Fate/AntiGod (グラビティ)
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ある男の独白

 初めて彼女と出会った時、女子(おなご)とは思えぬ圧力を感じた。

 氷のように冷たい紫の瞳。

 この世の全てに絶望したかのようなその無感情な表情。

 フランス解放の為に立ち上がった聖女がいるという話は私も聞いていた。

 ただ聖女というものはもっと清らかで、凛々しいものを想像していた。

 いや、その外見はまさに清らかな聖女そのものなのだ。

 白に近い金色の髪に心の底から笑えばきっと、美しいのであろう透き通った顔立ち。

 だがその内側には何かどす黒いものを内包していて――とても聖女と言ってもよいものなのか私には判断することができなかったのだ。

 彼女はまだ女子(おなご)で――しかも十代半ばの歳でしかなかったので、当然といえば当然なのだが最初は軍の将軍たちから半信半疑の目を向けられていた。

 わかりやすく言うのならば戦場に女子がいるなど邪魔でしかなく、つまり煙たがられていたのだ。

 彼女はそんな彼らを冷ややかな目で見つめた後、こう言った。

 

 ――剣を取って頂けませんか?

 

 その言葉が一体何を意味しているのか、将軍たちにわからぬはずもなかった。

 こんな片手でへし折れそうなほど華奢な首しか持たない女子(おなご)が、屈強な身体を持つ歴戦の男たちに剣による決闘を申し込んだのだ。

 それは暗に、この決闘で私があなたたちを叩きのめしますから、叩きのめされたらおとなしく私に従いなさいということを告げていた。

 ある者はそんな彼女を嗤い、またある者は調子に乗った田舎の小娘を懲らしめてやろうと身を乗り出した。

 私は止めようと思った。

 戦えばきっと無事ではすまないと、そんなことは一目瞭然だったのだから。

 だがそんな心配はただの杞憂に過ぎなかった。

 彼女が、立っていた。

 その周りに呻き声を上げて惨めに地に伏す男たちを尻目に。

 その身のこなし、剣筋、その何もかもが一流だった。

 屈強な男の剛剣を流麗な足捌きで避け、あるいは手にした細身の剣で受け流して。

 カウンターの一撃を容赦なく、叩き込む。

 あまりに洗練されたその動きはもはや芸術の域に達していると言っても過言ではないのかもしれない。

 それほどまでの……圧倒的な力の差だった。

 聞けば彼女はしがない農村の出身なのだそうだ。

 農村の小娘がこのような剣技を修められるはずもないことはあきらかだ。

 それこそ何度も何度も死地を切り抜け、その果てにしか習得できないであろう、凄まじき剣の冴え。

 とにかくそれ以来、誰もが彼女を認めた。

 彼女の凄まじさは剣による実力だけではなかった。

 軍を率いるための指揮能力、さらには戦術構築能力、まるで今後如何なる展開になるかを予期しているかの如く、敵軍の攻め所を的確に把握し、時には自ら旗を掲げて先陣を切って戦った。

 オルレアンをイングランドの者の手から解放したのはそれから間もなくしてのことだった。

 オルレアンの防衛軍と合流した彼女率いる軍は次々に包囲砦を陥落させ、一週間も掛からぬうちにイングランド連合軍を撤退させたのだ。

 歓喜に酔いしれる住人に、馬に跨った少女はそれこそ聖女のような清らかな微笑みを浮かべて住人の声援に手を掲げて応えていた。

 しかし、その笑みが偽りのものであるということを、私は知っている。

 オルレアンが解放されて間もなくしてのことだった。

 私は旗を手に戦場を一人、静観する彼女を見たのだ。

 私はそんな彼女の隣に並び、戦場を見つめた。

 おびただしい数の血があたりに滴っていた。

 大地に突き刺さった剣や槍、そして矢は数知れない。

 そんな光景を見て、私はこの戦がどれだけ凄絶なものであったのか改めて実感させられた。

 同時に、このような戦によく我々が勝てたものだと。

 無論、隣に立つ彼女の功績によるものが多大なものであるということは言うまでもないことであったが、それでも神のご加護がなければ勝てるものではなかっただろう。

 全ては神の導き――神に、そして貴女に感謝を――。そのような旨の言葉を告げると、彼女はその無機質な瞳でこう言ってきたのだ。

 

 ――神に慈悲なんてありませんよ。

 

 結局全ては自分たちの手で切り開かなければならないのだと、この戦の結果は練りに練った計略の元、血のにじむような思いで手繰り寄せた結果なのだと、そう告げた。

 そこに神や天使の介在は存在しないと――彼等が助けてくれることなどないと、それは自分たちの信仰する神を否定――否、拒絶する言葉だった。

 神という存在に絶望し、拒絶し、吐き捨てるような彼女の言葉。

 その時の彼女の無機質な瞳には明確に歪んだ暗い殺意がありありと込められていて、私はそんな彼女にかけられる言葉を見つけることができず、その間に彼女は身を翻し、戦場を後にした。

 オルレアンへの凱旋も間もなくして彼女はロワール川沿いを制圧しつつ北フランス中部のパテー近郊で行われた戦でも勝利を収め、ついにランスへの道が確保された。

 シャルル七世は彼女と共にランスのノートルダム大聖堂まで到達し、念願のシャルル七世の戴冠が実現されることになる。

 戴冠されるシャルル七世の姿に、彼女はそれこそ聖女のような微笑みと共に拍手を送っていた。

 だが、その瞳は決して笑ってはいなかった。

 無感動までに色を失った、彼女のあの瞳だった――。

 それから間もなくして、彼女はシャルル七世よりパリの解放を指示された。

 当初は厳しいながらも戦いを優位に進めていた彼女であったが、相手側のブルゴーニュ公国軍に6000人の援軍が到着したことから彼女はこの戦の敗北を悟った。

 彼女は少数の兵士と共に殿として戦場に残ったのだが……その時、彼女は気になることを呟いていた。

 

 ――結局、こうなるんですね……。

 

 その言葉が一体どのような意味なのか、私は問うことができなかった。

 その時にはもうすでに彼女は私に軍撤退の簡潔な指示を飛ばした後、旗を片手に迫りくる敵軍の方角へ駆けていたからだ。

 その後ろ姿を最後に私が彼女と言葉を交わすことは二度となかった。

 殿を務めたあの戦いで彼女は胸に矢を受け、敵の捕虜になってしまったからだ。

 本来なら捕虜は身代金と引き換えに身柄を引き渡すというのがこのご時世の普通であったのだが、彼女は異例の経過を辿ることになった。

 異端審問にかけられることになったのだ。

 私はあくまでその場に駆けつけられなかった故、これは後に聞いた伝聞でしかないのだが、異端審問の間、彼女はずっと薄気味悪く笑っていたのだという。

 フランスでこそオルレアンの乙女(la Pucelle d'Orléans)と呼ばれ、救世主扱いされてきた彼女であったが、相手側からしてみれば圧倒的不利な戦況を次々とまさに神業の如く覆し、敗北をもたらしてきた彼女の存在はまさに悪魔、魔女そのものであり、国の威信に賭けて是が非でも処刑しなければならなかった。

 彼女のそんな微笑みはそんな彼らを嘲笑していたのかもしれない。

 そんなに必死にならなくても、おとなしく処刑されてあげますよ――言葉にはならなかったが、彼女の瞳が全てを物語っていたのだろう。

 死刑宣告にも等しい宣誓供述書(本来ならば裁判の公式記録に基づいた代物なのだがこの度のこれは彼女が異端を認めたという内容に改ざんした、彼女を貶めるための代物だった。なぜあからさまにそのような罠を仕組んだのかというと、しがない農村出身でしかない彼女は読み書きができず、口で言いくるめれば誤魔化せると思われたからだ)を示されても彼女は全てをわかりきっているかの如く鼻で笑うと、何のためらいなくその書類に署名したのだそうだ。

 それからはまさにあっという間の出来事だった。

 宣誓供述書に従い女装に戻った彼女であったが……間もなくして男装に戻った。

 理由は二つあるとされているが、彼女の名誉のために一つはここでは話さないことにする。

 ただ一つ言えることは、最終的に着るはずのドレスを何者かに盗まれ、男性の服を着なければならなくなったということだけだ。

 当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に再び異端の罪を犯したときだけだった。

 彼女は改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していたため、女装から男装に戻った彼女は異端の罪で処刑されることになった。

 全ては異端審問会のシナリオ通りだったのだろう。

 ただ忘れてはならないのは、おそらく彼女はそんな彼らの計画を全て見透かした上であえてその計画に乗っていたのだということ。

 フランス軍に所属していた者ならば誰もが知っている。

 幾重もの戦いに勝利をもたらし続けた彼女が、とてつもなく聡明であったということを――。

 1431年5月30日。彼女がフランス・ルーアンのヴィエ・マルシェ広場で処刑されることが決まった。

 私はその場に駆けつけたのだが、しばらくぶりに見つけた彼女はやつれてはいたが、根本的なところは何も変わってはいなかった。

 この世の全てに絶望した、あの無感情な瞳は――。

 広場は幾重もの群衆で埋め尽くされていた。聖女を騙った魔女の憐れな最期を見届けようと国中から集まったのだ。

 私はどうにか群衆をかき分け、彼女の傍まで近づくと、護衛兵に抑えられながらも彼女に向かって叫んだ。

 

 ――なぜ……どうして貴女がこのようなことに……!!!

 

 フランスのために、フランスの人々のために幾重もの血を流し、戦い抜いてきた彼女がどうしてこのような悲惨な最後を迎えなければならないのか、私には納得ができなかった。

 なぜ神はそんな仕打ちを彼女に? そう思った。

 そんな私に気が付いた彼女は私に向かい、微かに笑みを見せた。

 いつもの、能面のような笑みではない。憐れむような、そして慈しむような、そんな笑みだった。

 そして偽りではないその微笑みは私の思った通り――とてつもなく美しかった。

 もっとその笑顔を見ていたかった――。

 

 ――あなたは何時も、どのような時でもこうして私の傍に来てくれるのですね……。

 

 その言葉はまるで、私が彼女の元へ駆けつけ、彼女に投げかけるその言葉を何度も何度も耳にし、咀嚼してきたかのような親しみ深いものがあった。

 あなたの言いたいことは、全部わかっていましたよ――とでも言いたげな言葉だった。

 私は今宵、初めて、ようやく貴女の下に駆けつけられたというのに? 

 

 ――いい、ジル。この世には大きな()()というものがあります。抗いたくても抗えない、絶対的な()()が……。人間はその流れに逆らうことは絶対にできません。神が定めた運命(fatalité)からは絶対に、逃れられないのです――。

 

 その言葉を最後に言い残した彼女は火刑台に縛り付けられた。

 彼女は、薪に火が灯され、煙が立ち込め始める間もひたすら空を見つめていた。

 憎たらしいほど晴れ渡る、青空を――。

 やがて立ち込める煙を肺に吸い込んだ彼女はゲホゲホとむせ始めた。

 下から迫る熱気を感じるのだろう、その顔は苦渋に歪められる。

 火が彼女のまとうスカートに引火し、瞬く間に彼女を包み込んだ。

 そして広場に響き渡る彼女の、断末魔の叫び。

 それはこの世に、そして神に絶望した者の怨恨の叫びだった。

 彼女の死体は二度に渡って焼かれた。

 息絶えた彼女が実は生き延びていたと誰にも言わせないためだ。

 皮膚は醜く焼け爛れ、美しかった白金の髪は完全に燃やし尽くされていた。

 そんな彼女が再度火にかけられるのを見て、そのあまりに無慈悲な光景に私の頬には気が付けば涙が伝っていた。

 神とはなんだ?

 あれほどまでに国に尽くした健気な少女を無惨にも地獄の炎で焼き尽くすのか?

 なぜ神は人々に救いを与え、彼女には救いを与えない?

 なぜ? なぜ? なぜ?

 そんな私の疑問の答えを知っていたのであろう彼女はもうこの世にはいないのだ――。

 

 フランスを救った英雄たる彼女の名はジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)

 聖女と祭り讃えられた彼女であったが、その本人は何よりも神を嫌っていた。

 最後の最後まで、私には彼女の心を理解することはかなわなかったのだ――。

 



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彼女の独白――私はただの平凡な女に過ぎなかった

 突然言うのもアレだが、私は一人の女性として聖女――ジャンヌ・ダルクという女性を尊敬していた。

 男が大頭する世の中において神の声を聴き、フランス解放のために立ち上がり、疾風の如く戦場を駆け抜け、勝利をもたらした。その最期こそはまさに悲劇的であったけれど……同じ女性として、そんな彼女をかっこよく……誇らしく思う。……まぁ、しがない一般女性でしかない私が何を上から目線で言ってんだって話にはなるんだけれど。

 彼女についてもっと知りたいと思った私は彼女に関する書物を読みふけり、果てには実際にフランスに訪れ、彼女の残した足跡を実際に辿ってみたこともあった。

 おかげで気が付けばフランス史やフランスの地理については現地の人にも負けない知識を身に着けていた。日常生活程度のフランス語であるなら話せるくらいだ。その知識がこれから私が送っていくのであろう平凡な人生でどれだけ役に立つのかは置いとくとして。

 そう……平凡な人生。

 何の取柄も才能もない、平凡な私が送る人生はきっと何の変化もない平凡な人生なんだろうと、そう思っていた。

 そんな私の平凡な日常の変化は、本当に唐突なものだった。

 ある日寝て、目を覚ましたら、私の居た場所は自分の家ではなく、どこぞやの民家だったのだ。

 慌ててベッドから飛び起きた。ここはどこなんだとパニックに陥った私は転がるように家を飛び出した。

 そして広がるは全く身に覚えのないのどかな緑の農場。しかしその光景がどこか私の記憶を刺激した。最近、私はこれによく似た光景を目にしたことがあったのだ。

 白い石造りの民家はどこか見覚えがあった。――若干の真新しさはあるものの間違いない。私がジャンヌの足跡を追ってフランス観光に訪れたときに見たジャンヌ・ダルクの生家(現存するのは母屋の一部だけだったが、判断するには十分だった)そのものだったのだ。

 当然のことながら意味が分からなかった。

 何がどうなっているのか、理解ができなかった。

 家を急に飛び出した私を追って現れたのは一人の金髪が美しい女性とその夫であろう紫の瞳を持つ男だった。

 彼らは途方に暮れた様子の私を見て、朗らかに笑いながらこう告げてきたのだ。

 

 ――こんな朝早くから急に飛び出して、何をしてるんだ、ジャンヌ?

 

 時間が止まった気がした。

 今、なんて?

 今目の前の全く見知らぬこの人物たちは私を見てなんと言ったのか?

 ジャンヌと、そう言ったのか――?

 家に入るよう促された私はされるがままに朝食の席についた。

 朝食の席には母親であるイザベル・ロメと父親であるジャック・ダルク、さらには四人の子供たちがいた。

 ジャクマン、ジャン、ピエール、カトリーヌ。その性はもちろん父親と同じダルクであり。

 ジャンヌと呼ばれた私はすなわち、ジャンヌ・ダルク――。

 夢だ。これは夢だ。

 気が付けば私はブツブツとそう呟いていた。

 あるわけがない。私があのジャンヌ・ダルクその人になってしまうだなんて。

 大体、ジャンヌが生まれたのは1412年の1月6日、現代から数百年も遡った過去のことだ。

 時間逆行なんて現象あるわけがないし、そもそも時間逆行では私が別の人物として目覚めていることについての説明がつかない。

 つまりこれは夢以外の何物でもないのだ。

 夢だ。夢だ。そう呟き続ける私を見て、ジャンヌの母親であるイザベルは体調でも悪いの? と額に手を当ててきた。彼女のひんやりとした手が妙に心地よかったのは今でも覚えている。

 結局、その日私はそのまま再び寝かされた。

 私があんまりにも青白い顔をしていたので、今日は家の手伝いをしなくてもいいということになったのだ。

 兄弟たちはそんな私を見ていいなーと言ってきたが、その時の私にはそんな彼らの言葉に反応していられるほどの余裕はなかった。

 その時はただ、ひたすらに眠ればまた全て元通りに戻っているはずだと、ただそれだけを念仏のように心のうちで唱えながらベッドに寝かされた私は目蓋のカーテンを降ろした。

 結果だけ先に言うと、再び目が覚めても何もかもが変わっていなかった。

 おはよう、体調はもう大丈夫かしら? と優しく問うてくる母親のイザベルと。

 元気になったら、手伝ってもらうからな、ジャンヌと言ってくる父親のジャック。

 絶望的なまでに何も、変わってはいなかった。

 しかしまだ私があのジャンヌ・ダルクとなってしまったと決まったわけではないのだ。

 同姓同名の人物だってことだってありうるわけで、今、私が私の意志で動かしているこのジャンヌ・ダルクがあの聖女であるジャンヌ・ダルクであるという確証はないのだ。

 できればこの日も休みたかったが、二日連続で休んでしまうというのはなんだか申し訳ない気持ちがあったので(感覚的には居候させてもらっている感覚だ)、その日は私も働くことになった。働くといってもそう大層なことではない。イザベルやカトリーヌと共に家の洗濯物を洗って干したり、農具を担いで農場の整備を行ったりと、子供でも……初見の私でもこなすことができる単純な作業ばかりだった。

 頭の片隅でこの現状に対して思考を凝らしながらダルク家の手伝いをこなす日々が数日続いた。人と言うのは慣れればどうということはない生き物で、恐ろしいことに私もまた数日のうちにその生活に馴染むことができてしまっていた。元より私がジャンヌ関連でフランスに馴染みが深かったというのも大きかったのかもしれない。

 家族や村の人間からそれとなく様々な話を聞き、情報を収集しているうちに今私が住むこの村がドンレミ村であることや、世の中が戦乱で荒れていることなど、私にとって好ましくない話をたくさん聞いた。

 ドンレミ――後の世ではオルレアンの乙女(la Pucelle d'Orléans)たるジャンヌ・ダルクにちなんで、ドンレミ=ラ=ピュセル(Domrémy-la-Pucelle)という名前に改名されることになる村だ。

 そして戦乱というのはおおよそ間違いなく百年戦争だろう。イングランドとフランスがその土地と王位を巡って争った歴史上においても最も長期間であり、凄絶な戦争であるということに。

 これらの情報が私に何をもたらしたかというと、これでまた私があのジャンヌ・ダルクであるという可能性が一つ高まってしまったということだ。

 なぜならジャンヌ・ダルクはドンレミ村の出身。そして神の啓示を聞き、戦乱――百年戦争に巻き込まれていくことになるからだ。

 

 私があのジャンヌ・ダルクであるはずがない――。

 

 確信に近い確証を得ても私はそう思っていた。

 平凡な私が彼女のようにフランスを救うことなどできるはずもないというのは言うまでもないことだが、それ以上にあったのは恐れ。

 なぜなら彼女――ジャンヌ・ダルクは史実通りに進むのならば、シャルル七世を戴冠させた後のコンピエーニュの戦いで捕虜として捉えられ、異端審問にかけられた後に処刑されるのだ。

 私のようなジャンヌ・ダルクマニアでなくても火あぶりの刑に処せられた彼女の最期は耳にしたことがあるだろう、それくらいに有名な最期だ。

 もし私があのジャンヌ・ダルクであるのなら――忠実通りに歴史が進むのなら――私は最期は火あぶりにされるのか?

 そんなの嫌だ……恐い。恐くて恐くて堪らない。

 毎晩、ベッドで縮こまって震えた。思わず涙をこぼしてしまったこともあった。

 心の中でずっと祈り続けた。どうか明日にでもどこか別のところから本物のジャンヌ・ダルクが現れて、この戦乱の世を終わらせてくださいと。

 私をただのジャンヌ・ダルクであらせてくださいと。

 私にとって唯一の心の拠り所だったのは、本来の彼女であるならば聞いたとされる神の啓示が、私にはいつまで経っても聞こえてくることがなかったことだ。

 神様や天使をこの目で見たことがなかったため、実際にジャンヌが体験したものがどのようなものであるかは検討もつかないが、少なくとも声は聞いていない。

 つまり、それが私にとって私があのジャンヌ・ダルクではない唯一の心の拠り所だったのだ。

 そうしている間にも戦乱の世はますます激化していった。

 フランスの領土は焼き払われ、イングランド軍の魔の手がこの辺境の地まで伸びてくるようにもなった。

 

 ――ジャンヌは……ジャンヌは何をやっているの!?

 

 気が付けば私は誰にというわけでもなくそう問いかけるようになっていた。

 この世のどこかにいるはずの本物のジャンヌ・ダルクはまだ、フランス解放のために立ち上がっていないのかと。

 (見つめるべき現実に目をそむけて。)

 それから間もなくして、ついにドンレミ村にも敵の魔の手が及び――。

 家が焼き払われ、破壊の限りを尽くされた。

 ジャックとイザベルは子供である私たちを逃がすためにイングランドの兵に立ち向かっていって槍に胸を貫かれて殺された。

 私はひたすら森の中を走っていた。

 ほかの皆とは戦場の混乱で離ればなれになってしまった。

 今はただ走って逃げるしかない。

 逃げなければ――殺される。

 殺されてしまう。

 

 「アッ!」

 

 小石に躓き転んでしまった。

 慌てて立ち上がろうとするが、右足に焼けるような痛みが走り、地面に倒れこんでしまう。

 見ると、そのふくらはぎには一本の矢が深々と突き刺さっていた。

 

 「あ……ああ……」

 

 痛みはなかった。

 それ以上に目の前に迫りつつある大人の男たちが恐かったから。

 

 「ああああああああ!」

 

 涙が溢れた。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 もはや頭の中はそのことしか考えられなくなっていた。

 

 「許して……もう、許してよぉ……!」

 

 一体誰に対する懇願なのか。そんなこともわからないままに。

 そんな私の懇願も虚しく。

 

 「あ」

 

 私は死んだ。

 

 +++

 

 「うああっ!」

 

 胸を槍で貫かれ、死んだ私はあろうことか再び自宅のベッドで目覚めた。

 本来の私の自宅ではない、ダルク家のベッドだ。

 意味が分からなかった。

 たしかに自分は死んだはずなのに、どうしてこう生きていられるのか理解ができなかった。

 そして驚いたのが、殺されたはずのジャックもイザベルも生きていたということ。

 寝汗びっしょりの私を普段通りにおはようと言って出迎えてくれた。

 

 ――夢……だった、の……?

 

 夢にしてはあまりにもリアルだったが。

 そして相変わらず、自分がジャンヌという少女になってしまっているというこの夢は覚めないのかと思ったが。

 とにかく、心のうちにあったのは安堵だった。

 夢でよかった。

 皆、生きていてよかったと。

 それから私はやがてそのことを忘れて、普段通りの生活に戻っていった。偶に悪夢にうなされることはあったが、家事を手伝い、その合間にこれからの自分のことを考える生活に――。

 それから間もなくして、フランスの領土は焼き払われ、イングランド軍の魔の手がこの辺境の地まで伸びてくるようにもなった。

 

 ――ジャンヌは……ジャンヌは何をやっているの!?

 

 気が付けば私は誰にというわけでもなくそう問いかけるようになっていた。

 この世のどこかにいるはずの本物のジャンヌ・ダルクはまだ、フランス解放のために立ち上がっていないのかと。

 見つめるべき現実に目をそむけて。

 この言葉に妙な既視感を覚えたが、その時の私には些細なことですぐに気にならなくなった。

 それから間もなくして、ついにドンレミ村にも敵の魔の手が及び――。

 家が焼き払われ、破壊の限りを尽くされた。

 ジャックとイザベルは子供である私たちを逃がすためにイングランドの兵に立ち向かっていって槍に胸を貫かれて殺された。

 私はひたすら森の中を走っていた。

 ほかの皆とは戦場の混乱で離ればなれになってしまった。

 今はただ走って逃げるしかない。

 逃げなければ――殺される。

 殺されてしまう。

 

 「アッ!」

 

 小石に躓き転んでしまった。

 慌てて立ち上がろうとするが、右足に焼けるような痛みが走り、地面に倒れこんでしまう。

 見ると、そのふくらはぎには一本の矢が深々と突き刺さっていた。

 

 「あ……いっつ……!」

 

 痛みを感じた。電流が走るような今までに経験したことのない(ある)痛みだ。

 経験したことの()()……? 一体どういうことだ? 弓矢なんて突き刺さったこと、これまでの人生で一度もなかったはずなのに?

 そんな私の刹那の逡巡は、瞬く間にかき消されることになった。

 なぜなら、それ以上に目の前に迫りつつある大人の男たちが恐かったから。

 

 「ああああああああ!」

 

 涙が溢れた。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 もはや頭の中はそのことしか考えられなくなっていた。

 

 「許して……もう、許してよぉ……!」

 

 一体誰に対する懇願なのか。そんなこともわからないままに。

 そんな私の懇願も虚しく。

 

 「あ」

 

 再び私は死んだ。

 



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彼女の独白――世界の異常性を察知、結果、私は進むことを決めた

 その後、私はいったい何度、死んだのだろうか――。

 これは夢ではなく自分が同じ時を繰り返していると疑い始めたのが五回目に死んだ時。

 六回目には自分が同じ時を繰り返しているという現実を確信した。

 それからは如何にして生き延びるかという戦いが始まった。

 七回目は恐怖のあまりパニックになって、イングランドの兵が来る前にとにかく逃げないとと、何の計画もせずに家から逃げ出し、あてもなく放浪した果てに餓死した。

 八回目になるとようやく目の前の現実を冷静に受け止められるようになり、どうにかして家族を連れて逃げ出そうと躍起になった。十二回目の時なんかは半ば強引に家族をドンレミ村から連れ出した。

 二十二回目になってようやく私は死ぬことなく、家族を死なせることもなく戦乱の魔の手から逃れることに成功した。

 安堵のあまり私は意識を失うかのように眠り――翌朝には再びあのダルク家のベッドの上で目覚めていた。

 

 ――どうして? どうしてよ!!

 

 死ななかったはずなのに。

 その時の私は狂乱のあまり髪を引きちぎり、思い切り部屋の壁に頭突きして死んだ。これが二十三回目の死だった。

 その後も何度も何度も何度も家族を連れてドンレミ村から逃げ出した。

 けれど必ずあの始まりの日に引き戻される。何らかの事故で死ぬか、あるいは一定の期間の後に眠りにつくと必ず目覚めるのはダルク家のベッドの上。私がジャンヌ・ダルクとして目覚めたあの日に巻き戻される。

 それでも私は諦め悪く、逃げ続けた。

 いつかきっと、巻き戻されない時が来ると信じて。

 本物のジャンヌ・ダルクがすべてを解決してくれる日が来ると信じて――。

 だけど、本当はわかっていたのだ。

 本物のジャンヌ・ダルクなんて、この世にいないなんていうことは。

 私がその悲劇の運命を辿るべきジャンヌ・ダルク(聖女)なのだということは。

 これは決してうぬぼれなんかではない。

 頭で論理的に考えればすぐに理解できることだ。

 なぜなら聖女たるジャンヌ・ダルクはドンレミ村の出身であり、ドンレミ村に存在しているジャンヌ・ダルクは私ただ一人。

 家族たるジャック・ダルクもイザベル・ロメも……ジャクマン・ダルクもジャン・ダルクもピエール・ダルクもカトリーヌ・ダルクも史実では皆、聖女たるジャンヌ・ダルクの家族であったのだから。

 おそらく、いやきっと、このループは私がジャンヌ・ダルクとして足を踏み出さない限りは終わらないのだろうと――。

 本当は、わかっていた。

 それでも神様の声は聞こえなかった。それをいいことに私は逃げ続けたのだ。

 だって私がジャンヌ・ダルクになったら、私はきっと最期には処刑される。

 そんなの痛いし恐い。痛いのは嫌だ。

 子供じみた言葉だと、もしこの言葉を聞いた人間がいるのだとしたらそう思うのだろう。

 だが、この言葉以上に私の思いをわかりやすく伝えてくれる言葉はないのだ。

 それでも五十回目の死を迎えるころにはそんな恐怖心も揺らいできて。

 何度も繰り返される同じ世界から抜け出したい思いが強くなった。

 この繰り返されるループがまるで神様が私を運命からは逃げられないと無言で告げてきているようで。

 辛くて恐くて、堪らなかった。

 たしかに私はジャンヌ・ダルクに憧れを抱いていた。彼女が歴史に残してきた偉業に憧れ、彼女のように強い女性でありたいと常日頃から思っていた。

 だけど本当にジャンヌ・ダルクになってしまうだなんて――だれが想像することができようか。

 だって私は神様の声も聴けない、平凡な……ただのジャンヌ・ダルクマニアでしかないのだから。

 彼女(ジャンヌ)のように振舞えるはずもない。

 彼女(ジャンヌ)のように皆を導けるはずもない。

 それでもループされる毎日が私に囁きかけてくるのだ。

 背負うべき運命から逃げるなと――。

 そして五十一回目の始まりを迎えた時。

 私は覚悟を決めた。

 

 +++

 

 神様の声を聞いていない私であったが、後の世においてジャンヌ・ダルクのことを調べ尽くしている私からしてみれば、神様の指示が無くともジャンヌ()が次にとるべき行動は理解できていた。

 ジャンヌは「ヴォ―クルールの城へ行き、守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会いなさい。この男に従者を整えてもらい、王太子の元に出発しなさい」という神の声を聴いている。

 つまり私もまたヴォークルールに赴き、守備隊隊長であるロベール・ド・ボードリクール伯に会い、シャルル七世のいるシノンに向かうのだ。

 場所自体は未来で何度もフランスの観光を訪れたので大体わかる。今も昔も大まかな地形は変わっていないので、辿り着くこともできよう。

 しかし、まだ十代半ばのしがない少女が一人行ったところで相手にもしてもらえないだろうし、道中女一人というのは何かと危険ではある。

 史実でジャンヌは親類で十五歳ほど年上であるデュラン・ラソワという一人の農夫に同行を頼んだという。

 見つめるべき現実と向き合う覚悟を決めた私は、彼女に習い、まずはデュラン・ラソワの住む家のあるビュレ・ル・プティという町を目指すことにした。

 家族には「デュランの家の手伝いを頼まれた」と置き手紙を残した。どう説明していいのかわからないし(「ちょっくらフランス救ってくる」とでも言えばいいのだろうか? いや、ありえないだろう)、仮に説明できたとしてもその時は皆、必死になって私を止めるだろう。

 私は本当はジャンヌではないが、彼らにとってみれば私はたしかにジャンヌ(我が子)なのだから。

 ヴォークルールはドンレミ村の真北、約十七キロの場所にある。

 デュランの住む町はその道中にあるので、彼に同行を頼むのは効率的で都合がよかった。

 もしやジャンヌもそのことを見越して協力を仰いだのではなかろうかと、そのようなことを考えながらも私は道を急いだ。

 

 +++

 

 突然の親戚の娘の来訪にデュランは驚いていた。

 無理もない。何の連絡もせずにいきなりの来訪であったからだ。

 私はそんな驚きに乗じてデュランに向かいまくし立てた。

 神様の声が聞こえた。王太子様が王位に即かれることを望んでいる。私はこれよりシノンに向かい、王太子様に会わなければならない。どうか、デュランの力を貸してほしい……と。

 

 「え……ええ……と、ジ、ジャンヌ……?」

 

 デュランの第一声はソレだった。

 まぁ、当然といえば当然だろう。

 何せ親戚の娘がしばらくぶりに訪ねてきたと思ったら、いきなり、「神様の声が聞こえて、だから一緒についてきてほしいの!」的なニュアンスの台詞を一気にまくし立ててきたのだから。

 大丈夫か、この娘? というのが正直な感想だろう。

 私自身、自分自身何を言ってるのかよくわからなくなってきていた。

 でも他人に説明するんだったら自分の意識が未来から来たもので、これからの展開を知っているということを説明するよりかは神様の声が聞こえたということにして進めていったほうが百倍わかりやすいのは自明の理であろう。

 

 ――と、とにかく行くの!

 

 自棄になった私は半ば無理やりに大人しい性格の彼に旅支度を整えさせると、日を待たずにヴォークルールに向けて出発した。

 ジャンヌ・ダルクは歴史的事実を並べてみても行動の鬼であったが……実際の彼女もこんな感じだったのかなぁとそんなことを頭の片隅で考えながら私は戸惑う彼の背中をグイグイ押していた。

 

 +++

 

 デュランの家に辿り着くまで移動手段は徒歩であったが、そこからの移動はデュランの家の馬を借りたので速かった。

 なぜ私が馬に乗れたのか説明するならば、農村にて暮らしていた私は荷物運びや馬耕などの理由により馬に触れる機会が少なからずあり、五十回ものループを繰り返した今となっては嫌でもその乗り方は覚えてしまったのだ。

 三日と経たないうちにヴォークルールに辿り着いた私は、「ち、ちょっと休まない?」と提案してくるデュランを無視し、ロベールの居るヴォークルール城前までやって来た。

 訝し気にこちらを見つめてくる門番に私は気圧されてはならないと、できる限り堂々と告げた。

 

 「ドンレミ村から来ました、ダルク家の長女、ジャンヌと申します。天からの声に従い、この度この場にやって参りました」

 

 「は?」

 

 金髪の小娘に何を言われるのかと身構えていた門番は突拍子のない私の言葉にやはりと言うべきか、デュランと同じように首を傾げた。

 私だってわけわかんないよ、こんちくしょう。ジャンヌは一体どうやってこの状況を乗り越えたんだ?

 それでもここで引き下がるわけにはいかないので尚も私は言葉を続けた。

 

 「神は、王太子様が王位に即かれることを欲しておられます。この私が王太子様を聖別(戴冠式)にお連れいたします」

 

 その結果、どうなったのかは言うまでもない。

 ただ、この日、私とデュランはこのヴォークルールの街にて寝泊りするための宿を見つけなければならなくなったということだけは言っておく。

 必至に下宿先を探す私の背後では、私に振り回される形となったデュランが重い溜息を吐いていた。

 

 +++

 

 どうにか下宿先を見つけた私は住み込みで働きながら毎日城に通い、ロベールに面会を求め続けた。

 忠実においても異端審問における裁判の記録によるとジャンヌは三度、彼に面会を求め続けたという。

 ジャンヌがロベールに出会い、それからシノンに向かうまでの一連の流れには様々な諸説がある。

 ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジという2人の貴族の助けを受けて、ロベールの元へたどり着いたという説や。

 ニシンの戦いにおけるフランス軍が敗北するという予言をし、その予言が的中したことに衝撃を受けたロベールが協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可したという説。

 城に通い続ける一方で街の礼拝堂でミサをあずかり、熱心に祈りをささげていたその姿を街の人々が捉え、徐々に神の声を聴いた少女の噂が広まっていって、街の人々に押されるような形でロベールの元へ辿り着いたという説なんかもある。

 私はジャンヌのように神の寵愛を受けたわけではなく、ジャンヌのように人を引き付けるカリスマもないので、ただひたすらに行動するしかなかった。

 教会に通い続けた。

 協力者を獲ようと街人に積極的に話しかけ、清く誠実に振る舞い続けた。

 情報を収集し、何か突破口がないか模索し続けた。

 聖女様(ジャンヌ)であるならばこうしたのだろう自分で作り出したイメージ像を元に、ただそのイメージ通りであろうとあり続けるしかなかった――。

 私の努力が実ったのは1492年の二月に入ってからのことだった。

 そのころにはすっかり街の人々とも顔なじみになり、一度ロベール伯に出会って話をするべきだという声が上がってきていたのだ。

 他にも教会に信心深く通い続けた(相変わらず神様の声が聞こえてくることはなかったが)成果なのか、私のことを本当に神の声を聴いた少女とあがめ始める者も現れ始めた。

 本当は私は神様の啓示なんて受けていないので、そういってくれる人々には罪悪感を抱いたが、謝るわけにもいかない。

 もう私は神の声を聴いたとされるジャンヌ・ダルクなのだ。この設定を崩してしまえば、この先どのような結果になるかは想像に難くない。

 きっと神様の名を騙った魔女として、一生人々から蔑まれ、下手したら殺されるのだろう。この時代の人間はそれだけ天使や神様、自然の超常現象に対して深い信仰心を持っていた。

 もう戻ることは、できないのだ――。

 街の人々の声に押され、ついに城の中に入ることに成功した私はついにロベールに会うことができた。

 ロベールはこの土地の守護を任された守備隊隊長――つまり軍人であったため、市民のように私が神の声を聴いた少女であるという噂を最初から信じていなかった。

 ただ、ジッと私の目を見据え、この敗北に満ちた世を救う力があるのかどうかを淡々と聞いてきた。

 この頃のフランスはイングランド軍の焦土作戦(利用価値のある建物や食料を焼き払うこと)により、土地も人も疲弊しきっていた。

 人々のために、そして国のために戦う一人の軍人として、ロベールもまたこの現状をどうにかしたいとずっと考えていたのだろう。

 しかし戦況は圧倒的フランスの不利。今更どうにかできるレベルの話ではなかった。

 普通なら相手になんかされないだろう。私の言葉なんて、ただの田舎の小娘の妄言だと言われてそれでお終いであろう。事実、この街を訪れて最初の方は相手にされず笑い飛ばされたり、怒られたこともあった。

 だけどこの極限まで追い込まれた状況下においては、私のようなしがない少女の言葉でも、大きな意味を持つことだってある。

 藁にもすがりたいとはまさにこのことだろう。

 

 ――このまま戦いを続けていけば、我が国が負け続けることは間違いないでしょう。

 

 彼の言葉に、私はこう答えた。

 これ以上の言葉は不要だと、その時なぜかそう思った。

 この男には余計な飾りをつけた言葉は逆効果でしかないと――。

 誰かがやらなければならないのだと、ただ強い意志を持って私は彼を見据えた。

 しばしの沈黙が訪れた。

 彼が迷っているのがよくわかった。

 ここに来て私は、これで無理だったらどうすればいいんだ? と今更ながらに不安を掻き立てられていた。

 それでもロベールは私に警護隊をつけ、王太子様の元に向かう認可証を出してくれた。

 こうして私はいよいよ王太子様の居るシノンへ向けて旅立つことになったのだ。



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彼女の独白――旅立ちは何度でも

 ヴォ―クルールからシノンへの道はおよそ五百キロと膨大なものだ。

 しかも敵地であるブルゴーニュ侯爵領を突っ切ってのその距離であるため、苦難の旅になることは想像に難くない。

 出発までおよそ一週間の準備期間が設けられた。

 私はその期間の間に警護をしてくれることになった男たちから万が一の場合に備え武術――主に剣の指導を受けたり、非常事態に陥った場合の対応の仕方を学んだ。

 乗馬に関しては先にも述べたとおり、ドンレミ村での五十回におよぶループの果てに身に着けてしまっていたので、指導の必要がなかった。

 大柄な馬を軽々乗りこなす私を見て、女子(おなご)でありながら大したものだと褒められたこともあったが、それに関しては苦笑いをするしかなかった。

 五十回もやり直している間に覚えてしまったんです――などと言えるわけがない。

 身の安全のために男装し、出発したのは1429年の2月22日。奇しくも忠実においてジャンヌがヴォ―クルールを発った日と同じ日付となった。

 

 ――さぁ、さぁ、後は天に任せよう(va,va,et advienne que pourra)

 

 私たちが出発する時に、ロベールが告げてきた激励の言葉であり、未来においてジャンヌのことを調べていた私はこの言葉を知っていた。

 私が調べた書物の中には時折、「どうとでもなるがいい」という日本語が当てられて、この時、ロベールは半ば自暴自棄であったという説明がされているものがあったのだが、このvaは激励や奨励を表すフランス語の間投詞であり、警護隊まで手配したロベールが、ここでいきなりヤケになるのは理屈が合わない。

 軍人と言っても彼はキリスト教徒であり、つまりその言葉は彼が神の加護を信じつつ言った彼なりのエールであったのだろう。

 私たち一向は馬に跨り、ヴォークルールを発った。

 警護隊には王太子様の伝令使であるコレ・ド・ヴィエンヌという男がいた。

 伝令使というのは命令を運ぶ、という重大な役目を請け負う職業であることから地理に明るく、各地の戦場に通じ、政治的動きも熟知していた。

 シノンに向かうにはどうしても敵側であるブルゴーニュ軍やイングランド軍が占領した領土を通らなければならなかったのだが、そこで頼りになったのが私たち一行の頭脳であった伝令使であるコレだ。

 コレの指示に従い、もっぱら移動は夜に行われた。

 宿屋に泊ると人目につくので、修道院に泊めてもらったり、野宿をしたりというのが常であった。

 私が読んだ書物では、ジャンヌ・ダルクがこの五百キロ近くを無事に旅できたことについて、神の加護を受けたジャンヌの力が奇跡を呼んだという説明をしている書物を時折読んだことがあったが、それは大きな間違いだろうと――少なくとも私がジャンヌである場合は常々実感させられることになった。

 なぜなら未来でジャンヌの事を調べ、知っている私でも、実際には何の力もなくて……リードしてくれる警護隊の男たちにただ着いていくことしかできなかったのだから。

 特にコレは本当に頼りになる人で、野宿の際の調理も、その他雑用も全部彼がやってくれた。

 少しでも何か力になりたいと雑用を手伝うことを彼に申し出たこともあったが、「一人でやった方が速いから」とやんわり断られてしまった。

 悲しいことに私の料理スキルも雑用スキルも皆、彼より劣っていたので、何も言い返すことができなかった。

 旅は順調に進んでいた。少なくとも七日目までは。

 七日目の夜の移動の際、運悪く私たちはブルゴーニュ軍の一団に遭遇してしまったのだ。

 私たちは極秘裏に行動していたため、この場所で何をしているのだと問われても何かを答えることはできなかった。

 相手も相手で男六人に男装した少女一人という奇妙な一行を見過ごしてくれるはずもなく。

 

 ――走れ!!

 

 コレの合図に従って、私たちは一目散に馬を走らせた。

 上手く振り切れれば好都合であったが、生憎そこまで私たちの運は良くなかった。

 瞬く間に囲まれてしまい、戦闘を避けることは叶わなかった。

 皆が皆、剣や槍、弓を構える中、私はヴォークルールでの指導も忘れてただ恐怖に震えることしかできなかった。

 死を経験したことはある。

 それに伴う痛みも経験したことはある。

 それでも死に対する恐怖というものはどうにも慣れないものだ。

 私の警護隊はコレは言うまでもなく、皆、優秀な戦士だった。

 おそらく、彼ら六人であるならばこの窮地を脱出することも不可能ではなかったのだろう。

 そう、足を引っ張ったのは私だ……。

 どうにか震える腕で剣を抜くことに成功しても、剣のグリップすらしっかりと握れてなかった私の剣は瞬く間に相手の剣によって弾かれた。

 

 「あ……ああ……」

 

 剣を突き付けてくる相手を前に腰の抜けた私はもはや逃げることすらできなかった。

 ジャンヌー! とコレがこちらに駆けてくるのが視界の隅で見える。

 しかし、コレの必死の叫びも虚しく相手の剣が私の胸を切り裂いて――。

 

 「あ」

 

 まるで噴水のように血が噴き出した。

 生暖かい鉄の味がゆっくりと口内に広がって――私は地に伏した。

 ビクン、ビクンと身体が勝手に痙攣する。

 ああ、死ぬのか。

 その時になって私はようやく、まるで思い出したかのようにそう悟っていた。

 どこか懐かしいこの感覚。何度も味わったが、この感覚に馴れることは決してない。

 彼女(ジャンヌ)として現実に――運命に向き合おうと、そう覚悟したはずだった。

 けれど、ただの覚悟だけでは私は彼女(ジャンヌ)に成り得なかったようだ。

 ただの平凡な、ジャンヌ・ダルクマニアの私なんかではどうやら役不足のようだ。

 できる限りのことをしてきたつもりだったが……どうやらダメだったようだ。

 

 ――死にたく……ない、よ……。

 

 そして私の意識は暗転し――

 ――次の瞬間、覚醒した。これが私の五十二回目の死だった。

 

 +++

 

 目が覚めたのはヴォークルールの街だった。

 当初の私は自分の陥った状況がまるで理解できず、ただ戸惑うことしかできなかった。

 それでもすぐさま冷静になれたのは、前にも一度、似たような現象を経験していたということが大きかったであろう。

 そう。ドンレミ村での五十回にも及ぶループだ。

 あの時私はイングランド兵による侵略を恐れて、何度も何度も同じ時をやり直していた。私が覚悟を決め、ジャンヌ・ダルクとして道を歩み始めるまでは何度も何度も同じループに巻き込まれたものだ。

 同じ現象が再び起こったのではないか。そう考えると、今度は冷静になるのは速かった。

 この時、私が思ったのはなぜ、今回はドンレミ村からのスタートでは無いのかということだった。

 色々と時系列を整理した結果、今度私が目覚めたのはロベールと面会し、シノンへ向かうことを許可され、警護隊を着けられたあの時。旅立ちの日の丁度一週間前だった。

 そこで私は一つの仮説を立ててみた。

 少しぞっとするが、このジャンヌ・ダルク()の人生を一つの物語と仮定し、ドンレミ村からロベールとの面会までの流れが物語における第一章なのだとしたら。

 ロベールとの面会後が第二章の始まりなのだとしたら。

 第一章はもう読み終えた訳なのだから、もう戻る必要がない。まるでゲームのセーブデータをロードするかのように、私が死んだ場合、第二章の始まりから再開されるのではないか?

 根拠もないし、仮にこの仮定が合っているとしても、どこからどこまでがその()の区切りなのかは検討もつかない。

 考えても埒があかないので、この事について考えるのはやめ、今度はどのようにすべきか考えることにした。

 とは言ってもするべきことはただ一つ。

 その場所で敵と遭遇してしまうのであるなら、事前に別のルートから行き、戦闘そのものを回避すればいいのだ。そうすれば私は死ぬことなく王太子様の待つシノンに辿り着くことができるはずだ。

 旅立ち前の準備期間は前とさほど変わらず過ぎていった。強いて変化した場所があったとするなら、剣術について指導される時に前と比べて少し真剣になってやったということくらいだ。やはり、自分が足手まといになって死んだというのは私にとって若干のトラウマになっていた。

 そして1429年の2月22日。いよいよ二回目の旅立ちの時。

 

 ――さぁ、さぁ、後は天に任せよう(va,va,et advienne que pourra)

 

 前回と全く同じのロベールのその言葉に見送られて私たち一行は再び、ヴォークルールを旅立っていた。

 

 +++

 

 二回目の旅路も、その大まかな流れは前回の時とそう変わらないものとなった。

 ただ、前回の時にコレの料理をひたすら見ていたので、今回はコレの手伝いが料理限定だができたことだ。

 その事を少しだけ内心嬉しく思いつつも、ついに運命の七日目の朝を迎えた。

 私は身支度を整えるコレの元へ向かい、話しかけた。

 

 「ねぇ、コレ。少し提案があるんですけど……」

 

 「なんだい、ジャンヌ?」

 

 コレは身支度の手を休めることなく、もの静かに聞き返してきた。

 私は予てから考えてきた言葉を口にする。

 

 「今日行くルートなんですけど、別のルートにしませんか?」

 

 「どうして?」

 

 「今朝、神からお告げがあって……今日行くルートには危険が待ち構えていると」

 

 「……」

 

 私の言葉にコレはようやく身支度の手を止めた。

 本当は神様のお告げなんて聞いていないから、神様の名を使うことには罪悪感を覚える。

 目の前の青年が、神様を信仰する信心深い人間であるから尚更だ。

 でも神の声を聴いたとされている私が神の名を使えば、コレは確実に私の言葉に耳を傾けてくれる。胸が痛むが利用する手はなかった。

 コレはちょっと待ってて、と私に告げたのち、他の男たちに手短に何かを話した。

 そして私にこう言った。

 

 「少し、様子を確認するから少し待ってて」

 

 それからコレ達は先行して今回、行くと決めていたルートを手早く確認しに向かい、しばらくしてその顔を若干青ざめさせて帰ってきた。

 

 「情報に誤りがあった。このまま進んでいたら僕たちはブルゴーニュ軍の一団と鉢合わせてしまうところだった」

 

 教えてくれてありがとう、ジャンヌ――そう言ってくるコレに、本当は神様の声なんて聴いていないという罪悪感を抱きながらも、頼りにされたみたいでなんだかこそばゆかった。

 とにかくこれで無事に進めると、ひとまず安堵の気持ちで一杯だった。

 これで大丈夫――そのはずだったのに。

 

 「どうして……」

 

 気が付けば私は――否、私たちは敵に囲まれていた。

 今度は前回と同じブルゴーニュ軍の一団ではなく――この戦乱の世の中で、山賊と成り果てた者たちの集団だった。

 

 「どうして……」

 

 私の口から再び声が漏れる。

 そんな、どうして。

 戦いは避けられたはずじゃなかったの――?

 そんな私にコレたちの視線が突き刺さる。その目は神様の声を聴いた私のお告げに従ったのに、どうしてこんな状況に陥っているんだ? という無言の非難が含まれているような気がした。

 

 「いや……ち、違うの……」

 

 「ジャンヌ?」

 

 「違うの! 私、これで大丈夫って思って、それで!」

 

 「どうしたんだ、ジャンヌ? 落ち着いて……!」

 

 「違う違う違う! こんなの違うの!! こんなつもりじゃなかった!!」

 

 私はヒステリックに陥っていた。

 何だか自分がとてつもなく穢れた存在のような気がして、たまらなく自分が嫌になった。

 コレの静止も振り切って私は駆け出して――。

 

 「あ」

 

 呆気なく私は殺された。これが五十三回目の死だった。



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彼女の独白――この時、私は絶望した

 それから私はかつてのドンレミ村でのように何度も何度も、同じ時を繰り返した。

 どうにか敵に遭遇しないルートを見つけようと躍起になって……失敗する度に皆の……コレの視線が私の胸に突き刺さった。

 六十回もの死を迎えた時、私は一つの事実を悟った。

 どうあがこうが、どのルートを選択しようが、私たちは必ず敵と遭遇してしまう。

 つまり戦いを避けることができないという事実を――。

 神は――否、世界は私に戦いを求めているのだと、七十回目の死を迎える頃にはそう思い始めていた。

 逃げることはできない。

 自殺しても……逃げ出しても、世界は何度でも私を引き戻す。

 神に……この繰り返される世界に嫌悪感を抱き始めたのはこの時からだった。

 

 ――そうですか……ええ、そうですか!!

 

 半ば自棄気味に私は戦う術を身に着け始めた。

 繰り返されるヴォークルールの準備期間で戦いの基礎を徹底的に覚え込み、一歩でも先へ、強くなろうと鍛錬を開始した。

 七十五回目――どうにか恐怖心を抑え込み、相手と剣を交らわせることに成功したがすぐさま首を切られて出血多量で死んだ。

 八十七回目――剣を交らわせ、交戦することに成功したが、最後には競り負けて、呆気なく死んだ。

 九十五回目――ついに一人、相手を殺すことに成功する。が、初めて人を殺したことによってパニックに陥り、そのまま訳が分からない状態のまま死んだ。

 一〇三回目――人を一人、殺すことに慣れ始めたのはこの頃からだった。敵を二、三人殺すことに成功するが、戦場の混乱下で背後からいきなり何者かに刺し貫かれて死んだ。

 それから私はしばし伸び悩むことになる。どう足掻いても、三人を倒すことが限界で、どうしても死んでしまうのだ。

 理由を考えた。

 そうして思い至ったのが、疲労だ。

 女子(おなご)である私ではどうしても大柄な男たちと比べて体格、体力面で圧倒的に不利だ。

 その上、ヴォークルールで貰う剣は男が振るうものと全く同じもので……つまり私には重過ぎる。

 筋トレして体力を増やすことも考えたが、その線は三回ほどループしたところで切り上げた。

 なぜなら一度死に、ループする度に私の状態はヴォ―クルールの始まりの時の状態に巻き戻されてしまうからだ。知識や経験は巻き戻されず、継続させて使用することができるが、身体を鍛えても、リセットされてしまうのだから鍛えたところで意味がない。

 となると、変えるべきなのは剣だ。

 私が振るうには重過ぎる剣を、もっと軽い別のものに変えれば少しはマシになるのではないか?

 そこで私はコレやロベールにもっと軽い剣はないのか訊いてみたのだが、女子(おなご)が剣を持つということ自体が極めて珍しい事態であり、王太子様のいるシノンの方へ行けば、もっとたくさんの種類の剣があるのだそうだが、あくまで片田舎の街であるこのヴォークルールの街には、一般的に支給されるその剣以上に軽い剣はないのだそうだ。

 

 ――まぁ、女の子が振るうにはその剣はちょっと重過ぎるよね。

 ――もっとも、この辺りの地に詳しいコレがいるんだ。戦う間もなくシノンには着けるだろうがな。

 

 コレとロベールのその言葉に、私は苦笑いを浮かべて相槌することしかできなかった。

 

 +++

 

 しかし、支給される剣が私にとって重過ぎるというのは紛れもない事実であるし、この事実をどうにか変えないと私は先には進めない。

 何度も何度もループを繰り返しながらも私はどうにか剣を入手できないか模索を続けて。

 そうして辿り着いたのが、旅の道中にあるサント・カトリーヌ・ド・フィエルボアの教会であった。

 この教会は聖カトリーヌ教会で、忠実では1479年に再建され、今も現存している。後にジャンヌはこの教会で、祭壇の後ろに埋まる一つの剣を発見しており、聖カトリーヌの剣と、神の祝福がなされた剣として保有したのだという。

 もっともこの話はいろいろと脚本が盛られた話であるという説もあり、真相は定かではない。しかし、私もまたジャンヌを巡る旅行の合間に訪れたこともある場所だった。

 私はこの教会が戦争で捕虜になった騎士たちが武具を献上する場所として有名であったという情報を思い出したのだ。

 彼女(ジャンヌ)のように聖カトリーヌの剣を入手できるとは限らないが……戦争で捕虜になった騎士たちの武具が納められている場所なのだとしたら、もしかしたら私にも振るえる剣があるのかもしれない。

 一五八回目――旅の道中、教会に辿り着いた私は、他の人の目を盗んで教会を密かに詮索。狙い通り、武具が置かれた保管庫を見つけたので、自分にも振るえる剣を探し――一本、一際軽い銀の細剣を見つけたのでそれを手に取り、教会の神父にこの剣を貰ってもいいかと尋ねた。

 どうせこのままこの場所にあっても使われることのない剣で、私の持っている剣では重くてとても自分の身を守ることができそうにないのです――そう言ったら神父は快くその剣を私にくださった。

 しかしその剣は前にも述べた通り、他の剣に比べて一際軽く、その分その扱い方もこれまで扱ってきた重い剣とは異なるものだった。

 一五八回目のループでは、結局軽くなった剣の違和感を拭い切れず、一人も倒すことができずに殺された。薄れゆく意識の中、これからはこの剣の重さになれていかないとと、決意を新たに固めていた。

 しかし、目覚めればその場所は言うまでもなくヴォ―クルールに戻っているのであり、また剣を入手するところから始めなければならない。

 気づけばヴォ―クルールでの準備期間の一週間では記憶に残る教会の剣の重さにもっとも近い木の棒で訓練を行い、教会に辿り着いたら前と同じように剣を入手、実戦で特訓の成果を試すという一連の流れが出来上がっていた。

 一七一回目――教会で受け取った剣は軽いが、その分耐久度はヴォ―クルールの剣に劣り、相手の斬撃に叩き折られ、そのまま殺されてしまった。

 一九八回目――相手の斬撃を受け止めてはならないことを悟った私は、フットワークを使い、相手の斬撃を避けることを心掛け始めた。まずは相手の斬撃を躱すフットワークを身に着けなければならないと思い、あえて戦場で剣を用いず、足捌きだけで戦場を駆け抜けるという訓練を数回、ループで繰り返した。

 二三四回目――相手の斬撃を足捌きだけで全て躱し切れるようになる。けれどその時は、あえて足捌き以外の選択肢を取り除く為にあえて武器を自分から捨てていたため、その時はやむなく殺された。

 二四〇回目――教会の剣を用いて、相手を倒すことに成功する。斬撃ではなく刺突――この頃にはこの剣での戦い方というものが何となくだが見え始めていた。

 そして三〇五回目――ついに相手の追撃を凌ぎ切り、戦況を生き延びることに成功する。

 しかし、戦いが終わった頃にはもうすでに私は満身相違で、意識を失うように地面に倒れ込んでしまった。

 目覚めたら再びヴォ―クルールに戻っていたところを見ると……どうやら今回もダメだったようだ。

 それでも戦場で最後まで生き残れたという事実は私に大きな自信を与えた。

 

 「ジャンヌ……君って、どこかで剣を習ったことある?」

 

 三二五回目のループ。

 もう何度目とも知れぬヴォ―クルールでの準備期間において、コレと共に一対一の実戦形式の訓練を行っていた時、不意に言われたその言葉に思わず私はドキッとしてしまった。

 

 「え……ええ、と……どういう意味ですか?」

 

 「いや、ジャンヌの剣筋ってさ、とても女の子の振るうものとは思えないくらい鋭くってさ。身のこなしも羽のように身軽だし……。もしこれまで誰にも武術を習ったことがないとしたら、それは凄い才能だよ」

 

 「あ……いえ、そんなこと……」

 

 これは才能なんかではない。

 何十、何百と繰り返した果てに身に染み付いてしまった、ただそれだけのものだ。

 決して誇れるようなものではない。

 

 「君は本当にフランスを開放するために神様が遣わした戦乙女(ヴァルキリー)なのかもしれない」

 

 「……」

 

 神を信仰する澄み切った青の瞳が私をジッと見据えてくる。

 違う。そんな高潔溢れる存在なんかじゃない。私は神のお告げも聞いていないのにも関わらず、聖女を騙るただの偽物(フェイカー)だ。それだけでしかない存在だ。

 そう言いたかった。けれど、その言葉は決して言える言葉ではない。

 偽り続けても……ここまで来てしまったのだ。もう後には戻れない。

 何も言えず、押し黙ってしまった私を見て、コレはすぐに気さくに笑った。

 

 「ああ、ゴメンね。こんなこと言ってもプレッシャーになるだけだよね」

 

 君みたいな女の子が国を救うために立ち上がるなんて、それだけでも途方もないプレッシャーなはずだよね。

 そう言ってくるコレの瞳があまりにも透き通っていて……思わず泣き出してしまいそうになった。

 私はそんな優しい言葉を掛けられてもいい存在ではないのに。

 ごめんなさい。

 ごめんなさいと心の中で何度も謝り続けた。

 

 +++

 

 三三六回目――身体が翅のように軽かった。

 見える。

 相手の斬撃が面白いように見える。

 私はその斬撃を避けるか、あるいは剣で反らし、カウンターで鎧の継ぎ目に刺突を叩き込むだけで良かった。

 これまでとは明らかに違う余裕があった。

 ようやく――やっと、このループを超えられると、そう思うと自然と気分が高揚した。

 そして――。

 

 「はぁ……はぁ……」

 

 私はついに、傷一つ負うことなく、戦場を生き延びた。

 今度はループもされない。

 やった。

 ついに私はやったのだ。

 ようやく先に進める――そう思うと不覚にも笑みがこぼれた。

 八日目の朝日が、地平線の向こうから昇ってくる。

 こんなにも美しい朝陽は、初めて見た。

 私は生き延びているであろう皆の元へ向かおうとして。

 

 「無事だったか、ジャンヌ!」

 

 「ええ。皆さんも無事で――」

 

 地に仰向けに寝かされたコレの姿を見た。

 

 「……え? コレ、何してるんですか?」

 

 「ジャンヌ……」

 

 こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうというのに。

 ほら、顔もそんなに青白く染めてしまって。

 

 「コレ、早く起きてください」

 

 「ジャンヌ、コレはもう……ッ!?」

 

 「……」

 

 その時、一体、私はどのような表情をしていたのだろう。

 とにかく、私が視線を向けたその途端、戦場を生き延びた警護の男は口を閉ざした。

 あるわけがない。

 コレが死ぬなんて、そんなのあるわけがない。

 

 「……だって、コレは私なんかよりも遥かに強かった。今までだって、ずっと死んでたのは私だけで、コレもみんなみんな死んだことなんて一度もなかった……」

 

 なんで。

 なんでよりによって今回、コレが死ぬのか。

 これは夢だ。

 悪い夢に違いない。

 

 「……そうだ……もう一度、死ねば、またやり直せる……」

 

 「ジャンヌ?」

 

 言うや自分の首筋に剣を押し当てた私を見て、男たちが戸惑いの声を上げる。

 

 「ジャンヌ!?」

 

 静止させようとする男たちを無視して私は一気に首を引き切った。

 これが私の三三六回目の死だった。

 

 +++

 

 「なんで……どうして……」

 

 「どうした、ジャンヌ?」

 

 目覚めたのは、ヴォークルールの街ではなかった。

 目覚めたのはつい先ほどまで私が立っていた場所。

 つまり、コレが倒れているまさにその場所だった。

 どうして戻れない。

 

 「あ……ああ……」

 

 気が付けば私は再び自分の首に剣を押し当てていた。

 

 「ジャンヌ!?」

 

 男たちの静止も振り切り、温かい血が噴き出す。

 三三七回目の死――けれど、次の瞬間目覚めたのは相も変わらず、コレの倒れている現場だった。

 

 「なんで……どうして戻れないッ!!?」

 

 「な、なにを言ってるんだ、ジャンヌ!?」

 

 「うるさいッ! 黙れ!!」

 

 訝しげにこちらを見つめてくる男たちが……この時、無性に腹が立った。

 何か手があるはずだ。

 コレはこんなところで死んでいい人間なんかじゃないんだ。

 私なんかよりもずっとずっと生きる価値のある、優しくて高潔な心を持つ人間なんだ。

 私は再び死んだ。

 その後も何度も何度も自分で自分を殺した。

 それでも変えられない。

 コレ・ド・ヴィエンヌという青年が死んだという事実は変えられない。

 

 「~~~~~~~ッアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 私は吠えた。

 この世には神も仏もないのかと。

 コレは神を信仰していた。だからこそ、偽りでも神の声を聴いたと言った私に力を貸してくれた。

 全ては神の御心に応えようと――私なんかよりずっとずっと強い意志を持った人間だった。

 

 「それなのに神は! 世界はッ! こんなにも清い心を持つ青年を殺すのですかッ!!」

 

 碌に神の声も聴いていない偽り者の私には何度もやり直す機会を与え、なぜ神を深く信仰するコレには救いを与えない?

 こんなのおかしい。

 こんなの絶対に間違っている。

 なんなんだ、この世界は。

 狂っている。

 狂い切っている――。

 

 +++

 

 「……人は必ず死ぬ定めにある。ただでさえ戦乱の世なのだ、コレもこの旅に同行するからには死ぬ覚悟はできていたはずだ……」

 

 「……」

 

 先に行く我々を許せ。そう言った男の瞳からは一筋の涙が零れる。

 一本の木の根元にコレの遺体は埋められた。その場所に石を積んだだけの簡易な墓だ。

 そう、私は時を先に進めてしまったのだ。

 ループを諦めた……そう言うよりは疲れたといったほうが正しいのかもしれない。

 本当に疲れた。

 何度も何度もコレの死を無かったことにしようと足掻き続けて、それでも変えられないという残酷な現実に。

 そう、人は死ぬのだ。

 こうも呆気なく。簡単に。

 人は必ず死ぬ……なら私はなんなんだ?

 殺されても何度も何度も巻き戻され、死をも超越している/させられている私は一体……。

 なにはともあれ、この時からだ。

 私の世界から色が消え失せたのは。

 視界に映るその何もかもが、無感動なものへと移り変わっていったのは――。



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彼女の独白――終わりは新たな始まりに過ぎない

 それから私は王太子の元に辿り着き、そして幾重もの戦場を駆け抜けた。

 殺して/殺されて。

 殺して/殺されて。

 殺して/殺されて。

 数百……数千の屍の山を築き上げた。

 全てを見殺しにしてきた。

 だって……私ではどうにもならないから。コレを失ったその時から……いや、心の奥底ではずっとわかりきっていたことなんだ。

 百パーセント、満足ができる未来なんて、そんなものはありえない。

 必ず誰かが戦場で死ぬ。必ず誰かを見捨てなければならない時が来る。それならば……最初から関わりなど持たないほうがマシだった。

 私は皆に冷たく当たった。

 ループを利用するにしきって得られた情報を元に徹底した合理主義。物事の経過を判断し、最短の手順でフランス軍を勝利に導く。神の導きなど……そんなものは軍の士気を上げるために利用したにすぎない。

 ジル・ド・レェを始めとする他の指揮官には騎士道の放棄を命じた。この圧倒的不利な戦況を前にくだらない騎士道精神など、邪魔にしかならない。もっと非情になれと……捕虜となったイングランドの騎士は皆、殺した。

 昼間に行われ、日が沈むころには自然と戦闘を切りやめるこの御時勢において夜襲、奇襲、朝駆けも平然と行った。砲撃の集中砲火、相手の前線基地には火を放ち、側の目から見れば暴虐の限りを尽くした。

 フランスの民はそんな私を救世主と称えて、誉めそやす。私はそんな群衆に清らかないかにも聖女らしい微笑みで応える。ああ、なんて滑稽な群像劇なんだ――。

 

 ――私は……英雄なんかじゃない。

 

 神の言葉なんて聞こえていない、偽りの聖女だ。

 皆をまとめ上げるために上辺だけ取り繕った、偽りの聖女だ。

 ただの殺人者。……最低な……外道だ。

 

 ああ、彼女であったのなら――。

 彼女であったのなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 彼女であったのなら、もっと戦いを優位に進められたのかもしれない。

 騎士道精神の放棄なんてさせなくてもよかったのかもしれない。

 敵の捕虜を命乞いも無視して殺さなくてもよかったのかもしれない。

 

 ああ、彼女であったのなら――

 

 

 

 それなのに、かつて終わりを迎えた戦場を一人、茫然と見やっていた時、ジルはこう言ってきた。

 

 ――神に。そして貴女に感謝を。

 

 なんの冗談かと思った。

 この凄絶な光景を生み出した私に感謝? 一体何の冗談を言っているんだ、この男は?

 あなたが何よりも重んじていた神を……騎士道を貶め、放棄させた私に。

 気が付けば私は彼に言っていた。

 

 ――神に慈悲なんてありませんよ。

 

 言ってしまってから、しまったと思った。

 これまで私は神の声を聴いた聖女として、皆を纏め、率いてきた。

 その私が神を否定するような言葉を口にしてしまっては、軍の士気に関わる。下手すれば信用を失う。

 それなのに、一度洪水のように決壊した私の口から言葉が止まることはなかった。

 今まで溜めに溜めてきた思い……その全てがまさに火山のごとく爆発したようだった。

 そして、神を否定する言葉を口にしている内に私は気づいたのだ。

 

 ――ああ、私は神/世界をこんな風に思っていたんだ……と。

 

 憎しみ。

 それは憎しみだった。

 神が全知全能の存在であるなら、慈悲があるなら、なぜ人は苦難に、絶望に踊らされるのだ?

 嘲笑うかのように、この世界は繰り返される。

 繰り返される世界の中で、人は戦い、傷つけあい、そして惨めに死んでいく。

 何度でも……何度でも。

 ああ、なんて、滑稽な、群像劇(Fate)なんだ――。

 私は運命(Fate)に抗おうとした。全てが神/世界の仕組んだ群像劇(Fate)であるならば、その(Fate)に抗ってやろうと。

 それでも人は抗えない。神/世界の定めた役割を放棄することはできない。

 コンピエーニュの戦い。それは忠実においてジャンヌが捕虜となる、ジャンヌの運命(Fate)に大きく作用する戦いだった。

 この戦いに勝ち抜き、神/世界の作り上げた群像劇(Fate)をぶち壊す。

 神/世界が最終的に私の死を望むなら、意地でも死んでやるものかと思っていた。

 それが私が神/世界にできる唯一の反抗だと、そう思っていた。

 勝ち抜いた先にまた巻き戻されるとしても、一度は運命(Fate)に勝ったという事実があれば、私は神/世界を嘲笑ってやれた。

 けれど勝てなかった。

 何十、何百、何千とループを繰り返した。

 その情報を元にあらゆる策を講じた。

 それでも、勝てなかった。どうしてもブルゴーニュ公国が送りこんでくる援軍6000人に対する打開策が見つからない。

 ■■■25回目。ブルゴーニュ公国軍6000人の援軍のうちの3800人前後を半ば自暴自棄に切り伏せた所で私は息絶え、巻き戻された。

 その時、私は思った。

 

 ――結局、こうなるんですね……。

 

 この戦いは、勝たせてすらもらえない。 

 負けて巻き戻されるか、捕虜になって先に進むか。その二択しかありえないのだと私は悟ったのだ。

 

 「――――――■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッ!!!!!」

 

 放たれた言葉が意味をなしていたのか、いないのか、それはわからない。

 とにかく叫んだ。

 神に対する絶望を。

 世界に対する憎しみを。

 こんな哀れな少女の細やかな反抗すら、神/世界は許さないのかと。

 百万通りの呪詛に変えて叫び続けた。

 そして■■■26回目。

 結局、私は史実通りに……神/世界が仕組んだ群像劇(Fate)の通りに、捕虜として捕まった。

 

 +++

 

 「……」

 

 フランス・ルーアンのヴィエ・マルシェ広場。ジャンヌ()が処刑される広場だ。かつて私がただのジャンヌ・ダルクマニアの平凡な女性であった頃、観光目的で訪れたことのある場所だった。

 綺麗な青空だった。未来で訪れたあの時と同じように。

 こんな日に処刑されるのも悪くない、とあれほどまでに恐れていた火刑をそう思ってしまうのは、万を超えるループの果てに、死に対する耐性が付き過ぎてしまったというのと……あの日、神/世界に対する怨恨を全て吐き出してしまったからかもしれない。

 もはや絶望は超越した。

 今、あるのはただ死にたいという静かな想い。

 ようやく自由になれるのだ、私にとって死はとてつもなく甘く魅惑的に映って見えた。

 

 ――なぜ……どうして貴女がこのようなことに……!!!

 

 ふと声が聞こえた。

 聞き覚えがある声だ。

 ジル・ド・レェ。あんなにも神を、騎士道を否定した私を未だ想ってくれているというのか――。

 あなたの言葉は何回も聞いた。

 思えばあなたは、いつも私の傍にいてくれた。

 私の過激とも言える戦略にも文句を言わず、ただ私と共に戦場を駆け抜けてくれた――。

 

 「……」

 

 護衛兵に抑えられながらもジャンヌ! ジャンヌ! とヒステリックにこちらを見据えてくるジルを愛おしく思うと同時に哀れにも思った。

 

 「……あなたは何時も、どんな時でもこうして私の傍に来てくれるんですね……」

 

 私は軍から孤立していた。

 あまりにも過激で合理主義な私の指示に不満を抱く指揮官も少なくなかったし、余計な関わりをもたない為にあえてそうなるよう仕向けていた部分もある。

 だから今まで誰も捕虜になった私を助けに来てくれなかったし、それは仕方ないことだとそう思っていた。

 それなのに。

 

 「……あは」

 

 それなのに嬉しい。

 人としての心は、当の昔に捨て去ったはずなのに……それなのに嬉しい。

 思わず笑ってしまった私を見て、ジルも釣られるように笑みを浮かべた。

 ああ、最初からこうしていれば、私の人生はもっと――。

 

 「……」

 

 考えたところでもう遅い。

 もう、過去には戻れない。

 ここまで来るともうわかるのだ。

 神/世界が私に「死ね」と宣言してきていることが。

 死んで、己が与えられた役割を全うせよと告げて来ていることが――。

 

 「いい、ジル。この世には大きな()()というものがあります。抗いたくても抗えない、絶対的な()()が……。人間はその流れに逆らうことは絶対にできません。神が定めた運命(fatalité)からは絶対に、逃れられないのです」

 

 これが私があなたに贈る最後の言葉。

 言ったところでわかってはもらえないだろう。

 理解してはもらえないだろう。

 それでも言わずにはいられなかった。

 神/世界に振り回された道化の、その哀れな最期をその目に刻み込んでもらうために――。

 

 「……」

 

 死ねというのであれば、ああ、死んでやる。

 けれど、この身は燃やし尽くされようとも魂は天に召されない。

 

 ――私は、主のモノにはならない。

 

 絶対に。

 絶対に。

 

 ■■■26回目。無限にも思えるループの果てに私はついに地獄の苦渋と共に本当の死に巡り合い……。

 

 ……巡り会えたはずだった。

 




 色々考えたのですが、このまま続けていくと、本編に入るまでにさらに何十話とかかってしまいそうなので、とりあえずまとめることにしました。
 彼女の細かい人生については番外編などで書けていければいいなと思います。

 ちなみに描かれてはいませんが、彼女は忠実と同様、あらゆる凌辱を受けてはいます。ただ、もはやそんな凌辱に何も感じられないほどこの世に絶望していただけで。

 プロローグ的な序章はこれで終了。リアルが落ち着きそうなんでまったり続けます。


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プロローグ

 ある一人の女の話をしよう。

 かつての救国の聖女の成し遂げた偉業に憧れを抱き、純粋にその生き様に憧れていた女の物語を。

 

 その女は取り立てて特徴のない、どこにでもいるようなただの女だった。

 日々、仕事をこなし、休暇を見つけては『彼女』の跡地に足を向け、『彼女』の伝記を読み込む。

 

 『彼女』の残した足跡を辿っていると、まるで自分もまた偉業を成し遂げた英雄になれたような気がした。

 それはあくまでも気がしたというだけの話であって、自身に『彼女』のような特別な力が無い事は理解できていたし、『彼女』が辿った苦難の足跡を人並み以上に理解できているからこそ、自身には無理だと――『彼女』に憧れはすれども自分自身が『彼女』になりたいだとか、そんなことは一度たりとも思ったことは無かった。

 

 女が『彼女』になったのは、まるで神/世界が気まぐれを起こしたかのように何の前触れもないある日のことだった。

 

 女は混乱した。

 無理もない。何の変哲も無いただの日常がこれから先もずっと続いていくのだと、信じて疑わなかったからだ。――否、もはやそれはそんなことを意識するまでも無い、女にとっての常識だった。

 

 それなのに自身が目覚めたのは昨夜、何時ものように潜り込んだ自身の匂いに包まれたベッドの上ではなかった。

 女が目を覚ましたのは見覚えのないベッドの上。見覚えの無い景色、嗅ぎ慣れない田舎の土の匂い。何もかもが新鮮な未知の世界。

 

 そしてその未知の世界にて女はこう、呼びかけられた。■■■■・■■■と――。

 

 信じられなかった。否、最初は信じてはいなかった。自分が『彼女』になってしまうだなんて、そんなことはありえない――。なぜなら『彼女』は五百年以上も前に活躍した人物であり、現代を生きる自分が過去のフランス百年戦争の時代にタイムトラベルを起こしてしまうこと自体、異常であるというのにさらに何の因果か『彼女』自身になってしまうだなんて、信じられるはずもなかったのだ。

 

 女は戸惑った。しかし世界は、そんな女を置き去りに進んでいく。

 

 巻き戻される。女が進むまで、何度でも。

 

 かつて■■■■・■■■という女性が歩んできた歴史を、忠実に再現していくまで何度でも。

 何度でも。

 

 女を、巻き戻した。

 

 女は葛藤した。本物の聖女であった■■■■・■■■と所詮ただの偽物でしかない今の■■■■・■■■(自分自身)との差異に。

 

 自分のせいで失われた生命もある。■■·■·■■■■■という心優しい青年の生命が失われたのも全て自分のせいだった。

 

 やがて、女はこう考えるようになる。(·)(·)(·)(·)(·)(·)(·)(·)(·)と。

 

 彼女であったのならもっと救えたのではないか。

 彼女であったのなら、戦争をもっと優位に進められたのではないか。

 彼女であったのなら、もっと良い未来が切り拓けたのではないか。

 

 彼女であったのなら――

 

 それほどまでに戦争とは、凄惨な光景だった。

 自分の指揮で失われていく生命、奪われていく生命。

 世界/神が納得する結末が訪れるまで、女は何度も何度も同じ光景を生み出した。

 

 それは地獄だった。

 地獄そのものだった。

 

 

 

 それでも女は立ち止まらなかった。立ち止まれなかった。

 粉々に打ち砕かれた心に鞭を打ち、今にも叫び出したい想いを抑えつけて、偽りの聖女という世界/神より与えられし役割をこなし続けた。

 

 そんな地獄の中で女は悟る。

 この世界には神の慈悲など……愛など存在しないと。

 

 

 いったい世界/神は人に何を求めているのか。

 こんなに苦しんで、戦い抜いて、その果てに待つのが死の運命(さだめ)でしかないのなら――。

 

 

 

 こんな世界に、いったい何の意味があるのか。

 

 

 

 その時には既に気がふれてしまっていたのかもしれない。

 それでも女は世界/神の操り人形のまま、ただ無意味に使い捨てられるのは嫌だったのだ。

 

 ■■■■■■■の戦い。それは彼女の運命において、大きな転換期を迎える事になる戦いだった。

 

 その戦いを勝ち抜き、嘲笑ってやりたかった。

 運命を。

 世界を。

 神を。

 

 女は抗い続けた。戦い続けた。

 

 その地獄の中でやがて女は精神をすり減らしていき、涙も枯れ果て――最後には人としての心も失った。

 

 それでも運命/世界/神には勝てなかった。

 

 

 女は絶叫した。叫んで叫んで喉が潰れて、なお叫び続けた。

 

 それは世界/神に翻弄され続けた哀れな女の慟哭だった。

 

 +++

 

 「……ゥ……フォウ……キュ、フウゥ……?」

 

 顔を撫でるモフモフとした感触に、藤丸立香はうっすらと瞼を開いた。見るとそこには宙に浮かぶ毛むくじゃらの生き物の姿。

 

 フォウの頭を撫でながら、立香は目覚めたばかりのぼんやりとした頭で物思いにふける。何か、夢を見ていたようなそんな気がするのだが、頭の中に霧がかかったみたいに思い出せない。

 何か、とても悲しい夢だったような気がするのだが……。

 

 「おはようございます。そろそろブリーフィングの時間ですよ、先輩」

 

 扉の開く音ともに、部屋に入って来たのは立香の大切な後輩にして、共に人理修復を行う相棒でもあるマシュの姿だった。

 おはよう、と挨拶を返すと彼女もまたはにかむような笑顔と共に「はい、おはようございます」と再び挨拶を返してくる。

 

 「あ、見ないと思ったらフォウさん、先輩の部屋にいたんですね。朝から元気そうで嬉しいです」

 「フォーウ!!!」

 

 立香に寄り添っていたフォウはマシュの言葉に反応するとそのまま彼女の胸の中に飛び込んだ。

 そんなフォウを優しく受け止めると、マシュは再び立香へと視線を戻した。

 

 「先輩も。昨夜はよく眠れましたか?」

 

 立香は夢を見ていたせいであまり眠れなかった旨を伝える。

 

 「夢……ですか? いったいどんな夢だったのでしょうか?」

 

 それが思い出せない。何か、大事な事のような……胸が張り裂けそうになるくらい悲しい夢だった事は何となく覚えている。

 夢の最後に、慟哭の叫び声をあげていた一人の少女の朧げな姿も。

 

 「叫ぶ、女の人ですか……」

 

 立香の言葉に暫し思案の表情を見せるマシュ。

 

 「……英霊と契約を結ぶマスターはその英霊の生前の記憶を夢として見ることがあると聞いたことがあります。もしかしたらですが、先輩が見た夢というのも先輩と縁のある英霊の夢を見たということもありえるのかもしれません」

 

 私もそこのところの詳しいことはわからないのですが、と告げる健気な後輩の姿に思わず頬が緩むと立香はよしっ! と勢いをつけてベッドから立ち上がった。

 そろそろ行かないと、次の人理修復に向けてのブリーフィングに遅れてしまう。

 

 「はい! いきましょう、先輩! ……っ先輩?」

 

 マシュに呼び止められ、シャワールームに伸びかけていた足を止める。

 

 「先輩、涙が……」

 

 

 「えっ……」

 

 言われるがままに頬を拭う。

 確かにその頬には一筋の涙が伝っていた。

 



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