良いソファ。

どれをとっても庶民とは違う。

物珍しそうに周囲を見回し、「すっごーい」と感嘆の声を漏らす京が、お茶の用意をしてやってきた初島ユウキに次々と、あれは何か、これは何か、いくらするのか、と質問していた。

そんな中、アンティーク調のレトロなチェストの上に飾られた写真を、ヒカリがじっと見つめているのに気が付いた。

「どうしたの?」と問い掛けると、ヒカリは少し横にずれて写真を指差した。

高級そうな細工が施され、見開きの本のようなデザインをした立派な写真立てには左右に一枚ずつの写真が納められていた。

左側には仲睦まじく寄り添い、柔らかな笑顔を見せる初老の男女の写真。

右側には病院と思われるベッドの上でたくさんの管や線に繋がれて眠る幼い子供と、それを囲むようにして笑顔を作る夫婦と思しき若い男女、そして、子供に寄り添うようにして笑う赤茶色の髪の少女が写った写真。

その少女は年齢こそ幼いが恐らく…。

「それ、唯一残ってる私の家族の写真なんです。左のはお祖父ちゃんが生きてた頃にお婆ちゃんと撮った写真」

降って湧いた初島ユウキの声に、僕とヒカリは驚いて振り返る。

彼女はニッコリと笑っていた。

その時、大輔の言っていた言葉の意味を少しだけ理解した。

同時に、僕は初島ユウキの周囲にいくつもの色を見た。

過去二回見た時のような一色の揺らぎではなく、複数の色の揺らぎが彼女を取り巻くのを、ほんの一瞬、瞬きの間の白昼夢のように。

 

 

 

仕切り直してテーブルを囲んで話が始まった。

過去のデジタルワールドでの冒険、デジモンとの出会いや別れ、思い出話が続いた。

僕達の話を、初島ユウキは一喜一憂しながら聞いていた。

それこそ、京や大輔に負けないくらいのオーバーリアクションで。

特にデジモンが死んでしまった時のエピソードなどでは、涙を浮かべていたほどだ。

優しい子なんだと分かる。

ただ、彼女が涙を流すのは、僕達の味方が傷ついたり、死んでしまった時だけではなく、敵を倒した時もまた、静かに泣いていた。

それが酷く印象的だった。

話が一区切りついた時、初島ユウキは言った。

「行ってみたいなぁ、私も。デジタルワールドに」

「いつか連れてってやるって、何度も言ってるだろ?」

「大輔そんな約束したのー?まだそう簡単にはいかないんだって泉先輩が言ってたでしょ?」

「わーってるよ、だから「いつか」って言ってんの」

人間がデジタルワールドに行く。

それは、僕達が最初にあの世界に行った時に比べれば、デジタルワールドのセキュリティを司るエージェント達との繋がりによりゲートのコントロールがしやすくなり、随分と行き来が容易になった。

しかし、全ての人間があの世界を受け入れたわけではなく、緩やかな交流が細々と開始されたばかりの今、両世界を下手に刺激しないためにも無闇にあの世界へ行くことは控えるよう、光子郎に釘を刺されているのだ。

その光子郎こそが、幅広い人脈とネットワークを駆使してデジタルワールドを研究する傍らエージェント達とも連携しつつ、更には大学での有り余る時間を活用して両世界の交流を先導する太一のサポートをしてくれている。

さすがは僕達のブレーンだ。

そして、ブレーンの言いつけは守らなければ、恐ろしい目に合う、はず。

「初島さん、少し聞いてもいいかな?」

「何ですか?」

大輔と京が睨み合う横から、賢が話題を切り替える。

こっちの本題に入る気だ。

「突然なんだけど、最近変なメールを受け取ったりしてない?」

「変な?ダイレクトメールとか悪戯メールですか?」

「そうだね、具体的に言うと本文が一文字だけとか…」

あまりに具体的すぎだろう、とも思ったが、手間は省ける。

初島ユウキは人差し指を口元に当てて考えた後、「そういうのはなかったですねぇ」と言った。

「そうか、ならいいんだ」

「ごめんね、ユウキ。最近私達のとこに平仮名一文字だけっていう悪戯メールが届いてさ、他の人のとこにもきてるのかなーって思ってたのよ。ユウキのとこに来てないなら良かった」

賢のフォローは京がばっちりとこなしていた。

さすがのコンビネーションである。

「へぇ、一文字だけなんて変なのー」

「でしょぉ?」

メールの件は上手く流れた。次は…と思っているところで、大輔がその役を買って出た。

「ユウキ、もう一コ聞いてもいいか?」

「何?」

「お前、夢って見る?」

「夢?最近の?」

「ああ、何か覚えてる夢ってねぇかなって」

さすがの直球だった。

大輔らしいといば大輔らしく、表裏が無いからこそ答える側も変に勘ぐったりしない。

初島ユウキはこれまた人差し指をこめかみに当てて考える仕草をしてから、「最近は全然夢見ないんだぁ。覚えてないだけかもしんないけど」と答えた。

大輔は「そっか、ならいいんだ」とホッとしたような顔を見せる。

とここですかさずフォロー担当の京が割って入った。

「ユウキ、デジモンにはさあ、悪夢を食べてくれるヤツもいてね〜」

「へー、そんなのもいるんだぁ」

「それだけじゃないのよぉ、他にもね…」

再びデジモンの話に花が咲く。

無邪気なやり取りをする女の子からは、先程のような異様な空気は感じられない。

今のところあの空気が見えたのは、家族の写真のことを語った時だけ。

賢に目配せをすると、小さく首を振る。

やはりデジタルワールドの話の最中、賢も例の音は聞いていないようだ。

一体何がきっかけなのか。

最初は初対面での握手、次は目が合った瞬間、そして家族の話と、まるで共通点が無い。

もう正直に全て話して色々と試してみたほうが早いのかもしれない。

でも、それに警告を鳴らす自分がいるのも感じている。

事前に話した時に、慎重な賢も同様の見解を示していた。

今回の件に彼女が関係していたとして、全くの未知数。

関係していなかった場合、大輔の彼女という立場以上に、無関係の人を巻き込むことになりかねない。

我ながら考え過ぎとも思ったけれど、自分の奥で危険を叫ぶ声を無視できないから参る。

いつからこんなに慎重になったんだろうか。

今更だけど、馬鹿みたいに仲間だけを信じていた頃なら突っ走っていたと思う。

この突撃隊長の一声で、恐怖や不安も抑えつけてただひたむきに。

いい意味でも悪い意味でも、僕達は大人になっていっているんだと改めて感じた。

横では女三人のデジモン談義が続いている。

何の思惑も無い状態でなら、この場を楽しむことができたんだろうに。

京もヒカリも、僕達が初島ユウキを探ろうとしている空気を何とか払拭しようとしてくれているのが分かる。

大変な役回りをさせてしまって申し訳ないなと思っていると、ヒカリが先の話の中で僕が気になっていたことと同じような事を彼女に話しているのが聞こえてきた。

「初島さんは、味方でも敵でもデジモンが死んでしまった話の時には泣いていたわよね?私、それが嬉しかったの。デジモンを生き物として感じてくれてるんだなぁって伝わってきたから」

なるほど、ヒカリらしいと思う。

あの夏の時からヒカリはデジモンの命を尊び、失われる命があることに涙する少女だった。

そして、これからの両世界の行く末を案じ、全ての人間に許容はされなくても望んだ未来に向かって尽力する兄達の努力を間近で見ているヒカリにとって、初島ユウキのように感じてくれる人間の存在は嬉しいのだろう。

世の中には自分の利益の為に他を犠牲にすることを省みない人間が確かにいるのだと、成長とともに分かり始めたから尚更だったのかもしれない。

変わらないヒカリの優しさに目を細める。

ヒカリの言葉を受けた初島ユウキは恥ずかしそうに笑って頬を掻いた。

「ごめんなさい、昔から涙もろくて。誰かが死んじゃうとか、幼稚園で飼ってたウサギが死んじゃったとか、人でも動物でも、生きてるものが死ぬってことに過剰反応気味なんです。何でかはよく分からないんですけど」

「そうだったの。じゃあ辛い思いをさせてしまったかしら、ごめんなさい」

「いえ、そんなことないです!ヒカリさん達にお話が聞けてすごく良かったです。京や大輔君にも色々教えてもらったけど、これでまた少しデジタルワールドに近づけた気がします」

謝るヒカリに慌てて両手を振って否定して、初島ユウキは心底嬉しそうに笑う。

本当にデジタルワールドに行きたいんだな、と思った。

「でも、本当に皆さんはすごいですよね」

「すごい?」

「デジタルワールドに選ばれて、必要とされてあの世界に行って、ちゃんと役割を果たしてきたんですよね。それって他の人にはできないことだったと思うんです。だから、それが少し羨ましくて…」

「それは、僕達みたいになりたいってこと?」

何かを欠いた声に、ヒカリが僕を咎めるように振り返る。

京と大輔は気付かなかったようだが、賢は何も言わずに初島ユウキを見ていた。

初島ユウキは僕の言葉に静かに首を振る。

「タケルさん達みたいになりたいっていうのとは違うんです。私にも、私にしかできない役割があるのかなって、それは何だろうっていつも考えてて、それで…」

「そうなんだ。ごめんね、いきなり」

「そんな!こちらこそ勝手なこと言っちゃってごめんなさい」

大袈裟なほどに謝る初島ユウキを京が諌め、僕はヒカリに目線で叱られた。

そりゃ、ちょっときつかったのかもしれないけど、安易に僕達のようになりたいなんて言われたらこっちだって堪らない。

特別であったことは否定しようがないが、良いことばかりではなかったのもまた事実だ。

もし安易な憧れや羨望で間違ったヒロイズムを持ってあの世界に関わろうとしてしまえば、また新たな戦いの火種になるかもしれない、と言い訳がましく考えてから気付いた。

僕は心のどこかで、あの世界に関わらずに生きていくことを望んでいたのかもしれない。

その気持ちが、初島ユウキのデジタルワールドへの興味心に反発しただけかもしれない、と。

「にしても自分の役割かぁ。ユウキは相変わらずそーゆーぼんやりしたこと考えてんのねぇ」

「ぼんやりかなぁ、やっぱり」

「自分が何をするかなんて、その時の自分の心が決めるんだからさ」

「京はそうだろうけど、そうじゃない人もいるんだよ」

自分に素直に生きる京ならではの言い分だが、そうばかりではないと諭す賢に激しく同意だった。

間違いなく僕と賢は初島ユウキ寄りの考え方で生きている。

だからこそ、本能で生きる大輔や、考える頭を持ちつつも自分の心の声に素直に従える京が羨ましくて、惹かれたのだ。

まあ、それを本人達に言っても理解しないけど。

「賢もタケルもそうだけど、ユウキも頭使って生きてるよなぁ。もうちょい体使えば悩まなねーんじゃねぇ?」

ほらね。

理解しない筆頭の発言に、「余計なお世話だよ」と返す。

賢も苦笑している。初島ユウキは…ニコニコ笑っていた。

これはあれだ。

鎌倉の海で見たのと同じ、大輔を褒めちぎった時のキラキラスマイル。

初島ユウキは大輔にベタ惚れというわけだ。

初島ユウキが「私が頭使って、大輔君が体使えば丁度良いよ」なんて言うのを聞いて、やれやれご馳走様、と内心で呟いた。

場の空気が緩みきったのを感じて、僕も肩から力が抜ける。

収穫という収穫はなかったけれど、良くも悪くも事態に変化はない。

ちょっと不思議な子で済ませられるならその方が…。

そう思った矢先だった。初島ユウキがそれを口にしたのは。

 

 

「私がこんな風に考えるのって、多分お婆ちゃんの口癖のせいなんです」

「へぇ、どんな口癖なのー?」

「あのね、『すべての…』」

一瞬で頭の中を全て攫っていった言葉を追いかける。それは賢も同じだっただろう。

 

 

『すべての』

 

 

メールのメッセージ!!

まさかと思い、初島ユウキを喰らいつくように見つめる。彼女は質問者である京に向けて、続きを紡ぐ。

 

 

「『すべての生命は世界に祝福されて生まれてくるんだよ』って」

 

 

「へー、何か宗教っぽいけど、素敵な響きじゃない」

「わぁ、京容赦なーい。でもね、だから『生命には必ず意味があって、世界は生命によって流れ、生命は世界によって巡る』んだって。無駄な生命なんてない、生命があるから世界が成り立つように、自分の存在にも必ず意味があって何かの役に立つんだってずっと信じてきたからぁ」

「ユウキ、なんて純粋なの!」

「ちょっ、京!?急に抱きついたら倒れ、あわわわっ!」

ドサッとソファに倒れこむ2人に慌てる大輔、それを止めようとするヒカリ。

目の前で繰り広げられるドタバタを遠くに感じながら、僕は思考を支配した衝撃がおさまるのを待った。

単なる偶然の一致。

そんな、たった四文字の言葉が一致したから何だ。

特別な意味なんて何もない。

さっきのは、初島ユウキが祖母から聞いて信じているというただの宗教じみた思想なだけ。

なのに何故、こんなにも耳に張り付いて離れない?

こんなにも鼓動が鳴り止まない?

なぜ、初島ユウキは間違いなく今回の件に関係していると、根拠も無いのに確信しようとしている?

全力で心が叫ぶのを止められずに持て余したまま、僕は助けを求めるように賢を見た。

彼もまた、喉まで出かかった言葉を必死に飲み込もうとしているような、そんな顔で僕を見ていた。

ああ、同じなんだと分かると、僕の心が少し穏やかになるのを感じる。

そして、鎮まる心の波間から、とある考えが浮かび上がってきた。

その考えを口に出すかどうか、僕は初島ユウキの家を出るまでに決断することはできなかった。

 

 

 

初島ユウキの家を後にして、一旦京の家に集まった。

そこで、僕は賢とともに感じたことの全てを話し、最後に僕が口に出すことを躊躇っていた考えも皆に伝えることにした。

 

 

 




大人になることと、子供でいることはどちらが難しいことなのかと考え中です。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第18話 〜異変〜

 

 

「結論から言って、彼女は今回の件に関係していると思う」

「決め手は?」

きっぱりと結論から述べた賢に対し、自分はコレといった決定打が見当たらなかった、と話す京の疑問は最もだった。

なにせ僕達の返答はひどく頼りないものだから。

「残念ながらこれといった根拠は示せない。申し訳ないけど、僕とタケルがそう感じた、としか言えない」

「何だよそれ」

不服そうな大輔の発言を受け止めて、賢はそれでも冷静に対処する。

「あくまで可能性としてなら、彼女がデジタルワールド関連の事件に僅かながらでも漏れなく関わっていること、彼女に出会ってから僕とタケルがデジタルワールドの夢を見るようになったこと、彼女がデジタルワールドに強い関心を持っていること、例のメールのメッセージと彼女が口にした祖母の口癖の冒頭が一致していること、加えて…僕とタケルが彼女から感じている妙な色と音の現象」

「全部こじつけって言ってもいいレベルじゃねーか!」

「そうかもしれない。でも、そう思ってしまったんだ。僕だけなら思い込みや勘違いで済ませたい所だけど、そうじゃない」

「タケルもかよ?」

大輔がジロリとこちらを見た。

大輔の気持ちを考えると心苦しかったけれど、こればかりは嘘をついても仕方がなかった。

「…うん」

頷くと同時に、大輔がバンと床を殴りつけた。

ビクッと驚く京とヒカリを他所に、大輔は珍しく怒気を孕んだ声を出す。

「何かさ、お前ら揃ってユウキを悪者扱いしてるみたいに聞こえんだよっ」

「そんつもりじゃないよ」

「じゃあどんなつもりだよ!?」

否定した僕の襟首を掴み上げ、大輔が怒鳴る。

ヒカリが慌てて「大輔君、やめて!」と止めに入るが、僕はそれを手で押しとどめ、眼前に迫る大輔を見つめた。

彼がこうして本気で怒るのは珍しい。

珍しいからこそ、それだけ初島ユウキを大切にしていることが伺える。

「大輔、初島さんはもしかしたらヒカリのように何か不思議な力を持っているのかもしれない。ヒカリと同じではないにしても、あの世界に呼ばれている気がするって言ったんだ」

「だから何だよ」

「だから、確かめたいんだ。彼女をデジタルワールドに連れて行こう」

「!?」

僕の発言に、その場の誰もが驚いた。

でも、これが僕の考えだ。

初島ユウキの家で、彼女に言おうか言わまいか迷った考えだった。

ただ、デジタルワールドに行くのは独断で決められることではなく、仲間の協力が必要になる。

だから、皆に話そうと思ったのだ。

「不可解なことが続いて、初島さんに失礼な態度や騙すようなことをしてしまったのは謝るよ。不安だったなんて言い訳にはならないから。でも、曖昧なままじゃ疑念も晴れない」

「今、全てを繋いでいるのはデジタルワールド…だからそこに彼女を連れて行く?」

僕の言葉を紐解くように賢が問いかけ、僕は頷いた。大輔は少しだけ力を緩めて考え込む。ヒカリは複雑そうに顔を顰め、京もまた難しそうな顔をしていた。

「連れてって、危なくねーのかな…」

大輔がボソリと呟く。

大輔も同じだと思った。

大切な人が心配で、巻き込みたくなくて、それでも部外者でいられないその人を案じて不安になる。

皆同じだ。

だから、賢が僕に言ってくれたように、僕も大輔に言った。

「危なくないかもしれないし、危ないかもしれない。もし危なくなったら、皆で初島さんを守ろう」

僕の言葉にどれだけの説得力があるかは分からないけれど、大輔が皆を勇気付けてくれたように、賢が僕を励ましてくれたように、大輔の力になりたかった。

僕の言葉を聞いた大輔は、少しだけ驚いた顔をして、その後にいつもの彼らしく笑った。

「そうだよな、何かあっても俺たちで守ってやればいいんだ!そう考えれば、ユウキは行きたかったデジタルワールドに行けるんだし、悪いことばっかじゃねぇよな!」

ポジティブシンキング万歳だ。

こういう立ち直りの早さは本当に見習いたい。

にわかに明るいムードが戻ってくるが、冷静な年長者の一言が場を静める。

「ちょっと待って、選ばれし子供でもないユウキをどうやってデジタルワールドに連れて行くつもり?」

「どうって、俺たちと一緒なら行けんだろ?」

「そんな簡単じゃないわよ。私達はD3があるからどのパソコンからでもゲートを開いて自由に行き来できるけど、デジヴァイスを持たないユウキを連れて行くには、ちゃんとゲートポイントからゲートを開く必要があるわ」

「じゃあゲートポイントから開けばいいだろ?」

「だーかーらー」

どこまでも能天気な大輔に、京が苛立つ様子を見せる。

賢がそんな京を諌めて、続きの説明を引き受けた。

「ゲートポイントからゲートを開くのは、D3でパソコンにゲートを開くのとは訳が違うんだ。ちゃんとした手順を踏まなくちゃならないし、道具もいる。それに、ゲートの状態を把握して、安定した時を見計らって開かないと、位相のズレに巻き込まれる可能性があるんだ」

「マジかよ!?」

「デジヴァイスって本当によくできてるのね」

賢の説明に驚く大輔と、改めて自分達の持つデジヴァイスというアイテムがいかに特別なものであるかに感心するヒカリ。

デジヴァイスは進化をコントロールするだけでなく、両世界を繋ぐ扉の鍵としての機能を持ち、僕達の戦いにおいても非常に重要な役割を果たしていたし、デジヴァイスとパートナーを持っていることが、選ばれし子供の証明でもあった。

「初島さんをデジタルワールドに連れて行くには光子郎さんの協力が不可欠だ」

「そうね、ゲートを観測、管理してくれているのは泉先輩だもの。まずは泉先輩に相談しましょ」

こうして今後の方向性が定まり、まずはブレーンに相談することになった。

光子郎の所には、明日にでも報告に行くことになり、その日はそのまま解散となった。

 

 

 

「タケル、初島さんを巻き込むかもしれないって思った時、不安だった?」

帰り道でヒカリにそう聞かれ、僕は「そうだね」と答える。

でもきっと大輔の方が不安だったと思う、と続けると、ヒカリは更に質問を重ねた。

「じゃあ、私が今回のことに関わるのは?」

そう聞かれ、僕は思わず歩みを止める。

一歩先を行ったヒカリが振り返り、真っ直ぐに僕を見た。

それはあのメールが届いてからずっと心にあること。

ヒカリが関わった先でもし何かに呼ばれたら、僕の手が届かない所へ言ってしまったら、失ってしまうかもしれない不安と恐怖は未だに心の底で渦を巻いていた。

それだけじゃない、あの世界にヒカリを関わらせることのリスクは他にもある。

あまりに大きく、多くのものから彼女を守らなくてはならないのに…。

ヒカリが答えを待っている。

もう誤魔化さないでくれと、その目は言っていた。

「僕の中の一番の不安要素は、いつだってヒカリだよ」

弱々しく吐き出す本音。

言ってしまえばみっともなくヒカリに甘えてしまうと分かっていたから黙っていたけど、もはや彼女がそれを許してくれそうにない。

「メールのことも夢のことも、何か話せば、僕なんかよりヒカリが得体の知れない何かに引き寄せられて行くんじゃないかって怖かった。だってヒカリはそういう力の所為で苦しんできたし、それに…もし何かに引っ張られた時、僕じゃヒカリを助けてあげられないかもしれないって」

賢にも言ったことだった。

賢は1人ではないと励ましてくれたけど、僕も大輔に同じことを言ったけれど、やっぱり無力感は否めなかった。

ヒカリに大丈夫だと言って安心させてあげなきゃと考えていたのに、結局このザマか。

僕は自嘲的に笑った。

黙って僕の言葉を聞いていたヒカリは、どこか寂しげに問う。

「タケルは誰も救えないって思ってるの?」

「救えっこないよ、僕には何の力もない。大輔や京さんや、ましてやヒカリみたいな力は僕には無いんだから」

違う、こんなことが言いたいわけじゃない。何でヒカリに言ってやりたい言葉の一つも出てこない。言わなきゃならなかったことも言えず、言ってやりたいことも言えず、もはやヒカリの顔など見れなかった。

足元の地面に伸びる二つの影は動かない。

視界の外からヒカリの少し硬い声が響く。

「力って…タケルの言う力は、何?闇の声を聞くこと?聴こえないものを聴くこと?奇跡を起こすこと?」

「それは…」

「そういう力が欲しいの?」

ヒカリの声に震えが混ざる。

僕はハッとして顔を上げ、彼女の頬を涙が伝うのを見て後悔した。

何やってるんだ、僕は。

ヒカリがそういう力に苦しんできたって分かっていたはずなのに、自分でも言ったばかりだったのに、その舌の根も乾かぬ内に何を言ってしまったんだろう。

それに、その力が今でもヒカリを縛り付けていることだって、僕は知っているのに…。

「ヒカリ、僕はっ」

慌てて弁解しようと口を開くが、「聞きたくない」と遮られてしまった。

ヒカリは拭っても溢れ出る涙を晒したまま僕を見る。

その唇が動くのが恐かった。

何を言われるのか、自分を責めるのか、嘆くのか、どちらにせよこの状況で彼女が向けるであろう感情はネガティブなものであるに違いなかった。

自分が悪いのだから受け止めなければと思う反面、もしヒカリが離れていってしまったらと思うと胸が締め付けられる。ヒカリの唇が動く。

聞きたくないのは僕も同じだ。

目眩がしそうな視界の中でそう思った。

「この力は望んで得たものじゃないわ。それは私達が選ばれたのもそう。タケルもそれが分かってるから、初島さんにああ言ったんでしょう?」

 

 

『僕達みたいになりたいってこと?』

 

 

「それなのに…力ってそんなに大事?それがなきゃ誰も救えないの?守れないの?じゃあ何のために皆で一緒にいるの?どうして大輔君に皆で守ろうなんて言ったの?おかしいよ、タケル。言ってることが全然違うじゃない!」

全くその通りだ。

ぼんやりと霞んでいく思考でヒカリの言葉を聞いていた。

言い返すこともできない、弁解もできない、泣いているヒカリを慰めることもできない。

頭が痛い。

謝らなきゃ、早く、ヒカリに…。

ぐるぐると頭をもたげる感情から抜け出そうとした時だった。

急激に視界がブラックアウトして平衡感覚を失い、次に強い衝撃が全身を襲った。

ヒカリが僕の名前を呼んでいた気がしたけど、僕は答えてあげられなかったと思う。

どこかに引き込まれるような感覚を最後に、何も覚えていない。

次に目を開けた時は、病院のベッドの上だった。

ぼやけた視界は真っ白で、世界の輪郭がはっきりする頃になると、僕を心配そうに覗き込む母の顔が見えた。

「母さん…」

「タケル、良かった!」

嬉しそうな母の顔。

その横には兄の姿もあった。

僕が状況を理解したのは、兄がナースコールで呼んだ医者や看護師がやってきて、一通りのバイタルチェックが済んだ後だった。

僕はヒカリと話している途中に倒れたんだ。

それでヒカリが救急車を呼んだらしい。

母と兄に何があったのかとか、ちゃんと食べてるのかとか、一人暮らしへの心配とか、色々尋問されて、その全てに大丈夫だからと答えた。

実際、血液検査の結果でも健康上の問題は何一つ見つからず、心因性ではないかと医者が言っていた。

心因性。つまりはストレスだと言いたいのだろうか。

確かにここ最近色々なことに翻弄されているけれど、倒れるほどだなんて自分でも驚きだ。

今日一晩は入院して、明日には退院できるらしい。

そこまで聞いて、ふとヒカリのことを考えた。

兄にヒカリのことを聞くと、談話室にいると教えてくれた。

すごく心配していたから、ちゃんと顔を見せて安心させてやれとも言われた。

でもそれだけじゃない、謝らないと…。

僕は体を起こして母に断りを入れ、談話室に向かった。

面会時間も終わりに近づいていたためか、談話室にはヒカリ以外誰もいなかった。

いくつかあるテーブルの内の一つに腰をかけ、俯いて何かを考え込んでいるようだった。

僕は逡巡する自分を叱咤してヒカリに近付いた。

足音に気付いたヒカリが振り返り、目が合った。

「あ…」

「ヒカリ…その、心配かけて」

僕の言葉はそこで途切れる。

ヒカリが立ち上がって、僕に抱きついてきたからだ。

「良かった…ホントに、心配したんだからね」

泣いてこそいないものの、ヒカリの声は震えていた。

自分を心配してくれていたことが分かると、温かいような痛みが胸に広がる。

「ごめん…心配かけて。それと、情けないことばっか言って、ごめんね」

「ううん、タケルも不安だったのよね。私のこと心配してくれてたのに、ごめんなさい」

そうやって、僕のことを癒してくれる。

だから甘えてしまうんだ。

それでもそれが嬉しくて、やっぱりヒカリが好きなんだと思う。

自然と近づく唇と唇が触れそうになった瞬間、談話室の入り口からわざとらしい咳払いが聞こえてきて、僕達は慌ててそちらを振り返った。

そこには、兄であるヤマトが呆れ顏で立っていた。

「お前ら、そーゆーことは場所を選んでやれよな」

「は、はぁい」

苦笑しながら僕が答える横で、ヒカリは真っ赤になって顔を伏せていた。

 

 

 

僕が倒れたことで、二人の仲は上手く解決した。

怪我の功名、とはちょっと違うかもしれないけど、とにかく結果オーライだ。

しかし、そう思ったのも束の間、実は同じ頃に賢と大輔も意識を失って倒れていたことが分かった。

賢は京の部屋で、大輔は自宅でのことだったが、すぐに意識が戻ったため病院に行くまではしなかったという。

これで僕が倒れた原因が心因性である可能性は限りなく低くなった。

これもデジタルワールド関連の現象だろう。

三人とも意識を失った時の感覚は同じようなもので、最初にぼんやりと思考が薄れて現実から切り離されていくような感じになり、次に視界がブラックアウトして、その後のことは覚えていない。

何かが見えたり、聞こえたりはしなかった。

ただ、この世界ではないどこかに引っ張られるような感覚がしたというのが共通の認識だった。

翌日、初島ユウキのこと、デジタルワールドへ初島ユウキを連れて行くこと、僕達に起こったことを報告するため、大輔、賢、僕の三人は光子郎の家に来ていた。

京とヒカリは今日は学校の用事があって同席していない。

光子郎の部屋は以前に夢の話をしに来た時に比べると物が少なくなっており、代わりに幾つもの段ボールが散乱していた。

この春、都内の高校を卒業する光子郎は、既に京都への大学進学を決めていた。

進学先の大学には空の父親が教授として働いており、デジタルワールドの研究に対する環境が最も整っている場所とも言える。

選ばれし子供でもあり、探究心旺盛な光子郎が目指すものを実現するためには、当然の進路だと誰もが頷いた。

そのため3月の卒業式を終えたら、春休みには京都に引っ越すことになっていたのだ。

その知識欲と飽くなき探究心は、さすが知識の紋章の持ち主だった。

全ての話を聞き終え、考えをまとめた光子郎が話し始める。

「大輔君達の考えは分かりました。危険が無いとは言えませんが、今の膠着した状態を打破する足掛かりになるかもしれません。現在のゲートの状態を考えると、選択するゲートポイントはお台場がいいと思います」

愛用のパソコンを開き、ゲートポイントを記した都心の地図を表示させる。

「ここは新しくできたゲートポイントですが、比較的安定しているのでリスクは少ないでしょう」

「タイミングはいつぐらいがいいでしょうか?」

具体的な時期を問う賢に、光子郎は3月7日と8日の2日間を提示し、このどちらかでと答えた。

その日付を聞いて僕は、あ、と思う。

提示された日付の後者は、マコトの出る卒業ライブの日だった。

そこは外れるといいなと思っていたが、曜日の関係で結局マコトのライブと同日になってしまった。

ライブの時間までに帰って来れるだろうかと心配している間に、時間帯や集合場所などが着々と決まっていく。

また、ゲートを開く先をどうするかも議題に挙がった。

できるだけ安全な場所がいいのは前提だが、できれば僕と賢が夢で見た場所のどこかを選択したいという思いもあった。

凶暴なデジモンが少なく、ある程度土地勘のある場所ということで、ファイル島のはじまりの町か遊園地に絞られ、最終的には何かが起きた時のデジタマへの影響を考えて後者に決定した。

そして、万が一デジモンに襲われた時のこと考えて、僕達のパートナーをその場に同行するよう手配することになった。

「では、パートナーとゲートの鍵となるカードはゲンナイさんにお願いして手配しておきます。こちらの世界からの監視システムの撹乱については、他のエージェント達に打診しておきますから、安心して下さい。当日は僕がゲートキーパーをしますが、他に同行してくれる人やサポートしてくれる人がいないか連絡をしておきますよ」

「ありがとうございます、光子郎さん」

「ところで…三人とも、倒れてから何か身体に異変を感じたり、変わったことはありませんか?」デジタルワールド行きへの話が一段落した所で、光子郎は僕達三人に起こったことに話題を移した。

それについては、今の所特に身体的変化はなく、メンタル面でも大きな変わりはなかった。

僕も賢も、昨晩はあの夢を見ていない。

「そうですか…メールの方も新たに届いてはいないし、一体何なんでしょうね」

「今までは僕とタケルだけだった不可解な現象が、同じ発現の仕方ではないにしろ大輔にも拡がったんだとすると、もしかしたら京や八神さん、あるいは光子郎さん達にも何か起こるかもしれません」

「そうですね、気をつけるに越したことはありません。皆にもそう伝えておきます」

そう言ってパソコンでメールBOXを開く光子郎が、一番最初にメールを送るであろう相手が誰なのか、僕には予想がついた。

アメリカにいる光子郎の恋人、ミミだ。

遠距離恋愛も早五年の年月を数える光子郎とミミ。

二人はアーマゲモンの一件が済み、それぞれが日常に戻っていった頃にお互いに気持ちを打ち明けて付き合い始めた。

アメリカと日本。

物理的な距離がどれほどの障壁か、所詮都内に恋人がいる僕達には測り知れないが、大切な人に会いたい時にすぐに会えないのは寂しいだろうということは想像がついた。

年に数回、会えるか会えないか。

それ以外はメールか電話のやりとりで、それさえも時差の影響で思うようにはいかないのが現実だ。

しかし、光子郎とミミはそれらの障害を物ともせず、五年という年月を越えてきたように僕には見える。

本当の所はわからないけど。それにしても…

「光子郎さん、引っ越しはいつなんですか?」

散乱する段ボール箱を見回して、僕は光子郎に尋ねる。

光子郎はブラインドタッチでメールを打ちながら答えた。

「卒業式が終わってすぐ、3月の14日に引っ越します。向こうのアパートは3月頭から借りているので、いつでも入れるんですけどね」

「光子郎さんが遠くに行ってしまうと、今までみたいに色々聞けなくなりますね」

残念そうな賢に、光子郎は「京くんが十分代わりを果たしてくれますよ」と笑う。

コンピューター関連の知識に富む京は、学業の傍ら光子郎や太一の活動のサポートなどを行っていた。

光子郎が京都に拠点を移した後は、京がその代わりを務めることになっている。

さすがに光子郎が担っていた全てはカバーできないため、京都と東京で連携をとる形になるそうだ。

「京都に行ったらミミさんと会いにくくなるんじゃないっすか?」

「あぁ、ミミさんは…」

大輔の質問に、光子郎は何故か半目になって言葉を濁す。

何かあったのだろうかと僕達が顔を見合わせると、光子郎は溜息交じりに先を続けた。

「彼女は夏にアメリカのスクールを卒業したら日本に戻ってくるそうです。1年遅れで専門学校に通うとかで、受験が終わったら残りの半年程は修行の旅に出るんだとか…」

「日本に戻ってくるんですか、良かったですね」

「でも修行の旅って何の修行だぁ?」

「さぁ、花嫁修行とか?」

賢、大輔、僕が口々に思ったことを口にする。

最後の僕の発言に光子郎は盛大に動揺して、それまで整然に行っていたタイピングを乱した。

「あ、違いました?」

反応を伺う僕達を、パソコンオタクのブレーンはじと目で振り返る。

「料理修行です。ミミさんの夢は料理研究家だそうなので、日本全国津々浦々、美味しいものを食べ歩いて舌を磨くと言ってました」

「なぁんだ、そうなんすか!でもいいなぁ、俺も全国のラーメン食べ歩きてぇ」

何とも自由奔放なミミらしい発想に、大輔が真っ先に飛び付く。

ミミの料理センスを知っている僕としては、その旅はグルメ奇行に他ならない。

いつか光子郎はその料理を毎日食べることになるのだろうかと思うと、同情を禁じ得ない。

その光子郎はどことなく疲労感を漂わせてタイピングを再開する。

この時、僕達はまだ知らなかった。

ミミが単独で日本に帰国し、かつ生活の場を光子郎と供にすることを画策しており、それを持ちかけられたための心労が彼を疲れさせていたことを。

 

 

 

光子郎の家から帰宅し、ドサリとベッドに身を投げた。

スプリングが軋む。

デジタルワールドに行く日までそう遠くない。

久々にパートナーにも会えるけど、僕達は初島ユウキとあの世界に行って、帰ってこれるのだろうか。

普通に考えればそんなこと心配する必要はないはずなのに、この不安は全ての底の部分で燻っていて消えない。

倒れた日に感じた自分がどこかに引っ張られる感覚。

またあれに引っ張られることはあるのか、引っ張られた先には何があるのか。

 

(いや、帰ってくる…そう強く思えば帰ってこれる。僕はこの日常に帰る、必ず。そのためにも…)

 

僕は携帯電話を手に取り、兄に番号を表示させて電話をかけた。

「もしもし、兄さん?3月の8日の夜って空いてる?」

『8日?その日ってデジタルワールドに行く日なんじゃないのか?光子郎からメール来てたぞ』

「それは昼間だから。これは夜の話」

『夜は別に空いてるけど、何かあるのか?』

「ちょっと一緒に行って欲しい所があって」

『行って欲しいところ?』

「うん、僕の友達が出るライブ」

『ライブ?何だよ、そんな友達がいたのかよ』

「まあね、兄さんにも聞いて欲しくて」

『ふーん、お前がそんなこと言うのも珍しいな。別に予定も無いし、構わないぜ』

「ありがとう、兄さん。ライブの詳細はメールで送るよ」

『ああ、そうしてくれ』

「じゃあ、また」

電話を切り、僕は一息ついた。

次は…。

再び携帯を操作して電話をかける。

数回のコールの後、僕を日常に繋ぎとめるための声が聞こえてきた。

『もしもし』

「水崎さん、こんばんわ」

『高石君、どうかしたの?』

「あのさ、卒業ライブなんだけど、僕の他にもう一人連れて行きたい人がいるんだけど、いいかな?」

『構わないよ。特に予約とかいらないから、ライブハウスの入り口でワンドリンクだけオーダーしてくれれば』

「そっか、良かった。じゃあ二人で行くから」

『うん、よろしく』

また電話が切れる。

これでいい。

この約束があるから、僕はこの日常に帰ってくることができるはずだ。

彼女の歌は、この世界でしか聞けない。

呪文のようにそう自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 

デジタルワールドへ向かう為の準備は着々と進んだ。

大輔が初島ユウキに約束を取り付け、彼女は二つ返事で大喜びしたと報告を受けた。

僕達以外の同行者には京、兄のヤマト、空が名乗りを上げた。ヒカリも同行を希望したが、太一や僕をはじめとする仲間の反対により現実世界での待機となった。

これには理由がある。

それがヒカリがデジタルワールドに関わることで生じるリスクのもう一つ。

彼女の能力は進化の光であり、デジタルワールドでデジモンに与える影響が大きいのだ。

あちらの世界を国が監視、解析しはじめて数年が経っており、ヒカリの特異な能力が知られることで大人達に利用されることを危惧した光子郎や太一、ゲンナイをはじめとしたエージェント達は、可能な限り彼女の能力を隠すよう努めてきた。

かつて紋章を制御していたタグに代わるものの開発も行っているということだが、まだ成果は見られていない。

何かの刺激で発現するとも限らない能力を抱えたまま、未知数の存在と一緒にデジタルワールドに送り出すのはあまりにリスクが高い。

いくら監視システムを撹乱するといっても保険程度でしかないのだ。

ヒカリの将来のために、そんなハイリスクを太一も僕も、そして仲間も良しとはしなかった。

当の本人は自由に動けないことが不満だろうが、我慢してもらう他ない。

まあ、兄である太一に強く言われ、僕に優しく諭されれば、彼女は渋々待機を受け入れた。

あとはこちらの世界でのゲートキーパーに光子郎、事が起こった時の応援要員として伊織が配置されたのだった。

 

 

 

 

 

 

春の匂いのする風が吹く。

春は人が狂う季節。

人が交錯する季節に人は迷い、ざわめき、移ろう。

3月8日、正午。

僕達はお台場のゲートポイントを開けて、デジタルワールドへと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 




光子郎とミミは一番先に同棲とか始めるみたいです。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第19話 〜色づく世界〜

 

 

懐かしいその世界は、相変わらずパレットをひっくり返した後にバケツまで倒した所為で滲んだ絵の具みたいな空をしていた。

その色を見るたびに、ジンジンと疼く記憶達を感じる。

無人の遊園地に辿り着いた僕達を迎えてくれたのは、各々のパートナー達だった。

5年前と少しも変わらない姿で、嬉しそうにパートナーの名前を呼んで駆け寄ってくる様を見ると、変わらない絆がそこにあることを感じる。

それぞれにパートナーと抱き合い、存在を確かめ合って笑いあった。

それを、初島ユウキは自分ことのように嬉しそうに眺めていた。

「ユウキ、ここがデジタルワールドだ」

「うん。空気が違う…本当にここがデジタルワールドなんだ、すっごぉーい!」

大輔の隣に並んで胸いっぱいに空気を吸い込み、初島ユウキは感極まって叫ぶ。

驚く周囲の様子などお構いなしに、彼女はキラキラした顔で口説いほどに御礼を繰り返した。

そして、絵の具の空に、緑に、デジモン達に向けて、「会いたかったんだぁ」と呟いた。

その瞬間、ゆらりと、これまでない程の大きさで初島ユウキの周囲が染まる。

いくつもの色が、代わる代わる彼女を包んでは消えていった。

やっぱり、この世界は彼女を呼んでいたのかもしれない。

不可解な現象は拡大傾向にある。

僕が色を見たのと同時に、賢が耳を抑えたのがその証拠だ。

多分、大きな音だったのか、音の種類によっては耳に響きすぎたのか。

どちらにしても変化があったのは明らかだった。

僕達は周囲の仲間に変化があっことを予め決めておいたサインで伝える。

それから、このまま続行する旨も伝えた。僕達のサインを受け取った大輔が頷き、空の先導で周囲を歩いて回ることになった。

遊園地を周り、隣の森の中を歩く。

時折姿を見せる成長期や成熟期デジモンを見ては、初島ユウキが驚きや歓喜の声を上げた。

その度に大輔が得意げにデジモンの知識をひけらかすが、半分は間違いや勘違いであることが多く、パートナーや他のデジモンに訂正されては「そうだっけ?」とすっとぼけていた。

まあ、そんなこんなでピクニック的なノリではあったが、幸い襲われることもなく平和に過ぎていく。

「この辺り、確かもう少し先に行くと川があったわよね」

「あの川か…そういや、いい機会かもな」

先導する空が指差す方向を見て、ヤマトが何かを思い出したように呟く。

僕も兄が言わんとすることに気付いて昔を思い出す。

その頃を知らない大輔や賢、京は首を傾げたが、「行けば分かるわ」という空の言葉に大人しく従った。

そこはかつてスパイラルマウンテンに取り込まれた時に辿り着いた川で、ダークマスターズの一角と決着がついた場所。

そして、苦い思い出の眠る場所。

辿り着いた川岸一角には、砂利と砂の山に不恰好な木製の十字架が突き立てられた墓標がいくつも並んでいた。

賢達が息を飲むのを感じて、空が昔を思い出しながら説明してくれた。

「あの戦いの時、私達を庇ってたくさんのデジモンが犠牲になっていったわ。弔いも満足にできなくて。だから、せめてお墓をってミミちゃんが作ってくれたものなのよ。変わらずにここにあるのね」

墓前に膝をつき、手を合わせて祈る空ならい、僕達も同じように祈った。

初島ユウキもまた、手を合わせて祈りを捧げていたが、その瞳には涙が浮かんでいる。

空気は色付かない。

「皆、はじまりの町に転生できたのかしら…」

「転生?」

祈りを終えた空がポツリと口にした言葉に、初島ユウキが反応する。

空は「ユウキちゃんは知らなかったのね」と、この世界の生命の循環について語り始めた。

 

 

死んでしまったデジモンのデータは分解、再構築されて生まれ変わる。

生まれ変わる時間はバラバラで、生前の記憶や能力は再構築時に再現される場合とされない場合があり、それはランダムで決定される。

僕や賢のパートナーは前者だった。

再構築されて生まれ変わったデジモンはデジタマとなり、はじまりの町に還る。

はじまりの町はその名の通り、生命が始まる場所、すべてのデジモンの故郷。

 

 

「みんな、生まれ変わる、の?」

転生というシステムを聞いた初島ユウキの驚き方は予想と違った。

生き物が死ぬことに過剰反応を示すと言っていた彼女ならてっきり喜ぶのかと思ったが、その顔に浮かぶのは歓喜ではなく悲哀の色だった。

「ユウキ?」

深刻な表情で墓標を見つめる初島ユウキに、大輔が呼びかける。

彼女は「ごめん」と謝る。

「素敵なことなのに…おばあちゃんが言ったみたいに、生命は巡るって、嬉しいことのはずなのに…何で…」

掠れた声の続きは聞き取れなかった。

ただ何かを呟いた後に墓標の一つに歩み寄り、傾いた十字架に触れた。

その手つきは辿々しく、でも優しく映った。

僅かに震える指先が、十字架をなぞって積み上げた砂利の山に触れた直後、十字架の根元からダークブルーの靄が立ち昇り、彼女の手を伝って彼女の全身を取り囲んだ。

「「初島さん!?」」

僕と賢の叫び声が重なる。

周りの仲間は何事かとこちらを振り返るが、そんなことに構っている暇などない。

僕は初島ユウキに駆け寄って、彼女を墓前から引き離した。

初島ユウキは驚いて僕を振り仰ぐ。

隣で大輔が騒いでいるが、それは賢が抑えてくれるはず。

引き離した墓と初島ユウキを交互に見ると、さっきのダークブルーの靄は彼女の体にのみ纏わりつき、触れている僕には伝わってこない。

「これ、君には見える?」

「え?」

掴んだ手を目線の高さまで持ち上げて見せるが、彼女は戸惑うばかりだ。

「じゃあ、何か音は聞こえない?低音が響く風の音みたいな」

右手で大輔の肩を押さえ、左手で自分の耳を押さえた賢が尋ねる。

きっと今、賢に聞こえている音のことだろう。

後ろでは京、空、ヤマトが不安そうに見守っている。

「あ、あの、何も聞こえない、んですけど」

僕達の気迫に怯えた様子を見せる初島ユウキがそう答えるのとほぼ同時に、彼女を包んでいた靄はフッと色を無くして消えていった。

同じくして、賢も耳を押さえていた手を外す。

色とともに音も消えたようだ。

僕は初島ユウキの手を下ろして離し、「急にごめんね」と謝った。

自由になった初島ユウキは、同じく賢の抑制が解かれた大輔に駆け寄る。

入れ違いに賢が近づいてきた。

「ごめんな、ユウキ。あいつら最近何か見えたり聞こえたりすんだ」

「えっ、それって幽霊とか!?」

「いや、多分違うと思う」

「デジタルワールドにも幽霊っているの!?」

「いや、だから…」

そんなやり取りを繰り広げる大輔と初島ユウキを見ながら、僕と賢は今起きた現象に各々考えを巡らせていた。

そこに京と空、ヤマトがやってくる。

三人に軽く事情を説明すると、時計を確認した京が今日はそろそろ引き上げようと提案してきた。

理由は時間的なこともあるが、賢と僕の身に起こる現象が頻発することで、また僕達や大輔が倒れでもしたらという心配があるからだと話す。

もともと今日だけで全てが分かるわけでも、解決するわけでもないと踏んでいたわけだし、一度引き上げて今回の現象も踏まえて次を考えようと進言されれば、断る隙も理由もなかった。

残念がる初島ユウキを宥めて、僕達はデジタルワールドを後にした。

ゲートが閉じきるその時まで、初島ユウキはデジタルワールドを見つめていた。

その後ろ姿に色は見えなかったけれど、あの世界の何かが彼女を呼んでいるのは間違いないのだと感じた。

 

 

 

初島ユウキを大輔に送らせ、僕達は光子郎の家に集まった。

そして、今回の探索で起きた現象や感じたことを報告し合う。

その途中、大輔も戻ってきて加わった。

「デジモンのお墓でそんなことが…」

「ユウキは生き物の死に敏感だって自分で話してました。お墓の前で祈った時も泣いてたし、それが関係あるんですかねぇ?」

墓前での出来事に腕を組んだ光子郎に、京が思い当たる事柄を補足する。

「会ったこともないデジモンなのにか?」

ヤマトが最もな疑問を口にすると、大輔が「あいつはそーゆーヤツなんですよ」と答えた。

その顔には照れ隠しではない、慈しむような笑みが浮かんでいる。

初島ユウキが大輔にゾッコンかと思ったが、大輔も相当に入れ込んでいるようだ。

それが分かったのか、ヤマトが「そうか」と優しく笑った。

「でも、たとえ死んでしまったデジモンへの思いが強いのだとしても、それでタケル君達が見たり聞いたりした現象に繋がるのかしら?それに、その靄や音が何を意味するのか、まるで分からないわ」

「キーワードはデジタルワールドと死、ですか…」

状況を聞いた伊織が呟く。

その時、光子郎のパソコンにメールが届き、同時にヤマトの携帯が鳴った。

それぞれが応対した相手は、ミミ、そして丈だった。

そしてどちらの用件も例のメールが自分たちの所に届いたというものだと知らされ、その場は一様にざわついた。

「丈は既にメールを光子郎に送ったそうだ」

「今確認しました。ミミさんの分も併せて開きますね」

電話を終えたヤマトが光子郎の座る椅子のバックレストに手をかけて画面を覗き込む。

その後を追って僕達もパソコンの画面に映し出されたメールの文面を見た。

液晶画面に表示されたメールのタイトルはどちらも無題、アドレスにはapocalypseの文字列、本文にはそれぞれにたった一文字だけ。

ミミに届いたメールには『に』、丈に届いたメールには『生』とあった。

「漢字だ」

「そこはどうでもいいの!受信した時刻は城戸先輩の方が先ね」

大輔のコメントをあっけなく弾いた京が指摘すると、続いて光子郎が何かに気付く。

「待って下さい。2人がメールを受信した時間の間隔は、以前タケル君達がメールを受け取った間隔より開きがあります。もしかしたら、間にもう1通誰かが受け取っているかもしれません」

「じゃあ、メッセージは『すべての生〜に』かしら?」

今受け取っているメッセージを繋げてヒカリが言う。

大輔や伊織、空、光子郎、ヤマトといったメールを受け取っていないメンバーは各々の携帯を確認して、新着メールが無いことを告げる。

「太一さんのところかもしれません」

伊織が残る選ばれし子供の仲間である太一の名前を挙げる。

ヒカリは「聞いてみる」とすぐさま兄に電話を掛けた。

しかし、太一は今日は全国の選ばれし子供あるいはパートナーのいる子供達との交流会に主催として参加しているため、すぐに連絡がつく可能性は低かった。

しばらくコールした後、ヒカリが申し訳なさそうに首を振る。

「仕方ありません。太一さんも気付けば連絡をくれるでしょう」

「そうだな。それにしても…このメッセージ、何でまた送られてきたんだ?今まで全然動きなかったんだろ?」

太一の状況を十分に理解している光子郎とヤマトが話題をメールに戻した。

「そうですね。解析して発信元の特定をしないと同一のものとは断定できませんが、まず間違いないでしょうしね」

「もしかしたら、今回デジタルワールドへ行ったことがきっかけでしょうか?」

「その可能性は大いにありますね」

賢が問うと、光子郎は肯定する。

発信元はデジタルワールドであり、そのデジタルワールドに足を踏み入れたことが、新たなメッセージを送り出させるきっかけになったというのは、理解できる図式だ。

そこに初島ユウキの存在がどの程度関与しているかは不明だが、と光子郎が付け加えると、大輔は複雑そうに顔を歪めた。

「もう一度、僕達だけでデジタルワールドに行ってみますか?」

それでメールが送られてくるかどうか、もっと別の何かがあるのか、確かめることができるのでは、と賢が提案し、大輔がそれに賛成する。

しかし、京と空は僕達への負担を考えて日を改めるべきと反対した。

僕もその意見に賛成し、明日もう一度デジタルワールドに行くことを決めた。

僕達だけならゲートポイントを使う必要はなく、パソコンからゲートを開けばいい。

明日集まれるのは僕と賢、大輔、京のみだったが、光子郎がサポートについてくれるということで、一先ずそのメンバーで決定した。

参加できないヒカリが僕の服の裾を引っ張って、「無理しないでね」と言った。

僕はできるだけ安心してもらえるように彼女の手を握る。

僕達は僕達の想像以上に周囲に心配をかけているんだろう。

それでも止めないで支えてくれることに感謝した。

 

 

 

その日は夕方に解散となり、僕は兄のヤマトと連れ立ってマコトのライブに来ていた。

何組かのバンドの演奏が終わり、次がマコトが参加しているバンドの番だ。

ステージでは機材の調整や音合わせをする先輩の姿がある。

薄暗く騒がしいライブハウスの入り口付近の壁にもたれ掛かり、ワンドリンクオーダー制で頼んだジンジャーエールを口に含む。隣ではコーラを頼んだヤマトが同じようにストローを咥えていた。

シュワシュワとした炭酸を飲み下し、僕はステージに表れたマコトを見つけて指差した。

「あの子、あのヴォーカルの子が先輩で友達」

「女だったのか」

意外だったと驚くヤマトに、僕はいつか大輔にも言ったセリフを吐く。

「女友達くらいいるよ」

「まあ、そうだけど…」

何か言いたげな表情の兄を尻目に、僕はマコトが歌が上手いことやルックスが良いことなどを説明する。

今日のマコトは季節外れの白い麻のノースリーブワンピースを着ていて、足元は素足だった。

髪は特に飾り立てることなくストレートに降ろしている。

素朴な雰囲気の中でマコトの美貌は際立つ。

ステージの中心に立つ彼女は、今までのバンドの中でも異彩を放つ存在だった。

「確かに綺麗な子だな。モデルでも通用しそうだ」

「そうかもね」

兄も認めるマコトのルックスに、ライブハウスの客も少なからず反応を示しているのが分かる。

僕は改めてマコトを見て、以前アイドルでもいけそうだと思ったことを思い出した。

まあでも、笑顔で愛想振りまくマコトの姿は想像できなかったが。

暫くして準備が終わり、ギターを担当する部長が簡単な挨拶とバンドの紹介をする。

ヴォーカルのマコトを紹介する時、「ヴォーカルだけはどこのバンドにも負けません」とか言ってしまい、マコトが凄い形相で部長を睨んだのが可笑しかった。

兄も「ハードル上げられたなぁ」と笑っていた。

反感を持った他バンドのメンバーもいたかもしれない。

でも、それはすぐに吹き飛ばされるだろうと、僕は勝手ながらに思っていた。

何故なら、部長の言ったことに密かに賛成だったから。

前奏が始まる。

以前屋上で聞かせてもらった曲だった。

あの歌がマコトの声で聴けるんだと思うと嬉しかった。

同時に、この日常に戻ってこれたことを喜ばしく思った。

マコトの歌はこの世界でしか聞けない。

僕は今、この世界に、この日常にいる。

歌が始まると、ライブハウスは水を打ったように静まりかえった。

僕は聴き入り、隣の兄は瞬きを忘れているようだったが、暫くするとマコトの声に浸っていた。

人は弱いものだと、そして強いものだと、同時に儚いものだと歌う歌詞を、見事に表現していると思う。

立ち姿、表情、歌い方。

マコトは歌を歌っている時は自由だと言っていた。

そうなんだろう。

普段、マコトの心は色々なものに縛られていて、それを理解しているマコト本人も自ら抑え込んでいて、きっとそれを解放できるのは歌う時なんだと思う。

解けた心が水のように広がって空気を振動させ、歌になるんだ。

マコトの歌は少し優しくなった。

初めて彼女の歌を聞いた時よりも。

それは彼女が直面している現実と、そこで生じた心の変化を象徴しているようで、僕は目頭が熱くなるのを感じた。

寂しさとか不安とか、誰の心にもあるものを包んで許すようなマコトの歌声は、感傷的だと言われようが僕にとってはどのアーティストよりも魅力的だった。

歌い終わると、パラパラと拍手の音が響き、徐々に大きくなる。

僕と兄も拍手を送り、マコトは深々とお辞儀をしてステージから去っていった。

「どうだった?」

「ん?予想以上。彼女、プロ志望か?」

兄に感想を求めると、ヤマトは素直に感嘆の意を述べて言った。

やっぱり、兄が聞いてもプロへの道を考える程にマコトの歌は上手いのだと分かる。

それが嬉しくて笑顔を作ったあと、「残念だけど、プロになる気はないんだって」と答えた。

ヤマトが「それは惜しいな」と本当に残念そうに言う。

それを見て、僕は思惑通りに兄がマコトに興味を持ってくれたことを知り、「兄さん、これは相談なんだけど…」と僕の中の本題を持ち掛けた。

 

 

 

全てのバンドの演奏が終わり、マコトが客席にやってきたところで、お互いを紹介するために話しかけた。

「水崎さん、お疲れ様。凄く良かったよ、相変わらず上手いね」

「高石君、来てくれてありがとう」

僕の賛辞に答えるマコトは先ほどのワンピース姿ではなく、白のインナーにデニムジャケットを羽織り、黒いスキニーパンツにブラウンのウェスタンブーツを履いていた。

髪は高い位置でポニーテールに結い上げ、首には父親からのプレゼントだと言っていたハートトップのネックレスが光っている。

大分印象は変わるが、整った顔はいつものマコトだった。

マコトは僕の隣の兄を見て「どうも」と挨拶をする。

そこで改めて2人にそれぞれを紹介した。

「同じ学校の先輩の水崎マコトさん。水崎さん、こっちがこの間連れて行きたいって話した人。僕の兄さんなんだ」

「石田ヤマトです、弟がお世話になってるみたいで」

「水崎マコトです。こちらこそお世話になってます」

兄が握手を求めると、マコトは社交辞令でよく聞く文句を口にしながらそれに応えた。

「水崎さん、歌凄い良かった。声も綺麗だし、歌い方も」

「あ、ありがとうございます」

照れているのと戸惑っているのとでぎこちない返事をするマコトに、兄は構わず続ける。

「ルックスもモデル並だから舞台映えしていたし、衣装も曲の雰囲気に合わせてたんだろ?」

「あ、はい。イメージは大事かなと」

「いいな、そういうの」

「ありがとうございます」

根拠も無しにただ褒められるのではなく、自分の観点を認められたことに対してマコトは素直な感謝を示した。

マコトの受け止め方の変化に気付いた兄は、先程僕が持ち掛けた件を切り出す。

「それで水崎さん、これからもバンド活動は続けていくのか?」

「このバンドは多分ここまでです。部長が声かけてくれてやってたので、その部長が卒業ですし」

少しばかり名残惜しそうなマコトの顔は、次に歌う場所が無いことを表していた。

やっぱり、と僕は心の中で呟く。

そして、やはり兄を連れてきて、そして頼んで正解だったと思った。

「そうか、それなら…もし他のバンドと組む予定が無いなら、俺たちのバンドに加わってくれないか?」

「え!?」

珍しくマコトの声がひっくり返る。

驚くマコトにヤマトは詳しい説明をした。

高校時代に兄がバンドを組んでいた仲間はそれぞれに大学へ進学したり就職したりしたが、その繋がりは継続している。

ただ、兄が国立大学に進学して忙しい身の上になったため、活動は不定期になってしまっているのが実情だった。

本来ならバンドメンバーはそれぞれに実力もあり、仲間の一人は音楽事務所に片足を突っ込んでいるため、ライブの機会確保に事欠かないのだとか。

ヴォーカルさえいればもっと頻繁に活動できるというバンドのニーズと、バックバンドさえいれば歌えるというマコトのニーズは合致するのでは、という提案だった。

丁度女性ヴォーカルとも組みたいという要望も上がっていたし、ヤマト自身も自分の都合で仲間の足を引っ張るのは気が引けていたのだ。

そこへ僕がマコトのことを持ち掛けた。

僕としては、兄のバンドか知り合いのバンドでマコトが歌わせてもらえたらと思って言っただけだったが、何とも都合の良い展開になったものだ。

けれど事情を聞いたマコトの目に期待の光が宿るのを見て、結果オーライだと思えた。

「私で良ければ、一度練習の場にお邪魔させて下さい」

「ありがとう、待ってるよ。コレ、ウチのバンドのリーダーの連絡先。リーダーには俺から話しておくよ」

「はい、ありがとうございます」

渡された名刺を大事そうに見つめるマコトに、僕は「良かったね」と声をかけた。

彼女は僕の顔を見て何かを察したように柔らかく微笑み、「ありがと」と小さくお礼を言った。

これでまた、マコトは歌を歌えるし、僕は彼女の歌を聴ける。

エゴだなぁと思いながらも、そうなったことに満足していた。

 

 

 




日常と非日常の狭間です。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第20話 〜嵐の前に〜

 

 

翌日、僕達はもう一度デジタルワールドに来ていた。

結局、太一の所にメールは届いておらず、新たなメールは確認できないまま、僕達は予定通りの行動を取った。

やってきた場所は昨日の河原の墓標。

一つ一つの墓を調べたが、特に異常は見られなかった。

そして、パートナーとともに僕と賢が夢に見た場所をいくつか回ってみたがやはり目立った異常などはなく、僕達二人が何かを感じることもなかった。

今日の最後の探索場所と決めた海辺で、僕達は寄せては返す波を眺めていた。

この海辺は賢が夢に見た場所らしい。

夢の中では灰色であったという景色は、ここではキャンバス上の絵のようにカラフルだ。

「今の所、泉先輩達のとこにメールは届いてないって」

京が光子郎との定期連絡を終えて言った。

「そうか…僕達だけでは事態は動かないってことか」

「ユウキが必要ってことか?何なんだよ、全く…」

「大輔、初島さんはデジタルワールドに行った後で何か変わったこととかないの?」

あの靄の件もあるし、と付け加えると、大輔はガリガリと頭を掻いて「全然何も、元気だよ」と答える。

「また行きたいってさ。こっちの気も知らねぇで」

「それは仕方ないでしょぉ、ユウキは何にも知らないんだから」

「わーってるよ」

京の指摘に大輔は僅かな苛立ちを見せる。

初島ユウキに話すべきかどうか、それは僕達の中でもまだ定まっていなかった。

彼女自身、自らの身に起こっている不可解な現象を認識していないし、それが何かも分からないままそれを伝えて、無闇に不安にさせるのも憚られたからだ。

しかし、隠し事をしたまま彼女を巻き込もうとしている現状は決して褒められたものではない。

真っ直ぐな大輔にとってはストレス以外の何物でもないだろう。

多分、周りが止めなければ、とっくに彼女に事情を話していただろう。

もしかしたらそれも一つの手かもしれない、なんて思わないでもなかったけど。

「とりあえず、今日は戻ろう。光子郎さんとも相談しなきゃならないし」

「そうだな…」

僕が帰還を促すと賢が賛成し、京、大輔がそれに続く。

パートナーに別れを告げ、現実世界に戻ってくると、ゲート管理をしていた光子郎が迎えてくれた。

引越しが間近に迫った光子郎の部屋はこの間よりも更に片付いていて、部屋の隅には数の増えた段ボールが積まれている。

「お疲れ様でした。粗方の状況は定期連絡の報告で聞いています。今後どうするか、ですね」

「やはり、初島さんが何かしらのキーなんだと思います」

「もう一度彼女を連れてデジタルワールドに行きたい、ということですね?」

「はい…」

賢の進言を受けて、光子郎は少し考え込む。

そうそう何度もデジタルワールドに行かれては困るのかもしれない。

今や秘密裏ながら国際的にも研究機関の設立が計画されている対象世界だ。

いくら選ばれし子供とはいえ、もはや身勝手な行動は許されないということは、賢も僕達も十分に分かってはいたのだが…。

「光子郎さん達に迷惑をかけてしまうのは心苦しいんですが、お願いできないでしょうか?」

賢が畏まって頼み込むと、光子郎は「ああ、そっちはあまり心配しなくて大丈夫ですよ」と言った。

「国の監視システムはゲンナイさんたちエージェントが抑えてくれてますし、ゲートの開閉は僕達研究チームの試験的運用という名目がついてますので安心して下さい。僕が考えていたのは、僕がこちらにいる間に安定したゲートが開けるタイミングが無いということです」

「そうなんですか?」

聞き返す僕に答えたのは京である。

「残念なんだけど、今日から泉先輩の引越しの14日までの間に安定するゲートポイントが無いのよ。多分一番近くて19日の光ヶ丘かな」

自前のノートパソコンで観測データを表示させて説明してくれた。

波打つグラフが安定期に達する時期は確かに19日辺りだ。

他のゲートポイントのグラフは荒々しく波打つか、上方で停滞している。

「光子郎さんのサポートが無いのは痛いですね」

「京都に行ったらすぐに大学の研究所とコンタクトを取って、そこからバックアップする形を取ろうとは思いますが…」

近くでフォローできなくてすみません、と光子郎が謝り、京が「そんなことないですよぉ」と慌ててフォローする。

確かに、光子郎がいてくれたからこれだけ自由に動けているのだ。

その恩恵は十分に感じていた。

それに、今後の両世界の共存のために光子郎の存在は重要であり、然るべき機関に身を置くことが必要であることは、誰もが理解していた。

「バックアップしてくれるだけでもありがたいんですから。こっちでの泉先輩の代わりはアタシが務めます!」

「ありがとう、京くん」

何とも頼もしいことだった。

光子郎も賢も、そんな彼女の姿に自然と笑みを浮かべている。

とここで、僕は帰ってきてから一言も発していない大輔を振り返った。

大輔は胡座を掻いた膝に頬杖を付き、何やら思案顔をしている。

「大輔?」

「あんた、どーしたの?」

やけに静かだと思った、と余計な一言を忘れない京だが、彼はそれをスルーして呟く。

「俺、ユウキに全部話したいんすけど」

それはずっと主張したくてできなかった大輔の本音だろう。

「大輔…」

気遣わしく呟かれた名前に、本人はずっと溜め込んでいたものを吐き出していく。

「俺やっぱ無理だ、このまま黙ってるなんてよ。あいつにもちゃんと、自分に何が起きてんのか知って欲しい。知った上でユウキがどうしたいのか、ちゃんと聞いて尊重してやりたいんだ。知らないまま巻き込んで、傷ついて欲しくねぇんだよ!」

大輔の本音は耳に痛かった。

真っ直ぐで、それこそ正論の塊のような言葉の数々は、狡さを身につけ始めた僕にとってはキレイ過ぎて痛い。

そうやってどこまでも真っ直ぐにぶつかれる強さは、いつになっても眩しいままだ。

人は大人になるにつれ臆病になって、狡くなっていくのに、彼は変わらないんだな。

「大輔…それで本当に後悔しないか?」

賢が試すように問う。

僕はもう大輔に何も言うつもりはなかったから、二人のやり取りを見守ることにした。

問われた大輔はしっかりと頷く。

「最悪の場合、彼女の日常を奪うかもしれない。今までのように暮らしていくことはできなくなるかもしれないって、分かってるか?」

もし初島ユウキが特異な能力を持ち、デジタルワールドに影響を与える存在であったとしたら、ヒカリと同様の立場に立つことになる。

ましてやその影響の程度によっては、国の監視対象あるいは研究対象になり兼ねない。

ヒカリは太一が何が何でも守り抜くだろう。

その為に率先してデジタルワールドと現実世界の架け橋になり、立場を確立しようとしている節もあるくらいだ。

それは僕も同じで、最悪の場合は何を捨てても彼女を守るつもりでいる。

大輔にはその覚悟があるか、そう賢は聞いているのだ。

「…ガキの頃みたいにただがむしゃらにやるだけじゃダメだってことくらい分かってる。けど、やっぱ自分のことは自分で決めたいだろ!それがどんな結果になっても、自分で決めたなら、たとえ後悔しても最後は受け入れるしかないんだって諦めもつく。それを、いくら心配だって言ったって、他人が決めたんじゃ納得いかねーだろうが!俺はユウキが自分で選んだことで傷付いても前に進む奴だって信じてる。もし傷ついて躓くなら、何度だって助けてやるよ。俺はあいつと一緒にいるって決めたんだ」

切実な叫びは、賢にも僕にも届いていた。

この言葉に賢はもう覚悟を確かめることはなく、僕達は初島ユウキのもとへ向かう大輔を見送った。

京は「大輔のクセにカッコつけちゃってさ」と悪態をつきつつも、友人である初島ユウキを思って瞳を潤ませていた。

光子郎は穏やかに笑って全てを見守っていた。

賢は悲しいような嬉しいような複雑な顔をして、僕と目が合うと少しだけ笑った。

僕は、大輔が一秒でも早く初島ユウキのところへ辿り着けるように願った。

大輔は変わっていないわけじゃなかった。

あの頃よりもずっと成長して、でも真っ直ぐなところは失くさない。

いい年の取り方って言ったら年寄り臭いけど、きっとそうなんだろうと思った。

初島ユウキ。

彼女が求めた奇跡は今、世界の誰よりも彼女の近くにいる。

これで彼女の背負うものに変化があるのかはまだ分からないけれど、大輔は何度でも彼女に手を差し伸べる。

その手を取った時、何かが変わるのかもしれない。

 

 

 

ねえ、ヒカリ。

きっと君に必要だったのも大輔みたいな奇跡だったのかもしれないね。

それが無かったから、太一さんは必死で君を守ろうとしてきた。

そしてこれからも守っていく。

僕も守るよ、君を。

奇跡は起こせなくても、僕は僕なりに君を守るよ。

決して君を諦めない。

手を差し伸べることが叶わなくても、君が伸ばしてくれた手を握って、離さずに歩くから。

だから、ずっと一緒にいようね。

 

 

 

大輔がどんな風に初島ユウキに事実を伝えたのかは知らない。

ただ、光子郎が京都に引っ越す前に、デジタルワールドの現状と、ヒカリ同様に今後予想されるリスク等の詳細について説明をしたらしいので、少なくとも自分の置かれている立場の危うさは自覚しているんだろう。

その上で、もう一度デジタルワールドへ行くことを望んだと、大輔は言っていた。

それならば何も言うことはない。

それにしたって、いまだ未知数である初島ユウキの能力は一体何なのか。

ゲンナイ達に聞いても不明、四聖獣からも明確な返答は得られない有様だ。

あまりにイレギュラーな存在。

その彼女を伴って、二度目のデジタルワールドへのゲートを開く日が間近に迫っていた。

 

 

 

3月も後半に差し掛かり、学生は春休み真っ最中だった。

春休みにやろうと思っていたバイトは結局できず、あの情報誌は未だベッドの下に忘れ去られている。

ホワイトデーは小遣いの節約術で捻出した資金により何とか乗り切った。

まあ、この問題が片付くまでは心置きなくプライベートを満喫するのはできないだろうと僕もヒカリも思っていたから、ささやかに済ませたけれど。

それにホワイトデー当日は光子郎の引越しの手伝いがてら、今後の連絡手段や手はず確認などを行っていたのであまり時間が無かったということもあった。

ブレーンは京都に旅立ち、遠方からサポートをしてくれる。

残されたブレーン代行が、賢とともに着々と準備を進めてくれていた。

いよいよ明日がその日だ。

明日もちゃんと戻ってこれるだろうか。

いつでも付き纏う不安が沸き上がってくる。

自室のフローリングに寝転び、僅かに空いた窓から入ってくる春めいた陽気に目を細めた。

昨日の夜、夢を見た。

デジタルワールドの夢だ。

その夢は今までとは少し違っていて、上も下も無いような空間に白く光る塊が漂っているものだった。

こんな空間がデジタルワールドにあったかと聞かれると覚えはないが、空気があの世界のものと同じだったのでそう判断した。

クルクルと回転しているようにも見えるその塊は、手を伸ばせば届きそうなのに決して届かない場所にあった。

呼んでみようとするが声が出ない。

音が無いのはいつもと同じだった。

歩こうとしても地面が無いので歩けず、身体はその場にとどまり続けた。

周囲には誰も何もなかった。

仕方なく、僕はその白く光る塊を見続けた。

クルクルと回り続けるそれは、やがて空気に溶けるように消えていき、そこで目が覚めた。

夜明け前のいつものタイミングだ。

 

(あれはどこだったんだろう…見たことの無い場所、でもデジタルワールドと同じ感じがした)

 

賢に夢の話をしたら、賢は全く別の夢を見たそうだ。

一面グレーの世界で、はらはらとデータチップが巻き上げられていくのだという。

デジタルモンスターを構成しているデータチップは、彼等が消滅すると細かく分散して最小単位にまで分解され、再構築の過程を辿る。

あの世界の物質も同様に破壊されるとデータチップに分解されるが、生命体と同様の回帰回路を辿るのかはまだ不明だ。

ともあれ、賢はあの世界の何かが破壊されたために巻き起こったデータチップの嵐を夢に見たということなのだろう。

巻き上がる先は再構築への回路か、または不要なものとして世界に判断されれば無に帰すか。

 

無。

 

果たしてあの世界に無はありえるのか。

かつて自分達が選ばれて最初に旅をした時、行き着いた最後の災厄は無に帰すことを拒んだ意思の塊だった。

あの世界は循環しているが、人の身体と同じく不要なものを排除し恒常性を保っている。

それは生命であってもシステムであっても、世界という単位であっても同様だ。

全てに理があり、そこから外れては成り立たなくなる。理に抗おうとしたあの存在を、デジタルワールドは排除するために僕達を選んだ。

世界を理のもとに戻す。

それこそが世界の再生であり、選ばれし子供の本当の使命だった。

あの時の僕達に迷いなんてなかった。

世界を救い、大切な人や世界を守るための決断が間違っていたとは思わない。

けれど、あの哀しい存在の行き着いた場所は今度こそ無だったのか、今更ながらに思う。

世界から弾かれ、いなくなるということは、きっととてつもなく寂しいんじゃないだろうかと。

無は、闇よりも残酷なんじゃないかと思うのだ。

 

(デジモンは転生の回路を辿るものもいれば消えるものもいる…人も同じなのかな。人も、消えるのかな)

 

輪廻転生なんて別に仏教徒じゃないし、初島ユウキの祖母の「生命は巡る」って口癖じゃないけど、どこかこちらの世界を写したようなデジタルワールドを思うと、人の生命も転生したり消えたりするのかなって、ちょっとだけ思ってしまう。

転生できなかった人は転生できた人を羨んで無に帰っていくのだろうか。

いなくなる、何も無くなる、それってどんな風なんだろう。

とても想像ができなかった。

 

 

僕はその日、マコトに電話をかけた。

あの卒業ライブの後、学校で何回か顔を合わせたが、春休みに入ってからは連絡も取っていなかった。

明日、デジタルワールドへ行く前に、彼女の声を聞いておきたい。

この日常に戻って来るために。

 

 

『もしもし…』

長いコールの後、明らかに鼻詰まりの声が聞こえてきて驚いた。

「水崎さん、どうかした?」

『…ごめん、ちょっと』

鼻をすする音がして、その後に小さい高い音で「うぅ」と唸るような響きが聞こえてきた。

間違いなく泣いている。

「迷惑だったら切ってね」

でも多分、それならマコトは最初から出ない。

それでも出たということは、何かあるんだ。

その考えはどうやら当たっていたようで、マコトは何度か鼻をすすり、大きく息を吸っては吐き出し、漸く状態を落ち着けてから話し始めた。

『今ね、お父さんからの手紙読んでて…なんか、遺言みたいでちょっとね』

「そうだったんだ」

『まだ生きてるんだから、口で言ってよって。こんなの今渡さないでよって思っちゃって』

「うん…」

『でもさ、お父さんはお父さんでたくさん考えたんだよね、きっと。不器用で、私の気持ちなんかまるで分かってない文章だけど、お父さんが伝えたいこと、いっぱい悩んで、書いたんだろうなって…』

「水崎さん…」

マコトの語る言葉からは、父親の想いと彼女の想いとが溢れていた。

いなくなる前にせめてもと手紙を書いた父親。

それはまるで、いなくなる準備をしているみたいにも思えて、マコトには複雑な思いを抱かせたのかもしれない。

それでも父親を理解しようと努めるマコトは、立派だと思う。

痛いほど携帯を耳に押し当てる。

マコトの悲しみを少しでも拾い上げたかった。

マコトは「この手紙は一生持っていくんだろうな」と少しだけ明るい声で呟いた。

宝物でもなく、荷物でもなく、ずっと持っていくのだと。

この言葉が忘れられなかった。

宝物のように大事にして守るのでもなく、荷物のように重いものを背負うのでもなく、ずっと持っていく。

それは途方もないことのようにも思えたけれど、確かにその通りだと納得もできた。

『高石君、ありがとう』

涙に濡れた声が遠ざかり、マコトは僕にお礼を告げた。

「何にもしてないけど」と返すと、『抜群のタイミングで電話くれたじゃん』と普段の調子を取り戻してきた。

ホッと安心感が広がる。

『高石君の用事は?』

続けざまに聞かれ、僕は一瞬言おうかどうしようか迷ったが、思い切って話すことにした。

「ちょっとお願いがあって…」

『珍しいね、何?』

「明後日、少しだけ時間くれない?」

『明後日のいつ?』

「いつでも。水崎さんの都合の良い時間で。短くてもいいんだ、ほんの少しでも」

不可解なお願いだと思われるかもしれない。

でも、今はマコトとの約束がどうしても必要だと感じていた。

ほんの少しの沈黙の後、彼女は「いいよ」と答え、先を続けた。

『その代わり親子丼食べさせて』

とても温かな響き持って発せられたその言葉に、僕の心が緩く解けていくのが分かる。

「うん、お安い御用だよ」

この日常に帰る約束があれば、僕は明日も帰ってこれる。

心の底に漂う不安に呼びかけるように、僕は目を閉じた。

お互いに「じゃあ明後日に」と言い合って電話を切った。

夕闇が迫り、やがて夜が来る。

今日も夢を見るのだろうか。

 

 

 




何かと向き合うのは大変なことだと、いつも思います。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第21話 〜叫び〜

 

 

「皆、準備はいい?ゲートを開く先は、はじまりの町。泉先輩が別口で監視システムにダミーを配信してくれてる間、まあざっと3時間程度なんだけど、その間に戻ってね。アタシはここのゲートをキープしとくから、何かあったらDターミナルで連絡して。ヒカリちゃんはアタシと伊織と一緒にこっちで待機。何かあったら伊織が助っ人ってことで、極力ヒカリちゃんの投入は避けるから。とにかく無茶だけはしないこと。賢も大輔もタケル君も、少しでも不調を感じたらすぐ戻ってくるのよ」

光ヶ丘団地にある公園に集まった僕達は、今日のゲートキーパーである京から改めて最終確認された内容を反芻し、頷く。

司令塔である京は、僕達の中でも一段と緊張した面持ちの初島ユウキの前に進み出て、彼女の目を真っ直ぐに見た。

「ユウキも何かおかしいって感じたりしたらすぐに皆に言ってね。無理しちゃダメよ」

「うん、ありがとう、京」

まだ硬いものの笑顔を作る初島ユウキ。

その手を、隣に立つ大輔が握りしめた。

見つめ合う2人はどこか以前と違って、僕達はそれぞれに視線を外す。

僕は見送る立場に歯がゆさを感じているであろうヒカリに近づき、「行ってくるね」と声をかけた。

ヒカリは不安を拭いきれない顔で頷き、「気を付けて」と言った。

準備ができたところで、京が鍵であるカードを並べ、最後の一枚、太一のパートナーが写ったカードをセットすると同時に、懐かしい掛け声をかける。

「デジタルゲートオープン」

でもそれは以前のようなただ明るい元気なだけの掛け声とは違い、言い知れぬ不安と緊張、そしてそれを払拭しようと心を立て直さんとする勢いが感じられた。

ゲートが開き、まず賢が、そして一度ヒカリを振り返ってか僕が、その後から大輔と初島ユウキが続いた。

この先はファイル島、はじまりの町。

二度目の目的地を、前回回避した理由を押してでも選んだのには当然理由があった。

それは、初島ユウキの希望。

それも単なる興味心などではない。

大輔が初島ユウキにすべての事情を話した時、彼女がそれでもデジタルワールドに行きたいと願った最大の理由。

 

 

『次にデジタルワールドへのゲートを開く時、行き先は始まりの町にしてくんねぇかな』

 

 

二度目の行き先を決めていた時、大輔が実に真剣な眼差しで言ったのだ。

当然、デジタマへの影響などを考えて反対する意見が多く出たが、彼はどうしてもと言い張った。

スカイプ越しの光子郎が穏やかな、しかししっかりとした口調で理由を問うと、大輔は暫く沈黙した後に「ユウキが望んでる」と告げたのだ。

そして、大輔は続けた。

「ユウキに全部話した後、あいつも今まで言わずにいたことを話してくれた。初めてデジタルワールドに行って自分に何が起こったのかは分からないけど、でもあれ以来、ユウキはそれまで以上にデジタルワールドに呼ばれてる気がするんだって言ってた。行きたいっていう単なる希望じゃなくて、行かなきゃならないって使命感みたいな気持ちになるんだって…」

その使命感に突き動かされる彼女が示した場所が、全てのデジモンが生まれる始まりの町だったという。

それを承服するのは中々に難しかった。

何かが起こってしまった時、あの町に被害を出したくない。

けれど、この不可解な出来事を解決に導くにはまたとない手掛かりにもなり得る。

光子郎がエージェントを呼び出し、賢や京、僕達も踏まえて暫く話し合った結果、可能な限りの警戒とバックアップ体制を取った上で、初島ユウキを決して単独行動させないという条件付きで許可が出たのだった。

 

 

 

ゲートを抜けると、はじまりの町に続く森の中だった。

デジタルワールドに着いてすぐ、僕達は京からメールを受け取った。

内容は、僕達がゲートをくぐった直後に伊織のもとに例のアドレスからメールが届いたというものだった。

伊織に届いたメールの文面は『祝』。

こまでのメッセージを合わせると『すべての生に祝』となる。

「誕生日でも祝うのか?」なんて大輔は言ったが、果たしてそんな単純なものなのだろうか。

字面からは悪意が無いようにも思えるが、皮肉である可能性も否定できない。

これがもし仮に敵対勢力からのメッセージであるなら尚更だ。

楽観はできない、とだけ賢が言って、随時連絡を取り合う旨を返信した。

僕達はパートナーと合流後、土地勘のある僕とパタモンの先導で歩き始める。

「賢も行ったことあるんだよな?」

「ん?ああ…迷い込んだ感じで辿り着いたから、道順はあまり覚えてないけど」

かつてパートナーを失い、自らの過ちに気付いて茫然自失だった賢が彷徨った果てに辿り着いた始まりの町。

そこで再びパートナーと再会し、賢自身も生まれ変わったという。

それを聞いた初島ユウキが、何故か切なげに眉を寄せ、胸に手を当てて祈るような仕草を見せた。

それが気になって、僕は肩越しに彼女を振り返る。

「こういう話、苦手なんだっけ?」

「あ、いえ…賢さんとパートナーが再会できたこと、すごく素敵なことだなぁって」

言いながら、初島ユウキの表情はやはり硬い。

「もうじき着くけど…初島さん、何か感じる?」

立ち止まって問うと、彼女は「少し、ドキドキしてます」と答える。

それはどういう意味なのか。

しかし、横にいる大輔がやけに気遣わしげに何かを耳打ちしていた。

ただ、残念ながら丸聞こえだったが。

「それって前みたいな感じなのか?」

「え?えっと…どうかなぁ」

ヒソヒソとやり取りをする様は微笑ましいが、もう少しうまく出来ないものだろうか。

まあそれは置いておくとして、僕は気になったことを質問する。

「前って、いつのこと?」

「げっ、なんだよ聞こえてたのかよ」

聞こえてないと思ってたのかよ。

やれやれと呆れたのは僕だけではない。

賢も溜息交じりに「何か心当たりがあるなら言ってくれないか?」と促す。

問われた初島ユウキは明らかに戸惑い、大輔の顔を見てどうするべきかと訴えていた。

初島ユウキのSOSに、大輔が彼女を庇うように一歩前に出る。

「緊張してるだけだよ」

「でもさっき前って」

「言ってねーよ!」

押し切って誤魔化そうという魂胆が見え見えの反論に、僕は少しだけイラッとした。

「あのさ大輔、ただでさえ分からないことだらけで気を張ってるんだから、隠し事とかは無しにしてもらわないと困るんだけど」

「だから、何もねーって言ってるだろ」

「何も無いって態度じゃないと思うから言ってるのに」

「だーかーらー!」

「ストップ!二人とも落ち着けって」

ヒートアップしそうな僕等の間に賢が割って入った。

諭すような賢の視線に僕は喉まで出かかった言葉を飲み込む。

大輔も居た堪れない様子の初島ユウキを見て、バツの悪そうな顔をして引き下がった。

少しナーバスになり過ぎだ、と自分を叱責する。

じりじりと胸を焼く不安が、僕から余裕を奪っていく。

賢が小さく「タケル、焦るな」と囁いた。本当にこの冷静で優しい友人には頭が上がらない。

賢だって不安でないわけがないんだ。

心を鎮めて事に挑まなければミスを犯す。

焦りを押し込めて大輔に向き直ると、彼の横の初島ユウキが口を開いた。

「あの…私、前にもあったんです。デジタルワールドだけじゃなくて、呼ばれるみたいな感覚」

突然の告白に僕と賢は顔を見合わせ、彼女の隣では大輔が不機嫌面をしている。

「それはどこで?いつぐらい?」

「かなり前で、それも何回か。どこっていうのはちゃんと言えないんです。行かなきゃって思って行った場所はどこもバラバラで…」

「行った先で何か感じたりした?もしくはデジモンを見たとか」

「いえ…デジモンは見てません…」

「じゃあ他に何かなかった?」

「えっと…それは…」

僕と賢が代わる代わる質問し、彼女はそれに答えるが、徐々に返答は小さく、歯切れの悪いものに変化していく。

言い淀んで続かなくなった所で、見兼ねた大輔が口を挟んできた。

「もういいだろ」

何がだよ、と食ってかかりたくなるのを抑え、僕は努めて冷静な口調で言った。

「いいわけないよ。以前と同じような感覚なんだとしたら、今回のことにも何か関係があるかもしれないじゃないか」

「だからって、今問い詰めなくてもいいだろーが!」

大輔の反論に僕の焦りと苛立ちが再燃する。

「じゃあ何で今まで黙ってた?皆で話し合うときにも、出発前だって僕達に伝えるチャンスはあったのに」

「言いたくねーことだってあるんだよ!」

大輔もまた怒りを露わにして僕を睨みつけた。

僕にとっては子供じみた理由にしか聞こえないその言い分が、更に苛立ちを増幅させる。

何でこんなに苛立つのか、自分でも分からないくらい何かに焦らされていた。

「言いたくないから言わないなんて、そんなこと言ってる場合じゃないってこと、口で言わなきゃ分からないの?」

挑発的な言葉が口をつく。

隣から賢の制止が飛ぶが、見事に挑発に乗った大輔が掴みかかってきたために徒労に終わった。

「ふざけんな!そういうお前らの言い分がユウキを傷つけんだよっ」

襟首を強く捕まれ、眼前で吠える大輔。

その後ろでは初島ユウキがオロオロしている。

パートナー達も止めに入るべきかどうか迷っているようだった。

僕は大輔と初島ユウキを見比べて言った。

「彼女のためにも必要だって言ってるんだ」

「必要なら相手の気持ち無視してもいいってのか!?」

案の定、直情思考の大輔らしい答えが返ってきた。

きっと大輔は初島ユウキの気持ちを慮って隠そうとしたのだろう。

その気持ちは分かるけれど、今回の件については容認できない。

割り切れと大輔に告げようとした時だった。

大輔を収めた視界の後ろ、さっきまで張り詰めた空気に戸惑うばかりだった初島ユウキの周囲がゆらりと歪んだ。

同時に賢が「うぁ!」と短い呻き声を上げて両耳を抑えてしゃがみ込み、大輔が異変に気付いて彼女を振り返った瞬間、初島ユウキは何色もの色に包まれたかと思うと、まるで風のように走り出した。

「ユウキ!」

弾かれたように大輔が彼女の名前を呼んで後を追う。

その後を大輔のパートナーが続く。

僕も追いかけようとして振り向いた遥か先、四方の空から初島ユウキへと注ぐ色の筋に息を呑んで立ち尽くした。

 

「何なんだ、これ…」

 

まるでこの世界のあらゆる色が彼女に集められていくような、あまりにも異様な光景。

すぐ後ろからは、立ち止まった僕を不審がるパートナーと、頭を抱えた賢を心配する彼のパートナーの声が聞こえた。

どんどんと遠ざかる初島ユウキと大輔。

しかし、不気味な色の帯だけは空から注いでいて、初島ユウキの居場所を示していた。

「賢、大丈夫?」

「すまない、音が…」

駆け寄って賢が立ち上がるのを支える。

賢は片方だけ手を外し、さっきよりはマシになったと言った。

僕は僕の見た現象と、今もなお見えている現象について簡単に説明し、大輔達の後を追うために走り出した。

「彼女、様子がおかしかった」

「嫌な予感がする、急ごうタケル」

短いやり取りをおえて、後はただひたすら走った。

走りながらも賢は京に連絡をしていたようだ。

応援が来るなら伊織だ。

ヒカリは来ない筈だから安心しろ、と自分に言い聞かせる。

空を流れていく色の帯を追いかけて、まっすぐに始まりの町へ急いだ。

 

 

 

賢の言った嫌な予感は、はじまりの町の門をくぐってすぐに現実となって視界と耳に飛び込んできた。

「やめろ、ユウキ!」

大輔の叫び声と、デジタマから生まれたばかりの幼年期達の悲鳴が重なって響く。

僕と賢がその場に辿り着いた時、そこにはあってはならない光景が広がっていた。

砕かれた幼年期達の寝床、いくつもの傷ついたデジタマが転がり、ぐったりと動かない幼年期達の姿も見て取れる。

そして、そんな惨状の中心には、初島ユウキが淀んだ色の渦に包まれて立っていた。

その彼女に対している大輔は、その腕に傷ついた幼年期デジモンを抱え、背中にいくつものデジタマを庇っている。

「これは…っ」

「まさか、初島さんが…?」

咄嗟に幼年期達を庇う位置に立ち、僕と賢は必死で状況を把握しようとした。

初島ユウキは自らの体を抱きしめるようにして俯いていて表情は伺えない。

「ユウキ!」

大輔が呼びかけると初島ユウキ肩がビクッと震え、彼女を取り巻く複数の色が淀んで共存しているような空気が形を変え、幾つもの蛇の頭のように細く伸び上がる。

空から注ぐ色の帯の隙間を縫うように上昇していたその蛇達は一定の所でピタリと動きを止め、その矛先を地上へと向けた。

「やめてぇえええ!」

初島ユウキの割れんばかりの悲鳴が響き渡る。

上空から何匹もの蛇が飛来し、パステルカラーの町の地面を貫き、逃げ惑う幼年期達に襲いかかり、まだ孵らないデジタマを呑み込んでいく。

次々と消滅していく命の悲鳴が空間を占拠し、飛び散ったデータチップがまるで雪のように降り注いだ。

呆然とする僕達にもまた、蠢く色の蛇が襲いかかるが、咄嗟に進化したパートナー達がその攻撃から守ってくれた。

周囲を喰らい尽くした蛇達が形を失って初島ユウキのもとに戻っていく。

はらはらとデータチップが舞う。

まるで、賢が見たという夢のように。

「こんな…ことって…」

一体いくつの命が失われたのか。

あまりの惨劇に言葉を失うとはこのことか。

隣の賢が、パートナーの腕の中から周囲の惨状を見渡して唇を震わせる。

僕もまた、成熟期になったパートナーの翼の下から、破壊の中心を見つめた。

初島ユウキは両の腕で己を抱きかかえ、大粒の涙を零していた。

「ユウキ…」

大輔もまた守ってくれたパートナーの腕から這い出てきた。

恐らく最も大きなダメージを受けたのは大輔達だというのが見て取れた。

彼等の周囲の地面は抉られ、パートナーも傷だらけだ。

彼女にとって大切な筈の大輔が何故?いや、そもそも彼女は何故こんなことを?彼女の意志?まさかそんな…。

疑念が渦巻く。

ただ彼女の周りで蠢く空気、たくさんの色が集まっているのにどの色も混ざり合わずに絡み合い、留まることなく動き続けている。まるで迷子が彷徨っているみたいに見えた。

「もう…やめて…っ」

微かに空気を震わせたのは、消え入りそうな初島ユウキの声だった。

涙に濡れたその声は、僕達ではない誰かに向けて発せられていた。

「も…やめよう…帰りたかっただけなんだよね…ここに、帰ってきたかったんだよね…」

「ユウキ?」

ポツリポツリと呟かれる言葉の意味は僕達には分からず、大輔がフラフラと初島ユウキに近づく。

しかし、初島ユウキは首を振って拒んだ。

それでも大輔が手を伸ばすと、彼女の周囲を取り巻く空気が膨張し、その手を弾き返した。

強い力に跳ね返された大輔は後ずさってしまう。

その姿を見た初島ユウキが、新たに涙を流した。

「ごめん…大輔くん、ごめんね…」

「ユウキ!」

「みんな、みんな帰りたかったけど、ここに来れなくて…私、ここに来るまで気付かなくて…みんなを傷つけて、ごめんね」

「何言ってるんだよ、ユウキ!」

もう一度ユウキに駆け寄る大輔だが、またあの空気に跳ね返されて吹き飛ばされる。

僕達は大輔に駆け寄って助け起こし、初島ユウキを見やる。

賢は煩わしげに首を振って顔を顰めた。

音が強いのだろう。

僕は真正面から感じる異様な空気に肌が粟立つのを感じた。

この言い知れぬ恐怖、いつかどこかで…。

「初島さん、これは一体どういうことなんだ!?」

いつもより大きく張り上げられた賢の声は、自分にしか聞こえていない音を振り切る為だろうか。

初島ユウキは僕達三人を見つめ、今にも飛び掛かってきそうな周囲の空気を抑え込むように自分の肩を掻き抱いた。

「この子たちは、ここに帰りたくて帰れなかったんです…」

「この子たち?」

それは彼女の周囲で蠢くものたちのことなのだろうか。

僕の問い掛けに、初島ユウキは降り注ぐ蹂躙された生命の欠片を見上げる。

「帰りたくて、必死に叫んで、たどり着いても本当に帰ることはできなくて、それが悲しくて苦しくて、暴れ出してしまったんです…私は、抑えきれなかった」

「な、んで…ユウキが、そんなっ、もん、背負ってんだよぉ」

助け起こされて膝を着いた大輔が切れ切れに紡ぐ。

これが、彼女の背負っていたもの?

死んでも死に切れない、転生もできない命の叫びを背負ってきた?

それは、そんな哀しい存在を、僕は前にもこの世界で…。

「私にも分からなかった…これが何なのか、どうしたらいいのかも。でも…これだけは分かるの…このままじゃ、この子たちはみんなを傷つけるから…」

ほんの微かに初島ユウキが泣きながら笑った気がした。

大輔が「やめろ」と呟く。

それは無意識なのか。

賢が耳を抑えて崩れ落ちるのと同時に、初島ユウキを取り巻く空気がガバッと大きな口を開けたように広がった。

次に眩い光が僕達と初島ユウキとの間に現れ、その中にノイズ混じりのデータが構成されていく。

構成されて実体化した姿を見た瞬間、僕の呼吸も心臓も動きを止めた。

 

そんな馬鹿な、あるはずない、ここにいるはずがないのに。

 

言葉にならない声が喉の奥で空回り、無我夢中で手を伸ばした先で、大きく口を開けた仄暗い色の波が初島ユウキもろともその姿を呑み込んで消えた。

ほんの一瞬のことだった。

色は消え、何も無かったかのようにデータチップだけが視界に舞い落ちる。

伸ばした手は何を掴むこともなく、蹂躙された傷跡だけが残ったはじまりの町がそこにはあった。

「あ…ウソ、だ…っ」

データチップが手に触れ、ジジっと音を立てて消える。

今しがた起こったことが信じられず、さっきまで彼女らが居た場所を呆然と見つめた。

あの色の奔流が初島ユウキを呑み込む直前、光とともに現れたあれは…。

「八神、さん…」

「!?」

賢が呟いた名前に、僕は大きく肩を震わせ、息を飲んだ。

続いて大輔が初島ユウキの名前を呟くのが聞こえた。

幻じゃなかった。

途端に手が震え始める。

自分の意志とは関係なく震える手を引き寄せ、もう片方の手で強く握り込むが、震えは収まらない。

この手は届かなかった。

目の前で消え去った彼女。

体の内側から這い上がってくる何かを止められない。

 

「あ、ぁあ…うぁあああああぁぁぁぁああああ!」

 

叫んだって、意味なんて無いことは分かっていた。

でも、どうにもならなかった。

大輔が地面を殴りつける音がした。

賢のDターミナルにメールが届く音がした。

退化したパートナーの気遣わしげな声が聞こえた。

幼年期達の啜り泣くような鳴き声が聞こえた。

遠くから、僕達を呼ぶ伊織の声が聞こえた。

でも、彼女達の声は聞こえない、姿も見えない、気配もない、この世界のどこにも…。

 

 

 




たとえお芝居でも、そんなに叫ぶことってないと思うんです。
アニメは別ですが…。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第22話 〜背負ったもの〜

 

僕等がデジタルワールドから戻ってきたのは、いなくなった彼女達を見つけるまで帰らないと半ば自暴自棄になる僕と大輔を伊織が叱りつけ、京からの涙ながらのメールを受け取った賢に諭された後だった。

そこで、こちら側での事の成り行きを知った。

初島ユウキの暴走を伝える賢からのメールを受け取った後、伊織はすぐさまゲートを開いて隣のエリアから応援に向かい、京は光子郎と協力してはじまりの町付近の空間観測と警戒を強めた。

光子郎のいる研究所側で空間の歪みを感知した直後、京の隣にいたヒカリの全身が突如光を放ったという。

そして、京が止める間もなく、彼女は光に包まれて掻き消えてしまったのだそうだ。

「ヒカリちゃんを守れなくて、ごめん、ゴメンね、タケルくん」と京は謝った。

京のせいじゃない、と慰める賢。

僕は何も言えなかった。

 

 

僕達は光子郎の指示でかつての僕の家に向かった。

マンションに着くと、そこには既に太一、ヤマト、空が集まっていた。僕は太一の顔を見れなかった。

恐らくもう事情は聞かされて知っているであろう太一は、顔を見ずとも空気が痛いくらいに張り詰めていている。

ヤマトや空が牽制しているから持ち堪えている様子であり、そうでなければ激流の如く僕達に怒りをぶつけていたに違いない。

 

 

『初島ユウキさんとヒカリさんが飲み込まれたという空間の歪みはこちらでも観測しました。解析して分かったことは、この歪みに飲み込まれた彼女達は別の異世界に飛ばされたのではなく、まだそこにいるということです』

「どういうことだ?」

光子郎の説明を理解できない誰もが思ったことを、ヤマトが代表して聞いた。

『姿こそ見えませんが、彼女達はまだデジタルワールドのはじまりの町にいるんです』

「そんなことがあり得るんですか?」

『有と無の狭間とでも言いましょうか。パソコンで言うと完全にデータを消してしまう手前、ちょっと語弊はありますがゴミ箱に入っている状態というのが近いかもしれませんね。デスクトップからは見えなくなりますが、ちゃんとデータは存在しています』

「ゴミ箱…」

響きのぞんざいさに京が眉を寄せた。

しかし、続く光子郎の言葉に、皆の顔に緊張感が戻る。

『しかし、油断はできません。あの世界が彼女達を不要と判断すれば当然ゴミ箱のデータは消去されます』

「じゃあ、このままじゃっ」

「何か方法はないのか!?」

消滅の可能性が示唆されたことに空が悲鳴に近い声を上げ、太一がパソコンの画面に映る光子郎に詰め寄る。

今にもパソコンに掴みかかりそうなのを、ヤマトが押しとどめていた。

『データをサルベージできないか試してみましたが、何かに邪魔されて上手くいきませんでした。遠隔操作では限界があるようです。そこで…』

「じゃあ別の方法で!」

「太一、落ち着け!」

光子郎の言葉を待たずに焦り全開の太一を、ヤマトが強めの口調で制止させる。

画面の向こうでも光子郎が『少し冷静になりましょう、太一さん。まだヒカリさん達は消えたわけではありません』と穏やかに告げ、言い掛けた言葉の先を続けた。

『僕と研究所のメンバーからの提案なんですが、遠隔操作で有と無の狭間の空間、とりあえずはゴミ箱と称しますが、このゴミ箱への入り口を開き、皆さんで直接的に乗り込んで彼女達を強制サルベージするという力技しかないかと』

「それは見事な力技ですねぇ。でも泉先輩、さっき邪魔されたって言ってた何かってのは大丈夫なんですか?」

『入り口を開く分には問題ない思います。ただ、サルベージしようとすると、彼女達のデータを覆い隠すように幾つものフィルターになって妨害してくるんです』

「もしかして、それってユウキを包んでいたっていう色の塊のせいですか?」

『確証はありませんが、ウィルスとも違う何かがヒカリさん達を覆っているのは確かです。乗り込んだ先で、その障壁となっている何かと戦うことになるかもしれません』

データが意志を持つあの世界ではあり得ることだった。

そして、光子郎は更にゴミ箱へ送り込める容量は限られており、人間の容量換算で三人程度だと続けた。

それ以上はゴミ箱内に充満している膨大なデータに弾かれてしまうという。

「俺がいく!」と真っ先に声を上げたのは太一だ。

そして大輔も「俺もユウキを助けに行きたい!」と名乗りを上げた。

けど僕は、そんな風に真っ直ぐには言えなかった。

彼女に届かなかった手が震えを思い出す。

グッと両手を握り締めた。

顔を上げると、こちらを見ている大輔と視線がぶつかる。

「タケル、お前は行かないのか?」

ヒカリちゃんを助けに、と暗に続く言葉を受け止めて、僕は弱々しく答える。

「僕は…僕にヒカリを助けられる、かな…」

「なっ」

「何言ってやがんだよ、タケル!」

僕の弱気な発言に激昂したのは大輔ではなく、太一だった。

ヤマトの制止を振り切り、ツカツカと眼前にやってきた太一は、怒りの形相で僕の襟首を掴み上げた。

「太一、やめて」と空の強い口調での制止が聞こえるが、本人はお構い無しに僕を怒鳴りつけた。

「お前らがヒカリを巻き込んだ上に守れなかったんだろ!その責任に打ちひしがれんのは勝手だけどな、やりもしないで何弱気なこと言ってんだよ!お前になんか任せられるか、お前が助けられなくたって俺が助ける、ヒカリは俺の妹だからな!」

太一の言葉は痛くて、自分の無力さを思い知らされる。

掴まれた襟首が締まって呼吸が苦しい。

怒りに震える太一は、どこまでもヒカリのお兄さんだった。

この人は多分、僕とヒカリが付き合うことにも反対だったんだろう。

僕には任せられないと、僕自身がそう思っていたように。

だから、自分が任せてもいいと思える人をヒカリに紹介したんだ。

自分の後輩で、信頼して自分の後を任せられる存在だった人に。

そして、ヒカリをデジタルワールドに極力関わらせないために、あの世界と無関係である人に。

でも結局、ヒカリは僕を選んだ。

何もかもが危うい未来を選んだヒカリを、太一はどんな思いで見ていたんだろう。

その挙句、関わって欲しくなかった世界に再び関わり、結果消滅の危機に晒されている。

それなのに、ヒカリを守らなければならなかった立場の人間がこの体たらく。

僕が太一の立場でも激昂するだろう。

けど、伸ばした手は届かず、目の前で最愛の人が消え去った時の絶望感はそこにいた者にしか分からない。

あれ程恐れていた事が目の前で起こってしまった。

あの時、僕の心はある意味で折られてしまったんだろう。

ヒカリを助ける方法が提示されたにも関わらず、心が動いてくれない。

「やめろ、太一」

兄のヤマトが太一の手を掴んで僕から引き剥がした。

太一はヤマトの手を乱暴に振り払う。

「太一、俺たちがその場にいても何かできたって保証はない。大輔達だって備えをした上でそれでも対処できない不測の事態が起こったんだ、誰のせいでもない。それに、ヒカリちゃんは自分から関わることを望んだんだろ?何度止めても聞かなかったってお前が嘆いてたくらいに」

「…分かってるさ、そんなこと」

敢えて弟である僕の名前を出さず、あからさまに庇うこともしなかったヤマトに、太一は怒る隙を奪われて閉口した。

兄の気遣いに自然と目頭が熱くなる。

すると今度は、太一に発言を譲った形になっていた大輔が僕の前にやってきた。

そして、皆に振り返って「ちょっとタケルと二人で話してきてもいいっすか?」と改まって言った。

大輔の真剣さに賢、ヤマトが率先して頷き、伊織や京、空もそれに続く。

光子郎はその間に調べ物をする、と言った。

太一も、最後は納得してくれたようだ。

大輔は僕を連れて外に出た。

「なあ、覚えてるか?昔さ、デジタルワールドに取り残されたヒカリちゃんを助けようって、俺とお前で飛び出したの」

マンションを出て、前を歩く大輔が振り返らずに話しかけてきた。

02年の戦いの最中、都市エリアに置き去りにしてしまったヒカリを、大輔と僕が競うように助けに向かったことがあった。

あの頃は大輔はヒカリのことが好きで、僕を追い返してでもヒカリにいいところを見せようと躍起になっていたのを覚えている。

でも結局、一緒に助けに行こうと和解して彼女を救い出した。

今更それが何だと言うのか。

答えない僕に大輔はチラリと首だけ振って振り返るが、歩みは止めずに続けた。

「あの頃って、今ほど複雑な状況じゃなかったってのもあると思うけど、誰かを助けたいって気持ちに迷いなんてなかったろ?」

「そうだね…」

確かに、しがらみなんて気にせず、ただ純粋な気持ちで行動していた。

今だって助けたいよ、ヒカリを、彼女達を。

でも、僕達が立ち向かおうとしているのは、初島ユウキが背負っていたあの無数の色の奔流は…。

「俺は助けたい。ユウキもヒカリちゃんも、それからユウキが背負ってきた奴らのことも」

その言葉に心底驚いた。

自分の意志とは関係なく目が見開かれるのが分かった。

大輔は時に、僕達の予想の遥か斜め上を行く。

思わず立ち止まっていた僕に気付いたのか、大輔も立ち止まって振り返る。

すぐ側の公道を車が通り抜け、風が走る音がした。

「大輔…」

惚けた声に、大輔はニッと歯を見せて笑った。

「俺は欲張りだからさ、ユウキだけも嫌だし、ユウキとヒカリちゃんだけも嫌なんだ。でも、それは俺一人じゃ力不足なんだよ。俺だってユウキが持ってかれちまう時に何もできなかった」

「だから、僕も一緒にってこと?」

本能のままに仲間に手を差し伸べてきた大輔に、僕はまた救われようとしているんだろうか。

初島ユウキをデジタルワールドに連れて行くと言った時、迷った大輔に強気なことを言ったものだが、やっぱり彼には敵わない、と思った。

しかし、大輔はここでも予想の斜め上をいく。

「一緒に全部を助けてくれなんて言わねぇよ。お前はヒカリちゃんを助けてくれ」

「え?」

「お前が死ぬ気で助けようって思えるのは、ヒカリちゃんだろ?」

これには唖然とした。

僕達の中では、何かが起こった時には皆で一緒ならできる、と合言葉のように繰り返されてきた。

賢も、僕もそうだ。

けれど、大輔は…。

「これは選ばれし子供達の戦いじゃない、俺たちの大切なものを取り戻すための戦いなんだ。だから、俺とお前は行かなきゃなんねぇんだよ。俺はユウキが大切だし、そのユウキが背負ってきたもんも切り捨てたくねぇ。勿論、ヒカリちゃんだって大切な仲間だ、失いたくなんてない。でももうガキじゃないんだ。自分の力量は弁えて行動しないと痛い目みるって分かってるし、お呼びじゃないとこにまで首突っ込むこともしないつもりだ。ヒカリちゃんはもうお前を選んで、お前もヒカリちゃんを選んだんだろ?太一さんが反対したって、離れる気ないんだろ?」

すぐに言葉が出てこなかった。

こいつは、単に励ますとか、叱るとかじゃなく、本当に仲間の誰もが切り込まない角度から突っ込んでくる。

大輔には、ヒカリへの想いの深さや複雑さについて話したことはない。

それなのに、全部感覚で攫っていく。

ムカつくくらい自然に、人の気持ちを理解しやがって、共感しやがって、だから羨ましくて仕方なかった。

頭でごちゃごちゃ考える僕が二の足を踏んでいる時、いとも簡単に壁をぶち壊して手を差し伸べて、そんな大輔が憎らしくて、腹立たしくて、大好きだった。

溢れそうになる涙をグッと堪えて、精一杯の強がりで笑ってみせる。

「そうだよ…誰に何て言われたって、ヒカリは手離さない。やっと手が届いたんだ、ずっと一緒にいるって言ったんだから…」

想いが通じたあの日、ずっと一緒にいたいと願った。

ヒカリが背負う力も、将来への不安も、癒してあげられなかったとしても、ずっと一緒にいて支えると決めた。

大輔は僕より素直に笑い、「よし、じゃあ太一さん口説きに行こうぜ!」と言った。

マンションのエントランスまで戻った所で、僕達の帰りを待っていた賢と合流した。

どうやら賢も話があったらしい。

「二人は行くんだろ?僕も一緒に行かせてくれ」

「俺は最初からそのつもりだった」と話す大輔に、さっきの太一を口説きにと言った本当の意味を理解した。

最初から、か。

さっきからしてやられた感しかない。

密かに苦笑して、僕は今の素直な気持ちを口にした。

「僕も、賢に一緒に来て欲しい。今回、何から始まったのかよく分からないけど、僕達三人にそれぞれ不思議な現象が起きたことには意味があると思うんだ」

「タケル、大輔…ありがとう」

「よし、そうと決まれば三人で頼み込んで太一さんを口説き落とそうぜ!」

再び大輔の掛け声で歩き出す。

昔のように頼もしいと感じる大輔の背中。

この時、僕も賢も想像すらしなかった。

大輔がこれから話す初島ユウキの背負ったものの重さ、現実世界もデジタルワールドをも跨いで彼女達を取り込んだ元凶の混沌さを。

 

 

 

「お願いします」と頭を下げた僕達三人を静かに見下ろした太一は、長い長い沈黙の後に「ヒカリを頼む」と低い声で言った。

僕達三人は予想よりも遥かに早く太一が陥落したことに驚きつつも喜んだ。

恐らく、僕達が席を外している間に兄や空、光子郎等の面々が説得してくれていたからだろう。

また、光子郎達は新たに送られてきたメールの解析も済ませておいてくれていて、更には初島ユウキが消える前に残した言葉から、ヒカリ達をゴミ箱空間に引きずり込んだ存在の仮説をたてていた。

それは、僕の中で確信となりつつあったものとほぼ同じ結論だった。

かつて僕達が選ばれて旅をした1999年の夏、その最後に戦うことになった哀しい存在。

転生の輪からこぼれた生命の叫びが寄り集まった、生者を羨む死者の亡霊。

apocalypseー黙示の名前を持つデジモン。

そいつは無に帰さなければならないと世界に判断され、僕達の紋章によって理の枠に押し戻された筈だった。

まさか、と兄達99年の選ばれし子供は驚愕する。

しかし、その可能性が高いと僕達のブレーンは告げた。

そこに僕も同意した。

「全く同じ存在かは分からないけど、メールのアドレスといい、初島さんが言った言葉といい、そう考えれば辻褄が合うんだ」

『確かにその通りです。ただ、分からないのは何故初島さんがアポカリモンのような思念を纏うことになったのかです。ヒカリさんのように特異な能力があって、以前ヒカリさんがホメオスタシスの中継役を担ったように、アポカリモンの思念の中継役となってしまったのか…』

その時、大輔が「ちょっといいっすか」と切り出した。

言わなくてはならないことがある、といたく真面目な顔で告げる大輔。

ここ数時間で彼の真面目ゲージは上がりっ放しだ。

「ユウキのことで、話してないことがあるんすよ」

そう言った大輔の表情は今までにないくらい切なげで、少しだけゾッとした。

その場の全員が話を聞くことに賛成すると、大輔は話し出した。

「賢とタケルには少し話したけど、ユウキはデジタルワールドに呼ばれるより前にも同じように何かに呼ばれたことがあるんだ。それも一回や二回じゃないらしい。そんで、呼ばれた先では…必ず誰かが死んでんだ。事故でも自殺でも」

サッと皆の顔色が変わる。

「死」というワードは初島ユウキにとってキーであったが、まさかこんな「死」との繋がり方をしているなんて…。

だが、それはほんの序の口だった。

「それだけじゃない。ユウキの両親と弟は皆死んじまってんだ」

僕の脳裏に蘇るのは初島ユウキの家で見た「唯一残った」家族写真。

病院のベッドの上の弟、それを囲む両親、寄り添う初島ユウキ本人。

皆、いないんだ…。

大輔が続けて語る初島ユウキの過去は、僕達からは想像もできないような過酷なものだった。

 

 

 

初島ユウキは4歳まではごく普通のどこにでもある家庭の子供だった。

祖父母は資産家でも、その娘である彼女の母親が結婚したのはサラリーマンの男性だった。

初島ユウキが4歳の時、弟が生まれた。名前はアキラ。

アキラは生まれつき重度の心臓奇形を患い、生後間も無く大きな手術を何度も行わなければ助からないと言われていた。弟の病の前に、彼女の生活は一変した。

名医を求めて転院を繰り返す弟に母親はつきっきりになり、やがて生死の境を彷徨うことが多い弟の世話をすることが母親の生き甲斐になっていったという。

莫大な金がかかる手術、入院費に疲弊していく父親。

明けても暮れても病院通いの母親。

次第に夫婦仲は冷めていき、弟の生命維持の話題で夫婦喧嘩が絶えなくなっていった。

一つの転機は弟の死。

治療の甲斐も虚しく、弟は4歳という幼さでこの世を去った。

この弟の死に目に初島ユウキは会ったのだが、この時が最初に呼ばれた時だという。

どうしても弟の所に行かなければならないと思い、不審がる母親に我儘を突き通して病院にやってきた直後、弟の容体が急変してそのまま亡くなった。

弟の死後、母親は悲しみに暮れ精神を病むほどに憔悴し、そんな母親に愛想をつかせた父親は家を出ていった。

まともに日常生活が送れなくなった母親のもとで、初島ユウキがどうやって暮らしていたのか、彼女にはその頃の記憶が無いのだという。

過酷な環境が、記憶を薄れさせたのかもしれない。

気付いた時には、祖父母の家に引き取られることになっていたという。

10歳で母親と別居する必要があると判断されたというのだから、ネグレクトだったのだろうと周囲には思われていたらしい。

実際は記憶が無いので分からないし、祖父母も話そうとはしなかった。

次の大きな事件は母親の死。

12歳の秋、その日どうしても母に会いたいと、母の住むマンションに行った彼女は、母親が大量の睡眠薬を飲んで倒れている所に遭遇した。

病院に搬送されたが、そのまま亡くなってしまった。

これが二度目に呼ばれた時。

三度目は程なく訪れた。

母親が亡くなって1年後、一周忌に出席するために帰ってきた父親を迎えなければとバス停に向かった初島ユウキの目の前で、父親は車に跳ねられて亡くなった。

あまりに不憫な身の上の彼女は親族に同情されながらも敬遠されたという。

その中で、祖父母だけは良くしてくれて、生活面では何不自由なく暮らすことができていた。

交友関係や学業には特に問題もなく、小、中、高校へと順調に進んだ。

しかし、その過程でも度々呼ばれることはあり、それはデジタルワールドであったり、全く別の誰かの死であったりしたそうだ。

今から1年前に祖父が他界しているが、その時は呼ばれなかったらしい。

すべての死に呼ばれるわけではなく、特定の死に呼ばれている。

そして、もう一つ。

大輔や賢、僕に会わなければならないと思ったのは何故か。

呼ばれるという感覚に近かったにも関わらず、僕達は死んでいないし、身近に亡くなった人もいない。

ならば何故なのか。

「ユウキは賢とタケルに会って握手した瞬間、お前らがパートナーを失った時の映像が見えたって言ってた」

その言葉に、僕と賢は同時に息を飲んだ。

握手をした瞬間、僕達は何かのイメージを見たのにそれを覚えていなかった。

もしかしたら、それが彼女が僕達の記憶を見た瞬間だったのではないか。

そんな仮説を賢が口にすると、大輔は「かもな」と肯定した。

「僕と賢が大切な誰かを失っていたから…?」

「彼女は僕達の抱える死の記憶まで背負ったって言うのか…」

あまりに多くの死が、彼女を取り巻いていたことが分かる。

そして、僕は直感的に理解した。初島ユウキの周囲を漂っていたあの複雑怪奇な色は、彼女が背負った命の色だ。

僕が初めて初島ユウキの周りに色を見た時、それは黄色一色だった。

家族の話をした時は三色、デジタルワールドで見た時にはそれこそ複数の色が。

そして、あの河原の墓標から吹き出たダークブルーの靄。

ああやって彼女は誰かの命を背負ってきたんだ。そして、最後は命の渦に飲み込まれた。

あの複雑に絡むような色の集まりの中で、一つ一つの色が決して混ざり合わないのは、独立した命であったからだろう。

だとしたら、賢の聞いた音も命の音だったのだろうか。

「俺が知ってるのはこれで全部です。何でユウキがそのアポカリモンって奴の中継役になったのか、多分これが答えかなって」

『…そうですね。今の話を聞いて、彼女もまた特異な体質、能力を持っていることが証明されました。生き物の死に引かれる彼女だからこそ、アポカリモンの声に呼び寄せられたのでしょう』

「だとしたら、奴を倒さなきゃ初島ユウキって子は助けられないってことか?」

初島ユウキの過去に言葉を失っていた周囲の人間たちが、ぱらぱらと発言し始める。

「倒すっていっても、以前は紋章の力で何とか抑え込んだのよ。今は紋章が無い上に、三人しか送り込めない空間でどうやって倒すの?」

「そうか…そうだったな」

ヤマトと空が対処法で悩む姿を見て、僕は少しだけ目を伏せる。

僕は根本的に兄達とは違うことを考えていた。

倒す、抑えるのでは意味が無いのではないか。

現に八年前の方法では無に帰すことができなかったからこそ、今こうした事態が起きているのだ。

無だ。

アポカリモンは無に帰すしかない。

それ以外にあの存在を理の元に戻すことはできないと思えた。

けど、はてどうやって?というのが最大の難問である。

説得して無に帰ってくれるほど甘い相手なら、八年越しにこんな騒動に発展しない。

倒すのでもないし、封印では臭いものには蓋をしろ状態で何の解決にもならない。

考えても妙案は浮かばず、取り敢えずブレーンを始めとする皆に考えを伝えてみた。

すると、ブレーンは『なるほど』と頷いた後に暫し考え込み、太一はあまりピンとこないのか思案顏をし、ヤマトと空は何故だか感心したように僕を見た。

おおよそ同世代組は、京は光子郎と同じく何やら考え込んだ様子を見せ、賢は世界と理についてやたらと頷いていたり、伊織は無に帰ることの恐ろしさを最年少ながらに語った。

残る大輔はというと、僕の話した内容の三割も理解できていない様子で、今にも思考がオーバーヒートすると言わんばかりにげっそりとした顔をしていた。

「いなくなんなきゃダメなのか?そいつらはさぁ」

ぷすぷすと頭から煙でも上がりそうな大輔が、僕の肩にのし掛かりながら聞いてきた。

「僕だって助けられるなら助けたいけど…これは人の力の及ばないことだよ」

「その及びもつかないもんに抗ってるんだろ、そのアポカリモンってのは。すげーな、それってよ」

「…確かにすごいのかもしれない。自分の力の及ばない所にあるものを欲しがるなんて、相当なエネルギーが要ることだ」

僕と大輔の話に入ってきたのは賢だ。

僕は大輔を振り落として軽く首を鳴らした。

「生に対する執着は人もデジモンも同じなんだろうね。なまじ感情なんてものがあるから余計にさ…」

「自然の摂理の一言で片付けられない、か。僕達だったらどうなんだろう。大多数の人が得られるものを得られないってなった時、受け入れられるんだろうか、それは仕方のないことだって」

賢の疑問に沈黙する。

仕方ないって言葉は嫌いだった。

その言葉は僕にとって、本音も願いも何もかも飲み込んで大人ぶるための言葉だったから。

だからもし、このままヒカリが消えてしまう運命にあって、それは仕方がないことだと言われたら、僕は諦めきれなくてみっともなく足掻くだろう。

でもそれが自分だったら?自分が消えることを考えると確かに恐かった。

けれど、ヒカリが消えてしまうと思うよりは恐ろしくない。

自分自身を失うよりも、彼女を失うことのほうが恐い。

しかしそれさえも僕が生きているから思えることであり、きっとアポカリモンたちのような思念になってしまえば考えも及ばないのではないか。

結局、理の中で生きている僕達に、彼等の思いを理解することはできないのかもしれない。

ぼんやりと思考に耽っていると、大輔が「そんなのその場になってみなきゃわっかんねーなぁ」と最もなことを言い、賢が「相手の気持ち考えられるっていうのが、想像力を持った人間のいい所なのに」とぼやいた。

相手の気持ちを考える、か。

僕はふとマコトを思い出す。

彼女は母を思い、父を思い、僕のことまで思って理解してくれた、そして許してくれた。

彼女は僕を肯定し、受け入れ、そうまるで僕の存在を祝福するかのように…。

そこまで考えてハッとした。

最新のメールの文字は『祝』。

これまでのメッセージと合わせると『すべての生に祝』。

もし次に届く文字が『福』で祝福となるなら、そして差出人が全ての生者を羨むアポカリモンだとしたら。

僕の中に二つの考えが浮かび上がる。

それは対極的なもの。

どっちだ?奴の言う祝福は。

 

 

『すべての生命は世界に祝福されて生まれてくる』

 

 

初島ユウキの祖母の口癖だという言葉が蘇る。

これもどっちだ?世界は何を祝福したんだ、それぞれの生命に。

 

 

『生命には必ず意味があって、世界は生命によって流れ、生命は世界によって巡る』

 

 

意味が祝福の証?

それは必ずしも人の考えの上において喜ばしいことや楽しいことばかりではない筈だ。

世界は大きい。

新しい生命が生まれ、文化が根付く半面で、時には種の絶滅や大規模な自然災害、生命の終わりでさえ世界からの祝福であるとしたら?

ぐるぐると思考が渦を巻く。

この場にいるのに、思考だけが切り離されていく感覚。

まずい、これは以前倒れた時と同じ感覚だ。

ここではないどこかに引っ張られるような…。

徐々に目の前の世界から遠ざかっていく感覚の中で、僕は賢と大輔に視線を泳がせる。

軽く頭を振るような仕草をした賢、眉を顰めた大輔が視界に映り、やはりだと思った。

「賢、大輔…」

「タケル、これ…」

「あん時と同じ…」

頭の中の神経だけが後方に引き抜かれていくようで、平衡感覚が失われていく。

「タケル?」

「賢!?」

「大輔!」

怪訝そうなヤマトの声に続いて、京の慌てた声と駆け寄る気配、太一の大きな声が暗闇の中で響いた。

 

 

 




死んだらどこに行くのかと、考えるようになったのはいつからか考えてます。

読んで頂き、ありがとうございました。


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第23話 〜悲しい覚悟〜

 

目を開けると、データチップの渦の中にいた。

これは夢だろうか、とまだはっきりとしない頭で考える。

身体はどこにも接していないようで、酷く頼りなく宙に浮いていた。

重だるい頭を持ち上げて辺りを見回すが、周囲には誰もいない。

データチップが嵐のように渦を巻いているだけだ。

ぼんやりとした視界でひたすらに飛び交うデータの残骸達を眺め、僕は漠然と感じた。

ここは初島ユウキとヒカリが取り込まれた空間なんだと。

次第に頭がクリアになり、現状を把握した思考が回りだす。

ヒカリを探さなきゃ。

どう動けばいいのかも分からない空間の中で、データチップの渦に向かって手を伸ばした。

きっと、あの向こうにいるんだと、根拠のない確信に突き動かされて。

すると、それに応えるかのようにデータチップの奔流の一部がほつれるように流れから外れ、物凄い勢いで僕に向かってきた。

伸ばした手を食らうように、指の隙間を一瞬で通り抜けて僕の顔面、身体全体にぶつかって来る。

データチップがぶつかる度に何かのビジョンが頭に叩き込まれる。

それが何かを認識する暇もなく、次から次へと襲いかかるデータチップに、とうとう全身を覆い尽くされた。

次の瞬間、電子的な空間の乱れが走るとともに、目の前にはいつか見た光景が現れた。

峻険な山をも凌ぐほどに巨大化した悪魔と対峙する天使の姿、そして遥か下方の地面に立ちすくむ無力な子供。

思わず息を呑んだけれど、僕の中にいる寂しがりやが幻だと教えてくれた。

苦い苦い過去、痛みの記憶、これが…。

「僕が彼女に預けてしまった記憶(もの)なんだね」

眩い光が悪魔を貫き、周囲を白く染めていく。

光の中で消えていく悪魔と天使。

泣き叫ぶ少年の声は、否応なく僕の胸を軋ませた。

乗り越えたと思った過去でも、対峙すればこんなにも容易く心を揺り動かすのだと、改めて深い痛みを思い知る。

消えないんだ、痛みも後悔も。

でも…。

ハラハラと舞い落ちるデータチップが収束し、一つのデジタマを構成すると、その身の丈には大きいデジタマを抱きしめる過去の自分が見えた。

「まだ、これから苦しい時期が続くけど、その中で君はかけがえのないものを得るよ。この痛みもその一つなんだって思える日が、来るよ…」

そしていつか、全てを受け止めて、痛みも喜びも全部引っくるめて自分なんだと認められるように、僕も頑張るよ。

今は全部は無理かもしれないけど、好きな女の子を助けることにすら四苦八苦してるくらいだけど、この時の僕自身を受け止められるくらいにはなった筈だ。

どんなに辛くても、苦しくても、これは自分の記憶(もの)だから、誰かに背負わせるべきものじゃない。

悔やむ気持ちがあったっていい、苦しくて泣く時があったっていい、だから…。

「ありがとう、初島さん…でも僕は大丈夫だから、これは僕が引き受ける。ちゃんと自分で持っていくよ」

マコトが父の手紙を持っていくと言ったように、僕もこの記憶を持って生きていく。

幼い自分の前に降り立ち、今となっては小さなデジタマと僕自身を抱き締めた。

幻に感触は無かったけれど、どこからか声が聞こえた気がした。

腕の中の僕が一瞬でデータチップに変わる。

周囲の景色も同様にデータチップへと分解され、僕の身体に吸い込まれていく。

手から、足から、全身に触れたデータチップが溶けるように消えていった。

 

「おかえり」

 

少しだけ痛みが増した胸を押さえて、僕は微笑んだ。

全ての記憶が僕に戻ると同時に、最初にいた空間に戻ってきていた。

今度は底があるらしく、僕は立つことができた。

周囲を見渡すと少し離れた所に人影を見つけた。

走り寄ると、それは大輔だった。

「大輔!」

「タケル!」

名前を呼ぶと、前のめりに身体を屈めていた大輔が顔を上げて答えた。

その額には汗が滲んでいた。

「ようやく会えたぜ。どこまで走っても誰も何も見えねぇからよぉ」

グイッと額の汗を手の甲で拭い、大輔は大きく息を吐き出す。

どうやらかなりの距離を走って探していた様だ。

サッカー部で走り込みを日常的に行っている大輔がこれだけ疲労する程には。

そして、この空間に来て大輔は誰にも会っていないし、何も「見て」いないと言った。

やっぱりというか何というか、こいつは初島ユウキに何一つ預けていないのだろう。

「さすがだね」

「あ?何がだよ?」

僕の呟きの意味が分からない大輔が聞き返してくる。

でも説明したってどうせ分からないだろうから、そんなことより賢が心配だった。

「それより、賢を探さなきゃ」

「ああ。でもよぉ、ここ方向も全然わからねぇし、闇雲に探しても見つかるか」

最初は上下さえも危うい空間だったことを考えると、確かに闇雲に歩き回っても意味は無いだろう。

でも、僕には賢の所在を掴む手掛かりに心当たりがあった。

「データチップの流れを辿ろう。さっき僕が捉われていたみたいに、賢も記憶に捕まってるかもしれない」

「データチップ?時々その辺を舞ってるやつか?」

チラチラと視界の端に映り込んでいたデータチップを見回して大輔が言う。

僕は頷き、無秩序に降り注ぐデータチップとは違う、意思を持った流れを探した。

目を凝らして周囲の空間に意識を飛ばす。

仄暗い空間の中で、僅かに色を纏ったデータチップの帯が遠くに見えた。

「あれだ!」

「あ、おい、ちょっと待てよ!」

走り出した僕を慌てて大輔が追いかけてくる。

僕は見つけたデータチップの帯を見失わまいと、振り返らずに走った。

走り出してわかったけれど、この空間の地面はまるで足に食いつく様だ。

前に進もうとする力を削ぐ様に足を引っ張ってくる。

トリモチとまではいかないけれど、泥沼を走る様なものだ。

あんなにも大輔が疲れていた理由を身を以て理解した。

追いかけるデータチップは薄ぼんやりとグレーに光り、やがて帯の先に巨大なデータチップの塊が現れる頃、僕と大輔は大幅に体力を削られながらも何とか立っていた。

「はぁ、はぁ、はぁっ…これか?」

荒い息の合間を縫って、大輔がデータチップの塊を見上げて言った。

「多分…」と推測でしかない返答する。

「で、どうすんだよ、ぶっ壊すか?」

「素手で?流石に無理があるんじゃないかな」

「じゃあどうすんだよ?」

確かに、ここまで来たはいいけれど、この状況をどうしたものか。

自分の時と同じ様に、これが賢の記憶であるのなら、無闇に破壊するのは得策ではない筈だ。

賢自身が克服して回収するのを待つべきなのか、助けが必要なのか、それとも僕とは違う全く別の現象であるのか、僕は測りかねていた。

「…呼んでみようか。声なら届くかもしれない」

「おっしゃ、賢!けーん!」

言うが早いか、大輔は大声で叫び始めた。

うーん、失敗だったかもしれない。

耳を塞ぎたくなるほどの大声に、ちょっとだけ後悔した。

僕も程々の声量で賢の名前を呼びながら、データチップの塊にそっと手を触れてみた。

表面は硬質で、普段のデータチップなら触れると分解されて消えていくのに、そんな気配は全く見られない。

まるで外からの刺激を拒んでいるようだ。

殴らなくて正解だったな、なんて密かに思いながら、僕は身の丈を遥かに上回る巨塊を見上げる。

分厚い壁のように存在する塊。これほどまでに強固なデータなんて、本当にこの中にいるのは賢なのだろうか。

ふと疑問が浮かんだ。

そう、拒絶するほどに固い壁を築いて、まるで砦で守を固めるように…何かを守っている?

「大輔…」

「何だよ、タケル、別の方法に変えるか?」

「この向こうにいるのは賢じゃないかもしれない…」

「は?じゃあ誰だよ?ってまさかっ…」

ハッとした大輔が塊を凝視する。

そう、もしかしたらこの向こうにいるのは、賢じゃなくて…初島ユウキとヒカリなんじゃないのか?

「…ヒカリ?」

恐る恐る呟いた名前が引き金となったのか、突如あった筈の地面が消えて大輔が叫ぶのと同時に、僕はデータチップの塊に吸い込まれた。

まるで猛吹雪の中に放り込まれたような視界を抜け、次に視界が開けたそこは、虹色に光るデジタル文字がびっしりと刻まれた円型の空間だった。

中心には人1人がすっぽりと入れる程の大きさの光の球が浮かんでいる。

目が眩しさに慣れてくると、それは鮮やかに僕の目に飛び込んできた。

 

「ヒカ、リ…」

 

光の球の中に閉じ込められた少女は、探し求めた愛しい人だった。

目を閉じ、膝を抱えた姿で光に包まれるヒカリ。

思わず駆け寄るが、光の球に阻まれて触れることは叶わなかった。

目の前にいるのに触れられない歯がゆさに、無意識に奥歯を噛み締める。

「ヒカリ!」

光球に両手を押し当て、めいいっぱいの声量で叫んだ。

果たしてこの光の壁の向こうに声が届くのかは分からなかったが、叫ばずにはいられなかった。

「ヒカリ、ヒカリ!」

何度も何度もその名を呼び続けたが、ヒカリは目を開けることも動くこともなかった。

時折光の壁が鼓動のように震えるだけで、僕の声以外、何の音もしない。

「ヒカリ…」

寂しさと虚しさと無力感がじわじわと胸に溢れる。

助けると言葉で言うのは簡単だが、実際の場面ではどうだ。

ただ名前を呼ぶだけの僕に、現状は何一つ変わらない。

徐々に声は力を無くし、ヒカリを包む光球を前に崩れ落ちた。

「どうすれば、君を助けられる…?僕に何ができる?失いたくない、失いたくない…君だけは、何があっても、何を引き換えにしても!」

爪が手のひらに食い込み、血が滲むほどに握りしめた拳で光球を殴りつけた。

当然、光球はビクともしないし、中のヒカリにも反応は無い。

鈍い痛みだけが、僕の無力さを助長させる。

けれど、その痛みが僕の思考に冷静さを取り戻させてくれた。

拳を叩きつけた部分に、薄っすらと浮かぶ刻印を見つけたのだ。

その刻印は、紛れもなく光の紋章。

ハッとして顔を上げる。

ここはデジタルワールド、データが意思を持つ世界。

この空間は一体何のためにある?

さっきまで大輔と彷徨っていた空間は恐らく光子郎の言うところのゴミ箱空間で間違いないはず。

そのゴミ箱の中で強固なデータの塊に覆われた空間、更にその中で光球に包むほどの徹底したガードぶり、そして何より光球に浮かぶ光の紋章が意味するところは…。

「もしかして、守っているのか…?」

 

『その通りです』

 

「誰だ!?」

唐突に降って湧いた声に驚いて周囲を見回すが、人影は見当たらない。

声質的には肉声ではない、電子機器を通したような声、それも耳で聞いたというよりは頭に響いた感覚だった。

立ち上がり警戒する僕に、声は続ける。

『無の混沌に帰さないよう、二重の防壁で彼女を守っています』

再び響いた声は、明らかに僕の頭の中に語りかけていた。

「あなたは一体…」

『ホメオスタシス』

「!?」

ホメオスタシス。それはこの世界の安定を保つためのシステムであり、僕たちを選んだものでもある。

「どうしてヒカリを?守るなら、どうしてこの空間に留まっているんだ?」

守るというのなら、この空間から脱出させればいいだけではないのか。

『八神ヒカリをこの空間に捕えている存在が消滅しない限り、ここを動くことができないのです』

「それはアポカリモンのことか?」

初島ユウキが中継役とされ、2人を呑み込んだ存在。

しかし、ホメオスタシスの答えは予想の更に上をいった。

『それはこの空間に満ちる膨大なデータの一部でしかありません。あなたに全てお伝えします。この世界のため、そして八神ヒカリを救うため、力を貸して欲しいのです…希望の子』

アポカリモンよりも強大な何かがいる。

愕然とする僕に希望をチラつかせるホメオスタシスを、僕は心底恨めしく思った。

けれど、今はそれに縋るしかない。

「聞かせてくれ」

『ここにいる一つ一つのデータは個々には何の力も持たない、ただ世界を彷徨うバグに過ぎません。ですが、それらを繋ぐ存在が現れ、捕らわれてしまったことにより、彼等は無尽蔵に広がりを見せ、多くの命を喰らい尽くし兼ねない存在になってしまいました。かろうじて、中継役を担ってしまった存在がこの空間に閉じ込めたようですが、彼等は生を恨むあまりに、進化の光を持つものを道連れにしようとしたのです。咄嗟に防壁を展開しましたが間に合わず、この空間に捕らわれてしまいました』

彼等を繋ぐ…中継役。

それはもしかしなくても…

「初島ユウキ」

『彼女は私たちにとってもイレギュラーです。もっと早く彼女の存在に気付くべきでした。彼女が初めてこの世界を訪れた時にあなた達に伝えられていたら、こんなことにはならなかったかもしれません』

「それは、ヒカリが一緒じゃなかったから、言葉を伝えられなかったってこと?」

僕たちの中で唯一ホメオスタシスの中継役となれるのは、ヒカリだけだった。

その彼女がいなければ、実体を持たないホメオスタシスが僕達に言葉を届ける事は叶わない。

『残念ですが、そうなります。八神ヒカリの為にとデジタルワールドから遠ざけていたことが裏目に出てしまいました』

「じゃあ、どうして今は僕に声が聞こえているんだ?」

『この空間は八神ヒカリの力を借りて構成しています。その中で、彼女に感応する存在となった貴方には、八神ヒカリを通して直接語りかけることが可能になっています』

「だから、大輔は入れなくて、僕だけがここに…」

ホメオスタシスの語った理由はそのまま、一緒にいた大輔が拒まれて僕だけがこの空間に吸い込まれた理由でもあるのだろう。

しかし、ヒカリに感応する存在に“なった”というのは一体どういうことなのか。

以前は違ったというのなら、何がきっかけでそうなったのか。

疑問に思ったことをホメオスタシスに問い質すと、ホメオスタシスは僕の紋章について話し始めた。

『希望の紋章は、もともと光の紋章をサポートするために作り出されたものなのです。これまでの戦いでは紋章の本来の力が発現することはありませんでしたが、最近になって紋章の輝きが増し、本来の力の一旦が現れるようになったのです。恐らく、貴方の心の変化に呼応してのことだと思います。紋章は貴方がたの心そのものなのですから』

「心…」

それならば思い当たる節がある。

この数ヶ月間で僕の心は確実に変化した。

それが紋章の本来の力を引き出すきっかけになったのか。

『高石タケル。八神ヒカリがここを動けない以上、今私たちが言葉を託せるのは貴方だけです。外の空間に充満する無数のデータの塊、それらを繋いでいる存在を消去しなければこの世界も八神ヒカリの命も消えてしまいます。だから』

「消去って、どういう意味?それは彼女を、初島ユウキを殺せってこと?」

『………』

沈黙は肯定。スウッと全身から血の気が引くのが分かった。

四肢の力が抜けていく。

僕は力なくその場に膝を付いた。

喉の奥に重たい石が詰まったような息苦しさ、目の前が暗く濁っていく感覚に、僕は両手で顔を覆った。

「何だよ、それっ…」

吐き出した言葉が、あまりに虚しく耳に響く。

脳裏に浮かぶのは大輔の顔だ。

あんなにも初島ユウキを大切に想っている大輔に、この事実はあんまりだ。

「それしかないのか?世界もヒカリも、救うためには他に方法は!?」

『………』

「彼女が何をした?沢山の人の死の記憶を引き受けて、悲しみを1人で背負って、今まで生きてきたのに!それなのに、初島さんが死ななきゃならないなんて絶対おかしい!」

『…彼等を繋いでいるのは、その初島ユウキが引き受けた記憶です。彼女がその身に蓄積した記憶、彼女自身の記憶とリンクさせて刻んできたものこそが、彼等を繋いでいるのです』

「そんな…っ」

『貴方は先程、彼女が引き受けた記憶の一つを解放しました。全ての記憶を解放することができれば彼等は霧散し、この空間の理に従って無に帰るでしょう』

「ならっ」

『ですが、彼女が引き受けた記憶のほとんどは既に亡くなった人の記憶(もの)です。記憶の解放は本人でなければ叶いません。既に帰る場所を失った記憶達は、彼女にしがみついて離れないでしょう。それに、万が一本人以外の手によって記憶を解放することができたとしても、何百、何千もの記憶を解放するまでには膨大な時間を要します。その間にこの空間の作用でデリートされてしまうでしょう』

次々と追い打ちを掛けるように告げられる事実に耳を塞ぎたくなる。

示された選択肢しかもう、とることはできないのか。

こんな、誰も望まない選択しか…。

何を引き換えにしてもヒカリを失いたくないと、あの気持ちは本物だ。

極限的に言えば、初島ユウキと引き換えにしてもだ。

けれど、そうなれば僕は全てを失うだろう。

ヒカリも、大輔も、仲間も、みんな。

こんな選択、誰も許しはしない、許すはずがない。

涙が溢れた。

絶望感と無力感と、もう言い表すことなどできない色んな感情がない交ぜになって、涙となって零れ落ちる。

沢山の人の顔が浮かんでは消えて、目の前のヒカリを見上げて、そして、目を閉じてマコトを思った。

 

 

君なら、この選択をした僕を許してくれる?

 

 

ここで、僕は全てを捨てなきゃならない。

だけど、僕自身と君だけは僕から去らないと、そう信じさせて欲しい。

世界がどうとかじゃない。

ただ、ヒカリを助けるために。

奥歯が砕けるんじゃないかと思えるくらい強く奥歯を噛んで、滲む涙を乱暴に服の袖で拭った。

そして、ゆっくりと立ち上がり、ホメオスタシスに問い掛ける。

「初島ユウキはどこ?」

『貴方のデジヴァイスに情報を転送します。それから、外の空間のデリート機能から身を守る為、貴方を構成するデータに保護プロテクトをかけておきます。これでデリート順を遅らせることができるでしょう』

「彼女を消す為の方法は?」

感情の宿らない声っていうのは、どこまでも冷たいものだと思った。

僕はホメオスタシスから初島ユウキを消す為のプログラムを受け取ると、光球の中のヒカリ向き直った。

ホメオスタシスの気配が消えていく。

あとは僕がやれってことか。

「ヒカリ…」

小さく呼びかけ、そっと光球に触れた。

すると、今まで何の反応も示さなかったヒカリの瞼がピクリと動き、その双眸をゆっくりと開いた。

「ヒカリ!」

目を覚ましたヒカリに思わず前のめりになる。

「た、ける…?ここは…?」

自分の状況がまだよく分かっていないのだろう。

見知らぬ空間と目の前の僕に困惑した表情を見せる。

僕は事の流れを掻い摘んでヒカリに説明した。

初島ユウキをデリートするという事実は伏せて。

「そうだったの…デジタルワールドに守られたのね、私…」

状況を理解したヒカリと対峙して、僕の顔は強張っていたに違いない。

「うん、そうだね。本当に、無事で良かった」

上手く笑えない。

「でもここから動けないのよね…ごめんね、足引っ張ってばかり」

「そんなことない、そんなこと、ないよ…」

堪えろ、と自分を叱咤しても、既に限界に近い僕の心は言うことを聞いてくれない。

今にも泣き出しそうな僕に、当然ヒカリは心配そうに顔を歪める。

光の壁に手を添え、できるだけ僕に近づいて「タケル?どうしたの?」と問い掛けてくる。

泣き出したかった。こんなことは嫌だと、こんな選択はしたくないと、誰か助けてくれと。

でも、ヒカリを失うことはできない。きっとヒカリがこのことを知ったら止めるだろう。

そして、自分が消えてもいいから初島ユウキを助けろと言うだろう。

それは承服できない。

だから、何でも話すという君との約束を違えても、事が終わった後で大輔や君からどれだけ恨まれようと、僕は…。

「ごめん…大丈夫だから、ヒカリが無事で嬉しいんだっ…本当に」

壁越しのヒカリの手に自分の手を重ね、僕は精一杯微笑んだ。

最後まで、君の不安そうな表情を和らげてあげることができないのが悔しい。

ごめんね、ヒカリ。

「ヒカリ、僕は大輔と賢を探して、初島さんを助けに行くよ」

「タケル…」

「アポカリモン達を倒したら必ずここに帰ってくるから、待ってて。多分、ここに現実世界に繋がるゲートが開く筈だから」

「う、うん…」

ああ、君の目を見て話ができるのも最後かもしれない。

さよならは言えないけど、これだけは言わせて。

「ヒカリ、愛してるよ」

「タケル…」

もう一度微笑んで、僕は光球から手を離し、ヒカリに背を向けた。

もう振り返らない。

ヒカリが何度か僕の名前呼ぶのが聞こえた。

振り向いて駆け寄りたい衝動を必死で抑えて、僕はホメオスタシスが作った防壁空間から出た。

最初と同じように吹雪のような視界を経て、仄暗いゴミ箱空間戻ってきた。

「床がある…」

地に足が付いていることにホッとして、僕は周囲を見渡した。

大輔の姿は無い。

安否が分からないのは心配だが、そう簡単に消されはしないだろう。

僕はポケットからデジヴァイスを取り出し、画面に表示されたシグナルを見つめて目を細めた。

赤く光る印が示す場所に初島ユウキがいる。

大輔と賢とは合流しない方が都合が良さそうだ。

こんな思いをするのは、汚れ役は僕だけが背負えばいい。

口の中に血の味がした。

デジヴァイスを握りしめ、僕はシグナルが指し示す方向に歩き出した。

 

 

 




選択という行為は存在していない、人の行動の全ては脳の働きによって決められている。
という説があると聞いて妙に納得してしまいました。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第24話 〜命の重さ〜

 

 

不思議と邪魔は入らなかった。

時折流れてくるデータチップの波は僕を避けて彼方に消えていった。

まるで、この先にいる初島ユウキが僕を呼んでいるような気さえした。

大輔と走った時はあれ程重かった足も、今は軽々と歩を進めることができる。

その反面、進むたびに心は重く淀んでいった。

 

 

 

辿り着いたそこは、まるで蜘蛛の巣のようにデータチップが網の目を成し、中心にはそれに絡めとられるようにして初島ユウキがいた。

初島ユウキは薄っすらと目を開いていて、意識があるように見えた。

目の前に立った僕に気づいたのか、彼女は僅かに顔を上げた。

「高石、さん…」

憔悴しきったその顔に、僕の胸は斬りつけられたような痛みを覚える。

無数に広がるデータは、彼女が背負った死の記憶。

こんなに膨大なものを1人で抱えて、どれほどの悲しみをその身に受けてきたんだろう。

こんなになるまで…。

「大輔じゃなくて、ごめんね…」

「わた、しを…消しに、きた…ん、です、ね?」

確信を突く彼女の問いに、僕はギクリと身を硬くした。

しかし、初島ユウキは僕をなじることなく、小さく微笑んだ。

「消して、くだ…さい…私が、このこたちを、集めて、しまった…から。もう、帰れない、のに…」

「消えなくちゃならなかった彼らを、君は意図的に引き止めたの?」

「分から、ない…ただ、呼ばれて…みんな、帰りたいって…だから、探して、たけど…」

背負わされて、無意識に誘導されて、彼らの繋ぎとして利用されただけだ。

今更確認しなくたって分かっていた。

手が震え出す。

「初島さん…」

「ごめん、なさい…辛い、役を…」

「人の心配してる場合じゃないだろ!」

思わず声を荒げていた。

こうなってまで、自分を消しに来た人間まで思いやるなんて、どこまで馬鹿なんだ。

僕は君を消しに来たんだ、殺しに来たんだ、恨み言ならいくらでも聞くのに、何でそうなんだよ。

強引に組み敷いた僕を慰めたマコトが蘇る。

「何で…君も、マコトもっ…」

辛いのは自分だって同じなのに、相手のことばかり心配して、思いやって、少しは自分のために足掻いたっていい筈なのに。

「少しは自分を優先しろってんだ!」

叫んで、僕はホメオスタシスから渡されたプログラムシートを取り出して足元に投げつけた。

そして、ツカツカと初島ユウキに近づき、彼女絡め取っているデータの網に手をかけた。

「ダメっ」と掠れた制止が聞こえた途端、触れた所からいくつものビジョンが流れ込んでくる。

 

ビルから身を投げて落下するイメージ

ホームに入ってくる電車に向かって飛び込むイメージ

歩道に突っ込んだ車に跳ねられ宙を舞うイメージ

 

衝撃や悲鳴やその場の音が生々しく身体を駆け巡った。

「!?」

あまりの衝撃に思わずデータの網から手を離して飛び退いた。

全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴き出し、呼吸が乱れる。

ガクガクと震える足で何とか踏み止まって押し寄せる吐き気を抑え、僕は初島ユウキを凝視した。

彼女は辛そうに眉を寄せ「ごめん、な、さい…」と謝った。

「こんなっ…こんな記憶(もの)を…君は…ずっと?」

信じられなかった。

こんな記憶が一体いくつ纏わり付いているというのか。

こんな思いを背負わされて、人間が狂わずに生きていけるのだろうか。

現に僅かに触れただけでこの有様だ。

初島ユウキは静かに涙を流した。

「…みんな、辛くて、悲しくて…もう、帰れないのに、諦められない。私じゃ、もう…止められ、ないから…だから…」

消してくれ、と初島ユウキは続けた。

僕はもう、何も言えなかった。

あんな記憶を引き受けて、この先も生き続けるなんて地獄だ。

抑えられずに暴走したのなら尚更。

震える足を叱りつけて、僕はノロノロと投げ捨てた消去プログラムが記されたシートを拾い上げた。

白い半透明のカード型のプログラムは、僕の操作一つで彼女を殺す凶器になる。

「初島さん…僕は…」

「…大輔、くんに…」

「え?」

「大輔くん、に…ありがとうって、伝えて…くれ、ますか?大輔くんと、いる時だけは…記憶の、フラッシュバック…なかった、の……すごく、幸せ…だった」

それは遺言だろうか。僕は初島ユウキの最期の望みに無言で頷いた。

初島ユウキは嬉しそうに笑った。その笑顔を僕は直視できなかった。

大輔は、どれだけ彼女の救いになっていたことか。

シートプログラムを持つ手に力がこもる。

「僕は、君にお礼が言いたい」

「え…?」

「僕の辛い記憶を預かってくれて、ありがとう」

「良か、った…受け止め、られ…るように、なった…です、ね」

そう言って、また笑うんだろう。

笑いながら泣いてる奴。

大輔、今ならよく分かるよ。

泣けばいいのに、笑うから、見てる方が切なくなるんだ。

シートプログラムを起動させると、ピッと軽い音がした。

この場に似つかわしくない音だ。

プログラムの始動許可を求めるボタンが浮かび上がった。

これを押せば、全て終わる。

震えを抑え込んだ指で、ボタンに触れようとした時だった。

一番来てほしくない奴の声がした。

 

 

「ユウキー!」

 

 

ビクッと大袈裟とも思えるほどに僕の身体は震え、シートプログラムを取り落とす。

すぐに拾って始動させれば良かったのに、僕の身体は氷のように固まって動かなかった。

ただでさえ、ただでさえ重いのに、僕に大輔の前で初島ユウキを消せと言うのか。

大輔の声が近くなる。

それに被って僕の名前を呼ぶ賢の声が聞こえてきた。

振り返れない。

大輔の顔を、賢の顔を見たら、僕はもう…。

「大輔、くん…」

微かな声で初島ユウキが大輔の名を呼ぶのが聞こえて、たまらなくなった。

会いたかったに違いない。

誰よりも、待っていた筈だ。

ダラリと力なく両の腕が腿を掠めてぶら下がる。

無理だよ、もう。

僕の心は限界だ。

このままでは破綻する。

心が壊れてしまう。

 

 

「ユウキ!」

 

 

一層近くなった大輔の声に弾かれるように僕は目を見開いた。

「来るな!」

「!?」

そう言って止まるのは賢だけだということくらい分かっていた。

僕は振り返り、走ってくる大輔の前に立ちはだかった。

大輔は構わずに僕を押しのけようとするが、僕はそれを腕ずくで止める。

「タケル、離せよっ、ユウキがそこにいんのに!」

「迂闊に近づいたら危険だから止めてるんだよ!」

「何が危険なんだよ!?」

「説明するから待てって!」

押し合いの末に大輔を押し返し、僕達は向き合った。

賢が大輔の後ろからゆっくりと歩み寄ってきた。

「タケル…」

「賢…無事で良かった」

無理をしているのが、賢には見抜かれているようで少し怖かった。

待ちきれずに苛々している大輔は、僕の向こうに見える初島ユウキの名を呼び、彼女は小さく大輔の名前を呼び返した。

僕は先程取り落としたシートプログラムを拾い上げ、一歩下がって大輔と賢の顔を交互に見た。

「タケル、それは?」

見慣れないシートプログラムに賢が疑問を投げかける。

僕は敢えて真実を語った。

「これはこの空間に充満するバグデータとそれを繋いでいる初島さんを消去するためのプログラムだよ」

わざとシートプログラムを翳して見せる。

賢の顔が驚愕に染まり、大輔の眉間に深い皺が刻まれる

「…何だって?」

僅かに震えた声で大輔が問う。

僕は淡々と事実だけを伝えた。

「彼女を消さなきゃこのバグデータを消すことができない。それに、この空間から脱出することも」

「そうじゃねぇだろ!!」

僕の説明を怒気に満ちた大輔の言葉が遮る。

今にも掴みかかりそうなのを必死に堪えているのが分かった。

殴ってくれていいのに。

その方がいくらかマシだ。

「もう他に方法が無いんだ…」

どんなに叫んだって、できはしない。ホメオスタシスが語ったような方法は、人間には不可能だと思い知った。

「何だよそれ、ふざけんなよ!何でそんなことが分かるんだよ!?お前俺達が何のためにここにいんのか、忘れてんじゃ」

「ヒカリを助けるためなんだ!」

今度は僕の悲鳴に近い叫びで大輔の言葉を遮る。

これを言ったら塞き止めていた心が溢れ出してしまうと分かっていたのに、もう止まらなかった。

僕の言葉の意味を理解しきれていない大輔と賢、そして後ろにいる初島ユウキの存在にも構わず、僕はホメオスタシスから告げられた事実をぶちまけた。

「僕だって本当はこんなことしたくないさ、でも彼女を消さなきゃ、この空間に捕らえられたヒカリは遠からず消えてしまう!初島さんを捕らえているのは彼女が多くの人やデジモンから引き受けた記憶そのものだ。更にはそれがバグデータの繋ぎになってアポカリモンを含む存在を構成してる。初島さんを助ける方法は僕達には実行不可能だし、おまけに時間もない。時が来れば2人ともこの空間作用で消滅するんだ!なら僕はヒカリを助ける…そのために僕はここにいる。何を引き換えにしても、ヒカリだけは助ける!」

事実上、初島ユウキを殺すと宣言したも同然だった。

僕は大輔に憎まれて、賢に軽蔑されて、ヒカリにも顔向けできなくなるだろう。

でも、それでも失えないんだ。殴られる覚悟で、僕は大輔を見た。

怒りに打ち震えているだろうと思ったその顔は、何故か悲しげに歪んでいた。

隣に立つ賢もまた、悲痛な表情を浮かべている。

僅かな沈黙を破ったのは、初島ユウキの微かな声だった。

「私が、頼んだ、の…消して、って……高石さん、は…それを、叶えて…」

心臓が握り潰されるような痛みが襲い掛かる。

またか。

またそうやって自分のことより他人を気遣って。

こうしている間にも、彼女は自ら背負った記憶達に囚われ、あの痛みと苦しみを味わっているのだろうに。

やめてよ、辛くなるだけなんだから。

たった一つのボタンを押すだけの行為が、どんどん重たくのしかかってくる。

叫び出したい衝動を必死に堪えるせいで息もできない。

良心の呵責と罪の意識に、いっそ狂ってしまいたいとさえ思った。

自分の意思ではなく震えだした手、その手を掴む手があった。

「!?」

僕の行為を止めにきたのかと思ったその手の主は、次の瞬間、僕を抱きしめた。

「大輔…」

あまりに意外な行動に、僕は呆気にとられる。

「お前、また1人で頑張ってんだな…バカ野郎」

そう一言告げると大輔は僕から離れ、シートプログラムを取り上げることなく僕の横を通り抜けて初島ユウキのもとに歩み寄った。

呆然とする僕の背後から、大輔が初島ユウキに話しかける声が聞こえた。

「ユウキ、待たせちまってごめんな」

優しい声音だった。

大輔は信じてる。初島ユウキを助けられると。

大輔はそういう奴だ。

僕の絶望なんか軽々と乗り越えて、バカみたいに前だけ向いて。

項垂れる僕の前に賢がやってきた。

「タケル…」

名前を呼ばれても、僕は顔を上げることができなかった。

いくら優しい賢だって、僕がやろうとしたことを許すはずが無いと思っていた。

「……賢…」

「殴って欲しいと思ってるだろ?」

どこか悪戯っぽく発せられた声に思わず顔を上げると、拳を振りかぶった賢の姿が一瞬見えて、衝撃を予想した僕は反射的に目を瞑った。

しかし、来る筈の衝撃はやって来ず、僕が片目を開けると、眼前に寸止めされた拳が飛び込んできた。

「1人で突っ走るなよ、せっかくここには3人いるのに」

拳を引いた賢が笑って言った。

大輔と賢の相次ぐ言動が、追い詰められてガチガチに固めた覚悟を緩く解いていく。

するりとシートプログラムが手の中から抜け落ちた。

それを賢が拾い上げて始動を保留する。

あれほど重たかった心がふわりと軽くなるのが分かった。

状況は何一つ変わってなどいないのに、不思議だった。

しかし、気が緩んだのも束の間、バリバリと電撃が走るような音が響き、賢と初島ユウキの大輔の名前を呼ぶ声が重なる。

慌てて振り返ると、初島ユウキを捉えるデータの網に手を掛けたまま膝を付く大輔の姿があった。

あれに触れたんだ。

「大輔!」

僕と賢が大輔に駆け寄る。

僕は急いで大輔の手をデータの網から外そうとするが、大輔自身がそれを拒んだ。

「いいんだよ、これで…っ」

苦しげに声を絞り出し、大輔はもう片方の手もデータの網に掛けようとする。

「いいわけないだろ!あんな記憶に何度も晒されて正気でいられるわけない!」

大輔の手を掴んで無理矢理引き止める。

何が起こっているのか分からない賢が困惑した表情で状況を問い掛けてくる。

僕はこのデータの網が初島ユウキが引き受けてきた記憶で構成されており、触れることでその記憶が流れ込んでくることを早口に説明した。

「人やデジモンの死の記憶だ、強烈すぎて精神が持たない」

「そんなっ…じゃあここにあるデータ全てが?」

広大に張り巡らされたデータの網を見上げ、途方もなさに愕然とする賢。

しかし、大輔は首を振った。

「ユウキは1人で背負ってきたんだ。もうこれ以上、ユウキの苦しみは増やさねぇ」

そう言って僕の手を振りほどき、初島ユウキの腕を絡め取るデータの網に手をかけた。

途端に大輔の手に触れた網がデータチップに分解され、大輔に襲い掛かる。

叫び声こそ上げないが、大輔は苦しげに顔を歪めた。

「やめっ、やめて、大輔くん!」

初島ユウキが涙ながらに訴える。

記憶の波を乗り切った大輔が、初島ユウキに向けて笑顔を見せた。

「大丈夫だって、心配すんな」

網の一つを解き、大輔は新たなデータに手を伸ばす。

僕は一度触れただけで怖気付き、二度は触れる勇気が無かったのに、あの記憶達を受けて尚、どうして笑えるのか。

一つ一つ、着実に網を解く大輔の背を見て、僕は自らの不甲斐なさに打ちのめされる。

「タケル、この記憶達は…僕やタケルが彼女に預けてしまった記憶(もの)と同じように、解放できるのか?本人じゃなくても」

賢がそう言ったのを聞いて、彼もまたこの空間で自分の記憶と対峙したのだということが分かった。

「ホメオスタシスが言うには、記憶の解放は本人のみが行えるって…でも、もしできたなら…」

「初島さんを助けられる?」

僕は頷いた。

不可能だと思った方法。

でも、大輔はそれをやろうとしている。

初島ユウキの頬が次々と溢れる涙で濡れていくのが見えた。

賢が前に進み出て言った。

「タケル、八神さんが捕らわれているなら、彼女を助けに行け。初島さんは僕と大輔で助けるから」

「賢!」

「方法は一つじゃないかもしれないだろ?」

「でもっ」

「彼女は僕が背負わなきゃならなかった記憶(もの)、パートナーの死だけじゃない、僕が手に掛けた沢山の命の記憶まで背負ってくれてたんだ。僕が過って創り出してしまった命さえも…」

グッと拳を握る賢の姿に、人工的に作り出されて暴走したデジモンの記憶が蘇る。

賢はこの空間に来て、多分僕なんかよりもっと沢山の記憶と対峙して解放したんだと思った。

「彼女も八神さんも助けよう」

力強く、優しい声でそう告げて、賢は初島ユウキを捕らえるデータの網に向かう。

後を追えない僕だけが、2人の背中を見つめる。

やっと肩を並べられたと思ったのに、また僕だけ足踏みしているのか。

前に踏み出す勇気が持てず、大輔や賢に気遣われて…。

「僕は…」

悔しさが込み上げる。今すぐにでも2人のように行動できたらと思うのに、さっき見た記憶が蘇って背筋が粟立つ。

怖い。人が死ぬ瞬間に見る光景、衝撃、痛み、苦しみ、死にたくないという叫び、後悔。

僕には受け止めきれる自信が無い。

動けと叱咤する自分と無理だと諦めを囁く自分、圧倒的な恐怖に慄く自分がせめぎ合い、身動きが取れない。

強く目を瞑ったその時、頭の中に声が響いた。

それは、誰よりも大切に思う人の声。

 

 

 

『タケル』

 

 

 

『ヒカリ!?』

『漸く届いた』

『どうして?』

『ずっとタケルが苦しんでることだけは伝わってきてたの。でも私の呼びかけは届かなくて…』

僕の苦しみが?ずっと繋がっていた?もしかしたら、あの防壁空間に接した時から?だとしたら、ヒカリは僕がしようとしたことも全て知っているのでは?

予想外の事実に僕は頭を抱えたくなった。

『ヒカリ、僕はっ…初島さんを』

『いいの、全部私のためなんでしょう?タケルは、いつも私を一番に考えてくれるから…辛い思いをさせて、ごめんね』

『違う、違うよ!僕がヒカリを失いたくないだけで、こうすることで傷付く人はたくさんいるのに、僕が身勝手なだけなんだ』

『そんなことないよ、自分ばっかり責めないで』

『ヒカリ…僕は怖いんだ、僕を許してくれる人達ばかり…その人達を助けたいのに、怖くて動けない…』

『…タケル、タケルは1人じゃないわ。タケルが1人で受け止められない分は、私が引き受ける。貴方を通して記憶のデータを私が』

『そんなことしたらヒカリがっ…』

『タケル、私も初島さんを助けたいの』

ヒカリの強い声に、僕は言葉が続かない。

少し間を置いて、ヒカリが穏やかに告げた。

『いつも何もできないことが歯痒かった。私の力のせいでお兄ちゃんやタケルや仲間に気を遣わせて、守られて…こんな力、無ければ良かったのにって何度も思ったわ。でも今、この力で初島さんを助けられるなら、助けたいの!』

 

切実な願い。

力に苛まれてきたヒカリが、力と向き合って出した答え。

僕に拒否することはできなかった。

辛い思いをするとか、苦しい思いをするとか、そんなんじゃなくて、ただ彼女が望んで出した決断を尊重したかった。

 

『分かったよ、ヒカリ…一緒に初島さんを助けよう』

『うん』

 

 

 

 




魂の重さは21gだそうですね。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第25話 〜消滅への願い〜

 

目を開けると、涙を湛える初島ユウキと目があった。

「高石さん、お願い…私をっ…」

これ以上、大輔と賢を苦しめたくないと叫ぶ彼女の気持ちは痛いほどよく分かる。

けど、僕達は君を助けると決めた。

僕は首を横に振り、データの網を解き続ける大輔と賢の背に手を添える。

「タケル?」

「僕とヒカリが2人の受ける記憶を肩代わりする。だから、初島さんを助けて」

「そんな無茶な!」

賢が記憶の痛みに顔を歪ませながらも、僕の申し出に異を唱える。

大輔は対称的にニヤリと笑い、「やっとやる気になったか、頼むぜ!」とやる気満々だ。

僕は賢に「信じて」と短く告げ、頭の中のヒカリに呼びかけてリンクする。

次の瞬間、人やデジモンの記憶達が津波のように押し寄せてきた。

「うっ!?」

思わず呻き声が溢れるが、すぐに記憶の奔流が分かれてヒカリに流れていくのを感じた。

主にデジモン達の記憶がヒカリに流れ、人の記憶が僕に流れ込む。

次々と見えるビジョン、身体を駆け巡る痛みと衝撃、心を抉るような絶望と後悔の念。

 

 

辛い、苦しい、痛い、寂しい、悲しい。

 

 

そうだね、痛かったね、苦しかったね、悲しかったね…死ぬのは、とても怖いよね。

自分で選んだ人も、そうでない人も、生きていたい気持ちがあったから、彼女にしがみ付いてしまったんだ。

誰もが死を受け入れられるわけじゃなくて、こんなに切なくて悲しい気持ちがいっぱいあって、でも死んでしまったら誰にも伝えられなくて、帰ることもできなくて…。

 

 

『みんな、帰る場所を探していたのね…でも見つからなくて、拠り所を探して彼女に縋ってしまった。みんなの思いが寄り集まって、あの悲しい存在を引き寄せてしまったのね。転生の輪から外れて、絶望して、世界を恨んで…もうどこにも戻れないことを分かっていても、諦めきれない。消滅を恐れて、怯えて、泣いてるみたい…』

 

 

記憶の向こうに、一瞬何かが見えた気がした。

それは、僕が見た夢に似た空気を感じさせるものだった。

やがて、記憶の波が途切れた。

目を開けると、初島ユウキの四肢を捕らえていたデータの網の最後の一つが解け、彼女の体が崩れ落ちる瞬間だった。

大輔が初島ユウキ身体を受け止める。

安堵の息をつこうとしたのも束の間、解放された筈の初島ユウキの体から無数のデータチップが浮かび上がり、サラサラと巻き上げられ始めた。

「これは…」

「ユウキ、ユウキ!?」

腕の中の初島ユウキに呼びかける大輔。

しかし、彼女からの返事はなく、代わりに全く別の所から返事が降り注いだ。

 

 

「呼んだか?大輔クン」

 

 

それは、今まで聞いたことのない調子で発せられた初島ユウキの声だった。

僕、大輔、賢は一様に身を硬くして、声のした方を振り仰いだ。

そこには未だ残る無数のデータの網を背にして、フワフワと浮いている初島ユウキがいた。

大輔の腕の中の初島ユウキは、ピクリともしない。

あまりのことに言葉を失う僕達に、その初島ユウキはニッコリと笑った。

「お前達は、何一つ失わずに何かを救えると、本当に思っているのか?」

笑顔とは裏腹に、発せられた言葉は冷たい。

そして、初島ユウキらしからぬ物言いだった。

「ユウキ?」

「初島ユウキは我々の存在の基盤。抜け殻くらいはくれてやってもいいが、我々を繋ぐ記憶は渡さない」

「じゃあ、お前はもしかして…!?」

目の前に浮かぶ初島ユウキの正体気づいたのか、賢が表情を険しくする。

初島ユウキの姿をしたそれがデータの網に触れると、網はたちまち姿を変えて彼女の背に集まり、悪魔にも似た翼を形作った。

次に別の網を分解し、今度は巨大な鎌を作り出す。

まるで死神のようにも見えた。

「世界に拒まれた我々は初島ユウキによって繫がれ、身を寄せ合った。世界は生者にのみ祝福を与え、我々には虚無に帰ることを強いた。この空間に追い込まれた以上、我々に待つのは消滅だけだ。今更抗おうとは思わない。ただ、もうこれ以上、我々から何も奪わせはしない。特に、世界から選ばれ、祝福され、失うことを知らないお前のような傲慢な存在には!」

巨大な鎌がギラリと鈍く光る。

細められた目の奥に殺気を感じた。

「危ない!?」

咄嗟に初島ユウキを抱いたままの大輔を庇う。

更にその前に賢が身を滑らせ、迫り来る大鎌を交わして初島ユウキの姿をしたものの腕を抑え込んだ。

鎌の刃が僕の眼前で動きを止める。

冷や汗がこめかみを伝った。

「生身の分際でよくやる」

寸前で攻撃を食い止めた賢に、そいつは感心したように呟く。

賢はゆっくりと大鎌を押し返しながらそいつに問いかけた。

「僕達にメールを送ってきたのはお前か?」

「メール?ああ、皮肉を込めたあのメッセージのことか。我々の一部が行ったものに違いない。が、それがどうした?」

軽く笑い、そいつは鎌を引いた。

鼻で笑い飛ばしたそいつにとっては、あのメッセージは大した意味を持たなかったようだ。

しかし、賢は続ける。

「この空間に来て間もなく、一度だけ通信が回復して京から完成文が届いた。完成文は『全ての生命に祝福を』これは、SOSだったんじゃないのか?」

「何を言うかと思えば…」

「お前達にとって世界からの祝福が生きることだとするなら、世界に対する願いだったんじゃないのか?」

先ほどそいつが口にしていた、「世界は生者にのに祝福を与えた」という文言から考えると、生に対する執着は相当なものだ。

 

祝福

 

この空間に引きずり込まれる前にも考えていた。

世界にとっての祝福は、僕達の考えるものとは違うのではないか。

生きることでも、選ばれることでも、誰もが羨むような力を手にすることでもなくて…。

賢の問いに、初島ユウキの姿をしたそいつは大鎌を担ぎ溜息を吐いた。

そして、崩れかけたデータの網に腰を下ろし、大鎌を脇に立て掛けると僕たちを見渡して言った。

「世界はそれほど優しくないのだと、我々の中にもまだ理解しないものがいる」

「そういうものの発したメッセージだと?」

殺気が消えたことで賢も構えを解き、乱れた髪を振り払う。

そいつは足を組み、頬杖を付くと、大輔の抱く初島ユウキを見つめた。

どこか諦めを匂わせる表情を浮かべた。

「そんな拙い願いは世界に届かない。我々がどれ程の時を虚無に抗い、叫び続けてきたか。初島ユウキが現れ、統合されて初めて、我々は消滅するしかない現実を受け入れ始めた」

「ユウキが?」

「初島ユウキはこれだけの記憶をその身に引き受け、自ら消滅することを願っていた」

「「「!?」」」

僕達の驚きが重なる。

そいつは構わず続けた。

「引き受けた悲しみとともに消えることで、悲しみを消そうとした」

「嘘だ!」

思わず叫んだのは大輔だった。

当たり前だ。

助けに来た恋人が、本当は消えることを願っていたなんて、信じたくないに決まっている。

でも、僕はそれを否定できないと思った。

家族を失い、おそらくはその死の記憶も背負い、他人やデジモンの悲しみと苦しみを一心に引き受けて、生きていく希望を見出せるとは考えにくい。

消えてしまいたいと思ったことがある身としては、そいつの言い分も分かってしまう。

「絶対信じねぇ、ユウキは俺と一緒にいるって約束したんだ、これからもずっと!」

大輔が抜け殻と称された初島ユウキを抱き締め、初島ユウキの姿をしたものを睨みつける。

そいつは目を伏せ、今までとは異なる声で小さく呟く。

「…大輔クン…」

「ユウキ!」

初島ユウキの声色で名前を呼ばれた大輔に動揺が走る。

すると、そいつはすぐに表情を一変させ、大鎌を残したまま立ち上がって大輔に近づくと、身を屈めて大輔の眼前に顔を突き出した。

「初島ユウキの記憶は我々とともにある。そして、我々がわざわざ偽りを告げる理由は無い。お前達を謀ったところで、何の得も無いからだ。信じる信じないは勝手だが、初島ユウキの消滅への願いが、我々に無への帰還を指し示したことは変えようのない事実だ」

初島ユウキと同じ顔で、言葉を選ばずに突きつけられる現実は、少なからず大輔の心を傷付けただろう。

そいつは身を起こし、左右の僕と賢を交互に見やった。

「お前達は喪失と引き換えに得るものがあると知っているというのに、何故その方法を取らない?」

そいつの言葉に、賢がポケットに収めたシートプログラムに手を添える。

僕もまた、実行に移せなかったことに唇を噛んだ。

「本宮大輔、厄介な存在だ。初島ユウキにとっても、お前達にとっても、下手な希望を持たせることにつけては天下一品だな」

「何だとっ…」

「奇跡か…だが、その奇跡も世界の理を覆すことまではできない。我々が生まれ、消えることも世界には定められていたに違いない。途方もない時間、抗い続けることさえも…」

寂しげにさえ見えたそいつの横顔は、とても人間臭さを感じさせた。

踵を返して大鎌のもとに戻ったそいつは、細い腕で軽々と鎌を持ち上げ、僕達に向き直った。

「君達は…消えることを受け入れたって言ってたけど、それで何でヒカリを道連れにする?」

「ヒカリ?ああ、進化の光を宿した者か…あれをここに引き止めているのも、我々の一部に過ぎない。我々は統合されたと言っても、完全に一個の個体になったわけではない。我々の内部では未だ様々な意思が入り混じり、混沌としている」

「解放してはもらえないか?」

「ならば一乗寺賢の持っているプログラムで我々のデリート順を早めればいい。我々が先に消えれば、八神ヒカリを捕らえる楔は消え、お前達が脱出する時間も稼げるだろう。そして…」

「初島さんは消える?」

そいつは当たり前のように頷いた。

「不満か?初島ユウキと我々が消えることで、お前達の命と八神ヒカリの命、この世界の安定が得られるというのに、傲慢の極みだな。どうしても我々から初島ユウキの記憶を奪うというのなら、容赦はしない」

大鎌を僕達に向けて構えたそいつは、先に見せた人間臭さを取り払い、無機質な表情を浮かべていた。

それを見て、僕は初島ユウキの姿をしたこの存在は、酷く不安定なものだと感じた。

そもそも、ホメオスタシスが語ったように、彼等一つ一つのデータは単なるバグでしかなく、初島ユウキの記憶という繋ぎによって意思を宿したというのなら、それはつい先刻のことだ。

この空間の時間の流れがどうなっているのかは分からないが、さっき彼等自身が言ったように内部は混沌としていて纏まりに欠ける。

それでも消滅を受け入れてその時を待っているという。

無秩序だった彼等を理のもとに導く存在として、初島ユウキは彼等の中核なんだ。

失ってしまえば、漸く定めた消滅への道に再び抗い始める者達も出てくるだろう。

今目の前にいる初島ユウキの姿をした存在も失われる。

そうしたら、アポカリモンのような存在がいくつも出来上がるのではないだろうか。

それは恐ろしいことだった。

暫しの沈黙の後、大輔が初島ユウキの身体を横たえて立ち上がった。

そして、初島ユウキの姿をした存在が構える大鎌の刃の前に進み出た。

「何か言いたげだな、本宮大輔」

「そりゃあな」

「何を言おうが初島ユウキを返すわけにはいかない。我々は統合を維持したまま消滅を待たなければならない」

「消えなきゃダメか?」

「何?」

大輔の唐突な質問に、そいつは怪訝そうに眉を寄せる。

「お前らは消えなきゃダメなのかって聞いてんだよ。ってか、何で消えたいんだ?」

「何故?」

「そう、何で?」

こんな時だというのに、大輔の声の調子は普段とさして変わりないものだった。

あれだけの記憶の波に晒され、初島ユウキの本意を聞かされた後で、尚も目の前の存在に真正面からぶつかれるなんて、驚きを通り越してもはや尊敬に値する。

そいつにとっても、多分大輔のこの質問は予想の範囲を超えていただろう。

大鎌を振り上げて大輔の眼前に切っ先を合わせ、その真意を図っているようだった。

随分長いことそうしていたように感じるほど、2人の間には緊迫した空気が流れた。

そしてその終わりに、初島ユウキの姿をした存在は乾いた笑いを零した。

「…理由、か…理由は…消滅を選んだ、理由…は」

語尾が不規則に途切れる。

大鎌を持つ手が震えていることに僕が気づいた時、大輔はもっと別のことに気付いていた。

目の前の存在が揺らいでいることに。

身の丈に迫る刃をくぐり、大輔は初島ユウキの姿をした存在に歩み寄る。

そいつは身動きせず、近づいてくる大輔をただ見つめていた。

やがて、大輔とそいつの距離が人1人分まで縮まると、大輔が口を開いた。

 

「ユウキ、そこにいるんだろ?」

 

「!?」

小さく息を飲み込む音がした。

同時に大鎌が振り上げられる。

「「大輔!」」

賢と僕が叫んで駆け出そうとしたが、いつの間にかデータの網に足を絡め取られ、動けなくなっていた。

巨大な鎌が振り下ろされる。

賢がポケットからシートプログラムを取り出そうとするが、どう考えても間に合わない。

こんなことで、大輔を失うわけにはいかないのに。

僕の頭の中でもヒカリが悲鳴を上げるのが聞こえた。

 

 

 

大鎌の刃が大輔の身体を貫く瞬間は、いつまでたってもやってこなかった。

振り下ろされたように見えた大鎌は大輔の体のすぐ横をすり抜け、ガランと大きな音を立てて地面に転がった。

大鎌を手放した細い腕が震えて徐々に力を失い、ハラハラと翼を構成していたデータが分解されていく。

呆然とする僕達前で、大輔は初島ユウキの姿をした存在を「ユウキ」と呼び、その身体を抱き締めた。

「本当に、消えたいのか?」

「わ、私…は…」

彼等の一人称が変化した。それは、初島ユウキの記憶が表面化したことを示していた。

「ユウキの本当の気持ちが聞きたい」

「…大輔、くん…」

声が、初島ユウキものへと完全に戻った。

そして、彼女の心が溢れ出す。

「私が一緒に消えなきゃ、この子たちはいつまでも悲しいまま、誰かを傷つけながら消えていくか彷徨うかしかない。だからっ」

「そうじゃなくて、お前はどうなんだよ!?」

どこまでも人のことばかり。

それは大輔もそう思っていたのだろう。

自分の願いはいつも後回しで、決して口に出さない。

彼女の肩を掴み、大輔は強く問い掛ける。

初島ユウキは泣いていた。

「ユウキ、お前いつもそうやって自分のためには何も選んで来なかっただろ?言えよ、本当はどうしたい?」

「あ、わ…私、私は…」

「どんなことだっていい、何にも縛られないで言ってくれ」

「うぅ…あ…あぁあああああぁぁぁああ!」

絹を裂くような叫び声がこだまする。

初島ユウキが両手で頭を抱えると、周囲のデータの網がグニャリと歪んで形を変え、まるでデビモンを思わせる巨大な手が現れた。

そして、巨大な手は初島ユウキを大輔から引き剥がしてその手中に収めてしまった。

「ユウキ!」

 

『渡すわけにはいかいかないと言った筈だ』

 

どこからかノイズ混じりの機械音声が聞こえてきた。

恐らく彼等だ。

僕は足に絡みつくデータの糸を強引に振り払うと、賢の手からシートプログラムをひったくった。

「タケル!?」

「奴と初島さんが分離している今ならっ」

シートプログラムを起動させ、奴の目の前で始動ボタンに手を掛けたが、頭の中でヒカリがストップを掛けた。

『まだダメ、初島さんを引き離して!』

「くっ、大輔、賢、初島さんを!」

僕の声に弾かれたように大輔と賢が巨大な手に囚われた初島ユウキへ駆け寄り、助け出そうと試みる。

しかし、そう簡単に手の中の彼女を引き出せる訳もなかった。

もう一つの巨大な手が大輔達に向かって伸ばされる。

ちっぽけな僕達にできることなどあまりに少なかった。

「やめて!」

捕らわれた初島ユウキが制止を叫ぶが、もはや間に合わない。

そう思った時、賢が自らのデジヴァイスを翳した。

すると、デジヴァイスから光が発せられ、大輔と賢を包み込んで巨大な手を弾き返した。

驚いたのは僕と大輔、そして当の本人である賢も目を丸くする。

「効いた!?」

「嘘、確証なかったの?」

「いや、京にプロテクトかけてもらってあったんだけど、まさか効くとは…」

「あいつってすげぇのな」

まさかの京の功績に一瞬緊張が緩むが、状況は何ら変わっていない。

捕らわれたままの初島ユウキは、僕達に向かって叫んだ。

「お願い、私ごと消して!このままじゃ…みんなっ」

しかし、大輔はそれを許さない。

「んなことできねぇって言ってるだろ!」

初島ユウキを捕らえる手の指をこじ開けながら大輔が語気を荒くして言った。

だがこのままでは間違いなく僕達方が先に消されてしまう。

一体どうすれば…。

シートプログラムと初島ユウキを交互に見て、それからあることに気付いて僕は横たえられた初島ユウキの身体を振り返った。

あの初島ユウキは彼女の記憶。

だとすれば、本体に触れれば身体に戻すことが出来るかもしれない。

思いたつが早いか、僕は初島ユウキの身体に駆け寄って抱き起こす。

その身体は驚くほど軽かった。

「大輔、賢!」

初島ユウキを抱き抱え、僕は囚われている初島ユウキへと走った。

だが、それを彼等が許す筈がなく、その場にたどり着く前に大きな手がそれを阻もうと襲い掛かってきた。

鋭い爪が眼前に迫る。

が、その爪は僕に届くことはなかった。

先ほど賢が発動させたプロテクトと同様の現象が僕の周りにも出現し、彼等の攻撃を弾いたのだ。

恐らく、ホメオスタシスが僕にかけたプロテクトが発動したのだろう。

彼等が怯んだ所で手の下をすり抜け、大輔達の所に急いだ。

「タケル、お前も京にかけてもらってたのか?」

「僕のは別口。それより、急いで初島さんの記憶を身体に戻せるかやってみよう。初島さん、今は僕達を信じて」

抱きかかえた初島ユウキを大輔に受け渡し、捕らわれている記憶の方の彼女にそう告げる。

初島ユウキは何かを堪えるように頷いた。

賢は次の攻撃に備えてプロテクトを展開してくれていた。

僕もそのサポートに回る。

大輔が初島ユウキの手を彼女の記憶に触れさせると、眩い光とともに彼女の記憶はデータチップとなって身体に吸い込まれていった。

「これで!」

僕がシートプログラムを起動させようとしたその時、プロテクトを貫くほどの閃光が巨大な手の伸びる更に奥から放たれ、僕達は派手に吹き飛ばされた。

そしてあろうことか、その攻撃によってシートプログラムは破壊され、砕け散っしまった。

「っ、やべぇな、こりゃ…」

初島ユウキを庇って倒れた大輔が身を起こしながら呟いた。

初島ユウキは今の衝撃で気絶したのか、大輔の腕の下で動く気配はない。

僕は手の中に残ったプログラムの破片を見下ろして落胆した。

これで僕達が彼等に対抗できる手段はなくなってしまった。

あとはもう…。

 

『タケル、みんなとここに戻って!』

 

頭にヒカリの声が響いた。

僕は痛みに悲鳴を上げる身体にムチを打って立ち上がり、倒れている賢を助け起こして大輔に叫んだ。

「ヒカリのところに行こう!この空間から出るんだ!」

そうして僕達は走り出した。

直後、背後で地鳴りとも悲鳴ともつかない叫び声のようなものが聞こえたけれど、今はとにかく逃げるしかなかった。

必死でヒカリが呼ぶ方向へ走り続ける。

僕達は既にボロボロで、ただ気力だけがその身を突き動かしていた。

だから、気付かなかった。

大輔の抱える初島ユウキの身体から、少しずつデータチップが溢れていたことを…。

 

 

 

 




諦めることと受け入れることの違い。

読んで頂き、ありがとうございました。



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第26話 〜初島ユウキ〜

 

ようやく辿り着いた場所には、最初に来た時とは違う様相を呈した球体があった。

硬質だった表面のデータはいつの間にか無くなり、虹色のデジタル文字の列が何重にも円を成した球体が存在していた。

「ここに八神さんが?」

「うん」

僕は球体に手を触れ、頭の中でリンクするヒカリへと語りかける。

すると、文字の一部が組み変わって扉が現れ、僕達を中に迎え入れてくれた。

中の空間は変わりなく、中心の光球内にはヒカリの姿があった。

「ヒカリ、ありがとう」

「タケル、みんな、無事でよかった」

空間が隔離され、僕達は漸く一息つくことが出来た。

しかし、まだこのゴミ箱空間から脱出できたわけではない。

僕は壁にもたれて呼吸を整えている賢に声をかける。

「賢、外と連絡つかないかな?ここならもしかしたら繋がるかもしれない」

この中で唯一外との連絡手段を保持している賢。

もし現実世界にいる京や光子郎達と連絡が取れれば、この空間にゲートを開けるかもしれない。

「やってみるよ」

意図を理解した賢は、Dターミナルを取り出してメールを打ち始めた。

大輔は、人1人抱えて走ってきたこともあり、かなり疲弊している様子だった。

未だ目覚めない初島ユウキを横たえたすぐ側で、足を投げ出して荒い息をしている。

僕はヒカリに歩み寄り、光球に手を触れた。

「平気?」

「私は大丈夫よ。初島さんは…?」

「記憶は戻したつもりだけど、それで良かったのかな…」

僕達が走り出した直後に背中で聞いた深淵からの叫び声は、今でも耳に焼き付いていて、哀しく胸を締め付ける。

まるで泣いているようにも聞こえたあれは、彼等の心の叫びだったのかもしれない。

彼等から初島ユウキを奪ったこと、後悔するつもりはないけれど、やりきれない思いは残る。

「漸く消える道を選べたのに、その道標を僕達が奪って…彼等はまた…」

「それでも、彼女を見捨てることなんてできないわ」

「うん、分かってる…分かってるよ。人の命には代えられない」

そう、僕達の倫理観や道徳に照らし合わせれば、そして感情のままに判断すればそれが正しい。

でも、世界にとっての正しさは違う。

この世界のホメオスタシスが彼女ともども彼等を消せと言ったのは、そうしなければ世界が歪むからだ。

歪みは新たな歪みを生み、また戦いの火種が数多く生まれてしまうだろう。

そうしないために必要だと世界が判断したことの前に、人の物差しで計る正しさが、果たして抗えるのだろうか。

僕は初島ユウキを振り返り、彼女の姿をした彼等が言った言葉を思い出す。

 

 

『…我々がどれ程の時を虚無に抗い、叫び続けてきたか』

 

 

『奇跡か…だが、その奇跡も世界の理を覆すことまではできない。我々が生まれ、消えることも世界には定められていたに違いない。途方もない時間、抗い続けることさえも…』

 

 

抗い続けた果てに、消滅の道を選んだ。

運命というものがあるなら、彼等はそれを認めて受け入れざるおえなくなったんだ。

それ程までに、世界の理は固く、突き崩すことが叶わないものということ。

じゃあ、今回の僕達の行動は?

世界の求める答えとは違う答えを出そうとしている僕達もまた、世界に否定されるんじゃないのか?

肩越しに見える初島ユウキ、細めた視界の端に、僕はそれを見つけた。

横たわる彼女の手、その指先から僅かに零れ落ちるデータチップを。

瞬間、目を見開いて、初島ユウキに駆け寄った。

彼女の手を取り、データチップを確認する。

微かに零れ落ちたデータチップは、サラサラと床をつたって移動していく。

まるで意思を持っているかのように、出口を探しているのだろうか。

僕の行動に大輔が怪訝そうな顔をする。

「タケル?どーした?」

「データチップが…まさかっ」

行き着いた答えに、サッと血の気が引く。

すると、初島ユウキの手がスルリと僕の手からすり抜け、彼女がゆっくりと身を起こした。

「ユウキ!」

大輔がふらつく彼女の肩を助け起こす。

「初島、さん…」

目覚めた彼女に、僕は恐る恐る声をかける。

初島ユウキは顔を上げ、正気を宿した目で僕を見た。

そのことに僕は少なからず安堵したが、次の彼女の言葉はそれを打ち砕いた。

「高石さんが思っている通りです。私の記憶はまだあの子達と繋がっています…少しずつ、あの子達の所に呼ばれてる」

「何だって!?」

初島ユウキの言葉に、大輔が驚愕の声を上げる。

メールを送信し終わった賢も駆けつけた。

彼女は驚くほど穏やかな顔で続ける。

「あの子達の消滅が始まった…これが…世界から私への祝福」

「え…?」

戸惑う僕達を他所に、彼女はゆらりと立ち上がり、光球に守られるヒカリを見ると、ニッコリと笑った。

「その力が貴女への祝福であるように、世界は私にも役割をくれた。誰もが世界に祝福されて生まれてくる…だから…」

ダメだ、と心が叫んだ。

初島ユウキの顔は何かを決意していて、その決意が何なのか、僕には分かってしまった。

思わず彼女の手を掴むが、その行動は意味を成さなかった。

初島ユウキの身体から無数のデータチップが浮かび上がる。

あの時と同じだ。

彼女の記憶が身体から解離していく。

「ユウキ、待て!」

大輔がそれを止めようと初島ユウキを抱き締めるが、それもまた記憶の解離を留めることはできなかった。

解離したデータチップが空中で寄り集まり、もう1人の彼女を形作る。

初島ユウキの身体が大輔の腕の中で力を失う。

「そんな…君は、彼等と消えることを選ぶの?」

再び現れた初島ユウキの記憶に、僕は問いかけた。

具現化した彼女は僕達を見下ろし、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「大輔君たちの気持ち、とても嬉しかった…こんな私を助けに来てくれて、辛い記憶を受け止めてくれて…本当に嬉しかった」

「ならっ」

「でもね、あの子達をここに連れてきたのは私だから」

「そんなの!?」

食い下がろうとする大輔に、初島ユウキはニッコリと笑うと、大輔の前に降り立った。

そして、自分の体を抱く大輔を抱き締める。

「ありがとう、大輔君…私、本当はずっと消えたかったの。誰かの死に目に会う度に、こんなに悲しいならいっそ消えてしまいたいって何度も思った。けど、大輔君といる時だけは悲しい思いに囚われることもなくて、すごく幸せで、ずっとそのまま…一緒に、いたい…って」

「なら一緒にいればいいだろ!これからだって」

2人の初島ユウキを抱きしめて、大輔が懇願するように叫ぶ。

「あいつらも消えなくて済むように、悲しい思いが無くなるように俺たちで考える!だから、ユウキが1人で背負って消えるなんてすんな!」

「大輔、君…」

初島ユウキの大きな瞳から涙がこぼれた。

それは喜びの涙か、それとも…。

だが次の瞬間、初島ユウキが大きく肩を震わせ、一瞬遅れて大きな衝撃が防御壁全体を揺るがせた。

立て続けに更なる振動が襲い、僕達はその場に膝を付く。

「何だ!?」

衝撃の正体を探ろうと防御壁の外部に視線を向けるが、そこには何の姿もなく、ただ文字列が回転し、無へと続く空間が広がっているだけだった。

唯一膝を折らずにいた初島ユウキが、遥か遠くを見つめて呟く。

「あの子達が来た」

フワリと身体を浮かせ、防御壁の外へ向かおうとするが、大輔の腕がそれ引き止めた。

ここで行かせたら、恐らく彼女の記憶は消える、その身体を残して。

「大輔君…」

「ユウキ、俺は…」

「私の記憶は呼ばれて、少しずつあの子達に流れてる。もう空間の作用で消滅したものも…」

「…嫌だっ…」

「ごめんね…今の私はもう、どうやって大輔君に出会ったかも覚えてないの」

「!?」

その言葉は大輔に明らかな動揺を与え、それによってできた隙が、彼女の飛び立つ隙になった。

大好きな人の手をすり抜け、初島ユウキは防御壁を飛び出し、あっと言う間に見えなくなってしまった。

呆然とそれを見送るしかなかった僕達の元に、京からメールとゲートを開くためのプログラムが送られてきた。

これで僕達は助かるだろう。

そして彼女は、初島ユウキは…。

「こんなのって…」

誰ともなく呟かれた言葉。

こんなのってない。

誰かを犠牲にして自分たちが助かる、この後味の悪さだけが残る結末を、ここにいる誰もが認めたくなかった。

でも多分、一番認めたくなかったのは…。

死んだように動かない初島ユウキの身体、その横で肩を震わせる大輔。

僕達にはもう、彼女を追いかけて行って彼等と戦うだけの力は残っていない。

彼等を消して初島ユウキを助けることも、彼等と初島ユウキの両方を救うこともできない、無力な子供でしかなかった。

あの夏の、パートナーを失った戦いの時と同じように…。

けれど、違うこともあった。

それは、どんな時も諦めない、奇跡を運命づけられた大輔がいる。

大輔は初島ユウキを引き止めきれなかった手を強く握りしめると、彼女の後を追って防御壁を飛び出した。

「大輔!」

「大輔君!」

賢とヒカリの呼び止める声には一切振り返らず、大輔は虚無の空間に消えていった。

賢が大輔を追おうとするが、僕がそれを引き止めた。

「タケル、どうして!?このままじゃ、大輔までっ」

「うん…だから、賢はここに残ってゲートを開く準備をしてくれないかな」

「え?」

現実世界に帰るためのゲートを開くには、京が送ってきてくれたプログラムを展開する必要がある。

それができるのは賢だけだ。

「彼等の消滅はもう始まってるって初島さんは言ってた。なら、遠からずここも消されるよ。だから、いつでも脱出できるようにしておいて欲しいんだ」

「だからって1人で行く気か?危険すぎる!」

賢にしては珍しく声を荒げて余裕のない表情を見せる。

事態がそれだけ逼迫していることは、僕にも分かっていた。

ヒカリの不安と心配に満ちた視線も感じた。

それでも、大輔が初島ユウキを失いたく無くて駆け出したように、僕も大輔を、大切な仲間を失いたくない。

だから、敢えて笑った。

「大丈夫、大輔は僕が必ず連れ戻すから」

それに、僕は1人じゃない。

頭の中でヒカリと繋がる。

どうやらこの空間が維持されている間は有効なようだ。

僕の思いに、ヒカリは黙ったまま頷いた。

賢もまた、渋々だけれど了承してくれた。

「無理だけはするなよ」

そう言って送り出してくれた賢に手を振って、僕は初島ユウキと大輔が消えた空間に身を躍らせた。

床は無い。

上下のない空間を、デジヴァイスに残された位置情報を頼りに進む。

振り返ると、遠くなった所為で文字列が潰れ、光の塊にしか見えなくなった防御壁がクルクルと回転しているのが見えた。

それはまさしく、夢で見た光景だった。

やがて床が現れ、地に足をつけた僕は走り出した。

 

 

 

 

 

僕が2人の元に辿り着いた時、初島ユウキの姿は既に半分以上が消えかかっていた。

2人の背後にはパックリと大きく口を開けた真っ暗なものが迫っている。

真っ黒なそれは、奥行きを感じないひどく薄っぺらに見えるのに、半面、底が無いような恐怖を覚えた。

 

あれが、無。

 

あそこに飲まれたものは無に帰るんだ。

漠然とそう感じた。

そして、それは恐らく当たっている。

何故なら、初島ユウキの周囲に蠢くデータの集合体が、彼女の一部とともにその真っ黒なものに吸い込まれて行っていたからだ。

消える瞬間の断末魔が辺りにやかましいほど響いていて耳が痛い。

大輔を守るようにしていた初島ユウキが、僕を見つけて何かを叫んだ。

しかし、周囲の断末魔にかき消されてうまく聞こえない。

僕は無の恐怖に震えながらも2人に近づいた。

ともすれば引き込まれてしまいそうにも感じたけれど、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。

「初島さん、大輔!」

「タケル!」

「高石さん、大輔君と逃げて!ここにいたら消えてしまう!」

「ユウキっ」

「行って、お願い!」

すぐ背後に迫る無への入り口から遠ざけようと、初島ユウキは大輔を突き飛ばした。

しかし、大輔は彼女の手を離そうとしない。

大輔の気持ちも、初島ユウキの気持ちも、どちらも分かる。

分かるからこそ、僕は大輔の腕を引いた。

「離してくれ、タケル!」

切実な願い。

それでも、僕は大輔だけでも連れ戻さないと。

「ごめん、大輔」

そう言って、僕は大輔の鳩尾に拳を叩き込んだ。

「うっ!」と大輔が呻く。

崩れ落ちる大輔の身体を支えて走り出そうとするが、それは叶わなかった。

大輔はまだ手を離していなかったのだ。

「ゆう…き…」

「大輔…」

本当に初島ユウキが大切なんだ。

それでも緩々と手から力が抜けていく。

それ感じたのか、初島ユウキが涙を浮かべた笑顔で言った。

 

 

 

「大輔君、さっき言ったこと忘れないで。記憶(わたし)は消えても初島ユウキ(わたし)は消えない。たとえ記憶がなくなっても、私はまた大輔君を好きになる。何度だって、好きなるよ。だから、私をっ」

 

 

 

その言葉を最期に、初島ユウキの手が大輔から離れ、彼女の姿はデータチップに分解され、無の入り口に吸い込まれた。

後には何も残らなかった。

すぐに僕達にも消滅の危機が迫ったが、ヒカリの呼び声に反応して保護プロテクトが働いたことと、賢がゲートを開き、光子郎と京のタッグが僕達をトレースしてサルベージしたことにより、気付いた時には全員、始まりの街に戻ってきていた。

 

 




大輔が起こす奇跡は、大それたものでなくていいと思ってます。

読んで頂き、ありがとうございました。



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最終話 〜希望を胸に〜

 

惨劇の跡が未だに残るはじまりの街。

カラフルな建物に刻まれた痛々しい破壊の跡。

さっきまで存在の危機に晒されていた僕は、いつものデジタルワールドの空気に触れ、帰ってこられたのだと理解する。

途端に脱力感に襲われ、支えていた大輔と一緒に地面に崩れ落ちた。

 

 

生きてる。

 

 

緊張の糸が切れ、極限状態により麻痺していた感覚が戻ってくると、全身を痛みとだるさが襲う。

遠くに僕達に向かって走ってくる人影が見えて、それが賢とヒカリだと分かると、僕の身体が呼吸を思い出したように大きく息を吐き出した。

 

「…ユウキ」

 

すぐ隣で呟かれた名前に、僕達の命と引き換えに消えた彼女の最期の顔が蘇る。

僕はのろのろと首を捻って大輔を見やった。

が、かけてやれる言葉は見つからない。

そこへ、ヒカリと、少し遅れて初島ユウキを抱き抱えた賢がやってきた。

ヒカリの顔は涙に濡れていて、押し倒さんばかりの勢いで僕の胸に飛び込んできた。

「タケル、無事で良かった…」

僕は大輔を気にしながらもヒカリを優しく抱き返し、「うん」とだけ返事をした。

賢はというと、僕達と一緒に初島ユウキの姿が見当たらないことでその意味を理解したのか、沈痛な面持ちで大輔を見つめた。

項垂れたまま、最期に初島ユウキの手を掴んでいた自らの手を固く握り締めて動かない大輔。

賢は大輔の前にしゃがみ込み、そっと声を掛けた。

「大輔…」

「…最後まで1人で背負って行っちまいやがった」

賢の呼びかけにゆっくりと顔を上げた大輔が、賢の腕の中にいる初島ユウキを見て、苦しげに言葉を絞り出した。

握り締めていた拳を解き、眠っている初島ユウキの頬に触れようとしたその時、大輔の手の中から僅かなデータチップが零れ落ちた。

そしてそれは、ハラハラと雪のように舞ったかと思うと、まるでホログラムのように初島ユウキの姿を映し出した。

それは、彼女の最期の記憶。

 

 

『たとえ記憶がなくなっても、私はまた大輔君を好きになる。何度だって、好きなるよ。だから、私を…』

 

 

先の言葉は誰も知らない。

最期に彼女が大輔に託したかった想い。

彼女が消えたことを再現するかのように幻もまた消え、データチップは初島ユウキの身体に降り注いだ。

大輔は賢から初島ユウキを受け取ってその腕に収めると、涙を必死で堪えながら彼女の名前を呼んだ。

 

 

 

 

 

暫くして、現実世界から京と伊織が僕達を迎えに来てくれた。

京は賢の無事を心底喜んで、初島ユウキの記憶が失われたことに涙を流した。

現実世界に帰り、兄達に迎えられ、光子郎からゴミ箱空間に充満していたデータは全て消去されたことを聞き、漸く全てが終わったのだと認識した。

初島ユウキはその日のうちに家族の元に送り届けたが、一向に目覚める気配がないことや、記憶が無くなっている可能性を彼女の祖母に説明すると、祖母はすぐに病院へ連れて行ってくれた。

後日、ちゃんと説明しなければと思った。

祖母にとっても、初島ユウキは唯一残った肉親。孫を亡くし、娘を亡くし、娘の夫も亡くし、直近では長年連れ添った夫をも亡くした彼女の祖母は、ボロボロになった孫娘の姿を見て、どれ程心を痛めただろうか。

それなのに、巻き込んだ上に事情をはっきりと話もしない僕達に対し、深く追求することもせず、優しげな瞳で「貴方達も早く家族の元に帰っておあげなさい」と言ってくれた。

初めて会ったけれど、あの人が生命の循環と世界の理を初島ユウキに教えた人。

あの人が初島ユウキの取った選択を知ったら何と言うのだろう。

世界の理に従い、自分に与えられた過酷な役割を受け入れて、人々やデジモンの悲しみと一緒に全ての記憶を投げ打った孫のことを、どう思うのだろう。

 

僕達はその日、様々な思いを胸に抱いて自らの家族のもとに帰って行った。

 

僕は、僕の心身を気遣った兄が泊まっていけと言ってくれたので、その言葉に甘えることにした。

久々に兄の作った料理を食べて、波波と溜めた湯船に浸かりながら全身に残った打撲の跡に苦笑いを浮かべて、相変わらず男所帯で散らかった部屋に布団を敷いて眠った。

目を閉じて思うのは大輔のこと、初島ユウキのこと、ヒカリのこと、消えていった彼等のこと。

意識を手放す寸前に頭に浮かんだのは、彼等や初島ユウキが口にしていた『世界の祝福』という言葉だった。

 

 

 

その日もまた、デジタルワールドの夢を見た。

けど、今度は音も色も欠けていない、今まで見た夢を全て廻るような。

そして、今日の夢には案内人がいた。

初島ユウキだ。

 

「全てのことには意味があるんです。観覧車が廻るように生命は廻り、暗い墓地にも花が咲くように生命は芽吹き、火の壁に拒まれるものもいれば、転生の輪に還って生まれ変わるものもいる。時には、天使が悪魔に変容することも…全ての生命は世界によって生かされ、生命によって世界が創られる。喜びも幸せも、悲しみも苦しみも、痛みも、恐れも、生も死も…全てが世界からの祝福なんです」

 

「全部定められているから、従うしかないってこと?」

夢の中で初めて声を発した。

肉声に近く、妙にリアルに感じた。

僕の問いかけに、初島ユウキは首を振った。

 

「生命には意思が宿っているから、私達は自分で選んで自分で決めるんです。悩んで、苦しんで、時には支え合って、互いに影響し合って…」

 

「自分の選んだ道に後悔はない?自分の力を、運命を呪うことは?」

 

「そうですね…それすらも、生きる喜びを増やすためのスパイスだって、今なら思えるかもしれません」

 

そう言って笑った彼女の顔が焼き付いた。

あの時、彼女は確かに自分自身の手で運命を選び取ったんだろう。

初島ユウキは自らの運命を世界からの祝福だと例えた。

だから、それを受け入れることで、世界を祝福したのかもしれない。

記憶を失くした彼女は、次にどんな運命を選び取るんだろうか。

きっとその時は、大輔が隣にいる気がした。

 

 

 

そして、夜明け前に目が醒める。

僕は夢の内容を覚えていなかったけれど、とても頭がクリアで、少しだけ心が軽くなっていた。

僕達は午後一番に初島ユウキのお見舞いに行った。

精密検査の結果に異常は無いにも関わらず、彼女の意識は未だ戻らず、眠り続けているという。

彼女が割り当てられた個室の病室には既に大輔がいた。

ベッドの脇について、初島ユウキの手を握っていた。その姿が哀しくて、胸が痛かった。

暫くして彼女の祖母がやってきて、僕達は事情を説明することにした。

デジタルワールドのこと、初島ユウキの特殊な力のこと、彼女が記憶を投げ打って僕達を助けてくれたこと。

信じてくれという方が難しい事ばかりだったけれど、それらを隠して説明するのはあまりに不可解だし、何より彼女の唯一の家族には全て話すべきだと思った。

初島ユウキは、両親や弟の死まで背負っていたのだから。

一般人には突拍子もない話だったにも関わらず、初島ユウキの祖母は困惑することも、取り乱すことも、否定することもなく終始静かな表情で聞いてくれた。

そして、全てを話し終わった後、初島ユウキの祖母はベッドで眠る初島ユウキの頬を撫で、優しい声で言った。

「そうだったの…随分辛い思いをしたのね、ユウキ」

「あのっ、本当にすみませんでした!」

いたたまれなくなったのか、大輔がその場で立ち上がって頭を下げて謝った。

しかし、彼女の祖母は謝罪に対して首を振ると、大輔に歩み寄ってその肩に触れた。

「顔を上げて頂戴。ユウキはあなた方を守りたかったのでしょう?そして、あなた方もユウキを助けてくださった。ありがとう。あなた方のお蔭で、唯一の家族を失わずにすんだわ」

「でも…でもっ」

「ユウキが目を覚まして、もし本当に記憶が失くなってしまっていたとしても、ユウキは生きているんだから、また一緒に思い出を作っていくわ。辛いかもしれないけれど、精一杯支えていくわ。だから、自分達を責めるのはおやめなさい。そして、ユウキが目覚めたら、またお友達になってあげて頂戴」

初島ユウキの祖母なんだな、と改めて思った。

何て優しい、大きな人なんだろう。

きっと初島ユウキのことをとても心配して、心を痛めているだろうに、そんな素振りは一切見せず、僕達を励ましてくれる。

歳を重ねただけでは得られない器量に、この人の人生も壮絶なものだったのだろうなと想像した。

 

 

病院で皆と別れ、僕は世田谷の自宅への帰路についた。

電車の中でマコトに連絡をいれた。

夜に僕の部屋で会う約束を取り付け、短いメールのやり取りを終えると、緩やかに日常に戻っていくのを感じた。

 

 

その夜、約束通り親子丼をマコトに振る舞った。

食事を終えたマコトは洗い物を終え、今はテレビを見ながら寛いでいる。

マコトは今日はベージュのパーカーにジーパンというラフな格好をしていた。

何だかこうしてマコトと過ごすのがかなり久しぶりな気がしてしまう。

それ程に、昨日の出来事は大きなものだったんだと思い知る。

今は目を閉じても、頭の中でヒカリと繋がることはない。

あの不思議な感覚は、やっぱりあの時限りのものだったんだろう。

少しだけ残念で、でも安堵もした。

全て相手に伝わることは、便利そうでいて危うさも孕んでいるからだ。

昨日のような危機的状況ならいざしらず、日常的に繋がっていては下手なことを考えられなくなってしまう。

僕が苦笑すると、マコトが振り返って「何?」と聞いてくる。

僕は「何でもないよ、ちょっと思い出し笑い」と答えた。マコトは再びテレビに向き直る。

僕の我儘で時間を取って会ってもらって、でもマコトは何も聞いてこない。

話せることなら話していると理解しているから、僕が話さないのなら何も聞かないのだろう。

全く、有難い限りだった。

穏やかな日常に浸ることの幸せを噛み締めて、痛みの残る記憶と、これからのことに思いを馳せながら、1日が終わっていった。

 

 

 

 

 

初島ユウキが目覚めたのは、春休みの最終日だった。

僕はその瞬間に立ち会うことはできなかったけれど、大輔と賢、そして京がその場にいたらしい。

賢から聞いた話では、やはり彼女の記憶は全て失われてしまっていたようだ。

賢や京のことはおろか、大輔のことも覚えていなかったという。

ただ、大輔の顔を見た時、初島ユウキは無意識だが涙を流したそうだ。

何故か分からないと本人は言っていたそうだが、それは初島ユウキの中にあった大輔への強い想いがそうさせたのだと、僕達の誰もが思った。

ある意味、小さな奇跡かもしれない。

けれど、この奇跡には続きがあった。

 

 

 

 

 

「ヒカリの能力が抑えられる!?」

パソコンの画面に映る光子郎に、僕は思わず身を乗り出して聞き返した。

ここはお台場のマンションの井ノ上宅の京の自室。

光子郎が僕達に話があるというので、僕とヒカリ、賢、大輔で京の部屋に集まったのだ。

京都にいる光子郎とはスカイプで繋がっており、先日の戦いへの労いの言葉から始まり、あの現象を研究所で研究するチームが立ち上がったとか、プロテクトの有用性とか小難しい話の後、今まで周囲への影響や政府の機関に見つかることを恐れて遠ざけるしかなかったヒカリの能力を抑える方法が見つかったという報告を聞いて冒頭に至る。

それは思わぬ吉報だった。

「本当ですか?」

ヒカリも驚きつつも喜びを隠せない様子で確認する。

『はい、方法というのが正しいかは分かりませんが』

「どういうことです?」

光子郎の言い回しに首を傾げたのは賢だ。

すると、既に内容を知っているらしい京がニヤニヤしながら肘で僕を小突いてきた。

一体何なのだろうか。

そう思っていると、光子郎がこれまた思わぬことを口にした。

『細かいことを抜きにして言えば、タケルさんの存在がヒカリさんの力を抑える作用をすることが判明したんです』

「「えぇ!?」」

僕とヒカリの声が重なり、シンクロ度合いに京が更に笑みを深めた。

「正確にはタケル君の紋章の力が、ヒカリちゃんの紋章のタグの役割を果たすようになったってわけ」

「僕の紋章がタグに?」

「そんなことあるんですか?」

京の説明に半信半疑の僕と賢だったが、画面の向こうで僕達のブレーンが笑みを浮かべて肯定したことで、漸く真実なんだと受け入れた。

『幸か不幸か、先日の事件の際、タケルさんの紋章の力が更に解放され、ゲンナイさん曰く本来の力が引き出されたんだそうです。希望の紋章は光の紋章とペアになっていて、力のコントロールを司っているんだとか。なので、今の所はタケルさんが側にいれば、ヒカリさんの力が不用意に解放されることはなくなるというわけです』

それはホメオスタシスが語ったこととほぼ一致していた。

僕がヒカリの力を抑えられる。ヒカリを守ることができる。

それは僕にとってこの上ない幸福だった。ヒカリと目を合わせて2人で笑い合った。

他に誰もいなければ抱きしめていたと思うけど、さすがに今は慎んだ。

大輔もいるのだから。

「よかったね、ヒカリちゃん。これで変に引け目感じなくても大丈夫よ!」

「うん、ありがとう、京さん」

自分の事のように喜ぶ京に思わず口元が緩むヒカリ。

その後ろでは、大輔も笑顔を見せていた。

それが少し、切なかった。

 

 

光子郎の話はこれで終わりではなかった。

ヒカリのタグの代わりとなった僕の紋章の力を解析し、ゲンナイとともにタグと同等の能力を持つアイテムを作りたいというのだ。

そうすれば、僕と一緒の時でなくても、ヒカリの力をコントロールすることができるようになるかもしれない、と。

そのためにも、どこかで僕に時間を取って欲しいと頼まれた。

それは願っても無いことなので、僕はヒカリと光子郎と予定を合わせ、長い休みが取れるゴールデンウィークに機会を設けることにした。

光子郎は話が纏まると、最後に大輔に向けて言った。

『このタグに代わるものが完成すれば、初島さんの力の影響を抑えることもできるかもしれないそうです』

「ホントですかっ?」

『確証はありませんが、可能性はあると思いますよ。彼女の力は人とデジモンの両方に影響を与えていました。理論上では、少なくともデジモンへの影響は抑えられるようになるかと』

「それだけでも全然いいっすよ!」

大輔は嬉しそうに笑った。

あの日以来、こんな風に笑う大輔を見ていなかった僕達には、それが嬉しかった。

きっと、色々考えて悩んでいたに違いない。

記憶が無くなっても、彼女の能力が消えたわけではない。

また死に呼ばれ、記憶を蓄積してしまうかもしれない。

あんな思いは二度としたくないし、させたくないだろう。

けれど、未知の力を前に、一介の高校生である僕たちは無力だった。

それを、大輔も気にしていたと思う。

だから、これはかなりの朗報なのだ。

『まだまだ調べなくてはならないことも多いですが、この件はゲンナイさんをはじめとするエージェントが協力してくれるということですから、かなり時間を短縮できると思いますよ』

「はい、お願いします!光子郎さん」

ブレーンにお礼を告げ、その日はお開きとなった。

帰り際、大輔がこっそりと僕にお礼を言ってきた。

僕が大輔の役に立てるなんて思っていなかったから、このお礼には驚いた。

けど、僕が大輔に助けられたことも何度もあるから「お互い様だよ」と返すと、「おう」と笑顔が返ってきた。

 

 

 

 

いつか何の気兼ねもなく、ヒカリと、大輔と、初島ユウキも連れて、みんなでデジタルワールドに行きたいと思った。

この願いが叶うのはちょっと先、一年後の夏になるんだけど、それはまだ僕達の知らない話。

今はこれから始まる新学期と自らの将来に少しだけ不安を感じつつ、それ以上に期待に胸を躍らせながら僕は歩き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの夏に置き去りにしてきたたくさんのもの。

拾い上げることができたものも、できなかったものもあるけど、その痛みや後悔も抱いて、僕はこれからを生きていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




タケル編終了です。
無印、02を見ていて、タケルの抱えたものが露呈するのは思春期あたりからなのかなぁと勝手に思っていました。
心と体の変化に加え、仲間も一様に変わっていく中で、きっとタケルは苦しむのかなと。
物分りのいい子は、多くの矛盾を抱え込んでいる可能性が高い気がしているので…。

水崎マコトとのその後や、タケルが将来何になるのかは番外編で書こうかと思っています。
小説家は………副業でいいんじゃないかと。

読んで頂き、ありがとうございました。



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