音無さんと逢坂くん (早乙女 涼)
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第一章 始まり
仲村ゆりと逢坂仁徳


 初音ちゃんが可愛すぎて辛い。なんとか音無さん(兄)とイチャイチャさせてみたい衝動に刈られて書いてしまいました。初音ちゃんのキャラがまだよく分かりませんが、楽しんでいただければ幸いです!
 風音さんみたいに中の人ネタ出していければ嬉しいです。


 ――無人駅の改札から出ると、閑散とした住宅地域が広がっていた。

「ようやっと着いたな……」

 俺の手には土産の菓子折り、背には貴重品の入った小型のショルダーバッグをさげている。

(静かっつーか、田舎というか……)

 周囲を見回しつつそんな感想を抱きながらも、目的地へと歩き出す。

 ――行き先は、仲村旅館。

 俺の遠い親戚が経営している旅館であり、これから俺が厄介になる場所だ。

 温泉街としても有名な町、山陽湖(やまびこ)町。山間部にあるこの町は、これから来る夏の避暑地としても有名になっている。

 山陽湖温泉町と言えば仲村旅館。そんな言葉も出るほどに名の知れている旅館だけども、実は俺、その事を最近知った。

(もうちっとだけ、勉強しておくべきだったかねぇ)

 数日前に郵送されてきた旅館への道のりが書かれたパンフレットと地図を見ながらも、俺は嘆息する。

 ――とはいえパンフにもバスを使えとかあるし、その辺のバス停を探せばいいんじゃないか、とも考えたんだが……。途中の道で見つけたバス停を見て辟易した。

 

「さっき出たばっかじゃねーか……。しかも次一時間半とか、田舎かよ……田舎だな」

 

 だったら歩いて行った方が早いと、実質8キロの道のりを歩いているわけで。

 とはいっても、この季節――梅雨まっただ中のウザったさ。東北とあって湿気などはまだましだが、山間部というのがネック。太陽、近すぎ。ヤバい。

 すると、唐突にポケットに突っこんでいたスマホのバイブが震えた。

 差出人の名前を見て、軽く息を吐いた。

「もしもし、ゆり姉か?」

『あー、やっと繋がった』

 電話に出ると、どこぞのS音様を連想させるような声が耳元で響いた。背後からは風を切る様な音が聞こえて取れる。

 ――仲村ゆり。俺の一つ上の(遠い)親戚。

「ひょっとして車出してくれてん――」

『――え? なに? 聞こえない!』

「迎えに来てくださいコノヤロウ!」

 半ギレ状態で言うと、ゆり姉の笑い声が聞こえた。相変わらず過ぎて胃が痛くなってきた。

 腹を押さえながら彼女の言葉を待つと、『分かった、駅で待ってなさい』と言われ、一方的に切られてしまう。

「ったく……バス停くらい伝えさせろっつの」

 来た道を戻る。

(まぁ、変なトコで待ってるよりマシか)

 後ろ頭をがりがりと掻き毟りながら、俺は駅に到着。

 入口の日蔭にあるベンチに腰掛け、しばらくぼーっとする。

 イヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴くのもありだったけども、これからうんざり聞く事になる風の音や草木が揺れて鳴る音に慣れておこうと思った。

(夏場はセミとかがうるさそうだな)

 まぁ、俺の居た都会のクラクションよりかは全然ましなんだが、と苦笑いを浮かべていると、パッ! と聞きなれた車のクラクション音にはっと我を取り戻す。

 紫色の髪は肩まで伸び、前髪はヘアピンなどで上手くまとめられ、薄緑の半袖ワンピースに水色の上着を着ている美女が、黒の軽自動車から出てきた。……ふむ。

「こうして見ると普通に女の子してるじゃねーッスか」

「なによその含みのある言い方は」

「いや、なんでもねーですよ」

 俺は荷物を下ろし、目を伏せて後ろ頭を掻く。そして姿勢を正して一礼した。

「御厄介になります」

「ん、まぁそれはお父さん達の前で言いなさい。別に私一人であなたを迎えるわけじゃないんだから」

「まぁ、一応な」

 俺は襟脚に右手を当てつつ、荷物を手に取る。

「乗りなさいよ。荷物はそれだけ? なら膝の上にでも乗せときなさい」

「うッス」

 俺は助手席へ御邪魔すると、運転席へゆり姉が座り、車を走らせる。

「そういえば大学の話、どうなったのよ?」

「ああ、なんとか受け入れてくれる事になった。授業についていけるかは、これからの頑張り次第ではあるけどな」

「まぁ困ったら私に泣きつきなさい。いい家庭教師を紹介してあげるわ」

 ニヤリと悪戯気な笑みを浮かべるゆり姉。ホント相変わらずだなこの人。ドSめ。

「はーぁ……」

 俺は窓縁に肘を置き、外を眺める。

「でも驚いた。あまり気にしてないのね、おじさんの事」

「気にはしてるけどな。骨もあっちに置きっぱなしになっちまったし」

「落ち着いたら、御墓ごとこっちに持ってくるといいわ」

「その気ではいるけど、暫くは祖母ちゃん達が世話したいって言うもんだからな」

 俺の親父は、今から一か月ほど前に死んだ。死因は過労で、倒れてすぐ入院、翌日にはぽっくり逝ってしまった。

 意識はあったため、親父には自分が死んだ日に俺を大学へ行かせたので、死に目には会えなかった。だからこそ、あまり親父が亡くなったという現実が納得できていない。

 母親は俺が小さい頃に交通事故で亡くなったので、引き取る親族は父方の祖父母か、母方の祖父母かと思われていたが、何の因果か、二男次女だった親父と御袋の家には伯父と伯母夫婦が両方居たために、拒否されてしまった。

 普通逆だろうと考える人も多いだろうが、俺の家はそういうもんだ。血は繋がっていようとも第三者を確立した自分の住まいには置きたくないのも分かる。

 そこで、どうしたもんかと思っていたところに、仲村一家がやってきたわけだ。

 幸い血縁関係もあったため、俺の身元はゆり姉の親父さんが引き受けてくれた。

 その後家賃を解約する等の手続き、あとは大学の転校届けを提出、転入先の大学の試験などがあったので、なんだかんだで一カ月がかかってしまったのである。

「……まぁ、気が済むまでそうさせてあげましょ」

 ゆり姉は俺を気遣ってくれたのか、ため息ひとつついてからそう話しを締めくくった。

「ゆり姉、言っておくけど気遣いとかそんなに要らないからな。俺、変にフォローされると苛立つか話ぶった切るかのどっちかだから」

「はぁ、可愛げのない子ね。分かった、そうする」

 我ながら図太い方だと思う。だが、これくらいしておかないと後々空気が悪くなるのは判り切っている事なので、釘は早めに打ち込んでおくに限る。

「で、ゆり姉今日は休みだったのか? 抗議だったら悪かった」

「大丈夫よ、合間を縫って迎えに来たんだから」

「そら助かる」

「まあ、今日くらいはゆっくりしなさい。何だったら午後から見に来てもいいわよ」

(そうだな……。親父さん達に一度挨拶して、それからになるだろうし。結局昼くらいにはなりそうか)

 時計を見れば午前十時半ぐらい。「んじゃ、お願いしますかね」と言うと、ゆり姉は小さく頷いた。

「あとはそうね……。夜でいっか」

 ゆり姉は少し考えたそぶりを見せたあと、旅館の駐車場へ入るべくハンドルを切った。

 

 

 旅館へ入ると、和風を通している旅館とは思っていたが、思ったよりも現代風に感じた。

 一歩足を踏み入れれば、一流ホテルの様なエントランスが広がり、俺はゆり姉に従業員専用のエレベーターで最上階の十階に通された。

「想像以上だな……。もっと古くて二階か三階建てのもんだと思ってた」

 流石に度肝を抜かれた俺のコメントに、ゆり姉は胸の下で腕を組んで得意げに笑った。

「当然よ。一流と呼ばれている以上、それ相応の発展をして見せないと。名前に相応するための努力を、私達は惜しまないわ」

(とんでもねえお嬢さんだな……。言ってる事がひん曲がってない)

 フーッと息を吐くと、エレベーターが音を立てて十階に止まる。

 どうやらこの階は従業員――というより、仲村家専用のものみたいだな。入口から家具なんかがたくさんあるし、通路にはゆり姉やその親父さん、御袋さんが揃って写っている写真が立て掛けてある。

「へぇ、小さい頃はショートだったんだな」

「っ!? ちょっと、あまりじろじろ見ないでよっ」

 こんなドSにも可愛い頃があったんだなぁ、と思いながら写真を眺めつつ通路を歩いていると、ゆり姉は顔を真っ赤にして振り返った。

「いやこれ、見てくださいって言ってるようなもんだろ……。それともなんだ。俺はずっとあんたの尻を見て歩かなきゃいけないのか?」

「それはそれで嫌ねほんと……っ!」

 いや、俺だってそんなの嫌だわ。変態じゃあるまいし。

 半眼で彼女へと訴えると、ゆり姉はふーと嘆息して額に手をやる。

「……わかった。できるだけ見ないで頂戴」

「それはどっちを? あんたの尻を? それとも写真を?」

「両方!!」

 あぁ、怒らせてしまったっぽい。ゆり姉は声を荒げて、まるで漫画に出て来るキレたおっさんの様な歩き方でずかずかと奥へ進んでいく。

 俺はため息をつきつつ、襟脚に手をやりながら彼女の後を追った。

 もちろん、尻や写真は見ない様にしながら。

 

            ◇

 

 その後、親父さんと御袋さんに今後の事を相談しつつ、この旅館でアルバイトをしながら大学へ通うという事になった。まあ、当たり前の話なんだが。

 ゆり姉の言葉もあったが、早速今日から、という誠意を示したところ、大学への転入の話しもあるし翌週からで構わないという。

 今日は火曜日だし、ほとんど日数がある。

 どうしたものか、と手持無沙汰になった所で、俺はゆり姉と共に大学へ向かうのだった。

 ――で。

 

「どうしてこんなところに、こんなのがあるんだ……」

 

 雰囲気もなにもあったもんじゃない。

 目の前にあるのは、白いドーム状の大学。

 山陽湖大学。地名の通り広い湖、山陽湖を敷地に取り入れた巨大な学校が、そこにあった。

 湖の畔にあるのは普通ペンションとかそういうものを予想していたが、まさか学校とは思わなんだ。

「それじゃ、私は講義あるから、小一時間その辺を散歩してらっしゃい。声を掛けられても『転入生です』って言えば、大人には通じると思うわ」

「そこまで過保護にしてくれなくてもいいッスよ。あまり気に掛けず、勉強に集中してくれ」

「はいはい。それじゃあね」

「ああ」

 ゆり姉は軽く手を振ってから、ドームの中――校舎へと入っていった。

 そして俺も踵を返して、その辺をぶらつこうと踵を返す。

(でも、外だと結構目立ちそうだな……。休憩室にでも見にいってみるか)

 別にゆり姉の後を追うわけじゃない。俺は校舎へと入り、目の前にあった校舎の見取り図をケータイの写真に収め、休憩室ではなく、休憩所と称された場所へと向かう。

 そこには数十人もの男女がノートやゲーム、菓子類を広げ、思い思いに過ごしていた。

 俺は都会の大学とそう変わらない喧騒に目を白黒させながら、中へと入る。

(本でも持ってくればよかったな。これはこれで、居辛い……)

 ケータイをいじりつつなんとか平静を保つが、それも限界。

 そりゃそうだよ。ボッチでこんなデカいテーブル占領してんだから。

 俺だってその辺に腰掛けるところがあればそっちに座ってるわ。埋まってるじゃん、ほぼカップルで。

「はぁー……」

 もう一度周囲を見回し、どこにも逃げ場がないことを確認してから、俺は席を立ちあがると――

 ――唐突に右肩を抑えられ、再度席へ座らされた。

「は?」

「オッス、オラ日向!」

「………」

 いや誰だよ。

 右肩を抑えた主である青い髪に木村さんっぽい声をした青年が左側から手を挙げて視界へ入ってくるのを、目を点にして迎えいれる。

「……おっかしいな、手ごたえがない。ひょっとしてお前、ドラゴンボール知らねーの?」

「いや元ネタは知ってるけど……誰だアンタ?」

「おう、だから俺の名前は日向だ」

「あ、あぁ……」

 すると、俺の背中に衝撃が走った。

「でっ」

 日向、と名乗った青年は軽い悲鳴を上げながら、蹴られたであろう尻を撫でる。

「いきなりそれはないだろ秀樹」

「お前こそいきなり蹴り入れる事はねーだろ結弦!?」

 振り返ると、茶色の髪に神谷さんの様な声をした短髪の青年がいた。

「悪いな、こいつ意外と過激でさ」

「その言葉そっくりそのままお前に返すぜ!」

「俺の名前は音無結弦。で、こっちが親友の日向秀樹。ここの二年だ」

「はあ……どうも。先輩でしたか、失礼しました」

「気にすんなって。あ、菓子食うか? ポテチだけど」

「……いただきます」

 日向先輩は俺の左隣りの席へ座ると、手に持った開封されたポテチを差し出してきた。

 堅あげの塩とはいい趣味をしている。俺は早々に手を伸ばす。

 ぱりぱりと食べると、日向先輩は心底嬉しそうにニカッと満面の笑みを浮かべた。

 音無先輩は向かい側の席に腰掛けると、懐からケータイを取り出す。

「ゆりから連絡があってさ。黒髪でオオカミっぽい奴がいたら手厚く保護してやってくれ、とか言われたよ」

「ああ、ゆりね……。ゆりの御友人の方でしたか。すいません、迷惑をかけました」

「いやいや気にする事ないって。前々からお前の事聞いてたから、ちょっと話してみたいと思ってたんだ」

「そんで、俺達がお前さんを探す役目を買って出た、ってワケさ。そしたら見事に孤立してたもんで、こうして声をかけた次第だ」

 日向先輩はなんだか面白い人っぽいな。ジェスチャーを振り乱しながら話してくれるもんだからうける。

「ゆりの講義もまだかかるし、場所を変えるか。あ、ポテチはしまっとけよ。風紀委員に見つかったらとっ捕まるぞ」

「マジすか……。いやてか今、日向先輩普通に手に持ってたじゃないッスか」

「俺は逃げ切れる自信があるからな」

 むふーっと胸を張る日向先輩。これはまずいやつだ。フラグ立ておった。

「そういやあ、お前さん、名前は?」

「え? ……あぁ、そう言えば名乗ってませんでしたね。――仁徳(ひとのり)です。逢坂(あいさか)、仁徳」

 席を立った音無先輩の問いに、俺はそう答えるのだった。



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仲村ゆりとその周辺

 それから俺は流し込むようにポテチを食い、サークル区画と呼ばれる場所へ連れられ、そこの一室へと足を踏み入れる。

 スライドドアの取っ手に手を掛けた瞬間、音無先輩に腕を掴まれた。

「――待て!」

「落ちつけよ逢坂。こっからすでに俺達の勝負は始まってるんだぜ?」

「いったい何の話ッスか……」

 普通に部屋へ入るだけだろう?

「いいか逢坂、俺達に続けよ? くれぐれも言い間違えるなよ?」

「だから何のこと――」

「「神も仏も天使もなし」」

「……っは?」

 なんなんだこれ……。音無先輩に腕を放され、いよいよドアをスライドする。

 ――瞬間。左側からとんでもない衝撃が俺の半身を襲った。

「――があっ!?」

「ぎゃああああっ!?」

「ちゃんと言えって言ったろバカぁああああっ!!」

 衝撃から吹っ飛ぶまでそう時間がなかったはずなのに、とてつもなくスローモーションに感じた。俺達がいた場から恐らく五メートルは吹っ飛ぶ。俺と音無先輩はなんとかそれ以上は滑らなかったが、日向先輩は俺達の倍以上の距離を吹っ飛んでいく。まさにホームラン。

 彼の悲鳴が廊下に響き渡り、俺は「……スイマセン」と声の方向へ謝罪しておく。

 それより、なんだったんだ今のは。

 俺はその衝撃の元を見る。

「………段ボール?」

 そこにはハンマーの形をした段ボールが、ドアの前でぶらぶらと揺れていた。

「ああ。侵入者対策なんだ」

 前はもっとひどかったんだぞ、という音無先輩の言葉に、俺は乾いた笑いをしながら彼と共に立ちあがると、後ろから日向先輩が戻ってきていた。

「おーい秀樹、大丈夫か?」

「まぁな、どうってことないぜ」

 腕の筋肉を伸ばした日向先輩を見た音無先輩は頷くと、

「よし、戻すか」

 と言った。……え? これを?

(半自動かよ!?)

 いや、ぶらぶらしてる辺りでそうだとは思ったよ。思ってたけどな。

「お、なんだ。逢坂も手伝ってくれんのか?」

「それじゃ、せーので持ちあげるぞ。せーのっ」

「よっこらせえ!」

 天井に空いた所へと段ボールハンマー(俺・命名)を収納し、スライド式になっていた天井の蓋(?)もセット完了。

 一仕事やり遂げた様に額の汗を拭う日向先輩と、ほっと胸を撫で下ろした音無先輩に頭を下げる。

「すいません、まさかこんなトラップがあるとは思わなかったんで……」

「いやいいんだよ。むしろ早めに経験しておいてよかったな」

「誰もが通る道だったんスか……」

「合言葉がうろ覚えだった時なんか吹っ飛びまくりだったからな」

「……ひょっとしてその度に戻して?」

「面白いだろ?」

 阿呆だ……。

「いやー我ながらバカだと思うぜ。でもな、どうしてもやっちまうんだよ」

 ……なんだドMか。

「なんだその目はー。言っとくけどな、俺は別にMじゃないんだぜ? ただ楽しいからやってるんだぞ」

「それを世間じゃMっつうんですよ、日向先輩」

「入ろう、逢坂」

「うッス」

 左肩を音無先輩に叩かれ、俺達は部屋へと入室。すると音無先輩は半身で振り返り――

「え、ちょ、ゆづ――」

 ガラピシャン。

 そのドアを閉めた。

 そしてカチリ、という音が天井から鳴る。

「この音が罠の仕組みがしっかりかみ合った、って証拠になる。覚えておいて損はないぜ」

「了解ッス」

 

『だーっ! 神も仏も天使もなし――ぶへらっ!?』

 

「「あ」」

 シャッ! という音が再び天井から鳴り響き、日向先輩の悲鳴が聞こえた。

「……えーっと、今のは?」

「たぶん、最初の『だー』が入ったんだと思う」

「なるほど」

 俺達はそっとドアを開いて、吹っ飛んだであろう日向先輩を眺める。

 その先には、白い髪に金色の瞳をした美少女が、仰向けで倒れている日向先輩をつついていた。

「――奏?」

「結弦。ここに居たのね」

 探したわ、と言って音無先輩へ歩み寄った奏と呼ばれた、花澤さん似の声をした美少女は、部屋から出て歩み寄った音無先輩と会話を交わす。

「すまない、さっき見つけたばかりで連絡するのを忘れてた」

「見つかったのならいいわ。……それで、あの子が?」

「ども」

 俺は会釈をしつつ、段ボールハンマーを一人で戻しておく。

 すると、むくりと日向先輩が立ちあがった。

「日向くん、大丈夫?」

「ああ平気だぜ。心はちょっと痛いけどな」

「それは悪かったよ」

「ったくよー。後輩の前であまりかっこ悪いところ見させないでくれよなー」

 日向先輩は音無先輩の肩に手を回すと、軽く脇腹を小突く。音無先輩は音無先輩でわかったよ、と答えつつ歩き出した。

 その隣を、まるで見守る様に歩く奏さんの光景が映る。

(あぁ……。良いよな、そういうの)

 俺に無いものを見せつけられたからか、少し胸が痛くなるのだった。

 

 

 どうやら、ゆり姉の参加しているサークルの中で、手の空いているメンバー全員が俺を探してくれていたらしい。

 金髪に赤いバンダナを深く被った、マイケルさん似の声をした男性はダンスを踊りながら全員が揃うのを待っている。

 一方で、部屋の角で箒を人差し指で立たせながら、首元に生地の薄いストールを巻き、沈黙している黒髪の女性は……寝ているのだろうか。

 すると、奏さんは御茶を淹れてくれていたようで、右側からスッと湯のみが出された。

「落ち着かないでしょうけど、二人とも特に危害はないわ。ゆっくりしていってね」

「ども……」

 俺はありがたく頂く事にして、その湯呑に口をつけると――

 

『――浅はかなり』

 

「っ!?」

 唐突に斎藤さんっぽい声が聞こえたと思ったら、とんでもない単語が飛んできた。

 俺は慌てて口を放す。

 なんだ!? (コイツ)に毒でも入ってんのか!?

 その声の主……黒髪の女性の方を見ると、目を伏せてただ沈黙しているのみ。

「毒は入っていないわよ……?」

「あっはい……」

 魚編の漢字が大量に書かれた湯呑に、同じ急須で御茶を注いでいた奏さんにほっとしつつ、俺はようやく口をつけ――

 

『Stop!』

 

「ぶふぅっ」

 ……今度はなんなんだよ!?

「I'm going my way.」

 だからなんだよ……。

 ため息をついてから、俺はようやく御茶を飲む事が出来た。

 マジでこの二人なんなんだ。ワケがわからん。

 その場でふーと一息つく。

「ところで、えー……」

「なに?」

 なぜあなたは俺の隣に座ってらっしゃるのでしょう?

「なぜ、俺の隣に?」

 この部屋、窓際に社長のような執務机がおかれ、高そうなイスもあるのだが、誰ひとりとして座ろうとはしなかった。

 そして、下座にある今俺と奏さんが座っている三人掛けくらいのソファと、その目の前にはテーブルをはさんでシングルのソファが三つ並んでいる。

 普通目の前に座るものだと思っていたんだが。思わぬフェイントに面食らってしまった。

「あなたが可愛かったから」

「……そ、そっスか」

 奏さんの真っすぐな瞳から、俺はすぐに視線を逸らしてしまう。

(このまま恥ずかしがっても意味ないからな……。なんとか話題を探さねぇと)

 あーだこーだと悩んでいる内に、俺はふとゆり姉の事を思い出した(というかすっかり忘れてた)。

「ゆりは上手くやれてますか?」

「それはサークルの中で、という意味かしら? それともこの校内全体ということ?」

「できれば両方で」

「そうね……。ゆりちゃんは人付き合いもいいし活発だから、校内でも知らない子はいないんじゃないかしら。このサークルを立ち上げたのもゆりちゃんだし、みんなとも上手くやれているわ」

「それはよかった」

 俺は安堵の息をはいてから、ソファの背もたれに身体を預ける。

「あの子のことが心配?」

「心配、というか。俺、あまり彼女の事は知らないんで、どんな人なのかと思って」

「その割には、ゆりちゃんの事を『ゆり姉』と呼んでいるのはなぜ?」

「!?」

 俺はぎょっとして奏さんを振り向くと、彼女はお茶をずず、と啜りながらまた俺の方へと向く。

「あの子が言ってたのよ」

「……あー、そッスか……。いや、本当に知り合ったのはつい最近だったんで、あんな呼び方もするべきじゃないってのは分かってるんですがね……」

「いいじゃない。愛称をつけるのは大事よ?」

 急に恥ずかしくなってきた。鼻の頭を掻きながらそっぽを向くと、奏さんは小さく微笑んでいた。

「愛称ですか……」

「日向くんは『ゆりっぺ』と呼んでいるわ。あとは、結弦の妹さんは『ゆーちゃん』とも」

(慕われてんなぁ、ゆり姉……)

 俺とは大違いだな、と自嘲気味に笑うと、奏さんはそれに気付いた様で小首をかしげる。

「でも、御姉さんと呼べるのはあなただけなのだから。その呼び方を大切にした方がいいと思う」

「……そうッスね」

 違う。俺の求めた答えはそれじゃあない。かといって、初対面の女性に求めていい答えじゃない。

 俺は額に手を当てて痛みに耐える様に目を伏せると、ガラリとドアが開いた。

 音無先輩と日向先輩。それにピンク色にツーサイドアップといった髪型をした女の子が入ってくる。

「ただいまー。ってなんだ、TKに椎名帰って来てたのか」

「I'll be back.」

「浅はかなり……」

「おかッス」

「さっき、ふたりで帰ってきたわ」

「そうだったのか」

「ねえねえ結弦先輩! こっちの狼くんは!?」

『……狼?』

 喜多村さんっぽい声を出した奏さんといい勝負の身長をしたピンク少女の言葉に、音無先輩、奏先輩、日向先輩の三人はまじまじと俺を見た。

「……まあ、狼っぽいよな」

「犬でもいい気がするが……」

「わんちゃん……」

 というか、出会って早々狼呼ばわりとは失礼な奴だな。

 俺は眉間に皺を寄せつつ片頬を吊り上げながら笑うと、日向先輩が苦笑いを浮かべて「悪いな」と謝罪してくる。

「こいつかなりの構ってちゃんだからさ、あんまし本気で言ってるわけじゃなし、許してやってくれよ」

「まあ、俺は構いませんがね……」

 ため息をつきつつ御茶を啜り、三人が入室してくる。

「紹介が遅れたな、コイツは日向ユイ。俺のーなんだ、嫁だ」

「………」

 アンタの嫁かよ!?

 道理でフォローするわけだ。嫁さんの方はフォローされて驚かなかったのも当然なわけか。でも省みろよ。

「そういえば、私も自己紹介していなかったわ」

「苗字は聞いてませんでしたね」

 次いで奏さんの方へと向き直ると、彼女は軽くぺこり、と頭をさげる。

「立華奏よ。改めてよろしく」

「ども、こちらこそ」

「ユイは逢坂とタメだから、敬語は使わなくていいぞー」

「あ、そうなんスね」

 俺も自分の名前を名乗りつつ、よろしく、と伝えておいた。

「まーあまりひでさんの嫁っていう自覚ないから、気にしないでおいでよ!」

「自覚はしろよ!? ってかしてください!」

「砂糖吐きそうなんでその辺にしてもらっていいッスか」

 フリーの身には目に毒すぎる。

 

 

 数十分ほどサークルの部室で談笑したところでチャイムが鳴り、数分後にはゆり姉と音無先輩と同じ髪色でもみあげに三つ編みにセミロングといった女の子が入ってきた。

「「ただいまー」」

「おー二人とも、お疲れさん」

「お疲れ」

「おかえりなさい、二人とも」

「おかえりでーす!」

「おかッス」

 俺達は総出で二人を迎え入れると、部屋を見渡したゆり姉に続いて入室した茶髪の女の子は、俺と目が合うと「あっ」と中原さんっぽい声を上げて満面の笑みを浮かべた。

 え、なに。なにその笑顔? おもっくそ何かありそうで怖いんだが。

 じりじりと詰め寄るその女の子に、俺も同じ様にソファでじりじりと後退する。

 ほどなくして、ソファの角に追い詰められた。

「……な、なんスか……?」

 俺は尚も詰め寄ってくる女の子に備えるべく、ソファの角で両膝を曲げつつ防御態勢を取る。

「初めまして、だね」

 ぽんぽんっと。

「………」

 彼女の手が、俺の黒髪に触れ、軽く叩く様にされた後、拒否をしなかったためか左右にぐしぐしと撫でられ始めた。

「えー……。なんスか、これ? 羞恥プレイ?」

「狼みたい!」

「その言葉さっきも聞いた……。なんスか、俺そんなに狼っぽく見えます? ゆり姉?」

 窓際の執務机が置かれた席へ座ったゆり姉の方へ、ヘルプアイを向けると「いまゆり姉って言った……!」と目の前の女の子は目をキラキラさせつつ撫でる速度を加速させる。摩擦で禿げるからやめい。

「まあ、狼よね。色々と」

「You a Werewolf?」

「人狼じゃないわ……わんちゃんよ」

 TK先輩に鋭い視線を送ると、隣に座っている立華先輩がまたおかしな方向へフォローを入れて行く。

「奏先輩がややこしくしていくぅ。それに対して結弦先輩の答えは?」

「うーん……シベリアン・ハスキー、じゃないか?」

「ああ、能美先輩の……」

「ヴェルカ!」

「ユイちゃん違うっストレルカだよー!」

「とりあえず……もう勝手にしてください……」

 俺は深いため息をつきつつ、未だに俺の頭を撫で続ける女の子に自己紹介をする。

「逢坂仁徳。名前は呼びにくいから苗字で呼んでくれ」

「わかったよ。わたしは音無初音! きみと同じ一年生だよ」

「俺の妹だから、よろしくしてやってくれると嬉しい」

「いや、こちらこそ……」

 音無先輩の言葉に、二人を交互にみつつ会釈をした。すると音無の方は頭から手を放す。

 そこでゆり姉がキィ、と回転イスを回しつつ、立ちあがり腕を組んだ。

「さて、と。とりあえず揃ったわね。これから外に出る。全員支度なさい」

「どっか行くのか?」

「お前を案内するために決まってんだろー? ほれ、行こうぜ」

「あ、あぁ……はい」

 ゆり姉に質問をぶつけたが、日向先輩が俺の肩に腕を回して答えてくれる。そして隣には音無が付いていて、ぞろぞろと部室から出て行く。

 

            ◇

 

 それぞれが駐車場に停めていた車に乗り込み、俺はゆり姉の車へと乗車した。

 どうやら音無先輩はバイクだそうで、後ろには立華先輩が乗っている。

 そのため音無は俺の乗る車の後部座席へ乗り込み、助手席に座った俺と運転席にいるゆり姉の間から顔を出すようにしていた。

「そうだ逢坂くん、去年までオンラインゲームやってたでしょ?」

「えっ?」

 今まではゆり姉と楽しく談笑していたというのに、音無は唐突にそんなことを聞いてくる。

 というかなぜ俺がオンラインゲームをしていると知ってるんだ。

「なんで分かった?」

「さっきからライン送ってるの知らない?」

「ライン? ケータイ……?」

「すっごくバイブ鳴ってるのに気付かなかったんだ」

 音無はにっこりと笑いながら、赤いスマホを取り出す。俺も懐からスマホを取り出すと、めちゃくちゃ着信があった。なんだこれ。十二件?

 そこには『みくっしー』と書かれた名前があり、テステスとか顔文字付きで送られてきていた。

「すまん、極小にして……。いや待て、どうしてあんたが俺のラインを知っている!?」

 そうだ。俺はゆり姉以外と誰ともアドレスを交換していないはず。

 だというのに、彼女は一体。

 そもそもみくっしーと言うのは、去年サービスが終了した狩りゲーのオンラインゲームで知り合ったプレイヤーだ。

 オフで会ったことはなかったが、なかなか話し易い相手とあって、メル友もといライン友達になったのである。

 ――つまり。つまり?

 俺は音無を指差して、

「みくっしー……?」

 そう訊ねると。音無は

「Yes! I am!」

 満面の笑みで頷いてから、それを肯定するのだった。



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みくっしーとハク

 そろそろ中の人ネタと人物紹介を……!
 というわけで主人公を押しのけて初音ちゃんから行きます!!

 音無初音(18)
 結弦の妹。サブカルにドハマリしている大学一年生。
 ブラコンであるが、兄の恋人である奏にもべったりなシスコンでもある。
 天真爛漫な性格で、常に明るい。
 主人公の逢坂とはモンハンのオンラインゲームで知り合い、メル友となった。
 父子家庭だった逢坂の親が亡くなったあと、本人からのSOSにいち早く気付き、仲村ゆりを経由して音無家へ迎え入れる。
 特技はボードゲーム(特に麻雀)であり、連続和了するほどの腕前(という名の特殊能力)を持つ。
 趣味はゲーム、カラオケ(主にアニソン・ゲーソン)。ゲームでは三徹などをして倒れたり、カラオケでは喉を嗄らせるほど歌いまくる事もある。

 ※すみません、音無家の皆さんの髪の色をオレンジ→茶にしました! 瞳の色ですよねオレンジ……ほんとごめんなさい!(オレンジとか死神代行の人じゃないですか……)


「……えー……」

 衝撃の事実を聞かされ、俺は頭を抱えながら俯く。

「つまり、あんたがみくっしーで、俺の元狩り友で、音無先輩の妹さんで、ゆり姉に俺を引き取る様に頼みこんだ張本人ってこと、か……?」

「その通りよ。まあ、私達もあなたを引き取る方がいいと思ったから、彼女だけのお願い、ってわけじゃないわ」

 ゆり姉はあっさりと肯定すると、俺は恨めしげに音無を見上げる。

「……なぜそんなまた、面倒くさいやり方を?」

「だってハクに会いたかったんだもん。きみが悪い子じゃないっていうのは分かってたからねー」

「リアルでハク言うな。恥ずかしい」

 ハクとは、俺がやっていたオンラインゲームのキャラクター名だ。そういうところを突かれると色々と痛いからその辺にしておいてほしい。

「まさかみくっしーが女だったとはなぁ……」

「ふっふっふ。変に話しが合ったのはお兄ちゃんがいてくれたお陰なんだけどねー」

「そうだったのかよ……」

 ちなみにみくっしーとはおよそ八年くらいの付き合いである。つまり、中二病の頃やら高二病に悩まされていた時期もきっちりかっちり覚えられているわけだ。

 あの面子の中で一番注意しなければならないのはゆり姉だと思っていたが、どうやら音無兄妹に切り替えなければならないみたいだな。

「どう? びっくりした? ねぇねぇ今どんな気持ち?」

「そういうのうぜー」

 つんつんと頬をつついてくる音無に、俺は苦笑いを浮かべながらトーンを上げて抗議する。

「まぁ初対面じゃないんだし力抜いていこうよってことだよー。ね、ゆりさん?」

「そうね。大体あなたの事は二人から少なからず聞いているから、他のメンバーも」

 時すでに御寿司(おそし)

「………」

「あ、灰になってる」

「……頼むから、これ以上は拡散禁止な」

「大丈夫、もう言わないよー」

 音無は苦笑いを浮かべながらもスマホをポケットにしまうと、俺も嘆息してスマホをポケットに突っ込んだ。

 山陽湖大学から出て、仲村旅館までの道のりを引き返す。

 どうやら温泉街に出るみたいだ。

 旅館の駐車場に車をとめ、温泉街へ。

 箱根ほどの賑わいはないにしろ、それなりに人はいる。雑貨や土産なども置いている店が多いため、殆どの買い物はここで済みそうだった。

「音無の家はどこなんだ?」

「ん? それはあとで分かるから大丈夫だよー」

「あとで? ……それってドゥオウフッ!」

 どういうことだ、と訊ねようとしたが、後ろから日向夫妻のタックルが腰に飛んできた!

「なんスか!?」

「いやあ、そこに逢坂がいたからさ」

「ついノリでタックルしちゃうんだよねー」

「闘牛ですかいアンタらは……」

 どつかれた腰をさすりつつ苦笑いを浮かべると、

「あんた達何してるのよ。おいてくわよ?」

 ゆり姉からの御叱りをくらってしまった。

 ため息をついて彼女の後を追うと、ぞろぞろとゆり姉を中心に音無先輩、奏先輩がつき、もうワンサイドには椎名先輩にTK先輩がダンスをしながら入り込む。

 やっぱりゆり姉がリーダーなんだなぁ、とそこで再確認した。

「あのさぁ逢坂」

「ん、なんスか?」

 嫁さんが音無との会話に入ってしまったため、手持無沙汰になった日向先輩は両腕を後ろ頭に持って行きながら俺の隣につく。

「……いーや、なんでもねぇ。――行こうぜ」

「え? ああ、はい」

 ぱんっと俺の背中を叩いて軽く走り出した日向先輩につられ、俺はゆり姉達のいる方へと走り出した。

 

            ◇

 

 その後小一時間温泉街を回ったあとに解散となり、俺は今、仲村旅館一階のとある部屋へと、親父さん達と共にやって来ていた。

 そこだけは旅館の客間とは全く違う造りをしていて、あまり手をくわえられていない様にも見える。

 テレビもなく、質素な和室の空間。父方の祖母ちゃんの部屋を思い出すくらい、落ち着いたものだった。

 一体ここは何の部屋なのか。

 ゆり姉達三人は真剣な表情をしつつ、礼儀正しく座礼する。

「クロハ様。本日は新たに我が家の者となりました、親戚を御紹介致します」

 親父さんはまるで神仏に語りかける様な言葉遣いで、その和室へと語りかける。

(神様でも祀ってんのかね……)

「仁徳くん、御挨拶を」

「はい。――逢坂仁徳と申します。どうかよろしくお願い致します」

 親父さんと同じ様に座礼を行うと、後ろから畳の床が擦れる音がした。

 姿勢を正し、振り返ってみると――。

 

「――………!?」

 

 言葉を失った。

(猫……猫、が、二足歩行してやがる……!?)

「んにゅ?」

 うおっ、目が合ったぞ今。

「新しい御客様かにゃ? 珍しいにゃあ。まだ梅雨時にゃのに」

(し、喋っとる……)

「――(ひと)くん?」

「えっ、アッハイ?」

 御袋さんに「何かそこにいるの?」と訊ねられ、俺はチラチラとその二足歩行している糸目の黒猫を気にする。

「いや、気のせいです。失礼しました」

 俺は嘘をつきつつ、親父さん達と共にその部屋の前を後にすると、襖を閉める時にするりとその猫も外へと出てきた。

「それじゃあ、戻ろうか。仁くん、実は今の部屋には座敷童子が住んでいると言われていてね。僕達はあの部屋を『奥の間』と呼んでいる。一般の御客様をあの御部屋へは入れないよう、君も気をつけてくれると助かるよ」

「分かりました」

 恐らく、親父さんが言っていた『クロハ様』という人物がそうなんだろう。

 こそこそと俺達の後ろをついて来ている猫も気になるっちゃ気になるが。

 エントランスまで戻ってきたところで、親父さんと御袋さんは俺とゆり姉へと振り返った。

「それじゃあ、僕達は仕事へ戻るよ。ゆり、仁くんのこと、よろしく頼むね」

「分かってる。これから送っていくつもりよ」

(……ん? 送ってく? 寮でもあるのか?)

 俺は目の前にいるゆり姉を見ながらそんな疑問符を浮かべると、親父さん達は微笑んで従業員用のエレベーターへと乗り込んでいってしまった。

「なあ、ゆり姉。送ってくってどこへだ?」

「まあ、追々分かるわ。行きましょう」

 ゆり姉はポケットから車のキーを取り出して人差し指に掛けると、くるくるとまわしながらエントランスから出て行く。

「あ、悪い。ちょっと手洗い」

「先に乗ってるから、早く済ませてきなさい」

「すぐ行く」

 ゆり姉と親父さん達の視線が消え、俺はエレベーターとは反対側の方向――手洗い場へと向かう。

 その曲がり角で立ち止り、今もなお後ろから付いてくる黒猫を待ち構えた。

「んにゃ!?」

 待ち構えていた事に驚いたのか、それとも自分が見えている事に驚いたのかは判らないが、ビックゥ! と身体を仰け反らせた黒猫の首根っこを掴み、持ちあげると、すぐに大人しくなった。

「で、誰だおめーは」

「おいらの名は(トラ)にゃ」

 よろしくにゃと器用に一礼してくる黒猫。

「で、どうしておみゃーにおいらが見えてるのにゃ?」

「いや、俺に聞かれても判らん。親父さん達はお前の事が見えなかったみたいだったが……。気の所為じゃなかったみてぇだな」

「そうだぬー。おいらはぶっちゃけ言えばガキの使いといったところかにゃあ」

「その番組名はあるからやめろ」

「そんなこと言われても困るぬぅ」

 しょんぼりとした黒猫……もといトラを解放すると、トラはその場で胡坐をかく。

「で、俺以外にお前が見える奴は?」

「おみゃーさんが初めてだにゃあ。見えるのも何かの縁にゃ。おいらはこの旅館にいるから、いつでも会いにくるといいにゃ」

「どこに居るかすら検討が付かないんだが」

「奥の間」

 トラの言葉に俺は(また座敷童子絡みか……)と嘆息しつつ、分かった、と頷いてから立ちあがった。

「それじゃ、ゆり姉待たせてっからそろそろ行くわ。またあったらよろしくな」

「またにゃー」

 トラもつられて立ちあがり、前の右足で手(?)を振りながら見送るのだった。

 

            ◇

 

 ――温泉街を抜けた、住宅地域。

 ぶっちゃけ駅から近いうえ、田んぼなどがあるからか、家々の感覚が広い。

 辺りを見回せば夕焼け空になっており、水の張られた田圃がキラキラと茜色に輝いている。

 そんな中の、山側にある大きな一軒家の前に、ゆり姉は車を停めた。

「ここが今日からあなたの住む家になるわ」

「……一軒家かよ……」

「まあ、保護者(・・・)も居るから安心しなさい。――入るわよ」

 俺は荷物を手にゆり姉の後に続くと、ゆり姉は家の玄関でインターホンを押した。

 ――その表札の名前を見て、「えっ」と声が漏れる。

『はーい。あっ、ゆりさん!』

「初音ちゃん、お待たせ。連れて来たわよ」

『今出ますね!』

 インターホンから音無の声が聞こえ、数十秒後に玄関の扉が開く。そこには音無の姿があった。

「二人ともいらっしゃい。入って入って!」

「お邪魔しまーす」

「……お邪魔します」

 ゆり姉はすんなりと入り、俺は恐る恐る入る。

「おじさん達帰ってる?」

「うん! さっき帰って来たよー」

「そう。助かったわ」

「……なあ、ゆり姉。これは一体どういう事だ?」

『初音、ゆり達が来たのか?』

「あ、お兄ちゃん。今きたよー」

 目の前にある階段の上から、音無先輩の声が聞こえて、それから下りて来る音が聞こえた。

「こんばんは、音無くん。お邪魔してるわ」

「ああ。逢坂もいらっしゃい」

「お邪魔してます」

「ハハ、何がなんだかわからないって顔してるな」

 音無先輩は軽快に笑うと、俺は苦笑して「いったい何なんスか……」と訊ねるが、「すぐにわかるさ。まあ入れよ」と上手い事かわされて階段横のリビングへと通される。

 そこには洗い物をしていた茶色の髪をした女性と、テレビの前で新聞紙を広げ、煙草を吹かしている少し長い茶髪をした男性がいた。

「あらゆりちゃん、いらっしゃい」

「おーゆりっぺ。ようやっと来たか」

 糸目の女性は微笑みながら迎えてくれ、気難しそうな表情をしていた男性は新聞紙を折り畳み、テーブル下へと入れた。

 二人はその場を離れ、俺達の方へと歩み寄ると、ゆり姉が俺の前から退く。

「初めまして、逢坂仁徳くん。私は音無美音(みおん)。結弦と初音の母です」

「親父の伊弦(いづる)だ。よろしくな」

「逢坂仁徳です。こちらこそよろしくお願いします」

 俺は二人を交互に見ながら一礼すると、伊弦さんが俺の右肩に触れ、ぽんぽんと叩いてきた。

 優しそうな親御さんだ。音無の明るさと音無先輩の大人っぽさは両親譲りなのか。

「……その様子だと、ゆりっぺから何も聞かされてなかったみてぇだな」

「はあ……。上手い事はぐらかされてしまいまして」

 すいません、と謝ると、伊弦さんはいやいやと手を振り、朗らかに微笑む。

「こんなところで話すのもなんだな。美音、茶を頼む」

「はいはい」

「まあ、適当に座ってくれ」

 そして、窓際のソファへと俺達は通され、ゆり姉の隣に座りつつ、前には伊弦さんと音無、シングルソファには音無先輩が腰掛ける。

「さっきも言った通り、今日からあなたは音無さんの家で過ごしてもらう事になったのよ」

「保護者っていうのはそういう事か……」

 ようやく合点がいった俺はなるほど、と相槌を打った。

「お前さんの大まかな事情はゆりっぺと初音、結弦から聞いてるぞ。ここを我が家だと思って気楽に過ごしてくれ。俺達も、お前を家族として迎え入れるつもりだからな」

「もう、伊弦さん。ちょっと堅過ぎですよ。仁徳くん? あまり気遣いとかしないでいいからね。お母さんと呼んでくれてもいいのよ?」

 うふふ、と美音さんは微笑みながら麦茶を出してくれると、俺は「ありがとうございます」と苦笑しつつ応えておく。

「何か聞いておきたいことはないかね?」

「えーっと……。特にありませんね。ただ……」

「ただ?」

「俺みたいな赤の他人を迎え入れてくれるのは凄く嬉しいんですが、面倒事が起こったらすぐにでも出て行きますんで。ご安心ください」

 とんでもなく失礼なことを言っているのは判っていた。伊弦さんは一瞬驚いた様な顔をした後、美音さんの方へ振り返った。

「……み、美音。こいつ、ウチの初音よりしっかりしてやがる」

「ちょっ、お父さん!? それどういうこと!?」

「まあまあ」

 伊弦さんの隣に座っていた音無が彼へとくってかかる。そんな光景を美音さんは微笑みながら見守っていた。

「えーっと……?」

「――逢坂くん、ひとつだけ言っておくわ。あなたが考えている様な面倒事は今後一切起こらない。というより、私が起こさせないわ」

「ゆり姉……」

 隣で俺を見て来たゆり姉はひとつ頷くと、

「あなたは仲村の人間になったんだから。当然のことよ」

 そう言って麦茶を一気に飲み干してから立ちあがった。

「それじゃあ、私はこれで。彼の事、どうかよろしくお願いします」

「ああ。任せときな。責任持って預かるぜ」

「はい」

 ゆり姉は一礼してから、伊弦さんの返答に微笑むと、リビングから出て行く。

 玄関のドアが開かれ、閉じられる音がした後、エンジンが掛かる音が響いた。

「……すいません、一方的で」

「まぁそう気にするなよ。さて、早速だがお前の部屋へ案内するとすっか」

「分かりました」

 俺は伊弦さんと共に立ちあがり、リビングを出て階段下まで行く。

「あー、ちなみにここを出て左がトイレと洗面所、風呂場になっている。上にもトイレはあるから、覚えといておくれ。目の前は俺の仕事部屋だが、あまり使ってないんでな。好きに入ってくれて構わねぇぞ。蔵書に興味があれば声を掛けてくれりゃ、貸してやる」

「ありがとうございます」

「それじゃあ、上がるぞー」

 伊弦さんの後ろに付きながら、二階へと登る。

「ここの一番奥の左手の部屋が君の部屋だ。その正面は物置きになっているが、右隣りは結弦の部屋になってる」

「なるほど」

「んで、右の手前からトイレ、俺達の部屋、初音の部屋、物置きになってる。俺達の部屋の前の部屋は奏が使ってるから、気をつけてな」

「立華先輩もここで生活されてるんですか?」

「いーや、俺達が普段家を空けがちだからな。奏にはよく来てもらってるんだわ」

「そうなんですか」

「ま、とりあえず部屋へ入ってみるといい。荷解きくらいなら手伝うぞ」

「あ、いや。そんなに荷物はないんで……」

「んーそうか? そんじゃ、俺達は一階に居るから、困った時には下りてこいよ」

「ありがとうございます」

 それじゃあ、と言って伊弦さんは一階へと降りて行く。俺は彼の背中に一礼しつつ、踵を返して自室へと入った。

 十畳ほどの広々とした空間が広がっていて、ベッドや家具類は全て用意してくれていたみたいだ。寝具一式も窓際右手のベッドに乗せられている。

 反対側の左には勉強机も、恐らく音無先輩のお下がりと思わしきものが設置されていた。

(今まで二人で六畳間生活だったからな……。なんだか広く感じる)

 勉強机に手を置きながらも、俺は軽く袖を捲りあげて、入口ドアの脇に置かれた中サイズの段ボール三つを消化にかかる。

 なんでそんなに少ないかというと、親父の遺品や家具類は全て地元で売り払ってしまったのだ。だから、それなりの金はあるものの、この先要り用になることは間違いないので貯金する事にした。

 言うほど身だしなみには気を使っていなかったのもあり、春夏秋冬の衣類は大きい段ボールに詰め込んでおいたので、ドア横のクローゼットへと格納する。

 小物類……というより、文房具系と大学ノートなどが主なんだが……はペン立てと時計を勉強机に乗せ、デスクトップパソコンを売り払って買い直した新品のノートパソコンも邪魔にならない端に置いておき、引き出しなどにノートや電子辞書、文房具を入れて行く。

 残りの一つは就職活動用の道具。リクルートスーツやコート、シャツ、バッグに革靴といったものだ。

(スーツやコートはクローゼットに掛けておくとして、バッグと靴はまだ出さない方がいいか……)

 埃も被るとまずいので、スーツを購入した際に貰ったエコバッグ状のものにバッグを入れ、革靴は傷がつかない様に要らないタオルで巻いていたので、そのまま取り出してクローゼット下に置いた。

 全て空になった段ボールを折り畳み、スズランテープでまとめておく。

(そんなに時間はかからなかったな)

 たったの十五分ほどで荷ほどきを終え、俺はベッドメイクをしてから段ボールを手に一階へ降りる。

「すいません、段ボールどうすればいいですかね……?」

「それなら裏口に置いといてもらえれば大丈夫ですよ。一緒にゴミに出しておきますね」

「ありがとうございます」

「逢坂、まさかもう終わったのか?」

「え? ええ、まぁ。あまり多くは持ってこなかったんで」

「なにか必要になった時には言ってくれよ。買い出しも手伝うからさ」

「すいません、助かります」

 音無先輩に迎えられ、リビングへと入ると、先ほど座っていたソファでは伊弦さんと音無が3DSを広げていた。

「粉塵使うよー」

「ほいよーっと」

 ……モンハンかよ。

「裏口行ってきます」

「ああ、玄関出て左から回った方が早いぞ」

「うッス」

 俺は段ボール片手に外へ出ると、一匹の猫が歩いてきた。

 二足歩行で。

「……トラ?」

「こんばんにゃあ」

「おまえ、どうしてここに。まさか追って来たのか?」

「うみゅり」

 トラはさっきとは違う、ベージュ色の風呂敷を背負っていた。

「なんだその荷物?」

「実はにゃあ、おみゃーの事が心配で来ちゃったんだにゃ。あそこにはおいらを見れる人は一人くらいしかいないからにゃあ」

 ぶっちゃけ暇なのにゃと言われ、俺は首に巻き付けて持っていた風呂敷を解き、持ってやる。

「ここん家の人にはお前は見えないのか?」

「それは入ってみないと判らないにゃあ。あえて見えているのに無視するのか、それともほんとに見えていにゃいのか」

 やれやれ、といった様に肩(?)を竦めるトラ。

「まぁ裏口回るから、ちょっとそこで待っててくれ」

「わかったにゃ」

 トラは玄関口の段差によっこらしょっと声を上げて座りこむと、俺はため息をついて裏口へと回るのだった。

 

 

「あれ? ハク、その仔猫は?」

「ん?」

 再びリビングへと戻ると、キョトンとした音無の言葉に、俺は足元を見る。

「うおっ」

「ごめんにゃあ。段差がきつすぎてしがみついてたぬ」

 ふーっと額(?)の汗(?)を拭ったトラは、未だに伊弦さんと通信をしている音無を見た。

「どうやらおいらの事が見えるみたいだにゃあ」

「ああ、えー……。旅館で飼ってる猫らしいんですが、俺の後を追ってきちまったみたいで……」

 ダメっスかね、と膝を折りトラの頭を撫でてみせると、伊弦さんと美音さんは声をあげる。……は? 見えんの?

「随分細っちい猫じゃねーか。餌ちゃんと食ってんのかー?」

「あらあら。それではにぼしをあげないといけませんね」

「まぁ、うちも犬飼ってるしな。気にしなくても大丈夫だぞ」

「すいません」

 というかいるのか、犬。どこに居るんだ。

 伊弦さんはゲームする手を止め、俺とトラのもとへ歩み寄ると、トラの首根っこを掴んで持ちあげる。

「ふーむ……。まぁいいだろ。その代わり、しっかりお前が面倒見ろよ?」

「はい」

 ならよし、と伊弦さんはトラを解放し、腕を組んで笑いながら認めてくれた。

「良かったな」

「首の皮一枚繋がったぬー」

「ま、そろそろ飯だ。――おーい初音、ワンコ連れてこい」

「はーい」

 音無はすれ違いざまに「よかったね」といいつつ、二階へと上がっていく。

「あー、うちの犬は基本的に初音が面倒見てるんでな――」

 

『うあぁーっ! かぁいいよぅ~!!』

 

「……始まったか」

「こりゃしばらく下りてこないな」

 伊弦さんと音無先輩は天井を見ながらそんな事を会話しつつ、二人は3DSを改めて手に取る。

「あー……。呼び戻してきます」

「おう、よろしくな」

「悪いな、逢坂」

「いえ」

 俺は階段を上り、音無の部屋の前まで行く。

「音無、戻ってこーい」

 ノックしてみるが、ごろごろという音が部屋の中から聞こえて来るだけでなんの反応もない。

「……入るぞ?」

 幸い鍵もあいていたので、俺は入室する。

「――おう……」

 カーテンのしめられた窓際には勉強机が置かれ、その上にはデスクトップのPCが乗っている。

 そのすぐ後ろにはオレンジ色の寝具が綺麗に整えられており、ベッドサイドテーブルにはゲーム機やら漫画などが積み重なっていた。

 一方で、反対側には子犬のケージが置かれており、ベッド前にはテレビとデッキ。その下にはPS3やらゲームハードが入っている。ソフトは恐らく引き出しの中かなんかだろう。

 そして、当の音無だが。

 部屋の中心に敷かれた焦げ茶色のカーペットで、白い子犬を胸にごろごろと転がっていた。

 はぅう~とか唸りながら恍惚な表情を浮かべている彼女へと歩み寄り、俺はその場で屈みながら、

「……おーい。戻ってこーい」

 と語りかけた。当然無反応。

「こりゃだめだぬ」

「みたいだな」

 どうしたもんか、と後ろ頭を掻いたところで、トラが提案した。

「体力が尽きるのを待ってみたらどうだぬ?」

「尽きたところで、この後飯だからな。ガキじゃあるまいし、食事の場で寝るなんてことはないだろうが……」

 嘆息しつつ立ちあがり、俺は未だにごろごろ転がっている音無の尻を軽くひっぱたくと。

「きゃいんっ!?」

 犬みたいな悲鳴をあげ、ビックゥ! と音無の身体がブリッジ状に跳ねる。

 唐突な出来事に俺までビックリし、肩をビクつかせてバクバクと鳴り響く心臓を抑える様に胸元に手をやった。

「なんつー声出すんだ、あんたは……」

「ふぇ……? あれ……ハク?」

 ようやっと正気に戻ったようで、俺ははーっと安堵の息を吐きつつ「夕飯」とだけ告げると、子犬を抱えていた音無はあっとして声をあげる。

「あれから何分たった!?」

「五分も経ってないと思いますけどね……」

 女の子座りになった音無から目を逸らしつつ応える。

「はぁー。びっくりしたぁ。小一時間こうしてたことあったから、もうご飯終わっちゃったのかと思ったよー」

「そもそも、小一時間そうしてられるのはある種才能だと思いますよ……」

「……ハク、どうして敬語?」

「ぶっちゃけドン引きしてます、はい」

 可愛いとは思ったが、流石に十八歳の女の子がするもんじゃない。……いや、()だからまだいいのか?

 それに部屋着のスカートだ。部屋へ入った瞬間ちらっと見えてしまった無地のライムグリーンにちょっとした罪悪感からというのもある。

 ……無地とか言う辺りでちゃっかり見てました。すいません。

 音無はしょんぼりとしたように目を伏せてしまったので、俺はぽんぽんっと昼間の仕返し程度に彼女の頭へと触れた。

 そこで、彼女の髪の毛が数本、俺の手に引っ掛かってしまう。

 指で器用に解きつつ、俺は手を放すと、音無はふと顔をあげる。

 俺は話題を変えるべく、彼女が抱いている子犬を見た。

「で、その子犬は」

「ハクこそ、その子の名前は?」

「こいつはトラ。旅館に住みついてる猫なんですがね。どうやら俺に付いてきちまったらしい」

「よろしくにゃ。……聞こえてにゃいと思うけどぬ」

 そもそも、こいつの言葉は音無達にはどんな風に見えているのだろうか。ちょいと興味あるが、今は確かめる余地はないか。

 とにかく彼女を食卓まで届けさせるのが今の最優先事項だ。

「この子の名前はハクだよ」

「そうですかい」

「……実はきみの名前から貰っちゃったり」

「だろうと思ったわ」

 差し出された白い毛並みの子犬――犬種はプードルか。

 人差し指を差し出し、ぺろぺろと舐め出すハクを見て、俺は苦笑する。

「似てないでしょう、どう見ても。俺に」

「えー! そんなことないよぉ! 可愛いよー? ハクも」

「そいつは褒め言葉ですかい……?」

「褒めてるんだよ!」

 さいですか、とため息を吐きつつ、俺は立ちあがる。

「じゃあ試してみようか?」

「は?」

 スッと唐突にのばされた左手は、俺の左目めがけてやってくる。

「――ッ」

 条件反射で手が出そうになったが、その途中で相手は音無であるという理性が利き、防衛本能を抑え込んだ。

 俺は左目を閉じ、彼女の手を迎え入れる。

 彼女の細い指は俺の眉毛のすぐ下にある傷、上下の瞼にある傷に、まんべんなく触れた。

「……すごい傷。ハクの言ってたこと、本当だったんだね」

「……ええ。まぁ」

 俺は以前……というより、ネトゲで話した事を思い出す。

 この左目の傷は、とある事故で負った傷だった。

 中学時代では剣道、弓道、薙刀と、運動部系の部活を掛け持ちしていた。というより、総合武術部という名称だったためか、この三つが混ざった様な部活だっただけだったんだが。

 色々な資格が取れる高等専修学校に上がってからも剣道部と弓道部を掛け持ちし、それなりに継続していたからか、弓道は全国大会にまで上り詰める事も出来た。

 出場が決まり、自分のモチベーションが最高潮だった時の事だ。その出来事は、唐突に起きた。

 調理学科に通っていた俺は、調理実習の際、同じ学科の生徒によって左目を斬り付けられ、負傷したのである。

 結果、眉毛下の傷は四針縫い、上下の瞼は一針縫う事になった。

 失明はしなかったものの、瞼の機能低下によって視力が急激に低下してしまい、視力は0.01へ……。

 右目は通常の機能は保っているが、左右の視力差に因って、こちらも徐々に下がっていくだろうという診断が下された。

 最終的に出場は辞退となり、剣道部、弓道部からも退部。それからはリハビリなどに専念し、――気付いた時には、高校を卒業していたのである。

 ぶっちゃけ、ゆり姉を始めその関係者に驚かれなかったのは、音無がこの目の事をあらかじめ伝えてあったからかもしれない。

「痛くない?」

「大丈夫ッスよ」

 俺は両目を伏せると、音無は手を放す。

「で、どこが可愛いかっていうと。今みたいなとこだよ」

「は?」

「最初は何されるかわからない、みたいな感じでおっかなびっくりだったりするけれど、すぐにそれを大人しく受け入れちゃうあたりが可愛いんだよ」

「はあ……」

 よく分からないが……。

「大人しくするあたりに可愛げがある、と言いたいんスかね?」

「そういうことだよ」

 むふーっと胸を張り、ぽんっと右肩に手を置く音無に、俺は再三ため息をつく。

「とりあえず、夕食なんで。そろそろ行きましょう」

「わかった。ハクは先に行ってて」

「行かねーですよ。一人になったら二度手間ですから」

「それどういうことー!?」

「言葉通りの意味です」

 詰め寄る音無をさばきつつ、俺は部屋の外まで撤退する。

「あと、俺の名前は逢坂なんで。次からはハクという呼び方には反応しません」

「え、どうして?」

「そいつの名前でしょうが」

 小首を傾げて疑問符を浮かべた音無に、俺はその胸に抱きかかえられている子犬のハクを指差した。

「むぅ……。こうなるなら子ハクにすればよかったなー」

「子供はまだ早いんで……。あと、俺は子供産めませんからね……オスだし」

「そこはせめて男っていいなよ……」

 やばい。音無に初めて苦笑いされた。軽くショック。

「それを言うなら、わたしの呼び名だって変えてよ。お父さんやお母さんだって音無だよ?」

「あー……」

 音無先輩もそうか。でも、彼は彼で先輩と付いているからまぁよさげなんだが。

 日向先輩の嫁さんだって嫁さん呼ばわりだしな……。改めないといけないか? いや、だが一日二日で呼び方変えるのもおかしな話だ。

 ――でもまぁ、音無(こいつ)ならまだ大丈夫か。一応、顔というよりかはあの面子の中で一番気の知れてる相手だからな。

「――初音」

 思いのほかすんなり出た。それほど俺は彼女の事を信頼していたのか。自分でも驚きだ。

 一方で、初音(・・)の方は肩をびくっと震わせ、ハクを両腕で抱きながら顔を軽く赤くする。

「っ。お、おおぅ……。面と向かって恥ずかしげもなく言われると、なんて返せばいいかわからないね……これ」

「そうですかい。んじゃ、俺の名前は?」

「ハ……ひ、ひと……のり……」

「え? なんだって?」

 ぼそぼそ言うなよ。本当に聞きとれなかっただろうが。

 初音は顔を赤くしながら、俺の顔を見てから、

「ひ、仁徳!」

 と叫ぶように言った。

「はい」

「えっ?」

 すぐに返事をすると、初音はキョトンとした顔をする。

「どうしたんですかい、俺の名前を叫んで」

「え、いや、だってハ……きみが自分の名前はって言ったんじゃ……」

「いや、だから呼ばれたから答え……ん?」

 会話が噛み合ってない。

「えっと、名前……違う?」

「合ってますが……。どうして下の名前を? 俺は別に苗字でもよかったんですがね」

「………」

 げしっ!

()ってェ!?」

 脛を思い切り蹴られた!!

「紛らわしいっ!」

「あんたが質問の内容を履き違えたからでしょうが!?」

「おー、下まで響いて来たぞ。仁徳、大丈夫か? 特に足」

「骨が折れたかもしれません……」

 そう涙目で訴えかけると、階段を上って来た伊弦さんは「初音のキック力は並みの男子以上だからな。気をつけろよー」とだけ言って下りて行く。

「そう言うのは、早く、言ってもらいたかった……ッ」

 くおぉぉ……と唸り声をあげると同時、下の階から「ご飯ですよー」という美音さんの声が聞こえるのだった。



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強がりな自分

 お待たせしました! 最新話です!!
 さてさて、今回はようやくメインの中の人も決まりましたので、主人公を(あとがきにて)紹介します!
 それでは、どうぞっ!



 ――夕食を終え、一家団欒という雰囲気がリビングを包み、俺は初音がコンビニへアイスを買いに行くという事で、ついていく事にした。

 トラもついていきたい、と申し出たため、子犬のハクも散歩に連れ出すことになった。

「それじゃ、行ってくるねー」

「行ってきます」

「おう。仁徳、くれぐれも襲うなよ?」

「俺も命が惜しいんでやめときます。というか、襲っていいんですかい? 大切な娘さんでしょうに」

「ハハハ、まっ、そーだわな。言ってみただけだ」

「冗談キツくないッスか……」

 そこそこ打ち解けた伊弦さんと共に苦笑し合うと、初音は「もう、行くよ仁徳!」と俺の背中を叩いて外へ出る。

「そんじゃ、行ってきます」

「おう。気をつけてな」

「うッス」

 俺は伊弦さんに会釈しつつ、トラと共に玄関から出る。

 コンビニは歩いて十分ほどだそうだ。田舎にもあるとは思わなかったが。

 赤い半袖Tシャツに薄手の上着を羽織り、先ほどと同じ濃紺のミニスカートを穿いている初音は、俺が出てきたのを確認するとゆっくりと歩き出した。

「ふう……」

 辺りは真っ暗で、点々としている電灯が何本か。

 お互いライトは持たされているが、やはり電灯の下の方が安心する。

「暗いところは苦手にゃのか?」

「まぁな」

 ちょっとしたトラウマではあるな、とトラの問いに答えると、初音の元まで追いつく。

 暫く無言で、俺は何を言ったものかと悩む。

 すると、唐突に初音が口を開いた。

「ありがとね」

「……何の事ですかね?」

 沈黙を斬り裂いたその言葉は、まったく予想外なもので、思わずキョトンとしてしまう。

「だってきみ、ほんとは一人で暮らしていくつもりだったんでしょ?」

「……そいつはラインの話しですかい?」

 昼間も言った通り、俺は長い間この初音と連絡を取り合っていた。とりわけ現実世界の話しはあまり持ちださなかったが、お互いにしんどい時は愚痴の様にこぼす事もあった。

 俺はそれで、父が亡くなった後、身元引受人が現れなくてもなんとか生活していく算段は立てている、と会った事もない俺を心配してくれた初音に返した覚えがある。

 彼女は俺の問いに頷いた。

「そうだよ」

「……いや。あまり現実的には考えていなかったんですけどね。それこそ、あんたがゆり姉に頼んで、彼女達が出してくれた提案を、俺は藁にもすがる思いで受けさせてもらったんだ。あんたが居なけりゃ、俺はその辺でのたれ死んでたかもしれません」

 俺は自分の強がりを肯定する。少なくとも、意地を張って俺は一人でも生きていける、だなんてことは口が裂けても言えない。というよりできそうになかった。

「情けねー男ですいません」

 俺は初音に頭を下げる。罵声や殴られるくらいの覚悟はしていたが、彼女のとった行動は全くの予想外だった。

 ――そっと、リードが握られた手が、俺の右手に触れてきた。

 左手は俺の左胸に触れられ、突然の出来事に顔を上げる。

「疲れたでしょう」

「……は?」

 俯いた彼女の表情は見えず、ただいつもの彼女とは違う、少し暗く辛そうな雰囲気を感じた。

「きっと、きみはこれ(・・)を全部普通と思っているんだね」

「何の……話ッスか?」

 何を言っているのか理解できなかった俺は、左手で初音の左手を握る。

「……ごめん、なんでもないや」

 次に彼女が見せた表情は苦笑いで、握られた左手をまじまじと眺めた。

「ほんとにボロボロだね」

「できれば男らしいと言って欲しいんスけどね……。流石にこれじゃあ、そんなことも言えないか」

 痛かったか、と訊ねながら、俺は左手を放すと、彼女は顔を横に振る。

 俺は良かった、と目を閉じながら、豆と傷だらけの左手を握りしめた。

「何の傷と豆?」

「特別これといったものじゃあないんですがね。……俺自身が“普通になるための結果”、とでも言いましょうか」

 俺は昔から何をしても下手くそな人間だった。物覚えも悪い、字も、それこそ鉛筆や箸の持ち方ですらままならいほどだった。

 だから、努力した。

 全てが人並みに出来るように。

 それこそ、剣道や弓道、薙刀がそうだ。漫画のようだとバカにされるような練習もした。

 授業で覚えた事はその日のうちに何度もノートに書き直して覚え、体育などでスポーツをやった時はとことんまで技術を身に付けた。

 町内でのスポーツクラブに所属していたクラスメイトや、塾へ通っていたクラスメイトには追い付く事も出来ずに、挫折した時もあった。

 それでも何故か、俺は辞める事が出来なかった。

 全ての練習を並行して行っていたからか、スポーツや勉強などは、中学校へ入って暫くした後には、普通のクラスメイトに追い付く様になっていた。

 が、自分自身がその“代償”という存在に気が付いた時には、遅かった。

 そう。遅かったんだ――。

「――仁徳?」

「ん、あ、はい?」

 初音の声に反応し、目を開いて彼女を見ると、彼女は眉根を寄せて心配気な表情を浮かべている。

 まずったな。初日からここまで心配かけさせる事になるとは思わなかった。

「いや、まぁ……。やり過ぎもよくねえって話ですよ」

「やり過ぎでここまで手がボロボロになる事もないと思うんだけどなぁ……」

「男にゃやらなきゃいけねー時があるんで」

「それは喧嘩の話でしょ?」

「……そうとも言います」

 俺は右手で鼻をこすりながら歩き出す。

(まぁ、今が普通であれば俺はなんでも良いんだが)

 ちょっと待ってよーと慌てて俺を追い掛けてくる初音を見ながら、俺は小さく笑うのだった。

 

            ◆

 

 ――予想はするべきだったのかもしれない。

 今日は昔の事を思い出し過ぎた。

(代償にしては、重すぎる夢だろ……)

 それは名前も顔も知らない人間達と触れ合う夢。そこまでなら誰も気に留めない普通の夢だろう。

 俺が見る夢はいつもその“先”がある。

 女性であれば寝取られるか、輪姦され死姦される。

 男性には悉く裏切られ、見限られ、殺される。

 いや……。危害を加えられる事によっては、男女両方だろう。

 男性に裏切られる度身体のどこかが刺され、女性は自分を見限る度に鉛玉を撃ち込まれる。

 痛みもリアルで、俺はそのショックでいつも飛び起きるのである。

 バチッ、と目を開くと、夢の残滓か撃ち込まれた弾丸の部分が激しく痛む。

「ぐっ……う……ッ」

 あまりの痛みに転げまわる。そしてベッドから落下した。

「……っ()ぅ……ッ」

 冷えたフローリングの床は、全身が焼かれた様に火照っている俺の身体を冷却していく。

 赤子の様に丸くなり、その痛みに耐え続ける事数十分。

 ようやく薄れてきた痛みにうんざりしながら嘆息すると、汗だくの寝巻であるシャツを脱いだ。

(水……あと、タオル濡らすか……)

 その感覚に気持ち悪さを覚えながら、身体中の汗を拭い、高校時代のジャージ(半袖長ズボン)の状態で部屋を出る。

 出る際に時間を確認すると、朝の四時半だった。

 真暗なリビングへ入り、グラスを拝借して水道を流し水分を補給する。

「……ふーっ……」

 シンクのヘリに両手を置きながら息を吐き、グラスを洗って有るべき場所へと戻す。

 そのまま風呂場横の洗面所へと向かい、タオルを濡らして全身を拭く。

 ――目の前の鏡の前には、見るに堪えない自分の身体が映っていた。

 やせ細った体系の割りには筋骨格がしっかりしているが、――そうじゃない。

 心臓の辺りから鳩尾に掛けて、大きな黒い痣がある。

 幸い危険な痣ではなかったみたいだが、同じ様な細かい痣が肩口、下腹部、脇腹。ほぼ全身に存在している。

 胸のあたりは……そう。まるで串刺し刑にあったかのようなおどろおどろしい傷跡の様な痣。これは貫通したように背中にもある。

 肩口は刃物で抉られたかの様な痕が残り、下腹部には銃創のような痣が二点。

 足はもっとひどかった。だからこそ、俺は夏場でも長ズボンは脱がなかったし、上着を着ていた。

 今日痛んだのは、下腹部の痣。銃弾の類だ。

 痣はここまでだが、今まで怪我をした手術痕なども勿論残っている。

(流石に死んだ時(・・・・)のじゃなくて、助かったな……)

 全身がボロボロだというのに、何よりも耐えがたいものがあった。

 それは死ぬ痛みだ。

 大衆の面前で首を吊り、下方から心臓をめがけて槍や銃弾で貫かれる感覚。

 あの尋常じゃないほどの苦しさと痛みは未だに慣れず、この歳でも悲鳴を上げてしまうほどだ。いや、悲鳴にもならない。

「はあ……」

 身体を拭い、新しいシャツへ着替えてから自室へと向かう。

 音を立てずに戻ると、俺の気配に気付いたのかトラが耳をピクリと動かしてゆっくりと顔をあげた

「どうしたぬ?」

「ああ……すまん。起こさない様にしてたんだが」

「構わんにゃ……」

 ぐう、とそのまま再び眠りに落ちるトラ。

 俺は小さくため息を吐き、クローゼットから白いサウナスーツを取り出す。

(目も冴えちまったし、ひとっ走りしてくるか)

 ハンドタオルを首に掛け、袖を通してからまた自室を出ると、

「ん……?」

 リビングからごそごそという物音が聞き取れた。

 誰か起きた様な音もしなかったんだが……。

(……泥棒、なワケないよなあ)

 しかし本当にそれだったら困るわけで。仕方なくそろりと再びリビングへと足を踏み入れる。

 庭に出る窓は閉め切られ、別に荒らされた形跡もない。キッチンの方へ視線を向ければ――どうしてか冷蔵庫が開いていた。

 音を立てずに歩み寄ると、徐々に見覚えのある茶色の長い髪が見えてきた。

「………」

 保冷庫を閉め、二段目の冷凍庫を物色し始める薄い水色の寝巻を着た女の子。

 間違いない。初音である。

 そしてカラフルな箱から取り出されたのは……バーアイス。昨日俺達が買ってきたものだ。

「……太るぞ」

「わひゃあっ!?」

 嘆息しつつ言葉を吐くと、袋を空けようとしていた初音はわたわたとバーアイスをお手玉する。

「ひ、仁徳……!? なぜ仁徳がここに!? 逃げたのか? 自力で脱出を?」

 俺は冷凍庫の引き出しを仕舞いつつ、ぽんぽんと動揺し続ける彼女の頭に手を置いた。

「どこの腹パンさんですかい……」

「夜からずっとアニメ見てたらこんな時間に……」

 あはは、と苦笑い混じりに言う初音の目元には、見事に隈ができていた。

「隈出来てるじゃないッスか……。寝てください。今からでもいいんで」

 片膝をついてそっと右手で彼女の隈を撫でると、初音は片目を瞑りながら眉根を寄せて「ンー」と唸る。

「今いいところなんだよね……。まさかデニスがアカデミアの人間だったとは……とまちょふぅぅぅ……」

「とっととアイス食って寝てくださいよ。俺だけじゃなく親御さんも心配するんで」

「いつものことだよー」

「そこ、笑って誤魔化すトコじゃないんで。……頼みますよ、マジで」

 ふと親父の事を思い出してしまったのか、少し苦しくなりながら言うと、どうやら初音も分かってくれたらしい。少し驚いた顔をしてからゆっくりと頷いてくれた。

「……わかった。三時間くらい寝るよ」

「お願いします」

 ため息をついて俺は立ちあがり、玄関へと歩いて行く。

「仁徳?」

「ん、なんスか?」

 振り返ると、初音はアイスを両手に持ちながら申し訳なさそうな笑顔を浮かべていた。

「ごめんね。行ってらっしゃい」

「……行ってきます」

 外出する事が分かっていたようだった。玄関で靴を履きながら(まあ、着替えてたし当たり前だったか)と気付いて不意に頬が緩む。

 そしてそっと玄関の扉を開閉して外へ出ると、準備運動を済ませて走り出した。

 

            ◇

 

 ――二時間ほど走り込み、途中で見つけた公園の雲梯(うんてい)で小一時間筋トレを行ったあと、家へ戻る。

 時刻的には午後七時頃だ。そのくらいの時刻なら、伊弦さん達も起きているだろうし迷惑はかからないだろうと思い、玄関を開けると――

 ドダダダダッ! と勢いある足音がリビングと二階から響いた。

「あーっ、帰って来た……っ」

「え、先輩?」

 リビングから飛び出してきた音無先輩は軽く息を切らしていた。

 俺は首の汗を拭いながら玄関で立ち状態のまま彼を見る。

「さっき、お前の部屋行ったんだけど、物全然なくて、どこ行ったのかと……ッ」

「とりあえず落ち着いてくださいよ……」

 苦笑いを浮かべていると、階段から伊弦さんが下りて来た。

「おーっ! お前、どこ行ってたんだよ!? 家中探し回ったんだぞ!」

「すいません、早めに起きてしまったんで、軽く走ってきました」

「おう……。ならいいんだけどよ。これからは無言でどっか行ったりするなよ?」

「……すいませんでした」

 そうか。あらかじめこの事を話しておくべきだった。

 俺は伊弦さん達へ謝罪すると、二人は安心したようにぽんぽんと俺の頭を撫で、肩に手を置いた。

「まっ、朝走るって事は分かったからな。次は気をつけろよ?」

「はい。そういえばさっき、初音がまだ起きてたんですが……」

 寝てますかね、と訊ねると、伊弦さんは顔を逸らした。

「……寝てないんスか?」

「い、いや。寝てはいたんだが……。なんつーか、この騒ぎで起きちまってな」

「初音、寝起きは滅茶苦茶機嫌が悪いんだよ」

「おう……」

 流石の音無先輩も遠い目をしながら乾いたように笑う。

「まぁ殆どが寝不足だからってのもあるんだけどな。さて、仁徳も戻って来たし。朝飯にすっか」

「はい」

 俺は靴を棚へ戻してから、洗面所で洗顔等を済ませてリビングへと向かう。

「おかえりなさい、仁徳くん」

 すると美音さんが俺の分の食事をテーブルに出してくれている最中だった。

「ただいま戻りました。すいません、お騒がせしたみたいで……」

「いえいえ、いいんですよ。さ、温かいうちにどうぞ」

「……いただきます」

 俺は食卓に付き合掌をしてから、ゆっくりと箸を左手に取る。

 ……ちなみに、俺の席は音無先輩の隣であり、伊弦さんは所謂お誕生日席に座り、音無先輩の正面である美音さんの二人がはさむ形となっている。

 つまり、俺の目の前には俺以上に目付きを悪くした初音が座り、もそもそと朝食を食べているのだ。

「その……。初音、悪かったな。結局俺のせいで起しちまって……」

「………」

 そう彼女へ語りかけると、初音はじろっと俺を見、しばらくしてようやく口を開く。

「ん、いいよ。わたしも遅くまで起きてたのが悪いんだし」

 言葉尻はあくびをかみしめながらのものだった。どうやら寝起きは不機嫌といっても、一方的に怒るタイプではなさそうだ。

「今日は大人しいんだな、初音」

 音無先輩がそう言うと、初音は少し上機嫌になったのか、得意げに笑う。

「今日は仁徳が『寝ろ』って言ったからね。ちょっと寝れた分機嫌がいいんだよ」

「悪いな逢坂……。できればこの調子で頼む」

「……分かりました」

 となると毎朝四時起きか、もしくは日付が変わるあたりで注意する方がいいか。

 俺はしぶしぶ承諾すると、音無先輩はよろしく、と言って再び朝食に手をつける。

「そういえば、お前はいつから学校なんだ?」

 そして伊弦さんが俺へと問いかけ、俺はひとつ頷きながら返す。

「一応今日からになってますね。少し早目に出て担当の教諭へ挨拶しに行こうかと」

「なるほどな。大学の転入ってのは聞いた事がねえし、何か問題が起こったらいつでも呼べよ」

「有難うございます」

「たくさんお友達ができるといいですねー」

「そうッスね」

 周りに花を散らしてそうな微笑みを浮かべた美音さんに、俺は苦笑を浮かべながらも頷くのだった。




 ここまでお読みくださり、有難うございました。
 それではいよいよ、主人公の御紹介です!

 逢坂 仁徳(18) CV:小野大輔
経歴:前世の記憶を持って生れてきてしまった人物(痛みについては一人称だが、人生観としては第三者視点として受け止めていた)。
 その残酷な人生を理解できていなかった幼少期は真っ直ぐで人懐こい性格だったが、小学校中学年頃から自身の記憶と夢について調べ始め、人間の闇に触れ、人間不信に陥ってしまうが、スポーツ等に熱中していたため、気付いた時には人間関係は皆無になっていた。
 虐めや差別を受けても何も思う事なく、人間不信でありながらも人助けに徹している善人(お人よし)。
趣味:ゲーム(主に狩りゲー※ソロ多め)と写真撮影。初音とはモンハンのオンラインゲームで知り合い、メールのやりとりを始めた。写真については自撮りではなく風景や人物を撮る事で『自分がそこに居た』という安心感を得るためのもの。
人物:一人称は『俺』で、「~ッスよ」という後輩言葉は勿論、「~じゃねーですよ」というぶっきらぼうな口調を主に使う。
 恋愛に関しては「俺は心が狭いんで、恋人が出来てもあいてを束縛するとか、小言が多くなると思うんで相手を疲れさせる」と言って消極的。
 他人の好意や悪意に敏感で、表情の変化などから容易に感じ取る能力がある。
 また、ストレス環境に慣れ過ぎていたからか、最近になって胃の痛みを感じ始めた模様。
容姿:黒髪黒眼。長身痩躯(に見えるが逆三角のマッチョマン)。左目には傷跡があり、視力がかなり低下している。また細目であり瞳も小さいためやや威圧的に見えるが、癖っ毛や痩せ型に見えるため「痩せ狼」といわれる事が多い。
 前世の傷痕が身体の至る所に母斑となって出現しているがガン等などの心配はない。
 ・心臓の部分に何本もの槍や数十発の銃弾を受けた傷痕
 ・肩口に刃物(斧やナイフ類)で抉られた痕
 ・下腹部に弾痕
 ・両腕上腕から前腕にかけて酷い火傷の後や刃傷、弾痕
 ・下半身は拷問の痕等
 あまりにも多い母斑から、当人も気にしており、夏場でも長袖に長ズボンを穿いて過ごしている。

 ……と、こんな感じです。
 ちなみに何故小野さんかといいますと、主人公の過去からなるべく低い声でありながら胃痛持ち(ここ重要)キャラが欲しかったので、WORKINGの砂糖さんしか思い当たらなくて……。ということから、小野さんを採用させていただきました!
 WORKINGネタでも出してみようかな……(喜多村さんもいるし……! あとは阿澄さん入れれば完璧……)
 あと田舎町という事なので大好きな銀匙ネタ(木村さんメイン)やひぐらし、(麻雀のルールや役も最近覚えてきたので)咲ネタも入れて行きたい!!
 ああっ、想像が止まらない……!
 これからもよろしくお願いします!


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クロハ

 UA500、お気に入り8件、ありがとうございます!
 初めて御感想と評価をいただきました! これからも頑張って参りますので、どうかよろしくお願いします!


「それじゃ、俺達は先に部室に行ってるから」

「わかりました」

「仁徳、またね」

「ああ」

 午前八時。始業よりも一時間早く到着した俺達は、校舎の入り口で別れ、俺は教授室へと向かい、部室とそう変わらないドアの前でノックした。

 返事が来たので、入室する。

「失礼します。本日から御世話になります、逢坂仁徳です」

 よろしくお願いします、と言って一礼すると、机で仕事をしていた男性が立ち上がった。

 彼は白衣を着込んでおり、黒髪に赤褐色の瞳をしているが、一番気になったのは……右目に傷が出来ており、瞑られているところだ。

「初めまして。君の教室を担当している乙坂有宇です」

「逢坂です。よろしくお願いします」

 どこか内山さん似の声をしたイケメンは、「そう堅くなることないよ」と俺の左の二の腕をぽんぽんと軽く叩き、緊張をほぐしてくれる。

 その左手の薬指には、綺麗な結婚指輪(エンゲージリング)が通されている。

(既婚者か。ならこの落ち着かせ様にも納得だ)

「仲村から話しは聞いてるよ。学内は一通り見て回ったかな?」

「実はあまり。昨日義姉(あね)に連れてきて貰いましたが、休憩所や食堂などしか観ることができなかったので」

「そうか……。分かった、すまないけど僕はこれから講義があってね……。《SSS(スリーエス)》の部室に行けば、誰かいるかもしれないな」

「《SSS》?」

「ん? サークルの話は聞いていなかったのか。『()()てたまるか()ークル』。通称《SSS》。仲村の作ったサークルの事さ」

(なんて名付けセンスの無さだよ……)

 俺は額に手を当てながら嘆息して苦笑すると、乙坂教諭は楽しげに笑う。

「それじゃあまだ少しだけ時間があるから、部室まで一緒に行こうか?」

「いや、知人が待っているので大丈夫です」

「分かった。それじゃあ悪いけど、また明日ここに来てほしい」

「分かりました」

 俺は一礼してから、教授室をあとにするのだった。

 

            ◇

 

 ――午後十八時。

「ふう……」

 なんとか初日の講義を終え、作成した時間割を提出すると、すっかり外は夕焼け模様だった。

 音無先輩と初音はすでに帰宅しているはずだ。流石に迎えに来てもらうのは抵抗がある。

 荷物をまとめ校舎を出ようと足を向けると、そこには。

「お疲れ様」

 ゆり姉が車のキーを回しながら立っていた。

「どうも。……なんでゆり姉が居るんですかね?」

「初音ちゃんから連絡があったのよ。今日はフルで講義入ってるって」

「そういう事ですかい……」

 気の利くお嬢さんだ、と呟きながら肩を落とすと、ゆり姉はくすりと小さく笑った。

「一度旅館に寄るけど、問題ないわね?」

「大丈夫だけど……あ」

 そういやトラ、昼飯は大丈夫だっただろうか。というよりも旅館へ行くならトラも連れてくるべきだったんじゃないか?

「何か忘れ物?」

「……いや、なんでもねーですよ。ちょっとした用事を思い出したんで、早く行きましょう」

 俺は後ろ頭を掻きながら、小首を傾げたゆり姉と共に駐車場まで歩いて行く。

 昨日も世話になった黒い軽自動車のドアを開き、助手席へ座ろうとしたところで――

 後部座席に座っている、とある生物に視線が吸い寄せられた。

「トラ!? どうしてお前がここに……。自力で脱出を?」

 おっと、今朝の初音のセリフがフラッシュバックしてしまった。

 その生物――トラに語りかけると、後部座席でぐったりとした彼(?)は俺を見上げ、手を振った。

「オイラにとっては脱出なてちょろいぬ」

「そ、そうか……。でもどうしてゆり姉がトラを?」

「まあね。音無くん家に居たのを連れて来た、って感じかしら」

 ゆり姉は左目を瞑りながら、人差し指でその翡翠色の右目を指差す。

「この子、ホントは旅館に居なきゃいけない子なのよ。一応クロハ様の使い魔、みたいな立ち位置だから」

「そりゃまあ、こんなナリですしね……」

 俺は半眼で唸りつつ、助手席へ乗り込む。

 するとトラが後部座席から俺の右肩へと飛び乗り、ずるずると滑り台の様に俺の脚の上に下りて行く。

「さて、それじゃ出るわよ」

「うッス。安全運転でお願いします」

 任せなさい、とウィンクするゆり姉。俺はふーっとひとつ息を吐きながら、走り出した車の車窓から、徐々に離れて行く学園を眺めるのだった。

 

 

 仲村旅館へ入り、ゆり姉は肩にトラを乗せた俺を連れて『奥の間』へ向かう。

「オイラは別にここに居なくてもいいんだけどぬー」

「(まぁそう言ってやるなよ。ゆり姉はお前が言葉を話せるだなんて思ってもないんだろうしな)」

 小声で会話をしつつ、俺は奥の間に続く和室へ足を踏み入れる。

「クロハ様、トラ様を連れて参りました」

 ゆり姉が奥の間へとそう言いながら、俺は肩に乗ったトラの首根っこを掴んで畳へ卸す。

『……ん? トラ、もう帰ってきたの?』

「クロハ、いったん戻ったぬ」

 すると、小倉さんの様なロリボイスが後ろから聞こえ、トラと共に振り返る。

「クロ――は?」

 見れば、黒髪のおかっぱ、左目には市販の眼帯をつけた、黒い着物姿の少女が居た。

「なに?」

 その赤い瞳は、人間味を感じさせない何かがある。そんな瞳が、俺の視線と交錯する。

「アンタがクロハ様ですかい?」

「様はいらん。面倒だろう? ひとのりはわたしがちゃんと見えてるみたいだから許す」

「はあ……そりゃどうも」

 俺は後ろ頭を掻きながら頷くと、ゆり姉は辺りを見回しながらも俺へと訊ねた。

「逢坂くん……ひょっとしてクロハ様が見えるの!?」

「ああ、まぁ。そこに立ってる可愛らしい女の子がそうなら、ですがね」

「嬉しいことをいってくれる」

 クスリと、驚くゆり姉とはまた違った妖しげな笑みを浮かべるクロハ。

「いかにも。わたしがクロハ。そしてそこの二足の猫がわたしの使いのトラ。改めてよう来たな、あいさか・ひとのり」

「ども……」

「自己紹介はきいてた。仲村の血は薄いはずなのにわたしが見えるなんて珍しい」

 クロハはまじまじと俺を見てくる。ゆり姉は息を吐きながら肩を落とした。

「逢坂くん、私はクロハ様がどちらにいるか分からないから、外で待ってるわ」

「あ、あぁ……。わかった」

 ゆり姉は「失礼します」と出口で一礼してから、エントランスホールまで歩いていった。

「ゆりはとても良い子。でもわたしが見えなかった。ちょっと悲しい」

 そんなゆり姉を、クロハは拗ねたように唇を尖らせて見送った。

「そうだ、それだ。アンタとトラは俺以外の人間にはどう見えてるんだ?」

「トラは普通の猫。わたしはまず人間の目には入らない。でも、見える人間にはいろいろある」

「色々?」

「たとえば、わたしの面倒を見なければならない、とか」

「ンな勝手な……」

「わたしが見える以上、諦めるのだな」

 目の前の座敷童子(クロハ)はいじらしく笑うと、奥の間へと入っていく。

 俺はそんな彼女を振り返り見ながら、奥の間へ入る数歩前で問いかける。

「他に見える人がいなければ俺がやるしかない、ってことか?」

「そういうこと」

 クロハは満足げに頷いた。

「さて挨拶はこれくらいにして、少し出かけるとするか」

 そして部屋の角に掛けてあった白紫色の羽織に袖を通す。

「え?」

「フフッ……」

 嬉しそうに、しかし妖しげな微笑みは変えないまま、クロハは奥の間から出ていく。

 俺は彼女に視線を引かれながら、エントランスから外へ向かおうとしている彼女を奥の間の隣の和室から眺めていると、不意にくいくいっとジーンズが引かれた。

「気になるなら追ってみるといいにゃ」

「あ、あぁ……」

 トラにそう言われながら、俺は肩に乗せてエントランスホールへと向かう。

「逢坂くん、どうだった?」

「悪い、ゆり姉。ちょっとクロハを追い掛けてくる」

「え? ええ、まぁいいけど……。ならこれを使いなさい」

 俺はゆり姉にクロハを追いかける事を伝えると、ゆり姉は黒いキーを俺に手渡してきた。

「これは?」

「私が使ってたバイクの鍵よ。今後はそれを使いなさい、ガレージは裏手にあるわ」

「分かった。ありがとな」

「音無くんには私から連絡しておくわ、気をつけてね」

「ああ、行ってくる!」

 バイクの鍵を握り締めると、すでにエントランスから出ようとしていたクロハへ追いつく。

「クロハ」

「なに? ひとのりも来る?」

「ああ、そうさせてもらいますよ。とりあえず(アシ)を手に入れたんで、試験運転がてら付き合ってください」

 俺はバイクの鍵を見せると、クロハはキョトンとした様子でそれを見たあと、くすりと笑った。

「ふふっ……あいわかった」

「回してくる、ちょっと待っててくれ」

 踵を返し、ゆり姉から言われた通り旅館の裏手にあるガレージへと向かう。

 裏手、といっても裏口。古い焼却所などが放置されたところで、旅館が保有している庭とは全く別の場所だ。

 そんな所に、一台分の車が入るサイズの黒い倉庫の様なものがポツリと存在している。恐らくあれがガレージなんだろう。

(……ちょっと待っててくれ、とは言ったけども……)

 ゆり姉のお古といった手前、暫く使われていない可能性が高い。走る前によく調べておく必要もある。

 だが、彼女の性格上最低限のチューニングはしてくれているはずだ。とりあえず待ち人もいるわけだし、俺も確認はしておこう。

 そう思いながらガレージのシャッターをあげると、赤塗りのCBR250Sが顔を出した。

 周りを見れば、どうやらこのバイクが独占している様だ。実際にバイクはこの一台しかない。調整器具などは壁に掛けられている。ひょっとしたらゆり姉か親父さんが趣味で作ったのかもしれないな。

 俺は早速バイクの調子を確かめに入る。

「時間かかる?」

「うおっと!?」

 唐突に後ろから声がした。振り返れば、クロハとトラがいる。

「来たのか」

「あそこは日が当ってちょっと暑い。だから、こっちに逃げて来た」

「なるほどな」

 そりゃそうだ。こっちは裏口――もとい殆ど陽の当らない場所だ。梅雨といっても高地とあってか日射しの強さは尋常じゃない。それにクロハの服装は黒い和服だ。熱も籠るだろう。

「すいません、もう少し時間がかかりますよ」

「別にいい。待ってる」

 そしてクロハは膝を曲げ、俺がバイクをチューニングしているのをまじまじと見て来る。

(なんというか、見られながらっていうのはやりにくいな……)

 高校時代、俺は工業科の知人に誘われてガス溶接の資格を取ったことがある。その実技試験では担当者が異常に圧迫してきたのを思い出した。

 ただ、あの時とは違い刺すような視線ではなく、興味本位で見られている、というだけで、全く違うように思えてくる。

 あの、緊張で手先から冷え切っていく感覚はない。

 まあ、見られている時点でやりにくさというのを感じるのは当たり前だとは思うが。

「……こんなもんか」

「できた?」

 クロハが立ちあがりながら訊ねてくる。頷いた俺は額に浮かんだ汗を袖で拭ったあと、彼女に紫色を基調とした赤いラインのあるヘルメットを渡す。

 ほぼ間違いなくゆり姉のものだろう。

「安全のために、乗る前に被ってください」

「わかった」

 俺はショルダーバッグに腕を通し肩に掛けると、バイクをガレージから出してシャッターを閉める。

「んじゃ、行き先を教えてくれますかい?」

「奥山陽湖」

「……それはどうやって行けばいいんですかね?」

「とりあえず学園の中に入ればいい」

「分かりました……」

 俺はバイクへ跨ると、クロハはちょこんと横座りをするだけ。

「もう少ししっかり座ってはくれませんかね……。危ないッスよ」

「大丈夫」

 ヘルメットを被ったクロハはブイサインをすると、俺の腰に手を回してきた。

 俺は嘆息しながらエンジンを掛け、走り出す。

 

 

 ――帰りには目もくれなかった山陽湖の畔にバイクをつけると、結局バイクから落ちる事もなかったクロハはキラキラと茜色に輝く湖とは違う方向――学園の敷地外の森林へと足を向けた。

「クロハ? そっちは」

「ひとのりはくると言った。だったら最後まで」

 目の前に目的地があるというのに、クロハは気にせず森の中へと入っていく。

「……はあ、分かりましたよ」

 俺は後ろ髪を掻き毟りながら、彼女の後へ続く。

 コンクリートで舗装はされていないが、草木などが除去されたその道を、俺達は歩いて行く。

「(なあ、トラ。奥山陽湖っていうのは学園の湖とは違うのか?)」

 疑問に思った俺は、俺の隣をてくてくと歩くトラへと訊ねる。

「(うむり。あの湖は人工的に作られた借りの場にゃ。実際の山陽湖はこの先だぬ)」

「(人工物だったのか……)」

 少し森を進んだところで振り返り、大きな湖を見る。

 あれほどのものを人力で作り上げるのには、かなりの時間と予算がかかったんじゃないだろうか。

「(その実際の山陽湖はあとどのくらいなんだ?)」

「(歩いて十分くらいかぬ)」

「(そんなもんか……)」

「移設された神社もある」

 俺らの声が聞こえたのか、クロハは割って入った。

 それから神社についての話しを聞く。

 なんでも、学園を作るために樹齢五百年の御神木をわざわざ奥山陽湖の畔まで移動させたらしい。それによって、社も移動したという。それだけで学園を作ったところは金と権力があるという事を悟った。

 すると、その社が見えてくる。

 名前を陽龍神社。赤を基調としたそれはまさしく神社そのもので、どうやら神主さんもいるようだ。生活はどうしているんだろう。

「――おや、ご参拝の方ですか?」

 黒髪に眼鏡をしたインテリ系の男性は白い宮司服を着込んでおり、微笑みながら一礼してきた。

「いや……山陽湖を見にきました」

「そうですか、珍しいですね。お若い方で奥山陽湖を見物に来られる方は少ないのですが、こちらから行く事ができますよ」

 水島さんのような声をした男性は、神社の左手にある道を指し示した。

「ども」

「いえ、お気をつけていってらっしゃい」

「ひとのり」

 俺は会釈で返しつつ、道の前で待っていたクロハへ追いつくべく、速足で向かう。

 それからはさっきとそう変わらない道のりで五分ほど。

(これで十分、ってわけか)

 神社は五分ほどで到着し、奥山陽湖にはもう五分で着く。トラの言葉もあながち間違いじゃない。

 ――林から開けた場所へ出ると、そこには小さな湖があった。

 大きさはおよそ1キロほど。森の木々は湖を囲むようになっているからか、どこか神聖的な雰囲気を纏っている。

 クロハはふーっとひとつ深呼吸をすると、その畔まで歩いて行く。

 湖の周りは石ばかりだ。土がないからか少し足場が不安定になる。

「クロハ、足場が」

「大丈夫。ひとのりもおいで」

 まるで遊びに誘う様な調子で言われ、俺はため息をつきながら彼女のもとまで歩いて行く。

 どうしてかトラは、ついてこなかった。

「ひとのりには、ここを見せておきたかった」

「はあ……」

 彼女の元まで辿り着くと、クロハはその赤い瞳で目の前の本来の山陽湖を見つめる。

「ふふ、じっとして」

 するとクロハは湖の水を両手いっぱいに汲みあげる。まさか飲むのか?

「梅雨時だというのに、この湖の水はいつも冷たい……」

「そりゃ標高が高いからでしょうね。ここは特に」

 まじまじと両手に汲んだ水を見ていたクロハに応えると、彼女は俺へ振り返った。

「ひとのり、ちょっとしゃがめ」

「……まさかぶっかける気じゃないッスよね」

「ちょっとしたまじないと言ったところ。べつに取って喰うわけじゃない」

 いいからしゃがめ、と言われ、俺はしぶしぶ膝を折る。

「心配はいらない。濡れたりもしない。これはまじない(・・・・)だから」

 まじないという名の悪戯でもあるわけだな。

「……本当ですかね」

「わたしが見えるのなら、まじないも信じてもよいのではないか?」

「すいませんけど、俺は見えない側に居た事がないんでよく分かりません」

「それもそうだ。なら、どうだろう。ここはひとつわたしを信じてみるというのは」

「まあ、ここまで付いてきた手前、とことん付き合いますよ。どうぞ煮るなり焼くなり」

「うむ」

 上機嫌になったクロハは、その水を俺の頭にかけた。

「っ」

 不思議と冷たくはなかった。濡れた感触もない。

 ただ、目を開けば目の前に下りている前髪が光っていた。

 いや、髪だけが光っているわけじゃない。身体中が光っている。

 なんだこれは――?

「……ふむ」

 クロハは真剣そうな表情を浮かべた後、嬉しそうにニィッと微笑んだ。

「この地もひとのりを迎え入れることに賛成したらしい。よかったな、ひとのり」

「何の事ですかい?」

「それは教えない。……とはいえ、この町にとっては大切なこと。そしてわたしにとっては、希望の光(・・・・)

「はあ……」

 フフフ、と妖しく笑った彼女と顔を合わせると、「ひとのり、もうたって良い」と言われたので立ち上がる。

 そしてクロハは踵を返しながら「帰る」といって元来た道を戻っていく。

 

 ――今年は特に良い夏になる。良い夏に――

 

 その時にクロハが呟いた言葉が、俺の中で妙に引っ掛かりを覚えたのは、言うまでもない――。

 



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第二章 夏へ
優しさに触れる


 よ、ようやく上がりました……。第二章開始です。
 これからは旅館の描写も多めにしていきますので、どうかよろしくお願いします!


 ――俺が山陽湖町へやってきて、早くも六日が経過した。

 つまり、今日はバイト初日と言う事になるのだ。

 職業適性検査では、接客業の適性ランクはCだったんだが……。

 今更ながら本当に、大丈夫だろうか。

 

            ◇

 

 早朝。時間は五時。

 臙脂色を基調とした、袖襟などには濃緑色のラインが入った仲居服と、同色のズボンという服装になった俺は、姿見でそれを整えていた。

「ふう……」

(この見た目でお客さんの前に立つのはデメリットしかないと思うんだが……)

 左目の傷痕に触れながら息をはいて気持ちを切り替える。

(――ともかく、任せてもらう以上、しっかりやらないとな)

 それが俺を迎え入れてくれた仲村家の人々へ対する、俺なりの恩返しだ。

 最後に襟をシュッと整え、俺は更衣室を出ると、そこには同じデザインの仲居服を着たゆり姉の姿があった。

「あら、結構似合うじゃない」

「そりゃどうも」

 彼女なりの御世辞だろう。俺はぶっきらぼうに応えると、彼女は腕を組んで「なによ、不満そうね」と唇を軽く尖らせる。

「いえ? どう見てもゆり姉の方がお似合いなんで、厭味と思っただけですよ」

「な、なによ。嬉しい事言ってくれるじゃない」

「……ちょろい」

「なんですって!?」

「なんでもねーですよー」

 ゆり姉は感情の起伏が激しい。俺はうっとうしげに威嚇してきた彼女をあしらう様にして廊下を歩いて行く。

 ここは丁度、バイクのガレージがある裏口――そこからプレハブ小屋のゴミの廃棄所を通って、中へ入ったすぐのところ、男子更衣室だ。この従業員通路をまっすぐ歩いて行けば右には事務所があり、左には女性の更衣室がある。その隣にはシャワー室があるものの使われる事は殆どないんだとか。

 そしてそのまま進んだところに岐路があり、左手には厨房。正面はエントランスホールまで続いている。

 俺は今日からこの道を通る事になるのだ。

「おはようございまーす」

「チャー、連れて来たわよ」

『おお、早かったな。入って来い』

 奥から東地さんの様な野太い声が聞こえると、俺はゆり姉と共に厨房へと足を踏み入れる。

 ズラッと調理器具の並んだ厨房の奥には、焦げ茶色の髪に無精ひげの目立つ男性が立っていた。

 格好としては俺と同じ板前服。だが腰には紺色の前掛けがある。恐らく調理長なんだろう。

「ども、新入りの逢坂です」

「ああ、話は聞いている。ここの板長を任せられてるチャーってもんだ、よろしくな」

「よろしくお願いします」

 チャーと名乗った男性に俺は一礼すると、ゆり姉が割って入って来た。

「私のひとつ下だから、仲良くしてあげてね」

「おう。ま、クロハ様からオーダーがあったら俺に伝えてくれよ」

「分かりました」

「じゃ、次に行きましょうか」

 ゆり姉の言葉と共に、俺達は厨房を出る。

「この前も言ったけれど、逢坂くんにクロハ様が見えている以上、クロハ様の御世話はあなたがすること。分かった?」

「それは料理の注文も然り、って事ッスね」

「そういうことよ」

 私には見えないもの、とゆり姉は少し残念そうな表情を浮かべながらも肯定した。

 その憂いを帯びた表情は彼女には似合わないだろう。俺はぽんぽん、と失礼ながらゆり姉の頭に軽く手を置いて撫でてやる。

「わかりましたよ、ゆり姉にできねー事は、俺に任せてください」

「ひあっ。……ん、ごめん。助かる」

(こういうところでは素直で大人しいんだなぁ、ゆり姉は)

 勝気な姐御肌なのか、それとも時たま見せるこの女の子らしいところが彼女の本質なのか。たまにわからなくなるが、少し可愛いと思う。

「ヘンに悩んでると、小皺が増えますよ」

「っ!」

 俺は彼女の顔を覗き込むようにしてみると、ゆり姉は茹であがったタコのように一瞬で赤面した。

「うっうっさいわね! 私だってまだ十九よ!? 確かに最近だらしないときもあったけど……って、何言わせるのよ!? そうよ髪の毛荒れてたわよ! 悪かったわね! 笑いたければ笑えばいいじゃない! あーっはっはっはって!!」

「……そ、そうッスか」

「っ……! なんというか、冷静に反応されるとこっちも困るわ……っ」

 正直ドン引きだった。まさかゆり姉に自虐癖があったとは……。

 俺は(どうしようこの義姉……)と思いながら両目を右手で覆った。

「なによその態度は!?」

「なんでもねーですよ……」

 はぁ、と嘆息した俺は話を切り替えるべく「行きましょう」と言って従業員専用の部屋へと入る。

 バイトの休憩室にも似たそこには、大きな横テーブルに六脚のパイプ椅子、壁にはホワイトボードが立て掛けてあり、窓を挟んだ反対側にはポットなどの御茶等のセットとテレビが上に乗った本棚があった。

 本棚の中を見れば……うわ、なんだこれ。少女マンガと少年マンガがばらばらに詰められてるじゃねーか。だらしねぇな。

「……なにしてるの?」

「気になるんでちょいと手直しを……っと」

 巻数と漫画の題名を分けながら棚に収めている様を、ゆり姉はパイプ椅子に座りながら観察している。

「変なところで神経質なのね、あなた……」

「どうせ相方の見つからない靴下があったら探しちまうタイプですよ、俺は」

 そんな例えをしたら、ゆり姉は軽く吹き出した。

「とにかく。ここに来る面子が暫くあなたと一緒に仕事をする人達になるわ。今日は来ない子もいるけれど、しっかり挨拶だけはしておきなさい」

「分かりました」

 ……そしてなんとか漫画をまとめて棚へ戻し終えると、ゆり姉は「お疲れ様」と言って、なんと御茶の準備をしてくれていた。あのサドの極みともあろうゆり姉が、である。

「ども」

 なんとか驚きを表情の裏側に隠し、礼を言う。

「逢坂くんから私に何か聞きたいことはないのかしら?」

「それじゃあ、一つだけ」

 俺はゆり姉から湯呑を受取り、彼女の対面の席へと座る。

 どうぞ、とゆり姉はお茶を飲みながら俺の質問を待った。

「クロハについてなんですが」

「……うん、そうね。あなたにはちゃんと話しておかないといけないとも思っていたわ」

 この一週間、まともにクロハについての話を聞く機会はまったくと言っていいほど訪れなかった。というより、親父さん達もどこか動揺した様子で、尋ねられる様な雰囲気ではなかった、というのが正しいか。

「クロハ様は、長い間この旅館に住んでいる座敷童子よ。本来なら仲村家の人間だけが見ることができて、そして彼女を見る事が出来る者がこの旅館を継ぐというしきたりになっているの」

「旅館を、継ぐ……」

「ただし、彼女を見る事が出来たのは殆どが女性なのよ。男性であるあなたが見えるのは前例がないことだし……」

「……なにより、俺はもとから仲村家の人間じゃないですしね」

「そういうこと。お父さん達も驚いてたわ」

 実際、仲村旅館では御袋さん――女将の方が立場的には上となっている。番頭である親父さんはその次、といった感じで、俺はここでその力関係についてようやく理解する事ができた。

「ですけど、俺に旅館を継ぐ権利は……」

「まだまだ先の事になるとは思うわ。けれど、あなたはクロハ様が見える以上、この旅館で働かなければならない」

 もとより、俺は仲村旅館(ここ)に就職する気でやって来た。だというのに、唐突に将来のお偉いさんになれと言われても、イマイチ実感が湧いてこない。本来なら俺は一番下で、親父さん達にしごかれながら生活している方が性に合っているのだ。

 だが、クロハという存在が他の人々に見えない以上、彼女とコミュニケーションが取れるのは俺のみ、ということになる。――俺の当面仕事は、彼女の存在が確かにいる、という事実を伝えていく事になるんだろう。恐らく、『御世話』という形で。

「……はぁ、大体わかりました」

『――つまり、逢坂くんは将来この旅館を継ぐということですな!?』

「うおぉっ!?」

 まるでどこぞのリーダーばりの『話はすべて聞かせてもらった!』と言うカンジでバァン! とドアを勢いよく開いて入室してきたのは、斉藤さん似の声をした金髪碧眼の美少女。

 彼女も仲居服だが、白黒のストライプのカチューシャや、花をモチーフにしたシュシュで後ろ髪をまとめるなど、えらく特徴的な髪型をしていた。

「(という事は、逢坂くんと結婚できれば女将になれて、将来安泰……!!)」

「欲望がだだ漏れッスよ……」

「将来安泰のために……うん。(よし、これで付け狙える……)」

 なんか不穏な言葉が聞こえたような……気のせいか。

「今日は早いのね、真実(まみ)

「もっちのロン! 男の子の仲居なんて初めてだから、早めに来ちゃった♪」

 うわ、あざとい。

 真実と呼ばれた美少女はテヘペロと言った様に小さく舌を出してウィンクしてみせる。俺は軽く引きながら、茶を飲んだ。

 見た所同年代のようだ。なら、あまり気兼ねなく接する事ができるだろう。

「逢坂くん、紹介するけれど、彼女はここのチーフ、菅原真実よ」

「紹介に預かりました、菅原真実ですっ! 好きなものは山の幸、苦手なものはゲテモノ系だよ! よろしくねっ」

「ども、よろしくお願いします」

「仕事に関してはふざけないから。あまり心配はしなくていいわよ」

「……信頼はできそうにねーですよ」

「まあ、とにかく。早速始めましょうか」

 ゆり姉はくすりと微笑むと、軽く袖を捲った菅原さんと共にスタッフルームから出る。

 

 

「お葬式の時もそうだったけれど、逢坂くんって何かと物覚えが良いというか、要領もいいのよね」

「そうですかい?」

 空室となっている部屋へ入り、部屋の掃除とベッドメイク。たったそれだけの事を淡々とこなしていると、唐突にゆり姉からそんな言葉を頂戴した。

 まあ、最低限の知識は事前に大学の図書館で調べたり、インターネットなどで調べてはいたのもあるけれど、介護施設などでのボランティアなどにも参加していた事があるというのも一つの要因だろう。

 実際にやってはいないが、従業員さんがしている所を何度も見ている。それがどこか焼きついたんだろうな。

「わたしなんて最初の頃は怒られまくってたのに……」

「まぁ、こういうのは慣れるまで大変だと思いますよ」

 俺の隣でせっせと布団のシーツを剥がして、廊下のリネンカートに入れる菅原さんは、辛い事を思い出したのだろう、若干目尻に涙を浮かべていた。

「敬語禁止。――そういえば、初音ちゃんは手伝わないの?」

「と言うかそれ以前に、どうして初音の名前が出るんですかい?」

「へ~。“初音”って言うんだ~。へぇ~。(ちっ、すでに敵が居たか……)」

 ……なんだろう、初音の預かり知らぬ所で敵を生み出してしまった気がする。

(すまん初音)

「まぁ同学年なんで、殆ど強制させられたようなモンですよ」

「そっか~。それじゃあわたしの事も呼び捨てで呼んでくれる?」

「いや、そいつはちょいと難題ッスね……」

「敬語禁止~! あと苗字呼びにさん付けも禁止ぃ~!」

 そしてその場で駄々をこね始める菅原さん。

 俺はゆり姉へとヘルプアイを送るが、彼女は気付いておらず一人仕事に没頭している。

 だが、チラッと俺を見たあと、呆れたように溜息をついた。

 ――で、それだけ。

 その後は「なんとかしなさい」と言う様に仕事に戻ってしまった。

 そして視線を戻せば、菅原先輩は涙目で俺を見上げてきている。

「……はぁ。なら真実先輩と」

「先輩はやめようよう~……魔法少女だったら死亡フラグだよう……」

(め、面倒臭ぇ……)

 俺は額に手を当てて天井を仰ぎ見る。少しだけ間を持って溜息を吐いていると、やや大きめの物音が立った。

 ゆり姉だ。どうやらカートを蹴ってしまったらしい。

「はぁ……」

 何度目かの溜息をつきながら、俺は菅原さんから踵を返し、ゆり姉の元へと向かう。

「真実、行くぞ」

 少し強く言い過ぎただろうか。真実からの返事はすぐにはやって来ず、心配気に振り向くと、彼女はぽーっとした様に呆けていた。

「阿呆面してねーで早く来てくださいよ」

「あっ、け、敬語禁止ー!」

 すると我を取り戻したのか、ハッとして立ち上がり、彼女は足早に部屋を出るのだった。

 

            ◇

 

 ――とりあえず、早朝業務は終了。残りは大学の授業を終えた夕方からだ。

 俺は最後にクロハの様子を確かめに行ったが、そこには白い布団が敷かれており、彼女はその中でスヤスヤと眠っていた。

 流石に起こすのも悪いと思ったのでそのままにしておいたが、『世話役』と言われた以上、本当にあのまま放置してもよかったんだろうか。

(あとで、ゆり姉に聞いておかないとな……)

 そんな事を思いながら、私服へと着替えた俺は裏手のガレージへと向かう。

 すると、そこにはすでに先客がいた。

 トラである。

「お疲れさんぬ」

「ああ。俺、これから一旦家戻るんだがどうする?」

 時間は丁度七時ぐらいだ。この時間ならギリギリ朝食に間に合いそうだな。

「クロハが起きるにはまだ早いけど、今日はここにいるぬ」

「分かった。またあとでな」

「気をつけてぬー」

 こうして俺は音無家へと戻る。

 

 

 ――俺がこの町へやってきて六日が経ったという事は、音無家の人々とそれだけの寝食を共にしてきた、ということである。

 つまり、音無家の誰が何時に起きるか等も大体の把握もできているのだ。

 一番分かり易かったのは初音だ。

 彼女は登校時間ぎりぎりまで眠っているタイプ。早めに起こしたとしても鬼のような形相で睨みつけてくるため、家族ですら寝起きの彼女とはあまり会話をしない。

 あの家の中で一番の被害者は、子犬のハク。

 この家へやってきて翌日の朝は、とにかく躾がなっていなかったために吠えてしまったらしい。

 だが、その声は一分も経たずに止み、それ以来一度も朝は吠えていないという。

 お分かり頂けただろうか。

 そう。つまり初音の『にらみつける』は相手の攻撃力を下げるのではなく、相手の戦闘意欲を削いで手持ちに返す事が出来るのだ。そしてこの効果は永続する。

(弱点は日光と騒音、あと可愛いもの(フェアリー)属性ってとこか)

 くつくつと笑いを堪えながらバイクにブルーシートを掛け、玄関のドアを開く。

 スニーカーを脱ぎ、それを靴用の棚へと置く。……現在あるのは俺のを含めた四足だ。だが、そのうちの女物の白いミュールは、初音や美音さんのものではない。そしてもちろん俺のものでもない。まずそんな性癖はない。

 美音さんと伊弦さんは仕事のため留守にする事が多いと聞いていた。そして実際、昨日から伊弦さん達は家を出ている。

 つまり、ここから導き出される答えは……。

(リビングには、まだ行かない方がいいな)

 恐らく現在進行形で甘ったるい空間が、音無先輩と立華先輩によって広がっていかねないからである。

 もしそれを目撃してしまったら最後、ブラックコーヒー三杯では済まされないほどの糖度を浴び続ける事になるだろう。最早被曝の類である。

「(……うっ、また胃痛が……)」

 以前目撃した……というよりも爆撃された二人のイチャラブトークを思い出してしまい、キリキリと痛み出した胃をそっと撫でてやりながら、そっと二階へ上るための階段をあがっていく。

(……そうだ、そういえばそろそろ胃薬が切れそうだったな……)

 時間が空いたら買いにいかねば、と思い、俺は階段を上り終えると……。

「……ひとのり……?」

 水色の寝巻を着込んだ初音が、ハクを抱いて眠そうな目をこすっていた。

「あ、ああ……。おはようございます」

 今にも倒れそうなほどの危うさを感じながら挨拶をすると、初音は腹に手を当てていた俺を不思議そうに見る。

「……おなか、いたいの?」

「いや、大丈夫ッスよ」

 ぼーっとした状態で問答を続けていると、不意に初音の力が緩む。

「――っと」

 ふらりとした時には遅かった。彼女は膝から頽れる様にしてその場に座り込む。

 幸い腕を伸ばしたので頭はぶつけなかったから良かったが、もしもの時の事を考えた俺は背中に冷や汗が伝う感触を覚える。

 目の前で眠ってしまった初音を見ていると、腕から脱出したハクが俺の足元に歩み寄ってきた。

「お前さんも大変だな」

 ぽんぽん、とハクの頭を撫でたあと、俺は初音を背負いあげながら、寝かせるべく彼女の部屋へと向かう。

(……まーたこんなに散らかしてんのか)

 床に散乱した少女漫画やDVDを見て、嘆息しながらも彼女をベッド上まで運ぶ。

 ベッドの上には携帯ゲーム機などが大量に置かれており、枕の周りが全部ソフトで埋め尽くされている。

 毒りんごを食べて眠りについた姫様の周りを、花からゲームソフトに入れ替えてみればこんな感じにはなるだろう。

 俺は袖を捲り上げ、まずは床に散乱した少女漫画やらを片づけ始める。

 元あった棚へと並べたり、DVDはタイトルの同じものへと移したりといった作業をてきぱきと終えると、次はベッド。

 彼女を起こさない様に最低限の注意を払いつつ、ソフトなどを回収してDVDと同じようにケースへ入れていく。

「んん~~……。おにいちゃん……?」

 そこで、薄ら目を開ける初音。

「いえ。ハウスクリーニングの者です」

 眠気MAXで、甘えた様な声をあげる初音に苦笑を浮かべながら答えてやると、「うそだ~」と軽く笑ってみせる。

「少しは自分で掃除してくださいよ。もう美音さん居ないんスよ」

「かなちゃんがやってくれるからへいきだよ~……」

 こと家事においては他力本願かよ。まったくこの干物妹(ひもうと)は……。

 フードでも買ってきてやろうか。縮むのかなアレ。

「ったく……」

 俺は苦笑を浮かべながらベッド回りの片付けを続行すると……。

 唐突に私服であるシャツを引っ張られた。

「うおっ!?」

「寝起きの女の子の部屋に入るなんてダメだよ仁徳」

 まるで俺がベッドへ上体から突っ伏す様な感じで、頭を初音に抱えられてしまう。

「ちょ、マジで起きてたなら言ってくださいよ……。あと汗臭いんでやめた方がいいですよ」

 そんな俺の制止も聞かずに、彼女はまるで犬を撫でる様に俺の頭を撫で始めた。

「お仕事お疲れ様」

「……まぁ、仕事は仕事なんで……」

(あぁ……こいつはまずい)

 ゆっくりとした口調。人に触れられている事の安心感。尚且つ頭を撫でられるこの心地よさ。

 ここ一週間は、殆どが浅い眠りで痛みを伴っていたためか、耐え難い睡魔が俺に襲いかかった。

「なら。ちょっとだけ、おやすみ」

「――――………」

 そんな初音の優しい声音に誘われてか、俺の瞼はゆっくりと閉じる。

 ――その時の夢は、どうしてかとても優しい夢を見た気がした。



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惚気に触れる

「………」

 ゆっくりと目を開く。

 柔らかい、肌色の何かが見えた。

「……起きた?」

 ふと、頭上から初音の声が聞こえる。

「起きた」

 今どの部分に触れているのか一瞬わからなくなるくらい柔らかい肌に俺は顔をくっつけながら、なるべく早急に離れようと努力するが……。

「ってて……」

 無理な体勢――正座の状態で座卓へ顔から突っ込む様な体勢をしていた俺は、身体を戻した瞬間腰と背中のあたりが悲鳴をあげる。

 その場で胡坐をかき、すっかり覚醒しきっている初音の顔を見た。

 というか……今気付いたけど滅茶苦茶際どい格好してるな。

 ボタンつきのパジャマだからか、上腹部までボタンを取っており、完全にへそが丸見えである。

 それで横になって寝ているもんだから、寝巻の奥にある水色のブラが見え隠れしているので大変目に悪い。

 ――思えば母さんが死んでからそんなものとは縁の遠い生活を送っていた俺だが、ここ一週間の生活で殆ど見慣れてしまった、というよりかは適応してしまった、と言った方がいいのだろうか。それほど初音の下着に過剰反応する事はなくなっていた。

 え? 美音さん? いやあの人は人妻だろうそんな性癖はないし俺だって命は惜しい。

 んっと俺は軽く伸びをすると、初音もようやく上体を起こす。

 時計を確認すれば、どうやら30分ほど眠ってしまっていたようだ。まあ音無先輩達のペースからすると丁度いい塩梅になってくれていそうだが。

「はあ……。そろそろ下りて行かないと、あの二人も困るでしょうし行きますか」

 襟脚を抑えながら首を回しつつ立ち上がると、足元で寝転がっていたハクを片手でひょいっと持ち上げながら自室を出て行く。

「初音?」

 そしてベッドから降りて来ない初音を振り返ると、

「………今日は休もう。うん」

「バカな事いってねーで早くきてください」

 毛布にくるまり枕を抱きしめている彼女がいたので、俺は首根っこを掴んでずるずると引き摺ってゆく。

「あぁ~~お休みが欲しいんじゃ~~っ!」

 出来るなら俺も欲しいわ。というか全学生誰もが思うことだろう、それは。

「さあ一週間を始めましょうかい」

 そんな初音のバカ発言に付き合いながら、俺達はリビングへと向かうのだった。

 

 

「結弦……」

「……奏」

「「………」」

 未だにリビングはクライマックス状態だった。

 窓辺で二人して抱き合いながら見つめ合うバカップルを無視して、椅子へと初音を座らせつつキッチンへと歩いてゆき、冷蔵庫を開け食材を取り出す。

「(あぁー胃が痛い……)」

 キリキリと痛む胃を抑えながら朝食分に使う野菜を切り、残りをラップに包んで野菜室へと入れ、調理に取り掛かる。

「初音、和食でいいか?」

「ん~……なんでもいい」

 いつも通りにぐったりとした初音はテーブルに突っ伏しながら顔をあげて答えた。どうやら今日はしっかり眠ったみたいだな。

 最近の初音は深夜帯に起きてくる事もなくなったので、毎朝の機嫌も少しずつ良くなってきている。

(このまましっかり睡眠取ってくれれば世は事もなし、なんだけどな……)

 昨日購入したネットで通信プレイができるFPSゲームにドハマりしてしまっているので、また睡眠不足に陥るんじゃないかと気が気じゃない。

 ただゆり姉と一緒にプレイしているみたいだったからな、しっかり制限してくれるだろう。

 ――閑話休題。そんなこんなで出来上がったやや濃い口のほうれん草の御吸い物と鮭の塩焼きが出来上がる。

 白米も充分にあるので、朝食はこんなものでいいだろう。

「ほい。待たせたな」

 未だに突っ伏していた初音の背中をぽんぽんと軽く叩いて上体を起こさせると、その前に朝食を並べる。こうしてやれば再度突っ伏して眠るなんてことはまずない。

「……音無先輩達も、イチャイチャすんのはもうその辺にして朝飯にしませんかい?」

 ふう、とため息交じりにそう言うと、二人はハッとして俺達を振り返って赤面。同時にわたわたと慌てだす。

「いっ、いや別にイチャイチャなんてっ……」

「イチャイチャじゃないわ。らぶらぶしてたのよ」

「あ、ああ……そうだな」

 すっと音無先輩の胸元に頭を預け寄り掛かった立華先輩にたじろぐ音無先輩。本当、フリーの目には毒なんでそろそろ簡便してほしい。

 俺はキリキリと痛み続ける胃を抑えながら「そッスか」と苦笑交じりの愛想笑いを浮かべて席に着くのだった。

 

            †

 

 所と時間変わって昼休み。俺は昼食を取るべくいつもの部室へ向かっていた。

 すると……。

 

『発想は悪くないかと』

『アイツ引っ掛かった――ぶほっ!?』

『秀樹!?』

 

 なんて声が響き、俺は駆け足にその場へと向かう。

 と、日向先輩が入口で両手で顔を抑えながらのたうち回っていた。

「睫毛がッ……睫毛が持ってかれた……っ」

 くぉおおおおっ……という痛そうな悲鳴を上げているところで俺は歩み寄り、日向先輩に「えっと……一体何があったんですかい?」と苦笑しながら中に居た音無先輩と、先日は宮司服姿だったインテリ系の男性を見上げる。

 そして彼はメガネのブリッジを持ちあげながら日向先輩を眺めていた。

 音無先輩がビッとドアの両脇に何重にも貼ってあったセロハンテープを剥がす。

 繋がっていたであろうそれは切れていて、切れ端には何本かの睫毛がついている。

「セロハンテープトラップだよ」

「うわあ……」

 俺は引き攣った笑みを浮かべつつ(本当にそういうのやる奴いたんだ)と思いながら懐に入れていた目薬とハンカチを日向先輩へ与えた。

「というか、それ勢い良く行く奴じゃありませんでしたっけ? トラップありますし引っ掛かるなんてこと」

「その為に一時的に解除したんだよ……クソッ、高松の反射神経を侮ってたぜ……っ!」

「高松……先輩ですかい?」

「あなたは先日の。初めまして、二年の高松です」

「一年の逢坂です。よろしくお願いします」

 立ちあがって高松先輩と握手を交わすと、ようやく落ち着いたのか日向先輩は俺に目薬を返してくれる。それと合わせて手を引いて立ちあがらせた。

「わりぃな、ハンカチは洗って返すわ」

「いや、気にしないでくださいよ。……代償はその睫毛だけで充分ッスから」

「うっわ、結構抜けてんじゃん! やっぱラップ系のがいいなぁこういうのは」

「まずやらないっていう考えはないんスね……」

 自分の抜けた睫毛を確認している日向先輩と音無先輩からゴミを受け取り、燃えるごみの箱へと捨てる。

「そう言えば逢坂、初音とは一緒じゃなかったのか?」

「あぁ、講義は一緒だったんスけど、今は嫁さんと一緒にこっちへ向かってるはずですよ」

 嫁さんというのは日向先輩の奥さん、ユイの事だ。正直名前呼びするにはまだ交流が足りないという勝手な自己解決からそう呼んでいる。

「そっか、一年メンバーで唯一男子だからな……」

「気遣うのも大変だなぁ」

「嫌々付き合ってるわけじゃありませんから。割と二人は仲良いですし、野郎一人が邪魔に入るわけにはいきませんよ、っと。みなさん茶要ります?」

「おー、俺コーヒー」

「ああ、それなら俺も」

「はい。高松先輩は?」

「私は結構です。自前のがありますので」

「了解でっす、と」

 それじゃ、俺もコーヒーにするか。

 インスタント系のコーヒーをそれぞれ専用の湯呑へ淹れ、持っていく。

 ちなみに俺の湯呑は卒業していった先輩のものを使わせて貰っている。魚偏が大量に書かれているものだが……。実家が寿司屋かなんかだったのだろうか。

「ほい、日向先輩は砂糖多め、音無先輩は少なめで良かったですよね」

「サンキュー!」

「はは、悪いな」

「いえいえ。後輩の仕事ですから」

 俺は高松先輩の隣へ腰掛ける。

 どうやら高松先輩の昼は弁当のようだ。色とりどりの食材がぎっしりと詰められている。

 だが……なんだろう、カルシウム系が多いな。ひょっとして骨が弱かったりするのか?

 なんて思っていると、高松先輩は自分の水筒のふたを開け、それをコップ代わりにして注ぐ。

「っ!?」

 牛乳。牛乳だ。それも温められた様な感じに湯気が立っている。ホットミルク、なのか……?

 そこでぎょっとした俺に気付いたのか、高松先輩は頭上に「?」と疑問符を浮かべながら俺を見た。

「どうかされましたか?」

「い、いや……。なんというか、健康的ですね」

「ええ。まあ鍛えていますので」

 どういうわけだ、それは。

 高松先輩はくっとそれを一口飲むと、そのまま再び自分の弁当へ手を付け始める。

 まあ、先輩の食事は良いだろう。俺はいそいそと自分の弁当を広げる。

「そういえば、今日の弁当は逢坂が作ってくれたんだっけ」

「流石に立華先輩と比べられると、味の好みとかは負けますけどね」

「そんな事ないさ。美味いよ、本当。奏とは違ってがつがつ行けるからさ」

 謙遜している俺に構わず、本当に嬉しそうに弁当を食べて行く音無先輩。

「そいつは何よりです」

 俺も自分の弁当に手を付け始めると、俺と対面に座っていた日向先輩がじっと驚いた様な目で俺を見ていた。

「えーっと……どうかしましたかい?」

「逢坂……お前は料理が出来るやつだったんだな」

「まあ……はい」

 親父が仕事で遅い時なんかはいつも一人で料理もしていたしな。基本家事は俺が担当していたからか、一般家庭で出すレパートリーはそれなりに多いと自負している。

「モテ要素ありまくりだろ! ふざけんなイケメン!!」

「イケメンにイケメンと言われると……なんか複雑ッスね」

 嘆息しながらぱくりと唐揚げを一口放る。

「羨ましい……! 俺に教えろください!?」

「愛情は最高のスパイスって、この前嫁さんが言ってましたよ」

「愛情でカバーできるもんならなあ!?」

 ぐいっと出されたのは、日向先輩の弁当。

 それは『ひでさんLOVE(はーと)』とケチャップで書かれたオムライスだった。

「愛情一杯じゃないっすか。けしからん」

 ジト目で俺は日向先輩を睨むと、彼はくふうっ……と目尻に涙を堪えながらずいっとテーブルから乗り出してくる。

「いいか逢坂……この一週間、俺の昼飯はこれなんだ。そのうえ字も一緒……この悲しみが分かるかっ!?」

「作ってもらってるなら何も言えないと思いますがね……」

「見た目だけならな……。逢坂、とにかく一口食べてみろ」

「はあ……」

 ため息交じりに俺は日向先輩からプラスチック製のスプーンを受け取って、食べる。

 ――これはッ―――!?

 この、口の中に広がる酸味! そして非常に強い甘さと、弱すぎるしょっぱさのこの絡み合い!

 なんというか、“濃い”。

 オムライスよか、ピザ向けの味だなこれは……。

「乙坂教授の妹さんから倣ったらしい“秘伝のソース”で創られたオムライス! この味を毎日だ……料理の出来るお前ならわかるだろう……?」

「これは……色々とマズイッスね……」

 流石に料理を日向先輩が学ばないといけない気がする。

「ひょっとして、その秘伝のソースとやらを毎度……」

「ああ。アイツはなんでも料理に入れている……見た!!」

 くわっと尋常じゃないシリアスな顔を向けた日向先輩に、音無先輩と俺は苦笑い。

「まあまあ。ユイも頑張ってるんだろう? もう少し見守ってみたらどうだ?」

「他人事だから言えるんだよぉそんな事はぁぁ……っ」

 がっしと音無先輩の両肩を掴んで泣きつく日向先輩。

「というか初音達遅いな。本当に後から来るんだよな?」

「ええ。そのはずですけど……」

 俺達は部室のドアの方を眺めていると、そこに人影が見えた。

 そして次の瞬間――シャッ。どごぉっ!!

 

『あ』

『歩み゙っ――ハルトォオオオオ――――ッ!?』

 

「やっべ乙坂教授の声だ! 合言葉変えたの伝え忘れてたッ」

「乙坂さんッ!?」

 急いでドアを開き、廊下を見渡すと、まるでドラゴンボールのような倒れ方をした乙坂教授が居た。

「教授っ! しっかりしてください教授!!」

 音無先輩が乙坂教授の状態を抱えあげると、彼は虚ろな目をしながらゆっくりと腕を上げる。

 

「ハルト……見てごらん、蝶だよ……」

 

「なんか虚ろな目して凄い事言い始めた! これじゃあタグ的に危ない!!」

「あんたには弟いないだろう!?」

 ずるずると乙坂教授を部室へ運び入れ、段ボールハンマーを戻しながらなんとかソファの上へ寝かせる。

「おいおい……どうするんだよこれ」

「分からない……とにかく、乙坂教授の意識が戻るまで待つしかないだろ」

「――ハッ!? 僕は一体どうして……」

 起きるの早いなオイ?!

 すると日向先輩がその場で一礼した。

「すいません乙坂教授! 俺達勝手に合言葉変えちまってて」

「ああ、そう言う事なら仕方ないさ。で、今度の合言葉は?」

「『神も仏も天使もなし』」

「ん、分かった。いやあ、久々に食らったな、あのハンマー」

 ははは、と乙坂教授は何事もなかったかのように笑いながら起き上がり、頭を掻く。

 それがどこか楽しそうで、俺以外の皆が皆、笑みを浮かべていた。

「それで乙坂教授、一体どうしてこんなところへ?」

「ああ、それがさ……」

 どうやら自宅に弁当を忘れて来てしまった様で、奥さんが職場から持ってきてくれる手筈になっているのだとか。

 それなら玄関口で良いのではないか? と思ったのだが、どうやらお互いに恥ずかしいそうで、OBとしての立場を利用してこの部室を希望したらしい。

 と言うか、奥さん来るのか。

 それならばと色々と席を詰めたりして、人数分の席を作っていると……。

 女性陣の声が聞こえて来た。

「おっ……」

「どうやら、来たみたいだな」

 乙坂教授は立ちあがり、ドアを開いて顔だけ外へ出す。

「やあ」

『なにが「やあ」ですか。まったく、人の作ったお弁当忘れるなんて』

「ごめん、ごめん」

 部室から手を振り、渡された弁当を持ちながら一人のスーツ姿の女性と部室へと入ってくる。

 ウェーブがかった、ポニーテール状にまとめられた銀色の髪。アイスブルーの瞳。

「おや、新顔さんですか」

「ども……」

 綺麗な人だ。彼女は腰に手を当てながら満足げに笑う。

「初めまして。乙坂奈緒です」

「逢坂仁徳です」

 どぞ、と言って俺は乙坂夫婦を上座へ案内する。

 それからぞろぞろと女性陣が入って来て、いよいよ野郎勢は立ち弁当となってしまった。

 ……どうしようか。イチャイチャの予感がしてきた。予知なのかは分からないが胃がキリキリと痛み始める。

「そういえば、歩未はどうしたんだ? 今日は半日だったんだろう?」

「歩未ちゃんは一足先に帰りました。お弁当もなかったんでおそらく直帰です」

 乙坂教授は少し不満げな表情を浮かべると、奥さんの方はイライラした表情を旦那の方へと向けた。

「歩美ちゃんは渡さねーかんな」

「いや渡すとかじゃなく僕の妹――」

「私で我慢して」

「えぇっ……!?」

 すると乙坂教授はぎょっとした様子で奥さんを見る。奥さんは威圧するように黒い表情を浮かべて行く。

実家(あっち)には絶対行かせねぇかんな」

「えー……あー……」

「身を呈して守るかんな乙坂歩未をッ」

 うわ、なんか男らしいな奥さん。

 乙坂教授は複雑な表情を浮かべて頭を掻きむしり、どちらからともなくその場で立ちあがった。

「それなら奈緒は僕と歩未どっちが好きなんだよ!?」

「あなたに決まってるでしょうが!!」

「なんでそこまで歩未を僕から遠ざけるんだよっ」

「それは私の嫁だからですよ!!」

「君は僕の嫁さんだろ!? 最近僕に対して菜緒ちょっとキツいよね!?」

「えっ、好きでしょ?」

 と、唐突にキョトンとする奥さん。対して乙坂教授はあたふたし始める。

「いやいやいや……優しくされたいぜ?」

「ほんとに?」

「ああ」

「なんかそういうきらいがあるってこの間歩未ちゃんが言ってたから……」

「えーっと!?」

「ほら、あなたが夏風邪引いた時。あの“僕今日無理だ……”とか言ってた時」

「ああー! あの時か! あの時言われたのか!?」

「その会話聞こえてました?」

「いや聞いてない」

「あ、それで大丈夫ッス♪」

「ひょっとしてもっと酷い事――」

()ってないよ?」

 やや前のめり気味に言ってのけた奥さんに、乙坂教授は頬をひくつかせる。

「おいおいおい……」

「――ぐふっ」

「ひっ、仁徳!?」

 俺はあまりの糖度によって胃の痛みに耐えきれず、その場に膝をついてしまった。

 自分で作った弁当箱を落として中身をひっくり返し、そのまま前のめりにバタリと倒れこむ。意識が途切れる直前で―――

「――洗濯、を……ごばッ」

「逢坂くんっ!?」

 駆け寄ったゆり姉にその言葉をつぶやきながら、俺はいよいよ意識を手放した。




 どうしよう、タイトルに悩む……。


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