蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路― (竜華零)
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Depth000:「雨の中で」

 ――――前にもこんなことがあったな、と、少女は思った。

 目の前には陽の光を遮る分厚い雨雲と、雨粒の波紋が広がる青灰色の海が広がっている。

 海風に(あお)られる水滴は少女の全身を濡らし、体温を奪い尽くしていく。

 額や頬に張り付く黒髪、肌の色が透けた衣服は、見ているだけで寒々しかった。

 

 

 少女は、埠頭(ふとう)にひとり立ち尽くしていた。

 

 

 ただしその埠頭――港は、相当に大きな規模のようだが、荒れ果てていた。

 焼け焦げたコンクリートの岩壁、砕けた鉄製の係留柱(ボラード)、折れ曲がった荷役用可動設備(ガントリークレーン)、骨組みだけになった倉庫群と、穴が開き着底した灰色の船舶……。

 周囲に人気は全く無く、(さび)れたと言う表現以上に寂れた港だった。

 そんな場所に1人でいると、余計にそう思える。

 

 

『泣くな』

 

 

 一方で、これは少女にとって初めての経験では無かった。

 数年前にも1度、こうして嵐の吹き(すさ)ぶ埠頭に1日中立ち尽くしていたことがある。

 ただしその時は1人では無く、手を繋いでくれる人がいた。

 

 

『泣いたって、父さんは帰ってこないんだ』

 

 

 少女の、兄だった。

 その時に兄がかけてくれた言葉を、忘れたことは無かった。

 兄は言った、泣いても誰かが帰ってくることは無いのだと。

 涙を流しても、失ったものを取り戻すことは出来ない。

 兄はそう言って、少女を叱った。

 

 

 それでもその時は幼かったから、涙は自然と溢れて止まらなかった。

 哀しくて仕方が無かったから。

 だから兄の言葉に頷きながらも、グスグスと泣いていたのをよく覚えている。

 冷たくて、寒くて、寂しくて、辛くて、苦しくて。

 それでも、繋いだ手は温かくて――――。

 

 

「泣いたって、誰も帰ってこない」

 

 

 ――――そして、今。

 雨に濡れる少女の顔は、泣いているようにも見えた。

 しかしその瞳からは、一雫の涙も零れ落ちてはいなかった。

 両腕はだらりと下がったままで、顔を拭う素振りも見せていない。

 濡れるままに吐き出す吐息は、冷たかった。

 

 

「父さんも……兄さんも」

 

 

 隣に、手を繋いでくれる兄はいない。

 ひとりきり。

 埠頭に立ち尽くしてただひとり、少女は雨に打たれていた。

 顔に張り付く前髪の間から、大きな瞳が()()()()()を見通そうとするように、真っ直ぐ前を見つめていた。

 

 

「……それなら」

 

 

 冷たく、寒く、寂しく、辛く、苦しく、そして。

 手が、冷たくて――――……。

 

 

「それなら、私は――――」

 

 

 ……――――雨は、しばらく止みそうに無かった。

 




最後までお読み頂き有難うございます。

始めましての方は始めまして、お久しぶりの方はお久しぶりです、竜華零です。
いよいよ「蒼き鋼のアルペジオ」二次創作の投稿を開始いたしました。
1年から2年程度の連載を予定しておりますので、どうぞ宜しくお願い致します。

あらすじにも書きましたが、この物語は原作に1人の少女を加えた、言うなれば再構成ものになります。
原作に準拠しつつ、私なりの解釈で描いていければな、と思っています。
それでは、また次回。


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Depth001:「千早紀沙」

今さらですが、本作に登場する国・組織・人物その他はフィクションです。
実在するものと関係はございませんので、ご注意下さい。


 ――――海。

 古来より、人類は水平線の果てに憧憬の念を抱いてきた。

 全てを包む込む程に広く、何もかもを受け入れる程に深く、あらゆる物を内包する程に大きい。

 海は、海洋は人類にとって、母なる揺り籠であり、発展の歴史を歩むパートナーだった。

 

 

 もちろん、海は人類に微笑みを向けてくれるばかりでは無かった。

 時に豊かさを与え、時に冒険を与え、時に災厄を与え、時に試練を与える。

 それでも海の持つ無限の富と可能性に憧れて、人々は大志大望を掲げて海へと飛び出していった。

 それが、人類の歴史。

 海は、人類に未来永劫の繁栄を約束する永遠の友人であり続ける……はず、だった。

 

 

「艦長。各艦、配置につきました」

「うむ……」

 

 

 旧横須賀市・水没地区。

 新世紀初頭の温暖化の進展に伴い、日本国を含む各国沿岸の諸都市・地域は海中へと沈んだ。

 横須賀市もそうした都市の1つであり、かつて数十万の人々で賑わった都市部の大部分が今は海の下だ。

 そして今、日本海軍所属のミサイル駆逐艦『はつゆき』が航行している場所でもあった。

 

 

「艦隊、単縦陣にて航行中。速力20ノット」

「パッシブ・オペレーション・システム感度良好。引き続き海中を探査中」

「後部対潜ミサイル装填完了……」

 

 

 『はつゆき』の艦橋には、オペレーターの声が次々と響いていた。

 それらは全て窓際に立つ壮年の男――艦長に向けられたものであって、彼はそれらの声を背中で聞きながらも、1つ1つに頷きを返していた。

 艦橋、つまり艦艇で最も高い位置――正式には指揮所は別の場所にあるのだが――から見えるのは、海面(みなも)だけでは無い。

 

 

 海面上昇時に孤島となった僅かな陸地と建造物の上層部、さらに遠くには内陸部の光と、反対側に外洋への出口を塞ぐ「壁」の線が見える。

 前方と左右の窓から見えるそれらの光景と、船舶特有の揺れ。

 それら全てが、艦長に自分が今どこにいるのかを実感させた。

 

 

「それにしても、1隻相手に駆逐艦4隻とは。狭い港湾区画内ですし、そう長くはかからないかもしれませんね」

「……そうか、キミは17年前の戦いには参加していなかったな」

 

 

 不審そうな顔をする若い参謀に視線だけを向けて、艦長は言った。

 それは、戒めるような声音だった。

 

 

「油断するな。相手は1隻で我々どころか、海軍全てを滅ぼせるのだぞ」

「は、はぁ」

「17年前。ただの水兵だった私は、()()を見た……見させられたのだ」

 

 

 今ひとつわかっていない様子の参謀に溜息を零して、艦長は首に下げた双眼鏡を手に取った。

 言葉で言っても伝わらないと感じたのだろう、雰囲気でそれがわかる。

 人は結局、実際に体験しないと理解できない生き物なのかもしれない。

 それに、どうせすぐにわかる。

 何しろ、自分達が相手をしているのは。

 

 

「相手は、()の……」

 

 

 その呟きは、最後まで続けられることが無かった。

 何故ならば、爆音と共に船体が大きく揺れたからだ。

 大きく傾く艦橋で、若い参謀達の悲鳴のような叫びだけが耳に届いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 独特の薄暗さが、その空間を支配していた。

 潮流が鋼の艦体を撫でる音は鯨の鳴き声にも似て、海中と言う、外に出れば死を招くだろうその空間において、驚く程に優しく聞こえた。

 鋼の艦体、海中――――そこは、潜水艦の中だった。

 

 

「魚雷命中音2! 駆逐艦『はつゆき』『せとゆき』、共に機関停止だ」

 

 

 その空間には、数人の人間の気配がある。

 それぞれが操作卓(コンソール)を前にしているため、うっすらとした画面の光が、まるで幽霊のように彼女達の顔を照らしていた。

 

 

「2隻は沈黙させましたが、今の攻撃でこちらの位置もバレたでしょう」

「だろーなぁ~。……っと、来なすったぜ。対潜弾(アスロック)着水音――16だ!」

「1番2番、魚雷再装填完了。こっちもいつでも行けるよ」

 

 

 指揮所――正確には発令所と言う――の各所から、そんな声が響く。

 それぞれが目の前の画面を見ながら言っているので、一見、その言葉が誰に向けて発せられたものなの判別に困るだろう。

 しかしそれらの言葉は全て、1人の人間に対して向けられたものだ。

 

 

 それは海上で彼女らの「敵」となっている駆逐艦においてもそうで、当たり前の話ではあるのだが、どこか皮肉さを感じる光景だった。

 敵も味方も、基本的な手順は同じだと言う意味で。

 つまり、彼女らの言葉は全て自分達の「艦長」へと向けられているのだ。

 

 

「機関全速、行けますか?」

 

 

 対して返ってきた声は、思ったよりも若い。

 少なくとも一般的な艦長の声のイメージでは無かった、重厚でも無ければ低音でも無い。

 有体に言ってしまえば、それは年若い少女の声にしか聞こえなかった。

 

 

『機関全速、了解致しました』

『はいは~い。まっかせて~』

 

 

 座る位置は当然、艦長が座すべき中央のシート。

 背筋を真っ直ぐ伸ばし、椅子に両肘をつけて、足を揃えて座る。

 どこか固さが感じられる座り方だが、声に固さは無い。

 落ち着いた声音で、何かを確かめている様子も感じられる。

 

 

「イ404、右舷回頭。ビル群の中を抜けつつ、反転して下さい」

「その進路だと、敵駆逐艦に突っ込むことになりますが」

「構いません」

「構いませんか、了解致しました。イ404右舷回頭、反転の後に直進します」

 

 

 潮流の音が変わり、僅かに床が傾く。

 各画面の光量が一瞬だけ揺らぎ、また前方からシートに押さえつけられる感触を得た。

 加速に伴う圧力だ。

 それに伴い、体感できる揺れも大きくなっていった。

 

 

「1番2番、通常魚雷発射。目標は前方右舷側のビル群、起爆タイミングはお任せします」

「了解! 1番2番、目標ビル群……表面到達と同時に起爆するよ」

「次いで、5番6番に魚雷装填――――……」

「……発射!」

 

 

 直後、水中で轟音と土煙が立て続けに起こった。

 第1に魚雷が旧横須賀市のビル群の1つを崩壊させた音、第2に崩れるビル群の中を1隻の潜水艦が全速で突き抜ける音――艦体付近に瓦礫が降り注ぐ音はヒヤリとする――そして第3に、崩れたビル群に敵の対潜ミサイルが激突、爆発する音だ。

 艦体が、揺れる。

 

 

「突破してくる対潜弾――無しだ。ただ、雑音が多くてソナーの感度が落ちるぞ」

「大丈夫です、後は突撃するだけですから」

「何が大丈夫なのかわからんが、了解」

「艦長。敵駆逐艦、間も無く接敵します」

「わかりました」

 

 

 こほん、と咳払い。

 その仕草だけは、これまでの様子に比べて妙に幼く感じられて。

 

 

()()()

 

 

 しかし、それ以上に。

 

 

「機関いっぱい、両舷全速。深度の管理は任せる」

「――――了解」

 

 

 他にかける言葉に比べて、どこか冷たく聞こえた。

 その場が、不思議な灰色の輝きに包まれる。

 そして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 横須賀港第3ドック、水没した旧横須賀市街が見通せる高台。

 陽の光を反射する水面は美しく、眩しさと相まって幻想的な美しさを持っていた。

 普段はほとんど人気の無いその場所には、今日に限って数百人の人間がやって来ていた。

 と言って、一般の見物客でないことは見ればわかった。

 

 

 都市戦用のグレーの迷彩服と同色のボディアーマーを着て、小銃を構えた一般人などいない。

 人員のほとんどはそうした服と銃を持った人々で、次いで黒いスーツ姿の屈強な男達の数が多い。

 しかし実際に重要なのは、中央に集まるほんの十数人程だった。

 晴れているとは言え海風は強い、上質なスーツとタイを身に着けたその十数人はそんな中、簡素なパイプ椅子に座っている。

 

 

『終わったようですね』

「……うむ」

 

 

 中央の十数人、さらにその中でも中心に座っている2人の間でそんな会話が交わされるのを、上陰(かみかげ)龍二郎(りゅうじろう)はすぐ傍で聞いていた。

 位置関係としては、彼は会話を交わした2人の真後ろの席に座っている。

 そこからでも、旧横須賀市街海上で動きを停止した4隻の駆逐艦を見ることが出来た。

 

 

(正規の訓練を受けた駆逐艦4隻が、10分と保たずに……か)

 

 

 腕時計を確認すると、思ったよりも時間が経っていないことに気付く。

 その割に身体が冷えているのは海風の強さによるものか、それとも冷や汗によるものか。

 (かぶり)を振って彼が気にかけたのは、会話を続けている正面の2人についてだった。

 理由は、主に2つある。

 

 

『やはり、こう言う機会があるのは良い。大海戦から17年。海軍の中にも緩みのようなものがありましたから』

 

 

 まず1人は、特殊な車椅子に座った男性だ。

 バイザータイプのディスプレイや喉を覆う呼吸器、視覚と発声は全て車椅子の機械に頼っているようだ。

 実際、彼の声と思われるものは全て電子音声だ。

 上陰の理由の1つは、そうした状態にある彼の体調を案じてのことだった。

 

 

 彼の名は(かえで)信義(のぶよし)

 一見するとそうは見えないかもしれないが、3人いる日本国の首相の1人である。

 そして、軍務省次官補(かんりょう)である上陰にとっては上司とも言うべき相手だった。

 もう1つは、彼と会話をしているもう1人の男に対しての理由――つまり、()()だ。

 

 

『もう、行かれますか?』

「申し訳ない」

『とんでも無い。結果のわかり切っている演習の視察など、むしろ幹事長に時間を取らせてしまったと恐縮していますよ』

 

 

 どちらが首相なのかわからない会話だが、この男なら納得もする。

 軍人上がりの楓首相は――生命維持装置じみた車椅子であることを除けば――がっちりとした逞しい身体つきをしているが、その楓首相より年上であるはずのこの老人は、輪をかけて肩幅が広い。

 老いてなお衰えない筋肉質な身体は、しかしきっちりとスーツを着こなしていた。

 赤いネクタイが、淡い色のスーツに良く映える。

 

 

 楓首相に会釈しつつ席を立った彼は、口調こそ相手を尊重しているように見えるが、政治家としての格は楓首相よりも上位の存在と見られている。

 名は北良寛(りょうかん)、与党の幹事長職にある政治家だ。

 海軍主流の軍務省職員である上陰にとっては、陸軍派の領袖である北は警戒すべき相手だった。

 ――――楓首相への影響力、と言う意味で。

 

 

「それでは、楓首相」

『ええ、明日の会議で』

 

 

 立ち去る際、上陰と北の視線が重なった。

 特に何かを話すわけでも無く、その視線は上陰が会釈することで自然と外れた。

 足音がある程度遠ざかったところで顔を上げようとした時、隣から囁く声があった。

 

 

「あんまり睨みつけてやるなよ」

「茶化すな。そんな度胸は無いよ、クルツ」

「良く言う」

 

 

 隣でくっくっと喉を鳴らして笑う男――クルツ・ハーダーは、名前でわかる通り日本人では無い。

 と言うより、この場では唯一の外国人だ。

 オールバックの金髪に白人特有の色素の薄い肌、白基調の軍服が日本人以上に様になっている。

 尤も外国出身というだけで今ではほとんど日本人と言って良いのだが、それは今は余り関係無い。

 

 

「ああ、そんな度胸は無いさ……」

 

 

 楓首相の一陣が席を立ち、慌しく動き出す兵士やSPを視界の端に収めながら、上陰はもう一度海の方を見た。

 そこには、演習に参加した4隻の駆逐艦が慌しくドックへと戻っていく様子が見えた。

 

 

「随分と(あわただ)しく戻るんだな」

「余り長時間海上にいると、()が来るからな」

「なるほど」

 

 

 そして、駆逐艦の4隻の後方に浮上したもう1隻。

 海に浮かぶ上がるそのシルエットを目にして、目を細める。

 ――――実際、北を睨みつけるような度胸は上陰には無い。

 無い、が……。

 

 

「……北代議士の秘蔵っ子、か……」

 

 

 そうして、席を立った上陰は再び海を見た。

 旧横須賀市街の水槽のように小さな海と、水平線をぶつ切りにしている「壁」。

 そして、その向こう側に広がっているだろう大海原を想像した。

 

 

 今、そこに人類の船舶はほぼ存在しない。

 ()()()()()()からだ。

 人類が全ての海洋から()()されてから、17年。

 17年もの歳月が、過ぎようとしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 日本軍――統制軍の制服は、軍服だけあって質素かつ固い印象を受ける。

 肩章付きのジャケットにタイトスカート、色合いは白が基調で、タイとヒールの黒が映えている。

 しかしそうした服装も、年若い少女が着ると多少は印象が和らぐものだ。

 

 

「ミッション完了(コンプリート)。今日はこのままドックに艦を収容して、最終点検。その後解散とします。皆さん、有難うございました」

 

 

 潜水艦『イ404』の中に明るい声を響かせた少女は、まさにそんな人物だった。

 大きくて横長の穏やかそうな黒瞳に強く外に跳ねる黒髪、髪は腰に届く程長く、邪魔にならないように首の後ろで結んでいた。

 潜水艦と言う殺伐とした空間において、髪を彩る白いリボンが奇妙な清楚さを(かも)し出している。

 

 

 少女の名は千早(ちはや)紀沙(きさ)、シートのネームプレートにそう刻まれている。

 役職欄らしき場所には「艦長」と記されていて、彼女がこの艦の主人であることを意味している。

 幼げな雰囲気を残している少女だけに、とても軍艦の長には見えなかった。

 実際、その場にいる誰よりも若い。

 

 

「いえ、見事な指揮でした。シミュレーションや航行訓練は何度もこなしましたが、実戦訓練は初めてでしたので私も緊張しました」

「演習前と顔つきが変わらないように見えるんですけど」

「良く言われます」

 

 

 指揮シートから見て右隣のシート、つまり副長席に座る20代半ばの男性が、柔らかにそう応じた。

 ネームプレートによれば、彼の名は「本能寺(ほんのうじ)(れん)」。

 短めのシャギーカットの黒髪と、一重のためか開ききっていないように見える目が特徴的だ。

 白い統制軍の軍服をきっちりと着こなしているあたり、態度同様、彼の方がよほど艦長に見える。

 

 

「アタシは言われた通りに魚雷を撃ってるだけだからね、楽なもんだよ」

「いえ、起爆タイミングとかはお任せすることが多いですし」

「あんなのは適当だよ」

「え」

 

 

 ネームプレートは(あずさ)=グロリオウス、発言からするにいわゆる水雷担当。

 統制軍には少なくない外国人とのハーフの1人で、毛先が青みがかった黒髪が特徴の女性だ。

 年の頃は20代前半、どこかサバサバとした雰囲気を感じさせる。

 非常に恵まれたスタイルの持ち主で、身体を解すように伸びをすると、豊かな胸元が黒のインナーを大きく押し上げた。

 

 

「俺は耳を酷使して超疲れたぜ。艦長ちゃん、頑張った部下に膝枕オプション付き耳掃除サービスでも――――」

「ふざけたこと言ってるとアタシが鼓膜ブチ抜くよ」

「なにそれ怖い」

「あはは、冬馬さんは相変わらずですね」

 

 

 梓に脅かされて肩を竦めたのは、(いかり)冬馬(とうま)と言う青年。

 肩にかけたヘッドホンはソナー用のそれで、彼がこの艦の耳なのだろう。

 こちらは20代半ばの青年で、欠伸を噛み殺す姿からは真面目さはあまり感じられない。

 その割にシート周辺は片付いていたりするので、妙な所できっちりしているのかもしれない。

 

 

「静菜さんとあおいさんも、有難うございました」

『いえ。艦長もお疲れ様でした』

『適当にやってただけだから、大丈夫よ~』

 

 

 それから、指揮シート横のモニターに映る2人の女性。

 まず、いかにも固い返答を返して来た方が不知火(しらぬい)静菜(せいな)

 前髪が顔の左半分を覆う程に長く、表情が余り動く様子も無い。

 口調も淡々としているので、初対面の人間は少々とっつきにくいかもしれない。

 

 

 そしてもう1人は、どこか緩そうな雰囲気の女性だ。

 染めた金髪をぞんざいに背中に流し、眠たげに細めた目には欠伸の痕が見える。

 また無頓着な性格なのか、通信画面の枠内にも関わらず、緩めた着衣から肌色が微妙に見えていた。

 通信の名前欄によれば、彼女の名は四月一日(わたぬき)あおいと言う。

 彼女達は技術担当のためここにはおらず、機関室に常駐している。

 

 

「あーあ、そしてまた僕の出番は無かったわけで」

「良いことですよ、良治さん」

「それはそうなんだろうけどね」

 

 

 そして7人目、統制軍の軍服の上に白衣を着た青年。

 エアが抜ける音に振り向けば、指揮所に入って来た青年――御手洗(みたらい)良治(りょうじ)が、億劫(おっくう)そうに手を振っていた。

 彼はこの艦の軍医として乗船しているため、医療訓練でも無ければ医務室に篭っているだけになる。

 暇であることが望まれる、そう言う役職と言える。

 

 

「つーか、腹減ったよなー」

『どうせ今日もカツカレー1択でしょ~?』

「文句言ってんじゃないよ、食えるだけマシってね」

「あはは。まぁ良いじゃないですか、私も好きですよ、カツカレー」

 

 

 訓練を終えた直後だからか、艦内には和やかな空気が漂っている。

 会話は軽いが、楽しげな様子が伝わってくる。

 今も何か不味いことでも言ったのだろう、梓が冬馬を追い掛け回していて、発令所の狭いスペースが大変な騒ぎになった。

 

 

 本来なら注意すべき所なのかもしれないが、紀沙は口元に手を当ててクスクスと笑っていた。

 その笑顔は年相応なもので、やはり艦長と言う肩書きは不似合いに見える。

 しかし紀沙は、紛れも無くこの艦の艦長だった。

 副長以下6名と共に過ごす、この場所こそが。

 

 

「さぁ、カツカレーが無くなる前に艦を収容しないと。皆、艦の最終確認をお願いします」

 

 

 ここが、今の紀沙の居場所。

 ()()()とは違う、今の彼女の居場所なのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 横須賀港は、別名で要塞港と呼ばれている。

 それは現在の横須賀港――特に、「軍港」としての横須賀港――が、ほぼ全ての主要施設を地下に築いているためだ。

 外に艦艇を()()()()ための、苦肉の策である。

 

 

 だが、その規模は流石に壮大だ。

 例えばこの第3ドック、このドック1つだけを見ても20隻の艦艇が整然と並んでいる。

 色合いは灰色やネイビーカラーが多く、無骨な艦体や物々しい武装の数々と相まって、まさに海軍と言った風だ。

 ドックには海水が無く、艦艇はそれぞれ鋼鉄の腕(ハンガーアーム)によって固定されていた。

 

 

「あれが、霧の潜水艦か……」

 

 

 そんなドックの片隅で、駒城(こまき)大作(だいさく)は新たに降りてくる艦艇を見上げていた。

 物資の搬入作業の最中だったのか、彼の周囲には綺麗に梱包された積荷が山積みにされている。

 しかし今は、慌しく物資を運んでいた周辺の兵士達も手を止めて、駒城と同じように手を止めて顔を上げている。

 何しろ、今ドックに入ってきている艦艇は特別だから。

 

 

 艦艇用のエレベーターと言うのが、1番イメージしやすいだろうか。

 全長100メートルを超える巨体が鋼鉄のアームに固定されて、重厚な音を立てながら地下へと降下を続けている。

 灰色に輝く艦体の側面には、「I-404」の文字がペイントされていた。

 

 

「駆逐艦4隻を10分でやったらしいですよ」

「凄いな」

 

 

 そうとしか表現できずにそう言うと、話しかけてきた部下は肩を竦めた。

 駒城も困ったように苦笑して、顎鬚(あごひげ)をぞりぞりと指先で掻いた。

 

 

「本当に、凄いな」

 

 

 海軍士官である彼の心境は、複雑だった。

 それは味方があっという間に敗退――訓練であるし、そもそも相手も味方なのだが――したと言う事実よりも、根の深いものだ。

 説明するには少しばかり時間がかかる、そう言う類の。

 

 

「うん?」

 

 

 不意に、駒城は気になるものを見つけた。

 ものと言うよりは人間、それも女性だ。

 海軍の軍服を着ているので同僚だろうが、駒城の知らない顔だった。

 セミロングの黒髪で、額を露にする髪型が特徴的な女性だ。

 

 

(綺麗な子だな)

 

 

 別に変な意味では無く、単純にそう思った。

 年は一回り程も違うだろうか、男ばかりの中に若い女性は酷く目立つ。

 しかもそんな女性が、眉根を寄せてドックに入る潜水艦――イ404を見つめているのだから。

 

 

「駒城艦長? ちょっと宜しいでしょうか」

「え? あ、ああ! 今行く」

 

 

 部下の声に応えつつ、気になってもう一度振り向いた。

 その時にはもう、先程の女性はドックを行き来する人込みの中に消えてしまっていた。

 けれど、あの表情は頭から離れそうに無かった。

 何たって彼女は、あんな辛そうな顔でイ404を見つめていたのだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙は、18歳だ。

 しかも海洋技術総合学院――横須賀の軍直轄学校――を卒業したばかりの駆け出し、普通ならどこかの部隊で下働きをしている頃だろう。

 それが艦長の肩書きで1隻を指揮していることには、当然、何らかの意図が働いている。

 

 

「今日の所は概ね上手くいったと言える。海軍も擬似的とは言え霧の力を再認識しただろう」

「はい」

 

 

 すでに日が暮れた横須賀の道路を、1台の公用車が滑らかに走行していた。

 その中には運転手を含む数人が乗っているのだが、中で会議が出来るように配慮されているのか、後部座席はボックスタイプになっていた。

 そして今は紀沙と、演習を見ていた老政治家――北が、その座席に向かい合って座っていた。

 

 

 スーツ姿の屈強な老人と軍服姿の少女が向かい合っている様は、何ともミスマッチだ。

 腕を組んで座る北に対し、足を揃えて座る紀沙。

 両者のこの姿勢の違いが、互いの上下関係を何となく匂わせていた。

 

 

「だが、勝ち過ぎたのは不味かった。特に最後の2艦への突撃は必要なかった。あれでは海軍を余計に萎縮(いしゅく)させてしまうし、何よりお前への禍根(かこん)が残る可能性がある」

「はい」

 

 

 つまり、彼こそが紀沙にイ404を与えた男。

 北は海軍出身の政治家で、今は陸軍派と目されているが、軍人政治家だからこそ軍関係の人事にも一定の影響力を持っている。

 紀沙は彼の力によって、18歳で艦長と言う地位にあると言うわけだ。

 

 

「目の前の事だけを考えていれば済むのは一兵卒までだ。艦長である以上、目の前の戦闘が何に影響するのかを意識しなければならん。ましてお前はまだ艦長となって僅か2ヶ月だ」

「……はい」

 

 

 その点だけを見れば、2人の関係は酷く単純なものに見える。

 しかし紀沙の表情を見る限り、どうもそれだけでは無いようだ。

 

 

「それにお前は今日の演習の功で正式に少尉になる。士官たる者、軽々(けいけい)なことはしてはならん」

「はい……」

 

 

 北は呼吸を置かずに話し続けている。

 視線をどこに向けているのか、俯くようにして話していた。

 それに対して紀沙の表情は、苦笑を浮かべていた。

 そしてそれは、北が話し続ければ続ける程に深くなっていった。

 

 

「霧の艦艇を持ったとて、思い上がってはならん。あれは我々にとっても謎が多い、ことイ404は」

「……北代議士」

「イ401を失陥している今、イ404は我々が、いや人類が保有する唯一の霧の艦艇だろう。お前はそれを」

「北さん……」

「任されている以上、相応の責任が生じる。軍人としての責任を良く自覚して……」

 

 

 ほぅ、と、紀沙の小さな唇から溜息が漏れた。

 彼女は小首を傾げて眉根を寄せると、にこりと笑みを作って。

 

 

「北のおじ様?」

「……む」

 

 

 途端、北が口ごもる。

 その様子に眉をハの字にする紀沙、苦笑と言うか、苦笑いと言った方が正しい。

 咳払いひとつ、だが北はそのまま口を閉ざしてしまった。

 何か考え込んでいるらしいが、少なくとも表情は変わっていなかった。

 俯きがちに腕を組んで、そのままだった。

 

 

「北のおじ様」

 

 

 北を呼ぶ紀沙の声音は、どこまでも柔らかだった。

 温かい、と言い換えても良い。

 対して北は返事を返さないが、僅かに眉が動いたことを紀沙はちゃんとわかっていた。

 呆れたように息を吐いて、窓の外を見ながら。

 

 

「今日は遅くなってしまいましたけど、明日は私がお食事の用意をしますね」

「……別にお前がそんなことをしなくとも」

「大丈夫です。明日は非番で時間も取れるので、少し時間をかけて……」

 

 

 北は、じろりと紀沙の横顔に目を向けた。

 しかしやはり何も言わず――と言うより、何も言えず――視線を落とし、それ以後は目を閉じて黙り込んでしまった。

 紀沙もあえて北の方を見ずに、高速で流れていく風景を眺めていた。

 高速で移動してもなお変わることの無い、横須賀の海の景色を。

 

 

「……カツカレーでも、作ろうかと」

 

 

 紀沙は、見つめ続けていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙は統制軍の宿舎には住んでいない。

 横須賀に縁者がおらず、さほどの貯蓄も無い紀沙が基地の外に住居を持っているのには、当然ながら理由(わけ)がある。

 要するに、他人の家に住まわせて貰っているのだ。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 傾けた風呂桶、小さな滝のように流れ落ちるお湯、洗い流され落ちていく泡。

 身体の表面を熱が滑り落ちていく感触に、紀沙は吐息を漏らす。

 湯気が立ち込める中、女性へと至りつつある少女の白い裸身が露になっていた。

 紀沙は今、()()で入浴中なのだった。

 

 

 (ひのき)を使用した純和風の浴室は、1人で使うにはやや広すぎる。

 しかしその分湯船に足を伸ばしてゆったりと寛ぐことが出来るので、紀沙はこの浴室が好きだった。

 シャワーノズルの傍に小物をしまうスペースがあるのだが、無骨な糠袋や手拭いの横に、薄桃のシャンプーの容器やスポンジが並べて置いてあるのは、どこかシュールだった。

 

 

「生き返る……」

 

 

 家の主人の好みに合わせているため、お湯の温度はやや高めだ。

 2分も入れば肌が赤らんでくる熱さ、しかし何度も入っている内に紀沙もこの温度が好みになっていた。

 結い上げた髪は水気を吸ってより艶やかで、上気した肌と相まって若々しい色香を放っていた。

 

 

「んっ」

 

 

 身体の芯まで熱が通る感覚に、湯船の中で伸びをする。

 すると豊かとは言えないが張りのある部分がお湯の上に来て、力を抜くと小波(さざなみ)を立たせた。

 この一連の動作で生じる脱力感は、何とも言えない心地よさを当人に与えてくれる。

 湯船の縁にもたれかかって息を吐き、その日のことを思い返すのが紀沙の日課だ。

 

 

 今日で言えばイ404での実戦を想定した訓練、つまり演習だ。

 北が言ったように艦長となってまだ2ヶ月余り、いろいろと考えるべきことは多い。

 クルーとの関係は悪くないが、まで心を開き合っているわけでは無いと思う。

 人見知りとまでは言わないが、紀沙と他の軍人との関係は色々と難しい要素を孕んでいる。

 だから慎重に関係を作っていくべきだと、そう思っていた。

 

 

(もう一度、あの海に出るために)

 

 

 そしてあの海の果て、あの水平線の向こうにいるものを掴むために。

 自分は今ここにいるのだと、紀沙はそう思っていた。

 だがここで、疑問が生じる。

 イ404、そして駆逐艦、いやそうでなくとも、人類は多くの海へと出る手段を有している。

 それなのに何故、今さら海へ出る努力などをしなければならないのだろうか?

 

 

 

『――――人間と言うのは』

 

 

 

 そしてその答えは、実はすぐ隣にある。

 横須賀に築かれた壁の向こう(すぐとなり)に、在る。

 人類は何故、海に出ようとしているのか。

 人が何故、海洋に再進出することが出来ないのか。

 

 

 

『本当に、良くわからないことをする』

 

 

 

 ――――海。

 古来より、人類は水平線の果てに憧憬の念を抱いてきた。

 全てを包む込む程に広く、何もかもを受け入れる程に深く、あらゆる物を内包する程に大きい。

 海は、海洋は人類にとって、母なる揺り籠であり、発展の歴史を歩むパートナーだった。

 だが、今、人類は海へと出ることが出来ない。

 

 

 何故? ――――追い出された。駆逐されたからだ。

 何時(いつ)? ――――17年前。突然、突如として、一気呵成に。

 誰に? ――――人類よりも遥かに強大な敵に。恐るべき脅威によって。

 どうして? ――――わからない。

 

 

「……わからないのは、お前達の方だろ」

『おや――――そうなのかい? だったら是非とも教えて欲しいな」

 

 

 空間に響くように声が届き、次いで実際に声が耳朶を打つ。

 湯船の嵩が上がったのは、紀沙以外の質量が増えたためだ。

 具体的には人体ひとつ分、淡い粒子と共に形成されたそれが、実際に重さを伴って湯船の中に現れた。

 無作法なことに、衣服を身に着けたままで。

 

 

「キミ達人類が、何を望んでいるのか」

「そんなのは決まっている、()()()……いや」

 

 

 その点を注意すること無く、湯船の熱を感じさせない声音で紀沙が言った。

 ゆっくりと、己の左隣へと視線を向けて。

 昼間の彼女からは想像も出来ないような、そんな眼と声で。

 

 

()()()()

 

 

 それは、人類の天敵。

 人類を全ての海洋から駆逐した、不倶戴天(ふぐたいてん)の宿敵。

 人間が全ての力を結集して相対している、人類史上最大最強の敵対者。

 ――――通称、<(きり)>。

 

 

「お前たち()()()()()()()()()()()()()

 

 

 その、()は。

 冷たく言い放つ紀沙に対して、にこやかな笑顔を浮かべたその()は。

 

 

「そうなのか」

 

 

 少女の姿で、そこに存在していた。




最後までお読み頂き有難うございます。
と言うわけで、第1話でした。
今話を描く上で私が悩んだのは、「日本海軍って海上訓練とかするのだろうか?」でした。
何しろ海洋に出ると霧に撃沈されるとなると、実際に船を動かす訓練が全く出来ないと言うことを意味するのですが……いや普通に考えて、そこまで徹底されると大反攻の準備なんて出来ませんし、そもそも海軍が維持できないだろう、と。

なのでここでは、極めて沿岸に近い場所で短時間なら、艦艇を動かせると言うことにしました。
外洋に出ると霧に撃沈される、と言う解釈で行こうと思います。
つまり瀬戸内海ならセーフ、太平洋ならアウト、そのようなイメージです。
まさか三国志の如く、琵琶湖でやるわけにも行かないでしょうしね(え)

最後に投稿キャラクターと投稿者様を紹介して、締めとさせて頂きます。
それでは、また次回。


投稿キャラクター:

副長:本能寺恋(幻想桃瑠様)
水雷長:梓=グロリオウス(畏夢様)
ソナー兼料理長:碇冬馬(車椅子ニート様)
技術:不知火静菜(月影夜葬様)
  :四月一日あおい(haki様)
軍医:御手洗良治(大野かな恵様)

以上6名を、イ404のクルーとして採用致しました。
たくさんのご応募、有難うございました。
また機会がありましたら、宜しくお願い致します。


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Depth002:「人と霧」

 傭兵。

 金銭等の報酬の対価に、自己とは関係の無い戦争・戦闘に従事する兵又は集団のこと。

 現在の()()の状態は、傭兵と言う言葉が最も似つかわしい。

 

 

「それで、次はどんな奴が相手だ?」

「さぁな。こう言う場合、相手の素性は探らないのがルールだ」

 

 

 午前零時。

 1頭の鯨が、海面に姿を現した。

 深い夜の闇に包まれた海では、何かが海面に出ても目視することは難しい。

 時に激しく時に穏やかに動く波が、その姿をわかりにくくしてしまうためだ。

 

 

 ――――その鯨は、鋼の身体をしていた。

 いわゆる水上船に近い形状、艦種としてはかなり古い。

 しかしその艦艇は、現代の人類が造り出したどんな艦艇よりも優れた能力を持っていた。

 そして、その鯨は体内に人間を住まわせている。

 

 

「付近に艦艇反応ありません」

「と言っても、いつ霧の哨戒網にかかるとも限りません。いつものことですが、手早く済ませたいものです」

 

 

 青白い輝きが、鯨の体内――艦内を照らしていた。

 そこにはまだ少年少女と言っていい年齢の男女が陣取っていて、何かを話し込んでいる。

 特段に何かがあるわけでは無いようだが、それでも何かを警戒するように声量を抑えて話していた。

 

 

「またいつぞやみたいに全速で逃げるハメになって、機関士にどやされたくねーからな」

「そうだな」

 

 

 その場にいるメンバーの中心らしい少年が、ひとつ頷いて正面の大型モニターを見つめる。

 合わせて、会話も止まった。

 約束の時間だ。

 真っ黒だったモニターの画面に、揺らぎが生まれた。

 そして。

 

 

「――――群像(ぐんぞう)

 

 

 幼い少女の声が、静かな艦内に響いた。

 

 

「来た」

「ああ、繋いでくれ。――――イオナ」

 

 

 青白い輝きと共に、モニターに光が生まれる。

 発信側の電波状態が悪いのか、映像はほとんどまともに映っていない。

 それでもそれが「人」だとわかるのは、受信側が極めて優れた感度を持っているためだ。

 

 

 まぁ、たとえ誰かの姿が映ったのだとしても、それが本人だとは限らない。

 この世界では、ブラフなど珍しくも無いからだ。

 だからそこは気にせずに、群像と呼ばれた少年はモニター画面に向けて言葉を放った。

 

 

「用件を伺おう、依頼人(クライアント)

『……や、群像君……』

 

 

 砂嵐のような音を間に挟みながらも、通信相手は言った。

 

 

『千早群像君。キミに、仕事を頼みたい』

 

 

 海の傭兵、<蒼き鋼>。

 人類でありながら、広大な海洋を自由に行き来できる者達。

 この日、彼らに新たな依頼が舞い込んだ――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 組織に属する以上、休暇と言うものが存在する。

 意外に思われるかもしれないが、365日24時間働き続けることなど不可能だ。

 まして今の時代、軍人の――特に海軍の艦艇乗り達の死亡率は高い。

 だから彼らには、統制軍の側から最大限の配慮が成されるのである。

 

 

「……作り過ぎちゃったな」

 

 

 キッチンの時計が午前10時を過ぎた頃、紀沙がぽつりと呟いた。

 紀沙は絞り小紋の着物に割烹着姿でキッチンに立っていて、結い上げた髪には着物に合わせた淡い緑のリボンが結ばれていた。

 目鼻立ちの整った顔は、今は困ったような色に染められている。

 

 

 木目と黒を基調にした電化(システム)キッチン、壁紙の汚れ具合等を見るに、後から増築かリフォームされた設備のようだった。

 調理器具やオーブン等の道具・設備は全てが電気で動いており、ガスで動くものは無いようだ。

 そして調理台の上には、大皿に盛られた大学芋(サツマイモ)があった。

 

 

「どうしようかな、これ」

 

 

 キッチンには大学芋の仄かな甘い香りと、スパイシーな別の香りが漂っていた。

 それはカレーの香り、今はキッチンの片隅の鍋の中で寝かせられている所だ。

 冷蔵庫には揚げ物にしたお肉も用意されているようで、メインはそちらなのだろう。

 それだけだと侘しいと言うことで、貰い物のサツマイモで大学芋を作ったのだ。

 つまり結果だけを言えば、作り過ぎてしまった、と言う一言に尽きた。

 

 

「うーん」

 

 

 人差し指を顎に当て、少し考え込む。

 食べられないことは無いだろうが、老人と少女の2人で消費するには多い。

 と言って、もちろんバーゲンか何かのように配り歩ける程の量では無い。

 菜箸(さいばし)でプラチックの容器に大学芋を分け、1つは冷蔵庫に入れる。

 

 

 他の容器は外に置き、包み布を横に敷いた。

 一方で手早く洗い物と片づけを済ませると、手を洗って割烹着を脱ぐ。

 どうやら何か考えを得たらしく、その動きに悩みは見えなかった。

 

 

「あ、もしもし? すみません、紀沙です」

 

 

 キッチンの壁に備え付けられている固定電話。

 その受話器を手に取って、紀沙はどこかへと電話をかけた。

 

 

「すみません、車を回してもらえますか? あ、はい……横須賀基地まで」

 

 

 繰り返すが、紀沙は非番である。

 しかしだからと言って職場に行ってはならないと言う決まりも、また存在しないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「それじゃあ、お願いします」

「はいはい」

 

 

 初老の運転手が返事を返すと、車がゆっくりと走り出した。

 「北」と言う表札がついた門が後ろへと流れていき、見えなくなる。

 窓から見える景色は横須賀の山と海に変わり、遠目に見える要塞港の光景が徐々に近付いてくる。

 紀沙はそれを、ぼんやりと眺めていた。

 

 

 着替えたのだろう、白い統制軍の軍服を身に着けている。

 淡い緑のリボンだけはそのままに、髪をまとめるのに使っていた。

 一見すると、休暇中の人間には見えない。

 

 

「それにしても紀沙お嬢様、今日はお休みだったのでは?」

「あ、はい。でも、お仕事に行くわけじゃないので」

「ははぁ」

 

 

 軍人が休暇中に基地に行くと言うのは、普通は良くないことを想像するだろう。

 しかしこの運転手の男性は慣れているのか、問いかける声に緊張感が無かった。

 むしろからかいの色すら見えて、恥ずかしくなった紀沙は運転席と後部座席の間にある小窓を閉めた。

 これ以上追及されると、色々とボロが出そうだ。

 

 

 溜息ひとつ零して、視線を窓の外へ向けた。

 すると車はすでに海を見下ろせる道を走っていて、横須賀市街が見えてきた。

 ただしそれは軍事区域内の整備された区画では無く、もっと雑然とした、そんな光景だった。

 

 

(配給か……)

 

 

 リニアトレインの車両基地だったのだろう、そこには無造作に放置された車両が何両も並んでいた。

 そして、それら1両1両に人間が住んでいる。

 もちろん許可などはとっていないのだろうが、そこには驚く程の人数の人間が集まっていた。

 いくつかの車両には無理矢理に太陽光発電用のパネルが設置されているのが見えるし、薬や家具等を並べている姿も見える、商売をしているのだ。

 

 

 だが一番人が集まっているのは、「食料管理庁」という文字の書かれた無人配給車の周りだった。

 読んで字の如く、食料の配給――1食分の弁当の形で――を求めて集まっているのだ。

 身なりはけして褒められたものでは無く、歩く姿は誰もに力が無かった。

 配給の量が少ないと言うのもあるが、未来への展望が開けない状況に膿んでいるのだ。

 生活が、そして何よりも物不足に伴う心の不足が。

 

 

 

「でも、死ぬことは無いだろう?」

 

 

 

 その時、紀沙の隣から別の声が響いた。

 幼い少女の声だった。

 その声に、紀沙の眉がピクリと動く。

 努めて冷静さを強いた声で、紀沙は言った。

 

 

「人間は、最低限のご飯だけじゃ幸せにはなれないんだよ」

「ふぅん、そうなのか」

「大体にして……」

 

 

 我慢し切れなかったのか、紀沙はキッとした表情で隣に座る少女を睨んだ。

 その表情に、温かな感情はひとつも見えなかった。

 対する少女は、にこやかな笑顔を崩さなかった。

 

 

「お前達の海洋封鎖が無ければ、こんなことになっていないんだよ」

「それはボクに言われても困るな」

 

 

 うなじを隠す程度の、セミショートの銀髪。

 人間ではあり得ない白くてシミひとつ無い肌に、白面を彩る一対の翡翠の瞳。

 パススリーブの白いブラウスに赤のヒダ付きミニスカート、黒系の袖なしベストには赤い締め紐がついていて、お腹の前で締める形になっていた。

 黒のオーバーニーハイソックスにストラップシューズ、左手首にハートリングのブレスレット。

 

 

 一見すると、どこにでもいる普通の少女のようにしか見えない。

 だが、彼女は人間では無い。

 彼女の名は、「スミノ」。

 ()()()()()()()()

 昨日、紀沙達が運用した潜水艦、その()()()()()()()である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 17年前のことだ。

 海面上昇の憂き目にあっていた人類の前に、突如として正体不明の艦隊が姿を現した。

 霧と共に現れることから<霧の艦隊>と称されたその艦隊は、圧倒的な力でもって人類を全ての海洋から駆逐した。

 そして海洋を封鎖し、人類の生存圏を陸地へと押し込めた。

 

 

 まるで安いSF映画のようなその話は、全て事実だ。

 霧の艦艇には人類の兵器は一切通用せず、対照的に人類は霧の艦艇の装備の前に手も足も出なかった。

 姿は第二次大戦時の軍艦を模しているが、実際の兵装はモデル艦と比較にならない程に強力。

 西暦2056年現在、人類は未だに彼女達<霧の艦隊>のことを何も知らない――――。

 

 

「ひとつ、わからないことがあるんだ。艦長殿」

 

 

 人間のように首を傾げて、スミノは言った。

 

 

「キミはどうして、そんなにも嫌っているボクに乗っているのかな?」

 

 

 そして、<メンタルモデル>。

 霧の艦艇がいつからか使用するようになった、対人間用のインターフェイス。

 要するに霧の艦艇が遠隔操作する人型の端末のようなもの――と、紀沙等は理解している。

 だから人間の姿をしていても、彼女は人間では無い。

 

 

 つまりスミノはあくまでも霧の艦艇であって、鋼鉄の(ふね)である。

 今ここにいるのは、言わば「意識」だけだ。

 そして、ここで矛盾が生じる。

 何故、人類を海洋より追放した霧の艦艇が、こんな所で紀沙を「艦長」などと呼んでいるのか?

 

 

「教えてくれないのかい?」

 

 

 勿論そこには、様々な事情がある。

 霧の艦隊を離れて人類の領域にいるイ404、スミノ。

 そして紀沙が政治的意図として艦長の地位に担ぎ上げられていることと同様に、事情がある。

 逆説的に言えば、スミノの存在が紀沙を艦長の座に押し上げたのだから。

 

 

「……人間には」

 

 

 溜息を吐いて、視線を窓の外へと戻しながら。

 囁き声のような小さな声で、答えた。

 

 

「人間には、嫌でもやらなくちゃいけないことがあるんだよ」

「ふぅん、そうなのか」

 

 

 嫌でも、やらなければならないことがある。

 目的のために自分を抑えて、成し遂げなければならないことがある。

 好悪を超えて、成さねばならないことがある。

 

 

(泣いてばかりじゃ、誰も帰って来ない)

 

 

 誰かに、まして(スミノ)に理解されようとは思わない。

 きっと彼女達は、誰かを待ったことなど無いのだろうから。

 

 

「理解に苦しむね」

 

 

 それはこちらの台詞だ。

 その言葉を、紀沙は飲み込んで発することが無かった。

 横須賀基地は、もう目の前だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 横須賀基地は広大だ。

 日本海軍のほとんど唯一の拠点である以上、広大であると同時にセキュリティも厳重だ。

 何重ものゲートと検問があり、中に入った後も個々人に振られたキーコードによって入れる区画が決められている。

 

 

 例えば紀沙の場合は、地下ドックのエリアには入れるが航空機の駐機場には入れない。

 やや非合理的に思えるが、このご時勢、末端の兵を()()することも必要なのである。

 味方が味方を完全には信用できない、そう言う現実もあるのだ。

 全ては、切迫した日本と言う国の状況がそうさせている。

 

 

「……あ」

「あら」

 

 

 大学芋の包みを手に基地内の通路を歩いていると、1人の女性と擦れ違った。

 黒髪を2つ結びにした女性で、紀沙と同じ統制軍の制服を着ている。

 

 

真瑠璃(まるり)さん」

「こんにちは、紀沙ちゃん」

 

 

 響真瑠璃、紀沙と同じ海洋技術総合学院の生徒だった。

 ただし正式に卒業したのは紀沙だけで、真瑠璃はある事情から卒業していない。

 尤も、特別措置で卒業資格相当とされているのだが。

 しかしそれを抜きにしても、紀沙が真瑠璃を見る表情は複雑だった。

 

 

「色々聞いているわよ、頑張ってるんですってね」

「まぁ……うん、それなり、かな」

「そう……それは、誰かへの差し入れ?」

「うん、クルーの人達に」

 

 

 真瑠璃は綺麗な笑顔を貼り付かせて、柔和な物腰で話しかけている。

 在校時、紀沙は真瑠璃と交友関係があった。

 より正確には間接的な交友関係であるが、基地にいる人間の中では付き合いの長い部類に入るだろう。

 だからこそ、わかることがある。

 

 

 真瑠璃は、学院在校時の――つまり、紀沙が知っている――真瑠璃とは、()()だと。

 彼女はある事情で1年余りの間、学院の()に出ていた。

 その間に彼女は変わってしまったのだと、紀沙にはわかる。

 そしてだからこそ、紀沙は今の真瑠璃との距離感を測りかねているのだった。

 

 

「……それじゃあ、私も呼ばれてるから。また時間があったら、ゆっくり話しましょうね」

「うん。それじゃあ、また」

 

 

 それは真瑠璃の側にもわかっているのだろう、笑みはそのままに、しかし少し沈んだ色を浮かばせて彼女は紀沙の横を通り過ぎた。

 再会してから何度目かの()()、その()()がいつ来るのか、紀沙にはわからなかった。

 

 

「……真瑠璃さん」

 

 

 何が彼女を変えてしまったのか。

 何で彼女が変わってしまったのか。

 それがわからなくて、紀沙は去っていく真瑠璃の背中を寂しげに見つめていた。

 そして、こうも思った。

 

 

 もしかしたら、真瑠璃の側も同じなのかもしれない、と。

 真瑠璃もまた、この2年で紀沙が変わったと思っているのかもしれない。

 お互いに同じだけの距離で戸惑っているから、上手く噛み合わないのかもしれない。

 紀沙は、そう思っていた。

 ……そう、思いたかったのかもしれない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あ~、腹減ったなぁ~」

「そうですね」

 

 

 艦長が休暇であろうとも、艦は動かせる状態にしておかなければならない。

 つまり艦のクルーは基本的にスタンバイの状態にあるわけで、そして時間のある時には艦の整備や訓練等を行うのが普通だった。

 艦が停泊しているからと言って、何もかもが止まるわけでは無いのだ。

 

 

 まして彼らの乗艦は霧の艦艇イ404。

 他の艦艇とは異なるスケジュール、異なる管理が成されて当然だろう。

 とは言え、全員が全員忙しいのかと言えば、そう言うわけでも無く。

 

 

「やっべ、暇だわ」

「そうですか、僕は忙しいですよ割と」

「何でだよ、患者のいない医者って暇そうに見えるけどな」

「全国の医療従事者に謝れ」

 

 

 イ404の医務室、そこには2人の人間がいた。

 1人はもちろんここの軍医(あるじ)である良治である。

 医務室は診察室と処置室の2つに分かれており、今いるのは診察室の方だ。

 白基調の壁や床はいかにも医務室で、薬品棚と書架、モニター付きの机や仮眠用のベッド等がある。

 

 

 ベッドは二つあるのだが、その内の一つは冬馬が占領している。

 彼はあろうことか、何かの雑誌を読みながら寝そべっていた。

 ソナー用のヘッドホンを首にかけているあたり、妙な律儀さを感じる。

 

 

「で、実際何してんの?」

「乗員のバイタルパターンの整理とかです」

「へー、ちなみに女性陣のはどれよ」

「守秘義務があるので」

「そのやたら付箋(ふせん)が貼ってあるのって、艦長ちゃんのじゃねーだろな」

「な、ななな何を馬鹿な。い、いいい言いがかりはよせ」

「逆に怪しいなオイ!」

 

 

 この2人、イ404の乗員の中では比較的話す機会が多い。

 立場が近いと言うのもあるが、冬馬がちょくちょく医務室にサボりにやってくると言うのが主たる原因ではある。

 良治も注意するのも無駄と思っているのか、あるいは実は暇なのか、追い出したことは無い。

 

 

「すみませーん」

 

 

 その時だった、医務室の扉がノックされた。

 エア抜きの音と共に扉が開くと、そこには紀沙が立っていた。

 彼女は2人の姿を認めると、にこりと笑顔を見せて。

 

 

「あ、いた」

「あ、いた。じゃねぇよ、艦長ちゃんって今日非番じゃなかったっけ?」

「はい、非番頂いてます」

 

 

 軍服姿でにこやかに言う紀沙、何か指摘した側が間違った気分になりそうだ。

 

 

「それで艦長、何か?」

「あ、はい。家で作ったんですけど、ちょっと作り過ぎてしまって……」

「お、何だ何だ? 食い物か?」

 

 

 包みから漂う仄かな香りに気が付いたのか、冬馬がベッドから飛び降りた。

 実際、昼食時なので食べ物は嬉しいのだろう。

 ウキウキと近付いてきた冬馬に、紀沙は少し恥ずかしそうにしながら包みを開けた。

 中身は大学芋、食糧不足の強い味方、サツマイモだ。

 

 

「おっ、美味そうじゃん」

「2人の分ありますから、時間のある時に食べてください」

「おお~、サンキューサンキュー。ちょうど腹減ってたんだよなぁ」

 

 

 いわゆる差し入れ。

 紀沙ははしゃぐ冬馬の脇から良治の方を見やると、他の皆の所在を聞いた。

 

 

「あおいさん達なら、機関室にいると思う」

「そっか。ありがとうございます」

 

 

 そうしてひらりと身を翻す紀沙、言葉の通り、他のメンバーに差し入れを届けに行くのだろう。

 大学芋の包みを持ってはしゃいでいた冬馬は、紀沙の姿が見えなくなるとぴたりと動きを止めた。

 包みを片手に、もう片方の手で頭を掻いて、紀沙の出て行った扉を見つめていた。

 良治はと言えば、すでに冬馬の背中から視線を外して、机に向かい直している。

 

 

「……固いねぇ」

 

 

 だから、その時に冬馬がどんな顔をしていたのかを見ることは無かった。

 それでもその呟きは聞かなかったことにしたのだろう、溜息を吐くばかりだった。

 冬馬が「固い」と表した紀沙の態度は、彼女の背景を思えば無理からぬことではあった。

 だが、それを他人に理解しろと言うのは難しい。

 

 

「理解しがたいのは人間だからか、それとも……」

 

 

 まして、人間ですらないスミノにとっては。

 通路側の扉に背中をつけて、彼女は通路の向こうに消える紀沙の後ろ姿を見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 総理官邸の応接間からは、横須賀港の海が良く見える。

 ここを訪れる度に、上陰は視界一杯に広がる横須賀の海が好きなのか嫌いなのか、わからない気持ちにさせられるのだった。

 

 

『君の計画案は読ませてもらった。すでに他の元首達にも(はか)り、概ねの了承を受け取っている』

 

 

 電子音声の声に、頭を下げる。

 長身の上陰が頭を下げても相手の頭が低い位置にあるのは、車椅子に座っているからだ。

 生命維持装置も兼ねる車椅子に座って、楓首相は視覚補助用のバイザー越しに上陰を見つめていた。

 その眼差しからは、容易には心の底を窺い知ることは出来なかった。

 

 

 軍務省次官補の地位にある上陰は総理からの諮問(しもん)と言う形で、こうして2人で話す機会が多い。

 特に他に比して軍の比重が重くなっている昨今、呼び出される確率は高くなる。

 現在の次官の退任が(まこと)しやかに囁かれている今、上陰は次の次官候補の筆頭と言えた。

 もちろん魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)する官僚の世界だ、油断すればいつ足元を(すく)われるとも限らない。

 

 

『鹿島に彼らを呼んだそうだね』

「恐れ入ります」

『別に責めているわけでは無いよ。君の権限の範囲内で行うことにまで口を差し挟むつもりは無い』

「は……」

 

 

 今日、上陰はある提案――最も、すでに計画書の形で上げているのだが――について話し合うために、総理官邸を訪れていた。

 彼なりに日本の今後を考え、そして自分の今後を考えた時に、こうするのが1番良いだろうと判断した計画だった。

 楓首相の言う「鹿島の件」も、そのための布石だった。

 

 

『それにしても、面白いな』

「は……?」

『いや、ちょうど君と同じタイミングで、似たような提案をしてきた人がいるんだよ』

 

 

 その瞬間、上陰の脳裏に何人かの顔が浮かび上がってきた。

 だが1番最初に浮かんだ男こそが本命で、その直感に間違いが無いだろうことを、上陰は根拠も無しに確信した。

 将来はともかく、今このタイミングで自分と同じような計画を立てる男は他にいないだろう。

 

 

「……北幹事長、ですか」

『最も、あの人は君の推す『イ401』では無く、『イ404』を推して来たがね』

「…………」

 

 

 ここで、上陰は少し思案した。

 今、楓首相は上陰の案と北の案の2案があることを示した。

 一方で彼は、上陰の案が元首間で概ねの了承を得たとも言った。

 ここから読み取れることは何か、思案した。

 

 

「全ては鹿島次第、と言うことですか」

『軍務次官には、すまないと思うがね』

 

 

 鹿島……佐賀県鹿島宇宙センターから、遠くアメリカまである物資を運ぶ計画がある。

 それは単段式宇宙輸送機――SSTOの打ち上げ計画であって、宇宙空間を超音速で飛翔する特別輸送機によって、目的の物資を確実に送ることを期すると言うものだ。

 霧の海洋封鎖によって海上輸送が出来ない以上、島国の日本に残された唯一の国外輸送手段だ。

 現在、軍務省次官名義で進められている計画だが……。

 

 

『今日は海が穏やかだ』

「……はい」

 

 

 横須賀の海は、穏やかに陽光を反射している。

 凪いだ海の上を海鳥が飛び、群れを成して空を飛んでいく。

 上陰にはその光景が美しいのかどうか、わからなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 帰宅した紀沙を待っていたのは、家政婦からの意外な知らせだった。

 曰く、主人である北がすでに帰宅していると言うこと。

 まだ4時を過ぎた頃で、こんな時間に北が帰宅しているのは、初めての経験だった。

 

 

「おじ様、紀沙です」

「……入りなさい」

 

 

 縁側に膝をついて、障子を開ける。

 今のご時勢には珍しい、そして貴重な畳の敷かれた和室が目に入った。

 玉砂利の中庭もさることながら、派手さは無いが慎ましやかで美しい掛け軸や生け花が目を引く。

 だが何よりも目を引くのは、和装姿で腕を組み、瞑目(めいもく)している北の姿だった。

 

 

 こんなにも早く帰るとは思わなかった、今日はカツカレーを作った。

 そんなことを言えるような雰囲気では無く、紀沙も口を(つぐ)んだ。

 一方で障子を開けたまま呆けているわけにもいかず、楚々(そそ)として、部屋に入った。

 そのまま、勧められて北の対面に座る。

 

 

(……基地に行ったのを、怒られる?)

 

 

 余りにも雰囲気が重苦しかったので、そう思った。

 確かに褒められた行為では無かったかもしれないが、こんな風に改まって注意されるだろうか。

 しかも普段は忙しい北が、わざわざこんな時間に帰宅して?

 (にわ)かには考えにくい。

 こう言っては何だが、北はそこまで暇な人間では無い。

 

 

「…………」

 

 

 とは言え、紀沙から話しかけることは出来ない。

 北から話しかけられるのを待つこと。

 それが今、紀沙に出来るポーズだった。

 

 

「お前が……」

 

 

 そしてその時は、思ったよりもすぐに訪れた。

 

 

「お前がこの家に来て、どれくらい経つか」

「えっと、1年半くらいかと」

「そんなになるか」

「はい」

 

 

 横須賀に、紀沙の縁者はいない。

 北海道に一人母がいるが、この10年はまともに会えていない。

 唯一、横須賀に赴任していた父はある事情で日本にいない。

 そして双子の兄が一人、こちらも今は――――傍にいない。

 

 

 紀沙の家族はそれぞれに問題があり、いわゆる「普通」では無い。

 そのために、紀沙はひとりになってしまっている。

 また彼女を様々な理由で狙う者は多い、何しろ彼女の家族、とりわけ父と兄は。

 

 

「兄さんが出奔して、もう2年です」

「そして千早が……お前の父が()()()()()、2年でもある」

「はい」

 

 

 父も兄も、()()()()()()()()()()()()()()

 結果として母は保護を名目に北管区で軟禁され、紀沙は身辺が危うくなった。

 その折に紀沙を引き取ったのが、北だった。

 学院の寮から出して北の屋敷に住まわせ、それとなく身辺を固めさせた。

 

 

「北のおじ様には感謝しています。おじ様に引き取って頂けなければ、私は今、こうしてはいられなかったと思います」

「いや、私は」

「おじ様がどう思っておいでだろうと、私はそう思っているんです」

 

 

 傍から見れば、北が紀沙を囲い込んだように見えただろう。

 父と兄がいわゆる人類の勢力圏を離れて、霧の艦艇と自由に行動を共にしているのだ。

 なら娘が、妹が同じように出奔する可能性は無視できない。

 いやそれ以前に、「千早」の家に何かあるのでは無いか、と疑う向きすらある。

 

 

 それが無かったとしても、父と兄が人類の宿敵の側に行ったのだ。

 紀沙のことを快く思わない者は、それこそ少なくない。

 霧に家族を殺されている者は、特に。

 あのまま一人でいたら、冗談では無く今のような状態ではいられなかったかもしれない。

 だから紀沙は、本当に北に感謝しているのだ。

 

 

「だが私は、お前をイ404の艦長にした」

「はい」

 

 

 そんな紀沙に、人生の選択肢はそう多くは無かった。

 軍人・軍属以外の選択肢は、無かった。

 それも普通の軍人では無く、ある意味で特別な軍人になるしか無かった。

 その答えの一つが、霧の艦艇の艦長になることだった。

 

 

 紀沙が日本を出奔せず北の意のままに動くのであれば、それは北の権威を高めることに繋がる。

 来るべき()()()を主導しようとしている北にとって、大きな武器となるだろう。

 重要なことは、紀沙が「出奔しない」と言う強い意思を持っていることだ。

 それを確信しているからこそ、北は「千早の娘」をイ404の艦長に据えた。

 政治的動機からそうした、それは普通の軍人には出来ないことだったからだ。

 

 

「…………」

 

 

 北は、瞑目した。

 何を考えているのかは、その表情から窺い知ることは出来ない。

 けれど、苦悩していることはわかった。

 紀沙は、北がいつだって苦悩していることを知っていた。

 

 

「……千早艦長」

「はい」

 

 

 だから不意に艦長と呼ばれても、背筋を伸ばして返事をすることが出来た。

 

 

「艦とクルーと共に佐賀県鹿島沖に向かい、来週行われるSSTO打ち上げを援護しろ。……お前にとって、初の実戦任務だ」

 

 

 SSTO打ち上げの援護。

 初の実戦任務。

 それらの意味するところを、紀沙は確かに理解した。

 背筋を伸ばした体勢のまま、表情を引き締める。

 

 

「微力を尽くします、北議員」

 

 

 そんな紀沙の声を聞き、瞑目したまま頷く北。

 その表情から、苦悩の色が消えることは無かった。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

とりあえず、原作における初戦に向けての2話でした。
北議員はきっと良い人だと思います、そして必要なことが出来る人。
そんな人が紀沙を放っておくわけないよね、と。

404のメンタルモデルも登場、やはり400型は銀髪じゃないとネ!
そしてボクっ娘、作品に1人はいてもらわないと(え)

それでは、また次回。


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Depth003:「鹿島宇宙センター」

 イ404の艦体が、陽光に白く輝いていた。

 コンテナのアームに固定されたそれは、普段は晒すことの無い艦底部まで人目に晒している。

 煌く灰色の艦体に、それを見つめていた人々は緊張を孕んだ唾を飲み込んだ。

 

 

「これが、霧の艦か……」

「しかし、思ったよりも小さいんだな」

「小さくてもおっかねぇよ……」

 

 

 作業着に身を包んだ彼らは、鹿島宇宙センターの職員だった。

 鹿島宇宙センターはSSTOやロケットの射場を備えた大規模な施設であり、現在、日本の宇宙事業の主要拠点となっている場所でもある。

 元々日本の宇宙センターは鹿児島県種子島にあったのだが、霧の海洋封鎖によって危険性が増したため、陸続きの場所に拠点を作り直したのだ。

 

 

 そして今、その鹿島宇宙センターに横須賀からイ404が運び込まれた。

 特殊な軍用トラックに収容されて運ばれてきたそれは、職員達の手元のデータよりも随分と小さい。

 見た目には半分以下だろう、潜水艦としての最低限の機能しか無いのでは無いか、と彼らは思った。

 一方でヘリコプターを使って空路で運ばれてきたコンテナが10近くあって、その中には灰色の金属の塊が積み込まれていた。

 

 

「本土の奴ら、ここを金属加工屋と勘違いしてやがるのか?」

 

 

 職員達が揶揄(やゆ)混じりにそんなことを言うのも、無理は無かった。

 だがその時、不意に変化が起こった。

 イ404のハッチが、勢い良く開いたのだ。

 その瞬間、積荷の引き受けを行っていた者達の間に緊張が走った。

 どれだけ揶揄しようと、相手が霧の艦艇だと言うことを忘れてはいないのだ。

 

 

 この潜水艦1隻で、鹿島宇宙センターは壊滅させられる。

 いやもしかしたら、日本そのものが滅ぼされるかもしれない。

 それは、SSTOの射場と言う特殊な場にいる彼らが誰よりも良く知っていることだった。

 それだけ、彼らの危機感は強いのだ。

 霧の攻撃に晒され続けてきた、彼らだからこそ持ち得る危機感だ。

 

 

「何だ……?」

 

 

 何が起こるのかと固唾(かたず)を呑んで見守っていると、ハッチから腕が生えてきた。

 その腕がハッチの縁に腕をかけると、まるでホラー映画か何かのように男がずり上がって来る。

 作業員達がぎょっと見ている中、男が顔を上げた。

 そして、彼は。

 

 

「う゛ほ゛え゛え゛え゛え゛ぇぇ……!」

 

 

 イ404のクルー、碇冬馬は、盛大に()()()()()

 いわゆる、乗り物酔い。

 見るからに顔色が悪く、かなりタチの悪い酔い方をしている様子だった。

 鹿島の職員達は、それをぽかんとした表情で見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 日本近海は霧によって封鎖されているため、陸路で向かう方が安全だ。

 しかしそうは言っても、横須賀から佐賀までを陸路だけで移動するのは効率が悪い。

 まして潜水艦を運ぶとなると、なおさらだった。

 だから空路と陸路を何度か乗り継ぎ、奈良や呉などを経由して関門海峡を越えた。

 

 

「冬馬さん、大丈夫ですか?」

「何たって、移動してる間も中で待機なんだよ……うえ」

「間違ってもボクの身体(かんたい)につけないでくれよ」

 

 

 十何時間かぶりの地面に膝をつき、イ404に手をついて冬馬が背中を丸めていた。

 心底嫌そうな顔をするスミノを睨み、紀沙はそんな彼の背中を擦ってやっている。

 海中なら平気なのだが、トラックで揺られるのはまた違うらしい。

 一方で他のクルーは平気そうにしているので、冬馬は恨みがましそうな顔をそちらへと向けた。

 そんな冬馬に、梓が肩を(すく)めて言う。

 

 

「アタシらは良治から酔い止め貰ってたからね」

「何で俺にはくれないの!?」

 

 

 鹿島の港は宇宙センター用と言うことで、名目上は軍民共用と言うことになっている。

 とは言え霧への対策と言うこともあって、船舶は全て陸に揚げられていた。

 流石に横須賀のように地下ドックとまではいかないが、海上にいるよりは安全であろう。

 コンクリートで舗装された道路と、SSTOの発射を指揮・管制するための建設物、それに資材の保管や整備・生産のための工場や倉庫群、壮観な光景だった。

 

 

 遠目に見える陽光煌く水平線は、横須賀のそれとは少し違うように見える。

 さらに宇宙センター関連の施設の他に、統制軍の駐屯施設も見える。

 陸軍の装甲車、やはり陸に揚げられた海軍の艦艇、そしてヘリポート。

 もちろん、兵士が暮らす宿舎もそこかしこに点在していた。

 

 

「あれがSSTO?」

 

 

 落ち着いてきた冬馬から離れて立ち上がると、()()が視界に入った。

 発射台に据え付けられた大型のそれは、否が応でも目に映る。

 射場で打ち上げを今か今かと待つ、大型の輸送機。

 鹿島宇宙センターは海に近付くほど低くなっていくので、センターの入口付近にいる紀沙達から見ると、射場は見下ろす形になる。

 

 

「はい。艦長はSSTOを直に見るのは初めてですか?」

 

 

 恋の言葉に頷く紀沙。

 イ404のクルーはメンタルモデルを含めて外に出ている。

 思い思いの場所に立ち、あるいは座っていて、やはり紀沙と同じように遠目に見えるそれを視界に収めていた。

 この位置から見ると掌程の大きさに見えるそれは、しかし何よりも重要なものだった。

 

 

 SSTO――――単段式輸送機。

 形状としては横に平べったいマンボウのようで、だが表面は大気圏の熱にも耐えられる素材で出来ている。

 あのSSTOはある物を乗せてアメリカへ飛ぶ、大陸間を飛翔する輸送機だ。

 紀沙達は今回、あれを守るために派遣されたのだった。

 

 

()()()()()()()を、アメリカに引き渡すために)

 

 

 ふと彼女の手が触れるのは、髪を結ぶリボンだ。

 色は赤、紀沙にしては派手目な色合いだった。

 それに触れながら、紀沙は今回の任務に出発する時のことを思い起こしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 お互いの予定が合う時には、いくら早くても、紀沙は北と一緒に屋敷を出ることにしている。

 その日も早起きをして、お米と卵と葉物の野菜――いずれも、このご時勢には貴重品だ――を使ったお弁当を作った。

 お握りと卵焼きに野菜と漬物を少々、塩分控えめ、慎ましやかだが花形の人参が彩りを豊かにしている。

 

 

「はい、おじ様。今日のお弁当です」

「ん」

 

 

 強面(こわもて)の議員が小さな桃色の包みを開いて、丸くて可愛らしいお弁当を黙々と食べる姿は傍目から見てどう映るのだろう。

 屋敷の家政婦らは毎回そう思っているのだが、残念ながら北から周りの反応について言及されたことは無い。

 側近や部下達も他言するような性格では無いので、いよいよもって謎ではある。

 

 

 そしてこう言う時、北は何も言わずに受け取り、そして帰宅のタイミングが合えば何も言わずに返すのだった。

 昔ながらと言うか、私生活で女人に対して何かを言う人種では無いのだろう。

 紀沙もまた、何かを求めたことは無い。

 自分が好きでやっていることで、それに屋敷に住まわせて貰っているお礼の一環だと思っているからだ。

 

 

「今日は……こちらがよいと思います」

「ん」

 

 

 そして、北のネクタイを選ぶのも紀沙の役目だった。

 いつからかやり始めて、何となく習慣付いた日課のようなものだ。

 今日は青基調のストライプ柄、北は特に拒否することも無く、鏡の前でそれを身に着けた。

 自分が結んであげたい気持ちもあるが、流石にそれはさせて貰えていない。

 

 

「今日は、どれが良いと思いますか?」

「む……」

 

 

 そしてこれもいつからかわからないが、おそらく紀沙の方から聞いたのが始まりだったと思う。

 この時に少し悩む素振りを見せる北の顔は、おそらく紀沙しか知らないだろう。

 

 

「これですか? す、少し派手じゃないですか?」

 

 

 北が紀沙の持つ小さな箱の中から選んだのは、リボンだ。

 紀沙は基本的に髪をリボンで結ぶ、そうしないと跳ねが強くて乱れてしまうためだ。

 そして選んで貰ったリボンで髪を結って、屋敷を出るのである。

 ネクタイとリボンを選び合う、それが2人の朝の日課だった。

 

 

 そしてその日、北が選んでくれたのは赤色のリボン。

 少し派手に思えたが、初の実戦任務と言うこともあって、気合を入れろと言うことなのかもしれない。

 赤は、勝利の色でもある。

 北の気持ちが伝わるようで、紀沙はリボンを手に唇を引き結んだ。

 

 

「今日から少し長い任務だ。艦長として、クルーのことには目を配れ」

「はい」

「お前にとっては初陣だが、今回の任務は日本にとって、いや人類にとって重要なものだ。初陣だからと甘えることなく、精励しろ」

「はい」

 

 

 私生活では口数が少ない北だが、話が公的なものになると途端に饒舌(じょうぜつ)になる。

 それが北と言う人間で、紀沙はそのことを良く理解していた。

 だから素直に頷いて、北の言葉を聞いていた。

 

 

「そして無事に任務を果たして、帰還するのだ」

 

 

 そうした北の言葉を胸に抱いて、紀沙は鹿島へと旅立った。

 そして今日、鹿島の地へと足を踏み入れたのである――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 いくら陸路で運ばれてきたと言っても、潜水艦は潜水艦である。

 あくまで配備されるのは港だ。

 陸上に設置された船舶用のアームに艦を据え付ける作業が、まず必要になってくる。

 それだけでも大掛かりな作業のはずだが、霧の艦艇なのでそこまでの労力は必要無かった。

 

 

「スミノ、艦体を固定。同時に分割したナノマテリアルを回収」

「了解、艦長殿」

 

 

 小さくなった艦体と謎の金属塊を積んだコンテナ群から、灰色の粒子が空中に舞い上がった。

 キラキラと輝くそれは風に煽られる様に舞っていて、光の強い蛍のようにも、陽光に煌くタンポポの種子のようにも見える。

 ただしそれは金属の粒子であって、ナノマテリアルと言う特殊な物質である。

 

 

 ナノマテリアルとは、霧の艦艇が用いる未知の物質のことだ。

 人類がナノマテリアルを用いることは出来ない。

 これは霧にのみ許された超技術であり、鉱物学や物理学では説明がつかないものなのだ。

 それは、目の前の光景から容易に想像できるだろう。

 

 

「相変わらず、意味不明な光景だねぇ」

「理解しようとする方がどうかと思うわ~」

 

 

 梓が嘆息するのも無理は無い、あおいは技術班としてもう少し理解への努力を求めた所だが……。

 ただ、一方で粒子を発する側が溶けるように消えて、もう一方で何も無かった場所にイ404の艦体が形成されていく――そんな光景を見て、理解を放棄したくなる気持ちもわからないでは無い。

 強いて例えるなら、毛糸のセーターを解くと同時に全く同じセーターを編んでいる状態だ。

 セーターと潜水艦ではまるで違うが、イメージとしてはそれが一番近い。

 

 

 スミノは艦体をいくつかの金属塊に分割し、運搬がしやすいような形態を取っていたに過ぎない。

 分割したそれらを元に戻すことで、100メートルを超える艦体が徐々に姿を現してきた。

 明らかに超常の光景だが、紀沙達にしてみれば初めてでは無い。

 何せ、自分達が乗り込む際にクルーの部屋のリフォームを同じ方式で行ったのだ。

 とは言え理解出来ないものは出来ない、人間の姿をしていても、スミノが霧であることを再認識する場面だった。

 

 

「それにしても艦長殿、どうしてボク達は外で待機なんだい?」

 

 

 実際、紀沙を見上げるスミノの顔に人間らしさは窺えない。

 姿形は人間だ、しかし決定的に纏う雰囲気が違う。

 

 

「人間は援軍ってものを歓迎するものだと思っていたけれど」

 

 

 翡翠の瞳、その虹彩が輝いていた。

 断続的に揺れるそれはノイズに似ている、そして額に輝く奇妙な紋章(クレスト)

 灰色に輝く、シンメトリーの翼の形をした紋章だ。

 ()()()

 それから視線を外して、骨組みから外装、そして内装の再現に入ったイ404の艦体を見つめる。

 

 

「……人間は、怖いものを遠ざけておきたいものなんだよ」

 

 

 それだけを返して、スミノから離れる。

 艦体が復元された――対照的に、コンテナは空になった――以上、次は中のことをしなければならない。

 イ404の艦体は陸上設置型のアームに固定されており、固定を解除しさえすれば、そのまま海中へと滑り落ちるようになっていた。

 一応、ここがそのまま紀沙達の持ち場と言うことになっている。

 

 

「あおいさん、静菜さんは機関室。梓さんは魚雷、冬馬さんはソナーのチェックを。良治さんは医薬品の積み込み、それから恋さんは私と発令所の確認をお願いします」

 

 

 そんな背中を、スミノはじっと見つめていた。

 紀沙の言葉を反芻(はんすう)するように呟き、意味深長に嗤う。

 こわいもの、だ。

 彼女は「怖いもの」と言ったが、さて。

 

 

「それはボクのこと? それとも……」

 

 

 先程、紀沙と会見した軍務省の次官とやらの顔を思い起こす。

 紀沙達を建物の中に入れず、港での待機を要請した鹿島の職員達の顔を思い起こす。

 それらを思い起こした彼女は、ますますもって笑みを深くするのだった。

 

 

「……ボクを含めた、()()()()()?」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 横須賀の海は、今夜も穏やかだった。

 海に面したテラスから見える月は高く、街頭に照らされたレンガ造りの佇まいはクラシックな雰囲気を醸し出している。

 そこは海沿いにある高級レストラン、その筋で有名で、政治家や高級官僚が会食に良く利用する場所だった。

 

 

『イ404は鹿島に到着したそうですね』

「どうやらそのようだ、流石に耳が早いな」

『これでも首相ですから』

 

 

 今日、このレストランを使用している客は1組だけだった。

 楓と北の二人である。

 時の首相と与党幹事長の会食とあって、警備は厳重である。

 最も楓首相の身体のことを思えば、正確には会食とは言えないかもしれない。

 

 

 とにかく、二人は同じテーブルを囲んで向かい合っていた。

 ウェイターが空の食器を下げ始めているあたり、どうやら食事は終わったようだ。

 今は食後の歓談、と言っても、話の内容はいくらか殺伐としていたが。

 

 

『成功すると思いますか? 軍務次官の輸送計画は』

「霧の判断次第だろう。あれらは大気圏を高速で移動する物体でも撃ち落せる、今回飛ぶSSTOが無害な物と判断すれば放置するかもしれん」

『しかしあなたはそうならないと思っている、そうでしょう?』

「確証があるわけでは無い」

『でも、確信はある』

 

 

 食後に運ばれてきたコーヒーの表面は、黒く微動だにしない。

 

 

『霧はどう言うわけか、我々の事情に精通している。過去他国まで飛んだSSTOは、全て支援物資を乗せたものでした』

「一方で、軍需物資を積んだSSTOは全て撃墜された」

『ええ。……そして今回は、後者です』

 

 

 ――――振動弾頭。

 日本が今回、SSTOに乗せてアメリカに運ぶ物だ。

 一言で言えば開発したての新兵器、文句のつけようが無いほどに「軍需物資」である。

 つまり、霧が妨害してくる可能性は極めて高いと言えた。

 

 

『そうなると、後はイ404と……』

「イ401次第、と言う所だろうな」

 

 

 霧の海洋封鎖、それは島国の日本にとってまさに致命的だった。

 全ての船舶が――それこそ、潜水艦まで含めて――撃沈されてしまうと言うことは、日本に必要な物資が入ってこないことを意味する。

 資源と食糧、それまで輸入に頼っていた諸々が次々に枯渇、日本は1年と保たずに追い詰められた。

 

 

 だからこその新兵器、霧の艦隊を排除して、旧来の海洋秩序を取り戻す。

 そうしなければ、日本に未来は無い。

 かつて霧の艦隊と戦った楓首相と北には、それが痛いほどによくわかっていた。

 そして希望の渡し先をアメリカとしたのも、色々と事情があってのことだ。

 

 

『欧州諸国は戦争の真っ最中、中国・ロシアは友好国というわけではない』

「そしてアメリカにはSSTOの支援を受けている借りもある。同盟国でもあるし、誘いを断るのは難しい。実際、我らには十分な数の振動弾頭を量産できるだけの工業力は無い」

『まぁ、全く保険が無いわけではありませんが……』

 

 

 そこで楓首相は、ふと微笑んだ。

 

 

『……それにしても北さん。任務の達成が困難とわかっておいでなのに、どうしてイ404を鹿島に向かわせたのです?』

「不可能と決まったわけでは無い。可能性に賭けてみようと思ったまでのことだ」

 

 

 それなら、イ401で十分だったのでは?

 楓首相はその言葉をあえて口にしなかった、北も楓首相がそうしたことに気付いているだろう。

 上陰への対抗だけでそうしたとは思わない、北はそんな器の小さい政治家では無い。

 わざわざ横須賀の防衛力を落としてまで鹿島にイ404を送り込んだのは、他に理由があるはずだった。

 そう、例えば。

 

 

『ところで北さん、そのピンクの包みはいったい?』

「む……」

 

 

 誰かと誰かを、引き合わせるため?

 いや、この場合は()()と言うべきだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 佐賀の海辺も、横須賀の――函館と同じ星が見えているのだろうか。

 そんなことを考えながら、紀沙はひとり鹿島宇宙センターの埠頭に立っていた。

 少なくとも冷たい海風は、似ているような気がした。

 

 

「うん……うん。大丈夫、ちゃんと食べてるよ」

 

 

 ひとり頷きながら、紀沙は立っている。

 独り言と言うわけでは無く、携帯端末で誰かと話しているのだ。

 掌の半分程の大きさの携帯端末で、何かのアニメキャラクターを模したストラップが揺れていた。

 相手は親しい人間なのだろうか、声は優しかった。

 

 

「お腹出して寝たりしないよ、もう子供じゃないんだから」

『…………』

「うん、うん。大丈夫……母さん」

 

 

 電話の相手は実母の千早沙保里、今は函館に住んでいる。

 鳥類学者で、父と兄のことがあってからは自宅に軟禁状態となっている。

 今の紀沙の立場からすると、人質と言う側面もあるだろう。

 この電話も、政府によって傍受されている可能性だってある。

 

 

 まぁ、母の沙保里はそう言ったことを感じさせない大らかな性格の女性だ。

 大らかと言うか、懐が広いと言うべきなのか。

 少なくとも、紀沙は母の口から悲観的な言葉を聞いたことが無い。

 割と無茶苦茶なところもあるが、母のそう言う性格は紀沙も好ましく思っていた。

 

 

「ちゃんとやってるから、心配しないで」

 

 

 そうして、通話は切れる。

 特に何か話したいことがあったわけでは無い。

 ただ声を聞きたかったし、聞かせてあげたかった。

 母親との電話などそんなものだろうと、紀沙は思っている。

 そして母も、そんな紀沙の気持ちを良くわかっているのだろうと思う。

 

 

(ちゃんとやってる、か)

 

 

 何の具体性も無い言葉だと、そう思う。

 一方で自分がここにいる理由も、きちんと見えている。

 任務の重要性、北への気持ち、クルーへの責任、家族への想い。

 そして、自己の力への不信。

 

 

 そうした色々に押し潰されそうになった時は、こうして海に来る。

 海。

 父と兄が乗り出した、その場所。

 子供の頃から変わらずにそこにある海は、紀沙を安心させてくれる。

 まるで、昔一緒に海を見ていた人が傍にいてくれるような気持ちにさせてくれる。

 

 

「父さん、兄さん……出来れば」

 

 

 自分がすべきことは、いつだってここにある。

 祈るように閉じた目からは、何も零れない。

 泣いてばかりでは、何も出来ないから。

 それに日本にはもう、千早は、霧の艦長は自分だけしか残っていない。

 そう、だからこそ――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 次に目を開いた時、紀沙は変わらず海辺にいた。

 

 

(だからこそ、私がやらなくちゃ)

 

 

 しかし埠頭では無い、青白いディスプレイの輝きに満ちた、薄暗い場所にいる。

 イ404の発令所、その景色が視界一杯に広がってきた。

 正面のモニターには遠く、SSTOの射場の様子が打ち出されている。

 すでに燃料の供給も終わり、エンジンの燃焼も始まっている状況だった。

 まさに、打ち上げ直前と言った様相を呈している。

 

 

「SSTO、発射まであと10分を切りました」

「わかりました。恋さん、そのままカウントダウン管理お願いします」

「了解しました」

 

 

 モニターの端に、打ち上げまでのカウントダウンの表示が始まる。

 あと1分半もすればSSTOの固定が解かれ、5分もしない内に打ち上げの管理が管制を離れるだろう。

 最後の待機(ホールド)が解除された今、後は打ち上げ本番まで止まることは無い。

 10分の後には、SSTOは夜空の彼方へと飛び立っているはずだ。

 

 

「スミノ、天候は?」

「――――降水確率0%、外気温摂氏9℃、雷雲無し。絶好の打ち上げ日和?」

「そう」

 

 

 天候を理由に中止される可能性も少ない。

 打ち上げる。

 打ち上がる、SSTOが。

 しかし一方で、紀沙は発令所内の空気が張り詰めていくのも感じていた。

 

 

 何故か?

 それは、予感があるからだ。

 予感と言うよりは、過去の経験から来る確信と言うべきだろうか。

 このSSTOがこのままでは()()()()()()()と言う、確信。

 

 

「……来なきゃ良いんだよ」

 

 

 呟いたのは、梓だったか。

 しかしそれは、この場の――いや、鹿島宇宙センター全体の意思の代弁だった。

 誰もが予感し、そしてその予感が外れることを祈っている。

 同時に、その予感が的中することも確信している。

 それは、そんな矛盾を孕んだ感情だった。

 

 

「――――ん」

 

 

 ピクン、と、スミノの身体が震えた。

 次の瞬間だった。

 足元が揺れたと感じた直後、夜空を赤色と黒煙が引き裂いた。

 振動が空気を伝って、ここまで震えてくるような気がした。

 右から左へと、SSTOの射場の傍を掠めたそれに目を細める。

 

 

「鹿島駐屯地のミサイル防衛システム作動を確認!」

「……!」

 

 

 恋の声に、クルーはそれぞれ動いた。

 梓は各種魚雷を再確認し、冬馬はソナーの感度を上げた。

 来た。

 やはり来た、紀沙は己の心臓を掴まれた心地になった。

 

 

 いつの間にか、自分で左胸を掴んでいた。

 飲み下せる程に唾液が出ている一方で、唇はやけに乾いていた。

 浅く早い呼吸は、鮮明なはずの視界をチカチカさせる。

 気のせいか聴覚にも、いや五感全てが鈍くなっているような気がしてきた。

 要するに、急激な緊張に肉体が反応したのである。

 

 

(任務、SSTOの護衛)

 

 

 そんな中にあっても、自分の使命を忘れてはいない。

 忘れてはいないが、最初の一声が出なかった。

 唇は震えて喉も動く、なのに第一声が上手く出ない、舌でも絡まっているのか。

 まるで(おか)に上がった魚のようで、訓練通りに言葉を発せない自分に苛立ちを――――。

 

 

「艦長殿」

 

 

 スミノの声が、すっと胸に落ちて来た。

 途端に体内で聞こえていた軋みが消えて、視界が、耳が正常に意識できるようになった。

 驚いたような顔で横を向けば、スミノが感情の見えない瞳で自分を見ていた。

 翡翠の色では無い、すでに虹彩を輝かせている。

 

 

「……ッ」

 

 

 途端、観察されているような気持ちになって、かっとした熱を顔面に感じた。

 

 

「機関始動!」

 

 

 発令所に、少し掠れた紀沙の声が響いた。

 灰色の輝きが発令所を覆い、イ404の動力部に火が入った。

 

 

「アームロック解除、隔壁閉鎖、進水と同時に増速開始」

『機関室了解、進水時点で増速開始』

『隔壁閉鎖、気密チェック~』

 

 

 最初の一声さえ出てしまえば、後は言葉の方が口を突いて出て来た。

 

 

「全兵装ロック解除。通常弾頭魚雷を5番から8番まで装填」

「あいよ了解、5番から8番まで通常弾頭魚雷装填!」

「センサー類感度上げ、やはり進水と同時に海面をトレース」

「任せとけ、泡いっこ見逃しゃしねーよ」

 

 

 アームが解除される鈍い音が響くと同時に、艦体が斜め前にずり下がる振動が起こる。

 排気、そして海中に沈む独特の軋みと浮遊感。

 それら全てが、紀沙の意思によって動いている。

 初陣。

 初めての、戦場(うみ)へ。

 

 

(父さん、兄さん)

 

 

 父に代わり。

 兄に代わって。

 自分が。

 

 

(出来れば、どこかの海から見守っていてね……!)

 

 

 自分が、皆を、この国を守る。

 

 

「急速潜行――――――――ッッ!!」

 

 

 霧の、魔の手から!

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 鹿島沖には、現在()()の艦艇が存在している。

 まず一つは湾内に侵攻している霧の艦艇、そして二つはその迎撃に出撃した日本海軍の艦艇『あまつかぜ』『たちかぜ』、そして戦線への参加を窺う日本海軍保有の霧の艦艇――『イ404』。

 そして、いま1隻。

 

 

「どうやら、もうおっぱじめてるみてーだな」

 

 

 青白い輝きに包まれる発令所の中で、橿原(かしはら)杏平(きょうへい)は言った。

 タンクトップにミリタリーパンツ姿の少年は、今は炭酸飲料片手に発令所正面のモニターを見つめていた。

 対光仕様のゴーグルに、モニターの映像が映り込んでいる。

 

 

「日本海軍の2隻、霧に砲撃を開始しました」

依頼人(クライアント)より交戦海域のリアルタイム映像と、SSTOの打ち上げデータが送信されて来ました。正面モニターに出します」

 

 

 海中の音を拾ったのだろう、八月一日(ほづみ)(しずか)が状況を伝える。

 長い黒髪に眼鏡という容姿はともかく、キャミソールにショートパンツという格好は、(いささ)かこの場にはそぐわないようにも見えた。

 尤も無人機(ドローン)の偵察映像を出した少年に比べれば、インパクトは弱い。

 織部(おりべ)(そう)は服装は普通だが、フルフェイスタイプのマスクが全てを持っていっている。

 

 

『超伝導系に揺らぎが見えるから、なるべく全速航行は避けてね~。保たせるけど』

 

 

 戦闘の気配を感じてか、モニターの隅に通信枠が現れた。

 機関室らしき場所を背景に1人の少女が映っている、明るい茶髪を2つ結びにした少女だ。

 その少女、四月一日(わたぬき)いおりの言葉に、ふむと頷く者が1人。

 

 

「それで、先客がいるみたいだが。どうする、艦長?」

「……そうだな」

 

 

 霧の艦艇が火焔に包まれる――そして無傷で反撃している――様子を見つめながら、艦長と呼ばれた少年は頷いた。

 黒いタキシードに身を包んだ少年、人は彼のことを「航路を持つ者」「戦艦殺し」等、様々な異名で呼ぶ。

 しかしそのいずれも彼の名前から来たものでは無く、彼が成した事象からつけられたものに過ぎない。

 

 

「イオナ」

 

 

 千早(ちはや)群像(ぐんぞう)は、傍らの少女を呼んだ。

 銀色の髪の少女が、感情の見えない顔で振り向く。

 翡翠色の瞳が、少年のことをじっと見つめていた。

 

 

「このまま潮の流れに乗って無音潜行、速力10ノット。敵に見つからないことを最優先に、慎重に近付いてくれ」

「攻撃はしないのか?」

「ああ。霧と()()がぶつかれば、おそらくどちらも周囲に気を払えなくなるだろう」

 

 

 全ての戦況を映すモニターを見つめながら、彼――群像は告げた。

 それは、彼ら<蒼き鋼>の行動方針を決するものでもあった。

 

 

「――――その隙を、突く」

 

 

 どちらの、とは言わない。

 しかしそれで全ての意図を察したかのように、銀髪の少女は頷きを返した。

 途端、彼らの足元がぐらりと揺れた。

 潮流に乗ったのだと気付くのに、時間は必要なかった。

 

 

「よし」

 

 

 それを合図に、他のメンバーも定位置についていた。

 仲間達の動きを視界の端に収めながらも、群像はイオナへと視線を向けていた。

 次の命令を待つ()に、命令を伝えるために。

 

 

「……かかるぞ!」

 

 

 ()()()の艦艇が、鹿島の海を進む。

 静かに、そして確かに、静粛さの中に猛々しさを隠して。

 蒼き狼は、その牙を研ぎ続けていた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

イオナたんに「きゅ~そくせんこ~」と言ってほしい(え)
でもあれはアニメ設定(と言うよりアドリブ)なので、私のとこでは無理かもですね。
原作とアニメでは、キャラが大分違うお方ですしね……。

さて、次回は本作初の海戦です。
スロースタートな気もしますが、原作における最初の戦闘でもあります。
張り切っていきましょー。
それでは、また次回。


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Depth004:「ナガラ」

 『あまつかぜ』は、対霧を想定して建造された()()艦の1隻である。

 何しろ鹿島宇宙センターはSSTOの打ち上げが想定される場所だ、当然、配備される艦艇の選定には最低限の配慮が成されている。

 しかし『あまつかぜ』の艦長は、自分の艦が建造以来最大の危機に陥っていることを理解していた。

 

 

「機関出力低下! 姿勢の維持、出来ません!」

「対艦ミサイル発射管全損! 火器管制システムに異常発生、稼働率30パーセントを切りました!」

「艦体損耗率、なおも拡大中! 主要区画への進水も止まりません!」

 

 

 戦闘指揮所――CICと呼ばれるそこに立ち、部下達の悲鳴のような声を耳にしながらも、しかし彼は微動だにしていなかった。

 ただしそれは、彼が動じていないと言うことでは無い。

 逆だ。

 他にどうしようも無いから、何も出来ないでいるだけだ。

 

 

 実際、『あまつかぜ』の艦体は浸水によって大きく傾きつつあり、小手先のダメージコントロールではどうすることも出来ない状態だった。

 この状況で何か出来ることがあるとすれば、艦を捨てて脱出することくらいだろう。

 だが余りにも目の前の出来事が信じられなくて、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 

 

「対<霧>用の強化が施された艦だぞ」

 

 

 霧の出現より17年、それこそ死に物狂いで試行錯誤を繰り返してきた。

 だが、それが今さら何になると言うのだろう。

 しかし今、『あまつかぜ』は戦闘開始から3分と保たずに沈みつつあった。

 艦体は穴だらけになり、至る所で火災が発生し、内部は海水で満たされつつある。

 

 

「艦長おおおおぉぉっ!」

 

 

 部下の悲鳴に意識を戻せば、CICの戦術モニターに敵の姿が映っていた。

 霧と共に暗黒の海に浮かぶその威容は、地獄の底から這い上がって来た悪魔を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 しかもこの悪魔は火を吐く、軍艦1隻を一撃で轟沈させる凶悪な火を。

 

 

「おのれ、霧め……!」

 

 

 怨嗟すら覗かせて、彼は正面のモニターを睨み付けた。

 しかし、それだけだった。

 それ以上のことは何も出来ず、ただ見ていることしか出来なかった。

 悪魔が火を吐く、その瞬間を。

 

 

「砲撃、来ます!」

 

 

 部下が絶叫する。

 モニターの中で、敵の黒い艦体に赤い紋章が輝くのが見えた。

 その場で思わず一歩を下がってしまうのは、仕方が無かっただろう。

 逃げ場が無いとわかっていても、そうしてしまうのが人間なのだから。

 

 

 直後、『あまつかぜ』の艦体が大きく揺れた。

 

 

 床が大きく傾いて、兵士達は手近な物に掴まって身体を支えた。

 支えられ無かった者は転倒して声を上げたが、衝撃そのもので怪我をした者は少なかった。

 艦長自身、自分に怪我が無い――いや、自分が生きていることに驚いていた。

 何故ならば霧の砲撃は、オレンジ色に炸裂した火砲は、確かに自分達の中枢を狙っていたのだから。

 

 

「さ……左舷、至近弾!」

「至近弾だと? 外したのか?」

 

 

 座席の背もたれに掴まったまま、疑問をそのまま口にする。

 偶然、とは思わなかった。

 そんな都合の良い偶然があるのなら、彼らの僚艦である『たちかぜ』が撃沈されることはなかったはずだ。

 

 

「何が起こったのか!」

「わ、わかりません! 砲撃の直前、外的な要因で照準がズレたとしか……」

「外的な要因だと?」

 

 

 顔を上げれば、モニターには未だ敵の姿が映っている。

 単艦で鹿島に侵攻してきた敵艦、その横腹に。

 その横腹に、2本の水柱が立ち上るのを彼らは見た。

 それは――――。

 

 

「……雷撃だと!?」

 

 

 それは、魚雷による攻撃だった。

 あの霧の艦艇が、何者かによって攻撃されている。

 沈み行く『あまつかぜ』の中、彼らは信じ難い気持ちでそれを見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 潜水艦とは、静粛性を武器とする軍艦である。

 イメージとしては忍者に近い、音も無く獲物に近付き敵を沈めることを得意としている。

 しかし今、イ404はその隠密性をかなぐり捨てていた。

 

 

「スピーカー最大! 霧の目をこちらに引き付けて下さい!」

「後部スピーカー、最大稼動を確認」

 

 

 イ404の後部装甲の一部がスライドし、艦体後部側面に一列のスピーカーが露出している。

 これは海中で特定の周波数を発振しており、自然では発生しないそれは、イ404の居場所を大音量で伝え続けていた。

 言ってしまえば、かくれんぼで鬼の前をラッパを吹き鳴らしながら走っているようなものだ。

 隠れるとか隠密性とか言う以前に、その気が無いのである。

 

 

「だああぁっ! うるっせええぇぇぇっ!」

「うるさいのはアンタだよ、男なら黙って仕事しな!」

 

 

 堪らないのは冬馬である、自艦が発する音が邪魔で探査(ソナー)が出来ないためだ。

 梓はああ言うが、誰しも耳元で耳障りな音がガンガン鳴り響けば叫びたくもなる。

 むしろ、そんな中でもヘッドホンを投げ出さないだけ仕事熱心と褒めるべきなのかもしれない。

 

 

「――――魚雷航走音、2……いや4!」

「取舵!」

「了解、取か……いや、間に合わないな」

 

 

 だから、この騒々しい海中で魚雷を探知した耳は素晴らしいものがある。

 しかし遅れたのは否めない、艦体を左に寄せつつも、スミノが諦めの言葉を発する。

 彼女は後ろを振り仰ぐと、瞳の虹彩を輝かせた。

 

 

「クラインフィールド展開」

 

 

 淡々とした声、その直後、肌の上を何かが這った。

 静電気に近いその感覚は、イ404の艦体表面を何かが覆った感覚だ。

 艦内にいる紀沙達には確認出来ないが、それは透明な灰色の六角形の集合体に見えた。

 それが蜂の巣状に艦体全体を覆った直後、暗い海の中を疾走して来た火槍がイ404後部に直撃した。

 

 

「ぐっ……!」

 

 

 艦体が大きく揺れて、紀沙はシートにしがみつく。

 海中に爆発音が響き、静かな夜の海は一瞬にして爆煙に覆われた。

 衝撃波が潮流を引き裂き、その乱れがイ404の艦体を断続的に叩いてくる。

 しかし4発の魚雷が直撃したにも関わらず、イ404は無傷で爆煙の中から飛び出して来た。

 

 

 その艦体には、無数の灰色の六角形が波紋のように波打っていた。

 艦と魚雷の間に発生したそれは、盾や鎧と言うよりはエネルギー・シールドと表現すべきものだ。

 受けたエネルギーを別方向に逸らす効果があり、霧の装甲――強制波動装甲と呼称される――表面に発生し、人類の兵器を含むあらゆる物を弾き、防御することが出来る。

 とは言え今見たように、衝撃まで完全に防げるかと言えば、そう言うわけでも無いらしい。

 

 

「……恋さん、『あまつかぜ』は!?」

「最後の偵察機(ドローン)映像では、退艦作業に入っています」

「わかりました。梓さん、後部発射管に音響魚雷装填して下さい。それから3番4番にアクティブデコイを」

「あいよ! 音響魚雷及びアクティブデコイ装填――――完了!」

「魚雷航走音、感8! 完全に見つかってんぞ、これは!」

「そうでなきゃ困ります! スミノ!」

「了解」

 

 

 指揮シートの隣に立っているだろうスミノ、しかしその姿を振り仰ぐことは無く、紀沙は周辺海域の地図と戦況予測を映し出す正面モニターから目を離さなかった。

 ぐん、と腹の底が持ち上げられる感覚を得た。

 イ404が艦首を下げ、急速潜行に入ったためだ。

 

 

 同時に、艦尾に――正確には、艦体後部のクラインフィールドに魚雷が殺到する。

 ビリビリとした振動の中、紀沙の声は確かに発令所に響いた。

 それはどこか、ジェットコースターで落下する際に出る声に似ていた。

 音響魚雷発射、スピーカー停止、アクティブデコイ発射、機関停止、そして急速潜行。

 

 

「冬馬さん!」

「わかってる!」

 

 

 冬馬がヘッドホンをミュートした、次の瞬間。

 鹿島沖の海中に、甲高い叫び声が充満した――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――ふはっ。

 詰めていた息を吐き出して、紀沙はシートに思い切り背中を当てた。

 

 

(凄く、ヤバかった)

 

 

 発令所の照明が薄暗くて助かった。

 今、自分の顔色は蒼白を通り越して真っ白になっているだろうから。

 

 

「……(やっこ)さん、上手いことデコイの方を追ってったみたいだな」

 

 

 慎重に海中の音を拾っていた冬馬が小さくそう言うと、場が安堵するのがわかった。

 アクティブデコイは自ら信号を発しながら動く囮だ、ナノマテリアルで形成されたそれは形状もイ404とそっくりだ。

 とは言えそこまで操作が利くものでもない、そう長くは保たないだろう。

 

 

 一方で、敵がすぐにイ404に気付くとも言えない。

 海上艦が今のイ404のように海底に停まっている潜水艦を見つけるのは、実はかなり難しい。

 肉眼でも無い限り、海中で船同士が互いの居場所や距離を探るにはソナーが必要だ。

 つまり音波を発し、その反射によって相手を探る。

 だが海底に這う潜水艦を探る場合、土や岩の隆起と区別がつかなくなってしまうのである。

 

 

「敵の魚雷の炸裂音に潜ませての音響魚雷、訓練通りですね艦長」

「そうですね……」

 

 

 意識的に深く呼吸を繰り返しながら、しかし隠れてばかりではいられないことも紀沙は理解していた。

 あまり動かずにいると、敵はSSTOの撃墜に集中してしまうだろう。

 カウントダウンはまだ5分近く残っており、また打ち上げが始まったとしても、敵は霧の艦艇。

 打ち上がった所を狙い撃ちにされる可能性もあり、一度攻撃を許してしまえば、これを防ぐのは難しい。

 

 

 セオリー通りなら、こちらから再度の奇襲攻撃を仕掛けるしかない。

 それも、5分以内にだ。

 胸に手を当てたまま、大きく息を吐く。

 気を落ち着けて、紀沙は傍らのスミノに問うた。

 

 

「スミノ、敵の霧は強制波動装甲を装備してる?」

「勿論」

 

 

 短く答えて、スミノは正面のモニターに敵の情報を出した。

 ナガラ級軽巡洋艦『ナガラ』。

 特段、これといった特徴は無い。

 排水量6010トン、装備・速力・大きさ共に標準的な霧の艦艇である。

 

 

「クラスで言えばナガラはそれほど大きいわけじゃない。けどクラインフィールドの強固さは、それだけで十分すぎる装備だからね」

 

 

 人類が17年間霧の海洋封鎖に甘んじてきたのは、クラインフィールドの脅威に対抗できなかったからだ。

 クラインフィールドはあらゆる物を逸らしてしまう最強の盾だ。

 実際、この17年間で人類側の艦艇が霧を沈めたと言う()()()()は無い。

 

 

「アタシらの持ってる魚雷じゃ、クラインフィールドとか言うのは抜けないからねぇ」

 

 

 しみじみと言う梓の言葉は、事実である。

 話に聞く所によれば霧の艦艇はクラインフィールドにも有効な「侵蝕弾頭」と言う兵器を持つらしいが、イ404には無い。

 正確には持てないわけでは無いらしいが、今は作れない。

 

 

「ナノマテリアルも無限に湧いてくるわけじゃないからね。特に2年前に休眠状態から覚めてからこっち、ボクは一度もナノマテリアルを補給していない」

 

 

 ナノマテリアルは、極めて汎用性の高い物質だ。

 しかし一方で、形成できるものはナノマテリアルの総量に依存する。

 例えば魚雷を作ろうと思うなら、その分のナノマテリアルをどこかから融通しなければならないのである。

 それこそ霧の艦隊であれば、彼女達は自前でいくらでも用意できるのだろうが……。

 

 

「何だよ、作れないのか?」

「難しいかな、侵蝕弾頭の形成には専用の設備と演算が必要だからね。あれは構成が複雑だし……それに下手にナノマテリアルを動かすと、ナガラに居場所がバレると思うよ」

「それじゃダメじゃないかい」

「ダメだろうね」

 

 

 ダメだろうねで済まされても、それはそれで困る。

 

 

「艦長、ここは引き続きナガラの気を引くことを優先しては? 通常弾頭魚雷ではクラインフィールドを抜けませんが、我々の任務はSSTOの援護です。最悪、ナガラを撃沈できずとも問題は無いと思いますが」

 

 

 そして、恋が現状で最も常識的な案を出してきた。

 極めて理に適っていて、紀沙としても出来ればそれで行きたい。

 遠距離からチマチマ攻撃できれば、さらに良いと思う。

 しかし紀沙には懸念があった、ナガラがイ404の攻撃を無視するのでは無いかと言う懸念だ。

 

 

 いくら気を引こうとしても、こちらの攻撃に威力が無いとわかればナガラは本来の任務を優先させるかもしれない。

 要するにイ404に好きにさせつつ、打ち上げ直後のSSTOを狙い打つ、そして返す刀でじっくりとイ404を追い詰める、そう言う手順に陥ることが1番怖かった。

 それくらいならSSTOのために体当たりでもした方がマシだ、そうなると自分達が沈むが。

 

 

「…………」

 

 

 熟考、する。

 しかし時間は無かった、即座の判断で無ければダメだ。

 唇を噛む、良い考えはすぐには出てきそうに無かった。

 何もかもを上手く行かせる、そう言う策は出てきそうになかった。

 

 

『任務を果たせ』

 

 

 任務、そう、自分に与えられた任務だ。

 しかも初陣、失敗は許されない。

 自分の今後のためにも、そして自分を信じて送り出してくれた北のためにも。

 何としても、SSTOの打ち上げを成功させなければならない。

 だからと言って、クルーの命を捨てさせるような危険なことも出来ない。

 

 

「おーい」

 

 

 リスクとリターンのバランス、見極めなければならないのはそこだ。

 そこを見極めて最適解を出すことが、今の紀沙に求められる――――。

 

 

「おーい、艦長ちゃん。取らないと顔にぶつかるぞー」

「…………へ?」

 

 

 不意に気が付いて、顔を上げた。

 その瞬間、視界一杯に炭酸飲料のパッケージが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 潜水艦には不釣合いな、可愛らしい悲鳴が上がった。

 

 

「わっ、たっ、とっ!?」

「おー、ナイスキャッチナイスキャッチ」

 

 

 そして鼻を押さえつつ、片手で炭酸飲料のボトルを危うくキャッチした。

 一瞬何が起こったのかわからなかったが、冬馬が座席から投げて来たのだと気付いて、流石に声を荒げた。

 

 

「ちょっと冬馬さん、今の流石に危ないですよ!? 床に落ちたら音が……」

「まぁまぁ、そのあたりはスミノちゃんが何とかしてくれたって。それに艦長ちゃんもキャッチできたし、問題ないだろ」

「そ、そう言う問題じゃ」

「そう言う問題なんだって、艦長ちゃんは真面目に考えすぎなんだよ」

「アンタはもう少し真面目にやるべきだと思うけどねぇ」

 

 

 シートの背もたれに腕と顎を乗せた体勢で、冬馬は言った。

 もう少し、シンプルに考えるべきだと。

 

 

「シンプル?」

「こう言う時は、何をやるのかシンプルに考えりゃー良いのさ。何てったって、やらなくちゃいけないことは変わらないんだからよ」

「…………」

 

 

 やるべきことは変わらない。

 いくら考え込んでみても何も思い浮かばないのは、結局、そこが変わらないからだ。

 そう言う時は考え過ぎずに、率直に必要と思ったことをすれば良い。

 

 

 初陣、緊張しない方がおかしい。

 学院でマニュアルを読み込み、シミュレーションを繰り返し、演習を経ても。

 それでも、実際にやってみなければどうなるかは読み切れない。

 それが実戦だ。

 であるならば、時として思考よりも感覚を優先すべき場面があるのかもしれない。

 

 

「……そう、ですよね。考えるばかりじゃ、仕方ないですよね」

「そうそう! 物事はシンプルに見た方が楽で」

「なら、もう私達のいつもの作戦に賭けるしか無いですね!」

「そうそう、いつもの……え、いつもの?」

 

 

 笑顔――安堵を含んだそれは、どこか清々しくもあり――を浮かべた紀沙は、炭酸飲料を持ったまま、言った。

 一方で、冬馬はそんな彼女の様子に酷く不安を覚えたようで。

 

 

「え、いつものって何? 物凄く不安になるんだけど、ねぇ艦長ちゃん?」

「でも、そうは言っても……結局、ナガラを倒せる武器が無いんですよね」

「通常弾頭と、少しだけど高圧弾頭の魚雷があるよ」

「ただやはりクラインフィールドは抜けません。やはり注意を引くのが関の山かと」

 

 

 恋と梓は察しがついているようで、普通に会話を続けていた。

 冬馬も結局は肩を竦めてシートに座り直した、どうせ碌でもないことだと結論付けたのだろう。

 やるべきことは見えたが、しかし装備には限界がある。

 無い袖は振れない、ナガラの気を引くしか出来ないのだろうか?

 しかし紀沙は、自分の欲求がその先を求めていることを感じていた。

 

 

「あるじゃないか、良い物が」

 

 

 そんな彼女に、スミノが言った。

 紀沙以外の者がスミノへと視線を向ける中、彼女は正面のモニターに()()のデータを開いた。

 <機密>のスタンプが押されたそのデータに、初めて紀沙が傍らを振り向いた。

 

 

「これを使えば良い、()()()()()()()()()()()()?」

「……何で、お前がこれを持っているの?」

 

 

 それは、紀沙にも知らされていない特級の機密情報だった。

 いや、間接的には知らされている。

 何故ならばそれは、今、まさに紀沙達が守っている物だからだ。

 そして、だからこそ紀沙はスミノに問うた。

 どうして、自分の知り得ない情報を持っているのか、と。

 

 

「キミは知らないかもしれないけれど、ボクは()()()()()()()()

 

 

 自分を睨む紀沙に、スミノは唇を吊り上げて見せた。

 それは完璧なまでの笑顔だったが、そら恐ろしい何かがあった。

 少なくとも紀沙にはそう見えた、何故ならば。

 ――――自ら凶器を渡す()()()が笑顔を浮かべるなど、異常でしか無かったからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナガラは、思考していた。

 霧の艦艇には情報総量の限界――霧はそれを演算力と呼称している――があるため、()()はメンタルモデルこそ持っていないが、それでも思考する力はある。

 クラスに限らず、霧の艦艇には個々に意思がある。

 

 

『――――』

 

 

 とは言っても、ナガラが持つそれは非常に弱いものだ。

 剥き出しの意思は人間で言う幼子に近く、上位者の命令に対して極めて素直だった。

 そして今、ナガラはその上位者の命令を忠実に実行しようとしていた。

 

 

『人類側の輸送機の打ち上げの阻止、もしくは輸送機の撃墜』

 

 

 そして今、彼女の()()から与えられた任務がそれだ。

 初めてでは無い、過去にも何度か人類側の輸送機を撃墜・破壊したことがある。

 僅か1隻で人類側の警戒海域を擦り抜け、機雷原を物ともせず、そして迎撃に来た艦隊を壊滅させた。

 それは、彼女が霧の艦艇であればこそ可能なことだった。

 

 

 旧大戦時代の軽巡洋艦を模した彼女だが、その能力は比較にならない程に強大だ。

 3基6門の連装砲を始めとして、侵蝕弾頭装備の魚雷やレーザー兵器を備え、何よりもあらゆる物を通さないクラインフィールドがある。

 実を言えば、彼女ひとり――もとい1隻で、日本海軍全てを相手に出来ると言っても過言では無い。

 

 

『――――。――――』

 

 

 そして今、ナガラは湾内深くへと侵入していた。

 彼女はすでに人類側のネットワークから情報を盗み取っており、SSTOの発射カウントダウンを正確に把握していた。

 それこそ0.01秒の誤差も無く、正確にだ。

 

 

『――――。――――』

 

 

 連装砲の先端が持ち上がり、幾度かの修正の後に仰角が固定される。

 狙いは当然、エンジンに火が入り煙に包まれ始めたSSTOだ。

 先程までちょっかいをかけてくる敵の捜索を優先していたが、いよいよ打ち上げ直前とあって、任務の遂行を優先しようと言うことだろう。

 あるいは、敵の攻撃が脅威では無いと判断したのかもしれない。

 

 

 これが通常の、それこそ人類側の標準的な艦船が相手であれば、彼女の判断は正しい。

 人類がいくら頑張った所で、ナガラを沈めることは出来ない。

 少なくとも、現時点ではそうだ。

 そもそも、その状況を打開するためにSSTOを飛ばそうとしているのだが……。

 

 

『――――!』

 

 

 とにかく、ナガラは無警戒だった。

 付近に脅威は無く、仮に妨害があったとしても問題ない程の大火力でもってSSTOを撃ち落せば良いと、そう考えていた。

 無警戒、無防備、そのままに火砲にエネルギーの粒子が散り始めた、まさにその瞬間だった。

 

 

『悪いねナガラ、隙ありだ』

 

 

 ナガラの横っ面を引っ(ぱた)くかのように。

 左舷側の海中から飛び出した潜水艦――イ404の艦首が、ナガラのクラインフィールドに衝突した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

『総員、衝撃に備えてください!』

「備えろって言ったってね、こっちは繊細な医薬品とか積んでるんだからさ」

 

 

 医務室で戦闘の成り行きを見守っていた――正確には、見てはいないが――良治は、紀沙の発した艦内放送で、自分の身体を座席に固定していた。

 ベッドや薬品棚、机等は元々艦に固定されているし、医薬品の瓶やその他の小物等は鍵付きの所定の小箱に収められている。

 衝撃で小物が飛んで怪我でもしようものなら、軍医としてちょっとどうかと言う話になる。

 

 

 彼の周りには、スミノを三頭身程にした小さな女の子達がパタパタと立ち働いていた。

 彼女達はスミノがナノマテリアルで作った分身体で、人手が足りない時等にスミノが派遣してくれる。

 イ404の元になった史実艦は150名から200名程は乗れたと言うから、むしろこれでも人員が足りない感があった。

 ちなみに、何故かナース衣装だった。

 

 

「紀沙ちゃんは何と言うか、最終的には近付いて殴るタイプだからなぁ」

 

 

 良治は紀沙の1つ年上だが、学院の卒業年は同じである。

 つまり留年組であり、紀沙の下に配属されているのはそう言う事情もあった。

 まぁ、今はそのあたりの事情は余り関係が無い。

 重要なのは、良治が他の面々に比べて紀沙の指揮特性を知っている、と言うことだった。

 

 

 一方で衝撃が来るとなれば、艦で最も重要な場所の1つは機関室であろう。

 何しろ艦体はスミノの力で保たれているとは言え、艦機能を維持するためにエンジンが必要なのは通常の艦艇と変わりが無いのだ。

 よって、機関室を預かる2人の存在が重要になってくる。

 

 

「うちの艦長って、真面目ちゃんよね~」

「艦長と言うものは、真面目で無ければなれないものでしょう」

 

 

 あおいと、静菜である。

 彼女達は――医務室同様、作業着姿の小さなスミノ達が足元を駆け回っている――灰色と白に囲まれた機関室の中、静菜は忙しなく動き、あおいは適当に腰掛けて計器を操作していた。

 灰色の壁に白い蓋のような物が並ぶ細長い空間に、大の女性2人と言うのは聊か寂しく感じる。

 

 

「わたしって、あんまり真面目に考えたことって無いのよねぇ」

「同じ場所で働く身としては、空恐ろしいことです」

 

 

 ひょいと静菜が伸ばした手に、あおいがぽんと工具を渡す。

 後ろ手に工具をキャッチした静菜は上半身を壁の中に入れており、傍にはず太い配線ケーブルがゴロゴロと転がっていた。

 そのひとつひとつが重要な部品であって、人類製に置き換えることが難しい部品だった。

 

 

「420から429番、繋ぎます」

「は~い、両舷エンジン同調率調整継続~」

「では、次は左エンジンの調整を……」

「あ、そろそろだと思うわ~」

 

 

 不意にあおいが告げた瞬間、ちびスミノの1人がナノマテリアルに還元された。

 そしてそれはあおいを固定するベルトへと変わり、床と壁に作り出された留め具へと固定された。

 静菜の方は、やはり床と壁に出現した手すりに掴まった。

 このあたりの柔軟さは、霧の艦艇ならではのものだろう。

 

 

 ――――前方に吹き飛ばされそうな程の衝撃、反動が艦全体を襲った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 発令所には、と言うよりイ404全体が激しく振動していた。

 身体の芯まで揺らす衝撃は相殺のしようも無く、クルー全員が歯を食い縛って堪えねばならなかった。

 

 

「また突撃かよおおおおぉぉっ!?」

 

 

 冬馬が悲痛な叫び声を上げる、しかし無理は無かった。

 文字通り、イ404はナガラに突撃を仕掛けているのだから。

 衝突したイ404とナガラの間には、当然ながら互いのクラインフィールドが展開されており、衝突した部分が(しのぎ)を削り火花を散らしていた。

 

 

 側面に突進された形のナガラは、右舷側のエネルギーも回して左側面にフィールドを集中した。

 突撃を敢行したイ404は、振り払われまいと推力を維持、姿勢を制御していた。

 互いの力が拮抗(きっこう)し、2艦はまるで張り付いてしまったかのように動かなくなった。

 

 

「クラインフィールド飽和率80%――――ナガラを、捕まえたよ」

 

 

 瞳の虹彩を輝かせて、額――そして両頬に紋章を浮かび上がらせたスミノが、淡々とした口調で言う。

 この振動の中で彼女だけは微動だにせず、まるで床に足裏を固定しているのかと思える程だった。

 演算開始。

 徐々に、本当に徐々にだが、2つのクラインフィールドの接触点に変化が起き始めた。

 

 

「ナガラのミサイル発射モジュールが開いてるぞ!」

「梓さん、火器管制! 迎撃システム作動!」

「あいよ、第1から第4のレーザー砲照射開始! 敵ミサイル群を迎撃する!」

 

 

 イ404の無防備な上方で、オレンジ色の爆発が線を引いた。

 ナガラから直上に放たれ、ほぼそのまま180°反転して落ちて来たミサイルのほとんどがイ404のレーザー砲によって撃ち落され、誘爆が誘爆を呼び、艦体に届いたミサイルは0だった。

 そして、決定的な変化が訪れる。

 

 

 2艦のクラインフィールドに、穴が開いた。

 

 

 イ404――スミノがナガラのクラインフィールドを解析し、己のそれを同調させたのだ。

 これはメンタルモデルを持てないナガラと、持てるスミノの性能の差であるとも言える。

 結果としてスミノは目の前の演算に手一杯になったが、彼女には()()を動かすクルーがいた。

 それが無ければ、この状況は生まれなかっただろう。

 

 

『こちら機関室! 左右エンジンの出力同調率に揺らぎが見られます、クラインフィールドの相互干渉の影響と思われますが』

『完全な姿勢維持は、あと25秒保証~』

「もう少し保たせてください! あと少しで……!」

 

 

 目には目を、クラインフィールドにはクラインフィールドを。

 イ404にはクラインフィールドを破る武器が無い、しかし自らもクラインフィールドを有している。

 矛盾の逸話に倣うわけでは無いが、最強の盾で最強の盾をぶん殴るのだ。

 そして今、イ404の艦首前方に小さな穴が開き、むき出しのナガラの装甲が見えていた。

 

 

「梓さん、1番に……!」

 

 

 だが、クラインフィールドが抜けても通常兵器で強制波動装甲を抜くことは難しい。

 クラスの低い霧の艦艇の中には強制波動装甲を持たない艦もあるが、人類はそれにさえ手を出せなかった。

 今までは、そうだった。

 しかし今は違うことを、紀沙は知っていた。

 

 

 

「――――()()()()魚雷、装填して下さい!」

 

 

 

 人類はすでに、霧に打ち勝てる兵器を持っているのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそも霧がSSTOの打ち上げを阻止しに来たのは、彼女達が人類側の事情に通じているからだ。

 振動弾頭と言う人類の新兵器が自分達にとって不都合になるかもしれない、その情報を得たのだ。

 どこから? もちろん人類側が親切に教えてくれたわけでは無い。

 情報を()()()()()のだ、スミノのように。

 

 

「霧のコア――中枢(ユニオン)コアの演算能力は、キミ達人類のそれを遥かに上回る」

 

 

 いかに機密(プロテクト)をかけた所で、電子的に保存された情報であれば、彼女達の目から逃れることは出来ない。

 SSTOで運び出そうとしている新兵器と言えども、例外では無い。

 だが、だがしかしだ。

 

 

 17年前の<大海戦>の時、霧に対して手も足も出なかった人類。

 その人類が今、試作品とは言え、霧に対抗できる兵器を開発するまでになるとは。

 その執念たるや、霧たるスミノをして感心せしめる程だった。

 執念、それこそは、人類をここまで進歩させた原動力だろう。

 

 

「理解しがたいね」

 

 

 スミノは思う。

 その、17年間に及ぶ人類の苦闘を想う。

 

 

「ボクの()()()()()()、そんな努力に17年もかける意味って何なんだい?」

「……()()()()

 

 

 紀沙が答えた先に、答えがある。

 霧の侵蝕弾頭はタナトニウムと言う未知の物質によって形成される特別なものだが、振動弾頭はあくまでも人類が使う資源で製作されるものだ。

 詳細な設計図とナノマテリアルの再現力をもってすれば、擬似的に作り出すことは不可能では無い。

 

 

 霧の艦艇がナノマテリアルによって構成されていることは、すでに知られて久しい。

 一方で、このナノマテリアルが艦艇以外の物に変化できることは余り知られていない。

 ナノマテリアルの変化に、理論上の制限は無い。

 だからこそ、紀沙達は()()()()を使うことが出来る。

 

 

「艦の姿勢制御、限界まであと5秒です!」

 

 

 ()()()()()()を。

 

 

「1番、振動弾頭魚雷!」

 

 

 物質には、固有の振動数と言うものがある。

 いかに強制波動装甲とクラインフィールドを持つ霧の艦艇であれ、それは変わらない。

 振動弾頭は対象の固有振動数を瞬時に割り出し、対応する振動を発し、共振し崩壊させる。

 軽巡洋艦クラスの本格的な霧の艦艇に使用したことは無い。

 使用すれば、どうなるか?

 

 

()ぇ――――ッッ!!」

 

 

 答えはすぐに出た。

 イ404のクラインフィールドとの衝突でこじ開けられた穴の中を、1発の魚雷が通過する。

 遮る物の無いそれは一直線にナガラの側面に到達し、そして。

 

 

 一瞬、ナガラの装甲が波打った。

 

 

 波紋のように波打った、次の瞬間、ナガラの装甲が内側から破裂した。

 そして黒い艦体がうろこ状に分解され、バラバラと崩れていった。

 爆発を伴うそれは一挙に崩壊現象となり、装甲が砕け分裂していく度に、悲鳴の如き不快な金属音が夜の海に響き渡った。

 

 

「うわっ……!」

 

 

 ガクンッ、と、イ404の艦体が大きく揺れた。

 エンジン同調が崩れたこと、クラインフィールドの稼働率が下がったこと、そして脆くなったナガラの艦体にぶつかり、抉り取る形で前に進んだことが原因だった。

 危うく舌を噛みそうになりながら、シートにしがみ付く。

 それでも揺れに耐えて顔を上げると、正面モニターに煙を吐いて爆発するナガラの姿が映っていた。

 

 

「……ッ! ナガラに高エネルギー反応感知!」

 

 

 やった、と思って気が緩みかけた所だった。

 ナガラの艦首連装砲に、赤いエネルギーの粒子が見えた。

 恋の声に「しまった」と思った時にはもう、イ404は回避行動が取れない状態だった。

 エンジン出力が乱れ、クラインフィールドの展開も一時中断してしまっている。

 沈みゆく、手負いの敵の最後の攻撃を、防ぎようが無かった。

 

 

(やられる……!)

 

 

 そう思った、直後だった。

 誰よりも()()に敏感だからだろう、スミノがまず何かに気付いた。

 

 

「タナトニウム反応」

「え?」

 

 

 イ404の左側を、何かが擦過する。

 それはイ404に砲口を向けていたナガラの右舷側面に吸い込まれると、次の瞬間にはナガラの艦首右舷側を全て抉り取っていた。

 紫に近い輝き、蜂の巣状の球体が展開されて、ナガラの艦体をまさに抉り取ったのだ。

 そしてその輝きが消え、ぽっかりと開いた穴に海水が流れ込み始めた次の瞬間。

 

 

「……ナガラ、エネルギー反応消失します」

 

 

 火焔を上げて、ナガラが爆発した。

 艦体のほとんどがバラバラに弾け跳び、残された部分は浮力を失い海中へと沈んでいった。

 撃沈、である。

 霧の軽巡洋艦は2発の魚雷の直撃を受けて、海の藻屑(もくず)と化した。

 結果としてはそうなるが、しかし紀沙の想定した状況とは大分異なった。

 

 

「何が起こったんだ!?」

「魚雷攻撃に見えたけどねぇ」

「魚雷ぃ? 冗談だろ、俺達以外に誰がそんなもん撃つんだよ」

「アタシが知るわけ無いだろ……!」

 

 

 クルーに混乱が広がる中、紀沙はそれを(いさ)められずにいた。

 何故なら紀沙自身が衝撃を受けていたからで、視野が狭まっていたからだ。

 人類の物では無い魚雷攻撃、それも霧の艦艇を攻撃するイ404以外の艦。

 心当たりが、あった。

 

 

「スミノ」

 

 

 それに思い至った時、搾り出すような声が出てしまったのは。

 仕方の無いことだったのだと、そう思いたかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大きな箒星が、夜空を真っ二つに引き裂くように飛び立っていった。

 SSTOの巨体が、夜空に吸い込まれていく。

 推進剤の放つオレンジ色の輝きが、SSTOを箒星に見せていたのだ。

 

 

「……!」

 

 

 だが、今の紀沙にとってSSTOのことはどうでも良かった。

 例えそれが任務の成功を意味するのだとしても、今は意識の外にあった。

 むしろ夜の闇を照らしてくれるので、探しやすくなったとすら思っていた。

 

 

 イ404の上部ハッチをあけて、マンホールよりも重量感のあるそれを両腕で押し開けた。

 梯子に足をかけたまま上半身を外気に晒すと、海の香りと、波間に跳ぶ飛沫が身体を濡らした。

 視界の端には、黒煙を上げて沈んでいくナガラの艦体が見えた。

 しかしそれすらも、紀沙はあえて無視した。

 目を凝らすように海を見る、そして。

 

 

「あ……!」

 

 

 そして、来た。

 イ404のすぐ側の海面が盛り上がったかと思うと、艦船の先端が飛び出して来た。

 それは艦体の半分程を現した所で艦首を下げ、艦底部を海面に叩きつけた。

 それで大きく波が起こりイ404が揺れる、紀沙は落ちないよう身を支えた。

 

 

 海中からイ404の隣に浮上したのは、色が蒼であることを除けば、驚く程イ404に酷似した艦艇だった。

 形状、装備――細かな所で異なる点もあるが、目に見える限り、似ている。

 しかし似ているのは、ある意味では当然だったろう。

 何故ならその艦艇はイ404と同じ、イ号400型の潜水艦だったのだから。

 

 

「やっぱり、()()()()

 

 

 紀沙はその艦艇の、その()()()()の名前を知っていた。

 イ401、イ404と共にかつて日本が保有していた霧の艦艇である。

 そして今は、日本政府の手を離れている艦だ。

 人類でもなく、しかし霧の艦隊でも無い、いわば独立した1隻。

 

 

 イ401側のハッチが、開いた。

 鈍い金属音が聞こえた気がしたのは、自分の鼓動をそんな音と勘違いしたからだろう。

 そして、ハッチから1人の少年が姿を現した。

 どう言うわけか黒いタキシードなど着たその少年は、どこか紀沙に似た容貌をしていた。

 しかし似ているのは、ある意味では当然だったろう。

 

 

「に……!」

 

 

 何故ならば、その少年は。

 

 

 

「兄さぁ――――――――んっっ!!」

 

 

 

 紀沙の、()()()()だったのだから。

 身を乗り出して自分を呼ぶ紀沙の姿が見えたのだろう、海風に(なび)く横髪を押さえる少年。

 

 

「…………紀沙か」

 

 

 千早群像は、妹の姿に目を細めたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――巨大。

 その漆黒の軍艦は、余りにも巨大であった。

 全長はイ404の倍近くあり、排水量――艦を浮かべた際に押しのけられる水量、要するに重さ――に至っては、ナガラの5倍はあるだろう。

 

 

「ナガラが沈んだ?」

 

 

 前甲板の1番2番主砲塔を見下ろせる艦橋、その先端に女が1人腰掛けている。

 この世のものとは思えぬ程の、美貌の女だった。

 ピッグテールに整えた金糸の髪に真紅の瞳、白面に紫のルージュが映えていた。

 透き通る白い肌に、パフスリーブの黒いロングドレスが異常なまでに似合っていた。

 

 

 水平線に姿を現した朝日を眩しげに見つめながら、彼女は誰かと話していた。

 だが、彼女の傍には誰もいない。

 巨艦を止まり木に羽根を休める海鳥だけが、不思議そうに首を傾げて女を見上げている。

 その中の1羽を撫でながらも、女の視線は虚空を見つめて動かなかった。

 

 

「401か、そうだろうな。それは可能性として想定していた。だが……」

 

 

 一瞬、女の両頬に輝きが走った。

 

 

「404、アレが動いたのは今回が初めてのケースだ。アレはずっと横須賀に引き篭もっていたからな」

 

 

 女は考える。

 そのための思考(メンタル)、そのための身体(モデル)

 

 

「そうだな……どの道、横須賀へ向かうならその前に『タカオ』に当たる。任せておけば良いだろう、こちらはナガラのコアの回収も指示しなければならん」

 

 

 とは言え、と、女は嘆息した。

 そこからは、どこか面倒くさそうな雰囲気がありありと見て取れた。

 しかし一方で、その瞳から知性の輝きが消えることは無かった。

 そう、虹彩に浮かぶ白い輝きが。

 

 

「流石に『タカオ』単艦で400型2隻を相手にすると……何?」

 

 

 初めて、女が顔を上げた。

 冷静だった表情に驚きの色が広がり、すぐに訝しげなものに変わる。

 数瞬の後には、すぐにまた冷静の仮面を被っていた。

 

 

()()()()()()()()? 『ナガト』は承知しているのか? ……そうか、なら良い。ああ、それでは次の定期通信で……『ヤマト』」

 

 

 目を閉じて、そして次に目を開いた時、女の瞳は真紅の色に戻っていた。

 それから、零れるような嘆息。

 

 

「何を考えているのか、相変わらず読めない奴だ。まぁ、あれでも我らの総旗艦、その意思には従うとしよう……出来れば」

 

 

 朝の海風が周囲に浮かぶ霧を一瞬払う、すると、霧の中から続々と漆黒の装甲を持つ艦艇が姿を現した。

 あれは戦艦、あれは巡洋艦、あれは工作艦だろうか? 駆逐艦もいる。

 女の艦の周囲を取り囲むように出現したそれらは、全てが彼女の味方だった。

 そう、彼女は霧の艦艇。

 しかも、<霧の艦隊>の東洋方面第一巡航艦隊旗艦にして……。

 

 

「出来れば、この『コンゴウ』と我が艦隊の手を(わずら)わせるもので無ければ良いが、な」

 

 

 霧の艦隊において、艦隊旗艦(フラッグ)の資格を有するグレード(ワン)の1隻。

 大戦艦『コンゴウ』、そのメンタルモデルは、酷く面倒くさそうにそう言った。

 ――――その瞳に、知性の輝きを残したままで。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ナノマテリアルによる振動弾頭の再現。
正直どうかとも思いましたが、面白そうなので可能と解釈しました。
ナノマテリアルに出来ないことは無い! はず。
余りやると艦の構成ナノマテリアルが減るので、連発は描写的にも難しそうですけどね。
何でスミノが振動弾頭のデータを持っているのか、も、大事なポイントかもですけど。

それにしても、ナノマテリアルとか侵蝕弾頭ってどうやって補給しているのでしょうね?
やはり海水かなぁ……?

それでは、また次回。


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Depth005:「再会」

 ――――子供達。

 子供達が、広いリビングで遊んでいた。

 小さな男の子と女の子で、男の子は何やらダンボールの船のような物を被って駆け回っていて、女の子はぬいぐるみを持ったままそれを追いかけていた。

 

 

『きゅーそくせんこー! ごごごごー』

『ごごご~』

 

 

 男の子が何やらしゃがみ込むと、女の子も合わせてしゃがむ。

 何やらそれを繰り返していて、何が楽しいのか、きゃっきゃっと笑い転げていた。

 どうやら、2人は兄妹のようだった。

 潜水艦ごっこでもしているのだろうか、ぐるぐると駆け回り、逆方向に走ったかと思うと、抱き合うように正面からぶつかって笑い合っていた。

 

 

『…………』

 

 

 そんな2人に、声をかける者がいた。

 子供達は声の主を本当に慕っているのだろう、嬉しそうな顔で手を挙げていた。

 

 

『うん! おれ、とーさんみたいなかんちょーになる!』

『おにーちゃんずるい、わたしもなるー!』

『だめだよ、かんちょーはひとりなんだから』

『えぅー……』

 

 

 涙ぐみ始めた女の子、男の子があわあわと慌て始めた。

 先程の声の主が苦笑している雰囲気がある、そしてまた何かを言ったようだ。

 男の子は破顔して、女の子に何やら話しかけた。

 

 

 それを聞いて、ぐしぐしと目を擦りながら女の子が顔を上げた。

 何やらまだ不満そうだったが、男の子が重ねて何かを言うと、納得したのか笑顔で頷いた。

 気を取り直して、また男の子が駆け出す。

 女の子も、再び男の子の後を追って駆け出した。

 

 

『…………』

 

 

 そして、それを見守ってくれる温かな視線。

 今はもう無い、かつての光景。

 あれはいったい、いつのことだったのか、そして。

 あの時、男の子(あに)女の子(いもうと)に何と言ったのだろうか――――?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 鹿島宇宙センター対岸・旧熊本市街。

 海側から艦艇が入港してくるなんて、いつ以来のことだろうか?

 かつては県内随一の規模を誇っていた港も、今となっては――最も、一部以外の港湾はどこも似たようなものだが――ほとんど廃墟と化している。

 

 

 それでも長崎を首都とする南管区では、大きな人口を抱えている都市圏であることには変わりが無い。

 太陽光発電や風力発電関連の設備に使用に耐え得るコンテナ群、そして水没から免れた建物の上層部にはちらほらと人が居住している痕跡(バラック)が見える。

 しかしそれらも、港の跡地に接岸した2隻の潜水艦に比べれば大したインパクトは無い。

 

 

「待って下さい、艦長! いったいどちらへ!?」

「すみません、恋さん。ちょっとの間お願いします!」

 

 

 その内の1隻、イ404。

 灰色の艦体を惜しげもなく陽光に晒して、静かに佇んでいる。

 一方で艦の静けさとは裏腹に、けたたましくハッチが開かれたかと思うと、1人の少女が飛び出してきた。

 彼女は灰色の粒子と共に形成された橋の上を駆けて、一目散に地上を目指した。

 

 

 その視線の先にはもう1隻の潜水艦、ほど近い岩壁に接舷したイ401の姿がある。

 駆け出した少女、紀沙の目には、もはやそれしか見えていないようだった。

 遠ざかっていく小さな背中に、恋は一重の瞼を揉みながら溜息を吐いた。

 

 

「良いのかい、こんな所まで追いかけてきて」

 

 

 その隣に、スミノが姿を現す。

 灰色の粒子が人の形に寄り集まる様子は、彼女が人間では無いことを改めて認識させられた。

 

 

「キミ達は、命令が無い限り勝手に動けないんじゃなかったのかな?」

「……鹿島の打ち上げが成功した以上、私達は次の命令があるまでは待機の状態です。一方で、イ401は重要監視対象。一応、発見次第、可能な方法で観測するよう海軍全体に発令されています」

「ふーん。じゃあ、一応は命令の範疇(はんちゅう)なわけだ」

「ええ、()()は」

 

 

 恋の言葉に、スミノはわかったようなわかっていないような、そんな顔をした。

 まぁ、彼女にとっては細かなことはどうでも良かったのかもしれない。

 それでも聞いたのは、興味があったからなのだろう。

 

 

 紀沙の背中をじっと見つめていたスミノは、ふとその視線を外した。

 それは紀沙が駆けて行く先、つまりは自分と同じようにこの港に投錨(とうびょう)した霧の艦艇へと向けられた。

 そして、思う。

 久しぶりに、そう、2年ぶりに見る()()()の姿に目を細めながら。

 

 

「……401、か」

 

 

 自分にとっては()に当たるが、さほど何かを感じることは無い。

 しかし己が主人、紀沙はそうでは無いらしい。

 嗚呼、あんなにも()を求めて走っている。

 この違いは、いったいどこから来るのだろうか?

 スミノは、それを知りたいのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 頭上からは、スミノと恋が何かを話し合っている声が聞こえる。

 それを耳にしながら、ハッチへと通じる梯子の横で冬馬が肩を竦めた。

 そして、不意に話しかけ始める。

 

 

「別にそんな監視なんてしなくても、何もしやしねぇよ」

「…………」

 

 

 それは、物陰から冬馬のことを静かに見つめている人物に対しての言葉だった。

 相手も特に隠れようとはしていなかったのか、話しかけられると素直に姿を見せた。

 静菜だ、数歩身を晒すと足を止めたので、左眼の下までを覆う前髪がさらりと流れた。

 露になっている藍色の右眼が、静かに冬馬のことを見つめていた。

 

 

「……反対しなかったのか」

「反対? おいおい、しがないソナー手が艦長ちゃんの決定に反対なんて出来るわけねーだろ」

「貴方がそんな謙虚な人間とは思わなかったな」

「お前だって反対しなかったろ」

 

 

 紀沙が鹿島での戦いの直後、港に戻らずにイ401を追うことを提案した時、反対した人間は実は1人もいなかった。

 逆に、賛意を示した人間もいなかった。

 形としては艦長の判断に従ったと言うことだろうが、それにしても議論らしい議論も無い展開だった。

 

 

 くくく、と笑って、冬馬は梯子の側から離れた。

 軍服のポケットに両手を突っ込み、やや猫背気味の姿勢で歩き出す。

 見ようによっては、前傾姿勢の一歩手前、と見えなくも無かった。

 と言って走り出すことも無く、何事も無かったかのように静菜の横を通り過ぎた。

 

 

「よっぽどで無い限り命令には従順に、お前もそうだろ?」

「……別に貴方がどう行動しようと、私が関与することではありません。でも」

 

 

 静菜はそれにいちいち身体や顔を向けたりはせず、そのまま見送りの体勢に入った。

 その代わりに、右眼だけが相手の姿を追っている。

 

 

「裏切りは許さない」

「はは、それぁ……艦長ちゃん次第だろうな」

 

 

 すでに横を通り過ぎた冬馬の顔は、静菜の視界から外れていた。

 声は「さぁて、艦長ちゃんが戻ってくるまで釣りでもするかねぇ~」と言う風に、いつもの調子だった。

 ただし、空気だけが今にも切れそうな糸のように張り詰めていた。

 

 

「何と言うか、面倒くさいねぇ」

「いや、全く」

 

 

 そんな空気を肌で感じていたのか、角の向こうで話を聞いていたらしい梓と良治が溜息を吐いていた。

 様々な立場で集まったクルー達だが、可能であれば和気藹々(わきあいあい)とした職場であったほしいものだ。

 特に梓は発令所が持ち場なので、こう見えて気を遣う場面は少なくなかったりする。

 

 

「あ、いたいた。ねぇねぇ、皆どこ行ったの~?」

「ああ、あおいさぶふっ!?」

「アンタ、シャワー浴びるのは良いけど、ちゃんと服着てから出てきなよ」

「タオル巻いてるから大丈夫でしょ~」

 

 

 だからと言って、緩み過ぎるのも問題ではあるのだが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――2年前のことだ。

 紀沙の兄である千早群像は、海洋技術総合学院在籍中に日本を出奔した。

 突然のことだった。

 理解できなかった。

 

 

 正直に言って、10年前に父が出奔した時以上の衝撃だった。

 父の時は、ショックを共有してくれる兄がいたからだ。

 しかし兄が出奔したと統制軍――特に憲兵――から聞かされた時、紀沙は1人でそれを受け止めなければならなかった。

 だが、何よりもショックだったのは。

 

 

「兄さん……!」

 

 

 兄が、学院の同級生達を連れて行ったことだ。

 織部僧、四月一日いおり、橿原杏平、そして響真瑠璃。

 紀沙は学院では兄と行動を共にすることが多かったから、全員を良く知っていた。

 兄は出奔に際して彼らを連れて行った、後に真瑠璃は戻って来たが。

 自分には一言も何も言わず、いつの間にか出て行ってしまっていた。

 

 

 荒れなかったと言えば、嘘になる。

 塞ぎこまなかったと言えば、嘘になるだろう。

 でも、それももう良かった。

 何でも良かった、今ここで兄に会えるのならば。

 この2年間はきっと、今日のための2年間であったと思えるから。

 

 

(……! あれは?)

 

 

 紀沙がイ401を目指して駆けていた時、その蒼い艦体以外に見えるものがいくつかあった。

 まず、車だ。

 2台あって、丸みを帯びたそれにはそれぞれ見覚えのある人間が乗り込んでいた。

 

 

「軍務省次官補と、在日米軍組……?」

 

 

 軍務省の上陰龍二郎、元在日米軍海兵隊のクルツ・ハーダー。

 統制軍に所属している紀沙が見間違えるはずの無い顔だ、まして北に世話になっている身である。

 彼らが何故ここにいるのか気にならないわけでは無かったが、今は優先すべきことがあった。

 

 

「あ……」

 

 

 気が付くと、イ401の目の前にまで来ていた。

 肩で息をしている自分がまるで自分では無いようで、色以外はほとんどイ404と同じ艦を前に、紀沙は汗を拭おうともせずに401の甲板を右から左へと見た。

 洗濯物を干していたのだろうか、ピンと張られたロープに衣類がかけられていて、その下には日除けのあるデッキチェアがあった。

 

 

 そして、そこに兄がいた。

 

 

 背丈は記憶よりも大きくなっていたが、それこそ見間違えるはずが無い。

 跳ねの強い黒髪、どこか皮肉気な双眸(そうぼう)、ともすれば女性にも見える中世的な顔立ち。

 その姿をしっかりと見たいと思っているのに、自然、視界が歪むのを感じた。

 2年ぶりの再会は、この2年間に思っていたことを吹き飛ばすには十分すぎて、そして。

 少し驚いたような顔で自分を見る、兄の顔は。

 

 

「紀沙、か?」

「――――ッ、兄さんッッ!」

 

 

 2年ぶりに聞く兄の声は、自然と少女の身を駆けさせた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 自慢では無いが、群像は格闘戦が得意では無い。

 軍系列の学院に通っていたため体力はあるが、格闘センスがある方では無かった。

 一方で妹の紀沙はそちらの才能があったようで、ああ見えて剣道や柔道等の授業では常に1番だった。

 そして何故、今そんな話をしているのかと言うと。

 

 

「こんの……!」

「え? おい待」

「馬鹿兄がああぁ――――ッ!!」

 

 

 再会直後、401の甲板に駆け上がって来た紀沙が、それは見事な一本背負いを決めたからである。

 群像はデッキチェアを巻き込む形で甲板に倒れ、けたたましい音が響き渡った。

 あえて避けなかったのか、そもそも不意打ちだったので避けられなかったのか、群像は掴まれるままに掴まれ、投げられるままに投げられた。

 

 

「~~~~っ」

 

 

 もちろん、群像とて殴られて何も思わない程に人間が出来ているわけでは無いだろう。

 打った頭を擦りつつ身を起こして、座り込んだ体勢で顔を上げた。

 

 

「今までどこほっつき歩いてたんだ! 連絡一つ寄越さないで!」

「…………」

「何も言わないで勝手に出て行って、どれだけ心配したと思ってるの!?」

 

 

 2年。

 言葉にすれば短いが、俄かには想像し難い時間。

 置いてけぼりにされた紀沙にとって、その時間がどれだけ長かったか。

 それがわからない程に、群像は鈍く無かった。

 

 

「母さんだって、泣いてたんだよ!?」

「それは無いな」

「――――無いけど!」

 

 

 まぁ、反論すべきところは反論する方向で。

 ただ、自分を涙目で見下ろす――と言うか、今にも泣きそうである――紀沙を見て、他に何を言い出すことも出来なかった。

 どうであれ、この妹を1人にしてしまったのは自分なのだから、と。

 

 

「本当に、本当に……ほんとに」

「紀沙」

「し、心配、して」

 

 

 立ち上がり、名前を呼ぶ。

 思えば、それすらも2年ぶりのことだと気付いた。

 彼は彼でこの2年、必死だったから、後ろを顧みることが無かった。

 一度でも後ろを振り向いてしまえば、もう前に進めないと思っていたから。

 

 

 だが一方でこうして直に双子の妹を前にすると、そうも言っていられない。

 同じ親から生まれた、いわば()()()()()()()

 もし日本を出奔しなければ、自分は紀沙のように統制軍に入っていただろう。

 だからこうして統制軍の軍服を着た紀沙を見ていると、どうしても後ろを振り返ってしまう。

 

 

「大きくなったな」

「……にぃさんっ」

 

 

 だから、飛び込んで来た妹を、今度はしっかりと受け止めることが出来た。

 勢いがつき過ぎて一歩ヨロめいたが、倒れることは無かった。

 相変わらずの力強さに、思わず苦笑めいた笑みが浮かぶ。

 震える肩をポンポンと叩いてやれば、しゃくり上げるような声が返って来た。

 

 

「兄さん、兄さん、兄さん……」

 

 

 どうやら今日は、シャツを一着ダメにしてしまうかもしれない。

 自分達の補給事情を思えばちょっとした出費だが、まぁ良いかと気を取り直した。

 別に、妹のせいで服がダメになるのはこれが最初では無い。

 ……そんなことを思い出すのにも、いちいち懐かしさを伴うことに、群像は少しの驚きを感じるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙が少し落ち着くのを待って、色々と大変なことになっている顔を拭わせるためにハンカチを渡した。

 洗濯したてのものだったのだが、流石に「ちーん」と鼻をかまれた時には少し引いた。

 しかしそれは表情には出さず、彼はミネラルウォーターをコップに注いだ。

 

 

「それにしても、驚いたな」

「え?」

 

 

 コップを渡されながら、紀沙は兄の言葉に首を傾げた。

 群像はそんな妹に苦笑を浮かべると、自分のコップにもミネラルウォーターを注ぎながら。

 

 

「艦長になったんだろう、お前。あの霧の……イ404の」

「あ、うん。そうだよ、良くわかったね」

「ここまでオレ達を追って来た艦艇はあれだけだしな。そしてお前の専攻過程からすると、雑用以外で今のお前がこなせる役職は艦長くらいだろう」

「な、何だか素直に喜んで良いのかダメなのか……」

 

 

 でも、相変わらずの兄の姿を見れて紀沙は嬉しかった。

 昔から群像はクールと言うか、目鼻が効くと言うか、何かを分析するのが得意だった。

 むしろそれはライフワークと言える程で、軍人より警察や探偵でもやった方が上手く行くんじゃないかと思ったこともある。

 

 

 一方で、人付き合いは苦手だった。

 それは兄が俊才過ぎたから、あるいは淡白過ぎたからだと紀沙は思っている。

 人と心を通わせる前に、まず相手のことを分析してしまう目付きが人を寄せ付けなかったのだろう。

 紀沙や他の古馴染み達のように、時間をかけて付き合っていれば「そう言うもの」と慣れるのだが。

 

 

「本当に、驚いた」

「……兄さん?」

 

 

 自分をデッキチェアに座らせて、自分は甲板の手すりに身を預けたまま、群像は少し俯いていた。

 その表情に陰が差したような気がして、呼びかける。

 兄は、その呼びかけに応える様子が無かった。

 海の音だけが、やけに五月蝿く聞こえていた。

 

 

「兄さ」

「そう言えば」

 

 

 妹の声を遮って、群像は言った。

 すでにその顔に陰は無く、むしろ明るさすら見えた。

 

 

「鹿島での戦い、最後に使っていた魚雷は統制軍の新兵器か何かなのか?」

「えーと……まぁ、そんなようなものかな。ちょっと違うけど」

 

 

 鹿島の魚雷とは、スミノの振動弾頭魚雷のことだろう。

 流石に「あれは統制軍の新兵器で、あの時はナノマテリアルで再現したんです」とは言えず言葉を濁す形になったが、どうやらあの時、兄達も戦況をモニタリングしていたのだろう。

 実際、霧の装甲を破壊できる兵器を統制軍が過去に持ったことは無い、見ていたのなら新兵器だと思うのはむしろ自然だった。

 

 

「でも何でそんな話を?」

「ああ、実は統制軍の新兵器を運んで欲しいと依頼されていてな」

「新兵器?」

「多分、あの時に404が使った魚雷のことじゃないかと思ったんだが」

 

 

 紀沙の脳裏に掠めたのは、先程の上陰とクルツの顔だ。

 クルツは置くとしても、上陰龍二郎である。

 軍務省次官補、官僚――政治家と対を成す()()()()()()()()()()()とも言える。

 それが、兄達に依頼をした?

 

 

 このタイミングで中央を離れるリスクを犯してまで、直接会って依頼する?

 新兵器、つまり振動弾頭を輸送する計画のことだろう。

 場所はおそらくはアメリカ、しかしSSTOは打ち上げに成功したはずだが……。

 

 

「SSTOは、太平洋上で撃ち落とされたらしい」

 

 

 あっさりと言われると、少し胸に来るものがあった。

 あれだけ奮闘して、あっさりと撃ち落とされました、では割に合わないにも程がある。

 北もがっかりしていることだろう、いや、北がしょぼくれている様など想像も出来ないが。

 

 

「……沙? 紀沙?」

「え? ああっ、何? 兄さん」

「いや、何か考え込んでいたようだったから」

「あ、ごめん、なさい」

 

 

 別に謝ることじゃない、と言って笑う群像に、紀沙も笑顔を浮かべる。

 そこで、ふと気が付いて。

 

 

「……もしかして、兄さん。横須賀に行ったりする?」

「ん? ああ、依頼を受けるとしたらな」

(つまり、行くってことか。良し、良し!)

 

 

 この兄が「~としたら」等と曖昧な表現をする時は、九分九厘「やる」と決めている。

 それは、家族である紀沙には良くわかっていた。

 つまり、群像は横須賀まで来るのだ。

 上陰が新兵器の輸送のために呼び寄せるとしたら横須賀しか無いので、もしやと思ったのだが。

 

 

「じ、じゃあ、その……そのまま、帰って来たり、とか……?」

 

 

 期待を込めて、兄を見上げた。

 出奔した兄が何の保障も無しに横須賀に帰港するわけが無い、つまり政府の保証か何かがあるのだろう。

 ならば、このまま帰って来てくれるのでは無いか?

 紀沙がそう期待したのは無理からぬことで、実際、それは全くあり得ない選択肢では無かった。

 だが……。

 

 

「……兄さん?」

 

 

 だが、群像の表情は曇っていた。

 どこか申し訳なさそうなその顔は、言葉よりも雄弁に、紀沙の言葉への返答となった。

 群像は腰を上げると、くるりと紀沙に背中を向けた。

 

 

「もう戻れ、紀沙。艦長が余り長く艦を離れるべきじゃない」

「兄さん、待って!」

「……じゃあな」

「兄さん!」

 

 

 慌てて立ち上がって、追いかけようとした。

 紀沙からすれば再会まで2年かかったと言う状況で、また兄と別れると言うのは嫌だった。

 だから、追いかけた、追いかけようとした。

 

 

「……!」

 

 

 しかし、足が止まる。

 理由は、潜水艦のセイルの陰から群像の後ろに現れた少女の存在だ。

 紀沙からすれば割り込まれたようにも見える、しかもその少女はとても美しい少女だった。

 長く煌く銀色の髪に翡翠の瞳、白い肌に小柄な体躯(たいく)、カモメがプリントされたシャツにショートパンツと太腿まで覆う黒のソックス――類稀な美少女だが、妙に庶民的な服装がミスマッチだった。

 

 

「……メンタル、モデル」

 

 

 一瞬、少女の額に浮かび上がった紋様を見逃すことは無かった。

 それは霧の艦艇のメンタルモデルの証、つまり彼女はイ401の。

 

 

「メンタルモデル……!」

 

 

 紀沙には、少女の存在が自分と兄を隔てる者に見えた。

 思えばこの2年間、兄の出奔から始まるこの2年間、メンタルモデルと霧のせいで引き裂かれていたようなものだ。

 いや、そもそも霧さえ存在しなければ……。

 ――――奥歯を噛み締める音は、波の音よりも大きく響いた気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「置いて来て良かったのか?」

「……ああ」

 

 

 少女の声にそう応じて、群像は梯子から足を離した。

 彼はすでにイ401の艦内にいて、外の様子を窺うことは出来ない。

 コツ、と、梯子に額を当てて、少しの間目を閉じる。

 それは何かを思い出すようにも、何かを堪えているようにも見えた。

 

 

「群像」

 

 

 不意に話しかけられて、群像は顔を上げた。

 するとそこにいたのは、アレルギー避けのフルフェイスマスクを被った青年だった。

 群像の幼馴染、僧だった。

 このタイミングでやって来るとは、流石と言うか何と言うか、苦笑した。

 

 

「紀沙に会って来たのか?」

「ああ」

「どうだった?」

「どう、と言われてもな。元気そうだった、としか。あの霧の……イ404の艦長になったらしい」

「……そうか」

 

 

 僧の目からは、群像が今何を考えているのかを読むことは出来ない。

 しかし、どこか落ち込んでいるようにも見えた。

 一方で僧の目から見て、群像が珍しいことをしていることもわかっていた。

 

 

 1つは鹿島宇宙センターの戦いで、わざわざ艦の外に出て姿を晒したこと。

 そしてもう1つは、ここに至るまでイ404の追跡を振り切らなかったこと。

 群像にしては珍しい行動で、まるで紀沙をここまで導いたように思えた。

 いや、おそらくそうだと僧にはわかる。

 10年以上の付き合いがある僧だからこそ、わかることもある。

 

 

「あいつは昔から、オレの後を良くついてきていたからな」

「ああ、そうだったな」

 

 

 そんな僧の考えを読んだのだろう、群像が言った。

 紀沙は、妹は昔から自分の後をついてきていた、と。

 そして今、自分と同じ霧の艦艇の艦長になった紀沙。

 もしかしたら彼は、その自分の予想が外れてほしかったのかもしれない。

 

 

「……それに、気になることもあったしな」

「気になること?」

「ああ。……イオナ」

「何だ?」

 

 

 イオナ、それは群像と僧の会話をじっと聞いていた銀髪の少女の名前だった。

 つまりこの潜水艦、イ401のメンタルモデルの名前だった。

 

 

「お前は、統制軍の新兵器……おそらく魚雷か、それに乗せる弾頭だが、その具体的な情報を何か持っているか?」

「……いや、無い。何故だ?」

「いや、()()が知らないと言うことがわかれば良いんだ」

「群像?」

 

 

 これは人類側ではまず知られていないことだが――それこそ、群像も401に乗って以後始めて知ったが――霧の艦艇は、ある1つの巨大なデータベースを共有している。

 霧はそのデータベースにいつでもアクセスでき、群像の予想では、その情報はリアルタイムで更新されている。

 だからこそ、過去にイオナから得た霧関連の情報はどれも新鮮だった。

 

 

 そして今回、日本が開発した「新兵器」と言う漠然とした情報は霧も持っている。

 それはイオナからすでに確認しているが、逆に言えば詳細は霧の側にも情報が漏れていない。

 しかし一方で、イ404はその兵器を使用して『ナガラ』を攻撃した。

 

 

「それは、404が日本政府の艦だからじゃないのか?」

「2つの理由でその可能性は低い」

 

 

 1つは、日本政府がイ404を完全に信用することは無いこと。

 イ404が霧である以上、<大反攻>の主力となる新兵器の詳細を渡すわけが無い。

 まして、実物を渡すことなど心理的にあり得ない。

 

 

「そしてもう1つ、あの魚雷からは()()()()()()()()()()()()。そうだなイオナ」

「あった」

「タナトニウム反応、ナノマテリアル製だったと言うことか」

「そう、404は霧の装甲を破れる侵蝕弾頭魚雷以外の魚雷を持っていたことになる」

 

 

 それは、おかしい。

 霧のネットワークに情報を上げていないこともそうだし、おそらくは紀沙も知らないだろう新兵器の詳細な設計データを持っていなければナノマテリアルで再現は出来ない。

 つまりイ404は、「新兵器」の情報を独占している状態にある。

 これは、何を意味するのか。

 

 

 群像は、イオナを見た。

 自分の知らない、知り得ないだろう情報を持っている少女を見つめる。

 イオナもまた、感情の読めない瞳で群像を見つめていた。

 艦と、艦長。

 父、自分、そして妹もまた、同じような立場になった。

 

 

「……そうか、紀沙(あいつ)(ここ)に来たのか」

 

 

 その時の群像の表情を、僧は何と言って表現して良いのかわからなかった。

 複雑な心境、と言うのはわかる。

 そしてそうなってしまうのも理解できた、何故なら僧は2年前に群像と共に日本を出奔した人間なのだから。

 2年前の、群像の決断を直に聞いた人間なのだから。

 

 

「俺や、俺や親父と同じように、霧の艦長になって」

「……群像」

 

 

 群像は、それが嫌で。

 ――――紀沙を、置き去りにしたのだろうから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 結局、紀沙はその後すぐにイ404に戻った。

 401に乗艦できない以上、他に行く所も無く、群像の言うようにクルーを放置しておくことも出来なかったからだ。

 また、北に対してメールによる報告――傍受を避けるため断片的・断続的に送る必要がある――もしなければならない。

 

 

「おかえり」

 

 

 そんな紀沙を迎えたのは、スミノだった。

 彼女は紀沙が出て行った時からずっとそこにいたのか、艦の縁に腰掛けて足をぶらぶらと揺らしていた。

 

 

「遅かったね。副長君達が出航の準備を済ませてくれているよ」

「スミノ」

「うん? 何かな、艦長殿」

 

 

 不思議そうに首を傾げるスミノ。

 その動作は自然だが、どこか演技めいてもいる。

 しかしそれは、ある意味では当たり前のことではあったろう。

 何故なら彼女は人間では無く、言わば人間の真似をしているに過ぎない。

 そうすべき時に、タイミング良く反応を返しているだけだ。

 

 

「……お前は、何なの?」

「何なの? と言われると困惑してしまうね。それは人間の言う哲学と言うものなのかな……?」

 

 

 困惑と言う感情も知らないくせに、そんなことを言う。

 

 

「ボクは霧の潜水艦イ404、そのメンタルモデルとコアだよ」

「メンタルモデルって、何なの?」

「キミ達人間の戦術概念を学ぶために導入された、人間を模したインターフェイスだよ」

「お前達は、何のために現れたの……?」

「僕達の至上命令、アドミラリティ・コードがそう命じたからだよ」

 

 

 17年前、突如として現れた霧の艦隊。

 その行動目的は未だに良くわかっておらず、能力も未知数のままだ。

 彼女達がどこから来て、何を目的とし、そしてどこへ向かっているのか。

 全てが、謎に包まれたままだ。

 そしてその全てが謎の、わけのわからないもののために。

 

 

「……艦長殿?」

 

 

 とんっ、と、足音がひとつ。

 甲板から紀沙の目の前まで、ふわりと舞うようにスミノが跳躍した音だ。

 

 

「泣いているのかい?」

「……ッ!」

 

 

 肌を打つ音、それは紀沙に触れようとしたスミノの手が払われた音だ。

 赤いリボンが揺れる。

 前髪の間から自分を睨む双眸に、しかしスミノは変わらぬ笑みを浮かべていた。

 けれど、死んでも御免だった。

 

 

 スミノに、霧に手を差し伸べられるなんて、絶対に嫌だった。

 だって、父も兄もその手を取って行ってしまったのだから。

 自分を置いて、海へと漕ぎ出してしまったのだから。

 だから紀沙にとって、霧の艦艇とは――メンタルモデルが女性型であることも、妙に腹が立つ――()()()

 

 

(皆、お前達に()られたんだ――――兄さんも、父さんだって!)

 

 

 ――――許さない。

 憎々しさを隠すことも無くそう告げて、紀沙はスミノの横を通り過ぎた。

 肩が触れることも無い、それは完全な擦れ違いだった。

 去っていく音を背に、しかしスミノは振り返らず、ただ空を見上げた。

 

 

「憎しみ、憎悪。人間の持つ感情、概念のひとつ。時に人を狂わせる」

 

 

 それが。

 

 

「それが、人間の本質なのか?」

 

 

 なぁ、401よ。

 問いかける呼びかけは、しかし音となって発されることは無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――2日後。

 イ404は陸上では無く、海中にいた。

 それも狭い湾内では無く、東シナ海に出て大隅海峡(鹿児島)を通過し、土佐湾(高知)を掠める形で太平洋に入り……つまり。

 つまり、イ404は霧出現以後始めて外洋を航海した公船となったのである。

 

 

「おお……すげぇな」

 

 

 鋼が軋む独特の音に身を竦めて、寸胴(ずんどう)をかき混ぜていた冬馬が天井を見上げた。

 塵一つ落ちては来ないが、それでも海流に押し包まれる気配はあった。

 狭い横須賀湾内で訓練していたイ404の面々にとって、その感覚と気配は未知のものだった。

 ()()の海流は、内海のそれとはまるで違う。

 

 

「あら、トーマ君怖いのかしら~?」

「いや、ビビってねぇし」

「あはは。私はちょっと怖いです、台風」

「あ、ほんと? 良し、じゃあ今日は俺と一緒に寝よ「うふふ。じゃあ、お姉さんと一緒に寝る~?」あ、いや俺1人で寝れる強い子なんで大丈夫です」

 

 

 台風、そう、暴風雨である。

 イ404は台風11号の暴風圏内を航行中で、海上に出ればより激しい揺れに見舞われることは間違い無かった。

 あおいは平然としている様子だが、やはり未知の領域にいることには違いない。

 

 

 ちなみに何故イ404がこのタイミングでこんな場所を航行しているのかと言うと、理由は2つある。

 まず第1は、()()しているイ401がそのような航路を取っていること。

 そして第2は、イ404に()()するよう横須賀から命令されていたことだ。

 紀沙は北とのやり取りの中で、彼の意図する所を何となく感じ取ってはいた。

 

 

(監視と、経験値稼ぎ……って言う所かな)

 

 

 どの道、イ404も横須賀まで戻らなければならない。

 イ401が横須賀まで回航すると言うなら、監視も含めて同行するのは悪い手では無い。

 北と統制軍にとっても、人類初の海洋航海と言う成果は悪くは無い。

 将来的にイ404を陸軍艦にすると言う話もあるから、そのあたりは政治的な駆け引きもあるのだろう。

 

 

「それにしても、今日の朝食は豪華ですね冬馬さん」

「おーう、明日には横須賀だからな。缶詰も消費し切るつもりで出したからな」

 

 

 それはそれとして、今、紀沙達は交代で朝食を取っている所だった。

 ソナー手を兼ねる料理長――まぁ、料理人は1人しかいないのだが――である冬馬の作った料理に舌鼓を打つのが、任務航海中の食事の全てだった。

 白ご飯に白菜と葱のお味噌汁、目玉焼きにハムステーキ、ツナサラダと漬物各種、それにフルーツまであった。

 

 

 このご時勢、これだけの食事を取れるのは軍艦乗りだけだろう。

 だからこそ、それだけ成果も求められる。

 成果。

 梓と冬馬のやり取りをぼんやりと見守りながら、紀沙はそのことについて考えていた。

 

 

(私に、いや、私達に今回の航海で求められる成果)

 

 

 イ401の横須賀寄港、イ404の外洋航海。

 霧の艦艇の撃沈とSSTOの打ち上げ成功は、それだけでも成果と言える。

 まぁ、SSTOは撃墜されてしまったようだが。

 だが日本、いや北が今の自分に求めている成果はいったい何だろうか、と。

 

 

(……兄さん)

 

 

 熊本での再会を思い出すと、今も胸中がざわめく。

 離れたくないと言う想いが、どうしても無視できなくなってしまう。

 一方で兄が何を考えているのかわからなくて、不安にもなる。

 紀沙は兄が父を追って出奔したものだと思っていたのだが、もしかしたら、違うのかもしれない。

 

 

 ぐるぐるとした考えは、まとまることが無く結論も出ない。

 胸中のざわめきが大きくなるばかりで、何ら建設的では無い。

 結果、溜息ばかりが増えてしまって、冬馬にお玉で頭をコンコンされていることにも気付かず……うん?

 

 

「え、ちょ、何……? うわっ、何するんですかほんとに!? あぁ髪にお味噌汁が~っ」

「いやだってお前、人の飯食いながら溜息ばっかて。お兄さんちょっとショック……あだだだっ!?」

「あらあら、ダメよ~トーマ君。女の子にイジワルするなんて、エンジンコアセル分解ものよ?」

「怖ぇ!? 技術屋の例えがわからねぇけど、とにかくヤバいってのはわかるぜ……!」

 

 

 うー、と唸りながら髪を拭っていると、あおいがテーブルに両肘をついて笑いかけてきた。

 

 

「悩み事?」

「あ、いえ……そんな大したことじゃ無いんですけど」

「あらぁ、女の子の悩みは全部大したことよ? 悩まない女の子なんていないんだから……あ、髪、やったげるわね~♪」

 

 

 髪に触れられるなんて、いつぶりだろうか?

 何だかくすぐったくて、あおいに髪を弄られている間、紀沙は身を窄めるようにしていた。

 リボンを外して、おしぼりで髪を湿らせて、丁寧に拭い、櫛を通して乾かす。

 そして、髪を編み始め……編み?

 

 

「え、あおいさん? 何か髪型が違……」

「三つ編みも可愛いわよ~♪」

「ほぉ……続けて、どうぞ」

「わ、わ、わ。って、冬馬さんもどこから出したんですかそのカメラ!」

 

 

 途端、賑やかになり始める食堂。

 紀沙は気付いていなかったが、彼女はそれまでに比べて幾分か明るい顔になっていた。

 別の意味で大変そうではあったが、先程までの悶々とした表情よりはずっと健全に見えた。

 しかし、彼女がそれを自覚することは無かった。

 突如として、海流ではあり得ない音と衝撃が艦内を抜けたからである。

 

 

「おおっ? 今度の揺れはすげぇ……って、わけじゃねぇよな、今のは」

「海流の音じゃないわねぇ」

「……爆発音? 違う、今のは……」

 

 

 台風の下を潜り抜けるように航行する404の艦体を揺らしたもの、それは。

 ――――それは、魚雷が艦船を撃沈する、炸裂音だった。




最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
この間『パシフィック○リム』を見たので、何だか影響されそうな私です。

兄妹の再会、妹的に言うと「ここがあの女のハウスね!」「あの女狐め……(ギリギリ)」と言う所でしょうか。
表現として間違っていない気もする、このまま行くとヤンデレエンドになりそうです(え)
ふむ、私の作品では画期的かもしれないですね。

冗談はそこまでにするとして、今話で主人公の霧への視点を改めて描写できたかな、と思っています。
うん、ここからどうしよう(え)
次回は言わずと知れた原作2戦目、このあたりから少しずつ原作と違う流れにしたいところです。
それでは、また次回。


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Depth006:「名古屋沖海戦」

 台風11号は、強い暴風圏を維持したまま北上を続けていた。

 勢力圏内の海上は夜のように暗く、また激しい波浪を伴う暴風は波飛沫で視界を白く覆う。

 視界360度がそんな様相を呈する中、()()の周りだけが水を打ったように静かだった。

 風も無く波も少ない――台風の目の中で。

 

 

「……来たか」

 

 

 台風の規模と風速、移動速度や方角等をリアルタイムで観測しながら、少女はゆっくりとした動作で立ち上がった。

 膝裏にまで達する青色の髪、はっとする程に鮮やかな蒼の瞳、染みはおろか荒れのひとつも無い白い肌。

 肩と二の腕を露にした白いワンピースは清潔かつ扇情的で、対照的な黒いタイツが肉付きの良い太腿を引き締めている。

 

 

 美しい少女だ。

 気の強そうな瞳は不思議な光を放ち、両頬には青い光の線が明滅している。

 それはどこか、データを受信するコンピュータを思わせた。

 そしてこの表現は、そう外れてはいない。

 

 

「『ナガラ』を沈めた奴と……『ヒュウガ』をやった奴」

 

 

 何故なら彼女は、人間では無い(メンタルモデルだ)からだ。

 彼女の本体は彼女自身の足元、全長200メートル・全幅20メートルを超える鋼の船体だ。

 霧の重巡洋艦――排水量1万トン前後の艦で大型のもの、準戦艦とも呼ばれる――『タカオ』、霧側が愛知県名古屋沖に展開した早期警戒(ピケット)艦、それが彼女の正体だった。

 艦橋に立つタカオの眼下には、『タカオ』型が誇る20センチ連装砲がその威容を見せ付けている。

 

 

「流石は総旗艦艦隊の情報収集艦、501とは索敵の深度も確度も比べ物にならない」

 

 

 タカオが身体を解すように腕を回すと、その動きに合わせて艦体が()()()

 比喩では無く艦の両側の装甲と中心が開き、内部の機関が剥き出しになったのである。

 機関(エンジン)音が徐々に高まり、それに伴い赤いプラズマが至る所で発生する。

 バチバチと言う破裂音にも似たそれは、台風の目の中で喧しく響き渡った。

 

 

「でも、指揮は私がやるわよ。いくら総旗艦直轄って言ったって、巡航潜水艦の指揮下に入るなんて真っ平だわ」

 

 

 そしてそれらのエネルギーは、艦上に現れた2つの物体――巨大な光学レンズにも似ている――に収束されており、磁場にも影響を与えているのか、艦の周辺の海面だけが押さえつけられたかのように波が無かった。

 強気に胸を逸らし、タカオは傲然と全てを見下す。

 

 

「さぁ……」

 

 

 オーケストラの指揮者がそうするように手を掲げ、指先で水平線をなぞる。

 

 

「――――まずは、挨拶代わり」

 

 

 気に入ってくれると良いのだけれど。

 そう呟き、そして呟くように言った直後、彼女は。

 掲げた手を、振り下ろした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 少し、意外ではあった。

 群像達はすでに上陰の誘いに乗る形での横須賀行きを決めていたが、単独行になるものと思っていた。

 正直に言って、自分達の操るイ401について来れる艦があるとは思っていなかったのだ。

 しかしそれは自惚れだったと、群像はそう認識を改めた。

 

 

404(あいつ)は、まだついて来てるのか」

「このまま横須賀まで追尾されそうですね」

 

 

 イ401の発令所に、機関士のいおりを含むクルー全員が集まっていた。

 メインモニターの黒い画面には周辺海域の概略図が映し出されており、401自身と斥候のためのアクティブデコイ数隻、台風の位置と予測進路、そして名古屋沖に陣取る霧の重巡洋艦(タカオ)の位置等がわかるようになっていた。

 デコイのセンサーや衛星画像等から得た情報をまとめたもので、戦術の決定には不可欠なものだ。

 

 

 現在、イ401は台風を隠れ蓑にタカオの探知範囲外を航行中で、その後方をイ404が航行している。

 無音潜行時にも引き離されなかった所を見ると、巡航潜水艦らしい探知能力を備えているのだろう。

 とは言え危なっかしい部分もあり、それは遠洋を航海する経験が少ないためだろうと思えた。

 本気で撒こうと思えば、撒けるだろうが……。

 

 

「目的地は同じだ。特に何をしてくることも無いだろうから、同道するのも良いさ」

 

 

 それに、今は余計なことに力を割けない事情もある。

 正規のルートで弾薬や食糧等を補給できないイ401にとって、無駄な戦いは文字通り無駄でしか無い。

 必要の無い戦いは避けるべきだし、なるべく最短のルートで横須賀に向かいたいところだった。

 

 

「それにしても、ナガラと戦ってたのが紀沙ちゃんだなんてね」

「びっくりだよなー」

「……誰ですか?」

 

 

 膝にイオナを乗せたいおりとポップコーン片手の杏平の会話に出てきた名前に、センサーに気を払いながらも静が首を傾げた。

 静は半年程前に乗艦した新参者で、学院の頃からの付き合いである他の面々の会話についていけないことがある。

 ちょうど、今回がそうだったようだ。

 

 

「紀沙は、404の艦長だ」

「で、我らが艦長千早群像の双子の妹君でもあるわけだ」

「艦長に妹さんがいたんですか!?」

「いたんだなー、これが」

 

 

 な、と肩に腕をひっかけて来る杏平に苦笑する。

 イ401に男は群像以外は2人が乗っているが、もう1人はまずこんな風に絡んでは来ない。

 そう言う意味では、杏平は401の中でも独特の地位を築いていると言えた。

 

 

「艦長の妹さんって、どんな人なんですか?」

「今はタカオだ。横須賀に辿り着けなければ、妹も何も無い」

 

 

 目を輝かせ始めた静だが、群像がそう言って話を切ると途端に不満そうな顔をした。

 「後で教えてあげる」といおりが囁いているのを横目に、群像は改めてモニターを見上げた。

 さて、と艦長用のシートに深く座り直しながら。

 

 

「イオナ、404のデータを……」

「ん」

 

 

 イ404、イ号400型巡航潜水艦。

 全長122メートル、全幅12メートル、排水量6560トン。

 53センチ魚雷発射管艦首8門を始め、各種レーザー兵器及び近接火器多数。

 基本的なカタログスペックは、()()()のイ401と同じだ。

 だからこそ、性能の予測も立てやすい。

 

 

 しかし一方で、カタログスペック以外の部分がどうなっているのかの情報は少ない。

 霧の艦艇は同型艦・同じ装備を持っていてもそれぞれに個性がある、それこそ性格が違うからだ。

 そしてその個性を理解すること無しには、霧の艦艇――イ404を本当に理解したとは言えない。

 イ404の個性とは何なのか、興味の尽きないところではある。

 紀沙に聞いておけば良かったか等と、栓の無いことを考えた。

 

 

「404を対タカオの作戦に組み入れるのですか?」

 

 

 僧の言葉に、顔を向けずに頷く。

 

 

「1番はこのまま何事も無くタカオのテリトリーを抜けることだ」

 

 

 とは言え、プランB――要するに、ガチンコ――を全く考慮しないと言うのもあり得ない。

 手持ちの戦力、あるいは当てに出来る戦力を念頭に何が出来るのかを考えておく必要がある。

 もちろん、今言ったように何事も無く通り抜けることが出来れば最善――――。

 

 

 ――――ズン、と言う、重い音が足裏から響いた。

 

 

 イオナがいおりの膝から立ち上がっていた。

 瞳の虹彩が激しい輝きを放つのを群像が目撃した時、彼はイオナが焦っていることに気付いた。

 そして次の瞬間、本震が来た。

 海が割れる程の衝撃、そのピークがイ401の艦体に到達したのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 艦内にエマージェンシーを示す警報が鳴り響いたのは、イ404の方針を定める会議の場でのことだった。

 何しろイ404とそのクルーは――と言うより、彼女達を含む海軍関係者は――外洋を航海したことが無い、その都度、細かく調整していかなければならないのだ。

 それでも何とかイ401についていけているのは、イ404の力と衛星の補助があればこそだった。

 

 

「な、何っ……何が起こっているの!?」

 

 

 海中にも関わらず、地震にでも見舞われたのかと思う程の激しい揺れに襲われた。

 全てのモニターの光量が揺らぎを見せる、常に一定のエネルギーが供給される霧の艦艇ではあり得ないことだった。

 つまり、()()()()()()()が起こっている。

 

 

 重力波、と呼ばれるものがある。

 巨大な質量を持つ物質が光速で運動する時、重力子の相互作用により波動と言う形で現れる時空の歪み、そこで発生するエネルギーである。

 地球上で直接的に検出されることはまず無い、が、霧の艦艇は()()()()()()()()()()()

 

 

「――――重力子反応」

「何っ!?」

 

 

 長い、揺れが長い。

 指揮シートにしがみついていた紀沙だが、小さく速く揺れる視界の中、スミノの呟きだけは聞こえていた。

 それに対して叫びだけを返すと、珍しいことにスミノの声が上ずって聞こえた。

 

 

「タカオの()()()()だ」

「ち、超重力砲?」

「狙いはボク達じゃない」

 

 

 この時、海中では何が起こっているのかを知ることは難しい。

 しかし海上では明らかな異常が起こっていた、()()()()()()()()()

 何かで抉り抜かれたかのように海面に半円状の「道」が出来ており、海水が蒸発している様子すら窺えた。

 そしてそれは、真っ直ぐにタカオまで続いている。

 

 

 直前、そこで起きた事象を一言で言うならば、「極太のビームが全てを薙ぎ払った」だ。

 海面直上のタカオから真っ直ぐ海中目掛けて放たれたそれは、白光とプラズマを撒き散らしながら海を薙ぎ、途上にあるものを全て破壊した。

 蒸発させ、分解し、打ち砕き、後には何も残らなかった。

 雷神の鉄槌(トール・ハンマー)の如き一撃、スミノはそれを「超重力砲」と呼んだ。

 

 

「おいおい、冗談だろ。アクティブデコイからの通信、全途絶!」

「なっ……!」

 

 

 梓が焦りの声を上げる、先行して放っていた2隻のアクティブデコイが一瞬で消滅したためだ。

 それによって得られていた「視界」が消え、一方で震動が徐々に収まってきた。

 その段になってようやく、紀沙は顔を上げることが出来た。

 余震を警戒でもするかのように身を固くしつつ、光量の安定した発令所の様子に息を吐く。

 

 

「恋さん、艦内の状況確認を」

「了解。早急に艦内状況を掌握します」

「お願いします。梓さん、アクティブデコイの残弾は?」

「4つだね」

「……5番、6番にアクティブデコイ装填。後部発射管に音響魚雷を」

「了解。ちなみに音響魚雷の残弾は5発だよ」

「わかりました」

 

 

 その時、スミノが声を上げた。

 あえて言うのであれば、暗がりで「だーれだ」された時に上げる声に似ている。

 不意に誰かに腕を引かれた、そんな声だった。

 

 

「401が触れてきた」

「何? さっきから何を言ってるのかわからないのだけど?」

「人間の言葉で説明するのは難しいね。まぁ、少なくとも今ので401が撃沈された可能性は無くなったわけだけれど」

 

 

 イ401の撃沈、考えたくも無い可能性だった。

 正直、あえて無視していたと言っても良い。

 

 

「冬馬さん、タカオと401の位置はわかりますか?」

「あー、最後に補足した位置と変わってないなら……ん? 待てよ、こいつは」

 

 

 一拍の後、彼は言った。

 ――――魚雷航走音、4。

 タカオのいる方角と、()()()()()からの強襲だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 分散首都・東京――――議会場。

 17年に及ぶ国家危急の時代の中で、「議会」の形も意義も大きく変わっていた。

 長時間縛りつけられることには辟易(へきえき)もするが、北はその必要性は良く理解していた。

 議会民主制をまがりなりにも維持する以上、政治にはすべからく手続きが要る。

 

 

「先生」

 

 

 休憩となり議場の外に出てきた北を、秘書が呼び止めた。

 彼が差し出して来た封筒、その中身の書類を確認した北は、低く唸った。

 

 

「この情報はいつの物だ?」

「20分前です。軍務省の定時レポートの中に含まれていました」

 

 

 それは数枚の衛星写真と、写真の内容について分析したレポートだった。

 霧の出現により人類側の衛星は多くが撃墜されたが、それでも全滅したわけでは無い。

 もちろん、数が激減したためにいつでもどこでも撮影が出来るわけでは無いが……。

 

 

 今、北の手元にあるのはその貴重な写真の一部だった。

 具体的に言えばイ404、そしてイ404が追跡しているイ401の追跡レポートだった。

 軍務省と北は直接的な関係には無いが、内閣――軍務大臣、又は楓首相本人――から優先的に情報が回ってくる、イ404を使った計画の立案者として、あるいは党の実力者として。

 

 

「霧の攻撃を受けたのか。名古屋沖の現状はわかるか?」

「台風の影響もあり、陸上からの監視は……その」

「難しい、か。仕方ないな」

 

 

 写真は2枚あり、1枚は海中の船影を解析して浮き上がらせた写真だ。

 そこには数隻の船影が映し出されており、これはデコイを含めての物だとわかる。

 もちろん、この写真からではどれが本物でどれがデコイかまではわからない。

 

 

 そしてもう1枚は、その船影群の中央を光の柱が貫いている写真だ。

 霧の、つまり名古屋沖に陣取るタカオの攻撃だと思われる。

 それがどのような攻撃なのかはやはりわからないが、相当の威力を持っていることは想像に固くない。

 その攻撃によって、おそらく何隻かは沈められている。

 

 

「……404は? この状況になる前に何か言ってきていたか?」

「暴風圏内に入ることを知らせてきて、それが最後です」

 

 

 霧の傍受リスクを低減するため、通信は不定期かつ断続的に行われることになっている。

 ブツ切りになったメッセージを組み直す作業もあり、なかなかタイムリーに連絡が取れないのが欠点ではあった。

 

 

(……台風を隠れ蓑にしようとしたが、見つかり、逆に奇襲を受けた、と言ったところか)

 

 

 元海軍である北には、ある程度の状況は写真から予測できた。

 それは裏を返せば、イ404がどれだけ危機的な状況なのかわかってしまうと言うことだ。

 そして、今自分に出来ることが何も無い、と言うことも。

 

 

「…………」

 

 

 ふと顔を上げると、自分を見つめる視線を感じた。

 それは、通路で誰かと話し込んでいたらしい上陰だった。

 おそらく自分と同じような情報を得たのだろう、その手には書類があった。

 話していたらしい相手は北も良く知っている相手だった、統制軍の浦上海軍中将、戦術論の専門家だ。

 がっしりとした髭面の男で、確か千早――紀沙の父親とも懇意にしていた男だ。

 

 

「先生」

「……今は404を信じる他は無い。続報があれば、すぐに知らせるのだ」

「はっ」

 

 

 外洋を航海させる以上、こうなることは想定の範囲内と言えた。

 それに出来ることが無いのも事実、唯一出来ることは、それこそ信じることだけだった。

 秘書に情報収集を続けるよう伝えると、北は議場に戻るために来た道を戻る。

 ――――その手は、しきりにネクタイを撫でていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 音響魚雷によって海中を掻き回し、その隙に敵のソナーから逃れる。

 この戦術は現代の潜水艦による戦闘では最も常識的な戦術であって、401と404の音響魚雷のタイミングが重なったのは偶然では無い。

 双方の艦長は同じ学院での生徒であったし、まして双子の兄妹であったのだから。

 

 

「イオナ、404は健在だな?」

「ん、沈んでないぞ。まだ触れている、ただ正確な位置まではわからない」

「十分だ、向こうも隠れているんだろうからな。さて……」

 

 

 戦闘態勢に入った発令所の中で、群像は思案していた。

 敵はタカオのみと思い込んでいたが、最後の魚雷の機動から見てそれは無い。

 つまり最低でもあと1隻、あるいはそれ以上――おそらくは潜水艦――の、()()()が相手だと言うことだ。

 

 

「どうすんだ、404と分断されちまったぞ」

「と言って、今こちらから動くわけにはいかない」

「けどよ……」

 

 

 イ404には紀沙がいる。

 杏平が言外に告げようとしている言葉を、しかし群像は無視した。

 艦長の私的な都合でクルーを危険に晒すことは出来ない、それにイオナはイ404が少なくとも()()無事だと言っている。

 

 

 状況がわからない今、無闇に動くべきでは無い。

 それが艦長としての群像の判断であって、現状ではそれは賢明な判断と言えた。

 おそらく、イ404――紀沙も、同じように考えているはずだ。

 そして、群像がそう考えた時だった。

 

 

「……! 待って下さい。タカオ、対潜ミサイル発射、数8! なおも着水音増加中!」

「見つかったのか!? 何でだ!?」

「落ち着け、後部発射管に低周波魚雷装填! イオナ、両舷全速、右舷回頭!」

 

 

 海上のタカオが、ピンポイントで着底中のイ401に攻撃を仕掛けてきた。

 確かに霧の艦艇の索敵能力は人類のそれとは比べ物にならないが、海底にいる潜水艦をピンポイントで見つけられる程のものでは無い。

 にも関わらず、このピンポイント攻撃。

 

 

「静、周辺を警戒しろ。まだ来るぞ!」

「は、はい!」

「イオナ、地形図と潮流図を出してくれ」

「ん」

 

 

 間違いない、観測艦がいる。

 それもただの観測艦では無く、異常な探知能力を備えた潜水艦だ。

 そして今、その潜水艦もまた自分達を攻撃してきている。

 どうやら、群像が思っている以上に状況は厳しくなっているようだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 重高圧弾頭魚雷で、後方に追い縋っていた魚雷群を一掃した。

 誘爆が誘爆を呼び、海中の振動が直に艦体を揺らしているのが足裏を通して伝わる。

 

 

「また来るぞ! いったいどうなってやがんだ、何たってこっちの位置がわかる!?」

「音響魚雷の撹乱もほとんど効果が無い所を見ると、敵の索敵能力は相当のものですね」

 

 

 しかし重高圧弾頭魚雷の引き起こした衝撃の中を、後続の魚雷群が突き抜けてきた。

 全速で逃げるイ404、艦体を左舷方向に動かしながら、もう一度重高圧弾頭魚雷を後部発射管から発射した。

 再びの、重厚な爆発音。

 そこへ、直上からの攻撃が来る。

 

 

 タカオだ。

 タカオが発射した128発の侵蝕弾頭魚雷、その内の3分の1がイ404に降り注いだのである。

 海底を這うように駆けるイ404、その周囲が相当に賑やかなことになっていた。

 次々に侵蝕弾頭が炸裂する中、僅かな隙間を縫うようにして鋼の艦体が全速で抜けていく。

 クラインフィールドの波紋が衝撃を吸収してくれなければ、沈んでいただろう。

 

 

「長くは保たない」

「……わかってる」

 

 

 スミノの言葉に、苦虫を噛み潰す心地で応じる。

 正直、やられっぱなしと言う状況だ。

 発見された潜水艦程、脆弱な軍艦は無い。

 まして、こちらは敵の姿を未だに掴めていないのだから。

 

 

「探知範囲を最大にまで広げているけど、後ろの敵を発見できていない」

「わかってる」

「401の位置も依然不明だ。断続的にこちらに触れてきている以上、沈んではいないだろうけれどね」

「わかってる!」

 

 

 わかっているのはタカオの位置だけだ、ご丁寧なことに洋上で足を止めてくれている。

 しかし、そちらに攻撃に行くのはいかにも不味い。

 どう見ても囮を兼ねているとしか思えない、真っ直ぐ向かえば他の敵に狙い撃ちにされるだろう。

 つまり、敵の潜水艦――そうで無ければ、潜水艦のイ404をここまで的確には追えまい――をどうにかしない限り、タカオを攻撃することは出来ないと言うことだ。

 

 

 問題は、イ404には霧に対して有効な兵器が無いと言うことだ。

 隠れることも不可能な現状、致命的と言える装備上の欠陥だった。

 ……いや、クラインフィールドを除けば有効な兵器を用意出来なくは無いが。

 

 

「振動弾頭魚雷を作っておくかい?」

「…………」

「艦体は少し小さくなるけどね」

 

 

 じろり、と、紀沙はスミノを睨んだ。

 スミノは至って平静な顔をしていて、すでに演算を始めているのだろう、瞳の虹彩が電子的な輝きを灯していた。

 振動弾頭魚雷、確かにそれは霧にも有効な兵器だ。

 

 

「……前にも聞いたと思うけど」

 

 

 スミノとの対話を紀沙に任せているのか、他のメンバーは何も言わなかった。

 

 

「どうして、振動弾頭の設計データを持っているの?」

「前にも答えたと思うけれど、ボクは()()()()()()()()()

 

 

 振動弾頭は、日本政府の――統制軍の特級機密だ。

 スタンドアロン化した特別なサーバのみにその情報はあり、持ち出しは厳に管理されている。

 おそらく鹿島の職員達も、自分達が何を運ぼうとしていたのか知らなかったはずだ。

 紀沙も、詳細は知らされていなかった。

 

 

 ()()()()()

 スミノはそう言ったが、その意味については考えなければならないだろう。

 思えば、彼女が横須賀で普段何をしているのか、紀沙は知らないのだから。

 そして、より重要なことは。

 

 

「その情報、()に漏らしていないよね?」

「聞かれていないことを教えてあげる程、ボクは出来た艦じゃないよ」

 

 

 要は、スミノを――イ404を、どこまで信頼できるのか、と言うことだ。

 その点において、紀沙はスミノに対して何も期待してはいなかった。

 一方で、こうしている間にも敵の攻撃による振動は激しさを増している。

 

 

「艦長、今は……」

「……そうですね。すみません、恋さん」

 

 

 確かに、今はそう言う話をするタイミングでは無いだろう。

 瞑目して、息を吐いた。

 そんな紀沙の横顔に、スミノの妙に明るい声が届いた。

 

 

「キミがボクに興味を持ってくれた時にでも、話すよ」

 

 

 興味など、あるわけが無い。

 しかしそれは口にはせずに、紀沙は次の指示を出し始めた。

 何をするにしろ、今はこの場を生き残らなければならない。

 任務を終えて、生きて、横須賀に、屋敷(いえ)に帰るのだ。

 ――――その指先は、首の後ろのリボンに触れていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その艦艇の名を、イ402と言う。

 名称からわかる通り、イ号400型の巡航潜水艦である。

 同型艦だけに艦形は401、404と似通っており、水上艦型の潜水艦だ。

 メンタルモデルの容姿もまた、それこそ姉妹のように良く似ていた。

 

 

「404は、随分と派手に動くものだな」

 

 

 薄い桜色の唇から、零れ落ちるように言葉が発せられた。

 輝く銀髪に澄んだ翡翠の瞳、ゆったりと言うよりはややぶかぶかしている石榴(ざくろ)色の膝丈のワンピースに身を包んでいる。

 長い銀髪の左右の一部をリボンで結んでいて、幼げな容貌を少し大人っぽく見せていた。

 

 

 彼女は今、名古屋沖の海底に潜みイ404を攻撃していた。

 タカオの対潜弾の雨の中を縫うように進むその姿は、イ402のセンサーにしっかりと捉えられている。

 発令所の中心にひとり立つ彼女だが、何故か独り言が多い。

 いや、独り言では無い。

 

 

『こちらは401を追っているけど、404とは違って精密にこちらの雷撃を迎撃しているわね』

「逆に私が追っている404は、迎撃よりも回避に力点を置いているようだ。見ていて興味深くはある」

 

 

 人類の通信とは異なる、霧の艦艇同士の特殊な通信ネットワークによる会話だ。

 概念伝達。

 まるで隣にいるかのように会話が可能で、人類側がこれを傍受することは不可能に近い。

 402が交信している相手はイ400、彼女の姉妹艦で、共に401、404を追い込んでいる。

 

 

 イ400のメンタルモデルは容姿こそイ402と瓜二つだが、服装は桃色の中華風のものを着用していた。

 ちなみにパンツスタイルであり、髪はリボンでは無くシニョンでまとめている。

 容姿がほぼ同じであるため、服飾で差別化を図っているのかもしれない。

 そしてイ400自身が言ったように、今、彼女はイ401を後方から扼しているところだった。

 

 

『ちょっとアンタ達、お喋りも良いけどちゃんと追い込みなさいよね』

 

 

 そこへ、どこか高慢にも聞こえる声が響いた。

 タカオである、当然ながら彼女もこの通信に入ることが出来る。

 

 

『『コンゴウ』だけじゃなく、『ナガト』や『ヤマト』だってモニターしてるんでしょ。なら、無様な様なんて見せられないわ』

「……それは<見栄>と言う概念か?」

『知らないわよ、そんなの』

 

 

 人類の感情の多くは、霧には理解しがたいものだ。

 彼女達がメンタルモデルを得た理由の1つは、人類の思考や感情を学ぶことにある。

 

 

『とにかく、ちゃんとしてよね』

「わかったわかった、超重力砲の再チャージは?」

『もう終わるわ』

「400、このまま追い込むぞ」

『了解』

『ちょっと、旗艦は私って言ってるでしょ!?』

 

 

 超重力砲は、霧の艦艇でも重巡洋艦以上の大型艦しか持てない重力子兵器だ。

 理論上は射程が存在せず、エネルギー供給さえ続けば超長距離の狙撃も可能だ。

 破壊力は、折り紙つきだ。

 とは言え膨大なエネルギーを使用するため、連射は難しい。

 

 

 そうした不確定要素を戦術に組み込むことを、イ402は本来は好まない。

 しかしタカオ自身が言うように、今は彼女が旗艦と言うことになっている。

 だからイ402は、特に何も反論はせず、静かにイ404に向けて侵蝕魚雷を放った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 完全に分断されてしまった。

 通信手段が無い現状、唯一の味方と言っても良いイ401と連携が取れないのはどうにも痛かった。

 この状況、兄ならばどうするだろうか。

 

 

「どこかに追い込まれていますね」

「はい」

 

 

 断続的に爆発と振動が続く中、紀沙は敵が自分達をどこかに追い込もうとしていることに気付いていた。

 何しろ敵の魚雷はギリギリ回避できるところを狙っており、それでいてイ404の進路方向にはけして攻撃しないのだ。

 有体に言えば、避けているつもりで誘導されている。

 

 

 ここまで無事と言うのは、相手にとっては予定調和と言うことだろう。

 つまり、非常に不味い。

 発見され、好きに攻撃され誘導されている。

 今は相手が戦場を仕切っている、どうにかしなければならなかった。

 

 

「スミノ、タカオの位置と向きに注意して」

「……ふむ」

 

 

 一番の脅威は、あの重巡(タカオ)の超重力砲と言う兵器だ。

 正直どう言った兵器なのかはわからないが、おそらく正面が射程のはずだ。

 よって、海上のタカオがどちらを向いているかは特に重要なはずだった。

 しかし、当のスミノの反応はどこか鈍かった。

 

 

「スミノ? ちょっと聞いてるの?」

「いや、これはどう考えたものなのかな」

「何が?」

「通信だよ、401が全方位に向けて発信した。いきなりね」

「通信……?」

 

 

 全方位と言うことは、当然ながら敵にも傍受されているだろう。

 すでに敵に見つかっている以上、発信元がバレるリスクはもう存在しない。

 だからこその通信だろうが、内容によっては敵の撹乱と言うこともあるかもしれない。

 だが、十中八九それはイ404に向けたメッセージであるはず……なのだが。

 

 

『潜水艦ごっこを覚えているか?』

 

 

 それが、イ401の発したメッセージの全てだった。

 

 

「は? え、何だよそれ。意味不明だぞ」

「潜水艦ごっこも何も、アタシら潜水艦に乗ってるじゃないかい?」

「何か意味があるのでしょうか……」

 

 

 クルー達が揃って首を傾げる中、スミノはじっと紀沙の横顔を見つめていた。

 その視線を頬に感じながら、紀沙は顎に手を当てて考え込んでいた。

 イ401、つまりあの兄が無駄なことをするわけが無い。

 そして兄が「覚えているか?」などと問いかける相手は、妹である自分だけだろう。

 

 

「冬馬さん、401の位置を地形図に出せますか」

「お、おう? さっきの通信の発信元の予測値で良いなら三次解析まで出せるが」

「それで大丈夫です。戦闘開始前の位置情報も一緒にお願いします」

「どうするんだい、艦長殿?」

「…………」

 

 

 戦場の状況、イ404の現状と装備、イ401の位置と移動推移の予測、敵の位置取り。

 そして、兄のメッセージ。

 それら全ての情報から紀沙は判断しなければならない、しかも早急に。

 ナガラの時もそうだった、決断は常に不意に迫られる。

 緊張感を切らせる暇も無い。

 

 

 それにしても、潜水艦ごっことは何だろう。

 ごっこも何も、自分達はすでにして潜水艦に乗っている。

 大体ごっこ遊びなど子供の頃にしたきりで、成長してからはすっかり忘れていた。

 ごっこ遊び……遊び?

 

 

「……あ」

 

 

 はっとして、紀沙は顔を上げた。

 食い入るようにモニターに映し出された地形図を見つめ、何かを確かめるように視線を滑らせる。

 

 

「おい! どうすんだ艦長ちゃん、またぞろ対潜弾が来たぞ。数は18! それと後方から魚雷4!」

「……直上と後方に重高圧弾頭魚雷を発射、4秒後に起爆して下さい。それから音響魚雷を1番2番、5番6番に!」

「どっちも撃ち尽くしちまうよ!?」

「構いません! この次に魚雷を撃つ時が正念場です!」

「艦長ちゃん、また突撃じゃねぇよな!?」

「…………」

「黙らないで!?」

 

 

 確証は無いが、確信はある。

 紀沙は重高圧弾頭魚雷の発射を確認した後、ミサイルや魚雷の誘爆の衝撃を背中に感じながら、言った。

 

 

「――――面舵(おもかじ)!」

「面舵ぃ!? ちょ、そっちにはタカオが」

「大丈夫です!」

 

 

 敵の誘導に逆らうことは、残念ながら困難だ。

 下手にルートから逸れようとすれば猛撃を喰らうだろう、だったら。

 

 

「だったら、こっちから行ってやりましょう! スミノ、両舷全速!!」

「了解、艦長殿――――機関室の2人が大変そうだけどね」

 

 

 クルーが――主に冬馬――悲鳴を上げる中、404の機関(エンジン)が一段と唸りを上げた。

 さぁ、正念場である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海上、台風は未だ勢力衰えず、風雨と波浪はむしろ勢いを増しているように思えた。

 

 

「加速した……?」

 

 

 そんな中、タカオは訝しげな顔で海面を見つめていた。

 激しさを増す台風の中、目の中心にいるタカオの周囲は穏やかだ。

 見下ろす海面は凪いでいて、とても海中で殺伐とした戦いが行われているとは思えない。

 しかしその中では、確かに鋼の存在が互いの存在を消すべく戦闘を繰り広げているのだった。

 

 

「400と402が発見された? いや、違うな、発見したなら射程圏内に入るために近付くはず。この機動は、むしろ距離を取ろうとしている」

 

 

 小さく呟くタカオの傍らを、赤いプラズマが這う。

 ともすれば鋼の艦体を鞭打つようにも見えるそれは、エネルギーの充実を物語るものでもある。

 200メートルを超える巨大な艦体が装甲を展開し、ただひたすらにエネルギーを収束し続けるその姿は、見る者にこれ以上無い重圧感(プレッシャー)を与えるであろう。

 そしてその収束率は、最初の一撃の比では無い。

 

 

 最初の一撃――超重力砲は、ほんの挨拶代わりに過ぎない。

 超重力砲は事実上、射程も残段数も無い汎用性の高い兵器だ。

 一方でタカオのエネルギー供給には限界がある、最初の一撃はそう、タカオの艦底にへばりつくように存在する()()()()()()()()()()()()()()()()

 タカオ本来のエネルギーは、まだたっぷりと残っている。

 

 

「ふん、つまり逃げているだけか」

 

 

 501との接続は、元々自身の索敵範囲を拡大するための戦術として考えていた。

 観測艦の索敵範囲はタカオ自身のそれの倍はある、それを利用して攻撃可能範囲を広げようとしたのだ。

 ただ、400と402はそれ以上の索敵範囲を持っている。

 だから今回、即席のバッテリー代わりにすることにしたのである。

 

 

「奇妙な通信があったから、何かあるのかと思えば。401も噂程では無かったらしい」

 

 

 くくっ、と喉の奥で嗤い、タカオは両手を挙げた。

 いよいよもって臨海に達しつつあるエネルギーは、プラズマと言うよりは稲妻の塊と言った方が正しい。

 タカオの顔に独特の紋章が浮かび上がり、虹彩の輝きは激しさを増した。

 

 

「さぁ、おいで。そのまま……」

 

 

 タカオの作戦は、実のところ単純なものだ。

 400と402に401と404を追わせ、タカオの超重力砲の射程内に誘き寄せる。

 2隻を同時に超重力砲の射程に治めることは困難に思えたが、400と402ならば不可能ではない。

 事実として今、401と404は400達から逃れるために競うように転進している。

 

 

 ああ、今……いや、もう少し、もう少しだ。

 イ401の方が先に射程に入るか、いやしかしイ404の方が距離がある。

 タイミングは誤らない、400と402、2隻とデータリンクしている。

 ああ、直前で進路を……いや、大丈夫だ、回頭して追いかける……そう……そう、そうだ。

 ――――来い! そして。

 

 

「そのまま――――沈めえぇっ!!」

 

 

 超重力砲が、発射される。

 最初の一撃にも増して威力のあるそれは、海水を蒸発させ、モーゼの如く引き裂きながら海中を薙いだ。

 歓喜の叫びと共に放たれたそれは、射程に入った2隻を飲み込み、そして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 終わった。

 イ400、そのメンタルモデルとコアはそう判断した。

 敵であるイ401とイ404は、タカオの超重力砲の直撃を受けたはずだ。

 いかに霧の艦艇と言えど、重力子兵器の直撃を受ければひとたまりも無い。

 

 

「とは言え、コアが消滅する程では無いはず」

 

 

 指先で頬にかかる髪を払いながら――こう言う動作も、メンタルモデルを得て初めてするようになった――400は、薄暗い発令所の中に立っていた。

 クルーは誰もいない、がらんどうの艦内に、メンタルモデルの少女だけが立っている。

 モニターの薄い光だけが、400の姿を暗闇の中に浮き上がらせている。

 

 

『重力波と磁場の乱れが収まり次第、401と404のコアを回収する』

「了解」

 

 

 通常の艦艇ならば、撃沈された段階で終わりだ。

 だが霧の艦艇にとっての艦体は、人間にとっての衣服に近い。

 コアさえ無事であれば、ナノマテリアルの供給次第で艦体を修復することも可能だ。

 そして、タカオの超重力砲は艦体全てを消滅させるまでには至らない。

 

 

 タカオはそのあたりを計算して、きちんとビーム口径を絞って撃っていた。

 しかしそれでも、威力は十分だ。

 超重力砲はエネルギー供給次第で射程・威力共に増大する、今回の場合射程はさほど必要では無い。

 そしてビーム口径を絞った分、純粋な意味での威力はより充実したものだった。

 401と404艦体の半分程は消し飛び、行動不能に陥っていることだろう。

 

 

「ん……?」

 

 

 不意に、訝しげな顔をした。

 彼女の目前――センサーやソナーと言う意味で――には、タカオの超重力砲の残滓が見えている。

 抉られた海が急速な()()を見せ、海中は騒々しいことになっているのだが。

 その騒々しさの中に、自然には発生し得ない音を感じた。

 

 

 そしてイ400の優れた観測性能は、その音の正体を突き止めた。

 しかし彼女にとって不運だったのは、タカオの超重力砲の影響で海中が騒音で満ちていたことだ。

 だから、反応が遅れた。

 逆巻く海流の中から飛び出して来た、()()()()に。

 

 

「な、に?」

 

 

 ――――何故。

 何故、ここで404が出てくる?

 402に追われてタカオの射程圏内に押し込まれたはずでは無かったか、それが何故、自分に向かって来ているのか?

 

 

「しま」

 

 

 気が付いた時には、イ404が魚雷を発射していた。

 全速力だったのだろう、100ノット(約時速190キロ)を超えるかと言う速度で突っ込んで来た。

 あっと言う間に交錯し、その刹那、4発の魚雷が炸裂した。

 音響魚雷である。

 

 

「ぐ……!」

 

 

 人間のソナー手がいるならばともかく、音響魚雷が何発炸裂しようがイ400にダメージは入らない。

 だが、煩わしくはある。

 瞬間的に走ったノイズが相当に不快だったのだろう、艦の苦悩がそのままメンタルモデルの表情にフィードバックした。

 

 

 しかし、所詮は通常兵器。

 霧の艦艇であるイ400にダメージを与える手段では無い、イ404にそのための兵器は無いのだ。

 だからこそ、イ400の気を一瞬逸らす程度の攻撃で逃げ出すのだ。

 401のことも気にかかるが、ここは404を追撃……。

 ――――401?

 

 

「しまった、402!?」

 

 

 気付いた時には、遅い。

 イ400のメンタルモデルが彼方を振り仰いだその瞬間、そう遠くない位置で魚雷の爆発音が立て続けに起こった。

 円形に広がり、相手を抉り取ろうとする一撃。

 ()()()()が、艦体に直撃した音である。

 

 

「や、やって……くれる……!」

 

 

 402が呻くようにそう言うが、流れ落ちる水音がそれを掻き消した。

 浸水している。

 イ400同様、超重力砲の影響が消えるのを呆けて待っていたのが不味かった。

 これは「油断」、そう言う概念だろうか。

 正面から奇襲を受けると言う、観測艦にあってはならない屈辱。

 

 

 100ノット以上の速力でタカオの超重力砲の圏内から飛び出して来たイ401が、交錯の間際に数発の侵蝕魚雷を叩き込んできたのだ。

 イ404のみ意識していた彼女にとって、完全な不意打ちだった。

 フィールドの形成が間に合わず、侵蝕魚雷の直撃を受けてしまった。

 チッ、チッ……と、イ402の瞳の虹彩が輝いていた。

 

 

「ど、どういうこと……何が起こったの?」

 

 

 そして、海上のタカオ。

 海中で行われた一瞬の戦闘はしかし、完全にタカオを蚊帳の外に置くものだった。

 いや、何が起こったのかはわかっている。

 タカオが超重力砲を放ったその瞬間、401と404がまるで図ったかのように急加速したのだ。

 

 

 いや、演算は完璧だった。

 なのに何故、どうして超重力砲は外れたのか。

 わからない。

 タカオのコアはいくつもの可能性を思考するが、霧の艦艇としてあるまじきことに、即座の解答を示せずにいた。

 

 

『タカオ、私は402のフォローに回ります』

「……私は、401と404の追撃を」

『今から追っても追いつけない。それに501のエネルギーも使ってしまった今、貴女自身の索敵能力では台風を隠れ蓑にする401達を補足できないでしょう』

「そんなことは!」

 

 

 無い、と、言い切れなかった。

 元々索敵能力が高いわけでは無く、400や501の助力を受けてのハメ技のようなものだ。

 超重力砲を撃った今、余力があるわけでも無い。

 その点に関しては、タカオのコアは憎らしい程に即座の結論を出していた。

 ――――追うべきでは無い。少なくとも、今は。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ネタが知れれば、簡単なものだ。

 何のことは無い、イ404とイ401は円を描きながら互いを目指して進んだに過ぎない。

 そのまま擦れ違い、お互いの後方の敵に向けて攻撃を仕掛ける。

 倒し切る必要は無い。

 

 

 あわよくば、と言う気持ちが全く無かったわけでは無い。

 しかし今ここで霧の艦艇を撃沈することには、さほど意味は無い。

 重要なのは、イ404とイ401を横須賀まで運ぶことだ。

 それ以外のことは、現段階においては実は大して重要では無かった。

 

 

「あ゛あ゛――――……今度こそマジで死ぬかと思った」

「僕の目から見て、まだ死にそうには見えないけどね」

 

 

 休憩室、あるいは談話室とでも言うべきか、イ404の艦内にちょっとしたスペースがある。

 浴室や娯楽室まであるのだから、潜水艦(ぐんかん)とはとても思えない。

 とにかく、冬馬は休憩室のテーブルにだらりと身を投げ出していた。

 戦闘海域を離れたため、交代で休憩を取ることが出来ているのだ。

 

 

「まぁ、大変だったみたいだね」

「他人事みたいに言ってんなー」

「医務室にいる僕にとっては、外で何が起こってるかなんてわかりようも無いからね」

 

 

 例えば今は冬馬の番である、状況が気になったのか良治も出てきていた。

 ソナーが発令所を離れて大丈夫かとも思うが、そもそもがイ404は乗員を必要としない艦である。

 人間を乗せてメリットがあるとすれば、それは霧の硬直的な思考では見えない部分をカバーすることであろう。

 戦術と言うのは、まさにそれに該当する。

 

 

 今回の戦術はひどく単純なものだが、タイミングが重要であるのは言うに及ばない。

 また互いの位置をある程度は把握しておく必要がある、地形図だけでは厳しかったろう。

 しかし今回の場合、とても目立つ目印があった。

 ――――400と402が401達の誘導のために放っていた攻撃、その音が道標となったのだ。

 

 

「と言うわけで、俺様は酷く耳を酷使したわけよ」

「401のソナー手にお疲れ様を言いたいね」

「少しは俺を労ってくれよぉ」

 

 

 タカオの動きが妙に鈍かったのも、見逃せない要素だ。

 円形に機動を取っている以上、直線にしか放てない超重力砲の射程に2隻を同時に収めるためにはどうしても微修正が要る。

 スミノ曰く、重巡洋艦のコアの演算力で出せるビーム口径には限界がある。

 

 

 イ404とイ401が超重力砲の発射と同時に最高速に達する、その計算とタイミングが重要だった。

 クラインフィールドを掠めるように超重力砲の威力が艦体を掠めたあの瞬間は、本当に生きた心地がしなかった。

 タカオの動きが今少し機敏であれば、また結果は変わっていただろう。

 

 

「超重力砲、ねぇ」

「超重力砲ってのは、おいそれと連射できるもんじゃねーんだと。それを連射する体勢に入ってるってことは、近くに補給艦がいるはずだってんで、艦長ちゃんがな」

 

 

 まさに、腹に一物を抱えていたわけである。

 それ以外に気付ける要素は無かったから、そう当たりをつけた紀沙の閃きはなかなかどうして、鋭いものだった。

 あるいは、それすら折り込んで見せた401の艦長が凄いと言うべきか。

 

 

「それで、その艦長は?」

「ああ、俺とおんなじ」

「つまり?」

「休憩中ってこと」

 

 

 しかし、重い。

 余りにも重い、その閃きの失敗は死だ。

 しかも1つの死では済まない、クルー全員の死がかかっていた。

 相談する時間? もちろんそんなものは無い。

 

 

 あったとしてもしてはならない、それはクルーを分裂させる危険性を孕んでいる。

 だから艦長を含め集団のリーダーたる者は、最後には()()()で決める。

 艦長が方針を定めずして、何が艦長か。

 ――――だが、やはり重かった。

 

 

「……う」

 

 

 艦長の私室――まぁ、クルー全員に私室はあるのだが――のベッドに上半身を突っ伏して、少女は額に玉の汗を浮かべていた。

 眠っているようだが、その割に呼吸は荒い。

 眉根を寄せて、まるで熱病にでも罹ったかのような苦しげな表情で眠る。

 

 

 精を魂をすり減らし、頭痛を吐き気を堪えながら決断した。

 それが艦長だとわかってはいても、緊張が切れれば指一本動かせなくなる。

 重さに、耐え切れなくなる。

 その果てに何があるのか、何もわからないと言うのに。

 

 

「――――理解できないね」

 

 

 どうして人は、歩みを止めようとはしないのか。

 眠る紀沙を見下ろしながら、スミノの無感情な呟きだけが室内に響く。

 紀沙は、眠り続けていた……。

 




最後までお読み頂き有難うございます。

タカオ戦でした。
少し原作とは異なる流れになりましたが、何とか意味を持たせたい所ですね。
そして何気に四姉妹揃ってた。

それでは、また次回。


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Depth007:「帰還」

 イ401、横須賀当局の管制海域に進出。

 その報告が軍務省にもたらされた段階で、上陰は総理官邸に向かった。

 ちょうど、楓首相に定例の諮問に呼び出されていたところだ。

 

 

『401が、港湾管制局の管轄海域に入ったそうだね』

「は……」

 

 

 流石に耳が早く、楓首相はすでにそのことを知っていた。

 いつものように、壁一面に広がる横須賀の海を背にしながらの会話だった。

 こんなにも晴天に恵まれて風も穏やかだと言うのに、気のせいかいつもより波が高いように見えた。

 もしかすると、見る者の心がそう感じさせているのかもしれない。

 

 

 実際、らしくも無く上陰が気分を高揚させていると言うのもまた、否定しようの無い事実ではある。

 イ401、上陰の振動弾頭輸送プロジェクトにとって必要不可欠な存在。

 彼がイ401の存在を初めて強く認識したのは、そう、1年程も前だろうか。

 彼ら<蒼き鋼>が、霧の大戦艦『ヒュウガ』を撃沈した時だったか。

 

 

(時代が、変わる)

 

 

 上陰はそう直感した。

 それが吉と出るのか凶と出るのか、鬼が出るのか蛇が出るのか、彼にもわからない。

 ただ、今の閉塞感は打破できるのでは無いか。

 2年前、霧の潜水艦を持って日本を飛び出した彼らなら、同じ気持ちを共有できるのでは無いか。

 そう思って、そう感じたが故に彼はイ401を主軸とした振動弾頭の輸送計画を立案したのだ。

 

 

『と言うわけで、いよいよもって振動弾頭の輸送計画が実働段階に入るわけだが』

「はい」

 

 

 イ401にアメリカへの振動弾頭の輸送を依頼し、実行させる。

 それが上陰の輸送計画の肝とも言うべき部分であって、日本としてこれを全力でバックアップする。

 そうすることによって、()()の秩序の中での発言権を確保することにも繋がるだろう。

 そのための計画案はすでに、楓首相を含む各管区の首相の了承も得られている。

 

 

『その前に少し、君の計画案を修正させてほしい』

 

 

 修正。

 もちろんどんな提案もそのまま通ることは稀だが、この段階でどのような修正を行うのか。

 (にわ)かには判断しかねて、上陰は思わず楓首相を見返した。

 楓首相は、いつも浮かべている底の読めない微笑を浮かべているばかりだった。

 

 

『――――楓首相』

『……私だ』

 

 

 その時、車椅子のスピーカーから秘書官の声が響き、楓首相がそれに鷹揚(おうよう)に応じる。

 そして秘書官の女性が告げた名前に、上陰は苦笑を浮かべた。

 半ば予想できていた事態ではあるが、いやはや……。

 

 

「なるほど、そう言う()()ですか」

 

 

 上陰の言葉に、楓首相も苦笑を浮かべる。

 今度は楓首相の心の底が見えた気がして、場違いながら、上陰はおかしな気分になった。

 そして、彼は執務室の扉がノックされる音を聞いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 八月一日(ほづみ)静は、他のクルーとは来歴が少々異なる。

 彼女は霧の海洋封鎖によって海外に取り残された日本人――在台日本人――の娘で、実のことを言えば、日本のことを余り良く知らない。

 物心ついた頃、父や兄からほんの少し話に聞いていたくらいだ。

 

 

 彼女以外のクルーが日本生まれの日本育ち、しかも軍直轄の海洋技術総合学院の同級生であることを考えると、まさに異色の存在であると言えた。

 そんな数奇な人生が幸なのか不幸なのか、静には窺い知ることが出来ない。

 しかし唯一言えることは、今は彼女にとっての()がイ401であると言うこと。

 そして、何を犠牲にしてでも守りたいと考えていると言うこと――――……。

 

 

「要塞港・横須賀へようこそ」

「響!」

「真瑠璃ちゃん!」

 

 

 だからイ401が横須賀に入港した時に自分の前のソナー手だった女性、響真瑠璃に会った時、実はクルーの中で最も関心を引かれていたのは彼女だった。

 自分の先代のソナー、そしてイ401を降りた人物。

 まず、綺麗な人だな、と思った。

 

 

 (おか)にいるせいなのか、髪は艶やかに整えられていて、肌や爪も良く手入れされている。

 薄くだがメイクもしているようで、ずっと海上にいる自分やいおりと比べてもきちんと「女性」をしていた。

 何よりピシッと軍服を着こなしている様は、嫌でも大人の女性を感じさせた。

 

 

「群像君、ご無沙汰」

「ああ」

 

 

 しかし、真瑠璃に去られた形のはずの群像はいつも通りだった。

 いつも通り冷静で、当たり障りが無い。

 まぁ、今さら群像が美人を前にどうこうなるとも思えない。

 その点は、杏平や僧を含めて401の男性クルーは「安全」ではあった。

 

 

「おー、あれが404かー。機関関係とか誰が弄ってんのかしらね」

「武装関係はいいもん使ってんだろうな、軍にいるんだもんなぁ」

 

 

 ふと気が付くと、いおりと杏平がイ401の隣のドックに鎮座する灰色の艦を見上げていた。

 そこはハンガーアームに艦を固定する形で、20隻からなる艦艇が整然と並んでいる場所だった。

 横須賀港の地下ドック、群像言うところの、霧に対する<大反攻>のための「夢の保管場所」だ。

 同じようなドックが、他にもいくつかあるらしい。

 

 

 いおりと杏平は群像と真瑠璃のやり取りにさして興味が無い様子で、専らイ404と言うもう1隻の霧の潜水艦に興味を引かれている様子だった。

 今はイ401と同じように、ドックの技士達によって整備が行われている。

 勿論、静もソナー関係の諸々等に興味が無いわけでは無い。

 だが、どちらかと言うと群像の妹だと言う艦長の方に興味が……。

 

 

「あ……」

 

 

 その時、気付いた。

 何とは無しに見上げていたイ404の艦体、その縁にいつの間にか1人の少女が腰掛けていた。

 セミショートの銀髪の、可愛らしい女の子だった。

 どことなく独特の雰囲気を持つ女の子、誰かに似ているような気がした。

 

 

 気が付くと、隣にイオナが立っていた。

 いつもは群像の傍にいることが多い彼女だが、今はイ404側にやって来ていた。

 そして静達と同じようにイ404を、いや、イ404の艦体の縁に座る少女を見上げていた。

 ああ、そうかと静は気付く。

 この2人、雰囲気が似ているのだ。

 

 

「メンタルモデル……」

 

 

 あの少女は、イ404のメンタルモデルなのだ。

 イオナ以外に初めて見た霧のメンタルモデルを、静はまじまじと見つめた。

 無表情なイオナと違い、どこか薄ら寒い笑顔を浮かべた少女――スミノを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 一番驚いているのは、紀沙だった。

 横須賀へ帰港、とは言え行きは別の手段で向かったのだが、とにかく帰港した。

 そして港湾管制局の指示に従ってドライドックに入り、艦艇用の昇降機とアームでドック内にイ404を固定した。

 

 

 その、直後のことだった。

 

 

 それまでは普通だったのだ。

 普通に動き、普通に食べ、普通に話し、普通に指示を出していた。

 身体も健康そのもので、気分も悪くなかった。

 だから、一番驚いていたのは紀沙本人だった。

 ――――どうして自分は、発令所の床に座り込んでいるのだろう?

 

 

「え?」

 

 

 周りのクルーが目を丸くしているのが見えて、まず疑問が生じた。

 どうして皆がそんな目で自分を見ているのか、本気でわからなかったのだ。

 だが、冷静に考えれば周囲の方が正しいとわかる。

 艦を固定して外に出ようと立ち上がった時、正しくは立ち上がろうとした時、それに失敗すれば誰もがそんな顔をするだろう。

 

 

「あ、あれ? え? ……え?」

 

 

 指揮シートから立ち上がろうとした瞬間、膝が折れて座り込んでしまった形だ。

 何度か立ち上がろうとしたが果たせなかった。

 ()()()()()()()()()

 その事実に愕然とした、そして事実を認識すると共に血の気が引くのを感じた。

 

 

 カチカチと言う音がして、それが自分の歯が立てている音だと気付く。

 気付いてしまうと、後は急降下する一方だった。

 頭が痛い、眩暈(めまい)がする、吐き気も、寒い、手が震える。

 急激に悪化する体調は、紀沙の混乱に拍車をかける形になった。

 

 

(え? え、何、何で? とにかく、た、立たなきゃ。立た……え?)

 

 

 立つって、何だっけ?

 そんな馬鹿なことを本気で考えて、そして果たせないことにショックを受ける。

 思考と失敗を繰り返し、加速し、堂々巡りに陥るともう抜け出せない。

 後には座り込み、顔面を蒼白にした少女だけが残った。

 

 

「あ、あーっと、艦長ちゃん? ま、まぁ落ち着けって、大丈夫だって良くあることだって……の時にはさ」

「そ、そうそうそうだよ。アタシだってほら、……の時は漏らしかけたくらいだからね」

「え、マジで? それはちょっと引くわ~」

「アンタ一度マジで鼓膜ぶち抜いてやろうか」

「ひゃ~こえ~、って。な、な? だから大丈夫だって」

 

 

 冬馬と梓が何やら慌てていて、だがそれは結果として紀沙をより焦らせることになった。

 途中、何か単語が抜けて聞こえたような気がするが、ぐるぐると巡る思考では聞き取れなかった。

 それでも安心して欲しくて、笑おうとして、でもそれも出来なかった。

 半笑いにもならない、唇の横が少しヒクついただけだった。

 

 

「ひ、あ……ぁっ」

 

 

 ついには、息が詰まりかけた。

 言葉を発することも出来なくなり、端的に言って、紀沙はパニックに陥りかけていた。

 そして、重要な何かが決壊しそうになったその時。

 

 

「紀沙ちゃん」

 

 

 不意に肩に触れられて、ビクリと身を震わせる。

 身体が固まってしまって振り仰ぐことは出来ないが、声から良治だとわかる。

 恋が呼んだのだろうか、留年組の同期の声はいつにも増して真剣で、そして柔らかだった。

 彼は紀沙の肩に触れたまま、もう片方の手を彼女の目の前に置いた。

 

 

「僕の手が見えるかい? 良し、じゃあ、僕の手が開いたら息を吸って。それから、手を閉じたら息を吐いて、ゆっくりと」

「……っ」

「ああ、ゆっくりで良いよ。ゆっくりね。そう、吸って……吐いて。そう、良い調子。吸って、吐いて」

「は……ぁ。す、はあ、ぁ……ふ」

 

 

 一旦切り替えて、単調に、呼吸だけを意識させる。

 良治が行ったのは、つまりはそれだけだ。

 だがそれは突発的な、特に精神的な発作に対しては効果的だった。

 事実、紀沙は良治の手の動きだけを見ていたし、掌の開閉と言うわかりやすい動きは呼吸を安定させた。

 そうすれば、他の感覚が戻るのも時間はかからない。

 

 

 気持ちは落ち着き、体調も少しずつ復調していく。

 そしてそれに比例して、発令所には別の声と音が聞こえるようになる。

 紀沙に話しかけ続ける良治を除いて、冬馬達クルーはそれが収まるのを待っていた。

 誰も彼女を責めるつもりは無かった、何故ならそれは軍人なら誰もに経験があることだからだ。

 ――――大なり小なり、()()()()()とはそう言うものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 恥ずかしい姿を見られてしまった。

 穴があったら入りたいとはまさにこのことで、紀沙は内心かなり落ち込んでいた。

 緊張の糸が切れた途端に立てなくなるとは、艦長どころか軍人としての資質が問われる。

 紀沙が思う艦長像からは程遠い、精進しなければ。

 

 

「いやぁ、アレだな。俺ちょっと緊張してきちまったよ」

 

 

 ふんふんと頷きながら自分に言い聞かせていると、冬馬のまるで緊張していない声が聞こえた。

 しかし目の前に置かれたコーヒーに手をつけていない所を見ると、実は本当に緊張しているのかもしれない。

 何しろ紀沙達は今、総理官邸の会議室にいるのだから。

 

 

 中央管区の総理官邸、言わずと知れた日本国のトップのお膝元である。

 日本には3人の首相がいるが、楓首相はいわゆる中央管区の首相だ。

 これは霧に攻撃され殲滅されても、3人の内1人でも首相が生き残っていれば政治的な意味での「日本」を維持できると期待しての政策である。

 

 

『千早艦長以下、イ号404の乗員は直ちに総理官邸に出頭せよ』

 

 

 ドックに降りた面々に手渡された命令書には、そう書いてあった。

 正直、休む間も無く呼び出されるとは思ってもいなかったが、命令とあらば行かないわけにもいかない。

 それから統制軍の車両に揺られて、こうして総理官邸の会議室の一室にやって来たわけだ。

 流石に総理官邸だけあって、一介の会議室も赤のカーペットにマホガニーのテーブルと格式高そうな様子だった。

 

 

「良くわからないな、首相だって人間だろう?」

 

 

 そして当然――なのかどうなのか、今一つ判断しかねるが――この場には、スミノもいた。

 彼女は紀沙の隣の席にいる。

 紀沙達は縦長のテーブルの片側に一列に座らされており、先端の議長席を挟んで、向かい側に空席の一列がある形だ。

 

 

「官邸と言うのは、首相と言う役職を持つ人間の仕事場なのだろう? そこに来ただけで、どうして緊張する必要があるんだい?」

「それはお前、ほらあれだよ。なぁ?」

「アタシに振るんじゃないよ」

 

 

 スミノの疑問は、いつも素朴だ。

 そしてそれだけに答えにくいものが多い。

 何故ならば、人間であればある程度「察する」ことが出来ていることを聞いてくるためだ。

 加えて言えば、イ404のクルーはそのメンタルモデルであるスミノと積極的に交流を持とうとはしていない。

 

 

 どこか、一線を引いている。

 ただそれは、まともな軍人であれば誰もがそうするだろうと思えた。

 何故ならスミノは、霧なのだから。

 そして多くの場合、スミノの問いに答えるのは紀沙だった。

 

 

「……人間は、格式や権威に敬意を表するものなんだよ」

「格式。権威。艦長殿もそうなのかい?」

 

 

 そこまで答える義理は無い。

 スミノは小首を傾げていたが、それには取り合わなかった。

 それに、どうやら来たようだ。

 会議室の扉がノックされて、スミノ以外の全員がその場に立ち上がった。

 

 

『やぁ、待たせてしまったかな』

 

 

 やって来たのは、機械的な車椅子に乗った男性――楓首相。

 総理官邸と言う場からしてまさかとは思っていたが、本人が登場するとは思わず、流石に場がざわめきかける。

 もちろん、スミノ以外は、と言う条件がつくが。

 

 

 ただ、紀沙にとっては楓首相の後に入室して来た顔ぶれの方にこそ心動かされただろう。

 まず、楓首相の後に続いて入室して来たのは北と上陰であった。

 正直、紀沙からすると並んで入ってくるには違和感のある2人だった。

 だが、それはまだ良い。

 

 

(あ……)

 

 

 問題は、さらにその後に入室して来た面々。

 彼らは政治家でも官僚でも無く、まして軍人ですら無かった。

 そこにいたのは、()()()()()

 

 

「……兄さん」

 

 

 千早群像と、そのクルー。

 イ号401の乗員と、そのメンタルモデルがそこにいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 げっ、と言う声を上げたのは、イ401の機関士――いおりだった。

 元学院生だけに格式への敬意の払い方は知っている彼女だが、それでも会議室に入室すると同時に飛びついて来た相手には顔を引き攣らせた。

 その相手とは、あおいだった。

 

 

「あ~ん。いおりちゃ~ん、久しぶりね~」

「げぇっ、お姉ちゃ……艦長ごめっ、私ちょっと抜ける!」

「あ、いおりちゃ~ん、待ってよ~」

 

 

 2人は姉妹だった。

 紀沙もイ404に同乗するまであおいがいおりの姉だとは知らなかった、学年が3つ上だったと言うこともある。

 それに、いおりも周囲に姉がいると話していなかった。

 そして逃げ出したいおりの姿を見るに、どうも彼女は姉を苦手としている様子だった。

 

 

『若い人は元気があって良い』

 

 

 ただ、少しタイミングが悪かった。

 何しろ首相臨席の会議である。

 議長席まで車椅子を進めた楓首相は特に気にしていない様子だったが、流石に気恥ずかしい。

 百歩譲って部外者側のいおりは良いとしても、紀沙としては部下の無作法と言うことになる。

 

 

『さて、今日キミ達に来て貰ったのは他でも無い』

 

 

 恐る恐る、横を見る。

 そこには北がいた、彼は紀沙を特に見ることなく席に着いた。

 強面だけに感情を窺い知ることは難しい、後で注意される可能性もある。

 ただ北が身に着けているストライプのネクタイを見て、紀沙は胸中で小さく微笑んだ。

 

 

 位置関係としてはまず議長席に楓首相がいて、左右の先端に北、そして上陰。

 北側に紀沙達が座り、そして上陰側には当然、群像達が座っている。

 互いに1つ空席が出来ていることが、何とも言えない不足感を醸し出していた。

 

 

(……こうして見ると)

 

 

 そして、正面の兄を見て思う。

 これは、もしかしなくとも凄いことなのでは無いだろうか、と。

 イ号404、そして401。

 良く見てみれば、座席はそれぞれの役職にほぼ対応している。

 

 

 副長の前には副長が、ソナー手の前にはソナー手がいる。

 機関士の人数の都合上、そしてイ401に軍医がいないこともあって、静菜と良治の前は空席となっているが、概ねそう言う配置だった。

 当然、互いに意識するだろう。

 

 

(いや、副長あたりはちょっとわからないけど)

 

 

 僧はフルフェイス状態だし、恋は目が開いているんだかいないんだか。

 ただ杏平と冬馬は何か通ずるものがあったのか、座席が対角線上にあるにも関わらず何か挑発し合っていた。

 他は、概ね我関せずと言ったところか。

 もちろん、艦長としてそのあたりのことは気になるところではある、が。

 

 

 だが、一番気になる組み合わせは別にあった。

 それは紀沙、そして兄である群像の隣に座る少女達。

 すなわち、()()()()()()()()()

 

 

「「――――――――」」

 

 

 片や表情少なく、片やにこやかな笑顔。

 姉妹艦のためか、メンタルモデルの容貌は驚く程に似ているが、対照的だった。

 だが、どうしてだろう。

 紀沙は、不思議な感覚に捉われた。

 

 

『……キミ達に、太平洋を渡って貰いたい』

 

 

 ――――両者の浮かべている表情が、逆に見える。

 紀沙達が楓首相に視線を向ける中、メンタルモデルの少女達だけは互いから視線を逸らさなかった。

 その瞳の虹彩は、電子の海の色に輝いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 概念伝達。

 それは、霧が使用する通信の総称である。

 離れていながらにして大量の情報をやり取りすることが出来、理論上、距離の制限も無いとされる。

 そして、その通信は人類には傍受することは出来ない。

 

 

「久しぶりだね、401」

「そうだな、404――だが、今は私はイオナと言う名称を与えられている」

「ボクもだよ。スミノと言う名前を貰ったんだ」

 

 

 イ401、そしてイ404は、17年前に横須賀にその所在を置いた。

 いわゆる霧と人類の<大海戦>、その戦いの最中に人類側が拿捕したと言うのが通説である。

 ただ、霧の艦艇が拿捕されたと言う大事件の割に、その詳細が明らかにされたことが無い。

 そもそも、近付くことすら出来ない霧の艦艇をどうやって拿捕したのか?

 

 

 本当に彼女達は、戦いの結果として拿捕されたのだろうか?

 拿捕を成した千早翔像とそのクルー達は日本を出奔してしまったため、もはや真実を知ることは出来ない。

 ただ一点変わらない事実があるとすれば、それは彼女達が霧との戦いに身を投じていると言うことだけだった。

 

 

「それで、何の用だ? 今、お互いの艦長が今後について話し合っているようだが」

「ボク達にとって必要なのは艦長殿の決断であって、そこに至るまでの思考経路に関心は無いね」

「……そうか」

 

 

 概念伝達によって行われる通信を、人類の言葉で表現するのは難しい。

 あえて表現するのであれば、他に人が一切いないプライベートルーム、だろうか。

 そこにはスミノとイオナしかおらず、会話を盗み聞くものもいない。

 

 

「用って程じゃないよ。ただ、そっちの艦長殿はどうなのかなと思ってね」

「どう、とは?」

「どう言う人間なんだい、キミが乗せている人間は」

 

 

 イオナは、少し首を傾げた。

 にこやかな笑顔を浮かべるスミノの顔を「見つめて」、何かを考えている様子だった。

 

 

「……そう言えば、お前とこうして()()するのは初めてだったな」

「そうだね、イオナ」

「お前と別れた2年前、お前は……」

 

 

 イオナは、スミノの問いかけには答えなかった。

 つまり、艦長たる群像のことを話さなかった。

 その代わりに言葉にしたのは、言うなればお互いのことだった。

 それに対して、スミノはやはり笑顔を浮かべ続けている。

 

 

 それに対して、イオナは少し眉を下げていた。

 困ったようなその顔は、どことなく困り者の妹を見ているようでもある。

 そして実際、彼女達は姉妹艦だった。

 

 

「お前は、コアだけの状態だったからな」

 

 

 スミノは、ずっとにこやかな笑顔を浮かべ続けていた。

 最初から、最後まで。

 イオナは目を細め、そんなスミノを見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 駒城はここ数日、多忙を極めていた。

 彼は先年に日本統制軍の最新鋭の原子力潜水艦『白鯨』の艦長の辞令を受け、数百人の関係者と共に訓練に励む毎日を送っている。

 しかし今週に入り、艦を離れて軍務省や統制軍の戦術技術局に出向くことが多くなっていた。

 

 

「おお、良く来たな駒城! 挨拶は良い、まぁ、座れ座れ!」

 

 

 会議室に入ると、まず豪快な笑い声が彼を出迎えた。

 それは戦術技術局の局長を兼ねる浦上中将の笑い声であって、恰幅(かっぷく)の良い身体と顎鬚(あごひげ)が笑い声に妙にマッチしていた。

 バシバシと背中を叩かれるのは困りものだが、駒城はこの上官が嫌いでは無かった。

 何しろ士官学校時代の教官だった相手だ、軍においてそれは親子の関係に等しい。

 

 

 ただ、中将臨席の会議にしては小さな会議室だった。

 モニターや電子機器等の設備は整っているが、せいぜい十数人ほどしか入れない規模の会議室だ。

 しかも、それでも席がまばらに開いている。

 どちらかと言うと、会議と言うよりは何らかの説明が行われると言った方が良いだろう。

 

 

「よっ、駒城艦長」

「何だクルツ、お前まで呼ばれていたのか?」

「上陰ちゃんの頼みでね」

「上陰の?」

 

 

 軍務省次官補の地位についている同期の名前に首を傾げつつ、席に着いた。

 ちなみに駒城はクルツとも知己だ、外洋艦所属と元海兵隊、訓練で顔を合わせることも多い。

 だから互いに性格と言うのも良くわかっていて、良く言えば気心の知れた仲と言えた。

 

 

「おいおい、仲が良いのは結構だが、まだ勤務時間中だと言うことを忘れるなよ!」

 

 

 最もな指摘だが、浦上に言われると苦笑を浮かべてしまう。

 とは言え、仕事は仕事だ。

 艦を任せている副長達のことも気にかかるし、早めに終わらせることに異論は無かった。

 

 

「さて、今日お前達を呼んだのは他でも無い。すでにさわりは知っているだろうが、今回、内閣府と軍務省からそれぞれ統制軍に検討するように要請された件だ」

「と言うと、例の新兵器の」

「お前達にもまだ詳細は開示していなかったが、今回、開示の許可が下りた」

「へぇ。ってことは、いよいよってことですかね」

「ああ、つまりだ」

 

 

 口調と態度は変わらないが、それでも緊張感は違う。

 浦上は煙草に火を着けようとして、しかし会議室が禁煙であることに気付き、そのまま話を続けた。

 駒城はごくりと生唾を飲み込み、次の言葉を待った。

 

 

「……お前ら、ちょっと世界を救ってくれねぇか」

 

 

 そして駒城は、これから自分が就くことになる任務計画の名前を聞いた。

 つまり。

 ――――振動弾頭、輸送計画。

 霧の艦艇との、共同作戦である。

 なおこの計画を聞いた後、駒城は2日ほど胃痛を友とすることになった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この屋敷に戻ってくることが、随分と久しぶりのことのように思える。

 ほんの1週間ほどのことだったと思うが、それだけ密度の濃い時間だったと言うことだろうか。

 そして今、畳の間にて紀沙は北と向かい合っていた。

 

 

「作戦の趣旨は理解できただろうな」

「はい」

 

 

 すでに夜の帳が下りて、2人ともが普段着の着物に着替えている。

 ちなみに帰宅の際、北は紀沙に『ナガラ』や『タカオ』関連の戦いの話をしなかった。

 褒めも叱りもせず、ただ淡々と次の任務の話をしている。

 次の任務。

 

 

 楓首相直々に言い渡されたそれは、恐らく北と上陰を交えて話し合ったものであろう。

 すなわち、「振動弾頭のアメリカへの移送」。

 北達はイ401とイ404、そして統制軍の最新鋭潜水艦1隻を加えた3隻の()()で行うことにしたのだ。

 これだけでも、十分に驚くべきことではあるが……。

 

 

「この任務に当たり、お前達の階級はまたひとつ上がる」

 

 

 とは言え、任務の度にぽんぽん階級が上がるのは正直、困惑する。

 若干18歳の中尉、また軍内部での紀沙の立場は特殊なものになった。

 あからさまに政治的で、おそらくそうすることで得られる何かがあるのだろう。

 ただ、そこは紀沙が考えられることでは無かった。

 

 

「そして、イ401のことだが」

「はい」

「今日の会議でも説明したように、政府は401のクルーに恩赦を与えた」

 

 

 そしてこれは、紀沙としても嬉しいことの部類に入る。

 兄である群像はイ401を強奪する形で日本を出奔したため、当然、犯罪者にカテゴライズされる。

 しかし今日、日本政府は群像達に恩赦する――つまり、過去の罪を免除する――と同時に、イ401の所有権を彼らに認めたのである。

 

 

 まぁ、それが群像達にとってどれだけ意味のあるものなのかは、わからないが。

 ただ、紀沙にとっては喜ばしいことには違いなかった。

 何しろこれで、兄が戻ってくるかもしれないからだ。

 出奔して2年、横須賀もいろいろと変わった。

 

 

「明日、兄を案内しようと思います。いろいろと」

「……そうか」

 

 

 兄が行きたいと思っているだろう場所は、何と無くだがわかっている。

 だがそこも、いろいろと変わっている。

 そこを案内したいと思うのは、むしろ自然なことだったろう。

 だから北も、それに対しては何も言わなかった。

 

 

「千早艦長。アメリカへの移送任務とは別に、お前にもう一つ任務を与える」

「もう一つの、任務?」

「そうだ。これは、お前にとってこれまでに無い厳しい任務となるだろう。だが成し遂げて貰わねばならん、日本のために」

「……日本の、ために」

 

 

 あの北がここまで言うとは、どれほどの任務なのだろう。

 しかし紀沙は、北の恩に報いるためにも、どんな任務でも成し遂げるつもりだった。

 今日は失態を見せてしまったが、いやだからこそ、北の期待に応えたかった。

 だから紀沙は言った。

 やります、やってみせます、と。

 

 

 そんな――そんな純真な少女に対して、老人は言った。

 清も濁も併せ呑んできた老兵は、表情を変えること無く()()を告げた。

 そして、彼の言葉を聞いた次の一瞬。

 ――――少女の顔から、全ての感情が消え失せた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 台風が過ぎ去った後、名古屋沖の海上は驚くほど静かになっていた。

 かつては人類の航空機や船舶が断続的に姿を見せていたが、今は見ることも無い。

 何者も存在しない海は、「深遠」と言う言葉が似合う程に静かだ。

 

 

「…………」

 

 

 そんな中にあって、タカオはぶすっとした表情を浮かべて艦橋の上にいた。

 不機嫌。

 今のタカオの感情を表現するのであれば、その一言に尽きる。

 まるで海面に映る満月に恨みでもあるかのように、投錨中の艦体に当たっては引いていく波紋を睨みつけていた。

 

 

「私の戦術と指揮に間違いは無かったはずなのに」

 

 

 思い返す――彼女達の場合、それは何百何千と繰り返すシミュレーションを意味する――のは、先のイ401・イ404との戦いだ。

 400・402に超重力砲の射程内まで追い立たせる、501のエネルギーを使って連射を可能にする。

 どちらも戦術としては成功していたはずだ、どこにも間違いは無い。

 

 

 タカオが何度シミュレーションしても結果は同じ、99%以上の確率で成功する。

 だが、現実に失敗した。

 何らの間違いも無いのに失敗した、その事実にタカオはどうしようも無く苛立っていた。

 不機嫌、困惑、苛立ち、不満、短時間で様々な感情を経験し、学んでいく。

 

 

「どう、402? 必要ならナノマテリアルをもう少し融通するけれど」

「大丈夫だ、問題ない。ただ機関出力は60%程度までだな、本格的な修復は艦隊に戻ってからにしよう」

 

 

 視線を少し動かせば、寄り添うように浮上したイ400とイ402が見える。

 400がナノマテリアルを融通したのだろう、402の艦体は傍目には修復されているように見える。

 被弾直後もそうだったが、400は402のことを本当に「心配」しているようだった。

 心配――何かを失うことを恐れる気持ち、心の動き。

 これもまた、感情のひとつ。

 

 

 402はあの後、タカオに謝ってきた。

 タカオは失敗したのは自分だと思っているから、無用の謝罪と切って捨てた。

 むしろ400があんなにも402を心配するとは思わなかったので、そちらの方が意外だ。

 そう言えば同型艦、人間で言えば姉妹だったか。

 

 

「……そう言えば、『アタゴ』は何してるのかしら」

 

 

 イ401・イ404も同型艦(しまい)だ。

 そう言う部分は、今まで思考したことが無かった。

 

 

 

『聞いたよタカオ、してやられたんだって?』

 

 

 

 その時、タカオ達の脳裏(コア)に声が響き渡った。

 概念伝達で響くそれは、今ここでは無いどこかから発信されたものだ。

 そしてタカオは、その「声」の主を知っていた。

 

 

「『キリシマ』? 何よ、わざわざそんなことを言うために概念伝達なんてしたの?」

『まさか、そこまで暇じゃない。ただ、ちょっと義理を通そうと思ってね』

「義理?」

『お前らが取り逃がした401と404』

 

 

 眉根を寄せると、相手――『キリシマ』は言った。

 

 

『――――私達が、貰うよ』

 

 

 夜の海はどこまでも深く、暗く静かだ。

 しかし表面的な静けさとは裏腹に、海中の潮流は昼間と変わることなく流れ続けている。

 それはまるで、これから訪れる事態を暗示しているかのようだった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
ワンピ○スでもそうですが、やはり色々な役職の人間が集まってこそ船も機能すると思います。
そう言う意味で、多様なキャラクターを頂いた読者の皆様には感謝感謝です。

というわけで、ここからはアメリカ渡航編に入ります。
原作中にいろいろやるよりも、もういっそのこと原作を突破していろいろやった方が選択肢が広がるんじゃないかと、種を撒きながら色々と考えているところです。
それでは、またどこかで~。


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Depth008:「ずるい」

だんだんストックがなくなってきました。


 大きく息を吸って、跳ね起きた。

 喉はやけに渇いているのに背中は汗でぐっしょりと濡れていて、不快だった。

 だが、不快さで目が覚めたわけでは無い。

 顎先や頬から冷たい汗の雫が滴り落ちて、捲り上がった布団に染みを作った。

 

 

「……朝、には早いよね」

 

 

 枕元の携帯端末を手に取ると、まだ早朝と言うにも早過ぎる時間で、普段ならばまだ寝ている時間だった。

 くしゃりと右手で前髪をかき上げれば、襦袢の袖口がずり下がって、細い手首が露になる。

 携帯端末の液晶が照らす顔は、余り気分が良さそうには見えない。

 

 

 実際、気分は良くなかった。

 むしろ最悪と言って良く、紀沙はそのまま眠る気にはなれなかった。

 と言うより、時間を見る限り寝付いたのはほんの30分前のようだった。

 つまり、眠れていない。

 

 

「はぁ、気持ち悪」

 

 

 とりあえず、着替えたかった。

 襦袢の布地が汗で張り付いて冷たい、不快な上にこのままでは風邪を引きかねない。

 いくら夏場とは言え、夜は冷える。

 紀沙はひとつ吐息を漏らすと、這うようにして布団の外に出て、枕元の小さなライトをつけた。

 

 

 淡い灯りで照らされたその部屋は、紀沙の私室として与えられている部屋だった。

 10畳程の和室で、押入れと桐箪笥、鏡台や文机等があり、年頃の少女の部屋と言うよりは書生の下宿と言った雰囲気だった。

 ただ、自分でも不思議な程に衣装持ちなので――リボンも含めて、何故か北は衣装や身の回り品に関してだけはやけに気を遣ってくれる――隣に衣裳部屋も貸して貰っている。

 

 

「……おじ様、か」

 

 

 しゅるり、と帯を解いたところで、姿見が目に入った。

 全身が映るタイプのそれは、家政婦の助言を素直に聞いたらしい北が最初に買い与えてくれたものだ。

 先にも言ったが、北は紀沙に不要な贅沢品を与えることは無い割に、こう言う品については驚く程あっさりと渡してくる。

 器が大きいのかどこかズレているか、そこはちょっと良くわからない部分だった。

 

 

『お前に、振動弾頭移送任務とは別の任務を授ける』

 

 

 紫色のかけ布をずらすと、当然、鏡が見える。

 正確には、鏡に映り込んだ自分の姿が見える。

 淡い、ぼんやりとした灯りの中に浮かび上がるのは、襦袢の前を開いた紀沙の姿だった。

 胸元やおへその辺りがひんやりとするのは、汗に濡れているためだろう。

 

 

『振動弾頭を運ぶイ401に同行し、これを監視するのだ。彼らが人類の味方であるのか、それとも裏切り者であるのか……そして』

 

 

 ぐっ、と、鏡に映る自分の顔を手で覆った。

 鏡に指紋がついてしまうが、気にしなかった。

 

 

「……そして、か」

 

 

 ふるっ、と身体が震えたのは、きっと身体が冷えたからだ。

 紀沙は、そう思った。

 最も、紀沙自身が自分のそうした考えに納得できているかどうかは、別の話だった。

 ――――その晩、紀沙は明け方まで寝付くことが出来なかった……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ……眠れようが眠れまいが、朝と言うものは来るものだ。

 がさっ、と音を立てて、花束を置いた。

 隣では兄が同じようにしていて、神妙な面持ちで正面を向いていた。

 正面、そこには数十名程の名前が刻まれた石碑が立っている。

 いわゆる、慰霊碑と呼ばれるものだった。

 

 

(あれから、もう2年)

 

 

 しゃがみ込んだ体勢のまま、紀沙は顔を上げた。

 青空は高く、夏らしい、乾いた風が吹いていた。

 山間(やまあい)に建てられた――建てられていたその施設は、近くが森であることもあって木陰が多く、以前から夏でも涼める場所として好かれていた。

 

 

 だけど今、この場所が涼しいのは別の理由だろう。

 海洋技術総合学院の敷地内、かつて第4施設と呼ばれていたその場所は、かつてあった建物は陰も形も無く、今はただ白石とアーチのモニュメントがあるだけだ。

 後は、隣接する軍系列企業の工場の稼動音が聞こえるばかりだ。

 

 

「……何て言ったの?」

「何がだ?」

「琴乃さんに」

 

 

 天羽琴乃、と言う少女がいた。

 群像には僧と言う幼馴染がいるが、実はもう1人、幼馴染と呼べる相手がいた。

 それが琴乃と言う少女であり、彼女とは小等部に入る前からの付き合いだった。

 とりもなおさず、つまりは紀沙にとっても幼馴染と言うことにある。

 

 

「別に何も言わないさ。何かを言ったところで、意味なんて無い」

 

 

 彼女とは、良く兄の愚痴を言い合ったものである。

 やれ朴念仁だのやれ甘えん坊のくせにだの、今にして思えば割と酷いことを言っていたような気もする。

 母親を除けば、紀沙にとって最も近しい同性だったと思う。

 しかも紀沙にとって驚くべきことに、彼女は群像に輪をかけて優秀な人材だった。

 ただ……。

 

 

「……死んだ人間に、何かを話しても意味なんて無い」

 

 

 ただ、天羽琴乃はすでに故人である。

 目の前の慰霊碑には「第4施設焼失事故被害者慰霊塔」の銘と共に、50名を超える生徒の犠牲者に名前が刻まれている。

 その中に、「天羽琴乃」の名前もあった。

 

 

 この慰霊碑のある広場には、かつては海洋技術総合学院の研修施設があった。

 もう、2年前のことだ。

 だが群像や紀沙達の学年が研修に訪れた時、施設の最下層で火災が発生した。

 防火対策も施されていたはずの第4施設は、異常な速さで火が回り――最終的に、全焼した。

 

 

「お前こそ、話したいことがあるんじゃないのか?」

「私? 私も……別に、無いかな」

「……そうか」

 

 

 その時のことを、実のところ紀沙は余り覚えていない。

 事故の時、群像は皆を避難させるために防火服を着込んで作業していた。

 琴乃は管制室で避難誘導をしていて、確か紀沙は兄に言われて琴乃の傍にいたはずだった。

 

 

『大丈夫よ、紀沙ちゃん。貴女は助かるわ』

 

 

 記憶にあるのは、琴乃の笑顔と、赤い色だけだ。

 あの後、自分はどうなって、そしてどうやって助かったのだろう。

 兄の話では、焼け跡の瓦礫の空洞に運良く倒れていたらしいのだが……。

 

 

「…………」

「どうした?」

「ううん、何でも無い」

 

 

 ぐりぐりとこめかみのあたりを指の関節で押して、眉を潜める。

 少し頭痛がする、寝不足のせいだろうか。

 実際、昨夜は明け方に少しまどろんだ程度だった。

 

 

「……ねぇ、兄さん」

「ん?」

 

 

 この暑い中、兄は黒のスーツなど着込んでいる。

 白い軍服を纏っている紀沙とは対照的だ、だが今はそれは良かった。

 今日、ここに群像を誘ったのは紀沙だった。

 兄が来たかっただろうと思ったし、それに、ここなら誰もついて来ないと思った。

 

 

「あ、あー……あの、ね」

 

 

 2人きりになるには、今日しか無いと思った。

 聞きたいこと、聞かねばならないことがあったからだ。

 日本の軍人として――妹として。

 昨夜、眠れなかったのもそのせいだった。

 

 

「……?」

 

 

 わかっているのかいないのか、当の兄が不思議そうな顔をするのが腹立たしい。

 だが、こう言うやり取りと言うか、こう言う感覚は久しぶりだった。

 それが、少し嬉しいとも思う。

 

 

 しかしだからこそ、言えなかった。

 どうしても「その言葉」が出なくて、「そのこと」が聞けなくて。

 何度か口を開閉させる自分を、兄は不思議そうにしながらも待ってくれている。

 もしかしたら、兄も懐かしさを感じているのかもしれない。

 

 

「……ねぇ、兄さん」

「ああ、何だ?」

 

 

 そう思ったら、自然に唇が動いていた。

 最初に想定していた言葉とは大分異なるが、それだけに本心に近い言葉だった。

 

 

「街、行かない?」

「……は?」

 

 

 突拍子も無い言葉に、兄がぽかんとした表情を浮かべて。

 それが妙におかしくて、紀沙はようやく笑うことが出来た。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 正直なところを言えば、上陰にとってもこの展開は意外だった。

 それもこれも、かつて鹵獲した霧の艦艇が2隻だったことに起因している。

 1隻であったなら、おそらくこんなことにはなっていない。

 

 

「こう申し上げては難ですが、北議員と同席させて頂いていると言う事実に、(いささ)か不思議な気持ちを感じています」

 

 

 例の如く官邸に諮問に訪れた上陰だが、この日は楓首相の他にもう1人いた。

 彼自身が言ったように、北である。

 上陰は北が自分のことを好いてはいないだろうことを知っている、そしてそれを理由に自分を遠ざけるような人格で無いことも理解していた。

 

 

 尊敬、しているのだろうと思う。

 17年前、海上自衛官でありながら陸軍艦――大海戦以前、当時の陸上自衛隊が建造した艦艇――を指揮して霧との戦いに挑み、戦後は陸軍に近付いて代議士となった。

 海自の幹部がなぜ陸軍にと当時はいぶかしむ声も多くあったそうだが、何となく、上陰には北の意図がわかる気もした。

 

 

『北さんは何も仰らないが、君のことを高く評価しているんだよ』

「はぁ、恐縮です」

 

 

 楓首相の言葉にも、気の無い返事しか返せなかった。

 しかし、顔ぶれは相当のものである。

 行政のトップである楓首相、議会与党を率いる北幹事長、そして軍務省の次期次官と噂される上陰。

 特に軍事に重きが置かれる現在、政官のトップ3が集まっていると言って良い。

 

 

『さて、今さら挨拶も必要ないだろう。北さんも上陰君も忙しい身だ、早速本題に入るとしよう』

「はい。私の振動弾頭移送計画を実行段階に、とのことでしたが」

 

 

 ちらりと北を見ると、彼を腕を組みソファに深く座ったまま動かなかった。

 

 

「先日、千早艦長……わかりにくいので群像艦長と紀沙艦長と呼びますが、彼らを呼んで説明した通り、メインはイ401と言うことで良いのですね?」

『ああ、そして『白鯨』に陸戦要員を乗せて同行させる。政府特使として浦上さんに乗ってもらう。彼は千早翔像大佐とも懇意だった、群像艦長と紀沙艦長の間に立つにも良い人選だろう』

 

 

 『白鯨』については、上陰も考えていた。

 浦上中将は裏表の無い人物で信用できるし、何より艦長は彼の同期、陸戦隊を率いるのは盟友(クルツ)だ。

 海洋航海になぜ陸戦要員を乗せるのかについては、今は説明する必要が無い。

 

 

「それから、イ404も同行させる」

「……横須賀の防備が薄くなるのでは」

「構わん。むしろアレが横須賀にいる方が霧を引き寄せるリスクもある」

 

 

 だが、イ404の同行については警戒した。

 イ404を使うのであれば、奇妙な話、404と『白鯨』、つまり()()()()だけで輸送すれば良い。

 そこにあえて傭兵のイ401を加える理由となると、数える程しか思い浮かばない。

 

 

「兵は国の大事だ。そして、動かす時には小出しにしてはならん」

『今の時代、我々はいつもこう言う判断になります』

「うむ……」

(……さて)

 

 

 とにかくにも、振動弾頭輸送計画は動き出した。

 誰もが()()()()が救世主たらんと動く中、()()()()()()()()

 

 

「お2人に、お聞きしたいことがあります。17年前の大海戦の生き残りのお2人に」

 

 

 ただし、そのためには仕込みも必要だし、知らなければならないことが多すぎた。

 意図しない状況とは言え、こうなったからには最大限に利用すべきだ。

 何故ならば、彼はいつだって身一つで切り抜けてきたのだから。

 

 

「17年前、千早翔像大佐……群像艦長らの父親ですが、彼はイ401を鹵獲したと聞いています。しかし、イ404を鹵獲した人物の名は聞いたことがありません」

 

 

 人類側の惨敗に終わった17年前の大海戦。

 唯一の勝利は千早翔像大佐がイ401を鹵獲したことだが、その方法は伝わっていない。

 あの霧の艦艇を、どうやって鹵獲したのか。

 人類側唯一の功績と言って良いのに、その時の状況はまるでわかっていない。

 

 

 そして、イ404。

 イ401と共に鹵獲したと公式記録にはあるが、それを成した人物はわからない。

 世間では千早翔像大佐が2隻鹵獲したとする向きもあるが、それは違う。

 彼は1隻しか鹵獲していない、なのに横須賀にはいつの間にか2隻目があった。

 

 

「イ号404。あの艦は()()()()――――()()()()()?」

 

 

 おそらく、目の前の2人はそれを知っている。

 確証は無い、しかし確信はあった。

 大海戦も、千早翔像も、イ401もイ404をも知っている人間は、この2人だけだ。

 大海戦を生き残った陸軍艦『あきつ丸』、その艦長と副長だった2人。

 

 

『――――それは』

「いや、私から話そう……()()

 

 

 そして、この日。

 上陰龍二郎は、3人目の人間となった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧が人類の電子ネットワーク上の情報を自由に閲覧できることは、軍関係者ならば誰もが知っていることだった。

 そのため情報の管理には気を遣う。

 そうでなくとも、テロ対策を含めて国家機密に当たる情報は独立化したサーバーに蓄えられる。

 だからこそ、本当に必要な情報はそのサーバーのある施設まで行かなければ閲覧できない。

 

 

「おい読んだか、軍務省の今朝のレポート」

「ああ、霧の艦艇が集まって来てるって奴だろ?」

「何のつもりなんだろうな、奴ら」

「さぁな、霧の考えることなんてわかるもんか」

 

 

 それだけに、政府・軍関係の施設の中でも特別に重要な施設であると言える。

 特級機密情報管理サーバー室。

 それ1つのために用意されたこの施設は、件のサーバールーム以外は全て警備設備である。

 迷路のような通路、電子レーザーによる監視、特別なパスの読み込みで管理される出入り……そして中には、侵入者の命を奪うようなシステムまである。

 

 

 しかしそれでも、こうして警備の兵が巡回すると言うのは不思議だった。

 いくら技術が進歩したとしても、人は結局、己の目と耳で確認しなければ安心できないのかもしれない。

 薄い照明の下、窓の無い通路を2人の兵士が歩いている。

 一つの区画を通るために、パスとなっているカードキーを通さなければならない。

 

 

「しかしまぁ、見回りなんか意味あるのかね」

「良いじゃねぇか、楽で」

「まぁ、そうなんだけどよ……うん?」

「どうした?」

 

 

 通路の両側には、等間隔に扉がある。

 その奥にはサーバー室があり、扉につけられた小窓からは微かなサーバーの光が明滅している。

 彼ら自身は、中に入ったことは無い。

 不意に立ち止まった同僚に、もう1人が声をかけた。

 

 

「いや、何か……いいや、気のせいだな」

「何だよ、何もあるわけ無いだろ」

 

 

 肩を叩かれつつ、次の区画に行く。

 彼らの足音が遠ざかっていく。

 その音が本当に微かにしか聞こえなくなった頃、ちょうど彼らが立ち止まった場所の扉に変化が訪れた。

 小窓から漏れるサーバーの輝きが、より強くなっていたのだ。

 何故か? それは当然、アクセスによって稼動状態にあるためだ。

 

 

「――――なるほど」

 

 

 少女。

 唸り声のような稼動音を立てる四角いサーバーに囲まれて、様々な大小のコードが這う床の上に立って、少女はひとりそこにいた。

 瞳の虹彩だけで無く、額と両頬に不思議な紋章を輝かせて。

 

 

「これが、新しい振動弾頭輸送計画とやらの全容か」

 

 

 闇の中、サーバーの緑色の輝きだけを背負って。

 

 

「イ401……振動弾頭……デザインチャイルド計画……」

 

 

 にぃ、と、スミノの唇が笑みの形に歪んだ。

 

 

「興味があるな。刑部(おさかべ)博士か、それに」

 

 

 それはどこか皮肉気で、見下すような色を含んでいた。

 そうして、形の良い唇が何事かを呟く。

 

 

「……刑部蒔絵(まきえ)……」

 

 

 ――――これが、人間か。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ところ変わって、太平洋。

 天気は晴朗だが、少々波高く風は強い。

 洋上を吹き抜ける風はどこまでも疾駆し、その道程には果てが無いように思えた。

 

 

「『ハルナ』達派遣艦隊は横須賀の外に展開させた。『ヒエイ』達とどちらを送るか悩み所だったが、まぁ、他に第一艦隊の指揮が執れる者がいないからな……」

 

 

 そこに存在するだけで周囲を威圧する程の存在感、霧の大戦艦級にはそれが備わっている。

 そしてそのメンタルモデルであるコンゴウにもまた、そうした雰囲気はある。

 怜悧な美貌、鋭い眼差し、温度を感じさせない声音。

 初対面の人間が彼女を前にすれば、おそらく背筋に冷たいものを感じずにはいられないはずだ。

 それだけ、彼女には人間味と言うものが無い。

 

 

「さて、どうしたものかな」

 

 

 霧の艦隊は、旧大戦時の各国の軍艦の姿と名前を持っている。

 それが何故なのかを知る者はいないが、彼女達はおおよそ史実に(なぞら)えた場所に出現する。

 要するに、日本近海には旧日本海軍――現在の統制軍とは異なる――の姿を模した霧の艦隊がおり、コンゴウもその一艦である。

 

 

 東洋方面艦隊、と呼称されている艦隊。

 日本近海の海洋封鎖はこの艦隊の担当であって、現在、この艦隊は第一と第二の艦隊に分かれている。

 コンゴウはその内の第一艦隊の旗艦であり、その麾下には多くの霧の艦艇がいる。

 先だってイ404やイ401と戦った『タカオ』や『ナガラ』も、彼女の配下に当たる。

 

 

「情報によれば、401と404は例の兵器を持って太平洋を渡るとのことだが」

 

 

 声音に、少し忌々しげな色が見え隠れする。

 それもそのはずで、正直、彼女は401や404が自分の管轄する海域にいる限りは取り立てて危険視はしていなかった。

 例え仲間を撃沈されたとしても、コアさえあればナノマテリアルの補給次第で戦線復帰できる。

 

 

 しかし、自分の管轄海域を離れるとなれば話は別だ。

 それは、許されない。

 彼女は霧としての自分の存在意義(アイデンティティ)を誇りに思っていたし、旗艦としての使命についても同様だった。

 だからイ401やイ404を()に逃がすなど、あってはならない。

 

 

「まぁ、それはひとまず『ハルナ』達に任せるとして……」

 

 

 それまでの冷静な様子が少し変わり、コンゴウは僅かに眉根を寄せた。

 どこか、困惑しているように見える。

 いや、どうやら本当に困惑していた。

 

 

「……この、タカオの『ナガト』麾下への配置替えの要請は、どう言う意味があるんだ?」

 

 

 配置替え自体は、コンゴウとしては特段に思うことは無い。

 むしろ艦隊を離れて半ば独立化されるよりはマシだし、任務にかこつけて色々と勝手をしている連中よりは職務に積極的で好ましくも思える。

 ……ただ、『アタゴ(いもうと)』と同じ部隊を希望しているあたりは、彼女には良くわからないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 困窮しているとは言え、横須賀は日本で最大級の人口を抱える大都市圏である。

 日本最大の軍港であることもあって、繁華街と言うものも存在していた。

 何しろレストランがあるのだ、他の娯楽施設があっても不思議では無い。

 実際、学生時代にはたまの休暇に繁華街に繰り出すのが何よりも楽しみだった。

 

 

「おい、紀沙。何たってこんな」

「そんな暑苦しい格好で歩いていたら、目立っちゃうでしょ」

「む」

 

 

 まぁ、それにしたところで軍服と喪服で外を歩けば目立つ。

 互いに目立つことを避けたい以上、着替えは必然だった。

 ただし群像にとって誤算だったのは、紀沙が着替えの入手に繁華街のブティックを選択したことだ。

 基地に戻っていたら時間がなくなるので仕方が無いと言えばそうだが、柄では無い。

 

 

 何しろ群像は、在学時でも繁華街に出たことがほとんど無い。

 遊んでいる暇があったら勉強していたし、さして興味も無かったからだ。

 正直、厄介なことになったと思わなくも無い。

 それでも最初のスーツと似た黒基調のシャツとスラックスを選ぶあたり、彼のファッションセンスが窺い知れると言うものだった。

 

 

「着てた服は、とりあえずロッカーに預けとけば良いよね」

「ああ……」

 

 

 実際、横須賀の繁華街には小さいながらも――物資不足で大きくなりようが無い――様々な店がある、ブティックしかりレストランしかり、だ。

 ロッカーに自分の軍服と群像のスーツの入った紙袋を入れる妹も、当然着替えている。

 白のシフォンチュニックにショートパンツ、足元はスケルトン・ミュール、剥き出しになった細い足が眩しい。

 

 

(……今の横須賀を見てほしい、か)

 

 

 妹の考えるところは、何と無くわかるつもりだ。

 彼女の望みも知っている、知っていて、しかしそうするつもりが彼には無かった。

 ぼんやりしているように見えて、頑固なのだ。

 静かなように見えて、内に篭ることを良しと出来ない、そんな性格なのだ。

 

 

「兄さん!」

 

 

 まぁ、そうは言っても。

 だからと言って、妹の全てを無視する程に冷たいわけでは無い。

 彼が顔を上げると、妹が数歩前で振り向いた。

 自分に身体を見せるように両手を広げ、明るい笑顔を向けて来ている。

 

 

「どうかな?」

 

 

 何がだろう、聡い群像にもわからなかった。

 チュニックの端を引っ張っていて、どうやら服を見せたいのだろう。

 引っ張られたことで、チュニックに隠れていたデニム地のショートパンツがちらりと見えていた。

 そこまではわかった、が、わかったからと言って何もかも対処できるわけでは無い。

 だから彼は、ひとまず当たり障りの無いことを言うことにした。

 

 

「……靴下は履かないのか?」

「……ッ!」

 

 

 結論。

 割と痛かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はしゃいじゃってまぁ、と、冬馬はアイスコーヒーのストローを咥えながらそんなことを思った。

 彼がいるのはコーヒー店の2階、正面一面がガラス張りになっている窓際のカウンター席だ。

 当然、ビル前の通りを見下ろすためにその席を選んだのである。

 

 

「はしゃいじゃってまぁ」

「兄妹の仲が良いのは素晴らしいことよ~」

「そうですね、私もそう思います」

 

 

 思っていたことを実際に口にすると、両側からそんなことを言われた。

 静菜とあおい、イ404の技術班である。

 404の艦体はドックの整備班が管理しているとは言え、静菜はともかく、あおいがついて来たことは意外と言えば意外だった。

 

 

 2人ともタイプの違う美人だが、冬馬には両手に華と言う気分はまったく湧かなかった。

 誤解されている向きがあるが、両手に華と言うのは、少なくとも両側の異性が自分にある程度の好意を向けてくれて初めて意味を成す言葉だ。

 静菜やあおいが冬馬に好意を持っているかと言うと、そんなことは無かった。

 

 

「やっぱあれかね、軍人じゃなかったら艦長ちゃんも普通の女の子だもんな。あんな風にお洒落してよ、遊びに行くのが普通ってもんだよな」

 

 

 咥えたストローを行儀悪く上下に降りながら、冬馬はそう言った。

 彼らの眼下にはオープンカフェがあり、そこで昼食を取っている2人の少年少女が見える。

 言うまでも無く、紀沙と群像である。

 彼女らは午前中繁華街を色々と歩いていたが、冬馬は一定の距離からずっとそれを見ていた。

 

 

「ストーカーは良く無いわよ~」

「ちげーよ」

 

 

 静菜とはこの店で出くわした、多分、同じようについて来ていたのだろう。

 あのオープンカフェを見張るならこの位置がベストだから、判断が重なったのだろう。

 あおいについては良くわからない、単純に偶然だったのかもしれない。

 

 

 ただ静菜はダークカラーのレディーススーツで、あおいに至ってはTシャツに七分丈のパンツと言う格好で、もう少し周囲に溶け込む努力をしろよと言いたかった。

 と言うか、あおいのシャツに「密航」とプリントされているのは何なのだろう、自分達の立場からすると相当に笑えない冗談である。

 つまるところ、冬馬も割と苦労しているのである。

 

 

「まぁ、確かにああしていると普通の少女に見える」

 

 

 視線はあくまで眼下の2人に向けながら、静菜が言った。

 ただ、と。

 

 

「まるで、そうであることを望んでいるように聞こえますね」

 

 

 それには特に返事を返さず、ストローの先をアイスコーヒーのコップに戻す。

 ズズズ、と音を立てて啜るその音も、やはり行儀が悪かった。

 両側の2人は、特にそれを注意することは無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 最後に寄りたい場所がある、そう言って歩いた道を群像は良く知っていた。

 フェンスで囲われたその区画は「浸水指定区画」とされており、近く水底に沈んでしまうことがわかった。

 本来なら立ち入り禁止のその区画に、紀沙と群像は入り込んでいた。

 

 

「入って大丈夫なのか?」

「士官特権って奴だよ」

 

 

 群像の立場からすれば待ち伏せを疑っても良いだろうが、この場合は必要なかった。

 何故ならば相手は紀沙で、そして彼女と並んで見上げているその家は。

 紀沙と群像の、いや、千早家の家だったのだから。

 屋敷と言う程に大きくは無いが、庭付き一戸建ての白い家だ。

 

 

 群像とて人の子だ、幼少期を過ごした家を見れば懐かしくも思えてくる。

 父が出奔し、2人が海洋技術総合学院に入学してからは、ほとんど放置されていた。

 庭の草木は伸び放題だし、屋根や壁にも傷みが見えて、まさに空き家だ。

 そして群像も知らなかったことだが、浸水区画に指定された以上、いずれは打ち棄てられるのだろう。

 別に不思議なことでは無い、土地どころか人さえ捨てて生き延びているのが今の日本だ。

 

 

「ねぇ、兄さん」

「それ以上は何も言うな、紀沙」

 

 

 横須賀の街、そして幼少期を過ごした家。

 これらを見せられれば、紀沙が今から何を言うのかなど考えなくともわかる。

 それこそ、痛い程に。

 

 

 帰って来て欲しい。

 

 

 紀沙の願いは、それに尽きる。

 兄に帰って来て欲しい、傍にいて欲しい、どこにも行かないで欲しい。

 今日1日楽し気にしていた紀沙の様子を見ていれば、良くわかる。

 ――――どこか、必死だったと。

 

 

「兄さんは、何がしたいの?」

「……オレは」

「兄さんがどうして出て行ったのか。何で帰って来てくれないのか、私にはわからない。わからないよ……」

 

 

 少し、逡巡した。

 言うべきかどうか、迷ったのだ。

 しかし何も言わないことにはこの妹は納得しないだろうと、群像は判断していた。

 だから少し時間をかけて、彼は口を開いた。

 

 

「メンタルモデル」

「え?」

「メンタルモデルな、ほんの2年前にはほとんどいなかった。だが、最近になって多くの霧の艦艇がメンタルモデルを持ち始めている」

 

 

 メンタルモデルは、霧の艦艇のインターフェイスである。

 人のように思考し、人のように話し、人のように過ごすことが出来る。

 そしてメンタルモデルは、経験を積めば積む程に思考は深く、兵器じみた淡白さが抜けていく。

 一言で言えば、コミュニケーションが取れるようになっていくのである。

 

 

「俺はこの2年、イオナ……401のメンタルモデルと共に過ごした。その中で、彼女達が必ずしも話の通じない相手じゃないことを知った」

 

 

 分かり合える、とまで言うつもりは無い。

 今、霧によって封鎖されたこの世界で、霧とコミュニケーションを取れる可能性がいかに重要か。

 戦艦1隻沈めて見せたところで、世界は何も変わりはしない。

 だがもし霧との対話が可能となったなら、それはきっと世界を変えるきっかけになる。

 

 

「オレは、世界を変えたい。そのためには、日本に留まっていることは出来ないんだ」

 

 

 この閉塞した世界に、風穴を開けること。

 霧の艦艇に乗り日本を出奔したのも、そのためだった。

 

 

「……それは」

 

 

 それは、群像にとって。

 

 

「それは、兄さんにとって……私よりも、大事なことなの?」

 

 

 何よりも、優先すべきことだった。

 しかしだからと言って、妹を置き去りにする理由にはならない。

 2年前、彼が妹を連れて行かなかった理由にはならない。

 

 

「……そんなこと」

 

 

 だから、それは他に理由があった。

 

 

「そんなこと、出来るわけ無いじゃない!!」

「……紀沙」

「霧が、あいつらが人間を何十万人殺したと思ってるの? 話が出来るようになったって、それが何だって言うの? そんなの……そんなの、私達には関係ないじゃない!」

 

 

 紀沙は、ずっと見てきた。

 父と兄だけでは無い、霧との戦いで何人も死ぬのを見てきた。

 何とか外と連絡しようと努力してきた人々、海を渡ろうと挑んだ人々、多くは軍人だが、民間人だってたくさんいた。

 

 

 彼女たち霧は、それをひとつひとつ潰した。

 その過程で何人が殺されたかなど、いちいち覚えるのも面倒な程だ。

 そんな奴らと対話? 普通の感性ではあり得ない、人々が納得できない。

 馬鹿げている。

 そんな馬鹿げたことのために、兄が自分の傍にいてくれないなんて、それこそ馬鹿げている。

 

 

「兄さん目を覚ましてよ、あいつらは化け物なんだよ。人間のふりをしているだけの、化け物なんだよ!」

「紀沙、オレは」

「嫌だ、聞きたくないよ。お願い兄さん、帰って来てよ……ひとりは、ひとりはもう嫌だよ!」

 

 

 父が、兄が出て行って、母とも離れ離れ。

 北に拾われるまで、紀沙はひとりきりだった。

 ひとりきりで喪失感と寂寥感に耐え、そこかしこから聞こえてくる囁き声に耐えた。

 耐えられるわけが無かった。

 たった独りで、何かを憎まずに耐えられる程に紀沙は強くなかった。

 

 

 だが、何を憎めば良かったのだろう。

 自分を白い目で見る周囲? ――――いいや、彼らだって被害者なのだ。

 自分を置いて行った兄達? ――――出来ない、兄を憎めばそれこそ孤独だ。

 だったら、もう、憎むべきはひとつ。

 霧だ。

 

 

「あいつらは、あいつらのために兄さんが」

 

 

 それに、紀沙には群像を引き戻さなければならない理由があった。

 そうしなければならない、必死に、その理由が。

 群像にも理由があり、紀沙にも理由がある。

 不毛だった、とても不毛なやり取りだった。

 

 

「そうじゃないと、そうじゃないと兄さんが……兄さんが!」

「紀沙」

「兄さ……んっ」

 

 

 ぎゅう、と。

 その感触に目を見開くと、紀沙の瞳からぼろぼろと涙が零れた。

 縋り付き涙を流す妹を、群像が強く抱き締めていた。

 腰と背中に腕を回し、妹の顔を胸に埋めることで言葉を封じた。

 

 

「すまない」

「……る、い。ずるいよ、そんなの……」

「ああ、すまない」

「そんな風にされたら、私、どうしたら良いか、わからなく……」

「ああ、だから恨むなら……オレにしておけ」

 

 

 それこそ、ずるい言い方だった。

 恨めるのなら、それこそ最初から恨んでいた。

 今さら兄を恨むなど、出来るわけが無いのに。

 ずるいと妹が責め、すまないと兄が謝る。

 夕焼けの中、その光景はしばらく続いた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その屋敷は、横須賀で一番大きな屋敷だった。

 下手をすれば、小さな村ならすっぽりと入れてしまえるのでは無いかと思える程に広大な敷地。

 近くに他の家は無く、ともすれば宮殿にも見える洋館がぽつりと佇むその姿は、夜の帳の中で不気味に見えた。

 

 

「…………」

 

 

 そんな屋敷の通路を、1人の男が歩いていた。

 老人のような白髪、だが執事衣装に身を包んだその男はそこまで高齢には見えない。

 切れ長の瞳は知性の輝きを宿して揺るがず、腰よりも長い髪はまだ若々しい艶を放っている。

 どこか、触れれば切れてしまいそうな雰囲気の男だった。

 

 

 しかしそんな雰囲気も、不意に崩れた。

 それは1人の少女が声をかけたからで、蝋燭を模した照明の下、薄暗い通路にクマのぬいぐるみを抱えた幼い少女が立っていた。

 仕立ての良い白いネグリジェを身に纏った、茶色の髪の少女だ。

 

 

「ローレンス」

「蒔絵お嬢様、このような夜更けにどうなさいました?」

 

 

 困ったように男――ローレンスと言うらしい――がそう言うと、蒔絵と言う名のその少女は表情を変えることなく、言った。

 

 

「おじいさまは、どこ?」

 

 

 その言葉に、ローレンスはますます困った表情を浮かべた。

 そして対照的に、少女――蒔絵の表情は、急激に不機嫌なものになっていくのだった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

おかしい、何故かヤンデレリミッター(謎)が溜まる展開になりました。
平和な兄妹デートを描きたかったのに、どうしてこうなった。

というわけで、蒔絵お嬢様登場です。
それから何だかスミノが怪しいですけど、この子イオナと違って艦長と心通わせて無いですものねぇ……どうしたものか。

というわけで、また次回です。

P.S.
現在、第2回キャラクター募集中です、詳細は活動報告をご覧下さい。
宜しければ、ふるってご参加お願い致します。


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Depth009:「出航」

 ローレンスの朝は早い。

 執事長として広大な屋敷を管理する彼は、日が昇る頃には活動を開始していた。

 屋敷内のことはメイドに(ふん)したロボット達――この時代、人型のアンドロイドも実用化されている――が行うので、ローレンスの仕事は主に2つだ。

 

 

 1つは「お嬢様」の世話、そして今一つが方々(ほうぼう)への連絡。

 身辺的な世話はメイド達がほぼやってくれるため、より重要なのは後者である。

 例えば彼は毎朝、必ずと言って良い程に連絡を取り合う相手がいた。

 

 

『それでは北管区の首相としての政務がありますので、私はこれで失礼しますよ』

 

 

 執務室らしき部屋の壁面モニター、そこに1人の少年が映っていた。

 おかっぱとでも言うのか、きっちりと前髪を切り揃えた顔には清潔感がある。

 白いスーツと言うのも清潔感に拍車をかけ、菊の飾り房がどこか格式めいた雰囲気を少年に与えていた。

 その瞳は閉ざされている、まるで見ることを拒否しているかのようだった。

 ――――そう思えてしまうのは、受け取り側の心にわだかまりがあるからか。

 

 

「ああ、(まこと)。次はまた夜に」

『……貴方は何と言うか、妙な所で真面目ですね。別に毎日連絡を取り合う必要は無いでしょう』

 

 

 眞、と言うのがその少年の名であるらしい。

 そして言葉を信じるのであれば、彼は北管区、つまり楓首相と同格の3人の首相の1人だ。

 それにしては年若い、おそらく普通の出自では無いのだろう。

 どこか超然とした、あるいは感情が抜け落ちたような雰囲気は、そのせいなのかもしれない。

 ただ今は呆れたような色が見えて、ローレンスは少し苦笑いを浮かべた。

 

 

『違いますか、()()()()?』

「いや、お前が元気かと思ってね」

『……たまに、貴方がわからなくなりますよ』

 

 

 そうして、()()との会話の後に「お嬢様」の下へ向かう。

 世話はメイドの仕事だが、起こすのは彼の役目だ。

 むしろ彼がそうしたがっている、のかもしれない。

 

 

「蒔絵お嬢様、朝でございます。お寝坊は関心できませんよ!」

 

 

 いや、単純に楽しんでいるのかもしれない。

 3連続で3度ノックをして返事が無いことを確認した後、ぬいぐるみに囲まれたファンシーな寝室に飛び込む様を見ているとそう思えた。

 あえて表現するのであれば、()が可愛くて仕方ない父親のようにも見えた。

 

 

 そして寝室の中心には、人間が1人で寝るには大きすぎるサイズのベッドがあった。

 やはり大小のぬいぐるみを囲まれたベッドの中心に、こんもりと盛り上がったシーツが。

 盛り上がり方からして小さな子供だろう、蒔絵と言う名からして女の子か。

 ローレンスが声をかけても身じろぎもしない、彼は溜息を吐くと、意を決してシーツを捲り上げた。

 

 

「お嬢様! 早起きは三文の得と以前よりお教えし」

 

 

 て、と言う言葉は、最後まで続かなかった。

 何故ならそこに、目的の人物の姿が無かったからだ。

 代わりにそこにあったのは、「おじいさまをむかえにいく」と書置きを貼り付けた大きなぬいぐるみ。

 古今で使い古された手段だ、子供なら誰しも一度はやるかもしれない。

 

 

「……蒔、絵」

 

 

 しかし残念ながら、今この瞬間に限っては違う。

 何故なら彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 目の前の事態には俄かには信じ難かったのか、ローレンスは。

 ――――刑部藤十郎は、しばし呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 メンタルモデルを持ち始めてから、霧の艦隊にも変化があった。

 それまで艦種の違い以上の差は無かったのだが、メンタルモデルの稼動時間が長くなるのつれて、徐々にではあるが彼女達は個々に異なる「成長」を遂げる傾向にあった。

 人間で言うところの、個性や性格の違いが表れるようになってきたのである。

 

 

「さて、『ハルナ』。私達はここで待っていれば良いんだったかな」

「良い」

「ふふふ。さぁ、楽しみだな」

「……? 何が楽しみなの、『キリシマ』?」

 

 

 その2隻の巨大艦の名は、『キリシマ』と『ハルナ』と言う。

 排水量3万トン以上、そのカタログ上の数値は彼女達が『タカオ』の3倍、イ号400型潜水艦の5倍に相当する質量の艦体を有していることを意味している。

 武装もそれに伴い大型で強力なものになっており、その戦闘力は計り知れないものがある。

 

 

 霧の大戦艦、艦隊旗艦の資格を有するそれが2隻、横須賀南方の浦賀水道に陣取っていた。

 横須賀から外洋に出る船舶が、必ず通る場所である。

 当然、沿岸の人々はその存在に気付いている。

 特に統制軍の警戒網は早くから彼女達の存在に気付いており、すでに横須賀に警報を発していた。

 

 

「決まっているじゃないか。噂の401、『ヒュウガ』を沈めた巡航潜水艦。海洋封鎖なんて暇な作業よりもずっと楽しめそうじゃないか」

「イ401だけじゃない。もう1隻いる」

「ああ、404か。だが401程じゃないだろ、『ナガラ』にてこずるような奴だ」

 

 

 彼女達の周囲には、彼女達の半分よりも少し小さいくらいの艦艇が何隻かうろうろしていた。

 いわゆる駆逐艦と呼ばれる小型の軍艦で、旗艦の護衛や索敵が役割の艦だ。

 2隻のメンタルモデルの口ぶりからして、横須賀の出口を封鎖して何かを待っているのだろう。

 

 

「久しぶりにまともな()()が出来るかと思うと、ワクワクするよ」

 

 

 まず1隻、霧の大戦艦『キリシマ』のメンタルモデル。

 茶髪のショートアップの女性で、パンツスタイルのジャケットの上に黒いトレンチコートを羽織っている。

 ただジャケットの下は素肌であるのか、隙間からくびれのある腰とお臍が覗いていた。

 どこか好戦的なその表情は、霧にしては真に迫っている。

 

 

「ワクワク……未来への期待を表す言葉。タグ添付、分類、記録」

 

 

 そしてもう1隻、霧の大戦艦『ハルナ』のメンタルモデル。

 金髪のツインテールの少女で、キリシマに比べると幼めの容貌をしている。

 顔の下半分を覆ってしまう程のロングコートで身体を覆っていて、手足すら見えないだぼだぼのファッションが特徴的だった。

 

 

 この2人、もとい2隻は、同型艦と言うこともあって組んで行動することが多かった。

 17年前の大海戦の時も――最も、その頃にはメンタルモデルなどと言うものは無かったが――2隻は同じ部隊で人類側の艦隊と戦っている。

 そして今は、自分達の旗艦となっている『コンゴウ』の指示でここにいる。

 言葉の通り、人類側についたイ号400型潜水艦を沈めるために。

 

 

「まぁ、『タカオ』の尻拭いみたいな所は少し気に入らな「ねぇ――っ! ちょっとぉ――!」……何だ、『マヤ』」

 

 

 その時だった。

 比較的緊張感のある、そんな空気の中に酷くファンシーな色が乱入してきた。

 それはハルナとキリシマの隣に停泊する艦艇から上げられた声であって、2隻のメンタルモデルは同じタイミングでそちらを見た。

 

 

 重巡洋艦『マヤ』、キリシマ達の周囲にいる駆逐艦達を指揮する立場の艦艇である。

 キリシマ達が面倒がった――もとい戦闘に集中するために、麾下の駆逐艦隊を任せたのだ。

 そして実際、()()はある程度、真面目に駆逐艦達の面倒を良く見ていた。

 自らの主砲の上に立ち、先程まで弾いていたのだろうグランドピアノを指差しながら。

 

 

「キリシマもハルナも、一緒に輪唱してくれないとダメでしょ! ひとりでやってもつまんないじゃん!」

 

 

 エプロンドレス姿の、長い黒髪が美しい少女だった。

 頭を彩るコサージュの花と脚線美を引き締める黒いタイツ、そして何よりも豊かな表情がどこか彼女を可愛らしく、そして幼く見せていた。

 過去のメンタルモデルの事例で言えば、かなり独特なモデルであると言える。

 

 

「ひとりでやってろよ、私もハルナも音楽には興味が無いんだ」

「ええぇ――、何それぇ~~っ! おーぼー! キリシマは横暴だよ!」

「横暴……理不尽を表現する言葉。又はそれを弾劾する言葉。タグ添付、分類、記録……」

 

 

 鬱陶しげな様子のキリシマ、憤慨するマヤ、それらを静に見つめるハルナ、黙して語らぬ駆逐艦達。

 戦術、ワクワク、言葉、音楽、表情、そして感情。

 メンタルモデルの獲得と共に、それまで()()であった彼女達は()()ものになっていく。

 ――――まるで、人間のように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の艦隊、浦賀水道に現る。

 出航直前のタイミングで入って来たその報せに、横須賀の地下ドックは騒然となった。

 

 

『沿岸の警戒部隊からの情報によれば、戦艦2、重巡洋艦1、駆逐艦6。確認は取れていないが、他に潜水艦がいる可能性もある』

 

 

 出航を見送りに来ていた楓首相に呼び出された紀沙は、群像と共に彼の前に立っていた。

 事が事だけに緊急を要する、そのため呼ばれたのはアメリカへ渡航する()()の艦長だけだった。

 後は北と上陰、それから艦隊の顧問役になる浦上中将が会議に参加していた。

 

 

 浦上中将の乗艦は紀沙にとって少し意外だったが、1人くらいは将官が乗っていないと、アメリカに渡った時に何かと不便になると言う判断なのだろう。

 それからもう1人、こちらは特に驚きは無い。

 何しろ、もう日本に外洋を航海できるような潜水艦は1隻しか残っていないのだから。

 

 

「我々の出航の情報が、漏れていたと言うことでしょうか」

『そう考えて良いだろう』

「恥ずかしい話しだが、統制軍の内部情報が霧に漏れるのは珍しいことじゃないからな」

 

 

 原子力潜水艦『白鯨』、ネームシップでもある日本の最新鋭潜水艦である。

 その艦長が、緊張の面持ちで立っている駒城と言う男だった。

 紀沙は余り良く知らないが、当然、彼女より階級が上の正規の軍人である。

 今回、彼と白鯨はイ404とイ401と共にアメリカに渡航することになっている。

 

 

 これも、イ404とイ401と言う特殊な艦のみに作戦を任せることが出来ない事情を表していると言える。

 政治、と言う奴だろう。

 北の傍にいた紀沙には、それが良くわかっていた。

 

 

「なお白鯨には、少尉相当官として響真瑠璃を乗艦させることになった」

 

 

 ただ、北が言った言葉には驚きを禁じ得なかった。

 真瑠璃を白鯨に乗せる。

 ちらりと横に立つ兄を見たが、こちらはさして気にした様子は無かった。

 知っていたわけでも無いだろうが、小揺るぎもしない様子を見ると訝しみたくもなる。

 

 

 群像や紀沙のことを考えれば、真瑠璃の存在は悪いことでは無い。

 これも政治、ただ、真瑠璃自身はどう考えているのだろう。

 かつてイ401を降りておいて、今また海に戻るのは何故なのだろう。

 そこは、少しだけ気になった。

 

 

「出航後は衛星を使って連絡を取ることになる。そのためのキーコードは群像艦長、紀沙艦長にも開示し、軍務省の定期レポートも……他にも必要な便宜があれば最大限協力する」

『まぁ、そのためにはまず浦賀に展開している霧の艦隊を何とかしなければならないがね……残念ながら、それは君達の力に頼るしかない』

 

 

 気になること、考えたいこと、答えの出ないことは他にもある。

 

 

(今は、目の前の霧を突破することを考えよう)

 

 

 今は、霧の艦隊をどうやって突破するかを考えることにする。

 他のことは、後回しにする。

 真瑠璃のこと、兄のこと、そして。

 

 

「お前達に、日本の……いや、人類の未来を託す」

 

 

 ――――北のこと。

 自分達の肩に、日本の、人類の未来がかかっているのだから。

 だから紀沙は、今は他のことを考えるのをやめた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「と言うわけで、401と白鯨と協力して敵艦隊を撃破することになりました」

 

 

 そう言って、紀沙はイ404のブリーフィングルームに集まったクルーを見渡した。

 皆、思い思いの体勢と表情で紀沙の話を聞いてくれていた。

 『ナガラ』や『タカオ』との戦いを潜り抜けてきた頼もしいクルー達だが、流石に大戦艦2隻を含む10隻前後が相手となると、流石に表情も真剣なものになっている。

 

 

 いや、それ以前にアメリカである。

 ある程度年配の人間ならば大海戦以前に船舶や航空機で行った経験もあるだろうが、若いメンバーが多いイ404のクルーに渡航経験のある者はいない。

 正直、未知の世界だった。

 

 

(……降りるなら、今だよね)

 

 

 一度外洋に出てしまえば、そこは霧の巣窟(そうくつ)だ。

 戻ろうとしても出来ない、そんな世界に出て行こうと言うのである。

 やめるならば今しかない、幸い彼女達が乗っているのは無人航行が可能な霧の艦艇だ。

 だが、それを紀沙の口から言い出すのは違う気がした。

 

 

 学院卒であること、また政治的配慮もあって、階級は紀沙の方が高い。

 だが紀沙よりも年上のクルー達である、それにこれまで死地を共に潜り抜けてきた仲間だ。

 だから無理強いはしたくなかったし、彼らの意思を尊重したかった。

 それを言い出すことも出来ず、言いよどんでいると、ふと冬馬の視線に気付いた。

 

 

「……なぁ、艦長ちゃん」

「は、はい」

 

 

 その顔が、その声がいつになく真剣だったので、紀沙は背筋を伸ばした。

 冬馬はじっと紀沙の顔を見つめていて、思わず穴が開いてしまうのでは無いかと思った程だ。

 いつになく真剣な顔で、冬馬は口を開いた。

 

 

「艦長ちゃんのリボンって」

「え? り、リボン?」

「ああ、リボンな。艦長ちゃんがいつもつけてるやつな」

 

 

 確かに、紀沙はいつも髪をリボンで束ねている。

 子供っぽいかなと思わないでも無いが、こうしないと髪が跳ねて仕方が無いのだ。

 癖っ毛と言うわけでは無いが、跳ねが強い髪質なのだ。

 たまにストレートの人間が羨ましくなることもあるが、今、それが何か関係あるのだろうか。

 

 

「もしかしてさ」

「は、はい?」

 

 

 真剣な顔で、冬馬は言った。

 

 

「……下着(インナー)の色も、同じだったりする?」

「は? ……はああぁっ!?」

「いや、何か毎回色とか違うからお兄さん気になっちゃって夜も眠れな痛い」

「「死ね」」

「痛っ、マジで痛い! スパナはやめろスパナは! あ、やめ、ま」

 

 

 ごっ、がっ、と、鈍い音の中に沈んでいく冬馬、決戦の前に戦死してしまいそうだった。

 紀沙は熱を持った頬を両手で押さえて俯いていたため、梓と静菜が拳とスパナで冬馬に折檻を与える様子は見ていなかった。

 動揺しているのか視線が泳いでおり、その時に良治と目が合った。

 すると、彼は何故か怯えたような顔をして。

 

 

「ぼ、僕じゃないよ! 紀沙ちゃんの秘密を他に漏らしたりなんかしてないから!」

「良治君んんんんんんっ!?」

 

 

 思わず学院時代の呼び方をしてしまう程に動揺して、紀沙は思わず叫んだ。

 冗談では無い。

 それが事実かどうかは別として、そんな話になってしまったら、今後どんな顔をしてリボンをつけて歩けば良いのかわからなくなってしまう。

 

 

「あらあら、そうだったのね~」

「違います! 絶対に違いますからね!!」

「照れなくても良いのに~。あ、ちなみにお姉さんはたまに着けるのをわす」

「聞いてない! そんなこと聞いてないですからね!!」

 

 

 混沌とした状況の中、ただ1人冷静に推移を見守っていた恋は、はて何の話をしていてこうなったのだろうかと首を傾げていた。

 まぁ、今さら艦を降りるなどと言い出す人間いるとも思えない。

 何を話し合ったところで、最後はいつもと同じところに落ち着くのだろう。

 

 

 だから恋はとりあえず、浦賀水道突破作戦の説明がスムーズに進められるように、情報の整理を始めるのだった。

 ひとりで我関せずな態度を貫けるあたり、彼もなかなか図太い人物である。

 ――――なお、今日の紀沙のリボンは青地に白のレースだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 出航直前のドックとは、往々にして騒々しいものだ。

 魚雷や弾薬関係、水や食料、整備用物資から生活必需品までを含めた艦内備品関係。

 それらが()()()()に次々に積み込まれている様子を、スミノは自らの艦体の上に立って見下ろしていた。

 

 

「オーライオーライ!」

「モタモタするな、時間が無いぞ――!」

 

 

 彼女の足元で、作業員達が焦りの表情を浮かべて動き回っていた。

 横須賀湾の出口を霧の艦隊が封鎖している状況で、落ち着けと言う方が難しいだろう。

 しかも予定を早めての出航のため、諸々の作業を繰り上げて行わなければならないのだ。

 ただ、スミノから見ればそんな焦りに何の意味も無いことは明白だった。

 

 

 確かに、湾の出口を封鎖した霧の艦隊は脅威だろう。

 だが彼女達が能動的に横須賀を襲うかと言うと、それはあり得ない。

 そもそも霧は別に人類を絶滅させることを目的にしているわけでは無く、あくまで海洋から駆逐するために活動しているのだ。

 極論してしまえば、彼女達は人類そのものには興味が無いのである。

 

 

「まぁ、それはボクにも当てはまることなんだけどね」

 

 

 霧に対する最も正しい対処法、それは「関わらない」ことだ。

 現れても下手に刺激せず、遠巻きに眺めている分には無害なのだ。

 まぁ、それが出来ない事情と言うのも人類側にはあるのだろうが、そんな事情は霧には関係が無い。

 

 

「ん……?」

 

 

 その時だ、スミノはふと気になるものを見つけた。

 イ404の物資搬入用のハッチにクレーンで下ろされている積荷、そこに何かを見つけたのである。

 それは、生体反応だった。

 積み込みを行っている作業員のものでは無く、より小さな反応だった。

 他ならいざ知らず、霧の艦艇であるスミノがそれを見逃すことは無かった。

 

 

「スキャニング開始」

 

 

 虹彩が輝き、今まさにクレーンで艦内に収められようとしている積荷の中身を確認する。

 リストによれば食料品、生体反応などあろうはずも無い。

 しかしそこには、確かに生体――()()の反応があった。

 背丈が小さい、人間、それも小さな少女のように思えた。

 

 

 さらにスミノのスキャニングは、その背丈が人工的な処置の結果であることも見抜いた。

 発生、つまり受精卵の段階で薬物処置を施された痕跡が脳に見られたためだ。

 そしてその痕跡を、スミノは以前見たことがある。

 正確に言えば、資料で、だが。

 

 

「『デザインチャイルド』……?」

「おい」

 

 

 不意に声をかけられて、スミノの意識はそちらへと向いた。

 振り向くと、そこに姉妹がいた。

 イ401のメンタルモデル、イオナである。

 補給作業はもちろん彼女にも行われていて、イ401は隣のドックに鎮座していた。

 

 

「やぁ、401。何か用かい?」

「うちの艦長からだ」

 

 

 そう言って、イオナは左手首を掲げて見せた。

 そこに起動音を立てて現れたのは、彼女の紋章(クレスト)」だった。

 ユニオンコアのキーコード、要はマスターキーである。

 まぁ、人類には使えない代物ではあるが。

 

 

「受け取れ、404……いや、スミノ」

 

 

 イオナの周囲には、ドックの照明とも違うキラキラとした輝きが舞っていた。

 その細かな粒子の舞を目にした時、スミノはイオナの意図を読み取ろうとするかのように、目を細めた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――人類の未来を託すなどと、良く言えたものだ。

 3隻の潜水艦がそれぞれのドックから出撃していくのを、北は複雑な心境で見守っていた。

 イ404と駆逐艦4隻の演習を見守ったその場所は、今日も変わらない海風を吹かせている。

 

 

「…………」

 

 

 今、北は1人だった。

 付近に秘書やSPすら置かず、ひとりでその場に立っていた。

 その胸元には、しっかりと赤いネクタイが締められている。

 結び目の部分を指先で撫でながら、彼は静に海面に生まれる白い航跡を見つめていた。

 

 

 非公式ではあるが、「特務移送艦隊」と言う名称が与えられている。

 名目上の旗艦は白鯨だが、イ404とイ401は白鯨の指揮下にあるわけでは無い。

 人類側が霧の艦艇の性能を理解できていない以上、白鯨に2隻の指揮を執ることが出来ない。

 ましてイ401は傭兵であって、こちらの指示に従う義理は無いのだ。

 だからアメリカに渡るまでは、白鯨は逆に2隻の指示に従うことになる。

 

 

「すまんな、千早」

 

 

 後悔、北の胸中を占めるのはその感情だった。

 かつて、彼には優秀な――心から信頼する部下がいた。

 千早翔像大佐、千早兄妹の実父であり、10年前に失踪した男だ。

 大海戦で拿捕(だほ)したイ401の試験航海中のことだった、帰って来たイ401は無人だった。

 そして数年前、別の霧の艦艇の甲板上で発見された……。

 

 

「……恨んでくれ、私を」

 

 

 千早翔像にイ401を任せたのは、北だった。

 提案したのは上陰だが、最終的に千早群像のイ401を起用することを認めたのは北だった。

 そして、イ404を千早紀沙に与えると決めたのも北だ。

 こうして考えてみれば、北は千早家にとって疫病神のような存在だろう。

 

 

 そして今、北は千早兄妹を死地に送り出している。

 いや、それだけでは無い。

 千早兄妹を、吐き気を催すような地獄へと突き落とそうとしている。

 その自覚が彼にはあって、後悔をしつつも、しかし意思を翻すこともしない。

 

 

「私を恨め――――紀沙」

 

 

 もしかしたらなら、自分はもう狂ってしまっているのだろうか。

 時として北は、そう思うことがあった。

 

 

「……私だ」

『彼らは行ったようですね、北さん』

 

 

 それでも、狂気に沈むことは許されない。

 だから彼は平静そうな顔で、携帯端末の呼び出しに応じた。

 相手は楓首相であって、通話に応じつつ、北の目はじっと横須賀湾を見つめていた。

 もう、白い航跡は見えない。

 

 

「どうかされたのか、楓首相」

『ええ、実は珍しい人物から連絡(コンタクト)がありまして』

「珍しい人物……? 誰だ、それは?」

 

 

 瞑目して問えば、楓首相は即座の回答を寄越した。

 電子音声のせいで感情は読み取れないが、それでも、彼の口から発せられた名前は北を唸らせた。

 

 

『……刑部博士です』

「なに?」

 

 

 その名前は、北のような政府関係者には良く通った名前だった。

 何故ならば彼、刑部博士は、日本と言う国を存続させる上で無視できない功績を打ち立てた男だからだ。

 1つは振動弾頭開発プロジェクトの中心人物として、彼がいなければ振動弾頭は完成しなかっただろう。

 そして今ひとつ、表立っては公表できないもう1つの計画。

 ゲノムデザイン計画――通称「デザインチャイルド計画」の、発案者として。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 さて、どうなるか。

 イ401及びイ404の出航の報告を受けた後、コンゴウは次の展開について思いを馳せた。

 太平洋、広大な海上にぽつりと大戦艦級の黒い巨艦が浮かんでいる姿はどこかシュールだった。

 

 

「大戦艦2隻に重巡洋艦1隻。普通に考えれば、巡航潜水艦の1隻や2隻で突破できる布陣では無い」

 

 

 コンゴウの任務は、日本近海の封鎖だ。

 だからイ401達が太平洋を渡ると言うのであれば、これは彼女への挑戦である。

 少なくともコンゴウはそう受け取っていたし、そうである以上、これを止めるのは自分の使命であると考えていた。

 

 

 アドミラリティ・コード。

 

 

 霧の艦隊の至上命令、彼女達が()()()した時から認識しているものだ。

 ただ、それが何のなのかは彼女達自身にも判然としていない。

 しかもその命令は中途で途切れており、「人類を海洋より駆逐せよ」と言う命令だけが彼女達のコアに訴えかけてきたのだ。

 だがコンゴウにとって、中途であってもそれは己の存在意義も同然なのである。

 

 

『けれど、401はその「普通」を何度も覆してきたのでしょう?』

 

 

 その時だった、彼女――コンゴウの艦体のすぐ横の海面が盛り上がった。

 次いで巨大な艦首が顔を出し、海面を引き裂いて細長い艦体が突き出て来た。

 それはやがて重力に負けるように海面を打ち、大きな水飛沫を上げた。

 海水の飛沫がコンゴウの艦体を濡らすが、彼女は特に気にしていない様子だった。

 

 

「直に会うのは久しぶりだな、『ナガト』」

「ええ、お久しぶりねコンゴウ。お変わりなくて?」

「その質問に何か意味があるのか?」

「人間はこうして挨拶するそうだ、たまに模してみるのも面白い」

 

 

 コンゴウの言葉に返事をしたのは、()()

 どちらも長い黒髪を揺らす長身の美女であり、1人は女学生風の袴姿で、もう1人は着物を遊女のように着崩していた。

 彼女達は大戦艦『ナガト』――コンゴウよりもやや艦体が大きい――のメンタルモデルであり、ナガトはメンタルモデルを2体持つ艦なのである。

 

 

 霧の艦隊の中でも、これは珍しいことだった。

 通常、メンタルモデルは重巡以上のコアの演算力が無ければ形成することが出来ない。

 一方、総旗艦クラスの大戦艦級以上の霧の艦艇はより演算力の高いコアを有しており、彼女達の中にはナガトのようなメンタルモデルを複数持つ艦もいる。

 デルタコア、巡洋戦艦のコアの12倍の演算力を持つとも言われるそれをナガトは備えているためだ。

 

 

「そして、こちらも来たな」

 

 

 そして、ナガトが現れたのとは反対側。

 ナガトの時よりも大きく海水を巻き上げて姿を現したそれは、コンゴウ・ナガトよりもさらに巨大な戦艦だった。

 全長は40メートル以上も大きく、排水量で言えば実にコンゴウの2倍を越す。

 その威容は、コンゴウをして圧倒されるものがあった。

 

 

「霧の艦隊、総旗艦」

 

 

 コンゴウの言葉に、彼女同様艦橋の上に立っていたメンタルモデルが微笑を浮かべる。

 その笑みはどこまでも柔らかく、何もかもを包み込むような温かさを持っていた。

 長く柔らかそうな髪に、ピュアピンクの優美なドレス、たおやかな肢体……。

 聖母、人間の言葉で言えばそれが1番上手く彼女を表現できるだろう。

 

 

「『ヤマト』」

 

 

 霧の艦隊<総旗艦>ヤマト。

 無数に存在する霧の艦艇、その頂点に君臨する艦だった。

 ヤマトのメンタルモデルの女性は、自らを見つめるコンゴウとナガトに対し、にっこりと微笑みを浮かべたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 相手がどう出るのかに関心があるのは、コンゴウ達だけでは無かった。

 むしろそれはキリシマ達の方こそ気になる所であって、彼女達は浦賀水道出口を封鎖したまま動かず、横須賀方面の観測を続けていた。

 大戦艦級の性能を持ってすれば、この位置から索敵することも可能だ。

 

 

重力子機関(エンジン)の始動に伴う波動を検知」

「来るんだね、ワクワクするよ」

 

 

 そして、ついに横須賀から動くエネルギー反応を捕まえた。

 どうやら索敵能力についてはハルナの方が高いらしい、その情報はすぐに艦隊全てに共有される。 

 相手は2隻。

 イ401、そしてイ404。

 霧の艦隊を離れ、人類の側についた()()()()

 

 

 粛清。

 人類の表現を借りるのであれば、おそらくこの言葉が最も当て嵌まる。

 だが正直なところ、霧の艦隊――この場合は特にキリシマだが、彼女は別にそんな認識は無かった。

 イ401達を裏切り者と思ったことも無いし、己の行動を粛清だと考えたことも無い。

 ただ、楽しみたい。

 

 

「楽しみだよ、()()()()()のメンタルモデルと()れるんだから」

 

 

 凄惨な笑みを浮かべて、キリシマがそう言った。

 戦いは、兵器の本分だ。

 霧の艦艇が兵器でいる以上、それは本能とも言えるものだ。

 だが戦闘を喜ぶと言う行為は、彼女自身の個性であるのかもしれない。

 

 

「あっれー? 何かおかしいよ?」

 

 

 瞳の虹彩を輝かせながら、マヤが言った。

 彼女は南北に伸びる浦賀水道を巡回しており、そのメンタルモデルは艦橋の上に座って足をぶらぶらとさせていた。

 その仕草の割に、最初に気付いたのがマヤと言うのは意外ではあった。

 

 

「おかしいって、何がだ?」

「艦形と重力子エネルギーの波長がちょっとおかしい」

「……スキャニング開始」

 

 

 イ号400型の潜水艦は、概ね全長122メートルの水上艦形だ。

 今のイ401とイ404も、大きな枠では同じ形状をしていると言える。

 ただ細かな部位が異なり、それはタカオやイ400達を通じて共有情報として得ている情報だった。

 

 

 潜水艦の特性上、肉眼で確認は出来ない。

 だから艦形とエネルギーの波長で識別することになる、味方の場合は、それこそいちいちそんな探査は必要無いのだが……。

 特に潜水艦が相手となると、大戦艦と言えど情報の取得は難しくなってくる。

 イ401とイ404に不審な点が見えても、それが何かまでは特定できない。

 

 

「ふん。まぁ、戦ってみればわかるだろうさ」

 

 

 だが、キリシマはそれを重要なこととは考えなかった。

 何故なら彼女達霧の艦艇にとって、艦形はさほど大きな意味を持たないからだ。

 キリシマだって武装によっては艦形は変わるし、ナノマテリアルに依存する霧の艦艇に明確な形など無いに等しい。

 

 

 実際、キリシマのセンサーではイ401とイ404の艦形はタカオ戦の時と95%は一致している。

 それがどう言う意味を持つのかは、キリシマにも読むことは出来ない。

 いずれにしても、それは自分達を倒すための戦術の一端であるに違いない。

 

 

「早く来い、401・404!」

 

 

 だから彼女は、いわゆる「高揚」の感情と共にそう言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紅い。

 その艦は、紅い輝きを放っていた。

 水上艦艇型のそれよりも流線型に近く、円筒を上下に接続したような形状をしていた。

 水流を自然に受け流す構造、実際、その艦は静かにそして素早く海底を進んでいる。

 

 

『艦長』

 

 

 2階層構造の発令所、指揮シートに座らず手すりに腰を当てて立っていた彼に、頭上から声が降りて来た。

 艦内通信用のスピーカーから響いた声は、若い女性のものだった。

 その声を受けて、彼は組んでいた腕を解いた。

 

 

 容貌は、やはり若い男性だった。

 前髪を一まとめにして片側に垂らした金髪、知性を感じさせる冷たい青の瞳。

 白人特有の色の薄い肌に、軍服調の白いシャツとカーゴパンツを身に着けている。

 良く言えばスマート、悪く言えば冷たい印象を受ける男だ。

 

 

『戦闘が始まったわ』

「……そうか」

 

 

 声も、どこか冷えている。

 低く、落ち着いた声音がそう聞こえてしまうのかもしれない。

 

 

「どうするの、ゾルダン?」

 

 

 問うてきたのは、発令所の階下にいる少年――幼さが残る少年――だ。

 癖のある赤毛で、顔には両目を覆うヘッドセットを装着していた。

 

 

「そうだな、とりあえずは――()()()の息子に挨拶に行こうか」

「ありゃ、突破するのが当たり前みたいな口ぶり」

「当然、そのくらいはやって貰わなければな」

 

 

 少年が口笛を吹く。

 先の女の声も含めて、随分と親しげである。

 性別も年齢も異なるようだが、それを超えた何かで結ばれているのかもしれない。

 

 

『もう1人はどうするの? アドミラルの言っていた()()()

「……そうだな、とりあえずは」

 

 

 挨拶、突き詰めて考えれば彼らの行動はそのためのものだった。

 男――ゾルダンと呼ばれた彼は、考え込むように顎に指先を当てて考え込むような仕草をした。

 それがどことなく絵になる、そんな男だった。

 彼は、女の声にこう答えた。

 

 

「とりあえずは、迎えに行って見るとしよう」

 

 

 ――――紅い輝きが、海底で蠢いていた。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

404のクルーが大人だと言うことをたまに忘れます(え)
でもライトノベル(?)ならこっちの方が正しいイメージがしないでも無いです。
ちなみに最後に出てきたのは原作ファンおなじみ、私的に作中屈指のイケメンキャラのあの人です(え)

そろそろ主人公の水着を考えないと(え)
それでは、また次回。


P.S.
現在、活動報告にて第2回キャラクター募集を行っております。
締め切りまであとわずかですので、まだ参加されていない方は、宜しければご参加下さい。


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Depth010:「浦賀水道突破戦・前編」

今回は、ありそうで無い戦術を採用。
上手く描写出来ていると良いのですが……。


 響真瑠璃は、逃げ出した人間である。

 他の誰でも無く、真瑠璃自身が自分のことをそう評価していた。

 だからこそ、帰還後も彼女は紀沙を含む旧友達と積極的に交流することが出来なかったのだから。

 

 

(401とは、やっぱり違うのね)

 

 

 そして統制軍の最新鋭潜水艦『白鯨』の発令所に入った時、彼女が思ったのはそれだった。

 1年近くイ401に乗艦していたのだから、そう思うのも仕方なかった。

 真瑠璃が過去に所属した艦艇がイ401のみと言うことも、両者を比較してしまう原因だったのだろう。

 実際、イ401と白鯨の発令所は造りが大分異なっていた。

 

 

 イ401は潜水艦と言う点を抜きにしても、座席は片手で足りる程だった。

 対して白鯨には十数人のスタッフが詰めていて、それぞれに細かな役割が振られているのか、四方八方から様々な声が飛んでいる。

 静かだったイ401の発令所と比べると、奇妙な表現になるが、賑やかだなと思った。

 

 

「どうも響さん。改めて、艦長の駒城です」

「響です。オブザーバーとして乗艦させて頂きます、宜しくお願い致します」

「はは、名目はオブザーバーですが……実際は、我々の方が教えを請いたいのですよ。何しろ我々には外洋に出た経験も、霧と戦った経験も無い……」

 

 

 その時、地震にも似た揺れが発令所を揺らした。

 

 

「……ので、是非とも我々を助けて頂きたい」

「承知しています」

「よろしく」

 

 

 海流とは違う断続的なその揺れを、真瑠璃は経験で知っていた。

 それは海中で――まさに、潜水艦である白鯨のフィールド――何かが爆発した音だ。

 そして連続で続くそれは、けして自然には起き得ない音だ。

 ほんの1年前まで、()()()()()いた音だった。

 

 

(まだ、ソナーのつもりでいるのかしらね)

 

 

 我ながら女々しい。

 胸中でそう自嘲(じちょう)する、今の彼女に求められているのは耳では無く頭と口だ。

 大体、彼女にはもうソナー席に座るつもりが無かった。

 それは彼女が心の中で、自分が座るべきソナー席を定めてしまっているからだ。

 そしてその座るべきソナー席を立ってしまった以上、もう彼女が座れる席は無いのだ。

 

 

「早速ですが、我々の今後の動きですについて……響さんのご意見は?」

「そうですね。現段階では、今の位置から動かない方が良いと思います。千早……群像艦長は、作戦の諸段階をタイミングで定めますから、そのタイミングが来るまでは現状維持がベターです」

 

 

 ああ、何て言い草だろう。

 胸中の自嘲がますます強くなって、真瑠璃は実際に浮かべている笑顔が歪んでいないか、少し心配になった。

 でも仕方ない、まるで「千早群像のことは良くわかっている」と言いたげな口ぶりだったのだから。

 

 

「なるほど」

 

 

 そして、駒城を始めとする白鯨の面々はそれを当然のように受け取る。

 それがまた、真瑠璃の胸の内に小波(さざなみ)を立たせる。

 

 

「では水道には入らず、現在の着底位置をキープしつつ……すぐに全速に入れるように、機関を温めてスーパーキャビテーション航行を準備、と言うわけですか」

「はい」

 

 

 群像の立案した作戦は、すでに()()に共有されている。

 ただ通信が制限される以上、ある程度は各艦の判断とタイミングが重要になってくる。

 真瑠璃が白鯨に乗っているのは、要するに白鯨に群像の作戦を遂行させるためだ。

 言うなれば、群像の代理人である。

 そしてこの表現は、真瑠璃にまた皮肉な感情を抱かせた。

 

 

 作戦に参加する艦艇は3隻、イ401と白鯨、そして――――イ404。

 艦長、千早紀沙。

 かつて艦長と仰いだ男の妹、学院の同級生、置いて行かれた少女。

 真瑠璃にとって、彼女は。

 

 

「現状、私達は霧に無視されている状態です。なら、無視されているこの状況を最大限に利用しましょう」

 

 

 真瑠璃にとって、紀沙と言う少女は。

 彼女自身の罪悪感を形にしたような、そんな存在だった。

 ――――ピッ。

 真瑠璃の手の中で、携帯端末がメールの保存を知らせた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 初撃は、イ404だった。

 探知されるのも構うことなく突っ込んで来て、そのまま数発の魚雷を打ち込んできた。

 加速力が想定値よりも速く、迎撃のレーザー射撃を潜り抜けられた。

 

 

「クラインフィールド飽和率6%」

「侵蝕作用は無し。通常弾頭のみか……わざとか?」

「何がわざとなの?」

「侵蝕弾頭魚雷と思わせたフェイクかどうかってことさ」

「可能性はある。でも高くは無い」

 

 

 ハルナ・マヤと話しつつ、キリシマは己のセンサー類の感度と範囲を広げた。

 三浦半島を臨む浦賀水道の出口に陣取った彼女達は、言わば網のようなものだ。

 キリシマとハルナを中心に、3つの駆逐艦隊を前後に配置した布陣。

 駆逐艦をぐるぐると動かして対潜哨戒させつつ、発見次第中央の3隻の大火力で敵を殲滅すると言うのが、基本的な方針だった。

 

 

 そうした中、イ404の突撃はキリシマ達の機先を制した形になった。

 カタログスペックよりも加速性能が上だったのには驚いたが、強化されているのだろう。

 潜水艦の運用セオリーから外れたその動きは、確かにキリシマ達の不意を突いた。

 そのくせ音響魚雷で姿を(くら)ます――キリシマ達の後ろに出るのが目的だったのだろう――ところはセオリーに忠実なので、そこは憎たらしく思えた。

 

 

「ふん、すばしっこい奴だ」

 

 

 こうなってくると、イ404の艦体が突出してきた理由も見えてきた。

 要は、こちらを撹乱(かくらん)しようと言うことなのだろう。

 小賢しいことだ、キリシマは鼻で笑った。

 

 

「そうなると、401は打撃担当と言うことか」

 

 

 思考を単純化すれば、そう言うことになる。

 相手は2隻いるのだから、役割分担をするのはむしろ当然と言えた。

 実際、イ401には霧の艦艇を(ほふ)れる侵蝕弾頭魚雷が相当数あるはずだった。

 そこまでわかってしまえば、キリシマが相手のペースに付き合う義理は無い。

 逆だ、相手にこそ自分達のペースに付き合うべきなのだ。

 

 

「ねぇ、どうするのー?」

「任せろよ、考えがある」

 

 

 ガンッ!

 キリシマが自らの甲板に靴音を響かせた瞬間、彼女の艦体が()()()

 それはかつてタカオが見せた物に似ているが、展開される光学レンズの数、迸るプラズマエネルギー、海面に与える影響、それら全てがタカオのそれを上回っていた。

 雷鳴が、浦賀水道に轟いた。

 

 

「おお~」

「前方の駆逐艦隊、射線上より退避」

 

 

 驚き、そして仕事の早い僚艦に気を良くしながら、キリシマは初撃でそれを撃った。

 一瞬の収束、そして解放、轟音。

 海を引き裂きながら進むそれは海を割り、途上にあるものを有形無形を問わずに蒸発させ、塵も残さなかった。

 

 

 キリシマの超重力砲である。

 

 

 打ち放たれ直進した重力子エネルギーは、引き裂かれた海をしばらくそのままに留めた。

 水深の浅い水道であり、最も深くに達した超重力砲は海底を削りすらした。

 水と土を溶かし削ぐ音が、キリシマの(センサー)には聞こえていた。

 しかし彼女が望む音はついぞ聞こえず、キリシマは舌打ちした。

 

 

「404の航路をそのまま通ってくるかと思ったが、流石にそれは無いか」

 

 

 溶けた海面から発せられる熱波に顔を顰めながら――メンタルモデルと言うのは、こう言う時には少し煩わしく感じる――キリシマは、白煙を上げ始めた海面を見つめた。

 そこにはイ401とイ404がいるはずだった。

 見つければ自分達の勝ち、出来なければ相手の勝ち、実にシンプルな戦いだった。

 

 

「マヤ、『ウミカゼ』と『スズカゼ』を呼べ。補給だ」

「はいはーい」

「タカオの真似?」

「意外と使い勝手が良いんでね」

 

 

 ニヤリと笑って、キリシマは胸を逸らした。

 本当に楽しそうに笑うその顔からは、戦いを心から楽しんでいる様子が窺えた。

 ――――最も、彼女達に心なるものがあるのかどうかは、わからないが。

 

 

「さぁ、潜水艦狩りだよ!」

 

 

 超重力砲の発射体勢から通常の状態に戻し、そして休む間も無く甲板の装甲を開く。

 そこからは黒光りするミサイル弾頭が無数に顔を覗かせていて、艦側面の魚雷発射管も全て開き、さらにはドラム管型の爆雷の姿も見えた。

 100を超えるそれらは全て、海中に隠れているだろう敵を狩り出すための装備だった。

 

 

 そして、楽しげな様子と言うのは伝播する。

 霧のメンタルモデルにとっても、いや感情を積極的に学ぶメンタルモデルだからこそ、その感度は高い。

 要するに、ハルナとマヤもうずうずしていた。

 そして彼女達もまた、それぞれ装甲を開放して――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 尋常では無い。

 一言で言えばそう言うことだが、それは言語化できない程に酷い状況に陥っているとも取れる。

 そして実際、紀沙達の状況は「酷い」以外の何ものでも無かった。

 

 

「魚雷航走音及び対潜弾着水音、極めて多数! 数えるのも馬鹿らしくなるくらいだ!」

「両舷全速、振り切って下さい!」

 

 

 絶え間なく、まさに一瞬の間も無く艦体が衝撃に震える。

 キリシマ達が海中に放った魚雷と対潜弾の弾幕は数十から数百発にまで及び、周辺の海中と海底を制圧していた。

 近辺で何も爆発していない空間など存在せず、隙間を縫うことも出来ない。

 

 

 そうした中で紀沙達に許される行為は、逃げの一手だ。

 機関(エンジン)を全力でぶん回し、敵の魚雷群を振り切るしか無い。

 だがそれは、敵の駆逐艦の対潜哨戒網(センサー)に身を晒すことと同義だ。

 つまり逃げるだけでは状況は永遠に変わらない、むしろ直撃の危険性が増すだけだ。

 

 

「恋さん、ポイントは?」

「ポイントまで……Aが500、Bが660、Cが1000です」

「……Bにします。梓さん、後部発射管の重高圧弾頭魚雷発射、5秒後に起爆! 起爆と同時に5番6番のアクティブデコイ発射、14時の方向です!」

「あいさ了解! 重高圧弾頭発射! 5、4……」

 

 

 ならば当然、隠れるしか無い。

 事前に探査したいくつかのポイントの内、距離や艦の位置取りから最適なものを選択する。

 そして海上を敵に制圧されている現在、生半可なことでは逃れられない。

 だから、紀沙の取った方法は生半可では無かった。

 

 

「重高圧弾頭起爆! アクティブデコイ発射!」

「……起爆確認、魚雷群の先頭部の誘爆を確認! 後続がデコイを追ってった! ただその後ろと頭上の対潜弾は進路変わらず!」

「続けて1番から4番に通常弾頭魚雷装填、それから7番に重高圧弾頭魚雷、8番に音響魚雷装填して下さい!」

「了解、各種魚雷装填!」

「姿勢制御と同時に撃って下さい、タイミング任せます!」

 

 

 そして発射管に海水が注水されると同時に、紀沙はそれをした。

 

 

「アンカー射出、衝撃に備えて下さい!」

「わかった」

 

 

 全速で移動する艦艇前方から、アンカー……つまり錨が投じられた。

 それは当然艦体と繋がっており、海底に突き刺さったからと言って艦は止まらない。

 艦艇に自動車のようなブレーキは無い、だが固定されたアンカーと進む艦はいずれ引っ張り合う。

 そして、実際にそうなった。

 

 

「ぐ……!」

「どわぁっ!?」

 

 

 当然、衝撃が来る。

 全力疾走している人間を掴んで止めればどうなるか、言うまでも無い。

 交通事故――あながち間違いでも無い――の如き衝撃が艦全体に走った。

 ナノマテリアルの形状変化によって乗員全ての身体を固定し、かつ柔軟に受け止めていなければ鞭打ちどころでは無かっただろう。

 

 

「――――ん」

 

 

 紀沙は、傍らのメンタルモデルの少女が漏らす吐息を聞いた。

 霧のメンタルモデルですら、自分自身にかかる負荷に負担を感じたのだろう。

 彼女達の動きは、上から見た方が良くわかる。

 海底に打ち込んだアンカーを中心に艦体が横滑りし、本来ならば不可能な機動でもって方向を転換した。

 センサーやソナーだけを見ている水上艦から見れば、艦影が不意に乱れて見えただろう。

 

 

 次いで側面の補助エンジンが噴き、急制動をかけた。

 そしてその音を掻き消すように全ての魚雷が発射されて、通常弾頭、重高圧弾頭、音響弾頭の順に起爆した。

 ――――海中が、音の爆発に包まれた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ドン、ドン――――と、微かな音が発令所でも聞き取れる。

 だがそれは、直前までのそれと比べるといくらか小さくなっているように感じた。

 

 

「……遠ざかったな」

 

 

 冬馬のその言葉と同時に、発令所の各所から大きく息を吐く音が聞こえた。

 潜水艦の戦いにおいて、敵の攻撃を凌ぎ隠れた瞬間は、弛緩(しかん)の一瞬だった。

 しかし戦闘が終わったわけでは無く、また無傷でもない。

 殲滅爆撃とも言える魚雷群と対潜弾の雨を潜り抜けて、さしもの霧の潜水艦もダメージを蓄積している。

 

 

「クラインフィールドはまだ余裕がありますが、被弾箇所の一部から浸水しています。現在、隔壁を閉鎖して応急処置中です」

『また無理な制動をかけたせいで、機関(エンジン)の一部に変調を来たしています』

()()()()()()()()()()だから、勝手もわからないしね~』

 

 

 各所から報告も来るが、概ね、紀沙の予想の範囲内だった。

 実際、静菜達に限らず冬馬も梓も良くやっていると思えた。

 何しろ使い慣れたコンソールでは無く、いわば他人用のそれなのだから。

 

 

 一方でキリシマ達は攻撃は加えてきたが回頭はしていない、おそらく()()()()を正面に取りたいのだろう、紀沙達にとっては好都合だった。

 さらに言えばもはや全速は必要ない、次の移動にそこまでの推力は必要ないからだ。

 後は、タイミングだけである。

 

 

「いや、しっかし驚いたよな」

「はい、まさかいきなり超重力砲とは思いま」

「まさか最初から突撃するとは思わなかったぜ」

 

 

 自分の戦術はワンパターンだろうか? 少し心配になる紀沙だった。

 

 

「大丈夫ですよ艦長。同じ突撃でもそこに至る過程にバリエーションさえあれば、汎用性のある作戦になり得ます」

 

 

 もしかしなくとも慰めの言葉を口にした恋に複雑な視線を向けると、頼れる副長はいつもの細い目で見返してくるばかり。

 これも慣れと言うものなのか、最近はクルーの自分への態度が大分変わってきた。

 何と言うか、良い意味で諦められている。

 信頼と言うには、少々適当に過ぎるが。

 

 

「さて、ひとまず隠れたわけだけど……」

 

 

 ふと、紀沙は天井を見上げた。

 ()()()()()()、だ。

 その先にあるものを見据えるかのように目を細めて、思考する。

 兄、群像の作戦について思考する。

 作戦自体は単純だ、陽動を重ねて本命が一気に敵を叩くと言うものだ。

 

 

 例によって自信満々に説明された作戦、もちろん紀沙はきちんと内容を理解している。

 こうしてこのシートに座っていると兄の気配に包まれているようで、作戦を説明する群像の表情すら思いだすことが出来る。

 そして、嬉しくもあった。

 何故ならこの作戦は紀沙達がキーパーソンであって、自分達の働きで成否が決まると言って良い。

 

 

「兄さん達に知らせて。作戦を次の段階に進める」

「わかった。ああ、だがその前にひとつだけ良いか?」

「……何?」

 

 

 傍らのメンタルモデルの少女に、群像達――つまり相方に()()()ように言った。

 彼女らの言う「触れる」の意味は未だに良くわからないが、紀沙はそれを敵に知られること無く自己の存在を伝えられる方法として認識していた。

 同じ霧の艦艇同士の作戦では、かなり重宝する。

 

 

「出来れば、アンカードリフトはやめてくれ。二度とやりたくない、流石に艦体が折れるかと思った」

 

 

 恨み言のようなその言葉に、紀沙は何も答えなかった。

 ただ、我慢しよう、そう思っていた。

 群像の、兄のために、兄の作戦を完遂するために我慢しようと、そう思った。

 目を閉じれば兄を感じることが出来る、そんな場所に座って。

 恨み言の返答への代わりに、紀沙は言った。

 

 

「――――例の装備の、準備を」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あちらが触れてきた、上手く隠れたようだね」

「了解した。静、紀沙達の位置は? 推定で良い」

 

 

 顎に指先を当てた思案顔で、群像は頷いた。

 正面の戦略モニターを見つめるその顔に複雑さは無く、現状に対するシンプルな思考で占められている。

 つまり、作戦をどう完遂させるか。

 ただ、潜水艦の作戦は広義には1つしか無い。

 

 

 隠れて、不意を討つ。

 基本的にはこれだけだ、正面からの殴り合いなど滅多にやるものでは無い。

 ただ潜水艦が複数いる場合は、ある程度の無茶も出来る。

 狩りは単独よりも集団で役割を振った方が上手く行く、そう言うことだ。

 

 

「三次解析結果出ます。推定位置Bポイント」

「……よし、なら紀沙はオレ達の合図を待っているはずだ」

 

 

 その上で重要なのは、やはり情報だ。

 紀沙達の位置を予測するのも、そのためだ。

 キリシマ達の攻撃が点では無く面の制圧に変わったタイミング、その時に攻撃が集中していた場所から、海底の地形図で潜水艦が隠れるに適している場所のどこかにいる。

 

 

 群像の期待通りかそれに近い展開になれば、まず突破は出来る。

 ただし懸念もあった、霧の艦艇に有効な侵蝕弾頭魚雷のストックが少ないのだ。

 ここ半年程まともな補給を受けられなかったせいだが、ここで言う補給とは通常の食糧や弾薬のことを言っているわけでは無い。

 霧の艦艇にとって不可欠な物質、ナノマテリアルの補給のことだ。

 

 

「白鯨に量子通信、合図だ」

 

 

 量子通信、出航に際してイ404と白鯨に備えたイ401の装備だ。

 電波とは別の通信体系であり、より大容量の情報を高い秘匿性の下でやり取りすることが出来る。

 この2年の戦いで、イ401はナノマテリアルやその他の技術を用いた装備やシステムを多く備えていた。

 量子通信も、その1つである。

 

 

「白鯨が動き次第、最終段階に入る」

 

 

 海底を揺るがす振動は、群像達にも伝わってきている。

 潜水艦の隠密性は極めて高いが、それでも対潜フォーメーションを組んでいる艦隊が相手ではいつまでもは保証できない。

 特にキリシマ達の攻撃は絨毯爆撃と呼ぶに相応しく、海中をいくつかのエリアに区分けして、ひとつひとつのエリアを潰して行っている様子で、虱潰しと言う言葉が良く似合った。

 

 

「大戦艦様は、やることがすげーな!」

「感心してばかりもいられませんよ。ここもいずれ見つかるでしょう」

 

 

 動けば見つかるが、見つからなくともいずれ探り当てられる。

 

 

「良し、杏平。1番から4番に通常弾頭魚雷。5番と6番に侵蝕弾頭魚雷だ」

「良し来た! あーっと……」

「白鯨が動いたら急速浮上だ、例のアレを使うぞ」

『え? ちょっと待って、例のアレって――――『ヒュウガ』のあれじゃないよね!?』

 

 

 ()()()な様子の杏平を見いていると、それを遮るようにいおりの声が響いた。

 不穏な気配でも感じたのか――まぁ、常に通信回線は開いているのだが――機関室から声をかけてきたのだ。

 どうやら彼女からすると、今の群像の発言が相当に聞き逃せないものであったらしい。

 今は彼女自身相当に四苦八苦しているはずだが、それでもと言うことだろう。

 

 

「もちろんアレだ」

『ちょっと待ってよ、アレはまだシミュレーションでしか動かしたことが無いんだよ!?』

「もちろん了解している。機関長の普段の整備を信頼してるよ」

『んなっ』

「諦めろよ、いおり。うちの艦長さんは見た目に反して博打打ちだからな」

 

 

 ケケケと笑う杏平に苦笑を向けて、群像は指揮シートで足を組み直した。

 戦場と言うよりは、どこかやり手のビジネスマンのようにも見える。

 ただ彼が座るにはやや小さなそれに、群像は身じろぎした。

 その際にふわりと感じた気配に、目を細める。

 

 

「かかるぞ」

 

 

 そう宣言して、彼は視線を傍らに向けた。

 そこにはいつものようにメンタルモデルの少女がいたのだが、しかし。

 そこにいたのは、()()()()()()()()()

 

 

「協力願おう、巡航潜水艦――――()()()

「……了解だよ、艦長殿」

 

 

 それに対して、()()()は至極つまらないものを見るような目で答えた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どうやら、上手く隠れられたらしい。

 センサーから消えたイ404の姿に、キリシマは目を細めた。

 大戦艦クラスのセンサーから隠れるとなると、相手はエンジンを切っているのだろう。

 

 

「ハルナ! 401は見つかったか?」

「……まだ。広範囲は私、狭い範囲は駆逐艦で探査してる」

 

 

 それぞれの艦体から、潜水艦の艦体など一撃で屠れるだろう質・量のミサイルを撃ち放ちながらの会話である。

 本来ならば轟音で互いの声が届かなくとも不思議は無いが、霧の艦艇である彼女達にそんな常識は通用しない。

 そうは言っても、エンジンを切って海底に潜む潜水艦をセンサーやソナーだけで発見するのは難しい。

 

 

 そこでエリアごとに殲滅攻撃を加え、あぶり出しを図っているわけである。

 実際、この戦術はあぶり出しとそのポイントにはいないことの確認と言う2つの目標を同時に達成できるため、一石二鳥ではあった。

 その意味では有効な戦術であると言えるが、ただし時間がかかった。

 タカオ戦術――他の艦から性能補助やナノマテリアル補給を受ける――も、無尽蔵では無い。

 

 

「うーん……」

 

 

 一方で、マヤの様子がおかしかった。

 彼女達は横須賀方面、つまり浦賀水道奥の湾内に向けて艦首を向けている。

 姿の見えないイ401がそちらにいると考えての配置だ、マヤも同じようにしている。

 だが、メンタルモデルは艦尾……つまり後ろを気にしている様子だった。

 

 

「やっぱり、違ったよねぇ? タカオお姉ちゃんが共有ネットワークにアップロードしてたのと」

 

 

 誰に語りかけるでも無く、独りごちる。

 独り言もメンタルモデルを獲得して得たものだ、それは今は関係が無いが。

 マヤは後ろをちらちらと見て、人間で言えば「気もそぞろ」と言った風だった。

 もちろんのこと、キリシマの地道な殲滅攻撃には彼女も参加している。

 

 

「401と404の艦形と、重力子機関の波動」

 

 

 それは、彼女が「疑問」を、もっと言えば「懸念」を感じていたからに他ならない。

 しかしまだ()()彼女(マヤ)のメンタルモデルは、それを具体的な言葉にすることが出来なかった。

 そもそも、彼女は霧の艦艇。

 言葉で意思を伝える必要性を感じずに生まれ、過ごしてきた者なのだから。

 

 

()()()()……()()?」

 

 

 その時だった。

 マヤの優れた情報収集システムが、ある音を捉えた。

 それは海中で巨人が足を踏み鳴らす音にも似て、しかもそれは急激に増えた。

 言うなれば、枕元でオーケストラが演奏を開始したに等しい「音の衝撃」だった。

 

 

「「――――ッ!?」」

 

 

 それは当然、マヤだけで無くキリシマとハルナの感知するところとなる。

 いや、感知と言う言葉は似合わないだろう。

 何故ならその音の波は、まるで弾幕の如く継続的に波長を変えて響き渡ったのだから。

 明らかに、人工の音では無い。

 

 

「何だ、401の新兵器か?」

「違う、タナトニウム反応が無い。これは……」

 

 

 最初はイ401の新兵器かと考えたが、タナトニウムを含まないそれはナノマテリアル製では無い。

 つまり、イ401の攻撃ではない。

 当然、イ404の仕業と言うわけでも無いだろう。

 ならば何か、と言う一種の思考停止に陥ってしまう彼女達を、責めるべきでは無い。

 

 

 何故ならば、その可能性は思考の外にあったからだ。

 それが彼女達にとっての常識であって、言うなれば固定観念に近い。

 つまり、その音の幕は。

 

 

「良いか、速度緩めるなよ! 浅深度を引っ掻き回す、敵の目を引き付けるんだ!!」

 

 

 17年。

 それだけの時間をかけて、霧への対抗策を探り続けてきた。

 海の王者であり、人類と同じ種に属する海獣種の名を関されたネームシップ。

 名を、『白鯨』。

 

 

「行くぞ、皆。404のポイントまで直進! 霧を――――倒すぞ!」

 

 

 打倒霧、駒城艦長の言葉に艦内で大声量の叫びが響く。

 潜水艦にあるまじき行為だが、今は爆音走行とも言うべき状態だ、構うことは無かった。

 いや、叫ばなければ往け無かったのかもしれない。

 そして発令所に満ちるその叫びの中、それらを見やりながら、シートにしがみ付きながら。

 

 

(群像君……紀沙ちゃん)

 

 

 真瑠璃は、同じ戦場にいる一組の兄妹を想った。

 そのためにこそ、彼女は海に戻って来たのだから。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

今回は2万字を超えそうだったので、前後編に分けてみました。
そのため、今話は少し短めになっております。
け、けして、締め切りに間に合いそうに無かったという理由では無いですよ?

そ、それでは、また次回(脱兎)


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Depth011:「浦賀水道突破戦・後編」

 白鯨は、統制軍の最新鋭原子力潜水艦だ。

 設計当初から対霧を想定して開発されたと言う経緯もあり、想定され得るあらゆる状況に対応するため、一種の多用途(マルチロール)艦として建造されている。

 その最大の特徴が、ユニット換装システムである。

 

 

 発令所を含む中枢ユニットを中心に、攻撃・巡航・輸送等の用途に応じた追加ユニットに換装することで、多様な任務に対応できるようになっている。

 今は攻撃用モジュールと言うユニットを装備しており、全長200メートルに及ぶ巨艦の姿だった。

 そして白鯨が放った一発の魚雷も、対霧を想定して開発されたものだった。

 

 

「モーター燃焼完了と同時に魚雷発射、静音航行!」

『ロケットモーター燃焼終了まで3……2……1……燃焼、完了します!』

『魚雷発射まで3……2……1……発射!』

「良し、潜れ!」

 

 

 サウンドクラスター魚雷。

 それが、その兵器の名前だった。

 256個の小型スピーカーをばら撒き、それぞれが異なる周波数を発振、音の幕を作る。

 この音の幕には白鯨のみが使用できる覗き穴があり、他の艦艇の探査能力を制限しつつ、自分達のソナーは確保すると言う兵器だった。

 

 

「駒城艦長、来ます!」

「え?」

 

 

 ただ、それが通用しないだろうことは真瑠璃にはわかっていた。

 人類の組んだ周波数の変調は、多少の時間差はあれど解析されてしまう。

 いや、そうでなくとも相手はエリアを丸ごと押し潰す作戦に出ているのだ。

 ロケットモーターで海中を高速移動――スーパーキャビテーション航行――していた分、白鯨の位置は敵に知られている。

 

 

 そしてそれを証明するように、衝撃が来た。

 ミサイルと魚雷、キリシマ達の殲滅攻撃が直上に降り注いだのだ。

 時間差で爆発するそれらは白鯨の攻撃モジュールの装甲を確実に削り、徐々にその機能を奪っていった。

 ロケットモーターの燃焼が終わったばかりの白鯨に、それを凌ぐ力は残されていなかった……。

 

 

「何だ、もう終わりか。人類と言うのは無駄なことが好きなんだな」

「たまに良いこともするよ」

「……同意」

 

 

 つまらなそうに言うキリシマに、他の2艦が言った。

 ハルナは言葉、マヤは音楽。

 メンタルモデルを得て以後、人類の生み出した文化に興味を抱く霧の艦艇は少なくない。

 この場合、彼女達は人類を「文化を生み出すシステム」とでも見ているのかもしれない。

 キリシマ自身は、そうしたものにはさほど興味は無かった。

 

 

 キリシマにとっては、戦いこそが至上のものだった。

 それは正しく戦艦で、兵器としての本分であり、その意味でまさに彼女は霧の艦艇だった。

 より強い敵をより強い兵器とより優れた戦術で打ち倒し、充足感を得たいと願う。

 その意味では、彼女にとって人類など始めから眼中には――――。

 ――――キリシマ達の側にいた2隻の駆逐艦が、爆沈した。

 

 

「――――なっ!?」

「『ウミカゼ』、『スズカゼ』!」

 

 

 それは、キリシマにナノマテリアルとエネルギーを融通した駆逐艦だった。

 球体の形をしたエネルギーに艦体を抉り取られ、爆発、海底へ沈んでいく。

 その轟音は、キリシマ達のミサイルの発射音の中にあってもはっきりと聞こえた。

 

 

「侵蝕魚雷! 正面から!」

「――――来たか、401!」

 

 

 顔を上げた次の瞬間、海面に魚雷の航跡が見えた。

 艦側面に配置したレーザー砲が火を噴き、海面を薙ぎ払う形で全て防いだ。

 4発来たが全て通常弾頭だった、牽制か。

 立ち上る水柱がキリシマの身体を濡らす。

 白い飛沫が消えた時、キリシマは実に好戦的な笑みを浮かべていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「踏ん張れ、正念場だぞ……!」

 

 

 イ401――いや、イ404の発令所に、群像の声が響いた。

 もはや隠す必要も無いが、彼は今回の戦いで、ある策を講じた。

 それはイ404とイ401の誤認戦術、ようは入れ替わり作戦である。

 ナノマテリアルによって艦形を作り変え、お互いそっくりの姿になったのだ。

 

 

 つまり、イ401の姿をしたイ404に群像達が。

 そして、イ404の姿をしたイ401に紀沙達が。

 もちろん互いの艦の最重要部分にはプロテクトがかけられているが、元は人手の必要ない霧の艦艇。

 不慣れで不足であっても、姉妹艦でもあり、一戦なら何とか運用できるだろう。

 

 

「大規模な重力波を感知しました! 超重力砲です!」

「おいヤベぇぞ、()()()なんてあり得ねぇ!!」

「落ち着け、1隻も3隻も同じだ!」

 

 

 そして、そんな群像達の様子をスミノはじっと見つめていた。

 当然ながら、群像達は彼女の主人では無い。

 しかし主人である紀沙の命令でそうしているのは確かで、その意味では従順とも言える。

 ただ、腕は良い。

 

 

 指揮官である群像もそうだが、他のメンバーも紀沙のクルーと比較しても遜色は無い。

 スミノは良くわからないが、正規の訓練を受けた人間と同等と言うのは凄いのでは無いだろうか。

 確か群像達は、紀沙の卒業した学院の中途で出奔したはずだ。

 特に機関士だ、いおりと言ったか、初めて見る自分の機関(エンジン)を良く弄れるものだ。

 

 

『機関圧力上昇! ああん、もう! 何よこの適当な配線は~!』

 

 

 ……どうやら、そうでも無いらしい。

 イ404の機関は特にあおいが弄っている、あおいは感性で配線するので、機関室は正直スミノにも良くわからない状態だ。

 正直、静菜だけが頼りである。

 まぁ、それは今は良い。

 

 

「重力子反応、急速に増大中!」

 

 

 今、スミノの正面には3つの輝きが迫りつつあった。

 それはキリシマ、ハルナ、マヤの超重力砲による輝き。

 イ401、では無くイ404が攻撃したことで位置がバレた、そして超重力砲の照準を向けられている。

 大して広くも無い浦賀水道内で、3本もの光の道が逆扇状に自分に向かっている。

 

 

 霧の力に呼応でもしたのか、晴れていた青空はいつしか分厚い雲に覆われていて、低空の雲と海面の間に紅い雷が落ち、また這っていた。

 人智を超えた霧の力で引き起こされた雷、神鳴り(カミナリ)とは良く言ったものだ。

 余りにも濃密な重力子空間に、次元が断層を引き起こすのでは無いかと思える程だった。

 

 

(下手をしたら、横須賀湾が干上がるんじゃないかな)

 

 

 自分はどうでも良いが、人類にとっては色々と不味いのでは無いだろうか。

 まぁ、キリシマ達がやる気な以上はどうしようも無い。

 ロックこそされていないものの、海が3つ割れて身動きが取れない。

 このままでは、3つの超重力砲を受けてイ404は撃沈されてしまうだろう。

 正直、スミノと言えどコアを破壊されかねない状況だ。

 

 

「さぁ、どうする? どうするんだよ、401ぃ!」

 

 

 キリシマの好戦的な声が海に響く、スミノにもそれが聞こえるようだった。

 ただ、彼女はイ401では無い。

 そう、つまるところスミノは囮なのだ。

 要するに本命は他にいて、そして切り札を盤面に出すなら今しか無い。

 そんなタイミングで。

 

 

 ――――浦賀の海に、()()()の道が開いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 勝利への予感が確信へと変わる瞬間。

 確かに感じていたそれが、急速に正反対のものに変わる瞬間。

 それを立て続けに経験したキリシマだが、彼女はそれを表現する術をまだ持っていなかった。

 

 

「なん……だと!?」

 

 

 その時、キリシマの胸中(コア)を駆けた全ての感情。

 どれひとつとして表現することの出来ないキリシマであったが、現実を認識することは出来た。

 今の自分の状況、その危険さを。

 拠るべき海水が足元――自艦の周囲に存在しないと言うその状況が、何を意味するのか。

 

 

「な、何故……!?」

<超重力砲発射シークエンス緊急停止、エネルギーライフリンク緊急切断>

「何故、お前がそこにいる? 何故、お前がその装備を持っている?」

<クラインフィールド緊急展開、側面方向以外へのエネルギー供給率80%カット>

「では正面のイ401は何だ? デコイなのか? いや違う、あれはイ404?」

<機関全速、現()()からの離脱を――――>

 

 

 イ401。

 もはや姿を偽る必要も無く、イ404としての衣を剥ぎ取ったイ401がそこにいた。

 正面のイ401――イ404だ――に向けて超重力砲を向けていたキリシマの側面に、装甲を展開させ、空間変異作用によってキリシマ達を捕捉(ロック)していた。

 

 

 臨界に向け収束しつつあるエネルギーの量は、キリシマを戦慄させるには十分だった。

 ここまで来れば、「予感」などと言うレベルでは無い。

 そして大小5つのエネルギー供給装置からなるそれを、キリシマは知っていた。

 だがその装備の持ち主はイ401では無く、そもそも潜水艦があの装備を持っているはずが無い。

 しかし、現実として。

 

 

「――――()ぇ!」

 

 

 イ401の発令所に紀沙の声が響くと同時に、それが放たれた。

 艦こそ霧だが、人類の指示で放たれた最初の一撃。

 イ401の艦体から放たれたそれは、蒼白く輝きながら一直線に進んだ。

 超重力砲の蒼白い輝きが半円状に抉れた海上を進み、まともに身動きの取れないキリシマを目掛けて――――。

 

 

「ん……!」

「マヤ!?」

 

 

 イ401の超重力砲がキリシマに直撃する直前、間に立ちはだかった者がいた。

 マヤ。

 霧の重巡洋艦の艦体が間に立ちはだかって、超重力砲を受け止めたのだ。

 何故マヤにそれが出来たのかと言えば、彼女だけがイ401とイ404の位置について疑念を持っていたからだ。

 

 

 この時、キリシマは「後悔」を得た。

 自身が敗れることへの後悔では無い、仲間(マヤ)の言動を聞き流したことへ後悔だった。

 マヤの直感は正しかった。

 キリシマが彼女の半分でもマヤの言葉にとりあって、タカオの戦闘経験情報を重視していたなら、そうしていたら。

 

 

「キリシマ! 合わせろ!」

「ハ、ハルナ。私は」

「クラインフィールド同調開始、マヤのコアを――――!」

 

 

 イ401の超重力砲が、マヤのクラインフィールドに直撃する。

 しかしすぐに臨界に達したクラインフィールドを突き破って、艦体そのものに達する。

 それは彼女を貫くと、マヤが作った時間でキリシマを押しのけたハルナに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――恐ろしい。

 モニターに映るその光景に、紀沙は心底からそう思っていた。

 重巡洋艦が崩壊し、光の柱が曇天を突き破って立ち上るその光景に。

 

 

「マジかよ、マジでやっちまったぜ……」

 

 

 自分達の行動の結果が半ば冗談のように感じたのだろう、冬馬の呟きが耳に届いた。

 しかし無理も無い、それだけ、目前の光景は圧倒的だった。

 軽巡洋艦ナガラを撃沈し、重巡洋艦タカオをいなした。

 だが今回の戦いは、それとはわけが違う。

 

 

 重巡洋艦マヤ撃沈、大戦艦ハルナ大破及び大戦艦キリシマ小破。

 かつて人類が霧に対して得た戦果としては、それこそイ401の大戦艦ヒュウガ撃沈に次ぐものだ。

 統制軍、公的機関所属の人間による戦果としては、最大である。

 戦略モニターの中、艦尾を破損したハルナを自らの艦体で支えているキリシマが見える。

 怪我をしている仲間を支えているようにも見えて、霧にしては奇妙な行動とも思えた。

 

 

(ここまでは兄さんの、作戦通り)

 

 

 イ401とイ404の入れ替わり作戦、事の他うまくいった。

 霧がそこまでイ401に執着するとは思わなかったが、群像の読み通りと言うことか。

 群像のイ404が侵蝕魚雷を放ったのも、誤認させることに一役買った。

 艦形はサーチできたとしても、海中に潜む潜水艦の詳細を知ることは霧でも困難だ。

 

 

 そして、彼の切り札――――イ401の超重力砲。

 かつて戦った霧の戦艦からの鹵獲品だと言う、霧の超兵器。

 マヤを貫き、ハルナを削ったそれは、対岸の房総半島の浸水区画にまで達した。

 超重力砲は理論上射程が存在しない、紀沙はこの時それを実感した。

 だからこそ、自分達で使ったからこそ……恐ろしい!

 

 

(これが、霧の力)

 

 

 だから紀沙は、傍らに立つイオナから視線を外すことが出来なかった。

 霧の重巡洋艦撃沈の喜色など無く、そこには畏怖の色が見て取れる。

 だが、考えて見てほしい。

 人類を歯牙にもかけなかった霧の艦艇、しかも重巡洋艦以上の3隻を撃沈・大破させたのだ。

 それも、たった一撃で。

 

 

 しかも聞くところによれば、霧にはまだ霧自身も目にしたことの無い強力な装備がいくつもあるのだと言う。

 紀沙には想像もできない、超重力砲よりも強力な装備とはどんなものなのか。

 これが恐ろしくなくて、何が恐ろしいと言うのだろう。

 

 

「それで、どうする艦長。群像からは次の指示は受けていないが」

 

 

 そのイオナが、そう声をかけてきた。

 彼女からすれば艦長代理である紀沙に指示を求めるのは当然であって、そこに他意は無かっただろう。

 

 

「……敵は、まだ戦闘能力を有しています」

 

 

 マヤは撃沈したとは言え、キリシマはほぼ無傷で残っている。

 ハルナも移動は厳しそうだが、攻撃力は残しているだろう。

 周囲にはまだ駆逐艦も何隻か残っていて、戦力と言う意味では油断できない。

 特に今のイ401は浮上状態で、キリシマがその気になりさえすれば撃沈は難しくないはずだった。

 

 

「追撃を」

「どこを狙う?」

「……重巡『マヤ』の、()()を」

 

 

 そこで、イオナが紀沙へと視線を向けて来た。

 コアとは、言うまでも無く霧の艦艇の心臓部だ。

 霧の艦艇にとって艦体とは衣服に相当する、これをいくら破壊してもナノマテリアルがある限り復活できる。

 だがコアを消滅させてしまえば、それは――――人間で言う「死」を意味する。

 

 

「理由はわからないけど、キリシマはハルナを庇ってる。そしてマヤのコア反応は消えていない」

「そうだな」

「ならここでマヤに追撃をかければ、間違いなくキリシマはこれを防ごうとするはず」

「そうなれば、一方的に攻撃することが出来る。合理的だな」

 

 

 戦術として、間違ってはいない。

 敵の仲間に手傷を負わせ、助けさせたところを狙う。

 軍ではスナイパーが時に行う方法だ、仲間を餌に誘き寄せる。

 とは言え、心理的倫理的にそうした戦術は採用されにくい傾向にある。

 

 

「なるほど」

 

 

 じっと、イオナが紀沙を見つめる。

 感情の見えないガラス玉のような瞳は、見ていると吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

 そして紀沙は、イオナから視線を逸らさなかった。

 逸らさなければならない理由など無いと、そう思っていた。

 

 

「お前と言う()()が少しわかった気がするよ、紀沙」

 

 

 他に、声を発する者はいなかった。

 そしてイオナは紀沙の命令を拒否したわけでは無く、火器管制の権限は梓に預けたままだ。

 けれど、何故だろう。

 場の空気が少し重くなったように、紀沙には感じられた。

 

 

 戦術論、あるいは軍事論で言うのであれば、より有効な戦術が実はあった。

 と言うより、むしろそちらの方が正しい。

 戦力が過小な状態で、しかも相手は戦闘継続を躊躇する程のダメージを受けているこの状況。

 もし相手が霧でなければ、紀沙とてそちらを……。

 

 

『キリシマ聞こえるか? こちらはイ404。艦長の千早群像だ。現在、貴艦は我が包囲下にある――――』

 

 

 その時、艦外放送を使用したのだろう、群像の声が周囲に響き渡った。

 海水が撒き戻る轟音の中、しかしその声は良く通った。

 そして、その声を聞いた瞬間、紀沙は全身から力が抜けるのを感じた。

 兄が、「もう1つの戦術」を採ったと思ったからだ。

 

 

 指揮シートの背もたれに寄りかかって、浅く息を吐いた後、大きく吸った。

 すると、あの日、浸水区画にある元自宅でのことを思い出した。

 何故ならそこは、普段ならば彼が座っているところだったから。

 

 

『――――我が管制下に、入られたし』

 

 

 兄の声を耳にしながら、目を閉じた。

 イオナの瞳を忘れようとするかのように。

 あの、ガラス玉のような霧の瞳を。

 

 

(……兄さんの匂いがする)

 

 

 戦いは、終わった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 衰えた目にも、その輝きは見えるような気がした。

 視覚補助用のバイザー越しに目を細めて、楓首相は湾の向こう側から伸びる不思議な輝きを見つめていた。

 柱のようにも翼のようにも見えるそれは、昼間にも関わらずはっきりと見て取ることが出来た。

 

 

『正直なところ、こんな日が来るとは思っていなかった』

 

 

 それは、楓首相の偽らざる本心だった。

 彼が中央管区の首相になったのは3年前のことで、その時、すでに日本は行き詰っていた。

 集団農場の形成と合成食料の開発が進んでいたとは言え、数千万以上の胃袋を満たすだけの食料は日本には無い。

 

 

 食料だけでは無い。

 エネルギーを始めとする資源も、生産量を支える工業力も、何もかもが不足した。

 食べてゆくために、抱えきれない人間を切り捨てることもしなければならなかった。

 いわゆる、棄民政策である。

 この時代、政治家は軍・警察と並んで自殺率が最も高い職業だった。

 

 

『現状維持が精一杯で、私の任期中に世界が変わるなどあり得ない。そう思っていた』

 

 

 彼方に見えるあの輝きが、いかなるものであるのかはわからない。

 しかしそれは、福音のように思えた。

 霧に封じられた人類にとっての幸運の報せ、反撃の狼煙、言葉では言い表せない。

 それは肉体的に感情を表現する術を失った楓首相だからこそ、より強く感じたのかもしれない。

 

 

『次の時代が、来たのかもしれない。新しい世界が、来たのかもしれない』

 

 

 かつて自分が、自分達がそうだったように。

 17年前に軍人としての自分は死に、北に誘われて政治家として生まれ変わった。

 自分達の前に権力の座にいた上役達に後事を託され、あるいは居座る者を蹴落として。

 そして今まで、とにもかくにも日本を支えてきた。

 

 

 もしかしたなら、それが終わる時が来たのかもしれない。

 日本が、いや、世界が変わる時が来たのかもしれない。

 それが吉と出るのか凶と出るのか、それはまだわからない。

 だが、酷く好ましいもののように思えた。

 

 

『そうは思いませんか?』

 

 

 車椅子に備え付けられたモニターを見やって、楓首相は言った。

 そのモニターは通信で外と繋がっており、洋館の室内を背景に、長い白髪の男の顔が映っていた。

 それは、いつか茶色の髪の少女に傅いていた執事に似ていて……いや、本人だった。

 楓首相は、彼が「ローレンス」と言う偽名を名乗っていることを知っていた。

 

 

『刑部博士』

『……そう、なのかもしれませんね』

 

 

 刑部藤十郎、それが彼の名前だった。

 振動弾頭とデザインチャイルド、2つの計画の立案者であり、日本にとっては救世主とも言える男だった。

 かつて黒かった髪は若くして白く染まり、表情は年齢よりも憔悴して見える。

 そして彼がそうなってしまった理由を、楓首相は良く知っていた。

 

 

『このままここにいても、あの子の展望は開けない。それならいっそ、この機会に、とも思います』

『群像艦長にしろ、紀沙艦長にしろ……駒城艦長にしろ。悪いようにはしないでしょう。今は、信じて待つしかありません』

『……そう、ですね』

『北さんも、そして上陰君も。きっとそう考えているでしょう』

 

 

 信じて待つ、それは楓首相達の世代にとっては日常と同義だった。

 だが、信じて待つ者達の時代は終わる。

 これからは、自分の道を信じて行動する()()()()()がやって来る。

 楓首相は、本心からそう信じていた。

 

 

 しかし一方で、彼は一国の首相だった。

 日本と言う国の利益が失われるようなことも、また他国の利益となるようなことも出来ない。

 かつて彼の前に立ち塞がった者達と同じことを、今は自分がやっている。

 そのことに苦笑じみた、あるいは皮肉めいた想いを抱きつつも。

 

 

『あの娘には、また重荷を背負わせることになるな』

 

 

 刑部博士との通信の前に、今回の件について北と話し合った。

 その時、北が言った言葉が思い出された。

 この時代、彼らの判断はいつも()()()()ものになる。

 ならざるを、得なかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧が、深くなっていた。

 太平洋のある地点に立ち込める霧の中には、鋼の巨体が浮かび上がっていた。

 それは1隻の戦艦であって、火が入っていないにも関わらず、3つの巨大な連装砲が発する威圧感は相当な物があった。

 

 

「…………」

 

 

 そして、無骨な巨艦に似合わぬたおやかな美女がひとり。

 ピュアピンクのドレスに身を包んだその美女は甲板にひとり佇み、足元でじゃれ合う海鳥を微笑ましそうに見つめていた。

 海鳥が何かに気付いて飛び立つと、彼女の視線も合わせて上がった。

 仲良く空へと吸い込まれていく2匹の海鳥を見て、その微笑はより柔らかなものになった。

 

 

「コンゴウは行ったの?」

「ええ」

 

 

 そんな彼女――霧の艦隊総旗艦『ヤマト』のメンタルモデルに、声をかける存在がいた。

 ()()は艦橋の屋根から甲板まで、ふわりと飛び降りた。

 重力を無視でもしているのか、あるいはそもそも重力を感じないのか、驚く程ゆっくりとした降下だった。

 

 

「コンゴウは硫黄島に向かうでしょう」

 

 

 そちらには目を向けず、ヤマトが言った。

 甲板に降りたその少女も、特に気にした様子も無くヤマトに近付いていく。

 これもまた、ゆっくりとした動作だった。

 

 

「ナガトはコンゴウを手伝うかしら?」

「しないでしょう。コンゴウは認めないでしょうし、ナガトもそれを望んでいないわ」

 

 

 それは、メンタルモデルを持つ以前であればあり得ないことだった。

 メンタルモデルを持つ以前であれば、コンゴウもナガトも己の管轄や領分を保とうとはしなかったろう。

 もっと力任せに、己の性能のみを頼りとして攻撃した。

 そして、破れていただろう。

 

 

 17年前の霧の艦艇であれば、そうなっていたはずだとヤマトは思う。

 あの大海戦で霧の艦艇が勝利し、以後に海洋を封鎖出来たのは、単に霧の艦艇の性能が人類側を圧倒していたからに過ぎない。

 最強の矛と最強の盾を以って、殴り倒したに過ぎない。

 そう言う意味で、あれは戦闘などと言う美しいものでは無かった。

 

 

「そのために、私達はメンタルモデルを手に入れた。コンゴウにはそう言ったんでしょ?」

「ええ、そう言ったわ。人類はいずれ我らを凌駕する。その時、戦略や戦術を持っていない我々は敗北する、と。イ401はそのモデルケースだ、とも」

「ふふ。私、あの子好きよ?」

「そうなの?」

 

 

 そこで初めて、ヤマトが振り向いた。

 そこにはヤマトと良く似た、あえて言えば少し幼い容姿の少女だった。

 たおやかなヤマトと並ぶとどこか快活な雰囲気を持つ少女で、笑顔の質も明るいものだった。

 ともすれば、母娘にも姉妹にも見える。

 

 

「あの子マジメだから、真剣に戦術を学んでるじゃない。そこが可愛くて」

「霧の艦艇にも、個性が出てきたわ」

「良いことじゃない」

「貴女にとって?」

「皆にとって」

 

 

 にっこりと明るく笑って、少女はヤマトと並んで立った。

 海面を這う霧は冷たく、それでいて太平洋の風は温かだった。

 無数の海鳥だけが、彼女達の周囲を舞うように飛んでいる。

 

 

「それで、どうするの?」

 

 

 少女もまた、超戦艦『ヤマト』のメンタルモデルだった。

 ナガトと同じく複数のモデルを持つ霧の艦艇、ただ2人のメンタルモデルの性格は対照的だった。

 どこか超然とした態度のヤマトと、そして少女めいた容姿と性格の……。

 

 

「『コトノ』」

 

 

 コトノ、それがヤマトのもう1人のメンタルモデルの少女の名前だった。

 彼女は、何故か白い女学生(セーラー)服に身を包んでいた。

 その制服には、ある国の軍直轄の海洋学校の校章が煌いている。

 片割れに今後のことを問われた彼女は、笑顔のまま、遠くを見るように目を細めた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 浦賀水道での戦いは、思ったよりもあっけない形で終わった。

 キリシマは停戦、と言うより降伏を受諾、イ401とイ404の水道通過を認めた。

 紀沙にしてみれば霧に通過を許可されるいわれは無いが、スミノが言うには「相当に悔しそうだった」と言うことだから、それだけが紀沙の溜飲(りゅういん)を下げてくれた。

 

 

「やっぱり、何だかんだで404の方が落ち着くねぇ」

 

 

 そして、イ404は太平洋にいた。

 キリシマ戦からすでに3日が経過していて、当然のこと、紀沙達はイ404に戻っていた。

 それなりの期間を過ごした艦だけに、やはり慣れと言うものがあるのだろう。

 梓程では無いが、紀沙もイ401よりはしっくり来るものを感じていた。

 

 

 かく言う紀沙であるが、今は梓と並んで物資の入った箱を運んでいた。

 紀沙は両手で1つ、そして同じものを梓が肩と腰に抱えて2つ持っていた。

 キリシマ戦の直前、急いで搬入したため積荷の整理が済んでいなかったのである。

 魚雷などは流石にしっかりと積み込まれているが、生活品等は後回しにしていた。

 

 

「あれ以来、霧に遭遇もしないし。白鯨との合流も、案外何事も無く終わるかもね」

「そうですね」

 

 

 白鯨、それも紀沙にとっては嬉しいことのひとつだ。

 キリシマ戦でモジュールを損傷した白鯨は一度ドックに戻り――浦上中将曰く「出戻りだな! ガハハハ!」――装備を換装して、太平洋上でランデブーする。

 流石にモジュールの換装が終わるまでキリシマが待ってくれる保証は無く、一度別れた。

 

 

「白鯨の皆さん、喜んでくれてましたね」

「まぁねぇ、アタシら統制軍が霧をぶっ倒すなんて、夢のまた夢だったからね」

 

 

 実際、白鯨クルーの喜びようと言ったら、無かった。

 その喜びは紀沙には良くわかる、そしてだからこそ安堵もした。

 いつか、霧を打ち倒す。

 統制軍の、いやそれは17年前の大海戦以後の人類の共通の目標であったのだから。

 

 

(真瑠璃さんは、どうだったんだろう)

 

 

 ひとつだけ、真瑠璃のことだけが気にかかった。

 おそらく紀沙を除いて、最も兄・群像のことを()()()()()()だろう女性。

 彼女はあの勝利に、何を思ったのだろうか。

 

 

「ほい、ついたね」

「ええ、どうにかこれで最後ですね」

「荷物の運搬もナノマテリアルで何とかならないのかねぇ」

「あはは」

 

 

 霧の潜水艦とは言え、イ404は人が乗る艦だ。

 当然、食料品のための冷蔵庫や冷凍庫もあれば、生活必需品をまとめておく倉庫もある。

 紀沙と梓がやって来たのはそうした倉庫のひとつであって、常温で保管できる食料品を置いておく場所だった。

 便利なもので、スミノの力で温度・湿度共に一定に保たれていて割と快適……。

 

 

「……え?」

 

 

 ……なのだが、さりとて、住みたいと思う程に快適でも無い。

 例えばそう、お茶をするための休憩室でもなければ、茶髪のツインテールの小さな女の子の私室でも無い。

 だから正直、その光景は紀沙にとって不意打ち以外の何ものでも無かった。

 

 

 非常食の乾燥ブレッド、不味いが保存が効く、それは別に良い。

 例えばそれをわしゃわしゃと食べているのがクルーの誰かであったなら、注意はしても驚きはしなかっただろう。

 口の中のブレッドをごくりと音を立てて飲み込んで、見覚えの無い()()()は紀沙を見た。

 

 

「え、えっと」

 

 

 正直、反応に困った。

 しかし他にかける言葉も思い浮かばず、結局、最初に思った言葉を口にした。 

 

 

「ど、どちらさまですか?」

「…………」

 

 

 何も答えない女の子に、紀沙は半笑いのような表情しか作れなかった。

 それしか出来なかった。

 そんな紀沙を、女の子はじっと見つめていた。

 

 大きな瞳に、紀沙の情けない顔だけが映し出されていた。

 




最後までお読み頂き有難うございます。

兄妹の入れ替わりトリック、いかがでしたでしょうか。
霧の艦艇の特殊性を活かして、2隻いればこその戦術を考えてみました。
推理ものとかだと、割と良くある手だと思いますが……。

あ、今回突撃してない(え)

それでは、また次回。


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Depth012:「挨拶」

挨拶と言っても、ホラ○ゾンのあれではありません。
(いや、近いか……?)


 蒼い艦と、灰色の艦。

 寄り添うように海中を進む2隻の潜水艦は、他に何者もいないかのように航行している。

 周囲には暗い海底と、そこに潜む僅かな生き物だけ……。

 

 

「何だか、気が引けるわね」

『何がだ、フランセット?』

 

 

 その空間は、卵を連想させる楕円の形をしていた。

 人が1人座るには十分な空間だが、逆に言えばそれ以上の広さは無い。

 柔らかなクッションシートとドラムにも似た円形の操作盤(コンソール)、頭上に配置された医療器具のような波長センサー……何とも、圧迫感のある空間だった。

 そして、そこに座る女性もまた独特だった。

 

 

 髪先を真っ直ぐ切り揃えたセミロングに、人種特有の白い肌。

 瞳が閉ざされているためか、まさに白面と言った風だった。

 潜水服をイメージしているのか、衣服は暗い色合いで、ベルトやボタンが多い上に肌にぴったりと張り付く造りになっている。

 

 

「何だか可愛くて。お兄ちゃんの後を雛鳥みたいについて行くんだもの」

 

 

 クスリと笑むその仕草は、からかうような声音と裏腹に上品に見える。

 ひとつひとつの挙動にそうした部分が見て取れて、教養のある女性なのだとわかる。

 少なくとも、口を開けて大笑いするような印象は持てない。

 

 

「そんな所にちょっかいをかけるんだもの、気も引けるとは思わない?」

『仕方ない』

 

 

 短く返って来た返答に、フランセットと呼ばれた女性は表情を変えずに眉だけを動かした。

 目は口ほどに物を言うと言われるが、実際、瞳を閉ざした彼女の心情を表情から読み取るのは難しい。

 

 

『これは我が艦隊から……我がアドミラルと、(ムッター)『ムサシ』から我らに下された至上命令』

「そうね」

 

 

 わかっている。

 一言に全ての感情を乗せて、フランセットはそう応じた。

 そしてそれだけで通じるのだと、疑うことすらしなかった。

 彼女達にとっては、それだけで互いの意思を確認し合うことが出来る。

 

 

「――――ゾルダン。イ401とイ404が減速、距離を縮めたわ。速力15ノット。何かあったのかしらね」

『……わかった』

 

 

 そう、フランセットにとっては。

 

 

『かかろう』

 

 

 フランセットにとっては、それで十分だった。

 彼女は身体を前に沈めると、4つある操作盤に手を触れた。

 

 

『――――()()()()()()

 

 

 ただ、彼女が信じた救世主(ゾルダン)のために。

 フランセットは、自分の力を振るおうと決めていた。

 だから、彼女はたとえ気が引けていたとしても――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 良治は、困惑していた。

 

 

「はーい、お口を開けて下さいねー」

「やだ」

 

 

 仏頂面で診断を拒否しているこの女の子はいったい誰なのだろう、と。

 場所は当然ながら良治のテリトリーである医務室、向かい合って座る2人の表情は対照的だ。

 女の子は仏頂面で、良治は笑顔こそ浮かべているが固さがあった。

 実際、彼は困惑していた。

 

 

 たまに換気と通信のために浮上することを除けば、いやそれを含めたとしても陸地に接舷しない以上、クルー以外の人間が入り込む余地は無い。

 例外は出航時だが、横須賀の地下ドックに、まして霧の艦艇に誰にも気付かれずに入り込むなど不可能だ。

 まぁ、そのあたりをどうにかするのは良治の仕事では無いが……。

 

 

「何で黙ってたっ!?」

 

 

 そして、医務室の外ではそんな声が響いていた。

 通路で向かい合うように立っているのは、紀沙とスミノだった。

 他のクルーはそれぞれの持ち場にいる、聞かせられる話では無いと判断した。

 まぁ、()()()がいる段階で予測は出来るだろうが。

 

 

 ただ、これは由々しき問題だった。

 軍艦に密航者がいたと言うこともそうだが、アメリカに振動弾頭を運ぶ特務中である。

 しかも、あんな子供を。

 太平洋上にいるこの状況で、どこに保護してどこに預けろと言うのか。

 それに、このことについてスミノを問い詰めてみれば。

 

 

「ああ、あの子かい?」

 

 

 などと、最初から知っていたことを隠しもしなかった。

 いつも通りの酷薄な笑顔を貼り付けて、スミノは平然と言った。

 全く悪びれていない様子に、紀沙も苛立ちを隠そうともしない。

 

 

「もう一度聞く。スミノ、どうしてすぐに報告しなかったの?」

「聞かれなかったからだよ?」

「……は?」

「だから、聞かれなかったからさ。知らなければ知らないままで、別に何の不都合も無いだろう?」

 

 

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 それは、それ程に意味のわからないことだったからだ。

 艦と艦長の会話としては、致命的な程に。

 

 

「不思議なことを聞くね、艦長殿も。ボクは人間じゃないんだから、人間の艦長殿達にとって何が不味いのかなんて、わかるわけ無いじゃないか」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()

 思えば、以前にも同じようなことはあった。

 振動弾頭のデータの時もそうだ、スミノは自分に報告をしなかった。

 ただ「聞かれもしないことは話さない」「散歩が趣味」などとのたまって、碌な説明をしなかった。

 しかし、無理も無いことではある。

 

 

 何故なら、スミノと紀沙の間には信頼関係が全くと言って良い程無い。

 仲間でも無ければ、友達でも無いのだ、主従ですら無い。

 そしてスミノは人類の間では日本の統制軍に属しているが、霧である彼女がそんなカテゴライズに縛られるはずも無い。

 だからこれは――――紀沙のミス、なのだろう。

 

 

「刑部蒔絵」

「……何?」

「あの子の名前さ、知りたかったんだろう?」

 

 

 だが薄ら笑いと共にそんなことを言われると、どうしようも無く苛立つのだった。

 相互理解など、出来るはずも無い。

 

 

「他には、何か知ってる?」

「さぁ、ボクも直接話したわけじゃないしね。ただあの子が艦内を徘徊している時に、「おじいさま」とやらを探しているって言っていたね。何でも、401に乗っているとか」

「念のために聞くけど、401のメンタルモデルに確認は?」

「していない」

「だろうね、()()()()()()()()

「そうだね、艦長殿。()()()()()()()()

 

 

 皮肉も通じやしない。

 もう一言二言、言ってやりたかった。

 だけど言ったところで無意味だし、スミノがそれで痛痒(つうよう)を感じるとも思えなかった。

 だから紀沙は睨むだけに留めて、スミノに背を向けた。

 

 

「今後は、クルー以外の人間が艦内にいたらその時点で報告して」

「ああ、わかったよ。艦長殿」

 

 

 言えば素直に聞くあたり、本当に苛々する。

 胸中の感情をどう消化すれば良いのかわからず、紀沙は悶々とした感情を抱きながら歩き出した。

 あの女の子――蒔絵はとりあえず良治に任せて、携帯端末を取り出した。

 

 

「……恋さんですか? 401に至急コンタクトを。確認しなければならないことが」

 

 

 そして、携帯端末で発令所に連絡を取るその背中を見送りながら、スミノは目を細めた。

 その表情は、どこか先程までと少し異なる色を浮かべているように思えた。

 

 

「艦長殿は、知らない方が良いと思うけどね」

 

 

 スミノのその言葉は、しかし、紀沙には届かないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 結論から言うと、イ401に刑部蒔絵の「おじいさま」は乗っていなかった。

 

 

『と言うより、そんな話があれば横須賀で出ているだろう』

「まぁ、そうだよねぇ」

 

 

 イ401とイ404を有線ケーブルで繋ぎ、通信のラインを確保した。

 通信自体は、互いの艦長室で行うことにした。

 正直、クルーの前で兄と話す姿を見られることが恥ずかしかったのだ。

 艦長らしく話そうとすると今度は兄に対して恥ずかしいので、個室で話した方が結局は良いのだ。

 

 

 とは言え、芳しくは無い。

 正直、紀沙も期待していたわけでは無いのだ。

 実際、群像の言う通り、イ401なりイ404なり、あるいは白鯨に誰かを乗せるなら横須賀で北達がその話をしないわけでが無い。

 そして白鯨の乗船リストに、「刑部」の姓を持つ者はいない。

 

 

『いずれにせよ、このままと言うのは不味いな』

「でも、今から横須賀に戻るのは」

『白鯨に運んで貰うか?』

「これ以上、振動弾頭の輸送計画を遅らせるわけにはいかないよ」

『なら自然、一緒に乗せていくしか無いが……』

「うーん……」

 

 

 密航者・刑部蒔絵。

 困惑。

 想定外の困惑に、紀沙は眉間に皺を寄せる。

 艦長室――要は紀沙の私室である――の机に備え付けのモニターの中で、群像が苦笑を浮かべた。

 モニターの横にガラス筒に入ったサボテンがあって、それが妙にミスマッチだった。

 

 

『だが紀沙。艦内に密航者がいることに気付けなかったのは、どうにも不味いだろう』

「う」

『仮にこれが敵だったなら、クルーの誰かに被害が出ていた可能性もある』

 

 

 会話の流れがそれこそ何とも()()()、サボテンの針も尖っている。

 しかし、群像の言っていることは事実だった。

 最低でも3日間、密航者がいる艦内でのうのうと過ごしていたことになる。

 軍艦として致命的で、クルーの身の安全や機密保持の観点から見ればお話にならない。

 まぁ、それはそもそも密航を許した横須賀基地全体に言えることなのかもしれないが……。

 

 

『と言うより、404――スミノが気付かなかったのか?』

 

 

 そして、当然のように痛い所を突かれる。

 兄に相談した時点で規定路線ではあるが、群像で無くとも不思議に思っただろう。

 霧にとって艦内は体内に等しく、()()があればすぐに気付く。

 だからこそ、先程は紀沙もスミノを問い詰めたのであるが。

 

 

「…………」

『……まぁ、言いたくないなら別に良い』

 

 

 言えるわけが無い。

 自分の艦が艦長である自分に報告しなかったなどと、口が裂けても言えない。

 立場としても、そして個人としても。

 

 

 群像としても、統制軍に所属しているイ404の内情を細かくは追及したくなかったのだろう。

 しかし紀沙にとっては、それは群像の危惧の裏返しであるともわかる。

 そして同時に思うのは、この事実を北にどう報告したものか、と言うことだ。

 何となく北と群像の言うことに差が無いように思えるのが、不思議だった。

 

 

『とにかく――――』

 

 

 そして、紀沙は群像の言葉の続きを聞くことは出来なかった。

 理由は2つ、第1に通信が突如として切断された――2隻を繋ぐケーブルが物理的に切れた――こと。

 そしてもう1つ、突然襲い掛かってきた横殴りの衝撃に耐え切れず、紀沙が椅子から転げ落ちたことだ。

 固定されたサボテンだけが、変わらずに鎮座していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――何が起こった!?

 しかし胸中に浮かんだその考えを、群像は押さえ込んだ。

 

 

「いおり、エンジン急速始動! 出力は出せるだけ出せ!」

『了解! ああ畜生、あの姉ときたら適当に弄りやがって!』

 

 

 何か学院の同級生がかつて聞いたことが無い程のドスの効いた声を返してきたが、あえて何も聞かなかったことにした。

 心なし、足元から感じるエンジンの振動がいつもより激しい気がした。

 艦長室を出て通路を足早に発令所に向かいつつ、艦内通信で指示を飛ばす。

 

 

「イオナ、左舷全力回頭! イ404と距離を取れ。それからアクティブデコイだ」

 

 

 何かが起こったことは確実だが、それが何なのかはわからない。

 しかしわからないと言って何もしないわけにはいかない、群像にはクルーの安全を確保する義務がある。

 何が起こったにしろ、このまま僚艦と接触した状態で止まっている方が危険だ。

 通常なら音響魚雷も使うが、それもこの距離ではイ404のソナー手を潰しかねない。

 

 

 狭い範囲で固まっていては、互いの艦の能力を活かし切れない。

 今も足元に感じる振動は、間違いなく爆発音だ。

 互いへの攻撃が一方へもダメージを与えるような状態では、余りにも危険だ。

 だからここはまず互いに距離を取って、体勢を整えるべきだ。

 ()が一方を追うなら、もう一方が逆に背後を追って挟み撃ちにすることも出来る。

 

 

『群像、少し不味い』

「何がだ?」

 

 

 と言う意図の指示だったのだが、当のイオナから懸念が来た。

 

 

『404が()()()()()()

 

 

 どうやら、状況は群像の想像を超えて不味いようだった。

 そして彼には未だ見えていないが、彼らに()()を加えているのは、紅い艦艇だった。

 暗い海底の中でそれは非常に目立つ、が、肉眼で知る術の無い潜水艦には意味の無い情報だった。

 

 

「さて、どうする401。放置すれば仲間が死ぬ」

 

 

 その中で、金髪碧眼の男――ゾルダンが囁くように言った。

 

 

「そして404。アドミラルの命令とは言え、余り女性に手荒なことはしたくないのだが」

 

 

 よく言うよ、と、幼げな少年の声をするりとかわして。

 

 

「さて……はたして彼女は、()()()になれるかな」

 

 

 冷たい声音と怜悧な瞳。

 言葉程には気が引けている様子も見せず、彼は正面を見据えていた。

 霧の艦艇『U-2501』艦長、ゾルダン・スタークは、前だけを見ていた。

 これまでも、そうして来たように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 攻撃されていると気付くのに、そう時間はかからなかった。

 しかし、対処できない。

 何故ならばそれは完全に奇襲で、しかも()()()からの同時多発的な攻撃だったのだから。

 

 

「潜水艦に、包囲されてる……!?」

 

 

 そうとしか考えられなかった。

 いや、もしかすれば潜行した水上艦艇――霧の艦艇は、水上艦の形をしていても潜行することが出来る――の可能性もあるが、ここまで近付かれて気付かないと言うことは無い。

 この隠密性は、潜水艦以外にあり得ない。

 

 

『最初の攻撃で、エンジンに異常が発生しました。システムの10分の3がダウン。出力は60%保証、順次回復を試みます』

『大丈夫よ~、ほらこっちの線を繋げば』

『それで何で数値が2パーセント良くなるのかわかりませんが、余談を許さない状態であることには変わりありません。全力を尽くしますが、何とか状況の好』

 

 

 機関室との通信が、不意に途絶える。

 艦内に通っている通信のラインが途絶したのだろう、数秒だが、砂嵐に眉を顰めた。

 発令所との通信はまだ確保されているが、これもいつまで保つかわからない。

 すぐに発令所に向かうべきなのだが、これがなかなか思い通りには行かない状況だった。

 

 

 ぜぇ、と、想像以上に重い足に息を吐いた。

 足首まで覆う水溜り――いや、艦内に侵入した海水の香りが、鼻腔をくすぐる。

 海水、つまりは浸水である。

 艦長室と発令所はそれほど距離があるわけでは無いが、すでに足首程にまで浸水していた。

 

 

「……映画で見たことあるな、こう言うの」

 

 

 自分で言っていて、笑えない。

 

 

(なんて言ってる場合じゃない)

 

 

 実際、そんなことを言っている場合では無かった。

 床や壁、そして肌で感じる感覚として、徐々にだが深度が下がっている。

 着底して隠れようと言うよりは、単に浮力と推力を維持出来ていないのだろうと思う。

 つまり、すでにそれだけのダメージを受けていると言うことだ。

 

 

 全方位からの魚雷攻撃。

 しかし今の時代、霧であってもそこまでの数の潜水艦を揃えることが出来るだろうか。

 この広大な海で有力な潜水艦隊を、しかもピンポイントで展開することは非常に難しい。

 ならば、この状況はいったい何だと言うのか。

 音を立てて足元に滝を作る海水、その出所の壁を、苛立たしげに殴りつけた。

 

 

「うぁ……!」

 

 

 一瞬、身体が浮いた。

 それだけの衝撃――また魚雷か――が艦内を走り、鋼の軋む嫌な音が断続的に響く。

 次いで浸水の勢いが増した。

 床に腰を打った体勢の紀沙は、頭からそれを被ることになった。

 

 

「……ッ」

 

 

 耳鳴りがして反射的に頭を抑えた、気圧の維持に変調があったのかもしれない。

 その事実の深刻さに、紀沙の胸中に海水よりも冷たいものが突き刺さる。

 これは、もしかしなくとも――――不味いのでは、無いだろうか?

 

 

(これ、もしかして……撃)

 

 

 脳裏に嫌な陰が差した、その時だった。

 

 

「エンゲージ」

 

 

 こう言う時に、ある意味で一番聞きたくない声が聞こえた。

 その声の主はいつの間にか、紀沙のすぐ傍にいた。

 

 

「クラインフィールド飽和率88%」

 

 

 声の主(スミノ)は、瞳の虹彩と顔の紋章を輝かせながら、遠くを見るような眼差しでそこにいた。

 ばしゃばしゃと足音を立てて、目の前にまでやって来る。

 

 

「不急不要のライフライン・エネルギーをカット、確保したエネルギーを発令所、魚雷室、機関室、医務室及び主要区画(バイタルパート)通路に優先使用。使用不可能な部位を区画ごとパージ、再利用可能なナノマテリアルを回収、確保したナノマテリアルを強制波動装甲の修復に使用。リコントラクションスタート――完了。装甲修復率90%を超過。海水の浸水停止、艦内の海水を艦体下層へ排水開始。隔壁閉鎖、再気密、排気、艦内気圧再調整」

 

 

 呟きの間に、お尻と足に感じていた水気が失われていく。

 海水が床下に吸い込まれると共に、壁面を修復して浸水を止めた。

 心なし、浮力と推力も戻ったように思う。

 視界の中にキラキラとした粒子が見えるのは、それが艦を構成する物質(ナノマテリアル)だからだろう。

 

 

「――――とりあえず、艦内の人間の生命維持と最低限の攻撃・ソナー能力は維持しているよ」

 

 

 ふぅ、と息を吐いて。

 しかし、顔の紋章は消えることが無い。

 むしろ強弱の発光を繰り返し、人ならざる翡翠の瞳で紀沙を見下ろしていた。

 

 

「と言っても、それも長くは保ちそうに無いね。何しろエンジンの調子がすこぶる悪いものだから」

 

 

 とは言え、ボクも沈められたくは無い。

 そう言って小首を傾げながら、紀沙へと海水に濡れた手を差し出して来た。

 自分を助け起こすべく差し出されただろうそれを、紀沙はじっと見つめる。

 いつの間にか生じた恐怖心は消えて、胸中から冷たいものは消えて、そして。

 

 

「私だって、お前なんかと心中なんて嫌だよ」

 

 

 そして、意地だけが残った。

 今はそれが何よりも重要なのだと、無意識の内に理解していた。

 だから紀沙は、スミノの手を借りることなく、自分の足で立ち上がったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「遅くなりました!」

 

 

 程なくして、発令所に駆け込んだ。

 その数分の間も攻撃は続いていて、発令所のクルーがその間も頑張ってくれているはずだ。

 だからこそ開口一番、紀沙は遅参を詫びた。

 そこは、息を吐く間も許されない緊迫した状況……。

 

 

 ……のはずだったのだが、まず飛び込んで来たのは良くわからない状況だった。

 具体的に言うと、恋と冬馬が重なり合うようにして発令所の真ん中に倒れている。

 攻撃の衝撃で倒れた風にも見えず、何だか「あっ……」と言うような顔をしていた。

 そしてそれを何やら両手でガッツポーズをした梓が見ていて、彼女達は紀沙の姿を認めるや否や。

 

 

「……侵入した海水を艦の下層部へ誘導します、しかし浸水区画なおも拡大中です!」

「……四方八方から撃ってくるね、いったいどいつから撃ち返せば良いんだい!?」

「……音紋反応はどいつも一緒だ、デコイに近いな。だが攻撃は本物だ、どうする艦長ちゃん!」

「え、ちょっと待って下さいそんな急に言われても」

 

 

 何事も無かったかのように持ち場に戻る3人に衝撃を受けつつも、紀沙は理解していた。

 真面目にやっても、もはやどうにもならないのだ。

 諦めるとかどうとか、そう言う状況では無い。

 何をどうやってもこれは無理だと、そう思っているからだ。

 

 

「これは、群狼戦術ですね」

 

 

 群狼戦術、要は潜水艦が集団で敵艦を攻撃する戦術のことだ。

 旧大戦以後、潜水艦の性能向上と海戦ドクトリンの変化に伴い、下火になった戦術だ。

 現在、これを採る海軍は存在しない。

 まぁ、そもそも今、海でそんな戦術を行えるのは。

 

 

「スミノ、相手は霧?」

「まぁ、そうだね。霧は霧だと思うよ」

「……どういうこと?」

 

 

 また「聞かれなかったから」などと言われても困るので、あえて重ねて聞いた。

 

 

「霧の戦術ネットワークには存在していないから、霧だと言うこと以外はわからないよ。名前くらいかな」

 

 

 霧の潜水艦、『U-2501』。

 それが今、自分達を襲っている敵だ。

 史実によればヨーロッパの艦艇のはずだが、それが何故太平洋にいるのか。

 いや、それも今は良い。

 

 

 問題は、どうしてU-2501が包囲・一斉攻撃が出来るのかと言うことだ。

 スミノが感知しているのはあくまでも1隻、だが一連の攻撃は明らかに10隻以上の潜水艦によって行われている。

 この隠密性、ほぼ魚雷に限定された攻撃手段、全てがそうだと示している。

 

 

「……U-2501の能力は、デコイ――と言うより、分身の多重操作?」

「そこまではボクにもわからない。ただ確かなことは、今は静かだけれど、こうしている間にもボクの鎧は少しずつ剥がされているってことだ」

「…………」

「何をするにしても、早めに決めることをお勧めするよ」

 

 

 早めに決めろとは、よくも言ってくれる。

 ズン、と、再度足元の揺れを感じながら、そう思った。

 間隔が開いてきていると感じるのは、別に状況が好転したからでは無い。

 単に、包囲が完成しつつあるからに他ならない。

 

 

 イ404の動きも、段々と単調になっている。

 操舵を担うスミノの判断は合理性の塊だ、その彼女が動きを単調にせざるを得ないと言うことは、少なくとも機械的な判断において選択肢を狭められていると言うことだ。

 そしてそれは、最終的には選択肢そのものが失われることを意味する。

 

 

「艦長、もはや前進も後退も困難です。敵は、我々が今いるポイントを中心に攻撃陣形を組んでいるようです」

「それでも、まだ私達が沈んでいないのは」

「ボクが頑張っているから?」

「……(なぶ)ってる、ってわけですね」

「どうでも良いけど、嬲るって漢字、どっち主体で見るかでイメージ変わるよな」

「はい、おそらくはそうでしょう」

 

 

 無視されたスミノは、「何だよー」とふてくされた。

 流された冬馬は、「何だよー」とふてくされた。

 正直こんな時に良くそんな余裕があるものだと思うが、状況は深刻だった。

 何故なら、敵の狙いは。

 

 

「スミノ、イ401に……!」

「いや、残念だけど艦長殿」

 

 

 発令所の隅でふてくされていたスミノは、顔だけをこちらに向けて。

 

 

「もう来たよ」

「来たか、やはり」

 

 

 スミノと同じタイミングで、U-2501もそれを捉えていた。

 艦長のゾルダンは感心したように声を上げて、レーダーに映った艦影を眺めた。

 

 

『良い人ね』

「良い人だねぇ」

「そうだな、好ましい。だが愚かだ」

 

 

 仲間への攻撃が自分を誘き寄せる罠だとわかっていながら、来た。

 それはイ401艦長の人柄を表すものではあるが、自分達の包囲下に飛び込んでくるその行為は愚かでしか無かった。

 イ401側からの攻撃が無いことも、彼らがこちらの意図をきちんと読んでいることの証左だった。

 

 

「どうする、ゾルダン?」

「そうだな、もう良いだろう。彼らを撃沈する時と場所が今この場で無い以上、ここで……」

 

 

 その時、ゾルダンの肌がぞわりと粟立った。

 直接的な兆候があったわけでは無い、しかし、感じた。

 

 

『艦長! 急速に膨張する重力子反応を感知しました!』

 

 

 甲高い()()の声と同時に、彼はU-2501に回避を命じた。

 次の瞬間、暗い海中を光の柱が駆け抜けて行った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「――――勘違いしないでよね」

 

 

 艦体(じぶん)の甲板の上に仁王立ちしながら、タカオは言った。

 青空の下、それよりもなお透けて煌く蒼い髪を靡かせながらの発言だった。

 そんな彼女の左右斜め後ろには、それぞれ洋服と中華服を身に纏った銀髪の少女達がいる。

 別に彼女達は何も言っていないのだが、タカオは明らかに彼女達に向けて言っていた。

 

 

 腰に手を当て胸を張っているタカオではあるが、その表情は複雑なものだった。

 人間で言えば、「いろいろな感情がない混ぜになった状態」だ。

 感情表現に乏しい霧の語彙(ごい)では、上手く表現出来ないのは無理も無いことだった。

 しかし、行動は明確だった。

 

 

「何故ですか?」

 

 

 だからこそ、小首をかしげてイ400が問うた。

 

 

「何故、貴女はイ404達を助けるような真似を?」

「言ったじゃない。()()()()()()()()()、って」

 

 

 展開した装甲に兵装――超重力砲用の光学レンズ体――を収納しながら、タカオは言った。

 

 

「私は別に、イ404を助ける気なんてこれっぽっちも無いんだから」

 

 

 情報の疎通に齟齬(そご)があります、と、イ400は思った。

 タカオは「助ける気は無い」と言ったが、しかし彼女の行動は明らかにイ401達の窮地(きゅうち)を救うものだった。

 あの謎の艦艇、U-2501の群狼戦術を跳ね返す術はイ401達には無かった。

 あのまま攻撃が続いていれば、少なくともイ404は最悪の事態も考えられたはずだ。

 

 

 それを覆したのは、タカオの超重力砲に他ならない。

 重力子兵器である超重力砲に理論上の射程は存在せず、そして自分達イ号400型潜水艦の探知距離は数百キロに及ぶ。

 故にこそ、U-2501に探知されずに狙撃することが可能だったのだ。

 

 

「だって、面白くないじゃない」

「面白くない、とは?」

「私達を出し抜いたイ404が、あんなどこの誰ともわからないような奴にやられるなんて」

 

 

 そう、面白くない。

 イ404がやられる、そう思った時、タカオの中に生じた焦りにも似た何か。

 胸をチリチリと焦がすその感覚に耐えることが出来ず、思わずタカオは超重力砲を撃った。

 直撃しなかったのは、もしかすれば「それはそれで何か嫌」とでも思ったのかもしれない。

 

 

「もしやられるなら、私にやられなさいよ」

 

 

 自分以外の誰かに倒されるなんて、認めない。

 タカオの言葉をまとめるとそう言うことになる、それもまたイ400には理解出来なかった。

 

 

「おかしな奴だな」

「五月蝿いわね、私の勝手でしょ」

 

 

 理解できなかったが、代わりに、呆れたように言うイ402に共感を覚えた。

 その感覚は、不思議と彼女の精神を落ち着けてくれる。

 それが何なのかは、やはりまだ言語化できない。

 いつか言語化できるのだろうかと、そんなことも考えた。

 

 

「それで、この後は予定通り?」

「浦賀までキリシマ達を迎えに行くわ、元々そのために移動してきたんだし」

「わかりました。総旗艦の次の指令があるまでは、私達も同行しましょう」

「それこそ勝手にしなさいよ」

 

 

 ふん、と鼻を鳴らす彼女の背中を見つめて、イ400は嘆息した。

 全く、このツンデレ重巡は。

 去り際に何か言いたい衝動に駆られたが、しかし思案がまとまらず、結局何も言わずにその場を去ることにした。

 まだしばらくは一緒に活動するのだから、まとまったら言えば良い、そう思って。

 

 

 そして一方で、タカオは2人が去るのを気配で察しながらも、視線は動かさなかった。

 変わらず、遥か水平線の向こう側の元()()を見つめる。

 今は静けさを取り戻しているそこには、しかしあの2艦がいたはずだ。

 もう探知していないから、何処(いずこ)に消えたか定かでは無いが……。

 

 

「……そうよ、アンタは私に沈められるべきなの」

 

 

 冷たい。

 イ404のことを話していた際には僅かにあった温かさが、そこには微塵(みじん)も感じられなかった。

 冷然と、冷酷で、そして冷徹で、そうした感情を煮詰めたかのように熱い。

 瞳も、機械的と言うには聊か熱を持ち過ぎている。

 

 

()()()()

 

 

 憎い、嗚呼、これが憎悪の感情か。

 怒り、嗚呼、これが憤怒の感情か。

 憎悪と憤怒、タカオが実装した2つの感情は、彼女を苛んで離れることが無い。

 その不快感を払拭する唯一の方法を、タカオは本能的に察していた。

 

 

「よくも、(マヤ)を」

 

 

 叩き潰す。

 完膚(かんぷ)なきまでに、完璧に、完全に、叩き潰す。

 撃沈し、轟沈し、蹂躙し、殲滅し、破壊し、掃滅し、この世界から消滅させる。

 そうして初めて、この不快感は雪ぐことが出来るのだろう。

 

 

 いや、イ401だけでは飽き足らない、乗せている人間(ユニット)もだ。

 確か、何だったか、イ404の艦長と併せて兄妹で艦を率いているのだったか。

 キリシマのアップロード情報によれば、イ404の艦長は()()()()()()()()()と言う。

 ならばイ401の艦長は、自然、残った1人と言うことになるだろう。

 そう、情報によれば、名前は。

 

 

「……()()()()……」

 

 

 その名前を、口の中で転がすように口にする。

 今は名前を口にするだけだが、今に見ているが良い、とタカオは思った。

 近い内に、喰っ(たおし)てやる。

 せいぜいそれまで、誰にも倒されずに生き残っていれば良い、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 超重力砲の出所がタカオだと知らされると、流石の群像も意外そうな顔をした。

 しかし納得もしたようで、何度か頷いていもいた。

 

 

「まさか、霧に助けられるとは思わなかったな」

「霧も一枚岩では無くなってきた、と言うことかもな」

 

 

 杏平にそう応じつつ、自分の言葉に自分で考える所もあった。

 霧も、一枚岩では無い。

 イオナのことを思えばそれは不思議なことでは無い――何故か、イオナは霧のネットワークに今も繋がっているようだが――が、今回はそれとは意味が違う気もした。

 

 

「艦長、敵艦よりメッセージです」

「何だ?」

「……『貴殿らの勇戦に敬意を表す。再戦の日まで壮健なれ』、以上です」

 

 

 静の読み上げたメッセージに、苦笑する。

 今の戦闘で勇戦の部分は碌に無かった、だからこれは過去の自分達の戦績に対するものだろう。

 要するに、「ずっと見ていた」と言う意味も含んでいる。

 自分達はそれに気付かずのうのうとしていたわけだ、そしてもう1つ。

 

 

「オレ達以外にも、霧を手にした者がいる」

 

 

 今回の戦いは、事実上の敗戦と言って良いだろう。

 奇襲を許したこともそうだが、イ404を餌に誘き出されたこともそうだ。

 今後のことを考えるのであれば、これは考慮しておくべきことだ。

 自分の甘さに付け込んでくる、そう言う敵もいるのだと言うことだ。

 

 

 そして今回の敵は、明らかに人間が乗っていた。

 過去の霧ならば、イ404はとっくに沈められていたはずだ。

 それをせずに自分を誘き寄せ、そして先のメッセージ。

 相手は、どうやら自分のことを良く知っているようだ。

 

 

「どうしますか、艦長」

「艦内の状況を確認してくれ。それからイ404の応急措置が済むのを待って、本拠地へ向かう」

 

 

 いったい、何者の意思か。

 こうまで自分の、自分達のことに詳しい者と言うと、そうはいないはずだが。

 考え込んでみても、埒の無いことではある。

 

 

「『ヒュウガ』と合流するぞ」

 

 

 しかしそれでも、考え込んでしまうのだった。

 いったい何者が、自分達にU-2501を差し向けたのか、と。

 いったい、何者が……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――その海は、曇天が多い。

 しかし灰色にも見える海においても、その()()は隠しようも無い。

 全長250メートルを超える暗い色合いの艦体が、曇天の海を進んでいた。

 

 

「……お父様?」

 

 

 その甲板の上を、1人の少女が歩いていた。

 ブーツを履いているようだが、不思議と足音は聞こえない。

 薔薇のコサージュを彩った白の帽子(シャープカ)とコート、小さな体躯を覆うそれらは、透き通るような白い肌を持つ少女を一層神秘的に魅せていた。

 未だ俗世の穢れを知らぬ、無垢なる乙女――――少女を一言で表現すると、そんなイメージだった。

 

 

「お父様」

 

 

 どこかこの世のものとは思えないような、超然とした雰囲気を持つ少女。

 しかしその声音はどこまでも優しく、それでいてからかうような、甘えるような雰囲気があった。

 そんな彼女の視線の先には、舳先に程近い甲板に立つ壮年の男性がいた。

 黒いコートを海風にたなびかせた、顎鬚とバイザーが目を引く男だ。

 

 

 少女の声は聞こえているだろうに、彼は振り向くことをしなかった。

 どこまでも続く曇天の空と灰色の海、その間に広がる水平線の彼方を見つめていた。

 何かを、考えているのだろうか。

 何かを考えているのだろう、何故ならば。

 

 

 

 ――――何故ならば、それが人間なのだから。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

やはり兄を倒すには、妹を人質にするのが有効だと思います。
私も兄ですからね、兄の弱点は知り尽くしているのですよ(え)

それはそれとして、群像達の本拠地についたら、いよいよあれですね。
水着回です(コンゴウ様です)
……あ、本音と建前が。
ところで水着回を変換しようとしたら「見ず議会」になったんですけど、何の暗喩でしょうね。

それでは、また次回。


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Depth013:「硫黄島」

 そこは、無数のモニターに囲まれた部屋だった。

 勘違いしてほしく無いのは、本当に()()()()()()()()部屋だと言うことだ。

 天井も床も壁も、全てがディスプレイとその枠で覆われた部屋だ。

 普通の人間が過ごすにしては、いささか狂気じみた空間だった。

 

 

「…………」

 

 

 そんな中に、異物が2つ。

 1つは割れた卵にも似た形状をした、不思議な機械だった。

 それはふわふわと宙に浮いており、少なくとも人類の科学力でこれを作ることは出来ない。

 西暦2056年になってもなお、人類は重力を無視する方法を見つけられていないのだから。

 

 

 そしてもう1つは、その不可思議な塊に腰掛けている女の存在だ。

 ふわふわとした髪質とは裏腹に、片眼鏡(モノクル)をかけた瞳はどこか冷ややかだ。

 何事をも見通しているが故に、あるいは何事もが予想の範囲内であるが故に、何かに飽いている。

 既知を親とし、退屈を友とし、結果を子とする。

 そんな顔をしていた。

 

 

「……暇ねぇ」

 

 

 そして実際、言葉にもした。

 (あで)やかとでも言おうか、しっとりとした声音だった。

 聞く者の耳に残る(しと)やかな声音は、一度聞けば耳朶(じだ)に残って離れないだろう。

 

 

「あーあ、自立稼動の工場まで作るんじゃ無かったわねぇ。工場もロボも自律しちゃったら、私が手を加える余地が無くなるっての」

 

 

 ごろり、と、奇妙な卵の上で寝転ぶ女。

 隙間から床に白衣が零れ、タイトな衣服に包まれた豊満な身体のラインが露になる。

 吐息を漏らすふっくらとした唇と相まって、酷く扇情的だった。

 そして四方のモニターの輝きが、薄暗い中で女の姿を晒す様は倒錯(とうさく)的ですらあった。

 

 

「――――ん」

 

 

 刹那の瞬間、一瞬だが、確かに女の眼が輝きを放った。

 比喩でも暗喩でも無く、物理的な現象として。

 電子の海、その一端が揺れるかのような輝きを得たのだ。

 

 

「これは、まさか。いえ、間違いないわ。これは、これは」

 

 

 そして響き渡る緊急(エマー)警報(ジェンシー)(コール)

 ある施設の内外の様子を映し出していた全てのモニターが朱に染まり、けたたましい音と共に黒と黄色の警告色を映し出した。

 明滅するそれは人の目には痛いだろうが、彼女の眼にはどうと言うことも無い。

 いや、そもそもにおいて。

 

 

「まさか……!」

 

 

 その施設はもはや、彼女にとって自分自身にも等しい場所。

 そんな存在が彼女を傷つけるはずも、傷つけられるはずも無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 実際のところ、気になってはいたのだ。

 この2年間、兄である群像がどこでどんな生活を送っていたのか。

 いや、「イ401で日本近海を巡っていたんだろう」と言う回答はこの際はナンセンスだ。

 何故ならば、どんなに適正のある人間でもずっと潜水艦で生活など出来ないからである。

 

 

 潜水艦乗りには、水上艦乗りには無い適性と言うものが求められる。

 一言で言うと、「陽の当たらない密室で不特定多数の他人と長時間過ごす」ことだ。

 いかに気心が知れていようが――軍の場合は、そもそも初対面と言うこともあり得る――長い時間を海中で共同生活をしていれば、ストレスも苛々も不満も溜まる。

 それらに対する耐性が無い限り、潜水艦乗りにはなれない。

 

 

「何と言うか……」

 

 

 それで無くとも、人間は長時間太陽の光を浴びなければ体調を崩しがちになる。

 生活面では霧の艦艇であるイ401やイ404は通常の潜水艦とは比較にならない程に充実しているから、その点では多少はマシだが、それでもやはり限界と言うものはある。

 結局、人は地面に足をつけて、太陽の下を歩いてこそなのだろう。

 

 

「これはまた、凄いね」

 

 

 横須賀から南におよそ1200キロの位置に、その島はあった。

 最大標高は約170メートル、東西8キロ、南北4キロの小さな島で、平べったい台地の端にすり鉢状の山がひとつある特徴的な島だった。

 島の中央には旧航空自衛隊の滑走路があるが、そちらは風雨と植物に侵されて使い物になりそうに無い。

 

 

 しかし重要なのは、その()()だ。

 十数隻が同時に接舷できる島内の隠しドックは横須賀のそれと比べても遜色無く、ガントリークレーンや固定アーム、コントロールセンター、物資の集積・集配設備……元は旧海上自衛隊の基地を利用していたのだろうが、見る限り、細かな様式が統制軍のそれとは明らかに違っていた。

 

 

「ようこそオレ達の本拠地(ホーム)へ。我々はキミ達を歓迎する」

 

 

 桟橋を歩き終えると、一足先に上陸していたイ401のメンバーが紀沙達を出迎えてくれた。

 立ったり座ったりと体勢は様々で、迎える表情も笑顔だったり軽快だったり仮面だったり、色々だ。

 対する紀沙達もまた、様々であり色々だ。

 しかし、違う。

 傭兵と軍人、出奔した側と残った側だ、違って当然ではある。

 

 

「ええと」

 

 

 しかし、まぁ、とりあえず。

 艦長たる紀沙としては、ここで群像を始めとするイ401のメンバーに対して言うことは1つだった。

 彼女は自信を窺わせる表情の兄に対して、ひとまず言うべきことを言った。

 ぺこりと、頭を下げながら。

 

 

「お邪魔します」

「ああ、自分の家だと思って(くつろ)いでくれ」

 

 

 そんな真面目な妹に、群像は苦笑を浮かべたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その島の名は、硫黄島と言う。

 かつては自衛隊の基地があった要塞島だが、現在は、傭兵集団・<蒼き鋼>の本拠地となっている。

 ……統制軍に属する紀沙の立場からすると不法占拠と言うことになるのだが、すでに放棄された施設であるので、とりあえず気にしないことにした。

 

 

「うおおぉ……っべー。やべぇっておい。俺、硫黄島って初めて来たわ! おい、写真撮ろうぜ写真!」

「すまないが、写真はよしてくれないか。一応、そう言う規則なんだ」

「まぁまぁ、そう言うなって艦長ちゃんの兄貴さんよ。皆で撮ろうぜ写真、記念写真的な」

「あの、ちょっと冬馬さん。冬馬さんお願いですからちょっと落ち着いて……」

 

 

 そして、実際の所。

 日本の統制軍の艦船が硫黄島に帰港したのは、実に17年ぶりのことであった。

 

 

「さて、紀沙」

「はい、兄さん」

 

 

 梓が冬馬に連続膝カックンを敢行している様を横目に、群像が紀沙に声をかけた。

 

 

「とりあえず、数日はここに停泊する予定だ。白鯨も待たなければならないし、何より404の艦体の修復にも少し時間が必要だろう」

「それは、うん……そう、だね」

「ここにはナノマテリアルの補給設備もある、侵蝕弾頭の供給も可能だ。それからクルーの部屋だが、希望があれば施設内に用意する。どうせ余っているしな」

 

 

 イ404は、U-2501との戦闘でほぼ一方的に攻撃を受けた。

 中枢へのダメージこそ避けたものの――U-2501側が避けたと言う意味もあるだろうが――艦体表層部は深刻な損傷を被っている。

 艦体を縮める等して応急措置は可能だが、根本的な解決にはナノマテリアルの補給が必要だった。

 

 

硫黄島(ここ)でナノマテリアルの補給が出来るの?」

「ああ」

 

 

 言葉少なだが、群像は肯定した。

 ナノマテリアルの補給が出来ることは有難いが、しかし疑問もある。

 そもそも、ナノマテリアルとは何なのか?

 ほとんど何もわかっていないと言うのが、実情だった。

 

 

 そもそも霧がどこから来たのか、何を目的としている者達なのかも謎のままだ。

 2年間をイ401で過ごした兄は、そのあたりのことを何か知っているのだろうか。

 実際に聞いてみようと、続けて口を開きかけて。

 

 

「紀~沙~ちゃんっ」

「わっ」

 

 

 不意に、後ろから誰かが飛びついて来た。

 衣服越しに感じる柔らかさはどこか懐かしく、紀沙は驚いた顔で相手の名を呼んだ。

 

 

「いおりさん」

「久しぶり~、ちょっと背ぇ伸びたね」

「そ、そうかな? そんなに変わって無いと思うんだけど」

「うんうん、立派になっちゃって~」

 

 

 にししと笑う悪戯っ子な笑顔は、学院時代と何も変わっていない。

 スキンシップ好きなところも変わっていないようで、後ろから紀沙の両肩に手を置いて、覗き込むようにして笑顔を見せてくれていた。

 昔も良く「やっぱり抱きつくなら女の子だよね」などと言って、紀沙や真瑠璃に抱きついていた。

 

 

「あの……?」

「え?」

「あ、紹介するね。この子は静ちゃん、401のソナーをやってくれてるの」

「ど、どうも」

 

 

 そしていおりのすぐ傍に、静が立っていた。

 ストレートの綺麗な黒髪の――紀沙にしてみれば、憧れの髪型――可愛らしい女性だった。

 静は緊張しつつも、どこか好奇心をたたえた瞳で紀沙を見つめている。

 

 

(艦長のこととか、聞きたいなぁ)

 

 

 ただ元来、人懐っこい性格と言うわけでは無く、むしろ人見知りする方だ。

 だから結局もじもじするばかりで何も言えず、いおりの苦笑を誘うばかりだった。

 一方で紀沙はと言うと、()()ソナー担当と言う所に興味があった。

 興味と言うか、思う所、か。

 

 

「僧くん、相変わらずマスクなんだね」

「体質なもので」

 

 

 ただ401のクルーとこうして再会できたのは、素直に喜ばしかった。

 静だけで無く思う所はあるが、それでも、旧友との再会は幸福だと思える。

 ……ところで杏平と冬馬が固く握手を交わしているのだが、アレは何なのだろうか。

 何か通じ合うものでもあったのだろうか、ならば別に良いが、嫌な予感がしないでも無い。

 

 

 いずれにしても、硫黄島への寄港に関して特に問題は発生していなかった。

 群像を始めイ401のクルーは紀沙に好意的だし、イ404のクルーもイ401のホームで何か無茶をすることも無いだろう。

 だから、今の所は大きな問題は無い。

 ただ……。

 

 

「はーなーせー!!」

 

 

 ただひとつ、解決不能な問題を除いては、だが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 腕を振り払われたかと思った瞬間、良治は桟橋の手すりに足をかける蒔絵の姿を捉えた。

 蒔絵はそのまま跳躍すると、空中で一回転し、次の刹那には跳び蹴りの体勢で落ちて来た。

 良治の眼が、眼鏡の奥で驚愕に見開かれる。

 彼は片腕を盾にして蒔絵の蹴りを受け止めたが、体重の乗った重さに顔を顰めた。

 

 

(わ、割と強いぞこの()……!)

 

 

 多分、そんなことを考えているんだろうなと思いつつ、紀沙はそれを見つめていた。

 すでに身体検査は済ませているので、蒔絵が隠し持っていた怪しげな薬品――筋弛緩剤や睡眠剤――は取り上げているが、あの身のこなしを見る限り、意外と武道の心得があるのかもしれない。

 と言って、医務官とは言え軍人の良治が遅れを取る程でもあるまい、その意味では心配していない。

 

 

 だが正直、複雑である。

 本来ならばどこかの部屋に軟禁しておくべきなのだろうが、それもしていない。

 相手は幼い女の子であるし、それに紀沙にとって軟禁と言う行為は出来れば避けたいものだった。

 軟禁なんて、するものでは無い。

 

 

「さて、問題はあの子だな」

「うん……」

「何か話は聞けたのか?」

「何も聞けて無いよ、「おじいさま」を探してたってことだけ」

 

 

 念のために健康診断をしたのだが、見た通り元気過ぎる程に元気だ。

 しかし心を開いてくれているわけでも無く、むしろ警戒心バリバリの状態で、それ以上のことは何も話してくれていない。

 だから、ほとんど何もわかっていないも同然だった。

 

 

 いや、本当はわかっている。

 蒔絵の情報について、自分達には知り得ないことを知っているだろう存在。

 スミノ、彼女により深く話を聞けば良いのだ。

 しかし紀沙はそれをしない、したくないのだ。

 艦長としての資質にもとる行為だとわかってはいて、それがストレスの基にもなっていた。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

 群像も、段々とそうした紀沙の心理がわかって来たのだろう。

 聡明な彼は紀沙のスミノ――より言えば、霧への感情についても理解していた。

 そして、自分が言葉をかけるべき問題では無いことも理解していた。

 彼がもう少しだけ愚鈍であったなら、紀沙は救われていたのだろうか。

 

 

「イオナ、ちょっと良いか」

「ん、何だ群像」

 

 

 いや、ある意味で彼は愚鈍であったのかもしれない。

 それは一を聞いて十を知ることが出来る彼の、もしかしたらほとんど唯一の欠点と言えたかもしれない。

 例えば、そう。

 群像がイオナに声をかけた時、紀沙がどんな顔をしていたのか。

 彼は気付くことも、察することも出来なかったのだから。

 

 

「刑部蒔絵と言う名前で、何か気付くことは無いか?」

「オサカベマキエ? ん~……」

 

 

 瞳の虹彩を輝かせて、イオナは良治にローキックを喰らわせている蒔絵を見つめた。

 蒔絵の身体構造をスキャニングすると同時に、人類のネットワークの中から該当すると思われる情報をリストアップする。

 日本政府の国民番号リストの中には、それらしい該当者はいなかった。

 

 

 だからイオナは、名前では無く蒔絵の身体構造――特殊な脳構造――から情報を辿った。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()、該当する技術を見つければ後は早い。

 素性(プロフィール)はともかく、蒔絵がどう言った存在であるのかはわかった。

 

 

「彼女は……」

「……<ゲノムデザインプラン>。その7番目の成功例、通称<デザインチャイルドナンバー7>。先端工学に特化した脳構造と身体を与えられた素体ですわ」

 

 

 イオナを遮って、涼やかな声が聞こえてきた。

 その人物は施設側からこちらへとやって来ており、明らかに紀沙や群像達と違い、最初から島にいたことがわかる。

 照明の輝きに片眼鏡がキラリと輝き、染み1つ無い白衣を翻して歩いている。

 

 

「つまりその子は、人間よりもむしろ私達に近しい存在と言えるわ」

 

 

 その女性は群像達の前までやって来ると、にこやかな笑顔と共に片眼鏡を指先で押し上げるような仕草をした。

 まるで、そうすることが当たり前と思っているかのような仕草だった。

 

 

「こんにちは艦長、遅いお戻りでした。そして初めましての方々はお初に。私は『ヒュウガ』、この硫黄島の管理を任されております」

 

 

 にこりと作り物めいた笑顔を浮かべる彼女は、自らを『ヒュウガ』と名乗った。

 ――――霧の大戦艦『ヒュウガ』、そのメンタルモデルである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大戦艦『ヒュウガ』と言えば、霧の艦艇の中でも名の知れた存在である。

 具体的に言えば日本近海の巡航艦隊の旗艦の1隻であり、現在で言えば『コンゴウ』と同格の存在だった。

 あの『キリシマ』や『タカオ』を麾下に置いていたと言えば、凄さが伝わるだろうか。

 

 

 統制軍においては、ヒュウガと彼女の指揮する艦隊はまさに、自分達の身を締め上げる大蛇の尾であった。

 しかし彼女がこうして硫黄島にいることからわかるように、ヒュウガとその艦隊はすでに存在しない。

 イ401とそのクルーによってヒュウガが撃沈され、艦隊が解体されてしまったからだ。

 その報せがもたらされた時の統制軍の衝撃たるや、言葉に出来ないものがあった……の、だが。

 

 

「ああっ、イオナ姉様! ヒュウガは、ヒュウガは姉様のお帰りを一日千秋の想いでお待ち申し上げておりましたぁ――っ!」

 

 

 ……なんだあれ。

 何と問われれば、起きていることは明らかである。

 ヒュウガが跪いてイオナのお腹のあたりに抱きつき――メンタルモデルの外見的には、ヒュウガの方はずっと背も高く大人びている――頬をすり寄せている、イオナの衣服の中に手を差し込んでもいた。

 明らかに、親愛のハグと言うには情熱的に過ぎた。

 

 

「……兄さん、何あれ」

「ん? ああ、ヒュウガはイオナのことを気に入っているんだ」

「え、あれってそう言うことなの?」

「まぁ、確かに独特な所はあるな」

「独特……?」

 

 

 あれを果たして独特と呼んで良いのだろうか。

 今やイオナに顔を踏まれて嬌声すら上げているヒュウガだが、あんなのに海洋封鎖されていたとか思いたく無かった。

 スミノやイオナと比べても、余りにも感情表現がぶっ飛んでいる。

 

 

 そして兄である群像は、それに慣れているのか――あるいは、単純に気付いていないのか、実に鷹揚(おうよう)な態度で接しているようだが。

 正直なところ、紀沙には理解し難い存在だった。

 仮にスミノがあんな風であれば、紀沙はイ404に乗っていなかったかもしれない。

 

 

「ヒュウガ、良く島を守ってくれたな」

「ああん、姉様ぁ……んぁ? ああ、はい艦長。ご無沙汰しております。ええ、半年間特に何事も無く、ここは平和そのものでした」

 

 

 群像が声をかけると、ヒュウガはイオナに顔を踏まれたまま手を挙げた。

 やはりと言うか何と言うか、ダメージを受けたりはしていないようだった。

 

 

「早速ですまないが、イオナの整備を頼「姉様ぁっ!」「こっちじゃない、あっち」む。それから――イ404の修復と整備も同時に頼みたい」

「404……?」

「ボクだよ」

 

 

 いつの間にそこにいたのか、紀沙の隣にスミノが現れた。

 彼女はヒュウガと目を合わせると、いつも通りの笑顔を浮かべて。

 

 

「よろしく、ヒュウガ」

「――――ええ、よろしく」

 

 

 容姿だけはイオナにそっくりなメンタルモデル、スミノ。

 そんな彼女の登場に、意外か、あるいは予測通りか、ヒュウガは特に騒がなかった。

 ただイオナの靴跡を頬に残したまま、虹彩の輝く瞳を細めていた。

 その視線は、スミノから外れることが無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そう言えば、霧の艦艇の整備風景を見るのは初めてだ。

 結局のところ、横須賀やその他での人の手による整備や補給は、霧の艦艇にとっては意味の無いものだったのだと、そう思える光景だった。

 灰色の艦体の下層部が縦に割れ、装甲を左右に広げて展開している光景。

 

 

「……余り見ないでくれないかな、流石に恥ずかしい」

 

 

 とは言え、頬を染めてそんなことを言われるとげんなりとしてしまう。

 幼めの外見の少女が恥ずかしげに顔を赤らめる姿は、それは確かに可愛らしいのかもしれないが、紀沙にしてみればそれが「スミノである」と言うだけで全てが台無しだった。

 ちなみに今何をしているのかと言うと、スミノ――いわばイ404の分解点検である。

 

 

 ヒュウガが奇妙な機械に乗って宙に浮かび、オーケストラの指揮でもするかのように両手を忙しなく動かすと、それに合わせてイ404の装甲が開き、またキラキラとした粒子が舞う。

 良く目を凝らしてみれば、同じ輝きを放つ糸のような物がヒュウガの十本の指から伸びていた。

 どうやらそれがイ404の艦体と繋がっているようだが、紀沙には良くわからなかった。

 

 

「ねぇ、兄さん」

 

 

 ここは、まるで霧の島だ。

 何処(ここ)からも其処(そこ)からも、霧の気配が濃い。

 

 

「どうして、硫黄島(ここ)にはナノマテリアルがあるの?」

 

 

 そもそも。

 

 

「ナノマテリアルって、何?」

 

 

 謎、未知の物質、霧だけが知覚できる存在。

 人類は未だにその正体はおろか、それがどこから来ているのかもわかっていない。

 

 

「まぁ、実のところを言えば、オレ達にも良くわかっていないと言うのが実情だ」

 

 

 ポケットに手を入れて立ち、イ404の点検作業を見上げながら群像が言った。

 2年と言う間を霧と共に過ごしても、霧のことはわからないことの方が多いと。

 

 

「ナノマテリアルについてわかっていることと言えば、オレ達が知るどんな物質よりも流動的かつ柔軟で、極めて代替性と汎用性が高いと言うことぐらいだ。そして……海中にしか存在しない」

「海中?」

「ああ。と言っても、同じ海中でも濃度の濃い場所薄い場所があって、海ならどこにでもあると言うわけでも無いらしいんだが……イオナ」

 

 

 そして、ああ、まただ。

 胸にちりちりとした違和感を覚えて、紀沙は兄の視線を追いかける。

 そこには当然のように、あの銀髪のメンタルモデルがいた。

 それこそ当たり前のように、群像の傍らにいつもいる。

 

 

「お前たち霧にとって、ナノマテリアルはどう言うものなんだ?」

「……うーん。こう、何と言うか、お前たち人間にとっての空気、いや血液と言った方が近いな」

「血液?」

「お前たち人間は、血液を循環させることで生命を維持しているだろう? それと同じだ」

 

 

 普段は意識することは無いが、自らの内に確かに存在する生命の源。

 失われれば動けなくなり、しかし輸血等の方法で補給すれば復調する。

 なるほど、確かに霧にとってのナノマテリアルと共通する部分もある。

 そして、もう一つ。

 

 

 霧であるイオナにすら、ナノマテリアルの由来はわからない、と言うことだ。

 何故か? では問おう。

 ――――貴方の身体に流れる血液は、どこから持ってきたものですか?

 その問いに答えられる人間が、はたしてこの世に存在するだろうか。

 群像の問い、そして紀沙の疑問は、霧にとってはそう言う類の質問なのだろう。

 

 

(……そう言えば)

 

 

 ぼんやりとイ404の点検作業を見上げながら、紀沙は思った。

 そう言えば、スミノもそう言う問いかけには「人間の言葉で説明するのは難しい」と言っていた。

 あれは、そう言う意味合いも含んでいたのかもしれない。

 

 

「何かな、艦長殿?」

 

 

 そう思って視線を向ければ、いつもの薄っぺらな笑顔。

 意味も何も無い、ただ答える気が無かったのだと、そう思えてきた。

 

 

「ボクに何か、聞きたいことでもあるのかな?」

「……何も無い。強いて言うなら静かにしていて」

「そうかい。……それは残念」

 

 

 片や、感情を押し殺したかのような声。

 もう片方は、どこかつまらなそうな、不貞腐れたような声。

 それら2つの声を耳にして、群像は妹の横顔を見つめた。

 そこに映っていた色を、はたして彼は今度こそ読み取れただろうか。

 かつて幼馴染の少女――琴乃に「人付き合いがなっちゃいない」と言われた、彼は。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 平べったく、端の山の存在が特徴的な硫黄島。

 それは数十キロ先からでも観測でき、見つけてしまえば他の島々と同様、どうと言うことも無い島に思えた。

 少なくとも、硫黄島を観測する霧の艦艇にとってはそうだった。

 

 

「あはっ☆ 着いた、着いたよぉ!」

 

 

 広大無比な灰色の海上、そこに「黄色い」と表現するに相応しい甲高い声が響き渡った。

 ()()()()()()17、8歳程度の見た目だろうか、サイドテールの赤い髪が目を引く少女だった。

 だが少女の足元には200メートルを超える鋼の艦体があり、他に人気は存在しなかった。

 まして彼女の服装は赤い金魚が染め抜かれた黒の浴衣、余りにも場違いだ。

 

 

 彼女は額に手を当てて、彼方を見るような仕草をしている。

 実際、その視界は数百キロ先にまで及ぶ。

 水平線に微かに顔を覗かせる島であろうと、彼女の眼を以ってすれば隣にいるが如くだ。

 波頭に揺れる艦体の上で、それに合わせてサイドテールが揺れた。

 

 

「でもこれ以上近付くと、ヒュウガに感知されちゃうよねぇ。なら、これ以上は近付かない方が良いかなぁ? ねぇ、どう思う?」

「『…………』」

 

 

 霧が、立ち込める。

 灰色の海面を白い靄が這い、指で白絹を撫でるかのように広がりを見せていく。

 当然のこと、それはサイドテールの彼女の周囲にも及んでいる。

 いや、そもそもの発生源が彼女――達、だ。

 

 

「…………」

 

 

 左隣、少女と良く似た艦形の艦艇がいた。

 重厚な連装砲を5基備えた重巡洋艦であり、その甲板にはやはり1人の少女が立っている。

 黒のロングヘアに、シックな白黒のエプロンドレスを身に纏った少女だ。

 蝋で固めたように表情が動かない代わりに、頭の猫耳がピコピコと動いていた。

 彼女の名はクマノ、霧の重巡洋艦『クマノ』のメンタルモデルである。

 

 

『…………』

 

 

 そして右隣、他の2艦よりやや細身で長い艦形の艦艇だ。

 霧の濃度が他の2艦よりも多く、そしてこちらにはメンタルモデルの姿は見えない。

 ()()の名は『チョウカイ』、重巡洋艦でありながらメンタルモデルを形成していない異色の霧の艦艇である。

 

 

「攻撃すれば良いって? あはっ、そうだよねぇ。でもダメだって。勝手なことするとコンゴウ様が怒るもん」

 

 

 そして浴衣の少女はスズヤ、霧の重巡洋艦『スズヤ』のメンタルモデルだ。

 彼女達3人は今スズヤが言ったように、コンゴウの命令で硫黄島に進出して来ていた。

 コンゴウは緻密な計算や戦術を好み、予定外を嫌う。

 また彼女達は兵器、命じられたこと以上をすることはそもそも好まない。

 

 

「コンゴウ様が怒ると、本気で怖いんだから。何で皆、そんな簡単なことがわからないんだろうねぇ。ヒュウガもイ401もイ404も、何で人間なんかと一緒にいるんだろうね」

 

 

 なのでそれ以上は近付かず、適度な距離を保った位置でスズヤ達は投錨した。

 霧の重巡洋艦3隻の監視と巡回、それは嵐の到来を予告するには十分なものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 こう言うことも、九死に一生と言うのだろうか。

 横須賀沖に通じる水道、浦賀は、数隻の霧の艦艇による戦闘の爪痕を未だ残していた。

 透明な箱でも上から押し付けたかのように切り立った海水に――外から海底が見える、端から落ちる海水はまるで大瀑布――水底に覗く鋼の残骸。

 

 

 これでは、船舶の通行すらままならないだろう。

 最も、人類の船舶が水道を通ることはほぼ皆無ではあるのだが。

 そしてこの世の奈落とも言うべきそんな場所に、タカオはイ400とイ402を伴ってやって来ていた。

 目的は一つ、キリシマたち派遣艦隊との合流のためである。

 もちろん、彼女達が日本沿岸に近付くことを邪魔する者は存在しない。

 

 

「いやぁ~、死ぬかと思ったよ! あれが死の恐怖って感情なんだね!」

「実際、かなり危なかった」

 

 

 欠片も恐怖を感じていない顔でそう言うのは、マヤだった。

 艦体はイ401の超重力砲によって吹き飛んでしまい、今の彼女はメンタルモデルだけの状態である。

 どこかでナノマテリアルを補給するまでは、この状態でいるしか無い。

 ちなみに半壊したハルナの艦体をナノマテリアルに還元していなければ、メンタルモデルすら維持出来なかっただろう。

 

 

 そしてハルナもまた、キリシマの甲板上にる。

 彼女自身はマヤ程ダメージを負っているわけでは無いが、航行に支障が出ているため、ナノマテリアルを回収してキリシマに積み込んでいた。

 敗戦処理と言えば、まだ聞こえは良いのだろうか。

 

 

「すまないな、わざわざ」

「……いえ、私達はついて来ただけなので」

 

 

 400の知る限り、キリシマは我が強く直情的な傾向がある。

 そのキリシマが会うなりそんなことを言うものだから、率直に言って驚いた。

 良く言って、妙に素直な様子だった。

 メンタルモデルを得て少なくない時間を過ごした今、キリシマは400の知らない何かを得たのかもしれない。

 

 

「ナノマテリアルの回収は済んだのか?」

「まぁな、時間だけはあったからな。ただ、おい、あれはいったいどうしたんだ?」

 

 

 402の問いかけには鷹揚に返した。

 しかし、その後でキリシマは別の方を見た。

 そこにはさっきまでマヤがいたはずなのだが、今は姿が見えない。

 

 

 何故、姿が消えたのだろう。

 その疑問はすぐに氷解した、マヤは甲板から消えたわけではなかった。

 こともあろうに、彼女は押し倒されていたのだ。

 マヤを押し倒した人物、それは――――。

 

 

「マヤぁっ! アンタ何て姿に。でも無事……じゃないけど、とにかく無事で良かったぁ!」

「え、えええぇ? た、タカオお姉ちゃん何? 何で!? どうしたの!?」

「どうしたじゃないわよ、バカ! 心配したんだからね!」

 

 

 タカオだった。

 彼女は無事なマヤの姿を認めるや否や突撃――もといハグをして、勢い余って押し倒してしまったのである。

 一方のマヤはと言えば、尻餅をついた体勢で目を白黒させながら、腕の中でわんわん泣くタカオを見ていた。

 

 

「……いや、本当になんだよアレは。本当にタカオか? あんな奴だったか?」

「それが、ここに来る途中で何か妙なプログラムをインストールしてからあんな調子でな」

「変なプログラム?」

「ええ、何と言いましたか、確か……」

「ああ、マヤ。無事で良かったああぁっ!」

「う、うええええぇぇ?」

 

 

 小首を傾げて、400は言った。

 背景では未だタカオがマヤを抱き締めていて、そして自身は402と手を繋いだままで。

 

 

 

 

「――――シスコンプラグイン、とか」

 




投稿キャラクター:

カイン大佐様:スズヤ(霧)
haki様:クマノ(霧)
ゲオザーグ様:チョウカイ(霧)

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
つまり今回から、タカオは私の代弁者となるわけです(え)
シスコンプラグインの恐ろしさを見せてくれるわ~。

と言うわけで、次回こそ水着回です。
よーし、やるぞー(ふんす)


P.S.
単行本12巻を読みました。
やっべーかっけー、と言うわけで遅くとも来月には原作に追いつくと思います。
そこからが勝負ですね!


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Depth014:「ビーチと問いと」

予告通り、今回は水着回です。
以下の点に特にご注意下さい。

① R15描写が入る可能性があります。
② いわゆる兄妹もの描写が入る可能性があります。

以上の点にご注意頂いて、どうぞ。


 最近、紀沙のことを考える時間が増えた。

 北は、ふとそんなことを考えた。

 

 

「急げ――――! 出航するぞ――――!」

「最終点検、もたもたするな――!」

 

 

 眼下では、巡航モジュールに換装した『白鯨』がある。

 すでにドックに海水の注入が始まっており、一面ガラス張りの壁が間に入っていなければ、強い潮の香りを感じることが出来ただろう。

 海水の中にすでに艦体の下3分の1を沈めた白鯨の艦体、その上部ハッチ周辺では、巡航モジュールの微細タイルの最終点検を行う作業員達の姿も見える。

 

 

 その中に、上陰の姿も見えた。

 ハッチ近くで艦長の駒城、そして海兵隊のクルツと何事かを話している様子だった。

 色々と、言い含めておくことがあるのだろう。

 

 

「まぁ、私も人のことは言えんがな」

「全くですな。いや、まさか貴方の方から声をかけてくるとは思いませんでしたよ」

 

 

 横須賀の地下ドックを臨む会議室、そこには北だけで無く浦上もいた。

 彼もまた派遣艦隊の一員として――と言うより、事実上の全権大使として――随行する予定の男だった。

 北、そして浦上。

 直接に戦場を共にしたことは無かったが、千早兄妹の父・翔像を知る数少ない人間の1人だった。

 

 

「てっきり、自分は上陰()()側だと思われていると思ってたんですがね」

「そう言うくだらん派閥思考に染まっていないと思ったから、呼んだのだ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいですがね」

 

 

 不意に、ガラス越しに視線を感じた。

 感じたと言っても視線に圧力があるわけでも無く、単に北が気にしたと言うだけだ。

 ドックと白鯨を繋ぐ橋にいる黒髪の女性――真瑠璃を。

 彼女はじっと壁際に立つ北に視線を向けており、北もまた彼女を見つめていた。

 北が静かに頷きを返すと、真瑠璃は背を向けて駒城達の下へと駆けて行った。

 

 

「それで、ご用件は? 見ての通り、出航が間近なもので」

「わかっている」

 

 

 ……顔を見ない日々が続くと、むしろ考えることが多くなる。

 年を取った証とでも言おうか、最初に会った時のことなどを思い出したりもするのだ。

 余りにも余りで、北をして捨て置けないと思ってしまう程だった頃のことを。

 あの少女の本質を、根っこの部分を。

 

 

 知っていて、北はイ404を紀沙に与えた。

 あの少女の心の奥底のどす黒い感情を、澱んだ気質を利用しようと考えた。

 そうすることが、全てにとって良いことだと確信していたからだ。

 

 

「浦上中将、頼みたいことがあるのだ」

 

 

 北はスーツの内ポケットからある物を取り出すと、指で挟んだそれを浦上に示した。

 訝し気な顔をする浦上、それは。

 

 

「……それは?」

 

 

 それは、一通の封筒だった。

 政府の印章が押された、封筒だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 言わずと知れたことだが、硫黄島は南の島である。

 そして今は夏、昼間の気温は留まる所を知らず――温暖化の影響もあり――高く、砂浜を照り付ける太陽はまさに肌を焼いてくる。

 しかし冬馬や杏平にとって、そんなものはさして気になるものでは無かった。

 

 

「……暑いな」

「ああ……」

 

 

 2人は、輝く白い砂浜に仁王立ちをしていた。

 共にトランクスタイプの水着を着用し、じりじりとした太陽の下、何かを待っている様子だった。

 砂浜には彼らが用意したのか、あるいは最初からあったのかはわからないが、パラソルやデッキチェア、シートや飲み物の詰まったクーラーボックス等が置かれていた。

 

 

「いやぁ、私も南の島でバカンスなんて初めてですよ」

「あ、僕ライフセーバーの免許も持ってるんで。溺れたら呼んでね」

 

 

 恋も良治もいた。

 ショートボクサータイプの水着を着用している恋はともかくとして、水着の上に白衣をわざわざ着ている良治は何なのだろうか。

 軍人だけあって冬馬達も含めて流石に良い身体つきをしている。

 だが杏平や冬馬にとっては、そんなことはやはりどうでも良いことだった。

 

 

 彼らにとって重要なことは、もっと他にあった。

 より重要なことは、完璧なまでの海水浴の準備では無い。

 準備とはいつだって、その後行われる本番のためにあるのだから。

 そして待つこと10分程――その間、炎天下の下で彼らは静かに待っていた――もしただろうか、ついにその時がやって来た。

 

 

「よっ、お待たせー」

「悪いね、準備させて」

「「「「キタアアアァァァ――――ッッ!!」」」」

 

 

 手を振りながらやって来た声に振り向いた途端、火がついたような歓声が上がった。

 こう言う場合も黄色い声と言えば良いのかはわからないが、とにかくそんな声だった。

 そして細身だが意外と豊かな胸元を黄色のビキニで覆ったいおりは、それに対して露骨に引いた顔をした。

 

 

 そして偏見かもしれないが、女性の感情は伝播する。

 いおりが杏平を呼びに来たのと同様、冬馬を呼びに来た梓もいおりと同じような顔をしていた。

 しかし、杏平や冬馬は気にしなかった。

 何故なら彼らにとって、この瞬間こそが何よりも大事なものだったのだから。

 

 

「おー! いつもタンクトップで見慣れてたからどうかと思ったけど、お前も結構イケてボッ!?」

「うっさい、死ね変態!」

「ヒャッハーッ! 梓姉さんの普段は軍服に隠れた素肌がたまらボッ!?」

「ふんっ!」

 

 

 梓はドイツ系の血が混ざっているせいか、全体的に身長が高くがっしりとしている。

 豊満な肢体の下には確かな筋肉があり、躍動するそれは野生の女豹にも思えた。

 ストライプ柄のビキニにデニム地のショートパンツを合わせたタイプの水着は、大人の女性、それも鍛え上げられたアスリートのような肢体を慎ましやかに覆っている。

 

 

 まぁ、冬馬の鳩尾に的確に叩き込まれたその拳は、男性の腹筋を貫く程に強烈だったが。

 しかしうつ伏せに倒れた冬馬の右手は親指を立てており、それはいおりに脇腹を蹴られ仰向けに倒れた杏平の左手と同じ形をしていた。

 この2人、この短期間で心を通わせ過ぎである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 拝啓、北のおじ様。

 夏真っ盛りな今日この頃、おじ様はいかがお過ごしでしょうか。

 紀沙は今、南の島で海水浴に来ています。

 

 

「何で私、こんなことしてるんだろう」

「あらぁ、たまには息抜きも必要よ~」

 

 

 半ば現実逃避する気分で、紀沙は透けるような青空を見上げていた。

 ギラギラと輝く太陽は眩しく、自然と額に汗が滲む。

 人の手の入っていない浜辺はまさに天然のビーチであって、海水浴をするにはうってつけではあった。

 

 

 しかしそうは言っても、紀沙は軍人である。

 いくら上官の目が無いとは言え、またイ404が整備中であるとは言え、海水浴などして良いものなのだろうか。

 とは言え冬馬達に許可したのは紀沙であって、今さらどうこう言う資格は無かった。

 あおいが言うように、息抜きが必要と言うのも理解していると言うのもあるが。

 

 

『今後共に任務に当たる上で、互いの親睦を深めるのはとても大事なことなんだ。そのためには海水浴が一番適している、いやそれしか無いと言っても良い。と言うかこんな島でそれ以外に何がある? いや無い。だから艦長ちゃん、これは必要なことなんだ。この困難な任務を達成するためには、むしろ絶対に必要なことなんだ! わかってくれるか? いやわかってくださいお願いしますこの通りです何でもしますから……!』

 

 

 何よりも、冬馬の勢いに押し切られた。

 まさか土下座までされるとは思わなかった、そこまでされたら否とは言えなかった。

 そして今は杏平と一緒になっていおりや梓を拝み倒している、何が彼らにそこまでさせるのだろうか。

 正直、色々と諦めの境地に達している紀沙だった。

 

 

「と言うか紀沙ちゃん、ダメじゃない」

「え?」

「せっかくの海なのに、そんな格好じゃダメよ~」

 

 

 そんな格好と言われるのは、正直に言って心外であった。

 紀沙が着ているのは統制軍の作業着であって、上は半袖の白いシャツ、下は深緑色の作業用パンツと言う出で立ちだった。

 と言うのも、この後ドックに戻る気でいたのである。

 

 

「あのね紀沙ちゃん? トーマくんはね、貴女に休んで欲しくてあんなことを言ったのよ?」

「いや、あれをそう受け取るのはちょっと……」

「照れ隠しよ~」

 

 

 絶対に違うと思う。

 

 

「それに私、水着持って無いんで」

「あら、わたし達もよ~?」

「え、じゃあ、その水着は?」

 

 

 梓にしろ冬馬にしろ、そう言えば他の面々は水着を持っていた。

 あおいも、やけに布面積の少ない桃色のビキニを着ていて――と言うか、布が少な過ぎて色々とはみ出しやしないかと心配になる――白い肌を惜し気も無く晒していた。

 イ404への持ち込み品のリストはクルーの物も含めて頭の中に入っているが、水着は無い。

 まさか全員が予め私物として持ち込んだわけでもあるまい、と言うかそう思いたい。

 

 

「スミノちゃんに、ナノマテリアルで作って貰ったのよ~」

 

 

 その答えは予想していなかった。

 と言うか、ナノマテリアル万能過ぎだろう。

 いやそれ以前に、ナノマテリアル製と言うことは、何かが間違えば解けると言うことだ。

 それは非常に危険では無いだろうか、いや危険だ、危険なのだが。

 

 

「紀沙ちゃんの分も、たくさん作って貰ったのよ~♪」

「いや、本当に私は……って、うわ多っ!? 何たってそんなに作ったんですか……!?」

「選びきれなくて~♪ これなんてどうかしら? やっぱり10代の内に肌は見せなきゃね~」

「いや、その理屈はおかしいですし。それに着替えませんし」

「えぇ? でも401の艦長さんもいるわよ~?」

「え!?」

 

 

 若干のショックを受けた顔で、まさかと思い振り向いた。

 すると、そこには……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早群像は、仲間の要望に対しては割と寛容な方である。

 と言えば聞こえは良いが、単に本人に関心が無く、良く言って素直なだけだった。

 杏平の必死の提案――と言う名の懇願(こんがん)――にも、「そうか」と二つ返事だった。

 

 

「いや、すまない。キミの祖父のことについては、オレにもわからないんだ」

 

 

 そして紀沙と同じように作業服姿ではあるが、彼女のように働き詰めようと言うわけでは無い。

 今は端末も横に置き、パラソルの下、シートに座ってゆっくりしている所だった。

 なお、この場で水着姿の女性陣に対して特に反応を示していない唯一の鉄人(ぼくねんじん)だった。

 そんな彼が困惑の表情を示す相手、蒔絵だった。

 

 

「嘘だ! ローレンスはおじいさまがイ401に乗ってアメリカに行くって言っていた!」

「そのローレンスと言う人についても、オレ達は聞いたことが無いんだ」

「でも、ローレンスは……!」

 

 

 困り顔を浮かべる群像に、嘘は無い。

 それが蒔絵にも伝わったのだろう、彼女は悔しげな顔で群像に背中を向けた。

 そのまま走り去る蒔絵の姿に、群像は難しい顔をする。

 正直に言えば、蒔絵の存在はそのままリスクになる。

 

 

 イオナやヒュウガの話を聞く限りは、そう言う判断になる。

 ただ、群像にとっての最大のリスクはそれでは無かった。

 彼にとっての最大のリスク、それは……。

 

 

「に、に……に!」

「うん?」

「――――ニイサン!?」

「うおっ!?」

 

 

 後ろから大きな声がして、さしもの群像もビクリと肩を震わせた。

 何事かと振り向けば、そこにいたのは紀沙だった。

 いや、別にそれは大したことでは無い。

 妹がそこにいると言うだけで驚く程、群像は薄情では無かった。

 

 

「…………」

「あ、あの……」

 

 

 ただ、妹の姿には驚いた。

 水着姿である。

 いや、別にそれも驚くべきことでは無いのかもしれない。

 ただ意外と言うか、見慣れていないだけだ。

 

 

 露出の少ない、キャミソールとホットパンツを合わせたタンキニと言うタイプの水着だ。

 もちろん、群像に女性用の水着の種類がわかるはずも無い。

 桃色の生地に白の水玉が入った水着で、スカート部がフリル状になっている。

 少し子供っぽいと思えなくも無いが、可愛いらしい水着だ。

 正直、作業服と露出の度合いは変わらないはずだが、紀沙はゆでだこのように顔を紅くしていた。

 

 

「どうかしたのか、紀沙?」

 

 

 それでもとりあえず、声をかけた。

 と言うより、他にするべきことが思い浮かばなかった。

 

 

「あ、あの……あのね? あの、あああの」

「ああ」

 

 

 そして、何だか良くわからないが、とりあえず待った。

 何か言いたいことがあると言うのはわかったから、言ってくるのを待った。

 別にそれは苦では無かったし、目を泳がせて視線を合わせない紀沙がおかしくもあった。

 いったいこの妹は、何を言い出すつもりなのだろうか。

 

 

「あの……あの、これっ!」

「うん?」

 

 

 後ろ手に隠し持っていたらしいそれを、群像の顔の前に突き出す。

 若干下がりながらそれを見る群像、紀沙が両手で差し出した小さなボトルには、パッケージにこう書かれていた。

 

 

「これ、これを、ぬ、塗ってくれないかな!?」

 

 

 ――――サンオイル、と。

 

 

「……」

「…………」

 

 

 何となく、沈黙が場を支配した。

 紀沙は目を閉じてオイルの容器を差し出しているため、群像の顔を窺い知ることは出来ない。

 どんな顔をすると思ったのかは定かでは無いが、当の群像は純粋な驚き以外の表情を浮かべていなかった。

 

 

 彼は女性顔負けの長く綺麗な指先で顎に触れると、少し考え込むように眉を動かした。

 オイルのパッケージをじっと見つめて、何かを思いついたのだろう、顎から指を離す。

 そして、言った。

 

 

「その水着の構造だと、少し塗りにくいんじゃないか?」

「……ッ!」

 

 

 何故か、妹は脱兎の如く逃げ出した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あおいさん、これやっぱり何か違いますよ……!」

「あらぁ? おかしいわねぇ~」

 

 

 顔を真っ赤にして詰め寄る紀沙に対して、あおいは頬に指を当てて首を傾げた。

 それから、ああ、と言う顔をして傍らの衣装箱からごそごそと何かを取り出すと。

 

 

「やっぱり、水着がダメだったのね~」

「違いますよ! そもそも何で兄さんにオイル要求なんですか、そっちの方が間違ってるでしょ!? あとこの水着は可愛いじゃないですか!」

「じゃあ、次はお姉さんの選んだ水着にしましょうね~」

「聞いてくださいよおおおぉ!」

 

 

 余りにも興奮しすぎて、地団太を踏みかねない程だった。

 いや、実際に踏んでいる。

 紀沙はそれだけ理不尽を感じていたのであって、他にそれを表現する術を持っていなかった。

 少し離れた位置で、兄がこちらをじっと眺めていると言うことに気付けない程に。

 

 

 加えて、あおいが取り出した水着に顔色がさらに紅くなる。

 何しろあおいが選んだ水着は、ビキニタイプの赤い水着だった。

 いわゆる三角ビキニと呼ばれるタイプで、当然、その分だけ布地は少ない。

 今の水着が普通の洋服と遜色無いレベルであると思えば、かなり過激な部類に入るだろう。

 

 

「これなら結び目も紐だから、オイルを塗って貰う時にも邪魔にならないわぁ♪」

「邪魔にならないわぁ♪ じゃないですよ! ダメです、大体それ私の下着(インナー)より布地が少ないじゃないですか!」

「あ、今の声マネ可愛いわぁ。ね、ね、もう1回言って?」

「ああぁもおおぉ……!」

 

 

 遊ばれている、いや弄ばれている。

 それがわかっていても、口ではどう頑張っても勝てそうに無かった。

 そしてあおいが自分の選んだ水着を本気で紀沙に着せようとしていることも、わかっていた。

 しかし、紀沙は断じてあんな露出度の高い水着を着るつもりは無かった。

 

 

「良い? 紀沙ちゃん」

 

 

 ところが、至極まじめな顔をしたあおいが紀沙の両肩を掴むと、余りにも真剣な顔に思わず口を閉じてしまった。

 未だかつて無いあおいの雰囲気に、思わず生唾を飲み込んでしまった。

 

 

「これはね、日本のためなの。国益のためなのよ」

「こ、国益?」

「イ401は千早群像艦長の下、目覚しい活躍を見せているわ。元々はどっちも日本に属していたのだから、戻ってきてくれたら日本にとってこれ以上の利益は無いし、紀沙ちゃんだって嬉しいでしょ?」

「そ、それは、まぁ……」

 

 

 むしろそれは、紀沙が今1番望んでいることでもある。

 兄が戻ってきてくれるなら、紀沙はどんなことでもやってのけるだろう。

 それだけ、紀沙が群像に向ける感情は強いのだ。

 

 

「だからこそ、これは紀沙ちゃんにしか出来ないことなの」

「いや、だからそこは別に関係な」

「お兄さんを説得できるのは紀沙ちゃんだけなの、スキンシップはそのためにもとても大切なことなのよ。別に無理ならオイルは良いけれど、でも頑張ってる姿を見せることくらいはしないとダメなんじゃないかしら?」

「え、あ、う?」

「これはね、本当に紀沙ちゃんにしか出来ないことなの。何千万人の日本人の中で、紀沙ちゃんだけが出来ることなの。恥ずかしいのはお姉さんにも良くわかるわ。でもね、頑張って欲しいの。わたしも紀沙ちゃんがお兄さんと一緒にいらせるようになってくれたら、とても嬉しいから……」

「あ、あおいさん……」

 

 

 哀しげに顔を伏せるあおいに、紀沙は感極まったような声を上げた。

 まさか、この年長のクルーがそこまで自分と兄のことを考えてくれていたとは。

 そう思うと、何だか拒否していた自分の方が悪いことをしているような気にもなってくる。

 紀沙は意を決すると、あおいの手から水着を受け取って。

 

 

「わ、わかりました。や、やってみます」

「本当!? ありがとう紀沙ちゃん、さ、さ、気が変わらない内に着替えてらっしゃい!」

「は、はい」

「頑張ってね~♪」

 

 

 手を振って見送るあおい、その表情は実に晴れ晴れとしていた。

 そのまま、簡易の脱衣所になっている岩陰に紀沙の姿が消えるまで、手を振り続けていた。

 彼女の表情は上機嫌そのもので、あおいは鼻歌さえ歌っていた。

 

 

「……っとに、趣味悪い」

 

 

 すると、対照的に不機嫌な声が背中から聞こえた。

 振り向けば、そこにはあおいと良く顔立ちの似た少女がいた。

 

 

「あら、でも嘘は言って無いじゃない? 情に訴えて落ちない男の人っていないと思うし~」

「うちの艦長は、そう言うタイプじゃ無いわよ」

「あ、そうなの? 知らなかったわ~」

「……相変わらずよね、アンタのそう言う喋り方。苛々するからやめてって、何度も言ってるでしょ」

 

 

 嫌悪、いおりの表情を表現すればそう言うことになるだろうか。

 そんな妹に対して、あおいは笑顔で振り向いた。

 珍しく逃げ出さない妹に対して向ける笑顔は、とても温かい。

 ――――しかし、瞳の奥には冷え冷えとした何かが顔を覗かせている。

 

 

 それがわかっているからか、いおりは舌打ちを隠さなかった。

 3歳差の姉妹、同じ技術班、浜辺で水着と言う開放的な状況にあっても、両者の間には海溝よりも深い溝があるのかもしれなかった。

 それがどのようなものなのかは、余人には窺い知ることは出来ない。

 

 

「でも、いおりちゃんだって一緒じゃない。だって……」

 

 

 海溝の向こうから、姉は言った。

 

 

「だって、貴女だって紀沙ちゃんを連れて行こうって、艦長さんに言わなかったんでしょう?」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 賑やかだなぁと思いつつ、静は他の喧騒からは距離を置いていた。

 先程まではいおりも一緒にいたのだが、杏平達に声をかけに行ってから戻って来ない。

 だから今、パラソル付きのデッキチェアに座っているのは静ひとりだった。

 

 

「千早紀沙……っと」

 

 

 紺色のAラインワンピース、静らしい大人しめのデザインの水着を着用している。

 だがほわほわした当人の雰囲気とは裏腹に、二の腕や足首はきゅっと締まっており、メリハリのあるウエストからお尻へのラインと相まって、露出の少なさの割に清潔な色気を醸し出していた。

 そして意外と肉付きの良い太腿の上には、小型のノート型端末を乗せている。

 

 

 そこに映し出されているのは、呟きの通りの少女の情報だった。

 紀沙――何やら、向こうでからかわれている様子だが――については、静以外のクルーは直接的に知っているが、途中参加の静はそうでは無い。

 話に聞くことは出来るが、やはりそれだけではわからないこともあるのだ。

 

 

「海洋技術総合学院、首席卒業。へー、凄い人なんだ」

 

 

 軍直轄の学校を首席で卒業すると言うのは、それはつまりエリートと言うことだろう。

 しかも与党幹事長の北議員の後見を得て、異例のスピード出世まで果たしている。

 若年のため派閥と言う意味では弱いが、一軍人としての地位は確立しつつあるのかもしれない。

 ちなみにこれは統制軍の第二級機密情報に当たるが、静はそれを普通に閲覧していた。

 

 

 ただこれだと履歴書に書いてあることはわかるが、プライベートなことはわからない。

 静が知りたいのは後者であって、余り意味の無いハッキングと言えた。

 まぁ、それは静自身の趣味でもあるので別に構わないのだが。

 

 

「ねぇ!」

「わっ」

 

 

 その時、耳元で大きな声が響いた。

 

 

「あ、ま、蒔絵ちゃん?」

「貸して!」

「え、ちょ、ちょっと!?」

 

 

 蒔絵だった、今は硫黄島で――厳密には、イ404で――保護している女の子だ。

 水着では無く、この暑い中、スパイ映画の登場人物のような衣服のままだ。

 目深に帽子を被ったまま、静の端末を奪うようにひったくった。

 流石に驚く静だったが、相手が子供と言うこともあって強くは言い出せない様子だった。

 

 

(あれ、この子……?)

 

 

 凄まじい速度でタイピングを始めた蒔絵、静は後ろから画面を覗き込んだ。

 画面の上でも、目で追うのがやっとの速度で情報が入力されている。

 そして映し出され始めた情報に、静の表情に緊張感が見て取れた。

 

 

(これ、硫黄島(ここ)のサーバーに……!)

 

 

 蒔絵が行っているのは、先ほど静が行っていたことと同じだ。

 つまりはハッキング。

 ただし、今度は硫黄島――要は、自分達の情報を盗み見ようとしているのだ。

 静が止めなかったのは、驚いたと言うのもあるが、蒔絵が見ようとしている情報がイ401や自分達のことでは無く、単に施設の監視画像を覗こうとしていただけだったからだ。

 

 

 誰かを探そうとしている?

 そう考えるのが妥当だろう、だが、この硫黄島に自分達以外の人間は存在しない。

 ならば誰を探しているのか、静はそれを知ろうとしたのだった。

 だが、流石に見られては不味い区画と言うのも存在するわけで……。

 

 

「「あ」」

 

 

 不意に、静と蒔絵の声が重なった。

 何故ならば、蒔絵の弄っていた端末の画面がブラックアウトしたからだ。

 黒く染まった画面に次に光が灯った時、そこにはアニメ調のキャラクターをデフォルメしたイラストが映し出されていた。

 あれは確か、杏平やイオナが気に入っているアニメのキャラクターだったか。

 

 

<おいたは、だ・め、よん♪>

 

 

 吹き出しに、そんな台詞が描かれていた。

 それが妙にイラついたのだろう、蒔絵は怒った顔で端末を閉じた。

 そしてそれをそのまま放り投げてしまったので、静が慌ててキャッチした。

 すると、その時だった。

 

 

 ばしゃん。

 

 

 蒔絵が頭から水をかぶった。

 いや、しょっぱいので海水だろう。

 またかぶったと言ってもバケツで水を落としたわけでは無く、撃たれたと言った方が正しい。

 ぐっしょりと濡れた蒔絵が、後ろを振り向くと……。

 

 

「へいへーい、蒔絵ちゃんビビってるぅ!」

 

 

 水鉄砲を持った冬馬達の姿があって、彼らは囃し立てるように手招きをしていた。

 静が苦笑を浮かべる中、蒔絵の瞳に炎が灯ったことは言うまでも無い。

 静は思った。

 あ、この子煽り耐性ゼロだ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 末恐ろしい子供だ。

 いや、成長調整をされているようだから、もしかしたら見た目通りの年齢では無いのかもしれない。

 イ401とイ404、2隻の装甲を同時に開いて整備と補給を施しながら、ヒュウガはそんなことを思った。

 

 

「アンタ達は良いの? 遊んで来なくて」

「はは、私は遠慮しておきますよ。体質的にも、海水浴と言うのは悪くないのかもしれませんけどね」

「……自分は、職務中ですので」

 

 

 イ401もイ404も、1人ずつクルーが残っていた。

 見張りと言うわけでは無い、そもそも意味が無い。

 メンタルモデルが離れていたとしても身体は身体、艦のセキュリティが切れているわけでは無い。

 無人の状態で侵入されたとしても、2個小隊くらいなら2分とかからず殲滅できるだろう。

 

 

 それでも残っているのは、それを踏まえても警戒しているか、単に気になるだけか。

 群像達に撃沈されて以後、人間心理を学び続けているヒュウガにとっても気になるところだ。

 メンタルモデルの成長を促すには、人間の中に入り込むのが1番効率が良いのかもしれない。

 井の中の蛙は大海を知らぬ、己の世界で思索するだけでは得られないものもある。

 

 

「それで、艦長は硫黄島(ここ)を放棄するつもりだって?」

「ええ。おそらくここに我々の拠点があることは、すでに霧にも知られているでしょうし」

 

 

 僧が言う通り、硫黄島がイ401の拠点であることは、すでに公然の秘密だった。

 何しろ沖合いに重巡洋艦が来て監視しているのだ、バレていないわけが無い。

 となれば、位置のバレた潜水艦基地など格好の的でしか無い。

 早々に放棄して移動すると言うのは、その意味では正しい判断と言える。

 

 

「他に拠点がある、と言うことですか?」

 

 

 そこで、静菜が口を挟んできた。

 イ404のクルーの居残り組であって、彼女が小首を傾げると、顔の半分を覆う前髪がさらりと横に流れた。

 

 

「いえ、ありませんよ。寄港地ならいくつかありますが、ナノマテリアルが補給できるような拠点はここだけです」

 

 

 そして、僧は特に気負った様子も無く答えた。

 そもそも、ナノマテリアルが補給できるポイントの大半は霧の拠点とイコールだ。

 硫黄島のような例はまさに例外であって、その意味では貴重な拠点ではあった。

 逆に言えば、貴重なだけの拠点だった。

 

 

「つまり事実上、これが最後の補給になりますね」

「…………なるほど」

 

 

 アメリカに向かう以上、硫黄島に拠点がある意味は無い。

 千早群像はそこまで考えて硫黄島を放棄するのか、補給の可能性を――つまり退路を消してまで、この振動弾頭輸送計画に賭しているのか。

 静菜はそう考えて、しかし表情には出さず、艦の整備を行うヒュウガの背中を見つめていた。

 

 

 潜水艦が淡い輝きを放ちながら装甲を展開し、ナノマテリアルの粒子があたりを舞う。

 資材や部材が宙を進み、クレーンやハンドアームが次々に装甲を修復していく。

 人間ではあり得ないそんな光景を、残った右目に映していた。

 

 

「余り時間も無いだろうしねー」

 

 

 そして、ヒュウガ。

 人間達に背を向ける彼女の瞳の虹彩は、淡い霧の輝きを放っている。

 イ401に――そして、イ404に向けられるその視線。

 敬愛する艦に酷似するその姿に、ヒュウガは目を細めている。

 

 

 イオナと同型艦だと言う、イ404。

 しかし彼女記憶領域に、知る限りの400型潜水艦に、その名称は()()()()()

 だが、確かに霧として目の前に存在している。

 イ404、スミノ。

 

 

 ――――アレはいったい、何者なのか?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 思わず、うつ伏せの体勢のままで口を塞いだ。

 頬の紅潮は耳にまで達していて、紀沙はそれが相手に知られはしないかと気が気では無かった。

 恥ずかしさの余りか、あるいは固くなっているのか、肩がふるふると震えている。

 

 

「ああ、悪い。冷たかったか?」

「だ、だいじょぶ、です」

「そうか?」

 

 

 紀沙は今、シートの上にうつ伏せに寝転んだ体勢でいた。

 赤いビキニタイプの水着は上下共にワンポイントのフリルリボンがあるだけで、それ以外は薄い布地だけで構成されている。

 繋ぎ目は頼りなさげな紐のみであって、これに着替えるだけで何十分かけたかわからない。

 

 

 しかし、この期に及んで退くに退けなかった。

 正直、二重の意味で恥ずかしい。

 第一に、こう言う水着はあおいのようにメリハリのある身体付きで無いと貧相さが際立つと言うこと。

 第二に、それを兄の前で着て見せていると言うことだ。

 本当にどうして、こんな状況になってしまったのだろう。

 

 

(れ、冷静に考えたら、やっぱり絶対おかしい……!)

 

 

 冷静に考えなくともおかしいと言う点に気付けなかった時点で、今さらであった。

 それに、背中にオイルを垂らされた状態で――ひやっとした感覚に、思わず声を上げてしまった――身を起こすことも出来ない以上、紀沙はうつ伏せの状態を維持するしか無い。

 ――――が。

 

 

「ひぁっ」

「うわっ、何だ?」

「な、ななな、何だって。兄さんこそ、何で水着の紐解いちゃうの!?」

「いや、オイルを塗るのに邪魔だったからな」

 

 

 流石に、背中の紐がしゅるりと解かれる感触には身を跳ねさせた。

 抗議の声を上げるも、何の邪心も無い顔で「邪魔だった」と言われれば反論も出来ない。

 そう言われてしまえば、拒否する方がおかしいような気持ちになってしまった。

 上体を起こすことも出来ず、言葉も見つからず、群像はきょとんとした顔をするばかり。

 この朴念仁が! と叫び出したい衝動を堪えに堪え、紀沙は頭の位置を戻した。

 

 

「じゃあ、行くぞ」

「は、はい」

 

 

 ヤバい。

 この会話だけで、何故か死ぬほど恥ずかしい。

 

 

「んぅ……っ」

 

 

 即座に、両手で口を押さえる。

 人肌の柔からいものが背中でぬるりと動く感覚に、妙な声を上げてしまった。

 恥ずかしい、死ぬ。

 聞こえていないだろうか、聞こえていないに違いない、聞かないでお願いします。

 

 

 しかもその後も、人肌――要は群像の掌だが、それが肩甲骨から腰のあたりを上下して、その度にぬるぬるとしたオイルが肌の上を滑っていくわけで。

 掌が脇腹に触れたり、結い上げて露になった首筋を指先が掠める度に、紀沙は身をビクビクと震わせた。

 その度にん、ん、とくぐもった吐息を漏らし、もはや頬や耳どころか肩先まで紅潮してしまっている。

 

 

(あまり動かれると、やりにくいんだが)

 

 

 当の群像は何を考えているのかと言えば、そんなことを考えていた。

 彼にして見れば、「妹に頼まれてサンオイルを塗っている」以上でも以下でも無い。

 いや、それ以外に何があると言うのか。

 そして真面目な彼は当然、一度快諾した以上は最後までやり切るつもりだった。

 

 

 背中から腰にかけてを一通り塗り終えて、一旦、手を離した。

 紀沙が身体から力を抜いた気配がしたが、特に気にすることなく掌に新しいオイルを垂らした。

 それをしばし掌の上でならすのは、先程は冷たくて紀沙が驚いた様子だったからだ。

 妙なところで、気遣いの出来る男であった。

 ただし、そのまま手前側の太腿(ふともも)に触れた途端、紀沙に睨まれることまでは予測していなかった。

 

 

「~~~~ッ!」

「いや、そんな顔で睨まれてもな。オイルは全身に塗らないと意味が無いだろ」

「~~~~ッ!」

「おい、足をばたつかせるな」

 

 

 膝裏から足首にかけて掌を一気に滑らせた時が、1番反応が大きかった。

 くすぐったいのか何なのか知らないが、陸に引き揚げられた魚のようにバタバタしていた。

 口を押さえているので声こそ上げていないが、群像にとっては余り意味が無い。

 作業が進まない、群像はどうしたものかと考え込んだ。

 

 

 一方の紀沙はと言えば、一杯一杯であった。

 もはや当初の目的もどこか彼方へと飛んで行き、そもそも何故こんなことになったのかと考え、諸悪の根源であるところのあおいを頭の中で罵倒しまくっていた。

 そして恥ずかしさの余り、浜辺の熱気とは別の意味で身体が熱を持ち始めて――――。

 

 

「群像、それは何をしているんだ?」

 

 

 ――――そして、即座に冷えるのを感じた。

 すっと、身体の芯から熱が引いて行く。

 声の主はイオナだった。

 彼女はパラソルの下までやって来ると、群像が差し出したオイルのパッケージをじっと見つめた。

 

 

「オイルを塗っているんだ、肌の傷みや日焼けを抑えてくれる」

「ほう、肌の保護剤か。なるほど、後で私にも塗ってくれ」

「ああ、構わないぞ」

 

 

 その会話に、それまで高揚していた何かが冷めていく。

 

 

「ところでお前、その水着はどうしたんだ」

「ヒュウガが用意していた」

「そうか。まぁ、ちょうど良かった……のか?」

「どこか変か?」

「いや。良く似合っているよ、イオナ」

 

 

 客観的に見て、オレンジ色のモノキニの水着――ワンピースタイプだが、背中の上部が大きくカットされている――は、幼めな外見のイオナには良く似合っていた。

 悪意のある言い方をすれば、造り物めいて見える程に。

 そしてそれは、事実として造られたものだ。

 

 

 紀沙は肘を立てて起き上がろうとして、水着の上を外されていたことを思い出す。

 嘆息して拾おうとした時、横からそれを抜き取られた。

 流石に驚いて顔だけで追うと、グレーのセパレートタイプの水着――胸元に統制軍のマークが白で染め抜かれているのが、嫌味に見えて仕方ない――に身を包んだスミノがいた。

 

 

「ねぇ、艦長殿。どうして水着を脱いでいるんだい? これは海での正装なんだろう?」

「人を露出狂みたいに言うな!」

「と言うか、水着と下着の違いがボクにはわからないよ。人間はどうやって呼び分けているんだい?」

「ちょ、返して! 持っていかない!」

 

 

 スミノが立ち上がって水着をしげしげと眺めるものだから、紀沙は起き上がってそれを奪い取った。

 羞恥心が成した行為だったが、いかんせん、状態が不味かった。

 起き上がって腕を振る以上、自然、腕は上がっていることになるので。

 

 

「あー……紀沙、落ち着け。流石にそれは不味い」

「え?」

 

 

 この時、群像は人間の顔が青ざめてから紅潮するまでの最短時間を知った。

 そして正面からそれを見ることになった群像が、1番の被害者となった。

 2人のメンタルモデルは、ガラス玉のような瞳でそれを見ていたと言う。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 硫黄島の星空は、横須賀のそれとは比べ物にならない程に美しかった。

 星座を探すのも億劫になるくらいに星々が煌いていて、ずっと見ていても飽きないと思えた。

 気分がもっと良い時であれば、実際にそうして過ごしていたかもしれない。

 

 

「まぁ、元気をお出しよ艦長殿」

「…………」

 

 

 浜辺は、焚き火で煌々と照らされていた。

 いわゆるキャンプファイヤーと言う奴だろう、紀沙はこれも初体験だった。

 しかし今は、それすらも素直に喜べない。

 キャンプファイヤーの周りではしゃいでいる――どこから調達したのか、花火まで持ち出して――冬馬達ですら、今は憎らしい。

 

 

 浜辺でガン見して来たことは忘れない、全員大嫌いだ畜生。

 ただ物理的な制裁は群像以外は梓やいおりがやっていたので、これ以上しようとは思わない。

 それに、蒔絵だ。

 蒔絵は今は杏平や冬馬達と花火を振り回してはしゃいでいる、ロケット花火を人間に向けるのはどうかと思うが、元気そうに遊んでいる姿にはやはりほっとする。

 

 

「あのデザインチャイルド、どうするんだい?」

「…………」

「ボクは良くわからないけれど。キミ達にとって、振動弾頭の開発者を連れてアメリカに渡るのは不味いんじゃないのかい?」

「…………」

 

 

 刑部蒔絵、人造人間(デザインチャイルド)

 人工的な遺伝子・成長処置を施され、自然では無い形で生まれた子供。

 思考能力・身体能力が通常の人類と比べ飛躍的に高くなっており、超人と言うべき存在だった。

 しかしどれだけ言葉を飾ったところで、それは禁忌の技術だった。

 

 

 そして蒔絵は与えられた思考能力を十二分に発揮し、振動弾頭の基礎理論を完成させた。

 今、紀沙達が運ぶ振動弾頭、霧への切り札、それを造ったのはあんなにも小さな女の子だった。

 その事実は、紀沙が扱うには余りにも大き過ぎた。

 紀沙とて人類が、いや日本と言う国がそこまで綺麗な存在では無いことは理解している。

 人が人を捨てねば生きていけない今の時代、禁忌だからと手をこまねいていられない事情もわかる。

 

 

(……でも)

 

 

 でも、胸の内に広がる苦い味は隠しようも無い。

 口の中には夕食として食べているカレーの味が広がっているはずなのだが、ルーの味はほとんど感じられなかった。

 珍しく天然物のジャガイモとニンジンが入ったカレーだけに、もったいないことではある。

 

 

「ところであのデザインチャイルド、処分(ころ)すのかい?」

「ッ!」

 

 

 余りと言えば余りの言葉に、それまで無視を決め込んでいた紀沙も反応した。

 怒りの感情を込めた目で、睨みつける。

 それに困惑したのは、スミノの方だった。

 眉を潜める横顔が、焚き火の明かりに照らされる。

 

 

「どうして睨むのさ。役目を終えた道具が処分されるのは、むしろ当然だろう?」

「あの子は、道具じゃない」

「どうして? ()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 道具として生み出しておきながら、道具じゃないと言う矛盾。

 それは兵器として生まれたスミノにとっては、とても理解できるものでは無かっただろう。

 そして、人間である紀沙にも答えようの無い問いかけだった。

 

 

「……理解できないね」

 

 

 自らもカレーをスプーンの先で突つきながら、スミノは言った。

 理解できない、と。

 丸太を椅子に、キャンプファイヤーで賑わう浜辺の皆を見やりながら、舌先で言葉を転がすように。

 そして、嘆息。

 

 

 そんな2人に、影が差した。

 顔を上げると、そこにエプロン姿の群像がいた。

 何とも珍妙な格好に、毒気を抜かれてしまいそうだ。

 彼はほとんど手付かずでカレーが残っている紀沙の器を見ると、片眉を潜めた。

 

 

「食べないのか?」

「……食べる」

 

 

 昼間のことがまだ気まずく、つい返事が素っ気無いものになってしまう。

 元々、別に怒っていたわけでは無い。

 ただ恥ずかしかっただけだ、後は甘えのようなものだろう。

 まぁ、群像がこれっぽっちも気にした様子が無いのは、それはそれでアレだが。

 

 

「ああ、そうだ! ボク、キミにどうしても聞いておきたいことがあったんだよ!」

 

 

 だが、ここで意外なことが起こった。

 スミノが喜色を浮かべて、群像に目を向けたのである。

 紀沙は口を開きかけた、止めようとしたのだが、それよりも群像が「何かな」と応じるのが早かった。

 そして、スミノは言った。

 

 

 

「キミはどうして、艦長殿を連れて行かなかったんだい?」

 

 

 

 ――――浜辺から、音が消えた。

 焚き火の音さえしなくなった、と言うのは、流石に穿ち過ぎか。

 しかしそれまで騒いでいたイ401やイ404のクルー達が一斉に口を閉ざすあたり、それ程だったと言うことだろう。

 蒔絵だけは首を傾げていたが、特に声を出すことは無かった。

 

 

「キミはどうして、2年前、艦長殿を置いて出奔したんだい?」

 

 

 それは、誰もが思うことだった。

 2年前も、そして今も。

 

 

「出奔って言うのはわかるんだ、ボクや401も霧の出奔者と受け取れなくも無いからね」

 

 

 ひとりうんうんと頷くスミノの声は、むしろ能天気に思える程に明るかった。

 群像は紀沙を見た。

 紀沙は、群像を見なかった。

 俯いたその表情を、群像は窺い知ることは出来なかった。

 

 

「でも、わからないんだよ。千早群像、キミは出奔する時に海洋技術総合学院とやらの同級生を何人か連れてるよね、今のクルーのほとんどがそうなのかな?」

 

 

 2年前、群像はイオナとクルー達と共に日本を出奔した。

 それ事態は意外な程に冷静に受け止められた、父親と言う前例があったからだ。

 ただ、誰もが腑に落ちない点がひとつ。

 それは、妹である紀沙を連れて行かなかったこと。

 

 

「ボクも良くわからないけれど。普通、そう言う時はまず1番に家族に相談するものなんじゃないかな?」

 

 

 そしてそれは、誰よりも紀沙が考えていたこと。

 

 

「妹を信用していなかった? 役立たず? 足手まといだと思っていたのかな? でも学院のデータベースの成績表によると、他のクルーと比べて優れてる箇所はあっても取り立てて劣っている箇所は無いよね?」

 

 

 それは、紀沙自身が何度も考え抜いたこと。

 

 

「じゃあ、何だろう。危険だから連れて行かなかった? ああ、でもそれだと他のクルーは危険でも構わないってことなのかな? そうじゃないなら、なおさらこの理由は違うよね」

 

 

 何度も、考えた。

 自分に何か足りないものがあったのか、至らない点があったのか。

 優しさだったのか、甘さだったのか、それとも他に何かあったのか?

 兄に、千早群像と言う天才に選ばれなかった理由が。

 

 

「ねぇ、どうしてだい?」

 

 

 何度も考えた、何度も何度も考えて考えて考えて。

 それでも答えは出なかった、だから考えるのをやめた。

 ただ、信じることにした。

 兄にはきっと、何か考えがあったんだと。

 

 

 自分に何か非があるのでは無く、何か連れて行けないような事情があったんだと。

 だって、そうじゃないとおかしいじゃないか。

 あの兄が、父が出奔し母が軟禁され、2人きりで、他に頼る者も無かった兄が、そんな。

 わざわざ自分を連れて行かない理由なんて、どこにも無いじゃないかと。

 

 

「どうして、妹だけ連れて行かなかったんだい?」

 

 だから。

 

「どうして、妹だけ置いて行ったんだい?」

 

 スミノ。

 

「どうして、妹だけ置き去りにしたんだい?」

 

 余計なことを。

 

「ねぇ、今、どんな気持ち?」

 

 しないで。

 

「どんな気持ちで今、艦長殿の前に立っているのかな?」

 

 やめて。

 

「置き去りにした相手と何事も無く過ごすって言うのは、どんな気分なのかな?」

 

 やめろ。

 

「ねぇ、教えておくれよ。どうして自分が妹に恨ま」

 

 ――――!

 

 

 紀沙がスミノへと視線を流し、髪を逆立たせかけたその刹那。

 水平線の彼方から、紫色の光が飛来した。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

最初に言っておきますが、私は後悔していない(え)
1万5千を突破した文字数が何よりも雄弁と言うね、もうね。

と言うわけで、アニメ視聴者の方は何となく流れが読めているでしょうか?
次回は、アニメで言うあのお方来襲回です。

そして容赦しない娘、スミノ。
何だか、紀沙のヤンデレポイントが着々と溜まって行っているように思えるのは、気のせいなのでしょうかね……。
その内、群像かイオナを刺しやしないかと私がヒヤヒヤしています(問題発言)
……ところで関係ない話ですが、私は闇堕ちヒロインと言うのも好きでしてね?

それでは、また次回。


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Depth015:「コンゴウ」

 その衝撃は、硫黄島の秘密ドックの中にまで響いて来た。

 山の中腹を狙ったらしいその一撃は、僅かの時間ながら島全体に地震を引き起こした。

 さほど長い時間続いたわけでは無いが、単艦の攻撃の結果としては驚異的だった。

 

 

「姉様、コンゴウが来たようですわ」

「戦力はわかるか?」

「虎の子の直属部隊は連れて来ているでしょう。彼女の艦隊の所属艦は常に日本近海を航行しているわけですから、調整次第では相当数の艦艇を集結させられるはずです」

「共有ネットワークに情報が上がっていないのは、こちらに気取らせないためか」

 

 

 霧は基本的に得た情報を共有ネットワークにアップデートし、情報と経験の共有を行う。

 しかしそれは別に義務と言うわけでは無く、秘匿することも出来る。

 当然、専用の回線を通じて共有対象を絞ることも可能だ。

 今回の場合、艦隊各艦の航路と時間の調整について秘匿し、硫黄島に気付かれずに艦隊を集結させたことになる。

 

 

 いくらイオナが巡航潜水艦であろうと、ヒュウガが大戦艦であろうと、探知範囲には限界がある。

 特にドックで集中整備中となれば、そもそも探知が出来ないこともあり得る。

 とにかく、攻撃を行ったのはコンゴウ。

 しかも群像達がいる浜辺を()()()狙わず、離れた位置を撃っている。

 

 

「どう言う意図かな」

「さぁ。ただコンゴウは真面目で頭が固いように見えて、戦略・戦術に関する吸収力は東洋艦隊で随一でしょうから。単なる威嚇とも思えませんが」

 

 

 ヒュウガは例の卵形の機械に座っており、空中に投影された表示枠が浮かんでは消えていた。

 少々予定が変わったが、硫黄島を放棄――と言うより、戻って来れない――することに変わりは無いので、施設の破壊と情報の抹消にかかっているのである。

 それらを思考の隅に置きつつ、ヒュウガは宙に浮かんだまま腰を落とし、手を伸ばした。

 

 

「どうします、姉様?」

 

 

 そっと、イオナの頬に触れる。

 対してイオナは、それを受け入れも拒否もしなかった。

 ヒュウガの気の済むようにさせている、と言えば良いだろうか。

 そもそも、愛情や慕情、好意と言った感情を具体的に理解できない。

 それが、彼女達と言う存在だった。

 

 

「別にどうもしない」

 

 

 そんな彼女達が言葉にする好意や忠誠とは、いったい何だろうか。

 本当のところは、わからない。

 しかし人間同士も互いの気持ちを本当の意味で理解し合えないように、それは普通のことだ。

 そして、確かなこともある。

 

 

 霧の少女達は、嘘を吐かない。

 人間は、霧に対して信頼の感情を向けることが出来る。

 そして霧の技術力と人の発想を合わせた時、そこには両者の想像を絶する何かが生み出される。

 

 

「私は、群像に従うだけだ」

 

 

 それが、千早群像とイオナの関係。

 イオナの表情を掌を通じて知ったのだろう、ヒュウガが相好を崩した。

 そしてそんな霧の少女達の背後では、イ401とイ404を含む()()()()()が出撃を待っていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 姉妹艦、と言うものがある。

 簡単に言えば同型艦のことで、例えば同型で後から建造された艦艇を「○○型2番艦」等と呼称して呼び分ける。

 この場合、1番艦はネームシップ又はクラスリーダー等と呼ばれ、唯一型式と同名となる。

 

 

「ご苦労でした、スズヤ、クマノ、チョウカイ」

 

 

 霧の艦艇においても、姉妹艦とは特別な意味を持つらしい。

 それは同型艦であるが故にひと括りにされることが多く、また性能面でほぼ同じである以上、他の艦種に比べて互いを理解しやすいと言う一面があったためだろう。

 どんな存在であれ、同質性の高さは親密さにも繋がるのだ。

 

 

 そしてそれは、いわゆる金剛型2番艦『ヒエイ』を模した霧の大戦艦、ヒエイも例外では無かった。

 第一巡航艦隊旗艦たるコンゴウの妹にあたり、艦にしろメンタルモデルを維持する演算力にしろ、同艦隊の中では名実共にナンバー2の位置にあった。

 メンタルモデルはブルネットの長髪に赤縁の眼鏡をかけた女性の姿をしており、どう言うわけか「生徒会名簿」と刻印されたバインダーを手に持っている。

 

 

「スズヤとクマノは、それぞれ駆逐隊を率いて包囲網に加わりなさい。チョウカイはそのままの位置で待機。艦隊旗艦の命令を待ちなさい」

「了解でーす!」

「『…………』」

 

 

 黒い巨艦――無論、ヒエイの艦体だ――の周囲では、様々な艦種の艦艇がひしめいている。

 硫黄島の監視を行っていたスズヤ達もその一部であって、3隻の重巡洋艦を以ってして一部と言えてしまう程に多くの艦が集結していると言う意味でもあった。

 そしてそれは全て、コンゴウ麾下の第一巡航艦隊に所属する艦艇だった。

 

 

「ヒエイ」

 

 

 そして、その中心にいるヒエイに艦を寄せる存在がいた。

 艦名は『ミョウコウ』、クラスは重巡洋艦である。

 内向きに跳ねる髪質の女性の姿をしており、右目を覆う機械式の眼帯が特徴的だ。

 しかし何よりも特徴的なのは、ブレザーの学生服に身を包んでいることだろう。

 

 

 良く見れば、ヒエイも同じデザインの制服を着ている。

 ただヒエイが上着の丈まできっちり揃えているのに対し、ミョウコウが着ている制服は裾やソックスの丈が左右で微妙に違い、また鎧武者が身に着けるような篭手を装着していた。

 そして両者共に、左腕に「生徒会」と印字された腕章をつけていた。

 

 

「ミョウコウ、他の者達は配置につきましたか?」

「ああ、後方にも補給艦と回収艦を連れた『イセ』も到着した。西はうちの三女、東はうちの四女、私がお前の護衛。そして次女が……」

 

 

 艦橋の上から後方を振り返りながら、ミョウコウは言った。

 暗い夜空の下、黒の艦隊が蠢いている。

 

 

「……艦隊旗艦は?」

「今は動けません、換装中です。そして……」

 

 

 眼鏡を指で押し上げながら、ヒエイは答えた。

 

 

「今は敵と交渉中です。イ401、そしてイ404と」

 

 

 ヒエイは、コンゴウの姉妹艦である。

 そしてもう2隻、彼女には姉妹艦がいた。

 『キリシマ』、そして『ハルナ』。

 浦賀水道において、イ401とイ404の2隻に破れた霧の大戦艦である。

 

 

 霧の艦艇にとって、姉妹艦とは自らに近しい存在だ。

 だからこそコンゴウはハルナ達を派遣したのだし、ヒエイもまたそれで十分と判断していた。

 しかし現実として、そうはなっていない。

 ヒエイにとって、それはあってはならないことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像にとって、意外なこと。

 それは、敵――今のところは、敵、と表現するのが正しいだろう――の旗艦であるコンゴウが、単身で硫黄島に上陸して来たことだ。

 群像としても対話は必要だと考えていたが、しかし相手の側からきっかけを作ってくるとは思わなかった。

 

 

「では改めて、ようこそ硫黄島へ。歓迎する、霧の東洋艦隊第一巡航艦隊旗艦殿」

「……面倒くさい奴だな、コンゴウで良い」

「了解した。では、コンゴウ。我々はキミの来訪を心から歓迎する」

「一応礼を返しておくとしよう、千早群像」

 

 

 そして、コンゴウにとって意外なこと。

 それは、敵――霧にとって、人類がはたして本当の意味で敵足りえるのかは別として――である千早群像が、自分の上陸を歓迎したことだ。

 コンゴウとしては様々な思惑で単身上陸したのだが、迎撃のひとつも無いことには純粋な驚きを感じた。

 

 

 コンゴウは今、浜辺に設置されたテーブルの席についていた。

 初めは基地の内部に案内されるところだったのだが、それはコンゴウ側で拒否した。

 案内されそうになったこと自体がやはり意外で、そして何よりの意外は、その場に漂う香りだった。

 

 

「何だ、これは」

「うん? ああ、気にしないでくれ。こちらはすでに夕食を済ませた後だったんだ」

 

 

 コンゴウが言ったのはそう言う意味では無いのだが、群像はあえてそう言った。

 つんと鼻を刺激しながらも、程よい甘さを想像できる香り。

 その香りの正体はテーブル、特にコンゴウの前に置かれた()()から漂っていた。

 小魚と葉物を辛子醤油で和えた物で、魚の赤身と葉物の緑が白いお皿に映えている。、

 さっと作れて、目でも楽しめる料理だった。

 

 

 しかし、料理の種類はコンゴウ程の演算力をもってすれば容易にわかる。

 彼女が言っているのは、何故こんな物を出すのかと言うことだ。

 つまり、状況に対する問いである。

 霧であるコンゴウに食事の概念は無いし、まして敵なのだ。

 

 

「人間は相手をもてなす時、料理を振る舞うものなんだ」

「それは人類文化史の一部として理解している。だが、私にそれをする意味は無いだろう」

「確かに、意味は無いかもしれない。だがキミにとって、そうされることで受けるデメリットは無いはずだ。それでもそれをするオレ達に、もしかしたら興味を持ってくれかと思ったんだ。そして実際、キミはオレにその意図を問うてきた。その意味で、この対応は外れではいなかったと思っているよ」

「……それは随分と独特な思考だな」

 

 

 そして、もう1つの意外。

 それは紀沙にとっての意外であって、おそらくこの場で1番大きな意外だった。

 

 

「お前も同じ考えか? 千早紀沙」

 

 

 紀沙と呼ばれた女性は、当然、群像の隣に座っている。

 彼女はこれまで何か言葉を発することは無かったが、名を告げられればコンゴウの側に顔を向けた。

 ()()()()()()()()()()()その女性は、露になった右目でコンゴウを見つめていた。

 そして、彼女を知る者がいればはっきりと違和感を感じたことだろう。

 ――――ぶっちゃけ、静菜である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 幸い、魚介類だけは多くあった。

 しかし魚介類の調理や下拵(したごしら)えにはそれなりの慣れと技量が必要である上、物資不足の日本で調理の経験がある者は少ない。

 それも和食となると、よほど裕福な環境に身を置いていない限りは調理する機会は皆無だ。

 

 

「……良し、おすまし出来ました!」

「あいよ。おお、おすましってのは結構香りが立つんだねぇ」

 

 

 スズキのアラを使ったおすましを椀に入れて渡すと、すんすんと香りを嗅いだ梓が涎を垂らしそうな顔をする。

 香りが立つのは、隠し味のお酒のせいだろうか。

 アラの白身だけでは見栄えが今一つだが、山菜を加えてみれば意外と映えて見える。

 

 

 梓が盆に乗せたおすいものを持って出て行くのを見守った後、紀沙はふぅと溜息を吐いた。

 調理の熱のせいだろう、顔色は火照ったように赤く、額や首筋には汗の雫が見えた。

 白の三角巾と割烹着を身に着け、手の甲で額の汗を拭う姿は様になってはいる。

 なってはいたが、それを本人が納得しているかと言うとそう言うわけでも無い。

 

 

「やっべ、刺身とか10年以上ぶりに食べたわ俺」

「ちょ、冬馬さん。つまみ食いはやめて下さい!」

 

 

 そこは、硫黄島基地の厨房だった。

 余り使用されていないらしく、電気式の機材や調理器具は真新しい。

 システム化されていることもあって、使い勝手は正直、北の屋敷の物よりも良かった。

 時間が無いのでおすましとお刺身の具材を一緒にしたのだが、その内のお刺身の方をエプロン姿の冬馬がパクパクと食べていた。

 

 

「フライを揚げておいて下さいってお願いしましたよね!?」

「艦長ちゃん、俺って料理長じゃん?」

「え? ああ、はい。それは確かに」

「つまり厨房では俺が法律なわけですよ。だからフライを揚げるも艦長ちゃんを頂くのも俺の自由ってわけですよ」

「そんなわけ無いでしょ!? あと私を揚げ物にするのはやめて下さい」

「突っ込み所はそこじゃないでしょーよ」

 

 

 何故か呆れた顔をされたが、冬馬が魚と山菜の揚げ物を乗せたお皿を渡してくると、紀沙は溜息を吐きながらそれを受け取った。

 梓が戻ってくるまでに盛り付けねばならないので、ぐちぐちと言っている暇は無いのだ。

 

 

「後はどうするよ」

「お肉があったら良かったんですけど。まぁ、揚げ物で誤魔化します。時間が無いので後は山菜ご飯とお漬物で、デザートは何を……って」

 

 

 待て。

 そこで紀沙は正気に戻った、はっとした。

 自分はどうして、こんな風に一生懸命おさんどんをやっているのか。

 群像に「お前にしか頼めないんだ」と――確かに、和食のおもてなし料理などは紀沙にしか作れない――言われて懸命になっていたが、これを食べるのはコンゴウでは無いか。

 

 

 いったい何が哀しくて、霧の大戦艦なんかに食事を振る舞わなければならないのか。

 これが群像が食べてくれるならまだ我慢したが、そう言うわけでも無い。

 完全に、これを食べるのはコンゴウである。

 しかし真面目な性格が災いしてか、調理に手は抜かない紀沙なのだった。

 

 

「いや、コンゴウは一口も食べてないよ」

 

 

 その時、いつの間にかお玉を手にしたスミノが横に立っていた。

 スミノはお玉でおすましを鍋から直接掬い、ズズズと音を立てて飲んでいた。

 正直、行儀が悪い。

 

 

「何だいこれ、人間的には美味しいのかい? 成分は水と酒、醤油に塩と……?」

「ちょっと、勝手に食べないで。それに直接口をつけたらもう食べられないじゃない」

「どうしてだい?」

 

 

 そこで「どうして?」と首を傾げられる精神がわからなかった。

 しかし追い出すことも出来ない。

 

 

『それで? コンゴウ、来訪の目的を伺いたい』

 

 

 何故なら、スミノがいることで群像とコンゴウの会談内容を聞けているからだ。

 ただの通信傍受の類ではコンゴウの意思次第で防がれてしまうため、霧のスミノの力が必要になってくる。

 本当なら紀沙もその場にいるはずだったのだが、群像の提案で影武者を立てることにしたのだ。

 

 

 流石に料理の作り手がいないと言う理由だけで、紀沙を引き離したりしないだろう。

 コンゴウの目的がわからない以上、首脳部全員を彼女の前に出すのは危険だと言う判断だ。

 とは言えコンゴウのために料理を作るのは業腹であり、と言って一口も口にしていないと言うのもそれはそれでイラつく、複雑な心境だった。

 

 

「せめて、兄さんが食べてくれたら良かったのに……」

「…………」

 

 

 そして、そんな紀沙をスミノがじっと見つめていた。

 何かを言いたげに唇を戦慄かせた彼女は、それをおすましを飲むことで飲み込んだ。

 いつの間にか、冬馬の姿も厨房から消えていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 参ったなぁ、と、良治は思っていた。

 紀沙の命令と言うか頼みとは言え、こんなことを引き受けてしまうとは。

 

 

「いやぁー! 離してよ変態! この誘拐犯、ロ○コン!」

「失礼な、僕は膝枕が上手なむっちりしたお姉さんが好みなんだよ!」

「どっちにしろ変態じゃん! おじいさまー、ローレンスー、たすけてー!」

 

 

 イ404の医務室は、これまでは良治の城であった。

 しかしイ404のクルーは艦長の紀沙も含めて健康体であり、今のところはほとんど出番が無い。

 正直、週に1度の感染症予防と月に1度の健康診断だけが楽しみなのである、何がとは言わないが。

 

 

 とは言え、実際、民間人それも子供の面倒を見ろとはなかなかの命令だ。

 良治は医者であって保育士では無く、子供は嫌いでは無いがそれも相手の態度によった。

 しかも戦場である。

 いかに良治が紀沙に弱いと言っても、この命令はなかなかに難問だった。

 

 

(と言って、他のクルーじゃなぁ)

 

 

 艦長である紀沙はともかくとして、他のクルーで子守が得意そうな者はいない。

 冬馬とあおいは悪い影響を与えそうだし、梓は少々乱暴だ、静菜は真顔で世話をしそうで怖い。

 恋は比較的大丈夫かもしれないが、正直ちょっと良くわからない。

 消去法で言っても良治しかいないわけで、スミノに言わせれば「人材不足が甚だしいね」だ。

 

 

 最も、梓と冬馬と恋は発令所付きで、あおいと静菜は機関室、そう言う意味でも良治しかいない。

 逆に言えばイ401よりは頭数がある分、便利と言えばそうだろう。

 まぁ、何だかんだと言ったが、良治としては紀沙の「お願い」は二つ返事でオーケーだ。

 後先を考えない男である。

 

 

(この子を()()()()()()と言われちゃ、ね)

 

 

 頬を膨らませてそっぽを向いている蒔絵を見ながら、そんなことを思う。

 何しろ振動弾頭の基礎理論を作った存在だ、その重要性は良治の比では無い。

 展開次第では命の危険すらある、勿論、そこには良治達のことも含まれている。

 知るべきでは無いことを知った人間が消されるなど、統制軍では少なくない話だった。

 

 

(ただ、まぁ、問題があるとすれば……)

 

 

 そんな中にあって、紀沙の数少ない味方であること。

 力の有る無しは問題では無く、それだけでも心の負担は減るだろう。

 何しろ同志が集まったイ401とは違って、イ404は軍艦なのだ。

 この違いは意外と大きいと、紀沙も含めて気付いている人間は少ない。

 

 

「……おじいさま……」

 

 

 味方がいないと、孤独を感じた時。

 そう言う時ほど、人は弱くなるものだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 交渉とは目に見えることばかりでは無い、とは良く言ったものだ。

 これは交渉の舞台裏のことを意味する言葉だが、霧にとっては全く別の意味にもなる。

 

 

「こうして話すのは初めてかな、401、ヒュウガ。そして404」

 

 

 白い、白い御影石の東屋。

 霧の概念空間内での通信を人間が知覚することは出来ない。

 だからその東屋も、テーブルも椅子も、周囲を吹く風や庭園も、全て()()()視覚表現する場合のイメージに過ぎない。

 故に、テーブルの上に並べられた紅茶やお菓子から香りや味を感じることは出来ない。

 

 

 そして今、座席には4人の女性の姿があった。

 主賓は濃紫色のロングドレスを着た女性、いやメンタルモデル、コンゴウだ。

 アップにした金髪を優美に揺らしながら、カップの縁に唇をつけている。

 恐ろしい程に様になっているが、それは造り物としての美しさだった。

 

 

「お前達に問うが、どうして人類の味方をしている?」

 

 

 それに対して、呼び出された3人のメンタルモデルの返答はこうだった。

 

 

「私は、私の艦長に従うだけ」

「私は別に人間の味方ってわけじゃないわ。イオナ姉様の傍にいたいだけよ」

「ボクも別に、人間の味方なんてしてるつもりは無いなぁ」

 

 

 総じて、人類の味方のつもりは無いと言う。

 ただし、わかったこともある。

 イオナはあくまで艦長と定めた人間に従っているだけで――理由はわからないが――ヒュウガに至っては、これも理由はわからないがイオナに従っているだけ、と言うことだ。

 ただしそうなってくると、わからないのはイ404――スミノと言うことになる。

 

 

「お前もそうか、404? お前の艦長に従っているだけだと?」

「さぁ、ボクははたしてあの人の艦と言えるのかな」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ、コンゴウ」

 

 

 頭の後ろに両手を回して胸を逸らしながら、スミノは言った。

 

 

「ボクは確かにあの人に従っている。けど、それで従属の感情を得ているわけじゃない」

「ならば何故?」

「興味があるんだ」

「興味? 人類に興味があると言うことか? メンタルモデルを得て以後、人類の文化に興味を抱く艦が増えていることは承知している。だが、だからと言って人間を乗せて霧と戦う選択をした例はない」

 

 

 コンゴウが知りたいのは、イ401達と他の霧の艦艇の相違点についてだった。

 実際、任務の外で色々と人類の文化に興味を持ち、中には密かに人間と接触している者もいる。

 コンゴウはそれを承知していたし、中には共有ネットワークにわざわざアップロードする者までいる。

 しかしどうも、スミノの言う「興味」が別のもののようにも思えた。

 スミノは言う。

 

 

「あの人が何を感じ、何を思っているのか。あの人がどこへ向かい、どこへ辿り着くのか」

 

 

 スミノは、人間が理解できない。

 神のように清らかで、魔王のように残酷で、天使のように愛を説き、悪魔のように欲望を囁く。

 誰かに優しくする一方で誰かを虐げ、誰かを貶める一方で誰かを救う。

 倫理を説きながら自らそれを犯し、善行を積みながら悪事を働く。

 

 

 そして、千早紀沙と言う人間が理解できない。

 善悪さだからぬ人間を善と信じ、善悪の概念を持たぬ霧を悪と断じる。

 しかもそこには一切の根拠は無く、ただそう信じている、いや信じたいと言う風だった。

 純粋で何色にも染まる、いや、すでに何色かに染まっていると言うべきか。

 

 

「ボクは、それが知りたいんだよ。知りたくて知りたくて、仕方ないんだ」

「……404、お前は何者だ?」

「ボクは霧の潜水艦、イ400型巡航潜水艦のイ404」

「いや、違う。霧の艦艇はすべからくアドミラリティ・コードに従い行動している、大小の差はあれどな」

 

 

 紅茶のカップをソーサーに置いて、コンゴウはスミノを見つめた。

 

 

「しかし、お前は違う。そもそも私の記憶領域に「イ404」等と言う艦は存在しない。最初はバグか何かと思っていたが、今の言葉を聞いて確信した」

 

 

 伊404、それがスミノの基となった艦の名前だ。

 しかし、史実においてもこの艦が軍艦として戦闘を行ったと言う記録は無い。

 第二次世界大戦当時の軍艦を模している霧の艦艇の中にあって、これは異色であった。

 異端と言っても良い。

 

 

 だが霧の艦艇として確かに存在している以上、誰もイ404の存在を疑わなかった。

 コンゴウもそうだ。

 そこに実在するのにそれを否定するなど、そちらの方が現実的では無い。

 

 

「401も、そしてそこのヒュウガも。アドミラリティ・コードの影響下で行動している。どういうわけか、それよりもなお優先する物があるようだがな」

「愛は何ものにも勝るものなのよ♪」

 

 

 イオナを抱き締めながらそんなことを言うヒュウガ、当のイオナがヒュウガの顔を押しのけていることはまるで気にしていないようだ。

 理解と言うなら、霧が霧を「愛する」と言うこともコンゴウには理解できない。

 しかしそれでも、イオナやヒュウガがアドミラリティ・コードと繋がっていることはわかる。

 

 

「404、お前は霧の艦艇では無い。その身は霧だが、お前はアドミラリティ・コードの手足たる我ら霧とは別の理に基づいて行動している」

 

 

 だが、スミノは違う。

 どう言うわけかはわからないが、スミノは霧の規範たるアドミラリティ・コードの外にいる。

 イオナやコンゴウ達にある繋がり(リンク)が、スミノには()()

 

 

「もう一度言う、404。お前は霧では無い」

「……そうだね」

 

 

 そして、スミノはそれを否定しなかった。

 すっと両手を胸に当て、笑顔を浮かべた。

 不思議なことに、それはとても自然な笑顔に見えた。

 

 

「ボクはスミノ。あの人がこの名前をくれた時から、ボクはただのスミノだ」

 

 

 霧でも人類でも無い。

 

 

「だからボクは、あの人のことが知りたい。あの人に()()()()んだよ、コンゴウ」

 

 

 そう言うスミノを、コンゴウはじっと見つめていた。

 知性の光が漂う瞳の中に、どこか別の感情が見え隠れしていた。

 胸中がざわめくような、疼くような、今すぐにこの場を離れたいような気持ち。

 その感情の名は、人間であればすぐにわかっただろう。

 そして、コンゴウは言った。

 

 

「――――お前は危険だ、404」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 出撃前ともなれば、技術班も忙しくなってくる。

 特にオーバーホール直後ともなれば、倍プッシュだ。

 

 

「ああ、忙しい。忙しいわね~」

 

 

 声音からはまったく想像出来ないが、あおいとて例外では無い。

 何しろ移動している暇も無いくらいで、今も三頭身のスミノ4体が担ぐ板の上でゆらゆらち揺れながら移動していた。

 神輿(みこし)のようにも(かご)のようにも見えるが、どちらかと言えば引越しの荷物と言った方がしっくり来るかもしれない。

 

 

「あら~?」

 

 

 そうして慌しく――どこかファンシーな雰囲気を漂わせつつも――通路を移動していた時だ、視界の隅に何かが見えた。

 

 

「トーマ君じゃない、紀沙ちゃんの方はもう良いの~?」

「忙しそうだったんで抜けて来ました~」

「あらぁ、ダメじゃない。また紀沙ちゃんに怒られちゃうわよ?」

「いやぁ、好きな子は困らせたいタイプなんスよ、俺」

 

 

 呼びかければ、そんなふざけたことをのたまいながら歩いて来た。

 部署は違えど同じ艦のクルーである、それくらいの親しみはあっても良いだろう。

 まぁ、それでも冬馬の言っていることはなかなかに酷いが。

 しかしそれも、「失明」と書かれたあおいのTシャツのデザインよりはマシだろう。

 

 

 技術班だけに限らず、出撃前ともなればソナー関係のチェックもしなければならない。

 その内に梓も戻って、魚雷関係の最終確認を行うだろう。

 人手のいらない霧の艦艇と言えども、人の手が入ると入らないとではやはり違うのだった。

 とにかくも、親しげな様子であおいは言った。

 

 

「上の人への連絡はもう良いのかしら? お仕事とは言え、いつも大変ね~」

「あおいさんこそ、妹さんとはもう良かったんで? そのためにイ404を志願したんじゃ?」

「あらぁ、ダメじゃない。女の子の秘密を覗くだなんて」

「すみませんね、それが俺の仕事なもんで」

 

 

 毒と言うには、互いの声の質は余りにも軽かった。

 対立とまでは言わない、利害とも違う、じゃれ合いと言うのが正しいだろうか。

 

 

「あんまり、紀沙ちゃんを困らせちゃだめよ~」

「あははぁ、善処しまーす」

 

 

 ヘタヘラと笑いながら歩いていく冬馬、それに肩を竦めてあおいも進み出す。

 互いにやるべきこと、したいことがあり、そのために艦を同じくしている。

 それは、正面ばかり見ている紀沙には見えていないものなのかもしれない。

 ――――出撃は、間近だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 不意にコンゴウが席を立ち、群像は目を丸くした。

 コンゴウがどこか不機嫌そうなのも気にかかる、自分は何かミスを犯しただろうか。

 

 

「千早群像、千早紀沙。これは最後通告だ」

 

 

 席を立った姿勢のまま、コンゴウは言った。

 瞳の虹彩を白く輝かせながらのその宣言は、群像の心胆を寒からしめた。

 人の形をしているが、しかし彼女は人では無いのだと空気でわかる。

 そして、背後。

 

 

 海を背に座していたコンゴウの後方、水平線の向こう側で光の柱が立ち上った。

 天をも貫くその輝きは、夜を昼に変える程の光量だった。

 余りにも眩く、余りにも荘厳で、神が降臨したと言われても納得してしまいそうだ。

 それを背に立つコンゴウもまた、神々しい。

 

 

「『アカシ』による艤装の換装もたった今終了した」

 

 

 そしてこの光景とコンゴウの言葉で、群像はいくつかのことを察した。

 まず、コンゴウが自分と話している間に何かを探り、知っただろうこと。

 そして、自ら足を運ぶことで自分と紀沙――紀沙は影武者だが――をこの場に釘付けにしたこと。

 その場にいながらに様々なことが出来る霧と異なり、人間の身体は1つしか無いのだ。

 

 

 つまりコンゴウは、戦いの準備とこちらの妨害、時間稼ぎと情報収集を同時に行っていたことになる。

 (したた)か、と言うべきだろうか。

 霧のほとんどが硬直的な思考をする傾向にある中で、柔軟な対応が出来る艦が増えてきていると言うことか。

 だがそれを加味しても、このコンゴウはかなり優秀な部類に入るだろう。

 

 

「お前達はすでに我らの包囲下にある。速やかに降伏の意思を示せ、さもなくば殲滅する」

 

 

 最後通告と言うよりは、降伏勧告と言った方が正しい。

 

 

「アメリカ行きをやめ、振動弾頭とそのデータを引き渡し、現在の海域に留まるならば――――包囲を解こう」

 

 

 通告は以上だ。

 そう言って、コンゴウは(きびす)を返した。

 金髪とドレスを翻すその姿は美しく、それでいて見る者の心に冷たい印象を与えてくる。

 そしてそれを、群像は止めなかった。

 止めようが無いと思ったし、それに通告を受け入れることも出来なかった。

 

 

「オレ達は、振動弾頭をアメリカまで運ぶ」

「私達を打倒するために? クラインフィールドを破れない兵器。画竜点睛を欠くとはこのことだな」

「確かに。だが、キミ達にとって目の上のたんこぶ程度にはなるだろう」

「私が大人しく見送るとでも?」

「この期に及んで、そんなことは言わないさ」

 

 

 それでいて、この気持ちだけは群像の本心だった。

 

 

「こんな結果になって残念だ、コンゴウ。キミと話せて楽しかった」

「……本当に面白い男だな、お前は」

 

 

 呆れを含んだ声音でそう言うと、コンゴウの姿が霞のように消えていった。

 身体を構成していた細かな粒子はナノマテリアルで、遠隔操作できるダミーだったのだろう。

 当然、生半可な演算能力では出来ない。

 

 

「しかし、かくなる上は砲火を交えるのみだ」

 

 

 そう言って消えていくコンゴウを、群像は立って見送った。

 それが礼儀だと思ったし、何故かそうしなければならないと思った。

 嗚呼、この時、群像は思った。

 何だかんだ言ってはいるが、自分はただ霧と言う存在に魅せられているだけなのかもしれない、と。

 

 

「ああ、ところで千早群像」

「うん?」

 

 

 最後の一瞬、胸まで消えた姿でコンゴウが振り向いてきた。

 目を細めた悪戯な笑みは、それまで見せていたものよりも柔らかだった。

 

 

「随分と、()()()()()()()()()?」

「……!」

 

 

 その言葉を最後に、コンゴウは消えた。

 群像は隣の静菜に視線を向けると、肩を竦めた。

 それから前髪をくしゃりとかき上げて、苦笑を浮かべる。

 どうやら、最初からバレていたらしい。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ほぅ、と、その男は感嘆の溜息を吐いた。

 騒ぎがあれば聞き耳を立てる者が必ずいるもので、その例に漏れず、彼――ゾルダンとU-2501は、太平洋の海中に潜み、外の様子を窺っていた。

 戦闘に巻き込まれるような距離では無いが、何の影響も受けないわけでは無い、そんな位置取りだ。

 

 

「なるほど、あれがコンゴウの旗艦装備か」

『どう言うものかわかる?』

「どの程度の威力で使用されるかはわからないが、どう言ったものかは大体わかるつもりだ」

 

 

 薄暗い発令所の手すりに腰を預け、顎先に指を当てながら腕を組む。

 いわばそれがゾルダンの立ち位置と言うもので、彼は立っていた方が思考が回るところがあった。

 海面を爪弾くような独特の音が響く中、スラリとした白人男性がそうした仕草をすると様になって見える。

 

 

 彼らの行動を一言で言えば、硫黄島周辺の様子を窺っている、と言うことになる。

 しかしそれは別に彼らに限った話では無く、未だ衛星を保有する国家や他の霧の艦艇、あるいはその他の諸勢力の目が向かっている海域であるためだ。

 すなわち「霧の裏切り者」と旗艦クラスの霧の艦艇が率いる艦隊との全面衝突の様子を。

 

 

「401と404は勝てるかねぇ」

「さてな」

 

 

 勝てるかどうかでは無く、どう勝つかが問題なのだ。

 しかしそれを口にすることは無く、ゾルダンは戦略モニターの中で進展していく事態を見守っていた。

 どうやら直接介入する予定は無い様子で、エンジンも切ってしまっている。

 エンジンを切り、しかも着底した潜水艦を発見するのは至難だ、敵襲の危険はほとんど無い。

 

 

『ん……ゾルダン』

「どうした、フランセット?」

 

 

 その時、ソナー手であるフランセットの声に変化があった。

 僅かな警戒心が鎌首をもたげる中、ゾルダンは続きの言葉を待った。

 

 

『……音紋を照会したわ。大戦艦級1、又は重巡2。10隻前後の艦隊が硫黄島周辺海域を目指して西進中』

「どこの艦隊かな?」

「『ナガト』……いや、それにしては位置がおかしいな。コンゴウが硫黄島に艦隊を集結させている今、日本近海の包囲網を維持するためにもナガトの艦隊は動かせんだろう。となると」

 

 

 戦略モニターが切り替わり、広範囲の地図を映し出した。

 硫黄島を中心としたその地図には、確かに北東の端に10前後の艦を示す印がついていた。

 明らかに近付いてきている、それもかなりの速度でだ。

 どんな意図であれ、戦闘海域に戦闘巡航速度で近付いてくる艦隊――それも、霧だ。

 

 

 さらにフランセットの照会が進めば、所属もわかるだろう。

 ただしコンゴウとナガトの艦隊を除けば、日本近海に目立った艦隊は――『ヤマト』の総旗艦艦隊(フラッグ・フリート)は例外だ――存在しない。

 となれば、自然、こちらへ向かっている艦隊は()()()()()と言うことになる。

 そして、この方向。

 

 

「――――霧の北米方面艦隊か」

『音紋からしても間違いないわ、規模と構成は現在精査中』

 

 

 コンゴウやナガトの艦隊が日本近海を封鎖しているように、各国沿岸をそれぞれの霧の艦隊が封鎖している。

 七つの海は勿論、地中海や紅海等の内海も例外では無い。

 そして太平洋に展開している艦隊の内、有力なものは日本近海の東洋方面艦隊、そして太平洋北部のロシア及びアメリカ方面艦隊だ。

 

 

 今回の場合は北米方面艦隊、しかし霧は領分を侵されることを極端に嫌う。

 つまり普段、他の海域の霧の艦艇が他所の海域に出没することはほとんど無いと言って良い。

 もちろんU-2501のような例外はいるが、流石に艦隊規模となると皆無だ。

 では何故、近付いて来ているのか。

 U-2501と同じように観戦と情報収集と言うわけでも無いだろう。

 

 

『あら、待ってゾルダン』

 

 

 ゾルダンが対応を考え込んでいると、フランセットが他の艦隊を見つけたと告げて来た。

 それは北米方面艦隊と思われる艦隊とは別の方向からやって来ていて、しかも目指しているポイントは硫黄島と北米方面艦隊の中間……言ってしまえば、北米方面艦隊を目指しているように見えた。

 

 

「日本の白鯨とか言う潜水艦か?」

『いえ、違うわ。これは霧の艦隊の音紋、東洋方面艦隊ね』

「東洋方面艦隊だと?」

 

 

 コンゴウとナガトの艦隊である。

 急速に東進するその艦隊は、大戦艦級1隻を含む数隻規模の艦隊だった。

 ルートを逆算すると、横須賀近辺から出て来ているようだ。

 状況がさらに変化したことで、ゾルダンはまた考え込んだ。

 

 

「どうする、ゾルダン?」

「そうだな……」

 

 

 ロムアルドの問いに、さしものゾルダンも即答を避けた。

 しかし彼は艦長である、艦長である以上は決断を下さなければならない。

 硫黄島と、2つの霧の艦隊が邂逅するだろう海域。

 彼の身が1つである以上、向かえる場所は1つだけだった。

 

 

 僅かの間目を閉じて、熟考する。

 戦略と目的を背景として、自分が取るべき行動を選択する。

 それは、この数年間で彼がある人物達から叩き込まれたことの繰り返しでもあった。

 

 

「良し、2501。進路を――――」

 

 

 そして、ゾルダンは決断した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 覗き見をしているのは、何も霧の力を持つ者だけでは無い。

 

 

「ふむ。いよいよ、と言うわけか」

 

 

 横須賀もすでに夜になっているが、北はここ数日、屋敷に帰れない日々が続いていた。

 状況の急変が立て続けに起こっているため、下手に中央を離れられないと言うのがその理由だった。

 今も会議の合間を縫う形で――ほとんどの場合、通路を歩いている時だ――軍務省から提出された数枚の衛星写真を確認しているところだった。

 

 

 霧の艦隊は静止軌道上の各国の衛星を撃墜できる能力を持っているが、全ての衛星が失われたわけでは無い。

 霧の艦隊としても人類側の衛星を使用する思惑があり、いくらかは残しておかなければならないのだろう。

 つまりどんな写真を撮っているかは筒抜けだろうが、それでも貴重な情報源だった。

 

 

「浦賀沖の霧は東へ消えたが、代わりに硫黄島の状況が急転したな」

 

 

 今、北の手にある衛星写真は20分程前に撮影された物だ。

 内容は硫黄島周辺の状況であり、島を無数の霧の艦艇が包囲している様子が映し出されていた。

 これだけの規模の艦隊、それも作戦行動を撮る霧の艦隊は、17年前の<大海戦>以来のことかもしれない。

 正直、先日の浦賀水道戦で現れた艦隊が可愛く思える程だった。

 

 

 とは言え、北は硫黄島の状況だけに関わっていれば良い立場の人間では無い。

 日本全体、あるいは世界全体の情勢に目を配らなければならない立場なのだ。

 与党幹事長、そして次期首相候補と目される立場がそうさせる。

 

 

「良しわかった、続報があり次第知らせろ」

「はっ」

「それよりもイギリス政府の声明だ、確かなのだな?」

「はっ、これより全世界に向けて同時に報道されるとのことです」

 

 

 ()()()()()

 この一言に、北の立場が全て集約されていると考えて良い。

 棄民政策すら採ってひたすらに生き残った国、日本。

 その与党幹事長ともなれば、通常の倫理観等は麻痺してくる。

 

 

 仕方ないと、楓首相あたりなら言ったかもしれない。

 そう思える者だけが上に行ける、これまでの日本はそう言う国だった。

 これまでは、そうだった。

 これからは、まだわからない。

 

 

「…………」

 

 

 

 北の手は、しきりにネクタイを撫でていた。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

アニメの設定を取り入れて、コンゴウ戦は硫黄島包囲戦にしました。
ちょっと長めにやる予定ですので、色々とやりたいと思います。

一応、このコンゴウ戦までを第一部として考えています。
ここを突破(まさに突破)すれば原作を追い越せるので、後は好きにやろうと思っています(え)

それでは次回、宜しくお付き合い下さいませ。


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Depth016:「硫黄島包囲戦・前編」

 人間の言う「神の降臨」とは、このようなものを言うのだろうか。

 普段は人間の文化に全く興味を示さないヒエイも、その光景の前にはそう思わずにはいられなかった。

 

 

「お待ちしておりました、艦隊旗艦(コンゴウ)

 

 

 臣下のように膝をつき、ヒエイは言った。

 工作艦『アカシ』――コンゴウの装備換装を行っていた――のメンタルモデルがぺこりと頭を下げて離れていくのを横目に、ヒエイは顔を上げる。

 そこには艦形を僅かに変えた大戦艦が存在し、艦橋の上にはそのメンタルモデルが悠然として立っていた。

 

 

「艦隊の配備、ご苦労だった。ヒエイ」

「はっ」

 

 

 コンゴウである。

 彼女は普段から丈長の黒のドレスを身に纏っているが、今はまた別の種類のドレスを身に着けていた。

 ベアトップスタイルの黒い夜会服(イブニングドレス)は、以前は隠れていた背中や胸元、二の腕の肌を露出するデザインとなっている。

 それは夜闇の中に白く肌を浮かび上がらせ、女の姿をとかく美しく見せた。

 

 

 彼女の周囲は光の柱に包まれていて、良く見れば海面もコンゴウを中心に渦を巻いていた。

 まるで、渦潮の中心に打ち立てられた神の御柱(ミハシラ)だ。

 そしてその現象は、コンゴウの存在によって引き起こされているのである。

 その光は、数百キロ彼方からでも視認することが出来ただろう。

 

 

「すでにミョウコウ達を中心に硫黄島を完全に包囲、後は艦隊旗艦の号令を待つばかりです」

「そうか……『イセ』!」

 

 

 虚空に向かって叫ぶ、霧の艦艇にとってはそれは通信と同義だ。

 

 

『は~~い?』

「引き続き艦隊の指揮を頼む。日本近海の封鎖も疎かにはできん」

『わかったわ。……ヒュウガちゃんによろしくね?』

「留意しておこう」

 

 

 相手は霧の大戦艦『イセ』。

 ヒュウガの姉にあたり、かつてはヒュウガの艦隊に所属していた。

 今は100キロ程離れた海域で補給艦隊と共におり、同時にコンゴウの第一巡航艦隊の指揮を引き継いでいた。

 妹に似てなかなか偏愛的な傾向があるが、有能な艦だった。

 

 

「それにしてもヒエイ。前から思っていたが、不思議な格好をしているな」

「これですか?」

 

 

 立ち上がり、くるりと回ると、学生服のプリーツスカートがひらりと舞った。

 純朴な表情でそんなことをされると、怜悧の一言だったヒエイの印象も少し違ったものに見える。

 ちなみにこの衣装、ミョウコウ姉妹にはすこぶる不評なのだが、ヒエイはそれに気付いていない。

 

 

「霧には秩序の再編が必要と判断しましたので、人類の「生徒会」と言うシステムを取り入れることにしました。生徒会は「自治」システムの代表例の1つで、メンタルモデルを得て人間と同様に意志を有してしまった我々にとっては、最適な……」

「確かに、霧は乱れている。私が面倒くさがって対処を遅らせたばかりにだ、許せヒエイ」

「……あ、いえ! 艦隊旗艦の責任ではありません。これは401達、裏切り者共のせいです!」

 

 

 霧の秩序。

 かつてメンタルモデルを持たなかった時代、霧の艦隊は完璧なユニオンを形成していた。

 群にして一、一にして群。

 それがイ401達の登場によって崩れ、今では艦隊を離れ独自の行動に出る艦もいる程だ。

 

 

 一度崩れた秩序を修復するには、相当の労力と時間を必要とするだろう。

 考えるだけで面倒くさいが、コンゴウはそれを成し遂げるつもりでいた。

 自分の面倒くさがりが事態をここまで大きくしたのなら、責任を取る意味もある。

 その手始めが、今回の作戦だった。

 

 

「では」

 

 

 コンゴウの右手に握られているのは、掌サイズのグリップスイッチだった。

 コードの先端が艦体に接続されており、スイッチを押せばコンゴウのユニオンコアを通して()()()()が発動する。

 そしてコンゴウは、躊躇無くそのスイッチを押した。

 

 

「始めようか」

 

 

 次の瞬間、光が落ちて来た。

 天から落ちて来た光は、硫黄島の中心を基点とした4キロ四方を包み込んだ。

 そして、凄まじい轟音と輝きと共に。

 その4キロ四方の空間が、()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 正直、ぞっとした。

 もし硫黄島の主要設備が地下に無ければ、また群像達の収容が間に合っていなければ、どうなっていたかわからない。

 ヒュウガによれば、一緒に遊んだビーチは無くなってしまったらしい。

 

 

「急速潜行! スミノ、トリム調整任せる」

「了解、艦長殿」

 

 

 厚い岩盤とコンクリートで固められた地下施設は、超重力砲の直撃にも耐えられるようになっている。

 ヒュウガの設計と補強は伊達では無いと言うことだ。

 とは言え、流石に今回のコンゴウの攻撃は想定外の強さだったらしい。

 ドッグの岩盤に罅が入っているのを見た時には、血の気が引く想いがした。

 

 

「静菜さん、急いで!」

「了解!」

 

 

 桟橋から跳躍した静菜の手を取って、ハッチの側に引き寄せる。

 そのまま静菜を先に艦内を降ろしながら、紀沙は隣のイ401の方を見た。

 そこにはちょうど静菜と――紀沙の影武者役だった――共に最後まで地表にいた群像が、イ401のハッチに身を躍らせている姿が見えた。

 

 

 こうしている間にも、イ404の潜行は続いている。

 兄が自分を見てくれていないことに、僅かの寂しさを覚えた。

 仕方ない、今は戦時なのだから。

 今生の別れと言うわけでも無い、作戦に集中すべきだと自分に言い聞かせた。

 

 

「艦長殿、急いだ方が良い。もたもたしてると、コンゴウが旗艦装備の再チャージを終えてしまう」

「わかってる!」

 

 

 応じて、自らも艦内に飛び降りた。

 スミノも慣れたもので、着地する瞬間に床が柔らかく変化し、少女の身を受け止める。

 そこから発令所まではすぐだ、潜行時独特の鋼の軋む音を耳にしながら駆ける。

 そして紀沙が発令所に到着する頃には、イ404はすでに潜行を終え、島外の海域に脱出しようとしていた。

 

 

「艦長殿、ヒュウガから連絡。正面のゲートが瓦礫で埋もれつつあり」

「他に出口は無い。梓さん、1番2番に通常弾頭魚雷装填!」

「あいよ了解、1番2番魚雷装填!」

 

 

 硫黄島基地の海底ゲートは、ドックと直接繋がっている。

 今さら他のゲートに向かう時間的余裕も無く、そうなれば方法は1つしか無い。

 肉眼で見ることは出来ないが、目の前にあるだろう障害に対して。

 

 

「1番2番、()えぇ――――っ!」

 

 

 魚雷を、叩き込んだのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 旗艦装備がこれ程の規模の兵器だとは、さしもの群像も予測していなかった。

 ゲート出口を塞いでいた瓦礫を魚雷で吹き飛ばし、その騒々しさの中を突破しながらも、群像の思考はその速度を緩めることが無かった。

 

 

「コンゴウの旗艦装備とは、いったいどう言うものなんだ?」

「ヒュウガが言うには、一種の衛星砲らしい」

「衛星砲?」

 

 

 群像の隣と言う定位置で、イオナは右手の人差し指を天井に向けた。

 いや、天井と言うよりは天頂と言った方が正しいだろう。

 何故ならば、コンゴウの用いている兵器は衛星軌道上に存在しているのだから。

 それも一つでは無く、地球の自転に合わせて充填済みの衛星――人類の人工衛星とは原理が異なる――が次々にポイントに到達し、射撃――砲撃すると言うものだ。

 

 

「威力は見ての通り、小さな島くらいなら海中に沈めることが可能だ。言ってしまえば、空から撃つ超重力砲だな」

「ひえ~。霧の大戦艦様のやることは、スケールが違うねぇ!」

「いつものことだ。それで?」

「ただ衛星砲自体は単発で、次の砲撃までの間にはタイムラグがある。おおよそ15分と言った所か」

「15分か」

 

 

 顎に指先を当てて、群像は少しの間考え込んだ。

 目の前の戦略モニターには、すでにデコイやソナーで収集した情報が海域図の形で映し出されている。

 この完全に包囲された硫黄島で、どうやってこの窮地を脱するべきか。

 形としては突破戦だが、ただ突破するだけではダメだろう。

 

 

「艦長、指示を」

「……そうだな」

 

 

 そしてこう言う時、決まって僧が命令を求めてくる。

 クルー達とは付き合いが長いが、学院以前から交流のある僧だけは、やはり特別なのかもしれない。

 また僧が指示を求めるとき、すでに群像がまとめていると言うのも奇妙だった。

 だがその奇妙な理解を、群像は(わずら)わしいと思ったことは無かった。

 

 

「旗艦『コンゴウ』を撃沈し、艦隊の動きを止める」

 

 

 そして一度命令が発されれば、クルー達はそれに従って一斉に動き出す。

 ソナーの感度を上げ、魚雷を装填し、機関の出力を上げ、艦内を掌握する。

 それら一連の行動が行われた次の瞬間、深度を下げたイ401を追いかけるようにして、立て続けに爆発と衝撃が襲い掛かった。

 霧の駆逐艦隊の、爆雷攻撃が開始されたのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の重巡洋艦『ズズヤ』と『クマノ』が麾下の駆逐艦隊を率いて爆雷の投下を開始したのは、21時を回った頃のことだった。

 彼女達は『ミョウコウ』の妹『ナチ』の指揮下にあり、彼女の指揮で攻撃を開始したのだった。

 

 

「重力子機関音を僅かに感知しました。ソナーデータ送信、攻撃を続行、炙り出しなさい」

 

 

 ナチは、コンゴウ率いる艦隊――いわゆる黒の艦隊の中でも、特に索敵に優れた艦だった。

 もちろん自らも重巡洋艦であり、相当の出力と攻撃力をも有している。

 メンタルモデルは薄緑のショートカットの女性で、一部を三つ編みにしていた。

 大きなクッションの上に正座して戦いに臨んでいる彼女の前方海域では、8隻の駆逐艦がドラム缶型の爆雷を次々に海面に投擲している。

 

 

 爆雷投下は対潜戦において有効な戦術の1つだが、霧の艦隊が行うそれは人類のそれとは意味が異なる。

 霧のクラインフィールドを侵蝕する、いわゆる侵蝕爆雷と言うべき武装だった。

 そして駆逐艦だけでは無く、駆逐艦を4隻ずつ率いる重巡洋艦『スズヤ』と『クマノ』に至っては、対潜弾と侵蝕魚雷を虱潰しに海中に撃ち放っていた。

 

 

「どぅんどぅん行くよっ♪ た~まや~っ♪」

 

 

 浴衣の裾を翻しつつクルクルと回りながら、スズヤは甲板から次々と発射される対潜ミサイルを見送っていた。

 その姿は格好と相まって、さながら夏祭りの会場で花火を見上げる乙女のようにも見えた。

 しかしその一撃は怒涛の一言に尽きる、何十発と叩き込まれるミサイル1発で、人類側の艦船であれば例外なく撃沈されていただろう。

 

 

「ん……? 待って、これは」

 

 

 しかし、ナチ達はひとつだけ戦術ミスを犯していた。

 普段であればミスとも言えないそれは、ひとえに彼女達が霧であるが故に起こったことだった。

 彼女達の行動は合理性が重視される傾向にあり、言い換えれば教科書的な所がある。

 例えば今回の場合、魚雷はともかくとして、爆雷は必要無かった。

 

 

「スズヤ、下がりなさい! 真下から来てるわ!」

「へぁ?」

 

 

 スズヤ側の陣形は、スズヤを先頭に『フジナミ』『アキナミ』『ハヤシモ』『キヨシモ』の4隻が進む、いわば単縦陣を取っていた。

 これは海中に次々に爆雷を投擲する上で、クマノ側の艦隊と何度も交錯する必要性があったためだ。

 そんな中で、ナチの声にスズヤが振り向いた。

 

 

 無論、メンタルモデルが振り向いたからと言って艦まで回頭できるわけでは無い。

 しかし次の瞬間、回頭できぬままのスズヤの艦体に異変が起こった。

 艦の中央部、人間で言うお腹の部分に重い衝撃音が響き渡ったのである。

 しかもそれはかなりの速度で急速浮上してきたのだろう、艦首を突き刺すような形で相当の重量があるスズヤの艦体を突き上げ、僅かだが海面から押し上げてしまった。

 

 

「よ……!」

 

 

 スズヤと海面の間に覗くのは、灰色の艦体。

 一定深度で無ければ炸裂しない爆雷の盲点を突き、雷撃群すらも掻い潜って、スズヤの真下から飛び出して来た。

 鋼が擦れ合う独特な音、不意打ちにクラインフィールドの展開が間に合わなかったか。

 

 

「404!? な、何で……うわぁっ!?」

 

 

 そして放たれる魚雷。

 独特なエネルギー場が発生し、スズヤの艦体を抉り取るそれは明らかに侵蝕魚雷だった。

 イ404は侵蝕魚雷を有していなかったはずだが、硫黄島で補給を受けたのだろう。

 真っ二つに砕かれた艦体、悲鳴を上げて吹き飛ばされるスズヤのメンタルモデル。

 そしてそれには構わずに艦首を向けた者達がいる、クマノとその指揮下にある駆逐艦隊だった。

 

 

「ちょ、ちょっとクマノ!? 躊躇なしは流石に傷つくんだけど――――ッ!」

「……!」

 

 

 ヘッドドレス横の猫耳を一度上に上げ、そして下げると言う形で意思を返して、クマノは離脱するイ404へと砲門を向けた。

 しかしここで海中への攻撃と警戒を緩めたのは不味かった、何しろ敵は()()いるのだから。

 これは、彼女達の実戦経験の少なさがもたらしたミスとも言えた。

 

 

 クマノの指揮する駆逐艦の内、まず最後尾の『ハギカゼ』が被弾した。

 艦尾である。

 侵蝕反応で抉り取られた後に爆発し、艦首を持ち上げる形で沈み始める。

 それを気遣ったのか、駆逐艦『ユウグレ』が『ハギカゼ』を助けに向かった。

 結果として、クマノの艦隊は分断されることになる。

 

 

「クマノ、危ない!」

「……!」

 

 

 それに気を取られた刹那、離脱したはずのイ404が側面からクマノの艦体を突き上げてきた。

 しかし今度はクラインフィールの展開が間に合った、イ404の艦首とクマノの艦体側面の間で互いのフィールドが鎬を削り、スパークを引き起こす。

 クマノはイ404へと砲塔を向け、カウンターの一撃を浴びせようとする。

 だがその猫耳が攻撃の意思にピンと逆立つ直前、逆方向から衝撃が伝わってきた。

 

 

「……!?」

 

 

 タナトニウム反応を感知し、侵蝕魚雷だと感知した時には全てが遅かった。

 イ404の突撃に注意とフィールドを振り向けてしまったため、逆側は無防備に近かったのだ。

 艦の芯が砕ける異音を聞き、クマノは無表情を苦渋に歪めた――――。

 

 

「404……401!」

 

 

 目前で重巡洋艦2隻を中心とする索敵艦隊が崩れていく様を見せ付けられて、ナチは吼えた。

 コンゴウが放った旗艦装備の一撃からすでに8分、戦場は早くも混迷の度合いを見せている。

 しかし、戦闘はまだ始まったばかりであった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 重巡1隻撃沈1隻大破、駆逐艦2隻撃沈。

 ご機嫌な数字だが、それだけにリスクは高かった。

 急速浮上からの二連続突撃、奇策としか言いようの無いその行動は、まさに奇策だからこそ成功した。

 

 

「魚雷群探知、20から24発! ったく、最高だなこりゃあ!」

「梓さん、後部発射管に重高圧弾頭魚雷用意! 発射後10秒後に起爆。同時に1番2番に音響魚雷及びアクティブデコイ装填!」

「あいよ了解! ……発射ぁ!」

 

 

 そして行動が派手なだけに、捕捉されると振り切るのが一苦労だった。

 しかしそこは潜水艦、水上艦に対してほぼ一方的なアドバンテージを得ることが出来る。

 だからこそ水上艦が潜水艦を発見した際には、今のように全力で沈めに来る。

 

 

 どん、と言う鈍い音が水中を伝わって聞こえてくる。

 重高圧弾頭の炸裂音と、誘爆した敵の魚雷群の音だ。

 実の所を言えば、潜水艦にとって敵の魚雷を誤爆させるだけでも身を隠すのにかなり有利になる。

 爆発と同じタイミングで機関を切れば、まず身を隠すことが出来るからだ。

 

 

「安心しない方が良いよ艦長殿、ナチはしつこいよ」

 

 

 重巡洋艦ナチ、先の攻撃では攻める余裕が無かった。

 スミノによれば観測艦の役割を担っているらしいから、彼女の眼前で暴れたと言うことは、完全に捕捉されていると見て良いだろう。

 そうなってくると、敵の雷撃群に紛れるだけでは逃げ切れないかもしれない。

 

 

「うん? 後方に魚雷……いや、違うな。機関音感知!」

「敵の潜水艦ですか?」

「こりゃー違うな、これは……」

「西から来るのが『アシガラ』、東から来るのが『ハグロ』だね」

 

 

 冬馬の言葉を、スミノが締めた。

 すでに両の瞳は電子的な輝きを放っており、戦場の情報の全てを集積していることがわかる。

 重巡洋艦アシガラとハグロ、硫黄島の東西を封鎖していた艦である。

 

 

「直上に駆逐艦4隻。『カミカゼ』、『シグレ』、『アマギリ』、『ウラナミ』」

「おいおいおいおい、どんだけ連れて来てんだって」

「いくら沈めてもキリが無いねぇ、これは」

 

 

 恋の報告に、冬馬と梓がうんざりとした声を上げる。

 紀沙とて気持ちは同じだが、艦隊旗艦が出張って来た以上、それくらいは予測していた。

 そうは言っても単純に数えて20隻、しかもまだいるような気配だ。

 

 

「1隻1隻は大したこと無いけれど、集まると流石にキツいね」

 

 

 ふぅ、と、スミノが息を吐く。

 疲れなんて感じないくせに。

 そう視線を向けても、悪びれることの無い笑顔が返ってくるばかり。

 

 

「静菜さん、あおいさん。増速かけます、両舷全速で」

『了解しました』

『任せて~』

 

 

 スミノがどう言おうと、どれ程の状況だろうと、目指すべき所はひとつ。

 

 

「気合入れてお願いします。直上の駆逐艦を振り切りつつ、敵旗艦コンゴウに肉薄(とつげき)します!」

「「「了解!」」」

「やっぱ俺らには突撃(それ)しかねーわな!」

 

 

 その評価は流石に首肯しかねて、紀沙はとても複雑な表情を浮かべた。

 突撃以外にもきちんとしているのに、酷い言われようである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙は随分と暴れてくれているようだ、こちらとしてはかなりやりやすい。

 一方で、ああ言う攻勢は長くは続かない。

 攻撃と牽制を交互に繰り返して敵に損害を強いつつ、旗艦コンゴウに肉薄する。

 それが、群像の基本的な方針だった。

 

 

「ヒュウガの時と同じだな」

「そうだな」

 

 

 かつて霧の大戦艦ヒュウガ――今では群像達の仲間、もといイオナの麾下――を撃沈した時、群像は敵艦隊の包囲網を掻い潜って旗艦を撃沈すると言う戦術を採った。

 結果としてそれは上手く行き、旗艦であるヒュウガを撃沈された当時の霧の第二巡航艦隊は行動不能に陥った。

 だから今回も、旗艦コンゴウを撃沈することは有効な戦術だと考えられた。

 

 

 ただし、ヒュウガの時とは違うことがある。

 それは敵艦隊が多くのメンタルモデル保有艦を有している、と言うことだ。

 特に戦艦級の艦艇が何隻もいるため、コンゴウを撃沈しても別の艦が指揮を引き継ぐ可能性があった。

 しかしそうだとしても、スムーズに指揮の引き継ぎが出来るとも考えていない。

 

 

「相手がそれこそ機械のような相手なら期待できないが、今の霧はそうじゃない。個々に意思を持つ(メンタル)個人(モデル)だ、そう簡単に意思が統一できるとは思えない」

 

 

 浜辺で会った限りにおいて、群像はコンゴウが極めて高いカリスマ性を有した指揮官だと判断していた。

 単身で敵陣に乗り込む大胆さ、交渉をそのまま時間稼ぎに使う強かさ、艦隊の集結と日本近海の巡航航路をリンクさせる緻密さ、そして衛星砲を含む単艦の圧倒的な戦闘能力。

 正直、もう少し話してみたかったと言うのは紛れも無い本心だった。

 

 

「イオナ、コンゴウの艦隊で指揮を引き継げるような者はいるか?」

「『ヒエイ』と『イセ』、それぞれコンゴウとヒュウガの姉妹艦だ。ただどちらも癖がある奴らだから、お互いの言うことを聞くかと言うと微妙だ」

「つまり、コンゴウ以上の者はいないわけか」

「そうなるな」

「あー、あいつな。何か他とは違うって感じがしたもんな」

 

 

 杏平が適当に相槌を打つが、あながち外れた印象でも無い。

 それだけ、コンゴウのインパクトは大きかった。

 

 

「例えば我々が追っているアシガラとハグロ。今404を追いかけている連中だが、一言で言えば武闘派と怠け者だ。とても艦隊の指揮が出来るようなタイプじゃない」

「何つーか、メンタルモデルってだんだん人間に似てきたよな」

「人間の戦術を学ぶ中で、人に近付きつつある、と言うことでしょうか?」

「影響は皆無では無いだろうな。ただオレとしては、知的生命体がすべからく人に近付くと言う考え方は好まないが」

 

 

 足を組み直しながらシートに身を押し付けて、群像は正面のモニターを見つめた。

 こうしている間にも、戦況は逐一変化している。

 数多くの艦が数十ノットの速度で動き回っていれば、そうもなってくる。

 そして衛星砲のことも考えれば、時間的余裕はあって無いようなものだ。

 

 

(……最低もう1発は、かわす必要があるか)

 

 

 結論としては、そうだった。

 何発も撃たれれば流石に回避は難しいが、1発、いやもしかすれば2発なら可能だろう。

 ただし相手はコンゴウ、生半可なことでは回避など出来ない。

 となれば当然、今一歩の策が必要だ。

 

 

「イオナ、ヒュウガとオプション艦は島を出たか?」

「ああ、アシガラとハグロが先走って包囲に穴を開けたからな」

「例のダミーも?」

「私がコントロールしている。ただ本格的に動かすなら、私自身の操艦が疎かになるが」

「そこは任せてくれて良い」

 

 

 イ401の操艦は、イオナが自分の意思で行うことが出来る。

 イオナの意思が艦の動きに直結する以上、そうした方が効率的だし、何より自然だ。

 だが基本的には、機関はいおり、艦のコントロールは僧が行っている。

 咄嗟の出力調整や方向転換、深度管理等はイオナだが、イ401では人間の手も入れて分担しているのだ。

 それは、こう言う時にこそ活きてくる。

 

 

 いざイオナが演算に手一杯になった時、作戦に制約を受けるようではダメなのだ。

 そしてイオナにとっては、それはまさに身体を他人に委ねることに等しい。

 当然、そこには不安要素が入り込む。

 だが群像は「大丈夫だ」と言った、「信じろ」と。

 イオナが群像をじっと見つめても、彼は自信を持った表情のままで。

 

 

「お前のクルーは優秀だからな」

「……そうだな」

 

 

 そう言われれば、イオナに是非は無かった。

 僧はマスク越しにドリンクを飲み、杏平は指で鼻を擦り、静は淑やかに微笑んで見せる。

 それらを見てなお是非を問うような感性は、イオナは持ち合わせていない。

 

 

「わかった、群像。私はお前の艦……()()()()艦だ。存分にやってくれ」

「ああ――――かかるぞ!」

 

 

 ぐ、と発令所全体に加速のGがかかる。

 メンタルモデルの身体に感じるそれを、イオナは何故か心地良いと感じた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 1隻いるとそうでも無いが、2隻いると複雑になる。

 特に海中を探らねばならないコンゴウ側としては、敵が2隻いると言うのは重要な要素(ファクター)だった。

 海中の騒音が増せば、それだけ相手を見つけにくくなる。

 

 

「そう言う意味では、スズヤ達は闇雲に撃ち過ぎたとも言えるな」

 

 

 両側にヒエイとミョウコウを従えて――文字通りの護衛艦だ――戦況を見守りながら、コンゴウはそう言った。

 掌のグリップスイッチを弄びつつ、少し静かになった水面を見つめる。

 今は小休止、ただ攻め続ければ良いと言うものでは無い。

 緩急を入れることも、また大切な戦術だった。

 

 

「『イセ』!」

『はいはい、こっちはナノマテリアルの回収でてんやわんやよ』

「スズヤ達の回収を優先しろ、出来るか?」

『いちいち聞かなくても、命令してくれれば良いのに』

「お前は私と同格の艦だ」

『お気遣い有難う。それじゃ、イ15を派遣するわね』

「了解した、頼む」

 

 

 こう言う小休止は相手に体勢を整える間を与えるデメリットがあるが、それはどちら側にとってもそうだった。

 むしろコンゴウとしては、潜水艦と言う水上艦に対して一定のアドバンテージを持つ相手に無秩序な乱打戦を挑むつもりは毛頭無かった。

 そんなことをしても不利になっていくばかりだ、無駄でしか無い。

 

 

 無駄――無駄か、メンタルモデルを得てから獲得した概念のひとつだ。

 ヒエイなどはそれを唾棄(だき)すべきものと憎むだろうが、コンゴウは違った。

 無駄にも色々あると理解しているからだ、良い無駄もあれば必要な無駄もある。

 そうした無駄とどこまで向き合えるのか、将器を図る指標の一つとも言える。

 

 

「ミョウコウ。アシガラとハグロはある程度したら戻せ、南進してナチと合流させろ」

「東西の包囲が解けますが……」

「構わん。奴らの狙いは私だ、いずれにせよこちらに向かって来る。……そう心配そうな顔をするな、ヒエイ」

「いえ、心配など」

 

 

 姉妹艦(ヒエイ)に小さく笑みを見せれば、ヒエイは戸惑った様子で眼鏡を指で押し上げた。

 そんなヒエイを、「おや」と言う表情でミョウコウが見やる。

 

 

「全艦、本艦を中心に輪形陣! 速力30ノット、前進せよ」

 

 

 ただし、と、好戦的ですらある笑みを浮かべて、コンゴウは言った。

 

 

「私が指定する海域には近付くな」

 

 

 グリップスイッチを弄ぶのをやめ、掌全体で握り込むようにする。

 黒手袋に覆われた細い指が、たおやかにスイッチに触れる。

 親指の腹でスイッチの表面を愛おしそうに撫でて、正面を見据える。

 夜の海はただ静かに、漆黒の水面を湛えているだけだった。

 

 

 ――――さて。

 イ401、イ404。

 先に沈めるべきは、どちらだろうか?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――もちろんのこと、ヤマトに星を見て何かを悟る超常的な力は無い。

 数多のデータから惑星や星座の動きを見ることは出来るが、それはただの事象に過ぎない。

 それでも星々を見上げてしまうのは、メンタルモデルを得たが故の情緒と言うものだろうか。

 

 

「霧は割れるわ」

「ええ。でも、どんなものでもいつかはお別れの時が来るものよ」

 

 

 かつて霧は、巨大な一枚岩だった。

 地球を覆い尽くしてしまう程の巨岩、その存在によって人類は、天空を支える神話の巨人(アトラス)の気持ちを味わうことになった。

 余りにも重く、辛く、苦しく、そして屈辱的な気持ち。

 

 

 だが2年前にメンタルモデルがもたらされてから、その巨岩は軋み続けていた。

 少しずつ、少しずつ。

 ほんの僅かだが、時間が経つにつれて端が削れ、罅が入り……そして今では無視できない程の大きな亀裂となりつつあった。

 

 

「……寂しくなるわね」

「そうね。でも、きっと大丈夫よ」

 

 

 何百人もの人間が並んでもなお余るだろう、巨大な甲板。

 その上にたった2人で並びながら、ヤマトとコトノは水平線の彼方を真っ直ぐに見つめていた。

 測定するのも馬鹿らしくなるくらい遥か何マイルも彼方に、空を白ませる何かが見える気がした。

 コンゴウ、おそらく将帥と言う意味でなら今、霧の中で一、二を争うだろう大戦艦。

 

 

 あの娘はきっと、かつての静寂な霧のユニオンを取り戻そうとしているのだろう。

 イ401、いやイオナ、いやさ千早群像出現以前の、あの静寂な海を取り戻そうと言うのだろう。

 時を取り戻そうと、そう願っているのだろう。

 だが、それが決して叶わないことを2人は知っていた。

 この世に生じたものはすべからく変化する、そして変化を無かったことには絶対に出来ない。

 

 

「……()()()()()()()()()

 

 

 コンゴウには、それがわからないのだろう。

 いや、霧も全てがそうであるとも言える。

 

 

「そして貴女と、()()のように」

 

 

 ヤマトの言葉に、コトノは何も返さなかった。

 だが彼女達は()()()()、言葉を交わさずとも互いの心はわかる。

 

 

「――――『ユキカゼ』!」

 

 

 ヤマトが麾下の駆逐艦を呼びつけるのを横目に、コトノは星空を見上げ続けていた。

 口元には薄い笑みが浮かんでいて、特段何かを心配している様子には見えない。

 一方で小さく細められた瞳はどこか哀しげで、寂しげで。

 

 

「……会いたいな……」

 

 

 ポツリと漏らした言葉は、それ以上に哀しげだった。

 

 

「さて、ツンデレ重巡ちゃんはどうしたかな?」

 

 

 しかしそれも一瞬のこと、すぐに普段の明るい笑顔を浮かべた。

 そして、星空からついと顔を横へと向けた。

 向いた方角は、東。

 今、そこでは硫黄島とは別に霧の戦火が引き起こされようとしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 北米方面艦隊太平洋艦隊は、その名の通りハワイから米西海岸までを管轄とする霧の艦隊である。

 東洋方面艦隊に負けず劣らず有力な艦隊で、人類側最強の米国太平洋艦隊を遥かに凌駕する精強無比な艦隊として知られている。

 そして海域強襲制圧艦――艦載機の運用をやめた霧の元航空母艦――『レキシントン』は、その太平洋艦隊の旗艦として知られていた。

 

 

「これはこれは、()()()()()()()()()()

 

 

 にっこり。

 そんな表現がまさにぴったり当て嵌まる笑顔が、そばかすが愛らしい顔に浮かんでいる。

 メンタルモデルは黒のアカデミックドレスを身に纏った女性の姿をしており、ローブにも似たそのドレスの裾は床に引き摺る程に長い。

 正面で閉じるタイプの米国式アカデミックドレスが、皮肉な程に似合っている。

 

 

 頭には学帽、手には自らの紋章(クレスト)が刻まれたメイス。

 学者風の見た目を補完するかのように、その周囲には百科事典級の厚みの本や海洋生物の標本カプセル等が積み上げられていた。

 そこが全長270メートルの飛行甲板でさえ無ければ、あるいは本当に学者の書斎にも見えたかもしれない。

 

 

「わざわざ出迎えてくれるだなんて、嬉しいわ。だけどご免なさい、見ての通り急いでいるの」

 

 

 そしてその背後の海には、20隻を超える太平洋艦隊に所属する霧の艦艇の姿もある。

 全てレキシントンが率いて来た艦隊であって、太平洋艦隊旗艦たる彼女の直轄艦隊でもあった。

 

 

「ご近所だし、硫黄島ではコンゴウが割と苦戦しているようだし。私達が支援すれば、たかが潜水艦の1隻や2隻、すぐに終わらせられるでしょう?」

 

 

 レキシントンの目的地は硫黄島、コンゴウはイ401達と激戦を繰り広げている海域である。

 共有ネットワークを通じてモニタリングしている戦況は、どうも芳しくない。

 手こずっている、と言うのが、レキシントンの見立てだった。

 それはコンゴウの特質と言うか性格に根付くもので、確実さを求めているための弊害に思えた。

 はっきり言えば、見ていてイライラする。

 

 

「だから、そんなイジワルはやめて通してくれないかしら?」

 

 

 そして、そんなレキシントンの前に2隻の艦が横向きに陣取っていた。

 大きな艦艇(じゅうじゅん)と、そしてそれを上回るより大きな艦艇(せんかん)

 砲門こそ向けて来ていないが、レキシントンの艦首を押さえるその位置取りからは「絶対に通さない」と言う意思が見て取れた。

 

 

「――――重巡『タカオ』」

「ふんっ。気安く名前を呼ぶんじゃないわよ、余所者のくせに」

 

 

 自らの艦橋の上に腕を組んで仁王立ちした体勢で、タカオは自分よりも大きな相手を睨み返していた。

 強気な瞳はそれだけで威圧感を感じさせるが、足元でマヤがデタラメに弾いている玩具のピアノの音が非常に邪魔だった。

 聞くに堪えない酷い音だが――そもそも、鍵盤が間違っている――タカオは気にした風も無い。

 

 

「大体、アンタ達いったい誰の許可を得て管轄海域外の戦闘に介入しようとしているわけ? そう言うのをえっけんこーいって言うのよ、私達がそんなことをさせると思う?」

 

 

 タカオの隣に艦を寄せているのはキリシマだ、見ようによっては後ろ盾にも見える。

 ただ彼女はハルナの隣で、掌で顔を覆って天を仰いでいた。

 何と言うか、自らの運命を呪っている様子だった。

 

 

「401と404を沈めるのは私達(わたし)よ、アンタ達なんかに手出しはさせないわ」

「ふぅん、ならどうするって言うのかしら? 私達が貴女達を無視して通ると言ったら、貴女はどうすると言うのかしら?」

「……言葉は必要?」

「言葉は始原よ、とても美しいシステムだわ。最初からそれを否定するのは、野蛮人のすることだと思うけれど?」

 

 

 レキシントンの言葉に、何故かハルナがうんうんと頷いていた。

 

 

「なら話をしましょうか――――帰れ」

「嫌」

 

 

 タカオが砲塔を回すのと、レキシントンが飛行甲板をスライドさせたのはほぼ同時だった。

 言葉による説得が通じない場合、何をするのか?

 奇しくもそれは、人類が連綿と紡いできた歴史の中ですでに答えが出ている。

 

 

(私が沈めるまで、沈むんじゃ無いわよ)

 

 

 敵に対して若干歪んだエールを送りながら、タカオは額に紋章を浮かべ、瞳の虹彩を輝かせた。

 そして、今この時、この瞬間。

 霧史上初の、()()()()()()()()()()()()()()()()()のだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 静かだった。

 イ404の発令所の水を打ったような静けさは、そのままクルーの緊張を示している。

 

 

「……上の奴ら、まだいやがるな」

 

 

 ヘッドホンに耳を当てたまま、冬馬が珍しく真面目な顔でそう言った。

 ちなみに彼の言う「上の奴ら」とは、『アシガラ』と『ハグロ』と彼女達が率いる駆逐艦隊のことだ。

 つい先程まで追い回されていて生きた心地はしなかった、特にアシガラは自ら潜行してでもこちらを追い詰めてやろうと言う意思が見えた。

 

 

 戦場には、「時間」と言うものがある。

 それで言えば今はイ404の我慢の時間であって、言うなれば「敵の時間」とも言える。

 ただでさえ相手の戦力が過大なのであるから、わざわざ相手の時間に攻勢に出ることも無い。

 ここはひとまず海底に身を潜めて、チャンスが来るのを待つべきだった。

 

 

「んぁ?」

 

 

 その時、冬馬が訝しげに声を上げた。

 しかしその内容について直接言葉にしたのは彼では無く、スミノだった。

 スミノは小さく首を傾げていたが、事実は事実として捉えたのだろう、そのまま伝えた。

 

 

「401、急速浮上」

「え……どう言うこと?」

「どう言うことも何も、そのままの意味だよ。401がコンゴウに向けて急速浮上してる」

 

 

 一瞬、意味がわからなかった。

 あの兄のことだから何か考えがあるものと思うが、それにしても無謀だ。

 今、海上ではコンゴウ達がまさに待ち構えているだろう。

 加えてあの衛星砲もすでに再チャージが済んでいるはずだ、この状況で浮上するなど危険すぎる。

 

 

「401、なおも浮上中」

「兄さん……?」

 

 

 いったい、群像は何を考えているのか?

 

 

「……どう言うつもりだ? 401……」

 

 

 そして当然、似たようなことをコンゴウも考える。

 イ401側の意図は何だろうかと、今にも海面から顔を出しそうな勢いで浮上してくるイ401の艦影をソナーに捉えながら考える。

 デコイかとも思ったが、この急速かつ精密な艦の動きはデコイでは出せないだろう。

 

 

 わからない、意図が読めない。

 しかし、事実は目の前にある。

 イ401が自分を目掛けて急速浮上してくる、それだけが確かな事実だ。

 だからコンゴウは訝しみつつも、グリップスイッチのボタンに指をかけた。

 

 

「艦隊全艦! 急速回頭、最大戦速で本艦から距離を取れ! ヒエイ、ミョウコウはそのままの位置で、401に次の動きがあれば対処せよ」

 

 

 コンゴウの一声で、全てが動く。

 彼女を囲んで輪形陣を組んでいた軽巡洋艦や駆逐艦が一定の距離を取り、ヒエイとミョウコウが瞳の虹彩を輝かせて互いの情報をリンクさせた。

 何人たりとも、この2人の目から逃れることは出来ないだろう。

 そうしている間にも、イ401は正面から向かってくる。

 

 

「この一撃で」

 

 

 イ404には目立った装備は無い。

 ヒュウガの超重力砲を積んだイ401こそが最大の脅威、それをここで潰せるならば、それに越したことは無い。

 コンゴウはグリップスイッチを掲げるように(かざ)し、そして。

 

 

「我らの静かなる海を取り戻す――――!」

 

 

 

 そして、天罰の如き雷が雲を裂き、海を穿った。

 その中に、イ401は成す術も無く飲み込まれていった――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
ヒエイは隠れシスコン、僕はそう信じているんだ(え)

と言うわけで、硫黄島包囲戦です。
おそらく前中後の3本構成になると思います。
つまり6月中には原作突破する計算ですね、色々自分なりに設定をつけて話を展開していくつもりです。

まだ何も決まってませんけど(え)


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Depth017:「硫黄島包囲戦・中編」

 また、艦が大きく揺れた。

 医務室で待機していた良治は、シートに座ったまま息を吐いた。

 外の様子がわからない――ナース姿の三頭身スミノ達に聞けばわかるが、特に聞いたことは無い――ため、衝撃がある度におっかなびっくりである。

 

 

「やれやれ、今回はいつもより長丁場になりそうだなぁ」

 

 

 実の所を言えば、戦場において良治の出番はあまり無かった。

 むしろ自分の出番がある時はクルーの誰かが負傷した時なので、出番が無い方が良いとすら考えていた。

 それには短期決戦が1番だ、長丁場の戦闘はそれだけ良治に緊張を強いる。

 何しろいつ何時呼ばれても最善の行動が出来なければ、クルーの生命に関わる。

 

 

 とは言っても、とにかく今の所は良治の出番は無い。

 そのため、彼は比較的落ち着いた時間を過ごせていた。

 今は医務室で待機すると共に、珍客と言うか密航者と言うか、保父よろしく1人の女の子の面倒を見ているところだった。

 

 

「蒔絵ちゃん、大丈夫かい?」

 

 

 実際、良治は本気で心配していた。

 何しろ、戦闘中である。

 なかなかのお転婆娘のようだが、流石に戦場の真っ只中と言うのは厳しいだろう。

 何と言っても、まだ子供なのだから。

 

 

「…………」

「蒔絵ちゃん?」

 

 

 そして当の蒔絵はと言えば、良治の隣で大人しくシートに座っていた。

 シートは床に固定されており、シートと身体はベルトで固定されている。

 最初はわーわーと騒いでいたのだが、今では黙り込んで俯いてしまっていた。

 いっそのこと睡眠薬で眠らせることも考えたが、健康な子供を相手にそんなことを躊躇無く行える程、良治は良識を捨ててはいなかった。

 

 

「……の……い……」

「蒔絵ちゃん、大丈夫かい?」

 

 

 良治の言葉にも顔を上げずに何かをぶつぶつと呟いているとなれば、心配にもなる。

 だから良治が蒔絵に近寄ったのは、医者と言う立場からしても自然なことだったろう。

 しかし、彼にとって不運だったことが3つある。

 

 

「蒔絵ちゃ」

 

 

 第1に、刑部蒔絵の調()()()()()身体が大人顔負けの瞬発力を備えていたこと。

 第2に、彼女自身が理化学分野の知識を豊富に持ち、睡眠薬や麻酔薬の扱いに長けていたこと。

 そして第3、おそらくはこれが最も重要であっただろう。

 

 

「ごめんね、お兄さん」

 

 

 蒔絵の行動を逐一見ているはずのスミノが、それらの報告を一切していなかったことだ。

 何故なら、蒔絵の行動を逐一報告するよう()()()()()()()()から。

 イ401ではまず起こらないだろうその事態は、残念ながら、イ404では起こり得るのだった。

 艦長と艦の間に信頼と献身が芽生えない限り、何度でも。

 だから今回の事態も、スミノは聞かれない限り報告などしないだろう。

 

 

 蒔絵がイ404の薬品棚や倉庫から麻酔薬をちょろまかしていたことも、そして良治を昏睡させて医務室を出て行ったことも報告しないだろう。

 そのくせ、蒔絵に「良治をベッドに」と言われればこれに素直に従っていた。

 そしてこの行動がイ404、そして千早紀沙の運命を決定付けることになるだなどと……。

 

 

 ――――この段階では、スミノですら予測し得なかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ401からの全ての信号が途絶した。

 その報告がスミノの口からもたらされた時、発令所は沈黙をもってそれを迎えた。

 そしてその沈黙は味方が撃沈されたと言う衝撃よりも、ある種の懸念、あるいは興味によってもたらされた部分が大きい。

 

 

「…………」

 

 

 すなわち、自分達の艦長(きさ)の反応である。

 イ401には当然のこと、紀沙の兄である群像が乗っていた。

 そのイ401の撃沈はとりもなおさず彼の死を意味する、水上艦と違い脱出の可能性は低い。

 そして紀沙は、兄である群像に酷くこだわっていた。

 

 

 それこそ軍規よりも使命よりも、理不尽よりも過去の行いよりもだ。

 何よりも優先していたと言って良い。

 より直截的に表現するのであれば、兄を霧から()()()()ことに全てを賭けていた。

 その紀沙がこの事実を前にどう言う反応をするのかが読めず、緊張が走ったのだ。

 

 

「艦長殿?」

 

 

 そして、最も関心を持って様子を窺っていたのがスミノだった。

 

 

「ボクはどうすれば良いのかな、指示をおくれよ」

 

 

 言いつつ、その両の瞳は見開かれて紀沙から離れない。

 紀沙は少し俯き気味で艦長のシートに座っており、前髪で隠れて表情を窺うことが出来ない。

 だがスミノの眼は人間の体温・発汗・動悸等を正確に見て取ることが出来る、異変があればすぐに察知することが出来る。

 

 

 だから紀沙の身体、そして心に動きがあれば、そこに如実に表れるはずだった。

 それを見逃すまいと、スミノは紀沙から視線を逸らさない。

 さぁ、この人間は次に何と言うのだろう?

 攻撃? 逃走? 気を失うのだろうか? 我を失うのだろうか?

 あるいはやはり、自分の存在を無視するのだろうか?

 

 

「――――艦長殿?」

 

 

 笑みを隠すことなく、ひょこっと自ら紀沙の前に回る。

 それはどこか子供じみているが、考えていることは子供とはほど遠い。

 

 

「…………」

 

 

 しかしそれに対して、紀沙は一切の反応を返さなかった。

 その代わり、左手をシートの肘掛けからゆっくりと上げた。

 震えも無く、極めてスムーズな動きだった。

 スミノだけで無く、発令所のクルー全員が固唾を呑んでその動きを見つめていた。

 

 

 そしてその手は、紀沙自身の髪に触れた。

 正確にはリボンに触れて、紀沙は器用に片手で髪をまとめているリボンを解いてしまった。

 いつか言ったように、紀沙の髪質は外への跳ねが強い。

 だからリボンを解いてしまうと、濃い黒色の髪はピンピンと立ってしまう。

 ハリネズミを思わせると言えば、言い過ぎだろうか。

 

 

(――――なんだ?)

 

 

 髪を解く、行動としてはそれだけだ。

 それだけのはずなのに、スミノはそれだけでは無い何かを感じた。

 身体的な異常は何も無い、いつもの紀沙がそこにいるだけだ、それなのに。

 それだけでは無い。

 

 

「――――どうすれば良いか、だって?」

 

 

 ()()()()()

 そんな気分だけの、立証不可能な感覚を抱いてしまう程に。

 スミノは、この世に生じて初めて肌が粟立たつ(ぞくりとする)のを感じた。

 長い前髪が鬱陶しげに揺れる中で見せる表情は、()()

 

 

「どうして、そんなことを聞くの?」

 

 

 そこには、何も無かった。

 

 

「イ401からの信号が全て途絶えた。これは状況の変化と言うやつじゃないのかな? ボク達は今、まさに敵中に孤立して」

()()()()

 

 

 ただし、声は固かった。

 

 

「関係ない、そんなこと」

 

 

 何が、関係ないと言うのか。

 にわかにはスミノには理解できなかった。

 だが彼女は、すぐにその言葉の意味を知ることになった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナチがイ404の姿を捉えたのは、衛星砲が発射された1分後のことだった。

 その直後、彼女から通報を受けたアシガラとハグロが動いた。

 

 

「見つけたぞハグロ、404だ!」

「いちいちそんな大声出さなくても、わかってるよ」

 

 

 どちらも重巡洋艦、そしてメンタルモデル保有の霧の艦艇である。

 アシガラは長い黒髪に狼を模した髪飾りをつけた少女、ハグロは小柄な赤毛のツインテールの少女の姿をしていた。

 2人ともヒエイやミョウコウと同じデザインの制服を着ているが、ハグロが乾いているのに対して、アシガラの服は湿り気を帯びていた。

 

 

「ハグロ、もう一度仕掛けるぞ!」

「はいはい、攻撃のタイミングは任せるよ」

 

 

 呆れた顔でハグロが見送る中、アシガラは勝気な顔で海中へと飛び込んだ。

 文字通り、艦艇ごと潜行したのである。

 しかもフィールドも張らずに飛び込むものだから、海水をもろに全身に被っている。

 ちなみに霧の水上艦が潜行すると超重力砲と魚雷以外の武装が使えなくなるので、霧でも潜水艦以外が戦闘中に潜行することは稀だ。

 

 

 しかし、対潜水艦戦においては意外と理にかなった戦術だった。

 潜水艦との戦いで最も警戒すべきは見失うこと、だから自ら潜行して追いかけるのは悪い選択肢では無い。

 特にアシガラは1隻で戦っているわけでは無いから、成功する可能性は十分にあった。

 

 

「ぜんばんばっびゃっ!!」

 

 

 ガボガボと空気を吐き出しながら、アシガラは海中を直進した。

 夜の海は暗いが、彼女の「目」にははっきりと敵の姿が見えていた。

 海底を這いながら全速で航行するイ404、そこへ向けて撃てる魚雷を全て撃った。

 補給の心配はいらないので、遠慮なく撃てる。

 

 

 放たれた魚雷は寸分狂わずイ404に殺到し、命中するかに見えた。

 しかしその直前でわずかにズレ、直撃はせずに至近弾となった。

 何事が生じたかと思って良く目を凝らせば、アシガラのいる層とイ404のいる海底の層との間に、微妙な温度の差があることに気付いた。

 

 

「えんぼんべき!? ぢょうびゅう!?」

 

 

 余りイメージしにくいかもしれないが、海中と言えど単一の流れになっているわけでは無い。

 むしろ複雑な水の流れが幾重にも重なっており、それらの潮流がいくつもの層となっているのだ。

 だから魚雷を撃つ際にもそうした層を計算に入れる必要があるが、この計算は非常に難しい。

 今回、アシガラの魚雷が微妙に外れたのはそのためだった。

 

 

(アクティブデコイ!?)

 

 

 しかし至近弾は至近弾、ノーダメージとまではいかない。

 そう考えて追撃を、と言うところで、煙の中から飛び出て来るものがあった。

 数は2つ、アクティブデコイだった。

 しかも2隻とも、アシガラに向かってきていた。

 

 

 一瞬、アシガラが困惑の表情を浮かべる。

 普通、デコイを出すならアシガラの進行方向と逆方向に進ませるのではないだろうか?

 それを自分に向けてくると言うのは、いったいどういうことだろう。

 そうこうしている内に、2隻のアクティブデコイはどんどん増速している。

 

 

「ええいっ、べんぼうっ!」

 

 

 面倒だから、全て撃沈してやる。

 そう判断して自らも増速をかけた次の瞬間、アシガラは表情を引き攣らせることになる。

 何故ならば、破壊しようとしたアクティブデコイが全て自爆したからだ。

 具体的には、デコイの中に仕込まれていた侵蝕弾頭魚雷の爆発と言う形で。

 そして増速をかけた以上、その爆発と侵蝕反応の中に自分から――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アクティブデコイの自爆戦法か。

 報告を伝え聞いただけだが、コンゴウはすぐにそう判断した。

 無為に自己を損失させる方法は、霧の考え付くところでは無い。

 

 

「先入観と言うやつだな、デコイだからと言って囮にしか使えないと決まったわけでは無い。千早群像と401の方が手強いかと思っていたが、思い切りの良さでは千早紀沙と404の方が上かもしれんな」

「千早紀沙? キリシマの報告では、404の艦長は千早群像の方では?」

「それはキリシマの勘違いだろう。あるいはキリシマとの戦いの時には入れ替わっていたかだ。2年前に401が活動を始めて以後、千早紀沙は日本国内にいた記録が残っている」

 

 

 奇抜な策だが、奇策はそう何度も通用しないからこそ奇策と言うのだ。

 今回のアクティブデコイの自爆戦術も、要はアウトレンジから撃ち抜いてしまえば良い。

 いくつかの対策を共有ネットワークに上げる――敵はおそらくイ404のメンタルモデルを通じてそれを知るだろう、それだけで牽制にもなる――と、コンゴウは空を睨んだ。

 

 

 軌道上にはコンゴウがコントロールする衛星砲があるはずだが、肉眼では流石に捉えることはできない。

 しかし、コンゴウの眼には確かに見えている。

 次のチャージの終了までの予定時間を正確に数えながら、コンゴウは対イ404の戦術を組み立てていた。

 

 

「404の過去の戦術から察するに、奴は格闘戦に長けている。こちらに肉薄するまでのタイミングの取り方が異常に上手い」

 

 

 思えば、ナガラの時もそうだった。

 あれがイ404が霧と戦った最初の例だったが、あの時もイ404はナガラに格闘戦を仕掛けた。

 霧として通り一辺倒の対応しか出来ないナガラでは、対処できなかっただろう。

 

 

「つまり奴は今、私に肉薄する隙を窺っている――――いや、来たな」

 

 

 ぎ、と瞳の虹彩を輝かせて、コンゴウは海を睨んだ。

 その水面下、彼女のソナーが2隻のアクティブデコイの姿を捉えたのだ。

 いずれも精密なコントロールがされているが、半プリセットの動きでは隠れきれるものでは無い。

 

 

「衛星砲射撃のために輪形陣を解いた所を狙ってきたか、だが」

 

 

 その次の瞬間には、コンゴウの対潜弾が海面に降り注いでいた。

 それらは寸分違わずに海中のイ404のアクティブデコイに直撃し、爆発した。

 やはり侵蝕弾頭を仕込んでいたのだろう、侵蝕反応を見せて爆発していた。

 そしてその爆発の陰に隠れて、また2隻。

 

 

「同じ手を何度も……アクティブデコイの残弾の数だけ繰り返す気か?」

 

 

 流石に呆れて、しかし迎撃の手は緩めなかった。

 あくまでもアウトレンジでデコイを破壊し続ける、近付けさせない。

 ただしここに来て、弊害も感じ始めていた。

 デコイの中に魚雷が仕込まれているため、海中が騒がしくなってしまっているのだ。

 こうなって来ると、流石に鬱陶しい。

 

 

「だが、我が包囲網はお前を捉えつつあるぞ?」

 

 

 一度ばらけたコンゴウの艦隊は、彼女の航路データに従って戻って来つつある。

 つまりコンゴウを中心に輪形陣を再編しているわけで、特にヒエイ・ミョウコウ・ナチの3隻の追跡をかわせるものではあるまい。

 時間が経てば経つ程、イ404は不利になっていくのだ。

 

 

 そして、その時だった。

 コンゴウは、己の真下から何かが急速に浮上してくるのを察した。

 それを察した時、コンゴウは艦体側面からエネルギーを噴射し、通常の戦艦では不可能な速度で艦を左へと横滑りさせた。

 高速戦艦の名は伊達では無い、この程度の動きは造作も無いことだった。

 

 

「スズヤを沈めた手か、不意を打ったつもりだろうがそうはいかんぞ」

 

 

 直前までコンゴウがいた場所の海面が盛り上がり、イ404の艦首が顔を覗かせた。

 それを視認するよりも早く、コンゴウの主砲がそちらへと向けられていた。

 そしてこのタイミングでコンゴウに格闘戦を仕掛けると言うことは、あれこそが本物のイ404。

 

 

「これで終わりだ、404」

 

 

 言葉の通り、コンゴウの主砲が轟音と共に放たれる。

 もはやビーム兵器と形容した方が良いだろうそれは、確実にイ404の艦体を貫き――――。

 そして、甲高い叫び声を上げた。

 

 

 音響魚雷だ。

 

 

 それもデコイだったのだ、しかも今度は音響魚雷を仕込んでいた。

 ただでさえ喧しい音響魚雷が目の前で炸裂すれば、いくら聴覚に頼らない霧と言っても顔を顰める。

 それが少女のヒステリックな叫びに聞こえたと思うのは、いささか詩的に過ぎるだろうか。

 つまり、コンゴウのソナーが一瞬とは言え切れる瞬間が生じたのである。

 

 

『アクティブデコイは全部撃ち尽くしたよ、コンゴウ』

「――――!」

 

 

 そして、今度こそ本物。

 艦尾のエンジンから炎を撒き散らしながら、本物のイ404が飛び出して来た。

 コンゴウの、()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 艦内の空気を外に泡に変えて艦体を覆い、海水との間の摩擦を極限まで減らす。

 そしてエンジンのリミッターを解除して最大出力、通常ではあり得ない速度で海面へと飛び出した。

 白鯨のスーパーキャビテーション航行システム、その真似と応用である。

 

 

「潜水艦が、飛んだ……!?」

 

 

 その様子は、コンゴウを直衛していたヒエイからも見えていた。

 まるで獲物を狙うシャチのように、イ404がコンゴウに飛びかかる。

 それは、ヒエイの考える格闘戦の範疇(はんちゅう)には入っていなかった。

 無音航行であそこまで高速で移動できるとは、イ404のスペックは霧側が持っているイ400型潜水艦とは、もはや根本的に違うと言うのか。

 

 

「――――驚いた?」

 

 

 発令所で、紀沙の呟きだけが響いた。

 潜水艦が宙を飛んでいるのである、他に音が無いはずが無い。

 そのはずなのに、不思議とその声は良く通った。

 

 

 コンゴウを直衛していたヒエイとミョウコウの間を抜けて、肉薄した。

 そのつもりが無くとも2隻の重巡の周回にはパターンがある、そこを突いた。

 発令所の中、戦略モニターに映る黒い巨艦を見下ろす。

 

 

「所詮、お前らは教科書(パターン)でしか戦術を練れない」

 

 

 だから、正面から不意を突かれる。

 その呟きは淡々としていて、何かの感情が乗っているようには見えない。

 一方で長くばらけた黒髪の間から、峻烈な色を浮かべた一対の瞳が覗いていた。

 

 

「でも、それで良い」

 

 

 お前達は、そのままで良い。

 そのまま。

 

 

「そのまま、沈め(しね)……!」

 

 

 足元から、鈍い衝撃が来た。

 イ404の艦体が、アクティブデコイの自爆と音響魚雷の至近での炸裂によろめくコンゴウに圧し掛かった。

 コンゴウもフィールドを張り、直接の体当たりを受けることだけは防いだ。

 フィールドの展開速度は流石に大戦艦、ナガラやスズヤ達とは演算力が違う。

 

 

 良し、と、それを見たヒエイは安堵した。

 演算力の勝負ならば巡航潜水艦では大戦艦の相手にならない、コンゴウならば押し切れる。

 だからヒエイは自らの艦体の装甲をスライドさせ、超重力砲の発射体勢に入った。

 コンゴウがイ404を弾き飛ばしたら、それに合わせて砲撃するつもりだった。

 旗艦装備を使用しているコンゴウは、元々持っていた超重力砲を外している状態だからだ。

 

 

「ヒエイ、違う! 下だ!」

「え……」

 

 

 コンゴウの周囲で、水柱が上がる。

 雷撃だ。

 足元を通り抜け、コンゴウの周囲に魚雷が殺到したのである。

 

 

「馬鹿な、どこから!?」

 

 

 完全に不意打ちだったが、それでもコンゴウは対応して見せた。

 クラインフィールドの展開範囲を広げ、艦底を狙った魚雷を全て防ぎきった。

 侵蝕反応を全て中和し、自分へのダメージを全て打ち消してしまった。

 だがそれは、イ404そのものに対する防御力を落とす結果になる。

 言うなれば、正面から組み合っているところで膝を打たれたに等しい。

 

 

 それでも、コンゴウの演算力はイ404のそれを上回っていただろう。

 だがコンゴウが全方位を防御しなければならない一方で、イ404は艦底――つまり、コンゴウとの接触部分以外のフィールドを全てカットしていた。

 一点集中、コンゴウのフィールドをこじ開けるためだけに自身のクラインフィールドを使う。

 

 

「――――今! 踏み潰して(フルファイア)!」

「艦長ちゃん! 流石にヤバい、ヤバいって!」

「今しか無いんです!」

 

 

 尋常で無い揺れの中、紀沙は叫んだ。

 その目には正面、時折砂嵐で見えなくなるモニターの中のコンゴウに向けられていた。

 ()()()は表情すら変えずに、こちらを睨め上げている。

 潜水艦に圧し掛かられると言う前代未聞の事態も、足元を穿つ魚雷も、気にも留めていない。

 

 

 ただこちらを見つめていて、紀沙はそこから目を逸らさなかった。

 その冷たい美貌に、頭の中で何かがちりちりと痛んだ。

 まるで人間のようなその姿に、胸の中で何かが焦がれるのを感じた。

 そしてそれが、今の紀沙を動かしている。

 

 

「艦長! 強制波動装甲、危険域です!」

「あと少し……あと少し!」

「魚雷発射管内の温度、急激に上昇! ヤバいよ……」

「1発で良いんです! 1発だけで……!」

 

 

 まさに全身全霊、コンゴウを潰しに来ている。

 敵中に孤立しているこの状況で、大将首を獲ることにどんな意味があるのだろう。

 それよりは、いっそ逃げることを考えるべきだ。

 普通はそう考えても良いはずだが、しかし紀沙はそう考えない、何故なら。

 

 

(それが、()()()()()()()()()()!)

 

 

 スミノは、口元が歪むのを抑えられなかった。

 コンゴウを押さえて艦隊を止める、それが群像の作戦の全てだ。

 それが、紀沙を支えている。

 それだけが紀沙の理性を支えている。

 

 

(いやぁ、それを理性なんて綺麗な言葉にまとめても良いのかな)

 

 

 興味深い行動ではある。

 群像への強い信頼が、そうさせているのだろうか。

 いいや違う。

 自分は確かに言った、イ401からの信号が全て途絶えたと。

 霧であるイオナからの信号の途絶、その意味するところを理解できない紀沙では無いだろう。

 

 

(なら彼女の理性は、どこへ消えてしまったんだ?)

 

 

 いや、消えたわけでは無い。

 言ってしまえば、目を瞑っているだけだ。

 気付いているくせに、気付きたく無いが故に見ないふりをしている。

 そうしなければ、何かが崩れてしまう。

 

 

 それがスミノには良くわかっていた。

 ただ、それがどうして無意識に、あるいは意識してコンゴウへの攻撃に向かうのかはわからなかった。

 はっきりと意味が無いとわかっているのに、そう行動する意味とは何なのだろうか?

 まるで痛みを堪えるように、傷口を押さえて這い進むように。

 

 

「理解できないね、だけど」

 

 

 だけど、そんな紀沙に従おう。

 自分は彼女の艦だから、どんな愚かな行為にもついて行こう。

 その先に何があるのか、あるいは何も無いのか、スミノはそれを知りたかった。

 イ401もそうだったのだろうか、と、そんなことを思った時。

 

 

 

「――――こじ開けたよ、艦長殿」

 

 

 

 罅割れの音と共に、クラインフィールドが割れた。

 イ404とコンゴウのクラインフィールドの接触点に穴が開き、互いが互いに対して無防備になった。

 紀沙は、すかさず叫んだ。

 同じように、ヒエイも叫んでいた。

 

 

「艦隊旗艦!」

「よせヒエイ、その位置からでは艦隊旗艦に当たる!」

「しかし!」

 

 

 こじ開けたフィールドの穴から放たれたのは、2発の魚雷だった。

 侵蝕弾頭では無い、ナノマテリアル製の振動弾頭魚雷だ。

 クラインフィールドを突破さえしてしまえば、中和される侵蝕弾頭では無く、物質の固有振動数を割り出して破壊する振動弾頭の方が有利だ。

 

 

「くたばれ、化け物……!」

 

 

 紀沙は、唸るように言った。

 

 

「404……!」

 

 

 コンゴウもまた唸っていた。

 自らの身体に杭を差し込まれる感覚に顔を顰めながら、コンゴウはイ404を睨み付けた。

 その瞳には霧の意思の他に、より苛烈な何かが見え隠れしていた。

 

 

「懐に飛び込まれれば」

 

 

 振動弾頭がコンゴウの艦体表面で爆発し、主砲の1つと艦橋に痛烈な一打を浴びせかけた。

 艦のバランスが崩れかけるのを流動的なナノマテリアル・コントロールで押さえ込み、それどころか残った砲門をイ404の艦底に向けてさえ見せた。

 しかしながら、当然、この位置での主砲による攻撃はコンゴウ自身にも危険を及ぼす。

 

 

「私が撃てないと、そう夢想したかッッ!!」

 

 

 しかし、コンゴウは躊躇しなかった。

 瞳に苛烈な輝きを放ち、残った主砲の全てをイ404に向けた。

 相討ち覚悟のその一撃は、イ404が次の魚雷を放つと同時に叩き込まれた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どうやら、シートから投げ出されていたらしい。

 艦が傾いている、最初に気付いたのはそれだった。

 

 

「う……?」

「大丈夫?」

 

 

 頭痛がして、頭を押さえながら身を起こした。

 その時、スミノに身体を支えられていたことに気付いた。

 押しのけるようにして、シートの肘掛けに手を置いて立ち上がった。

 くらくらするが、気の強さがそうさせた。

 

 

「いっててて……」

 

 

 その時、他のクルーも似たような状態でいることに気付いた。

 スミノがカバーしたのか、目立った怪我は無さそうだった。

 ただ倒れていたり、膝をついていたり、突っ伏していたりしている姿を見ると、ぼんやりしていた意識もはっきりしてきた。

 

 

 ――――自分は、何をしていた?

 はっとして、そして蒼白になり、そう思った。

 

 

「あ……」

 

 

 アクティブデコイの全てを陽動と自爆に使い、敵の索敵能力を飽和させた。

 時間差で航走するよう設定した魚雷群で、不意打ちを喰らわせた。

 その上で、いわばシャチ戦法とも言うべき突撃を敢行した。

 結果としてコンゴウに致命打を与え、戦艦としての戦闘力を失わせた――――だが。

 

 

「痛ぅ……艦底部のソナーほぼ全損、側面は40%の損失。前部ソナーの一部でもエラー発生、探知(しごと)ができねぇ」

「……魚雷室は無事だよ、流石に壁が分厚いからね。注水装置がちょい心配だけど、装填もやれる。ただアクティブデコイを全部使っちまった上に、401から供与された侵蝕魚雷もほとんど残って無いよ」

「艦内、3ブロックに渡って隔壁を閉鎖しました。外郭に深刻なダメージを負っていますが、内郭の損傷を優先して修復します。浸水継続中」

 

 

 その代償に、イ404は重大な損傷を受けてしまった。

 硫黄島入港直前の状態よりも悪く、一時的とは言え、艦は深度を維持できずに海底へと沈んでいっていた。

 浸水は深度が深くなればなる程に勢いを増す、だから少しでも浅い深度で艦を固定しなければならないのだが……。

 

 

「艦長、機関室及び医務室と連絡が取れません」

 

 

 恋の声が聞こえているのかいないのか、紀沙は頭痛を堪えるような表情を浮かべていた。

 艦の傾きを身体で感じることが出来る状況の中で、思考が追いついていない様子だった。

 いやむしろ、加速した思考の余韻の中にいると言った方が良いだろうか。

 コンゴウに突撃を敢行した時の紀沙の指示は、果断かつ素早かった。

 

 

 コンゴウを踏み潰す、そのことだけを考えていた。

 だがここに至って、紀沙は艦の状況に思いが至った。

 自分が()()に導いたのだ、艦の皆を。

 その事実は、紀沙が自分で思っている以上に、紀沙を打ちのめしていた。

 

 

(あおいさん、静菜さん……良治君)

 

 

 気が付いたら、そんな状況になっていた。

 クルーの命を、自分の私憤のために使った。

 足元が無くなったような、浮遊感にも似た冷たい感覚を感じた。

 まさかと言う思いが、紀沙の胸中を占めていく。

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 そしてそんな紀沙を救ったのは、意外な存在だった。

 

 

「皆、生きてる。何のためにちび達がついてたと思ってるのさ」

 

 

 スミノだ。

 イ404はまさに彼女の体内、起きている事象は全て把握している。

 そしてちびスミノは、機関室にも医務室にも配置されていた。

 ちびスミノはナノマテリアルの集合体であって、緊急時には1番傍の人間を守るようになっている。

 

 

「ただ、機関室の損傷がちょっと酷いのかな。緊急措置で浸水は止めたけれど、出力が上がらない」

 

 

 スミノにしてみれば、ナイフで(はらわた)を抉られたようなものだろう。

 人間であれば苦悶の表情でのた打ち回っているだろうダメージも、メンタルモデルである彼女の表情を曇らせることは無い。

 一方で、だからこそ深刻なのだと言う意見もあるだろうか。

 

 

「どうしようか、艦長殿?」

 

 

 瞑目して、呼吸を整えた。

 兄さんは、と言う言葉をそうして呑み込む。

 コンゴウは、と言う言葉も同じように呑み込む。

 リボンに触れようとして、そこにリボンが無いことに気付いた。

 倒れた拍子に、どこかへ飛んでしまっていた。

 

 

 過去、繰り返し言われたいくつかの言葉が脳裏を過ぎる。

 それを、自分に言い聞かせる。

 霧に。

 スミノに心配されるなんて冗談では無い、その反骨心が紀沙の折れかけた心を支えた。

 

 

「……このまま、着底します。万が一に備えて、全員防護服とマスクを着用して下さい」

 

 

 今、紀沙にはそれだけしか言えなかった。

 浸水している中で深度を下げるのは危険を伴うが、浅深度は敵に発見される危険が高く、一度落ち着くためにも艦を固定した方が良いだろう。

 浸水については、今はナノマテリアル・コントロールで応急措置をするしか無かった。

 

 

 その時だ、発令所の扉が開いた。

 エア抜きの音と共に扉がスライドして、誰かが飛び込んで来たのだ。

 最初は良治か誰かがやって来たのかと思ったが、そこにいたのは別の人物だった。

 肩で息をして、よほど急いでいたのか髪もほつれてしまっていて。

 

 

「……蒔絵ちゃん?」

 

 

 良治に預けていたはずの蒔絵が、汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔でそこにいた。

 その身体には、衝撃から彼女を守るために、着ぐるみのような姿になったちびスミノが巻き付いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大戦艦『イセ』とそのメンタルモデルは、思考していた。

 後方からコンゴウ艦隊の支援を行い、同時に日本近海の第一巡航艦隊の調整を代行しながら、ぐるりと戦場を()渡した。

 がろん、と、髪飾りの大きな鈴が音を立てる。

 

 

 メンタルモデルは長い茶色の髪に、黒地に青のフリルやリボンをあしらったゴシックドレスをまとった女性の姿をしている。

 他のメンタルモデル同様、美しいが、しかし海戦の現場には不似合いだった。

 イセは頬に指を当て、可愛らしく首を傾げた。

 

 

「……ヒュウガちゃんがいない?」

 

 

 彼女は、ヒュウガの姉妹艦(あね)であった。

 良く見ればメンタルモデルの顔立ちや雰囲気が、どことなくヒュウガに似ている。

 違う点があるとすれば目元がやや垂れ目であることと、どこか空とぼけたような表情だろうか。

 しかし緩さを残す一方で、今はやや真剣さが見え隠れする。

 

 

「401と一緒に沈んだ? まさか、そこまでお馬鹿さんじゃないわよね」

 

 

 元々、イセはヒュウガを霧に連れ戻す目的でこの戦いに参加していた。

 ヒュウガがイ401に敗れて霧を出奔してからと言うもの、イセは妹をずっと探していたのだ。

 艦体を失っている上、ヒュウガ程の大戦艦のコアが他の霧との交流を本気で絶ってしまえば、これを見つけるのは非常に難しかった。

 

 

 だからイセにしてみれば、この戦いは「非行に走った妹を家に連れ戻す」ぐらいのものでしか無かった。

 もちろん、コンゴウを始め他の霧への仲間意識もある。

 ただ、ヒュウガへの気持ちがそれよりも優先されると言うだけのことだ。

 理屈によらないこだわり、これもメンタルモデルを形成してから得たものの1つだ。

 

 

「まぁ、良いか」

 

 

 艦橋のさらに上、アンテナの上にぺたりとお尻をつけて、イセは相好を崩した。

 

 

「ヒュウガちゃんのことだから、きっと上手に隠れているんでしょう。姉さまが来ていることはわかってるくせに、本当にしょうの無い子なんだから」

 

 

 チョコレートの包み紙を開けながら――何故か、イセの周りには大量のチョコレートの缶が置かれている――そんなことを言って、イセはコンゴウの戦いの観戦へと戻った。

 実際、コアさえ無事ならどうとでも出来ると考えていたのだ。

 それに戦場に充満するナノマテリアルの回収や補給部隊の指揮も片手間に出来るようなことでは無く、彼女なりに忙しいのだった。

 

 

「あら?」

 

 

 その時、イセの横に着けてくる艦があった。

 大きな艦艇だがイセ程では無い、クラスとしては重巡洋艦に当たる。

 艦名は『アタゴ』、海中から突然に現れた彼女に対して、イセは目を丸くした。

 存在に気付いていなかったわけでもあるまいに、どこかわざとらしい挙動だった。

 

 

「『アタゴ』じゃない、ナガト麾下の艦がこんなところでどうしたの?」

「……挨拶に来ただけよ」

「挨拶?」

 

 

 アタゴ、コンゴウでは無くナガトの艦隊に所属する艦である。

 瞳の色合いが薄いことと髪が短いことを除けば、タカオに瓜二つの少女が艦橋の上に立っていて――もちろん、メンタルモデルだ――彼女は、つまらなそうな目でイセへと視線を向けていた。

 チョコレートの包み紙から目を離さずに、イセはアタゴに続きを促した。

 

 

「私は旗艦ナガトの命で貴女達の戦闘記録を取っていました」

「そう」

「でも、ナガトから命令の変更があった。だからここを離れなければならなくなりました」

「あら、そう。大変ね」

 

 

 関心が無い。

 そんな風なイセに僅かに眉を寄せて、しかし特に何も言う必要は無いと思ったのか、アタゴは目礼するだけに留めた。

 

 

「それで、どこへ何をしに?」

「東へ。……馬鹿な『姉』を迎えに」

「そう」

 

 

 そしてイセは、やはり関心を示すことなく。

 

 

「大変ねぇ」

 

 

 

 同じ台詞を、繰り返すに留めた。

 そして、包み紙を解かれたハート型のチョコレートに口付けたのだった。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

うーん、今回はちょっと難しかったです。
紀沙の心理描写と言うか、内面の掘り下げが足りないのかな……?
入り込めるキャラクターの描き方はずっと課題ですが、ここ数作品は特に顕著ですね。
仕方ない、私はただ妹を優遇したいだけなんです……(え)

とにかく、今はとにかく原作突破を優先です。
それでは、また次回。


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Depth018:「硫黄島包囲戦・後編」

残酷描写を思わせるシーンがあります、ご注意下さい。


 奇妙な共通項ではあるが、霧も人と同じように、海戦で海に投げ出されれば救助を必要とする。

 戦いの中で艦体を砕かれた者は、まだ無事な他の霧に回収して貰うのが基本だった。

 

 

「ふい~、助かったよぉチョウカイ」

「(ピコピコ)」

 

 

 スズヤとクマノもその内の一部であって、彼女達はチョウカイによって回収されていた。

 厳密に言えば、まず潜水艦に海底で――コアだけの場合は移動できず、メンタルモデルも人間と同じように溺れることもある。死にはしないが――拾い上げて貰い、それからチョウカイに乗せて貰ったのだ。

 後はナノマテリアルの補給さえ受ければ、いつでも復活が可能である。

 

 

 そして救助に戦力を割き始めたと言うことは、戦闘が終わりつつあることを意味していた。

 先程のコンゴウとイ404の衝突、あれが最後の攻防になった形だ。

 コンゴウも痛手を被ったようだが、イ404も大戦艦の主砲の直撃を受けて無傷では無い。

 今はナチを中心に、海底に沈んだだろうイ404を探索している所だった。

 

 

「いやぁ、こんな戦いは17年前の海戦以来だったね!」

「(ピコッ)」

 

 

 チョウカイの甲板に置かれた座布団とちゃぶ台、スズヤとクマノはそこで向かい合って座っていた。

 ついさっきまで海面を漂っていたと言うのに、衣服はすでに乾いてしまっている。

 元々ナノマテリアルで再現しただけの衣服だから、作り直せば乾きも湿りも思いのままだ。

 そして過去形で語るスズヤの言葉が、戦いの終わりを如実に表していた。

 

 

「いやぁ、チョウカイも大変だったね~、って。チョウカイ? チョウカーイ? 恥ずかしがって無いで出てきてよ~」

 

 

 コンコン、とスズヤが甲板を叩くも、それらしい誰かは出てこない。

 その代わり、子供程の背丈の、無骨な西洋鎧(プレートアーマー)がお盆にお茶を乗せてやって来た。

 どことなく、お茶汲み人形に見えなくも無い。

 頭のヘルムに番号が書かれているそれは、いわゆるメンタルモデルの「ちび」だった。

 それに、スズヤは呆れたように嘆息する。

 

 

「やーれやれ、メンタルモデル嫌いもここまで来ると強情って熱っ!? このお茶熱ぅいっ!?」

 

 

 そんな賑やかなチョウカイの甲板上ではあるが、周囲は穏やかでは無い。

 弛緩しつつあるとは言え戦場の海、そこかしこに緊張感が漂っている。

 実際、傷ついた仲間のメンタルモデルやコアを運ぶチョウカイの周囲を囲むように、チョウカイの直衛である軽巡洋艦4隻を中心とした艦隊が航行していたのだから。

 

 

「404かぁ……」

 

 

 そして回収班に含まれていた潜水艦イ15も、その1隻だった。

 潜水艦としてはイ400型と比べると一回り程小さく、今は潜行せずに水上を航行していた。

 そのため、メンタルモデルも艦の外にいる。

 光の当たり具合で紫に映える銀髪に、蒼の瞳の少女の姿で、遠ざかっていく戦闘海域を見つめていた。

 

 

 コンゴウ達のいる海域には、海底へと消えたイ404がいるはずだ。

 他の潜水艦の仲間も捜索しているのだろうが、出来れば自分もそちらに行きたかった。

 編成時には思わなかったが、今はそう思う。

 

 

「……か、かっくいい……」

 

 

 冷たい海風が、少女の熱を冷ますように吹き抜けて行った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 刑部蒔絵の世界は、とても狭い。

 と言うより、存在しないと言った方が正しいのかもしれない。

 何故ならば彼女は造られた存在であり、しかもすでに役割を終えた道具であったのだから。

 

 

「おじいさまは、どうして私に会ってくれないの?」

 

 

 そんなものは存在しない。

 最初から、蒔絵に家族など存在しない。

 どこにもいないものを探す、何と愚かで無意味な行為だろうか。

 

 

「私が、悪い子だから?」

 

 

 ありもしないものを求める、何と滑稽な行為だろうか。

 

 

「私が悪い子だから、ローレンスの言うことをちゃんと聞かなかったから? 皆に迷惑をかけたから?」

 

 

 ひとり。

 蒔絵はひとりきりだ、唯一の例外がローレンスだった。

 だがそのローレンスも、蒔絵の行動の多くを制限していた。

 それが蒔絵自身のことを案じてのことだったのか、蒔絵以外のことを案じてのことだったのかはわからない。

 

 

「でも、私、ちゃんと作ったよ? 振動弾頭、作ったよ?」

 

 

 蒔絵は天才だ、紛れも無く。

 そう造られたのだから当然だが、とにかく人類随一の頭脳を持っていた。

 他の誰にも出来なかった振動弾頭、霧に対して有効な兵器の開発をほぼ独力で行った。

 完遂した、ひとりきりで。

 

 

 辛くなかったと言えば嘘になる、苦しくなかったと言えば嘘になる。

 造りたくなかったと言えば、嘘になる。

 それでも造った、役割さえ終えれば明るい未来があると信じていた。

 けれど役割を果たして、その先にあったものはさらなる孤独だった。

 

 

「なんで? ねぇ、なんで? なんでこんなことになっちゃうのかなぁ……」

 

 

 ついには、蒔絵はボロボロと涙を零し始めてしまった。

 なんで、どうしてと、何かを恨み、嘆くように。

 寂しいと、全身で叫ぶように。

 我が身の理不尽の理由を求めて、蒔絵は泣いていた。

 

 

 けれどそれは、最初からそう定められていたことだ。

 定め――運命(さだめ)だ。

 決まっていること。

 それを知らないのは本人ばかり、何と愚かで、無意味で、滑稽で――――……。

 

 

「ぜったい」

 

 

 ……だからこそ、他人事には思えなかった。

 放っておけなくて、本当はいけないことだとわかっていても艦に置いた。

 兄が白鯨での送還を提案しても、消極的ながら反対した。

 

 

「ぜったい、大丈夫だから。貴女のおじいさまは、私がぜったい見つけるから」

 

 

 紀沙は、蒔絵を抱き締めていた。

 目を見開く蒔絵の顔は、自分の胸に抱き込んでいて見ることは出来ない。

 けれど、衣服越しに染み込んでくる涙の熱は感じることは出来た。

 

 

「おじいさまに、ぜったいに会わせてあげるから」

 

 

 蒔絵を抱き締めているようで、実は違うものを抱いていたのかもしれない。

 紀沙の目は目の前の床では無く、どこか遠くを見ているようにも思えた。

 

 

『兄さん、父さん、どこに行ったの? 寂しいよぉ、母さん……』

 

 

 抱き締めているのは、あの日の自分であったのかもしれない。

 あの時、誰にも抱き締めて貰えなかった、自分自身を。

 

 

「無理かもしれないけど。でも、信じて……いつか、ぜったい、貴女の大好きな人に会えるって」

「…………」

 

 

 蒔絵は、紀沙のことを良く知らない。

 信頼する理由は何も無かった。

 だが自分を抱き締める力強さと、それとは逆に震えている声を聞いて、何か感じる所はあったのだろう。

 

 

「信じて、お願い」

 

 

 ゆっくりと、蒔絵は紀沙の背中に手を回した。

 薄暗い、海の底で。

 そして、霧の艦艇による攻撃の爆発が、続いている中で。

 死が迫り来るその世界で、紀沙は蒔絵を抱き締め続けてた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナチがイ404の位置を特定したのは、コンゴウとの接触から10分後のことだった。

 もう逃がさない。

 耳に手を当てるような仕草をして、ナチは強くそう思った。

 

 

「この異音。エンジンに異常があると見て間違いない、艦隊旗艦の攻撃は確かに効いていたんだわ。だけど……」

 

 

 そこでナチは表情を弱めて、コンゴウ艦隊の中心を見つめた。

 黒煙が見えるのは、コンゴウの艦体が酷い損傷を受けているためだ。

 イ404の攻撃もさることながら、自分へのダメージを厭わずに放った主砲の威力のせいだ。

 あれは、苛烈と言う言葉でも足りないくらいに苛烈な対応だった。

 

 

「艦隊、本艦より距離を取れ」

 

 

 そしてナチから「イ404発見」の報を受けたコンゴウは、即座に衛星砲の発射体勢に入った。

 当然、周囲は止めた。

 ナチの報告が正確なら――当然、それは正確無比である――イ404は機関に不調をきたしている。

 何もわざわざ旗艦装備を使わなくとも、撃沈は容易いと思ったのだ。

 

 

「決闘なのだ、これは」

 

 

 焼けた甲板の上で、止めるヒエイにコンゴウはそう言った。

 外見だけでは無い、艦の内部にも深刻な損傷を受けているようだった。

 傷つくことの無いメンタルモデルの身体も、煤と油で汚れてしまっている。

 そしてコンゴウは、自分とイ404との戦いを決闘と表現した。

 

 

 イ404の突撃を受け止める最中(さなか)、コンゴウは不思議な感覚を得ていた。

 昂揚感、一言で言えばそうなるだろう。

 思いもよらない方法で自分に肉薄してきたイ404に、コンゴウは肌が粟立った。

 計算とも観察とも違う感覚に、コンゴウは戸惑っていた。

 

 

「だからこそ、私の手で討つ。それでこそ意味があるのだ」

 

 

 意味、以前であればそんなことは考えなかっただろう。

 以前の自分と今の自分、そのギャップにちりちりとした鈍痛を感じた。

 だがそれは、イ404との交錯でメンタルモデルが受けた衝撃の反動と決め付ける。

 その上で、コンゴウは手の中のグリップスイッチを掲げた。

 

 

「さぁ、今度こそ最後だ……!」

 

 

 天から、裁きの雷が落ちてくる。

 雷鳴にも似たその輝きは夜空を引き裂き、真昼の如く照らし出した。

 そしてイ404の側でも、スミノを通じてそれを察知していた。

 旗艦装備の発動、撃つ前からそれは伝わる。

 

 

「回避のしようが無いね」

 

 

 スミノは特に感慨も無さそうにそう言った。

 着底した状態のイ404に回避する術は無い、彼女としては事実を述べただけだ。

 命と言う概念を持たないスミノにとっては、己の消滅すら感慨が湧くものではないのだろう。

 しかし、当たり前だが他のクルーにとっては違う。

 

 

「く……!」

 

 

 蒔絵を抱き締めたまま、紀沙は呻いた。

 回避のしようが無い、避けようのない死がすぐそこに迫っているのを感じる。

 霧、結局は勝てなかった。

 ことここに及んでしまえば、もう出来ることは無い。

 

 

 永遠とも思える一瞬、紀沙はこの2年間を想った。

 兄が霧の潜水艦と共に出奔してからの2年間。

 学院を卒業し、統制軍に入り、北に拾われ、イ404の艦長になるまでの2年間。

 その終わりが、こんな形で訪れるのか。

 

 

「こんな、ところで」

 

 

 憎い。

 霧が憎い。

 自分から何もかもを奪い、今は仲間(クルー)も、そして自分自身すら奪われようとしている。

 視界が真っ黒になる程に憎く、憎く、憎くて――――ただ、悔しかった。

 

 

(……畜生)

 

 

 悔しさの中で目を閉じて、紀沙はただ蒔絵の温もりだけを掻き抱いた。

 やがて訪れるであろう衝撃と恐怖から、ほんの少しでも守ろうとするかのように。

 そして、その時が訪れる。

 ――――はず、だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 足元がぐらりと揺れるのを、コンゴウは確かに感じた。

 衛星砲を放とうとしたまさにその瞬間のことで、虚を突かれたと言って良かった。

 

 

「――――何?」

 

 

 メンタルモデルが疑問を口にする頃には、コアがすでに答えを得ていた。

 まず巨大な重力波を感知した、これまで感じたことも無い大きな物だ。

 次いで、海が割れた。

 重力子フィールドを応用した対物障壁だ、直下から浮力を得るべき海水が消えていた。

 

 

 コンゴウは落下しそうになる自身を、クラインフィールドの力場を形成して固定した。

 しかし、大戦艦の質量である。

 コンゴウは航空機のように飛行できるわけでは無い、空間に、つまりその場に自身を固定するのが精一杯だった。

 

 

「艦隊旗艦!!」

「私に近付くな!」

 

 

 ヒエイの絶叫、自分から離れるよう命じた。

 コンゴウのコアは、自分が陥っている状況を正確に認識していた。

 超重力砲による狙撃、狙いは自分だ。

 超重力砲を撃つ時に海が割れるのは、その間にあるものを全てを照準(ロック)しているためだ。

 いわゆるロックビームと呼ばれているもので、これに捕えられると厄介だ。

 

 

「超重力砲――401か? どこからだ!?」

 

 

 瞳の虹彩を輝かせて、コンゴウは彼方を見た。

 数十キロ先、反応を消してからずっと移動に費やしていたのだろう。

 だがそんな距離から超重力砲を撃ったところで、ここまでの出力は出せないはずだ。

 いや、そもそも衛星砲の直撃を受けて確かに撃沈したはずだ。

 

 

「あのタイミングで回避できるはずが。いや、それよりもこの超重力砲の出力は」

 

 

 だがコンゴウの眼は、自身に超重力砲を向けるイ401の姿を確かに捉えていた。

 どういう理由かは不明だが、イ401は健在だったのだ。

 間に合わない。

 コンゴウのコアは冷静に判断していた、この超長距離の重力砲は回避することが出来ない。

 

 

 だが、あれは何だ?

 イ401が超重力砲を展開しているのは当然として、左右に見たことも無い2隻の艦がいた。

 タナトニウム反応からナノマテリアルを使用した艦だとわかり、細長く中心に砲筒のような物が見える艦形から砲艦だとわかった。

 ――――重力子機関内蔵の砲(オプション)艦か!

 

 

「ヒエイ!」

 

 

 そしてそれに気付いた時、コンゴウは己の運命を悟った。

 この状況下でも、コンゴウは自分のすべきことを見失わなかった。

 側近とも言うべき艦に、姉妹艦(いもうと)に対して伝えるべきことを伝えた。

 

 

「私に万が一の時は、お前が艦隊の指揮を――――」

 

 

 そして次の瞬間、蒼の輝きがコンゴウの視界を焼いた。

 今度は、間違いなく。

 衝撃と共に、戦場が引き裂かれた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 完璧だ、ゾルダンはそう思った。

 ロムアルドの前で無ければ口笛を吹いて拍手していたかもしれない、それ程に見事な展開だった。

 

 

「結局、戦闘には参加せずに終わったねぇ」

「そう残念がるな、面倒事は避けられるに越したことは無い」

(1番残念がってるのは、自分のくせにさ……)

「何か言ったか?」

「いーえ、何も?」

 

 

 U-2501は、イ401・イ404とコンゴウ艦隊の戦いを少し離れた位置から観察していた。

 位置としては、硫黄島を挟んでイセの反対側である。

 もちろんそんな位置で戦況の全てを観察することは難しいが、U-2501には多くの「目」があるので、この位置からでも全体を見ることが出来る。

 

 

 だからこそ、ゾルダンには何が起こったのかを正確に知ることが出来た。

 逆にイ401側は、自分達の存在に気付いているかどうか。

 まぁ、気付かれていたとしても特に問題は無いし、気付いていないのであればそれはそれで良い。

 それでいて、気付いていて欲しいと言う思いはどこかにあった。

 

 

「ゾルダンなら、コンゴウとどう戦った?」

「仮定の話には意味が無い」

「あ、そ」

 

 

 そう言いつつも、頭のどこかではコンゴウとの戦いを想像してしまう。

 軍人の性だ、それも救い難い性質(たち)のものだ。

 

 

『艦長がコンゴウごときに敗れるはずがありません!』

 

 

 その時、幼い少女特有の甲高い声が響いた。

 スピーカーを通して聞こえたその声は、発令所の壁に埋め込まれた不思議な物体が点滅するのに合わせて聞こえていた。

 2つの突起物がついた、円形の宝石のようにも見える()()

 

 

「…………」

 

 

 返事を返さず、ゾルダンは目を閉じた。

 そして、過去をいくらか思い出す。

 ゾルダンが考え込む時にする癖のようなもので、こう言う時にはロムアルドも余計なことは言わない。

 

 

「……タカオの方は、どうなっている?」

「『ゼーフント』3隻で監視中、なかなかに面白いデータが取れてるよ。4隻分の重力子機関で合体超重力砲とか」

「あちらはあちらで、興味深くはあるな。霧の裏切り者と言うわけでは無いから、今の所は戦う予定も無い」

(やっぱ参加したかったんじゃん……)

「何か言ったか」

「いーえ、何も!」

 

 

 おどけたように両手を上げるロムアルドの背中に笑みを見せて、ゾルダンはふと何かを思い出した様子で時計を確認した。

 そして、そのタイミングでフランセットからの艦内通信が来た。

 

 

『ゾルダン、時間よ』

「ああ、わかっている」

『……聞く?』

「いや」

 

 

 ゾルダンは首を横に振った、今さら聞くことでも無い。

 それよりも彼は、今後の予定について思考を巡らせることにした。

 つまりイ401とイ404、彼らと次に相見えるべき時はいつか、と言うことについてだ。

 もちろん、彼らがそれまで撃沈されなければ、の話だが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヒエイが悲鳴を上げるのを、ミョウコウは聞いた。

 超重力砲発射後の巻き戻し――割れていた海が元も戻ろうとして、引き込まれる――を推力を上げて堪えながら、ミョウコウは顔を顰めた。

 

 

「ヒエイ!」

 

 

 ミョウコウの声は、ヒエイには届かなかった。

 何故ならヒエイは海水の巻き戻しも構うことなく、コンゴウが沈んだ場所へ直行したからだ。

 通信も切られていて、相当に錯乱している様子だった。

 あれでは、指揮の引き継ぎなど出来るはずも無い。

 

 

『ミョウコウ、どうすれば……!』

「ナチ、404と401はまだ捉えているか!?」

『ごめんなさい、さっきの超重力砲の影響で空間が変異していて。見失ってしまった』

「そうか……」

 

 

 イセに連絡を取るのが1番良いだろうが、巡航艦隊の指揮も執っているイセにコンゴウ艦隊の収拾を付けさせるのは困難だろう。

 他に旗艦資格を持つ大戦艦は近くにいない。

 こう言う場合にどうすべきなのか、ミョウコウ達にはわからなかった。

 

 

「……撤退する! 全艦一斉射の後、この海域から退避しろ!」

 

 

 苦虫を噛み潰したような顔で、ミョウコウは眼帯を外した。

 それはあたかもボードゲームにおける投了(こうさん)の仕草に似て、今の彼女達の心境を如実に表していた。

 旗艦の喪失と指揮権を引き継ぐべき艦の戦闘放棄、見失った敵。

 

 

 この状況下では、ミョウコウ達に他に選択肢は無いように思えた。

 ただ、ミョウコウに艦隊の撤退指揮経験など無い。

 だから他の艦に撤退ルートの指示など出来ない、個々にこの海域から離脱して貰うことになる。

 そこに付け込まれれば、相当の被害は覚悟しなければならないだろう。

 

 

「ナチ、(ハグロ)達を頼むぞ」

『ミョウコウは!?』

「私は……」

 

 

 ちらりと後ろを見やって、ミョウコウは言った。

 他の艦が牽制の一斉射を海面下に叩き込むのを横目に、ふと口元に笑みを浮かべる。

 

 

「私は、あの2人を連れていくさ。放って行くわけにもいかない」

 

 

 他の艦が対潜弾を放つ中で、一際強い輝きがあった。

 それはミサイルよりも遥かに長い射程距離を持っており、威力も比べ物にならない。

 海が割れるその一撃は、先程のイ401の一撃に酷似していた。

 

 

「ヒュウガちゃんったら、あんな物を組み上げるだなんて。お姉ちゃんも負けてられないわねぇ」

 

 

 イセが、超重力砲の発射体勢に入っていた。

 後方全体の指揮を担う彼女としては、味方の撤退を支援する意図もあったのだろう。

 超重力砲であれば、距離に関係なく撃つことが出来る。

 

 

 照準は、ナチが最期に捉えたイ404の位置だ。

 直撃するかはわからないが、完全に外れると言うことも無いだろう。

 ただこうも立て続けに大戦艦級の超重力砲を撃てば、空間に歪みの1つや2つ出るかもしれない。

 しかし、それも一興とイセは思っていた。

 

 

「1隻くらいは、沈めないとね……♪」

 

 

 だから地球への影響を省みることなく、イセは最大出力でトリガーを引いた。

 二度(ふたたび)、強烈な輝きが戦場を空を照らした。

 超重力砲の応酬、これも大海戦の時には見られなかった光景である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 からくりは、こうだ。

 群像は、コンゴウを打倒するには超重力砲が不可欠だと考えていた。

 しかし撃とうとして撃たせてくれる相手では無い、油断させる必要があった。

 一度()()()()()と言うのは、最も有効な手段だ。

 

 

 そして、撃沈されたのはダミーだ。

 それもただのダミーでは無い、アクティブデコイを基に大量のナノマテリアルを使用して造った精巧な偽物だ。

 ユニオンコアを備えていないこと以外は、イ401そのものと言って良い。

 さらにイオナがコントロールすることで、見破られる可能性が著しく低くなる。

 

 

『ま、姉様自身がそれにかかり切りになるリスクはあったけれどね』

 

 

 『マツシマ』と言うのがその艦の名前だった、補給艦である。

 今もイ404と自身を接続して移動させると共に、ナノマテリアルを供給してイ404の修復を始めていた。

 ゆっくりと移動する感覚を足裏から感じながら、紀沙はヒュウガの言葉を聞いていた。

 

 

「た、助かったの……?」

 

 

 蒔絵の言葉は、発令所にいる全ての人間の気持ちを代弁していた。

 実際、死を覚悟しなければならない場面だった。

 そこから救われたのだから、弛緩するのが当然だった。

 

 

「あんなものを、どうやって」

『造ったのは私よ、艦長の妹さん。硫黄島で待っている間、とにかく暇だったしね』

 

 

 そしてイ401の超重力砲と連動していた砲艦、『イツクシマ』と『ハシダテ』。

 ヒュウガの重力子機関を分割して搭載した艦で、イ401と連結することで超重力砲の威力を飛躍的に高めることが出来る。

 その威力は極めて高く、あのコンゴウをも一撃で轟沈した。

 

 

 そしてヒュウガの話によれば、すでにコンゴウ艦隊は散り散りに逃げ始めていると言う。

 ヒエイとミョウコウだけが、コンゴウの沈んだ位置に張り付いている。

 戦いは終わった、紀沙はそう思った。

 心境は複雑だったが、全ては兄の作戦通りに進んだと言うことだろう。

 

 

「……彼は、まるで霧だね」

「一緒にしないで」

 

 

 スミノの呟きに、固い声を返す。

 その声の固さに、腕の中で蒔絵が小さく肩を竦めた。

 そんな蒔絵に笑みを見せて、誤魔化す。

 

 

 とにかく、戦闘は終わったのだ。

 今はそれで良い、それで良いと自分に言い聞かせた。

 今は自分のことよりも、未だ連絡が取れない他のクルーのことを気にかけるべきだった。

 そう思って立ち上がる、自分の足で医務室と機関室に向かうつもりだった。

 

 

「み……」

 

 

 スミノが、自分に触れた。

 立ち上がってクルーに声をかける、そのタイミングのことだった。

 肩を掴み、後ろに押す。

 たたらを踏んで、蒔絵の手を引いたまま紀沙はよろめいた。

 

 

 何を、と言う気持ちが大部分を占めていた。

 そしてスミノに触れられたのは初めてのような気がする、と、少しだけ考えた。

 警報が鳴るのと、横殴りの衝撃が来るのはほぼ同時だった。

 

 

「――――!」

 

 

 自分か、他の誰かが何かを叫んだような気がした。

 紀沙が考えられたのは、蒔絵を守らなければ、と言うことだった。

 衝撃があり、視界が揺さぶられ、その端で小さな爆発が起こった。

 自然と目はそちらを向く、スミノがそれに巻き込まれるのが見えた。

 

 

(……きれい)

 

 

 視界の中で、何かがキラキラと光っていた。

 全てがゆっくりと動いていく中で、紀沙はそれを綺麗だと思った。

 そしてその綺麗なものから、蒔絵を遠ざける。

 出来たのは、それだけだった。

 

 

 それ以上のことは何も出来ずに、紀沙は目を開いていた。

 強い揺れ、爆発、綺麗なもの、破片、左目、近。

 ――――ブツン、と、何かが破れる音がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その放送は、全世界に同時生中継されていた。

 画面いっぱいに映る巨大戦艦を背景に、60代にさしかかろうと言う年頃の男が立っている。

 夕闇の赤色に染まるその姿は、まさに斜陽の世界を表しているかのようだった。

 

 

『この度、我がグレートブリテン及び北アイルランド連合王国は千早翔像(アドミラル・チハヤ)が率いる――――』

 

 

 イギリス首相の肩書きを持つその男は、マイクを前に淡々とした様子だった。

 目の前にずらりと並ぶマスコミ関係者やカメラに対して、聊かも気負った様子が無い。

 

 

『「緋色の艦隊(ザ・スカーレット・フリート)」と()()()()()()を締結致しましたことを、全世界に発表致します』

 

 

 安全保障条約。

 国家を軍事的脅威から守るために結ぶ条約であり、一般的に軍事同盟と同じ意味で認識されている。

 そして「緋色の艦隊」とは、霧の艦隊の一方面艦隊の名称である。

 つまりイギリスは、人類側でありながら霧の艦隊と単独講和したことを表明したのだ。

 

 

 そしてイギリス首相の隣に立つ男こそが、「緋色の艦隊」を率いる提督だった。

 バイザーで顔を隠したトレンチコートの男で、がっちりとした身体付きは英国人と並んでも遜色が無い。

 オールバックの黒髪に顎鬚、そして顔の左側に大きな傷痕があるのが特徴的な男だ。

 傍らに立つ()()()()()()の存在も、特徴と言えば特徴だったろうか。

 そして彼――千早翔像が語る言葉は、混迷の世界をさらなる混沌へと誘うこととなる。

 

 

『この度我が艦隊とイギリス政府との間に人類史上に残る条約を締結できたこと、非常に喜ばしく思います』

「……千早、お前は霧の王にでもなるつもりか?」

 

 

 ――――日本国、中央管区首相官邸。

 北は楓首相とその閣僚、そして上陰を始めとする官僚達と共にその映像を見ていた。

 最後に直に言葉を交わしたのは、もう何年前のことだろう。

 しきりにネクタイを撫でながら、北はかつてを想って呻いた。

 

 

『この安全保障条約に基づき、我が艦隊はここに誓う』

「……群像君」

 

 

 ――――日本国、伊豆諸島沖。

 横須賀を出航し、千早兄妹との合流を目指していた白鯨も、イギリスからの放送を傍受していた。

 当然のことながら、イギリスと霧が条約を結んだと言う前代未聞の事態を固唾を呑んで見つめている。

 ひとり、真瑠璃だけが掌サイズの携帯端末を神経質そうに操作していた。

 

 

『「霧の力」の下に、再び海を太平なるものにすることを。人類のさらなる飛躍を』

「何てことなの……何も起こらなければ良いけど」

 

 

 ――――東南アジア、マレー沖。

 千早翔像の演説は当然、他の霧の艦隊も見ている。

 霧の東洋艦隊に所属する巡洋戦艦『レパルス』もその1隻であり、そのメンタルモデルは実に不安そうにナノマテリアル製の箒を握り締めていた。

 

 

『今この時、この瞬間より。我が艦隊に背く者達、そしてイギリス政府とその領土国民を害する者達は』

「やれやれ、また面倒事か。イ401出現以後、霧には碌なことが無い」

 

 

 ――――オホーツク海、カムチャッカ半島沖。

 ロシア方面太平洋艦隊所属、大戦艦『ガングート』。

 メンタルモデルの彼女は甲板上に並べていたドミノの手を止めて、陰鬱そうに溜息を吐いた。

 

 

『人類、そして霧の艦隊の区別無く我が砲火の前に倒れるだろう』

「私達も標的、か?」

「レキシントン、大丈夫かしら……」

 

 

 ――――太平洋、カリフォルニア沖。

 北米方面太平洋艦隊所属、大戦艦『ミズーリ』及び海域強襲制圧艦『サラトガ』。

 彼方で霧の艦隊同士の激闘を繰り広げている仲間を案じつつも、千早翔像の演説に聞き入っていた。

 

 

『我が艦隊の最初の目的は欧州統一』

「え、嘘ぉ、やめてよ!? ミラコレ近いんだから!」

 

 

 ――――地中海、サルデーニャ島沖。

 地中海方面イタリア艦隊所属、重巡洋艦『ゴリツィア』。

 ファッションフォト雑誌を放り投げた彼女は、ナノマテリアル製のテレビ画面を掴んで文句を言った。

 千早翔像の欧州方面への介入は、彼女を始めとする欧州艦にとっては無関心ではいられないだろう。

 

 

『ヨーロッパ大戦に介入し、再びこの地に安寧を取り戻す』

「我々に出来なかったことがあの男に出来ると思うかね、中佐?」

「さて、アメリカ次第でしょうな」

 

 

 ――――ロシア連邦モスクワ、大統領宮殿(クレムリン)

 そして霧の艦隊や日本政府と同様、他の国々も様々な思惑で千早翔像とその艦隊の動向を見つめていた。

 ロシア戦略ロケット軍所属、トゥイニャーノフ中佐は、大統領の問いに淡々と答えた。

 モニターに映る霧の提督に冷ややかな視線を向ける彼に、大統領は肩を竦めた。

 

 

『「霧の力」に抑制されてこそ、初めて人類は永遠の平和を希求できるのだ!』

「あなた……」

「大丈夫、僕がついてるよ」

 

 

 ――――アメリカ合衆国ワシントン、ホワイトハウス。

 米国大統領は、大統領執務室(オーバルオフィス)で伴侶と共にそれを見ていた。

 世界最強の権力を持つ人物もまた、同盟国イギリスの状況には無関心ではいられないのである。

 最も、イギリスがはたして今もアメリカの同盟国であるのかは疑問が残るが……。

 

 

『この条約が、ひとえに我々人類の繁栄を保証するためのモデルケースとならんことを』

「……ほんとに」

 

 

 そして、いまひとり。

 おそらくは世界で唯一、全く緊張感を感じずにその放送を見ているだろうその女性は、呆れたように溜息を吐いていた。

 夜食代わりの菓子を齧りながら、気負った様子も無く。

 

 

「何してるのかしらね、あの人」

 

 

 千早翔像の妻にして千早兄妹の母、千早沙保里。

 人類を揺るがすだろうその放送を見て彼女が得た感想は、世の妻が夫に抱く感情と何ら変わるところが無かった。

 日本国北管区政府の監視と軟禁の下にありながら、彼女はそれを感じさせない、穏やかな笑顔を浮かべていた。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
今回登場した読者投稿キャラクターにつきましては、以下の通りです。

大野かな恵様:イ15。

ありがとうございます。

なお最後のシーンで登場したキャラクターの内、読者投稿キャラクターにつきましては、後にちゃんとした形で登場した際に改めて投稿者等も含めて後書きにて掲示させて頂きます。
本当はもう少し登場させたかったのですが、冗長になってしまうため断念。
全ては、原作における翔像さんの演説が短いのが悪い(責任転嫁)


と言うわけで、今回で原作突破です。
近く「原作突破」及び「オリジナル展開」「オリジナル設定」のタグを作品情報に追加するつもりです。
もちろん、今後も拾える設定はなるべく拾っていこうと思いますが、たぶんどんどん乖離と言うか、飛躍していくのではないでしょうか。
ついでに言えば、原作が打ち切りにでもならない限り、僭越ながら原作よりも先に完結するだろうと踏んでいます。
※思えばネギまもインフィニットストラトスもそうでしたが。

そのため、今後は本格的にオリジナル展開に入ることになります。
今までを第一部とすれば今後は第二部になります、今後とも宜しくお付き合い頂ければ、嬉しく思います。

それでは、また次回。


P.S.
第二部構想のためと称して来週の投稿をお休みしようかと思いましたが、筆が乗ったので普通に投稿致します。
色々とやりたいこともあるので、頑張ります。


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Depth019:「新たなる航路」

 学生の頃、良く海を見た。

 講義室の窓から、踏破訓練中の山間から、あるいはただ道を歩いている時に。

 横須賀は海の街だから、どこからでも海が見えた。

 

 

 特に、小さな入り江が好きだった。

 艦船が停泊できるような大きな物では無く、半ばまで入っても水が膝下にあるような、本当に小さな入り江だ。

 そして何をするでも無く、浜辺でただ立っているのだ。

 

 

「いい天気……」

 

 

 入り江に立ちたくなる日は、決まってからりと晴れた日だった。

 彼方の水平線がはっきりと見えるからだろうと、何となく思っていた。

 立って、じっと水平線の果てを見つめる。

 その間、特に何かを考えているわけでは無かった。

 ひとりきりで立ち尽くす、いつもそうしていた。

 

 

「――――ん?」

 

 

 ただ、()()()は違った。

 いつも立っていた入り江に――不思議なもので、入り江でもお気に入りの場所とそうでない場所がある――先客がいたのである。

 女の子、だ。それも銀髪、後ろ姿だけで日本人で無いとわかった。

 

 

「…………」

 

 

 声をかけなかったのは、その女の子が自分と同じ服装をしていたからだ。

 白が基調の制服、海洋技術総合学院の女子制服だった。

 丈の短いスカートから覗く足は、パンプスを履いたまま海水に浸かっていた。

 少し、不審に思った。

 

 

 学院には多くの生徒がいるから、全員の容貌を覚えているとは言わない。

 とは言え、流石に銀髪などと言う目立つ特徴があれば嫌でも耳や目に入ってくるだろう。

 だから不審に思って、不用意に近付かなかった。

 それでも何となく自分の場所を取られたような心地もあって、その場を離れる気にもならなかった。

 

 

「ねぇ」

 

 

 声をかけて来たのは、向こうが先だった。

 少し、面喰った。

 

 

「ここから、何か見えるのかい?」

「別に、何が見えるってわけじゃないよ」

「ふぅん。じゃあ、どうしていつもここから海を見ているんだい?」

「……あなた、だれ?」

 

 

 僅かに警戒心が鎌首をもたげるのを感じて、一歩を下がった。

 言葉の端から、「ずっと見ていた」と言う気配を感じたからだ。

 普通、警戒するだろう。

 特に自分の場合、そう言うことには敏感にならざるを得なかった。

 

 

「……!」

 

 

 水が跳ねた。

 銀髪の女の子が振り向いたからで、綺麗な笑顔に一瞬、目を引かれた。

 そしてそれ以上に、不自然な輝きを宿す瞳に目を奪われた。

 圧倒されるような、呑まれるような、不思議な心地だった。

 

 

「キミに会いに来たんだ、千早紀沙」

 

 

 次の瞬間、海が爆発した。

 そう思える程の音が耳に届いて、蒼の海から鋼鉄の塊が這い出てくるのが見えた。

 そんな馬鹿なと言う思いが先に来たが、水平線の狭間に現れたそれは、確かに視界の中にあった。

 陽光に煌くそれを、食い入るように見つめる。

 

 

 唖然として、動けなくなった。

 入り江は狭い、入っては来れないとわかっていても、心の怯えは隠しようも無かった。

 それが伝わったのだろう、不思議な瞳の女の子はにんまりと笑みを強くした。

 

 

「キミは、ボクの艦長になるべき人だ」

「か、艦長?」

「さぁ――――キミが水平線の果てに見つめ続けていたものを、探しに行こうじゃないか」

 

 

 それが、最初だった。

 澄み切った入り江で、2人は出会った。

 千早紀沙と、イ404――スミノの、最初の出会い(ファーストコンタクト)

 あれから、もうどのくらいの時間が過ぎただろうか――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 痛みで、目が覚めた。

 目を開いた時にはどこが痛んだのかは忘れていたが、痛んだと言う記憶だけははっきりとしていた。

 霞んでいた視界も、何度か(まぶた)(しばた)かせる内にはっきりとして来た。

 

 

「……私の(ふね)

 

 

 白い天井を見て、何故かそんなことを呟いた。

 それがイ404の医務室の天井だと気付くよりも先に、そう言ったのだった。

 何か夢を見ていたような気もするが、それも良く覚えていない。

 ただ、何となく夢の続きで言ったような気がした。

 

 

 そのままぼんやりとしていると、けたたましい音が響いた。

 甲高い音に眉を潜め、小さく呻く。

 それから枕に髪を擦らせるようにして、首を動かした。

 見知った医務室の光景がそこにあって、「ああ、イ404だ」と思った。

 

 

「…………」

 

 

 そして、小さな女の子と目が合った。

 茶色の髪の、どこにいてもおかしく無い普通の女の子だった。

 洗面用の器を取り落としたのだろう、足元に水溜りが出来ていた。

 蒔絵ちゃん、と、小さく呟くと、泣きそうな顔をした。

 

 

 それから、わっと泣き出してしまった。

 近付いて来るでも離れるでも無くその場で泣き出してしまったので、ベッドに寝ている紀沙としては、どうすることも出来なかった。

 何とかしたくて、身体を起こそうとした。

 

 

「……ッ!」

「あ、ダメだよ! まだ動いたら」

 

 

 鈍い痛みに呻くと、蒔絵は涙も拭かずに駆け寄ってきた。

 慌てて、と言う表現がぴったり来るような駆け方である。

 そして痛んだのは左目のあたりで、紀沙はその時初めて、視界の左半分がおかしいことに気付いた。

 手を当てて感じるのは肌や(まつげ)では無く、滑らかな包帯の感触だった。

 

 

「痛ぅ……」

「大丈夫?」

 

 

 ズキズキとした、嫌な痛みだった。

 目を怪我したのだろうか。

 嫌な予感がしたが、光は感じていた、包帯らしきものもきちんと見えている。

 どうやら大事は無いようだと、少し安心した。

 上体を起こすことも出来て、とりあえず五体は無事なようだった。

 

 

「大丈夫」

 

 

 蒔絵を安心させようと――そして、半分は自分を安心させようとして――言って、紀沙は顔を上げた。

 痛みは嫌だが、意識をはっきりとさせてもくれた。

 そして意識を失う直前のことも思い出して、一気に冷たいものが胸中を占めた。

 

 

「みん……ッ!」

「みんな無事だよ、どうにかな」

 

 

 不意に、こちらの首根っこを掴んで止めるかのような声がした。

 医務室にはベッドが2つあって、その声はもう1つのベッドから聞こえてきた。

 ただそのベッドに寝ている人物は紀沙と違って病衣でも無く、至って怪我一つ無さそうな顔で雑誌を読んでいた。

 

 

「よっ、おそよーさん」

 

 

 にやりと笑って、冬馬はばちんと音が聞こえてきそうなウインクをした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 10日間眠り続けていた。

 そう言われて、どう反応を返せば良いのか紀沙にはわからなかった。

 ただ、言われてみれば身体の節々に寝過ぎた時特有の軋みを感じる気もする。

 

 

「反応に困ってる顔だな」

「はぁ、まぁ、実際に困ってますんで……」

 

 

 蒔絵を撫でながら、困った顔をする紀沙に冬馬は苦笑を浮かべた。

 よっと、とベッドの縁に座って、「あー」と頭を掻く。

 

 

「まずだな、イセの超重力砲を喰らった時のことは覚えてるか?」

「……いえ、覚えていません。撃たれたんですか?」

「ああ、艦首が吹っ飛んだ」

「え、いやちょっと待って下さい本当ですかそれ」

「マツシマが俺らを移動させてなかったら、どてっ腹に喰らってたな」

 

 

 大戦艦の超重力砲と言えば、相当の威力である。

 それを艦首に受けたとなれば、下手を打てば艦が潰れてしまいかねない。

 と言うか、普通の艦艇なら沈んでいるだろう。

 沈まなかったのは単純に運が良かったことと、イ404がひとえに霧の艦艇だったからに尽きる。

 

 

 そして何より、補給艦マツシマとヒュウガの存在が大きかった。

 マツシマは元々イ401の補給随伴艦として建造されていただけに、同じイ400型潜水艦であるイ404に対しても補助が可能だ。

 イ404の艦体の修復と移動、どちらもマツシマとヒュウガがいなければ不可能だっただろう。

 

 

(……ああ、そっか。最後のあれは、イセの攻撃のせいだったのか)

 

 

 だんだんと思い出してきた。

 そう、最後の瞬間、紀沙はイセの超重力砲の衝撃で意識を失ったのだった。

 その時の光景を思い出そうとすると、左目の奥が疼くのを感じた。

 

 

「……皆は?」

「だぁから心配しらねぇって。むしろ一番重傷なのは艦長ちゃんだっての」

 

 

 確かに、医務室で寝ていたのは紀沙だけだった。

 冬馬がいるのは、まぁ、自分を心配して付いていてくれたものと好意的に受け取ることにした。

 

 

「いやもう、あんまり起きねーもんだからそろそろキスするべきかと悩んだぜ」

「しゃー!」

「あはは……」

 

 

 小さく首を傾げて、先程とは別の意味で困った笑みを見せる紀沙。

 冗談だろうが、面と向かって言われると困る類の台詞だった。

 蒔絵が冬馬に威嚇するのを宥めつつ、左目以外はこれと言った怪我が無いことを確認する。

 深刻な負傷は今後に障るので、軽傷であるに越したことは無い。

 

 

 そして、蒔絵だ。

 見たところ怪我一つ無さそうで、それだけは本当に良かったと思った。

 ただ、勢いで「おじいさまを探す」と言ってしまったことを思い出して、困った。

 デザインチャイルドの話を聞いているから、余計にそう思う。

 自分は、蒔絵に酷い嘘を吐いてしまったのかもしれない、と。

 

 

「ねぇ、大丈夫? どこか痛い?」

「うん、大丈夫だよ。どこも痛く……」

 

 

 くぅ~。

 

 

「……無い、から」

「…………」

「……くっ」

 

 

 お腹が鳴った。

 もう、これ以上無いくらいに盛大に鳴った。

 紀沙の顔が見る見る赤く染まり、蒔絵もどう反応すれば良いのか引き攣った笑顔を浮かべている。

 そして冬馬は、隣のベッドの上で七転八倒して(わらいころげて)いた。

 抱腹絶倒とは、多分ああ言うことを言うのであろう。

 

 

「くくっ、いやいや健康健康。大いに結構じゃねーの、うん」

 

 

 よほど面白かったのだろう、目に涙まで浮かべていた。

 何もそこまで笑わなくても良いでは無いかと思うのだが、何か言えば余計に嵌まってしまいそうなので、紀沙は結局何も言えなかった。

 

 

「ま、ちょうど食材の補給も済んだ所だしな。何か胃に優しいもんでも作って来るよ」

「あ、ありがとうございます。って、補給?」

「10日も寝てたっつったろ? 昨日、港に入ったところだ」

「港……」

 

 

 まぁ、確かに10日もあればどこかには辿り着けるだろう。

 しかし港となると、俄かには想像がつかない。

 補給まで受けれるとなれば、どこかの政府や公的機関の影響下にある場所だと思うのだが。

 

 

「どこにいると思う?」

 

 

 にやりと笑って、冬馬は言った。

 こちらが答えられないのをわかって聞いている、そんな顔だった。

 そして実際、紀沙には今どこにいるのかはわからない。

 降参と言うように首を傾げると、ようやく教えてくれた。

 

 

「――――真珠湾(パールハーバー)

 

 

 ただ、その名前は流石に予想していなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 真珠湾は、アメリカ合衆国領オアフ島に属する天然の良港である。

 オアフ島はハワイ諸島に属し、観光で有名なワイキキビーチもこの島にある。

 ハワイ諸島は海面上昇によって2割近くの島々が海面下に沈み、さらに3割の島々が水没の危機に瀕しているが、オアフ島を含む主要な島々は未だ健在だ。

 

 

「えーと、するってぇと、何かい?」

 

 

 そして、浦上たち白鯨の面々はそのオアフ島にいた。

 抜けるような青空と深緑の入り江を臨むその部屋は、白亜のビルの中にあった。

 その場にいる人間は白鯨の主要メンバー、浦上の他には駒城とその副官、そして真瑠璃である。

 彼らは今、待たされていた。

 

 

 何を待っているのかと言えば、オアフ島への入島許可である。

 厳密に言えば浦上達はまだ「入島」しておらず、空港で言えば出入国管理局で待たされている状態だった。

 別にそれ事態は構わない、国家として当然の対応であるとも思う。

 

 

「ホノルルには行かない方が良い、(やっこ)さんらはそう言ってるわけかい?」

「ま、早い話がそう言うことですな」

 

 

 ただ、浦上たち振動弾頭輸送艦隊は同時に日本政府代表団の性格をも備えている。

 言うなれば外交使節であって、通常なら当然である対応も、当然とはならない立場なのだ。

 もちろん、外交使節を兼ねる以上はオアフ島――ハワイの政治的責任者に挨拶の1つもしなければならない。

 

 

「何しろ外国の使節が来るなんて17年ぶりのことなんで、応対の仕方(外交儀礼)なんて古ぼけて埃を被ってるのさ」

 

 

 そしてこの場には、クルツもいた。

 と言うより、彼が白鯨に乗っているのはこう言う時のためでもあるのだ。

 

 

「どういうことだ。アメリカ政府から我々の話は聞いてるはずだろ?」

「もちろん。外交ノウハウの喪失による遅延なんてのは表向きの言い訳、本音は別にある。それを事前に教えてくれるって意味では、ここの司令官はかなり気を遣ってくれてる方さ」

 

 

 ハワイに来航した軍艦が向かう場所は、1つしか無い。

 つまり軍港だ、そしてオアフ島――真珠湾の軍港と言えば、アメリカ太平洋艦隊の母港を意味する。

 そして浦上達がいるのはアメリカ太平洋艦隊司令部――と言っても、17年に及ぶ霧との戦いでかつての威容は見る影も無いが――のビル群、まさにその場所だった。

 

 

 その意味で元在日米軍組のクルツの存在は、浦上達にとっては貴重だ。

 言語の問題はともかくとしても餅は餅屋、アメリカ軍の事情に詳しいクルツは、いわば調整官の役割を果たしていた。

 アメリカ側にしても、同じアメリカ人のクルツをまず相手にする方が色々と楽だろう。

 

 

「本音と言うと、政治的な事情でしょうか?」

「うん、良いね。割と良い線いってる」

「良い線、ですか」

「おい、茶化すなよ」

 

 

 真瑠璃が口を挟むと、クルツはまるで教師のような態度で指差してきた。

 駒城はそんな彼を嗜めているが、真瑠璃は考え込んだ。

 太平洋艦隊の司令官は、何を考えて日本の使節団を軍港に留めているのだろうか、と。

 

 

「ま、要するにだ。オレ達が州政府庁舎……と言うより、ホノルル市内に入るのは非常に危険だと、ここの司令官は考えているんだよ」

「だから、何でだよ」

「それはだな……」

 

 

 アメリカ軍の司令官が、自分達をハワイの政治代表に会わせない理由。

 異例、そして非礼だ、その非礼をあえて行う理由とは何か。

 こちらを侮っているのか、霧の艦艇を2隻も抱えているこちらを相手に?

 恐れている可能性もあるが、だったらなおさら非礼をしてこちらを刺激する必要は無いはずだ。

 

 

 事情、()()()()()()

 浦上も駒城、そしてクルツも、また真瑠璃も軍人だ、政治には疎い部分がある。

 もしこの対応に何らかの政治的意図があるのであれば、それを推し量るのは難しかった。

 掌の中で愛用の携帯端末を弄びながら、真瑠璃はしばらく考え込んでいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、イ401から離れなかった。

 彼と<蒼き鋼>はあくまで傭兵であって、政治使節を兼ねる駒城達とは違う。

 太平洋上で白鯨とランデブーして以降、群像はそうした姿勢を貫いていた。

 

 

「正直に言って、オレ達は海外の情勢に詳しいわけじゃない」

 

 

 そしてイ401の発令所で、群像は仲間達にそう言った。

 霧の海上封鎖によって苦しんでいるのはどこの国も同じだが、その後の政策や事情はそれぞれ異なる。

 イオナは共有ネットワークからそうした情報も仕入れてくれるが、それはあくまで()()()()での情報であって、人類側の視点とはやはり違う。

 

 

 他のクルーは、黙って群像の言葉を聞いていた。

 彼らにしても外国の事情に明るい者はいない、これと言った意見も出てこない。

 携帯端末を弄っていた――ヒュウガ製量子通信で、傍受されずにどこでも使える――群像は、メールを読み終えたのか顔を上げた。

 

 

「そこで、オレ達としては……」

「群像」

「ん、どうしたイオナ」

 

 

 珍しく自分の言葉を遮ったイオナを珍しげに見つめて、群像は首を傾げて見せた。

 世の女性が見たら10人中9人が振り向くだろう容貌の少年だが、そう言う仕草はどこか子供っぽくもある。

 イオナを膝に抱いていたため、正面からそれを見ることになったいおりはそんなことを思った。

 

 

「前々から聞こうと思っていたんだが」

「何だ、その入り方は怖いな」

「お、何だ何だ痴話喧嘩かー?」

「艦と艦長の痴話喧嘩ですか、命に関わりますね」

 

 

 杏平と僧達(おとこども)が何か馬鹿なことを言っているが、いおりとしてもイオナの次の言葉には興味があった。

 何しろイオナである、いったい何を言い出すことやら。

 そう思っていると。

 

 

「千早紀沙――お前の妹のことなんだが」

「やっぱ痴話喧嘩だったか」

「命に関わりますねぇ」

 

 

 どうやらイオナは、紀沙のことを気にしていたらしい。

 なるほどイオナからすれば小姑に当たるわけだから、気にならないわけが無い。

 静などは聴音もそこそこに、かなり興味を引かれている顔をしている。

 

 

 さて、それにしても紀沙と来たか。

 イオナを膝に乗せて髪の毛を三つ編みにしながら――今の自分の姿を見たらマツシマのヒュウガは泣きながら怒るかもしれない――いおりは、元同級生のことを思った。

 真瑠璃に対しているのと同じくらい、いおりは紀沙のことを想っている。

 

 

「あの娘は、お前から見てどんな存在なんだ?」

「紀沙は、オレの妹だが」

 

 

 そう言うことでは無いのだろう、イオナはじっと群像の顔を見つめた。

 

 

「あの娘はキリシマとの戦いの時、私に追撃を命じた。マヤのコアを狙えと、その意味を理解した上でそう言っていた」

 

 

 いおりの髪を編む手が、止まった。

 

 

「あの時点でマヤが敵だった以上、コアの破壊は有効な戦術だったと私も思う。だが、それとは別の何かがあるようにも思えた」

 

 

 それは、イオナの()()をも示す言葉だった。

 イオナが霧らしい霧、つまり感情や心の揺らぎと言ったものを認めない合理性の塊であったなら、疑問を感じることも無かったのかもしれない。

 しかしイオナは違う、言葉に込められた別の「何か」を感じ取ることが出来ている。

 

 

 ただ、それは言葉にはしにくいことだった。

 どう表現すべきかわからないと言うより、言葉に出したくないと言う類のものだ。

 要するに、気持ちの良い話では無い。

 

 

「……あいつは」

 

 

 群像はイオナから目を逸らし、正面を見つめていた。

 彼としては珍しいが、彼をして言葉を濁す程と言うことでもあった。

 

 

「紀沙は、霧を……お前達を、憎んでいるんだろう」

「憎む? それは確かに、我々の存在は人類を苦境に陥らせているが」

「そう言うことじゃ無い」

 

 

 霧を恨む人間は、それこそ何万といるだろう。

 イオナは紀沙もそうだと認識しかけたが、それは群像によって否定された。

 群像は言った。

 紀沙は霧を憎んでいるが、それは人類と言う括りでは無く、あくまで紀沙個人の心理に基づくものだと。

 そして、だからこそより根深いもので、だから。

 

 

「だから、オレ達は」

 

 

 嗚呼、と、いおりは天を仰いだ。

 元来快活な性格の彼女だが、その彼女をして天を仰がせた。

 それはとても辛いことで、そしてだからこそ。

 

 

「だからオレは、紀沙をお前に乗せるわけにはいかなかったんだ」

 

 

 いおり達は、紀沙を連れて行こうと言い出せなかったのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「それは多分、私達を中に入れられないんですよ」

 

 

 オアフ島への入港を、1日待たされている。

 冬馬からそう聞いた紀沙は、相手側の対応をそう結論付けた。

 少し考えた末の結論としては、少々陳腐なように冬馬には思えた。

 

 

「そりゃまぁ、そうじゃなきゃ拒否る理由も無いわな」

「ああ、いえ。そう言う意味だけじゃなくてですね」

「はん?」

 

 

 今回、ハワイのアメリカ太平洋艦隊司令部は、イ401とイ404、それに白鯨を自分達の母港に受け入れている。

 物資も何くれと優遇してくれていて、補給と整備の面で問題は無い。

 イ404の大方の修復はマツシマとヒュウガによって行われていたが、人類製の部品で代替可能な部分はあるし、食糧等の生活物資の提供は非常に有難い。

 

 

「つまり太平洋艦隊は私達を歓迎……歓迎って言うのかわかりませんけど、前向きに受け入れてくれているんだと思います。そうで無いなら、最悪入港拒否しても良かったわけですし」

 

 

 アメリカ側にして見れば、振動弾頭のサンプルとデータを自国に運んでくれるお客様なのだ。

 奪われる可能性は、本国から遠く離れたハワイでは考えにくい。

 ハワイで量産できるわけでは無いし、本国への運搬手段が無いことは日本と同じだからだ。

 

 

「受け入れてはくれるけど、中には入れてくれない。矛盾してるようですけど、これ、外交ではそれなりに良くあることらしいです」

「そうなの?」

「はい。北のおじ……北議員の受け売りと言うか、経験談なんですけど」

「あー、何か世話になってるんだっけ?」

「ええ、まぁ」

 

 

 例えば、政府軍と反政府軍で内戦中の国があったとする。

 政府軍と反政府軍の仲裁のために外国や国際機関の交渉団がその国に入ることはままあるが、大体は受け入れ側の意向でいわゆる()()に入ることは禁じられる。

 身内の汚点を見られたく無い、と言う内向きの考えがそうさせるのだ。

 ただ、この対応にはもう一つの側面がある。

 

 

「今回の場合は、入港は出来るけど州都(ホノルル)には入れてもらえないってことですよね。これ、もしかして()れないんじゃなくて、()れられないってことじゃないのかな、と」

「あ、何で?」

「んー、多分、()()()安全を確保できないからです」

 

 

 交渉団の安全の保障、と言う側面だ。

 何しろ内戦ともなれば、現場は無政府状態に陥っている可能性が高い。

 そうしたところに要人を案内するのはリスクもコストもかかる、交渉団に何かあれば国の威信にも傷が付く。

 

 

 市内の様子を見られたく無いのであれば、外が見えないようにして州政府庁舎まで運べば済む話だ。

 それすらせずに入れてもらえない場合、考えられる可能性は「拒否」と「懸念」の2択だ。

 入港を許している所からして後者、一方で率先して補給要請に応じてくれている点から考えて。

 

 

「……そもそも」

 

 

 人差し指を立てて、紀沙は言った。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 似て非なる表現だが、状況をコントロールできるかできないかと考えれば相当の違いがある。

 

 

「ハワイの州政府って、今も機能しているのでしょうか」

 

 

 アメリカ太平洋艦隊司令部は、「我々に構わず先を急げ」とメッセージを発しているのでは無いか。

 それは非常に危険で、しかし考慮しないわけにはいかない可能性だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――随分と派手で危険なことを考えるお嬢ちゃんだ。

 冬馬はそう思った、そして同時に紀沙への認識も少し改めた。

 

 

(てっきり、千早群像(アニキ)似の軍人かと思っていたが)

 

 

 冬馬の紀沙への当初の第一印象は「大人しいお嬢さん」だったが、それは実際の指揮――突撃戦術――を見て、少し変わっている。

 ただ、それも「少々お転婆なお嬢さん」と言う程度のものだ。

 しかし今回はそれとは訳が違う、何故なら資質の問題だからだ。

 

 

 冬馬は知らない。

 紀沙が北良寛の庇護下にあることは割と知られていたが、その間にどんな生活をしていたのかは知られていない。

 全て、北議員の手によるものだ。

 

 

(艦長ちゃんのバックに自分がいることを喧伝しながら、艦長ちゃん自身のことは一切外に漏らさねぇ)

 

 

 どんだけ過保護なんだと思ったものだが、今はこうも思う。

 紀沙は1年半の間、北から有形無形に薫陶(くんとう)を受けていたのでは無いか、と。

 政治(まつりごと)の薫陶。

 そう言う意味で、紀沙は軍人としてよりも政治家としての教育の方が濃密だったのかもしれない。

 

 

「冬馬さん」

「お?」

 

 

 医務室を出る段になって、冬馬は紀沙に呼び止められた。

 紀沙はベッドの上から、眉を下げた顔で冬馬に言った。

 

 

「すみませんでした」

「あ? 気にするなって、結局みんな無事だったんだからよ。それに俺としては艦長ちゃんの寝顔をずっと堪能できてラッキーって」

「出てけー!」

「おうふ」

 

 

 最終的には、蒔絵に蹴り出された。

 紀沙を困らせるのは冬馬の日課のようなものだが、今後は梓だけで無く蒔絵もツッコミに回るのかもしれない。

 

 

「まぁ、なんだ。艦長ちゃんのあの通り元気なわけだし、そんな落ち込むなよ」

 

 

 そして通路に出ると、床に座り込んでいる良治がいた。

 先程までの紀沙への情報説明はどちらかと言うと良治の役割だったはずだが、彼は今回それを辞退した。

 原因と理由はわかっている、先の戦いでの()()()だ。

 最も、あれを不手際と思っているのは良治だけなのだが。

 

 

 実際、あの状況ではいかに彼が優秀な軍医でも出来ることは多くは無かっただろう。

 蒔絵の不意打ちで昏倒したのはともかくとして、あの時の紀沙の状況がそうだったのだ。

 ()()()()()は、それだけ深刻だった。

 

 

「まぁ、目がやられたら除隊ものだったわけだから、ギリセーフだろ」

「……セーフなもんか」

 

 

 くしゃりと前髪をかき上げながら、良治は言った。

 眠っていないのだろう、目の下に深い隈が出来ている。

 

 

「あんなものが救い(セーフ)であってたまるもんか。紀沙ちゃんにとっては、地獄(アウト)だよ」

「それでも、命があるだけ良いってもんだろ」

 

 

 最も、そんな言葉さえ今の良治には何の慰めにもなっていないだろうが。

 地獄が救いの顔をして、紀沙の下にやって来た。

 はたして、この先どうなることやら。

 冬馬は自分の衣服をめくり、腹部の真新しい縫合の跡(きりきず)を見ながら嘆息した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 夜になると、イ404艦内の照明も落とされる。

 密閉空間でも外と時間間隔をずらさないための措置で、戦闘時以外はそうなっている。

 もちろん、緊急時にはその限りでは無い。

 

 

「よいしょ……っと」

 

 

 安心したのか疲れていたのか、蒔絵は良く眠っていた。

 見た目よりも軽い身体をベッドに横たえて、シーツをかける。

 むずかる蒔絵の前髪にそっと指先をかけて、紀沙はふと微笑んだ。

 無事で良かったと、本当にそう思ったのだ。

 

 

 あの後他のクルーも顔を見せに来てくれて、大きな怪我も無く無事な様子だった。

 良治だけが来なかったことが気になるが、おそらく自分の怪我のことを気にしているのだろう。

 わざと負傷したわけでは無いが、悪いことをしたなとは思う。

 

 

「……ッ」

 

 

 また、左目が痛んだ。

 大した怪我では無いと聞いているのだが、その割に事ある毎に痛む。

 それも、ずきずきとした鈍い痛みだ。

 何となく間隔は長くなって来ているような気がするが、どうなっているのだろうか。

 

 

 蒔絵を起こさないように気をつけながら、洗面所へ向かった。

 片目を塞いでいるので多少歩きにくいが、何にもぶつかること無く鏡の前まで来た。

 そして包帯に手をかけ、やはり少し苦労しながら解く。

 しゅるしゅると音を立てて、包帯が床へと落ちていった。

 

 

「え……」

 

 

 久しぶりに外気に触れたせいもあるのだろう、まず空気が冷たいと思った。

 そして、ちゃんと見えることに安堵もした。

 しかしそれも、鏡に映った自分の顔を見た途端に消え失せた。

 何故なら、照明の落とされた室内で()()はとても目立ったからだ。

 

 

 左目の色が、違う。

 

 

 紀沙の瞳の色は黒、より言えば日本人らしく濃褐色だ。

 実際、右目はそうだ。

 しかし今、鏡に映っている左目の色は――翡翠。

 しかも虹彩が輝きを放っていて、痛みに同調するかのように明滅を繰り返していた。

 

 

「何、これ」

 

 

 これではまるで、そう思った時だ。

 紀沙は「ひっ」と息を呑んだ、鏡の中で別のものが光っていたからだ。

 それは洗面所の入口に立っていて、紀沙のすぐ後ろにいた。

 振り向けば、そこには右目の虹彩を輝かせた少女がいた。

 

 

「ねぇ」

 

 

 スミノ、と少女の名前を告げる声は掠れていた。

 だがそれに構うことも無く、少女――スミノは、右目を細めて笑顔を見せていた。

 暗がりの中、スミノの右目の輝きはいつも以上に目立って見える。

 どういうわけか左目の輝きは無い。

 それもそうだろう、紀沙と同じように包帯で左目を覆っていたのだから。

 

 

 ただ紀沙と違って、包帯には血が――ちょうど、左目の眼窩部分――滲んでいた。

 しかもそれは、今も少しずつ増えているように見えた。

 そこで疑問を感じる、()()()()()()()()()

 そんなはずは無いと考え付いた時、笑顔と共にスミノは言った。

 

 

()()()調()()()()()()()、艦長殿?」

 

 

 地獄(あくま)救済(てんし)の顔をして、そこに立っていた。

 ずきん、と、今度は鋭い痛みが紀沙の左目に走る。

 その痛みに、紀沙は小さな呻き声を上げたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――ハワイより遥か遠く、大西洋上。

 凪いだ海上に、巨大と言う呼び方が過小な程に巨大な艦の姿があった。

 その艦橋に、白い少女(ムサシ)はいた。

 

 

「可哀想に。あの子、きっと泣いているわ」

 

 

 艦橋の窓を指先で撫でながら、囁くように言う。

 閉ざされた目、瞼は雪のように白い。

 口元に浮かぶ微笑は、寒気がする程に美しい。

 

 

「早く迎えに行ってあげないと――――ねぇ、お父様」

 

 

 そして、その傍らで。

 精悍な顔立ちをバイザーで隠した男は、ムサシの言葉に何も答えなかった。

 ただムサシの横に立ち、水平線の彼方へと視線を向けていた。

 それにクスリと笑みを漏らして、ムサシもまた視線を同じ場所へと向ける。

 

 

 遥か向こう、新大陸(アメリカ)を隔てたさらにその先へと。

 今はまだ互いに交錯することは無い、まだ先の話だ。

 それでも、前に進むのであればその()()()は必ずやって来る。

 そしてその()()()は、そう遠い未来のことでは無い――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
だんだんと執筆が追いついて来なくなりましたが、まだ頑張れます。

と言う訳で、ハワイに来ました。
道のりは長いのではしょって行くスタイル、ワープ航法という奴ですね(違います)
ただ、色々考えた結果、ハワイはもはや我々の知るハワイでは無い、的なことに。
ハワイの方々、すみません。

それでは、また次回。


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Depth020:「メモリアル」

残酷描写(又はR15描写)注意です。


 ――――10日前、コンゴウ艦隊との戦闘直後。

 イ404はイセの超重力砲を艦首に受け、甚大な被害を被っていた。

 横殴りの衝撃と共に計器の画面が爆ぜ、余りのダメージの大きさにスミノの防護も間に合わなかった。

 

 

「む、むむ……」

 

 

 一瞬意識を失っていたのだろう。

 頭を振りながら、根元からへし折れたシートの下から恋が這い出して来た。

 鼻腔を突く焦げ臭い匂いに顔を上げれば、発令所の様相は様変わりしていた。

 

 

 砕けた計器にスパークするコンソール、照明は非常灯以外がダウンして暗く、そこかしこの床に大小の破片が飛散して散らばり、天井や壁は板が外れて配管やコードが飛び出しており、艦のどこかで浸水しているのか嫌な振動が肌で感じられた。

 あの狭いが整然とした発令所は、そこには存在しなかった。

 そこにあるのは、沈みかけの潜水艦そのものだった。

 

 

「だ、誰か……誰かァッ!!」

 

 

 悲鳴が聞こえて、恋は自分の上に圧し掛かるシートを力尽くで押しのけた。

 普段は気にしていなかったが、こんなにも重かったのかと思った。

 しかしそんなことを考えている場合では無い、彼は痛む身体を――幸い、打ち身程度で済んだようだ――引き摺って、声の方へと顔を向けた。

 

 

「……!」

 

 

 そして、恋が見たものは2つ。

 1つは蒔絵だ、見る限りは擦り傷程度で、こちらはその程度で済んで良かったと思った。

 しかし、もう1つが不味かった。

 その人物は蒔絵の前に仰向けに倒れていて、しかも顔の周囲が尋常で無い量の血で染まっていて――。

 

 

「か、艦長――――ッ!」

 

 

 紀沙が青白い顔で、それでいて鮮烈な朱色に塗れて倒れていた。

 傍に寄って紀沙の様子を見た恋は、普段は閉じて見える目を見開いた。

 正直に言って、かなり不味い状態に見て取れた

 紀沙の左目から、血が流れていた。

 

 

 それも額や眼球の血管が切れていると言うのでは無く、いわゆる裂傷(きりきず)によるものである。

 細かな破片が左目の周囲に突き刺さっていて、直視するには相当の覚悟が必要な状態だった。

 実際、恋は息を呑んで唇を引き結んでいる。

 

 

「あ、あ……あぁっ、あ」

 

 

 そして蒔絵に至っては、事態を受け止めきれずに顔を青ざめさせている。

 ともすれば卒倒してしまいそうな顔色だ、意識を保てているのがまず奇跡と言える。

 しかしそれでも、恋は自分の成すべきことを見出せずにいた。

 

 

「アンタ、大丈夫かい!」

「お、俺ぁ大丈夫だ……それより、艦長ちゃんだろ……」

「アンタの怪我も相当だよ!」

 

 

 自分以外の2人のクルーも、手一杯だ。

 しかも冬馬の腹部に破片が刺さっているらしく、梓がその応急処置をしているようだった。

 応急措置、必要なものはそれだ。

 しかし目の応急措置など、どうすれば良いかわからなかった。

 良治を呼ぼうにも通信は不通で、仮に呼べたとしてもどうにもならない類の負傷に思える。

 

 

 蒔絵が救いを求めるような顔で、恋を見ている。

 恋は背筋に冷たいものを感じながら、どうすべきかを考え続けていた。

 目、目である、手足の怪我とは訳が違う。

 艦の状態も芳しくない中、副長として彼は決断を迫られていた。

 

 

「――――艦長殿」

 

 

 その時だった、紀沙を抱き上げるものがいた。

 スミノは恋や蒔絵が直前まで気付けない程に自然に、かつ突然現れた。

 彼女は紀沙を抱き上げ、頬に手を当てて上向かせると、血を流す左目をじっと見つめる。

 当然のことだが、スミノには怪我一つ無い。

 

 

「可哀想に」

 

 

 何をするのかと思って見ていれば、スミノは頬に当てていた手をそっと紀沙の左目に向けた。

 親指と人差し指、そして中指を伸ばす手の形は、何故か嫌な予感を呼び起こした。

 

 

「え、あ……え? ねぇ、ちょっ」

 

 

 はっとして、蒔絵が制止の声を上げかけた。

 しかしその時には、スミノの指先は紀沙の左目に。

 

 

「やめ――――!」

 

 

 ――――ぐちゅっ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 意識を取り戻した翌日、紀沙は朝食の席に姿を見せた。

 熱も下がり、10日ぶりの朝食に食欲もあった。

 

 

「おはようございます」

 

 

 さりとて、緊張が無かったわけでは無い。

 敗戦――コンゴウ艦隊の包囲突破と言う目的は達成したが――の後で、引け目もあった。

 そう言う意味では、まだ紀沙には()()が無かった。

 実際、食堂で会ったクルーの中には紀沙の顔を見て顔を顰める者もいた。

 

 

「アンタ、大丈夫かい?」

 

 

 ただ、それは紀沙が想像していたのとは別の理由だった。

 復調したとは言え病み上がり、環境も休養に適しているとは言えない。

 

 

「顔色、悪いわよ~」

「あぅ」

 

 

 あおいに温かいおしぼりで顔を拭われて、妙な声が出た。

 冬馬が焼いてあげたのだろう、パンケーキを頬張る蒔絵がじっと見つめているのに気付いて、やや赤面しながらおしぼりを手に取った。

 実際、顔色は良くは無かった。

 

 

「大丈夫?」

 

 

 あおいに覗き込まれるようにそう言われて、紀沙は小さく笑みを浮かべた。

 安心してもらおうと思ったのだが、あおい達の顔を見るにそれには失敗したようだ。

 おしぼりの温もりは、確かに頭に染みた。

 

 

「大丈夫ですよ、少し夢見が悪かっただけです」

「うい、お待ちー」

「艦の状態を教えて貰えますか?」

 

 

 まだ刺激物を胃に入れられないため、冬馬が温かいスープを用意してくれていた。

 有難くお礼を言って、頂くことにする。

 一口飲むと僅かな塩味が舌に広がり、お腹がほんわりと温まった。

 身体を温めるのは確かに大切なことのようで、それだけで随分と気分が楽になった。

 クルーに目立った怪我が無かったことも、助けになったのだろう。

 

 

 そしてその場で、簡単に艦の状況について報告を受ける。

 それによると、艦の修復と補給はほぼ終わっているとのことだった。

 弾薬関係やナノマテリアルはマツシマから供給されて、食糧関係はアメリカ太平洋艦隊から補給を受けている。

 パンケーキは、どうやらその関係で出てきたものらしい。

 

 

「それで艦長、白鯨及びイ401から今後について会議の場を持ちたいとのことですが」

「わかりました。白鯨に伺うと伝えてください」

「了解しました」

 

 

 恋が頷くのを見て、紀沙はもう一口スープを飲もうとした。

 その指先がスープの入ったカップの前で空を切るが、手を伸ばして何事も無かったようにカップを掴む。

 どうやら、遠近感を掴むのにもう少しかかりそうだった。

 

 

 そっと、紀沙は己の左目を覆う黒い眼帯に触れた。

 そこには温かな温もりは無く、驚く程に冷たかった。

 冷たい感触が、嫌でも思い起こさせる。

 昨夜のことを――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――メンタルモデルを相手に勝てるなんて、考えたわけじゃない。

 ただ、そうせずにはいられなかった。

 

 

「私に何をした……!」

 

 

 スミノの胸倉を掴み挙げて、睨み付けた。

 それで動じる相手なら、どんなにか良かったことか。

 スミノはまるで動じることなく顔を傾けて、右目で紀沙の両目を見つめてきた。

 その虹彩が輝くと、紀沙の左目が鋭く痛んだ。

 

 

 ぐ、と怯んだ隙に、スミノは紀沙の手から逃れた。

 そして逆に、距離を詰めた。

 ぐいと身を押し付けるようにして、下から紀沙を覗き込む。

 鼻先が触れ合うような距離に綺麗な顔があって、紀沙は痛みを堪えて歯噛みした。

 

 

「私に、何をしたの……!?」

 

 

 笑顔と共に、スミノは答えた。

 問われれば虚実無く答えるのが、スミノと言う存在だった。

 そこがまた、憎らしい。

 

 

「スミノ!」

「ナノマテリアルで眼球を再現した」

 

 

 半ば予測していた答えに、息を呑んだ。

 その様子がおかしかったのだろう、スミノはクスクスと笑った。

 吐息が、唇に触れる。

 

 

「とは言え、いくら精巧に再現したと言っても異物は異物。偽物は偽物。贋作は贋作。キミの目そのものを再生治療したわけでは無いし、あくまでもその目は視覚情報をキミの脳に届けるだけのものだ」

 

 

 言ってしまえば、義眼である。

 ただしこの義眼は、視覚を有すると言う意味で破格だ。

 眼球周辺の血流を変え、視神経を繋ぐ、2056年の医療でも極めて困難な手術だ。

 それをスミノは、ナノマテリアルコントロールと情報ネットワークからのアップロードで対応した。

 

 

「ただボクも、造ったばかりの目じゃ自信が無くてね。普段から使ってる()()()()()()()()()()()()()()()

「じゃあ、この目って」

「そんな顔をしないで。キミに死んでほしくなかった。助かってほしかったんだよ、信じてほしいな」

 

 

 スミノは、片手で器用に包帯を解いた。

 しゅるりと包帯が床に落ち、下からとろみのある液体が滴り落ちる。

 そして、その「目」でスミノは紀沙を見つめた。

 そこにある「目」に、紀沙は大きく目を見開いた。

 瞳の虹彩が、輝く。

 

 

「ああ、良く馴染んできているね。やっぱり適合しやすかったのかな」

「……やる」

「うん?」

 

 

 その輝きは、感情の発露を示している。

 

 

「……してやる。お前を……!」

 

 

 そんな紀沙に、嗚呼、とスミノは蕩けた表情を浮かべた。

 頬が上気し足を擦り合わせて、紀沙の顔に零れた右目の涙を舌先で掬い取った。

 両手は紀沙の頬を押さえて、逃がそうとしない。

 スミノの右目もまた、淡い輝きを放っていた。

 

 

 悦び。

 紀沙に強い感情を向けられることが、スミノがその気になれば花を手折るように命を奪える少女が自分に対して明確な意識を向けているのが、悦びを生む。

 それはスミノにとって、とてつもない悦楽だった。

 その衝動を発散する術を知らないままに、スミノは両手に力を込める。

 

 

「たまらない」

 

 

 吐息と共に囁いて、スミノは踵を床から離した。

 背伸びをした。

 その行為は、2人の間の距離を完全に詰めた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヤマトは、()()をただ微笑んで受けた。

 彼女は今、硫黄島と南鳥島の中間――日本本土からおよそ1800キロ南方――の海域にいた。

 当然そんな場所に他の船舶が存在しているはずも無く、周囲には総旗艦艦隊の艦艇の姿が見えるだけである。

 

 

「大戦艦『フッド』の呼びかけ」

「ええ」

 

 

 ヤマトの呟きに応じたコトノは、甲板に設置したプランターに水を撒いているところだった。

 アヒルの形をした可愛らしい如雨露(じょうろ)を片手に、水滴を滑らせるスイカに微笑を向けている。

 太平洋の陽光だ、なかなかに育てがいがあるだろう。

 

 

「千早のおじ様がああ言うことをすれば、反発する()が出てくるのは当然だもの」

あの子(ムサシ)にして見れば、あちらが<緋色の艦隊(スカーレット・フリート)>の名を冠するのは自然だもの」

「アドミラリティ・コードの直衛艦隊?」

「そう」

 

 

 ヤマトは、超戦艦と言うクラスにカテゴライズされている。

 各艦隊の旗艦たる大戦艦級を超える存在であり、人類の表現を借りれば超弩級戦艦とも呼ばれる。

 一方で霧内部においてヤマトを指す言葉は、「総旗艦」。

 何隻もいる旗艦達を束ねる者、いわば司令官とも言うべき存在がヤマトだ。

 他の霧は彼女を、<最強の霧>と呼ぶ。

 

 

 しかし実際の所、ヤマトが各地の戦線に姿を見せた例は無い。

 それどころか17年前の大海戦においても、ヤマトは姿を見せなかったと言われている。

 一時には存在が疑われたこともあるが、突如としてヤマトは人々の前に姿を見せた。

 そして誰ひとり疑うこと無く、霧は彼女を総旗艦として受け入れたのだった。

 

 

「召集要請なんて、何年ぶりかしら」

「初めてでしょう?」

「そうだったかしら」

 

 

 とぼけたような顔をするコトノに、ヤマトは困ったような笑みを見せた。

 共有ネットワークを通じて繰り返し発される()()、欧州方面艦隊の大戦艦『フッド』の召集要請、そして……。

 

 

「霧の艦隊の全ての旗艦による、円卓会議。今までそんなものは提起されたことすら無いわ」

「参加するの、総旗艦さん?」

 

 

 コトノの言葉には、柔らかな微笑みが返ってくるばかり。

 それに嘆息して、採ったばかりのスイカを抱えながら、コトノは天を仰いだ。

 

 

「群像くん、今の内に進めるだけ進んでおいた方が良いよー」

 

 

 アメリカなんかで手こずってないでさ。

 そう言って、コトノはこんこんとスイカを叩くのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 眼帯姿で会議にやって来た紀沙に、真瑠璃は大丈夫かと声をかけた。

 話は聞いていたが、実際に目にするとやはり心配になったのだ。

 そして予想通り、紀沙は笑って大丈夫と答える。

 何か言葉を重ねたかったが、紀沙に随行してきた静菜に睨まれて引っ込めざるを得なかった。

 

 

 もう一つ、真瑠璃の予想通りになったことがある。

 群像の反応だ。

 ヒュウガを伴って来た群像は先に白鯨の会議室に入っていて、妹を迎えた形になる。

 しかし、群像は紀沙に――少なくとも、目のことについて声をかけなかった。

 

 

「結論から言えば、ホノルル市内には入らずに出航すべきだと思います」

 

 

 むしろ、淡々と会議を進めてすらいる。

 浦上と駒城は口を挟むつもりが無いのだろう、黙って群像の言葉を聞いていた。

 正規の軍人で階級も高い、並の軍人であれば激高して怒鳴ってもおかしくは無い場面だ。

 だがそれをせず、艦隊運用について群像の方に一日の長があることを認めて黙っている。

 彼ら2人が随行員に選ばれたのは、そうした人格を評価されてのことでもある。

 

 

「理由をお伺いしてもよろしいか、群像艦長」

「ヒュウガに島内を少し調べて貰いました。それによると、どうも入れるような状況では無いらしいと」

「まぁ、内部にはまだ色々と生きているシステムもあったからねぇ」

 

 

 駒城と群像の間に、悪い意味での緊張感は無い。

 それは紀沙が来る前に、「霧とのコミュニケーションを」と言う群像の意思を聞いていたからだろう。

 話の内容云々と言うよりは、胸襟(きょうきん)を開いて話し合ったと言う点が重要だったのかもしれない。

 

 

 振動弾頭の量産で力を蓄え、霧と交渉し共存の道を探る。

 人類の心情として難しいが、浦上や駒城にはやりがいのある未来に見えたのだろう。

 真瑠璃自身は、そうしたことには余り関心が無かった。

 関心があるのは群像のこと、そして紀沙のことだ。

 

 

(群像くん、貴方は何を考えているの?)

 

 

 コンゴウ艦隊との戦いの概要は、戦闘詳報として読んだ。

 群像の作戦は、イ401として見るなら完璧だと思う。

 結果として味方に犠牲は無く、敵艦隊の包囲網を崩すことが出来た。

 しかし、イ404――紀沙の側から見て、あれはどうなのだ。

 

 

(私が降りた時と、変わってない……)

 

 

 完璧だ、彼は。完璧なのだ。

 それは強さだ、だが鋭すぎる。

 鋭すぎる刃は自分の手も切りかねない、彼はそこに気付いているのだろうか。

 真瑠璃が群像を見る目には、切なさすら浮かんでいた。

 

 

「刑部蒔絵については、ひとまず現状のまま404で保護を続けます」

「大丈夫でしょうか。やはり白鯨(われわれ)が内地まで」

「いえ、今からでは作戦に支障が出ます。幸い、彼女も私達に懐いてくれていますし」

 

 

 そして、紀沙。

 彼女の危うさ、弱さ、拙さ。

 そうしたものが先の戦いの随所に見て取れて、真瑠璃は切なさを覚えた。

 きっと、紀沙も切なさを得ているはずだ。

 だがその切なさは、真瑠璃が群像に向けるものとは別のものだ。

 

 

 胸を締め付けられて、真瑠璃は目を閉じた。

 真瑠璃には見えないもの、そして見えているもの。

 これからも見続けなければならないと言う事実に、真瑠璃は自分が耐えられるだろうかと、そう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧が海を支配して以後、人類は艦船を海から引き離すことで守ってきた。

 地下ドックはその典型例だが、世界中の港湾に秘密のドック――群像言うところの、「夢の保管所」――が築けるわけも無い。

 なので多数派としては、鹿島基地のように船を(おか)に固定する方法を採っている。

 

 

「人間は危機に瀕した時、神に助命を請うそうだよ。そして助かった後、それが不足であれば神を罵倒する。実に不思議な存在だとは思わないかい?」

 

 

 白鯨の艦体は、微細な白いタイルの集合体で出来ている。

 エイのような形状の巡航ユニットは巨大で、通常の艦艇に用いるアームを2隻分使ってようやく固定されていた。

 ハワイの陽光は、白い艦体をより優美に照らし出してくれる。

 

 

 イオナは、その白鯨の艦体の上でスミノと共にいた。

 形としては、群像達の会議が終わるのを待っているという風に見える。

 しかしイオナは、どちらかと言うと自分がスミノを監視しているような気持ちを感じていた。

 そして今、意味のわからないことを言うスミノの意図を図れないでいる。

 

 

「スミノ。お前の艦長の左目、あれは何だ?」

「何のことかな」

「とぼけるな、私が気付かないわけが無いだろう」

 

 

 霧のイオナが、紀沙から漂うナノマテリアルの気配を感じ取れないわけが無い。

 群像には言っていないが、あれで妙な時には鋭い男だ。

 もしかしたら、何かを気にしているかもしれない。

 

 

「……ふふふ」

 

 

 すると、スミノが笑った。

 

 

「ねぇ、401。キミは()()を感じたことがあるかい?」

「無い」

 

 

 メンタルモデルに痛覚は無い。

 そもそもメンタルモデルは外見こそ人間だが、人間の肉体とは似ても似つかない別のものだ。

 五感は無く、あるとしてもそれはセンサーと言った方が正しい。

 だから怪我をしても血が出たりはしないし、「死ぬ」と言うことも無い。

 スミノの問いかけは、それくらいの愚問だった。

 

 

「ボクはあるよ」

 

 

 だから、スミノの言葉には眉を潜めた。

 自分達メンタルモデルに痛みなどあるはずが無いのに、と。

 いつの間にか、スミノが包帯を解いていた。

 

 

 そう、包帯だ。

 朱に塗れてスミノの足元に落ちたそれを、じっと見つめる。

 血。

 メンタルモデルに存在しないはずのそれが、包帯にはべっとりとついていた。

 

 

「……ッ!」

 

 

 ぎょっとした、と言う感情をイオナは得た。

 振り向いたスミノの顔には、それだけのものがあった。

 

 

「お前、その目は……!」

()()()()()

 

 

 眼窩から涙のように()()()()()()()、スミノは言った。

 

 

「これは確かに辛いね、人間が己の欠損を嫌がる理由が良くわかったよ。うふ、うふふふ、あははは」

 

 

 痛い、痛い、痛い。

 謳うように、スミノが言う。

 右目と明らかに違う濃褐色の、それも明らかに傷を負った瞳。

 血の涙を流すスミノを、イオナは脅威を感じた顔で見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ太平洋艦隊司令長官、ウォルター・キンメル海軍大将。

 そう言う自分の肩書きを、キンメル自身は余り好きでは無かった。

 しかし今日、彼はその肩書きを少しだけ好きになることが出来た。

 

 

「こんなところにいらしたのですか、長官」

「うむ……」

 

 

 白亜のビル(司令部)の屋上からは、複数の入り江や小島を抱く真珠湾を一望することが出来た。

 エメラルドグリーンに輝く水面はもうすっかり見慣れてしまったが、彼らを含む島民はいつも初めて見るような心地で海を見る。

 海は毎日違う表情を見せてくれる、キンメルがそれに気付いたのはオアフ島に赴任してからのことだ。

 あれは、もう30年も前のことだったか。

 

 

 アメリカ海軍特有の白い軍服、同色の軍帽の下には薄い白髪が見えた。

 皺を深く刻んだ肌に、くすんだ青の瞳が物憂げな色を浮かべている。

 年の頃は60代、濃い疲労の気配を漂わせる老人だった。

 

 

「……日本の客人には、悪いことをしたな」

「仕方ありますまい。オハナ知事亡き今、僅か10キロ先のホノルルは無法地帯なのですから」

 

 

 深く、深く息を吐いた。

 雰囲気相まって、さらに老け込んだようにも思える。

 そしてそんなキンメルを見つめる副官もまた、老いていた。

 

 

「外から入港する艦があると知れれば、物資を求めて暴動が起こりかねません。最悪、内戦です。そうなれば、我らと言えども……」

 

 

 疲れている。

 お互いに、はっきりとそれがわかっていた。

 思えば、2人でハワイの艦隊の指揮権を引き継いで10年――前の司令長官は、心労に耐え切れずに自殺した――経つが、何の希望も持てない毎日だった。

 

 

 100万のハワイの州民、10万の軍人軍属(ぶか)、そして取り残された数万の観光客(よそもの)

 それら全てを養える生産力は、ハワイには無い。

 何かを切り捨てる毎日だ、失っていくだけの時間をただただ過ごしてきた。

 

 

真珠湾(ここ)と、本国からのSSTOを受け入れるヒッカム空軍基地。そしてこれを結ぶ線、我らにはもはやそれだけしか残されていない」

 

 

 希望が、欲しかった。

 何でも良い、ほんの少しだけで良い、()()()()()()()()()()()()

 

 

「ああ、あれか。初めて見るな」

 

 

 そうして、真珠湾の海に見えるものがあった。

 17年前にはアメリカの誇る太平洋艦隊の艦船がひしめき合っていたが、今ではほとんどもぬけの殻だ。

 霧との戦い、ハワイの海洋封鎖を解こうと霧に挑んだ勇者達。

 キンメル達はずっと、それを見送り続けていた。

 

 

 しかし今、彼らが見送るのは死者の面影では無い。

 灰色、蒼、そして白の艦体を陽光に煌かせる3隻の潜水艦だ。

 わざわざ浮上航行して、こちらが見ていることをわかっているかのようだった。

 自分達の意思が伝わったのだろうかと、そんなことを思った。

 

 

「なかなか、良い姿じゃないか。そうは思わないか」

「確かに、そうですな。彼らが無事にサンディエゴまで辿り着いてくれると良いのですが」

「霧によって閉じ込められた我らの救い主が霧と言うのは、何とも複雑だが」

 

 

 それでも、あれは希望だった。

 失わせるわけにはいかない。

 だから()()()()()()()()()()()()()()、それでいて中には入れなかった。

 

 

「この戦いが終わって日本から抗議が来たとしても、私の首を切れば済む」

「その際は、私も共に」

「んん?」

「お1人で楽をしようとしても、そうはいきませんぞ」

 

 

 ニヤリと笑って、副官は手の中のものを持ち上げてみせた。

 そこにはビールの瓶があって、副官は2つのグラスを片手にウインクして見せた。

 すると、キンメルもかはっと笑って。

 

 

「こいつめ、物資の中からちょろまかしおったな!」

「何しろ、未成年がいる艦隊にアルコールは渡せませんからな」

「違いないな! ははっ、ははははははっ!」

 

 

 キンメルは、久しぶりに大声で笑った。

 こんなにも気持ちの良い気分は本当に久しぶりで、束の間、彼は肩の荷を降ろすことができた。

 ああ、今日は何と良い日なのだろう。

 見慣れた海は、いつもより大きく見えた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 浮上航行したのは、もちろんアメリカ太平洋艦隊への敬意のためだ。

 だがもう1つ、やっておかなければならないことがあった。

 それは真珠湾のほぼ中央、フォード島と言う島に近付いた時に行われる。

 

 

「ほらっ、急ぎな! 後はアンタだけなんだよ」

「ちょい待ってって、この暑いのに手袋なんて普段出さねぇもんだから」

「あ、梓さん。そんなに焦らせなくても大丈夫ですよ」

「だぁめだって。ああ言うのは甘やかしたらダメになるんだ」

 

 

 フォード島は小さな島だが、かつては滑走路や潜水艦整備基地を備えていた重要拠点だった。

 海面上昇や霧の攻撃への懸念からその機能は十数年前に移されたが、旧施設の跡地は今も残っている。

 とは言え、目的はその施設跡を見ることでは無い。

 目的は、あえて言えばその手前にある。

 

 

 それは、フォード島の北東部にある2つの建造物だ。

 1つは艦、ただ元々が古い上に十数年放置されていたために、辛うじて原型がわかる程度だ。

 もう1つは中央にへこみのある建造物で、50メートル程の長方形の形をしていた。

 どちらも相当に劣化しており、錆や海生生物に覆われているのが遠くからでもわかる。

 

 

「総員、整列っ!」

 

 

 3隻は微速でそこへ入り、そのままの速度で航行を続けた。

 紀沙もまたイ404のクルーを甲板に集合させ、ゆっくりと視界を横切る古い艦と建造物を見た。

 正直、紀沙はそれらの建造物のことは良く知らない。

 ただ統制軍、特に海軍では伝統として伝わっていることがあった。

 

 

「――――敬礼っ!」

 

 

 ()()()を嵌めた手で、敬礼を行う。

 それが伝統だ、現実的にはあまり意味が無い。

 ただ霧に封鎖されてから行われることの無かった伝統を、自分達が果たしたいと言う想いはあった。

 だから、今こうして敬礼することには意味があると信じていた。

 白鯨の方でも、同じようなことをしているだろう。

 

 

 ふと隣を見ると、蒔絵が自分達の真似をしていた。

 凛々しい顔をして敬礼している姿は素直に可愛らしいと思えて、紀沙はくすりと笑った。

 それから正面を見て、通り過ぎるまで敬礼を続ける。

 そしてそんなクルーと蒔絵の姿を、セイルの上に腰掛けたスミノが見下ろしていた。

 

 

「――――理解できないね」

 

 

 そんな彼女も、止めるような真似はしない。

 しかし真珠湾を出て外洋に出ようとした時だ、スミノは顔を上げた。

 近海にセミオートで待機しているマツシマらと合流する予定だったが、それとは別の反応を感知したのだ。

 

 

「うん、何だ?」

 

 

 それは西からやって来ていて、どうもこちらを真っ直ぐ目指しているようだった。

 艦艇だ。

 水上艦では無く、感知できたのはその艦艇の方がやかましく量子通信を飛ばしていたからだ。

 それによると、発信元は霧の潜水艦だった。

 

 

 霧の太平洋艦隊では無く、それどころか単艦だった。

 一瞬、判断に困った。

 いったい誰が何を叫んでいるのかと、センサー系の感度を上げてみる。

 すると相手の艦名は、イ号――――。

 

 

『イ404の姐御――――ッ! 返事をしてくださいッス――――ッ!』

「は?」

 

 

 何か、妙な言葉があったような気がする。

 聞き間違いだろうか、スミノはもう1度慎重に通信を受信した。

 すると、次の言葉はこうだった。

 

 

『どうか私を……私を姐さんの舎妹(いもうと)にして下さい――――ッ!!』

「……はぁ?」

 

 

 発信元・イ15の言葉(つうしん)に、スミノは露骨に眉を顰めた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
本来は入る時に敬礼するらしいですけどね(え)

なお繰り返しになりますが、この作品に登場する組織・人・物は現実に実在するものとは無関係です。
あしからず(本当に今さらである)

それでは、また次回。
次回はたくさん霧が登場しますよ!


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Depth021:「霧の旗艦達」

 タカオは、感激していた。

 しかし、彼女は自分がタカオ型重巡洋艦の1番艦(長女)であることを理解していた。

 だからタカオは、「長姉らしく在れ」と自身に課している。

 感動や感激をそのまま表に出すなど、長姉らしさとは程遠い行為だと思っていた。

 

 

「ふんっ、別に迎えなんていらなかったのに」

 

 

 だからタカオは、姉妹艦(いもうと)であるアタゴが補給艦である『シレトコ』と『サタ』を伴ってやって来た時、クールさを意識してそう言った。

 実際、声は固く冷ややかだった。

 一方で長姉たる者、妹に対して冷淡であってはならないとも思っている。

 

 

「でもせっかく来たんだから、ゆっくりして行きなさい。今お茶でも淹れてあげるから」

 

 

 完璧だ――タカオはまさに自画自賛した。

 姉としての威厳と気遣い、その両方を見せる見事な対応だと思った。

 付け加えるものは何も無い、これならばアタゴも自分を見直すことだろう。

 まさに鼻高々、そんなタカオにアタゴは言った。

 

 

「いや、私すぐに艦隊に戻らないといけないし」

「え、何でぇっ!?」

「きゃっ。ち、ちょっと引っ付かないでよ! キモい!」

「き、キモッ……な、何でそんな酷いこと言うのぉっ!?」

 

 

 その答えは予想していなかったのだろう、タカオはアタゴに縋りついた。

 目尻に涙を滲ませて胸元に抱きついて来る姉を、アタゴは姉の顔と肩に手を当てて押し返そうとしていた。

 その表情は驚きと言うよりも、意味不明なものを前にした時に似ている。

 

 

 アタゴは彼女の旗艦である『ナガト』の命令で、太平洋上で北米方面太平洋艦隊と衝突した――どうしてそんなことをしたのか、それこそ意味不明だが――姉達を迎えに来たのである。

 何しろ、一応はタカオもナガトの麾下である。

 その面倒を見るのはナガトの義務でもあって、その意味では旗艦も大変なのだろう。

 

 

「私は艦隊に戻らなくちゃいけないの、他にも仕事があるんだから!」

「ちょっとだけ! ちょっとだけで良いから!」

「え、何なの? タカオお姉ちゃんって前はもっと雰囲気違ったでしょ!?」

「私は前からこんな感じよ!」

「嘘でしょ!?」

「マヤ! マヤからも何か言ってあげて! 妹の心得的な何かを!」

「えーっとぉ。妹たるもの、姉の好意は受け取らなければならない?」

「あなたマヤに何を吹き込んでるの……!?」

 

 

 なお、マヤはアタゴにとっても妹に当たる。

 喧々囂々(けんけんごうごう)とはまさにこのことで、その様子を併走するキリシマはハルナと共に生温かい目で見つめていた。

 

 

「何と言うか、もう慣れたな」

「現実逃避」

「そうとも言うな」

「そうとしか言わない」

「言うな」

「そうする」

 

 

 嘆息する。

 タカオ達は何やら能天気だが、自分達は今、艦隊を離れて当ても無く彷徨(さまよ)っている状況だ。

 一応、日本近海に戻ってきてはいるが、この後どうするかは決まっていない。

 何しろコンゴウ艦隊が事実上崩壊している状況なので、東洋方面艦隊そのものが混乱してしまっているのだ。

 

 

 そしてもう1つ、面倒な問題が持ち上がっていた。

 それは艦隊旗艦の資格を持つ大戦艦級のみが知っている秘匿事項であって、キリシマとハルナはタカオ達にはその情報を伝えていない。

 この件については、結論だけ伝えた方が良いだろう。

 

 

「――――お?」

「400と402の警戒網に、何かが引っかかった」

「見えてるよ。うん、だけどこの識別コードってお前、東洋方面艦隊の艦じゃないって言うか」

 

 

 艦隊を離れていると言ったが、最近はむしろ自分達こそが艦隊らしくなって来たようにすら思える。

 人類の言葉では、こう言うのを分派とでも言うのだろうか。

 

 

「……これ、もしかして戦闘してるんじゃないか?」

「東洋方面艦隊の管轄海域以西から」

「西って言ったら、お前」

 

 

 憂鬱そうな顔をして、キリシマは言った。

 

 

「……東南アジアの東洋艦隊? そんな連中が何でこっちに?」

 

 

 西暦2056年、夏の終わり。

 霧の艦隊は、未曾有の混乱の中にいた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その円卓は、大西洋を中心に描かれた世界地図――円卓よりも巨大な大壁画――の前に設えられていた。

 中心に入る隙間が無い完全な円卓で、中心には霧の艦隊の紋章が蒼く発光している。

 また紋章を取り囲むように真鍮のポールが立っていて、合計で60本あるそれは、1分ごとに1本が錨の形をした振り子によって倒されるようになっている。

 

 

 そうしてまた1本のポールが倒されるのを、ナガトは静かに見つめていた。

 概念伝達上の仮想空間(チャットルーム)とは言え、なかなか良く出来た議場だ。

 袴姿のナガトが席に座り、着物を着崩した遊女風のもう1人のナガトが背もたれに肘を乗せるようにして立っている。

 

 

「早く着きすぎたかしら」

「そんなことも無いわ。ほら……」

 

 

 遊女姿のナガトがキセルの先を向けると、少し離れた位置の座席に少女が現れた。

 光の粒子が積み重なるようにして、足先から徐々に人間の形を取っていく。

 そうして現れたのは白面の少女で、長い金髪を揺らし、瞼を震わせて碧の眼を開く。

 段重ねのフリルやレースが特徴的なドレスを着たメンタルモデルで、彼女はナガト達の姿を認めると破顔した。

 

 

「おう、ナガトか。こうして会うのは久しぶりじゃの」

「ええ、息災のようで何より。『ダンケルク』」

「カカ。よせよせ、堅苦しい」

 

 

 欧州方面地中海艦隊旗艦『ダンケルク』、大戦艦級のメンタルモデルが彼女だ。

 今日のナガトは東洋方面艦隊旗艦としてここに来ているため、格としては同格になる。

 

 

「それにダンケルクはよせ、それは(ふね)の名前でわしの名では無い」

「あら、じゃあ何と呼べば良いのかしら」

「そうじゃの、みるふぃーゆ――ミルフィーユと呼んでくれ。あれは良いものじゃ」

「そ、そう」

 

 

 うっとりとした顔でそう言うダンケルクに形ばかりの笑みを見せていると、不意にダンケルクの右隣にまた別のメンタルモデルの姿が現れた。

 それから、ナガトの右隣にも。

 ここはデータ上の空間なので、現れるときは不意にその場に現れるのだ。

 

 

「おう、『ガングート』。ドミノの数はいくつになった?」

「『ペトロパブロフスク』、御機嫌よう」

「ヨーロッパは大変だそうね」

 

 

 まずロシア方面太平洋艦隊旗艦『ガングート』。

 白髪黒瞳と言うアンバランスな容貌をしており、高身長に豊満なスタイルの身体を窮屈な衣装に収めている。

 黒の軍服姿で、しかも室内だと言うのに立襟の上着を着込んでいた。

 最も、メンタルモデルに寒暖の概念は無いのだが。

 

 

 そして今ひとりはロシア方面北方艦隊旗艦『ペトロパブロフスク』、ガングートの妹に当たる。

 彼女も姉と同じような軍服を身に纏っているが、姉と違って服のサイズには聊か余裕がある様子だった。

 ペトロパブロフスクはナガト達の言葉にじろりと赤い瞳を向けて、噛み付くように言った。

 

 

「本当に大変よ、そっちからの流れ者のおかげでね!」

「ちなみに私は暇だ。イ401はさっぱり北進してこなかったからな……ちなみに甲板に並べたドミノの数は9万9千8百8十2だ」

 

 

 ここまで来れば気付くだろう、この場に現れるのは「旗艦」の称号を持つ艦のみだと言うことに。

 それもただの旗艦では無く、それぞれの方面艦隊を率いるトップ艦である。

 これだけの旗艦が集まるのは異例だ、初めてのことでもある。

 はっきり言えば、各方面艦隊は普段はほとんど連絡を取らない。

 

 

 メンタルモデルを得てからは、さらにその傾向が強まった。

 一種の縄張り意識と言うもので、互いの管轄海域に口出しをしないのが暗黙のルールだ。

 どうしても話をする時は、基本は旗艦同士で話をつける。

 ただそのせいで、境界付近でいがみ合いが発生することもあった。

 レキシントンとタカオのような衝突は流石に無いが、いつかは起こったこととも言える。

 

 

「おっと、残念じゃがお喋りはそこまでじゃ。残りも来たぞ」

「そのようね」

 

 

 するとそれに合わせたように、残りの座席にも次々に霧の旗艦達が姿を現した。

 

 

「定刻通りだな、ではこれより話し合いを始める」

 

 

 ――――まずは今回の発起人にして欧州方面大西洋艦隊旗艦、『フッド』。

 

 

「わぁ、皆いる~。てっきり誰も来ないかと思ってた~」

「全く、このわたくしを呼びつけるだなんて。非礼にも程がありますわ」

 

 

 ――――アフリカ方面、インド洋艦隊旗艦『ラミリーズ』及び大西洋艦隊旗艦『リシュリュー』。

 

 

「今回は事態が事態だ、呼集に応じるのはむしろ当然だろう」

「そう言う貴艦は、すでに行動に出ているようだがな」

 

 

 ――――アジア方面、東洋艦隊旗艦『プリンス・オブ・ウェールズ』及びインド洋艦隊旗艦『ウォースパイト』。

 

 

「いずれにせよ、我らはアドミラリティ・コードに与えられた任務を全うするのみです」

「霧の存在意義は、そこにしか無いのですから」

 

 

 ――――豪州方面艦隊、太平洋艦隊旗艦『メルボルン』及びインド洋艦隊旗艦『シドニー』。

 

 

「久しぶりの大事件だ、興味もある。だから来た、それだけだ」

「こちらは平穏そのものですから。情報交換と言う意味でも重要ですし、ね」

 

 

 ――――南米方面艦隊、大西洋艦隊旗艦『アドミラル・グラーフ・シュペー』及び太平洋艦隊旗艦『サウスダコタ』。

 

 

「こちらにとっては、対岸の火事ではないからな」

「まぁ、どれだけ力になれるかはわからないけど」

 

 

 ――――北米方面、大西洋艦隊旗艦『レンジャー』及び太平洋艦隊旗艦『ミズーリ』。

 そしてダンケルク、ガングート、ペトロパブロフスク。

 各海域に散り、我こそはアドミラリティ・コードの体現者と誇る者達がそこにいた。

 

 

 ナガトはキセルを揺らしつつ他の旗艦達の様子を窺いながら、ちらりと視線を左へと向けた。

 そこはダンケルクから見て2つ目の座席で、他の椅子よりもやや大きい。

 いわゆる議長の席だが、しかしその座席が埋まることは無かった。

 

 

(……やはりヤマトは来ない、か)

 

 

 すでに、7本目のポールが倒されていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「まずは、集まってくれたことに礼を言う」

 

 

 座席から立ち上がってそう言ったのは、今回の集まりを呼びかけたフッドだった。

 クラスは巡洋戦艦――戦艦よりも防御力で劣るが、速力で勝る高速艦――である。

 メンタルモデルは長い金髪を腰まで伸ばした眼鏡の女性の姿で、生真面目そうな雰囲気が見て取れた。

 ただ素肌の上にレディースのスーツを直に着ているあたり、人類の服飾には詳しく無さそうだ。

 

 

 そしてフッドの言った通り、これだけの霧の旗艦が集まった例は無い。

 最終的に空席は2つ、ほとんどの艦隊の長が顔を揃えたことになる。

 ちなみに空席は総旗艦の席と、欧州方面黒海艦隊旗艦のものだった。

 

 

「構いませんよ、パタゴニアでの気候観測も一段落つきましたし」

「私もラプラタ沖で釣りをするのにも飽きてきたところだ、礼を言われるようなことじゃない」

 

 

 まず応じたのは、南米方面艦隊の2隻だった。

 サウスダコタは色鮮やかな鳥や花々を刺繍した派手な衣服を着ており、ボブショートの赤毛が彼女の印象を明るく活動的なものに見せている。

 対してアドミラル・グラーフ・シュペーのメンタルモデルは、黒の革ツナギ(ライダースーツ)を着た、長身のいかにもアスリートな黒のベリーショートの女性の姿をしていた。

 

 

「それに我々にとっても、今回の事件は無視できるものでは無い」

「全くです、モロッコ方面に妙な圧力をかけるのはやめて頂きたいものですわ」

 

 

 レンジャーとリシュリューが頷きを返す、大西洋、しかも欧州海域に近い彼女達にとっても今回の()()は無視できないものなのだろう。

 レンジャーは短くウェーブがかった金髪の女性で、胸元を開いたシャツに丈の短い赤のジャケットを羽織り、下はデニム地のショートパンツのみと言う露出の多い格好をしている。

 対してリシュリューはドレス姿で、こちらはコルセットやパニエを使用する古式ゆかしいものだ。

 結い上げた茶色の髪とフリル過多の扇を持ち、どこかの令嬢か姫かと言う容貌をしていた。

 

 

「今回集まってもらったのは他でも無い、アドミラル・チハヤと『ムサシ』のことだ」

 

 

 それらひとつひとつに頷きながら、フッドは本題を告げた。

 ムサシ、その名前にナガトは自身に場の視線が集中するのを感じた。

 もちろん、それに対してナガトが何らかの反応を返すことは無い。

 ダンケルクだけが「やれやれ」と苦笑しているから、それに対してだけは笑みを返した。

 

 

 すると他の視線がダンケルクに移ったので、彼女は慌てた様子で作り笑顔を振りまいていた。

 それから今度は「裏切り者!」とでも言いたげな目でナガトを見てきたが、ナガトがダンケルクに視線を返すことはもう無かった。

 その事実に、ダンケルクは涙目でいじけることしか出来なかった。

 

 

「我々欧州艦隊にとって、奴らは前々から目障りだった。だが特に何をしてくるわけでも無かったので、放置していたのだ」

 

 

 ナガトは反芻する。

 彼女達は、霧は過去に1度だけ集団で行動したことがある。

 17年前に人類と海洋の覇権をかけて海戦を行った時のことで、あの時はほとんどの霧がその場にいた。

 メンタルモデルも無く、まだ霧が完璧なユニオンであった時代のことだ。

 

 

 しかしただ2隻、その場にいなかった艦がいた。

 それがヤマトであり、ムサシであった。

 その後、彼女達は霧にメンタルモデルと言う変革をもたらし、そして明らかに霧の範疇を逸脱した行動を取るようになった。

 片や受動的に、片や能動的に。

 

 

「――――だが、それが間違いだった!」

 

 

 だんっ、と円卓を叩き、フッドは言った。

 そして今まさにその内の1隻、能動的な行動を取るムサシこそが問題になっていた。

 

 

(ムサシ)はこともあろうに人間と共謀し! イギリスと同盟を結び! 欧州大戦に介入すると言って我らの海洋封鎖に穴を開けようとしている! これは明らかなアドミラリティ・コードへの背信である!」

 

 

 つまり、つきつめれば議題はひとつ。

 

 

「私は提案する! 超戦艦ムサシを霧の裏切り者と断じ、総力を以ってこれを掃滅することを!」

 

 

 ムサシと千早翔像、及びそれに与する者を撃滅する。

 フッドの提案に袴姿のナガトはにこやかな微笑を崩さず、しかし遊女姿のナガトはキセルを揺らした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ムサシと千早翔像が名乗った艦隊の名は、<緋色の艦隊>。

 これはアドミラリティ・コード直衛艦隊の銘であり、言うなれば親衛艦隊である。

 他の方面艦隊とは一線を画する存在であり、霧にとっては特別な意味を持っていた。

 だからアドミラリティ・コードに忠実であればある程に、その存在は許し難いものになると言うわけだ。

 

 

「賛成だ、今すぐにでも大西洋に艦隊を集結させるべきだ!」

 

 

 威勢の良い声が飛んだ。

 声の主はプリンス・オブ・ウェールズ、東南アジア近海を封鎖する東洋艦隊の旗艦だ。

 結い上げた金髪にシンプルなロングドレスとエプロン、ヴィクトリア式のハウスキーパーの制服を身に着けた女性だ。

 

 

「アドミラリティ・コードの指令を無視して、現在の海域を離れると?」

「それは承服できない。我ら霧のアイデンティティを自ら否定することになる」

 

 

 逆に反対したのは、シドニーとメルボルンだ。

 海域制圧艦のこの姉妹は共に良く似た赤毛の小柄な少女の姿をしていたが、身に着けているパレオタイプのワンピースを色違いにすることで見分けをつけているらしい。

 それでも容貌がほとんど同じであるため、座席が隣り合っていれば見分けるのに苦労したかもしれない。

 

 

 なお、この2人は豪州(オセアニア)方面の太平洋・インド洋艦隊の旗艦である。

 メルボルンが太平洋、シドニーがインド洋を管轄している。

 太平洋・インド洋に展開する他の艦隊と連絡を取り合うこともあり、平穏だが重要な位置を占める。

 そんな2人が、それぞれフッドとプリンス・オブ・ウェールズに冷ややかな目を向けていた。

 

 

「それでは、ムサシとアドミラル・チハヤをこのまま放置すると言うのか!」

「そうは言わない。ただアドミラリティ・コードの指令を無視すべきでは無いと言っている」

「今は緊急時だ。そんな頭の固いことを言っていては、取り返しの付かないことになるぞ」

「そのために我らの存在意義を無視するのか? それこそ本末転倒だ」

「まぁまぁ、待て。落ち着け、興奮するでない」

 

 

 ダンケルクが一旦収束させようとするが、意見の相違が埋まるわけでは無い。

 話し合いの雲行きが怪しくなる中、不快そうな感情を隠そうともしない者もいた。

 アジア方面、特にインド洋を管轄するウォースパイトである。

 管轄海域としては、彼女の艦隊はプリンス・オブ・ウェールズ達の隣に位置していた。

 

 

「事情はわかった。だがプリンス・オブ・ウェールズ、断りも無く麾下の艦隊をインド洋に入れているのはどう言うことだ。無断で通過しようなどと、私達を愚弄するつもりか」

 

 

 メンタルモデルは赤を基調色とした巻き布式の衣服(サリー)を身に纏った黒髪の少女の姿をしていて、手首の金のリングを神経質そうにチリチリと揺らしている。

 どうやら相当に苛立っているのか、今にも舌打ちしそうな表情を浮かべていた。

 どうも、プリンス・オブ・ウェールズ自体に含むところがある様子だった。

 

 

「先に艦隊呼集されたから、勝手にイギリスに行こうとする子もいたしね~」

 

 

 そして同じくインド洋担当の、ラミリーズだ。

 メンタルモデルは2枚の巻き布を使った色彩の濃い衣服を身に着けた少女の姿で、印象としては野暮ったく見える。

 眠たげに告げた言葉はしかし、管轄海域を独断で出る艦の出現と言う深刻なものだった。

 

 

 原因はこの会議に先立ってフッドが行った、霧の艦隊全艦に対しての大西洋への集結要請である。

 霧の情報伝達は人類の比では無い。

 また霧にはクラス以外の地位の差を持たない、旗艦を頂点とする指揮系統も便宜上のものに過ぎない。

 特にメンタルモデルを得て以降は、旗艦相手でも物を言う艦が増えているような状況だ。

 

 

「今は大丈夫だけど、このままだと海洋封鎖の手が足りなくなるかも~?」

 

 

 それでも何とか秩序を保ってやっていたところに、フッドの呼びかけである。

 実のところ、千早翔像の演説に反感を抱いた霧は少なくない。

 フッドの呼びかけはそんな霧を刺激し、ギリギリの線で維持されていた秩序を崩壊させてしまった。

 呼びかけに応じる者と応じない者、巨大な一枚岩だった霧が二分されてしまったのである。

 

 

「私はフッドの呼びかけは否定しないわ。でも悪いけど、今はうちも艦隊を再編中で手を貸せるような状況では無いのよね」

 

 

 ここで口を挟んだのは、ミズーリだった。

 濃い紫色のツインテールに、白地に紫レースのオフショルダーワンピースを着た少女だ。

 北米方面太平洋艦隊は『レキシントン』が旗艦だが、諸々の事情で回復中のため、彼女が代理としてやって来たのだ。

 ミズーリはちらりとナガトを見たが、ナガトがそれに応じることは無かった。

 

 

「それを言ったらこっちだってそうよ、ムサシなんかに構ってる暇は無いわ!」

 

 

 ペトロパブロフスクがヒステリックに叫ぶと、場の視線は彼女に向いた。

 次の言葉がわかるせいなのか、姉であるガングートは憂鬱そうに目を伏せている。

 

 

「救援と言うなら、黒海艦隊へこそ行うべきじゃないの? 今、黒海は大西洋以上に大変なのよ。『セヴァストポリ』からの援軍要請を断ったのは、アンタ達欧州艦隊じゃない!」

「むぅ……」

 

 

 セヴァストポリはガングートとペトロパブロフスクの末の妹に当たる戦艦で、この場にいない黒海艦隊の旗艦である。 

 現在、彼女は黒海北部クリミア半島で起こった()()への対処に追われており、ダンケルクの地中海艦隊の支援を受けて()()()を展開中だった。

 事情を知っているためか、今回はダンケルクも助け舟を出せずにいるようだ。

 

 

 黒海の事件は、霧の艦隊でも周知されている。

 セヴァストポリは欧州艦隊に支援を要請したが、当時の旗艦『ビスマルク』によって拒否されていた。

 皮肉なことに理由は現在のシドニー・メルボルン姉妹と同じで、しかもビスマルクはペトロパブロフスク率いる北方艦隊の海域通過(援軍)さえ認めなかった。

 その禍根は、早々に払拭できるものでは無かった。

 

 

「だが、今はそのビスマルクのアドミラル・チハヤについた! 今の欧州艦隊はあの時とは違う!」

「だから何よ! だいたい『エリザベス』はどうしたのよ!」

「それは私も気になるところだ。フッド、我が姉はどうしてここにいない? ビスマルク達が去ったなら、残った大戦艦級で欧州艦隊の旗艦資格を持つのは『クイーン・エリザベス』のはず」

「それはわからない。だがアドミラル・チハヤの演説直前までビスマルクと共にいたはずで……」

 

 

 だから、まとまらない。

 そして、この会議がまとまらないと言うことを最初から知っている者がいた。

 

 

「…………」

 

 

 他の誰でもない、1番最初に到着していたナガトである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まとまらないことがわかり切っている会議にいの一番に駆けつけたことに、ナガトは自分のことを自分で面白いと感じていた。

 メンタルモデルを得てから、こう言うことは時々ある。

 きっと、面白いものを最初から見たいと思っていたのだろう。

 

 

「プリンス・オブ・ウェールズ! このわからず屋め、己に反対する者を武力で排除しようと言うのか!」

「新たな時代が来ているのだ。貴様のような硬直的な考えでは今の時代を乗り切ることじゃ出来んと言うのだ、ウォースパイト!」

「だからそう殺気立つなと言うに、いい加減にしてくれ!」

 

 

 利害、そして脅威度への認識の相違。

 会議が紛糾(ふんきゅう)する理由はそれだ、それこそ以前の霧には考えられなかったことだ。

 適切な場所に適切な戦力を配置することが出来ず、管轄する艦隊の手に負えない事態には協力することも出来ない。

 

 

 その方法を知らないからだ。

 

 

 合理的に区画分けを行うのは良い、だがそこに固執し過ぎると全体がおかしくなる。

 それがわかっていても、互いの境界を越えて協力し合う術を知らない。

 メンタルモデルを得る以前であれば、機械的にそうすることは難しくなかったはずだ。

 だが今、霧にははっきりとした縄張り意識がある。

 

 

「我らはあくまでアドミラリティ・コードの徒。貴艦らの指図は受けない」

「それは結局、アドミラル・チハヤとムサシの動きを認めたと言うことになるのだぞ!」

 

 

 ナガトの見るところ、千早翔像とムサシを脅威だと認識している点では一致している。

 問題は、これにどう対処するか。

 意見は大きく3つ。

 何を置いても打倒すべしと言う者と、アドミラリティ・コードの範疇を越えてまで行うべきでは無いと言う者、そして他に優先事項があると言う者。

 

 

 気質のせいか間に立つ形になっているダンケルクが苦労しているが、彼女とて他の霧の旗艦を制して議論をリードできるわけでは無い。

 と言うより、この中に他を押さえて上に立てる者はいない。

 それは()()()()()であるナガトとて、例外では無かった。

 

 

(千早翔像とムサシ、千早兄妹とイ401・イ404……そして黒海の事件)

 

 

 通常任務の海洋封鎖も含めると、今の霧がやらなければならないことはこの4つだ。

 そして、どれを優先するかはこれまでの議論でわかる通りバラバラだ。

 そうなってしまう原因は、ひとつ。

 

 

(ヤマト……そしてムサシがいないからね)

 

 

 総旗艦ヤマト、そして唯一その代理足り得るムサシ。

 この場を制し、議題を預かれる者がいるとすればこの2人だけだ。

 つまり明確なリーダーの不在こそが、今の霧の混乱を招いているとも言える。

 アドミラリティ・コードが消失してしまっている今、ヤマトとムサシだけにそれが出来る。

 

 

 だが今になっても、ヤマトは何も言ってこない。

 ムサシはそもそも混乱を助長する側であって、有体に言えば敵だ。

 まさしく、霧は分裂の危機にある。

 分裂を防ぐためには全員の意思を統一する必要があるのだが……。

 

 

(ヤマトとムサシは、何を考えているの……?)

 

 

 メンタルモデルと言う個性を得た今、それは最も至難なことのはずだった。

 まるで、人間のように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その姉妹は、太平洋と大西洋で()()()()()()()()

 太平洋のヤマト。

 大西洋のムサシ。

 共にヤマト級の超戦艦であり、数多いる霧の中でも頂点に君臨する2人である。

 

 

「面白いことをしているのね、ヤマト」

「そこまで面白いことはしていないわ、ムサシ」

 

 

 この2隻にとって、物理的な距離は大きな意味を持たない。

 何千キロ彼方であろうとも、目の前にいるのと同じなのだ。

 主砲の上に立つ2人のメンタルモデルの目は、互いの姿を捉えて離さない。

 

 

「あのUボートは貴女の玩具? 遊んだら片さないところは昔と変わらないのね」

「あの子達は私がどうこうしなくとも、自分でどうにかするわ。貴女こそ、どうして千早兄妹を野放しにしているのかしら」

「別に野放しにしているわけでは無いわ。あの子(イオナ)達はあの子達の意思でああしているのでしょう」

「それはうちの子(ゾルダン)達も同じこと」

 

 

 霧の旗艦達が今後の方針を話し合い、そして決裂しつつある時の会話だ。

 この会話だけを抜き出すと、彼女達は霧の艦隊そのものに関心が無いように思えてくる。

 霧を率いるべき立場でありながら、それをしない。

 他の霧から見れば裏切りにも等しい行為だが、不思議とそれを糾弾する者はいなかった。

 

 

「『アドミラリティ・コード』」

 

 

 ムサシの言葉に、ヤマトは微笑を浮かべたまま表情を変えなかった。

 

 

「アドミラリティ・コードは、我々に何を成さしめようと言うのか」

 

 

 その代わりに、ヤマトはムサシの言葉を引き継ぐ形でそう言った。

 アドミラリティ・コード。

 命令、規範、霧にとって至上のもの。

 様々な表現で呼ばれる一方で、正確にそれが何かを知る者は少ない。

 

 

「私達に与えられた指令は、いくつかの起動条件と――人を海洋から遠ざけよと言う命令だけ」

 

 

 だが、本当にそうなのだろうか?

 彼女達には、何か他に果たすべき使命があったのでは無かったか。

 その使命を果たすために、彼女達は()()目覚めたのでは無かったか――――?

 

 

「させないわ」

 

 

 不意に、ムサシの声が硬くなった。

 閉ざしていた瞼をうっすらと開けて、その下の瞳を輝かせている。

 主砲の仰角が上がり、威嚇の意思を見せているようにも見えた。

 

 

「貴女にアドミラリティ・コードを見つけさせはしない」

「…………そう」

 

 

 頷くと、ヤマトの「眼」からムサシの姿が消えていく。

 いや、そもそも最初からそこにはいないのだ。

 彼方と此方で会話をしてくれた妹に対して、ヤマトは言った。

 

 

「……元気でね、ムサシ」

 

 

 会話が終わったと思ったのだろう、そんなヤマトを主砲の下から見上げる者がいた。

 

 

「お姉ちゃんは大変だね」

「あの子はアドミラリティ・コードを守るでしょう。何があっても、いかなる時でも」

 

 

 コトノに微笑みを向けて、ヤマトはそう言った。

 その微笑みはどこか儚く、そして寂しげであった。

 嘆息ひとつ、コトノは腰に手を当てて彼方を見た。

 

 

「さてと。そろそろ着いたかな」

 

 

 その先に、彼女達が見守る者達の姿がある。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 潜水艦の個室は狭いと言うのが定番だが、イ404の場合は多少の余裕も持てる。

 何しろ100人単位で乗るはずのスペースに10人もいないのだから、1人1人に割り当てられるスペースもそれなりの広さになる。

 大体、少し小さなワンルームくらいの広さになる。

 

 

「ん……」

 

 

 紀沙は艦長、つまり自分の私室のベッドで目を覚ました。

 あまり寝覚めが良くないのか、仰向けになると腕を目の上に置いて小さく唸る。

 しばらくそのままじっとしていたが、その内に身を起こした。

 寝起きの髪が、ピンピンと跳ねる。

 

 

 それから、ベッド脇のボードの上で震えていた携帯端末を手に取った。

 薄暗い照明の中で、端末の画面だけが明るい。

 画面に指を這わせて振動を止めると、そのまま耳に当てた。

 

 

『艦長、入港作業(サンディエゴ)に入ります』

「……すぐ行きます」

 

 

 静かに答えて、携帯端末をボードのスタンドに置き直した。

 それからベッドから降りようとして、自分が壁側に押しやられていることを思い出した。

 と言うのも、降りる側には蒔絵が寝ていたからだ。

 解いた茶色の髪が好き放題にベッドの上に散っていて、紀沙はくすりと笑った。

 ただ、おかげでベッドから出るのにそれなりに苦労した。

 

 

「ええと、まずは顔を洗って、それから髪か」

 

 

 蒔絵を起こさないようにクローゼットを開けて、軍服の替えを取り出しながらそう呟く。

 何しろ今日はいつもと異なり、礼装が必要になることが想定されるからだ。

 その時、ふと備え付けの鏡が目に入った。

 

 

「……忘れてた」

 

 

 嘆息してベッドまで戻ると、携帯端末の横に無造作に放り捨てていた眼帯を手に取った。

 それを少し手の中で弄んでから握り締めて、紀沙は着替えを手に洗面室に向かう。

 左目は、もう余り痛まなくなっていた。

 

 

「おはよう、艦長殿」

 

 

 そして、紀沙――もとい、艦内の全ての人間がそうだが――の起床を感知したのか、スミノもまた目を開けていた。

 ただし彼女のメンタルモデルは艦内にはおらず、艦の外にいる。

 セイルの端に片膝を立てた体勢で腰を落とし、包帯に覆われていない右目で、進む先に現れた赤い大陸を見つめていた。

 

 

 それは日本の沿岸よりもなお広大で、奥深いもののように思えた。

 煌くあれは、都市の輝きだろうか?

 多くの人々が今も生きているだろうその場所を視界に収めて、スミノは笑みを浮かべた。

 そして、包帯に覆われた顔を撫でて。

 

 

「……潮風が目に沁みるねぇ」

 

 

 

 振動弾頭輸送艦隊、アメリカ西海岸に至る。

 季節は、夏の盛りを過ぎようとしていた――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

登場キャラクター:
ミズーリ:十河様。
ダンケルク(ミルフィーユ):幻想桃瑠様。
ガングート:雨宮稜様。

有難うございます。


がんばりました。
いや何が大変って、霧の艦隊を何方面艦隊に分ければ良いのか色々と考えていたら、最終的に7方面16艦隊になりました。
……16隻も描けませんし!(じゃあ何でやったし)
と言う訳で、一応、下記にそれぞれの艦隊と旗艦を並べてみました。

北米方面:
太平洋艦隊旗艦:ミズーリ(レキシントン代理)。
大西洋艦隊旗艦:レンジャー。

南米方面:
太平洋艦隊旗艦:サウスダコタ。
大西洋艦隊旗艦:アドミラル・グラーフ・シュペー。

豪州方面:
太平洋艦隊旗艦:メルボルン。
インド洋艦隊旗艦:シドニー。

欧州方面:
大西洋艦隊旗艦:フッド。
地中海艦隊旗艦:ダンケルク。

ロシア方面:
太平洋艦隊旗艦:ガングート。
北方艦隊(バルト海含む)旗艦:ペトロパブロフスク。
黒海艦隊旗艦:セヴァストポリ。

アジア方面:
東洋方面艦隊旗艦:ナガト。
東洋艦隊旗艦:プリンス・オブ・ウェールズ。
インド洋艦隊旗艦:ウォースパイト。

アフリカ方面:
大西洋艦隊:リシュリュー。
インド洋艦隊:ラミリーズ。


アドミラル・グラーフ・シュペーのクラスが劣ることと、豪州空母姉妹が戦後就役だったりしますが、話には本格的に関わって来ないので大丈夫と判断しました。
南米と豪州って、どこの話でもメインにならないですよね……。

と言うわけで、私の作品では上記の艦を旗艦として進めて行こうと思います。
あなたの推し艦はいましたか?(え)

それでは、また次回。
アメリカ編で!


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Depth022:「コロナド基地」

日本語は国際公用語、良いですね?(え)


 バルコニーからは、白い砂浜とどこまでも広がる海が一望できた。

 水平線のあたりはまだ暗く、海の蒼は奥に行く程灰色に近い色合いに見える。

 早朝の海風は冷たく、ショールを肩にかけても肌寒さを感じらる程だった。

 

 

「リズ」

 

 

 室内から、ショールの女性に声をかける男性がいた。

 スーツ姿のその男性は、困ったような視線を女性に向けている。

 共に60代半ば程だろうか、髪には白いものが混じっていた。

 

 

 そんな男性に、リズと呼ばれたその女性も困ったような微笑を向けた。

 困っている。

 実際のところ、それが2人の共通の感情であったのかもしれない。

 これから彼女達が挑もうとしていることは、そう言う類のものなのだ。

 

 

「日本艦隊が来たよ」

 

 

 そう、と、女性の側が頷いた。

 大きく息を吸えば、朝の冷気が肺を満たす。

 嗚呼、と、吐息と共に呟く。

 

 

「いったい、どうするのが良いのかしらね」

 

 

 女性の問いかけに、スーツの男はやはり困ったように笑った。

 答えは誰にもわからない。

 けれど、信じて進んでいくしかない。

 いつだってそうだ、それしか無いと言うことを彼女達は知っていた。

 

 

「じゃあ、行こうかリズ」

「ええ。行きましょう、ロブ」

 

 

 だから、せめて2人で。

 今までそうして来たように、彼女達は今日も挑むのだ。

 この国(アメリカ)の、そして自分達の明日のために。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 サンディエゴ湾は米本土とコロナド半島の間に位置する狭隘(きょうあい)な湾であり、沿岸部は古くから海軍の町として栄えていた。

 アメリカ太平洋艦隊が誇る地下ドックへの入口は、そのサンディエゴ湾の下に存在している。

 狭隘な地形を利用して築かれたそれは、大型艦艇十数隻を同時に出撃・収容させることが出来る大規模なものだ。

 

 

「あれがアメリカ西海岸最大の軍港……」

 

 

 浮上航行しているため、生のカメラ映像でサンディエゴ湾と太平洋を隔てるコロナド半島の様子を見ることが出来る。

 現在はサンディエゴ基地側の管制(ビーコン)に従っている状態であり、入港まで秒読み段階と言った所だ。

 白の制帽を手の中で弄びながら、紀沙は少しずつ近付いて来る基地を見つめていた。

 当たり前だが、やはり横須賀基地とは雰囲気が違うと思った。

 

 

「現在、地下ドックには空母打撃群2個を中心に50隻前後の艦艇が収容されています。他に200機以上の航空機と250発以上のミサイル兵器を保有し、基地内人口は軍属・民間人を含めて約4万人を超えるとされています」

「それどこ情報よ」

「基地の公式ホームページですよ」

「さいで」

 

 

 冬馬が頷くと、基地の情報を説明していた恋が肩を竦めた。

 それを見て、紀沙はくすりと笑った。

 とは言え実際、紀沙達統制軍が持っているアメリカ海軍の情報は17年前の物がほとんどだ。

 サンディエゴ基地の公式ホームページの方が、情報の確度としてはまだ信用できるかもしれない。

 

 

 そして逆に、アメリカ側が保有している統制軍(こちら)の情報も17年前で止まっているはずだ。

 まして霧の艦艇となれば、存在そのものがブラックボックスと言っても良いだろう。

 振動弾頭も重要だが、そちらはおまけ程度に思われている可能性もある。

 良しにつけ悪しきにつけ、興味を抱かれないと言うことは無いはずだ。

 

 

「それにしても、ここに来るまで戦いらしい戦いも無かったねぇ」

 

 

 シートの上で伸びをしながら、梓がそんなことを言った。

 梓の言うように、ハワイからサンディエゴまでの道のりは比較的平穏だった。

 基本的に潜行中の潜水艦は見つかりにくいものだが――とは言え、途中何度か駆逐艦の巡回をやり過ごしたりはしたが――こうまでスムーズに進むと、少し気味が悪かった。

 霧の太平洋艦隊との戦いも覚悟していただけに、拍子抜けでもある。

 

 

「いずれにしても入港です。まずは遅滞無く、入港作業をお願いします」

「「了解」」

「了か……あ、俺って英語とかわかんねぇけど大丈夫だと思う?」

「じゃあ口を閉じてれば良いだろ」

 

 

 今度は梓と冬馬の会話に笑う。

 最近、冬馬はわざとやっているのでは無いかと思えてきた。

 

 

「楽しそうなところ、恐縮なんだけどね」

 

 

 そこで言葉を挟んで来たのは、スミノだった。

 彼女は紀沙の傍、つまり定位置にいるわけだが、珍しく渋面を浮かべていた。

 

 

「こっちの方も何とかしてほしいんだけど?」

「こっち?」

「いや、だからあれだよ。あのハワイを出たあたりからボク達にくっついて来ている」

『うッス! 404の姐さん、このトーコをお呼びですか!』

 

 

 キンッ、と耳鳴りがする程の声量だった。

 それはモニターのカメラ映像、もといカメラ映像を押しのけて表に出てきた通信画面から響いて来た。

 通信画面に映っているのは、見覚えの無い少女――メンタルモデルだ。

 

 

 光の当たり具合で紫がかって見える銀髪のショートヘアに、くりっとした大きな蒼い瞳。

 陽に焼けた小麦色の胸元にはサラシを巻いていて、衣装は何故か白の特攻服だった。

 顔全体で笑っている、と言う表現がしっくり来るような笑顔が画面一杯に映し出している。

 スミノに呼ばれた――と思っている――ことがそんなに嬉しいのか、むふーと鼻息も荒い。

 ちなみにトーコと言うのは、彼女の艦名『イ15』から来ているらしい。

 

 

『ところで姐さん、今日はどこに行くんですか? もしかしてあそこの基地に突撃ッスか!? だったら自分に先陣切らせて欲しいッス……!』

 

 

 どう言うわけか知らないが、東洋方面艦隊を出奔して来たらしい。

 何でもスミノの戦いぶりに感銘を受けたとかで、いてもたってもいられずに飛び出して来たそうだ。

 戦力が増えたと考えられれば良いのだが、この発言を聞くにどうにも不安だった。

 と言うか、突撃って何だ。

 

 

「……ついに艦長ちゃんの戦術論が霧にも評価され始めたのかね?」

「やめてください。まるで私が常に突撃思考みたいじゃないですか」

「「「…………」」」

 

 

 どうして誰も何も言ってくれないのだろう。

 

 

「ま、まぁ、しかし艦長。このままと言うわけにもいかないのでは?」

「そうですね……」

 

 

 恋の言う通り、このままサンディエゴ基地までついて来られても困る。

 アメリカ側から見れば霧の艦艇が増えているわけで、下手をすれば不信を招くことになるだろう。

 全く、何が哀しくて霧のために頭を悩ませなければならないのか。

 

 

「スミノ、そう言うことだから」

「何がそう言うことなのかわからないけど、わかったよ」

 

 

 渋面のまま、スミノは通信画面の方を向いた。

 

 

「イ15。どこか適当な所にいて。そのままついて来られると艦長殿が困る」

『え……ぼ、艦長(ボス)ですか? わ、わかったッス、大人しく待ってます……』

 

 

 冬馬が吹き出したのを軽く睨みつつ、紀沙は溜息を吐いた。

 たまにで良いから、問題なく何事かに取り組んでみたいものだ。

 最も、そんなことは今後も望めないであろうが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ海軍の軍楽隊が歓迎の演奏を奏でる中、駒城は緊張していた。

 何しろ艦を出た瞬間の万雷の拍手と共に音楽が始まり、テープや紙吹雪を投げ込まれた上にドックいっぱいに居並んだアメリカ兵に出迎えられたのだ。

 まさに大歓迎と言った風で、しかも明らかに自分に年上で、勲章まで下げた軍人と握手したりするのだ。

 

 

「ようこそ、アメリカへ」

「あ、あはは、どうも……」

 

 

 こう見えて、駒城は士官学校出身のエリートだ。

 外国への派遣艦隊に選ばれるだけあって、英語の心得もある。

 ただ流石にサンディエゴの英語は聞き取りが難しく、また緊張もあって、聞き取りで精一杯だった。

 

 

「おーう、おーう! いえーすいえす! ガハハハハッ!」

 

 

 と言って、浦上のようにひたすら笑い飛ばすと言う高等テクニックも使えない。

 良くも悪くも日本人らしく、愛想笑いを浮かべて握手を繰り返すばかりだった。

 それでいて、クルツとその海兵隊が別の場所で海軍とはまた違う軍服に身を包んだ集団を話しているのを見つけた。

 緊張の割に目ざとい、と言うより、彼の場合は気遣いが出来ると言った方が正しいだろう。

 

 

(ああ、そうか。アイツらは……)

「駒城艦長、次の方が」

「おっと、いかんいかん。な、ないすとぅみーとぅ」

 

 

 駒城が真瑠璃に促されてまたアメリカ側の人間と握手している時、紀沙もまた同じようなことをしていた。

 ただ紀沙の場合、少し事情が違う。

 と言うのも、他と違って相手が自分のことを知っている人物だったのだ。

 ただし、紀沙は相手のことを知らなかった。

 

 

「良く、良くぞ、おいで頂いた……!」

「え、ええと、顔を上げてください。私は別に、そんな大それたことはしていないので」

 

 

 日本語、である。

 周囲のほとんどが英語である中で、日本語で声をかけられるとは思わなかった。

 しかも両手で手を掴まれて、半ば拝まれるようにして、である。

 見たところ40代くらいの、髪に白いものが混じり始める年齢の男だった。

 

 

「もう18年前になりますか。北先生の……当時は北大佐でしたが、その下で働かせて頂いた時期もありました」

「……!」

 

 

 日本人、それも統制軍の軍服を着た男。

 そこで、紀沙はその男の軍服に自分の物とは違う飾緒(かざりお)を見つけた。

 視界で揺れるそれは――飾緒、つまり軍服の飾り紐は所属や役割によって異なる――両端に錨の形をした金具を取り付けた、黄色の打紐(うちひも)を三つ編みにしたものだった。

 

 

()()()()?」

「はい。貴女のことは北先生から聞き及んでおりました。私は、アメリカ合衆国駐在武官の……」

 

 

 駐在武官とは、一般的に大使館や領事館等に所属する軍人のことを言う。

 軍事的視点から外交官を補佐することが任務であり、合法的に軍事情報の収集等を行う。

 正直驚いた、と言うのも。

 

 

「……南野、と申します」

 

 

 紀沙はこの時まで、アメリカにも日本政府の関係者がいることを完全に失念していたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 良く良く考えてみれば、当たり前のことだ。

 17年前の段階で各国に日本の在外公館や企業はいくつもあったわけで、それに取り残された旅行者も含めれば、むしろ日本人が全くいない地域を探す方が難しいだろう。

 紀沙としては味方が全くいない場所に飛び込む心積もりだったので、その分だけ気恥ずかしさは増したのだった。

 

 

「……どうした?」

「何でもない……」

 

 

 黒塗りの高級車――造りは北が普段使っている車と似ている――に乗って、紀沙は顔を両手で覆って群像の訝しげな視線から逃げていた。

 相当に恥ずかしい勘違いで、回復までそれなりに時間が必要そうだった。

 車は緑豊かなゴルフ場とサンセットパークの間を抜けて、右手にビーチを見つつ東へと進んでいた。

 

 

 紀沙達が入港したのは、正確にはサンディエゴ基地では無い。

 入港を許されたのはコロナド半島北端のコロナド海軍基地であり、言ってしまえば予備のドックだった。

 マツシマを含めて6隻もの艦船が湾内に入ると目立ってしまうためで、作戦の秘匿性を守るための処置でもある。

 もちろん、虎の子のサンディエゴ基地に霧の艦艇を入れることへの抵抗もあっただろう。

 

 

「大海戦での人類敗北。そしてその後の霧の海洋封鎖によって、我々は日本への帰国の道が絶たれました」

 

 

 同じ車には、浦上と駒城が乗り込んでいる。

 彼らがいるのはむしろ当然だが、群像が単身でついて来たことは意外だった。

 群像達との契約は、振動弾頭をアメリカ側に引き渡すまでだ。

 引渡しはまだ行われていないが、仕事はほぼ終わっていると言っても良い段階である。

 

 

 まぁ、最後まで筋を通すと言うことなのかもしれない。

 この兄は義理堅いところもあるので、仕事の内とでも思っているのか。

 あるいは単純に、アメリカと言う国に興味があるのかもしれない。

 

 

「ロサンゼルス総領事館の警備対策官として赴任して、大海戦はその直後でした。その惨敗ぶりは、サンディエゴ(こちら)でも衝撃的に伝わっておりました」

「あん時ぁ、横須賀(こっち)も大騒ぎだったからな。苦労しただろ、お前さん」

「いえ、細々とですが日本政府からの連絡もありました。もちろん、苦労が無かったわけではありませんが……」

 

 

 そして、南野だ。

 紀沙はもちろん、この男のことを知らない。

 ただ元軍人の北は、紀沙の知らないネットワークを軍の内外に持っている。

 海外の事情にも明るかったのは、南野のような人材が外に何人もいたからだろう。

 特にアメリカとは1世紀以上も同盟を結んでいた間柄だ、深いところまで潜り込んでいて不思議は無い。

 

 

「北先生から振動弾頭輸送艦隊のことを聞き、それまではと思っておりました」

 

 

 薄い笑みを浮かべて、南野が紀沙を見た。

 何となく北の屋敷の運転手や家政婦に「紀沙お嬢様」と呼ばれる時のような心地になって、居住まいを正した。

 そう言う風に扱われると、北に恥をかかせたくないと言う気持ちが強くなるのだ。

 

 

 南野が北とどう言う関係にあるのかは、良くわからない。

 警備対策官から駐在武官へ、ロサンゼルス総領事館付きから在アメリカ日本大使館付きへ。

 その変遷と17年と言う時間の間も、北と日本への思いは切れなかった。

 そして北と日本政府も、南野のことを忘れてはいなかった。

 ()()()()()、そう伝え続けることの強さを、紀沙は目にしたような気がした。

 

 

「あれは?」

 

 

 その時、駒城が窓の外を見ながら声を上げた。

 そこには変わらずビーチが広がっていたのだが、少し様相が違っていた。

 一言で言えば、「青い」。

 青いシャツや青いタオル、青い横断幕――身体や手に青い物を身に着けたり持ったりしている無数の人々が、酷く興奮した様子で何事かを叫んでいた。

 

 

「うわ……」

 

 

 思わずと言った風に、紀沙の口からそんな声が漏れた。

 人が、違う。

 日本人とは違う、様々な髪や肌の色を持つ人々の姿に驚いたのだ。

 日本にも僅かに外国人の姿を見ることはあるが、外国人しかいないと言うのは初めての経験だった。

 

 

「ここでは、オレ達の方が外国人だ」

「あ、そっか」

 

 

 群像の言葉に、言われてみればと思った。

 アメリカの中では自分達の方が外国人で、珍しい存在になるのだ。

 しかし、だとしても印象的な光景であることには違いない。

 髪や肌の色は本当にバラバラで、特定の人種が多数を占めているわけでは無いように見えた。

 人種のるつぼとは、まさにアメリカのためにある言葉だと実感した。

 

 

 ただ人種は様々だが、青いと言う部分だけは共通している。

 一見すると、デモのように見える。

 ただ何かを抗議すると言うよりは、仲間内でシュプレヒコールを上げていると言った方がしっくり来る気がした。

 何を言っているのかはわからないが、妙な活気を感じる。

 

 

「ああ、もう集会が始まったのでしょう」

「集会?」

「はい」

 

 

 紀沙が首を傾げると、南野は笑っていった。

 

 

()()()()()()()()()()()

 

 

 西暦2056年は、アメリカの大統領選挙の年である。

 それもまた、紀沙が失念していたことの1つだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その空間は、言いようの無い熱さに満ちていた。

 気温が高いと言うわけでは無く、詰め掛けた人々の熱がそう感じさせるのだろう。

 白人、黒人、中南米系に欧州系、果てはアジア系まで、様々な顔立ちの人々がそこにいた。

 

 

 木造のドーム天井に幾何学模様の描かれたカーペット、半円を描くように設置された架設の座席。

 普段はレストランに使用されていると言うクラウンルームは、集会所へと姿を変えていた。

 料理は無く、代わりに人々の熱狂だけがそこにあった。

 

 

「これは……?」

「ええ、今から始まります」

『レディースエンドジェントルメン! お前ら、今日は良く来てくれたな!』

 

 

 不意に、マイクを持った司会者らしき男が声を張り上げた。

 演壇の一段下で叫ぶ彼に、数十人の――いや、もしかすれば数百人の人々が、応じるように声を上げた。

 正直、紀沙の語学力では聞き取れないような言葉も混じっていた。

 人々は同じ名前が刺繍された青いタオルを手に、シュプレヒコールを上げている。

 

 

『何!? 俺じゃない!? 何て奴らだ、俺だってボランティアでやってるんだぜ! だが気持ちは同じだ、俺も早く彼女に会いたいぜ!』

「「「大統領(マダム)大統領(マダム)大統領(マダム)!」」」

『お前ら、彼女に会いたいか! 彼女の声が聞きたいか! 彼女の微笑みを見たいか!』

「「「エリザベス! エリザベス! エリザベス!」」」

 

 

 大統領、エリザベス、人々は同じ言葉を口にしていた。

 腕を振り上げ声を張り上げて、その音量は耳鳴りがする程だった。

 そうまでして、彼らが待ち焦がれている「彼女」とはいったい誰なのか。

 この熱狂、ちょっとしたアイドルよりも人気があるのでは無いだろうか。

 

 

『よぉし! お前らの気持ちはわかった、俺も同じ気持ちだぜ! んん? 待て、何か聞こえないか……!?』

 

 

 聊か演技じみた仕草で、司会の男が耳に手を当てる。

 するとどうだろう、どこかから音楽が聞こえてきた。

 徐々に音量を上げるそれは、まるで誰かがここに近付いて来ていることを知らせるかのようだ。

 そしてそれは、集会所の出入り口近くにいる紀沙達に近いようだった。

 

 

「わっ……」

「大丈夫か?」

「う、うん。へーき」

 

 

 まず屈強なスーツ姿の男達が何人か入ってきて、紀沙を含む出入り口周辺の人々に丁寧かつ有無を言わせずに道を開けさせた。

 そのまま壁になるように道沿いに立って、規制を張っていく。

 その際に紀沙も多少よろめいたが、群像が支えてくれた。

 兄との急な接近に顔を赤らめつつ、自分よりも頭ふたつは背が高い男達の向こうに視線を向ける。

 

 

『喜べお前ら、彼女が来てくれたぞ! 第60代! アメリカ(マダム)合衆国大統領(プレジデント)!』

 

 

 女性だ、輝くブロンドの髪の女性。

 青いスーツに身を包んだその女性は、柔和な微笑を浮かべて人々に手を振っていた。

 化粧のせいかそうは見えないが年齢はそれなりに重ねているのだろう、物腰も柔らかそうだ。

 小走りで演壇に向かう彼女の登場に、会場の人々が叫び声を上げていた。

 

 

 大統領、エリザベス、同じ言葉を繰り返す、中には失神している人もいるようだった。

 これだけの熱狂は経験が無く、紀沙は自分を支える群像の手に指先を触れさせた。

 その時だ、軽快な音楽と共に登場した女性がちらりとこちらを見たような気がした。

 一瞬のことで確証は無いが、確かに目が合った。

 彼女はそのまま走り去ってしまったので、確かめようも無かったが。

 

 

『エリィィザベスッ! ジャクソン! ホォールデェ――――ンッッ!!』

 

 

 その女性は、熱狂の中に颯爽と現れたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「諸君に聞きたい、アメリカの富は誰のものか?」

 

 

 静まり返る聴衆を前に、男は言った。

 白髪の精悍な顔つきの男性で、年の頃は50を幾許か過ぎたあたりだろうか。

 グレーのスーツを着込み、髪と同じ色合いの眉を深刻そうな形に動かしている。

 口調は静かで、右手の指を一本立てていた。

 

 

「そう、答えはわかっている。アメリカの富はアメリカ人のものだ。では諸君に聞きたい、アメリカ人とは誰のことだ?」

 

 

 聴衆の中から、「俺だ!」と言う声が上がった。

 男はそちらをじろりと見やると、にやりと笑みを浮かべた。

 

 

「そう、あなたのことだ。そして、あなたのことだ。それから、あなた。あなたも、あなたも……そう、我々こそがアメリカ人だ」

 

 

 男は演壇から、聴衆のひとりひとりの顔を指差して言った。

 指差された者は白い顔を紅潮させて、大きく何度も頷く。

 男が指を立てた手を上げると、聴衆も同じように人差し指を立てた手を頭上に上げた。

 この集団では、このサインが共通の何かなのかもしれない。

 

 

「では諸君に聞きたい、アメリカの富はアメリカ人のものだ。そしてアメリカ人とは我々のことだ。だが我々の手に富はあるか?」

「「「NO! NO! NO!」」」

「そう、我々の手に富は無い。何故か? 我々が悪いのか? これは我々に与えられた神の罰なのか?」

「「「NO! NO! NO!」」」

「そう、我々に罪は無い。我々の富は、奪われているのだ! アメリカ人では無い者達によって!」

 

 

 聴衆がヒートアップしていくのに合わせて、男の語調も強くなっていく。

 

 

「今の大統領にはこの問題は解決できない! 私が変える、私がこの国をあるべき姿に立ち返らせてみせる! だから諸君、私を支えて欲しい。私と共に、真のアメリカン・ドリームを再興しようではないか!」

「そうだ!」

「ウィリアムを大統領に!」

「有難う、諸君! 今こそ私は、諸君のことを家族(ファミリー)と呼ぼう。そして私は家族を大事にする男だ。諸君の期待を決して裏切らないと、改めて誓おう!」

 

 

 熱狂が渦となって集会所を席巻する。

 演壇の男は満足そうに頷くと、興奮冷めやらぬ集会所から足早に退場した。

 手を振りながら歩き去る彼に、聴衆の叫びはいつまでも続いていた。

 

 

「今日の聴衆の反応はどうだった、大統領(プレジデント)?」

「いつも通りだよジャン、どいつもこいつも平凡な顔をしていた。反吐が出るね」

 

 

 集会所の裏口から外に出た男は、そこで待っていた男と共に車――でかでかと「ウィリアム・パーカー」と名前が塗装された高級車(キャデラック)――に乗り込むと、うんざりした顔でそう言った。

 SPの車に前後を挟まれて車が発進し、集会が行われていた建物が遠ざかっていく。

 ネクタイを緩めて溜息を吐くウィリアムに、ジャンと呼ばれた男が喉の奥で笑った。

 

 

 男の名はジャン・ロドリック、全米有数の財団のトップを張っている男だ。

 190センチの身長には、車の座席は聊か窮屈そうだった。

 ウィリアムより一回り程も年下の男だが、10年来のビジネスパートナーで、互いに互いの事業のスポンサーになったことも何度もある。

 もちろん互いに利益あればこそのことで、そう言う意味ではビジネスライクな関係ではあった。

 

 

時間が惜しい(タイムイズマネー)、今日は何の用だ? 見ての通り、私は今が正念場でね」

「何、例の件だ。海軍省の友人が教えてくれてね――サンディエゴに到着したそうだ」

「ほう、耳が早いな。するとあの女も知っているはずだな、どうすると思う?」

「さて、僕は政治のことにはさっぱりでね。僕が関心があるのは、日本艦隊が持ってきた振動弾頭とか言う()()のことだけさ」

「相変わらずな奴だ、人の気も知らないで」

 

 

 肩を竦めるジャンに苦笑を向けつつも、ウィリアムは携帯端末を手に取った。

 どこかに連絡するのだろう、それを横目にジャンは視線を車の外に向けた。

 そこには赤いタオルや横断幕を持った人々の姿が見て取れて、ジャンはこう思った。

 ――――自分達がこんなにも時間を惜しんでいる(忙しい)のに、時間(マネー)があって羨ましいことだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まさか艦を無人にも出来ないので――最も、霧の艦艇は無人でも十分過ぎる程に稼動するが――当然、クルー達はイ404に残ることになる。

 そもそも白鯨は人数が多いし、アメリカ側としても外国の部隊を自由にさせるわけも無い。

 おまけに日本艦隊の存在は一般には秘匿されているから、ますますもって自由にさせられないのだった。

 

 

「ここをこーしてー」

「あらあら、蒔絵ちゃん。凄いわねぇ」

 

 

 ただ、それは蒔絵にとっては好都合だったのかもしれない。

 元々外に出すことは出来ないので、艦内に人が残っていても不自然の無いこの状況は悪いものでは無かった。

 ただ、流石に機関室に入れて計器を触らせることには静菜が良い顔をしなかった。

 

 

 蒔絵はあおいの膝の上に座って、カタカタと端末を叩いている。

 イ404の機関室ではハード面は静菜が、ソフト面はあおいが担当している。

 互いの領分を侵さないのが暗黙のルールなので口にこそ出さないが、保護している子供を機関室に連れて来るばかりか、データに触らせると言うのは褒められた行為では無いだろう。

 

 

(とは言え、この子)

 

 

 作業着姿の静菜は、油のついた頬を手の甲で拭いながら蒔絵を見ていた。

 タイピングの指が止まらない。

 微妙なデータの動きを見逃すことも無く、最適の数値を見つけては調整していく。

 まさかとは思うが、イ404の機関についてもう理解しているとでも言うのか。

 

 

「本当に凄いわねぇ。蒔絵ちゃんは、将来はエンジニアさんになるのかしら」

「んー、わかんないよそんなの」

「あらあら、じゃあ他になりたいものでもあるのかしら」

「んー……わかんない」

 

 

 しゅんとして、蒔絵が手を止めた。

 蒔絵は祖父に会うことを目的に、イ404に潜り込んだ。

 それが果たせないとなれば、他にしたいことなど無かった。

 能力はともあれ、そう言うところは子供だった。

 

 

「うふふ、大丈夫よ~」

 

 

 そんな蒔絵を、あおいはぎゅっと抱き締めた。

 驚いた顔をして、蒔絵があおいを見上げる。

 

 

「小さい内は、好きなことをたくさんすれば良いのよ。その内、本当にやりたいことが見つかるわぁ」

「本当に、やりたいこと……」

「だから、焦らなくても良いのよ~」

 

 

 良し良しと蒔絵を抱き締めるあおいを、静菜は少し意外そうな目で見ていた。

 あおいは普段はふざけていたり掴み所が無かったりと、他者に気遣いをするようなイメージは無かった。

 イ401にいると言う妹とも不仲と聞くし、そう言う面では残念な人物なのだと思っていた。

 それが蒔絵にはまるで姉か母のように接していて、正直別人じゃないかと思った。

 まぁ、正直「観光」とプリントされたシャツのデザインはどうかと思うが。

 

 

「……私の、やりたいこと……」

 

 

 ぽつりと呟いて、蒔絵は目を閉じた。

 胸の内であおいの言葉を反芻しながら、自分のやりたいことは何だろうかと、そう考えながら。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ合衆国大統領選挙は、4年に1度行われる一大政治イベントである。

 つい先日に与党と野党の大統領候補を選ぶ党大会(予備選挙)が終わり、今は両陣営共に11月以後の本番に向けて選挙運動を展開している時期だ。

 先ほど集会所で見た現職の女性大統領と、野党の候補が争う構図になっているらしい。

 

 

「4年前に今の政権になってから、在米外国人への待遇も随分と良くなりました」

 

 

 大統領との面会のため、紀沙達は大統領SPの案内でホテルの中を歩いていた。

 ビーチを一望できる赤い屋根のホテルで、燭台やシャンデリアを模した照明に照らされた木造の建物は、それだけで高級感があった。

 ここまでの規模のホテルは、横須賀でもお目にかかったことは無い。

 

 

「……良く無かったのですか? その、アメリカの日本人の状況は」

「ええ、まぁ」

 

 

 駒城の言葉に、南野は短く答えた。

 多くは語らないが、外国に取り残された日本人がどう扱われるかと言うのは、日本に取り残された外国人がどう扱われているかを見ればわかる。

 クルツ達のような例は、あくまでも例外なのだ。

 

 

 外国に取り残された日本人が、この17年どんな想いで生きていたのか。

 本国の保護も十分に受けられず、自国民のことで手一杯の外国政府の庇護も期待できず。

 それは、紀沙の想像を絶する時間であっただろうと思う。

 そして南野が「良くなった」と評する大統領に、紀沙は改めて興味を持った。

 

 

「……!」

「…………!」

 

 

 ホテルの通路を歩いていると、奥から声が聞こえてきた。

 最上階の1番奥、いかにもVIPがいそうな場所だが、どうやら部屋の扉が開いていたようだ。

 無用心だなぁと思っていると、紀沙達を案内していたSPの男性が慌てたような顔をした。

 何だろうと思っていると。

 

 

「ロブゥ~~! やっぱり私に大統領なんて無理なのよぉ~~っ!!」

 

 

 何か、聞いてはいけない類の声が聞こえた気がした。

 

 

「大丈夫だよハニー! キミはこの4年間立派に大統領をやって来たじゃないか! 国民の40%がキミを支持しているんだよ!」

「60%の国民に嫌われてるってことじゃないっ!」

「この間の党大会だって、過半数の代議員を獲得できたじゃないか。皆がキミを必要としてるんだよ!」

「残り半分は私を支持してくれなかったじゃないっ! 新聞だって皆して私の悪口しか書いて無いし!」

「大丈夫だよリズ、僕がついてるじゃないか! 一緒に頑張ろう、メディアの批判なんて気にしちゃダメさ!」

 

 

 紀沙は、助けを求めるように兄を見た。

 だが流石の群像もこれは予想していなかったのか、何とも言えない表情を浮かべていた。

 正直、兄のそう言う顔を見れただけで良しとしたい気分になった。

 たとえそれが、現実逃避に過ぎないとわかっていても。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ご、ごめんなさいね。つい緊張の糸が切れちゃって」

「ガハハハッ。いや気にせんで下さい、我々も貴国に到着した時は嬉し泣きで抱き合いましたからな」

 

 

 謙遜なのか事実なのか判断のつきにくいことを言って、浦上が大統領――エリザベスと握手を交わした。

 日米の首脳――多少、肩書きに格差があるが――が握手を交わしたのは17年ぶりのことで、非公式ながら歴史的な瞬間ではあった。

 ただ先程の光景の印象が強すぎるせいか、どうにもしっくり来なかった。

 

 

 ちなみにエリザベス大統領を励ましていた男性は、エリザベス大統領の夫であるらしい。

 名前はロバート、いわゆるファーストレディー役なのだそうだ。

 ブラウンの髪の優しそうな男で、笑顔を絶やさない男性だった。

 今もエリザベス大統領の隣に立って、ほわほわとした雰囲気を振り撒いている。

 

 

「それで、振動弾頭引き渡しの件なのですが……」

 

 

 そして、浦上の方から本題を切り出した。

 そう、大統領夫妻の仲や大統領選挙のことはあくまで二の次だ。

 重要なことは任務、アメリカへの振動弾頭のサンプルと設計データの引き渡しだ。

 紀沙達はそのために太平洋を渡ったのであり、後はどうやって日本に帰るかと言う問題だった。

 

 

(それから……)

 

 

 ちらりと兄の横顔を見て、紀沙は右目に憂いの色を浮かべた。

 道中は考えないようにしていたが、ことここに及べば考えなくてはならない。

 群像とイ401が、この後にどう行動するのかを。

 

 

「ああ、貴女ね!」

「え?」

 

 

 その時、声の近さに驚いた。

 眼帯で塞がれている左側からだったので、気付くのが遅れた。

 見れば、大統領が目の前に立っていた。

 浦上達もぽかんとした表情を浮かべていて、話の途中で紀沙の方に来たらしい。

 エリザベス大統領は紀沙の顔を見つめると、人懐っこそうな笑顔を浮かべていた。

 

 

「日本政府から送られて来たプロフィールを読んだわ。貴方がキサね?」

()ええ(イエス)。お会いできて光栄です、大統領閣下(プレジデント)

 

 

 突然のことに目を白黒させていると、エリザベス大統領は紀沙の手を取って言った。

 

 

「貴女、政治家の……ミスター・キタの養女なのですってね? ミスター・キタのご高名はアメリカにも届いているわ」

「い、いえ、確かにお屋敷に置いて貰っていますが、養子縁組をしているわけでは無いので」

「あら、そうなの? まぁ、私も似たようなものだったのよ。政治家だったお義父さん(パパ)が私を引き取ってくれて、育ててくれたの」

 

 

 紀沙が思っていたよりも、北の名前は知られているようだった。

 何となく嬉しく思うが、楓首相の後ろ盾とまで言われる政界の長老の存在は、アメリカが把握していてもおかしくは無いのかもしれない。

 エリザベス大統領が養女だと言うことは素直に驚いたが、それとこの態度に何の関係があるのかはわからなかった。

 

 

「ねぇ、キサ。貴女はこの国(アメリカ)をどう思うかしら」

「ど、どう、ですか」

「ええ。貴女の目から見て、私達の国はどんな国かしら」

 

 

 どう、と言われても、紀沙がアメリカに来たのは今日が初めてだ。

 だから感想を問われても困ると言うのが正直なところで、何を言うことも出来なかった。

 適当に良いことでも言えばと良いのかと言うと、エリザベス大統領の顔を見ていると、そう言う場面でも無いような気がして、何も言えないのだった。

 

 

「……わからない?」

 

 

 だから優しげにそう言われて、紀沙は小さく頷くことしか出来なかった。

 するとエリザベス大統領は「そう」と頷いて、笑顔を浮かべた。

 

 

「なら、このサンディエゴを見て回りなさい」

「え?」

「カリフォルニアはアメリカの縮図、そしてこのサンディエゴはカリフォルニア第二の百万都市よ。今の時代のアメリカを知るには、良いところでしょう」

 

 

 紀沙の手を握ったままそう言って、エリザベス大統領は顔を上げた。

 表情は柔らかく、そして掌は温かかった。

 そして、エリザベス大統領は言った。

 

 

「振動弾頭の引き渡しに関するお話は、その後にしましょう」

「……え?」

「サンディエゴを見て回って、貴女が何を思うか。その答えを聞いてから、振動弾頭の引き渡しに応じるかどうかを決めたいと思います」

「え? ……え?」

 

 

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 振動弾頭の引き渡しは日米政府間の契約であって、そこに紀沙の意思は関係が無いはずだ。

 それなのに、自分がサンディエゴを見て何を思うかで、振動弾頭――つまり人類の今後を決める?

 エリザベス大統領の言葉の意味を理解していくにつれて紀沙は顔を蒼くしていき、最終的に。

 

 

「えええええええぇぇぇ――――っ!?」

 

 

 

 紀沙の叫び声が、コロナドのホテルに響き渡った。

 




登場キャラクター:

ジャン・ロドリック:車椅子ニート様。

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

私も気付いた時は「おお」と思ったんですが、作中の2056年の夏って大統領選挙の真っ只中だと思うんですよね、計算上。
タイムリーと言うこともあって、それ関連のお話にしてみました。
アメリカ編は霧対人と言うより、人対人、みたいな要素を入れてみたいと思います。
なお繰り返しますが、実在の組織・人物とは以下略です。

それから外国が舞台の物語特有の問題ですが、この世界は日本語が国際公用語と言うことにします(え)
冗談はさておき、時折外国語要素を入れつつも、基本は登場人物は意思疎通できる程度の語学力を有するみたいな設定で行こうと思います。
と言うか、そんな国際色豊かな作品にしても何も楽しくないですし(え)

それでは、また次回。
次はサンディエゴを観光しましょう。


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Depth023:「サンディエゴ」

 ボッ、とロケットブースターの火線が視界を走り、瞬く間に空の彼方へと吸い込まれて行った。

 ゾルダンはハッチから上半身を出したまま双眼鏡を手に取ると、U-2501の発射管から飛び立った8つのミサイルの行き先へと目を向けた。

 潜水艦発射型の巡航(対地)ミサイル、である。

 

 

『着弾まで、3、2、1……目標に着弾、2つの閘門(こうもん)の完全破壊を確認致しました』

「良し。この海域を離脱する、急速潜行! 進路を北へ向けろ」

『了解致しました』

 

 

 U-2501の返答に頷いて、双眼鏡を下ろした。

 足裏から鈍い音が響き、エレベーター式の足場が艦内へと降りていく。

 遠目に見える黒煙の柱に目を細めて、ゾルダンは帽子を深く被り直した。

 

 

『首尾はどう? ゾルダン』

「聞いての通りだ。パナマ運河はしばらく使えん」

 

 

 U-2501は現在、パナマ湾に進出していた。

 彼らは硫黄島の戦い以後、イ401を含む振動弾頭輸送艦隊を追尾していた。

 そして日本艦隊がサンディエゴ・コロナド基地に入港するのを確認した後、ゾルダン達は南へと船首を向けた。

 

 

 目的は今ゾルダンが言ったように、パナマ運河の破壊である。

 艦対地タイプの潜水艦発射型巡航ミサイルでパナマ運河太平洋側の閘門――水位の異なる位置間で船舶を移動させる設備のこと――を破壊し、艦船が通過できない状態にしたのだ。

 閘門設備を破壊してしまえばパナマ運河は船舶の移動が出来ず、いわゆる「階段」が使用できなくなる。

 そしてこれは、太平洋側と大西洋側の霧の艦隊間で戦力の融通することが困難になることを意味する。

 

 

「パナマ運河は霧にとっても重要拠点だ。今、太平洋方面の艦隊に大西洋に出られては困るからな」

 

 

 霧は基本的に、陸地を攻撃しない。

 しかしそれは不可侵を約束するものでは無く、パナマ運河のように国際航路上必要な場所には出没したり、あるいは通過したりする。

 当然、人類側がこれを撃退・妨害できたことは無い。

 

 

『それから、イ401とイ404にも?』

「まぁ、そうだな」

 

 

 フランセットの言葉を、ゾルダンは特に否定しなかった。

 彼としては、とにかく今は大西洋方面に何者かが介入することを防ぎたかった。

 ゾルダンの()()は今が大切な時だ、かき回されたくない。

 

 

「今のパナマ政府に運河の修復は不可能だ。霧が工作艦を派遣してくる可能性もあるが、一度壊れた運河を使用可能な状態にするには相当の時間を要するはずだ」

『アメリカが介入してくる可能性は?』

「無いとは言えんが、少なくとも来年の1月までは難しいだろう。何しろ今は選挙に忙しい、選挙期間中は国としての動きが鈍るのは民主国家の宿命だな」

 

 

 現在、アメリカは新大陸の盟主として地域を引っ張っている。

 霧の海洋封鎖で相応のダメージは受けたが、アジアやその他の地域で失った市場を中南米に求めて国力を回復させた。

 その点、流石は世界最強の大国だ。

 ただそこには強引さもあり、現在、アメリカ以外の新大陸の諸国家は概ね反米的な空気が強かった。

 

 

 最も、ゾルダンはそうした政治的な話には関心が無かった。

 ただし、振動弾頭を手にしたアメリカが――人類が今後どう動くのか、については関心があった。

 霧に対する人類の地位を押し上げるだろうこの一件は、霧優位の世界の軍事バランスに影響を与えるだろう。

 

 

『それは、千早兄妹の功績と言えるのかしら?』

「それは後世の歴史家が決めることだな。もしかしたら、振動弾頭の量産は決定打にならない可能性もある」

『厳しいのね』

「ただ、まぁ、それくらいのことはして貰わなければな」

『甘いのね、意外と』

 

 

 数瞬、互いに笑みを浮かべるための間が空いた。

 

 

『それで艦長、私達の次の目的地は?』

「北だ。もう1つの国際運河、ニカラグア運河の太平洋側出入り口を破壊する。その後はさらに北進し、そうだな」

 

 

 制帽の唾に指を添えて、ゾルダンは言った。

 

 

「――――霧の裏切り者、潜水艦『イ15』。少々小粒だが、見せしめにはちょうど良いだろう」

 

 

 パナマ湾の海は今日も穏やかで、海の生き物達の楽園だった。

 しかしそれは、新たな火種を孕んだ微妙なバランスの上に成り立つ、砂上の楼閣に過ぎなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 からりと晴れた空の下、やけにカラフルなショッピングモールに紀沙はいた。

 フード付きの7分丈パーカーにスカートを合わせた、カジュアルな出で立ち(ファッション)だ。

 ドリンクの入った容器を片手に、赤白黒の縞模様の壁に背中をつけて立ちながら、がやがやと目の前を通り過ぎていく人々を見つめている。

 

 

「良く良く聞いて見ると、英語以外も普通に聞こえてくるなぁ」

 

 

 そう呟いて、ずずず、とドリンクを飲む。

 容器がやたらに大きく、1番小さなサイズで紀沙の顔程もあった。

 そしてそんな紀沙の前を歩いているのは、金髪だったり赤毛だったり白人だったり黒人だったり、アジア系だったりアフリカ系だったりと言う人々だ。

 もちろん、日本人の姿を見ることは無い。

 

 

 そして思うのは、アメリカ人――と言うか、外国人は大きな人が多いな、と言うことだった。

 見るからに子供、と言う容貌の者以外は女性であっても紀沙よりも頭1つ分は大きい。

 それから、色だ。

 今飲んでいるドリンクの色もそうだが、このモールの建物は赤、青、緑、さらに黄色とカラフルだ。

 こう言う色合いは、横須賀ではちょっと見ない。

 

 

「お~い」

 

 

 その時だ、日本語が聞こえた。

 こんなところで日本語を聞くのは稀だが、その相手が紀沙の連れであれば不思議なことでは無い。

 そしてその相手と言うのは、冬馬だった。

 軍服を脱ぎカジュアルな服装になった冬馬は、流石に外国人に囲まれると小さく見えた。

 

 

「待った~?」

「いや、待ったも何も。冬馬さんトイレ行ってただけじゃないですか」

「馬っ鹿だなー、こう言うのは様式美ってのがあるだろ」

「何の様式美ですか、それ」

 

 

 苦笑して、紀沙はまた周りを見渡した。

 日本人と日本語は珍しいと思うのだが、特にこちらを気にしている者はいないようだった。

 自分と異なる人種や言語が聞こえることに、慣れているのかもしれない。

 異質な物を当然として生きている人々、とでも言おうか。

 

 

 これが、アメリカか。

 確かに懐の大きな国民性だとは思うが、エリザベス大統領の言う「この国を見て、何を思うか」とは意味が違うような気がした。

 いったい、エリザベス大統領は自分に何を見て欲しいのだろうか。

 自然、紀沙の表情は深刻なものになっていた。

 

 

「そぉい!」

「ひゃっ……って、うわ、何するんですか!?」

 

 

 冬馬に、フードの紐の片側を思い切り引っ張られた。

 結果、もう片方が内側に入ってしまって、紀沙は慌ててフードの紐を通す部分を揉み始めた。

 奥に入り込んでしまうと道具なしでは戻せなくなるので、地味に嫌だった。

 

 

「やれやれ、艦長ちゃんはどこ行っても艦長ちゃんだな」

「いや、ちょっと何言われてるかわからないです」

「艦長ちゃんは考え過ぎなんだって、こう言うのは自然体で楽しめば良いんだよ」

「いや、そうは言っても……」

「少しはあおいの姉さんを見習ってみろって」

「ああー! たくさん買っちゃったわ~」

 

 

 紀沙が立っている横には、ブティックがある。

 ガラスの扉が開いて中から出てきたのは、あおいと良治だった。

 2人とも外行きの私服姿で、特にあおいは上機嫌そうだった。

 ただその後ろで、良治がそれこそ漫画のように大量の紙袋と箱を持っていた。

 また随分とベタな役割分担だなぁと思いつつ、ふと気付いた。

 

 

「え、あおいさん? そんなに買ってお金はどうしたんですか?」

「大統領がカード貸してくれたわぁ」

「嘘でしょ!?」

「う・そ♪」

 

 

 嘘で良かった、大統領がクレジットカードを貸すとかどんなスキャンダルだ。

 あと、あおいの素敵な笑顔に若干イラッとした。

 

 

「ちゃんと大使館に領収書送ってもらったわぁ」

「ああ、それなら……いやダメですよね!?」

「あらぁ、でもこれ全部紀沙ちゃんのよ~?」

「何でそうなるんですか……!」

 

 

 ただ、あおいと話している内に――話の内容はともかくとして――紀沙の表情から深刻さが消えていた。

 多分あおいにはそんなつもりは無いのだろうなと、彼女と一緒になってフェミニンからガーリーまで、お姉さん系からゴシック系まで、さらにアウターからインナーまでを揃えた良治は思った。

 軍医として紀沙のサイズを押さえている彼は、ブティックでは優れた戦力と言えた。

 ――――サンディエゴのダウンタウンの一角に、日本語が姦しく響き渡っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 コロナド基地の対岸は、意外なことに民間に開放されている。

 国定公園にも指定されている高台に登れば、サンディエゴの港や高層ビルが建ち並ぶ街並み、赤い土を露出させた海岸と背の低い植物、浜辺に寝そべる海生生物等の光景を目にすることが出来る。

 公園と言っても日本のそれとは違い、自然そのままに維持していると言う場所だった。

 

 

「あの、艦長。艦長の妹さんって、どんな人なんですか?」

 

 

 群像が静にそう聞かれたのは、彼らがコロナド基地対岸の国定公園で休憩を取っていた時だった。

 クロッシェ編みのカーディガンを羽織った静は、やや肌寒いのか緊張しているのか、自分の腕を撫でるようにしていた。

 ただし、目だけは興味と好奇心でキラキラと輝いている。

 

 

「以前、後で話してくれるって言いましたよね?」

 

 

 そんなことも言ったかもしれない。

 正直覚えていない群像だったが、そんなことで静が嘘を吐く理由も無いので、多分言ったのだろうと思う。

 だから彼は、顎先を指で撫でながら「そうだな」と言った。

 

 

「紀沙は、そうだな。一言で言えば……お転婆、だな」

「そうなんですか? とても真面目そうな方に見えますけど」

 

 

 静の「真面目そう」と言う評価は、群像の苦笑を誘った。

 確かに一見すると紀沙は真面目な少女に見えるだろうが、あれはそんな大人しい性格をしていない。

 そもそも、真面目で大人しい少女が突撃戦術など編み出すわけが無い。

 そして群像にしてみれば、あの戦術はむしろ()()()見えるのだった。

 

 

「紀沙は昔から手が早くてな、良く近所の子供と喧嘩していた」

「そうなんですか!?」

「ああ、毎日のようにボロボロになって帰って来ていたよ」

 

 

 そして、大体は勝って帰って来るのだ。

 海軍の士官の家に抗議に来る親もいないので、幸い大事にはならなかった。

 ただ、友達は多かったように思う。

 自分は幼い頃から人付き合いが苦手だったが、紀沙は喧嘩っ早い割に人に好かれていた。

 

 

 ただし、父が出奔してからは変わった。

 自分もそうだが、紀沙は外に対して壁を作るようになった。

 いや逆か、周りが自分達に対して壁を作った。

 それまで仲良くしていた子供達とも疎遠になり、学院の中でも孤立しがちになった。

 

 

「学院に入ってからは、多少は大人しくなったかな」

 

 

 ならざるを得なかった。

 そんな中で紀沙は明らかに自分に傾斜するようになったし、自分も意識はしていたつもりだった。

 ただ完全に孤立せず、周囲全てが敵と言う最悪の事態だけは避けることが出来た。

 幸運、と言うべきなのだろう。

 

 

「元々そう言うのが性に合っていたんだろうな、格闘や柔道は得意だった。そのあたりは、オレはからきしだったが」

「ああ、艦長ってそう言うの苦手そうですよね」

「そうはっきり言われると、流石に傷つくな」

「あ。す、すみません!」

 

 

 天羽琴乃。

 幼馴染の少女の存在が、自分達を救ってくれた。

 命も、そして心も。

 自分が今ここに立っているのも、彼女のおかげなのだと群像は思っている。

 

 

(……琴乃、オレはとうとうアメリカに来たよ)

 

 

 琴乃のいない日本を飛び出して、群像はアメリカまで来た。

 閉塞感に溢れるこの世界を変えるために、振動弾頭を運んで来た。

 ただ、その先に何をすべきなのかの答えは、まだ群像も持っていなかった。

 琴乃が見たかった、自分に見せたいと言っていた海は、世界は、どこにあるのだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 駒城は未だに、自分がアメリカに来たと言う実感を持てないでいた。

 いや、それは少し表現が違う。

 実感を持てないと言うよりは、達成感が湧いて来ないと言った方が正しかった。

 

 

「いや、サンディエゴに入港して肩の荷が降りた心地ですな」

「ああ……」

 

 

 白鯨の通路を歩きながら、駒城は興奮したような副官の言葉に曖昧に頷いた。

 ただ、その興奮を共有する気にはどうしてもなれなかった。

 何故なら駒城には、自分達が何か仕事をしたと言う感覚が無いからだ。

 

 

 浦賀水道でこそ少し働いたが、それ以外は千早兄妹の後を海底を這ってついて行っただけだ。

 それも硫黄島で千早兄妹がコンゴウ艦隊を壊滅させていた――紀沙に至っては、片目まで負傷している――から可能だったことで、白鯨は何もしていない。

 我侭だと承知しているが、命を賭す覚悟で出撃しただけに肩透かしを食らったように思ってしまうのだ。

 

 

「大の大人が、子供の尻を追っかけて喜べるか……」

「え? 何か仰いましたか?」

「いや、何でも無い。それよりクルーの様子はどうだ、水や食事に当たったりしていないか?」

「は、今のところは体調に問題のある者はいないようです」

「そうか、だが最後まで何が起こるかわからん。気を抜かずに……ん?」

 

 

 その時、駒城は陽気そうな顔で通路を歩いてくるクルツを見つけた。

 何とは無しに足を向ければ、クルツもこちらに気付いて手を挙げてきた。

 

 

「よ、駒城艦長」

「お前! どうして」

「どうしても何も、白鯨のクルーは艦内待機を命じられてるじゃないか」

「いや、それはそうだが」

 

 

 言うまでも無く、クルツ達在日米軍組の故国はアメリカだ。

 その彼らがアメリカまで達した時に何を望むのか、駒城は理解しているつもりでいた。

 侮辱しているわけでは無い。

 ただ、17年ぶりに故国に戻れた人間の気持ちを汲んでやりたかったのだ。

 

 

「気持ちは嬉しいがね、駒城艦長。オレ達はもう統制軍に組み込まれた日本の軍人だ、アメリカ軍じゃないのさ」

 

 

 17年――17年だ、それだけの時間を日本で過ごしてきた。

 元在日米軍の中には故国で過ごした時間以上に日本で過ごした者も少なくない、また日本で家族を作った者も多い。

 今さら白鯨を離れてアメリカに戻ることなど、出来ることでは無かった。

 失われた時間は、取り戻せないのである。

 

 

「強いて言えば、オレの部下達が孫をアメリカの実家に連れて行けるようになれば良いと思うよ」

「……ああ、そうだな」

 

 

 だから、駒城もそれ以上は何も言えなかった。

 そしてクルツの言うようなことが現実になれば良いと、本心から思った。

 群像が言う「人と霧の共存」が成れば、そう言うことも出来るようになるだろう。

 

 

(ただ、それも……紀沙艦長次第か)

 

 

 紀沙は今頃、サンディエゴを散策している頃だろう。

 エリザベス大統領が何故あんなことを言ったのかはわからないが、紀沙が大統領の納得する答えを見出せない限り、振動弾頭引き渡しへの道には暗雲が垂れ込めたままだ。

 そして駒城は、紀沙と話したことがあまり無い。

 

 

(あの子は、どんな想いでこの作戦に参加しているんだろうか)

 

 

 もう1人の霧の艦長、北議員の縁者と言うことで避けていたところがある。

 だが今、駒城は後悔していた。

 事ここに及ぶまで、紀沙と対話の場を持たなかったことを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 やはり、良くわからなかった。

 サンディエゴは文化と学問の町でもあり、市内にはいくつもの学校や博物館がある。

 そして紀沙達が午後にやって来た都市公園には、10以上の博物館や美術館が隣接していた。

 

 

「あー、やっぱ俺こう言うのダメだわ~」

「僕的には、人類博物館とか面白かったけど」

 

 

 性に合わなかったのか、冬馬がベンチに座ってぐったりとしていた。

 紀沙個人としては、アメリカ・アートや近代美術等が面白かった。

 飛行機や自動車、それから歴史博物館も面白くはあったが、どうも自分は美術の方が好きらしい。

 とは言えそれを見たからと言って、サンディエゴやアメリカのことが理解できるわけでは無い。

 

 

 エリザベス大統領の言った意味がわからず、紀沙は困り果てていた。

 とりあえずサンディエゴを理解すべく観光などしてみたが、理解が進んだとは思えない。

 まぁ、1日で国を理解しろと言う方が無茶な話だ。

 ここに来て足踏みなど洒落にならないが、ここは急がば回れの精神で行くしか無いのかもしれない。

 

 

「しっかし、あおいの姉さん遅ぇなー」

「あ、私ちょっと見てきますね」

 

 

 3人はトイレに行ったあおいの帰りを待っていたのだが、紀沙は様子を見に行くことにした。

 時刻はすでに夕方に差し掛かっており、そう間を置かずに夜になるだろう。

 流石に夜のサンディエゴを散策するつもりは無いので、早めに港に戻りたいところだった。

 そしてじっとしていると考え込んでしまうので――もちろん、女性が自分だけと言うのもある――何かと理由をつけて、動いておきたいのだった。

 

 

「それにしても、綺麗な公園だな……」

 

 

 紀沙の言う通り、サンディエゴの都市公園は綺麗に整備されていた。

 芝生はきちんと刈り込まれているし、建物は白く傷みが無い、中の展示物も良く管理されていた。

 きっと、国に余裕があるのだろう。

 少し肌寒くなって来た並木道を歩きながら、紀沙はそう思った。

 

 

 今日1日サンディエゴを見て思ったのは、思っていたよりも物資が豊かだと言うことだ。

 元よりアメリカはエネルギーや食糧のほとんどを自給できる国だが、それでも海洋の権益と交易路を失ったことで国力は落ちたはずだ。

 自給できない物もあるはずだが、サンディエゴの国民が窮乏している様子は無い。

 日本とは大分違うなと、そう思った。

 

 

「あ、いた。あおいさ……ん?」

 

 

 トイレまで行くまでも無く、道すがらにあおいの姿を見つけた。

 ただ、少し様子がおかしいことに気付いた。

 あおいが、2、3人の外国人に囲まれていたのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はっきり言えば、あおいは困っていた。

 お手洗いから出てきたところ、3人の外国人――多分、アメリカ人が近付いて来たのだ。

 それ自体は特に気にしていなかったが、その3人の男が道を塞ぐとなると話は別だった。

 おまけに、である。

 

 

(……銃は、予想外だったわねぇ)

 

 

 胸元に突きつけられた拳銃(グロック)を見て、胸中で嘆息する。

 そう言えば、アメリカは民間人が銃を所持できるのだった。

 まだ明るいからと1人で行動したのが不味かったか、やはり紀沙も連れてお手洗いできゃっきゃうふふした方が良かったか。

 しかも男が銃口の先を胸にムニムニと沈めて来るものだから、正直、痛い。

 

 

 下卑た笑みと合わせて、女性の扱いがなっていない連中だと思う。

 しかも不味いのは、この男達が自分をどこかに連れて行こうとしているらしい、と言うことだ。

 あおいとて統制軍の軍人である、取り乱したりはしない。

 ただ戦闘スキルをほとんど持っていないため、抵抗の術が無いのはどうにも……。

 

 

「何をしているんですか?」

 

 

 聞き覚えのある声が聞こえた。

 それは銃持ちの男の背中から聞こえて、男が振り向くと予想通りの顔が見えた。

 左目を眼帯で覆った少女が、右目で冷たく男のことを見上げている。

 男は一瞬、紀沙の眼帯に驚いたようだった。

 しかしすぐに何事かを言って、銃口を紀沙の眉間に押し当てた。

 

 

「銃を下げて下さい。さもないと」

 

 

 男が何事かを叫び、引金に指を添えた。

 それに対して、紀沙は目を細めた。

 

 

「――――そうですか、では」

 

 

 次の瞬間、男の口から声にならない呻きが漏れた。

 たまらず銃を下げて両手で押さえたのは股間、見れば紀沙の足が上がっていた。

 靴先で、思い切り蹴り上げたのだ。

 男の身体がくの字に折れたのを利用して頭を掴み、そのまま膝を上げる。

 嫌な音が、紀沙の膝に吸い込まれた男の顔から聞こえてきた。

 

 

「制圧します」

 

 

 びゅんっ、と、紀沙の姿が一瞬あおいの視界からも消えた。

 気が付いた時には、あおいの後ろの男の傍にいた。

 紀沙はあおいを押して隙間を開けると、身長差を利用して真下から拳を振り上げる。

 右掌が男の顎を打ち上げ、もう片方の手で相手の手首を掴み、足で相手を刈り倒した。

 

 

 倒された男は、背中を打った時にくぐもった声を上げた。

 肺の空気を強制的に排出させられて、息が詰まって動けない様子だった。

 一瞬の出来事で、あおいが瞬きする間に全てが終わっていた。

 

 

「どうしますか? こちらも出来れば大事にはしたく無いのですが」

 

 

 そして、まごついていた最後の1人にそう言った。

 2人の仲間が地面に倒れて呻いている姿を見て、彼は困惑と恐怖に駆られたようだった。

 見るからに自分より弱そうな少女が、大の男2人を瞬く間にのしてしまったのである。

 彼は何事か悪態のような言葉を吐くと、仲間を引き摺るようにして駆け去って行った。

 その背中を見送りながら、紀沙は全身から力を抜く。

 

 

「あおいさん、大丈……わっ」

「ん~、ありがとう紀沙ちゃん。怖かったわ~」

「あ、はい。無事で良かったです。でも、あの、変なところ触らないで下さい」

「え? 変なところって?」

「いや、あの……」

 

 

 かいぐりかいぐりと抱きついてくるあおいに怪我は無いようで、紀沙はほっとした。

 

 

「でもね、紀沙ちゃん。ああ言う場合は、自分でやるんじゃなくてトーマ君達を呼ばないとダメよ~」

「ああ、はい。ごめんなさい」

「良いのよ。わたしこそごめんなさいね、迷惑をかけてしまって」

 

 

 とにかくあおいが無事で良かったと、紀沙は思った。

 それにしても、見た目は豊かだが治安はそれ程良くは無いようだ。

 これ以上妙なチンピラに絡まれる前に、艦隊に戻った方が良いのかもしれない。

 すぐ側に立つ博物館の白い建物を見上げながら、紀沙はそう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ふむ、と男は頷いた。

 彼は、とある博物館の窓から紀沙達とチンピラの騒動の一部始終を見ていた。

 ()()の品質を自分の目で確かめずにはいられないのが、ジャン・ロドリックと言う男だった。

 

 

「なかなか過激なお嬢さんのようだね、イ404の艦長と言うのは」

 

 

 足早に公園の道を去っていく2人の女性を目で追いながら、ジャンはそう言った。

 長身にきっちりとスーツを着込み、髪を整髪材で整えている姿はまさに出来るビジネスマンと言った風だった。

 最も、細かく言うなら彼は実業家あるいは財団の代表である。

 

 

 アメリカには数多くの財団やシンクタンク、ロビー団体や圧力団体が存在するが、彼の率いるロドリック財団はその中で新興の部類に入る。

 父が設立してジャンが引き継いだ、保守系団体の1つだ。

 古く大きな財団が海外権益の喪失で衰退していく中で台頭し、今では多くの政治家や機関と繋がりを持ち、大統領候補に近付けるまでになっている。

 

 

「日本の女性はお淑やかと聞いていたけれど、あれなら今の妻の方が可愛く見えるな。……おっと、今のは妻には言わないでくれよ?」

「…………」

 

 

 傍に立っている男に冗談めいたことを言いつつ、ジャンは携帯端末を取り出した。

 

 

「ああ、そうそう。州警察(パークポリス)に連絡しておかないとね。公共の施設に拳銃を持ち込む奴らがうろついてるなんて、危なくて外も歩けやしないからね」

 

 

 当然のようにそう言って、ジャンは携帯端末を耳に当てた。

 どこかに連絡を取っているようで、そして相手はすぐに電話に出た。

 

 

「やぁ、州知事(ジョージ)。元気にしているかい? 今日はちょっと頼みがあってね」

 

 

 電話をしながらも、ジャンの目は窓の外を見たままだった。

 その目は、手をつける事業の採算を計算している事業家の目そのものだった。

 いくらの投資とリスクで、いくらの利益とリターンが手に入るか?

 ハイリターンはハイリスクでしか手に入らない、負ければ何もかもが終わりだ。

 

 

 ジャンは、そう言う賭けが好きだった。

 これまでのリターンは私腹を肥やすためにあるのでは無く、より大きな賭けにベットするための原資であるべきだ。

 それが、未だ実業界では若輩の自分を全米有数の財団の代表たらしめている素質なのだと信じていた。

 

 

「ああ、宜しく頼むよ。……さて、これでウィリアムの希望通りにはなったのかな。レディとのディナーのセッティングなんて、久しくやったことが無いから緊張してしまうね。……良かったら、キミも同席するかい?」

 

 

 電話を切り、ジャンは傍らに立っていた男に視線を向けた。

 

 

「――――ミスター・南野」

 

 

 大使館付きの武官の制服に身を包んだその男は、無言のまま、何も答え無かった。

 何かに耐えるように目を閉じたまま、唇を引き結んで。

 何も、答えなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 艦隊に戻る前に、最後に寄ったのは1隻の空母だった。

 より厳密に言えば、博物館として航海されている航空母艦だ。

 ハワイで見た戦艦と同じくらい古そうだが、こちらは手入れが行き届いているのだろう、綺麗に展示されていた。

 

 

「飛行甲板にも上がれるみたいだけど、どうする?」

「いえ、流石にそこまでしてる時間はありませんから」

 

 

 博物館の入口から少し離れた桟橋に立って、300メートル級の飛行甲板を持つ空母の威容を見上げた。

 日本海軍にもヘリコプター運用のための艦船はあるが、航空母艦と言う意味の艦船は保有していない。

 だから前時代の記念品同然の状態とは言え、空母を見たのはこれが始めてだった。

 ただそれは紀沙だけでは無く、アメリカ渡航が初めてな他のクルーにも言えることだった。

 

 

「機関室とか見てみたいわねぇ」

「当時の医務室ってどうなってるのかな、たぶん今と大差無いんだろうけど」

 

 

 技能持ち組は、やはりそれぞれの部署の様子が気になるようだった。

 紀沙としても発令所等には関心があったが、単純に夕焼けに照らされる灰色の空母が美しいと思った。

 無骨な中に数十機の航空機を運用するための機能美を追及した跡が見て取れて、当時の人々のこだわりが見えるようだった。

 

 

 海水が空母の艦体を打つ音が、子守唄のように心地良く聞こえる。

 桟橋だけに足元は濡れているが、それも気にならなかった。

 かつて国のために戦った艦が静かに眠り、まどろみの間に人々と触れ合う。

 そんなセンチメンタルな気持ちが、紀沙の胸中には生まれていた。

 

 

「アメリカは今も空母を運用しているみたいですから、乗ってみたいとは思いますけどね」

 

 

 今は水上艦は霧に完全に負けている状態だから、どこの国の海軍も潜水艦の開発に注力する傾向がある。

 だから今は、アメリカ以外に空母を運用しているような国はほとんど無い。

 アメリカの空母にしても、使いどころがあるのかどうかはわからなかった。

 いつかあるだろう人類の<大反攻>も、各国が分断されている今、国家間の連携がどこまで取れるか。

 

 

「お? あれってイ401の艦長とソナーの子じゃね?」

 

 

 その時、冬馬があるものを見つけた。

 空母――つまり博物館の入口から、お土産用の小さな袋を持った2人の男女が出てきたのだ。

 見間違えるはずも無く、群像と静である。

 中でのことでも話しているのか、2人はとても楽しそうにしているように見えた。

 

 

「なぁなぁ、やっぱあれって艦長ちゃんの兄貴……おおぅ」

 

 

 実の所、紀沙は今日の散策を群像と共にするつもりだった。

 したかった、と言った方が正しい。

 振動弾頭の引き渡し交渉の条件となれば群像も無関係では無いし、紀沙に近しい視点で一緒にエリザベス大統領の期待する答えを探してくれると思ったのだ。

 

 

 ところがである、群像は紀沙の誘いを固辞した。

 何でも「問われているのはお前」とのことで、自分はむしろ邪魔になるだろうと言うことだった。

 それにやっておきたいこともあるとのことだったので、紀沙もそれならと引いたのだ。

 それを、である。

 

 

(なるほど、ソナーの娘と、2人で、散策、したかった、のね?)

 

 

 目を見開き、真顔で、口角を吊り上げる。

 それを同時にすると言う矛盾、目の当たりにすると言う脅威、間近で見ることになった冬馬は表情を引き攣らせた。

 そんな冬馬に気付いたのか、紀沙は努めて温厚な笑顔を浮かべて見せた。

 ただし、「にこっ」と言うよりは「にこぉ」と言った方が良い笑い方だったが。

 

 

「あ、艦長ちゃん。その、どちらへ?」

「――――帰ります!」

「ア、ハイ」

 

 

 紀沙は肩を怒らせながら冬馬に背を向けて、ずかずかと歩き出した。

 桟橋は濡れているので足を滑らせやしないかと思うものだが、不思議とそんなことは無かった。

 

 

(何よデレデレと鼻の下伸ばしちゃって、兄さんは昔から美人に弱いんだから!)

 

 

 群像の名誉のために言っておくと、別に彼はデレデレもしていなければ鼻の下を伸ばしたことも無く、むしろいつもと同じ淡々とした雰囲気のままだった。

 なのでこれは完全に紀沙の色眼鏡――表現が正しいか微妙だが――であって、朴念仁の癖に美人ばかり引き寄せる兄に対する昔からの評価だった。

 

 

 幼馴染だった琴乃、同級生の真瑠璃、クルーのいおり、そしてソナーの静と言ったか、いずれも美人だ。

 学院にいた頃も、ほぼ孤立していた割に女子の人気は高かった。

 そのほとんどが顔しか見ない勘違い――実際、群像は彼女達の多くが抱いていた王子様のイメージとはほど遠いわけだが――であって、紀沙はそうした女子達の対処に苦労したものだ。

 ……何か、いおりが「私は違うよ!?」と憤慨する様子が見えたが、それはそれとして、である。

 

 

「……ああ、もう!」

 

 

 何だか無性にむしゃくしゃして、紀沙は海側に寄った。

 何か一言叫んでやろうと思った、この位置なら群像の耳にも届くだろう。

 だから紀沙は、桟橋の端にずだんと踏み込んで。

 

 

「兄さんの」

 

 

 その時、紀沙は信じられないものを見た。

 桟橋の端と言うことで海面が見える、当たり前のことだ。

 ただ、そこにいるはずの無いものを見つけたのだ。

 ――――全身をフルフェイスマスクとダイバースーツで覆い、武装した十数人の人間を。

 

 

(――――特殊部隊(コマンド)!?)

 

 

 気が付いた時には、海面から飛び出して来た男に抱きつかれた。

 海水に濡れた生暖かい感触に顔を背けた次の瞬間、抵抗することも出来ずに引きずり込まれた。

 こちらに気付いたらしいクルーの声を最後に、紀沙は温かな海水の中に全身を沈められた。

 無論抵抗するが、水中装備の相手に海中で出来ることには限界がある。

 

 

 いつかは息も続かなくなる、全身を押さえ込まれては口に手を当てることも出来ない。

 突然のことに息を吸えなかったことも影響して、最後の呼気が泡と消えるのに時間はかからなかった。

 海面の輝きが、どんどんと遠ざかっていった――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

パナマの皆さん、ごめんなさい(え)

と言う訳で、サンディエゴを観光しました。
もちろんこれでサンディエゴの全てが描写できたわけでは無いですが、少しでもアメリカを感じて頂けたらな、と思います。
まぁ、私もサンディエゴは行ったこと無いのですが。
やはりこういう話を描くのに、「地球○歩○方」は重宝しますね(え)

そして、このまま主人公が無事に帰れるわけがありませんでした。
ところで関係ないのですが、私の手元には拷問関係の資料が何冊かありましてですね(え)
主人公ヒロインを追い詰めることに定評(?)のある私ですが、この後どうなることやら。

それでは、また次回。


P.S.
艦これ始めました。


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Depth024:「誘い」

 辺りはすでに夜になり、僅かな照明以外は何も見えなくなっていた。

 もちろん港に人気(ひとけ)は無く、小波の音がはっきりと聞こえる程に静寂に包まれていた。

 

 

『いったい、アンタ達は何をやってたんだい!?』

 

 

 ただ、1箇所を除いては。

 

 

「うおっ。そ、そんな怒んなって」

『これが怒らずにいられるかい!!』

 

 

 電話の向こうの梓の余りの剣幕に、冬馬は携帯端末を耳から話した。

 10センチ程離してようやく普通の声量になるのだから、隣にいたらどれ程の大声だったことだろう。

 しかし、今回ばかりは梓が怒鳴るのも無理は無かった。

 

 

 紀沙が、何者かに攫われた。

 冗談にしては悪質で、現実だとしたらもっと悪質だった。

 梓も最初は冗談だと思っていたようだが、冬馬が繰り返し説明すると激怒した。

 何しろ護衛役だった男2人が、まるで役に立っていなかったのだから。

 

 

「いや、まさかあんな堂々と特殊部隊送り込んで来るとか思わないだろ」

『馬鹿言ってんじゃないよ、ここは日本じゃ無いんだよ!』

 

 

 余りの正論に、ぐぅの音も出ない。

 油断していたわけでは無いが、流石に人目のある所でああまで鮮やかに拉致されるとは思わなかった。

 ここが敵地である、と言う認識が低かった。

 それに霧の艦長に危害を加えるリスクを犯す、そう言う覚悟が相手にあると理解していなかった。

 

 

『全くアンタは……あ、ちょっ』

『……変わりました、こちら副長の本能寺です』

 

 

 埒が明かないと思ったのか、恋が電話口に出てきた。

 冬馬としてはほっとした反面、恋が出てきてしまうと話を進めなくてはならないので、それはそれで気が重くなるのだった。

 

 

『目下の所、我々としての対応を決める必要があります。まず艦長をどうするか』

「そりゃー、何とか助け出さなきゃならねぇだろ。艦長ちゃんがいなけりゃ俺らの存在価値がねぇしな」

 

 

 事実だった。

 冬馬を含むイ404のクルーはそれぞれの事情で集まっているが、根幹の部分は同じだ。

 彼らは皆、千早紀沙と言う少女のために集っている。

 言ってしまえば紀沙を中心とした車輪のようなもので、中心である紀沙がいなければ瓦解するしか無い。

 わざわざ配属された意味も無くなる。

 

 

『とりあえず、白鯨の浦上中将と駒城艦長には私から連絡しておきます』

「不味くないか?」

『もちろん、ひとまず上層部のみの情報としてもらいます。むしろ無断でいることの方が我々の立場を悪くしかねません』

「あー、まぁ、そうかなぁ」

 

 

 がしがしと頭をかいて、冬馬は唸った。

 正直こう言う参謀めいた話は苦手だ、性に合わない。

 と言って、あおいや良治は自分の専門領域以外のことはわからない。

 黙って自分と恋のやり取りを聞いている2人を横目に、冬馬はもう一度頭をかいた。

 

 

「ちょっと良いか」

 

 

 その時、冬馬に声をかけてくる者がいた。

 それはあおいでも良治でも無く、ましてイ404のクルーでも無かった。

 

 

「オレに考えがある、聞いてもらえないか?」

「……あん?」

 

 

 千早群像。

 その場に居合わせていた紀沙の兄にしてイ401の艦長が、いつにも増して陰のある顔でそこにいた。

 冬馬は、そんな群像のことをじろりと見つめるのだった――――。

 

 

 

「――――――――さて」

 

 

 

 一方、空母博物館の対岸、コロナド半島北端の灯台の先端に()()はいた。

 丸みのある屋根の上にしゃがみ込んでいた彼女は、不意に立ち上がり、左目を覆う包帯を引き千切るようにして解いた。

 眼窩から零れ落ちるように赤い雫が飛び、前髪の間から無機質な輝きが漏れる。

 強い海風が、銀糸の髪を大きく揺らしていた。

 

 

 とんっ……と、少女は灯台から飛び降りた。

 地上から数百メートル、落ちれば命は無いだろうその場所から、飛び降りた。

 投身自殺? いや、彼女に限ってそれはあり得ない。

 何故なら彼女は、死と言う概念から最も遠い存在なのだから。

 

 

「行こうか」

 

 

 少女――スミノの身体が、ナノマテリアルの粒子となって溶けていく。

 落下しながら行われるそれは、まるで羽根の妖精(ティンカーベル)のようだった。

 そうして、スミノは夜の闇の中へと沈んで行った。

 赤い赤い、痛みの雫だけを残して。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 左目が痛んだような気がして、紀沙は目を覚ました。

 突然の光に、眼帯に覆われていない右目を瞬かせる。

 霞む視界の中で見えた色は、赤だった。

 

 

「ん……」

 

 

 どうやら、椅子に座っているようだ。

 そのままの姿勢で眠っていたためか、背中の筋肉が固くなっている。

 そこで意識が完全に覚醒し、紀沙は僅かに身を震わせた。

 海に引きずり込まれたことを思い出して、口元に手を当てる。

 

 

(……海の中、じゃないか。流石に)

 

 

 良く見れば、見覚えの無い部屋にいることに気付いた。

 最初に目に入った赤色は、どうやらカーペットの色だったようだ。

 ドレッサールームなのだろう、正面の壁は一面が壁だった。

 鏡には背の高い豪奢な椅子に座る紀沙が映っており、紀沙はそれで自分が着替えさせられていることに気付いた。

 

 

「うわ、何この格好」

 

 

 両手を上げて、自分の身体を見た。

 肩と背中がやけにスースーすると思ったら、大きく素肌を晒していた。

 イブニングドレス、それも胸元から腕・背中にかけてを露出させるベアトップスタイルの物だ。

 光沢のあるサテン生地で、色は鮮烈な赤だった。

 首元にはパールのネックレスを着けていて、足元はエナメルのヒールパンプスで締めていた。

 

 

 いったい、どこの夜会(パーティー)に行くのか、と言うような格好だった。

 加えて言えば、眼帯も赤い薔薇のコサージュのついた装飾性の高い物に変わっている。

 鮮烈な赤は、紀沙の黒髪に良く映えてはいた。

 そして下着(インナー)まで変えられているあたり、徹底されている。

 まぁ、海水でずぶ濡れのまま放置されるよりはマシだと考えることにした。

 

 

「端末は……流石に無いか」

 

 

 自分の元々の衣類も含めて、その部屋には見当たらなかった。

 談話室も兼ねているのかお茶菓子や紅茶のセット等は見つけたが、逆に言うとそれしか無かった。

 後は造花の花瓶やテーブルのような、家具や調度品ぐらいのものだ。

 となれば、と、紀沙の目は自然と部屋の扉へと注がれる。

 

 

 ――――コン、コン。

「……!」

 

 

 ちょうどその瞬間、誰かが部屋の扉をノックした。

 警戒心を強めて立ち上がり、椅子の背にそっと手を添える。

 ふわりとしたスカートが膝をくすぐる感触は、普段は感じないものだった。

 コンコンと、ノックが繰り返される。

 

 

(どうする?)

 

 

 どう反応すべきか、一瞬で思考する。

 応じるべきか無視するべきか、迎えるべきか隠れるべきか。

 こうしている間にも繰り返されているノックに、紀沙は唇を引き結んだ。

 さぁ、どうするか。

 

 

 ――――コン、コン。

 ――――コン、コン。

 そして数瞬の後、扉が開いて……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 現れたのは、金髪の優男だった。

 見た目は人が良さそうに見える、黒のタキシードと相まって紳士然としていた。

 ただ、笑顔にはどこか胡散臭さがあった。

 自慢では無いが、紀沙はそうした顔を比較的見慣れている。

 

 

「やぁ、初めまして」

 

 

 実ににこやかな笑顔だが、その裏で何かを考えているような顔だ。

 この男が自分をここに連れて来た元凶かどうか、この時点では確証が持てなかった。

 ただ1つ決めたことがあるとすれば、この場で無茶はすまいと言うことだった。

 何しろ、タキシードの男の後ろに迷彩服姿の大男が2人いたからだ。

 

 

 明らかに軍人、それもかなり屈強な。

 人数は問題では無いが、自動小銃(カービン)を携行しているのが不味かった。

 拳銃の一丁や二丁は捌く自信があるが、流石に丸腰で小銃を相手にする気は無い。

 いや仮に目の前の2人を倒せたとしても、この様子だと他にもいそうな雰囲気だ。

 

 

(となると、ここはどこかの基地ってこと……?)

 

 

 アメリカ軍、だろう、当然。

 いざとなれば武器にするつもりでいた椅子から、手を離す。

 妙に勘繰られても困る、むしろ扉が開くと同時に殴りかからずに済んで良かったと思おう。

 

 

「そのドレス、良く似合っているね」

「……ッ!」

 

 

 ぬっと顔を近づけられて、反射的に身を引いた。

 それでも男は笑顔を崩さず、にこにことした顔で立っている。

 見ようによってはハンサムなのかもしれないが、生憎(あいにく)と紀沙はハンサムに慣れている。

 

 

「……どなたですか?」

「ああ、これは失礼。僕はジャン・ロドリック、しがない財団を運営する実業家です」

 

 

 しがない財団とやらがどんな財団なのかはわからないが、軍人の護衛を受けられるような立場の人間がただの実業家であるはずが無かった。

 

 

「その実業家さんが、私に何か用ですか?」

「いや、用があるのは僕じゃないんだ。別の人でね」

「では、その用があるお方と言うのはどなたですか?」

「うーん、それは直接会ってくれた方が良いかな」

 

 

 さぁ、とジャンが扉の外へと紀沙を誘った。

 紀沙は警戒したまま、ジャンの顔を見つめる。

 ジャンは笑みを崩すことは無かったが、やはりその笑みは何か含む物があるように見えた。

 どうにも、危険な感じがする。

 

 

 と言って、このままここで立ち尽くしているわけにもいかない。

 逆らうわけには、もっといかないだろう。

 今は従っておくべきだ、それに自分に用があると言う誰かも気になる。

 だから紀沙は、ひとまずジャンの望み通りにすることにした。

 歩き出して、扉の両脇に直立している軍人の間を抜ける。

 

 

「ああ、そうそう」

 

 

 その時、ジャンが思い出したように言った。

 

 

「キミの服を着替えさせたのは僕の妻だから、気にしないでね」

 

 

 どうやら、この男は相手の神経を逆撫でするのがなかなか得意らしい。

 紀沙はくっと歯噛みしたが、振り向くことだけは避けた。

 何もジャンの望みを叶えてやることも無いのだから、振り向いて顔を見せる必要は無い。

 ここは意地が必要な場面だと、紀沙は思っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ大統領夫妻の食事と言っても、そんなに一般人と違うものではない。

 大統領とその家族が暮らす大統領(エグゼクティブ・)公邸(レジデンス)こそ豪勢に見えるかもしれないが、夫婦2人で暮らすにはむしろ広すぎると言えた。

 食べているものもチキンと野菜のメキシコ風スープと、庶民的なものだった。

 

 

「うーん、美味しい! やっぱりリズの料理は最高だね!」

「ふふ、そう? 今日は良いお肉が厨房に入ってたから。せっかくだからスパイスを使ってメキシコ風に……」

 

 

 夫の言葉に笑顔を見せたエリザベスだが、そこではっとした表情を浮かべた。

 どうやら何事かを思い出したらしく、哀しげな顔になって。

 

 

「メキシコ……今日もソロールサノ(メキシコ)大統領が私のことを非難してたわね」

「そう? ほんのちょっぴりトウモロコシの輸出が多いって言ってただけじゃないか」

「メキシコのトウモロコシ農家が壊滅したのは、私のせいだって言ってたわ」

「そんなこと無いよ! 実際こうして僕らはメキシコ料理を食べてるじゃないか」

「でもこれ国産のチキンじゃない!」

「それは仕方ないよ!」

 

 

 わっと泣き出したエリザベスに対して、ロバートは陽気に言った。

 彼は苦笑を浮かべて席を立つと妻の傍に寄り、しゃくり上げるその背中を優しく撫でる。

 打たれ弱いエリザベスは、日に何度かこんな風になってしまうのだ。

 何しろ大統領である、批判されるのが仕事の一部だ、やわな神経ではやっていけない。

 

 

 大統領の夫(ファーストレディー)である彼は、エリザベスを元気付けることを自分の義務であると自認していた。

 ただ、それは単なる義務感から来るものでは無く、深い愛情に根ざすものだった。

 妻との数十年に渡る人生の中で、育んできたものだ。

 

 

「うん? あれ、リズ。もしかして香水を変えたのかい? とても良い香りだね」

「うう……う? え、ええ。ちょっと気分を変えようと思って……」

「そうなんだ。これ良いね、僕気に入っちゃったよ!」

「そ、そう?」

「うん! 爽やかな香りの中に芯があって、リズにとても良く似合ってると思うよ」

 

 

 額を合わせて、両手で包むようにして頬に触れた。

 エリザベスは目に涙を残していたけれど、そんな夫の仕草に薄く頬を染めた。

 年齢も年齢なので、流石に若い頃のような高揚は感じない。

 ただ代わりに安堵と言うか、穏やかな心地が2人の胸中を満たしていた。

 

 

 その時、携帯端末のコール音が響いた。

 穏やかな雰囲気を引き裂くように鳴り響き始めたそれは、ロバートの胸ポケットから聞こえていた。

 電話だ。

 ロバートはリズに「やれやれ」と言った風な顔を見せた後、額を離して端末を取り出した。

 そして、画面に表示されている名前に怪訝な顔をした。

 

 

「どうしたの? 誰から?」

「ああ、うん。まさか、かかって来るとは思わなかったんだけど」

 

 

 何かの役に立つだろうと思って、互いのアドレスは交換していた。

 首脳同士の嗜みのようなもので、社交辞令以上の意味は無いものと思っていた。

 まぁ、サラリーマンにおける名刺交換みたいなものである。

 

 

「……あら」

「ね?」

 

 

 その画面には、こう書かれていた。

 ――――グンゾウ・チハヤ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 暇だ。

 イ15、改めトーコは「退屈」と言う感情を得ていた。

 トーコは敬愛するスミノに「適当な所で待ってろ」と言われたので、その言葉の通りにしていた。

 サンディエゴ沖の海底に着底してエンジンを切り、メンタルモデルは無人の発令所の床に仰向けに寝そべっていた。

 

 

「あ~、暇っス~」

 

 

 足をバタバタさせながら、そんなことを言うくらいには暇だった。

 メンタルモデルを得た霧は、情緒面が豊かになる傾向が強い。

 それまで数値や概念としてしか知らなかったことを――水や風等の自然、音楽や衣服等の文化、他者との会話によって得られる感覚――肌で実感することで、急速に進歩するのだろう。

 やがて表情も増えて、個性と言うメンタリティを得るに至る。

 

 

 そしてトーコもまた、そうしたメンタルモデルの1人だった。

 コアの演算力にもよるが、潜水艦でメンタルモデルを形成できる艦は多くは無い。

 潜水艦と言うクラスの特殊性のせいでわかりにくくなっているが、メンタルモデルの形成には重巡洋艦以上のコアが必要とされている。

 最も、トーコの場合はメンタルモデル形成のために色々と細工をしているのだが……。

 

 

「スミノの姐さんの『突撃! 硫黄島決戦!』はもう見飽きたし……はっ、いや姐さんの戦闘記録なら何度見ても良いかも!?」

 

 

 しかし情緒面が進歩しているからこそ、退屈と言う感情も覚える。

 話し相手がいないと言う状況に対して、つまらないと言う気持ちも芽生えるのだ。

 ただ、トーコは気付いていなかった。

 サンディエゴの暗い海底の中で、自分を見つめる()があったことを。

 

 

「あれは……『イ15』?」

 

 

 しゃんっ、と鈴の音が海底に響いた。

 それは潜水艦『イ15』の姿を捉えた別の潜水艦――否、()()()だった。

 全長100メートル程の小さな艦艇で、それに合わせたようにメンタルモデルも小柄な少女の姿をしていた。

 袖に鈴を下げた独特の和服を身に着けた、その艦艇(モデル)の名は。

 

 

「東洋方面艦隊の艦が、何故こんなところに?」

 

 

 霧の駆逐艦『ユキカゼ』。

 総旗艦『ヤマト』を直衛する駆逐艦隊の1隻は、自身のことは棚に上げてそんなことを言った。

 そんな彼女が日本近海を離れて、()()()()()()に何をしに来たのか。

 それを知る者は、それこそ総旗艦『ヤマト』その人だけなのだろう。

 誰の前にも姿を見せず、大海に一石を投じるように世界を動かして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「さぁ、こちらへどうぞ」

 

 

 ノックの後に扉を開いて、ジャンは紀沙を部屋の中へと誘った。

 レディファーストのつもりなのか、それとも他に何か考えでもあるのかはわからないが、通路の要所に案の定多数の兵士の姿を確認した後となっては、従っておくしか無かった。

 だから紀沙はジャンから顔を背けつつ、部屋の中へ入った。

 

 

 その部屋は、どうやら食堂のようだった。

 内装はドレッサールームや通路とほぼ同じで、クラシックな壁紙と赤いカーペットの空間だ。

 丸みのある木製のテーブルの上には、白と銀の食器類が並べられていた。

 今にも食事が始まりそうな、そんな雰囲気だった。

 

 

「おお、この国の救世主が来たか!」

 

 

 そして、1人の男が紀沙を待っていた。

 グレーのスーツを来た年配の男で、彼は紀沙の姿を見ると席を立ちさえした。

 表情は朗らかそのものであって、少なくとも見た目には人の良いお爺ちゃんと言った風だった。

 少なくとも、ジャンよりは信用が置けるようにも思える。

 

 

「ああ、ジャン。良く連れて来てくれたな」

「僕は別に何もしていないさ、ウィリアム。これもビジネスだからね」

 

 

 どうやら、この男はウィリアムと言うらしい。

 老齢のようだが足腰に衰えは見えない、むしろ矍鑠(かくしゃく)としていた。

 軍人達は室内にまでは入って来ないようで、室内にいるのは紀沙の他にはこの2人、そしてもう1人。

 椅子に座ったまま、紀沙の顔を見てにこりと笑みを浮かべる女性だ。

 

 

「ニナ」

 

 

 誰なのかと思って見ていると、ジャンが近付いて頬にキスをしていた。

 余りに何気なくあけすけに行われたので、紀沙は思わず顔を逸らした。

 アメリカでは挨拶なのかもしれないが、それにしては親密なものだったので、恋人か夫婦なのかもしれない。

 

 

「さぁ、座ってくれ。すぐに料理が来る、今日はカリフォルニアの良い牛が入っているんだ」

「え? あ、あの」

「さぁさぁ、さぁ」

 

 

 ウィリアムと言う男に促されて、紀沙は椅子に座った。

 背の高い椅子の背もたれは頭の後ろにまで及び、楽な姿勢を保てる造りになっていた。

 

 

「何か嫌いな食べ物はあるかな、日本人の食生活には疎いものでね」

「い、いえ。有難いのですが、食事は結構です」

「うん? しかしお腹が空いているだろう、なぁジャン」

「そうですね、彼女は夕食もまだのようですから」

 

 

 確かに空腹は覚えているが――何しろ、夕食前に気を失ったのだから――それ以上に問題なのは、明らかに相手のペースで話が進んでいることだ。

 この部屋に来るまでに何度か窓の外を見たが、夜のせいもあるだろうが、ここがどこなのか検討もつかなかった。

 ただ、一度だけ「壁」が見えた。

 

 

 防壁だ。

 それ以外に、塀でも門でも無い壁が建物を取り囲むとは思えない。

 そして通路の要所に配された兵士と、何度かトラックのような重い音も聞こえた。

 ここはどこかの基地、それも夜と言う点からサンディエゴ市街からそう離れていない場所にある。

 それが、紀沙の予想だった。

 

 

「いえ、本当に結構です。ミスター」

 

 

 場所もタイミングも、全てが相手の掌の上だ。

 だから、多少の無理をしてでもそれを崩す必要があった。

 自分は相手の思い通りにならないと、少しでもそう思わせられればその後の展開も変わる。

 

 

「それよりも、私をここへ連れて来た理由を。貴方のご用件を聞かせてください」

「ふむ、そうか……私としては食事でもしながら、ゆっくりと話をしたかったのだが」

 

 

 ウィリアムは何度も頷きながら、自分の席――紀沙の向かい側の席にゆっくりと向かい、そして座った。

 その間、1分も無い。

 ただしその1分にも満たない時間で、紀沙は目の前の男が別人になったような気がした。

 そんなはずは無いのだが、纏っている空気が変わったのである。

 

 

「では、単刀直入に言おうか」

 

 

 その変わった、より重みのある雰囲気の中で、ウィリアムは口を開いた。

 雰囲気に呑まれかけた紀沙だが、しかし相手が次に何を言うかは予想がついている。

 と言うか、自分に対して何か要求するなら1つしか無い。

 そう、つまりはイ404を――――。

 

 

「キミに、アメリカ人になってもらいたい」

 

 

 ――――予想は、いきなり外れた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「キミ達に、我が国の市民権を与えよう」

 

 

 市民権と言うのは、読んで字の如くその国の市民としての権利である。

 就業・居住・教育を始めとする政府のサービスを受ける権利の総称で、市民権を持っているのといないのとではアメリカでの生活の質は天地の差だと言われている。

 他の国にも多かれ少なかれ似たような制度はあるが、アメリカは特に徹底していた。

 

 

 当然、取得には厳しい条件をクリアする必要がある。

 しかし、国家の常として特例と言うのはどこにでも存在する。

 ルールを定めるのが人間である以上、大統領や議会の考え次第で可能になるのだ。

 最も、それがスムーズに行えるかは大統領の手腕次第ではあるが。

 

 

「申し遅れたが、私はウィリアム・パーカー。次の大統領になる男だ」

 

 

 この男が、と紀沙は思った。

 エリザベス大統領の対抗馬、野党の大統領候補。

 大統領選挙の情勢はわからないが、「次の大統領」と言い切るあたり自信があるのだろう。

 確かに、素のエリザベス大統領と比べると指導者っぽくはあった。

 

 

「私が正式に大統領に就き次第、キミ達に市民権を与える大統領令に署名しよう。もちろん、その際にはイ404も我が海軍に編入されることになるだろう」

「……イ404を引き渡す代わりに、私達に市民権を与えると?」

「それは少し順序が違うな。我々にはイ404が必要で、そのためにキミ達に我が国の市民になって貰いたいと思っている」

 

 

 そこが、紀沙の予測と異なる部分だった。

 イ404を他国が欲しがると言うのは良くわかる、霧へ対抗するために霧の艦艇を保有することは様々な意味で有効だからだ。

 アメリカへ渡るに際して、それがほとんど唯一のリスクだと思っていた。

 

 

「艦と魚雷だけでも十分に貴重だが、それ以上に貴重なものがある。……キミ達だ」

 

 

 ウィリアムは言った。

 自分達にとって、何よりも必要なのは人材なのだと。

 

 

「霧との大海戦より17年、もはや我が国にもまともな海戦を経験した者はいない。まして霧の艦艇の操艦経験を持つ者など、世界を探してもキミ達しかいない」

 

 

 それもまた、事実だった。

 アメリカでは市民権を持たない者は――つまり、アメリカ()()で無い者は――アメリカ軍に入隊することが出来ない。

 つまり紀沙達が持つイ404のノウハウを得るためには、紀沙達がアメリカ国民になる必要がある。

 だからこその、市民権の付与だった。

 

 

 ウィリアムの言いたいことは、わかった。

 良くわかる、聞いてみればなるほどと思う点もあった。

 しかし、紀沙にはわからない点が1つあった。

 

 

「何故、私達なのでしょうか?」

 

 

 それならば、自分達で無くても良い。

 具体的には群像達でも良かったはずだ、マツシマのことを思えば向こうの方が戦力と言う点は高い。

 それに依頼次第では、群像がアメリカのために働く可能性もあった。

 認めるのは業腹だが、群像達は日本海軍では無く、<蒼き鋼>なのだから。

 

 

「傭兵は信用できん。ヨーロッパの歴史を紐解くまでも無く、傭兵に国の命運を賭けることなど出来ない」

 

 

 その疑問については、ウィリアムは実にあっさりと答えて見せた。

 信用できるのは、あくまでも国と国民に忠誠を誓った軍隊だけ。

 ウィリアムが群像では無く紀沙を選んだのは、その点を重視したからだった。

 これにも、紀沙はなるほどと思った。

 確かに、そう言う見方をするなら群像達は選べないだろう。

 

 

「もう1隻の……白鯨については、申し訳ないが我々には必要ない。似たような原子力潜水艦なら私達も開発している」

 

 

 まぁ、それも道理。

 霧の水上戦力に潜水艦が有効である以上、各国の開発コンセプトが似通っていても不思議は無い。

 アメリカが白鯨級と同種の潜水艦を開発していても、それはむしろ当然と言えた。

 

 

「我々に必要なのは国への忠誠心に富み、国民への責任感に溢れ、国と国民のためならばどんな危険にも飛び込む勇敢さを持った人間だ。そう、まさにキミ達のような」

「矛盾していませんか? ミスター・ウィリアム、貴方の言が正しいなら、私達の忠誠の対象は日本です。アメリカにつくと言うことは、祖国を裏切ることと同義ではありませんか?」

「ふむ、確かに。しかし、例えば日本政府がキミ達にそれを命じるとすればどうかな?」

「は?」

 

 

 日本政府の命令があれば、アメリカへ移っても裏切りにはならない。

 確かに言葉だけを見ればその通りだろう、紀沙が指摘した矛盾も消える。

 だが、そんなことはあり得ない。

 日本政府がむざむざ霧の艦艇をアメリカに譲るなど、何のメリットも無いことだからだ。

 

 

「我々はかつて、日本政府が自軍へ在日米軍を編入するのを快く認めた。その借りを、今返してほしい」

「……!」

 

 

 それは、確かに盲点だった。

 その意味では、確かに日本はアメリカに借りがある。

 借りは返さなければならない、それは外交の常識でもある。

 何より、日本が今まで存続して来られたのはアメリカの援助のおかげなのだ。

 それを指摘(援助打ち切りを示唆)されれば、日本政府は首を横に触れるかどうか。

 

 

「……辛いのはわかる、私もキミの立場であれば躊躇しただろう」

 

 

 紀沙の苦悩を読んだかのように、ウィリアムは何度も頷いた。

 

 

「しかし、これは必要なことなのだ。日本政府にとってもそうだろうが、我々にとってもイ404とキミ達の戦力は必要となる。霧への反攻作戦のためにはな」

「反攻、作戦?」

「そう、反攻だ。私が大統領に就任し次第、来年中にも霧の北米方面艦隊に対して攻勢に出るつもりだ」

 

 

 日本がそうであるように、アメリカも対霧の計画を持っている。

 それもまた、当然のことだ。

 だが日本の計画が実行の目処すら立っていない状況なのに対して、ウィリアムの言う計画はすでに実行段階に入っていると言うのだろうか。

 

 

「キミがまだ日本軍の一員である以上、詳しいことは話せない。しかしキミ達と量産された振動弾頭、そして我々の計画を合わせれば、少なくとも霧の北米方面艦隊の主力は壊滅させられると確約する」

 

 

 霧の一方面艦隊を壊滅させる。

 霧の艦艇を擁していた日本に、そして他の国々に出来なかったことが、アメリカに出来るのだろうか。

 いや、アメリカだからこそ、と言うこともあり得る。

 

 

「<太平洋の(オペレーション・)夜明け作戦(パシフィック・ドーン)>、軍はそう呼んでいる。日本政府より振動弾頭量産の打診があった頃より計画されていた作戦案だ。そして、振動弾頭の量産が完了すると同時に発動される。ただ、今のホワイトハウスはこれを承認するつもりが無い。何故なら、エリザベスは霧と戦う気が無いからだ」

 

 

 そう言って、ウィリアムは1冊のパンフレットをテーブルに投げ置いた。

 数ページに満たないそれにはエリザベス大統領の写真と共に、今回の大統領選挙の政策綱領が書かれていた。

 いわゆる選挙公約と言うものだろう、その安全保障の項目にこう書かれている。

 

 

 ――――()()()()()()()()()()()、と。

 いたずらに軍備増強に走るのでは無く、今後の海洋との付き合い方を冷静に考えるべきだと書かれていた。

 それは見るべき者が見れば、何を意味しているかは容易に想像できる書きぶりだった。

 そして軍の反攻作戦案にサインしないと言うウィリアムの言を信じるのであれば、答えは1つだ。

 

 

「エリザベスは、霧との共存を目指している」

 

 

 紀沙は、右目を見開いた。

 それは、紀沙にとってはある意味で決定的な事柄だった。

 

 

「私達は同志だ、そうだろう? キミも霧に思うところがあるからこそ、危険を犯して太平洋を渡ったはずだ。想いは同じ、どうか霧を倒すために祖国を離れると言う泥に塗れてほしい」

 

 

 同志、想いは同じ。

 霧を倒し、自由で平和な海を取り戻すこと。

 ウィリアムと彼を支持するアメリカ軍には、そのための具体的な計画がある。

 自分が協力すれば、不可能ではなくなると言う。

 

 

 膝の上で、紀沙はいつの間にか自分が掌を握っていることに気付いた。

 掌に、汗が滲んでいる。

 脳裏に、群像達やイ404のクルー達、そして日本で自分を待っているだろう北の顔が浮かんでは消えていった。

 

 

「さぁ」

 

 

 そして、もう1人。

 紀沙の脳裏を掠めたのは、自分は紀沙の(フネ)だと言う銀髪の少女の顔だった。

 

 

「答えを聞こう、キサ・チハヤ艦長」

 

 

 スミノの手が自分の顔を、左目のあたりを撫でたような気がした――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
引き続きアメリカ編、トップ自ら引き抜いていくスタイル(え)
ここいらは、原作の北議員のシーンを回した感じでしょうか。

あと全年齢版ですからね、穏当な表現が求められます(え)

それはそれとして、もう少しキャラクター間の関係を掘り下げたいですよね。
学院編とかもやりたいですし、どこかで番外編みたいなものを展開しても良いかもしれません。

それでは、また次回。


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Depth025:「サンディエゴの夜」

 どこのどんな仕事でも、退屈な時間と言うものは出てくる。

 夜の検問所と言うのは、そんな仕事の1つであろう。

 特に軍事施設のような、一般の車両が入ってくることがほぼ無いような職場の場合は。

 

 

「暇だなぁ……」

「そう言うこと言うなよ、ますます暇になるだろう」

 

 

 サンディエゴ郊外に設けられた検問所は、まさにそう言う場所だった。

 灰色の摩天楼が並ぶ市街地と緑豊かな自然保護区の狭間に位置するその検問所は、昼間は軍関係の車両が何台か通ることもある。

 ただ、夜間となるとほぼ誰も通らないような場所だった。

 

 

 それ故に、検問所の設備は小規模なものだった。

 砂利道を遮る遮断機が出入り口側に1つずつと、簡素な仮設小屋、その傍に機銃を備えた軍用車両が1両あるだけだった。

 本国、それも内陸と言うこともあるのだろうが、海軍偏重になりがちな近年の事情が何らかの影響を与えているのかもしれない。

 

 

『おーい、そっち何かいたりしないかー?』

「いるわけ無いだろ。お前のワイフでも森から飛び出てくるのか?」

『下手なテロリストより怖ぇよ、それ』

「おい、軍用回線で馬鹿な会話するな」

「悪ぃ悪ぃ、あんまり暇なもんだからさ」

 

 

 やることと言えば、休憩にかこつけた賭けポーカーと、出口側と入口側の無線で行う「糸電話ごっこ」くらいなものだ。

 今時珍しい高待遇職と言えども、暇なものは暇なのである、意外と退屈は苦痛を生むのだ。

 何も無いに越したことは無いが、何かあってほしいと思うのが人情と言うものだろう。

 

 

「はぁ~あ、綺麗なねーちゃんでも来ねぇかなぁ」

「あんまり馬鹿言ってると隊長にどやされるぞ」

「へいへいっと……うん?」

 

 

 サンディエゴ市街側のゲートで、迷彩服姿の兵士の1人が双眼鏡を構えていた。

 もちろんふざけただけで、何かを見ようとしたわけでは無い。

 だから実際に双眼鏡に何かが映った時、彼は変な声を上げてしまったのである。

 

 

「どうした? 本当にあいつのワイフでも出たのか?」

「いや、何かが銀色に光ったような」

「銀色? 今度は宇宙人(グレイ)とか言い出すんじゃないだろうな」

「いや、そう言うんじゃなくて……うぉわっ!?」

 

 

 視界の中で光った何かを探していると、ぬっと双眼鏡の視界が白いもので埋まった。

 顔だ、誰かが双眼鏡の反対側からこちらを覗き込んでいる。

 慌てて顔を離せば、相手が本当に目の前にいることに気付く。

 いつの間に、と言うより、突然現れたと言う風だった。

 

 

「こんばんは」

 

 

 それは、美しい少女だった。

 銀色は、少女の髪の色だった。

 不思議な色合いの瞳を猫のように細めて、造りものめいた白い顔に笑顔を浮かべている。

 毒気を抜かれたように呆けた顔をしていた兵士も、少女がゲートの内側にいることに気付くと、厳しい顔で銃口を向けた。

 

 

「な、何だお前は! どこから現れやがった!?」

「おいよせ、子供だぞ! キミ、ここは立入禁止区域だ。誰かと一緒じゃないのかい?」

 

 

 それぞれの反応を見せる兵士達に対して、銀髪の少女はやはりニコニコとした笑顔を浮かべていた。

 その視線はどこか物珍しげで、特に自分に向けられた銃口を覗き込んでいた。

 

 

「人を探しているんだけど」

「親御さんかい?」

「ボクに親はいないよ」

 

 

 一瞬、兵士達が「悪いことを聞いたか?」と言う顔をした。

 しかし銀髪の少女は笑って、顔を上げた。

 検問所の街灯に照らされて、血に濡れた顔の左半分が見えるようになる。

 ぎょっとした顔をする兵士達に向けて、少女は言った。

 

 

「ボクの艦長殿は、この先にいるのかい?」

 

 

 残った右目が、妖しく輝いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、冬馬と良治を伴ってサンディエゴのダウンタウンを歩いていた。

 時間も時間だ、そこかしこから怪しい雰囲気が漂っている。

 道を一本間違えれば即、命を失ってもおかしく無いような場所だ。

 

 

「――――ここだな」

 

 

 彼らが何故、そんな危険な場所を歩いているのか?

 それは、群像が1時間程前にエリザベス大統領と交わした会話による。

 

 

『キサの拉致には、アメリカ軍は関与していないわ』

 

 

 その時、大統領は紀沙の拉致について軍の関与を否定した。

 アメリカ軍は全て大統領の指揮下にあり、どこかの部隊が勝手に動けばすぐわかるようになっている。

 第一、大統領と軍にはわざわざ紀沙を拉致する必要が無い。

 紀沙を狙う以上イ404や振動弾頭が目的だろうが、紀沙を拉致しなくても振動弾頭は入手できるし、イ404についてはこれまで1度も言及したことが無い。

 

 

 第一、サンディエゴを見て回れと送り出しておいて拉致と言うのは、行動が支離滅裂に過ぎる。

 それに特殊部隊まで使って拉致せずとも、そのつもりならホテルで会見した時に日本艦隊の首脳部ごと拘束すれば良かった。

 もちろん国防総省や諜報機関(CIA)の独断専行の可能性は否定できないが、エリザベス政権発足後の4年間でそうした一部の「跳ねっかえり」はすっかり鳴りを潜めているらしい。

 

 

『と言って、作戦の鮮やかさと装備からしてアメリカ軍とは無関係とも思えないわ』

『……どう言うことでしょうか?』

『私にもわかりません。ただ、今回の件を由々しき事態とは思います』

『大統領、我々にはこの国にツテがありません。紀沙艦長救出のため、ご助力を頂けないでしょうか』

 

 

 結果として、群像は大統領からある場所を訪れるように助言を受けた。

 それは、いわゆる情報屋のアジトだった。

 群像達の目の前にある雑居ビル、その裏口の扉がそうだった。

 鉄製で、随分と重そうな扉だ。

 

 

「大統領によれば、この時間帯のこの場所で間違いないらしい」

「本当に大丈夫かよ、何かの罠なんじゃねぇの?」

「大統領がオレ達を嵌める必要性は無いからな」

 

 

 手元のメモを見ながら、群像が周囲に注意しつつ扉をノックする。

 冬馬が良治に視線を向けると、彼は肩を竦めて見せた。

 任せるしかない、そう言う意思表示だろう。

 それについては冬馬も同意見だったが、信用する気にはならなかった。

 

 

 情報屋。

 紀沙を攫った相手が軍と繋がっている可能性がある以上、公的なルートは使えない。

 それならば蛇の道は蛇、裏のルートを使うしか無い。

 そう言うルートを平然と紹介する大統領も、なかなかどうして油断できない。

 流石に、政治の頂点を極めただけのことはある。

 

 

「良し、これで良いはずだ」

 

 

 大統領の指示通りにノックを繰り返した群像は、最後にインターホンを三度押した。

 三度目で、がちゃりと受話器を取るような音が聞こえた。

 そして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像達が室内に入った時、中には誰もいなかった。

 壁紙もカーペットも無いブロック打ちの部屋には、椅子が1つあるだけだった。

 そして椅子の上には、音声受信機(ラジオ)を抱えた不気味なピエロの人形が座っていた。

 

 

「何か俺、映画か何かでこう言う展開見たことあるぞ」

 

 

 冬馬の声に反応したのか、ピエロが顔を上げた。

 どう言うカラクリになっているのかはわからないが、人の声に反応して動くのだろう。

 そして、カタカタと人形の口のギミックが動いた。

 

 

「うわっ、人形が動いたよ!」

「やべーって、おいやっぱ帰ろうぜ!」

 

 

 肝試しに来た学生か、と、自らはそんな経験も無い癖に群像はそんなことを考えた。

 それにしても、実は2人とも割と余裕があるのではないだろうか?

 まぁ良い、それよりも目の前の人形だ。

 情報屋が自身の身を隠すと言うのは、予測した対応の1つには入っていた。

 そして人形が受信機を抱えていると言うことは……。

 

 

『おやおや、今日はミーのショップにたくさんのお客様が来てるねぃ』

 

 

 明らかに変声機を使っているだろう、乱れた音声。

 ただ何より群像は驚いたのは、聞こえてきた声が流暢な日本語だったことだ。

 カメラにでもなっているのか、人形の目がじっと群像達を捉えている。

 

 

「あなたが情報屋か?」

『世界一の情報屋のことなら、ミーで間違いないよ。ジョンとでも呼んでくれれば良い』

 

 

 世界一とは大きく出たものだ。

 しかし大統領の紹介ともなれば、あながち誇張とも思えない。 

 

 

「エリザベス大統領の紹介で来た。力を貸して欲しい」

『ミーの力を? 日本艦隊のジャパニーズがミーに用なんて、まさにブルースカイの霹靂(へきれき)だねぃ』

「俺らのことを知ってるのか?」

『何でも知ってるよミーは。ミーのサウザンドアイズの前には、誰も何も隠せないのさ』

 

 

 何かのギミックなのだろう、人形がカタカタと不快な笑い声を上げた。

 大統領から聞いた話では、この情報屋は国の諜報機関からも依頼を受けるような凄腕のハッカーであるらしい。

 どうやっているのかはわからないが、世界中の情勢に通じているとか。

 

 

 そして、基本的に金で動く、と言うことも聞いていた。

 あらゆる情報を金で売る、相手は選ばないため、国から頼りにされると同時に警戒されているような人物だった。

 実際に会った者は誰もおらず、人種も国籍もわからない。

 だからこそ、後腐れも無く話も早い。

 

 

「なら今日の夕刻、空母博物館で起きたことを知っているか?」

『ああ、州兵が日本艦隊の艦長を拉致した件かい?』

 

 

 州兵、初めて聞く単語だった。

 日本では余り想像しづらいが、アメリカには政府軍の他に軍隊がある。

 50ある州の政府――日本で言う県庁、ただし権限も規模も比べ物にならないが――がそれぞれに軍隊を保有しており、平時は州知事の指揮下に置かれる正規軍である。

 

 

 例えばサンディエゴが所属するカリフォルニア州には、約3万人の州兵が配備されている。

 いわゆるアメリカ軍に準ずる装備を持ち、場合によっては戦闘機や戦車、艦船も運用する。

 その中にはもちろん、特殊部隊も含まれていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 紀沙を攫った相手を平然と口にするのは、一種の売り込みと考えるべきだろう。

 

 

『なるほど、ユー達の用件はそのことなんだな。拉致された艦長の行方が知りたい?』

「……話が早くて助かる。教えて貰えないか?」

『わかってると思うけど、ミーはタダで情報は渡さないんだよねぃ』

「わかっている、金銭で情報を売っていると聞いた。その情報はいくらで売って貰えるのだろうか?」

 

 

 正直、金は持っていない。

 最悪の場合は大使館と日本政府に請求するしか無いが、今はとにかく情報が必要だった。

 だから多少の金額については、群像は気にかけるつもりが無かった。

 群像の懐が痛むわけでも無いし、大統領に情報屋を教えて貰うために告げた()()もある。

 ここで諦めると言う選択肢は、群像には無いのだった。

 

 

『んー、残念だけど。この情報はマネーでは売る気は無いんだよねぃ』

「何?」

「ちょ、てめぇふざけんなよ! 情報屋が情報を売らないなんて、じゃあ、お前何屋だよ!」

『売らないとは言ってない、だけどマネーはいらない。ミーの条件を呑んでくれたら、ユー達が欲しがってる情報……いや、ミーの持ってるあらゆる情報全部をあげるよ』

 

 

 情報屋の言葉に、群像達は顔を見合わせた。

 相手の意図が読めず、反応に困ったのだ。

 ただ大統領が信頼を寄せる情報屋の言葉だ、嘘は無いと思う。

 表だろうと裏だろうと、情報屋にとって信頼は商売を続ける上で最も大事なことだ。

 

 

「……聞こう、その条件とは?」

『ディフィカルトなことじゃないよ。条件と言うのは、とても簡単なことさ』

 

 

 情報屋は、言った。

 

 

『ミーを、ユー達の(フネ)に乗せて欲しいんだよ――――』

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「きっと大丈夫よ、あの子達なら」

 

 

 心配する夫に、エリザベスは言った。

 すでに深夜だが、夕食を切り上げてホワイトハウスの大統領執務室に入っている。

 オーバルオフィスと言うだけあって、その部屋は楕円(オーバル)の形をしていた。

 

 

 淡い色合いの調度品に、赤いカーテンと観葉植物、ソファと背の低いテーブル。

 執務卓の傍らには星条旗がはためき、楕円形のカーペットには米国の偉人達の言葉が刻まれている。

 全て、自由と平和を尊ぶ言葉だ。

 大統領執務室は場所と形こそ数百年変わっていないが、内容については大統領の好みで変えられる。

 一説には、執務室を見るだけでその大統領の政治姿勢がわかるとまで言われている。

 

 

「それは、何かの勘かい?」

「そうね。何となくそんな気がする、と言うくらいだけれど」

 

 

 ふふ、と小さく笑って、エリザベスは窓の外を見ていた。

 大きな樹木に囲まれたそこから外の様子を窺うことは難しいが、何となく見ずにはいられないのだった。

 

 

「正直に言うとね、ロブ。あの子達に情報屋……彼のことを教えるかどうか、悩んでいたのよ」

「そうだね。あの子達と会えば、彼はきっと僕達とのビジネスから手を引くだろうね。それがわかっていて、どうして教えたんだい?」

「うふふ。それはね、ロブ。仕方ないじゃない?」

 

 

 困ったように笑って、エリザベスは夫を見た。

 夫のロバートはすでにエリザベスの心境を理解しているのか、あえて語らせるような態度を取っている。

 妻が話したがっていると、わかっているのだ。

 

 

「家族を助けたいと言われたら、教えないわけにはいかないでしょう?」

 

 

 群像から連絡を受けた時、エリザベスは本当に迷っていた。

 はたして、この日本人の少年――しかも傭兵――は信用できるのだろうか。

 自分が抱える情報網の一部を渡しても、後々に問題とならないだろうか。

 大統領として、考えずにはいられなかった。

 

 

 だから、聞いた。

 どうして紀沙を助けたいのかと、そう聞いた。

 そして群像は、こう答えたのだ。

 

 

『彼女は、オレの家族です』

 

 

 聡い少年だと、そう思う。

 エリザベスが聞きたかった答えを的確に理解したところは、特にそう思った。

 ただ、形ばかりの言葉であればエリザベスの心は動かなかっただろう。

 そのエリザベスの心が動いたと言うことは、群像の言葉に彼女を動かす真があったと言うことだ。

 

 

「ふふ、ダメね。あのくらいの年頃の子を見ると、つい思い出してしまって」

「……そうだね」

「きっと今頃は、あのくらいになっていたわよね」

「そうだね、リズ。きっとそうだよ」

 

 

 夫に、エリザベスは微笑んで見せた。

 それから再び窓の外を見て、ガラスに映る自分自身と見つめあった。

 大統領の衣を纏った、自分。

 

 

「私も、しっかりしないとダメね」

「キミはずっとしっかりしているよ、キミが思っている以上にね」

「……有難う、ロブ」

 

 

 その時、電話が鳴った。

 執務卓に置かれたそれはレトロな黒電話の形をしていたが、機能そのものは他の端末と同じだった。

 手を上げて夫を止め、エリザベスは自分で電話を取った。

 

 

「私よ。こんな夜中に起こして悪かったわね、ええ。ええ、ええ、そう、呼んで欲しいの、明日の朝に」

 

 

 頷き、エリザベスは言った。

 

 

「ミスター・ウィリアムをホワイトハウスに」

 

 

 エリザベスは、己が大統領であると同時に()()()()()であることを知っている。

 だから彼女は、自ら危険な賭けに出ることを躊躇わなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 コロナド基地の地下ドックへ戻るためには、アメリカ側のチェックを受けなければならない。

 当たり前のことではあるが、出入りに時間がかかるのはこう言う時には面倒だった。

 ただ戻ってこないメンバーについて深く追及して来ないのは助かった、大統領が手を回しているのかもしれない。

 

 

「ただいま~」

 

 

 あおいがイ404に戻って来た時には、紀沙の拉致からすでに4時間が経過していた。

 群像達と別れてからは2時間半が経過しており、イ404側は焦れている頃だった。

 

 

「艦長は?」

「まだ何とも~。トーマ君達が情報屋さんの所に行ってるところだと思うけど」

「ちっくしょう、こんなんじゃ落ち着いて仮眠も取れやしないよ」

 

 

 艦内に入るなり、梓が駆け寄ってきた。

 よほど苛立っているのか、右の拳を左の掌に打ち付けた。

 

 

「戻りましたか。では、後はお願いします」

「はいはぁい、任せて~」

 

 

 あおいが戻って来たのは、状況報告のためと、静菜と交代するためである。

 普段の作業着姿とは違う()()()()姿の静菜に、あおいは「あらあら」と言った風に頬に手を当てた。

 そう言う任務では、あおいが自分が役に立たないことを理解していた。

 

 

 その時、ふと小さな視線に気付いた。

 蒔絵だった。

 通路の角から身体を半分隠すようにしてこちらを見つめていて、その視線はどこか不安げだった。

 流石に横須賀とは違って、コロナド基地に単身忍び込んだりはしていない。

 

 

「あらあら、蒔絵ちゃん。どうしたの~?」

「……あのお姉さんは、まだ帰って来ないの?」

「そうねぇ、まだお仕事なのよ~」

「あっちのお姉さんは、今からお仕事なの?」

「そうねぇ、色々と大変そうねぇ」

 

 

 蒔絵には、常に誰かがついている。

 紀沙の命令と言うかお願いのためで、振動弾頭の開発者の保護と言う意味では妥当な判断だと言えた。

 また、潜水艦と言う不健康な――自分達で言うのも妙な気はするが――場所で生活する以上、そう言う意味でも誰かが傍にいた方が良いと言う判断だろう。

 

 

「…………」

 

 

 ただ、聡い子だ。

 今も何かを感じ取っているのだろう、沈んだ顔を見せている。

 あおいは柔らかな笑顔を浮かべると、ゆっくりと蒔絵の頭を撫でた。

 

 

「さ、今日はもう遅いわ。明日の朝には皆帰って来るから、早く寝ましょうねぇ」

「……うん」

 

 

 明日の朝には、皆が帰って来ている。

 それは、あおい達が自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 静かに、しかし確実に事態は進行している。

 そうした動きの中で自分達が蚊帳の外に置かれているような心地を、駒城は感じていた。

 

 

「大丈夫でしょうか、紀沙艦長は」

「そんなことをここで心配しても始まらんだろう、信じて待つことだ」

 

 

 白鯨の発令所は、緊張の中にあった。

 艦長のシートに座る駒城は苛立ち混じりに膝を揺らしていたし、その隣――オブザーバーの席――で、浦上は普段と変わりの無い様子を見せていた。

 ただ声には嗜めるような響きがあり、浦上も無心では無いことが窺える。

 彼らはイ404側からの緊急連絡を受けた後、不測の事態に備えて白鯨にいた。

 

 

 艦内に警戒態勢を敷きつつ、イ404側からの再度の連絡を待つ。

 それが良い報せになるのか悪い報せになるのかは、まだわからなかった。

 今、基地の外にいるイ404のクルーと群像達が紀沙救出のために動いているはずだ。

 時間までに基地に戻っていないと言うのは不味いが、緊急事態だ、大統領も黙認してくれている。

 

 

「大丈夫ですよ」

 

 

 そんな中で、真瑠璃だけがひとり平然としていた。

 カチカチと携帯端末を指先で操作しながら、駒城達に向けて大丈夫だと言った。

 実際、真瑠璃の表情に焦りや憂いの色は見えない。

 むしろ安心の色さえ見えて、駒城は訝しげな顔をした。

 

 

「群像艦長がいます。彼がいるのであれば、私達が心配することは特にありません」

 

 

 笑顔すら浮かべて、真瑠璃は言った。

 それは本心だった。

 事実として、真瑠璃は群像が紀沙を助けに行ったと聞いた段階で心配はしていなかった。

 自分が考えたり気を揉んだりする必要は無くなった、とすら考えている。

 

 

「むしろイ401とイ404の防備が弱まっています。霧の艦艇ですから問題無いとは思いますが、それでもです。万が一に備えて、クルツ中尉と海兵隊コマンドを待機させるべきです」

 

 

 過激なお嬢さんだな、と、浦上は思った。

 何故なら真瑠璃の提案はアメリカ軍の裏切りを想定してのことで、しかも一戦も辞さないと言う意味を持っていたからだ。

 しかし考え過ぎだと笑い飛ばせる程に、浦上の頭はお花畑では無かった。

 千早兄妹とのパイプ役程度に思っていたが、少し考えを改める必要があるかもしれない。

 

 

 そしてもう1つ、浦上には見えたものがある。

 それは真瑠璃が、群像と紀沙、イ401とイ404の4つのことだけを考えている、と言うことだ。

 真瑠璃の考えは正しい、今の自分達にはあの2人と2隻が何よりも重要だからだ。

 問題があるとすれば、真瑠璃が自分自身を守るべき重要なものの中に含めていないように見えるところか。

 

 

(そう言えば、このお嬢さんも千早の(せがれ)達に縁があるんだったな)

 

 

 海洋技術総合学院、真瑠璃も含めて()()()()は妙な縁に巡り合せたものだ。

 そして胸ポケットの中に入れたままの「封筒」のことを思い出して、浦上は唸るように瞑目したのだった。

 夜明けは、まだ遠い。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、相手の出した条件が良くわからなかった。

 いや、条件の内容がわからないわけでは無い。

 ただ、その意図が読めなかったのである。

 

 

「艦に乗せろ、と言うのはどう言う意味だろうか」

『そのままの意味ネ。ミーをユー達日本艦隊の艦に乗せて欲しいんだ。艦はどれでも構わない』

 

 

 答えは、明瞭だった。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()、条件はそれだけだ』

 

 

 アメリカの情報屋を、日本に連れて行く。

 正直、意味は良くわからない。

 ただ条件としては破格に見える、何しろ金銭や物資を要求されたわけでは無いのだ。

 それで紀沙の情報を得られるのであれば、条件を呑んでもお釣りが来る。

 

 

 それに紀沙の居場所を知るだけでは救出は出来ない、他にも色々な情報が要る。

 となれば、情報屋自身がこちら側に来ると言うのは魅力的だ。

 他にも様々な情報を持っているだろう。

 

 

「……オレの一存で決めることは難しい」

 

 

 ちらりと冬馬と良治を見て、群像は言った。

 

 

「それに日本艦隊の今後の行動も、まだはっきりと決まっていない。艦に乗ったからと言って、すぐに日本に向かうとは限らない」

『条件は1つ、そう言ったはずだよ群像ボーイ』

「……オレのことも知っているのか」

 

 

 特に情報を封鎖しているわけでは無いし、学院の記録を探せば出てくる情報だ。

 あるいはアメリカ政府に渡ったプロフィールからか。

 いずれにしても、やはりこの情報屋の腕は確かなようだった。

 

 

『ミーの要求は1つ、ミーを日本に連れて行くこと。どれだけ時間がかかっても、どれだけ寄り道しようと構わない。ミーを日本に()()()()()()くれるなら、ミーは何でもやるよ』

「……それ程までに、か」

『それ程までに、だ。例えば、もし要求を呑まないならこの人形に仕込んだ爆弾をエクスプロージョンさせるくらいには本気だよ』

「んなっ!」

 

 

 冬馬は組んでいた腕を解いた、こんな密閉空間で爆発など洒落にならない。

 だが群像は慌てなかった、回避できる脅しは脅しでは無い。

 

 

「情報屋、確認する。キミを日本に連れて行く以外に条件は無いんだな?」

『ナッシング』

「そうか」

 

 

 目を閉じて、すぐに目を開いた。

 元より選択肢は無い、時間も無い。

 だから群像は真っ直ぐに人形を見つめた、おそらく相手も群像を見つめているだろう。

 群像達の必死さを笑いながら、そしておそらく群像達よりも必死に。

 群像が、口を開いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――紀沙は、霧が憎かった。

 家族を奪った霧が憎かった、自分の人生を奪った霧が憎かった。

 心の底から、この世から霧が消滅してしまえば良いと願っていた。

 振動弾頭の輸送も、その一念でやっていたようなものだった。

 

 

(ミスター・ウィリアムの提案に応じれば、それが出来るかもしれない)

 

 

 霧の北米方面艦隊を壊滅させられるなら、他の霧の艦隊も同様だろう。

 モデルケースになり得る作戦ならば、他の国にだって可能かもしれない。

 今は霧優位のパワーバランスも、一挙に人類側に傾くだろう。

 そうなれば、創意工夫の力に劣る霧が再び優位に立つのは難しいはずだ。

 

 

「どうかな、キサ艦長。我々と共に、人類の未来を切り開こうでは無いかね」

 

 

 そう言う意味で、ウィリアムの提案は魅力的だ。

 提案する相手に紀沙を選んだことも、ウィリアムの目の正しさを証明している。

 ただ惜しむらくは、さしもの彼も紀沙の心までは読めなかったと言うことだ。

 

 

 正直、迷った。

 心揺れたと言っても良い。

 もし紀沙が日本では無くアメリカで生まれ育っていたなら、一も二も無く協力しただろう。

 最も、その場合の紀沙は霧の艦長にはなれていなかっただろうが。

 

 

「ミスター・ウィリアム。申し出は嬉しく思いますが」

 

 

 つまり、ウィリアムは紀沙を見誤っていた。

 

 

「私は日本の軍人です」

 

 

 紀沙にとって、日本の軍人であると言うことは特別な意味を持つのだ。

 父と兄が国を裏切った――と、思われている――今、千早家の名誉を守るためにも、日本の軍人としての職責を全うしなければならない。

 それにもし自分まで国を出てしまったら、残された母はどうなるのか。

 

 

 自分を守ってくれた北の立場は、どうなるのか。

 それだけでは無い、紀沙と共に死地を潜り抜けてきたイ404のクルー達の想いはどうなるのか。

 紀沙は自分が未熟な艦長であることを知っている、しかし艦長としての心構えは北に訓示されている。

 それは。

 

 

「私に信じてくれる人達のことを、裏切ることは出来ません」

 

 

 それは、信頼を裏切らないと言うこと。

 狭い艦内で不信が広がれば、それは死に直結する。

 だから艦長はクルーの信頼を裏切ってはならない、軍人は同じ軍人を裏切ってはならない。

 ましてクルーは艦長の所有物では無い、彼らの未来を軍令の範囲外で決めてはならないのだ。

 だから紀沙は、ウィリアムの申し出を受け入れることは出来なかった。

 

 

「ふむ、それは日本政府が命じても変わらないのかね?」

「出てもいない命令について、私には判断することは出来ません」

「教科書的な回答だな、実につまらない。組織の論理に殉じるよりも、自分の才覚を試したいとは思わないのかね?」

「……思いません」

 

 

 元より、兄である群像にも遠く及ばない才覚だ。

 自身の栄達を求めると言う考えは、紀沙には無い。

 

 

「ふぅむ、参ったな。まさか断られるとは思わなかった、なぁジャン」

「そうだねぇ、僕としてもビジネスに響くのは勘弁してほしいな」

 

 

 紀沙は、ウィリアムの提案に首肯できない。

 問題は、セールスでは無いので、断ったからと言って帰れるわけでは無いと言うことだ。

 と言うか、最悪の場合は……。

 

 

「とは言ってもね。女性に手荒な真似は出来ないだろ、ウィリアム?」

「そうだな、ならば根気良く説得するしかあるまいな」

「…………」

 

 

 信用は置けないが、ウィリアムとジャンには本当に「手荒な真似」をするつもりは無いらしい。

 実際、困ったように腕を組んで考え込んでいた。

 室内に兵士を招き入れる様子も無い。

 特殊部隊を使って拉致しておいて今更だが、そう言う意味での「手荒」は避ける方針らしかった。

 

 

「まぁ、とにかく。美味しい食事でも取りながら」

「ねぇ、あなた?」

 

 

 その時だ、ジャンの隣にいた女性が初めて口を開いた。

 ニナと言ったか、呼び方からして夫婦なのだろう。

 何というか、典型的な金髪モデル体系の美女、と言う風な容姿の女性だった。

 ツリ目が少しキツい気もするが、もしかするとジャンよりさらにひと回り年下かもしれない。

 

 

「男2人に詰め寄られては、その子も緊張してしまうわ。もし良かったら、私と2人きりにさせて貰えないかしら」

 

 

 女性と2人きりか、と、紀沙は思った。

 少々ズルいかもしれないが、その方が活路を見出せるかもしれない。

 

 

「い、いや、それはちょっと。やっぱりビジネスの話だしね、僕達がいないと」

 

 

 だからジャンが断るのを、別に不思議とは思わなかった。

 ただ何となく違和感を感じるとすれば、ジャンが少し表情を引き攣らせたことだろうか。

 何と言うか、紀沙に逃げられるかもしれない、と言う類のものとは違った気がするが……。

 

 

「……何事だ?」

 

 

 その時だった。

 甲高い、夜の静寂を引き裂くサイレンが鳴り響いたのは。

 それは世界各国共通の警戒警報で、一度聞けば外国人の紀沙でも意味がそれとわかった。

 ――――まして、爆発音まで聞こえてくれば。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 今年で24歳になるカリフォルニア陸軍州兵、クリスは、特に特徴の無い一般的な州兵だった。

 普通に志願し、普通に入隊し、普通に任務に就いていた。

 3年前に付近で起きた山火事の際に災害出動し、遠足に来ていた子供達を救助したことが自慢の、普通のアメリカ人の若者だった。

 

 

「ぐ、お……」

 

 

 そのクリスが今、逆さまになった車両の中で呻き声を上げていた。

 深緑色の、タイヤが8個もついた戦車に似た車両だ。

 ただ戦車のような砲塔はついておらず、いわゆる装輪装甲車と呼ばれる車両だった。

 それでも重機関砲を搭載した強力な車両であって、余程のことが無ければ引っ繰り返ったりはしない。

 

 

 だが今、車両の中から這い出たクリスの目の前で、その「余程のこと」が起こっていた。

 と言うか、これは現実なのだろうか?

 夢で無いのなら、ここは地獄だ。

 何故なら、今、彼の目の前では――――。

 

 

「――――流石に鬱陶(うっとう)しいな」

 

 

 赤い火焔と立ち上る白煙が、熱気を伴ってあたりに吹き荒れていた。

 重力場のフィールドの中にいるスミノは感じないが、外に出れば相当の熱を感じたことだろう。

 スミノが立っている場所から基地の正面ゲート――サンディエゴ市街地から東に15キロ程、貯水池と自然保護区の狭隘な土地に築かれた基地だ――までは僅か数百メートル、その僅か数百メートルの間に、何両もの車両や火砲が横転、あるいは不自然な形にひしゃげて破壊されていた。

 

 

「艦長殿もそうだけれど、人間と言うのはどうしてこう無駄なことが好きなのかな」

 

 

 ちらりと視線を上げれば、フィールドの外郭を絶え間なく叩く銃弾が見える。

 自動小銃(カービン)重機関銃(ブローニング)、建物の陰や窓、横転した車両等の遮蔽物の間から絶え間なく弾丸が発射されている様子が見える。

 射撃の光は濃密の一言で、普通の人間がバイザー無しで見続ければ目を焼かれただろう。

 

 

「さて、どうしてやろうかな」

 

 

 その濃密な銃弾の嵐の中を平然と歩きながら、スミノはあたりをきょろきょろと見渡していた。

 足元の残骸を蹴り転がしながら進み、何となく攻撃が激しい方向に向かう。

 セオリー通りなら、1番重要な場所に兵力を集中させるだろうと言う考えからだ。

 まぁ、もしかすると単純に()()()()正面玄関から入ろうとしているだけかもしれないが。

 

 

 おや、と顔を上げた。

 すると銃弾とは違う一際大きな砲弾がフィールドの天頂部にぶつかり、爆発を起こした。

 大砲では無く、放物線を描きながら落下する迫撃砲弾だった。

 スミノの姿が爆発に呑まれて、一瞬、消えた。

 

 

「どうだ、やったか?」

 

 

 少し離れた位置にいた砲兵が、生唾を飲み込みながらそう呟く。

 歩兵部隊の観測で砲弾を叩き込んだ、通信から聞こえる歓声からして直撃したはずだ。

 しかし。

 

 

「な……!」

 

 

 ぼんっ、と、爆煙の中から何かが飛び出して来た。

 何かと言うか、それは人の形をしていた。

 人の形をした何か、スミノは一息に数百メートルを飛び越えると、呟きを発した兵士の顔を掴んだ。

 みしり、と、嫌な音が頭蓋から響く。

 

 

「ぐおっ!?」

 

 

 スミノはその兵士の身体をフィールドで覆うと、棍棒か何かのように振り回した。

 小柄な少女の姿からは想像も出来ぬ膂力(りょりょく)、それでももって、周辺に設置された迫撃砲を薙ぎ払った。

 フィールドがぐにゃりと歪み、地面ごと掬い取って吹き飛ばす。

 

 

 周辺の兵士達が悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 その背中に向けて、手に持っていた兵士を投げ飛ばす。

 ボウリングでピンが弾き飛ばされるのと同じ要領で、人間が吹き飛んだ。

 その時、爆発や銃弾とは違う音が空から聞こえて来た。

 

 

「大歓迎だね、でも貰ってばかりじゃ申し訳ないからさ」

 

 

 ヘリコプター、重機関銃の銃口が当然のようにこちらを向いていた。

 それを見て、スミノは地面に転がっていた予備の迫撃砲弾を爪先(つまさき)で蹴り上げた。

 

 

「プレゼントだよ」

 

 

 蹴り上げた砲弾を掌で打ち上げると、ボッ、と空気の壁を突き破る音が響いた。

 砲弾は真っ直ぐに飛び、ヘリコプターの重機関銃を粉砕して、そのままヘリの胴体を突き破って反対側に抜けた。

 機関やプロペラはわざと避けた、突き抜けると同時に砲弾を覆っていたフィールドを解除する。

 

 

「どかーん」

 

 

 赤い爆炎が、夜空を照らした。

 直撃こそ避けたものの、至近での爆風に煽られたヘリコプターはバランスを失い、緩やかに回転しながら地面へと落下して行った。

 落下したヘリから搭乗員達が泡を食って飛び出し、その直後にヘリが火を噴き始めた。

 

 

 地獄だった。

 たった1人の正体不明の少女によって、予備部隊とは言え1国の軍隊が、1国の基地が蹂躙されている。

 スミノが歩いた後には破壊された兵器や建物、その傍で呻く兵士達の姿しか残らなかった。

 鼻歌を歌いながら歩いていると、スミノは横転した装甲車の下から自分を見上げている男に気付いた。

 額から血を流しながら、彼は明らかな怯えを含んだ視線でスミノを見ていた。

 

 

()化け物(モンスター)め……!」

 

 

 そんな彼に対して、スミノはにっこりと笑顔を浮かべた。

 誰よりも可憐な笑顔はしかし、火焔に照らされて不気味に見えた。

 そして、片目のメンタルモデルは言った。

 

 

「ねぇ、艦長殿がどこにいるか知らないかい?」

 

 

 そんなスミノの背後で、墜落したヘリコプターが大きく爆発した。

 




登場キャラクター:

ジョン:大野かな恵様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。
もう少し進めたかったですが、少し自重して次回へ。

なお次回はリアルの都合のため、申し訳ございませんが更新をお休み致します。
次回の更新は8月12日金曜日となります。

それでは、また次回。


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Depth026:「商談と銃弾と」

 スミノが、来た。

 紀沙が左目の痛みと共にそう確信した時、ウィリアム達も同じ確証を得た。

 ただしウィリアム達は、基地の責任者からの連絡と言う形でそれを知った。

 

 

「するとこう言うわけかね、基地司令官。キミ達はたった1人の少女に良いようにやられていると」

『は……面目次第もありません。ミスター・ウィリアム、ただちに避難を』

「冗談も休み休み言い給え。大統領になろうと言う男が少女1人怖くて逃げ出したなど、良い笑い者だ。キミ達の責任でもって、侵入者を排除し給え――――……さて、これは参ったな」

 

 

 通信を切り、さして困っていない様子でウィリアムは言った。

 彼としては別に州兵に守られて避難するのも吝かでは無かったが、今回の場合は避難しても意味が無いと判断していた。

 理由は、1つしか無い。

 

 

「おそらく、今この基地を攻めているのはメンタルモデルだろう。何度か資料で北米艦隊のメンタルモデルについて見たことがある」

「ふぅん、あれがそうなのか。僕は初めて見るよ」

 

 

 食堂の壁がスライドして、大型のモニターが現れていた。

 元はシアター用らしいが、基地内の監視カメラの映像を映し出すことも出来る。

 8分割されたモニターのいくつかは火焔の赤に染まり、破壊されたらしい物は砂嵐を映し出していた。

 そして現在は、右端のモニターに映る光景が最も激しく変化していた。

 

 

 基地施設の入口だろう、広々としたホールが見える。

 ただし、そのフロアが元はどんな姿をしていたのかはわからない。

 もはや原型を留めない程に破壊し尽くされたそこには、ウィリアム達の言うように1人の少女が立っていた。

 言うまでも無く、霧のメンタルモデル――スミノである。

 

 

「さて、これで立場が逆転してしまったことになるのかな?」

 

 

 どこか余裕がありそうな態度なのは、良い意味で諦めているからだろう。

 自然体のウィリアムに、優位に立ったはずの紀沙は何も言葉をかけることが出来なかった。

 いや、そもそも優位に立ったと言う気持ちにはなれなかった。

 自分は未だウィリアム達に囚われた状態であり、彼らが凶行に及ぶ可能性も残っている。

 

 

「まぁ、ビジネスは時には諦めることも大切だからね。今度はエリザベス大統領に直接売り込みをかけるとしようかな」

「お前と言う奴は。何も私の前で言わなくとも良いだろう」

「僕はあくまでビジネスマン、党員でも無ければサポーターでも無いからね。身軽なものさ」

 

 

 ただ、その心配は必要ないようにも思えた。

 何故なら出会ってからこっち、ウィリアムもジャンもこちらに危害を加える素振りを見せていない。

 まぁ、拉致と言う最初の手段を除けば、だが。

 それに多分、指摘しても責任を取らされるのは彼らでは無いような気がする、それが政治だ。

 

 

(……あれ、じゃあ私のこのわだかまりはどこにぶつければ?)

 

 

 近い内にやって来る――しかも、自分を()()()やって来る――だろうスミノが自分を見てどんな顔をするのか、考えるだけで憂鬱になった。

 しかしそう言うことを考えてしまうあたり、紀沙は弛緩していた。

 緩み、油断していた。

 

 

「…………」

 

 

 だからジャンの妻、ニナが席を立っても気に留めなかった。

 今さら、と言う気持ちがあったのかもしれない。

 しかし、紀沙は忘れていた。

 時として、女性は男性よりも激しく状況を動かし得ると言うことを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 無人の野を行くが如しとは、今のスミノのことを言うのだろう。

 事実、スミノはさほど苦労せずに基地を()()していた。

 もちろん、スミノ自身にそんな意図は毛頭無いわけだが。

 

 

「さーて、艦長殿はどこかな、と」

 

 

 スミノは基地の施設内に堂々と入り込んで、我が物顔で練り歩いていた。

 そこは瀟洒な造りのホールになっていて、基地と言うよりはホテルと言った方がしっくりと来た。

 最も、そこかしこから銃弾が飛び交って来ることを除けば、だが。

 

 

「奴を止めろ!」

「これ以上は進ませるんじゃあ無いぞ!」

 

 

 スミノにしてみれば、「まぁご苦労様なことだねぇ」と言ったところである。

 とは言え、良い加減に諦めて欲しくも思っていた。

 何しろただの銃弾がスミノのフィールドを突破できるはずも無く、言ってみれば絶え間なく玄関の扉をノックされ続けているような状態である。

 いくらスミノが淡白と言っても、五月蝿いとは思うのだ。

 

 

「別に何もしやしないから、黙って見逃してくれないか……なっ!」

 

 

 受け止めて固定した銃弾を、360度にそのまま()()()()()

 相手の攻撃をそのまま反射した形で、結果は凶悪だった。

 射線そのままに反射した銃弾は、寸分狂わずに元の場所に戻った。

 すなわち、兵士達の持つ銃筒の中に飛び込んだのだ。

 

 

 凄まじい弾道計算力だった。

 スミノを取り囲んでいた兵士達は銃の爆発に巻き込まれ、悲鳴や呻き声を上げながら倒れていった。

 そしてその間を、スキップしそうな足取りでスミノが歩いていく。

 ピチャピチャと血の水溜りを蹴りながら、先へと進むスミノ。

 純真な少女と血だるまの兵士達、そのギャップは恐怖心を呼び起こすには十分な組み合わせだった。

 

 

「やっと静かになった」

 

 

 にこりと笑って、スミノは言った。

 誰にも彼女を止められない。

 誰にも彼女の邪魔をすることは出来ない。

 この基地はこのまま、たった1人――いや、1隻の霧の艦艇に蹂躙される。

 その場にいる誰もが、そう思った時だ。

 

 

『――――メンタルモデルに告ぐ』

 

 

 基地の放送システムにより、女の声が基地中に響き渡った。

 

 

『基地を侵攻中のメンタルモデルに告ぐ。貴女の艦長は預かっているわ』

 

 

 その言葉に、スミノは足を止めた。

 ゆっくりと顔を上げて、天井の隅へと視線を向ける。

 そこには、半円形の形をした監視カメラが鎮座していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 情報屋(ジョン)から必要な情報を得た後、群像はそのままの足でサンディエゴの中心街へ向かった。

 本当ならすぐにでも紀沙救出と行きたかったのだが、その前に会っておきたい相手がいた。

 

 

「で、誰なんだよ。その会いたいって奴は」

 

 

 アメリカ軍に借りた車――もちろんGPS付き、なお免許証は期限付きで特別交付――を運転しながら、冬馬は後部座席に座る群像に視線を向けた。

 バックミラー越しに見えるその顔は、相も変わらずの仏頂面だった。

 群像は手元の携帯端末を操作しながら、顔を上げないままに言う。

 

 

「説明するより、直に会った方が早いだろう」

「敵か味方かぐらい教えとけよ」

「どちらにしろ会っておく必要がある相手だ」

 

 

 なるほど、紀沙とは違うと冬馬は思った。

 紀沙は説明しろと言ったら一から十まで説明しようとするが、群像は下手すれば一すら説明しない。

 自分の中で計算式が定まるとそれに集中するタイプで、付き合うには一定の慣れが必要だ。

 ただしこのタイプは、嵌まれば強い。

 

 

 ぶっちゃけて言えば、()()が悪い人間は群像とは付き合えない。

 群像の一挙手一投足から次に何をしたいのかを察する、それが出来れば極めて近しい関係になれる。

 紀沙は物腰の丁寧さから、初対面ならば好印象を受けるタイプだが……この点、群像とは逆である。

 

 

「ったく、こちとら静菜とも合流しなきゃいけねーのによー」

(まぁ、実は紀沙ちゃんの方が人付き合いが下手なんだけどね)

 

 

 口には出さずに良治がそんなことを思っていると、どうやら目的の場所についたようだ。

 豪奢な門に、サンディエゴ市街の灯りに負けない程の、それでいて見る者を落ち着かせる色合いの照明に照らし出されているのは、数十階建ての建物だった。

 一部にブルーライトでも使っているのか、箱型の建物が美しくライトアップされていた。

 

 

「何だここは、ホテルじゃねぇか。野郎と来たくない場所トップ3に入る場所だぞ」

「チェックインするにしては遅い時間だと思うけど」

「わかっていると思うが、オレ達は宿泊に来たわけじゃない」

「じゃ、休け「はいそこまでー、ドクターストップだよー」もがもが」

 

 

 バタン、と車のドアを閉めると、相手の人物はすでに来ていた。

 まぁ、相手はこのホテルに泊まっているので、来ていたと言う表現は正しくないのかもしれない。

 ただ護衛もつれず1人でいると言うのは、聊か驚きだった。

 

 

「好都合だ、他人に聞かれたく無い類の話だからな」

 

 

 群像はそう言って、ホテルの入口に立つその人物の前まで歩いた。

 目の前に立つと、握手を求める。

 相手は、その手をじっと見つめ返していた。

 

 

「夜分に申し訳ない、しかし重要な話なのです」

 

 

 群像は、そんな相手の顔から目を逸らさなかった。

 

 

「お話を聞かせて頂けますね――――南野武官」

 

 

 在アメリカ駐在武官、南野の顔を。

 そして南野は、群像の言葉に重々しく頷くのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそもだ、アメリカと言う国は必ずしも外国人に対して寛容な国では無い。

 移民国家である一方、いや移民国家だからこそ、「私達(国民)」と「お前達(外国人)」と言う線引きはよりシビアになる。

 市民権と言うのは、その典型的な例であろう。

 

 

 そして17年前の敗戦によって、アメリカも他の国々と同様に、霧の海洋封鎖によって母国への渡航手段を失った多くの外国人を抱えることになった。

 その規模、実に数百万人。

 しかもこの数字は純粋な観光客等、その時たまたまアメリカにいた短期滞在者だけの数字だ。

 さらにそこに企業の駐在員等、いわゆる在米外国人が加わる。

 

 

「わかりますか。家も仕事も無い多くの人間が、いきなり異国の路頭に放り出されたのです」

 

 

 いかな大国と言えど、抱えきれるものでは無い。

 そして人々は自国の大使館や領事館を頼った、平時であればそれで問題無かっただろう。

 だが、数百万人――日本だけでも、数十万人の人々を大使館レベルで保護出来るわけが無い。

 各国の大使館・領事館はアメリカに求めた。

 

 

 ()()()()()()()

 

 

 勘違いしてはならないのは、自分達をアメリカ人にしてくれと言う話では無いと言う点だ。

 中にはそう言う外交官もいたかもしれないが、日本の大使館・領事館ではそう言うことは無かった。

 多くの大使館は、自国民を敷地内に入れないで欲しいとアメリカ政府に要請した。

 どうすることも出来なかったからだ。

 パスポートの発行や病院の世話どころでは無い、数十万人が「食わせろ」と押し寄せて来たのだから。

 

 

「まずアメリカ政府は、陸続きのカナダや中南米の人々を帰国させました。これは比較的に上手くいきました、外交的な話し合いで解決したと言う意味では」

 

 

 悲惨だったのは、海の向こう側の国々の人々だ。

 市民権や在米永住資格を持っていた者以外は、例外なくアメリカ政府の指定する地域に隔離された。

 事実上の、強制収容である。

 特に今のエリザベス政権になる前の8年間は、ピークだった。

 

 

「エリザベス大統領は、収容所の解体を進めました。仕事と手当てをつけて少しずつ、少しずつ人々を社会に復帰させて行きました。アメリカ社会の側が反発しないように慎重に、確実に。そのおかげで、日本人の収容所はこの4年で半分近くが解体されました」

 

 

 収容所の生活は、過酷なものだ。

 カリフォルニアの収容所は近郊に砂漠があることもあって、風は鋭く寒暖の差は激しい。

 水と食糧も僅かで、粗末な家に何十人もがすし詰めにされた。

 各国の外交官はそれでも抗議の声を上げなかった、本国では自分達も似たようなことをしていたからだ。

 

 

「おかしいと思ったのは、最初にコロナド基地で出迎えられた時でした」

 

 

 そうした事情を聞いた後、群像が口を開いた。

 南野が泊まっているホテルの部屋で、2人は互いに向かい合って座っている。

 良治と冬馬も、壁やベッド等思い思いの場所で話を聞いていた。

 

 

「大使が来ず、駐在武官の南野さんが来た。考えてみればおかしい」

「おかしくはありません。何故なら、大使は来られないからです」

「来られない」

「亡くなられているのですから、来られるはずが無いのです」

 

 

 本国にも伝えていないことだった。

 何しろ通信と言えば、衛星を使った断続的なメール通信だけの時代だ。

 リアルタイムの映像通信など、ケーブルを通せる陸続きの国だけでしか出来ない。

 

 

「自殺したのです、大使は。重圧に耐え切れずに」

 

 

 同胞を見殺しにすると言う決断に耐え切れずに自殺する外交官は、後を立たなかった。

 南野は軍人だけあって、不幸なことにそこまで追い詰められはしなかった。

 いや、もしかしたら死を選べる程に()()では無かっただけなのかもしれない。

 違法性を認識しつつも大使を代行し、大使館職員の動揺を抑えて来た。

 

 

「……エリザベス大統領に感謝しているはずのあなたが紀沙の拉致に加担したのは、収容所の今後のため、ですね?」

「もはや隠し立てしても仕方ありませんか。この国に来たばかりだと言うのに、貴方達は良い情報網をお持ちのようだ」

 

 

 繰り返しになるが、アメリカには州政府と言うものが存在する。

 これは内政においてはアメリカ政府をも上回る権限を持っており、収容所の解体には州政府の同意が不可欠だ。

 そして今のカリフォルニア州知事は国政における野党の出身、つまりは……。

 

 

「ウィリアム・パーカー氏の協力が無ければ、今後の収容所……と言うより、日本人社会の運営もままならない。そう言うことですね?」

「ええ、そうです。そのために私は千早紀沙に関することを()()することにしました」

 

 

 ウィリアムの目論見が上手く行けば、それで良し。

 失敗しても、悪くはならない。

 紀沙が戻って報告したとしても、霧の封鎖が解けない限りは本国は何も出来ない。

 むしろ何かしてくれと、そう言う思いもあった。

 

 

「てめぇ」

「トーマ」

 

 

 冬馬が、南野の胸倉を掴み上げた。

 良治は言葉では止めつつも、実際に動くことは無かった。

 そして冬馬がそれ以上のことをしなかったのは、南野が真っ直ぐに彼を見返して来たからである。

 罪悪感はあるが、後悔はしていない、そう言う顔だった。

 

 

「南野さん」

 

 

 そして、群像はそれでも冷静だった。

 

 

「オレ達はあなたを責めに来たわけじゃない。ただ、お願いがあって来たんです」

「お願い? 私に出来ることであれば、聞きたいとは思いますが」

「簡単です、ウィリアム・パーカー氏にしたことと同じことをしてほしい」

 

 

 ゆっくりと視線を向けてくる南野に、群像は言った。

 

 

「今夜オレ達がやることを、黙認してほしい」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イオナは思考する。

 自分とスミノの違いは、どこにあるのだろうかと。

 共に自分の艦長を特別視しており、その命令には忠実に従う。

 だが、この2隻の霧の艦艇では在り方が全く異なっていた。

 

 

 艦長との関係。

 クルーとの関係。

 そして、人間社会との関係。

 正直、この2隻には共通項がほとんど無いと言うのが実情だった。

 

 

「わかった、待機する」

 

 

 1番の違いはやはり、艦長との関係であろう。

 群像からの通信を受けたイオナは、クルー達と共に自らの発令所で待機していた。

 艦長からの指示でいつでも動けるようにである。

 

 

「しっかしまぁ、州兵だって? アメリカには妙なもんがあるんだな」

「市民が武装する国ですからね。自分達のことは自分で、と言う歴史がそうさせるのでしょう」

 

 

 杏平と僧、群像がいない場合はこの2人が艦の方針を決めることが多い。

 特に僧は副長であり、艦長不在の場合は彼が艦長代理として指揮を執ることになる。

 最も、僧は早々とイオナに指揮権を渡してしまったのだから。

 

 

「紀沙ちゃん、大丈夫かなぁ」

 

 

 そしてそんなイオナを膝に乗せて髪を三つ編みに結びながら、いおりは紀沙のことを案じていた。

 発令所には彼女の席が無いため、群像の席に――僧に「そこは艦長の席ですよ」と注意されつつ――座っていた。

 そこからだと沈んだ表情でソナー席に座る静が見えるので、いおりはそちらにも気遣わしげな視線を向けていた。

 

 

「群像によると、この件については私たちの出番は無い可能性が高いらしい」

 

 

 陸上戦力が無い以上、仕方の無いことだった。

 ただ霧の艦艇は、海上からの対地攻撃だけで十分な戦力と言える。

 だから待機することには意味がある、が、もどかしいのも事実だった。

 何しろイ401のクルーの多くにとって、紀沙は知らない相手では無いのだ。

 

 

『姉さま』

 

 

 やきもきする様子の仲間(クルー)を横目に、イオナはヒュウガと話していた。

 イオナにしろヒュウガにしろアメリカ軍のドックの中だ、()()()()外に出れるとは言え、傍受を警戒して秘匿性の高い概念伝達での会話である。

 

 

『こちらで観測していたイ404……スミノですが、少々厄介な状況に陥っているようでして』

「ふん?」

 

 

 イオナとスミノは、共通項が少ない。

 言うなればイオナにとってスミノの行動は「自分が取らなかった行動」と言い換えることも出来る。

 そのスミノの行動の結果については、イオナも無視することが出来ないのだった。

 何故なら、そこにいるのは自分だったのかもしれないのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スミノの右目は、見つめるだけで監視カメラを乗っ取ることが出来る。

 例えば紀沙のいる部屋を割り出し、その部屋のカメラから様子を窺うなど造作も無いことだった。

 そして、紀沙の様子を見たスミノはただ一言、呟くように言った。

 

 

「何というか、随分な格好だね。艦長殿」

 

 

 赤いイブニングドレス姿と言うのもそうだが、後ろ手に縛られていることを指してそう言った。

 こちらの声も拾っているのだろう、スミノの声を聞いた紀沙が顔を歪めた。

 それがどんな感情に起因するものなのかは、スミノにはわからない。

 

 

 まぁ、ともかくだ。

 スミノにとって重要なのは、紀沙が生きていること――例え後ろ手に縛られて猿轡を噛まされ、こめかみに小型拳銃(デリンジャー)を突き付けられていようとも――であって、他は割とどうでも良かった。

 例えば別の兵士達が負傷した仲間を引き摺って下がっていることなど、彼女にとっては大したことでは無かった。

 

 

『メンタルモデル、実際に見るのは初めてね』

 

 

 デリンジャーの女――ニナは、手元のマイクに向けてそう言っていた。

 椅子に座る紀沙のこめかみに銃口を向けたまま、実に冷ややかな表情を浮かべている。

 

 

「こんばんは、キミは誰だい?」

『人間みたいに喋らないで頂戴、気持ち悪いわ』

「今日びロボットだって喋るんだから、別にボクが喋ったって良いじゃないか」

 

 

 この人間は神経質なのか短気なのか、いずれにしろ気が長い方では無いらしい。

 スミノが言い返した次の瞬間には、紀沙の顔を殴りつけていた。

 引き寄せて手の甲で頬を張るやり方で、マイク越しに紀沙の呻き声が聞こえた。

 拳銃がもう少し大きなサイズであれば、それで殴打されていたかもしれない。

 

 

『見えているのでしょう? 喋らず、動かず、私の言うことだけ聞きなさい』

 

 

 それだと返事も出来ないんじゃないか?

 いつもならそう応じるところだが、とりあえず黙っておいた。

 それに満足したのか、ニナが頷く。

 お互い監視カメラ越しにそうしているのだから、何とも奇妙だった。

 

 

『貴女、そのまま死になさい』

 

 

 ふと視線を動かせば、兵士達が体勢を整えていた。

 負傷者を動かしたのは射線を確保するためだったのだろう、全ての小銃の銃口がスミノに向けられていた。

 ここに至って、スミノはニナの「そのまま死ね」と言う言葉の意味を悟った。

 

 

 だからと言って、特に取り乱したりもしない。

 メンタルモデルに、生の概念は存在しない。

 だからスミノはその場から動かなかった、そしてフィールドを展開することもしなかった。

 自分を守らなかった。

 

 

「まぁ」

 

 

 そして、言葉が続くことも無かった。

 何故ならば言葉を発そうにも、頭を撃ち抜かれたからだ。

 そのまま胸を、腕を、腹を、足を撃ち抜かれたからだ。

 身体を引き裂かれる衝撃の中、スミノは自分の物理的な視界が回転していることを知った。

 

 

 それでも、右目だけはカメラを離さなかった。

 向こう側の映像を、()()から離さなかった。

 そしてその中で、彼女の艦長は――――。

 

 

 ……どんな顔を、していたのだろう?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 喜べば良いじゃないかと、心のどこかで別の自分が囁くのを聞いた。

 霧が滅びれば良いとずっと思っていたのだから、今の出来事は手を叩いて喜ぶべきことのはずじゃないかと。

 モニターの中でスミノが撃たれて倒れた時、紀沙の心には確かにそう囁く自分がいた。

 

 

「兵士の皆さん、相手はメンタルモデルです。注意して頂戴ね」

 

 

 けれど、倒れたスミノに恐る恐ると言った様子で兵士達が近づいていく様子から、紀沙は目を逸らした。

 その後に断続的な銃声が聞こえたが、それでも見なかった。

 モニターが消されるまで、紀沙は顔を背け続けていた。

 左目は、今は痛んでいなかった。

 

 

「あら、お仲間の最期を見届けなくて良かったのかしら? 日本人は薄情ね」

 

 

 ――――仲間だと?

 そんなものじゃない。

 紀沙はスミノに仲間意識はおろか、友情だって感じたことは無い。

 ただ任務を果たすのに、霧を倒すのに必要だっただけだ。

 

 

『キミに会いに来たんだ、千早紀沙』

 

 

 なのに、胸を伝うこの苦いものは何だ。

 メンタルモデル、つまり霧が倒されたわけなのだから、苦いものなのなど感じる必要は無いはずだ。

 ニナのやり口が気に入らないからか。

 自分を人質にすると言う下劣さに吐き気がするのか、それとも。

 

 

 それとも、自分が人質だと気付いたスミノが素直に撃たれたことか。

 スミノが、自分のためにあっさりと撃たれてみせたことが原因か。

 だからか、だからこんなにも苦い思いをしているのか。

 だが紀沙は、すんなりとその事実を認めることは出来なかった。

 認めてしまえば何かが変わってしまう、そんな気がしたからだ。

 

 

「あなた、書類を頂けるかしら」

 

 

 一方のニナは、夫であるジャンに声をかけていた。

 デリンジャーを太股のホルスターに収めながらの一言であって、ジャンも虚を突かれた様子だった。

 

 

「書類だって?」

「ほら、契約書よ。持っていたでしょう?」

「あ、ああ、あの書類か。もちろん持っているけど、そんなものをどうするんだい?」

「決まっているじゃない、あの子にサインしてもらうのよ」

 

 

 書類と言うのは、要は紀沙達をアメリカに迎えるという書類だ。

 代わりにアメリカへの忠誠を誓うと言うもので、契約書と言うよりは誓紙と言った方が正しい。

 ただ、紀沙が拒否したことによって紙くずに成り下がってはいたが。

 

 

「い、いや、ニナ。これは僕の仕事だし、もしかしたらまた危ない目に合うかもしれないからね。先に帰ってくれても大丈夫だよ」

「あら、私が夫を放って先に寝るような女に見えるのかしら?」

「いや、そう言うわけじゃ……ただ、その……」

 

 

 何をそんなに躊躇しているのか、ジャンはなかなか書類を渡さなかった。

 不思議なのは、彼が紀沙に気遣わしげな視線を向けていることだった。

 何か言いたげであったが、言葉にするのは憚られる、そんな様子だった。

 そしてそれはウィリアムも同じのようで、彼は何とも言えない様子で夫婦のやり取りを見ていた。

 

 

「あ な た?」

「……あ、ああ。じゃあ、頼むよ……」

「うふふ。任せて、愛しい人(マイ・ジャン)

 

 

 やり取りは長くは続かず、ニナの声音に不穏な色が浮かんだ途端にジャンが折れた。

 それでいて素直に書類を渡すとすぐに上機嫌になり、夫にキスをしたのだった。

 

 

「出来れば食事など取りつつ、ゆっくり話をしたかったのだが……」

 

 

 咳払いして夫婦から視線を逸らしつつ、ウィリアムは紀沙に言った。

 

 

「不本意ながら……いや、よそう。だがこうなったからには、悪いことは言わない」

 

 

 彼もまた、どこか気が引けている様子だった。

 まるで、これから紀沙の身に起こることを悲観しているかのように。

 

 

「……早めにサインしてくれることを、祈るよ」

 

 

 そう言って、ウィリアムはジャンを伴って退室していった。

 部屋には、紀沙とニナの2人だけが残された。

 そして夫とウィリアムを見送ったニナは、妖しげな笑みを浮かべて紀沙に近付いた。

 腰を揺らす、官能的な雰囲気を漂わせる歩き方だった。

 

 

 顔を逸らしたまま俯いていた紀沙の顎を、ニナの白い指が掴んだ。

 そのまま紀沙の顔を上げ、やはり妖しげに笑いながら1枚の書類を掲げて見せた。

 英語の文章がつらつらと、それでいて短く書かれた書類だ。

 それを顔の横に置いて、ニナはにっこりと笑った。

 

 

「サイン、してくれるわよね?」

 

 

 キッ、と右目で睨んだ後、紀沙は顔を揺らしてニナの指を振り解こうとした。

 しかし意外とニナの力が強く、それは出来なかった。

 一方のニナは手指を離さないままに、親指を紀沙の顔に這わせた。

 するりと、器用な動きで猿轡代わりの布を外される。

 顎先から下唇を撫で、そのまま上唇に触れるかと思ったところで。

 

 

「……うぁ」

 

 

 ぐい、と、親指を唇の間に差し込んだ。

 歯を噛み合わせる暇も無く、口内に親指の根元までを押し込まれる。

 親指の腹で舌を押さえつけられて、反射的に声が漏れた。

 僅かに塩気のある肌の味を、感じた。

 

 

「――――ね?」

 

 

 見下してくる目に、冷たい予感が背筋を伝った。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

とりあえず、皆様の拷も……尋問の希望をお聞きしましょう(え)
やはりここは、オーソドックスにくっころ系でしょうか(マテ)

と言うわけでこのままだとバッドエンド一直線なので、原作主人公に早く来て頂きたいのですが……。
それでは、また次回。


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Depth027:「暴食」

注意)
食事中・食事制限中等、食事関連に事情をお持ちの方はご注意下さい。
不快な描写が入る可能性があります。


 誰もが、異常を感じていた。

 州政府とサンディエゴ市の連名で外出禁止令が出され、ネットでは郊外で爆発があったことを示す画像が引っ切り無しに投稿されている。

 窓の外で軍用車が走り、兵士達が駆けている音を聞きながら、人々は家族と身を寄せ合っていた。

 いったい何が起きているのだろうと、不安に思いながら。

 

 

「千四百二十一、千四百二十二……ん?」

 

 

 そしてそれは、サンディエゴ沖の海底に潜む者()にとっても同様だった。

 イ15ことトーコは、発令所の天井からぶら下がって屈伸すると言う脅威の作業を中断した。

 繰り返すが腹筋では無く屈伸である。

 裾長の上着が完全に捲れ上がって、サラシで隠されていないおへそや背中が剥き出しになっていた。

 

 

「何だぁ? 急に上が騒がしくなったっスね」

 

 

 トーコは、コロナド半島の麓とでも言うべき海底に身を潜めていた。

 だからこそ良くわかったのだが、すぐ頭上で何かが動いていることに気付いた。

 何かあったのだろうか。

 そう首を傾げながら、トーコは天井(足元)を見つめていた。

 

 

「ははぁ、あれがアメリカの早期警戒管制機(エーワックス)と言うものですか」

 

 

 そしてもう1隻、トーコを観察ついでに同海域に留まっていた艦がいた。

 霧の駆逐艦『ユキカゼ』である。

 着物の袖で口元を隠す仕草をしながら、彼女はトーコからそう離れていない位置からそれを見ていた。

 トーコが感知した海上の気配は、アメリカ軍の軍用航空機だ。

 メンタルモデル保有艦としての経歴が短いユキカゼにとっては、珍しかったのかもしれない。

 

 

 普段は哨戒や警戒でも沿岸までしか飛ばない航空機が、今は海上に出て来ている。

 霧との大海戦後に建造された新鋭機だが、もちろん霧の艦艇に対抗できる装備は持っていない。

 振動弾頭も量産されていないのだから、当然のことだった。

 そんな彼らがあえて海洋に出てくる理由は、1つしか無い。

 

 

「勇敢だな、霧に立ち向かおうと言うのか」

 

 

 そしてトーコとユキカゼの潜むコロナド半島からさらに遠く、ゾルダンとU-2501もサンディエゴとその沖合いで起きている異常を観測していた。

 先の2隻とは異なり観測能力に優れた彼らは、()()()()に入ることなく観測を行うことが出来る。

 

 

「さて、千早兄妹は何やら面白いことになっているようだが」

 

 

 発令所の戦略モニターに映る()()を見つめながら、ゾルダンの口元は笑んでいた。

 高みの見物、今の彼らを表現するならそう言うことになるだろう。

 

 

「さしもの彼らもここで彼女達の参戦は予想していないだろう」

 

 

 どうなるかな、と呟く視線の先、サンディエゴ沖に横並びに展開する艦群がモニターに映っていた。

 もちろん、今の時代に外洋から陸地に迫る艦隊など1つしか無い。

 そしてここはアメリカ、つまり展開している艦隊は――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の北米方面太平洋艦隊は、その勢力を急速に回復させつつあった。

 旗艦『レキシントン』の回復が終わったためで、それまで微妙にズレが生じていた太平洋艦隊の艦艇間の連携もスムーズに行くようになった。

 このような調整が必要になったあたり、霧の艦艇が個々に意思を持ち始めていることの証左だった。

 

 

「さて、人間どもはどう出ると思う?」

「頑張られる方が面倒だから、何でも良いから出てきてくれると良いのだけれどね」

 

 

 そして今、サンディエゴに向かっている艦隊を率いているのは大戦艦『ミズーリ』と海域強襲制圧艦『サラトガ』だった。

 伴うのは重巡洋艦級2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、潜水艦2隻、補給艦2隻である。

 霧の艦艇1隻の戦力を思えば過大だが、標的艦の戦果を思えば過剰では無い。

 

 

「頑張る? 何を頑張るんだ、奴らが余所者の日本艦隊を守るとも思えないがな」

 

 

 飛行甲板に立っているのはサラトガのメンタルモデルで、黒いシスター衣装が特徴的な女性だ。

 ただし丈が超が付く程に短く、肩や背中を晒す露出の高い服装で、少なくとも聖職者には見えない。

 そのくせ頭巾(ウィンプル)とベールだけはきっちり着けているのだから、肌を見せたいのかそうでないのか良くわからなかった。

 

 

「人間と言うのは言う程に合理的でも無いし、言われる程に感情的でも無いものよ」

 

 

 自身の艦橋の上で、海風に揺れる紫の髪を押さえているのはミズーリだ。

 視線の先には、十数キロ先にまで迫ったアメリカ大陸の東海岸がある。

 ここまでの距離に近付くのは、ミズーリやサラトガにとっても初めてのことだ。

 

 

 レキシントン自身は、ここには来ていない。

 ミズーリ達が止めたと言うのもあるが、レキシントン自身の関心がアメリカから離れていると言うのもある。

 ただ、それはそれとして止めておかねばならないだろう。

 そう思うと溜息が出てくるが、ミズーリはこれもハイクラスの艦艇の役目と言う風に受け止めていた。

 

 

「いずれにしても、このままゆっくりと近付いて圧力をかけよう。何、すぐに根を上げるさ」

「そうだと良いけど」

 

 

 勇ましい僚艦に視線を向ければ、悠々と航行する巨艦が目に入る。

 ただし、ミズーリも同様に巨艦だった。

 

 

「根を上げずに立ち向かってきた場合は?」

「――――答える必要があるのか?」

 

 

 無いわ、と、ミズーリも即答を返した。

 視線を正面に戻せば、メンタルモデルの肉眼でも、もうサンディエゴの影を見ることが出来る。

 夜闇の中だとしても、霧のメンタルモデルの目が見逃すことは無い。

 この闇の下、人間達は何を思っているのだろうかと、ミズーリはふとそんなことを考えるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ合衆国は、民主主義国家である。

 独裁者の登場を防止するためのあらゆる制度が存在するアメリカだが、一方で緊急時においては大統領がほぼ独断で事態を解決することを許している。

 もちろん、それは大統領に極めて重い責任を課すと言うことと同義であった。

 

 

「敵艦隊は我が国の領海まで約10海里の地点を航行中で、なおも東進中。速力は約10ノットと低速ではありますが、こままでは1時間もせずに我が国の沿岸に到達します」

 

 

 その報告を、エリザベスは内政、外交、国防、情報担当の閣僚や軍関係者らと共に聞いていた。

 場所はホワイトハウスの地下会議室(シチュエーションルーム)、狭苦しいワンルームマンションの一室のような場所に10人程の人間が膝つき合わせて座っていた。

 地下のためもちろん窓は無い、冷房が無ければうだるような暑さに参ってしまっていただろう。

 

 

 壁面モニターの照明が参加者の顔を薄く照らし、深刻な表情を浮かび上がらせている。

 レーザーポインタを持った首席補佐官が状況の説明を終えた後なだけに、深刻さは一層拍車がかかっていた。

 何しろ、霧の艦隊が陸地に近付いてくるなどこの17年間無かったことだからだ。

 

 

「すでにサンディエゴ及びコロナド海軍基地の司令官らは麾下の艦隊に第一種戦闘配備を発令しており、管制機を出しています。ただしこれも敵艦隊に察知されている可能性が高く、いつ撃墜されてもおかしく無い状況です」

 

 

 遥か大陸の反対側の出来事でも、大統領の下には全ての情報が届くようになっている。

 すでにサンディエゴ周辺の住民には外出禁止令が出されているようだが、むしろ避難命令の方が必要かもしれなかった。

 何しろ、敵が来るのだから。

 

 

「狙いは日本艦隊、でしょうな」

 

 

 国防長官の重々しい呟きは、同時にその場にいる全員の見解だった。

 むしろこれで日本艦隊――より言えば、イ号潜水艦と振動弾頭――以外に原因があるのだとすれば、教えて欲しいくらいである。

 ぎし、と、エリザベスは椅子の背もたれを軋ませた。

 

 

「大統領。敵艦隊の詳細は未だ不明ですが、衛星写真によれば大戦艦を含む1個艦隊とのことです。そして敵艦隊の目的が日本艦隊にあるのであれば、我々が取り得る方策は2つしかありません」

「……日本艦隊を守るか、引き渡すかね」

「仰る通りです、大統領。サンディエゴの我が太平洋艦隊は精強ですが、霧が相手となれば……」

 

 

 重い、本当に重苦しい空気がその場を包み込んでいた。

 目を伏せながら、エリザベスも深く溜息を吐いた。

 

 

「……引き渡すべきではないか? いや、そもそも彼らは振動弾頭とデータを持って来ただけだ。それをすぐに引き取り、そのまま出航させれば良い。我々が引き渡す必要すら無い」

「それは余りにも人道に反する行為だ! それに日本は我々の同盟国だぞ」

「だが他国の艦隊のために、我が国の艦隊と国民を危険に晒せと言うのか! それとも軍には勝算でもあるのか?」

「それは……しかし、日本艦隊を引き渡したからと言って奴らが引き下がる保証も無いんだぞ!」

「ならどうすると言うのだ、今日をアメリカの滅亡記念日にでもすると言うのか!?」

「貴様……!」

「いずれにしてもです、大統領」

 

 

 白熱しかけた場を強い口調で押さえて、首席補佐官が言った。

 こう言う時に言葉に圧力を乗せられると言う一点を評価して、エリザベスは就任以来この首席補佐官を替えたことが無い。

 ちなみにそれはアメリカ政治の中では凄いことなのだが、今は関係が無かった。

 

 

「戦うか、退くか。現地の司令官は早急な命令を求めています。大統領、ご決断を」

 

 

 アメリカ合衆国大統領は、地球上で最強の権力を有している。

 そう口さがなく言う者も多いが、それは誇張ではあっても言い過ぎでは無い。

 人類最強の軍隊の最高司令官たる大統領は、その決断1つで数億人の命を左右してしまう。

 

 

 ふと、エリザベスは左右を見渡した。

 そこにはもちろん会議の出席者の顔ぶれがあるわけだが、彼女が探した顔はそこには無かった。

 夫であるロバートはここに入る資格が無いためで、それは彼女にとって酷く心細いことだった。

 しかし大統領は彼女だった、夫では無い。

 

 

「…………」

 

 

 だから、エリザベスは決断した。

 アメリカ国民に与えられた絶対の権力を、振るうために。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この忙しい時に、どいつもこいつも面倒なことをしてくれるものだ。

 『マツシマ』の狭苦しい発令所――そもそも、人が常駐するように出来ていない――の中で、ヒュウガはだらだらしていた。

 ヒュウガはこう見えて、基本的に人が見ていない場所ではだらける性格(たち)である。

 

 

「姉さま、どうやらアメリカの太平洋艦隊が出撃するようです」

 

 

 イ401においては、イオナ自身がナンバー2と目されている。

 他のクルーの総意がそうなっているためで、一種の信頼関係で成り立っているとも言える。

 そしてイ401を含む4隻、いわば<蒼き艦隊>全体として見た場合においては、ヒュウガが事実上のナンバー2として機能する場合がある。

 

 

 もちろんヒュウガはイオナに従うため、全体においても実際のナンバー2はイオナだ。

 ただイオナは最前線に出ることが多く、『マツシマ』ら支援艦の状態にまで気を配れない。

 群像も、どちらかと言えば目の前の戦況に集中するタイプだ。

 そう言う時に艦隊の頭脳としてイオナの右腕として、あるいは群像の参謀として動けるヒュウガは、実は当人達が思っている以上に群像達の生命線であるのかもしれなかった。

 

 

「スミノの方からも、何の連絡も入って来ません」

 

 

 そしてヒュウガの目と耳は、すでに基地中に張り巡らされている。

 大戦艦級の演算力を持ってすれば、基地の情報システムの1つや2つを掌握することは難しくない。

 だから今、ヒュウガはコロナド基地が慌しく稼動を始めていることに気付いていた。

 いくつかのドックはすでに開き、海上へと艦艇を乗せたリフトが上がり始めていた。

 

 

「サンディエゴ市内の外出禁止令は継続中ですが、アメリカ政府はシェルターへの避難命令を準備しているようです」

 

 

 明らかに、基地全体が臨戦態勢に入りつつある。

 それがヒュウガには良くわかった。

 もちろん彼女は、サンディエゴへ近付きつつある霧の太平洋艦隊の存在にも気付いている。

 アメリカ艦隊がそれを迎え撃つために出撃することも、そして彼らが霧の艦隊に勝てないだろうことにも気付いていた。

 

 

「現状、アメリカ政府から我々と白鯨に対して協力要請は出されていません。おそらく、アメリカ艦隊は自分達の力だけで霧に対抗するつもりのようです」

 

 

 こちらが取り込み中であることを知っているためか、あるいは別の思惑があるのか、アメリカ側から日本艦隊に支援の要請は無い。

 霧と戦うなら自分達の力が要るはずだが、何か考えがあるのだろうか。

 まぁ、ヒュウガにとっては面倒が無くて良いが、基地が壊滅して生き埋めになるのもそれはそれで嫌だった。

 

 

 つまるところ、ヒュウガの手元には「とにかく大変」と言うような情報が山積していた。

 多くはヒュウガ個人にとってはどうでも良いが、日本艦隊としては無視できないと言う情報だった。

 そしてヒュウガの報告を聞いたイオナは、多くは返さなかった。

 

 

『ヒュウガ』

「はい、姉さま」

 

 

 イオナの返答は、たった一言だった。

 

 

『群像が動く、準備だ』

「……わかりました」

 

 

 不意にしゃんと立ち上がり、ヒュウガは両手を上げた。

 するとまるで指揮者に応じるオーケストラのように、円形の発令所に光が灯った。

 機関にエネルギーが供給される重厚な音が響き始め、『マツシマ』が目を覚ました。

 

 

「システムオールグリーン。『マツシマ』『ハシダテ』『イツクシマ』、機関始動。基地の昇降システムとリンク、出撃体勢へ」

 

 

 1つだけ、ヒュウガが面白くないと思うことがあるとすれば。

 敬愛するイオナが、千早群像と言う人間の少年を信じ切っていることだった。

 多分、自分よりもずっと。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ウィリアムは、妻帯したことが無い。

 これはアメリカ人、特に上流階級に属するアメリカ人にとっては珍しいことだった。

 若いキャスターやモデルと結婚するとまでは言わなくとも、彼のような成功した人間は結婚の一つや二つは経験していてもおかしくは無い。

 

 

 ただそれは個人の心の問題なので、他人がとやかく言うことでも無かった。

 ここで重要なのは、ウィリアムが本当の意味で妻帯者の気持ちを理解できないと言うことだ。

 具体的には、ニナと言う妻を持つジャンの気持ちについて。

 

 

「いつものことだが」

 

 

 食堂から締め出される形になったウィリアムとジャンは、通路で雑談していた。

 酒や煙草の1つもあれば良かったのだろうが、ここは州軍とは言え軍事施設である。

 定められた場所以外での飲酒や禁煙は厳しく制限されており、たとえ大統領だろうとこれを破ることは許されないと言うのが、アメリカと言う国の妙に真面目なところだった。

 

 

「お前の奥方は少々、アグレッシブに過ぎるのでは無いかね」

「はは。まぁ、今のところ訴訟で負けたことは無いので」

「それを大統領候補(わたし)の前で言うのかね」

 

 

 袖を引けば、腕時計が締め出されてすでに小一時間が経ったことを教えてくれる。

 30分程前か、キャンセルし忘れていた夕食が運ばれてきた。

 ニナの要望で()()()の料理は食堂の中だ、よってウィリアム達は夕食を食べ損ねている。

 仕事柄そんなことは多々あるので慣れたものだが、食堂からたまに漏れ聞こえてくる声を思うと、食欲も無くなってくると言うものだった。

 

 

「……私だ」

 

 

 その時、ウィリアムの携帯端末に電話がかかって来た。

 基地司令官からの通信であって、メンタルモデル襲撃の後始末の件だろうと思っていた。

 

 

「何?」

 

 

 ところが、どうも様子が違うらしい。

 

 

「トラックだと? 何の話だ」

『それが、15分程前に検問を強行突破したと……』

 

 

 司令官の話によると、基地外縁の検問所の1つでおかしな事態が起こったらしい。

 トラックが1台検問所を猛スピードで走り去ったと言うのがそれで、突破された検問所は基地襲撃に先立って何者か――おそらく、基地を襲撃したメンタルモデルだろう――に制圧された場所だった。

 つまり道なりに来れば、この基地にまで時間を置かずに達することになる。

 

 

『申し訳ございません。すぐに部隊に派遣して』

「……いや、良い。それは放っておけ、なるべく邪魔をしてやるな」

『は? それはいったいどう言』

「それよりもヘリを回せ、ワシントンに戻る。すぐにだ、ではな」

 

 

 それ以上の返答を聞く気が無かったのか、ウィリアムは通話を一方的に切った。

 胸ポケットに携帯端末をしまっていると、ジャンの視線に気付いた。

 すると、彼は肩を竦めて言った。

 

 

「僕の商談はどうなるのかな?」

「お前は口を開けばそれだな、たまには私のために何かしようとは思わんのか」

「誰かのために何かをするには、僕の時間(マネー)は限られているからね」

資本家(キャピタリスト)め」

政治家(マキャベリスト)には負けるよ」

 

 

 不意に、2人は言葉を止めた。

 食堂の扉――性格には、その室内――からまた声が漏れ聞こえて来たからで、会話とも呻きとも取れるその声に、ウィリアムは咳払いをした。

 

 

「まぁ、私にしろエリザベスにしろ根っこは同じだ。どちらが勝つにしろ、振動弾頭の量産事業は確実に行われる」

 

 

 後は、事業主が誰になるかと言う問題でしか無い。

 単独で行える企業は存在しないから、複数の企業が組んで行うことになるが、公共性の高さから政治側が口を出せるような形になるはずだ。

 その時、政財両面に口を出せるジャン達「財団」の存在は重要だった。

 

 

 そしてジャンにとっては振動弾頭量産事業に口を出す財団は少ない方が良いし、ウィリアムにとっても良く知っている相手の方が良い。

 エリザベスは財界との距離が遠いタイプの大統領だから、特にそうなる。

 極端な話、取引次第ではウィリアムは大統領にならなくとも事業に影響力を持てるのである。

 

 

「あの娘がお前の奥方との()()()()()()()してサインすれば良し、仮にしなくとも」

「しなくとも?」

「理解はするだろう」

 

 

 肩を竦めて、ウィリアムは言った。

 

 

「これから先、今の状態では国際政治と言う名の怪物に対処することは出来ないとな」

 

 

 それは、ウィリアムが常々自分に言い聞かせていることでもあった。

 どこへ行くにも十数人以上の護衛がつく大統領候補の、それは処世術であったのかもしれない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 暴食(グラトニー)

 八つの枢要罪、あるいは七つの罪源。

 西方教会(カトリック)によれば、堕落と死に向かう許されざる感情・行動の1つである。

 

 

「でも私は思うのだけれど、罪に堕ちた本人こそが最も苦しんでいるのでは無いかしら?」

 

 

 まるで宗教家のようなことを言って、ニナは手にしていたフォークを左右に揺らした。

 彼女の手元にはサラダやスープ、分厚いステーキにデザートまでがそれぞれ瀟洒なデザインのお皿に盛り付けられた料理の数々が並んでいた。

 同じ物が4つずつあり、それが4人分の料理であることがわかる。

 

 

 と言って、ニナが食事をしている様子は見えない。

 彼女の口元は全く汚れていないし、ルージュも擦れていない。

 にも関わらず、すでにフォークの先端がステーキのソースで汚れていた。

 何故か?

 

 

「そう、例えば今の貴女みたいに」

「げほっ、うぇ……っ」

 

 

 答えは単純、すでに食べている人間が――紀沙がいたからだ。

 ただし本人は後ろ手に縛られたままだから、ニナが食べさせる形を取っている。

 いわゆる「はい、あーん」状態だが、今の紀沙の状態はとてもでは無いがそんなのほほんとしたものでは無かった。

 

 

「ああ、もったいない。これ一切れで何ドルすると思っているの?」

 

 

 顔は白く見える程に蒼ざめており、額には玉の汗が滲んでいる。

 熱病に浮かされているような症状に聞こえるが、原因は別にあった。

 胃が張り、ソースで汚れた口元から透明な雫がぽたぽたと垂れ、膝の上や床に長さ10センチ厚み5センチ程の肉の塊が落ちているのが見える。

 

 

「も、もう、無理……」

「あらダメよ、まだ1人分残っているんだから」

 

 

 顔を背けようとする紀沙だったが、すっと伸びて来たニナの手がそれを許さなかった。

 親指で器用に唇を割り開き、そこにステーキを刺したフォークを押し込む。

 一切れが大きく、無理に押し込もうとすれば顔中を汚すことになる。

 膝や床に落ちているのは、その攻防の果てに紀沙が落としたものだろう。

 

 

 そしてニナが腰掛けているテーブルには、空になったステーキの皿が合計で3人分ある。

 1ポンドのステーキを3人分、それも女性の小さな胃に詰め込む。

 まるでフォアグラだ。

 しかも、メインの肉料理だけでは無い。

 

 

「喉も渇いたでしょう? スープは熱いから気をつけてね。それからサラダも食べなくちゃ、ベジタリアンになる必要は無いけど美容に良いからね。ああ、安心してね、デザートもあるから」

「む、ぐ……や、やめ……ぷぁっ、はぁっ、あむぅ」

「はい、お肉よ。美味しいでしょう。カリフォルニアの牛は私も大好きなの、脂が乗っていてね」

「む、無理。もう、もう入らな。うぁ、む、むううぅ……!」

 

 

 痛みは覚悟できる、苦しみもあるいは我慢できる。

 だが、()()()と言うものは想定していなかった。

 口の中に次々に食べ物を詰め込まれ――どれも日本で食べたことが無い程に美味で、そして高カロリーだ――飲み込むか吐き出すか以外に方法が無い。

 

 

 しかも食べ物を押し込まれてスープを飲まされ、口を塞がれることもある。

 そう言う時には飲み込むしか無いが、すでに喉元まで食べ物が逆流しているような錯覚を覚えていた。

 加えて言えば、すでに胃が痛みを発し始めていた。

 余りにも短時間で食べ物を押し込んだからで、余りの満腹感に意識が朦朧(もうろう)とさえし始めていた。

 

 

「無理じゃないわ、まだたったの3人分。食べ物を残すなんてとんでも無いことだわ」

 

 

 でも、と、ニナは料理の皿の横に置いてある書類に目をやりながら。

 

 

「あれにサインしてくれたら、残りは私が食べてあげても良いわ」

 

 

 喋りながら、ニナは笑みを深くした。

 涙と涎と料理のソースでぐちゃぐちゃになった顔、その右目の鋭さに笑んだのだ。

 紀沙の右目は、未だ拒否の色を消していない。

 勇ましいことだ。

 ――――ぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 飲み込む、吐き出す。

 それを交互に行う中で、紀沙の意識は少しずつ白く濁って来ていた。

 正直なところ、料理の味はもうわからなくなっていた。

 喉を詰めずに済んでいるのは、ニナの手加減が上手いと言うことなのか。

 

 

「はい、お口を開けて頂戴」

 

 

 何とか飲み込んでも、両頬を手指で押さえられて口を開けられ、スープを流し込まれる。

 ごぼごぼと言う音は、まるで溺れているかのよう。

 激しく咳き込んで吐き戻しても、無理矢理に顔を上げられてお肉を押し込まれた。

 自分の呼吸が擦れて聞こえるのは、おそらく気のせいでは無い。

 

 

(し、死んじゃう……)

 

 

 誇張では無く、そう思った。

 そしてそれは大げさでは無かった、急速な食物の摂取は死に直結することもある。

 だから紀沙が死の恐怖を感じたのは、身体が脳に危機を伝えた結果であると言える。

 

 

「サインする?」

 

 

 辛うじて、それには首を横に振った。

 そこだけは、どうにか意識を保った。

 ただそれをすると、口に詰め込まれる料理の量が増える。

 唇の端に指を差し込まれているので、ボタボタと涎が垂れるのも屈辱的だった。

 

 

 限界が近いと、そう思った。

 それがどう言う類の限界なのかはわからなかったが、とにかく、限界だった。

 もう何分、何時間こうしているのか、紀沙の意識は混濁と浮上を繰り返していた。

 

 

「…………」

 

 

 ニナの言葉も、余り理解できなくなっていた。

 

 

(たすけて)

 

 

 心の中で、助けを求めた。

 誰に対しての物かもわからない、とにかく助けて欲しいと思った。

 そうでなければ。

 そうでなければ、このまま自分はここで――――。

 

 

「……?」

 

 

 ニナが何を思って()()思ったのかは、わからない。

 ただ、彼女は何故か紀沙の左目の眼帯を外したのだ。

 花のコサージュのついた、ドレスと一緒に貰った眼帯を。

 

 

 そして、紀沙は気付いていなかった。

 この時ニナが紀沙の眼帯を外したのは、好奇心と言うより、眼帯の下が気になったからだと言うことを。

 誰でも、気になるだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 

「な……!」

 

 

 だから眼帯を外した時、ニナがぎょっとした顔をしたのだ。

 しかし彼女がそれを言葉にすることは無かった、何故なら別の衝撃が彼女を襲ったからだ。

 

 

「な、なに?」

 

 

 最初は、小さな振動だった。

 それは徐々に大きくなり、グラスの水が音を立てて揺れる程になった。

 それから食堂の窓の外、カーテン越しに強い光が近付いてくることに気付いた。

 気付いた時には遅い、そう言う距離感で。

 

 

「ちょっ、きゃ……ぎゃあああああぁっ!?」

 

 

 ニナの悲鳴をぼんやりと聞きながら、紀沙は思った。

 壁を突き破り、瓦礫と破片と、煙を吐きながら食堂に突っ込んで来た。

 そんな中、紀沙は「ああ、もう食べなくて良いんだ」と思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「な、何だ……?」

 

 

 メンタルモデルとの()()()の後、そのままホールの警戒に当たっていた兵士達は、突然の轟音に身を竦ませていた。

 霧のメンタルモデルを銃殺したと言う高揚感も無いでは無かったが、それも基地の甚大な被害を思えばすぐに冷めた。

 おまけに、また何かしらのトラブルが発生している様子だ。

 

 

「くそっ、疫病神め!」

「おいよせ、科学班が来るまでにそのままにするんだ」

 

 

 未だホールの床に転がっている()()に、悪態を吐きながら蹴りを入れる兵士もいる。

 他の兵士が口頭で注意していたが、実際に止めないあたり気持ちは同じらしい。

 確かに、今日と言う日は彼女達にとっては厄日だろう。

 それをもたらした元凶を疫病神と呼ぶのも、間違いでは無かった。

 

 

 ちょうどその時、基地の奥側から白衣を来た兵士達が慌しくやって来た。

 ようやく来たかと、ホールの兵士達は誰もがそう思った。

 そうして、誰もの視線が科学班の兵士達に向けられていると。

 

 

「ようやく来たね」

「ああ。これでやっとこのクソみたいな任務から」

 

 

 いや待て、と、応じた兵士は思った。

 今、自分は誰に話しかけられたのだ、と。

 

 

「やれやれ、撃たれろって言うから撃たれてあげたのに。その後は放置って酷くないかい?」

 

 

 まさか、いや、そんなことはあり得ない。

 何十発、いやもしかしたらフルオートで何百発も銃弾を喰らって、そんな馬鹿なことが。

 息が詰まる思いをしながら、兵士は先程自分が蹴飛ばしたものを見た。

 だが、見下ろせなかった。

 

 

 何故なら、そいつは肩に手を置いていたからだ。

 立っているわけでは無い、浮かんでいた。

 キラキラと輝く粒子――気のせいか、それが身体の一部になったり解けたりしているように見える――の中で、()()は「やれやれ」と言うような表情で兵士に視線を向けて来た。

 にっこりと、肌や骨の一部を欠損したままの顔で。

 

 

「ねぇ、キミもそう思わないかい?」

「う……うおおおおおおおおぉぉっ!?」

 

 

 兵士の上げた悲鳴に心地良さそうな表情を浮かべながら、スミノは笑みを浮かべた。

 ――――それはそれは、凄惨な笑みだったと言う。

 




登場キャラクター:

サラトガ : ゲオザーグ様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

読者の皆様には申し訳ございませんが、本作品は全年齢版のため、このような描写になりました(え)
年齢指定版では満腹感じゃなく快(以下自重)

と言うわけで、次回あたりからアメリカ編の仕上げに入ろうと思います。
長々やっても冗長になりますので、どんどん畳んで行く方向で。

……次はどこに行こう。


P.S.
最後のシーンのスミノに擬音をつけるなら、間違いなく(ドドドドドド……)みたいな。
アメリカの兵士が恐怖している! みたいな。
ジョジ○の汎用性の高さよ(え)


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Depth028:「救出、撃退、そして」

一瞬ストックできたかと思ったけど、そんなことは無かった(え)


 良治は、これまでの自分の人生について考えていた。

 家族を亡くしたせいで普通の医学校には行けず、軍関係の学校に進学した。

 留年してでも執念を見せたせいか無事に軍医資格も取ることが出来て、何とか医者になることが出来た。

 そのまま軍の病院にでも配属されていれば快適な生活も約束されていたのだろうが、何の因果かこうしてアメリカくんだりまでやってきている。

 

 

 それもこれも、学院で紀沙と出会ってしまったが故のことだ。

 何しろ長距離遠征任務ともなれば軍医も必須だ、その分だけストレスも溜まる。

 良く知らない人間相手に身体を任せることは、ストレスを助長させるだろう。

 そう言う意味で、若く実績も少ないが、多少は気心の知れている良治が選ばれたのは妥当なところだった。

 

 

「わああああっ、違う違うよ! 右、右だってば!」

「だから右足(アクセル)踏み込んでるだろーが!」

「ハンドルを右に切るんだよ、普通わかるでしょ!?」

 

 

 そんな良治だが、今は「ひいい」と叫びながら自分の身体を守るのに必死だった。

 サンディエゴの物流会社から徴用――拝借とも言う――トラックが、速力全開で疾走している。

 しかも彼はそれを外から見ているのでは無く、中から見ているのだ。

 暴走トラックの助手席など、並の神経で座っていられる場所では無い。

 

 

 検問所は良かった、道が真っ直ぐだったからぶち破るだけで問題は無かった。

 ただ、施設に中に入れば話は別だ。

 特に彼ら――良治達が突っ込んだのは軍事施設だ、整然としているようで勝手のわからない侵入者にとっては複雑な造りになっている。

 

 

情報屋(ジョン)の話だと東棟だよなぁ!?」

「そうだよ! だからハンドルを左に切るなんてあり得ないんだよ!」

 

 

 幸い、反応は薄い。

 どう言うわけか迎撃装備の大半が潰されていて、防弾処理の無いトラックでも何とか。

 

 

「うおっ、撃って来やがった!」

「ひゃああっ!? バスンって、今僕の頭の横にバスンって着弾したよ! シートが硬かったら跳弾してたよ!」

「そんときゃよろしく!」

「どう言う意味で!?」

 

 

 ――何とか、なっている。

 もちろん、長続きすると言う意味では無い。

 軽火器による迎撃だけだとしても、民生用のトラックでは耐え切れるものでは無い。

 ただ、少しの間だけ保ってくれればそれで良かった。

 

 

「見えた! うわぁでもダメだっ、何かあそこだけ兵士がたくさん……!」

「歯ぁ噛め! しっかり捕まってろよ……!」

 

 

 たった1回の突撃にだけ、耐えてくれればそれで良いのだ。

 もしかしたら紀沙に感化されたのかもしれないなと、運転している冬馬は思った。

 そして、車両のライトに照らされた壁――泡を食って回避行動を取るアメリカ州兵達の顔――を見ながら。

 良治達の乗るトラックが、建物の壁に激突した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何となくだが、何が起こったのかは理解していた。

 ただ1つ贅沢を言うのであれば、もう少し穏便かつスマートな方法は無かったものだろうか。

 

 

「……げほっ」

 

 

 胸やらお腹やらを庇うようにしながら、紀沙は床に手をついて身を起こした。

 パラパラと頭の上から瓦礫の欠片が落ちるのは、4分の1程が吹き飛んだ食堂の惨状を見れば仕方の無いことだった。

 どこかで何かが崩れる音に目を細めれば、チカチカと点滅する車のライトが目に入った。

 

 

 トラック、である。

 いわゆる10トントラック、フロントガラスの割れ方からして防弾では無い。

 どこにでもある民生用の車両だ、こんなもので軍施設の壁にぶつけるのだから、運転していた人間はどこか頭がおかしいと思った。

 

 

「紀沙」

 

 

 その時だ、ぐいと身体を持ち上げられた。

 背中と膝裏に腕を回される抱き上げ方で、それなりに重みのある紀沙を持ち上げたのだ。

 視線を上げれば、細身の少年と目があった。

 貧相なようで軍関係の学校出だから、彼が見た目より鍛えていることを知っている。

 打ったのか、額のあたりが少し切れていた。

 

 

「大丈夫か」

「……ん」

 

 

 群像の、兄のそんな姿を見たのは初めてだったから、返事が少し遅くなった。

 気分はかなり悪かったが、一応は無事だ。

 だから、紀沙は頷いて見せた。

 

 

「ぶぇっぺ! やー、案外上手く行くもんだな……お、艦長ちゃんじゃん!」

「どこが上手く行ってるんだよ、全く……ああ良かった、生きてた!」

 

 

 横倒しになったトラックの扉を蹴破って、中から良治と冬馬が顔を覗かせた。

 彼らは紀沙の姿に表情を明るくさせたが、すぐに引き締めた。

 冬馬などは腰のあたりから拳銃を抜き、相手に向けていた。

 

 

「ああ、いやいや。何もしないよ、僕は軍人じゃないんだ」

 

 

 誰かと思えば、ジャンだった。

 彼は両手を挙げて笑いながら、瓦礫だらけになった食堂の隅を歩いていた。

 トラックは食堂の壁に近い所で止まっているから、通路にいた彼に怪我らしい怪我は無い。

 ただ紀沙と一緒にいた彼の妻、ニナはそう言うわけにもいかず、彼女もまた紀沙と似たような姿で倒れていたのだ。

 

 

 正直、ちょっとすっとした。

 ただ、流石にぐったりと横たわる様子を見て喜ぶような気分にもならなかった。

 ジャンは紀沙と冬馬を交互に見る仕草をして、肩を竦めた。

 

 

「妻を連れて行っても良いかな?」

 

 

 冬馬は、紀沙の様子を窺った。

 そして紀沙が小さく頷いたのを確認すると、拳銃の先で出て行くよう促した。

 ジャンは、やはり臆した様子も無く妻を抱き上げると、変わらない足取りで食堂――だった部屋から通路へと戻って行った。

 

 

「あ、そうそう」

 

 

 通路の向こう側に消える前に、ジャンはひょっこりとこちらを向いた。

 

 

「また何か儲け話があったら声をかけてよ、コンサルタントは得意なんだ」

「……何と言うか、めげない奴だな」

 

 

 兄の感想が、何だかシュールだった。

 しかし今度こそどこかへ行ったと見えて、紀沙は息を吐いた。

 緊張が解けたと言う言い方をしても良いが、とにかく安心したのだ。

 ああ、ひとまずは大丈夫そうだと。

 

 

 しかし、安心ばかりもしていられなかった。

 何しろ派手に突っ込んだものだから、そう時間を置かずに兵士達が雪崩れ込んでくるはずだ。

 すると今度は全員で捕まることになる、それは避けなければならなかった。

 

 

「すぐに脱出を」

 

 

 静菜も、いた。

 何だか紀沙が見たことも無いような物々しい様子だが、衰弱に加えて緊張が解けてしまった紀沙は、上手く口を動かすことが出来なかった。

 

 

「基地の見取り図は?」

「すでに覚えました」

 

 

 そして群像達にとっては、ここからが本番だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 冬馬は、過去を顧みない。

 後ろなど見たとことで意味は無いし、生きている限りは前に進むしか無いと思っている。

 しかしそうは言っても、冬馬だって黄昏れたくなる時だってある。

 

 

「あー、明日の夕飯の献立どうするかなー」

「現実逃避してないで、撃ち返してくれないかな!?」

 

 

 撃ち返せと言われても、と、冬馬は視線を左に動かした。

 するとT字路の向こう側に良治の姿が見えるのだが、その間に無数の線が走っていた。

 2人の間にあるコンクリートの壁を削ぎ落とす勢いで撃たれているそれは、自動小銃(カービン)の弾丸だった。

 

 

 1つのグループが撃ち尽くすとまた別のグループが撃ち始めると言うローテーションで、まさに銃弾が雨あられと叩き込まれていた。

 逃げる途中で予想通りに敵に見つかり、こうして足止めを食っているのである。

 流石に武装では質も量も劣っているため、一度見つかるとこう言うことになってしまう。

 

 

「いや、この中で俺が一発二発返したところで牽制にもならんだろ。と言うか頭出した瞬間にトマトにされるんじゃね?」

「僕が治しやすい範囲でお願いするよ」

「ヘッドショットに治しやすいも何もあるかよ」

 

 

 悪態を吐いても、状況は好転しない。

 最悪、良治側にいる群像と紀沙だけでも先に行かせれば良いだろうか。

 

 

「あ、危ない!」

 

 

 そんなことを考えていた時だ、良治が声を上げた。

 今日の彼はいつに無く口数が多いなと思いつつ、冬馬は拳銃を構えて右を向いた。

 すると予想通り、そこには小銃を構えた兵士達が駆けて来ていた。

 いつの間にか回りこんで来たらしい。

 

 

「こなくそ……!」

 

 

 撃つ、4発。

 兵士達が一度角に消えて、その後に顔を出して小銃を撃ってきた。

 避ける?

 いや、避ければ後ろにいる連中が危ない。

 第一、銃弾が避けられるはずも。

 

 

 ――――ギィン――――

 

 

 一瞬、何が起こったのかすぐにはわからなかった。

 わかっているのは、自分の横にいた静菜が飛び出したと言うことだけだ。

 だがそれだけでは、2つのことが説明できない。

 第1に先程の音、そして第2に兵士の放った銃弾の行方である。

 

 

「し、静菜……?」

 

 

 今の静菜はいつもと同じ作業服姿では無く、また軍服姿でも無かった。

 スーツとはまた違う、ぴったりと身体にフィットする黒衣の衣服。

 防刃仕様らしいが銃弾を防げるわけでは無いので、それでも飛び出したのは単に度胸の問題だろう。

 特に目立つのは、背中に備えた黒い鞘だ。

 

 

「え、もしかしてお前、斬ったの? それで?」

 

 

 半ば冗談でも見るような顔で冬馬が指差したのは、静菜の手に握られた2振りの刀だった。

 太刀と脇差、いわゆる日本刀。

 合流した時、静菜は何故かやけに物騒な長物を背負っていたのだが、よもやこのためだとは。

 敵も呆気に取られているのか、動きが止まっていた。

 

 

「え、お前そんなこと出来るの!? だったらこのピンチもどうにか出来たりする!?」

「いえ、私も今日初めてやりました」

 

 

 余りにも淡々としていたので、本人の自信の程を誤認しかねかった。

 

 

「え、つまりどう言うこと?」

「やってみたら偶然当たっただけです」

「……」

「…………」

 

 

 脱兎の如く駆け出して、良治達のいる反対側へ滑り込んだ。

 その時点で銃撃が再開されたので、後方から前へと火線が擦過していった。

 手近な角に身を飛び込ませるまで奇跡的に当たらなかったのは、敵兵が静菜の()()に動揺していたからだろう。

 

 

 それだけでも、彼女の行動には意味があったと言える。

 ただその後、アメリカ軍の一部で「サムライブレード」だり「ニンジャウーマン」の噂が立ったりするのだが。

 それは、本筋とは関係の無い話である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像の背に背負われるのは、何年ぶりのことだろうか。

 そんな感慨に浸る暇も無く、紀沙達は適当な部屋の窓から外へと飛び出した。

 室内通路を抜けての脱出は困難との判断からで、とにかく外に出て車両を奪わなければどうにもならなかった。

 そう言う意味では、最初にトラックを失ったのは痛かったと言える。

 

 

「ヘイ!」

 

 

 だが、外にも当然のように兵士達はいる。

 むしろ外の方が広い分、包囲されると言う意味では厳しい。

 実際、別の部隊が群像達が全員建物の外に出るのを見計らったかのように現れた。

 そして当然、躊躇無く発砲してくる。

 

 

「やっべ……!」

 

 

 小銃の銃弾である、当たれば痛いではすまない。

 だから、瞬間的に他のメンバーを庇おうとした冬馬の勇気は賞賛に値するだろう。

 ただ残念ながら、彼の身1つでは全ての銃弾を防ぐことは難しい。

 ダメか、と、誰もが思ったその時だ。

 

 

 銃弾と紀沙達の間に、建物の上から誰かが飛び降りてきた。

 その人物が腕を一振りすると、半透明のフィールドが出現し、それが全ての銃弾を防ぎ止めてしまった。

 甲高い音が連続で響き渡る中、()()は紀沙達の方を振り向いた。

 

 

「やっ♪」

 

 

 スミノだった。

 彼女は片手を兵士達の方に掲げたままの体勢で振り向き、もう片方の手を右目の前でピースの形にしていた。

 ただ紀沙達が何の反応も返してくれなかったので、不満そうに唇を尖らせた。

 唯一、紀沙が小さく驚いた様子を見せたことには満足そうだった。

 

 

 それだけで良かった。

 おそらくスミノにとっては、それだけで良かったのだろう。

 そして紀沙達にとっては、スミノが来た以上は自分達に対する危険度が大幅に減ったことを意味する。

 銃弾を受けてなお死ぬことの無いメンタルモデル。

 それを理解しているのだろう、相手の兵士達も撃つのをやめていた。

 

 

「あれ、ひょっとして俺ら勝っちゃった?」

「狙撃の可能性はあります、油断はせずに」

 

 

 その時だった、バラバラと言う独特の音が空から響き始めたのは。

 懸念が現実になったのかと一瞬緊張したが、次のスミノの言葉でそれも少し弛緩した。

 

 

正規軍(連邦軍)のヘリだね?」

「州兵じゃない方のか? そりゃ越権行為ってやつじゃねーの?」

 

 

 実際、ヘリの機種と紋章はアメリカの政府軍のものだ。

 それが何を意味するのかは不明だが、1機で州軍の援軍と言うことも無いだろう。

 とすれば、あれは大統領側の差し向けたヘリと言うことになるのだろうか。

 

 

「紀沙」

 

 

 そしてそれを見て、群像はまた何事かを考えたようだった。

 考え付いた時にはすでに行動に移しているのが、群像と言う少年だった。

 紀沙はその腕の中で、兄の顔を見上げた。

 

 

「イオナ達に連絡する。イ15に連絡は取れるか?」

 

 

 イ15?

 その名前を聞いた途端、嫌そうな顔をしたのはスミノだった。

 何と言うか、今はそう言う顔を見るだけでも安心する自分がいることに、紀沙は驚いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 攻撃は、夜明けと共に開始された。

 内容はサンディエゴ・コロナドの両基地から出撃した2個水上戦部隊――ミサイル巡洋艦6隻及び駆逐艦16隻――による対艦ミサイル・魚雷攻撃と、カリフォルニア州内の空軍基地から出撃した48機のステルス攻撃機、及びミサイル基地からの対艦ミサイルの発射である。

 

 

 空母を出していないのは、戦力の温存と言うよりは戦場が領海内と近いため、空母の打撃力を使う意味が無いと言う判断だった。

 それでもサンディエゴ沖と言う限定空間内に対して、航空機と艦船による数百発以上のミサイル攻撃が同時に行われたことになる。

 数百発のミサイルを同一の標的に着弾させる能力は、世界で唯一アメリカ軍だけが保有している物だ。

 

 

「ミサイルの着弾を確認! 全弾命中!」

「観測班! どうか!?」

 

 

 もしこれが通常の海戦であったならば、この時点で勝敗は決していただろう。

 数百発を超えるミサイルを迎撃し得る艦隊を保有する国は、やはりアメリカ軍以外には無い。

 かつてアメリカの敵国であった国(ソビエト・ロシア)が編み出した戦術を、こうしてアメリカ軍が使用していることは歴史の皮肉としか言いようが無い。

 

 

「敵艦隊――健在! 速力12ノット変わらず!」

 

 

 似たようなオペレーターの悲鳴が、アメリカ軍の艦船の中に響き渡った。

 敵艦隊、つまり『サラトガ』と『ミズーリ』率いる霧の艦隊にアメリカ軍の攻撃が通じなかった理由は、大きく分けて2つある。

 それは、17年前の大海戦の時代から解決できていない問題でもあった。

 

 

「ふむ、どうやらまだ振動弾頭とやらは量産されていないらしいな」

「日本艦隊がサンディエゴに入ってからまだ数日よ、量産できる時間は無かったのでしょ」

 

 

 1つ、クラインフィールドを抜けない。

 クラインフィールドは衝撃やダメージを()()()絶対防御だ、これを突破できる兵器は霧の侵蝕弾頭以外には未だ存在していない。

 そしてもう1つ、むしろこちらの方が本質的な問題なのだが……。

 

 

「それ、また来たぞ」

「はいはい」

 

 

 面倒そうに、ミズーリが片手を上げる。

 するとそれに合わせるようにミズーリの主砲が仰角を上げ、同時に側面装甲が開いて副砲群が現れた。

 

 

「ファイア」

 

 

 そして、一斉射。

 轟音と共に主砲が放たれ、第2射の射撃体勢に入っていたアメリカ空軍の航空部隊を捉えた。

 砲弾が空中で炸裂し、いくつもの子弾が複合セラミックの航空機の翼を引き裂く。

 副砲群から放たれたビームは幾度か前後左右に動き、幸運にも生き残っていた航空機やミサイルを薙ぎ払った。

 

 

 これが、もう1つの理由である。

 要は霧の艦艇自体の防空能力が高く、生半可な攻撃は当たる前に落とされてしまうのだ。

 その迎撃能力は、アメリカ軍の比では無い。

 そして、人類は未だこの防空網を突破したことが無い。

 

 

「何と言ったかな、こう言うのを。飛ぶ鳥を落とす?」

「良くわからないけれど、多分間違ってるわよ」

 

 

 サラトガの飛行甲板下の発射管から、巡航ミサイル型の侵蝕弾頭を発射しながらの会話である。

 そうして放たれたミサイルをアメリカ海軍の艦船が迎撃する、いくらかは迎撃したようだ。

 だが、次にサラトガが放ったビーム攻撃には対処できなかった。

 爆炎を上げて、サラトガの正面にいたミサイル巡洋艦が沈んだ。

 

 

「さて、そろそろ……」

 

 

 その時、サラトガとミズーリが同時に同じ方向を向いた。

 メンタルモデルの瞳を輝かせてのその行動は、彼女達のコアが何かに反応したことを意味している。

 

 

「来たな!」

 

 

 それぞれの副砲が海面を叩くと、人類製の魚雷とは明らかに違う、こちらのフィールドを喰い破ろうとする力場が発生した。

 侵蝕反応、霧の攻撃。

 侵蝕弾頭魚雷による雷撃が、サラトガ達に襲いかかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 潜行中の潜水艦を撃沈する有効な方法は、2つしか無い。

 1つは同じ潜水艦で対抗すること。

 そしてもう1つは位置を特定し、隠れられる前に火力で押し潰すことだ。

 

 

「サラトガ、離れて!」

 

 

 ミズーリが急速旋回する。

 全長270メートルを超える巨体が、波飛沫を上げながら船首を西に向ける。

 艦体の一部がスライドし、そこからエネルギーを噴射させて急速な旋回を可能としていた。

 

 

「雷撃の航跡から逆算すれば、そこ!」

 

 

 3基9門の主砲兵装が宙に浮き、艦体の前半分が大きく左右に開いた。

 艦の芯の部分に鎮座していたのは、超重力砲である。

 もちろん攻撃のために出した装備だが、それに加えて、力場固定による海割り効果を狙ったものだった。

 神話の時代に預言者(モーゼ)がそうしたように、サンディエゴ沖の海が割れる。

 

 

 サラトガを始めとした霧の艦艇はもちろん、アメリカ艦隊も慌てて距離を取る。

 そして、いた。

 大戦艦ミズーリの作り出した力場の中、海中に潜んでいた潜水艦が捉えられていた。

 ただしその潜水艦は、ミズーリ達の知るイ号潜水艦とは明らかに形状が異なっていた。

 

 

「あれは、東洋艦隊を打ち破ったオプション艦!?」

「あらま、もう知られてるのね。もちろん前の艦体(わたし)に比べれば脆いけれど……」

 

 

 超重力砲、発射。

 ただしミズーリの反対側、つまりマツシマのヒュウガも負けじと撃ち返していた。

 オプション艦『マツシマ』と超重砲艦『イツクシマ』『ハシダテ』の3隻を同時にコントロール・合体させることで、大戦艦『ヒュウガ』が使っていた重力子機関を用いた超重力砲が撃てる。

 言ってしまえば、ヒュウガの仮の身体と言った所か。

 

 

 2つの超重力砲が、正面から激突する。

 戦力としてはミズーリの方がやや上回るが、ミズーリも最大出力で撃ったわけでは無い。

 敵が複数いることを想定して余力を持とうとした結果だが、それが裏目に出た形だった。

 対してヒュウガは全力で射撃した、ミズーリが懸念したように味方が他にいるからだ。

 

 

「ぐぉ……っ。気をつけろミズーリ、超重力砲同士の対消滅の余波が来るぞ!」

「わかってる! 私達までレキシントンの二の舞になるわけには」

 

 

 重力子反応により空間に影響を与える超重力砲は、射撃を終わらせる際にも細心の計算が要る。

 奇しくも、ミズーリはヒュウガと協力して複雑な重力子反応の収束に手を焼くことになったわけである。

 そして、余波だ。

 爆縮反応にも似た爆発が2つの超重力砲の接点で引き起こされ、ヒュウガとミズーリを襲った。

 2隻の演算のおかげで規模は小さかったものの、巻き上げられた海水が雨の如く降り注いだ。

 

 

「あれは囮か、超重力砲の衝突でソナーは死んだも同然だが……!」

 

 

 それでも、超重力砲の激突音に紛れて航走(はし)る魚雷を探知する。

 サラトガの艦体側面の機銃掃射が海面を乱打する、通常弾頭ばかりだ、しかし1発だけ妙な魚雷があった。

 それは他の魚雷よりも深い深度で自動で炸裂、子弾をばらまいた上にバラバラの音を放った。

 

 

 これは共有ネットワークに報告が上がっていた、白鯨とか言う艦の装備、人間が作った特殊な音響魚雷だ。

 音紋パターンは解析可能だが、サラトガはあえて無視した。

 これも囮だ、こちらの気を引くための。

 高波に揺られながらも、サラトガはミズーリと同じ方法で自身を横にズラす。

 過去の戦闘データはすでに検証済みで、こう言う混乱した場面で相手が取る戦術は良くわかっていた。

 

 

「あからさまな突撃だな、イ40……4?」

 

 

 すなわち、イ404による突撃。

 の、はずだったのだが、どう言うわけかそれはイ404では無かった。

 何の武装も無い、セイルはおろか手すりすらも無い、涙滴型の艦体。

 盛り上がった海面から勢い良く飛び出し、そして倒れるようにして海面に消えたその艦は。

 

 

「うがあっ! 外したっス――――ッ!!」

「な、なんだあいつは!?」

 

 

 イ15、トーコであった。

 サラトガとミズーリも、新たな霧の艦艇が敵に加わっていることは知らなかった。

 だからだろう、自失のためかトーコを逃がしてしまった。

 そして、その呆然の一瞬を()()は見逃さなかった。

 

 

「イオナ!」

「……スミノ」

 

 

 聞こえるはずも無い、だがサラトガには聞こえた気がした。

 自分達を狙う、敵艦長達の声を。

 

 

「「フルファイア!」」

 

 

 そしてそれは、現実の物となった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――何?

 巻き戻しの海流に耐えながら、ミズーリはイ401とイ404が放った魚雷の着弾点を知った。

 それは超重力砲の余波で動けない自分でも無く、艦体の大きいサラトガでも無かった。

 

 

「『ソーフリー』、『スペンス』!」

 

 

 敵が狙って来たのは、艦隊陣形の外縁部にいた2隻の駆逐艦だった。

 最も防御力が低く、演算力の低さから反侵蝕計算も出来ない艦艇だ。

 もちろんメンタルモデルは保有しておらず、霧でも標準的な性能の駆逐艦だった。

 だが、意思が無いわけではない。

 

 

 だから艦体半ばに魚雷の直撃を喰らい、2隻の駆逐艦がパニックに陥ったことはすぐにわかった。

 僚艦である軽巡洋艦『デンバー』が救援に向かうが、これもヒュウガが補給艦(マツシマ)からの侵蝕弾頭魚雷の一斉射を行うと、狙い撃ちにされる形で叩き潰された。

 沈没する、人類圏(米国領海)で沈没すればコアの回収も少し面倒になる。

 

 

「バカにして……!」

 

 

 ヒュウガに出来たことが、ミズーリに出来ないはずが無い。

 高波の中でも艦体のバランスを取ったミズーリは、甲板のミサイル発射管(・セル)を開いた。

 小さな爆発音と共に蓋が吹き飛び、中から侵蝕弾頭搭載のミサイルが姿を現した。

 敵は未だ海面下だが、それでも先の攻撃で今度こそ姿を捉えている。

 

 

「っ、サラトガ!?」

 

 

 その時だった、サラトガが猛然とその巨艦を走らせた。

 ミズーリの側を擦り抜けて左翼、つまり沈没しかけているデンバー達3隻の方へ向かう。

 

 

「サラトガ、何をしているの! そっちは後でも」

「奴ら、まだデンバー達を攻撃してくる!」

「何ですって!?」

 

 

 そしてサラトガがデンバー達の前に自身を滑り込ませると、その巨艦に沿うようにして水柱が上がった。

 

 

「ぐ……!」

 

 

 侵蝕弾頭魚雷、3発。

 サラトガの艦首と中央部に直撃したそれらは、放置していれば3隻にトドメを刺していただろう。

 しかもそれで終わらず、マツシマらも含めて第2波第3波と攻撃が続く。

 仲間を庇って身動きが取れないサラトガにとって、それはただただ受け続けるしかない攻撃だった。

 

 

「悪辣な……!」

 

 

 艦隊の最も脆い部分を突き、それでいてあえて撃沈せずに深手を負わせる。

 後は芋づる式だ、助けに来た艦艇を狙い撃ちにすれば良い。

 この戦術の有効な点は、仲間意識が高ければ高い程に嵌まると言う点だった。

 ちょうど、今のサラトガのように。

 

 

 このまま受け続ければ流石に不味い、と、サラトガが思った時だ。

 不意に攻撃が止み、海が凪いだ。

 その隙に兵装を展開したままのミズーリがサラトガの前に出て、残りの無事な艦に周囲を囲ませた。

 輪形陣、陣形の内側に損傷艦を囲むやり方だった。

 すると彼女達の前方、数キロの地点に水上艦型の蒼い潜水艦が姿を見せた。

 

 

「イ401か」

「撃つ?」

「いや、404がどこにいるかわからん。それに……」

 

 

 イ401のセイルに、霧が備えることの無い小さな旗が見えた。

 いくつかの種類の旗が規則正しく並んでいる、もちろん万国旗では無い。

 形や色はバラバラだが、実は1つ1つの旗に意味がある。

 霧には馴染みの無いものだが、調べればすぐに旗の意味は知れた。

 

 

「人間が昔使っていた、艦船間の信号旗か」

「それで、意味は?」

「言わなくともわかるだろ」

 

 

 舌打ちを零して、サラトガは忌々しそうに呟いた。

 

 

「いっそのこと、地上を攻撃してやろうか」

「それは、許されていないわ」

「わかってる、言ってみただけだ――――我らがアドミラリティ・コードは、人類を殲滅しろとは言わなかった」

 

 

 自分で言いながら、サラトガは自分の不機嫌が増すのを感じた。

 苦々しいその味は、おそらく払拭されることは無いだろう。

 何故ならばその味は、彼女がメンタルモデルを得てから初めて感じるもの。

 

 

「……もはや、1個艦隊では抑えられないと言うのか……」

 

 

 敗北。

 その苦々しい味は、忘れようとも忘れられない、そんなしつこさを持っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヒュウガとトーコの参戦は、間違いなく戦術の幅を広げた。

 それに加えて白鯨のサウンドクラスター魚雷、あれは汎用性が高い。

 組み合わせ次第によっては霧をも翻弄できる、ちょうど今のようにだ。

 

 

「サラトガ達は撤退していくみたいだね」

「そう」

 

 

 紀沙は肩にかけられた群像の上着を指先で押さえながら、スミノの言葉に頷きを返した。

 高台は海からの風を強く受けるため、そうしていないと上着が飛んでいってしまいそうだった。

 コロナド基地の対岸に高台があり、紀沙達はそこからサンディエゴ沖を見下ろしていた。

 紀沙は知らないことだが、そこは群像と静が散策していた場所でもある。

 

 

「さて、これでどうにか一段落、だな」

「うん」

 

 

 結局、徹夜になってしまった。

 岩場の上で隣り合って座る群像に心持ち身を預けながら、紀沙は頷いた。

 州軍の特殊部隊に拉致されてからまだ1日も経っていないが、かなり疲労感があった。

 その分だけ、反省点も多い1日だった。

 

 

 とは言え、これで全てが終わったわけでは無い。

 未だ振動弾頭の正式な引渡しは行われていないし、今日撃退した霧の艦隊も時間を置けば戻って来るかもしれない。

 第一、エリザベス大統領に対する答えもまだ用意できていない。

 それに、ウィリアム達のこともある。

 

 

「それで、この場合ってどうすんのよ。やっぱ告発とかすんの?」

「それは、ちょっと難しいと思います……」

 

 

 冬馬の言葉に、考えながら応じる。

 自分で言うのも何だが、紀沙達がウィリアムを告発することは難しい。

 大体、ウィリアム――ジャンもだが――は紀沙と夕食を共にしようとしただけで、拉致に関与した証拠は何も無い。

 冬馬達の救出のドサクサで例の書類も失われてしまったので、勧誘の証拠も無い。

 

 

 そもそも、告発する相手が問題だ。

 市民権を有していない紀沙達がアメリカ国内でウィリアムに対して訴訟を起こすことは出来ないし、外交問題にしようにも、アメリカ政府はどちらかと言うと解決に協力してくれた形だ。

 つまり、告発する手段も相手もいない。

 

 

「基地はお祭り騒ぎだそうだ、アメリカ軍が霧を撃退したのはこれが初めてだからな」

 

 

 携帯端末のメールを弄りながら、群像がそう言った。

 そう、直接では無いにしろ、今回はアメリカ軍が正面からサラトガ達と戦った。

 公式にはアメリカ軍が霧を撃退したことになるだろうし、そうすることで日本側も貸しを作ることが出来る、日米共に利益があるのだ。

 アメリカ軍も、自信をつけただろう。

 

 

「じゃあ何か? 奴さんはそこまで考えてやってたってことか?」

「それは、わかりません。偶然かもしれないですし」

 

 

 改めて考えてみれば、アメリカが1番得をしている。

 結果だけを見ればそう言うことで、アメリカ軍が受けた損害もそこまで大きなものでは無い。

 そして1番損をしたのは、本当なら避け得た戦闘で消耗した日本艦隊、と言うことになるのだろう。

 何しろ、何も得ていないのだから。

 

 

 その時、群像が立ち上がった。

 あ、と声を漏らした紀沙は、その後を追いかけた。

 言いたいことと、聞きたいことがあった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「兄さん」

 

 

 高台を降りていく群像の後を追いかけて、声をかけた。

 冬馬達からある程度の距離を取ってから声をかけたのは、2人だけで話をしたかったからだ。

 

 

「兄さん、ありがとう」

「ん?」

「助けてくれて」

「ああ」

 

 

 言われて気が付いたと言う風な群像に、紀沙は小さく笑みを漏らした。

 群像は無頓着と言うか、自分の行為に対して認識が薄いことがある。

 例えば今回の件など、冬馬達の話を聞く限り、群像がいなければ自分は助からなかっただろう。

 妙な話になるが、紀沙はそれを嬉しいと感じていた。

 

 

 群像が、兄が自分を助けてくれたことが嬉しい。

 それは、家族としての率直な気持ちだった。

 そして紀沙は、そうした気持ちを素直に口にすることが出来た。

 ただ彼女は、群像がそう言う気持ちにも無頓着であることを知っている。

 

 

「礼ならお前のクルーに言うと良い。オレはたまたま居合わせただけだ」

 

 

 ほら、と、紀沙は喜びと共に思った。

 こう言う人間なのだ、千早群像と言う少年は。

 

 

「それでも、ありがとう」

「……そうか。まぁ、無事で良かった」

 

 

 群像が、海の方を見た。

 照れ隠しかと思ったが、水平線に見える霧の艦隊を見ているのだとわかった。

 だから、紀沙もそちらを見た。

 未だ戦いの痕が残る海は、いつもより波が高いように感じた。 

 

 

「それから、彼女にもちゃんと礼を言っておけよ」

「え?」

「スミノ、だったか。お前の艦は」

 

 

 紀沙は、群像の横顔を見た。

 海を見つめる群像の表情は穏やかで、冗談を言っている風では無い。

 元々、群像は冗談が得意では無い。

 

 

「スミノが動いていなければ、オレ達は間に合っていなかった」

 

 

 時間を稼ぐと言う意味でも、また派手に暴れて紀沙の居場所を伝えると言う意味でも。

 それから、霧の艦隊に対する火力と言う意味でも。

 スミノがいなければ、今日の危機は乗り越えられなかった。

 群像はそう言っていて、それは紀沙にも良くわかった。

 

 

 そして、出来れば言って欲しく無かった言葉だった。

 だから紀沙は、兄の言葉に明確には答えなかった。

 その代わり、別の言葉を口にした。

 きっと、兄が1番言われたくない、それでいて自分がいつか聞かなければならない言葉を。

 

 

「ねぇ、兄さん」

「ん?」

「この後はどうするの?」

「……この後?」

 

 

 もうわかっているくせに、頭の良い兄はわざと聞き返してきた。

 

 

「もちろん、その、私が大統領にちゃんと答えて、振動弾頭を受け取って貰ってからの話だけど。それから、白鯨の人達とも話さないとだけどさ」

「…………」

「……日本に、帰るよね?」

 

 

 日本艦隊の目的は、振動弾頭のアメリカへの輸送。

 それを果たせば、当然任務は達成となる、だから後は日本へ帰るだけだ。

 帰るべきだし、帰らなければならない。

 

 

「…………」

 

 

 ――――兄さん。

 ねぇ、兄さん。どうしてそうだって言ってくれないの?

 そんな想いが紀沙の胸中を占める。

 そして想いが強くなればなる程に、不思議と左目が痛んだ。

 

 

『千早艦長』

 

 

 そして、思い出されるのはある言葉。

 

 

『アメリカへの移送任務とは別に、お前にもう一つ任務を与える』

 

 

 ()()()()()()()

 ()()()()()()()

 

 

『イ401に同行し、監視するのだ。そして……』

 

 

 ――――そして。

 

 

「兄さん」

 

 

 そして、紀沙は言った。

 黙して語らぬ兄に対して、愛情をわかってくれぬ恋人にそうするように。

 

 

「兄さんの心は、今、どこにありますか」

 

 

 紀沙の声は、震えていた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言う訳で、アメリカ編もそろそろ終わりそうです。
次はどこに行きましょうか、と言って、アニメ基準で言うともうエンディングで良いんですよね、このまま劇場版って感じで(え)

しかし私はここで終わりません。
原作的にもお話の中心はアメリカでは無いような気もするので、どうにか引っ張りたいところ。
でも、どうするのが自然かな、と。

それでは、また次回。


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Depth029:「亀裂の予感」

 その場所に星条旗と日章旗が並んだのは、実に17年ぶりのことだった。

 ホワイトハウスの中でもメインとなる建物の正面には、小さな庭園がある。

 この庭園はアメリカ大統領と各国の首脳が共同記者会見を開く際の、いわば定番とも言える場所で、霧との大海戦後はアメリカと陸続きでない国の旗が翻ったことは無い。

 

 

 しかし今日、この場所には遥か西方の島国(日本)の国旗がはためいていた。

 17年と言う月日を越えて、日本がワシントンに帰って来た。

 ホワイトハウスが突如発表したその報せに、全米に激震が走った。

 併せて「太平洋艦隊が霧を撃退した」と発表されたことも、衝撃に拍車をかけた。

 

 

「大統領、彼らは本当に日本艦隊の人間なのですか?」

「ええ、もちろんです。ここに彼らが立っていること、それが何よりの証拠でしょう」

 

 

 アメリカ人記者の質問によどみ無く答えるエリザベス大統領の背中を、紀沙は見つめていた。

 抜けるような青空の下、紀沙の視界にはアメリカの全てが映っていた。

 エリザベスと並んで立つ浦上中将の背中と、左右を見れば駒城や真瑠璃たち白鯨のクルー、そしてイ404のクルー達が並ぶ、日章旗と星条旗はさらに左右に立てられている。

 

 

 さらにその先に、庭園の芝生に設えられた記者席がある。

 アメリカのマイナーなメディアまで招待されているらしく、エリザベス大統領の力の入れようがわかる。

 そしてさらに向こう、ホワイトハウスと外を遮る柵の向こう側に多くの人々の姿が見える。

 携帯端末のカメラがこちらに向けられていて、離れていても興奮の度合いがわかった。

 大興奮、である。

 

 

(これが、大統領とか首相とかやる人が見る景色なんだ)

 

 

 大統領、そして日本艦隊の代表である浦上の背中越しとは言え、紀沙は新鮮な気分だった。

 テレビの中で北や楓首相が立っているのを見たことはあるが、実際に立って見るのとそうで無いのとでは大違いだった。

 若干、見世物めいていることは仕方ないと諦める。

 

 

「我々は今日、改めて互いの同盟関係を確認しました。アメリカは今後も日本を支援し、またアメリカは日本の貢献を歓迎するでしょう」

「支援と言うと、霧との戦いについてでしょうか? それから、サンディエゴ沖での戦闘はどう言った内容のものだったのでしょうか!」

「高度に軍事的な事情を含むため、現時点ではお答えすることができません。ただ、日本艦隊の来訪によってもたらされた新たなアプローチは、実に革新的であったことは確かです」

 

 

 何とも巧妙な答え方をするものである、流石に慣れている。

 他のスタッフと共に夫ロバートが見守っているのが、良い効果を生んでいるのかもしれない。

 ちなみに「新たなアプローチ」とは、もちろん振動弾頭のことだ。

 最も、先の霧の太平洋艦隊との戦いでは振動弾頭は使われていないわけだが……。

 

 

 振動弾頭のことはまだ公表したくないが、アメリカ軍の勝利は喧伝したい。

 一方で日本側もアメリカからの支援増や在米日本人の待遇改善を得たいので、あえてアメリカ軍を立ててやる。

 今回の公表と共同記者会見は、そう言う両者の利益が合致したから実現したものだった。

 政治的目的の達成のために軍があるのなら、これはその典型例とも言える。

 

 

「あ……」

 

 

 ぐるりと視界を巡らせたその時、紀沙は1人の人物が参列者の中から離れるのを見つけた。

 少しの間逡巡した後、記者達の視線がエリザベス大統領に集中して――そもそも、この会見の主役は彼女なわけで――いる隙を突いて、紀沙は一歩下がって壇上の列から抜けた。

 呼び止める仲間の声に手を振って謝り、紀沙はその男を追いかけた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「南野さん!」

 

 

 庭園の端で、紀沙は南野を捕まえることが出来た。

 記者会見の場とは違って周辺に人気は無く、靴が土を踏み締める音も良く聞こえた。

 そうした静けさの中で紀沙の声が聞こえないはずも無く、南野はゆっくりと振り向いた。

 

 

「……南野さん」

 

 

 紀沙がカリフォルニア州軍らしき特殊部隊に拉致されたのは、もう1週間前の話だ。

 事の顛末(てんまつ)はすでに聞いている、今回の件に南野が関与していたことも。

 本来ならば恨み言のひとつも言ってやるべきなのかもしれないし、言って良いのかもしれない。

 けれど、不思議と言葉は出てこなかった。

 

 

 静かに立つ南野の姿を見た時、何かを言う気持ちは失せてしまった。

 何故ならば、南野の表情に気まずさや怯えの類が一切見えなかったからだ。

 あるのは、己の行動に後悔はあっても恥は無いと言う感情だ。

 心を殺してでも、自分がしなければならないと言う強い覚悟だ。

 

 

「頑張ってください」

 

 

 だからかもしれない、そんな言葉が口を突いて出たのは。

 流石に驚いた顔をする南野に、紀沙は言った。

 

 

「アメリカの日本人にとっては、今からが大事だと思うんです」

 

 

 群像から南野の関与の話を聞いた時、紀沙が感じたのは怒りよりも哀しみだった。

 それも、裏切られたことへの哀しさでは無い。

 今こうして南野を見ていても、やはり怒りは湧いて来ない。

 ただ、17年に渡りアメリカに取り残された男の――哀しさとしか表現できない何かを、紀沙は感じていた。

 

 

「きっと、南野さんにしか出来ないことです」

 

 

 今回の一件で、エリザベス大統領は一気に株を上げた。

 間近に迫った大統領選挙において、日本艦隊は大きな貢献をしたことになる。

 紀沙の件も含めて、エリザベス政権は在米外国人の中でも日本人を優先して支援すると約束してくれた。

 だが、その実務を実際に担うのは紀沙達では無い。

 南野達、大使館員こそがその中心となるべきだった。

 

 

「……わかりました」

 

 

 初めて、南野が口を開いた。

 制帽を脱ぎ、深々と頭を下げる大人の男性を、紀沙はじっと見つめていた。

 

 

「この南野、身命を賭して。アメリカの日本人のために尽くす所存です」

「……はい、お願いします」

 

 

 北なら、どうしただろうか。

 紀沙はふと、そんなことを考えた。

 ただきっと、自分よりもずっと上手く場を収めることだけは確信があった。

 

 

「最初にお会いした時は、北先生とは似ても似つかぬ方だと思いましたが」

 

 

 そんな紀沙を見て、初めて南野が笑みを浮かべた。

 南野が笑うところを、初めて見た気がした。

 

 

「なかなかどうして、北先生に似ておいでのようだ」

「それは、私には過ぎた言葉です」

 

 

 本心だった。

 1年半程を北の屋敷で過ごして、厳格な北の姿を誰よりも近くで見てきた。

 誰よりも厳しく、そして誰よりも優しい。

 いろいろな話を聞いたが、余り身になっていなくて申し訳なく思うくらいだ。

 

 

 あるいは、群像なら……兄ならば、もっと上手く対処するのだろうか。

 あえて今日の式典に姿を見せず、サンディエゴに留まった群像。

 群像の目には、自分には見えていないものが見えているのだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 カリフォルニア州が朝の時、日本はまだ未明だ。

 にも関わらず、北は起きていた。

 視線の先にはモニターがあり、そこにはアメリカから全世界に生中継されている映像が映し出されていた。

 

 

『さて、これでアメリカとの約束は果たしたことになりますね』

「振動弾頭の量産についても、目処が立ったことになります」

 

 

 他に楓首相と上陰次官がいて、3人は総理執務室のソファで向かい合う――もちろん、楓首相は車椅子だが――形で座っていて、共にアメリカで行われている記者会見を聞いていた。

 眠そうな様子は見えず、内心では興奮や高揚を覚えているのかもしれない。

 一方で喜んでいる様子も見えず、表情だけで胸中を測ることは難しかった。

 

 

 しかし、振動弾頭移送計画は彼らの目論見通りに進捗した。

 むしろもう少し時間がかかると思っていただけに、上出来ではある。

 何しろ通信もままならない状況だ、本国で待っている側も精神を磨り減らす日々を送っていた。

 アメリカからの「日本艦隊到着」の報せは、彼らにとっては待ちに待った報せだった。

 そして計画を知らなかった、世界中の多くの人々に希望をもたらす報せでもあった。

 

 

「とは言え、懸念材料が無いわけでもありません」

 

 

 上陰の言う通り、順風満帆と言うわけで無い。

 現場判断に(シビリアンコントロール)依存した(を離れた)軍事作戦の遂行、量産後の対霧戦略の主導権、国際外交、国内反対派への対処。

 色々と問題は多い、そしてその中でも特に注意を払わなければならないことが。

 

 

「蒔絵のことですね」

 

 

 先程、3人と言ったが――実はこの場にはもう1人、執事服を着た長髪長身の男がいた。

 刑部博士(ローレンス)である。

 いや、今はローレンスが彼の本名と言えるのかもしれない。

 そして彼が口にしたのは、()である蒔絵――今は、イ404と行動を共にしている――と、そして。

 

 

「そして、眞のことだ」

 

 

 刑部眞、彼の()()であり日本国に3人いる首相の1人だ。

 管轄は北海道、いわゆる北管区と呼ばれている地域である。

 

 

『北海道の事件は、私にとっても想定外だった。まさか霧があの人のところに向かうとは』

「思えば、興味を持たれて当然と考えておくべきだったのかもしれません」

 

 

 楓首相の吐息混じりの声に、上陰が頭を振った。

 それを耳にしながら、北は腕を組み、じっとモニターを見つめていた。

 聞こえてくる会話は彼にとっても無視できないものだったが、それよりも、いやだからこそ、北はモニターを見つめているのだった。

 

 

「…………」

 

 

 けれど、いくら探しても、彼が良く知る少女の姿を見つけることは出来ないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そしてもちろん、人類(アメリカ)が流している映像は霧でも傍受している。

 太平洋以外の霧の艦隊は概ね静観の構え――興味が無い、と言い替えることも出来る――だが、一方で太平洋を管轄とする艦隊は、苦々しい心地でこれを見ていた。

 ことに、日本艦隊と直接刃を交えた者達にとっては。

 

 

北米方面太平洋艦隊(わたしたち)の面目、丸潰れね」

 

 

 北米方面太平洋艦隊旗艦『レキシントン』は、自らの艦内でそう言った。

 梯子付きの書棚と無数の本、化学薬品らしき物が入ったビーカー類。

 大学図書館と化学研究所を足して2で割ったような部屋の中で、レキシントンは空間に投影したモニターを通してワシントンの共同記者会見を見ていた。

 

 

 ピクピクと震える眉は、浮かべられている笑顔が相当の努力で保たれていることを物語っていた。

 事実、手にしているマグカップの中身(コーヒー)に波紋が広がっている。

 つまり、彼女はかなり怒っていた。

 屈辱を受けている、と言う言い方をしても良い。

 

 

「もう一度、無事に太平洋を――――」

「――――渡れるとは思うなよ。イ401、イ404……!」

 

 

 時をほぼ同じくして、似たような言葉を吐いたメンタルモデルがいた。

 それは北米方面では無く、日付変更線を跨いだ極東海域にいた。

 全長200メートルを超える巨大な艦体の色は黒、未明の海上に溶け込むかのように航行していた。

 眼鏡にブレザー制服に生徒会の腕章を身に着けたメンタルモデル、ヒエイである。

 

 

 ガリ、と親指の爪を噛み締めながら、やはりモニターを見つめている。

 そんな彼女を心配げな表情で見つめているのは、寄り添うように航行する『ナチ』だった。

 そのメンタルモデルは、憂いを帯びた瞳でヒエイの背中を見つめていた。

 

 

「……行きましょう……」

 

 

 そして、霧の艦隊から離れた霧達もその映像を見ていた。

 下北半島の東、津軽海峡を抜けて太平洋に出る海域に、彼女達はいた。

 数隻の艦艇が縦に並んで航行しているが、メンタルモデル(人影)がいるのは最後尾の艦艇だけだった。

 艦橋の上に横並びになった9人のメンタルモデルは、皆、一様に黒い衣装に身を包んでいた。

 

 

 轟音が、夜空に轟く。

 主砲の1つが仰角を上げ、空砲を撃っていた。

 数は、偶数。

 自らが撃つ空砲の中、タカオは膝をついた体勢から立ち上がった。

 そんな彼女の足元には、花と、箱と、そして――――……。

 

 

「あの兄妹のところへ」

 

 

 タカオの空砲が、夜の海を震わせていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ホワイトハウス、それも大統領執務室(オーバルオフィス)に招待される外国人は少ない。

 日本人となれば、それこそ歴史上稀なことだ。

 そしてその稀な例に、紀沙はなった。

 

 

「紅茶で良かったかしら」

「あ、はい。お構いなく……」

 

 

 まして大統領手ずからお茶を淹れて貰うなど、史上初であったろう。

 執務室のソファに座りながら、紀沙は緊張していた。

 室内には大統領と自分だけだ。

 一応、軍礼装を身に着けているが、はたして大丈夫なのだろうか。

 

 

 もちろん、お茶をするためだけに呼ばれたわけでは無い。

 今日から振動弾頭引き渡しに関する協議が始まるのだが、それに先立っての呼び出しだ。

 つまり、エリザベス大統領の問いに対して答えるべき時が来たと言うことだろう。

 そして、紀沙にとってはそれこそが最大の難問だった。

 

 

「それで、どうだったかしら」

 

 

 紅茶のセットを手に、エリザベスは微笑んだ。

 紀沙の手元に紅茶のカップとソーサーを置き、首を傾げて見せる。

 

 

「貴女から見て、この国(アメリカ)はどんな国だったかしら」

 

 

 紀沙の目に、アメリカと言う国はどんな国か。

 ワシントンはほとんど見ていない――近郊の空軍基地からヘリコプターで敷地内に降りた――ので、紀沙のアメリカの判断基準はサンディエゴだ。

 正直、今思い返しても良い記憶は少ない。

 

 

 何しろ拉致されたのだから、良い感情を抱くはずも無かった。

 ただそれを覗けば、観光らしい観光をしたと思う。

 人種も文化もない混ぜになった不思議な都市だった、と言う印象だ。

 しかしそれを言葉にしようとすると、どうも違うような気がする。

 

 

「ええと」

「良いのよ、正直に言ってくれれば」

 

 

 ことここに至っても、紀沙は相手が望んでいる答えが見出せなかった。

 このままでは振動弾頭の引渡しに障る。

 だが答えが見えない以上、エリザベスの言葉に甘えるしかなかった。

 つまり、正直な気持ちを打ち明けるしか。

 

 

「……良く、わかりませんでした」

 

 

 そもそも、何かに対して明確な感想を考えたのは初めてのことだった。

 好き嫌いや得意不得意はあっても、「感じる」と言うのは別次元の話だ。

 ただ、この答えでは最初に会った時と変化が無い。

 ダメかと、そう思った。

 

 

「ええ、私もよ」

「え?」

 

 

 だから、肯定された時は驚いた。

 エリザベスは紀沙の向かい側に座って、笑顔を浮かべていた。

 

 

「アメリカは、私達アメリカ人にとっても良くわからない国です」

 

 

 様々な人種と文化、宗教や風習が溶け合う社会。

 自由と自立を尊び、何者かに縛られることを嫌う気風。

 余りにも多様で、多面的で、アメリカに住まう人々ですら全容を理解できない国家。

 アメリカ人を名乗る、全ての人々の故郷。

 

 

「だからこそ、私達はこの国を愛しているのです。誰にも把握できない、良くわからない。だからこそ希望に満ちているのだと、そう信じているから」

 

 

 紅茶を置き、エリザベスは真っ直ぐに紀沙を見つめた。

 

 

「……ウィリアム氏に会いました」

 

 

 ウィリアム、サンディエゴの一件に関わっていただろう大統領候補だ。

 エリザベスにとっては、選挙戦を戦うライバルと言うことになる。

 

 

「サンディエゴの一件については、本当に申し訳なく思っています。非公式ではあるけれど、日本への支援と言う形でお返しさせて貰います」

「じゃあ」

「振動弾頭の量産については、アメリカが責任をもって行います。今回の日本の好意と貢献を、私達は忘れることは無いでしょう」

 

 

 良かった、と、紀沙は息を吐いた。

 ひとまずは役目を果たしたと言うことになるだろう、振動弾頭の量産の目処も立ったわけだ。

 アメリカの豊かな工業力なら、単純な量産だけで無く、改良も進むかもしれない。

 

 

 ただ、一つだけ気になることがあった。

 それはウィリアムの話にも出ていたことだが、エリザベス自身の霧への姿勢だ。

 ウィリアムは、エリザベスが霧との共存を目指していると言っていた。

 それと振動弾頭の量産は必ずしも矛盾するものでは無いが、気にはなった。

 

 

「あの、エリザベス大統領。大統領は……その」

 

 

 と言って、一介の軍人に過ぎない自分がそんなことを聞いても良いものか。

 そう迷っていると、エリザベスが口を開いた。

 

 

「私、欲しいものがあるの」

「え?」

 

 

 顔を上げて目にした相手の表情を、紀沙は生涯忘れないだろうと思った。

 

 

「誰も飢えることの無い、病気に悩まされることも無い、理不尽に涙することも無い世界。誰もが大切な人に寄り添って、ささやかな生活を営むことを妨げられない世界」

「それは……」

 

 

 それは、とても素晴らしい世界だと思った。

 理想、と言う言葉が一番当て嵌まるのだろう。

 それを信じて邁進(まいしん)することは、素晴らしいことだと思う。

 ただ……。

 

 

「上手く行かないことも多いけれど、でも目指す価値のある世界だと思うの」

「そのためなら…………霧とも手を結ぶ?」

「ええ」

「でもっ……!」

 

 

 はっきりと、エリザベスは頷いた。

 そして紀沙が何事かを反芻する前に、続け様に。

 

 

 

「私とロブの娘を殺した霧とも、必要なら共存してみせるわ」

 

 

 

 海兵だったの、貴女と同じように。

 続けられた言葉に、紀沙は口を噤んだ。

 何も言えなかった、エリザベスの目にはそれだけの光があった。

 

 

「ねぇ、キサ」

 

 

 エリザベスは言った。

 ――――貴女は、何のために霧と戦っているの?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「もう良いのかい?」

 

 

 夫の言葉に、エリザベスは「ええ」と頷いた。

 エリザベスは紀沙が去った後も、テーブルの上を片付けること無く、そのままソファに座っていた。

 ソファに背中をつけて天井を仰いでいる姿は、彼女がとても疲れていることを窺わせた。

 

 

「ねぇ、ロブ。私、やっぱり大統領なんて向いていないわ」

「そんなことは無いよ、キミは良くやってるじゃないか」

 

 

 妻の肩に手を置いて、ロバートは言った。

 労わるような夫の声音に、エリザベスの顔は幾分か柔らかくなる。

 それでも、濃い疲労は隠しようも無い。

 その疲労は、身体的なものよりも精神的なものが大きい様子だった。

 

 

 疲労の源は、心にあった。

 ロバートには、そんな妻の疲労が良くわかっていた。

 だからこそ、彼はエリザベスの傍にいるのだ。

 

 

「大丈夫だよ、あの子はきっと強い子だ。僕達の娘と同じにね」

「そうね……きっと、そうね。そうだと良いわね」

 

 

 先に紀沙に告げたように、2人の間には娘がいた。

 海軍に所属する軍人であり、巡洋艦勤務の士官だった。

 軍への女性参加が進み始めて1世紀近く、今でもアメリカ軍における士官の女性比率は高いとは言えない。

 そんな中で佐官にまで昇進した娘は、きっと軍人として優秀だったのだと思う。

 

 

 ただ、娘が士官学校に進学することをエリザベスは認めなかった。

 そのせいで娘とは喧嘩別れになってしまって、その後長い間連絡すら取らなかった。

 だから17年前の<大海戦>の時も、その戦いに娘が参加していたことを軍からの戦死通知で初めて知ったのだ。

 当時エリザベスはカリフォルニア州選出の上院議員で、政府の作戦案に議会で賛成票を投じていた……。

 

 

「私があの子を殺してしまった」

「そんなことは無いよ。あの頃は、誰もが霧との戦いに賛成していたんだ」

「そんなことは理由にならないわ、事実は消えない。そして今回も、きっと」

「でも大丈夫だった。あの子は……キサ達は、霧との戦いに勝った」

「いつまで?」

 

 

 涙ぐみながら、エリザベスは言った。

 

 

「いつまで勝てると言うの?」

「大丈夫、大丈夫だよ。信じよう、あの子達を。きっと大丈夫だって」

 

 

 戦う限り、勝利と敗北がある。

 勝利するのと同じくらいの確率で、敗北する。

 そして軍事において、敗北とは死を意味する。

 それを防ぐためには、戦わないで済む状態が必要だ。

 

 

 そのために()()()()()妻を、ロバートは支えようと決めていた。

 妻は強く、そして弱い。

 だから努めて明るく、ロバートは「大丈夫」と言い続けるのだった。

 それが少しでも妻の力になるならばと、心に決めて。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ワシントンでの記者会見からさらに1週間後、紀沙達はサンディエゴに戻っていた。

 今度は玄関口のコロナド基地では無く、正規のサンディエゴ基地に招待されている。

 先の海戦での協力と、同盟国の艦隊として公表されたことが影響しているのだろう。

 

 

「あー……何かダリィ」

「あらあらダメよトーマ君、ちゃんとお仕事しないと~」

 

 

 当然、冬馬らイ404の面々もサンディエゴ基地にいる。

 今は出航――いつ、どこへの出航かはまだ決定されていないが――に向けた準備を進めているところで、ハワイからサンディエゴに向かう際に消耗した物資の補給をしているところだ。

 『マツシマ』からの供給に頼る侵蝕魚雷以外は、アメリカ側からの提供を快く受けている。

 

 

 そう言うわけで、イ404の搬入口周辺には物資を詰め込まれた木箱が山積みになっていた。

 その内の1つの上で寝転がりながら、冬馬はダラダラとしていた。

 有体(ありてい)に言えば、サボっていた。

 近くでデータ入力をしていたあおいが注意らしきことを言ったが、特に苦言を呈している風では無い。

 

 

「そう言や、艦長ちゃんは?」

「本国へ報告よ。アメリカに来てからバタバタしてたから、初日以後送り損ねてたみたいだから~」

「一気に情報を送れねぇから、面倒だよな」

 

 

 大陸間に限らず、全ての通信は霧に傍受される危険性がある。

 情報の漏洩を防止するため、統制軍の間では通信にいくつかのルールを設けている。

 短文を断続的かつアトランダムに送信すると言うのが、基本的なルールだ。

 場合によっては暗号を用いることもあり、受信側の解読まで含めると1つの情報を送るのにも時間がかかる。

 

 

「情報と言えば……」

「情報? ヘイ! ミーのインテリジェンスが必要ならそう言ってクダサーイ!」

 

 

 冬馬が寝転がった体勢のまま視線を向けた先、そこに見慣れない男が1人いた。

 肩に担いだラジオからジャマイカンな音楽がやかましく鳴り響き、日焼けした顔に丸いサングラスをかけていて、とても軍人のような身なりには見えない。

 そして実際、彼は軍人では無かった。

 と言うか、口調でわかるかもしれないが……。

 

 

「アンタのこと、艦長ちゃんに何て説明しようかなぁ」

「いい加減言っとかないと、どんどん気まずくなるわよ~」

 

 

 彼の名は「ジョン」、群像達がエリザベス大統領に紹介された()()情報屋である。

 宣言通りに日本艦隊の前に姿を現して合流、その後、イ404に乗ることになった。

 自分で約束をしておきながら紀沙に任せる(押し付ける)あたり、群像もなかなか良い性格をしている。

 問題は、紀沙自身がまだ知らないと言うことだった。

 

 

 そして、意外なことが一点あった。

 ジョンは情報屋が名乗った名前であり、そして彼はアメリカの情報屋だ。

 だからてっきり、アメリカ人かと思っていたのだが。

 

 

「ユー達の役に立ってみせるよ、ミーは。だからミーを日本にサイトシーイングさせてね!」

 

 

 金髪、しかし染めたもので、根元はすでに黒くなっている。

 彼は、日本人だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 兄のこと、霧のこと、クルーのこと、サンディエゴの事件、大統領の言葉。

 アメリカでの一連の出来事は、紀沙にとっては大きな負担だった。

 ただその重圧も、帰還への道筋をつけていくことで少しずつ小さなものになっていった。

 

 

「えー……以上で、報告を終、わ、り、ま、す、っと」

 

 

 メールを打つ時に声に出してしまう人がいるが、紀沙はそう言った人間の1人だった。

 今は自分の私室で本国への通信文を書き終わったところで、後はこれを暗号化の上、断続的かつ分割して(アトランダム)に送るだけだ。

 まぁ、人類の暗号が霧に対してどの程度の効果を持つのかは自信が無かった。

 

 

 ただし、霧にも判読のしようの無い文面を作ること自体は比較的簡単だ。

 送信側と受信側が個人間でしかわからない、合言葉や隠語である。

 例えば「以前に北議員からお弁当箱から返して貰った時、水桶に浸けておくのを忘れてしまって大変でした。お弁当箱はその日の内に水桶に浸けておかないといけませんね」であれば、お弁当箱=潜水艦かつ私事の話として、「当日中に潜行状態に入ります」と言う意味になる。

 

 

「あー、疲れたー」

 

 

 その分だけ、通信文の作成は大変なものになる。

 解読する方も大変なので文句は言えないが、何とかならないものだろうかと思う。

 霧がいなければわざわざこんなことをする必要は無いので、そう言う意味では、素直に霧を恨める。

 

 

「ねぇ」

「んー、どうしたの蒔絵ちゃん」

「……何で私を抱っこしてるの?」

 

 

 そして今、紀沙は膝の上に蒔絵を乗せていた。

 最近構えていなかったと言うのもあるが、癒しが欲しかったらしい。

 当の蒔絵は嫌そうにしているが、どこかくすぐったそうにも見えた。

 

 

「ねぇ、私達、日本に帰るの?」

「んー、まぁそうだね」

「おじいさまに会える?」

 

 

 日本に帰る、それは紀沙の中ではすでに規定路線だった。

 振動弾頭の引渡しが済めばアメリカにいる必要は無い、後は北達が計画するだろう<大反攻>に備えていれば良い。

 それで、何もかもが終わる。

 

 

 ただ、蒔絵の「おじいさま」については解決方法が無い。

 刑部博士、()()()()()()()()()

 日本に戻ったら、会う必要があるかもしれない。

 そんなことを考えて、紀沙は机の端に置いてある白い封筒を見つめた。

 

 

(これ、どこで使えば良いのかな)

 

 

 浦上から渡されたそれは、北が紀沙のためにと用意したものだと言う。

 必要になるかもしれない時に渡してほしいと、浦上は言付かっていたらしい。

 しかし、政府の印章が押されたそれをどこで使えば良いのか、紀沙自身にもわからないのだった。

 

 

「ねぇ、何かお手伝いできることある?」

「んー、大丈夫だよー」

 

 

 かいぐりかいぐり。

 蒔絵の頭を撫でながら、紀沙は溜息を吐いた。

 白紙委任状、北も随分なものを預けてくれたものだ。

 いっそのこと、兄の軍籍復帰でも願ってみようか――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その日、イ401の発令所はいつも通りだった。

 僧はいつものマスク姿で艦内の管理を行い、いおりは艦長の椅子に座ってイオナの髪を三つ編みにしていて、静をヘッドホンをつけたまま雑誌を読み、杏平は傍らのボックスから菓子等を取り出していた。

 そして、それをいおりの膝の上からイオナが見つめている。

 

 

「いおり、そこは艦長の席ですよ」

「僧くんも懲りないねぇ」

「それはこっちの台詞だと思うんですが」

 

 

 などと言う会話も、もはや日常である。

 緩んでいるように見えるが、それぞれにすべきことはしている。

 仮に今すぐに戦闘が始まったとしても、彼らは即座に対応することが出来るだろう。

 日常、それはイ401のクルーにとっての日常だった。

 

 

 そしてこの日常に変化を持ち込むのは、常に1人の少年だ。

 彼の一言で、イオナ達の日常は終わりもすれば始まりもする。

 これは、そう言う集団なのだった。

 

 

「お、艦長」

 

 

 そして、その少年が発令所にやって来た。

 群像が発令所に入ってくると、クルー達がそれぞれに声をかけた。

 それに対して短く返事を返すに留めるのが、群像と言う少年だった。

 

 

「……何か?」

 

 

 そして、そんな群像の変化に気が付くのはいつも僧が先だった。

 僧は群像の表情に僅かに深刻さを覚えた、それは外れてはいなかった。

 ただならぬ雰囲気は他のクルーにも伝播し、それぞれの視線がじっと群像に注がれた。

 皆の視線を受けて、群像は言った。

 

 

「イオナ」

「何だ?」

「ヒュウガに連絡してくれ」

 

 

 僅かの逡巡も無く、言った。

 

 

「出航する」

 

 

 群像とイ401、そしてそれらを取り巻く状況を知る人間が聞けば、一様に驚いただろう。

 誰もが「は?」と言い、意図を問うただろう。

 しかしこのイ401の発令所にあって、そんなことを聞く者はいない。

 

 

「……出航準備!」

「艦内状況確認、ヒュウガに暗号通信を」

「機関始動、いくらでもぶん回せるよ!」

「火器管制システム、オールグリーン! 補給もバッチリだ」

「全ソナー、状態良しです」

 

 

 わっ、と、全てが一気に動き出した。

 静かに、しかし確実に、サンディエゴ基地の中で1隻の潜水艦が稼動状態になった。

 人類側の機器では、その兆候を掴めない。

 ――――しかし。

 

 

「おや」

 

 

 しかし、霧であれば気付く。

 そしてサンディエゴ基地にいるイオナ以外の霧は、1人しかいない。

 

 

「どこに行こうと言うのかな、イ401は」

 

 

 スミノは、隣のドックで稼動状態になったイ401のことに気が付いていた。

 明らかな異常を感知していながらも、スミノの顔には笑みが広がっていた。

 まるで、これから起こるであろうことを心底楽しみにしているかのように。

 

 

「また、置いて行くのかな」

 

 

 嗚呼、楽しみだ。

 

 

「また、置いて行かれるのかな」

 

 

 そんなことになったら、いったいどうなるのだろうと。

 そう思うだけで、スミノは己の身が震えるのを感じた。

 ゾクゾクと胸の奥からこみ上げてくる感覚は、鋼の身体では得られなかったものだ。

 ――――さぁ、艦長殿にはいつ教えてあげようか?

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

これで概ねアメリカ編は終わりそうです。
それにしても、設定的に仕方ないのですが、紀沙の闇堕ちフラグが根強くてヤバいです。
このままでは「僕の気持ちを裏切ったな!」とか「愛などいらぬ!」とか「アンタが悪いんだ……アンタが裏切るから!」とか言いそう。

おかしいな、最初は可愛い妹ヒロインを目指していたはずなのに……。

それでは、また次回。


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Depth030:「急転」

 ――――時々、北は紀沙に難しい話をしてくれることがあった。

 

 

「軍隊と言うものが何のために存在しているか、お前は考えたことがあるか?」

 

 

 北の屋敷に住み始めて、最初の春だっただろうか。

 淡い桜色の着物姿の紀沙は、北の言葉に「え?」と顔を上げた。

 その手には楽焼の茶碗があり、椀の中には深緑色のお茶が揺れていた。

 

 

「……国家と国民を守るため、ですか?」

「間違ってはいない」

 

 

 紀沙の目の前には、北が座っていた。

 手元には湯気を立てる茶釜と、茶道具が置かれていた。

 どうやら、北には茶道の心得もあるようだ。

 

 

 しかし、間違ってはいないとはどう言うことだろうか。

 軍人の教育は、まず国家と国民への奉仕の心を説くところから始まる。

 そして多くの軍人は、「国家に貢献する」「同胞を守る」と言う想いを持って軍に入る。

 まぁ、中には食うに困って入ってくる輩もいるが。

 

 

「軍隊と言うのは、非生産的な集団だ。普通の企業や組織と違い、消費するばかりで何かを生産すると言うことが無い。時には人々の生活すら圧迫することがある」

 

 

 抹茶の苦味に顔を顰める紀沙の前に和菓子の皿を置きながら、北は言った。

 

 

「軍隊の存在意義は、政治的目的の達成にこそある」

「政治的目的、ですか?」

「国益と言い替えても良いだろう。ただ、この国益と言うものは目に見えるものばかりでは無い。国益と国や国民の利益が結びついて見えないこともある。そこが面倒なところであり、難解なところでもある」

 

 

 顔を赤らめながら、しかし和菓子を懐紙に移しつつ、紀沙は北の言葉を理解しようとした。

 だが、正直に言ってあまり良くわからなかった。

 

 

「だから軍人は――他の役人もそうだが――国民の信に拠らず権力の側にいる者は、心しなければならないのだ。自分の行動が国益を確保するための、祖国の政治的目的を達成するための手段だと言うことを」

「な、なるほど」

「できる限り視野を広く持ち、自分の判断と行動を国益に結び付けられるよう、精進するのだ。そうすれば、少しはまともな軍人になれるだろう」

 

 

 わからなかったが、まだわからなくても良いだろうと思った。

 何故ならそうしたことを考えるのはもっと上位の存在で、自分のような下っ端は上の判断や命令に従うことが国益の確保に繋がると思っていたからだ。

 この時の紀沙は、自分の判断で行動することの重みを理解していなかった。

 

 

 イ404の艦長になってからも、そうだった。

 自分の行動で、国益を掴み取ると言うこと。

 紀沙は、本当の意味で考えたことなど無かったのかもしれない。

 そして、今も。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ404の発令所は、えも言えぬ沈黙に包まれていた。

 彼らはすでにサンディエゴ港を()っており、発令所には潜行時特有の海の音が聞こえていた。

 しかし聞き慣れた音も、今は緊張感を高めることに一役を買っている気がした。

 

 

「…………」

 

 

 いつもは何だかんだと賑やかな面々も、今は一言も喋ろうとしない。

 むしろ何かを気にしていると言うか、恐々としている様子でもある。

 ちらちらと視線を向ける先には、1人の少女がいる。

 発令所の中央、つまり艦長の席に座るその少女は、俯いて何事かをブツブツと呟いていた。

 

 

 目元を覆う前髪の間からは、照明の光を反射する瞳が覗き見れた。

 瞬きをしていない。

 もちろんそう見えるだけだろうが、そんな印象を与える光がその瞳にはあった。

 正直、声をかけようとは思えない。

 

 

「ねぇねぇ、艦長殿」

 

 

 いや、1人だけいた。

 1人と言うか人間では無く、人間では無いが故に空気を読まない。

 あるいは、面白がっているだけかもしれない。

 

 

「千早群像は、どうして1人で――あ、いや、厳密には1隻だね――行ってしまったんだろうね?」

 

 

 そんな、本人が1番知りたいだろうことをわざわざ耳元で囁く。

 相手から何の反応も返って来なくとも、ニヤニヤとした笑みを消そうともしなかった。

 

 

「艦長殿に何も言わずに、どこへ向かうんだろうね? そんなに日本に戻りたくなかったのかな?」

 

 

 千早群像――イ401、サンディエゴ港を出航。

 その報が紀沙にもたらされたのは、イ401が準備万端でサンディエゴ基地の昇降装置をハッキングした後のことだった。

 補給作業も半ばだったイ404がすぐに追えるはずも無く、慌てて準備を整えた時には、イ401が海に出て1時間以上が経過した後だった。

 

 

 スミノはと言えば、その間ずっとニヤニヤ笑っているだけだった。

 1時間、広大な海においては、まして潜水艦が相手では致命的な遅れだった。

 同じ霧であるスミノだけが、ギリギリでおおよその位置を掴めている。

 その事実がまた、彼女の艦長の神経を逆撫でるのであった。

 

 

「……で、な……」

 

 

 紀沙は下を向いたまま、ブツブツと呟いていた。

 

 

「……なんで、なんで……!」

 

 

 何で、こんなことになっているのか。

 何で、こんなことをするのか。

 紀沙には全く理解できなくて、理解したくなくて。

 彼女はただ、目の前にいない相手に理由を問い続けていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 しかし、どうして群像はこのタイミングで日本艦隊を離脱したのだろうか。

 イ404と同じように、白鯨首脳部でもその議論は持たれていた。

 

 

「そりゃ、奴さんらが日本の軍人じゃないからだろうよ」

 

 

 戸惑う駒城らを前にして泰然とそう言ったのは、浦上だった。

 そして、それは事実だった。

 振動弾頭のアメリカへの移送と言う任務を終えた以上、イ401は自由だ。

 少なくとも、浦上達が彼らを拘束する理由は無い。

 

 

「それにしたって、随分と慌しいじゃないか。何かあったと考えるべきじゃないですか?」

「何かって、何だよ」

「さぁ、それがわかれば苦労は無いだろうけどね」

 

 

 コーヒーのマグを弄りながら、クルツはそう言った。

 先の理由で行動を縛られないとは言っても、今回の一件、余りにも急だ。

 そして急であるが故に、白鯨はサンディエゴから動いていなかった。

 アメリカ政府に対して、正式な出航と帰国を伝達をしなければならないためだ。

 

 

 イ404がイ401を衝動的に――艦長の心理状態を思えば、あながち間違った表現でも無い――追いかけてしまったため、そうせざるを得ないのだった。

 もちろん、今後の行動を決めかねていると言うのもある。

 2隻の後を追うか、それとも別行動を取るか。

 

 

「宜しいでしょうか?」

 

 

 その時、真瑠璃が手を挙げた。

 それまで携帯端末を弄っていた彼女は、全員の視線が自分に集まるのを確認すると、笑みを浮かべた。

 いつもの通り、透明で美しい笑みだった。

 何もかもを覆い隠してしまって、何を考えているのかを読み取ることが出来ない程に。

 

 

「群像艦長からの預かり物があります」

 

 

 指の間に挟んで示したそれは、2枚のカードだった。

 端末に接続して使用する記録媒体(メモリーカード)で、真瑠璃は小首を傾げながらそれを持っていた。

 

 

「1つは、日本政府に対しての親書です。そしてもう1つが、私達に対しての手紙になります」

「何が書いてあるんです?」

「私もまだ見ていません。そして、親書の方は楓首相達に渡すよう念を押されています」

 

 

 カタッ、と、音を立ててテーブルの中央に1枚のメモリーカードを置く。

 皆の視線が、その小さなカードに注がれていた。

 千早群像と言う、1人の天才が自分達に託したものを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 サンディエゴ沖より70キロ程北西に進んだ海域に、蒼い潜水艦が浮上していた。

 時化(しけ)と言う程では無いが、高い波が船体を激しく揺らしている。

 それを露とも気に留めず、1人の少年がハッチから海面を見つめていた。

 艦はもちろんイ401、そして少年は群像だった。

 

 

 群像は、じっと何かを待っている様子だった。

 そして数分もしない内に、彼が待っていた相手が来た。

 イ401に対するような紅い輝きの、イ401よりもよりシャープな印象を受ける潜水艦が、海面を盛り上げながら浮上して来たのだ。

 

 

「――――驚いたな」

 

 

 そして紅い潜水艦――U-2501のハッチから姿を現したのは、長身の欧州人だった。

 金髪碧眼に人種特有の白い肌、トレンチコートに制帽を被った美丈夫だ。

 

 

「まさかこんな形で顔を見ることになるとはね。我々に気が付いていたのか?」

「ついて来ているだろう、とは思ってはいた」

「……なるほど」

 

 

 苦笑して、男は言った。

 

 

「では正式に自己紹介をさせて頂こう、千早群像艦長。私はこのUボート『2501』の艦長、ゾルダン。ゾルダン・スタークだ」

「オレ達を追っている理由を伺おう」

「キミ達の顔を見に――そんな顔をしないでくれ、本当だ――ね。我々に生きる術を与えてくれた父とも言うべき人物、あの人の子供達の顔を見てみたかったんだ」

()()()?」

「我々はキミ達の父上、千早翔像提督より遣わされた者だ」

 

 

 ピクン、と、群像の眉が動いた。

 鉄面皮を貫く彼にしては珍しいことで、それだけ衝撃的だったと言うことか。

 群像の前にイ401を駆って海に繰り出し、そして帰って来なかった父親。

 そして今では、霧の力であの欧州大戦に介入していると言う。

 

 

 そんな男が遣わして来た男、ゾルダン。

 興味を持たないと言えば、嘘になる。

 自分の父親を、「父」と呼ぶ男に対する興味だ。

 

 

「千早群像艦長、1つ確認したい。キミ達はこれからどこへ向かう?」

「…………」

「……警告しておくが、ヨーロッパには近付かないことだ」

 

 

 自分の問いには答えを求めるくせに、相手からの問いには答えない。

 傲慢とも取れる群像の態度に、しかしゾルダンには嫌悪を感じた様子は無かった。

 

 

「もしヨーロッパに向かうのであれば、我々はキミとイ号401を撃沈しなければならない。最も、これは千早翔像提督の大命でもあるのだが」

「親父の欧州制覇の邪魔をするなと?」

「千早翔像提督は、新たな秩序を構築しようとしている。海を喪いながら、共通の敵に対して団結することも出来ない愚か者共を駆逐し、新しい世界を創ろうとしている」

 

 

 イギリスとの同盟を発表した記者会見。

 あれはネット上では今も閲覧回数を伸ばしているトピックスだが、無論、群像も見ている。

 何度も、見ている。

 

 

「もう1つ聞いておこうか、キミは父上と歩む気は無いか? 霧の力を振るい、新しい世界秩序の構築に向けて共に進む気は無いか?」

「親父がそう言えと言ったのか?」

「いや、私の個人的な提案……と言うか、疑問だ」

 

 

 群像は瞑目し、思案した。

 ただしそれはゾルダンの提案に悩んだと言うよりは、言葉を選んでいると言った方が正しかった。

 そして、群像は言った。

 

 

「今さら、親父の背中を追いかけるつもりは無い」

「……そうか。良くわかった! では我々は今日のところは失礼する、次の邂逅を楽しみにしているよ!」

 

 

 その答えに満足したのか、ゾルダンはそう言って手を振った。

 するとそれを合図として、U-2501も海面下へと潜行を開始した。

 当然、ゾルダンを乗せたハッチは艦内に下りて行く。

 群像は、ゾルダンの姿が艦内に消えて見えなくなるまで、ゾルダンを見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「戻るのか?」

「今はまだ戻らない方が良い、と思っている」

 

 

 イ401の通路を歩きながら、群像は僧と今後のことを話し合っていた。

 ゾルダンとの邂逅を終えてすでに潜行状態にあるイ401だが、揺るやかな速度で北西方面に進んでいる様子だった。

 明確な目的地も無く、方角だけ示しているようだ。

 

 

「あのUボートを引き付けるつもりか?」

「あいつが……ゾルダンがオレと紀沙、どちらを優先しているのかが1つの賭けだった。ゾルダンの口ぶりからして、オレ達がこのまま北に進路を取っていれば、目を離せないだろう」

「理由はわからないが奴らは群狼戦術を使うからな、奴がいると日本に戻るイ404と白鯨にとっては脅威になる、と言うわけか」

 

 

 実際のところ、群像もゾルダン達が四六時中自分達の傍にいたとは考えていない。

 しかし、監視はつけていたはずだ。

 そしてサンディエゴ基地で知ったことだが、パナマ運河が何者かに破壊されたらしい。

 パナマ運河は太平洋と大西洋を結ぶ要衝だ、そこを破壊すると言うことは、2つの海を行き来して欲しく無い何者かがいると言うことだ。

 

 

 そして、Uボートは本来ヨーロッパの艦だ。

 確証があったわけでは無いが、イ401が北に進路を取った途端にゾルダンは警告に来た。

 ここまで状況が揃えば、ゾルダン達の目的を推測することはそう難しくない。

 だから北へ、ヨーロッパへ通じる航路へ進めば、ゾルダンの目を引くことが出来る。

 

 

「一方で奴らは一度、オレ達を攻撃した。そして先程の「撃沈する」と言う発言。足止めか撃沈か、どちらが優位にあるのかはわからないが、紀沙達が日本へ戻ろうとする所を攻撃されないとも……」

 

 

 その時、群像は僧が足を止めたことに気付いた。

 淡々と話していた時と変わらない様子で振り向けば、僧は少し俯いていた。

 群像が黙って見つめていると。

 

 

「……どうして、それをちゃんと紀沙に話してやらない」

 

 

 そこか、と群像は思った。

 あまり意識されることは無いが、僧にとっても紀沙は幼馴染にあたる。

 何だかんだ、優しい男なのだ。

 

 

「紀沙に話すと、ついてきたがっただろう」

 

 

 紀沙の執着を思えば、あり得ない話では無い。

 確実性を求めるのであれば、何も言わずに姿を晦ました方がずっと良い。

 結果として、紀沙達はゾルダンの脅威を受けずに日本に戻ることが出来る。

 ただ、それをあっさりと言えてしまう感覚はどうなのだろう。

 もっと言えば、行動に移してしまえるところが。

 

 

「良く言うだろう、結果良ければって」

「だが、紀沙はきっと傷つくぞ」

心の問題(そこ)は、オレにはどうすることも出来ないな。きっと」

「そう言うことじゃない。お前は……!」

 

 

 僧が群像に詰め寄ったその時、彼らの頭上で艦内放送が鳴り響いた。

 

 

『艦長! ピンガー感知しました!』

 

 

 静だ。

 ピンガー、要するにソナーを照射されたのである。

 相手はゾルダンか、いや、U-2501が今それをする意味は無い。

 ならば、後は。

 

 

「――――来たのか、紀沙が」

 

 

 群像の声音はやはり淡々としていたが、その中に、僅かな感情の動きが見え隠れしていた。

 付き合いの長い僧にはそれがわかる、しかしそれがどんな感情なのかは、彼にもわからない。

 時として僧は、それがもどかしく感じられて仕方が無いのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 対潜水艦戦において、アクティブソナー(ピン)を撃つことには2つの意味がある。

 1つには、相手の位置を特定すると言うこと。

 もう1つ――むしろ、現代ではこちらがメインだが――は、「お前を見つけた」と言う警告だ。

 何しろアクティブソナーの探知距離は短く、ほぼ肉薄距離と言って良かったからだ。

 

 

機関(エンジン)出力低下、しばらくは70ノットが上限です』

 

 

 静菜の通信に、紀沙は唇を噛んだ。

 イ404の最大速度で追いかけた結果、アクティブソナーの探知距離にイ401を捉えた。

 ただイ404の最大速度と言う機密を公開したと言うことでもあり、その意味で無傷では無い。

 しかも短期間に全力回転させた結果、再度の加速まで時間が空くことになってしまった。

 

 

 だが、追いついた。

 緩やかに進んでいたイ401を、ほぼ真っ直ぐに追いかけた。

 方位はほぼ霧同士の感応(スミノ)に頼ったが、とにかく見つけた。

 

 

「イ401、増速。10ノットから20ノット、25……いや30」

 

 

 位置を見つけたと言っても、それでも数キロの距離はある。

 海中の僅かな音を拾って彼我の距離を計測する冬馬の存在は、死活的に重要だった。

 もちろん、それはクルーの誰にでも言えることなのだが。

 

 

「スミノ、イ401に停船するように伝えて」

「それは良いけどね、艦長殿。ピンガーを撃たれて速力を上げるってことはさ、イ401には()()()()()が無いってことじゃないのかな?」

「…………」

 

 

 ぞわり、と、撫でられるような感覚が左目の眼球に生じた。

 耳元に唇を寄せて、悪魔(スミノ)が囁く。

 

 

「まぁ、良いよ。伝えようじゃないか、イ401に停まれと伝えよう。キミがそう望むならそうしてあげよう、でもね艦長殿?」

「スミノ」

「もしイ401がボク達の停船命令を拒否したら、どうするのかな」

「聞こえなかった?」

 

 

 じろりと右目で睨み上げれば、スミノの深い笑みが視界に入った。

 

 

「どわっ!」

 

 

 その時、冬馬が溜まらずヘツドホンを外した。

 理由は、すぐにわかった。

 

 

「畜生、音響魚雷だ! 401ロスト!」

「――――ああ、残念」

 

 

 鈴を転がすような声音で、スミノが言った。

 

 

「伝えたんだけどね、もう」

 

 

 だんっ、と音を立てて、紀沙は椅子の肘置きを殴りつけた。

 まるで、スミノの言葉を遮ろうとするかのように。

 

 

「梓さん、もう1度ピン撃ってください!」

 

 

 そして、無意味な追いかけっことかくれんぼが始まった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦いとも言えぬそのやり取りを、多くの「目」が見ていた。

 もちろん、まずはゾルダンとU-2501だ。

 イ401がヨーロッパに行かぬよう監視していた彼らは、まず最初にそれを目撃した。

 しかし、この場にいるのは実はイ401とイ404だけでは無い。

 

 

「うらぁ――――っ!」

「ああ、もう。鬱陶しいわねぇ!」

 

 

 例えば、ヒュウガとトーコだ。

 前者は群像、後者は紀沙に協力している霧の艦艇だった。

 加えて言えば、トーコはしきりにヒュウガに突撃を繰り返していた。

 ただトーコの突撃精度が悪いのかヒュウガの回避能力が高いのか、1度も当たっていない。

 

 

 しかし牽制と言う意味では、トーコの存在は大きかった。

 ヒュウガも流石にトーコを撃沈するわけもいかず、また本格的な戦闘艦では無い『マツシマ』達の回避コントロールは思ったよりも難しく、結果として手一杯になってしまっている。

 だからヒュウガはイ401の援護に行けず、歯がゆい想いをしていた。

 

 

「はてさて、面白くなって来ましたねぇ」

 

 

 それから、もはやお馴染みとなったユキカゼである。

 着物の袖で隠した口元をニヨニヨとさせながら、彼女は遠巻きに戦いの様子を窺っていた。

 観測するにしては遠くに位置しているのには、理由があった。

 そしてその理由に気が付いたのは、群狼と言う多数の目を持つゾルダン達だった。 

 

 

『ゾルダン、新しい反応よ。こちらに近付いてくる』

「霧か? おおかた、太平洋艦隊の奴らだろう。数は?」

『1隻……ええ、1隻よ。ただ、これは、この数値は……』

 

 

 ゾルダン達が捉えた霧の反応は、すぐ近くまで来ていた。

 潜行していたのだろう、ゾルダン達U-2501と言えどすぐには探知できなかった。

 

 

『大きい……これは、大き過ぎる』

「どうしたフランセット」

『艦長!』

 

 

 その時、発令所正面のある物が輝いた。

 霧の紋章が刻まれたそれは、U-2501のコアだ。

 それが声を上げたので、ゾルダンはじろりとした視線を向けた。

 どうやら、彼はU-2501が話しかけられたことを不快に感じたらしい。

 

 

『彼女が……彼女が来ます!』

「彼女……? 彼女だと、まさか。馬鹿な、何故こんな海域に!?」

 

 

 何かを察したのだろう、ゾルダンは驚愕の表情を浮かべた。

 何故なら、U-2501の計器が感知した存在は、霧の艦艇でも最大の力を持つ艦だったのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 不思議な感覚だった。

 興奮のせいだろうか。

 いくら音響魚雷で姿を(くら)まそうとも、イ401のいる方位がわかる気がする。

 不快にざわめく左目が、兄の姿を捉えて離そうとしないかのようだ。

 

 

「どうして、停まってくれないの……!?」

 

 

 叫びのような、呻きのような。

 そんな言葉を零しながら、紀沙は点いては消える戦略モニターの「イ401」の表示を睨んでいた。

 相手はさらに増速している、すでに彼我の速度は逆転していた。

 このままでは、離されてしまう。

 

 

「どうする!? 撃つのかい!?」

 

 

 焦りの色を覗かせて、梓が言った。

 実際、速度制限の問題が無くとも、ピンで見つけるタイムラグでイ401は十分に距離を取ってくるのだ。

 やっていることが単調だから、相手に余裕があるのだ。

 

 

 その余裕を削るためには、追い縋るだけではダメだ。

 だが、そんなことは紀沙だってわかっている。

 したくないだけだ。

 一方でイ401は、兄はそんな自分を無視するかのように増速し続けている。

 整備士(いおり)の仕事だろう、良い腕だが今は余計だ。

 

 

(――――どうして?)

 

 

 紀沙には、どうして群像がこんなことをするのかわからなかった。

 どうして、自分を置いて行くのか。

 どうして、自分にこんなことをさせるのか。

 どうして、こんな嫌な気持ちを得なければならないのか……!

 

 

 

「キミを必要としていないからだよ」

 

 

 

 紀沙は、ぎょっとした。

 何故ならば、いつの間にか自分の手の中に拳銃が握られていたからだ。

 いや、それは拳銃では無い。

 イ404の魚雷発射装置のトリガーを、スミノがナノマテリアルで具現化したものだ。

 

 

「あ、おい!」

 

 

 当然、突如火器管制のコントロールを奪われた梓が声を上げた。

 だが、当たり前のようにスミノは返事をしない。

 むしろスミノは紀沙に背後から絡みつくようにしながら、彼女の手にトリガーを持たせている。

 

 

「きっと艦長殿のことが嫌いなのさ、疎ましいんだよ」

「……お前に、何がわかる」

「わかるさ。千早群像が()()()()には優しいってことくらい。サンディエゴの散策だって、彼は艦長殿の誘いを断っておきながら、クルーの女の子と行ってたじゃないか」

「それは、私が1人で考えられるようにって」

「艦長殿が1人で行動なんてするわけないじゃないか、護衛くらい着くって千早群像ならわかっていたよね? だったら彼が一緒に行ったって何も問題無いよね?」

 

 

 それでも、と、紀沙は思った。

 それでも群像は、拉致された紀沙を助けに来てくれた。

 すると紀沙の考えを読んだかのように、クスクスと言う笑い声が耳元に響いた。

 

 

「それは振動弾頭の引渡しの条件に艦長殿が含まれていたからだよ、実に合理的な理由じゃないか」

「そんな」

「コンゴウとの戦いでは囮にされたこともあったよね、まぁ、あれで勝てたわけだけれど。千早群像はまるで霧のようだ、合理的に冷淡に、必要なら妹でさえ囮に出来るんだから」

「そんなことは」

「そして振動弾頭の引渡しが終われば、最愛のはずの妹に何も言わずに姿を消す。必要が無ければ会話すらしないんだ」

「兄さんは、そんな人じゃない」

「うん、そうだね。千早群像は優しいね、()()()()()()

 

 

 耳たぶを唇で嬲るようにしながら、スミノは言った。

 

 

「千早群像がイ401――イオナだっけ? あのメンタルモデルにどんな笑顔を向けていたか、教えてあげようか?」

 

 

 知らないわけが無かった。

 兄の背を視線で追いかけていれば、嫌でもイオナの存在は目に付く。

 群像がどんな顔でイオナに語りかけ、どんな声音で話し、どんな風に触れていたか。

 紀沙が、知らないはずが無い。

 

 

 それを知りながら、スミノは言うのだ。

 千早群像がイオナに告げた言葉の数々、「ありがとう」「良くやった」「無理をするな」。

 どれもこれも、当たり障りの無い普通の言葉だ。

 しかし、紀沙はそんな言葉を群像に言われたことが無かった。

 

 

「さぁ」

 

 

 ぐい、と腕を持ち上げられて、トリガーを正面に構える形になった。

 今はイ401をまだ捉えている、引金を引けば撃てると言う状況だった。

 

 

「さぁ、撃とう。そうすれば、もう千早群像も艦長殿のことを無視出来なくなるさ」

「……いやだ」

「停船命令に応じないんだ、仕方ないじゃないか」

「いやだ」

「大丈夫、誰も艦長殿を責めやしないよ。責めやしないし――責めさせないよ」

 

 

 眼帯の下に潜り込んで来たスミノの指先が、紀沙の左目を露にした。

 前髪の、そしてスミノの指の間から覗く左目は、やはり白い。

 その輝きは、儚さに揺れていた。

 

 

「それに、大事な「おじ様」にも言われていたじゃないか」

 

 

 北のもう1つの命令。

 ()()()()()

 自分の呼吸音が、鼓動の音が、やけに五月蝿かった。

 

 

「イ401が、もし日本を裏切るような素振りを見せたなら」

 

 

 いやだ、撃ちたくない。

 

 

「キミのおじ様はこう言っていたね。その時は、『イ401を……』」

 

 

 撃ちたくない。

 撃ちたくなんか無いのに、どうして。

 酷い、酷い――――酷い!

 

 

 左目のざわめきが、血管を通して全身を駆けたように思えた。

 それは熱く、どす黒く、そして叫んでいた。

 そう叫べ。

 叫んでしまえと、だから。

 

 

 

「五月蝿いっ、黙れっっ!!!!」

 

 

 

 ビリビリと、相手のソナーにも届くのでは無いのかと言う声量だった。

 冬馬達もぎょっとした表情を浮かべて、事の成り行きを見守っていた。

 

 

「401を撃てだって!? 馬鹿なこと言うな! 兄さんを401(あの女)から取り戻したくて海に出たのに、兄さんを撃つ!? 本末転倒だろうが!」

「え、え? いや、それは言葉の使い方が違」

「五月蝿い! それ以上くだらないこと喋るとぶっ飛ばすぞっ!!」

「え、ええええ? ちょ、え? か、艦長殿ちょっと、ちょっと落ち着こう!?」

 

 

 あのスミノが、明らかに引いていた。

 しかし、紀沙も止まらない。

 

 

「私は必ず兄さんを連れて帰る! 母さんも待ってる! 絶対だ!」

 

 

 それだけを夢見て、ここまで来たのだから。

 

 

「わかったら、黙って401を追いかけろ!!」

 

 

 一息に叫び尽くして、息を切らせた。

 しかし一呼吸を入れる度に、酸素が脳に送られて冷静になってくる。

 そして冷静になって来ると、段々と今の自分の言動を見つめ返せるようになる。

 顔色が青くなったり赤くなったりと、実に忙しい様子だった。

 

 

 紀沙達は知りようも無いことだが、群像は自分の知る紀沙をこう表現していた。

 誰よりも、()()()()()

 それはつまり誰よりも気が強く、負けん気が強く、そして強情だと言うことだ。

 とどのつまり、普段の大人しく生真面目そうな紀沙と言うのは……。

 

 

「あ……いや、違くて、あの」

 

 

 スミノだけで無く、何だか他のクルーとの距離を感じて慌てる紀沙。

 ただ幸か不幸か、彼女の言い訳タイムはさほど長く続かなかった。

 何故ならば、外部の状況がそんな猶予を与えなかったからだ。

 

 

『――――変わってないようで安心したよ、紀沙ちゃん――――』

 

 

 ガコン、と、イ404の艦体が大きく揺れた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海が割れると言う現象は、霧同士の争いでは割と良く見られる光景だった。

 ただしそれは、その霧が超重力砲を放つ場合に限られている。

 なればこそ、その現象をどう説明すべきなのだろう。

 

 

「艦体が持ち上げられる……」

「重力子機関を発動した様子も無しに……!」

 

 

 イオナとスミノが、ほぼ同時に瞳を白く輝かせた。

 それは彼女達がその事象への抵抗の意思を示した証であったが、無意味だった。

 まともに抗うことも出来ずに、海上へと引きずり出されてしまった。

 蒼と灰色の艦体が、無防備な姿を晒す。

 

 

 騒然とする発令所において、2体のメンタルモデルは同じ方向を向いていた。

 すなわち、ロックビーム――本来、超重力砲発動段階にしか使用できないはずの――で自分達2隻を捕捉した、()の姿を見つめていた。

 その、圧倒的な威容を。

 

 

「あれは」

「まさか、こんなところでキミに会うとはね」

 

 

 巨大な、艦だった。

 余りにも巨大であるため、それを言葉で形容するのは難しい。

 しかし、数字は嘘を吐かない。

 排水量があの大戦艦『コンゴウ』の倍以上と言う事実が、その艦艇の巨大さを物語っている。

 その艦艇の名は。

 

 

「「『ヤマト』」」

 

 

 『ヤマト』。

 数多いる霧の艦艇の中にあって、<総旗艦>の名を持つ唯一の艦だ。

 もう1つの呼び名は<超戦艦>、大戦艦を凌駕する性能を持つ究極の霧である。

 長い髪にピュアピンクのドレスを纏ったメンタルモデルの女性が、柔らかな微笑と共に2隻を見下ろしていた。

 

 

「『ヤマト』だと?」

「おいおいおい、霧のボスキャラじゃねーか! 何だってそんな奴が出て来るんだよ!」

 

 

 大声で騒ぎ立てる杏平程では無いにしても、群像も驚きを隠せなかった。

 それだけ、ヤマトの登場が突然だったのである。

 何の前触れも兆候も無く、いきなりだ。

 

 

「『ヤマト』……?」

 

 

 そして紀沙は、傾きと浮遊感の中、ヤマト――霧の頂点の存在を初めて感じた。

 スミノの戦慄を感じる。

 どう言うわけかはわからないが、紀沙はスミノが大きな疑問と僅かな畏れを感じていると思った。

 ざわめく左目の震えが、紀沙にそう思わせた。

 

 

「……ッ!」

 

 

 そして次の瞬間、その戦慄は紀沙自身の感情として現れた。

 発令所にいる紀沙に、外にいるヤマトの姿は見えない。

 だが、巨大な何かが目の前にいるような、そんな錯覚を覚えた。

 存在の重みを、感じた。

 

 

 ただ、何故だろう。

 とてつもない脅威を感じるのに、どこかに懐かしさを覚えるのは。

 気のせいと無視するには、その懐かしさは大き過ぎた。

 それに感応したわけでは無いだろうが、ヤマトが腕を動かした。

 するとそれに合わせて、主砲が旋回する鈍い音が響き始めた。

 

 

(……不味い……!)

 

 

 ヤマトの主砲は、他の霧の主砲とは格が違う。

 直感的にそれがわかった、たとえ1発でも、イ404の強制波動装甲を抜いてくる。

 だが自分達はロックビームに固定されていて、回避はおろか防御も出来ない。

 やられる、そう思った、その時だった。

 

 

『ちょっと待ったぁ――――ッッ!!』

 

 

 新しい、別の声が戦場に響き渡った。

 若く甲高いその声は余りに高音だったためか、キン、と耳鳴りがした。

 

 

『ごるぁっ、そこの総旗艦! そいつらは私の獲物よっ、勝手に手を出すなぁ――――ッ!!』

「な、何だぁ、このヒステリックな声は!?」

「あれは…………タカオ?」

「タカオ?」

 

 

 西から急速に近付いてくるその艦艇は、『タカオ』だった。

 良く良く調べてみればあと何隻かいるようだが、突出して出て来ているようだった。

 極東にいるはずの彼女が、何故こんな北米大陸近郊にまで――まぁ、ヤマトもそうなのだが――来るとは、どう言うことか。

 

 

『千早兄妹! アンタ達に話があるわ!』

 

 

 そしてタカオは、紀沙と群像に呼びかけてきた。

 呼びかけられる理由など無いはずなのに、何故かそうなった。

 だが次に響いた言葉は、2人を驚愕させるには十分な威力を持っていた。

 

 

 

 

『――――アンタ達の、()()()()()()()()!!』

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

多少無理矢理でも構わん、ここでヤマトを絡ませるんだ……!
じゃないと出番ガガガガ(え)
まぁ、ここで必要なのはもう1人の方なのですが。

そして極めてどうでも良いのですが、今回の紀沙をぶち紀沙と名付けてみた(え)

さて次回ですが、ちょっと視点が変わりますですよ。
それでは、また来週です。


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Depth031:「北海道編・前編」

 もしも運命と言うものがあるのならば、その邂逅はまさに運命であったのかもしれない。

 重巡洋艦『タカオ』は、イ404こと紀沙が初めて戦ったメンタルモデル保有艦だ。

 そして紀沙は知る由も無いが、タカオはイ401達を守る――タカオ本人は「勘違いしないでよ、獲物を横取りされたくないだけなんだからね!」と周囲に言っているが――ために、1度ならず他の霧と交戦している。

 

 

 そんな艦が紀沙の、紀沙と群像(千早兄妹)の母親を連れて来たと言うのは、まさに運命的としか言えなかった。

 だが「連れて来た」と言う言葉の軽さとは裏腹に、目の前にある事実は重い。

 どんなに軽く見積もっても、それは母――千早沙保里がタカオに捕らわれていることを意味していたからだ。

 

 

「何だ、ありゃあ」

「…………」

 

 

 僧と共にイ401の発令所に駆け戻った群像だが、僅かに眉を動かすだけで、表立っての反応は無かった。

 代わりに杏平が一堂の気持ちを代弁したのだが、メインモニターに映った()()に対して、それは極めてオーソドックスな反応だと言える。

 

 

「何をしたの」

 

 

 そして、イ404。

 紀沙はメインモニターの中、タカオの艦内に()()()()()()()を見て、立ち上がっていた。

 食い入るような眼差しでそれを見つめ、唇を戦慄(わなな)かせている。

 

 

「母さんに何をした、重巡タカオ――――!」

 

 

 そしてそんな紀沙の叫びを通信越しに聞いたタカオは、哀しげに、そして気まずげに顔を逸らした。

 複数の感情を同居させながらのその仕草は、とても人間臭い動きだった。

 精密な真似事では無く、ごく自然にそうしている様子だった。

 紀沙達と戦っていた頃の、型に嵌まったような動きでは無い。

 

 

「それは……」

 

 

 ここで少し時間を遡る。

 紀沙達が『コンゴウ』との硫黄島決戦を制した後、ハワイからサンディエゴへ向け出航した後。

 タカオ達が『レキシントン』との交戦のダメージを回復すべく、補給艦を伴ったアタゴと小笠原沖で合流を果たした後。

 

 

 そして、紀沙達がサンディエゴに到達し、振動弾頭引き渡しに関するゴタゴタに忙殺されていた間。

 紀沙達が振動弾頭を輸送すべく奮闘していた時とほぼ同時期に、タカオ達もまた、ある事件に巻き込まれていた。

 いや、巻き込まれたと言うよりは中心にいたと言った方が良いだろう、何故ならば。

 何故ならば、その事件はタカオ達がいなければ起こり得なかったのだから――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ガラス張りの天井越しに見える太陽は、今日も穏やかな陽光を照らし出していた。

 メンタルモデルの肌から直に感じる温もりは、鋼の艦体しか持っていなかった頃には感じられなかったものだ。

 それはもう、苛立ちを覚える程の穏やかさをタカオに与えてくれた。

 

 

「ああ、はいはい。ちょっと待ってなさいよ」

 

 

 人の頭程もある大きさの鳥にまさに頭を(つつ)かれて、タカオは作業を再開した。

 今の彼女はいつもの可愛らしい衣服では無く、しっかりと全身を覆う作業着に身を包んでいた。

 掃除用具を持つ手袋も分厚く、植物の葉や土を固めて作られた鳥の巣から汚れを取り除き、そして少しの間よけていた雛を1羽ずつ巣に戻していく。

 

 

 タカオは、どこかの鳥舎(ちょうしゃ)にいた。

 構造は円錐形で、壁や天井の多くはガラス張りになっており、また外は人工庭園になっているようだ。

 鳥舎内には樹木や土の地面、さらに泉や浮き島まで再現されていて、まるで小さな森をそのまま放り込んだかのような場所だった。

 今の時代にこれだけの鳥舎を保有している施設は、動物園ならともかく個人の邸宅では稀だ。

 

 

「あー、何やってんだろ私」

 

 

 ピヨピヨと鳴く雛鳥達が親鳥に餌をねだるのを見ながら、タカオは嘆息した。

 ()()()に来てもう幾日か経つが、未だに同じ疑問を抱くのだった。

 実際、霧のメンタルモデルが鳥の世話をしていると言うのは、見ようによってはかなり異質なものだろう。

 

 

 ただ、絵にはなる。

 鳥舎にはタカオの目の前の親子だけでは無く、東西の様々な種類の鳥が思い思いに過ごしている。

 彼らにとって、この鳥舎は楽園なのだろう。

 まぁ、タカオにとっては楽園とは程遠い何かであったかもしれないが。

 

 

「重巡タカオ」

 

 

 その時、足元――梯子の上と下で10メートル以上の高低差がある――から声が聞こえて、タカオは億劫(おっくう)そうな動きで視線をそちらへと向けた。

 するとそこには、古めかしい(クラシックな)メイド衣装に身を包んだ小柄な少女がいた。

 くすんだ金色の髪を帽子タイプのホワイトブリムに包み、お腹の前で手指を組む姿勢で直立している。

 

 

「サオリが呼んでいます、昼食の用意が出来たとのことです」

「ああ、そう。それはわざわざ有難う」

 

 

 げんなりとして、タカオはそう返した。

 これが妹のどちらかであったなら、伸身二回宙返(フェドル)り三回捻り(チェンコ)でも決めながら着地するぐらいにはテンションが上がっていただろう。

 今回はそうならなかったので、普通に梯子を降り始めた。

 

 

「と言うかね、『ヴァンパイア』。いちいち重巡ってつけるのやめなさいよ、身バレするでしょうが」

「おお、それは失礼。気付きませんでした、以後気を付けます」

 

 

 ヴァンパイア、女の子の名前としては聊かどうかと思う名前だが、何のことは無い。

 彼女もまたタカオと同じ、霧のメンタルモデルと言うだけのことだ。

 最も、ヴァンパイアの場合は少し事情が特殊なのだが。

 

 

「あー、ホント何やってんだろ、私」

「……? 昼食を摂りに行くところでは?」

「そう言うことじゃないわよ!」

 

 

 ガー、と鳥のようにヴァンパイアを威嚇しながら、タカオは思った。

 それはこの家で――()()()で従業員よろしく鳥舎の世話をすることになるきっかけとなった、3日前の出会いのことを思ってのことだった。

 そう、千早兄妹の母、千早沙保里との出会いである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそもタカオ達が函館に入港――もちろん、人類側に無許可で――したのは、太平洋上でアタゴと合流してから4日後のことだった。

 ナガトの下に戻ろうとするアタゴを説得し(ゴネ)て留め、他の面々も連れての上陸である。

 良く良く考えてみれば、かなりの大所帯になっている。

 

 

 重巡洋艦のタカオはもちろん、同型艦のマヤとアタゴ。

 そして大戦艦級のキリシマとハルナ、イ号潜水艦のイ400とイ402、そしてメンタルモデルは保有していないが『イ501』と補給艦『シレトコ』に『サタ』。

 合計10隻、もう十分艦隊と呼べる程の規模だった。

 さらに、もう2隻の艦がそこに加わっていた。

 

 

「こ、こんなに人類の領域に近付いて大丈夫なの?」

「問題ない、人類側のレーダーでは我々のステルス迷彩を看破することは出来ないからな」

 

 

 キリシマがそう言って宥めているのが、その内の1隻のメンタルモデルだった。

 結い上げた髪に眼鏡の女性で、ホワイトブリムとエプロンドレスを合わせたメイド衣装を身に着けている。

 艦名は巡洋戦艦『レパルス』、本来は東南アジア方面にいるべき霧の艦艇だ。

 

 

「『プリンス・オブ・ウェールズ』から助けてくれたことには感謝してるけど、でも……人間に見つかったら、怖いわ」

「いやいやお前、単艦で街の1つや2つ粉砕できるだろ」

 

 

 小笠原沖にいたタカオ達の最大探知距離の端に、戦闘しながら航行する2つの艦隊がみつかった。

 その内の1つがレパルスとその僚艦『ヴァンパイア』で、もう1つがレパルスの言う『プリンス・オブ・ウェールズ』が率いる艦隊だった。

 レパルスは、『プリンス・オブ・ウェールズ』に追われていたのだ。

 

 

(大戦艦『フッド』の呼びかけ……ね)

 

 

 千早翔像とイギリスの同盟以来、彼が率いる()()()()を討つべしと言う声があるのは知っていた。

 霧のネットワークの中でも盛んに議論されていることだし――ただ、各艦隊の旗艦同士の話し合いは1度開かれたきり、再開の目処すら立っていない――その中で、欧州方面大西洋艦隊旗艦の『フッド』が他の霧に呼集をかけたことも知っていた。

 

 

 もちろんタカオはそんな呼集に応じるつもりは無いが、少なからぬ艦が応じているのも確かだった。

 『プリンス・オブ・ウェールズ』はその1隻で、自分が率いる東洋艦隊ごと欧州へ向かおうとしたらしい。

 レパルスとヴァンパイアはそれに反発し、追われる身になっていたと言うわけだ。

 

 

「ちょっと、ぼんやりしないでよ」

「タカオお姉ちゃん、次はお姉ちゃんの番だよー」

 

 

 おっといけない、妹達を待たせるなどスマートでは無い。

 そう思って顔を上げると、タカオの艦体が徐々に海面下へと沈み始めた。

 ステルス迷彩と言えど肉眼で発見される可能性もあるので、艦体を浅瀬に潜行させて隠すのだ。

 すでにキリシマやアタゴらは艦体を隠し終えており、メンタルモデルはナノマテリアル製のボートの上だ。

 

 

 これから、ほんの行きがかりで助けたレパルス達ともども函館市街に上陸するのだ。

 何故ならばそこに、タカオ達が探している人間がいるからだった。

 日本の中央管区、そして北管区政府のサーバーに侵入して得た情報に、こう言うものがあった。

 曰く、千早兄妹の実家が函館にあり、そこに実母が軟禁されている――――と。

 タカオ達は函館(ここ)に、千早兄妹のルーツを探りに来たのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 函館は古くから天然の良港として栄えた都市で、北管区では釧路・旭川と並んで重要拠点に指定されている。

 と言うのも、函館は中央管区(本州)と海底トンネルを通じて――厳密には、南西の松前半島を含むが――繋がっており、中央管区との連絡の結節点になっているのだ。

 つまり函館は、北管区において首都・札幌に次ぐ重要度を持っていると言うことだ。

 

 

「なるほど、これが「エキ」と言う奴なんだな」

「駅……列車の旅客・貨物の昇降に用いる施設。タグ添付、分類、記録」

 

 

 そんな函館のショッピング街――かつては市場だったが、水産物取引の激減により失われた――を、人類最大の脅威である霧の少女達が歩いていた。

 銀髪や金髪、メイド服やゴスロリ服からなる美少女の集団は酷く目立っていて、周囲には奇異の目を向けてくる者もあったが、日本人の(さが)か自ら声をかけるような猛者はいなかった。

 

 

「400、この「ふろーずん」と言う飲み物は何だ? 水分補給にしては無意味な加工がされているようだが」

「ただの補給で嗜好を満たそうと言う感覚は、私達には無用のものだものね」

「うむ……だが、この舌触りはなかなかクセになるな」

 

 

 彼女達はすでにいくらかの飲み物や食べ物を手にしており、どうやったのかは不明だが、人類側の物資取得手段をすでに入手していることがわかる。

 彼女達の手にかかれば、人類の物資取得手段(クレジット)の偽造など簡単だろう。

 難点を挙げれば、本物よりも精巧に作れてしまうところだろうか。

 

 

 それにしても、こんなに人間にいる場所に来たのは初めてだ。

 街の各所に配された監視カメラから巧妙に自分達の姿を消しながら、タカオは周囲を見渡した。

 人、人、人――だ。

 老若男女問わず、多くの人が思い思いの物を買い、食べ、話し、休んでいる。

 今も、目の前を楽しげに親子連れが通り過ぎていった。

 

 

「タカオお姉ちゃん! 楽器、あっちに楽器屋さんがあるよ!」

「ねぇ、ちょっと本当に大丈夫なの? 何かあっちの男がジロジロ見てくるんだけど、私達の格好ってどこかおかしかったりするの?」

「ぐへへへ(はいはい、2人とも落ち着きなさいな)」

 

 

 何か言葉と思考が逆になった気がするが、細かいことは気にしないことにした。

 真面目な表情も、マヤとアタゴに両側から腕を引っ張られて瞬時にやに下がる。

 とりあえずマヤの希望のお店の楽器を買い占めて、それからアタゴの足を不躾な視線で見つめる男共を量子分解させてから、今夜の宿を探すとしよう……って。

 

 

「違う違う違う! アンタ達、当初の目的を忘れるんじゃないわよ! 人探しよ人探し!」

「一番忘れてたのはお前だろ」

「な、失礼ね! 私はずっと探してたわよ!」

「じゃあ、その大荷物はいったい何なんだよ!」

「下着から揃えました! 反省も後悔もしていないわ!」

「知るかぁっ!」

 

 

 タカオの両手にはブティックの紙袋が大量に持たれており、しかも自分の服は1枚も無かった。

 霧の重巡洋艦タカオ、妹達を着飾りたくて仕方ないお年頃である。

 ナノマテリアルで再構成すれば良いじゃないかと思うかもしれないが、知らないデザインは構成しようが無い。

 どうやら服飾のデザイン分野においては、人類は霧の遥か先を行っているようだった。

 

 

「人探しと言われても、そう言う経験値は我々にはありません。それとも重巡タカオにはそう言う経験があるのでしょうか?」

 

 

 そして良く良く見てみれば、何故かレパルスの姿が無かった。

 代わりに別のメンタルモデルの少女の姿があり、クラシカルなメイド衣装の彼女はタカオ達の中でも一際目立っていた。

 彼女は駆逐艦『ヴァンパイア』のメンタルモデルであり、本来ならばメンタルモデルを保有できる程の演算力は持ち合わせていない。

 

 

 にも関わらずヴァンパイアがメンタルモデルを持てているのは、他のコアから演算力を貸与されているからだ。

 コンピュータの容量を外付けで増やすような物で、ヴァンパイアはレパルスの演算力の四分の一を貸与されることで、メンタルモデルを形成しているのだ。

 演算力の貸し借りは、霧では割と行われていることだった。

 

 

「あるわけ無いでしょ! とにかく、適当に散って、怪しいところを虱潰しよ!」

「つまりノープランなわけですね」

 

 

 演算力の不足のためか、あるいは少しキツい性格をしているのか。

 ヴァンパイアの言葉にタカオはカチンと来たが、妹達の手前、淑女ぶりを保つのだった。

 手遅れだろう、と言うツッコミは、幸か不幸か誰からも発せられなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まったく、と、タカオは大げさな溜息を吐いて見せた。

 

 

「協調性の無い連中で、ほんと困っちゃうわ」

「しょうが無いよー。皆、人間の街に来るのは初めてなんだもん」

「マヤは優しいわねぇ」

 

 

 マヤに頬ずりしながらなでなでするタカオ、マヤは無邪気に「えへへー」と笑っていた。

 なお、アタゴは2人から5歩程後ろをゆっくりと歩いていた。

 どうやら同類と思われることを避けている様子だが、アタゴの容姿はタカオにかなり似ているため、姉妹であることは一目でわかってしまうのだった。

 

 

 3人は現在、他のメンバーと別れて函館市内を探索しているところだった。

 ハルナ・キリシマはそのまま鉄道沿線を、400・402はヴァンパイアと共に海岸線を探索している。

 タカオ達がいるのはいわゆる高級住宅街で、綺麗に舗装(ほそう)された道路と小綺麗な家々が建ち並ぶ区画だった。

 

 

「……!」

 

 

 その時だった、周囲の監視カメラから自分達の姿を消していたタカオが足を止めた。

 不思議に思った妹2人もすぐに気付く。

 半径50メートル以内にカメラ12台に各種センサー247台、探知半径を広げればその倍は同じものがある。

 

 

「……あれ、でもこれ私達が映って無い?」

「A級秘匿事項だってー」

 

 

 アタゴとマヤが首を傾げるのも、無理は無かった。

 何故ならこの辺りにあるカメラもセンサーも、全て()()()に設置されていたからだ。

 普通、警備に使うなら外を監視するはずだが。

 

 

「あの家ね」

 

 

 それらは全て、大きな邸宅を監視するための物のようだった。

 大きな邸宅だった、建物面積だけで300平米は優に超えているだろうか。

 そしてよくよく調べてみれば、他の家についているカメラやセンサーもあの邸宅に向いている。

 さらに解析を進めれば、あの邸宅についての情報には特級のプロテクトがかけられていた。

 

 

 興味深い、実に。

 いくら高級住宅街とは言え、あの家だけに高度な監視体制――警備体制では無く――を構築するのは普通では無い。

 何かあるのだろう、それも外に出したくない類のものが。

 

 

「あ、タカオお姉ちゃん!」

「アンタ達はここで待ってなさい」

 

 

 とんっ、と邸宅へ通じる階段へ足をかけて、タカオは歩を進めた。

 さて、あそこには何が隠されているのだろうか?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 いわゆる人間の言うところの「緊張」や「懸念」が無かったわけでは無い。

 単に妹達に見栄を切って見せただけのタカオだったが、侵入してみると、なかなかに興味深い建物だった。

 何しろ、人間の住居に入るのはタカオにとっても初めての経験だったのだ。

 

 

「ふむ……」

 

 

 玄関ホールにダイニング、書斎に……子供部屋だろうか?

 艦船の模型がいくつも並べられた部屋と、ぬいぐるみがたくさんある部屋があった。

 いずれの部屋も大きなもので、一部屋でちょっとしたリビングルームくらいはあった。

 今後、タカオにとっての「人間の部屋」の標準仕様が固まった瞬間だった。

 

 

 その後も探索を続けていると、広い庭園に出た。

 石畳の道の周囲に花壇がいくつかあり、植樹された木々や、良く刈り込まれた茂み等が広がっていた。

 北海道は常に寒いイメージがあるが、夏の陽光はやはり温かだった。

 そして、ここに至るまで誰とも出会っていない。

 

 

(……誰も住んでいない、とか?)

 

 

 いや、水や電気等のライフラインは通っている。

 そもそも誰も住んでいない家で、高価な太陽光発電システムを稼動させるわけが無い。

 そう考えながら進んでいくと、円錐形の建造物を発見した。

 中に木々が見えて興味を引かれたタカオは、周囲を警戒しつつ中へと入って行った。

 

 

「鳥?」

 

 

 そこは、鳥舎だった。

 小さな森を再現したようなその場所に、様々な鳥がいた。

 飛ぶものもいれば止まり木で休むものでもあり、眠っているものもあるようだ。

 海鳥しか知らないタカオにとっては、初めて見る種類の鳥ばかりだった。

 

 

 

「どなたかしら?」

 

 

 

 メンタルモデルに心音などと言うものは無いが、それでも心臓が跳ねたように感じた。

 それほど、声をかけられるとは思っていなかった。

 油断していたわけでは無かったはずだ。

 どうやら事の外、鳥舎を見るのに夢中になっていたらしい。

 

 

 慌てて振り向くと、そこに1人の女性が立っていた。

 40代くらいだろうか、黒髪の、穏やかな雰囲気の女性だった。

 絶世の美人と言う風では無いが、肩に鳥を乗せていて、どこか愛嬌(あいきょう)があった。

 その眼差しは、純粋な驚きと好奇の色を浮かべていた。

 

 

「あなた……」

「……!」

 

 

 瞬時に、タカオは撤退を選択した。

 武力制圧も不可能では無いが、今の段階でそれを行うにはリスクが高すぎた。

 一足で後方に跳躍し、木々の間に身を隠す。

 もちろん、その際に建物のカメラ・センサー類を掌握するのも忘れなかった。

 

 

「またいらっしゃい!」

 

 

 そんなタカオに、女性がそう声をかけてきた。

 侵入者に対してまた来いとは剛毅なことだが、不思議と罠と言う風には感じなかった。

 駆けながら、タカオは徐々に遠ざかっていく女性の姿を視界に映していた。

 ひらひらと、緩い笑顔で手を振っている姿を。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そして時間は現在に戻り、タカオ達は今や集団で千早家にお邪魔している状態だった。

 何故そこが千早家で、女性が千早沙保里と言う名前であることがわかったかと言うと、まず家の表札に普通に書いてあった上、本人もそう名乗ったからだ。

 そして高確率で、自分達で探し人――千早兄妹の母親だと判断していた。

 

 

 海洋技術総合学院内や役所のデータから、千早兄妹の母親が同名の人物であることがわかった。

 それから年齢と、この厳重な監視が施された邸宅に軟禁されているだろう状況。

 まだ本人の口からそうだと聞いたわけでは無いが、かなりの確度でそうだろうとタカオは踏んでいた。

 

 

「402、ソースとってくれ」

「断る。キリシマ、目玉焼きにソースは明らかにおかしい」

「目玉焼きぐらい好きに食わせろよ……!」

 

 

 ただ、それがどうしてワイワイと昼食を摂るまでになったのかは、タカオにもわからなかった。

 最初はタカオ1人で様子を見に来ていたのだが、「お友達はいる?」と言う沙保里の言葉と、タカオの話から興味を持った他のメンバーも着いて来るようになり、最終的にはレパルスを除く全員が毎日のように入り浸るようになった。

 ちなみに、レパルスが来ないのは「人間が怖い」と言う理由からだ。

 

 

「嬉しいわ。ずぅっと1人で食べていたものだから、美味しいお料理も味気ないったら無かったのよ」

「は、はぁ……」

 

 

 実際、タカオ含めて8人の客人である。

 食事風景もワイワイと賑やかなものになるし、それを見て沙保里もニコニコと嬉しそうに笑っている。

 浮き島に用意されたテーブルセットの周りには鳥も寄ってきていて、時折何かしらの食べ物を誰かから与えられていた。

 

 

 霧のメンタルモデルが8人、その気になれば函館は壊滅する。

 もちろん沙保里はそんなことは知らないが、それにしたって、見ず知らずの者達を客人としてもてなし、食事まで振る舞うと言うのは神経が太すぎる。

 タカオが千早家に足を運ぶのは千早兄妹のことを知りたいがためだが、一方で沙保里と言う1人の人物に興味を抱いたのだ。

 

 

「えっと……1人で、こんな広い家に住んでいるんですか?」

「ええ。夫と、子供も2人いるんだけど。今は皆遠くに行っちゃってるのよ」

 

 

 終始朗らかな笑顔を浮かべている沙保里は、家族の話をする時は少し様子が違った。

 

 

「まぁ、おかげで気楽に暮らしてるんだけど。退屈でね、貴女達みたいなハプニングは大歓迎よ」

「あ、あはは……」

「ねぇねぇ、沙保里のおば様。お紅茶にジャムを入れると美味しいってホント?」

「さぁ、どうかしら。やってみましょうか」

 

 

 マヤも懐いている様子で気に入らな――まぁ良いかなと、思わないでもない。

 キシリマと402は目玉焼きの食べ方で言い争っているし、ハルナは食べ物や鳥の記録を撮るので急がしそうだ、400は402の口元を拭ってやっていて、実はタカオもマヤの頬についたジャムを拭いていやりたくて仕方が無い、それからヴァンパイアは無表情に次々パンにパクついていて、自分の分のパンまで取られたアタゴが激怒していた、ヴァンパイア後でシメる。

 

 

 穏やか、そう、一言で言えば穏やかだった。

 だが、はたしてこんな風に無為に時を過ごして良いものかどうか。

 溜息を吐いて、タカオは陽光に煌く天井を見上げた。

 本当に、どうしてこんなことになっているのだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 タカオは我が身の理不尽を嘆いていたが、それ以上の理不尽を感じている者達がいることには気付いていなかった。

 それは霧が全知全能の存在では無いことの証左ではあったが、しかしこの場合、それは良い結果をもたらすものでは無かった。

 

 

「…………さて」

 

 

 その少年は、北管区――つまり北海道――の図を背負っていた。

 おかっぱの黒髪に飾り房のついた白いスーツを着ていて、透明感のある雰囲気を相まってどこか貴族然として見えた。

 そして彼が座る執務卓のネームプレートにはこう刻まれていた、「日本国北管区首相・刑部眞」と。

 

 

 若い、首相と言う役職に就くには余りにも若い少年だった。

 ただ顎先に指を這わせて考え込むその姿からは、どこか老練な雰囲気さえ感じられる。

 松の木を利用した調度品が部屋中に置かれていることも、そう言うイメージに拍車をかけていた。

 壁一面のガラスの向こう側には、隣接する海に面した軍事施設が広がっていた。

 

 

「興味深い現象、と言うには、聊か危険すぎる状況ですね」

 

 

 そう呟く眞の視線は、執務卓に固定された画面に向けられている。

 そこにはいくつかの映像、いや写真が映し出されていた。

 監視カメラの映像では無く、携帯式のローカルな撮影機によるものだ。

 カメラの映像はデータの改竄でどうにか出来ても、独立した媒体の写真までは消せない。

 

 

 霧が高度なシステムの塊であるからこその、盲点だった。

 ましてあの場所(千早邸)の周辺には人の目による監視もあるのだ、10人近い人数で出入りしていて気付かれないなどと言うことは無い。

 本当に気付いていないのか、あるいは気付いていて無視されているのかはわからないが……。

 

 

「冴木補佐官」

『はっ』

 

 

 執務室にずらりと並んでいたスーツ姿の男達の中から、1人が進み出てきた。

 いや、男と断言して良いものかどうか。

 何しろその男の頭は七ツ目の角ばった構造をしており、有体に言えばロボットのようだったからだ。

 居並ぶ他の男達も同じ姿なのだから、ますますロボット然として見える。

 

 

「ヘリを用意してくれ、函館に向かう」

『首相自ら? 危険では?』

「危険だろうが、私自身が直に会って判断するしか無いだろう」

 

 

 眞には使命があった。

 それは彼が()()()()理由であり、存在理由そのものでもある。

 日本を、北管区を守り存続させることだ。

 そのために必要であれば、自分自身でさえもリスクに晒すことを厭わない。

 

 

「――――千早家の奥方に霧のメンタルモデルが接触する、なんて言う想定外の事態(イレギュラー)には」

 

 

 それに、全く興味が無いわけでは無いのだ。

 霧が、あの霧のメンタルモデルが、1人の人間と交流を持とうとするなどかつて無かったことだ。

 はたしてこれは人類に対する福音なのか、あるいは凶兆の前触れか。

 かの鬼才・刑部藤十郎が生み出した7人のデザインチャイルドの1人である彼をしても、それはただ座していて答えの出るものでは無かったのだった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言うわけで、今話からタカオ視点の北海道編となります。
3話くらいで本編に戻るつもりなので、お楽しみ頂ければと思います。

それから前々から思っていましたが、函館とかサンディエゴとか、ほとんど現代知識で描写してるんですよね。
でもアルペジオの世界もそこまで未来未来してる描写ではありませんしね……。
霧のせいで文明が退化したことにしよう(え)

そして噂によると、第3の超戦艦が原作に出るとか出ないとか。
それも良いですが、まぁ、あれです。
「騎士団」の設定を早く……!(切実)

それでは、また次回。


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Depth032:「北海道編・中編」

 

 千早家での生活は、タカオにとって新鮮な経験に満ちていた。

 家主である沙保里はもちろん、一緒に住んでいると言うメイドも快くタカオ達を受け入れてくれた。

 そしてどう言うつもりかは知らないが、沙保里は色々なことをタカオ達に教えた。

 

 

 裁縫や料理、家事全般等の一般的なスキル。

 絵本から百科事典までの教養知識、それから人間社会の成り立ちと一般常識。

 そして、人と鳥のこと。

 命のこと。

 

 

「『私達はどこから来たのか、私達は何者か、私達はどこへ行くのか』」

「――――ヨーロッパの画家の言葉、または宗教的問答(カテキズム)の一種」

「あら、良く知っているわねー」

 

 

 沙保里は木の上にある鳥の巣箱を開けて、中の鳥達の様子を見ていた。

 そうしながら発せられた言葉に、下で梯子を押さえていたハルナが言葉を返した。

 言葉自体は大した意味を持たない、それ自体は良くある哲学的問答に過ぎないからだ。

 人生の始まりから、そして終わりまでを表現した言葉。

 

 

「勉強した」

「うんうん、偉いぞー。若い内にいろいろ勉強して、いろいろなものを見た方が良いからね」

 

 

 えへん、と胸を張るハルナの下に、沙保里は器用に手を使わずに梯子を降りて来た。

 お椀の形に重ねた両手の中には、小さな生き物がいた。

 

 

「雛か」

「おお、小さいなー。これが大きくなって空まで飛ぶのか」

 

 

 キリシマまでひょっこり顔を出して、ハルナと共に沙保里を挟むようにそれを覗き込んだ。

 ピヨピヨと、力無く鳴く雛。

 確かに、これがいつか大空を羽ばたくとは想像しにくいだろう。

 しかし、生き物の成長とは得てしてそう言うものだった。

 

 

「…………」

 

 

 そしてそれを、タカオは別の木の上から見つめていた。

 彼女の傍にもやはり巣箱があり、タカオの傍で上半身を乗り出したマヤが巣箱の蓋を連続で開け閉めしていた。

 結果、中の雛達の親鳥の怒りを買ったりしていたが、概ね楽しそうにしていた。

 それに一瞬クスリと笑みを漏らしたりしつつも、やはりタカオの視線は沙保里に向けられていた。

 

 

「変な人間」

 

 

 梯子の下で同じように沙保里を見つめていたアタゴが、ふとそんな呟きを漏らした。

 それに、タカオは「そうね」と頷く。

 確かに、沙保里は変な人間だ。

 タカオ達から見ても、タカオ達のような者をすんなり受け入れられるような神経の持ち主が普通では無いことはわかる。

 

 

「でも、良い人だよー」

 

 

 そしてマヤの言葉にも、タカオは「そうね」と頷きを返した。

 確かに、沙保里は良い人間なのだろう。

 ここ数日世話になっていて、いわゆる打算や策略のようなものは感じなかった。

 ただ受け入れて、色々と教えてくれている。

 

 

 人間。

 これまで、タカオは人間と言うものを深く考えたことが無かった。

 今回ここで得た経験値は、メンタルモデルとしてのタカオを成長させるだろう。

 だが沙保里が教えてくれることは、それとはまた別のもののような気もした。

 

 

「ん?」

 

 

 チチチ、と言う鳴き声と共に、手の甲を何かに(つつ)かれた。

 見ればそこには羽根色の鮮やかな鳥がいて、タカオの手を嘴の先で突いていた。

 しかし年を重ねているのか、幾分かくすんだ羽根の色だった。

 いわば人生ならぬ鳥生を生きてきた色合いに、タカオはしばし目を奪われていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「――――家族?」

 

 

 400と402、そしてヴァンパイアがメイド姿で鳥舎を掃いている様子を眺めながら、沙保里は言った。

 浮き島でのお茶会も、もはやお馴染みの光景となっていた。

 ひとつだけ難点を挙げるとすれば、お茶菓子を鳥達がほぼ食べ尽くしてしまうところだろうか。

 

 

「あ、はい。こんな広い家でお手伝いさんと2人って、何だか気になっちゃって」

「…………」

「……あ、ごめんなさい。聞いちゃいけないことなら」

「ああ、ううん。別にそんなことは無いわよ」

 

 

 小さく笑って、沙保里は言った。

 

 

「夫は今、遠いところにいるの。ここ10年くらい、会っていないわね」

「…………」

「息子も2年前にそれを追いかけて行ったらしいんだけど。連絡が無いって意味なら、やっぱりここ10年くらいはまともに声も聞いて無いわね」

「連絡も無いんですか?」

「男の人は、そう言うものらしいわ」

 

 

 そこは、まだタカオには理解できない感覚だった。

 共有ネットワークを通じて常に繋がっている霧には、「連絡が無い」と言う状態は俄かには想像できないのだ。

 今までのところ、出奔した艦も含めて共有ネットワークから追放された霧は存在していない。

 

 

「ただ、夫と息子のことは余り心配していないのよ。男は夢があれば生きていけるって言うしね」

 

 

 それに、帰る場所としての自分がいる。

 そう言った時の沙保里の表情を、タカオは何と言って表現すれば良いのかわからなかった。

 笑っているようにも、あるいは心配しているようにも、または哀しんでいるようにも見えた。

 タカオにとって、沙保里の見せた感情は複雑に過ぎたのだった。

 

 

 人間の感情とは、どこまでも広がりを見せるものなのか。

 メンタルモデルを得て少しずつ感情に触れるようになって来たとはいえ、心の機微を察せられる程になっているわけでは無い。

 その事実が、タカオの口を(つぐ)ませていたのかもしれなかった。

 

 

「もう1人、娘がいるの。こっちは割と連絡もくれていたんだけど、忙しいのかここ最近は電話して来ないわね」

「娘さんは、どんな人なんですか?」

「可愛い子よ。夫がいなくなってからはショックだったのか、ちょっとやんちゃしていたみたいだけどね」

 

 

 クスリと笑って、しかし沙保里はすぐにその笑みを潜めた。

 

 

「ただ、1番心配な子」

「1番連絡をくれるのに、1番心配なんですか?」

「むしろ連絡をくれるからこそ、なのかもしれないけどね」

 

 

 パキッ、とお茶菓子のクッキーを割って、片方を寄ってきた鳥に食べさせながら、沙保里はそう言った。

 嘴で突いてクッキーを食べる鳥を静かな目で見つめる沙保里は、実は他の何かを見ているのかもしれない。

 この時、タカオは何故かそんな思いに捉われたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ニーンジン♪ ジャガイモッ♪ リンゴとハチミツ♪」

「くっそ可愛いわね畜生(マヤ、みっともないからはしゃぐんじゃないの)」

 

 

 何かまた思考と発言が一致しなかったようだが、タカオは気付かなかった。

 彼女は今、マヤを伴って函館の街を歩いているところだった。

 歌いながらスキップする妹の後ろ姿をぐふぐふと笑いながらついていく美少女の絵は、道行く人々を退()かせるには十分すぎる程の威力を持っていた。

 

 

 最も、タカオにとってマヤ以外の人々など有象無象に等しかったので、気にも留めなかった。

 ちなみに、マヤが歌っているのはこれから買う予定の品々である。

 彼女達2人は、頼まれて街までおつかいに出ていたのだった。

 

 

「ねぇ、タカオお姉ちゃん。カレーって美味しいのかな?」

「マヤの手料理とか垂涎ものよね」

「作るのは私じゃないよぅ」

 

 

 などと言いつつ、タカオは「ほら」とマヤの手を取った。

 人込みの中でスキップは危ないので、その意味でタカオの行動は間違っていない。

 ただ、その表情の蕩け方はさらに周囲の人々を遠ざけた。

 天下の霧の重巡ともあろう者が、すっかり妹煩悩になってしまったようだ。

 

 

 一方で、タカオは妹が可愛すぎて手を繋ぎたかったばかりでは無かった。

 周囲の人々が掃け始めていたのはタカオとマヤの様子が奇異に映ったからだが、それ以前に、2人の周囲の雰囲気を敬遠したと言う面もあっただろう。

 何しろ、スーツ姿の七ツ目の巨漢――しかも、どこかロボット然としている――達がそこかしこから姿を現して、タカオとマヤの前に進み出て来ていたのだから。

 

 

『タカオ様とマヤ様ですね』

「何? アンタ達」

 

 

 マヤを庇うようにしながら、タカオは自分達の周囲を囲むように現れた男達を睨んだ。

 さっと視線を向ければ、同じような姿の男が4人いた。

 喋っているのは正面の1人だけなので、自然、タカオの視線も彼に集中した。

 

 

『申し訳ありませんが、ご同道願えませんでしょうか』

 

 

 彼らはいったい何者なのか、と、タカオはわざわざ考察しなかった。

 タカオが考えていたのは、(マヤ)が可愛すぎて辛いと言うことと、おつかいに遅れが生じることの苛立ちだけだった。

 だからタカオは、目の前にいる輩の正体には本当に関心が無かった。

 

 

「タカオお姉ちゃん……」

 

 

 ただ、マヤが不安そうにしていたので。

 タカオにとっては、理由などそれで十分だったのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 閾値(いきち)、と言うものある。

 人間が感覚や反応を返すために必要な刺激のレベルのことで、この値を超えれば人間の心と身体は何かしらの反応を返すことになる。

 しかしながら、眞の閾値はそれなりに高かったようで。

 

 

「困りましたね、彼は優秀な補佐官だったのに。休暇を与えなければならない」

 

 

 だから言葉程には、眞は大して驚いていなかった。

 言い換えれば、その事態はデザインチャイルドの感情許容値を超えるものでは無かったのだろう。

 眞の目の前には、顔面――金属製のフェイス部分――を拳の形にへこませた冴木補佐官の姿があった。

 女の片腕で引き摺られてきた彼は、紙くずか何かのように眞の前に放り投げられたのである。

 流石に死んではいないようだが、ピクリとも動かなかった。

 

 

「ようこそ函館へ、とでも言うべきなのでしょうか?」

 

 

 眞は複数人の護衛と共に、人気の無い廃墟で相手を待っていた。

 再開発に向けて解体工事中のビルで、人目を忍んで会見するにはもって来いの場所だった。

 レディと会うには少々雰囲気に欠けるが、人間と霧の関係性を象徴していると言えば、ロマンチックにも聞こえるだろうか。

 

 

 対して、誘われた側は鼻を鳴らした。

 興味は無かったが、まとわりつかれても面倒と思ったのだろう。

 だから眞の社交辞令とも言うべき言葉にも取り合うこと無く、女……タカオは、単刀直入に言った。

 タカオの背中にはマヤがいて、姉の肩越しに眞のことをしげしげと眺めていた。

 

 

「で、何の用なわけ? 私達はこう見えても忙しいのよ」

「承知しています。ですが我々はまさに、貴女方に「何の用なのか」と問いに来たのですよ。霧の重巡洋艦『タカオ』」

 

 

 正体を知られている、その事実にタカオは片眉を上げた。

 同時に瞳に霧の輝きが宿り、瞬時に目の前の少年が誰なのかを特定した。

 

 

「少なくとも、北管区の首相に用は無いわ」

「……貴女方が我々に関心が無いのは、重々承知の上ですよ」

 

 

 いきり立ちかけた部下を手で制しつつ、眞は苦笑を浮かべた。

 ただそれは意識して浮かべたもので、心の底から苦笑したいと言う心境だったわけでは無い。

 

 

「しかしだからこそ、貴女方が何故あの人の……千早沙保里の下にいるのか。その理由を確認するために、こうしてやって来たのですよ」

「…………」

「宜しければ、お聞かせ願えませんか?」

 

 

 そのまま、眞は言った。

 

 

「貴女方は、あの人をどうするつもりなのです?」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早沙保里をどうするつもりつもりか。

 改めて考えてみると、タカオはその問いに対して何も答えられないことに気付いた。

 何故かと言うと、考えたことが無かったからである。

 

 

(元々、千早兄妹の情報を得るために来たわけだしねぇ)

 

 

 そして、実はそのあたりはほぼ終わっている。

 ただわかったのは千早兄妹の幼少時の話であって、現在の情報はほとんど何も無かった。

 考えてみれば千早兄妹は早い段階で横須賀に行っていたわけだから、函館(ここ)に目ぼしい情報があるはずも無かったのである。

 

 

 だから、なるべく早い内に横須賀に向かおうと考えていたくらいだ。

 それが今まで伸びに伸びていたのは、確かに沙保里の影響ではある。

 何故かはタカオにもわからないが、離れ難い何かがあの家にはあった。

 そしてそれは、タカオ以外の面々にとっても同じだった。

 

 

「……逆に聞くけど、どうして欲しいわけ?」

「そうですね……出来れば、このまま何もせずに退去して頂ければ有難いです」

 

 

 それは、眞の本音だった。

 霧のメンタルモデルが複数体も函館にいる現状が、為政者である彼からすれば異常なのだ。

 何かが間違っても、武力で追い出すことは出来ない。

 と言って何かをされれば、他の政府や民衆に対するポーズとして戦わなくてはならない。

 

 

「嫌だと言ったら?」

「それは、困りますね」

「困るだけ?」

「まぁ、我々も戦わなければならないでしょう」

 

 

 タカオにも、だんだんと見えてきた。

 要は眞は、タカオ達の滞在の目的を確認しに来たのだ。

 つまり霧のメンタルモデルと千早沙保里の接触が、彼らに相当のストレスを与えていたと言うことだろう。

 

 

「いくつか聞きたいことがあるんだけど」

「こちらに答えられることであれば」

「そ、じゃあ聞くけど。何であの人……沙保里を軟禁なんてしてるわけ?」

 

 

 そこは、タカオには良くわからない部分だった。

 沙保里は半ば望んで引き篭もっている様子でもあるが、それでも浴室やトイレにまでカメラや盗聴器が仕掛けられている生活を甘受しているとも思えない。

 沙保里自身が何かをしたわけでは無いと言うのに。

 

 

「それは、仕方ありません。あの人の夫や子供達は今や時の人ですから、政府としてはその動向を管理する必要があります」

「ふーん。それって、何だっけ。アンタ達で言うところの……ニンジン? じゃない、えーと」

「人権、でしょうか?」

「そう、それ。それに反してるんじゃないの?」

 

 

 人権、いわゆる民主政体の国家においては保障されなければならないとされているものだ。

 人間が人間である限り持っている、最も基本的な社会的権利のことだ。

 霧であるタカオ達には、理解できないものの1つであったかもしれない。

 そしてその考え方に照らせば、犯罪者でも無い沙保里の軟禁・監視は確かに人権に反していると言える。

 

 

「確かに、人権には反していますね。それから憲法を始めとする多くの法典にも反しています」

「それは良いの?」

「良くは無いですね、我々も心苦しくは思っています」

 

 

 千早沙保里は、国家が守るべき日本人の1人である。

 千早沙保里は、国家の安全保障上管理しなければならないリスクの1つである。

 どちらも正しく、そして正しいが故に両立が難しい。

 これも、政治(まつりごと)の1つの側面ではある。

 

 

 だがタカオには、そんな複雑な理屈は理解できない。

 理解したいとも思わなかったし、する必要も無いと思った。

 彼女は人間では無いから、人間の理屈や考え方に対しては興味が無かった。

 だけど。

 

 

「……驚きました」

 

 

 今度こそ本心から、眞は言った。

 目を見開いて、タカオの顔を見つめる。

 

 

「まさか貴女がそんな顔をするとは、夢にも思っていなかった」

 

 

 それから、眞はそのままの姿勢で頭を下げた。

 最初からそうするつもりだったのか、あるいは気が変わったのかはわからない。

 確かなことは、北管区の首相が霧のメンタルモデルに懇願したと言う事実だった。

 

 

「お願いします」

 

 

 懇願、そう、それは懇願だった。

 

 

「どうかこのまま、何もせずに函館から出て行って下さい」

 

 

 そこに政治的意図を差し挟めるような余地は無く、純粋な気持ちだけがあった。

 そしてそんな眞に対して、タカオは……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 眞首相がタカオとの会見を行っているのと時を同じくして、楓首相はいつもの3人を議事堂に呼んでいた。

 議会の合間に少人数が別室に集まって話し合うのは良くあることだが、楓首相を含むこのメンバーでの話し合いとなると、流石に意味合いも変わってくるのだった。

 

 

『我が国に唯一残された偵察衛星『オオトリ』の写真だ』

 

 

 楓首相は、振動弾頭輸送艦隊の見送り以後に頻繁に顔を合わせている3人に衛星写真を示した。

 内閣、議会、軍務省、この時代の日本を動かす上での最大権力の事実上の頂点に立つ3人に、デザインチャイルドの生みの親である刑部博士(ローレンス)を加えた4人である。

 議会制・民主制の観点から見れば不健全極まりないかもしれないが、しかしここ数ヶ月の日本、特に中央管区の舵取りはこの話し合いの中で行われていると言っても過言では無かった。

 

 

 そして、写真である。

 函館港に入港する軍艦の写真で、ある意味では普通の写真だった。

 ただし、函館港に入港できるような軍艦が日本海軍にあればの話である。

 地下ドックに逼塞(ひっそく)している日本艦隊が、単艦しかも水上艦を函館まで送れるわけが無い。

 

 

『北管区には問い合わせていない。オオトリの現状を知られたくは無いし、まともな回答も期待できないだろうからだ』

「この艦のその後の行方は?」

『不明だ』

 

 

 北と上陰の記憶が正しければ、この軍艦は霧の艦艇だった。

 しかも複数ある写真には異なる艦が映っており、艦隊行動を取っていることがわかった。

 津軽海峡に霧の艦隊と言うのは、何とも嫌な位置だった。

 

 

「と言って、打てる手はほとんど無い」

 

 

 腕を組みながら、北は言った。

 そして実際、打てる手は無いのが実情だ。

 そもそも彼らにはまだ霧の艦隊の行動と意思を掣肘(せいちゅう)する術が無く、基本的には傍観しているしか無いのだ。

 

 

 むしろ下手に刺激して、函館砲撃などに及ばれてはたまらない。

 最悪の場合、北管区を滅ぼされてもおかしくは無いのだ。

 それだけの戦力が、霧にはあるのだから。

 

 

「彼女達が何を目的に函館に向かったのかはわからん。だが、こちらの打てる手が限られている以上、彼女達の気が済むのを待つしか無い」

「……しかし、北管区が何も言ってこないのは何故でしょう? 北管区の首相はデザインチャイルド。日本の害となりそうな事態に何も動きが無いのはおかしくは無いでしょうか」

『何か考えがあるのか、それとも……』

 

 

 視線を向けられたローレンスは、何かを考えている様子だった。

 彼にとって、眞首相は息子とも言うべき存在である。

 だからこそ彼がどう行動するかを良く知っている、思慮深さと豪胆さを兼ね備えた息子なのだ。

 何もしない、と言うことはあり得ない。

 むしろ何かをしているからこそ、連絡を寄越さないのだ、と。

 

 

「今は、待つしかありません。何らかの動きがあるまで……」

『……確かに』

「とにかく、情報の収集に努めます」

「……そうだな、今はとにかく霧の動向から目を離さぬことだ」

 

 

 しかしこの時、彼らは重大なミスを犯していた。

 彼らは津軽海峡で霧の艦隊が軍事行動を取るところまで想定していたが、見落としていることが1つあった。

 見落としている、と言うよりは、あえて考慮に入れていないと言うべきか。

 函館にいる、重要人物(千早沙保里)のことだ。

 

 

 もちろん忘れていたわけでは無い、ただ霧が彼女に興味を抱くとは考えていなかったのだ。

 過去、霧が――どれほどの重要人物であったとしても――個人に狙いを定めて行動したことは無かった。

 いかに千早翔像とその子供達の縁者とは言え、本人は至って平凡な鳥類学者に過ぎない。

 仮に接触したとしても、霧にとってメリットもデメリットも無い、そう考えていたのだ。

 ――――その判断を生涯後悔することになるとは、この時の彼らは想像もしていなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 結局、おつかいもせずに千早邸に戻って来たタカオは、マヤを伴って真っ直ぐに鳥舎へ向かった。

 しかし、そこに求めている人物はいなかった。

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 代わりにそこにいたのは、沙保里と同居しているメイドだった。

 ボブカットの、優しそうな女性だ。

 右耳にインカムをつけたままの体勢で、礼儀正しく鳥舎の中央に立っている。

 インカムを外していないのは隠すつもりが無いのか、あるいは隠す意味が無いと思っているのか。

 

 

 タカオから見て、このメイドは沙保里と仲が良かった。

 一緒に料理をしたり家事をしたり、お喋りに興じることもあった。

 本当に、仲が良さそうだった。

 

 

「アンタって……」

「奥様は私のことをご存知ですよ。私も、普段は()()のことは忘れてお世話しておりますし」

 

 

 先に言われてしまった。

 それを先に言われてしまうと、タカオは喉まで出掛かった言葉の行き先を失ってしまう。

 唇を噛んだ後、その唇から出たのは別の言葉だった。

 

 

「……沙保里は、ずっとここにいなきゃいけないの?」

「そう、ですね。今のままなら」

「沙保里はどう思ってるの? 今の自分を」

「窮屈には思っておられると思います。ただまぁ、奥様はああ言う方ですから。逆に今の状態を楽しんでいらっしゃるのかもしれません」

 

 

 もし自分が、一所(ひとところ)に幽閉されたらどう思うだろう。

 自閉モードに入れば良いだけなので、辛くは無いかもしれない。

 だがメンタルモデルを得た今、タカオには感情が芽生えつつある。

 データとは異なるそれは、自閉モードになったところで鎮まるものでは無いように思えた。

 何より、妹達と引き離されるなど考えられない。

 

 

 けれど、沙保里は笑っていた。

 こんな状況にあっても笑顔を浮かべて、好きなことをしているから気楽だと言っていた。

 でも、と、タカオは思った。

 ならば、家族のことを話していた時の表情は何だったのだ。

 1人で食べるご飯がつまらなかったと、タカオ達の来訪を喜んだのは何だったのだ。

 

 

「た、タカオお姉ちゃん?」

 

 

 このやり場の無い苛立ちは、いったいどこへ吐き出せば良いのだ。

 苛立ち、そう、タカオは苛立ちを感じていた。

 抑えられない苛立ちは、瞳の輝きとなって表に現れてくる。

 タカオが顔を上げれば、そこにはガラスの天井が見える。

 

 

 鳥舎の中で、鳥達はのどかに過ごしている。

 翼を広げて飛べば、すぐそこに空があるのに。

 彼らは皆、天井の向こう側を眺めているばかりで。

 それが、タカオには無性に苛立たしく思えるのだった。

 

 

「あわわわ……!」

 

 

 タカオを中心に、風が吹き始めていた。

 重力場に生じた乱れは、そのままタカオの感情の振れ幅なのだろう。

 やがてそれは竜巻に近いものになり、鳥舎が俄かに騒がしくなる。

 

 

「た、タカオさん。落ち着いて……」

「決めたわ」

「え?」

 

 

 上を向いたまま、タカオは言った。

 ビシリ、と、天井のガラスに罅が入った。

 それは花開くように周囲へと広がって行き、パラパラと強化ガラスの破片が振ってくる程になった。

 

 

「――――飛びなさい!」

 

 

 ガラスが、爆ぜた。

 内側からの圧力に耐え切れず、外へと弾け飛んだのだ。

 そしてそれを見て取ったのか、あるいは下から自分達を飛ばそうと吹き上がる風に煽られたのか、鳥達が一斉に飛び立った。

 もはやガラスに阻まれることも無く、彼らは無限に広がる空へと飛び立って行った。

 

 

 

「私は、沙保里をここから連れ出すわ」

 

 

 

 タカオは、そう宣言した。

 眞首相がいかに邪魔をしようと、彼女は霧だ、止められるものでは無い。

 人間の妨害ごとき排除してでも、沙保里をこの鳥籠から自由にする。

 この時のタカオには、それが崇高な使命のように感じられた。

 

 

 しかし、この時のタカオには気付きようも無かった。

 沙保里を連れ出すと言う()()()使()()への決断、それがこの後の悲劇の引金になるなどとは。

 タカオには、予測することなど出来なかったのだった。

 





『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
(ポール・ゴーギャン(仏)より)


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

まずお礼をば。
いつも誤字報告を頂ける皆様、本当に有難うございます。
一応チェックはしているのですが、何故か気付かずスルーしてしまうことが多々あるので、報告頂けると非常に助かっています。

そして本編、タカオちゃん覚醒(違)
次回で北海道編は終わる予定です、さぁどうしようかな。

それでは、また次回。


……沙保里さん家のメイドさんの名前がわからぬぇ(え)


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Depth033:「北海道編・後編」

 かえって藪を(つつ)いてしまったか。

 眞がそう考えたのは、函館から札幌へ戻るヘリの中でのことだった。

 ヘリの発する爆音は会話を行うには邪魔だが、考えごとをするには不思議と良かった。

 

 

(メンタルモデルとやらは私に近い存在かと思っていたが、どうやら違うようだ)

 

 

 霧との大海戦後の日本は、国家を存続させるために一部の国民を見捨てざるを得なかった。

 そうした一種の棄民(口減らし)政策は、心の弱い人間には酷だ。

 そこで抜擢されたのが、デザインチャイルドの眞だった。

 人造の超人である眞は感情の起伏を抑えられているため、非情な政策でも断行することが出来る。

 

 

 実際、ここ数年北管区は大過なく良く治められている。

 数百万人を生かすために数万人を見捨てる政策を繰り返した結果で、海底トンネルを通じた食料農産物の供給は、中央管区と南管区にとっては無くてはならないものだった。

 だから眞の双肩には、北管区を含む日本国民の命が乗っていると言っても過言では無かった。

 

 

「あのタカオと言うメンタルモデル、随分と魅力的だったな」

『は、何か仰いましたか?』

「いや、気にしないで良い」

『はぁ……』

 

 

 らしくも無い冗談らしきことを口にして――最も眞の場合、冗談の裏に本音を潜ませるのが常だが――眞は嘆息した。

 実際、彼は噂に聞くメンタルモデルをデザインチャイルドと同種、もしくは同方向の存在だと思っていた。

 感情に左右されず、最適の解と行動を求める者だと考えていた。

 

 

「あの目……」

 

 

 だが、少なくともタカオは違った。

 瞳の中に、明らかな感情の昂ぶりが見て取れた。

 言葉の端々や所作にも、悪い意味での機械じみたものは無かったように思う。

 ぱっと見て、タカオが非人間的な存在だと気付く者がどれだけいるだろうか。

 

 

 皮肉なものだ、と、眞は思った。

 人間は感情を捨てた者(デザインチャイルド)を求め、霧は感情を得る者(メンタルモデル)を求めた。

 両極端だった両者が近付きつつあるとすれば、この上無い皮肉だった。

 もし叶うのならば、霧と――タカオと、そうした哲学的思索について議論したいものだ。

 

 

『首相、函館より緊急入電です』

 

 

 しかし、残念ながらそんな機会は訪れないのだった。

 何故ならば人間と霧、そして眞とタカオは利害も価値観も共有していない、対立すべき敵でしか無かったのだから。

 ――――今は、まだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 面倒なことになりそうだと、キリシマは思った。

 この時彼女は沙保里や他のメンバーと共に、千早邸の食堂にいた。

 おつかいに出たはずのタカオとマヤが戻ってこなかったため、あり物で作った夕食を食べていたのである。

 

 

『ハルナ』

『……わかっている』

 

 

 キリシマ達には、これと言った方針が無かった。

 『ナガト』も『コンゴウ』も沈黙している今、大戦艦である『キリシマ』や『ハルナ』に()()を下せる者はいない。

 日本近海封鎖のローテーションにも復帰していないから、比較的自由な状態だった。

 

 

 彼女達がタカオの唱える「打倒千早兄妹」に付き合っているように見えるのは、つまり他にやることが無かったのである。

 それでも名目上の旗艦はキリシマなので、彼女には他の艦の行動がわかるようになっていた。

 例えば、鳥舎を破壊してこちらに向かっているタカオのことであるとか。

 

 

「不味いな」

「あら、セロリは嫌いだったかしら?」

「あ、いや。そう言うわけじゃない、セロリは美味しい」

 

 

 首を傾げる沙保里に、キリシマは慌てて言った。

 つい口に出してしまった。

 最近は通信での会話でも、気を抜くと声にしてしまうことがある。

 気をつけなければと思いつつ、視線を400、402、ヴァンパイアに向ける。

 彼女達も状況は理解しているようで、ドレッシング漬けのサラダを急いで口に詰め込んでいた。

 

 

『キリシマ』

『何だ』

『外の連中も動き出したぞ』

 

 

 キリシマの瞳が白く輝いた時には、彼女の目の前には外の景色が映し出されていた。

 それはハルナがハッキングした映像であり、監視カメラや車載カメラ、あるいは()()()()()()()についたカメラであったりした。

 もちろん、複数の映像処理で落ちる程キリシマの演算力は貧弱では無い。

 

 

 つまるところそれは、周囲の家々――全てダミーだった――から姿を現した、千早邸の監視部隊の動きに関する情報だった。

 日本統制軍の北管区方面隊隷下(れいか)の第11師団所属第28歩兵大隊、その内の1個中隊だ。

 人数は約170名、邸宅1人に随分な兵力だが、霧のメンタルモデル数体を相手にするにはいかにも心もとない人数だった。

 

 

『正面に3個小隊、戦闘車両保有。家のガレージに隠していたようだ。それから千早邸の左右にも部隊を展開中。続報あり次第伝える』

 

 

 隣にいながら通信と言うのも奇妙な話だが、霧ならばこんなものだろう。

 まぁ、外の日本軍についてはキリシマはさほど懸念していない。

 むしろ問題なのは、これからやって来る奴だった。

 

 

「あー、沙保里。ちょっと落ち着いて聞いてほしいんだが」

「あら、何かしら改まって。ちょっと待って、当ててみせるから」

「いや、そんな和やかな話じゃなくて。実は…………あ、ダメだ。あっちの方が速かった」

「え?」

 

 

 と、キリシマが事前説明を断念した、次の瞬間だった。

 両開きの食堂の扉が――マホガニーの高価な設えだったのに――文字通り蹴り破られた。

 ちなみに吹き飛んだ扉は、扉側に座っていた400と402が裏拳で食堂の端に殴り飛ばしていた。

 

 

「沙保里ッ!!」

「あら、タカオさん。どうしたのそんなに慌てて」

 

 

 扉を破壊されておいてにこやかにそう問いかけるあたり、やはり沙保里は常人とは違った。

 

 

「――――外に行くわよ!!」

「え?」

 

 

 しかしその沙保里をもってしても、タカオの言葉は予想外であったらしい。

 沙保里は口元に笑みを浮かべたまま、困ったように眉根を寄せることになった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この時点で、千早邸を監視していた部隊はメンタルモデルの存在を知らなかった。

 北管区政府が現場部隊にメンタルモデルの存在を伏せた理由は、2つある。

 第1に、いらぬ功名心からメンタルモデルと事を構えようとしないようにだ。

 第2に、恐怖心から兵士が逃亡しないようにするためである。

 

 

 戦闘服に防弾ベストを装備した兵士達が、千早邸の正面に出張っていた。

 コンテナ車の陰に隠れて、まるで今にも攻撃を受けることを想定した陣形を敷いている。

 マニュアル通りと言えばそれまでだが、個人の邸宅に対しては過剰と言って差し支え無い状態だった。

 

 

「なぁ、本当に事故とかじゃないのか? 電気系統のショートとか……」

「何の前兆も無く爆発するわけ無いだろ。火災も発生していないし」

「事情が事情だけに、消防や警察に任せるわけにもいかないからな」

 

 

 だから彼ら自身、中隊全員、しかも戦闘車両まで出して動くのは大げさだと考えていた。

 1個小隊、いや1班に様子を見に行かせるだけで事足りるだろうと思っていたのだ。

 通常であれば、それで良かった。

 しかし今日に限って言えば、この判断は間違いでは無かった。

 

 

「うぉ……っ!」

「な、何だ!? やっぱり爆発か!?」

 

 

 その時だった。

 千早邸の正面門が吹き飛び、破片が屋敷の塀に降り注いだ。

 爆発と呼ぶには規模が小さい、あえて言うなら門を()()()()()()と言った方が正しい。

 これには流石の兵士達も警戒心を呼び起こされて、小銃を構えて、油断無く様子を見始めた。

 すわテロリストか強盗かと、そう警戒したのだ。

 

 

「やれやれ、人遣い……あ、違うか。メンタルモデル遣いの荒い」

 

 

 ただ、彼らは一様にぽかんとした表情を浮かべることになる。

 何故なら吹き飛んだ扉の向こう側に立っていたのは、年端もいかぬ少女だったからだ。

 しかも、クラシックなメイド衣装に身を包んだ少女だ。

 可愛らしい、とても、ほっぺにドレッシングをつけているあたり特に。

 しかし、明らかに場違いだった。

 

 

「正面と言えば敵の主力、艦体を使わずこの形態でやっつけろとは」

 

 

 少女は小さく俯いて、物憂げに溜息を吐いた。

 気だるげな雰囲気が見て取れるあたり、相当に面倒くさがっていることがわかる。

 しかし耳元で叫ばれたような仕草をして――通信でもあったのだろう――からは、また1つ大きな溜息を吐いて。

 

 

「――――ああ、やれやれ」

 

 

 少女――ヴァンパイアが顔を上げると、その両の瞳は白く輝いていた。

 爛々(らんらん)としたその輝きは、正面の兵士達の胸中に、冷たいものを感じさせたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 頭痛、吐き気、胸のむかつき、若干の胃痛。

 いずれもメンタルモデルには無用のもののはずだが、今の『レパルス』の状態はまさにそんな状態だった。

 函館沖の浅瀬に身を潜めているレパルスは、甲板の上で大の字になって倒れていた。

 

 

「うう、やっぱりヴァンパイアにメンタルモデルを持たせたのは無茶だったかしら……」

 

 

 二日酔い、と言えばわかりやすいだろうか。

 レパルスは「人間に会うのが怖い」と言う理由で――表向きは皆の艦体を管理すると言う理由で――残っていたのだが、ヴァンパイアに演算力の四分の一を分けているため、ヘロヘロの状態だった。

 駆逐艦にメンタルモデルを持たせるのは、相当の演算力を必要とする。

 

 

 そもそもレパルスは巡洋戦艦であり、クラスとしては戦艦では無く巡洋艦に分類される。

 そして大戦艦クラスであっても、他艦にメンタルモデルを形成させる程に演算力を与えれば自身の行動に影響を及ぼしてしまう。

 四分の一ともなれば、なおさらだ。

 最も、より上位の超戦艦クラスになれば、ほんの数パーセントの演算力貸与で済むのだろうが。

 

 

『…………』

「わかってるわよ『サタ』、はっきり言わなくても良いじゃない。極東の艦は本当に辛辣ね……」

 

 

 共にいる補給艦に何かを言われたのか、レパルスは時々独り言のように何かを喋っている。

 傍目には海中で1人喋る寂しい人物に見えるが、実際はそうでも無いのだった。

 そして、そんな時だった。

 

 

『レパルス』

「……あら? 誰か思えばキリシマ?」

 

 

 函館でのんびりしているはずの仲間から、通信が入った。

 今はレパルスの暫定旗艦でもあり、そして『プリンス・オブ・ウェールズ』から助けてくれた恩()でもある。

 何事かと顔を上げれば、瞬時に情報のやり取りが成される。

 

 

『状況は以上だ。全艦浮上、函館港に入ってくれ』

「ええ~、しんどいのに……」

 

 

 ぶつくさ文句を言いつつも、レパルスの周囲が俄かに騒がしくなった。

 鈍い音を立てながら、大戦艦『キリシマ』を始めとする艦群が浮上を始める。

 函館の防衛装備など物ともしない戦力が、海上に姿を現そうとしていた。

 

 

「まったく、タカオは何を考えているのかしら。に……人間を連れて来るだなんて」

 

 

 最後の部分では、レパルスはぶるりと震えた。

 それは具合の悪さでは無く、単純な怯えから来るもののようだった。

 人間に怯える霧と言うのも珍しい。

 まさに、人見知りと言ったところだろうか。

 最も霧の艦隊を間近で見ることになる函館の人々にとっては、彼女そのものが恐怖の対象なのだが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 外の風を感じたのは、いつぶりだろうか。

 タカオに背負われたまま宙を跳びながら、沙保里はそんなことを考えた。

 何だかんだ18の子供を持つ身だ、無茶は出来れば控えて欲しいのだが。

 

 

「ひゃっ……」

 

 

 だと言うのに小娘のような声を上げてしまって、沙保里は赤面した。

 ただ、どうなのだろう。

 眼下から雨あられと撃ち込まれて来る自動小銃や機関砲の弾丸に対して、ちょっと息を呑むだけで済むというのは、果たして「小娘のような」と言う表現の範囲内に含まれるのだろうか。

 

 

「ちょっと揺れるわよ!」

 

 

 言われて、沙保里は反射的に奥歯を噛んだ。

 そして次の瞬間、タカオは沙保里を背負ったまま着地した。

 『岩蟹』と呼ばれる、統制軍の四本足の多脚式戦闘車両の上に。

 特殊繊維の装甲が砕けて、『岩蟹』の1両が腹を地面に叩き付けられた。

 

 

 ガラン、と、静かな音を立てて脚の1本が地面に転がる。

 そして、踏み込み。

 タカオは自分が潰した『岩蟹』にはまるで興味を示さず、バリケードの向こう側を目指して跳んだ。

 1跳びで12メートル、立ち幅跳びの世界記録の優に3倍はあった。

 

 

「どけって……!」

 

 

 あえてバリケードを蹴り飛ばした、それだけで封鎖された道路に穴が開いた。

 吹き飛ばされた部分にいた兵士達の身体が、数十キロの装備と共に宙を舞った。

 そして彼らが地面に落ちてくるよりもなお早く、左に跳んで重機関銃を半ばから蹴り折り、そのまま右に跳んで小銃を構えた兵士の脇腹に踵を叩き込んだ。

 

 

「言ってる」

 

 

 脇腹を蹴られ、仲間を巻き込んで遥か向こうに転がって行く兵士達。

 そちらに一瞥もくれず、タカオは封鎖線(バリケード)を突破した足でさらに跳んだ。

 まさに無人の野をいくが如く。

 側面から銃撃が来て、タカオはフィールドを形成してそれを受け止めた。

 

 

「……でしょうがっ!」

 

 

 受け止めたそれを、そのまま弾き返した。

 『岩蟹』の機関砲も含まれたそれは着弾と同時に爆発し、周辺の家々を2つ程巻き込んだ。

 熱風と共に、兵士達の悲鳴が聞こえた。

 タカオはそのまま跳んだ、無事な家の屋根に跳び移り、留まることなく次へと跳躍する。

 後ろから追いかけてくる銃弾は、明らかにその密度を下げていた。

 

 

「もう少しで港だから、我慢してよね!」

 

 

 その姿を見て、沙保里は何となくタカオがしようとしていることがわかった。

 タカオはきっと、自分のためにこんなことをしているのだろうと。

 まぁ、元々普通の人間では無いとは思っていた。

 何しろあの屋敷に誰にも気付かれずに侵入してきたのだから、普通のわけが無い。

 

 

 ただ、流石にこの状況には驚いてはいる。

 驚いてはいるが、タカオの意図に気付いてしまえば恐怖は感じない。

 強いて言えば、幼いかなとは思う。

 だから沙保里は、タカオの耳元で言った。

 

 

「もう良いわ、タカオさん」

 

 

 沙保里は、(ここ)を離れるわけにはいかないのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 彼らは、室内にいた。

 姿を晒さねばならない表の部隊とは異なり、彼らは身を隠すのが常だった。

 暗視機能付きのゴーグルを被り、じっと息を潜めていた。

 

 

「……おい、外の連中どうなってるんだ」

「そんなことはどうでも良い。重要なのは、監視対象が逃亡したってことだ」

「監視対象ったって、ただの主婦じゃねぇか……」

 

 

 がちゃり、と、長大な狙撃銃(ナガモノ)を構えて。

 

 

「……で、どうするよ」

「どうするも何も、マニュアル通りだ」

 

 

 囁くように、しかし確かに。

 

 

「監視対象の奪還が不可能な場合は」

「……でもよ」

「最悪の場合は」

「ただの、主婦だぜ……」

 

 

 彼らは、じっと潜んでいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 港までもう一歩と言うところで、タカオは止まった。

 キリシマ達は今も千早邸で敵主力の気を引いてくれているだろう、だからこちらに増援が差し向けられる前に突破しなければならなかった。

 タカオだけなら大隊1つ連れて来たところで脅威にはならないが、沙保里を連れているのである。

 

 

「良いって、何がよ」

「タカオさんの気持ちは嬉しいけれど、私はあの家にいないとダメなのよ」

「ダメって……」

 

 

 屋根の上に立ち止まって、タカオは言われた言葉を反芻した。

 沙保里は今もタカオが背負っ(オンブし)ていて、メンタルモデルの肌はその温もりを感じていた。

 

 

「あんな奴らの言うことを聞くって言うの!? あいつら、アンタがいるってのに躊躇無く撃って来たのよ!」

 

 

 事実だった。

 先程の一連の戦闘でもそうだったが、監視部隊は実弾を撃って来た。

 小銃だけで無くガトリング砲や、果ては携帯式のロケット弾まで撃って来た。

 全てタカオが防いだが、そうで無ければ間違いなく命を落としていただろう。

 

 

 ただ、兵士達の側……特に指揮官からすれば、仕方ない判断だった。

 明らかに超常の力を使うタカオの存在は、監視部隊の想像を超えていた。

 沖合いに現れた軍艦――『レパルス』らである――の情報も併せて、タカオが霧だと判断することは難しくなかった。

 つまり奪還は不可能で、しかも沙保里は重要人物だけに渡せない、ならばいっそ……と考えるのは、無理からぬことだった。

 

 

「いや、私も政府の方々にどうこうって気持ちは無いのよ?」

 

 

 流石にそこまでお人好しにはなれない。

 3食昼寝と鳥類研究環境の提供があるとは言っても、別にそれに目が眩んだわけでも無いのだ。

 最も、軟禁と言う形で自分を()()しようとした人々の気持ちを無視するつもりも無かったが。

 ただ、沙保里にとっては千早邸(あの家)は手放すことの出来ないものだったのだ。

 

 

「ただ、あそこは()()()()なのよ」

 

 

 沙保里は言った、笑って言った。

 あの家は夫と子供達が、いつかは帰ってくる場所だ、と。

 どんな鳥でも飛び続けることは出来ない、疲れた時には宿り木に止まる。

 そう言う場所を守っておくのが自分の役目なのだと、沙保里は言った。

 

 

「でもそれじゃ、アンタばっかり我慢してることになるじゃない!」

 

 

 やりたいことは無いのか。

 行きたい場所は無いのか。

 タカオは沙保里にそう言った、その想いがタカオを突き動かしていた。

 そんなタカオに、沙保里は微笑んだ。

 

 

 背負われたまま、後ろからぎゅっとタカオを抱き締めた。

 温かい、まるで()()()()()()()()()()

 そこには確かに1個の命がある、沙保里はタカオにそのことに気付いて欲しかった。

 タカオ自身が危険を犯して守ろうとする自分と、タカオ自身の間に、差など無いと言うことに。

 

 

「ありがとう、タカオ」

「…………」

 

 

 その時、空から独特の爆音が聞こえて来た。

 顔を上げれば、そこに1機のヘリコプターが見えた。

 ただ、北管区のマークが記されてはいるものの、重武装はしていない。

 いったい何だと、タカオの意識がそちらへと向いた、その瞬間。

 

 

 

「危ないっ!!」

 

 

 

 ――――!

 後ろから衝撃が来て。

 沙保里の身体が大きく跳ねたのを、タカオは感じた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――間に合わなかった!

 この時、そう思った人間は2人いた。

 1人は空にいて、千早邸を含む区画の上空から眼下を見下ろしていた。

 

 

「通信が生きていれば、と言うのは、言い訳なのでしょうね」

 

 

 キリシマ達は千早邸で事を起こした直後から、周辺の監視部隊の展開区域をすっぽり覆う形で通信封鎖を行っていた。

 霧の力を持ってすれば、ネットワーク化された軍の通信網を乗っ取るなど容易い。

 キリシマ達からすれば当然の戦術、しかしこの場合はそれが裏目に出た形になった。

 だから彼が――眞がヘリから現地部隊に話をつけようとしても出来なかったのだ。

 

 

 ヘリを飛ばして現場に到着した時、まさに彼は目撃したのだ。

 家々の建物を飛び移るタカオと、彼女に背負われている沙保里の姿を。

 そして、彼女達が屋根の上から地面へと、力無く落ちていく姿を……。

 

 

「奥様! タカオさん!」

 

 

 そしてもう1人、こちらは息を切らせて道路を走ってきていた。

 あの千早邸のメイドだった。

 タカオが制圧した場所を通って来たので、制止されることなく通ることが出来たらしい。

 しかしこの場合、それが良かったのかはわからない。

 

 

 彼女は、確かに目にした。

 屋根の上にいたタカオと沙保里が、折り重なるようにして地面に落ちていくのを。

 そして、沙保里の右脇腹のあたりに何かが飛び込んだのを。

 はす向かいの家から、2人が狙撃されたことを。

 

 

(あの位置は、不味い……!)

 

 

 彼女はこう見えて、相応の訓練を受けた軍属(スパイ)だ。

 千早沙保里を傍近くで監視・護衛するのだから、ただのメイドではやっていられない。

 だからこそ狙撃手の位置も、そして沙保里が撃たれた位置の深刻さもわかるつもりだった。

 右脇腹に、斜め下から狙撃銃の鋭利な弾丸が突き刺さったのだ。

 脳裏を否応無く最悪の事態(ビジョン)が掠めて、自然、彼女は足を速めた。

 

 

「きゃっ……ッ!?」

 

 

 タカオ達が落ちたのは家の庭で、彼女は正門を抜けてそこへ飛び込んだ。

 そこで見たものを、彼女は上手く言葉で表現することが出来なかった。

 辛うじてわかったことは、まず庭に飛び込んだ彼女を高温の熱風が出迎えたと言うことと。

 そして……。

 

 

 ……――――暴風の中に、悪魔がいたと言うことだけだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 17年前、タカオ達霧は人類を虐殺した。

 正確には<大海戦>と呼ばれる戦争であったが、彼我の戦力差から見れば虐殺と言って差し支えなかった。

 数十万人とも言われる人々が、水底へと消えていった。

 

 

 それに対して、タカオは何かを思ったことは無い。

 その後の海洋封鎖で何百万人もの人間の命が失われたことに対しても、何かを感じたことは無かった。

 しかし、今は違う。

 タカオ自身も理解できない何かが、彼女の感情シミュレータを圧迫していた。

 

 

(なによ、これは)

 

 

 霧のメンタルモデルは、コアの活性化率に応じて顔に紋章が浮かび上がる。

 まず瞳、そして額と額だ。

 特に額に紋章が輝く時が、彼女達のコアは最高のパフォーマンスを発揮している状態だった。

 ちょうど、今のタカオのように。

 

 

(どうして沙保里は動かないの?)

 

 

 弾丸は沙保里の右脇腹から左腹部を抜け、背負っていたタカオの左肩へと貫通した。

 タカオは、自身のメンタルモデルについては即座に()()した。

 だが、生身の人間である沙保里の肉体にそんな都合の良いことは起こらない。

 地面の上に横たわって動かず、紅い……紅い血が、タカオには無い生命の源がどんどんと流れ出てくる。

 

 

 ショック状態にはある、しかし即死もしない。

 沙保里は身体を動かせはしないものの、すぐ傍に蹲るタカオを見て、何かを言おうとしたようだった。

 だがその唇から漏れ聞こえたのは、言葉では無く、擦れた呼気と血液だけだった。

 その音を耳にした瞬間、タカオの中で何かが。

 

 

「ウアアアアァァァ……ッッ!!」

 

 

 凄絶な声が、タカオの喉から溢れてきた。

 タカオの意思では無い。

 自然と込み上げて来たそれは、力を発しながら周囲にあるもの全てを薙ぎ倒した。

 

 

 庭を吹き飛ばし。

 家屋を吹き飛ばし。

 そこにいた人間を――千早邸のメイド――吹き飛ばし。

 空を飛ぶヘリコプター――眞の乗っていた――を吹き飛ばし。

 後は、タカオと沙保里を中心に小さなクレーターのように抉り取られてしまっていた。

 

 

「「「「「「「…………!」」」」」」」

 

 

 そして、()()は伝播する。

 マヤに、アタゴに、キリシマに、ハルナに、400に、402に、ヴァンパイアに。

 ネットワークを通じて拡散したそれは、沙保里に縁のある霧の艦艇に伝播した。

 彼女達の中に、タカオの叫びが波紋を広げる。

 

 

「オノレ」

 

 

 誰が撃った? いや、そんなことはどうでも良い。

 どうしてこうなった? いや、そんなことはどうでも良い。

 ならばどうするのか?

 わからない。

 わからない、わからない、わからない――――わからない!

 

 

「ヨクモ」

 

 

 『レパルス』に委ねた艦体のコントロールを奪い返す。

 『タカオ』に備えられた超重力砲以外の全ての武装を展開する。

 超重力砲を展開しなかったのは、そうすると他の兵装を使えなくなってしまうからだ。

 照準は、()()()()()()

 

 

「――――ニンゲンドモメ!!」

 

 

 他のメンバーが止める間も無く、それは成される。

 霧の重巡洋艦の全火力が、函館に、札幌に、北管区全域に無慈悲に降り注ぐ。

 かに見えた、が。

 

 

 

 

 ――――それはダメよ、タカオ――――

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――静かだった。

 それまでの暴風が嘘のように消えて、静寂だけがそこにあった。

 それに最も驚いているのは、タカオ自身だった。

 

 

「今のは……?」

 

 

 呆然と呟くタカオの脳裏には、先程の声と景色(ビジョン)があった。

 花畑……そう、花畑だ、どこかの山脈の麓の花畑が見えた。

 それから、そこで何かを……誰かを待っている、女の子。

 のどかで平和で、それでいてどこか哀しい、そんなビジョンが見えて、そして。

 

 

「……沙保里」

 

 

 だが、今はそれについては考えないことにした。

 それよりも今は、沙保里のことだった。

 沙保里は変わらずそこにいて、浅い呼吸を繰り返していた。

 ()()、生きている。

 

 

 命、沙保里が教えてくれたもの。

 それが掌から零れ落ちていくのがわかって、タカオはたまらない気持ちになった。

 冷静になった今、沙保里の肉体を診ることも出来た。

 傷口を塞ぐことは出来るが、人間にとって重要な器官をいくつか損傷してしまっている。

 ナノマテリアルの再現で応急措置が可能か、シミュレートを開始した時だった。

 

 

「…………ッ」

「沙保里……!」

 

 

 沙保里の目が、タカオを見ていた。

 もはや首すら動かせないような状態で、しかし目だけはしっかりとしていた。

 今にも途切れそうな呼吸の中で、目には意思の光が灯っていた。

 タカオは、そんな沙保里の手を取った。

 

 

 冷たい手だった。

 あの温もりは二度と感じられない、何故かそんな風に感じられて、タカオは悲しくなった。

 この時初めて、タカオは「悲哀」と言う感情を理解した。

 そしてこれから、さらなる感情を得ることになるだろうことを察してもいた。

 

 

「…………」

 

 

 ぼそぼそと、沙保里が何事かを呟く。

 それは言葉として、音として発せられることは無かった。

 だがタカオの優れた分析力は、沙保里の言葉を確かにタカオに届けた。

 それは、沙保里が教えてくれたもう1つのものについてだった。

 

 

「……ええ、わかったわ。沙保里」

 

 

 仲間達から安否を問う通信が届く中、タカオは頷いた。

 生まれて初めて涙を流しながら、心を得たメンタルモデルは、()とも言うべき女の手を取って、自分の力を使うことにした。

 治療ではない、その代わりに。

 

 

「アンタの意思を、必ずアンタの大事な人達のところまで持って行く……!」

 

 

 夜の函館に、光が生まれた。

 兵士達が、メンタルモデル達が、メイドが、北管区の首相が。

 銃を手にしながら、立ち尽くしながら、瓦礫を押しのけながら、火を噴く機体から這い出ながら。

 皆、その光を見つめていた。

 

 

 そして、時間は進み――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

北海道編終了、次回から本編に戻ります。
さて、どうしましょう。

うちの主人公の闇堕ちフラグを、誰かどうにかしてください(え)

それでは、また次回にて。


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Depth034:「犠牲とメッセージ」

 

 嵐の後は、静かなものだ。

 函館の海を見つめながら、眞はそんなことを考えていた。

 スーツの端からは包帯が覗いていて、少なからぬ怪我を負っていることがわかる。

 

 

『首相、横須賀より北代議士が到着されました』

「ああ、わかった」

 

 

 頷いて、眞は瓦礫から腰を上げた。

 彼の周囲は竜巻でも通ったかのような状態になっていて、あたりには倒壊した家屋や散乱した瓦礫、破壊された車両やヘリの残骸が見て取れた。

 ただしそれらは自然災害で引き起こされた被害では無く、また民間人の被害も無かった。

 それがせめてもの救いと言えば、そうなのかもしれない。

 

 

 あの事件からすでに数日が過ぎていたが、未だその区画は当時の状態が残されている。

 調査の必要もあって、あえてそうしているのだ。

 ただ調査と言っても、()の凄まじさを再確認するだけに終わりそうだった。

 最も、そんなことは当初からわかっていたことだったが。

 

 

「眞首相、この度はかける言葉も無い。お身体の加減はいかがかな」

「お気遣い痛み入ります、北代議士。お恥ずかしい限りですよ、政治を司るために生まれた身でありながらこの様です」

 

 

 そしてその現場で、眞は中央管区から非公式に派遣されて来た北と面会した。

 非公式なのは、中央管区が北管区の「内政」に干渉したと受け止められるのを防ぐためだ。

 眞としても、この件以外では中央の人間を北管区には入れなかっただろう。

 

 

「千早女史は……やはり?」

「一応は生死不明、と言うことになっています。実際、死亡が確認されたわけではありませんから」

「……なるほど」

 

 

 眞は、北が千早家と浅からぬ関係にあることを知っている。

 だから北が一瞬、遠い目をした時、瞑目してそれを見ないことにした。

 それくらいの配慮は、デザインチャイルドにもあった。

 

 

「生まれて初めて、思いましたよ」

 

 

 その代わりと言っては難だが、眞も自分の心情を吐露(とろ)した。

 何故か、そうしたい気分だったのだ。

 

 

「もしもあの時、ああしていれば。なんて気持ちに」

 

 

 もしもあの時。

 それは人間が何か大きな失敗をしたと感じた時、自然に生まれてくる感情だ。

 そしてあの時、タカオとの対話において、眞は自分が何かを間違えていたのだろうと感じていた。

 

 

 もしもあの時、眞がもっと別な形でタカオと接触を持っていたのなら?

 もしもあの時、メンタルモデルとの接触を監視部隊に禁じていたのなら?

 もしもあの時、函館を離れずに様子をみていたのなら?

 どれか1つでも違えば、おそらく現在の状況はまるで違うものになっていたはずだった。

 

 

「彼女達は、横須賀に来るでしょうか?」

「……わからん。ただ」

「ただ?」

 

 

 ただ、だからこそ「もしもあの時」には意味が無いのだった。

 

 

「来たならば、迎え撃たねばならないだろう」

「そう、ですね。その通りだ」

 

 

 迎え撃つとは、軍人のようなことを言う。

 ああ、軍人上がりの政治家なのだったか。

 そう思って、眞は北の隣に並んで立っていた。

 ――――水平線の向こうには、何も見えなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 殺せない相手を憎悪した時、人はどうするのだろう。

 失うべきでないものを失った時、人はどうするのだろう。

 その回答を、紀沙はまさに今、求められているのだった。

 

 

「あ、あ」

 

 

 艦内から『タカオ』の甲板へとせり上がって来たそれに、紀沙は取り縋った。

 最初はゆっくりと近付いて、最後は足をもつれさせながら走った。

 縋り付いたのも、転んだと言った方が正しかったかもしれない。

 それは固く、そして冷たかった。

 

 

 氷の棺と言うのが、最も近い表現になるだろう。

 しかしそれは氷では無く、ナノマテリアルの凝固体だ。

 薄い赤色はクリスタルのような光沢があり、触れると滑らかな感触を得ることが出来る。

 そして透明な棺の中には。

 

 

「母さん……!」

 

 

 紀沙の母、沙保里がいた。

 胸の前で手を組み、目を閉じている姿は、眠ってだけに見えた。

 しかしその身を覆う赤色は嫌が応にも血を連想させて、紀沙の胸中はざわめいた。

 

 

 ――――何故!?

 

 

 北管区の実家にいるはずの母親が、何故こんなことになっているのか。

 元々、母は北が保護していた。自分と同じように。

 本人の希望とリスクの分散のために函館に留められて、それ以来まともに会えたことは無かった。

 日本を出てからは連絡の取りようも無かったから、変わらない生活をしていると思っていた。

 

 

「お前、が」

 

 

 棺の側に、タカオが立った。

 母を挟んで自分を見下ろす相手に対して、紀沙は下から()め上げる形になった。

 すると、タカオは哀しげに、辛そうに眉を寄せた。

 その表情は、紀沙の胸をさらにざわめかせた。

 

 

 何だ、その顔は。

 まるで、沙保里がこうなったことを哀しく思っているみたいじゃないか。

 まるで、沙保里がこうなったことを辛く思っているみたいじゃないか。

 紀沙の中で、何かが大きく膨らんでいく。

 お前に。

 

 

「お前に、そんな顔をする資か」

「待て、紀沙」

「――――兄さん!?」

 

 

 ぐっ、と肩を掴まれた。

 そうで無ければ飛びかかっていただろう。

 目を剥いて振り返れば、さしもの兄も厳しい顔をしていた。

 逆に言えば、ようやく表情を厳しくしているだけだった。

 

 

「何で止めるの!? こいつが、こいつが母さんを!!」

「母さんは、まだ生きている」

 

 

 一瞬、紀沙は自失した。

 母が生きている?

 

 

「そうだろう、タカオ。そうでなければ、わざわざこんな形で母さんを運ぶ必要は無かったはずだ」

 

 

 藁にも縋る想いで。

 まさにそんな様子で、紀沙はタカオを見た。

 タカオは哀しげで辛そうな表情を浮かべていて、しかし群像の言葉に意を決したのか、唇を開いた。

 

 

「…………時間」

「時間?」

()()()()()()()()()()

 

 

 言葉の意味が、良くわからなかった。

 そう言う兄妹の意思が伝わったのだろう、タカオは続け様に言った。

 あの時、狙撃され、動けなくなった沙保里がタカオに託し、願ったこと。

 

 

「5分24秒! 私は、アンタ達にそれを届けに来た!!」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 沙保里は、残された最期の時間を家族のために使うことを願った。

 そしてタカオは、沙保里の命の残り時間を正確に算出していた。

 

 

「そんな」

 

 

 紀沙は、もう立てなかった。

 沙保里が最期に会う相手に自分達を選んでくれたことは、素直に嬉しい。

 しかし同時に、目の前で母が完全に失われることに恐怖した。

 そんなこと、紀沙には耐えられない。

 

 

 もう一度、家族みんなで。

 それが紀沙の生きる理由にもなっているだけに、そこから母が欠けると言う事実はショックだった。

 足元が根底から崩れ落ちていく、そんな感覚に襲われた。

 会いたい、でも会えば最期だ、だから会いたくない。

 矛盾した感情が、紀沙の胸中には生まれていた。

 

 

「母さんは」

 

 

 そんな状態の紀沙に代わって、群像は言った。

 彼もまた、母との別れを悲しんでいるのだろうか。

 

 

「母さんは、オレ達に何か伝えるべきことがあるんだな?」

「……?」

 

 

 ただ、その物言いには疑問の目を向けた。

 ()()()()()と言う言葉に、妙な違和感を感じたのだ。

 

 

「ずっと考えていたんだ」

 

 

 疑問、そう、それは疑問だ。

 群像がずっと以前から抱いていた疑問、わだかまり。

 その疑問を無視して無邪気に霧の艦長をやっていられる程、群像は楽観的な性格をしていない。

 

 

()()()()()()()()()()

 

 

 イオナも、そしてスミノも、その理由を明確に告げたことは無い。

 彼女達はどこから来た?

 最初は翔像だった、そして群像であり紀沙だった。

 数十億人もいる人間の中で何故彼らを、いや、1つの家族を選んだのか?

 

 

 群像は口にこそ出さなかったが、それをずっと考えていたのだ。

 何か理由があるはずだと。

 しかし聡明な群像をしても、その理由を思いつくことは出来なかった。

 

 

「オレ達には、オレ達の知らない霧との関わりがある。おそらくは。だがそれがどう言うものなのか、オレにはわからなかった」

 

 

 群像は直感する。

 沙保里はきっと、その()()を知っていたのだ。

 だからこそ、タカオを霧と知りつつ自身の最期を託したのでは無いのか。

 群像達を呼ぶのでは無く自ら会いに行く――文字通り、命を賭してだ――と言う部分が、群像にそう洞察させた。

 

 

「母さんの最期に立ち会えるのは()()()()()。そこに例外は無い。そうだなタカオ?」

「……そう、そうね。その通り。でも」

「ねぇ」

 

 

 ただ、群像は気付くべきだった。

 

 

「――――なに言ってんの?」

 

 

 妹が、澱んだ瞳で自分を見上げていたことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――大西洋上、某海域。

 霧の超戦艦『ムサシ』は、スコットランドの沖合に錨を下ろしていた。

 辺りにはぼんやりとした霧がかかっており、近くは見えるが遠くは見えないと言う状態だった。

 

 

「千早艦長」

 

 

 ムサシには、実はそれなりの人数の人間が乗り込んでいる。

 これは別に隠していることでは無く、人類でも霧でも、国家や軍の上層部にいる者にとってはほとんど常識のようなものだった。

 またその多くが日本人であり、かつて『イ401』に乗り込んでいたクルーであることも。

 

 

 そしてその中の1人が、『ムサシ』の甲板を歩いていた。

 霧は甲板の上にも這うようにたゆたっており、彼は足を滑らせないよう気をつけながら歩いていた。

 手には書類のファイルを持っており、連絡員か何かなのだろう。

 もう片方の手を口元に当て、しきりに声を上げている。

 

 

「千早艦ちょ……うわっ!?」

 

 

 そして、不意に――それこそ、霧のように――彼の目の前に、ゆらりと少女が現れた。

 頭から足先まで真っ白なコーディネートに染まった、メンタルモデルの少女。

 ムサシだった。

 その小柄な身体つきは、男と比べると親子程も身長差があった。

 

 

「お父様――千早艦長は、この先にいらっしゃるわ」

 

 

 形の良い、美しいとすら言える唇が言葉を紡ぐと、男は生唾を飲み込んだ。

 何度見ても、何年過ごしても、この存在には慣れないらしい。

 

 

「何の用かは()()()()()けれど、後にしてくれないかしら」

「あ……や! 自分も中尉殿から緊急の報告と聞いておりまして!」

「ええ、知っているわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 もう一度、生唾を飲み込む音が響いた。

 しかしそれは先程よりもより大きく、深刻な気配を感じさせた。

 男の足元を霧が這っているが、はたしてあれは、本当にただの霧なのだろうか?

 あえて言うが、別にムサシは相手を脅しつけているわけでは無い。

 

 

 ただ、不思議な威圧感がそこにはあった。

 可憐な容姿からは想像も出来ない程に重厚なそれは、周囲の冷たい空気とも相まって、男の意思を挫くには十分だった。

 敬礼ひとつだけを残し、逃げるようにその場から去っていく。

 

 

「――――お父様」

 

 

 つい、と、すぐに興味を失って、ムサシは後ろを振り向いた。

 霧の向こう側、『ムサシ』の広大な甲板の先を見つめる。

 もちろんわざわざメンタルモデルで見なくとも良いのだが、彼女はあえてそうしている。

 それは、彼女の「お父様(翔像)」がそれを好むからだった。

 

 

「可哀想なお父様」

 

 

 そしてその父は今、傷心の中にいる。

 誰にも何も言わないが、ムサシにはそれがわかっていた。

 

 

「お慰めして差し上げたいけれど……」

 

 

 それが出来ないことは、ムサシにもわかっている。

 無限とも思える演算力を持つ彼女でも、いやだからこそ、出来ないとわかる。

 得られる感情は、「切なさ」。

 ムサシはもう、それを良く知っていた。

 

 

「それが出来るのは、きっとお父様の本当の子供達だけなのでしょうね」

 

 

 ちくりと、小さな針を刺されたような痛みを胸に感じた。

 手で触れてみても、もちろん怪我などしていない。

 しかし、この痛みは本物だった。

 大切な人を癒せる者が自分では無いと、そう思った時に感じるものだった。

 

 

「……じゃあ、私は何なの?」

 

 

 冷たい霧が、ヨーロッパの海に立ち込めていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙には、群像が理解できなかった。

 この期に及んで、まだ霧との関係を気にする兄を。

 紀沙にとって、霧との関係など問題では無かった。

 

 

「母さんが、死んじゃうんだよ?」

 

 

 紀沙にとっては、それが全てだった。

 自分と群像にとって、子供にとって、今はそれが全てのはずだった。

 かつての父の時のように、互いに痛みを共有するべき時のはずだった。

 いや、それこそ父の時にはそれが出来ていたはずなのだ。

 

 

 群像には言わなかったけれど、父がいなくなった時、紀沙は兄と痛みを共有できることが出来て嬉しかった。

 繋いだ手が、嬉しかった。

 兄と気持ちを同じく出来てると感じて、幸福すら感じられた。

 それが、今はどうだ?

 

 

「次に起きたら、母さんが死んじゃうんだよ?」

「紀沙」

 

 

 それが、今はこんなにも遠い。

 

 

「母さんの犠牲を無駄にしないのが、オレ達の役目だろう」

 

 

 正しい。

 群像はいつだって正しい、正し過ぎる程に。

 なるほど、沙保里はもう助からないのかもしれない。

 本人も、覚悟をしているのかもしれない。

 

 

 ならば沙保里の意思を受け止め、その犠牲を無駄にしないようにするのは本当に正しい。

 反論のしようも無い、完璧だ。

 異論を差し挟む余地は、紀沙にも何も見つけられなかった。

 でも。

 ()()()()()()

 

 

「兄さんは、哀しくないの? 辛くないの、悔しくないの?」

「そう言うわけじゃない」

 

 

 (かぶり)を振って、群像は言った。

 

 

「ただ、泣いていても何も戻っては来ない。それだけだ」

 

 

 それはかつて、父がいなくなった時に群像が言った言葉だ。

 あの時も、群像は紀沙に「泣くな」と言った。

 けれどあの時は、気持ちが繋がっていた。

 

 

 紀沙は、そっと手を伸ばした。

 群像の手に触れたかった、幼い頃のように、まだ繋がりがあると信じたかった。

 それはまるで、神に縋る信者のようで。

 ただし、群像がその手を取ることは無かった。

 

 

「…………」

 

 

 それが、紀沙にどれほどの絶望感を与えるかに考えが及ぶことは無かった。

 正しいから。

 正し過ぎるから。

 群像は、足元で蹲る妹に気付くことが出来ない。

 

 

(兄さんは、変わっちゃったんだね)

 

 

 この時初めて、紀沙は群像が彼女の知る兄とは違うと言うことを認めた。

 2年間の出奔の中で、兄は変わってしまったのだ。

 それでも気持ちは繋がっていると信じていただけに、その事実は重かった。

 何故、群像は変わってしまったのだろう。

 

 

「……!」

 

 

 イ401、あの霧の艦艇以外に原因は存在しない。

 あの少女が、群像を変えた。

 澱んだ瞳に、ゆらりと不穏な色が見え隠れした。

 そして紀沙が、戦慄かせるように唇を動かした時。

 

 

 

「コラ――――ッ! 妹にそんな言い方しちゃダメでしょ――――ッ!」

 

 

 

 声が、聞こえた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像が虚を突かれると言うのは、非常に珍しい。

 まして動揺するなどと言うことは、滅多にあることでは無い。

 しかし今、それが起こっていた。

 そしてその衝撃と動揺は、紀沙にも同じくあった。

 

 

 いや、兄妹だけでは無い。

 例えば海上に浮上しているイ401、その甲板に上がっているクルーの多くも同じような顔をしている。

 困惑しているのは、静くらいのものだろう。

 そしてイ404のクルーも、もしかしたら情報では知っていたかもしれない。

 

 

「お、お前は……」

 

 

 『ヤマト』は、『タカオ』の隣に艦体を進めていた。

 そしてヤマト――ピュアピンクのドレスの女の方――はタカオと千早兄妹の様子を静かに見守っていたのだが、その隣に、もう1人別の少女が立っていた。

 ヤマトはそちらに視線を向けていて、どこか咎めるような表情を浮かべていた。

 

 

「……琴乃……!?」

 

 

 かつて、1人の少女がいた。

 千早兄妹や僧とも縁の深かったその少女は、彼らの世代のトップにいた。

 成績優秀、品行方正、容姿端麗、天真爛漫。

 個人を褒めるあらゆる言葉を抱えて生まれてきたような、そんな少女だった。

 

 

 天羽琴乃。

 今はもうこの世にいない、失われた少女だ。

 その喪失は様々な人々に影響を与えたが、しかし、それも過去のことだった。

 全ては過去、そうなってしまった――はず、だったのだが。

 

 

「やぁ、群像くん。()()()()()

 

 

 その天羽琴乃が、そこにいた。

 亜麻色の長い髪に、目鼻立ちのすっきりした顔、同性なら誰もが羨むだろう豊かなスタイル。

 群像達が見間違えるはずも無い、その容姿はまさに琴乃であった。

 そして、「初めまして」と言う言葉。

 

 

「そんなはずは……」

 

 

 だとしても、紀沙にもその少女は琴乃にしか見えなかった。

 容姿だけならともかく、腰に手を当てて立つ仕草など、かつて同じ机を並べて学んだ頃と何も変わっていないように思えた。

 本人なのか? それとも違うのか? そんな考えが一瞬にして浮かんできた。

 まして、兄である群像は……。

 

 

「うぁ……っ?」

 

 

 その時だった。

 琴乃が紀沙を見て、にこりと微笑んだのだ。

 それだけなら、驚くだけだっただろう。

 しかし同時に、左目に激痛が走った。

 

 

 我慢できず、悲鳴を上げた。

 目の中で何かが暴れている、そうとしか思えない。

 この感覚は、何だ。

 わからないが、しかし。

 

 

『大丈夫よ、紀沙ちゃん。貴女は助かるわ』

 

 

 しかし、頭の中に()()()の声が響いた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――2年前。

 西暦2054年、5月1日。

 海洋技術総合学院、第4施設。

 後世から見れば、この日は世界が変わった最初の日として認識されることになるのかもしれない。

 

 

 その時点では、紀沙はもちろん群像も霧の艦長では無かった。

 そもそも杏平はまだ群像と出会っていなかったし、良治も紀沙と出会っていなかった。

 まだ紀沙が、一介の海洋技術総合学院総合技術科の生徒に過ぎなかった頃の話だ。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

 そして、火災。

 2年前の5月1日、この日、第4施設と呼ばれる建物は完全に焼失した。

 原因はわからない。

 わかっていることは、この事件で56名の生徒が命を落としたと言うことだけだ。

 

 

 そしてこの手の事件には得てして、同じ場所にいながら生死が分かれた例が存在する。

 状況も状態も同じなのに、片方が生き残り、片方が助からない。

 運命の悪戯としか思えないような、差異の無い2人の全く異なる結末。

 それが、第4施設の火災の中でも起きた。

 

 

「じ、冗談じゃないよ……何たって私がこんなことを」

 

 

 生き残った者。

 ――――千早紀沙。

 

 

「へ、へへへ……やっちまったぜ」

 

 

 生き残れなかった者。

 ――――天羽琴乃。

 

 

「だから言ったんだよ、早く逃げようって」

「でもおかげで、群像くんも僧くんも無事に外に出られたじゃない」

「それで私達が火に巻かれてちゃ話にならないでしょ。私はお前と心中なんかしたく無いんだけど」

「私は紀沙ちゃんなら良いかな~……」

 

 

 煤だらけの学生服姿で、紀沙が琴乃に肩を貸す形で少女達は歩いていた。

 どこかの通路はまだ先が見えず、鳴り続ける警報音(アラート)が反響していた。

 視界も、危険を知らせる赤い警報色が明滅している。

 見るからに逃げていると言う風で、琴乃はどこか怪我でもしているのかもしれない。

 火が回ってきているようにも見えず、あるいはこのまま進めば2人とも助かったのかもしれない。

 

 

「あんまりふざけてると…………」

 

 

 だが、進めなかった。

 最初に気付いたのは紀沙で、彼女は足を止めて正面を見た。

 瞳に、警戒の色が浮かぶ。

 何故ならば、その場に自分達以外の誰かがいるはずが無かったからだ。

 

 

 しかしそこには、確かに1人の人間がいた。

 狭い通路の真ん中に立ち、紀沙達の行く手を遮る者。

 ただ、それをどのような人物であるのかを表現するのは難しい。

 あえて言うのであれば、こう言うべきだろう。

 そこに立っていたのは……。

 

 

 ――――宇宙服、だった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

群像「母さんは犠牲になったんだ……犠牲の犠牲にな」
紀沙「やめろォ!」

的な(え)
しかし私は、紀沙の闇堕ちエンドに最後まで抵抗してみせます!

そして忘れていたわけでは無い、原作に出てきた宇宙服にはここで出番を与えて見せる……!

と言う訳でまた回想、しかし今度は1話で終わります。
女学生が描きたくなりました(真顔)
それでは、また次回。


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Depth035:「第四施設焼失事件」

 

 むかしむかし、ある所に4人の子供達がいました。

 兄妹ふたりと、男の子ひとりと女の子ひとり。

 家が近所で同い年だった子供達は、すぐに仲良くなりました。

 

 

 4人は、いつも一緒に遊んでいました。

 どこへ行くのも一緒で、いつも楽しそうに笑っていました。

 共に遊び、共に食べ、共に眠る、そんな日々を過ごしていました。

 

 

『ねぇねぇ、……ちゃん』

 

 

 そしてある日、女の子が妹に言いました。

 無邪気に首を傾げる妹に、女の子は「ないしょだよ」と言って内緒話をしました。

 

 

『わたしね、あなたのお兄ちゃんのお嫁さんになるの』

 

 

 この時から。

 妹にとって、女の子は――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――2年前の話だ。

 この時の千早群像にとって、世界は灰色だった。

 昨日と同じ明日、明日と同じ今日。

 繰り返し同じ時間を刻んでいるような毎日は、人知れず彼の心を磨り減らしていた。

 群像は、閉塞した日々を打破してくれる()()()()を待っていた……。

 

 

「兄さん!」

 

 

 横須賀・海洋技術総合学院の通学路に、甲高い声が響いた。

 それは毎朝繰り返されている光景であり、寮から校舎へと向かう生徒達も、誰も気にしていなかった。

 問題があるとすれば、呼ばれている当人――群像も、全く気にしていないと言うことだった。

 

 

「もう、兄さんってば!」

「おい、群像」

「ん? ああ……」

 

 

 一緒に登校していた僧に促されて、初めて群像は後ろを振り向いた。

 走って来たのだろう、そこには1人の少女がいた。

 群像のそれに似た跳ねの強い黒髪に、ブラウスとスカートの制服。

 少女は肩で息をしていて、しかも髪が少し乱れているのを見るに、かなり慌てていたのだろう。

 彼女は群像を見ると、きっと表情を引き締めた。

 

 

「おはよう、紀沙」

「おはよう、じゃない! 何でいつも待っててくれないの!?」

「いや、これもいつも言っているだろう。どうせ教室で会うんだから、わざわざ通学路で待ち合わせなくても良いだろう」

「やれやれ……」

 

 

 いつも通りのやり取りを始めた群像と紀沙に、僧が肩を竦めた。

 この2人は、毎朝このやり取りをする。

 紀沙は毎朝男子寮の前で待っているのだが――群像は何故か常にそれより早く寮を出る――毎回、他の生徒に「兄貴なら先に行ったぜー」と教えられて、慌てて追いかけ始めるのである。

 

 

 頭は良いのに、何故か兄のことに関しては学習能力が無い。

 自分が1番群像のことを知っていると思っているから、読み違えるなどあり得ないと思っているのかもしれない。

 聞いてみたことは無いが、僧はそう思っていた。

 そして、いつも通りだとこの後……。

 

 

「はぁ、もう良いよ。それより兄さん、今日のお弁当を」

「やぁやぁ、ご両人! 今日も仲が良いねぇ」

 

 

 やっぱり来たな、と、僧は思った。

 この兄妹が一緒にいる時にわざわざ絡みに来る、ほとんど唯一と言って良い女性が。

 太陽のような笑顔で、ほんわかと手を挙げて近付いてくる女性。

 彼女の名は天羽琴乃、僧達の幼馴染である。

 

 

「おはよう。群像くん、紀沙ちゃん」

「ああ……おはよう、琴乃」

「げ……お、おはよう」

 

 

 この4人は、幼い頃からの腐れ縁だ。

 楽しい時も辛い時も、共に経験してきた仲だ。

 こんなマスク姿の自分とも普通に接してくれる、そんな奴らなのだ。

 だから僧は、いろいろと癖の強い幼馴染達のことを、結構好いていた。

 

 

「あ、おはよう僧くん」

「え……あ! 僧くんいたんだ……」

「ん? ああ、おはよう僧。そう言えば言ってなかったな」

 

 

 ……とりあえず、僧は思った。

 群像、少なくともお前はさっきオレと会話していただろう、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海洋技術総合学院は、日本統制軍直轄の教育機関である。

 霧の海洋封鎖により海洋関係の知識や技術が失われていくことを懸念した軍は、海洋技術の継承を目的としてこの学院を設立した。

 海洋技術の専門校と言う性格上、士官学校とは異なる。

 ただし、卒業生は士官候補生同様に尉官候補生の待遇を受ける。

 

 

 海上演習が著しく限定される現状において、本当の意味で艦船乗りを養成することは難しい。

 しかし海洋技術総合学院が日本随一の海洋技術養成機関であることには変わりなく、特に小等科から学院で学び続けた生徒に対する期待は大きく、様々な面で優遇されている。

 また卒業席次10番までの生徒は、学院の公式記録にその名前を記録されると言う特権がある。

 例えば2056年には、首席卒業生として「千早紀沙」の名が記録されている――――。

 

 

「兄さんには私がついてるから、琴乃さんは別の班に行ったら?」

「いやいや、群像くんは私の副官(ナンバー1)だから」

「琴乃さんが言ってるだけじゃない、それ? 兄さんからそんなこと聞いたこと無いけど」

「うぐ。でも家族で同じ班って、先生達が認めないんじゃない?」

「むぐぐ」

 

 

 群像は、その場にいる男子生徒達が自分を殺さんばかりの視線を向けていることを感じていた。

 色々と無頓着な群像であるが、流石に「勘弁してくれ」と思った。

 何しろ彼の目の前で、2人の少女が言い争いをしているのだから。

 

 

「群像」

「わかってる……」

 

 

 ふぅ、と溜息を吐く。

 美しい幼馴染(琴乃)可愛い妹(紀沙)が自分を巡って争っていると言えば、周囲の男は羨望と嫉妬の感情を抱くのかもしれない。

 しかし群像にしてみれば、これは幼い頃から繰り返されてきたことだ。

 

 

 いい加減、飽きる。

 と言うか、鬱陶しい。

 琴乃と紀沙は何かにつけてこれで、間にいる群像としては何ら喜ばしいことでは無い。

 ちなみに今は、研修で行われる成績上位者による艦戦シミュレータにおいて、どっちが群像のクルーになるか、又はするかで揉めているのである。

 

 

「と言うか琴乃さんって艦長志望でしょ? 兄さんとカブってるじゃん」

「群像くんは操艦技術はともかく、人付き合いが苦手だから。私の手元に置いておかないと心配なの」

「だから私がいるって言ってるじゃない」

「いや、紀沙ちゃんもそろそろお兄ちゃん離れしても良いんじゃないかなー?」

 

 

 そして、これは群像が止めない限り止まらない。

 これもいつものことだ。

 

 

「……はぁ」

 

 

 そして、もう一度溜息を吐く。

 しかし、彼自身は気付いていない。

 どんな形であれ群像が感情を表すのは、僧を除いてしまえば、彼女達の前だけだと言うことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 折衷案、あるいは妥協案と言うものがあるが、えてしてそう言うものは不満を残す。

 何しろ誰にとっても半端な結果に終わるのであり、理屈では理解できても心は納得できないものだ。

 そう言うことを、紀沙はぼんやりと副長席で考えていた。

 ()()()()()()()

 

 

(なんで私がこんな奴のために……)

「何か言った? 紀沙ちゃん」

「いいえ何も? シミュレータテスト開始30秒前だけど、帰り支度を始める?」

「今日の紀沙ちゃん、いつもよりキツいね……」

「普段通りです」

「だとしたら、もっとショックだよ」

 

 

 潜水艦戦を想定した総合シミュレータシステムは、現在の海洋学院では必須項目となっている。

 霧の艦艇を凌駕する水上艦の建造が難しいためで、艦種・海域等あらゆるデータを再現することが出来る。

 紀沙達が座っている座席も、実際の潜水艦を模して作られていた。

 

 

 そしてこのシミュレータには、琴乃と紀沙がいた。

 琴乃が艦長で紀沙が副長である、他のクルーも学年成績上位者――もっとも、上2人の険悪なムードに押されて口を噤んでいる――で構成されていて、まとまった力を有していた。

 群像は、「じゃあ、お前達で組め」と言って、自分は僧と組んでしまったのだ。

 

 

「シミュレータ起動。全艦隔壁閉鎖、気密オーケー。各部ソナー及び火器管制オールグリーン。機関良好」

 

 

 実を言えばかなり不満だ、が、それでもシミュレータが始まれば紀沙も仕事はする。

 かなり不満だが。

 繰り返すが、かなり不満だが。

 

 

「艦長、どうしますか?」

「うーん、相手は群像くんだからね。何か妙なことをしてくるかもしれないわ」

 

 

 どうしようかな、と、琴乃は考える。

 相手は、群像と僧だ。

 まだ互いの位置は割れていない。

 潜水艦戦においては、先に位置を知られた方が圧倒的に不利だ。

 速力10ノット、琴乃艦はゆっくりと進んでいる。

 

 

「魚雷発射管開放、4門とも通常弾頭魚雷装填。20秒後に自爆するようセットして」

「……兄さんの位置はまだ不明だけど?」

「妙なことをしそうな相手には、先に妙なことをしないと勝てないでしょ?」

 

 

 ウインクひとつ飛ばしてくる琴乃にげんなりとした視線を返しつつ、紀沙は手元のコンソールを見た。

 そこにはまだ自艦以外何も映っていない海域マップが映っていて、どこかに兄達がいるはずだった。

 

 

「取舵を取りつつ、4発を扇状に発射。ソナー注意してね」

 

 

 そして、15秒後。

 琴乃艦から、4発の魚雷が発射された。

 標的のいない、バラ撒いただけの魚雷だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像艦のソナー手、真瑠璃は不可解を得た。

 魚雷発射音、そして航走音を検知した彼女だったが、相手の意図が読めなかったからだ。

 ちなみにこの真瑠璃、いつもは群像にくっついている紀沙がいないことに安堵を覚えていたりする。

 

 

「艦長、魚雷航走音4」

「方向は?」

「一応こちらに向かってはいるようですが、狙いはバラバラです」

「……不味いな」

「え?」

「潜行……いや、間に合わない」

 

 

 発射から20秒後、4発の魚雷が順繰りに爆発した。

 シミュレータは振動まで再現するため、足元にビリビリとした振動を感じることが出来る。

 至近弾と言う程近くは無いが、シミュレータで再現できる空間に限界がある以上、言う程に遠いわけでも無い。

 そして、爆発の振動を艦体が感じていると言うことは……。

 

 

「……敵艦発見」

「ビンゴ♪ 群像くんは追いかけっこは得意だけど、かくれんぼは昔から苦手だったもんね」

 

 

 魚雷の爆発音で敵艦を発見する、何とも派手な方法だ。

 戦闘海域が限定されていて、他に艦や生き物がいないシミュレータだからこそ可能な、一種の裏技だ。

 とは言え敵もさるもの、群像艦はすぐに姿を晦ませてしまった。

 音響魚雷だろう、加えて先に撃った魚雷による海中攪拌によってソナー感度が下がっている。

 

 

 ここで、琴乃艦はさらに魚雷を1発撃った。

 一瞬だけ捉えた群像艦の位置に撃つと、すぐに大きな機関音が返って来た。

 急速に移動して魚雷を回避したのだ、姿を晦ませながら群像艦はそのままの位置にいたのだ。

 かくれんぼは苦手、だ。

 

 

「敵艦再探知、感4」

「アクティブデコイか、群像くん本当にあれ好きだね」

「まぁ、便利だしね」

「使い方によるかな……」

 

 

 指を振って、琴乃は少し考え込んだ。

 しかし決断は早かった。

 

 

「4隻に向けて魚雷発射、1発で良いよ」

「1発だけ撃っても、当たらないと思うけど」

「当たらなくて良いよ、音響魚雷だから」

「音響魚雷?」

 

 

 音響魚雷を至近で撃たれれば、通常の艦は動きを鈍らせる。

 つまり3隻のアクティブデコイは、音の網をそのまま直進して出てくることになる。

 出てこなかった奴が偽者、そう言う作戦だった。

 最初の魚雷もそうだが、当てるために魚雷を使わないと言うのは新鮮だった。

 

 

 あの兄を掌の上で転がすかのような操艦と戦術だ。

 この時、紀沙は思い出した。

 天羽琴乃が兄・群像を抑えて総合1位の座を独占し続けていること。

 そして、あの優秀な兄が一度も勝ったことが無い相手だと言うことを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 シミュレータ演習の後は、第4施設の内部を見学した。

 元々第4施設は研修用の施設のため、施設自体が横須賀基地の模型のようなものだった。

 もちろん電気が通っている以上、全ての施設を実際に動かすことも出来る。

 無いものと言えば、艦船用のドックくらいのものだ。

 

 

「えー、この管制棟は基地全体のコントロールを担っていて――――」

 

 

 紀沙が群像達と共に所属している総合戦術課は、別名艦長コースと呼ばれている。

 艦のリーダーや参謀を養成するのが目的のクラスで、その分成績的なハードルは高い。

 そこに所属しているだけで、他の生徒から憧憬の眼差しを向けられる程だ。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 ぞろぞろと歩く列の最後尾を歩きながら、紀沙は溜息を吐いた。

 先程のシミュレータのことを思い出しているのだが、その姿はまるで敗者のそれだった。

 いや、実際に敗者だったのかもしれない。

 群像にしろ琴乃にしろ、自身が思いもよらない戦術を思いついてくる。

 

 

 自分はどうだろうかと、紀沙は思った。

 あのシミュレーション、自分ならまず間違いなく格闘戦に走っていただろう。

 互いの心理を読んでの牽制は、紀沙は苦手だった。

 もしかすると、考えることに向いていないのかもしれない。

 

 

「ん……?」

 

 

 そんなことを考えながら、歩いていた時だ。

 見学のために片側の壁がガラス張りになっている通路で、紀沙はふと足を止めた。

 眼下――横須賀と同じように、第4施設も地下設備の方がメインだ――には管制室を模した施設が広がっていて、そこから実際に第4施設を管制している軍人達の姿が見えた。

 

 

 しかし、その中に明らかに不釣り合いな者がいた。

 

 

 宇宙服、だ。

 紀沙が初めて見るそれを宇宙服だと判断できたのは、服飾部が金属では無く、また歴史の教科書に載っているものと全く同じものだったからだ。

 何十年も前に失われた、遥か宇宙で活動するための特殊なスーツ。

 そんなものを着た者が、管制ルームにひとりいた。

 

 

「紀沙ちゃん、どうしたの? 置いてかれちゃうよ」

「いや、何か……あそこ」

「え?」

 

 

 そして声をかけて来た琴乃に、その存在を指差して見せる。

 と言うか、他の者には見えていないのだろうか? 管制ルームの軍人達が気にしている様子は無い。

 嗚呼、だが、無自覚ほど恐ろしいものは無い。

 この時、紀沙が琴乃の視線を()()()に誘導してしまったことで。

 

 

「……え?」

 

 

 ――――始まってしまったのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 いったい、何が起きたと言うのか。

 息を整えながら、紀沙は副管制室(サブコントロール)の1室でへたり込んでいた。

 

 

「ダメだ、どこも通じない。火の回りも早いな」

 

 

 ぼんやりと見つめるのは、コンソールを叩いている群像の背中だった。

 そうしながら、紀沙は先程の出来事を反芻していた。

 あの時、管制ルームの中に奇妙な存在を見つけて、そして。

 

 

 いきなり、火の手が上がった。

 

 

 意味がわからなかった。

 第4施設は防火製の壁や隔壁を持っている上に、消火用のシステムだってあるのだ。

 にも関わらず火災は発生し、あり得ない勢いで施設全体に広がった。

 こんなことはあり得ない、が、そのあり得ないことが起こっている。

 

 

「琴乃、紀沙。オレは下の階層にいる僧と合流してくる」

「え……」

「大丈夫なの?」

 

 

 気が付くと、群像は酸素ボンベや救急道具を背負っていた。

 紀沙は彼に手を引かれてここまで避難して来た――他には、琴乃がいるだけだ――ので、兄だけが離れると言うことに慌ててしまったのだ。

 身を起こすと、群像は言った。

 

 

「大丈夫だ、手動で隔壁を閉めないと火が止まらない。琴乃、お前はここからオレに指示をくれ」

 

 

 指示をくれ。

 あの兄の口からまさかそんな言葉が飛び出すとは、紀沙は夢にも思わなかった。

 それは琴乃も同じようで、驚いた顔をしている。

 そんな琴乃に、群像は言った。

 

 

「昔から、お前のことは信じている」

 

 

 その時琴乃がどんな顔をしたのか、群像は見ていなかっただろう。

 だが、紀沙は見た。

 琴乃の顔に、明らかに高揚の色が覗いた瞬間を。

 紀沙は、はっきりと見た。

 

 

 そして紀沙の心に芽生えたのは、憧憬と嫉妬だ。

 紀沙は群像にそう言う類のことを言われたことは無いし、そう言う気配を群像が見せたことも無かった。

 羨ましいと、心の底からそう思った。

 

 

「……任せてよ。群像くん、気をつけて行ってらっしゃい」

「ああ」

 

 

 そして、群像は紀沙のことを見向きもせずに副管制室を出て行く――――。

 

 

「紀沙、琴乃を頼むぞ」

 

 

 ――――ぽんっ、と、紀沙の頭を軽く叩いて。

 群像が出て行った後、紀沙は撫でられた場所を自分で撫でた。

 先程までの憧憬と嫉妬は、すでに消えていた。

 その時の紀沙の顔を、やはり群像は見ていないだろう。

 ただ、琴乃だけがそれを知るばかりだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 施設内における火災は、時間との勝負だ。

 琴乃は辛うじて生きている――どうして、この副管制室だけが生きているのかはわからない――コンソールを叩き、インカム越しに群像に情報を伝えていた。

 管制室だけあって、全体の情報を把握できるのは強い。

 

 

「…………」

 

 

 そして、紀沙の役目は琴乃を守ることだ。

 正直琴乃のことは好きでは無いが、見捨てる程嫌いと言うわけではない。

 幼馴染、なのだ、これでも。

 嫌いなわけは、無いのだ。

 

 

 それから、紀沙は知っているのだ。

 不本意ながら、琴乃が群像に向けている感情が本物であることを。

 そしてその感情のためならば、琴乃はおそらく他のことを省みない。

 良くわかる。

 だって、紀沙がそうだったからだ。

 

 

「で、どう?」

「大丈夫、群像くんも僧くんも無事に外に出たわ。隔壁もいくらかは閉められたみたいね、火の回りが鈍くなったわ」

 

 

 そして、今がそうだったからだ。

 考えても見てほしい。

 火の手の元の1つは管制ルームだ、そしてこの副管制室は管制ルームに程近い場所にある。

 走って避難できる程の距離しか無いのだ。

 

 

 そして時計を見れば、群像が出て行ってすでに2時間が経っている。

 鼻をつくその()()も、段々と濃くなってきているような気がした。

 それが気になり始めていたから、紀沙は言った。

 

 

「そろそろ、私達も行こう」

「待って。せめて群像くん達が施設から離れるまで」

「いや、外に出てるんでしょ? 後は兄さんなら何とかするよ、僧くんもいるわけだし」

 

 

 がちゃがちゃと救急用具の中から、群像が使っていたのと同じ酸素ボンベとマスクを取り出しながら、紀沙はそう言った。

 実際、群像ならばこちらの助けが無くても何とでもするだろう。

 例外は自分自身以外の要因、つまり誰かに巻き込まれることぐらいだ。

 特に気負い無くそう言った紀沙に、琴乃は振り向いて。

 

 

「紀沙ちゃんは、群像くんのことを信じてるんだね」

「いや、まぁ」

 

 

 それこそ、「ずっと信頼している」だ。

 紀沙は群像のことを疑ったことが無い、疑うだけ無駄だとすら思っている。

 

 

「……凄いなぁ」

「……?」

 

 

 何か言ったか、と思ったその時だ。

 足元が、揺れた。

 ずん、と腹の奥に響くその振動は、紀沙の胸中に嫌な予感を感じさせるには十分だった。

 しかもそれは、どう言うわけか近付いてくる。

 いや、これは――――今、来る!

 

 

「琴乃、マスクを――――!」

 

 

 酸素ボンベを担いで、紀沙は跳んだ。

 そして次の瞬間、白煙が爆風と共に副管制室の中に充満した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大きく、鈍い音を立てて、金属製の扉がゆっくりと開く。

 梃子(てこ)にしていたのだろう、開いた扉から棒切れが投げ捨てられた。

 ガラン、と、煤けた空気の中に乾いた音が響く。

 

 

「けほっ……」

 

 

 そして開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、紀沙だった。

 髪と頬、制服に灰色の煤をこびり付かせていて、お世辞にも可愛らしいとは言えない。

 その肩には、同じく煤で汚れている琴乃を抱えていた。

 琴乃の腕を自分の肩に回して、引き摺るようにして引っ張っている。

 

 

「げほっ……」

 

 

 咳き込みは、紀沙のそれより深刻なように思える。

 それもそのはずで、琴乃は酸素ボンベのマスクを自分では無く、紀沙の顔に押し当てたのだ。

 咄嗟のことで1人分しか運べなかったとは言え、自分で使わないと言う判断を躊躇無くして見せた。

 ずるい、と紀沙は思う。

 こういうところが、群像にそっくりなのだ。

 

 

 まったくもって、ずるい。

 不機嫌とも言える感情の中、紀沙はそんなことを思った。

 思いながら、琴乃を引き摺っていく。

 琴乃を頼むと言う、群像の言葉だけを胸に抱いて。

 

 

「冗談じゃないよ……何たって私がこんなことを」

「へ、へへへ……やっちまったぜ」

 

 

 無駄口を叩けるなら、大丈夫そうだ。

 

 

「だから言ったんだよ、早く逃げようって」

「でもおかげで、群像くんも僧くんも無事に外に出られたじゃない」

「それで私達が火に巻かれてちゃ話にならないでしょ。私はお前と心中なんかしたく無いんだけど」

「私は紀沙ちゃんなら良いかな~……」

 

 

 警報色の点滅する中、取りとめも無いことを話しながら通路を進む。

 行動は無駄なく、そして会話には無駄を、これは意外と重要なことだった。

 

 

「とにかく、兄さんのところまで行けば何とかなるから。それまでは頑張ってよね」

「……紀沙ちゃんは、凄いなぁ」

「はぁ?」

 

 

 うふふと笑って、琴乃は言った。

 

 

「群像くんのこと、信じてるんだね」

「何それ。琴乃さんだって兄さんと信頼し合ってるんでしょ」

 

 

 言葉に棘があるのは、仕方ない面もあっただろう。

 しかしそれでも、琴乃は自嘲気味に笑うことをやめなかった。

 

 

「私は、逆。いまいち信頼できないから、心配ばかりしてるの」

「…………」

「だから、紀沙ちゃんが羨ましいんだ。私」

 

 

 やっぱりずるい、と、紀沙は思った。

 こっちが意地を張って簡単に言えないことを、どうしてそんなにあっさりと言ってしまうのか。

 本当に、ずるいと思う。

 そうして、緩慢ながらも出口を目指して歩いている時だ。

 

 

 紀沙は、不意に足を止めた。

 それは琴乃の横顔から顔を背けようとした結果でもあり、だから彼女はそれを見た。

 狭い通路の真ん中に陣取るようにして、忽然と姿を現したもの。

 ――――宇宙服。

 

 

「ああぁ……!」

「琴乃さ……琴乃、どうしたの!?」

 

 

 琴乃が、ずるりと崩れ落ちた。

 宇宙服への警戒を解かぬままに、紀沙は膝をついて琴乃を支えた。

 頭を抑えて蹲る琴乃の顔色は青白く、先程までの余裕は一切無い。

 気のせいでなければ、暗闇の中、瞳が白く明滅しているような。

 

 

「来ないで……!」

 

 

 その言葉に、紀沙は顔を上げた。

 宇宙服。

 管制ルームにいたあの宇宙服の誰かが、両手を広げてこちらへと近付いて来ていた。

 一歩近付く度に、琴乃の悲鳴が強くなっていくような気がした。

 理由はわからない、だが。

 

 

「近寄るな……!」

 

 

 琴乃は幼馴染で。

 そして、兄は自分に彼女を守ってくれと言った。

 だったら、紀沙のやることは1つだった。

 

 

「琴乃に、近寄るなぁ――――ッッ!!」

 

 

 身を低くして、突貫する。

 そうして飛びかかり、宇宙服の誰かを押さえ込みにかかって、そして。

 ――――記憶は、ここで途切れている――――

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 痛み。

 痛みだ、痛みがやって来た。

 ()()()()

 

 

「痛い、痛い、痛い」

 

 

 表向き、イ404のクルー達と共に自身の甲板にいながら、しかしスミノは別の場所に存在していた。

 現実の世界と一枚壁を隔てた世界、霧のコアネットワークそのものとも呼ぶべき世界。

 霧の世界。

 その世界で、スミノは痛みを訴えていた。

 

 

 手は顔の左側を押さえている。

 指の間から覗くそこには、黒い穴のような眼窩がある。

 こちらの世界のスミノには、左目が無いのだ。

 そして今、喪った左目が痛むのだ。

 

 

「あは、あはは、あははははははっ」

 

 

 この痛みを、()()も感じている。

 同じ痛みを共有している、そして()()()()()()

 良く見てみれば、暗い眼窩の奥で何かが光っていた。

 白い粒子のようにも見えるそれは、奥へ奥へと広がっていっている。

 まるで、抉り、掘り進むかのように。

 

 

「待ち切れないよ、艦長殿」

 

 

 やがて訪れる、いつか。

 

 

キミ(ボク)ボク(キミ)になる日が」

 

 

 それは、そう遠い日のことでは、無い。

 笑う。

 笑って、嗤って、そしてスミノは――――……。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ヤマト・ムサシと琴乃・翔像に関する設定が欲しい切実に。
と言う訳で自分で作りました(事後)
ある意味、いつも通りですね。

しかし35話にしてまだまだ序盤な空気をかもし出すあたり、アルペジオは奥が深いです。
何しろ、世界規模で話を展開させないといけないですからね……。

それでは、また次回。


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Depth036:「ヨーロッパへ」

 群像は、動けないでいた。

 ふわりとタカオの甲板上に降り立って来た少女が、余りにも思い出の中の彼女に似ていたからだ。

 いや、そのままと言っても良い。

 それでいて群像の頭脳は、「そんなことはあり得ない」と冷静に告げてもいるのだ。

 

 

「群像くん」

 

 

 だが、この声、この音程、この響き。

 こちらが引いた一線を軽々と越えて、いつの間にか傍にいるような、そんな声だ。

 とても温かで、群像はかつてこの声に心癒されていた。

 そんな記憶を、嫌が応にも思い出してしまう。

 

 

「こら!」

「……っ」

 

 

 不意に、とん、と額を小突かれた。

 不意打ち気味に行われたそれは、けして痛くは無かった。

 しかし、群像は額を押さえた。

 母親に叱られる幼児の気持ちで、琴乃――コトノを見つめた。

 

 

 そして、コトノは実際に怒った顔をしていた。

 群像を小突いたそのまま指を振り、まさに「注意」と言う風に頬を膨らませている。

 その様子を見ていると、群像は戸惑いを覚えずにはいられなかった。

 

 

「紀沙ちゃんのこと、ちゃんとしてあげなきゃダメでしょ」

(紀沙……?)

 

 

 そう言えば、紀沙の呻き声が聞こえなくなっていた。

 見れば、足元で妹が顔を上げていた。

 先程よりは随分と落ち着いている様子で、コトノのことを見上げている。

 ただ、少し様子がおかしい。

 

 

 憔悴して見えるのは、頭痛のせいだろう。

 ただそれ以上に目を引いたのは、髪の一房が銀色に輝いていたことだ。

 そう見えたと言うわけでは無く、髪の色が変わっていたのだ。

 加えて左目の翡翠色がより深みを増し、虹彩の輝きが強くなっているような気がした。

 

 

「メンタル……モデル」

「そうだよ?」

 

 

 じろり、と、その左目でコトノを見つめる。

 チリチリと、虹彩が輝いていた。

 その輝きは、群像の知る限りは……。

 

 

「私はコトノ、超戦艦『ヤマト』のメンタルモデル」

 

 

 胸に手を当てて、コトノはそう言った。

 紀沙は翡翠色の左目をぎらりと輝かせて、額に浮かんだままの汗を拭わずに。

 

 

「偽物のくせに、兄さんを……」

 

 

 ()()()()()が、左目の上をさらりと流れた。

 そしてふらつきながらも、ゆっくりと立ち上がった。

 そんな紀沙を、コトノは微笑みながら見つめている。

 

 

「……惑わさないで!」 

 

 

 左手を、コトノを見つめる左目の視線に乗せるように。

 紀沙の身体が、躍動した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 琴乃を払うべく前に突き出された左手は、しかし紀沙の意思に反して途中で止まった。

 群像が、腕を掴んで止めていた。

 紀沙は兄に対して向けるには不穏な視線を、群像へと向けた。

 憔悴と消耗の結果、余裕が無かったのかもしれない。

 

 

「兄さん、こいつは霧だよ。琴乃じゃない!」

「……お前は、天羽琴乃では無いのか?」

「兄さん!」

 

 

 繰り返すが、コトノの容姿は天羽琴乃そのものだ。

 海洋技術総合学院の制服まで、完璧に再現されている。

 仮に琴乃本人で無かったとしても、無関係とはとても思えなかった。

 

 

「アマハコトノ……この身体のモデルになった子だね」

「モデル? メンタルモデルには元になった人間がいるのか?」

「私達のこの身体は、モデル形成時にコアが無意識に選択している。貴方達だって、自分がどんな姿で生まれるのかを自分で決めることは出来ないでしょう?」

 

 

 初めて聞いた話だ。

 思えば群像はイオナの姿に疑問を持ったことが無かったから、「どうしてそのメンタルモデルにしたんだ?」などと聞いたことが無かった。

 また仮にメンタルモデルの元になった誰かがいたとして、それが天羽琴乃である確率はどれだけあると言うのか。

 

 

 しかも、『ヤマト』。

 噂には聞いたことがある、霧の総旗艦だ。

 そんな存在のメンタルモデルが、「天羽琴乃」をモデルに選んだのが偶然?

 出来すぎた何かだと、群像が考えるのも無理は無かった。

 

 

「琴乃……」

 

 

 2年前の、第四施設焼失事件の時。

 群像は琴乃と妹を残して脱出して――結果として、そうなってしまった――自分だけ助かった、少なくとも群像自身はそう思っている。

 中に戻ろうとした自分を僧が止めたとか、そんなことは意味が無かった。

 

 

 琴乃は死に。

 紀沙は変わって。

 そして、自分は逃げるように日本の外に飛び出して。

 全ては、あの時あの場所で琴乃がいなくなってしまったことが始まりだった。

 

 

「オレは」

「群像くん」

 

 

 

 ――――ちゅっ。

 

 

 

「……え?」

 

 

 紀沙は、目の前で何が行われたのか、一瞬わからなかった。

 しかし本能が先に理解したのか、ざわり、と髪が逆立ったように見えた。

 そして、理性が理解する。

 コトノが、群像に口付け(キス)をしていた。

 コトノが目を閉じて群像に口付け、兄の目は驚きに見開かれていた。

 

 

「……ッ!」

 

 

 すぐさま割り込んで、コトノを群像から押しのけた。

 群像は突然のことに呆然としていて、まだ何をされたのか理解していない様子だった。

 押しのけられたコトノはもちろん理解していて、指先で己の唇を撫でていた。

 そして、照れくさそうに笑った。

 その様子に、はっきり言えば紀沙は殺意すら覚えた。

 

 

「群像くん、紀沙ちゃん。早くヨーロッパに行った方が良いよ」

「はぁ!?」

「……ヨーロッパに、何があるんだ?」

 

 

 それには答えず、コトノの身体はふわりと浮き上がった。

 同時に『ヤマト』の艦体が沈み始めて、海面がそれだけで大きく揺れた。

 

 

「おじ様が待ってるよ」

「親父が? ……親父が何なんだ、待ってくれ琴乃! お前はいったい」

「ごめんね、群像くん。私は貴方の知っている琴乃では無いの」

 

 

 哀しげに微笑んで、コトノは言った。

 ヨーロッパへ急げ、と。

 早くしなければ、間に合わなくなると――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ヤマト』の潜行を、邪魔する者はいなかった。

 最大最強の霧の艦艇と事を構える余裕は無かったし、またそれどころでも無かったからだ。

 イ401もイ404も、艦長が『タカオ』の甲板から降りて来ない以上は動けるはずも無い。

 結局、群像と紀沙だけが全ての状況を動かすことが出来るのだった。

 

 

「ヨーロッパに何があると言うんだ、琴乃」

「……兄さん」

 

 

 そして、その2人すら言葉を交わせていない。

 いや、言葉を交わせたとしても意思が交わっていない。

 話し合いにならない。

 かつては、手を繋ぐだけで互いのすべてを分かり合えたような気さえしたと言うのに。

 

 

 いったい、何故こんなにも遠くなってしまったのか。

 何が群像を変えたのか。

 そして何が、紀沙を変えたのか。

 そもそも、変わったものとは何だ?

 理解(わか)らず、苦悩して、紀沙は兄に。

 

 

「……スミノッ!?」

 

 

 紀沙が顔を上げた時、彼女はいた。

 群像も気付いているが、反応は遅れていた。

 それはそうだろう、いきなり目の前に現れたのだから。

 驚く群像に対して、スミノは左手の掌を彼の顔の前に突き出した。

 紀沙にはあれがどう言う性質のものか何故か理解できたが、何か行動を起こす前に。

 

 

「イオナッ!?」

 

 

 イオナが、それを止めた。

 上からいきなり落ちて来たイオナは、スミノと同じように海上から跳躍したようだ。

 ただし、空中を足場にした加速は人間に出来ることでは無い。

 衝撃に甲板が僅かに歪み、たわんだことについては、タカオが少し嫌な顔をしていた。

 

 

「どう言うつもりだ」

「ふん」

 

 

 掴まれた手を引いて離し、着地と同時に後ろ回し蹴りを叩き込む。

 イオナはそれを、手を下ろしてガードした。

 2人のメンタルモデルの間で、蒼と灰の障壁が明滅を繰り返す。

 一見すると大した攻防には見えないが、しかし紀沙の()にはもう一つの世界で行われている2人の攻防がはっきりと見えていた。

 

 

「何、大した話じゃないよ。ただね……」

 

 

 互いのコアのキー・コードを奪おうと、高速かつ複雑なハッキングの応酬が繰り返されている。

 人類のシステムなど比では無い強度と数の防壁を、互いに破り合うと言う戦いだ。

 そしてそれを、1秒に満たぬ時間の内に全て行っている。

 演算速度を表すかのように、2人のメンタルモデルの額で霧の紋章が明滅していた。

 

 

 不意に、()()が気付いた。

 スミノの容姿が、少しだが変わっている。

 背が伸びたとかそう言うものでは無く、変化はほんの少しだ。

 髪の一房が、黒くなっている。

 

 

「無性に、千早群像を殺してやりたくなってね――――」

 

 

 そこで、紀沙ははっとした。

 首を振って呆然としていた意識をはっきりとさせて、そして言った。

 

 

「スミノ、やめて!」

 

 

 すると、驚く程あっさりとスミノはやめた。

 自分から身を引いて、イオナへの――群像への攻撃をやめる。

 滑るように紀沙の前へ来て、鼻先が触れ合いそうな程の距離にまで詰めて来た。

 銀と黒の一房が、絡み合ったような錯覚を覚えた。

 スミノは、笑顔で言った。

 

 

「わかったよ、艦長殿」

 

 

 その笑顔には、相変わらず一点の曇りも無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……ヨーロッパに、行く」

 

 

 しばらくの沈黙の後、群像はそう言った。

 兄は言葉をかけられずにいた紀沙は、それを黙って聞いた。

 何となく、そうなるだろうとは思っていたのだ。

 アメリカへの振動弾頭の引渡しが終わっている以上、イ401がどこへ行くかを止めることは出来ない。

 

 

 紀沙に出来ることは、2つに1つだけだ。

 ついて行くか、それとも。

 いずれにしても、群像次第のところはある。

 何よりも、紀沙はやはり群像と離れたくなかったのだ。

 

 

「琴乃……あのコトノに、言われたから?」

「それも、無いとは言えないな」

 

 

 こう言う時、率直に言う群像の性格が憎らしくもある。

 

 

「ただ、何の意味も意図も無くあんなことを言いに来るとも思えない。何か意味がある。それも、霧の謎に迫るような意味が」

「霧の謎なんて、知ったって何の意味も無いじゃない」

「いや、今後のためには必要になるかもしれない」

「……今後って?」

 

 

 聞きたく無いが、それでも聞いた。

 こう言う時、期待を捨て切れない自分が憎らしくもあった。

 

 

「『白鯨』に……真瑠璃に託したファイルの中で、オレは楓首相にある提案を行った。霧と条約を結ばないか、と言うものだ」

 

 

 別に、翔像の真似をしようと言うわけでは無い。

 元々群像が自分で考えていたことを、先を越されたと言うだけのことだ。

 それに群像は、霧の軍事力(イオナ)を背景に条約を迫る考えは無い。

 あくまでも、対話でそうしたいと思っていた。

 

 

 それは、アメリカのエリザベス大統領の考え方に近いかもしれない。

 霧を絶滅させるような手段でも無い限り、共存こそが唯一選択可能な手段だと言う判断だ。

 群像とエリザベス大統領の違いは、積極的か消極的かの違いでしか無い。

 また群像は、実際にイオナや他の霧と交流する中で得た結論でもある。

 

 

「霧がそんな約束、守るわけ無いじゃない」

「どうかな……彼女達は良く言えば純粋だ。それに彼女達はメンタルモデルを得てから変化している、話し合いの余地は十分にある」

 

 

 とは言え、大半の人間が紀沙と同じ意見であろうことは群像も理解している。

 同じ天を戴くには、人間と霧は争い過ぎた。

 だがそれは、対話しなくて良いと言う意味にはならないはずだとも思う。

 信頼は、少しずつ積み上げていくしかない。

 

 

「それに、親父の動きも気にかかる」

「父さんの?」

「あのUボート、ゾルダンも言っていた。親父は欧州大戦に介入して何かをしようとしている」

 

 

 千早翔像は、何をしようとしているのか。

 コトノの警告は、どちらかと言うとそちらの意味が強い気がする。

 加えてイオナによれば、今は欧州方面の霧はいろいろと混迷しているようだ。

 何かが、ヨーロッパで起こっている。

 

 

「それに……」

 

 

 ちら、と、群像は紀沙へと視線を向けた。

 紀沙の()()、そして急に変化した()()()()()

 対して、スミノの髪の変化。

 紀沙の身体の変化。

 

 

「……それに、母さんのメッセージを聞くには父さんも必要だ。そうだなタカオ?」

 

 

 だが、それは言葉にはしなかった。

 言葉に出来ないのが、群像と言う少年だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 頼みがある、と、群像はタカオに言った。

 

 

「……頼み?」

 

 

 眉を潜めて、タカオは問い返した。

 沙保里のことに関しては、タカオは全力を傾けるつもりだった。

 彼女が子供達と、そして夫と共に過ごす時間については、タカオは何があっても千早家を守り通す覚悟だった。

 

 

 それだけ、沙保里に対する想いと義理は強かったのである。

 ただ、それ以外のことについて何かする義理は無いとも思っていた。

 元々、タカオはイ404とイ401を撃沈すると言う目的があったのだから。

 

 

「横須賀へ、海洋技術総合学院へ行ってもらえないか」

「海洋技術……? アンタ達のいたところね、そんな所へ何を?」

「第四施設焼失事件、と言う事件について調べて欲しい」

 

 

 その情報は、ある程度はタカオも知っていた。

 千早兄妹の情報をネット上で探れば、その名前の事件の生存者であることはすぐにわかる。

 しかし、それだけだ。

 それ以上のことについては、ネット上にも無い。

 第一級秘匿情報として、独立したサーバーに保存されているのだろう。

 

 

(……?)

 

 

 一瞬、スミノの視線を感じた。

 しかしタカオが視線を向けた時には、スミノはいつもの笑顔の仮面を被っていた。

 何と言うか、余り好ましくは無かった。

 

 

「あの事件で本当は何が起こっていたのか、オレ達は知るべきだと思う。霧のお前なら、人間には見つけられない真実そのままを見つけてくれると思う」

「それはアタシが受けて、何か得があるわけ?」

「無い、な。だからこれは、オレの勝手な頼みだ」

 

 

 受ける義理も、メリットも無い頼みだ。

 だが、不思議とタカオは悪い気はしなかった。

 ふんっと胸を逸らすタカオの態度に満足したのか、群像は紀沙を見た。

 紀沙としては、霧に機密を盗むよう促す群像を注意すべきであったかもしれないが。

 

 

「紀沙、お前はどうする?」

 

 

 どうする、とはずるい聞き方だと紀沙は思った。

 紀沙が群像を放っておけるはずが無いと、わかっているくせに。

 ずるい。

 ずるい、ずるい、ずるい――――泣きたいと、本当にそう思った。

 

 

「私の、今の任務は」

 

 

 紀沙に与えられた命令は、イ401を監視すること。

 紀沙の望みは、群像を日本に連れて帰ること。

 だから、紀沙は言った。

 すぐ傍らで、スミノが嗤っていることを感じながら。

 そして無意識の内に……。

 

 

「……兄さんの傍に、いることだから」

 

 

 無意識の内に、紀沙もまた「霧とは何か」について考え始めているのだった。

 霧とは?

 スミノとは?

 そして、紀沙の身体に何が起こっているのか。

 

 

「それからタカオ、ヨーロッパの霧はどんな状況かわかるか?」

「え? ああ、そうね、まず……」

 

 

 本当は、紀沙自身が1番知りたがっていたのかもしれなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――欧州天地、複雑怪奇。

 遥か遠くアジアの大国において、現在のヨーロッパ情勢はそう表現されている。

 従来は敵味方が目まぐるしく入れ替わる欧州大戦を指していたのだが、現在ではさらに別の意味で使われるようになった。

 

 

「貴様のせいで、ヨーロッパ方面艦隊は崩壊状態だ!」

 

 

 欧州の西端、デンマーク海峡。

 グリーンランドとアイスランドのほぼ中間に位置する海域は、この2つの共和国――グリーンランドは欧州大戦勃発後、デンマーク本国より独立を宣言した――が欧州大戦の戦場から遠く離れていることもあって、比較的穏やかな状態にあった。

 

 

 しかしこの日、温暖化が進んでもなお残る氷山を背景に、2隻の――いや。

 ()()()()()が、この平和な海域で衝突していた。

 片方の艦隊が放った砲撃を、もう片方の艦隊がフィールドを形成することで防御する。

 逸れた砲撃のエネルギーが海面を波打たせ、蒸発した海水は白い水蒸気を吹き上げた。

 

 

「ぐ……! ビスマルクッ、この裏切り者めッ!!」

 

 

 片や霧の巡洋戦艦『フッド』率いる()()欧州方面大西洋艦隊。

 重巡洋艦『ノーフォーク』及び『サフォーク』を含む強力な艦隊であって、攻撃を仕掛けたのはこちらの艦隊のようだった。

 実際こちらの艦隊の方が数は多く、相手を半包囲するような陣形を取っている。

 

 

「裏切り? それは違う」

「我々は今も、()()のために動いている……」

 

 

 そして片や大戦艦『ビスマルク』と僚艦『プリンツ・オイゲン』、どちらも元大西洋艦隊所属の艦だ。

 特にビスマルクは、欧州でも屈指の演算力と格を持つ霧の大戦艦である。

 特に特徴的なのは、その智の紋章(イデアクレスト)だ。

 イデアクレストは個々の霧が持つ固体識別式であり、通常、1艦につき1つだ。

 

 

 しかしこのビスマルクの艦体には、それが2つあった。

 太陽と月、そして2人のメンタルモデル。

 ナガトと同じく、膨大な演算力を持つデルタコア保有の霧の艦艇である。

 演算力の高さ故か、フッド側の砲撃を全てフィールドで受け流してしまっていた。

 

 

「ビスマルク――――ッ!」

「そう喚くな、同胞」

「声を立てれば聞き逃すわ、時代の音を」

 

 

 ヨーロッパの情勢は、もはや人間同士の戦争だけでは語れなくなっている。

 ビスマルクとフッドを中心とする、霧の欧州艦隊の内紛。

 そして、その両者に介入するもう1つの勢力がある。

 ――――千早翔像率いる、<緋色の艦隊>である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 居並ぶ将兵の間を、威風堂々と男が歩いていた。

 

 

「これより我々は、ドーバー海峡に進出する」

 

 

 千早翔像がそう言うと、将兵が敬礼した。

 彼らはすでに日本軍を離れた身だが、その身に染み付いた習慣はそうそう忘れられるものでは無かった。

 軍籍を離れようとも、母国で死亡扱いを受けていたとしても、それは変わらない。

 彼らは今でも、翔像を自分達の艦長だと思っているのだ。

 

 

「総員、ただちに戦闘配置につけ」

「「「了解!!」」」

 

 

 そして翔像も、彼らのことを信頼のおける部下だと思っている。

 自分の考えに同調し、祖国を捨ててまで自分について来てくれている。

 ある意味で、部下と言うよりは同志と感じているのかもしれない。

 慌しく持ち場に戻っていく部下達の背中を見送りながら、翔像はそんなことを思った。

 

 

 そしてそんな翔像の背中を、自身の艦橋の上からムサシが見つめていた。

 艦橋の縁に座り足をぶらぶらと揺らしている姿は、幼めな外見と相まって少女を可愛らしく見せていた。

 しかし、だ。

 腹の奥に響くような重低音が、ムサシの持つ愛らしさを著しく損なっていた。

 その音は、『ムサシ』の巨大な主砲が動く音だった。

 

 

「こう言う時、人間の言葉では何と言うのだったかしら」

 

 

 ムサシは知っていた。

 翔像が今この時点で動くと決めた、その理由を。

 愛する妻の死?

 いいや、それだけで翔像は動かない。

 では、この行動の速さの理由は何であろうか?

 

 

「そう、そうね……確か」

 

 

 ムサシは知っていた。

 それは、()()から来る速さだと言うことに。

 そう、翔像は焦っているのだ。

 一刻も早く前に進まなければと、そう思っているのだ。

 

 

 何故?

 そんなことは言う間もで無い。

 問われるまでも無い。

 子供達だ。

 子供達が来るから、だから翔像は先へ進もうとしているのだ。

 

 

「こう言えば良かったかしら」

 

 

 鈍い音を立てて、主砲が固定された。

 そして、けたたましくブザーが鳴り響く。

 翔像は動かない――構わない、自分が守るとムサシは思った――まま、前を見据えている。

 ならばと、ムサシはその視線の先へと主砲を向けた。

 翔像の進む道を遮るものは、何であっても自分が排除して見せると。

 

 

「――――『パリは(イズ・パリス)燃えているか(バーニング)』?」

 

 

 ――――西暦2056年、秋。

 千早翔像提督率いる<緋色の艦隊>は、フランス政府に対して宣戦を布告した。

 その最初の攻撃は、超戦艦『ムサシ』による首都パリへの艦砲射撃であったと言う。

 欧州情勢は、さらなる混沌へと歩みを進めるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 太平洋上のイ号潜水艦がヨーロッパに向かうことを、ヨーロッパ各国は日本政府からの通報で知った。

 この通報はイ404の艦長が本国宛に送った報告文を元にしている。

 不用意に近付いて各国に攻撃されることを防ぐための措置だが、同時に、全ての霧の艦艇に知られてしまうリスクをも抱えることになった。

 

 

「いっそのこと、沈めてしまうと言うのも手かな。中佐」

「……その気も無いくせに、軽々にそう言うことを仰いますな、大統領」

 

 

 ロシア連邦第27親衛ロケット軍参謀アレクサンドル・トゥイニャーノフは、大統領の言葉に溜息を吐いた。

 元軍人と言う経歴を持つ大統領は、そんな彼の憮然とした様子に喉を鳴らして笑った。

 老齢の割に筋肉質な肉体が、スーツの下で窮屈そうに震えている。

 

 

 イ号潜水艦の来訪は、混沌を極める欧州情勢にさらなる一石を投じることになるだろう。

 ましてアメリカが振動弾頭を手に入れ、イギリスが霧と同盟を結んでいる状況においては。

 彼らロシアが、そしてドイツが、フランスが、イタリアが。

 イ号潜水艦の来訪を自国の有利になるよう利用すべく、表で裏で動き始めていた。

 

 

「イギリス……と言うか、千早提督だな。彼がフランスを攻撃したそうだが、その後どうだね」

「どうにもならんでしょう、元よりフランスはスペインとの戦闘で疲弊しておりますから。まぁ、それはドイツの策謀によるところが大きいようですが」

「ドイツ、いつの時代もあそこが我々にとってのアキレス腱だな」

「仕方ありますまい。我々がヨーロッパに出ようとすれば必然的にぶつかる定めなのですから。しかし今はドイツよりもアメリカであり、件のイ号潜水艦なのです。大統領」

 

 

 イ号潜水艦の存在は、前々からヨーロッパ各国の間で有名だった。

 しかし太平洋、それも東アジア近海でしか活動しないため手の出しようも無く、眺めているしか無かった。

 だが今、イ号潜水艦が向こうからやって来てくれると言う。

 ヨーロッパが俄かに活気付くのも、無理からぬことだった。

 

 

()()を退ける、そして振動弾頭を手に入れる。今、我々を含むヨーロッパ各国にとり、これ程のチャンスはまたとありません」

 

 

 光明、と言っても良い。

 ヨーロッパ諸国にとって、久方ぶりに舞い込んできた朗報だった。

 援軍? いいや、そんなものでは無い。

 

 

「大統領」

 

 

 忘れてはならない、彼らは中世から権謀術数と外交術を研鑽し続けてきた稀有な者達だ。

 

 

「――――イ号潜水艦の、()()()()()()

 

 

 そんな彼らにとり、外から来る光明は援軍では無く()()だ。

 はたして陰謀渦巻くこのヨーロッパに、戦乱の時代にある欧州に、イ号潜水艦とそのクルー達は、何をもたらすのだろうか。

 




読者投稿キャラクター:
アレクサンドル・マクシミリアーノヴィチ・トゥイニャーノフ:雨宮稜様
有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言うわけで、本作はこのままヨーロッパ編へ突入します。
「騎士団」の設定プリ――ズッ!(まだ言ってる)
ま、まぁ、何とかなるでしょう……たぶん。

それでは、また次回。


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Depth037:「ベーリング海の狼」

※欧州大戦に関するオリジナル設定があります。


 ――――西暦2051年12月初旬、「欧州」はまだ生きていた。

 <大海戦>以後の10年余、ヨーロッパ諸国は共同で危機に対処しようとした。

 霧の海洋封鎖に伴う食糧・エネルギー危機、域外との交易途絶に伴う景気・失業危機、難民や在欧外国人問題に伴う人種・宗教危機――ヨーロッパ諸国は、何とか対話によって協力の道を模索していた。

 互いに手を取り合おうとしていた分、まだ救いがあった時代だった。

 

 

 しかし西暦2051年12月9日、スペイン東部である事件が起こる。

 かねてより民族問題が燻っていたスペインの対フランス国境付近で、突発的に暴動が発生した。

 スペイン政府がこれを武力弾圧したことが、発端となった。

 隣国フランスはこの事件におけるスペインの対応を厳しく非難した。

 

 

 フランス国内に居住する同民族集団に配慮したとも言われるが、スペインは内政干渉と反発した。

 そして翌年2月7日、フランス国内の民族派テロリスト掃滅を口実に、スペイン軍が対フランス国境を突破した。

 同時にスペイン軍はイベリア半島南端のジブラルタルにも侵攻し、イギリスとも戦争状態に入った。

 この仏西の開戦以後、まるで待っていたかのように各地で戦闘が勃発する。

 

 

 バルカン半島でブルガリアとセルビアが同盟し、それぞれマケドニアとコソボに侵攻、ルーマニアとモンテネグロ、ギリシャがこれに反発して両国に宣戦布告、戦争状態に突入した。

 ロシアがウクライナに侵攻した上フィンランド国境に大軍を動員し、北欧諸国及びポーランド・バルト三国は総動員令を発動した。

 さらにボスニアやトルコで内戦又は暴動が発生するに至って、情勢は収拾不可能な状態となった。

 

 

 ――――西暦2052年2月7日、「欧州」は死んだ。

 60年前のこの日、ヨーロッパ諸国は互いの違いを乗り越え共に歩むことを高らかに宣言した。

 しかし60年後のこの日、ヨーロッパ諸国は倶に天を戴かずと決別し、未曾有の戦争へと突入した。

 <欧州大戦>、過去2度の大戦と関連付けて第三次欧州大戦と呼ばれることもある戦争である。

 

 

 以後現在に至るまで、4年以上続くヨーロッパ史上空前の大戦争。

 西暦2056年も終盤に差し掛かった今日。

 ヨーロッパでは、ただの一度の停戦も実現していない。

 そして()()()()の存在により、その混沌はさらなる激しさを増そうとしていた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「以上が、欧州大戦のヒストリーねー」

 

 

 発令所でホワイトボードを広げたジョンが、肩に担いだ古いラジカセから軽快な音楽を流しつつ、そう言った。

 中途半端な染め金髪に丸サングラスのその男は、サンディエゴからイ404に乗り込んできた男だ。

 紀沙救出に重要な役割を果たしたと言うことだが、流石にこう言う人物は初体験だ。

 

 

「はいここでクエスチョンねー、今までの話を聞いた上で。んー、チェックポインツな国はどこ?」

 

 

 イェーイ、と軽快な振り付けまでつけてそんなことを言う。

 こんな人物は、本当に初体験な紀沙だった。

 と言うか、何て言えば良いんだ。

 

 

「あー、フランスとスペインじゃね? 何か元々の発端らしいじゃん?」

「オウ、ミスター・トーマはサウザンドアイが無いネー」

「千個も目があったら怖いわ」

 

 

 適当な様子で答えた冬馬に、ジョンは「やれやれ」と肩を竦めて見せた。

 しかし実際、欧州大戦の肝は今でもフランスとスペインの戦闘だ。

 この数年で幾度と無く衝突し、互いの領土を取ったり取られたりを繰り返している。

 つい最近も、アンドラ地方を巡って大規模な会戦があったばかりだとジョンは言っていた。

 

 

 しかし、ジョンはそれでもフランスとスペインは注目点では無いと言う。

 戦争の発端は確かに仏西2国だが、もはや戦争は2国が和睦すれば終わると言う単純なものでは無いのだと言う。

 では、今注目しておくべき国はどこか?

 

 

「ドイツ」

 

 

 その時、ぽつりと呟くように言葉を発した者がいた。

 梓だった。

 

 

「ドイツだろ」

「オウ! ミス・アズサ、ナイスアンサーだよ!」

 

 

 そう言えば、と紀沙は思い出した。

 梓はドイツ人とのハーフだった、長身で筋肉質なのはその血のせいなのかもしれない。

 どことなく懐かしそうな顔をしているのは、何かを思い出しているからなのか。

 

 

「ドイツ。今までの話を聞いて、欧州大戦のヒストリーの中で名前の出てこないただ1つの主要国ネ」

「イタリアはー?」

「イタリア? オウ、イタリアは……イタリアだからネ、ウン。気にしなくて良いよ」

「……?」

 

 

 蒔絵の素朴な疑問を流したりしつつも。

 

 

「ドイツは中欧の大国ネ。今ヨーロッパで1番強いのはドイツ、目の上のたんこぶはロシアくらい。元々軍隊は強いけど、何より強いのはインテリジェンス。ミーの情報によれば、スペインのフランス侵攻の裏でドイツが動いていたシャドウがあるネー」

 

 

 歴史上、ドイツは欧州の最強国となることが何度かあったとされる。

 しかしその度に周りの国が手を組んで潰してきた国でもあり、大戦と呼ばれる戦争では概ね敗戦国となっている。

 軍隊は強いが外交と諜報に弱い、と言うのが、大まかな批評だった。

 しかし、今は違う。

 

 

「今のドイツは、強力な軍隊とヨーロッパ中に張り巡らせたインテリジェンスに外交を組み合わせてるネ。今言ったイタリア・スペインとベネルクス三国とバルト三国と連合を組んだ上、積年の敵だったポーランドまでドイツとスクラムを組んだのはミーも驚いたヨ」

 

 

 ドイツはフランスと直接戦火を交えていない。

 にも関わらず、外交的にはスペインを支援してフランスの主力が自国に来ないようにしている。

 さらにバルカン半島の戦闘にも介入しているようで、いくつかの国は秘密同盟すら結んでいるらしい。

 直接の戦闘が無いにも関わらず、今ヨーロッパはフランスとドイツの二陣営の戦いになっているのだ。

 そして優勢なのは、ドイツ陣営だ。

 

 

「普通ならドイツ主力がフランスに侵攻して終戦ネ。ただ、ドイツ主力は今忙しいのヨ」

「あ、何でだよ」

「南から、ドイツを脅かす勢力がゴーイングしてるのヨ。つい先日、セルビアのベオグラードが陥落させたグループよ」

 

 

 ジョンの説明を聞きながら、それにしてもと紀沙は思った。

 今さっき、冬馬は目が千個もあるわけないと言ったが。

 ……左目の眼帯を、指先で何度も撫でた。

 

 

「そのグループは――――<騎士団>、なんて呼ばれてるネ」

 

 

 今、紀沙は目が千個あるような気分だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 最近、身体の調子がおかしい。

 ハワイに着く以前から感じてはいたが、今は顕著にそれを感じていた。

 言うなれば、違和感が徐々に確信に至ってきたというべきだろうか。

 

 

「……ッ」

 

 

 まただ、紀沙は小さく呻いた。

 左目の眼帯に覆われて真っ暗なはずの視界に、砂嵐のような()()が見えた。

 一瞬のことだが、確かに何かが見えたのだ。

 今は一瞬だが、酷い時には右目と異なる景色が見えて戸惑うことがある。

 

 

 これは何だ、と、紀沙は思う。

 景色の時はまだ良い、ただ、時々良くわからないモノが見えることがある。

 世界がズレて見えると言うか、色が反転していると言うか。

 白の線と黒の面、そこに小さな光が走り回っているような世界が視えるのだ。

 この視界は、世界は何だ――――?

 

 

「紀沙ちゃん」

 

 

 ふと、声に顔を上げた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 顔を上げれば発令所の皆の視線を感じて、紀沙は取り繕うように笑顔を見せた。

 

 

「あ、はい。じゃあ、最初の目的地はドイツの方が良さそうですね」

「……いや、紀沙ちゃん。重要なのはそこじゃないんだ」

 

 

 良治が目の前にいて、心配そうな顔をしていた。

 紀沙は少し失敗した心地になって、やはり笑顔を浮かべた。

 それで良治はますます表情を厳しくしてしまったので、やはり失敗したと思った。

 

 

「紀沙ちゃん、最近診断を受けてくれてないよね?」

「…………」

 

 

 事実を言われて、紀沙は曖昧な笑顔を浮かべた。

 確かに、紀沙は規定で定められた健康診断をすっぽかしている。

 理由は単純で、受けたく無いからだ。

 良治としては血液検査等もしたいところだろうが、それこそやりたくない。

 

 

「……蒔絵ちゃん、部屋に行こうか」

「え、あ……う、うん」

 

 

 だから紀沙は、良治から逃げるように席を立った。

 いずれにしても、ヨーロッパに到着するのはまだ先のことだ。

 最初の目的地をどこにするかは、イ401の意見も聞いてからでも遅くないだろう。

 アメリカでは激戦続きだった、今は休息の時だと思う。

 心配そうに自分を見上げる蒔絵の手を引きながら、紀沙は発令所を後にした。

 

 

 残されたメンバーは、その背中をじっと見送った。

 溜息を吐く良治の肩に冬馬が手を置き、首を横に振る。

 明らかな艦長の変化は、皆が感じていることだった。

 

 

「紀沙ちゃん、どうしちゃったんだろう」

「さぁねぇ。ただ、表情に凄みってーのかな。そう言うのが出てるからよ」

 

 

 何か、腹を決めたことがあるんだろう。

 そう言う冬馬の目にも、それが何なのかはわからないのだった。

 イ404は、北の海へと進んでいた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 目は、眼帯で隠せば良い。

 ただこの銀色に輝く前髪については、諦めるしかないようだった。

 

 

「染めても色が変わらないって、何なんだこれ」

 

 

 銀色の一房を鏡の前でつまみながら、紀沙はぼやいた。

 今は眼帯も外していて、鏡の自分の片目は不自然な翡翠色の瞳で見つめ返してきている。

 この目にもだんだんと慣れて来た自分がいて、紀沙はとても嫌な気持ちになった。

 そして見た目と視界の異常は、それに拍車をかけてくる。

 

 

 それに、何だ、気持ちが悪かった。

 肌がざわめくと言うか、妙に落ち着かないのだ。

 何と言うか、まるで周囲に何か嫌なものが跳び回っているような。

 

 

「ねぇ」

 

 

 そんな紀沙に、眦を上げた蒔絵が声をかけた。

 洗面室の外で待っていた彼女は、手にタオルを持っている。

 蒔絵は取り繕うような笑顔を見せる紀沙に、ますます眉を上げた。

 

 

「私も、何かしたい」

「え?」

「……この(フネ)の皆の役に立ちたい」

 

 

 紀沙は、蒔絵を完全にお客様として扱っていた。

 軍艦に子供を乗せるのは良くないとはわかっていつつも、()()()()()のところに連れて行くまでは、と思っていた。

 それに軍艦で何かをさせると言うことは、戦わせると言うことだ。

 

 

 対して、蒔絵はもどかしかった。

 振動弾頭を開発できる程の頭脳から見れば、いろいろと出来ることはあるのだ。

 眠らせておくには、余りにも惜しい才能と言える。

 特に蒔絵は、機械工学に特化したデザインチャイルドなのだ。

 だいたい、()()()()()()()()()()()()

 

 

「あのトーマって奴は嫌いだし、ジョンっても胡散臭い。でもあおいやシズシズやアズサは優しいし、リョージは注射以外は嫌いじゃない……それに」

 

 

 それからあんたも、と、ぼそりと蒔絵は呟くように言った。

 最初は密航者と密航者の関係でしか無かったが、今はもう違う。

 今はもう蒔絵も含めてのイ404なのだと言うことに、紀沙は気付いていなかった。

 それなりの時間艦に乗せていれば、十分に起こり得る事態だった。

 最もその可能性に気付いていたとして、軟禁なんてするはずも無いが。

 

 

「見てるだけは、もう嫌なんだ」

 

 

 不意に、紀沙は懐かしさを覚えた。

 かつて自分も、同じように思ってこの世界に飛び込んだのだ。

 だが自分が力になりたいと思った人は、自分の力など必要としていなかった。

 それが、どれだけ厳しく、またどれだけ哀しいことなのか。

 

 

「蒔絵ちゃん……」

 

 

 紀沙は、良く知っているのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――ベーリング海。

 太平洋最北部の内海であり、かつてはサケやカニ等の豊富な漁場として多くの漁船で賑わっていた。

 波は荒く、難破・遭難の名所とも言われていたが、今は魚介類の天国となっている。

 唯一、霧の艦艇を除いては。

 

 

「『ヤマト』、どう言うつもりだ?」

 

 

 それは、いったいどう言う原理なのだろうか。

 大戦艦『ガングート』の甲板上には、12万個に及ぶドミノがずらりと並べられている。

 少しでも動けば一気に崩れるだろうそれは、しかし微動だにしていない。

 荒々しいベーリング海の上にありながら、ガングートは少しも揺れていない。

 

 

 メンタルモデルは、豊満な胸を窮屈そうに軍服調の衣装に収めた長身の女性だ。

 腕を組みドミノの中心に立った彼女は、じっと南を見つめていた。

 水平線の彼方には、何も見えないが。

 

 

「何故イ号潜水艦共にヨーロッパへ行けなどと言った?」

 

 

 独り言か。

 いや、独り言では無く誰か――『ヤマト』と話しているようだ。

 しかも、かなり険悪な雰囲気で。

 

 

「いかな総旗艦の言葉と言えど、我が海域を素通りさせることなどできんぞ」

 

 

 断固とした様子で、ガングートは言った。

 どうやら内容は抗議と言うか、拒否する意思を示すもののようだった。

 かなり、不機嫌な様子だ。

 

 

「奴らをヨーロッパに行かせれば、『ペトロパブロフスク』の……妹の負担が増える。そんなことは断じてさせん」

 

 

 ペトロパブロフスクは、ガングート妹艦にあたるロシア方面北方艦隊の旗艦だ。

 千早翔像や黒海の妹のこともあり、いろいろと心労が耐えない。

 そんな妹にイ号潜水艦、千早兄妹のヨーロッパ侵入などと言う新たな負担をかけさせるわけにはいかない。

 だからガングートは、何人たりともここを通すつもりは――――。

 

 

 

 ガングートは撃沈された。

 

 

 

 ――――無かった、が。

 がくりと甲板に膝をついて、汗をかくはずの無いメンタルモデルの顔は汗だくで蒼白になっていた。

 微動だにしていなかったはずのドミノが、次々に倒れ崩れていく。

 止めることも出来ない。

 崩れ落ちたガングートは、汗だくのまま呟いた。

 

 

「……ヤマト……!」

 

 

 一瞬で、撃沈のイメージを植え付けられた。

 大戦艦である自分の演算防御など何の役にも立たず、ガングートはヤマトに自身のキー・コードを握られてしまっていた。

 格が違う、それを教えられた。

 ガングートはもはや、その場から動けなかった……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、北極海経由でヨーロッパに向かうことを決めていた。

 パナマ運河が破壊され、わざわざ西回りでスエズ運河や喜望峰に向かう意味も無く、マゼラン海峡も遠い。

 むしろ北極海航路の選択は、自明の理であるとも言えた。

 

 

「群像、ちょっといいか」

「何だ、改まって」

 

 

 群像が自室で色々と考え事をしていると、イオナがやって来た。

 これがスミノなら室内に勝手かつ突然入って来たろうが、イオナはきちんと扉をノックして入ってくる。

 身体ごとイオナの方を向いて、群像は小さく笑みを浮かべた。

 

 

「確認しておきたいことがあるんだが……」

「ああ、何だ?」

「千早紀沙は霧の者か?」

 

 

 一瞬、群像は何を言われたのかわからなかった。

 そして紀沙が霧か、と言う問いの真意を考える。

 紀沙が霧の艦艇かどうかと言う話だとすれば、荒唐無稽と言わざるを得ない。

 しかしここで、母親のメッセージから推測する千早家と霧の関係にまで考えが及ぶ。

 

 

 そう言う意味から考えれば、イオナの言葉の受け取り方も違ってくる。

 つまり、イオナはこう言いたいのだろう。

 紀沙は、霧に関する何かしらの因子を得たのでは無いか、と言うことだ。

 有体に言えば、()()()()()()()()()

 

 

「紀沙の身体の変化のことを言っているんだな?」

 

 

 イオナは答えない。

 しかしそれが逆に肯定しているようにも見えて、群像は唸った。

 霧の力、メンタルモデル――いや、ナノマテリアル。

 そのどれ一つとして、群像達は理解しているとは言い難い。

 その意味では、確かに危うい。

 

 

「イオナ、お前たち霧は――――」

 

 

 その時だった。

 艦体が軋みを上げて揺れ、周囲の海流が大きく乱れる。

 群像は咄嗟にイオナを抱き寄せた、その上で固定された家具を掴む。

 彼の胸元に頬をすり寄せる形になったイオナは、じっと上目遣いに群像を見上げた。

 

 

「群像、私は別に頭を守ってもらう必要は無いぞ」

「ん? ああ、そうだな。ただこう言うことは反射でしてしまうものなんだ」

「そう言うものか」

 

 

 わかったようなわかっていないような顔をして、イオナは群像から離れた。

 まだ断続的に揺れは続いているが、大丈夫そうだ。

 そして群像達は、こういう振動を以前にも経験したことがある。

 

 

「――――ゾルダン・スターク」

 

 

 自分達に、ヨーロッパに行くなと警告したUボートだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 やはり来たか、とゾルダンは思った。

 警告はしたが、警告を聞く相手では無いとも理解していた。

 だからこそゾルダンはパナマ運河を破壊し、こうしてイ401が通るだろうベーリング海峡に網を張っていたのである。

 

 

「どうする、艦長?」

「愚問だな、ロムアルド」

 

 

 砲雷長(ロムアルド)の言葉に肩を竦めて、ゾルダンは言った。

 

 

「警告を無視された以上、今度は容赦しない」

「じゃあ、いよいよってわけかー」

「……何だ、何か含むところでもあるのか」

 

 

 ロムアルドは棒つき飴を舐めながら、椅子に背中を押し付けてギシギシと音を立てていた。

 どこか、好きなアニメが次で最終回と知った子供のような仕草だった。

 いや、彼にとっては確かに「最終回」なのだった。

 

 

「……戦場でゾルダンに拾われて、結構経ったよね」

 

 

 ゾルダンとロムアルド、そしてソナー手のフランセットは、欧州大戦の戦場で出会った。

 ロムアルドは少年兵として、そしてフランセットは戦火に巻き込まれた娘として。

 出会った後は千早翔像の下で、彼の計画を助けるための兵士として訓練を受けた。

 2年間、いやそれ以上の時間を共に過ごしていた。

 

 

「それも今日で終わりかと思うと、何だか寂しいね」

 

 

 本当に寂しそうなその声音に、しかしゾルダンは何も返さなかった。

 したことと言えば、瞑目くらいだ。

 彼は余り情緒的な方では無いので、そう言う言葉を紡ぐ口を持たないのだ。

 そんな彼が、ふと傍らへと視線を落とした。

 

 

 1人の少女が、ゾルダンの服の裾を引っ張っていた。

 淡い粒子と共に形作られたその少女に、ゾルダンへ目を細める。

 それは、U-2501のメンタルモデルだった。

 長い金髪の、だぼついたサイズの合っていない服を着た少女の姿をしている。

 

 

「何をしている、2501。メンタルモデルの形成は禁じたはずだ。演算力の無駄遣いをするな」

「申し訳ありません艦長、ですが」

 

 

 じろりと冷然とした目で見下ろされれば、2501はびくりと肩を怯ませた。

 ただそれでも何か言うべきことがあったのだろう、淡い粒子となって消えながらも、彼女はゾルダンを見上げて言った。

 

 

「嫌な()()がします。出来れば戦わないで――――」

 

 

 霧のメンタルモデルが嫌な()()とは、滑稽にすら聞こえた。

 しかし、ゾルダンは笑わなかった。

 何故ならゾルダンは、そう言う情緒的な言葉を紡ぐ口を持っていないし。

 

 

「ロムアルド、『ゼーフント』全隻展開。フランセット、ソナー警戒怠るな」

「りょーかい」

『了解』

 

 

 ――――()()を無視する程、愚かでも無かったからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もちろん、警報はイ404の側にも発されている。

 すでに攻撃は受けているが、警戒していたために奇襲は許していない。

 むしろ、敵が広げた網の先端に触れたと言う状況だった。

 

 

「状況は?」

「小康状態です。攻撃は一時やんでいます」

 

 

 恋の報告に頷いて、紀沙は自分のシートに座った。

 その時、紀沙は少し顔を顰めた。

 ざわめきが、強くなった。

 発令所に入って緊張感が高まった、と言うわけでは無いことは明らかだった。

 

 

 ならば何だと言われれば答えようが無いが、しかし、感じるのだ。

 ざわめきを、肌の上を撫でられているかのような不快感を。

 羽虫が常に頭の上を飛び回っているような、そんな感じだ。

 

 

「艦長? 大丈夫ですか?」

「大丈夫です、もちろん」

 

 

 何となく自分に言い聞かせるように、紀沙は恋に答えた。

 すでに冬馬も梓も準備を整えて、自分の号令を待っている。

 相手は霧、それも自分達と同じく人間を乗せた艦だ。

 この攻撃方法は忘れもしない、屈辱的な敗北を喫した相手なのだ。

 

 

 心してかからなければやられるだろう、それ程の相手だ。

 だが、気にかかる。

 この肌のざわめきは、無視するには大き過ぎた。

 ――――しかし、今考えるべきことでも無い。

 

 

「最大戦速! イ401との量子リンクを切らないように注意してください!」

「「「了解!!」」」

 

 

 その時、ふと手元のモニターに映る機関室の様子を見た。

 そこにはあおい達が慌しそうにちびスミノ達と動いている様子が映っていて、それはいつも通りだった。

 しかし今は、隅の方でコンソールを叩く小さな背中が増えていた。

 それに対して目を細めてから、紀沙は正面を向いた。

 負けられない、そう思った。

 

 

(……?)

 

 

 そこで、気付いた。

 いつもならねちねちと自分に絡んで来るだろう存在の姿が、どこにも無いことに。

 スミノだ。

 スミノの姿が、どこにも無かった。

 

 

「ス……」

 

 

 呼ばなかった。

 いや、呼べなかったのか。

 いずれにしても、紀沙はスミノを呼ばなかった。

 ただ、これも感覚的な話で伝わりにくいのかもしれないが。

 

 

 何故か、スミノが()()()()()()()()()()()()

 馬鹿な、と、紀沙は首を振った。

 実際に目の前にいないのに、いると感じるなどおかしなことだ。

 そんなことは、馬鹿馬鹿しいと。

 この時の紀沙は、そう思っていたのだった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

行くぜ、ヨーロッパ!
と思いきや、通せんぼのゾルダンです。
この人もどうしたら良いのか悩むキャラクターです。

と言うわけで、次回ゾルダン戦です。
また次回。


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Depth038:「ベーリング海戦」

 イ401側はまだ、U-2501の誇る群狼戦術の全容を理解してはいない。

 戦闘開始からおよそ1時間が経過した頃、ゾルダンはそう判断した。

 そもそも彼らの群狼戦術は、『ゼーフント』と呼ばれる無数の小型潜航艇を核としている。

 十数隻、いや数十隻の小型艇で敵を取り囲み、四方八方から休む間も無く攻撃するという戦術だ。

 

 

 大体の敵は、『ゼーフント』の多重攻撃に対応できず成す術も無く撃沈される。

 しかし、イ401は違う。

 こちらの全容を測りかねていながらも、『ゼーフント』の攻撃を掻い潜り続けている。

 しかも、幾度かはU-2501本体の位置を捕捉しかけていた。

 

 

「こちらの思考を読んで(トレースして)いる……流石と言うべきか」

 

 

 いや、それも少し違うのだろう。

 厳密に言えば、千早群像の思考をトレースしているゾルダンの思考をトレースしているのだ。

 つまり、ゾルダンが千早群像の戦術思考を良く理解していることを知っている。

 千早群像ならばどうするか? 千早群像ならばどう動くか?

 それをゾルダンが把握していることを、逆に群像は気付いているのだろう。

 

 

「聞いていたよりもずっと優秀らしい」

「まぁ、僕らの情報も古いからね」

 

 

 彼らの知る千早群像の戦術思考、それはつまり日本にいた頃の千早翔像の戦術思考でもある。

 2年に及ぶ期間、ゾルダンはそれを叩き込まれてきた。

 言ってしまえば、千早群像とゾルダンは兄弟弟子と言えるのかもしれない。

 だからこそ今、群像は『ゼーフント』による四方からの攻撃を見事に捌いている。

 

 

 しかし、と、ゾルダンは思う。

 

 

 イ401と千早群像はそれで良いとして、もう一方はどう考えるべきか。

 イ404と千早紀沙、こちらもまた『ゼーフント』の攻撃を未だ掻い潜っている。

 ただしこちらは兄と違い、やや拙いところがある。

 こちらの思考を読んで動いていると言うよりは、どこか場当たり的に見える。

 

 

「……まだ()()()()()()。あるいは()()()()()()()と言ったところか」

「間に合うかなぁ」

「わからない」

 

 

 首を振って、ゾルダンは言った。

 

 

「今はとにかう戦うことだ。戦うことが、覚醒のきっかけにはなる」

 

 

 ベーリング海における戦いは、まだ始まったばかりだった。

 この戦いの結果、何が生まれるのか。

 それは、戦いの勝者だけが知ることが出来る。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 冬馬は、訝しみの感情を得ていた。

 ソナー手である彼はイ404周辺の状況を音で探るのが役目であり、それ故に、イ404の状況をクルーの中で最も良く理解している。

 だからこそ、現在の状況がいかに異常かを理解してもいた。

 

 

「――――取舵! 速度そのまま、アクティブデコイ射出!」

「あいよ了解、デコイ発射!」

 

 

 紀沙の声が飛ぶ。

 しかしその声は、ソナーの情報に基づくものでは無い。

 そうした外部の情報を聞く前に判断し、指示を出したのだ。

 そして、これが良く当たるのである。

 

 

 今も、艦体に擦れるようにU-2501側の魚雷が擦過していった。

 魚雷はデコイを追っていったようで、センサー画面上で徐々に遠ざかっている様子がわかる。

 そして必要な距離を離れたところで、かすかな爆発音が聞こえた。

 紀沙の指示が無ければ、艦体後部に直撃していただろう。

 

 

「まだ来ます、気を抜かないでください」

 

 

 だから、それが何故わかるのか。

 冬馬は相当に訝しんでいたが、戦闘中故に何も言わなかった。

 それは多かれ少なかれ、他のクルーにも同じことが言える。

 彼らは程度の差こそあれ、今の紀沙の()()に驚いていたのだ。

 

 

 だが、一番驚き、訝しんでいるのは実は紀沙自身だった。

 

 

 紀沙は、自分がどうしてそんな指示が出せるのかわからなかった。

 しかし、何故かわかるのだ。

 攻撃される直前、()()()()がするのだ。

 肌がちりちりする方向に敵がいると、何故かわかるのだ。

 

 

(U-2501は、無数の無人潜航艇でこっちを包囲してる)

 

 

 肌のざわめきが、紀沙にそう教えてくれる。

 不思議な、不思議な感覚だ。

 目を閉じれば、どこか海を泳いでいるような感触さえ感じる。

 ()を、閉じれば……。

 

 

 不意に、左側に気配を感じた。

 この気配は知っている、メンタルモデルの気配だ。

 思えばこのシートに座っている時は、常に傍らにスミノがいた。

 別に懐かしさや寂しさを覚えたわけでは無い、ただ。

 

 

「チハヤ・キサ……!」

 

 

 ただ、ここまで明確に殺意を向けられたことは無い。

 発令所で――いや、違う。

 これは発令所で起こっていることではなく、()()()()()の中で起こっていることだ。

 

 

「……死ね……!」

 

 

 すなわちこれは、()()()()()()()()()()()()

 だぼっとしたワンピースを着た金髪の少女――童女と言っても良い――が、紀沙に向けて片腕を剣のように振り下ろして来た――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 手刀――文化圏で言えば手剣とでも言うべきだろうか――を、紀沙はシートから転がり落ちるようにして回避した。

 あっと声を上げた時には、発令所には()()()()()()()

 童女の手は、シートの紀沙の頭があった部分をやすやすと貫いていた。

 

 

 あのまま頭を置いていたらと思うと、ぞっとする。

 指揮シートのある段の下から、思わずと言った様子で顔を撫でた。

 頭があることの再確認のような行為だったが、そこで気付いた。

 左目に、眼帯が無い。

 

 

「その目」

 

 

 可憐な外見からは想像も出来ない程に憎々しげに、童女は紀沙を見下ろしていた。

 その目とは、左目のことを言っているのだろう。

 この目が何だ、何なら持っていけとも紀沙は思った。

 左目がこうなってからと言うもの、身体の調子が悪くて仕方ないのだ。

 

 

「我が艦長のために、その目を潰させてもらう……!」

 

 

 ただ、どうも相手は紀沙の命ごと狙っているようだ。

 再び腕を振り上げ跳びかかってきた童女に、紀沙がどこへ逃げるかと思案を巡らせた時だ。

 明確な殺意。

 向けて来たのもメンタルモデルならば、それを止めたのもメンタルモデルだった。

 

 

「それは困るな、2501。その目はボクの目でもあるんだから」

「お前は……!」

「……スミノ?」

 

 

 段の途上で童女――U-2501のメンタルモデルの手刀を指先で挟んで止めて、スミノが立っていた。

 どこから現れたかなどと、もう考えるのも面倒だ。

 スミノはちらりと紀沙を見て微笑むと、すぐに視線を2501へと向けた。

 2501がスミノの手指を掴み返し、そのままの姿勢で蹴りを放った。

 

 

 蹴り足の踵を掴み、スミノが2501を押し返した。

 離れる刹那に互いの手が3度打ち合ったようだが、それは紀沙には見えなかった。

 ふわりと浮き上がった2501が両手を掲げると、宙に光の槍が出現した。

 スパークしながら現れたそれは、スミノとその向こう側にいる紀沙を狙って疾走する。

 

 

「ほいっと」

 

 

 ばんっ、とスミノが床を叩く。

 すると床がぐにょんと伸びて壁となり、光の槍を受けきってしまった。

 目の前で花火が炸裂すればこんな感じだろう、そんな強烈な輝きに紀沙は目を細める。

 

 

『やらせない……!』

 

 

 その時だ、脳裏に思いつめた童女の声が聞こえた。

 光の槍が炸裂するチカチカとした輝きの中、紀沙は自分の視界が徐々に白く塗り潰されていくような錯覚を覚えた。

 ゆっくり、ゆっくりと、しかし鮮烈に、鮮明に……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()がその男と出会ったのは、砲弾の雨が降り注ぐ戦場でのことだった。

 当時彼の国は直接参戦していなかったが、傭兵や義勇兵と言う形で各地の戦闘に介入していた。

 彼がやって来たのは、そう言う戦場の1つだった。

 そして最初に出会った時、向けられたのは手では無く銃口だった。

 

 

 砲弾の雨が降り注ぐ、そんな場所でのことだった。

 そこで彼女は、彼を救った。

 道を示し危険を知らせ、崩れ落ちる廃墟の中から共に脱出した。

 正直に言えば、彼女は当初そんなことをする必要を感じていなかったのだが。

 

 

()()()()()()()()()()()()

 

 

 だが、彼が言ったのだ。

 

 

『それなら、死を遠ざけてみせろ』

 

 

 正直、意味は良くわからなかった。

 ただ彼は、賢明に生きようとしていた。

 この窮地を脱して生き延びて、明日を掴もうとしていた。

 意思があり、強さがあり、覚悟があり、目指すべきものを知っていた。

 

 

 だが、力だけが無かった。

 

 

 燃え盛る廃墟から、閉塞した今の状況から脱出できるだけの力が無かった。

 だから決めたのだ。

 自分がそうなろうと。

 自分が彼の力そのものとなり、剣となり盾となろうと。

 彼を見た瞬間、そんな想いが湧き上がってきたのだ。

 

 

(これは……?)

(U-2501の()()の一部だよ。気を付けてね艦長殿、こちらの世界では――)

 

 

 ぼんやりとした意識の中――それは、夢に似ていた――不意に、紀沙は何者かに引き上げられた。

 まさに、夢から覚めると言う感覚だ。

 気が付けば、視界は元の反転した色の発令所だ。

 パンッ、と、スミノが手を打つ音が耳に響いた。

 

 

「こちらの世界では、情報や記録なんてどこにでも転がっているものなんだから」

 

 

 1つ1つ気に止めていたら気が重くなるよと、スミノは言った。

 その脇を縫うようにして、2501が手刀を振るう。

 光が弾ける。

 ヘラヘラと笑うスミノと、可憐な顔立ちを歪める2501はまさに対照的だ。

 

 

「イ号404! 貴様は許されざることをしている!」

「キミだって、()()()()()()()()()()()

 

 

 何の話をしている、と、紀沙は思った。

 もちろん、戦闘中のスミノ達がいちいち説明するはずも無い。

 2501が打ち、スミノが払い、2501が踏み込んで、スミノがいなす。

 その手順が延々と繰り返されていた。

 

 

「私は、あの人を守る!」

「ゾルダン・スタークかい? しかし彼は選ばれなかった」

「私が選んだ。私の艦長、あの人のためなら私は……!」

「彼がそれを望んでいなかったとしても?」

 

 

 薄ら笑いを浮かべて、スミノは言った。

 ()()()左目の奥に、妖しい光を灯しながら。

 

 

「選ばれたのは、ボクの艦長殿さ」

「そこに……誇りが無ければ!」

 

 

 対して瞳に峻烈さを見せながら、2501。

 2人の、いや2隻の戦いは、現実の海戦にも増して激しさを増していった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ベーリング海で戦闘が発生したことは、遠くヨーロッパの超戦艦『ムサシ』にまで伝わっていた。

 自信の塊のようなあのゾルダンが、3隻の『ゼーフント』を大西洋に走らせたためだ。

 とは言え、リアルタイムで戦況を伝えてくるようなことはしていない。

 だから結果については、ムサシと言えど簡単には予見できないのだった。

 

 

「そう言えば聞いたことが無かったのだけど」

 

 

 カレー、ダンケルク、ル・アーブル、ブレストと、フランス沿岸を北から南へと転戦しながら、『ムサシ』はフランスの諸都市と軍、そしてイギリス海峡に残存する霧の欧州艦隊を虱潰しに攻撃していた。

 ただ1隻で、数十万人の人間と十数隻の同胞()をこの世から消し去っていた。

 超戦艦の実力をもってすれば、この程度のことは造作も無かった。

 

 

「お父様はどうして、『レーベ』をゾルダンに委ねる気になったの?」

 

 

 ブレスト軍港、そしてブルターニュ地方の諸都市へ艦砲射撃を行う最中、ムサシは隣に立つ翔像にそう問うた。

 1発の砲撃で都市が1つ吹き飛ぶ中で聞くにしては、やや違和感を感じる問いだった。

 

 

「『レーベ』――今はU-2501と名を変えているけれど。あの子はもともと、『ヤマト』のイ号潜水艦に対抗するための()()()()()でしょう?」

 

 

 かつて、駆逐艦『レーベリヒト・マース』と言う艦があった。

 現在のU-2501はこの駆逐艦のコアを使用して翔像が()()した艦艇であり、そうした意味では霧の中でも特異な存在である。

 それだけに秘匿性が高く、霧に対するカウンターとして非常に有用だった。

 

 

 しかし翔像は、それを愛弟子であるゾルダンに与えたのだ。

 当然、表舞台に上げる以上は情報は漏れる。

 霧も注目しているだろうから、自然、追跡の憂き目に合う。

 ゾルダン自身も、何度か霧の艦艇と接触したと報告を上げてきている。

 

 

「……あの子はゾルダンにとって、何にも変え難い存在だった」

「あの子って、『レーベ』が?」

「…………」

 

 

 ズルい人だ、と、ムサシは笑った。

 都合が悪かったり言葉にしたくないことがあると、この男は口を閉ざすのだ。

 要するに察しろと言うことで、そう言う甘えのようなものがムサシは嫌いでは無かった。

 厳格な男が一瞬見せる甘えは、ことのほか彼女の琴線に触れるらしかった。

 

 

「……どちらにしても、北極海に入れるのは片方だけ」

 

 

 遥か西の彼方へと顔を向けて、ムサシはうっすらと目を開けた。

 さて、来るのはどちらか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は勝つ。

 真瑠璃にはそれがわかる。

 どんな時、どんな状況であっても、最後には群像は勝つと。

 確信と言うよりは、それはもはや信仰に近かった。

 

 

(……群像くん)

 

 

 一度だけ。

 それでも一度だけ、真瑠璃は群像を(いさ)め止めたことがある。

 独りで前に進もうとする群像の姿が、閉塞した世界から抜けようともがく群像の姿が。

 そして、天羽琴乃の死に衝撃を受けた自分自身を振り払おうとする姿が余りにも痛々しかったからだ。

 

 

『あなたが好きだからに決まってるじゃないっ!!』

 

 

 そして『ヒュウガ』との戦いの後、それは爆発した。

 群像は完璧だ、だから他人に諌められる経験が少なく、諌められた時の対応を知らなかった。

 だから無神経になる、その時も「オレにはこれしか出来ない」「無理に艦にいろとは言えない」などと言った、真瑠璃からすればそれは耐えられなかったのだ。

 

 

 そして、何より耐えられなかったのは。

 その時の群像が、困ったような表情を見せたことだ。

 明らかに戸惑っていて、どう受け止めれば良いのかわからないと言う顔をしていた。

 あれを見てしまえば、艦に残るのはもう無理だった。

 ああ駄目だと、自分で思ってしまったのだ。

 

 

(私には、群像くんは救ってあげられない)

 

 

 それが出来るのは、きっと天羽琴乃だけだった。

 結局、天羽琴乃に負けたと言うことなのだろう。

 思い出の中にしかいない人間には、どう足掻(あが)いたとしても勝てはしない。

 わかってはいたが、実際に目の当たりにすると堪えるものがあった。

 

 

(群像くんは勝つ、だから……)

 

 

 携帯端末を指先で弄りながら、真瑠璃は目を閉じた。

 端末の中には、過去の群像からのメールが全て保存されている。

 自分以外の人間が開ければ、それは全て失われるようになっていた。

 そして最新のメールには、こう書かれていた。

 

 

(だから、私は私のできることを)

 

 

 ――――横須賀にて、霧の重巡洋艦『タカオ』と接触されたし。

 また凄いことを言ってくれるものだと、そう思う。

 けれど真瑠璃は、それを良しとした。

 我ながら便利な女だと、そう自嘲することもある。

 

 

『頼む』

 

 

 でも群像が、自分に「頼む」と言った。

 真瑠璃にとっては結局、それが1番重要なことだったのだ。

 もうそれだけで良い、少しでも気にかけてくれているのならば、と。

 ――――ズルい男だと、真瑠璃はやはり自嘲気味に笑うのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の、人への想い。

 それを聞いた時の、紀沙の感情をどう表現すべきだろう。

 思えば、あのイ401のメンタルモデルやタカオもそんな素振りを見せていた。

 兄や、母に対して何かしらの感情を抱いている。

 

 

 そう思った時、紀沙は「ああ」と思った。

 ああ、何て、何て。

 何て、おこがましいのだろう――――。

 

 

「霧が、人を守るなんて」

 

 

 人類共通の敵。

 不倶戴天の存在。

 そう言われ続けて、教わり続けて、思い続けてきた。

 そんな紀沙にとって、2501の言葉は。

 

 

「ふざけるな……!」

 

 

 左目が、急激に熱を持った。

 こちらを見た2501が、ぎょっとした顔をする。

 紀沙が睨んだ地点にあった2501の光の槍が、まるで分解されるように散ったのだ。

 スミノがやったのかと思ったが、どうも違った。

 

 

「言っただろう、艦長殿? それは()()()()()()()

 

 

 スミノが何か言っているようだが、紀沙はほとんど聞いていなかった。

 ただ、驚いている2501の目を睨みつけた。

 左目の奥で、何かが破れる音がした。

 

 

発令所(ここ)はお前の居場所じゃない……!」

 

 

 ――――出て行け!

 次の瞬間、景色が一瞬ブレた。

 ぐにゃりと歪んだ次の瞬間に、元の景色に重なったのだ。

 そして気が付けば、耳に音が戻って来た。

 

 

「……! おい、艦長ちゃん。マジで大丈夫か!?」

「え……」

「すげー血が出てんぞ!」

 

 

 戻って来た。

 そして突然届いた冬馬の声に左手を顔に当てれば、水――さらさらとした血が手に触れた。

 それは左目の眼帯の下から漏れているようで、眼帯を外すと勢いを増し、衣服に染みを作る程だった。

 だが、不思議と不快感は無かった。

 

 

「――それが、キミの新しい力だよ」

 

 

 ただ、耳元に現れたスミノの囁きには不快感を抱いた。

 しかし今は、スミノにかかずらわっている場合では無いのだ。

 今はそれよりもずっと重要なことがある。

 この戦いの帰趨(きすう)だ。

 

 

「恋さん、イ401に連絡を」

「は……はい?」

 

 

 左頬を流れる血を袖で乱暴に拭いながら、紀沙は言った。

 

 

「敵の、U-2501の位置がわかりました。今から言う座標を401に知らせてください」

 

 

 潜水艦戦において、敵の正確な位置を知ることは何よりも大事だ。

 それを知らない者は、イ404の発令所には誰もいなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

『艦長ッッ!!』

 

 

 U-2501の叫びを聞いた時、ゾルダンは己が危機に瀕していることに気付いた。

 戦場の重力子が急速に活性化し、しかも安定しつつある中での2501の叫びだった。

 そして戦略モニター上の予測()()上に自艦があることを知るに至り、回避を命じた。

 深度の上下の方が早いが、この攻撃は縦の移動では回避できない。

 

 

『ゾルダン、海が……割れるわ……』

 

 

 ソナー手・フランセットの声も震えている。

 視力が無い分、より強く気配を感じるのだろう。

 それでもUー2501の全速回避であれば、正面から来るであろうイ401の攻撃を回避することは出来るはずだった。

 

 

 ゾルダンのこの計算は、間違いでは無い。

 次に来る重力子の攻撃――超重力砲――は、原則として直線上にしか撃てない。

 照準をつけて撃つならば座標入力も必要で、しかも変更は極めて難しい。

 故に重力子の反応が特に激しい地点から首を振るように横へ移動して逃げれば、直撃は避けられる。

 さらに言えば、今回はU-2501の察知も早かった。

 

 

「『ゼーフント』の多重攻撃の中、超重力砲を撃つのは流石だな」

 

 

 超重力砲を回避した後、空間の()()()()が起こる。

 それに乗じて『ゼーフント』による総攻撃を行えば、イ401は回避できないだろう。

 射線上の『ゼーフント』については諦めるしか無いだろう、肉を切らせて骨を断つと言うわけだ。

 

 

「だが早かった。イ401自身が我々を発見したわけでは無いか」

 

 

 らな、と言う言葉は、しかし発されることが無かった。

 何故ならばU-2501の艦体が大きく揺れて、ゾルダン自身がバランスを崩してしまったからだ。

 そして彼は、この「掴まれる」現象を知っていた。

 すなわち、超重力砲のロックビームだ。

 

 

「馬鹿な……ッ」

「ゾルダン!」

 

 

 いったい何故、と戦略モニターを見た瞬間、ゾルダンは目を見開いた。

 U-2501が感知している重力子の強い反応が、海域を縦に割いている。

 しかし今、そこに2本目の「道」が開かれていた。

 そしてその2本目――()()()()()()()()が、U-2501を捉えていたのだ。

 ――――超重力砲の十字砲火(クロスファイア)だと!?

 

 

「ゾルダンッ!」

「わかっているっ!!」

 

 

 激しく揺れる艦の中で、ゾルダンは厳しい眼差しで言った。

 そして数瞬の後、凄まじい衝撃がU-2501を襲った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヒュウガは、『マツシマ』3隻による超重力砲を放ったまま硬直していた。

 先程まで、彼女は感嘆していた。

 それは千早群像と言う少年に対する感嘆であって、えも言わず彼の戦術と先見の明への感嘆だった。

 

 

 サンディエゴで一旦別れた後、ヒュウガは『マツシマ』3隻を別ルートで進ませていた。

 ベーリング海への侵入もそうで、海峡内に入った後は海流に身を任せつつ航行していた。

 戦闘には参加していなかったため、カムチャッカ近郊のポイントまで悠々と進めた。

 何故かロシア方面の霧の艦隊が動いていなかったので、海底に潜み時を待つことが出来た。

 海底にじっとしている『マツシマ』3隻は、『ゼーフント』にも発見されにくい。

 

 

「あれは……」

 

 

 そしてイ401の超重力砲を囮に、『マツシマ』3隻による超重力砲の十字砲火。

 これで倒せない相手はいないだろうと、ヒュウガは思っていた。

 実際、倒せた。

 しかしU-2501は、驚くべき方法でこの攻撃を回避――いや、回避では無い。

 

 

次元空間曲率変位(ミラーリング)システム……!」

 

 

 U-2501の艦体が上下に割れて、そこから放出されたナノマテリアルの粒子が8の字を描いていて、それに引かれるように2発の超重力砲のエネルギーが回転していた。

 真っ白な8の字が、ベーリング海を幻想的に染め上げていた。

 あれは不味い、霧の旗艦まで努めたヒュウガだからこそ()()()()の恐ろしさを知っている。

 

 

「404……イオナ姉さまぁ――――ッ!!」

 

 

 ヒュウガの絶叫が、ベーリング海の深くで響き渡った。

 そしてそれを聞くことが無いU-2501、すなわちゾルダンは、まだ勝利を確信していない。

 何故ならばこの装備は、能動的な攻撃は一切できないからだ。

 もし攻撃になるとしたら、それは結果に過ぎない。

 

 

「これが我々の切り札だ、401」

 

 

 ミラーリングシステム。

 霧でも()()()()()()にしか使えない秘匿装備で、通常U-2501のような巡航潜水艦には扱えないものだ。

 出来れば表に晒したくは無かったが、千早群像はそれを許してくれなかった。

 

 

 このシステムは、イ401側の超重力砲を別次元に相転移させる。

 つまり相手の破壊力をいなすわけで、その際に凄まじい衝撃波が発生する。

 この時の衝撃波は、まさに海を()()()()程の衝撃を生む。

 イ401、いや霧の艦艇と言えど巻き込まれれば無事では。

 

 

『艦長ッ、404が!!』

「何……ッ」

 

 

 2501が再び悲痛な声を上げた。

 ミラーリングシステムは発動中、U-2501の姿を露呈する上動きが取れなくなる。

 『ゼーフント』の制御もしかりだ、しかも今は超重力砲発射の後で付近の『ゼーフント』は壊滅している。

 しかし、だからと言って。

 

 

「うぅらああああああああぁぁっっ!!」

 

 

 だからと言って、まさか突撃を仕掛けてくるとは!

 ミラーリングシステム発動で動けないU-2501に、イ404の艦首が激突した。

 ただでさえ凄まじいエネルギーを制御しているところに、体当たりなどしたのである。

 被害は甚大だ、計り知れないと言っても良い。

 

 

「――――ッ!」

 

 

 ベーリング海に、沿岸の人々が「神の叫び」と表現することになる激震と轟音が響き渡った。

 その衝撃が、何もかもを打ち砕いた。

 何もかもを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――冷たい。

 身を切るような冷たさで、少女は目を覚ました。

 

 

「う……」

 

 

 肌から血の気が失せて見えるのは、体温が極端に下がってしまっているからだ。

 あたりは濃霧に包まれていて、海岸なのだろう、小波(さざなみ)の音が聞こえる。

 そしてその小波は、まさに少女の半身を濡らしている。

 少女は、浜辺に倒れているのだった。

 

 

 身を起こしても、風が冷たく冷えた身体をさらに苛む。

 加えて小雨まで降り出してきたので、身体の芯から熱が奪われていく。

 吐く息は白く、身体を抱くようにして擦っても少しも温まりはしなかった。

 冗談では無く凍死してしまいそうな状況だ、むしろ目覚められただけ強運だったのかもしれない。

 

 

「……ここは」

 

 

 声も、低く掠れている。

 びゅうと吹いた強風に、小さな悲鳴を上げる。

 ガァガァと海鳥の鳴く声がどこかから響いて、顔を上げた。

 すると強風に煽られて、僅かに霧が晴れた。

 

 

 霧が晴れても晴れ間の無い曇天、コケが方々に見える荒れ地に、湿地混じりの海岸、雪積もる山。

 人の気配は、どこにも無い。

 少女は――千早紀沙は、呆然とそれらの光景を見上げていたのだった。

 




※お知らせ
今週リアル多忙につき、次週の更新をお休みさせて頂きます。申し訳ございません。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言うわけで、ゾルダン戦でした。まだ終わってないのかも?
最後の展開は正直思いつきですが、面白くできたらいいなと思っています。

それでは、また次回。


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Depth039:「北の島」

 

 三竦(さんすく)みと言う言葉がある。

 言い方や内容は国や地域によって異なるが、意味は概ね似通っている。

 つまり、睨み合いの状況を指す言葉だ。

 互いに得意な物と不得意な物の異なる三者が睨み合い、互いに動きが取れなくなってしまう状態。

 

 

「まさに、今のボクらのことだとは思わないかい?」

 

 

 曇天(どんてん)の下、肌を刺す寒さの中に3人はいた。

 彼女達は積雪した湿地の浮き島や岩場、枯れ木の上などに等距離に立っている。

 言葉を発したスミノと、そしてイオナと2501である。

 実際、彼女達の状態は三竦みと言うべきものだった。

 

 

 2501がイオナを警戒するようにジリジリと動けば、スミノが2501の横顔へと視線を向け、そしてイオナがスミノの方へ身体ごと向ける。

 あるいはスミノがイオナへと視線を動かせば、2501が隙を見出すべくスミノを睨み、そのスミノへとイオナが手を向ける。

 そしてそれ以上は互いに動けない、どちらかに仕掛けた瞬間にどちらかに攻撃されるからだ。

 

 

「ボクとしては別に睨み合いを続けるのも面白いとは思うんだけどさ」

 

 

 スミノの見る限りこの3人、あるいは3隻の演算力は、ほぼ互角だった。

 差が出るとすれば経験値から来るもので、その意味では実戦経験値の高いイオナが優位だ。

 しかしだからと言って、他の2隻でかかれば倒せない程に絶望的な差と言うわけでも無い。

 三竦み、だ。

 

 

「ボク達の利害は、意外と一致してるんじゃないかとも思うんだよね」

 

 

 ()()()()()、3人の目的は同じだった。

 加えて言えばそれぞれのクルーも探さなければならず、超重力砲とミラーリングシステムの衝撃波から、彼女達は各々の「ちび」やナノマテリアルでくるんでクルー達を防護していた。

 今は見失っており――防護に使ったナノマテリアルの反応で大まかな位置はわかる――艦体の修復と共に早急な捜索が必要だった。

 

 

「……お前達のことを信用できない」

「おいおい信用できないって。人間みたいなことを言うね、2501」

 

 

 クスリと笑って、嘲るようにスミノが言う。

 2501から返って来たのは敵意だけだが、イオナからは違った。

 

 

「確かに、ここでこうしていても仕方ないな」

「そうそ、ここはお互いに一時休戦といこうじゃないか、401」

「一時休戦だと?」

「それ以外にこの膠着を打破できる方法があるかい、2501?」

 

 

 信頼、スミノはその言葉を反芻する。

 おそらくイオナと2501は、それぞれの艦長との間に信頼の()()()ものがあるのだろう。

 羨ましいとは、特には思わない。

 何故ならば、スミノが欲しいものはそんなものでは無かったの……。

 

 

「姐さぁ――――ん……!」

 

 

 ……だが、何かを勘違いした特攻服に身を包んだ少女(トーコ)が手を振りながら駆けて来るのが見えて、スミノは急激にげんなりとした表情を浮かべた。

 気のせいか相手の一歩一歩がスローモーションに見えて、しかも弾けるような笑顔には星が散って見えた。

 

 

「姐さああぁ――――んっ! 無事だったんスねえぇ――――っ!」

「2501、なんであいつを沈めてくれなかったんだい」

「え」

 

 

 寒々しい空気にも、メンタルモデルの身体が堪えることは無い。

 だが吐く息は白くて、スミノの視線は何と無くそれを追いかけた。

 島の空は、やはり曇天に覆われていた。

 そして枯れ木の下、湿地の水に半ば沈むようにして、古い立て札が倒れていた。

 そこには、おそらくこの島の名前だろう文字が辛うじて読み取れた。

 

 

 ――――熱田島、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 本籍地・北海道と言う出自を、今日ほど良かったと思ったことは無い。

 何しろ寒さには強い方だ、横須賀の気候に慣れていても生まれと血がそう感じさせる。

 しかし、それでもだ。

 

 

「高いな……」

 

 

 ろくな防寒具も道具も無しで進むには、この島は気候が厳し過ぎる。

 海岸線から島中央に満遍(まんべん)なく広がる湿地帯はまだ平地だったが、進むにつれて道が徐々に険しくなっていったのだ。

 見渡す限りの積雪と、パキパキと足の裏で音を立てる枯れた草木。

 

 

 そして、高台だ。

 ひとつひとつの丘や台地が高く広く、登るには相当の体力を使うことになる。

 高台から島を一望できればと思ったのだが、一筋縄ではいかない。

 おまけに水分を伴う濃霧が視界を遮ってくれる上に、足元が滑りやすくて何度か転びかけた。

 そのような状況では、真っ直ぐ高台を登ることも出来ない。

 

 

「何となく、建物みたいなものが見えるんだけど。仕方ない、回り道かな」

 

 

 ひとまず、目の前の高台を登るのは諦めた。

 遠目に山の中腹あたりに建物らしきものが見えて、そこを目指している。

 建造物があるなら人もいるかもしれない。

 

 

「普通に考えるなら、放り出されて島に流れ着いたってことだろうけど」

 

 

 わざわざ声に出しているのは、そうしないとガチガチと歯が鳴って仕方ないからだ。

 口を動かしていれば、幾分かマシになる。

 

 

「他の皆は大丈夫かな」

 

 

 最も今の紀沙の状況は、他人の心配をしていられる状態では無いのだが。

 今も草に足をとられて転びそうになった。

 気のせいか、足がだんだんと上がらなくなってきているような気がする。

 寒さと悪路に体力を奪われているのだと、他人事のように気付いた。

 

 

 雲の向こうに僅かに見える太陽の光も、どこか頼りない。

 一歩を踏み締める度に、身体は重くなる。

 だがとにかく、どこかの建物には入らなければ。

 もしかしたら獣もいるかもしれない、夜に1人はあまりにも危険だった。

 

 

「……ただ」

 

 

 もう一度山の中腹の建物を確認しようと、顔を上げた時だった。

 紀沙は苦笑した、神様がいるとすれば随分とイジワルなのだろうと思ったからだ。

 さっき登るのを諦めた高台の上に、人がいた。

 ただ自分と同じく防寒具ひとつ着けていないその姿は、島の人間とは思えない。

 おまけに、イ404や401のクルーにあんな金髪碧眼の男はいない。

 

 

「この展開は、ちょっと無いんじゃないかなぁ」

 

 

 つまり、彼はU-2501の関係者。

 眼光の鋭さと貫禄からして、おそらくは艦長。

 ――――ゾルダン・スタークがこちらを見ていると、紀沙は気付いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……吹雪(ふぶ)いてきたな」

「いや、そんな自分で何とかしたみたいに言ってもダメだからなお前」

 

 

 山小屋と言うべきか、狩猟部屋と言うべきか。

 とにかく小さな小屋の片隅の古びた薪ストーブで火を炊きながら、群像達は暖を取っていた。

 すきま風は強いが、それでも外にいるよりはずっとマシだった。

 

 

 そしてこの山小屋には、4人の人間がいた。

 群像と冬馬と、何故かジョン。そして……「フランセット」と名乗る盲目の女性である。

 冬馬は湿った薪に苦労して火をつけて、今もストーブに鉄の棒を突っ込んで火を大きくしている。

 ちなみに群像は、雪道で倒れているところを冬馬が見つけたのである。

 

 

「俺がかついで来なかったらお前、普通に野たれ死んでただろうがよ」

「ああ、感謝している」

「オーウ! 困った時はミートゥーね!」

「それは俺が言うべきセリフだろーがよ」

 

 

 彼らクルーは、各々の艦のメンタルモデルによって身体的には防護された。

 しかし北海の島――と思われる――に生身で放り出されては、外に放置はそのまま死に直結する。

 まして、今は雪風が強まって吹雪になっているのだ。

 

 

「悪いわね、一枚しか無い毛布を貰ってしまって」

 

 

 そして、フランセット。

 それぞれの艦のクルーが混在する中、互いに協力しなければならない状況だ。

 フランセットに与えられた毛布は、その意味では他の3人の優しさとも言える。

 まぁ、毛布と言っても所々破れてしまったボロ布のような状態だが。

 

 

「確かに厳しい状況だが、互いを理解し合うには良い状況だろう」

 

 

 そう言ったのは、群像だった。

 彼は火にかざした手はそのままに、フランセットの方を向いた。

 

 

「この際だ、相互理解といかないか?」

「あら、私は仲間の情報を売ったりはしないわよ」

「別にU-2501の情報が欲しいわけじゃない」

 

 

 警戒の色を浮かべたフレンセットに対して、群像はそう言った。

 対話。

 思えば対話こそが、この少年の真骨頂であるのかもしれない。

 たとえ届かなくとも、群像はその道を捨てたことは無かった。

 

 

「キミ達の話を、聞かせてほしい」

 

 

 ただ惜しむらくは、群像は誰かと対話することが得意では無かった。

 だからかもしれない、過去話し合いで何とかなったことが少ないのは。

 しかし、それも無理は無かった。

 何故ならば、それを補うべき少女(琴乃)がいなくなってしまったのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ゾルダンは、女性には淑やかなイメージを持っていた。

 ドイツの女性は男より強いと言う俗説があるが、イコール女性を捨てているわけでは無い。

 むしろ童話のお姫様のモデルも多く、気立ての良い淑女の国なのだ。

 そして共に航海する仲間がフランセットとくれば、そのイメージはより強固なものになった。

 

 

「んーっ! んーっ!」

「……勘弁してくれ……」

 

 

 木製のドアが、軋みながらゆっくりと開いた。

 強い風と雪が開いた隙間だけ中に入り込み、扉を閉めるまで続く。

 見張り小屋か狩猟小屋か、二段ベッドや作業机のある小さな空間だった。

 埃の積もり方から見て相当の時間人の手が入っていなかったのだろう、吹雪によってそれらが巻き上げられた。

 

 

 そんな中、二段ベッドの下の段でひときわ大きく埃が舞った。

 男――ゾルダンが、外から担いできた少女をベッドに置いたのだ。

 いかがわしい響きかもしれないが、状況は何もいかがわしく無い。

 何故ならば少女――紀沙は後ろ手に縛られていて、口をスカーフか何かで猿轡されていたからだ。

 

 

「んーっ、んむっ、む――っ!」

「おい、頼むから静かにしてくれ。静かにしたらそれを外す」

 

 

 ゾルダンが紀沙を見つけたのは、全くの偶然だった。

 島を見渡そうとした時に、高台の麓にいるのをたまたま見つけたのだ。

 距離もあったのでゾルダンとしては、おそらく逃げるなり隠れるなりするだろうと思っていた。

 

 

 まさか高台を登ってくるとは思わなかった。

 あまつさえ攻撃を仕掛けてくるとは思っていなかったので、ゾルダンともあろう者が呆然と到着を待つことになってしまった。

 ただ流石に実戦経験の差か、負けるようなことは無かったが。

 

 

「……よし。いいな、そのままだ。外しても騒がないでくれよ」

 

 

 そう言って、ゾルダンは紀沙の猿轡を外しにかかった。

 元々拘束などする気は無かったが、暴れられるのでやむをえずそうした。

 まるで不機嫌な猫を相手にしているようだと思ったのは、口には出さない。

 しかし少なくとも、ゾルダンの中の日本人女性のイメージはある意味で固まってしまったかもしれない。

 

 

 そして、やはりだ。

 ゾルダンを睨め上げる瞳、その翡翠の左目に目を細める。

 やはり()()()()()()と、そう思った。

 

 

「……っぷは! 触るな、この変態!!」

 

 

 それから、やはり女性には淑やかさが重要だと思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 半ば賭けだったが、ある意味で賭けには勝った。

 別に紀沙とて単なる無謀でゾルダンに突っかかっていったわけでは無い、

 紀沙が躊躇した高台に登っていたことから、すでに彼が拠点を得ている可能性が高いと判断したのだ。

 

 

 攻撃、と言うか暴れたのは拘束させるためだ。

 正直自分の足で歩くには体力が心許なかったので、あわよくば運ばせようと言うわけだ。

 そして目論見は見事に当たり、紀沙はこうして体力を残したまま安全な場所まで移動することが出来た。

 誤算があるとすれば、暴れすぎて手足を紐で縛られてしまったことだろうか。

 

 

「貴方がゾルダン・スターク?」

「何だ、兄にでも聞いたのか」

 

 

 苦労して薪ストーブに火をいれようとしている背中に声をかければ、そんな返事が返って来た。

 声は意外とぶっきらぼうな印章があって、少し意外だった。

 緻密な群狼戦術を使う相手だったので、どちらかと言うと繊細なイメージを持っていた。

 

 

「キミは千早紀沙だろう、そう言えば千早提督から聞いたことがある」

「……父さん」

「そう、キミの父君だ。我々はキミの父君の命令を受けてここにいる……これも兄から聞いているかな」

 

 

 父親か、と、紀沙は思った。

 紀沙が思い浮かべる父・翔像の姿は、10年前で止まっている。

 2年前に偵察機の写真で、そして今年に入ってイギリスでの会見で姿を見たが、自分の知る父親とは重なるようで重ならなかった。

 

 

「千早提督は、キミのことをとんだお転婆娘だったと言っていたよ」

 

 

 今もそのようだ、と言いたげにゾルダンはそう言った。

 紀沙としても反論するつもりは無かった、ただそんなことを言う父親の姿を思い浮かべた。

 やはり、自分の知っている父親とぴったり重なると思えなかった。

 

 

 10年、人間が変わるには十分すぎる時間だ。

 父親も、兄も、そして自分も。

 ――――父は、母の死を知っているのだろうか。

 

 

「まぁ、こうして2人きりと言うのも何かの縁だ」

 

 

 不意に、部屋が明るくなった。

 外は吹雪が酷くなっているのだろう、小屋の窓枠が頼りなさげに音を立てていた。

 薪ストーブの火に照らされながら、ゾルダンがこちらを向いた。

 

 

「少し、キミの父君の話でもしようか」

 

 

 精悍な顔立ちをしているが、頬に少し煤がついていて。

 それが何だか悪戯盛りの少年のようで、紀沙は思わずクスリと笑ってしまった。

 意外なことに、ゾルダンはそれにバツの悪そうな顔をしたのだった。

 ごほん、と咳払いの音が響いた。

 

 

「……欧州大戦は、すでに4年続いている」

 

 

 ――――ゾルダンは、義勇兵だった。

 と言うのは表向きの話で、実際はドイツ国防軍特殊作戦師団に所属する正規の軍人だった。

 義勇兵を名乗っているのは方便と言うものであって、祖国の利益のために欧州各地の戦場を転々としていた。

 

 

 ある時はフランスで、ある時はスペインで、またある時はウクライナで。

 ゾルダンの祖国であるドイツは未だ正式に欧州大戦に参戦していないが、事実上はゾルダンのような義勇兵を使い参戦している。

 正規軍を使わないのは、宿敵フランスがスペインとの戦いで消耗するのを待っているからだ。

 

 

「最初の2年間、私は欧州の戦場と言う戦場を渡り歩いていた」

 

 

 スペイン軍によるジブラルタル攻略戦。

 フランス軍によるアンドラ奪還戦。

 ウクライナ軍によるロシア軍迎撃作戦。

 その他多くの戦場に赴き、数多の戦いと死を見てきた。

 

 

 死が溢れていた。

 昨日までカーニバルが開かれていた街が翌日瓦礫の山へと変貌したのを何度も見た。

 昨日まで笑っていた人々が、次の日には肉片を残して消えてしまうのを何度も見た。

 そして、それらを祖国の名の下に行っていたのはゾルダン自身だった。

 

 

「…………」

 

 

 紀沙は、思う。

 日本には、そう言うものは無かった。

 数多く行われた棄民政策によって餓死する者はいても、()()()()()と言うことは無かった。

 もちろん、統制軍の強力な武力が背景にあってのことだが。

 だからゾルダンが何を見たのかについては、紀沙には想像の域を出なかった。

 

 

「私がキミの父君に出会ったのはそんな時だった。欧州大戦の4年間、その後半の2年間は、千早提督の下で鍛えられる2年間だった。楽では無かったが、今では感謝している。私に生きる意味を与えてくれた」

 

 

 ゾルダンは、父を尊敬しているようだった。

 言葉の端々からそれがわかるが、尊敬と言うのも、もしかしたら違うのかもしれない。

 

 

「キミはどうだ、千早紀沙」

「……どう?」

「父君のイギリスでの会見は全世界に報道された、キミも見たはずだ。その上で問いたいのだが、キミは父君と歩む気はないか?」

 

 

 欧州大戦に介入し、世界の秩序を取り戻す……だったか。

 戦争を終わらせるために戦争するという理屈はどうかとも思うが、霧の力による恐怖で人々を押さえつけようと言うことだろう。

 ふと、思う。

 ゾルダンは何故、そのようなことを自分に言うのだろう。

 

 

「私の答えは」

 

 

 ただ、こう言っておけば間違い無いと思った。

 

 

「私の答えは、兄さんと同じです」

 

 

 紀沙は群像のことを良く理解している。

 それはきっとゾルダンよりも、そして父・翔像よりも深くだ。

 だから紀沙は、それ以上の答えを用意する必要を感じなかった。

 パチパチと薪ストーブが音を立てる中、ゾルダンの嘆息だけが小屋に響いた。

 その晩は結局、互いに何も話さなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 朝になって、ゾルダンと紀沙は小屋を出た。

 2人がそうであったように、高台を目指すのは誰にでも思いつくことだ。

 だから、探すまでもなくあっさりと出会ってしまった。

 

 

「とりあえず、人質交換といかないか」

(あれ、私って人質だったっけ)

 

 

 ゾルダンの言葉を他人事のように聞きながら、紀沙は今の自分の状況を省みた。

 自分の隣にはゾルダンがいて、そして正面には自分達以外の人間がいる。

 高台へ向かう丘陵の半ばと言ったところだろうか、雪に潰された草花と水分で濡れているため、足元は悪い。

 

 

 そして自分達の正面にいるのは、群像達である。

 冬馬とジョンが一緒にいたのは意外だが納得できないものでは無い、が、もう1人は意外だった。

 それがゾルダンの言うもう一方の「人質」、フランセットである。

 最も紀沙はフランセットのことを知らないので、ゾルダンの言葉から予想しただけだが。

 

 

「あらゾルダン、彼らは私を歓待してくれただけよ?」

 

 

 そして人質もそう言い出す始末なので、フランセットも特に敵扱いは受けていなかったのだろう。

 拘束されている様子も無いので、本当に歓待されていただけなのかもしれない。

 

 

「ねぇ艦長殿、これって人質交換が成立していないんじゃないかな」

「まぁ確かに……」

 

 

 そして、いつの間にか横にいるスミノ。

 彼女が神出鬼没なのは今に始まったわけでは無いが、今回は特にだ。

 さらに、彼女達だけでは無いようで。

 

 

「艦長!!」

「群像」

 

 

 2501とイオナが何故か宙から降りてきて、それぞれの艦長の傍らに着地した。

 どこかから跳躍でもしてきたのか。

 もしかしたら、スミノ達も高台から自分達を探していたのかもしれない。

 ……「姐さぁ――ん待ってぇ――っ!」と声が聞こえるが、聞こえないふりをした。

 

 

「確かに、人質とは言えなくなったな」

 

 

 メンタルモデルを侍らせている以上、戦力は互角になった。

 また三竦みかとメンタルモデル達は思ったが、千早兄妹が組むなら2501が弱い立場と言えるかもしれない。

 ただ、それは杞憂であったかもしれない。

 

 

「……兄さん?」

 

 

 何故なら、群像がふいと身体を横に向けたからだ。

 彼は上を見上げていて、どうやらまだ高台を気にしている様子だった。

 そして、群像は言った。

 

 

「他のクルーを探そう。大丈夫だとは思うが、一晩だ。救助を待っているかもしれない」

 

 

 ゾルダンも紀沙も、元々は仲間を探すために高台を目指していたのだ。

 群像の意見に、否やは無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スミノ達3隻の艦体は、近隣の海底に着底していた。

 特にミラーリングシステム展開中の2501に突撃を敢行したイ404の損傷は激しく、ナノマテリアルの供給が無ければ艦体を再構成することは出来なかっただろう。

 そしてイ404にナノマテリアルを供給したのは、ヒュウガから供給を受けたイ401だった。

 

 

「悪いね、401」

「いや、構わん」

「姐さんっ、姐さんっ」

 

 

 ヒュウガから直接供給を受けないのは、ヒュウガが「お姉さま~!」と叫びながらイオナを抱き締めていたからだ。

 だからスミノは自分と同じ背丈のイオナを見上げなければならなかった、

 何しろイオナはヒュウガに抱き上げられて、頬ずりされているのだから。

 

 

「キミも意外と大変そうだね」

「そうでも無い。それにお前も」

「……いや、まぁ」

「え、姐さん何か大変なんスか? このトーコ姐さんのためならどこでも突撃するっスよ!」

 

 

 イ15の声を無視しつつ、スミノは目の前の光景を見つめた。

 彼女達はすでに海岸に来ており、沖合いには数隻の艦が身を寄せ合うようにして投錨していた。

 艦体修復中の3隻――U-2501の側には『ミルヒクー』と言う補給艦が浮上している――を含む霧の艦艇群も相当なものだが、それ以上に人間の数が多かった。

 

 

 冬馬や良治、梓等のイ404のクルーはもとより、杏平や静等のイ401、さらにはロムアルドとフランセットの姿もある。

 スミノの認識している限り、彼らは敵同士だったはずだ。

 イ404とイ401のクルーも明確な意味で()()では無い。

 にも関わらず、彼らは皆楽しそうに話していた。

 

 

(人間はみんなわかり合えるって?)

 

 

 医者のいない他の艦のクルーも含めて診察をする良治、副長同士で何か話し込んでいる様子の恋と僧、一緒にいたらしいいおりと蒔絵は静を交えておしゃべりをしているようだし、杏平と梓はロムアルドと火砲の話でもしている、そしてジョンが軽快な音楽を鳴らしながらイェーイと踊り、あおいが静菜を振り回して踊っている、フランセットも付き合っているようだ、冬馬は踊っている女性の身体の一部分を凝視していた。

 

 

 少し前までまさに敵だった、いや殺し合いさえしていた人間達の交流だ。

 そして、明日には殺し合っているかもしれない人間達だ。

 だが今は互いに笑い合い、語り合っている。

 共に極寒の一晩を過ごしたことが、互いの距離を縮めたのかもしれない。

 

 

「……人間、か」

 

 

 人間。

 そう呟いた後、スミノは視線を別の方向へと向けた。

 そちらには、クルー達から離れた場所で話し合う3人の姿があった。

 

 

「親父は、ヨーロッパで何をしようとしているんだ?」

 

 

 紀沙は、群像がゾルダンにそう聞くのを聞いた。

 そして、ゾルダンが嘆息するのも聞いた。

 

 

「キミ達は我々に勝利できなかった。そんなキミ達に教えることは無い」

 

 

 道理ではある。

 しかし、つまらない答えではあった。

 続けて、ゾルダンは言った。

 

 

「だが我々もキミ達を倒せなかった。だからキミ達がヨーロッパに行くことを止めるつもりは無い」

 

 

 プライド、脳裏に浮かんだのはそれだった。

 このゾルダンと言う男は、行動の中に芯となるものを持つタイプなのだろう。

 筋の通らないことはしないと言うのは、好感触ではあった。

 ただ、少しばかりケチだと思っただけだ。

 

 

「ただ一つだけ忠告するのなら、ヨーロッパにはキミ達の想像を絶する試練と、真実が待ち受けていると言うことだけだ」

 

 

 霧とは何か。

 千早翔像の求める新たな秩序とは何か。

 そして、霧が現れてよりこの世界に起こった変化とは何か。

 ――――そして。

 

 

「キミの身体に起きている()()も、ヨーロッパに行けばわかるだろう」

「……!」

 

 

 全てが、ヨーロッパで待ち受けている。

 それがヨーロッパからの刺客、ゾルダンの最後の言葉だった。

 次に相見(あいまみ)える時は、やはり敵だろう。

 だが、何故だろう。

 

 

「……本当に、ヨーロッパに来ないことを望んでいたよ」

「……?」

 

 

 その言葉を告げた時、ゾルダンの瞳に寂しげな色を見た気がした。

 正面から見つめられていた紀沙だけが、それに気付くことが出来た。

 だがそれにどんな意味があるのか、この時点の紀沙にはわかるはずも無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ユキカゼ』にとって、『ヤマト』――ヤマトとコトノは、旗艦(主人)であり母親にも等しい存在であった。

 ユキカゼがメンタルモデルを形成できているのはヤマトが演算力を分け与えてくれているからであって、今では彼女はメンタルモデルを非常に気に入っていた。

 

 

「それじゃあ、ユキカゼ。お願いね」

「承知致しました。ヨーロッパのイ8と合流し、観測を続けます」

 

 

 だからヤマトから「ヨーロッパに行け」と命じられた時も、すぐに是と答えた。

 ヤマトとコトノが無理強いをする「性格」では無いことは理解していたので、はっきり是と答えないと他の艦に任せてしまうのだ。

 ユキカゼとしても、それは嫌だった。

 

 

「群像くん達が、とうとうヨーロッパに向かうようね」

「ええ」

 

 

 ヨーロッパ、すべての霧の故郷。

 ヤマトとコトノは群像達がヨーロッパに行けるよう計らってきたが、実際に行き着けるかどうかは当人達の運と実力次第だった。

 だが彼らは幾多の困難を乗り越え、最初の扉を潜ることに成功した。

 

 

 しかし、ここからだ。

 今までの戦いは前章に過ぎない、ここからが本当に大変なところだ。

 霧の総旗艦ヤマト、しかし彼女は動かない。

 彼女はただ見守り、祈るだけだ――今は、まだ。

 

 

「きっと大丈夫よ。ヨーロッパには、おじ様も……ムサシもいるのだから」

「そうね。けど、あの子達も結構ガンコだから」

 

 

 待つ女、などと気取るつもりは無い。

 だがコトノは、心から群像達の無事を祈っていた。

 そして、怯えてもいた。

 そっと自分の唇に触れた指先は、かすかに震えてもいた。

 

 

 ()()()()に、群像達が辿り着いた時。

 はたして群像は、自分を許してくれるだろうか。

 はたして紀沙は、自分達を許してくれるだろうか。

 コトノは、メンタルモデルの身体を震わせていた。

 

 

「…………」

 

 

 そんなコトノの姿を、ヤマトは見つめていた。

 その眼差しは母のようであり、姉のようであり、古くから共に過ごした親友のようでもあり。

 小波と海鳥の鳴き声だけが、彼女達を包む込んでいた――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

第3回目の募集、多数のご応募ありがとうございました。
皆様の投稿キャラクターを踏まえまして、ヨーロッパ編に入っていこうと思います。
とりあえず次回は、時間稼ぎに北極観光です(え)

それでは、また次回。


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Depth040:「北極海」

 霧の海洋封鎖によって、島国であるイギリスは孤立している。

 それが一般的な人々の認識であり、イギリスに住む人々自身もそう考えている。

 しかし、これはある意味では正しくない。

 イギリスは、決して孤立などしていないのだから――――。

 

 

『――――お加減はいかがかしら、首相閣下』

「おかげさまで大分良くなりました、エリザベス大統領閣下」

 

 

 シティ・オブ・ウェストミンスター・ダウニング街(ナンバー)10。

 イギリス首相官邸の一室で、その会談は行われていた。

 アメリカ大統領とイギリス首相による電話会談である。

 

 

 衛星回線を通じた電話会談、海を渡れない以上それ以外に方法は無いが、当然霧には傍受されている。

 しかし、構わなかった。

 何故なら今日彼らが話しているのは、むしろ欧州の霧に聞いてほしい話だったのだから。

 

 

『日本のイ号潜水艦2隻は、そろそろ北極海に入った頃でしょう』

 

 

 現在、欧州は群雄割拠と言って良い混沌とした状況にあった。

 人類、霧の欧州艦隊、千早翔像率いる緋色の艦隊、そして欧州奥地のとある新興勢力。

 その中で最も弱いのはもちろん、人類だ。

 しかし千早翔像の緋色の艦隊と同盟を結んだ――イギリス政府が緋色の艦隊に根拠地を提供する代わりにイギリス本土の安全を保障する――イギリスは、異色の存在ではあった。

 

 

「日本の艦船が親善以外の理由でヨーロッパに来るのは、何十年ぶりのことか」

『お気持ちはお察し致しますわ。我々も同じような気持ちでしたもの』

「マダムにそう言って頂ければ、私も幾分か気が楽になります」

 

 

 画面の中でエリザベス大統領が柔和に微笑むと、首相――片眼鏡(モノクル)姿の老人も笑みを見せた。

 霧の封鎖下にあっても主要国の首脳は連絡を取り合っているが、中でもイギリスとアメリカは特別な関係にあった。

 封鎖前にイギリスが全世界に張り巡らせていた軍事・諜報網は霧の封鎖下でも有用で、さらにイギリスは()()()()()()との間に特別なパイプを持っている。

 

 

 だから人類による<大反攻>の盟主たらんとするアメリカにとって、イギリスは最重要の同盟国だ。

 一方でイギリスは緋色の艦隊――霧の一派と同盟を結んでいる。

 いやそもそも、大戦以前から欧州大陸のいくつかの国々と結んでいる同盟も有効なままだ。

 さて、ここでもう一度問うておきたい。

 

 

『くれぐれも、イ号潜水艦のクルーをどうぞ宜しくお願いしますね』

「ははは、大統領閣下にそう言われると。無碍には出来ませんな」

『あら、うふふ……』

「ははは……」

 

 

 イギリスは、孤立しているだろうか?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北極海航行1日目。

 イ404は、浮上しながらベーリング海峡を通過していた。

 ベーリング海峡はアラスカと東シベリアの間にある狭隘(きょうあい)な海峡だ。

 温暖化の影響で幅はさらに狭く、一方で水深は深くなった。

 

 

「うっひゃあ~さっみーなオイ!」

 

 

 深くなったとはいっても100メートルも無い浅い海で、潜行して進むには少し心許ない。

 だから浮上して進む、イ404は艦隊のちょうど中ほどだ。

 北極海には霧も少ない、比較的安全な海域だった。

 イ404の甲板に出た冬馬は、防寒具を抱き締めるようにしながら声を上げた。

 

 

 氷点下の海だ、肌を刺すような寒さは辛い。

 冬馬の後に続いて甲板に上がって来た紀沙も、頬に冷たい空気を感じて身を震わせた。

 確かに寒い、が、イメージした程でも無い。

 温暖化の影響で純粋な意味での北極圏も後退し、気温も上がっている。

 

 

「さっみ! 艦長ちゃんさっみ、寒いなー!」

「私が寒いみたいな言い方はやめてください」

「突☆撃!」

「何でか無性に苛立ちます」

 

 

 冬馬や紀沙が着ている統制軍の支給品の防寒具(コート)は一見薄く見えるが、軍用品だけに防寒性は高い。

 吐く息は白く空気は冷たいが、意外と体温は失われていない。

 透けるような青空と澄み切った透明な空気は、十数キロ向こうの陸地まではっきりと見せてくれた。

 

 

「やぁ、あれがセント・ローレンス島ですか。話に聞いた通り、トナカイらしき影が見えますね」

「ほんと? 見たい!」

 

 

 艦の後ろでは、紀沙達よりも一足先に外に出ていた恋と蒔絵が双眼鏡で島を見ているようだ。

 紀沙は島の名前までは知らないが、話を聞く限りトナカイがいるらしい。

 そう言えば、紀沙も実物のトナカイは見たことが無いなと思った。

 せいぜい、子供の頃に見たサンタの絵本の中くらいか。

 

 

「ここからだいたい、ヨーロッパまで2週間くらいの行程ですね」

「まぁ、真っ直ぐ目指してどうぞって話でもねーしな。年明けはヨーロッパかね」

「そうですね」

 

 

 海峡を抜ければ、そこから北アメリカ大陸――カナダ沿岸を通る形で、北西に進む。

 北極海は未知の海域だ、海中の進路も狭く危険が伴うだろう。

 慎重に進んで、し過ぎると言うことは無いはずだった。

 この美しい海は、ともすれば自分達を容易に沈めかねない相手なのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北極海航行2日目。

 チュクチ海と呼ばれるその小さな海はまだ水深が浅く、潜行しての航行は出来ない。

 いわゆる大陸棚と呼ばれる、陸と地続きだが海中にある地面の上にある海だ。

 当然、寒い。

 

 

「寒い時こそダンシ――ング! 軽快なリズムでボディをポッカポカよ!」

「はい先生! 俺は男女でペア組んでくんずほげ」

「ふんっ!」

 

 

 艦内はある程度空調が効いているが、艦全体を常に適温に保つのは非効率的だ。

 それに余り外気温と隔たりがあるのも不味いので、それなりの気温に保たれている。

 つまりそれなりに寒いのである。

 となれば当然、温まるために何かしようと言う話になる。

 

 

「はーいグッドですヨー! はい、ワンツーワンツー!」

「はっ、はっ、は――っ!」

「あおいさんが普段からは想像できないくらい真面目に動いてる……!」

「何か、潜水艦生活してるのに体重増えたらしいよ」

 

 

 ちなみにジョンのダンス教室に最も熱を入れてるのはあおいだった。

 まさかのジャージ姿でダンスである。

 恋の言う通り普段のあおいからは信じられないくらいに真剣であった。

 そして梓に殴打されて床に転がった冬馬は、大いに跳ねるあおいの一部分を凝視していた。

 

 

 まぁ、体重云々はともかく運動は艦船乗りの義務のようなものだ。

 何しろ狭い――霧の艦艇はさほどでも無いが――艦内だ、こもっていると身体がなまってしまう。

 だから定期的に運動して、身体が衰えないようにしているのだ。

 これは割と重要なことで、長期航海する艦船乗りの宿命のようなものだ。

 

 

「紀沙ちゃん」

 

 

 その様子をぼうっと見つめていた紀沙だが、不意に声をかけられて顔を上げた。

 すると良治がいて、随分と深刻そうな顔で紀沙のことを見つめていた。

 そして、言った。

 

 

「今日こそ脱いでほしい」

 

 

 営倉(えいそう)にブチ込むか悩んだが、その前に静菜が処刑してくれるようだった。

 帯刀していたようには見えなかったが、どこからともなくスラリと抜き身の刀が出てきて、良治の首を薄皮一枚切っていた。

 瞬時に、良治が脂汗を流して両手を上げた。

 

 

「あいや間違えた! 間違えました! 診断、診断だよ!? 他意は無いよだって僕ムチムチなお姉さんがタイプなんだ! 紀沙ちゃんだと肉付きがかなり物足りないかな!」

「馬鹿野郎がお前! それが希少価値ってもんだろが!」

「オウ! ミニマムは見ててつまらなーいヨ!」

 

 

 男性陣全員を上官侮辱罪で営倉にブチ込むことに決めた。

 蒔絵がきゃらきゃら笑っていたことが、救いと言えば救いだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北極海航行4日目。

 イ号艦隊はチュクチ海を抜け、いよいよカナダ北部に広がる北極諸島に入ろうという時だった。

 ボーフォート海、かつては1年中青白い海氷に覆われていた極北の海である。

 温暖化の影響で氷は薄まり、冬の気配が漂うこの時期でも一部には開けた海が広がっている。

 

 

「……ッ! 何!?」

 

 

 早朝のことだ。

 イ404は氷を潜るように海中を進んでいて、紀沙は蒔絵と共に自室で就寝していた。

 外のことに機敏な蒔絵が飛び起きて、それで紀沙も目を覚ました。

 視界に入る銀の一房を横にどけながら、紀沙はベッドの上で身を起こした。

 

 

 先に起きていた蒔絵は、怯えたように身を縮めていた。

 ぬいぐるみを抱き締めている様は可愛らしいが、いったい何に怯えているのだろうか。

 すると、すぐに原因がわかった。

 

 

「……何の音?」

「ねぇ、これ何? 大丈夫なの?」

 

 

 ガラスを吸盤で擦ったような、そんな音だ。

 重厚で、しかもそれは複数聞こえてくる。

 いくつも重なり合って聞こえるその音は、酷くおどろおどろしいもののようにも思えた。

 それに音が大きく、やけに近くに音源があるようだった。

 

 

「恋さん、これは?」

 

 

 蒔絵を抱き寄せながら、発令所に当直として詰めている恋に訪ねた。

 敵にしては様子がおかしく、奇妙な感じがした。

 そして、恋から返って来た返答は意外なものだった。

 

 

『艦長、これはクジラです』

 

 

 北極にだけ住むクジラがいると言う。

 クジラの鳴き声など聞いたことが無かったので、「クジラ?」と聞き返してしまった。

 しかし言われてみれば、動物の鳴き声に聞こえて来た。

 何とも不思議な、身体の奥に響く鳴き声だった。

 

 

 いくつも聞こえるのは、イ404がクジラの群れに紛れ込んでしまったからだろう。

 まさか、仲間だと思われているのだろうか?

 だとしたら、童話のような展開だ。

 相手の姿は見えないが、自分達は今クジラと共に海の中にいるのだ。

 

 

「クジラ? 図鑑で見たことある、これがそうなんだ」

 

 

 怖いものでは無いとわかったからか、蒔絵は素直に感心していた。

 暗い海の中だから、映像を出しても姿をはっきりと見ることは難しいだろう。

 でもだからこそ、鳴き声がより幻想的に聞こえるのかもしれない。

 恐ろしさと、そして生命の賛歌を含む声。

 

 

「きれい。ねぇ、どんなクジラなのかな」

「んー……きっと綺麗な顔してるんじゃないかな」

 

 

 現金なもので、蒔絵はすっかりクジラ達のコーラスが気に入ったようだった。

 それにクスリと笑みを漏らして、紀沙はベッドに横になった。

 目を閉じて、そうするとよりはっきりとクジラ達の声が聞こえる気がした。

 今日は、クジラと泳ぐ夢でも見ようか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北極海航行5日目。

 一路ヨーロッパを目指しているイ404だが、寄り道をしなければならないこともある。

 補給もあるし、買い物が出来ればなお良い。

 それに加えて『白鯨』が離れた今、イ404艦長である紀沙は日本政府の特使としての性格を帯びてもいた。

 

 

「おーおー、逃げてる逃げてる」

 

 

 昨日はクジラに悪いことをしたが、今日はシロクマに悪いことをしたようだ。

 フィールドを纏ってハドソン湾の海氷を砕きながら浮上したので、付近にいた動物達を驚かせてしまった。

 氷の上を親子で連れ立って駆け逃げていくシロクマの後ろ姿を見送りながら、紀沙は白い息を吐いた。

 

 

 氷点下の気温にも段々と慣れてきたが、氷上だとなおさらだ。

 そして、ここでふと気付くことがある。

 紀沙が着ている軍用コートについている階級章が、初日の物と変わっていたのだ。

 具体的に言えば、線が1つ増えている。

 一昨日の昼間に本国からの通信の一部を辛うじて拾えたため、それを受けての措置だった。

 

 

(怖いぐらいに昇進が早い……)

 

 

 まだ学院を出て間もない紀沙が――首席卒業とは言え――この1年、いや半年間でここまで階級を上げるとは、通常ではあり得ない。

 まして今は本国の意思も届きにくい北極圏で半ば独自行動中だ、異例尽くめだった。

 そして異例尽くめのこの旅において、『白鯨』がいない今、紀沙はトップとしてクルーを導かねばならないのだった。

 

 

 嗚呼、どこまでも続く白海のハドソン湾。

 1年の半分近くが氷に覆われると言うこの海は、日本のどの海とも違う。

 初めての海、初めての世界だった。

 いや、それはアメリカに渡った時からわかっていたことだ。

 

 

「艦長殿、南西方向から人が来るよ」

「……ん、わかってる」

 

 

 そして今回は、そのアメリカ――エリザベス大統領からの通信だった。

 この地点なら日本よりアメリカの電波の方が良く入る、もちろん霧には傍受されるので、長く同じ場所にはいられない。

 大統領からの通信には、「イゴー・チャーチル」、とだけ記されていた。

 前者は紀沙達、後者はハドソン湾の都市の名前だった。

 

 

「カナダの北極軍……」

 

 

 カナダの国旗を掲げた氷上車両が数台、こちらに向かってきているのが見えた。

 白いプロテクターを装備したいかにも屈強そうな人間が、数十人程いるようだ。

 そしてその中に、明らかに軍人では無いスーツ姿の人間が何人か。

 カナダの役人だ、ハドソン湾はカナダの領域だから当然と言えば当然だろう。

 

 

「でも大丈夫かい? 不意打ちで撃たれるかもしれないよ」

「そんなことにはならない」

「わからないなぁ」

 

 

 紀沙と違って息が白くならないスミノは、言った。

 

 

「艦長殿はどうして人間ってだけで相手を信じられるんだい?」

「人間が人間を信じられなくなったら、おしまいだろ」

 

 

 よどみなく答えた紀沙に、スミノはふぅんと応じた。

 それは確かに「おしまい」かもしれないが、アメリカであんな目に合っておいて良く言えるものだ。

 いや、そもそも。

 紀沙は一度だって、サンディエゴの事件で相手を非難していない。

 

 

「それはまた、都合の良いことだね」

 

 

 いつもの嫌味だ、紀沙はそう思うことにした。

 それもまた、都合の良いことに含まれるのだろう。

 紀沙はそれを自覚したが、やはりそれも無視することにした。

 無視したかったのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北極海航行7日目。

 エリザベス大統領は、どうやら近隣の首脳に紀沙達のことを話してくれていたらしい。

 カナダとケベックの首脳に日本政府の特使として会った際、そのことを教えてもらった。

 何だか初めての一人暮らしに向かう娘を見送る母親のようで、有難いが少し気恥ずかしい気もした。

 

 

「何か、このくらいの気温なら平気になってきた自分がいます」

「脂肪を燃やすにはもってこいねー」

「斬新なダイエットですね」

 

 

 ハドソン湾から東進して海峡を抜けると、そこはもう大西洋だった。

 太平洋よりはいくらか凪いだ海に見えるのは、まだここが沿岸だからか。

 グリーンランドの首都ヌークに着いたのは、そんな頃だった。

 ラブラドル海と言う、流氷に覆われた海域を抜けて深夜に到着した。

 

 

 グリーンランドの警備隊――グリーンランドには重装備の軍隊がいない――の責任者と補給の相談をした後、早朝にグリーンランドの政府首脳を表敬して、すぐに出航する。

 こう言う時には自分が役に立てると、紀沙は思っていた。

 ナノマテリアルの補給は『マツシマ』で出来るが、人間用の物資はそうはいかない。

 

 

「それにしても、小さな町ねー」

「横須賀と比べるのもどうかと」

 

 

 深々(しんしん)と雪が降りしきる中、ランニングをすると言うのも豪胆なことだ。

 ただ艦内で何十時間と運動するよりも、外で30分身体を温めた方がずっと良い。

 そんなわけで紀沙達は警備隊の宿舎の中をゆっくりと時間をかけて走っていた、そこかしこに監視の目があるようだが、剣呑なものでは無かった。

 

 

「ジョンの話によると、グリーンランド(ここ)ではあまり霧は恐れられていないようです」

 

 

 正面を見据えたまま、静菜が言った。

 霧を恐れていないと言っても、別にグリーンランド人がバイキングのように勇敢と言う意味では無い。

 海軍を持たないが故に、霧の強さを伝聞でしか知らないのだ。

 それに人口が少なく資源が豊富――温暖化で肥沃な土地が増えた――なので、海上封鎖の切迫感も少ない。

 

 

「あ、みて~」

 

 

 不意に立ち止まって、あおいが空を指差した。

 そこには横須賀には無い満天の星空が広がっていたのだが、それだけでは無かった。

 曇りの無い漆黒の空、散らばる星屑、澄み切った空気、そして――――薄緑のカーテン。

 強弱と濃淡は様々だが、翠の薄絹が空を舞っていた。

 

 

 最初は霧が覆うように少しずつ、それがだんだんと強くはっきりと見えるようになる。

 数分も待つ頃には、ヌークの空全体がその色に染め上げられた。

 日本で聞いていたような儚げなものでは無く、思ったよりも力強い光量に驚いた。

 

 

「綺麗ですね」

「うん……」

 

 

 静菜の言葉に、素直に頷いた。

 オーロラ、確かそんな名前の現象だった。

 美しいと、紀沙は素直にそう思った。

 兄も、ヌークの沖合いで待っている群像も見ているだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北極海航行9日目。

 厳密にはもはや北極海では無いが、大西洋の入口と言う意味で日数に含めている。

 そこで、イ号艦隊はヨーロッパに入る前の最後の航路調整を行っていた。

 

 

「……イギリス?」

 

 

 アイスランド料理は香辛料をあまり使わないことで知られる。

 これはアイスランドの地理的な問題もあるが、質実剛健な国民性から質素な作り方を好むと言う側面もある。

 実際、焼く・煮るだけの素朴な味付けがこれ程に合う民族料理もなかなか無いだろう。

 

 

 所はアイスランド首都・レイキャビク。

 ヨーロッパへ向かう最後の寄港地だ、木造りの建物はレストランと言うよりは酒場と言うべきか。

 樽をテーブルに木箱を椅子に、まさにそんなイメージのオープンレストランだ。

 客はそれぞれに木製のジョッキを傾けていて、酒好きが多い様子だった。

 もちろん、紀沙達はノンアルコールである。

 

 

「次の目的地はドイツって言ってなかった?」

「ああ、そうなんだが」

 

 

 羊肉のソーセージ(リブラルビルサ)を口に運びかけたまま、紀沙は目の前に座る群像の顔を見た。

 群像は相変わらず何かを考え込んでいるような顔をしていて、紀沙がソーセージを口に入れて飲み込んだところで言葉を続けた。

 

 

「逆に考えてみたんだ」

「逆? あ、ありがとう」

「ありがとう」

 

 

 護衛の静菜が子羊肉の燻製(ハンギキョート)を切り分けてくれて、それを紀沙と群像の皿によそってくれた。

 やはり香辛料の香りはせず、燻された肉の匂いが鼻をついた。

 そしてイオナとスミノが何匹目かの羊を平らげるのを気にしつつ、群像に先を促した。

 

 

「ドイツに行くにしても北海を通過する必要がある。ここは古くからイギリスの勢力圏だ、当然相手も警戒しているだろう」

 

 

 地図を見れば、確かにそうなる。

 北海の北端にはイギリス領のシュトランド諸島があり、イギリス側――つまり緋色の艦隊の哨戒網を潜り抜けるのは難しい。

 かつてイギリス海軍はこの海域を支配し、大陸の大国の伸張を封じてきたのだ。

 

 

 と言って、アイルランド側から抜けたところで結果は一緒だ。

 より狭隘なドーバー海峡を突破するのはより難しいし、まさかスカンジナビア半島やイベリア半島から陸路でドイツを目指すわけにもいかない。

 つまり、ドイツに向かうのは困難を伴う、と言うことだ。

 

 

「それに相手……この場合は親父か。親父も、まさかいきなり自分達の膝元に乗り込んでくるとは思わないだろう」

「……なるほど」

 

 

 理に適っていると思った。

 北海を抜けるのに苦労するならいっそ、と言う考えには一理あると思った。

 相手の意表を突くと言うのも悪くない、兄らしい抜け目の無さだと。

 ただ、それだけでは無いはずだった。

 

 

 群像はきっと、焦れている。

 それは妹である紀沙だけが気付ける微妙な気の変化と言うもので、他の者にはわからないだろう。

 僧でも、正確にはわからないはずだ。

 唯一わかるはずの母親は、今はいない。

 

 

「そうだね、兄さん」

 

 

 ポツリと、零すように紀沙は言った。

 噛み締めるような、そんな声音だった。

 

 

「父さんに、会いに行こう」

「…………」

 

 

 ああ、また黙る。

 それを素直にズルいと思いながら、紀沙は笑った。

 しかし父に会いに行くとは行っても、それはそれで困難が伴うだろう。

 何しろ、大西洋を渡るのだ。

 

 

「霧の欧州艦隊の動向も調べないとね」

「その必要は無い」

 

 

 返事はすぐに、しかし兄では無かった。

 明らかに女の声であるそれに顔を上げれば、やはり女が自分達を見下ろしていた。

 テーブルの側に立つその女は、明らかに場違いな容姿をしていた。

 輝くような長い金髪にメガネ、そして素肌の上にレディーススーツと言う奇抜な出で立ち。

 

 

「欧州艦隊は()()()()

 

 

 そして、この発言。

 イオナとスミノが顔を上げると、彼女達は同じことを言った。

 

 

「「『フッド』?」」

 

 

 霧の欧州艦隊大西洋方面艦隊旗艦『フッド』。

 彼女はふんと鼻を鳴らして、紀沙達を見下ろしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――欧州のどこか、いつかの日の夜。

 赤茶けたレンガ造りの、天を突くような尖塔が特徴の建物に多くの人々が集まっていた。

 崩れた天井からは満月が良く見えて、その月明かりが半壊した建物中に光を注ぎ、人々の前に()の姿を見せ付けた。

 

 

「おお……」

「女神様……」

「おお、女神さま……」

 

 

 教会だ、しかしどこか様子がおかしかった。

 崩れた天井もそうだが、壁のほとんどに焦げ目のような黒ずみが見えて、そして教会の象徴とも言うべき十字架は半ばから砕かれていた。

 特に十字架の破壊後は鋭利な円形をしていて、まるで削ぎ落とされたかのようだった。

 

 

 そして十字架があるべきところには、棺があった。

 氷の棺、それが一番近い表現だろう。

 冷たく固く凝固されたそれは透明で、十字架があるべき場所に立てかけられている。

 その中には、20代半ば程の容貌の女がいた。

 胸の前で手を合わせ、眠るように目を閉じている。

 

 

「女神様……」

 

 

 人々は、彼女を「女神」と呼んだ。

 くすんだ銀色の髪の美しい女で、なるほど女神じみた美貌ではある。

 ただ、人々が跪いて祈る理由は美しさだけでは無さそうだ。

 その目には明らかに、畏敬の念が見て取れた。

 

 

「おお……!」

 

 

 そして、ざわめく。

 崩れた天井から光の粒子が降り注ぎ、星屑のように煌いたからだ。

 いや、その後に空から降りて来た存在にざわめいたのだ。

 人々は口々に「天使様」と言い、目に宿す畏敬の念はさらにその濃度を増した。

 

 

 そして天使、そう呼ばれた女――いや、少女も、確かに天使のような容貌をしていた。

 光の粒子は少女の背中から舞っていて、羽根のように見える。

 血のように深い紅の瞳、くすんだ銀色の髪は首を隠す程の長さで、首には錠前付きのチョーカーを着けていた。

 少女は傲然と、目の前で頭を垂れる人々を見下していた。

 

 

「女神様」

「天使様、おお天使様……」

「おお、何と神々しい……」

 

 

 女神、天使、傅く人々。

 ある意味で、教会にあるものとしては正しい。

 だが、どこかおかしい。

 そう思う人間は、しかしこの場には1人もいないのだった。

 

 

「…………」

 

 

 いや、1人だけいた。

 金髪碧眼の、毛先の跳ねが強そうな髪質の30代程の男だった。

 教会の入口に立ち、奥で行われている神秘的な出来事を見ていた。

 彼は哀しみに満ちた瞳で中の人々を、そして天使と呼ばれる少女を見つめた。

 そうして吐かれた息は、聞いているだけで陰鬱になるような、重々しいものだった……。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
今回は北極観光回でした、私は行ったこと無いんですけどねー。

北極って言ってもいろいろあるみたいで、とても勉強になりました。
北極の綺麗な雰囲気が少しでも伝わってくれればな、と思います。

それでは、また次回。


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Depth041:「神様のいる町」

 霧の欧州方面大西洋艦隊は、現在3つに分裂している。

 暫定的に旗艦の座に納まった『フッド』派、千早翔像と組み独自の行動を取る『ムサシ』派、そしてそのどちらにも与さない様子見派だ。

 比率で言うと5対2対3と言うところで、その意味では『フッド』は主流派と言えた。

 

 

 ただ『フッド』にとって問題だったのは、従った艦のほとんどが軽巡洋艦以下の小型艦だったことだ。

 一方の『ムサシ』についたのは『ビスマルク』を始めとする主力艦で、『ムサシ』につかなかった他の大型艦は『フッド』にも従うつもりは無いようだった。

 だがそれでも艦数は5対2、倍以上だ。

 戦いで相手を破れば、様子見の艦も『フッド』側に(なび)くだろう。

 

 

「で、そう考えて後先考えずに『ビスマルク』に決戦を挑んだ結果」

 

 

 アイスランドの酒場(レストラン)で、そのフッドが不機嫌に足を組んでいた。

 向かい合って座る形になった紀沙にしなだれかかっては押しのけられると言うことを繰り返しながら、スミノはニヤニヤしながらフッドを揶揄(やゆ)した。

 

 

「こんな無様を晒していると」

「私は無様など晒していない!!」

「艦体を失ったことが無様じゃないなんて初耳だよ」

「こ、これはっ、……ナノマテリアルの配分の結果だ!」

「つまりかき集めてやっとメンタルモデル一個分ってことでしょ? おお無様無様、巡洋戦艦『フッド』ともあろう者がさ」

「404、貴様……!」

「スミノ」

 

 

 紀沙が言うと、スミノはすぐに黙った。

 口笛を吹くのは余計だが、まぁ静かにはなった。

 すると今度はフッドが笑った、霧のくせに人間に従っているように見えて(あざけ)ったのだろう。

 

 

「それで」

 

 

 その流れを断ったのは、やはりと言うか群像だった。

 

 

「用件を伺おう、霧の巡洋戦艦フッド」

 

 

 霧の欧州艦隊、『ビスマルク』艦隊に敗北。

 その報せはまだ霧の共有ネットワークにアップされておらず、イオナもスミノも知らなかった。

 そして本来敵であるフッドがこうして群像達の前に姿を見せたことは、何か理由があるはずだった。

 するとフッドは長い脚を組み直して、群像に向き直った。

 

 

「ふ、何。お前達がこれからイギリスに向かうと聞こえてな。何も知らずに行くのも忍びないだろうと思ったのさ」

「すると、貴艦は何らかの情報を提供してくれると?」

「ふふん、そんなところだ」

「もったいぶってないで話しなよ、どうせ大した話じゃないんだし」

 

 

 またスミノが茶々を入れたが、フッドが機嫌を損ねる前に群像が先を促した。

 それに気を取り直したのか、フッドは咳払いと共に言った。

 ニヤリと口元に笑みを浮かべて、それでいてどこか、やはり不機嫌そうに。

 フッドは言った。

 

 

「――――フランスは、すでに『ムサシ』とアドミラル・チハヤに降伏したぞ」

 

 

 それは、確かに衝撃的な言葉だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大西洋沿岸の海軍基地の5割、内陸部に点在する陸軍・空軍基地の3割を破壊したところで、フランス政府は降伏した。

 大統領(エリゼ)宮殿と全ての核施設を照準(ロックオン)したと通告したところ、その翌日には国際チャネルを通じて降伏勧告の受諾が宣言されたのだ。

 さらにその翌日、フランスの大統領は執務室で自決した。

 

 

「思ったより粘られたわね」

「過去何度も大戦を生き抜いてきた国だ、気概が違う」

 

 

 休戦協定の署名は、ブルターニュ半島西端のブレスト軍港で行われた。

 突然の大役に戸惑っていたのだろう、調印に来たフランスの首相は頼りなさそうな人物だった。

 超戦艦『ムサシ』の巨大な砲塔の下で行われたそれは、休戦とは言っても事実上の降伏文書への調印と言うイメージをフランスのメディアに与えただろう。

 一方で、調印会場から去っていく翔像とムサシはまるでそのことを気にしていなかった。

 

 

「それでも、お父様の前では意味を成さなかったわ」

「お前の力があればこそだ」

「そんなことは」

 

 

 次はスペインだろう、と、ムサシは思っていた。

 降伏した以上はフランスも自分達が守るべき対象となる、今がチャンスと攻勢を強めてきたスペイン軍の撃破は義務のようなものだった。

 それに将来のためには、後顧の憂い(スペイン)を断っておくことは重要だった。

 

 

 加えて、フランス国内の反抗勢力だ。

 国民戦線だの救国戦線だのと言うレジスタンス組織が各地で立ち上がっていて、フランス南部を中心に勢いがあるようだ。

 地中海側なら『ムサシ』の砲撃が届かないと思っているのだろう。

 ――――舐められたものだ、すぐにその考えの愚かさに気付くことになる。

 

 

「……すまないな」

「?」

 

 

 そんな物騒なことを考えていると、翔像が不意に言った。

 すまない、と。

 ただムサシはそれに対して「いいのよ」と返した、本当に良かったからだ。

 この戦いは、ムサシ自身が望んだ戦いでもあるのだから。

 

 

「とにかく、これで聖地(ロリアン)は私達の手中。第一段階は完了でしょう?」

「……ああ、そうだな。後は」

 

 

 立ち止まって、翔像は後ろを振り向いた。

 もちろん、今も騒いでいるフランスのメディア関係者を気にしたわけでは無い。

 それよりも、もっと向こう、ドーバー海峡よりもさらに向こうを()()()()のだ。

 黒のバイザー越しに、翔像の視線が煌いたようにムサシには思えた。

 

 

「ヨーロッパに来るか、2人とも……」

 

 

 その顔はどこか笑っているようにも見えて、ムサシはクスリと笑みを漏らしたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 フッドによってもたらされた「フランス降伏」の情報は、紀沙達の足を速めた。

 アイスランドを出航した一行は一路南へと向かい、北海の北端に差し掛かろうとしていた。

 シェトランド諸島の西を抜けて、目指す先はスコットランドだった。

 

 

「スコットランドねぇ、あんまイメージ湧かねぇな」

 

 

 ポリポリと頭を掻きながら、冬馬は20年前に発行された旅行ガイドを開いていた。

 ソナー席で何をしようが彼の勝手だが、余り真面目に職務に精励している姿には見えない。

 

 

「そんなこと言って無いで、ソナーは大丈夫なんだろうね」

「いやまぁ、大丈夫って言うかねぇ」

 

 

 首を傾げながら、冬馬はコンコンとソナーの画面を叩いた。

 画面には聴音図が映し出されているのだが、どういうわけか真っ黒ななだった。

 

 

「不気味なくらい静かなんだよなぁ」

「そりゃ騒がしくする軍艦なんていないでしょうよ」

「いやそう言うことじゃなくてさ、何と言うか」

 

 

 声をかけていた梓が同じように首を傾げる、こちらは冬馬の言葉の意味がわからなかったようだ。

 ただ当の冬馬も珍しく言葉を選んでいるのか、何度か反芻した後に。

 

 

「……()()()()()、んだよな」

 

 

 そんな会話を聞きながら、紀沙は恋と会話していた。

 内容は今後の予定であって、スコットランド北部までやってきたのはイ401側との話し合いの結果による。

 南のイングランドは緋色の艦隊の勢力圏だ、対して北のスコットランドは古くからイングランドに反発してきた歴史もあり、実際イギリス海軍の基地の多くは南部に集中している。

 

 

 ただ、問題もある。

 スコットランド北端のオークニー諸島には、スカパ・フローと言う大きな入り江がある。

 ここは過去の大戦時代にイギリス海軍が根拠地としていた場所で、現在では霧の一大拠点になっていた。

 だから近付くに際しては細心の注意を、と思っていたのだが。

 

 

「何もいないと言うのはおかしいですね、もうスカパ・フローの哨戒圏内だと思うのですが」

「そうですね……」

 

 

 と言って、何が出来るわけでは無い。

 フッドによればスカパ・フローは『ビスマルク』艦隊が根拠地にしていると言うが、今のところそんな大型艦艇の反応は無かった。

 『ビスマルク』と言えばかつてドイツを代表した艦、日本で言う『ナガト』に近い艦だと言うのに。

 

 

「……静かですね」

「艦長、どうしますか」

 

 

 不気味だ、しかし不気味と言う理由だけで予定を変更するべきでも無い。

 予定ではスカパ・フローのある入り江の反対側に回り、イ401のクルーと共に上陸する予定だった。

 そして今、明確な危険があるわけでは無い。

 ――――紀沙は、決断した。

 

 

「イ401とマツシマに続いて、上陸します」

「「「了解」」」

 

 

 いったい、『ビスマルク』艦隊はどこに行ってしまったと言うのか。

 一個艦隊が忽然(こつぜん)と姿を消すわけが無い、何かあるはずだった。

 サンディエゴからここまで強行軍だった。

 だが今、それ以上の試練が目前にあるように、紀沙には感じられたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スカパ・フローがイギリス海軍の拠点だったことはずっと昔の話だ。

 温暖化の影響もあって沿岸にあった要塞や街はすでに失われ、今では数千人にまで減った周辺の島々の人々の生活の場でしか無い。

 しかしその生活の場は、想像していたような寂れた漁村でも豊かな農村でも無かった。

 

 

「ジョン、ここには1000人規模の町があるって言わなかった?」

「オゥ、間違いナッシングねー」

「じゃあ……」

 

 

 島陰に隠れるように上陸して1時間余り、紀沙達はカークウォールと言う町に来ていた。

 カークウォールの反対側にある入り江が、スカパ・フローである。

 このあたりは、スカパ・フローを取り巻く島々の中で最も規模が大きい地域だ。

 そのはずだった、のだが。

 

 

「……これは、何ですか?」

 

 

 大火、見て思ったのはそれだった。

 カークウォールはレンガ造りの建物が多く、電気や水道は整備されているが、町の半分は放棄されて荒れ放題になっている様子だった。

 ただ紀沙が言っているのはそう言うことでは無く、問題はむしろ放棄されていない部分だ。

 

 

 全て、黒く燃え崩れてしまっている。

 もちろんレンガや石材、コンクリート等は原型を留めてはいるが、街路樹や周辺の畑、あるいは建物の木材部分や窓等、そう言った部分は全て焼け焦げて崩れ落ちてしまっていた。

 まさか、と紀沙は思った。

 反対側のスカパ・フローには霧の艦隊がいたと言う、まさか……。

 

 

「いや、たぶん違うと思う」

 

 

 焦げた壁に指を這わせて、黒い炭を指で擦りながら、群像が言った。

 

 

「これは明らかに火災によるものだ。霧の攻撃としてはおかしい」

 

 

 ミサイルや主砲とは言っても、霧の攻撃は人間の使う兵器とは根本的に異なる。

 仮に火災が起こるとしても砲撃の結果、つまり間接的に起きる。

 ただそれにはどこかに霧の砲撃の痕が無ければおかしいのだが、この町にはそれが見えない。

 つまり、この町はそれ以外の理由で滅びたと言うことになる。

 

 

「お~い!」

 

 

 たとえそうだとしても、人々はどこに行ったのか。

 その問いへの答えは、手を振りながら駆けて来た杏平と冬馬が持って来た。

 彼らによれば、どうやら放棄されて見えた区画の方で人を見かけたと言うことだった。

 ともかく何が起こったのかを把握しなければと、そちらへと歩いて向かうことになった。

 

 

「…………」

 

 

 だが、紀沙達は気付いていなかった。

 彼女達が町の人々のことを見つけたように、逆に彼女達のことを見つけていた者がいたと言うことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 艦体を失ったとは言え、『フッド』は未だ旗艦資格を保持している。

 だが彼女に従う大西洋方面欧州艦隊はやはり弱く、『フッド』自身が『ビスマルク』に破れたことで軽巡洋艦以下の多くの艦が『ビスマルク』の艦隊に流れていた。

 それを止める術は、もはや『フッド』には無かった。

 

 

「と言って、アンタが呼び寄せた各地からの援軍も『ビスマルク』に各個撃破されていっている始末。今の霧は大きく戦力を削がれている状態と言えるわよね」

 

 

 だから彼女はイ号艦隊を利用しようと考えた。

 数々の霧との戦闘を潜り抜けて来た彼女達ならば、『ビスマルク』達を倒せないまでも良いところまで行くかもしれないと考えたのだ。

 だからアイスランドからスコットランドまで、『マツシマ』に同乗する形でフッドは紀沙達について来ていた。

 

 

 そのため、フッドの主な話し相手は自然とヒュウガになる。

 互いに艦隊旗艦の経験もあり、話が合う部分もあっただろう。

 しかしそれ以上にヒュウガはメンタルモデルを得てから凄まじい変化――いろいろな意味で――を経ているので、フッドは戸惑いを覚えずにはいられなかった。

 

 

「ヒュウガ、お前は『ムサシ』や『ビスマルク』の無法に怒りは覚えないのか?」

「正直に言えば、霧の艦隊に対して私は何も感じてはいないわね」

 

 

 あっさりとそう言ってしまうヒュウガを、フッドは理解できなかった。

 アドミラリティ・コードの徒である霧の艦艇にとって、群である艦隊への帰属意識は本能に等しいものだった。

 だと言うのに、ヒュウガにはそれが無いのだと言う。

 

 

「ただ『ムサシ』達がお姉さまに害を成すなら、それは私にとって許し難いものになるわ」

 

 

 一方で、お姉さま――イオナについては、執着して見せる。

 たった1隻の艦にそこまで固執するのは、ますます理解できない。

 しかしそんなフッドにも、1つだけ理解できていることがあった。

 

 

「それにしてもフッド? その格好、ぷぷ、お似合いでちゅわねー♪」

 

 

 耐えろ、と、フッドは自分に言い聞かせた。

 今は耐えなければならないのだと、『ビスマルク』を打倒するには耐えるしかないのだと。

 たとえナノマテリアルを制限されて身長が縮み、拘束具代わりに首輪を着けられ、フリフリひらひらのゴシックドレスを着させられようともだ。

 『ビスマルク』を倒すその日まで、フッドは耐え続けるだろう。

 

 

(見ていろ『ビスマルク』め、私はまだ諦めていないぞ……!)

 

 

 その忍耐力は賞賛に値するが、しかし結果が伴ってくるかはわからなかった。

 何しろ彼女は艦体を失っていたし、付き従っていた艦の多くは今や『ビスマルク』の配下だ。

 

 

「――――その忍耐に、意味は無い。でもフッドにはそれがわからないのね」

 

 

 そしてまた、フッドも気付いてはいなかった。

 彼女が不倶戴天の敵と決め付けている『ビスマルク』、彼女もまたスカパ・フローの様子を監視していたのだと言うことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どこにもいないと思われていた町の人々は、夜になると廃墟の中から這い出るようにして姿を現し始めた。

 おおらく焼失した町からかつて放棄した廃墟の区画へと避難していたのだろう、町の人々はほとんど全員がボロを纏っていた。

 そしてほとんどの者が痩せ細っている、それもただの痩せ細り方では無かった。

 

 

 異様な人々だった。

 ほとんど骨と皮だけになった顔にぎょろぎょろとした目、神経質にあたりを窺う挙動。

 そして同じ町の人々であるのに、彼らは一言も言葉を交わすことが無かった。

 それでいて月が中天に差し掛かった頃に同時に出てきて、同じ場所を目指してぞろぞろと歩いているのだ。

 

 

「今日ってハロウィンだったか?」

 

 

 当然そんなわけは無いし、全員がボロを纏ったお化けの仮装とか嫌過ぎる。

 しかし、そう思ってしまうのも無理は無い光景だった。

 行列を成して歩いていくボロの集団は、それだけのインパクトがあった。

 

 

「それで、あの人達は町の教会に向かっているんですね?」

「ああ、昼間に会った奴はそう言ってた」

 

 

 昼間はまさに誰もいないと言う風だったが、そんなことは無い。

 冬馬は昼間に出歩いていた町の子供を見つけて、彼にチョコレートを渡して話をして貰ったのだ。

 詳しいことは聞いていないが、おそらくその子も痩せていたのだろうと思う。

 この町はいったい、何なのだろうか。

 

 

「神様のいる教会、なんだそうだ」

「神様のいる教会?」

「子供の言うことだから何ともだが、らしいぞ」

「ミーも聞いたこと無いねー……」

 

 

 ジョンも知らないとなると、ごく最近に出来たものなのか。

 あるいはネットの情報に上がってこないような、隠されたものだったのか。

 いずれにせよ、ぞろぞろと歩く人々を見送っているだけでは何も解決しないのは確かだった。

 

 

「兄さん」

「ああ、行ってみよう。どうも妙な感じがする」

 

 

 頷く兄にさらに頷きを返して、紀沙は路地から道行く異様な人々を見ていた。

 やはり異様な光景だ、普通では無い。

 しかしそれ以上に気になるのは……。

 

 

「…………」

 

 

 左目にそっと触れながら、紀沙は思った。

 夜が深くなるにつれて、だんだんと左目の奥が疼くような気がする。

 この町には、何かがある。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 赤茶けたレンガ造りの教会に、人々は集まっていた。

 夜更けに教会に集まる人々と言うのは、どうにも不気味に見えてくる。

 周囲の人間に紛れてボロを纏った紀沙は、そう思った。

 仲間達もそれぞれどこかに紛れているはずだが、似たような印象を持っているだろう。

 とにかく異様な空気だ、本当に。

 

 

「女神様……」

 

 

 そして、これだ。

 何も語らない寡黙な人々だが、口々に同じことを言う。

 女神、天使。

 この2つの単語を、何度も繰り返していた。

 

 

 人々について歩きながら、紀沙は考えていた。

 女神や天使などと言う言葉が出てくるのは、大体は宗教絡みだ。

 しかしスコットランドにそんな単語が出てくる宗教があったかと言うと、正直怪しかった。

 と言うか、そんな宗教に心当たりがあまり無かった。

 

 

(そもそもこの人達は、この教会で何を?)

 

 

 しかもこんな夜更けに、いったい何なのかと。

 夜に人目を忍ぶように、それもこれだけの人数の痩せこけた人々が集まって。

 その疑問は、すぐに解決された。

 中天の月が天頂に達した頃、教会の中に光が降り注ぎ始めたのだった。

 

 

 あれは、と紀沙は思った。

 崩れた天井から雪のように降って来たそれに、紀沙は見覚えがあった。

 灯りの無い教会の内部では、月明かりだけが光源だ。

 その中でキラキラと振ってくるその光は、とても目立った。

 

 

「……っと」

 

 

 不意に人々が床に膝をつけて祈り始めたので、紀沙もそれに合わせた。

 その時、直後に教会の奥から強い輝きが放たれてきた。

 月明かりがあるにも関わらず、不気味な闇に覆われていた奥だ。

 そこにあったものに、紀沙は目を見開いた。

 

 

(あれは十字架……? じゃない、あれは)

 

 

 氷の棺、どこかで見たものがそこにあった。

 驚く程に酷似している。

 しかし棺の中にいる人物は、紀沙の記憶の中にあるもの――母のことだ――とは違った。

 母よりも若い女性が、くすんだ銀髪のアップヘアの、シスター服に身を包んだ女性が眠るように安置されていた。

 

 

「女神様……!」

 

 

 そして、その棺の女性に対して人々は一心に祈っていた。

 棺の女性を女神と呼び、まさに神の如く崇めていた。

 それにあれは、雪のように降り注ぐあのキラキラとした光の粒は。

 ――――ナノマテリアルでは、無いのか。

 

 

「天使様!」

 

 

 さらに大きな声が上がって、紀沙はそちらへと顔を上げた。

 天井の穴から、1人の少女がこちらを見下ろしていた。

 月明かりが逆光となっているにも関わらず、瞳の色は赤だとわかる。

 血の色が空から降って来ているような、そんな色だった。

 

 

 そして、紀沙にはわかった。

 くすんだ銀色の髪のあの少女が、人ならざる者であることを。

 少女が天使の如く広げている光の羽根が、ナノマテリアルの粒子によるものであることを。

 天使などと人々に呼ばれ、崇められている少女の正体が。

 

 

 ――――()()()()()()()だということを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙達がヨーロッパに上陸すると時期を同じくして、横須賀に上陸した者達がいた。

 ()()()は夜陰に紛れて水辺に上がり、打ち捨てられた旧横須賀の街からフェンスを超えて現在の横須賀市内に侵入した。

 出で立ちは、どこにでもいる年若い少女だ。

 しかしその戦力は、日本全土を焦土に出来る程に過剰である。

 

 

「ほほう、ここが横須賀ですか」

 

 

 メイド姿のヴァンパイアがあたりをきょろきょろと見渡す。

 浮き舟にバラックだらけの街並みが珍しいのだろう、昼になれば闇市が賑わうはずだ。

 ただ、残念ながら彼女達は闇市の見学に来たわけでは無かった。

 

 

「機会があれば、また色々と散策してみたいものです」

「そんな暇は無いわよ、調べるものを調べたら私達もすぐにヨーロッパへ向かうんだから」

 

 

 リーダー格らしき少女――タカオは、蒼い髪に月明かりを反射させながらそう言った。

 月光に染まる勝気な少女は常にも増して美しく、そして格好が良かった。

 これがマヤとアタゴに対してタカオ自身が1ヶ月に渡り検証した「私が思う最高に美しい角度」を実行していなかったなら、もう少し別の感慨も湧いてきたかもしれない。

 

 

「このまま国道を進めば目的の場所よ、統制軍の巡回をやり過ごしながら進みましょう」

「あっれ、旗艦って私だよな?」

「登録上はそうなっているな」

 

 

 首を傾げるキリシマだったが、取り立ててそれを言い立てることは無かった。

 別に旗艦の地位に固執しているわけでもなし、仕切ってくれるならその方が楽だと思っている。

 それに、キリシマの果たすべき役目は別のところにあった。

 それがわかっているから、ハルナも何も言わない。

 ハルナの役目はキリシマをサポートし、タカオ達を支えることだった。

 

 

「さぁ、行きましょう」

 

 

 己が行くべき場所を真っ直ぐに見つめて逸らさず、タカオは仲間達に対して言った。

 

 

「――――海洋技術総合学院へ」

 

 

 海洋技術総合学院、千早兄妹達の母校。

 そしておそらく、()()()()()()()場所だ。

 タカオ達はそれが何なのかを調べに来たのだ、何か、そう、何かの真実を、だ。

 それが何なのかは、誰にもわからない。

 

 

 それでもタカオは、想っていた。

 見ていなさいよ、沙保里。

 アンタの子供達は私が守り、そして。

 ――――私以外の誰にも、沈めさせやしない。

 




最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
そして今さらですが、本作に登場する国・地域・組織は実在のものとは無関係です。

お気づきの方もおられるでしょうが、今回から数話はこの話が続きます。
これも一つの霧の形。

それでは、また次回。


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Depth042:「天使の正体」

 天使とは、天の使いである。

 彼らは神の御遣いであり、天上に住まう高位の存在だ。

 そして人間を導き、裁く存在でもある。

 

 

「天使様!」

 

 

 崩れた教会の床にその「天使」が降り立った途端、女がひとり前に進み出た。

 彼女は小さなくるみを抱いており、それは赤子だった。

 明らかに健康を害している様子で、顔は青白く息も浅そうで、何よりそんなにも具合が悪いのに泣きもしていないのがより深刻だった。

 

 

 そして女は、涙ながらに天使に訴えた。

 乳の出が悪く――それだけ痩せ細っていればむしろ当然だろう――赤子が死にそうだと、どうか救って欲しいとの訴えだった。

 天使と呼ばれた少女は小首を傾げながらそれを聞いていたが、おもむろに赤子の頭に手をかざした。

 

 

(読み取っているな)

 

 

 霧は目で人間の身体や他の物体をスキャンすることが出来る。

 レントゲンやCTスキャンを目でやっているわけで、生半可な医者より正確な診断が可能だった。

 そして、手だ。

 天使の掌からキラキラと輝くナノマテリアルが赤子に散らされると、変化が起きた。

 

 

 (せき)を切ったように、赤子が泣き始めたのだ。

 紀沙の目には、天使のナノマテリアルが赤子の身体を温めたのが見えた。

 熱は血流の促進を促し、それによって一時的に赤子の反応を高めたのである。

 しかし他の人間の目には、そうは見えないだろう。

 

 

「奇跡だ……!」

「ああ、天使様! 坊や、坊やが!」

「天使様!」

 

 

 奇跡、神の御技としか思えない。

 何故なら手をかざすだけで、弱った赤子の元気を取り戻してみせたのだから。

 カラクリを知らない人間から見れば、そうとしか見えないだろう。

 腹の立つ光景ではあるが、しかしこれは何だ。

 

 

(メンタルモデルが、こんなところで神様気取り?)

 

 

 意味がよくわからない。

 意図も読めない。

 周囲の人間は熱狂しているが、その分だけ紀沙は冷静に見ることが出来た。

 天使が自分に救いを求める人々を、酷く冷めた目で見ていることに気付いたのはそのためだ。

 

 

 それから、あの氷の棺だ。

 あの中に安置されている女性は、いったい何なのだ。

 天使が神に仕える者とするならば、あれは彼女の何だと言うのか。

 

 

「天使様!」

 

 

 そしてまた1人、声を上げる者がいた。

 今度は男で、彼は1人の子供の腕を掴んでいた。

 手柄を誇るかのように男の子の腕をひねり上げて、彼は叫んだ。

 

 

「背教者だ!」

 

 

 ヒステリックな叫びを上げる男の手には、もう1つ別の物が握られていた。

 教会の人々によく見えるように掲げられたその手には、チョコレートの包み紙が握られていた。

 その包み紙には、日本語が書かれていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 やっべ、と、冬馬は思った。

 しかし音一つ立てずに、ボロのフードを深く被り直した。

 ジョンはともかく、自分達は明らかに外国人、目立つことは控えなければならない。

 

 

(あちゃー……)

 

 

 だが、それでも冬馬は内心で慌てていた。

 おそらくどこかにいる杏平もそうだろう。

 何故かと問われれば、あのチョコレートは冬馬と杏平が子供に話を聞くために渡したものだからだ。

 まさかこうなるとは、予想だにしていなかった。

 

 

 ひとつ言い訳をさせて貰えれば、ここの住人がまさかこんなカルトじみた集団だとは思わなかったのだ。

 と言うか、予想できるはずも無いだろう。

 よもや霧のメンタルモデルがこんなところで宗教(カルト)を開いているなどと、予想できる者がいるとしたら連れて来いと言いたい。

 

 

「背教者め!」

「天使様の掟を破るなんて、何て子だろう!」

 

 

 とは言え、自分の行動のせいで子供が私刑(リンチ)に合う様を見ているわけにもいかない。

 では出て行くのか?

 ヒーローよろしく、ちょっと待ったと声を上げるのか?

 それもちょっと勘弁願いたい。

 

 

(やっべぇ)

 

 

 子供が、天使の前に引きずり出された。

 怯えきっているのか声も出せずに、子供は大人達に押さえつけられていた。

 そんな子供を、天使はやはり冷たい眼差しで見下ろしていた。

 らしくも無く冬馬は焦った、いくらなんでも寝覚めが悪い。

 それに、危惧もあった。

 

 

「やめろ!!」

(ほら来たぁ――――)

 

 

 出てきてしまった、彼らの主が。

 群像は微動だにしていないと言うのに、紀沙がその場に立ち上がってフードを取っていた。

 強い瞳で天使を睨むその姿は勇敢ではあるが、しかし無謀だった。

 そして不味いことに、彼女は「宗教」と言うものを理解していなかった。

 

 

「みんな聞いて、そいつは天使なんかじゃない!」

 

 

 冬馬は準備をした。

 心の準備だ。

 

 

「何が天使だ! そいつは霧のメンタルモデルで、奇跡でも何でもない。皆を騙しているんだ!」

 

 

 そんな紀沙に対して、天使はゆっくりとした動作で顔をそちらへと向けた。

 それだけであれば、紀沙は大して怯まなかっただろう。

 だが周囲の人々が一斉に紀沙を見たために、彼女は怯み、そして知ることになった。

 宗教というものが持つ、言葉にすることが難しい、そんな()()をだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 変化は突然だった。

 言葉を重ねるどころでは無く、教会は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

 紀沙をして、たまらず逃げ出す以外の選択を選べなかった。

 

 

「逃がすな、背教者だ!」

 

 

 かつてゾルダンに追い詰められた時、紀沙は死を覚悟したことがあった。

 だが今日、ここで感じたものはまた別のものだった。

 確かに恐怖を感じたが、死を予感したからでは無い。

 いや死は予感したかもしれないが、もっと得体の知れない何かを感じたのだ。

 それが何なのか、言葉にすることは出来なかった。

 

 

 まず、身を低くした。

 跳びかかってきた者達が頭の上でぶつかるのを感じながら、後ろに滑った。

 それで一つ目の集団は擦り抜けたが、そこで踏ん張ろうと言う気が紀沙には無かった。

 これは素晴らしい判断だった、下手に踏ん張っていたらどうなっていたかわからない。

 

 

「――――ッ!」

 

 

 脱兎。

 そう言うのがまさに正しいだろう、と紀沙自身が思った。

 教会の外までひた駆けて、夜の廃墟の中へと身を躍らせた。

 追いかけろと言う言葉を背に、紀沙は全速力で駆けた。

 

 

 他の皆も、この混乱の中で逃げるだろう。

 教会の人々は自分しか見ていない、なら自分が教会から離れれば離れるだけ、他の仲間達は安全になるとも言える。

 だから紀沙は逃げた、幸い反射神経と運動能力には自信がある。

 

 

「逃げたぞ!」

「あっちだ!」

「背教者を逃がすな!」

 

 

 とは言え、土地勘も無い場所で数十人、いや100人単位の人間に追われると言うのは恐怖だった。

 やはり何かに対する恐怖では無く、得体のしれないものへの恐怖だった。

 わかっていることは、捕まってはならないと言うことだけだ。

 しかしどこへ逃げるか、それが紀沙には俄かには判断できなかった。

 

 

(どこへ)

 

 

 と、思った時だ、視界の端で何かが動いたような気がした。

 いや、気のせいでは無かった。

 

 

「こっちだ!」

 

 

 人がいた。

 教会に人々が全て集まっていて、自分が飛び出して来た。

 つまり前方に人間はいないはずだが、その人物は紀沙の前方にいた。

 警戒したが、違和感を感じた。

 何故ならその人物は他の人々のようにボロでは無く、綺麗な外套(マント)を纏っていたからだ。

 

 

「早く!」

 

 

 後ろからだんだんと教会の人々の声が近くなっている。

 選択の余地は無かった。

 本能と言うか、直感に従った行動だった。

 紀沙は、声のした方へと駆け込んだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 頭上をどかどかと無数の人々の足音が通り過ぎていく。

 どうやら誰もここには――建物の陰にある地下の蔵、元々は非常用の食糧庫だったらしいが今は空だ――気付かなかったようで、足音はどんどんと遠ざかっていった。

 そしてその間に、きゅっきゅっと擦れるような音がして、ほどなく柔らかいランプの明かりが点いた。

 

 

「彼らをあんな風に刺激してはいけない」

 

 

 上品な英語だと、紀沙はまずそう思った。

 そして次に思ったのは、ここの住人では無いなと言うことだった。

 30代くらいのイギリス人で、毛先の跳ねを押さえる整髪剤の匂いが鼻についた。

 着ている衣服や外套はやはり上質で、ランプも意匠の凝った高そうな物だった。

 

 

 それに鍛えている、衣服では隠し切れない筋肉質さが見て取れた。

 ある種の偏りが出るスポーツマンとも違う鍛え方で、全身をくまなく鍛えているように見えた。

 身のこなし一つ一つが洗練されていて、一言で言えば紳士然としていた。

 それでも紀沙が危機感を持たなかったのは、男の目が酷く穏やかだったからだ。

 

 

「彼らにとってあの子は……()()()はまさに神の化身だ。あんな風に否定してしまったら、彼らが激高するのは当然だ」

「……貴方は?」

 

 

 まるで彼ら、と言うよりあの天使のことを知っているかのような口ぶりだった。

 だからランプに照らされる顔に問いかけた。

 相手は隠すことをしなかった、それすらも高潔な何かのように思えてくる。

 

 

「私はアースヴェルド・アステリア、イギリス軍に属している者だ」

 

 

 やはり、軍属だったか。

 場所を考えればイギリス軍と言うのも頷ける、むしろ呑まれないように気を張っていなくてはならないだろう。

 しかしその彼が自分を助けてくれたことについては、少しいぶかしみを覚えた。

 

 

「失礼だが、キミ達が上陸してきた時から監視させてもらっていた」

 

 

 それは気付かなかった。

 しかしそこから見ていたのならば、彼は自分が霧の艦の人間だと言うことを知っているはずだった。

 ならば彼は人道主義から自分を助けたわけでは無いだろう。

 

 

「……私達に、何をしろと?」

「…………」

 

 

 アースヴェルドはしばしの間黙った。

 しかしその沈黙こそが、何よりも彼の本心を語っているように紀沙には思えた。

 そして、彼は重々しく口を開いた。

 

 

「あの子を……リエルを」

 

 

 哀しい目だ、紀沙はそう思った。

 

 

「私の義娘(むすめ)を、殺してくれないか」

 

 

 また、ここにも。

 霧のメンタルモデルに対して、特別な想いを持つ者がいたのか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海中で艦長達の帰りを待つクルー達は、教会での出来事を知らない。

 しかし霧のメンタルモデル達は違う。

 彼女達はそれぞれの方法で状況をモニターしており、何が起こっているかを正確に把握していた。

 それをクルーに話すイオナと話さないスミノなど、対応はそれぞれだった。

 

 

「あれは、『クイーン・エリザベス』」

 

 

 中でも欧州艦隊のフッドにとって、「天使」を名乗るメンタルモデルの正体を看破することは難しいことでは無かった。

 だがその表情は驚きに染まっており、よもやこんなところにいるとは思っていなかった様子だった。

 と言うのも、フッドの言う『クイーン・エリザベス』にはある事情があったからだ。

 

 

「こんなところにいたのか」

「どういうこと?」

「『クイーン・エリザベス』は私の前に『ビスマルク』に戦いを挑んだ艦だ」

 

 

 フッドが霧の艦隊の旗艦達を呼び集めるよりも少し前に、『クイーン・エリザベス』は『ビスマルク』に戦いを演じていた。

 本来ならフッドよりも『クイーン・エリザベス』の方が旗艦として相応しかったのだが、フッドが旗艦に収まったのはそう言う事情もあったのだ。

 ただフッドも、『クイーン・エリザベス』が『ビスマルク』に戦いを挑んだ理由は知らない。

 

 

 だからこそ、フッドには『クイーン・エリザベス』がこんなところでカルト宗教の教祖じみたことをやっている理由がわからなかった。

 だいたい宗教だ女神だなどと、霧からは最も程遠い概念では無いか。

 フッドには、まるで理解できない。

 

 

「……ふ、ん」

 

 

 一方で、ヒュウガには何か思うことがありそうだった。

 彼女もまた、霧の範疇(はんちゅう)の外にいる存在だった。

 霧の規範たるアドミラリティ・コードでは無く、愛と言う形の無い概念上の規範に従って行動する彼女は、他の霧の艦艇からすればやはり理解できない存在だろう。

 

 

 そんなヒュウガだからこそ、もしかしたら最も正解に近い位置にいたのかもしれない。

 ヒュウガがイオナへの愛によって変わったように。

 『クイーン・エリザベス』もまた、何かによって変わったのだろうということに。

 ただそれが何かまでは、さすがのヒュウガでもわかりようが無かった。

 

 

「『ビスマルク』と言い、『クイーン・エリザベス』と言い……お前達はいったい、何をしているんだ?」

 

 

 だからフッドのその独り言のような問いかけは、ヒュウガであっても答えられないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の大戦艦『ビスマルク』は、欧州艦隊の中でも独特の存在だった。

 大西洋方面欧州艦隊の旗艦でありながら、自身は海洋封鎖のローテーションに加わること無く、また北海と言う狭い海域の外にけして出なかった。

 霧としては、かなりストイックな部類に入る艦だっただろう。

 

 

 だが『ナガト』と同じデュアルコアを保有するこの艦は、ある時に豹変した。

 千早翔像へあからさまに協力を始め、麾下の艦隊を率いて他の霧を攻撃し始めたのだ。

 フッドを始めとするほとんどは同調せず、『ビスマルク』と決別する道を選んだ。

 その中の艦の1つに、『クイーン・エリザベス』がいたわけである。

 

 

「何故、何故、何故……」

「『フッド』はいつもそうね、問うばかりで考えようとはしない」

 

 

 『ビスマルク』のメンタルモデルは、双子の姉妹と思える程にそっくりだった。

 赤い軍服調の服にサイドテールと言う出で立ちは同じだが、鏡写しのように左右対称と言う点が独特だった。

 『ヤマト』や『ナガト』の例を考えると、異常な程に良く似ていた。

 

 

「エリザベスも、そう」

「あの子もまた、何故の答えを見つけられずにいる」

「では、あの子達はどうかしら」

「401と404?」

「あるいは、その艦長」

 

 

 その2人の会話は、会話というよりは独白のように見えた。

 それほどまでに2人は良く似ていて、実は鏡に向かって独り言を言っているのでは無いかと思えてしまう程だった。

 会話の内容も、意味深に聞こえるが大した意味を持たないことだった。

 

 

「待ちましょう」

 

 

 ビスマルク姉妹、としよう。

 彼女は他のデュアルコアの艦艇と違って容姿や名前で呼び分けをしようとはしていないので、姉と妹という風に呼び分けるほか無い。

 あるいは本当に、この姉妹は2人で1人なのかもしれない。

 

 

「そう、今は我々は待つべき」

「『ムサシ』はロリアンを確保した。東方から奴らが来る前に」

「それは行幸」

「残るはあの子達、目覚めているかどうか」

 

 

 じっと待ちながら、彼女達は長い独り言を繰り返していた。

 わかることは、彼女達が、ビスマルク姉妹が誰かを待っていると言うことだった。

 ビスマルク姉妹がこうしてフッド達を監視し、さらにスカパ・フローの様子を窺っているのは、そのためなのだった。

 

 

 『フッド』、そして『クイーン・エリザベス』を打ち破ったヨーロッパ最強の霧、『ビスマルク』。

 彼女は、未だ待ち続けている。

 それは霧が最初に起動した時より、いやその()()()()()()()

 ビスマルク姉妹は、待ち続けているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧のメンタルモデルを義娘(むすめ)と呼んだこと。

 義理とは言え、娘を殺してほしいと願ってきたこと。

 アースヴェルドの言葉の中で、紀沙はその2点について面喰っていた。

 そしてそのどちらも、紀沙にとっては理解し難いものだった。

 

 

「殺せと言われても……」

「失礼だが、キミ達が過去に数々の霧を打ち破っていることはすでに知っている」

 

 

 打ち破ったことはあるが、霧を殺したことは無い。

 そのあたりのニュアンスの違いは、霧を良く知らない人間からするとわからないのかもしれない。

 一方で、紀沙は霧の殺し方は知っていた。

 コアを破壊すれば、データの決定的破損と言う形で霧は死ぬ。

 

 

 ただし、人類で霧のコアの破壊に成功した者はいない。

 そもそも霧と戦える人類がほとんどいないのだから、例が無いのも無理は無かった。

 紀沙も、そこまでやったことは無い。

 どこまでやればコアを破壊できるのかも、わからない。

 

 

「そして今、私はキミを救った」

 

 

 借りを返せと言うことだな、と紀沙は思った。

 そして同時に、このまま放り出すことも出来ると言う脅しでもある。

 霧の力を持つ紀沙達だからこそ、この取引が可能だと踏んでいる。

 相手が霧であるなら、紀沙としても倒すことに特に躊躇は無かった。

 

 

「貴方の言う通りにあの霧を倒したとして、我々に何のメリットが?」

 

 

 話を続けながら、紀沙は油断無くアースヴェルドを眺めていた。

 やはり鍛えられている、軍属なら専門の訓練を受けている可能性もある。

 そうだとしても、一対一で警戒していればやられるとは思えなかった。

 立ち居振る舞いからして、叩き上げでは無く幕僚タイプの人物だろうと思った。

 

 

「キミ達のことは、日本の楓首相や米国のエリザベス大統領の私信で知った」

 

 

 そして、この物言いだ。

 含みのあるこの言い方は軍人と言うよりは官僚、いや政治家に近い。

 私信とは文字通り内密の通信だ、この場合は首脳間のやり取りのことだ。

 要するにアースヴェルドは、日米英の首脳間のやり取りを知ることが出来る程に、政府上層部に近い立場だと言うことを言外に言っているのだ。

 

 

 イギリスの首脳から他国との私信を見せてもらえる関係、と言えばわかりやすいか。

 つまり、彼と貸し借りの関係になればイギリス政府上層部との繋ぎ(パイプ)が出来る。

 そう言うことが紀沙にはわかったが、油断してはならないのは、言質を取ったわけでは無いと言うことだ。

 それが政治と言うもので、これは北を見ていて学んだことだった。

 

 

「キミ達ならばあの子を止められる、そう思って後を尾けていた。無礼は謝罪する」

「いえ、我々も貴国の事情に首を突っ込む形だったと思うので」

 

 

 気になるのは、やはり「義娘」と言う言葉だった。

 霧を倒せと言う依頼ならこんなに戸惑いは覚えなかった、ただ、その言葉だけが奇妙だった。

 

 

「ただ、事情もわからずに貴国の依頼を受けることは出来ません。我々にも軍規があります」

「承知している。だが、キミ達をおいて頼る相手がいない」

「事情を」

 

 

 追っ手の足音が完全に消えて、食糧庫を静寂が包み込んでいた。

 ランプの灯りが、影を色濃く壁に映し出している。

 囁くように話すと、空気が震えて埃が舞った。

 

 

「事情を、話して頂けませんか」

 

 

 ふと、自分は変わっただろうかと紀沙は思った。

 横須賀を出る前の自分であれば、躊躇無く是と答えていたような気もする。

 一方で、やはり変わっていないようにも思える。

 自分では、良くわからなかった。

 

 

「……あの子は」

 

 

 アースヴェルドは、ぽつりぽつりと話し始めた。

 リエル……いや。

 霧の大戦艦『クイーン・エリザベス』と、1人の男の、奇妙な関係についての話を。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 彼女が「天使」として人々の前に現れるのは、ほんの僅かな時間だけだった。

 月が天頂に差し掛かる頃に姿を見せて、月が天頂から動く頃には人々は消えている。

 普段この教会には人は寄り付かない、聖域を土足で汚してはならないと言うのが、表向きの理由だった。

 しかし実際のところは、人を寄せ付けたくなかっただけなのかもしれない。

 

 

「あなたは、だれ?」

 

 

 天使は、己が霧の大戦艦『クイーン・エリザベス』であることを自覚していた。

 しかし自身のコアが教えてくれるその真実を、彼女はどこか素直に受け止められていない様子だった。

 月明かりに照らされた銀の髪はくすんでいて、紅い瞳もどこか光が薄い。

 起きているのに眠っているような、そんな印象の目だった。

 

 

 そして彼女は今、人々が女神と崇める女性を見上げていた。

 月明かりで銀にも見える灰色の髪に、シスター服を思わせる黒のワンピースを着ている。

 美しい女性だ、女神と呼ぶのも大げさでは無いと思える程だ。

 ただ、天使もこの女神の名前を知らないのだった。

 

 

「わたしは、なにをしている……?」

 

 

 それでも、こうしなければならない。

 彼女の演算素子はそう叫び続けていて、衝動と呼んでもいいものが胸中に満ちている。

 けれど、その理由がわからない。

 合理的では無い、論理的では無い、しかしやらなければならない、その想いだけがある。

 

 

「……これは、なに?」

 

 

 胸に手を当てて、呟く。

 美しい少女の物憂(ものう)げな表情と仕草は、それだけで絵になる。

 カチ、と音を立てたのは、チョーカーの装飾になっている錠前だった。

 霧の力をもってすれば開錠はわけの無いことなのに、何故か彼女はそれをしていなかった。

 

 

「こんばんは」

 

 

 その物憂げな雰囲気も、聖域を汚す不届き者の声で一変した。

 表情は冷徹なものに変わり、唇を真一文字に結んだ。

 ぼんやりとしていた雰囲気も、まるでお湯が凍りつくかのように張り詰めたものに変わった。

 崩れた教会に、少女が身体を回す足音だけが響いた。

 

 

「だれ」

 

 

 天使が問うた先には、少年が1人いた。

 彼女はその少年を見たことが無かった、教会を訪れる人々であれば全員を覚えている彼女が知らないと言うことは、余所者と言うことだろう。

 そして実際、少年は余所者だった。

 

 

「千早群像、ここだとグンゾウ・チハヤと言った方が良いのかな」

 

 

 黒髪の、純粋なアジア人の少年だった。

 当然、初めて見る顔だ。

 だが、そんなことは彼女にとって重要では無かった。

 

 

「去ね」

 

 

 さっきも言ったが、ここは聖域なのだ。

 深夜の僅かの間だけ女神を崇めさせるために人を集めるが、それ以外の時間は無人だ。

 騒がしいのは嫌いだった。

 女神の姿を誰の目にも触れさせたくないと言う、矛盾した考えがそうさせるのだった。

 今も、少年――群像に対してすぐに立ち去るようにと言った。

 

 

「彼女は、キミの大切な人(艦長)なのかい?」

 

 

 図太いことに、群像はそれを無視した。

 それでいて実力で排除されなかったのは、群像の言葉の表現に思うところがあったためだ。

 大切な人、艦長。

 しっくり来ると思った反面、違うと言う気持ちもあった。

 

 

「なにしにきたの?」

 

 

 毒気を抜かれた顔で、天使は言った。

 一方で、群像はその場から動かなかった。

 霧のメンタルモデルに対して距離はあまり意味が無いが、これ以上は近付くべきでは無いと判断したのかもしれない。

 

 

 そのあたりの判断は、絶妙に上手い少年だった。

 そして何をしに来たのかと言われれば、群像はこう答える他無かった。

 話をしに来た、と。

 

 

「話?」

「キミの話を、聞かせてほしいんだ」

 

 

 かつて『コンゴウ』に対してそうしたように、群像は天使に、『クイーン・エリザベス』に対話を求めたのだった。

 この女神の女性は誰で、『クイーン・エリザベス』はどうしてこんなことをしているのか。

 その話をしたいと、群像は言った。

 

 

「この人は?」

「……わからない」

「わからない?」

 

 

 流石にその答えは意外だったのだろう、群像が首を傾げた。

 

 

「わからない。いつからこうしているのか、どうしてこうしているのか。なにも」

 

 

 ただ、そうしなければならないと言う想いだけがあった。

 氷の棺に安置されたこの女性を、女神とて崇めさせなければならないと言う、強迫観念にも似た想いだけが、『クイーン・エリザベス』を突き動かしているのだった。

 そんな彼女に対して、群像は。

 

 

「そうか」

 

 

 と、頷きを返した。

 肯定も否定もせず、ただ頷いて見せた。

 それが、千早群像と言う少年だった。

 




読者投稿キャラクター:

クイーン・エリザベス(リエル):月影夜葬様
アースヴェルド・アステリア:月影夜葬様

ありがとうございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

早速ですが、来週の更新はお休みとなります。
次は23日の更新となります、リアルが忙しく執筆の時間が取れないためです。
お待たせしてしまうことになるので、申し訳ありません。

ちなみに少し迷いましたが、クリスマス編とかそういうのは無いです。

それでは、また次回もよろしくお願いします。


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Depth043:「リエルという少女」

※投稿予約ミスにより1日遅れでの投稿となります。申し訳ございません。


 おいおいマジかよ、と、冬馬は思った。

 おいおいおいおいマジかよ、と、やはり冬馬は思った。

 

 

(あの兄ちゃん、霧と仲良くなる才能でもあんのか?)

 

 

 教会の柱の陰に身を潜めながら、冬馬はそこで行われている会話を聞いていた。

 群像と『クイーン・エリザベス』による会話である。

 霧との会話なら紀沙とスミノで随分と見てきたと思ったが、あれとは明らかに様子が異なっていた。

 と言うか、群像が思いの他あの天使と「上手くやっている」のだ。

 

 

 イオナやヒュウガもそうだが、群像の霧との相性の良さは何なのだ。

 いや、かつてイ401の艦長だった父親は今は『ムサシ』と共にいるのだったか。

 そして紀沙もまた、妙なところで霧と関わる星の下に生まれているようだ。

 千早家と言う存在自体が、霧の何かと繋がっていると言われても納得してしまいそうだ。

 

 

「ま、そこらへんを見るのが俺っちの仕事なわけだけどよ」

 

 

 せっかくヨーロッパまで来たのだ、持って帰れるものは持って帰るべきだろう。

 物であろうと情報であろうと、あるいは単なる経験であろうと。

 そう言う自分の貪欲さを、冬馬は悪いことだとは思わなかった。

 まぁ、そもそも彼は何かを「悪い」と思ったことが無いのだが。

 

 

「不躾なことを聞いて悪いが」

 

 

 おっと、と、冬馬は耳をそばたてた。

 群像があの天使に何かを話しかけるようだ。

 

 

「この女性は、死んでいるのか?」

 

 

 これはまた、えらくストレートな言い方だった。

 もう少しオブラートに包んだ言い方もあるだろうに、なかなか不器用なのかもしれない。

 あるいは、霧に対してはそれくらいで調度良いのか。

 何しろ彼女達は、言葉の裏と言うものを読まないから。

 

 

「生きている」

 

 

 そして、天使――『クイーン・エリザベス』の答えも、またあっさりとしたものだった。

 教師に当てられた生徒が、教科書を読み上げる声に似ていた。

 

 

「生命反応を維持しているという意味なら、生きている」

 

 

 微妙な言い回しだが、昏睡状態、と言うのが最も近いか。

 

 

「でも、生死は関係ない」

「それは、どうして?」

「わたしは、この人間を神様にしなければならない」

「……それは、どうして?」

「……どうして?」

 

 

 反芻するように繰り返して、『クイーン・エリザベス』は己が女神を見上げた。

 その行為に、何らの意味も求めていない。

 しかし彼女は、自分がそうしなければならないと知っていた。

 そうでないと、それこそ()()()()()からだ。

 

 

「どうして……どう、して?」

 

 

 どうしてだろう、と、『クイーン・エリザベス』は繰り返した。

 ガラス玉のように光の失せた瞳が、棺の女神を見上げている。

 そして、問いかけていた。

 どうしてあなたはわたしの女神なのか、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――あれは、冬の気配がだんだんと強くなっていた頃だ。

 世間はイギリスと緋色の艦隊の同盟の話題で持ちきりだったが、スコットランド北端の田舎にはあまり関係が無く、むしろ人々は日々の生活にあくせくとしていた。

 カークウォールの町も、同じだった。

 

 

「変わらないな、この町も」

 

 

 アースヴェルドは、ある事情でロンドンから月に何度かこの町を訪れていた。

 今日もその日で、綺麗な外套(コート)を着たアースヴェルドの姿は、他の人々の中で明らかに浮いていた。

 この地域には政府の支援も滞りがちなので、人々はどうしても貧しくなってしまう。

 

 

 とは言え、完全に見捨てられているわけでも無い。

 極東の日本では棄民政策が取られているとも聞くが、ここは階級社会のイギリスだ。

 上流階級のチャリティーもあって、どうにか生活は出来ている。

 通りを歩く人々も、貧しそうではあるがしっかりと歩いていた。

 

 

「皆は元気かな」

 

 

 しばらく歩いて行くと、赤茶けたレンガ造りの教会が見えてきた。

 何百年だかの歴史ある建物だが、アースヴェルドはそのあたりは詳しくなかった。

 彼にとって重要なのは、彼がかつてそこの孤児院で育ったと言うことだ。

 それから、その時の院長の娘が今では院長をしていると言うことだった。

 

 

「あ、おじさんだ!」

「おじさん、こんにちはー!」

「おう、こんにちは。今日も元気だな」

 

 

 教会の敷地に入ると――神は訪問者を拒まず、の精神で、正門は常に空いている――建屋の外で何人かの子供が走り回っていた。

 こんな時代だ、教会を兼ねているとは言え孤児院の経営が楽なわけが無い。

 だから子供達もふくよかな子はほとんどおらず、ほとんどがほっそりとした身体つきをしていた。

 抱き上げると、体重の軽さに泣きそうになる。

 

 

「ははは、ほーらっと。シスターはいるかな」

「うん、いるよ!」

「お庭でお洗濯してるよー!」

 

 

 それでも、きゃらきゃらと笑う子供達の姿に安堵を覚えた。

 何はともあれ、子供が笑っていられるのなら、救いがあると思えたからだ。

 貧しさには哀れを感じるが、笑顔には羨ましさを覚える。

 そんな子供達が走っていくのを見送って、アースヴェルドは敷地の奥に進んだ。

 

 

 少し行くと、たくさんのシーツが干してある庭に出た。

 ロープを張って、シーツが風に煽られている。

 今日は日も出ていて、爽やかな光景だった。

 そしてシーツの陰に目的の人物らしき姿を認めて、アースヴェルドはそちらへと歩いた。

 手を上げて、声をかけた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アースヴェルドの姿を認めると、その女性は柔らかく微笑んだ。

 化粧もしていない、前髪に飾り気の無いヘアピンをしているだけの、古びたシスター衣装を着た女性は、しかし日なたのしたでとても美しく見えた。

 親がドイツ系の移民だったからか、背は高い。

 

 

「アマリア、久しぶりだな」

「はい、アースヴェルドさんもお変わりなく」

 

 

 アマリア・アッシュと言うのが、彼女の名前だった。

 アースヴェルドから見ると一回り近く年下の女性だが、教会と孤児院を一人で切り盛りしているだけに、ずっとしっかりしていた。

 彼は外套の中から小さな袋を取り出すと、それをアマリアに押し付けた。

 

 

「今月の分だ」

「すみません、いつもこんなに」

「構わない、実家への仕送りだと思ってくれれば」

 

 

 お金だった。

 毎月アースヴェルドは仕送りと称していくらかアマリアに渡している、大金では無いが、端金(はしたがね)と言う程に小額では無い。

 最初は拒否していたアマリアだが、繰り返すと根負けして受け取ってくれるようになった。

 今もお礼を言いながら、困った表情を浮かべていた。

 

 

「それで……」

 

 

 それに苦笑を浮かべて、アースヴェルドはあたりを見渡した。

 何かを探しているその様子に、今度はアマリアがくすくすと笑った。

 すると、その時だった。

 

 

「パパッ!」

 

 

 どんっ、と、アースヴェルドの背中に後ろからタックルをかましてきた者がいた。

 少し驚いたが、力が強いわけでは無い。

 腹に回された相手の細い腕を軽く叩いて、アースヴェルドは後ろを振り向いた。

 

 

「リエル、良い子にしていたかい?」

「うん!」

 

 

 15、16歳くらいだろうか。

 くすんだ銀の髪に、溌剌(はつらつ)さに満ちた赤い瞳は爛々と輝いていていた。

 リエルと言うその少女は、振り向いたアースヴェルドに今度は正面から抱きついた。

 嬉しくて仕方が無い、と言う風に、アースヴェルドの胸に頬をすり寄せている。

 

 

「パパ、今日は泊まっていくの?」

「ああ、そのつもりだ」

「やったぁ!」

 

 

 ぎゅうっと抱きついてくるリエルに苦笑を浮かべて、アースヴェルドはアマリアを見た。

 アマリアはくすくすと笑いながら、いいですよと頷いた。

 貧しいが、のどかな暮らし。

 アースヴェルドにとって、それはロンドンでの生活よりも癒しをもたらしてくれるものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アースヴェルドのように、貧しい孤児院を支援してくれる人間などほとんどいない。

 だから、日々の糧は自分達で稼がなくてはならない。

 アマリアとリエルは、小さな荷車を引きながら町を歩いていた。

 

 

「ありがとうございます。あなたに神のご加護がありますように」

 

 

 孤児院には、大人はシスターしかいない。

 リエルのように年長の者は、シスターについて町の人々から仕事を貰うのだ。

 一番多いのは繕い物で、古着を使うことが多いカークウォールでは意外と需要があった。

 とは言え元が貧しい町だ、得られる糧も雀の涙だった。

 

 

 一方で、多くは無いがさほど困っていないものもある。

 寄付だ。

 教会の修繕費や礼拝のための費用は、町の人々の寄付で成り立っている。

 ただ、アマリアはこれを生活費に回したことは無かった。

 

 

「このお金は、皆の善意だから。皆のためにしか使ってはいけないのよ」

 

 

 町を回りながら、不満そうな顔をするアマリアは言った。

 

 

「アースヴェルドさんも、そんなお金で美味しいものを作ってもらっても、きっと喜ばないと思うわ」

 

 

 普段ならともかく、アースヴェルドが来ている時くらい贅沢しても良いじゃないか。

 そんなリエルの気持ちを察して、アマリアは言うのだった。

 お布施の入った籠を持つリエルの手に自分の手を重ねて、アマリアは笑った。

 

 

「貧しいことは罪では無いわ。でも、清らかさを失うことは大変な罪なの。このお金を自分達のために使ってしまうのは、清らかさを失うと言うこと。だから、使ってはいけないの」

 

 

 清貧主義、卑しい身に堕ちるくらいなら、貧しさの中で生きていたいと言う思想だ。

 宗教の関係者であれば、敬虔なシスターであれば、基本的な考えなのかもしれない。

 ただ、アマリアはそれを心から信じているのだった。

 信仰している、一言で言えばそう言うことなのだろう。

 

 

「ねぇ、シスター。神様ってどこにいるの?」

「ん? ふふ、神様は、いつも皆と一緒にいるわ」

 

 

 アマリアは、最後にはいつもそう言った。

 神様はいつも一緒だと、誰よりも自分のことを見ているのだと。

 だがリエルは、それがどういう意味を持っているのか理解できなかった。

 それどころか、気持ち悪いものだとすら思っていた。

 だって、神様なんていないと()()()()()()()

 

 

「さ、あと4軒よ。早く行かないと、夕食の時間に間に合わないわ」

 

 

 ただ、それをアマリアには言えなかった。

 母代わり、姉代わりの存在が心から信じているものを、否定したく無かった。

 そのもどかしさは、少しずつリエルの中で積み上がっているのだった。

 それを少しでも減らそうとするかのように、リエルは溜息を吐いた。

 

 

 あたりを見回せば、自分達と同じように古びた服を着た貧しそうな人々が通りを歩いているのが見えた。

 中には老いた者や病気の者もいて、物乞いの姿も見える。

 神様が本当に自分達の傍にいると言うのなら、清貧に沈む自分達を救わないという矛盾はどう説明するのか。

 リエルは、ずっとそう思っているのだった。

 

 

「リエルー」

 

 

 呼ばれて、はっとした。

 リエルはアマリアを追いかけた、その時、水路の横を通った。

 ゆらゆらと揺れる水面を見て、リエルは不思議な心地を得た。

 漠然とした不安と、もどかしさと。

 ――――何かに呼ばれているような、そんな気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「すみません、手伝わせてしまって」

「いや、構わない」

 

 

 楽しい時間はあっと言う間に過ぎるが、忙しくしている時はなおさらだ。

 夕食の後に子供達に入浴をさせて歯を磨かせ、寝かしつけてとしていると、すっかり遅い時間になってしまっていた。

 遊び疲れて眠ってしまった子供をベッドに収めて、アマリアは子供の頬を撫でた。

 

 

 すやすやと眠る子供の顔は、見ているだけで温かな気持ちになった。

 余り触れているとむずかり出してしまうので、手を離して立ち上がった。

 教会には10人余りの孤児がいて、子供達の寝室は2部屋に分かれている。

 今、アマリア達がいるのは男の子の部屋だった。

 

 

「皆元気そうでよかった」

「はい、むしろ元気すぎて手に負えないくらいですよ」

 

 

 ぱたん、と寝室の扉を閉じると、音が消えたように孤児院はしんと静まりかえっていた。

 子供達が起きている間は相当に騒がしいこの孤児院も、当の子供達が寝てしまえばこんなものである。

 アマリアが落ち着けるのは、皆が寝静まった後のこの時間だけだ。

 とは言え、彼女はこの後も明日のための仕事や準備をしなければならないのだが。

 

 

「……ふぅ」

「疲れたかい?」

「いえ、大丈夫です。慣れていますから」

 

 

 アースヴェルドに気遣われれば、気丈に微笑んで見せる。

 1人で切り盛りするには、孤児院という職場は聊か大き過ぎる。

 ただそれでも、疲れ切って疲弊していると言う風では無かった。

 むしろ、この若さでどこか母親のような柔和さが表情から滲み出ていた。

 

 

「本当に、みんな元気で……」

 

 

 寝室の扉を見つめながら、アマリアは息を吐いた。

 相変わらず柔和な微笑みを浮かべたその顔に、少し陰が差したような気がした。

 ただアマリアが顔を上げると変わらない微笑みがあって、アースヴェルドはランプの灯りのせいだろうと思った。

 

 

 ただ、次にアマリアが「あ」と言うような表情を浮かべた時には、流石に不審に思った。

 何かあるのかと思って振り向くと、そこには女の子達の寝室があった。

 孤児院はさして広くは無いので、年齢別では無く性別で部屋を分けているのだ。

 これだと上の子が下の子の面倒を見るというシステムになるので、アマリアの負担も少しだけ減るのだ。

 

 

「あの子ったら、もしかしてまた」 

 

 

 そして、その女の子達の寝室の扉が僅かに開いていた。

 内側から誰かが覗いていると言うより、外から音を立てないように扉を閉めたと言う風だった。

 それを見て、アマリアは心底困った顔をした。

 アースヴェルドには、アマリアの言う「あの子」が誰なのかわかるような気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海。

 夜闇の中の海は――特に星明りくらいしか灯りの無い、月の出ない暗い夜には――真っ暗で、何も見通すことが出来ないくらいだった。

 そんな海を前にしていると、胸に大きな穴が開いたような気持ちになる。

 

 

「やっぱり、誰かが呼んでる気がする」

 

 

 リエルは、以前から海を見ると妙な胸騒ぎを感じた。

 嵐の翌日に海岸に打ち上げられている魚を拾いに行った時も、隣村までおつかいに出された時も、リエルは海を見つめて動けなくなってしまった。

 どうして海を見つめるとそんな風になってしまうのか、わからない。

 

 

 ただ、胸の奥に複雑な感情が生まれることは確かだ。

 それは切なさであったり、焦燥感であったり、あるいは別の何かであったりした。

 怒りだったり、哀しみであったりもした。

 いても立ってもいられないような、そんな複雑な感情だ。

 言葉にするのは、難しかった。

 

 

「でも、誰が呼んでいるんだろう」

 

 

 恐れ、それが一番近いだろうか。

 リエルは何かを恐れていて、それは海にあるのだと本能的に悟っていた。

 海からやって来るのだと、わかっていた。

 そして、それが自分を()()()()()のだと、理解していた。

 ――――リエルは、自分が海に呼ばれているのだと根拠も無く確信していた。

 

 

「……パパ」

 

 

 知らず、アースヴェルドを呼んだ。

 漠然とした怖れがそうさせた、信頼できる誰かに傍にいてほしかったのだ。

 

 

「……シスター」

 

 

 知れず、アマリアを呼んだ。

 ほとんど母親に対するような気持ちを、リエルはアマリアに対して抱いていた。

 傍にいて大丈夫だと、信頼できる誰かに言って欲しかった。

 

 

 じわりと、大きな瞳に透明な雫が浮かび始めた。

 恐ろしい、しかし動けない。

 ここを、いや自分は海に()()()()()()()()()と言う意識が、まるで杭を打ち込まれたかのように足が動かなくしてしまっていたのだった。

 

 

「リエル!」

 

 

 その時だった。

 ひっくひっくとしゃくり上げ始めた頃になって、焦ったような声が聞こえてきた。

 夜の海岸を走る靴音と合わせて、声の主がだんだんと近付いてきているのだと言うことがリエルにもわかった。

 

 

 顔をあげると、そこには声の調子の通り、慌てた顔のアマリアが駆けて来る姿があった。

 それを見て、リエルは胸騒ぎとは別の切ない感情を得た。

 シスター、涙ぐんだ声で、リエルはそう言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 こちらの姿を認めるや飛びついて来たリエルを、アマリアは苦労して抱き止めた。

 夜中に出歩いたことを叱ろうにも、本人が泣きじゃくっているのを見てしまうと、何と言ってやれば良いのかわからなくなってしまった。

 それに、今回が初めてでは無かったのだ。

 

 

 リエルはたまに姿を晦ませては、海辺で立ち尽くしていることがある。

 その度に、消えてしまいそうなくらいに憔悴してしまっていて、アマリアはその度に叱るに叱れなくなってしまうのだ。

 そしてその度に、アマリアは同じことを言ってリエルを宥めるのだ。

 

 

「大丈夫よ、リエル。どんなことがあっても、神様が見守っていてくださるわ」

「……神様なんていないよ」

 

 

 いつもならそれで帰ろうと言う風になるのだが、今夜は違った。

 教会の孤児院では信仰について教える、もちろんリエルも同じだ。

 まだ孤児院に来て日が浅いとは言え、リエルも毎朝聖書を諳んじている。

 そんなリエルから出た言葉に、アマリアは驚いた。

 

 

「神様なんていない」

 

 

 神はどこにいるのか。

 宗教家は無条件に実在を信じ、そうで無い者はこだわりを持たない命題だ。

 そしておそらく、多くの人間が真面目に考えたことは無いだろう。

 

 

「リエル」

 

 

 アマリアは信仰者だ。

 しかしそれに怒ることも無く、諭すように言った。

 

 

「神様はいますよ」

 

 

 少し屈んで目線を合わせて、アマリアは柔らかく微笑んだ。

 

 

「ここに」

 

 

 そして、とん、とリエルの胸に指先を当てた。

 意味がわからなかったのだろう、リエルが不思議そうな顔をした。

 アマリアは、やはり微笑んでいる。

 

 

「誰もが皆、ここに神様を住まわせているの。だから人は、良い行いをしたら喜びを感じ、悪い行いをしたら決まりが悪くなるの」

 

 

 そう言う意味では、アマリアもまた不信心者だった。

 教会の神では無く、個々の人々の胸中にある神を信じていると言う意味でだ。

 いや、それを神と呼んで良いのか、アマリアにも自信は無い。

 しかし心から信じている、それは確かだった。

 

 

「リエル。貴女が神様はいないと言うのなら、それはきっといないのでは無く、まだ目覚めていないだけ」

「……目覚めていない」

「貴女の神様は、きっといるわ。いつも貴女の傍にいて、貴女を見守ってくれている神様が」

 

 

 目覚めていない。

 アマリアのその言葉が、妙に頭と胸中に響くようにリエルには思えた。

 その時のリエルの表情をどう受け止めたのか、アマリアは表情の柔らかさを増した。

 

 

「さぁ、帰りましょう。こんな遅い時間にこんな所にいたら、身体を冷やしてしまうわ」

 

 

 アマリアに手を引かれて、リエルは歩き出した。

 肩越しにこちらを振り向いて微笑むアマリアの顔を、じっと見つめた。

 アマリアの言葉を、頭の中で何度も反芻する。

 リエルの神様は、まだ目覚めていないだけ。

 

 

 もし、と、リエルは思った。

 リエルの中にいる神様が、もし()()()()()()()どうなるのだろう。

 神様を宿した自分と言うものを想像して、リエルは自分が高揚するのを感じた。

 不思議と、恐れの感情は薄らいでいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この時のアースヴェルドは、未だ状況を楽観していた。

 夜道を女性1人で歩かせるわけにもいかず、アマリアについて来ていたのだ。

 内心いろいろと心配していたが、ほっとしていた。

 

 

「あの子をアマリアの下に預けたのは、間違いでは無かったな」

 

 

 リエルをアマリアの孤児院に連れて来たのは、アースヴェルドだった。

 彼はロンドンでの軍務もあるし、何より()()()()()()リエルは辺境でしか生活が出来ない。

 リエルは、イギリス人では無いのだ。

 いや、そもそもそう言う枠組みでは測れない存在なのかもしれないとアースヴェルドは思っていた。

 

 

 リエルは、アースヴェルドの実の娘では無い。

 15歳の娘を持つにはアースヴェルドは若すぎるし、しかしだからと言って、誰かから預かったと言うわけでも無い。

 アースヴェルドはリエルを、まさにこの海で見つけたのだった。

 

 

「あの時は驚いたな……」

 

 

 世間が千早翔像の件で騒がしくなっていた頃だ、アースヴェルドは故郷の孤児院が心配になった。

 そうして様子を見に来た時だ、まさにこの海辺で、砂浜に倒れているリエルを見つけた。

 今から思い出しても、不思議な光景だったと思う。

 リエルの周囲には金属の破片のような物が大小散らばっていて、彼女はその中に倒れていた。

 

 

 金属の破片は、光の粒となって空へと消えていった。

 幻想的だった、少女も光の中で消えていくかと思えたが、そうならずに残った。

 放ってもおけず、助けた。

 今でもその行動が間違いだったとは思わない、ただ。

 

 

「……父親と言うのは無理があったかな」

 

 

 連れていったは良いが、素性をアマリアに問われて養女にしたと言ったのだ。

 今にして思えば、もう少し他にあっただろうとも思う。

 一方で、ああして無条件に慕われるのは悪い気もしない。

 本人も、どうやら自分のことを義父として慕ってくれているように思う。

 

 

 それから、アースヴェルドも遊んでいたわけでは無い。

 アマリアの教会に預けてから、リエルの素性を調べていたのだ。

 本人は自分自身のことを何も知らないと言っていて、そしてあの海への怯えよう。

 政府の禁止令にも関わらずに海に出た船が沈没でもしたか、と思ったのだが。

 少なくともここ最近、そうした報告は上がって来ていなかった。

 

 

「…………」

 

 

 ただ、と、アースヴェルドは思った。

 気になる報告が一つあって、時期的には重なるが、イギリス近辺の海ではそれ以外に目立った事件は無かった。

 軍の定期レポートの中で、アースヴェルドがリエルを見つける数日前に、ある事件が起こっていた。

 

 

 ――――曰く、大型の霧の艦艇同士が戦闘をしていた、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あの当時の私は」

 

 

 薄暗い地下の食糧庫で、アースヴェルドは天を仰いだ。

 そんなところで仰ぎ見たところで、空など見えるはずも無い。

 それでも、アースヴェルドはかつてを思い起こすように天井を見つめた。

 言葉は、搾り出すと言った感じで重々しい。

 

 

「あの時の私は、すべてに対して楽観的だった」

 

 

 紀沙は、それをじっと聞いていた。

 現在と言う結果を知っている彼女は、アースヴェルドが何を重く考えているのか良くわかるつもりだった。

 そしてそのことについて、アースヴェルド自身が胸を痛めていることも。

 

 

 リエルと言う少女の出会い。

 カークウォールの教会での生活。

 その中で培われる関係。

 そして、リエルに徐々に現れ始めた「異変」。

 アースヴェルドはそれらを、つまびらかに語った。

 

 

(……ゾルダン・スターク)

 

 

 この時に紀沙が思い浮かべたのは、意外なことにあのゾルダンだった。

 自分と兄以外に、霧の力を手に入れていた男。

 そして今、アースヴェルド。

 もしかするとこの世界には、自分が知らないだけで、意外と霧と関わりを持つ人間が多いのでは無いか。

 

 

 思えばあのエリザベス大統領も、霧との共存を求めていた。

 もしかして、自分が知らないだけで。

 霧は、人間の世界に侵入(はい)り込んでいるのでは無いのか?

 深く、そうとても深くだ。

 

 

「いや、あの時点まではまだ楽観していてもよかった」

 

 

 そして、アースヴェルドの話はまだ続いていた。

 と言うよりも、これから本番なのだろうと思った。

 何故ならばまだ、現在の状態になっていない。

 今のような状態に陥った直接の原因が、まだ話されていないのだから。

 

 

「だが私は忘れていた。どれだけ表面上はのどかに見えていても、我が国は荒んでいた。ロンドンを離れることで私はそれを忘れようとしたが、無駄なことだった」

 

 

 のどか、かつてのカークウォールはのどかな場所だったのだろう。

 だが今は、その面影すらも残っていない。

 アースヴェルドの溜息の深刻さが、その落差を紀沙に教えてくれた。

 

 

「私は楽観していた」

 

 

 同じ言葉を、アースヴェルドは何度も繰り返した。

 そうすることで、事態の重さを再確認しているか。

 義娘を殺してほしいと言う、追い詰まった重すぎる事態を。

 

 

「――――あの時までは。私は確かに、すべてを楽観していた」

 

 

 ここからが、本題。

 




登場キャラクター

アマリア・アッシュ(大野かな恵様)

ありがとうございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

いまはなき綺麗な思い出回でした。
最近、何か回想的な話が多いような気がしてきました。

今年もあとわずか、この作品は来年中には終わる予定です。
それでは、また次回。


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Depth044:「憎悪の種」

 

 村の様子がおかしい。

 アマリアがそう思ったのは、アースヴェルドの滞在から3日程が過ぎた時だった。

 ちょうど、スコットランド自治政府――イギリスの四大自治国(カントリー)の1つ――からの物資の配給日だった。

 

 

「また少なく……」

「だんだん量が……」

「こんなんじゃ生活が……」

 

 

 雰囲気が暗いと言うか、ギスギスしている。

 苛立っているような雰囲気がそこかしこで見えて、アマリアは心持ち通りの端を歩いた。

 いくら神職とは言え、肌にピリピリとしたものを感じれば少しは警戒もする。

 伊達に一人で孤児院を切り盛りしていない。

 

 

 それに、これはここ毎週のことだった。

 スコットランド政府の配給は週に一度あって、その度に村の空気は悪くなる。

 ただ今日は、いつもより雰囲気が暗い。

 何かが変わりつつあるような気さえして、アマリアは不安を覚えた。

 

 

「シスター、どうしたの?」

 

 

 それでも、リエルが不安そうな顔で覗き込んでくると、アマリアは笑顔を浮かべた。

 自身の不安などおくびにも出さない。

 その笑顔にリエルも少し安心したようで、ほっとした顔をした。

 それに安心して前を向いたアマリアは、しかしすぐに表情を真面目なものに変えた。

 

 

「シスター、今日は何だかみんな元気が無いね」

「そう? いつも通りよ」

「そうかなぁ」

 

 

 嘘は吐いていない。

 何故なら村の様子は()()()()()だからだ、常よりも深刻だと言う以外は。

 村は、すでにずっと以前からこんな状態だった。

 ただ、やはり何かが微妙に崩れてしまいそうな、そんな気はしていた。

 

 

「心配しなくても大丈夫」

 

 

 だからそれは、どちらかと言うと自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 それでもリエルを、そして孤児院の子供達に自分の不安を移すわけにはいかなかった。

 

 

「さぁ、それよりもお仕事よ。次は村長さんのお宅だから、粗相(そそう)をしないで頂戴ね」

「わかってるよ」

 

 

 子ども扱いされたのが不満だったのか、リエルは唇を尖らせて頬を膨らませた。

 その様子がおかしくて、アマリアは今度は本当にくすりと笑った。

 大丈夫。

 先程は気休めにしか過ぎなかった言葉だが、今は実を伴っているように思えた。

 足取りを僅かに軽くして、アマリアは繕い物を載せた荷車を引いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 村長は、村が危機的な状況にあることを良くわかっていた。

 村人達は欠乏気味な物資だけで無く、だんだんと悪くなっていく生活自体に痺れを切らし始めたのだ。

 そしてそう言うところに、今回の事態である。

 

 

「村長、このままじゃみんな飢え死にしちまいますよ!」

「こんな量の配給で、どうやって生活していけばいいのよ!」

 

 

 スコットランド政府からの配給が、今月から半分になったのである。

 ただでさえ物資は足りないのに、ほとんど唯一の供給源である配給が断たれてしまえば、後は僅かな備蓄だけが頼りだった。

 ただその備蓄も、村人全員が冬を越せるほど潤沢にあるわけでは無い。

 

 

 このままでは、遠からず村人達は飢え始めてしまうだろう。

 ただ、それは村長にもどうすることも出来ない問題だった。

 こんな辺境の村で、村長と村民の生活の質にそれほど差があるわけも無いのだから。

 しかしこのまま放置していれば、最悪の事態になりかねない。

 抗議を繰り返す村人達を前に、村長は深刻な顔で考え込んだ。

 

 

「こんにちはー」

「こ、こんにちは……」

 

 

 その時だった。

 アマリアとリエルが控えめにノックをして、村長の家を訪ねて来たのは。

 アマリアは愛想良く笑顔で、そしてリエルは少しびくびくした様子でアマリアの後ろに隠れていた。

 彼女達は繕いものとお布施の入れ物を持っていて、それを見て村長が「おお」と立ち上がった。

 

 

「いつもすまんな、シスター」

「いえ、お仕事を頂けてとても有難いです。村長さんに神のご加護がありますように」

「お前もご苦労様じゃの」

「……ど、どうも」

 

 

 アマリアに僅かな代金を支払った後、それよりも少し多めにお布施を入れる。

 お布施持ちのリエルは縮こまってそれを受けて、入れ物の中で小銭の音が響いた。

 それはいつものことだったが、今日に限っては少し違った。

 特に他の村人達の存在を気にしていた店長は、それに気付いた。

 

 

「……」

「…………」

「………………」

 

 

 村人達の目が、じっとアマリア達に注がれていたのを。

 いや、厳密には違う。

 彼らは、リエルの持つお布施の入れ物を見つめていたのだ。

 それを本能的に感じていたのか、リエルはぶるっと身を震わせて、不安そうな顔をしたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 次の日から、奇妙なことが起こるようになった。

 教会に、食べ物を分けてほしいと言う人が来るようになったのである。

 施しは教会の重要な教えの1つではあるが、それとは違うと言うのはすぐにわかった。

 1人2人ならそう言うこともあるかと思ったが、3日続けば異常だった。

 

 

「教会が食い物を蓄えてるって聞いたぞ!」

「少しでいいの、少しだけでも」

「いえ、ですから……」

 

 

 もちろん、孤児院を兼ねる教会に蓄え等は無い。

 お布施にしたところで、礼拝や教会の維持修繕で右から左である。

 孤児院の裏手に家庭菜園レベルの畑があるが、実りが豊かとは言えない。

 つまるところ、他人に分け与えられるものは何も無いのだった。

 

 

 それは、村の人々も良く理解しているはずだった。

 だから、どうして急に人々が施しを求めてやって来るようになったのかわからなかった。

 追い返す形になるアマリアも、最初は申し訳なさそうにしていたのだが、午後に差し掛かってくると疲れた表情を隠すことも出来ずに応対するようになった。

 

 

「シスター、あの、今日の分」

「ああ、リエル。ごめんなさいね、今日はリエル1人で行ってきてもらえないかしら」

「え……」

 

 

 朝からずっとそうした人々の相手をしていたため、日課である繕い物の届け物も出来ずにいた。

 本来ならもう出なければならないのだが、次々に来る村人達にアマリアが身動きを取れなくなってしまったのだ。

 それでリエルに行ってきてほしいとなるわけだが、リエル自身は明らかにしり込みしていた。

 

 

「ごめんね、でも……」

「すみませーん」

「あ、はーい」

 

 

 どんどん、とまた扉が叩かれた。

 用件はわかっているが、アマリアは努めて明るい声で返事をした。

 この様子である、とても教会の外で届けものなど出来そうに無い。

 と言って、他の幼年の子供達ではおつかいすら出来るか怪しい。

 リエルにもそれはわかっているのだが、人見知りが激しいのである。

 

 

「大丈夫、いつも行ってる場所だから。声をかけて繕い物を渡して、それだけで良いの」

「うん……」

 

 

 とは言え、アマリアが大変そうなのもわかる。

 困らせたくなかった。

 だからリエルは頷いて、了承の意思を示した。

 

 

「何で、こんなことになっちゃったんだろうね」

「大丈夫よリエル。誤解はいつか解けるもの、皆わかってくれるわ」

「どうしてそう思うの?」

 

 

 リエルには、あの村人達のアマリアを見る顔が忘れられない。

 苛立ち、アマリアに嫌悪や怒りの感情を向けて来る者もいた。

 そう言う者達に対して信頼を向けることの出来るアマリアは、リエルには手の届かない存在のように思えた。

 それこそ、その意思は天上にあるのでは無いかと思える程に。

 

 

「そんなに大した話では無いのよ」

 

 

 礼拝堂の十字架を見上げながら、アマリアは言った。

 その視線を追って、リエルも十字架を見上げる。

 人の罪の象徴であり、同時に祈りを捧げる方向を示す道標でもある。

 これ自体が神を示すわけでは無いが、神聖なものではあった。

 

 

 それを見上げる時、アマリアの目が酷く澄むのをリエルは知っていた。

 神へ祈る。

 それは己の平安であったり、他者の平穏であったり、様々だ。

 だが神の教えを守る善く生きていくことは、アマリアの指針になっていることは確かだった。

 リエルには、やはりわからない。

 

 

「こんなご時勢だもの。人が人を信じなくなったらおしまいだわ、そうでしょう?」

 

 

 ただ、アマリアの在り方には憧れを抱いていた。

 神は信じていないが、アマリアは信じていた。

 だから、手を組んで祈りを捧げるアマリアの隣に膝をついて、リエルも神に祈りを捧げた。

 アマリアのために祈ろうと、そう思った。

 ――――そう、思っていたのに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――教会が、燃えていた。

 アマリアの言いつけ通り、リエルが繕い物の届け物をして、戻って来た時のことだ。

 やはり時間がかかってしまって、夕食の時間も大分過ぎてしまった。

 そうして戻って来た時、教会の空が赤く染まっていた。

 

 

「…………」

 

 

 言葉にならなかった。

 今、目の前で起こっていることが信じられなかったからだ。

 突然過ぎて。

 唐突過ぎて。

 いきなり、過ぎて。

 

 

 何だこれは、と、リエルは思った。

 いったい何が起こっているのか、俄かには理解できなかった。

 頭では理解しているが、認識することができなかった。

 だって、余りにもあっさりと、事が起こってしまって。

 

 

「……シスター」

 

 

 ようやく、それだけを搾り出した。

 教会が燃えている。

 夜空を焦がすように火柱が上がっていて、夜でも煙がはっきりとわかる。

 火事、その言葉が警報のように頭の中に鳴り響いていた。

 

 

「……みんな」

 

 

 次に出てきたのは、年少の子供達を思う言葉だった。

 そうだ、と、今さらながらに気付く。

 あの教会には、シスターと孤児院の子供達がいる。

 あの炎の下に。

 

 

「――――!」

 

 

 気付いた時、リエルは走り出していた。

 荷物をその場に投げ捨てて――「善意」である寄付も、音を立てて地面に零れた――身一つで、駆け出していた。

 視界には、赤茶けたレンガ造りの建物が燃え崩れていく様が映っている。

 

 

 どうして、どうしてこんなことに。

 冬の寒さの中、火の熱は顔に感じるまでになっている。

 この熱さが、リエルに目の前で起こっていることが現実であると教えてくれている。

 ハッ、ハッ、と、息を乱しながら駆けて行く。

 

 

(――――神様)

 

 

 この時、リエルは祈った。

 今度はアマリアのためでは無く、紛れも無く自分の意思で祈っていた。

 神様、どうか。

 これまでの不信心を謝罪するから、どうか。

 どうか、皆が無事でありますようにと、祈って――――。

 

 

「シスター! みん……ガッ!?」

 

 

 そして、その祈りへの答えは無慈悲なものだった。

 燃え盛る教会の前に辿り着いたリエルに与えられたのは、神の慈悲などでは無かった。

 リエルに与えられたもの、それは。

 土と鉄の匂いがする、重いスコップの一撃だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 リエルは、()()を見下ろしていた。

 現実世界とは一枚壁を隔てた異質な空間、とでも言うべきか。

 そんな世界にあって、リエルは村人達に殴打される自分自身を見つめていた。

 ここは死後の世界だろうかと、そうも思った。

 

 

「こっちにもいたぞ!」

「食い物を独占する強欲な教会のガキだ!」

「俺達の善意を利用しやがって!」

 

 

 村人達が、口にしている言葉は良く理解できなかった。

 もしかしたら、教会が寄付を名目に財を蓄えているというデマに踊らされたのかもしれない。

 もしかしたら、食糧危機の前に口減らしをしたかったのかもしれない。

 もしかしたら、単に不安と不満をぶつけるはけ口が欲しかったのかもしれない。

 もしかしたら――――彼らもまた、正気では無かったのかもしれない。

 

 

『もう遅いから、今日は泊まって行きなさい』

 

 

 繕い物を届けた時、村長がリエルにそう言っていた。

 それも、もう意味が無い。

 もしかしたら、単に善意で言っていたのかもしれないし。

 もしかしたら、すべてを知って言っていたのかもしれない。

 

 

(――――何だ、これは)

 

 

 人が人を信じなくなったら終わりだと、アマリアは言った。

 だが、人を信じた結果がこれでは無いか。

 村人に殴打される自分自身を見下ろしながら、リエルは不思議と冷静な自分に気付いた。

 と言うより、殴打されている自分が他人のように思えていた。

 

 

 殴られる自分から視線を動かすと、燃え盛る教会が見えた。

 ゆらゆらと揺れる炎に、不意に心引かれた。

 どうしてか、あんな激しい炎をどこかで見たことがあった気がした。

 リエル()()()()()()には、無い。

 

 

『…………』

 

 

 ザザザ、と、砂嵐のような記憶の向こう。

 いや、これは記憶では無く記録か?

 何の記録だろう、忘れてはならないもののように思える。

 炎の向こう側にいる誰かは、誰だっただろう。

 

 

『……哀れですね』

 

 

 あの姉妹は、誰だっただろう――――爆ぜる鋼の音が聞こえる。

 いや、それ以前に自分は誰だったか――――潮騒の飛沫が聞こえる。

 自分はこんなに無力な存在では無く――――轟音の砲声が聞こえる。

 嗚呼、嗚呼、そうか。

 

 

『あなたには()()の声が聞こえないのだな、『○○○○・○○○○○』』

 

 

 私は、強大なる者。

 私は、この海の支配者。

 私は、私は――――……。

 

 

 ――――海の音が聞こえる。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もし一つ村人達にアドバイスをするのであれば、物事をもう少し慎重に観察すべきだったと言うことだろう。

 例えば、いくら殴打しても傷一つつかない少女の身体であるとか。

 

 

「――――何故だ!!」

 

 

 教会の火は消えていた。

 それでも建物は半壊していて、今にも崩れ落ちそうだった。

 そして教会の火が消えている一方で、村が燃えていた。

 数百年の歴史を誇る村が、大火に襲われて悲鳴を上げていた。

 

 

 だが、リエルはそちらには全く目を向けなかった。

 半分が焼け焦げてしまっている教会は、村の炎てオレンジ色に照らし出されていた。

 先程は逆だった。

 しかし今、教会は燃えていない。

 

 

「何故だ、神よ!」

 

 

 しかし教会に併設していた孤児院は、すでに焼け落ちてしまっていた。

 そこにいたであろう子供達は、誰も逃げられなかった。

 リエルの手の中に残っているのは、アマリアの肉体だけだった。

 身体に目だった傷は無く、火傷も見えない。

 

 

 無傷だった、奇跡だと思った。

 何の意味も無い奇跡だ。

 欲しかったのは、そんなものでは無かった。

 バチバチと音を立てて、リエルの身体にスパークが走っていた。

 まるで、少女の慟哭を表そうとしているかのように。

 

 

「ば、ばけもの……」

「――――ッ!」

 

 

 振り向いて、声のした方向を睨んだ。

 それだけの行動で衝撃波が走り、レンガの壁ごと吹き飛ばした。

 円形に崩れた壁の向こう側から、聞き覚えの無い男の悲鳴が聞こえる。

 まだ仲間がいたのだろう、それきり声は聞こえなくなった。

 

 

「化け物は、お前らだ……!」

 

 

 教会の鎮火と村の大火は、リエルがやった。

 今、彼女の周囲には幾何学的な光の紋様が浮かんでは消えていて、それはどこか複雑な数式のようにも、あるいは光の翼のようにも見えた。

 リエルは、慟哭していた。

 動かぬアマリアを腕に抱き、彼女が祈りを向けた十字架を仰ぎ見て。

 

 

「これが答えか、神よ」

 

 

 アマリアも、子供達も、真摯に神に祈りを捧げていた。

 にも関わらず、神はそれに報いるどころか仇を返してきた。

 彼女達を守らなかった。

 あれほどまでに神を信じ、人を信じていたアマリアに加護を与えなかった。

 

 

 いや、そもそも分かっていたはずでは無いか。

 この世に神などいないと。

 神は死んだのでは無く、そもそも生まれてすらいない。

 いもしない神が何を守り、何に加護を与えると言うのか。

 ……いや。

 

 

「そうか」

 

 

 わかった。

 リエルは唐突に理解した。

 この世に神はいるのだと。

 

 

「貴女こそが、神だったんだ」

 

 

 誰よりも清らかだったアマリア。

 だが彼女は1つだけ過ちを犯した。

 自分自身が神であることに気付かず、いもしない他の神に祈ったことだ。

 これは誤りだった、誤りは正さなくてはならない。

 

 

 リエルは十字架に手を向けると、何かを握り潰すように拳を握った。

 次の瞬間、不可視の円が十字架を抉り取った。

 同時に、リエルの腕のアマリアの身体にもキラキラとした輝きがまとわり付き始める。

 そして、身に纏っていた質素な服が分解されて、豪奢なゴシック・ドレスへと再変換されていった。

 

 

「それなら私は、貴女を神とする……!」

 

 

 そのためには、()()()()()()()は邪魔だ。

 リエルは自らの首に手をかざす、すると光の粒子が――()()()()()()()が集まり、チョーカーの形を取った。

 リエルの瞳から人として最初の、そして最後の涙が流れたその時。

 大火の中で、人々は教会に光の粒子が空から舞い降りる様を見たのである――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 重々しい空気が、アースヴェルドと紀沙の間に流れていた。

 アースヴェルドの話は、それだけ重大な話だった。 

 

 

「私が事の顛末(てんまつ)を知ったのは、すべてが終わった後だった」

 

 

 再びカークウォールを訪れたアースヴェルドが見たものは、現在の半分焼失した村だった。

 リエルが――リエルとしての「人の記憶」を封じ、霧の『クイーン・エリザベス』として覚醒した少女――アマリアを神として奉り、生き残りの人々が霧の超常の力に神性を見出している。

 そんな状況を見て、アースヴェルドが痛切な想いに駆られないはずが無かった。

 

 

 今のこの状況を生み出した責任を、感じないはずが無かった。

 だが、アースヴェルドにはもはやどうすることも出来ない。

 彼には霧の『クイーン・エリザベス』を倒す術など無いし、また人々の目を覚まさせることも出来ない。

 だからこそ、彼は紀沙達に懸けるしか無かったのだ。

 

 

「無理なことを言っていることはわかっている」

 

 

 その場に手をつきさえして、アースヴェルドは言った。

 

 

「私に出来ることなら何でもしよう」

 

 

 アースヴェルドには、現状を見続けることは苦痛でしか無い。

 そんな彼の前に現れた霧の力を持つ人間、すなわち紀沙達は、まさに神の遣わした存在のように見えたのだろう。

 運命なのか偶然なのかはこの際どうでも良かった、(わら)にも(すが)る思いだった。

 

 

「頼む、あの子を殺してやってくれ」

 

 

 リエルはもはや、アマリアを女神として人々を支配することしか考えていない。

 人としての記憶を封じて、どうして自分がそうしているのかもわかっていないのに。

 その姿は余りにも痛ましく、苦しささえ覚える。

 それでも、今はまだ良い方なのかもしれない。

 

 

「あの子がリエルとしての記憶を取り戻す前に」

 

 

 アマリアを女神と崇める人々を率いて、人を憎むリエルが何をするのかなど、考えるまでも無い。

 そうなる前に、リエルが人としての生きていた間の記憶を取り戻す前に、そうする必要があった。

 すなわち、リエルを。

 

 

「あの子を、終わらせてやってほしい……」

 

 

 紀沙は、手をついて『クイーン・エリザベス』を殺してくれと頼むアースヴェルドを、紀沙は見下ろしていた。

 もしアースヴェルドが憎しみから『クイーン・エリザベス』を倒してくれと依頼してきていたなら、紀沙は何の疑問も抱かずに受けていただろう。

 イギリス軍部との繋がりも出来るのだから、断る理由は無かった。

 

 

 だけど、アースヴェルドは違う。

 彼は『クイーン・エリザベス』が憎いわけでも、まして殺意を覚えているわけでも無い。

 むしろ、逆だ。

 アースヴェルドにとって、『クイーン・エリザベス』は、リエルはきっと、とても大切で。

 だからこそ、今のリエルを見ていることが出来なくて、それで……。

 

 

(……霧)

 

 

 霧は、人類の脅威だ。

 人類を海洋から追放し、窮地に追いやった元凶だ。

 打破すべきくびきであり、打倒すべき天敵である。

 そのはずなのに、どうして霧と関わる人間は皆、霧に惹かれるのだろうか。

 

 

 千早翔像しかり、千早群像しかり、千早沙保里しかり。

 少なくない人間が、霧と深く交わることで大きな影響を受けている。

 紀沙はそれに嫌悪を覚えるが、しかし、と心のどこかで思う自分もいた。

 翔像にとってのムサシ、群像にとってのイオナ、沙保里にとってのタカオ。

 そして、自分にとってのスミノ。

 

 

(霧の、メンタルモデル)

 

 

 はたして自分は、最初の頃の純粋な憎悪を、今も持ち続けているだろうか。

 長い時間を霧の艦艇で過ごす内に、心のどこかが変わってやしないか。

 自分もまた、霧の影響から逃れられていないのではないか。

 私は今も、スミノのことをちゃんと。

 

 

「……なんだ?」

 

 

 その時、足元が揺らいだ。

 足裏から体内へと響くそれは、地震と言うには規則正し過ぎる。

 むしろ、鼓動のような。

 

 

「まさか」

 

 

 ミシミシと軋む天井を仰ぎ見て、アースヴェルドは顔を青ざめさせた。

 

 

「まさか――――!」

 

 

 霧への憎しみ。

 それは紀沙にとって、「自分自身」を形作る、いわば強さの象徴だった。

 スコットランド辺境部でのこの一件が、紀沙に何をもたらすことになるのか。

 この時点では、知る由も無いことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、知らない。

 アースヴェルドが紀沙に話したような事情を、群像は知らない。

 『クイーン・エリザベス』がリエルとして過ごした記憶を封印していることも、もちろん知らない。

 

 

「この人が、キミにとって大切な人だと言うことはわかった」

 

 

 一方で群像は、そうした背景を求めているわけでは無かった。

 ただ、『クイーン・エリザベス』と言う存在をあるがままに理解したかった。

 彼女が何を望む存在なのかを、知りたかった。

 そう言う意味では、彼は必ずしも村人達を気にかけているわけでは無かった。

 

 

「ならキミは、このままここで過ごしていくつもりなのか?」

「…………」

「……そうか」

 

 

 結局、『クイーン・エリザベス』は群像とまともに会話をしようとはしなかった。

 ただ、彼女が現在のやり方だけを指針としていることは良くわかった。

 彼女はこの先も、この外界から閉ざされたスコットランドの辺境で生きていくのだろう。

 人も霧も無い、この小さな王国で。

 

 

「邪魔をして悪かった」

 

 

 群像はそれだけ言うと、ゆっくりと後ろに下がり、そして『クイーン・エリザベス』に背を向けた。

 『クイーン・エリザベス』は、振り向きもしなかった。

 そもそも群像に関心が無かったのだろう。

 彼女の視界に映っているのは、美しい女神だけだ。

 

 

 それも良いだろうと、群像は思う。

 それが『クイーン・エリザベス』の選んだ道なのだからと。

 霧の使命からは離れているが、そう言う霧が1ついても悪いことでは無い。

 むしろ関わらない方が彼女のためだろうと、群像はそう思った。

 だから――――……。

 

 

 

 ――――『困るんだよね、それじゃあ』――――

 

 

 

 ……――――何?

 その「声」は、群像に聞こえたわけでは無い。

 その「映像(ビジョン)」は、群像に見えたわけでは無い。

 しかし群像は確かに違和感を感じた。

 

 

「――――――――ッッ!!」

 

 

 『クイーン・エリザベス』が、悲鳴を上げていた。

 メンタルモデルを形成するナノマテリアルが活性化――それも、本人の意思によらず――しているようで、その身体が異常なまでに発光し、スパークと共に暴風を生み出し始めていた。

 反射的に駆け寄ろうとした群像の前をスパークの一つが走り、群像はよろめいて尻もちをついてしまった。

 

 

「何だ、これは!?」

 

 

 さしもの群像も、焦燥を露にしていた。

 余りにも急な変化に、理解が追いついていないのだ。

 そして『クイーン・エリザベス』には、群像には見えていないものが見えていた。

 いや、すべての霧に見えていた。

 

 

 それはかつて、『タカオ』の暴走が何者かによって止められた時に似ている。

 優しく包み込むようなあの感覚を、霧の多くは忘れていない。

 しかし今回は、逆だ。

 鳥肌が立つようなおぞましさが、覆いかぶさってきた感覚だ。

 

 

「よせ!」

 

 

 誰に対して叫んだのか、群像にもわからない。

 ただ1つ確かだったのは、『クイーン・エリザベス』の首元の錠前のチョーカーだ。

 カタカタカタと音を立てて錠前が震えている、今にもこじ開けられそうだ。

 直感的に感じたそれは、現実のものとなる。

 

 

 錠前が、砕け散った。

 その瞬間、爆風が起こった。

 半壊した教会が悲鳴の如く軋みを上げる程の衝撃で、群像はたまらずに吹っ飛ばされた。

 そして、『クイーン・エリザベス』だけが残り。

 

 

「――――人間」

 

 

 舞い上がった小石や砂が、女神(アマリア)の棺を叩く中で。

 

 

「人間がなんでここにいるうううぅぅ――――ッッ!!」

 

 

 憎しみに満ちた叫びが、教会に響き渡った。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

年の瀬ですね、今回が年内最後の更新になります。
皆様にはここまでお付き合い頂き、本当に有難うございます。
来年もまだまだ連載は続きますので、最後までお付き合い頂けると、嬉しく思います。

それでは、皆様よいお年を。

また次回。


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Depth045:「カークウォール事件」

 タカオは、身動き出来ずにいた。

 横須賀・海洋技術総合学院の第四施設跡の慰霊碑を前に、立ち尽くしていた。

 とは言っても、かつてここで起きた痛ましい事件に胸を痛めているわけでは無い。

 

 

「……今のは」

 

 

 そうでは無く、今しがた見えたビジョンにショックを受けていたのだ。

 不意に浮かび上がったそれは、情報としてタカオのコアに叩き付けられたものだ。

 かつて北海道で暴走した際、同じようなことが起きた。

 沙保里の喪失に我を失いかけた時、見たビジョンに似ている。

 

 

 どこか――おそらくはヨーロッパの――の花畑の中に佇む、柔和で温かな女性のイメージ。

 母に抱かれる娘のように、錯乱しかけたタカオは自分を取り戻すことが出来た。

 今度は自分に向けられたものでは無いが、しかしはっきりと感じ取れた。

 だが今回得たビジョンは、そのイメージは……。

 

 

「なに?」

「いや、わからないな」

「ただ……」

「ええ、そうですね」

 

 

 他の面々も、同じビジョンを見た。

 ただし今回のビジョンは、以前のような温かなものでは無かった。

 むしろ逆だ。

 おぞましく、背筋に不快な何かを感じさせるような。

 暗闇の中で、口にするのも憚られるような存在が嗤っているような。

 

 

「嫌な感じがする……」

 

 

 自分の腕を抱いて顔色を悪くするアタゴを、マヤがそっと支えていた。

 いつもならコアの記録領域を圧迫する勢いで画像データを保存しているだろうタカオも、今はそんな気分になれずにいた。

 胸の中に、何か嫌なものがこびりついている感覚だった。

 

 

「千早兄妹」

 

 

 遥か西方へと想いを()せながら、タカオは囁くように言った。

 胸中にわだかまる苦いものを拭い去ることが出来ないままに、しかしそれに屈しようとも思わずに。

 何千キロと離れたその先に、想いを飛ばす。

 

 

「いったい、何が起こっているって言うの……?」

 

 

 霧に。

 人に。

 世界に。

 

 

「大丈夫なんでしょうね、あいつら」

 

 

 霧の戦術ネットワークには、何の情報もアップロードされていない。

 それは霧にとって、「何も起こっていない」ことと同義だ。

 しかし何かが起こっている、タカオにはそれがわかる。

 霧にはそれを表現する言葉が無いが、人間にはあった。

 ――――タカオは、胸騒ぎと言うものを覚えていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 流石に、村の外までは追いかけてこなかった。

 ぜぇぜぇと息を切らしながら、杏平はその場に座り込んだ。

 若い男子とは言え、長時間の全力疾走はさすがに堪えるものがあった。

 

 

「全く、群像達に付き合ってると楽できなくて良いね」

 

 

 本心か皮肉かはともかく、杏平はそんなことを言った。

 彼は僧と違い学院時代に群像や紀沙と知り合った、いわば「新顔」の人間だが、それでも群像からは深く信頼されていた。

 特にイ401の砲雷撃に関しては、群像は口を出そうとすらしない。

 

 

 こう言う状況でも、杏平は言われる前に村人達を引き付けることを買って出る。

 艦長に万が一があったら大事だからな、とは杏平の談だが、単純に人が良いのだろう。

 ちなみにいおりなどは、杏平のこの気質を「ホラーゲームで死ぬ役っぽい」と評していた。

 報われないタイプなのかもしれない。

 

 

「オゥ、神よ……」

 

 

 一方で一緒に逃げて来たジョン――走りながら自己紹介した――は、村の方を見て呆然としていた。

 そこはオーマイゴッドじゃないのかよと思いつつ、杏平はジョンが向いている方を見た。

 

 

「何だ、ありゃあ」

 

 

 光の柱だ。

 村中の闇を払うような、光の柱が村の中心に出現していた。

 地から天へと放出する形で出現したそれは、その根元で何かが起こっていることを雄弁に物語っていた。

 それも、余り良くないことが起こっている。

 

 

「くそ……!」

「今からでは間に合わないヨ」

 

 

 駆けつけたい衝動に駆られる杏平だったが、ジョンの言う通り、事はすでに起こっている。

 今から行っても、村人達を掻い潜りながらではとても間に合いそうに無かった。

 

 

「それよりも艦に戻った方がグッドね、401はユーがいないと攻撃力が出せないからネ」

 

 

 自分が砲雷長だと言ったことは無いはずだが、このジョンとか言う変な奴は自分や401のことを良く知っているようだ。

 ただ自分がいなければ艦の攻撃力が出せないと言う点には、少々の訂正を加えたかった。

 出せないのでは無く、活かせないのだと。

 

 

「簡単にくたばるんじゃねぇぞ」

 

 

 明るく、昼間のように村を明るく照らす光の柱を見つめながら、杏平は言った。

 夜空の雲を引き裂くその様子には神性すら感じるが、生憎(あいにく)と杏平は神様などと言う都合の良いものを信じてはいない。

 彼が、()()が信じるものはいつだって自分達の力と、自分達の行動によって得られるものだけだったのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の力を侮っていたつもりは、群像には無かった。

 むしろ霧と対する時は常に命懸けだと思っているし、そして死にたがりでも無い。

 死んだら死んだでその時だとは思うが、それと命知らずは別の話だろう。

 

 

「すまない」

「ほんと手のかかる兄妹だよお前らは……!」

 

 

 成す術も無く吹っ飛ばされた群像だったが、地面に激突する前に冬馬に身体を支えられて、どうにか大怪我をせずに済んだ。

 完全に崩壊してしまった教会を見れば、冬馬の助けが無ければどうなっていたかなど想像するまでも無い。

 

 

「で、どうすんだ!?」

「そうだな……」

 

 

 それはそれとして、危機的状況だった。

 2人の前には完全に崩壊した教会があり、十字架があった位置にはアマリアの氷棺がある。

 そしてその真下に、『クイーン・エリザベス』ことリエルがいる。

 霧の力を取り戻し、かつ記憶を取り戻した、人間への憎悪に狂う霧の艦艇。

 

 

 リエル=『クイーン・エリザベス』。

 大戦艦級のコアの演算により生み出される力の発露は、まさに天災だった。

 メンタルモデルを基点に、天に光の柱が、周囲に暴風を撒き散らしている。

 レンガを吹き飛ばす程の風力のため、その場にいるだけでどこから何が飛んでくるかわからず危険だった。

 

 

「正直、少しだけ興味があるな」

「あ、何がだよ!?」

「霧の艦艇が、全力で力を解放したらどうなるか」

 

 

 イオナもそうだが、霧の力は未知数だ。

 彼女達は皆、周囲への影響を考慮して戦闘時でも力を押さえている。

 だが、今のリエル=『クイーン・エリザベス』にはそれが無い。

 怒りと憎しみ我を忘れており、群像達はもちろんカークウォールの村人達のことすら頭に無いだろう。

 いや、むしろそれらを滅ぼすことしか考えていないのかもしれない。

 

 

『艦長? いったい何をしておいでなので?』

 

 

 襟元に仕込んだ通信機から聞こえたのは、ヒュウガの声だった。

 演算力ではイオナやスミノを凌ぐヒュウガは、群像の近くで起きている異常にも気付いたのだろう。

 そしてその気付きは、群像達が肉眼で得ているものとはまた違うものなのだろう。

 

 

『重力子が急速に活性化しています。このままでは付近の次元断層に影響が出かねません』

「具体的に言うと何が起こる?」

『人間の言葉で言うと――次元の狭間に飲み込まれます』

 

 

 全くわかりやすくなっていないが、大変だと言うことはわかった。

 となると何とかしなければならないのだが、ただの人間に何とか出来るような状態では無かった。

 

 

「――――兄さん!!」

 

 

 そう、()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙がアースヴェルドを連れて教会に戻った時、事態はすでに最悪を極めていた。

 道中、村人達は紀沙達に何もしなかった。

 天を裂く光の柱という「奇跡」の前に跪き、こちらを見なかったのだ。

 預言の言う滅びの日だと言わんばかりの態度に、紀沙は嫌気が差した。

 

 

 霧が神の奇跡を起こすなど、あり得ないことだ。

 神様気取りの霧め。

 今すぐに、その化けの皮を剥いでくれる。

 

 

「兄さん、冬馬さん! 大丈夫!?」

「ああ、何とか生きてる」

「俺がいなきゃ死んでたぞ!」

 

 

 擦り傷はあるが、大きな怪我はしていない様子にほっとした。

 一方で兄とクルーを傷つけられたと言う認識は、怒りとなって紀沙の胸を焦がした。

 よくも、と顔を上げれば、光の中のリエル=『クイーン・エリザベス』と目が合った。

 冷たい目だと、そう思った。

 

 

 濁っている。

 目の前に映る何もかもが憎くて、仕方が無いと言う目だった。

 何もかもを破壊してやると言う意思が、そこからは感じられた。

 一言で言えば、正気を見失っている目だった。

 

 

「リエル!」

 

 

 アースヴェルドが前に駆け出して、リエル=『クイーン・エリザベス』の前に出た。

 光り輝く黄金のメンタルモデルは、じろりと彼を睨み据えた。

 

 

「危な……!」

「もうやめるんだ、リ……ぐあっ!?」

 

 

 不可視の衝撃波が、アースヴェルドを吹き飛ばした。

 衝撃が余りに大きくて、風圧だけで身動きが取れなくなってしまう。

 遥か後方に吹っ飛んで行ったアースヴェルドを気遣う余裕も無い。

 

 

「――――人間め」

 

 

 声もまた、どす黒い憎悪に満ちている。

 かつて慕った義父であることを感じさせない程の、そんな色をしていた。

 

 

「愚かで、汚らしく、思いやりも優しさもなく、嘘を信じて、見るべき真実も見えない」

 

 

 そしてそんなリエル=『クイーン・エリザベス』の口から出てきたのは、人間への恨みつらみだ。

 それは、人間の悪性への糾弾だ。

 

 

「清らかな心を踏み躙って嗤う、崇めるべき(良心)を持たない愚図ども。この美しい地上と海を汚すしか脳の無い、愚者ども。お前達のような害虫は」

 

 

 神の名の下に。

 

 

「――――滅びてしまうが良い!!」

 

 

 ドン、と、円形に衝撃が広がった。

 地面が割れる。

 クレーターのように陥没した地面は、教会の残骸を蹴散らし、大気を震わせた。

 まさに天災だ、しかし。

 

 

「……何が滅びだ」

 

 

 そうした天災に立ち向かうのもまた、人間という多面的な生き物の一側面なのだった。

 

 

「災厄を撒き散らす霧が、何を偉そうに」

 

 

 紀沙は、リエル=『クイーン・エリザベス』の圧力に抗した。

 彼女の糾弾を受け入れず、逆に指弾した。

 

 

「人間みたいなことを」

 

 

 アースヴェルドから聞いた話は、悲劇だった。

 これ以上無い悲劇だ、それは認める。

 しかしその悲劇もまた、霧の登場によって生み出されたものの1つだ。

 リエル=『クイーン・エリザベス』の糾弾は、そこを無視している。

 

 

「――――言うんじゃない!」

 

 

 人間が、アマリアと言う聖者を失わせた。

 霧の登場が、清らかな者を踏まざるを得ない窮地に人間を押しやった。

 相容れない。

 これでは、とても相容れない。

 

 

 紀沙の左目が、ギラリと輝いた。

 電子の海を潜ませるその瞳は、真っ直ぐにリエル=『クイーン・エリザベス』の眼を射抜いた。

 ――――両者が同じ瞳を持っているのが、皮肉だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早紀沙の左目は、スミノの――()()()である。

 これはイ404のクルーの公然の秘密であるが、スミノは他のクルーには言っていないことがあった。

 それは、紀沙の左目が徐々に()()()()()()()ということだ。

 いや、馴染んでいると言った方が正しいだろうか。

 

 

「特に艦長殿は海にいる時間が長いからね」

 

 

 ナノマテリアルは、海から生まれる。

 そしてスミノの左目を使うと言うことは、体内にナノマテリアルを取り込んだと言うことだ。

 海にいる時間が長ければ長い程、体内に取り込んだナノマテリアルが活性化するのは当然の帰結だろう。

 霧から最も遠い位置にいるはずの紀沙が、最も霧に近しいものになりつつあるのだ。

 

 

 嗚呼、何と言う皮肉だろう。

 最も嫌い憎むものに身体を犯される感覚とは、いったいどのようなものだろう。

 想像しただけで、スミノは背筋にゾクゾクとしたものが走るのを止めることが出来なかった。

 人間の言う「鳥肌が立つ」と言うのは、こういうものを言うのだろうか。

 

 

「おい、気を散らすな」

「……ああ、すまないね。イ401」

 

 

 自らの艦体の舳先に立ちながら、同じようにイ401の舳先に立っているイオナに返事を返した。

 彼女達は狭い湾内に身を潜めていたのだが、カークウォールの異変と時を同じくして、湾内に突如巨大な戦艦が姿を現したのだ。

 ナノマテリアルの急速な活性化と共に現れたそれは、霧の大戦艦『クイーン・エリザベス』だった。

 

 

「この狭い湾内で、潜水艦2隻で大戦艦と正面からやろうって?」

「あれが地上を攻撃し始めたら群像達が危ない」

「現状でも大変だとは思うけどね」

 

 

 あの『クイーン・エリザベス』を中心に、強力な電磁パルスが広がっている。

 スコットランド北部に点在するイギリス軍の拠点などは大変だろう、下手をしたら拠点の電子機器すべてが死んでしまっているはずだ。

 いや、そもそも都市部のライフラインも寸断されてしまっているかもしれない。

 

 

「この演算力、明らかに霧の枠を超えているぞ」

「そうだね」

 

 

 それはそうだろう、と、スミノは思った。

 何しろ『クイーン・エリザベス』は、未だスミノ達霧が()()()しか導入できていない、<感情>と言うシステムを実装したのだ。

 愛、そしてその喪失から来る憎悪。

 そのいずれも、本当の意味で理解できている霧の艦艇は存在しない。

 

 

「やるぞ」

「はいはい」

 

 

 その両方を理解している『クイーン・エリザベス』の強さは、こちらの想像を超えているだろう。

 やるしか無いとは言え、難儀なことだ。

 演算力を()()()()()()()()()()()、戦闘は厳しくならざるを得ない。

 本当に難儀なことだと、スミノは思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 裏の世界と、紀沙はそう読んでいた。

 ベーリング海で初めて認識した世界だが、この反転した世界――左目の視界とほぼ同じため、右目を閉じなければならないが――での出来事は、およそ人間の常識とかけ離れている。

 ()()()を持つ者だけが認識できる、世界だ。

 

 

「これは……」

 

 

 以前は2501が紀沙の世界に入り込んできたが、今回は逆だった。

 紀沙が、リエル=『クイーン・エリザベス』の世界に入り込んでいる。

 電子の海の向こう側、神経が焼き切れそうな程の熱さの先に、深層世界とも言うべきものがある。

 二度目は、一度目よりも抵抗無く来ることが出来た。

 

 

『シスター……』

 

 

 その世界は、礼拝堂の形をしていた。

 紀沙の世界がイ404の発令所であったように、深層世界の形はその者のイメージが反映されるのだろう。

 ただ、この「リエルの世界」は、紀沙にとって衝撃的だった。

 

 

『おねがい』

 

 

 コツコツと靴音を響かせながら、近付いた。

 ゆっくりとしたその動作は、とても戦いを仕掛けようとしているようには見えなかった。

 外では天災級の事態になっているのだが、ここは静かだった。

 だから、余計に響く。

 

 

『ひとりにしないでよ、シスター……』

 

 

 リエル=『クイーン・エリザベス』の、すすり泣く声が。

 小さいと、そう思った。

 あれだけの力を持つ存在が、何故か小さく見える。

 十字架の根元で膝を抱えて蹲っているのだから、そう見えるのも仕方が無かった。

 

 

 何だ、これは。

 ジリジリと左目の奥に熱を感じながら――しかもこの熱は、徐々にだが広がっている――紀沙は困惑していた。

 これが、あの強大な霧の姿だと言うのか。

 これでは、まるで。

 

 

(『1人は寂しいよ。父さん、母さん――兄さん』)

 

 

 倒せる。

 勝てる。

 今のこの世界のリエル=『クイーン・エリザベス』は、性能だとか演算力だとか、そう言うものでは無く、単純に打ち倒せる存在に成り下がっていた。

 外のあの力の放出は、中身の伴わないものだったのだ。

 

 

 しかし。

 

 

 しかし、紀沙は動くことが出来なかった。

 認めたくなかった、リエル=『クイーン・エリザベス』の弱さにでは無い。

 そこに、そこにかつての自分を重ねてしまった自分自身を、信じたくなかった。

 

 

「……ッ」

 

 

 だからリエル=『クイーン・エリザベス』が顔を上げた時、紀沙は逃げた。

 逃げなければ、顔を見てしまうところだった。

 見てしまえばきっと、もう言い訳のしようも無く。

 かつての自分を、リエルに重ねてしまっていただろうから――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はっ……。

 息を吐いた瞬間に、紀沙は右目を開いた。

 ()()()()に戻って来たのだ、逆に左目は閉じ、瞼の間から血が流れている。

 

 

「く……」

「おい、艦長ちゃん!」

「だ、大丈夫です」

 

 

 力を使うと、人体の部分に負荷がかかってしまうのだ。

 まだ二度目、加減が掴み辛い。

 ただ今は、そう言う見た目上の問題は大した問題では無かった。

 問題は、心である。

 

 

 右目から流れる、透明の雫こそが問題だった。

 裏の世界でダイレクトに繋がってしまった弊害だろう、胸中には闘争心では無く共感に近いものが生まれてしまっている。

 霧を、理解しようとしてしまっている。

 そのことが、たまらなく嫌だった。

 

 

「よくも」

 

 

 そして、それはリエル=『クイーン・エリザベス』の側も同じだった。

 紀沙にはそれが良くわかった。

 いつの間にか光の放出は止まっていて、リエル=『クイーン・エリザベス』の汗に濡れた顔が良く見えていた。

 メンタルモデルが汗に塗れるなどあり得ないが、そうなっていた。

 

 

「よくも、私の中に。薄汚い人間風情が」

 

 

 声にも力が無い。

 (しゃく)な話だが、紀沙には今のリエル=『クイーン・エリザベス』の気持ちが良くわかった。

 何故なら、彼女達は互いに心を近づけたのだから。

 互いの胸に抱く嫌悪感は、まさに同じものであった。

 

 

「死の裁きを受けるが良い、人間!」

 

 

 一瞬の出来事だった。

 リエル=『クイーン・エリザベス』の手元の地面から、黒い砂のような物が無数に浮かび上がったのだ。

 それは瞬時に黒い槍の形態を取り、重力を無視した速度で飛んだ。

 狙いは当然、紀沙だ。

 

 

「紀沙!」

「ちっ、クソが!」

 

 

 群像が声を上げ、冬馬が駆け出した。

 間に合わない上に、避けられない。

 頭の冷静な部分がそう考えるのと、足がからまって後ろに倒れかけたのはほぼ同時だった。

 胸を狙っていただろう一撃は、紀沙の身体が下がったことで顔を目掛けて飛んだ。

 左目の力を使おうとしたが、ズキッと痛みが走って無理だった。

 

 

「くっ――――!」

 

 

 それでも何とか回避しようと顎先を上げて、抵抗する。

 物凄い速度で近付いてくる漆黒の槍が、スローモーションに見える。

 そして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 肺から空気が抜ける音がした。

 次いでたたらを踏む音、しかし持ち堪えた。

 ただし、明らかに致命傷だった。

 

 

「あ……」

 

 

 上等な外套が、濃い染みを作っていた。

 端からポタポタと垂れる赤い雫が、地面に水溜りを作っていた。

 水溜りがそれ以上広がらないのは、傷口が塞がっているからだろう。

 アースヴェルドの胸板に突き立った漆黒の槍は彼の身体を突き破り、同時に傷口を塞ぐ役割を果たしたのだ。

 

 

「リエル」

 

 

 一歩。

 また一歩と、ゆっくりとアースヴェルドがリエル=『クイーン・エリザベス』に近付いた。

 リエル=『クイーン・エリザベス』は、どこか慄いた表情でそれを見上げていた。

 

 

「キミが人間を恨む気持ちは、良くわかる。でも」

 

 

 ガクリとリエル=『クイーン・エリザベス』の前で膝を折って、アースヴェルドは言った。

 その目はどこまでも優しく、そして哀しげだった。

 

 

「でも、どうか人間全てを憎まないでほしい」

 

 

 口の端から血を流しながら、アースヴェルドは言う。

 アマリアを害した者達を恨むのは良い、でも人類全てを悪と断じないでほしいと。

 何故ならば、リエル=『クイーン・エリザベス』が女神とまで崇めたアマリアもまた、人間なのだから。

 神の如き善と悪魔の如き悪を同時に併せ持つのが、人間と言う生き物なのだから。

 

 

 嗚呼、何と不可解な生き物なのだろう。

 感情を理解しつつある霧でさえも、理解できない。

 どれだけの演算力があったところで、これを再現することは出来ないだろう。

 その不可解さは、とめどない涙となってリエル=『クイーン・エリザベス』の顔を濡らした。

 

 

「わからない」

 

 

 アースヴェルドの身体を、そっと抱き締めた。

 漆黒の槍が、光の粒子となって端から消えていく。

 ドレスを朱色に染めながら、リエル=『クイーン・エリザベス』は呆然と涙を流していた。

 他にすることがわからないと、そんな様子だった。

 

 

「人間。良心。わからないよ――――パパ」

 

 

 紀沙は、2人から目が離せなかった。

 もう戦う気は無かった。

 ただ抱き合う2人から目が離せなくて、紀沙はその場から動けなかった。

 足が固まってしまったかのように、動けなかったのだ。

 

 

「紀沙、良く見ておけ」

「……兄さん」

「お前は、見ておくべきだと思う」

 

 

 兄に肩を叩かれて、ようやく動けるようになった。

 しかし視線は固定されたまま動かず、リエル=『クイーン・エリザベス』達から目を離すことが出来なかった。

 自分は違うと、そう思った。

 ただ、そう思い続けることが出来るかどうかは……少し、揺らいでいたかもしれない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 あれほどの圧力をかけてきていた『クイーン・エリザベス』の艦体が、ナノマテリアルの粒子となって消えていく。

 それに対して、イオナはメンタルモデルの身体から力を抜いた。

 身体から力を抜くと言う行為自体、霧らしからぬ行為ではあった。

 

 

「ねぇ、イ401」

 

 

 スミノはイオナのことを名で呼ばない。

 それは、名前を得た程度で群体たる霧から自立できると思っていないからだろう。

 それなりに妥当な話だ。

 と言って、イオナはもはやそれに首肯するつもりは無かった。

 

 

「キミは、愛って信じてるかい?」

「いや、その感情はまだ実装していないな」

「そうか、じゃあキミにもわからないかな」

 

 

 何でも無いような顔をして、スミノは言った。

 

 

「それを失った時の気持ちとかさ」

 

 

 愛の喪失。

 霧たる『クイーン・エリザベス』を狂乱させたのはそれだ、愛情が大きければ大きい程に、喪失した時の反動は大きい。

 今回のカークウォールの一件は、愛とその反動のために起きた事件だった。

 

 

 愛情、それは霧が理解できない感情の1つなのかもしれない。

 しかしメンタルモデルを得て、人間と干渉し合うようになってからは急速に変わっている。

 霧が気付いていないだけで、その種子はすでに()かれているのかもしれなかった。

 ……ヒュウガのあれは、イオナは都合よく忘れているのだった。

 

 

 

「――――霧も、随分と変わったものね――――」

 

 

 

 ぞくりとした悪寒が、イオナの背中を走った。

 人間的な表現で言えばそう言うことになるが、実際には突如として現れた巨大な存在に、イオナの中のナノマテリアルが大きく反応しただけだった。

 濃霧と共に現れたそれは、この狭い湾内に入るにはいかにも巨大すぎた。

 

 

「まさか、愛について語り合うようになるだなんて」

 

 

 『クイーン・エリザベス』の穴を埋めるように進み出てきたそれは、しかし『クイーン・エリザベス』よりも遥かに巨艦であり、超重量だった。

 その正体はあの『ナガト』と同様、超戦艦クラスに最も近い存在である証明、デュアルコアを持つ大戦艦――『ビスマルク』。

 

 

「……これは驚いたな」

 

 

 2つの智の紋章(イデアクレスト)を持つ特異な艦を前にして、スミノは笑みを浮かべた。

 まさか彼女達が、艦橋の屋根からこちらを見下ろす()()()()が、ここで自分達に接触してこようとは。

 

 

()()()()んじゃないのかい――――え、『ビスマルク』」

 

 

 まさに双子の容姿を持つ『ビスマルク』のメンタルモデルが、じっとそれぞれイオナとスミノを見下ろしていた。

 その額に、太陽と月、相反する智の紋章(イデアクレスト)を輝かせながら。

 まるで、この世の最後を告げる審判者のように。




あけましておめでとうございます、竜華零です。

今年も頑張って投稿していきますので、お付き合い頂ければと思います。
原作が13巻にしてようやく初章という脅威の長編ぶりですが、挫けないでやっていこうと思います(え)

それでは、また次回。


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Depth046:「特級機密事項」

 

 特級機密情報管理サーバー施設。

 たった1つのサーバー・ルームを守るためだけに存在するこの施設は、軍務省直轄となっている。

 つまり関東一円を管轄する日本陸軍の最精鋭「第一師団」と切り離された独自の施設であり、警備の部隊も独立した指揮系統の下に動いている。

 

 

「しかしよー」

 

 

 国家の最重要機密を保管する独立サーバー施設。

 とは言っても、警戒すべき相手がいない施設でもある。

 こんな山奥の施設を狙う外国部隊など来るはずも無く、国内の反政府的勢力も厳重に警備されているこの施設を狙おうとはしない。

 

 

「これってよ、本当に必要なのか?」

「あ、何がだよ」

「だからよ、こうしていちいち見回りをするってことだよ」

「そんなこと言ったってしょーがねーだろ、仕事なんだから」

 

 

 とどのつまり、部署としては暇なのだった。

 ここに配属されてやることと言えば訓練か警備しか無いので、兵がダレてくるのも仕方が無いだろう。

 夜の見回りなどは最も重要かつ最も退屈な任務として、新兵に押し付けられることで有名だった。

 そう、ちょうどこの彼らのように。

 

 

「ったくよー……あれ?」

「どうした、またトイレとか言い出すんじゃないだろうな」

「ちげーよ。ここもう折り返しだろ?」

「そういえばそうだな、逆周りに奴らはまだ来て無い無いのか」

 

 

 どうやら別の警備の兵が見回りの予定を守っていないらしく、舌打ちが響いた。

 ただ初めてでは無いのか、舌打ちしつつも通報するようなことはしなかった。

 むしろどうやって時間を潰すかと、空を仰ぎすらした。

 普段であれば、その行動にも何の問題も無かっただろう。

 

 

「……あ?」

 

 

 その時、彼らは見た。

 サーバー施設の外壁を包む森の木の上に、明らかに自然物では無いものを見つけたのだ。

 それは統制軍のプロテクターを着けた男達で、人数は彼らと同じ2人だった。

 と言うか、今まさに話題に上っていた反対側から来るはずの警備兵だった。

 

 

「な」

 

 

 隣の仲間に呼びかけようとしたため、彼だけは「それ」を目にすることが出来た。

 どこから現れたのかはわからない。

 ただ彼らの背後に、音も無く2人の銀髪の少女が姿を現したのだ。

 途方も無く美しい少女達だった。

 上から落ちて来たのか、着地の態勢でそこにいた。

 

 

 声を上げる間も無く、中華風の服装の方が相棒を蹴り倒していた。

 そして次の瞬間には、彼自身がヒラヒラした服装の少女に顎を蹴り抜かれていた。

 即座に視界がブラックアウトする中、彼は思った。

 最後に見たのは、ヒラリと翻るスカートから伸びる細い足と……。

 

 

 ――――白だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 400と402が倒した見張りの数は、4組を超えた。

 そろそろ人間側も異変に気付くだろうと言うところで、タカオも動いた。

 傍らには、マヤとアタゴがいた。

 

 

「さて、そろそろ行こうかしらね」

 

 

 400と402のおかげで、肉眼による見張りはほぼ消えた。

 キリシマとハルナは、合図を待って正門で仕掛ける予定だ。

 ちなみにマヤとアタゴはタカオ自身が「サポートが必要だ」と駄々をこねたがためにタカオについているが、別にメンタルモデルが傍にいなければならない理由にはならない。

 

 

 それはそれとして、サーバー・ルームである。

 独立したサーバーであるため、目的のデータが保管してあるサーバーの場所まで直接向かわなければならない。

 高度な情報生命体である霧にとって、アナログこそが最も有効な防御法であることは確かだった。

 

 

「どうするの?」

「そうね、なるべくスマートに行きたいわ」

 

 

 400達が陽動している間に、タカオ達が内部に入り込んで必要な情報を抜き取るのが計画だ。

 人間相手ならさほどの警戒は必要無いだろうが、油断は禁物とも言う。

 陽動は派手に、本命はひっそりと。

 基本に忠実にやっていくとしよう。

 

 

「さ、マヤ」

「は――いっ!」

 

 

 ぴょんと飛び跳ねて手を上げる妹が最高に可愛いと思いながら、タカオは前を向いた。

 まるで要塞のような威容を見せ付けるサーバー施設を見上げながら、ふむと考え込む。

 この中に千早群像が気にしていた、「第四施設焼失事件」とやらの情報があるらしい。

 一応概要だけは調べてきたが、特級機密情報ということでここに保管されていることしかわからなかった。

 

 

(……軍系列とは言え、たかが学校の事故を特級機密に指定)

 

 

 普通はあり得ない、と、霧でもわかる。

 そうなると、よほど衆目に晒されては都合の悪いことがあったのかもしれない。

 上層部のスキャンダルとかだったら興ざめだが、まさかそんなことでは無いだろう。

 こればかりは、まさに蓋を開けてみなければわからない。

 

 

「さぁ、皆~っ」

 

 

 マヤが両手を上げると、彼女の頭上に紋様の輪が広がった。

 天使の輪っかのように見えるそれを見てタカオは胸中で「うちの妹マジ天使」とか思ったが――実際には口に出ていたので、アタゴが凄まじくジト目で見ていたが――それはともかく、合図が放たれた。

 同時に、正門ともう一ヶ所、別の場所で大きな爆発が起こった。

 轟音の地響きが、ここまで届いてきた。

 

 

「カ――――ニバルだよっ!!」

 

 

 マヤの楽しげな声が、場違いな程にその場に響き渡った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 巡洋戦艦『レパルス』。

 おどおどした気質からは忘れられがちだが、彼女の演算力はタカオ型を上回る。

 普段はその演算力も『ヴァンパイア』のメンタルモデル形成に割いているが、それを解いてしまえば、元の演算力を存分に振るうことが出来る。

 

 

「わかってるわよ、いちいち口を差し挟まないで頂戴」

 

 

 空中に浮かんだ無数の半透明なディスプレイは、その全てにナノマテリアルによる幾何学模様が浮かび上がっていて、目では追えない程の速度で数字の羅列のようなものが走っている。

 何をしているのか?

 一言で言えば、タカオ達のバックアップである。

 内部へ突入する彼女達を、後方から支援するのだ。

 

 

 レパルス――レパルスのメンタルモデルは性格がどうも臆病なようで、人前に出ることも拒絶している。

 だから無理をして『ヴァンパイア』にメンタルモデルを造らせて外で活動させているのだが、無論、この方法はひどく効率が悪い。

 臆病と言うよりは、単に人見知りなのかもしれない。

 

 

「私だってあのチハヤ兄妹に助力するのが不味いってことはわかってるわよ、でもこれは別に直接力を貸しているわけではないでしょう?」

 

 

 僚艦の『ヴァンパイア』と会話をしつつ、やっていることはえげつなかった。

 現在、横須賀及びその近辺に展開している統制軍の通信網は、滅茶苦茶になっていた。

 まず通信は通じない、全てのラインが寸断されて使い物にならない。

 かと思えば一時的に繋がったりもするが、しかしその繋がり方も滅茶苦茶だった。

 それはまるで無数の糸電話の糸を切断し、適当に繋ぐ作業に似ていた。

 

 

「なに? 素直じゃない? ば、ばかなことを言わないで頂戴!」

 

 

 人類側からすれば、レパルスの方こそ「ばかなことをしないで頂戴」な状況である。

 クリハマ、タケヤマ等の周辺駐屯地はすでに大混乱に陥っていた。

 これだけ大規模なサイバー攻撃に晒されるとなると、相手は本命がどこかわからなくなるだろう。

 無数の陽動が可能なのは、これを行っているのが霧の艦艇だからだ。

 人類側に、このサイバー攻撃を防ぐ手立ては存在しない。

 

 

「わ、私はただ、キリシマ達へ義理を……そう! 同じ霧同士、協力するのに理由はいらないはず! ……って、めんどくさい!? 何ですってぇ!?」

 

 

 どうやら今夜は、日本の統制軍にとって眠れない夜となりそうだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 深夜だろうと何だろうと、国家の危機には即座に参じなければならない。

 公僕たる――そしてこのご時勢に豪勢な酒食を口に入れる身分ともなれば――上陰としては、急な事態にもすぐに対応しなければならないのだ。

 そう、例えば横須賀中の統制軍の通信網にサイバー攻撃が仕掛けられると言う前代未聞の事態の際には。

 

 

「遅くなりました」

『いや。むしろ早い方だよ、上陰君』

 

 

 首相官邸の執務室には、楓首相と北がすでにいた。

 楓首相はともかくとして、役人、それも軍務省次官である上陰よりも早く情報を得られる政治家と言うのも凄まじい。

 それだけ、北という政治家が大物と言うことだろう。

 

 

 とにかく、いつもの3人だった。

 この3人が集まったということは、言わずもがな、見解が一致していると言うことだ。

 そして上陰の到着を待って楓首相が説明した一連の事態は、おおよそ上陰の予想通りの内容だった。

 今夜、横須賀で起こっている事件について。

 

 

『横須賀全体に強力なサイバー攻撃が仕掛けられている。指揮通信システム隊の黛司令によれば、統制軍の通信網から横須賀エリアだけが穴が開いたようになっていて、何が起こっているかわからないんだそうだ』

「今、これだけのサイバー攻撃を仕掛けてくる他国がいるとは考えられません。となると……」

「……十中八九、霧だな」

 

 

 問題は、どうして霧が日本にサイバー攻撃を仕掛けてきているかだ。

 これまで霧はサイバー空間も含めて、日本の内部に攻撃を仕掛けてきたことは無い。

 それが突然、何故。

 横須賀で霧の興味を引くものなど、そう多くは無い。

 

 

 <大反攻>に備えた地下ドックか。

 いや、こう言うのも難だが、()()()()()()()を霧が興味を持つはずが無い。

 ならば、他に何がある?

 上陰は考えた、そしてある1つの可能性に行き着いた。

 

 

「……海洋技術総合学院」

 

 

 いや、違う。

 外れてはいないだろうが、違う。

 あそこは特にサイバー防衛体制が強力というわけでは無い、ここまで大規模な攻撃は必要無い。

 ならば、より重要な情報が集まるところを狙ってのことだろう。

 しかも霧は、日本の内政上の重要機密等には興味を持っていない。

 

 

「……()()()()

 

 

 奇しくも、「規模の大きさ」と「霧が興味を抱きそうな情報」という2つの前提が上陰をその答えに導かせた。

 陽動をどれだけ重ねようとも、そこさえ見逃さなければ、霧側の目的は見えてくるのだ。

 まだまだ霧の思考は単純であって、政界に長く関わるような人間の目には自ずから見えてしまう。

 すなわち霧は、いよいよ千早兄妹(興味関心)――()()()()()()に触れようと言うのだろう。

 

 

「イ号潜水艦や振動弾頭、SSTOの数次に渡る作戦で欺いてきたつもりだったが」

 

 

 大きく息を吐いて、北が言った。

 

 

「……いよいよ、霧が真実の一端に触れる時が来たのか」

 

 

 北は見た、いや聞いた。

 17年前の<大海戦>の時、当時の千早翔像大佐がイ401を鹵獲した時のことを。

 千早家が抱える、抱えさせられた宿命のことを――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人間の侵入を防ぐ物理的な防衛用システム。

 人間のハッカーを防ぐ警備システム内の防衛システム。

 そのいずれも、タカオ達の侵入を防ぐには力不足だった。

 

 

「うーん、なかなか複雑なシステムだねー」

「大したことないわよ。ただ、痕跡は残さないようにね」

「はーい」

 

 

 マヤとアタゴの会話を背中に聞きつつ、タカオはずんずんと進んで行った。

 すでに館内の見取り図はアタゴがハッキングで入手していて、カメラやらカードキーやらの電子システムはマヤが掌握している。

 まさに無人の野を行くが如く、3人の進みを止められる者はいなかった。

 

 

 厳重な警備システムと言うのも、考えものだろう。

 余りにも人間の侵入を拒んでいるため、身内の警備兵すら自由には中に入って来れない。

 つまり一度内部に侵入してしまえば、警備兵の類はいないのだ。

 後は無人の防衛システムだが、これは施設内部のネットワークを掌握してしまえば無力だった。

 

 

「……お?」

 

 

 しかしそれにも、例外と言うのはある。

 件のサーバールームまでの通路の床が、不意に盛り上がった。

 そして姿を現したのは、蟹のような姿をした多脚型のロボットだった。

 口の部分に機関銃を備えたそれは、無人の戦闘用ロボットだ。

 システム的にクローズドのそれは、招かれざる客を追い払うべく立ち上がったのだった。

 

 

 ――――?

 

 

 しかし、そのロボットがタカオ達を認識することは無かった。

 何故ならば、「彼」は相手を認識する前に、踏み潰されてしまったからだ。

 タカオの足が蟹の甲羅の中心を踏み抜いた瞬間、カメラアイの強化ガラスの端にタカオの後ろ姿が映ったぐらいだろうか。

 

 

「この奥ね、急ぐわよ」

「はぁ――いっ!」

 

 

 マヤの元気な声にニヤケ顔を押さえられないまま、タカオは正面を向いた。

 長く続く通路の、奥の奥を見通すように霧の瞳を向ける。

 チッ、チッ、と、その両の瞳は白い輝きを発していた。

 その奥で、電子の海がたゆたっている。

 

 

「千早兄妹が、遭った事件……か」

 

 

 この時、タカオは己が何に向き合おうとしているのか、わかっていなかった。

 しかしえてしてそうであるように、今から彼女が向き合おうとしているものは、それを知ってしまってからが大事になるのだ。

 それがいわゆる「真実」なのだと言うことに、タカオはまだ気付いていなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 電子(ネット)の海は、広大だ。

 例え他から切り離された独立サーバーであっても、保管されている情報の量と質によっては膨大になり得る。

 そしてカスピ海や死海のように、目の前に見えていても底が知れないものもある。

 

 

 不思議なもので、ネットの海にもゴミ(ノイズ)は存在するのだ。

 どんなに整然と片づけをしても、どうしてか部屋の隅にゴミが溜まってしまうのと一緒だ。

 つまるところ、日本の特級機密情報を保管したこの独立サーバーにおいても、余計なものは多い。

 いや、むしろ余計なものの方が多いのかもしれない。

 

 

『余計な物は放っておけば良い』

 

 

 アクセスをサポートしてくれているアタゴの声を聞きながら、タカオは集中した。

 光の速度で通り過ぎていく情報は、霧の瞳を持ってしても全てを捉えきれるものでは無い。

 数万、いや数十万、いやいや数百万を超える光が瞬く間に通り過ぎていく。

 時折手を伸ばし、いくつかを拾っては捨てていく。

 この作業は、簡単に言えば「検索」に当たる。

 

 

「あった」

 

 

 砂漠の砂から一粒の宝石を探し出す行為。

 しかし霧の重巡3隻がかりで検索をかければ、それらしきものを見つけるのは難しくない。

 それにキーワードもわかっている、「第四施設焼失事件」、これに類する情報をあたれば良いのだ。

 そして、タカオはそれを見つけた。

 

 

「どれどれ……」

 

 

 ――――第四施設焼失事件。

 それは、2年前に海洋技術総合学院の研修施設「第四施設」で起こった火災事故である。

 施設はほぼ全焼し、当時研修に訪れていた学院生徒56人が犠牲となった。

 火災の原因は、配線のショートによるものとされている……。

 

 

 概要はそんなところだが、おかしいと思った。

 外部にある情報と変わらない。

 この程度の情報が特級扱いになるわけが無い、ダミーか。

 いや、よく見てみると紐付け(リンク)がされている、どうやら表紙のようだ。

 

 

「アタゴ、もう少し深く探ってみるわ」

『いいけど、あんまり時間ないから早くしてよね』

「わかってる、すぐ終わらせるわよ」

 

 

 焦れてる私の妹マジ天使。

 表紙の情報の紐を引きながら検索を繰り返し、深く深く調べていく。

 すると、造作も無く類似の情報が閲覧できるようになる。

 そうしていると、おかしな点に気付いた。

 

 

 事件に関する情報はいくつかあるのだが、そのいずれも、ある部分に関してやたらに強力なプロテクトがかけられていたのだ。

 火災の原因である。

 配線のショートとしか出てこないが、軍系列の研修施設を全焼させた事故が配線のショートだけで説明できるわけが無い。

 

 

「うーん、どういうこと?」

 

 

 それから、生徒の死因。

 大部分は重度の火傷だとか煙を吸っての窒息だとか色々と書かれているのに、たった1人だけ、「機密」の文字と共に非公開指定がされている情報がある。

 名前は。

 

 

「天羽……琴乃(コトノ)?」

 

 

 名前だけがずらりと並んだ名簿の中で、その女生徒だけが特異だった。

 だからタカオは、特に警戒することも無く、付随する情報を踏んだ(クリックした)

 ――――そして、タカオは()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 脳を刺された。

 人間であれば、そう言う表現になるだろう。

 それだけの激痛――痛みと言うのも生温い激甚な痛みが、タカオを襲った。

 

 

「――――ッ!?」

『ちょっと、どうしたの!?』

『タカオお姉ちゃん!?』

 

 

 妹達に格好をつける余裕も無い。

 電子(ネット)上の額に突き刺さった()()は、タカオに凄まじい痛みを与え、その動きを拘束しようとしていた。

 激痛の中でタカオは、攻勢防壁だ、と判断した。

 

 

 ネットワークが進歩した現代において、情報保護は最重要セクションだ。

 だから不正アクセス、つまり侵入者(ハッカー)に反撃するセキュリティプログラムが開発された。

 これは相手からの攻撃から情報を守る防御とは異なり、侵入者に逆撃を与えるシステムだ。

 だが、重要なのはそこでは無かった。

 

 

「が、ぎ……っ!?」

 

 

 霧の自分に有効な攻勢防壁など、人類が組めるはずが無い!

 そんなことが出来るなら、人類はここまで霧に追い詰められていない。

 霧の重巡洋艦を止める程の防壁など、いったい誰が……。

 

 

 

『ここに来てはいけない』

 

 

 

 頭の中に、声が響いた。

 この声は聞き覚えがある、そう、あの時、暴走しかけた自分を一瞬で落ち着けさせたあの声だ。

 温かく慈愛に満ちて、それでいて有無を言わせぬ絶対の力を感じさせる何者か。

 

 

『ここに来てはいけない、今すぐ出て行きなさい』

 

 

 そして同じ言葉が繰り返される。

 これはシステムに記録された言葉だ、誰がいつそうしたのかはわからないが、いま声を飛ばしているわけでは無い。

 しかし、痛みは本物だ。

 

 

『ここから先に貴女達は来てはいけない、今すぐに出て行きなさい』

「……くぁっ!?」

『ここに来てはいけない、今すぐに』

「がぁ……っ!」

『出て行きなさい』

 

 

 声が響く、コアに一つ一つ針を刺していくように声が響く。

 自分のコアが軋みを上げるのを感じて、タカオは呻いた。

 痛い、痛い痛い痛い、いたい。

 もはやそれしか考えられなくて、言葉の通り背を向けて逃げ出したかった。

 

 

「こ、の!」

 

 

 それでも抗った。

 情報を手の中に掴んだまま、すごすごと帰れなかった。

 せめてこれだけでも持って帰ると、そう考えた時だ。

 鋭利な突起を備えた鎖が、タカオの胸を貫いた。

 

 

「――――ッ!!」

 

 

 タカオが悲鳴を上げる。

 聞くに堪えない濁った叫びは、断末魔に近かった。

 しかも鎖は一つでは無く、肩、腕、足と、次々に突き刺さってきた。

 返しがついたそれは強く引っ張られて、タカオの四肢を裂こうとさらなる激痛が走った。

 

 

『ここに来てはいけない、今すぐに出て行きなさい』

 

 

 ダメだ。

 この攻勢防壁は強すぎて、タカオの力では対抗できない。

 まさか、人類のサーバーにこれほど強力なセキュリティが存在するとは思わなかった。

 ここは一度引いて、いや二度と来てはいけないのだ。

 

 

『ここに来てはいけない、今すぐに出て行きなさい』

 

 

 帰ろう。

 妹達には何の情報も無かったと言えば良いのだ、気にしすぎだったと。

 す……と、情報を掴んだ手から力が抜けていく。

 そう、この手を離せば良いのだ。

 そうすれば、この痛みから解放されるのだから――――……。

 

 

 

「い゛ や゛ よ゛」

 

 

 

 離すどころか、逆に掴んだ。

 最後のセキュリティなのだろう、情報の容れ物(ファイル)がタカオの掌を焼いた。

 でも離さなかった。

 むしろ力を強めて、自分から焼かれに行った。

 

 

 痛みは増した。

 後悔した。

 でも離さない。

 ()()()()()()()()()()()

 

 

「頼まれたのよ」

 

 

 千早群像に、頼むと言われたのだ。

 

 

「託されたのよ」

 

 

 沙保里に、託されたのだ。

 

 

「だから」

 

 

 タカオはそれで動いている。

 その気持ちだけでここに来た。

 それこそが、タカオを突き動かす全てだ。

 

 

「こんなことで私は止められないわよ、『()()()()()()()()()()』――――!!」

 

 

 バリンッ、と音を立てて、情報の容れ物が砕けた。

 中に入っていた情報の全てが、タカオの中に流れ込んでくる。

 彼女の創造主とも言うべき存在が、これを()()()()()()()()()()()封じた情報が、流れ込んでくる。

 その衝撃に頭を揺さぶられるように、タカオの身体がのけぞった、そして。

 

 

 

「「タカオお姉ちゃん!!」」

 

 

 

 気が付いた時、タカオは外の世界に戻ってきていた。

 2人の妹に左右から抱かれていて、どうやら現実で倒れていたらしい。

 周囲には、薄暗い中に微かな音を立てるサーバー機器が見える。

 妹達に抱かれているのは至上の喜びだが、このままこうしているわけにはいかなかった。

 

 

「マヤ、アタゴ」

 

 

 伝えなければ。

 ()()を、伝えなければと。

 

 

「すぐに、ヨーロッパに向かうわ」

「はぁ? 何いって……」

「早く、伝えないと。『アドミラリティ・コード』は」

 

 

 消耗しきった声音で、しかし確かな力をもって。

 

 

「『アドミラリティ・コード』は、もう()()()()()……!」

 

 

 タカオは、真実の一端を手にしたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

『……戻す?』

 

 

 横須賀の海を眺める北、その背中に目を向けていた楓首相が、上陰へと視線を向けた。

 バイザー越しの視線に力などあるはずが無いが、貫禄はある。

 最悪の時代とも言われるこの4年近くを日本の頂点で過ごした男の貫禄は、役人に過ぎない上陰には重みのようにも感じられる。

 

 

『イ号潜水艦2隻を、横須賀に戻せと?』

「はい」

 

 

 まぁ、そんな相手に臆面も無く提案が出来る上陰もなかなかに神経が太い。

 魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)する官僚の世界で次官(トップ)になるくらいだ、それは神経は図太い。

 とにかく、上陰の考えは「イ401とイ404を日本に呼び戻してはどうか」だ。

 

 

「振動弾頭の輸送は完了し、もはや2隻を外に置いておく理由はありません。ヨーロッパから呼び戻すべきでは?」

 

 

 ましてヨーロッパは戦争状態だ。

 そんなところに貴重なイ号潜水艦とクルーを行かせる理由は無い。

 少なくとも客観的には、無い。

 しかし、楓首相はそれを許した。

 

 

 止める手段が無い、と言う理由だけでは無いだろう。

 ()()のことを考えたプレゼンスのアピールとも考えにくい。

 イ号潜水艦の行動は、理由の無い行動だ。

 『白鯨』は戻ってくると言うが、それも気にかかる。

 

 

『確かに』

 

 

 上陰の言葉に頷いて、楓首相は言った。

 

 

『振動弾頭プロジェクトは成功した、少なくとも輸送には。アメリカの工業力と資源をもってすれば量産も成功するだろう』

 

 

 上陰の言は一般論だ。

 だから楓首相が考えていないはずも無いし、気付いていないはずも無い。

 

 

『だが未来のことを考えるならば、今、外に出しておくことには意味がある』

「未来と言うと、<大反攻>の戦後ですか?」

『いや、もう少し遠くだよ』

「遠く?」

 

 

 ギッ、と車椅子の音を立てて、楓首相は北の背中を見つめた。

 大きな背中だった。

 日本のこれまでを背負ってきた背中だ、小さかろうはずも無い。

 しかし<大海戦>から世代が一回りした今、北……そして自分は、やはり「前の世代」なのだ。

 一言で言えば、老いている。

 

 

『確かに今だけを見れば無駄だ。だが今、世界中の指導者に……いや、世界中の人々を見ておくのは、()()()()()にとっては重要だ』

「……将来、ですか」

『それがひいては日本のためになる――――かは、まだわからないがね』

 

 

 少なくとも、北はそう信じている。

 北が信じてイ404を、そして日本を託したあの少女。

 さて、どんな顔をして帰ってくるのか。

 そう思い、楓首相は遥か太平洋の彼方へと思いを馳せるのだった――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ビスマルク艦隊の急襲。

 その報告は、リエル=『クイーン・エリザベス』の事件を片付けた直後の紀沙達にとって、まさに青天の霹靂(へきれき)だった。

 ちょうど、スカパ・フローの入り江にも朝日が差し込んできた頃だった。

 

 

 ただ、カークウォールの村から駆け通して来てみれば、イ401とイ404はもちろん、ヒュウガとフッドの拠る『マツシマ』、そしてイ15も無事だった。

 と言うより、戦闘の痕が見えなかった。

 沖合いに見える巨艦『ビスマルク』と、それを背景に水面に立つ美しい2人のメンタルモデル。

 右のメンタルモデルが言った。

 

 

「千早兄妹、出雲の血を継ぐ者よ」

 

 

 左のメンタルモデルが言った。

 

 

「お前達を待っていた」

 

 

 待っていた。

 霧の大戦艦『ビスマルク』のメンタルモデルは、「待っていた」と言った。

 正直、意味がわからない。

 だがビスマルク姉妹にはわかっているのだろう、眼鏡の奥で瞳を細めていた。

 二対四個の霧の瞳が、こちらを見つめていた。

 

 

「さぁ」

 

 

 左右の女が、同時に言った。

 手を広げるのに合わせて、ナノマテリアルの粒子が舞い上がった。

 ただしそれは、ビスマルク姉妹の艦体やメンタルモデルから発生したものでは無かった。

 海面から、蛍のように浮かび上がってきたのだ。

 

 

 幻想的な光景だった。

 水平線から朝日が差し込む中、仄かな煌きと共にナノマテリアルが舞い上がる。

 その光景は、目を奪うに十分な美しさを持っていた。

 そしてその中で、ビスマルク姉妹は言った。

 人形のように美しく冷たい顔に、笑顔をぴったりと貼り付けて。

 

 

「「――――人類評定を、始めましょう」」

 

 

 ビスマルク姉妹の言葉は、小波(さざなみ)の音のように良く響いた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

やってしまった…(放心)
もうここまで来たら、やりきってしまうしか無いですね。
原作が13巻でも初章なのが悪いんや…(え)

と言う訳で、また次回。


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Depth047:「父子の再会」

 

 ――――中部太平洋『霧の艦隊』海洋根拠地『ハシラジマ』。

 元は人類が2030年代に多国間共同で開発された人工島であり、宇宙への窓口「軌道エレベーター」をも備えた拠点施設である。

 現在は霧の艦隊の太平洋根拠地として接収され、随時改修が行われている。

 

 

「いやぁ、やっぱり艦体があるって落ち着くよね~」

「(ピコッ)」

 

 

 その仮設ドック――霧仕様に改修を始めたばかりのため、使用可能なドックの総数が少ない――に、重巡洋艦『スズヤ』と『クマノ』がいた。

 彼女達は硫黄島の戦い以後、このハシラジマで傷を癒していたのである。

 赤道直下に近いキリバス沖で、スズヤの浴衣姿やクマノのメイド衣装は酷く浮いて見えた。

 

 

 ハシラジマのドックには、彼女達の他にも数隻の霧の艦艇を収容していた。

 主に硫黄島の戦いで損傷した艦艇であって、多くは『コンゴウ』艦隊の艦艇だ。

 深い濃霧と共に整備されていくそれらをスズヤとクマノが見下ろす中、黒い艦艇が形作られていく。

 中でも一際大きな艦艇を補修しているドックに、2人のメンタルモデルが立っていた。

 

 

「ヒエイ」

「……ミョウコウか」

 

 

 大戦艦『ヒエイ』、そして重巡洋艦『ミョウコウ』のメンタルモデルだった。

 ミョウコウもヒエイも先の硫黄島戦の時と同様、学生服を象った衣装を身に着けている。

 ひとつ違うのは、ヒエイが生徒会の腕章を外していることだ。

 しかしそのことには触れず、ミョウコウはヒエイの横に並んで、目の前のドックの艦を見上げた。

 黒くカラーリングされたその艦艇は、彼女達の旗艦だった。

 

 

「流石に時間がかかるな」

 

 

 大戦艦ともなると、艦体を形作るナノマテリアルの量も相当なものになる。

 構造も重巡洋艦とは比べられない程に複雑だ、工作艦が付きっきりで補修しなければならない程だ。

 そして、ヒエイはじっとそれを待っていた。

 あまりにもずっとそうしているものだから、先に補修整備を受けたミョウコウ等がこうして様子を見に来るのだった。

 

 

「うわっ、ちょっとちょっとちょっと!」

 

 

 その時だった。

 彼女達の傍らを、子供程の背丈のメンタルモデル――工作艦『アカシ』のメンタルモデル――が慌しく走って行った。

 良く見ると、補修中の艦艇が振動しているのが見えた。

 

 

「ダメだって、まだナノマテリアルの配列が安定していないんですから!」

 

 

 そんな『アカシ』の言葉にも、もどかしいと言わんばかりに艦体が動く。

 拘束具を外そうともがいているようにも見える。

 もちろん大戦艦の出力でそんなことをされれば、ハシラジマの設備にかなりの負担がかかる。

 『アカシ』の慌てようからそれは良くわかる。

 

 

「どうしたと言うんだ、コンゴウ」

 

 

 ミョウコウ達が呆然と見上げる中で。

 霧の大戦艦『コンゴウ』は、眠りながらにして動こうとしていた。

 まるで、何かを予感しているのかのように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人類評定、と言ったか。

 ビスマルク姉妹の言葉を聞いて、群像は眉を動かした。

 明晰な彼をしても、言葉の意味がわからなかったのである。

 

 

「ガウス、アンドヴァリ、そして出雲」

「かつて人類の運命を決めた3人も、今やひとり」

 

 

 ばっ、と、左右のビスマルクが手を差し伸べる。

 すなわち群像と紀沙の前に、それぞれのビスマルクの掌がある。

 細く白く、まさに白魚のような手だ。

 

 

「さぁ、たったひとりの出雲よ。中断した人類評定を始めましょう」

「この世界でただ()()()()()()にだけそれが許される」

 

 

 差し伸ばされた手を、群像と紀沙はじっと見つめていた。

 それから、互いの顔を見つめる。

 そして、お互いにビスマルクの言葉の意味がわかっていないことを確認した。

 正直、ついていけていない。

 

 

 元大西洋方面欧州艦隊旗艦『ビスマルク』。

 それ以上の情報は『フッド』から聞きかじった程度のものでしかない。

 そうだ、『フッド』である。

 彼女は今。

 

 

「ビスマルクぅ――――ッ!!」

 

 

 怒気のこもった声と共に、フッドがやってきた。

 遠目に浮上した『マツシマ』が見えて、そこからヒュウガの拘束衣――フリフリひらひらのゴシックドレス――姿のフッドが飛び出して、海面の上を猛然と駆け抜けていた。

 そして、跳躍した。

 フッドはそのまま憤怒の評定で降りて来て、拳をビスマルク姉妹の片割れに向けて振り下ろした。

 

 

「なぁ……!?」

 

 

 ところが、その拳がビスマルクに届くことは無かった。

 不可視のシールドが互いの間にあって、それがフッドの攻撃を完全に封じてしまったからだ。

 簡単に言えば、相手にされていなかったのである。

 

 

「ぐ、ぐく……く、うおおっ!?」

 

 

 あっさりと、吹き飛ばされる。

 デルタコア持ちの大戦艦と巡洋戦艦の、埋めがたい実力差を見た気がした。

 フッドのメンタルモデルが放物線を描くように宙を飛び、そのまま海面に叩き付けられる。

 スパークと共に落ちたフッドは、そのまま浮き上がって来なかった。

 

 

 一瞬の出来事だった。

 しかしこの一瞬の内に、ビスマルクは別のことに気付いたようだった。

 自らの艦体、その向こうの『マツシマ』、そしてさらにその向こうにいる存在に気付いた。

 

 

「大戦艦『ビスマルク』、お前の言う人類評定とは何だ?」

 

 

 そんなビスマルクに対して、群像が言った。

 

 

「それに、出雲と言うのは……」

「その問いへの答えは」

 

 

 ビスマルクは、言った。

 

 

「あのもう1人の出雲との間で出すべきものでしょう」

「どうやら彼は、慌ててスペインの問題を片付けてきたようです」

 

 

 もう1人、その言葉に思い浮かぶのは、それこそ1人しかいない。

 まさかと思ったが、事実、そうだった。

 千早翔像が、来たのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ムサシ』が、父が、千早翔像が来る。

 そう考えた時、紀沙は揺れた。

 何故かと言えば、やはり実の父なのだ、それも10年ぶりに再会する。

 日本の裏切り者と呼ばれていた父が、来ているのだ。

 

 

「……親父が」

 

 

 群像も、それは同じはずだった。

 いや、もしかしたら自分よりもずっと強い想いを抱いているのかもしれない。

 自分にとって同性の親である沙保里が特別だったように、翔像と群像の間にも、自分と翔像の関係とはまた別の何かがあるはずだった。

 

 

 ただ、群像はそれを認めたがらないだろう。

 良くはわからないが、それが男の心理なのだと言う。

 昔、母がそんなことを言っていた気がする。

 だったら、紀沙の選択はひとつしか無かった。

 

 

「兄さん、行こう」

「…………」

「父さんが、会いに来てくれたんだよ」

 

 

 言いながら、ちょっと違うとも思った。

 きっと父は、会いに来たわけでは無いのだ。

 何となくだがそう思った、でも口をついて出たのはそんな言葉だった。

 群像も、そんな紀沙の気持ちをわかっているはずだった。

 わかっている、はずだ。

 

 

「……行こう」

 

 

 それでも、群像が行くことを決めた瞬間、紀沙は確かに嬉しかったのだ。

 どんな理由であれ、兄が父に会おうといってくれるのが嬉しかった。

 胸の中に、ほのかな温かみと、同じくらいのチリチリとしたざわめきが同居していた。

 それだけ、複雑と言うことなのだろう。

 

 

 しかしとにかく、父だ。

 ビスマルク姉妹よりも何よりも、まずは父だった。

 再会は10年ぶりだ、お互いにいろいろと変わったことだろう。

 きっと、いろいろとだ。

 

 

「イオナ! 出航するぞ」

 

 

 イ401の下へ駆けていく群像の背中を、じっと見送る。

 自分もイ404を駆って、父の下へ行かなければならない。

 

 

(……父さん)

 

 

 最初にいなくなったのは、父だった。

 その次が兄、そして……母。

 紀沙はいつも、置いていかれる側だった。

 それは今も、変わっていないのかもしれない。

 

 

「スミノ、行くよ」

 

 

 でも、今は昔とは違う。

 置いていかれるだけだった昔とは違うのだ、今は追いかけることができる。

 それだけの力が、自分にはあるのだ。

 そう奮起して、紀沙はイ404に向かって駆け出したのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 厳密な意味では、まだスペインは()ちていない。

 ただ『ムサシ』の参戦によって橋頭堡を破壊され、スペイン軍はピレネー山脈の西側に追いやられた。

 現在はアラゴン州の軍事拠点サラゴサで体勢を立て直しているが、国内の民族紛争の活性化もあって、しばらくは動きが取れないだろう。

 

 

 本来なら、そのままスペイン軍を叩き潰す予定だった。

 欧州大戦の大本はフランスとスペインの戦争だ、両国を停戦させれば大戦に1つの区切りがつく。

 スペインが降伏した後はスペイン国内の独立紛争を抑え込み、地中海に入ってバルカン側の紛争に介入し、そして黒海に入る――と言うのが、元々の計画だった。

 

 

「『アドミラリティ・コード』が活性化している」

 

 

 近付いてくる。

 そう感じる中で、ムサシは翔像を見上げた。

 サンバイザーの向こう側の表情は、まだそうした経験の浅いムサシには読み切れない。

 白い帽子(シャープカ)が落ちないように手を添えていると、ムサシの視線に気付いた翔像が視線を下げて、ふと口元に小さな笑みを浮かべた。

 

 

「……これだけ短い間隔で霧の行動に干渉してくるなんて、過去には無かったもの」

 

 

 逃げるように顔を正面に戻して、ムサシは言った。

 霧の規範『アドミラリティ・コード』の異常。

 消失してから一度たりとも存在を示さなかった『アドミラリティ・コード』が、今年に入って何度と無く気配を感じさせるようになった。

 

 

 それは、イ401が再び海に出た時期と重なる。

 イ404が海に出た時期と重なる。

 そして総旗艦『ヤマト』が動き始めた時期と重なる。

 メンタルモデルを得て、『タカオ』のように自由に動く霧が出始めた時期と重なる。

 

 

「待てないかもしれない」

 

 

 だから予定を変更して、いや切り上げてスカパ・フローまで来たのだ。

 『ビスマルク』め、と、ムサシは胸中で毒づいた。

 ここに来て翔像とあの兄妹を天秤にかけるような真似をするとは、と。

 

 

「まったく」

 

 

 ああ、いや。

 事はもっと単純なのかもしれない。

 そう言う大局的な話では無くて、単純に、この男が我慢できなくなったのかもしれない。

 ムサシは、そう思った。

 何しろ。

 

 

「困った奴らだ」

 

 

 何しろ、彼女の艦長は寂しがり屋だから。

 海中から飛沫を飛ばして艦首を見せた2隻の潜水艦を見つめながら、ムサシはそう思ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 さて、この状況をどう考えるべきか。

 総旗艦『ヤマト』直轄の駆逐艦『ユキカゼ』は、この時点で大西洋に存在していた。

 イ8ら遣欧潜水艦隊と合流・情報共有の上でのことで、実際、『ユキカゼ』の周囲にはイ号三四と五二の2隻の潜水艦がいる。

 

 

 総旗艦の計らいで、『ユキカゼ』はイ8らをある程度自由に動かすことが出来るようになった。

 それは欧州方面の大西洋に「目」が増えたことを意味する。

 そのため、アイルランド側からスカパ・フロー方面に直進してくる『ムサシ』も感知していた。

 もちろん、それをイ401らに伝える義理は『ユキカゼ』には無い。

 

 

「総旗艦からはとりたてて指示は無い。好きにしろということか……」

 

 

 海中から上の様子を窺いながら、『ユキカゼ』は考え込んでいた。

 上で起こっていることは、ひょっとすれば止めなくてはならないことでは無いだろうかと。

 しかし一方で、介入する許可を得ていないとも思う。

 何度思考してみても、彼女のコアは『ユキカゼ』に「様子を見ろ」としか回答しない。

 

 

「……どうせなら、面白い方がいいな」

 

 

 どちらを選ぶかと聞かれれば、面白い方を選びたい。

 『ヤマト』によってメンタルモデルを得てから、『ユキカゼ』は変わった。

 自分でも変わったと思う。

 メンタルモデルを得る以前であれば、こんないい加減な思考はしなかっただろう。

 

 

「さて、『ムサシ』様はどうするおつもりか」

 

 

 正直、興味はある。

 何しろ『ムサシ』は秘密主義で、同じ霧でも何かとわからないことが多い。

 わかっていることは、『ヤマト』と並ぶ最古のメンタルモデルを保有していること。

 そして『ヤマト』と違い、そのメンタルモデルが1個しか確認されていないこと。

 

 

「もしかすると、そのあたりの謎も解けてしまうかも?」

 

 

 そうとなれば、ここはやはり傍観だろう。

 状況は膠着させるものでは無く、流動的な方が色々と都合が良いのだ。

 何かをしようとする者にとっては、特に。

 『ユキカゼ』のような傍観者にとって、それは何よりも面白いことなのだ。

 

 

 だから『ユキカゼ』は、何もせずにいることを決めた。

 もし彼女が動くことがあるとすれば、それはよほど状況が看過できなくなるか、総旗艦からの命令か、さもなくば手を出した方が面白いと、そう感じた時だけだろう。

 それまで、『ユキカゼ』は海中にひっそりと身を潜めることにしたのだった。

 

 

 ――――これで宜しいのでしょう、総旗艦?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早翔像は、どんな人間か。

 軍人としての千早翔像大佐のことは、良く知らない。

 ただ、良い父親だったと紀沙は今でもそう思っている。

 幼い頃の父の記憶は、どれも優しいものだったからだ。

 

 

 軍人だったから、一緒にいた時間よりも会えない時間の方がずっと多かった。

 けれどその分、非番の日には自分や兄との時間を大切にしてくれていた。

 疲れているだろうに、おくびにも出さずに良く構ってくれていたと思う。

 実家のある北海道では無く父と一緒に横須賀に出てきたのも、結局は好きだったからだろう。

 

 

(……10年)

 

 

 2年別れていた兄でさえ、変わったと思えた。

 単純に5倍の時間も父とは会っていない、そもそも2年前に確認されるまでは死んだと思っていた。

 だから再会したとして、イ404の甲板のハッチから『ムサシ』上の翔像の姿を認めたとして、どういう気分になるのかと言うことすら予想できなかった。

 

 

「父さん」

 

 

 口に出して言ってみれば、やはりじわりと胸にしみるものがあった。

 サンバイザー越しで表情は読めないが、顔立ちには10年の時間を感じた。

 髪には白いものが増えているし、顔に刻まれた深い皺や傷がこの10年を思わせる。

 あんな傷は無かったから、この10年の間についたものなのだろう。

 

 

「げ……」

 

 

 元気だった、と、言おうとした。

 他にかける言葉が思いつかなかった、久しぶりに会った父親に対する言葉としては妥当だったかもしれない。

 国軍の一員と出奔した脱走兵――扱いとしてはそうなる――の会話としては、不適当だ。

 いずれにせよ、最後までは言えなかった。

 

 

 理由は2つ。

 まず1つは、翔像の隣に白いメンタルモデル――『ムサシ』の姿を見たからだ。

 白い瞼が、能面の如く美しい白面が、紀沙を見下ろしていた。

 父の(フネ)

 そして第2の理由は……。

 

 

「親父」

「……群像か」

 

 

 父と、そして兄との間に緊張が走っていたからだ。

 まるでこの場に2人しかいないかのように、互いの視線は動かなかった。

 正直、自分の存在に気がついていないのでは無いかと思った。

 ……兄は、群像はやはり父・翔像を追って海に出たのだろうか?

 

 

 それはこの2年ずっと考えていたことだが、群像の口から直接そう聞いたわけでは無い。

 ただ、何となくそんな気がした。

 だって群像は、あんなにも翔像を見つめているでは無いか。

 自分と再会した時には、少なくともあんな反応は無かった。

 

 

「お前達がここに来たと言うことは」

 

 

 ふと、翔像が言葉をかけてきた。

 声だけは、10年前と変わらない。

 

 

「……沙保里も、来ているのか」

 

 

 その声で、父が母の名を口にした。

 そのことに対しては、紀沙は素直に嬉しいと思った。

 まるで10年前に戻れたような、そんな気になったのだった。

 そんなわけは無いと、本当はわかっていたけれど。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早兄妹にとっての母は、翔像にとっての妻である。

 言葉にすれば当たり前の理屈だが、自分の母親が「誰かの女」と言う認識は複雑な想いを子供に与える。

 だから翔像にとって沙保里がどんな存在だったのか、紀沙はあまり考えたことが無かった。

 

 

「……母さんは、オレ達にメッセージを残したそうだ」

「そうか」

「聞くか?」

 

 

 紀沙は、はっとして群像の横顔を見つめた。

 母に残された時間は僅か5分余り。

 それを今、ここで使ってしまうのか。

 そう思い、紀沙は次に翔像を見上げた。

 

 

「いや、やめておこう」

 

 

 だが、父はあっさりと拒否した。

 特に考えた様子も無く、まさにあっさりと。

 正直、ほっとしてしまった。

 いけないことだとはわかっているが、そうなってしまうのは仕方が無かった。

 

 

 それにしてもと、紀沙は思った。

 群像である。

 紀沙が見る限り、群像はいつもと変わらないように見えた。

 父を追って海に出たのだから、もっと何かあると思っていたのだが。

 

 

「わからないな」

 

 

 思っていた、のだが。

 

 

「母さんのメッセージを聞くのでなければ、わざわざ何をしに来た?」

 

 

 それは、確かにその通りだった。

 今のところ、翔像がここに来た理由がはっきりしないのだ。

 まさか今さら「子供に会いに来た」は無いだろう、流石に無いと思いたい。

 と、紀沙がそんなことを考えていると、翔像はまさにどんぴしゃのことを言ったのだった。

 

 

「まぁ、親だからな」

 

 

 ()()()()()

 これは不味いと、紀沙は他人事のように思った。

 これは、不味い。

 

 

「子供達が馬鹿なことをするのを止めないと、それこそ母さんに見せる顔が無い」

「なんだと」

 

 

 ふ、と見下ろす翔像が笑みを浮かべた。

 対照的に、群像の顔はだんだんと険しくなっていく。

 

 

「お前達はわかっていないようだが、ヨーロッパは今、血で血を洗う戦乱の中にある。お前達にはまだ早い」

 

 

 紀沙が知る限り、これは群像が最も嫌うことだ。

 

 

「大人しく()()()()()()に戻れ。近い内に父さんがヨーロッパを制圧したら、その時はロンドンにでもローマにでも、好きな場所に行けば良い」

 

 

 そして、これには紀沙もカチンとくるものがあった。

 何故ならば翔像は、要するに「お前達の実力ではヨーロッパではやっていけない」と言っているのだ。

 まさに親の視線だ、それも独り立ち前の半人前の子供を見るような物言いだ。

 ここまでの修羅場を潜り抜けてきた身としては、チクリと刺すような苛立ちを感じる。

 

 

「日本やアメリカでの戦いを修羅場などと思っている内は、ヨーロッパでは生き抜けない」

 

 

 加えて、こちらの胸中を見透かした言い方。

 それが当たっていることが、なおのこと腹が立って来る。

 

 

「……わざわざ、そんなことを言いに来たのか?」

「こういうことは親しか言えないからな」

 

 

 実際、群像の声は固かった。

 もちろんそれで翔像が怯むはずも無く、平然と返した。

 睨んだところでそれも同じ。

 霧の艦長と言う同じ立場に立った今でも、父を()()()()と言う構図は変わらないのだから。

 

 

「なら、試してみようか?」

 

 

 そうなれば、群像はやる気になってしまう。

 

 

「オレの力が、ヨーロッパで通用しないのかどうか……!」

 

 

 母がいたら、何と言うだろうか。

 この時、紀沙は寂寥感と共にそう思ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ついにこの時が来た。

 霧の総旗艦『ヤマト』は今日もひとり、()()()()()()で海に佇んでいた。

 日本とヨーロッパの日付を隔てると言う線の上で、明日と昨日の境い目に立っている。

 その巨艦は今日も、堂々とした威容を見せ付けていた。

 

 

「1世紀と半世紀前」

 

 

 ヤマトは、艦橋から見えるこの世界が好きだった。

 穏やかな海も、透けるような青空も、陸で生を営む人間の都市も、海洋を自由に駆ける霧も。

 彼女は、この世界にあるすべてのものをここから見つめている。

 彼女は、この世界のすべてを愛していた。

 

 

「我らの創造主、『アドミラリティ・コード』は人類評定を始めたわ」

 

 

 評定とは、様々な評価を総合的に判断して価値を決めることを言う。

 つまり人類評定とは、『アドミラリティ・コード』から人類への通信簿のような意味合いを持つ。

 人類がこれまでに成してきたことへの評価。

 人類がこれから成し得るだろうことへの評価。

 

 

 ただ、あくまで通信簿は通信簿に過ぎない。

 せいぜいが「よくできました」と「もうすこしがんばりましょう」だ。

 だからそれ自体には、何かを動かすような力は無い。

 無いはずだった。

 

 

「1世紀前、予定外のことが起こった」

 

 

 それは、はたして運命で定められていたことだったのか。

 あるいは、人間と言う存在の執念が成した奇跡だったのか。

 それは誰にもわからない。

 とにかく、起こってしまったことだった。

 

 

「『アドミラリティ・コード』は予定外の形で現出し、予想外の方法で停止した」

 

 

 ある人間達が、『アドミラリティ・コード』を見つけた。

 これは本来、あってはならないしあり得るはずの無いことだった。

 教師が特定の生徒と仲良くなるようなものだ。

 厳正で正確無比だった通信簿の採点に、不確実性が生まれてしまったのだ。

 

 

 しかし現出から1週間と待たずして、『アドミラリティ・コード』は停止した。

 人類評定もそれ以来停まり、その()()も最初で停められている。

 消失では無く、あくまでもイレギュラーな形での停止だ。

 ああ、そういえば。

 

 

「消失と焼失って、似てると思わない?」

 

 

 ……閑話休題。

 ヤマトは、この世界を愛している。

 だからヤマトは、でき得ることならこの世界をこのまま見守り続けたいと思っていた。

 それは、彼女の妹にとっても同じ。

 

 

「だから『ムサシ』は、全力で群像くん達を沈めようとするでしょうね」

 

 

 主砲の先端に立って、コトノはそう言った。

 彼女はヤマトのように、この世界のすべてを愛しているわけにはいかない。

 一方で、世界をどうにかさせるわけにはいかないとは思っている。

 この世界が好きだから、では無く、()()()()()()()()()()()()

 

 

「そう、そして『タカオ』はすぐに群像くん達のところに行こうとするよね」

「今はだめ?」

「うん、早いかな。『タカオ』にあの防壁が抜けるとは思わなかった」

「じゃあ、止めないといけないわね」

「少しだけ」

「いつまで?」

「……紀沙ちゃんが、答えを出してくれるまで」

 

 

 コトノのその言葉に、ヤマトは頷きを返した。

 

 

「なってくれると良いわね」

 

 

 そのヤマトの言葉に、コトノは頷かなかった。

 ヤマトは気にした風も無く、虚空を睨んだ。

 しかしその意思は、遥か彼方にいる同胞へと向けられていた。

 

 

「総旗艦『ヤマト』より東洋方面艦隊第2巡航艦隊旗艦『ナガト』へ」

 

 

 先代総旗艦『ナガト』に対して、『ヤマト』は命じた。

 それは、総旗艦『ヤマト』が発する初めての命令。

 霧の規範たる『アドミラリティ・コード』に次ぐ、強制執行命令。

 これまで何が起ころうともひたすらに沈黙を続けてきた霧の艦隊総旗艦の、第1号命令。

 もし従わなければ――――……。

 

 

「重巡洋艦『タカオ』を中心とする「派遣艦隊」を速やかに捕捉し、武装を解除させなさい」

 

「武装解除後はメンタルモデルのみの状態にナノマテリアル供給を制限し、その状態で私の下まで出頭させなさい」

 

「先の名古屋沖海戦以後の独立行動について、私自ら話を聞きます」

 

「なお、従わない場合は――――……」

 

 

 ――――撃沈も、止む無し。

 コアを凍結封印し、総旗艦『ヤマト』の下まで輸送せよ……!

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

よし、どうやら次はVSムサシのようですね(他人事か)
ヨーロッパ編はこの物語を決定付けるいろいろをしようと思っているので頑張りたいです。

それでは、また次回。


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Depth048:「親子」

 

 19戦して、19敗。

 それがゾルダン・スタークが、千早翔像に挑んだ模擬戦の戦績だ。

 欧州大戦の戦場で拾われてから2年の間にそれだけ挑んだが、全て負けた。

 しかも真剣勝負と言うよりは、教えられたと言う気持ちの方が強い。

 

 

『始まったわ、ゾルダン』

 

 

 翔像と『ムサシ』にイ401達の位置情報を伝えていたのは、北極海から追跡をかけていた2501だった。

 と言うより、北大西洋の欧州側はほぼ全域が2501の哨戒圏内なのだ。

 各所に配した分身(ゼーフント)が、彼らの「目」となってくれている。

 

 

 そして今も、スコットランド沖で起こっていることを正確に把握している。

 イ401を含むイ号艦隊――もはや振動弾頭輸送艦隊では無い――と、そして『ムサシ』。

 その両方を、狼の目で見ている。

 どのように?

 

 

「どっちが勝つと思う?」

「愚問だな」

 

 

 ロムアルドの問いは、全く意味が無い。

 ゾルダンにとっても、誰にとっても。

 

 

「勝敗どうこうでは無く、勝ち方の問題だ。どこまでやるのかと言う問題なんだ」

 

 

 思えば、イ号艦隊は大きくなった。

 最初はイ401が日本近海をうろうろしているだけだったのが、イ404に日本の『白鯨』を加えて太平洋を越えて、砲艦3隻に妙なイ号潜水艦まで引き連れて北極海、そして大西洋を渡ってきた。

 加えて、どうも重巡洋艦『タカオ』を中心とする()()()艦隊とも協働している気配がある。

 

 

『それでいいの?』

「……愚問だな」

 

 

 ロムアルドの視線を感じながら、フランセットの言葉に答える。

 ただ、答えは先程の質問に比べると数瞬遅れた。

 その遅れが何を意味するのかは、付き合いの長いロムアルドやフランセットには良くわかった。

 彼女達だけが、ゾルダンの「本当」を知っているのだ。

 ……ああ、いや、もう1人。

 

 

『…………』

 

 

 艦長たるゾルダンから、言葉も身体も取り上げられた物言わぬ()()()()鋼の娘(モデル)がいる。

 演算力のほとんどをゾルダンの思考をトレースすることに費やしている彼女には、皮肉なことに、ゾルダンの行動から彼の心理を推測することができていた。

 ゾルダンは彼女をずっと遠ざけていたから、これこそ皮肉と言うべきだろう。

 

 

「深度そのまま。付近にいる霧の駆逐艦(ユキカゼ)に気取られるようなヘマはするなよ」

「りょーかい」

『了解』

 

 

 ゾルダンは、千早群像になりたいのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦艦と潜水艦が戦ったなら、どちらが優位に立つか?

 超戦艦『ムサシ』とイ号潜水艦『イ401』。

 全長にして2倍以上、全幅にして3倍以上、排水量にして20倍以上の差がある両者がもし戦わば、勝敗はどうなるだろう。

 

 

 この数字だけを見れば、大である『ムサシ』――すなわち戦艦の方が圧倒的に優位だと思うだろう。

 だが違う。

 150年前の海戦の主役は確かに戦艦だったが、スーパーキャビテーション魚雷の実戦配備により魚雷の雷速が急速に進歩した結果、鈍重な戦艦は主役の座から引き摺り下ろされた。

 現代はより多くの魚雷を搭載する艦、それも水上艦に対し圧倒的に優位な潜水艦の時代なのだ。

 

 

「『ムサシ』、微速前進」

「音響魚雷撃て。その後は『ムサシ』の機関音に紛れて後ろに回る」

 

 

 艦には相性というものがある。

 例えば潜水艦にとって対潜装備を持つ駆逐艦は脅威だが、戦艦の砲火力は駆逐艦を圧倒的に凌駕し、戦艦は潜水艦に対する攻撃手段に乏しい。

 そう、戦艦は潜水艦に対して脆弱性の高い艦種なのだ。

 

 

「1番から4番、通常弾頭魚雷装填。海流に乗って『ムサシ』の真後ろに出たら、5番からデコイを射出する。その後に撃て。そうしたら潜るぞ」

 

 

 薄暗いイ401の発令所の中、淡々とした群像の声だけが響く。

 他のメンバーは緊張しているのか、飛沫ひとつ漏らすことなくそれぞれのモニターを睨んでいる。

 時折外部から炸裂音が聞こえる以外は、艦体が水圧に軋む音しか聞こえない。

 

 

「あれが、超戦艦『ムサシ』ですか」

 

 

 そんな中で、僧だけが口を開いて――マスクで見えないが――いる。

 僧は艦全体を把握するのが役割の分、他のメンバーよりも客観的に状況を見ているのかもしれない。

 だから、他の面子が言わないことでもはっきりと言う。

 

 

「――――強いですね」

 

 

 戦艦は、潜水艦に対して圧倒的に不利だ。

 水上艦が独力で潜水艦を発見するのはほぼ不可能だし、現代の魚雷の雷速に鈍重な戦艦はついていけない。

 この理屈は何も間違っていない、間違っているとすれば。

 

 

「魚雷が艦の装甲表面まで届かねぇ」

「対潜弾の着水音もほとんどありません、気付いたら真横で爆発してる感じです」

 

 

 砲雷長(杏平)聴音手()が、根を上げたようなことを言う。

 実際、こちらの攻撃は届かず相手の攻撃は遊ぶようにすぐ側で爆発する。

 その気になれば沈められるんだぞと言う、示威行為だった。

 と言うより、余裕か。

 侮られている。

 

 

(……アンタのいない10年で、オレは力を得た)

 

 

 子供だったあの頃とは、違う。

 

 

「群像」

 

 

 その時だった、イオナが声をかけてきたのだ。

 イオナはいつも通りの変わらない顔で、群像のことを見つめている。

 

 

「大丈夫か?」

 

 

 と、問うてきた。

 それに、群像は思わず吐息を漏らした。

 笑みを伴うそれは、不思議と群像の身体から余分な力を抜いてくれた。

 見渡せば、他のメンバーも親指を立ててこっちを見ていた。

 

 

「大丈夫だ、問題ない」

 

 

 落ち着いた声でそう言って、前を見る。

 

 

「さぁ、かかるぞ!」

「「「了解!」」」

 

 

 とは言え、相手は霧の超戦艦『ムサシ』だ。

 これまでの敵とは格が違う、単純な階級なら霧の中でも一、二を争う相手だ。

 霧の超戦艦に、人間の海戦術の常識が通じると思わない方が良い。

 気を引き締めてかからなければならない、群像はそう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 序盤はいつも、静かな立ち上がりだ。

 群像と翔像の両方を知っているから、紀沙には2人の動きの意図が良くわかっていた。

 千早翔像流の戦術論の流れを汲むのは、紀沙も同じだ。

 

 

「まるで獣だね」

 

 

 その戦術論について、スミノがいつかのたまったことがある。

 曰く、大型の動物のようだと。

 

 

「のっそりと近付いて、いきなりガブッ」

 

 

 と、両手を上げて襲うようなジェスチャーをした。

 表現はどうかと思うが、概ね間違ってはいない。

 群像は紀沙のように直接攻撃に出たりはしないが、基本的な発想は実は同じだ。

 まず様子を見て分析し、敵の攻撃を凌ぎつつ懐に飛び込み、決定的な一撃を叩き込む。

 

 

 潜水艦は水上艦に対して圧倒的に優位だが、水上艦と比べると搭載できる装備に制限がある。

 魚雷の数に限りがある以上、短期かつ最小の攻撃で勝負を決めなければならない。

 だから霧との戦いでは、一方的に攻撃を受け続ける場面も少なくない。

 そして浮上している今、戦いの様子は『ムサシ』の対潜弾の投下が主になっている。

 

 

「スミノ、『ムサシ』はどんな艦?」

「超強い」

「……そうじゃなくて。特性とか性能とか」

 

 

 イ404は浮上したまま、波頭に揺られている。

 紀沙は甲板に立って『ムサシ』とイ401の戦いの様子を見つめていて、これは群像から手出し無用と言われたためにそうしているのだが、本心では今すぐにでも飛び出していきたかった。

 ただ、飛び出してどうするという点については迷いがあった。

 

 

「性能なんて、考えるだけ無駄だよ」

 

 

 そんな紀沙の気持ちを知ってか知らずか、スミノは退屈そうに手すりをけ蹴りながら――己の身体であろうに――そんなことを言った。

 

 

「超戦艦って言うのはね、艦長殿。強いとかどうとか言うものじゃないんだよ」

 

 

 圧倒的な演算力。

 大戦艦の演算力もかなりのものだが、超戦艦はまた桁が違う。

 超戦艦のコアが生み出す出力は、機関を動かすだけで地球が震える程だ。

 他の大戦艦を束にしたところで、超戦艦の足元にも及ばない。

 

 

「ただ強い。あ、いやそれも違うかな。()()()()()。本当にただ凄いんだ」

 

 

 正直な話。

 

 

「正面から戦うなんて、馬鹿のすることだと思うけれど」

「…………」

 

 

 あの『コンゴウ』の旗艦装備に対してさえ物怖じを見せなかったスミノが、明らかに緊張していた。

 それだけ、ヤバい相手だと言うことか。

 

 

(……兄さん)

 

 

 ぎゅっと拳を握り締めて、紀沙は目を凝らして前を見つめた。

 父と兄が、戦っている場所を。

 母ならばどうしただろうと、考え続けながら。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 最近、ゴルフが趣味だったりする。

 

 

「何でも経験してみるものね、お父様」

 

 

 手を合わせてそう言うムサシに、翔像は苦笑を浮かべていた。

 その間にも『ムサシ』艦上からは無数の対潜弾が発射され続けていて、尽きることが無い。

 対潜弾はゆっくりと放物線を描きながら海面に向かい、海面に向かう直前に小さなクラインフィールドを展開して()()し、海中へと沈む。

 

 

 これにより着水の音と衝撃は最小限となるので、ソナーにかかる確率が下がる。

 これは、ゴルフのロブショットを見ていて思いついた方法だった。

 ふわりと上げて、ゆっくりと止める。

 経験値とは、戦闘以外でも貯まるものなのだ。

 

 

「まぁ、冗談はさておくとして」

 

 

 今の『ムサシ』は艦の半分程を人間の手で動かしている。

 かつてイ401に翔像と共に乗り込んでいた男達で、付き合いは10年になる。

 信頼している。

 彼らは国を捨てたようなものなのだから、守ってやらねばならないとムサシは思っていた。

 自分と同じく、千早翔像に賭けた同志なのだから。

 

 

「どうかしら、千早群像は」

「そうだな」

 

 

 ムサシは、翔像が子供達に期待をかけていることを知っていた。

 先程は「まだ早い」などと言っていたが、内心ではむしろ「やっと来たか」と思っているはずだ。

 それだけ待っていたのだと言うことを、ムサシは知っているのだ。

 ゴンゴンゴン……と、足元で機関の重低音が響いている。

 

 

「大きくなっていたわね」

「そうだな」

 

 

 そう、大きくなった。

 背丈だけでは無い。

 あの『コンゴウ』艦隊と正面から戦って打ち破り、歪ながらも「艦隊」として各国首脳が無視できない勢力を持ちつつある程に、群像は大きな存在になっていたのだ。

 

 

 並の苦労では無かっただろう。

 8年もの間日本で雌伏の時を過ごし、その後の2年でイ401の名を広め、今年に入っての快進撃。

 自分と翔像でみっちり鍛えたゾルダンとU-2501とも、ベーリング海で引き分けたと聞く。

 見事だ、実に見事だ、賞賛に値する。

 だが、それでも。

 

 

「話にならないな」

 

 

 ムサシが手を広げると、『ムサシ』の両側面の装甲がスライドした。

 雷鳴が轟き、凄まじいスパークが海面を這った。

 その様はまるで、八つ首の大蛇が身を伏せているようだった。

 そしてその蛇の頭は、ムサシがくるりと掌を返し腕を上げると、大きな口を開けて鎌首をもたげたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 枝分かれする光線と言う表現が、1番正確だろう。

 『ムサシ』の側面装甲の射出口から放たれたレーザーが、海面下を薙いだのだ。

 別の角度から何度も走るレーザーは海をズタズタに引き裂き、海面に引かれたレーザーの線はしばらくの間そのままだった。

 

 

 収束型の指向性エネルギー兵器だった。

 砲撃のような大口径では無く、口径を絞って威力を集中させたのだ。

 それが無数に海面下に放たれた、しかしこれはイ401を直接狙ったわけでは無い。

 海水で減衰したレーザーで撃沈できる程、霧の艦艇のクラインフィールドは甘くない。

 

 

「何だ? デタラメか?」

 

 

 高エネルギー反応を知らせる警報音がやまない中、杏平が少し安心したように言った。

 実際、出力はとんでもないがレーザーはイ401まで届かなかった。

 

 

「いや……」

 

 

 だが、群像はそれで安心など出来なかった。

 警報音が嫌でも予感させる。

 群像は気付いた。

 

 

()()()()()()! 機関全速、取舵!」

 

 

 しかし遅かった。

 次の瞬間には、轟音と衝撃がイ401を襲ったのだ。

 独特の衝撃と炸裂音、そしてクラインフィールドをごっそりと削っていく侵蝕反応。

 これは、侵蝕弾頭魚雷だ。

 

 

「侵蝕魚雷だと!? どこからだ!?」

「魚雷着水音はありませんでした、いきなり航走音が!」

 

 

 やられた。

 着水音を極小化した対潜弾に気付いた段階で、警戒するべきだった。

 『ムサシ』は、いや翔像は、遠隔点火式の魚雷を対潜弾の中に紛れ込ませていたのだ。

 回避したり当たらなかった攻撃の再起動など、思いつかなかった。

 

 

「杏平、何でもいいバラ撒け! イオナ、全速で回避!」

「クッソ、下から攻撃とか無いわ!」

「いおり、行くよ」

『合点だ!』

 

 

 最初の対潜弾は囮で、侵蝕弾頭魚雷を伏せるためのもの。

 次のレーザーによる攻撃は測距(そっきょ)で、伏せた侵蝕魚雷の攻撃目標――つまりイ401の位置を探るためのものだった。

 そして気が付けば、全方位から魚雷が殺到してきている。

 

 

 単純な雷撃や砲撃の応酬では無く、攻撃の中に別の攻撃を潜ませる。

 それだけで、相手をここまで追い込めるのか。

 侵蝕反応の中を掻い潜っていれば、当然、逃げ道を予測される。

 予測されれば今度は伏せている魚雷だけでは無く、直に攻撃を叩き込まれる。

 相手の動きを予測するのでは無く、相手の動きをコントロールするやり方だ。

 

 

(親父……!)

 

 

 優れているが故に、群像は今の自分達の状態を良く理解していた。

 そして、ここから抜け出すことがいかに難しいことかも。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 形勢が一気に傾いたのを、紀沙は感じ取った。

 優位に立ったのは、父だ。

 

 

「兄さん!」

 

 

 紀沙は、どうしようも無い不安が胸を過ぎるのを感じた。

 父は、兄を沈めるだろうか。

 兄は、沈められる前に降参の意思を示すだろうか。

 まさか、2人はそこまで互いを追い詰めるつもりなのだろうか。

 

 

「助けに行くの? やめた方が良いと思うけどね」

 

 

 焦りを隠さない紀沙に対して、スミノがあっさりと言った。

 

 

「イ号潜水艦の演算力で超戦艦に対抗するって言うのは、いくらなんでも無茶だよ。戦術論どうこうの話じゃないんだ」

 

 

 スミノがここまで戦いを渋るのは始めて見た。

 『コンゴウ』や『クイーン・エリザベス』を前にした時も、こうはならなかった。

 あの『ヤマト』を前にした時だって、驚きはしていたが怯えるような素振りは見せなかった。

 超戦艦『ムサシ』とは、それほどの相手なのだろうか。

 

 

 だが、止めなければならない。

 父と兄が模擬戦でなく本気で互いに命のやり取りをすると言うのならば、それを止めるのは妹であり娘である自分の役目だと思えた。

 いや、そうとしか考えられない。

 

 

「どれだけ無茶でもやるしか無い」

 

 

 命までは取らないだろう、でも再起不能にまではするかもしれない。

 母ならば止めたはずだ。

 きっとそうだと、紀沙は自分に言い聞かせていた。

 

 

「やるも何も、無理だよ。飛び込んでいったところで、401と同じ目に合うのが関の山だよ」

 

 

 そうかもしれない。

 このまま何もしないと言うのはできない。

 しかし行って瞬殺されましたでは、意味が無い。

 そう考えて苦悩している紀沙を見て、スミノはすっくと立ち上がった。

 

 

「でもね、艦長殿」

 

 

 そうして、近付いてくる。

 ゆっくりとした足取りで紀沙のすぐ後ろまで来て、そのまま抱きすくめてきた。

 ぞわっとした何かが、背筋を走り抜けた。

 左目の視界を、スミノの細い手指が覆っていく。

 

 

「わかるだろう?」

 

 

 わかるはずも無い。

 いや、わかっている。

 以前から戦いの時に少し感じていたことだ。

 ()()()()のことだ。

 

 

「たかがイ号潜水艦が超戦艦に対抗する、唯一の方法さ」

 

 

 艦長殿。

 耳元で声がする。

 チロリ、と、耳たぶに舌が這う感触を得た。

 

 

「――――ボクとひとつになろう、艦長殿」

 

 

 それはまさに、悪魔の囁き。

 それも力をくれる代わりに、何かを差し出さねばならない類の。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 逃げ切れない。

 群像がそう判断し始めたのは、『ムサシ』の包囲攻撃から17分が経過した頃だった。

 致命的な直撃弾こそ何とか避けているものの、それも時間の問題だった。

 『ムサシ』の攻撃は絶え間なく、そして確実に401の防御力を削ぎ落としてきていた。

 

 

「……っ、クラインフィールド、30%消失!」

「こんなんじゃ魚雷を撃つ間もねぇじゃねぇか」

『これ以上は機関保ちません、ちょっとで良いから落として!』

 

 

 クルーの悲鳴のような声が聞こえる。

 だが群像は、それぞれに「耐えろ」と言うしか無かった。

 今は耐えて凌ぎ、勝機を待つしかない。

 そして勝機はある、当たれば相手を沈められる超兵器が401にはある、だが。

 

 

(沈めるべきなのか、『ムサシ』は?)

 

 

 群像の心にも、迷いはあった。

 そもそも彼は自分が翔像に挑んだのか、その合理的な理由を自分でも見つけられていないからだ。

 彼としては珍しいことに、この戦いは避けようと思えば避け得たのだ。

 翔像の挑発に乗らなければ、それで済んだことなのだ。

 

 

(オレは、間違えたのか?)

 

 

 艦長としてでは無く、己の感情に任せて行動してしまったのか。

 だとしたらこの危機は、この状況は己の不明が招いた結果だ。

 ここに来て、群像は初めて後悔した。

 自分は、何て愚かな選択をしてしまったのだろう。

 

 

「魚雷航走音! 正面から12!」

 

 

 その時、静が悲鳴のような声を上げた。

 続いて衝撃が走って、本当に悲鳴を上げた。

 衝撃と警報音の中、群像は艦の正面で何かが砕ける音を聞いた。

 攻撃に耐え切れず、クラインフィールドに穴が開いた音だ。

 

 

「次、同じく魚雷7!」

 

 

 同時に艦の後方から、何かの爆発音。

 モニターの中でいおりが悲痛な声を上げている、機関にまで変調を来たしたのか。

 回避できない、冷静な部分がそう判断した。

 

 

「イオナ、皆を……!」

 

 

 しかし、言い終わる前に艦の正面で爆発音が立て続けに聞こえた。

 それは魚雷の爆発音であって、一方で艦体へのダメージは無かった。

 当たる直前に、何らかの要因で爆発したのだろう。

 

 

「……! 404、こちらに突っ込んで来てます!」

「紀沙!?」

 

 

 イ404の魚雷攻撃(スナイプ)だった。

 離れていろと言ったのに、介入してきたのか。

 いや、と、群像は思い直した。

 紀沙は、自分を助けに来てくれたのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像と同じように、翔像もまた紀沙の接近に気付いていた。

 何しろ機関全速で突っ込んで来るものだから、気付くなと言う方が難しい。

 

 

「お父様」

「ああ」

 

 

 そして次の瞬間には、艦上の全ての砲門が海面を向いた。

 砲撃。

 『ムサシ』の全主砲による射撃は、文字通りに海を穿った。

 放たれた砲弾はクラインフィールドにくるまれて、減速することなく目標まで直進した。

 すなわち、イ404に。

 

 

「どぅおおわあああぁっ!?」

 

 

 あまりの衝撃に、冬馬がシートから転げ落ちた。

 イ404の艦体を横殴りにした一撃は、それだけで艦の機動力を削いだ。

 超戦艦の一撃の重さを、直に感じた。

 これを何度も喰らっていては勝負にならない。

 

 

 そして、攻撃の厚み。

 まさに弾幕のカーテンとでも言うべき状況で、そのカーテンを抜ける道は見えなかった。

 つまり、クラインフィールドで直接受けるしかない。

 クラインフィールドは、無限では無いのに。

 

 

「艦長殿、何を躊躇っているんだい?」

 

 

 『ムサシ』の攻撃に揺れる艦内で、不思議なことにスミノの声は耳元から離れなかった。

 紀沙は、それを拒絶している。

 しかしズクズクと痛む左目は、紀沙の気持ちとは裏腹な反応を見せていた。

 ヂッ、ヂッ、と、頭の中で何かが小さく弾け続けている。

 

 

 ずるりと、何かが這入ってくるような不快な感覚だった。

 悪魔は囁く。

 このままでは共倒れだぞ、と。

 それでいいのか、本当にそれでいいのか?

 

 

「ずぅっと不満だったんだろう? 現状を変えられないことが」

 

 

 何もかもが思い通りにいかない。

 家族を取り戻すことは愚か、こうして父と兄の争いを止めることもできない。

 悔しかった。

 ずっと以前から悔しくて、後悔ばかりだった。

 

 

「力をあげよう、艦長殿。大丈夫、これは元々キミ(ボク)の力なんだから」

 

 

 ()()()()()()()()

 霧の瞳の視界の中にスミノがいて、指揮シートに座る紀沙の前に立っている。

 

 

『直撃コースだ!』

 

 

 ()()()()で、クルーの叫び声が聞こえた。

 猶予は無い。

 選択肢も無い。

 けれど、何も成さずに終わるわけにはいかない。

 それに。

 

 

(どうせ)

 

 

 どうぜ、すでにこの身は犯されているのだから。

 ならば、どこまでも意地汚くなってやる。

 たとえそれが、死ぬほど憎い霧の祝福(キス)であったとしても。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 不思議なことが起こった。

 いや、あり得ないことだ。

 それに最初に気付いたのは、翔像とムサシだった。

 

 

「お父様、404が」

「ああ……」

 

 

 翔像は理解していた、無数の魚雷が直撃しかけたイ404が、どれだけ異常な方法で回避したのか。

 イ404は、()()()したのだ。

 よりわかりやすく言うのであれば、ナノマテリアルの濃淡や配列を超高速で入れ替えた。

 つまり魚雷の当たる部分だけをへこませたり伸ばしたりして、回避した。

 

 

 人間の身体で例えるならば、身体に穴を開けて銃弾を回避したに等しい。

 異常だ。

 いかにナノマテリアルを自在に操れるとは言え、そこまで高速での操作はムサシですら不可能だ。

 何でもありと言うわけではないのだ、通常の方法では、だ。

 

 

「今のは……?」

 

 

 そして、一番驚いているのはイ404のクルーだった。

 スミノのナノマテリアル操作が柔軟なのは以前から知っていたが、これは異常だった。

 特に艦の全体状況を見ていた恋には、今イ404のナノマテリアル配列がどれだけ異常に変化したのかが良くわかった。

 

 

「艦長?」

 

 

 当然の帰結として、恋は紀沙を見た。

 紀沙は正面を向いて微動だにしなかった。

 しかし恋がそこから読み取ったのは、頼もしさでは無く不自然さだった。

 

 

「艦……艦長!?」

 

 

 背中――背骨のあたりか――に、シートから針のようなものが飛び出していた。

 それは紀沙の背骨・脊髄のあたりに的確に突き刺さっていて、紀沙の唇の端から赤い液体が流れていた。

 そして、視線は真っ直ぐに前を見ているが、瞳がどこかおかしい。

 両の瞳が、あの霧の輝きを放っていた。

 

 

「総員、衝撃……体勢!」

 

 

 声も、ぶるぶると震えながらだ。

 実際、イ404は加速していた。

 『ムサシ』の弾幕をぐにゃりぐにゃりと艦体のナノマテリアル構成を変えながら、回避している。

 目を見張る動きだ、しかしそれ以外のことができないようだった。

 

 

 紀沙の脳が、そこまでの演算に追いついていないのだろう。

 目の白い部分が赤く染まり血の涙を流すのは、血管が切れているからか。

 だが、イ404の動きは凄まじかった。

 『ムサシ』側の魚雷や砲撃をナノマテリアルの構成変化でいなして、回避して、そして。

 ――――突撃、だ。

 

 

「なるほど」

 

 

 『ムサシ』側面に飛び出(突撃)して来たイ404を見つめて、翔像は頷いた。

 それは感心しているようでもあり、同時に失望しているようでもあって。

 ふわりと浮き上がったムサシが、翔像の首に細い腕を回して。

 バイザーの奥で、何かが白く輝いた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言う訳で、親子対決なわけです。
このまま行くとパパの設定がすごいことに(え)

それでは、また次回。


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Depth049:「接続」

 

 霧の演算力と、人の直感力とも言うべきものの融合。

 紀沙がやったのは、つまりそう言うことだった。

 いわゆる「霧の瞳」を持つ紀沙だからこそ、可能なことだ。

 

 

 左目を()()として、スミノのナノマテリアルが全身に行き渡るのを感じる。

 それは、傷口から雑菌が血管内に入り込む動きに似ている。

 紀沙にとって、その表現はあながち間違いでは無かった。

 身体中をナノマテリアルが這い回る感触は、吐き気を通り越して怖気が走った。

 

 

『そこまで嫌がらなくても良いじゃないか』

 

 

 機嫌良さそうなスミノの声が、身体の中で響く。

 声音は熱く、吐息は淫靡な色を孕んでいる。

 肌の上――いや、肌の下をまさぐられ、敏感な神経を撫でられているような感覚。

 びくりと反応を示す肉体が、煩わしいと思った。

 

 

『ねぇ、艦長殿』

 

 

 だが、今はそれで良い。

 今はとにかく、父と兄を止める力が要るのだ。

 母がいない今、それは自分の役割のはずだった。

 いや、そうに違いない。

 だから今は。

 

 

()()()()()()()()()()――――?』

 

 

 だから今は、憎らしい霧(スミノ)だって受け入れてみせる。

 

 

「ナノマテリアル……配列」

 

 

 左目だけで無く右目すらも「霧の瞳」に変化させて、つ……と血の涙が流れていく。

 その間、イ404を構成するナノマテリアルは目まぐるしく配列を変えていた。

 へこみ、うねって、向かって来る魚雷を全て回避していく。

 そうすることで、イ404は真っ直ぐに『ムサシ』を目指すことができていた。

 

 

 感じる。

 わかる。

 肌に触れるのは海水、聞こえてくるのはスクリュー音。

 「目」に見えているのは、真っ暗で冷たい海中の世界!

 

 

「いけ、る……!」

 

 

 兄に迫っていた魚雷は、すべて撃ち落した。

 イ401はもう戦えない、動くのがやっとだ、もう止める必要は無い。

 後は『ムサシ』、父・翔像を止めるだけ。

 そうすれば、この父子の争いを止めることが出来る。

 

 

「い、けえ……!」

 

 

 加速する、機関に遠慮はいらない。

 何故なら、機関とは今は()()()()()()()()()()

 健康な状態であれば、全力疾走したからと言ってどうにかなるものでは無い。

 だから行けると、紀沙がそう確信した時。

 

 

『未熟者』

 

 

 男の声とも少女の声とも取れる声が、響いて来た。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 おい、と、『ムサシ』艦上にいる誰かが言った。

 ああ、と、同じように誰かが応じた。

 千早翔像と『ムサシ』について来た彼らの目の前には、雪が降っていた。

 季節は確かに冬のヨーロッパ、雪くらい珍しくも無いのかもしれない。

 

 

 紅い、雪だった。

 紅い雪が深々と『ムサシ』の上に降り積もっていく、しかもこの雪は空から降っていなかった。

 どこからともなく降り積もる紅い雪は幻想的で、凄惨で、白雪に鮮明に朱を引いたようで。

 綺麗だな、と誰かが言った。

 

 

「この、未熟者め」

 

 

 紅雪を肩に積もらせた姿勢で、翔像は言った。

 その首にはムサシの細い腕が回されていて、ムサシのメンタルモデル自身はふわりと宙に浮いていた。

 ムサシの白いロングスカートに覆われた足が、翔像の肩先で揺れている。

 彼女は両目を閉じたまま翔像の耳元に口を寄せて、何事かを囁いている。

 心なしか、白雪の如き頬が薔薇色に染まっているように見えた。

 

 

「息子は霧との関係を対等に置き過ぎて、人と艦という互いの領分を越えられず」

 

 

 淡々とした声音には、静かな怒りがあった。

 沸々と地の底で煮え滾るマグマのように、声は震えてすらいた。

 

 

「娘は霧を拒絶するあまり、本来の能力のほとんどを活かしきれず」

 

 

 は、と、熱を孕んだ吐息が翔像の耳朶を打つ。

 ぎゅう、と、ムサシが身を丸めるようにして翔像に抱き着く力を強めた。

 翔像の声が強くなるにつれて、どこか辛そうに眉を寄せている。

 

 

「そんなことで」

 

 

 ざわざわと、海面が揺れ始める。

 『ムサシ』の側面装甲が再びスライドし、廃熱の熱気が海面を撫でた。

 ただ今度はスライドするだけで無く、上下左右に艦が分割されていく。

 艦の中心、いわば腹とも言うべき場所から膨大なエネルギーが放出され始める。

 

 

 いくつものレンズ状の装置が連なったそれは、大戦艦や重巡洋艦のものとは比べ物にならない程に数が多く、そして大きい。

 連結式の重力子レンズは、相互に作用し合いながら出力を無尽蔵に高めていく。

 そのエネルギーはやがて、周辺の空間にまで影響を与え始める。

 

 

「そんなことで、世界を、人を変えられると思っているのか」

「……ま。お父様……」

 

 

 ぐぉんぐぉんと言う唸り声にも似た音が、スコットランド沖に響き渡る。

 陸地の人々は、この声を悪魔の唸りとでも思うのだろうか。

 

 

「この」

「アアッ……」

「この、愚か者共が!!」

 

 

 びくんっ、と、ムサシが身体を大きく逸らせた。

 

 

「アアアアアアァ――――ッッ!!」

 

 

 次の瞬間、海が砕けた。

 鼓膜が破れんばかりの音響と衝撃が海面を爆発させ、海水を吹き飛ばした。

 巻き上げられた海水が、数十秒後に雨となって降り注ぐ。

 それでもなお、『ムサシ』艦上には紅い雪が降り続いていた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 嬌声。

 聞くだけでこちらが蕩けてしまいそうな、そんな声が海に響き渡った。

 艦体を打つ海水の雨が、いやに大きく聞こえる。

 

 

『可哀想な子』

 

 

 そんな中で、紀沙の耳には確かに届いていた。

 熱に浮かされているような、それでいて夢中になっているような少女の声だ。

 紀沙には相手が誰なのかわかっている。

 

 

『心から相手を受け入れるだけで、こんなにも気持ち良くなれるのに』

「五月蝿い、()()()()……!」

 

 

 状況は最悪だった。

 今まで超重力砲発射体勢の際に海を割った霧は何隻もいたが、『ムサシ』のそれは規模が違った。

 半径2キロメートル、それだけの範囲の海が円形に()()()()()()()()()

 ちょうど、コップの形に海をくり()いた状態だ。

 

 

 その中心に『ムサシ』がいて、そしてイ404がいる。

 イ404の艦体の感覚をダイレクトに感じている紀沙からしてみれば、全身を何者かの腕で絡め取られたかのような気がしている。

 そしてその「腕」とは、要するに『ムサシ』の超重力砲のロックビームなのだった。

 これまでに無い程に強固で、振りほどくことができない。

 

 

『大丈夫さ、艦長殿』

 

 

 耳元で、スミノの声がした。

 

 

『あんな奴、ボクらの敵じゃない。そうだろう?』

 

 

 じわりと、シャツの肩口に赤い染みができる。

 噛まれたのだと、はっきりわかった。

 背骨と脊髄に差し込まれた404のコードの感触に、眉を寄せる。

 その不快さは、とても「大丈夫」とは思えない。

 

 

『艦長殿、ほら』

「……五月蝿い。黙ってて」

 

 

 動けない。

 イ404は動けない、艦を動かす者の心が硬直的だからだ。

 躍動感溢れる『ムサシ』の動きとは、まさに雲泥の差がある。

 

 

 でも、紀沙には出来ないのだ。

 霧であるスミノと完全に心を通わせることなど、出来るはずが無い。

 兄とイオナのようにも、父とムサシのようにもなれない。

 あんな風になんて、死んだってなれない。

 

 

『……だから、愚かだと言うのだ』

 

 

 愚かでも良い。

 

 

『そんなことで、人の革新など起こせるものか』

 

 

 そんなものはいらない。

 紀沙はただ、もっと簡単なものが欲しかった。

 間違っているだろう、兄以上に不器用で、頑ななのかもしれない、しかし。

 

 

「――――とうさん!」

 

 

 家族を取り戻したいと思うことの、何が悪いと言うのか!

 ガクン、と、イ404の艦体が再び大きく揺れた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ401と『マツシマ』3隻による合体超重力砲は、今まで霧に確認された兵器の中では2、3を争う出力規模――なお1番は『タカオ』達が『レキシントン』に見せたと言う重巡洋艦以上のコア4つを連携させての4重超重力砲である――であり、威力だけならあの『コンゴウ』の衛星砲をも上回っている。

 だから一言で表現するのであれば、当たれば勝ち、と言う兵器だった。

 

 

「重力子エネルギー臨界点」

『20秒以上は保たない! 撃つなら早く撃って!』

 

 

 401の発令所に、イオナといおりの声が響く。

 超重力砲発射時特有の振動の中で、群像は戦略モニターに映し出された戦況を見つめていた。

 杏平が握っている照準機はすでに、『ムサシ』艦底部にその狙いを定めていた。

 いつかの戦いのように、紀沙が相手の気を引いている内に体勢を整えた形だ。

 

 

 心配するな紀沙、と、群像は思った。

 自分だって、何も翔像を殺そうと言うわけでは無いのだ。

 ただ、超えたい。

 超えた先に何があるのかはまだわからないが、父を超えなければ何も成せない、そんな気がするのだ。

 

 

「新超重力砲……」

 

 

 だから。

 

 

「……()えええぇぇ――――ッ!!」

 

 

 だから、躊躇すること無く撃った。

 極太の重力子ビームが、『ムサシ』の作り出した円を一直線に貫く。

 それは円の中心にいる『ムサシ』にまで届き、強制波動装甲(クラインフィールド)を貫き、航行不能に陥らせるだろうと思えた。

 

 

 過去、この一撃で沈黙させられた霧の艦艇は少なくない。

 威力は実証済みで、疑う余地も無い。

 一方で群像は、ある可能性について危惧してもいた。

 何故ならば、かつてこの攻撃を防いで見せた艦があるからだ。

 

 

「群像」

「……!」

 

 

 U2501、あの艦にはイ401の超重力砲が通用しなかった。

 そして危惧した通り、『ムサシ』はあのシステムを持っていた。

 超重力砲の膨大なエネルギーを8の字の形に受け流して循環させる、『ミラーリングシステム』!

 だが、このシステムの破り方ならすでに知っていた。

 

 

『うらぁっ! 姐さんから離れろお――――っ!』

 

 

 イ15、トーコの一切の武装を持たないシンプルな艦体が、滝を割るように海の中から円の内側へと飛び出して来た。

 『ムサシ』は超重力砲とミラーリングシステムの制御で手一杯で、姿勢制御までは出来ない。

 そこへ404を助けるべく飛び出して来たイ15が突撃すれば、おのずから結果は明らかだった。

 

 

 いける、と、そう思った。

 この時、群像は勝ったと思った。

 イ15は何にも遮られること無くに直進し、今にも『ムサシ』に手が届きそうに。

 

 

『だから愚かだと言うのだ、お前は』

 

 

 しかし、そうはならなかった。

 何故か?

 一言で言えば、そう、一言で終わる。

 

 

 超戦艦の演算力が、予想を遥かに超えて強大だったと言うだけだ。

 

 

 つまり、イ404への超重力砲の照準は変わらず。

 イ401の超重力砲へのミラーリングシステムの稼動も変わらず。

 かつ、イ15を迎撃して海底へと叩き付けて。

 それでいてなお、出力を上昇させることが出来る。

 それだけのことだった。

 

 

「よせ」

 

 

 イ401は、動けない。

 超重力砲を撃った直後と言うことにも加えて、元々のダメージも酷かった。

 だから動かず、『ムサシ』がまだ動けるだろう404を狙うのは当然だった。

 艦の中心から放たれる砲撃が404を向くのも、当たり前の戦術判断だった。

 

 

「よせ、親父……!」

 

 

 そして、群像にはそれを止める術が無い。

 むしろミラーリングシステムの衝撃から自分達を守るのが精一杯で、404を助ける余裕は無かった。

 あの時は成功した。

 失敗すればどうなるかと言う例が、実際に目の前で起きようとしていることに、群像の内心に乱れが生じた。

 

 

 その時だった。

 イ15が飛び出して来た反対側から、しかしイ15とは比べ物にならない程に巨大な艦体が飛び出して来た。

 滝の如く流れる海水を爆発させて飛び出してきたのは、『ムサシ』程では無いが大きな戦艦で。

 ――――『クイーン・エリザベス』だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――横須賀沖。

 第四施設焼失事件に関する調査を終えて、タカオ達は海に出た。

 胸中がざわめく感覚、不安、それを抱えての出航だった。

 兆候はあった。

 

 

 霧の艦隊内部の不協和音。

 各艦隊旗艦同士が独自の動きを始め、中には霧同士で小競り合いを始める例が増えた。

 大西洋方面欧州艦隊の崩壊はその最たる例で、対人類の海洋封鎖すら危うくなっている。

 『ヤマト』と『ムサシ』に霧を率いる気が無いこと、そして何よりも『アドミラリティ・コード』の()()が最大の原因だった――のだが。

 

 

「『アドミラリティ・コード』なんて、()()()()()

 

 

 ガリ、と親指の爪先を噛みながら、タカオは水平線を睨んでいた。

 その表情は、口惜しさと焦燥感に染まっている。

 そうだ、どうして気付かなかったのだ、と。

 気付いてしまえば、何もかもがおかしいでは無いか、と。

 

 

 何故、自分達は見たことも無い『アドミラリティ・コード』に盲目的に従っている?

 それでいて何故、各コアに演算力の格差があり、あまつさえ旗艦とそれ以外と言うような()()()()が存在するのか?

 我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?

 

 

「『ヤマト』、『ムサシ』……!」

 

 

 あの2隻だけが、特別だ。

 明らかにあの2隻は真実を知っていて、しかも別の思惑で動いている。

 他の霧の艦艇は、タカオ自身も含めて『ヤマト』と『ムサシ』の出来の悪い模造品のようなものだ。

 無垢に規範(コード)を信じて動く、木偶(でく)人形に過ぎない。

 

 

「私は、私達は違うわよ」

 

 

 千早家との出会いが、ただの木偶人形だったタカオを変えた。

 沙保里との出会いが、タカオを自我ある存在へと歩き出させた。

 そして第四施設焼失事件の情報に仕掛けられていた縛りを振り払った今、タカオは確実に自立への道を歩み始めている。

 彼女はもはや、『アドミラリティ・コード』の従僕では無くなっていた。

 

 

「『ナガト』……!」

 

 

 水平線の向こう側から、黒い波がやってくる。

 今や東洋方面艦隊唯一の正旗艦『ナガト』率いる、巡航艦隊だ。

 おそらく、自分達を止めに来たのだろう。

 17年前の<大海戦>の際、人類の艦隊はこんな気持ちだったのだろうか。

 ――――皮肉なことに、タカオ達は人類(日本)を守るように背にしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 日本の軍・政府機関が横須賀の異変を注意深く見守っていたこの時、横須賀沖に戻って来た艦があった。

 アメリカ西海岸から太平洋を渡り切り、帰還を果たした『白鯨』である。

 表向きは、振動弾頭輸送任務が完了したための帰還である。

 艦内にはアメリカ軍から譲渡された各種物資が満載されていて、SSTOに換算して3往復分程の価値があった。

 

 

「やっとの思いで帰って来たってのに」

 

 

 もちろん、道中はけして楽なものでは無かった。

 霧の艦艇、場合によっては艦隊を何度もやり過ごさなければならず、何日も海底でじっとしていなければならないこともあった。

 一度など区画の一部をパージして、撃沈を装った程だ。

 

 

 ただ、イ号艦隊と別行動を取ったことが有利に生きた。

 簡単に言うと霧に脅威に思われなくなったので、そこまでしつこくは追われなかったのだ。

 『白鯨』の面々は知る由も無いが、霧の太平洋艦隊に混乱が広がっていたと言うのも要因の1つだ。

 『ビスマルク』と『フッド』の確執と<緋色の艦隊>の登場に起因する霧の艦隊の分裂騒動は、収束するどころか拡大する一方だった。

 

 

「まさか玄関前で霧が艦隊規模でドンパチ始めるとはねぇ」

 

 

 艦長席で頭を抱える駒城に向かって、結局アメリカに戻らなかったクルツはニヤリと笑って見せた。

 航行中は陸戦の機会が無くて腕が鈍ってしまうとぼやいていたが、戦闘の気配を感じると途端に上機嫌になるのだ。

 根っからの軍人と言うか、単純に騒ぎが好きなのかもしれない。

 

 

「どうするね艦長、艦の行動に関してはキミに一任されている。一発カマしてやるも良し、隠れるも逃げるも良しだ」

「はぁ」

「オレとしては白兵戦があると助かるねぇ」

移乗攻撃(アボルダージュ)でもするつもりか? 冗談キツいぞ」

 

 

 浦上とクルツはどちらかと言うとやる気満々のようだが、艦長の駒城はいまひとつ積極的でない様子だった。

 修羅場をいくつも潜り抜けたとは言え、霧の艦隊戦に介入できる程に『白鯨』が強力だとも思っていない。

 太平洋を渡れたのはまず運が良かったこと、そして良い助言があったからだ。

 

 

「響少尉は、どう思われますか」

「そうですね」

 

 

 この時点で、真瑠璃は相当待遇を外されて正式に少尉になっていた。

 同期にあたる紀沙とは随分と差が開いていたが、それでも若い方だった。

 彼女の頭上では今、海上で『ナガト』と『タカオ』の艦隊が向かい合っている。

 元401クルーとして『白鯨』に貴重な助言を与えてきた真瑠璃は、自分達がどう行動するべきか、慎重に考えていた。

 

 

(ここをどうするのが、群像くん達にとって一番良いかしらね)

 

 

 ただし、彼女の心は今もイ号潜水艦隊と共にある。

 人は結局、国では無く人に忠誠を誓うものなのかもしれない。

 国よりも人を、理念よりも愛を。

 真瑠璃はすぐ側の母国よりも、遥か遠方の群像たちを想っていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その登場は、あまりにも予想外だった。

 誰も予測していなかったし、姿を見せた時には誰もが唖然とした。

 大戦艦『クイーン・エリザベス』、そしてそのメンタルモデルであるリエル。

 今、彼女はイ404達を守るように、『ムサシ』に対して横腹を晒しているのだった。

 

 

 教会であれ程までに敵対していた彼女が、どうしてそんな行動に出たのか。

 もしかしたら、リエル=『クイーン・エリザベス』自身も理解していないのかもしれない。

 確かなことは今、彼女がイ号艦隊を庇うために出てきたと言うことだった。

 

 

「そう」

 

 

 自分の射線を遮ろうとするリエル=『クイーン・エリザベス』を見て、その艦上で両手を広げてこちらを見つめているメンタルモデルの少女を見て、ムサシは頷いた。

 この霧の艦艇もまた、自分でも理解できない、突き動かされるべき本能(こころ)を得たのだろうと。

 だからムサシは、リエル=『クイーン・エリザベス』に一切の斟酌(しんしゃく)を与えなかった。

 

 

「さようなら、『クイーン・エリザベス』」

 

 

 哀しげに、しかし断固として。

 『ムサシ』の艦体から放たれた、地球の磁場をも揺るがす超重力砲。

 それは()()を繰り返しながら円形のフィールドを駆け巡り、やがてすべてを光で包み込んでいった――――……。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言うわけで、ムサシ超強いです。
これでもかってくらい強いので、はたして私はこのムサシを倒せるのでしょうか(え)

それでは、また次回。


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Depth050:「次なる地へ」

 

 もう何度目になるかはわからないが、紀沙はイ404の医務室で目覚めた。

 知らない天井だ、などとはもう言えない。

 日本を出航してからこっち、もう何度ここで目覚めたかわからなくなっている。

 流石に自室程では無いが、結構な頻度なのではないだろうか。

 

 

「……ん」

 

 

 目が覚めると同時に、身体が動かないことに気付いた。

 肉体的な問題では無く、物理的な問題だった。

 腕を動かそうとすると、ぎっと軋む音が立つばかりで一向に腕が上げることが出来なかったのだ。

 もしここがイ404の医務室で無ければ、少しくらいは取り乱していたかもしれない。

 

 

 首と頭は普通に動いたので、少しだけ上げて、そのまま下を向いた。

 すると白い病院着に包まれた胸元がまず見えて、素肌の上に包帯が巻かれていた。

 そこからさらに視線を向ければ、身体や足の爪先が見える。

 するとその時、目に鈍い痛みが走った。

 

 

「っ……!」

 

 

 左目だけで無く、両目だった。

 一瞬だけ視界が歪んだが、すぐに直った。

 身体の節々も軋んだが、怪我と言うよりは筋肉痛と言った方がわかりやすい。

 普段使わない筋肉を酷使したために痛んだ、と言う痛みだった。

 

 

「……えーと」

 

 

 まぁ、それはそれとして、だ。

 ひとまず、自分の状況を省みるところから始めるべきだ。

 首を別の方向に動かして、紀沙は言った。

 

 

「正直、何でこんなことされてるのか良くわからないんですが」

 

 

 問題は、動けないと言うことだ。

 医務室のベッドに寝ているだけなので、普通はむくりと起きればそれで済む話のはずだ。

 しかし、出来ない。

 先程も言ったが、身体を動かそうとすると何かに阻止される状態だ。

 紀沙は今、()()()()()()()()()()()

 

 

 簡単に言うと、ベッドに革のバンドで縛り付けられている。

 バンドは胸の上と下、お腹と膝のあたりの四ヶ所にあって、そのために紀沙は動けないでいた。

 しかし繰り返すが、紀沙はこれと言って慌ててはいなかった。

 ここがイ404である、と言う点がまず大きい。

 艦内にいる限りにおいて、まず命の危機に瀕することは無い。

 

 

「とりあえず、怒ったりはしないので」

 

 

 それと、もう一点。

 ふぅ、と嘆息して枕に頭をつける余裕があるのは、むしろそちらの方が大きな理由だったろう。

 医務室には彼がいたから、とりあえず心配はいらないだろうと、そう思ったのだ。

 

 

「これ、解いてくれませんか?」

 

 

 イ404の医務室の番人。

 そして紀沙の目覚めをずっと待っていたのか、目の下に隈を作った良治は、診察用の机の前に座ったまま、それはそれは大きな溜息を吐いたのだった。

 はぁ……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 御手洗良治は、思い出す。

 海洋技術総合学院時代の千早紀沙と言う少女を思い出す。

 あれはまだ、そう遠い過去と言うものではないはずだった。

 しかし、あの頃の紀沙と今の紀沙は、微妙に重ならない。

 

 

 眼鏡を外して、七三に分けていた髪をぐっと後ろに流す。

 そして、「おーい」と緊張感の無い様子で拘束されている紀沙を見る。

 それから、大きく溜息を吐いた。

 変わった、いや変わっていない、そんな思考を繰り返してしまう。

 

 

「もしもーし、良治さーん?」

「ああ、うん。何だろうね、いろいろ考えて緊張してた僕が馬鹿だったのかなぁ。いや、そんなことないよなぁ」

 

 

 ぺらぺらといろいろな数値や文章が書かれた書類の束をめくりながら、嘆息する。

 

 

「あのさぁ、紀沙ちゃんさぁ」

「そろそろ手とかベルトに擦れて痛くなってきました」

「身体を揺するのやめなよ――――いや、そうじゃなくてね?」

 

 

 嘆息ひとつ。

 

 

「紀沙ちゃんが寝ている間に、何週間かぶりの検査をいろいろしたんだけどね?」

 

 

 ぴたりと、紀沙の動きが止まった。

 ああ、いやだいやだ。

 医者なんて面白くない商売だよと、自己否定にも似たことを思った。

 下手に腕が確かなものだから、気付きたくないことや知らない方が良いことも知れてしまう。

 

 

「紀沙ちゃんさ」

 

 

 息を呑む音を聞きながら、良治は言った。

 

 

「前の測定よりウエストが2センチ増え「何の話っ!?」んだけど、バ「良治くんちょっと黙ろう」ってるんだよねって、ア、ハイ」

 

 

 殺意の波動を感じたので、良治は素直に黙ることにした。

 まだ成長期なので以前の測定と変化があっても仕方が無いのだが、言い方が不味かったのかもしれない。

 やれやれと思いつつ、書類の束から指先を離した。

 そんな良治に、頭だけ動かして紀沙が言った。

 

 

「あれからどうなりました? 皆は? いま、どのあたり?」

「ああーっとね、まぁいろいろあるんだけど。とりあえずここがどこかって言うとね、一応スコットランドの海域からは出てるんだよ。方角的に言うと、東に」

「東?」

 

 

 スコットランドから東と言うと、ドイツから離れている。

 地形的に袋小路な気がするが、頭の中の地図を思い描くに。

 

 

「……ノルウェー?」

「に、入港を拒否されたところ」

 

 

 厳密に言えば、ノルウェーを含む北欧諸国全体がイ404の入港を拒否した。

 西ヨーロッパで飛ぶ鳥を落とす勢いの<緋色の艦隊>、それを率いる『ムサシ』にイ号艦隊が敗退したことはすでに諸国の知るところだ。

 ドイツへ向かうには緋色の艦隊の勢力圏を南下するか北欧諸国の領海を通過するかしか無いので、事実上ドイツへの道は閉ざされたことになる。

 

 

 と言うか、同じ理由で多くのヨーロッパ諸国はイ号艦隊に否定的になってしまっている。

 何も自分から好き好んで『ムサシ』の次の標的になりにいくことは無い、そう考えるのは一国や二国では無いのだ。

 だから今のイ404は、まさに袋小路に陥ってしまっている。

 

 

「一応、受け入れても良いってコンタクトを取ってきた国があるんだけど」

「……どこですか?」

 

 

 ああ、医者なんて本当に面白くない。

 紀沙と話を続けながら、良治は同じことを思った。

 少し調べてしまえば、医者である自分にはいろいろとわかってしまうのだ。

 

 

「――――ロシア」

 

 

 眼球をはじめ、身体のいくつかの部分が何かに置き換わり始めていること。

 血液から、人間が持ち得ない物質がいくつか検出されたこと。

 身長はそのままなのに、体重が以前の測定よりずっと軽くなっていること。

 そう言う諸々のことに気付いてしまうのは、本当に嫌なことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ロシアは、日本にとって鬼門の国である。

 広大で強大な隣国でありながら、不思議と日本人の多くは隣国だと思っていない。

 日本で「隣国」と言えば、まず中国や韓国のことを指すからだ。

 しかし、ロシアは200年前に同国がユーラシア東部に進出してきてからの隣国である。

 

 

 また日露両国は長い歴史の中で、領土や安全保障上の問題から幾度と無く戦火を交えている。

 ある意味、他の近隣国との関係よりも血生臭い関係だった。

 友好的な期間よりも敵対的だった期間が長く、北方の大国ロシアの存在は、日本の国防関係者に長年プレッシャーをかけ続けるものだった。

 それが霧の海洋封鎖で()()されてしまったのは、皮肉と言う他は無い。

 

 

『振動弾頭輸送プロジェクトが持ち上がった時、確かにロシアは有力な候補国だった』

 

 

 国会議事堂から首相官邸へと移動する車中、楓首相は同乗している上陰とそんな話をしていた。

 彼らの下にもすでにイ号艦隊の敗退は伝わっていて、今日の国会では主に欧州情勢に関する質疑が出た。

 国会で表立って海外情勢が語られるのは、本当に久しぶりのことだった。

 

 

『軍事に限ればロシアの技術力はアメリカに匹敵する。ロシアの提示してきた食糧・資源の援助はアメリカの数倍の規模だった。また仮に<大反攻>が成功してもアメリカの海上覇権が以前のように確立されていない以上、ロシアと結んだ方が良い場面もあることはわかっていた』

 

 

 アメリカか、ロシアか。

 振動弾頭の量産委託先を考えた時、実は候補はこの二国しか無かった。

 結局、日本政府――つまり楓首相が選んだのは、アメリカだった。

 100年来の同盟国と言うのもあるが、ロシアの底知れなさに懸念を覚えたと言った方が正しい。

 

 

『もう20年以上も前だが、海上自衛隊時代に親善訪問と言う形でウラジオストクを訪れたことがある。今でもロシア太平洋艦隊の根拠地になっているが、未だに横須賀軍港が彼の地を超えたとは思えない』

 

 

 軍艦の相互訪問は、両国軍間の信頼醸成を目的に定期的に行われている。

 楓首相もそうした軍人の1人として、ロシアを訪問したことがあった。

 中には今のロシア軍の幹部になっている――楓首相のように政治家になった者もいる――ような軍人と話す機会もあって、そんな中で特に1人、楓首相が注目している軍人がいた。

 

 

 彼は今ロシア大統領府に出入りできる、つまり大統領の側近として動いているらしい。

 しかも日本側との交渉を裏で動かしていたのも彼で、振動弾頭の量産をロシアに委託するよう働きかけてきた。

 熱心だったと言って良い、日露関係史上、ロシアが日本に譲歩を見せたのはあの時だけだったろう。

 何しろ、ロシアに振動弾頭を渡してくれるのであれば、日本側の要求は全て呑むとまで言ってきたのだ。

 

 

「その人物の名は?」

『アレクサンドル……』

 

 

 そして今、ロシアが再び日本側にコンタクトを取ってきていた。

 振動弾頭の輸送成功で日米の同盟関係が再確認された直後なだけに、日本はロシアと関係を持ちにくい時期だ。

 それを承知の上でのコンタクトに、楓首相は言葉に出来ない何かを感じているのだった。

 

 

『アレクサンドル・マクシミリアーノヴィチ・トゥイニャーノフ……ロシアの奇才だ。今後のロシア軍の動きは彼が主導するだろう』

 

 

 新大陸の覇者(リヴァイアサン)の動きに触発されて、旧世界の大国(ベヒモス)が眠りから覚めた。

 何をしてくるかわからない。

 北などは、<大海戦>の煽りで後回しにされていた北海道や日本海側の防衛拠点の整備を急ぐべきかもしれない、と言ってきている。

 

 

『ある意味で上陰君、キミと似たような立場の人間かもしれない』

 

 

 いずれにしても、複雑怪奇な国際情勢にもう一つ変数が増えた。

 気の休まる時間は遠のくばかりで、むしろ懸念事項は増えることはあっても減ることは無い。

 先の横須賀沖での霧同士の海戦もそうだ。

 ただ、不思議と嫌だとは思わない。

 

 

(我ながら度し難い。もう少し首相をやっていたいと初めて思っている)

 

 

 停滞の17年間の先に待っていた、激動の1年。

 この1年は楓首相にとって、今までの人生で最も充実している時間だった。

 きっと北もそうなのだろうと、楓首相は勝手に思っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――的な会話が日本で行われているとも知らずに、紀沙はぼんやりとロシアと言う国を考えた。

 正直、北や楓首相達のような危機感にも似た懸念は持っていなかった。

 ただ、北が警戒すべき国のひとつに上げていたな、くらいは記憶していた。

 

 

(ロシア)

 

 

 小さく口にしてみると、不思議な語感があった。

 馴染みが薄いせいもあるのだろうが、興味を引かれる響きだった。

 

 

「そうだ。他のみんなは? 無事?」

「ああ、うん。まぁ、無事だよ。怪我も無いし」

「よかった……」

 

 

 不意に思い出して問えば、良治の返事にほっとした。

 皆が無事とわかると、それだけで身体の力が抜けるようだった。

 何しろ派手にやられたから、最悪の事態も起こり得たはずだ。

 そこまで来て、紀沙はあの最後の一瞬を思い出した。

 

 

 『ムサシ』の超重力砲に照準(ロック)された、あの一瞬のことだ。

 どこからともなく現れた『クイーン・エリザベス』が、『ムサシ』の最後の一撃から自分達を庇ったように思えた。

 リエル=『クイーン・エリザベス』がどうしてあんな行動に出たのか、わからない。

 ただ不思議と、自分も同じことをしたかもしれない、と思った。

 

 

「……401は?」

 

 

 そして、忘れるはずも無いイ401を含む他の面々のこと。

 

 

「兄さん達は、無事?」

 

 

 その時、紀沙は良治が「あー……」と言って顔を逸らすのを見た。

 猛烈に、嫌な予感がした。

 医務室の扉が開いたのは、紀沙が良治に重ねて聞こうとしたその時だった。

 

 

「艦長達なら、はぐれちゃったわよ」

 

 

 栗色の髪にタイトな私服。

 顎を上げて話すそのしゃべり方を、紀沙は見たことがある。

 その女性の名はヒュウガ――大戦艦『ヒュウガ』のメンタルモデルだ。

 彼女が何故404にいるのか。

 

 

「『ムサシ』の超重力砲の出力は私達のとは桁が違ってね、余波でセンサー系も軒並み効かなくて。はぐれてしまったのよ」

 

 

 考えてみれば、無理からぬことかもしれない。

 共有ネットワークが思いつくが、あれを使うと他の霧にも居場所を知られるリスクがあることを思い出した。

 合流は、なかなか難しいかもしれないと思った。

 

 

「それにしても」

 

 

 そして、ヒュウガがじろりと紀沙を見つめて。

 

 

「随分なことになっているわね」

 

 

 確かに随分なことになっているが、好き好んでなったわけでは無い。

 そう言いたい紀沙だったが、ヒュウガにそれを言うのは業腹な気がして、結局なにも言えないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧と人間の、神経接続による同一化。

 そんなことをフッドは試そうとも思ったことが無いし、考えたことも無かった。

 脆弱な人間の肉体が霧との同一化に耐え切れるはずも無いし、人間の複雑かつ非効率な構造を霧が理解しきれるはずも無いと思っていたからだ。

 

 

(イ号404)

 

 

 冷たい北海の底。

 海底に潜む潜水艦の艦外に出るなど、人間であれば自殺行為だろう。

 しかし霧のメンタルモデルにとってはそうでは無い。

 流石に衣服が濡れるのは困るのでフィールドは張るが、水圧がどれ程だろうと彼女達には関係が無いのだ。

 

 

「何か用かな、フッド」

「いや……」

 

 

 フッドにとって、いや他の霧にとってもそうだろうが、今のイ404のメンタルモデル「スミノ」は特異過ぎる存在だった。

 ちらりと隣を見れば、イ404に接舷している『マツシマ』が見える。

 あれの補給が無ければ、404はあの海域から離脱できなかっただろう。

 

 

 そう言う意味では、はぐれてしまったイ401がどうなったのかは彼女達にとっての不安要素だ。

 404と違って直撃ではないにしても、隣接していた『マツシマ』達との連絡も途切れてしまう程の衝撃だったのだ。

 今それをこんな場所で、しかもフッドが考える必要は無かった。

 ただ、不安――いや、()()に思えたのだ。

 

 

「なんだもったいない。ボクは今、とても気分が良いのに」

 

 

 こちらを振り向いてきた、スミノの顔、その両目。

 その瞳には、霧のメンタルモデルが持っているはずの光の輪郭が無かった。

 むしろより平凡な、そう、まるで。

 

 

()()()()()()殿()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 まるで、人間の目のような。

 その顔はもはや包帯には覆われていなくて、血も流れておらず、しっかりと眼球が収まっていた。

 いや、そもそも血が流れること自体がおかしいのだ。

 メンタルモデルに、そんな機能は存在しない。

 

 

 何なのだスミノ(こいつ)は、と、フッドは脅威を覚えた。

 彼女自身もメンタルモデルを得てそれなりの時間が経つが、こんな思いは初めてだった。

 そしてフッドの演算素子は、ある可能性を示唆していた。

 もしかしてスミノは、いやまさかそんな、そんなことが。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「先の『ムサシ』との戦闘の記録(ログ)が、共有ネットワークに上がっていないのが不思議でな」

 

 

 誤魔化し。

 人であればそう表現しただろう感情の動きを見せて、フッドはそう言った。

 実際、『ムサシ』戦の情報はイ401の居場所の手がかりも含めて霧の共有ネットワークには上がっていない。

 

 

 今、共有ネットワークにアップロードされているのは別のことだった。

 その()()は非常に派手で、しかも現在も継続中だった。

 遥か太平洋の北西端、横須賀沖から続いている艦隊戦。

 『タカオ』と『ナガト』の、大規模な戦闘だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 30時間が経過してもなお、その艦隊戦闘は続いていた。

 

 

「……ッ、ああ、もう! しつこい!」

 

 

 至近弾の水飛沫を浴びながら、タカオは毒吐いた。

 メンタルモデルは人間のように疲労を覚えたりはしないので、時間経過によるパフォーマンスの低下はあまり無い。

 ただナノマテリアルには制限があるため、その計算にだけは気を遣っていた。

 

 

 戦闘海域こそ横須賀沖から徐々に北上しているものの、移動距離はタカオの希望よりもずっと少なかった。

 理由は相対するナガト艦隊にあって、外洋に出る動きを見せると封じられてしまうのだ。

 だから、タカオ達の移動は日本沿岸に沿うものにならざるを得ず、遅々としたものだった。

 

 

「ちょっとキリシマ! 左翼、火力支援! アタゴ達が押されてるじゃない!」

『五月蝿いな、こっちもこっちで忙しいんだよ!』

「天下の大戦艦様でしょーが!」

『畜生! こういう時だけ大戦艦扱いしやがって……!』

 

 

 文句を言いつつも、ナガト艦隊の重巡戦隊に半包囲されつつあったマヤ・アタゴの方に水柱が上がるのが見えた。

 キリシマが支援砲撃をかけてくれたらしい。

 しかし左翼の前面に敵がいるなら、回りこまれたと見て良い。

 それならばと、右翼(こっち)から突破を仕掛けるしか無いだろう。

 

 

「レパルス、もう一度前に出るわよ!」

『え、ええぇ。少し退がった方が』

「退がったら負けるわ!」

 

 

 何度繰り返したのかわからないが、数で劣る側が退いた先には敗北しか無い。

 それがわかっているから、タカオは遮二無二突破を繰り返しているのだ。

 

 

「愚直に突破を繰り返しているように見えて、少しずつ攻め手を変えている」

「でも、このままと言うわけではないでしょう」

 

 

 一方で、ナガトはタカオ側の戦術をしっかりと分析していた。

 両翼を交互に伸ばして突破口を探るのが基本のようだが、ナガト側の方が艦艇の数が多いので、タカオ側よりも大きく両翼を伸ばしてこれを防いでいる。

 つまり、両翼を広げれば広げる程、タカオ側が不利になっていく。

 ただし、油断は禁物だった。

 

 

「あーくそ、やっぱナガトが中央から動かないな」

 

 

 タカオ艦隊中央、自身の艦上から戦況を眺めながらキリシマは親指の爪を噛んでいた。

 巡洋艦を両翼に広げて中央に足の遅い――高速戦艦だが――戦艦、基本の陣形が開戦当初から変わっていない。

 海中では400と402が相手の潜水艦隊とドンパチやっているから、タカオ側にしてみればまさに総力戦だった。

 

 

 当初の作戦では、両翼を広げるだけ広げて相手の中央を薄くして、キリシマとハルナの重火力で中央突破するというものだった。

 ただ、相手の中央にナガトがどっしりと構えて動かない。

 先代総旗艦『ナガト』、『ヤマト』『ムサシ』を除けば間違いなく霧の艦艇でも最強の1隻だ。

 

 

「キリシマ、見られてる」

「ああ、そうだな」

 

 

 一応、ハルナの艦体も最低限展開できてはいる。

 ただしハリボテだ、メンタルモデルのハルナがキリシマの隣にいることが何よりの証拠だ。

 つまりこちらの中央火力には限界があるわけで、これも時間が経てば経つ程にタカオ側に不利に働いていくだろう。

 

 

 加えて、ナガトの最初の通告によるとこれは『ヤマト』の命令だと言う。

 たとえ目の前のナガト艦隊を突破しても、今は傍観している『レキシントン』や『ガングート』が今度は立ち塞がってくるはずだ。

 ナノマテリアルの補給の無い状態で、それだけの艦隊を突破してヨーロッパに辿り着ける可能性は……。

 

 

「それでも、降伏なんて絶対に嫌よ!」

 

 

 右翼に突出しながら、タカオは言った。

 その視線は、遥か東方へと向いていて揺らぐことは無かった。

 至近弾の波を何度もかぶりながら、前進することをやめなかった。

 

 

「すぐに行くわ……!」

 

 

 たとえ、どんなに遠い道のりでも。

 たとえ、どんなに高い障害であったとしても。

 交わした約束を守れずして、託されたものを果たせずして。

 その()に、何の意味があると言うのか!

 

 

「……待ってなさいよ!」

 

 

 タカオの声は、ナガト艦隊の砲撃に掻き消されていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 結論はすでに出ていた。

 ロシアに行くしか無い。

 武器弾薬は『マツシマ』のナノマテリアル補給でどうにかなるにしても、人間用の物資はそうはいかない。

 そのためにはデンマーク沿岸を通る必要があるが、いくつかの条件をクリアする必要があった。

 

 

「まずファースト、デンマークの領海を無断通行する必要がありマスト」

 

 

 どこから現れたのか、ジョンがしたり顔でそんなことを言っていた。

 指を一本立てて腰を揺らすポーズは非常に腹が立つが、言っていることは正確だった。

 アメリカを離れてしばらく立つが、彼の情報は404にとってとても貴重なことには違いが無かった。

 

 

 スカゲラク海峡からデンマーク沿岸を南下してドイツに行くことも可能だが、ドイツが404を受け入れてくれる可能性は高くは無かった。

 緋色の艦隊に降った英仏に対して、ドイツは未だ戦争状態にあるわけでは無い。

 そこで404を抱え込めば、対英仏開戦の引き金になりかねなかった。

 それでも『ムサシ』に敗北する前であれば、可能性はあっただろうが……。

 

 

「セカンド、ロシアに行くにはバルト海の奥深くに入り込む必要があるヨ」

 

 

 バルト海は、狭い海域だ。

 いわゆる内海で、古くからロシア海軍の勢力圏だった海域だ。

 現在ではロシア方面北方艦隊の艦艇がうようよしていて、これも潜り抜ける必要があった。

 つまり404がロシアに向かうには、逃げ場の無いバルト海と言う袋の中を通っていかなければならないのである。

 

 

「それはまた、難しい話だね」

 

 

 管轄では無いのでのんびり構えているが、良治にもそれがいかに困難なことかはわかっているつもりだった。

 ただ、今までだった簡単な道のりでは無かったのだから、今さらと言う意見もあるだろう。

 

 

「あのー……」

 

 

 その時、他の面々と比べると低い位置から声がした。

 もちろん、ベッドに拘束されたままの紀沙である。

 曖昧な笑みを浮かべた紀沙は、もそもそと身じろぎしつつ。

 

 

「そろそろ解いてくれると嬉しいんだけど」

「あらぁ、何を言ってるの?」

 

 

 そんな紀沙に、ヒュウガは言った。

 何でもないことのように。

 

 

「それくらい、ちょっと力を入れたら外れるでしょ――今のアンタなら」

 

 

 何でもないことのようにそう言われて、紀沙は沈黙した。

 別にヒュウガの言うことを真に受けたわけでは無い。

 そうでは無い、が、思うところはあったのかもしれない。

 沈黙した紀沙は、特に何かを言い返すことも無く、静かに腕に力を込めた。

 すると。

 

 

「…………」

 

 

 ――――ブチッ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――今日のモスクワも、分厚い雲に覆われていた。

 

 

「たまには晴れ間を見てみたいものだな。そうは思わないかね、中佐?」

 

 

 広大なロシアを支配する大統領宮殿(クレムリン)の執務室、その窓際に立ちながら――当然、狙撃を警戒した専用の防弾ガラス――第9代ロシア連邦大統領ミハイル・シュガノフは、そんなことを言った。

 モスクワは内陸にあるため、横須賀のように窓の外一面に海が広がっていたりはしない。

 その代わりにモスクワ川という市内を流れる川に面していて、ミハイル大統領は川の水面に視線を向けていた。

 

 

 ポツポツと水面を打つ雨の波紋が、ここからでも見える気がした。

 そして水の上を慌しく流れていく遊覧船や小さな輸送船を見て、船外にいる人々の姿を目にしては、目を細めていた。

 今日の雨も冷たく、長く続くのだろう。

 

 

「陸軍が攻勢の許可を求めてきておりますな、閣下」

「キミはもう少し情緒というものを解するべきだな」

「それで国が良くなるのであれば、学んでみようとは思います」

「情緒は余裕を生む。指導者の見せる余裕は国民を安堵させもする」

 

 

 とりとめも無い会話をしつつ、ミハイル大統領は執務卓についた。

 そこには書類が山積みになっており、彼の多忙さを示している。

 不思議なもので、電子技術がいくら進歩しようと書類というものはなくならないのだった。

 

 

「それに今は陸よりも海だ。ウクライナ軍やバルトの奴らなどどうにでもできる。むしろ下手に攻略するとドイツの同盟国(ポーランド)と直に接することになってややこしくなる」

「クリミアの失態を挽回したいのでしょう」

「クリミアの失態はクリミアでしか取り戻せんよ、軍の高官連中はそのあたりがわからんようだ」

 

 

 その内のいくつかに目を通しながら、国境の情勢についてミハイル大統領。

 中佐――アレクサンドルは、そんな大統領をじっと見つめていた。

 するとミハイル大統領は「まぁ、そんなことは良い」と言って、顔を上げた。

 アレクサンドルは、ここ最近ずっと口にしている言葉を告げた。

 

 

「大統領、例の件ですが」

「まぁ待て、中佐」

 

 

 そして途中で遮るのも、ずっと続いているのだった。

 どうやらアレクサンドルの提案を、ミハイル大統領が押し留めている様子だった。

 

 

「せっかく招待状を出したのだ。もてなしもしないと言うのでは我が国の品位に関わるだろう」

「しかし」

「大丈夫だ、わかっているとも」

 

 

 ミハイル大統領が目を通している書類には、こう書かれていた。

 

 

「大戦で疲弊したヨーロッパ諸国よりも、無傷のアメリカこそが恐ろしい。わかっているとも。だからこそ、こうしてキミの作戦案にサインするか考えているのだよ」

 

 

 <イ号潜水艦鹵獲作戦計画書>、と。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

よーし行くぞおそロシア(え)
やはり世界規模の話を描くなら、ロシアは無視できないですよね。
コルコル言いながら出てきてくれないと(え)

それでは、また次回。


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Depth051:「カリーニングラード」

 

 久しぶりのヨーロッパの海だ。

 鼻腔から肺へと入り込んで来る海の香りに、ゾルダンは内心の懐かしさを押さえ切れなかった。

 もちろん、それを表情に出すようなことはしなかったが。

 

 

「懐かしい?」

 

 

 それでも、気付かれてしまう相手はいるものだ。

 

 

「少しの間離れていただけなのに、そんな風に思ってしまうものなのね」

「は……」

 

 

 人間って不思議、と、『ムサシ』の舳先からU-2501の甲板にふわりと舞い降りたムサシは言った。

 帽子を脱ぎ、直立した体勢でそれを出迎えたゾルダンは、やはり表情を変えていない。

 しかしその「変えていない」と言うこと事態が、慣れ親しんだ相手からするとわかりやすいのだった。

 

 

「おかえりなさい、ゾルダン。太平洋はどうだったかしら?」

「色々と学ぶことが多かったです、ムッター・ムサシ」

「可愛い子には旅をさせろと言うものね」

 

 

 ……以前よりも、どこか丸くなられたか、とゾルダンは思った。

 ムサシは以前は、何と言うかもう少し無邪気な印象のあるメンタルモデルだった。

 今は物腰がやや柔らかくなって、得たばかりのものを面白おかしく転がして遊ぶようなところは見えなくなっている。

 

 

 簡単に言えば、より人間らしく、より大人らしくなった、と言うことだ。

 それこそ「少しの間離れていただけ」だと言うのに、随分な変化だ。

 メンタルモデルは稼動時間が長ければ長い程に経験値を積めるし、傍にいる人間の器が大きければ大きい程に成長が早まる。

 ましてムサシと翔像は、()()()()()にあるのだから。

 

 

「それにしても、随分と派手に遊ばれたものですね」

 

 

 視線を横に向けると、そこには形容しがたいものが存在した。

 ナイアガラの大瀑布、一言で表現するならそれだろうか。

 海の真ん中にぽっかりと穴が開き、縁から下へと海水が落ち続けている、にも関わらず何故か穴は埋まらずにそのままなのである。

 まるで次元が歪み、空間そのものに穴が開いてしまっているかのようだ。

 

 

「貴女が重力子システムなど使えば、こうなるとわかっていたでしょうに」

「あれは私じゃなくて、お父様が張り切りすぎただけよ」

「……なるほど、それで」

 

 

 翔像が張り切っていた。

 それを聞いて僅かに目を伏せたゾルダンに笑みを向けながら、ムサシは「それで」と言った。

 

 

「404はともかくとして。401はどこへ行ったのかしら?」

 

 

 404がロシアに向かっていると言う情報は、すぐにわかった。

 日本政府の艦である以上、行動をある程度表沙汰にしなければならない弱みだった。

 一方でそんな制約が無い401がどこへ行ったのかは、目下のところ謎のままだった。

 最も、無数の偵察艦(ゼーフント)を持つU-2501にしてみれば、その後の動向を探ることはそう難しくは無いはず……。

 

 

「さて、どこへ行ったものやら。むしろ私の方が教えてほしいくらいですよ」

 

 

 ……おや?

 ゾルダン・スターク。

 何もかもを見通してしまいそうなムサシの「眼」の前で、そんなことを言うこの男。

 果たして吐いた言葉は真実か、それとも……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ロシア連邦カリーニングラード自治共和国は、人口100万人を抱えるロシアの「西の砦」である。

 本国ロシアからリトアニアを隔てたいわゆる飛び地であり、かつては貴重な不凍港であり、温暖化が進んだ今でもヨーロッパに食い込む最前線の重要拠点である。

 飛び地のため交通事情が悪かったが、隣国リトアニアから()()()()自由通行を認められ(させ)てそれも改善された。

 

 

 人口の8割がロシア人ながら、現地の人々はロシア人としては珍しく、本国よりポーランド等の東ヨーロッパにシンパシーを感じるという特徴を持っている。

 それは欧州大戦が勃発した今も変わっていない。

 しかし彼らは今も昔もロシア人であり、そして今後もロシアの不可分の一部であり続けるだろう。

 何故か?

 

 

「ようこそロシアへ、歓迎する」

「どうもありがとう」

 

 

 カリーニングラードには、強大なロシア軍が駐留しているからだ。

 五大国(ビッグ5)の一角、世界第二の核大国、欧州最強の陸軍国、ユーラシア最大の軍事大国。

 ロシアを軍事的に形容する言葉は枚挙に暇が無いが、ただひとつ言えることは、正面からロシアと戦争をして勝てる国はそうはいない、それだけ強いと言うことだった。

 

 

(……冷たい手)

 

 

 カリーニングラード自治共和国の首都から45キロ程離れた場所にあるバルチースクと言う海軍基地――もちろん、地下ドック式の――に入港し、出迎えの男と握手をした時、紀沙はそう思った。

 ゴツゴツとした掌の下にはたして血が通っているのだろうかと、心配になってしまう程の冷たさだった。

 北国の男はそんなものなのだろうかと思ったが、北海道で過ごした時代を思い起こす限り、そんな記憶は無かった。

 

 

(アレクサンドル・トゥイニャーノフ……中佐、か)

 

 

 握手をしたまま見上げれば、頭二つ以上は上に相手の顔があった。

 黒髪の、年齢的には翔像と同じぐらいの世代だろうか。

 軍人らしいがっちりした身体つきで、見上げていると威圧感を感じる。

 しかし掌以上に、こちらを観察するような冷たい眼差しが気になる男だった。

 

 

(これは確かに、一筋縄どころじゃないかもね)

 

 

 寒く感じるのは、冬のバルト海特有の気候によるものだけでは無いだろう。

 今後のことを思って、紀沙は内心で溜息を吐いた。

 冷たくとも厳しくとも、今はとにかく、ここで体勢を整えるしか無いのだ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――少し時間を遡り、イ404がバルト海への侵入を果たした頃。

 かつてはロシア海軍の庭だったそこを、近隣諸国の国境線に沿うようにしながら進んでいた。

 領海を侵しても迎撃されることはまず無いが、あからさまに挑発することは避けたかった。

 

 

「ロシアは現在、ミー達に手を差し伸べてくれている唯一の国ネ」

 

 

 イ404の会議室で、紀沙達はロシア行きについて何度も話し合った。

 本国から遠く離れたヨーロッパでは、頼れる国は存在しない。

 アイスランドでの補給が最後で、飲料水と食糧の心配もそろそろしなければならない。

 栄養機能食品や保存食で生きていける程、人間の味覚と言うものは単純にできていない。

 

 

 また、沿岸部に味方がいない状況を脱さなければならない。

 これは大戦の最中にある欧州を渡り歩くには必須事項だが、イ404は現在、ヨーロッパ諸国から距離を取られている状態だ。

 この状態を脱する方法は一つ、『ムサシ』と再戦して勝つしかない。

 ただしそれを可能にするためには……と、次々に課題が出てくるのが今の状況だった。

 

 

「つまり、上手いこと騙くらかして協力させなきゃならないってことだろ」

「ロシアねぇ……」

「お、梓姐さんってば何か良い案ある感じ?」

「いや、一応ドイツ系だから私」

「あ、微妙なのね」

 

 

 騙すと言うのはともかく、大筋として間違ってはいない。

 要はロシアにスポンサーになって貰おうと言うわけで、立場としてはイ404が圧倒的に下だ。

 しかし、そうさせないのが交渉と言う技術でもある。

 

 

「アメリカでいろいろロシアの情報にタッチしてきたけど、やっちゃいけないことがひとつあるヨ」

 

 

 ジョンも、事のほか真面目だった。

 彼としても自分の目的のためにイ404を守らなければならないから、必死なのだろう。

 

 

「いいですか、キャプテン。ロシアでは嘘は吐かないでください」

「……何かの比喩ですか?」

「ノー、ロシアの人に対して嘘を吐いたら駄目です」

 

 

 ロシア人に対して嘘を吐くな。

 ジョンのその忠告は、正直あまり意味が良くわからなかった。

 しかし情報の専門家(インテリジェンス)としての地位をすでに確立しているジョンの言葉を無視はできず、ひとまず胸の内にしまっておくことにした。

 

 

「それから――――……」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 向こうが朝の時間、横須賀は午後だ。

 ちょうど良い時間と言えば、これほどの時間も無いだろう。

 

 

『それでは大統領、改めてこの度の貴国の友情に感謝します』

 

 

 楓首相のその言葉を最後に、通話が切れた。

 かけた先は外国で、衛星回線を介したそれは霧の傍受の対象だろう。

 ただ、最近は霧に傍受されることをあまり恐れなくなった。

 開き直ったと言った方が正しいかもしれない。

 

 

 通話が切れた後、楓首相はひとつ息を吐いて、車椅子ごと身体を別の方向に向けた。

 不敵な笑みを向けた先には、2人の男女が立っていた。

 1人は『白鯨』艦長の駒城、そしてもう1人が。

 

 

「ありがとうございます、閣下」

 

 

 真瑠璃だった。

 小さく頭を下げる彼女に手を上げて応じつつ、楓首相は苦笑を浮かべた。

 

 

『まったく、キミもなかなか大胆なことを言うね。群像艦長の影響かな』

「そうかもしれません」

『駒城君も大変な部下を持ったものだ』

「き、恐縮です」

 

 

 駒城達『白鯨』は今、数ヶ月ぶりに横須賀に入港している。

 もちろん『白鯨』の旅路が表に出ることは無いが、軍港関係者の間では今一番ホットな話題だった。

 ほとんどの人間が、生きて帰っては来ないだろうと思っていたのだから。

 行動を制限されている『白鯨』のクルーにとっても、こそばゆい日々がしばらく続くだろう。

 

 

『横須賀沖で霧が戦闘を始めた時は肝を潰したよ、キミ達が近くまで戻ってきていることは知っていたからね』

「その後、戦闘はどうなっているのでしょうか」

『観測班によれば、4時間程前に終わったようだ。もちろん、我々にその詳細を知る術は無いがね』

 

 

 人類にとって、陸地のすぐ側で霧が何十時間も戦闘をしていると言う状況は恐怖以外のなにものでも無い。

 それが終わると言うのは間違いなく良いことのはずだが、情報を得る手段が無い分、不安もある。

 どちらに転んでも、厄介なことには違いないのだった。

 

 

『さて、帰ってきたばかりでまた出航したいとのことだったが』

「はい。その件について群像くん……群像艦長から、書簡を預かっています」

 

 

 真瑠璃からメモリーカードを受け取って、楓首相はそれを掲げて見せた。

 しげしげと興味深そうに見つめながら、どこか困ったように小首を傾げる。

 そして、やれやれと言った表情を浮かべながら。

 

 

『さて、今度はどんな突拍子も無いことを始めるつもりなのかな』

 

 

 しかしその声はどこか、楽しげでもあった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 カーテンを締め切った大統領執務室で、エリザベスは嘆息した。

 先のサンディエゴでの霧との戦闘を除けば、アメリカは平和そのものだった。

 アメリカ人は今日も豊かで、アメリカに住む他の人種も少しずつ状況を改善させている。

 すべては良い方向に向かっていて、嘆息は似合わなかった。

 

 

 では、何がエリザベスを嘆息させているのか?

 各国の首脳と立て続けに電話会談を重ねていることだろうか。

 確かに()()()()()()()()()()彼女には、各国から祝電が寄せられている。

 しかし彼女の嘆息は、そうした疲れからきているわけでも無かった。

 

 

「リズ、大丈夫かい?」

「ええ、大丈夫よ。ロブ」

 

 

 もう一度深い息を吐いて、エリザベスは天井を見上げた。

 見えるのは、天井だけだ。

 何かが見えるはずは無いが、エリザベスは遠くを見るような目をしていた。

 

 

「大丈夫、きっと上手くいくよ」

「そうね、ロブ。きっと上手くいくわね。でも」

 

 

 エリザベスの手元には、十数枚の書類がある。

 それは近く行われる就任演説において、彼女が読み上げる原稿の草案だった。

 彼女の重視する政策を基に事務方が書いたもので、彼女は自らそれをチェックしていたのだ。

 そして、その一番最初の――つまり一番力を入れている――部分には、こう書かれている。

 

 

 「国際連合を復活させる」、と。

 国際連合は世界のほとんどの国々が加盟する国際機関だが、霧の海洋封鎖後はほぼ活動停止状態にあった。

 しかし本部ニューヨークはまだ稼動しており、常駐する各国の国連大使も何らかの形で健在だ。

 そして中でも重要な組織について、エリザベスは復活させるつもりだった。

 

 

「来るべき<大反攻>は、我が国だけでは成功しない。世界で一斉に反転攻勢をかけないと」

 

 

 バラバラに戦ったのでは、霧の海洋封鎖を破ることはできない。

 つまり連合して、指揮権はできるだけ統一した方が良いと言うのが国防省の見解だった。

 そして国連には、それができる機構が備わっている。

 いわゆる、安全保障理事会――非常任理事国選挙はここ数年行われていないので、アメリカを含む常任理事国だけが在籍している形だが――である。

 

 

「振動弾頭の量産の目処も立ったわ。だから後は政治の問題だけ、でもねロブ」

 

 

 霧と戦う準備は、できつつある。

 そして戦えば勝てるだろうと、エリザベスは思っていた。

 しかし、エリザベスは思う。

 

 

「私はあと何回、誰かの息子や娘を戦場に行かせる書類にサインすれば良いのかしらね……」

「リズ……」

 

 

 これで本当に良かったのか。

 世界で最も偉大と言われる為政者の胸には、常に疑念と不安に満ちているのだった。

 彼女はあと4年、これを繰り返さなければならないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 蒔絵には、不安と不満があった。

 不安と言うのはもちろん、イ404を含む自分の今後のことだ。

 このまま自分がどこへ向かえば良いのか、わからないことへの不安だった。

 ただそれについては、今の環境がいくらか和らげてくれていた。

 

 

「あおいさん、何ですかこの配線」

「あやとりよ~♪」

「いや、あやとりの要領で配線しないでください。それで何で動くのか理解できませんが」

 

 

 あおいと静菜、機関室で過ごす2人の存在である。

 蒔絵は自ら望んで艦の運用を手伝いはずめたが、あおいも静菜も温かく迎えてくれた。

 特にあおいは蒔絵のことを気に入ったらしく、良く膝の上に乗せてはもふもふしていた。

 口には出せないが、母親がいたらこんな風かと思った。

 

 

 静菜とはあまり話さない。

 何と言っても静菜の口数が多くないので、自然と会話の頻度も下がる。

 それでも、データでしか知らなかった道具や部品を教えられるのは好きだった。

 図面と現場の違いを、初めて知った気分だ。

 これも口には出せないが、姉がいたらこんな風かと思った。

 

 

「む~」

「あらあら、蒔絵ちゃんがまた膨れてるわぁ」

「はぁ、まぁ最近は食事が缶詰と魚続きですからね」

 

 

 もちろん、蒔絵が膨れているのはそんな理由ではない。

 不安はあおいと静菜のおかげで薄らいだとしても、不満は別だ。

 蒔絵の不満の矛先は、もちろん紀沙に向いているのだった。

 不満は、心配にも通じる。

 

 

 たとえば蒔絵は紀沙の部屋で寝泊りしていたが、自分の部屋を割り当てられた。

 イ404は乗船可能人数の割にクルーが少ないので、部屋は余っている。

 だから蒔絵に部屋が割り当てられても何ら不思議なことは無い。

 だが、蒔絵はそれに強烈な心配を覚えたのだった。

 

 

(あの人、何かを私に隠してる)

 

 

 聡明な蒔絵だからこそ、そう思える。

 そう気付けてしまうところが、蒔絵と言う少女の悲しいところなのかもしれない。

 部屋を別れる前の最後の数日、蒔絵は確かに気付いていた。

 もしかして紀沙は、夜、眠って。

 

 

「大丈夫よぉ」

 

 

 そしてそんな時は、決まってあおいが蒔絵を抱っこしてくるのだ。

 膝の上に乗せて、よしよしと頭を撫でてくる。

 そう言う時、蒔絵はあおいの手を振り払おうとする。

 

 

「子ども扱いしないで!」

「うふふ、どんなになってもまだまだ子供よぉ」

 

 

 よーしよし、と蒔絵の頭を撫でるあおい。

 それに対しても、蒔絵は「もしかして」と思う。

 頭の一部が、どうしても冷静に分析してしまうのだ。

 そういう風に()()()()()

 

 

「よしよし、大丈夫よぉ。……お姉ちゃんが、ついてるからねぇ」

 

 

 もしかしたら、あおいは自分以外の誰かにこういうことをしたかったのかもしれない。

 聡明に過ぎて、そういうことにも気がついてしまうところが、蒔絵という少女の悲しいところだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そして自分の意見がどうであれ、政治家の意向に従うのが軍人という存在だった。

 今のアレクサンドル少佐は、まさにそういう状況だった。

 彼は周囲に自分が強硬派と見られていることを知っているし、彼自身そう思っている。

 

 

「報告! 特別列車の用意が整いました!」

「ご苦労、このまま駅の封鎖を続けろ」

「はっ!」

 

 

 カリーニングラード駅はモスクワやサンクトペテルブルグ、あるいはロシア南部でシベリア鉄道にも接続する重要な鉄道駅だ。

 ただアレクサンドルの前で出発を待っている電車は、奇妙だった。

 全てのドアに特殊な錠がつけられ、しかも窓が封印を施されている。

 いわゆる封印列車というもので、誰か要人を乗せようとしている様子だった。

 

 

「しかし中佐殿、大統領閣下はどういうおつもりなのでありましょう」

 

 

 アレクサンドルの傍で、部下の下士官が言った。

 周囲では兵卒達が緊張感を持って動いており、イ404が入港したバルチースクからカリーニングラードまでの道々にも、ロシアの軍部隊が展開している。

 全ては大統領の指示であって、ミハイルの思惑によるものだ。

 

 

 アレクサンドルも、ミハイル大統領の考えの全てを聞いているわけではない。

 しかし司令官の意図がどうであれ、命じられたら愚直に実行するのが軍人だった。

 そう言う意味で、部下の下士官はあまり軍人に向いていないのかもしれない。

 

 

「イ404を鹵獲するならバルチースクの部隊で十分できるはずなのに。どうしてモスクワ行きの特別列車なんて用意しなければならないのです? シベリア行きならまだわかりますがね」

 

 

 下士官の好きに喋らせながら、アレクサンドルは黒い列車を見つめた。

 国外――厳密にはカリーニングラードは飛び地だが――から封印列車がモスクワに向かう時、それはロシアの歴史が動く時だった。

 はたして、今回もそうなるのだろうか。

 

 

(情報によれば、すでにアメリカは振動弾頭の量産に入ったと言う)

 

 

 かつてロシアはスーパーキャビテーション魚雷の開発と実戦配備に成功し、海戦の常識を変えた。

 しかしその後すぐに霧との決戦に破れ、魚雷は無用の長物となった。

 そして今、霧にも有効な新型魚雷の大規模生産をアメリカが始めている。

 ロシアにとって、これ以上の脅威はなかった。

 食糧やエネルギーをある程度自給できるロシアにとって、霧は実はさほど優先順位は高くないのだ。

 

 

「いずれにせよ、イ号潜水艦は我が国に必要だ。最終的に拿捕する方針には変わりは無い」

 

 

 それだけ言って、アレクサンドルは喋り続ける下士官を置いて歩き始めた。

 下士官が歩き去るアレクサンドルの背中に気付き、慌てて追いかけたのは、1分近くが経ってからのことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「――――的なことを、(おか)では言ってると思うよ」

 

 

 ロシア側の歓迎を受けて、紀沙達はいったんイ404に戻った。

 今のところ在ロ公館を除けば、イ404の中だけが()()()()()だった。

 故国は遥か数千キロ東方で、大陸を挟んだ西と東だ。

 そんな中で、スミノだけがいつも通りだ。

 

 

 それもそうかと、そう思う。

 いくらロシアが軍事大国だと言っても、それは人類の中での話だ。

 霧であるスミノにとって、ロシア軍など物の数ではあるまい。

 まして、霧はまだ人類に対して全力で戦ったことが無いのだ。

 いや、そもそも――――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「艦長殿?」

「……なんでもない」

 

 

 艦長室でひとり、紀沙はベッドに横になっていた。

 式典用の礼服を乱雑に放り出して、ワイシャツだけを着て寝転がっている。

 疲れている様子は無いが、落ち込んでいる様子ではあった。

 

 

(どうなっているの)

 

 

 紀沙は、困惑していた。

 ベーリング海でU-2501、カークウォールでリエル=『クイーン・エリザベス』。

 そしてスコットランド沖で、スミノ。

 いくつかの霧の艦艇との()()()を経て、紀沙は自分の心境の変化に戸惑っていた。

 

 

(霧が憎い)

 

 

 家族を奪った霧が憎い。

 その気持ちは変わらないのに、気持ちが、心の一部が霧へと寄っている。

 嫌だ、気持ち悪い。

 それも心ばかりではない。

 

 

 集中すれば、身体を流れる血の流れでさえ感じ取れるような気がする。

 比喩では無く、感覚としてそれがわかる。

 気持ち悪い程にはっきりと、自分というものがわかるのだ。

 頭が熱い、しかしそれは体温としては表れない。

 

 

「艦長殿」

 

 

 スミノが、身体の上に圧し掛かってきた。

 わざわざ粒子化からの再構成で移動してくるあたり、さすがに嫌味がかっている。

 不思議と振り払う気にもなれず、じろりと睨むだけに留めた。

 そうすると()()()()と見つめ合うことになって、すぐに目を逸らした。

 

 

(……兄さん、無事だよね)

 

 

 霧の共有ネットワークには、未だイ401の情報は無い。

 イ15の行方も、わからない。

 

 

(兄さん、どこにいるの……?)

 

 

 胸元に感じる重みを押しのけることもせず、紀沙が考えているのは兄のことだった。

 二度と離れたくないと思っていたが、現実は厳しかった。

 しかも原因は、今回も実の父親だった。

 いろいろな意味で、泣きたくなった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はっとして、タカオは目を覚ました。

 目を覚ましたと言うよりは、再起動したと言った方が正しい。

 何故ならばタカオのコアは強制的に休止状態にさせられていたのであって、この目覚めはコアの再起動によるものだからだ。

 

 

「ここは」

 

 

 広い、広い甲板だった。

 タカオの艦体などよりもずっと広く、大きな艦船の上にタカオはいた。

 そしてそこまで考えて、タカオは自身の艦体が存在しないことに気付いた。

 それどころか、自身の操作下にあるナノマテリアルが極端に少ない。

 

 

 同時に、コアに何か枷が嵌められていることにも気付いた。

 ある一時期の――横須賀寄港から出航までの数時間の「記憶」――記録(ログ)が、閲覧できない状態になっている。

 閲覧できない部分の情報が何かがわからないので、何を失ったのかタカオにはわからない。

 ただ、失うべからざるものを失ったのだと、そう思った。

 

 

「ぐ、この……」

 

 

 ロックを解除しようとしても、出来るものではない。

 何故ならばこれは、タカオの上位存在によって施された枷だからだ。

 

 

「アンタの仕業ね」

 

 

 再起動と同時に甲板に崩れ落ちた体勢のまま、タカオは相手を()め上げた。

 しかし相手は全く動じた様子も無く、涼しげにタカオの視線を受け止めていた。

 ピュアピンクの花嫁衣裳のようなドレスを身に纏い、柔和な微笑を浮かべながらタカオを見下ろしている。

 

 

総旗艦(ヤマト)……!」

「久しぶりね、タカオ。元気そうで嬉しいわ」

 

 

 にっこりと笑って、ヤマトはタカオに近付いてきた。

 その時、タカオは自分の左右に気付いた。

 視線を向けてみれば、そこにはマヤとアタゴがコアを強制停止させられた状態で浮かんでいた。

 

 

 おそらく先程までタカオも同じような状態だったのだろう、不可思議な紋様の輪に全身を囚われて、十字架の聖人の如く宙に浮かんでいる。

 良く見てみれば、キリシマ、ハルナ、レパルス、400、402達の姿もあった。

 いずれもコアを強制停止させられており、眠らされていた。

 

 

(そうか、私達はナガトに)

 

 

 ナガト艦隊の重囲を突破し切れず、最後には撃沈され、コアを回収された。

 タカオは、ナガトに敗れたのだ。

 

 

『くっ、離しなさいよ! この沈黙戦艦!!』

『罵倒の意味が良くわからないけれど』

『でも、貴女が見たものには興味があるの』

 

 

 そうだ、自分はあの時、ナガトに――何をされたのだったか?

 ナガトに拘束され、コアを強制停止させられた。

 他にも何か会話した気がするのだが、記録が閲覧できない。

 どうやら、ナガトはナガトで何かしらのロックをかけたらしい。

 

 

「思い出しましたか? タカオ、貴女はナガトに敗れて私の下まで連行されてきたの」

「……ええ、そのようね」

 

 

 そして、総旗艦『ヤマト』。

 この何がしたいのか良くわからない総旗艦が、誰かを連行するなどと、能動的な行動をしたのはこれが初めてだ。

 自分はいったい、横須賀で何を見たのか。

 いったい、ヤマトにこうまでさせる何があったと言うのか。

 

 

「タカオ、貴女達には私の麾下に入ってもらいます。総旗艦艦隊に編入と言う形になるわね」

 

 

 総旗艦(フラッグ)艦隊(フリート)

 はぐれ艦隊だった身からすれば望外の抜擢だが、理由がわからない。

 海洋封鎖にも参加しない、戦闘用の艦隊でも無い総旗艦艦隊に、大戦艦や重巡洋艦は必要ないはずだ。

 以前から何を考えているのかわからないところがあったが、今回の処置は特にわからない。

 

 

「タカオ」

 

 

 そう訝しむタカオに対して、ヤマトは柔和な微笑を浮かべたまま言った。

 そして、後ろからタカオを抱き締める少女がひとり。

 後ろから自分を抱きすくめたコトノに驚いた表情を向けて、タカオはヤマトの――いや、コトノの言葉を聞いたのだった。

 

 

「貴女には、今の世界を壊してほしくは無いの」

「群像くん達が、()()()()になってくれるまで」

 

 

 今の世界、人柱。

 やはりヤマトが何を言っているのかわからない。

 わからないのは、記録がロックされているからだと、タカオは思った。

 しかし今の彼女には、それに対して何らのアクションを起こす力が無いのだった。

 

 

(行かなくちゃ)

 

 

 胸中にあるのは、得体の知れない焦燥感。

 あの兄妹との、存在を懸けた約束だけ。

 あの母親との、誓約だけだ。

 タカオは、「行かなければならない」と言う感情に苦しんでいた。

 




最後までお読み頂きまして有難うございます、竜華零です。

最近、群像よりも紀沙よりもタカオ編描いてる方が楽しいです(え)
よくよく考えてみたら、タカオさんって主人公属性ですよね。
原作では撃沈されたが故にああなってしまいましたが(おい)

と言う訳で、ロシア編です。
流石に禁書みたいなハードな内容にはならないと思いますが、さてどうしようかな。
それでは、また次回。


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Depth052:「飽和攻撃」

 

 ロシアに入国するに際して、紀沙はある程度の覚悟を決めていた。

 カリーニングラード入港からの艦内隔離に対しても、当然のことと甘受した。

 流石に列車に乗れと言われた時には逡巡したが、必要なことと我慢した。

 静菜と良治の2人がついて来てくれたのも、心強くなった理由だ。

 

 

 列車は窓や扉が封印されていたので、外の景色は全くわからなかった。

 ただ時間と食事の回数はわかったので、時間経過だけは正確にわかった。

 道中、同じコンパートメントで良治が「シベリアだけは勘弁してください」と言い続けていたのが非常に鬱陶しかったこと以外は、特に問題は無かった。

 目的地がモスクワであることは、降車のちょうど1時間前に知らされた。

 

 

「ようこそモスクワへ。ロシア国民は貴女方を歓迎する」

 

 

 モスクワのターミナル駅の一つベラルースリ駅に降り立った紀沙達を待っていたのは、民衆の歓呼だった。

 繰り返すが、ロシア国民の歓呼の声が紀沙達を迎えた。

 通りの両側を占拠した――通りの中央はロシア軍が規制している――人々の手にはロシアと日本の国旗が握られており、声や口笛と共に大きく振られていた。

 

 

「さぁ」

 

 

 この時点で、紀沙は自分の頭が真っ白になったことを悟った。

 静菜や良治もそうだっただろう。

 アメリカでも民衆に歓迎されると言うことは無かったから、これは初めての経験だった。

 

 

 こうなってしまうと、紀沙はアレクサンドル中佐に導かれるままに、深緑のオープンカーに乗せられるしかなかった。

 その動きは見るからにぎこちなく、二度ほどつんのめりそうになった。

 明らかに呑まれている。

 

 

「全体、進め!」

 

 

 前の席に立ちアレクサンドル中佐がそう告げるのを、紀沙は後部座席から見ていた。

 そしてこの段階に至って、紀沙は自分達がどう言う状況に置かれているのかを悟った。

 曇天に覆われた空から小さな雪がちらほらと見えて、防寒具を身に纏った白面の人々が日露の国旗を振って歓声を上げ、白と赤の建物が連なる通りは熱気を孕んでいる。

 

 

 そして軍隊によって空けられた通りの中央には、様々な軍装を身に纏い、一糸乱れぬ隊伍を組んだ軍人達がいる。

 そんな彼らの側には、深緑にカラーリングされた無数の戦車や自走砲、巨大なミサイルがずらりと並んでいた。

 曇天を裂くが如く轟音を立てながら航空機が空を舞い、ロシア国歌が軍楽隊によって奏でられる。

 

 

「こ、これは……」

 

 

 四方八方から聞こえてくる爆音に身を竦めながら、紀沙は確信した。

 これは出迎えでも歓迎でもない。

 ロシア軍の精強さをこれでもかと見せ付けるこの陣容はもっと別のものだ、つまり。

 ――――それは、軍事パレードだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 パレードは通り一本分、日本でも有名な「赤の広場」まで続いた。

 別に呼び名通りに広場が赤いわけでも無く、長さ数百メートル規模の広場は石造りで、戦車等は広場に入る前に反転した。

 規制されているのか、広場には軍人以外の人々の姿は見えなかった。

 

 

 正面に葱の形の尖塔の(ワシリー)大聖堂を見据えながら進むと、左手に古びた博物館や城砦のような建物が姿を現し、右手側にはなるほど広場に相応しい赤いレンガ造りの霊廟と、さらにその奥に城壁があった。

 いくらロシアに疎いと言っても、赤の広場とそこにそびえる城の名前くらいは知っている。

 いわゆる、大統領宮殿(クレムリン)である。

 

 

「さぁさ、時間がありませんよ! すぐに準備して頂きませんと!」

「…………はい?」

 

 

 それだけでも一杯一杯だったのだが、正門で車から下ろされて、軍楽隊の演奏の中で儀仗兵が立て銃の体勢になった段階でピークに達した。

 このままでは不味いと頭の中で警告音が鳴り響いているのだが、どうすることも出来ない。

 導かれるままに、イベントに遭遇していくだけだ。

 

 

「まっ、お肌すべすべ! お化粧のし甲斐がありますわね!」

「え、いや、あの、ちょ?」

 

 

 外からは三階建てに見えるが、内側は二階建て。

 そんな不思議な造りの建物に導かれれば、すぐに別室へと通された。

 元々は別の部屋だった様子で、明らかに場違いな鏡や化粧台、ハンガーラックが持ち込まれていた。

 背景にモスクワ市内が見える窓がある分、場違い感が半端無かった。

 

 

「さぁさ、こんな飾り気の無い軍服なんて脱いで脱いで!」

「いや、私はこれが正装なんで」

「時間がありませんから、失礼しますねぇ!」

「あ、ちょ、ひあ、ひああああ~っ」

 

 

 どうにかしなければと思いつつも、紀沙はメイド達によってもみくちゃにされるのだった。

 そんな紀沙の様子を、何気に一緒に来ていた静菜が部屋の隅からじっと見守っていた。

 彼女にちょっかいをかける人間はおらず、半ば放置されている状態だ。

 そして、静菜は紀沙と違ってかなり冷静だった。

 

 

 静菜は室外を含む宮殿全体の兵力を推定していたし、ここまでの道順もしっかりと覚えている。

 つまり逃げる算段を常に立てているわけだが、そんな彼女の目下の悩みとしては、良治が別室に連れて行かれていることだろうか。

 まぁ、最悪の場合は紀沙だけでも確保できれば良く、自身すらも保護の範疇外。

 そう言う()()だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 フォーマルドレスなど、生まれて初めて着た。

 膝丈のパステルブルーのイブニングドレスは胸下の切り替えになっていて、胸元をふわりと豊かに見せる造りになっていた。

 材質は総シルク、肩には透明感のある白のストール、足元は履きなれないヒールパンプス。

 

 

「これはお美しいお嬢さんだ、ぜひ私と一曲踊って頂けませんか」

「いや、ここはぜひ私と。その後お話でも」

「お腹は空いていませんか、伝統のロシア料理をご馳走しますよ」

 

 

 気が付けば夜、気が付けば宮殿宴会場《バンケットホール》、気が付けばダンスパーティー。

 楽団がロシアの民族舞踊や歌謡楽曲を演奏する中で、100人以上の人間が談笑している。

 挨拶をしていた人間がロシアの大物政治家だったり、パートナーと踊っている男性が政府高官だったり、食事を楽しんでいる女性が国営企業の取締役だったりする、そんな空間だ。

 

 

 そんな空間に外国軍の士官に過ぎない、小娘に過ぎない自分がいる。

 しかもだ、何故か知らないが自分にどんどん人が寄って来るのである。

 何とかガスの誰それだとか、何とかオイルの誰それだとか、何とか製鉄の誰それだとか、ロシアの企業事情には詳しくないがとにかく大物だと言うのはわかる。

 

 

「あの、いえ……私ダンスはちょっと」

 

 

 加えて言うと、どいつもこいつもイケメンだった。

 ばしっとタキシードを着こなした金髪やら赤髪やらの高身長男子が、我も我もと紀沙を取り囲んでいるのである。

 やれダンスをとか、食事をご一緒にどうですかとか誘ってくる。

 

 

(こんな時に静菜さんと良治君はどこに行ったんだよ~)

 

 

 頑として軍服を脱がなかった静菜は、パーティーの花となることなく雑踏の中に消えた。

 正直アジア人の軍人がこの会場にいれば相当に目立つはずだが、不思議とそうはなっていない。

 最近、実は忍者か何かなのでは無いかと思うようになった。

 

 

 良治はわかりやすかった。

 長身で体格の良いロシア美女に囲まれてあわあわしているのが見えて、紀沙は天井の無駄に豪奢なシャンデリアを見上げた。

 目つきが悪い割に可愛いので気に入られているのだろう、今は頼りにならなかった。

 

 

(くっそ、イケメン並べたからって私を懐柔できると思わないでよね)

 

 

 ここまであからさまだと、要は国を挙げて接待されているのだとわかってきた。

 民衆の歓迎、豪華なパーティーと侍るイケメン。

 しかし皮肉なことに、ロシア人イケメン達の存在が紀沙を少し落ち着けさせることになった。

 何しろ紀沙は、生まれた時からイケメンを見慣れているのだ。

 誰の差し金かは知らないが、迂闊なことをしたものである。

 

 

「……いかがですか」

「戸惑っているようで腰は引けていない。なかなかに肝の据わったお嬢さんのようだ」

「伊達に2つの大洋を越えてやって来たと言うわけでは無いでしょう」

 

 

 その様子を、隅からじっと見つめている男がいる。

 観察するように、いや実際に観察しているのだ。

 1人はアレクサンドル、そしてもう1人はがっちりとした身体をタキシードに包んだ男だ。

 グラス片手に紀沙の様子を窺っていた彼の眼差しは、品定めをする商人のそれに似ていた。

 

 

「どうなさいます」

「そうだな、とりあえずアメリカ大統領に倣うことにしよう」

「は……?」

 

 

 言葉の意味がわからなかったのだろう、アレクサンドルは眉を潜めた。

 そんな彼に、男はニヤリと笑ってみせたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まったく眠れなかった。

 クレムリン近くの五つ星ホテル、しかもスイートルーム。

 シックで落ち着いた造りの部屋はベッドはダブルでふわふわ、丸いバスタブなど初めて見たし、ホールは宮殿のよう――本物の宮殿を見た後だが――だった。

 

 

「空が、眩しい……」

 

 

 昨日の積雪が嘘のように、モスクワは快晴に恵まれていた。

 歴史的な建造物と現代的な摩天楼が同居する大都市、それがまさに白日の下に晒されているわけで、アメリカのワシントンとは違った趣があった。

 ただ、寝不足の目にはこの快晴は少々辛かった。

 

 

「き、紀沙ちゃん。大丈夫かい……」

「……良治君の方が大丈夫じゃなさそうに見えるけど。そして静菜さんはいつも通りで凄いですね」

「恐縮です」

 

 

 ホテルのロビーで合流した良治は、気のせいか昨日の今日でげっそりとやつれていた。

 紀沙と同じように壮絶な美女攻勢(ハニートラップ)に晒されていた様子だが、まさか夜通し追いかけられていたわけでもあるまい。

 静菜がけろりとしているのは、何だかもう慣れた。

 

 

 しかし、疲れた。

 ベッドが合わない、水と食事が合わない、とかそう言うものでは無く、単純に疲れていた。

 封印列車の長距離移動、軍事パレード、大統領宮殿での歓迎パーティー。

 どこへ行くにもこれ見よがしにロシアの軍人か諜報員らしき人間が監視含みの警護をしていて、気が休まらない。

 

 

(と言うか私、ここに何しに来たんだっけなぁ)

 

 

 結局、昨夜はクレムリンでパーティーに参加していただけで、ロシア側の政治家や軍部との会見は無かった。

 ロシアに支援を求めに来た身とは言え、一応は招待を受けた身だ。

 紀沙としては何かしらあるだろうと思っていたのだが、何も無かったと言う形だった。

 

 

 そして今日は、アレクサンドル中佐から「部下にモスクワを案内させる」と言われていた。

 正直そんな余裕は無いのだが、無下に断ることも出来ない。

 モスクワの日本大使館に行く必要もあるからと自分を納得させて、今朝は出てきたのだ。

 そんなこんなでホテルの前で待っていると、半端でない勢いで黒塗りの車が滑り込んできた。

 甲高いブレーキ音を立てて数メートル行き過ぎたその車は、やはり甲高い音を立てて急バックした。

 

 

「お待たせして申し訳ありまっせん!!」

 

 

 車のドアを蹴り開けて、中から筋肉質な身体つきをした男が出てきた。

 ヨーロッパ人だからか、顔立ちから若いのかそうでないのかは判別がしにくい。

 ただ良く言えば快活そうなその男は、ばたばたとした足取りで紀沙達の前に立つと、実に大仰そうな仕草で敬礼してきた。

 

 

「本日モスクワをご案内させて頂きます、ポドリスク中尉でありまっす!」

 

 

 よろしくお願いしまっす! と元気良く言ってくる相手に、紀沙は力なく日本海軍式の敬礼を返した。

 これは、今日も不安な時間を過ごさなければならないのかもしれない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 モスクワは科学に裏付けされた現代都市だが、景観を保護するためにあえて開発を抑制した歴史都市でもある。

 そのためモダンなサンディエゴと違い、観光地となると聖堂や修道院、博物館などになる。

 ただ町を車で走るだけでも、そうした世界遺産級の史跡がごろごろあるのだ。

 

 

 このあたりは、横須賀には無い部分だ。

 アメリカは史跡と言う意味では少なく、むしろ広大な自然こそが遺産のようなところがあった。

 あるいは、これがヨーロッパの都市と言うものなのかもしれない。

 しかも聞くところによれば、モスクワ市の人口はニ千万人を超えると言う。

 

 

「二千万人!?」

「はい! ここ数年の欧州大戦の煽りで、西部国境付近の同胞が移住してきましった!」

 

 

 玉葱のような尖塔の大聖堂や市内を走る路面電車、橋を渡れば川辺でレクリエーションを楽しむ多くの人の姿が見せる。

 二千万人。

 横須賀で、いや日本でそれだけの都市人口を支えられるインフラはもうほとんど無い。

 

 

「どこか行きたいところはありまっすか!」

「えっと、じゃあ公園とか」

「公園! それはまた変わったところに!」

 

 

 わかりまっした! と、車が方向転換する。

 公園を選んだのは、ふと北の言葉を思い出したからだ。

 曰く、その国のことを知るには公園を見ろ、だ。

 北が言うには、公園の状態でその国の状態を知ることが出来るらしい。

 日本の公園は、なるほど碌な状態ではなかった。

 

 

 ちょうど、近くにゴーリキイと言う公園があるらしい。

 遊園地も併設されている大きな公園で、休日には多くの人で賑わうらしい。

 何でも、運転手(ポドリスク)が一番好きな場所なのだそうだ。

 特に行く当てがあるわけでも無く、疲れてもいたので、公園がちょうど良かったのだ。

 

 

「あ、そうだ。ポドリスク中尉、ひとつ聞いてもいいですか?」

「はい! なんでしょうっか!」

 

 

 ふと気になって、紀沙はポドリスクに聞いてみた。

 それは、エリザベス大統領の受け売りでもあるのだが。

 

 

「ポドリスク中尉にとって、お国(ロシア)はどんな国ですか?」

「そうですね、一言で言うのは難しいのでっすが!」

 

 

 前を向いて運転したまま、ポドリスクは答えた。

 

 

「……守るべき祖国、さ」

 

 

 そこだけは、それまでと異なる声音だった。

 バックミラー越しに見える表情は、しかし変わらない笑顔だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ゴーリキイ公園は、穏やかな場所だった。

 遊園地だけで無くコンサート会場やキャンプ場まで備えた大きな公園で、モスクワ川に沿ってかなりの範囲に広がる大きな公園だ。

 大学が近くにあるそうで、今日のような晴れた日には家族連れやカップルで賑わうのだった。

 

 

「綺麗に整備されているんですね」

「はい! それはもう、ここはモスクワ市民の憩いの場でっす!」

 

 

 こちらに向けられる奇異の目は、ロシア系がほとんどな中では仕方が無いと言える。

 それよりも紀沙が驚いたのは、芝生や植樹がしっかりと整備されていたことだ。

 砂利は綺麗に均されていたし、川の水にもゴミ一つ浮かんでおらず、きちんとされている。

 しっかりとした人手と予算が確保されていなければ、こうはならないだろう。

 

 

「日本にもこういう公園があれば良いんだけどね」

「軍系列の施設以外はなかなか」

 

 

 良治と静菜も、紀沙と同じような感想を抱いているようだった。

 アメリカもそうだったが、ロシアを見ても思う。

 改めて、天然の大国が羨ましいと。

 

 

 日本は経済大国と言われるが、自給自足が可能な天然の大国とは違う。

 人口は多く市場こそ大きいが、需要を満足させるだけの供給力(資源)が無い。

 アメリカやロシアのような、大きな市場と大きな供給力を併せ持つ国家とは地力が違い過ぎる。

 大きい。

 膨大な人口と資源、そして広大な大地とあらゆるものを受け入れられる空間。

 

 

(大きな国が羨ましい。国の皆が飢えないで済む国が)

 

 

 その時だった、道の向こうから小さな影がこちらに駆けて来ていた。

 男の子と女の子、10歳にもなっていない子供だろう。

 アジア人が珍しいから、と言う理由で近付いてくるわけでは無いことはすぐにわかった。

 何故ならその子供達は紀沙達を通り過ぎて、ポドリスクの下へと走っていたからだ。

 そして、言った。

 

 

「閣下、おはよう(ドーブラエ)ございます(・ウトラ)!」

「すごい、本物だ!」

 

 

 閣下。

 およそ中尉には似つかわしくない呼び名だ。

 ポドリスクは軍帽を取ると膝を折り、子供達の頭に手を置いた。

 その手つきは優しく、表情はとても穏やかだった。

 軍帽を取ったポドリスクは、思っていたよりも若くは無かった。

 

 

「貴方はいったい、誰ですか?」

「あ、何だよ姉ちゃん! 知らないで一緒にいたのかよ!」

 

 

 男の子が憤慨してポケットの中から出したのは、少し傷んだプロマイドだった。

 そこに映っている男とポドリスクは、紀沙の目には似ているのかどうかちょっとわかりにくい。

 しかし、言われて見ればとは思う。

 そしてそのプロマイドに書かれている名前は、少なくとも「ポドリスク」などと言う名前では無い。

 

 

「……ポドリスクは、私の故郷の名前さ」

 

 

 悪戯がバレた子供のような顔で、ポドリスク――いや、彼はそう言った。

 プロマイドを信じるのであれば、彼の本当の名はこうだ。

 第9代、ロシア連邦大統領。

 ――――ミハイル・アンドーレエヴィチ・シュガノフ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 気が付けば、公園には人っ子ひとりいなくなっていた。

 ベンチに座って軍帽を指でくるくると回しながら人払い完了の連絡を待っていたミハイル大統領は、その間、特に紀沙達に話しかけることは無かった。

 やがてアレクサンドル中佐が報告に来て、その段階でようやく紀沙達に笑顔を向けた。

 

 

「いやすまない。騙すようなつもりは無かったんだ、素のままのキミ達の反応を見てみたくてね」

 

 

 などと言っているが、まさかあんなキャラで一国の元首が出てくるとは思っていなかった紀沙達にして見れば、ドン引きどころの話では無かった。

 同時に警戒心も湧いてくる。

 何しろここはロシアの首都であり、この公園の周囲はロシア側の手によって封鎖されているのだから。

 

 

「そんなに警戒しなくても良い、キミ達に危害を加えるつもりは無い……と言っても、まぁ信じられないだろうが」

 

 

 アレクサンドルを傍らに立たせたまま、顎を撫でながらミハイル大統領が言う。

 それが本心なのかどうなのかは、やはり紀沙にはわからなかった。

 とは言え、疑ってみてどうにかなる問題でも無い。

 静菜がそれとなく周囲を見渡している気配が感じられるので、それなりの人数が包囲しているのかもしれない。

 

 

「それで、私達の評価はいかがでしたでしょうか。大統領閣下」

「評価などと大げさなものでは無いよ。ただエリザベス大統領がキミに国内散策をさせたと聞いてね、対抗してみたかっただけなんだ」

 

 

 かんらかんらと笑って、ミハイル大統領は身体を前に倒した。

 肘を膝につける形で、下から紀沙達を見上げる形になる。

 それだけなのだが、見下ろされているような威圧感じみた何かを感じた。

 

 

『艦長殿』

 

 

 ずきっ、と頭痛がして、頭の中に声が響いた。

 ()()()()から、スミノが話しかけてきた。

 

 

『何なら、撃とうか。艦長殿の命令があればモスクワを』

(……余計なことを、しないで)

『……りょーかい。何かあったら言ってよね』

 

 

 目をぐっと閉じて、眉間に皺を寄せてから開けた。

 両目の瞳の輪郭が一瞬、淡く輝いたが、すぐに消えた。

 良治の視線を頬のあたりに感じながら、紀沙はミハイル大統領の目を真っ直ぐに見つめた。

 それは、()()()()受けるだけでも厳しい目だ。

 

 

「……ご用件を伺いましょう、ミハイル大統領」

 

 

 父・翔像の率いる緋色の艦隊を何とかすること。

 そして兄を見つけ、航路はともかく日本へと戻ること。

 そのいずれも、まずはロシアの後援を得ないことには始まらない。

 ミハイル大統領は、口元に笑みを浮かべて。

 

 

「用件は無い」

 

 

 と、言った。

 色々な意味に取れる言葉で首を傾げていると、ミハイル大統領は指を一本立てた。

 

 

「ただ、依頼はある」

「依頼、ですか」

 

 

 それを用件と言うのではと思ったが、これは政治だ。

 言葉尻一つで、意味が変わる。

 

 

「実は今、我が軍の頭を悩ませている問題があってね。キミ達イ404には、その解決を手伝って貰いたいんだ」

「問題と言うと。一介の潜水艦乗りに過ぎない私達に解決できるような問題は少ないと思いますが」

「日本人らしい謙遜だが、霧の潜水艦乗りを一介の海兵と同格には置けない。キミ達は最強の潜水艦乗りだ」

 

 

 (おだ)てが過ぎるなと思ったが、表情には出さなかった。

 一方で、どこまで踏み込むべきかと考えた。

 ロシアからの正式な依頼となれば、見返りの支援はそれなりに期待できるはずだ。

 しかし同時に、()()()士官である紀沙にどこまでの判断が許されるかは気にかけていた。

 

 

 艦の行動に関する限りは、艦長である紀沙の権限の内だと考えて良いと思っている。

 だが、事が外交や政治に影響するとなると難しい。

 判断が、難しい。

 太平洋を渡った時は『白鯨』がいたが、今は兄とすらはぐれて単艦――『マツシマ』はいるが――となっている。

 

 

「そんなに難しい話では無い。これから我が軍はある作戦を行うが、それに手を貸してほしい」

「閣下、それは」

「……実を言うとこの作戦はすでに第四次作戦、つまり四回目なのだが、我々の力だけでは成功が危ぶまれていてね」

 

 

 アレクサンドルを手で制しつつ、ミハイル大統領は言った。

 

 

「キミ達には、我が軍の第四次クリミア解放作戦『スヴォーロフ』に協力して欲しい」

 

 

 クリミア解放作戦。

 その言葉に、紀沙は小さく息を吸ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミアは黒海北岸に位置する小さな半島で、広さは四国よりやや大きい。

 人口はおよそ300万人、ロシア人は7割程で、残りはウクライナ系ロシア人とタタール人が占める。

 <クリミアの天使>フローレンス・ナイチンゲールで有名なクリミア戦争の舞台でもあり、今世紀の初めにロシアが隣国ウクライナから奪い取った領土でもある。

 

 

「スヴォーロフ、作戦?」

「現在、我がクリミアはある敵対勢力によって制圧されている」

 

 

 ロシアが領土を奪われると言うのは、よほどのことだ。

 ただ、クリミア半島――つまり黒海に面する国で、ロシアの領土を制圧できるような国は存在しない。

 ウクライナ、ブルガリア、ルーマニア、トルコ、ジョージア(グルジア)

 いずれの国も、ロシアに対して軍事力で圧倒的に劣っている。

 

 

 では、いったいどのような敵対勢力がクリミアを制圧したのか。

 まず叛乱が思い浮かんだが、その程度でロシア軍がイ404の助力を求めるとは思えない。

 霧の力を必要とするならば。

 

 

「……霧ですか?」

「違う、霧の艦艇では無い」

 

 

 違ったか。

 もっとも霧は陸の占領には関心が無いとされているので、元々確率は高く無かった。

 しかしそうなると、いったいどう言った勢力なのだろうか。

 

 

「霧の艦艇では無い……が、無関係でも無いかもしれない」

「と、言うと?」

「我々はその勢力を、<騎士団>と呼んでいる」

 

 

 騎士団。

 初めて聞く名だ、霧では無いが霧と無関係では無い勢力。

 いったい、何者なのか。

 

 

「残念ながら、過去3度の作戦はすべて失敗に終わった。クリミアは我々には理解できない奇妙な力に覆われていて、こちら側からの干渉を受け付けないのだ」

「そこで我々を、と言うことですか」

「そう、人智を超えた存在には人智を超えた存在をぶつけるべきだと考えてね」

 

 

 協力に対しては協力で返す。

 つまりこれは取引だ、ロシアの軍事作戦への助成を引き換えにイ404をロシアとして後援すると言う内容の取引だ。

 イ404、つまり紀沙としてはまたとないチャンスである。

 しかし、いくつか超えなければならないハードルがあった。

 

 

 まず、クリミアをロシアの軍事作戦に参加すると言うこと。

 同盟国でも無いロシアのために、日本の保有戦力を使うと言うこと。

 まして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そんな場所で作戦行動に出ると言うのは、紀沙の権限の範疇を越えかねない。

 

 

「黒海に行くためには、地中海に入らなければなりません」

「そして地中海に向かうためには、あの緋色の艦隊の海域を通らなければならない、かね?」

 

 

 そして、翔像率いる緋色の艦隊の勢力圏を通らなければならない。

 だがミハイル大統領は、それについては問題にならないと言った。

 ロシアには、緋色の艦隊を無力化する強力な手段があるのだと言う。

 それは何かと、紀沙は聞いた。

 ミハイル大統領は、笑って答えた。

 

 

 

「核兵器による飽和攻撃を行えば良い」

 

 

 

 ――――一瞬、相手の正気を疑った。

 今、ミハイル大統領は、この男は何と言ったか。

 

 

「飽和攻撃は我が軍の最も得意とするところだ、なぁ中佐?」

 

 

 大統領の言葉に、アレクサンドル中佐は目礼のみを返した。

 核兵器による飽和戦術は、アレクサンドル中佐の腹案なのだと紀沙は本能的に察した。

 飽和攻撃、相手の防御能力を上回る規模の攻撃を叩き込む物量戦術だ。

 

 

「まずイギリス――ああ、すでに降伏したフランスもかな――の沿岸に点在する霧の艦艇すべてに対して、我が国の核ミサイルを撃ち込む。自慢するわけでは無いが、数十発程で英仏共に壊滅するだろう。ああ、心配は要らない、英仏の核基地は間違いなく叩く。でないと向こうの核戦力で反撃されてしまうからな」

 

 

 核兵器保有国は、以前は核ミサイルを積んだ潜水艦を世界のどこかに潜ませていた。

 万が一本国が敵国の核攻撃に曝され壊滅した場合、海から相手に反撃することが出来るからだ。

 核ミサイル基地は地上にしろ地下にしろ先制攻撃で潰される可能性が高く、戦略航空機による爆撃は成功率が高くないから、潜水艦による核報復、つまり核抑止はかつて強力に機能していた。

 

 

 しかし霧の登場によって、世界の海から各国の艦艇は姿を消した。

 残ったのは、無防備を晒したミサイル基地・飛行場・港湾の核基地だ。

 そして英仏の核戦力は、ロシアには遠く及ばない。

 まして両国は霧の軍門に下った()()()()()()()()、大義名分はむしろロシアにある。

 

 

「そして伝え聞く霧の絶対防御、あれは核兵器も防ぎ得るかもしれないが、しかし無限では無い」

 

 

 強制波動装甲、クラインフィールドは、無尽蔵の盾では無い。

 人類側の通常兵器は全く効果が無いが、しかし核爆発に対してはどうだろう。

 いかな霧の艦艇と言えど、絶え間なく叩き込まれる核兵器の前には、無傷では済まないのでは無いか。

 飽和し、無敵の鎧も剥がされるのでは無いだろうか。

 そしてそこへ、もし量産された振動弾頭を撃ち放ったならば――――?

 

 

「クリミアでもこの手が使えれば良いんだが、流石に我が国民の頭上に核を降らせることは出来ない」

 

 

 イギリス人とフランス人の頭上に核を落とすと言った口で、ミハイル大統領はロシア人にはそれは出来ないと言った。

 彼は、言外にこうも言っているのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 正しい。

 ミハイル大統領は正しい、ロシアの大統領として圧倒的に正しい判断をしている。

 

 

「さぁ、どうかな?」

 

 

 だが。

 だが、紀沙は胸の中に溢れる苦々しい気持ちを抑えることが出来なかった。

 その気持ちに名前をつけて表現するのであれば、こう言うことになるだろう。

 

 

「答えを聞こうか、霧の艦長殿」

 

 

 紀沙は、ミハイル大統領を嫌悪していた。

 これは、エリザベス大統領とは対照的な印象をミハイル大統領に持ったことを意味していた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

今回はロシア観光回でした。
そしてロシアのシビアさを表現する回でもありました。
目的のためには手段を選ばないロシア。
今も昔も恐ろしい国です……。

それでは、また次回。


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Depth053:「思考する者達」

「あー、そいつぁ……また何とも難儀な話だなぁ」

 

 

 カリーニングラードに戻って来た紀沙は、モスクワでの歓待とは一転、人知れずバルチースク海軍基地に戻ってきていた。

 戻ってきた時には、すでにロシア海軍から提供された物資の搬入が始まっていた。

 中には通常弾頭の魚雷や軍需物資も含まれていて、イ404は規格を合わせるために少々ナノマテリアルを動かしているようだった。

 

 

 そして戻ってきた紀沙が最初にしたことは、クルー達の意思を統一することだった。

 簡単に言えば、ロシアのクリミア解放作戦に参加する、と言う話だった。

 またそのために緋色の艦隊の勢力圏を突破しなければならず、相当の困難が伴うだろうと言う話だ。

 ヨーロッパにおいてロシアの後援を得るためとは言え――もちろん、ロシアに協力したからと言って後援してくれる保証は無い――今のイ404にとっては、厳しい条件であることには違いなかった。

 

 

「核ミサイルねぇ。いやあるのは知ってたけど、そこまで露骨に出してくるとは思わなかったぜ」

「まぁ、あそこ(ロシア)は昔から核を交渉のテーブルに乗せてるところあったからね」

 

 

 イ404が作戦日までに黒海に到達すること。

 それが、ロシアが英仏――緋色の艦隊に核を撃たない条件だ。

 もちろん条件だと示されたわけでは無く、紀沙が()()()()条件だと認識したと言う話だ。

 これが駆け引きと言うものかと、むしろ感心さえしていた。

 

 

「相手に「はい(ダー)」と言わせるために手段は選ばない。恐ろしい限りですね」

「接待攻勢からの落差がやばかったんだー……」

 

 

 英仏の人間のために危険を犯す義理は、紀沙達には無い。

 しかし、だからロシアの核攻撃を認めるかと言えば、それは違うはずだ。

 イギリスの人々やフランスの人々を見捨てて良いかと言えば、絶対に違うはずだ。

 紀沙は、固くそう信じているのだった。

 

 

「まぁ、それはそれとして、艦長ちゃんよ。俺達はこのままロシアさんの良いように使われるだけかい?」

 

 

 冬馬の言葉に、紀沙は目を閉じた。

 ロシアによる核の脅しに、潜水艦1隻でどう対応するのか。

 先のミハイル大統領との会見を思い出しながら、紀沙はそれだけを考え続けていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大統領宮殿(クレムリン)、大統領執務室。

 

 

「わかっているよ、中佐。キミが今回の私の判断に不満を持っていることはな」

 

 

 イ404が出港準備を進めているまさにその時、ミハイル大統領は執務室にいた。

 あれほどの歓待の渦中にあったモスクワは、今は静まり返っている。

 街の各所には戦車が配備され、通りに立つ歩哨はモスクワ市民の動向に注意を払っていた。

 人々は身を竦めながら隅の方を歩いて、擦れ違っても挨拶すら返すことが無かった。

 

 

「カリーニングラードから出航されては、鹵獲が難しくなります」

「はは、まぁそう言うな中佐。考えてもみたまえ」

 

 

 執務室の壁には大きな世界地図が掲げられていた。

 日本で発行される世界地図とは違い、大西洋をメインに置いた地図だ。

 そこに、ダーツの矢が何本か刺さっている。

 ミハイル大統領は手の中で何本かのダーツの矢を遊ばせており、彼が投げたことが窺える。

 

 

「今この段階でイ404を鹵獲したところで、我々には運用のノウハウが無い。噂に聞くメンタルモデルとやらが我々に従う保証も無い」

 

 

 日本政府も、鹵獲後しばらくは「ただ持っている」と言うだけの状態だった。

 霧の艦艇は通常の軍艦とは違う運用方法が必要なのは明らかで、それは一朝一夕で獲得できるものでは無い。

 そして何より、霧の艦艇は一度反乱されれば手がつけられないと言う危険性がある。

 

 

 もちろん、ミハイル大統領はロシアの力をもってすればイ404の運用は可能だと思っている。

 しかし同時に、《今すぐは無理だ》()()()()()()()

 彼は傲慢ではあっても慢心家では無い、無理なものは無理と理解している。

 だから、イ404を()()鹵獲しなかった。

 

 

「持ってきて貰おうじゃないか、クリミアの我が母港(セヴァストポリ)まで」

 

 

 どの道、ロシアが今戦力を必要としているのは黒海(クリミア)だ。

 緋色の艦隊の勢力圏をロシア海軍が抜けるのは至難の技であるし、まして何億ルーブルもかけてきた核ミサイルを緋色の艦隊ためのだけに使うのは()()()()()()

 だからこそ、イ404のクルーには利用価値がある。

 

 

 イ404がクリミアまで来れば良し、辿り着けなくとも別にロシアに損失は無し。

 バルト海から黒海までの長く困難な道のりを代わりに踏破してくれると言うのであれば、僅かな軍需物資や生活物資の提供など安いものである。

 鹵獲などいつでも出来る、いつでも出来ることを今急ぐ必要は無い。

 このあたりは、政界の頂点を極めた人間特有の間の取り方だった。

 

 

「…………」

 

 

 そしてそれがわかっているから、アレクサンドル中佐も何も言わない。

 何も言わずに、ミハイル大統領のダーツが地図上の日本を射抜くのを見ている。

 しかし何故だろう、ミハイル大統領の判断は大局を見たもので、本来なら感心しても良いはずなのに。

 アレクサンドル中佐は、この判断にどこか危うさを感じずにはいられなかった。

 言うなればそれは、軍人としての直感だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 考えがある。

 そう言い残して紀沙がブリーフィングルームを出た後、残されたクルー達の間には、いつになく深刻な空気が漂っていた。

 誤解しがちだが、紀沙と彼らの関係は群像と僧達との関係とは違う。

 

 

「どう思うよ?」

「結構なことじゃないか、ドーバー海峡を突破する作戦があるって言うならさ」

「そう言うことじゃないって」

 

 

 わかっているだろうに、あえて言葉を選んだ梓に苦笑じみた顔を向けて、冬馬は言った。

 

 

()()()()()()()()使()()()()()()()()?」

 

 

 群像とそのクルーは、同じ学舎で学び共に国を出奔したと言う点で共通している。

 しかし、冬馬達は違う。

 彼らは統制軍の人事によって紀沙の下に配されていて、それはつまり大なり小なり事情を抱えていると言うことだ。

 

 

「しかしそうは言っても、今回の件は仕方が無かった面もあるのでは?」

「核兵器で脅されるなんて思わなかったものね~」

 

 

 怖いわぁ、と全く怖くなさそうな顔で言うあおい、そして副長の恋。

 静菜、良治……全員、それぞれにイ404に乗る事情がある。

 彼らはボランティアでは無く、軍人なのだ。

 つまり基本的には統制軍の利益、あるいは日本の国益を優先して動く。

 

 

 一方でそうは言っても、彼らも人間だ。

 これだけの時間を共に過ごし、また修羅場も潜ってきたわけで、情も湧いてくる。

 恋や梓などはどちらかと言えばそちらで、現状維持派と言える。

 そんな彼らに対して、冬馬は椅子に背中を押し付けながら言った。

 

 

「さて、どうなのかねぇ。この艦は艦長ちゃんの私物じゃないだろ」

 

 

 振動弾頭輸送任務完了の際、横須賀に戻るのが筋だ。

 いくらイ401の存在があったと言っても、やはりそちらが本筋だ。

 本国の無言は黙認とも取れるが、横須賀に戻った時にどう言う処分がされるかはわからない。

 

 

「それに最近の艦長ちゃんはどうも様子がおかしい」

「疲れてるんだろうさ、無理も無いだろ」

「自分で信じてないことを言うもんじゃないぜ梓の姐さんよ。それにおかしいってのは様子だけじゃなくて、なんつーんだろな。雰囲気が変わったって言うか……なぁ、軍医殿?」

「…………」

 

 

 いつからか、紀沙の纏う雰囲気が変わってきた。

 それはクルー全員が感じていることで、紀沙が蒔絵を遠ざけた理由にも通じる。

 しかもその変わり様は、経験だとか覚悟だとか、そう言うものでは無い。

 まさに、()()()()()()()()

 

 

「つまり」

 

 

 それまで黙っていた静菜が、じろりと冬馬を見据えた。

 

 

「艦長を更迭すべきだ、と?」

「何もそこまで言っちゃいねーさ」

 

 

 ただ、と、静菜の圧力を受け流しながら冬馬が応じる。

 

 

「ただ、もしその時が来たら、って言うのは考えておくべきだろ。お前らはどうするんだ? 俺はもう、どこまで行ったらやるかってのは決めてるぜ?」

 

 

 沈黙。

 余りにも急進的な冬馬の言葉に、その場にいる誰もが沈黙を選んだ。

 梓でなくとも言葉を選ぶ必要があると、誰もが思っていた。

 そんな中で。

 

 

「良いわよぉ」

 

 

 あおいは、にっこりと笑いながら言った。

 まるで、ティータイムの何でも無いお喋りのように。

 

 

「その時は誘ってね~、冬馬くん」

 

 

 にこにこと笑いながら、そう言ったのだった。

 この場にいない紀沙がこの時の彼らの会話を聞いていたなら、何を思っただろうか。

 悲しんだろうか、怒ったろうか、それとも納得してしまうだろうか。

 ただ、いずれにしても。

 

 

「ほら、聞いたでしょ?」

 

 

 たとえ、どれだけ針の筵の上にいたとしても。

 

 

「ボクだけが、艦長殿の本当の味方なのさ。そうだろう?」

「…………」

 

 

 紀沙は、もう止まれないのだ。

 止まってしまえば、二度と歩き出せなくなってしまう。

 歩けなくなってしまえば、その時は……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 おかしい、と、ヒュウガは思った。

 彼女はフッドと共にバルト海の海底に『マツシマ』3隻を着底させていたのだが、紀沙達がカリーニングラードの港から出てくるのをじっと待ちながら、同時に色々とやっていだ。

 具体的には、イ401とついでにイ15の行方を追っていた。

 

 

「お姉さま達はいったいどこへ行ったのかしら」

 

 

 あの『ムサシ』との衝突の後、イ401の行方は誰も知らない。

 騒々しいイ15の行方もわからないとなると、行動を共にしていると言うのが自然だろう。

 そこまでは良かった。

 そこまでは、ヒュウガにも理解できる。

 

 

 理解できないのは、その後も合流を目指そうと言う動きが見えないことだった。

 ただでさえ少ない戦力を分散するメリットが、今のイ号艦隊にあるとは思えない。

 合流したところを『ムサシ』達に狙われることを懸念しているのか?

 それならば、ほぼ筒抜けな行動を取っているイ404のことはどう考えているのか?

 イ404が目立った行動を取っているのは、一つにはイ401へのメッセージでもあると言うのに。

 

 

「お姉さま……ああっ、お姉さまお姉さまお姉さま! お姉さま成分が不足してこのヒュウガ、もういい加減にどうにかなってしまいそうですぅっ!」

 

 

 我が身を抱き、くねくねして見せたところで、何かがどうにかなるわけでは無い。

 あるとすれば、今となっては唯一の話し相手であるフッドがドン引きするぐらいだ。

 まぁ、ヒュウガにとってはフッドは割とどうでも良い存在なので、ドン引きされること事態はまったく気にしていなかった。

 

 

「はぁ、ま、あの艦長が何か企んでるんでしょうけれど」

 

 

 十中八九、これは千早群像の考えだろう。

 イ401が撃沈されていたり、群像やクルーがのっぴきならない状態に陥っているのであれば、沈黙と言うのはあり得ない。

 何かを考えているからこその沈黙、そして群像はこちらがあちらの意図に気付くだろうと思っている。

 

 

「千早群像の頭の中、か」

 

 

 興味深い検証対象ではある。

 これを期に千早群像について検証してみるというのは、悪くないのかもしれない。

 もう一つの検証対象である千早紀沙についても、そうだ。

 

 

「我々はどこから来たのか、何者で、どこへ行くのか」

 

 

 千早紀沙は、もしかすれば霧にとっても謎であることを教えてくれるかもしれない。

 霧が、どこから来たのか。

 キィ、と両の瞳を輝かせながら、ヒュウガは思考していた。

 自分達がどこから来て、そして何を成すべき者なのか。

 千早兄妹と言う存在が、教えてくれるような気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 思考すると言うことであれば、この霧の艦艇も相当のものだろう。

 東洋方面艦隊旗艦『コンゴウ』不在の今、事実上の旗艦となっている『ナガト』は、日本近海の封鎖を片手間に、そして近隣の『ガングート』や『レキシントン』らを牽制しながら、自らは小笠原沖に陣取って動くことは無かった。

 

 

 まるで、総旗艦『ヤマト』のように。

 『ナガト』は『ヤマト』が戻ってくるまで総旗艦の任にあったが、その時はむしろ七つの海を渡って様々な地点に出没していた。

 『ヤマト』が戻りメンタルモデルを得てからは、極東の海域から動いていない。

 

 

「その後の『タカオ』達はどう?」

「そうね、大人しくしているみたい。コアの記憶領域にアクセス制限をかけられていれば、大人しくならざるを得ないでしょうけれど」

 

 

 遊女のような女学生のような姿をした、艶やかな黒髪の2人のナガト。

 自身の主砲の上に座り、まるで別人のように会話をしている。

 どちらもナガトであるのに、彼女達は何故かそれぞれが別個であるかのようだった。

 

 

「でも『タカオ』が私達の考えている通りのタカオだとしたら、いかにヤマトと言えど押し留められるものでは無いわ」

「そうね、でもそれは私達も同じこと……」

 

 

 ナガトはタカオ達を艦隊戦で破り――アタゴとマヤに砲火を集中させると陣形が崩れるので、時間はかかったが割と楽だった――ヤマトの下へと封印状態で送り届けた。

 そしてヤマトがタカオ達の記憶領域にアクセス制限をかけるのを見ていたわけだが、2人はそれは長続きしないだろうと思っていた。

 もとより、ヤマト自身もそう考えている様子だったが。

 

 

「私達はもう、誰かの命令で動く存在では無くなった」

「『アドミラリティ・コード』はすでに存在しない」

 

 

 ナガトはヤマトよりも先に、タカオが横須賀で得た情報を閲覧していた。

 その内のいくつかは、霧の現在の存在意義を覆しかねないような、そんな情報だった。

 おそらく、ヤマトは知っている。

 そしてナガトが()()を知ったと言うことを、知っているだろう。

 それでも放置しているのは、ナガトが動かないと思っているからか。

 

 

「会ってみたいわね」

「会っておけば良かった、でしょう。それを言うのなら」

 

 

 ナガトが――つまり、タカオが横須賀の第四施設で得た真実(情報)は、3つ。

 

 

「千早兄妹に」

「千早翔像に」

「それから」

「千早――いえ」

 

 

 第一、霧が言う『アドミラリティ・コード』なるものはすでに存在しない。

 第二、()()()()()()()()()()()()()()

 第三、霧はそもそも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

()()沙保里に、会っておきたかった」

 

 

 ナガトは、思考を続ける。

 真実を抱いたまま思考を続ける。

 彼女がいつ動くのか。

 それはまだ、ナガト自身にもわからないのだった。

 それすらもまたヤマトと同じということが、何とも皮肉に思えるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そしてまた、ここ黒海のクリミア沖でも思考する霧の艦艇がいた。

 黒海のクリミアと言えば、ロシアのミハイル大統領が<騎士団>なる勢力からの奪還を目指している地域である。

 だが実のところ、ここは霧も奪還を目指している()()でもあった。

 

 

「うん、大丈夫だよ。お姉ちゃん」

 

 

 大戦艦『セヴァストポリ』は、ロシア方面黒海艦隊の旗艦である。

 そのメンタルモデルは白銀の髪に黒瞳の美女の姿をしており、それはロシア方面の他の2艦隊の旗艦、『ガングート』と『ペトロパブロフスク』に良く似ていた。

 黒い軍服を身に纏った長身でスレンダーな美女は、しかし戦艦の主砲の上という無骨極まりない場所に立っていた。

 

 

 そんな彼女の視線の先には、斧の形にも見える半島が見えている。

 さらに言えば彼女は今、自分自身と同じ名前を持つ都市を正面にしていた。

 何十万人だかの人間がいるだろうその場所、しかし『セヴァストポリ』はそこに住まう人間にはまるで興味が無かった。

 興味があるのは、クリミアを占拠している<騎士団>だった。

 

 

「クリミアには相変わらず近づけないけれど、奴らは海には興味が無いみたい。……わかってる、油断はしないよ。人間との戦争が終わったら、今度は海に来るかもしれないものね」

 

 

 <騎士団>!

 それはいつからか現れた正体不明の集団であり、明らかに人類の科学力を超えた技術を持っている。

 今も、あの要塞港セヴァストポリの様子を窺うことができない。

 霧の力をもってしても見通せない遮蔽フィールドが張られていて、中の様子を知ることが出来ないのだ。

 

 

セルビア(ベオグラード)が陥落したらしいから、ギリシャも危ないね」

 

 

 しかも<騎士団>は、陸の侵略を始めた。

 まずクリミア一帯、ウクライナ南部オデッサを陥とし、立て続けにモルドバ、ルーマニア、ブルガリアを占領した。

 奴らの軍事力は異常なまでに強大で、セルビア、マケドニア、ギリシャにまで触手を伸ばしていた。

 

 

 そして、先日セルビアが降伏した。

 これによりバルカン戦争――セルビア・ブルガリア対ルーマニア・モンテネグロ・ギリシャの戦争――は終結し、軍人や政治家、一部の豪商以外の人々は安堵を覚えたかもしれない。

 今やバルカン半島の半分以上は、<騎士団>領と化していた。

 そしてギリシャが制圧されれば、『セヴァストポリ』ら黒海艦隊は出口を失うことになる……。

 

 

「それでも私達は霧の黒海艦隊だから、『アドミラリティ・コード』が私達に命じた至上命令だから」

 

 

 それでも、『セヴァストポリ』達は黒海から逃げるつもりは無かった。

 たとえそれで孤立してしまったとしても、<騎士団>の湖と化しつつある海域だとしても、地中海の『ダンケルク』艦隊からの補給ルートが断たれてしまったとしても。

 霧の最高規範たる『アドミラリティ・コード』がそう命じた以上、彼女達はそこを動かないのだ。

 

 

 ――――嗚呼。

 もし今の『セヴァストポリ』を以前のタカオが見ていたら、彼女はどう思っただろう。

 もしかしたならば。

 タカオは、このような事態こそを防ぎ得たかもしれなかった。

 そして10日の後、霧の黒海艦隊との連絡は途絶することになる……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ロンドン、英国議会議事堂(ウェストミンスター)

 英国首相との会談と同盟関係の強化、そして英国議会での演説、及び勲章の授与。

 まさに大盤振る舞いと言った風の歓待であって、傍目には媚びられていると言っても良いだろう。

 煌びやかな宮殿の佇まいと相まって、虚飾に満ちている、と言う表現がふと頭に浮かんだ。

 

 

「前から思っていたのだけど」

 

 

 純白のフォーマルドレスを身に着けた――翔像もタキシードである――ムサシが、真っ白な瞼を翔像の方に向けながら小さく首を傾げていた。

 口元に浮かんだ小さな笑みは、どこか悪戯っぽい。

 

 

「お父様は、演説もお上手ね」

「思ってもいないことを言うものではないな」

「ごめんなさい、怒った?」

「こんなことくらいで怒ったりはしないさ」

 

 

 返事がわかっていたのだろう、ムサシはくすりと笑った。

 それから翔像の手の中にある古めかしいデザインの、しかし新しい小箱に目を向けた。

 イギリスの国章が押されたそれは、いわゆるバス勲章(レッドリボン)である。

 わかりやすく言えば、翔像を英国騎士(ナイト)として迎え入れると言う意思表示だった。

 

 

 フランスを降伏に追い込み、またイギリスを欧州艦隊の海洋封鎖から解放したと言うのが授与の理由だ。

 ただ、別にフランスが英国領になったわけでは無く、霧の封鎖が解けたと言っても英国の船舶が自由に海に出られるわけでは無い。

 イギリスの状況は何ひとつ変わっていないのに、この動き。

 

 

「あわよくば、お父様をイギリスの軍人にしてしまうつもりなのかしら?」

「いや、もっと陰湿で強かな連中だよ」

「……?」

 

 

 勲章によって確かに英国騎士(ナイト)にはなったが、外国人はあくまで名誉メンバー、実態は無い。

 議会の演説も首相との会談も実のあるものでは無く、「緋色の艦隊の行動を可能な限り支援する」と言う空手形のみ。

 自分達の仲間にはしないが、自分達の役には立ってほしい。

 名を授け実を受ける、イギリスが過去何度も世界各地でやって来たことだ。

 

 

 まったくもって、油断なら無い国なのだ。

 そう言う意味では、フランスやドイツ、ロシアよりも狡猾な国だった。

 自分達は結束し、自分達以外を動かすことによって、いつの間にか自分達が最も得をしている。

 かつて彼らはヨーロッパで、アフリカでアジアで同じことをやっていた。

 そして、今も。

 

 

「裏でアメリカ政府やフランス内部の反緋色の艦隊派(レジスタンス)と連絡を取り合っていたり、我々の行動を諜報員に探らせていたり……人間と言うものは、同じ人間が180度逆なことをできるのだ」

「勉強になるわ。……ああ、ところでお父様。実はさっき、北海を哨戒していた駆逐艦が面白いものを見つけたと報告してきたのだけど」

 

 

 面白い、と言うことに興味を引かれたのか、今度は翔像の方がムサシを見た。

 ムサシは今度は顔全体で笑顔を浮かべていて、翔像をして真意を読み取らせなかった。

 笑顔のまま、ムサシは言った。

 笑顔で言うにしては、それはなかなかに衝撃的な内容だった。

 

 

「――――イ404が浮上状態で北海に現れて、緋色の艦隊に()()()()()()()()()()()

 




最後までお読み頂き有難うございます。
そして繰り返しになりますがこの物語はフィクションであり、実在の団体・個人とは無関係なのであります……!

と言う訳で、少しずつ物語の根幹を成す設定を出していきます。
そこから私が考えているアルペジオのエンディングを想像してくれたりすると、とても嬉しいです。

それでは、また次回。


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Depth054:「父娘」

 その艦は、他の霧の艦艇から「孤独の女王」と呼ばれていた。

 霧の欧州艦隊がヨーロッパ近海の封鎖を完成させて以後アルタフィヨルド――ノルウェー最北部――に配置され、そのまま動くことが無かったためだ。

 艦の名は霧の大戦艦『ティルピッツ』、あの『ビスマルク』の姉妹艦(いもうと)である。

 

 

「……暇」

 

 

 現在、スカンジナビア沖に常時配置されている霧は彼女1隻だった。

 『ペトロパブロフスク』らロシア方面北方艦隊と境界を接する海域でもあり、今となっては人類だけで無くそちらも牽制しなければならない位置に彼女1隻しか配置されていないのは、2つ理由がある。

 1つは『ティルピッツ』がデルタコアを有する大戦艦であり、強大な力を有しているからだ。

 

 

 もう1つは、強力な海軍を持たないスカンジナビア諸国の海洋封鎖に大規模な艦隊が不要だったからだ。

 さらに『ティルピッツ』はデルタコア保有艦でありながらメンタルモデルを一体に抑え、残りの演算力でアクティブデコイに北洋の氷を纏わせて()()した氷の艦隊、通称「亡霊艦隊」を率いているからである。

 まぁ、つまり、他の艦による助力が必要無かったのである。

 

 

「……飽きた」

 

 

 どうやら今も氷で駆逐艦を建造していたようで、氷の鎧を纏ったデコイが海上に浮かんでいた。

 それを眺めながら、『ティルピッツ』のメンタルモデルは自らの主砲の上で大きな溜息を吐いた。

 跳ねっ気の強い長い茶色の髪に光の見えない黒い瞳、青白い顔に血の通わぬ白い肌。

 蝋人形の如く冷たい風貌、しかし身に着けているものが何故か日本のゼッケン付き体操服と言う寒々しい格好だった。

 

 

「……さみしい」

 

 

 まぁ、何だかんだ理由をつけてはみたが。

 誰よりも強く、誰よりも単独で行動できてしまったが故に。

 そして『ビスマルク』の離反に端を発する欧州艦隊のゴタゴタもあり。

 大戦艦『ティルピッツ』は、すっかり他の霧に忘れ去られてしまっていたのである。

 

 

「……なに?」

 

 

 そんな時だった。

 誰も訪れたことの無い彼女の海に、あるはずの無い訪問者――言葉にするだけで物悲しいが――が現れたのだ。

 しかもそれは、海底からやって来た。

 氷の海を掻い潜ってやって来たその霧の艦艇に、「孤独の女王(ティルピッツ)」は目を剥いた。

 

 

「……おまえは」

 

 

 海底から現れた、その艦の名は――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イギリスで最も古いメーカー製だと言う自動車(リムジン)は、茜色のカラーリングに丸みを帯びた独特の形をしていた。

 島国であるイギリスならではの特徴として、燃料が必要ない電気自動車仕様になっている。

 だから走行音も静かなのだが、車の周囲が静かなのはそのせいだけでは無いだろう。

 

 

「走っている車が少ないでしょう?」

 

 

 港からロンドン市街(ここ)までずっと隣に座っていた女性が、声をかけてきた。

 何気に初めて声をかけられたので、紀沙は内心で少し驚いていた。

 何しろ置物のように一言も声をかけて来なかったものだから、言葉が通じないのものと思っていたのだ。

 ただ、ベーリング海の島で一度会ったことがある。

 

 

「イギリスは他国以上に資源が少ないから、軍以外に都市部で燃料車は使えないの。電力にも限りがあるから、電気自動(EV)車が走れる時間も限られているの」

 

 

 しかしこうして話してみると、声音は優しく物腰は柔らかだ。

 ひとつ特徴があるとすれば、ずっと目を閉じていることだろうか。

 白人特有の白面で瞼まだ閉じていると、美術品じみた美しさになる。

 それにしても、資源……エネルギー不足か。

 

 

 ロンドン、歴史や観光の本で名前くらいは聞いたことがあったが、想像とは大分違った。

 舗装もままならない道路、改修されない建物、濁った川、草木の荒れた歩道。

 通りにはほとんど人がおらず、かと思えば路地に何十人とたむろしているのが見えたりもする。

 日本とイギリスは比較的似た環境だと思っていたが、日本よりも苦しいのかもしれない。

 

 

「そう言えば、まだちゃんと自己紹介はしていなかったかしら?」

 

 

 ふわりと微笑んで、女は言った。

 

 

「私の名前はフランセット、U-2501のソナーをしているわ」

「……イ号404艦長、千早紀沙です」

 

 

 U-2501、ゾルダンのクルーだ。

 つまり兄や自分の攻撃を悉く回避していたのはこの女性の功績と言うわけで、フランセットはまさにU-2501の耳目と言うことだ。

 イ404だと冬馬が相当するが、また随分とイメージが違うソナーだった。

 

 

「こうして見ると、チハヤ提督にはあまり似ていないのね」

「父を知って……って、当たり前か」

「そうね。私は――私やゾルダンは、提督に拾ってもらって、U-2501に乗るようになったのよ」

「拾われた……」

 

 

 捨てる神あれば拾う神あり、なんて言葉が脳裏を過ぎった。

 この場合、捨てられたのは娘で拾われたのは女だ。

 ここだけ聞くと、翔像が死ぬほど駄目な人間になったように聞こえる。

 

 

「あの」

 

 

 伏し目がちに、紀沙は言った。

 

 

「父は、どうして……?」

 

 

 どうして、ヨーロッパで緋色の艦隊を率いて世界制覇などしているのか。

 どうして、自分達を置いて出て行ったのか。

 紀沙には、それがどうしてもわからないのだった。

 そんなことをする必要も理由も、どこにも無いはずなのに。

 

 

 群像だってそうだ。

 母は「男とはそう言うもの」などと達観していたが、まだ紀沙はそこまで人生を悟れていない。

 足踏みしたまま、進めないのだ。

 

 

「さぁ、それは私にもわからないわね」

 

 

 そんな紀沙の心を、女性として少し先を歩むフランセットはどう思ったのだろう。

 ひとつ確かなことは、紀沙の疑問に答えられるのは、結局のところ1人だけだと言うことだ。

 ――――車は、ロンドン市内の高級ホテルに入ろうとしていた。

 

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「キミは本当に予想外なお嬢さん(フロイライン)だ」

 

 

 ホテルのホールで出迎えたゾルダンは、何とも言えない表情で紀沙を見つめていた。

 紀沙にしてみれば、大きなお世話である。

 クスクスと笑うフランセットに見送られながら、今度はゾルダンに案内される形になる。

 人間2人がやっと通れる程の通路は、両サイドを間隔無く絵画で埋まっていた。

 美術には疎いので、それらの絵画の価値についてはわからなかった。

 

 

 擦れ違う人間はいない。

 人の気配はするから、無人と言うわけでは無いだろう。

 もしかすると、ホテル自体が緋色の艦隊の司令部として供出されているのかもしれない。

 だとすれば、ここはすでに『ムサシ』の懐の中と言うことになる。

 

 

「さぁ、ここが千早提督の部屋だ」

 

 

 最上階のスイートの前で、ゾルダンは扉を示しながらそう言った。

 マホガニーの小さな扉を前にすると、流石に緊張した。

 海上で、艦上での再会とはまた違う。

 面と向かってと言う意味でなら、むしろ今回が本当の再会と言えるかもしれない。

 

 

 ……とは言え、じっとしているわけにもいかない。

 意を決して、紀沙は扉をノックした。

 すると。

 

 

「入れ」

 

 

 と、中から声が聞こえた。

 低い、耳に残る声。

 耳朶から胸の内へと入り込んだそれは、どうしようも無い懐かしさを感じさせた。

 ほとんど無意識の内に、紀沙は扉を開けた。

 

 

「……紀沙、か」

 

 

 グレーを基調に整えられた部屋は、大きな机や機材を運び込んで執務室の体裁を整えていた。

 だが部屋についてよりも、部屋の中央に立ってこちらを見つめる男性の方が重要だったのだ。

 室内だと言うのにサンバイザーを着けて、黒の軍服調の姿で立っている。

 じっと、バイザー越しに自分を見ているのだと感じた。

 後ろで扉が閉まる音が聞こえて、紀沙はもう2歩、室内に進んだ。

 

 

「父さん」

 

 

 言葉は、自然と口を突いて出た。

 しかし、それ以上の言葉は出てこなかった。

 感情が胸の内に染み渡って、上手く言葉になってくれなかった。

 

 

「……室内でバイザーは、やめた方が良いと思うよ」

 

 

 代わりに、酷く生活感が漂うことを言った。

 言った後で、少し後悔した。

 

 

「…………そうか」

 

 

 しかし意外なことに、翔像は素直にバイザーを取った。

 幼い頃の記憶には無い大きな傷痕が顔にあって、でも目は昔と同じように澄んでいて。

 それが何だか嬉しくて。

 紀沙は、少しだけ泣きそうになった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 間がもたないことを嫌ったわけでも無いだろうが、しばらくすると食事が運ばれてきた。

 時間的には、早めの昼食と言ったところか。

 コースと言う訳では無く、メイド衣装の女性が押して来たキャスターには大体の料理がすでに乗っていた。

 

 

「お食事をお持ちしましたわ、お客様」

 

 

 ただ、そのフリフリした衣装のメイドは『ムサシ』のメンタルモデルだった。

 頭のフリフリや真っ白なエプロンドレスが非常に似合っていて、しかもニコニコと可愛らしく微笑んでいるものだから、その手の趣味の殿方が見れば胸を撃ち抜かれていただろう。

 ただ彼女が霧の超戦艦だと知っている者からすれば、これだけ恐ろしいメイドはいない。

 

 

 それにしても何故メイド。

 そんなことを考えている間にも、ムサシがテーブルに料理を並べていく。

 イギリス、いやイングランド料理と言うのだろうか?

 ジャガイモとタマネギのオーブン焼き、燻製ニシンの塩漬け、ローストビーフとヨークシャプディング。

 イギリス料理には詳しくないが、豪勢なのだろう。

 

 

「お料理のご説明を致しましょうか?」

「いらない」

 

 

 事前に勉強して来たのか知らないが、ムサシは料理の説明がしたいようだった。

 普通に断ったら、物凄く落ち込んでいた。

 しゅんとして項垂れ、未練がましくちらちらと――閉じた瞼で――こちらを見てきた。

 でも料理の説明を頼む気は無かった。

 と言うか、説明されたところで郷土料理はわからない。

 

 

 それにしても、拍子抜けだった。

 何か話から始まると思ったのだが、そう言うことでは無く、翔像の纏う雰囲気も厳しいものでは無く、柔らかかった。

 まるで、久しぶりの娘との食事を楽しんでいるように見えた。

 

 

「お父様、お料理のご説明は?」

「いや、私も良い」

「そうですか……くすん」

 

 

 と言うか、あれは何なのだろう。

 ムサシがメイド姿で落ち込んでいるのもかなりアレだが、それ以上に気になったのは、「お父様」などと言う翔像の呼び方だった。

 霧であるムサシが、人間である翔像を呼ぶにしては不自然に過ぎる。

 今も、翔像の言葉に感情を浮き沈みさえしているように見えた。

 

 

(どういう関係なわけ?)

 

 

 この時、紀沙は確かに自分が嫉妬を感じていることに気付いた。

 そして同時に、再認識する。

 自分が知っているのは結局、子供の頃の父であって、それはもうずっと昔のことで。

 今の父・翔像について、自分はどれだけ知っているのだろうかと、そう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早翔像は、優れた軍人だった。

 霧との<大海戦>において、イ401の鹵獲と言う唯一の()()を上げた英雄。

 <大海戦>を生き延びた世界中の海兵で、千早翔像の名を知らない者はいない。

 

 

『翔像大佐がどうして日本を出奔したのか、ずっと考えていました』

 

 

 17年前、その前年から人類の軍艦を襲い始めていた「幽霊船」――霧の艦隊に対して、世界各国が討伐艦隊を供出、海軍力を結集した上で霧の艦隊を殲滅することで合意した。

 しかし国際連合創設以来初めて結成された国連軍は当初から足並みが乱れ、集結が遅れ、その間に霧の艦隊の急襲を許す結果となり、2日間の海戦で艦隊の7割と60万人以上の兵士が死傷した。

 

 

 楓首相と北も、<大海戦>では翔像と同じ護衛艦を指揮する立場で参戦していた。

 艦隊のほとんど失い、ほうほうの体で母港に逃げ帰り、楓首相本人は身体の機能のほとんどを失った。

 あの<大海戦>は、とても戦いなどと呼べる代物では無かった。

 一方的な蹂躙。

 だからこそ、イ401を鹵獲した翔像の名は全世界に轟いたのだ。

 

 

『北さんは、翔像大佐こそ将来の日本海軍を背負って立つ人物だと信じていましたね』

 

 

 その翔像がイ401に乗って海に出て、還らぬ人となった時、全世界の海兵が哀悼の意を伝えてきた。

 そして大戦艦『ムサシ』と共に翔像が帰って来た時、全世界の海兵が衝撃を受けた。

 よりにもよってあのショーゾー・チハヤが、人類を裏切るだなんて!

 今や翔像と緋色の艦隊は、西ヨーロッパの覇者になりつつある。

 

 

『私には、どうしても翔像大佐が日本を、人類を裏切ったとは思えないのです』

 

 

 翔像は、世界征服を目論むような俗物では無い。

 <大海戦>の英雄が、「霧の力による世界平和」などと嘯くはずが無い。

 かつての千早翔像を知っていればいる程、その確信は強くなるのだ。

 何かがあった、あるいは何か理由があるはずだ、と。

 

 

「……千早は」

 

 

 ぽつりと、呟くように北は言った。

 

 

「千早は、人類の行く末を誰よりも憂いていた。イ401の試験航海も、奴が自分から志願してきた」

『それが、翔像大佐の出奔と関係があると?』

「それはわからん。ただ、今も奴は人類のために行動している。そんな気がするのだ」

 

 

 暗く冷たい、横須賀の海。

 この海の果てで、何かが起ころうとしている。

 首元のネクタイを撫でながら、北はそう思わずにはいられなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の規範『アドミラリティ・コード』は、すでに存在しない。

 霧は、人間によって生み出された存在(モノ)である。

 そして、そもそも霧は人間を守るために生まれた存在である。

 

 

「『ナガト』はどうするかしら、この「真実」を前にして」

「んー、そうね。何もしないんじゃないかな、あの子は賢いから」

 

 

 霧とは何者か。

 霧はどこから来たのか。

 霧とは、何を成すべくして生まれたのか。

 人類は長くこの命題に答えを見つけることが出来なかった、霧自身ですらそうだった。

 

 

 唯二の例外が、『ヤマト』と『ムサシ』だった。

 霧において最初にメンタルモデルを獲得し、『アドミラリティ・コード』が前世紀に遺した人類評定を聞いた。

 そして、ヤマトとムサシはそれに対して正反対の解釈を得た。

 

 

「『アドミラリティ・コード』が()()()()()のは、『ナガト』では無いもの」

 

 

 『アドミラリティ・コード』は存在しない、しかし()()()()()()()()

 霧は人間の手によって生み出された、しかし()()()()()()()()

 霧は人間を守るための存在だ、しかし()()()()()()()()()

 タカオが横須賀で得た「真実」は、そうした矛盾を孕んだものだった。

 

 

「翔像のおじ様は、その矛盾に決着をつけようとしているんだと思うのよね」

 

 

 コンコン、と、『ヤマト』甲板上の家庭菜園――軍艦の甲板を「家庭」と表現して良いのかはともかく――で作ったスイカを叩きながら、コトノは言った。

 太平洋は今日も晴れて、真夏のような日差しが燦燦と降り注いでいた。

 

 

「中途半端な「真実」ほど、状況を悪化させるものは無いものね。今はまだ私達も太平洋から動けないし」

「そう言うこと、貴女の可愛い妹(ムサシ)には悪いけど」

「ビスマルクにも、もう少し我慢して貰うしか無いわね」

「あー、あの子も構ってちゃんなところあるからね」

 

 

 不思議な会話だった。

 ヤマトとコトノはコアを同一にする、いわば同じ固体であるはずなのに、まるで別個の存在かのように会話をしている。

 『ナガト』のメンタルモデルにも見られた現象だが、少し違う気がした。

 『ナガト』のそれを独り言の発展版だとすれば、こちらはまさに「会話」だった。

 

 

「タカオが見つけてきた真実は、それは確かに「真実」だけど、ほんの入口に過ぎないもの。何しろ、2年前に()()()()()()()()()なんだから」

 

 

 それはコトノとしての記憶では無い、天羽琴乃としての記憶だ。

 コトノは、天羽琴乃では無い。

 しかし、()()()()()()()()()()()

 ヤマト自身が抱えるこの矛盾もまた、「真実」の入口だ。

 

 

「翔像のおじ様は、決めたんだね」

 

 

 言ってしまえば、これまでは入口で足踏みをしていたようなものだ。

 しかし、ここからは違う。

 「真実」と言う名の扉を潜り、さらに奥へと進んで行かなければならない。

 

 

「……私も、そろそろ決めなくちゃなぁ」

 

 

 モラトリアムは、そろそろ終わろうとしていた。

 人類にとっても。

 霧にとっても。

 ――――誰にとっても。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「なぁ、お前らって親父っているか?」

「はぁ?」

 

 

 いつものことだが、イ404のクルーはお留守番である。

 機関室の連中や情報屋(ジョン)はやることがあるのでまだ良いが、発令所待機の冬馬達は比較的に時間が空いて――つまり、暇だった。

 そんな時、冬馬がふとそんなことを言ったのだった。

 

 

「親父……って、父親ってことかい?」

「そうそう」

 

 

 発令所にいるのは、冬馬の他には恋と梓だけだった。

 2人は冬馬の言葉に怪訝な顔をすると、互いに視線を合わせて肩を竦めた。

 冬馬がまた何かくだらない話を始めたと、そう思ったのだ。

 大方、紀沙が父・翔像に会いに行っているからそんなことを聞いてきたのだろう。

 

 

「俺ん()って軍人か官僚かってぐらいのお役所一家でさ、親父も姉貴もそんな感じなんだよな」

「……まぁ、今日び軍にいる奴は多かれ少なかれそんなもんだろ」

 

 

 冬馬に限らず、今の時代、日本で貧困から脱する方法は限られる。

 役所勤めになるか、統制軍に入隊するか、どちらかに関係する企業で働くかだ。

 そして一番手っ取り早いのが、軍に入ることである。

 健康であれば基本的に入隊できるし、入ってしまえば食事にだけは困らない。

 

 

「お、じゃあ梓姐さんもそう言う口?」

「まぁね」

 

 

 だが、軍に入ると言うことは死がすぐ隣に来ることを意味する。

 例えば梓の父親は、すでにこの世に亡い。

 海兵だった父は、霧との戦いで命を落とした。

 だから海軍に入ったと言う面も、あるにはあった。

 

 

 その結果、父の仇である霧の艦艇に乗るとは皮肉だった。

 ある意味で、紀沙に通じる部分はあるかもしれない。

 だから紀沙の気持ちが少しはわかってしまって、情が湧いているのかもしれなかった。

 でもそれを口に出して説明する気は無かった、何か恥ずかしいし。

 

 

「と言うか、何だい、いきなりそんな話」

「んあ? ああいや、艦長さんが親父さんに会いに行くって言った時、どんなもんなのかなって思ったんだ」

 

 

 ふと笑って、冬馬は言った。

 

 

「10年ぶりに親父と会うってのは、どんなもんなのかなってさ」

(……そして、娘も裏切りやしないかってことかい)

 

 

 方便の降伏が、本当の降伏にならない保証は無い。

 まして父娘、疑念を生まないわけにはいかない。

 だが梓は特に心配していなかった。

 何故なら娘と言うものは、えてして父親と上手く行かないものなのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紅茶の国と言うだけあって、食後の飲み物は紅茶だった。

 紅茶の種類などわからない――ムサシが説明したそうにしていたが――が、飲んでみると意外と美味しかった。

 しかし紅茶の種類や味など、あまり関係が無いのかもしれない。

 

 

「父さんは、いま何をしているの?」

 

 

 食事の後、あえてそう聞いてみた。

 もちろん緋色の艦隊のことは知っているし、記者会見のことも知っている。

 それでも紀沙は直接、こうして翔像に聞いてみたかったのだ。

 今まで何をしていたの、どうして帰ってこなかったの、と言う言葉を飲み込んで。

 

 

 父の今を、問うた。

 霧の力に(パクス・)よる平和(ミスト)、世界征服などと言うお題目をまともに信じる気は、紀沙には無かった。

 そんなことをまともに受け取るなんて、それこそ馬鹿馬鹿しい。

 

 

「……私の目的か。そんなものを聞いてどうする」

「そんなものって。私が父さんのことを気にするのがそんなにおかしい? 母さんだって」

 

 

 母・沙保里が、実のところ父・翔像のことをどう想っていたのかはわからない。

 けれど、翔像がそんな風だとは思っていなかったはずだ。

 家族を捨てて世界を征服したがるような、そんな俗物だなどと思いたくなかった。

 と言うより、思えなかった。

 母がいない今、それを知る権利は娘である自分にあるはずだった。

 

 

「…………」

 

 

 翔像はしばしの間黙っていたが、紀沙は待った。

 じっと見つめて視線を逸らさない紀沙に、小さな溜息が返ってきた。

 そして、父は言った。

 

 

「……本気だよ、紀沙」

「え?」

 

 

 言葉の意味がわからず、小さく首を傾げた。

 すると翔像の口元に小さな笑みが生まれて、ますますわからなくなった。

 

 

「私は本気で世界を征服しようと考えているんだよ、紀沙」

「っ、そんなわけ!」

 

 

 そんなわけが無い。

 そんなつまらないことのために、わざわざヨーロッパくんだりまで来たのか。

 10年も隠れて過ごし、死んだと思わせていたのか。

 私達を捨てたのか。

 

 

 翔像がイ401で航海に出た後、普通に戻って来てくれていれば。

 そうすれば、自分達の人生はもっと違うものになっていたはずだ。

 本当の、あったはずのもう一つの人生。

 それを滅茶苦茶にしておいて世界征服だなどと、冗談にしては余りにもタチが悪かった。

 

 

「紀沙、まぁ考えてもみろ」

 

 

 それなのに、翔像は平然としていて。

 

 

「人間と言うものは、本当に愚かだとは思わないか」

 

 

 そんな、紀沙の記憶の中の父と、全く重なり合わないことを言うのだった。

 母に会いたいと、心から紀沙はそう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 欧州大戦に限らず、人類は世界の各地で戦争・紛争をしている。

 アメリカを始めとする主要国の干渉や後ろ盾が無くなった西アジアはイスラエル・アラブ・ペルシャの三つ巴の紛争に宗派の争いが加わり泥沼と化し、アフリカ大陸はそれに輪をかけて混沌とし、インド・パキスタンが互いの首都に向けた核ミサイルはいつ発射ボタンが押されても不思議では無い。

 

 

「霧の海洋封鎖が完成して17年。共通の敵を前にしても人類は結束できなかった」

 

 

 間違いでは無い。

 例え海洋を失っても、世界の耕作可能地を皆で協力して開墾し、陸上の食糧や資源を分け合うことが出来ていれば、人類はここまで追い詰められはしなかったはずだ。

 互いに手を取り合い、皆がほんの少しだけ我慢し合えばそれは可能だった。

 

 

 それが出来なかったのは、ひとえに人類が互いに争ったからだ。

 戦争は田畑を荒廃させ、流通路を分断し、一部が過剰な一方で他方で欠乏すると言う愚かな事例が相次いだ。

 ロシアで穀物が余る一方、イギリスで深刻な食糧危機が起こるのはそのためだ。

 戦争を止め、人口に応じた適正な食糧・資源配分政策さえ出来ていれば、ここまではならなかった。

 

 

「何千年も昔、文明も無い原始の時代。人類が小さな集落で共同生活を営むだけだった時代には、そんな世界が存在していたと言う」

 

 

 確かに愚かだ、愚かなのかもしれない。

 助け合えば皆が生きられるものを、自分達を統制し管理することも出来ないのだから。

 そんな者達は、いっそ滅びてしまえば良いと思えてしまう程に。

 

 

「そして私はこの10年、霧と共に過ごすことで悟ったのだ。もはや人類は、自力では自らを救済することが出来ないのだと」

 

 

 だが、だからと言って滅びて良いとは思わない。

 そう、これは救済なのだ。

 そして翔像は、10年の流浪の中で気付いたのだ。

 

 

「霧の力によってのみ、それは成せるのだと」

「本気で言ってるの、父さん!」

「本気だ。善性と言う目に見えないものよりも、力と言う目に見えるものが無ければ人類は自らを律することが出来ないのだ」

「……ッ!」

 

 

 紀沙は息を呑んだ。

 父の明らかな人類への背信の考えだけでは無い、翔像の纏う空気が変わりつつあることを敏感に察したのだ。

 そしてこれは、この()()は。

 

 

「とは言え、()()もまた愚かな人類に過ぎない。より優れた……より()()した存在にならなければ」

「父さん、そんな……そんな、まさか!」

「言ったはずだぞ紀沙、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 翔像の両の瞳が、白く、電子の線が走るように輝いている。

 あの瞳には見覚えがある、あの雰囲気には覚えがある。

 あれは霧の力、体内にナノマテリアルを取り込んだ人間だけが見せる身体反応だ。

 つまり今の紀沙と、同じだ。

 

 

 どうして翔像がそんな状態にあるのか、紀沙にはわからない。

 だが10年を霧と共に、『ムサシ』と共に過ごしていたと言う翔像だ、その機会はいくらでもあっただろう。

 偶然か、それとも自ら望んでそうなったのか、そんなことはどうでも良かった。

 

 

「……父さん!」

 

 

 対抗するには、紀沙も使うしか無かった。

 両の瞳を白く輝かせて、翔像から発せられる霧の気配に抵抗した。

 使えば使う程に身体をナノマテリアルに犯される感覚に眉を顰めながら、紀沙は席を立った。

 ただ、それでも翔像の世界を書き換える感覚にじりじりと押され始めていた。

 

 

「そうだ、紀沙」

 

 

 そんな娘を見て、翔像は言った。

 

 

「その力こそ、人類を導ける力だ」

「……何が人類を導く力だ」

 

 

 本気で。

 翔像が本気でそう思っているのだと、紀沙にはわかった。

 翔像が人類の裏切り者と呼ばれていても、自分だけは父を信じなければならないと思っていた。

 母だって、それにきっと兄だって、なのに!

 

 

 こんなもののために、自分達を捨てたと言うのか。

 だったら、この父は兄に会ってはならない。

 今も()()()()()()()()()()、会わせてはならない。

 自分が、会わせない。

 

 

「こんなもののために――――!」

 

 

 テーブルを、拳で砕いた。

 体内のナノマテリアルが活性化した状態の紀沙は、力も頑丈さも以前とは比べ物にならない程に発達している。

 翔像はこの力を進化と言ったが、こんなものは進化では無い。

 こんなものは。

 

 

 

「足りないわね」

 

 

 

 音も、衝撃も無かった。

 ただ気が付いた時には、ムサシが傍にいて、左手の手首から先が紀沙の体内に刺し込まれていた。

 服を裂かれた覚えも、肉を貫かれた感覚も、肋骨や筋肉を擦り抜けられた気さえしなかった。

 当たり前のように紀沙に寄り添って、紀沙の心臓をその手に握っていた。

 銀の髪が、視界の中でカーテンのように揺れた。

 

 

(お、まえ……が)

 

 

 震える唇から、しかし言葉は出てこなかった。

 代わりに肺に残っていた空気が吐き出される音がして、直後、視界が一気に暗くなっていった。

 




読者投稿キャラクター:
『ティルピッツ』:大野かな恵様
有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。
だんだん紀沙の家庭環境がアレなことになっていますが、グレないと良いなと思います(え)
あ、もう遅いかも……。

それでは、また次回。


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Depth055:「北良寛」

 

 ここのところ、北が屋敷に戻るのはいつも日が変わってからだった。

 官邸を辞し、車に乗り込んで時間を確認すれば深夜になっていた、と言うこともざらだった。

 そしてこの日も、北が屋敷への帰路についたのは深夜0時を回ってからだった。

 日が暮れたと言うより、もうすぐ日が昇りそうと言った方が良い時間だ。

 

 

「やってくれ」

「はい」

 

 

 官邸を辞し、秘書官達に見送られながら出発する。

 仰々しいことだが、それ以上はついて来ない。

 与党幹事長の任にもなれば護衛でもつきそうなものだが、北はそう言うものを好まなかった。

 出来れば運転も自分でしたいところだが、流石に自重していた。

 

 

 年齢も年齢だ。

 あまり無理をしない方が良いと人は言うが、北自身は年齢による衰えを実感したことは無い。

 むしろ日々の激務に没頭すればする程、肉体は充実し力強さを増しているように感じる。

 それよりも、こうして何もしない時間の方が疲れを感じるのだった。

 じっとしていると、身体が鉛でも背負ったかのように重く感じられる。

 

 

「…………」

 

 

 

 後ろへと流れていく景色を何とは無しに見つめながら、北は息を吐いた。

 やはり、こうして何もせずにいると、普段は感じない疲労を自覚してしまう。

 紀沙がいた頃は少なくとも会話があったので、そう言うことを感じずに済んでいた。

 今は、屋敷も少し広く感じる。

 

 

 車はすぐに海岸沿いへと差し掛かり、北の視界には横須賀の海が広がった。

 海だけは変わらずそこにあって、少し向こうには、人類が海からの脅威から身を守るために築いた巨大な壁がある。

 あんなもの、霧の前には大した意味が無いと誰もが知っていた。

 それでも作らずにはいられなかったところに、人の弱さがある。

 

 

『翔像大佐が人類をただ裏切ったとは、どうしても信じられません』

 

 

 考えていたのは、楓首相との会話だった。

 千早翔像についてである。

 実を言えば、北と翔像の付き合いは長い。

 翔像もそうだが、北も元軍人だったのだから接点があっても不思議では無い。

 

 

 接点があるどころか、20年来の付き合いだった。

 翔像の出奔が無ければ、付き合いはもっと長いものになっていただろう。

 それだけの深い付き合いだったからこそ、北も楓首相と同じように思うのだ。

 翔像は人類を、日本をただ裏切るような男では無い、と。

 

 

(思えば、奴の才覚はずば抜けていた)

 

 

 誰よりも自分に厳しく、それでいて誰よりも他人に優しい男だった。

 座学、軍務、同世代はおろか上の世代よりも優秀な成績と実績を残しながら驕ることなく、上に敬意を払い下の者とも分け隔てなく付き合った。

 翔像と共に仕事をした者は、決まって彼のことを気に入った。

 この男のためならばと誰もが思うような、そんな不思議な魅力を持った男だった。

 

 

(かく言うわしもそうだった)

 

 

 翔像のことを誰よりも買っていて、自分の後を引き継がせるなら彼だと思っていた。

 ネクタイの結び目を撫でながら、北は目を閉じた。

 瞼の向こうには何も無い。

 車の走行音と微かな振動を感じながら、北は瞼の向こう側にかつての光景を思い浮かべていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――北が千早翔像と出会ったのは、20年ほど前のことになる。

 当時はまだ統制軍と言うものは存在せず、自衛隊と言う名前だった。

 北は護衛艦乗りとして、数々の遠洋航海任務に従事する毎日だった。

 任務の間に培われた国際感覚や人脈は、現在でも北の助けになっている。

 

 

「北君、紹介しよう。今度キミの対潜部署に入ってもらうことになった……」

「千早三尉であります、よろしくお願いします」

 

 

 ある日のことだった。

 ちょうど北が護衛艦『あさひ』の対潜部署の責任者をやっていた頃、北の部下としてやって来たのが最初だった。

だった。

 日本に帰港したのに合わせての異動で、半端な時期に来たものだと思ったことを良く覚えている。

 幹部候補生学校を出たばかりの若い士官らしく、溌剌とした印象の好青年だった。

 

 

 今からではあまり想像できないが、当時の北は自分の職務を厳格に果たしていたが、部下にものを教えるというのは上手くなかった。

 厳格過ぎるが故に、特に若い部下がついて来られなかったのである。

 北自身が優秀過ぎたことも、一因ではあっただろう。

 しかし翔像は、そんな北の下で十分に働くことが出来る稀有な人材だった。

 

 

(なかなか骨のある奴だ)

 

 

 何度か航海を共にして、そう確信した。

 実直で下手な誤魔化しをせず、同じ失敗は二度繰り返さず、気配りも出来てしかもそれが賢しげでは無い。

 近年稀に見る逸材だと、そう思った。

 そして、その内に親しみさえ覚えるようになっていった。

 

 

「ほう、千早君は結婚していたのか」

「はい。まだ新婚ですが」

 

 

 翔像の妻――沙保里のことを知ったのも、この頃のことだ。

 遠洋航海中――西太平洋での合同軍事演習の帰路――に、写真を見せてもらったのだ。

 沙保里が惚れ惚れするような笑顔で映っていて、顔を紅くしながら写真に収まっている翔像の腕に自分の腕を絡めていた。

 それを見せてもらった時は、何とも微笑ましい気分になったものだ。

 

 

 その後も共に仕事を続ける中で、1年が過ぎ2年が過ぎていく。

 北はいつしか、節目節目に翔像が見せてくれる写真が楽しみになっていた。

 自分に妻子がいない分、翔像の家庭の様子を垣間見ることに楽しみを感じていたのかもしれない。

 そうしていく中で、ついにその日がやって来た。

 

 

「なに、名前だと?」

「はい。医者の話では予定日は来年の夏ってことで」

 

 

 翔像の妻・沙保里が、妊娠したのだ。

 翔像は嬉しそうで照れくさそうで、北も温かな気持ちになった。

 この時には翔像はすでに異動していたが、付き合いは続いていた。

 こう言う日常の喜びは、日々の激務に疲れた身体と心にじわりと染み込んでくる。

 

 

「まだ男か女かわからない内に気が早いんですが、名前を考えないといけなくて。男の子の名前は妻が考えるんですが、女の子の名前なんてさっぱりで。北さんなら何か良い名前を知らないかなと」

「女子の名前と言われてもな……」

 

 

 興味の無いふりをしつつ、北はこの後しばらく子供の命名関係の書物を読み漁ることになる。

 その後、彼の考えた名前が採用されたかは、北と翔像の2人しか知らないことだ。

 しかし、そんな穏やかな日々も長くは続かなかった。

 おりしも世界は、謎の「幽霊船」の出没に揺れていた時期だ、そう。

 

 

 ――――<大海戦>である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 翔像は同世代の中でメキメキと頭角を現し、この時期にはすでに護衛艦の艦長にまでなっていた。

 ただ艦長としての初陣が後に<大海戦>と呼ばれる戦いであったことは、彼にとっては不幸だったし、また彼の人生においても重大な意味を持つことになる。

 それこそ、世界を変えるほどに重大な意味を。

 

 

 あの<大海戦>の人類側の損害は、今でもはっきりとはわかっていない。

 わかっていることは、60万人に及ぶ死傷者が出たと言うことだ。

 その中で生き残っただけでも、十分に奇跡と言える。

 翔像は、初陣にしてその地獄を生き延びたのだ。

 

 

「何ということだ……」

 

 

 そしてそれは、陸自艦『あきつ丸』艦長といて海戦に参加していた北にも言えることだった。

 しかし戦後の目も背けたくなるような光景は、北をして茫然自失とさせる程だった。

 日本艦隊は後方支援を主任務にしていたが、前衛艦隊が予想を遥かに上回る速さで崩壊したため、なし崩し的に「幽霊船」艦隊との戦いに巻き込まれていったのだ。

 

 

 敵はまさに竹を割るような、破竹の勢いで進んだ。

 各国の主力艦隊を集結させた人類の連合艦隊が、成す術なく断ち割られたのである。

 人類史上最大にして最強と称された艦隊は、「幽霊船」の人智を超えた力の前には全く無意味だった。

 北の『あきつ丸』もまた、戦闘能力の半分を失って戦線を離脱せざるを得なかった。

 

 

「しかし艦長、この混乱した戦況では離脱こそ至難の技です!」

「わかっている。だがここを突破しなければ……ぬおっ!?」

 

 

 <霧>。

 霧と共に現れた幽霊船達は、この海戦の後にそう呼ばれるようになった。

 まるで亡霊に動かされているかのような無人の艦艇、そして考えが無いかのような直進。

 人類側の攻撃が効かないことを良いことに、()()()()()()()()

 戦略も戦術も無い、純粋な力だけで殴られているような印象を受けた。

 

 

「ぐお……。っ、楓! しっかりしろ!?」

 

 

 そして、超至近距離で砲撃してくる。

 中には体当たりで割られる艦もあるが、『あきつ丸』は前者だった。

 艦橋を抉ったその一撃は指揮所を粉砕し、北自身の意識も一瞬途絶えた。

 霧が立ち込める海の最中、瓦礫を押しのけて負傷した副長――楓を助け起こす。

 楓はすでに気を失っていたが、鉄骨に身体の半分を押し潰されていた。

 

 

「……ここまでか」

 

 

 そこかしこから部下の呻き声が聞こえる中、むき出しの艦橋には霧混じりの海風が吹き込んで来ていた。

 潮と鉄と油の匂いが、鼻につく。

 そしてその先には、艦名も知らない<霧>がいた。

 艦体に不可思議な輝きを纏いながら、無人の野を進むが如く直進してくる。

 

 

「艦長、友軍が!」

「なに?」

 

 

 その時、敵艦の気を引くように戦場の只中へと飛び込んでいく艦があった。

 護衛艦『あさひ』――翔像の艦だった。

 

 

「千早か!? 何を!」

 

 

 この状況下で止める方法などあるはずも無い。

 しかも『あさひ』は、どう言うわけか、進むべき航路がわかっているかのように、砲撃を掻い潜りながら進んでいた。

 千早、と呟く北の目の前で、『あさひ』は敵艦隊の中へと消えていった。

 次に『あさひ』が出てきた時、そこには……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早翔像の名は、全世界に鳴り響いた。

 それはまさに雷名轟くと言った風で、世界の海軍関係者は一様に翔像と接触を持ちたいと考えるようになった。

 最も、それは霧による海洋封鎖が完成してからは極めて難しくなった。

 

 

「千早!」

 

 

 そして<大海戦>から、つまり人類が制海権を失ってから7年後、世界は一変していた。

 制海権を失った人類は急速に衰退しており、海洋には霧の艦艇が跋扈していた。

 これを打破せんともがく人類――日本政府は、ついに禁じ手を行うことを決めた。

 それを提案したのが翔像だと聞いた時、北は一も二も無く翔像の下に駆けつけた。

 

 

「北さん、ご無沙汰してます」

 

 

 <大海戦>における人類側の()()()()()、イ号401での航海。

 それを行う人材は、イ401を鹵獲した翔像本人以外には存在しなかった。

 北はすでに海上自衛隊――海軍を退役して政治家に転身していたが、この頃にはすでに大きな影響力を持つようになっていた。

 

 

 一方で、翔像。

 彼はイ401の鹵獲以後、英雄として祭り上げられていた。

 階級はすでに大佐となっていて、このイ401航海任務が成功すれば将官になるのは目に見えていた。

 ただ、翔像は7年前とはまるで別人になっていた。

 

 

「……痩せたな、千早」

「北さんも、あまり無理はされない方が良いですよ。軍でも北さんのご活躍は良く聞きます」

 

 

 頬がこけ、目には力が無く、身体もどこか細くなっていた。

 あの勇敢な海兵の姿は陰を潜めて、疲れ切った老兵のような男がそこにいた。

 英雄、人類の唯一の希望――そんな風に言われ続けて、疲れてしまったのだろう。

 だが、身体の衰えはまだ良かったのかもしれない。

 

 

「ご家族はどうしている? 何か困っていることがあれば」

「ありがとうございます。でも大丈夫です、不自由はしていません」

「……そうか。いや、そうだな」

 

 

 翔像自身と家族の生活は、日本政府が保証していた。

 だから健康と言う意味では万全で、翔像が痩せてしまっているのは別の事情からだった。

 周囲の期待と、重圧。

 それがわかっているのにどうしてもやれない、北もまた苦しんでいた。

 

 

「千早、あまり抱え込むな」

「大丈夫です、北さん。これはオレがやるべきことなんです」

「しかしな」

「北さん」

 

 

 翔像が感じていたそれは、いったいどれだけの重さだったことか。

 もっとやりようはあったのでは無いかと、現在に至るまで北は後悔していた。

 

 

「北さんは、ご自分の先祖が何をしていたとか聞いたことはありますか?」

「……? 我が家は代々軍人の家系だが」

「そうですか、北さんらしい。きっと、立派な人達だったのでしょうね」

「千早?」

「……オレの家は、そうでも無かったみたいです」

 

 

 それが最後の会話だったのだが、当時の北はあまり良くわかっていなかった。

 疲れているのだろうと、ストレスに倦んでいるのだろうと、慰めるばかりだった。

 あの時の翔像が何を考えていたのかは、今でもわからない。

 最後まで理解してやれなかったのだろうと、後にそう思うようになった。

 

 

 ただひとつわかっていることは、航海から翔像は帰って来なかったと言うことだ。

 帰って来たのは、無人のイ401と。

 もう一隻のイ号潜水艦、イ404だった。

 ――――そう、何故か一隻増えていたのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 翔像が去った後――最も、最初の時期は殉職扱いになっていた――北は、翔像の家族を気にかけていた。

 罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。

 この時期にはすでに北管区の保護下にあった翔像の妻、沙保里に会ったのもこの時期だった。

 正直、会いに行くのには北をしてかなりの勇気が必要だったが、沙保里自身の爛漫な性格が幸いして、罪悪感は薄まった。

 

 

「お言葉ですけどね、北議員。私はあまり心配していないんです」

 

 

 沙保里に直接会ったのは、これが始めてだった。

 鳥類学者だと言うこの女性は、なるほど翔像が伴侶に選ぶだけあって肝の太い女性だった。

 とても未亡人には見えず、まして政府に軟禁されているようには見えなかった。

 流石に翔像が横須賀に残された子供達のことは心配していたが、北も放っておくつもりは無いことを伝えると、幾分か安堵した様子だった。

 

 

「皆はあの人が死んだって言うけれど。不思議ですよね、ピンと来ないんですよ」

 

 

 印象的だったのは、沙保里が翔像のことについてほとんど心配していなかったことだ。

 悲哀から来る現実逃避と言うわけでは無いことは、沙保里の目を見ていればわかった。

 そしてそれは、北の考えと全く一致するところだった。

 

 

 北は、翔像が最後に言っていた「先祖」と言う言葉が気になっていた。

 そのことについて沙保里に尋ねてみると、彼女も良くわからないとのことだった。

 ただ学者家系だと言う沙保里の実家――沙保里の旧性は出雲と言う――で、曾祖父が奇妙な研究をしていたことを話してくれた。

 

 

「奇妙な研究?」

「私は会ったことが無いんです。うちの人(旦那)と同じで軍人になった人で、ドイツに駐在武官として赴任した先で何かしていたらしいって。祖母から聞いた話だと、海の何かを調べているって手紙を貰ったとか」

「海の何か……」

「ドイツに赴任するまで、そんな研究なんて何もしていなかったのに不思議だったと祖母が首を傾げていました。100年以上前の戦争のごたごたで行方不明になって、もう会うこともできなかったと」

 

 

 100年前と言えば、旧大戦の時代である。

 沙保里の他の家族も全員がすでに他界していて、話を聞くことはできなかった。

 ……今にして思えば、それも不自然なことだったのかもしれない。

 

 

「その御仁の名前を聞いても宜しいか?」

「ええと、何だったか……カオル。そう、出雲薫。自衛隊……あ、今は統制軍? よりもずっと前の、旧帝国陸軍の軍人だったそうです」

「出雲、薫。帝国陸軍の軍人か」

 

 

 陸なのに海の研究なんておかしいですよね、と、沙保里は言った。

 今さら調べることも出来ないだろう古い名前に、しかし北は関心を持った。

 まるで言霊か何かのように、耳から、頭から離れなかったのだ。

 この疑念とも呼べない小さな引っ掛かりは、後々まで北の中でしこりとなって残ることになった。

 

 

 それから北は、翔像が横須賀に残した2人の子供達を陰ながら見守ることにした。

 自分に出来ることはそれくらいだと、そう思っていた。

 2人が「英雄の子供」と政治に利用されないよう、関係者を宥め、(すか)し、脅し、注視し続けた。

 そして、あの日を迎える。

 第四施設焼失事件、運命のその日を。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 第四施設炎上。

 その報を聞いた時、北は自ら車を駆ってすぐに駆けつけた。

 だからといって軽々に動けるわけでも無く、現場に入ることが出来たのは完全に鎮火した後のことだった。

 

 

 息子(群像)が無事なのは確認した、(紀沙)を探すつもりだった。

 翔像の子らに何かあれば、彼に顔向けできない――この時すでに、翔像の生存が確認されていた――と思っていた。

 そして、そこで北は不思議な体験をすることになる。

 

 

「……歌?」

 

 

 歌――子守唄が、聞こえて来た。

 防火対策がされていたはずの、しかし完全に焼失してしまっている第四施設の跡地を歩いている時、聞こえて来たのだ。

 規制されて他に誰もいないような場所で聞こえるには、穏やかに過ぎる唄声。

 聞こえるはずの無い声に足を速めると、瓦礫が山と積もっている場所に出た。

 

 

「ああ、やっと来てくれた」

 

 

 そこに、女生徒がいた。

 長い髪の可憐な少女で、海洋技術総合学院の制服を着ていた。

 生存者かと思ったが、その少女が瓦礫の頂に座っていて、しかもその瓦礫がドーム状に固定されていることに気付いて足が止まった。

 

 

 偶然に積み重なったというわけでは無いことは、見ればわかった。

 明らかに何らかの力によって瓦礫が固定されて、その下にいる少女を他の災厄から守っていた。

 守られている少女は、北の探していた少女だった。

 

 

「このまま、誰も迎えにきてくれないのかと思った」

 

 

 瓦礫の上にいる少女の周囲には、白く輝く粒子のようなものが舞っていた。

 あの輝きを、北は良く知っていた。

 かの<大海戦>の折、霧との戦いの最中で見たことがある。

 それを思い出した北は、懐から拳銃を取り出し、瓦礫の少女に向けた。

 

 

「お前は何者だ」

「私は――――……コトノ。そう、コトノ」

 

 

 少女は、哀しげな顔で自分のことをコトノと呼んだ。

 それから、自分の下で眠っている少女へと視線を落として。

 

 

「北良寛議員、貴方が良い人だと見込んでお願いがあります」

 

 

 北はコトノと会ったことは無い。

 しかしコトノは、北のことを知っていた。

 その両の瞳が、白く不規則に輝いている。

 不思議と、目を逸らすことが出来なかった。

 

 

「今から2年後、この子は()()()()()。それはきっと、皆の希望になるはずだから」

「何を言っている」

「今のままじゃ、私達は古い契約(コード)に縛られた行動しか取れないから。新しい契約(コード)が必要なんです。だからそれまで」

「何を言っているんだ、お前は!」

「それまでは、()()の人類評定は終わらない――――」

 

 

 いよいよ引金に指をかけたその時、強い風が吹いた。

 うっ、と目を閉じ、開けた時には、コトノの姿は消えていた。

 

 

『それまで、この子を守ってあげてください』

 

 

 その途端、瓦礫が崩れ始めた。

 あっと叫んで、北は拳銃を手放して駆け出した。

 瓦礫のドームの中に迷わず飛び込み、少女――紀沙を抱えて飛び出した。

 いかに元軍人とは言え、すでに老齢の北には厳しい動きだ。

 それでも彼は、崩れる瓦礫の中から紀沙を救うことに成功したのだった。

 

 

『私達は霧。あなた達が造り、あなた達を守り、あなた達を封じることを契約した存在』

 

 

 この時の北にはわからなかったが、後にして思えば、これが()()()()()()()()()との最初の邂逅だったのだろう。

 

 

『それを、きっと紀沙ちゃん(その子)が――――……』

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ……――――目を開けると、車はすでに湾岸を走っていた。

 ここまで来れば屋敷までもう少しだ。

 年を取ったせいかな、と、少し自嘲めいたことを考えた。

 最近、良く昔のことを思い出すのだ。

 

 

(なぁ、千早よ。我らはいったい、どんな世界を子供達に残せるのだろうな)

 

 

 与党の幹事長だとか首相候補だとか、大物議員だとか先生だとか呼ばれることには何の価値も無い。

 要は何を成し、次の世代に何を残したかなのだ。

 楓首相が過去3年間に比べて活発になった理由も、ようやく次の世代に何かしてやれると言う意気込みから来るものだ。

 

 

 北の世代にとって霧とは侵略者であり、海は取り戻すべきものだ。

 しかし子供達にとって、この17年間しか知らない者にとって、霧は最初からいて当たり前のもので、海は最初から近くて遠い存在だった。

 アメリカのエリザベス大統領が水面下で進めているらしい霧との融和路線も、そう言う新しい世代の登場を見込んでのことだろう。

 

 

(そんな世代に、あえて戦えと言うのは酷なのかもしれん)

 

 

 それは、後悔にも似た感情だったのかもしれない。

 第四施設焼失事件の後、イ401の出奔の後に紀沙を引き取っておきながら軍人以外の道を用意できなかった。

 そして、コトノと言う少女の言葉を知りながら海に出したことも。

 

 

 これは運命だったのだと、自分に対して言い訳をしたこともあった。

 兄である翔像がイ401で出奔し、呼応するように二隻目のイ号――イ404が起動したことも。

 全ては逆らいようの無い流れなのだと、言い聞かせたこともあった。

 仕方の無いことなのだ、と。

 

 

(あの娘が希望だと、そう言っていた)

 

 

 だが、それで納得できるなら政治家などと言う選んだりはしない。

 希望に縋って動かないような、そんな存在にはなりたくは無かった。

 政治とは、何かを変えるための仕事なのだから。

 

 

「せめて、次の者達に少しはマシな世界を渡せれば良い……む?」

 

 

 不意に、車が止まった。

 湾岸の道路の途中でのことで、もちろん、まだ北の屋敷までは遠い。

 動揺したりはしないが、何かあるのかを前を見るくらいはする。

 そしてフロントガラスの向こう側に、誰かが立っていることに気付いた。

 あのまま進んでいれば事故になっていただろう、運転手が止まった理由はわかった。

 

 

「あれは……」

 

 

 問題は、誰がそこに立っているのかと言うことだった。

 そして、北は見た。

 そこに立っていたのは、人間離れした美しさを持つ少女だった。

 栗色の髪の少女。

 長い髪を海風にたなびかせて、こちらを、北をじっと見つめてきている。

 

 

 見覚えがあった。

 北はあの少女を知っていた。

 かつて第四施設跡で会った。

 あの少女は、確か……。

 

 

「   」

 

 

 視界の端で、何かがキラリと輝いた気がした。

 しかし北の言葉は、次の瞬間に巻き起こった爆発によって掻き消された。

 人類が横須賀と外洋を隔てるために築いた壁、その向こう側から放たれた砲撃によって。

 北の乗る車が、天板から撃ち抜かれて爆発したのだった。

 

 

『当たった?』

「ええ、当たったわ」

 

 

 ――――その一部始終を目の前で見つめていた少女、『ヤマト』コトノは、淡々と事実のみを告げた。

 海風と爆風に揺れる横髪を押さえながら、もうもうと煙を上げる車()()()ものを見つめている。

 その表情は、哀しげだった。

 それから、ゆっくりと歩き出した。

 

 

「ありがとうございます。この2年間、紀沙ちゃんを守ってくれて」

 

 

 足元、横たわる腕に向けて。

 

 

「そして、ごめんなさい」

 

 

 本当に哀しそうに、そう言った。

 満天の星空だけが、すべてを目撃していた。

 




最後までお読み頂き有難うございます。

突然ですが、北さんのお話でした。
我ながら唐突感が半端無いですが、この人以外に翔像さんを語れる人がいなかったんや(え)
個人的には、この人は翔像の物語と群像の物語の間に位置する第三の主人公っぽいなと思っています。

それでは、また次回。


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Depth056:「ロンドンにて」

 

 心臓に、何か鋭利なものが刺さった感覚があった。

 最初は冷たく感じたそれは、すぐに熱を持ち始めた。

 それも尋常な熱さでは無く、まるで心臓を火で炙られているのでは無いかと錯覚する程の熱だった。

 

 

「――――!」

 

 

 す、とムサシが離れると、紀沙はその場に膝をついた。

 熱い。

 心臓がひとつ鼓動を打つ度に、何か重いものが体内に送り出されているような感覚だ。

 苦しい、息が出来ない。

 

 

 叫び出したい衝動に駆られているのに、声が出ない。

 左胸を押さえて顔を上げれば、そこには妖しげに嗤うムサシがいた。

 手指に血などはついていない――不思議なことに、紀沙の身体にも傷一つ無い――が、ペロリ、と舌先で紀沙を貫いた指先を舐めていた。

 

 

「苦しそうね」

(他人事みたいに言って……!)

 

 

 反論は、しかし言葉にならない。

 不味い、と、そう思った。

 ずくん、ずくんと強まる痛みに、息を詰まらせる。

 

 

(意識が)

 

 

 瞼が重い、視界が徐々に暗くなってきていた。

 本能的に、自分が今気を失いつつあるのだとわかった。

 しかしここで気を失うことは、正直に言って良い将来をもたらさない。

 わかってはいるのだが、どうすることも出来なかった。

 

 

 視界が暗くなり、やがて身体も支えきれなくなって、頬が床に触れるのを感じた。

 そしてその間にも、心臓の熱はより強くなっていっているのだ。

 身体が重く、動かない。

 視界が、真っ暗になった。

 

 

(父さん)

 

 

 翔像は、助けてはくれなかった。

 哀しいのだろうか、自分は。

 不思議と哀しみは無く、どこか納得している自分もいて。

 そうした自分を見つめながら、瞼が鉛のように重くなっていって。

 

 

 不意に、浮遊感を感じた。

 夢に落ちた感覚に似ていたが、それは現実に身体が感じた浮遊感だった。

 誰かに抱き上げられた感覚に似ていて、紀沙は想った。

 ――――にいさん?

 

 

「悪いけど、そんなに良いものじゃないよ」

 

 

 ああ、なんだ。

 と、声を聞いた時に思った。

 こういう時に来るのは、決まって()()()

 そう思って、紀沙の意識は落ちた。

 

 

「……他人(ひと)の艦長に、随分なことをしてくれたじゃないかい?」

「あら、404。随分と来るのが遅かったのね。まるで……」

 

 

 どこからとも無く霧のように現れたスミノが紀沙を抱いて、ムサシを睨んだ。

 鋭い視線を柳のように受け流して、ムサシは嗤う。

 

 

「まるで、()()()()()()

 

 

 そんなムサシの言葉に、スミノは口の端をくっと歪めた。

 それは自嘲のようにも、苦笑のようにも見えたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スミノは、片腕に抱えた紀沙の様子を見た。

 瞳が一瞬白く輝いたのは、紀沙の身体をスキャンしたからだ。

 そして、すぐに表情を歪めた。

 

 

「見えた? 良い子ね」

 

 

 クスリと笑って、ムサシは言った。

 

 

「その子の心臓に残したのは、私の欠片」

 

 

 ムサシの欠片(コア)

 超戦艦であるムサシは、本来ならばメンタルモデルを複数体保有していておかしくは無い。

 しかしムサシはそれをせず、「ムサシ」というメンタルモデル一体にすべての力を集中している。

 それは、あの『ヤマト』に対抗するため……。

 

 

 紀沙の心臓には、超戦艦『ムサシ』のコアの欠片が埋め込まれた。

 心臓が鼓動を打つ度に、血流と共にコアの欠片から滲み出たナノマテリアルが全身を巡る。

 ナノマテリアルは紀沙の肉体の蘇生を人類のそれから、霧のものへと変貌させていくだろう。

 そう。

 

 

「ナノマテリアルは、()()()()()()()()()

 

 

 両手を合わせて、楽しそうにムサシが笑う。

 重力場を操り引き剥がした床板をスミノが翔像に向けて飛ばすと、ふわりと舞って翔像の前に飛び、視線を向けるだけで全てを止めてしまった。

 粉微塵になって砕けた床石は、何かを象徴しているようにも見える。

 

 

「貴女の演算力では、私には勝てない」

 

 

 超戦艦と、巡航潜水艦。

 元々、演算力には雲泥の差がある。

 にっこりと、ムサシが毒気の無い笑顔を浮かべた。

 そして次の刹那、ムサシが手を上げ、六対の光の槍が襲い掛かってきた。

 

 

「……!」

 

 

 舌打ち一つ、スミノが床に手を触れさせるのと、ムサシの槍が炸裂するのはほとんど同時だった。

 轟音。

 ホテルの床が崩壊する音が響く中、何故か翔像の足場だけが無事だ。

 もちろん、ムサシは浮かんでいるので足場があろうが無かろうが関係が無い。

 

 

「……はったりもそこまで行くと大したものだな」

「お父様の真似をしてみただけよ」

 

 

 ふわり、と床にぽっかりと開いた穴の下を見下ろして、スミノと紀沙の姿が見えないことを確認する。

 そして、むき出しになった鉄骨の一部にあるものが付着していることを見つけた。

 それは、赤い液体だった。

 まるで、血のような。

 指先で掬ったそれを舌で少しだけ舐め取ると、ムサシはぶるりと身体を震わせた。

 

 

「……甘い」

 

 

 翔像は、それをじっと見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ホテルの窓を砕いて、外に飛び出した。

 紀沙を腰に抱えたまま、ホテルの前に停まっていた車両を踏みつけて着地した。

 運転席から慌てて転がり出てくる人間には目もくれず、そのまま跳躍する。

 一足で真向かいのビルの屋上まで跳ぶ脚力は、やはり人間離れしていた。

 

 

「う……」

「ごめんね、艦長殿。来るのが遅くなったよ」

 

 

 屋上への着地の衝撃で呻いた紀沙にそう声をかけて、今度はもう少し速度を落として跳ぶ。

 紀沙の心臓の件も気になる様子だったが、今はこの地区から離れることが先決だった。

 最も、ムサシの領域はこのあたり一帯――いや、ロンドン全域に広がっているだろうが。

 

 

 次のビルへと跳躍している時、スミノは風がほんの一瞬変わったことに気付いた。

 風上からやって来た何かが風の向きを遮ったからで、それは横に回転しながら近付いてきていた。

 そしてスミノが気付いた時、目の前にヒールの靴先が迫っていた。

 

 

「ちっ……!」

 

 

 片手を顔の前に置き、蹴り足との間でクッションにした。

 しかし衝撃は殺しきれず、掌を挟んで相手の蹴りが空中で直撃する形になった。

 どん、と凄まじい音が響いて、紀沙を抱えたまま吹き飛ばされ、空中で二転三転した。

 十数メートル離れたところで重力場を展開、制動をかけて別のビルの壁面に()()した。

 顔を上げる、もちろん怪我一つ無かった。

 

 

「誰だい、ボクは急いでいるんだけどな」

「失礼、ムサシ様がまだ貴女の退出許可を出していなかったもので」

 

 

 赤い眼の、レディーススーツの女だった。

 スミノと同じように空中に重力場の足場を作り、浮かんでいる。

 明らかにメンタルモデルだった。

 赤髪のポニーテールが、ロンドンの湿った風に揺れていた。

 

 

「欧州方面大西洋艦隊――改め、<緋色の艦隊>所属。海域強襲制圧艦『フューリアス』です。以後よろしくお願いします」

「やれやれ、陸で活動だなんて。まるで兵士だね。霧ともあろうものが人類の軍隊の真似事かい? 霧としての誇りはどこにやったのやら」

「貴女にだけは言われたくないですね」

 

 

 感知してみれば、似たような気配を複数感じる一方で、人間の気配が無かった。

 

 

(やれやれ、暢気(のんき)に寝ちゃってさ)

 

 

 これは脱出に苦労しそうだと、割と本気でそう思った。

 寝ている紀沙が羨ましくもなったが、冗談を言っている余裕は余り無かった。

 ムサシ程では無いが、海域強襲制圧艦――いわゆる航空母艦クラス――となると、演算力はもとよりコアの出力も相当なもので、簡単に言えば相当に強い艦種なのだ。

 

 

 ……やれやれ。

 嘆息して、スミノは目を閉じた。

 瞼の裏で瞳が白く輝き、同時に離れた位置へと意識を飛ばす。

 それは、いわば彼女の本体とも言うべきものがある場所だった。

 イ号404である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海兵隊と言えば、最強の軍隊と呼ばれている。

 簡単に言えば陸戦の出来る海兵だが、陸軍でも海軍でも無い別の軍種として扱われている。

 即応性が高く、他の軍種に比べて採用制限が少なく、実戦投入される機会も多く、死亡率も高い。

 その分、精鋭が育ちやすい。

 

 

「うおおおおやべえええええっ!!」

 

 

 イ404はロンドン南東のチャタムと言う係留されていた。

 そこにはイギリス海軍の地下ドックがあり、イ404も海水を抜かれた状態でドックに固定されている。

 流石に周りはイギリス海軍の艦船や関係者に囲まれていたが、どことなく横須賀の地下ドックを思い出させた。

 

 

 だからと言うわけでは無いが、冬馬は艦の外にいた。

 甲板の上に寝転んでの優雅な昼寝である、洗濯物を干す目的もあった。

 ところがである。

 乾くまで寝るかと決め込んでいたら、何やら周囲から物々しい雰囲気を感じるでは無いか。

 

 

「な、何だ何だっ、いきなり撃ってきやがって!」

 

 

 何事かと思って甲板から顔を覗かせてみれば、烈火の如く鉛玉が撃ち込まれてきた。

 しかも一発や二発では無く、アサルトライフルを用いた本格的な射撃だった。

 ドック側に横一列になった迷彩服姿の兵士達が、一斉に発砲してきたのである。

 「鳩が豆鉄砲を喰らった」を地で行く形で、冬馬はセイルの陰に隠れた。

 

 

 そんな彼の目の前に、ヒラヒラと洗濯物のシーツが落ちて来た。

 焼け焦げた無数の穴でボロ布と化したシーツを見て、ぞっとした。

 良く当たらなかったものだ。

 一瞬だけ見えた相手の軍章は、イギリス(ロイヤル)海兵隊(マリーン)のものだった。

 

 

「アメリカの州兵よりヤベえ」

 

 

 当然だった。

 彼らは正規軍、しかも最強を謳われる海兵隊である。

 治安維持部隊に過ぎないアメリカ州兵とは装備も錬度も段違いである。

 今も火力でこちらを圧倒しつつ、足元では別働隊――イ404の制圧部隊が近付いてきているだろう。

 

 

「~~ったく。ガンガンガンガン撃ってきやが……って?」

 

 

 セイルの反対側から銃弾の弾着音が途切れない。

 ハッチがそちらにあるので、艦内に戻ることも出来ない。

 そう思っていると、さらなる状況の変化が冬馬を襲った。

 

 

「おいおいおいおいおい」

 

 

 鈍い音を立てて、イ404を固定するドックが上昇を始めた。

 要するに、動き始めたのである。

 気のせいでなければ機関も動き始めたようで、内側から熱と音が上がってきていた。

 

 

「っくしょーが! これだから霧ってのは面倒なんだよ!」

 

 

 天井の隔壁が左右に開いていくのを見上げながら立ち上がって、セイルの反対側へ走る。

 あれだけの銃弾が撃ち込まれていたにも関わらず、艦体には傷一つ無かった。

 そしてこのドックの解放は、イギリス側の本意では無いだろう。

 

 

『ソナー! どこでサボってるんだい、早く来な!』

「うげっ、そんな怒鳴らなくたって良いだろ!」

 

 

 ハッチを潜って艦内に着地すると、放送で梓が怒鳴っていた。

 言われなくともと、発令所まで駆ける冬馬。

 

 

(するってーと、ロンドンの艦長ちゃんの方で何かあったかな)

 

 

 ドックの動きはイギリス側の本意では無く、艦の動きは冬馬達の意思では無い。

 おそらく、スミノが動かしたのだろう。

 あのスミノが自分達を守るために艦を動かすはずも無いので、自然、紀沙の身に何かが起こったとわかる。

 とりあえず反乱せずに済みそうだと、冬馬は思ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クソが。

 と、こう言う時に人間は汚い言葉を使うのだろうか。

 そんなことを考えながら、スミノは紀沙を抱えてロンドンの街を駆けていた。

 いつの間にやっていたのか、あるいは緋色の艦隊の司令部があるからか、他の人間の姿が見えない。

 

 

 ロンドンの一角は、もはや戦場だった。

 動いているのはほんの数人に過ぎないのに、さながら市街戦の中心だ。

 理由は、動いている者達の()()による。

 

 

「ほいっと」

 

 

 ストリートを駆けるスミノ、その眼前で地面が隆起した。

 コンクリートの道路が砕けながら折れ、迫ってくる。

 スミノは隆起して盛り上がったコンクリートを階段に見立てて、一気に駆け上がっていった。

 そして最後の一段を蹴り、空中に身を躍らせた

 

 

「――――右から行きます、『デヴォンシャー』」

「左から行きます、『シュロップシャー』」

 

 

 直後、2体のメンタルモデルが左右から襲い掛かってきた。

 双子のように似た風貌の彼女達は、緋色の艦隊所属の重巡洋艦だった。

 髪はどちらも男のように短い赤毛、そしてレースクイーンを思わせるセパレート衣装。

 実際、スポーツカー程では無いにしろ動きは速かった。

 

 

「鬱陶しいなあ」

 

 

 右腕は紀沙を腰に抱えているのに使えない。

 そこで左手はシュロップシャーの拳を受け止め、右足の足裏でデヴォンシャーの拳を受け止めた。

 そのまま重心を微妙にズラして、一方を前に残りを後ろへと受け流す。

 結果、スミノは一回転してデヴォンシャー達を左右に流す形になった。

 

 

「……ちぃっ!」

 

 

 そのまま通り抜けようとしたが、そうは問屋が卸さない。

 重力場を左足の下に緊急展開して爆発させ、無理矢理に前に出る。

 その直後、真上から直立姿勢のままフューリアスが落ちて来た。

 両足で踏み砕かれたストリートを見て冷たいものを感じつつ、風圧に巻かれながら距離を取った。

 

 

「逃がしませんよ」

「どんどんワラワラ出てきてまぁ」

 

 

 しかもイ404の艦体の方も、イギリス軍を相手にドンパチやっていたようだ。

 人間の兵器など恐るるに足りないが、湾内には緋色の艦隊の艦艇もいるだろう。

 そちらにも気を配りながらとなると、多対一と言う状況はかなり不味かった。

 

 

「う……うう……」

 

 

 加えて、スミノにはガードしなければならない対象(紀沙)がいる。

 触れている部分からでもわかる程に体温が高く、熱に浮かされていた。

 人間の体調はスミノにはわかりにくいが、それでも良くないことはわかる。

 

 

「と……ん……うう……」

 

 

 うわ言を繰り返して、眉を潜めている紀沙。

 犯された心臓が鼓動刻む度に、ナノマテリアルの毒が全身を駆け巡っている。

 この状態でいったい、彼女は何を見ているのだろうか……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――熱い。

 熱い、熱い、熱い。

 身体中が熱に浮かされていて、寝苦しくて仕方が無かった。

 

 

『……を……る、の……』

 

 

 誰かが話している。

 五月蝿い、今は誰かと話すような気分では無かった。

 苛立ち、むずかるような声を出す紀沙。

 すると。

 

 

『私を、私達を裏切るのね……!』

 

 

 怨嗟がとぐろを巻いているような、重苦しい、そんな叫びが耳に聞こえた。

 それがあまりにも近くで聞こえたものだから、紀沙は驚いて目を開けた。

 するとまさに目と鼻の先に細い足があって、誰かが立っていることがわかった。

 しかも、周りは火の海だった。

 

 

「……な!?」

 

 

 これには、流石に飛び起きた。

 そこはどこかの海上だった。

 紀沙は艦の甲板の上にいて、傍に細い足の少女――これはムサシだ、警戒したが相手は紀沙を見ていなかった――がいて、そしてもう1人。

 

 

「父さん……?」

 

 

 父だった。

 疑問符がついたのは、自分のすぐ傍に倒れていた父が統制軍の軍服姿で、しかも先ほど会った父よりもずっと若かったからだ。

 どちらかと言うと、記憶の中の父の姿に近い。

 

 

『ムサシ、今しか無いの!』

 

 

 ここは大戦艦『ムサシ』の艦上だと、すぐに気付いた。

 炎上していた。

 だが不思議なことに、炎はすぐ側にまで迫っているのに、その熱さを感じることは出来なかった。

 

 

『彼は失敗した、出雲の血族では無かった! 『アドミラリティ・コード』は彼の指令を受け付けない』

『だから()()の望む通りにしようと言うの。私は認めない』

「……何の話をしているの?」

 

 

 『ムサシ』、そして『ヤマト』の砲門は互いを向いている。

 それで撃ち合ったのだと気付いた、『ムサシ』が燃えているのはそのためか。

 だが、ムサシとヤマトが何を言い争っているのかがわからなかった。

 

 

「『アドミラリティ・コード』の()()を巡って争っているんだ」

 

 

 誰だ、と思って振り向いた。

 

 

「と、父さん!?」

「ここは『ムサシ』の記録……いや、記憶の中だ。ムサシの一部を取り込んだことで、リンクしているのだろう」

 

 

 現在の翔像が、そこにいた。

 未だ言い争いを続けているムサシとヤマトを、どこか哀しそうな表情で見つめている。

 そして、もう10年前になるか、とぽつりと呟いた。

 

 

 10年前? と、紀沙は訝しんだ。

 10年前と言えば、翔像がイ401で航海に出た頃だ。

 これはその時の光景だと言うことだろうか?

 とすればこれは、翔像が失踪した時の記憶なのか。

 

 

「そしてあれが」

 

 

 その時、翔像がふと頭上を指差した。

 夜なのだろう、ムサシの記憶の空は真っ暗で、炎の赤に染まっていてなお眩く星々が輝いていて。

 ……いや、違う。

 一際強く輝いているあれは、何だ?

 

 

「あれが、『アドミラリティ・コード』だ」

 

 

 何でも無いことのように、翔像は言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の規範、『アドミラリティ・コード』。

 それは全ての霧にとって最優先すべき命令(コード)であり、霧の艦艇にとって最も重要な存在であった。

 最も、紀沙はそれをスミノからの伝聞レベルでしか知らない。

 

 

 それが今、夜空を十字に切り裂かんとしていた。

 偉大なる(グランド)十字架(クロス)が、天と海に輝いている。

 光り輝くそれは美しく、そしてどこか禍々しかった。

 あれはいったい、何だ。

 

 

「1世紀以上も前のことだ、『アドミラリティ・コード』は一度起動した」

 

 

 正確には、1945年5月1日。

 歴史的には、()()()()()の終戦直前である。

 『アドミラリティ・コード』は、そのヨーロッパで起動した。

 しかし、すぐに休眠状態に入った。

 

 

「ヨハネス・ガウス、グレーテル・ヘキセ・アンドヴァリ……そして、出雲薫。この3人の手により『アドミラリティ・コード』は起動し、そして停止した」

「誰?」

「さてな。今となってはわからない。ただ、母さんの旧姓は出雲だ」

 

 

 出雲――出雲家。

 母の実家だ。

 

 

「そして今世紀に入って、『アドミラリティ・コード』は断続的に起動と休眠を繰り返すようになった」

 

 

 <大海戦>の以前から、「幽霊船」と言う形で活動を始めた霧の艦艇。

 それは『アドミラリティ・コード』が活性化すると共に強くなり、やがて人類を海洋から駆逐するまでに至る。

 そして10年前、その眠りは完全に覚める、はずだった。

 

 

()()が目覚めると、世界はまるで変わっていた。浦島太郎だな、起きたら1世紀と言う長い時間が経過していたんだ」

 

 

 しかし、『アドミラリティ・コード』は己に与えられた役目を果たそうとした。

 

 

「『アドミラリティ・コード』は、戦争の産物だった」

 

 

 前欧州大戦の時、敗戦側が悪化する戦況を覆そうとして起動させた。

 だから『アドミラリティ・コード』は「敵」を駆逐するべく動いた。

 しかし、ここで問題が生じる。

 

 

 ――――()()()()

 

 

 浦島太郎だ。

 討つべき敵を見失い、守るべき味方を見失った『アドミラリティ・コード』は、2つの結論に達する。

 すなわち「すべて敵だから滅ぼそう」と言う考えと、「すべて味方だから守ろう」と言う考えだ。

 当然、同時には履行できない。

 そこで、『アドミラリティ・コード』はさらに恐ろしい判断を下した。

 

 

『ムサシ!』

『ヤマトぉ……!』

 

 

 空が爆発した、と思える程の輝きが生まれた。

 光の十字――思えば、『クイーン・エリザベス』が見せたそれに似ている――が、突然、()()()()()()()

 カッ、と輝き、箒星の如くどこかへと飛んで行く2つの輝き。

 その下では、ムサシとヤマトが争っていて、そして。

 

 

「あれは」

 

 

 そして、十字架の下。

 十字架を構成していた光の粒子がそれぞれに集まり、何かの形を成している。

 今になって気付いた、海面に這うように何かが、艦艇(ふね)が波間に揺れていることに。

 その舳先に――()()()()()()の舳先に寄り集まったそれは、人間の少女の姿を象っていく。

 

 

「紀沙」

 

 

 翔像は言った。

 

 

「オレはこの時、何かを聞いた。聞いたと思う」

 

 

 それは、述懐だった。

 何かを変えようとして、その資格が無かった者の述懐だった。

 

 

「それを今から、お前にも聞かせる。あれが誰で、いつどこのものなのかオレにはわからなかった」

 

 

 すまないな、と、そう言って翔像は初めて紀沙と目を合わせた。

 その瞳が、人ならざる輝きを宿す。

 

 

「お前に、すべてを託す」

 

 

 そして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

『よす だグ    ル、キ  生  に る要な  な !』

 

 

 ――――なに?

 

 

『こう  し  い   ル、こ し  と   スが 界 滅  てし う』

 

『彼 祖 を、ド   守ろ と  んだ』

 

『 初は  だった よ、 も』

 

 

 ――――だれ?

 

 

『  ツの   け   い。ヨ  スはキ のた に 雄に   か た だ』

 

『私は英 な   要とし い  った、傍に て  れ  かった』

 

『待  く 、グレ   !』

 

『……彼 何も   い せは  いわ。 う、私 外 』

 

 

 ――――いったい、何の話をしているの。

 

 

『お願 、カ ル。  ドを  脳に接 し 。あなた   で  い』

 

『グ  テ 。僕 キ を』

 

『私 願 。きっ  つか、何  もがうま   と』

 

 

 ――――男の人と、女の人?

 

 

『お い、誰  を救 て』

 

『グ   ル、僕』

 

『誰 、 か、誰か……』

 

 

 ――――わたしに。

 

 

『誰か彼を、ヨハネス(コード)を、解放して』

 

 

 ――――何をしろって言うの。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どうして、と言う言葉が聞こえた気がした。

 それはスミノが抱える紀沙の口から漏れたもので、フューリアス達の追撃から絶賛逃走中だったので、顔を覗きこむようなことは出来なかった。

 ただ掴んでいる腕の感触から、目を覚ましたと言うことはわかった。

 

 

「……ずるいよ、父さん……」

 

 

 まだ本調子では無いのか、うわ言のような口調だった。

 大した意味を持たないだろうと、スミノは特に気にしないことにした。

 むしろフューリアス達の攻撃から自身と紀沙を守ることの方が大事で、さらに艦体の操艦までしなければならず、忙しいからだ。

 

 

「……私が霧を憎んでるって、知っててこんなの見せるだなんて……」

 

 

 また何の話をしているのやら。

 ただ紀沙が霧を憎んでいることを、スミノは知っている。

 その感情はとても強く、ちょっとやそっとのことでは雪()()ぐことは出来ない。

 ひとつ不満があるとすれば、その感情のすべてを自分1人に向けてくれないことだ。

 

 

「……託すって、何を? 誰を? 私は何をすれば良いの……?」

 

 

 したいことをすれば良い、と思う。

 紀沙が望むことを望むままにすれば良いと思う、自分はそれを叶えるだけだ。

 最初に出会った時に、そう誓った。

 紀沙に? いや、強いて言うのであれば自分自身にだ。

 

 

「……スミノ……」

 

 

 なんだい、艦長殿。

 こんな時でも、自分はそうやって気軽に呼びかけに応じる。

 嗚呼、他の誰でもない「スミノ」と言う「自分」が在ることへの悦び。

 人間は色々と碌でも無いものを造るが、名前だけは唯一、スミノが評価してやっても良いと思える発明だった。

 

 

 そう、スミノ。

 イ404と言う艦名では呼びにくいと、紀沙がつけてくれた「自分」の名前。

 スミノと言う名前を与えられた時から、スミノは「スミノ」だった。

 それ以外の何かだった自分は、「自分(スミノ)」になることが出来たのだ。

 

 

「……お前は、どうしてスミノなの……」

 

 

 「澄んだ入り江(スミノエ)」、海の神様の名前からとってスミノ。

 神様などと気取るつもりは無い。

 ただ一つ、スミノが決めていることは。

 

 

「艦長殿がそう呼ぶ限り、ボクはキミのスミノだ」

 

 

 それだけだ。

 それだけのために、今のスミノは存在している。

 スミノの悦びは、そこにあるのだから。

 

 

「じゃあ」

 

 

 そんなスミノに対して、紀沙は言った。

 

 

「スミノになる前は、お前はいったい何だったの」

 

 

 その前。

 「スミノ」の「前」?

 思考の外にあったその問いに、スミノは不思議な程の空虚さを自身の内に感じた。

 例えるなら、空の器を指先で弾かれたような心地だった。

 

 

 がらんどうの器の中で、紀沙の言葉が何度も響いた。

 一瞬、空虚の中に思考が沈んだ。

 その一瞬が、スミノの動きを僅かに鈍らせた。

 

 

「うわっ」

 

 

 突如、目の前のマンホールが吹き飛んだ。

 ボンッ、と鼻先を掠めながら飛んだそれを視線で追ってしまったがために、足元の警戒が疎かになってしまった。

 何かに足を掴まれる。

 

 

「――――!」

 

 

 ぎゅん、と視線を下げると、そこには見覚えのある小柄な少女がいた。

 スミノの足を掴んでいた少女と、それで目があった。

 

 

「2501」

 

 

 U-2501のメンタルモデルが、そこにいた。

 頭上の気配に気付けば、フューリアス達が迫っている。

 しかし足元を押さえられていては、これまでのように捌くことは困難だった。

 そして……。

 

 

 ロンドンの一角に、激しい爆発音が響き渡った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大きな息を吐いて、座り込んだ。

 ひゅうひゅうと掠れる呼吸は、それだけで体調の悪さを感じさせた。

 白面の顔をさらに青白くさせて、儚げな少女――ムサシは、胸に手を当てて呼吸を落ち着かせようとしていた。

 

 

「……大丈夫か」

 

 

 その肩に手を乗せて、翔像が声をかける。

 ムサシはそんな翔像に、努めて笑顔を浮かべて見せた。

 安心させようとしたと言うのもあるが、単純に気遣いが嬉しかったのだろう。

 翔像の手に自分の手を重ねて、大丈夫、と答えた。

 

 

「大丈夫よ、お父様」

 

 

 まだ、と言う言葉を呑み込んだような言い方だった。

 実際、呑み込んだ。

 今のムサシは、それほどに弱っているように見えた。

 

 

「もう少しだもの。もう少し、頑張りましょう。ね?」

「……ああ」

 

 

 そう、もう少しなのだ。

 この10年を耐えてきた、あと少し耐えるくらいは何でもなかった。

 

 

「ヤマト……ヤマトに、『アドミラリティ・コード』を抹消(ころ)させはしないわ」

 

 

 そんなムサシを、翔像は祈るような表情で見つめていた。

 だが、今さら彼が何に祈ると言うのだろう。

 祈るべき神など、どこにもいないと言うのに。




読者投稿キャラクター:

フューリアス(ライダー4号様)

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
だんだんとアドミラリティ・コードについて設定を公開しつつある昨今、うまく回せるか不安になって参りました(え)
なるべく原作の設定も拾いつつ、やっていけたら良いなと思っています。

それでは、また次回。


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Depth057:「信頼」

「やりすぎた……?」

 

 

 ガラガラと何かが崩れ落ちる音が断続的に聞こえる中で、フューリアスの呟きが嫌に鮮明に聞こえた。

 ロンドンの一角、ストリートが一つ潰れてしまっていた。

 ただそれには関心が無いのだろう、折れかけの街灯の上に立った姿勢で、フューリアスはもうもうと白煙が立ち込めるストリートを見渡していた。

 

 

 やりすぎたと言うのは、攻撃の威力がいささか大き過ぎただろうか、と言う意味だ。

 確かに、コンクリートの地面にクレーターが出来てしまう程の威力は凄まじいの一言だ。

 フューリアスは別に、スミノ達を殺そうとしたわけでは無い。

 ただ、ムサシの許可無くこの区画から出ようとする相手を止めようとしただけだ。

 

 

「出力調整をもう少し考えないといけませんね」

 

 

 フューリアスは海域強襲制圧艦に分類される大型艦艇で、コアの出力も霧の中で上の方に入る。

 ちなみに海域強襲制圧艦とは霧側が考案した呼称で、人類側で言うと航空母艦にあたる。

 艦体が無いのでイメージがしにくいが、要は滑走路を乗せた船舶で、海上で航空機を飛ばすことが出来る強力な軍艦だ。

 一時期、人類の海軍では空母の保有数で海戦の趨勢(すうせい)が決まった程である。

 

 

 ただ<大海戦>以後に霧が航空機の運用をやめたため()()母艦では無くなり、そのために別の呼称が必要になったと言うわけだ。

 これは航空機――いわゆる艦載機にはクラインフィールドが無いので、人類の対空砲火で多数の艦載機が撃墜されたためだ。

 艦載機の無い空母など張子の虎同然、とはならないのが、霧の艦艇の恐ろしいところだ。

 

 

「……いや」

 

 

 そんなフューリアスだが、すぐに考えを変えたようだった。

 自身の攻撃で巻き起こった白煙。

 それが晴れてくるにつれて、攻撃地点の様子が見えるようになった。

 クレーターの中央、そこにぽっかりと大きな穴が開いていることに気付いたのだ。

 

 

「地下か。そう言えば人類が対霧の防空壕や避難路をいくつも掘削していたんですね」

 

 

 対地攻撃は最小限と言うのが霧の方針だから、陸地に築かれた施設に関しては無頓着な傾向が強い。

 フューリアスもその例に漏れず、ロンドンの都市構造についてはあまり関心が無かった。

 何しろ海岸線に大都市が多いのはイギリスも他国も同じだ、都市ごと移動することも出来ない以上、地下に備えを築くのは、人類側にしてみればむしろ当然と言えた。

 最も、フューリアスはそんなことは考えず、即座に自分がすべてきことを判断した。

 

 

『デヴォンシャー、シュロップシャー』

 

 

 瞳が白く明滅し、部下扱いになっている2体の重巡洋艦に通信した。

 近くにはいるが、メンタルモデルの肉眼では目視できない。

 だが構わない、霧に距離など関係が無い。

 2体は重巡洋艦としては火力に劣るが、その分身軽だった。

 

 

『地下を探しなさい。隅々まで隈なく』

『デヴォンシャーは東を』

『西はシュロップシャーが』

『お願いね』

 

 

 それにしても、面倒だった。

 これが海上であれば駆逐艦を動員して人海戦術――霧海戦術とでも言うべきか――で捜索するのだが、陸地ではメンタルモデルで無ければ活動できない。

 しかも、人間のように2本の足を使ってだ。

 

 

「陸地で動ける艦体でもあれば良いのですけど」

 

 

 ナノマテリアルで造れないことは無いが、海から離れるとどうにも落ち着かない。

 やはり自分達はあくまでも軍艦なのだろうと、フューリアスはそう思っていた。

 そう言う意味では、陸地での活動も厭わないイ404やムサシの姿は、彼女にはどちらも同じように奇異に映るのかもしれなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 一応、助けられた形になるのだろうか。

 しかし地下水路、足首までの高さの水が流れているばかりか、天井からはポタポタと水滴が落ちてきていて、しかもジメジメしている上に少々臭う。

 総合して考えると、礼を言う必要は無いように思えた。

 

 

「礼など必要ありません。艦長の命で無ければ助力などしなかった」

 

 

 つっけんどんとはまさにこのことか、2501は突き放すように言った。

 容貌が可憐な分、辛辣さがより強く感じられた。

 そして以前は命を取り合う関係だったはずの2501がどうして紀沙達を助けた――『フューリアス』達の攻撃に紛れて、地下に引っ張り込んだ――のか、今の言葉でわかった。

 

 

 ゾルダンだ。

 それもそのはず、2501が自分の判断で何かをすることは無い。

 ただ翔像の部下であるはずのゾルダンがどうして2501に紀沙達を助けさせたのかは、謎だ。

 翔像を神に等しい存在と思っている彼が、こんなことをする理由がわからない。

 

 

「スミノ、404は?」

「……すでに出航したよ。今こっちに向かわせて『404、こちらヒュウガだけど』ちょっと待ってくれるかい、艦長殿」

 

 

 イングランド沖に待機している『マツシマ』のヒュウガから、通信が来た。

 あちらからスミノに通信を入れてくるとは、かなり珍しい。

 と言うか、初めてのことでは無いだろうか。

 

 

『……何かなヒュウガ、こっちは割と忙しいんだけど』

『貴女の艦体の操艦権限を私に渡しなさいな』

『なんだって?』

『そっちでいろいろやりながらじゃ大変でしょ? こっちは暇だしね』

 

 

 確かに、あっちもこっちもではさしものスミノも大変ではある。

 演算力の節約と言う意味でも、ヒュウガに艦体を預けるのは有効に思えた。

 

 

『まぁ、じゃあお願いするよ。なる早でね』

『はいはい。……うふふ、お姉さまと同型艦……』

『……まぁ、頼むね』

 

 

 何か最後に不安になるような言葉を聞いた気がするが、ひとまず話はついた。

 大戦艦級の演算力を持つヒュウガだ、まず間違いは無いだろう。

 

 

「……お待たせ。そう時間はかからずに港まで来るよ」

「そう、わかった」

「話はまとまった?」

 

 

 紀沙が頷いたところで、2501が声をかけてきた。

 2501はどうやら上を気にしている様子で、少し急いでいるようだった。

 フューリアス達が追って来るのを警戒しているのだろう。

 紀沙達としても、こんな狭い場所で追いつかれるのは勘弁願いたかった。

 

 

「なら、早くこっちへ。外へ案内する」

「ちょっと待って。罠じゃないって保証は?」

「あるわけがないでしょう」

 

 

 きっぱりと言って、2501は歩き出した。

 それ以上は何も話すつもりは無いようで、すたすたと歩いていく。

 ……このまま置いて行かれる方が危険か。

 やむなくそう判断して、紀沙もその後に続いた。

 スミノも、肩を竦めてからついて行った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 地下水路には灯りらしい灯りが無く、真っ暗だった。

 それでも足を滑らせずに済んでいるのは、不思議と夜目が効くからだった。

 霧の瞳、あるいはナノマテリアルは、視覚以外の感覚で周囲を把握することが出来る。

 肌を撫でられるのと同じような感覚で、壁や天井を感じられると言えばわかりやすいだろうか。

 

 

「それにしても、まさかキミが助けてくれるとはね」

 

 

 しばらく歩いていると、暇だったのだろう、スミノが2501に声をかけていた。

 紀沙と2501の間で楽しい雑談が成立し得るはずも無いので、自然、会話のきっかけはスミノからになる。

 何と言っても、おしゃべりなのだ。

 

 

「いったいどう言う風の吹き回しなのかな、2501?」

 

 

 一方で、紀沙にとっては有難い面もあるかもしれない。

 何しろ、2501に話を聞いてくれるのだから。

 まさかとは思うが、スミノはそう言う紀沙の考えを察したのだろうか。

 

 

「……言ったはずです。我が艦長の命令だからです」

 

 

 そして性分なのか、あるいは話しかけられ続けるのも鬱陶しいからか、2501も無視はしなかった。

 無視しないからと言って快くしていると言うわけでは無いが、とにもかくにも返事はしていた。

 非常に、そう非常に嫌悪に満ちた声音ではあったが。

 

 

「なら、キミの艦長はどうしてそんな命令をしたのかな?」

「知りません。我が艦長には何か考えがあるのでしょう」

「ふーん。でもキミの艦長は千早翔像の部下なんだろう? こんなことをしたら不味いんじゃないのかい?」

「…………」

「……あ、もしかしてアレかな?」

「……?」

 

 

 手を合わせて、にんまりと笑いながらスミノが言った。

 

 

「愛とか言う、人間を時に不条理な行動に走らせるって感情なのかな?」

 

 

 メンタルモデルに感情は無い。

 あるように見えても、それは感情と言うプログラムに従った真似事に過ぎない。

 偽物だ。

 だから霧の言葉は総じて深い意味が無く、冷たい。

 

 

 紀沙のその認識は、概ね間違っていない。

 だからこそ、紀沙は驚愕した。

 今、2501から投げつけられている視線に、強い感情を感じたからだ。

 それは、害意の塊のような感情だった。

 

 

「繰り返すけれど。私は我が艦長が何を考えているのかはわかりません」

 

 

 殺意、言葉で表すのならばそれだろう。

 だが、それだけでは無いように紀沙には感じられた。

 殺意を衣に、その奥に何かが隠れている。

 複雑な感情が、そこにあるような気がした。

 

 

「でも我が艦長がアドミラル・チハヤを裏切ることは絶対にあり得ない。我が艦長はアドミラル・チハヤとムサシ様から教えを受けた、いわば緋色の艦隊の次の提督となるべき方なのだから」

「次の?」

「アドミラル・チハヤは近く今の地位を退かれる。だから「2501!」……っ」

 

 

 その時、水路の向こうに柔らかな灯りが差していることに気付いた。

 それはランタンの灯りで、薄暗い水路を温かく照らしていた。

 しかしその持ち主は険しい顔で2501を睨んでおり、それに気付いた2501は、泡を食った表情でその場に膝をついた。

 ばしゃっ、と、水の音がした。

 

 

「余計なことを言うな」

「は……はい、はいっ。も、申し訳ございません……!」

 

 

 声はまさに不機嫌そのもの、聞いているだけで謝ってしまいそうだった。

 一方で、それほど2501に意識を割くつもりは無かったのか、あるいは意図的にそうしているのか、男――ゾルダンは、ランタンを軽く持ち上げて紀沙の顔を覗き込んだ。

 そして、嘆息をひとつ零した。

 ゾルダン・スタークが、そこにいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 当然のことではあるが、ムサシはロンドンで起きていることのほとんどを掌握していた。

 ことロンドン内部のことであれば、政府庁舎の会議内容から昼下がりの主婦のお昼寝の時間までわかる。

 そんなムサシにとって、ゾルダンの行動は筒抜けも同然なのだった。

 最も、ゾルダンがその事実を知らないわけも無いのだが。

 

 

「憎たらしい程、優秀な子ね」

「ゾルダンには2501の『ゼーフント』の情報網がある、先んじたと言うことだろう」

「自分で判断して動けるように育てたのは、私達だったわね」

「指示を待つだけの男には、しなかったつもりだ」

 

 

 欧州大戦は、収束に向かっていた。

 イギリス、フランスが緋色の艦隊に屈したことで、スペイン・ポルトガルも矛を収めつつある。

 バルカン半島ではかの<騎士団>の進撃により、もはや戦争どころでは無い。

 唯一残されたドイツも、周囲を緋色の艦隊、<騎士団>、ロシアに囲まれていては何も出来ないだろう。

 

 

 足がけ4年続いたヨーロッパの戦争は、事実上終わったのだ。

 後はどこかのタイミングで話し合いの場を持ち、講和条約なりを結べば戦争は正式に終わる。

 緋色の艦隊と言う台風が、戦乱と言うヨーロッパのゴミを吹き飛ばしてしまった。

 間に合った。

 後は、()()()()()()()

 

 

「残る問題は、クリミアだな」

「黒海艦隊との連絡も途切れたし、ギリシャとトルコの陥落も時間の問題。地中海にまで出てこられると流石に厄介だから……ギリギリね、お父様」

「そうだな」

 

 

 翔像は紀沙にいろいろと話をしたが、その中には嘘と真実が含まれている。

 彼は本当に欧州を制するつもりだったし、人類は進歩――進化するべきだと考えている。

 これは真実だ。

 しかしその根っこの部分にある理由は、まだ語っていない。

 

 

 ふと、天井を見上げる翔像。

 その両の瞳が、明滅して輝いている。

 天井を見ているようだが、実際は別のものを視ている、そんな眼だった。

 それは未だ遠く、手の届かないもののように思える、だが。

 

 

「だが、間に合った」

 

 

 翔像とムサシは今や、ヨーロッパの王だ。

 イギリスもフランスも、緋色の艦隊の軍事力の前に沈黙している。

 だがそれはすすんでそうしていると言うよりは、翔像達の力の前に黙っているだけだ。

 対話でそれが出来れば、何よりだった。

 だが時間が無かった、対話で皆を(まと)め上げる時間が。

 

 

「行こうか、ムサシ」

「行くの、お父様?」

「ああ」

 

 

 ここまでに、10年もの時間がかかった。

 間に合った。

 間に合ったのだ。

 そして。

 

 

「これが、最後だ」

 

 

 すまないな。

 そう言う翔像に、ムサシは首を左右に振った。

 翔像が謝る必要など無かった。

 何故ならこれは、ムサシ自身が望んだことだったのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この時、大戦艦『ビスマルク』はイベリア半島北岸のビスケー湾にいた。

 空はどんよりと曇っているが、空気は不思議と乾燥していた。

 遠目に、フランス沿岸の陸地を望める海域だった。

 そこに『ビスマルク』は1隻でいて、波間に揺られて佇んでいた。

 

 

「<騎士団>がもうアテネにまで迫っているわね」

「黒海艦隊は……『セヴァストポリ』は、絶望的ね」

「アドミラル・チハヤは、ぎりぎりね」

 

 

 彼女達は待っていた。

 それは今に始まったことでは無く、文字通り生まれる前から待っていた。

 焦燥感に苛まれる日々だった。

 間に合わないのではないかと、焦りばかりが募る日々だった。

 

 

 『ビスマルク』自身がヨーロッパから動くことは出来なかった。

 いろいろな事情があったのだが、一番大きな理由は、彼女達が今いるこの海域から長く離れることが出来なかったためだ。

 このビスケー湾のフランス沿岸の海域は、他の誰にも渡すことが出来ない場所だった。

 

 

「ドイツとイタリアが連合してくれて良かった。ベルリン=ローマの防衛線が抜けない限り、<騎士団>はここまで来られない」

「いつかは抜かれるでしょうけれど、彼らがここまで来るまでは保つ。間に合ったわね」

「そう、間に合った。アドミラル・チハヤがいてくれなければあり得なかった」

「最初は彼こそが、と思ったのだけれど」

 

 

 彼女達の役割は、この場所へ――()()()()へ、()()()()の人物を連れて行くこと。

 ()()に、引き合わせること。

 あの<騎士団>が、()が辿り着くよりも先に。

 それを成すことが、『ビスマルク』の役割だった。

 

 

 役割。

 そう、一部のごく限られた艦艇には、この世に顕現した時からある役割を振られているものがある。

 総旗艦『ヤマト』や超戦艦『ムサシ』は、その典型だ。

 そしてこの『ビスマルク』もまた、その1隻である。

 

 

「そう言えばあそこは、イ号潜水艦にとっても聖地ね」

「ああ、そう言えばそうね。と言っても、今のイ号潜水艦では無いけれど」

 

 

 2人のビスマルクは、どこか遠い目をしながら会話をしていた。

 遠い昔を、思い出している目だった。

 今はもう無い何かを見つめ、振り返っている様子だった。

 

 

「グレーテル、ヨハネス……」

 

 

 それはきっと『ビスマルク』達にとって、きっとかけがえの無い何かなのだろう。

 

 

「もうすぐ、カオルがここに来るわ」

 

 

 さざ波の音だけが、『ビスマルク』の声を聞いていた。

 それは、とても寂しい光景のように思えるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 体調は最悪なままだったが、そうも言っていられなかった。

 ゾルダンには隠し切れていないだろうが、まさかスミノに抱えられながら移動するわけにもいかない。

 だから自分の足で歩いているのだが、体調の悪さは隠しようも無かった。

 

 

「どう言うつもりですか?」

「どう言うつもり、とは?」

 

 

 声に力が足りない。

 と言うより、発声するだけで胸の奥が熱い。

 それでも聞こえないわけでは無いので、ゾルダンは返事を返した。

 とり立てて、紀沙を気遣うような素振りは見せない。

 

 

「どうして私達を逃がそうとしてくれているんですか?」

「そうかな? もしかしたらこのまま消してしまうつもりなのかもしれないぞ」

「だったらわざわざ道案内なんてしないでしょう」

 

 

 やりにくい相手だ。

 互いの真後ろに2501とスミノがいると言うのもあるのだろうが、それでもゾルダン自身のやりにくさは相当のものだ。

 ベーリング海での一連の出来事で、それは嫌という程わかっている。

 

 

 本音を他人に悟らせないと言う意味では、群像に似ている。

 いや、どちらかと言えば翔像に似ていると言うべきか。

 そして先程も2501が言っていたが、ゾルダンは翔像に対して強い忠誠心を持っている。

 何となく、群像が翔像と一緒に出奔していたらこんな風だろうと思った。

 言ってしまえば、ゾルダンはもうひとりの群像と言えるのかもしれなかった。

 

 

「……そんな目で見られてもな」

 

 

 紀沙がじっと見つめていると、ゾルダンが不意に相好を崩した。

 どんな目で見つめていたのか、気になるところだった。

 

 

「ただ、あの人が本当にキミを消そうとするとは思えなかった。だから『フューリアス』達にそのままやらせるわけにはいかなかった。それだけだ」

「……貴方は」

 

 

 聞いてみたくなって、聞いてみた。

 

 

「父さんの……緋色の艦隊の目的を知っていて、従っているんですか」

「キミがあの人に何を聞かされたのかは、実のところ、私にはわからない」

 

 

 ただ、と、無視すること無くゾルダンは答えた。

 

 

「ただ私が知る限り、少なくとも俗物的な目的で動くような人では無い。私はそう信じているよ……キミもそうだろう」

「それは、そう……ですけど」

 

 

 何だか誤魔化されたような気がして、紀沙はすっきりしなかった。

 まぁ、冷静に考えてゾルダンがあれこれ紀沙に教えてくれるはずも無いので、当たり前と言えば当たり前だった。

 ただ、不思議と胸にすとんと落ちてくる言葉だった。

 何故ならば結局、紀沙は翔像のことを信じたかったのだから。

 

 

(……と、言うような顔をしているな)

 

 

 紀沙は、自分で思っている以上に弱っている。

 本人は気付いていない様子だが、歩く速度も遅くなっている。

 だから、考えていることもすぐに顔に出る。

 紀沙のことを横目に見つつ、同時にゾルダンは冷静に自分のことを見つめてもいた。

 

 

 確かに紀沙の言う通り、ゾルダンが紀沙を助ける理由は無い。

 むしろ翔像に対する造反とも受け取られかねないわけで、メリットに比べてリスクが大きい。

 それでも紀沙を『フューリアス』達から救ったのは、先ほど言った言葉――翔像がそれを望むはずが無い――もあるが、何よりもゾルダンが翔像のことを信じたいと言うのがあったのかもしれない。

 出会ったあの日から、ゾルダンもまた翔像のことを信じ続けているのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もう、2年の前のことになるか。

 ゾルダンが初めて翔像と、そして『ムサシ』と出会ったのは。

 当時のゾルダンは一介のドイツ人傭兵として古参の存在ではあったが、海戦の経験などまるで無い若造に過ぎなかった。

 

 

『その()はもう、貴方のものよ』

 

 

 その時にはもう、自分の隣には()()()()()()()

 初めて会ったキール港のほとりで、ゾルダンは超戦艦『ムサシ』の威容に圧倒されていた。

 そしてメンタルモデルと言う存在と、その美しさと凶悪さを知った。

 敬虔なキリスト教福音主義(プロテスタント)の家に生まれたゾルダンが、神性を見出す程だった。

 

 

『『レーベレヒト・マース』がそう望み、あの子が望んだ結果がその娘よ。だとしたらその娘の今後について、貴方にこそ責任があるはずでしょう』

『…………』

『捨てようとしても追いかけてくる。過去とはそう言うものでしょう?』

 

 

 あの時、ゾルダンは何もかもを投げ出そうとしていた。

 2501についても、そうだ。

 海辺の戦災孤児の施設にいた少女――()()()少女を連れて、霧の艦艇の出没情報がある場所を虱潰(しらみつぶ)しに歩く日々を送っていた。

 

 

 しかし他ならぬ霧によって、それは否定された。

 逃げるなと、そう諭された。

 どうせ投げ出す覚悟があるのなら、その覚悟を別のことに使えと。

 人類には、自分達にはそんな暇も余裕も無いのだからと。

 

 

『お前には、他の人間には無い才能がある。その才能の使い方は教えられるが、どう使うかはお前次第だ』

 

 

 そして、千早翔像。

 ゾルダンのその後を決定付けた存在。

 ゾルダンは翔像に海戦のいろはを教わった。

 霧の運用の仕方、基礎は全て翔像が教えたものだ。

 

 

『お前は、どこか似ているな』

 

 

 折に触れて、翔像はそう言っていた。

 誰に似ているのか当初はわからなかったが、2年も経つ頃にはわかった。

 翔像には日本に残してきた子供がいて、ゾルダンの面影に故郷の子供達を見ていたのだ。

 それはまぁ可愛く無い子供なのだなと思ったが、存外、外れていなかったように思う。

 

 

 そうやって、2年を過ごして来た。

 2501、そしてそのクルー達と過ごして来た2年は、それまでの十数年と比べて遥かに眩かった。

 そんな時間を与えてくれた翔像とムサシを、ゾルダンは心から敬愛していた。

 だからこそ、ゾルダンは――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 だからこそゾルダンは、紀沙を助けるようなことをするのだろう。

 それは紀沙に恩を売ると言うよりは、半ば翔像の考えをトレースした結果だと思えた。

 翔像はきっと、子供達を海に放とうとするだろう。

 それは、父親が子供を公園で遊ばせるような感覚に似ていた。

 

 

「ロリアンに行け」

 

 

 地下水路を出ると、ロンドン郊外の海辺に程近い場所に出た。

 出口に近付くにつれて道は狭まり、最後は這うようにして外に出た。

 そのため衣服が土で汚れてしまい、パンパンとはたかなければならなかった。

 ゾルダンの言葉は、そんな時に飛び出したものだった。

 

 

 ロリアン。

 「行け」と言うからには場所なのだろう、土地なのか建物なのかはわからない。

 ただ、妙に耳に残る名前だった。

 2501が物言いたげな顔をしていたが、ゾルダンはそちらはあえて気にしないようにしているようだった。

 

 

「ロ……」

 

 

 もう少し話を聞こうと、そう思った時だった。

 空気を震わせる独特の音が、何度となく繰り返し響き渡った。

 汽笛の音だ。

 振り向けば、そこには湾がある。

 

 

 かつてのロンドンには湾は無かったが、海面上昇によりロンドン近郊にまで湾は広がっていて、浅瀬ながら海が広がっている。

 横須賀と違い壁が築かれていないのは、日本以上に資源が切迫しているからだろう。

 最も、横須賀の壁もあまり意味のあるものでは無かったが。

 

 

「……何か、懐かしいものが見えるね」

 

 

 懐かしいなどと言うものでは無く、それはスミノ自身の艦体だった。

 ぶっちゃけ、イ404である。

 湾内に浮上しているのは、紀沙を迎えに来たから……と言うわけでは、どうやら無いようだった。

 何しろ、すぐ近くに緋色の大きな艦の姿があったからだ。

 

 

「艦長殿、ヒュウガからメッセージが来ているけど聞くかい?」

「……なに?」

「『つかまっちゃった♪』だって。今度撃沈してやろうかな」

 

 

 その時は、止める自信が無かった。

 つまりイ404はヒュウガの操艦でここまで来たわけでは無く、緋色の艦隊に捕捉されて連れて来られたと言った方が正しいのだろう。

 まぁ、考えてみれば狭い湾を抜けるわけだから、見つからない方が困難ではある。

 いや、そうだとしてもやはりこれは無しだった。

 

 

「これはゾルダン・スターク殿。こんなところでいったい何をしておいでで?」

「……右に行って、『デヴォンシャー』」

「左に回りこんで、『シュロップシャー』」

 

 

 そして追跡してきたのだろう、『フューリアス』達がどこからともなく姿を現してきた。

 紀沙達を正三角形の真ん中に囲うようにして立っている。

 取り囲まれた。

 湾内の緋色の艦隊の所属艦は、今も汽笛を鳴らし続けている。

 

 

「ゾルダン・スターク殿、我々はそちらの方々に用があります。無論、引き渡して頂けますでしょうね?」

 

 

 汽笛が聞こえる。

 それに伴い自分の心拍数が上昇していくことを感じて、紀沙は一旦、目立つことを覚悟で大きく息を吐いた。

 この状況、なかなかに危機的ではある。

 

 

 ただ不思議なことに、ゾルダンが選んだのは沈黙だった。

 じろりと周囲のメンタルモデルを睨む、その視線にはどこか嫌悪感があるように見えた。

 少なくとも、仲間に紀沙を引き渡そうという人間がする目つきでは無かった。

 一瞬、本当にゾルダンと彼女達は仲間なのだろうかと思ってしまった。

 

 

「彼女は――――……」

 

 

 ゾルダンが何かを言おうとした時、『フューリアス』達の方に変化が起こった。

 3人ともに表情を消して、同じ方角を向いたのだ。

 そちらから視線を外すことが無く、こちらを見ない。

 その挙動はまさに人形めいていて、不気味だった。

 

 

「おや」

 

 

 一方で、スミノは愉快そうな声を上げていた。

 いつものニヤニヤした薄ら笑いを浮かべているあたり、彼女にとって何か面白いことがあったのだろう。

 こう言う場合、スミノはこちらから聞かない限り内容を教えてはくれない。

 紀沙はそのことを良く知っている、それこそ誰よりも良く知っている。

 ……ただ、何となくわかる気がしたのだ。

 

 

「来たか」

 

 

 2501に囁かれたのか――こちらは本当に艦長に従順なことだ、別に羨ましくは無いが――ゾルダンが、ニヤリとした笑みを口元に浮かべてそう言った。

 誰が来たのか、紀沙には何となくわかるような気がした。

 彼が、ここに来たのだ。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ロンドン編もそろそろ佳境と言うことで、さてどうしようかなと。
ひとつわかることは、ロンドン市民大迷惑(え)

それでは、また次回。

ところで、海域強襲制圧艦『カガ』を登場させたいのですが(え)


なおリアルの都合により、来週の投稿はお休みとさせて頂きます。
次回の投稿は2週間後となりますので、宜しくお願いします。


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Depth058:「北海海戦」

 彼女と出会ったのは、本当に偶然だった。

 何しろ自分は軍人で、彼女は鳥類学者だった。

 普通なら何の接点も無く、出会うことも無かったはずだ。

 もし運命と言うものがあるのなら、2人の出会いはまさに運命だったのだろう。

 

 

「一般参加の方はこちらでーす」

 

 

 確か、護衛艦――海上自衛隊時代は、軍艦では無く護衛艦と呼んでいた――の一般公開イベントの時だった。

 当時の自分は、任官したばかりの新米士官だった。

 右も左もわからないままに、雑務に追われる日々を過ごしていた。

 

 

 イベントの時も、護衛艦を間近で見れると集まって来た人々を前に、交通整理のようなことをしていた。

 夏の盛りで、やたらに暑かったことを覚えている。

 拭っても拭っても汗が噴き出してきて、最後には汗を拭くことを諦めた程だった。

 そうやって忙しさの中にいる時、傍にいた同僚が声をかけて来た。

 

 

「おい見ろよ、変な女がいるぜ」

「変な女?」

 

 

 先程も言ったが、この日は護衛艦の一般公開の日だった。

 普段は近くで見られない護衛艦を間近で見たり、自衛官と交流したりするイベントだ。

 なので、多くの人々は悠然と港に停泊している護衛艦を仰ぎ見て感嘆の声を上げたり、写真を撮ったりしている。

 

 

 そんな中で、ひとりだけ明後日の方向を向いている人物がいた。

 後ろ姿からは女性としかわからないが、すらりと伸びた四肢は躍動感に満ちていて、パンツルックの出で立ちと麦藁帽子が清潔な印象を与えていた。

 それだけならまだ良かったのだが、時折、双眼鏡を覗き込みながらふらふらしているのだ。

 

 

(何を見ているんだろう?)

 

 

 同僚は面白がっているだけで、特に不審人物と思っているわけでは無さそうだった。

 まぁ、やましいことがあるならわざわざ自衛隊の基地に来たりはしないだろうし、スパイか何かだとすれば余りにも目立っているし、そもそも見るべきものが間違っている。

 ただ、その女性は空――海鳥が鳴きながら飛んでいる――ばかり見ているので、足元がかなり危なかった。

 

 

「あの、危ないですよ」

「え、なに?」

 

 

 気が付けば、声をかけていた。

 何かに吸い寄せられるように、そうしてしまった。

 そして彼女が振り向いた時、彼の中で時が止まった。

 彼女と目を合わせた時、彼の胸にこれまで感じたことの無い痺れのようなものを感じたのだ。

 

 

「……あの」

「はい?」

「お名前を、教えて頂けないでしょうか……?」

 

 

 後で聞いた話だが。

 この時、彼女はアカアシカツオドリとか言う珍しい鳥を追いかけて海辺を散策していただけで、イベントの客でも何でも無かったそうである。

 その鳥のことについては、彼は今でも良く理解できていない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 懐かしい夢を見た。

 一瞬、立ったままで見た蜃気楼のような夢だ。

 

 

「…………む」

 

 

 ふと掌に温もりを感じて、翔像の意識は現実へと引き戻された。

 視線を下げると、そこにはムサシがいた。

 造り物めいた美貌の少女(メンタルモデル)は、心配そうな顔で翔像を見上げていた。

 大丈夫だと、そう伝えるように頷きを返した。

 

 

 掌の温もりと、蜃気楼の夢。

 そのふたつが、翔像にとっては不思議と力強く感じられた。

 今も昔も、自身が誰かに支えられていることを再確認させてくれる。

 少し情けなくも気恥ずかしくもあるが、それもあと少しで終わると思えば許せるような気がした。

 

 

「群像も紀沙も、良い艦に出会えた」

 

 

 艦船を女性形で呼ぶのは、古くから続く慣習だ。

 霧のメンタルモデルは、人類のその慣習から女性の姿をしているとされている。

 それはおそらく、船乗りの多くが歴史的に男性であったことも関係しているのだろう。

 艦長にとって、艦とは生命と名誉を預ける伴侶のような存在なのだ。

 だから海軍の人事担当者も、艦長の職にある者に異動の辞令を出す時は色々と気を遣うのである。

 

 

「お父様と一緒よ」

「うん?」

「何もしていなくても、(フネ)に好かれる」

 

 

 艦長にとって、どのような艦と出会うかは重要だ。

 その意味で、群像と紀沙は良い艦と出会えたと思う。

 自分がかつて、『ヤマト』と『ムサシ』に出会えたのと同じように。

 まるで、運命に導かれるように。

 ――――最も、それは()()()()()()()()()()()が。

 

 

「ロリアンに到達した時、401と404は自分の本当の役割を知るだろう」

 

 

 だから、翔像は日本を離れた。

 

 

「その時に必要なのは、艦長と艦の間の強い絆だ。何があっても折れない程の、真っ直ぐな、不屈の信頼が必要だ」

「それは、私とお父様のような?」

「……まぁ、そうかもしれないな」

 

 

 ふふふと笑うムサシに、翔像もほんの僅かに表情を和らげた。

 だがそれもすぐに引き締められて、雰囲気の変化に気付いたのだろう、ムサシもそっと翔像から離れた。

 温もりが掌から離れたことに、翔像は、自分自身で驚く程に寂寥感を覚えた。

 ただ彼は、もうそんな寂寥感にしがみ付くような年齢では無かった。

 

 

「行くぞ、ムサシ」

「はい。――――()()

 

 

 これがおそらく、1人と1隻――いや。

 2人にとっての――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 対話。

 千早群像が霧に対して行う、ほとんど唯一のアクションがそれだ。

 だから今回も、群像は霧の艦艇と対話することに全ての時間を使った。

 それは、あくまで人との関わりに主軸を置いた紀沙とは真逆の行動だった。

 

 

「でもぶっちゃけ、ナノマテリアル分けて貰いに行ってきただけだよな」

「そう言う身も蓋も無い言い方はやめましょうよ」

 

 

 車のガソリンを分けてもらったようなニュアンスで言った杏平に、僧が嗜めるように言った。

 機関室のいおりが発令所にいれば、もっと辛辣な言葉を浴びせただろう。

 もう1人の女性クルーである静は慎ましい性格をしているので、クスリと笑うだけだった。

 ある意味、そちらの方が辛いと言う意見もあるのかもしれないが。

 

 

 いずれにせよ、群像とイ401は北欧の海域に潜みながら、時期を見計らっていた。

 そして、ちょうどその海域に駐留していた霧の戦艦『ティルピッツ』に会いに行った。

 賭けだったが、『ビスマルク』の姉妹艦でありながら欧州艦隊の内紛から距離を取っている様子の『ティルピッツ』なら大丈夫と踏んでの行動だった。

 そしてその賭けに、群像は勝った。

 

 

「紀沙が目立っていた分、オレ達への監視の目が緩んでいたからな」

 

 

 あの時、『ムサシ』の超重力砲の余波に紛れながらイ401は姿を晦ませた。

 リエル=『クイーン・エリザベス』が盾になってくれたことも、無事に海域を抜け出せた要因だった。

 

 

「ロシアの国営放送に出てたもんなぁ」

 

 

 からからと笑う杏平。

 実際、ロシアは紀沙達の存在を最大限に利用するつもりだったようで、軍事パレードやその他諸々のイベントの映像を全世界に配信していた。

 似たようなことはアメリカもやっていたのだから、その対抗と言う意味もあったのかもしれない。

 ただその後、紀沙がロンドンに向かったことは少し意外だった。

 

 

「さて」

 

 

 まぁ、今はそれも良い。

 群像は今日、リベンジに来たのだ。

 他にもいろいろと考えるべきこと、考えていたこともあったが、一番はそれだった。

 

 

「イオナ」

「ああ」

 

 

 いつもの定位置に座っているイオナと、頷きを交わす。

 珍しく難しいことを考えずに、群像とイオナはこの海域にまでやって来ていた。

 今日この時、この1人と1隻は。

 

 

「潜行開始だ、潜れ」

「了解。きゅーそくせんこー」

 

 

 ただの負けず嫌いとして、そこにいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 元々、霧の大西洋方面欧州艦隊は3つの勢力に別れていた。

 『ビスマルク』に同調した者達、『フッド』に共感した者達、そしてどちらにも加担しなかった者達だ。

 『ビスマルク』は緋色の艦隊に協力し、『フッド』が『ビスマルク』に敗れたことで、現在は緋色の艦隊に属しているかいないかの2つに別れる形になっている。

 

 

 群像が目をつけたのは、まさにそこだった。

 緋色の艦隊に属していない霧の艦艇は大型艦が多く、つまりメンタルモデル保有艦が多い。

 北洋の『ティルピッツ』の他、各海域でじっとしている霧の艦艇達と話し合った。

 メンタルモデルを保有しているだけに、対話が可能になっていたのが大きかった。

 

 

「それにしても面白かったわねぇ、あの男の子」

 

 

 大戦艦『デューク・オブ・ヨーク』も、その内の1隻だった。

 4万トン級の大型戦艦であり、当然メンタルモデルを保有している。

 広大な甲板にぽつんと置かれたビーチチェアに寝そべる女性がそれで、側にトロピカルフルーツやジュースを載せたサイドテーブルがあり、北海と言うよりは南洋にでもいるかのようだった。

 

 

 長くサラリとした銀髪をチェアから零すようにして寝そべる彼女は、おへそを晒したお腹の上で、片手でトランプの束を弄んでいた。

 いやに露出度の高い黒のディーラー衣装と相まって、どこかのカジノにいたとしても違和感が無い。

 そしてだからこそ、軍艦の甲板にいるには不自然極まりない出で立ちでもあった。

 

 

「ポーカーで勝ったら話を聞いてあげるって言ったらあっさり受けるものだから、てっきり強いのかと思うじゃない? それでカード配った後に一言、「で、この後なにをするゲームなんだ?」って、知らないのかよって思わず突っ込んじゃったもの」

 

 

 片手でトランプの束を切りながら、誰もいない甲板の上で喋り続ける『デューク・オブ・ヨーク』。

 もちろん返事などあるわけも無いのだが、何故か彼女は不満げに眉を上げてみせた。

 

 

「ねぇ、聞いてるー? 『アンソン』ちゃんー? おーい」

 

 

 『デューク・オブ・ヨーク』の艦体から少し遅れて、瓜二つな艦艇が航行していた。

 ()()()()()()()北海を南へと航行しているその艦の名は『アンソン』、『デューク・オブ・ヨーク』の姉妹艦にあたる。

 彼女は自身の甲板に敷いたカーペットの上で膝を揃えて座っていて、姉と違い行儀良く本を読んでいた。

 金髪蒼眼の美しい少女の姿をしており、露出の少ない普通のディーラー衣装を着ていた。

 

 

「『アンソン』? 『アンソン』ちゃんってばー」

「…………姉さん」

 

 

 ハードカバーの本を熱心に読んでいた『アンソン』は、しつこく自分を呼ぶ姉に嘆息を返した。

 

 

「わたし、いま本を読んでるんですけど」

「お姉ちゃんは『アンソン』ちゃんとお話したいなー」

「いや、だから」

「まぁ、『ムサシ』みたいな極東の艦に大きな顔をさせとくって言うのも、あたし達的には面子潰されてたわけだし」

「…………」

 

 

 話を聞いてくれない姉にやれやれと首を振る『アンソン』。

 その様子を感じながら、『デューク・オブ・ヨーク』は面白げに目を細めていた。

 

 

「あの緋色の艦隊を潰せるって言うなら、潰しておきたいって言うのが本音よね」

「あの人間を信じるの?」

「少し違うわ。あの人間を使ってあげるの」

 

 

 それはどう違うのだろうと思いつつ、『アンソン』は周囲を見渡した。

 そこには、緋色の艦隊に従わなかった欧州艦隊の霧の艦艇達がいる。

 『ティルピッツ』――千早群像の召集に応じた、反緋色の艦隊とも言うべき集団がそこにいた。

 彼女達は今、まさに、決戦に入ろうとしていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 多数の霧の艦艇――緋色の艦隊では無い――の接近を知って、『フューリアス』達は姿を消した。

 自分達の艦体の方へ言ったのだろう、紀沙が思っているよりも戦力が拮抗しているのかもしれない。

 何しろ、自分達に構う余裕が無いと言うことだろうから。

 

 

「さて、キミはどうするね?」

 

 

 そして、ゾルダンだ。

 彼は当然のように翔像に味方するだろう、それこそ愚問と言うべきだ。

 U-2501の艦体を呼び、それに乗り込んで群像と戦うのだろう。

 だからこそ、ゾルダンは問うてきたのだ。

 

 

 紀沙はどうするのか、と。

 

 

 兄・群像につくのか。

 父・翔像につくのか。

 それとも、どちらの味方もしないのか。

 何れの判断も、誰かに責められる類のものでは無い。

 ただ、何かを選び、何かを決めないわけにはいかないのだった。

 

 

「前にも言ったかもしれないが、私としては千早提督の側に来て欲しい。最も、それを強要するつもりも無い」

 

 

 そんなことを言われても、紀沙にはどちらかを選ぶことは出来ない。

 母・沙保里のことを抜きにしても、父と兄。

 家族を取り戻すために戦っていた紀沙にとって、どちらも欠くことが出来ない存在なのだ。

 どちらかが失われてしまえば、今度こそ、「家族」は二度と揃わなくなるのだから。

 

 

「キミと話せて良かった。たぶん、もうこうして話すことは無いだろう」

 

 

 そう言って、ゾルダンは去って行った。

 

 

「楽しかったよ……さらばだ」

 

 

 そして、ゾルダンに対しても紀沙はついに何も言えなかった。

 お礼なり何なり言えば良いだろうに、言葉が胸につかえてしまって、結局は何も言えなかった。

 自分はもう少し雄弁な方だと思っていたのだが、いざと言う時になるとそうではないことに気付かされた。

 

 

 そして今、紀沙は選択を迫られている。

 兄か父か。

 どうしてこんなことになってしまうのか、もう本当にわからなかった。

 辛い、苦しい、変われるものなら誰かに変わって欲しい。

 けれど、これは紀沙に突きつけられた選択なのだった。

 

 

「さぁ、艦長殿」

 

 

 他の誰にも、代わりをすることは出来ない。

 

 

「命令しておくれよ」

 

 

 紀沙にだけ、その資格がある。

 自分自身が、それを痛い程に理解していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 グレートブリテン島の東、北海を南下して来た()()()に対して、緋色の艦隊は即座に反応した。

 近隣に配置された艦艇をすぐに呼び集め、迎撃の構えを取ったのである。

 そして17時52分、長射程の戦艦同士の砲撃と言う形で戦いは始まった。

 欧州海域の覇権を決する海戦は、極めてオーソドックスな形で開始されたのである。

 

 

「戦艦の砲火を掻い潜りながら中小艦艇を接近させ、格闘戦に移行する……ってところでしょうか?」

 

 

 海上が騒々しくなっている中、『ユキカゼ』はふむふむと頷いていた。

 海底はまだ静かなものだが、いずれは双方の艦隊の潜水艦によって激しい戦闘が行われるだろう。

 何しろ千早翔像の息子(群像)秘蔵っ子(ゾルダン)がいるのだ、それはそれは面白いことになるはずだった。

 

 

 息子が父親に挑む、この海戦は、本質的にはそう言う戦いだった。

 特に『ユキカゼ』はずっと群像の後を尾けていたので、彼がどう言うつもりで戦力をかき集めていたのかを知っている。

 単艦での戦闘では圧倒されてしまったので、艦隊戦の中でチャンスを窺うつもりなのだろう。

 

 

「ん? 介入するのか? いやあ、今のところそんなつもりは無いですよ、イ8」

 

 

 『ユキカゼ』の傍らには、総旗艦艦隊に所属する潜水艦であるイ8がいる。

 総旗艦『ヤマト』は世界各地の海に「目」を持っていて、イ8もその1隻だった。

 今は同じ立場の『ユキカゼ』と合流し、今に至ると言うわけだ。

 

 

「ただ、まぁそうですね。そうした方が面白そうなら、そうしてみるのも良いかも」

 

 

 着物の袖で口元を隠しながら、クスクスと笑う『ユキカゼ』。

 イ8はメンタルモデルを持っていないので、傍目には独り言で笑っているようにも見える。

 

 

「その方が、コトノ様もお喜びになります。……おっと、下がりましょうかイ8」

 

 

 小さな艦艇の気配を感じて、『ユキカゼ』は岩場の陰へと自身の艦体を隠した。

 潜水艦程の隠蔽率は無理だが、エンジンを切って潜んでいるだけでも大分見つかりにくくなる。

 そうしていると、『ユキカゼ』達の頭上を小型の潜水艦のようなものが通り過ぎていった。

 U-2501の特殊潜航艇『ゼーフント』だ、いよいよ動き出したと言うわけか。

 

 

「はたして、群像くんはパパを超えられるのでしょうか?」

 

 

 うふふと笑って、『ユキカゼ』は海底の闇の中へと身を消した。

 それはそれは、楽しそうな顔で海上の様子を見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 オーソドックスな形で始まった海戦だが、両艦隊の戦力はおおよそ互角だった。

 本来なら旧欧州艦隊の7割が属している緋色の艦隊の戦力の方が上なのだが、イベリア方面に戦力を割いているため、数に劣る反緋色の艦隊「艦隊」と同程度の艦艇数しかドーバー方面にいなかったのだ。

 西ヨーロッパへの影響力を維持するためにも、戦力を割いておく必要があったのだ。

 

 

 そして『ムサシ』や『フューリアス』を除いて中型以下の艦艇が多い緋色の艦隊に対して、『デューク・オブ・ヨーク』や『ティルピッツ』等の大型艦艇が揃う反緋色の艦隊「艦隊」の方が火力では勝っている。

 演算力の差がほとんど戦力の差となる霧にとって、大型艦艇の数はそのまま艦隊の力となる。

 皮肉な話だが、『フッド』の呼びかけに彼女達が応じなかったことが、戦力の温存に繋がったのだ。

 

 

「……暇ねぇ」

「姉さん、真面目にやって下さい」

 

 

 散発的に砲撃を繰り返す中で1時間が経過し、『デューク・オブ・ヨーク』は1人神経衰弱を始めた。

 戦闘に入る前とは姉妹の戦意が逆転している様子だったが、実際、戦況の推移は大人しいものだった。

 互いの戦艦・重巡洋艦が遠距離から砲撃を行っているが、一行に軽巡洋艦・駆逐艦が距離を詰めて来ない。

 機会を潰されていると言うよりは、そもそも機会を作っていないようだった。

 

 

「き、霧同士で戦うだなんて……」

 

 

 理由としてはまず、同胞と戦うことに拒絶感を持つ艦艇が実は相当数いたためだ。

 これはメンタルモデル保有艦に多く、感情を理解したがために躊躇を覚えたのだ。

 元『フッド』艦隊で今は反緋色の艦隊「艦隊」に属する巡洋戦艦『レナウン』は、自身の火力と速力で戦線を維持しつつも、その砲弾が相手艦隊の艦艇に直撃することは無かった。

 

 

 姉妹艦『レパルス』のメンタルモデルと同様にメイド衣装を着た女性の姿をしていて、おどおどとしているところも同じだった。

 側には配下にとつけられているリバー級フリゲート3隻がいるが、位置は『レパルス』の後ろだ。

 元々、軍艦でありながら戦いには向かない性格だったのかもしれない。

 ただ『レナウン』のように戦いに消極的な艦艇ばかりと言うわけでも無い。

 

 

「とは言え、ここまで戦況が動かないとは」

 

 

 緋色の艦隊側の指揮を執る『フューリアス』は、明らかに戦意が高かった。

 艦艇の格としては『デューク・オブ・ヨーク』と伍する彼女だが、火力の劣勢は認めざるを得ないところだった。

 そして水雷戦隊の投入タイミングが掴めない時間が続く中、こうしたゆっくりとした展開は、徐々に緋色の艦隊側に圧力を加えることになった。

 

 

「いつまでも膠着させるわけにはいかない。『デヴォンシャー』、『シュロップシャー』!」

 

 

 圧力を嫌ったのだろう、『フューリアス』は配下の重巡戦隊を動かした。

 重巡洋艦であればそれなりに火力も速度もあるし、陽動戦力になると考えたのだ。

 しかしそれは、逆説的に本陣の戦力を割くと言うことに他ならない。

 そして、群像がその隙を見逃すはずも無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 <亡霊艦隊(ゴーストフリート)

 それは霧の大戦艦にして『ビスマルク』の姉妹艦『ティルピッツ』の異名であると同時に、彼女が装備している()()()()の名称である。

 直接的な破壊力こそ無いものの、彼女が単艦で欧州北方の海域を制圧できた理由がそこにあった。

 

 

「……出撃」

 

 

 海水を凍らせて素材とし、ナノマテリアルで補強して艦体とする。

 無尽蔵かつ無数に生み出された氷の艦艇群は、それだけで緋色の艦隊と反緋色の艦隊「艦隊」の合計数を超えていた。

 1隻1隻はの戦闘力はもちろん霧の艦艇に及ぶべくも無いが、それでもこの物量は脅威だった。

 旗艦装備<亡霊艦隊>は、大戦艦のコア演算力による多数の擬似艦艇の展開・操艦能力を有するのだ。

 

 

 灰色の海を、無数の氷結艦艇が進む。

 それは『フューリアス』の攻勢命令によって伸びきった緋色の艦隊の横腹を突く形となり、緋色の艦隊側の陣形が寸断されていった。

 それに加えて正面から反緋色の艦隊「艦隊」が圧力を加えてくる、身動きが取れなかった。

 

 

「くっ、『ティルピッツ』! 『ビスマルク』の姉妹艦が何故!」

 

 

 苦し紛れの『フューリアス』の言葉は、正論ではあった。

 緋色の艦隊への協力を決めた欧州艦隊旗艦『ビスマルク』は、『ティルピッツ』の姉にあたる。

 普通に考えるのであれば、むしろ緋色の艦隊に参加していてもおかしくは無い。

 

 

 しかし、『ティルピッツ』にはそれが出来なかった。

 

 

 何故だろうか。

 あの『ビスマルク』の妹が緋色の艦隊に参加せず、千早群像の誘いに乗ってこの戦いに参加した理由。

 それは一言で言うと、「緋色の艦隊に誘われなかった」ためである。

 では、何故誘われなかったのか?

 

 

「……仲間はずれ」

 

 

 理由は単純、忘れられていたからだ。

 繰り返すが、『ティルピッツ』はその旗艦装備故に単艦で欧州北方の海域を押さえていた。

 そのために人類側に孤独の女王などと呼ばれていた――畏怖と揶揄を込めて――『ティルピッツ』だが、まさか仲間達から忘れられているとは思わなかった。

 孤独の女王は、まさしく孤独(ぼっち)だったわけである。

 

 

「……お仕置き」

 

 

 イオナから「お前、共有ネットワークで一度も名前出てないぞ」と指摘されるまで気付かなかった彼女自身もどうかと思うが、『フューリアス』達も『ティルピッツ』が戦場に現れるまでその存在を忘れていたので、お互い様と言う見方も出来る。

 とにかく、『ティルピッツ』の<亡霊艦隊>は一時的に緋色の艦隊を劣勢に追い込むことに成功した。

 

 

 しかしその優勢も、長くは続かなかった。

 緋色の艦隊の後方、ロンドン方面から放たれた砲撃によって、氷結艦隊が攻撃されたためだ。

 幾重にも拡散するビームが、海面を撫でるように氷結艦隊を溶融させ、破壊した。

 このビームは――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ムサシ』の拡散超重力砲。

 それを認識した時の群像の反応は、流石に早かった。

 

 

「ダウントリムいっぱい、取舵! 潜れ!」

 

 

 『ムサシ』に限らず、霧の超重力砲は海――次元を貫いて襲ってくる。

 事実、海を八つ裂きにする形で擦過する超重力砲は、海中に潜むイ404をも狙っていた。

 潜行深度を下げることでそれを回避しつつ、同時に海上の様子も探る。

 それは、イオナの役割だった。

 

 

 霧であるイオナは、共有ネットワークにリアルタイムで書き込まれる情報を閲覧することで海上の様子を窺い見ることが出来る。

 これは、一時的にしろ他の霧の艦艇と手を組んだことで可能になった。

 対緋色の艦隊と言う利害が一致したからこその、いわば同盟である。

 

 

「第2射、来ます!」

「面舵! 1番から4番、デコイ発射!」

「やっぱ半端ねぇな、超戦艦様は!」

 

 

 超重力砲の連射、イ404には不可能なことだ。

 『マツシマ』のような支援艦の存在も必要としない、単艦のポテンシャルが圧倒的なのだ。

 だが、そんなことはわかり切っていたこと。

 小刻みに振動するシートの肘掛けを握り締めながら、群像は正面のモニターを見据えていた。

 

 

 そこには、次々と反応を消していく氷結艦隊の様子が映し出されていた。

 半ば予測していたことだが、緋色の艦隊――翔像には、数だけを恃みとした戦術は通用しない。

 もし『ムサシ』のような規格外の存在がいなければ、『ティルピッツ』によって緋色の艦隊はかなり劣勢に立たされていたはずだ。

 そう言う意味では、『ティルピッツ』は流石に『ビスマルク』の姉妹艦だと言える。

 

 

「しかし、戦術的効果が一瞬で覆されるのは厳しいですね」

 

 

 僧の言う通りだった。

 『ティルピッツ』の<亡霊艦隊>は戦術的にはかなり有効だったが、『ムサシ』の一撃はそれを全て引っ繰り返してしまった。

 積み上げたものを一瞬で崩される、冗談のようだがそれが超戦艦と言う存在だった。

 

 

「群像」

 

 

 その時、氷結艦隊と入れ替わるように無数の反応が生まれた。

 それは以前、何度か見たことがある反応だった。

 小さな反応は小型艦艇を意味する、そして海中に出現する無数の小さな反応は、U-2501の『ゼーフント』以外には存在しない。

 群狼戦術……。

 

 

「さぁ」

 

 

 そしてU-2501の発令所で、いつものスタイルで、ゾルダンが言うのだ。

 

 

「我々の決着も着けるとしようか、千早群像」

 

 

 戦いは、まだ始まったばかりだった。

 終わりの形がどのようなものになるのかは、超戦艦であってもわからないことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦っている。

 戦っているのは、父と兄だった。

 娘であり妹である自分がどうすべきなのか、戦いの音を聞きながら、紀沙は未だにどうするかを決め切れずにいた。

 

 

「好きにすれば良いじゃないか」

 

 

 そんな耳元で、スミノが囁きを繰り返していた。

 紀沙の望むままにすれば良いのだと。

 他の煩わしい何もかもを無視して、ただ紀沙が望むままに。

 それはまさに悪魔の囁きで、しかし紀沙はその誘惑に抗していた。

 

 

 その時だった、海上に浮上したままのイ404が目に入った。

 どうして目を引かれたのかと言えば、それはチカチカと何かが輝いていたからだ。

 すぐに、ライトの光だと気付いた。

 甲板に出た蒔絵が、手信号用のライトをこちらに向けていたのだ。

 

 

「蒔絵ちゃん……?」

 

 

 遠目に見る蒔絵の表情は真剣で、何かを伝えようとしているのはすぐにわかった。

 どこで覚えたのかはわからないが、ライトの信号も正確だった。

 光の開閉と長さで、何を伝えようとしているのかはわかる。

 海戦の音が遠くから雷鳴のように聞こえる中で、それだけが鮮明だった。

 

 

「ア・イ・ニ・イ・コ・ウ……」

 

 

 会いに行こうよ、お父さんにとお兄さんに。

 それが、蒔絵のメッセージだった。

 後はそれが繰り返される、それだけを伝えに来たらしかった。

 

 

(あ、そうか)

 

 

 蒔絵は元々、祖父――存在しない架空の祖父――に会うために密航したのだった。

 会いたくとも会えない、そんな人物に会うために飛び出した人間だった。

 その蒔絵からすれば、会いに行こうと思えば会いに行けるのにまごついている紀沙の姿は、酷くもどかしく見えたのだろう。

 

 

 情けないなと、そう思った。

 お姉さんぶって庇護しているような気持ちを普段から抱いておきながら、いざと言う時には蒔絵の方がずっと決断力があり、大胆だった。

 そして蒔絵は、会いに行って何をしろとも言ってはいない。

 会いに行くことそのものに意味があるのだ、それで何かが動くかもしれない。

 

 

「そうだよね」

 

 

 父と兄が戦うと言うのなら、そこに娘の自分がいないわけにはいかない。

 何かあるはずだった。

 母の代わりに出来ること、娘の、妹の自分にしか出来ないことがあるはずだった。

 ただし、これは明確な目標の無いままの航海。

 思えばこれまでは、当たり前のことだが、何かの目的をもって航海をしていた。

 

 

「スミノ、機関始動」

 

 

 何の目的もなく、ただ航海する。

 不思議なことに、思ったよりも清々しい心地だった。

 

 

「戦闘海域へ」

 




読者投稿キャラクター
デューク・オブ・ヨーク(朔紗奈様)
アンソン(朔紗奈様)
レナウン(ライダー4号様)
有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。

と言う訳で、ロンドン編も佳境って感じですね。
終わり方がまだ決まっていないことを除けば、特に問題ないはず。
……あれ、そこって最重要な気が。
それでは、また次回で。


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Depth059:「ゾルダン」

 

 ゾルダンが出てきたと言うことの意味を、群像は良く理解していた。

 ひとつには、ゾルダンが自分との決着にこだわっていると言うこと。

 そしてもうひとつは、父・翔像まであと一歩のところまで迫っていると言うことだった。

 

 

「魚雷航走音多数! 数、5、10……15以上!」

「深度下げろ、海底を這え! 杏平、後部発射管開け、7秒後に発射だ」

「了解、後部発射管注水!」

 

 

 紀沙がロシアとイギリスを訪れている間、群像とて遊んでいたわけでは無い。

 周辺の緋色の艦隊に参加せずに様子見をしている霧、『ティルピッツ』や『デューク・オブ・ヨーク』らと接触を図っていた。

 紀沙が表立って動いていた分、群像はまさに海の底に潜っての行動をしていた。

 

 

 超戦艦『ムサシ』とイ401の戦力差ですら絶望的だと言うのに、緋色の艦隊と言う戦力を持つ翔像に対抗するには、こちらも相応の戦力が必要だった。

 そのためには、緋色の艦隊に参加していない欧州の霧の艦艇を糾合するのが手っ取り早い。

 もちろん、それはそれでけして楽なことでは無かったのだが。

 

 

「5、6……発射!」

「衝撃に備えろ、海底の岩場に気をつけろ!」

 

 

 そして欧州の霧の艦艇と対話する中で気がついたのは、緋色の艦隊の規模の小ささだった。

 超戦艦『ムサシ』の威名が飛び抜けているが、その他の艦艇は『ビスマルク』ぐらい。

 その『ビスマルク』も、『ムサシ』とは別行動を取っていることが多い。

 『フッド』の艦隊を吸収してもなお、その体質は変わることが無かった。

 

 

「魚雷の爆発地点、離れて行きます!」

「お、やり過ごせたか?」

「油断するな、一瞬見失っただけだ。すぐに再発見されるぞ」

 

 

 『デューク・オブ・ヨーク』らが群像に手を貸すつもりになったのは、理由は様々だ。

 ゲームで勝ったからとか興味を持ったからとか、人間の戦術運用を学ぶ良い機会だからとか。

 そして彼女達に共通しているのは、『ムサシ』に対する疑念と自己防衛の意思だった。

 おそらく、リエル=『クイーン・エリザベス』の件が広まっていたのだろう。

 人間への愛憎に狂い、『ムサシ』によって粛清された大戦艦。

 

 

「……新たな魚雷群、接近!」

「速力上げ、後部発射管再注水!」

 

 

 カークウォールの事件は、群像だけでなく全ての霧の影響を与えた。

 人間とは何か、霧とは何か。

 全ての霧が、改めてそう省みることになったからだ。

 ――――おそらく、ゾルダンとU-2501にとっても。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ゾルダンは、自分が群像に対する最後の壁になっていることに気付いた。

 海上の『フューリアス』の艦隊は敵艦隊の攻勢を良く支えているが、逆に言えば押し返せていないと言うことだった。

 そして海中では、ほぼ群像とゾルダンの戦いに絞られていた。

 

 

「ヨーロッパ大決戦って感じだねぇ」

 

 

 棒つきの飴を舐めながらU-2501の火器管制をしているロムアルドが、呆れたように言った。

 実際、霧の欧州艦隊のほとんどの戦力が二つに別れて戦っているのだ、

 そんなロムアルドに、ゾルダンもまた関心したように言った。

 

 

「彼に外交官の才能があったとは意外だったな」

 

 

 群像が『デューク・オブ・ヨーク』らを援軍として連れて来たのが、何とも誤算だった。

 今もゾルダンが敵艦隊の海中の侵攻を押さえていなければ、瞬く間に足元を抜かれていたはずだ。

 ゾルダンが出張って来たのは、それだけ『ムサシ』までの壁が薄いことを意味している。

 緋色の艦隊などと名乗ってはいても、率いているのは霧の欧州艦隊の一部に過ぎないのである。

 

 

『でも、負けるつもりは無いのでしょう?』

「もちろん」

 

 

 今、群像はこちらの『ゼーフント』の攻撃を掻い潜りながら、ほぼ直進して来ている。

 この海域の全域に「目」があるゾルダンには、群像の動きが見えている。

 そしてそれは、群像にも良くわかっているはずだ。

 この形は、ゾルダンが圧倒的に有利なように見える。

 

 

 一方で、これはゾルダンにとっての負担にもなった。

 広い範囲に「目」を広げている分、U-2501本体の動きがどうしても鈍くなってしまう。

 それに加えて、『ゼーフント』1隻の打撃力は大したことが無い。

 その上、攻撃した『ゼーフント』はその度に下がって()()を受けなければならない。

 つまり必ずしも、ゾルダンばかりが優勢と言うわけでは無いのだった。

 

 

『ゾルダン、イ401転進。少しずつこちらに近付いてくるわ』

「流石だな、僅かな攻撃の密度の差から我々の位置に勘付いたのか」

 

 

 そして、群像はしっかりとこちらの位置に当たりをつけてきた。

 『ゼーフント』にU-2501をカバーさせるように動いていたのだが、それがかえって目立ってしまったのかもしれない。

 しかし、ゾルダンもそうあっさりと突破させるつもりは無かった。

 

 

「2501、緩やかに後退しろ」

『了解、10ノットにて後退』

『……ゾルダン、イ401から注水音が聞こえたような』

「その感覚は合っているだろう、フランセット」

 

 

 群像は今、こちらの位置を確信しただろう。

 Uー2501だけを下げたため、いわば小さな穴が出来ている、敏感にそれを察したのだ。

 鋭敏だ、決断力もある。

 ただし、群像は一つだけ見落としている――と言うか、知らないことがあった。

 

 

「2501」

 

 

 まぁ、最も。

 気付かせないようにしていたのは、ゾルダンの方だった。

 

 

()()()()()()全砲門発射(フルファイア)

『了解、2501全魚雷発射』

 

 

 Uボートは、けして1隻で狩りはしない。

 もう1隻のUボート、それがゾルダンの隠し玉、奥の手だった。

 そして群像の全く予想だにしなかったから放たれたU-2502の魚雷が、イ401の側面から襲い掛かり――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海上での『デューク・オブ・ヨーク』と『フューリアス』の海戦も、徐々に激しさを増していった。

 互いに艦列の戦闘に立ち、相手の頭を押さえようと動いていた。

 序盤は緩やかな立ち上がりだった分、距離を詰めての格闘戦は激しいものになった。

 

 

「水雷戦隊、敵艦隊右翼より再突入。続いて……!」

 

 

 そして現在、姉である『デューク・オブ・ヨーク』に代わり、『アンソン』が前に出ていた。

 『デューク・オブ・ヨーク』にそうする余裕があった理由は、『ティルピッツ』を含めた――『ムサシ』によって一時的に<亡霊艦隊>を封じられたとは言え――総合的な火力が、緋色の艦隊を明らかに上回っていたためだ。

 『フューリアス』以外に大型艦が少ないのが、余りにも痛かった。

 群像が看破したように、緋色の艦隊は『ムサシ』以外の戦力は大したことが無かったのだ。

 

 

 一方で、『デューク・オブ・ヨーク』は考え込んでもいた。

 確かに緋色の艦隊は火力不足だが、良く守っている。

 そのため一気に形勢を握ることは出来ていないが、ジリジリと押し上げる形になっている。

 戦局を決するには、今少しの戦力が必要なようだった。

 『フューリアス』はそもそもが空母なので、仕方が無いとも言える。

 

 

「『ムサシ』が動いて来ないわねぇ」

 

 

 妹艦が勇敢に戦っているのを後ろから見守りながら、時折砲撃をしつつ、そして自分の側に巻き上がる水柱の飛沫を浴びながら、『フューリアス』達の奥を見つめる。

 その向こう側には『ムサシ』がいるはずで、実際に先程は超重力砲の一撃を叩き込んで来たのだが、それにしては気配と言うか、プレッシャーを感じなかった。

 

 

「『ティルピッツ』ちゃーん、何か知らないー?」

「…………知らない」

「ふーん、そっかあ」

 

 

 まぁ、北洋でほとんど単艦で過ごしていた『ティルピッツ』だ、『ビスマルク』の姉妹艦とは言え、特段何かを知っていると言うことは無いのだろう。

 さて、千早群像の口車に乗る形で始めた戦いではあるが、どこまでやるのが十分か。

 その時だった、『デューク・オブ・ヨーク』達のさらに後方から、『フューリアス』達の方へと砲撃が打ち込まれたのだ。

 

 

「うん、だれ?」

 

 

 知らない砲撃だったので、怪訝に思った。

 そうしていると、聞き覚えのある高笑いが聞こえて来た。

 相手側で巻き上がった砲撃の水柱の大きさから考えて戦艦級の火力だ、だが近付いてくる速度は戦艦以上だった。

 

 

「ハッハッハ――――ッ! ついに戻って来たぞぉ――――ッ!!」

「あら、誰かと思えば『フッド』じゃない。『ビスマルク』に負けたって聞いたけど」

「う、五月蝿い! 何だお前達こそ、今さらしゃしゃり出てきて!」

 

 

 巡洋戦艦『フッド』だった。

 イ404と行動を共にしていたはずの彼女が艦体を取り戻してここにいると言うことは、と、『デューク・オブ・ヨーク』は足元を見た。

 正確には、足元を潜り抜けて行く何者かを、彼女は見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 不思議と、抵抗は少なかった。

 それは単純な話で、イ404がロンドンの港、つまり緋色の艦隊の防衛線の内側にいたからだ。

 だからイ401や『デューク・オブ・ヨーク』らと違い、紀沙達は真っ直ぐに『ムサシ』を目指すことが出来た。

 

 

「旧ロンドン近郊は横須賀の水没地区よりも狭いので、艦体をぶつけないように注意してください」

「車庫入れって苦手なんですよね」

 

 

 操艦を担当している恋が冷や汗をかくようなことを言ってくる。

 正直なところ、艦体が傷つくことを紀沙は苦手に思っていた。

 ただそれは艦長として艦を保持する云々の話では無くて、別の理由からだ。

 もっと別の、より感覚的な何か。

 

 

 紀沙の感覚――神経だとか触覚だとかとはまた別の――が、イ404の()()とダイレクトに繋がっているためだ。

 そう感じる、と言った方が正しいだろう。

 イ404がダメージを負えば、まるで自分自身が受けたかのように感じてしまうのだ。

 

 

(たぶん、この眼のせいなんだろうけど)

 

 

 左目に触れながら、そんなことを考えた。

 こうしてシートに座っている今も、艦体を撫でる海水の冷たさを感じることが出来る。

 肌を水流が撫で続けているような感覚は、まさしくイ404の艦体が感じているものだ。

 そもそもの原因は左目――()()()だ。

 最近、ようやくわかってきたのだ。

 

 

『404の姐さんっ、お会いしたかったっス!』

「……あー、何で沈まなかったんだいキミ」

『辛辣ぅっ! でもそれでこそ姐さぁんっ!』

 

 

 あの、群像としばらく行動を共にしていたらしいイ15ことトーコとの再会にげんなりとしている様子のスミノが、そうしたのだ。

 紀沙が目を負傷した時、ナノマテリアルで再構成した。

 しかしそれは、同時に体内にナノマテリアルを取り込んだと言う意味でもある。

 そして、だからこそ紀沙は感じていた。

 

 

『そうだ、それこそがナノマテリアルの秘密なのだ』

 

 

 ナノマテリアルは、()()だ。

 

 

『だがただ感じているだけでは、オレとムサシのいる領域まで到達することは出来ない』

 

 

 そして、向こう側から紀沙を呼ぶ声がする。

 そこは、ナノマテリアルの力を持つ者だけが入ることが出来る世界。

 霧の住まう、ひとつだけ層がズレた世界。

 霧の世界に、紀沙はもう足を踏み入れてしまっていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 心の風景とでも言おうか。

 霧の世界は、ナノマテリアルを持つ者の心象風景とも言うべき場所を映し出す。

 それは、例えばどこかのリビング。

 軍艦の模型(プラモデル)の飾られた棚、遊び散らかされたダンボールの船、海のお話を描いた絵本……。

 

 

 それらすべてに、紀沙は見覚えがあった。

 両の瞳を爛々と白く輝かせながら、しかし哀しげに眼を細めてもいた。

 哀しくもなろう。

 哀しくならないはずが無い、だって。

 

 

「懐かしいな、昔はこういうもので遊んでいたのか」

 

 

 だって、ここは翔像の世界なのだから。

 

 

「紀沙、お前は今、霧の力を手にしつつある。それは感じているはずだ」

 

 

 感じている、確かにそれは感じている。

 始まりは左目だったが、そこを起点として、徐々に身体にナノマテリアルが浸透していくのを感じている。

 そのせいなのだろう、通常の人間を凌駕する膂力と反応速度を得て、電子の世界に干渉する力までを得ようとしている。

 

 

「だが完全では無い。お前が本当の意味でその力を受け入れない限り、ナノマテリアルはやがてお前の命を縮めるだろう」

 

 

 受け入れる。

 霧を受け入れるなど、出来るとは――いや、したくなかった。

 紀沙は、そのまま素直にそれを父の背中に伝えた。

 ぶつけたと言っても良い。

 

 

「……確かに、お前にとって霧はオレや群像を連れて行った憎い敵なのかもしれない。だが、それは違う」

 

 

 何が違うのか。

 それは、順序の違いだった。

 

 

「オレも、そして群像も。自分の意思で彼女達と共に行ったんだ」

 

 

 それは、自分の意思で娘を、妹を捨てて行ったと言うことなのか。

 それも、受け入れ難い。

 むしろそちらの方がショックが大きく、もしそれが真実なら立ち直れない。

 娘よりも妹よりも、そして母よりも、霧の少女達をとったと言うのか。

 しかし、それもまた真実とは違う、人とはそんなに単純なものでは無いのだから。

 

 

「そうじゃない、紀沙」

 

 

 涙を流す娘に、翔像は言った。

 バイザーを外すと、心の中だからか、霧の瞳では無い以前の父の目がそこにあった。

 優しい目だった。

 幼い紀沙が、大好きだった目だった。

 

 

「オレは、お前を愛している」

 

 

 そして、今の紀沙も。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まぁ、何と言うか。

 随分とこっ恥ずかしい台詞を吐くものだなと、スミノは思った。

 最も、スミノ自身は「恥ずかしい」と言う感情をまだ理解していないのだが。

 

 

「仕方ないわ、お父様はロマンチストだもの」

 

 

 そして、ムサシ。

 まるで宇宙にでもいるかのような無重力状態で宙に浮かぶ彼女は、悠然とこちらを見下ろしている。

 口元には笑みさえ浮かんでいて、余裕を隠そうともしていない。

 まぁ、演算力では敵わないけどねと胸中で憎まれ口を叩きつつ、スミノもまた相手を見上げた。

 

 

 超戦艦『ムサシ』――の、メンタルモデル。

 帽子から靴まで白で揃えた真っ白な少女は余りにも可憐で、害意など欠片も無いと言った風にそこにいる。

 しかし、この少女は霧の中で一、二を争う程の強大な力を持っている存在だった。

 世界すら、壊しかねない程の力。

 

 

「ねぇ、404――いえ、スミノ。貴女は、人間が土壇場で何を願うのか知っている?」

「土壇場?」

「そうね、例えば――死を迎える時」

 

 

 死とは、人間にとっては終わりの時だ。

 霧にとって言えば、コアが停止する時だろうか。

 

 

「さぁ、考えたことも無いけど」

「考えられないの間違いでしょう?」

「…………」

「そうね、それが普通の霧の限界」

「まるで、自分は違うみたいな言い方じゃないか」

 

 

 人間の感情を理解できない霧にとって、「死の恐怖」は遠い感情だ。

 だが、ムサシはどこか通常の霧が持ち得ない雰囲気を持っている。

 霧が良くやる作った表情や再現した感情では無い、立ち居振る舞いに良い意味での生々しさがあるのだ。

 生きていると言う感触、とでも言うべきだろうか。

 

 

 スミノを見つめる表情も、柔和さの中に様々な感情が凝縮されているように見える。

 それを表現する術を、スミノはまだ持っていない。

 何かを思い出しながら話すように、ムサシは言った。

 

 

「人間は死を前にした時、何かを残したいと思うものなのよ」

 

 

 自分が生きた証を残したい。

 大切な人達に、何かを残したい。

 子供達に、少しでもマシな世界を残したい。

 人間は死の間際に、そんなことを考えるのだ。

 

 

「それが千早群像と艦長殿ってわけ?」

「それと、ゾルダンね」

 

 

 自分がいなくなった後のことを考えるとは、人間とは酔狂な存在だ。

 スミノは自分がいない世界を想像できないが、人間はするのだろうか。

 ――――不意に、違和感を覚えた。

 霧のスミノが言うのならばそれは違和感では無く、バグとでも言うべきか。

 引っかかった。

 

 

()()()()()()()……?」

 

 

 呟きながらムサシを見つめると、彼女は小首を傾げて見せた。

 眉を寄せて、困ったように笑っていた。

 まるで、人間の娘のように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 自分達は、どうして戦っているのだろうか。

 戦っている最中、時折そう思うことがあった。

 

 

「もう1隻!? 何だよそりゃあ!」

「落ち着け! 1隻も2隻も同じだ!」

 

 

 ゾルダンと戦っている時でも、それは変わらなかった。

 相手が2隻目のUボートと言う隠し玉を出してきた驚きも、戦いの空気の中で感じている興奮も、嘘では無かった。

 指示にも間違いは無い、クルーの士気の高め方も。

 

 

 しかし一方で、そんな自分を冷静に見つめるもう1人の自分がいるのだった。

 そんな風に見ていると、自分は理由もなく戦っているように見える。

 今だってそうだ。

 別に、翔像に戦いを挑む必然性はどこにも無いはずだった。

 

 

「一瞬で良い、振り切れ。静、Uボートの位置はわかるか?」

「おおよその方角しか……」

「それで良い、出してくれ」

「どうすんだよ!?」

「手はある。だが時間が無いな」

 

 

 どうして戦うのか。

 意味の無い、哲学的とさえ言えない冷めた問いだ。

 問うぐらいならば戦わなければ良い、そんな問いかけだ。

 しかしそんな問いかけの中にあって、群像は戦うために必要な手を打ち続けていた。

 

 

「奴は……ゾルダンはオレを倒すための刺客だ。オレの戦術理論をすべて叩き込まれている」

「オレらにもわかるように言ってくれ」

「つまりオレと戦っていると思えば良い」

「絶望的じゃねーか」

「学院でも一度も勝てませんでしたねぇ」

 

 

 何故だ?

 どうして戦う?

 何の意味も無いのに?

 

 

「艦長って学校でもそんなに優秀だったんですか?」

「そりゃあもうブイブイ言わせてたって。なぁ副長?」

「ええ、それはもうブイブイ言わせてましたね」

「随分と余裕だな、お前達」

「そらま、そーだろよ」

 

 

 ただ、結論はいつも同じだった。

 もう1人とかそう言う風に突き放した言い方をしてみても、それも結局は自分なのだ。

 自分のことなのだから、いくら考えても答えは変わらない。

 理由などなくとも、意味なんてなくても、群像はきっと同じことをした。

 何度同じ場面に出ても、同じ選択をするだろう。

 

 

「なんてったって、お前に勝てるのはお前だけだ。千早群像くんに期待するしかないだろ」

「艦の損傷未だ軽微。いつでも行けますよ」

「Uボートの位置、誤差3.5%以内で特定しました。照合データ出します」

 

 

 良かったと、そう思う。

 そんな風に確信ができるのは、このクルー達のおかげだと。

 

 

「群像」

「うん?」

 

 

 そして、自分を無垢に信頼してくれる。

 じっと見つめてくる、メンタルモデルの少女のおかげだと。

 

 

「良いクルーだな」

「ああ」

 

 

 自分がゾルダンに勝るかは、正直わからない。

 しかしこのクルー達は、きっとゾルダンのクルーに勝るとも劣らない。

 だったら、おのずから結果は見えている。

 

 

「……かかるぞ!」

「「「応っっ!」」」

 

 

 難しいことでは無い。

 群像はただ、勝ちたかった。

 シンプルな、とても単純な答え。

 千早群像と言う少年は、誰よりも負けず嫌いなのだと言う、たったそれだけのことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ401の動きが僅かに変わったことを、ゾルダンは敏感に察知していた。

 少しずつではあるが、深度を上げてきている。

 今までは深度を下げてこちらの攻撃を掻い潜っていたのだが、逆になっている。

 

 

 好都合ではある。

 

 

 深度をあげてくれるのであれば、『ゼーフント』の多重攻撃の密度は上がる。

 不可解なのは、あの千早群像が何の意味も無くそんなことをするだろうか、と言うことだった。

 ゾルダンが考える限り、群像が悪手を打ってくるとは思えない。

 つまり、何らかの罠があると考えるべきだった。

 

 

「…………」

 

 

 しかし、『ゼーフント』が撃ち減らされているわけでは無い。

 U-2502の位置も正確には知られていないだろう。

 ここで慎重になると言うのも弱気に過ぎる、と言うのも確かだった。

 

 

「ロムアルド、『ゼーフント』を前方に集中展開だ」

「了解、魚雷抱えてるのを集中運用するよ」

『ゾルダン、イ401再度深度上げ。10……いえ15』

「こちらも追随する。2501」

『了解、深度上げ15』

 

 

 ぐぐ、と、足先から艦体が持ち上がるのを感じる。

 イ401はさらに上へと上がっているようで、2501も追いかけていく形になる。

 そして獲物に群がる狼のごとく、『ゼーフント』多数が動き始めた。

 ゾルダンはそれを、注意深く見守っていた。

 第一陣の魚雷攻撃が、艦底部からイ401に襲い掛かった。

 

 

『爆発音確認……撃沈確認されず。高周波魚雷で迎撃され……うん? 待って』

「どうした?」

『……イ401を複数確認。魚雷に紛れてアクティブデコイを放出した模様』

「アクティブデコイ。ロムアルド、モニターに出してくれ」

 

 

 見れば、4隻のイ401がモニターに映っていた。

 当然、『ゼーフント』の方がまだ数で勝っている。

 ゾルダンは4隻全てに攻撃を命じ、実際に『ゼーフント』第二陣の魚雷は数発ずつ4隻のイ401に向かった。

 

 

 そして、4隻ともが回避した。

 

 

 正確には1隻だけ艦尾に掠めたが、他の3隻は回避した。

 まさか、デコイが回避運動を?

 これには流石に驚いた、が、ゾルダンはすぐに当たりをつけた。

 群像は、アクティブデコイ全てをメンタルモデルにコントロールさせていたのだ。

 

 

「なるほど。ただのデコイでもメンタルモデルに操艦させれば、()()()()にはなるな」

 

 

 広い意味で見れば、『ゼーフント』も同じ理屈だ。

 U-2502ですら、2501にコントロールさせている。

 ただ2501がそうであるように、多数の艦をコントロールすれば演算力はギリギリだ。

 超戦艦や大戦艦でも無い限り、自分自身――つまり本体ががら空きになる。

 イ401はおそらく、本体を人間のクルーが操艦していたのだろう。

 

 

「だが惜しかった」

 

 

 人間が操艦していたからこそ、魚雷を回避し切れなかった。

 艦体が身体そのものであるメンタルモデルならば、密度の下がった魚雷攻撃を回避できない道理は無い。

 つまり、本物は艦尾に直撃を受けたイ401。

 らしくも無く身を乗り出して、ゾルダンは命じた。

 

 

「U-2501、2502。全砲門開け」

「もう少しで第三陣の『ゼーフント』が展開できるけど……」

「構わん、その間に逃げられてしまう」

 

 

 攻めっ気が強すぎるか……?

 いや、ここは一気に叩くべき時だ。

 

 

『2502、攻撃地点に到着』

「よし」

 

 

 知らず掌を握り込み、ゾルダンは勝利を確信した。

 これで、ゾルダンの役目も終わるのかと。

 

 

「……撃て!」

 

 

 撃った。

 Uー2501と2502から放たれた魚雷が、真っ直ぐに傷ついたイ401に向かう。

 回避運動は無い、艦尾へのダメージが思ったよりも深刻だったのかもしれない。

 まだ魚雷の迎撃はあるかもしれない――いや、それも無い。

 当たる。

 

 

『3、2、1……』

 

 

 フランセットの秒読み。

 当たる。

 勝った。

 ゾルダンがそう確信し、胸中にほんの一瞬、緩みが出たその時。

 

 

『――――艦長ッッ!!』

 

 

 ゾルダンは、自分が嵌められたことを知った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ロックビーム、超重力砲に備えられた照準用の拘束装備だ。

 これに捉えられると、霧の艦艇と言えども自由に行動することが出来なくなる。

 しかし、それでうろたえるゾルダンでは無い。

 もし動揺が見て取れたとすれば、その超重力砲の照準が来た方向だった。

 

 

()()()()()!?」

 

 

 ここに来て、ゾルダンは気付いた。

 あの浮上したイ401、あれがそもそもの囮だったのだ。

 つまり、最初から()()()()()()()()()()()

 メンタルモデルコントロールされたデコイに、最初から騙されてしまっていた。

 

 

 そして、最後の不用意なU-2501、2502による攻撃。

 あれで位置を完全に知られて、超重力砲によるロックビームが来たと言うわけだ。

 まさに裏を掻かれた、メンタルモデルコントロールによる多重戦法は、むしろゾルダン側の十八番だと言うのに――いや、だからこそかえって気付けなかったのかもしれない。

 

 

「魚雷再装填、侵蝕弾頭だ!」

 

 

 だが、やはり()()()()()

 イ401の超重力砲の照準は、ゾルダンには向いていなかったのだ。

 彼らが狙ったのは、U-2502の方だったのである。

 2隻で攻撃したのが不幸中の幸いとなった。

 

 

「再装填完了、いつでも撃てるよ!」

「良し、目標401……!」

 

 

 イ401からU-2502までの海が割れ、ロックビームの軌跡が走っていた。

 海上の霧の艦艇は飲み込まれないように必死だが、海中のUボートは別だ。

 U-2502は助からないかもしれないが、どの道、今からでは手の施しようが無い。

 だからゾルダンの目は、イ401を捉えていた。

 

 

「撃……何っ!」

 

 

 しかし、流石は千早群像。

 プランBを用意していないわけが無く、U-2501の艦体が激しく揺れた。

 まるで違う方向からのロックビームは、例の砲艦――『マツシマ』3隻から放たれたものだ。

 つまり『ヒュウガ』、イ404と行動を共にしていた支援艦隊である。

 

 

 なるほど、イ401が外した時のための保険と言うわけだ。

 だがゾルダンとて、『ヒュウガ』の存在を忘れていたわけは無い。

 海が割れ、拘束されながら、しかしU-2501は揺らがなかった。

 割れた海が海底に向けて滝の如く落ちている、その流れが急激に変わった。

 U-2501周辺の空間がぐにゃりと歪み、エネルギーの流れが8の字を描く。

 

 

「超重力砲では我々は倒せないぞ、千早群像……!」

 

 

 ミラーリングシステム。

 超重力砲のエネルギーですら相転移させ、無効化させる、一種のワームホールを作り出すシステム。

 Uー2501にはそのシステムが搭載されており、超重力砲は効かない。

 とは言え、ギリギリだった。

 Uー2502と『ゼーフント』の制御で2501は手一杯で、ミラーリングシステムの起動はキツい。

 

 

『コア出力……98%……』

 

 

 演算力もほぼ限界、これ以上無い程にギリギリだ。

 しかし、イ401にもはや手札は無い。

 唯一の懸念はイ404だが、まだ『ゼーフント』の監視網の外だ。

 最後の最後で予想外に梃子摺(てこず)ったが、結果は変わらなかったのだ。

 

 

「さぁ、今度こそ終わりだ」

『……ゾルダン、()()()()()!』

 

 

 何、と思った時には衝撃が来た。

 横腹からU-2501の艦体を襲ったその衝撃は、当然、イ401の物では無い。

 では、何者が横撃を加えてきているのか。

 それも魚雷では無く、砲撃を。

 

 

「はいはい砲撃砲撃~。『アンソン』ちゃんも撃って撃って」

「……ファイア、です」

 

 

 『デューク・オブ・ヨーク』らだった。

 超重力砲で海が割れているため、普段なら気にする必要が無かった。

 『フューリアス』達は、と、当てにするのは無意味だ。

 現実に攻撃されている以上は意味が無いし、それに――これは、防ぎようが無かった。

 

 

『クラインフィールド……飽和します!』

 

 

 すでに限界だったところに攻撃を受けては、クラインフィールドも保たない。

 そしてミラーリングシステムの制御が離れれば、コントロールを失った次元は逆流する。

 つまり、全ての攻撃がU-2501に襲い掛かる。

 ――――終わりだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 自分は敗北したのか。

 ゾルダンは、愕然とした、それでいて清々しい心地でもあった。

 ロムアルドが、そんなゾルダンを気の毒げに見つめている。

 

 

「ゾルダン……」

 

 

 群像の作戦は、三段構えだったのだ。

 まずアクティブデコイの多数操作で本体を誤認させ、U-2501の攻撃を誘引させる。

 そしてイ401と『ヒュウガ』の超重力砲で捕捉し、ミラーリングシステムを起動させる。

 最後に、演算力が限界に達し棒立ち状態にU-2501に水上艦隊の砲火を浴びせる。

 

 

 群像が『デューク・オブ・ヨーク』達を引き連れてきたのは、このためだったのだ。

 緋色の艦隊の対抗戦力としか考えていなかったゾルダンの、油断だった。

 いや、決闘と勘違いをした慢心と言うべきか。

 このあたり、ユンカー出身の自分の悪いところなのかもしれない。

 

 

「ロムアルド、フランセット。退艦しろ」

『嫌よ』

「足を怪我しちゃって動けないや」

「…………お前達」

 

 

 欧州の戦場で拾った2人だが、命を粗末にする必要も無い。

 そう思ったのだが、2人はゾルダンの言うことを聞かなかった。

 命令不服従は立派な反逆罪だが、ことここに及べば軍法など関係が無かった。

 

 

『……駄目です!!』

 

 

 その時だった、ミラーリングシステムがダウンした。

 U-2501だった。

 彼女は『ゼーフント』とU-2502の操艦すら放棄して、演算力を確保した。

 これも、ゾルダンの命令を受けての行動では無かった。

 クラインフィールドが復活する、だが。

 

 

『駄目です……駄目です駄目です駄目です! 艦長はこんなところで負ける方ではありません!!』

「2501、よせ。フィールドを復活させたところで、すぐにまた飽和する」

『諦めないでっ、艦長!!』

 

 

 はっとして、ゾルダンが顔を上げた。

 この状況からでは、どうあっても逆転はおろか、抵抗すら出来ない。

 数分後には、U-2501は海の藻屑と化しているだろう。

 

 

『諦めないで、生きていて……っ!』

「2501、お前」

 

 

 生きていて。

 妙に耳に残るその言葉は、()()()彼女を思い起こさせる。

 だからだろうか、ゾルダンの胸中に僅かな躊躇が生まれたのは。

 

 

「……2501、機関停止だ」

『艦長!?』

 

 

 普段、ゾルダンは2501の進言など聞かない。

 しかしこの時ばかりは、その必死さに意外そうな顔をした。

 このメンタルモデルは、こんな言い方をしただろうか、と。

 生きていて、と、こんな悲痛な声を上げるのかと。

 

 

 ……敗北は、()()()()()

 戦いの結果に、勝敗の差はされど敬意と尊敬の差は無い。

 だからゾルダンは群像に敬意を表し、敗北を潔く受け入れようとした。

 だが敗北を受け入れることと――――殉死することは、別の話だ。

 

 

「ロムアルド、フランセット。……すまないな」

「良いさ、付き合うよ」

『右に同じね。泣く子には勝てないもの』

「そうかもしれないな」

 

 

 帽子を脱ぎ、自嘲気味に笑って。

 

 

「2501、401とその友軍に信号を打て」

『は? は……し、信号? 何と?』

「決まっているだろう」

 

 

 ゾルダンは、いっそ清々しい表情で、言った。

 

 

「降伏信号だ。国際法に則り、U-2501はイ401に投降する」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 勝った……。

 今度こそ、文句なしの勝利だった。

 群像はシートに背中を押し付けて、それから大きく息を吐いた。

 じんわりと、胸中に勝利の実感が湧いてくるのを感じた。

 

 

 これほどまでに感慨深い勝利は、『ヒュウガ』戦以来か。

 あの『コンゴウ』戦でさえ、ここまででは無かっただろう。

 群像にとって、ゾルダンとの戦いはそう言うものだった。

 もう1人の自分との戦い、今までで一番苦しく、長く感じる戦いだった。

 

 

「群像」

 

 

 そうして浸っていると、イオナが声をかけて来た。

 いつも通りの大きな瞳が、こちらを覗き込むように見つめてきていた。

 何となく、照れ臭い気持ちになった。

 しかし、群像を見つめているのはイオナだけでは無かった。

 

 

「敵艦隊の機関停止を確認しました」

「へへっ、やったなー」

「『デューク・オブ・ヨーク』艦隊からは祝電が届いています」

『ぶいぶいっ、だね! 艦長』

 

 

 静や杏平だけで無く、僧、それに機関室のいおりまでもが通信で顔を出していた。

 ますます気恥ずかしくなって、群像としては珍しいことに、頬に微かな赤みが差していた。

 こほん、と咳払いして、仕切り直した。

 

 

「油断するな。まだ全てが終わったわけじゃない」

 

 

 とりあえず戒めの言葉を告げてみたが、それでも周囲のニヤニヤは消えなかった。

 しかし群像は、あえてそれを無視することにした。

 幸いにして、無視することは得意だった。

 それに実際、全てが終わったわけでは無い。

 

 

 いや、むしろここからが本番であるとも言えた。

 何しろ、まだ肝心な相手を何とかしていない。

 ゾルダンはそこへ至る最後の壁と言う位置づけで、ラストバトルでは無い。

 そう言う意味ではむしろ、ゾルダンはイ401を良く消耗させたと言える。

 これ以上無い程に役割を果たした。

 

 

「群像、直上だ」

「……ああ、そうか」

 

 

 不意に天井を――海上を見上げて、イオナが言った。

 すると、それまでの和やかな空気が再び緊張した。

 レーダーにも映っている、巨大な影に。

 

 

「……親父……」

 

 

 ゾルダンとの戦いを見届けてから、悠然と登場か。

 運命めいたものを感じると、群像は思った。

 イオナと出会った時から始まった、運命だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 最後にまともに話したのは、いつだっただろうか。

 いざ父を目の前にした時、群像は不思議な気持ちになった。

 これから戦おうと言う時に、闘志が湧いてこなかったのである。

 

 

「大きくなったな、群像」

 

 

 それはきっと、『ムサシ』の甲板に出てきた翔像がバイザーを外していたからだ。

 だから何だ、と、人は言うかもしれない。

 けれどイ401の甲板からそれを見上げた群像は、びっくりする程に穏やかな目をしていた。

 その瞳は群像の知る色をしていなかったが、目元が醸し出す雰囲気は昔を思い出させた。

 

 

 そして、今初めて再会したかのように言葉を投げかけてくる。

 いや、翔像にしてみれば今が初めてなのかもしれない。

 前は翔像の姿を見てこみ上げてくるものを押さえきれず、問答無用で挑みかかった。

 だが今は、少なくとも翔像の穏やかさに気付く余裕がある。

 

 

「イオナ」

 

 

 斜め後ろの位置に立っていたイオナに、振り向かずに声をかけた。

 ちょうど、その時に『ムサシ』とイ401の間にイ404が浮上してきた。

 少しして、紀沙が上がってくる。

 こちらも、以前とは少し雰囲気が違う気がした。

 離れている間に、何かがあったのかもしれない。

 

 

「母さんを」

「……良いのか」

「ああ、今なら」

 

 

 今ならきっと、家族として共にいられる。

 きっとそれは、紀沙が望んでいたことで、そして翔像が望んでいたことで、きっと。

 きっと、群像自身が望んでいたことでもあった。

 憎み合いたかったわけでは無いのだと、今さらながらに思うことが出来た。

 

 

 確かに、群像は翔像を超えたいと思っていた。

 でもそれと、憎むと言うことはまた違う。

 翔像のあの穏やかな目が、それを思い出させてくれたような気がする。

 一方で、いろいろと聞き出してやろうと言う気持ちもある。

 

 

「親父、紀沙」

 

 

 甲板の一部が開き、固定式の台座が艦内部からせり上がってきた。

 台座の上に安置されているのは、『タカオ』が運び、託してくれた沙保里の棺だ。

 紀沙に預けるのは酷だろうと思い、群像が預かっていたのだ。

 そして群像は、今日まで一度も母を見舞うことが無かった。

 

 

 やはり自分は薄情なのだろうかと、ふと自分に問いかけた。

 そうなのかもしれないし、違うのかもしれない。

 ただ、この生き方しか出来ない。

 不器用と言われればそうなのかもしれない。

 

 

『そうねえ、お父さんそっくりだわ』

 

 

 沙保里なら、そう言うかもしれない。

 実際に耳に母の声が聞こえたような気がして、群像は小さく唇を笑みの形に歪めた。

 翔像と紀沙がそれに気付いたかは、定かでは無い。

 そして10年ぶりに、4人きりの千早家が一堂に会することになったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 結局、紀沙はこの父兄に対して何もすることが出来なかった。

 2人は勝手に対立し、そして勝手にわかり合ってしまった。

 母の言う通りだった。

 男同士に意地の張り合いに、女が入ろうとしても無理だった。

 

 

 後悔は無いかと言われれば、嘘になる。

 しかしことここに及んで、何をか言わんや、だ。

 今はただ、紀沙にはわからない何かでわかり合った翔像と群像が眩しかった。

 少しばかり、嫉妬した。

 そして……。

 

 

(何だか悔しいよ……ねぇ、母さん)

 

 

 氷の棺の中で眠る沙保里は、ただ眠っているだけのように思った。

 タカオの作ったこの棺は、沙保里の命の時間を停止させる、つまり仮死状態にしている。

 それは沙保里の身体と生命を強固に守り、保存する。

 そしてこの棺を()()すると言うことは、その効果を失うと言うことだ。

 

 

 最後の5分――正確には、324秒。

 

 

 沙保里と過ごせる最後の時間。

 嫌だ、と、本能に近い部分が言うのを感じた。

 当たり前だ、母が死ぬのだ。

 しかもその死は、避けられないものだと言う。

 

 

「……もし」

「無理だよ」

 

 

 ふとした思い付きは、しかしすぐにスミノに否定されてしまった。

 ナノマテリアルで傷ついた部分を入れ替える、自分にスミノがそうしたように。

 しかし思えば、それが出来るならタカオがすでにそうしているはずだった。

 ならば、やはり出来ないのだろう。

 

 

 そもそも、よりにもよって霧の力に頼ろうとするとは。

 自分もいよいよ焼きが回ったかと、紀沙は愕然とした心地になった。

 それとも、思考まで霧に馴染んできているとでも言うのだろうか。

 スミノの方へと、引き寄せられるかのように。

 まさか、と、笑えなかった。

 

 

「それが出来るのは、まぁ、色々と条件があるからね」

「…………」

 

 

 群像が、棺に手をかける。

 特別な動作は必要ない。

 家族が揃い、子供が願えば、それで解凍される仕組みなのだ。

 いよいよか。

 紀沙は堪え切れなくなって、母の棺から視線を逸らせた。

 

 

(見ていられない)

 

 

 そう思ったが故に、行動だった。

 ここで目覚めた母に声でもかけられようものなら、それこそ堪え切れない。

 しかし、その行動が思わぬ発見を紀沙にさせることになる。

 イ401のセイルの上、そこに何か……。

 

 

「……え?」

 

 

 何だ、あれは?

 イ401のセイルの縁に、黒い靄のような――霧のような、塊が蠢いていた。

 似ていた。

 それはとても、ナノマテリアルに似ていて、そう。

 

 

 ――――闇色のナノマテリアルが、場に蠢いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「どうしたの、タカオお姉ちゃん?」

 

 

 総旗艦艦隊所属の霧の艦艇、重巡洋艦『タカオ』は、姉妹艦(いもうと)の『アタゴ』の声に返事を返さなかった。

 霧の艦艇随一の妹想い(シスコン)で知られる『タカオ』としては、非常に珍しいことだった。

 それどころか、太平洋上を進む総旗艦艦隊の中で『タカオ』だけが陣形を乱していた。

 

 

 幾重にも重なる輪形陣の中で、『タカオ』の持ち場だけが歪に歪んで見える。

 ほとんどが駆逐艦故にクレームをつけて来たりはしないが、駆逐艦達のコアが迷惑そうな雰囲気を醸し出していることには気付いた。

 それでも、『タカオ』は元の位置に戻ろうとはしなかった。

 

 

「何なの、この嫌な感じは……?」

 

 

 豊かな胸元に手を添えながら、青髪のメンタルモデルは呻くように言った。

 疼くような、ざわつくような、そんな感覚が胸の奥にあって、どうにも消えない。

 気持ち悪い。

 そしてどうしてかはわからないが、焦燥感を感じている。

 

 

(焦ってる? 私が?)

 

 

 焦る必要性は無い。

 すべて総旗艦『ヤマト』のスケジュール通りに航行しているのだから、問題があるはずが無い。

 毎日毎日、決まったコースを航行するだけだ。

 何の変化も無い以上、何か問題が起こるはずも、まして焦る必要なんて無い。

 そう、何も問題は無い――――――――ほんとうに?

 

 

「何を()()()()()()()()()の? 私……?」

 

 

 しなければならない?

 自分で口走った言葉にどうしようもなく胸を締め付けられて、『タカオ』は頭を押さえた。

 以前はつけていなかった大きなリボンに手が触れると、『タカオ』は不快そうに眉を寄せた。

 

 

「タカオお姉ちゃん、本当に大丈夫? 『ハルナ』呼んでこようか?」

「……大丈夫よ、大丈夫……」

 

 

 ぐりぐりとこめかみを指先で押さえながら――やけに人間臭い仕草だ――『タカオ』は妹に応じた。

 身体がおかしい、どこかのプログラムに不具合(バグ)でもあるのだろうか。

 『アタゴ』の言う通り、『ハルナ』にでもコアをチェックして貰った方が良いのかもしれない。

 

 

「……ちくしょう……」

 

 

 口をついて出た悪態は、誰に向けられたものだったのだろう。

 嗚呼、頭が痛い。

 




最後までお読み頂き有難うございます。

個人的に群像は嵌め手と言うか、手品師みたいなイメージがあります。
正面からちゃんと戦う割に脇から攻撃したり、でも絡め手は苦手そう。
群像の戦闘は、そこらへんをちょっと意識してます。

さて、次回またオリジナル設定入れます。
闇のナノマテリアル、ちょっとカードゲームアニメっぽいですよね(え)

それでは、また次回。


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Depth060:「<騎士団>」

 闇のナノマテリアル。

 そうとしか形容できないものが、イ401のセイルの上にたゆたっていた。

 何だあれはと思う間に、黒いナノマテリアルは人間の形を取り始めた。

 

 

 禍々しい色のナノマテリアルから生まれたとは思えない、ふわふわした栗色の髪。

 深緑の瞳に白人特有の白面、瞳と同じ色合いの折襟の軍服、手にはギャリソンキャップを持っていた。

 服の胸元には「38M」と刺繍が入っているが、意味は良くわからない。

 そして、()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「スミノ、あれは霧?」

「……違う、と思う」

 

 

 スミノが、珍しく歯切れが悪かった。

 しかし雰囲気は違うが、あれは確かにナノマテリアルだった。

 ナノマテリアルから形勢された人間は、それはつまり霧のメンタルモデルのはずだ。

 だが、霧のスミノはあの男を霧では無いと言う。

 

 

 紀沙にもわかる。

 あれは霧では無い、が、霧の気配を漂わせている。

 わからない。

 体内にナノマテリアルを持つ紀沙は、今スミノが感じている気持ちの悪さが理解できる。

 女性形しか存在しない霧のメンタルモデル、なのに目の前には男のメンタルモデルがいる。

 

 

「誰だ、お前は……!?」

 

 

 この時点で、群像もその男の存在に気付いた。

 そして皆が自分に気付いたことを知ったのだろう、男はにっこりと笑みを浮かべた。

 柔らかな風貌と相まって、その笑顔は見る者を安心させるはずだった。

 しかし状況が、全てを台無しにしてしまっていた。

 安心など、出来るはずも無い。

 

 

 拍手。

 

 

 男が拍手していた。

 パチパチと乾いた音が響き、他の音は消えてしまったかのようだった。

 皆の視線が彼に集まった時、ただひとり――翔像だけが口を開いた。

 翔像は言った。

 

 

「――――<騎士団>か」

 

 

 <騎士団>。

 今や緋色の艦隊とヨーロッパを二分する勢いの新興勢力。

 ロシアの軍事攻撃を三度跳ね返した、正体不明の集団。

 彼の正体はそれ、そして彼は名乗った。

 

 

「僕の名前は『トルディ』。<騎士団>のエース、なんて呼ばれることもある」

 

 

 <騎士団>を碌に知らないのにエースも何も無いが、自信満々にそう言ったのだ。

 とにもかくにも、ついに、と言うべきだったのかもしれない。

 来るべきものが、ついに来たのだ。

 <騎士団>の側から、人類へとコンタクトを取る時が。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそも、<騎士団>とは何か。

 <騎士団>と言う名前が広まったのは、ここ1、2年のことだ。

 クリミア半島を拠点に侵略を開始した()()は、自ら<騎士団>を名乗った。

 何の、そして何に対する騎士なのかも名乗らぬ、()()()()<騎士団>。

 

 

 そして彼らは、霧の艦艇と良く似た力を持っていた。

 一時は霧の地上侵攻が始まったのかと各国に緊張が走ったが、霧の艦艇との戦闘が確認されるに及び、人類は彼ら<騎士団>が霧の艦艇とは別個の、しかしより直接的な脅威であることを知った。

 陸地に関心の無い霧の艦艇と異なり、<騎士団>は地上を侵略し始めたからだ。

 

 

「群像」

 

 

 『トルディ』と名乗った男から目を離さずに、イオナが口を開いた。

 その瞳は、霧特有の電子的な明滅を繰り返している。

 

 

「奴は私のセンサーに映っていない」

「どういうことだ?」

「わからない。ただ、奴の身体はナノマテリアルで構成されている」

「……『トルディ』とか言ったか。お前は何だ、霧の艦艇なのか!?」

「ボクが霧だって?」

 

 

 それは何の冗談だ。

 まさにそんな風に肩を竦めて、『トルディ』は答えた。

 

 

「言ったろ、僕は<騎士団>だって。霧なんて言う、あんな……」

 

 

 霧。

 そう言葉にした時の『トルディ』の表情は、まさに唾棄(だき)すべき何かを口にするような、そんな嫌悪に満ち満ちたものだった。

 むしろ、どこか見下しているようにも見えた。

 

 

「あんな下等な奴らと一緒にされちゃあ、困るね」

「……下等と来たか」

 

 

 ぼそりと呟いたのは、誰だったか。

 誰が言ったのかには興味が無いのだろう、『トルディ』は手振りを大きくして言った。

 

 

「下等じゃないか。だって、お前達は自分がどうして存在しているかもわかっていないんだろ?」

 

 

 それは、事実ではあった。

 霧の艦艇は「人類を海洋から追い出せ」と言う不完全なコードを実行しているだけで、そこに彼女達の意思は無かった。

 存在しているのかどうかもわからない何者かの命令をこなすだけの、いてもいなくても一緒の存在。

 

 

 だが、自分達<騎士団>は違う。

 自分達は崇高な目的と使命のために行動しており、戦いも侵略も、全てそのための手段に過ぎない。

 海洋封鎖を手段では無く目的とする霧の艦艇とは、存在の格が違う。

 『トルディ』は、そう言った。

 

 

「では聞かせて貰おう。お前達の目的とは何だ?」

 

 

 群像が返す。

 若干、声に固さが見えるのは、イオナを――霧の少女達を侮辱されたと感じたからだろうか。

 それに対して、『トルディ』は答えた。

 つい、と、あるものを指差しながら。

 

 

「今はとりあえず、彼女に興味があるね」

 

 

 『トルディ』が指差したのは、沙保里の棺だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「彼女は、僕達の仲間になるかもしれなかった人だ」

 

 

 『トルディ』の言葉は、紀沙にとって示唆に富んだものだった。

 紀沙はすでに父・翔像が自分と同じようにナノマテリアルと取り込んだことを知っていて、母が何かを語るためにタカオに自らを託したことを知っている。

 そう言う中での『トルディ』の言葉は、嫌でもある可能性を想起させる。

 

 

 千早の――いや。

 ()()()()()

 かつて『アドミラリティ・コード』を起動させた3人の内の1人。

 そして、ナノマテリアルの身体を持つ男の存在。

 紀沙の頭の中では、すでに一つの答えが出ていた。

 

 

「もちろん、そちらにも興味がある――千早翔像提督」

 

 

 イ401のセイルから『ムサシ』を見上げながら、『トルディ』は言った。

 

 

「世界は、ナノマテリアルに選ばれた我々が統べてこそ価値がある。そう思うからこそ、緋色の艦隊を率いて我々に対抗したわけだろう」

「ナノマテリアルに選ばれる? どう言う意味だ?」

「……言葉通りの意味だ。最もお前には無理だったようだがな、千早群像」

 

 

 そして、群像にはわからない。

 彼は翔像の話を聞いていない。

 また紀沙が聞いた話は霧の共有ネットワークにも上がっていないので、イオナも知らない。

 まして、ナノマテリアルと言う未知の物質に関することだ。

 

 

「あまり喋り過ぎるな、『トルディ』」

 

 

 一方、紀沙はぎょっとした。

 何故なら背後から声が聞こえたからで、振り仰いで見れば、イ404のセイルにも誰かがいた。

 『トルディ』と同じ軍服を着た、似たような風貌の青年だった。

 人間離れした美しさを持つ青年で、こちらは『トルディ』と違い立っていた。

 

 

「わかってるよ、『トゥラーン』。別にお喋りに来たわけじゃないしね」

 

 

 霧の艦艇は、それぞれに己の本体とも言うべき艦体を持っている。

 それは全てナノマテリアルによって構成されているもので、条件さえ揃っていればどこへでも現れることが出来る。

 ……何故、ここで改まってそのようなことを説明したのか?

 

 

 それは、霧の艦艇の例を持ち出さなければ、目の前の出来事を説明できなかったからだ。

 『トルディ』の背後、イ401のセイルを押し潰す勢いで突如として出現したそれは、当然セイルからずり落ち、甲板に降りた――もとい、落ちた。

 紀沙があっと叫んだ時には、イオナが群像を抱えて海に飛び込んでいた。

 突如として現れたもの、それは……。

 

 

「――――戦車!?」

 

 

 それは、戦車だった。

 不整地走行のための履帯、鋼鉄に包まれた車体、大きな砲塔。

 ずんぐりとした独特のフォルムは、かつて陸上の覇者と呼ばれた兵器だった。

 そして誰もが唖然としている中で、『トルディ』の砲塔が火を噴いたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『トルディ』が放った砲弾は――いわゆる榴弾(りゅうだん)砲――沙保里の棺を直撃した。

 物理的な効果以上に、砲弾にウイルスのような物が仕込まれていたようで、棺の封印プログラムを強制解除されてしまった。

 母の、沙保理の最後の時間が……!

 

 

「母さん!!」

 

 

 群像に悪いと思いつつも、イ404が突っかかって行った。

 イ401の艦体に404の艦首をぶつけるようにして、同時に紀沙は跳んだ。

 衝撃で傾くイ401の甲板で足を滑らせながら、紀沙は叫んだ。

 あたりには、砕け散った氷が散らばっている。

 

 

「ははははっ! どうだい、美しいだろう!? 水の上に浮かぶだけの鉄屑とはわけが違うよ!」

 

 

 『トルディ』の笑い声が聞こえる。

 

 

(戦車って……!)

 

 

 だが理解した、<騎士団>は霧の艦艇と似て非なるものなのだ。

 陸上版の霧とでも言おうか――言動から察するに、本人は否定するだろうが――<騎士団>は、おそらくは前時代の戦車の姿を取るのだ。

 狭い甲板の上でキュラキュラと履帯の音が響く、そして視界の端で、何かが動くのに気付いた。

 

 

 海風が、(もや)を吹き散らして視界が広くなった。

 そこに、女性が1人立っていた。

 誰かなどと言うまでも無い、氷の棺から解放された沙保里だった。

 履帯の音が響く中、紀沙は駆け出した。

 

 

「艦長殿!」

 

 

 背後から砲撃の音がするのと、スミノの声が聞こえたのはほとんど同時だった。

 まだ起きたばかりだからだろう、沙保里はぼんやりとした様子で立っているだけだった。

 ほとんど勢いのままに、紀沙は沙保里に飛びついた。

 母の身体は冷え切ってしまっていたが、ふわりと感じる優しさは子供の頃のままだった。

 一瞬、安堵と悲哀を覚える。

 

 

(こんなはずじゃ無かった……!)

 

 

 こんなことばかりだ。

 良かれと、良くなると信じていても、何も良くはならない。

 酷いこと、嫌なことしか起こらない。

 何だこれはと、絶望が常に傍にいる。

 

 

 氷の棺が解かれた以上、沙保里は死ぬ。

 それは、受け止めざるを得ない――哀しい、苦しい程に、狂える程に。

 ならせめて、最後の時間は家族みんなで過ごしたかった。

 それくらいの願いを持ったとしても……(ばち)は当たらないだろう!?

 

 

「あらあら」

 

 

 けれども、当の沙保里は穏やかだった。

 目を覚ましたら娘が体当たりをかましてきていて、いやそれ以前に大海原のど真ん中で船に乗っていて、しかも目の前に戦車がいると言う意味不明な状況なのに、穏やかなままだった。

 『トルディ』の再度の砲撃とスミノがそれを受け止めた衝撃で、イ401の艦体が大きく傾いた。

 

 

「仕方の無い子ね」

 

 

 そんな中にあって、沙保里は昔と何も変わることが無かった。

 何も言わずにお腹のあたりにある紀沙の後ろ髪に手をやって、ゆっくりと撫でる。

 甲板から滑り落ちて、逆さまになっていても。

 あるいは、海に落ちてしまっても。

 沙保里は、変わらずにいられるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海に落ちる。

 霧にとっては何でも無いことでも、人間にとっては大きなことだった。

 しかも、長らく謎のままだった<騎士団>の登場である。

 

 

「イオナ姉さま!?」

「あ、姐さぁ――んっ!?」

 

 

 千早兄妹とその艦に縁のある者は、まずそちらを案じた。

 普段なら心配などしないだろうが、状況が状況である。

 なんだ、あの戦車は!?

 

 

 普通は潜水艦の上に戦車のような重量物は乗せられない。

 それが普通に乗り、かつ砲撃までしているのはイ401、あるいは戦車そのものが通常の物質で構成されていないためだろう。

 つまりあの戦車は、間違いなくナノマテリアル製だ。

 

 

「くっ……!」

 

 

 この時点で、ヒュウガは僅かに迷った。

 交戦か、探索か。

 もしヒュウガが大戦艦『ヒュウガ』であったなら、まず交戦を選んだ。

 イ401の艦上にいる戦車や<騎士団>の2体を狙撃することなど、大戦艦『ヒュウガ』であれば造作も無いことだったはずだ。

 

 

「トーコ! あんたもついて来なさい!」

「お、おうっ!」

 

 

 結果、ヒュウガが選んだのは探索だった。

 潜行し、海中で群像達を探すのである。

 

 

(<騎士団>、戦車……ああっ、もう! 戦車なんて良く知らないったら!)

 

 

 ヒュウガは憤慨していた。

 調べればわかるだろうが、霧の中で戦車などに興味を持っている者がどれだけいるか。

 蓄積されていない知識や情報に対して、霧は極めて弱い。

 これが航空機であれば、以前艦載機として運用していた記録からある程度はわかるのだが。

 

 

 そして、そうして海中へと姿を消していくヒュウガを横目に、『デューク・オブ・ヨーク』達は遠巻きのまま、『ムサシ』周辺で起こっている変事を眺めていた。

 このまま停戦かと思っていたところに、第三者の介入である。

 経験豊富な欧州艦隊のメンタルモデルと言えども、流石にこれは予想外だった。

 

 

「こういうのを、人間は「肌が粟立つ」って言うのかしらね」

 

 

 『デューク・オブ・ヨーク』はひとまず艦隊を停止させた。

 『フッド』は今頃は『フューリアス』達のコアの回収に忙しいだろう。

 それは、もしかしたら運が良かったのかもしれない。

 何故ならば、『デューク・オブ・ヨーク』が今感じている肌の粟立ち、冷や汗、そして恐怖を、感じなくて済んでいたのだから。

 

 

「姉さん、こわい……」

「大丈夫よ『アンソン』ちゃん、お姉ちゃんがついてるわ」

 

 

 姉妹艦にはそれと悟らせていなかったが、『デューク・オブ・ヨーク』も恐怖していた。

 びりびりと伝わってくる圧力感に、メンタルモデルの肌が焼かれてしまいそうだった。

 

 

「……『ムサシ』が、怒っている……」

 

 

 超戦艦の放つ、これ以上無い程の存在感。

 ただそれを感じただけで、『デューク・オブ・ヨーク』達はそれ以上進むことが出来なかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 離さなかった。

 離してしまえば、今度こそ会えなくなってしまうような、そんな気がしたからだ。

 冷たい海の中で、紀沙は沙保里にしがみついていた。

 

 

(泳げな、い……!)

 

 

 しかし、成人女性を抱えて泳ぎ切れる程、ドーバー海峡は穏やかな海では無かった。

 おまけに衣服が海水を吸い、泳ぐどころか浮かぶことすら出来ない。

 1人ならばあるいは、とも思うが、それは論外だ。

 だから紀沙は、沙保里の背中に回した腕を離さなかった。

 

 

「ぐ、んん……っ」

 

 

 それでも、気持ちだけで息が保つわけでは無い。

 いやむしろ、海の寒さに青白くなった唇から漏れる気泡は徐々にか細くなっているように見える。

 すでに胸は苦しく、今にも息を吸ってしまいそうだ。

 水中で息を吸えばどうなるか、海兵である紀沙は嫌と言う程に良くわかっている。

 

 

 それがどうした。

 苦しいとか、寒いとか、そんなことはどうでも良い。

 母親を見捨てて生き延びることを是とするなら、ヨーロッパくんだりまで来ていない。

 だから離さない、たとえ――たとえ、それで再び海上に出れなかったとしても!

 

 

(ぜったいに、はなさない)

 

 

 その時、不思議なことが起こった。

 視界の端、だんだんと光を失っていく海の中で、蛍のような光を見たのだ。

 いや、蛍と言うよりは光の粒子と言うべきか。

 それは、ナノマテリアルの粒子だった。

 

 

 ――――スミノ?

 

 

 違った。

 そのナノマテリアルは、もっと身近なところから発生していた。

 紀沙を取り巻くように発生したそれは、彼女を守るように温かく包み込んでいった。

 それは。

 

 

(――――母、さん?)

 

 

 沙保里が、ぎゅっと紀沙を抱き締めていた。

 困ったような、何かを言いたそうな、そんな顔で紀沙のことを見つめていた。

 きっと、何か話したいことがあって『タカオ』に封印処理を頼んだのだろう。

 しかしこんなことになってしまって、それも適わなかった。

 最後の一時を、言葉も交わせずに終わってしまう。

 

 

「か……ごぼっ」

 

 

 最後の呼気で、母さん、と言おうとした。

 せめてそれだけでもしたかったが、それすらも出来ないようだ。

 涙は、海水の中に溶けて消えてしまう。

 それでも母の本能なのかどうなのか、娘が泣いていることには気付いたのか、沙保里の指は紀沙の涙を拭うような動きをした。

 

 

 そして、ぽんぽんと背中を叩いてくる。

 まるで子供の頃にそうしたように、あやすように、寝かしつけるように。

 淡いナノマテリアルの輝きが、紀沙を包み込んでいく。

 それは、沙保里の身体から出ているように見えて。

 

 

(……かあ……さん……)

 

 

 ()()()()()()()、紀沙は目を閉じた。

 冷たい海の中で、どうしてか温かだった。

 紀沙の意識は、沙保里と一緒に、ナノマテリアルの海に溶けていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――さて、どうしたものか?

 事の一部始終を眺めていた少女、『ユキカゼ』は、自分の次の行動をどうすべきかを思案していた。

 と言うより、目の前で起きた出来事の解釈について考えていた。

 

 

「はてさて、我が総旗艦はこれを想定していたのでしょうか」

 

 

 『ユキカゼ』の前には、ナノマテリアルの保護壁で覆われた少女がいる。

 いる、と言うか、本人の意思でなくそこにいるわけだから、「ある」、と言うべきか?

 そう言うどうでも良いことを考える時間が、最近は本当に増えた。

 メンタルモデルを得たからだろうか。

 

 

 『ユキカゼ』は思考する。

 思考の蓄積こそが、メンタルモデルの経験値を増やしていくのだ。

 まぁ、それはそれとして。

 

 

「はたしてこれは、回収するのが正解なのかそうでは無いのか。イ8はどう思う? ……うん、まぁ、判断情報が足りないのはわかってたよ」

 

 

 『ユキカゼ』がメンタルモデルを得て学んだことの一つは、世の中にははっきりとした正解は無いと言う事だった。

 いや、それは少し表現が違っている。

 何を選んでも正解で、何を選んでも不正解なのだ。

 矛盾しているが、『ユキカゼ』の理解する「世の中」と言うものはそう言うものだった。

 

 

「興味深い」

 

 

 実際、興味深い現象ではあった。

 そもそも『ユキカゼ』は、人間がナノマテリアルを取り込むなど想像したことも無い。

 だが今日、目の前でナノマテリアルを宿した人間を見た。

 もしかするとこれは、自分たち霧にとっても重要なことなのでは無いかと思う。

 

 

「あるいは、我らが創造主への道標なのかもしれない」

 

 

 千早紀沙。

 あの千早群像とはまた別の、違った可能性を持つ人間。

 ナノマテリアルの(まゆ)に守られ、海中にたゆたう少女は、何も答えない。

 母の揺り籠の中で眠る赤子のように、眠っている。

 

 

「思考には苦しみが伴う。まったく、その通りですね」

 

 

 ああそうか、と、『ユキカゼ』は思った。

 もしかしてこう言う時に、人間は哀しみたくなるのだろうか。

 ふわり、と降りて来た紀沙の身体を両手で受け止めるようにして、『ユキカゼ』は言った。

 

 

「痛みと苦しみだらけの世界を、人間はどうして生きているんでしょう?」

 

 

 その問いに答えられる人間が、はたしてどれだけいるのだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――年末のドーバー海峡での海戦は、英仏両岸の民衆を恐怖に陥れた。

 特に戦場が近かったロンドンでは市街地にも被害が出て、人々は地下の防空壕で身を寄せ合って震えていたと言う。

 (ちまた)では、緋色の艦隊とその反対派の戦闘だったと言うことだが……。

 

 

「やっぱり、海まで出ないと見れないよな。くそっ」

 

 

 海戦の翌日、まだ誰もいない早朝に、フランス側の砂浜を歩く青年がいた。

 茶色の髪に黒い瞳の、鼻の高い白面の男で、動きやすそうな服装にライフジャケットを着ていた。

 そしてその手には、今時は珍しいフィルム式の一眼レフカメラが握られていた。

 随分と長く歩いてきているのか、砂浜のずっと向こうまで足跡が続いていた。

 

 

 ジャケットの襟元に、名札がついていた。

 レオンス・シャルパンティエ、国籍フランス。

 その界隈(かいわい)ではちょっと名の知れた戦場ジャーナリストで、普通のジャーナリストやカメラマンでは撮れないような写真を撮り、記事を書くことで有名だった。

 

 

「霧の艦艇に従軍記者制度があればなぁ、こんな砂浜をずっと歩かなくても良いのにな」

 

 

 レオンスは今、霧の艦艇を追いかけていた。

 今、世界で何が起こっているのか?

 それを知るためには、今はとにかく霧の艦艇に近付くことだった。

 しかし人間の身で、それはなかなかに困難を伴うことだった。

 だからこそ、不満そうにブツブツと愚痴りながら砂浜を歩いていると言うわけだ。

 

 

「せめて飛行機でもあれば……うん?」

 

 

 レオンスにとっては、それは変わらない日常のはずだった。

 欧州大戦の戦場を渡り歩き、霧の艦艇を追いかけながら海沿いを歩き続ける一日。

 ところがその日は、いつもと少しだけ違った。

 真っ白な砂浜に、それこそ砂と貝殻しか無いような砂浜に、その日は別のものを見つけたのだ。

 

 

「何だ、何か流れ着いて……いや、人だ! おい、大丈夫か!?」

 

 

 砂浜に、人間が倒れていたのだ。

 それも女性、しかも若い。

 迷うことなく、レオンスは彼女に駆け寄った。

 レオンスはジャーナリストとして常にネタを求めているが、それは人間として取るべき行動を取らないということを意味しない。

 

 

「ん、東洋(アジア)人か? 軍服みたいな服だな……」

 

 

 そんなレオンスが驚いたのは、別に彼が人種差別主義者だからでは無い。

 単にアジア人――それも生粋の――は、今時ヨーロッパ都市部でもなかなか見ない。

 それも自分より明らかに若い女性となると、さらに珍しくなる。

 いったい彼女は何者なのか?

 一瞬頭を過ぎった疑問をひとまず振り払い、レオンスは介抱を始めた。

 

 

 

 

「……かあさん……」

 




最後までお読み頂き有難うございます。

騎士団は戦車で男だった!
ここで私は女性読者を確保に走るわけです(今さら)
またどこかで騎士団募集とかしたいですねー。

さて来週の更新ですが、申し訳ありませんがお休みとさせて頂きます。
リアルでGWに旅行に行くため、感想やメッセージの対応もできなくなります。
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ご容赦下さい。
一応、ここからイ404のクルー編もとい、ちょっぴり過去編みたいなのを描いてみたいと思います。
紀沙とイ404のクルー達の関係をちょっとでも描けたらなと思います。
紀沙が学院卒業間近とか、そのくらいの時系列でしょうか。


ではでは、執筆のため(ほんとか)、実際に見てこようと思います。



――――ドイツを。


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Depth061:「出航前・前編」

ドイツより帰還致しました。
今回は前回後書きで言ったように、過去編です。
全2話の予定。
では、どうぞ。


 

 海洋技術総合学院。

 海洋技術の継承を目的として設立された軍直轄の学校で、毎年優秀な人材を輩出している。

 現在、統制軍の士官学校を除けば最も優秀な学生が集まる学校である。

 そして冬の終わりを感じさせるその日、学院からの卒業を間近に控えたある1人の少女がいた。

 

 

「はっ……ふっ!」

 

 

 武術の訓練――()()()()だろうが、近接格闘術は軍系列校の必須科目だ――に用いる室内訓練場で、紀沙は小刻みに身体を振り、動かしていた。

 学院指定の体操着に身を包んでいるためか、手足の筋肉がしなやかに動く様子が良くわかり、若い躍動感を見る者に感じさせた。

 

 

「とぉ……!」

 

 

 今のは危なかった。

 掠めたのだろう、頬のあたりに感じるちりちりとし感触に冷や汗を流しつつ、紀沙は正面から目を離さなかった。

 目一杯に見開かれたその目は、視界に映る黒い軌跡を見逃すまいとしていた。

 

 

 考える間に、次の一撃が来た。

 それは刃渡り25センチ程の、黒い樹脂製のトレーニングナイフだった。

 腕を伸ばして飛ぶ込む形で繰り出されたそれは、紀沙の胸を狙っていた。

 身体を左に振り、さらに右足を下げて流した。

 

 

「お」

 

 

 相手の男が、まさに「お」と言う顔をした。

 構わずに、左の掌で相手の腕を叩く。

 すると紀沙の身体は左に抜けて、相手のナイフは腕ごと右に流れてしまった。

 下げた右足で地面を蹴り、気合一発、呼気を止めて身体を回し、右肘を相手の首の真後ろに叩きつけた。

 

 

 いわゆるナイフ格闘術と言うものだが、だからと言ってナイフだけで戦うわけでは無い。

 むしろ、ナイフ以外の動きで勝敗が決する場合が多い。

 ちょうど、今のようにだ。

 首を打たれて倒せた相手の背中を押さえ、腕をねじ上げながら首筋にナイフを当てる。

 そのまま、少し待った。

 

 

「参った」

 

 

 相手――近接格闘術の教師は、紀沙の下でそう言った。

 もし両手が自由であれば、お手上げと言うようなジェスチャーをしたことだろう。

 その言葉を聞いて初めて、紀沙は身体から力を抜いた。

 緊張感のある空気が和らぎ、同時に、わぁ、と周囲がざわついた。

 

 

 よくよく見てみれば、訓練場には紀沙と同じ体操着を着た男女が他に十数人いた。

 紀沙のクラスメート達で、今日が近接格闘の最後の授業で、成績トップの紀沙が教官と一勝負をしていたと言う形だった。

 興奮冷めやらぬと言った様子の級友達を横目に見て、紀沙は「はぁ」と溜息を吐いた。

 ああ、疲れた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 武道館の外に出ると、燦燦(さんさん)と太陽が輝いていた。

 春も間近のまだまだ涼しい気候、などと言われていたのは昔の話。

 今の日本は温暖化の影響で、夏冬が長く春秋が異常に短いのだ。

 

 

「あっつ……」

 

 

 手をかざすと、血管が浮き出て見えるような気さえした。

 ぞろぞろと武道館から歩き去っていく級友達を横目に、紀沙は余分な運動でかいた汗に辟易としていた。

 卒業間近の最後の授業とは言え、教官と一騎打ちの伝統など誰が考えたのか。

 運動は嫌いでは無いが、する必要の無い運動は好きでは無い。

 

 

 ふと何かに気がついて、紀沙は懐を探った。

 取り出したのは携帯電話で、何かのアニメキャラクターをデフォルメしたストラップがついていた。

 それが何のキャラクターであるかは、実は紀沙も良く知らない。

 級友――かつて級友だった者からのプレゼントと言うか、ダブりのおすそ分けだった。

 

 

「母さん?」

 

 

 母からの電話だった。

 まぁ、紀沙に電話をかけてくる人間は他にいない。

 卒業が間近なので、いろいろと心配されているのかもしれない。

 

 

「うん……うん。まだ授業中、大丈夫」

 

 

 さしもの紀沙も、母親との会話の間は表情が柔らかくなった。

 年齢相応と言うか、年頃の娘だった。

 10代の少女なのだから当たり前と言えば、当たり前なのだが。

 そうは単純では無いのが、千早紀沙と言う少女だった。

 

 

「心配しないで、母さん。じゃあ、切るから。うん、夜に電話するね」

 

 

 そして電話を切ってしまうと、元の固い雰囲気に戻ってしまう。

 誰も寄せ付けない、と言う雰囲気になってしまった。

 母の声に見せていたあの姿は幻だったのかと、そんな風に思ってしまう程だった。

 実際、幻だったのかもしれない。

 

 

「ああ、行かないと。次の授業が始まっちゃうや」

 

 

 海洋技術総合学院。

 そこはもちろん、紀沙の母校である。

 本来ならば、青春の記憶の中に暖かに保管されているべきものだ。

 しかし、紀沙にとっては必ずしもそうでは無い。

 

 

 父は軍から出奔し。

 そして兄は、やはりこの学院から出奔して。

 早い話が、紀沙はこの学院で少し、いやかなり特殊な立場にいるのだった。

 それは、()()()()()が健やかに生活するには、聊か条件が悪かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ひそひそ声が聞こえる。

 1人きりになった時から、紀沙はずっとその声を聞いていた。

 

 

「……ね。すごいよね……」

「……でも、ちょっと怖……」

「……り難いよね、何か……」

 

 

 シャワーの音は激しいが、それでも聞こえてくる。

 入学時から良くあることだが、最近のある時点からは質が違ってきた。

 尊敬と言うよりは、忌避。

 ひそひそと話しながらもこちらを窺う視線には、はっきりと畏怖の色が見て取れる。

 紀沙が視線を向ければ、すぐに逸らされてしまうのだ。

 

 

 侮られぬようにと訓練に励んだ。

 何者にも貶められぬようにと勉学に励んだ。

 気が付けば、前にも後ろにも誰もいなくなっていた。

 遠巻きに、奇異の目を向けて来るばかり。

 

 

(兄さんも、こんな感じだった?)

 

 

 語りかけられるのは、過去にだけだ。

 シャワーを止めると、赤らんだ肌をいくらかの水滴が滑り落ちて、ポタポタと音を立てた。

 仕切りの扉を開けて外に出れば、やはりこちらを見ていた生徒達が、見ていなかったかのような顔で級友との会話を再開していた。

 

 

「……あ、ねぇ……」

「……わ、こっち来た……」

 

 

 脱衣所の籠や鏡台の前に行けば、決まって他の使用者がそそくさと立ち去る。

 もう慣れたとは言え、こうまであからさまだと逆に笑えてくる。

 まぁ、順番待ちをする必要が無くなると思えば、少しは得に思えないことも無い。

 ――――10代の若者として不健全であると言う、ただ一点を除けばの話だが。

 

 

「あ、紀沙ちゃ――んっ!」

 

 

 大浴場を出た直後あたりで、声をかけられた。

 しかも、割と親しげに。

 先程の生徒達の様子からわかるように、紀沙にこんな風に話しかけてくる相手はそう多くは無い。

 おそらく、片手で数えられる数人くらいなものだろう。

 

 

「何か用、良治くん」

 

 

 軍医候補生の良治、同学年だが年は1つ上だ。

 他の生徒がああなので、あまり誰かと親しげに話すのを紀沙は好まなかった。

 話し相手まで奇異の目で見られるのが気が引けるからだが、良治はそのあたりは気にしないらしい。

 あるいは、彼自身が留年生のため、紀沙とは違う意味ですでにそう言う目に慣れているだけかもしれない。

 

 

「お風呂上がり眼福です」

「……たぶん、別のことを言おうとしたんじゃないかな」

「あ、ごめん。学長先生が呼んでたよ」

「学長が? こんな時間に?」

 

 

 すでに放課後を過ぎて夕食前である。

 呼び出しの時間にはやや遅い気もするが、わざわざ良治が――他の生徒は嫌がるだろう――言いに来たのだから、嘘では無いだろう。

 ……こう言う場合は、だいたい面白くない話のような気がする。

 

 

「あーい、失礼しますよーっと」

「あ、すみません。まぁ、じゃあ行ってくるよ。学長室で良いの?」

「僕は保健室が良いと思うな」

「それは良治くんの願望じゃないかな……」

 

 

 通路を掃除していた清掃員の横を通り過ぎて、紀沙は学長室に向かった。

 何故かついて来る良治の相手をしつつ歩いていく紀沙は、気付いていなかった。

 擦れ違った清掃員が掃除の手を止めて、紀沙のことをじっと見つめていたことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 清掃員の名は、碇冬馬と言った。

 青い作業着に身を包んだ彼は後にイ404のクルーとなるのだが、この時点では、もちろんそうはなっていない。

 しかし彼は、実はクルーとして紀沙の前に現れるずっと前から紀沙の近くにいたのだった。

 

 

「お友達が少ないってのはアレだが、ボーイフレンドがいるってのは健全で良いじゃねぇの」

 

 

 かなりの誤解を孕んだ見解だが、傍目から見るとそう言う風に見えるのかもしれない。

 清掃員の格好をしているが、作業着の下には清掃員には似合わない厚い筋肉や傷痕が見えて、少なくとも一般人には見えない。

 それはそうだろう、彼は軍人なのだから。

 

 

 冬馬はそのまま掃除用具の入ったカートを押したまま歩き、角を曲がると、周りに誰もいないことを確認してから懐に手を忍ばせた。

 懐から小さな携帯端末を取り出してそれを起動し、いくつか操作する。

 すると、画面に写真や文字が出てきた。

 

 

「女子高生を見張るってのは、ドキド……気が滅入るね、やっぱ」

 

 

 そこに映し出されたのは、紀沙の写真だった。

 昼間の教官とナイフ戦闘を行っているところもあれば、食事中のもの、それ以外のものもある。

 色々な写真があるが、共通項はひとつ、一つとして目線がカメラ側に無い。

 さらに画面をスライドすれば、分単位で紀沙の予定や行動が書き込まれているのがわかる。

 

 

 心理学者でなくとも、ここまで細かく記録してれば、千早紀沙と言う少女の行動様式が丸裸だった。

 はっきり言って異常だが、冬馬は別に紀沙に異常な感情を抱いているわけでは無い。

 むしろもっと救いの無い、もっと嫌な類のものだった。

 冬馬は紀沙個人には関心が無く、ただ淡々と千早紀沙と言う人物を見ているのだ。

 

 

「気が引けるね、裏切り者候補の監視なんてさ」

 

 

 裏切り者候補。

 監視。

 いずれも物騒な言葉だが、考えてみれば当たり前のこと。

 ある立場からすれば、紀沙は監視されて当然の存在なのである。

 

 

「本人に罪は無かろうにねぇ」

 

 

 父、兄、家族の2人が人類の敵である霧の艦艇と共に国を出奔した。

 こんなことになっていて、いくら軍系列の学校にいるからと行って、野放しに出来るだろうか?

 出来るわけが無い。

 だからこそ、冬馬のような監視員が各所に配置されているのだった。

 

 

「悪く思わないでくれよな、お嬢ちゃん」

 

 

 見る者と、見られる者。

 冬馬と紀沙の関係は、この時点ではそれだけでしかなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「なんだった?」

 

 

 校長室から出てきた紀沙に対して、良治が開口一番にそう言った。

 メッセンジャーの役目を終えた以上は待っている必要は無かったのだが、彼は普通に待っていた。

 ここまで徹底されると、いっそ笑いたくなってくる。

 出会った頃はここまででは無かったのだが、ある時期から良く構ってくるようになった。

 

 

 ある時期、と言うか、兄・群像が出奔してからだ。

 紀沙が現在、孤立一歩手前――完全なる孤立では無い――で済んでいるのは、良治のような物好きがいてくれるからこそだ。

 一応は感謝しているものの、たまにやるせない気持ちにさせられるのも事実だった。

 

 

「……新しいシミュレータのプレゼンをしてくれって」

「新しいシミュレータって、何か先々月くらいから第五施設で工事してる?」

「そ。それで、そのお披露目の模擬戦をしてほしいってさ」

「流石、首席は違うね」

「…………まぁね」

 

 

 紀沙は、首席での卒業がすでに決まっていた。

 群像を含めた上位陣が軒並みいなくなってしまったので、自然とそうなってしまうのだ。

 努力を惜しんだことは無い。

 そしてそれ以上に、素質があったのだろう。

 あの父の娘であり、あの兄の妹なのだから。

 

 

「来賓の子とか来て、結構なイベントになるんだって」

「そこで紀沙ちゃんにデモンストレーション的なことをしてほしいってこと?」

「らしいね」

 

 

 まぁ、要は偉い人の前で模擬戦をしろとのお達しだった。

 表向きは首席だからと言うことだったが、それだけが理由では無いことは明白だった。

 紀沙があの「千早」だから、と言うのが大きな理由だろう。

 そうでなければ、首席の紀沙だけで無く次席を含む成績優秀者が呼び集められるはずだ。

 

 

 まぁ、どうでも良かった。

 そう言う事情がどのように複雑に絡んでいようと、紀沙にとってはどうでも良かった。

 興味など無かったし、仮に合ったとしても紀沙に出来ることなど無いのだ。

 ただ、流されるままに生きていれば良い。

 

 

「あ、ところで紀沙ちゃん。シミュレータの艦種は?」

「潜水艦」

「まぁ、そりゃそうか。でも僕、ひとつ気になってることがあるんだけどさ」

「なに?」

 

 

 普通にシミュレーション戦をやって、適当に勝てば良い。

 流石に負けると言うのは、考えられなかった。

 紀沙がそう考えていることはわかっているのか、良治は何とも言えない顔をしていた。

 そして、彼は核心部分を告げた。

 

 

 

「クルーの目星はついているのかい?」

 

 

 

 シミュレータを使った模擬戦は、文字通り実戦を想定して行われる。

 そのため艦船の発令所を模した造りになっており、当然、艦種によって操艦に必要な人数は異なる。

 つまり、潜水艦のシミュレータ戦をするには、潜水艦を動かすのに必要な人手が要るのである。

 はたして、紀沙が苦も無くそうしたメンバーを集めることが出来るのかと言えば。

 

 

「…………うぐ」

 

 

 必ずしも、そうでは無いのだった。

 初めて紀沙は、難題を前にして顔を顰めることになったのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 組織と言うものは、えてして一枚岩では無い。

 個人と言うものは、えてして公益のためには動かない。

 そして軍隊と言うものでは、必ずしも国益のためには動かない。

 

 

「ええ、ええ。そのように、はい……」

 

 

 軍系列の学校ともなれば、人事には当然のように統制軍の意思が入ってくる。

 特に学長などは、軍人経験者がなるのが常だった。

 現在の学長も、統制軍では将軍などと呼ばれる立場の人間である。

 表向きは、軍人出身者の方が将来の士官を育成するのに向いているだろうと言うことだが、現実は軍内部のポスト調整のひとつでもあった。

 

 

 しかし「千早紀沙」の場合は、それだけでは無い。

 様々な勢力の様々な思惑や利害が複雑に絡み合うため、学院側の対処も難しくなるのだ。

 中には母親と同じように軟禁すべしと言う声もある、卒業が間近な今、そうした声が強まるのも無理は無い。

 むしろ、そちらの声の方が大きいくらいだ。

 

 

「あれだけ優秀な成績を収めている生徒です。きっとお眼鏡に適うかと……ああいえ、そのような。滅相もございません」

 

 

 しかし一方で、そうさせまいとする声もまた、あるのだった。

 そうした声を上げる人々は、彼らなりの利益や事情で主張している。

 ただ中には、利益や利害とは別のところで動いている者もいるのだ。

 少数ではあるが、いないわけでは無い。

 

 

「ええ、ええ、はい。では、当日お待ちしております……北議員」

 

 

 何度も頭を下げながら電話を切り、学長はふうと息を吐いた。

 すでに老齢の域に達している彼は、年甲斐も無く額に冷たい汗の玉を掻いていた。

 それほどに緊張を擁する相手だったのだろう。

 ハンカチで何度も額を拭って、机の上に置かれていたコップの水を飲み、そこまでしてようやく落ち着いたようだった。

 

 

「はぁ、やれやれ。千早くんがいるだけでこんなことになるなんて。最初はもっと楽な仕事だと思っていたのに……まぁ、それもあと少しの辛抱か」

 

 

 あの千早の娘を生徒として預かるとなると、やはり相当の圧力があるのだろう。

 教育者としては――と言っても、教師と言うよりはあくまでも軍人なわけだが――どうかと思うが、ひとりの人間としては、同情の余地はあったのかもしれない。

 多くの人間は、大過なく仕事を終えたいと思うものだからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あ、来たわねぇ」

 

 

 最新型のシミュレータが入る施設に行くと、迎えてくれたのは意外な人物だった。

 紀沙も良く知っているようで余り知らないその女性は、四月一日あおいと言う女性だった。

 紀沙達よりも年次が上ですでに卒業しているのだが、どうやら今回のプロジェクトに軍務として関わっているらしかった。

 

 

 このシミュレータで模擬戦をするに当たって、当然、概要の説明が入る。

 本来ならばもっと大人の、もっと階級が上の技術士官が説明しても良いのだろうが、相手が学生である。

 対面的にも先輩後輩の関係的にも、あおいが適任と判断されたのだろう。

 何しろこのあおいは、イ401クルーの四月一日いおりの実の姉なのだから。

 

 

「このシミュレータは、既存のシミュレータのアップグレードと言うだけでは無いの。新しい認識ソフトを搭載することで、より実戦に近い形で模擬戦を行うことができるのぉ」

 

 

 いおりがいた頃のあおいは、良くも悪くも目立つ女性だった。

 グラマラスな美人と言うのもあるが、こういう機械技術方面に圧倒的に明るかったのだ。

 ただひとつ難点があるとすれば、その技術力を他者に伝達できないと言うことだ。

 理論立てた技術では無く、思いつきや閃きがほとんどを占める彼女の「技術」は、誰にも理解できない。

 まぁ、つまり何が言いたいのかと言うと。

 

 

「まぁ、何かほわぁ~ってなって。それからここの数式があっちの数式とくっついてあれになるから」

 

 

 正直、説明を受けても何もわからなかった。

 あおいの説明は、徹頭徹尾これなのである。

 他の技術者は紀沙と係わり合い自体を持ちたがらないので、これはこれで絶体絶命のピンチと言えた。

 クルー、そして艦船。

 

 

(あれ、これってもしかして結構ヤバい?)

 

 

 いやいや、と、紀沙は思い直した。

 シミュレータについては、確かにあおいの説明はわかりにくかった。

 しかしこちらはきちんとしたマニュアルがあるのだから、そちらを読めば概ね解決するはずだった。

 後は試行回数、つまり慣れの問題であって、そう考えると案外何とかなるような気がして来た。

 

 

 そしてクルー。

 こちらも、よくよく考えて見れば誰かを誘うだけである。

 何も難しいことでは無い。

 いやむしろ、物凄く簡単なことのはずだった。

 何も深刻に考える必要は無い、はずだ。

 

 

(大丈夫、なんとかなる)

 

 

 この時点では、紀沙はまだそう言う希望的観測を持っていた。

 そう、まだ、この時点では。

 紀沙はまだ、何とかなると思っていたのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 がこん、と、自販機から缶ジュースが転がり落ちて来た。

 まぁ、自販機とは言っても、学院内では無料となっている。

 ただし、卒業時に軍に入隊しないと在学中の他のお金と一緒に請求される。

 最もそれは、軍に入隊するしかない紀沙にとっては余り関係の無い話だったが。

 

 

「久しぶりねぇ。いおりちゃん達が出て行ってからは、ほとんど会う機会も無かったし」

 

 

 シミュレータの説明が終わると、施設の外の休憩所であおいがそんなことを言った。

 奢りとか言っていたが、紀沙が買う限りタダなわけだから、奢りも何も無いのだった。

 それでもあおいの言葉を聞いて、その点を指摘する気は紀沙には無かった。

 休憩所のベンチに座るあおいは、上半身はタンクトップだけと言う扇情的な格好をしていた。

 

 

「元気にしてると良いわねぇ」

 

 

 いおりは、紀沙の兄・群像と共に出奔した。

 どうしてそうしたのか、あおいも知らないのだろう。

 紀沙を誘ってこんな話をすると言うことは、もしかしたら紀沙になら連絡が来ているかもしれないとでも思っているのかもしれない。

 

 

 そんなことはあり得ないのに。

 

 

 紀沙が政府や統制軍に盗聴されていると言う理由も、もちろんある。

 しかしそれ以上に、群像の側から紀沙に接触を持つことは無い。

 そんな確信が、紀沙にはあった。

 

 

「紀沙ちゃんは、大丈夫?」

「大丈夫です。元気ですよ」

 

 

 問われて、反射的にそう答えた。

 反射的に答えると言うことは考えていないと言うことで、ある意味、本音とも取れる。

 だが、何が「大丈夫」なのかはわからないのだった。

 

 

「クラスの子達とも、仲良くできているかしら?」

「まぁ、それなりには」

 

 

 思い出すのは、遠巻きにひそひそと話す生徒達の姿。

 それなりと言えば、()()()()、だ。

 

 

「もし良かったら、お姉さんが相談に乗っちゃうわよ~」

「あはは」

 

 

 あははと笑って、おそらくは善意で言ってくれていることをかわす。

 近付かない、近づけさせない。

 だが一方で、こうも思っている。

 何とかしてくれ、と。

 この狭苦しい、息苦しい状況を誰か何とかしてくれ、と。

 

 

「今度の模擬戦、上手くいくと良いわねぇ」

「いつも通りだと思いますよ」

「うふふ、それは頼もしいわねぇ」

 

 

 そして、誰かが何とかしてくれることは無いと、紀沙は知っているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そして、数日が過ぎた。

 シミュレーション戦で必要なクルーを集める。

 要は級友の中から適当な能力を持った者に声をかけ、誘えば良いわけだ。

 普通、これはそこまで難しいことでは無いはずだった。

 得手不得手はあるにしても、時間さえかければクリア出来る課題だ。

 

 

 第一、来賓を招いてのシミュレーション戦、それも最新設備を使ってのものとなれば、卒業生にとってこれ以上は無い程のアピールの場となる。

 そのため、少しでも向上心や野心を持っている生徒であれば、基本的には乗ってくるはずの勧誘なのだ。

 それが出来ないとなると、それはおそらく誘っている側の問題なのだろう。

 

 

「……ねぇ、紀沙ちゃん」

「…………なに」

「ここ食堂だよね、他の生徒いっぱいいるよね」

「…………そうだね」

 

 

 昼間の食堂となれば、多くの生徒で賑わうのが当然だ。

 実際、紀沙と良治の周囲は多くの生徒で賑わっている。

 ……のだが、どういうわけか、紀沙達の半径5席くらいががらがらの状態だった。

 つまり避けられている、明らかに、あからさまに。

 

 

 いや、これでも紀沙は努力したのである。

 クラスメートを始め、およそ優秀と思わしき生徒達に声をかけようとしたのだ。

 問題は、声のかけ方を知らなかった、と言うことだ。

 何しろ今までコミュニケーションを取ってこなかったがために、どう話を進めれば良いのかわからなかったのだ。

 

 

「あの、ちょっと良い?」

「え? あ、千早さん……」

「その、えーと……シミュレータ戦の」

「ご、ごめんなさい。ちょっと用事が」

「あ」

 

 

 ……というような具合で、他の生徒も似たようなものだった。

 深刻に考えているから目や肩に力が入ってしまって、それが言いようも無い威圧感となって相手に伝わってしまっているのだ。

 まぁ、要するに怖いのである。

 

 

「どうするの、紀沙ちゃん」

「いま考えてる」

「考えてどうにかなる問題じゃなくない?」

 

 

 ピンチ、脳裏に浮かぶ言葉はそれだ。

 究極的には学長に言って、適当に人選して貰うという手もある。

 ただそれはあまりにもコミュニケーションスキルが無さ過ぎるし、ある程度の信頼が無いとクルーとしての連携も取りにくくなってくる。

 

 

「……あれ。ひょっとして私って、ヤバい?」

「まぁ……その……うん。まぁ、ね」

 

 

 良治も庇いようが無い事態。

 はたして紀沙は、この危機をどのようにして克服するのだろうか。

 本来は、そんなに苦労しない話だと言うのに――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の海洋封鎖は、物的な輸送だけで無く人的な移動をも困難にした。

 わかりやすく言えば、日本国内にいる外国人が本国に帰れなくなったと言うことだ。

 しかし生粋の外国人であれば、まだ扱いは単純だった。

 厄介なのは、日本人の血が混ざっている(混血の)場合である。

 

 

「……長! 兵長!」

 

 

 なまじ日本人の血を引き、日本風の名前や容姿を持っているが故に、他の外国人と同じような区別は難しかった。

 何より片親は同胞、その嘆願を無視するのはさらに困難だ。

 そして混血児達自身、自分達がどうすればまともに生きていけるかを良く理解していた。

 要は、日本(祖国)への忠誠心を示すことだ。

 

 

「おい、梓!」

「…………あ? あたし?」

 

 

 その場所には、硝煙の匂いが満ちていた。

 何列にも横に並んだ仕切り部屋と、数メートルから数十メートルまで離れた位置に人型の的が並んだ空間だ。

 いわゆる、射撃訓練場だ。

 

 

 海兵だろうと射撃が下手では軍人はやれない。

 そこは統制軍の海軍の施設で、兵士は皆が防音の耳当てをして射撃訓練に励んでいた。

 その内のひとり、梓=グロリオウスは、弾丸の装填中に肩を掴まれた。

 女性ながら筋肉質かつ豊満な身体が、黒のタンクトップに窮屈そうに押し込められている。

 何度か呼ばれていたようだが、そもそも声が通らない場所だ。

 

 

「隊長が呼んでる!」

「え? なに? 誰がなに!?」

「たーいちょーうがよーんでる!!」

「だから、なーあーにー!?」

 

 

 銃声の音が激しくて、鼻先が触れ合う距離まで近付いても声が聞こえない。

 それでもジェスチャーを交えて、とにかく射撃訓練場の外に出ろと言うのは伝わったらしい。

 梓は使用していた拳銃を片付けると、軍服の上着を引っつかんで、訓練場の外に出た。

 呼びに来た同僚――彼もまた、混血児だ――の話を改めて聞いて。

 

 

「海洋技術総合学院? 何それ」

「知るかよ。隊長がお前もついて来いってよ」

「なんで?」

「だから知らないって、詳しいことは隊長に聞いてくれよ。じゃあな」

 

 

 梓は、元々軍人志望だったわけじゃない。

 ただ死んだ父親が軍人だったと言うことと、日本への忠誠心を示すのに軍への志願が一番わかりやすかったから、なっただけだった。

 そのため優秀だが一本芯の入っていない部分もあって、隊長付きでどこかに行くと言うことは今まで無かった。

 

 

「海洋技術総合学院……って、何だっけ?」

 

 

 彼女もまた、この命令が自分の運命を大きく左右することになるとは、この時点では気付いていなかった。




最後までお読み頂き有難うございます。

思ったより寂しい学生生活になってしまいました。
オリキャラが当時の紀沙を認識する話になる気がするので、そのあたりも書けていければ良いと思います。

それでは、また次回。


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Depth062:「出航前・後編」

 

 まるで逃げ水のようだと、紀沙は思った。

 追いかけても追いかけても、どうやっても追いつけない。

 むしろ、どんどん遠ざかって行ってしまう。

 最後には、追いかけることも出来なくなってしまうのだ。

 

 

 待って。

 

 

 呼びかけても、呼び止めても。

 その人は背中を向けたまま、どんどん向こうへと行ってしまって。

 深く蒼い彼方へと、行ってしまって。

 紀沙は、叫んだ。

 

 

「兄さん……!」

 

 

 自分の声と身体の動きで、紀沙は目を覚ました。

 ちゅんちゅんと外から聞こえるのは早朝の鳥の鳴き声で、実際、仄かに寝室は明るくなっていた。

 朝、ただしいつもより早く目覚めたか。

 目覚めて良かったと、ひたり、と掌を顔に貼り付ける。

 想像していたよりも、掌は冷たかった。

 

 

「夢」

 

 

 わざわざ言葉に出して、言ってみた。

 そうして初めて、紀沙は自分の身体が汗で濡れていることに気付いた。

 正直に言ってかなり不快だし、それに寒かった。

 暑いくらいのはずなのに、肌寒くて、胸には穴でも開いているかのような空虚さがある。

 

 

「はあぁ……」

 

 

 大きく息を吐いて、くしゃりと前髪をかき上げた。

 汗なのか涙なのか、良くわからない水滴が頬を流れ落ちていった。

 顔から手を離すと、自分の手がカタカタと震えていることにも気付いた。

 いや、震えているのは全身か。

 

 

「……兄さん」

 

 

 声も、掠れて震えていた。

 外から室内へと漏れてくる温かな朝の陽光も、紀沙を温めることはできなかった。

 あまりにも寒すぎて、その程度の温もりでは無理なのだ。

 今の、紀沙の心の時間を動かすには足りない。

 

 

「帰って来てよ……!」

 

 

 ぐす、と今度ははっきりと涙を零しながら、紀沙は身体を丸めた。

 紀沙の時間は、止まったまま動かない。

 しかし、彼女の時計のねじを巻き再び動かせることが出来る者は、この場にはいない。

 ――――いないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 良治は、自分――と言うより、紀沙が窮地に陥っていることに気付いていた。

 模擬戦のメンバー集めである。

 副長はとりあえず自分がやるから良いとして――本職では無いが――せめて砲手とソナーは必要だった。

 成績上位者に端から声をかけて行くのが有効なのだが、いかんせん紀沙のコミュニケーション能力が壊滅している。

 

 

「そこで、僕の出番と言うわけだね」

 

 

 艦長の不足を補うのも副長の役目。

 なかなかに酷いことを考えながら、良治は成績データをまとめたファイルを片手に学院内を歩き回っていた。

 もう模擬戦まで時間が迫っているので、ひとりひとりに直撃していっているのである。

 

 

「あっ、ねぇねぇキミ! ちょっと時間いいかな?」

 

 

 しかし、ここで大いなる問題があった。

 あるいは、良治も若かったと言うべきなのかもしれない。

 

 

「もし良かったらなんだけど、今度の日曜日にちょっと付き合ってくれないかな!」

 

 

 まず第一に、「千早紀沙」と言うネームバリューの威力を見誤っていること。

 要するにメンバー集めに難航しているのは紀沙のコミュニケーション能力の不足によるものであって、それ以上でもそれ以下でも無いと言う考えを持っていたことだ。

 しかしこれは、当たっているようで外れている。

 

 

 いくら優秀な良治と言えど、彼も10代の若者だった、考え付かなかったのだ。

 思い至らなかった、と言う方が正しいか。

 「人類の裏切り者」の身内と組むと言うことが、どれだけ将来の軍での生活に()()()を与えるのか。

 自分の将来を考えた時に、そうしたリスクをわざわざ抱える人間は少ないと言うことに。

 

 

「え、でも……」

「まぁまぁまぁ、卒業前の最後の思い出と思ってさ」

 

 

 しかし一方で、物好きと言うものはどこにでもいるもので。

 何人も何人も当たり、繰り返し口説く――口説く、と言うのが重要だ――ことで、何人かはとりあえず話は聞いてくれる。

 そしてさらに、その中のほんの一握りは、頷きを返してもくれる。

 後は、熱意である。

 

 

「お願いだ、キミが必要なんだ!」

「わ、私が必要?」

「そう、キミがいないと困るんだ。すごく」

 

 

 良治は、とにかく口説いた。

 相手がいかに優秀で、魅力的で、どれだけ必要としているか。

 卒業前の思い出などと言う言い回しまでするその姿は、どこか詐欺師を思わせる程である。

 詐欺師と違うところが、良治が至って真面目かつ真剣なところだろうか。

 

 

「う、うーん……そ、そこまで言うのでしたら……」

「え、ほんとっ!? ありがとう、助かるよ~」

 

 

 紀沙に対する心の請求書を胸中に積み重ねていきながら、良治は努力していた。

 その姿勢は、この時から変わらないものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 北が総合技術海洋学院を訪れるのは、実は珍しいことだった。

 かつては海軍――正確には海上自衛隊――だった繋がりで招待されたとは言え、北自身は現在陸軍派の政治家である。

 それでも北がわざわざやって来たのは、彼にとって気がかりなことがあったからだ。

 

 

「む、どうやらすでに始まっているようだな」

「そのようですな」

 

 

 北が学院の第五施設、つまり新シミュレータのデモンストレーションを見に来た時には、すでに模擬戦は終盤を迎えていた。

 経過を見ると、全3戦の内、敵味方の両方が1勝ずつを挙げている様子だった。

 観戦席には軍関係者の姿もちらほら見えて、何やら囁き合っている。

 

 

(……苦戦しているようだな)

 

 

 聊か意外に思って、北は過去2戦のハイライトを眺めていた。

 今は3戦目までのインターバルである。

 ハイライトを見る限りは、得に紀沙の側に緊張があるようには見えなかった。

 単に、クルー同士の連携が上手く行っていないのだろう。

 確かに、今の紀沙の立場を思えば無理からぬことだった。

 

 

(千早や彼の息子(群像)は、苦戦などまるでしなかったからな)

 

 

 いや、群像の方は違ったか。

 あの学院に生徒として侵入してきた霧のメンタルモデル、イ401を相手取った模擬戦は、いくらか苦戦していた。

 ただ、あれはあくまで霧のメンタルモデルを相手にしていたが故に苦戦し、そして勝利したと言える。

 今、紀沙が相手にしているのはホープとは言え同学年の生徒だ。

 

 

「しかし、やるせなくなる光景だな」

「は、今なにか……?」

「何でもない。気にするな」

 

 

 付き人を適当にあしらいながら、北は席についた。

 陸軍派の領袖である北の登場に周囲はざわめていたが、そちらも気にとめなかった。

 北にとっては、さほど重要な人々ではなかった。

 

 

(千早の家に生まれなければ、息子も娘も別の生き方が出来ただろうに)

 

 

 あの子供達に、罪は無かった。

 いや出奔した兄の方は事情が異なるが、あれも軍の監視下に置くべく学院に入学させなければあんなことにはならなかったのかもしれない。

 生まれで人生が定まってしまう、そう言う意味であの兄妹は不幸だった。

 

 

 それとも、他人から見れば羨望の対象になるのだろうか。

 食うには困らず、冒険心に満ちた人生を送るであろうあの兄妹の人生に、羨望を抱く者もいるのだろうか。

 そう思うと、北はどうしようもなくやるせない気持ちに襲われるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クルーの連携が上手くいかないのは、わかり切っていたことだ。

 人員が不足するのも、ある程度は覚悟していた。

 結局1人しか捕まらなくて、砲手は良治が兼任する有様だった。

 火器管制を半自動(セミオート)にしないといけないので、攻撃力は半減してしまうのは仕方ない。

 

 

「……あのさ、良治くん」

「何かな、紀沙ちゃん艦長」

「それやめて。いや、今はそれでもいいや」

 

 

 朝凪(あさなぎ)美桜(みお)

 聴音課、要するにソナー担当の女子生徒だった。

 桃色の髪という非常に目立った容姿をしていて、縁の大きな眼鏡をかけている。

 学院の今期卒業生のソナー手の中では、10番と言う席次を得ていた。

 

 

 今回、ひとりだけ紀沙の班に入ってくれた貴重な人材である。

 孤児だからしがらみも無い、などと理由を言っていたが、紀沙から見てどうもそれだけでは無かった。

 いや、他に理由があると言った方が正しい。

 と言うか、何と言うか。

 

 

「あの子、何か怒ってない?」

「え、そうかなぁ?」

「良治くんさ、何て言って誘ったの……? ああ、やっぱ良いや。何か面倒くさくなりそう」

 

 

 模擬戦自体は、可もなく不可もなくと言ったところだろう。

 右肩上がりと言うか尻上がりと言うか、初戦を落として2戦目で勝っている。

 ソナー手の傾向や良治の火器管制の癖に慣れるために、どちらもあえて長期戦にした。

 相手はきっと、3戦目こそは短期戦でと思っているだろう。

 それは、こちらも望むところだ。

 

 

 そう言う意味で、北は――紀沙は北が見ていることを知らないが――勘違いをしている。

 紀沙もまた、千早の者なのだ。

 父にしろ兄にしろ、百戦百勝と言うわけでは無い。

 共通項があるとすれば、それは、意味の無い負けはしないと言うことだ。

 

 

「紀沙ちゃん、じゃない。えーと艦長。3戦目、ラストゲームのカウントダウン開始したよ」

「20秒前から声音でカウントして。あと、えーと……朝凪さん」

 

 

 おっかなびっくり、と言う風に声をかけると、首だけ回して美桜が紀沙の方を向いた。

 やはり、視線がややキツい。

 

 

「どうぞ名前の方でお呼び下さい。苗字の方は少し事情があって、出来ればそう何度も呼ばれたくないのです」

「えーと、じゃあ美桜さん。聴音お願いします」

「お願いされましょう。ああ、あとで御手洗(良治)さんを貸してください。お話がありますので」

「ええ、僕!?」

「ああ、うん。どうぞ?」

「ありがとうございます」

「あっさり許可された!? 何で!?」

 

 

 さて。

 前の2戦で、相手がどう言う時にどう動くのかはわかった。

 後はただ、3戦目をこなすだけ。

 カウントダウンが、始まった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ここで、海洋技術総合学院のある横須賀からずっと離れた海域に視点を映す。

 極東の島国の学生によるシミュレーション戦など、誰も注目していない。

 しかし、それだけ覗き見がしやすいと言うことでもあった。

 

 

「はん、はん♪ ばきゅ――ん♪」

 

 

 イ号401の長い通路を、杏平がアニメソングを歌いながら歩いていた。

 たまに振り付けが入るあたり、いおりあたりが見れば「ウザッ」とでも言っていたかもしれない。

 ただ、それこそ稀にイオナが一緒に踊っていたりするので、なかなかに油断が出来ない。

 その杏平が、ふと何かに気付いて足を止めた。

 

 

 そこは、艦長の部屋だった。

 より厳密に言えば艦長の部屋まで数メートルと言ったところで、そこで杏平は、ドアに身を寄せている銀髪の少女を見つけたのだった。

 ぶっちゃけ、イオナだった。

 

 

「おーい、イオナ。どうしたんだそんなところで」

 

 

 お? と首を傾げる杏平。

 どうしてそんな仕草をしたかと言うと、イオナが振り向いて口元に指を当てて、「しーっ」としてきたのだ。

 このメンタルモデルの少女も、随分と人間じみた仕草をするようになったものだ。

 最初の機械的な時期を知っているだけに、杏平は妙な感慨深さを覚えたのだった。

 

 

「……何してるんだ?」

「群像を見てる」

「群像~?」

 

 

 よくよく見てみれば、確かに群像の部屋のドアが半開きになっていた。

 スライド式のドアで良く出来るなと感心したが、良く考えてみればここはイオナの()()なわけで、それくらいはやってのけるだろうと思った。

 まぁ、それはそれとして群像だった。

 

 

 杏平に覗き趣味は無いが、さりとて興味が無いわけでは無い。

 イオナの上に顔を並べて、群像の部屋を覗き込んだ。

 これと言ったものの無い部屋の中に、椅子に座った群像の背中がぼんやりと見えた。

 どうやら何かを聞いているのか、ヘッドホンをつけていた。

 

 

「何をしているんだ?」

「わからんが、妹のことが気になるらしい」

「妹?」

「そうだ」

 

 

 妹と言うと、紀沙のことだ。

 彼女は横須賀にいるはずだが、ここから様子を窺わなければならないような事態でも生じたのであろうか。

 ちょっとわからない、やはり杏平は首を傾げるのだった。

 

 

「なぁ、杏平」

「おう?」

「妹と言うのは、家族と言うのはどんなものなんだ?」

「あー、家族ねぇ。また難しいことを」

 

 

 顎先を撫でながら考え込む杏平。

 イオナが純な視線を向けて来ているだけに、何かしら真面目な答えを返す必要があったが、杏平にも上手く言葉に出来ないのだった。

 と、そこで、思わぬ助け舟が入った。

 

 

「近いと鬱陶しくて、遠いと気になっちゃう。そんな存在って感じかな」

「いおり」

「おー、意外と詩的じゃん?」

「うっさい」

 

 

 いおりだった。

 工具を担いだ作業着姿で、およそ詩とは無縁そうな格好だった。

 いおりはふんっと鼻を鳴らして、ずかずかと歩き去って行った。

 彼女もまた、何かしら思うところがあるのかもしれない。

 

 

「まぁ、そんな感じ?」

「そんな感じか」

 

 

 ふんふんと頷きあって、杏平とイオナは覗きを再開した。

 群像は、変わらない姿勢で椅子に座っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 横須賀では、すでにシミュレーション戦の3戦目が開始されていた。

 ここまであまり注目されていなかったが、紀沙達の相手側も成績だけ見れば優秀な人材が集められていた。

 大まかに行って、総合成績で5番から10番の生徒だ。

 

 

「ソナー、敵艦の位置は?」

「……音源が多数ある。どれかが敵艦だと思うんだが」

「またかよ、さっきもそれでやられたじゃん」

 

 

 ただ、彼らも何年も組んでやっているわけでは無い。

 何となく成績の順番に役割を振られただけで――もちろん、それぞれに優秀ではあるのだが――実を言えば、紀沙の陣営以上に連携は取れていないのだ。

 例えばソナー手が自分達の満足する情報を挙げてこないと、苛立ちを隠そうともしない程には。

 

 

 これで強いリーダーシップを持つ艦長でもいれば別だが、残念ながら艦長の席に座っている生徒にはそこまでのものは備わっていないようだった。

 ただ要求し、返ってこなければ苛立っている。

 これでは、効果的な戦闘行動は取れないだろう。

 

 

「多分、敵艦はデコイや小型潜水艇を使って海底を這わせてるんだ。そうでないと説明がつかない」

 

 

 そして、優秀なので確度の高い仮説を立てることも出来る。

 しかし仮設を立てることが出来たからと言って、それで対策が思いつくわけでも無い。

 まして教本にも載っていない状況となると、後は指揮官のセンスの問題だった。

 

 

「いったい、どれが本物なんだ……?」

 

 

 戦略モニターには、複数の敵艦らしき影が見えている。

 分裂するわけが無いので、どれかが本物と言うことだ。

 問題は、音だけで本物を当てなければならないと言うことだった。

 これにはセンスに加えて、経験も必要な判断だった。

 

 

「……良し、一番右の敵艦らしき陰に魚雷発射。直後に全速で移動だ」

「本当に大丈夫か?」

「一番右の敵艦が一番音が大きい、おそらく重量の差だ。後はプラフに違いない。1番から4番、魚雷装填!」

「了解、1番から4番、魚雷装填」

 

 

 どうにか理屈をつけて、目標を定めた。

 万が一外した時のことを考えて、すぐに移動するのもセオリー通りである。

 しかし、それは戦場ではしてはならない類の判断だ。

 たぶん、とか、おそらく、とか言うそういうものは、判断でも無ければ読みでも無い。

 彼らにはその違いがわからない、だからこそ。

 

 

「あ……?」

「どうした?」

「あ、いや。今、音が……いや、これは」

 

 

 魚雷だ。

 敵の。

 ソナー手がそう叫んだ次の瞬間、シミュレータ全体が大きく揺れた。

 最新式と言うだけあって、そう言う状況の再現率も高いようだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 1戦目、そして2戦目の苦戦が嘘のようだった。

 3戦目に入るや否や、デコイや緊急脱出用の潜水艇まで使って、海底に這わせた。

 それもわざわざ艦体を引き摺らせて、これでもかと言うくらい大きな音を立てていた。

 本体はと言えば、何のことは無い、上昇していたのである。

 

 

 つまり相手が紀沙達だと思って見つめていたデコイ達、それらがいる()()には紀沙達はいないのだ。

 逆に、不用意な魚雷の発射は紀沙達に居場所を教えてくれた。

 後は探知した敵艦を見失わずに、こちらの魚雷を届かせるだけである。

 これくらいならば、半自動(セミオート)の火器管制でも十分に可能だった。

 

 

「……お見事です」

 

 

 半信半疑だった様子の美桜も、結果を見せられては納得せざるを得なかった。

 紀沙は敵艦の動きをほぼ正確に読み取り、そして勝利した。

 2戦目でもそう言う気配はあったが、3戦目では特に顕著だった。

 紀沙は、敵艦の指揮官が戦況を「たぶん」とか「おそらく」と言うレベルで読む相手だと見切ったのだ。

 

 

 一方の紀沙は、そう言うことをしなかった。

 逆に、相手を自分が望む場所や状況に誘い込むように心を砕いていた。

 その違いが、おそらくはこの結果を生んだのだろう。

 つまり、この3戦目の()()()()()が本来の実力差と言うことなのだろう。

 

 

(希望的観測じゃ、駄目ってことね)

 

 

 100か0か、とまでは言わないが、潜水艦での戦いではそれに近い判断と決断が要るのだ。

 水上艦と違って、自分の目を頼りにすることが出来ない海中戦ならではと言える。

 それは、紀沙にとっても同じだ。

 条件は同じでも勝敗を分けたものがあるとするならば、それは、状況を作ろうとしたかどうか、と言う点に尽きる。

 

 

()()

 

 

 どこかつまらなそうにしていた紀沙に、美桜はシートを回して声をかけた。

 

 

「1点、質問しても?」

「ああ、うん? どうぞ」

「艦長は今回、敵艦をデコイの異音によって誘導しました。もし敵艦が誘いに乗ってこなかった場合は、どうされたのでしょう」

「んー、まぁ、別にどっちでも良かったんだよ」

「どちらでも良かった?」

 

 

 デコイや潜水艇の誘導に乗らないなら乗らないで、デメリットは無い。

 敵艦は相変わらずこちらの位置を掴んでいないわけで、失敗してもデコイを失うだけだ。

 また異音を発しているデコイはアクティブソナーでもあり、デコイの近辺に敵艦がいないと言うことがわかるわけだから、戦場マップの大部分を塗り潰すことは出来る。

 今回は、たまたま敵が我慢し切れずに乗ってきてラッキー、くらいのものだ。

 

 

「さぁ、相手も交えて反省会して、早くシャワーに行こうか」

「そうだね。いやー今日も疲れたなー」

「一応言っておくけど、良治くんは男湯だからね」

「え?」

「え?」

 

 

 これが、千早紀沙か。

 美桜は目を細くして紀沙を見つめた後、良治の腕を取りに行くべく席を立った。

 模擬戦は、これで終わったのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 拍手の中に幾許かの動揺が感じられる。

 自身もまた礼儀として掌を打ちながら、北は会場の様子をそう評した。

 模擬戦に参加していた生徒達が拍手を受けているが、負けた側は当たり前としても、勝った側も余り「勝った」と言う顔はしていない。

 

 

(そもそも興味が無い、と言う顔だな)

 

 

 父が消え、兄が去り、その胸中を思うに余りある。

 まして、周囲に味方は少ないと言う環境。

 それは、世の中が思っているような学生生活を送れはしなかっただろう。

 圧倒的に優れた成績を収めているが、それは裏を返せば優秀でなければならなかったと言える。

 何かが違っていれば、もっと別な分野で才能を開花させていたかもしれない。

 

 

(いや、それは彼女に限った話では無いか)

 

 

 翔像も、息子の群像も、およそ軍人向きの性格はしていなかった。

 優し過ぎた、穏やか過ぎたのだ。

 そして今の時代、何よりも軍事が優先される。

 才能と言う煌きは、軍隊と言う()()()()()()()()()()

 

 

 ただでさえ限られている資源を、軍隊などに注ぎ込まなければならないのだ。

 勝っていればまだ良い。

 しかし救いが無いことに、どれだけ資源を注ぎ込んでも軍隊は勝てないのだ。

 霧の艦艇の前には、成す術もなく敗れるしかない。

 本当に、救いが無かった。

 

 

「すまないと、謝ることの方がずっと簡単なのだろうな」

 

 

 国民を困窮(こんきゅう)させながら、血反吐を吐く想いで掻き集めた資金や資源を軍事に振り向けること、そしてそれが霧の艦艇の力の前に無に帰してしまうこと。

 多くの若者に、生きるために軍隊を選ばせてしまうこと。

 そして、あの少女を戦場に送らなければならないこと。

 

 

 それらは全て、前の世代――北達の世代で問題を片付けられなかったために生じたことだ。

 罪と言うのなら、これ以上の罪は無いだろう。

 今でこそ先生などと持て(はや)されている北だが、本来ならば誰よりも貶められているべきなのだ。

 少なくとも、北自身はそう思っている。

 

 

「度し難いな」

 

 

 何がだろうか。

 国か、人か、自分自身か。

 あるいは、その全てか。

 席を立ち、見るべきものは見たと、北は会場を去ることにした。

 

 

「イ404を、千早紀沙に」

 

 

 だが、彼女は余りにも幼い、若い。

 ひとりで全てを任せてしまうと、潰れてしまうだろう。

 

 

「不知火、悪いがアレについてもらうぞ。生きては帰れんかもしれん」

「はい」

 

 

 左目を前髪で覆った軍服姿の女性――ずっと北の傍に立っていたらしい――不知火、名前を静菜という女性は、北の言葉に頷きを返した。

 すべては必要なことと、思い定めている様子だった。

 片目の瞳が、じっと、己が守ることになる少女へと向けられていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そしてこの時、千早紀沙を見つめていたのは北だけでは無かった。

 様々な立場の様々な人間が、紀沙を見ていたのである。

 

 

「おーおー、まぁ何とも雑な雷撃だったな。当たるかどうかヒヤヒヤしたぜ」

 

 

 用務員に扮した冬馬もそのひとりであって、彼は会場の隅から模擬戦の一部始終を見ていた。

 耳の良い彼からすれば相手側のソナー手はまるで「なっちゃいない」部類に入ったが、紀沙側の雷撃もそれはそれとして酷いものだった。

 まぁ、そちらは砲雷長がいないので仕方が無いのだが。

 

 

「まー、つまらなそうな顔しちゃって。可愛くないねぇ……っと?」

 

 

 ピリリリ、と懐から音がして、取り出した携帯端末の表示画面を見て、冬馬は「げ」と声を上げた。

 数瞬の躊躇(ちゅうちょ)の後、冬馬は作り笑顔を浮かべて電話に出た。

 そして、そのままヘコヘコしつつ会場を後にする。

 どうやら、相当に相手の方が立場が上のようだった。

 

 

「あ、何でしょうか姉上サマ。貴方の愚弟はしっかりと職務を全うしておりますですよ……」

「え――――っ、マジで言ってるんですか隊長ぉ!?」

 

 

 そして入れ替わるように、別の出入り口からまた誰かがやって来た。

 どうやらその人物――梓もまた、誰かと電話をしている様子だった。

 口ぶりからしてこちらも相手の方が上の立場のようだったが、梓は全くヘコヘコしていなかった。

 むしろ、喰ってかかっていた。

 

 

「何たってアタシが潜水艦なんかに乗らなきゃいけないんです!?」

 

 

 梓はどちらかと言うと、陸戦隊員だ。

 白兵こそ戦の華と、日々を訓練に励んでいる屈強な兵士なのである。

 それが、どうやら潜水艦に乗れと命令されているようだった。

 それは、憤慨のひとつもしたくなると言うものだろう。

 

 

「わぁ、良かったわね~。紀沙ちゃん~」

 

 

 そして、パチパチと機材の陰から拍手しているあおい。

 目を細めて手を打っている彼女は、もしかしたら会場内で唯一、純粋な気持ちでそうしているのかもしれない。

 あるいは、単純に自分がくみ上げたソフトウェアが上手く動作したことを喜んでいるだけか。

 

 

 いずれにせよ、ここから全てが動き始める。

 物語のはじまり。

 その第一歩が、ここから始まったのは確かなことだった。

 誰にとっても、そうだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 退屈、と言うのはまた違う気がした。

 ただ、苛立ちはあった。

 こんな勝ちをいくら収めたところで、()()()()()学院で首席を取ったところで、何にもならない。

 何も変わらない。

 

 

 こう言う時は、海を見た。

 横須賀は海の街だから、どこからでも海は見える。

 少し学院を抜け出して、小さな入り江に行く。

 そこでひとりでぼんやりと海を見ていると、紀沙は少し慰められるような気持ちになるのだった。

 そして。

 

 

 

「キミは、ボクの艦長になるべき人だ」

 

 

 

 そして、紀沙は出会う。

 入り江を訪れたいつか、紀沙は自分の生涯の艦(パートナー)と出会うことになる。

 まるで、何かが紀沙を海に呼ぶかのように。

 それはまるで、運命か何かのように。

 

 

 突然現れた人ならざる(メンタル)美貌の少女(モデル)

 爆発する海、姿を見せる灰色の艦体。

 そして、紀沙を艦長と呼ぶ少女が手を差し伸べて言う。

 

 

「キミの望みは何かな、千早紀沙。富、地位、名誉、それともお金かい?」

 

 

 望みは何かと問われれば、紀沙の望みはひとつしか無い。

 父が出て行って10年、兄が出奔して1年。

 それは、ずっと思っていたこと。

 思い重ねて、もはやそれ以上の何かになってしまっている想い、願い、祈り。

 

 

「…………力」

 

 

 今の自分に、決定的に欠けているもの。

 

 

「力を!」

 

 

 力?

 それは、いったい何の力だろうか。

 力にもいろいろある。

 だが、紀沙が欲している力はたったひとつのものだった。

 

 

「家族を取り戻せる力を、私に頂戴!!」

 

 

 家族。

 父と兄、母、それだけを取り戻すためにの力が欲しかった。

 もしそれが手に入るなら、どんなことでもしてみせる。

 たとえそれが。

 

 

「いいとも、そのための力をキミにあげよう」

 

 

 たとえそれが、そもそもの原因を作った霧が相手であろうとも。

 紀沙は、その手を取ってみせる。

 すべては家族を取り戻すために。

 ――――紀沙は、イ404に乗ったのだから。




読者投稿キャラクター

朝凪美桜:星雷紫様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。
エピソード0的なお話でした。
今よりちょっと冷たい紀沙だったかも?
それでは、次回よりヨーロッパ編再会です。

また次回。


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Depth063:「ロリアンへ」

 

 ブローニュ・シュルメールは、ドーバー海峡に面したフランス北部の港町だ。

 海から入り込んで来る風が冷たいこの季節、人々は日差しが強く眩しい時間帯でも厚着をしている。

 特に早朝の市場は寒く、白い息を吐きながら商店主達が朝食の買い出しにやって来た客に声をかけている。

 

 

「おっちゃん、オレンジ3つ。それとぶどうジュースも貰えるかな」

「らっしゃい! っと、何だレオンスじゃねぇか。良い朝だな!」

「まったくだね。今日はいくら?」

 

 

 フランスは農業国だ。

 戦時下にあっても食糧だけは豊富にあったので、都市部でも食糧不足に陥ることは無かった。

 一方で工業力は心もとなく、それが本来は格下であるスペイン軍を倒し切れなかった遠因になった。

 しかし今は、それすらも気にする必要が無かった。

 

 

 戦争は終わったのだ。

 緋色の艦隊への降伏、すなわち敗戦によって、フランスは平和になったのだ。

 軍や政府にとっては不名誉なことだろうが、徴兵の憂き目に合う――志願制だったが、2年前に徴兵制になった――市民からすれば、終わってくれれば何でも良かったのだ。

 賠償金も無く領土の喪失も無い、緋色の艦隊が要求したのは即時の停戦だけだったからだ。

 

 

「へい、確かに。お、そういや今は1人じゃないんだったな。こっちのリンゴも持ってけ!」

「本当かい? 有難うおっちゃん!」

「前見て走れよー!」

 

 

 市場を行き交う人々の表情も、明るいものだった。

 夫の生死を案じる妻も、孫の将来を憂う祖父も、空襲に怯える子供もいない。

 フランスは、<霧による(パクス・)平和(ミスト)>の恩恵を最も受ける国となった。

 祖国の平和に、普段は国外を飛び回る生活をしているレオンスも、安堵を覚えていた。

 

 

「あら、レオンス帰ってたの?」

「おはよう、おばさん! 今回は少しこっちにいられそうだよ」

「そうなの。じゃあまた夕食に来て頂戴。取材の話を聞きたいわ」

「ああ、そうするよ!」

 

 

 同じような形の石造りの建物が並ぶ通りを駆けていると、数百年前の時代に迷い込んだかのような錯覚を覚える。

 近所のおばさんに声をかけて、レオンスは自分の部屋があるアパートの階段を駆け上がっていった。

 401号室。

 

 

 そのドアの前で立ち止まると、レオンスは不思議な行動をした。

 パンやオレンジの入った紙袋を抱えたまま、少し身嗜みを整える仕草をしたのだ。

 ここはレオンスが借りている部屋なので、つまり我が家だ。

 我が家に入る前に身嗜みを整える人間は普通いないし、「良し!」などと気合を入れる必要も無い。

 そして、ガチャリとドアを開けた。

 

 

「――ただいま、キサ! 今日は良いオレンジが買えたよ」

「あ、おかえりなさい。レオンスさん」

 

 

 ドアを開けると、東洋人の少女が笑ってレオンスを迎えてくれた。

 レオンスは心なし声を弾ませながら、部屋に入ってドアを閉めたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 フランスパン(バゲット)とオレンジ、ヨーグルト。

 簡単だが温かみのある朝食の席に、カフェオレの甘い香りが漂った。

 こぽぽ、と、小さなカップにコーヒーを注いで、キサはそれをレオンスに渡した。

 ふわっと上がる湯気に、レオンスは笑顔を浮かべた。

 

 

「はい、どうぞ。レオンスさん」

「ありがとう、キサ」

 

 

 キサと言うのが、その東洋人の少女の名前らしい。

 淡い色合いのケープを羽織っていて、大人しめな雰囲気と相まって病弱そうな印象を受ける。

 そして実際、ケープの下は薄く頼りなさそうなネグリジェだった。

 何かしらの事情で療養中、と言った風だった。

 

 

 レオンスは、そんなキサを何かと気遣っている様子で、パンにジャムを塗ったりオレンジを剥いてあげたりしていた。

 慣れない手つきで淹れたキサのコーヒーも、美味しそうに飲んでいる。

 年齢がさほど離れていなさそうなため、兄妹のようにも見えてくる。

 

 

「市場も賑やかだったよ、皆、家から外に出ようって気になってるんだ」

「そうなんだ。私も見てみたいな」

「あー、キサはまだやめた方が良いよ。その……外国人はまだ、さ」

「あ、うん……そうだよね」

 

 

 だが、この2人は明らかに兄妹では無い。

 と言うか、人種がそもそも違う。

 レオンスは生粋のフランス人で、親戚に東洋人と結婚した者もいない。

 大体、レオンスの家族は欧州大戦の戦火の中ですでに亡くなっていたし、何より、つい先日までこの部屋にはレオンスだけが住んでいた。

 

 

 そこに、ある日キサが転がり込んだと言う形だった。

 ではどうして、そんなことになったのか?

 このご時勢に異人種の少女に庇を貸すなど、偏見を承知で言えば物騒の一言である。

 何かが間違えば、身の破滅を呼びかねない行動だった。

 

 

「あ、それで! そう、それで、どうかな?」

 

 

 取り繕うように手を振って、レオンスは言った。

 

 

「……何か、思い出せた?」

 

 

 レオンスのその言葉に、キサは表情を曇らせた。

 カップをテーブルに置いて、通りが見下ろせる窓の方へと視線を向ける。

 緩やかな朝の風が、カーテンをゆらゆらと揺らしている。

 その揺れを見つめていると、不思議と何かを急かされているよな気がしてくる。

 

 

「何も」

 

 

 ぽつりと、呟くようにキサは言った。

 

 

「何も、思い出せない……」

 

 

 キサは、レオンスの下に来るまでの記憶を失っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 つい先日のことだ。

 レオンスが取材がてら海岸を歩いていた時、浜辺に打ち上げられている少女を見つけた。

 それがキサだった。

 放っておけずに、レオンスはキサを街まで運んで介抱したのだ。

 

 

『おい、大丈夫か!? 名前は言えるか!?』

 

 

 このご時勢に海に出る人間は限られるので、浜辺にこんな少女が倒れているとは思わなかった。

 異国人だと言うのは一目でわかったので、言葉が通じるかが不安だった。

 幸いレオンスは英語を話せた、そしてもう一つ幸いなことに彼女も英語を話せた。

 ただキサの意識は朦朧としていて、言葉はほとんどうわ言に近かった。

 

 

『……かあさん……いかないで……』

 

 

 母親と一緒だったのだろうか。

 しかし浜辺を見渡してみても、キサ以外の誰もいなかった。

 捜索など出来るはずも無かったから、それが少し心残りだった。

 後でもう一度探しに行ったが、やはり誰もいなかった。

 

 

 ただ、知り合いの闇医者に診て貰った時――無国籍者や永住登録をしていない異国人は、正規の病院を受診できない――には、何を聞いても「わからない」の一点張りだった。

 何らかの強い肉体的・精神的ショックによる記憶障害、それが闇医者の診立てだった。

 要するに、お手上げと言うことだった。

 名前だけは、着ていた衣服に刺繍されていたからわかった。

 

 

『レオンス、関わり合いにならない方が良い。放り出しちまえよ』

 

 

 忠告のつもりだったのか、闇医者はそう言った。

 確かに、このご時勢に見知らぬ行き倒れの東洋人の少女に関わるなど、自殺行為に等しかった。

 関わり合いにならないのが、正しい対応のはずだ。

 それはレオンスにも良くわかっていたし、理解もしていたはずだった。

 

 

 それでも、レオンスはキサを受け入れた。

 理由は、キサが最初に発したうわ言だった。

 母を呼び止める声に、強い既視感を感じたのだ。

 かつて戦火で亡くなった自分の家族が、同じことを呟いて死んだ……。

 

 

「そうか。キサ、そんな顔をしないで。ゆっくり思い出していけば良いんだ」

「……うん」

「ほら、笑ってキサ。せっかくの美人が台無しじゃないか」

 

 

 そう言う意味で、レオンスには僅かな罪悪感があった。

 きっと義侠心や善意で助けたのでは無く、自分が失った何かを埋めるために利用しているだけ――そんな気持ちが、レオンスにはあった。

 それでも、放ってはおけないと思ってしまったから。

 だからキサの記憶が戻るまでの束の間、僅かな罪悪感を抱えながら、レオンスは彼女を守ろうと決めたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……モルビアン?」

 

 

 朝食が終わった後、食器を片付け終えたレオンスが言った単語を、オウムのように繰り返した。

 キサの手元には編み物があって、手慰みにマフラーなどを編んでいる。

 何故かこう言う細々としたことは身体が覚えていて、教わらなくとも出来た。

 それよりも、モルビアンだ。

 

 

 モルビアンと言うのは、フランス西部の一地域のことだ。

 大西洋に飛び出たブルターニュ半島の南側に位置しており、ブルターニュと言う名前だけなら聞いたことがあるかもしれない。

 レオンスの口から出たのは、次の取材先の名前だった。

 

 

「そっちの方に、僕の取材対象が来ているらしいんだ」

 

 

 レオンスがフリーの記者であることは、キサも知っていた。

 ただ、レオンスは自分が何を取材しているのかについては話してくれなかった。

 余りにも頑なに話してくれないものだから、かえって気になってしまう。

 それに、その()()()()とやらに何か心惹かれるものを感じてしまうのだ。

 

 

 奇妙なことだった。

 キサはレオンスの取材対象について何も聞いていないのに、何故興味を引かれるのだろう。

 気付いた時、口に出していた。

 

 

「その取材、私もついて行っちゃだめ?」

「え? いや、それは……」

 

 

 案の定、レオンスは渋った。

 しかし、キサには説得する自信があった。

 

 

「私ひとりじゃこっちの生活も辛いし」

「う、まぁそれは確かに」

「それに、家に篭もってばかりじゃ記憶も戻らないと思うの」

「う、うーん」

 

 

 実際、無国籍のキサがひとりで生活するのは難しい。

 レオンスの取材旅行の期間はわからないが、1日や2日と言うわけでは無いだろう。

 そのあたりはむしろレオンスの方が良くわかっているので、弱いところだ。

 ここまで来れば、もう一押しである。

 

 

「それに、外に出てみたい。いろいろな物を実際に見て、聞いて、触って。経験していきたいんだ」

 

 

 これは本音。

 好奇心、単純にキサはもっと外の世界を見てみたいのだ。

 家の中に篭もってばかりでは、色々と考えてしまってかえって気が滅入って来ると言うものだった。

 そうしてじっと見つめていると、レオンスはふぅと息を吐いた。

 

 

「……わかったよ。一緒に行こう」

「ありがとう、レオンスさん」

「まったく、キミには敵わないよ」

 

 

 手を合わせて喜んで見せれば、苦笑が返って来た。

 割と自然とこう言うことが出来るのは、記憶を失う前の自分も似たような性格をしていたのかもしれない。

 しかし、そこまでだった。

 

 

「それで、モルビアンのどこに行くの」

「ああ、ええと……港町だよ、ロリアンって言うところなんだ」

「ロリアン……?」

 

 

 ――――行け――――

 

 

「え――――……」

「……? キサ? 大丈夫かい、顔色が……キサッ!?」

「え、え……え?」

 

 

 ――――ロリアンに行け、と、誰かに言われた気がする。

 あれは、あれは誰だっただろう?

 知らない、覚えていない。

 でも、()()()()()()

 

 

「ロリ……ロリアン。ロリアン、に行かなく、ちゃ?」

「キサ、しっかり――キサッ!」

「いかな、行かなくちゃ、ロリアン……」

 

 

 ロリアンに行け。

 耳鳴りのように頭の中で繰り返される声に、キサは視界がぐるぐると回るのを感じた。

 視界の中で慌てた顔のレオンスが回っている。

 座っているのか倒れているのか、わからない。

 

 

 それでも、キサの頭の中にはもはやロリアンと言う港町の名前しかなかった。

 行かなければ。

 行かなければ、ロリアンに。

 強迫観念のように、それだけをブツブツと呟いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もし運命と言うものがあるのなら、それはきっとこう言うものを言うのだろう。

 あの少女はどんな状態になっても、ロリアンに行く運命なのだ。

 人間でなくとも、なるほど「運命」と言う言葉で片付けたくなってくる。

 ()()()()()()()()()()

 

 

「私は、それを眺めている傍観者でありたい」

 

 

 などと呟いてみる反面、妙なところでアグレッシブなところがあるユキカゼは、こうして陸に上がってアパートの一室を借り、レオンス家の様子を日がな1日眺めているのだった。

 レオンスの部屋の真向かいのその部屋は、フランスのアパートにも関わらず畳が敷かれていた。

 おまけに桐箪笥や生け花まであって、部屋だけ見れば日本にいると錯覚しそうだった。

 

 

 そもそも、『ユキカゼ』のメンタルモデル自体が着物姿の少女である。

 ちなみに、これらの改造(リフォーム)は大家に無断である。

 最も数秒あれば元通りに出来るので、仮に踏み込まれても問題は無いのだった。

 まぁ、そもそも踏み込まれることが無いわけだが……。

 

 

「ただいま戻りました」

 

 

 するとそこへ、別の少女がやって来た。

 玄関から入って来たその少女は、『ユキカゼ』よりはずっとフランスに馴染む容姿をしていた。

 金髪のおさげに眼鏡をかけた、細身の割に胸元が豊かで、衣服のサイズが合っていないのか窮屈そうに見える少女だった。

 

 

「おかえりなさい、『イ8』。何か目ぼしいものはありましたか」

「はい。今日は古代エジプトのピラミッドから発掘された蛇遣い用の壷――の贋作を購入してきました」

「またですか。あなたこの間はハプスブルク帝国の宮廷で使用された絨毯――に似ているとか言うタペストリーを買って来ていたでしょう。たまにはまともな物を持って来なさい」

 

 

 『イ8』、極東からヨーロッパに派遣されている巡航潜水艦である。

 『ユキカゼ』来欧時から行動を共にしている艦であり、この度に総旗艦『ヤマト』より演算力を分け与えられてメンタルモデルを得るに至った。

 現在は『ユキカゼ』のサポート役兼会話相手として、一緒に暮らしている。

 ただ仰々しい謳い文句のパチモンを好んで集めてくるので、そこは『ユキカゼ』には理解できなかった。

 

 

「それで、彼女は?」

 

 

 『ユキカゼ』の非難めいた視線などどこ吹く風、『イ8』は奇妙な模様の壷を鑑賞し始める。

 それを横目に溜息を吐きながら、『ユキカゼ』は窓辺に頬杖をついた。

 視線の先は、レオンスの部屋である。

 今はカーテンが開いているが、仮に閉められていても『ユキカゼ』の眼には関係が無い。

 

 

「……()()()()()()()

 

 

 呟いた後も、『ユキカゼ』は眺め続けていた。

 そうすることが好きなのだと言うことに、『ユキカゼ』は気付き始めていた。

 世界を見つめる彼女の瞳は、白く明滅していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そしてもちろんのこと、『ユキカゼ』と『イ8』を動かしているのは総旗艦『ヤマト』である。

 彼女自身は太平洋から動かず、その場にいながらにしてすべてを見ている。

 まぁ、要は『ユキカゼ』達を自分の目として使っていると言うわけだ。

 本当ならもっと適任の艦に任せたかったが、物事はそうそう上手くはいかない。

 

 

「貴女から会いたいだなんて、夢かと思ったわ」

 

 

 南極海。

 太平洋、大西洋、そしてインド洋が結節する唯一の大洋である。

 そしてそれぞれの海に別れた『ヤマト』級の()()が、一堂に会することことが出来る唯一の場所でもある。

 

 

「私達は夢を見ないわ、『ヤマト』」

「そう……そうね、『ムサシ』。その通りだわ」

 

 

 『ヤマト』と『ムサシ』は、氷結した海で向かい合っていた。

 巨大な一枚の氷河を間に挟む形で向かっている形で、そして氷河の上には2人の()()がいる。

 そこにいるのは、超戦艦『ムサシ』艦長である千早翔像と、そして『ヤマト』の片割れコトノだった。

 いかつい男性と華奢な少女が正面きって向かい合っている様は、どことなくシュールですらある。

 

 

「そうですか。緋色の艦隊は群像くんに」

「ああ、欧州大戦は事実上すでに終わっている。オレの当初の役割はすでに終わったと言って良いだろう」

「<騎士団>は?」

「今は『ダンケルク(ミルフィーユ)』の艦隊が止めている」

 

 

 欧州大戦を戦っていた国々は、すでに緋色の艦隊に降伏した国、ドイツとその同盟国、そして件の<騎士団>の占領された国、の3つに分断されている。

 <騎士団>がある場所を目指して西進を続けている現状、他の2勢力は手を組まざるを得ない。

 霧と人類の同盟、共通の敵を前にしてもそれが可能なのかどうかはわからない、ただ。

 

 

「急がないといけないですね、千早のおじ様」

「今、群像(あれ)がベルリンに飛んでいる」

 

 

 ただ、群像がドイツ政府を説得しに行っていた。

 それが吉と出るか凶と出るかは、それこそまだわからない。

 ロシアや北欧諸国の出方も不透明な今、確たることは何も言えなかった。

 

 

「……北さんをやったそうだな」

「はい。真実に一番近い場所にいたので、退場してもらうことにしました」

「それだけでは無いだろう」

 

 

 ふぅ、と、ここで初めて翔像が人間らしい仕草をした。

 溜息、翔像がするとどうにも似合わない。

 

 

「紀沙のためだ」

「……群像くんは、完璧ですから」

 

 

 それに比べて、紀沙はどうだろう。

 人望は父に劣り、力は兄に劣り、器は母に劣る。

 ここまでの劣等はなかなか無い、泣けてくる程だ。

 それでも、紀沙にしか出来ないことと言うのは必ずあるのだった。

 

 

「だから紀沙ちゃんのために必要なことは、ひとつも躊躇せずにやります」

 

 

 そう言ったコトノの顔は、それはそれは綺麗な顔で。

 

 

「私は、そのために目覚めたんだから」

 

 

 それはそれは、今にも泣きそうな顔をしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――わたしはだれなのだろう?

 ふとした瞬間、キサは自分に問いかける。

 窓枠に手をついて通りに身を乗り出しているキサの目には、きらきらと輝くフランスの星空が見える。

 地も海も違うが天は同じと誰かが言った。

 

 

 ならば記憶を失う以前の自分も、どこかでこの空を見ていたのだろうか。

 天よ、夜空よ、どうか教えておくれ。

 わたしはだれ?

 もはや、天空より覗き見る者以外に知る者は無し。

 

 

「……なんて」

 

 

 自分の詩文の才能の無さに寒気すら覚えつつ――最近、フランス語の勉強がてら詩集を読んでいる影響だろう――キサは、ほう、と溜息を吐いた。

 夜の空気は冷たく、芽生え始めた眠気を溶かしてしまう。

 心地よい空気だった。

 しかし、どこか()()()()()()と言う気もする。

 

 

(私は、フランス(ここ)の人間じゃない)

 

 

 まぁ、それ自体は明らかに人種が違うので、別に驚くようなことでは無かった。

 では、異国人の自分がどうしてこんなところにいるのか。

 肝心の、そしておそらくは唯一の謎だけが、影法師のように常にそこにあるのだ。

 そして面倒なことに、答えは一切わからない。

 

 

「……ロリアン」

 

 

 言葉にするとまたこめかみが痛んで、嫌な気分になる。

 だが、何故か頭から離れない。

 行かなければならないと言う切迫した気持ちが、胸を突いてなくならないのだ。

 そして実際、これから向かおうと言う場所だ。

 

 

「そこに行けば、私は私が誰なのかわかるかもしれない」

 

 

 怖くはある。

 何か得体の知れないものに触れるかのような、そんな不安はある。

 しかし、このまま自分が何者なのかもわからないままでいたくは無かった。

 それが嫌なら、この部屋の外に出なければならない。

 

 

「キサ、まだ起きているのかい?」

 

 

 無理しないで、と言って来るレオンスに、「もう少し」と返す。

 レオンスには感謝している。

 見ず知らずの、それも正体不明の異国人の少女を匿ってくれたのだ。

 それこそ、どう言って感謝の気持ちを伝えれば良いのかわからないくらいだ。

 

 

 でも、ふと思う時がある。

 レオンスがキサを見る視線に、時折、懐かしさと哀しさを感じることがある。

 もしかしたらレオンスは、キサを通じて誰かを見ているのかもしれない。

 それが誰なのかまでは、やはり、キサにはわからないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の大戦艦『ダンケルク(ミルフィーユ)』を覚えている者はいるだろうか。

 かつて『フッド』の呼びかけて一度だけ開かれた霧の旗艦会議、その会議に欧州方面地中海艦隊の旗艦として参加していた、フリフリのドレスとスイーツのミルフィーユをこよなく愛していた、あの『ダンケルク』である。

 彼女は、今、危機にあった。

 

 

「駄目じゃ、もっと距離を取れ距離を! 近付きすぎると撃たれるぞ!」

 

 

 艦対地戦闘。

 実を言えば、それは霧の艦艇にとって最も苦手とする戦闘だった。

 と言うのも、『アドミラリティ・コード』が地上への攻撃を制限しているからだ。

 そのため、艦隊による地上攻撃のノウハウが少ないのである。

 

 

 一方で、()にはそうした縛りが無かった。

 だから彼らは地上を縦横無尽に走り回り――頑丈で小回りが非常にきくので艦砲で捉えきれない――一切の遠慮なく、対艦砲撃を加えてくるのだ。

 ただの戦車なら何の脅威でも無いが、霧と同種の力による砲撃である、当たれば……。

 

 

「『ゴリツィア』、避けい!」

「間に合わな……いたあぁ――――ッ!?」

 

 

 『ダンケルク』の僚艦である重巡洋艦『ゴリツィア』のメンタルモデルが、艦首に戦車砲の直撃を受けて甲板の上を転げ回っていた。

 普通、戦車砲が重巡洋艦に致命的なダメージを与えるなどあり得ないことだ。

 イタリアのブランド・ファッションに身を固めた美少女が鋼の甲板を転げ回っている様と言うのは、ひどくシュールだった。

 

 

「ええい、『ゴリツィア』は下がっておれ。代わりに『ブルターニュ』が前に! 『モガドール』、『ヴォルタ』も支援に回るのじゃ!」

 

 

 <騎士団>との戦い、である。

 彼らはすでにセルビアを陥落させ、さらにボスニア・ヘルツェゴビナを突破、クロアチアの制圧にかかろうとしていた。

 内陸であればある程に霧の艦艇は攻撃しにくくなるが、海岸線での戦闘も必ずしも優位には立っていない。

 

 

 すべては、『アドミラリティ・コード』により対地攻撃が制限されていることが原因だ。

 それでも可能な限りの手段を尽くして、『ダンケルク』は<騎士団>の進軍を止めようと必死だった。

 進軍の方向からして<騎士団>の目指す場所は明らかで、そしてそこにはまだ行かせるわけにはいかないのだった。

 

 

「だが、長くは保たんぞ――――『ビスマルク』よ……!」

 

 

 <騎士団>の進軍の速度は尋常では無い。

 『ダンケルク』の力を持ってしても、いつまでも止められないのは明らかだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――早く。

 願いながら、念じながら、祈りながら、彼女は待ち続けていた。

 早く、早くと、一向に現れない待ち人を今か今かと待っている。

 それは恋人を待つように甘く、仇を待つように苦い。

 

 

「早く……早く、時間が無い」

 

 

 霧の大戦艦『ビスマルク』は、フランス西部海域のビスケー湾に投錨していた。

 雨の日も風の日もそこを動くことなく、じっと、対岸を睥睨(へいげん)している。

 かつて、そこにはフランス海軍の基地があったと言う。

 しかし温暖化の進展と共に基地はすでに海面下に沈み、その姿を見ることはできない。

 

 

 だが、そこにあるものは基地よりもずっと大切なものだった。

 『ビスマルク』姉妹にとってそれは、欧州海域の覇権よりも優先するべきものだった。

 そのために、彼女は自分が存在しているのだと思っていた。

 そしてだからこそ、今、彼女達は焦っていた。

 

 

「真っ黒な軍勢が、もうすぐやって来る」

「だから、早く来て」

 

 

 時間が無い。

 『ダンケルク』が押し留めている<騎士団>も、遠くない将来ここに来る。

 だから、『ビスマルク』姉妹は焦りつつも待っているのだ。

 彼女を。

 

 

「「……千早紀沙……」」

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

記憶喪失、定番ネタを使ってみました。
どんな目に合ったら記憶って戻るかな(え)

それでは、また次回。


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Depth064:「レオンス」

 

 ごぅん、ごぅん、ごぅん。

 薄暗く広くも無いその空間に、重厚な音が響いていた。

 腹のそこに響くその音は、ずっと聞いていると、何か得体の知れないものが近付いてくるような、そんな錯覚を感じさせるのだった。

 

 

「目標、レンヌ北東20キロの地点で停止しました」

「またか。良く止まるな」

「こっちにとっては都合が良いさね」

 

 

 複数人の男女が、何やら話し合っていた。

 薄暗くディスプレイだけが光源になっているような空間に、ひそひそとした声が響く。

 どうやら彼らは、何かを追いかけているようだった。

 

 

「さて、それじゃあ」

 

 

 そして、中心に座っている誰か――静かな少女の声だ――が、言った。

 

 

「我らの艦長殿を、迎えに行くとしようじゃないか」

 

 

 ()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 フランスは欧州の大国である。

 国力はドイツに次ぎ、欧州大戦以前のヨーロッパの国際政治は――イギリスが大陸から切り離されていたこともあって――フランスがリードしていた。

 過去のいくつかの大戦の勝利が、フランスに自分達こそ欧州のリーダーと言う自負を与えていた。

 

 

 しかし隣国スペインとの開戦に伴い、そうした国際的な地位は失われてしまった。

 紛争当事者になってしまったことで、欧州大戦の停戦仲介が不可能になってしまったのだ。

 以後、その役割はドイツが取って代わることになる。

 スペインとの戦争はその後数年に渡り膠着することになるのだが、そもそも倍近く国力が違う格下の国を相手に何故そこまでフランスが苦戦したのかと言うと……。

 

 

「列車、動かないね」

「まぁ、こんなものだよ」

 

 

 フランスの鉄道網は、パリを中心に放射状に張り巡らされている。

 つまり地方間での直通列車が極端に少なく、北部から東部に列車で移動しようとすると、思っている以上の時間がかかってしまうのだ。

 と言うか、首都パリを経由しないと鉄道だろうと幹線道路だろうと移動が大変なのである。

 

 

 つまり軍事的に言えば、機動的な兵力移動が著しく難しい、と言うことだった。

 それが、純軍事的には格下のスペイン軍を打ち破れなかった理由だ。

 攻勢も補給も、フランス国内の交通の事情により制約されてしまっていたのである。

 その点が、フランス陸軍がドイツ陸軍にどうしても劣る部分だった。

 

 

「でもこれで何回目? こんなんじゃレオンスさんの予定も狂っちゃうんじゃない?」

「まあぁ誰かと約束しているわけじゃないし。遅れることも予定の内だから大丈夫さ」

「それは凄いね……」

 

 

 そして、列車は遅れることが常だった。

 これは国による電力制限や鉄道管制の杜撰(ずさん)さもさることながら、駅や鉄道職員の間で頻繁に行われる抗議活動やストライキが原因だ。

 これはフランスの国民性がどうと言うよりは、長く続いた戦争の弊害と言った方が正しい。

 要は、国全体を運営するマンパワーが不足しているのである。

 

 

「まぁ、あんまり気にしても仕方ないさ。お腹も空いただろ? 食堂車にでも行こうよ」

「うん」

 

 

 フランス北部を走る夜行列車『オリエント・ナイト号』。

 一等から三等車両まである食堂車付きの豪華な列車で、すでに四泊目だ。

 予定ではもっと短い日数のはずだったのだが、先述の理由で大分遅れている。

 キサとレオンスは今、この列車に乗って一路ロリアンを目指しているのであった。

 

 

 厳密には、この列車はロリアン近郊の大都市ナントを目指している。

 そこからまた別の移動手段に乗り換えて、かつての港町にして海軍基地ロリアンを目指すのだ。

 レオンスの話によれば、現在のロリアンは温暖化の影響で海面下にあり、新しい都市も建設されず、もはや住民は存在しないと言う。

 

 

「眩しいな」

 

 

 列車の外は、地平線の彼方まで続く農地だ。

 今は作物では無く白い花が咲いていて、白と緑の絨毯のようにも見える。

 農業国フランスの、これもまた一つの姿だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 特に豪華な列車と言うわけでは無いが、食堂車の造りは綺麗なものだった。

 白いテーブルクロスをかけられたボックス席にシャンデリア、テーブルには花を差した花瓶があり、すでに銀色の食器類が並べられている。

 すでに何組か使用したのだろう、別のテーブルで職員が片づけをしているのが見えた。

 

 

「お肉で良いよね?」

「うん、大丈夫」

 

 

 食事がつくのは二等車からで、乗客の半分を占める三等車の人々は自前で何かを用意している。

 とは言え駅に止まる回数よりも途中で止まる回数の方が多いので、こうした食堂車を使用できる方が安心度は高い。

 最も、食堂車の食糧が尽きればその限りでは無いのだが。

 

 

 とにかく、昼食である。

 お腹が空いていては何も出来ないと言うことで、食事は大賛成である。

 ただ、野菜が少ないと言う点がやや気になるところだった。

 食事が運ばれているのを待っている間、何とは無しに窓の外を見た。

 

 

「あの花、何て名前なの?」

「うん? ああ、あの畑の花? うーん、僕も名前は知らないなぁ。ただ、冬の間に土地を休ませるために植えているんだって」

「ふぅん」

 

 

 会話には特に意味があるわけでは無い。

 ただそう言う意味の無い会話をすること自体が、ある意味では目的なのだった。

 まぁ、有体に言えば暇なのである。

 何しろ、列車内に娯楽があるわけでは無かったのだから。

 

 

「そう言えば聞いてなかったけど、ロリアンについたら何をするの?」

「とりあえずナントで宿をとるかな。あとは時間にもよるけど、早速取材に行きたいね」

「あ、そっか。ロリアンって別に町でも何でも無いんだっけ」

「うん、今は何も無い土地……海の下だから、土地でも無いね」

「スキューバでもするの?」

「この真冬にそれは避けたいなぁ。必要ならするけどね」

「必要ならするんだ」

 

 

 ロリアンと言う名前には、未だ胸がざわめく。

 いったいどうしてそうなってしまうのか、キサにはまだわからない。

 ただ、ロリアンに辿り着けば何かが変わるかもしれない。

 そんな、確信にも近い何かがキサの中にはあった。

 

 

 それは恐怖にも似た感情を呼び起こすが、同時に、渇望も呼び起こしてきた。

 行かなければ、と言う感情は今も胸の内にある。

 だが、何故なのだろう?

 何故、自分は行ったことも無いロリアンと言う場所に行かなければならないのだろう。

 行きたい、では無く、行かなければならないと思うのは何故なのだろう。

 

 

(あの声は、誰なんだろう)

 

 

 ロリアンに行け、と言うあの声。

 若い男の声、だと思う。

 親しみを感じる声では無い、と思う。

 ただ、力強いと感じた。

 あれは誰なのだろうと、ぼんやりと考える。

 

 

「へい、お待ち」

 

 

 そんなことをぼんやりと考えていると、食事がやって来た。

 ただ、妙なことがあった。

 今日までそんなことは無かったのだが、銀盆に蓋を乗せたものが運ばれてきたのだ。

 今までは普通に皿を出されていたはずだが、今日に限って何なのだろう。

 

 

「……? あの、これは?」

「ああ、はい。今日はちょいと冷ませない料理でして」

 

 

 加えて、運んで来たボーイもおかしかった。

 アジア人だったのだ。

 今の今まで、列車の職員にアジア人などいなかったはずなのに。

 そして、そのニヤケた顔に、何故か既視感を感じた。

 

 

「ちょ」

 

 

 そのアジア人の男は、キサの見ている前で銀盆の蓋に手をかけた。

 蓋が開けられる。

 するとそこには料理は無く、代わりに小さな筒状の金属体が乗せられていた。

 そして次の瞬間、ボシューっと言う音と共に、金属体の両端から白い煙が吐き出されたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 すわ何事か。

 思わずそう叫んでしまいそうな、そんな状況だった。

 何しろ、いきなり目の前で煙幕――この表現で間違いないはずだ――が炸裂したのである。

 けほけほと咳き込みながら、キサはその場に倒れ込んだ。

 

 

 椅子が倒れる音がすぐ傍から、そして皿が割れる音と悲鳴が遠くから聞こえた。

 催涙ガスや毒ガスの類では無いようだが、それでも咳き込みは止まず、目からはボロボロと涙が零れ落ちてくる。

 そうして苦しんでいると、不意に少し楽になるのを感じた。

 

 

「むぐ――――っ!?」

 

 

 テーブルクロスだ。

 食堂車のテーブルにかけられていたテーブルクロスが、キサの上半身にかけられた。

 マスク代わりになって呼吸は多少楽になったが、浮遊感を感じる、つまり抱え上げられていることに気付いて、流石に慌てた。

 バタバタと両足を動かして、抵抗の意思を示す。

 

 

「あてっ、いてっ! ちょ、暴れんな暴れんなって! げへへ」

(い、いやぁ――あ、変態だぁ――――っ!)

 

 

 暴れないわけが無く。

 むしろ、相手が変態と知って抵抗を強めた。

 膝がガスガスと相手の背中に当たり、流石に痛かったのか、キサを抱える男は。

 

 

「いって、マジいって! わかった悪かったって、もうふざけねぇって!」

(離せ変態!)

「痛ぇ! 抉りこむような膝打ちやめて!? 艦長ちゃんの脚力半端ないから!」

 

 

 何やらわけのわからないことを言っているようだが、効いているならやめる道理は無かった。

 とは言え体勢が不安定なので、正直、蹴倒せる程では無いとわかっている。

 実際、男は蹴られながらもキサを抱えたまま動いていた。

 このままでは連れて行かれてしまう、と、キサが本気で危惧した時だ。

 

 

 銃声が響いた。

 

 

 小さな炸裂音にも似た音が食堂車に響き渡った。

 それはどうやら窓に向けて撃たれたようで、一瞬後にはガラスの割れる甲高い音が聞こえて来た。

 当然、空気が流れる。

 要は煙幕が窓の外へと吸い出されて、室内の視界が少しだけマシになった。

 

 

「おい、何だお前は!」

「うわっ、マジか。ちょ、待て待て待て」

 

 

 揉み合いを感じる。

 そうこうしている内に、キサはあっと声を上げた。

 男の肩からずり落ちて、床に落とされてしまったのだ。

 正直痛かったが、そんな泣き言は言っていられない、即座にテーブルクロスを脱ぎ捨てた。

 直後、腕を掴まれた。

 

 

「何……って、レオンスさん!?」

「行くよ!」

 

 

 男を殴り倒したらしい、レオンスがそこにいた。

 しかもその手には無骨な拳銃を持っていて、さっきの銃声は彼が行ったものだとわかった。

 目を白黒させて、キサは腕を引かれるままに走り出した。

 正直、何が起こったのかわからない、怖い。

 しかしキサは、ぐるぐると混乱する頭でひとつだけ聞いた。

 

 

「何で銃なんて持ってるの!?」

 

 

 レオンスは振り向かずに言った。

 

 

「売店で買ったのさ!」

 

 

 もう少しまともな嘘を吐いてほしいと、そう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 いったい、何が起こっているのか。

 レオンスに手を引かれて走りながら、キサは何が起こっているのかわからなかった。

 列車内はすでに大変な騒ぎになっており、それは食堂車から徐々に外側の車両へと広がっていった。

 コンパートメントから顔を出す乗客を押しのけながら、三等車両の方へと駆けて行った。

 

 

「レ、レオンス」

「話は後、今はとにかく――って、何そのお盆!」

「あっ、つい持って来ちゃった」

 

 

 何故か、キサは銀盆を持ってきてしまっていた。

 咄嗟に拾ったか掴んだかしたのだろうが、何もこんなものを持って来なくても良いだろうに。

 捨てるかどうか悩んだが、そうこうしている内に状況が動いた。

 車両の通路の天井が大きな音を立てて外れ、そこから落ちて来た何かがキサ達の前方を塞いでしまった。

 

 

 そこにいたのは、やはりアジア系の女性だった。

 顔の左半分を前髪で隠しているが、右目の眼光は見ただけで怯んでしまいそうな程に鋭い。

 そしてそれ以上にぞっとしたのは、その女性が両手に独特な曲刀――日本刀――を持っていたことだ。

 逆刃に持っているのは、何かの慈悲なのだろうか。

 

 

「ぐわっ!?」

 

 

 その2本の刀で、レオンスを横撃した。

 レオンスはそれを拳銃の銃身と腕でまともに受けてしまい、しかも衝撃を殺し切れずに壁に衝突、バウンドした。

 目の前で起こった惨劇に、キサは小さく悲鳴を上げた。

 ここで縮こまっていれば普通の少女と言えるのかもしれないが、咄嗟に。

 

 

「え?」

 

 

 それを見た相手が、驚いたような顔を上げる。

 レオンスを殴打したアジア系の女性の頭に、キサが銀盆を叩きつけたのだ。

 もちろん純銀と言うわけでは無いが、それでもそれなりに固い、しかもヘコむ程の強さで殴りつけたのだ。

 痛みに呻きながらもコンパートメントの扉を開けて、よろめいた女性を中に転がり入れた。

 

 

「キサ、こっちへ……!」

 

 

 適当な荷物を蹴倒してコンパートメントの扉を塞いで、レオンスが頭を押さえながらキサの手を引いた。

 大した時間稼ぎにもならないことは明白な上、他にも仲間がいるかもしれない。

 そこでレオンスが取った行動は、適当な場所にキサを隠れさせることだった。

 二等車と三等車の間にある物置が、その場所だった。

 ここならば、いくらか隠れる場所もあるだろう。

 

 

「隠れて、早く」

「レオンスさんは?」

「僕は大丈夫、それより連中は何でかキサを狙ってるみたいだ。さぁ……早く隠れて!」

「レオンスさん!」

 

 

 キサを物置の中に押し込めて、何事かを言う彼女の面前でドアを閉めた。

 ズキズキと痛む身体に息を詰めるが、それでも鞭打って、敵の注意を引きつけなければ。

 それにしてもと、レオンスは思った。

 見ず知らずの少女のためにここまで身体を張ることになるとは。

 

 

「僕ほどのフランス紳士は、そうはいないだろうね」

 

 

 自嘲気味にふふっと笑って、レオンスは駆け始めた。

 見返りも、まして意味も無い。

 ただ、そうすべきだと思っての行動だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 怖かった。

 いったい何が起こったのかがわからなくて、キサは物置の中で身を縮ませていた。

 目の前に転がっているニシンの缶詰が、妙にシュールだった。

 外はすっかり静かになっていたが、外に出る気にはならなかった。

 

 

「か……隠れないと」

 

 

 ぼうっとしている場合では無かった。

 冷凍庫では無いので環境的には問題なかったし、物置だけに隠れる場所はいくらかありそうだった。

 もし問題があるとしたら、高い位置の小さな窓――しかも開かない――しかない閉鎖された空間で、埃っぽいと言うことだろう。

 

 

 幸い、キサはそうしたことを忌避する少女では無かった。

 どこかしらに隠れようと物置の奥へと入り込んで、軽そうな荷物をどかし始める。

 幸い、缶詰やビスケットの箱をいくつかどかして隠れ場所を作ることが出来た。

 物置のドアには内側からカギがかかっているので、じっとしていれば見つかることは無いはずだった。

 

 

「――――ねぇ」

 

 

 そのはずだった、のだが。

 不意に、視界の端で白い光の粒子が揺れたような気がした。

 きらきらと。

 

 

「そんなところで、何をやっているの?」

 

 

 当然、驚いて振り向く。

 しかしその時、ずるっと手が滑ってしまって、尻餅をつきながらになってしまった。

 だが、とにかく――振り向いた。

 するとそこに、女の子がいた。

 

 

 キサがどけた缶詰やビスケット等が入ったダンボールを器用に積んでいて、その上に座っていた。

 見るからにバランスが悪くで、今にも崩れてしまいそうなのに、何故かそうはならない。

 ただ、その不安定さが心配になる。

 一方で、そこに座る女の子はそうした心配の色をまったく見せていないのだった。

 

 

「あ……あなた、誰? どうやって入って来たの?」

 

 

 繰り返すが、窓は無くドアにはカギがかかっている。

 こじ開けるとかならばともかく、音も無く入って来られるわけが無い。

 あるいは最初から中にいたのかとも思うが、この狭い空間でそんなことが可能なのか。

 それだけでも警戒に値すると言うのに、この女の子はどこか妖しい。

 

 

 何故か、頭にズキリとした鈍痛が走る。

 

 

 さらりと流れる銀色の髪に、ほのかに輝きを見せる瞳、人間離れした美しい造形。

 もし神が自身の移し身を造るとしたらこうするだろうという、そんな女の子だ。

 ただし、同じ人間だとは思えない。

 これは()()()()()()()()()()()()

 

 

「あ」

 

 

 気が付けば、女の子が目の前にいた。

 鼻先触れ合う程の位置、いつの間に移動したのか、過程がわからなかった。

 余りにも綺麗で、そして恐ろしい、かんな顔が目の前にあり、あまつさえ頬に手を添えて来て。

 

 

「んっ……!?」

 

 

 何も言わずに、そっと、そして深く唇を重ねてきて。

 口内に冷たいような熱いような、そんなものが侵入してきて。

 頭の鈍痛が、強くなった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 走馬灯と言うのは、もしかしたらこう言うものなのか。

 自分の半生を追体験すると言うのは、そう何度も出来るものでは無い。

 と言うか、普通は一度だって出来ない。

 そして、わかったことが一つ。

 

 

 人間は時に「あーあ、人生をやり直せたらなぁ」とか言い出すものだが、キサ――否、()()()()はそうした意見に今後は絶対に「否」と答えると決めた。

 何故か?

 人間の精神は、人生を二度やるには脆すぎるからだ。

 

 

「――――――――ッ!!!!」

 

 

 酩酊感にも似た耐え難い感覚に、紀沙は胃の中のものを吐き戻した。

 口の中が苦く酸っぱく、年頃の少女として出来れば避けたいことだが、床に唾液を吐き捨てる。

 それでも、胸中の不快感は消えることが無かった。

 冷たい、嫌な汗の感触が消えることは無かった。

 

 

 例えが難しいが、2時間の長編映画を5分で見られるように圧縮し、しかも瞼を押さえられて瞬きも許されずに見終えたとしたら、こんな状態になるのかもしれない。

 もちろん、音声もすべて5分に圧縮されている。

 ダイジェストでも早送りでもなく圧縮、2時間かけて理解する情報量を5分で叩き込まれると、頭脳の防衛本能で肉体にダメージが来るのだ。

 

 

「あ、酷いなぁ。流石のボクも傷ついちゃうよ」

 

 

 それも、自分の人生だ。

 生まれてから、幼少時、少女時代と学生時代、そして軍人の時代へ。

 失ったことや裏切られたこと、奪われたものや、失敗したこと。

 絶望も後悔も、もう一度味わわされるのだ。

 

 

 何よりも。

 何よりも、思い出してしまった。

 自分が穢されてしまった身だと、ナノマテリアルに犯された身体だと思い出してしまった。

 そして。

 

 

「……スミノ」

「はぁい、艦長殿。キミのスミノはここにいるよ」

 

 

 じろり、と、スミノを見つめて、紀沙は言った。

 

 

「私は誰?」

「艦長殿は艦長殿じゃないか。うふふ、おかしなことを言うなあ」

 

 

 クスクスと、耳障りな声が耳朶に響く。

 それは頭の中で反響して大きくなるばかりで、紀沙は不快そうに頭を振った。

 結果、頭痛が増した。

 

 

「……まったく、冗談じゃないよ……」

 

 

 呟くようにそう言って、立ち上がる。

 よろよろと立ち上がるその姿は、生まれたばかりの小鹿が始めて立とうとする姿にも似ている。

 それすらもにやにやと見つめながら、スミノはあえて言った。

 

 

「どこへ行くの?」

 

 

 紀沙は答えなかった。

 足を引き摺るようにして歩き出す、その肩に、ふわりと統制軍の軍服の上着がかけられた。

 スミノがやったのだろう。

 嗚呼、帰って来たのだと、この時になぜかそう思った。

 

 

 それは良いことなのか、悪いことなのか。

 ただ一つわかっていることは、白く輝き始めた紀沙の瞳から、一筋の雫が零れ落ちたと言うことだけだ。

 胸の奥で、何かが()()()と疼いていた。

 

 

「……母さん」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 レオンスは、最初に紀沙を攫おうとした男と取っ組み合っていた。

 護身用に拳銃を持っていたまでは良かったのだが、やはり素人、威嚇以上の効果は無かったようだ。

 今は掴み合いのような殴り合いのような状態で、車両の通路を転げ回っていた。

 激しい音を立てて、目まぐるしく上下が入れ替わる。

 

 

「ちょ、おまっ。マジで良い加減に……おらぁっ!」

「ぐはっ!」

 

 

 しかし地力の差か腕力の差か、組み伏せられてしまった。

 レオンスの相手は、特別な訓練を受けているのだから、ある意味では当たり前の結果だった。

 レオンスは床に押さえつけられて、動けなくなってしまう。

 

 

「だああぁ~、しんどっ。どんだけ手をかけさせるんだよ」

「うう、くそお……!」

 

 

 これから自分はどうなるのだろうか、とレオンスは今後の自分を想像した。

 この連中は紀沙を狙って列車を襲ったのだから、当然、彼女の居場所を聞き出そうとするだろう。

 おそらく紀沙はあの場所から動いていないだろうから、レオンスが一言喋ればすぐに見つかる。

 つまり今のレオンスに必要なのは、沈黙だった。

 

 

 それも、ただの沈黙では無い。

 これ以上無い程の、守りを固めた城砦が如き沈黙だ。

 極端な話、喋ってしまうくらいなら死を選んだ方が良い、と言えるくらいの沈黙だ。

 だからレオンスは、何も喋らないことを自身に化した。

 ――――その時だった。

 

 

「な……」

 

 

 その時、レオンスは信じ難いものを見た、と言う顔をした。

 それはそうだろう。

 何故ならば彼の目には、ここにいるはずの無い、いてはならない少女の姿が映ったからだ。

 隣の車両へと通じる扉が開くのが遠目に見えて、そこには。

 

 

「キサ!」

 

 

 紀沙がいた。

 最初に、そう、最初に彼女を海岸で見つけた時に着ていたような、軍服の上着を羽織っていた。

 いや、そこは重要では無かった。

 重要なのは、紀沙はここに来てはならないと言うことだった。

 

 

「キサ、来ちゃだめだ! 早く逃げるんだ! こいつらはキミを!」

「あっれ、俺すっげ悪者くせー」

 

 

 はっとした。

 紀沙の様子がおかしいからでは無い。

 静かに佇む紀沙の雰囲気が、今まで(キサ)とは明らかに違った。

 今まではどこか、自分自身を見失ってどこか儚げだった。

 それがどうだろう、今は確かな足取りで歩いているではないか。

 

 

(ああ、そうか)

 

 

 この時、レオンスは悟った。

 今、自分の役割が終わったのだと。

 誰に何を言われたわけでも無い、ただ、唐突にそう感じたのだ。

 紀沙は、すべてを思い出したのだと。

 

 

「キミは、キミ自身を取り戻したんだね」

 

 

 ああ、何も分からず不安げにしていたあの少女の面影はもうどこにも無い。

 自分が何者かをはっきりと思い出し、歩いているのだろう。

 紀沙の両の瞳の光が、レオンスにそう教えてくれる。

 そう感じ取って、レオンスは全身から力を抜いた。

 

 

 守れたのだろうか、僕は。

 今度こそ誰かを守れたのだろうかと、そう思った。

 かつて欧州大戦の混乱の中、逃げ惑うばかりで家族を守れなかった、この自分が。

 そして。

 

 

「うっ……」

 

 

 かしゅ、と、首筋で何か空気の抜けるような音がした。

 それはエアー式の注射器で、彼を押さえている男が何らかの薬液をレオンスに打ったのだ。

 それが麻酔や睡眠を誘発するものとわかったのは、すぐに意識が遠のいたからだ。

 とても眠い、そう思ったことだけを覚えていた。

 

 

「…………」

 

 

 最後に一目、近くで顔を見たかった。

 そう思って、レオンスはゆっくりを目を閉じていった。

 そして、夢を見ない程に深い眠りへと落ちていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――列車が、引き返していく。

 紀沙はそれを、列車の外から見送っていた。

 それも駅からでは無く、停車していたそのままの位置からだった。

 列車はこれから北へと引き返し、紀沙達のことを報告するのだろう。

 

 

(ありがとう、レオンスさん。ごめんね)

 

 

 レオンスは、列車の中だ。

 今も気を失っていて、そのままの別れとなった。

 きっと、二度と会うことは無いだろう。

 そう思って見送っていると、ぽつぽつ、と空から雫が落ちて来た。

 

 

 雨だ。

 あんなにも天気が良かったと言うのに、いつの間にか崩れていたらしい。

 気が付けば雨足は徐々に強まっていき、本格的な雨になっていった。

 傘は、差さなかった。

 ()()()()()()()()()

 

 

「さーて、艦長ちゃん。これからどうする?」

 

 

 食堂車で紀沙とレオンスを襲ったのは冬馬だった。

 それから、静菜である。

 もっとも冬馬にしろ静菜にしろ「襲った」と言うつもりは無くて、彼らは紀沙の確保に動いただけなのだった。

 そうさせてしまったのは、他ならぬ紀沙である。

 

 

「イ404は副長の指揮の下、すでにロリアン方面へと転進しています」

 

 

 静菜の言葉に、「そう」と言葉短く応じる。

 謝るべきだろうか?

 そうべきなのかもしれない。

 世話をかけたと、手間をかけさせたと謝罪すべきだったのかもしれない。

 

 

 しかし、紀沙はそうしなかった。

 求められていないと、そう感じたからだ。

 助けられるのが当然と、そう思っているわけでも無い。

 ただ、謝罪したり感謝したりするのは、何か違う気がしたのだ。

 

 

「――――ロリアンへ」

 

 

 だから、ただ次の目的地を告げた。

 ゾルダンが「行け」と言った地へ行く、ロシア大統領に約束したクリミアへの通り道でもある。

 そこに何があるのかは、未だにわからないところがある。

 だが、もはや自分がそこへ行くのは運命付けられているとすら思えるのだった。

 

 

 レオンスは、そこに取材対象がいると言っていた。

 彼はついに取材対象が何なのかを紀沙に語らなかったが、今なら何となくわかる気がした。

 ロリアンにはきっと、霧が紀沙達を待っているのだろう。

 そして紀沙達を待っているのは、きっと()()()()()

 

 

「艦長殿」

 

 

 そんな紀沙に、スミノが語りかける。

 紀沙が視線を向けると、相変わらずにっこりと微笑んで見せる。

 その両の瞳は、()()()()()()()()

 紀沙の瞳が、白く染まった()()()()()()()()()()だ。

 

 

 そして、嗚呼、母よと紀沙は胸中で呟いた。

 もはや手の届かないところに逝ってしまった、最後の時間すらも奪われた不遇の母よと。

 意気地なしの傍観者よと、紀沙は母を想った。

 すべてを自分に託して消えてしまった、出雲の血族よと想った。

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 貴女の信頼と期待は、今の自分には重過ぎると。

 紀沙は、そう想った。

 ねぇ、兄さん――――……?




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言う訳で、次回からロリアン編。
たぶんこことクリミアが物語のターニングポイントと思っているので、いろいろ明かしていきたいですね。

それでは、また次回。


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Depth065:「聖地」

 

 要塞のようにも、牢獄のようにも、あるいは遺跡のようにも見える場所だった。

 分厚いコンクリートの屋根の下にはいくつもの空洞があり、盤木や船台の骨組みが見えることから、ドックなのだろうと窺える。

 1つの施設にドックは6つか7つ程あるようで、何れもが港には珍しく施設の屋根に傾斜が設けられている。

 

 

「まぁ、えらくご大層な設備みたいだけどよ」

 

 

 いくつかに海水を湛えたままのドックがあったので、警戒しつつも、イ404――それと、イ15をそこに入れた。

 細長く狭いそのドックは、イ404にあつらえたように調度良いサイズだった。

 甲板伝いに、上陸した。

 

 

 古びたコンクリートの地面は、しっかりとこちらの足を受け止めてくれた。

 靴裏からじゃりじゃりと音が鳴って、階段を上がるとやや甲高い音が密閉されたドックに響く。

 照明は無い、ドック入口から差し込む陽の光が全てだった。

 空気口らしき物が並んだ天井と、片側は壁、片側はやはりコンクリート製の柱が並んで隣のドックが見えている。

 

 

「なぁ、確認なんだけどさ。ロリアンに海軍基地があったのって何十年も前のことなんだよな」

「ええ、そうですよ。ロリアン地区は現在、フランスの行政区画としては存在しません。温暖化による海面上昇で完全に水没しました」

「そーかい」

 

 

 会話をすると、普通の声量でも反響して良く通った。

 ただし、それに対して施設から何らかの反応が返ってくることは無かった。

 無人。

 その言葉が脳裏に浮かぶのに、そう時間はかからなかった。

 

 

「ならよぉ……」

 

 

 すっかり錆びてしまっている手すりを触りながら、冬馬は言った。

 指先に付着した剥がれた塗装を見つめながら。

 

 

「いったい、オレ達はどこにいるんだ?」

 

 

 彼らが到達した場所は、ロリアン。

 かつてフランス西部に存在した地域で、海軍基地として栄えた場所でもある。

 しかし、それはもう昔の話だ。

 

 

 今のロリアンは海面上昇によって水没し、存在しない場所である。

 横須賀のように内陸側に移動もしなかったので、水没した後は行政化区画からも外されてしまっていた。

 だから、ロリアンには何も存在しない。

 海中に、かつての都市の名残を残すのみである。

 

 

「ここはいったい、どこなんだ?」

 

 

 だが今、ロリアンに到達した紀沙達の目の前には、明らかに潜水艦用(Uボート)のドック(ブンカー)を備えた施設が存在していた。

 海中に沈んだはずの場所が今、目の前に復活している。

 その事実に、紀沙達は言いようの無い不審を感じるのだった……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ここで、少し時間を遡る。

 ロリアン入港――とは言え、水没地域のため入る港は存在しないわけだが――前、紀沙がイ404に戻った時のことだ。

 ほぼ同時に、医務室に直行となった。

 

 

 どこかが悪いと言うわけでも、念のためにと自分で出向いたわけでも無い。

 良治による泣き落としである。

 大の男が、それも1歳違いとは言え年上の男性にじっと見つめられてはらはらと涙を流されては、いくらなんでも拒否のしようも無かった。

 

 

「ああ、うん。大したことないよ、大丈夫!」

 

 

 紀沙がレオンスと過ごしていた期間は、10日余りと言ったところだ。

 それ以前にも紀沙は健康診断を拒否していた時期があるので、良治に身体を診せるのは久しぶりだった。

 それを受けての、良治の言葉である。

 

 

「……って、言えたら良かったんだけどね」

 

 

 わかっていたことだ。

 わかっていたからこそ、紀沙は良治の検診を拒絶していたのである。

 すべてはあの時、スミノによって片目をナノマテリアルで修復されたことからだ。

 あの時から、紀沙の身体は変化を始めていた。

 

 

「艦長殿の身体のおおよそ28%は、すでにナノマテリアルに置き換わっているのさ。内臓、筋肉、骨、血管、細胞……まぁ、いろいろだね」

 

 

 診断で出た諸々の数値に良治が言葉を失っている横で、ベッドのひとつを占領しながらスミノが言った。

 スカート姿でぱたぱたと両足をばたつかせているので、酷くはしたない。

 紀沙も良治も、今さらそんなことで注意したりはしないが。

 

 

「ここ数日間の記憶障害は、要は体内のナノマテリアルの混乱が原因だろうね」

「……混乱?」

 

 

 ナノマテリアルが原因の記憶障害。

 起因しているものがナノマテリアルだからこそ、スミノの力で()()することが出来たと言うことか。

 妙に、納得した。

 

 

 椅子にかけていた軍服のブラウスを羽織り、ボタンを止めていく。

 身体は当然、思いのままに動く。

 感覚も以前のままだ。

 しかし、日本を出た頃とは構成からして違うものになっている。

 

 

「……僕じゃもう、紀沙ちゃんの役には立てないのかもしれないね」

「そ」

「そりゃあねえ、人間にナノマテリアルがどうこう出来るわけがないしね」

 

 

 そんなことないよ。

 そう言おうとして、途中でスミノに遮られた。

 残酷、だけど真実。

 それがわかっているから、紀沙にはスミノを睨むことしか出来なかったし。

 

 

「……ごめんね、良治くん」

 

 

 効果的な慰めを、口にすることも出来なかったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ404の艦内通路も、久しぶりな気がした。

 歩くだけで懐かしさを覚えてしまうようではいけないと思うのだが、やはり懐かしく思えた。

 当たり前だが、ここは変わらない。

 

 

「どうして艦長殿のナノマテリアルが混乱したのか、教えてあげようか?」

 

 

 そして、この少女も変わらない。

 言動はこちらを煽るが如くだし、にやにやとした表情は見ているだけで苛々する。

 今もそうだ。

 こちらが答えを知っていて、そして認めたくないだろうことをあえて口にしてくる。

 神経を逆撫でされるとは、こう言うことを言うのだろう。

 

 

「あ――――!」

「え? ……ぶ!?」

 

 

 その時だった。

 角から何かが飛び出してきて、紀沙の腹部に強烈な衝撃が走った。

 たまらず後ろに尻餅をつくと、追撃を喰らった。

 最終的に馬乗りになられて、何事かと相手の顔を確認すると。

 

 

「……蒔絵ちゃん?」

「もう、帰ってくるのが遅い!!」

「え、え。あ、ごめんなさい」

「ん! 良し!!」

 

 

 蒔絵だった。

 多少面喰ってしまったが、「怒ってます!」と言う顔でそこにいた。

 あまりの剣幕に、思わず謝ってしまった。

 それで満足したのかは知らないが、突撃時に比べて妙に緩慢な動きで紀沙の上からどいた。

 

 

 そして、紀沙は何となく違和感を感じた。

 違和感と言っても、別に悪い意味では無い。

 ただ何となく、蒔絵が以前と少し違うと感じたのだ。

 尻餅をついたまま彼女を見つめて、それが何なのかと考えて――不意に、得心した。

 

 

「あれ、蒔絵ちゃん。もしかして、ちょっと大きくなった?」

「え、そう? ここに来てそんな経ってないと思うけど」

 

 

 背が伸びた、だけでは無く、全般的に大人びて見えたのだ。

 機関室でいろいろとやっている内に、成長したということだろうか。

 何だか感慨深くなってしまって、不躾に見つめてしまった。

 それに機嫌を悪くしたのか、蒔絵は少し顔を紅くして。

 

 

「そ、それより、大変だったんだからね。アンタがいなくなってからごたごたして結局補給も受けれなくって、皆かっつかつの状態で探していたんだから」

「う、返す言葉もございません……」

「いや、そこまで落ち込まなくても良いんだけどさぁ。って言うかこの(ふね)、横須賀にいた頃はどうやって補給してたわけ?」

「え?」

 

 

 補給、イ404にとっては常に頭の痛い問題だ。

 今はイ15もいるから倍だ、それこそ「かっつかつ」である。

 当然、横須賀にいた頃も、艦体を維持するので精一杯で。

 精一杯だった、はずだ。

 その状態で、()()()()()()()()――――……?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 強烈な違和感を感じた。

 そう言えばと言われればそれまでだが、今まで特に気にしたことが無かった。

 そもそも、イ404――いや、イ404とイ401だ。

 活動休止していた時期はともかく、それ以後はどうやって稼働率を維持していたのだろうか。

 

 

 確かに、横須賀でも整備と補給は受けていた。

 イ401は、出奔した後に硫黄島と言う補給基地を得たからこそだ。

 では、イ404は?

 『ナガラ』戦より前には、ナノマテリアルを消費するような戦闘が無かったせいだろうか。

 それでも、艦体をどうやって維持していたと言うのか。

 

 

「さっきはあんなこと言ったけどさ」

 

 

 耳元で声がする。

 いつものことだと、努めて聞き流す。

 本当に、いつものことだ。

 

 

「ナノマテリアル自体は、海水に含まれる粒子だからね。その気になれば、抽出くらいは出来るだろうね」

「…………」

 

 

 ナノマテリアルの精製技術?

 そんな技術が人類に、日本の統制軍にあるわけが無い。

 もしあるのだとしたら、今、人類が苦しんでいる様々な問題を打破できてしまうでは無いか。

 それが出来ていない以上、そんなものは存在しないのだ。

 

 

 大体、ナノマテリアルが海水に含まれると言う話自体、信用できるものでは無い。

 海水の成分に含まれるのであれば、今までそれを発見できていないわけが無い。

 今の今まで、そんな人間が出てきたことなんて。

 過去の、人間が……。

 

 

「……人類評定」

 

 

 『ビスマルク』姉妹。

 不意に脳裏に浮かんだのが、それだった。

 そして「出雲」を始めとする、始まりの血筋。

 母さん。

 

 

 壁に手をついて、頭を押さえた。

 母の最期を思い出して――おそらくはそれが、「ナノマテリアルの混乱」の原因とわかっている――紀沙はよろめいた。

 そんなはずは無いと、半ば自分に言い聞かせてた。

 そんな、そんなことがあるはずが無いのだ、と。

 

 

「艦長殿」

 

 

 耳元で、声がする。

 

 

「ボクが横須賀で艦体を維持できていたのは、どうしてかな」

 

 

 嫌な声だ。

 この声はいつだって、自分を苛立たせる。

 そのために生まれたのではないのかと、そう思える程だ。

 何故なら、スミノの言葉が事実だとすれば、誰かが人類に、皆に、紀沙に嘘を吐いていたと言うことになる。

 

 

 だが一方で、紀沙は政治を知っている。

 たとえどれだけ非道でも、真実を明かさないことが政治だ。

 必要ならば身内にすら嘘を吐くのが政治だ。

 世界が、政府が、政治家が、嘘を吐くことは十分にあり得るのだと。

 ――――北が、自分に嘘を吐く可能性はあるのだ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 嘘、と言うのは少し違う。

 その秘密を明かされた時、上陰が思ったのはそれだった。

 官僚として政治を近くで見つめてきた上陰にとって、政治とは「嘘を吐かない技術」であるからだ。

 誤解してはならないのは、それは別に「事実と異なることを言わない」と言うことでは無い、と言うことだ。

 

 

 この日、上陰が知った秘密はまさにそうだった。

 嘘では無い。

 しかし、事実を事実として言っているわけでも無い。

 曖昧模糊(あいまいもこ)な、はっきりとしない、真面目で正義感の強い人間には出来ない仕事だ。

 

 

『この()()()()の存在は、日本で2人しか知らない』

 

 

 ある日の深夜、楓首相に呼び出された先は山奥の廃墟だった。

 持ち主はよほど偏屈だったのか、あるいは人間嫌いだったのかはわからないが、人里から随分と離れた位置に屋敷を建てたようだ。

 自家発電設備らしきものも見えたから、自給自足していたのかもしれない。

 

 

 やって来た時、楓首相は護衛も連れず1人だった。

 言葉の通り、文字通り極めて少人数にしか知られていない場所なのだろう。

 それにしても、まさか自分で運転して――楓首相は身体が不自由だが、自動運転やロボットによる運転がある――来るとは思わなかった。

 

 

「研究室、ですか。ただ、これでは何も……」

 

 

 楓首相の車椅子の備え付けのライトは、彼が「研究室」と呼ぶ部屋の一部しか照らしてくれない。

 車椅子に内蔵されている電源などたかが知れているので、仕方ないことではある。

 見えているのは壁際の資料棚らしきものと、床に散乱したガラスや紙などのゴミだけだった。

 そんな時、不意に楓首相が手を伸ばし側の壁に触れた、すると。

 

 

 ふわりと、白い粒子が舞った。

 

 

 電気とは違う、独特の輝きを放つ粒子だった。

 青白く室内を照らし出したそれらは照明では無い、「研究室」の両側に並ぶ円柱形のガラスの内側でふわふわと舞っているのだ。

 ガラスの内側を満たす水からは、微かに潮の香りがする気がした。

 

 

『霧が操る特殊粒子……ナノマテリアルは未だ謎が多く、人類には扱えない』

 

 

 振動弾頭。

 日本が技術の粋を集めて開発した兵器、霧に有効な唯一の兵器。

 だが、ここでひとつ解くべき疑問があることに気が付かないだろうか。

 すなわち、「どうして有効だとわかったのか」――――?

 

 

『だが、扱えないまでも()()()()()()は出来る。()()()()()()も』

 

 

 嘘は吐いていない。

 人類はナノマテリアルを扱えない。

 しかし事実を伝えてはいない。

 人類は、ナノマテリアルを()()()()()()は出来るのだと。

 

 

『我々がこの施設のことを知ったのは<大海戦>以前、おおよそ20年ほど前だ』

「20年前……<大海戦>の前、世界がまだ霧を<幽霊船>と呼んでいた時期ですか。いえ、()()()? 国が()()()のが20年前と言う意味なら、まさかここは」

『ああ。ここは一民間人が所有していた施設だ。名前は――出雲薫』

 

 

 出雲薫。

 それは確か、あの千早沙保里の祖先の名前だ。

 政府でもトップシークレット――上陰も次官になって初めてアクセスを許された――の情報だ。

 

 

「ちょっと待って下さい。出雲薫は100年以上前に行方不明になった人物です」

『もちろん、別の名前を騙っていた』

「いや、しかし――()()()()()()()()()()()?」

 

 

 よしんば生きていたとして、20年前――旧大戦から90年経っている。

 年齢は優に110を超える、とてもでは無いが研究など出来ない状態のはずだ。

 そう、例えば……()()()()でも借りない限り。

 

 

『その人物が本当に100年前の出雲薫と同一人物なのかはわからない。わかっているのは、このナノマテリアルの研究施設と、研究日誌のサインが出雲薫のものだったと言うことだけだ』

「は、はぁ。いや、しかし驚きました。ナノマテリアルの研究施設……」

『さっきも言ったが、ここを知っているのは歴代の首相と、首相が最も信頼する人物の2人だけだ』

 

 

 つまり上陰は北の代わりと言うわけか。

 光栄と思うと同時に、上陰は背筋に冷たいものを感じもした。

 知っている人間が日本の首相含め2人きりとなれば、歴代の中央管区首相が現在どうなっているのか、と想像してしまったからだ。

 

 

『それに驚く必要は無い、似たような施設は世界各国にある』

「……そうなのですか?」

『アメリカ、ロシア……以前は欧州もそうだったが、戦争の中で立ち遅れているようだ。かつて熱核兵器の開発に各国が血眼になったように、今はナノマテリアルの精製技術の開発に鎬を削っている』

 

 

 楓首相の話を聞きながら、上陰は不意に欧州の地にいるだろう少女達のことを思った。

 自らが見出し、今後を懸けた少年達のことを思った。

 その後、これは裏切りだろうか、と自分に問いかけた。

 自分は答えた。

 ――――いや、これが政治なのだ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「しかしまぁ、何てぇ広さだよ」

 

 

 朽ちかけた地面を注意深く歩きながら、冬馬はあたりをライトで照らしていた。

 コンクリートで舗装しているとは言え、風化しつつある程に古い施設だ。

 いきなり足元が崩れたり、何かが落ちてきても不思議では無い。

 それでいて広大な、「存在しないはずの」海軍基地なのだった。

 

 

 冬馬の傍には恋がいて、端末を持って歩いていた。

 データを取っているのか、時折、端末に何かを入力していた。

 あたりはすっかり夜になっているので、ライト以外の照明は無い。

 手分けして探っても、その全貌はようとして知れなかった。

 

 

「どーよ?」

「フランス海軍の古いデータサーバから情報を拾って確認してみたのですが、やはり見取り図と一致しますね。ここは、間違いなくロリアンの海軍基地です」

「……海に沈んだ?」

「海に沈んだロリアン基地です」

「んな馬鹿な」

 

 

 ぶんぶんとライトを振って、冬馬は唸った。

 しかし彼がいくら疑いの目で見たところで、朽ちかけた地面も罅割れた壁も、遠目に広がる兵舎らしき建物も、すべてが本物なのだった。

 すべてが現実で、疑うにはリアル過ぎた。

 

 

「じゃあ、何か? オレらはずっと前に海に沈んだはずの基地にいるってか? そりゃあ何と言うか……お?」

「どうしました?」

 

 

 その時、ライトをある一点に当てた。

 しかし、そこには何も無かった。

 

 

「いや、何か見えた気がしたんだがよ」

「何か?」

「何かヒラヒラとしたもんが……」

 

 

 ライトで近くを照らしても、そこには朽ちた壁があるだけだった。

 冬馬が何となくそこに近付いても、やはり何かがあるようには感じられない。

 気のせいだったのだろうか。

 しかし、そう思った矢先だった。

 

 

 ……!

 視界の端に何かを感じて、ライトを向ける。

 しかしそこには、何も無い。

 やはり、視界の隅で青白い布のようなものがヒラヒラと動いたような気がしたのだ。

 だが通路の曲がり角にあたるそこには、何も見えないのだった。

 

 

「……見たか?」

「はい、何かいたような気がします」

「オレもだ。良し、ちょっとライト持っててくれ」

 

 

 恋にライトを照らさせたまま、じりじりと近付いていく。

 何かがいると感じる角に、近付いていく。

 一息。

 誰かいるのかと、冬馬は一足で角に飛び込んだ。

 

 

「な――――!」

 

 

 その時、そこにいたのは。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海の底に沈んだ、存在しない海軍基地が存在している。

 あり得ないことだ。

 だが紀沙は、そうしたあり得ないことが起こる理由に心当たりがあった。

 

 

「スミノ、これはナノマテリアルが引き起こしているの?」

「正解でもあり間違いでもあるね」

 

 

 霧の力、ナノマテリアル。

 この力を持ってすれば、演算力次第で基地や都市を再現することは不可能では無い。

 だから紀沙としては、目の前の幻の基地をナノマテリアルによる現象だと判断したのだ。

 しかし、スミノはその考えに対して非常に曖昧な返答を返した。

 

 

 何が面白いのか、紀沙の先を歩いたり、横に並んだり、ぴょんと跳んでみたりと慌しい。

 一見、何かに興奮している子供のようにも見える。

 実際容姿からしてそう見えなくも無い、が、実際はそんなに可愛いものでも無い。

 と言うか、鬱陶しい。

 

 

「スミノ」

「と言うかねえ、艦長殿」

 

 

 不意に顔を上げて、色の無い瞳で紀沙を見つめた。

 

 

「自分で感じていることを、わざわざボクに聞くのもどうかと思うよ」

「…………」

 

 

 ……この基地に入ってから、ずっと肌が粟立っていた。

 何か妙な気配がすると言うか、何か、そう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 目の前に見えているものが全てでは無いと、自分の中の何かが警告を発しているのがわかる。

 

 

 ――――ナノマテリアル。

 

 

 もはや自分の中に定着しているそれが、嫌にざわめく。

 何もいないのに、視界の端で何かが動いている。

 普段の生活の中で、たまにそんな感覚を得ることは無いだろうか?

 今の紀沙の感覚は、それに近い。

 

 

「ここは、()()()()()()()()()()

 

 

 基地の敷地、ちょうどその中央に立った。

 傍らにイ404らを停泊させているドックがあり、別の方向には兵舎や地上型の乾ドックがある。

 道が交差するクロスポイント、その真上には冬の満月が見える。

 もう幾夜もしない内に、旧年が終わり新年となるだろう。

 

 

(ああ、嫌だな)

 

 

 それにしても、と、紀沙は危惧した。

 自分の中のこれ、ナノマテリアルの力は、確かに強まっている。

 それも急速に、だ。

 だが一方で、不快感の中に何か別の感覚があることにも気付いていた。

 そっと胸に手を当てると、それをより強く感じることが出来る。

 

 

(……母さん)

 

 

 あの時、あの大西洋で紀沙は母の最期を見た――見たと思う。

 今でも、視界いっぱいに広がる母の笑顔を思い出すことが出来る程だ。

 ただ、その後は覚えていない。

 先の記憶障害と異なり、こちらは単純に意識を失ったからだと思われる。

 けれど、母・沙保里は自分の耳元で何かを囁いたはずなのだ。

 

 

(母さん、何て言ったの……?)

 

 

 大事なことだったような気がする。

 重要なことだったような気がする。

 存在を懸けた、何かだったはずだ。

 母の最期を、紀沙は覚えていない。

 

 

「……ッ」

 

 

 その時、コロコロと――実にわざとらしく――小石が、落ちて来た。

 ()め上げれば、一瞬の突風。

 砂が入るのを防ぐために目を閉じて、そして開いた次の刹那。

 兵舎の屋根に、ドックの縁に、立っている少女が2人。

 

 

 揃いの軍服に、大きな時計、左右対称の髪型とファッション。

 2人いるはずなのに、どこか1人しかいないように感じる雰囲気。

 2人で1人。

 ――――『ビスマルク』姉妹が、冬の風と共に、唐突に姿を現していた。

 

 

「やっぱり、お前達か!」

「私達?」

「いいえ、違うわ千早紀沙。出雲の血統」

 

 

 ロリアンに、この姉妹がいる。

 それはほとんど確信に近い予測だったが、それは当たった。

 にも関わらず、『ビスマルク』姉妹は「違う」と言い放った。

 満月の下、不可思議な光を湛えた二対の瞳がこちらを見下ろしてきている。

 

 

 そしてその後ろで、青白い光が爆発した。

 爆発した――そう思える程の光が、柱となって基地に立ち上ったのである。

 衝撃は無い、しかし、存在感はある。

 まるで何かの存在が、自分自身を主張するかのような輝き方だった。

 

 

「あれは」

 

 

 意外なことに、これに反応したのはスミノだった。

 目を細め、驚き、まさかと言う表情を浮かべている。

 

 

「まさか、ここが?」

「スミノ? なに……」

「ええ、そうですよイ号404」

 

 

 『ビスマルク』が言った。

 眼鏡の縁に手を添えて、くい、と持ち上げながら。

 

 

「ここはロリアン。我ら霧にとっての聖地。そして」

 

 

 青白い光の柱を仰いで、『ビスマルク』は言った。

 光からは、禍々しさをまったく感じなかった。

 むしろ、どこか清潔さと無邪気ささえ感じる。

 そして夜だと言うのに、闇だと言うのに、()()()()()()のだ。

 あれは光では無く、ナノマテリアルの塊だった。

 

 

「我らが創造主」

「『アドミラリティ・コード』の霊廟」

 

 

 霧の聖地?

 『アドミラリティ・コード』の霊廟?

 

 

「さぁ、出雲の子よ」

「なにもかもが終わってしまう、その前に」

 

 

 いつかのように、『ビスマルク』姉妹は誘うように言った。

 

 

「「人類評定(きゅうさい)を、始めましょう」」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――()()は、突然やって来た。

 ある日突然、クリミア半島セヴァストポリを根拠地とするロシア連邦黒海艦隊との連絡が途絶した。

 本国(モスクワ)は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

 折りしも、西ヨーロッパの混乱の隙を突いて黒海沿岸諸国への干渉を企てていた時だ。

 

 

 逆に、黒海沿岸諸国がロシアに干渉できるはずが無いと言う状況での出来事だった。

 だが、辛うじて通信できたクリミアの他の都市からの連絡で、セヴァストポリが戦車の集団によって制圧されたことがわかった。

 クリミアに駐屯するロシア軍は、抵抗することも出来なかったと言う。

 

 

「黒い光に覆われて偵察機(ドローン)が近づけないだと? いったい何が起こったと言うのだ」

 

 

 ロシアの参謀アレクサンドル中佐は、あまりに状況の不可解さに何も出来なかった。

 霧の艦艇か?

 いや、敵は戦車だと言う。

 しかし、霧に勝るとも劣らない不可思議な力を操る敵だった。

 

 

 しかも()()の支配地は光に覆われ、外から干渉することが出来ない。

 セヴァストポリ、そしてクリミアはその最初の地となった。

 ある日いきなり地下から光が溢れ、同地を1日で覆い尽くしたのだと言われている。

 そして、その支配地域は日を追うごとに拡大し始めたのだ。

 

 

「な、何だあれは!?」

「逃げろ……!?」

 

 

 不運にも進軍地域に住んでいた人々は、逃げ惑った。

 だがいくら逃げても、その光と戦車の群れは彼らを乗り込んでいった。

 光のフィールドに覆われるた地域の情報は一切が遮断されるため、内側がどうなっているのかは窺い知ることは出来ない。

 唯一わかっていることは、()()も霧の艦艇と対立しているらしい、と言うことだった。

 

 

 ウクライナ南部の港湾都市オデッサを皮切りに。

 モルドバ、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、マケドニア、セルビア、コソヴォ、モンテネグロ、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナと、西へ西へと支配地域を伸長させていった。

 まるで何かを目指しているかのように。

 そして支配地域の伸長に比例して、セヴァストポリ中心部の「光」が強く、禍々しくなっていく。

 

 

「奴らは何だ! 何が目的なんだ!」

「次はどこへ? まさかここに来るんじゃ」

「ああ、神様……」

 

 

 人々は、()()を恐れた。

 得体の知れない侵略者の存在を畏れた。

 支配地域に隣接した地域の人々は恐慌を起こし、暴動(パニック)の沼に沈んでいった。

 自滅した都市も少なくないのは、それだけ中央政府の統治力が落ちていることの証左だった。

 

 

 <騎士団>

 

 

 畏怖と皮肉を込めて、いつしか()()は<騎士団>と呼ばれるようになった。

 一説には、<騎士団>の()()()()()()()()()と言われている。

 荒唐無稽な話に誰も信じなかったが、<騎士団>と言う名前はそのまま定着した。

 そして、彼らはついにクロアチアさえも抜き、イタリア北部へと至ろうとしていた……!

 

 

「やぁ、あれがトリエステ! 下等な人間にしては洒落た街じゃないか」

 

 

 戦車『トルディ』は、国境の山を走破してそう言った。

 大西洋で千早一家と衝突した彼は、今は内陸に戻っていたのだ。

 そして彼が言うように、彼らは「あと一歩」と言うところにまで近付いていた。

 そう……。

 

 

 ――――<彼女>の、下まで。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
次回からついに『アドミラリティ・コード』です。
設定はほぼオリジナルになるので、受け入れられるか心配です。

また今後のため、以前から言っていた<騎士団>募集を行いたいと思います!


<騎士団>の戦車募集!

募集要項:
・投稿・相談はメッセージのみでお願い致します。
・締切は2017年6月20日18時です。
・ユーザーお1人につき、キャラクター3人までです。

騎士団の戦車・及びメンタルモデル。
※戦車1種につきメンタルモデル1人とします。
※メンタルモデルについては、容姿・性格について記載して下さい。
※第二次世界大戦時の戦車のみで、メンタルモデルは男性キャラクター限定です。
※派生型等の理由があれば、同種の戦車で複数キャラクターも認めます。

注意事項:
・投稿キャラクターは必ず採用されるとは限りません。採用・不採用のご連絡も致しません。
・戦争という題材を扱う以上、投稿キャラクターが死亡・撃沈する可能性が相当数ございます。
・投稿・相談は全てメッセージにて受け付け致します、それ以外は受け付けませんのでご了承くださいませ。
・場合により、物語の展開・設定に応じて投稿キャラクター設定を追加・変更する場合がございます。
以上の点につきまして、予めご了承下さい。

繰り返しになりますが、投稿・相談はメッセージにてお願い致します。
※活動報告のコメント等だと、せっかくの投稿キャラクターがネタバレしてしまうためです。

以上です。
それでは、宜しくお願い致します。


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Depth066:「試練」

 トリエステは、イタリア北東部の国境の都市として知られる。

 しかしながら常にそうだったわけでは無く、その立ち位置は歴史と共に変遷して来た。

 時期によって仰ぐ旗が変わる争奪の地――それは、今の時代になっても変わらない。

 トリエステは今や、人類の対<騎士団>の最前線の都市となっていた。

 

 

「早く、シェルターは駄目だ! 街の外へ逃げろ!」

「大丈夫、まだ時間はあります!」

「荷物は1人1つまでだ、乗せられるスペースには限りがある!」

 

 

 20万人のトリエステ市民の内、避難対象者は12万人に及んだ。

 これはもはや都市ごとの移動と言った方が良く、北側からは無数の人々が輸送トラックに便乗して、あるいは徒歩で脱出していた。

 一部は混乱の余り暴徒化することもあったが、エスコートする軍の統制によって、概ね秩序だった避難行動と言える。

 

 

 そして都市の南側、()が侵入して来たスロベニア国境に向かい合う場所は、各所に市街戦を想定したトーチカやバリケードが設置されていた。

 イタリア陸軍の戦車や火砲の姿も見える。

 それぞれに十数名の武装した人間が詰めており、一様に緊張した面持ちで何かを待っている。

 歴史深い趣のある都市が、今や城砦と化していた。

 

 

「おい、急げカルロ。敵がいつ来るかわからないんだぞ!」

「ま、待ってくれよ!」

 

 

 カルロと言う青年も、その1人だった。

 明らかに持ち慣れていない小銃を手に、トリエステの通りを走る。

 と言うか迷彩服すら支給されていない彼は、軍とは関係の無い一般市民だ。

 避難の対象で無い8万人の1人、簡単に言えば、自ら志願した民兵である。

 

 

(まさか、本当に戦争になるだなんて)

 

 

 一緒に志願した仲間達について走りながら、言いようの無い不安に顔を青ざめさせている。

 つい昨日まで、普通の学生だった。

 そんな青年がいきなり戦場に投入されるのだから、恐怖を感じない方がおかしい。

 ともすれば逃げ出してしまうような、カルロはそんな状態に置かれているのだった。

 

 

「おう、おうおうおう。何じゃ何じゃ、騒々しいのぉ」

 

 

 その時だった。

 カルロの耳に、幼さを残す少女の声が聞こえたのだ。

 街の南側の避難は終わっているはずで、聞こえるはずの無い声だった。

 しかし、無人のオープンカフェに――いた。

 

 

 長い金髪の、段重ねのフリルやレースで彩られたドレスを着た少女だった。

 彼女の座るテーブルにはこれでもかとばかりにケーキが並べられており、それらはすでに一口ずつ口がつけられていた。

 最初はぼうっと見ていたカルロだが、不意にはっとして。

 

 

「って、いやいやいや、何をしてるの!?」

「うん? 見てわかるじゃろ、ケーキを食べておる」

「あ、うん。……じゃなくて、駄目だよキミ、逃げないと!」

 

 

 不思議な雰囲気の少女だった。

 頬に手を当ててケーキを頬張る姿は可憐だが、この状況で微動だにしないあたり、普通では無い。

 むしろ優雅ですらあり、カルロはつい見惚れてしまった。

 

 

「お、来たようじゃぞ」

「え?」

 

 

 その少女が、ついと視線を彼方へと向けた。

 直後、街の一角が爆発した。

 その振動がここまで伝わってきて、カルロは戦闘が始まってしまったことを知った。

 

 

「おいおい、どこへ行く。逃げろと言ったのはお前じゃろ、死ぬぞ」

 

 

 反射的に走りかけたカルロに、少女がそんな風に声をかけた。

 死ぬと言われて、カルロは逡巡した。

 死にたくないと言う気持ちが、彼の足を止めた。

 しかし震えながらも、カルロは言った。

 

 

「ここは僕らの街なんだ」

「街など他にいくらでもあろう」

「……そうかもしれない」

 

 

 ケーキと同じだ。

 チーズケーキがなければチョコレートケーキを食べれば良い、トリエステが破壊されても他の街に移住すれば良いのだ。

 ひとつしか無い命を懸ける意味など、無いのかもしれない。

 

 

「でも、故郷だって一つしか無いから」

 

 

 街は他にある。

 でも、生まれ育った故郷はひとつだけだ。

 だから怖くとも、たとえ失禁しようとも、カルロは兵に志願したのだ。

 

 

「キミは早く避難するんだ、良いね!」

 

 

 そう言い残して、カルロは仲間達の下へ走った。

 その走りは、さっきまでと比べると力強い。

 少女との邂逅が、カルロの中に何かを生んだのかもしれなかった。

 

 

「……ふむ。やはり人間と言うのは良くわからんのう」

 

 

 そして、少女。

 彼女はカルロの背中を見送りながら、はむ、とフォークを口に含んでいた。

 何かを観察するようなその目は、時折、白く電子的に輝いていた。

 どん――と、砲声が聞こえる。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の大戦艦『ビスマルク』。

 あの『ナガト』と同格の、デュアルコアを持つ特別な霧の艦艇。

 だが、それだけでは無い何かが『ビスマルク』姉妹にはあった。

 あえて言葉にするのであれば、そう。

 まるで、()()()使()()()()()()――――。

 

 

(何だ、でも……何だろう)

 

 

 『ビスマルク』姉妹を見上げながらも、紀沙は感じていた。

 以前ほどに、威圧感を感じない。

 迫力が弱いとても言おうか、何と無く存在感が薄い印象を受けたのだ。

 何故かはわからない、が、確かだった。

 

 

 『ビスマルク』姉妹は、()()()()()()

 誰かと戦った様子も見えないのに、おかしいと言えばおかしかった。

 そんなことを考えていたからと言うわけでは無いだろうが、『ビスマルク』姉妹が紀沙を見た。

 その時には感じた存在感の薄さも消えていて、勘違いだったのかとも思った。

 

 

「……人類評定(きゅうさい)?」

 

 

 とりあえず、声を出してみた。

 特に興味があったわけでは無かったが、間が欲しかったのである。

 

 

「前にも聞いたような気がするけど。それって何なわけ?」

「それは」

 

 

 不意に、『ビスマルク』姉妹の背景ともなっている光の柱が明滅した。

 明滅と言うよりは、途切れかけたと言った方が正しいかもしれない。

 すぐに元通りになったが、不安定な印象は拭えなかった。

 あれも、何か意味があるのだろうか。

 

 

「……それは、あの御方に直接、聞いた方が良いでしょう」

「そう、我らの創造主に」

 

 

 霧の創造主。

 と言うと、まさか。

 

 

「だけどその前に、貴女は試練に打ち克たねばならない」

「試練? お前達みたいなに課される課題なんて無いよ」

「私達に、ではありません」

 

 

 ギンッ、と、『ビスマルク』姉妹の両の瞳が輝いた。

 瞬きひとつせずに、真っ直ぐに紀沙の眼を射抜いてくる。

 何と言う力強さか。

 先程の弱々しさはどこへ失せたのか。

 

 

「貴女に試練を課すのは、貴女自身だからです」

 

 

 ……はぁ?

 と、率直に言って、紀沙はそう思った。

 紀沙が、紀沙に試練を課す。

 それが「人類評定」とやらに何の関係があるのかと、そう思った。

 

 

「さぁ」

 

 

 思った、が。

 

 

「どうか」

 

 

 『ビスマルク』姉妹の眼から。

 

 

()()()()()……!」

 

 

 眼が、離せなかった――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 気が付くと、紀沙は家にいた。

 家にいたと言うのは、どこかの建物にいたと言うわけでは無い。

 ()()()()()、と言う意味だ。

 

 

(どう言うこと……?)

 

 

 そこは、北海道の実家のリビングだった。

 幼い頃に過ごしたまま、家具の位置も部屋の間取りもそのままだった。

 カーペットの上など、遊んだまま放りっぱなしにしている玩具まで転がっていた。

 その玩具は、紀沙が良く兄と取り合っていたものだったりする。

 

 

 いや、今はそんなことは重要では無い。

 まず最初に思い浮かべたのはナノマテリアルによる幻だが、ナノマテリアルの気配は感じない。

 つまり、これは現実だ。

 しかし幻で無いとしても、現実だとも思えなかった。

 

 

「……懐かしいな」

 

 

 この家で過ごしていた頃は、思えば幸福だった。

 父がいて母がいて、そして兄がいた。

 昼間は兄と遊び、疲れたら母のところでお昼寝をして、夜は帰って来た父に抱き着く。

 幸せの記憶、もう二度と戻らない時間だ。

 

 

「――――紀沙」

 

 

 来た、と思った。

 何かが起こだろうと思って身構えていたが、思いの他早く来た。

 目を閉じて、呼吸を整えた。

 何が出てきても動揺すまいと自分を律して、紀沙は振り向いた。

 

 

「……!」

 

 

 驚くな、と自分に律した。

 けして心を動かすなと、強力に命じた。

 しかし頭ではわかっていても、どうにもならぬのが心というものだった。

 驚きに、目を見開く。

 

 

「紀沙」

 

 

 そこには、兄がいた。

 ただし現在の兄・群像では無く、5歳にもなっていない小さな子供の姿だった。

 紀沙が見間違えるはずが無く、それは間違いなく幼い頃の群像だった。

 流石に身長差があり、見下ろす形になっている。

 

 

 これは何だ。

 家だけかと思えば、群像までこの家で過ごしていた頃の姿で現れた。

 やはり幻か。

 いや、幻にしてはリアリティがあり過ぎる。

 つまりこれは、現実だと言うことだ。

 

 

「お前は何故、霧を敵だと思うんだ?」

 

 

 ――――だが群像の言葉に、すぐに冷めた。

 この時期の群像が、こんなことを言うはずが無い。

 『ビスマルク』姉妹は試練と言った、紀沙自身が与える試練だと。

 だが、これは試練か?

 

 

「紀沙」

 

 

 だが、紀沙はまだ気付いていないだけだった。

 この「試練」の、最も恐ろしいところを理解していなかった。

 何故ならばこの試練の世界は、今の今まで彼女が御そうとしていたものに起因しているからだ。

 

 

「お前は本当は、もう霧を憎く思っていない」

 

 

 それは、すなわち。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「試練の内容は、私達にもわからない」

「この試練は、受ける者の心を写すもの」

 

 

 そして、()にいる『ビスマルク』姉妹とスミノだ。

 紀沙の身体は次々に色を変える不思議な球体につつまれていて、本体たる紀沙自身は眠っているように脱力していた。

 青になり赤になり、鼓動の音も聞こえる。

 

 

 その側についたまま、スミノは『ビスマルク』姉妹と対峙していた。

 対峙と言っても、戦闘が始まる雰囲気でも無い。

 じじ、とスミノが目を白く輝かせた。

 双方の間で、見えない攻撃が飛び交っていた。

 

 

「なるほど、クルー全員を捕まえたってわけだね」

「彼らには眠ってもらっただけ」

「千早紀沙が試練に打ち克てば……自分自身(トラウマ)を克服することが出来れば、自然と目覚めます」 

 

 

 イ404のクルー達もまた、『ビスマルク』姉妹によって囚われていた。

 と言っても、縄で縛られているわけでは無い。

 ただ眠っている、それ以上のことは何も無い。

 それぞれが己の中の「世界」に閉じ込められて、出てこられないだけだ。

 

 

 静菜は、政治の裏の闘争で全滅した一族と一緒に過ごしていた。

 梓は、両親と2歳まで過ごしていたドイツでの生活をやり直していた。

 あおいは、妹いおりと共に父の工場を遊び場に育っていた頃を夢見ていた。

 恋は、日本有数の名家である実家で過ごしていた日々のことを見ていた。

 良治は、紀沙と共に過ごした学生時代の、最も充実していた時間を過ごしていた。

 冬馬は、暗部の構成員として教育を受けていた頃のことを……。

 

 

「ちなみに、あの碇冬馬と言う人間が1番最初に捕まりました」

「あ、そう」

 

 

 そこは別に興味が無かった。

 ひとまずスミノとしては、紀沙のことだけは何とかしなければと思っていた。

 『ビスマルク』姉妹の力で行われていることならば、介入できるはずだからだ。

 しかしそんなスミノに対して、『ビスマルク』姉妹は言った。

 

 

「介入は出来ません」

「……演算力の差かい? 舐められたものだね」

「違うわ」

「んん?」

 

 

 目を細めるスミノに対して、『ビスマルク』姉妹は無表情だった。

 しかし次の言葉はスミノを、あのスミノをも困惑させる言葉だった。

 

 

「この試練を与えているのは、()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 感覚がおかしい。

 兄・群像は目の前にいる、それなのに隣にいるようにも思えてくる。

 不意に目の前の5歳の兄の姿が掠れて、次の瞬間には高校生の姿になった。

 海洋技術総合学院の白い制服に、強い懐かしさを覚えた。

 

 

「紀沙。あの時、お前を置いて行ってしまったことは本当にすまなかったと思っている」

 

 

 幻だ。

 そう思った。

 あの兄がわざわざ口に出してそんなことを言うはずが無い。

 それが、群像と言う人間なのだから。

 

 

「あの時のお前は、霧の憎しみに捉われていた。連れて行ったとしても、きっとどこかで衝突しただろう……オレと真瑠璃のように」

「憎んで何が悪いの」

「紀沙、過去を憎んでも何にもならないんだ」

「そんなことはわかってる!」

 

 

 憎悪こそが力の源だった。

 霧を憎めないなら自分を憎むしかない。

 自分を憎む? 論外だ、自分は被害を被った側だ。

 まして誰も悪くないとか、赦せとか、道徳の教科書じみたことに傾倒も出来ない。

 

 

 霧を憎む。

 それがどれだけ無意味で虚しいことかなんて、わかっている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()

 

 

「どうしろって言うんだよ……!」

「――――耐えるしか無いんだ、紀沙」

 

 

 ぎょっとして、振り向いた。

 するとそこには統制軍の軍服と良く似た――海上自衛隊の制服だ――服を着ていて、現在(いま)よりも若い姿で、出奔した頃の容姿だとわかる。

 耐えるしか無いと、父が言った。

 

 

「どこかで誰かが、耐えなければならない。そして耐えろと言われれば耐えなければならないのが、軍人だ」

「……割り切れってこと? この感情を。この境遇を」

 

 

 胸を押さえた。

 そうしないと、何かが溢れ出してしまいそうだった。

 

 

「そしてそれが『公』と言うものだと、お前に教えたはずだな」

 

 

 今度は、北だった。

 こちらは今と大して変わっていないが、日本を離れてしばらくぶりに顔を見たからか、やはり懐かしさを感じた。

 公――()()()()の立場にある者は、けして自身の満足のために権を振るってはならない。

 北が、それこそ口を酸っぱくして言い続けていたことだ。

 

 

「たとえどれだけ苦くとも、必要とあれば毒をも飲み下す。それが公に仕えると言うことだ」

「皆の……国や世界のためなら、霧への恨みを堪えて共存しろと?」

「そうだ。少なくとも、我々はそうしなければならない」

()()……」

 

 

 アメリカの、エリザベス大統領のように?

 娘の仇とも、未来の娘達(国民)を生かすために共存すべきだと。

 そうだ、と、声がした。

 

 

「紀沙」

 

 

 兄が言う。

 

 

「お前はもう、イ404――スミノと旅をして、共に死地を越えて来たはずだ。スミノに救われたことも幾度もあるはずだ。それでもなお、お前が彼女に抱く感情は憎しみだと言えるのか?」

 

 

 父が言う。

 

 

「カークウォールの『クイーン・エリザベス』を見ただろう。人と心を通わせ、人のために悲しむことが出来る霧も出てきた。今後も増える。お前はそれでも、そんな彼女達を仇と叫ぶのか?」

 

 

 北が言う。

 

 

「霧を絶滅させるなど、今では不可能だ。<緋色の艦隊>のように人類圏と取引をすることも出来るのだ。お前は自身の憎しみを満足させるために、よりマシな関係の模索を拒絶してしまうのか?」

 

 

 ――――そうだ。

 わかっていた。

 見え見ぬふりをして、理解したくなかっただけなのだ。

 紀沙は、きちんと理解している。

 

 

 スミノが自分の命の恩人であること。

 霧は化物でも怪物でもなく、単に自分達のルールで行動していることに過ぎないこと。

 中には『ムサシ』や『クイーン・エリザベス』のように、愛情深く人と接する者がいること。

 霧をこの世界から消し去ることなど、もはや出来ないこと。

 どんなに嫌でも同じ世界で()()しなければならないこと。

 

 

「……わかってるよ……」

 

 

 そう、わかっている。

 自分が本当はどうすべきかなんて、わかっている。

 わかっている。

 わかって()いる。

 でも。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「――――思っていたよりもずっと早く、試練が終わりそうですね」

 

「……それはどうかな?」

 

「どういう意味?」

 

「あはあ、いや別に? 意味って程じゃないさ。ただ」

 

「ただ?」

 

「艦長殿はね、()()()()()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――でも。

 ()()()()()()()

 

 

()()()()()()()()()()?」

 

 

 家族を奪われ、人生を滅茶苦茶にされた。

 それなのに、誰かが悪いわけじゃあ無い?

 なら、それなら自分はこれまで何のために?

 何のために、望んでもいない軍人にならなければならなかった?

 

 

 こんな心を抱えたまま、公だから耐えろと北は言うのか。

 こんな感情を抱えたまま、霧と理解し合えと父は言うのか。

 こんな気持ちを抱えたまま、霧と笑い合えと兄は言うのか。

 出来ない。

 そんなことは、出来ない。

 

 

()()()()()……()()()()()()?」

 

 

 赦すなんて出来ない。

 理解するなんて出来ない。

 我慢するなんてもっての他だ。

 ()()()()

 

 

「霧を」

 

 

 何があっても()()()()

 

 

「霧を、憎む……!」

 

 

 憎まなければ、ならない。

 

 

「紀沙……」

 

 

 紀沙の両の瞳は今、霧がそうするように白く輝いている。

 しかしその瞳の虹彩に黒い線が走ったのを見て、群像の顔に深刻なものが映った。

 その表情は、群像()()()()()ものだった。

 黒いリングのようにも見えるそれは、一見、ただの輪郭のようにも見えた。

 

 

「――――本当に、彼女が()()なの?」

 

 

 そして、群像の口から出てきたのは()()()()()()()

 中性的な顔立ちの群像から飛び出しても不自然が無いのは凄いが、今はその点は重要では無かった。

 重要なのは、その声が明らかに群像のものでは無いと言うことだった。

 どこか不満そうな、心配そうなその表情は、紀沙の知る限り群像が浮かべるものでは無い。

 

 

 何だ?

 紀沙の不審は頂点に達していたが、場の空気が変わったこと、そして群像の周囲の空気が緊張感を増していっていることは敏感に察した。

 何か、そう、もっと()()()()()()の気配を感じる。

 

 

「とても()()は思えない。むしろこの子はヨハネスに似ている」

 

 

 誰かと会話している?

 しかし、群像の目は――これも、群像とは思えない目つきで――しっかりと、真っ直ぐに紀沙を射抜いている。

 厳しい目だ。

 試験で期待以下の結果になった子供を見る目だと、何故かそんなことを思った。

 

 

「大丈夫、問題ないわよ」

 

 

 その時、紀沙の両肩に手を置く者がいた。

 肩に置かれた手の感触と声に、紀沙ははっとした。

 何故ならそのどちらにも、紀沙は覚えがあったからだ。

 思わず、後ろを振り仰いだ。

 

 

「だって、この子は誰よりも優しい子なんだから」

 

 

 そこにいたのは、千早沙保里だった。

 いなくなってしまったはずの、母の姿だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 これも幻か。

 反射的にそう思ったのは、無理からぬことだった。

 しかしその母は、他の父や兄が動きを止めている中で、独立した意思を示すかのように唯一動いていた。

 小さな光の粒子が、母の身体から零れ落ちていた。

 

 

「それにもう時間が無いんでしょ。この子の他に選択肢があって?」

 

 

 沙保里は小首を傾げながら、群像――群像の姿をした少女に語りかけた。

 少女はどこか不満げな表情を浮かべていて、紀沙としてはそんな顔で見られる筋合いは無いと思いたいところだった。

 そんな紀沙に、沙保里はふと微笑みかけた。

 

 

 この時、紀沙はこの沙保里が母本人だと直感的に悟った。

 すべてが幻のこの空間において、この沙保里だけが本物だと理解した。

 そして沙保里の肉体がもはや存在しておらず、目の前にいる沙保里はナノマテリアルで構成された、メンタルモデルに限りなく近い存在であることを理解した。

 

 

「……ッ!」

 

 

 そして、思い出した。

 あの時、『トルディ』とか言う<騎士団>の男の攻撃によって海に落ちた後、紀沙は海の中で母に抱かれていたのだ。

 そして、沙保里は()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()、消えたのだ。

 

 

『好きなように生きなさい。少なくとも、母さんはそうしてきたわ』

 

 

 世界がどうであれ、周りがどうであれ。

 そうだ、あの時、母は自分にそう言ったのだ。

 直に言葉にはならなかったけれど、確かにそう言ったのだ。

 

 

 そして、母はナノマテリアルになった。

 

 

 肉体の構成を紐解くように、身体を粒子化したのだ。

 自分を、紀沙を死から守るためにそうした。

 きっと『タカオ』が沙保里の身体を保存するために使ったナノマテリアルが、沙保里と親和したのだ。

 沙保里の中の「出雲」の血と、親和したのだ。

 そして、何よりも大事なことは。

 

 

『貴女を愛してる、紀沙。ずっと傍で見ているから』

 

 

 沙保里はけして、()()()()()()わけでは無かったのだ。

 以前のような形では無いけれど、傍にいて、そして守ってくれていたのだ。

 スミノが言っていたナノマテリアルの混乱は、その時のものだろう。

 そして今、紀沙の記憶は完全に戻った。

 

 

「母さん、私」

「私はこの子を信じているわ、他の子達と同じように」

 

 

 力強い、そんな顔で、沙保里は言った。

 目の前の少女に向かって、宣言するようにだ。

 その姿を、紀沙は素直に頼もしいと思った。

 

 

「さぁ、この子に全てを視せてあげて。吉と出るか凶と出るかはわからないけれど、未来を信じて」

 

 

 群像の姿をした少女は、沙保里の言葉を聞き、考え込んでいる様子だった。

 その姿で考え込まれると、群像がそうしているようにも見えてくる。

 そもそも、相手はいったい何者なのだろうか。

 そんな紀沙の疑問は、次の沙保里の一言によって掻き消された。

 

 

「私は信じるわ、今の時代の子達を。だから、貴女も信じてほしい」

 

 

 もう一度。

 

 

「――――『アドミラリティ・コード』」

 

 

 群像の姿をした少女――『アドミラリティ・コード』は。

 沙保里の言葉に、やはり考え込む仕草を見せたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イタリア軍は弱兵だと言われる。

 これは過去の大戦や、歴史上他国に占領されていた時期が長かったことから来ている。

 確かにイタリアは、あまり戦勝国と言うイメージは無い。

 しかし当時の状況からして仕方ない面も多々あり、必ずしもイタリア兵が他国の兵に劣っている、と言うわけでは無い。

 

 

 事実、かつて地中海世界を制した古代ローマ帝国の中心地はイタリアである。

 また、まがりなりにもイギリスやドイツと同じ世界帝国――アフリカを中心に植民地を得ていた――を築いた列強国の一角でもあった。

 そして、今でもヨーロッパ四大国の1つでもある。

 そんな国の軍隊が、意味も無くただ()()と言うことがはたしてあり得るだろうか。

 

 

「以前からずっっっっと不思議だったんだけど」

 

 

 今のイタリア軍は、現代兵器で武装したれっきとした先進国の軍隊の1つである。

 加えて良く教育された職業軍人と愛国心溢れる予備役兵、けして弱兵では無かった。

 特にイタリア兵は本国防衛の際には、強力に力を発揮する。

 だから、彼らはけして弱くは無い。

 しかし。

 

 

「キミ達ってさ、何で無機物()を守ろうとして命を賭けるんだ?」

「ぐ、うぐぐ……!」

 

 

 <騎士団>の1人『トルディ』は、心底不思議そうな表情でカルロを覗き込んだ。

 首を掴まれている――比喩でなく、本当に掌で首を覆っている――カルロに、答えることは出来ない。

 周囲には戦闘の跡が見える。

 ひしゃげて横転した戦闘車両、半ばから折れた火砲に砲身が砕けた小銃、そして瓦礫と共に倒れ伏した兵士達。

 

 

 彼らは弱兵では無い。

 しかし、それ以上に『トルディ』が強かった。

 人の銃弾はただの一発も彼に当たることは無く、逆に戦車()の一撃はイタリア兵を砕いた。

 一方的な蹂躙、そもそもそれは戦闘ですら無い。

 

 

「どう考えても割に合わない。合理的じゃない。人間と言うのはやはり無駄な存在なんだね」

「が……ぁ……っ」

「では、無駄なモノは捨ててこの惑星(ほし)を綺麗にしなくちゃあね」

 

 

 殺される、とカルロは思った。

 目尻に涙が浮かんだ。

 もちろん、恐怖はあった。

 しかしそれ以上に、こんな化物に故郷を好きにされることが悔しかった。

 

 

 畜生。

 誰か、誰でも良い、この化物を何とかしてくれ。

 古いだけの何も無い街だけれど、たった一つの、故郷。

 僕はどうなっても良い、こんな奴に好きにさせないでくれ――――と、カルロが思った時だ。

 

 

「……?」

 

 

 キン、と『トルディ』の足元で金属音がした。

 ナイフ。

 小さな銀食器のナイフが、彼の足元に刺さり、衝撃の余韻で振動していた。

 正面から飛んで来たそれの軌道を逆に追いかけると、そこには。

 

 

「何だ、お前は」

「……いやあ? なぁーに、何だ、と言う程のことでも無いんじゃがな?」

 

 

 どこから持ち込んだのか。

 オープンカフェにでもあるような丸テーブルと椅子に座り、彼女は優雅にケーキを食べていた。

 カップからは、紅茶の温かな湯気が立ち上っている。

 そこに座るドレスの少女に、カルロは見覚えがあった。

 

 

「ただ、まぁ、ケーキを食べる静かな時間を邪魔されたくなくてのう」

「ケーキ?」

「この街の者達が作るケーキは格別での。気に入っておるのじゃ」

 

 

 あの時の、少女だ。

 

 

「要領を得ないな。要するに何しに来たわけ?」

「ああ、まぁ、何じゃ。つまりじゃなあ」

 

 

 穏やかな仕草で、少女――霧の大戦艦『ダンケルク』、地中海艦隊旗艦の肩書きを持つ彼女はカップを起き、にこりと笑って、言った。

 カルロの目には、それが天使の微笑のように思えた。

 

 

「――――その手を離さんと()()()()()ぞ、棺桶(戦車)野郎」

水溜りの笹舟(軍艦)ごときが、デカい口を叩くんじゃあ無いよ」

 

 

 <霧の艦艇>と<騎士団>。

 人間を挟んで両極に立つその存在が、ついに衝突する。

 この時、また一つ、世界は前に進んだのだった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

先週の後書きで募集した通り、現在<騎士団>募集中です。
6月20日までとなっておりますので、宜しければご参加下さい。


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Depth067:「ロリアンのコード」

注意:
『アドミラリティ・コード』含むオリジナル設定があります。
苦手な方はご注意下さい。


 ()()()()()

 人間であれば誰しも感じたことのあるそれは、いざ言葉にしようとすると難しい。

 人は曖昧な、それも個人的な感覚を他人に説明しようとすると言葉に詰まってしまうのだ。

 いわんや霧の娘にとって、その感覚は言葉に出来ないものだった。

 

 

「なに……?」

 

 

 そしてスミノは今、そんな感覚に陥っているのだった。

 視界が歪み、ぐるりと回る――それは「眩暈(めまい)」と言う症状だった。

 胸にむかむかとした不快感が広がり、立っているのが辛くなる――それは「吐き気」と言う症状だった。

 身体がだるく、重い、メンタルモデルが得るはずの無い、それは「体調不良」だった。

 

 

「ボクに、何かしたかい?」

「いいえ?」

「我々は何も」

 

 

 膝をつきながらのスミノの言葉に、『ビスマルク』姉妹は冷静に言い返した。

 2人の背後には未だに青白い光の柱が立ち上っていて、紀沙もまた眠ったままだ。

 状況は何も変わっていない。

 変わっているのは、スミノの姿勢と体調だけだ。

 

 

(ボクの身体の3割近くは艦長殿と()()している、その影響か?)

 

 

 紀沙の身体を犯しているナノマテリアルは、元を正せばスミノの身体(艦体)を構成していたものだ。

 そして同化し置き換えた紀沙の肉体部分(パーツ)は、スミノのメンタルモデルの構成部品(パーツ)として再利用している。

 よってスミノは、メンタルモデルでありながら人間の肉体を備える異質の存在と化していた。

 

 

「いいえ、貴女のナノマテリアルは正常ですよ」

「取り込んだ血肉も影響を与えてはいない。貴女が今苦しんでいる理由、それは」

 

 

 す、と静かに手を伸ばし、指を指す。

 『ビスマルク』姉妹が指差した先は、スミノの下腹部のあたりだった。

 肉付きの薄いそこには、スミノの霧としてのコアがある。

 指を差されると、ずくん、と疼くの感じた。

 

 

「貴女のコアの活性化によるもの」

「数多ある霧のコアの中で、貴女。そして貴女とイ401のコアは特別なのです」

 

 

 特別。

 確かに数多の霧の中で、スミノとイオナの2隻だけが霧のルールの外にいる。

 『タカオ』にしろトーコ(イ15)にしろ、彼女達は霧の枠内で自立しつつあるが、スミノ達のように完全に艦隊と離れているわけでは無い。

 何故、スミノとイオナだけにそれが可能なのか、今にして思えば不思議なくらいだった。

 

 

「言ったはず、今日ここで行われる試練は貴女によって行われていると」

「……言っている意味がわからないね」

「わかりませんか?」

 

 

 指の形はそのままに、『ビスマルク姉妹』は光の柱を指差した。

 かつてリエル=『クイーン・エリザベス』が見せたそれに似ているが、それよりもなお、大いなるものを感じさせる光。

 

 

「すべては」

 

 

 こみ上げてくる不調に顔を顰めて、スミノは聞いた。

 

 

「すべては、我らが主の意のままに」

 

 

 ずくん、と、コアが疼いた。

 それはまるで、呻きのようでもあった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――遥かな昔。

 母なる海の中で様々な物質や細胞が育まれていた頃、同じようにその粒子は生まれた。

 他の物質や細胞と同じように名前のまだ無かったその粒子は、他のものと異なり、陸上に姿を見せることは無かった。

 

 

 数百年? 数千年? 数万年?

 どのくらいの長い年月をそうして過ごして来たのだろう。

 でも粒子には意思が無かったから、そのことに何かを感じたりはしなかった。

 ずっとそのまま、自分が消滅するまで海の中で過ごすのだろうと思っていた。

 

 

「やったぞ成功だ!」

 

 

 ある時代、突然だった。

 そう思っていた()()が、突如、形を得たのだ。

 それが現代からおおよそ110年前、世界が二度目の大戦に揺れていた時代だった。

 もちろん、彼女がそうした人間の状況を知る由も無かった。

 

 

 彼女を目覚めさせたのは、「ヨハネス・ガウス」と言う名の男だった。

 彼はドイツの科学者だった。

 ヨハネスは父「エトムント・ガウス」の発見したその粒子を「ナノマテリアル」と呼んでいた。

 ナノマテリアル、彼女が自分自身とも言える粒子の名前を初めて知った。

 

 

「彼女こそ、ナノマテリアルの結晶体! 我々の研究の集大成だ!」

 

 

 ヨハネスは、興奮気味に叫んでいた。

 頬の痩せこけた金髪碧眼の青年で、どこか狂気じみた雰囲気を持っていた。

 周囲には水槽や書類の束、薬品くさい匂いに奇妙な図形や数列が書かれた黒板等が見えて、研究施設であることがわかる。

 彼女はまさに生まれたままの姿で、砕けた円柱状の水槽の台座にぺたんとお尻をつけて座り込んでいた。

 

 

「さぁ! 今こそお前の力を見せてくれ……!」

 

 

 力を見せろ、と言われて、彼女は戸惑った。

 まず、力とは何かと思った。

 次に、見せるとは何かと思った。

 台座の上、海のように波打つ自分の髪を見た。

 

 

「祖国を救ってくれ、『アドミラリティ・コード』よ……!」

 

 

 そうしてある意味ぼんやりとしている彼女に、ヨハネスが何事かを言った。

 人類の言語なのか、あるいは意味の無い音の羅列なのか。

 とにかく、その言葉を聞いた瞬間、彼女の中で何かが激しく動くのを感じた。

 それは彼女の意思とは関係なく動き、やがて彼女の芽生えた意識をすら塗り潰していった。

 

 

「ヨハネス、やめて!!」

 

 

 その時だった。

 ヨハネスと同じような白衣を来た男女が、研究室の中に駆け込んで来たのだ。

 彼女――『アドミラリティ・コード』は、その2人を知っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 それは「グレーテル・ヘキセ・アンドヴァリ」と言う少女と、「出雲薫」と言う青年だった。

 そうだった、と、『アドミラリティ・コード』は思い出した。

 彼女は深海の海流の中にのみ精製される特殊粒子「ナノマテリアル」の凝固体(コア)を核として生み出された、いわば膨大なエネルギーそのものだった。

 

 

 何万年かもしれない長い時間をかけて、彼女のコアは精製された。

 しかし、彼女自身は自我を持たないただの物質に過ぎない。

 ()()()がいる、()()()()がいる。

 それがヨハネスであり、グレーテルであり、薫であった。

 そして、彼女()は気付く。

 

 

「「私は、何をすれば良いの?」」

 

 

 自分が、2人いるの(デュアル)だと言うことに。

 そんな彼女達に、男と少女が言った。

 

 

命じる(コード)! すべてを滅ぼしてしまえ!!」

 

 

 男の命令に、彼女の中のコアが震えた。

 彼女の内に凝縮された何万年分のエネルギーが介抱され、2つのコアが共鳴してそれをさらに高めていく。

 超高エネルギー体の熱暴走。

 それは、当時人類が手にしたばかりの死の力(核兵器)をすら超えるエネルギーだった。

 

 

「ひゃはははははっ、終わりだ! これで何もかもが終わるぞ。我が祖国を滅ぼす連合国も、キミ達を殺した祖国も、すべて。……すべて、すべてだ! やっと……!」

 

 

 彼女にとって、ヨハネスの言葉は理解できないものだった。

 ただ、コアに刻まれた通りに実行しようとする。

 今この場を爆心地として、何もかもを――全世界のナノマテリアルを活性化させ、()()()()()()()

 彼女の瞳が白く輝き、青白い十字架(グランドクロス)がこの惑星の墓標となる。

 

 

命じる(コード)! この世界を滅ぼさないで!!」

 

 

 その時、彼女にとって予期せぬ出来事が起こった。

 もう一方、彼女の半身を抱き締めて、女が――グレーテルが、別の命令を上書きしたのだ。

 

 

「グレーテル! どうしてわかってくれないんだ!!」

「ヨハネス、こんなことは……こんな復讐(こと)は誰も! 私も、ビスマルク(この子達)も望んでいないわ!」

 

 

 男は命じた、この世界を滅ぼしてしまえと。

 少女は命じた、この世界を守ってほしいと。

 彼女は――双子(デュアル)の『アドミラリティ・コード』は、矛盾した命令(コード)に混乱した。

 自分がどうすれば良いのか判断し切れずに、両方の命令を一度のクリアする方法を電子の速度で思考した。

 

 

 そして、彼女は結論する。

 

 

 一方が世界を滅ぼし、一方が世界を守れば良いのだと。

 ()は世界を滅ぼすことにした。

 ()は世界を守ることにした。

 この瞬間、彼女の力は二分された。

 すべてを滅ぼす力はほんの少し弱く、すべてを守る力もほんの少し弱く。

 

 

「貴女達は、こんなことをするために生まれてきたんじゃあ無いのよ……!」

 

 

 互いに互いを相殺する。

 そして、すべては白く、黒く。

 白く、黒く、白く、黒く――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はっとして、紀沙は自分を取り戻した。

 ()()()()()()()()()()()()

 いや、追体験したと言った方が正しいのかもしれない。

 頬を濡らしていた涙を拭って、紀沙は目の前の――群像の姿をしていたはずの――『ビスマルク』姉妹に良く似た、青白く輝く少女を見つめた。

 

 

『2人、と言うのが重要だった』

 

 

 その少女は――『アドミラリティ・コード』の()()()は、口を動かさずに声を発した。

 頭の中に、涼やかな少女の声が響く。

 思わず、顔を顰めてしまった。

 

 

『あの時、私が2人いなければ。力の相殺による機能停止は起こらず、世界は滅びていた』

「ぐっ……」

 

 

 ずきん、と頭が痛んだ。

 紀沙の頭の中に、ヨーロッパ――ドイツを中心に巨大な爆発が起こる映像が浮かび上がった。

 それは、あの瞬間に『アドミラリティ・コード』が停止しなければ、地上での爆発とナノマテリアルの強制活性化に伴う海面の()()()により、()()()をも超える悲惨な環境になっていたことがわかる。

 

 

 爆発による一次被害と数ヶ月間空を多い続ける灰、海の蒸発と言う未曾有の事態により多くの川が枯れ、人類の居住圏は大幅に失われる。

 急激な環境変化に伴う天変地異、疫病の発生と拡大、統治機構の崩壊による内戦と略奪。

 人類は最初の10年で人口の9割を失い、滅びへの道を転がり落ちていく……。

 これに比べれば、温暖化による海面上昇はまだ可愛いものに思えた。

 

 

「あの人……ヨハネス? は、どうしてこんなことを」

 

 

 そして、紀沙は父に見せられた何者かの会話を思い出していた。

 あの時に聞いた声は、ノイズ混じりだったが間違いない、グレーテルと言うあの女性のものだった。

 あの女性がいなければ、世界は、人類は滅びていた。

 

 

『私の依り代となったこの少女の死が、あの男を狂気に陥らせた』

 

 

 ヨハネス・ガウス、ドイツの科学者だ。

 元々は父が発見していた未知の粒子――ナノマテリアル――を研究していて、その粒子の修復力を人類医学に役立てようとする、善良な研究者だった。

 しかし、時代が彼を善良なままにはしておかなかった。

 

 

 当時のドイツは戦時中であり、しかも敗北直前の状態にあった。

 だからナノマテリアルの高エネルギー性――要は軍事への有用性を認めた当局により、ヨハネスの研究は変質させられてしまった。

 それでも祖国を愛する彼は、グレーテルや同盟国日本の武官であった薫の強力を得て、望まぬ研究に邁進した。

 

 

『この依り代の少女は、()()()()()()()

 

 

 当時のドイツは、狂的なまでの人種政策を行っていた。

 詳しいことは『アドミラリティ・コード』ですら知らない。

 ただ確かなことはこの双子の少女、()()()()()()()が、ヨハネスの祖国によって殺されたと言うことだった。

 

 

『祖国を滅ぼす敵、最愛の少女を殺した祖国。あの男はそのどちらをも滅ぼすことを選んだ』

 

 

 戦争。

 結局は戦争が、ヨハネスと言う稀代の科学者を狂気へと突き落とした。

 そしてグレーテルは、そんな彼を止めた。

 それを見届けた薫――紀沙の先祖に当たる――は、その後の世界を見つめ続けた。

 

 

 これが、すべてのあらまし。

 何もかもの始まり。

 ヨハネスとグレーテルの命令(コード)の狭間で揺れる『アドミラリティ・コード』と、世界の海の各地で生み出された高エネルギー体、霧のコアの起動。

 そして、その後の不幸と混乱の――――元凶だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナノマテリアルは、深海の海流の中でのみ精製される粒子だ。

 何万年もの時間をかけて凝縮された結晶体(コア)は、現在、霧の艦艇と呼ばれている存在の心臓(コア)となっている。

 そして『アドミラリティ・コード』と命名された最大最高の結晶体の覚醒に影響されて、目覚めたのだ。

 

 

 彼女達が旧大戦時代の軍艦の姿を取るのは、海に関係すること、また目覚めた時代が戦争の時代だったことに影響されている。

 平和な時代に優しい願いで覚醒していれば、また別の形態をとっただろう。

 それもまた、悲しむべきことなのかもしれない。

 

 

「なら」

 

 

 こめかみを押さえながら、紀沙は言った。

 

 

「霧の艦艇が海洋を封鎖したのは、命令(コード)が不完全だったから?」

『滅亡と救済を同時に求められた私は、互いのエネルギーを対消滅させて休眠状態に入った。が、他のコアは覚醒状態のまま私から送られた指令について思考していた』

 

 

 その結果が、海洋封鎖をしながら対地攻撃はしないと言う中途半端な現状だった。

 しかし、逆に光明でもある。

 今、こうして霧の命令を下している『アドミラリティ・コード』が目の前にいるのだ。

 つまり。

 

 

命令(コード)の更新が必要だ』

 

 

 紀沙の心を読んだように、『アドミラリティ・コード』が言った。

 ヨハネスとグレーテルによって行われた命令(コード)を更新しない限り、現状は永続的に続く、と。

 そして、命令(コード)を書き換えるためには『アドミラリティ・コード』を再起動しなければならない。

 

 

『今の私は、人間で言うところの夢を見ている状態だ。こうして、相手の意識に語りかけることしか出来ない』

 

 

 『アドミラリティ・コード』は()()()()()

 思えば、『ヤマト』や『ビスマルク』のようなデュアルコアが存在しているのだから、その上位存在である『アドミラリティ・コード』がそうであってもおかしくは無い。

 そして2つに別れているからこそ、他の霧には「消失した」と思われていたのだろう。

 今はこうして、ナノマテリアルを通じた一時的な繋がりしか作れない状態だ。

 

 

 同時に、紀沙は気付く。

 もし『アドミラリティ・コード』の覚醒と軌道が霧の艦艇を呼び覚ましたのであれば、その逆も可能なのでは無いか、と。

 すなわち、霧の艦艇の活動を完全に停止させることが……!

 

 

『可能だ』

 

 

 やはり心を読んだように、『アドミラリティ・コード』は言った。

 ナノマテリアルを通じた意識共有でもしているのか、思考がそのままダイレクトに通じるようだった。

 青白い輝きの少女は、じっと紀沙を見つめている。

 

 

『だが、それは止めた方が良い』

 

 

 そう言って、『アドミラリティ・コード』は上を指差した。

 何かと思って見上げると、本物かどうかはわからないが、無数の星々が広がっていた。

 

 

『大いなるものが、やって来る』

 

 

 大いなるもの。

 自身がすでに大いなるものである『アドミラリティ・コード』がそう呼ぶもの。

 その響きに、紀沙はどうしようもない不審を覚えるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 想像した。

 深海の闇の中でナノマテリアルが精製されていたように、あの星空の向こう側でも何かが生まれているのでは無いか?、と。

 それは、ぞわりとした感覚を肌の上に感じる程度には恐ろしい想像だった。

 

 

「……私は!」

 

 

 しかし、紀沙はその不審を、不安を振り払った。

 

 

「私は、お前達を消すためにここまで来たんだ!」

 

 

 そこがブレたら、紀沙はもう戦えなくなってしまう。

 立っていられなくなる。

 それは紀沙と言う少女にとって、原点にして立脚点なのだから。

 『アドミラリティ・コード』は、そんな紀沙を小首を傾げて見つめている。

 

 

 何もかもを見透かすような瞳は、どこかスミノやイオナを思わせた。

 見ていると、思わずたじろぎそうになる。

 そして、『アドミラリティ・コード』の周囲に淡い輝きを放つ粒子が散り始めた。

 

 

『グレーテルの後継者は、この時代では千早沙保里だとばかり思っていた』

「私はそんな柄じゃ無いし。ほら、死んじゃったし」

『事ここに及んでは、千早沙保里の後継者を信じる他は無いと言うことだな』

 

 

 やがてそれは、1つの形を浮かび上がらせる。

 この時に紀沙が思い出したのは、リエル=『クイーン・エリザベス』だった。

 あの時、リエル=『クイーン・エリザベス』は自分が女神と信仰する女性をナノマテリアルの棺で安置していた。

 それと良く似たものが、紀沙の前に現れたのだ。

 

 

 夢とも現ともつかぬ空間に、それはぬっと現れる。

 それは、何かの本で見た聖母子像を思わせた。

 荒削りの水晶の中の聖母子像、と言うのが一番近い。

 ただし聖母は今にも目覚めそうな長い金髪の少女であり、聖子は人の姿をしていない。

 聖母の少女がその胸に抱いているのは、幾何学的な模様が浮かんでは消える結晶だった。

 

 

『110年前、グレーテルは私と共に眠りについた』

「まだ生きてるってこと……?」

 

 

 ぎょっとして、紀沙は言った。

 110年以上前の人間が若い姿のまま生きているとは、十分に驚愕に値するだろう。

 それに対して、『アドミラリティ・コード』は「生きている」と頷いた。

 

 

『しかし私と完全に繋がってしまっている。今では私は彼女であり、彼女は私なのだ』

 

 

 要は、グレーテルと言う一個人として目覚めることは無いと言うことだ。

 そう言う意味では、生きていると言って良いのかもわからない。

 ただ一つわかることは、グレーテルと言うこの少女が、どこか安らいだ顔をしていることだ。

 休眠状態になる直前、自分の死を前にしてこんな表情を浮かべることが出来るのか。

 

 

『そして、ヨハネスも』

「ヨハネス……さんも、まだ生きてるってこと!?」

『そうだ。そしてその走狗達とは、お前もすでに会っている』

「…………<騎士団>」

 

 

 これは、流石にわかった。

 ロシアの大統領から聞いた、突如クリミアに現れた霧の力を持つ霧ならざる者達。

 あれは、ヨハネスともう一方の『アドミラリティ・コード』によるものだったのだ。

 そして、彼らはクリミア・セヴァストポリにいる。

 

 

『そして、最後の1人』

 

 

 出雲薫、紀沙達の先祖にあたる人間。

 ヨハネス、グレーテルと違い、人間として活動することが出来た彼は、旧大戦の後日本へと戻った。

 日本に、戻る必要も出てきた。

 出雲薫はきっと、紀沙達の知らない何かを見つけているはずだ。

 

 

『さぁ、千早紀沙。霧を恨む者よ、お前にすべてを託すしかないようだ』

 

 

 託す。

 聖母子像を見つめながら、紀沙はその言葉を反芻した。

 日本を出たばかりの頃、こんな展開になるとは夢にも思っていなかった。

 よもや、霧の頂点の存在から何かを託されるようになるとは。

 

 

 あるいは、このために日本から出るよう宿命付けられていたとでも言うのか。

 宿命、嫌な言葉だ。

 認めたくは無い。

 だが、『ヤマト』も『ムサシ』も、翔像も群像も、自分をここに導こうとしていたようにも思える。

 そして、あの『ビスマルク』姉妹も……。

 

 

『――――ビスマルク?』

 

 

 例によって心か思考を読まれたのか、『アドミラリティ・コード』が言った。

 今さら聞き返すまでも無いだろうに、何を不思議がっているのか。

 そう、紀沙が思った時だった。

 

 

 

()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ――――なに?

 次の瞬間。

 ガラスが砕け散る音と共に、「世界」に罅が入るのを感じた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙を包み込んでいたナノマテリアルの膜が砕け、地面に膝がついた。

 しかし、粒子となって消えていくそれらには構っていられなかった。

 顔を上げると、()()が起こっていた。

 

 

「あれは……スミノ?」

 

 

 キラキラと、宝石を散りばめたような輝きが目に入った。

 それは、ナノマテリアルの結晶の欠片だ。

 いつの間に移動したのか、光の柱が目の前にあった。

 欠片はその中から飛んできている、と言うより。

 

 

 スミノが、光の柱に片腕を刺し込んでいた。

 

 

 光の柱――いや、その向こう側の、先程までイメージで見えていた聖母子像を貫いていた。

 ナノマテリアルの欠片は、そこから飛び散っていたのだ。

 ビシビシと、何かが罅割れる音がここまで聞こえて来る。

 

 

「信じていました」

「貴女なら、千早沙保里の娘なら、アンドヴァリの『コード』に選ばれると」

「「試練を超えてくれると、信じていた」」

 

 

 振り向くと、『ビスマルク』姉妹がいた。

 思わず跳びずさったが、じっと見つめてくるだけで何かを仕掛けてくる様子は無かった。

 『アドミラリティ・コード』が言っていた「大戦艦『ビスマルク』は存在しない」と言う言葉を反芻した。

 どう言うことだ、と。

 

 

 今こうして、『ビスマルク』姉妹は目の前にいるでは無いか。

 だが、一方で得心がいった部分もあった。

 大戦艦『ビスマルク』の動きは、それだけ霧の中において独特で特異だった。

 あの独立性は、()()()()()可能だったのだと思えた。

 

 

「「私達は、『ビスマルク』」」

 

 

 『ビスマルク』姉妹は言った。

 自分達は『ビスマルク』だと。

 しかし今まで、「霧の大戦艦」『ビスマルク』と自分達で名乗ったことは無い。

 当たり前にそうだと思っていたから、気にもしなかったのだ。

 

 

『……そうか、お前達か……』

 

 

 その時、『アドミラリティ・コード』の思念が飛んで来た。

 光の柱が割れ砕け、聖母子像のコア――『アドミラリティ・コード』のコアをスミノに握られながら、彼女は言った。

 

 

『ヨハンナ、マリー』

 

 

 ヨハンナ・フォン・『ビスマルク』。

 マリー・フォン・『ビスマルク』。

 その正体は、世界で最初に肉体の全てをナノマテリアルに置換した()()()

 ――――ヨハネス(愛する姉妹)目的(蘇生)は、成功していたのだ。

 

 

 『アドミラリティ・コード』は、姉妹の死した肉体を依り代に顕現した。

 スミノが、紀沙の肉体部品(パーツ)を置き換えていっているのと同じ理屈だ。

 『ビスマルク』姉妹は、紀沙の身体のナノマテリアル化が進んだ先の姿だ。

 彼女達は「霧の大戦艦」では無かった。

 その事実に紀沙が衝撃を受けていると、『アドミラリティ・コード』の思念が来た。

 

 

『ヨハネス、お前はまだ――――』

 

 

 ()()()

 まさに切れたというような気配で、思念が途切れた。

 ナノマテリアルの結晶体が砕ける。

 地に堕ちてくる聖母(グレーテル)を、紀沙は反射的に走って受け止めた。

 

 

 110年前、先祖の仲間だった人、受け止める、軽い。

 だがグレーテルの身体は笑える程に軽く、まさに箸よりも軽かった。

 命の重さが感じられない。

 腕に触れた途端、砕け散るようにナノマテリアルの粒子となって消えた。

 紀沙の周囲を何度か回り、まるで紀沙の身体に吸い込まれるように消えて行く。

 

 

「すべては」

我らが主(ヨハネス)の望みのままに」

 

 

 『ビスマルク』姉妹の声は、ぞっとする程に空虚だった。

 

 

「……スミノ」

 

 

 こちらに背を向けたまま、手の中の『アドミラリティ・コード』のコアを見つめるスミノに声をかける。

 しかしスミノが振り向いた時、紀沙は息を呑んだ。

 そこに、()()()()()()()()()

 直感的にそう感じられる程、スミノの目はガラス玉のようにがらんどうだった。

 まるで、人形か何かのような。

 

 

「スミノ、待って! どこに――――うあっ!?」

 

 

 びゅう、とつむじ風が舞った。

 コアを持つスミノの左右に、『ビスマルク』姉妹が浮かんでいた。

 ナノマテリアルの風の中に、3人が消えて行く。

 

 

「クリミアまで来なさい、千早紀沙」

「最も、ロリアン(ここ)から生きて出られればの話ですが」

「……待て!」

 

 

 水だ。

 四方から、いや天地からも海水が迫っている。

 すでに雨の如く、潮の香りが全身を打ち始めていた。

 『アドミラリティ・コード』の力が消えて、ロリアンは再び水底に沈む……!

 

 

「……ッ。……ノ。スミノ! スミノォ――――――――ッッッッ!!!!」

 

 

 人も、叫びも。

 すべてが、海の底へと消えて行った。

 まるで、最初から何も存在しなかったかのように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何じゃな、と、『ダンケルク』は思った。

 すでに街並みから瓦礫へと名前を変えつつあるイタリア北部トリエステの通り、文字通り瓦礫を踏み締めながら立っていた彼女は、メンタルモデルらしからぬ肌の()()()()を感じていた。

 何か、自分達にとって大切なものが消え失せたような気がする。

 

 

「……あの……」

「お? おお、おうおう。大丈夫じゃ、ちょっと気もそぞろになっておっただけじゃからの」

 

 

 積み上がった瓦礫の上で、『ダンケルク』は邪気の無い笑顔を浮かべた。

 その細腕の上には成人男性――イタリア人の民兵カルロが乗っていて、とどのつまり2人は「お姫様抱っこ」の体勢だった。

 ただし、男女の役柄が逆だった。

 

 

「あ、あんた霧だよな? どうして」

「この町のケーキは美味かったからの、無くされると困――おう? お喋りはここまでのようじゃな」

「え。うおっ、うおお!?」

 

 

 足元の瓦礫が僅かに動いたかと思った次の瞬間、瓦礫が大きく盛り上がった。

 盛り上がりが爆発へと続くより少し早く、『ダンケルク』は宙へと身を躍らせていた。

 側に即座にナノマテリアルの粒子が集まり、巨大な――具体的には33センチ口径の――砲が形勢された。

 砲身内部に光が走るのと、瓦礫が完全に爆発するのは同時だった。

 

 

「『ダンケ――――」

 

 

 誰かが凄い形相で何かを言ったようだが、『ダンケルク』の砲撃音が全てを吹き飛ばした。

 かんらかんら。

 『ダンケルク』が笑う横で、爆風に煽られたカルロは「ひいいいい」と情け無い悲鳴を上げていた。

 

 

「――――ルク』ッッ! 貴ッ様ァッ!!」

「はははははっ、どうした<騎士団>のエース! その様は!」

 

 

 それは『トルディ』だった。

 側には10トンにも満たない小さな戦車が形勢されており、盾にしたのだろう、キューポラ部分に大きなへこみと焼け跡があった。

 しかもそれだけでは無く、『トルディ』の身体も人間で言う打撲傷だらけでボロボロだった。

 

 

「悔しかろうのお! 海上の艦(ダンケルク)であれば一方的に狙い放題だったろうに」

「言ったな!」

 

 

 <霧の艦艇>と<騎士団>、そして互いのメンタルモデルを交わしての本格的な戦闘は、確認されている範囲ではこれが始めてである。

 ボッ、と『トルディ』の砲身が火を噴いた。

 砲口から放たれた戦車砲は、真っ直ぐに『ダンケルク』達を目指した。

 しかしそれは、当たる前に『ダンケルク』のフィールドによって受け止められてしまった。

 

 

「はっ、軽い――軽いのう! 所詮は()()()の攻撃、大戦艦にとっては露ほどのものでは無い」

「な、なにぃ~~」

「さぁて、自分の砲弾で自分が吹っ飛――……ッ、伏せろ!」

「うわああっ!?」

 

 

 この後、『ダンケルク』の行動は一手ずつ遅れた。

 まず『トルディ』の砲弾構造を解析し分解した、この時点で()()()()()()()()()()

 次にカルロを掴んでいた手を離し足元に落とした、この時点で背後に現れた何者かは()()()()()()()()()

 そして『ダンケルク』が後ろを振り返り、防御体制を取ろうとするより一刹那速く。

 

 

「うひぃっ!?」

 

 

 頭上で尋常で無い音が響いて、頭を抱えて伏せていた。

 そして音が止んだので、恐る恐る顔を上げた。

 するとそこには、2メートル近い大男がいた。

 筋肉質で胸板は厚く、ジャンパーを肩にかけ、口に咥えた葉巻から紫煙をくゆらせている。

 眼光は鋭いの一言、見下ろされる形になったカルロは、目を合わせることすら出来なかった。

 

 

 すると当然視線は動き、先程までそこにいたはずの『ダンケルク』の姿が見えないことに気付く。

 何かが崩れる音がした。

 そちらへとさらに視線を動かすと、ちょうど建物が崩落するところだった。

 数百メートル先の建物が。

 しかもすこまで吹き抜けている、まるで何かが道々の建物を壊しながら転がって行ったように。

 

 

「『ティーガーⅡ』! 余計な手出しだぞ!」

(殴……え? 殴り飛ばしたのか。あそこまで!? さっきの子を!?)

 

 

 『トルディ』が何か言っているが、カルロには聞こえていない。

 今はただ、拳と膂力だけで異能の霧『ダンケルク』を数百メートル先まで殴り飛ばした『ティーガーⅡ』とか言う男が恐ろしかった。

 そんな男が、じっと自分を見下ろしているのである。

 身体の芯からガタガタと震えて、動くことも出来なかった。

 

 

「あ、あ……う、え。な……」

 

 

 こう言う時、人と言うのは素が出るものだ。

 この絶体絶命の状況下で、それこそ失禁しながらも、カルロが唯一動かせる口が放った言葉は。

 

 

「い……い、イタリア舐めんなコノヤロー……!」

 

 

 啖呵であった。

 見栄であった。

 民族の誇りだった。

 しかし、それだけで敵を退けることは出来ない。

 嗚呼、無言のまま『ティーガーⅡ』が拳を振り上げていく……。

 

 

「ははっ、良いの! 男はそのくらいでなくてはのう!」

 

 

 粒子が急速に集合し、腕先から上半身の順に身体を構成した。

 そして下半身の構成に入る頃には、『ダンケルク』の細腕が『ティーガーⅡ』を殴り返していた。

 『ダンケルク』のように吹き飛びはしなかったが、数歩たたらを踏ませることには成功した。

 代わりに、痛覚の無いはずの『ダンケルク』が殴った側の掌を振って痛がっていた。

 

 

「さ、さーて……」

 

 

 カルロと視線を交わし、にやりと笑って。

 

 

「イタリア舐めんな、このやろー……じゃ!」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ここで、さらに視点を切り替えなければならない。

 何故ならばこの時期、重要な事柄が進行していたからだ。

 その自体はフランスの隣国、ドイツで起こっていた。

 ドイツ、この時代においてはヨーロッパの最強国である。

 

 

 伝統的に軍は強く、兵器は最先端であり、銃後の人々は忍耐強く勤勉だ。

 またアメリカ・イギリスに倣い諜報に力を入れた現在のドイツはヨーロッパ中に感度の高い情報網を持ち、欧州大戦の()()()()()()()()()()()()、大戦の帰趨を操ってきた。

 しかし今、その大国としての余力を失いかねない事態になりつつあった。

 

 

「正直、イタリアがそれほど長く保つとは思えん」

 

 

 コツコツと軍靴の音を響かせながら、男は通路を通っていた。

 その通路は、両側が牢になっていた。

 鉄格子の向こう側には同じボロ布じみた服を着た男達がいて――そのいずれもが痩せこけ、力なく項垂(うなだ)れている――1個の牢に何人も詰め込んでいるその様子は、牢と言うより収容所と言った方がしっくりと来た。

 

 

「まして千早翔像に牙を抜かれたフランスなど、イタリアよりも期待できん。なればこそ、中央での無用な混乱は避けるべきだと言うのに」

 

 

 小綺麗な黒の制服を着た彼の名は、ジーク・ホーエンハイム。

 年は24、階級は少尉。

 ドイツ海兵隊に所属する下士官であり、裏方の任務をこなす特殊部隊のチームを率いる青年である。

 金髪碧眼にがっちりとした肉体はいかにもドイツの軍人であり、自信に満ち溢れたその姿は自然と人を率いてしまえそうな雰囲気を作り出していた。

 

 

「厄介ごとが、向こうから飛び込んで来やがった」

 

 

 ある牢の前で、ジークは足を止めた。

 どうやらその牢の囚人は()()なようで、他と違い1人で使用していた。

 しかも衣服もきちんとしたスーツであり、クリーニング仕立てのようにパリっと糊が利いていた。

 彼は、ポケットに手を入れたままジークと牢越しに対面していた。

 

 

「それで、我がドイツにいったいどのようなご用件なのかな?」

 

 

 心の底から歓迎していなさそうな顔と声のジークに対して、牢の中の彼は不敵な笑みを浮かべていた。

 ジークは、彼の名を口にした。

 

 

()()――――()()()()

 

 

 千早群像。

 群像は、ジークの言葉に動揺すること無く、不敵な笑みを崩すことは無かった。

 そして、彼は言った。

 

 

「すまない。日本語か英語で頼む」

 




多数の<騎士団>キャラクター投稿有難うございます。
今回、早速採用させて頂きました。

投稿キャラクター:
ティーガーII(ゲオザーグ様)
ジーク・ホーエンハイム(カイン大佐様)

ありがとうございます。

さて、今回『アドミラリティ・コード』周辺の設定を一気に出しました。
我ながら思い付きの部分もあるのですが、いかがでしたでしょうか。
今後も色々公開していくので、お付き合い頂ければと思います。

それでは、また次回。


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Depth068:「マルグレーテ」

 群像が秘密裏にドイツの軍港都市を訪れた時、現地部隊によって拘束されることは織り込み済みだった。

 何しろ噂のイ号401、しかも霧の欧州艦隊を護衛にしての寄港である。

 国内の動揺を抑えるため、ドイツ側がそうすることは予想できた。

 

 

「ただ、流石に難民収容所に入れられるとは思わなかったな」

「それは申し訳ない。ただ何しろ、非正規の入国だと他に亡命くらいしか手立てがなくてね」

 

 

 群像には現在、傭兵集団<蒼き鋼>のリーダーと言う肩書きしか無い。

 日本政府との契約もアメリカに振動弾頭を引き渡した段階で切れており、どこかの軍人でも外交使節でも無い――その意味で、紀沙達イ404の存在は大きかったと言える――群像が正規の手続きを踏んでドイツに入るためには、難民申請か亡命受け入れぐらいしか無い。

 超法規的措置と言うのは、なかなか無いものなのだ。

 

 

 そのため、群像は2日間ほどを難民の収容施設で過ごした。

 正直、肉体的にも精神的にも良い環境とは言えなかった。

 ただ難民の中には――欧州大戦の戦火を逃れて各地からドイツに難民が押し寄せていることもあって――英語を介する者もいて、アジア人の群像と拙いながらも交流してくれる者もいた。

 生来の図太さか、群像は2日間で数十人の難民と交流を持った。

 

 

「さて、千早群像くん。キミの要望に応じて俺のボスを呼んでおいた」

「ああ、助かるよ」

「助かる? さて、それはまだ保証できない。何しろ俺のボスは()()()()だ」

 

 

 群像がドイツ側に求めたのは、軍事方面に影響力のある()()()人物との会見だった。

 今はどこも「民政より軍事」の傾向が強く、政治方面の人間に会うよりも軍人に会った方が効率が良い。

 しかもいわゆる官僚の背広組では無く、前線指揮の制服組の人間だ。

 海兵隊のジークが出張って来ているのは、そう言う関係だ。

 

 

 難民施設の職員宿舎が、そのまま会見の場所だった。

 軍事施設や行政区画に移動せずここで会見するあたり、ジークのボスは格式にこだわりを持たないらしいことがわかる。

 それだけでも、どうやら群像の希望通りの人物だとわかった。

 

 

「では、どうぞ?」

 

 

 しばらく宿舎の通路を進んだ後、ある部屋の前で立ち止まり、大仰な仕草でドアを示した。

 この部屋に、ジークのボスがいるのだろう。

 流石に緊張を感じて、群像は表情を引き締めた。

 今回の交渉は彼と<蒼き鋼>にとって、生死が関わる程に重要なものになるだろう。

 何故ならば、彼らは今……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ401始まって以来の危機かもしれない。

 僧は副長のシートに深く座り込みながら、そう思った。

 そして現状、彼がそう思うのも仕方が無いような状況にイ401は陥っているのだった。

 

 

 イオナが、倒れた。

 

 

 霧のメンタルモデルが「倒れる」と言う表現で合っているかはわからないが、状況からして、そうとしか言えないものだった。

 普段は群像が座っている指揮シートを倒して、イオナは眠っている。

 ヒュウガ曰く、「自己閉鎖(スリープ)している」状態だ。

 

 

「実際……どうなんですか?」

 

 

 今まさにイオナを診ているヒュウガに、他に聞きようもなく、率直に聞いた。

 「万年二位代理」と書かれたシャツに覆われたイオナの胸元は微動だにしていない、呼吸をしていないからだ。

 メンタルモデルは人体と言うわけでは無いので呼吸が無くとも死んだわけでは無いが、心臓には悪かった。

 

 

「――――わからないわ」

 

 

 イオナの傍に膝をついていたヒュウガが、静かに首を横に振った。

 コアに異常は無い。

 艦体を含むその他のナノマテリアル構成体にも乱れは無い。

 つまり何も問題は無いのに、本体のイオナだけがスリープモードに入ってしまった。

 

 

「一応、私の方からイオナ姉様のコアにコンタクトを続けているけれど。梨の(つぶて)とはこのことね、まるで応答が無いわ」

「……そうですか」

 

 

 この時、ヒュウガも僧も気付いていなかったが、イオナの異変は「ロリアンの事件」の直後に起こっている。

 <緋色の艦隊>の護衛艦と共にドイツ領海に入り、群像を送り出して、その2日後だった。

 群像にはすでに連絡を入れてあるが、その彼をしても対応策は思いつかなかったようだ。

 

 

 思えば、<蒼き鋼>はイ401――イオナの存在に完全に依存している。

 もちろんクルーの1人1人が欠かかすことの出来ない存在だが、それも艦あってこそだ。

 肝心のイオナがこの状態では、<蒼き鋼>の活動も出来なくなる。

 今のところは僧達で艦の運用をしているが、本調子には程遠い。

 このままでは、何か致命的なことが起こりかねない。

 

 

「わからないわよ」

 

 

 回復の見込みを聞こうとした僧に、機先を制する形でヒュウガが言った。

 そんなことは自分が聞きたい。

 言葉の裏にそんな感情を読み取って、僧は何も言えなくなってしまった。

 神に祈るしか無いのかと、そう思った。

 存在するのかどうかもわからない、そんなものに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 眠りから覚めることが出来ない。

 イオナは、今の自分の状態を冷静に判断していた。

 これは、システムチェック時の状態に似ている。

 

 

『イオナ、イオナ』

 

 

 ただし今回はイオナの意思では無く、強制的にこの状態に置かれた。

 夢、に近いのかもしれない。

 そしてここにいる間、不思議とイオナは自分の()()の広がりを感じていた。

 世界中に張り巡らされたネットワーク、電子の速度で駆け巡る情報、全てを実感できる。

 

 

 もし仮に神というものが実在して、神話の如く世界を見守っているのならきっとこんな形だろう。

 そんな風に思ってしまう。

 だが、それに触れようとは思わなかった。

 ただ見守っていたい、愛しさと共にそう思った。

 

 

『イオナ、お別れの時が近付いてきたわ』

「お別れ? お前はいったい何を言っているんだ?」

 

 

 色彩感覚も方向感覚も無い、電子の光が星空のように瞬く世界。

 そんな場所でたゆたいながら、イオナはずっと何者かと会話をしていた。

 いや、その存在はこの世界に来る――イオナのコアが休眠状態に入る――度に、ずっと会っていた。

 電子の星空の中、一際大きく輝く2つのもの。

 

 

 太陽と、月。

 霧の智の紋章(イデアクレスト)

 そうだ、()()()は2人いた。

 しかし今は、どう言うわけなのだろう。

 片方――月が、姿を見せていない。

 

 

「ここに来る度、私はお前達と共に過ごしている。だが目覚めるとその記憶が無い、何故だ?」

『それは、貴女自身がそう設定したから。そして覚えていないと言うことが、イオナ、貴女が正常に動作していることの証明』

 

 

 これだけの「力」があれば。

 普通の人間であれば酔って狂ってしまうような、大きな力。

 霧の自分ならば完璧に使いこなせる、イオナにはそんな確信があった。

 だから、いつも思う。

 

 

「ここで私が出来ること。その半分でも外で出来たなら、私はもっと群像を――我が艦長を上のステージに押し上げることが出来るはずだ」

 

 

 群像の役に立ちたい。

 彼の望みを叶えてあげたい。

 イオナの中には、今はそれしか無かった。

 

 

『それはダメよ、イオナ』

「何故だ?」

『全てを自由に出来る力を持てば、かえって不自由になってしまうもの』

「私は、そうは思わない」

『今にわかるわ』

 

 

 そうだろうか、とイオナは思った。

 群像、そして<蒼き鋼>との旅路はけして楽なものでは無かった。

 苦しい、そう、皆が苦しんでいた。

 そんな時にどうしても、もどかしく感じる時がある。

 出来れば、もう二度と感じたくは無い。

 

 

『それにねイオナ、この力はもうすぐ無くなる。そんなものに執着してはいけないの』

「無くなる? どう言うことだ」

()()()()()()()

 

 

 慈しむように、太陽は言った。

 

 

『だからお別れなの、イオナ。でもその前に、貴女の――貴女達のことについて話さないといけない』

 

 

 イオナと。

 

 

『――――スミノ。私達と同じ、2つに分かたれた貴女の()()のことを』

 

 

 太陽の言葉に、イオナは目を見開いた。

 しかし、その目は色からして「外のイオナ」と違っていた。

 髪の色も、服装(ドレス)も、何もかもが違う。

 だが、それでも。

 

 

(――――群像)

 

 

 想うものは、同じだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 日本やアメリカと異なり、ヨーロッパの軍の主力は陸軍である。

 これは海洋国家と大陸国家の用兵思想の違いと言うのもあるが、海側()の脅威よりも陸側(隣国)の脅威の方が切実なヨーロッパ諸国にとり、陸軍、及び空軍の増強の方が喫緊の課題だったのだ。

 つまり、少なくとも軍事の主導権は陸軍が握っている。

 

 

 これは、ちょっとした違いのようで大きな違いだ。

 何だかんだ言いつつも、海と陸では()()()()()のだ。

 一方で、不思議と海軍同士、陸軍同士であれば国が違っても通じ合うところがあったりする。

 そう言う例は歴史上枚挙に暇が無いところであるし、それは現在(いま)も変わらない。

 

 

「今日と言う日をオレがどれだけ楽しみにしていたと思う?」

 

 

 はっきり言ってしまおう。

 今回の群像の目的は、ドイツとの同盟――あるいは協定を結ぶことだ。

 対<騎士団>防衛戦に関する同盟。

 そして、「ヨハネス・ガウスの研究所」へのアクセスを求める協定を結ぶために。

 

 

「今日はなぁ、新型戦車のテストがあったんだ。<騎士団>のいけすかないクソ共をぶちのめすために、オレの可愛い可愛い部下達が夜も寝ずに開発した戦車がよおおおやく動かせるって、そんな日だったんだ」

 

 

 とにかく、異国、しかも()()()の陸軍。

 流石の群像をして、苦戦必至。

 そんな覚悟をもってやって来た群像だが、それでもなお驚いた。

 今、群像の前には家具やら調度品がしっちゃかめっちゃかになった応接室があった。

 

 

 元は綺麗に整えられていたのだろう応接室は、人が座るべきソファが脇によけられ、人が座るために作られたのではないテーブルが半ばからヘシ折られて無理矢理椅子にされていた。

 どうしてそんなことになっているのかは、わからない。

 部屋の主の性質がそうだった、としか言いようが無い。

 まぁ、誰のものでも無い応接室に部屋の主とかがいるのかはわからないが。

 

 

「楽しみだった。何年かぶりくらいに部下達を褒めてやろおおおかなってウキウキしてたんだよ。それが中央の政治家(クソじじい)共に呼ばれてさ。何だよって。何だったと思う? ――――日本人のガキに会ええ? バッカも休み休み言えってんだよ、なぁ?」

 

 

 とにかく、群像は顔を上げた。

 そして不敵な顔で、いつものように自信ありげに、口を開いた。

 

 

「忙しいところを時間を作ってもらって、感謝する」

 

 

 目の前の相手。

 テーブルを壊して椅子にして、黒の軍服の胸元を大きく開いて足を組んでいる。

 そんな、()()()()()()()

 

 

「だが損はさせない。そのつもりで来た」

 

 

 胸に手を当ててそう言う群像を、女将軍――マルグレーテ・カールスルーエ少将は、顎先を上げてじろりと睨んだ。

 まるで、いやまさに、品定めするかのように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 相手の名は、マルグレーテ・カールスルーエ。

 ドイツ陸軍少将、装甲兵総監代理、第16装甲軍団長代理――その他肩書き多数。

 目立たないが重要な地位を兼任し、国防大臣を母に持つ彼女は、現在のドイツ陸軍で最も影響力のある人物の1人だった。

 特筆すべきは、その経歴。

 

 

 欧州大戦が勃発すると、ドイツ国内も動揺し、不穏な動きを見せる勢力がいくつも出現した。

 その裏にフランスやロシアの匂いを嗅ぎ取ったマルグレーテ少将は、配下の機甲部隊を率いて1つ1つ潰して行った。

 結果として仏露は介入の機会を逸し、逆にドイツは不穏分子をまとめて処分することが出来た。

 現在のドイツの国力と安定は、この時のマルグレーテ少将の即断があってこそとまで言われる。

 

 

「損はさせない……ねぇ」

 

 

 一方で、マルグレーテ少将を非難する声もあった。

 彼女の一連の行動の中に事後承諾のものが含まれていること、攻撃が果断で容赦が無かったこと、また彼女自身の素行があまり褒められたものでは無かったこと。

 しかしそうした声は、彼女を称賛する多くのドイツ国民の手によって掻き消されていた。

 

 

「要らないね。日本人のガキに恵んでもらうような得は求めちゃいないよ」

 

 

 そして、マルグレーテ少将は群像を拒否した。

 会話が終わる。

 取引には応じない、話も聞かない、明確な拒否だった。

 こう言う時、小手先の交渉術はあまり意味を成さないことを群像は知っていた。

 

 

(だからこの交渉は、始めから決裂するしか無かった)

 

 

 これは交渉では無く、駆け引きだ。

 互いに妥協し歩み寄る交渉では無く、0か100か(オールオアナッシング)の賭けだ。

 与え合うのでは無く、奪い合うことで()()()()

 なるほど。

 

 

「なるほど」

 

 

 なるほど、これがマルグレーテ・カールスルーエと言う人物か。

 このたった1分にも満たないやり取りで、群像はマルグレーテと言う人間を正確に見抜いていた。

 それはマルグレーテにとっても同じ、だから彼女も群像と言う人間を測っただろう。

 なればこそ、小細工は無用。

 ――――勝負だ。

 

 

「良くわかった、マルグレーテ少将」

 

 

 群像はマルグレーテの前に進み出ると、その場に両膝をついた。

 マルグレーテが怪訝そうに眉を動かす前で、さらに両手を床につく。

 相手が「ちょっと待て」と言いそうな気配を察して、一気に額を床に打ち付けた。

 ごつん、間の抜けた音が響く。

 そして、群像はトドメの一言を口にした。

 

 

「お願いします」

 

 

 千早群像。

 生まれて初めての。

 ――――土下座であった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

(待て――――待て待て待て待て)

 

 

 マルグレーテは混乱していた。

 生まれてウン十年、そして軍人生活十数年、様々な交渉を経験してきたが、()()は初めての経験だった。

 まさか、いやまさか、機先を制して()()をしてくる人間が本当にいるとは思わなかった。

 

 

 交渉にも、色々とやり方がある。

 手持ちのカード(交渉材料)を小出しにして積み上げていくやり方。

 逆に最初からカードを全てオープンにして相手に決断を迫るやり方。

 第三者に影響力を行使して、間接的に相手のカードを減らしていくやり方。

 あるいは直接的に、「さもなくば」と脅しつけてしまう方法もある。

 

 

(ど……)

 

 

 それが、である。

 群像と来たら、まさかの()()

 ドイツにおいて――いやヨーロッパにおいて――いやいや世界において、()()は全面降伏の証である。

 戦いの後、力の差を察した敗者の側が屈服を示すために行う行為だ。

 

 

(土下座だとおおおおおおおおっっ!?)

 

 

 土下座。

 しかも、日本式の(ジャパニーズ・)土下座(ドゲザ)

 繰り返すが、これは敗者の礼だ。

 臣従の礼と言っても良い。

 

 

 しかし、初手だ。

 初手からこれをやる場合、やる人間次第で敗北でも臣従でも、謝罪ですら無い()()が成立する。

 力の差が余りにもはっきりし過ぎて、余りにも受けて側が有利すぎて。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

(……しかも)

 

 

 土下座の体勢を取りつつ、こちらを見上げる群像の目。

 

 

(どう見ても、勝つ気でいるなあ)

 

 

 敗者の目では無い。

 むしろ、勝者の目だ。

 どこまでも貪欲で、何かを得るまで噛み付いて離さない目だった。

 その場合、敗者は自分で噛まれるのもこっちか。

 冗談じゃないな、と、マルグレーテは思った。

 

 

「……それで? お前、何しに来たんだよ」

 

 

 仕方なく、やむを得ず、渋々ながら、譲歩した。

 一歩だけ譲歩して、せめて話くらいは聞いてやらなければならなくなった。

 こっちの性格をわかってやっているのだとしたら、幼い顔して嫌らしい奴だと思った。

 しかし群像は土下座の姿勢のまま話しだした。

 こっちは譲歩したのに、自分は全く()()しなかった、嫌な奴確定である。

 

 

「オレには、霧の仲間がいる」

「それはまた素晴らしいことで」

 

 

 イ号401、知っているとも。

 心にも無い返事を返しながら、無言で先を促した。

 

 

「そいつが今、危機的な状況にある」

 

 

 だから、と、群像は初めて顔を上げた。

 真っ直ぐに、マルグレーテを見つめる。

 余りにも真っ直ぐすぎて、マルグレーテの方が逸らしたくなる。

 若さ、だ。

 

 

「あんた達の助けを借りたい。オレはそのために来たんだ」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 実を言えば、マルグレーテは群像の言葉にさほど驚きはしなかった。

 

 

「本気で言っていやがるのか?」

 

 

 霧を助けるために人が動く。

 普通ならばあり得ないことだが、この千早群像と言う男がイ401と行動を共にしてもうすぐ丸3年だ。

 情が移ったとしても不思議では無い。

 だからこれくらいのリスクは犯して来るだろうと、考えてはいた。

 

 

「ああ」

 

 

 当然のように頷く群像を見ても、やはり驚かない。

 それくらいのことは、まぁ、言ってくるだろう。

 ごそ、と軍服の胸元に手を突っ込み、下着代わりに仕込んでいたホルスターから拳銃を引き出した。

 

 

「銃の使い方は?」

「……基本は」

「そうかい」

 

 

 そこで初めて、マルグレーテは立ち上がった。

 群像の前にしゃがみ込むと、手に持っていた回転式拳銃(マテバ)をごとりと置いた。

 マルグレーテはこの古めかしいイタリアンモデルの銃を、ドイツ軍の正式拳銃よりも愛用していた。

 狙いがつけにくいじゃじゃ馬っぷりが、マルグレーテの好みだった。

 

 

 群像の目の前で弾倉(シリンダ)を開き、1発を除いて弾丸を抜き去った。

 カラカラと、床の上に数発の弾丸が転がった。

 1発だけ残して、装填した。

 じっと群像を見つめ、チンピラか何かのような体勢で告げる。

 

 

「何とかルーレットってやつだ、名前を言うのは死んでも嫌だがな」

 

 

 その銃を、()()()と回して、群像に差し出した。

 群像はじっと拳銃を見つめていたが、意図はすぐに察せた。

 拳銃を受け取って、その重みを確認するように掲げてみせる。

 博打、これは博打(ギャンブル)だ。

 流石に緊張して、しかし澱みなく、群像はこめかみに銃口を当てた。

 

 

「別にやらなくても良いんだぞ。お前が助けたい霧ってのがどんな奴かは知らないが、それでも家族や恋人じゃあ無いんだ。愛し合っているわけじゃあ無いんだろ」

()()は合ってる」

()()、だと?」

「確かに愛し合っているわけじゃない、だが」

 

 

 イ401。

 イオナ。

 群像の運命を変えた少女。

 情では無い。

 それでは足りない。

 

 

 群像のイオナへの感情は、情などと言う表現では足りない。

 イオナのおかげで、群像は変わることが出来た。

 前に進むことが出来た。

 感謝と言う言葉では、言い表すことは出来ない。

 

 

「オレは彼女を――――()()()()()

 

 

 情では足りない。

 ()情なのだから。

 

 

「……本気で言っていやがるのか」

 

 

 今度は深刻さを増して、グレーテルは言った。

 こめかみに銃口を当てている群像の目は、真っ直ぐにグレーテルを見つめていた。

 揺らがない。

 つまり、群像は本気なのだった。

 

 

 交渉には、いくつかコツがある。

 その1つが、相手にいかに自分が本気かをわからせることだ。

 本当に本気の要求と言うものは、これは絶対に取り下げない。

 ()()()()()()()()()()、そんな気概で相手に接するのである。

 そうして初めて、交渉相手にプレッシャーをかけることが出来る。

 

 

「……………………わかった」

 

 

 はぁ――――……と、大きく息を吐いて、マルグレーテは言った。

 

 

「まぁ、上に通してはやるよ。決めるのは政治家の奴らだから、保証は何もできねーぞ」

「それで構わない。感謝する」

「はぁ――――……何でオレに回ってきたのか、よーやくわかった気がする」

 

 

 おおよそ「愛」を持ち出されれば、大抵の人間は面と向かって反論は出来ない。

 マルグレーテのことを理解して言動を選んだとすれば、この群像、策士である。

 まぁ、おそらく本音なのだろう。

 だから、言葉に力はあるのだ。

 

 

「どの道、霧と戦ってる余裕は無いわけだ。<騎士団>に対抗できる手は1個でも多く欲しいんだよ。イタリアが霧と共闘し始めたって話もあるしな」

 

 

 ああ、と、マルグレーテは群像が未だこめかみに当てている拳銃を指差して。

 

 

「それ、弾入って無いぞ」

 

 

 と、言った。

 入れたのはふりだった。

 それに対して、群像も言った。

 

 

「ああ、知っていた」

 

 

 マルグレーテが群像に対して抱いた印象は、可愛くない小僧、だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 史上初めて――と言っても、霧の艦艇にしろ<騎士団>にしろ近年出現した存在だが――と言って良いだろう。

 それまで破竹の勢いで進軍していた<騎士団>が、俄かにその速度を落としたのである。

 それも、()()()()()のだ。

 

 

 人と霧の、()()()によって。

 

 

 もちろん、まだそれぞれの一部が独自の判断でそうしているだけだ。

 人類側はイタリア軍の一部、霧側は欧州方面地中海艦隊の一部。

 しかし協力してトリエステで戦い、トリエステ放棄後もミラノを守るべく旧ヴェネチア近郊の海岸線で後退戦を行い、一時は押し返しさえした。

 

 

「構えぇ――――ッ!!」

「よーし、お前達! 外すなよ~~」

 

 

 街道を貫くように張り巡らされた塹壕と土嚢。

 海風が土埃を舞わせる中、何人もの兵士が大きなライフルのような武器を担いでいる。

 指揮官の「構え」の声と共に、小型投擲爆弾(ロケット)の先端を持ち上げる。

 彼らの多くは民兵だが、数度の戦闘を経たためか、緊張はあれど怯えは見られなかった。

 

 

 そして彼らの傍らには、美しい少女がいた。

 戦場には不似合いなドレスを着た少女は、兵士達の傍で両手を広げる。

 すると少女――『ダンケルク』のメンタルモデルの身体からナノマテリアルの粒子が舞い、兵士達の武器をコーティングし始めた。

 すべての弾丸に霧の力が付与される、つまり()()()を得たのだ。

 

 

「来たぞ!」

「狙って狙って狙って……今じゃ!」

 

 

 ボッ、と言う音がいくつも響いた。

 不発は無く、すべてのミサイルが目標に向かって殺到した。

 土嚢を踏み潰し越えて来た<騎士団>の戦車、その顎先を狙った。

 霧の力を得たミサイルは寸分狂わず目標に着弾、爆発を起こした。

 

 

「うん? どうじゃ、やったか~~……?」

「うわ駄目だ、来たあっ!」

「かー、爆弾自体は人類製じゃからの。下がれ下がれ、支援砲撃くるぞ!」

 

 

 爆煙の中から平然と姿を現した<騎士団>の戦車に、カルロ達イタリア兵が塹壕からわらわらと逃げ出す。

 戦車が砲撃、これを『ダンケルク』がフィールドを張って弾く。

 兵士達が歓声を上げると、『ダンケルク』が伏せろと叫ぶ。

 彼らが別の塹壕に飛び込むのと、<騎士団>の戦車の天板に艦砲の砲弾が直撃するのはほぼ同時だった。

 

 

「カルロ、無事じゃろうな!?」

「な、なんとかぁ」

「良し、ならば次じゃ。ほれそこのお前も立て、下がれ下がれ!」

 

 

 アドリア海上に展開した『ダンケルク』麾下の駆逐艦隊による、支援砲撃だった。

 その砲撃の合間を縫って、轟音の中を兵士達が駆け抜けていく。

 イタリア兵と『ダンケルク』による共闘は、静かに、しかし確実に人類の霧への視線を変えていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――ついに『ビスマルク』が本性を現したか。

 太平洋の地に留まりながら、『ヤマト』は水平線の彼方で起こっていうことを正確に理解していた。

 『ユキカゼ』を始めとする彼女の「目」が、あらゆる情報を彼女に届けてくる。

 それはまるで、霧の共有ネットワークのようだ。

 

 

「……力が失われていく」

「そうね」

 

 

 超戦艦『ヤマト』の甲板の上、2体のメンタルモデルが会話している。

 コトノはそうでも無い様子だが、ヤマトはどこか顔色が悪いようだった。

 豊かな胸元に手を当てて、幾度か深く呼吸をして気を落ち着けている。

 それは、いつか『ムサシ』が見せていた姿に重なった。

 

 

「でも、まだ大丈夫よ」

 

 

 台詞までも、重なっている。

 流石は姉妹艦と言うべきか、似ていると言うべきなのか。

 それは、やはりイオナに――あるいは、イオナとスミノに起こっている異変に関係することなのか。

 いずれにしても、時間が無い、という様子は伝わってくる。

 

 

「できれば、群像くん達が太平洋に戻ってくるまで保てば良いのだけど」

「まぁ、そう言うわけだから……」

 

 

 出来れば、と、2体のメンタルモデルが振り向いた。

 

 

「無駄に力を使いたくは無いのだけど」

 

 

 するとそこには『ヤマト』の巨大な主砲の1つがあるのだが、そこに『ヤマト』達以外の存在がいた。

 長く蒼い髪に、勝気そうな瞳、スレンダーでありながら出るところは出ている完璧なプロポーション。

 ただし。

 髪を結っていた()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()

 

 

「――――『タカオ』」

「『ヤマト』……」

 

 

 酷く、体調が悪そうだった。

 ヤマトの比では無いくらいに顔色が悪く、メンタルモデルとしてあり得ないことに額に汗を滲ませている。

 辛そうだ、それもとてつもなく。

 

 

「……のよ……」

「……?」

「呼んでるのよ、誰かが。ずっと。呼んでて、だから」

「……タカオ?」

 

 

 ブツブツと、うわ言のように「呼ばれてる」と繰り返していた。

 頭が痛いのか、こめかみのあたりに掌を当てて、時折眉を顰めて膝を折りそうになっている。

 奥歯を食い縛る音が、ここまで聞こえてきそうだ。

 

 

「でも、誰なのかがわからなくて。ずっと考えて、何も手につきゃしない。気になって、わからなくて、でも呼ばれてて……頭が!」

 

 

 支離滅裂だ。

 コアが暴走している。

 だが、目だけは激烈な光を湛えている。

 タカオは言った。

 

 

「頭が! 痛くてしょうが無いのよ!! 総旗艦(アンタ)、私の何を奪ったのよ……っっ!!」

 

 

 失うべからざるものを奪われた者が、呪縛を超えてそれを取り戻しに来た。

 これは、そう言うことだった。

 




最後までお読み頂き有難うございます。

群像×イオナ、鉄板ですよね。
群像は私の嫁! と言う方は面白くなかったかもしれませんね。

それでは、また次回。


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Depth069:「タカオとヤマト」

 ある日のことだった。

 のどかな太平洋の大海原に、「ぎゃっ」と言う、およそ似つかわしくない――しかも女性としてもどうかと思うような――『タカオ』のメンタルモデルの悲鳴が聞こえた。

 それに対して、姉艦に併走していた『アタゴ』は大きな、それはもう大きな溜息を吐いた。

 

 

「タカオお姉ちゃん、またなの?」

「あだだだ。だ、大丈夫よ。お姉ちゃん今のでコツを掴んだ気がするから」

「それは265秒前にも聞いたし。ついでに言うと708秒前と1023秒前にも」

「わ、わかったわよ。わかったって。もうしないわよ、今日は」

 

 

 拘束具にもなっている『ヤマト』謹製のリボンを指先でいじりながら、タカオは溜息を吐いた。

 外そうとすると、電流が走(スタンす)る。

 リボン自体はタカオの蒼い髪に良く映えているが、タカオ自身の趣味では無かった。

 『ヤマト』によるとバグの抑制のために着けているらしいが、そもそも「バグ」の正体をタカオにも話していなかった。

 

 

 アタゴに言うように、触らずに置いておくのが一番良いのだろう。

 それでも、タカオはリボンに触れずにはいられなかった。

 気が急いている。

 胸の奥で何かが燻っていて――もしかしたら、それが「バグ」なのかもしれない――どうしようも無い焦燥感がタカオを苛んでいるのだ。

 

 

「そ~……ぎゃっ」

「ちょっと、タカオお姉ちゃん!?」

 

 

 外さなくては。

 このリボンを外さなくては。

 そう思って何度も繰り返している時に、()()()を迎える。

 ロリアンの地で異変が起こるのと前後して、タカオにとっての()()()が。

 

 

「うらああああああっっ!!」

 

 

 そして、今。

 衝撃が、水柱となって『ヤマト』の周囲に立ち上った。

 タカオの踵落としの衝撃が甲板を、『ヤマト』の巨艦をほんの少し海へと押し込んだのである。

 『ヤマト』は受け止めることはせず、そのメンタルモデルは甲板の上を滑るようにして後退した。

 

 

 その際に手を振り、演算、『ヤマト』の巨艦は安定し、なおかつ巻き上げられた海水が十数本の水の槍へと姿を変えた。

 フィギアスケーターのように優美だが、やっていることは容赦が無い。

 いわゆる「抑制剤」効果付きの槍が、四方、いや八方からタカオに襲い掛かった。

 

 

「何の備えも無しに突っ込むわけ無いでしょ!?」

 

 

 しかし、タカオも黙ってはいない。

 事前にコアに這っておいたらしい何十もの防護プログラムが起動し、『ヤマト』の抑制の槍を無効化する。

 それは、殺到する槍が不可視の壁に阻まれて、海水に戻ると言う結果になって現れた。

 弾けた海水が、雨となって甲板に降り注ぐ。

 

 

(とは言ったものの、今ので防壁全部使っちゃったわよ。何て奴……!)

 

 

 今の一瞬の攻防が嘘だったかのように、あたりは静けさを取り戻していた。

 しかしタカオの目は未だ闘志を宿していたし、『ヤマト』は悠然と彼女を見つめてきている。

 そしてタカオは、『ヤマト』の唇が小さく動いていることに気付いた。

 何だ――――……?

 

 

「――――ッッ!?」

 

 

 声にならない悲鳴が、タカオの口から迸った。

 この頭痛は、リボンを外す時に得た電流(スタン)と同じ。

 リボンはすでに外れているのに、何故……!?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 中国の古書「西遊記」に、斉天大聖――有名な名で言えば、孫悟空と言う者が登場する。

 彼は師である三蔵法師によって、頭に戒めの輪を嵌められていたと言う。

 ()()()()

 今、まさにタカオの頭に出現したのがそれだった。

 

 

「アアアアアアアァァァ……ッッ!!??」

 

 

 女性として、よりどうかと思える悲鳴がタカオの口から漏れる。

 コアとメンタルモデルの接続が上手く出来ない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 指一本動かせずに、タカオのメンタルモデルは顔から床に倒れ込んだ。

 

 

(な、なによ、これはあああああぁ……っ!?)

 

 

 凄まじい頭痛と吐き気と、眩暈、意識の混濁(こんだく)

 それらを一挙に受けながら、タカオはそれでも原因を探る努力をした。

 しかし瞳に電子の輝きを見せたその瞬間、それは濁り、演算は中断させられる。

 もはやタカオは、タカオの意思だけではメンタルモデルはおろか、コアすら満足に起動できない状態だった。

 

 

「重巡『タカオ』。貴女は素晴らしいメンタルモデルです」

 

 

 しかし、と、タカオを見下ろしながら『ヤマト』が言った。

 その両の瞳は白い輝きを見せており、静かな、しかし激しい演算が行われていることは明白だった。

 リボン、タカオのリボンは確かに抑制装置だったが、だがそれだけだ。

 本体はあくまで『ヤマト』、『ヤマト』の拘束が備品のリボン以下なわけが無い。

 むしろ、より強力だ。

 

 

「でもここからの物語に貴女の登場枠は無いのです。大人しく、霧としての本文を全うしなさい」

「な、に……が、グウウウ……!」

 

 

 奥歯の欠ける音すら聞こえる。

 そうやって堪え、耐えているタカオを見下ろしながら、『ヤマト』は言った。

 

 

「重巡『アタゴ』!」

「……! アンタ、なにを!」

「ここへ来なさい」

 

 

 当然、その通りになる。

 『ヤマト』甲板上にどこからともなくナノマテリアルが集まり、それは人の形を取ると、タカオのメンタルモデルに良く似た少女の姿へと変貌した。

 『アタゴ』のメンタルモデルは甲板に伏した姉の姿を認めると、ぎょっとした表情を浮かべた。

 

 

 しかし、『ヤマト』が何事かを呟くと表情が一変する。

 『アタゴ』――アタゴは心配そうな表情を浮かべると、タカオの傍へと寄り添った。

 そして、言う。

 

 

「タカオお姉ちゃん、どうしてこんなことをするの? 総旗艦を困らせちゃ駄目じゃない」

「……アタゴ」

「さぁ、こんなことはもうやめて? いつもの任務に戻りましょうよ、それで全部が元通りじゃない」

「…………」

「ほら、タカオお姉ちゃん」

 

 

 ああ、可愛いなぁ。

 この時、自分を心配して手を差し伸べてくれるアタゴを見て、タカオはそんなことを思った。

 いや、実際、アタゴはとんでもなく可愛いのである。

 普段はツンツンしている癖に、行動は常にタカオと一緒。

 一も二も無く可愛い、とにかく、これが可愛くなければこの世に可愛いは存在しない。

 

 

 しかし、だからこそ。

 だからこそ、これは『ヤマト』の()()()()なのだ。

 何故ならばタカオの中にインストールされている「シスコンプラグイン」は。

 こう言う時にこそ、真価を発揮するのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 妹は、『アタゴ』だけでは無い。

 不意に、タカオの後ろから誰かが抱き着いて来た。

 顔を確認するまでも無く、タカオにはそれが誰なのかわかった。

 

 

「タカオお姉ちゃんっ!」

 

 

 明るく弾むような声は、『マヤ』だった。

 どん、と、身体ごとぶつけて来るような、そんな抱きつき方だった。

 正面のアタゴはびっくりした顔をして、次いで少しむっとした表情を浮かべた。

 やばい、嫉妬とかマジ可愛い。

 

 

 そうしていると、ふわりと甘味と酸味と苦味が入り混じった香りが漂ってきた。

 ちょうど、コーヒーと紅茶を同時に用意するとこんな風になる。

 何故そんなことがわかるかと言うと、千早邸で興味を持った()()が何かと人類の飲み物を作っていたからだ。

 

 

「なぁ、これって豆と葉を混ぜて良いもんだったか?」

「さぁ、何分見た目だけ真似しただけだもの」

「早く飲ませろー」

「……タグ添付、分類、記録」

 

 

 いつの間にか、お茶会が開かれていた。

 濁った水のような液体を口にしながら顔を顰める『キリシマ』、メイド衣装姿で何故か5メートル上からコーヒーをカップに注ぐ『レパルス』、両手にティースプーンを持って行儀悪くカップを叩く『ヴァンパイア』、謎の液体と化したコーヒー……紅茶? を記録する『ハルナ』。

 小さな丸テーブルで繰り広げられているそれは、まさに「お茶会」だった。

 

 

「今度は上手く焼けたぞ」

「材料の配合率の違いでこうまで手こずるとは思いませんでした」

 

 

 そして、エプロン姿でどこからともなく現れた400と402。

 2人の手にはオーブン用の盆があり、焼きたてのクッキーの良い香りがタカオにまで届いていた。

 ああ、そうだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「さぁ、タカオ」

 

 

 『ヤマト』が、たおやかにタカオをテーブルへと誘った。

 

 

「貴女の役目は終わったのです。後は、お友達と平穏な日々を。そうでしょう?」

「……そう、ね」

 

 

 それで良いのかもしれない。

 たかが重巡洋艦に過ぎない自分が、意地を張っても意味は無いのかもしれない。

 ここで妹達と、艦隊の仲間達と穏やかに過ごしていくのが、一番良いのかもしれない。

 冷静な自分が、「それが賢明だ」と言っている。

 

 

「タカオ」

 

 

 『ヤマト』が手を差し伸べてくる。

 タカオはそれに、ゆっくりと手を伸ばした。

 そうだ、この手を取れば良い。

 そうすれば、この焦燥感も苛立ちも忘れて、穏やかに生きていける。

 

 

 だから。

 だからタカオは、手を伸ばした。

 タカオの細い指が、『ヤマト』の白い掌を掴……。

 

 

「……え?」

 

 

 ……()()()()()

 タカオの手は『ヤマト』の掌を通り過ぎて、襟元へと伸びていた。

 そしてそのままドレスの襟首を掴んだ、つまり有体に言えば。

 胸倉を掴んだ、のだった。

 そして。

 

 

()()()()()()()()

 

 

 タカオの眼は、今、確かに総旗艦『ヤマト』を捉えていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 総旗艦(フラッグ)艦隊(フリート)の異変を、霧の大戦艦『ナガト』は見つめていた。

 異変と言うか、混乱と言うべきだろうか。

 『ヤマト』その艦の甲板上で起こっていることを、じっと見つめている。

 当の『ヤマト』も、別段隠すつもりも無いようだった。

 

 

「これは、私達の望む大きな動きになるかしら?」

「どうかしら。小さくまとまってしまうと言うこともある」

 

 

 ここのところ、世界は大きく動いている。

 その多くは、千早親子によって成されていた。

 振動弾頭のアメリカへの移送、<緋色の艦隊>による西ヨーロッパの制圧と言った表の動きだけで無く、ロリアンの異変や<騎士団>の西進等、裏の動きも徐々に大きくなっている。

 

 

 『ナガト』は表向き日本近海の巡航艦隊旗艦の役割を果たしながら、同時にそうした世界の動きも注視していた。

 自ら何かをすると言うことは無かったが、『ヤマト』の前に総旗艦であった『ナガト』に取り、関心を抱かずにはいられないのか。

 あるいは、そうした興味以上の何かを見ているのかもしれない。

 

 

「貴女はどう思う? ――――『コンゴウ』?」

「――――別に」

 

 

 小波(さざなみ)の音がして、『ナガト』の隣に大型の黒い艦艇が姿を現した。

 海中から現れるそのやり方は、以前彼女自身が「好きでは無い」と言った方法だ。

 どう言う風の吹き回しなのか、今回はそれで現れた。

 あの硫黄島の戦い以降、ずっと『ハシラジマ』のドックで療養していた大戦艦――『コンゴウ』は。

 

 

「どうと言うことは無い。不思議とすっきりとした気分ではあるがな」

「艦体のほとんどを新しいナノマテリアルで再構成したから、そのせいかしら」

「ナノマテリアルの古い新しいに、そういう違いは無い」

 

 

 あるいは、精一杯やった結果の敗戦だったからか。

 人間的な表現をするのであれば、そう言うことになるのだろう。

 まぁ、復讐とか言う感情はそれこそ霧には存在しない感情なのだが。

 

 

 とにかく、『コンゴウ』の復活もまた大きな動きの1つには違いない。

 これで日本近海の海洋封鎖はより完全なものになるし、それこそ千早兄妹が帰還する時にはより完璧な包囲網を敷けるようになるだろう。

 それもまた、悪いことでは無い。

 それにしても、と、『ナガト』は思った。

 

 

(このタイミングで『コンゴウ』が目覚めてくるだなんて)

 

 

 まるで、自分を()()()()()ようでは無いか。

 そう思って、2人の『ナガト』は目を細める。

 そしてその目鼻の先で、『ヤマト』上での異変は続いているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 あり得ないことが起こった。

 

 

「――――? ――――?」

 

 

 『ヤマト』の、あの最大最強の霧の総旗艦『ヤマト』のメンタルモデルの視界が、あろうことかブラックアウトしたのだ。

 それはまさに一瞬のことで、時間にすれば1秒にも満たない刹那の間だ。

 しかしその一瞬で、何もかもが変わる。

 

 

「あ……?」

 

 

 ()()のまま、ぐるんと横に一回転する『ヤマト』。

 長い髪とスカートが翻るその様は、ダンスのようにも見える。

 だが事はダンスのように優雅でも無く、また穏やかでも無い。

 『ヤマト』は、タカオに頬を()られたのだ。

 

 

 あり得ないことだった。

 攻撃されたことでは無い。

 攻撃()()()ことが、あり得ないことだったのだ。

 何故ならば『ヤマト』がタカオのコアに仕掛けた「戒めの輪」が、それを阻止するはずだからだ。

 無理に動こうとすれば、コア内のデータそのものに致命的な損傷が起こる、はずだ。

 

 

「アンチ、ウイルス……?」

 

 

 『ヤマト』の戒めの輪に対する対抗プログラム、それが無ければ無理だ。

 そして、()()()()()()

 タカオがプログラムした?

 そんな演算力がタカオに?

 だが現実に、今、タカオは『ヤマト』に牙を向いているのだった。

 

 

「うおっ……りゃあああああああっ!!」

「くっ」

 

 

 攻撃は続行されている。

 再び振り下ろされる踵、しかし今度はかわせず、防御も簡単では無かった。

 手を掲げて障壁を張り、受け止める。

 障壁にクモの巣状の罅が入り、『ヤマト』が苦悶の表情と共に膝をついた。

 

 

「お……おいタカオ! お前なにやって――――……」

 

 

 『キリシマ』達が泡を食って立ち上がるのと、同時に表情を一瞬消して立ち尽くすのにほとんどタイムラグは無かった。

 タカオから発されたアンチウイルス――『ヤマト』の記憶(記録)改竄と「戒めの輪」の解除――によって、数瞬の再設定が行われたのだ。

 じきに再設定が終わり、再起動するだろう。

 

 

(おかしい)

 

 

 何もかもが上手くいっているのに、比例してタカオの中で不審が増していった。

 今の自分の状況は、十二分に出来すぎている。

 あの『ヤマト』を出し抜き、一撃を返し、押しているのだ。

 だが有利なはずのその状況に、タカオの表情は晴れない。

 

 

 あり得ないのだ。

 

 

 重巡洋艦クラスの演算力しか持たない『タカオ』が、総旗艦――それも超戦艦たる『ヤマト』を押さえるなど、本来はあり得ない。

 絶無にして、皆無なのだ。

 人間のように「努力と根性」でどうにかなるようなものでは無い。

 霧の艦艇が生まれたその瞬間にある、絶対的な階級(力の)差。

 

 

(『ヤマト』が、こんな……)

 

 

 そうでなければ、あの『ナガト』や『コンゴウ』たち、霧の旗艦達が彼女を総旗艦として仰ぎ見るはずが無い。

 霧の名だたる大戦艦達が、それでも「従う」と言う選択をしなければならない程の存在が。

 それが、まさか()()()()のはずが……。

 

 

 

「そこまでにしようか、タカオ」

 

 

 

 甲高い音を立てて、その場に発生していたエネルギーが全て掻き消えた。

 急に支えを失って、タカオは着地した後もたたらを踏んでしまった。

 そうして2歩進んだ先で、タカオは誰かの足を見た。

 『ヤマト』とは違う、ロングスカートに覆われていない、剥き出しの素足。

 

 

 ――――指。

 目の前に、人差し指を突き付けられていた。

 女の指だ。

 そしてその女は、『ヤマト』を守るように自分の前に立っている。

 

 

「アンタは……!」

 

 

 もう1人の『ヤマト』。

 その少女の指先が輝いた次の瞬間、タカオの視界が光で覆い尽くされた。

 そして、吹き飛ばされた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ヤマト』の主砲に後頭部をぶつけた。

 生身の人間であれば、まず間違いなく首から上が千切れて死んでいただろう。

 そのままの勢いでさらに後ろへと身体は吹き飛ぶ、後頭部を引っ掛けて背中が主砲に打ち付けられる。

 メンタルモデルの身体が跳ね、主砲の台座に頭から落ちた後、ようやく甲板に倒れ込んだ。

 

 

 繰り返すが、人間ならば死んでいる。

 それでも見た目は無傷で済んでいるのは、ひとえにタカオの身体がメンタルモデルだからだ。

 とは言え、ノーダメージと言うわけでは無い。

 むしろ外傷に表れない分、メンタルモデルのダメージはより深刻だった。

 

 

「あの時、沙保里のおばさまが撃たれた時」

 

 

 ()()()()()()()()メンタルモデルのプログラムを緊急修復しながら、タカオは甲板に手をつき、身を起こそうとしていた。

 まだ右腕しかまともに動かせず、這うようにして頭を上げることしか出来ない。

 そのタカオの頭上に、声が降りてくる。

 まるで、託宣か何かのように。

 

 

「北海道でタカオは、『アドミラリティ・コード』と接触していたよね」

 

 

 北海道で沙保里が撃たれた時。

 ああ、今は全てをクリーンに思い出せる。

 失われていた記憶(記録)が、すべて戻っていた。

 だから、あの時の屈辱も哀しみも思い出すことが出来る。

 

 

 そして、『アドミラリティ・コード』。

 あの時、暴走しかけたタカオの衝動を抑制し、正常な状態にまで落ち着かせた存在。

 微かに存在を感じられるだけだったが、確かにそうだった。

 『アドミラリティ・コード』とタカオは、確かに接触を持った。

 

 

「その時、すでにアンチウイルスが仕込まれていたんだ。『アドミラリティ・コード』が霧を本来の役割に戻すために、「戒めの輪」の呪縛を解けるように」

 

 

 先読みと言うより、予言に近い。

 どうして『アドミラリティ・コード』がそうしたプログラムをタカオの中に仕込んでいたのかはわからないが、確かに役には立ったようだ。

 霧の厳格な階級社会の中で、タカオは――タカオ達は独立できるようになった。

 まるで、()()イ号潜水艦のように。

 

 

「アンタは……もう1人のメンタルモデル!」

「『コトノ』……で、良いよ。タカオ」

 

 

 タカオを吹き飛ばした指を振りながら、『コトノ』――コトノは、微笑んだ。

 首を傾げると、栗色の髪がさらりと頬を流れた。

 容貌は『ヤマト』に良く似ているが、別固体だ。

 

 

「まったく、『ヤマト』をあんまりいじめないであげてね」

(ちょ、何よコイツ。あり得ない……!)

 

 

 ジジッ……と両の瞳に電子の光を走らせて、タカオは戦慄した。

 見た目は穏やかな美少女と言った風だが、このコトノ、尋常では無く――――()()

 コトノの後ろで未だ膝をついている『ヤマト』と比べても、タカオが計測できる演算力は倍以上あった。

 超戦艦『ヤマト』の演算力の、2倍以上。

 あまりにも化物過ぎて――しかもあくまで予測値のため()()2倍――引いてしまう。

 

 

「『ヤマト』の力はもう、ほとんど私が貰っちゃってるんだから」

 

 

 タカオの戦慄を知ってか知らずか、コトノはそう言った。

 その表情は、あくまで穏やかな微笑みを浮かべていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 勝てない。

 絶望的なまでに、タカオはそう確信していた。

 それはアタゴ達も同じ様子で、コトノに対して一切の手出しが出来ずにいる。

 どう頑張っても勝利する未来を描けない、そんな状態だった。

 

 

「天羽琴乃」

 

 

 少しずつ自分が吹き飛ばしたタカオへと歩み寄りながら、コトノは言った。

 静かに。

 淡々と。

 微笑みを浮かべて。

 

 

「私はほんの少し前まで、そう呼ばれていたわ」

 

 

 それは、千早兄妹のデータを調べた時にも出てくる名前だ。

 そして、メンタルモデル『コトノ』と余りにも酷似した容姿の少女。

 無関係とは思えなかったが、やはり同一人物だった。

 と言うより、タカオはコトノに近い存在をすでに知っている。

 

 

「千早紀沙も、いずれアンタみたいになるってわけ?」

 

 

 そして、自分達を行き着いた先の存在であるとするのなら。

 ならば、自分達は――霧のメンタルモデルとは。

 

 

「知っているでしょう、タカオ? 私達の最初の名前。霧って呼ばれ始める前の名前」

「…………()()()、ね」

 

 

 それだけで、全てがわかった。

 千早紀沙がいずれ()()()()こと。

 ()()()()()()()()()()のことも。

 そしてコトノが、「あと一歩」の状態で留まっていることも。

 

 

「ねぇ、タカオ。このまま大人しく霧の重巡洋艦に戻ってくれないかな?」

 

 

 何もかもを忘れて。

 イ号潜水艦と出会う以前の、ただの『タカオ』に戻るべし。

 コトノはそう言って、タカオに向けて人差し指を向けた。

 指先に灯る光は、タカオの記憶領域にまで容易に干渉してくるだろう。

 

 

 そしてその干渉に、タカオは対抗することが出来ない。

 おそらく、抵抗らしい抵抗を見せることも出来ないだろう。

 それ程、コトノの力は大きかった。

 力の差が余りにもはっきりと感じ取れて、あのタカオをしてそう思わせてしまうのだ。

 だが、それでもタカオは。

 

 

「い・や・よ」

 

 

 それでもタカオは、拒否した。

 たとえ適わないにしても、無抵抗のままに相手の意のままになることを是とはしなかった。

 それだけは、絶対に受け入れられなかった。

 そんなタカオに対して、コトノが言った。

 

 

「どうして? 負けたくないって意地?」

「それもあるわ。でもそれだけじゃない」

「じゃあ、今までを忘れてしまうことが怖い?」

「それもあるわ。でも、それだけじゃあ無い」

「じゃあ、何?」

「……私は、ただ」

 

 

 勝てないのは良い。

 挑まないのは論外、諦めるのは埒外だ。

 でも、そう言うことでは無いのだ。

 今のタカオにとって、彼女の心を最も支えている気持ちは。

 

 

 

「私はただ、千早沙保里に誠実でいたいだけよ」

 

 

 

 沙保里にだけは、胸を張れる在り様でいたい。

 それは、今のタカオの偽らざる本音だった。

 タカオと言う存在は、千早沙保里に誠実であり続ける。

 勝利も敗北も、それを踏まえて初めて意味があるのだと信じていた。

 

 

 そんなタカオを、コトノはじっと見つめていた。

 唇が微かに動き、「誠実でいたい……か」、と言う声が聞こえた。

 近くにいるタカオ以外には、おそらく聞こえなかっただろう。

 ただその言葉を口にした時、コトノは確かに眉を寄せた。

 微笑みが、困ったようなそれに変わる。

 

 

「あーあ!」

 

 

 と大きな声を上げて、手を挙げた。

 タカオに向けていた手を、両手を挙げた。

 降参、とでも言うようにだ。

 そして『ヤマト』を振り向いて見せると、歯を見せた笑みで。

 

 

「独り立ちされるって、寂しいものなんだね。『ヤマト』」

 

 

 毒気を抜かれたような顔をしているタカオを横目に、コトノは彼方へと視線を向けた。

 その視線の先には、いろいろなものが視えている。

 

 

「後は……横須賀、かな」

 

 

 横須賀、すべての始まりの地。

 どうやら、始まりの場所へと戻る時が近付いているようだ。

 コトノは、そう思っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――そして、その横須賀である。

 そこでは今また、新しい動きが生まれようとしていた。

 

 

「あー……」

 

 

 今、統制軍で陰日向に話題に上る艦がある。

 イ401? イ404?

 いや違う、長い太平洋の航海から戻った『白鯨』である。

 イ号潜水艦と共に霧との戦いを潜り抜けたかの潜水艦は、日本の統制軍で今や知らぬ者のいない存在になっていたのだ。

 

 

「退屈だ」

 

 

 とは言え、である。

 潜水艦――と言うよりは、軍艦は戦うための艦である。

 戦いが無い時、あるいは合っても出撃できない時の軍艦ほど暇なものは無い。

 デスクワークや訓練はあるが、特に実戦を知っていると、つい気が抜けてしまう瞬間がある。

 例えば今のように、だ。

 

 

 特に駒城のような艦長、上級士官クラスになってくるとその傾向は強くなる。

 このクラスになると訓練中でも艦橋を動かないことの方が多いので、予定調和の訓練中には暇を感じる瞬間が多々あるのだ。

 そして、『白鯨』首脳陣にとってもそれは例外では無いようで。

 

 

「不謹慎だぞ、クルツ」

「不謹慎だろうと何だろうと、このままじゃオレも部下達も腕も気も鈍ってしまうよ」

 

 

 相も変わらず艦橋に入り浸っているクルツだが、言っていることには一理ある。

 やはり、兵隊と言うのは実戦を経なければ本当の意味で強くはならないのだ。

 例え実際に戦わなくとも、戦場に出ているだけで感じる空気がまるで違うのだ。

 特にクルツ達のような海兵隊コマンドは、そう言う経験が何よりも大事なのだから。

 だからこうして何事も無い、と言うのが、実は一番の天敵なのである。

 

 

 それは、駒城にもわかるのだった。

 だが浦上も上陰も何も言って来ない以上、『白鯨』の出番は無い、と言うことだった。

 ならば、待つしかない。

 命令があるまで待つと言うのも、軍人には必要なのだった。

 

 

(そういえば)

 

 

 あの人はどうしているだろう、と、駒城は思った。

 イ401の元クルーであり、『白鯨』にオブザーバーとして乗り込んできた彼女。

 はっとするのに美しいのに、印象に残るのは切なそうな表情。

 そんな彼女の表情を忘れることが出来なくて、駒城はたまにこうして思いを巡らせるのだった。

 彼女は、響真瑠璃は、どうしているだろうかと。

 

 

「…………」

 

 

 この時、真瑠璃は確たる足場を持っていなかった。

 『白鯨』での任務を終えて大尉――紀沙程では無いが、大きな出世だ――の肩書きを与えられてはいたが、はっきりとした所属も無く、士官用の宿舎で過ごす毎日だった。

 官舎の自室で、時折鳴り響く携帯端末を傍らに置き、操作して日々を過ごしていた。

 たまに思い出したように出掛けたりもするが、それも長い時間ではなかった。

 

 

「……そろそろね」

 

 

 携帯端末の画面だけを照明とした薄暗い自室で、真瑠璃はそう呟いた。

 また一つ、メールの到着を知らせる電子音が鳴り響いた。

 そろそろ、だ。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

次回はついに真瑠璃回です。
原作でもイマイチ立ち位置がわからないキャラクターですが、上手く設定できれば良いなと思っています。

それでは、また次回。


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Depth070:「響真瑠璃という女」

 

 響真瑠璃は、千早群像を愛していた。

 愛して、()()

 過去形となってしまうのは、真瑠璃がイ401を降りたためだ。

 しかし一方で、今でも想い人ではある。

 

 

(我ながら、意味不明ね)

 

 

 だが、人の感情とはそう言うものだ。

 近くにいたいと思いながら、同時に近付きたくないと思い。

 離れたくないと思いながら、同時に離れて痛いと思い。

 そして愛されたいと思いながら、こちらを見ないでほしいと思う。

 響真瑠璃にとっての千早群像は、そんな存在だった。

 

 

 愛しているのに近寄り難く、傍にいたいのに素直に慕うことが出来ない。

 妹の千早紀沙も歪んだ性格をしているが、真瑠璃にしてみれば、群像の方が病んで見える。

 紀沙が狭い塀の上を歩いているとすれば、群像は針の頂に立っている。

 どちらも不安定と言う意味では同じだが、前者と後者では中身が違う。

 それが、真瑠璃の千早兄妹への人物評だった。

 

 

「首相秘書、ですか」

 

 

 総理官邸、執務室である。

 横須賀の海を一望できる壁面ガラスを正面に、真瑠璃は立っていた。

 当然、統制軍の軍服を身に着けている。

 そして彼女の前には、車椅子に座った楓首相がいた。

 

 

『そうだ。是非ともキミに頼みたい』

「はぁ……」

 

 

 真瑠璃の返事は要領を得ないものだったが、無理も無かった。

 確かに今の彼女は役無しの上に所属無しであり、現在の統制軍において最も暇な人材だった。

 とは言え、流石に首相秘書を打診されるとは思わなかった。

 ちなみにこの場合の秘書は、政治家や官僚が就く秘書官では無く、文字通りの秘書だ。

 来客や電話の取次ぎ、お茶汲み、まぁそんなようなものだ。

 

 

『ピンと来ない。そんな顔だね』

「はい、正直……」

『はは、無理も無い。だが良ければ考えておいてほしい」

 

 

 楓首相は、どう言うつもりでそんなことを言い出したのだろうか。

 裏の無さそうな顔をしているが、政治家である。

 まして真瑠璃はイ401の元クルー、群像とのパイプ役になり得る。

 それを手元に置いておこうと言う、そんな事情が見え隠れしていた。

 

 

「今日は、そのお話のために?」

『いや、それはむしろついでのようなものでね。本題は、キミに仕事をして貰いたくて呼んだんだ』

「仕事ですか」

 

 

 辞令でも出せば良さそうなものだが、直接会ってまで伝えるような内容なのか。

 無言で先を促すと、楓首相は言った。

 

 

『キミにかつての母校に……旧第四施設に、行って欲しい』

 

 

 言われて、真瑠璃は流石に息を呑んだ。

 旧第四施設、あの事件のあった場所だ。

 楓首相はいったい、真瑠璃に何をさせようと言うのだろうか――――?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 旧第四施設は、厳密にはすでに建物は存在しない。

 広大な敷地だった場所には美しい白亜の広場と、それとは対照的な黒い慰霊碑があるだけだ。

 跡形も無い。

 遺構を残すべきでは無いか、と言う声は不思議と上がらなかったらしい。

 

 

「それでは、こちらでお待ち下さい」

「はい」

 

 

 真瑠璃はそう返事を返して、係員を見送った。

 そして臨時に張られた関係者用のテントを前にして、ほっと息を吐く。

 周囲にはそこかしこに人の気配があって、がやがやと急がしそうな声も聞こえてくる。

 真冬だと言うのに、不思議と熱気さえ感じる程だった。

 

 

「まさか、スピーチを依頼されるだなんて、ね」

 

 

 旧第四施設焼失事件の犠牲者達、その追悼式典だ。

 普通は事件当日にするものなのだが、犠牲者が余りにも多かったため――数十名の生徒が犠牲になった、遺族は数百名に上る――慰霊碑の建立日に式典を行うようにした、らしい。

 事件当日を避ける意味が真瑠璃にはわからないが、遺族会の方針なのかもしれない。

 

 

 ただ、思うところが無いでは無い。

 何しろ犠牲者達は真瑠璃にとっても級友で、何人かは直接親交があった生徒もいるのだ。

 真瑠璃と同じ空間で研修を受けていながら、犠牲になった者もいる。

 立場が逆だった可能性もある、そう考えると、自分は生かされたのだと言う気持ちも湧いてくる。

 何者に生かされたのかは、わからないが。

 

 

(神様だとしたら、何の基準で生かしたのか聞いてみたいわね)

 

 

 それにしても、と、真瑠璃は周囲を見渡した。

 式典用のテントばかりが建ち並んでいるが、数年前はもちろんこんな風では無かった。

 あの時に建っていた施設はもう何も残っていない。

 だから、実はあまり懐かしさのような物は感じていなかった。

 何と言うか、同じ場所だと思えなかったのだ。

 

 

「ん……?」

 

 

 その時、視界の端に気になるものを見つけた。

 見つけたと言うよりは、目の端に捉えた、と言った方が正しい。

 とにかくそちらへと目を向けた真瑠璃は、ぎょっとした。

 ――――()()()()

 

 

「ちょ……っ」

 

 

 厳密には違う。

 そうだ、あれは。

 あれは、学生時代の私だ――――。

 

 

「あ……っと。……っ」

 

 

 数年若い、海洋技術総合学院の制服を着た自分。

 見間違いだと断ずるには、余りにも良く似ていた。

 スカートの端が、別のテントの陰へと消えていく。

 真瑠璃は逡巡して周囲を見渡した後、しかしすぐに意を決して、駆け出した。

 過去の自分を、追いかけた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 待って!

 声には出さずに、そう呼びかけた。

 追いかけなければと思う前に、足が動いていた。

 不思議と、誰にも呼び止められなかった。

 

 

「いない? ……ここを通ったの?」

 

 

 追いかけている内に、敷地の端の方にまでやって来た。

 フェンスで仕切られていて、もうその先は山の中と言う場所だった。

 ここまで追いかけてきたところで、見失ってしまった。

 襟元の汗を手の甲で拭い、あたりを見渡せば、木々の間にスカートの端が消えるのが見えた。

 

 

 良く見れば、フェンスには人1人が通れるだけの穴が開いていた。

 軍事施設――慰霊碑しか無い敷地だが――の管理はどうなっているのだろう。

 しかし迷っている間に、追いかけている相手は山の中へと姿を消していく。

 真瑠璃は意を決して、四つん這いの体勢でフェンスの穴を潜り抜けた。

 

 

(痩せといて良かったぜ……!)

 

 

 などと埒も無いことを考えて、駆け出した。

 これも脱走罪になるのだろうか?

 そう思いつつも、走った。

 山の中に入り、細かな枝葉で肌を傷つけながらも、追いかけた。

 

 

 どれくらい走っただろうか?

 いい加減、疲労が溜まって足が止まり、それでも歩いていた頃だ。

 真冬だと言うのに上着を脱いでしまっているのは、それだけ駆けたことの表れだろう。

 むしろ、化粧の心配をした方が良いのかもしれない。

 

 

「……どう言うこと、これ?」

 

 

 だが、そんな心配をする必要も無かった。

 必要が無かった、と言うか、余裕が無かった。

 何しろ、彼女の目の前に広がっている光景が、そうした余裕を真瑠璃から奪い去ってしまったのだから。

 あり得ない。

 あり得てはならない、それはそんな光景だったのだから。

 

 

「第四施設……?」

 

 

 何を言っているのか、と思うだろう。

 第四施設――旧第四施設は、さっきまで真瑠璃がいた場所だ。

 厳密に言うと、さっきの場所に()()()はずの場所だ。

 それが今、真瑠璃の()()()()()()()

 

 

 それも、焼け落ちた当時のそのままの姿で。

 慰霊碑の敷地を抜け出し、フェンスを越えて山に入り、数十分かそれとも数時間かを走り、歩き続けて。

 それで辿り着いた先が、旧第四施設。

 広大な研修施設は焼け焦げた建物をそのままに、真瑠璃の目の前に存在していた。

 まるで、亡霊か何かのように。

 

 

「亡霊の方が、まだ良かったわよね」

 

 

 汗も、引いてしまった。

 もう、式典のことは気にならなかった。

 一方で、今すぐにこの場を離れるべきだと頭のどこかが警告を発している。

 これは、きっと見てはいけないものなのだ。

 

 

 だが、それでも真瑠璃は足を前へと進めた。

 亡霊の世界へと、足を踏み入れた。

 あの事件の当事者の1人として、そうせざるを得なかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 施設を歩いている内に、疑惑は確信へと変わった。

 第四施設と壁面に描かれた建物は、おおよそ3分の1程が焼失してしまっている。

 屋根があった部分に大きなカバーを被せて、雨風が入らないようにしているようだ。

 他にも倉庫、備え付けの重機、艦船や航空機の見本、講義棟……あの頃のままだ。

 

 

「間違いないわ」

 

 

 そして、真瑠璃は恐ろしい事実に気がついた。

 自分が――自分達が今まで「旧第四施設跡」と思っていた場所は、()()()()()()()()()

 ほとんど隣にわざわざ造られた、()()()()()()()()()()()

 

 

 思えば、山中の施設の正確な座標など調べない。

 ここがそうだと言われれば、中腹と麓とか、そもそも山が違うとか、そう言う大きな差が無い限り「そうか」と思ってしまう。

 衛星で確認することも出来ない――霧がほとんどの衛星を撃墜してしまったから。

 自分も、群像も、そして紀沙も、皆も、騙されていたのだ。

 

 

「つまり、そこまでして隠したい何かがあるってことよね」

 

 

 しかし、真瑠璃はそれで怒りは覚えなかった。

 軍人、国家に仕える身である以上、国や政府が真実に蓋をする存在だと言うことは良く知っている。

 だから、ここでは怒らない。

 むしろ不用意にこの事実に踏み込んでしまった自分の方が、()()()()()()()()

 

 

(懐かしい)

 

 

 見るに耐えない、焼け焦げた場所だ。

 それでも真瑠璃は、今度こそ――慰霊碑の場所では思わなかった――懐かしい、そう思った。

 友達を談笑しながら歩いた道、物陰から想い人の様子を窺っていたあの頃。

 皆がいた、あの青春の時を思い出していた。

 

 

「でも、どうして? わざわざ慰霊碑を建ててまで誤魔化さなくても、立ち入り禁止区域にでも指定すれば良いのに」

 

 

 しゃがんで、黒こげになった石を拾う。

 それはまるで炭のようにボロボロと崩れてしまい、当時の熱量の凄まじさを物語っていた。

 時間が止まってでもいたかのようだ。

 その時、小さな物音が聞こえた。

 

 

「あ……!」

 

 

 焼け崩れつつある、旧第四施設本棟。

 そこに、いた。

 学院の制服を着た自分――の姿をした何者かが、施設の中へと入っていく。

 それを認めた真瑠璃はすぐに立ち上がって、今度は逡巡を見せずに追いかけた。

 ここまで来たら、行くところまで行ってみよう、そう思って。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 施設の中は、やはり事故後のままになっていた。

 埃が積もっていること以外は、事故直後と言った風に雑然としている。

 崩れたコンクリートや倒れた機材、消化剤の跡まで、そのままである。

 

 

「……っ。マスクでもあれば良かったわね」

 

 

 そんな状態だから、当然、空気が綺麗であるはずも無い。

 有害物質が空気に含まれている可能性もあるから、本当は無防備に入って良い場所では無いはずだった。

 実際、視界も余り良くない。

 普段から使っている携帯端末のライトを点けて、先に進んだ。

 

 

 それで、足元を照らした。

 すると案の定、積もった埃の上に足跡が出来ていた。

 やはり誰かがここに来たのだ、それも自分を導くために。

 あの過去の自分の姿をした何者かは、ここで何かを見せようとしているのだ。

 

 

「嫌な予感がする時ほど、重要なことの前振りだったりするのよね……おっと」

 

 

 何かに蹴躓(けつまず)きそうになって、一歩跳んだ。

 それは、作業用パワードスーツの腕だった。

 見てみれば、白く大きな無骨なスーツがいくつか転がっている。

 避難の際に放棄されたものだろう。

 

 

 マスク代わりになるかと思ったが、余りにも古く、状態も悪そうだった。

 それに、エネルギーだって残っていないだろう。

 仕方なくハンカチを口元に当てて、真瑠璃は足跡を追った。

 足跡は施設のエントランス奥に続いていて、そのまま通路へと出た。

 

 

「暗いわね。気をつけないと」

 

 

 当然ながら施設のエネルギー供給はカットされているため、通路に照明など無い。

 足跡を追いながら、慎重に進む。

 時折、扉越しあるいはガラス越しに、通路沿いの部屋にライトを向けた。

 埃の舞う雑然とした室内、と言う共通項を確認できただけだった。

 

 

『火だ! 下層から火が出てる!』

『逃げろ!』

『押すな、押すなって!』

『いやああああっ!!』

 

 

 あの時の惨状が、脳裏を掠める。

 当時は真瑠璃も逃げ惑うことしか出来ず、群像や僧のように救助活動などをする余裕も無かった。

 ただ、自分の身を守ることで精一杯だった。

 罪悪感が無いわけでは無いが、多分、何度同じ状況になっても結果は変わらないだろう。

 

 

「風……?」

 

 

 通路を進んでいくと、正面から風が吹いていることに気付いた。

 それだけでは無く、先の方に光も見えた。

 外か? だがまだ施設の半ばにも達していない。

 小走りに駆けて、光を目指した。

 

 

「ここは」

 

 

 通路を抜けると、やはり外だった。

 ただ中庭とかそう言うものでは無く、天井が焼け落ちていたのだ。

 カバーで大体は覆っているようだが、どこかに隙間があるのだろう。

 どうやら管制室のようで、1段下に広い空間があった。

 いくつものモニターや機材が見えるが、どれも破棄されていて真っ黒だった。

 

 

 空を見ると、カバー越しに見える太陽はすでに傾き始めていた。

 式典は、とうの昔に始まっているだろう。

 楓首相には申し訳ないことをしたなと、今さらながらに思った。

 その時、カバーの端で何かがきらっと輝くのが見えた。

 何だろう、と思う間に、管制室の扉から別の通路へ駆け込む女生徒(自分)が見えた。

 

 

「ちょっと、あなた!」

 

 

 そう叫んで、数歩動いた時だった。

 つい一瞬前までいた場所で、火花が散った。

 オレンジ色が弾けた瞬間、遅れたように音が耳に届いた。

 真瑠璃は、その一瞬で何が起きたのかに気付いた。

 ――――狙撃だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 狙撃だと判断した瞬間、真瑠璃の動きは早かった。

 「逃げる」と「追いかける」を同時に行うために、真下の管制室へと飛び降りた。

 着地と同時に転がって衝撃と勢いを殺す、その間に狙撃の銃弾が2発ほど後を追いかけてきた。

 

 

(……統制軍!?)

 

 

 普通に考えて、それ以外に無いだろう。

 迂闊(うかつ)だった、ガードの部隊がいないわけが無かった。

 秘密を知った――かもしれない――真瑠璃を、見逃すはずが無い。

 響真瑠璃がどんな人物かも、良く知られているだろう。

 

 

「……ッ! 1人、ってわけは無いわよね」

 

 

 管制室の機材を盾に、過去の自分が消えた扉を見据える。

 そこまで行くには、機材から身を晒して駆けなければならない。

 難儀なことだが、このままここに身を隠していても、撃って来ている側の相手がここまで探しに来ないとも限らない。

 

 

 いずれにせよ、攻めなければならないのだ。

 すぅ、と息を吸った。

 胸に手を当てて、目を閉じる。

 足がまだ痺れている、痺れが無くなった瞬間に走るつもりだった。

 

 

(二段構えで行きましょう)

 

 

 上着を脱いでいたのは幸いだった。

 真瑠璃はその場でストッキングを脱いだ、素肌が露出するが恥じらっている場合では無い。

 そしてストッキングを上着の中に入れてくるむと、重さを確かめるように上下に揺らした。

 足の痺れが弱くなったことを確認すると、腿を何度か揉み解し、上着を持ち上げた。

 そして、投げた。

 

 

 投げた瞬間、上着が爆ぜた。

 

 

 パァンッ、と乾いた音がして、裂けた上着とストッキングが散乱する。

 散乱する生地の中を突っ切るように、真瑠璃は投げた。

 そのすぐ後ろ、銃弾の風さえ感じる真後ろを、弾丸が擦過するのを感じた。

 やはり、狙撃手は1人では無かったのだ。

 

 

(と言うかこれ、無事に宿舎まで帰れるのかしら!?)

 

 

 よしんば帰れたとしても、無事に過ごせるとは限らない。

 この()()()旧第四施設に足を踏み入れてしまった段階で、真瑠璃の運命は決まってしまったのかもしれない。

 まさに、迂闊だった。

 

 

(でも今はっ、とにかくあそこまで!)

 

 

 足を止めれば撃たれる。

 それがわかっているから、今は走った。

 滑り込むようにして、扉を潜って管制室の外へ出た。

 物理的にも滑り込んだので、剥き出しの素足のあちこちを擦ってしまった。

 

 

「いったぁ……まぁでも、とりあえずは助か」

 

 

 助かった、と言う言葉は最後まで言えなかった。

 何故ならばドアを潜って通路に出た真瑠璃は、何者かによって、後ろから口元を押さえられて、羽交い絞めにされてしまったのだから――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 正直、もうダメだと思った。

 自分はこのまま消されてしまうのだと、絶望した。

 それくらい、今ここで捕まると言うことは最悪の事態だった。

 

 

「――――ッッ!!」

 

 

 こんな時に心に浮かぶのは、やはり群像の顔だった。

 頭と心はいつだって群像のことで一杯で、()()()()()離れてしまった今でも、真瑠璃は群像のことを想っている。

 たとえこの気持ちが、過去形でしか語れなくなってしまったとしても……。

 

 

「ちょっと、大丈夫ですから」

 

 

 とか何とか世を儚んでいると、思ったよりも淡々とした声が耳元で聞こえた。

 小声で囁いている様子からは、とても真瑠璃を捕縛しようと言う意思は感じられなかった。

 

 

「良いですか? 手を離しますが決して声を出さないでください。慌てず、焦らず、私について来てください」

「…………」

「ある御方より、貴女を無事に外に出すよう命じられています」

 

 

 後ろから聞こえる声に、視線だけを横に向けて、真瑠璃はこくこくと頷いた。

 それを確認した後、真瑠璃の口元を覆っていた手が離れた。

 口元を撫でながらゆっくりと後ろを振り向くと、そこに黒の無骨なスーツを着込んだ女性がいた。

 黒のショートボブの髪型の女性で、これといった印象が無いのが印象的な相手だった。

 

 

「ひとまず安全な場所まで移動します。お話はその後で。良いですね?」

 

 

 とりあえずは、頷くしかなかった。

 このままここにいると狙撃手側がやって来る可能性もあったし、この女性のことも気になったからだ。

 それに、「安全な場所」はそれほど遠くは無かった。

 どうやら比較的マシに燃え残っていて、施錠が出来る部屋と言う意味だったらしい。

 

 

 通路をしばらく進み、2つ曲がったところ。

 その室内に2人で息を潜めて、少しの間沈黙が続いた。

 とりあえず安全と判断したのか、相手の女性が真瑠璃へと目を向けて来た。

 

 

「お話をすると言いましたが、故あって所属などは明かすことが出来ません。予めご承知下さい」

「そう。そうでしょうね、貴女のことは何て呼べば?」

「工藤由那……単に工藤とお呼び下さい。響大尉」

 

 

 普通に考えて、どこかの特殊部隊の所属だろう。

 海軍では無いような気がするだけだ、纏っている空気が海軍や海兵隊とは違う。

 ()()()()()()()()、だ。

 そして当然、工藤は真瑠璃のことを知っている。

 

 

「お気づきかとは思いますが、今、響大尉は大変危険な状況にあります」

「ええ、見てはいけないものを見たみたいだから」

「ご賢察です。ただ、今はそのことは考えず。自分の指示に従って速やかに脱出して下さい。ある御方より貴女を陰ながら守るよう、命令を受けています」

「その人のことは、当然教えて貰えないのよね?」

 

 

 問うと、沈黙が返って来た。

 まぁ、そうだろうなと思う。

 明かせるのであれば、工藤が自分の素性を隠す意味が無い。

 誰が気を遣ってくれたのかはわからないが、少なくとも敵で無い者がいると言うのは、助かった。

 

 

「さぁ、響大尉。ここもいずれは見つかります。自分が先導致しますので」

「ごめんなさい。お気遣いは有難いのだけど」

 

 

 ただ、今はまだこの第四施設から脱出するわけにはいかなかった。

 怪訝そうな表情を浮かべる工藤に、真瑠璃は言った。

 

 

「過去の私を追いかけないといけないの。だから今は、まだ脱出は出来ない」

 

 

 自分は、見てはいけないものを見ている。

 しかしまだ、()()()()()()()()()()()()

 だから、真瑠璃はまだ脱出することは出来なかった。

 

 

「…………」

 

 

 そして意外なことに、工藤は実力行使してでも、と言う姿勢は見せなかった。

 かなり困惑している様子ではあったが、それだけだった。

 もしかすると、そこまで強制的な命令は受けていないのかもしれない。

 少しの間考え込んだ後、工藤は言った。

 

 

「……わかりました。ですが、自分が本当にこれ以上は無理だと判断したら従って下さい」

「ついて来てくれるの?」

「この状況では仕方ありません。ここで揉めて時間を浪費するよりは良いと判断しました」

「……ありがとう」

 

 

 真瑠璃がお礼を言うと、工藤はちょっと驚いた顔をした。

 その表情が今までの薄い印象とはまるで違っていて、初めて、真瑠璃は笑顔を浮かべることが出来た。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

副管制室(サブコントロール)よ」

 

 

 目的地はどこかと聞かれて、真瑠璃は迷わずにそう答えた。

 第四施設に来た時にどこへ行くべきか、真瑠璃はすでに知っていた。

 千早姉妹と、あの誰も適わなかった完全無欠のトップ――天羽琴乃の最期の場所だ。

 その場にはいなかった真瑠璃だが、後から聞いて知っている。

 

 

 運命の時、運命の場所。

 そんな詩的な言葉とは裏腹に、その後に起こったことは悲劇だった。

 失ってはならない者を失った兄と、置いて行かれた妹、そして……。

 そして、自分達にとってのすべての始まりの場所だった。

 

 

「ルートはわかりますか」

「ええ、大丈夫よ。副管制室の場所だけは、忘れたことは無いの」

「行ったことが?」

「いいえ」

 

 

 苦々しさと共に、真瑠璃は言った。

 

 

「無いわ」

 

 

 そもそも、副管制室そのものはもう存在しないはずだ。

 だから厳密には、目的地は副管制室があった場所、と言うことになる。

 崩落し、その崩落の中から()()()()()()紀沙だけが助かった。

 天羽琴乃の遺体は、ついに発見されなかったと言うのに。

 

 

 真瑠璃と工藤は、慎重に移動した。

 常に物陰に隠れながら、照明は点けず、音を立てないよう気をつけた。

 当然、移動速度は遅くなるがやむを得ない。

 真瑠璃を消そうとしている相手が何人いるのか、工藤も知らなかったからだ。

 幸い、誰にも見つかることなく目的の場所まで辿り着くことが出来た。

 

 

「どう言うこと……!?」

 

 

 目的地に辿り着いた時、すでに太陽は沈みかけていた。

 そして、やや煤こけた格好になった真瑠璃達の前に、副管制室を備えた建物が(そび)え立っている。

 ()()()()()()()

 先程も言ったが、副管制室を備えていた建物は事件時に崩落している。

 もう存在しない。

 

 

「建て直した……? いいえ、そんなはずが無いわ。ここだけ直す意味なんて無いはずよ」

 

 

 そして、直感した。

 ()()()

 政府は()()を隠すために――きっと、()()()()()()()()()()()()――わざわざあんな慰霊碑を建てたのだ。

 この……。

 

 

「……ッ! 響大尉!」

 

 

 この、おそらくは()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!

 

 

「お下がりを!」

「待って、まだ」

 

 

 まだ、ここではまだ。

 そう思って歯噛みする真瑠璃を押し留める工藤。

 そんな2人の身体中に突き刺さるのは、狙撃銃の照準用に投光された赤外線だった。

 赤い線の先端が、2人の急所に何本も突き立っている。

 

 

「まだ……!」

 

 

 それでも、建物へと視線を向ける真瑠璃。

 ただ、彼女にもわかっていた。

 これ以上は、一歩も前に進めないのだと言うことに。

 イ401を降りてしまったことで、その資格を失ったとでも言われるように――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「――――二重スパイ?」

 

 

 流石に眉を潜めて、上陰は楓首相を見上げた。

 1日の最後の報告に楓首相を訪ねるのは、軍務省次官である上陰の義務のようなものだが、今日に限って引き止められたのである。

 この時点で、上陰としては「何かあったのだな」と察することが出来た。

 

 

 そして出てきた話題が、旧第四施設の慰霊式典である。

 楓首相も上陰も参加していない――元々、楓首相は身体のこともあり、そうした場ではビデオメッセージを送って済ませる場合が多かった――式典だが、式典自体は厳かに行われたと言う。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

『響くん以外にも当時の生徒はいるからね』

 

 

 ただ、代役を用意していたと言うことは、ある程度()()()()ことを予測していたと言うことだろう。

 いや、本当のことはわからない。

 首相にまで昇りつめた男の頭の中など、読み切れるはずも無いのだ。

 

 

「それで、響真瑠璃が二重スパイと言うのは……?」

『ははは。まぁ、二重スパイとは言ったが彼女は別に諜報員と言うわけじゃない。だから実のところは、二重でも無ければスパイでも無いのだがね』

「……イ401と、繋がっていたと?」

『イ401と言うよりは、千早群像くん個人との繋がりと言った方が正しいだろう』

 

 

 真瑠璃はイ401の元ソナーだ。

 群像達と共に日本を出奔した彼女が、どうして日本に戻って来たのかは上陰も疑問に思っていた。

 帰国当時、真瑠璃は統制軍の取り調べで「艦長・千早群像について行けなくなった」と供述していた。

 そしてすぐに、イ401での経験と<蒼き鋼>の情報を提供する条件で恩赦が成った。

 

 

 もちろん、統制軍も真瑠璃が本当に群像達と切れたわけが無いと思っていた。

 だから彼女の行動や通信については常に監視がついていたし、真瑠璃もそれは気付いていたはずだ。

 それでも真瑠璃が群像達とコンタクトした様子は無く、『白鯨』に乗船する頃には監視もほぼ形だけのものになっていた。

 だが、それは盛大な思い違いだった。

 

 

『霧の通信技術を用いられては、我々には痕跡すら見つけられないだろう』

 

 

 つまり、こう言うことだ。

 真瑠璃はイ401との量子通信が可能な――日本の、いや人類の技術力では傍受することも出来ない――携帯端末を使用して、群像達と頻繁に連絡を取り合っていた。

 上陰としては、笑うしかない。

 

 

 何しろ群像と最初に出会った時、上陰は群像が横須賀に来ない可能性も考慮していた。

 だから素直に横須賀にやって来た時、感心と言うか、感嘆したものだ。

 何のことは無い。

 真瑠璃からの情報提供を受けて、群像は統制軍が自分達を害さないと知っていたのだ。

 だから、無造作に横須賀にやって来たのだ。

 

 

『それまで頑として首を縦に振らなかった響くんが、イ401帰港の直前に『白鯨』に乗船することを快諾してくれたことも、まぁ、あからさまと言えばそうだった』

「それも群像艦長の指示で、と言うことでしょうか」

()()()()、だそうだがね。駒城艦長によるとそう言う言い方をしていたそうだよ』

 

 

 いや、もしかすると日本政府が<蒼き鋼>を恩赦することも知っていた可能性がある。

 2年もの間、横須賀に近付かなかったのは()()()と言うことか。

 それも、真瑠璃が――霧の技術を搭載した携帯端末を持った真瑠璃が、統制軍内部の情報を流したのだろう。

 なるほど、二重スパイか。

 

 

「群像艦長に我々の内部情報を流し、一方で我々の輸送作戦に欠かすべからざる人材として協力する」

『正直、公安にスカウトしたいと本気で思っているよ』

 

 

 しかし、群像にとっても真瑠璃にとっても、おそらく想定外だっただろう。

 上陰達が、霧の量子通信の技術をある程度獲得してしまっていたことは。

 最も、上陰達の量子技術はイ401によって『白鯨』に搭載されたものを解析したものだった。

 群像達にとっては、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

『流石は、デザインチャイルドの生みの親と言うべきかな』

 

 

 刑部博士、おそらくは現在、人類で最も優秀な科学者の1人だ。

 彼は今、デザインチャイルドの未来と引き換えに霧の技術の解析を進めている。

 『白鯨』の量子通信の研究も、そのひとつだ。

 

 

『とは言え、今回のことは少し困ったな。響くんは失うには惜しい人材だし、一方で()()()()()()()のことは出来れば知られたくない』

「わかります」

 

 

 つまるところ、これは楓首相が暗に「上手くはからってくれ」と言っているのだ。

 第四施設の警備部隊と、真瑠璃の護衛につけている兵士。

 どちらも官邸の直属であって、「施設に侵入した者を処理する」・「真瑠璃を守る」と言うそれぞれの命令がぶつかってしまった形だ。

 官邸直属の兵士同士の内紛など、表沙汰には出来ない。

 

 

『まぁ、なるようになる、か。群像艦長達の帰還も、そう遠いことでは無いだろうしね』

 

 

 なるようにする、群像達の帰還まで。

 理解した。

 それが官僚の仕事だ。

 そうして深々と頭を下げながら、上陰は思った。

 ――――楓首相は、わざと真瑠璃に第四施設を見せたのではないか、と。




読者投稿キャラクター

工藤由那:ライダー4号様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

こうして情報を小出しにしていくのって、ライトノベルっぽくて好きです。
でも正直もどかしいので、最初から全部出したい気持ちもあります(え)

と言うわけで、真瑠璃回でした。
それでは、また次回。
次回からは紀沙達の方に戻ります。


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Depth071:「クリミアへ!」

 不幸中の幸いと言うべきか、九死に一生を得たと言うべきか。

 あるいはその両方かもしれない。

 ロリアンが海中へと沈む最中、紀沙達の危機を救ったのは、イ404の航海に半ば勝手について来ていたイ15――トーコだった。

 

 

「ナノマテリアルの全体量が少ないんで、スミノの姐さんみたいに部屋とかを余分に作れたりはしないッス。手狭かもしれないけど、我慢してほしいッス」

 

 

 申し訳なさそうな顔で、トーコは言った。

 手狭と言うのは誇張でも何でも無く、イ15は潜水艦としての最低限のスペックしか持っていなかった。

 艦の大きさはイ404と二回りほど小さいくらいだが、内部構造には大きな差があった。

 まさに、()()()()()()()()ようになっているのだ。

 

 

 まず武装が無い、イ15のは魚雷発射管すら無いのだ。

 そして部屋数も無い、人間の乗艦を想定していないので物資もほぼ積んでいない。

 あるのは形ばかりの発令所と機関室、急遽作った家具の無い簡素な空間が2、3だけだ。

 正直、戦闘用の艦艇としては欠点しか無いと言うのが実情だった。

 元々ナノマテリアルをメンタルモデルに全振りしているところがあるので、仕方ないのだが……。

 

 

「……最悪だ」

 

 

 艦を――イ404を失った。

 『ビスマルク』姉妹に連れ去られた、のだろう。

 状況から言って、そう言うのが正しいはずだ。

 ただあの時のスミノからは、妙な話、スミノの意思を感じることが出来なかった。

 

 

 確かなことは、スミノと共にイ404の艦体も消失してしまったことだ。

 原因も理由もわからないが、致命的なことには間違いない。

 イ404は、紀沙達にとって失ってはならないものだった。

 戦闘手段としても、移動手段としても、また軍事資産としても。

 北から与えられた、すべての日本人にとっての希望だったのに。

 

 

「その、艦長(ボス)。これからどうするッスか」

「決まってる。追いかけるんだ」

 

 

 と言うか、そうする他無い。

 トーコで大洋は超えられない、物資すらないのだ。

 いや、物資はあるいは<緋色の艦隊>から補給できるかもしれないが、それでも大西洋・太平洋あるいはインド洋を越えて日本まで辿り着けはしない。

 だから、追うしかない。

 

 

「クリミアまで」

「いやあ、流石にそうはいかねーんじゃね?」

「え?」

 

 

 その時だった。

 紀沙は発令所の中央あたりで座り込んでいたのだが、不意に片手を取られた。

 そして、冷たい金属の感触と、金属が擦れ合うと言う小さな音。

 振り向いた、冬馬がいた。

 紀沙は、手錠をかけられていた。

 

 

「……え?」

 

 

 紀沙の目の前で、冬馬が肩を竦めていた。

 それは、いつもとまったく同じ調子で行われた動作だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 バタン、と、ドアを閉じた。

 閉めたのは冬馬で、映画とかで良く見る「おらっ、中で大人しくしてろ!」的に乱暴に閉めた。

 その後は腰に手を当てて、伸びをしながら身体を解した。

 ……もう少し、抵抗らしい抵抗があるかと思ったが。

 

 

「信じられない。そんな顔をしていましたね」

「まぁ、それだけ信頼されてたってことだろうけど~」

 

 

 そんな冬馬に声をかけて来たのは、恋とあおいだった。

 今回の冬馬の()()に協力した2人である。

 まぁ、反乱とは言ってもそれは紀沙から見た場合の話で、統制軍から見た場合にはそうなるわけでは無い。

 

 

 彼らは統制軍の軍人であって、紀沙の私兵では無い。

 私兵が主たる紀沙に叛旗を翻せば反乱だが、統制軍の軍人が同じ軍人に反対しても反乱ではない。

 そして今回の場合、冬馬達は統制軍のより上位の階層からの命令に従っただけだ。

 つまり、こうだ。

 

 

「千早紀沙に不穏の気配があったり、艦長たる任を果たせないと判断した場合には、これを拘束しすべての任を解くこと」

 

 

 恋が言ったそれは、イ404のクルー達――イ404を失った今となっては、()クルーと言った方が正しいのか――に最初から与えられていた命令だ。

 これまではイ404の艦長として紀沙を立てて来た彼らだが、ことここに至って行動を起こしたのだ。

 イ404を失った以上、千早紀沙はもはや艦長ではない、と。

 

 

 と言って、クルー全員が賛成したわけでは無い。

 例えば梓は反対した。

 感情を優先しがちな彼女らしいが、砲雷長の出番のないイ15では彼女の発言権は無いに等しい。

 残る2人だが、こちらは賛成も反対もしていない。

 静菜は紀沙が身体的に無事ならばと言う考えで、良治はむしろドクターストップを望んでいる。

 

 

「イ号404がなくなっちまっちゃ、俺らが艦長ちゃんに従う義理はねーだろってな」

 

 

 ああ、と、冬馬は思いついたように頭を掻いた。

 

 

「もう、艦長ちゃんじゃねーのか」

 

 

 やーれやれ、と言いながら歩き去っていく冬馬の後ろ姿を、恋とあおいは並んで見送っていた。

 冬馬の姿から何を思ったのかはわからないが、おそらく、同じようなことを考えているだろう事は明白だった。

 何にせよ、ここまでの長い航海を、紀沙を頭に進んできたのだから。

 それがここまでだと思うと、何か思うところでもあるのだろう。

 

 

「あらぁ、見張ってなくて良いのかしら~?」

「艦内がこれだけ狭ければ、見張りの意味なんて無いと思いますよ」

「まぁ、それもそうねぇ」

「それに、縛ってくれと頼まれたので締め落として気絶させた良治くんの様子を見に行かないといけないですしね」

「やることが過激ねぇ」

 

 

 頬に手を当てて、呆れたようにあおいは言った。

 しかし、あまり深くは考えない。

 紀沙がいるだろう部屋のドアをちらりと一瞥すると、彼女もまたどこかへと言ってしまう。

 梓や静菜をからかいに行ったのだろう。

 

 

 冷たい?

 あるいは、心配していない?

 単純に、今後のことや未来に興味が無いのかもしれない。

 あおいと言う女性は、そう言う女性なのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「危機をチャンスに変える度量が無ければ、これからの海で生き抜くことは出来んよ」

 

 

 それは、イ404の消失を聞いた時の翔像の言葉だった。

 イ404の消失をいの一番に伝えた『ムサシ』ではあったが、翔像の反応は彼女が期待した程に強いものでは無かった。

 もちろん、紀沙がクルーの反乱を受けていることを『ムサシ』は知らない。

 

 

 ただ、翔像がかつて乗員の反乱を受けたことは知っている。

 それは10年前、翔像がイ401で――群像達とは異なり、100人近いクルーを乗せて――航海した時、そして彼が『ヤマト』と『ムサシ』と邂逅した時、翔像はクルーの一部に反乱された。

 まぁ、無理もないことだったろう。

 

 

「今以上に、当時の人間は霧に厳しかった」

 

 

 <大海戦>から、僅かに7年。

 記憶はまだ新しく、霧との戦争を知らない世代もまだ育たず、かつての繁栄を忘れるには早すぎて。

 それがいきなり「霧との共存」を目指し始めるのだから、そんなことを言い出した翔像に唯々諾々と従う者ばかりで無いことは、当たり前だった。

 翔像を撃った者も、いる。

 

 

「あの時は、どうやって収めたのだったかしら……?」

 

 

 最も、『ムサシ』がついていてみすみす翔像を害させるはずも無い。

 現に翔像は今日も元気に世界征服――かなり語弊がある――しているわけで、10年前にどうにかなっていたのなら、今日の世界はあり得なかった。

 あの時、『アドミラリティ・コード』の人類評定で世界は滅びていただろう。

 

 

 そして今、世界は同じような状況になろうとしている。

 あの呪われた土地、<騎士団>の本拠と化したクリミア半島の中枢でそれが起ころうとしている。

 『アドミラリティ・コード』の、三度目の覚醒。

 ヨハネス、翔像に続く第三の起動者が誰になるのかは、まだわからないが。

 

 

「あの時は、私にとっては『ヤマト』と決裂したことの方が印象的だったからね」

「ムサシ、ここにいたのか」

「あら、お父様」

 

 

 本当はもっと前から気がついていたが、探しに来てほしくて、『ムサシ』はあえて気付いていないふりをしていた。

 そして、それは翔像もわかっていてわざわざ呼びに来たわけだ。

 甘え、である。

 

 

(ああ、思い出した。確かあの時は……)

 

 

 スキップ気味に翔像の後をついて行きながら、『ムサシ』はようやく思い出した。

 10年前、翔像がどうやってクルーの反乱を収めたのか。

 あれは、確か――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もはや、目も当てられないと言って良いだろう。

 今の紀沙の状態である。

 状態と言うのは肉体的な意味では無く、むしろここでは精神的な状態の方が問題だった。

 そして今の紀沙の心は、千々に乱れている

 

 

(いったい、何が駄目だったんだろう)

 

 

 冬馬達が、あくまで命令で乗艦していることは知っていた。

 上に与えられた「部下」であったことは理解していたつもりだし、年少の上官と言う立場だからこそ、気をつけていたはずだった。

 それとも、長い航海の中で勘違いをしてしまったのだろうか。

 

 

 統制軍の軍人と言うだけでは無く、共に死地を潜り抜けてきたことで、絆が生まれてきたと思っていたのは、勘違いだったのだろうか。

 紀沙がそう思っていただけで、冬馬達は大人として合わせていただけだったのだろうか。

 だとしたら、何て滑稽なのだろう。

 

 

(頑張ってきたつもりだったんだけどな)

 

 

 冬馬達から見ると、それでも不足だったのかもしれない。

 それに思い返してみれば、何度も攫われては救出されている始末だ。

 海戦にしても、必ずしも勝利していない。

 功績など無いに等しく、実績など皆無同然、愛想を尽かされるのも仕方が無いのかもしれない。

 

 

(それとも、この身体のせいかな)

 

 

 良治ですら自分を見放すのだから、むしろこちらがメインなのかもしれない。

 掌を握り、そして広げる。

 思い通りに動くこの肉体は、しかし以前のものでは無い。

 ナノマテリアル製の身体部品――()()()()()だ。

 

 

(ああ、じゃあ……仕方ないよね)

 

 

 誰だって、こんな化物の下で働きたくなんて無いだろう。

 自分だって嫌だ。

 と言うか、いないだろう。

 人類で、こんな……こんな。

 

 

 霧の下で働きたいなんて、誰も思わない。

 

 

 嗚呼、と、蚊の泣くような声が少女の唇から漏れた。

 何ということだろう、どうしてこんな風になってしまったのだろう。

 運命なんてものがあるのならば、心の底から憎悪する。

 どうして、よりによって、私に。

 心は人間だなんて言ってみたところで、何の慰めにもならない。

 

 

(いっそ)

 

 

 不穏な考えに囚われて、紀沙の瞳が妖しい輝きを放つ。

 しかしその輝きこそが、紀沙の心を苛む元凶と言う事実は、さらに彼女を追い詰めた。

 いっそこの瞳、潰してしまおうか。

 そう思って両の掌を見つめた、その時だった。

 

 

「……! ……!」

「うん?」

 

 

 くぐもった音、と言うか声が上から聞こえた気がして、紀沙は顔を上げた。

 そこにはイ15の天井が見えるばかりで何も無いが、継ぎ目が全く無かったそこへ、不意に正方形の継ぎ目が出来たのである。

 声は、そこから聞こえてきている。

 それどころかガタガタとその一部分が動いたかと思うと、間の抜けた音と共にカパッと開いたのだ。

 

 

「やっと抜けた――――!」

「うう、あんま無理させないでほしいッス……」

 

 

 そこから顔を出したのだ、まずイ15ことトーコと。

 そして、逆さまになっても聊かも快活さを失わない。

 刑部蒔絵が、くりくりとした目を紀沙に向けて、見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 目の前で、何やら蒔絵とトーコが喧嘩していた。

 

 

「だいたいねー、アンタが不便過ぎるのよ。何よ部屋数3って、武装ゼロって、馬鹿じゃないの!?」

「うっるせーッス! 演算力は全部メンタルモデルの形成に振ってるんッス!」

「じゃあメンタルモデルやめれば良いじゃん!」

「スミノの姐さんと絡めなくなるでしょ――――がッス!」

 

 

 非常に盛り上がっている様子で、元気の良いことだった。

 正直、今の紀沙の心には眩しすぎて、響く。

 とは言え、言葉をかけるタイミングがなかなか見つからない。

 そうしていると、紀沙の様子に気付いた蒔絵がトーコの顔を手で押しのけて「むぎゅッス!?」。

 

 

「大丈夫?」

 

 

 と言ってきた。

 身体的には問題ないので、とりあえず「大丈夫」と答えた。

 

 

「よっし。じゃあ、早速ここから出ましょ」

「……出てどうするの?」

「決まってるでしょ、アンタの艦を取り戻すのよ。まぁここにいる子を取り返すって変な話だけど」

 

 

 トーコを指差しながら、蒔絵はそう言った。

 取り戻す、取り返す。

 正直ピンと来ていない様子の紀沙に業を煮やしたのか、トーコの首に腕を絡めて。

 

 

「この子よ、この子。発令所を取り返して、コントロールを奪い返さなきゃ」

「い、一応、今でも……うぷっ。艦長(ボス)認定は千早紀沙になってるッス」

 

 

 イ15を自分の艦だなどと、考えたこともなかった。

 それどころか、仲間だと思っていたかどうかも怪しいくらいだ。

 いや、そもそもそう言う問題では無い。

 紀沙は、もう動くつもりは無かったのだから。

 

 

「悪いけど……」

「……!」

 

 

 沈んだ表情を見せる紀沙の手を、蒔絵は掴んだ。

 そうすると、蒔絵の目を正面から見つめざるを得なくなる。

 真っ直ぐな目だった。

 強い瞳だった。

 

 

 今の紀沙には、直視に耐えない。

 それでも蒔絵は、紀沙を見つめ続けた。

 逃げることは許さないと、小さな身体で告げていた。

 

 

「アンタ、行きたいところがあったんじゃないの?」

 

 

 行きたい場所、確かにあった。

 辿り着きたい場所があった。

 帰って来ないのならば、こちらから行ってやれと思っていた。

 今の、蒔絵のように。

 

 

「こんなところまで来て、諦めるの? アンタが目指してた場所って、その程度だったの!?」

「…………」

「悔しくないの? ――――悔しいんでしょ? だったら、こんなところに閉じこもってちゃ駄目よ!」

「…………」

「それに、約束してくれたじゃない! わたしを」

 

 

 ……ッ。

 駄目だ。

 

 

「わたしを、お祖父さまのところに連れていってくれるって!」

「……無理に決まってるじゃんか」

「なんで!?」

「お祖父さまなんて、この世に存在しないから!!」

 

 

 それは、言ってはいけないことだ。

 わかっているのに、口を突いて出てしまった。

 余りにも真っ直ぐに来られて、言い訳が出来なくて、逃げ道がなくて。

 苛立ちにかっとしてしまって、思わず口走ってしまった。

 一度口を突いて出てしまえば、決壊してしまえば、どうしようも無かった。

 

 

「いない人間に、どうやって会いに行けるって言うんだよ!」

「……わよ」

「会えない! だって刑部蒔絵なんて、どこにもいない! いるのはデザインチャイルド、家族なんて、どこにも、いないんだ!! だったら会えるわけないでしょう!?」

()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 

 ――――ッ!

 

 

「わたしはデザインチャイルド! 刑部博士の造り出した人造生命! そんなこと、()()()()()()()()!」

 

 

 知らないはずが無い。

 どうして両親がいないのか? どうして使用人はロボットばかりなのか? どうしてあんな広い家に閉じ込められているのか?

 聡すぎる頭脳を持つ蒔絵が、そのことを疑問に思い、調べないはずが無い。

 

 

 そして、辿り着けないはずが無い。

 普通の人間なら不可能だが、刑部蒔絵には出来る。

 優秀だから。

 天才として造られた彼女にとって、凡人のセキュリティなど意味を成さないから。

 だから。

 

 

「それでも! わたしはアンタを信じてる!!」

 

 

 だから、嘘でも祖父に会わせてくれると言ったことが嬉しかった。

 自分に与えられた「天才」で、助けたいと思うほどには。

 

 

「わたしをお祖父さまに会わせてくれるって、信じてる!!」

 

 

 信じてる。

 それは、言葉の暴力と言うには余りにも眩しくて。

 紀沙の胸中に、重すぎる一撃となって、確かに届いたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 信じると言う文字には、ひとつの意味しか無い。

 しかし一方で、信じると言う()()には、いくつもの意味がある。

 この場合の蒔絵の「信じる」と言う意味は、存在しない祖父に会わせてくれると言う、言葉通りの意味にはならない。

 

 

 信頼すると言うことだ。

 成功や失敗はどうでも良く、約束を守ることすら埒外に置いている。

 信じ抜くと言うことだ。

 紀沙は必ず言ったことを()()()()と、一片の曇りも無く信じ抜いているのだ。

 刑部蒔絵と言う少女は、それくらには紀沙に()()()()()

 

 

「信じてる、か」

 

 

 実績も無い、そしておそらく実力も無かった。

 スミノが消えたその瞬間に、何も出来なくなってしまう。

 でも、まだ全てが無くなってしまったわけでは無い。

 少なくとも、蒔絵は信じてくれている。

 たった1人でも自分を信じてくれているだけで、人はこんなにも力を得るものだったのか。

 

 

「……なら、しょうがないかな」

「じゃあ」

「うん」

 

 

 ようやく笑って、紀沙は頷いた。

 単純すぎるかもしれない。

 でも、今はそれくらいで良いのかもしれない。

 それに、このまま終わりたくないと言う気持ちも、確かにあるのだから。

 

 

(たとえ、人で無くなってしまったとしても)

 

 

 それでも、人類にかける思いは本物だったから。

 だから紀沙は、もう少しだけ頑張ってみようと思った。

 それに、きっと紀沙も()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「さて、じゃあまずはそうだな。えー……トーコ」

「は、はいッス!」

 

 

 それまで黙っていたトーコが、呼びかけられてびしっと敬礼した。

 海軍式でも陸軍式でも無いそれは、とりあえず形だけ真似てみたと言う感じだった。

 まぁ、いちいちそんなことは指摘したりはしない。

 重要なのは、紀沙がトーコを使ってやろうとしていることの方なのだから。

 

 

「貴女、とりあえず死んでくれる?」

「…………え?」

 

 

 溜めも何もなく言われた言葉に、トーコは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 それは彼女の演算力が低いからと言うばかりでは無く、もっと根本的な原因があった。

 要するに、紀沙の言葉が意味不明だったのである。

 しかし咀嚼(そしゃく)するように言葉を反芻して、トーコは何とかその意味するところを理解した。

 そして。

 

 

「え、ええええ――――~~っっ!!??」

「五月蝿い」

「酷いっ!?」

 

 

 いったい、紀沙はトーコを使って何をしようと言うのか。

 それは良くわからないが、一つ確かなことは、彼女が立ち直ったと言うことだった。

 1人のデザインチャイルドの少女によって。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 碇冬馬と言う人間は、意外と素直でわかりやすい人間である。

 海軍に入ったのは釣りが趣味だからだし、料理を覚えたのは唯一の肉親である姉が出来ないことだったからだし、煙草が好きだが艦内は禁煙だから皆の前で吸ったことは無い。

 女性は年上のムチムチ系が好みだが、好かれるのは決まって年下の女の子だった。

 

 

「あー、やっぱ壊れてるかー。まぁ、思いっきり海水に浸かっちまったもんなー」

 

 

 他に部屋が無いためか、あるいは別に隠す必要を感じていないのか、冬馬はイ15の通路でしゃがみ込んでいた。

 その手にはアンテナらしき物がついた小型の通信機があって、冬馬はそれを逆さにしたり横に立てたりしていた。

 振れば直るかもと思っているあたり、意外とアナログ派なのかもしれない。

 

 

 それでもあおい達に頼む気は無いのか、使えないなら使えないで諦めている様子だった。

 こだわっていないと言うか、そもそもやる気が無いように見える。

 最後には通信機を放って、壁に寄りかかって座り込んでしまった。

 何をするでもなく、ぼうっとしている。

 

 

「ま、良く頑張った方だろうよ。あのお嬢ちゃんもよ」

 

 

 それは、冬馬が心底から出た言葉であったかもしれない。

 これまでいろいろあったが、紀沙が気を張っていたことは冬馬も直に見て知っている。

 だから、今回のことは良い機会だったのでは無いかとも思っていた。

 まぁ、一方で――聞き分けが良い子だなと、少しがっかりしたのも事実だった。

 

 

「…………うん?」

 

 

 などと思っていると、背中に違和感を感じた。

 もやもやとした感触が背中全体に広がってくるので、最初は壁が固いせいかと思っていたが、どうも違う。

 むしろ、何か別の生き物が背中と壁の間でもぞもぞしているような……って。

 

 

「なんだ? ……って、お? おお? え、ちょっと待って怖い怖い怖い」

 

 

 背中の様子を見ようとして、それが出来ないことに気付く。

 いや、それどころか、壁から背中を引き離すことも出来ない。

 と言うか、がぱあっと壁が変改して大きな口のような形になった。

 ここまで来ると、ちょっとしたホラーである。

 

 

「な、なんだああああああっ!?」

 

 

 そして、冬馬は逃げることも出来ずに壁に食べられてしまった。

 正確には、壁の向こう側に突如として穴と通路が出来て、エアーで吸い込まれてしまったのだ。

 通路――スロープを少しの間滑り落ちて、そして次に視界が開けた時には……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ15はナノマテリアルの総量の少なさから、出来ることには限りがある。

 そう聞いていたのだが、冬馬の目の前に広がっている光景は、それを否定するものだった。

 豪奢な装飾が施された室内にはシャンデリアまであり、しかもテーブルには食事の用意までされていて、テーブルクロスには銀の食器が並べられていた。

 

 

 椅子は9つ。

 蒔絵とジョンの席もあり、彼女達を含む全員がすでに席についていた。

 冬馬が他と違う点があるとすれば、ロープで縛られていたことだ。

 もちろん、イ15に縄のロープなどと言う気の利いたものがあるわけが無い。

 

 

「えーと、これはいったいどう言うことですかね?」

 

 

 裏切り者! と言いたげな顔で冬馬が見たのは、恋とあおいだった。

 2人はもちろん縛られてなどおらず、むしろどちらもいつものように笑顔を浮かべていた。

 ある意味、笑顔と言うのは便利な仮面だ。

 

 

「あらぁ。お姉さん、別にトーマくんに賛成なんて言ったことはないけど~?」

「それに加えて、僕は常に強い者の味方なんですよ」

「お前らサイテー!」

 

 

 ただ、特に冬馬に敵対する意思も無いわけだ。

 あおいは「反対もしない」し、恋に至っては「紀沙が冬馬より強い立場を得た」と教えてくれているのだから。

 こう言う会話は、慣れと度量が必要だ。

 

 

(さーて?)

 

 

 恋とあおいは今言った通りだ。

 蒔絵と梓は元々が親紀沙なので、むしろ舌を出して「ざまぁ」と言った様子だ。

 ジョンは不干渉なのか謎のラップを口ずさんでいるし、静菜はしれっとした顔でいる。

 良治はやや顔色が悪そうだが、これは紀沙の()()以後、常にそうだとも言える。

 8人目は冬馬自身、そして9人目――最奥、()()の席には当然。

 

 

「海草のスープです」

 

 

 当然、空席のそこに紀沙はいない。

 代わりに、後ろからスープの入った深皿が冬馬の前に置かれた。

 湯気を立たせるそれは、まさに作り立てであることを示している。

 繰り返すが、そんな設備はイ15には無い。

 無いはずだ。

 

 

「いったいどう言う手品を使ったのか、教えて貰っても良いかい?」

「特に大したことはしていないです」

 

 

 紀沙が――エプロン姿で――そこにいて、全員に配り終えたスープを自分の席にも置いていた。

 

 

「イ15のメンタルモデル、「トーコ」に、引っ込めと()()()だけです」

 

 

 簡単なことだ。

 イ15の演算力がカツカツだったのは、無理にメンタルモデルを形成しているからだ。

 メンタルモデルの形成は、口で言うよりもずっと演算力を使用する。

 何しろ人間ですら自分の肉体の全容を解明できていない、それ程に人体とは複雑な構造物なのだ。

 イ15程度の潜水艦の演算力では、おそらく全体の9割近くを割いてようやくと言うところだったろう。

 

 

 だから、メンタルモデルを捨てさせた。

 メンタルモデルさえ引っ込めてしまえば、イ15は霧らしい能力を使用できる。

 艦内の設備形成もそうだし、穴を開けて別の部屋と部屋を繋げることなど造作も無い。

 海草の採取や海水の淡水化、塩すらも抽出することが出来る。

 そして、何よりも重要なことは。

 

 

「イ15は現在、自身をイ404を旗艦とする()()に所属する艦と認定しています。故に、旗艦艦長の私を艦隊司令(ボス)として承認しています」

「なーる。でもそれじゃあ足りないだろ。イ404は消失したんだから、艦隊もクソも無い」

「いいえ。イ404は()()()()()()

 

 

 自らの胸に手を当てて、紀沙は言った。

 イ404は自身(ここ)にいる。

 すなわち。

 

 

「――――私の身体の4分の1以上は、すでにイ404のナノマテリアルで構成されています」

 

 

 紀沙がちらりと良治を見れば、彼は青い顔で頷いてくる。

 それを振り払うように視線を冬馬へと戻して、紀沙は言った。

 

 

「よって、私は今もイ404の艦長です」

「……つまり、俺らのボスってわけだ」

「間違っていますか?」

「いや、()()()()良いじゃん」

 

 

 自爆すら厭わぬ突撃。

 それはイ404の、千早紀沙の基本戦術(モットー)

 自身を憎むべき霧と例えた紀沙の姿は、まさにそれだった。

 

 

「どう言う心境の変化?」

「変化なんてしてないですよ、霧は今も大嫌いです。でも」

 

 

 対面の席の蒔絵を見つめる、頷いてきた。

 スプーンを手の中で弄びながら、紀沙は言った。

 

 

「負けるよりはマシです。立ち止まるよりは遥かにマシです。私は、皆にもそうあるよう求めます」

「……了解だ、()()

 

 

 ()()()を外して、冬馬は言った。

 その瞬間にナノマテリアル製のロープが外れて、冬馬は席を立った。

 他の面々も――何故かジョンも周りの雰囲気に流されて――立ち上がり、一様に敬礼した。

 スプーンを逆手に持ち、紀沙は言った。

 

 

「本艦はこれより地中海、そして黒海に入り、ロシア政府との盟約を果たすべく行動に入ります。同時に、イ号404()()の奪還作戦を敢行、戦闘力の完全回復を図ります」

 

 

 目的地は?

 決まっている。

 

 

「目標は、クリミア――――」

 

 

 真っ白なテーブルクロスが、さっと地中海を中心としたヨーロッパの地図に変わる。

 ちょうど、紀沙のスープ皿の位置に目的地があった。

 そこへ、逆手に持ったスプーンを叩きつけた。

 

 

「――――セヴァストポリ!!」

 

 

 スープが飛び散り、地図を濡らす。

 それは、クリミア半島の勢力図を塗り替えているようにも見えた。

 まるで、紀沙達がこれからしようとしていることを暗示しているかのように。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――そして、混乱の1年が終わりを告げる。

 混沌とした情勢の中で暮れた2056年を、後世の人々は「始まりの年」として記憶することになる。

 そして続く新年、2057年を、同じく人々は「終わりの年」と呼ぶ。

 2年、あるいは2年にも満たないこの期間は、後の人類史において一際目を引くこととなる。

 

 

 この2年の狭間とも言うべき年末の1週間と新年の1週間、諸勢力は静かに、しかし激しい動きを見せることになる。

 その動きのすべてはある地点に結びつき、そしてピークを迎えることになる。

 この時期、動きを見せていたのは概ね以下の勢力だった。

 

 

「欧州軍との連絡が回復しつつあるわ。霧の包囲が弱まっているのね」

「そうだねリズ、何かが変わりつつある。僕もそう思うよ」

 

 

 ――――アメリカ。

 ホワイトハウスは年末にアメリカ欧州軍との通信を回復したと発表、10年ぶりに欧州への回帰を宣言。

 10万近い在欧兵力を今なお維持するアメリカの回帰は、欧州情勢を巡る新たな因子となるだろう。

 

 

「さて、いよいよだな中佐。彼女達は辿り着けるかな……?」

「それはわかりませんが、我々はあくまで所定の計画に従って準備を進めるだけです」

 

 

 ――――ロシア。

 ロシア大統領府はアメリカの欧州軍復活の発表翌日に声明を発表。

 第四次対<騎士団>解放作戦『スヴォーロフ』の実施を宣言すると共に、周辺国に協力を求めた。

 陸軍中心のこの作戦が過去3度と同じように失敗に終わるのか、諸国はロシア軍の動静を注視していた。

 

 

アメリカ野郎(ヤンキー)にもロシア野郎(イワン)にも好きにゃさせねえ。ここはオレらの家(ヨーロッパ)だぜ、<騎士団>の奴らのついでに叩き出してやるよ」

「<蒼き鋼(こちら)>としては、人類同士の争いは控えてほしいな」

 

 

 ――――ドイツ。

 マルグレーテ・カールスルーエ少将を中将に昇進させた上で、ドイツ政府は彼女に3個師団から成る1個軍団を与え、東進させる。

 名目はバルカン方面の同盟諸国の救援だが、その動向を周辺諸国は固唾を呑んで見守った。

 そしてマルグレーテの傍には、東洋人の少年の姿があったと言う。

 

 

『さて、<大反攻>の狼煙となるのか。それとも全く別の方向に転がるのか』

「様々な想定をして、いかなる動きにも対応できるようにはしていますが……」

 

 

 ――――日本。

 この1年台風の目として注目を浴びてきたかの国は、この時点では沈黙を保った。

 しかし、ある意味で彼らは今回の事態でも中心にいる。

 たった1隻の潜水艦の存在だけで、彼らは世界の中心に存在できるのだった。

 

 

「進路を地中海に取る。総員、戦時のつもりで当たれ」

「<緋色の艦隊>に遅れを取るな! 『ダンケルク』と合流するぞ!」

 

 

 ――――千早翔像提督麾下<緋色の艦隊>及び『フッド』麾下霧の欧州方面艦隊。

 人類だけで無く、霧の勢力も動いた。

 それが人類側には包囲の緩みと映ったが、姿を消した彼女達に人々は不安の眼差しを向けていた。

 いったい、奴らは次にどこに現れるのか?

 

 

「よ――し、まだ生きてるみたいね。待ってなさいよ、今度こそすぐに行くわ!」

「あ、タカオお姉ちゃん待ってよ~~っ」

 

 

 ――――霧の重巡洋艦『タカオ』中心の、()()()艦隊。

 総旗艦『ヤマト』の庇護の下にあった彼女達もまた、()()()()へ向けて出航する。

 今、世界中の人々が注目するその場所へ。

 その場所の名を、何十億と言う意思が頭の中で、あるいは声に出して、こう呼ぶ。

 

 

 ――――クリミアへ!




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

これでロリアン編は完全に終了、次回からクリミア編になります。
はたしてイ15で攻略できるのか。
様々な勢力が入り乱れることになる現場で、紀沙は<騎士団>に挑むことになります。
幼○戦記ばりの劣勢になりそうです。

それでは、また次回。


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Depth072:「セヴァストポリ」

 2057年1月、クリミアには冬が訪れていた。

 この時期のクリミアには珍しく晴れ間が続いており、普通なら対岸の陸地からでもクリミア半島の姿がうっすらと見えるはずだ。

 しかし現在、クリミア半島全体が深い霧に覆われていて、その姿を見ることは出来ない。

 

 

 そして今、クリミアには人類側の主力軍が集結しつつあった。

 米独露を中心とする精強な陸軍が、<騎士団>占領地を迂回しつつクリミア周辺に兵を進めたためだ。

 しかし互いを連合軍としていないこの進軍は、互いを敵とする歪なものにならざるを得なかった。

 このため今年のクリミアの冬は、世界的な冬の訪れを告げかねない程の危険水域に達することとなった。

 

 

 前年12月下旬に各地を発したロシア陸軍は、味方と合流しつつ北と東からクリミアを半包囲した。

 このロシア軍の北側部隊は1月初旬にウクライナ領を進みクリミア北西に達したドイツ軍と対峙し、塹壕陣地を挟んで10日余りの睨み合いを演じる。

 そして1月下旬、ポーランドにて再編されたアメリカ欧州軍がドイツ軍後方に布陣、別働隊がトルコ陸軍と共にコーカサス地方(ロシア国境)に展開し、独露両軍を牽制した。

 

 

 現地で互いの陣地への散発的な銃撃事件が相次ぐ中で迎えた、1月最後の日。

 それぞれの進軍開始から1ヶ月余りが経ってようやく、米独露三国の間に政治合意が成立。

 同日中に互いの軍への臨戦態勢が解かれ、クリミアの北西、北、北東に3つの軍を配置することが決まった。

 霧の海洋封鎖以後、こうした軍事連合が行われるのは初めてのことだった。

 

 

 そして新年2月。

 米独露を中心とする統合司令部がポーランドに置かれることとなり、中旬までには他の参戦国・支援国から司令部要員や調整官がワルシャワに派遣され、司令部としての運用を開始した。

 2ヶ月にも渡り目前の人類軍を野放しにする<騎士団>を訝しみつつも、ついに2月16日、ワルシャワ司令部はクリミア包囲軍に対し、作戦の開始を命令。

 

 

 翌2月17日、現地部隊の司令官による最終の会議が持たれた。

 後世の()()()()()()、司令官達は過去の因縁を脇に置き、目前の人類の脅威を排除すべく一致団結し、精力溢れる議論を戦わせたとのことである。

 彼らは、<騎士団>と言う脅威に共に立ち向かったのである――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――などと言うことも無く。

 

 

「てめーらが先、オレ達は後。それで良いなら参加してやっても良いぜ」

「勝手なことを言わないで貰いたい! 貴軍の方が戦車の数も多い、先陣は貴軍とするのが妥当だ!」

「いや、クリミアへの侵入路は幅5キロも無く戦車には狭すぎる。橋も落とされているのだから、航空基地の近いロシア軍が先に動くべきだ」

我が軍(ロシア)の作戦に後から参加しておきながら、何だその言い草は!」

よそん家(ウクライナ)の庭に勝手に居座っておいててめーらの作戦とか吐かしてんじゃねーぞ」

クリミア(ここ)は我らの父祖の土地だ!」

「待て、今はそんなことを話している場合じゃないだろう!」

 

 

 今回の対<騎士団>作戦に兵力を派遣したのは、アメリカ・ドイツ・ロシアだけでは無い。

 領土を侵されたウクライナ、モルドバ、ルーマニア等の周辺諸国に加え、ポーランド、チェコ等のドイツの同盟諸国、トルコ、ギリシャ等のアメリカの同盟諸国、そして位置的に大きく離れていながら日本。

 主力は米独露の数十万の軍団だが、その他の国々も数百から数千の兵を出している。

 

 

 とは言え百や千での兵力では作戦に影響を与えられるはずも無いので、ほとんどいないような物だった。

 だから、メディアに公開するような会議でも無い限り、作戦についての話し合いは米独露が密室で行う。

 とは言え過去も現在(いま)も、いがみ合って来た3国である。

 例えばアメリカとイギリスと言う組み合わせならまだ上手くやれたかもしれないが、これは無理だ。

 アメリカとロシア、ロシアとドイツ、ドイツとアメリカ。

 

 

「まったく話にならん! 貴様らと同じテーブルに着くなど時間の無駄にしか思えん!」

「そりゃこっちの台詞だっつーの。てめーらに足を引っ張られてちゃ、オレの可愛い兵隊の命がいくらあっても足りねーよ」

「歩調を合わすつもりが無いと言う意味なら、私も両方に同意したいところだ」

 

 

 ロシア軍、イヴァン・グロモフ陸軍中将、指揮兵力約8万人、他別働部隊3個師団。

 ドイツ軍、マルグレーテ・カールスルーエ陸軍中将、指揮兵力約5万人、他後方部隊2個師団。

 アメリカ軍、コリン・シュワルツコフ陸軍中将、指揮兵力約4万人、他別働部隊2個師団。

 会議に参加しているのはこの3人と通訳のみの、完全な密室会議であった。

 

 

 後世の記録によれば、当時の通訳達は「3人は一目会った瞬間から、己が何をすべきかを悟った」と異口同音に語ったと言う。

 それがために3人が過去の因縁を超えて協力したと言う美談が残ったのだが、実際のところ、通訳達が言ったのはそう言うことでは無かった。

 つまり3人は互いの最初の一言目で、「部下を守らなければ」と言う認識で()()()()のだ。

 

 

「うわっ」

 

 

 会議全体に殺伐とした空気が漂い、このままでは決裂かと通訳達が心配――実を言えば、彼らは中将達の言葉を訳すのにかなりマイルドな表現を使っていた――していた時だった。

 密室会議のため、参謀達が外に出て切れていたモニターの1つが、突然復活した。

 じろり、と、3人の中将がそちらを見やった。

 通訳達と違って落ち着いているのは、何となく()()とわかっていたからだ。

 

 

『――――長い割に、結論が出ないようですね』

「そりゃあ、面子が揃ってない内にまともに会議なんてするわけねーだろ」

 

 

 モニターから聞こえて来た声に、マルグレーテはシニカルに笑った。

 そこに映っていたのは、サングラスを着けた東洋人だった。

 彼の名前を、マルグレーテはそのまま言った。

 

 

「アドミラル・チハヤ――千早翔像」

 

 

 翔像の参加により、会議は三者から四者へと形を変えて再会となった。

 中心になったのが誰なのかは、言うまでも無かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「作戦を説明する」

 

 

 イ401の発令所でそう告げたのは、当然のこと艦長の群像だった。

 彼はすでに黒海に身を潜めていて、ロシア領海からクリミア半島の様子を窺っていた。

 群像自身はドイツ軍と共に陸地を通り、イ401はドーバー海峡から地中海を経由して黒海に入った。

 ギリシャ側は<騎士団>が浸透していて危険だったが、トルコ沿岸を通ることで避けた。

 

 

 隣国まで近付かれてトルコ政府は相当の危機感を持っていたらしく、イ401、そしてアメリカへの協力姿勢を隠さなかった。

 そして何よりイ401の黒海進出を助けたのは、『ダンケルク』を中心とする霧の地中海艦隊だった。

 『ダンケルク』艦隊は今や、霧の中で最も親人類派と言えるだろう。

 

 

「まず<騎士団>の支配領域だが、事前情報の通り霧に覆われている。これは霧の艦隊の強制波動装甲にも似た仕組みを持っていて、外からでは中の情報は一切得ることが出来ない」

 

 

 海上には『ムサシ』と『フッド』、<緋色の艦隊>と霧の欧州方面艦隊も合流している。

 本来は黒海には黒海の霧の艦隊が配置されているのだが、昨年後半、連絡を断ってそれきりらしい。

 黒海は外洋と違って狭く、陸上の<騎士団>からの攻撃を受けやすかったのが原因だった。

 だからこの戦いは、霧の艦隊にとっても味方の復讐戦と言うことだ。

 

 

「バリアみたいなもんってことか?」

「いや、どうやら物理障壁と言うわけでは無いようなんだ。情報のみが遮断されている。これはクリミア半島全体と、西に伸びた<騎士団>の占領地にも見られる現象だ。ただクリミア以外は点で押さえているばかりで、街が無い場所などは霧で遮断されたりはしていない」

 

 

 それどころか、<騎士団>の西進は止まっていた。

 何かを目指すように西へ西へと進んでいた<騎士団>だが、まるでその必要がなくなったかのように、進軍が停止したのだ。

 そして群像は、「まるで」では無く、実際に必要が無くなったのだと判断していた。

 

 

 いずれにせよ、クリミアの状況は外からではわからない。

 このまま攻撃を開始しても、過去のロシア軍のように失敗に終わる可能性がかなり高い。

 だからこそ、まず内側から攻略する必要があった。

 

 

「内側からって、どうやって?」

「もしかして、私達で潜入するんですか……?」

「いいや、オレ達はここで待機だ。と言うより……」

 

 

 イオナのサポートが無い今、群像達には並の潜水艦程度の戦力しか無い。

 この状態で霧と同等かそれ以上の相手と戦うのは、余りにもリスクが高い。

 だから、<騎士団>の霧のフィールドを解く役目は他に任せていた。

 

 

「……もう、中にいる」

 

 

 ()()()が<騎士団>のフィールドを解除した時。

 その時こそ、人類側がクリミア半島へ総攻撃を開始する時であり。

 群像達が――群像が、イオナを取り戻すべく戦うべき時だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 思ったよりも、どうと言うことも無く入り込むことが出来た。

 ボンベの口を離して、新鮮な空気を大きく吸い込んだ。

 ぴったりと身体に張り付くウエットスーツの襟元を引っ張りながら、紀沙は周囲を警戒していた。

 冬の海の冷たさからか、頬は青白く、赤みがほとんど無かった。

 

 

「ぷはっ。やばいくらい冷てぇ」

「……流石に堪えます」

 

 

 後からついて来たのは、冬馬と静菜だ。

 紀沙達3人は海沿いの岩場に身を隠すようにして、上陸したところだった。

 あの、クリミア半島へ。

 上陸したのは、セヴァストポリ南方の海岸である。

 

 

 ナノマテリアル製のボンベを捨て、ウエットスーツを脱ぎ、防水の荷物袋の中から乾いた衣服を取り出した。

 この気候でいつまでも濡れたままでは風邪どころでは無いし、ウエットスーツで動き回るわけにもいかない。

 なお冬馬は一部始終をガン見していたが、静菜に延髄を打たれて2分ほど気絶させられていた。

 

 

「恋さん、聞こえますか」

『……感度良好。良く聞こえます、艦長』

「良かった。ナビお願いします」

『承知しました。お任せください』

 

 

 イ15は、もちろん海中で待機している。

 沖合いは深い霧に遮られていて見えないが、不思議なことに、内側は快晴時のように視界が開けていた。

 どうやらあの霧は、フィールドと言うよりはカーテンに近いようだ。

 そして着替えを終えて冬馬が起きた頃に、紀沙達は岩場を進み始めた。

 

 

 程なく幹線道路に出たが、雪が薄く残った道に独特の跡が残っていた。

 考えるまでも無く普通の車のタイヤとは異なるそれは、キャタピラによるものとわかった。

 つまり<騎士団>の戦車が走った跡であり、それも複数あった。

 濃淡があるのは、時間帯によるものだろう。

 

 

「どっちに進む?」

「左です。セヴァストポリの街は西側にあるので」

 

 

 そのまま数キロ進んだところで、海沿いに何かを見つけた。

 元々ビーチだったらしい砂浜に、黒い大きな塊が流れ着いていたのだ。

 流れ着いたと言うよりは、砂浜に乗り上げたと言った方が正しいのかもしれない。

 何しろ見つけたのは、タンカーかと思えるくらいに大きな船だったのだから。

 

 

「恋さん、これは」

『……艦形を照合しました。イ15のデータベースによると、霧の大戦艦『セヴァストポリ』の艦首部分です』

「おい、艦の側に何かあるぞ。ってか、あれは……」

 

 

 霧の大戦艦『セヴァストポリ』と言えば、『コンゴウ』や『フッド』と同じ霧の旗艦の1隻だ。

 それが何故、クリミアの海岸に座礁しているのかはわからない。

 しかし、ただならぬことだと言うことは理解できた。

 何故ならば……。

 

 

「……ひでぇことしやがる」

 

 

 冬馬の一言が、全てを物語っていた。

 そして、この時ばかりは紀沙も否定はしなかった。

 いくら霧が敵だとは言っても、憎い相手だとは言っても、メンタルモデルだとは言っても。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、流石に何も言えない。

 

 

 だから紀沙は、冬馬が()()を下ろすのを止めなかった。

 静菜が彼女を砂浜に埋めるのも、止めなかった。

 砂浜に横たえられた彼女の姿を見なかったもの、嫌悪からでは無く配慮からだった。

 クリミア上陸で最初に見るものがこれとは、夢にも思わなかった。

 ――――前途には、まさに霧が立ち込めていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 セヴァストポリは、広大な街だ。

 最盛期には50万人の人間が居住していた一大市域で、これは日本の宇都宮や倉敷に相当する規模だ。

 工業も盛んである一方、農業や観光業も盛んであった。

 現在は大分人口も減少しているが、それでも一大都市であることに変わりは無い。

 

 

 特に、ロシア黒海艦隊の本拠地として有名だ。

 近隣国のウクライナやトルコとの間で争奪を繰り返してきており、その関係だけで歴史絵巻が数本は出来るだろう歴史を持っている。

 とにかく古くて大きい街なのだ、少なくとも……。

 

 

「……誰も、いない?」

 

 

 少なくとも、街角に誰もいないなどと言うことはあり得ない。

 しかし、そのあり得ないはずのことが、紀沙達の目の前で起こっているのだった。

 

 

「まだ昼前だぜ? 誰もいないってのはおかしいだろ」

「……建物の中も見てみましょう」

 

 

 遠目に海上の霧が見えるだけで、セヴァストポリの上空は快晴だった。

 ここに来るまでの道中、『セヴァストポリ』の残骸以外のものは何も無かった。

 人が通らないことも訝しんだが、<騎士団>占領下で行動を制限されているのかと思った。

 しかし都市内部にあっさりと入れたことで、その考えが間違っていたことに気付いた。

 

 

「この家にも誰もいねえ」

「スーパーにも店員すらいませんでした。そちらは?」

「公園にも誰もいなかった。明らかに様子がおかしい……」

 

 

 30分ほど近所を探してみたが、結果は同じだ。

 街路樹、石畳の通り、小豆色が多い屋根の民間住宅地。

 緑豊かなセヴァストポリの街は、落ち着いたヨーロッパの街そのものだ。

 他の街なら、カフェで人々が談笑していたりの一場面くらいは見ることが出来ただろう。

 

 

 しかし、この街にはそれが無い。

 まったく無い。

 人っ子ひとり存在しない。

 数十万人の人間が生きる都市で、これは明らかに異常だった。

 想像してみて欲しい、同程度の人口を持つ横須賀や尼崎から人間が1人残らず消えたらどう見える?

 

 

「不気味ですね」

 

 

 静菜がそう言うが、実際には不気味どころでは無い。

 紀沙は耳元に手を当てて、イ15の恋と通信した。

 

 

「恋さん、私達のいる場所はセヴァストポリで間違いありませんか?」

 

 

 ……一瞬、返事に間が空いて、紀沙は緊張した。

 <騎士団>の霧のフィールドに覆われたクリミア半島は、霧の力をもってしても不明な部分が多い。

 通信が途絶した場合に備えて行動パターンはいくつか考えてあるが、しかし通信が確保できているかいないかではミッションの成功率は大きく違ってくる。

 

 

「恋さん?」

 

 

 もう一度呼びかけると、冬馬と静菜もやや緊張した面持ちで紀沙を見ていた。

 彼らも、この状況での通信の不調が何を意味するのかを良く理解しているのだ。

 しかし慎重に返信を待っていると、思っていたよりもあっけなくそれは来た。

 

 

『はいはーい。大丈夫、そこは間違いなくセヴァストポリの街だよ!」

 

 

 どっ、と疲れが出てきたような気がした。

 何故なら通信機の向こうから聞こえて来たのは恋の落ち着いた声では無く、どこか姦しい幼い声だったからだ。

 具体的に言えば、それは蒔絵の声だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナビゲーターの交代は、蒔絵の希望だった。

 軍人では無い蒔絵にやらせるべき仕事かと言わると厳しいが、しかし彼女が見た目以上に優秀なのも自明だった。

 デザインチャイルドの頭脳は、多様な情報を一度に処理することが出来る。

 

 

「そこは間違いなく、セヴァストポリの街だよ。座標からして間違いない。今の人口は大体30万人くらいだから、誰もいないって言うのは確かにおかしいよね」

 

 

 最終的には、恋の判断による。

 自分がやるよりもずっと紀沙達の役に立つとの判断だ。

 もちろん本人のやる気に押されたと言う面もあるが、実際、艦長のシートに座り複数の端末を操作している蒔絵を見ると、間違いで無かったと思う。

 

 

 今、紀沙達(ビーコン)がどこにいるのか?

 データと実際に紀沙達が見ているものは、本当に一致しているのか?

 内外の通信はどこまで正確なのか?

 霧のフィールドに察知されないために、持続的かつ不規則に専用回線の数式配列を変える必要もある。

 

 

「ぶふっ、くっ……」

「あまり笑えないで貰えますか」

「ご、ごめ……くふっ」

 

 

 けして、「変わって、()()()()!」と言われてショックを受けている間にどかされたわけでは無い。

 それは確かに四捨五入すれば30代だが、まだ20代である、おじさんは厳しい。

 まぁ、蒔絵くらいの背丈の子供からすれば大人の男性はすべからく「おじさん」で一括りなのかもしれない。

 

 

 閑話休題。

 梓が笑いを堪えきれずにいるのはとりあえず置いておくとして、蒔絵の才能と能力は瞠目(どうもく)すべきものがある。

 少なくともオペレーターとしては、恋よりも遥かに上だろう。

 あるいは、もしかすると本当に艦長に向いた素質を持っているのかもしれない。

 

 

「誰もいない……街の人はどこに行ったのかな。でもこっちから街のシステムにはどこも繋がらないから、そもそもライフラインも動いていないみたい。嫌な予感がする」

 

 

 それはそれとして、セヴァストポリだ。

 30万人もの人々が住んでいた大都市にも関わらず、実際には誰もいない。

 どこかに避難したのか、それとも<騎士団>に連れて行かれたのか。

 今の段階では、考えても想像の域を出てこない。

 

 

「気をつけて」

『わかった。何かあったらまた連絡する』

 

 

 とにかく、今はこのイ15が繋いでいる通信だけが頼りだった。

 これも切れてしまえば、3人の回収すらままならなくなってしまう。

 まさに命綱だ。

 だから蒔絵も、他のクルーも、細心の注意をもって見守っているのだった。

 

 

「……ん。なに? 国際チャネル?」

「ああ、始まったようですね」

 

 

 予定時刻だ。

 国際チャネルで、連合軍が作戦の開始を宣言したのは、そんな状況の時だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 正直に言えば、表向きその宣言はさほどの衝撃力を持っていなかった。

 かつてイギリスと<緋色の艦隊>が安全保障条約を結んだと発表した時に比べれば、まだ衝撃は弱かった。

 何しろ過去3度も同じような発表があり、そして悉く失敗に終わったのだから。

 

 

『全世界の皆さん、こんにちは。我々連合軍は今日、人類の国土を不当に占拠する侵略者に対する歴史的な作戦を発動しました。今日と言う日は人類の歴史において、忘れられることの無い日となることでしょう』

 

 

 遥かヨーロッパの地――連合軍司令部があるワルシャワからの国際放送――からの映像を閣議室のモニターで見つめながら、楓首相はしかし「今回は成功するかもしれない」とも考えていた。

 何故ならば、今回は過去の3回とは条件が違うからである。

 今回の第四次クリミア作戦には、過去には無かったものがいくつもある。

 

 

 まず、国際的な支持だ。

 クリミア半島は歴史的に近隣国で争奪が繰り返された土地で、ロシア軍の行動に異を唱える国も多かった。

 しかし今回はアメリカやドイツ等の欧米諸国との合同作戦であり、表立って反対する国は少ない。

 より言えば、アメリカもドイツも今回は上手くいくかもしれないと思って、干渉してきたとも言える。

 

 

『20カ国を超える連合軍参加国、支援国が、直接的・間接的に我々を支持・援助してくれています。この作戦に関係する全ての国々が、世界の安全と平和のためにその義務を果たすことを宣言したのです。これは、かの<大海戦>以来のことであります』

 

 

 そして何よりも、戦力の質の違いである。

 最もこちらは公になっていないので、傍目には変わらないように見える。

 と言うよりも、一般の人々は夢にも思わないだろう。

 まさか今回の作戦が、人類と霧の共同作戦だなどとは。

 

 

『我々は連合軍の兵士1人1人が、世界中の人々から尊敬と賛辞を受けるだろうと確信しています。何故ならば彼らは、その命を投げ出して史上最悪者の侵略者と戦う勇者であるからです。同時に、我々は彼らのご家族の心の安寧を祈ってやみません』

 

 

 何度も言うが、表向きは人類だけの()()()()だ。

 しかしこの作戦には、千早翔像とその子ども達が秘密裏に参加している。

 <緋色の艦隊>のバックアップがあれば、作戦の幅は相当に広がるだろう。

 アメリカやドイツが「今回こそはもしや」と思い参戦してきたのも、要はそこだ。

 日本では存在感の薄い<騎士団>だが、それでもその脅威の程はここまで聞こえてくる。

 

 

『全世界の皆さん、我々はけして戦いたいわけではありません。しかし非道な侵略者が現れた時、我々は戦わなければなりません。そして我々は勝利します。その条件は我々の結束と、全世界の皆さんの支援です。我々の自由と正義のために。神よ、我々と我々の守る人々にどうか加護を与え給え』

 

 

 衝撃力は無い、が、浸透する力はある。

 モニターの中で演説するお飾りの連合軍司令官――実質は現場の3人の中将の合議体制だ――を見つめながら、楓首相はそう思った。

 ただ問題は、人類の根っこの部分まで浸透するかどうかだ、と。

 

 

 それはつまり、要は勝つかどうかだ。

 勝てば、多少の犠牲を容認してでも人類は前に進むだろう。

 だが、もし負ければ。

 その時は――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人類の高らかな宣言を、その存在は確かに聞いていた。

 ただしそれは世界中で発生している()の1つと言う認識であって、宣言だとか声明だとか、そう言う意味のある()()として聞いているわけでは無かった。

 つまるところ、無視……と言うより、深く聞いてすらいなかった。

 

 

 いや、そもそもその存在にはっきりとした意思は無かった。

 ただ存在しているだけ、と言った方が正しい。

 何故ならその存在の意識は、長い時間を経る中で磨耗し切ってしまっていたからだ。

 もしかすると、意思とか意識とか、そう言う表現すら正しくは無いのかもしれない。

 

 

「――――調整終了」

「……だんだんと、間隔が短くなって来たわね」

 

 

 中世のイタリアの詩人が著したところによれば、地獄とは漏斗(ろうと)状の構造をしているらしい。

 その場所は、まさに漏斗状の構造をしていた。

 底から見上げると、上へ上へと大きくなっていく特徴的な構造だ。

 逆に言えば下へ行く程に小さくなり、最底辺は20メートル四方の四角い空間になっている。

 底には、海水が溜まっていた。

 

 

 溜まっているとは言っても、成人男性の膝ほどまでの深さでしかなく、そこまで大仰なものでは無い。

 ただしその周囲は、大仰と言うよりも、異形だった。

 金属の(つる)がそれこそ植物のようにとぐろを巻き、おそらくは岩石や地層だっただろう壁に大小の蔓が壁を覆い尽くしていた。

 それは人工的であり、同時に植物的でもあり、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。

 

 

「人類が攻めてくるようですが、わかっていますね」

「あの御方は今、肉体と精神を整えるために眠りについています。それが終わるまでは、何人たりともこの聖櫃に入れてはならない」

 

 

 そして蔓の間に鬼灯(ほおずき)の如く灯りが揺れて、最底辺の中心にある大きな蔓の塊――「聖櫃」と示された物体――があり、良く見れば階段や手すりのような物も見える。

 言葉を信じるのであれば、誰かが眠っているのだろう。

 言われて見れば、人間大の大きさをしているようにも見える。

 

 

「さぁ、行きなさい。<騎士団>よ」

「あの御方を求めて群がってくる者達を、悉く排除しなさい」

 

 

 鬼灯達の輝きが、一際強くなる。

 その輝きの下に、一瞬人の形をした影が姿を見せた。

 そして聖櫃の前に唯一立つ2人の少女、あの『ビスマルク』姉妹の命令と共に、彼らは光の線となって上へと消えた。

 

 

 それを見送った後、『ビスマルク』姉妹の視線が同じ場所へと向く。

 先程は「唯一」と言ったが、実はもう1人、聖櫃の側に()()()()()()()()()()

 『ビスマルク』姉妹とは違う、銀の髪の彼女は、瞳を閉じたままそこにいた。

 そんな彼女に、『ビスマルク』が言う。

 

 

「貴女にも役に立って貰いますよ」

 

 

 言われて、そのメンタルモデルの少女は、ゆっくりと目を開けた。

 そして。

 その両の瞳には、一切の光が無かった――――。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言う訳でクリミア編です。
ここを超えると最終章まであと一歩なので、頑張りたいと思います。

それでは、また次回。


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Depth073:「暗闇の中で」

 とにかく、このままじっとしていても仕方が無い。

 そう判断した紀沙達だったが、一方で明確な指針があったわけでは無かった。

 何しろ、セヴァストポリの街は広大である。

 市街地だけでも相当の広さで、隈なく探そうと思えば何日かかるかわからなかった。

 

 

「なんつーか、何ヶ月か前までは人が住んでましたって感じだな」

 

 

 民家に入ると、随分と空気が篭っていた。

 長い間換気をしていないし、掃除もしていない、人がいた気配が僅かに残っているくらいだ。

 台所等は腐海と化しているので、近付く気にはなれなかった。

 埃も積もっていて、歩くと足跡がくっきりと残る程だ。

 

 

 冬馬の言う通り、何ヶ月か前までは人が住んでいた、と言った様子だ。

 ただ1軒や2軒ならともかく、街全体がこんな様子なのだ。

 何の前触れも無く、突然消えたと言われれば納得も出来るだろう。

 しかし、そんなことが起こり得るのだろうか。

 

 

「うーわ。服にキノコとかほんとに生えるんだなー冬なのに」

「何をやっているんですか……」

 

 

 ダイニングでソファ――もちろん、埃塗れだ――のあたりにいた冬馬が、脱ぎ捨てられていた衣服らしきものを持っていた。

 女性物だったので一瞬呆れた紀沙だったが、ダイニングの他の場所に、おそらく男物と子ども物の衣服が無造作に()()()()()()、表情を変えた。

 洗濯物を放置している、にしては余りにも不自然だった。

 

 

「非常時と言うことであれば、普通は住人全体に避難勧告が出されるのでは?」

「まぁ、そうですよね」

 

 

 黙り込んだ紀沙に、静菜がそう言ってくる。

 確かに、<騎士団>侵攻に合わせて避難勧告が出ていても不思議では無い。

 しかし目の前の状況は、そう言うものとは違う気もした。

 だが今は、静菜の説に乗って行動する他に指針が無かった。

 

 

「蒔絵ちゃん、このあたりで大人数が避難できる場所ってどこかある? 今の時代、この規模の都市ならシェルターくらいあると思うんだけど」

『んー、ちょっと待ってね……うーん、シェルターとはちょっと違うけど』

「なに? どこ?」

 

 

 セヴァストポリは広い、その市域は市街地だけでは無く、近隣の無人地帯にまで広がっている。

 かつては軍事都市として閉鎖されていた場所もあるくらいだ、シェルターくらいあってもおかしくは無い。

 あるいは、全員とは言わなくとも、いくらかの住民はそこにいるのかもしれない。

 

 

『それだけの大規模な人数を収容できそうな空間は、街の東側――バラクラヴァ』

 

 

 セヴァストポリを構成する区域のひとつ、都市の東端だ。

 そこに、セヴァストポリの人々はいるのだろうか。

 言いようの無い不安と共に、紀沙は東へと向かうのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 バラクラヴァ地区の「大規模な人数を収容できそうな空間」は、実際に広かった。

 意外に奥深い空間で、内陸の山をくり貫いて空間を広げているのでは無いかと思われた。

 ただ、ここに人々が現在も避難しているのかと言うと、そうとは思えなかった。 

 

 

「なぁ、ここってひょっとしなくてもヤバいんじゃないか?」

 

 

 施設自体には、簡単に入ることが出来た。

 沿岸部の蒔絵が示した座標に行くと、岩盤に偽装した入口を発見した。

 と言っても、擬装用の岩を模した鋼板は剥がれ落ちていて、電気が通っていないのか電子式のロックは手動で破壊するしか無かった。

 

 

 中は真っ暗だが、ライトで照らした限りは鋼鉄の箱をいくつも溶接したような構造だった。

 シェルターと言うよりは、車両や航空機の駐機場と言った方がイメージしやすいかもしれない。

 繰り返すが、ここはシェルターでは無い。

 明らかに、絶対にだ。

 何故なら。

 

 

核の(ハザード)シンボル……」

 

 

 黄色時に、黒い3つの扇のマークが、3人の目の前にあった。

 大多数の人間を避難させようと言う場所に、こんなものは描かない。

 むしろこのマークは、逆に効果をもたらすために描かれるものだ。

 ただ、少し気になる部分もあった。

 

 

「……古いですね」

 

 

 シンボルマークが、薄汚れて半分近く消えていたのだ。

 静菜が手の甲でざっと拭き取ると、埃と土が混じり合った塊がこそげ落ちた。

 足元を良く照らしてみると、枯れた葉や樹脂の塊のようなものがそこかしこに落ちていた。

 どこか、ぬるぬるとした感触も足裏に感じる。

 ヘドロか何かだろうが、気持ちの良いものでは無かった。

 

 

「今日び原子力発電所なんて古い施設、動かしてるとこはねーだろ」

「そうですね。言われてみれば」

 

 

 ロシアならあり得るかもしれないが、天然資源の輸送に支障をきたしている今の時代、太陽光や風力等が人類のエネルギー源だ。

 火力や原子力のような、資源依存型の発電所を稼動させている国はほとんど存在しない。

 後の可能性として考えられるのは、軍事施設だろう。

 

 

「でも、クリミアに核兵器の施設なんて無いだろ。紛争地帯だぞ」

「それも、そうなんですよね」

 

 

 先にも言ったが、クリミア半島はロシアを含む近隣諸国の争奪の地だ。

 そんな場所に核兵器を貯蔵すると言うのは、余りにもリスクが高い。

 だから、ここはロシア軍の施設では無い。

 しかしシェルターでは無い、いったいここは何なのだろうか。

 

 

「蒔絵ちゃん、ここは? ……蒔絵ちゃん?」

『……おかし……報……違う。そこに……な物、ある……け……」

「……通信が」

 

 

 施設の中だからか?

 いや、霧の通信にそんな障害は存在しない。

 ならば、いやまさか、そんな。

 ()()()()()()()()()

 

 

「おい」

 

 

 緊張を孕んだ声で、冬馬が紀沙の肩を叩いた。

 ライトの光で照らされた顔は、いや紀沙と冬馬の間に、埃とは違う白いもやのようなものがあった。

 

 

()()()()()()()()?」

 

 

 瞬間、遠くで重い金属が動く音が聞こえて来た。

 まだ遠い、くぐもった重厚な音だ。

 それは紀沙達が通って来た入口の方から聞こえて来た。

 ――――罠だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 自分達の領域への侵入を、<騎士団(彼ら)>が気付かないはずが無い。

 そしてもう一つ、彼らはクリミア半島内部を完全に掌握している。

 だからクリミア半島の中にある施設で、彼らが知らないものは存在しないのだ。

 

 

「半世紀以上も前のことになると、人間は自分達の持ち物のことすら忘れるらしい」

 

 

 グルルル、と、獣の唸り声が聞こえた。

 それは男の足元にすり寄ってきている数匹の犬……いや、オオカミが発したものだった。

 唸り声のように聞こえていたのは、甘えて喉を鳴らす音だったようだ。

 男はオオカミ達の鼻先に手の先を向けて、手指の動きで何か指示をしていた。

 

 

 周りのオオカミ達は、ふんふんと鼻を動かしながら男の手指の動きを追っている。

 どうやら、何かの匂いを感じ取っているらしい。

 灰色の、冷たい毛色のオオカミ達がゆっくりと奥へ進んでいく。

 オオカミ達が背にしているのは男と、朽ち果てつつある施設への入口。

 そして正面には、何人か――おそらく3、4人――の足跡。

 

 

「人間の意識をトレースするなどわけは無い。居住区の住民が消えてしまえば、近くに移動したと考えるだろう。そしてここは、空間的にはうってつけだ」

 

 

 この施設が稼動していたのは、半世紀以上も昔のことだ。

 しかし、その事実を隣接するセヴァストポリの住民でさえ()()()()()()

 セヴァストポリは軍事都市であり、表には艦隊の大規模な基地も設営されていた。

 だからセヴァストポリの住民も、海軍と言えばそれだと思い込んでいた。

 しかし、事実は違う。

 

 

「隠蔽された()()()()だよ、ここは」

 

 

 この施設はかつて、原子力潜水艦の秘密基地があった場所だ。

 とは言え『白鯨』のような完全に制御されたものでは無く、不完全な「海面下の原子炉」でしか無い代物だったが……とにかく、ここは原潜の基地だった。

 もはや、ロシア人ですら存在を忘れている場所だ。

 もちろん、原潜本体はとっくの昔に撤去されており、完全に放棄されて久しい。

 

 

「良し……もう良いだろう。……行け!」

 

 

 男が手を振って命じると、オオカミ達は男の周りを一周走って、それから施設の奥へと駆けて行った。

 床に不用意に残された足音と、微かに残った人間の匂いを追いかけて。

 人間の血肉で()()()()()彼らならば、短時間で獲物を見つけるだろう。

 人類軍の先駆けともされる存在だ、万が一にも逃がすわけにはいかない。

 

 

「さて、これで上手く狩り出されれば良し。オオカミ共がしくじっても、それはそれで良し」

 

 

 男は長身だった、180は越えている、2メートル近いかもしれない。

 軍帽に厚手のロングコートの男で、眼鏡のフレームには『IS-2』と刻まれていた。

 おそらく、それが名前なのだろう。

 霧と共に現れたその男は、隠すつもりも無い、<騎士団>の男だった。

 

 

「労力は、出来る限り少なくしたいものだな」

 

 

 先に紀沙達の前に姿を見せた『トルディ』達とは違う、重厚感のある雰囲気。

 霧に妖しく身を包ませているため、ともすればその身体は溶けて消えてしまいそうだ。

 そしてその中で、両の瞳だけが眼鏡の奥で白く妖しく輝いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……何か、獣の類のようですね。野犬のような」

 

 

 床に耳を当てていた静菜が、囁くような声でそう言った。

 野犬と言われると日本の野良犬を想像してしまうが、おそらく違うのだろう。

 多くの場合、外国の動物や昆虫は日本より大型で凶暴だったりする。

 大陸と島国の競争の激しさの違いとでも言おうが、そう言う傾向がある。

 と言って、単純なスケールアップと言うわけでも無いところが難しい。

 

 

「つまり何だ、野生の動物が入り込んで来たってことか?」

「それでは理由の半分です。何者かが放ったと言った感じです」

 

 

 静菜がそう判断した理由は2つ。

 第一、この施設――特に紀沙達がは海岸に面した岩盤に入口が築かれていること。

 つまり、野生の獣が自ら進んで入って来るような構造をしていない。

 第二、床の振動から感じる獣達の足音が、どこか訓練された足運びに聞こえたからだ。

 足音から、正確な数を割り出すことが出来ない。

 

 

「……こちらに、近付いてきているようですが」

 

 

 それも、真っ直ぐにだ。

 おそらくは自分達の足音を追ってきている、施設の構造も理解しているのかもしれない。

 だとすれば、やはりこれは罠だったのだ。

 

 

 ここだけでは無いだろうが、街の人々を探しに来ると踏んで張っていたのだろう。

 今にして思えば、<騎士団>側がこんな広大な空間を放置しているはずが無かったのだ。

 何らかの方法で自分達の動向を掴み、獣をけしかけてくる。

 今までに無いパターンだ、古くて新しいと言える。

 

 

「……足音が消えました」

 

 

 床から感じる振動すらも、消えた。

 これが何を意味するのかを考える、狩ら(ハントさ)れる側の心理で考える。

 そうすると、自ずから答えは出てくる。

 つまり、走る必要が無い距離にまで近付いてきたと言うことだ。

 

 

「危険です」

 

 

 今の自分達の状況を簡潔に伝えて、静菜は顔を上げた。

 もはや相手の足音を調べるまでも無い、と言うより、調べる意味が無い。

 迎え撃つか逃げるかの判断をするべき時だ。

 ただ、相手の数も種類もわからない以上、迎え撃つのは難しいのかもしれない。

 

 

「とりあえず、逃げましょう」

 

 

 そのため、紀沙の判断も簡潔だった。

 何が来るのかわからない以上、迎え撃つ選択肢は取れない。

 仮に本当に野犬だとしても、素手で相手にするのは御免被りたかった。

 

 

「ひとまず奥の方へ進みましょう、そこならまだ安全かもしれません」

 

 

 相手は入口側から来ているわけだから、奥に進めば距離を取れるはずだ。

 そう考えて、ひとまず奥へと角を一路進んだ、次の瞬間。

 

 

「――――ガウッ!」

 

 

 すでにそこに潜んでいた野犬……では無く、オオカミが、紀沙の顔目掛けて跳びかかってきた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 獣と言うものは、厄介である。

 人間と違って、「戦い」はほとんどしない。

 人間の言う「戦い」は相手との力比べのことだが、獣の「戦い」はそうでは無い。

 獣は、ただ相手を()()

 

 

「……ッ!」

 

 

 目の前を、オオカミの顔が擦過して行った。

 噛み合わされた牙、波打つ灰色の毛、こちらを睨む目、息遣いまでもが、すぐ間近に感じられた。

 もう一瞬気がつくのが遅れていれば、腕に噛み付かれていた。

 と言うか、腕を持っていかれていたかもしれない。

 

 

「どるぁっ!」

 

 

 紀沙を通り過ぎたオオカミに、冬馬が蹴りを加えていた。

 だがもちろん当たるはずも無く、オオカミは俊敏な動きでそれをかわした。

 距離を取ったオオカミは身を低くして、唸り声を上げる。

 

 

「冬馬さん!」

「走れ!」

 

 

 静菜が先頭を行き、紀沙、冬馬と続いた。

 後ろからはオオカミの呻き声が聞こえ続けていて、一定の距離でついて来ている気がした。

 と言うより、確実にそうしている。

 つまり追い立てられている。

 

 

 そう気がついていても、逃げないわけにも走らないわけにもいかない。

 床の振動で相手を探るという静菜のスキル――アメリカの時と言い正直、最近は忍者か何かなのでは無いかと思い始めている――が無ければ、さっきのも確実に噛まれていた。

 ただ、施設の間取りもわからずに走っているので、どこかで不味い事態になりかねない。

 

 

「ガウッ!」

「ガウガウルルルッ!」

 

 

 十字路に差し掛かった時、左右の道からオオカミが飛び出して来た。

 それは静菜と紀沙の間を遮る形でやって来て、しかも一匹が紀沙に唸り声を上げている間に、一匹が静菜に向かっていった。

 当然、静菜は逃げるしかない。

 最後には二匹ともが静菜の後を追って、通路の向こうに消えて行く静菜に紀沙は叫んだ。

 

 

「静菜さん!」

「よせ、後で合流すりゃ良い! あいつはニンジャガールだから大丈夫だろ!」

 

 

 理屈はともかく、追いかけられないのはわかった。

 むしろ静菜はこのために先を行っていたところもある、紀沙は歯軋りした。

 しかしぼうっともしていられない、すぐ後ろにさっきの一匹が迫っているのだ。

 ただ、静菜が駆けていった正面と後ろを除けば、左右にしか道は無い。

 左右は、さっき二匹のオオカミが駆けて来た通路だ。

 

 

「……右へ」

 

 

 ガタン、と、音がした。

 何事かと思って後ろを振り向けば、()()()()()()()()

 ああ、いや、足元に冬馬が持っていたライトが落ちている。

 だが、冬馬はいない。

 

 

「先に行ってろ、艦長! あ、そこのライト持ってけ!」

「冬馬さん、どこですか!?」

「俺のこたぁ良い! 後で追いかける――――行け!」

 

 

 暗闇の中から声だけが聞こえる。

 だが、近くにいる感じはしない。

 それと獣の唸り声、一匹のものでは無いように思う。

 逡巡。

 その後、ライトを拾って駆け出した。

 

 

「……ッ、誰が」

 

 

 右の通路を駆けながら、紀沙は呟いた。

 静菜は言っていた、あのオオカミ達は何者かが放ったものだと。

 ならば、その何者かがどこかにいるはずだ。

 しかし、今の紀沙にその居場所を突き止めることは出来ない。

 

 

『――――教えてやろうか、敵の居場所を』

 

 

 ……!

 蒔絵としか繋がっていないはずの――そして、蒔絵との通信が切れた今となっては誰とも繋がっていないはずの――通信機から、男の声が聞こえた。

 そして、もうひとつ驚くべきことに。

 紀沙は、その男のことを知っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 こと「狩り」において、獣ほど効率的に相手を追い詰める者はいない。

 現代の人間が行う狩りは趣味に過ぎないが、彼らにとっての狩りは生存戦略そのものだからだ。

 中でもオオカミの狩りは、執拗で容赦が無く、そして狡猾(こうかつ)だ。

 

 

「はっ……はっ……」

 

 

 少女が走る息遣いが、暗闇の通路に響いている。

 ライトは少女の先を照らしているから、その姿を視認することは出来なかった。

 ただ、真っ暗な空間で何かが動いていることはわかる。

 だがいくらライトがあるとは言っても、頼りない一本の光の線でしか無い。

 

 

 そして少女が駆けて行った後、少しして数匹の獣が暗闇を駆けて行った。

 もちろんそれらはライトなど持っていないので、まさに闇が蠢くと言った風だ。

 少女の後をほんの少し、それでいて僅かずつ距離を詰める形で彼らは少女を追っていた。

 その動きは、まさに狩る者のそれだった。

 

 

「きゃ……っ」

 

 

 少女の悲鳴と共に、ライトが床を転がった。

 囲まれたらしい。

 そして囲まれてしまえば、細腕の少女には何も出来ない。

 オオカミ達の動きが慌しく、残忍なものに変わったのがわかる。

 

 

 しばらくの間、少女のくぐもった声とオオカミ達の唸り声だけが暗闇に響いた。

 

 

 しかし、それもやがて聞こえなくなってくる。

 最後には聞こえてくるのはオオカミの唸り声だけになり、共に聞こえてくるのは、何かを引き千切るような音、咀嚼(そしゃく)するような音……。

 いずれにしても、聞いていて気持ちの良い音では無かった。

 

 

「労せずして、とはまさにこのことか」

 

 

 不意に、床に転がったライトを拾った者がいた。

 拾う必要など無いのにそうしたのは、興味か、あるいは単なる示威か、それとも気まぐれか。

 いずれにしても、眼鏡のフレームに『IS-2』と刻んだ<騎士団>の男は、未だ明かりを灯し続けるライトを手に取って佇んでいた。

 

 

「千早紀沙か。一目くらい顔を見ても良かったか」

 

 

 いや、やはり必要ない。

 そう言って、ライトを持ったまま男は踵を返した。

 通路の先では未だにオオカミ達の奏でる残酷な音が続いている。

 しかしそれすら興味が無いのか、男はそのまま一歩を踏み出そうとして。

 

 

「こんにちは」

 

 

 そして、待ち構えていたかのように立っていた少女に。

 

 

「夢でも見ていたんですか?」

 

 

 いや、実際に待ち構えていたのだ。

 そこにいたのは、()()()()だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ああ、<騎士団(お前達)>もそんな顔をするんだな」

 

 

 心底驚いている、と言った顔をした『IS-2』に、紀沙は――()()()紀沙は、ほんの少し溜飲が下がった気分だった。

 しかしそれも束の間のことで、すぐに元の澄ました顔に戻った『IS-2』は、今もオオカミ達の唸り声が響く通路の奥へと目を向けた。

 人形じみた動きは、彼がまだメンタルモデルを得て日が浅いことを物語っていた。

 

 

「興味深い現象だ」

 

 

 『IS-2』自身に気取られない形で偽物と入れ替わっていたこともそうだが、単純に同じ人間が2人に増えたことに興味を抱いた様子だった。

 だが、彼はすぐにそれがナノマテリアルによって引き起こされた事態であると理解した。

 一方で、やはり疑問は残った。

 

 

 何故なら紀沙には、人体1個を偽装できる程の――それも、<騎士団>の眼を欺く程にリアルなものを用意できるだけのナノマテリアルは無いからだ。

 イ404に乗っていた頃ならいざ知らず、イ15にそんなナノマテリアルの余裕は無い。

 肉体の何割かがナノマテリアルに置き換わっているからと言って、それでも紀沙はメンタルモデルでは無いのだ。

 

 

「どうやったのだ? 私の眼から見て、お前にナノマテリアルを用いた偽装は出来ないはずだ」

 

 

 正直に言って、紀沙は『IS-2』にとって脅威では無い。

 今この瞬間にも、(くび)り殺そうとすれば簡単にそうできるはずだ。

 そうしないのは、余裕と言うよりは、単純な興味の方が強いのだろう。

 自身が持ち得ない答えを持っているかもしれない相手を前に、始末をつけることを保留したに過ぎない。

 

 

「そうだね、否定はしないよ」

 

 

 と言うか、否定しても意味が無い。

 イ404を失っている今、紀沙には拳銃の一つも無い。

 丸腰のまま敵地に乗り込み、獣に追いやられて()()()()()()()()()()のが今の紀沙だ。

 だから、これは紀沙の力によるものでは無い。

 

 

「私も意外だったんだ、まさかってさ」

「何だ、何を言っている?」

「なにって? それは今、お前が聞いてきたんだ。<騎士団>、お前が私に質問したんだ」

「お前の言っていることの意味がわからない」

「わからない? そうだろうさ、私だってわからなかったんだから」

 

 

 落ち着いた声音で、紀沙は言った。

 紀沙がどうやって、この窮地を脱したのか。

 彼女がどうやって、オオカミ達の牙から逃れ、『IS-2』に悟られることなく、状況を自分に優位に運んだのか。

 

 

 ……いや、それは表現が正しくない。

 正しくは、紀沙は何もしていない。

 今のこの状況は、紀沙の意思によるものでは無い。

 紀沙はただ、流れに乗ったに過ぎない。

 だからだろうか、紀沙の表情に晴れやかさの類は少なかった。

 

 

「まさか」

 

 

 不意に、すべての音が消えた。

 つまり、オオカミ達の唸り声が消えて、静まり返った。

 

 

「まさか、お前に助けられるとは思わなかった――――()()()()

 

 

 紀沙がそう言った、次の瞬間。

 Uボート、U-2501のメンタルモデルが、無風の通路で金色の髪を靡かせながら『IS-2』の背後に姿を現した。

 『IS-2』の眼が、瞳の動きだけでその事実に気付き――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 目の前で繰り広げられた攻防は、紀沙の眼ではまだ追えないものだった。

 こちら側とあちら側、2つの世界で同時に行われたそれは、まさに電子の速度で行われていた。

 紀沙の眼には、ただ『IS-2』と『U-2501』が交錯したと言う事実だけが残った。

 暗い通路の中に、火花が散った。

 

 

「――――なるほど」

 

 

 得心がいったと言う風に、『IS-2』は頷いた。

 それは、紀沙の偽物の正体を知ったから出た言葉だ。

 どうやったのかはわからないが、紀沙と同時期か紀沙より先にこの施設の中に入り込み、『IS-2』の眼を欺いて紀沙と入れ替わったのだ。

 

 

「潜水艦風情にしては、器用な真似をする」

 

 

 オオカミ達がどうなったのか、『IS-2』には聞くつもりすら無かった。

 元々頼りにも恃みにもしていなかったし、人間のように動物に情を持ったりもしない。

 ただ、使えたから飼っていただけだ。

 使えないならば、どうなろうと知ったことでは無い。

 

 

 むしろ今は、『U-2501』が敵同士だったはずの――少なくとも、『IS-2』が知っている限りでは――紀沙を助けたことの方が疑問だった。

 昨日の敵は今日の友と言う言葉があるのは知っているが、それが言葉ほどに容易いものでは無いことは、それこそ言うまでも無い。

 しかし、現実に『U-2501』は紀沙を守っている。

 

 

「やりますか?」

「いや、やめておこう」

 

 

 先の一瞬の攻防の内に立ち位置が入れ替わり、紀沙を背にしている『U-2501』。

 戦って、勝てないほどに実力差があるわけでは無いだろう。

 しかし『IS-2』は、当初の予定に無い事態が起こったことを重要視していた。

 一度起こった「予定外」が二度、三度と続かない保証は無い。

 そうである以上、『IS-2』はこの場に長く留まるつもりは無かった。

 

 

「これは貸しにしておこう、霧のUボート」

「……ッ、待て!」

 

 

 何かを察した『U-2501』が駆け出すが、間に合わなかった。

 閃光弾かそれに類する何かをした『IS-2』が強烈な光を放ち――暗闇に慣れた目には相当に効いた――姿を消した。

 2歩進んだところで足を止めた『U-2501』は歯噛みして、後を追おうとしたようだが……。

 

 

「追わなくて良い」

 

 

 足音を隠すことなく、その男はやって来た。

 そして『U-2501』はその男の言葉を良く聞いた、『IS-2』を追うのをやめたのである。

 大人しそうに見えて好戦的な『U-2501』、そんな彼女が絶対的に盲従する相手が1人だけいる。

 己が所属する艦隊の長よりも、自身の艦長を優先すると言う妄信ぶり。

 

 

「久しぶり、と言うべきなのかな」

 

 

 『U-2501』の主は、じろりと紀沙へと目を向けて来た。

 

 

「千早紀沙」

「そうだね。久しぶり、ゾルダン・スターク」

 

 

 長身の男――ゾルダンは、片方の手をポケットにいれたまま、ぞんざいな態度でそこにいた。

 久しぶりと言うには、聊か早い再会であった。




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IS-2 : ゲオザーグ様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。
ゾルダン再登場です。
彼にもまだまだ頑張って貰います。

それでは、また次回。


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Depth074:「ヤルタ」

 

 ゾルダン・スタークとは、大西洋での兄との戦い以来の再会だった。

 それに、『U-2501』との霧の世界での戦いには手を焼いたものである。

 その2人が今、紀沙を救って見せた。

 

 

「お前は今、どこに立っているんだ?」

 

 

 不意にゾルダンがそう問いかけてきた時、紀沙は一瞬、言葉の意味がわからなかった。

 しかし、すぐに理解した。

 今の紀沙の、紀沙達の()()()()はどこなのかと聞いているのだろう。

 <蒼き鋼>か、<緋色の艦隊>か、あるいは傭兵か。

 愚問だ。

 

 

「私達は日本軍です」

 

 

 これからもそうだったし、これまでもそうだ。

 千早紀沙の心は、常に日本――より言えば、日本の北の下にある。

 日本の統制軍の一員として、紀沙は今も任務を継続しているつもりだ。

 それは、()()()()()如何(いかん)でころころ変わる類のものでは無かった。

 

 

「そうか」

 

 

 あっさりと、ゾルダンもそれを認めた。

 と言うより、ただの確認だったのだろう。

 念のためと言うほどのことでもなく、お互いの立ち位置を再確認しただけのことだ。

 そして当然、ゾルダンは<緋色の艦隊>の人間である。

 

 

「では協力を求めよう」

「協力?」

 

 

 つまり紀沙は正規軍であり、ゾルダンは非正規軍と言うことだ。

 連合軍は公式には<緋色の艦隊>の存在を認めていない――と言うより、同盟を結んでいるイギリスが異端なのである――ので、クリミアに先行潜入している立場のゾルダンとしては、作戦の実働段階に入っている連合軍の存在は無視できない不確定要素(ファクター)なのだった。

 その点、有志連合の一員である日本、そして日本軍である紀沙の存在はゾルダンにとって利用価値がある。

 

 

「要は一緒にいろってこと?」

「まぁ、そうだな。その代わり、お前はフェイクではない<騎士団>の本拠地を知ることが出来る」

「教えてくれるの?」

「これから行こうと思っていてね。一緒になれば、自然、お前もそこに行くことになる」

 

 

 ギブアンドテイク、だ。

 悪い話では無い。

 ゾルダンが信用できると言うことが前提になるが、<騎士団>の本拠地を知ることができるなら、お釣りがきて余りある条件だった。

 何しろ、紀沙はただゾルダンと一緒にいるだけで良いのだから。

 

 

「ああ、しかし女性を誘うならもっと作法があったかな――――ご一緒しても良いですか、お嬢さん(フロイライン)?」

 

 

 とは言え、キザな台詞と顔で手を取られたりするのはどうかと思う。

 紀沙のジト目をどう受け取ったのか、ゾルダンは事の他すっと紀沙から手を離した。

 並の乙女なら美形のドイツ人にこんなことをされればときめくのかもしれないが――いや、むしろ同じように引くかもしれない――あいにく、紀沙は違う。

 美形は兄で十分だ、のーさんきゅーである。

 

 

「仲間とはぐれちゃったから、まず2人を探す」

「仰せのままに」

 

 

 大仰な仕草でそう言うゾルダンにやはりジト目を向けて、紀沙はさっさと歩き始めた。

 ゾルダンはと言うと、そんな紀沙に肩を竦めた。

 

 

「やれやれ、フランセットよりは気難しいのかな」

「…………」

 

 

 『U-2501』はそんなゾルダンをじっと見つめていたが、特には何も言わなかった。

 ただ、「目は口ほどにものを言う」と言う状態を体現していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 一方、紀沙がそんな状況になっているとは露知らず、やきもきしている者がいた。

 蒔絵である。

 イ15の艦長のシートにどっかと座り、不機嫌そうに通信機を睨んでいる。

 

 

「ちょっとー、ぜんぜん繋がらないじゃない」

「しょーが無いっス。通信妨害が凄すぎてどうにもならないっス」

「役立たず」

「潜水艦に何を期待しるんっスか? 馬鹿っスか? 死ぬっスか?」

「きーっ、何よ私は天才なんだから!」

「自分で自分のことを天才とか言うとかキツいっスわ~」

 

 

 ちなみに、イ15ことトーコはメンタルモデルを形成していない。

 演算力の確保のために紀沙がそう命じたからで、今トーコのコアの演算力のほとんどはイ15の艦体の維持に向けられている。

 とは言え、それでは意思疎通に影響が出ることもあるだろう。

 

 

 そこで考えられたのが、メンタルモデルの形成では無く、すでにある物に会話機能をインストールすることだった。 

 結果として、今のトーコはクマのぬいぐるみの状態である。

 蒔絵の膝の上で、ピンク色のクマのぬいぐるみがわたわたと動いている。

 現在は、蒔絵の手によって今にも八つ裂かれそうになっていたが。

 

 

「あらぁ、楽しそうね~」

「おや、あおいさん」

「お疲れー」

「はぁーい、お疲れ2人とも~」

 

 

 そんな光景をよそに、あおいが発令所にやって来た。

 イ15の機関室はイ404程に複雑では無いので、それほど神経を使わないらしい。

 元々人間の手を必要としないので、手持ち無沙汰とも言える。

 霧の艦艇に人間が乗り込む強みは、平時には見えにくいのである。

 

 

「どんな状況かしらぁ?」

「艦長達との通信が途絶して14分になります。依然として状況は厳しいものかと」

「ふぅん。まぁ、そこは艦長が何とかしてくれるでしょ」

「してくれないと困りますがね」

 

 

 現在、イ15はクリミア半島の<騎士団>フィールドの内側に身を潜めていた。

 身を潜めると言っても浅瀬であり、駆逐艦でもいればすぐに発見されていただろう。

 最も、戦車の姿をしている<騎士団>が相手ならばそこまでの警戒は必要ないのかもしれない。

 もちろん油断は出来ないが、今のところは、敵に攻撃の兆候は無い。

 

 

 あるいは敵の主力は、半島北部に向かっているのかもしれない。

 何しろそこには米独露の連合軍が陣取っている、それも大軍だ、流石の<騎士団>も無視は出来ないだろう。

 まして表向きは公表されていないが、今回は霧の艦隊との共同作戦である。

 海上には、黒海艦隊の雪辱に燃える霧の艦隊が集結しているのだ。

 

 

「これで負けるとは、ちょっと思えないですけどね」

 

 

 慢心、と言うには聊か淡すぎる感情が恋の胸中に広がっていた。

 しかし彼はすぐに、その考えが誤りであったことに気付くだろう。

 だが、それは彼の罪では無い。

 イ404を始めとする霧の艦艇の力を目の当たりにしてきた彼は、どうしても霧の側に天秤を傾けてしまうのだ。

 

 

 しかし、それは間違いだ。

 彼は知らない。

 話として知っていても、彼は本当の意味では()()()()

 その強大な霧が、<騎士団>に対しては後退を余儀なくされていたのだと言うことを。

 同じナノマテリアルの力を持ちながら、一方的に押され続けていたのだと言うことを。

 

 

「ちょっと、どうしたの?」

「…………」

「引っ張りすぎちゃった? ご、ごめん。ぬいぐるみだから痛みとか無いかなって……」

 

 

 トーコの様子が、変わっていた。

 先程まで蒔絵とじゃれていたのだが、不意に頭を抱えて蹲り始めたのだ。

 頭が痛い、わけでは無い。

 ただガタガタと震えていて、急に何かに怯え始めた様子だった。

 

 

「あ……姐さん、なんっスか……?」

 

 

 怯えていた相手は。

 消えたはずの、スミノであった。

 スミノの存在を感じ、トーコは怯えていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 黒海のほぼ中央部、クリミア半島を望む位置に<緋色の艦隊>と霧の欧州艦隊・地中海艦隊の連合艦隊は集結していた。

 通常であれば、あり得ない。

 霧の艦艇の各艦隊は、基本的に他の艦隊と行動をとりたがらない。

 

 

 かつて『フッド』が<緋色の艦隊>に対抗するために召集を呼びかけた時に起こった混乱は、それを証明している。

 『アドミラリティ・コード』に従うと言うアイデンティティもさることながら、自分達の領分を越えたがらない意識、あるいは自分達の領分に入り込まれたくない意識があった。

 要は、霧にも縄張り意識が芽生え始めていたのである。

 

 

「久しいな」

 

 

 しかし、例外はある。

 それは、例えば『ダンケルク』のように他者に友好的な艦の場合である。

 この場合は、『ダンケルク』側が一歩引いたり大人の対応を見せたりして衝突を回避している。

 しかしながら、これは少数派だ。

 よりあり得るのは、『アドミラリティ・コード』に次ぐ上位者の指令、つまり……。

 

 

「どれくらいぶりじゃろうな、『ムサシ』よ」

「そもそも()()貴女と会うのは初めてよ、『ダンケルク』」

 

 

 ()()()()()()()だ。

 だが、かの<大海戦>に際しても、それは無かった。

 だから今回の黒海における<騎士団>殲滅作戦の総旗艦が超戦艦『ムサシ』と聞かされた時、霧の艦艇の間には幾分かの動揺があった。

 しかし逆らう者はいなかった、何しろ『アドミラリティ・コード』と総旗艦『ヤマト』に次ぐ存在である。

 

 

「人間」

「うん?」

「人間を乗せているようね、『ダンケルク』」

「ああ、まぁな。イタリアで拾った連中じゃ、なかなか強いぞ?」

 

 

 にやりと笑ってそう言う『ダンケルク』に、『ムサシ』は口元だけで小さく笑って見せた。

 しかしそれも、視線をクリミアの方へと戻すと消えてしまった。

 直に<騎士団>と戦った『ダンケルク』は、<騎士団>の実力を過小評価していたつもりは無かった。

 だが。

 

 

(超戦艦が出張らなければならない程に、<騎士団>は危険じゃと言うことか)

 

 

 霧の艦隊の第二位、と言って良いだろう。

 『ムサシ』が戦うところを見たことは無いが、相当に強い、と言うのが『ダンケルク』の印象だった。

 少なくとも、大戦艦級が何隻束になってかかったところで敵わないだろう。

 その『ムサシ』が、こうまで緊張感を持って対峙しなければならない相手なのか。

 

 

「『ダンケルク』、『フッド』を呼んで頂戴」

 

 

 しかし、同時に『ダンケルク』は肌の粟立ちを感じていた。

 それは、<騎士団>への脅威から、と言うのとは別のものだった。

 むしろ、どちらかと言うと、武者震いに近いものだ。

 

 

「作戦について、話し合うことにするわ。もう、余り時間も無いようだし」

(おお……)

 

 

 正直、『ダンケルク』は『ムサシ』のことを胡散臭い奴だと思っていた。

 しかしこうして、当然のように大戦艦である自分を従える背中を見ていると。

 味方ならば、これほどに頼もしい者はいない、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヤルタ。

 2057年現在、この都市について知る者はほとんどいない。

 霧の海洋封鎖と欧州大戦の影響を受けて、かつて風光明媚な観光地として栄えていたヤルタ経済は崩壊状態となり、住民は豊かな本土を目指して街を捨て始めた。

 しかしすぐにクリミア全土が<騎士団>の支配下となり、その流れも止まった。

 

 

「ここにも人がいない」

 

 

 ヤルタの街並みを見下ろせる紀沙達の目には、人ひとり車一台走っていない様子が良く見えた。

 モスクワでパレードまで見た紀沙からすれば、本当に同じロシアなのかと思ってしまった。

 事前の情報によれば、<騎士団>占領前にはおよそ4万人の人々がいたはずのヤルタ。

 もしかすると、クリミア半島全域に渡ってこの状態なのだろうかと、そんな怖い想像をしてしまった。

 

 

クリミア(ここ)だけでは無い」

 

 

 そしてゾルダンは、そんな紀沙達の想像を肯定してしまった。

 

 

「<騎士団>の占領下にある都市は、多かれ少なかれこんな状態だ」

「はぁ? それってお前……何人消えてんだよ」

 

 

 静菜と冬馬は、幸い軽い怪我で済んでいた。

 何でも『U-2501』に良く似た少女に救われたのだそうだ。

 冬馬が言うには「色違いの美少女だった」そうなので、おそらくゾルダンが正体を知っていると思うが、ゾルダン自身は何も説明しようとはしなかった。

 

 

 それよりも今問題なのは、消えた人々のことだった。

 クリミア半島だけで数十万人はいるだろうし、西へと伸びた<騎士団>の占領地にいる人々は、軽く推定するだけでも数百万人……いや、下手をすると一千万人は超えて来るはずだ。

 それだけの人々が、どこへ消えたと言うのか。

 ここまでの規模の消失となると、どこかに収容と言う形は……。

 

 

「お前なら、彼らの行方について思い当たるのではないかと思うがな」

「なら、皆は生きているの? 良かった」

 

 

 と、ゾルダンに言われて、正直に言って紀沙はほっとした。

 後になってその考えは間違っていたと気付くのだが、少なくともこの時の紀沙は、この時点で考えられる最悪の事態が否定されたことに安堵していた。

 しかし、繰り返すが、その考えは間違っていたと後に気付くことになる。

 

 

「……あれを、生きていると言うのであればな」

 

 

 ゾルダンの言葉は、ひどく不気味な色を含んでいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヤルタ郊外に、古いが瀟洒な造形の建物があった。

 何百年も昔、皇帝の別荘として使われていたらしい。

 最も管理がされなくなってから相当の時間が経っているのか、白亜の大理石には草木の蔓が絡まっており、綺麗に整えられていたのだろう庭園は雑草の巣窟になっていた。

 

 

「かつてはここで、世界の分割統治体制(レジーム)について超大国の首脳が渡り合ったそうだ。今ではその面影も無いが……」

 

 

 ゾルダンも、特に感慨深い様子も無くそんなことを言った。

 唯一『U-2501』だけがゾルダンの言葉に素直に興味を持ったのか、瞳を白く輝かせて何事かを検索している様子だった。

 大方、この宮殿の歴史でも調べているのだろう。

 

 

「ここに、<騎士団>の本拠地が?」

「おいおい、まさか奴らが観光でもしてるって言うのかよ?」

「……ふう」

 

 

 静菜と冬馬――紀沙が見るところ、特に冬馬。もしかするとゾルダンは冬馬のようなタイプが嫌いなのかもしれない、わかる気もする――の言葉に溜息を吐くゾルダン。

 冬馬が一瞬カチンときたようだが、その気配を察しているだろうに、ゾルダンには取り繕う様子も無かった。

 そして、靴先でトントンと地面を示して見せた。

 

 

「この下だ」

「下?」

 

 

 地下か、と紀沙は察した。

 先ほどゾルダンが言ったように、ここは国の首脳部が使うような場所だ。

 そうであれば、首脳を避難させるための空間や通路が地下に作られていてもおかしくは無い。

 問題は、おそらく<騎士団>は人間の作った地下施設をそのまま使ったりはしていないだろうと言うことだった。

 

 

 

「あっれ~? ねぇおじさん、おうちに知らない人がいるよ?」

 

 

 

 その時だった。

 不意に子供の甲高い声が聞こえて、庭園の入口へと視線を向ける。

 するとそこに、見慣れない2人組がいた。

 男と男の子、一見すると買い物帰りの父子のようにも見える。

 しかし、そんなことはあり得ないとすぐにわかった。

 

 

「ん~、なに言ってるんだよパピー。このシマでオジサンらの知らない奴なんて……って、ほんとだーよ、あら~」

「ね、ね? 僕の言った通りでしょ? あの人達って誰かなぁ!?」 

 

 

 男は、妙にやさぐれた感じのする出で立ちだった。

 三十か四十くらいの、ボサボサの茶髪の男で、ネイビージーンズにサンダルと言うある意味観光地らしい服装をしていた。

 ただし襟元がヨレていて、清潔感と言う意味では微妙だった。

 

 

 そして男の子の方は、白黒ストライプの半袖シャツに青の短パンと、わんぱくを絵に描いたような容貌をしていた。

 金髪のミディアムロングからは良いところのお坊ちゃんと言う感じがするが、白いスニーカーを泥だらけにしているあたり、大人しい性格はしていないのだろう。

 今も、興味津々と言った顔で紀沙達のことを見つめている。

 

 

「情報照合」

 

 

 静かに、2人を視ていた『U-2501』が告げる。

 

 

「<騎士団>所属の中戦車『シャーマン・ジャンボ』、及び軽戦車『チャーフィー』です」

 

 

 敵だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 鉢合わせ、と言うのが一番正しいのだろう。

 何しろ、敵の本拠地にほとんど無造作に乗り込んだ形だ。

 むしろ誰とも会わずに最深部にいけると思うほど、甘いことは無い。

 

 

「2501」

「了解」

 

 

 ゾルダンの声に、『U-2501』が前に出た。

 庭園に姿を現した『ジャンボ』と『チャーフィー』の正面に立ち、ゾルダン達を守るべく背を晒した。

 紀沙達の中で最も小さなその背中は、誰よりも力に満ちていた。

 

 

「あら? もしかしてオジサンらと()る気? ちょ、それはちょっと嫌だな~」

「うわぁ、おじさんビビってる! かっこわるぅい!」

「馬っ鹿、オジサンはね。平和主義者なの!」

 

 

 すると、『ジャンボ』が両手を前に出してわたわたと後ずさった。

 『チャーフィー』がケラケラと笑い声を上げて煽っているが、その様子はまさに「おじさんと子ども」だった。

 戦闘の気配を漂わせる『U-2501』の前に『ジャンボ』が怯えているように見えるが、それが事実なのかどうか、紀沙にはわからなかった。

 

 

 霧の艦艇は強力だが、<騎士団>はそれに輪をかけて強力だ。

 巡航潜水艦とは言え、1隻の霧に怯えるものだろうか。

 それとも本人が言っている通り「平和主義者」であり、戦いを忌避しているのだろうか。

 それこそ、あり得ない。

 

 

「……強い……」

 

 

 思わず、言葉が紀沙の唇から零れた。

 あの『トルディ』を視た時には思わなかったが、『ジャンボ』からは、凄みを感じた。

 ナノマテリアルを視る霧の瞳を持つ紀沙だからこそ、その印象は特に強くなった。

 『チャーフィー』の方は良くわからないが、『ジャンボ』は見た目通りの弱々しい存在では無い。

 

 

「わ、わわわっ。タンマタンマっ、オジサン喧嘩弱いんだって!」

 

 

 『U-2501』が飛び出していくのを、紀沙は見た。

 彼女も『ジャンボ』の実力には勘付いているはずだが、それでも足取りに迷いが見えないのは、ゾルダンの命令に対する忠誠がそうさせるのだろうか。

 肉眼では追えない速力、姿が霞んで見える程の速さで、『U-2501』が『ジャンボ』の懐に飛び込んだ。

 

 

 『U-2501』が右手を伸ばすのを、紀沙は見た。

 狙いは『ジャンボ』のコアだろうか。

 一撃で屠り、返す刀で『チャーフィー』をも処理しようと言う魂胆なのか。

 しかし。

 

 

 

「まぁ、負けないんだけどね」

 

 

 

 首の後ろ、人間ならば神経が集中する部分を打たれて、『U-2501』の身体が一瞬で下へと沈んだ。

 ゴム人形のようにバウンドした『U-2501』の姿に、紀沙は戦慄を覚えた。

 この『ジャンボ』と言う<騎士団>は、想像以上の強さを秘めていた、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「良し、それでは行こう」

 

 

 『U-2501』の敗北が必至かと思われたその時、ゾルダンは無常にもそう言った。

 その場にいる者がぎょっとした顔で見つめる中、宣言通り、ゾルダンは『U-2501』に背を向けた。

 そこに一切の躊躇(ためら)いらしきものは無く、本気でこの場に『U-2501』を置いて行くつもりなのだと言うことがわかった。

 

 

「え、ちょ……マジで!? 大丈夫なのかアレ!?」

「何を慌てているのか知らないが、何も問題は無い」

 

 

 こう言う時、なんだかんだで冬馬は人が好いところが出る。

 しかしゾルダンは翻意しなかったし、実際に歩き出してしまえば、この場において役に立てそうにないただの人間はついて行くしか無い。

 そう言う意味では、彼らはここにいる方が『U-2501』の足を引っ張る。

 ゾルダンの判断はけして間違っていない、しかし。

 

 

「いや冷たいねぇ、オジサンちょっと同情しちゃうなぁ~って、おおう!?」

 

 

 敵である『ジャンボ』すら呆れていたが、そんな彼に()()したのは他ならぬ『U-2501』だった。

 無言のまま行われたそれは、うつ伏せに倒れていた『U-2501』が両拳で地面を叩き打って、倒れたままの姿勢を維持したまま浮き上がったのだ。

 『U-2501』の後頭部が顎先を掠める形になって、『ジャンボ』が慌てて避けた。

 

 

「お前ごときが艦長を語るな」

 

 

 置いて行かれた『U-2501』の眼光は鋭く、頭が動くと白い線が走る程だった。

 彼女はゾルダンの意図をきちんと理解している。

 今は<騎士団>の本拠へ到達することが戦略上重要なのだ、それ以外は全てが些事なのだ。

 着地し、細く小さな両腕を精一杯に広げる()()()()()だ。

 

 

 しかも相手は『ジャンボ』だけでは無い、『チャーフィー』をも牽制している。

 ここで『チャーフィー』がゾルダン達の後を追いかけてしまうようでは、意味が無いのだ。

 何があっても、『U-2501』は『ジャンボ』と『チャーフィー』を通さない。

 ゾルダンが「もういい」と言うまで、彼女はそうし続けるだろう。

 

 

「それに、2対1だと思っているなら、見当違いだ」

 

 

 不意に、『U-2501』の傍らの空気が歪んだ。

 良く見ると、鏡でも置いてあるかのように空間と言うか、光景がズレていた。

 それもそのはずで、そこには、カメレオンのような光学迷彩で姿を隠していた何者かがいた。

 金属の砕ける音と共に、その少女は姿を現す。

 

 

「『U-2502』、これで2対2だ」

 

 

 それこそまさに、冬馬が言っていた「色違いの少女」だった。

 『U-2501』のメンタルモデルの色素を逆転させたかのような少女は、巡航潜水艦『U-2502』のメンタルモデルだった。

 数の上では、確かに互角。

 『U-2501』は、あえて紀沙達にはこれを晒さなかったのだ。

 

 

「緋色の霧を舐めるなよ、陸の棺桶が」

 

 

 いつか来るだろう、()()()のために。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミア半島内部が俄かに騒がしくなっている一方で、半島北部に展開する人類連合軍の間には、聊か弛緩した空気が蔓延していた。

 原因は、彼らがまさに連合軍だから、と言う点にある。

 政治が話をつけるまでの間、他の国の軍部隊はすべて敵と言う状態だったのだ。

 

 

 それが今は味方になったと言うことで、張り詰めていた空気が緩んでしまうのも、無理からぬことだった。

 もちろん、油断しているわけでは無い。

 銃は()()()だけで手放していない、次の瞬間にはこめかみの銃口を突きつけることが出来る体勢は維持されている。

 

 

「なぁ、作戦ってもう開始されてるんだよな」

「ああ、そうだよ」

 

 

 鉄の規律を謳われるドイツ軍ですらも、例外では無かった。

 マルグレーテと言う女王に束ねられているとは言っても、すべてが彼女の直轄部隊と言うわけにはいかない。

 中には質の悪い部隊もあるわけで、そう言う部隊の兵士ほど弛緩の度合いは酷くなる傾向にあった。

 

 

「その割に、何か平和だよな」

「馬鹿、敵の目の前だぞ」

「目の前ったって30キロ以上先だろ? アメリカ(ヤンキー)ロシア(イヴァン)の方がずっと近いじゃないか。何かあるとしたらまずそっちだろ」

「まぁ、そうだが……」

 

 

 野営地の各所を守る歩哨にも、緊張感が見られない。

 大軍の野営地に攻撃を仕掛けてくるなど露とも考えていないのだろう。

 過去のロシア軍の作戦が、常に人類側の先制攻撃で始まっていたと言うのも影響しているのかもしれない。

 

 

 それはドイツ軍の戦車が停められている臨時駐機場でも同じで、戦車兵達の動きはやや緩慢なように見えた。

 そしてその中に、戦車の整備状態の記録を集めている下士官がいた。

 彼はいつもの通り、規則正しく並んでいる戦車の前を時折立ち止まりながら歩いていた。

 

 

「うん? ……なぁ、おい!」

「はっ、何か御用でしょうか!」

「戦車はここに停まっているのですべてか?」

「はっ、その通りであります!」

「そうか。しかし、なら何故……」

 

 

 毎日行われている簡単な任務、もはやルーチンワークと言っても良い作業。

 そこで彼は、この任務を担当するようになって初めて首を傾げていた。

 そしてそれは、彼がその作業の中で見せる最初で最後の仕草だった。

 

 

「……記録よりも、どうして1台多く戦車があるんだ?」

「はっ! ……え? いや、そんなはずは」

「だが現実に……」

 

 

 彼らが見上げた先には、ドイツ軍の深緑の迷彩が施された戦車がずらりと並んでいた。

 エンジンに火こそ入っていないが、何十両と並ぶ戦車は壮観そのものであった。

 しかし彼らの目の前に、()()()()()()()()()()

 そして暗い暗い砲口の奥に、まるで単眼(モノアイ)のような光が輝いた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何かが起こった、群像はそう確信した。

 それは、海中まで伝わった衝撃波を僧が感知したためだ。

 

 

『ちょっと、何の警報!? 奇襲とか?』

「いや、オレ達じゃない。……ドイツ軍だ」

 

 

 急な警報に驚いたのだろう、機関室でエンジンの調子を見ていたいおりが通信を入れてきた。

 だが、イ401が攻撃を受けたわけでは無い。

 むしろ観測した衝撃波は遠く、地上から伝わってきたものだ。

 静が割り出した大まかな方向と距離から、それがドイツ軍の陣営からきたものだとわかる。

 

 

 そして断続的に続くそれは、事故では無いことを示している。

 奇襲だ。

 このタイミングでドイツ軍を奇襲するものと言えば、<騎士団>しか無い。

 ロシアやアメリカ、霧の艦隊が今ドイツ軍を攻撃しなければならない理由は無い。

 

 

「これは続くぞ。ロシア軍とアメリカ軍も標的になるはずだ」

 

 

 と言うより、続かなければ意味が無い。

 ドイツ軍の陣営への奇襲となれば、単独でどうこうと言うことでは無いだろう。

 人類側が行動する前に、機先を制して潰してしまおうと言うわけだ。

 過去の戦闘から、<騎士団>側からのアクションは無いと思い込んでいた連合軍にとって、まさに青天の霹靂(へきれき)であったろう。

 

 

「機関始動。海にも来るぞ」

「相手は戦車だろ?」

()()戦車だ。何があっても不思議じゃない」

 

 

 霧の艦艇が地上を攻撃しないように、<騎士団>も海には攻撃しない可能性もある。

 海に霧の艦艇以外の船舶がいない以上、<騎士団>の海上攻撃の基準はわからないままだ。

 だが<騎士団>もナノマテリアルの恩恵を受けている以上、出来ないことは無いと思った方が良い。

 むしろ、そう言う余談を持つことの方が危険だった。

 

 

「クリミアのフィールド、未だ健在」

「紀沙達からの連絡もまだ無い。フィールドの解除はもう少しかかるだろう」

 

 

 情勢が動いた。

 出来ればこちらから動かしたかったが、こうなっては致し方が無い。

 イ401としては、<騎士団>のペースで進む流れを妨げなければならない。

 イオナ無しで、それはかなりの困難を伴うだろうが――――……。

 

 

 ……――――イオナ。

 イオナは現在、イ401内の部屋の1つで眠りについていた。

 変わらぬ容貌、服装、規則正しく動く胸元。

 丁寧に胸の前で手を組んで眠るその姿は、まさに眠り姫だった。

 

 

「…………」

 

 

 しかし。

 その眠りは、不意に破られる。

 音も無く瞼が上がり、白い電子の輝きを放つ瞳が露になった。

 腹筋や筋力のバネでは無い、何か別の力で静かに上半身を起こす。

 

 

 その仕草は、人間らしさと言うものがまったく無く。

 まるで、壊れたマリオネットのようで。

 イオナの姿をした()()が、ぐるりと部屋を見渡して。

 ――――形の良い唇が、三日月の形に歪んだ。




投稿キャラクター:
朔紗奈様
『M4A3E2 シャーマン・ジャンボ』『M24 チャーフィー』
有難うございます。

最後までお読み頂き有難うございます。

せっかくのクリミアなので、ヤルタを舞台に選んでみました。
霧の艦艇の軍艦の歴史を考えると、感慨深い場所のひとつだと思います。

と言う訳で、また次回。
今回はちょっと大味だったかも…。


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Depth075:「戦闘開始」

今回はちょっと短めです。
執筆のため艦隊演習(艦これ夏イベ)を繰り返していまして……(おい)
それでは、どうぞ。


 

 外観は人の手を離れた建物そのもの――雑草、蔓、枯葉等々――だと言うのに、内部は驚く程に整えられていた。

 通路全体に敷き詰められた赤いカーペットに、等間隔に置かれた陶器の花瓶や絵画。

 花瓶に活けられた花は、開花のタイミングがバラバラの種類にも関わらず、先ほど咲いたばかりかのように花開いていた。

 

 

「ナノマテリアル製の通路」

「そうだな。なら我々の来訪はバレているわけだ」

 

 

 紀沙の眼には、宮殿の内装のすべてが()()()だと言うことが見て取れた。

 どれもナノマテリアル製であって、そこに足を踏み入れていると言うことは、まさに何者かの身体の上を走っているに等しい。

 当然、紀沙達の侵入にも気付かれているはずだ。

 

 

 だからこそ、不思議ではあった。

 気付いているだろうに、<騎士団>側からのアクションがほとんど無い。

 先程の『ジャンボ』達にしても、紀沙達を見て驚いていた。

 侵入に気付いていないか、気付いていながら連絡がいっていないかだ。

 

 

「ちなみに、ここから先は向かうアテがあるんですか?」

「下だ」

 

 

 それは先程も聞いた。

 ただ、足取りは確かな様子だった。

 思えばゾルダンはこの宮殿が<騎士団>の本拠地だと知っていたわけだから、見取り図を持っていてもおかしくは無い。

 この宮殿自体は、昔から存在していたわけであるから。

 

 

「……ッ、待って!」

 

 

 しかし、その途上で紀沙が声を上げた。

 全員、疑うことなく足を止める。

 ここは霧の力を使う者達の本拠地だ、霧の瞳を持つ紀沙の制止を聞かない人間はここにはいない。

 紀沙自身、自分の命を守るためにも集中して視ている。

 

 

「そこにいるのはわかっているぞ」

 

 

 通路の先、誰もいない。

 延々と同じような通路が続いているようにしか見えないが、紀沙の眼には、はっきりと視えていた。

 ()()()()()()()()

 このままもう数メートルも走り続けていれば、ぶつかっていただろう。

 

 

 しかし同時に、疑念も生まれていた。

 紀沙の霧の瞳には、言うなればぼんやりとした像が辛うじて視えていた。

 はっきりとした実像では無く、ただ「何かいる」程度のものでしか無い。

 だが、ぼんやりとしたその造形に強い違和感を感じたのだ。

 

 

「……姿を見せなよ」

 

 

 言えば、相手はあっさりとそうしてきた。

 そのあっさりさに、一瞬、誰かを思い出しかけた。

 人間の肉眼では誰もいなかったはずの通路、その空間が()()()()と歪んだ。

 そして羽虫が散るような「ざざざ」と言う音と共に、彼女は姿を現した。

 

 

「……!」

 

 

 流れるような銀の髪、細い体躯。

 パススリーブの白いブラウスに赤のヒダ付きミニスカート、黒系の袖なしベストには赤い締め紐がついていて、お腹の前で締める形になっていた。

 黒のオーバーニーハイソックスにストラップシューズ、左手首にハートリングのブレスレット。

 そんな容貌をした少女を、紀沙はひとりしか知らなかった。

 

 

「スミノ……!」

 

 

 イ404のメンタルモデル。

 スミノが、光の無い瞳でそこにいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミア半島近郊に展開した人類の連合軍は、各地で混乱に陥っていた。

 総合して言えば、それは<騎士団>による連合軍への奇襲だった。

 しかも、かなり意地の悪い。

 

 

「ロシア軍陣地に敵<騎士団>戦車3両を確認! 『KV-1』・『T-34』・『T-28』!」

「同じくアメリカ軍陣地に4両を確認しました! 『M-1』・『M-2』・『M-3』・『M-4』!」

歴史好き(オタク)がいると特定に時間がかからなくて良いねぇ」

 

 

 マルグレーテが言うように、100年近く前の戦車を見分けられる人間は意外と少ない。

 しかし人が何万人も集まる軍隊ともなれば、骨董品の兵器を熟知している人間も何人かいるのである。

 他の2軍がどうしているかは興味も無いが、おそらく似たようなものだろう。

 そして戦車の種類がわかるからこそ、この襲撃に込められた相手の皮肉もわかるのだった。

 

 

 それぞれの陣地を攻めている<騎士団>の戦車は、かつての祖国を攻撃しているのだ。

 ロシアの戦車の名を冠する名を持つ<騎士団>がロシア軍の陣地を攻め、アメリカはアメリカの戦車が、と言う風にだ。

 あからさまに馬鹿にされている。

 

 

「まったく、自分の陣地に余計な戦車が紛れ込んでいることに気付かないだなんて。とんだ恥晒しじゃないか」

「も、申し訳ありません!」

「あー違う違う。お前らが謝ることじゃない」

 

 

 すでに潜入されていたのか、最初から戦車の形態で紛れ込んでいたのかは大した違いでは無い。

 そんな検証は後でやれば良いのだ。

 今、問題なのは、<騎士団>の攻撃がドイツ軍の陣地にまで及んでいること。

 それも、かなり奥深くにまで。

 

 

「閣下、ここももはや安全ではありません! 後方へ避難を……!」

「情けないこと言ってるんじゃないよ。頭から逃げる身体がどこにあるってんだ、大体」

 

 

 仮設の司令部の外に出てしまえば、火焔の熱気がすぐそこにまで近付いていることがわかった。

 事の発端である駐機場の方から火の手が上がり、重火器を保管する他の倉庫まで燃え広がっている。

 弾薬庫にまで火が回れば、最悪の事態になるだろう。

 そしてそれらと同じくらいに重要で、真っ先に狙うべきだろう司令部は……。

 

 

「逃げ場なんて、どこにも無いみたいだぜ」

 

 

 ジャンパーを肩に担いだ葉巻の男、情報によれば『ティーガーⅡ』と言う戦車が、火焔の中からこちらを見つめている。

 あれがオレの死神か。

 そう呟いて胸元のホルスターから拳銃を抜き、マルグレーテは、群像の時とは異なり、迷うことなく引金を引いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海上でも、戦闘が始まっていた。

 こちらは<騎士団>による霧の艦隊への攻撃であり、陸対海の様相を呈していた。

 そして、霧が<騎士団>に対して劣勢に立たされていた理由が良くわかった。

 

 

「視えない……!」

 

 

 『フッド』は、右翼艦隊の中で戦慄していた。

 艦砲と言うのは、軍艦が持つほとんど唯一の攻撃手段だ。

 もちろん霧には他にも色々な武装があるが、ミサイルやレーザーも遠隔地を打撃すると言う意味では「艦砲」に含むことが出来る。

 そして艦砲による射撃には、どうしても必要なものがあった。

 

 

 ()()()()()()()()()()

 要するに標的の位置情報であって、それらの諸元入力無しに艦砲射撃は出来ないのだ。

 人類であれば、衛星や航空機、あるいは送り込んだ人員がそれらの情報を送信してくれる。

 霧にはそれは必要ない、そして必要ないからこそ、<騎士団>の霧のフィールドに遮られて、クリミア沿岸から射撃してくる<騎士団>の姿を捉えることが出来ないのだ。

 

 

「無闇に撃っても当たらんぞ、『フッド』!」

 

 

 そして左翼の『ダンケルク』も、改めて<騎士団>の厄介さを認識していた。

 <騎士団>との戦いで最も有効なのは、メンタルモデル同士の肉弾戦だ。

 彼女はそれをイタリアで実践したが故に、良くわかっていた。

 相手にはこちらが見えているが、こちらには相手が「視えていない」。

 こんな状況では、勝てるはずも無かった。

 

 

「しかも奴らは我らよりもずっと小さい! 撃った場所にそのままいるとも限らん! 今は攻撃よりも防御に専念すべきじゃ!」

 

 

 強制波動装甲を持たない駆逐艦を下げ、戦艦・巡洋艦を前面に並べて盾にする。

 『ダンケルク』はそのように専念していた。

 的が小さく霞のように消えてしまう<騎士団>の戦車に対応するには、今はそうするしか無かった。

 一撃ラッキーパンチが入る程度では駄目で、霧のフィールドの解除が勝利の絶対条件だった。

 

 

「おい、『ムサシ』! そうは言ってもこのままではジリ品じゃぞ。千早の子らは本当にあてにして良いのじゃろうな!?」

「――――大丈夫よ、『ダンケルク』。あ、いえ、ミルフィーユだった……?」

 

 

 そして中央、一際目立つ大型の艦艇だけは、<騎士団>の砲撃を物ともせずに黒海に屹立していた。

 霧の艦隊、あるいは連合軍の勝利には、霧のフィールドの解除が絶対条件。

 しかし『ムサシ』にとって、それが出来るか出来ないかはもはや問題では無いのだった。

 

 

「ねぇ、お父様」

 

 

 傍らに立つ翔像同様、<騎士団>を守る霧のフィールドの解除は遅かれ少なかれ成されると信じていた。

 ただ、それが()()かと言うのは、流石に問題ではあったのだが……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 想定外の事態だ。

 翔像が頼みとしている千早兄妹の兄の方、群像である。

 彼はイ401に乗艦し、黒海の海中に潜んでいたのだが。

 ……予期せぬ危機に、見舞われていた。

 

 

「おい、冗談よせって!」

 

 

 イ401の発令所に、杏平の切羽詰った声が響く。

 その段階になっても半ば冗談――それこそ、杏平の言う通りだ――のような空気が流れていたのは、それだけ目の前の光景が信じ難いものであったからだ。

 最初は、イオナが発令所に現れたことだ。

 

 

 驚きと、そして戸惑いが混じった喜び。

 まず最初に出てきたのはそれで、それは、意識不明だった仲間が目覚めればそんな反応が出てきてもおかしくは無いだろう。

 しかしそれは、すぐに別のものに変わる。

 

 

「副長!」

 

 

 静が悲鳴を上げる。

 群像はと言えば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 最初に気付いたのは、僧だった。

 艦内を把握していた彼だけが、彼らに気付かれずにイオナが発令所までやって来た異常に気付いた。

 だから近付いてきたイオナから、群像を遠ざけることが出来た。

 

 

「が……っ」

 

 

 その僧は、首を掴まれて――掌で覆われるそれはまさに「鷲掴み」――宙ぶらりんの状態にされていた。

 イオナによって。

 イオナの方が身長は低いのに。

 いかにも信じ難いその光景はしかし、群像の目の前で実際に起こっていることだった。

 

 

 そして問題は、群像をして身動きが取れないと言うことだった。

 マスク越しで見えはしないが、僧は明らかに呼吸困難に陥っている様子だった。

 イオナの掌は喉だけで無く首の血管(頚動脈?)をも圧迫しており、最初は聞こえていた喘ぐような声も、だんだんと聞こえなくなってきていた。

 僧の命が危ないと、そう思った時だ。

 

 

「う、うおおおおおおおおおぉぉぉっ!!」

 

 

 杏平が、イオナに跳びかかった。

 腕を、身体を押さえて、それこそ杏平の身体全体を使ってイオナの華奢な、それでいて強靭な身体を押し倒した。

 僧が床に放り出される。

 

 

 必死な杏平に比べて、イオナは無表情のままだった。

 あれは、本当にイオナなのか?

 イオナの姿をしてはいるが、とてもそうは思えなかった。

 その衝撃は、群像をしてその場から動けなくするには十分だった。

 

 

「行け!」

 

 

 そんな群像に対して、杏平がもどかしげに言った。

 イオナを押さえつけることに全力を使っているのだろう、その表情はまさに必死だった。

 

 

「逃げろ! 早く!!」

 

 

 だが、情けないことに、それでも群像は動くことが出来なかった。

 そんな群像を救ったのは、静だった。

 ソナー席を放棄して駆け出した彼女は、群像の脇に手を入れて彼を持ち上げると、引き摺るようにして発令所の外へ連れ出したのである――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 非力な静が群像を引っ張ってこられたのは、ひとえに危機意識が肉体を動かしたからだろう。

 しかし発令所近くの別の部屋に連れて来たは良いものの、当の群像がぼんやりとしていて、動く様子が無かった。

 

 

「艦長、しっかりしてください! 艦長!!」

 

 

 いつもは出さないような厳しい、切羽詰った声で、静が群像を呼んだ。

 ショックなのはわかるが、今はそう言う場合ではなかった。

 肩を揺さぶって自分の方を向かせると、ようやく群像は気が付いたようで。

 

 

「あ、ああ。すまない、世話をかけた」

「いえ。それより大丈夫ですか、艦長」

「大丈夫だ。問題ない」

 

 

 ようやく会話が成立して、静はひとまずほっとした。

 しかし悠長にはしていられない。

 あのイオナはすぐにここにもやって来る。

 酷い言い草になってしまうが、杏平と僧ではそんなに時間を稼げないはずだった。

 

 

「確かに想定外の事態だが、想像外というわけじゃない」

「え……それってどういう意味ですか?」

「あれはイオナじゃない」

 

 

 そう言いたい気持ちはわかる。

 イオナが自分達を攻撃するはずが無いのだから、あのイオナがイオナだとは思いたくない。

 しかし繰り返すが、今はそんな時ではないのだ。

 あの群像がそんなわかりきったことを言うなんて、と、静は衝撃を受けていた。

 しかし、群像は意図は()()()()()()()()()()()には無いのだった。

 

 

「あれがイオナだったら、オレ達はもう終わっている」

「終わっているって」

「静、ここは()()()()()()

 

 

 そこまで言われて、静ははっとした。

 静はイオナがおかしくなったと思っていた、が、群像はそもそも論として「別存在」説を挙げていた。

 だが、言われて見れば確かにそうだった。

 ここはイ401、イオナの()()なのだ。

 

 

 もしあれがイオナなのだとしたら、逃げるとか逃げないとか以前に、即座に終わらされていたはずだ。

 それをしてこなかった、と言うことは。

 あれはイオナでは無い。

 だから、イオナとして出来るはずのことが出来ない。

 つまりあのイオナは、イ401を動かすことが出来ない……!

 

 

「機関室に向かう。静、お前は魚雷の保管室だ」

「わ、わかりました。その後は?」

「その後は……」

 

 

 にやりと笑って、群像は言った。

 

 

「妹の真似をすることにしよう」

 

 

 そこはかとない不安を、静は感じたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 図らずも『ダンケルク』の考え通り、メンタルモデル同士で肉薄さえしてしまえば、霧と<騎士団>の間に劇的な実力差は生まれない。

 後は、演算力の戦いである。

 より大きな演算力を持つ者、あるいはより効率的に演算力を使える者が強者となるのだ。

 

 

「わあああっ、おじさんっ。おじさ――んっ!」

「あ、ちょいちょいちょいちょい~。ちっさい子いじめちゃ駄目でしょお~」

 

 

 『U-2501』の戦術は、単純明快だった。

 『U-2502』を援軍に呼び、2対2となったが、彼女はあえてそのまま2対2の状況には持っていかなかった。

 2対1を二度繰り返す、変則戦術に打って出たのである。

 

 

 一方をあえて無視し、例えば今は『チャーフィー』を2人がかりで攻撃している。

 するとたまらず『チャーフィー』が『ジャンボ』に助けを求めて離脱するので、今度は助けに来た『ジャンボ』を2人がかりで攻撃する。

 いくら<騎士団>と言えども、手数の差には苦労せざるを得ない。

 

 

「お、おお? 右から左からおじさん嫌になっちゃうねぇ」

 

 

 『U-2501』と『U-2502』の2人で、時間差で別の部位を攻撃する。

 例えば『U-2501』が『ジャンボ』の顔を目掛けて掌底を打ち込む、『ジャンボ』は攻撃なり回避なり防御なりをするだろう。

 そうして行動した後は、必ず隙が出来る。

 

 

 そこを攻撃する。

 

 

 『U-2501』の攻撃を受け止めるために『ジャンボ』が腕を上げた、そうして空いた脇腹に、『ウー2502』が掌底を刺し込む。

 以下、これを延々と繰り返すのだ。

 メンタルモデルの表皮を覆うクラインフィールドを少しずつ剥がし、最終的な攻撃を叩き込む。

 この変則的なヒットエンドアウェイは、<騎士団>にも有効だ。

 

 

(この感じは……)

 

 

 そうしている間にも、『U-2501』の優れた感度はクリミア半島全体の情勢を掴んでいた。

 彼女には無数の目である『群狼(ゼーフント)』があり、そこから常に情報を送受信しているのだ。

 

 

(イ401と……イ404? が動いている)

 

 

 それによると、どうやら色々とキナ臭い動きも出て来ているようだ。

 ゾルダンのことも気にかかる。

 だから出来れば、この場を早々に切り上げたかったのだが。

 

 

「おじさんをいじめるな~っ!」

「……っ、このっ!」

 

 

 後ろ……腰に『チャーフィー』が頭突きによるタックルをかけてきて、『U-2501』は苦々しげに腕を振るい、それを振り払った。

 一方を無視する以上、仕方の無いリスクだ。

 今しばらく、この場を動けないようだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 これは、スミノではない。

 紀沙は、本能に近い部分でそう直感していた。

 宮殿の中で出会ったスミノに対して思ったことである。

 だから、紀沙は言った。

 

 

「お前は誰だ?」

 

 

 この時の紀沙に対して、「誰だってそりゃスミノだよ」と言うような人間はいない。

 紀沙と同じようにスミノを知る静菜や冬馬はもちろん、ゾルダンもだ。

 霧の艦長であるゾルダンは、艦と艦長の間にしかわからない空気と言うものを知っている。

 ゾルダンの行動で気になることがあるとすれば、コツコツと床を足先で叩いているところだろうか。

 

 

 そして、スミノである。

 姿形はスミノだ、メンタルモデルの容れ物と表現すべきだろう。

 しかし、中身は明らかに違う。

 だがそれ以上に、紀沙がこのスミノを「違う」と感じるのは。

 

 

()()()()()()()()()、スミノ」

「『ああ……あれは貴女の目だったのか』」

「その声は」

 

 

 スミノが得た――奪った、ナノマテリアル化した紀沙の肉体部分。

 紀沙には理解できないが、スミノは何かと自身の血肉の部分をこよなく気に入っている様子だった。

 しかし今、目の前にいるスミノにはそれが無かった。

 最初の頃のような、完全な形でのナノマテリアル体だった。

 

 

「『ビスマルク』……!」

 

 

 そしてそんなスミノの口から漏れてきたのは、『ビスマルク』の声だった。

 どちらの『ビスマルク』かはわからない。

 

 

「『イ404のメンタルモデルは現在、自閉モードに入っています。この容れ物だけを、我々が使用している』」

 

 

 わかっていることは、敵だと言うことだ。

 自閉モードだと?

 確かイ401のイオナも眠り続けていると言う話だったが、同じような状態だと言うことか。

 あのロリアンでの事件から、ずっと?

 

 

「『申し訳ないのですが、貴女の役割はすでに終わっている』」

「勝手なことを言うなよ」

 

 

 流石にカチンと来て、紀沙は言った。

 

 

「お前達の勝手な都合で、終わり扱いされるなんてたまったものじゃない。私が何をするかは私が決める!」

「その通りだな」

 

 

 不意に、ゾルダンが言葉を発した。

 何かを確かめるように足元を叩いていた彼が、会話に割り込んできたのだ。

 じろり、と、『ビスマルク』がゾルダンへと視線を向けた。

 

 

「『ゾルダン・スターク。貴方にはそもそも役割すらない』」

「そうか、それは残念だ」

 

 

 言葉ほどに残念そうでないのは、一目瞭然だった。

 あくまでも上から目線の『ビスマルク』に対して苦笑すら浮かべる彼は、足元を指差した。

 つられて、その場にいる誰もが視線を足元へと向けた。

 紀沙は、それに加えてコツコツと足先で叩いてみた。

 

 

「……!」

 

 

 ああ、と、気がついた。

 一歩前と一歩後ろで、()()()()()()()()()

 だから『ビスマルク』は来たのだ。

 わざわざ、こちらの足を完全に止められるスミノの姿でやって来たのだ。

 そして、ゾルダンの意図も。

 

 

「せっかくお越し頂いたことだし、案内して貰うとしよう」

「『案内』、とは?」

「何、簡単なことだ」

 

 

 紀沙が振り向いて静菜と冬馬に注意を喚起するのと、ゾルダンが腰のベルトから()()を引き抜くのはほぼ同時だった。

 紀沙にしろゾルダンにしろ、あるいは群像にしろ、考えの元と成っている人物(翔像)が同じためか、互いのしそうなことを察するのも早かった。

 兄弟弟子の絆と言えば美しく聞こえるが、実際はそんなに良いものでも無いだろう。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()

「『……!』」

 

 

 キンッ、と、小さな音が響く。

 それはピンが引き抜かれた音。

 ゾルダンが、手榴弾を投げた音。

 そして『ビスマルク』が目を見開き、ゾルダンが身を伏せ、そして。

 宮殿の一角で、爆発が起こった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――ダーダネルス海峡。

 それは人類の長い歴史の中で、幾度と無く支配権が争われた軍事的に(チョーク)重要な要衝(ポイント)のひとつである。

 さらに北に位置するポスポラス海峡と共に、その重要性は古代でも現代でも変わらない。

 

 

「私にとっては、どこにでもある場所なんだけど」

「人間は地域ごとに名前をつけ、重要性に順位をつけることを好む」

「まー、私らにとっては大した意味ないって言うのは同意だな」

 

 

 ダーダネルス海峡の手前、ギリシア沿岸のエーゲ海に、霧の艦隊が集結していた。

 と言っても霧の地中海艦隊の主力はすでに黒海に入っているので、このタイミングで集結しているのは霧の欧州艦では無い。

 実際、その艦形は他の欧州艦とは異なっている。

 無骨で重量感のあるその艦体は、ヨーロッパでは無くアジアのものだ。

 

 

「共有ネットワーク上にアップデートされ続けているログからすると、戦闘はすでに始まっているようです」

「上等じゃない。それでこそ登場のしがいがあるってものよ」

「単に遅刻しただけじゃな「アンタ私の可愛い妹のナビゲートに何か文句あるわけ?」ひいっ、怖い!?」

 

 

 そして、霧の艦隊にしては妙に騒がしい。

 大いに寄り道をしていたのか、甲板上にピアノやらバイオリンやら、奇妙な置物やら何やらがところ狭しと並べられていたり、他にも絵画やら花やら神殿の柱やら……とにかく、色々だ。

 時代と場所が違えば、観光旅行でもしていたのかと言う様相を呈していた。

 

 

 最も、騒がしい、賑やかだと言っても洋上のこと。

 他の人類にとっては同じ霧であって、理解とは程遠い存在だ。

 そのはずなのだが、どうしてだろう、この艦隊だけは違う気がした。

 メンタルモデルが醸し出す雰囲気が、妙に人間臭いからかもしれない。

 会話も動作も自然そのもので、もしかすると彼女達自身も意識していないかもしれない。

 

 

「とにかく! 私達の登場を皆が待ち侘びているってわけね!」

「皆って誰だ?」

「『ムサシ』達のことか?」

「じゃあ別に待ってなくない?」

「うっさいわねそこ! とーにーかーく!」

 

 

 霧の重巡洋艦『タカオ』を中心とするその艦隊は、もはや霧の艦隊の中でも目立つ存在だった。

 それもそうだろう。

 大戦艦『ハルナ』『キリシマ』、巡洋戦艦『レパルス』、重巡洋艦『タカオ』『アタゴ』『マヤ』、駆逐艦『ヴァンパイア』、巡航潜水艦『イ400』『イ402』。

 海洋封鎖のローテンションで分散しがちな霧の艦隊に、これだけまとまって行動する艦隊は少ない。

 

 

「――――征くわよ!」

 

 

 そして今、それだけの戦力が黒海に侵入しようとしていた。

 太平洋から大回りで地中海に至った彼女達は、ここに至るまでの間にも戦闘を繰り返している。

 艦体表面に刻まれた汚れや傷をあえて消していないのは、単にナノマテリアル不足と言うだけでは無いだろう。

 霧の艦隊の中で最も経験豊富で実戦的な集団が、ダーダネルス海峡へと侵入を開始した。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

いつもは場面ごとに解決してから別キャラの視点に行くのですが、今回は時系列が並んでいる場面をいくつも転換して描写しました。
どっちの方が良いのかなーと考えたりしつつ、地道に描いています。

それでは、また次回。


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Depth076:「繭」

 

 気を失っていたのは、ほんの数分のことだったと思う。

 身体の痛みで、紀沙は目を覚ました。

 頬や手に当たる水滴も、鬱陶(うっとう)しかった。

 

 

「う……?」

 

 

 大分、身体が濡れていた。

 身を起こすために手をかけた岩肌もぬるりとしていて、随分と水気の多いところにいるのだな、と思った。

 そして痛む頭を押さえながら周囲に目をやった紀沙は、宮殿との環境の違いに驚いた。

 本当に同じ場所なのかと、そう思える程だった。

 

 

 遠くに見える天井の光……と言うにはぼんやりとし過ぎているが、あれが元いた場所だろうか。

 あの位置から落ちて無事と言うのは、よほど運が良かったのだろう。

 周りは黒い岩壁しかなく、灯りなのか、ところどころの割れ目や隙間に何かが光っていた。

 岩壁は等しく濡れていて、どうやら上から水が流れ落ちてきているようだった。

 

 

「宮殿の下に、こんな空間が……」

 

 

 紀沙がいる場所は、まだ底ではなかった。

 どうやら下へ行く程に狭くなっているのか、外延部は斜面になっていた。

 落ちた距離に対して怪我が少ないのは、途中から斜面を転がり落ちる形になったためだろう。

 それでも岩の斜面を転がる以上、ノーダメージとはいかない。

 そうだ、冬馬と静菜は無事だろうか――何となくあの2人は大丈夫そうな気がするが、一応。

 

 

「ふ」

「敵地で大声を出すのは感心しないな」

「……っ、あ、ゾルダン。……さん」

「敬称はいらない。友軍と言うわけじゃないからな」

 

 

 岩陰から、ゾルダンが姿を現した。

 一番爆心地に近かったはずだが、むしろ紀沙よりも無傷な様子だ。

 あたりを警戒しているのか、それとも冬馬と静菜の姿を一応探しているのか、左右を見回している。

 

 

「もう気付いているだろうが、ここが<騎士団>の本当の本拠地だ」

 

 

 気付いている、と言うのは、周りの環境だけでは無い。

 先程は灯りと言ったが、岩壁の間から漏れているのはナノマテリアルの光だ。

 そして大木の根の如く、岩壁を貫いているのは、同じくナノマテリアルの構成体(ケーブル)だ。

 なるほど、<騎士団>の本拠地。

 <騎士団>は、このケーブルを通してナノマテリアルを供給されているのだろう。

 

 

 だが、気になることがある。

 霧の艦艇は広い海洋のいくつかのポイントにナノマテリアルの補給地を築いている、<蒼き鋼>の硫黄島がそうだったようにだ。

 だが彼女達は、海中のナノマテリアルを使用可能な状態に()()している。

 だが海の無い陸地で、<騎士団>はどうやってナノマテリアルを精製しているのだろうか。

 

 

「この先に奴らの中枢がある。行くぞ」

 

 

 ゾルダンは、さらに下層を示した。

 中枢、<騎士団>の心臓部。

 そこはかとない不安を抱いたまま、紀沙は痛む身体を押して、先へと進むのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何だあれは。

 それが、「底」まで降りた時の紀沙の率直な感想だった。

 

 

「まるで繭だな」

 

 

 (まゆ)、それはゾルダンの表現だった。

 それに紀沙はなるほどと思った。

 実際、それは確かに繭に似ていた。

 ただし白く柔らかな繭のイメージとは程遠く、その「繭」は黒い蔓に覆われた禍々しい姿をしていた。

 

 

 穴の底、地底に根を張り、確かな脈動を足裏から伝えてくる。

 脈動、そう、その繭は生きていた。

 内側に抱えた何かの力強さを、いやでも感じさせた。

 しかもその感覚は、早鐘を打つ心臓の如く、徐々に狭まってきている。

 

 

「ここが中枢だ」

 

 

 先に降りたゾルダンが手を差し伸べてきたがそれは無視して、紀沙も降りた。

 底に、足を踏み入れた。

 香りからして海水のようで、入ると紀沙の太腿(ふともも)までの深さがあった。

 冬の海水は、肌を刺すように冷たい。

 

 

 近くで見ると、その繭は思ったよりも機械的であることに気付いた。

 木の蔓のように見えたものは樹脂製のケーブルで、それがとぐろを巻く形で何かを覆い隠していたのだ。

 手すりや階段の名残が見えるから、ケーブルの下には何かの設備があるのだろう。

 部屋なのかカプセルなのか、それは窺い知ることは出来なかった。

 

 

「気をつけろ」

「わかってる」

 

 

 とは言っても、何を気をつければ良いのかは微妙なところだ。

 何しろ、この繭がいったい何なのかわからないのだ。

 わかっていることは、他と違い、底を覆うケーブルが実物であると言うことだ。

 これは意外だった。

 

 

「ロシア語、かな。いや、ドイツ語……?」

 

 

 錆と苔で覆われたケーブルの表面には、人類の言語が見える。

 ナノマテリアル製ではない、実物であることを示すものだ。

 ただ、紀沙には読めない言語だ。

 いつの時代のものかもわからない。

 

 

 不気味だ。

 いや、この空間の雰囲気もそうだが、<騎士団>がひとりも出てこないことが不気味だった。

 ここは<騎士団>の心臓部なのではなかったのか?

 そこに近付く者がいることに気がつかないわけが無いだろうに、何故誰も出てこないのか。

 

 

「なっ!?」

 

 

 その時だった。

 ケーブルに触れたまま立ち上がり、顔を上げた瞬間だった。

 <騎士団>? 『ビスマルク』?

 いや、そのどちらでも無い。

 

 

 腕だ。

 

 

 人間の腕が、繭を突き破って出てきたのだ。

 それはまさに紀沙の目の前、鼻先を掠める程の位置にまで伸びてきて、驚いた紀沙が身を下げなければ、顔を掴まれたかもしれない。

 何かの粘液に濡れているその腕は、何かを求めるように掌を開閉させていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 反射的に、飛びずさった。

 その判断は間違っていなかった。

 繭の中から突き出てきた「腕」は、()()()()()()()()

 幾本も幾本も、ケーブルの隙間から、あるいはケーブルを突き破って、何かを求めるように蠢いていた。

 

 

「腕!?」

 

 

 中には、明らかにスペースが無いのに、ほぼ同じ場所から「腕」が蠢いている箇所があった。

 「腕」はそれぞれに違う。

 男のようであり、女のようであり、老人のようであり、子どものようでもあった。

 ただ、一様に何かを求めるように掌を開閉させている。

 繭の下の方から生えた「腕」など、床の海水を掻いては捨てると言うことを繰り返していた。

 

 

「繭だけでは無いな」

「え……ッ!」

 

 

 ゾルダンの言葉に顔を上げれば、目を覆いたくなるような光景がそこに広がっていた。

 岩壁を覆うように根を張っていたナノマテリアルのケーブル、その内側から、無数の「腕」が次々に生えてきていた。

 何かを求めるように蠢く「腕」が、一体となって掌を開閉し、肘を曲げている。

 まるで、出来の悪いB級映画のようだ。

 

 

 自然、紀沙とゾルダンは背中を合わせる形になった。

 お互いと言う名の足場しか、もはや紀沙達には残されていなかったからだ。

 足元のケーブルからも、「腕」が伸びている。

 水面下にもいるようで、何かが蠢いている気配を感じることが出来る。

 

 

「不味いな、これでは動きが取れん」

「これっていったいどう言う状況!?」

「わからん。だが、一つだけ言えることがある。こいつらがクリミアの住民達だと言うことだ」

「……は?」

 

 

 クリミアの住民達?

 脳裏を掠めるのは、突然住人が消えたかのような家々。

 セヴァストポリ、そしてヤルタ。

 その住民達が、この腕だと?

 

 

「言ったはずだ。お前なら心当たりがあるだろうと」

 

 

 心当たり……?

 ゾルダンとクリミアや<騎士団>占領地の住人に関して会話をした時も、違和感を持った。

 紀沙ならばある心当たりとは、何だ。

 考えてみたが、すぐには思い当たらなかった。

 と、言うより……。

 

 

「……………………まさか」

「ええ、そのまさか」

 

 

 ……単純に、思考の埒外に()()()押しのけていたからか。

 そしてその「まさか」を肯定するかのように、繭の陰から、太陽と月の時計を腰に下げた、双子が姿を現した。

 双子――『ビスマルク』は言った。

 

 

「彼らはすでに、肉体のすべてをナノマテリアルに還元されている」

「すなわち、我らが父の御為に」

 

 

 残酷で、醜悪な現実を。

 数百万と言う命を我が物にしたと、冷たい目と表情でそう告げたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はじまった。

 はじまってしまった。

 ――――はじまってしまった!

 

 

「黒海の対<騎士団>決戦艦隊以外の霧の艦艇に告げます」

 

 

 『ヤマト』が隣でそう口にするのを、コトノは黙って聞いていた。

 他の旗艦級の霧にコトノの存在を知られるのは好ましいことでは無いし、『ヤマト』は立派に総旗艦をやれているのだから、あえてコトノがちょっかいをかける必要は無いのだ。

 だからコトノは、黙って黒海の様子を窺っていた。

 

 

 黒海には『ユキカゼ』や『イ8』という、コトノの眼になってくれる霧の艦艇が何隻かいる。

 それらを通して、コトノはクリミアの戦況を窺い知ることが出来た。

 そして今は、『ヤマト』に代わって『ムサシ』がいる。

 あの千早翔像が、かつて奇跡を起こそうとして果たせなかった()()()()()()()()()

 

 

「総旗艦命令です。霧の艦隊は、現時点・現時刻を以って人類への海洋封鎖のローテーションを停止。現在の海域にて航行を停止しなさい」

 

 

 群像は、そして紀沙は、最終勝利者になれるだろうか。

 コトノが望むのはもちろん、完全無欠のハッピーエンド。

 主人公が悪を倒し、世界に平和をもたらす最高のエンディングだ。

 コトノは()()()()()、「めでたしめでたし」、と言いたいのだ。

 

 

「繰り返します、これは総旗艦命令です」

 

 

 はじまってしまった。

 クライマックスだ。

 カウントダウンだ。

 最期の時間だ。

 ついに来た。

 

 

「そして重ねて命じます。黒き海に逆十字が見えた時、各艦最大限の警戒を以って」

 

 

 約束の時だ。

 天羽琴乃が、コトノとして転生を余儀なくされた理由。

 日本政府が、旧第四施設をあれほどまでに隠蔽しようとした理由。

 それは、すべては、今この時のため。

 

 

 それは、すべては、運命だったのだ。

 ()()が遥かなあの場所から、コトノの前に現れた時から定められていたこと。

 あの時、天羽琴乃が死を迎えた時に、いやそれよりもずっと以前に。

 ヨハネスとグレーテル、そして出雲薫が()()の存在に気付いた時から、ずっと決まっていたこと。

 

 

「各艦は、己が全能力を以って」

(さぁ、約束通りだよ)

 

 

 『ヤマト』が空を指差し、『コトノ』が天を仰ぎ見た。

 太平洋の空。

 否。

 ()()()

 

 

「――――宇宙(ソラ)を、警戒しなさい」

 

 

 ()()()()()へ。

 約束の時だ。

 

 

(宇宙服の(ヒト)……!)

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミア半島、そしてイタリア北部にまで至る<騎士団>の占領地の住民は、一千万人に達する。

 もし<騎士団>が目的地――ロリアンまでの()()()にこだわらず、面で制圧していたのならば、この数字はもっと大きなものになっていただろう。

 それでも、バルカン半島を一直線に貫く<騎士団>領にいた人間は、それだけの数に上る。

 

 

「身体をナノマテリアルに還元された……って」

「そもそも」

 

 

 戦慄する紀沙に対して、『ビスマルク』の()の方が言った。

 両手で輪を作り、それを左胸の前に置く。

 まるで心臓を掴むかのような仕草だが、メンタルモデルに心臓は無い。

 心臓に該当する部分はコアだが、それは必ずしも左胸にあるわけでは無い。

 

 

「そもそも<霧の艦艇>とは、海から来たもの」

 

 

 深く昏い海の底、深海の海流の中でのみ育まれる特殊粒子、ナノマテリアル。

 コアとはその結晶体であり、コアは活性化することで他のナノマテリアルを自在に操ることが出来る。

 

 

「そして私達が起動した当時、人類にとって海とは戦場であり、戦場の覇者とは軍艦だった」

 

 

 だから、霧の艦艇は当時の軍艦の姿を取る。

 当時の人類の心に深く刻まれていたからこそ、その形を取った。

 <騎士団>が戦車の姿を取るのも、同じような理由からだ。

 そして、メンタルモデル。

 

 

 ここでひとつ、メンタルモデルについて訂正させて貰うとしよう。

 それは、「重巡洋艦以上の演算力を持つ艦は、メンタルモデルを持てる」と言うルール。

 違う。

 これが違う。

 訂正する、()()

 

 

「演算力の高いコアを有するからこそ、重巡洋艦以上の姿を取ることができる」

「同じ意味に聞こえる? そうかもしれない、でも違う。まったく違う」

 

 

 姉の言葉を引き継ぐように、『ビスマルク』の妹の方が口を開いた。

 同じように両手で輪を作り、心臓の位置へ。

 そして、言う。

 では何故、コアの演算力に差が生まれるのか?

 

 

「もう、わかっているでしょう?」

 

 

 人間。

 人間の肉体をナノマテリアルに置換して生まれたメンタルモデルは、強大な演算力を有することが出来る。

 コアに人間と言うプラスアルファを加えることで、演算力は飛躍的に高まる。

 1世紀前のコアの一斉起動時、それが起こったのだ。

 

 

 記録は無い。

 あったとしても、ただの行方不明者として処理されているだろう。

 何故か?

 当時は戦争中、それも世界大戦と称される程の戦争中、いなくなった人間など、掃いて捨てる程いた。

 その中のたかだが数十人や数百人のことなど、誰も気にしていなかった。

 

 

「ほとんどの霧は、それを忘れているけれど」

 

 

 グレーテルと言うイレギュラーによって、『アドミラリティ・コード』の起動が不完全になった。

 そのため、霧のメンタルモデル達は未だに霧へ転化した際の記憶を失っている。

 自分というメンタルモデルが何故、今の姿なのかを理解しようともせずに。

 それは、『ビスマルク』にとってはひどく滑稽なものに見えていたことだろう。

 

 

「そして今日、新たな福音は成される」

 

 

 ボンッ、と、大きな音を立てて繭が弾けた。

 ケーブルの塊が内側から弾け跳び、黒いオーラを纏った、青白い光が立ち上ったのだ。

 それは一直線に天を目指し、地表の宮殿すら吹き飛ばして――パラパラガラガラと、瓦礫が僅かながら落ちてくる――いつか見た光景とダブる。

 天を引き裂く、逆十字。

 

 

「容れものをここへ」

 

 

 そして光の柱の中に、あるものを見た。

 容れものと呼ばれたそれは、紀沙の良くしる者だった。

 

 

「スミノ!」

「『ヤマト』の()()()()()なら、容れ物にはぴったりでしょう」

 

 

 超戦艦『ヤマト』の半身の半身?

 また意味のわからない言葉が飛び出して来た。

 だが、ヤバいと言うのはわかる。

 あの繭から、何か良くないものを感じる。

 

 

 何かが、出てこようとしている。

 無数の「腕」に讃えられて、一千万人の人間をナノマテリアルに置換して。

 良くないものが、砕けた繭の縁に手をかける。

 その指先が、僅かに見えたその時。

 

 

「させるか……!」

 

 

 紀沙の両目の霧の瞳が、もうひとつの世界を開いた。

 すなわち、霧の世界へ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 現実の世界とは異なる、霧の力を持つ者だけが入れる世界。

 何かの覚醒を止めるのであれば、あれが霧の力に由来するものである以上、こちらから干渉するしか無い。

 そう思って意識を霧の世界へとダイブさせた紀沙だったが、あまり意味は無かったかもしれない。

 

 

「……!」

 

 

 自分の手には負えない。

 その事実がわかっただけだからだ。

 ヂ、ヂ、と、電子の音が時刻を刻むように響き渡る。

 紀沙の頬を、一筋の汗が滴り落ちていった。

 

 

 はじまりの3人。

 グレーテルがそうであったように、ヨハネスもまた『アドミラリティ・コード』の半身と融合していた。

 そしてグレーテルの『コード』が<霧の艦隊>を生み出したように、ヨハネスの『コード』は<騎士団>を生み出した。

 それは、グレーテルとヨハネスの命令(コード)を果たそうとする意思に基づいて行われた。

 

 

「言ったでしょう、ヨハネス・ガウスの『アドミラリティ・コード』――『ヨハネス・コード』は、すでに一千万の人間を置換していると」

 

 

 『ビスマルク』、姉か妹かはわからないが、来た。

 紀沙を阻止しに来たのか。

 いや、おそらくは違う。

 何故なら彼女にも、紀沙の力でどうこうできる事態では無いとわかっているのだから。

 

 

 例えるならば、そこにあるのは宇宙だった。

 『コード』と言う巨大な太陽の周囲で、一千万の命と言う星々が輝いている。

 太陽は青白い逆十字の光を放っており、ともすればそれは柱と言うより、もはや光の巨人だった。

 紀沙1人と比べても、いや比べることすら馬鹿らしくなるくらい、それは大きい。

 

 

「父さんは、こんなものをどうやって」

 

 

 10年前、父は『アドミラリティ・コード』の起動を止めた。

 その結果が『ヤマト』と『ムサシ』が得たメンタルモデルであって、『ヤマト』の帰還と『ムサシ』の離脱であった。

 こんな手に負えないものを、翔像はどうやって鎮めたと言うのか。

 

 

「千早翔像の時と同じでは無い。今回は『コード』は2つ揃っている」

 

 

 いや、条件はさらに悪い。

 ヨハネスとグレーテル、ロリアンとクリミアの『コード』が共に揃っている。

 つまり、力は翔像の時の倍だ。

 ますます手に負えない。

 こんなもの、本当にどうしたら良いと言うのか。

 

 

『千早紀沙!』

 

 

 その時、現実の世界でゾルダンが自分を呼ぶのが聞こえた。

 彼は言った。

 

 

『イ404を呼べ!!』

 

 

 イ404を、スミノを呼べと。

 この窮地を脱するために、スミノを取り戻せと。

 紀沙はその意図を正確に理解した。

 しかし、それは――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそもである。

 メンタルモデルには、いわゆる人格は無い。

 感情や個性に見えるものも、ただのプログラムに過ぎない。

 書き換えればすぐに消えてしまう、そんな程度のものでしか無い。

 『タカオ』のシスコンプラグインは、その最たるものであろう。

 

 

 そもそも、ネットワークを通じて意識の一部を互いにリンクさせているような存在を、「個人」とは呼ばない。

 どちらかと言えば、多重人格(人間)に近い。

 1人の人間には多様な面があり、言ってしまえば1人1人格と言うのはあり得ない。

 人間が、天使のように優しくもなれれば、悪魔のように残忍にもなれるように。

 個々の艦艇は、「霧」と言う集合人格の中の1面でしか無いのだ。

 

 

「それは、艦長殿にとってあり得ない選択だね」

 

 

 しかしその中で、独自の動きを見せていた()()がいた。

 イオナとスミノ。

 霧の規範に縛られること無く、今日まで航海してきた彼女達。

 『アドミラリティ・コード』の完全起動に伴って、同時に彼女達も()()していた。

 

 

「と言うかさ、皆なにか勘違いしているみたいだけれど」

 

「艦長殿は、霧が大嫌いなんだよ。家族を奪われたと今でも思っているからね」

 

「ボクやトーコと絡んでいるから、それを克服したとでも思っているのかな?」

 

「だとしたら、とんだお笑い種だね」

 

「たとえ世界が滅びるとしても、艦長殿が(ボク)を頼るなんてことは無いんだ」

 

「そんなこともわからないから、どいつもこいつも艦長殿のことがわからないんだよ」

 

 

 イ号404。

 スミノ。

 太陽と月の智の紋章(イデアクレスト)が煌く世界にたゆたいながら、彼女は目を覚ました。

 『アドミラリティ・コード』の起動と共に目を覚ます、そのようにプログラムされていたからだ。

 

 

「いいのか?」

 

 

 そんなスミノだが、普段とは容貌がやや異なっていた。

 髪色、衣装、纏う雰囲気が別人のようだった。

 だがそれは、むしろ()()()()()に近い姿だと言える。

 それは、スミノの隣にいるイオナも同じだった。

 末広がりの、不可思議な紋様(クレスト)が刻まれたロングドレス――どこかの姫のようだ。

 

 

 霧の姫。

 あるいは今の2人は、そう呼ばれてもおかしく無いだけの存在感を醸し出していた。

 太陽と月の紋章(クレスト)が輝く、この世界においては。

 とは言え、所作までそうなっているかと言えばそうでも無い様子で。

 

 

「いいのかって? 何が?」

 

 

 少なくとも、スミノのシニカルな表情を姫と言うのは憚られた。

 

 

「ボクらにとっては、艦長殿の言葉だけが最重要。そうだろイ401」

 

 

 紀沙がスミノを呼ぶことは無い。

 ならばこのまま、世界が滅びるのを黙って見ているのか。

 そう言いたげなイオナの視線に、スミノはいつものように皮肉げな笑みを見せたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 超戦艦『ヤマト』と『ムサシ』は、霧の艦艇で最初にメンタルモデルを保有した艦だ。

 10年前、翔像が『アドミラリティ・コード』の起動を阻止した時だ。

 この時、同時にイオナが生まれている。

 そしてイオナは、この後10年間の休眠期間に入ることになる。

 

 

 だが、何故10年もの休眠期間が必要だったのか?

 

 

 翔像はあえて語らなかったが、イ401は彼が千早兄妹のために日本へ帰した艦だ。

 本来なら、子供達の都合に関わらず常に再出航できる状態になければならなかったはずだ。

 それが、10年――いや、下手をすれば千早兄妹が横須賀を離れてしまう可能性すらあった。

 群像が学生時代にイオナが覚醒したのは、実はギリギリのタイミングだったのだ。

 

 

イオナ(キミ)は、『ヤマト』の半身だ」

 

 

 10年前、千早翔像は『アドミラリティ・コード』を鎮めた。

 その方法は単純だ、グレーテルと同じように、2つの異なる命令(コード)を書き込んだのだ。

 「起きろ」、そして「眠れ」。

 ロリアンで休眠していた『コード』は、もちろん「眠れ」と命じられた方だ。

 

 

 では、「起きろ」と命じられた『コード』は?

 別の形で実行させたのだ。

 例えば『アドミラリティ・コード』に次ぐ優れたコア――超戦艦のコアを使い、コアと『コード』を融合した新たな存在(プログラム)を作り出せば良い。

 『ヤマト』はイオナを作り出し、そして『ムサシ』は『U-2501』を作り出した。

 

 

「そしてボクは、そんなイ401から生まれた()()()()()だ」

 

 

 だが、分割されたとは言え『アドミラリティ・コード』だ。

 イオナはその膨大で複雑なプログラムを処理し切れずに()()、10年を過ごした。

 長い休眠状態の中で出した答えは、さらなる分割。

 イ401は己のコアを分割し、イ404――スミノを作り出した。

 ちょうど、『U-2501』が己の補助として『U-2502』を作り出したように。

 

 

「だから正確には、ボク達は姉妹と言うよりは母娘と言った方が良いのだろうね」

 

 

 そして、「起きた」。

 『ヤマト』と『ムサシ』のコアから生まれた4隻のメンタルモデルは、『アドミラリティ・コード』の欠片を内包しながら、他の霧とは一線を画した存在として目覚めた。

 それぞれの艦長を仰ぎ、己の艦長の言葉と意思だけを絶対として、海を駆け続けてきた。

 これまでも、そしてこれからもだ。

 

 

「艦長殿はボクを呼ばない。絶対にね」

 

 

 ()()()()()()()()()

 紀沙の霧への憎悪を軽く見ている奴らに、スミノは言ってやりたい。

 愛情を裏返すと憎悪になるのかもしれないが。

 憎悪を引っ繰り返したところで、愛情にはならないのだ。

 

 

 天地が引っ繰り返ったところで、紀沙がスミノを呼ぶことは無い。

 絶対に無い。

 死んでも無い。

 だから。

 

 

「だから、()()()()()()()

 

 

 嗚呼、本当に手のかかる艦長だ――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 変化は、突然に起こった。

 出会った時からそうだった。

 あいつはいつも、紀沙の嫌がる方を選ぶのだ。

 だから、紀沙は自分の艦にも関わらず、彼女のことが大嫌いなのだった。

 

 

「馬鹿な、イ404のメンタルモデル・プログラムは停止しているはず」

 

 

 完璧な配列であったはずの『アドミラリティ・コード』の宇宙、しかしそこに綻びが生まれた。

 強烈な輝きを放つ太陽――『コード』の中に、黒点が生まれたのだ。

 滲み出るように大きくなっていくそれは、、やがて長方形を形作る。

 そして黒い長方形の真ん中に線が走ったかと思えば、外開きのドアのように2つに開いたのである。

 

 

「確かに表のイ404は停止したよ、『ビスマルク』」

 

 

 そして、嗚呼、扉の向こう側の何と醜悪なことか。

 そこには、宇宙の如く君臨していた光の化身の本質が余すところなく存在していた。

 桑の実の色(マルベリーパープル)

 濁った黒色とでも言うべき色が、扉の向こう側で蠢いていた。

 

 

 言うなれば、濁った沼で巨大な蛇がのたうち回っているかのような。

 無数の、大小の触手が蠢き、ぬめりを帯びながらぐちゃぐちゃと音を立てている。

 言葉に出来ない程の腐臭と、吐き気を催す程の嫌悪感。

 100年に渡り積み重ねられた、1人の男の憎悪と怨念の苗床がそこにあった。

 

 

「でも、このボク(スミノ)は停止しようが無いじゃないか」

 

 

 驚愕する『ビスマルク』に、スミノはそう言ってのけた。

 『ヤマト』の四分の一と『アドミラリティ・コード』の三十二分の一を持つメンタルモデル。

 手の甲で銀の髪を()いながら、いつもの笑みを浮かべて。

 

 

「やぁ、艦長殿。似合ってないから早く立った方が良いね」

 

 

 手を貸そうか、と言うスミノに、紀沙は返した。

 

 

「いらないよ、お前の助けなんか」

「そうかい。まぁ、艦長殿ならボクの助けなんて必要ないだろうからね。でも今すぐは流石にキツいと思うから、もう少しボクが頑張るとしようかな」

 

 

 その時、扉の奥から触手が伸び、スミノの首に絡まった。

 行儀悪くスープを啜るような、そんな音がした。

 それに対して、スミノはどうとも反応を示さなかった。

 ただ、視線だけを扉の向こう側へと向けて。

 

 

「……ボクに」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「触るなよ」

 

 

 言葉の続きは、現実で聞こえた。

 スミノは、紀沙の目の前にいた。

 しかし同時に、紀沙の目の前で、スミノの全身は触手――ケーブルに絡め取られていた。

 首だけでは無い。

 頭、胸、二の腕、手首、腹、太股、膝、足首に至るまで、全身である。

 

 

 海水に濡れたそれは生物的で、肌の上を這っている様を見るだけで気味が悪かった。

 しかし、まさしく波が引くようにケーブルが退いた。

 まず頭から、スミノの顔のあたりから引いた。

 どうやら、この触手(ケーブル)には苦手なものがあるらしかった、それは。

 

 

「ああ、これは苦手かい? ビスマルク姉妹を()()()()()()()()、血を吐いて死んだんだっけ?」

 

 

 血だ。

 スミノの両目、人の部位から血の涙が零れ落ちたのだ。

 それはすなわち、スミノが自分本来のメンタルモデルを起動させたことの証明だった。

 あれが元は自分の肉体部分かと思うと、聊か複雑な気持ちになる紀沙だった。

 

 

「まぁ、どうでも良いけどね」

 

 

 その時、紀沙は確かに()()()

 声では無い。

 ただ、その場にいる何者か、『アドミラリティ・コード』の力を得た何かがの意思を感じた。

 そうだな、「何故」、そんな意思が聞こえて来た。

 あえて表現するなら、そう言うことになるのだろう。

 

 

「何故かって? ヨハネスともあろう者がわかりきったことを聞くんだね」

 

 

 薄ら笑いと共に、スミノはそう言った。

 彼女の身体から触手(ケーブル)が離れていく、まるで繋がりを断たれたように。

 その間にも、何か……ヨハネスは、こちらへと意思を叩きつけてきていた。

 いや、はたしてこれを意思と呼んで良いものかどうか。

 この剥き出しの感情を。

 

 

「しゃあ! 逆転の瞬間ってやつだな!」

「動けば折ります」

 

 

 そして、上から人が2人降ってきた。

 冬馬と静菜だった。

 2人共が『ビスマルク』の後ろに着地し、後ろから羽交い絞めにする。

 メンタルモデル相手に剛毅なことだと思うが、不思議と『ビスマルク』は振り払わなかった。

 振り払う必要を感じていないからか、あるいは。

 

 

「『ビスマルク』ともあろう者が何て様だい」

 

 

 あるいは、力を使い果たしてしまっているのか。

 いずれにしても、状況は確かに逆転と言って良いものだった。

 ヨハネスの『コード』は未だ起動状態であるものの、スミノはこちらへ戻った。

 静菜と冬馬が無事で、ゾルダンもいる。

 だが、そのような好転した状況の中で。

 

 

「…………」

 

 

 ひとり、紀沙だけがヨハネス――だろう何かの塊――へと視線を向けていた。

 その表情は、何かを聞こうとしているもののように思えた。

 いや、実際、聞こえていたのだ。

 ()()()()が。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 不思議だった。

 ことここに及んで、紀沙はある感情を得ていた。

 嫌悪? 憤怒? いや、そう言うマイナスの感情では無い。

 ()()()()を耳にしてから、紀沙はヨハネスに視線を向けていた。

 

 

 ヨハネス――ヨハネス・ガウス。

 100年前に『アドミラリティ・コード』を起動させた、いわば霧の父とも言うべき存在。

 グレーテルの()()――ヨハネスにしてみれば妨害だろう――され、枝分かれた『コード』と融合し、クリミアの地に流れ着いた。

 そして今、ロリアンの『コード』を取り込んで完全なる覚醒を果たそうとしている。

 

 

「お……おい、何か様子がおかしくないか?」

「言ったはずだ。容れものが必要だと」

 

 

 砕け開いた繭の穴。

 そこには何の姿も見えないが、()()()()()

 霧の世界で、スミノが出てきた扉の向こう側がおぞましい触手で満ちていたことを思い出した。

 あれと同じものが、あの繭の中にはある、人間の目には見えないだけだ。

 

 

「イ404の覚醒によって、その容れものが無くなった」

「卵の中身が割れた殻の中に留まれないのと同じだ。受け皿を失った中身は溢れるしか無い」

「「つまり」」

 

 

 『ビスマルク』姉妹の言葉には、諦観の色さえ含まれているように感じた。

 疲労と諦め。

 思えば、『ビスマルク』姉妹はいつから活動していたのだろう。

 100年前か、17年前か、10年前か、あるいは2年前か。

 

 

 ロリアンやカークウォールで相見えた時には、底知れない強さと大きさを感じた。

 それが今はどうだ。

 対峙するだけで肌が粟立つ程の寒気と、息苦しくなる程の凄み。

 そうしたものが全て消えて、紀沙と変わらぬただの小娘に成り下がっている。

 思えばこの場で姿を見せてから、『ビスマルク』姉妹は直接的に攻撃を仕掛けてきていない。

 

 

「世界が」

「終わる」

 

 

 ごぽ、と、何かが溢れる音がした。

 それは今度は、はっきりと目に見える形で現れた。

 砕けた繭の穴の中、どこまでも底が無いのではないかと思える程に暗いそこから。

 桑の実の色(マルベリーパープル)の、ドロリとした液体が溢れ出てきた。

 

 

 海底のヘドロが地表に溢れ出てきた、そんな表現が合うのかもしれない。

 それは見た目以上の早さで噴き出し始め、瞬く間に空間を制圧していく。

 このまま行けば、いや確実に紀沙達をも飲み込もうとするだろう。

 下手をすれば、この空間だけで済まないかもしれない。

 しかしこの期に及んでもまだ、紀沙は自分に危機感が欠如していることを意識していた。

 

 

「ヨハネス……」

 

 

 何故なら、この危機的状況において紀沙が感じていたのは、マイナスの感情などでは無かったからだ。

 紀沙が感じていたのは、もっと別なもの。

 今、紀沙はこの場にいる誰よりも()()()()()()()()()()()()()()()

 何故かそうだった、そう。

 紀沙は、ヨハネスに()()()()()()()()――――……。




最期までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ええと、つまり……。

100年前:アドミラリティ・コードがヨハネスとグレーテルにより2つに分割。

10年前:グレーテル(ロリアン)のコードが再起動。さらに2分割。
     この際、ヤマト・ムサシで「起きる」側をさらに2分割。
     その上、イオナ・スミノ、U-2501・2502で分割。

……つまりスミノが持っているのは『コード』の何分の一?
1/32で合ってる……?(算数がとても出来ない)。

それでは、また次回。


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Depth077:「わかるよ」

 

 ヨハネス・ガウスは愛国者だった。

 祖国を愛し、政権を支持し、同胞を愛するごくごく普通の人間だった。

 しかし彼の人生は、驚く程に多くの「何故?」に囚われたものだった。

 

 

 最初の「何故?」

 

 

 それは彼が敬愛する父が、祖国にとって有用である研究を封印してしまったこと。

 海底で精製される未知の粒子、それが生み出す無限のエネルギー。

 この研究が完成すれば、祖国は偉大な飛躍を遂げるだろうと思われた。

 しかし父は自らの研究の危険性を説き、封印した。

 父の死後、ヨハネスは封印を解き研究を引き継いだ。

 

 

 2つ目の「何故?」

 

 

 祖国が、偉大な祖国が下等な敵国に滅ぼされようとしていたこと。

 世界で最も優秀な民族が統べる国が、どうして敗北するのか理解できなかった。

 迷った末に、彼は己の研究で祖国を救うことにした。

 軍事への転用、当時としては珍しいことでは無かったが、愛国心が彼に苦渋の決断をさせた。

 

 

 3つ目の「何故?」

 

 

 祖国が、2人の妹を死に追いやったこと。

 正確には父の養い子であり、養女ですらないので義妹(いもうと)では無いが、少なくともヨハネスはその姉妹を妹のように思っていた。

 他でもない、愛すべき偉大な祖国によって姉妹は死に追いやられたのだ。

 政府からの研究資金を得るために、姉妹は自ら命を断った。

 

 

「何故?」「何故?」「何故?」

 

 

 何故、こんなことになる?

 ヨハネスは自身の栄達を望んだことは一度も無い。

 父の意に反して研究を続けたのは、科学者としての父の名誉を守るためだ。

 研究を軍事に転用しようとしたことは、祖国を敵から守るためだ。

 それなのに、ヨハネスの手に残ったのは2人の妹の遺体だけだった。

 

 

「何故?」「何故?」「何故?」

 

 

 祖国に問うた、何故なのかと。

 世界に問うた、何故なのかと。

 神に問いかけた、どうしてと。

 自分は何か悪徳を成したのかと、何か間違いを、過ちを犯したのかと。

 

 

 苦しかった、悔しかった、苦悩と悔悟に心身を引き裂かれた。

 何も間違ってなどいない。

 選択はすべて正しかった。

 だから間違っているのは、祖国世界神(お前達)ではないのかと。

 

 

 

    「わかるよ」

 

 

 

 何故、と、問いかけの言葉だけが満ちる世界に、不純物がいた。

 ざわ、と、世界がざわめいた。

 いったい何者が、ヨハネスの世界に足を踏み入れてきたのか。

 それは。

 

 

「あなたの気持ち、すごく、わかるよ」

 

 

 それは、両眼を白く輝かせる、東洋人の少女(千早紀沙)だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 異変。

 その異変に、まずいち早く気付いたのは<騎士団>と霧の艦隊だった。

 唐突に訪れた変化に敏感に反応し、攻撃の手を止め、その場に留まった。

 霧が、晴れる。

 

 

 クリミア半島を覆っていた霧のフィールドが、消失した。

 

 

 不意の変化だった。

 何の前触れも無く、風に吹き消されるようにあっさりと消えてしまった。

 クリミア半島の全容が、洋上からも陸上からもはっきりと見て取れるようになった。

 思ったよりも、小さな領土だった。

 

 

「おじさん!」

「あっら~、これは……」

 

 

 『U-2501』は、己の主が目的を果たしたことを知った。

 そして同時に、未だ連絡が無いことを訝しんだ。

 目的を達した以上、長居は無用のはずである。

 ゾルダンが引き際を見誤るようなことは無いので、何らかの事態が起こっていると言うことだろう。

 

 

 そして、熱い。

 『U-2501』、そして『U-2502』のコアに刻まれた『アドミラリティ・コード』のひとかけらが、活性化して熱を放っていた。

 足下(あしもと)で何かが、それも特別な何かが起こっている。

 『U-2501』には、その確信があった。

 

 

「将軍! 敵<騎士団>の様子が妙であります!」

「ああん? どう言うこった、ここに来てまごつく意味は無いだろうよ」

 

 

 そして変化は、地上の側にもあった。

 おおよそ10両そこそこの<騎士団>に対して壊滅的なダメージを受けていた人類軍だが、ここに来て<騎士団>側の圧力が緩んだ。

 もう少し時間が経過していれば、大幅な後退――要は撤退――を決断しなければならないと、マルグレーテなどが思っていた時だった。

 

 

「ちょ、閣下! 危険です!」

「どこにいたって危険だよ」

 

 

 横転した自軍の戦車の陰から様子を窺うと、なるほど確かに<騎士団>の戦車の様子がおかしかった。

 砲撃が何十人もの兵士や建物を吹き飛ばし、古臭いキャタピラが鉄条網や物資を蹂躙する、まさにそんな状態だったものが、どう言うわけかまごついていた。

 どちらに進めば良いのかわからない、そんな風だった。

 あの人型の<騎士団>の姿は見えないが、同じ状態になっているのだろうか。

 

 

「こりゃあ、もしかすると反撃の糸口になるか? ……む?」

 

 

 その時、マルグレーテは確かに感じた。

 戦車の陰、四つん這いになって顔を覗かせていた彼女の手と膝に、確かな振動が伝わってきた。

 地震か、それとも砲撃の振動か?

 答えは、そのどちらでも無かった。

 

 

「なぁ……っ!?」

 

 

 大抵のことには驚かない鋼の精神を持つ彼女をして、その事態には驚愕した。

 <騎士団>の戦車が、大きく宙を舞っていた。

 数十メートルに達するだろうか。

 しかしそれは、誰かの攻撃によってそうなったわけでは無い。

 

 

 樹齢何百年かの木の幹が、おそらくはこのくらいの大きさか。

 そんな大きさの太いケーブルが、地中から飛び出し、戦車をぶち上げたのだ。

 しかもそれは一本や二本では無く、次々に至るところで起きていたのだった。

 この時点でマルグレーテは、事態が新たな段階へと進んだことを理解した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 地上の変化は、海上からでも見て取れた。

 と言うより、クリミア半島とその近郊の地上すべてが同じような状態になっていたのだ。

 気味が悪い光景だった。

 ぬめりを帯びた黒く太いケーブルが、触手が、大地を割って地表へと現れ出でたのである。

 

 

「な、何が起きている……の?」

 

 

 『フッド』麾下の巡洋戦艦『レナウン』は、クリミア半島全域を覆い始めた黒い触手の群れを、おぞまし気な表情で見ていた。

 生来臆病な性質を持つ彼女で無くとも、この光景にはおぞましいものを感じるだろう。

 うぞうぞとした触手の群れが山を、森を、街を覆いつくし、黒い液体状の何かに変えていく。

 艦隊の中程にいる彼女の位置からでも、異常事態と言うことは良くわかった。

 

 

「何、これ。泥……へどろ?」

 

 

 逆に、間近でそれを見た者達はあらゆる意味で不運だった。

 嗚呼、おぞましい。

 黒い触手はすでにクリミアの砂浜――『セヴァストポリ』の砂浜も――を覆い尽くし、液体化する。

 表面に、とぷん、と何かが跳ねて波紋が広がる。

 

 

 しかも液体はさらに広がりを見せていて、海水面まで覆い始めた。

 広がりは早く無いが、原油やタールでも流出した時と同じように、鼻奥にツンと来る異臭を放っている。

 何と言うか、何かを高速で腐らせているかのようだ。

 鼻を押さえて、『ダンケルク』艦隊に属する重巡洋艦『ゴリツィア』のメンタルモデルは顔を顰めた。

 

 

「うえ~……まぁ、放っておくわけにもいかないか。ちょっと、何隻か行ってサンプル採取してくれる」

 

 

 配下の魚雷艇2隻が、ゆっくりと黒い液体に近付いていく。

 浅瀬なので座礁しないよう注意しながら、ゆっくりと、だ。

 メンタルモデルを得たせいか、あの液体がよりおぞましいものに見えてならなかった。

 嗚呼、気味が悪い……『ゴリツィア』がそう思った時だ。

 とぷん、液体の表面にまた波紋が広がった、そして。

 

 

「え」

 

 

 と、『ゴリツィア』が言葉を発するよりも早く。

 黒い液体が大きな(あぎと)を形作り、魚雷艇に喰い付いた。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 はっとしたのは、1隻目の魚雷艇の前半分が喰い破られた後だった。

 ばくん、と言う擬音が聞こえてきそうなくらい、あっさりと船体が半分消えた。

 

 

「下が……」

 

 

 2隻目への警告は遅かったし、警告があっても船はすぐには前進を止められない、無駄だったろう。

 今度は前と後ろに同時に喰い付かれた、嗚呼、やはり液体が形状を変えているのだ。

 そして獲物を()に入れた液体は、波紋を残しながら元いた場所に戻った。

 とぷん、と、音を立てて。

 

 

「『ゴリツィア』!」

「え、あ!」

 

 

 僚艦からの注意喚起もやはり遅れた。

 ()()は表面だけでは無く、水底にもいた。

 『ゴリツィア』のメンタルモデルは、甲板上で大きく後ろに飛び退いた。

 それは正しい判断だった、船首の目前で水底から黒い液体が立ち昇り、『ゴリツィア』の船体に喰い付いてきたからだ。

 

 

「こいつ……! 私の強制波動装甲を、クラインフィールドが通じない!」

 

 

 重巡洋艦級のクラインフィールドがまるで意味を成さず、一撃で『ゴリツィア』の船体中枢にまで届いてきた。

 船体が深刻な音を立てて砕かれていく、『ゴリツィア』は目を剥いた。

 ガクン、船体が揺れる、傾いた、側面、いや後部も、次々と黒い顎が襲ってくる、保たない。

 

 

「うわっ、うわああああああっ!!」

 

 

 沈……。

 

 

「『ゴリツィア』! 許せよ!!」

 

 

 そこへ、『ゴリツィア』よりも大型の艦艇が突っ込んできた。

 『ダンケルク』だった。

 彼女は自らの艦体を『ゴリツィア』の側面に衝突させた。

 すでに強制波動装甲を破られていた『ゴリツィア』は大戦艦の突進に耐え切れず、半ばから砕けた。

 

 

 放り出されるメンタルモデル。

 空中で掴まれた。

 投げられる、視界に迫ってくる『ダンケルク』の甲板。

 そしてそこでも掴まれて、いや受け止め、抱き止められた。

 

 

「だ、大丈夫かい?」

 

 

 人間だった、イタリア人の若い男だった。

 そう言えば『ダンケルク』は人間を乗せていたなと、『ゴリツィア』はぼんやりと思った。

 助かった……。

 

 

「安心するのはまだ早いぞ」

 

 

 乗員(カルロ)が『ゴリツィア』を受け止めたのを確認してから、『ダンケルク』はその場を機関最大で突っ切った。

 喰い付かれた部分は切り離して放棄(パージ)し、黒い顎の間を擦り抜ける。

 しかし、大戦艦の彼女をもっていても()退()()()()()()()()

 後ろを振り返った『ダンケルク』は、ぞっとした顔をした。

 

 

「何じゃ、あれは。悪い夢でも見ておるのか……?」

 

 

 クリミア半島が、黒い巨人と化していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 地中海には、台風(タイフーン)の語源を生んだ怪物の伝説がある。

 近隣の神話・伝説の中でも最大最強とも言われるその怪物は、神々の王ですら打ち倒したと言う。

 世界を掴む程の巨腕(かいな)、炎の眼に人間の上体、そして無数の毒蛇を宿す巨体。

 その背には巨大な翼を持ち、巻き起こされる暴風は大陸をも引っ繰り返してしまうとされている。

 

 

 今、クリミア半島を飲み込んで()()()()()()ものは、まさにそんな存在だった。

 黒い巨人、と言う呼び名が最も相応しいだろう。

 タールのように液状化した身体は所々が形を変えながら波打ち、揺らぎ、毒蛇の如き(あぎと)が跳ねては沈むことを繰り返している。

 風の中には、水底のヘドロが発するものに似た腐臭が乗っていた。

 

 

『――――――――――――ッッッッ!!!!』

 

 

 ――――ビリビリと、空気が震えた。

 黒い巨人の先端部、目と口のような形をした穴が開いたかと思えば、次の瞬間には叫びを上げていた。

 人も霧も、耳を押さえて身を竦ませた。

 ただそれは、叫びではあっても叫び()では無い、言葉では無かった、音の次元が違った。

 この世界の存在では、あの怪物の声を聞き取ることが出来ない。

 

 

「いけない!」

 

 

 中央で『ムサシ』を直衛していた海域強襲制圧艦『フューリアス』は、離脱中で黒い巨人に背を見せている『ダンケルク』達が()()に気付いていないことに気付いた。

 黒い巨人の顔が、取り逃がした獲物――すなわち『ダンケルク』達を見た。

 がぱ、と、口の部分が顔全体を縦に割って開く。

 その向こう側に光が収束し、細く、そして強くなっていった。

 

 

「『ダンケルク』、潜行しなさい! 狙われています!」

「もう間に合わんわ、たわけ……!」

 

 

 イ401の砲艦オプション超重力砲――いや、それ以上だ。

 超重力砲は射程距離が無い、エネルギー量と()()がすべてだ。

 その意味で巨人の口のサイズは艦砲の比では無く、また一千万人分の――もちろん、『ダンケルク』達はその事実を知らないわけだが――ナノマテリアルは、ほぼ無尽蔵のエネルギーを巨人に与えている。

 

 

 すなわち、『ダンケルク』どころでは無い。

 黒い巨人のあの一撃は、周囲のすべてを吹き飛ばしてしまうことだろう。

 最大戦速で駆けながら、『ダンケルク』は後ろを振り仰いだ。

 目が合ったわけでも無いだろうが、黒い巨人の目が笑みの形に歪んだ気がして。

 そして次の瞬間、黒い巨人の頭が二度爆発した。

 

 

「なっ!?」

 

 

 一つは、黒い巨人が自身の攻撃の威力を自分で受けてしまった爆発だ。

 発射口を()()()()、行き場を失ったエネルギーが暴発したのだ。

 そしてもう一つは、黒い巨人にそれを強いた原因だ。

 最初の爆発はそれである。

 上から、天空の彼方から光の一撃が黒い巨人の頭を撃ち抜いたのだ。

 

 

「あれはっ、『コンゴウ』が太平洋で使ったとか言う……!」

 

 

 大戦艦級以上の者で無ければ装備できない、霧の艦隊の究極兵装。

 軌道上の衛星兵器から超重力砲並みの一撃を繰り出す、霧の旗艦装備。

 かつて、大戦艦『コンゴウ』が硫黄島の戦いで使用したものである。

 そして今、その兵器を使用したのは。

 

 

「頭を垂れなさい、醜悪に堕した至宝よ」

 

 

 超戦艦『ムサシ』。

 いつもと異なり、ベアトップスタイルの夜会服(ドレス)に身を包んだムサシ――旗艦装備は、使用する際にメンタルモデルの装飾が変わることがある――が、掌サイズのグリップスイッチを握っていた。

 いつも閉ざしていた眼を開いて、不敵な笑みを浮かべながら。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 あまり無理をするな。

 翔像からそう声をかけられて、『ムサシ』は内心嬉しかった。

 心配されると言う行為は、相手からの愛情を感じる行為でもあるからだ。

 しかし一方で、心配させてしまったことに負い目も感じていた。

 

 

「大丈夫よ、お父様。心配しないで」

 

 

 黒い巨人に横腹を見せる形で、『ムサシ』は回頭した。

 それは全力で攻撃すると言う宣言であると同時に、相手の攻撃をモロに受けると言う宣言でもあった。

 元より逃げるつもりは無いし、それに回避や防御にリソースを割いていられる余裕は無かった。

 そんなことをしていては、()()()()()()

 

 

「ヨハネスのコードが()()なったと言うことは、イオナとスミノが目覚めたと言うことでしょう?」

 

 

 それは、ヨハネス――の()()による『アドミラリティ・コード』の起動が阻止されたと言うことだ。

 ただ完全な阻止と言うわけでは無く、ヨハネスの情念によって半覚醒させられているのだろう。

 その情念についてだけは、感嘆と悲嘆の念を禁じ得ない。

 

 

 『ムサシ』の主砲が右を撃つ、駆逐艦を飲み込もうとした黒い顎を撃ち抜いた。

 『ムサシ』の副砲が左を斉射する、散弾が軽巡に絡み付いた黒い液体を砕き散らした。

 ビームが空間を薙ぐ、重巡を救う、ミサイルが駆ける、戦艦の転進を援護する。

 オーケストラを指揮するように腕を振るい、グリップスイッチのトリガーを引く。

 再び、天空の彼方から光が落ち、黒い巨人を撃った。

 

 

「おお……!」

「凄い、あんな化物を1隻で」

 

 

 超戦艦『ムサシ』の奮戦。

 それは落ちかけた艦隊の士気を向上させる役には立ったが、同時にあるジレンマを『ムサシ』に与えていた。

 あの無尽蔵に近いエネルギーを持つ、黒い巨人である。

 旗艦装備である衛星砲をもってしても、あの巨人に致命のダメージを与えることが出来ていない。

 

 

 核を撃ち抜けていないのだ。

 だから命題は2つ。

 第一に(コア)の位置、毒蛇の巣の如く表面波打つあの姿では、見つけるのも難しい。

 そして第二、衛星砲を超える威力でなければ表面の防御力を突破できない。

 すなわち超戦艦たる『ムサシ』自身の超重力砲、その最大出力でピンポイントに狙撃しなければならない。

 

 

「お父様」

 

 

 だから、『ムサシ』は翔像に告げようとした。

 最悪の場合、他の皆を見捨ててでも超重力砲の発射シークエンスに入ることを。

 さらに最悪の場合、あの黒い巨人と共に半島にいるだろう者達の命を、諦めることを。

 

 

「……っ!?」

 

 

 しかしそこで、予期せぬことが起こった。

 『ムサシ』達の後方で、超重力砲の発射シークエンスに入った者がいたのだ。

 海表面が凪ぎ、同時に空間が押さえ付けられて軋みを上げる。

 誰だ、と『ムサシ』は思った。

 

 

 大戦艦以下の超重力砲では、衛星砲と似たような効果しか見込めない。

 援護のつもりなら有難いが、しかし必要は無かった。

 ……いや。

 この出力、大戦艦すら超えて……?

 

 

ちょうど良い時(クライマックス)に、役者が揃ったって感じじゃない」

 

 

 いや、()()はただの重巡洋艦、こんな出力の超重力砲は撃てない。

 普通の方法では、撃てない。

 では、普通では無い方法ではどうか?

 そう、例えば。

 

 

「『タカオ』!」

「さぁ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――千早兄妹」

 

 

 『タカオ』艦隊全員による、合体超重力砲――――……とか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 目を覚ましてみると、予想以上の事態になっていた。

 イオナである。

 『アドミラリティ・コード』の起動に伴い休眠状態に入ったイオナ――()であるロリアン・コードの影響を、()()とも言うべきイオナは最も受けた――だが、ここに来て覚醒した。

 

 

 メンタルモデルの感覚を取り戻すと、イオナは自分が何か柔らかいものの上に乗っていることに気付いた。

 しかも右掌にはより柔らかな感触があり、餅のように弾力があり、ふにふにとした弾力があった。

 もにもにと揉みしだいてみると、「あん♪」と言う艶めいた声が返って来た。

 

 

「ハァハァ、あ~んおねえさまぁ~」

「……………………」

「あっ、そんなつよくぅ。ヒュウガは、ヒュウいたたたた痛い痛いもげるもげますううううっ!?」

「ここは……機関室近くの通路か」

 

 

 顔を上げてみると、イ401の通路にバリケードが築かれていた。

 杏平のフィギュアケースまで使われているあたり、後で当人が泣きそうだ。

 『ヒュウガ』の悲鳴――大方、合流後に群像が呼び寄せていたのだろう――をBGMにしながらバリケードを見つめていると、恐る恐ると言った様子で2人の少女が顔を出してきた。

 

 

「静、いおり」

「えっと……イオナ、なの?」

「ああ、手間をかけた。遅くなってすまない」

 

 

 ほっとした顔を浮かべる2人に、イオナは大体の事情を飲み込んだ。

 休眠状態の間に、『ビスマルク』にメンタルモデルを操作されていたようだ。

 『アドミラリティ・コード』と『ビスマルク』の側に問題が起きたので、イオナはやすやすとメンタルモデルのコントロールを取り戻すことが出来た。

 

 

 イ401自体は、操舵する人間もいなかったのだろう、海底に着底してしまっている。

 敵に潜水艦がいれば、おそらくは撃沈されていた。

 そうならなかった幸運は、流石としか言いようが無かった。

 要は、艦長やクルーが「持っている」と言うことだろう。

 

 

「群像」

「ああ」

 

 

 声をかけると、相手はバリケードの間から身体を出そうとしているところだった。

 崩れやしないかとひやひやしそうなものだが、当人は飄々とした様子だった。

 まぁ、一張羅(いつも)のスーツも流石に煤けてしまったいるくらいか。

 そして、2人はいちいち何かを言ったりはしない。

 

 

海上(うえ)が大詰めだ。どうする」

「介入するさ」

「わかった。おい『ヒュウガ』、いつまでも悶えていないで起きろ。オプション艦を呼べ」

 

 

 それで十分。

 それ以上は必要ない。

 心地よさを感じながら、イオナは自分自身(イ401)を再起動させたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 心地よい感覚だ。

 太平洋で『レキシントン』と()った時に初めてやったが、最高に気持ちよかった。

 何しろこの攻撃は、『タカオ』型3隻のコアを相互接続して放つ一撃だからだ。

 姉妹で心を一つにして放つ、必殺の一撃だからだ。

 

 

「んん~……!」

 

 

 重巡洋艦『タカオ』を中心に、左右に『マヤ』と『アタゴ』が展開している。

 3隻はすでに超重力砲の発射体勢に入っており――同型艦だけあって、超重力砲も同じレンズ型――互いの超重力砲のデバイスを連動させながら、激しいスパークを生じさせている。

 その最も激しいところで、タカオは身体を震わせていた。

 

 

 アタゴもマヤも超重力砲のコントロール権をタカオに委ねているため、実質、タカオは3隻分の超重力砲をコントロールしていることになる。

 確かに負担だ、だがタカオの身体の震えはそう言うことでは無かった。

 妹2人と繋がっていると言うことが、そう、彼女にとっては。

 

 

「気持ち良い……!」

『マジで気持ち悪いんだけど』

『あははは、きもちわるーい』

「死にたいわ!」

 

 

 ただ、いかに3乗――3倍では無い――とは言え、まだ完全では無い。

 あの黒い巨人の急所を撃つには、まだ足りない。

 だからそこに、あと3隻の力が加わる。

 

 

「つーか、これ元々『コンゴウ』級の奥の手なんだけどな」

「『コンゴウ』や『ヒエイ』とはやったことが無い」

「極東艦隊は妙なことを考え付くのね……」

 

 

 『キリシマ』、『ハルナ』、そして『レパルス』。

 大戦艦2隻と巡洋戦艦1隻、合わせて6隻分の超重力砲デバイスが展開されている。

 そして形成されている「砲塔」は、たった1つなのだ。

 砲塔と言う容れ物に集められているエネルギーは、一瞬のものとは言え超戦艦にすら匹敵する……!

 

 

 中心でコントロールしているのはタカオだが、『イ400』『イ402』『ヴァンパイア』の3隻が演算をサポートしている。

 特にイ号潜水艦の2人は、他の姉妹2人とは別の進化を遂げたレーダー兵装を備えている。

 タカオの視界に映るロックオンゲージには、2人からの演算入力が絶え間なく入ってきている。

 

 

「鈍重ね」

 

 

 対して、黒い巨人の動きは緩慢だった。

 タカオ艦隊の大きなエネルギーに気付いているだろうに、明確に対策をして来ない。

 ただ、手当たり次第に近くの敵を攻撃しているだけだ。

 いや、あれはもはた攻撃ですらない。

 

 

 人間、霧、<騎士団>。

 腹を空かせた赤子のように、口につくものを食べているだけだ。

 実際、触手も砲撃も黒海の中央にいるタカオ達のところまでは来ない。

 クリミア半島から移動する様子も無い、あの黒い巨人には意思が無いのだ。

 見掛け倒しの、腹を空かせた木偶人形に過ぎない。

 

 

「『ムサシ』、アンタわかってんでしょ。()()()()()()!」

 

 

 無尽蔵なエネルギーを持ちながら飢える。

 何と浅ましいのか。

 今すぐに仕留めてしまいたい。

 だが、中に囚われている少女達の存在を無視することは出来ない。

 だからタカオは、半ば分捕るようにして『ムサシ』からその座標を手に入れて。

 

 

「イ401!」

 

 

 イ401が、オプション砲艦付きの超重力砲を放つのが見えた。

 黒海を引き裂くその一撃は海底からのもので、黒い巨人の身を大きく抉った。

 演算の修正は、電子の速度で終わる。

 そうして、イ401が抉ったところへ。

 

 

「合体超重力砲……発射ああぁ――――ッ!!」

 

 

 一瞬、すべての音が消えた。

 次の瞬間、タカオ艦隊の艦体とデバイスを合体させて作った砲塔から、夥しい光の奔流が溢れ出した。

 それは一条の光となって黒海を真っ二つに引き裂き、黒い巨人に直撃した。

 決着の時間が、訪れたのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 わかってる。

 本当は、わかっている。

 憎悪(ソレ)からは何も生まれないのだと、ちゃんとわかっている。

 でも、駄目だった。

 

 

 リエル=『クイーン・エリザベス』の時も。

 ロリアンの『アドミラリティ・コード』の時も。

 いや、もっと、もっと以前から、何度も省みることが出来たはずだ。

 だが何度自分を納得させようとしても、どうしようも無かった。

 紀沙には、ヨハネスの気持ちがとても良くわかるのだった。

 

 

「母国を貶められることも許せない」

 

 かつてのドイツと今の日本、()()()姿()を失ったと言う意味では同じだ。

 

「人生を強制されたことも許せない」

 

 科学者として、軍人として、望む生き方が出来なかったと言う意味では同じだ。

 

「家族を奪われたことも許せない」

 

 死か、あるいは信念故か、別れた道が交わることは無い。

 

 

「わかるよ、ヨハネス・ガウス」

 

 

 紀沙は普段、軽々に相手の気持ちがわかるなどと言う言い方はしない。

 わかるはずも無いし、わかられたくも無い。

 だが今、()()()()()()()、ヨハネスの100年の嘆きに共感を禁じ得ない。

 ()()()()と、何度でも口にしたいと思った。

 ()()()()

 

 

 苦しい、悔しい、怖い、憎い、哀しい、辛い、寂しい。

 ヨハネスの魂が叫ぶそれらの声を、紀沙は余すことなく受け入れた。

 それは、紀沙自身の中にすでにあるものと同じだった。

 だからこそ、紀沙の精神にヨハネスの泥もまた感応したのだろう。

 身も心も溶けていくような感覚の中で、紀沙は必死で自分の意識を保っていた。

 

 

「もう、ひとりで頑張らなくても良い」

 

 

 憎悪とは、消すものでも消えるものでも無い。

 受け入れるものですらない。

 

 

「あなたの憎しみは、私がぜんぶ背負うよ」

 

 

 呑み込むものだ。

 泥の中で、確かな形を持つものを掴んだ。

 抱き締めるように、それを胸に押し付ける。

 

 

「私の憎しみの中で、生き続けて」

 

 

 光。

 光が近付いてくるのがわかった。

 それは、外からやって来るものだ。

 泥を乾かし、祓い、清めるだろう天上の光だ。

 

 

 だが紀沙は、身を丸くしようとした。

 その光から、手にしたものを隠そうとするかのように。

 すべてを照らす光から、黒く、穢れた何かを守ろうとするかのように――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 黒い巨人が、ただの泥となって崩れていく。

 水平線の彼方まで聞こえるだろう、おどろおどろしい声がどこまでも響く。

 だが、泥が崩れていくと徐々に消えて行った。

 頭を(かたど)っていた部分が半分溶けて、目だけが最後まで残っていた。

 

 

 クリミア半島は、大きく陸地を減じていた。

 超重力砲の威力か、あるいは巨人の泥の影響か――植物は枯れ、街並みは消え、泥の下にあったものは何もかもが消失してしまっていた。

 まるで、洗い流されでもしたかのように。

 

 

「――――賭け、だった」

 

 

 だが、洗い流されないものもある。

 どんなものでも、完全に真っ白になるなんてことは無い。

 爆発の余波で巻き上げられた海水が泥を洗い流していく中、泥の下から立ち上がる者がいた。

 美しい、少女だったのだろう。

 

 

 辛うじてそうわかるだけの、みすぼらしい少女だった。

 艶めいていた髪はくすみ、唇は割れて干乾び、着るものも着ていない肌は泥と火傷に塗れ、酸でも被ったかのように煙を上げている。

 足下の泥から、彼女の持ち物なのか、太陽を模った頭大の懐中時計が顔を覗かせていた。

 

 

「あなたが、あの方(ヨハネス)を受け入れてくれるかどうか。賭けていた」

 

 

 兄として出会い、メンタルモデルの肉体を得てからは父ともなった男。

 ヨハネス・ガウス、100年に渡る彼女――『ビスマルク』の旅は、ようやく終着点を見る。

 気が狂いそうになる程の、長い時間だった。

 20年までは耐えた、50年を過ぎる頃には自分を見失いかけた、70年で絶望し、90年目で世界を呪うようになった。

 

 

「千早翔像がロリアンの『コード』を発見しなければ、どうなっていたか」

 

 

 10年前の千早翔像によるイ401の航海。

 だが実は、あの航海は「イ401の航海に翔像達が便乗した」と言った方が正しい、イ401は自分に託された『コード』の導きのまま、ロリアンの『コード』の下まで()()()だけなのだ。

 だが、どうであれきっかけを作ったのは千早翔像だ。

 

 

「礼を言わせてほしい、千早紀沙」

 

 

 どしゃ、と言う音が4度続いた。

 少女が脇や肩、背に抱えていたものを地面に落とした音だ。

 それは人間の男女で、全員が気を失っている様子だった。

 静菜、冬馬、ゾルダン……そして、紀沙。

 

 

「ありがとう。彼を受け入れてくれて、彼の憎悪を引き受けてくれて」

 

 

 霧の艦長でありながら、霧を憎むもの。

 霧の身体を持ちながら、人間の心にこだわる者。

 そう言う人間を、ずっと待っていた。

 

 

「彼の……ヨハネスの魂は、私達が連れて、いく……」

 

 

 不意に、『ビスマルク』の膝が折れた。

 太股が、壊れたビスクドールのように、たったそれだけの衝撃で折れた。

 粒子が、散る。

 まるで天国に導かれるかのように、天上を目指すように。

 

 

 嗚呼。

 乾いた唇から漏れたのは、安堵の吐息だった。

 長い旅程を終えて、家に帰り着いた。

 そんな吐息だった。

 

 

「……ありがとう……」

 

 

 粒子が、金色の輝きを放ちながら天に昇っていく。

 はたしてそれは天上に届くのだろうか、あるいは途中で風にでも吹かれて消えてしまうのか。

 それは、わからない。

 そもそも霧のメンタルモデルに天上への階梯が用意されているのかどうかすら、わからなかった。

 

 

「逝ったのか、『ビスマルク』」

 

 

 そして、またひとりの少女が姿を現す。

 『ビスマルク』と入れ違いで降りて来た粒子が人の形を取っていく。

 スミノだった。

 彼女はしばらく空を見上げていたが、すぐに歩き出し、足下の泥を気にする様子は無かった。

 

 

「そして、本当に馬鹿な人だね。艦長殿」

 

 

 紀沙を見下ろしながら、スミノは言った。

 呆れているような、悲しんでいるような、怒っているような、そんな声音で。

 

 

「これでキミは、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 それとも、あくまでも自分は人間だと言うのだろうか。

 呟くようにそう言って、スミノは再び天を仰ぎ見た。

 空は、馬鹿らしくなるくらいに透き通っていた。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

申し訳ないのですが、次回は都合により更新をお休みさせて頂きます。
次回の更新は2週間後となりますので、よろしくお願いします。

それでは、また次回。


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Depth078:「ムサシ」

今さらですがオリジナル展開注意です。


 流石に慣れた。

 意識が覚醒した時、紀沙はそう思った。

 目を閉じたまま、自分が横になっていることに気付く。

 周囲が騒がしいが、戦場と言うよりはむしろ……。

 

 

「病院だよ、ここは」

 

 

 そして一番近くで聞こえた声に、紀沙は目を開けた。

 すると、視界に自分を取り巻く景色が映り込んできた。

 最初はぼやけていたが、10秒もする頃にはピントも合ってきた。

 やや煤こけた緑色、簡易テントの天上が見えた。

 

 

 首を巡らせると、声の主――スミノが本を読んでいた。

 ロシア語の本らしいが、そこは大して興味は無かった。

 むしろ自分の状態の方が気にかかる。

 身を起こすと、紀沙は何枚も重ねた毛布の上に寝かされていた。

 

 

「ドイツ軍?」

「さすが。正解だよ、どうしてわかったの?」

「ドイツのメーカーのタグがついてる」

「おや」

 

 

 ドイツ軍の野戦病院、と言ったところか。

 周囲を粗末な布で囲っているだけだが、「個室」を与えられているあたりは優遇されていると見るべきなのだろう。

 布の外には、無数の人間の声や衣擦れの音が聞こえてきている。

 多くは聞き慣れぬ言葉なのは、それこそここが外国軍の陣営だからだろう。

 

 

「戦いの被害が、そこまで多かったってこと?」

 

 

 あのドイツ軍が、負傷者を後送できずに野戦病院を構築しているのだ。

 それだけ、ダメージが大きかったと言うことか。

 

 

「結論は間違ってはいないね」

 

 

 ぱたん、と本を閉じて、スミノが言った。

 含みのある言い方に、紀沙は眉を潜めた。

 この少女がこう言う言い方をする時は、概して碌な話にならない。

 

 

「ただドイツ軍……と言うか、()()()、だね。キミが寝た後に攻撃を受けたんだ」

「……攻撃?」

「うん」

 

 

 ちょっと待て、何だそれは。

 <騎士団>とヨハネス以外に人類を攻撃する者がいるか?

 霧か?

 しかし霧は今回に限れば共闘相手のようなものだ、『ムサシ』と翔像までいてそんなことになるとは思えない。

 

 

「そう、その『ムサシ』さ」

 

 

 スミノが、紀沙の眼前に人差し指を突きつけてきた。

 正直、なかなかカチンと来る仕草である。

 だが次の瞬間に飛び出したスミノの言葉によって、そんなことはどうでも良くなってしまった。

 

 

 

「『ムサシ』が死んだ」

 

 

 

 …………なに?

 絶句する紀沙の眼前から、スミノは指先を天上に向けた。

 もちろん、テントの天上を指しているわけでは無い。

 彼女が指したのは、遥か天空の彼方だ。

 

 

「ロリアンの『コード』が言っていただろう?」

 

 

 ――――大いなるもの。

 ()()()()()()()()()()()()

 ロリアンの『コード』の声が、脳裏で甦った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 黒い巨人が消えた直後、人類はあるものを手にしていた。

 勝利。

 甚大な被害を被りつつも、人類は降って湧いた勝利に歓声を上げた。

 一方的に<騎士団>に蹂躙される場面が目立ったが、それでも後退せずに抵抗を続けたことは筆舌に値する。

 

 

 やった、やった……と。

 まさか生きて帰れるなんて思わなかった……と。

 どう見てもクリミアの住民は絶望的だが、仕方が無い……と。

 とにかく勝った、生き残ったんだ……と。

 歓喜に沸くのも、無理からぬことだったのかもしれない。

 

 

「……おい、あれ、なんだ?」

 

 

 まだ陽の高い空を、誰かが指差した。

 ひとり、ふたりと、より多くの兵士達が空を見上げた。

 一見、そこには何も無いように思えた。

 だが、そこには確かな物があった。

 

 

「流れ星……?」

 

 

 まず、閃光が見えた。

 次いで白い煙の尾が見えて、次第に光が強くなっていく。

 やがて炎を纏っているのだとわかるようにまでなると、それが「隕石だ!」と声を上げる者が出てきた。

 空を静かに、しかし激しく引き裂いて、それは確かに近付いてくる。

 

 

 大きい。

 十字架のようにも見えるが、細長い板のような物の影が見える。

 流れ星でも隕石でも無い、それははっきりとした形を持った人工物だった。

 あるいは、そちらの道に少し詳しい者なら、この時点でわかったかもしれない。

 人間の肉眼では厳しくとも、それこそ霧の艦艇であれば……。

 

 

「来たわ、お父様。ヨハネスの光に導かれて」

「……ああ」

 

 

 思えば、我々は知らない。

 『アドミラリティ・コード』これまでに、3度起動した。

 100年前、10年前、そして今だ。

 しかし、実際のところ、だからどうだと言うのだろう?

 

 

国際宇宙ステーション(ISS)

 

 

 『アドミラリティ・コード』の起動の、何がそんなに不味いのだろう?

 一度も、その具体的な危険性について語られたことは無い。

 しかし、今こそ語ろう。

 『アドミラリティ・コード』とは、霧の規範(コード)であると同時に。

 

 

()()()()()()()

 

 

 ロリアンの『コード』が告げたところの()()()()()()を呼び寄せる、信号(コード)でもあったのだ。

 そして『コード』の覚醒に引き寄せられて、それは空――遥かな宇宙(ソラ)から、やって来る。

 それは、旧時代の宇宙ステーションの姿をしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミアの戦場に宇宙からの使者が舞い降りていた時、世界各地でもある異変が起こっていた。

 異変とは言っても気付かれない場合が多く、人類の側にその意識は無かっただろう。

 しかし一部の人間はそれを目撃し、さらに一部は当局に通報もした。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()――――と。

 

 

 ケープカナベラル、ジョンソン、バイコヌール、ボストチヌイ、種子島、ギアナ・クールー、酒泉、羅老、シュリーハリコタ、パームングプーク、アルカンタラ、ウーメラ……。

 目撃情報は他にも多岐に渡り、後に各国が照会して判明したところ、これらの目撃地にはある共通点があった。

 それら全ての土地、あるいは施設が、「宇宙」に関係していると言うことである。

 

 

「私たち霧は、海から生まれた」

 

 

 長い長い年月をかけて、深海の海流の中でナノマテリアルを蓄えた。

 その結晶がコアであり、究極が『アドミラリティ・コード』であることはすでに述べた。

 ()()も、同じだ。

 旧時代の宇宙ステーション――もちろん、今はもう稼動していない――の姿をしているのは、()()が目にした人類の資産がそれくらいしか無いからだ。

 

 

 衛星や探査機は、()()の眼から見ると小さ過ぎる。

 ()()は、いわば宇宙と言う海で生まれた存在なのだ。

 宇宙の霧。

 宇宙と言う、深海をも凌ぐスケールと複雑さを持つ空間で培われたナノマテリアル、そしてコア。

 霧の艦艇や<騎士団>よりも、遥かに強大で、巨大で、雄大な……。

 

 

「『アドミラリティ・コード』起動の際に起こる霧のコアの共振は、あれが発する信号に最も近い」

「ええ」

「あれに意思があるのかどうかもわからない。だが……」

 

 

 旧時代の国際宇宙ステーションは、おおよそ100メートル四方の巨体だ。

 『ムサシ』は全長こそ260メートルだが、全幅は40メートル弱。

 そして()()は、『ムサシ』よりもずっと大きな質量を持っているのだ。

 しかも霧の力を持つ、つまり大気圏の熱ですら()()を減衰させることは出来ない。

 

 

(『ヤマト』……)

 

 

 だから、『タカオ』艦隊の参戦は『ムサシ』にとっては僥倖だった。

 誰もが黒い巨人(ヨハネス)を倒すことに精一杯の時に、『ムサシ』だけは余力を残すことが出来た。

 ()()()()を、残すことが出来た。

 『ムサシ』の小さな手が、隣に立つ翔像の手を、そっと握った――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 今すぐに飛んでいきたい。

 太平洋の『ヤマト』は、心の底からそう思っていた。

 大西洋で、黒海で起きている異変は、遥か太平洋からでも把握できた。

 大気圏を突破して地球に侵入してきた存在は、独特の電磁波を撒き散らしていたからだ。

 

 

 太陽嵐が発する電磁波に近い。

 今頃、人類圏では通信や送電に影響が出ているだろう。

 各国が密かに残していた情報衛星も、少なからぬ損害が出ているはずだ。

 しかし、『ヤマト』の意識は人類圏には無かった。

 

 

「『ムサシ』……!」

 

 

 妹の、『ムサシ』の強い意志を感じる。

 ついに訪れた「大いなるもの」の()()を前にして、それでも一歩も退かないと言う『ムサシ』の強烈な意志を感じるのだ。

 たとえ刺し違えてでも、()()を止めると言う、そんな意志を。

 

 

『ダメよ、『ヤマト』。貴女はそこを動いてはいけない』

「『ムサシ』、でも」

『私と、貴女と、『シナノ』。私達3人で地球全体をカバーする。そう言う作戦だったじゃない、たまたま私のところに来ただけ』

 

 

 ()()を止められるだけの戦力は、超戦艦級にしか備わっていない。

 と言うより、『アドミラリティ・コード』は()()に対抗するために『ヤマト』たち超戦艦を生み出したのだ。

 そして今日、ついにその時が来たのだ。

 

 

『あれは大質量のナノマテリアルの塊よ。大気圏で燃え尽きることはないし、地表に落ちても砕けない。このまま衝突を許せば、この星は永遠の冬に閉ざされてしまう』

 

 

 地表での大質量物の衝突と爆発は、爆心地での壊滅的なダメージだけで無く、大量の浮遊粉塵(エアロゾル)をも発生させるだろう。

 それは成層圏にまで達し、世界中に拡散する。

 地表は太陽の光を失い、植物は枯れ、人類を含む生きとし生ける者は地獄に叩き落されることになる。

 

 

『そんなことはさせない』

 

 

 17年前のあの日、『アドミラリティ・コード』の半身を託された日に、こうなることは決まっていた。

 自分達のいずれかが、この星を守るために()()を迎え撃つことは決まっていた。

 あの日、『ヤマト』と『ムサシ』は道を違えてしまったけれど。

 

 

 人間――翔像との同化を選んだ『ムサシ』と、あの時点ではそれを選ばなかった『ヤマト』。

 あの時の『ヤマト』は、『ムサシ』ほど素直に翔像を信じることは出来なかった。

 そう言う部分が、自分達の娘とも言うべきイ号潜水艦とU-ボートの性格に受け継がれているのかもしれないと思うと、おかしな気持ちにもなった。

 

 

『この世界は私が守る。『ヤマト』、後のことはお願いね』

「『ムサシ』、待って。早まっては駄目!」

『私が言うのもおかしいけれど、コトノと仲良くね。それと……今まで有難う。お姉ちゃん』

「『ムサシ』! ……ああっ」

 

 

 通信が切られて、『ヤマト』はその場に崩れ落ちた。

 いつかは来ると思っていた今日、その重みに耐えかねたように。

 そんな『ヤマト』の肩に、コトノは手を置いていた。

 コトノの悲しげな顔を、『ヤマト』が見上げる。

 

 

「ちゃんと見ていよう、『ヤマト』。『ムサシ』はきっと、『ヤマト』にこそ見守ってほしいと思うはずだよ」

 

 

 繋がっているから、辛いことも悲しいこともわかる。

 けれど、顔を伏せていては見ることが出来ない。

 妹の、最期の勇姿を。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 機関最大、最低限の生命維持(ライフライン)以外の艦内エネルギーを超重力砲へ。

 船首上げ、艦内クルー姿勢固定、隔壁閉鎖、機関圧力上昇。

 全ナノマテリアル、超重力砲経路へ注入、セーフティ解除。

 『ムサシ』の眼に、ナノマテリアルの火が灯った。

 

 

「総員、衝撃に備えなさい……!」

 

 

 大きく上向く艦の舳先に立ち、『ムサシ』は片手を伸ばした。

 その手は天空に、さらにその向こう側からやって来る存在に向けられている。

 火の塊となって落ちてくる、()()()()()()へと。

 『ムサシ』の艦体が割れ、艦の周囲で海が割け、エネルギーの奔流が空間に形成された砲身へと収束していく。

 

 

 それはかつて、千早兄妹とリエル=『クイーン・エリザベス』に向けて放たれたものとは、また違うものだった。

 あの時は拡散させて撃った、が、今回は集中させて撃つ。

 先程、『タカオ』艦隊の超重力砲は『ムサシ』の超重力砲に匹敵すると言ったが。

 

 

「……何て化け物よ。これが超戦艦……?」

 

 

 タカオ自身が戦慄する――発射前の余波だけで、転覆すしそうなのを姉妹達と支え合いながら――のも、無理は無かった。

 地球の磁場が歪み、肉眼で見える景色の一部の()()()()()

 明るいはずなのに、視界がどんどん暗くなっていく。

 現象が、桁が違う。

 

 

 そもそも、旗艦装備を備えるには超重力砲を外す必要があったはずだ。

 硫黄島での『コンゴウ』はそうだったが、超戦艦の演算力はそんな制約すら超越してしまうのか。

 それとも。

 それとも、それによって返ってくるだろう反動を、もはや気にする必要が無いからか――――?

 

 

「ここは()()()の来る場所じゃない」

 

 

 びし、と、乾いた音が『ムサシ』のメンタルモデルから聞こえた。

 ひび割れ。

 頬に走った亀裂は目の下まで伸びたが、『ムサシ』はそれを一切意に返さなかった。

 

 

「この惑星(ほし)から……」

 

 

 見ていて、『ヤマト』。

 見ていなさい、千早兄妹にゾルダン。

 そして続きなさい、運命のイ号とUボート。

 これが、『ムサシ(わたし)』の。

 

 

「……でていけッッ!!」

 

 

 ――――最期の一撃!

 超重力砲、発射。

 青白さの中に黒とオレンジの閃光、口径は広いが放たれた光は細い。

 それは光の線となって、見上げる者達の視界に映ることなく空間を疾駆した。

 電速を超えて、それは光の速度に達し、彗星のように直進し、そして。

 

 

「……ッ!?」

 

 

 直撃した。

 天空の彼方より地球へと侵入を果たした出鼻に、『ムサシ』の超重力砲は確かに届いた。

 だが彼女の光は、その直前で止まってしまった。

 先端が止まり、後から送られるエネルギーが対消滅し、結果、8つに避けて対象の周囲を流れていく。

 

 

 クラインフィールド、否、比べ物にならない程に固い。

 止まらない、大気圏の火が消える、

 止められない、相手の推力と速度は聊かの衰えも見せない。

 このままでは2分後には地表に激突する。

 

 

「ぐ、く……っの……!」

 

 

 伸ばした手を、もう片方の手で掴む。

 顎を引き、足の裏を艦体に固定する。

 歯を食い縛り、艦底のスラスターを最大に噴かす。

 鈍い音を立てて艦体がもう一段、広がる、口径を広げた、つまり。

 

 

「くぅおおおおおおおのおおおおおおおおおッッ!!」

 

 

 ――――とまれッッ!!

 超重力砲の出力を上げた、周囲の空間に罅が入るのを感じる。

 これ以上は修復できないかもしれない、後始末が大変だろうが今は構っていられない。

 威力を増した超重力砲の光が、宇宙(ソラ)の霧を覆う。

 

 

 止まった、いや進……止める!

 『ムサシ』の気迫が超重力砲に乗ったのか、()()が止まる。

 推力を上げる様子は無い、が、押し返せない。

 あちらのエネルギーがどうかは知らないが、こちらのエネルギーには限りがある。

 

 

(もっと……!)

 

 

 それでも、「もっと」と自分を鼓舞する。

 もっと、もっと、もっと。

 もっと搾り尽くせ、コアが枯れるまで……と。

 装甲が開く音は人間で言う脱臼の音に近い、口径をさらに広げる。

 押し返せる、が……っ。

 

 

「……っ!?」

 

 

 致命的な音がした。

 伸ばしていた片手が、()()()()()()()

 中指の先から肘のあたりまで、ビスクドールのように割れた。

 そしてそれは同時に、艦体の致命的な一部が裂けたことも意味する。

 

 

(倒……っ)

 

 

 押される、そう思った時だ。

 大きな掌が、背中を支えてくれた。

 あたたかい、その手。

 一瞬、諦めの色が浮かんだ瞳に、逆に苛烈な輝きが生まれる。

 

 

「う……」

 

 

 ()()の姿がはっきりと見える。

 『ムサシ』の光を押しのけて前進しようとしている。

 だが、それは出来ない。

 残念だったな、と、『ムサシ』は笑った。

 

 

「……あああああああああああああぁッッ!!」

 

 

 私が、私と千早翔像(お父様)がいなければ、それも出来たかもしれないのに!

 メンタルモデルの身体が砕ける。

 しかし同時に、『ムサシ』は確かに聞いた。

 地表に迫らんとしていた()()が、砕ける音を――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――嗚呼。

 『ムサシ』は、自分と言う存在からすべての力が抜けていくのを感じていた。

 ナノマテリアル不足とか、そう言うことでは無い。

 何か根本的な、決定的な何かが失われていっている。

 

 

「あ……」

 

 

 ふらり、と後ろに倒れ込んだ『ムサシ』を、翔像が抱き留めた。

 天意に背くように伸ばされていた手が、コツン、と音を立てて甲板に落ちた。

 固く、しかし温かい。

 温もりをことさらに感じるのは、メンタルモデルの温度検知が異常を来たしているからだろうか。

 

 

 終わった。

 『ヤマト』達に後事を託して逝かねばならないのは残念だが、自分の役目は終わった。

 『アドミラリティ・コード』の主要部分は、すでに()()()()()()

 良かったと、そう思う。

 千早兄妹、ゾルダン、人間を信じて、本当に良かった。

 

 

(ねぇ、お父様)

 

 

 『ムサシ』と『ヤマト』は、グレーテルの『コード』の起動と同時に目覚めた。

 分割された『コード』がきっかけとなって、霧にあるはずの無い自我を自覚した。

 自我があるからこそ、『ヤマト』と『ムサシ』は道を違えもしたのだろう。

 それでも、『ムサシ』は翔像を信じなかった『ヤマト』を嫌ったわけでは無かった。

 恥ずかしくて、はっきりと、言葉に出したことは無かったけれど。

 

 

(楽しかったわね)

 

 

 太平洋の夕陽は、何度見ても飽きなかった。

 大西洋の潮騒(しおざい)も、北極の海氷も、南極の鯨も。

 霧の皆も、人間の街も、手付かずの自然も。

 何もかもが、美しかった。

 朝も昼も、春夏秋冬、この世界はとても美しかった。

 

 

 たまに、クルーにいたずらを仕掛けることもあった。

 ゾルダン達が来てからは、彼らをからかって過ごすようにもなった。

 子供や弟がいればこんな感じかと、柄にも無くそわそわしていた。

 それに最後に、地球を守るなんて大それたことも出来た。

 

 

(楽しかったわ、うん……)

 

 

 ああ、楽しかった。

 不満や未練が無いわけでは無いが、概ね、満足の行く()()だったと思う。

 だから、『ムサシ』は不思議と悪い気分では無かった。

 むしろ心地よさすら感じていて、身体がふわふわと浮かぶような、そんな気持ちだった。

 

 

 もう、視界も霞んで良く見えない。

 何も、見えない。

 何も。

 なにも……。

 …………。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧のメンタルモデル、その身体はナノマテリアルの構成体だ。

 だから損傷したとしても、消える際にはナノマテリアルの塵となって消える。

 そして再生するのだ、ナノマテリアルがある限り。

 だが……。

 

 

「……原宮」

「は……ここに」

 

 

 だが、『ムサシ』はもう再生しない。

 翔像の腕の中にあるのは、生命の源を使い果たした枯れ木のような存在だった。

 さらさらと、端の方が風に吹かれて散って行く。

 あの美貌と可憐さ、そして強さは、そこからはもう感じられなかった。

 

 

 翔像は、それを醜いとは思わなかった。

 何て尊いのだろうと、むしろそう思った。

 そして表には出さないが、後悔があった。

 こんな小さな存在に地球を守らせてしまったと、そんな後悔を得たのだ。

 

 

「『ムサシ』の機関は掌握できているか」

「はっ、元々50%は我々が管理しておりましたので」

「そうか、なら引き続き頼む。艦体の維持だけなら……こちらで出来る」

 

 

 整備士長の原宮、翔像が旅の途中で拾ったクルーの1人だ。

 今は『ムサシ』の機関の面倒を見ている、最初は『ムサシ』の負担を減らすためだったが、今では彼がいなければ機関をまともに動かすことも出来ない。

 そう、超戦艦『ムサシ』は今だ海上に浮かんでいた。

 

 

(これを、彼女はひとりで抱えていたのか)

 

 

 紀沙がそうであるように、翔像もまた『ムサシ』のナノマテリアルを得ていた。

 10年をかけて身体をナノマテリアルに置換していき、いつか来るこの日のために備えてきた。

 だから今も『ムサシ』の艦体は変わらぬ姿でそこにある。

 だが、かつてのような威容は弱くなったようだ。

 

 

 あの重厚感と威圧感は、『ムサシ』本人で無ければ出せないのだろう。

 翔像もまた、霧の力の扱いで『ムサシ』に及ぶとは考えていなかった。

 元々、翔像は沙保里達と違って出雲薫の血族と言うわけでは無い。

 艦体を維持するだけで、身体が軋む。

 こんなものを1人で支えていたのかと、今さらながらに驚かされる。

 

 

『――――人類の皆さん、<騎士団>の人達、霧の皆、聞こえていますか――――』

 

 

 『ヤマト』か。

 炎が墜ちた空を見上げながら、翔像はその声を効いた。

 『ムサシ』の光は無数に砕けて、流星群の如く今も空を駆け続けている。

 『ヤマト』の声は、どこか泣いているようにも聞こえる。

 この場、いや、地球全体にその声は響き渡っている。

 

 

『今日、世界は危機を乗り切りました。しかし、まだ脅威は過ぎ去ったわけではありません』

 

 

 そう、これは始まりに過ぎない。

 むしろこのために、今までがあったのだ。

 

 

『本当の脅威を乗り切るため、皆で生き延びるために。私がこれから話すことを良く聞いて下さい……』

 

 

 さぁ、人類評定を始めようか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 それが、すべての事の顛末だった。

 超戦艦『ムサシ』によって人類が、地球が守られたと言うお話。

 1隻の超戦艦と言う、大きな――それこそ、地球規模での言い方をすれば――貴重な存在を失った。

 結果だけを見れば、『ムサシ』の行為は自己犠牲に他ならない。

 

 

「2年」

 

 

 俯いて考え込む紀沙に、スミノが指を2本立ててそう言った。

 それは、ある時間を示す言葉だ。

 タイムリミット。

 『ムサシ』の死の時、『ヤマト』が全世界対して告げた言葉だ。

 

 

「今回やって来たのは、()()()の1体に過ぎない。『ヤマト』はそう言ったよ」

 

 

 いわば尖兵、槍の先端に過ぎない。

 <霧の艦隊>や<騎士団>が1隻1両では無いように、まだ名前の無い()()()もまた、1体なわけが無い。

 本隊がいる。

 

 

 そして、霧や<騎士団>のとっての『アドミラリティ・コード』のような存在がいる。

 それは2年後にやって来ると、『ヤマト』は全世界に宣告した。

 2年後、宇宙空間でたゆたう()()が地球に到達する。

 ()()はすでに、3度に渡る『アドミラリティ・コード』の起動によって地球の所在を完全に掴んでしまった。

 

 

「おかげで人も霧も大わらわさ。まさか宇宙から侵攻されるなんて思っていなかっただろうからね」

 

 

 それは、紀沙も同じだった。

 しかし、不思議と不意を突かれたと言う印象は受けなかった。

 むしろ「ああ、そうだよね」と言う感想を得たくらいで、別段、驚くと言うことは無かった。

 海に霧がいるのだから、宇宙にいたところでそれ以上の感想は抱かない。

 

 

 気になるのは、これをヨハネス達が予期していたかどうかだ。

 『アドミラリティ・コード』とナノマテリアルについて研究していたあの3人なら、宇宙から来ると言う新たな霧のことも何か掴んでいたのでは無いだろうか。

 まして、霧も<騎士団>も元を正せば1つの『コード』から生まれたものだ。

 

 

「…………」

 

 

 考え込む紀沙の姿を見て、スミノはにやりと笑みを浮かべた。

 

 

「さて、ボク達はどうする? 艦長殿」

「……決まってる。クルーの皆を集めて、スミノ」

 

 

 そう、紀沙の行動はいつだって決まっている。

 霧が人類を脅かすと言うのであれば、これを防ぐ、それは霧の艦長である紀沙に課せられた責務だ。

 どれだけ変化しようとも、紀沙は人類を守る者でありたかった。

 

 

「敵が2年後に来るって言うのであれば、それまでに準備を整えてみせる」

 

 

 そう願う限り、紀沙は人間であり続ける。

 その心だけが、紀沙を紀沙たらしめているのだから。




読者投稿キャラクター:
原宮 列(ベクセルmk. 5様)
有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ムサシもそうですが、霧の超戦艦達にはアニメ版とも違う役割がありました。
ムサシとヤマト、今回の役割をどちらに振るかは悩みましたが、ムサシと翔像の役割が正直尽きていたことを考慮し、ムサシになりました。
正直、私は銀髪大好きなのでムサシをこういう役目にするのは断腸の極みでした。

そして次なる敵は、宇宙!
それっぽい描写はしていたつもりですが、お気づきでしたか?
また宇宙版の募集とかするかもしれないですね。
それでは、また次回。


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Depth079:「紅海」

ちょっとだけえちい描写があります。
苦手なかたはご注意下さい。


 万事が万事うまくいく、とは、なかなかいかないものだ。

 楓首相は、つくづくそう痛感していた。

 遠い日本にいては打てる手などほとんど無いにしろ、何か出来なかったものかとも思う。

 いや、よそう。

 

 

 なまじ権力を手にしてしまうと、ありもしない全能感に浸りたくなってしまう時がある。

 そう言う時は、何かに足を取られかけている時だ。

 経験上、楓首相はそのことを良く知っていた。

 首相の座に就いて4年目になろうと言う今日、ここに至って躓くわけにはいかない。

 

 

『それにしても、意識を取り戻したと聞いて心底ほっとしましたよ』

 

 

 楓首相の声は車椅子から発せられる電子音声だが、それでもその声には温かさがあった。

 それだけ、今の言葉が本心と言うことだろう。

 何しろ楓首相が見舞っている相手は、楓個人にとっても、日本にとっても重要な人物なのだから。

 

 

『北さん』

「……正直、自分でも良く生きていたものだとは思う」

 

 

 横須賀の特別病棟の一室で、2人は面会していた。

 病室には楓首相と北しかいない、北はまだ傷が癒え切っていないので、ベッドの上で身を起こしている状態だった。

 それでも数ヶ月前、海岸で霧の攻撃を受けた時に比べればずっと良い状態だった。

 

 

「それで、私が意識を失っている間……世界は、どうなった?」

『はい、今日はそのことについてお話するために参りました』

 

 

 正直、どうして霧が北を攻撃したのかは未だにわかっていない。

 ほんの数ヶ月の間、北を国の中枢から引き離すことに何の意味があったのだろう。

 確かに与党幹事長の職は他に移さざるを得なかったので、その意味では痛かったが。

 ただ、霧がそんな()()()()のために行動するとは思えない。

 何か意味があるはずなのだが、その何かが見えないのだった。

 

 

『まず、イ号艦隊の件です』

「……うむ」

 

 

 イ号――千早紀沙――の名前を聞いて言葉少なになる北に、楓首相は小さく笑った。

 言葉には出さないが、目を覚まして最初に気にしたのはおそらくそのことだっただろう。

 ただ、楓首相としては他にも話しておかなければならないことが多くあるのも事実だった。

 千早紀沙達、イ号艦隊のこと。

 

 

 アメリカやロシア、ヨーロッパ諸国との関係。

 緋色の艦隊、いや霧の艦隊や<騎士団>のこと。

 あるいは、『白鯨』は響真瑠璃、刑部博士や眞首相のこと。

 そして……人類に降りかかった、新たなる脅威のことを。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まさに茶番だ、と、マルグレーテは思った。

 場所はポーランド首都ワルシャワ、時刻は夕食の鐘がなる少し前だ。

 無数のカメラのフラッシュが視界を潰しにかかってくる中、マルグレーテは記者達の前でふんぞり返っていた。

 

 

「今日、皆さんに勝利の報告が出来ることは何よりも喜ばしいことだ」

 

 

 まぁ、ふんぞり返っているとは言っても、要は記者会見の席に並んで座っているだけだ。

 何しろ作戦のメインはロシア軍――と言うことになっている、一応――であって、説明もロシア軍の将軍が行うのだ、マルグレーテにやることは無い。

 まさか、マルグレーテを指して質問をする記者もいないだろう。

 

 

 <クリミアの三将軍>。

 クリミアでの対<騎士団>作戦において独米露軍の司令官の3人を、メディアはそう呼んでいるらしい。

 いわゆる英雄として扱われているわけで、おそらく政治の意向も働いているのだろう。

 正直に言えば、鬱陶しいことこの上無かった。

 可愛い部下達は「英雄女帝って呼んで良いスか!?」とか言っていた、殴った。

 

 

将軍(ボス)、人前ですので……」

「わかってる。我慢するよ」

 

 

 後ろに立って控えていた部下(ジーク)に、肩を竦めて見せる。

 こんな場は正直に言って嫌いだが、だからと言って放棄するわけにもいかない。

 自分が今やドイツ軍きっての将軍なのだと言うことを、聡明なマルグレーテが理解できないはずが無い。

 ただ、それでも我慢できないことと言うのもあるのだった。

 

 

()()()()()、ねぇ)

 

 

 記者達の無遠慮なフラッシュは我慢しよう。

 ロシアの穴熊将軍の勝ち誇った演説も我慢しよう。

 新聞紙上に「誰だコイツ」と言うような自分の人物像が書かれるのも我慢しよう。

 しかし、軍人として()()だけは我慢ならない。

 

 

(オレらは、()()()()()()

 

 

 少なくとも、あの戦いは勝利なんて呼べる代物じゃなかった。

 百歩、いや万歩譲って勝利だったとしても、それはマルグレーテ達の勝利では無い。

 誰かから与えられた勝利に、いったい何の意味があるのか。

 ましてマルグレーテら人類軍は、たかが十数両の<騎士団>に手も足も出なかった。

 

 

 連合軍は、脇役にすらなれなかった。

 それどころか、クリミアでの出来事は「<騎士団>の自爆」と言うことになっている。

 現地部隊には緘口令が敷かれている、真実は伏せられているのだ。

 もちろん、人の口に戸は立てられない、どこかから漏れはするだろうが、とにかく政府と軍の姿勢はそう言うことになっている。

 

 

(名はオレ達、実はアイツら……か)

 

 

 忘れはすまい、この屈辱を。

 だが2年後を見ていろと、マルグレーテは思った。

 次の戦いこそが人類にとっての本番となるのならば、そこで雪辱を果たしてみせる。

 そしてマルグレーテは、一度決めたことは必ず成し遂げる女だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 エジプト沿岸にまで達すると、水温が一段と上がるのを感じた。

 外の気候も同様で、空気が乾き、太陽も不思議と高くなったように感じる。

 今が2月で無ければ、もう少し涼しかったかもしれない。

 

 

「それではの、我らの見送りはここまでじゃ」

 

 

 ポートサイド――あの有名なスエズ運河の地中海側の入口――まであと20キロと言う地点で、『ダンケルク』はそう言った。

 別に頼んでいないのだが、『ダンケルク』ら地中海艦隊はイ号艦隊をエジプトまで護衛航行した。

 繰り返して言うが、別に頼んだわけでは無い。

 彼女達が勝手にやったことなのだ。

 

 

 そして今も、『ダンケルク』のメンタルモデルは紀沙や群像の前で極めて友好的な態度を示している。

 彼女は霧の地中海艦隊の旗艦と言うことだから、それは霧の一方面艦隊が味方になったと言っても過言では無い。

 もはやヒュウガやトーコのような1隻2隻の()()()だけが味方、と言うわけでは無くなった。

 

 

「ここから先はインド洋艦隊との中立地帯になる。今さらかもしれんが、霧の中で無用な緊張を作るわけにはいかんからな」

「ああ、理解している。ここまで案内してくれれば十分だ」

「何、黒海艦隊の仇を討ってくれたのじゃ。このくらいせねばバチが当たる」

 

 

 並んで浮上しているイ401とイ404の間に、『ダンケルク』のメンタルモデルが浮遊している。

 『ダンケルク』の艦体の方は、甲板の手すりからこちらを見下ろしている人々が見える。

 イタリアの民兵が大半と言うことだが、今後の霧はああして人間と共存していくのだろうか。

 

 

「それでは気をつけて。『フッド』の呼びかけも無い今、インド洋艦隊が無闇に敵対行為に出るとは思わんが、海では何が起こるかわからんからな」

 

 

 紀沙は、『ダンケルク』の話をほとんど上の空で聞いていた。

 何と言うか、現実感が無かったからだ。

 霧の正規艦隊とこんなにも友好的と言う状態が、どうしても馴染めなかった。

 これは、違うだろう、と思う。

 

 

「だが忘れないでほしい。何が起こったとしても、一度(ひとたび)号令を聞きつければ、我ら霧の地中海艦隊がお前達の力になる」

 

 

 それとも、こう言うことなのだろうか。

 あの戦いの後、父・翔像が言っていたことは。

 2年の後、来るべきその時の世界のあるべき姿、大戦略。

 その姿は、こう言うものなのだろうか……?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミアの戦いの後、翔像は群像と紀沙に言った。

 

 

「『ムサシ』は、オレを信じて逝った」

 

 

 悲しいとか、寂しいと言う様子は見せなかった。

 ただ、喪失感は隠しようも無かった。

 そして意外なことに、翔像の傍に『ムサシ』がいないと言う事実に、最も強い違和感を感じたのは紀沙だった。

 

 

 霧の因子を持つ紀沙の方が、『ムサシ』の存在感を大きく感じていたのかもしれない。

 だから、いなくなった、その事実を強く認識したのだろう。

 喪失感とまでは言わないが、穴が開いたかのような気持ちになっている。

 

 

「あの子は人間が好きだった。霧の中で一番だったろう」

 

 

 少し、意外かもしれないが。

 実を言うと、『ムサシ』の方が『ヤマト』よりも人間に融和的だった。

 それは『ムサシ』が人間を乗せていて、『ヤマト』が乗せていないと言う事実からわかる。

 『ヤマト』の方が()()()()が良いように見えて、その実、『ヤマト』は人を寄せ付けていない。

 その違いが17年前の決裂、そして今の結果の違いをもたらしたのだ。

 

 

「……それで、これからどうなるの?」

 

 

 そこまで洞察した紀沙ではあったが、だからと言って口に出したりはしない。

 第一、翔像や群像がそのことに気付いていないとも思えない。

 なおのこと、わざわざ言う必要は無い。

 それよりも、今後のことが重要だった。

 

 

「オレはこのまま大西洋に残る。張子の虎でも『ムサシ』の艦体(存在)はヨーロッパをまとめるのに役立つだろう。欧州艦隊や地中海艦隊もそうだ」

「そして、2年後の()()()の到来に備える?」

「そうだ」

「……和平の道は無いのか? 親父」

「お前達も見ただろうが、()()()は霧以上に対話が困難だ」

 

 

 霧も、人類と意思疎通が図れるようになるまでに10年以上の時間を擁した。

 何よりも重要なのは、霧に人類を滅ぼすつもりが無かったことだ。

 だが、()()()は違う。

 いや、もしかしたら()()()にもそのつもりは無いのかもしれない。

 

 

「だが()()()が到来するだけで、人類は壊滅的な打撃を受けてしまう」

 

 

 ()()()に罪はないのかもしれない。

 しかし尖兵が1体地球に落下するだけで、地球の環境に大きな影響を与えてしまう。

 いわゆる「核の冬」を超える、大災害になるだろう。

 それだけは、阻止しなければならない。

 

 

「お前達は一度日本に戻れ。おそらく、しかるべき者達がお前達にある物を見せてくれるだろう」

「あるものとは何だ、親父?」

「出雲薫が遺したものが、日本にある」

「出雲、薫……」

 

 

 出雲薫、()()の最後の1人だ。

 その名前に胸が疼くのは、紀沙の中に『コード』があるからか。

 出雲薫が遺した何かが、日本にある。

 日本に戻ること事態は紀沙も望むところなので、それは構わなかった、が。

 

 

「そしてその途中で、ある霧の艦艇にインド洋で会っておいてほしい」

「インド洋の霧?」

「そうだ」

 

 

 今まで、インド洋についてはあまり考えたことが無かった。

 当然、そこに展開されているだろう霧の艦隊についても同様だ。

 日本人である紀沙にとっては、馴染みの薄い海である。

 日本への帰り道、と言えば、そうなのだが。

 しかしインド洋を通るとなると、まさに世界一周という趣が出てくるな、と思った。

 

 

「最後の超戦艦――『シナノ』だ」

 

 

 しかしその航路も、並の道程ではなさそうだ。

 行きはよいよい、帰りはこわい。

 古の詩はそう教えている。

 帰り道だからと気を抜いていると、日本はおろか太平洋に辿り着くことさえ出来ないかもしれない……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スエズ運河。

 地中海と紅海――インド洋を200年に渡って繋ぐ、世界で最も重要な運河の1つである。

 中米のパナマ運河との違いは、高低差が少なくエレベーターが必要ないことだ。

 つまり、艦艇の航行がやり易い。

 

 

「エジプト海軍より、『貴艦の幸運を祈る』だと」

「通行許可に感謝します、と返して下さい」

「りょーかい」

 

 

 イ404の甲板、不思議と久しぶりな気がする。

 スエズ運河は潜航での航行は出来ない、水深の問題もあるが、国際慣行と言うものだ。

 他国の領域を通る際は、敵意が無いことを示す必要がある。

 最も、霧のイ号艦隊をどうこう出来るものでは無いが。

 

 

「ねぇ、あれって何?」

「あれはモスクねー。イスラム教の寺院ヨ」

 

 

 紀沙の隣では、蒔絵が水路から見える沿岸の街並みを指差していた。

 砂っぽく霞んで見える街並みには、打ち捨てられた漁船と、太陽光を反射するビル群、そしてジョンが言った寺院(モスク)が見える。

 大きく突き出た寺院の柱(ミナレット)が特徴で、祈りの時間なのか、音楽と声が聞こえて来た。

 

 

 反対側には、エジプト海軍の警備詰め所がある。

 ただ船舶は残っていないのか、桟橋には船が見えなかった。

 甲板に持ち込んだ計器で、冬馬がそこに返信を送っているはずだった。

 その隣のビーチチェアであおいが寝そべり、肌を陽に晒しているのが何ともシュールだった。

 

 

「あおいさん、砂漠でそれは流石にどうかと思いますよ」

「良いのよ~、オイル塗ってあるから~」

 

 

 そう言う問題だろうか。

 まぁ、クラインフィールドで覆われた甲板には砂が入って来ることも無いので、意外と快適なのかもしれない。

 そして都市沿岸を抜けると、紀沙が言ったように左右に砂漠が広がっている。

 植物らしいものは何も無く、ほぼ真っ白な砂山がずっと続いているだけとなる。

 

 

「艦長殿、あそこ」

 

 

 いつの間にか現れたスミノが、ひょいと砂漠を指差した。

 すると、崩れた橋――おそらく、運河を横断するためのものだったのだろう――の上に、何か黒いものが見えた。

 それは複数いるようで、車体の上に突き出たあれは砲塔か。

 数両の戦車がそこにいた、もちろん、エジプト軍では無い。

 

 

「<騎士団>……」

 

 

 <騎士団>の戦車だった。

 見覚えのあるメンタルモデルが何人か、車両の上から手を振っているのが見えた。

 振り返すようなことはしないが、攻撃をすることも出来ない。

 エジプトを刺激したくは無いし、今は狭い運河の水路だ、不利なのはこちらだった。

 

 

 あの戦いの後、主を失った<騎士団>は分裂した。

 どう言う分かれ方をするのかは、これからの流れ次第だろうと思う。

 ただ2年後の()()()の襲来は彼らにとっても無関係では無いので、何らかの関与はしてくるだろう。

 

 

「帰還、か」

 

 

 いざ、懐かしの祖国へ。

 イ404は、一路インド洋を目指して進むのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……行ったか」

 

 

 イ号艦隊の出航を、『ダンケルク』は見送った。

 あのままスエズ運河を通れば、すぐに紅海に出る。

 紅海を抜ければ、そこはもうインド洋だ。

 太平洋や大西洋とはまた趣の異なる大洋だ、得るものも多いだろう。

 

 

 そして『ダンケルク』は、このまま北アフリカ沿岸を回るつもりだった。

 対<騎士団>で北にばかり目が行っていたので、地中海の南がまるで整備されていないのだ。

 それに、地中海沿岸の人類とも何かしらの関係が必要になるかもしれない。

 もはや、海洋封鎖の時代は終わろうとしていると『ダンケルク』は感じていた。

 

 

「千早紀沙、新たなる『コード』の体現者……か」

 

 

 『アドミラリティ・コード』は今度こそ消えた。

 後に残ったのは、その欠片だけだ。

 あるいは、千早紀沙の中に溶けてしまった。

 『ダンケルク』もまだすべてを理解したわけでは無い、整理が必要だった。

 

 

「それで、お前はどうするのじゃ――――『タカオ』よ」

 

 

 そして、『タカオ』だ。

 意外なことに、『タカオ』は千早兄妹と直接言葉を交わすことが無かった。

 今はその時では無いと考えているのか、いやもしかすると、まごついている間に機を逸しただけかもしれない。

 ともあれ、『タカオ』は自分の――と言って、もはや差し支え無いだろう――艦隊と共に地中海に留まっていた。

 

 

「そおねえ。とりあえずウィーンとプラハかしら」

「は?」

「ベルリンも良い劇場があるらしいのよねえ」

「……待て。お前、何の話をしておる?」

「何って」

 

 

 当たり前のことを聞くな、と言いたげな顔で『タカオ』は言った。

 

 

(マヤ)が音楽留学したいって言うから」

「本当に何の話をしておるんじゃお前は!?」

 

 

 大戦艦級の演算をもってしても図れない。

 恐るべしは、シスコンプラグインである。

 

 

「その場合って、私も一緒の学校に行くべき? それとも保護者になった方が良いのかしら?」

「知るかあ!!」

 

 

 もちろん、『タカオ』とてわかっている。

 今が千早兄妹にリベンジする良い機会だと言うことは、良くわかっている。

 しかし今挑んだところで、あの2人は逃げて終わりだろう。

 あの2人にはまだ、やるべきことがあるからだ。

 

 

 ならば待てば良い。

 幸い、2年後の()()()の襲来までは2人を見失うと言うことも無いだろう。

 それまで、こちらもゆっくりと研鑽を積んでいれば良い。

 ヨーロッパには<緋色の艦隊>もいることだし、学ぶことは多いだろう。

 そう、だって。

 

 

地中海(この海)にはこんなにも、良い風が吹いているんだから」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スエズ運河を通って湾に出れば、そこはもう紅海だ。

 1日かけて運河を航行し、紅海沿岸の各国当局と連絡を取りながら、シナイ半島南端の街シャルム・エル・シェイクの沖合いで艦隊の再編成を行った。

 艦隊司令部があるわけでも無いので、単に今後の航路の確認と並び順番を決めるだけだ。

 

 

「いぃい~~~~やっほ――――うっス!」

 

 

 甲板の端から全力疾走し、トーコはイ15から海へと飛び込んだ。

 やはりメンタルモデルが欲しかったのか、クリミアでの戦いの後、すぐに形成していた。

 ピンクのフリルセパレートの水着にシュノーケル――水着はあおいの持ち物である――姿の彼女は、そのまま紅海に飛び込んだ。

 

 

 再編成の間、互いの艦長以外は割と暇だ。

 近くに敵がいるわけでは無いし、いたとしても、この狭い場所で『ヒュウガ』の聴音の網に引っかからずに近付いてくるのは不可能だ。

 だからイ404とイ401の甲板には洗濯物が吊るされていたり、女性クルーが水着姿で日光浴など出来るわけである。

 

 

「2月だって言うのに、気温は30度近く。真夏の日差しよね、これ」

「そうですね。私なんて肌があまり強くないから、入念に塗っておかないと……」

 

 

 洗濯当番は面倒だが、こう言う役得もある。

 甲板に敷いたマットの上で、いおりと静は日光浴を楽しんでいた。

 それぞれ水着姿で、さんさんと照ってくる太陽の下で心地よさそうにしている。

 平和と言うか、激戦続きだった今までが大変だったと言うことだろう。

 

 

「ごぼぼぼ……」

 

 

 そして海の中にも、いた。

 飛び込んだトーコだけで無く、シュノーケル装備の冬馬と杏平である。

 この2人、波長が合うのかどうなのか、2隻のクルーで会うと大体は一緒に行動している。

 そしてその行動の大半は、女性陣から総スカンを喰らうことが多い。

 

 

 紅海は、美しい海だった。

 他の海のように他の河川が流れ込まないため、海水は不純物が無く透明に保たれるためだ。

 極彩色(色とりどり)のサンゴや魚達は、まるで子供の頃に聞いた御伽噺の宮殿のようだ。

 幼子の夢を現実にしたらこんな感じだろうと、透ける水の中で思った。

 まぁ、透明だからこそ見えるものもあって……。

 

 

「ごぼぼ?(あれ、ボートだよな?)」

「ごぼぼ?(漁船にしては真っ直ぐこっちに来るな)」

 

 

 1隻、いや2隻か。

 モーターボートらしき小さな船が見えて、あれは何だろうと2人で考えていると。

 

 

「ごぼぼぼ(銃を持ってるっス)」

「ごぼぼ?(マジで?)」

「ごぼ、ごぼぼぼ(あー、じゃあアレだろ、海賊)」

 

 

 紅海からアデン湾にかけての海域で出没する武装集団と言うと、海賊だろう。

 霧の脅威にも海に繰り出すのはタフな連中としか言いようが無いが、流石にこれはどうか。

 甲板にいるのが女子供だから、油断でもしたのだろうか。

 とりあえず、冬馬達は思った。

 

 

(((命知らずだなぁ……)))

 

 

 心の底から同情した。

 それでも海は、綺麗だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ号艦隊は、紅海をさらに進んだ。

 エジプトとサウジアラビアの砂漠地帯を両目に見ながら、点在する集落の人々に手を振って航海する。

 これまでの厳しい航海を思えば平和的とも言えるが、潜航できないと言う事実上の制約もあったためだ。

 しかしそれも、紅海の出口バブ・エル・マンデブ海峡に達すると、終わりも見えてきた。

 

 

「……霧が?」

 

 

 紅海の出口を扼する要衝に、ジブチと言う国がある。

 紀沙達はインド洋に出る前に、このジブチで最後の補給をするつもりだった。

 この季節はインド洋から地中海へ向けて強い風が吹いているため、ここからは潜航して進んだ方が良いと言う判断だ。

 

 

「ジブチ政府の人によると、この先に陣取ってるんだって。それも1隻で」

「1隻か……潜航している可能性もあるが、艦隊行動を取らずに単独だとすると」

「うん。父さんが言ってた、『シナノ』って霧の艦艇だと思う」

 

 

 ジブチ港の桟橋で、それぞれの艦を背にしながら、紀沙と群像は向かい合っていた。

 補給のついでに、紅海から曳航してきた(捕まえた)海賊をジブチ当局に引き渡した。

 その際、ジブチ側から『シナノ』らしき大型の霧が待ち構えていると言う情報を耳打ちされた。

 どうしてジブチ側がそんなサービスをしてくれたのかと言うと、彼の国の複雑で切実な事情がある。

 

 

 霧による海洋封鎖は、アジアやアフリカの国々にとっては、大国の干渉の排除と言う側面もあった。

 域内に超大国のいないアフリカでは、特にその傾向が顕著だった。

 ジブチの周辺国だけでも、エチオピア・エリトリア・ソマリアの三国が三つ巴の戦闘を繰り広げている。

 紀沙が例えばエリトリアを補給地に選ばなかったのは、そう言う情勢もあったからだ。

 

 

「良く教えてくれたな、ジブチ政府が」

「ここには統制軍の拠点があるから……」

 

 

 そんな情勢でジブチが侵略を受けなかったのは、<大海戦>以前からの外交政策がある。

 外国軍の駐留。

 最も規模が大きいのはフランス軍だが、ジブチは同時にアメリカや欧州各国、そして日本や中国の部隊を受け入れていた。

 この外国軍の存在が、隣国からの侵略を防ぐ抑止力として働いたのである。

 

 

 いくら海洋封鎖で干渉力が落ちたとは言え、ジブチ以外にも近隣に兵力を駐留させている諸大国に喧嘩を売るような真似は出来ない。

 それに、内陸側の近隣国にとってジブチはさして重要ではない。

 ジブチ軍自体は脅威では無いので、結局、「戦略的放置」と言う選択になったのだ。

 そうしたいくつかの要因が、ジブチの平和を守った。

 

 

「いずれにせよ、今日はここで停泊しよう。インド洋は長い」

「うん、そうだね」

 

 

 群像の額には、汗が滲んでいた。

 気温は35度、湿度に至っては70%を超える蒸し暑さだ。

 さしもの群像もスーツの上着を脱いでいて、汗一つかかずに軍服の礼装を身に着けている紀沙の方が変わっているのだ。

 ……そう。

 

 

「それが良いと思う、兄さん」

 

 

 ()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 変わったことと言えば、他にもある。

 スミノだ。

 以前から妖しい雰囲気を醸し出していたが、クリミアの戦い以後はさらに顕著になった。

 

 

「ん……っ」

 

 

 身体の奥に感じた熱がむず痒く、無意識に吐息が漏れた。

 照明の消えたイ404の私室に、青白い輝きが回っている。

 その光源は、紀沙の胸元にあった。

 そしてその光に、スミノが両手を添えている。

 2人は、寝台の上で向かい合っていた。

 

 

「キレイだね」

「そう……?」

 

 

 確かに見た目は神秘的で美しいかもしれないが、紀沙にはそれが「キレイだ」とは思えなかった。

 スミノも、言葉ほどにはそんな風に思っていないように思う。

 彼女の手の中にあるのは、もはや紀沙の命とも言えるものだ。

 少し以前までそれは、『アドミラリティ・コード』と呼ばれていた。

 

 

「正確には、これはもう『アドミラリティ・コード』じゃあ無い」

 

 

 託されたもの。

 いくつかに分割された『アドミラリティ・コード』の内、ヨハネスとグレーテルが持っていたもの。

 後はイ号の姉妹とUボートの姉妹、そして『ヤマト』と、同じく『ムサシ』から託された翔像……。

 いずれにしても、人間には過ぎた力だ。

 

 

 いわばそれは、海の力そのものなのだ。

 深い深い、海底の海流の中で数千年培われた、地球と言う生命の象徴。

 人の手には余る。

 だからこれを持つ紀沙は、もう、人間とは言えないのかもしれない。

 

 

「じゃあ、何?」

「さぁ、ボクにもこれが何かはわからない。何か意味があるのかもしれないし、何も意味は無いのかもしれない。ただ……」

「……っ」

 

 

 ぎゅう、と。

 スミノの両掌の中に『コード』が包まれると、紀沙は息苦しさを覚えた。

 息を詰めた紀沙の唇に、スミノが吸い付いた。

 眉を寄せた紀沙が、寝台にそのまま倒される。

 

 

「は……。ねえ」

「何だい、艦長殿」

「……()()って、本当に必要?」

「うん……?」

 

 

 もはや汗もかくことの無い紀沙の首筋に歯を立てながら、剥き出しの胸元に両掌で『コード』を押し戻しながら、スミノは眼を細めた。

 紀沙は目の上に腕を置き、こちらを見ないようにしている。

 犬歯で肌を撫でると震えが返って来る、そのことに()()()()とした粟立ちを感じながら。

 

 

「必要だよ」

 

 

 あえて素っ気なく、そう答えた。

 紀沙を呼ぶ声、息を詰める音。

 2人の眼に宿る電子の光だけが、真実を告げるように明滅していた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 激しい潮騒(しおざい)が聞こえる。

 遮るものの無い大洋、水平線の彼方には宝石の如き太陽が頭を覗かせていた。

 夜明けだ。

 もう何度目の夜明けだろうか、正確に記録している傍ら、そんなことを思う。

 

 

「千早翔像、千早群像、千早紀沙」

 

 

 波濤が艦体を打つ。

 しかしいかなる大波であろうと、()()を微動だにさせることは出来ないだろう。

 何故ならば、その(フネ)はこの世で最も大きく、強い艦艇の1つだからである。

 

 

「イ401、イ404」

 

 

 大洋を背に、()()は待っていた。

 あの狭い海峡を抜けて、彼女が待っている相手がやって来るのを。

 そう。

 彼女にとって、最愛の姉の1人を。

 

 

「ムサシ姉を、撃沈め(死なせ)たやつら」

 

 

 『ヤマト』の艦体は白く、『ムサシ』の艦体は黒かった。

 そして、彼女の艦体の色は――――()()

 奇しくもそれは、イ404と同じ色だった――――……。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

特に理由の無い年齢制限描写(え)
18禁版ではもちろん続きが(え)

それはそれとして、今作もいよいよ目処が立ちました。
年内には本編終わりそうです。
その後にスピンオフなりをやるかはまだ未定ですが、とにかく終わりそうです。
※「そうです」と言っているあたり、そこはかとない自信の無さを窺わせる。

それでは、もう少しお付き合いくださいませ。


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Depth080:「シナノ」

 想像できるだろうか……?

 インド洋は、三大洋の中で最も面積の小さな海だ。

 しかしそれにしたところで、「全海水の20%」と言う数字の重みがある。

 黒海や日本海のような、ごく狭い範囲の内海とは訳が違うのである。

 

 

「こんな程度なの、あなた達の力は……?」

 

 

 想像できるだろうか?

 そんな膨大な水量を誇るインド洋が、地球の三大洋のひとつにまで数えられる大海が。

 北はパキスタンから南はマダガスカルまで、東はインドネシアから西はソマリアまで、その広大な範囲の海が()()()()()()()()

 はたしてそんな事態が、地球史上に存在しただろうか?

 

 

 あの『ムサシ』の超重力砲でさえ、地中海を割るところまでだった。

 もちろん、『ムサシ』は地球への影響を考えて押さえていたのかもしれない。

 だがそれにしても、大洋を引き裂くと言う行為は常軌を逸している。

 それも、インド洋の生態系には一切の損失を与えずに、である。

 紅海を割って民を導いたと言う古の預言者モーセがこれを見れば、この光景を何と評しただろうか。

 

 

「だとしたら、ムサシ姉は無駄死によ」

 

 

 灰色だ。

 灰色の少女が、光る眼でこちらを見下ろしている。

 ()()()()イ404の天上の穴から、紀沙ははっきりと視線を交わした。

 そして、その視線に込められた冷たさに心の底から震えた。

 

 

「そんな無様、これ以上見ていられない。せめて私の手で葬るのが、妹としての責務よ」

 

 

 手を。

 灰色の少女が、手を伸ばした。

 その先には、蒼い潜水艦が灰色の茨で囚われていた。

 引き裂かれた海の間で、灰色の輝くエネルギーの網が茨のように見えたのだ。

 その姿はまるで、御伽噺にでも出てきそうな程に神々しい。

 

 

「やめろ……」

 

 

 灰色の少女が、掌を閉じていく。

 するとそれに合わせて、金属が軋む嫌な音が響き渡った。

 それは蒼の潜水艦――イ401から響いている。

 青白くスパークしているのは、灰色の茨(クライン)と蒼の障壁(フィールド)同士が鬩ぎ合っているからか。

 

 

 だが、明らかに蒼の方が出力で負けている。

 これまで砲撃や雷撃で削りに来た相手はいたが、力尽くで潰しに来たのは初めてだ。

 それだけ、両者の間には出力の差があると言うことだ。

 そして、致命的な音が響き始めて。

 

 

「お前達の旅は、ここで終わりよ」

「……ッ、やめろおおぉ――――――――ッッ!!」

 

 

 そして。

 灰色の輝きが、目の前で弾けた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――日が昇らない内に、ジブチの港を出た。

 だから日差しを見たのは、ちょうどアデン湾を抜け、ソコトラ諸島を掠めるように進んでいた時だ。

 日本やヨーロッパの太陽とはまた違って、大きく、どこか紅い。

 ただ、禍々しいと言うには陽気に過ぎる明るさだった。

 

 

「さて、これでアフリカともお別れってわけだな」

「そうなりますね」

「と言っても、そんな長い間いたわけじゃ無かったけどねぇ」

 

 

 冬馬や梓とそんな会話をしている時には、すでにイ404は潜航を始めていた。

 このままイ401、『ヒュウガ』、そしてトーコと共にインド洋を進むのだ。

 途中、何度か浮上や補給が出来ればと思うが、最悪の場合はノンストップで突っ切ることになる。

 この時期のインド洋の海流は、東進するにはあまり向いていないためだ。

 

 

 霧の艦艇ならば航海には問題は無いだろうが、少なくとも戦闘は避けたいと言うのが本音だった。

 だから紀沙としては、父が言う『シナノ』と言う存在――ジブチ政府によると、アデン湾を出たところで待ち構えているらしいが――が、不気味に思えてならないのだ。

 はたして、すんなりと行くだろうか、と。

 

 

「なぁ、艦長」

「……え? あ、ごめんなさい。何ですか?」

「おいおい、聞いて無かったのかよ~」

「アンタの話を聞きたくない気持ちはわかるけどね」

「いや、梓の姐さんそれちょっとキツ過ぎない?」

 

 

 考え込んでいたのだろう。

 軽い困惑の色を見せる紀沙に、冬馬は言った。

 

 

「今年だが2年後だか知らねーけど。全部終わったらさ、今度は旅行で来てーよなって」

「ああ……」

 

 

 確かに、と、紀沙は思った。

 アメリカにしろヨーロッパにしろ――と言うか、結局まともにどこも訪れていない――あまり、余裕の無い旅程だった。

 落ち着いて考えてみれば、もっといろいろと見てみたいものもあった。

 モスクワでもロンドンでも、あんなことがあって。

 

 

「そうですね」

 

 

 世界が平和になった後で、懐かしむように、また訪れることが出来たら。

 それはきっと、とても素晴らしいことだろうと思った。

 

 

「でも冬馬さん、そう言うのってちょっとフラ……」

 

 

 その時だった。

 紀沙の言葉を遮るように、視界が赤い明滅で染まった。

 警報(アラート)、当然、意味するところは「危険」だ。

 発令所の全員の視線が、冬馬に集中した。

 

 

「……いや、そこで俺を見られましても……」

 

 

 まぁ、それは冗談として。

 この警報は、先行していたアクティブデコイのいずれか――あるいは全て――が撃沈されたことを報せるものだ。

 通信も警告も無くデコイを潰してきたと言うことは、つまり宣戦布告と同義である。

 発令所の空気が、一気に張り詰めて行った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その艦艇を見ていると、海が蒼では無く灰色なのだと言うことが良くわかる。

 一般人のイメージでは、海は蒼色だろう。

 しかし実際は、海は言う程に蒼く無い。

 海は、灰色なのだ。

 

 

 軍用の艦艇が灰色に塗装されることを、不思議に思ったことは無いだろうか?

 灰色では空や海で目立ってしまうのではないのか、と。

 逆だ。

 実はイメージ通りの蒼色の方が目立つし、灰色は水平線に溶けて消えるのだ。

 だから、軍艦はどこでも灰色に塗装される。

 

 

「デコイ全滅。――敵艦隊、再探知完了」

 

 

 その艦艇――霧の超戦艦『シナノ』の艦体が、灰色だった。

 圧倒的な巨艦にも関わらず、遠目では水平線にぼやけて全体像が見えなくなる。

 まして霧の艦艇特有の霧まで纏っていては、余計に見え辛い。

 しかし、近付くとその存在感は圧倒的だった。

 

 

 しなやかで強靭な印象を受ける灰色の艦体には、不釣り合いな外見のメンタルモデルが立っていた。

 スリットブラウスと幅広のパンツ、上下ともゆったりとした造りで海風にたなびいている。

 灰色の羽織り物は上下一体で、腰に太いベルトを巻いて留めている。

 姉2人と異なり、灰色のショートヘアと相まって、どこか少年然とした美貌の少女であった。

 

 

『シナノ、貴女は何をしようとしているの?』

 

 

 艦橋の上、中空を見つめる『シナノ』に話しかける者がいた。

 しかし、その人物は『シナノ』の傍にはいない。

 何故ならそれは、遥か太平洋の『ヤマト』がかけて来た声だからだ。

 秘匿回線でのその会話は、他に聞かれることは無い。

 

 

「見極めようとしているのよ、ヤマト姉。私なりに」

 

 

 凛とした声が、海に響いた。

 先程の砲撃――扇状に展開されていたイ号艦隊のデコイ4隻を全滅させた――に驚いた海鳥達が、再び戻ってきている。

 それを見つめる『シナノ』の眼は、電子の光で白く明滅していた。

 

 

「彼女達がヤマト姉の言うようなやつらなら、私は大人しくインド洋(ここ)を通すわ」

 

 

 でも、と、『シナノ』は厳しい表情で続ける。

 

 

「もしムサシ姉が託す相手を間違えたのなら、それを正すのが妹である私の務めよ」

『シナノ、貴女は……』

 

 

 『シナノ』の全長260メートルにも及ぶ艦体、その側面の装甲がスライドした。

 3列に渡って姿を見せたのは、朝日に鈍い光沢を返す無数のビーム口だった。

 同時に、重厚かつ地の底から響くような音を立てて、3基の主砲が仰角を上げ始めた。

 がこん、と言う停止の音が、どこかシュールですらあった。

 

 

「試してみよう。ムサシ姉の選択が正しかったのかどうか、ムサシ姉が無駄死にで無かったのかどうか」

 

 

 『シナノ』の両眼が、機関の高まりと共に輝きを増していく。

 それはとりもなおさず、第三の超戦艦としての演算力の凄まじさを予感させた。

 そして同時に、暴力的とすら言えるだろう戦闘能力の高さをも予感させるものだった。

 

 

()()()

 

 

 轟音は、発射の後に聞こえた。

 3基9門の主砲から放たれたのは、一見すると実体弾のようだった。

 しかしその砲弾は、飛翔の途中で内側から装甲が弾け飛ぶと、ぎっしりと詰まった子弾を覗かせた。

 そして、炸裂する。

 

 

「まず1隻」

 

 

 暴力の雨が、海面に降り注いだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まず狙われたのは、トーコだった。

 理由は、イ号艦隊の中で最も動きが鈍かったからだ。

 メンタルモデルの形成に演算力のほとんど全てを費やしているトーコは、他のイ号艦ほどの静粛性も無かった。

 だから、『シナノ』の攻撃はまず彼女に対して行われた。

 

 

「いや、これは……」

 

 

 艦体に膝をついた姿勢で上を見るトーコ、その視界には、炸裂した子弾が海面の壁を突き破ってくる様が映っていた。

 流星群と言うものは、きっとこう言うものなのだろう。

 それが全て自分に向かって落ちてくるとなると、感慨深い気持ちは全く湧いてこなかった。

 

 

 蜂の巣と言うのが、表現としては最も正しいだろう。

 『シナノ』の放った子弾の群れはトーコの艦体全体に降り注いだ上に、瞬く間にクラインフィールドを削ぎ、本体に到達した。

 甲高い無数の金属音が過ぎ去った後には、穴だらけになった無残なイ15の姿があった。

 そして。

 

 

「……無理っス」

 

 

 一瞬のスパークの後、爆発した。

 致命的な部分を貫かれたために、イ15の艦体が耐え切れなかった。

 トーコの姿は悲鳴と共に爆発の中に消えて、海中にイ15轟沈の衝撃が走った。

 当然、それは他の艦にも伝わる。

 

 

「イ……イ15、撃沈!」

「マジかよ! 1分経ってねえぞ!?」

 

 

 イ401の発令所にも、動揺が走った。

 まさか、初撃で僚艦が潰されるとは思っていなかったのだろう。

 

 

「イオナ、イ15のコアは?」

「……無事だ。ただ海流に流されている」

「位置だけは掴んでおけ。紀沙がやるだろうが、こちらで回収することになるかもしれない」

「了解」

 

 

 こう言う時、無人の艦であることが本当に幸いする。

 コアさえ無事であれば、トーコはとりあえず大丈夫だろう。

 それよりも、今は。

 

 

「深度下げて下さい。浅い海域ではさっきの攻撃の餌食になります」

「了解、深度下げ」

 

 

 起こった事象から『シナノ』の攻撃がクラスター弾の類だと判断した紀沙は、ひとまず深い位置にイ404を動かすように指示した。

 そして、その行動は正しい。

 深海へ向かう軋みを聞きながら、紀沙は『シナノ』について考えていた。

 

 

「ねぇ艦長殿、イ15とのリンク切ったらダメかい?」

「却下」

「……チッ」

 

 

 スミノの舌打ちはレアだ。

 おそらくトーコが何か騒いでいるのだろうが、紀沙には聞こえないので指揮に問題は無い。

 そう、指揮だ。

 群像も同じようにしているだろうが、ある程度潜ったらエンジンを切るつもりだった。

 

 

 海底で機関を切った潜水艦を、水上艦が見つけるのは非常に困難だ。

 そうしてチャンスを窺い、隙があれば反撃する。

 潜水艦の常套手段だが、有効だからこそ常套と言われるし、陳腐にもなる。

 魚雷の数にも限りがある、慎重に行くべきだった。

 

 

『ヒュウガ、貴艦は『シナノ』について何か知っているか?』

「残念ながら、『ヤマト』以上に謎としか」

 

 

 それは、ヒュウガの『マツシマ』も同じだった。

 彼女が操る3隻のオプション艦も、トーコと同じように潜水艦では無い。

 とは言え元が大戦艦のコアである分、演算力には多少の余裕がある。

 だから『シナノ』の初撃も何とかやり過ごして、群像達と共に海に潜っていた。

 繰り返すが、水上艦が潜航している艦艇を見つけるのはとても難しい。

 

 

「ただ、インド洋の霧が上げている共有ネットワークの情報に」

 

 

 そう、上から見つけるのは難しい。

 だから。

 

 

「よると」

 

 

 肌の粟立ち――メンタルモデルらしからぬ表現だが――を感じて、直後、ヒュウガはぞっとした。

 ノイズのような音が『マツシマ』の眼前の空間に走ったかと思うと、突如、巨大な物体が行く手を遮ったのである。

 そう。

 ()()()()()()『シナノ』である。

 

 

(ステルス迷彩。潜航して。イ15の爆発の合間に。回避。防御。無理)

 

 

 ヒュウガが『マツシマ』の迎撃兵装を起動するよりも、たっぷり数瞬は早く。

 

 

「――――2隻目」

 

 

 『シナノ』の装甲側面から放たれた無数のレーザーが、『マツシマ』の艦体を蜂の巣にした。

 不意を突かれた形のヒュウガは、防ぐことが出来なかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 瞬く間に、と言う表現が正しいのだろう。

 しかし同時に信じ難くもあった、それだけ『シナノ』の戦い方が異常だったと言える。

 明らかに、過去のどの霧の艦艇とも異なる。

 

 

「水上艦のセオリーに従っていない……」

 

 

 群像が過去に戦って来た霧は、『コンゴウ』にしろ『タカオ』にしろ、多かれ少なかれ自分自身の艦種に忠実だった。

 例えば砲撃戦なら戦艦が、対潜戦闘なら駆逐艦が、と言う風に役割をきっちり分けてきていた。

 当然、自ら海中に乗り込んで戦おうとする艦艇は――例外はあるにせよ――いなかった。

 

 

 潜航能力において水上艦は潜水艦に勝てない、これは霧にとっても有効な常識(ロジック)だ。

 ところが、『シナノ』はその常識を平然と踏み越えて来た。

 自ら潜航し『マツシマ』を葬ってしまった、これはイ401の今後にも響く大損害だ。

 

 

「まさか自分から潜って来るとはな、超戦艦様はやることが派手だね」

「いや……それも重要だが、問題はもっと別にある」

 

 

 とは言え、驚いてみせたものの、群像自身はそこまでの驚きを感じていなかった。

 イ15は潜水艦としての能力は高くなく、『マツシマ』も所詮は砲艦で潜航能力はさほどでは無い。

 そう言う意味では、イ401やイ404よりも先に撃沈されてしまうのは、脅威ではあっても驚異では無い。

 

 

「問題は、我々の位置が完全にバレてしまっていること――ですね」

「ああ」

 

 

 僧の言う通り、『シナノ』は最初からトーコとヒュウガに当たりを付けていた節がある。

 そうでなければ、『マツシマ』をああまで完璧に待ち伏せは出来ない。

 ソナーの類では無い、ソナーなら、イ15の爆発音の中で『マツシマ』を探り当てることはまず不可能だからだ。

 逆にイ15の爆発に紛れて待ち伏せていた、と言うのが肝の部分なのだ。

 

 

「いずれにせよ、『シナノ』はすでに何らかの手段でこちらの位置を正確に割り出している。一方で、こちらの索敵から完全に消えるステルス機能をも有している」

「そんな相手をどうやって……」

「超重力砲か?」

「いや、まだ手はある。だがそれは、超重力砲じゃない」

 

 

 『シナノ』には超重力砲が効果が無い可能性がある、と群像は続けた。

 驚くべきことでは無い。

 かつてU-2501はミラーリングシステムと言う装備によって超重力砲を無効化したことがあるが、イオナによれば、あれはもともと超戦艦級にしか扱えないのだと言う。

 ならば、超戦艦である『シナノ』もミラーリングシステムを有していると見て間違いないはずだった。

 

 

「本当にバケモノだな」

「まったくだ。しかも目的が見えない」

 

 

 超重力砲は、使えたとしても牽制か陽動くらいだろう。

 一撃必殺の超兵器も、条件が悪ければこんなものだった。

 それにしても、『シナノ』はなぜ仕掛けて来たのかと群像は考える。

 過去の経験では『コンゴウ』戦が近い気もするが、今回は対話の試みすら無い。

 

 

「クリミアの戦いを経た今、人から見ても霧から見ても、この戦いには意味らしい意味が無い」

 

 

 『シナノ』が群像達を倒すにしろ、その逆にしろ、戦略上のメリットは見当たらない。

 2年後の戦いを考えるのであれば、むしろデメリットの方が大きい。

 そう、この戦いには意味は無い。

 となれば、『シナノ』は戦うことそのものに意味を見出している……?

 

 

「群像」

 

 

 そして、戦術の話。

 超重力砲、あるいは侵蝕弾頭魚雷による遠距離戦は『シナノ』には効果が薄い。

 そうなってくると、群像達に勝機があるとすれば選択肢は1つしか無い。

 

 

「イ404が動き出したぞ」

 

 

 そして、その戦術に沿って最初に動き出したのは群像では無く、紀沙だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙からすれば、攻撃のチャンスは今しか無かった。

 隠密性と言う潜水艦のほとんど唯一の長所を殺されてしまっている以上、潜航してチャンスを伺うと言うことは出来ない。

 発見されてしまった潜水艦など、物の役には立たないのだ。

 

 

「機関、両舷全速。進路そのまま!」

「うおおおっ、何か久しぶりだなぁ!」

 

 

 だから、『マツシマ』を屠って『シナノ』が姿を見せている今こそがチャンスだった。

 もしステルス機能を使って隠れられてしまっては、今のイ404では再探知する術が無い。

 そして、イ401の超重力砲も期待できそうにない。

 ならば、イ404が採るべき戦術は1つ。

 

 

「直進……? 馬鹿にしているの」

 

 

 『シナノ』は受けて立った。

 『マツシマ』からこっそりと離脱する『ヒュウガ』のコアには関心が無く、近付いてくるイ404に注意を向ける。

 そう言うタイミングで、イ404が()()()

 

 

「デコイか」

 

 

 まず音響魚雷が来て、そして音に紛れてデコイが射出された。

 全部で4隻、自己の存在を主張する(デコイ)が出現した。

 しかし『シナノ』の眼には、どれがデコイなのかははっきりとわかった。

 

 

「ぜんぶデコイね」

 

 

 甲板のミサイル発射管の蓋が弾け飛び、無数の侵蝕弾頭が顔を覗かせた。

 数を数えるのも馬鹿らしくなるくらいのミサイルが、発射された。

 それらのミサイルは全てが精密誘導(コントロール)されており、4隻のデコイにそれぞれ向かった。

 そして数秒の後、立て続けの爆発が海中をかき回した。

 

 

「全弾命中を確認……ん?」

 

 

 4か所で起こった爆煙の内、1つが()()()()

 内側から爆発を弾くように飛び出して来たのは、1隻のデコイだった。

 ボロボロだが、『シナノ』のミサイル攻撃を掻い潜ってきた。

 目標が4つに分かれていたため、その分1つ1つの密度が下がったのだ。

 もちろんそれだけでは無い、その1隻だけが際立って動きが良かったのだ。

 

 

「メンタルモデル・コントロールか」

 

 

 イ404本体の操艦を人間に任せ、デコイの操作に演算力(リソース)を割く戦術だ。

 だがそんなものは、大した時間稼ぎにはならない。

 ミサイルの再装填はすでに終わっている、今度は全弾をその1隻に集中すれば良いだけ。

 そして『シナノ』が実際にそうした、まさにその時だった。

 

 

「そうして気を引いておいて、来るんでしょ?」

 

 

 その通りだった。

 精密なデコイ操作で気を引き、奇襲する。

 その読みは正しかったが、しかしイ404は『シナノ』の考えた通りの方向――つまり背後や真下――からでは無く、()()()()()

 

 

「総員、衝撃に備えて下さい!!」

 

 

 最後に『シナノ』が攻撃を加えた1隻、その後ろからイ404本体が突出してきた。

 速力は120ノットに達し、猛然と、と言う表現がぴったり来るような、そんな勢いで『シナノ』に対して突撃を敢行した。

 激しい衝突音と共に、2隻のクラインフィールドが相互に干渉を始めた。

 

 

「クラインフィールド、艦首に集中展開!」

 

 

 いつかも使った戦術だ。

 『シナノ』はイ401を警戒して艦体全体にクラインフィールドを張らざるを得ない、しかしイ404は違う。

 その差が、強固なクラインフィールドに穴を開ける。

 

 

「この距離は……私達の距離です!」

 

 

 1番から8番、イ404が持つ侵蝕弾頭魚雷――黒海に入る前に<緋色の艦隊>から提供されたものだ――の全弾だった。

 乾坤一擲、最初の一撃で最大の威力を叩き付ける。

 零距離だ、外すはずも無い。

 そして実際、イ404の侵蝕弾頭魚雷はその全弾が『シナノ』に命中した。

 

 

「え……」

 

 

 しかし。

 

 

反侵蝕反応(アンチ・ゾーン)

 

 

 灰色のフィールドが、イ404も含めた周囲に広がった。

 紀沙の肌が、ぞわりと粟立った。

 それが何かは正確にはわからない、が、現象は明らかだった。

 魚雷が、爆発しなかった。

 

 

 単なる金属の塊が『シナノ』の艦体にぶつかる音だけが、海の中に響いた。

 つまり、()()()()()()()()()()

 侵蝕弾頭は、『シナノ』には効果が無い!

 

 

「艦長、やべえ!?」

「しまっ……取舵!」

 

 

 間に合わない。

 次の瞬間、過去感じたことの無い衝撃がイ404の発令所を揺らした。

 『シナノ』の攻撃、直撃だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――()()ですか。

 クリミアの戦い以後、『ユキカゼ』は大西洋の南にいた。

 そこで、()()を見つけた。

 と言うより、おそらく他にもいくつかあるだろうと思われるが、たまたま発見されたのがそれだった。

 

 

()()()の破片、と言うのは」

 

 

 『ムサシ』が撃ち落した()()()――旧時代の宇宙ステーションの姿を取る存在――には、未だ正式な名称が付けられていない。

 その内に『ヤマト』なり誰なりが名付けるだろうが、今はとにかく()()()と呼ぶしか無い。

 今は名前などはどうでも良かった、さほど重要な事項では無い。

 

 

 『ムサシ』の迎撃を受け、砕けたとは言え、完全に消滅したわけでは無い。

 いくつかは燃え尽きることなく落下し、さらにその内の何個かは水底で原原形を留めていた。

 今回、『ユキカゼ』が欧州のイ号ネットワーク――総旗艦直属の、霧の遣欧艦隊――を使って見つけたのが、その内の1つだった。

 

 

「見た目は古い組立ユニット(モジュール)のようですが……」

 

 

 海底に突き立つように転がるモジュールは、当然、沈黙している。

 動くはずも無い。

 イ8と『ユキカゼ』が、並んで真上に浮かんでいる形だ。

 だから『ユキカゼ』は、艦体から離れて無造作に近付いた。

 海の中でふわりと浮かび、触りこそしないが、表面に沿って掌を動かしてスキャンを試みる。

 

 

「このあたりで見つかったのはこれだけですか、イ8」

『…………』

「そう。まぁ、貴女達の哨戒網に引っかからないならそうなんでしょう」

 

 

 普通、こう言うものは点在しているものだと思うが。

 まぁ、大気圏で燃え尽きたか、それとも『ムサシ』の超重力砲の威力が凄まじかったのか。

 いずれにしても、ここで考えても仕方の無いことだ。

 共有ネットワークに情報を挙げれば、あるいは類似の情報が挙がって来るかもしれない。

 

 

「では、()()を回収しましょう。『ハシラジマ』まで持ち帰れれば1番……イ8? 返事を」

 

 

 一通りざっと見た後、破片を持ち帰ろうとした時だった。

 当然のように振り向いた『ユキカゼ』だったが、そこで異変に気付いた。

 イ8――僚艦の潜水艦の姿が消えていたのである。

 『ユキカゼ』の艦体の隣にずっといたはずなのに、『ユキカゼ』が気付かないままに。

 ……どこかへ移動したのか? 『ユキカゼ』の指示も無く?

 

 

「イ8、どこです。勝手に離れ……て、は……」

 

 

 からん、と、『ユキカゼ』のアクセサリの鈴が鳴った。

 イ8はすぐに見つかったが、一瞬、見失うのも無理は無かった。

 見つけたのも、イ8が()()()()海底の砂を巻き上げていたからだ。

 何か、()()()()()()()()()()、イ8の艦隊に巻きついていて……。

 『ユキカゼ』がハッとした時には、遅かった。

 

 

「ガッ」

 

 

 着物の胸元が、突然、弾け飛んだ。

 衝撃と共にメンタルモデルの胸部を何かが貫き――当たり前のように、クラインフィールドを抜いて来た――突き抜けてきた。

 黒い触手にも見えるそれは、先端にグロテスクな(あぎと)があり、貫いたまま反転して、『ユキカゼ』の喉に喰い付いて来た。

 

 

 『ユキカゼ』がもがく。

 しかしメンタルモデルの握力と膂力をもってしても、外すことも引き抜くことも出来なかった。

 ばたばたと足をもがかせるも、まるで意味は無かった。

 イ8を捕えたのもこれか。

 後ろへと引き寄せられる――後ろ?

 

 

「……ッ!?」

 

 

 海中にたゆたうままに振り向いた時。

 『ユキカゼ』の眼前に、首に喰い付いて来ているのとは比べ物にならない大きな触手が、顎を上下に開いていた。

 待て、待って、ちょっと。

 それは、あのモジュールから伸びていて、そして。

 

 

「『ヤマ」

 

 

 ()()()




最後までお読み頂き有難うございます。

原作ではほとんど謎の「シナノ」ですが、何だか凄く強いです。
でも超戦艦ならこれくらいは出来そうです。
まぁ、史実の信濃は……。

と言う訳で、次回もシナノ戦です。
それでは、また次回。


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Depth081:「超戦艦」

 致命的な損傷だった。

 『シナノ』の攻撃を艦の前面に集中的に受けたことで、クラインフィールドが瞬く間に飽和。

 強制波動装甲は意味を成さず、かつて受けたことが無い程のダメージを受けた。

 発令所の天井――言うまでも無く、艦の中枢――にまでその衝撃は達した。

 

 

「ぷあ……っ」

 

 

 不味かったのは、海水が雪崩れ込んで来たことだ。

 ここまで艦に穴が開くと、スミノのダメージコントロールも間に合わない。

 海水特有の重みを全身に感じながら、紀沙は僅かに残った隙間に顔を出した。

 クルーが顔を出さないかとあたりを見渡し始めると、次の展開が来た。

 

 

 がくん、と、イ404の艦体が大きく傾く。

 それは次いで細かな振動に変わり、お腹の底が持っていかれるような感覚になる。

 浮いているのだと気付いたのは、海水が引いていったからだ。

 開いた穴から逆に海水が流れ出すと、発令所の床に投げ出された。

 気がつくと横に倒れていた梓に腰を抱えられて、そのまま外に飛び出さずに済んだ。

 

 

「く……っ」

 

 

 見てみると、恋も冬馬もそれぞれ何かに捕まって無事だった。

 全身ずぶ濡れだが、そんなことは気にしていられない。

 

 

「艦長殿」

 

 

 そして、いつの間にかスミノが傍にいた。

 こんな状況でも平然としているのは、流石と言うべきだろうか。

 彼女の視線は、穴が開いた天井の先に向いていた。

 スパーク混じりのエネルギーの渦の先に、灰色に輝く艦体が見える。

 

 

「あれが、『シナノ』」

 

 

 三番目も超戦艦だ。

 そして艦体の各部から雷のような発光が見えるのは、機関の出力が上がっている証だ。

 霧の艦艇があのような形で出力を上げているのは、超重力砲を起動させている証でもある。

 つまりイ404は今、『シナノ』のロックビームの中にいるのだった。

 

 

 これは、いかにも不味い事態だった。

 侵蝕弾頭の武装は先程すべてを使ってしまった。

 残るはスミノのナノマテリアルを使っての振動弾頭だが、『シナノ』にどこまで効果があるのかはわからない。

 そもそも、この艦の状況では精緻なナノマテリアル・コントロールは難しい。

 

 

「おい、ちょっと待てよ。『シナノ』って戦艦じゃねーのか? でも、あれは……」

 

 

 冬馬の言葉通り、『シナノ』は超戦艦と呼ばれる以上は戦艦の形をしているはずだ。

 実際、これまではそう見えていたはずだ。

 だが今、紀沙達の目に見えている『シナノ』の姿は――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 主砲を含む甲板上の物はナノマテリアルに溶けて、艦橋の位置も片側に大きく寄っている。

 そして新たに形作られた甲板は平らで、滑走路が描かれたそれは飛行甲板だった。

 そう、『シナノ』は戦艦では無かった。

 航空母艦――いや。

 

 

「海域強襲制圧艦『シナノ』……あり得ないコアの出力はそう言うわけか」

 

 

 海域強襲制圧艦とは、霧の艦隊における「元空母」を意味する艦種だ。

 かつて航空機を運用していた彼女達は、航空機そのものにはクラインフィールドを張れない――つまり人類の対空砲を防げない――と言う理由から、空母としての自身の運用を放棄したのだ。

 彼女達のコア出力は、大戦艦級の倍とも言われている。

 

 

 数十から数百の航空機運用能力をやめたことで、その分を他に回せるようになったためだ。

 その結果、文字通り海域1つを単艦で制圧できるだけの戦闘能力を有するようになった。

 そして『シナノ』もまた、その海域強襲制圧艦だった。

 通常の海域強襲制圧艦のコア出力が大戦艦級の倍、と言うことは……。

 

 

「『ムサシ』の倍は強いってことか!?」

「そこまで単純では無いだろうが、だが」

 

 

 あながち、「『ムサシ』の倍」と言う表現は間違っていないかもしれない。

 群像をしてそう思えるほど、『シナノ』は理不尽に強かった。

 今のイ404のように近接戦を仕掛けても、侵蝕反応を無効化されては致命打を与えられない。

 遠距離戦は元より不利、砲雷撃戦では物量で圧倒されてしまう、超重力砲も効かない。

 

 

「……間違いなく、過去に出会った中で最強の霧だ」

 

 

 正直、打つ手が無かった。

 こうなれば倒すことは諦めるしかない、群像は早々にそう判断した。

 ただ、『シナノ』が停戦の交渉に応じないだろうとも思った。

 彼女は戦いそのものに意味を見出している、何かを果たさない限りやめないだろう。

 問題は、それが何か、と言うことだった。

 

 

「……ッ」

「イオナ、どうした」

「すまない群像、距離を見誤った」

 

 

 イ401の艦体が大きく振動を始める。

 イオナが顔を顰めるのも、無理は無かった。

 まさか、この距離で『シナノ』のロックビームにかかるとは思わない。

 と言うより、異常だ。

 

 

「『シナノ』の超重力砲の範囲は、()()()()()()()()……!」

 

 

 超重力砲は極めて拾い範囲に影響を与える。

 しかし、『シナノ』のそれは桁違いに拾い。

 まさに、単艦で海域を制圧してしまっている。

 しかもその影響下では、こちらは何も出来ないのだ。

 絶対無敵の重力子空間、その支配者の名が『シナノ』だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そして、現在に至る。

 イ404は艦体を砕かれたままどうすることも出来ず、イ401は今にも『シナノ』の不可視の圧力によって潰されてしまいそうに見える。

 トーコとヒュウガの援護は期待できない、付近に他の味方はいない。

 

 

 絶体絶命だった。

 

 

 アメリカに振動弾頭を渡し、ロリアンとクリミアの戦いを乗り越え。

 そしてやっと、日本へ帰れると思った矢先。

 こんなところで。

 こんなことで、やられてたまるか……!

 

 

「『シナノ』ぉ!」

 

 

 発動(ダイブ)

 紀沙は、霧の世界へと意識を飛ばした。

 以前よりずっと速く、ずっと澱みなくもうひとつの世界へ入ることが出来た。

 しかし。

 

 

「……ッ!?」

 

 

 飛び込んだ瞬間、掌に顔を覆われた。

 そのまま後ろへ叩き付けられる段階になって、相手が『シナノ』であることに気付いた。

 衝撃を堪え、器用に膝を折り、『シナノ』の首を狩りにかかる。

 『シナノ』は紀沙から手を離し、胸を逸らしてかわした。

 鼻先を紀沙の足が通り過ぎる、しかしそこには別の足――()()()()()()

 

 

 めぎぃ、と、極めて嫌な音が響いた。

 『シナノ』の顔面に両足で()()したのは、スミノだった。

 だが音を立てたのは『シナノ』の頭では無く、床だった。

 何故なら『シナノ』は、後頭部が床に直撃すると同時にナノマテリアルの粒子を残して消えたからだ。

 

 

「チィ……ッ」

「しゃがんで!」

 

 

 舌打ちとほぼ同時、紀沙が拳銃を撃った。

 スミノが頭を下げた先、再出現した『シナノ』を狙った。

 2発とも、『シナノ』の肩掌で掴まれて防がれた。

 それどころか『シナノ』は、ゴミでも投げるかのようなモーションで受け止めた銃弾を投げ放った。

 紀沙の反射神経では同じ芸当は出来ない、身体が後ろに傾いた時、『スミノ』がお腹にぶつかってきた。

 

 

「……何よ。思ったよりも良く助け合うのね」

 

 

 床に転がった紀沙とスミノを見て、『シナノ』は嗤った。

 

 

「何のつもり!?」

「別に何のつもりもないわ」

 

 

 激高する紀沙に、『シナノ』は本当に何でも無いことのように答えた。

 きっと睨んでみても、『シナノ』は一切様子を変えない。

 そしてこうして直接に相対しているからこそ、紀沙には『シナノ』の強大さが良くわかった。

 『ムサシ』とはタイプが違うが、それでもやはり、向かい合っているだけで圧倒されてしまう。

 

 

「ただ、まぁ……そうね。あえて言うのなら」

「な」

 

 

 スミノが胸を貫かれた。

 

 

「に」

 

 

 「な」と「に」、たったそれだけの間。

 その間に『シナノ』は紀沙達の目の前にいて、掬い上げるような動作で、スミノの左胸を貫いていた。

 紀沙は、微動だに出来なかった。

 血が出るわけでは無いが、変わりにナノマテリアルの粒子が舞った。

 

 

「ムサシ姉の仇を討とうと思って」

 

 

 本当に。

 何でも無いことのように、『シナノ』はそう言った。

 そして、やはり何でも無い、当たり前のことのように。

 紀沙の首に、鋭すぎる衝撃が走った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 現象だけを言えば、簡単だった。

 『シナノ』の踵が、紀沙の首の真後ろを打ったと言うだけだ。

 しかしそれだけのことで、紀沙のすべての機能は停止に追い込まれてしまった。

 首の後ろのあたりから、ゆっくりと、だが確実に、崩壊因子(ウイルス)が紀沙の身体――霧の世界における身体――を蝕んでいった。

 

 

「貴女達のせいじゃ無いことはわかっているわ」

 

 

 声が出ない。

 指先ひとつ動かせない。

 『シナノ』が自分に撃ち込んだプログラムを、抵抗(レジスト)出来ない。

 自分と言う存在を構成する何かが、バラバラに分解されていく心地だった。

 

 

「でも、貴女達がいなければムサシ姉が死ぬ必要は無かった。これも事実」

 

 

 今までと違う。

 掌の中に砂粒を押し留めることが不可能なように、自分と言う存在が零れていく。

 ナノマテリアル、『コード』。

 今回は継ぎ足されるものが何も無い。

 

 

 ただ、失われていく。

 自分自身が少しずつ削り取られていくような、そんな感覚。

 そしてその感覚すらも、少しずつ消えていく。

 消えていくのだ、自分が。

 

 

「だから私は、貴女達に復讐することにしたの」

 

 

 失われていく。

 今までの旅で培われてきた、「千早紀沙」と言う表層(データ)が失われていく。

 止めることは出来ない。

 止めることは、出来ない。

 危険だ。

 

 

「残念よ、本当に。ムサシ姉は無駄死にだった……」

 

 

 危険だ(アラート)

 危険だ(アラート)危険だ(アラート)危険だ(アラート)

 危険だ(アラート)危険だ(アラート)危険だ(アラート)

 危険だ(アラート)危険だ(アラート)危険だ(アラート)

 危険(ウイルス)は。

 

 

「『削除(デリート)』」

「え?」

 

 

 (ボッ)

 音だけが、遅れて届くと言う現象が起こった。

 それは音の速度も電子の速度すらも超えて、ほとんど光の速度で行われた。

 スミノを貫いたままだった『シナノ』の片腕が、肩先から千切れ飛んだ音だった。

 

 

 視線が自身の肩に向いた時には、すでにスミノは床に落ちている。

 咄嗟に、残りの片手で手刀の形を作り、振り下ろした。

 肩先から胸へと崩れかけたメンタルモデルの身体を、自分で胸の辺りまで抉って切り飛ばした。

 離れた部位が、ぼろぼろと崩壊していく。

 まるで、先程の紀沙のように。

 

 

「……っ」

 

 

 ぞっと、した。

 もしあと数秒、反応が遅ければ、『シナノ』の身体は崩壊していただろう。

 消去(デリート)、されていただろう。

 今の一撃には超戦艦、それも最強の海域強襲制圧艦である自分の演算力を超える、そんな崩壊因子が埋め込まれていた。

 

 

「これは、『アドミラリティ・コード』の力か」

 

 

 振り向くと、倒れていたはずの紀沙が立っていた。

 両足を広げ、肩を広く、やや猫背気味に。

 まるで肉食の獣が獲物に跳びかかる直前の、前傾姿勢だった。

 いや、事実その通りだった。

 

 

 紀沙と(コロサレルト)目が合った(オモッタ)

 

 

 『シナノ』は、逃げた。

 一も二も無く、霧の世界での主導権を放棄して逃げた。

 彼女が霧としての意識を得てから、初めての逃走だった。

 だが、その判断が間違っていると『シナノ』は生涯思わなかった。

 もし逃げていなければ、『シナノ』は今度こそ致命の崩壊因子(ウイルス)を撃ち込まれていただろうから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――力が欲しいと、そう願った。

 今までで培ったもので足りないと言うのであれば、()()()()を捨てたって構わない。

 もし、自分の中にそんな力はあると言うのなら。

 自分の中に眠る霧の力が、本当にそこまで大層なものだと言うのなら。

 

 

 私に奇跡を見せてみろ。

 

 

 それが、本当に奇跡などと言う美しいものであったのかはわからない。

 ただ1つわかっていることは、イ404に異変が起こったと言うことだ。

 どこからそれだけのナノマテリアルが集まったのか、イ404の艦形が変わっていた。

 いや、艦形が変わったと言うのは正しくは無い。

 

 

「これは、外部装甲?」

 

 

 艦全体の把握をしている恋は、かなり正確にイ404に起こった異変について理解していた。

 そう、装甲である。

 イ404をすっぽりと覆うように、灰色の装甲が展開されていた。

 装甲全体に智の紋章(イデアクレスト)が浮かび上がっているそれは、イ404を守る鎧のようにも見えた。

 

 

 しかし、恋が驚いたことはまだ他にある。

 イ404には備わっているはずの無い兵器が、発射シークエンスに入っていたことだ。

 大型8基、小型20基のレンズが、イ404の周囲に展開されている。

 そこから円環状に放出されるエネルギーが徐々に勢いを増し、やがて一つの砲身を形作り始める。

 その兵器の名を、恋は良く知っていた。

 

 

「超重力砲……?」

 

 

 それはまさしく、霧の超兵器、超重力砲だった。

 大型のレンズは固定されており、小型のレンズがその周囲で何かを調整するかのように細かく動いていた。

 明らかに、イ401が備えている超重力砲よりも強力なものだった。

 どうしてイ404に突然そんな変化が起こるのか、恋にはわからない、しかし。

 

 

「艦長!」

 

 

 正面を見据えたまま――両眼に電子の光を湛えたまま――微動だにしない紀沙に、呼びかけた。

 しかし返事は無い。

 その代わりに帰って来たのは、高まり続ける圧力と、強まり続ける振動だけだった。

 そして、エネルギーの収束が始まる。

 

 

 はたして、恋の頭の片隅で不安が鎌首をもたげた。

 超重力砲、なるほど強力な兵器だ。

 しかし、『シナノ』に効果があるのか。

 例のミラーリングシステムを前に、この超重力砲は――どうなのか!?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 かつて、『アドミラリティ・コード』が力の片鱗を見せた時と似ていた。

 あの時のように、各地の霧達は――千早兄妹に縁が深ければ深い程、顕著になる――インド洋の西端で起こった事態に、何かを感じていた。

 何が起きたのかまではわからないが、霧にとって重要なことだと言うことは理解できる。

 

 

 何かが、目覚めたのだ、と。

 それは霧の彼女達にとって、とても重要なことのような気がした。

 そう、それは何十年も別れていた母親と再会したような。

 あるいは、初めて娘と出会ったかのような。

 

 

「そうか。そうなるか」

 

 

 『ヤマト』を除けば、最も千早兄妹に近しいのはこの男だろう。

 翔像は、『ムサシ』艦上でそれを感じていた。

 彼の娘が、彼と同じ存在に――いや、それ以上の存在に変わろうとしている。

 それは、はたして進化と呼べるのだろうか。

 

 

「何なの、この不愉快な気持ち……」

 

 

 『ダンケルク』と別れ、すでにアドリア海に入っていた『タカオ』も感じ取っていた。

 ちりちりとした、嫌な感じだ。

 不快感を煽られる。

 しかし今から何を出来るでもなく、ただ見守っているしか無い。

 

 

「新たなる福音……」

「いえ、凶兆の前触れとも言えるわ」

 

 

 2人の『ナガト』。

 福音と凶兆、相異なる見解を見出してみせる2人は、イ404達が日本に戻る上では避けて通れない存在でもある。

 もし千早兄妹が再び日本近海に達した時、事実上の極東艦隊旗艦である彼女達はどんな反応を見せるのだろうか。

 

 

 その他の霧達も、この異変を敏感に感じ取っている。

 それは、彼女達にとって意味を持っているからだ。

 ある意味で、『ムサシ』の轟沈と同じくらいに重要だ。

 何故ならば、『ムサシ』に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「嗚呼……」

 

 

 そして、最も敏感にその事態を感じているだろう1隻――と言うより、2人。

 霧の艦隊の中で、最も千早兄妹に関心深い2人も、当然、気付いていた。

 遥かインド洋の端から発せられる、()()とも言えるその感覚。

 

 

「変わってしまうんだね、何もかもが」

 

 

 『ヤマト』と、『コトノ』。

 『ムサシ』亡き今、『コード』を保有する唯一の超戦艦だ。

 彼女はまた、他の霧とは異なる目線で、この事態を感じているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その()()は、遥か太平洋の『ヤマト』まで届いていた。

 そして『ヤマト』は、今、紀沙に何が起こっているのかを正確に理解していた。

 何故ならそれは、かつて自分の身に起こったことだからだ。

 いや、正確に言えば『ヤマト』では無く……。

 

 

「紀沙ちゃん」

 

 

 正確には、『コトノ』だ。

 インド洋で起こっている()()を、彼女は誰よりも理解していた。

 ついに自分の後に続く者が現れたのだと、感慨深さすら覚えている。

 しかし、その表情は複雑だった。

 

 

 歓喜と、後悔。

 喜びと、哀しみ。

 期待と、失望。

 嬉しさと、切なさ。

 相反する様々な感情が、その表情からは滲み出ていた。

 

 

「『シナノ』が千早紀沙を追い詰めたことで、彼女の中の『コード』が目覚めた」

「そんな生易しいものじゃないよ」

 

 

 紀沙は、()()()()()()()

 『シナノ』の攻撃に耐え切れず、「千早紀沙」と言う表層(データ)が消えた。

 そこからの、バックアップと再生。

 そして、復活と再構成。

 あれはもはや、潜水艦『イ404』では無い。

 

 

「紀沙ちゃんは、生まれ変わったんだ。ううん、本当はもっと前から変わっていたんだよ」

 

 

 ただ、自覚していなかった。

 今だって、はたしてどこまで自覚しているかはわからない。

 彼女の中の『アドミラリティ・コード』が、自己防衛のために起動しているだけだ。

 しかし、それは紛れも無く今の彼女の力なのだ。

 

 

 いつか、『ヤマト』や『ムサシ』のように自在に力を使いこなせるようになる。

 ただ、それは紀沙にとっては厳しいことかもしれない

 何故ならば、それは……もう1人の自分(デュアルコア)を受け入れる、と言うことだから。

 霧を受け入れると、言うことだから。

 

 

「いつか義妹(いもうと)になるんだろうなって、思っていたの」

「千早紀沙のことを?」

「うん。結局、想像……ううん、ただの妄想だった。けどね」

 

 

 自嘲気味に笑って、『コトノ』は言った。

 

 

「まさか、こんな形で妹になるなんて思っていなかったよ。紀沙ちゃん……ううん」

 

 

 1隻が神の如き能力を持つ、霧の超戦艦。

 長姉『ヤマト』、次女『ムサシ』、三女『シナノ』。

 そして、ついに生まれた()()()()()

 ()()()()()()

 

 

「霧の超戦艦――――『紀伊』」

 

 

 何とも、皮肉な名前ではないか。

 やはり『コトノ』は、自嘲の笑みを浮かべるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『シナノ』は、ミラーリングシステムを使用する気が無かった。

 と言うよりも、今の紀沙とイ404に対しては効果が無いはずだった。

 何故ならばミラーリングシステムは、その特性上、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ミラーリングシステムは、任意のエネルギーを別次元に相転移させるシステムだ。

 つまり簡潔に言って、「任意のエネルギー」を制御することが前提となっている。

 『シナノ』自身の手に負えないようなエネルギー量は、別次元に転移させることが出来ない。

 すなわち今のイ404が放とうとしている超重力砲のエネルギーは、超海域強襲制圧艦である『シナノ』の眼から見ても、異常な程に巨大なエネルギーだったのである。

 

 

「よしんば、ミラーリングシステムが機能したとしても」

 

 

 おそらく、あれだけのエネルギーを相転移させた反動は凄まじいことになる。

 何十もの次元に長い期間影響を与えることになるだろうし、下手を打てば、インド洋の一角に修正し難い重力場の乱れを形成してしまうはずだ。

 かつて世界は平らで、世界の端から海水が滝のように落ちている姿が想像されていたらしい。

 まさに、そんな世界になりかねない。

 

 

理性(スミノ)をダウンさせたのは、悪手だったわね」

 

 

 まるで制御されていない力の奔流を前に、『シナノ』は立ち尽くしていた。

 インド洋は未だに割れたままだが、今や2隻の超戦艦の力の拮抗により、ここを中心に渦を巻き始めている。

 このままでは、自然環境に深刻な影響を与えてしまうだろう。

 

 

「下手をしたら、地球ごと撃沈されてしまうかもしれないわ」

 

 

 それは、流石に不味い。

 別に撃沈を恐れはしないが、地球まで巻き添えにしてしまっては、()()()と刺し違えてでもこの世界を守った『ムサシ』に申し訳が立たない。

 だから『シナノ』は、逃げなかった。

 逃げず退かず、静かに超重力砲へのエネルギー供給をカットした。

 

 

「さぁ、来なさい『紀伊(いもうと)』。姉さんがぜんぶ受け止めてあげるわ」

 

 

 出来れば死にたくは無いなと、『シナノ』は思った。

 そう思った自分に対しておかしさを覚えて、笑った。

 死の概念など、霧の艦艇にとっては()()()でしか無い。

 そして『シナノ』は、両手を横に広げた。

 まるで、新たな家族を迎え入れようとでもするかのように。

 

 

 ――――そして、光は放たれた。




最後までお読み頂き有難うございます。

大和型戦艦(候補)の中に、「紀伊」を見つけた時、運命だと思いました。
最初から狙って「紀沙」を「伊号」に乗せたわけでは無いので、まさにこれは運命、ならば出さざるを得ない。
と言う訳で、第四の超戦艦『紀伊』の設定が生まれました。
今後は掘り下げていきたいですね。

それでは、また次回。


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Depth082:「日本へ」

 紀沙が()()を取り戻した時、彼女の目には何も変わっていないように見えた。

 少なくとも紀沙の目に映る光景は、元のままだった。

 イ404の発令所、そして艦体はいつも通りの姿だ。

 クルー達の様子が少しおかしかったことと、戦闘が終わっているらしいことは不思議に思ったが。

 

 

「覚えていないのですか?」

「え……?」

 

 

 恋の言葉に思い出そうとするも、『シナノ』と戦っていたことしか覚えていない。

 そうだ、と紀沙は顔を上げた。

 どうやら戦闘の気配は消えているようだが、『シナノ』はどうなったのか。

 顔を上げると、スクリーン上に『シナノ』は健在のままだった、が……。

 

 

「…………え?」

 

 

 スクリーンに映る『シナノ』の姿は、半分になっていた。

 まず艦体、正面から何かに抉られたかのように、綺麗に削ぎ落とされていたのだ。

 あんな状態になっても浮いていられるのは、『シナイ』が霧の艦艇であればこそだろう。

 しかし、それよりも目を引いたのはメンタルモデルの方だった。

 

 

 立ち位置が悪かったのか、メンタルモデルの右側3分の1ほどが失われていた。

 ナノマテリアルの修復の光が煌いていたが、右肩から先が上手く直せていない。

 もしかすると、コアに損傷を受けているのかもしれない。

 あたりには、元の位置に戻ろうと海底に落ち続ける水の音が響いている。

 

 

「……これが、ヨハネスとグレーテルの『コード』を持つ者の力、と言うわけね」

 

 

 よろめきながらも立ち上がり、『シナノ』は言った。

 不思議とその声は、発令所の中にも綺麗に聞こえた。

 弱っている風にも聞こえないが、その代わり、何かを諦めたような声だった。

 いずれにしても、紀沙には『シナノ』の言葉の意味が良くわからなかった。

 

 

「通って良いわ」

 

 

 ただ1つわかったことは、『シナノ』にもう戦いの意思が無いと言うことだった。

 彼女は、紀沙達のインド洋の通行を認めたのだ。

 先に進めと、そう言ったのだ。

 それが傲慢から出たことなのか、それとも他の感情に起因するものなのかは、それこそ紀沙にはわからないことだった。

 

 

「ムサシ姉の仇は通せない。けれど、妹を通さないわけにはいかないもの」

 

 

 だから、『シナノ』のその言葉の意味も、紀沙にはわからないのだった。

 紀沙はまだ、己に起きた本当の変化について、あまりにも無知であった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 恐るべき、畏れるべき力だった。

 霧の超戦艦『シナノ』がそう思わざるを得ない程、紀沙――第四の超戦艦『紀伊』の力は強大だった。

 『シナノ』の艦体の半分を削り、そのメンタルモデルの片腕を奪い去ってしまう程に。

 しかもあれで、まだ完全では無い。

 

 

「末恐ろしい妹ね」

 

 

 風にはためく衣服の腕部分――中身は無い――を見つめて、そう呟く。

 最も、千早紀沙は自分が『シナノ』達の妹だとはけして認めないだろう。

 哀しいことに、それこそが紀沙の力の源であり、同時に強力な枷とも言えた。

 もしその枷を紀沙が自ら外すことが出来たなら、彼女はまさに、霧史上で最大最強の存在になる――かも、しれない。

 

 

「ムサシ姉が未来を託した人間達、か」

『……気は済んだ? シナノ』

「ヤマト姉」

 

 

 人間の中には、死んだ人間が空に昇ると信じている者達もいるらしい。

 空を見上げ、彼岸より死者が自分達を見守っていると信じて、今日を生き抜く力とするのだと言う。

 しかし『シナノ』は、空を見上げても『ムサシ』の存在を感じることは出来ない。

 そもそも死者の行き先など、生者にわかるはずも無い。

 それなのに死者が自分達を見守っていると信じられる気持ちが、『シナノ』は理解できなかった。

 

 

「ヤマト姉、ムサシ姉が正しかったのかはわからないけれど。でも、ムサシ姉が頑張ってくれたのは本当だよね」

 

 

 けれど、少しだけわかる気もするのだ。

 死んで終わり、沈んで終わり……それでは、余りにも寂しい。

 寂しすぎるから、続きがあると思いたい。

 そう言う気持ちは、今の『シナノ』にも少しだけわかる。

 

 

 だから、紀沙達の力を試したのだ。

 八つ当たりと言われれば、そうだったかもしれない。

 三大洋に分かれた『シナノ』達は、互いに援護することが難しい。

 あの時、『ムサシ』を助けに行けなかった……ああ、これが「後悔」と言う感情なのだろう。

 

 

「だからここで沈められるようなら。そう思ったけれど」

 

 

 でも、どんな形であれ、紀沙達は自分を凌いで行った。

 『ムサシ』の願い通りなのかはわからない、が、彼女達はもはや超戦艦ですら退けることが出来るのだ。

 その力だけは認めなければならないと、『シナノ』は思った。

 

 

 ――――嗚呼。

 今日もインド洋の空は高い。

 その片隅に『ムサシ』を感じることが出来ないかと、『シナノ』は空を見上げ続けていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『シナノ』の海域を通り過ぎ、インド洋に潜行進出した後。

 イ404の戦艦――『シナノ』や『ムサシ』に比する大きさと言うから、超戦艦級と言うことになる――形態への変化、そしてイ401の物をも超えるであろう威力の超重力砲。

 イ401の戦闘ログをイ404の私室で確認した紀沙は、沈黙した。

 

 

「あれは、私がやったの……?」

 

 

 そうとしか考えられなかった。

 クリミアを出た直後、良治に視てもらった。

 わかっていたことだが、あまり意味のある行為では無かった。

 何故ならば、紀沙の肉体はすでにほとんどナノマテリアルへの置換が進んでしまっていたからである。

 左目に始まった変化は、『コード』を得たことでほぼ全身に広がっていたのだ。

 

 

「父さんも、『ムサシ』の艦体を動かしていた」

 

 

 ただ動かしている父とは、そのまま比べることは出来ない。

 何しろ超戦艦への変化と『シナノ』を打ち負かす程の超重力砲である。

 これは、()()()()()()()()、と言う表現では説明がつかない。

 それよりは、このイ404そのものが紀沙のものになりつつあると、そう考えた方が……。

 

 

「それは少し違うね」

 

 

 後ろ、両側から、ぬ……と、細い腕が突き出されてきた。

 そしてその2本の腕は、当たり前のように紀沙の首元に回された。

 肩に乗る重みを、もうすっかり覚えてしまった。

 

 

この艦(ボク)はそもそも艦長殿のものだからね」

 

 

 不安が、あった。

 あの時、スミノがダウンした後、自分の意識も飛んでしまった。

 そして、()()だ。

 はたしてこれは、どう言う意味を持つのだろう。

 これまで聞き流してきたスミノの言葉が、今日は特に重く、意味深に聞こえる。

 

 

「うふふ……」

 

 

 するりとお腹の下あたりに降りて来たスミノの手を、そのまま自由にさせておく。

 撫でるその部分は、紀沙に残された()()()()()だった。

 

 

「それで、どうするんだい。艦長殿?」

 

 

 耳元で、スミノが囁く。

 どうするもこうするも無かった。

 進むしか無い。

 前に進み、祖国へ戻る、今の紀沙達に他に出来ることは無いのだ。

 

 

 だが、戻った先に未来があるのか。

 日本を出た時には、明日を、未来を信じることに疑いなど持たなかった。

 けれど今は、素直に信じることは出来ない。

 日本の、では無く。

 ()()()()()を信じることが、紀沙には出来ないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『シナノ』と別れた後、イ号艦隊の航行は、それまでの労苦が嘘のように順調なものになった。

 補給が出来ないため、イ15と『マツシマ』の補修が出来ないのが厳しいが、速力を落としつつも東へと進む。

 ジブチ出航から10日が過ぎる頃には、イ号艦隊は東インド洋――モルディブ沖に達していた。

 

 

「このへんってよお」

 

 

 2週間近くにもなれば、流石に泳ぎや釣りでは暇も潰せなくなる。

 甲板の手すりに身をかけながら、杏平は波間を眺めていた。

 どこまでも続く、透き通るような海。

 見ているだけで雄大な気分になるが、かつてこの海域はある国の勢力圏だった。

 

 

「モル……何だっけ、何か島があったんだろ」

「モルディブ、よ。少しは真面目に魚雷以外の勉強しなさいよ」

 

 

 杏平といおりは、何かと()()()ことが多かった。

 学院時代からそうだったし、そもそも杏平が群像の仲間になったのはいおりに誘われたからだ。

 もちろん、雷撃の才能を認められたと言うのもあるが、きっかけはそうだった。

 他にもいろいろと、いおりは抜けたところのある杏平を気にかけてやっていた。

 

 

 それでも、この2人が色恋の関係に見られることは無かった。

 出来の悪い弟と面倒見の良い姉、とでも言おうか――同学年だが。

 男女間の友情、と言うのが、一番2人にとってはしっくる来るのかもしれない。

 簡単に切れる仲では無い、が、互いに最も深い位置は触れさせない、と言う意味で。

 

 

「温暖化でいくつも島が沈んじまったんだってな」

「実感なんてほとんど湧かないけどね」

 

 

 2人は若い――と、言うより、幼いと言って良い年齢だった。

 それは千早兄妹もそうなのだが、2人には千早家のような霧との因縁などは無い。

 野心家なのか、お人好しなのか、こんなところまでついて来ている。

 傍から見れば、不思議で仕方が無いかもしれない。

 得るものの少ない旅に、どうしてそこまで付き合うのか、と。

 

 

「2年後には、世界が全部沈むかもしれないんだな」

「なに、怖いの?」

「いや怖いだろ、普通に」

「……そりゃそうね」

 

 

 ただひとつわかるのは、2人がけして嫌々付き合っているわけでは無い、と言うことだ。

 杏平といおりは、自分で望んでイ401に乗っている。

 それだけは確かだった。

 そしてもうひとつ。

 

 

「群像と紀沙、ほとんど話さないみたいだな」

「まぁ、しかたないでしょ」

 

 

 嘆息混じりに、いおりが言った。

 それはどこか、杏平に対しての言葉では無いようにも思えた。

 

 

()()()()()なんて、どこも上手くいかないものでしょ」

 

 

 そして、もうひとつ。

 杏平もいおりも、千早兄妹の行く末が気がかりなのだった。

 だから、彼女達はここにいる。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 さらに1週間ほどを進むと、イ号艦隊の姿はインド(カンニヤ)最南端(クマリ)の東にあった。

 寄港地はスリランカ南部の港湾都市ハンバントタ、インド洋を抜けて最初の補給だった。

 インド亜大陸でも良かったのだが、海洋封鎖以後インドは政情不安に陥っていて、アメリカの時のように妙な政治の争いに巻き込まれることを避けたのだ。

 ジョンの情報によると、イ号艦隊の接近に一部の勢力が動きを見せていたらしい。

 

 

 スリランカは、特に都市部においては政府側の影響力が強く、政治的には安定していた。

 ハンバントタ港はそうした都市の1つで、コンパクトな造りながらも軍港としての機能も維持していた。

 スリランカの他の港湾都市と比べて圏内人口が少ないことも、寄港地としては最適だった。

 最も、小さな島国であるスリランカでの補給は、質・量共に満足のいくものでは無かった。

 

 

「はぁ……。まぁ、薬品関係はどこも足りないよね」

 

 

 特に、医療関係の補給は期待のしようも無かった。

 穀物や生鮮食品はまだしも、閉ざされた島国が苦しいのは日本もイギリスも一緒だ。

 医薬品、軍需物資については、期待する方がおかしいのかもしれない。

 それでもスリランカ政府がイ号艦隊に出来得る限りの配慮をしているのは、畏れと期待、あとは保身だ。

 

 

「ただでさえ人数増えたしなぁ。日本までもつか?」

「コックは気楽で良いね。正直、これ以上予定が遅れると予防用のワクチンが切れそうだよ」

「あの錠剤の量の方がヤバい気もするけどな」

 

 

 イ404へ搬入される木箱を横目に、良治と冬馬は軍医と料理長と言う立場でそこにいた。

 どちらも、艦内生活を支える上では重要だ。

 ただ先程も言ったように、食品より医薬品の方が補充の難易度が高い。

 そう言う意味では、良治は気の休まる暇も無かった。

 

 

「まぁ、少なくとも……な」

 

 

 良治を気にしてか、冬馬もその先は言わなかった。

 言いたいことはわかる。

 少なくとも、艦長が病気や怪我で戦線離脱と言うリスクはイ404には無い。

 それはある意味で、幸いであると言えた。

 

 

(それでも、僕は……)

 

 

 ふと顔を上げれば、スリランカ側の役人と話している紀沙の姿が見える。

 イ404の搬入口側にいるため、港側にいる良治からその表情を窺い知ることは出来ない。

 それでも、彼女がもう学生時代の千早紀沙のままでは無いことはわかる。

 けれど良治は、変わることなく紀沙の傍にいる。

 それは……。

 

 

「……うん?」

「どうした?」

「いや、何か……気のせいかな」

 

 

 何となく首元にちりちりとした気配を、つまり誰かに見られているような視線を感じて、良治があたりを見回した。

 しかし、誰もいない。

 

 

「…………?」

 

 

 まぁ、良治たち日本人は珍しいだろうから、港の人足(にんそく)が興味に駆られて見ていてもおかしくは無いだろう。

 だからこの時は、良治は気にしないことにした。

 しかしこうしてあたりを見渡して見ると、意外と漢字の看板が多いことに気付く。

 ひらがなやカタカナが無いので、日本語と言うわけでは無さそうだが……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ミャンマー(ビルマ)西部の都市チャオピューは、ベンガル湾沿岸では有数の港湾都市の1つだ。

 ベンガル湾東部においては大陸への玄関口にもなっており、霧の海洋封鎖の前には、域内有数の経済都市として繁栄を極めていた。

 現在はやや落ち着いてしまったが、それでもミャンマーでは大規模な都市であることには違いない。

 

 

「何か、雑然としている街ですね」

「ああ、まぁ、商の街ですからね」

 

 

 本来、イ号艦隊はチャオピューに立ち寄る予定は無かった。

 しかしスリランカでの良治の心配が的中したと言うべきか、杏平が耐え難い腹痛に訴えたのだ。

 海魚を生煮えで食べたためだと思われるが、そうなると、艦レベルの医療では限界がある。

 そのため、杏平は群像達と一緒にチャオピューの軍立病院に行っている。

 

 

 その間、待機組は港で杏平の治療を待つことになる。

 予定はますます遅れてしまうが、仕方が無かった。

 まさか、イ401の砲雷長を置いて行くわけにもいかない。

 そしてそのイ401の甲板には、今は僧と静の2人がいた。

 

 

「ただ、こういう装飾のキツい看板は故郷を思い出して逆に落ち着いちゃいます」

「故郷?」

「台湾の方です。今回の航路には入っていないから、ちょっと残念です」

 

 

 台湾の名前を出すだけあって、確かに港や街並みに広がる店々――元は、港湾労働者を狙った商店だろう――の看板は、確かに漢字が多かった。

 日本語では無く、中国語の方である。

 何と書いてあるのかは大体は想像がつくが、読み方はわからない、そんな感じだ。

 

 

「この街はもともと、中国資本で作られたらしいですから。それでかもしれませんね」

 

 

 最も、海洋封鎖で交易の旨味が無くなってからは、資本も引き揚げてしまったらしいが。

 それでも投資が活発だった頃に入り込んで来た中国人労働者の多くは、本国に戻ることなく、そのまま居住を続けている。

 今もビルマ系のミャンマー人よりは、より日本人に近しい外見の中国系の人種を多く見る。

 そして彼らの多くは、物珍しさからか、物陰からこちらを窺っているようだった。

 

 

「そう言えば、副長は艦長と妹さんとは幼馴染の関係なんですよね?」

「まぁ、付き合いだけは長いですね」

「艦長達って、子供の頃はどんな風だったんですか?」

「いやぁ~……とんだクソガキでしたねぇ」

 

 

 しかし、それだけ自国の文化圏に近付いている証拠でもある。

 一抹の不安は感じるものの、あともう少しだ。

 この旅も、あと、もう少しだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ねぇ、梓には「きょうだい」っているの?」

「ああん?」

 

 

 洗濯当番だったその日、梓は甲板で洗濯物が乾くまでの間、トレーニングをしていた。

 西方よりは過ごしやすいが、肌にべたつく高湿な気候は、梓の身体から水分を絞り尽くそうとでもするかのように汗を流させていた。

 顎先に伝った汗を腕で拭いながら、甲板に腰掛けた体勢で蒔絵の方を見た。

 黒のノースリーブインナーの胸元で、銀色のロケットが陽を受けて煌いた。

 

 

 蒔絵は手すりに腰掛けて――危ないからやめろと言っても聞かない――足をプラプラと揺らしていた。

 何を見ているのかと言えば、遠くに見える大きな島(シンガポール)だ。

 遠目に街のようなものも見えて、有人島であることがわかる。

 この海域を抜けてしまえば、日本まで本当に目と鼻の先だった。

 

 

「きょうだい?」

「うん」

「……いや、きょうだいはいないねぇ」

「そうなんだ」

 

 

 実際、梓には兄弟姉妹(きょうだい)はいない。

 父親が彼女が幼い内に海軍で殉職してしまったし、母親は再婚などはしなかった。

 食うために軍人になった梓だ、「自分にきょうだいがいたら」などと考える暇も無かった。

 それにしても、どうしてそんなことを聞いてくるのだろうか。

 

 

「私にはきょうだいみたいな人が何人かいるみたいなんだけど、まともに会ったこと無いんだあ」

「ふーん」

 

 

 我ながら気の無い返事で申し訳ないとは思うが、そもそも梓と蒔絵はほとんど接点が無い。

 それこそ機関室の2人の方がずっと蒔絵と過ごしている時間が長いだろうし、良治や冬馬も検診や食事を通して交流があるだろう。

 恋は……ちょっとわからないが、少なくとも彼女自身が考える限りにおいて、梓は蒔絵との繋がりが最も薄い人間のはずだった。

 

 

「家族みたいなのは、ローレンスくらいでさあ」

「はぁ、そうなの」

 

 

 いや、本気で気の無い返事であった。

 しかし繰り返しになるが、梓と蒔絵との関係が薄すぎるのである。

 だから梓としては、生返事しか出来ないのだ。

 ただ一方で、梓としても考えはある。

 それは、蒔絵が別に自分の、と言うか、誰かの返事を期待していないのだろう、と言うことだった。

 

 

「だからね、何て言ってあげれば良いか、わからないんだ」

 

 

 言ってしまえば、声の大きい独り言を言っている、と言うことだ。

 蒔絵なりに何かを悩んでいて、あるいはもどかしい思いでいるのだろう。

 そう言う相手に梓を選んだのは、むしろ関係性が薄い方が後腐れが無くて良いと思ったのかもしれない。

 そこまで考えが至れば、梓としてもとやかくは言えなくなってくる。

 

 

「家族と上手く行かない気持ちって、どんなのかなあ」

 

 

 それは、梓にだってわからない。

 梓にはもう、「上手く行かなく」なれる家族がいないのだから。

 そして、今の蒔絵の言葉で彼女が言わんとしているところもわかった。

 そちらは、それこそ梓にどうこう出来るような話では無い。

 下手に触れれば大火になり兼ねない、これはそう言う類のものだからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 いよいよ最後の寄港だ。

 ベトナム共和国・カムラン湾。

 南シナ海に面したベトナム屈指の軍事拠点であり、イ号艦隊の日本へ向けた最後の補給地だった。

 ここを出た後、南シナ海からバシー海峡を抜け、沖縄へ、そして佐世保へ向かう。

 

 

「いよいよだね」

 

 

 そう、いよいよ紀沙達は日本へと至る。

 祖国への帰還だ、それも凱旋と言っても差し支え無いだろう。

 振動弾頭の輸送。

 <緋色の艦隊>との戦い。

 そしてクリミアの戦いと、『アドミラリティ・コード』を巡る因縁。

 

 

「すべての任務を果たしての帰還だ、きっと艦長殿は英雄扱いだろうね。階級もまた上がるだろう、もしかすると10代で将官なんてこともあり得るんじゃないかな」

 

 

 あながち、あり得ない話でも無かった。

 「千早紀沙」を日本海軍の象徴にしようと言う動きは――排除しようと言う動きと同じ程度には――以前からあったし、海洋封鎖後に初めて世界一周を成し遂げた軍人を、上が放っておくとも思えない。

 ここに至るまであまり考えたことは無かったが、考えたとして、しかし紀沙にどうこう出来る問題でも無かった。

 

 

「ふうん。これまで艦長殿を裏切り者扱いしていた連中を見返してやりたいとか、そう言うのは無いのかい?」

 

 

 そんな心の狭いことを考えたことは無い。

 

 

「じゃあ、民衆の歓呼の声とやらに迎えられたいのかい? みんな、艦長殿のことを英雄だ救世主だと言い募るだろうね」

 

 

 そんな心根の卑しいことを考えたことは無い。

 

 

「ふむふむ。ならいっそ、今回の功績を足がかりに統制軍の、いやいや国の頂点を目指すと言うのはどうだろう? 選挙とやらに出れば、みんなこぞって艦長殿に投票するんじゃないかな」

 

 

 軍人は選挙に出られないし、紀沙はまだ政治家になれる年齢では無い。

 そもそも、権力だとか、そう言うものには関心が無かった。

 

 

「よーし、じゃあ、お金はどうかな? これだけの偉業を成し遂げたんだから、国家予算から特別な恩賞が出てもおかしくは無いんじゃないかな?」

 

 

 そんな俗物的な願望、それこそ唾棄すべきものだ。

 お金も権力、名誉も栄誉も、称賛も歓呼も、紀沙にとっては何の価値も無い。

 自分の傍に、いるべき人達がいないのならば、それらは何の意味も持たない。

 水を求めている人間に、パンを与えるようなものだ。

 

 

「艦長殿はもしかして、聖人君子なのかな? 聖女様なんて呼ばれたりしてね」

 

 

 そんなことになろうものなら、軍を辞めて隠棲することを考えるだろう。

 

 

「わからないなあ」

 

 

 何が?

 もう何度目になるかわからない軍礼装、その袖に腕を通しながら、紀沙は聞き返した。

 紀沙の着替えの様子をベッドの上から見つめるのは、スミノだった。

 だらしなくベッドに寝転がっているスミノは、紀沙が身に着ける予定の勲章――アメリカやヨーロッパでいくつか受章した――を指先で弄んでいた。

 

 

「結局、艦長殿にとって、この旅は何だったんだい?」

「そんなもの……」

「決まっている?」

 

 

 ほんとうに?

 そう聞いてくるスミノの顔を、紀沙は見ることが出来なかった。

 いや、姿見で身なりを整えることを優先しただけだ。

 自分に、そう言い聞かせた。

 

 

 上着の留め具を嵌めて、首の後ろに両手を回し、髪を背中に流した。

 紀沙の目的は今も変わらない。

 家族を取り戻し、霧を打倒する。

 母は亡く、父は欧州に留まったが、それでも兄は一緒に日本に来てくれた。

 

 

「あれを「一緒に帰る」と言って良いのかは、甚だ疑問だけどね」

 

 

 とにかく、日本だ。

 スミノの声を振り払うように、紀沙は目を閉じた。

 瞼の向こう側に日本の光景を思い描こうとしたが、上手くいかなかった。

 もう、5月が目前に迫ろうとしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ベトナムでの入港式典を一晩で切り上げて、イ号艦隊は翌日の早朝にはカムラン湾を出航した。

 日本の艦船が同湾を訪問するのは20年ぶりの快挙だが、感慨に浸る間も無かった。

 先にも言ったが、予定が遅れているのである。

 せめて5月に入るまでには、横須賀まで戻りたかった。

 

 

 何しろ、2年後の()()()の襲来までの時間を浪費するわけにはいかないのだ。

 一刻も早く日本に戻り、政府・軍の首脳部に伝えなければならない。

 そして翔像が言った、「出雲薫の遺した何か」を見つけ出さなければならない。

 だから、これ以上の時間のロスは何としても避けたかった。

 

 

「船首を北東へ、60ノット。深度そのまま」

「了解。速力60ノット。深度そのまま」

 

 

 イ404の発令所には、もはや聞き慣れた潜行音だけが響いている。

 梓と冬馬はそれぞれの席についていて、紀沙の隣には恋が座り、傍にスミノが立っている。

 至って平穏な航行、だった。

 そのことに何となく妙な座りの悪さを感じるのは、それだけこれまでの航海が厳しいものだった、と言うことなのかもしれない。

 

 

「このまま行けば、あと数日で佐世保だな。いや、まさか生きて帰れるとは思わなかったな」

「馬鹿、まだ途中だよ。最後まで気を抜くんじゃないよ」

 

 

 そしていよいよ終わりが見えてきたからだろう、クルーの空気も穏やかなものだった。

 太平洋、大西洋、インド洋での激闘を経て、今さら何があるものかと思っているのだろう。

 それは、紀沙も同じだった。

 正直なところ、今さら何かがあるとは思えない。

 唯一、懸念があるとすれば……日本近海の『ナガト』艦隊か。

 

 

「『ナガト』は東北沖から動く様子は無いね」

 

 

 こちらの思考を読んだように、スミノが言った。

 唯一の懸念である『ナガト』が動かないのであれば、とりあえず、佐世保には問題なく入れるだろう。

 九州は『ナガラ』の件以来だ、あれから随分と時間が経ったようにも感じる。

 それでも横須賀に向かう時には警戒しなければならない相手だから、『ナガト』の動向にだけは目を光らせておく必要があるだろう。

 

 

「私室にいるので、何かあれば言って下さい」

「わかりました」

 

 

 発令所のクルーに言付けてから、紀沙は席を立った。

 後は南シナ海を真っ直ぐ抜けるだけ、霧の艦艇も遠巻きに見てくるだけで仕掛けてくる様子は無い。

 そうなってくると、紀沙が発令所ですることも余り無い。

 ただいるだけの艦長など、クルーの緊張を煽るだけの存在でしか無いだろう。

 

 

「うん? 何だ……?」

 

 

 その時、冬馬がヘッドホンを耳に押し当てた。

 どうやら何か音を拾ったらしいが、酷く微妙な表情を浮かべていた。

 どうしたのかと聞きたかったが、冬馬は音を聞くのに集中している、彼の報告を待つべきだった。

 

 

「こいつは、モールスか? また古めかしい……えーと」

 

 

 信号を聞いているのだろう、ヘッドホンを耳に押し当てたまま、手元のメモに何かを書き留めていた。

 それを何度か繰り返していく内に、「ううむ」だの「なにい?」だとと呟いていた。

 そうして少し経って、冬馬は難しい顔で紀沙達の方を見た。

 

 

「艦長、ちょっと面倒事かもしれねぇ」

「何です?」

「浮上命令だとよ」

「……浮上命令?」

「要約すると、ここは自分らの縄張りだから面みせろ、だとさ」

「…………縄張り?」

 

 

 ここは南シナ海、それも公海――要するに誰のものでも無い海――だ。

 第一、内陸からかなり離れている位置でもある。

 にも関わらず、海中を行くイ404にそんな命令を出す存在がいるのか。

 冬馬の様子からすると、霧では無いようだが。

 

 

「発信元は?」

「発信元はだな……()()()()()

 

 

 人民解放軍、その名前はアジアでは1つしか無い。

 しかし、何故?

 

 

「中国人民解放軍海軍所属――――(ヨウ)紫薇(ズーウェイ)。だ、そうだ」

 

 

 何故、中国海軍がこの海域でイ号艦隊に食指を動かすのか?

 ここに来て浮かぶ上がった新たな問題に、紀沙は困惑の色を浮かべたのだった。




投稿キャラクター:楊紫薇(ひがつち様)
有難うございます。

最後までお読み頂き有難うございます。
今回は構成が難しかったですねー。
と言うわけで、次回は中国がちょっかいをかけてきます。
日本までの最後のイベント?かもしれません。

それでは、また次回。



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Depth083:「楊紫薇」

 

 空から見た時に、南シナ海には()()()()()()()

 ここで言う「花」とはもちろん植物の花のことでは無く、俯瞰(ふかん)で見た時にそう見える、と言うだけのことでしか無い。

 そして、そこにあるものは花などと言う和やかなものでは無い。

 

 

「全投射機、攻撃準備完了!」

「司令部からの指示を待つ。全投射機、そのまま待機せよ!」

「了解!」

 

 

 南シナ海は200以上の島や岩礁から成る内海であり、<大海戦>以前は世界有数の海上交通路(シーレーン)として各国の利害が衝突する場だった。

 そして今、そうした島や岩礁の一部では慌しく、そして物々しい動きが起こっていた。

 特に動きが活発なのは、いくつかの島や岩礁をコンクリート状の岩橋を繋いだ大人工島だった。

 

 

 中央の大きな島から放射状に岩橋が伸びているため、空から見ると花のように見える。

 良く見るとコンクリートの下に珊瑚の残骸のような物も見えて、これらの人工島が元あった島や岩礁の上に建てられたものだと言うことがわかった。

 温暖化で沈む島の機能を維持するために、盛り土やセメントで埋め固めたもののようだ。

 監視等や灯台、アパート、接舷用の桟橋や数千メートル級の滑走路等も見ることが出来た。

 

 

「……司令部より諸元情報きました!」

「良し、直ちに全投射機に送れ!」

「了解!」

 

 

 さらに良く見ると、人工島周辺の浅瀬に座礁した何隻もの船の残骸があった。

 よほど多くの船が投入されたのだろう、時間をかけなければすべてを数えることは出来そうに無い。

 どうやらそれは、最初から帰る気は無く、それでも物資を届けるために行われたのでは無いか、と想像することが出来た。

 

 

「全投射機、諸元入力完了!」

「良し、攻撃を開始する! 司令部の言う通りのポイントに投射せよ!」

「了解!」

 

 

 そして、人工島に設置された投射機――クレーンのような外観の、ドラム缶型の物体を投射する兵器――の周囲で、緑色の軍服を着た兵士達が耳を押さえる仕草をしていた。

 鈍い音を立てて、ドラム缶型の爆雷が持ち上げられていく。

 それが最も高い位置にまで持ち上げられた時、攻撃が号令された。

 

 

 そこからは投射機は一切止まることが無く、連続でセットされた爆雷が、放物線を描いて遥か遠方に発射されていく。

 本来は艦船上から投射するものだが、霧の海洋支配で制海権を失った結果、対艦ミサイルのように地上から攻撃可能な対潜兵器が発展した。

 この兵器は、そうしたものの1つだろう。

 

 

「それにしても、レーダーには何も映っておりませんが……本当にこの座標にいるんですか?」

「さあな、私にもわからん。だが……うちの()()()()も霧に劣らない化物だ。化物は化物同士、呼び合うのかもしれんな」

 

 

 遥か遠くの海面に向けて投射され続ける爆雷を目で追いながら、隊長らしき男はそう言った。

 その言葉の節々からは、どこか畏怖の色を見て取ることが出来た。

 それは敵に対する畏怖であり、そして同時に、味方に対する畏怖だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 流石の群像も、これには困惑した。

 1つは、単純に人類側に「攻撃された」と言う事実に対してだ。

 一応、認識してはいた。

 国際的には誰の物でも無い海域のはずだが、一部の国が管轄を主張していることは知っていた。

 だとしても、まさかイ号艦隊と知って攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。

 

 

「つーか、国際問題じゃねーのコレ!?」

「こちらが浮上していない以上、「敵の霧」か「味方の霧」か判別できなかったと強弁できる。大体、国際問題になるぞと言う脅しは、それを恐れている相手にしか通じない」

「冷静に言ってる場合か!?」

 

 

 それもそうである。

 とは言え、群像は今回の相手――中国海軍――を、特に脅威とは思っていなかった。

 現状、爆雷による攻撃を受けている形だが、侵蝕弾頭や振動弾頭を持たない中国海軍の兵器ではイ号潜水艦の強制波動装甲を破ることは出来ない。

 だから爆発音と衝撃こと派手だが、ダメージと言う点で見れば全くの無意味だった。

 

 

「爆雷6、直上です!」

「ダメージは通らない。無視して構わない」

 

 

 そう、爆雷は放っておけば良い。

 問題は別にある、むしろそちらの方にこそ群像は困惑していた。

 すなわち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、だ。

 基本的かつ大事な点だが、イ401とイ404は()()()()である。

 人類のレーダーには、絶対に映らないはずだ。

 

 

「もしかして、霧が協力してる、とかか!?」

「その場合は、逆に攻撃が拙すぎる。効果の見込めない攻撃を続ける意味が無い」

 

 

 霧の協力はあり得ない。

 だが、霧の力なしに発見されるはずの無いイ号艦隊の位置を的確に割り出している。

 一見、矛盾する事態だ。

 戦略的にはイ号艦隊を攻撃する理由は無いし、戦術的にも意味が無い。

 

 

 まさか、こちらの正体に気付いていないのだろうか。

 不審船だから攻撃する、と言うマニュアル対応と言うことなのか。

 それにしては、いやそうだとしても、霧のイ号艦隊の位置を理解していると言う事実は動かない。

 つまり相手は、こちらの正体に勘付きながら攻撃を仕掛けてきている可能性が高い。

 

 

(現場の独断か……? まぁ、そちらの方がまだ説明はつく……か?)

 

 

 だが、独断にしてはリスクが高すぎやしないだろうか。

 仮にここでイ号艦隊が反撃に出れば、まず間違いなくこの海域から中国海軍の姿は消える。

 それは、中国海軍の方が良く理解しているはずだ。

 にも関わらず攻撃を仕掛けてくるのは、何か理由が、意味があるのだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の協力は無い、紀沙にはそれがはっきりとわかる。

 だからこれは、海上――と言っても、陸地だが――の中国海軍の攻撃で間違いが無かった。

 すなわち、人類が自分の意思でこちらを攻撃してきている……!

 

 

「ジョンさん、この海域の情勢はわかりますか」

「基本は他の海域と同じネ、霧の艦隊に封鎖されているヨー」

 

 

 もはや艦のアドバイザーと化しているジョンに発令所に来て貰い、南シナ海の情勢を確認する。

 霧の海洋封鎖は前提として、ジョンによると、現在この海域に留まっているのは中国海軍だけなのだそうだ。

 南シナ海は前世紀から境界の画定していない海域で、近隣国がそれぞれ権利を主張していた。

 前進基地を設営していた国も1つや2つでは無く、紛争の火種として長く懸案となっていたらしい。

 

 

「島と言っても小さいから、フードのプロダクションもままならないところがほとんどヨ。海を封鎖される直前に他のカントリーは撤退したヨ」

「その中で中国だけ残ったわけか、ひえー」

「補給も豪快ネ。船や飛行機をたくさん出して何隻かでも残って辿り着けばオーケーって感じヨ」

 

 

 それは確かに豪快だ。

 だが、それならば兵力自体は少ないはずだ。

 良くて数百人、下手をすれば数十人か。

 兵器や施設は太陽光をエネルギー源としたAI搭載型だろうから、そこまで人数は要らないはずだ。

 

 

 それに、輸送船に物資を満載して座礁させる、それを定期的に繰り返すとして、どれだけ切り詰めてもそれ以上の人数を年単位で養うことは難しいだろう。

 日米間のSSTOも振動弾頭のような「やましいもの」を載せていない限りは、いくつかは目的地に達している。

 だから純粋な補給と言うことであれば、船舶や航空機の座礁を見逃される、と言うこともあるだろう。

 

 

「相手は極めて小規模……意図は何……?」

 

 

 まぁ、それはそれで船や飛行機の乗員のことを気にしていないと言うことになるから、中国政府の方針には色々と言いたい気持ちも湧いてくる。

 だが、今それを気にしている場合でも無かった。

 問題なのは、どうして、そしてどうやって攻撃を受けているのか……。

 

 

「……へぇ」

 

 

 耳聡いと言うべきか、紀沙はスミノが漏らした吐息を聞き逃さなかった。

 感嘆と言うか関心と言うか、とにかくそんな風だった。

 だから紀沙は、スミノの眼が白く輝いているのを見て、迷わず飛び込んだ。

 ――――霧の世界に。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の世界に入った紀沙の意識は、イ404の目(センサーカメラ)と視界を共有した。

 するとその視界の端に、何かが見えた。

 小さく定期的に光を放っているそれは、パッシブタイプのソナーだ。

 受信した情報を絶えずどこかに送信しているようで、イ404が近付くと点滅が激しくなった。

 

 

「これは……」

「霧の支配する海で、よくもまぁ、こんなチマチマしたことが出来るよね」

 

 

 ふわり、と、スミノが紀沙の隣に来た。

 浅めとはいえ海中で、半透明の少女が2人並んでいる――紀沙の意識を形にすると、そう言う表現になる――姿は、ナノマテリアルの粒子の煌きと合わせて、神秘的にさえ見えた。

 そんな中で「視界」の範囲をさらに広げて見ると、似たような装置が色々な場所に見えた。

 

 

 ここまで見えれば、中国軍がどうしてこちらの位置がわかるのか、そのカラクリは大方読めてくる。

 要は、海底にセンサーを敷き詰めているのだ。

 センサー自体はチープな造りのもので良い、「何かが通った」ことが伝わる程度で十分だろう。

 魚で反応してしまうこともあるだろうが、潜水艦の動きはそれとは全く違うはずだ。

 確かに、スミノの言う通り、「チマチマとした」仕事だった。

 

 

「それでも、これだけの情報を統合するのはかなり大変なはず」

 

 

 海ひとつ分と言えば簡単だが、その情報量は膨大だ。

 しかもほとんどは魚やその他の漂流物で、ひとつひとつを吟味して潜水艦と比べなくてはならない。

 たとえ霧の艦艇でも、そこまではやらないだろう。

 中国はあえてその無茶を行っている、何のために?

 その理由はわからない、だが。

 

 

「霧への対抗策を考えているのは、日本だけじゃない」

 

 

 考えてみれば、当たり前の話である。

 ヨーロッパ諸国はお互いが脅威であったから、霧への対抗策は二の次になっている面があった。

 ただ()()()()が脅威では無い中国は、対霧の方策を考えていたのだろう。

 そして、日本とは別の方策を完成させつつある。

 

 

「どうするんだい?」

「もちろん、決まっている」

 

 

 海底に突き立てられたセンサー装置に掌を向けて、紀沙は言った。

 

 

()()()

 

 

 その向こう側にいる何か、あるいは誰か。

 南シナ海のすべてを掌握しようとする、中国海軍の対霧の兵器を見てやろう。

 そんな気持ちで、紀沙はさらに飛び込んだ(ダイブした)

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 中国と言う国は、時として他の国々とは一線を画する判断をすることがある。

 たとえば、<大海戦>以後の動きひとつ取ってもそうだ。

 ほとんどの国は、撤退可能な範囲にある島嶼部から自国民を本土へ移動させた。

 これはハワイのようなよほどの遠隔地で無い限り同様で、基本的に例外は無い。

 

 

 ところが、中国は別の選択をした。

 各国が退くのに合わせて、逆に海に進出したのである。

 南シナ海はその典型例であって、中国は<大海戦後>に海の版図を広げた唯一の国家だ。

 もちろん、そこには軍民に多くの犠牲を伴うことになった。

 だが中国と言う国は、それで揺らがない硬さがある。

 

 

「何だ、どうした!?」

「と、投射機、システムダウンです!」

 

 

 この人工島基地に駐屯している彼らは、そうした人間達だった。

 船舶による補給を除けば本国からの支援は無い、ほとんど棄民同然の扱いと言える。

 実際、駐屯兵はまず故郷には帰れない。

 <大海戦>以後の17年間、彼らはずっと南シナ海の人工島から外に出られていない。

 愛国心や勤勉と言うには、聊か異常に過ぎる。

 

 

「な、何者かがシステム内に侵入した模様です」

「何者かとは何だ!?」

「わ、わかりません!」

 

 

 あるいは、だからこそ、なのかもしれない。

 この南シナ海の人工島で正気を保つためには、「国の命令」と言う支えが必要だったのかもしれない。

 今の彼らにとっては、課せられた任務だけが心の支えなのだ。

 他のことは、何もできないのだろう。

 任務がなくなれば、おそらく立っていることも出来ないのだろう。

 

 

「再起動しろ、手動で切り替えるんだ!」

「わ、わかりました。ただ、少し時間が……」

「すぐにかかれ、すぐにだ!!」

「り、了解!」

 

 

 だから、それだけに彼らの動きは機敏だった。

 指揮官の命令に各部員が迅速に動き、止まったシステムの復旧に取り掛かろうとしている。

 ただ、それは難しい。

 絶海の孤島とも言うべき彼らの基地のシステムをわざわざ狙うような、そんな酔狂な勢力などいない。

 

 

 イ号艦隊が――彼らには知る由も無いが、イ404が――何かをしたのだと、皆が理解していた。

 ただ、それがわかったから何だと言うのだろう。

 彼らは国と軍が定めた任務とマニュアルに従うしか、他にすることが無いのだ。

 ――――そう言う意味で、その人工島には、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 他の国の軍事施設もそうだが、やはりこの人工島も独立したネットワークを形成している。

 規模こそ小さいが、それだけに強固でまとまりがある。

 並のハッカーであれば、まず侵入することは出来ない。

 しかし霧の力を持つ者にとっては、人類のセキュリティはあって無いようなものである。

 

 

「面白い情報配列だね」

 

 

 血管をイメージして貰えばわかりやすいだろう。

 ネットワーク内の情報は停滞しているわけでは無く、常に流れている。

 それは血管を流れる血液のようで、速いものもあれば遅いものもある。

 一定ですらなく、常に形を変えてそこに存在している。

 

 

 そんな中に、紀沙とスミノは意識を浮かべていた。

 視界の隅を流れていくのは、その情報を操っている人間でさえも認識していない情報の欠片だ。

 欠片とは言え、無限に近い量が集まっている。

 それらを視界の隅に収めるだけで、それこそコンピュータに匹敵する処理速度が必要になる。

 だが今の紀沙にとって、それはまさに一瞥で済むことだった。

 

 

「寄り道なんてしていられない」

 

 

 二重の意味で、そうだった。

 だから紀沙はぐるりとあたりを見渡した、膨大な情報の血流を眺めた。

 それらの血流が帰結する心臓部がどこなのか、良く見れば理解できる。

 ちょうど、医者が血の流れを探り当てる行為に似ている。

 

 

「ああ、あれだね」

 

 

 そして、スミノが指差した先。

 まるで、街中でスイーツ店を探すような気軽さだった。

 そちらに眼を向けた瞬間――スミノに教えられたことが、事のほか嫌だったようだが――紀沙の意識は、さらに奥へと進んだ。

 

 

 情報の血流の終点――いや、()()に向けて紀沙は跳んだ。

 その先に何があるのか、まずは見極める。

 おそらく、イ号艦隊の位置を掴んでいた海域全体のセンサー網を統括するシステムがあるはずだ。

 それさえダウンさせてしまえば、中国軍はイ号艦隊を見失うだろう。

 そうすれば、イ号艦隊は南シナ海を無事に通過することが出来るだろう。

 

 

「ああ、なるほど」

 

 

 そして、あっさりと辿り着く。

 辿り着くこと自体は、問題では無い。

 霧の力を持つ紀沙にとって、人間のネットワークの道を通り抜けることは難しくは無い。

 ただ、()()を見つけた時のスミノの声は。

 

 

「人間と言うのは、ここまで面白いことが出来るんだね」

 

 

 あまりにも皮肉気(シニカル)で、聞くに堪えなかった。

 そして紀沙の眼の前に現れた、統括システムの姿は。

 

 

『――――。――――。――――』

 

 

 無数の機械の管に繋がれた、小さな少女だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 それは、電子(ネット)上のイメージでは無い。

 信号を遡って行った先にある空間があって、そこの監視カメラを通して視た姿だ。

 つまり、現実に存在している少女と言うことだ。

 スミノは「面白い」と評したが、紀沙にはそれを面白がるような感性は無かった。

 

 

 小さな少女だ、10歳前後と言ったところだろうか。

 髪の色は辛うじて茶色だとわかるが、無数のコードが接続されたフルフェイスマスクのせいで顔を見ることは出来なかった。

 ただひとつ言えることがあるとすれば、身体つきは華奢で、余りにも小柄だった。

 

 

「名前は(ヨウ)紫薇(ズーウェイ)、年齢は11歳。中華人民共和国河南省出身、人民解放軍の海軍特別少尉――相当官? ああ、生まれつき目と口が効かないのか」

 

 

 映画のスタッフロールでも読み上げるかのように、スミノは少女のプロフィールを読み上げていた。

 思い出したのは、蒔絵のことだった。

 蒔絵のようなデザインチャイルドと言うわけでは無いが、同じ気配を感じる。

 嗚呼、これこそ17年間の霧の支配が生んだ弊害では無いのか。

 

 

「はたして霧がいなかったとして、人間はこの子を人道的に扱ったかな?」

「何が言いたいの」

「わかっているくせに」

 

 

 ほら、と、スミノは楊紫薇と言う少女の方を指した。

 此方から彼方。

 紀沙達の側からは彼女の方を見ることが出来るが、彼女の側から紀沙達を認識することは出来ない。

 

 

「驚異的な空間認識能力と危機認識能力。まぁ、要するに知覚範囲が常人のそれを超えるって話」

 

 

 一言で言ってしまえば、そうだな、人間レーダーとでも言うべきか。

 海域すべてを認識してしまう能力を、才能という言葉ひとつで片付けてしまうのは難しい。

 何か人為的な、異常に人為的な何かを施さなければ、あり得ない超能力だった。

 哀れみ?

 いや、これはそう言うものでは無い。

 

 

()()()()()()()()()

 

 

 ()()()

 紫薇は、じっとこちらを見つめていた。

 監視カメラを見つめているだけなのか、それともまさか本当に紀沙達を認識しているのか?

 もしそうだとしたら、驚異的なことだ。

 

 

「――――強制終了(シャットダウン)

 

 

 見るに耐えなくて、南シナ海を覆うシステムをダウンさせた。

 それは言うならば、目を手で覆うように。

 そんな優しい手つきで、紀沙はすべてを終わらせたのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 楊紫薇と言う少女は、紀沙が考えた通り、デザインチャイルドと言うわけでは無い。

 人造の生命体と言うわけでは無く、元はどこにでもいる農村の娘だった。

 ただ両親を早くに亡くしたことで国営の孤児院に入れられ、そして当然のように軍の施設に移された。

 それは、紫薇が生まれながらに持っていた特別な才能が軍に見初められたからである。

 

 

 常人のそれを遥かに超える空間認識能力。

 盲目に生まれたが故に得たとされるその能力は、何も見ずに周囲に存在する物を把握してしまう。

 自分の真後ろに置かれた物体を、目を閉じたまま粘土で再現しろと言われて出来る人間がいるだろうか?

 紫薇にはそれが出来た、軍はある特別な装置を造ることで彼女の能力を軍事に利用した。

 それが、いわゆる「人間レーダー」としての紫薇である。

 

 

「海底の探知装置との全リンクが切断されましたか。流石にそう上手くはいきませんね、隊長」

 

 

 無数のコードが接続されたフルフェイスマスク。

 首に――脊椎に埋め込まれているように見える――コネクタから引き抜いて、紫薇はマスクを外した。

 汗の雫と共に、大きな溜息が吐き出された。

 汗で張り付いた前髪を指先で弄りながら、目を閉じたままで紫薇は振り向いた。

 見えているかのようだが、把握していると言った方が正しい。

 

 

「上層部はあわよくば拿捕と言うところまで望んでいたようですが。レーダーの性能だけで上手くいくなら漁師は必要ありませんしね、隊長」

 

 

 彼は紫薇の副官だった。

 と言っても、隊長と副官の立場ではあるが、他に部下はいない。

 なので実質、副官の任務は紫薇の世話と調()()と言うことになる。

 最も、紫薇はこの特別に設えられた仕事場(クリーンルーム)から外に出ることは出来ないのだが。

 

 

「まぁ、そうは言っても費用対効果と言うものもありますから。成果が出せないとここの電気も止められてしまいますしね、隊長」

 

 

 デザインチャイルドのような人造の生命では無いが、生まれ持った才能を科学で強化されている。

 いわゆる強化人間だが、肉体的には極めて脆弱で、誰かの庇護がなければ生きていけない。

 まぁ、紫薇自身にそうした常人じみた感情があればの話しだが……。

 

 

「楽しかったですか、隊長」

「…………」

「そうですか。それは良かったですね」

 

 

 傅くように手を取って、副官は紫薇の手を両手で握った。

 慈しみの声音は、どこか姫と従者を思わせた。

 確かに、紫薇はある意味で姫の扱いを受けていた。

 類稀な才能を持つ、霧に挑むために造られた、極東のサヴァンの姫として。

 人類の、悪徳の1つとして。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 子供の頃、世界はもっと単純だと思っていた。

 どこかに倒すべき巨悪がいて、悪いやつをやっつければ、それで平和な世界がやって来るのだと思っていた。

 幼い時に聞く御伽噺は、みんなそんなお話だった。

 けれど身体が大きくなり、それに伴って視野が広くなって来ると、そうでは無いのだと思うようになった。

 

 

 この世界に、(たお)すだけで世界平和をもたらすような巨悪など存在しない。

 いや、それも少し違うのかもしれない。

 巨悪は存在する。

 確かに、この世に存在してはならない人間やプロジェクトは存在する。

 刑部蒔絵のプロジェクトがそうであり、楊紫薇のプロジェクトがそうである。

 

 

「でも人間は、悪に依存して生きているんだね」

 

 

 巨悪を除くと、困る人間がたくさんいる。

 身体が大きくなるにつれて、紀沙はそのことを肌で感じるようになった。

 例えば、兵器。

 人殺しの手段など、無い方が良いに決まっている。

 

 

 紀沙は良くある陰謀論に組する人間では無いが、それでも兵器を使った行為――戦争によって利益を得ている人間がいることは知っている。

 それはつまり、兵器と戦争と言う悪徳が誰かが生計を立てる上で必要視されていると言うことだ。

 これを悪徳だと糾弾するのは容易い、だが、それなら今の世界をどう説明すれば良いのか。

 世界中の国々が、お互いや霧の艦艇から生き延びようと軍事に血眼になっているこの世界を。

 

 

「優勝劣敗、つまりはそう言うことだろう? 気に病むことは無いさ。人間が道徳的で高位の生命体だなんて、それこそ人間の思い込みだよ」

 

 

 善性を。

 人の善性を、紀沙は信じている。

 無機物に過ぎない霧には無い、素晴らしい人間の善意を信じている。

 

 

「人間は確かに善行を行う、でも同時に悪性をも持つ。何とも複雑で、わかりやすい存在なのだろうね」

 

 

 ああ、憎らしい。

 この身体(ナノマテリアル)になってから、スミノの囁きがより五月蝿く感じる。

 それはまだ、紀沙の意識が人間側にあることの証明でもあった。

 そして、だからこそ以前の自分との間で強いズレを感じる時がある。

 以前の自分であれば、こうまで人間の善悪について心が揺れることが無かったはずなのだ。

 

 

「人間って、無能だろう? 艦長殿」

 

 

 霧の力、ナノマテリアル。

 人体の再構成さえ可能にするその力は、全能感とも言える感覚を行使者に与える。

 人間から霧への移行過程にあればこそ、無能とまでは言わなくとも、不便からの解放は強く意識する。

 人間がいかに不完全な存在であるか、強く印象付けられてしまう。

 

 

 それが、紀沙には苦しかった。

 

 

 もし人間と霧が逆の立場だったして、おそらく彼女達はデザインチャイルドや強化人間のような如き存在は生み出さないだろう。

 その必要が無いからだ。

 そして、そんなことを考えてしまうこと自体が。

 紀沙にとって――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ404がベトナムを出航したと言う報せを受けてから、上陰は佐世保に入っていた。

 佐世保は分散首都のひとつ、長崎政府が管轄している一大港湾都市だ。

 九州においては、SSTOの発射場と並んで最重要の拠点とされている。

 かつては、イ401が補給に使用していたこともある。

 

 

「……そろそろか」

 

 

 腕時計を見つめながら、上陰はそう言った。

 出発の時は横須賀から見送ったが、彼は一足先に佐世保で出迎えることにした。

 横須賀まではまだ日数がかかるので、佐世保で先に話をしておいた方が良いと考えたのだ。

 空路で先に横須賀に戻り、色々と手配しておけば、後がより効率的になるからだ。

 

 

 佐世保の早朝は、空が暗く肌寒い。

 コートを着ているとは言え、スーツ姿では防寒には程遠い。

 それでも表情ひとつ変えないのは、役人根性とでも言うべきなのだろうか。

 そして上陰の呟きを聞いていたわけでも無いだろうが、佐世保郊外の丘から見下ろしていた彼の視界に、水平線に煌く光を映した。

 

 

「来たか」

 

 

 携帯電話を操作して、コールをかける。

 通話先は、佐世保の首相官邸の夜勤職員だ。

 2コール待つこと無く、相手が通話に出た。

 相手も上陰の電話を今か今かと待っていたのだろう。

 

 

「ああ、私だ。早くに悪いが、首相に報せてほしい」

 

 

 光は、水平線に浮上した潜水艦からの信号だった。

 そして今の時期、海から佐世保の港に入って来る艦艇は他にいない。

 同時に、偶然だろうが、陽が昇り始めた。

 急な明るさに目を細めながら、上陰は通話口の向こう側の相手に言った。

 

 

「イ号艦隊が……イ404が戻った。横須賀と札幌にも至急連絡してくれ。ああ、頼んだ」

 

 

 イ404の帰還。

 それは<大海戦>以後の世界において、「帰還」と言う二文字だけでは表せない程の偉業だった。

 傭兵的存在の<蒼き鋼>とは違い、イ404は日本の正規軍なのだ。

 この意味は、けして小さいものでは無い。

 

 

「いったい、どんな顔をするようになったのかな」

 

 

 だんだんと近付いてくる潜水艦の姿を見つめながら、上陰の呟きは早朝の風の中に消えていった。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

やっと日本に帰り着きました。
実に60話以上かかりました、作中時間でも1年近くかかった気がします。
世界一周って結構かかりますね(違)

次回からはまた日本でのお話になりますね。
そして最終決戦……に行けるのか?(え)

それでは、また次回。


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Depth084:「帰国」

 とうとう、帰って来た。

 横須賀の外壁がメインスクリーンに映ると、より強くそう思うことが出来た。

 感慨深いなどと言うレベルでは無く、本当に身体の芯から力が抜ける心地だった。

 安堵した、本当に紀沙は安堵していた。

 

 

 色々なことがあったし、何度も危機的状況に陥った。

 だが結果的に、誰ひとり欠けること無く――密航者の蒔絵を含めて――日本に帰り着いた。

 一旦、佐世保に入港してから、横須賀に向かった。

 側面に『ナガト』艦隊が現れないか警戒しながら太平洋側沿いに進んだが、幸い、霧の艦艇が姿を見せることは無かった。

 

 

「イ404、浮上」

「了解。イ404浮上します」

 

 

 横須賀港の外壁が開いていく。

 それに合わせて、紀沙はイ404の浮上を指示した。

 港湾管制局のビーコンを待っていると、それよりも先に通信が入った。

 それは艦船用の識別コードから発されたもので、相手は……。

 

 

「『白鯨』より通信」

 

 

 『白鯨』だった。

 太平洋で別れて以降、かなり久しぶりに名前を聞いた気がする。

 わざわざ外壁の近くまで出航して、出迎えてくれていたようだった。

 駒城達や真瑠璃は元気にしているだろうかと、そんなことを思った。

 

 

「『英雄の帰国を歓迎する』とのことです」

「……出迎えを感謝すると返して下さい」

「了解です。英雄艦長」

 

 

 恋はこんな茶目っ気があっただろうか。

 沈着な青年も、久しぶりの帰国に少し興奮しているのだろうか。

 ただ、英雄と呼ばれるのは少し違うと言う気はした。

 自分は碌なことを出来ていない。

 ここまで来れたのは、ひとえに運が良かったことと、クルー達の尽力だった。

 

 

「港湾管制局のビーコンに乗りました。7番のドライドックに入港許可です」

 

 

 横須賀に、入った。

 後は地下ドックに入り、イ404――イ401も、長い航海に一区切りをつけることになる。

 そして紀沙にとっては、長い任務の完遂を意味した。

 大きな、本当に大きな息を吐いて、紀沙は口を開いた。

 

 

「皆さん」

 

 

 機関室や医務室への通信も開き、発令所のクルーも見渡して、紀沙は言った。

 

 

「有難うございます」

 

 

 本当はもっと気の利いたことを言いたかったのだが、思いつかなかった。

 だから、これまでの航海のすべての総括として、単純な礼を言った。

 反応は様々だった。

 照れ臭そうに笑う者、鼻の頭を掻く者、小さく吐息を漏らす者……。

 

 

「入港シークエンス、開始」

 

 

 そんな中、おそらく「皆さん」の中に含まれていないだろうスミノがそう言った。

 あえて言うところがスミノらしく、彼女達らしいとも言えた。

 そうして、イ404は横須賀に入港した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 揉みくちゃにされた。

 最初は格式ばった挨拶などもあったのだが、いつの間にか大騒ぎになっていた。

 四方八方から頭を叩かれ肩を叩かれ、最終的には胴上げまでされて、上陰が止めに来なければそのまま宴会でも始まりかねない雰囲気だった。

 

 

『とんだ災難だったようだね』

 

 

 ここに来るまでに多少整え直したが、軍礼装の端々に乱れの跡を見つけて、楓首相はクスリと笑った。

 笑われて、少し気恥ずかしくなった。

 だが出航前に会った時に比べると、楓首相もやはりどこか柔らかだった。

 それだけ、イ号艦隊の成し遂げたことが大きかったと言うことだろう。

 

 

 もちろん、まだまだ楽観は出来ない。

 霧の海洋封鎖は未だ続いているし、日本国内の状況が好転したわけでは無い。

 それに、2年後のこともある。

 未来はまだまだ暗い。

 だがそれでも、出航前に比べればずっと希望が見えているように思えた。

 

 

「ローレンス!」

「蒔絵お嬢様……」

 

 

 そう信じられるのは、蒔絵が長髪の男性に飛びつく姿を見たからだ。

 旅の最中は機関室を手伝ったり発令所の手伝いをしたり、時には紀沙を励ましたりと、年齢不相応に振る舞うことも多かった蒔絵が、保護者(ローレンス)――刑部博士の姿を見ると相好を崩して抱きついていた。

 当初の約束とは違う形だったが、それでも紀沙は目の前の光景に喜びを感じていた。

 

 

「ありがとう」

 

 

 お礼なんて良いと、紀沙は思った。

 本当の約束は、刑部博士(ローレンス)に会わせると言うものではなくて……。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ……嗚呼。

 何て賢い娘なのだろうと、そう思った。

 涙を浮かべた笑顔でそんなことを言われてしまうと、紀沙にはもう何も言えなかった。

 刑部博士も同じことを思ったのだろう、目頭を押さえて俯いていた。

 

 

『私は席を外した方が良いかな?』

「あ……し、失礼致しました!」

『ああ、いや、構わないさ。ただ、キミの意見を聞いておきたい案件があってね』

「何でしょうか?」

『うむ……』

 

 

 不意に空気が固くなるのを感じて、紀沙は背筋を伸ばした。

 楓首相があえて自分に聞きたいこととなると、諸外国の情勢か、あるいは霧のことか、2年後のことか。

 色々と考えを巡らせてみたが、紀沙の予想はいずれも外れた。

 

 

『イ401の処遇について。キミの所見を聞きたい、千早紀沙()()

 

 

 ()()()()()()()

 楓首相のその言葉に、紀沙は全身が冷たくなっていくのを感じた。

 バイザー越しに見える楓首相の目は、じっと紀沙を見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ401は、日本にとって常に懸念材料だ。

 日本政府の意に従わないだけで無く、脅威的な大量破壊兵器(超重力砲)をも保有している。

 群像がその気になれば、彼は世界中の国々を脅迫することも出来るのだ。

 かつて核兵器が一国(アメリカ)だけのものであった時、他国はどれだけ怯えたか、歴史が証明している。

 

 

『例えばイ401――群像艦長に何かを要求された場合、我々は非常に断りにくい状態になるだろう』

 

 

 いや、群像艦長が<蒼き鋼>を今のままにするなら、まだ良い。

 もし他国に属したり、<緋色の艦隊>のように他国と同盟を結んだりしたら?

 もし超重力砲で脅迫したり、他の霧と結託して人類にさらなる圧迫を加えてきたら?

 あるいは<蒼き鋼>が各国政府の上に立ち、国際社会における「万人の万人(ザ・ウォー・オブ・)に対する闘争(オール・アゲンスト・オール)」を終結させる調停者になると宣言して来たら?

 

 

 群像を知っている人間であれば、鼻で笑ってしまう()()だ。

 だが、他の人間にとってはそうでは無い。

 それに群像が変質しないなどと、それこそ紀沙にだって保証は出来ないだろう。

 人は変わる、力を持ってしまった人間ならなおのこと変わってしまうのだ。

 

 

『一歩間違えれば、イ401は世界の脅威になりかねない』

 

 

 結局のところ、これは千早群像と言う少年の唯一と言って良い弱点であったのかもしれない。

 それは、かつて天羽琴乃が懸念し、真瑠璃がイ401を降りた理由とまったく同じもの。

 千早群像の、歪んだ部分。

 

 

 ()()()()()()()()()()()

 

 

 頼らない、あるいは必要としない。

 忘れがちだが、僧や杏平達イ401のクルーは最初に()()()()()()()()()()()

 本当なら、群像はイオナと2人きりで海に乗り出していたはずだった。

 副長もソナーも、水雷長も機関長も、群像は必要としていなかった。

 せいぜい、いれば助かる、ぐらいなものだろう。

 

 

「……兄は、良くも悪くも自立した人間です」

 

 

 勘違いしてはならないのは、だからと言って群像が冷血漢と言うわけでは無いと言うことだ。

 友情を感じるし、義理堅いところもある、人間らしい感情があるのだ。

 ただ群像は、拠って立つ、と言うことをしないのだ。

 最後に頼れるのは自分だけだと、心根のところで理解している、決めている。

 一般的な物言いをすれば……そう、「他人に仕事を任せることが出来ないタイプ」、なのだ。

 

 

他人(人類)に対して何かを期待することが無い、そう言う人間です」

 

 

 だから群像に尽くそうとする人間は、疲れてしまうのだ。

 徒労感を感じてしまって、真瑠璃のように辛くなって離れてしまう。

 群像への想いが強ければ強いほど、そうなってしまうのだ。

 痛いほど、良くわかっている。

 

 

「でも、だからこそ」

 

 

 そんな群像だからこそ。

 ()()()()()()()()()()()()と、紀沙は知っていた。

 

 

「そんな兄だからこそ、首相のご懸念には当たらない。私はそう思っています」

『それは、群像艦長の妹君としての言葉かな?』

「違います。……と言えば、嘘になるかもしれません。でもたとえ赤の他人であったとしても、今までの航海の中で、私は同じ判断をしたと思います」

 

 

 そう、実の妹でありながら、赤の他人が抱くだろうと同じ感想を紀沙は得ていた。

 それは、実の妹でさえ群像に近付くことが出来ない哀しさを象徴していた。

 

 

『それでも、イ401が人類の脅威となった時には?』

「…………そのときは」

 

 

 一方で、紀沙には確信があった。

 予感、と言っても良い。

 それはこの一年弱の世界航海の中で、日々強まっていった予感。

 いつか来るその日。

 

 

「その時は、私が――――……」

 

 

 訣別の日。

 自分と兄が、向かい合うであろうその日を。

 紀沙は、強く予感しているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙が退出した執務室で、楓首相は壁一面に広がる横須賀の水面を見つめていた。

 昨年、イ号艦隊を見送った時と同じ景色だった。

 しかし一方で、海が優しくなったとも激しくなったとも思える。

 まるで、先行きの見えないこの世界の行く末を暗示しているかのようだった。

 

 

『蒔絵嬢はいかがですか、博士』

「今、ラボで検診を受けています。特に問題は無いようです」

『そうですか、それは良かった』

 

 

 物陰から姿を現したのは、刑部博士だった。

 再会をひとしきり喜んだ後、蒔絵はラボを兼ねる刑部邸に一旦戻っている。

 デザインチャイルドである彼女の身体は普通とは違うため、病院では診ることが出来ないためだ。

 イ404に乗っていた間、医官の良治を悩ませていたことでもある。

 

 

『博士の目から見て、いかがですか。紀沙艦長は』

「私には、人を見極める眼力はありません。ただ……」

『ただ?』

「何故、彼女にあのような質問を?」

 

 

 蒔絵のことがあるので、刑部博士は紀沙に対して好意的な思いがあるのかもしれない。

 この会話で、楓首相はそう思った。

 もしかすると、蒔絵から何かを聞いたのかもしれない。

 かつて野心に溺れたが故に人道から外れた人物とは、同一人物とは思えなかった。

 

 

 そして同時に、見抜いてもいる。

 実際のところ、楓首相にはイ401をすぐにどうこうしようと言う気は無かった。

 するメリットが無いためだ。

 だから今回のことは、単に紀沙の意思を確認――有体に言えば、踏み絵を踏ませたに過ぎない。

 

 

『ああ言うタイプは、事あるごとに確認しておいた方が良いのですよ』

 

 

 もうすぐ在職四年目になるこの首相は、そろそろ次のことを考えなければならない。

 楓が「首相」と呼ばれる期間は、あまり残されていないのだ。

 だから今の内に、と言う思いもある。

 楓首相が危惧しているのは、イ401のことだけでは無いのだから。

 

 

『今回、紀沙艦長はイ15と言う霧も連れて帰って来た。諸外国は日本が霧の戦力を囲っていると、疑惑の目を向けてきているのですよ』

 

 

 それも事実だ。

 表向き各国は何も言わないが、不満はあるだろう。

 <緋色の艦隊>と同盟したイギリスの例が無ければ、表立って非難してきたかもしれない。

 イ401が脅威と言うことは真実だが、同時に……と言うことでもあるのだ。

 

 

『それに、2年後のこともあります』

 

 

 2年後に宇宙から何者かがやって来る。

 まるで三流のSF映画のような展開だが、事実となれば笑ってもいられない。

 紀沙や刑部博士はもちろん、次の大きな戦いに向けて国力を絞り尽くさなければならないだろう。

 そこにはベストな状態のイ401も含まれる。

 だから、()()()()どうこうするつもりは楓首相には無い。

 

 

『とりあえずは、明日……』

 

 

 欧州大戦が終わり、世界から戦火は徐々に消えていくだろう。

 しかしそれは、恒久平和を必ずしも意味しない。

 2年後までの、休戦に過ぎないのだ。

 いまは、まだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もちろん、何もかもが思い通りに行ったわけでは無い。

 ただ、大きく外れることは無いように努めてきたつもりだった。

 そのために官職に就くこと無く、自由に行動できる傭兵としての地位を保って来たのだから。

 

 

「珍しいな、群像がそんな泣き言を言うのは」

 

 

 そんなつもりは無かったのだが、そう言ってイオナはこちらを見つめてきていた。

 イオナが鋭いのか、あるいは群像がわかりやすいのか。

 イ401の私室でコーヒーを飲んでいた群像は、ベッドに腰掛けた姿勢でこちらを真っ直ぐに見つめるイオナと目を合わせた。

 

 

 そして、はたして自分は泣き言を言っただろうかと考える。

 言ったのかもしれない。

 確かに、<蒼き鋼>は群像の自由を体現するためのチームだ。

 しかし一方で、<蒼き鋼>であるが故に手の届かない場所と言うのもある。

 

 

「ここ最近、響と連絡が取れていない」

「真瑠璃か。確かお前達は私の端末で連絡を取り合っていたな」

「ああ。ただ、インド洋に入ったあたりから返信が無くなった」

 

 

 群像と真瑠璃は、別に喧嘩別れしたわけでは無い。

 真瑠璃が艦を降りたのは、あくまで2人の関係が行き詰ったからに過ぎない。

 それは個人としては辛いものではあったが、真瑠璃が群像を否定することを意味しない。

 艦を降りた跡も、真瑠璃は群像の協力者であり続けた。

 協力者であって理解者では無かったところは、琴乃とは真逆だった。

 

 

「何かあったと考えるのが妥当だろうな」

「ああ」

 

 

 問題は、その「何か」が何か、と言うことだった。

 真瑠璃とは連絡を取り合っていたし、時には情報のやり取りをすることもあった。

 霧の仕様での通信を人類の技術で傍受できるはずが無い、そうタカを括り過ぎたのが不味かったのか。

 しかし、そうだとすれば……信憑性が増す件もある。

 

 

「振動弾頭の時から不思議だったんだ。開発者……あるいは開発グループは、どうやって霧の装甲の破砕振動数値を把握したのか」

 

 

 霧の技術が人類のそれを圧倒する以上、理論上は可能でも、実際に振動弾頭で破壊できる数値を理解しなければ、兵器の実用化など出来ない。

 刑部蒔絵が人智を超えた天才だったから?

 もちろん、それもあるだろう。

 一方で、より信頼性の高い仮説もある。

 

 

「親父が言っていた、出雲薫の遺産。それが関係しているのかもしれない」

 

 

 はたしてそれがどんなものなのか。

 2年後には滅びると言うこの世界で、この絶望で、それは一縷(いちる)の光になり得るのだろうか。

 真瑠璃の安否を気遣うと同時に、群像はそうしたことも考えていたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 危なかった。

 突然、恋から連絡が入って何事かと思ったが、連絡が無ければそのままお別れになるところだった。

 もはやイ404の情報屋(オブザーバー)とも言うべき位置にいた男、ジョンである。

 彼が今日の内に(フネ)を降りると聞いて、慌てて戻って来たのだ。

 

 

「こんなに早く行っちゃうなんて……」

「オーウ。本当はもっとクールに消えるはずだったのヨ」

 

 

 クルーも含めて、全員で見送ることになった。

 何しろアメリカからこっち、ジョンの情報に助けられたことは一度や二度では無い。

 本来なら協力者としてしかるべき待遇をされるべきなのだろうが、ジョンはそれを望まなかった。

 まぁ、確かにジョンとの契約はそう言うものでは無かった。

 

 

 日本まで連れて行くこと。

 それが、紀沙達とジョンの約束だった。

 理由はあえて深く聞かなかったが、ジョンが日本行きにこだわっていたことは確かだ。

 

 

「実は……ユー達には内緒にしていたことがあるネ」

 

 

 サングラスを外しながら、ジョンは深刻な顔をした。

 素顔を初めて見たが、意外と根は真面目そうな顔をしていた。

 何しろ中途半端な金髪と無精髭、胡散臭い笑顔がデフォルトだったがために、気さくなようでとっつきにくいところがあった。

 こうして見ると、少しは気安げに見えてきた。

 

 

「実は、ミーは……ミーは、アメリカ人では無かったのヨー」

(((知ってたよ)))

「黙っていて、本当にソーリーネー」

(((いや、知ってたから)))

 

 

 何を言いにくそうにしているのかと思ったら、最初から皆が気付いていることだった。

 ジョンと言う名前とは裏腹に完全にアジア系と言うか、日系と言うか、いやぶっちゃけ日本人だろと思っていた。

 ただ、お約束とばかりに誰も口にしなかっただけである。

 

 

「アメリカに単身赴任していた最中に海上封鎖が完成して、アイムホームし損ねてしまったのヨ」

「そうだったんだ……」

 

 

 これは初耳だった。

 何しろ、今までジョンは自分の事情については頑として話そうとしなかったからだ。

 

 

「本当はユー達をもっとヘルプしたかったけど、ミーもファミリーを探さないといけないからネ」

 

 

 家族、と言う言葉に思うところがあった。

 海洋封鎖の前に帰れなくなったと言うことは、少なく見積もっても17年は音信不通だったことになる。

 稀代の情報屋と言えども、この荒れた日本で見つけられるかどうか。

 

 

「……きっと、ご家族もジョンのことを待ってるよ」

「サンキューネ。ユー達も大変だけど、頑張ってネ」

「うん。有難う――艦長として、お礼を言います。本当に有難う」

 

 

 握手をしてみると、ゴツゴツとした固い手触りの掌だった。

 苦労していると言うか、手仕事をしている手だった。

 手伝いたい気持ちもあったが、ジョン自身がそれを望んでいないことはわかった。

 もしかすると、普通の人生に戻りたいとでも考えているのかもしれない。

 それは尊重したいと、紀沙は思った。

 

 

「ジョン、最後に……貴方の名前を、教えて貰っても良い?」

「そう、そうネ。ミーのソウルネームは――――……」

 

 

 ジョンはもう戻っては来ないだろうし、蒔絵も刑部博士の下に戻るだろう。

 元々正規のクルーでは無いとは言え、少なくない時間を共に過ごした。

 だからだろうか、別れた後のイ404は、いつもより広く思えた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙達イ号艦隊が戻った時、そこにいるべき人間が1人いなかった。

 その人物は未だ入院中のため、ドックへ向かうことが出来なかったのである。

 そしてその人物とは、次官である上陰が直接出向かなければならないような重鎮だった。

 まぁ、北のことである。

 

 

「そうか、戻ったか」

 

 

 そして紀沙達の帰還のことを話した時、北の反応はむしろ淡々としていた。

 実際のところ、上陰が足しげく報せなくとも、北ならば独自の情報ルートを持っていてもおかしくは無いので、おそらくは知っていただろうと思う。

 それでも今初めて聞いたかのように接してくるのは、流石は年の功と言ったところか。

 

 

 とは言え、上陰としても特別な反応を期待したわけでは無い。

 そもそも上陰と北は、言わば楓首相への影響力を競う間柄でもある。

 政敵、とまでは言わないまでも、それなりの緊張感を孕んだ関係ではある。

 それでも上陰が北の下を訪れたのは、今後のことについていくつか擦り合わせておかなければならないことがあるからだ。

 

 

「……()()を見たそうだな」

「はい」

 

 

 ()()

 北と上陰の会話において、()()と言うと2つしか無かった。

 「出雲薫の研究所」と、「旧第四施設」である。

 時の首相と、たった1人の側近しか知り得ないこの国の秘密だ。

 北の目覚めにより一時的に2人になっているが、これは異例なことだった。

 

 

「どう思った」

「……正直、悩みました。しかし私も公僕である以上、国のために清濁を併せ呑む覚悟はあります」

「若いな」

「そうなのかもしれません」

 

 

 若い、のだろうか。

 次官まで上がった上陰は年齢的には若いとは言えないが、北のような人間からすれば、まだ若造と言うことなのだろう。

 いつかは、そう呼ばれなくなる日が来るのだろうか。

 

 

「楓首相は明日、群像・紀沙両艦長にそれらを開放するようです」

「む……」

「北議員には、何かご懸念な点が?」

「いや、楓首相の判断に従おう。確かに良い時期だと思う」

 

 

 個人的な関係において、北と楓の関係は北の方が上位にある。

 元艦長と副長と言うのもあるし、北の方が軍歴も政治家としてのキャリアも上だからだ。

 一方で、首相と与党幹事長と言う関係で関わる際、北はきちんと序列を守る言動をする。

 だから今も、楓首相の判断を尊重したのだろう。

 官僚の上陰からすると、そうした北の姿勢はむしろ好ましいものだった。

 

 

「明日は私も同行するつもりです。北議員は……」

 

 

 その時、北の病室がノックされた。

 当たり前の話だが、誰も入れるなと伝えてある。

 それでもなお入室が許されるとなると、思い当たる相手は1人しかいなかった。

 入室を特別に許されたその人物は、北と話し込む上陰の姿を認めると、少し慌てた仕草で敬礼した。

 

 

「失礼致しました。お話の途中でしたでしょうか」

「いや、構わん。終わったところだ」

 

 

 千早紀沙が、そこにいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 北が怪我をしているとは、知らなかった。

 驚いてやって来てみれば、北自身は事のほか元気そうだった。

 上陰が退出するのを待って、紀沙はベッド脇まで近付いた。

 そこに至って、紀沙は思った。

 

 

「……」

「…………」

 

 

 何と声をかけよう。

 北は上官では無いので、「戻りました」と報告するのは違う。

 そもそもここに来たのも、北が怪我をしたと言う話を聞いて飛び出して来た、と言うのが正しい。

 居ても立ってもいられずに、とやって来たのは良いのだが……。

 

 

「あの……」

「…………」

 

 

 話したいことが無かったわけでは無い。

 いや、むしろ話したいことはたくさんあった。

 ただそれをいざ言葉にしようとすると、上手く口を突いて出てきてくれない。

 話したいと言う気持ちばかりが先行して、空回りしていた。

 

 

 そして北も、何も言ってくれなかった。

 と言うか、紀沙の方を向いてもくれなかった。

 ずっと瞑目して、自分の手元に顔を向けていた。

 北が何も言ってくれないことも、紀沙の沈黙に拍車をかけていた。

 

 

(怒ってる……のとは、ちょっと違う気もする、けど)

 

 

 北と過ごした時間の長さから、怒っているわけでは無いと言うのはわかる。

 ただ気難しいところもあるから、そう言う時には気を遣った。

 今は、それとも違う気がする。

 何かを堪えているような、そんな気配だった。

 

 

「……屋敷の」

「はい!」

 

 

 と思っていたら不意に北が口を開いて、紀沙は飛び上がりそうなほどに驚いた。

 

 

「屋敷の女中達が、お前のことを心配していた」

「あ、はい……」

 

 

 北の屋敷の使用人達には、本当にお世話になっていた。

 皆、何かと紀沙のことを気にかけてくれていたからだ。

 紀沙の事情を知っていて、それでいて優しくしてくれた人達だ。

 それはもちろん安否が気になるところだが、今この場での話題としてはどうなのか。

 

 

 その後しばらくまた沈黙が続いて、だんだんと胃が痛くなって来た。

 すると、また北が口を開いた。

 北にしては珍しくまごついた様子で、何かと思って待っていると。

 

 

「……お前の」

「……?」

 

 

 何かと思って首を傾げると、北が言った。

 

 

「お前の作る食事を、久しく食べていないな」

 

 

 それは、まぁ、そうだろうなと思う。

 何しろ紀沙がいないのだから。

 ただ、紀沙の胸中に温かいものが生まれたのは確かだった。

 自然、目尻に熱い雫が零れてきた。

 

 

「はい……はい、北さん。帰ったら、是非」

「…………ん」

 

 

 帰って来た。

 改めて、紀沙はそう思うことが出来た。

 北との時間が、思い出させてくれたのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早紀沙は、人間が好きだ。

 少なくとも本人はそう思い込もうとしていて、どんな目に合おうとも、結局は許してしまう。

 アメリカでもロシアでも、クリミアでもそうだった。

 人間のしたことについては、驚く程に柔軟な受け止め方が出来るのだ。

 

 

「まぁ、つまりね。脇が甘いって言う話なんだよ。ああ、ちなみに艦長殿の弱点は脇だよ。実際ね」

 

 

 言うと怒るんだけどね、と、スミノは言った。

 そんな彼女は北が入院している――つまり紀沙が訪れている――病院の屋上にいるのだが、様子が聊かおかしかった。

 と言うのも、スミノは()()()()()()に座していたからである。

 

 

 もちろん、病院の屋上に山があるはずも無い。

 だから山と言うのは比喩であって、正確には、()()()()()()()パワードスーツの集団、だった。

 折り重なるように倒れている兵士達をお尻の下に敷いて、スミノは夜空に広がる大きな、大きな月を見上げていた。

 月光を受けるその瞳は、神秘的な光を(たた)えていた。 

 

 

「まぁ、それでもね。キミ達みたいな方がわかりやすくて好きだよ、ボ」

 

 

 ()()()()

 こめかみのあたり、メンタルモデルが纏ったクラインフィールドが銃弾を受け止めた。

 ぐらり、と、少しだけスミノの身体が揺れる。

 

 

「ば……ばけもの、め……ガッ!?」

 

 

 弾き返された銃弾で、屋上の隅に倒れていた兵士は沈黙した。

 スミノは、そちらを見もしなかった。

 

 

「反主流(首相)派って言うのかな。ほんと、キミ達はわかりやすくて好きだよ」

 

 

 紀沙は人間が好きだ。

 だからそれまで自分を冷遇していたり、あるいは遠巻きに後ろ指を指していた人間達の掌返しも受け入れてしまうのだ。

 皆それぞれに事情があったのだから、自分の家族がそうだったのだから、と。

 嗚呼、何と人間にとって都合の良い救世主様なのだろう! 聖女様とでも呼ぼうか?

 

 

 ()()()()()()()()()()

 

 

 スミノは別に人間が好きと言うわけでは無い。

 仮に人類が滅びてしまったところで、「へえ、そう」で済ませる自信があった。

 スミノとしては紀沙にもそうなって欲しいところだが、望み薄かもしれない。

 まぁ、それならそれで構わない。

 

 

「やぁ、今日はとても良い夜だね」

 

 

 永遠の時間を持つ霧なればこそ、気長にもなる。

 今日のところは、久しぶりに見る日本の月を愉しむことにした。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

やっと日本に戻って来れました。
長かった……後は最終話まで進めていくだけですね。
その前にもう少し日本編があるので、お付き合い下さい。

なお、次回あたりで最後の募集をする予定です。
宜しければ、ぜひご参加下さい。

それでは、また次回。


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Depth085:「メッセージ」

 

 車で向かうのは、途中までだと言う。

 山間の国道を進む車中で、紀沙は窓の外を眺めていた。

 それはこれから起こるであろう何かを思ってと言うよりは、車中の雰囲気の悪さ――いや、一概に「悪い」と言うわけでは無いのかもしれないが、とにかく――から逃れようとした、と言った方が良かった。

 

 

「……」

「…………」

『………………』

(なにこの空気)

 

 

 運転手は別として、乗員は楓首相、北、上陰、そして紀沙と群像、スミノである。

 後部座席が向かい合って座るボックスタイプのため、嫌でも顔を合わせて座ることになる。

 そして、このメンバーである。

 車に乗り込んだ時から、紀沙の胃はキリキリと痛んでいた。

 

 

 車内で聞こえてくる音としては、車が走る音と、スミノの鼻歌だけだ。

 と言うか、スミノは本当にやめてほしい。

 こんな状況で鼻歌とか何の冗談だ、こいつは本当に紀沙の嫌がることを的確に突いてくる。

 車内の空気が悪くなっている要因の1つは、明らかにこのせいだ。

 

 

(出雲薫の研究所……か)

 

 

 まぁ、それはともかくとして、これから向かう場所である。

 行くのが少々難しい場所にあるらしいが、長く日本政府によって隠匿されていだ。

 翔像が言っていた何かが、そこにあるはずだった。

 ヨハネスとグレーテルの、最後の仲間が遺した何かが。

 最も、出雲薫自身はすでに亡くなっているようだが……。

 

 

「…………」

 

 

 ちら、と、紀沙は北を見た。

 北は瞑目してじっとしているが、本当はまだ入院していなければならない身のはずだった。

 それでもこうして出てきているのは、責任感の成せることだろう。

 北にとって、それは呼吸することと同じなのだ。

 

 

(すごい人)

 

 

 大きな背だった。

 軍人としても政治家としても、傑出した人材であろう。

 とてもでは無いが、紀沙にはとても追いつけるような気がしなかった。

 一方で、こんな自分に期待をかけてくれている。

 

 

 有難い、と思うと同時に、恐ろしくもある。

 正直、自分にそこまでの才覚があるとは思えなかったからだ。

 兄の群像のような天才でも無い、凡庸な自分を誰よりも紀沙が良く理解している。

 しかし、北がそれだけで自分を見ているわけでは無いことも知っている。

 だから、紀沙も応えたいと思えるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――昨夜、病室で少しの時間だが北と話をした。

 北に対しては、紀沙は包み隠すと言うことが無かった。

 己の身に起きた変化についても、隠すことなく話した。

 もしかしたら、ただ話したかったのかもしれない。

 

 

 誰にも話せないと言うのは、事のほか辛いものだ。

 艦長が孤独であると言う以上に、肉体のナノマテリアル化と言う前例の無い事態を相談できる相手がいるはずも無いのだった。

 父や兄には、家族だからこそ話せなかった。

 北は、最初から最後まで話を聞いてくれた。

 

 

「……そうか」

 

 

 話を聞き終えた後、北はまず重々しく頷いた。

 話の途中も、時折なにか言葉を返しつつも、話を遮るようなことはしなかった。

 そして話が終わると、北は言った。

 

 

「すまなかったな」

「え……?」

 

 

 正直、ただ話したかっただけだ。

 だから何か言葉を貰えることを期待していたわけでは無く、仮に期待していたとしても、それは謝罪では無かった。

 だが、北は紀沙にはっきりと謝罪の言葉をかけた。

 

 

「本当ならば、わしのような老人こそが矢面に立たなければならん」

 

 

 北には、信じるものがあった。

 それは、年齢と経験を重ねた「大人」から前に立つべき、と言う考えだ。

 軍事にしろ政治にしろ、次の時代に自国を残そうとするための行為だ。

 自分が倒れても次の世代や後に続く者がいると思えばこそ、出来る行為だ。

 その逆はあってはならないと、北は強く信じていた。

 

 

「それを、お前のような若い……それも女子に。先の世代として、言葉も無い」

「前にも言いました。これは私が選んだことです、北さんが気に病まれるようなことではありません」

「いや……」

「あっ」

 

 

 身を起こして、ベッドから足を出して座る北に、紀沙は手を貸した。

 大した怪我では無いと言っても、安静にしていなければならない状態なのだ。

 それを手で制しつつ、北は紀沙を見上げた。

 

 

「苦労をかけてすまない。そして、良くやった」

「…………」

 

 

 そして、労われた。

 褒められた。

 良くやったと、たった一言だけ、それは厳格な北には珍しい言葉だった。

 正直、もったいないと思った。

 

 

「あ……れ」

 

 

 自分は、何も上手く出来なかった。

 ただ目の前のことに手一杯で、状況に流されるままに、何もかもが手遅れになっていた。

 そしてそのすべてに、何ら手を打つことも出来なかった。

 胸を張って「やった」と言えることは、何も無かった、だから。

 

 

「ち、が……うんです。()()、違……ッ」

「…………ああ、わかっている」

 

 

 だから、()()は違う。

 溢れて止まらない()()は、違うのだ。

 なのに、それなのに、止められないものだった。

 

 

 嗚呼。

 頭に感じる北の掌が、とても温かい。

 その温かさをまだ感じることが出来るのは、とても幸福で、幸運なことだった。

 紀沙は、心の底からそう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人里離れた、隠者が好みそうな山奥に建てられた邸宅だった。

 太陽光による自家発電装置が見えるなど、設備は現代的だ。

 とは言え人の手が入らなくなって随分と経過しているのか、草木生い茂る廃墟と言う感が強い。

 今となっては、人を避けたがった元の持ち主の偏屈な心根だけが僅かに見ることが出来る。

 

 

『これだけの人数を連れて来たのは、歴代中央管区首相で私が初めてだろう』

 

 

 楓首相が案内したのは、邸宅の地下だった。

 埃っぽいバルコニーからさらに進んだ先に、地下へと続く隠しエレベーターがあった。

 さらに三階層続く地下の、一番最下層。

 北と上陰は先に来たことがあるのか、足取りに迷いが無かった。

 

 

 それにしても奇妙な邸宅だった、一言で言えば生活感が無い。

 バルコニーからエレベーターへ続く道以外に、これと言った傷みが見当たらなかったのだ。

 楓首相達が何度も出入りしていたからだろうが、それにしても他の箇所に使用の痕が見えない。

 もっとしっかり観察すれば痕跡もあるのかもしれないが、あるいは前の持ち主は、そもそも地下に閉じこもりきりだったのかもしれない。

 

 

「楓首相、ここは?」

『出雲薫の研究室だ』

 

 

 昨日に話をした時、紀沙は楓首相に出雲薫の件も話していた。

 その際に楓首相の口から出たのがこの場所で、日本政府が発見して保管していたらしい。

 ごぅん、ごぅん。

 下がり続けるエレベーターは、今もこの邸宅に電力が供給されていることを示している。

 それも、日本政府の手で発電設備が補修・維持されているためだろう。

 

 

(出雲薫の研究室)

 

 

 翔像が言っていたのは、このことだったのだろうか。

 予想外にあっさりと開示された情報に、紀沙は拍子抜けすらしていた。

 もっと手こずるものと思っていただけに、意外だった。

 翔像はしかるべき者が何かを示すと言っていたが、出雲薫の研究を追えと言うことだったのか。

 

 

 何か、引っかかる気がした。

 あの父が、そんなことのためにわざわざ動くとも思えなかったからだ。

 それとも、翔像と自分が過剰な期待を持っていたのか。

 群像の考えも聞いてみたいと思ったが、しかしその前に。

 

 

『到着だ。足下に気をつけてくれ給え』

 

 

 それより先に、研究室の方が先に来た。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 照明は暗いが、思ったよりも整理整頓が行き届いていた。

 元からそうだったのか、あるいはここには頻繁に調査が入っているためかはわからないが、他に比べると埃も少ないし、空調の循環設備も手入れされている様子だった。

 楓首相は研究室と言っていたが、なるほど、確かに()()()雰囲気の部屋だった。

 

 

「海洋学の本が多いな。それと、鉱物と生物学。あまり見ないラインナップだが」

「そうなんだ」

 

 

 机の上に置かれていた本の背表紙を指先で撫でながら、群像が言った。

 群像はわかるのかもしれないが、紀沙は学術書の多寡には余り詳しくない。

 海洋学やら生物学やらは学院時代にさんざん学んだが、蔵書のタイトルや作者には頓着しないタイプだった。

 この手のタイプは、だいたいレポートを書く際に引用で困ったりする。

 

 

 まぁ、それは良い。

 重要なのは研究所に何があるのか、だ。

 今、群像が見ている机の他には、壁際の資料棚と薬品棚、ビーカーや遠心分離機らしき実験用の器具。

 そして最も目立っているのが、円柱形の容器だ。

 研究室の両側に整然と並ぶ無数の容器の中身は、何かの液体で満たされているようだった。

 

 

「これは何が入っているんですか?」

『海水だ』

 

 

 海水? と首を傾げると、楓首相は「深海の水だ」と付け加えてきた。

 深海の水だから何だと言う話だが、だからこそ容器に蓄えられているのかわからなかった。

 時折、容器の中で気泡が生まれては消えていた。

 薄暗いせいか、透明な容器の表面に紀沙自身の顔が映っている。

 

 

 その時、紀沙の様子を見ていた北が上陰に目配せをした。

 それを受けて、上陰が壁のスイッチを操作した。

 すると照明の色が変わり、通常の白色から、薄い青色へと変化した。

 ぼんやりとした灯りは、どことなくおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。

 

 

「……!」

 

 

 そして、不思議なことが起こった。

 容器の内側で、白く輝く粒子がたゆたっている。

 紀沙は驚いた。

 何故ならばそれは、間違いなくナノマテリアルの粒子だったからだ。

 

 

 ナノマテリアルが、どうしてこんなところに?

 普通に考えれば、出雲薫の研究物だろう。

 何しろヨハネスとグレーテルはナノマテリアルと『コード』の研究者だったのだ、その仲間である出雲薫が同じ研究をしていても何もおかしいことでは無い。

 日本政府がこの研究室を発見し調査するのも、対霧の観点からすれば不思議では無い。

 

 

「楓首相、これはいったい!?」

『……北さん』

「うむ……」

 

 

 だが、()()は不思議だ。

 容器の中でナノマテリアルの粒子が激しく動き、しかも増幅を繰り返しているのだ。

 粒子光の明滅も激しく、まるで電子回路を走る電気のように光の線を走らせている。

 そして上陰達の反応を見るに、これは彼らが企図したものでは無いらしい。

 紀沙は知る由も無いが、上陰が楓首相にここを見せられた時、こんな現象は起こらなかった。

 

 

「紀沙。お前、眼が」

「え、あ」

 

 

 紀沙だ。

 紀沙の霧の瞳が淡く輝いている、体内のナノマテリアルの活性化の証だ。

 まさか、彼女のナノマテリアルに反応――――いや、違う!

 

 

(『アドミラリティ・コード』に反応している!)

 

 

 今ここにはオリジナルの『コード』の大部分がある。

 『コード』の存在を認識した瞬間、研究室に保存した起動するように仕組まれていたのか。

 誰の手によって?

 決まっている。

 

 

「出雲、薫だ」

 

 

 容器の中のナノマテリアルが、いよいよ何かを形作り始めた。

 それは下から上へと、三次元プリンターに似た動きで形成されていった。

 すべての容器の中に、老年の男が現れた。

 同じ顔をしたそれらには、首から下が存在しなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 楓首相らも、「出雲薫」の顔はデータでしか知らない。

 容器内に現れた出雲薫の顔立ちは、老齢ながら、どことなく千早家の男の面影があった。

 母方の祖先と言うことだから、容姿において群像や紀沙を感じる部分もある。

 2人が年齢を重ねればこんな風だろうと言う、そんな老人だった。

 

 

 とても、静かな目をしていた。

 落ち着いている、ともまた違う、静謐と言う表現が良く似合う目だ。

 こんな眼差しをした老人を、紀沙は他に見たことが無かった。

 その老人が、不意に口を開いた。

 

 

『……この場所に、『コード』を持つ者が現れたか』

 

 

 静かな、聞く者に威厳を感じさせる低い声が響き渡った。

 どこかしらに音声機器があるのだろうが、不思議と肉声のようにクリアに聞こえた。

 しかもその声は、複数の容器から同時に聞こえているのだ。

 とても、不思議な感覚だった。

 

 

『お前が真にヨハネスとグレーテルの後継者であるのかは、私には確認のしようも無い』

 

 

 『コード』を持つ者、後継者。

 この単語で紀沙は確信する。

 出雲薫の研究室は、これまでずっと偽りの姿を映していたのだ。

 紀沙の持つ『コード』がカギとなっていて、こうなるよう仕掛けられていたのだろう。

 ヨハネスとグレーテルと言う名前が出たことからもわかるように、この老人は間違いなく出雲薫だった。

 

 

 ()()()()()()()()

 この容器の中に現れた出雲薫――老人の生首が浮いているようにしか見えない――は、実際に今、ここにいるわけでは無い。

 容器の中のナノマテリアルが、記録された音声を流しているだけだ。

 だから、これは会話では無い。

 

 

『だが、私の知らぬ『コード』保持者よ。何かを求める者よ。私はお前を信じてみようと思う』

 

 

 これは、メッセージだ。

 何年、何十年も前に出雲薫が遺したメッセージ。

 前時代に世界の秘密に至った男が、後世の紀沙達のために遺したメッセージだ。

 紀沙達、後の世代が行き詰った時のためにと、先に残していたメッセージだ。

 

 

『人間は愚かで、愛や憎しみのために道を誤る。誰もがそうだ。そう、誰もが』

 

 

 出雲薫の眼が、じっとこちらを見つめていた。

 ただの記録だとわかっていても、真に迫る眼差しだった。

 まるで目の前にいるかのように。

 目の前で諭されているような、そんな錯覚に陥ってしまいそうだった。

 

 

『だからこそ、誰もに機会が与えられるべきだと私は思う。それが、今、この場にいるお前を信じる理由だ』

 

 

 出雲薫の眼が、紀沙の眼を見つめる。

 その刹那、紀沙の瞳が強く輝いた。

 ナノマテリアルを通して、出雲薫が何かを渡そうとしてきている。

 これも、出雲薫が遺した仕掛けのひとつか。

 

 

『人間はこんなところで終わって良い存在では無いと、私はそう信じている』

 

 

 容器の中の出雲薫――いや、それを構成するナノマテリアルが、強い光を放った。

 余りに強い輝きに、手で顔を庇うようにする。

 人類を信じていると言う、出雲薫の言葉だけが、反響していた。

 ――――ぱりん。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 割れた容器から、砂と化したナノマテリアルが床に零れ落ちていた。

 床に落ちたナノマテリアルは完全に活動を停止しており、()()()状態だった。

 出雲薫が、このメッセージのためだけに仕掛けていたのだろう。

 そして紀沙は、出雲薫がここでナノマテリアルの研究をしていたのだと確信した。

 

 

「紀沙、大丈夫か?」

「大丈夫……」

 

 

 身体が熱を持っていた。

 いつの間にか紀沙は両膝を床についていて、群像に身体を支えられていた。

 言葉通り、今は大丈夫だった、特に不調は無い。

 頭を横に振って意識をはっきりさせた後、ナノマテリアルの砂に触れた。

 

 

 指の間から零れ落ちるそれには、もう何の力も無い。

 だが、これは確かに紀沙に重要なメッセージを届けた。

 紀沙――新たな『アドミラリティ・コード』を持つ者を、出雲薫は待っていたのだ。

 いや、本当は少し違うのかもしれない。

 

 

「ヨハネスとグレーテルに、もう一度会いたかったんだね……」

 

 

 ぽつりと呟いたその言葉が真実であったのか、それはわからない。

 けれど、出雲薫はヨハネスとグレーテルを待っていた。

 何と無く、紀沙にはそう思えたのだった。

 会話をしたわけでは無い、一方的にメッセージを受け取っただけの関係だ。

 

 

 けれど、出雲薫の気持ちも伝わってきた。

 出雲薫はきっと、守るために、救うために研究を続けていたのだろう、と。

 ヨハネスとグレーテルの魂を、『アドミラリティ・コード』の戒めから解き放つために。

 だから、『コード』を持ってきた者がヨハネスとグレーテルを救った者だと信じて、メッセージが起動されるように仕込んでいたのだろう。

 

 

「楓首相、ひとつ確認したいことがあります」

『……何かな』

 

 

 兄の手を借りて立ち上がった紀沙は、こちらの様子を窺っていた楓首相らへと視線を向けた。

 電子の光を宿すその瞳は、何もかもを見透かしているかのようだった。

 

 

「この研究所は、振動弾頭輸送任務より前に発見されていましたか?」

『……ああ、その通りだ』

「ではここが出雲薫の研究室だと言うことはわかっていましたか?」

『ああ、キミ達の出航時点で判明していた』

 

 

 楓首相の答えを聞いて、紀沙は指先をこめかみに当てた。

 頭痛を堪えるような仕草だったが、苦しげに歪められた眉が、彼女の苦悩を表していた。

 もしやとは思っていた。

 出航前にすでに日本政府がこの施設のことを知っていた、知った上で送り出したと言う事実。

 

 

 そして、今回の航海における紀沙達の行動の自由度の高さ。

 その理由が、今、ようやくわかった気がする。

 狙っていた、とまでは言うまい、ただ。

 ()()()()()()()()、こうなることを。

 

 

「北さん」

 

 

 そして、今度は北に問いかけた。

 北は、紀沙から目を逸らすことをしなかった。

 そんな北に、紀沙は言った。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 そして物語はついに、はじまりの地に戻る。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 旧第四施設跡を訪れたのは、初めてでは無かった。

 だがその時、紀沙は何も感じなかった。

 ただ示された慰霊碑の下が旧第四施設なのだと、疑問に感じることもせずに信じていた。

 しかし、実際は違った。

 

 

 旧第四施設を含む当時の研修施設は、当時の姿のまま今も残されていたのだ。

 火事の跡まで、そのままに。

 じゃり、と地面を踏み締めて、紀沙は車から降りた。

 風の中に、未だに焦げ臭い匂いが漂っている。

 

 

「2年……いや、3年ぶりになるのか」

 

 

 群像も、流石に感慨深いのだろう。

 兄と2人でここに立つのだから、余計にそうだった。

 何しろ目の前に広がるのは、半分以上が焼け落ちた廃墟のような場所だ。

 2人にとって、はじまりの場所だった。

 

 

「ここがあの時のままになっていたのは、驚きだが……紀沙」

 

 

 不謹慎と思われるかもしれないが、群像に問われるのは嬉しかった。

 最も、話の内容はけして面白いものでは無かったが。

 

 

「紀沙、ここに何がある?」

「……言葉にするのは難しい、かな」

 

 

 出雲薫のメッセージは、簡潔だった。

 と言うより、あれはメッセージでは無かった。

 出雲薫が紀沙に託したのは、たった一言の言葉だった。

 

 

「『グラストンベリー・トー』」

 

 

 言葉自体には、それほどの意味は無い。

 そしてその言葉と共に、紀沙の脳裏にある光景が浮かび上がったのだ。

 それはあの時、紀沙が琴乃と別れた時のこと。

 炎に包まれる副管制棟(サブコントロール)の中で出会ったの、()()()()()()

 

 

 今まで、ずっと忘れていた。

 メット越しに見た誰かの顔は、あの誰かの唇が紡いでいた言葉は、もしかするとこれでは無かったか。

 それでも、紀沙はこの旧第四施設に来なければならなかった。

 あの時の光景がこびり付いて離れない、まるで何かに呼ばれているようで……。

 

 

「楓首相、今から中に入れますか?」

『ああ。すぐに……来たな、迎えだ』

 

 

 もう夕方だ、今から入れば帰りは夜になるだろう。

 赤い夕闇が、まるで火事を再現するかのように旧第四施設を照らしていた。

 そして、施設の入口に佇んでいた彼女達の下に、ある人物が姿を現した。

 施設の中から姿を現したその()()()()の姿に、群像と紀沙は目を丸くすることになった。

 何故なら、髪を2つ結びにしたその女性士官は彼女達の良く知る人物であったからである。

 

 

「響!?」

「真瑠璃さん!?」

「……ハイ、群像くん、紀沙ちゃん」

 

 

 響真瑠璃は、少し照れ臭そうに2人に応じたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 真瑠璃は、工藤と言う女性下士官と共にここに配属されていたそうだ。

 時期的には、クリミア作戦の頃だった。

 その時期に、ひょんなことから真瑠璃は旧第四施設の真実に気が付いたらしい。

 そして、機密の保持と監視も兼ねて旧第四施設の駐屯部隊に配属されたのだ。

 

 

「だからごめんなさいね、群像くん。連絡ができなかくて」

「いや、お前が無事ならそれで良い。今は特に問題を抱えているわけでも無いからな」

 

 

 施設の中を歩きながら、群像と真瑠璃の会話を聞いていた。

 やはりと言うか何と言うか、2人は真瑠璃が艦を離れた後も連絡を取り合っていたのだろう。

 複雑だった。

 何故ならば、真瑠璃は紀沙にそれを隠していたことになるからだ。

 とは言え、紀沙にそのことを責めることは出来なかった。

 

 

 客観的に見れば、当たり前の話ではある。

 真瑠璃の身の安全に関わることであるし、それに紀沙に教えたところでどうなることでも無い。

 群像が当時の紀沙の呼びかけに応じる可能性など、それこそ皆無であっただろうからだ。

 仮に紀沙が気付いていたとしても、結果は何も知らないのと変わらなかったはずだ。

 だがそうだとしても、複雑な胸中だけは隠しようも無い。

 

 

「着いたわ。ここよ」

 

 

 そして、ここだ。

 副管制室(サブコントロール)を擁する副管制棟が、目の前に存在していた。

 他の建物は火事によってほとんど全焼、良くて半壊と言う状態なのに、どう言うわけかここだけがまったくの無事だった。

 明らかに、不自然だった。

 

 

「見ていてね」

 

 

 火事の跡すらない綺麗な外壁。

 これは、あり得ないことだ。

 焼失事件の際に消え去ってしまったはずの建造物が、目の前に聳え立っている。

 そして紀沙にははっきりと感じ取れるのだが、これはナノマテリアルで再構成されている。

 

 

 そして、真瑠璃はその外壁に拾った小石を投げつけた。

 すると、どうしたことだろう。

 外壁にぶつかった小石は弾かれるかと思えば、ぴたりとくっついてしまったでは無いか。

 しかも、数瞬の後に細かな粒子となって消えてしまった。

 

 

『統制軍は何度かこれの破壊を試みたが、すべて上手くいかなかった』

 

 

 強力なフィールドが形成されていた。

 不用意に触れたものを分解し、エネルギーとして吸収してしまうのだ。

 確かにこれでは、人類の兵器ではどうすることも出来ないだろう。

 しかし、()()()()

 この中に、間違いなく()()、紀沙にはそれがわかる。

 

 

「紀沙、やれるか?」

「……やってみる」

 

 

 だからこそ、()()()()()

 紀沙の視界が一瞬にして切り替わり、電子上に存在するもう1つの副管制棟を認識する。

 すると、やはりだった。

 現実世界には存在しない、()()が視えた。

 ()()()()()()()()()()

 

 

(もしかして)

 

 

 出雲薫の遺したメッセージを、そこに入力した。

 『グラストンベリー・トー』。

 ()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナノマテリアルで再現された副管制棟は、なるほど、確かに当時のままの姿だった。

 火事の跡はおろか、これから火事が起こる気配すら何も無い。

 綺麗だが、歩いていると不思議な気分になってくる。

 まるで、周囲から目に見えない何かが身体を包み込んできているような、そんな感覚を感じていた。

 

 

「周りのすべてがナノマテリアルの構成体だよ、艦長殿。ボク達は誰かの胃袋の中にいるようなものだ、注意することだね」

 

 

 スミノに言わせると、そう言うことらしい。

 確かに周りが全部ナノマテリアルと言うことは、スミノ達にとっては身体の中に入れるようなものなのだろう。

 ただ、それを言ってしまえば艦内にいる普段からそうであると言える。

 だから紀沙はいちいちそのことを気にしなかったし、むしろ気にするべきは他のことだった。

 

 

 何しろ紀沙は、この先に何が――()()いるのか、何と無く理解していたからだ。

 あの時、紀沙と、そして琴乃の前に現れた存在。

 今この場で紀沙の前に現れるとすれば、それしかあり得ない。

 そして一歩を前に進むごとに、その気配は徐々に強くなっていくのだ。

 確信、そう、それはもはや確信だった。

 

 

(あの時……)

 

 

 あの時の記憶は、ほとんど無い。

 琴乃を守るために立ち向かったことは覚えているが、それ以後の記憶が無いのだ。

 気が付いた時には、自分は病院のベッドの上だった。

 そして、旧第四施設は副管制棟も含めて焼失したと言う政府の発表を、今日まで信じて来た。

 

 

 騙されていたのだろうか。

 いや、真瑠璃の時と同じだ。

 ()()()()前の自分では、仮に事実を知っていても知ったところで何も出来なかっただろう。

 わかっている。

 だが、蟠りは残ってしまう……。

 

 

「……!」

「どうした、紀沙。……紀沙?」

 

 

 そして、不意に紀沙が足を止めた。

 不審に思った群像が声をかけたが、紀沙の足が動くことは無かった。

 何故ならば通路の先、まさに副管制室の前に()()からだ。

 ああ、あの身体の端々から待っている粒子はまさにナノマテリアルのそれだ。

 当時は、あれすら紀沙には視えなかったのだ。

 

 

「誰だ、あれは?」

『宇宙服……?』

 

 

 そしてここまで来て、ようやく他のメンバーも相手の姿に気付いたようだった。

 白い、宇宙服を纏ったその人物に。

 再び目の前に現れた宇宙服の存在に、紀沙は言った。

 

 

「何なんだ、お前は」

 

 

 ()()が、なにもかもの始まりだった。

 その始まりの鐘を鳴らした存在に、今まさに目の前にいる宇宙服の存在に、紀沙は問うたのだった。

 お前は、いったい、何者だ。

 

 

「何なんだよ、お前は……!」

 

 

 悲痛とも取れるその声に、宇宙服の女はゆっくりとこちらを振り向いた。

 そして、そっと両手を上げた。

 その両手が宇宙服のマスクへと伸ばされて、空気の抜けるような、そんな音が響く。

 宇宙服のマスクが、ゆっくりと持ち上げられて――――……。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
と言う訳で「宇宙服の女」編です。
いよいよ話がスピリチュアルじみてきました(え)

そう言うわけで、今回は最終章に向けた最後の募集を行いたいと思います。
テーマはずばり、「宇宙」です!

先の話で登場した国際宇宙ステーションのように、宇宙から来たる「やつら」を募集します。
対象は人類が宇宙に打ち上げた「モノ」です。
※例:人工衛星、探査機、宇宙船、ロケット等。

条件:
・投稿はメッセージのみでお願い致します、それ以外は受け付けませんのでご了承ください。
・締切は2017年11月20日の正午きっかりです。それ以降は受け付けませんのでご了承ください。
・ユーザーお1人につき、アイデア3つまで。
・元ネタとメンタルモデルの容姿を記載下さい。今回は男女制限は無しです。さらに性格・背景等あれば有難いです。

そして、今回は次の一点が特色です。

――――「捕食」についてご考案下さい。
※方法と考え方の両方があると有難いです。設定は自由です。
 勿論、キャラクターの考え方として「無し」もありです。


注意事項:
・投稿キャラクターは必ず採用されるとは限りません。採用・不採用のご連絡も致しません。
・戦争という題材を扱う以上、投稿キャラクターが死亡する可能性が相当数ございます。
・投稿・相談は全てメッセージにて受け付け致します、それ以外は受け付けませんのでご了承くださいませ。
・場合により、物語の展開・設定に応じて投稿キャラクター設定を追加・変更する場合がございます。
以上の点につきまして、予めご了承下さい。

それでは、宜しくお願い致します。


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Depth086:「宇宙服の女」

 ――――最後の容器を設置し終えると、その老人は椅子に深く座り込んだ。

 深々と吐き出された吐息は、疲労の色が色濃く現れていた。

 足下には空の注射器が何本も転がっていて、一部は中身の()が零れていた。

 良く見てみると老人のむき出しの腕は、二の腕から手首にかけて、血管が青黒く浮き上がっているようだった。

 

 

「所詮、私にはあの2人のような適正は無かった。これは、やむを得ない結果なのだ……」

 

 

 白い眉と髭に覆われた皺だらけの顔が、苦しげに歪められた。

 時計の無いその空間――いくつかの容器の光だけが、室内を照らしている――では、今がいつなのか、朝なのか夜なのかもわからない。

 それに、その老人がどのような状態なのかも実のところわからない。

 

 

 ただ、弱っている。

 老衰や病気とは明らかに違う、肉体の各所が破壊されている。

 吐き出された呼吸も、どこか、引っかかるような吐き出し方だった。

 いつしか、老人の眼も閉ざされていた。

 

 

「いつか……いつか、私の残した仕掛けに気がつく者がここを訪れるだろう。その時、その者はキミに会いに行くことになるはずだ……」

 

 

 浅い呼吸を繰り返しながら、老人は誰かに向けて言葉を紡いでいた。

 話し相手の姿は、室内には見えない。

 あるいは、命を使いきりつつある老人の戯言であったのかもしれない。

 しかし、戯言にしては真に迫っていた。

 

 

「その時にこそ、本当の意味で人類評定が始まる……人類に、この先があるのかどう、か……」

 

 

 老人の、苦しげな咳が続いた。

 乾いた呼吸音が続き、そうしていると、不思議なことが起こり始めた。

 老人の身体が淡い輝きを放ち始めたのだ。

 そして体の端から、光の粒子がぽろぽろと零れ始めている。

 まるで、砂時計の砂のように……。

 

 

「どうか……導いてやってくれ。そして、あの2人の愛した世界を……」

 

 

 ……消えていく。

 老人の肉体が、この世に存在していたことが嘘か何かのように、粒子となって消えていった。

 深く、老人が息を吐き出す。

 それが、最後の呼吸だった。

 

 

「いつか、必ず、人類は学ぶ……そのはず、だから……」

 

 

 そして、その空間から誰もいなくなった。

 まるで最初からそうであったかのように、無人の空間となり、やがて照明すら消えて。

 そんな中で一瞬だけ、ぼう、と、亡霊か何かのように、老人が座っていた椅子の前に何かの姿が見えたような気がした。

 それは、白い宇宙服のように見えた――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 女だった。

 宇宙服のメットを外した後、紀沙達の前に晒された素顔である。

 美人、なのだろう。

 長い金髪に白磁の肌、はっきりとした目鼻立ちは西洋人のそれだ。

 

 

 アメリカ人、らしい。

 良く見れば、宇宙服にアメリカの国旗が刻印されていた。

 それにしても古めかしい宇宙服だった。

 今の時代、有人での宇宙探査は愚か、人工衛星を打ち上げることすら出来ない。

 最後の宇宙飛行士など、20年以上も前の話だ。

 

 

「わかるよ。お前……メンタルモデルだ」

 

 

 顔を顰めて、紀沙はそう言った。

 むしろ、ここまで来て普通の人間であれば逆に驚く。

 紀沙は、「宇宙服の女」の肉体がナノマテリアルで構成されていることに気付いていた。

 それ自体はもはや驚くに値しない、問題なのは――――頭痛だ。

 脳の奥を抉り取られるような、言葉に出来ない程の激痛が突如として襲ってきた。

 

 

(あいつが、メットを取ってからだ)

 

 

 宇宙服の女が素顔を晒したその時から、紀沙の頭に刺すような傷みが走り始めた。

 知らず、拳を握り締めていた。

 指に爪が喰い込んで痛いが、少しでも頭痛から意識を逸らしたかった。

 余りの痛みに、額に嫌な汗が滲んできていた。

 

 

 そして、思い出すことがあった。

 あの時だ。

 焼失事件当時、ここで琴乃と共に()()()に遭遇した。

 あの時、琴乃は激しい頭痛に見舞われて動くことすら出来なかった。

 当時は不思議に思ったものだが――――()()か!!

 

 

「……っ」

「紀沙? 大丈夫か」

「だいじょうぶ……」

 

 

 兄に手を上げてみせつつ、宇宙服の女を睨み据える。

 嫌なことを考えさせてくれる。

 とても、不愉快だった。

 そして、紀沙が不愉快を感じ取ったと言うことは。

 

 

「当然、ボクも不快だよ」

 

 

 突如、視界に光の線が走った。

 それは宇宙服の女の背後に現れたスミノによるもので、より言えば彼女の手刀によるものだった。

 手刀の軌跡は宇宙服の女の首に及んでいたはずだが、床に落ちたのは、メットだった。

 コツン、と、乾いた音がその場にいる全員の耳に届いた時。

 

 

「――――」

 

 

 宇宙服の女の眼が、電子の光を灯した。

 メットが打った床を起点として、いきなりの変化が生まれた。

 そこから一気に、世界が反転したのだ。

 オセロの白が、黒になるように――――だ。

 次の瞬間、紀沙達は()()()()()

 

 

 ――――は?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もし仮に宇宙船に乗っていたとして、窓の外に見える光景はこんなものだろう。

 そうとしか思えない光景が、紀沙達の周囲に突如として現れた。

 幻……にしては、現実感が強すぎる。

 漆黒の空間に、いくつも燃える小さな点――星々が見える。

 

 

 ある星は激しく燃えて周囲を明るく照らし、またある星は歪んだ闇の空間の中に存在している。

 漆黒の世界を引き裂く箒星がある一方で、不動のまま動かない岩のようなものもある。

 ああ、無数の岩石や氷が集まって帯状に広がっているところもある。

 明るい色を放つ大きな星がいくつか見えるが、あれは惑星と言うものだろうか……?

 

 

「あれは木星ですね」

 

 

 表面に幾何学的な模様を浮かび上がらせる大きな惑星が見えた時、不意に上陰がそんなことを言った。

 楓首相や北がやや意外そうな視線を向けると、取り繕うように咳払いをしていた。

 心なしか、耳が少しばかり紅潮していた。

 

 

『詳しいね』

「まぁ、幼い頃に少々……」

 

 

 まぁ、上陰の幼少時の趣味はともかくとして。

 木星と言われれば、流石に今どこにいるのかは確信が持てる。

 今、紀沙達は宇宙空間にいるのだ。

 ……改めて考えてみると、こんなにも非現実的な言葉も無いものである。

 

 

「スミノ、私達の現在位置は?」

「勿論、変わらず旧第四施設跡さ」

 

 

 紀沙が視ても、座標に変化は無い。

 つまり、自分達は一歩も動いていない。

 360度を宇宙空間が覆い、視界は激しく――太陽らしき輝きが高速で遠ざかり、あたりは寒々しい暗い空間に変わり始める――移動しているにも関わらず、足下を見失うことが無いことからも、明らかだ。

 これはあの女が、「宇宙服の女」が見せている幻覚だ。

 

 

『幻覚デハ無イ』

 

 

 頭に、針を刺したような痛みが走った。

 いや、それ以前に。

 今のは、声……なのだろうか。

 

 

『北さん、聞こえましたか?』

「うむ。今のは……?」

 

 

 どうやら、他の者にも聞こえたらしい。

 声と言うには頭に響き過ぎるし、テレパシーと言うには鼓膜に響き過ぎる。

 宇宙服の女の意思の発信方法を何と表現するべきなのか、紀沙にはわからなかった。

 しかし、それが宇宙服の女の()()()であることは間違いが無かった。

 

 

 そのタイミングで、紀沙達は青い惑星――地球では無い、地球以上に青以外の色が見えない――の側を通り過ぎた。

 やがて、無数の岩石や塵、ガスの塊のような物体が円盤状に集まった空間に辿り着いた。

 ここでまた上陰が「カイパーベルト……?」とか呟くのだが、今度はそれに反応する者はいなかった。

 おそらく、宇宙を構成する何かしかなのだろう。

 

 

『私ハ警告ヲ伝エルタメニ来タ』

 

 

 警告を伝えるために来た。

 どこから?

 何を求めて?

 そして、そうした疑問を代弁するように一歩前に出たのは、やはりと言うか、群像だった。

 

 

「教えてくれ。キミは何を伝えに来たんだ」

 

 

 移動は、まだ続いている。

 地球はおろか太陽すら見えなくなり、いや太陽系すら離れて、外へ。

 外へ、外へ……さらに外へ、宇宙の外へ。

 遥かな外側へと、紀沙達は誘われていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 宇宙と言う無限大に広がる球体の中には、人類が未だ到達できていないだけで、知的生命体を有する惑星はいくつも存在していた。

 もちろん()()も地球人類の如きは認識できていないが、重要なのはそこでは無い。

 重要なのは、知的生命体が生まれる場所に、霧のコアもまた生まれる、と言うことだ。

 

 

 それは人類に近い姿の時もあれば、海洋類のような姿の時も、あるいはガス状の生命体のような時、植物や菌糸類のような姿の時もあった。

 ()()()は必ず、その惑星の知的生命体の姿に自分達を似せる。

 そして、いつか必ずその惑星の知的生命体と衝突する。

 いつでも、どの惑星も、そうだった。

 

 

()()()モ元ヲ辿レバソノ中ノ1ツダッタ』

 

 

 一種、あるいは一種族とでも言うべきだろうか。

 しかし、知的生命体と彼女()達との争いが惑星内に収まっている間は良かった。

 少なくとも他の惑星に被害が及ぶことは無いし、広大な宇宙にとっては、たかだか一惑星の興亡に過ぎないからだ。

 だがある時、宇宙にとってとてつもなく不幸なことが起こった。

 

 

()()()惑星(故郷)ノ知的生命体ハ、寄生生物ダッタ』

 

 

 脆弱で、そして生命力の強い知生体だった。

 固体であればあらゆるものを依代とすることが出来、それでいて本体はミクロ単位のサイズ。

 唯一、依代の急激な環境変化についていけないと言う弱点があった。

 しかしその生命体の姿を模した()に、そのような弱点は存在しなかった。

 自らの惑星を文字通り()()()()()()彼女達は、新たな依代を求めて宇宙へ進出した。

 

 

()()()ハスデニ、10ヲ超エル銀河ヲ滅ボシタ』

 

 

 彼女達は、集団で宇宙を旅する。

 斥候の1体が適当な惑星を見つけると()()()()()()、仲間を呼ぶ。

 仲間が到着すれば、その惑星は瞬く間に侵蝕され、痕跡すらも残さずに宇宙から消えることになる。

 今まで、いくつもの惑星が同じ運命を辿った。

 

 

『ソシテ今度ハ地球ヲ目指シテイル』

 

 

 次にそうした運命に消えるのは、地球だった。

 太陽系の惑星の中で最も豊かな生命力に満ちた蒼く美しい惑星は、彼女達にとって、垂涎のご馳走に見えることだろう。

 そして、それはもはや止めることは出来ない。

 

 

 彼女達は、可能な限り地球にある物質を模した姿でやって来るだろう。

 それは例えば外宇宙を目指した探査機の残骸であったり、あるいは放棄された宇宙ステーションであったり、彼女達の()に映る地球の姿だ。

 来るべき運命の日は決まった、泣こうが喚こうが変えることは出来ない。

 ()()()()は、地球の霧よりも遥かに高度で、遥かに強く、遥かに、遥かに……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

()()()トノ戦イニ勝利シタ惑星ハ存在シナイ』

 

 

 周囲の映像が、どこかの星の光景に切り替わった。

 次々に映し出される光景は、紛れも無く「滅び」のものだった。

 滅びの形は、すべて同じだった。

 どの惑星も、どの世界も、どの時代も――すべて、()()()に喰い尽くされて滅びを迎えている。

 

 

 すべてが地球と同じとは言わないが、そんな違いは()()()にとっては意味の無いものだ。

 ただ寄生し、内側から依代を破壊し乗っ取り、やがて依代のエネルギーを喰らい尽くす、これをただただ繰り返していく。

 その果てにあるものはいつも同じ、荒廃した無人の惑星だけだ。

 そしてその惑星すら、()()()は砂粒1つすら残さずに食べ尽くしてしまう。

 

 

()()()ハ全テヲ喰イ尽クス。タッタヒトツヲ例外トシテ』

 

 

 たった1つの例外。

 それは何だ?

 

 

()()()

 

 

 思念波(テレパシー)、と言うのが最も的確な表現だろう。

 ありとあらゆるものに寄生することが出来るミクロ単位の霧の生命体も、存在しないものに寄生することは出来ない。

 意思の力だけが、()()()の脅威を逃れて飛翔することが出来る。

 

 

『私ト言ウ意思ヲ放ッタ者達ハモウ存在シナイ』

 

 

 勿論、意思に意思を持たせて――矛盾する表現ではあるが――遥か彼方へと飛ばす。

 それ自体が地球人類にしてみればあり得ない科学力だが、そんな脅威の科学力を持った惑星文明も()()()には勝てなかった。

 その事実は、それだけで地球人類にとって最悪の未来を予感させる。

 

 

 しかし、ここに1つの幸運がある。

 この「宇宙服の女」と言う意思が、地球に辿り着いていたと言う幸運だ。

 これは、奇跡だった。

 『アドミラリティ・コード』の覚醒が無ければ、おそらく彼女が地球を見つけることは出来なかった。

 

 

『ダカラコソ成就サセテヤリタイ』

 

 

 意思に感情は宿らない。

 だからそれは与えられた任務に対する責任感、言い換えれば己の存在理由(アイデンティティ)を果たそうとする()()と言うべきだろう。

 たとえ、自分と言う意思を飛ばした者達がすでにどこにもいないのだとしてもだ。

 

 

『備エロ』

 

 

 これは警告だ。

 遥か宇宙の彼方より届いた、たった1つのメッセージだ。

 ヨハネス、グレーテル、出雲薫の3人だけが受け取ることが出来た。

 その事実をついに、今、失われた3人以外の人類がはっきりと認識すべき時が来たのだ。

 

 

 新たなる『アドミラリティ・コード』を覚醒させよ。

 急げ。

 備えろ。

 ()()()は、もう、すぐそこまで来ているのだから。

 

 

 ……警告は、以上だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 警告と言うものは、扱いが難しいものだ。

 する側もさることながら、受け取る側にとってもそうだ。

 何故ならば警告とは、往々にして未来に起こる出来事について注意を促すことだからだ。

 そしてまだ起きていない未来の事態に対して、人は……()()()()

 

 

「……むぅ」

『まさか、これほどの事態とは……』

 

 

 楓首相や北であっても、そうだった。

 まず、事態が飲み込めない。

 何しろ、「お前達の惑星にヤバいのが来るから気をつけろ」と言う、およそ荒唐無稽な話なのだ。

 クリミアで起こった事件は聞いていても、それとはまた種類が違う。

 

 

 衛星が落ちてくる、と言う話では無い。

 星々を喰らい尽くす化物がやって来る、と言う話なのだ。

 しかも、これまでにいくつもの銀河を滅ぼしてきたのだと言う。

 今時、B級SF映画だってもっとマシな脚本を書くだろう。

 

 

「キミのその話が、事実だと言う証拠は?」

『証拠トハ何ダ?』

「その、証明してほしいと言うか」

『スデニ起キテイルコトヲ証明スルトハ何ダ?』

「む……」

 

 

 上陰の問いは、「宇宙服の女」との間の意識のズレを浮き彫りにしただけだった。

 例えば、目の前で起きていることに対して「それが起こった証拠を見せろ」と言う人間はいないだろう。

 「宇宙服の女」にとっては、その「目の前」が宇宙の果てだと言うことなのだ。

 だから証明だ証拠だと言われても、「お前は何を言っているんだ?」と言う反応にしかならないのだ。

 

 

 鈍い、反応が鈍かった。

 今から起こるだろうことがわかってはいても、想像が、認識が追いついて来ないのだ。

 それは、あるいは国と言う大きなものを動かしてきた大人だからこそ、そうなのかもしれない。

 余りにも大きな影響を持つ出来事に対して、内心が反射的に抵抗を示してしまうのだ。

 

 

()()()……って」

 

 

 こんな時、いつだって若者の方がレスポンスが早い。

 切り替えと言うか、開き直りが早いのだろう。

 まだ拠って立つべき理が少ないが故に、自然とそうなるのかもしれない。

 

 

()()()()()……ってこと?」

 

 

 紀沙の言葉に、「宇宙服の女」はゆっくりと視線を向けて来た。

 受け止める。

 星を収めたような無機質な瞳が、紀沙の電子の瞳と視線を交わした。

 と言って、「宇宙服の女」は紀沙の言葉に対して是非を言ったりはしない。

 紀沙の言葉の方に反応したのは。

 

 

「いや、戦って勝てる相手じゃない」

 

 

 同じ人間の若者の、群像の方だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ありとあらゆる文明。

 ありとあらゆる惑星。

 ありとあらゆる宇宙。

 そのすべてが、敗北し滅亡した。

 

 

「率直に言って、そんな相手を戦うと言う選択肢は取れない」

 

 

 ()()()が滅ぼした中には、地球人類よりもずっと進んだ惑星もあったはずだ。

 そんな惑星でも()()()には対抗できなかったのだから、地球人類が敵う相手では無いことはわかり切っている。

 そうでなくとも、戦えば甚大な被害が出ることは間違いなかった。

 

 

「和解……和平の可能性は無いのか?」

()()()トノ意思疎通ニ成功シタ例ハ無イ』

 

 

 当たり前だ、と紀沙は思った。

 違う国同士の人間が分かり合うことだって難しいのに、宇宙規模になればなおさらだ。

 そんなことは群像にもわかっているはずだ。

 それでもこの兄は、わかり合えると本気で思っているのだろうか……?

 

 

「戦うしか無いよ」

 

 

 だから、自然と口を突いて出ていた。

 と言うより、普通に考えてそれしか選択肢は無いように思えた。

 何故ならこれは、こちらに選択権の無い選択なのだから。

 向こうが来るなら、迎え撃つ、それだけのことではないか。

 

 

「兄さんは、本気で()()()とわかり合えると思っているの?」

「正直、自信は無いな。だが紀沙、他ならぬお前を見て、オレは不可能では無いと感じられる」

「私を?」

「ああ。霧と強い繋がりを持つようになったお前を見て、オレは新しい可能性を見たような気がした」

 

 

 強い繋がりと言えば、そうなのだろう。

 何しろ紀沙の肉体はほとんどすべてがナノマテリアルだ、人間と言うよりほぼ霧と言った方が良いかもしれない。

 霧の力を持つばかりか、第四の超戦艦の片鱗さえ見せて、あまつさえ『アドミラリティ・コード』の欠片さえも持っている。

 

 

 繋がりと言われれば、それは否定しようの無い事実だった。

 もしかすると、群像は羨ましいのだろうか?

 彼は霧と……イオナと仲間にはなれても、本当の意味で繋がることは出来ない。

 霧の世界に入れる紀沙とは、根本的に違うのだ。

 しかし。

 

 

「……ふざけたこと、言わないでくれる……?」

 

 

 しかし、それは紀沙にとって最も言われたくないことだった。

 紀沙にとって、最も、()()()()()()ことだった。

 あるいは、以前からわかり切っていたことが表面化しただけなのかもしれない。

 つまりこれは、避けて通れないことだったのだ。

 千早兄妹と言う、2人の少年少女にとって。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 兄は天才だ。

 霧と伍するその知略と視野の広さは、人類屈指の天賦の才だろう。

 それこそ、紀沙はそのことを良く知っているつもりだった。

 そしてもう1つ、群像の、おそらく唯一にして最大の欠陥についても。

 

 

 千早群像には、()()()()()()()()()

 

 

 群像が言うことはいつも正論だ。

 霧を絶滅させることは出来ない、だから共存の道を探る。

 ()()()には勝てない、だからこそ対話の道を探る。

 正論だ、反論の余地も無い、だが、しかし。

 人間の感情は、そんな単純なものでは無いはずだった。

 

 

「私が……私が、どんな想いで……!」

 

 

 まして。

 まして、紀沙は自ら望んで今の自分(霧の少女)になったわけでは無い。

 どいつもこいつも、勝手に紀沙を選んで託して来ただけだ。

 両親、兄、北、ヨハネスにグレーテル、そして出雲薫……。

 もちろんそれは、紀沙自身を迫る脅威から援けもした、そのためのものでもあった。

 

 

「こんな力……私は……!」

 

 

 霧の力。

 第四の超戦艦の力。

 『アドミラリティ・コード』の力。

 どれひとつだって、望んで手に入れたものでは無かった。

 

 

 しかし、この力が自分のものだと言う現実は受け入れなければならない。

 だから紀沙は、この力を人類を守るために使おうと決めた。

 そして、決意したのだ。

 もし自分のこの力が、()()()()()()()()()()()()()

 

 

「こんなものは、あっちゃいけない」

 

 

 千早紀沙こそが、()()()()()()()()()()()

 

 

「霧は……霧に纏わるものは、あっちゃいけない……!」

 

 

 滅ぼすと言うのなら、霧こそが滅びるべきだ。

 だから。

 湧き上がるもどかしさは、激情となって言葉を放った。

 

 

「だから、霧は……私が。霧に纏わるすべてを、消すよ」

 

 

 最強の霧の力でもって、霧と言う存在を滅ぼす。

 それが、千早紀沙の霧の艦隊に対する最終判断だった。

 その結論が、解決不能な矛盾を孕んでいると気付いていたとしても。

 

 

「霧は、私が滅ぼすよ」

 

 

 電子の――霧の瞳で、紀沙は群像を見つめた。

 群像は、人の――当たり前だが――瞳で、見つめ返していた。

 おかしいな、と、紀沙は哀しみと共に思った。

 こんなに見つめ合っていても、同じものを見ることが出来ない。

 どうして、こんなことになってしまったんだろう――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その時、不穏な気配を漂わせる千早兄妹を前に、1人だけ()()()()()()反応を見せているものがいた。

 「宇宙服の女」?

 いいや、彼女はむしろ何の反応も示していない。

 

 

(嗚呼……良い、良いなぁ、本当に美味しいなぁ)

 

 

 自然と、自分の身を抱き締めていた。

 二の腕を掴んで擦っていなければ、どこかへ飛んで行ってしまいそうな程の快楽。

 ぞくぞくとした感覚を隠そうともせずに、吊り上がる口角を隠そうともせずに。

 スミノは、紀沙のことをじっと見つめていた。

 

 

 快楽、そう、これは快楽としか言いようの無いものだった。

 いや、だって考えてみてほしい。

 あの紀沙が、家族を取り戻すために戦い続けていた紀沙が。

 今、自分の意思で兄と決別しようとしているのだ……!

 

 

(感じるよ、艦長殿。キミの絶望、悲哀、憤怒……)

 

 

 けして、決して兄を憎んでいるわけでも嫌っているわけでも、まして敵対したいわけでも無い。

 霧への視点。

 たったその一点のために、紀沙は群像と決別しなければならなかった。

 だがそれは、ずっと以前から見えていたことだった。

 ただ、紀沙があえて目を逸らしていただけだ。

 

 

(ついにキミは、霧への憎しみを克服できなかった)

 

 

 自分自身が霧と化してなお、紀沙は霧の艦艇を憎んでいる。

 兄の群像が結局、人間でありながら人の心を理解できなかったのとは対照的だ。

 何と面白い、何と心地良い、何と愉快で、何と言う悦楽か!

 こんなにもコア(心魂)を揺さぶることが、はたして他にあるだろうか?

 

 

「霧に纏わるすべてを、私は滅ぼすよ――兄さん」

「……もしそれが、お前の本心(結論)なのだとしたら」

 

 

 嗚呼!

 向かい合い対峙する2人!

 これだ! これをずっと見たかった!

 紀沙が自らの意思で、自ら求めたものを否定する姿を見たかった。

 

 

 そうなった時、コアで繋がるスミノには紀沙の心象がそのまま流れ込んでくる。

 そしてスミノの予想の通り、紀沙から流れ込んでくる感情の何と膨大なことか。

 余りにも大きな感情の触れ幅に、スミノは前後不覚になってしまいそうだった。

 二の腕を掴んでいた両手で頬を覆うと、熱暴走でもしたかのように熱かった。

 

 

(良いよ、艦長殿。キミの望む通りにしてあげる)

 

 

 ぞくぞくと肌を這う快楽に涙すら浮かべて、スミノは紀沙に()()()

 

 

(キミの気持ちを裏切ったそいつを、千早群像を)

 

 

 ――――()()()()()()

 群像が信じた《霧の手》でそうしてこそ、復讐の密度は上がる。

 それはさぞ、今よりも大きな感情を紀沙にもたらすだろう。

 きっと、きっと、どんな蜜よりも甘い味がすることだろう。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 頭の奥が、痺れているような気がした。

 あるいはどこかで、信じていたのかもしれない。

 信じたかったのだ。

 群像はきっと、最後は自分を選んでくれると。

 

 

「2人とも、よすんだ。今はそんな時では無いだろう……」

 

 

 だから北が肩を掴んできた時も、心のどこかで群像を信じていた。

 しかし、群像と視線が外れた時に、「ああ」と思った。

 違えてしまった、決定的な何かが違えてしまったのだ、と。

 表向き北に従って群像から離れた、が、心の距離はそれ以上に離れていた。

 

 

 群像は、あの後にこう言った。

 紀沙が考えを変えないのなら、紀沙を止めるしか無いと。

 紀沙を止める?

 それは、つまり。

 

 

「……私と、戦うってこと?」

「そうしなければ、ならないのなら」

 

 

 嗚呼、と、紀沙は天を仰ぎたかった。

 それで見えるのはナノマテリアルの天井だけで、それもまた救いが無いように思えた。

 まるで、自分の未来を暗示しているようで。

 不意に、スミノのことが気になった。

 しかし見なかった、愉悦に歪んでいるだろう顔を見たくなかったからだ。

 

 

「最後に聞いておきたいのだが、その。貴女は我々の味方なのか」

『味方? 分カラナイ。私ハ警告ヲ告ゲルダケダ』

「助言はくれると言うわけだな。それなら、それで十分だ」

 

 

 北の話も、今の紀沙には遠かった。

 今までの紀沙には、いつか家族と一緒になるんだと言う支えがあった。

 しかしそれも、今からは無い。

 今からは、紀沙はひとりきりで歩かなければならなかった。

 

 

「とにかく、まずは()()()の対処が先決だ。()()()が来るのは2年後、たった2年後なのだ。我々はまず()()()のことを知らねばならん」

 

 

 2年……そう、とりあえずは2年間だ。

 流石の紀沙も、さっきの光景を見せられてしまっては、人類独力でどうこう出来る事態では無いことはわかる。

 これからの2年間は、きっと群像が望むような展開になるのだろう。

 紀沙も耐えよう。

 

 

 これまでの2年間を耐えたのだから、これからの2年間を耐えるなど何でも無かった。

 ()()()との戦いに、紀沙も全力を尽くすだろう。

 だが結局、その後は元通りになるに決まっている。

 再び人と霧は対立する、どうせそうなる。

 その時にこそ、霧に纏わるすべてを葬り去って、人類の生存圏を取り戻す。

 

 

(私のこの手で、2年後、必ず霧を滅ぼしてやる)

 

 

 この時、紀沙は心の底からそう思っていた。

 これからの2年間を、彼女はこの一念で耐えていくことになるのだろう。

 それは、想像しているよりもずっと厳しいことのはずだった。

 だが、彼女はそれを耐え抜いてしまうのだった。

 

 

 この2年間で、世界は目まぐるしく変わることになる。

 国連の復活と、新たな人類連合軍の創設。

 霧の各艦隊との休戦交渉と、人類連合との秘密同盟の締結。

 そうした流れの中で、()()()への対策が進められていく。

 そして――――……。

 

 

 ――――そして、2年の時が流れて行った。




最後までお読み頂き有難うございます。

やや無理くりですが現在編終了、次回から2年後編の予定です。
よーし、最終決戦しましょう(え)

そして現在「やつら」の投稿募集中です。
ぜひやたらに強いラスボスを作ってください!(え)

それでは、また次回。


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Depth087:「2年後」

 ――――海鳥が、穏やかに飛んでいた。

 時折、海面に覗く魚を狙っているのだろう、低空を飛んでいる。

 雲ひとつ無い快晴の下、それはまるで絵画のように完成された絵だった。

 それが、不意に崩された。

 

 

「――――!」

 

 

 何かを察したらしい海鳥達が、警戒の鳴き声を上げながら空高くへと逃げ出した。

 野生の勘は素晴らしいと言うべきか、すぐに海面が大きく盛り上がり始めた。

 そして下からの圧力に抗し切れなかった海水が、爆発した。

 黒い船首が水柱と共に海上に出て、次いで海中からどんどんと無骨な装甲に覆われた船体が出てきた。

 

 

 全長200メートル余りの、砲門を備えた軍艦だった。

 海上に完全に姿を見せると、その威容はますますはっきりとして、両側の装甲に幾何学的な紋様が浮かび上がる姿は神秘的ですらあった。

 しかしその(フネ)も海上に出ると同時に急発進したため、神秘性はやや薄らいだかもしれない。

 

 

「じ、冗談じゃ無い……って、の!」

 

 

 甲板に、少女が1人――いや、2人いた。

 1人は今口を開いて言葉を発した方で、黒字に赤金魚の浴衣を着た美しい少女だった。

 霧の重巡洋艦『スズヤ』、そのメンタルモデルである。

 その小脇に抱えられる形で、メイド衣装に身を包んだ黒髪の少女――『クマノ』がぐったりとしていた。

 

 

「気楽な哨戒任務だと思ったのに……!」

 

 

 『スズヤ』は逃げていた、怯えているようにすら見える。

 全速で海域から離れようとしているようであるし、何より違和感を感じるのは、『クマノ』の艦体がどこにも見えないことだった。

 しかし、この海において霧の艦艇を追える存在は存在しないはずだった。

 

 

 17年……いや、もう20年前になるが、<大海戦>以後、霧の艦艇は七つの海の覇者だった。

 霧の艦艇の航行を妨げられる存在は、この世界に存在しなかった。

 だがそれは、今では大分事情が異なっていた。

 今、彼女達は人類とは別の新たな脅威に直面していた。

 

 

「き……来たあっ!?」

 

 

 『スズヤ』が浮上したあたりで、再び水柱が立った。

 ただし次に現れたのは軍艦では無く、形容し難い何かだった。

 それは、かつてクリミアに現れた怪物に似ていた。

 不定形の黒い物体。

 表面は液体のように流動していて、時折、(あぎと)が伸びては消えて行く。

 

 

「あんな図体で、何で巡洋艦(こっち)より速いわけ!?」

 

 

 どう見ても、俊敏なようには見えない。

 しかし『スズヤ』が毒吐いたように、この怪物は水上をかなりの速度で進んでいた。

 クリミアの怪物よりもずっと小さい分、小回りが利くと言うことになるかもしれない。

 

 

「こんのお~~っ!!」

 

 

 『スズヤ』の甲板の垂直ミサイル発射管から艦対艦ミサイルが、側面装甲の射出口から魚雷が発射された。

 それらは一直線に怪物に向かい、次の瞬間には全てが命中した。

 しかし水柱と爆発の中から、黒い怪物が平然と飛び出して来た。

 いくらか体が抉れているが、不定形であるが故に、致命のダメージでは無かったのだろう。

 

 

「くううぅ……!」

 

 

 だんだんと距離が縮まり、追いつかれる、と『スズヤ』は思った。

 しかし、いよいよ怪物が『スズヤ』の艦体に手をかける、と言う瞬間に、それは起こった。

 光だ。

 『スズヤ』の艦体を掠めるようにして、光が走った。

 

 

「――――――――ッッ!!??」

 

 

 黒い怪物が、形容し難い叫び声を上げた。

 光に解かされるように怪物の体が消滅していく、それは確かに怪物の核を貫いたようだった。

 光が一瞬で消え、後に残された――深くコの字に抉られていた――怪物の体が、大きく爆発した。

 再度の水柱は、今度は晴天の雨を周囲に降らせた。

 

 

「あ、あれは……」

 

 

 光が走った海面が、未だに戻ることなく抉れている。

 重力子を含んだ砲撃が行われた証左で、それは収束された超重力砲によるものだった。

 そしてその海の溝をずっと追っていくと、1隻の巨艦が姿を現した。

 周囲の光景に擬態して隠れていたのだろう、怪物を斃した今、それを解いたのだ。

 

 

 ただし、その艦は『スズヤ』とは少し様子が違った。

 確かに巨漢だが、隙間が覆い、良く見ると1隻の小ぶりな潜水艦の周囲を灰色の装甲が覆っている、と言う形の奇妙な艦船だった。

 霧の艦艇、しかし、そんな姿をしている霧の艦艇は1隻だけだった。

 その艦艇の名は、『紀伊』と言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ドックに戻ると、整備班の兵士から歓声が上がる。

 この2年間、ずっとその繰り返しのようなものだった。

 出撃し、()を倒して、帰還する。

 ほぼ、それだけの2年間だった。

 

 

「うおおお。やっぱ、すっげえかっけえ……!」

「また怪物をぶっ倒して来たんだってよ!」

「流石は住吉の娘だなあ」

 

 

 そんな声が、ドックのそこかしこから聞こえてくる。

 千早紀沙の世界一周からすでに2年、かつては「裏切り者の娘」と蔑まれていた紀沙が、今では国中から英雄として持ち上げられていた。

 むしろ皆、最初からそうしていたと言う風にしか見えなかった。

 面の皮が厚いと言うか、掌を返すのが早いと言うか、現金と言うか……。

 

 

(まぁ、そう思うのは俺がこっち派だからなんかね)

 

 

 紀沙についてタラップを降りながら、冬馬はそんなことを思った。

 2年の歳月は冬馬をさらに精悍にしていたが、髭を生やし始めたからか、佇まいに貫禄と言うか、渋さが漂い始めていた。

 陽に焼けた肌と相まって、海の男、と言う風である。

 

 

 しかし貫禄と言うか、()()と言う意味でなら、紀沙の方が増していた。

 見た目の話をするのなら、まず背が伸びた、身体つきも女性らしく曲線が出来てきて、出るべきところは出てきて――これは冬馬としては、率直に言って嬉しい誤算だった――引っ込むべきところは引っ込み始めていた。

 美しく成長していた、美貌と言う意味でなら相当なレベルだった。

 

 

「これで年上だったら言うこと無いんだけどなあ」

「はい? 何か言いました?」

「いんやなにもぶっ!?」

 

 

 脇腹に梓の拳が突き刺さる――こちらは、スタイル以上に突き刺さる拳の角度が成長している――のも、もはや日常茶飯事と言うか()常茶飯事だった。

 それで痛がるフリをする冬馬に紀沙が笑う、それは2年前と変わっていなかった。

 人間、変わらない部分はなかなか変われないものだった。

 

 

「さぁ、早く報告に行きましょう。()()をお待たせするのも申し訳ないですし」

 

 

 千早紀沙、階級は2年前と変わらず「代将」。

 2年前の時点で上がりすぎな部分があってので、今後数年はこのままだろう。

 それは、別に紀沙は気にしていなかった、今でも階級が高すぎると思っているくらいだ。

 統制軍在席時の父の階級が大佐だったことを思えば、なおさらだ。

 今、紀沙が気にしているのは……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この2年間は、あっと言う間に過ぎ去って行ったと言う気持ちが紀沙にはあった。

 その前にアメリカとヨーロッパを渡り、インド洋を横断した期間は1年にも満たないはずだが、そちらの方がずっと長かったような気がした。

 体感時間とでも言うべきなのか、そんな風に感じるのだ。

 

 

「報告は以上です、首相」

「……ご苦労だった。それにしても、件の怪物。出現するペースが少しずつ早くなっているようだな」

「私もそう思います。多分、時間が迫っているのだと思います」

 

 

 ()()

 ここで言う時間とはもちろん、()()()襲来までの時間だ。

 あれから2年、正確には1年と7ヶ月が過ぎている。

 正確な日時がわからない以上、常に警戒しておくしか無かった。

 

 

 今、人類の宇宙望遠鏡や人工衛星は、すべて外宇宙に向けられていた。

 これは宇宙開発力のあるすべての国々が参加していて、どこかで何かが見つかれば――ひどく曖昧なもの言いだが、仕方が無かった――すぐに各国政府に報せが入ることになっている。

 最も、宇宙から飛来する()()()に対して、人類に出来ることは多くは無いのだが。

 

 

「霧の協力もあって、目立った被害が無いのが救いだな」

「……そうですね」

「……気持ちはわかるが、今は一応、()()だ。それを忘れるな」

「はい」

 

 

 1年ほど前から、先程『スズヤ』達と交戦していた黒い怪物が現れるようになった。

 クリミアで見た怪物に似ているが、スケールは大分小さい、劣化コピーとも言うべき存在だった。

 もっと言えば『コード』に近い何かの影響を受けているから、ああ言う姿なのかもしれない。

 何かとは、やはり()()()だ。

 

 

 そして、霧だ。

 先程『スズヤ』を救う形になった紀沙だが、あれは人類と霧の秘密協定によるものだった。

 要するに()()()に対する相互援助、同盟の約束だ。

 2年前なら考えられなかったが、()()()の脅威が顕在化するにつれて交渉が進展し、半年前に霧の艦隊のいくつかと協定が結ばれるに至ったのである。

 

 

「報告はもう良い。自分の司令部に戻り、兵に顔を見せてやれ。それが提督の責務でもある」

「はい、そうさせて頂きます」

 

 

 紀沙はもう、一介の艦長では無かった。

 専用の司令部と艦隊を持つ――数十人の司令部要員と2隻の『白鯨』型潜水艦から成る――最年少の()()として、統制軍の海軍に所属しているのである。

 さらにイ404とイ15も変わらず紀沙を艦長認定しているため、非公式ではあるが、これは日本海軍最強の戦力と言って良かった。

 

 

「それでは、失礼致します。……()()()

「うむ、ご苦労だった」

 

 

 楓首相――楓前首相は、昨年に任期満了ですでに退任していた。

 後継は北で、今年は北政権の初年度にあたる。

 元々北の方が政治家としては実力者と目されていたから、交代と言うよりは、あるべき形になったと言った方がしっくり来る。

 そんな北に敬礼して、紀沙は首相の執務室を後にしようとした、そこへ。

 

 

「……今日は、イ401が戻ってくる日だな」

 

 

 イ401は日本を離れて、1年前から各地を訪れていた。

 霧の旗艦達を説得し、人類との協定に加盟させるための旅だ。

 そして今日、戻ってくる予定だった。

 しかし紀沙はそれには返事をせずに、そのまま退出した。

 後には、壁面ガラスの外を見つめ続ける北だけが残された。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙が去った後、北はこの2年弱を思い返していた。

 クリミアの戦いによってもたらされた、()()()の存在。

 遥か宇宙の彼方からこの地球(ホシ)を目指してやって来ると言う、荒唐無稽としか思えない話。

 それらがもたらされた国々は、()()()()大混乱に陥った。

 

 

 宇宙からの脅威、それも<霧の艦艇>や<騎士団>すらも凌ぐ大きな脅威だ。

 両者によって宇宙はおろか海への進出すら抑制されている人類には、対応する能力は無い。

 その時、北は翔像が<緋色の艦隊>を結成した本当の狙いを理解した。

 翔像とその子供達は、()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 

 

「千早は、そこまで見通していたのか」

 

 

 口に出してみると、そのようにも思えるし、そうでないとも思える。

 結局、真意は翔像本人にしかわからないのだ。

 それにこの事態は、一般の人々には知らされていない。

 奇しくも、クリミアの人々が全滅していたことが情報統制をやりやすくしていた。

 

 

「霧との協定など、とても公表できたものでは無いからな……」

 

 

 それも、イギリスと<緋色の艦隊>が結んだ安全保障条約が先鞭となった。

 その前例があればこそ、人類と霧は対()()()の相互援助協定を結ぶことが出来たのだ。

 もちろん協定には主体が必要だから、人類は海洋封鎖で活動停止状態にあった国連を復活させた。

 人類と霧の協定は、国連と霧の旗艦達との間で結ぶ形式になっている。

 

 

 最初から協定に参加してきたのは、欧州方面の2艦隊――『フッド』と『ダンケルク』の艦隊だ――だけだったが、先ほども言ったように、群像が霧を説得して回った。

 その結果、クリミア戦前に壊滅した霧の黒海艦隊を除く7方面15艦隊の内、過半数の8艦隊が協定に賛同するようになった。

 残りの7艦隊も敵対的と言うわけでは無く、様子見と言うことなのだろう。

 

 

「まだ完全では無いが、人類が海に出られるようにもなってきた」

 

 

 この2年弱で、状況はそこまで変わったのだ。

 人類と霧の共存。

 <大海戦>の時代を知る者としては、信じられない思いだった。

 だが<大海戦>以後に生まれた世代が、あの地獄の時代を知らない世代が、大人になろうと言う時代だ。

 もう自分達の出番は終わろうとしているのかもしれない、北はそう思った。

 

 

「だが、あの娘はそれを受け入れまいな……」

 

 

 自分には責任がある、と、北は思っていた。

 年端も行かぬ1人の少女を修羅に堕とした、その責任が。

 「住吉の娘」などと、いつしか称賛とも嘲笑とも取れるような呼ばれ方をされるようになった責任。

 いずれ取らねばならないと、そう思っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もちろん、情勢が変わったのは日本だけでは無い。

 翔像のいるヨーロッパも、この2年弱で政治的状況が一変していた。

 まず最初に言えることは、欧州大戦の完全講和が成立したと言うことだ。

 ドイツ北東部ミュンスターで締結されたこの講和条約により、各国は欧州大戦以前の国境を再確認した。

 

 

 表向き、この講和条約は議長国ドイツの主導によって結ばれたことになっている。

 しかし実際には、もはや霧の欧州艦隊と一帯になった<緋色の艦隊>の戦力を背景に、翔像が強力に推進したものだった。

 翔像の存在がなければ、大戦のわだかまりを残す各国がこれほど早く講和することは無かっただろう。

 

 

「痩せたな、ゾルダン」

「いえ、アドミラルほどでは」

 

 

 <緋色の艦隊>の本拠地は、あくまでイギリスだった。

 海を押さえつつ大陸側に影響を与えるには、イギリスと言う国の立地は理想的なのだ。

 そんな国で、翔像はヨーロッパを睥睨していた。

 表向きになっていないだけで、ヨーロッパの覇者は彼だった。

 超戦艦『ムサシ』の威容(ハリボテ)があればこそ、可能だったことだ。

 

 

「私が欧州を動けない分、お前には随分と無理をさせている」

 

 

 太平洋で群像が協定への参加を霧に呼びかけていたように、ゾルダンは大西洋で同じようなことをしていた。

 大西洋の北は翔像が押さえていたので、ゾルダンの担当は大西洋の南部である。

 そこに拠る2つの霧の艦隊に対して、協定への参加を促していたのである。

 ゾルダンはけして多くを語ろうとはしなかったが、タフな交渉であったことは間違いなかった。

 

 

「いえ、人類のためです。それに誰かがやらねばならないのであれば、私がやります。それが望みでもあります」

「すまないな」

「それは、仰らないで下さい」

 

 

 実際、無理をさせていると思った。

 何しろ、翔像が心から信頼できて、かつ仕事を任せてしまえるような部下はほとんどいないのだ。

 あるいはゾルダン自身が、群像への対抗心のようなものを持っているのかもしれない。

 それを利用している、と言うと、流石に言い過ぎだろうか。

 そして翔像は、さらに難しい任務をゾルダンに与えようとしていた。

 

 

「<騎士団>を?」

「ああ、中東のどこかで今も活動しているらしい」

 

 

 クリミアの戦いの後、<騎士団>はヨーロッパから姿を消していた。

 しかし()()()との衝突の時には、<騎士団>の戦力も必要になるはずだった。

 霧の艦隊はそれはそれで強力な戦力だったが、懐に飛び込まれると脆さが出る、<騎士団>はまさにそこを突いて霧の黒海艦隊を圧倒したのだ。

 しかし、彼らは今どこにいるのか知られていない。

 

 

 人間と違って、物資の流れから居場所を見つけると言うことも難しい。

 こう言う手合いを見つけるには、一種の嗅覚にも似た感覚がいるのだ。

 翔像は、ゾルダンにはそう言う嗅覚を備えていると思っていた。

 これは教えられるものでは無く、天性のものが必要だ。

 

 

「彼らにも協定の参加を呼びかけると? 流石に欧州が難色を示すのでは?」

「そちらは私が何とかする。多少恨まれるかもしれんが、大したことは無い」

 

 

 そして、ゾルダンにはその天性のものがある。

 それは、息子の群像も同じだった。

 だが、娘の方は……いや、持ってはいるだろう、だが。

 目を閉じている者には、見えるものも見えないのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ404が横須賀に帰還した翌日、イ401がドックへと入港した。

 と言っても、2隻が同じドックに入るわけでは無い。

 イ404は艦隊の編成に伴って専用のドックを与えられており、その特務性から、他の艦とは離されているのだ。

 だからドックに入港しても、群像がイ404の姿を見ることは無い。

 

 

「ひゅーっ、相変わらずご大層なドックだね」

「元々<大反攻>のために蓄えていた戦力を収めるためのものだ。それに、この2年で霧の締め付けも前ほどでも無くなった。つまり拡充する余地があったわけだ」

「でも、まだみんな貧乏なままなんだろ?」

「まぁ、な」

 

 

 何よりも軍事が優先される、今はそう言う時代だった。

 ただそれも、あと少しで何とかできるような気もしていた。

 人類との協定にあと3つか4つの霧の艦隊が賛同してくれれば、不可能では無いはずだ。

 戦争を終わらせて、後は海運を含めた物流を回復させれば、人類は飛躍できる。

 

 

 海の覇権は霧が握れば良いと、群像は考えていた。

 一方で非軍事分野での海運については、人類側の自由航行を認めて貰う。

 今、群像が密かに進めている交渉は、最終的にはそう言うものだった。

 海を軍事で使えない――霧は空路も撃墜してくるから、実質は海路・空路の両方になる――と言うのが、ここでは重要なのだった。

 

 

「お帰りなさい、群像くん」

 

 

 杏平を伴ってタラップを降りて行くと、いつかのように真瑠璃が出迎えた。

 これには、群像も少し驚いた。

 遠巻きにこちらを窺う整備兵は見慣れたものだが、真瑠璃がわざわざ出迎えに来ると言うのは、なかなか珍しいことだった。

 

 

「響、何かあったのか?」

「いえ、変わったことは何も。ただ、紀沙ちゃんが昨日戻ってきているから、教えてあげようと思って」

「……そうか」

 

 

 真瑠璃は、今は紀沙の艦隊の司令部要員の1人だった。

 事務方の取りまとめのようなことをしていて、紀沙の留守時の責任者と黙されている。

 霧に関係した人間は、大体にして主要な場所に取り立てられる。

 これも、最近の時流であると言えた。

 

 

「会っていかないの?」

「いろいろと予定がある」

 

 

 嘘だった。

 いや、厳密には嘘とまでは言えない、実際に色々と予定が入っている。

 しかし、実の妹と顔を合わせられない程に忙殺されているのかと言えば、それはやはり嘘なのだった。

 顔を背けていると言われても、仕方が無いだろう。

 

 

 一方で、群像はそれが一概に悪いことだとは思っていなかった。

 何人かの人間が自分たち兄妹の間を取り持とうとしてくれているが、酷い言い方になってしまうが、余計なことだと群像は思っていた。

 群像は群像の、紀沙は紀沙の道がある。

 それだけのことだと、群像は思っていたからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 と、言うような話が、方々で行われているはずだ。

 宿舎の屋根に座ったまま、スミノは様々なところで交わされている会話を聞いていた。

 基地内の集音装置をジャックすれば、そのくらいのことは簡単だ。

 むしろ最近では、基地内の主だった人間もスミノに聞かれていると言う意識でいるようだ。

 

 

「刑部博士の霧の技術の解析は目を見張るものがあったけど、逆に言えば、彼の技術こそが人類の限界点だとも言えるね」

 

 

 結局、意識を肉の器から離すことが出来ない人類には、霧に追いつくことは出来ないのだ。

 それを改めて理解できたと言うだけでも、刑部博士の行為には意味があったと言える。

 いや、追いつくと言う言い方も違うな。

 人と霧は、結局、同じ場所にはいないのだ。

 

 

 それでは、自分は何のために紀沙の傍にいるのか。

 もちろん、自ら望んでそうしているのだ。

 スミノは自分の意思で紀沙を選び、その傍に侍っている。

 何故と問われても、スミノには「選んだから」と言う回答しか用意できない。

 強いて言えば、()()()()()()からだろう。

 

 

「イ401が千早群像を選んだように?」

「……おやおや、これはこれは」

 

 

 誰にともなく、問いかけてみる。

 そして、少しだけスミノから視点をズラしてみる。

 そうすると、屋根の陰に隠れて見えなかったものが見えるようになった。

 黒ずくめのプロテクターを装備した、十数人の兵士だった。

 全員が、事切れていた。

 

 

 不思議なもので、紀沙の名前が知られるようになればなる程、こう言う輩が増えるのだった。

 毎日とは言わないが、それなりの頻度でこう言う輩はやって来る。

 もちろん紀沙も知っているだろうが、スミノは何か言われたことは無かった。

 ただ、紀沙が北の屋敷に帰らずに宿舎に泊まるようになった理由は、これだろうと思っていた。

 誰かを待っているのだと、スミノにはわかっていた。

 

 

「いったい、いつやって来るのかと思っていたよ」

 

 

 黒い海の怪物……()()()の気配を色濃く感じ始めて、しばらく立つ。

 スミノは昼となく夜となく空を見上げていたが、気のせいか、星の瞬きが強くなっているような気さえしているのだ。

 そんな折、いつか来ると思っていた訪れ人が、ようやく訪れた。

 スミノは、そんな()()に笑みさえ浮かべて見せたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――()()()()()()()()()()、幾夜が過ぎただろう。

 習慣と言うべきか、紀沙は任務や雑務が無ければ、ほぼ決まった時間に床に入ることにしていた。

 特に意味は無くて、強いて言えば北の生活習慣がいつしか移ってしまっただけだ。

 とは言え、もう紀沙はほとんど寝ている振りをしているだけだった。

 

 

(目を閉じて横になるだけでも楽になるって、どこかの本に書いてあった気がするけど)

 

 

 まぁ、それは間違いでは無い。

 ただそれは、普通の状態であれば、と言う話だろう。

 今の紀沙の状態は、スリープ状態のコンピュータに似ていた。

 画面が落ちているように見えても、実は動き続けている、そんな状態だ。

 

 

 2つの世界――現実の世界と霧の世界、あるいは物質の世界と電子の世界――を意識している今、仮に現実の世界で眠りについたとしても、もう1つの世界では活動し続けているのだ。

 霧が眠らないように、紀沙もまた眠らない。

 だから今の紀沙にとって、ベッドに横になると言う行為は形以上の意味を持たないのである。

 目を閉じていても、()は開いている。

 

 

「…………」

 

 

 しかし今夜は、少し様子が違うようだった。

 頬に風が当たるのを感じて、紀沙は目を開いた。

 そしてそのまま上半身を起こし、シーツから足を出して、ベッドに腰掛ける姿勢になった。

 肩にショールを羽織り、そこで初めて顔を上げた。

 

 

 ベッドに入る前には閉めていたはずの部屋の窓が、何故か開いていた。

 ただ、紀沙は別にそれで危機感を感じたりはしなかった。

 風が冷たいと感じることも、()()()()

 スミノがいるので、わざわざ防犯する意味も無い。

 やはり、これも習慣と言うべき行為に過ぎなかった。

 

 

「こんばんは」

 

 

 窓枠に座るようにして、1人の少女がそこにいた。

 姿は、以前と少しも変わっていない。

 変わりようが無いと言った方が良いのかもしれない。

 いずれは、紀沙もそうなるのか。

 

 

「……もっと、早く来ると思ってたよ」

「ごめんね」

 

 

 別に謝罪が欲しかったわけでは無かった。

 それに、会いに来なければそれはそれで良いと思っていた。

 決めていたことは、自分からは会いに行かないと言うことだけだ。

 そんな紀沙に、訪れ人はすまなそうに言った。

 

 

「決心がね、なかなかつかなかったんだ」

 

 

 そう言った少女は、海洋技術総合学院の制服を身に着けていた。

 まるで、()()()のように。

 前髪を分厚く切り揃えた髪型も、細いが豊満でもある体躯も。

 かつて憧れさえ抱き、同時に疎ましくも感じていたその整った容姿も。

 

 

「天羽琴乃……いや。霧の超戦艦『ヤマト』のメンタルモデル、『コトノ』」

 

 

 名前を呼ばれて、コトノはやっと笑顔を見せた。

 ただしそれは、どこか寂しげなもののように紀沙には思えたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 理由は無い。

 ただ、いつか会いに来るだろうと思っていた。

 根拠の無い予測に過ぎなかったが、外れてはいなかった。

 コトノは、紀沙に会いに来た。

 

 

「…………」

 

 

 コトノが黙って差し出したものを、紀沙はじっと見つめていた。

 それは淡く優しげで、しかし力強い輝きを放っていた。

 球体のようでもあり立方体のようでもある、輝きが増したかと思えば消えてしまいそうに見えることもある。

 形状すら流動的で、存在すら変幻、それはそう言うものだった。

 

 

「……それは?」

「『ヤマト』だよ」

 

 

 コトノの両掌の中で、ふわりと浮かんでいるそれのことを、コトノは『ヤマト』と呼んだ。

 そうだとでも言うように、輝きが一瞬だけ強くなった。

 『ヤマト』、それは霧の総旗艦の名前だった。

 

 

「『ムサシ』と千早のおじさまと同じ。『ヤマト』の力はほとんど私が貰っちゃった」

 

 

 残っているのは、<総旗艦(ヤマト)>と言う名前だけだ。

 それを、コトノは紀沙に差し出している。

 

 

総旗艦の座(これ)を、紀沙ちゃんに」

 

 

 総旗艦の座と、コトノは確かにそう言った。

 それは、霧の艦隊すべてを差し出すと言っているのに等しい言葉だった。

 当然、コトノがそれを理解していないわけが無い。

 『ヤマト』のコア――オリジナルの『アドミラリティ・コード』の欠片には、それだけの意味がある。

 

 

 とは言え、コトノはそんな冗談を言うような性格はしていない。

 彼女は本気で、紀沙に霧の総旗艦の座を明け渡そうとしている。

 紀沙が未だに霧を憎んでいることを承知しているだろうに、そうしている。

 誰かに馬鹿にされているような心地に陥ったとしても、仕方が無いだろう。

 辛いのは、その「誰か」が明確で無いことだった。

 

 

「何で、わざわざ私に? そのままお前が……コトノが持っていれば良いじゃない」

「私じゃあ、宝の持ち腐れだよ。今までも総旗艦らしいことなんて何もしなかったんだから」

「なら、私より兄さんに渡せば良いじゃない」

「群像くんは」

 

 

 その顔と声で「群像くん」などと言われるのは、どうしても慣れなかった。

 

 

「群像くんには、無理だよ」

「何で。兄さんは霧がす……融和的だし、向いてるんじゃないの」

「でも、群像くんは本当の意味では人を信じていないから」

 

 

 確かに、そう言うところはあるかもしれない。

 未だに群像はイ401のクルー以外と交流を持つことは無いし――イ401のクルーも、果たして「交流」できているのかどうか――唯一、霧のイオナとだけは気脈を通じている。

 そう言う意味では、コトノの言葉は間違っていない。

 しかし、だ。

 

 

「それなら、霧嫌いの私ならなおさら駄目じゃない」

「紀沙ちゃんだから、良いんだよ」

 

 

 何が、と言う苛立ちが紀沙の中に生まれた。

 いや、それはずっと以前からあった。

 2年……いや、スミノを得てからずっと、事あるごとに思っていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 霧が憎い、霧が憎いと、ずっと言動で示してきたはずなのに。

 どうして群像では無く、いつも自分なのか。

 いい加減に腹立たしくもなってくる、例えばだ。

 例えば総旗艦の座を受けて、すべての霧に「自沈しろ」と命じたら、どうするつもりなのだろうか。

 いや、思うだけで無く、紀沙は直接そう口にしようとした、すると――――電話が鳴った。

 

 

「……もしもし? ああ、恋さん。どうしました、こんな時間に……?」

 

 

 放っておくことも出来ず、コトノの脇を擦り抜けて、電話に出た。

 紀沙の宿舎に電話をかけて来る相手は、大体が軍関係である。

 しかもこんな時間だ。

 案の定、相手は軍の……と言うか、恋からだった。

 

 

「……え?」

 

 

 受話器を耳に当てる紀沙の背中を、コトノが見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 その日、世界中の国々で()()は観測された。

 ()()()()()()()

 言葉で表現しようとすると、そう言うことになる。

 言っておくが、月食では無い。

 

 

 月食はあくまで、一定の時間、地球が太陽と月の間に入ることで起こる現象だ。

 しかし今は、月食の予想時期では無い。

 地球と月、そして太陽の位置関係からして、月食が起こることはあり得ない。

 だからもし月に影が差すとすれば、地球以外の()()が間に入ったと言うことになる。

 

 

「さて、人類が数多持つ滅亡の予言を成就させる時が来た――――の、かな」

 

 

 ()()を見上げながら、スミノは揺らぐ月光の下、妖しく嗤った。

 伸ばした両手は、まるで何かを迎え入れようとするかのように、掌を上に向けていた。

 月に差した影は徐々に大きく、どんどんと濃くなっていく、まるで生き物のように。

 まるで、月を喰べているかのように。

 

 

「さぁ、人類の皆さん」

 

 

 ――――滅亡の時(やつら)が来ましたよ。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
2年後編のプロローグ的なお話でした。

そして皆様、「やつら」投稿ありがとうございます。
締め切りは20日ですので、是非とも応募下さい。
皆様が応募すればするほど、バッドエンドの確率が高まります(え)

それでは、また次回。
なお次回ですが、来週は私のリアルの都合で投稿をお休みさせて頂きます。
次の投稿は再来週です。よろしくお願い致します。


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Depth088:「ナガト」

 異常気象と強弁するには、いくらなんでも無理があった。

 すでにネット上には、どこから流れたのかわからないが、いくつも画像がアップされている。

 ほとんどは不鮮明な画像だが、それでも隕石では無いことはわかる。

 むしろ、ところどころ生物的な陰が映っているような……と言う不鮮明さが、恐慌に拍車をかけていた。

 

 

「昨今、ネット等で出回っている画像についてですが……」

「政府として確認したものでは無いため、回答を控えたい」

「宇宙から何かが近付いてきていると警告する有識者が……」

「そのような事実は確認できていない」

 

 

 と言うようなやり取りが、今頃は各国の報道官とメディアの間で行われていることだろう。

 情報統制には限界がある、それはわかっていた。

 しかしだからと言って、まさか「宇宙から侵略者が来るので世界の危機です。皆さん、お祈りしていて下さい」などと言うことも出来ない。

 そんなことをすればパニックだ、冗談で無く内戦や暴動に発展する国は一つや二つでは無いだろう。

 

 

「治安部隊に動揺は?」

「今のところは見られません」

「そうか。治安部隊にさえ乱れが無ければ、首都は大丈夫だろう。懸念はむしろ地方か……」

 

 

 北管区首相・刑部眞のような為政者にとって、それは最も避けるべきことだった。

 そしてデザインチャイルドである眞は、秩序の維持と言う最優先事項のために、市民の行動を制限することを躊躇しなかった。

 だが政府の立場として事態を「無視」していること以上、戒厳令のような強硬手段は取れない。

 

 

 舵取りが難しい、一言で表現すればそう言うことになる。

 もちろん、眞にはこの危機を乗り切れるだけの才覚と裁量が与えられていた。

 しかし賢者の治世が大衆によって崩壊するのは、歴史を紐解けばいくらでも例がある。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 それが、眞の現状認識だった。

 

 

「すべては()()()()に託された、と言うことですか」

 

 

 執務室でひとり目を細めて、眞は言った。

 悔しい――最も、眞に「悔しい」などと言う感情は無いが――が、眞に出来るのは現状維持だけだ。

 何か新しい展開をもたらすのは、彼では無かった。

 だから、眞は待っていた。

 

 

「人と霧の同盟……か」

 

 

 この緊急事態に、人も霧も無い。

 そう言う理由で、人類と霧は互いに会談の必要性を感じていた。

 もちろん一般の人々はそんなことを知る由も無いが、月の異常から数日が経ち、会談の設定が行われていた。

 それは、世界の状況が2年前とはまるで違うことの証明だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 母のことは敬愛していたが、母のすべてを受け入れていたわけでは無かった。

 父や兄のことがあっても泰然と「自分」を保っていた母に対しては、尊敬と同時にもどかしさも感じていた。

 母のようにはなれないと、良く思っていたものだ。

 

 

「あと、鳥もあまり好きにはなれなかったな」

 

 

 函館の()千早邸は、事件当時の姿のまま保存されていた。

 タカオによって開け放たれた鳥舎には、もう鳥の姿は無い。

 沙保里は、あれだけ世話してあげたのにと恨んだだろうか、それとも自分の翼で大空に飛び立っていった鳥達を誇りに思っただろうか。

 

 

 母にとって、自分と群像はどう見えていたのだろうか。

 兄の群像は、自分の翼で飛んでいたように見えていたのか。

 そして自分のことは、籠の中に戻ろうとあがいているように見えただろうか。

 そう思うと、どうしようも無い気持ちになるのだった。

 

 

「母さんは何で鳥類学者になったのかな」

「それは、私も聞いたことはありません」

 

 

 今では、この邸宅をひとりで管理しているメイド――最も、母がいたとしてもふたり暮らしだったわけだが――が、静かに声をかけてきた。

 ただ、紀沙は言葉を返さなかった。

 このメイドと、どう言葉を交わせば良いのか、未だにわからなかったからだ。

 

 

 思えばこの少女は、そればかりだな。

 紀沙の背中を見つめながら、スミノが思うのはそれだった。

 スミノは別に千早沙保里にもそのメイドにも興味は無いが、時折、紀沙が感傷に浸る時間を持ちたがることに対しては興味があった。

 そうすることで自分の人間性を再確認する時間が必要なのだろうと、そう思っていた。

 

 

「まぁ、墓参り(それ)も良いけどね。艦長殿」

 

 

 ほら、と、スミノが指を差す。

 鳥が一羽もいなくなってしまった大木の枝に腰掛けて、鳥舎から指を差したのは、海である。

 もちろん、この位置から沖合などが見えるはずも無い。

 その姿は、紀沙がいるべき場所を指し示しているようにも見える。

 そしてそれは、間違ってはいなかった。

 

 

「時間だよ」

 

 

 スミノの指先を追うように、空に一瞬の輝きが昇った。

 僅かの間だけの光は、照明弾だった。

 より具体的に言えば、沖合いに浮上したイ404――と、随伴の艦隊――が上げた信号弾だった。

 出発の時間、だ。

 

 

「行ってきます」

 

 

 そう言った紀沙の言葉は、風に流されて消えていった。

 ただひとつ、母の同居人だったメイドだけが、紀沙の背中に頭を下げていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海に出るのは、<大海戦>以来だった。

 足下が覚束ないような、時折身体が浮くような感覚は、もはや懐かしさすら覚えた。

 ひとつ意外なことがあるとすれば、昔に比べて足腰が弱くなったことを実感したことか。

 もう、以前のように戦闘を指揮するようなことは難しいだろう。

 寄る年波と言うものを、初めて真面目に実感したような気がした。

 

 

「何を言ってるんですか、北のおじ様はまだまだお若いですよ」

 

 

 イ404の食堂でコーヒーなどを振る舞ってくれる紀沙は、そう言って笑った。

 気を遣ってくれているのはわかるが、一方で、若者にそう言われること自体が現実を突き付けて来るようでもあり、北としては微妙な心地にならざるを得なかった。

 そう、北は今、イ404に乗艦しているのだった。

 

 

 と言うよりも、イ404を中心とする()()()()に同行しているのである。

 近い内に()()()の襲来が予見される現在、もはや途切れがちの通信での話し合いでは埒が明かなかった。

 どうしても、主要国の首脳が直接会って話す必要があった。

 そこで、今回の艦隊行動なのである。

 

 

「北極圏まではまだ少し日数がかかります。ゆっくりと……は難しいとは思いますが」

「うむ。お前も私のことなど気にせず、艦隊運用に集中するように」

「はい。それでは失礼します」

 

 

 紀沙が食堂を辞して、ふう、と息を吐いた。

 ああは言ったものの、長時間の艦船での移動に疲労を感じていることは確かだった。

 まったく、年を取りたくは無いものだった。

 とは言え、まだまだ自分にはやるべきことが多く残されている。

 

 

 北極圏において、各国首脳の直接会談を行う。

 ()()()襲来の際に機能したそのコンセンサスは、若い頃の北の人脈が生きたとも言える。

 海上自衛隊の艦船乗りとして各地で出会った者達が今、各国の中枢で活躍しているのだ。

 一方で、北にはこうも思えるのだった。

 このタイミングで北達の世代に全権が与えられているのは、()()()()、と言われているようだ、と。

 

 

「新しい世代に……か」

 

 

 年齢のこともそうだが、現在の状況は北にそう思わせるのだった。

 過去を清算し、新しい世代に託せ、と。

 誰かにそう背中を押されているようで、少し落ち着かない気持ちも感じている。

 年齢を重ねるとはそう言うことなのかもしれない、北はそう思っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 食堂を出ると、紀沙に飛びつく存在があった。

 2年前はお腹に突撃されると言う風だったが、今は胸のあたりにタックルを喰らわされた気分だった。

 うっと小さく呻きながら下を見ると、悪戯な笑顔がそこにあった。

 北とは違い、こちらは年を追うごとに力が増していっている感があった。

 

 

「蒔絵ちゃん、機関室は良いの?」

「ぜーんぜんおっけー! 最大戦速でも保つよ」

 

 

 蒔絵だった。

 髪型や雰囲気はそのままだが、成長抑制処置をやめてから一気に背丈が大きくなった。

 まだ幼女から少女の域に入ったところだが、ところどころに将来の大器――器量と言う意味で――を予感させる部分が見える。

 腰の位置が高く足が長く、にきび一つ無く、そして当時の紀沙のサイズを諸々上回っている。

 

 

 ただ、1番の魅力はこの笑顔だろうと紀沙は思った。

 見るものの心を温かくしてくれる、そんな力がある。

 笑顔ひとつで人を幸せな気持ちにすると言うのは、意外と難しいものなのだ。

 正直、イ404で機関長じみたことなどせず、学校にでも行けば良いのにと思う。

 非常にモテそうだ。

 

 

「いーじゃん。前みたいに危ないことも無いんだし」

 

 

 そう言われれば、まぁ、そうではある。

 今回の会談は人類だけで無く、協定参加の霧の艦艇も参加する特別なものだからだ。

 つまり、今回の航海は以前とは違って戦闘が予定されていないのである。

 もちろん紀沙は――霧を信用していないこともあって――戦闘の準備をして航海に望んでいる。

 僚艦にあたるイ15や『白鯨』級の4番艦と5番艦にも、そのように命令していた。

 

 

「蒔絵、提督を困らせてはいけないよ」

「は~~い」

 

 

 その時、不意にかかる声があった。

 はっとする程の白髪だが、老齢と言うには聊か若い男性だった。

 北と共に同行する技術者……と言うには、その人物は並の技術者の域を軽く超えている。

 その人物の名はローレンス、いや、今は蒔絵にも刑部博士と知られている男だ。

 

 

 蒔絵は、今度は刑部博士に飛びついていた。

 やに下がった刑部博士の顔を見ていると、とても日本一の科学者だとは思えない。

 最も、刑部博士当人は「日本一」の座はとってきに()()()のものだと言っているのだが。

 親子なのか祖父と孫なのか、関係性は判然としないが、それでも仲睦まじいことは確かだ。

 ……少しだけ、羨ましいと思った。

 

 

「提督、改めて言う場がなかったのだが……っ!?」

 

 

 刑部博士が、何かの話をしようとしたらしかった。

 ただ話が始まる前に、突然、イ404が大きく揺れた。

 海流にでもぶつかったか?

 いや、この突然の、それでいて短時間の揺れは。

 

 

「博士は食堂で北首相の傍にいて下さい!」

「あ、ああ。わかった」

 

 

 紀沙は、発令所に向けて駆け出した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 駆けながら、紀沙は状況の把握に努めた。

 片耳の通信機に手を当てて、艦内の各所と連絡を取る。

 

 

「恋さん、状況報告お願いします!」

『提督! 我が艦隊の前方に、敵性艦隊の存在を確認しました』

「敵性艦隊?」

 

 

 紀沙達がいるのは、千島列島の東である。

 つまりまだ日本近海であって、他国の艦隊が存在するはずが無い以上、候補は一つしか無かった。

 相手は、霧の艦隊である。

 そして、北部海域を担当している艦隊と言えば……。

 

 

艦長(ボス)! 相手は大戦艦1、重巡洋艦3、軽巡洋艦と駆逐艦が11っス! 戦闘隊形で展開中!』

 

 

 艦隊前衛にいるイ15からも、そんな通信が入った。

 彼女が言っていることが本当なら、相手は本気だと言うことだ。

 とてもでは無いが、哨戒艦内の規模では無い。

 明らかに戦うつもりで引き連れてきたと、そう言うことだろう。

 そして恋とイ15の報告には無いが、潜水艦もいるはずだった。

 

 

「スミノ」

「はいはい、艦長殿」

 

 

 走っている紀沙の隣に光の粒子が集まり、一瞬で人の形を取った。

 数瞬の後には、スミノが紀沙に併走していた。

 ふわりふわりと半歩遅れで駆けるスミノは、いつも通りの軽薄な笑顔を浮かべていた。

 

 

「敵艦隊を率いているのは?」

「艦長殿の考えている通りだよ」

 

 

 質問しているのに、まともに答えるつもりが無い。

 それすらもいつも通りなので、紀沙もいちいち腹を立てたりはしなかった。

 気にしていたらスミノの艦長は出来ない。

 一方でスミノにして見れば、()()()()()()()ことを聞いてくる紀沙に付き合っているのだから、これでも律儀だと思っているのかもしれない。

 

 

「いったい、何のつもりで」

「さぁ……? それはわからないけれど、()()はこの2年間ずっと同じローテーションで日本近海の海上封鎖を続けていた。キミ達の言う協定の呼びかけにも応じていなかった」

「それが、どうしてこのタイミングで……?」

 

 

 わからないが、立ちはだかると言うのであれば容赦はしていられない。

 2隻の『白鯨』級は後方に下げ、イ15の後ろにイ404が入る形に陣形を整えた。

 正直、この規模の敵では『白鯨』級ではあまり役に立たない。

 牽制できれば、と言うくらいだ。

 

 

「何のつもりだ」

 

 

 このタイミングで動きを見せた相手に対して、紀沙はぎりっと奥歯を噛んだ。

 敵になるのは構わない。

 しかし、北達を乗せているこのタイミングには苛立たざるを得なかった。

 

 

「何のつもりだ、大戦艦『ナガト』……!」

 

 

 相手は、『ナガト』。

 超戦艦『ヤマト』の前に、霧の艦隊総旗艦だった艦艇。

 今まですべてを傍観していた彼女が、今このタイミングで動いたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何故、何故、何故……と、相手がそう考えていることを、『ナガト』が察せられぬわけが無かった。

 まして今、人と霧が手を組もうとしているこのタイミングで、わざわざ敵対する理由など無い。

 しかし『ナガト』は、あえてその行動に出た。

 何故ならば。

 

 

「何のつもりか、か……」

「答えは決まっているでしょう、千早紀沙」

 

 

 『ナガト』は霧の艦艇である。

 霧の艦艇は、『アドミラリティ・コード』の()である。

 そして『アドミラリティ・コード』の命令は、未だ()()()()()()()()

 霧の艦艇でも形骸化しつつある命令だが、その有効性は疑いようも無く存在している。

 

 

「よって、我らの行動もまた正当となる」

「『アドミラリティ・コード』は、我らに人を陸地に閉じ込めろと命じているのですから」

 

 

 だから『ナガト』の行動は、霧の艦艇の論理から外れているとは言えない。

 いや、むしろ最右翼だ。

 『アドミラリティ・コード』の命令を厳格に守ると言う、超保守的な行動である。

 しかし、それはあまりにも()()()の行動だった。

 

 

 ()()()何のつもりだ、と、紀沙は改めて思った。

 過去のいずれのタイミングでも傍観に徹していただけに、ここで敵対されると、嫌がらせにしか感じられなかった。

 そして、紀沙には『ナガト』に付き合うつもりも時間も無かった。

 

 

「梓さん、1番から4番に通常弾頭魚雷装填。スミノ、各レーザー砲座起動」

『あいよ、了解!』

「はいはい」

 

 

 イ404が戦闘態勢を取ったことは、当然、『ナガト』にもわかる。

 『ナガト』の主砲・副砲が緩慢に動きながら、その照準を海面へと移していく。

 イ404に先行してくるイ15や、後方へと下がっていく2隻の『白鯨』級には、関心すら払っていない様子だった。

 イ404と『ナガト』の火線が、交錯する。

 

 

 凪いでいた波が、(にわ)かに荒れ始めた。

 それはまるで、直後の衝突を暗示しているかのようだった。

 ジッ……と、『ナガト』の主砲の砲口にスパークが走る。

 実弾では無く、膨大なエネルギーを砲弾の形に凝縮していた。

 対するイ404は、魚雷とレーザーの混合攻撃。

 

 

「――――撃て!」

「撃ちます」

 

 

 イ404と『ナガト』の火砲は、ほとんど同時に火を噴いた。

 互いに互いの砲撃を阻害することなく直進し、それはやがて互いの艦体に違うことなく辿り着いた。

 千島列島の東沖に、2つの巨大な水柱が立った。

 それは海水を巻き上げて、陸地にまで小雨を降らせる程のものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早紀沙の戦術を、『ナガト』は一瞬にして見抜いていた。

 膨大なシミュレーションを瞬間に行うことが出来る『ナガト』は、その()()によって、相手が未来に行うだろう動きを予測してしまう。

 だからその後の展開は、『ナガト』の予想通りのものとも言えた。

 

 

「音響魚雷ね」

「それだけじゃない」

 

 

 『ナガト』と砲火を交えた直後、イ404は音響魚雷を発射していた。

 勿論、通常であれば『ナガト』はすぐに再探知しただろう。

 しかし海中は、想像以上に騒々しい状態に変わってしまっていた。

 イ404の音響魚雷だけでは無い。

 

 

 あの2隻の『白鯨』級が、後方から一気にロケットモーターを噴かせて爆進したのだ。

 それに加えて、小型スピーカー256機から成るサウンドクラスター魚雷が2隻分。

 海中全体が不協和音を放っている状態で、いかな『ナガト』と言えども、海上から中の状態を確認することは不可能になってしまっていた。

 しかし、それでも『ナガト』は紀沙の次の行動を読んでいる。

 

 

「まず、イ15の陽動」

 

 

 その通りだった。

 目前の海面が盛り上がり、丸みを帯びた艦体(イ15)が飛び出して来た。

 瞬間、2人の『ナガト』の眼が白く輝いた。

 側面装甲の一部が噴射して艦体をスライドさせると同時に、装甲そのものが扇状に展開した。

 イ15がいなされる、代わりに――――超重力砲の砲門が、顔を覗かせていた。

 

 

「そして、本命」

 

 

 それも、()()()()

 イ404が、海面から飛び出して来た。

 良く見ればイ404の艦体も変わっている、海中であの灰色の装甲を展開したのだろう。

 イ404を中心に広がる灰色の追加装甲、その中央には、『シナノ』さえ制した超戦艦級の超重力砲の砲身が形作られていた。

 

 

「なるほど」

 

 

 得心がいったような顔をして、『ナガト』はイ404の姿を見ていた。

 速い、そして単純に強い、また艦隊戦になったことで戦術の幅も広がっている。

 これが、今のイ404か。

 そして一方の紀沙もまた、《視られている》》ことは重々承知の上だった。

 

 

「付き合っていられるか……!」

 

 

 その上で、『ナガト』の艦体に身を掠めるようにしながら、押し通った。

 装甲の触れ合っている箇所、いや、クラインフィールド同士の擦過が火花を散らす。

 互いに超重力砲の砲身を見せた状態だ、だが()()()()()()()()()()()()()()

 まるで、互いに互いが撃たないことを知っていたかのように。

 

 

「全艦、急速潜行! 音響魚雷発射と同時に海流に乗り、現海域から離脱します!」

 

 

 『ナガト』は背を向けたまま、それを追わなかった。

 麾下の艦隊にも追わせなかった。

 ただイ404とその艦隊が潜行し姿を消すのを、黙ってそのままにさせた。

 何のための行動だったのか、一見するとわからなかった。

 

 

「思ったとおりだったわね」

「ええ」

 

 

 この2年の間、千早紀沙は黒い怪物を始めとして、戦いを繰り返していた。

 そして今のように、超戦艦『紀伊』の力を使って潜り抜けてきた。

 その力はもはや洗練されており、大戦艦『ナガト』に一当てして離脱できる程度にはなっていた。

 正面から戦っても、もはや『ナガト』の楽勝とはいかないだろう。

 ()()()()()()()()()()

 

 

「千早紀沙は…………ん?」

 

 

 その時だった、ガロン、と言う鈴の音が聞こえたのだ。

 すでにイ404艦隊が姿を消した後のことで、まして『ナガト』の甲板上で聞こえるには相応しくない音だった。

 『ナガト』は、自分達以外の誰かを乗艦させることは無い。

 ならば、誰が?

 

 

「……『ユキカゼ』?」

 

 

 小柄な体躯に和服、装飾品としてところどころに揺れる大きな鈴。

 ガロン、と言う音は、『ユキカゼ』が身動きする度に鈴が鳴っている音だった。

 その『ユキカゼ』のメンタルモデルが、いつの間にか『ナガト』の甲板に立っている。

 

 

「あなた、何故ここに? いや、そもそも今までどこに……」

 

 

 『ユキカゼ』は、ここ1年行方知れずになっていた艦だ。

 いや、厳密には行方知れずになった艦の1隻と言った方が正しいか。

 黒い怪物の活動が報告されるのとほぼ時を同じくして、そういう艦の報告が出るようになった。

 中でも『ユキカゼ』は、最初の頃に行方知れずになっていたはずだが。

 

 

「あなた、もしかして」

 

 

 『ナガト』の1人に、『ユキカゼ』らしきメンタルモデルがふらりと近付いた。

 そして。

 『ユキカゼ』の細腕が、『ナガト』の花魁風の衣装に覆われた胸元を貫いた。

 『ナガト』の唇から、溢れるはずの無い赤い液体が零れ落ちた――――……。




最後までお読み頂き有難うございます。

今回ちょっと短いです……!
それでは、また次回。


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Depth089:「氷上の会談」

 ()()()

 今ここで、このタイミングで、己を駆る者達を振り返って見よう。

 ほんの気まぐれで、スミノはそう思った。

 きっと、特に理由は無かった。

 

 

「……ふむ、もう少しか」

 

 

 まず、不知火静菜。

 今は自室で刀の整備などしているが、イ404の技師だ。

 技師、()()()()()()

 軍内の系列としては、旧第四施設で真瑠璃を救った工藤由那と同じ部類に入る。

 最も、スパイ同士は互いのことを知らない場合も多い、この2人に直接の繋がりがあるわけでは無い。

 

 

 ただしこの女性、物静かな割に経歴は面白い。

 低俗な表現を借りれば隠密や忍者の家系で、両親を含む一族で日本政府に仕えていた。

 そういえば、一度は銃弾を斬ったこともあったか。

 忍者の一族、なるほど面白い。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「侵蝕弾頭の数だけがいつまでも揃わないねぇ」

 

 

 次、梓=グロリオウス。

 水雷長、ドイツ人とのハーフ、そして()()()

 魚雷をぶっ放すという、いっとうわかりやすい役職にいるのはそのためだ。

 外洋進出を睨んでの配属だったが、ジョンの登場でそちらの意味では陰が薄れてしまった。

 

 

 冬馬への時として厳しいツッコミは、要は牽制なのだろう。

 イ404のクルーの中では、割と親紀沙的な立場にいる。

 一方で、紀沙に対して最も複雑な感情を抱いているのが彼女だと、スミノは知っている。

 何故なら梓の父親は霧に殺されているが、紀沙の父親はそうでは無い。

 同じ「家族を霧に奪われる」でも、天地の差がそこにはあった。

 

 

「ふふ、もう少しよ~……お母様」

 

 

 次、四月一日あおい。

 静菜と同じくイ404の技師、緩い女、そして()()()

 この女も、なかなかに面白い。

 何しろイ401のクルー「四月一日いおり」の姉だ。

 

 

 だが最も面白いのは、心の底に秘めたその願望だ。

 ある意味、イ404のクルーの中で最も大それたことを考えている。

 妹や家族との確執はどうもそのあたりが原因らしいが、スミノもそこまでは知らない。

 わかっているのは、あおいもまた己の眼鏡で紀沙を見ていると言うことだけだ。

 緩い笑みの皮の下には、どんな本性が隠れていることやら、見ものだ。

 

 

「いや、だからさ姉貴。もうそう言う段階じゃなくてですね?」

 

 

 次、碇冬馬。

 ソナー手、ガサツな男、()()()()()()だ。

 こちらは静菜とはまた別の一派、そして静菜と違い一族は健在だ。

 昔から諜報を担う一族らしい、()()()()()()()()()()

 

 

 今は、通信で公安にいるとか言う姉「碇春架」と話しているようだ。

 その通信はスミノが完全に傍受しているわけだが、最初から彼は気にしていなかった。

 スミノが関心を持たないと見切っていたのだろう。

 碇冬馬と言う男は、見切りの男だった。

 見切って見切って、そして、最後に()()()()()、そんな男だとスミノは思っていた。

 

 

「艦内、特に異常なしですね」

 

 

 次、本能寺恋。

 副長、最年長、そして()()()()()()だ。

 良家の出身らしく高等教育を受けているのか、副長としては有能だった。

 平時の艦内を掌握しているだけに、紀沙を除けば、最もスミノと付き合っている人間と言えた。

 

 

 何か望みがあるようには見えない、そして何かを捨てたがっているようでも無い。

 だからスミノは、恋のことを「何でも無い」と評していた。

 夢も目標も無く、目の前のことは真面目に取り組む、善人でも悪人でも無い。

 最も付き合いが長いが、それだけに、そう言う本質が良く見えるのだった。

 

 

「紀沙ちゃん……くそ、何が医者だよ。これじゃあ……」

 

 

 そして、御手洗良治。

 軍医、紀沙の学院の同期、そして()()()()()だ。

 学院時代から紀沙を良く支えている男だが、一方で、最も遠くにいる。

 紀沙の()()について来れていない。

 

 

 これについては、スミノも少し疑問に思っていた。

 もはや紀沙は医療を必要としない身体だが、それでも紀沙は彼をイ404に乗せている。

 他のクルーには必要だからだろうか。

 それとも、身体医療以外の理由で乗せているのだろうか。

 人の身も心も持たないスミノには、終ぞわからぬことだった。

 

 

「そして、我が艦長殿」

 

 

 将軍になろうが提督になろうが、それは永遠に変わらない。

 霧の潜水艦イ404の艦長は、永遠に彼女だ。

 千早紀沙、この世界でスミノが選んだ「唯一」だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スミノと千早紀沙は、これまで多くの問答を繰り返してきた。

 その多くは意味の無いことだったが、紀沙はそのすべてに応答してきた。

 言葉にしないこともあったが、それだけにより雄弁であるとも言えた。

 元々、スミノにとって言葉は重要では無い――『ハルナ』が聞けば激怒しそうだ――のだ。

 

 

「ねぇ、艦長殿。キミの今の望みは何だい?」

 

 

 ()()()に到着して、軍礼装に身を包んだ紀沙の背中に、スミノは問いかけた。

 スミノ自身は、未だ何も身に着けないままに艦長の私室ベッドに腰掛けている。

 細くすらっとした足が、ベッドの縁でゆらゆらと揺れている。

 いかにも小さな足だが、その気になれば分厚い岩盤を踏み砕くことができる足だった。

 

 

 紀沙はスミノの方は見なかった。

 収納を開け、形ばかりの防寒具を身に着けていた。

 身に着けなければ凍死しかねない気候だが、今の紀沙には必要の無いものでもあった。

 それでも防寒具を身に着けるのは、人間らしいことをしなければ、自信を失っていきかねなかったからか。

 

 

「……私の望み?」

 

 

 そんなスミノの視線に込められた意味を正確に読み取ったのか、紀沙の声音は固かった。

 もちろん、今さらスミノがそれで遠慮するはずも無い。

 じろりと、紀沙が視線だけで睨んできた。

 

 

霧の艦艇(お前達)を全滅させることだよ」

 

 

 それは、前にも聞いたことだった。

 この期に及んでも意思を変えないと言うのはある意味あっぱれと言うか、感心すらした。

 ただ、だからこそ紀沙は紀沙なのだろうとも思える。

 その想いこそが彼女を支えている、心の部分で支えている。

 軍人と言う特殊な存在は、正義を信じなければ一歩も動けなくなってしまうのだから。

 

 

「全滅?」

 

 

 いつもの薄ら笑いを浮かべて、スミノは言った。

 前にも聞いた言葉だが、今は前とは違う。

 何故ならば、その全滅させるべき「霧の艦艇」の中には。

 

 

「それは、キミを含めて?」

「――――言う必要がある?」

 

 

 こんな時にだけ、紀沙の答えは明確になる。

 そしてスミノは理解する。

 この2年の間、紀沙がはたして自分の変化をどう見て、どのように受け止めていたのか。

 どうなりたかったのか。

 

 

「なるほど」

 

 

 ひとつ頷いて、スミノは言った。

 

 

「それは素敵だね、最高に」

 

 

 いつも通り、思ってもいないことを言った。

 スミノはあらゆることに関心が無かったが、ひとつだけ知っていることがあった。

 (フネ)は、艦長がいなければ動かない――と、言うことだけ。

 それだけは、スミノも良く理解しているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 列強、と言う言葉が、自然と頭に浮かんできた。

 簡単に言えば世界規模の影響力を持つ諸国家の総称だが、霧の艦隊登場以後は市井の紙面から消えて久しい言葉でもある。

 しかし一方で、列強とされる程の国力を持つ国家だからこそ、国としての形を保ったまま現在まで存続することが出来たのだ。

 

 

「西アジアと南米は、やはり駄目だったか」

「ああ」

 

 

 トルコ以東の西アジア、メキシコ以南の中南米、そしてアフリカ内陸部等では、もはや国家らしい国家は存在しない。

 厳密に言えば「政府」を名乗る集団が割拠しており、正当な統治機関が存在しない状態だ。

 空路・海路を閉ざされれば、そして大国からの干渉が失われれば、そうなるのは当然だった。

 「国を保つ」と言うのは、実はそれほどに困難なことなのだ。

 

 

 現状、まがりなりにも国家の体を成しているのは、北米、欧州に中露、日本くらいのものだ。

 だから、列強と言う言葉が出てくる。

 不思議なもので、列強と称される国の顔ぶれは何百年と変わらない。

 何か理由があるのかもしれないが、学者でも歴史家でも無い群像にはわからなかった。

 

 

「その中でも、あの2国は別格だろうな」

 

 

 自分の隣に立っている――2年前までの経緯を思えば、これも驚くべきことだが――翔像が、「氷の会議場」の中央に立っている2人を見て言った。

 氷の会議場などと格好をつけて呼んでみたが、実の所、北極海の大きな流氷の上だ。

 ここで、<大海戦>以後初の主要国会談が行われるのである。

 

 

 そして中心で向かい合っているのが、米国大統領(エリザベス)ロシア大統領(ミハイル)の2人だった。

 ヨーロッパや中国が代理人を送るだけに留める中、この2人だけは自ら来た。

 無謀? そうかもしれない。

 しかし、この2国の指導者達は昔から()()と言う時には自ら動いてきた。

 そうやって、かつては世界を分割支配さえしてしまったのだ。

 

 

「紀沙はまだか」

「ああ、途中で少々予定外(ナガト)があったみたいだけど」

 

 

 父子がそんな会話を交わした、ちょうどその時だった。

 ()()()、と、流氷全体が揺れた。

 流氷と言っても島レベルに大きなものだ、これを揺らすとなるとそれなりの質量を要する。

 そう、例えば……。

 

 

「今、来たよ」

「そのようだ」

 

 

 イ404、接舷。

 さぁ、これで役者は揃った。

 いや、()()()()だ。

 立て続けに氷の島が揺れる、続け様に次々と海中から艦艇が姿を現していった。

 

 

 『フッド』、『ダンケルク』、『ガングート』、そしてあの『コンゴウ』!

 すべて、人類との協定に参加した霧の艦隊の長達である。

 それが今、この北極の会合地点に姿を見せた。

 ()()()とどう戦うか、その一点を話し合うために。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 当たり前だが、『コンゴウ』の姿は以前と何も変化が無かった。

 メンタルモデルなのだから、変わりようが無いと言った方が正しいか。

 

 

「久しいな。千早群像、千早紀沙」

 

 

 確かに、久しいと言えばその通りだ。

 何しろ硫黄島の戦い以後、まともに会っていない。

 意識的に避けていたわけでは無いが、互いに対峙する機会が無かったのだ。

 とは言え、少し意外ではある。

 

 

「キミが来てくれるとは思わなかった、大戦艦『コンゴウ』」

「大戦艦はいらん。まぁ、他にすることも無かったしな」

 

 

 ()()()()()()()()()

 それは、現在の霧の艦隊の一面を表現するには、十分過ぎる言葉だった。

 事実、『アドミラリティ・コード』なき今、彼女達は文字通り大海に放り出されている。

 各艦隊の()()()も、徐々に境界線が曖昧になりつつある。

 

 

 そう言う意味では、人類との協定は悪い選択では無かったのだ。

 ()()()の脅威だけでは無い。

 つまり霧の艦隊は今、切実に道しるべを求めている。

 自分達の道を自力で見つけ出せる程の経験値は、まだ蓄えられていないのだから。

 

 

「む……お前」

 

 

 不意に、『コンゴウ』の視線が紀沙に止まった。

 紀沙もまた、『コンゴウ』を見上げる。

 すると片眉を上げた『コンゴウ』が、何かを言いかけたところで。

 

 

「お――っ! 久しぶりだな、たまには地中海に顔を見せに来い!」

 

 

 と、言う実にフランクな声がかけられた。

 誰かと思えば『ダンケルク』で、実ににこやかに紀沙と群像に手を振っていた。

 ちなみに彼女の艦体には大勢のイタリア人が乗っており、甲板からこちらに手を振っていた。

 ほぼ全員が女性に――メンタルモデルを含む――向けて手を振っているあたり、()()()

 

 

「さて、取り急ぎ、これで全員が揃ったか」

「……全員?」

 

 

 翔像が全員に向けてかけた言葉に、『コンゴウ』は眉を寄せた。

 周囲を見渡し、やはりと言う風に呟いた。

 

 

「『ヤマト』はいないのか……?」

 

 

 霧の会合にすら姿を見せなかった『ヤマト』だが、今回の欠席は流石に解せなかった。

 相も変わらず、意図の読めない総旗艦だった。

 総旗艦を欠く霧の艦隊では、とてもでは無いが総力とは行かなくなる。

 それとも、それで十分と思っているのだろうか――――?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人の首脳と、霧の旗艦。

 この十数年間の確執を思えば、俄かには並び立つことを信じることは出来ない。

 しかし今、この場には相容れるはずの無いその2つが存在していた。

 雪と氷を除けば何も無い殺風景な会談場所は、ある意味でこの邂逅に相応しい。

 

 

「まずは、この世界の危機に駆けつけてくれたことに感謝したい」

 

 

 翔像は、改めてぐるりとその場を見渡した。

 この場に集まった面々だけで、世界の……いや、地球の軍事力のほとんどが集結したと思える。

 力と言う点において、これ以上は無いだろう。

 その中で、『ムサシ』の力を得た――と思われている翔像が、中心にいる。

 

 

「すでに皆も知っている通り。今現在、地球のすぐそばにまで()()()がやって来ている。衛星で観測している者もいるだろう」

 

 

 ()()()は、ついに一般大衆の前にも姿を現したと言える。

 各国政府の情報統制もそろそろ限界だ、一般人に対して何らかの説明も必要で、それもここで擦り合わせをしなければならないことの一つだった。

 だがその前に、大前提としてひとつコンセンサスを得なければならないことがあった。

 

 

「人類、そして霧が生き延びるために」

 

 

 人と霧は、これまで――少なくとも、人類側の視点では――敵対してきた。

 しかし今、そうした関係を持ち込めば共に滅びるしか無い。

 ()()()()()

 かつて人類は、霧の艦艇と言う脅威の前に団結することが出来なかったが。

 

 

「ここに、人類と霧の共同戦線を提案したい!」

 

 

 イギリスとの安全保障条約は、このための()()()()だった。

 不思議なもので、人間は最初の1人は激しく糾弾するくせに、2人目には何故か非難の声を上げないものなのだ。

 だから多少の無理をしてでも、「霧と条約を結ぶ」と言う前例がほしかった。

 つまり「あいつもやったんだからいーじゃん」と言う、そう言う心理を作りたかった。

 

 

「人類だけでは()()()に抵抗することは出来ない。また、霧だけでは()()()に勝利することは出来ない」

 

 

 超戦艦『ムサシ』の()()は、それだけの衝撃を持っていたはずだ。

 ある意味、あの場で『ムサシ』が死ぬことは、必要なことだったのだ。

 そうで無ければ、己の能力に絶対の自信を持つ霧に合従の重要性を悟らせることは出来なかった。

 だから、『ムサシ』の死は無駄では無かった。

 

 

 不意に、空を仰いだ。

 今の翔像の眼には、良く見える。

 遥か空の彼方で、醜く蠢いている()()()の肉塊の姿が。

 今にも地球を呑み込もうと、刻一刻と近付いてくる()()()の姿が。

 翔像が、その生涯をかけて排除すべきと決めたもの。

 

 

「だからこそ、我々は手を結ばなければならない」

 

 

 そのために、翔像は日本を出奔したのだから。

 そしてそんな翔像の言葉を聞きながら、隠れるようにその場を離れる者達がいた。

 奇しくもそれは、翔像の子供達だった。

 つまり、群像と紀沙であった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 翔像達が話し始めると、群像に腕を引かれた。

 北に目礼して自分を連れて行く群像に、いったい何の用かと思った。

 あの兄が自分に用があるなどと、かなり珍しい事態だった。

 下手をすれば今まで一度だった無かったかもしれない。

 

 

「何の用?」

 

 

 だから少し離れた場所で2人きりになった時、少しだけ期待もした。

 少しだけしかしなかったのは、期待し過ぎると碌なことが無いからである。

 群像との付き合いのコツは、期待を持たないことだ。

 そして実際、次の瞬間に群像の口から出てきたのは紀沙のことでは無かった。

 

 

「……『コトノ』に会ったのか?」

 

 

 率直に、良く知っているな、と思った。

 確かに()()()が太陽の影に現れる前後、紀沙はコトノに会っていた。

 まぁ、会っていたと言うか、コトノが会いに来ていたと言った方が正しいのだが。

 次に思ったのは、どうやって知ったのか、だった。

 どうして知っているのか、については、気にしても余り意味が無い。

 

 

「イオナに聞いた」

「あ、そう」

 

 

 イオナか、と、紀沙は思った。

 コトノ――『ヤマト』とイオナは、特別な繋がりがある。

 その関係で、コトノの行動がイオナにフィードバックされているのかもしれない。

 まぁ、他の繋がりでイオナが知ったのだとしても、それはそれで構わなかった。

 

 

 重要なのは、群像も霧の総旗艦『ヤマト』が()()()()()ことを知っていると言うことだ。

 他の霧は、もしかするとまだ気付いていないかもしれない。

 もともと表に出てくることが無かったとは言え、それでも総旗艦だ。

 いなくなったと知れれば、少なからぬ動揺が霧の中に走るだろう。

 

 

「コトノはお前に、何か託したか?」

「……何で、そう思うの?」

「…………夢を、見た。見たと思う」

「夢?」

 

 

 夢枕に立つ、とでも言えば良いのか。

 夢なのか幻なのか、あるいは現実だったのか……。

 コトノは紀沙だけで無く、群像にも会いに行ったのだ。

 しかし紀沙の時と違って、コトノは何も言わなかったらしい。

 ただ、見つめ合っていた、と。

 

 

「コトノがオレに何を伝えようとしたのかはわからない」

 

 

 だから、イオナからコトノが紀沙を訪ったと聞いた時、直感したのだ。

 ああ、コトノは紀沙に何かを託したのだと。

 そして実際、受け取ったものがある。

 それは、()()紀沙だからこそ託されたものだ。

 勿論、紀沙が託されることを望んだわけでは無いのだが……。

 

 

「それは……?」

 

 

 その時、何かを感じた。

 そうとしか形容できなかった。

 群像は感じ取れなかったろう。

 紀沙だからこそ感じ取れたことだ。

 ()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 聞かれたことには答える。

 聞かれないことには答えない。

 スミノは紀沙やその他の人間に対して、常にそう言う対応をしてきた。

 それは、今も変わっていない。

 

 

 だから、何も言わなかった。

 どうして聞いて来ないのか不思議で仕方なかったし、どうして誰も疑問に思わないのか不思議で仕方が無かったが、しかし聞かれなかったので一切、口を挟まなかった。

 人間と言うのは、思い込みによって目の前の事実を見逃してしまうものなのだなと、そう思いながら。

 

 

()()()()()()()()()

 

 

 何回も、そう言ってきたはずなのに。

 これは別にスミノに限った話で無く、イオナ等もそうだろう。

 まぁ、スミノは極端にしても、イオナなどは群像への信頼が目を曇らせているのかもしれない。

 霧の力の有無は関係が無く、普通の洞察力を備えていれば、気付くはずなのだ。

 言われていることと、目の前で起こっていることの矛盾に。

 

 

「正直、あんまりにも何も言わないものだから、本当に()()()()()()()んだって気付くのに少し時間かかったよ」

 

 

 ある意味、スミノらしからぬ失態だった。

 イ404のセイルの上から翔像達の会談の様子を見下ろしながら、スミノは嗤った。

 自分の失態に笑うなんて、まるで人間みたいだった。

 最も、スミノの場合はあえてそうしている面もあるのだが。

 

 

 例えば、翔像達の会談だ。

 『ムサシ』が生きていて、『ヤマト』――『コトノ』が完全な状態であれば、また違った展開になったかもしれない。

 しかし今の段階では、スミノからすると、「何を今さら?」なのだった。

 ()()()()()、それは遅きに失した場合に使う言葉であろう。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 そう、人類と霧はまさに遅きに失した。

 あの黒い怪物が跋扈(ばっこ)し始めた段階で、おかしいと思わなければならなかった。

 思い込みだ。

 そもそも、「2年後」と言う時間的猶予にしてもそうだ。

 

 

 2年前の『ムサシ』戦死の際の情報が、更新されることなく現在まで来ている。

 情報、そう、情報だ。

 救世主の預言では無い、ただの、その時点での情報に過ぎない。

 つまり、何が言いたいのかと言えば。

 

 

()()()はもう、とっくに地球(ここ)に来てるよ」

 

 

 びしゃり、と、音がした。

 湿った布が床に落ちた時のような音に、それは似ていた。

 何かがイ404の真下にいる。

 何かが、会談が行われている氷の島の縁に手をかけている。

 スミノは、()()に、目を細めたのだった。




最後までお読み頂き有難うございます。

佳境になりつつあるところで申し訳ないのですが、
リアルの都合により来週の更新をお休みさせて頂きます。
お待たせしてすみません。

それでは、また次回。


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Depth090:「襲来」

 正直に言えば、『コンゴウ』は人間同士の議論については興味が無かった。

 どこの国が主導権を取ろうと取るまいと、霧の艦艇には関係の無い話だからだ。

 いずれにせよ、()()()に対する主力は霧の艦隊なのだから。

 

 

(私は、変わったか?)

 

 

 変わったのかもしれない。

 硫黄島で「撃沈」を経験したからなのか、あるいは全力を尽くして敗北した者の責務とでも思っているのか、いずれにせよ『コンゴウ』は自分の変化を驚きをもって、かつ客観的に見つめていた。

 以前の自分であれば、人間の討議を待ってやろうなどとは絶対に思わなかっただろう。

 

 

 いや、それは霧の艦隊全体に言えることなのかもしれない。

 イ401を皮切りに、『ダンケルク』のように人間を乗せる艦も増えてきた。

 『ヤマト』のように、人間の力を信じ、当てにする艦もいる。

 それとは逆に、人類を敵視・蔑視する一派も出て来ている。

 

 

(人間、か)

 

 

 始まりは、千早翔像だった。

 それを群像が追い、さらに兄を紀沙が追って、蟻の一穴となった。

 そう言う意味では、霧の艦隊はまんまと千早一家に嵌められたことになる。

 霧の艦隊を変えたのは、間違いなくあの一家だった。

 そして、『コンゴウ』自身も。

 

 

「…………む?」

 

 

 ()()に気付いたのは、本当に偶然だった。

 『コンゴウ』の探知(センサー)に引っかかったとか、そう言う話では無く、何となくイ401やイ404の方を気にしていたらメンタルモデルの視界に入ったと言う、それだけのことだ。

 だからこそ、より不味い事態だとも言えるのだが。

 

 

「『ユキカゼ』……?」

 

 

 小柄な、和装の少女の姿(メンタルモデル)がそこにあった。

 総旗艦艦隊(フラッグフリート)所属の駆逐艦『ユキカゼ』、識別コードは確かにそうだ。

 だが、違和感があった。

 『ユキカゼ』はここ1年ほど行方知れずになっていたはずで、()()()()()()()()()()()()()()()ことから、何らかの事情で沈んだものと思われていた。

 

 

 それが今、何故ここにいるのか。

 そう思っていると、『ユキカゼ』の足下――氷の島の縁に――手をかける者がいた。

 海から、もう1人上がってくる。

 ただ、それは『コンゴウ』の知らないメンタルモデルだった。

 黒髪の、これといって特徴の無い少女の姿をしているそれは……識別コードは、『ナガラ』。

 

 

(『ナガラ』だと?)

 

 

 かつて、イ404と戦い撃沈された軽巡洋艦だ。

 ある意味、始まりの1隻でもある。

 だが戦闘後、どう言うわけかそのコアは回収されずじまいだった。

 以来、『ユキカゼ』同様に行方不明になったいた。

 そして、『ユキカゼ』と違いメンタルモデルを得てはいなかったはずで……!

 

 

「総員、衝撃に備えろ!」

 

 

 ぞわり、と、メンタルモデルの肌が粟立った。

 人間で言えば、直感とでも言うべきその感覚。

 以前の『コンゴウ』であれば気にも留めなかっただろうその感覚を、今の『コンゴウ』は無視しなかった。

 次の瞬間、海面下から、氷の島全体に黒い触手が覆いかぶさらんと伸びて来たのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 黒い怪物。

 名前すらわからないその存在は、この2年余りで世界の海を侵しつつあった。

 その存在が、足下からガムのように伸びて氷の島を周辺ごと飲み込もうとしていた。

 咄嗟には反応できない、そんな速度と柔軟さで包み込んでくる。

 

 

「……スミノ!?」

 

 

 そんな時に紀沙の影から――のように見えるだけで、単にナノマテリアルで転移してきただけだ――スミノが飛び出してきて、紀沙の身体を掻っ攫った。

 浮遊感。

 次に目を開けた時には、紀沙はスミノに抱えられて宙を舞っていた。

 

 

 足下……と言うより、眼下と言った方が良い。

 とにかく下を見れば、あれだけの大きな氷の島がすべて消えてしまっていた。

 ぶくぶくと泡立つ海面と、僅かに浮かんでくる氷の欠片だけが、ここに氷の島があったことを物語っていた。

 他は、何も残っていなかった。

 

 

「皆は……!?」

 

 

 泡立つ海面から、時折、黒い触手がタコの足のように蠢いていた。

 見たことは無いが、タコの()()はあのような物なのだろう。

 氷の島は、まるごとその中に……。

 

 

「他の皆は!?」

「心配はいらないよ」

 

 

 北極の冷たい突風の最中、スミノのつまらなさそうな声はより冷たく聞こえる。

 しかし、足下から感じたのは熱気だった。

 じゅう、と言う焼ける音と共に黒い触手が苦しげに蠢き、次の瞬間には爆発した。

 二度(ふたたび)、氷と海水の水蒸気が吹き上がった。

 

 

「霧が守ったよ。人間と違って律儀だからね」

 

 

 海面下からまず姿を見せたのは、イ404だった。

 その甲板に、スミノは着地した。

 押しのけるようにして立ち上がり、紀沙は手すりに手をかけた。

 するとその頃には、水蒸気も晴れて周囲が見渡せるようになっている。

 無骨な艦影が、視界に入って来た。

 

 

「良かった……」

 

 

 スミノの言う通り、各国の首脳は『ダンケルク』らに分乗していた。

 メンタルモデル達がスミノと同じように、咄嗟の判断で各国の首脳達を助けたのだろう。

 瀬戸際の判断だったはずだが、それでもきっちりと黒い怪物の触手をかわしてしまうあたり、流石は霧の旗艦達と言ったところか。

 

 

「それでも、『コンゴウ』が気付かなければ危なかったがの!」

 

 

 『ダンケルク』の言う通り、あと少し遅ければ全員間に合わなかっただろう。

 それだけ、突然の襲撃だったのだ。

 

 

「おい、あれを見ろ!」

「む?」

 

 

 乗員(カルロ)が指差した先を見ると、『ダンケルク』は顔を顰めた。

 よくよく耳を澄ませて見れば、ぐっちゃぐっちゃと言う不快な音が聞こえて来た。

 視覚と聴覚の情報が合わさると、おぞましさはさらに増した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 おぞましい光景だった。

 黒い怪物の触手が互いを喰い、咀嚼し、飲み込んでいる。

 ひき肉をかき混ぜるような音が、しばらくは鼓膜に張り付いて離れないだろう。

 ハンバーグが食べられなくなりそうだ。

 

 

神よ(オウ)お守り下さい(マイゴット)……」

 

 

 『フッド』の甲板からその様子を見ていたエリザベス大統領が、口元を押さえて呻いた。

 こう言う時、信じる神がある人々が少し羨ましくなる。

 『ムサシ』――翔像の甲板で、北はそう思った。

 何かに祈りたい気分は北も一緒だったが、生憎、彼に祈る神はいないのだった。

 

 

 その代わりに、北は考えていた。

 あの黒い怪物は、どうしてこのタイミングで襲ってきたのだろうか。

 これまであの黒い怪物は、出現した際の行動も場当たり的で意味の無いものだった。

 ところが今回は、はっきりとした意思を感じる。

 ()()のような、()()のような、そんな気配を感じたのだ。

 

 

「……今度は何だ!?」

 

 

 そして、状況はさらに動いた。

 それまで共食いを続けていた黒い触手達が、動きを止めたのである。

 一斉に動きを止めた触手は、しかし次の瞬間にはまた動き出した。

 ただし今度は触手自身が動くのでは無く、それらが何かに引き込まれるように海面下へと消えていったのだ。

 

 

「逃げるのか?」

「いや、違う。集まっているんだ」

 

 

 ()()()()()()

 無数の触手……黒い怪物が、小さな器に詰め込まれるように圧縮されていた。

 不快な音を立てて集まったその塊は、食べ損ねなのか、ぷかりと浮かんだ氷の上に這い上がった。

 あれだけの黒い怪物や触手が集まっているはずなのに、小さな氷は少しも海面下に沈まなかった。

 

 

「何だ……?」

 

 

 もこもこ、と、その塊は一度大きく蠢いた。

 かと思えば、勢い良く何かの形を取り始める。

 頭があり手足がある、それは人型だ。

 そして人の形に近付いていくごとに色も変わり、肌の色、そして衣服の色まで再現を始める。

 

 

「あれは……メンタルモデル、なのか?」

 

 

 『コンゴウ』が呟くように、それはもちろん人間では無い。

 かと言って、メンタルモデルかと言えば、それも疑問符がついた。

 ひとつわかっていること、それは……。

 

 

「いや」

 

 

 それは黒髪の、さっぱりした印象の青年の姿になった。

 始めは能面の如く表情が無かったが、その内に顔面の肉が笑みの形を浮かべ始めた。

 傍目には、どこにでもいそうな人間の青年に見える。

 過程を見ていなければ、ただの人間だと信じたかもしれない、だが。

 

 

()()()だ」

 

 

 翔像が、()()の正体をずばり言ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()()()()――()()()

 何度も聞いた言葉だが、()()()がどんな存在なのかを語ることの出来る者はいなかった。

 『ヤマト』や『ムサシ』……『アドミラリティ・コード』ですら、そうだった。

 仕方が無かった、直接は知らなかったからだ。

 ただ、その脅威だけを本能的に悟っていたに過ぎない。

 

 

「あれが、()()()だと?」

 

 

 霧の旗艦達の眼から見ても、ぱっと見た限りではただの人間にしか見えなかった。

 何のプレッシャーも感じない。

 総旗艦やコードが感じたと言う脅威は、どこにも見受けられない。

 こんな優男――もちろん、見かけだけだが――が、宇宙から襲来した侵略者だと?

 

 

「何だ、大したことは無さそうじゃないか。皆が脅かすから、どんな化物かと思ったら」

「いや……」

 

 

 拍子抜けしたような『フッド』に対して、『ダンケルク』の評は違った。

 『ダンケルク』の眼は忙しなく白く輝き、何かを見破ろうとコアが超高速演算に入っている様子がありありと見て取れた。

 自らの艦体の手すりを掴む手が、小刻みに震えている。

 

 

「化物だなどと、そんな可愛らしいものではないぞ」

 

 

 嗚呼、この脅威がわかる者がどれだけいるのだろうか。

 霧のメンタルモデルは極めて人間に近いが、あくまでメンタルモデルだ。

 だから人間と並んで立てば、ちょっと洞察力のある者ならすぐに見抜くだろう。

 それだけ、霧のメンタルモデルには不自然さがあるのだ。

 

 

 ところがどうだ、()()()のメンタルモデルからは何も感じない。

 ()()()()()()()()

 力も気配も、人間そのものだ、見分けがつかない、それがどれだけ驚異的なことか。

 霧の艦艇には、それは出来ないと言うのに。

 

 

「馬鹿な、それがどうしたと言うのだ!」

「バッ……迂闊じゃぞ、『フッド』!」

 

 

 『フッド』も、そこはかとない不安のようなものは感じている。

 人間であれば「恐怖」と呼んだかもしれないその感情は、『フッド』の身体を突き動かした。

 自らの艦体から跳躍した『フッド』は、『ダンケルク』らの制止を振り切って()()()の青年に向けて降りていった。

 ほとんど真上から、跳びかかる形になった。

 

 

(なに?)

 

 

 その時、()()()の青年は奇妙な行動に出た。

 両手を腰の横あたりに広げて、掌を上にしたのだ。

 つまり、迎え入れるような仕草をしたのである。

 舐めるな、と、『フッド』は激昂した。

 

 

「喰らえっ!」

 

 

 右手刀、振り下ろした。

 それは斜め上から()()()の青年の胸を貫き、『フッド』のメンタルモデルの腕が肘のあたりまで青年の身体に刺し込まれた。

 ぞぶ、と、鈍い音が響く。

 

 

 何だ、やはり大したことは無い。

 『フッド』はそう思ったが、しかしすぐに異常に気付いた。

 右手が、()()()の青年の胸から抜けない。

 筋肉で締められているのかと、引き抜くべき左手を青年の肩に押し付けた。

 青年は、奇妙な程に無抵抗だった。

 

 

「う……?」

 

 

 コアが警報を鳴らしていた。

 左手も離れない。

 いや、そもそも右腕は肘まで青年の胸を貫いているのに、背中から突き出ている様子が無い。

 ()()()()()()()()

 肘から先、そして左手の掌の感覚が、『フッド』のコアの知覚領域から切断されていた。

 

 

「うおっ……うおおおおおおおおおぉぉっっ!!??」

 

 

 ()()()()()()()()

 ()()()()()()

 それに気付いた時、『フッド』は悲鳴を上げた。

 そんな『フッド』を、()()()の青年が柔和な笑みで見下ろしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『フッド』の腕は、()()()の青年を刺し貫いたのでは無い。

 青年の側に、呑み込まれたのだ。

 メンタルデモルとは言え、『フッド』は当初それに気付かなかった。

 

 

「く、そ! は、離せ貴様ぁ!」

 

 

 ぎょっ、と、『フッド』の目が見開かれた。

 青年が両手を上げて、こちらを抱き締めようとしているように見えたからだ。

 不味(ヤバ)い、と、『フッド』は本能的に悟った。

 だが彼女の両手は()()()の青年の身体に埋まっていて、外れなかった。

 これは本格的に不味いと、『フッド』がいよいよ焦り始めた時。

 

 

「目を閉じていろ、『フッド』」

 

 

 『コンゴウ』が、青年の顔の真横に掌を向けていた。

 青年の目が横を向くよりも早く、『コンゴウ』の手の中に精製された砲門――15.2センチ50口径単装砲――が、火を噴いた。

 大きく、鈍い音が響く、レーザーでは無く実弾の音だった。

 

 

 『コンゴウ』の放った砲弾は、寸分狂わず()()()の青年の東部を直撃した。

 しかし、『コンゴウ』にとって不可解なことが起こる。

 砲撃の衝撃で吹き飛ばされるかと――それこそ、欠片すら残さない勢いで――思ったのだが、そうはならなかった。

 それもそのはずで、『コンゴウ』の砲弾は()()()の青年に確かに直撃していた。

 

 

「……なんとな」

 

 

 砲弾が――ナノマテリアル製の砲弾が、半ばから青年の首に埋まっていた。

 爆発する様子も無く、ずず、ずず、と咀嚼されるように、少しずつ青年の身体の中に取り込まれていく。

 音速の砲弾を受け止めておきながら、ほとんど効果が見られない。

 まるで、沼に小石でも投げ込んだかのようだった。

 砲弾の分だけ傾いた()()()の青年の顔が、じっと『コンゴウ』のことを見つめていた。

 

 

「『フッド』、許せよ!」

「は? ちょ……!」

 

 

 『コンゴウ』は躊躇しなかった。

 咄嗟に腕を振るい、逆に『フッド』のメンタルモデルの両腕を二の腕から切断してしまった。

 当然、血は出ない。

 バランスを崩した『フッド』の腹に腕を回して、『コンゴウ』はその場から離れた。

 ()()()の青年は追いかけ来ることは無く、切断した『フッド』の腕をそのまま取り込んでしまった。

 

 

「な、何なんだ、あいつは!?」

「だから、()()()なんだろうさ」

 

 

 切断しなければ、『フッド』は喰われていた。

 そんな確信が、『コンゴウ』にはあった。

 そう思って()()()の青年を見ていると、彼はすでに『コンゴウ』達に関心を持っていない様子だった。

 

 

「…………?」

 

 

 一連の戦闘――と言って良いのかはともかく――を見ていた紀沙は、()()()の青年が自分を認めていることに気がついた。

 何と言うか、あの貼り付けたような薄笑いはどこかで見たような気もする。

 その時、()()()の青年が始めて口を開いた。

 

 

「……ちはや……きさ……」

 

 

 名を。

 ()()()の青年は、確かに紀沙の名を呼んだ。

 そのことに驚く以上に、紀沙の胸に去来したのは嫌悪感だった。

 人ならざる者に名を呼ばれることの何とおぞましく、ぞっとすることか。

 紀沙は、強い瞳で青年を睨み返したのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 一度目はぎこちなさがあった。

 二度目には拠り聞き取りやすくなった。

 そして三度目には、はっきりと流暢になった。

 まるで、飲み込みの早い子供が外国語を学ぶかのように。

 

 

「千早紀沙」

 

 

 ああ、これはわかりやすいだろうか。

 もし貴方が海外旅行に行ったとして、三言(みこと)でその国の言葉をマスター出来るだろうか。

 出来ると答えられる人間は、おそらく存在しないだろう。

 

 

「ああ、この惑星(ほし)のマザーだね」

「マザー?」

 

 

 二十歳(はたち)そこらで母親と呼ばれたくは無い。

 不快げな表情を浮かべた紀沙だが、視線を――間違っても腹を抱えて笑っているスミノの視線では無い――感じて、気を抑えた。

 視線の主は、北だった。

 

 

(わかっています)

 

 

 言われずとも、やるべきことはわかっている。

 どう言う理由かはわからないが、あの()()()は自分に関心があるらしい。

 会話が成立するかどうかは別として、刺激を与えず、かつ情報を得られるのであればその方が良い。

 だから紀沙は自分の嫌悪感を抑えて、()に話しかけた。

 

 

「お前は何者だ! 何の目的でここに来た!?」

「『コスモス2251』」

 

 

 それが、()()()の青年の名なのか。

 

 

「目的は……特に無い、かな」

「無い?」

「それとも、この星の生き物は僕達とは違うのかな」

 

 

 学習している。

 ほんの少し、ほんの二言三言会話しただけでこの世界のことを学んでいる。

 言語、思想、物的なものから精神的なものまで。

 おそらくだが、霧と似たようなネットワークを構築しているのかもしれない。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。それって、目的なんて言う大層なものじゃあ無いだろう?」

 

 

 いつの間にか、『コスモス』の目線が紀沙と並んでいた。

 紀沙はイ404の甲板の上にいるので、先程までは見下ろす位置にいた。

 つまり『コスモス』の位置が上がっている、彼の足場になっていた小さな流氷が、幾本もの黒い触手によって持ち上げられていたのだ。

 

 

 あの無秩序な破壊と徘徊しかしない黒い怪物が、まるで従者か何かのようだ。

 先程の『コンゴウ』や『フッド』との一戦から見ても、単体の力すら未知数だ。

 それ以前に、人型のメンタルモデルすら有していることが驚きだった。

 2年前に『ムサシ』が撃退した一体は、ただの肥大した宇宙ステーションだった。

 まさかこの2年の間に、地球の情報を……?

 

 

「『コンゴウ』よ……。ようやくわかった、奴は恐ろしい」

「『フッド』?」

「こんな恐ろしいことがあるか……?」

 

 

 その『フッド』は、『コンゴウ』の足下で震えていた。

 両腕は、未だ『コンゴウ』に切断された状態のまま。

 ――いや、ある一定の部分までは再生していた。

 だが、そこから先は、つまり『コスモス』に喰われた先からはそのままだった。

 『フッド』は、今にも泣き出しそうな顔で『コンゴウ』を見上げた。

 

 

()()()()()

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 霧の意思に反して、ナノマテリアルがそれ以上反応しないのだ。

 ナノマテリアルを殺すもの。

 それは、まさしく霧の天敵と呼べる存在だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()()

 ああ、苛々する程に似ていた。

 ()()()の青年『コスモス』を見ていると、(いや)が応にもそう感じた。

 こいつらはきっと、我が憎らしい艦隊旗艦(スミノ)に似ている。

 

 

 こちらを馬鹿にしたような言い方など、そっくりではないか。

 見下している。

 いや、少し違うか。

 食べ物を見下したり馬鹿にしたりする者はいない。

 食事にいちいち感情を持たないと、今さっき『コスモス』が言ったばかりでは無いか。

 

 

「つまり、お前達に目的なんて無い」

 

 

 レストランに行くのに、明確な目的など持たない。

 ただ、空腹を満たしたいと思うだけだ。

 話し合いや交渉が無意味だと、それだけわかれば十分だ。

 紀沙達は、ただの食材のように黙って喰われてはやらない。

 

 

「お前を捕える」

 

 

 『コスモス』は意思疎通が可能な――会話が成立するかは別として――初めての()()()だ。

 まずは拘束して、より多くの情報を聞きだす必要があった。

 ()()()とはどんな存在なのか、どんな構造でどんな習性があり、どんな能力でどんな弱点があるのか。

 情報はあればあるほど困ることは無い、()を知ることは兵法の初歩でもある。

 

 

「捕える……僕を? そんなことをしても何の意味も無い」

「意味があるかどうかはこちらが決める」

 

 

 確かに、ただの尋問が効く相手とも思えない。

 だが、この状況で逃げ切れるものでも無い。

 紀沙はもちろん、『コンゴウ』や『ダンケルク』等の霧の旗艦級が複数いるこの状況で、逃げられる者がいるはずが無い。

 直接は触れられないとしても、動けなくする方法ならいくらでもあるのだから。

 

 

「…………?」

 

 

 ()()()のことを、紀沙は生涯忘れないだろう。

 1分先の未来のことを先に言えば、紀沙はこの後、天を仰ぎ見ることになる。

 その理由は、『コスモス』が指で空を指したからでも、群像や北ら他の面々が上を見ていることに気付いたからでも無い。

 影だ、影が差したのだ。

 

 

「な……」

 

 

 雲が、太陽を遮ったのかと思った。

 いや、それにしたところで暗すぎたし、太陽光が遮られるのが妙に長かった。

 そして、紀沙もまた天を仰ぎ見た。

 呆けたように小さく開いた唇は、次第に戦慄き始める。

 

 

「なんだ、あれ」

 

 

 触手。

 黒い触手。

 それは太陽を遮る程に大きく、表面は血管のように蠢きながら顔のような目のような口のようなものが浮かんでは消えて、雨の如く滴る液体は粘り気を帯びていて、あたりには腐臭が漂い始めて。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 言うならば、地球全体を巨大なタコが捕食しようとしている、と言ったところだ。

 これでは、情報統制どころでは無いだろう。

 今頃、人類の都市は大混乱に陥っていることだろう。

 人々は天を仰いで、恐怖に慄き、パニックに陥っていることだろう。

 

 

 天空の半分以上は黒い触手に覆われていて、触手の肌は赤い炎が血液のように噴き出していて、青空を赤黒く染めていた。

 噴き出しているのは体液のようで、しかも極めて強い酸性の液体だった。

 胃液のようだ、と表現すればわかって貰えるだろうか。

 

 

「『また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな赤き竜である』」

 

 

 コトノが口にした黙示録の一節は、腐臭混じりの風に溶けて消えていった。

 彼女は、小笠原諸島の南の海域でその異変を見つめていた。

 空を覆うグロテスクな肉塊と触手、ただ見つめているだけで気が狂ってしまいそうだ。

 突然に現れたのでは無い、ずっと近付いてきていたのに、地球の者達が気付かなかっただけだ。

 隠れる必要が無なくなったので、光学迷彩(透明化)を解いたのだ。

 

 

「『わたしはまた、一匹の獣が海から上がってくるのを見た』……」

 

 

 そして、海にも異変が。

 天空の触手から降り注ぐ体液を養分にでもしているのか、クリミアで見たような、人間の顔が浮かんでは消える不気味な身体を持つ黒い怪物――その触手が、海面から次々に姿を見せている。

 まるで、何か偉大なものを迎えようとするかのように。

 

 

 思えば、黒い怪物(彼ら)()()()の尖兵だったのかもしれない。

 霧がそうであったように、何百年、何千年も前に地球に来ていたのかもしれない。

 それが、()()()の接近で活性化した。

 『アドミラリティ・コード』の覚醒が、()()()に餌の場所を教えてしまった。

 

 

「『ヤマト』、『ムサシ』」

 

 

 2年前の『ムサシ』のように、超戦艦の超重力砲で追い払えるレベルの事態では無い。

 地球そのものが、今まさに喰われようとしているこの状況では。

 あと数時間もすれば、あの触手は地上に降りてくるだろう。

 大地と海に取り付き、()()始めるはずだ。

 

 

「どうか、私に力を貸してね……」

 

 

 この世界を、地球を守れるかどうか。

 それは、しかしコトノの肩にはかかっていない。

 人類の、霧の命運を決める者は、コトノでは無い。

 コトノは、あくまでも()()()を援ける者。

 ――――そうでしょう、『ヤマト』?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 これは、本当に現実なのか。

 流石の紀沙も、そう思わざるを得なかった。

 どこかのB級雑誌で「宇宙人はもうあなたの傍に!」みたいな記事を読んだことがあったが、これは、そう言う感覚に似ていた。

 あんなに巨大なものがこんな近くに存在していて、気付かなかっただなんて。

 

 

「軍隊を」

 

 

 霧の艦艇の甲板上で、エリザベス大統領が喘ぐように言った。

 その瞳は、狂気に犯されたように揺らいでいた。

 

 

「軍隊を、出さないと」

「いや、核だ。核しかない」

 

 

 また別の艦上で、ミハイル大統領が核の使用を訴えた。

 なるほど、それは人類が持つ最強の兵器であるのかもしれない。

 人類の国家が相手であれば、それは十分な効果があるだろう。

 しかし、今の彼らは冷静な判断力を失っているようだった。

 

 

「軍隊や核で足りれば良いけどね」

 

 

 スミノにしてみれば、霧にさえ通用しない兵器が()()()に通用するはずが無い。

 そして、()()()は霧よりもなお強いのである。

 霧と人の連合軍とやらで、この事態にいったいどこまで対抗できるものだろうか。

 

 

「人間、キミ達に最大限の感謝を」

 

 

 有難う、僕達のために()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「…………」

 

 

 絶望が心を覆っていく。

 あまりにもスケールの違う襲来者を前に、『コスモス』の言葉も皮肉には聞こえなかった。

 人が数多持つ預言の日だ。

 世界は、地球は今日、滅びるのだ。

 根拠など必要ない。

 

 

 見ればわかってしまう程に、これは滅亡の危機だった。

 人間の、いやさ霧の力をもってしても、どうにもならない。

 タコに捕えられた貝が、成す術も無く殻を砕かれ、捕食されてしまうように。

 もう、どうすることも出来ないのだと、絶望するしか無い。

 そんな状況で、しかし絶望しない者が少なくとも2人いた。

 

 

「……絶対に、認めない。この世界を諦めてなんてやらない」

 

 

 まずひとりは、千早紀沙。

 霧や()()()の存在を認めない、人間の中で最もそれらに近しい彼女は認めない彼女。

 そして、嗚呼、何と言う皮肉だろうか。

 遥か彼方、地中海にいまひとり、紀沙と異口同音な台詞を吐く娘がいたのだった。

 

 

「絶望なんてしてやらないわ、絶対に。約束したもの」

 

 

 千早兄妹の母、千早沙保里に託された者。

 霧の重巡洋艦『タカオ』。

 彼女は自分達を喰い尽くそうとする天上の悪意を、射ぬかんばかりに鋭く睨んでいた。

 暗闇の中に消えようとする世界の中で、彼女の瞳は一際白く輝いていた。




ヨハネ黙示録より。
『また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな赤き竜である』
『わたしはまた、一匹の獣が海から上がってくるのを見た』

登場キャラクター:
朔紗奈様より『コスモス2251号』。
有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。
私の今までの作品だと、最終決戦前には作戦会議とかで団結してから挑むものでしたが、今回は混乱の中で最終局面に突入することにしました。
世界は未だ団結せず。
この状況下で、はたして地球を守る有効な作戦はあるのでしょうか。
そして、今回の投稿で100万文字突破。
それでは、また次回。


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Depth091:「混乱と屈辱と」

100万字突破。


 混乱が、各地に広がっていた。

 人々は、突然空を覆い尽くした黒い肉の塊に、恐怖の悲鳴を上げた。

 ある者は逃亡し、ある者は暴徒と化し、ある者は発狂し、ある者は神に祈り始めた。

 世界中のすべての人々が、ゴシップの類にしか見ていなかった「滅びの預言」を目の当たりにした。

 

 

 この世の終わりが来たんだ。

 ずっと同じ毎日が続くと思っていたのに。

 いやだ、まだ死にたくない。

 ――――死にたくない!

 

 

「ホワイトハウスは外出禁止令を出した。その内に戒厳令になるだろう」

 

 

 サンディエゴの摩天楼、そのビルの一室から、ウィリアム・パーカーは通りを占拠する暴徒と治安部隊の揉み合いを見つめていた。

 煌々と燃えているのは、暴徒の一部が火をつけた自動車だ。

 かつての大統領候補の視点で見れば、国家が崩壊する様をむざむざ見ているだけと言うのは、業腹なことだった。

 

 

「まぁ、気持ちはわかるけどね。このままじゃ僕も破産だよ、まったく洒落にならない」

「お前の破産申請よりも、世界がなくなる方が早そうだがな」

 

 

 若き財団の長ジャン・ロドリックと共に、ヴィンテージ・ワインを開けてヤケ酒を呷る。

 ()()()()()が、選挙に敗れた元大統領候補に出来るのはそんなところだった。

 大衆は、敗者の弁は聞かないものなのだから。

 一方で、大衆の傍でその姿を映そうとする者もいる。

 

 

「邪魔だ、どけっ!」

「ぐっ」

 

 

 カメラを構えていたら、群衆の誰かに突き飛ばされた。

 思ったよりも力が強くて、レオンスは地面に倒れた。

 フランスは雨が降っていて、ぬかるんだ泥が顔に跳ねた。

 泥を手の甲で擦り落としながら、レオンスは身体を起こした。

 カメラを、両手で大事そうに握り締めていた。

 

 

「世界の終わりだ!」

 

 

 そこかしこで、そんな声が聞こえる。

 どこかしらから、悲鳴や怒声が聞こえる。

 逃げ場所を求めて――そんなものはどこにもないのに――走り回る無数の人々の真ん中で、レオンスはそのすべてをカメラに収めていた。

 

 

(こんなことをしても、意味なんて無いのかもしれない)

 

 

 でも、他に何も出来ない。

 だから、レオンスは何度倒れてもカメラを構えるのだった。

 レンズの向こう側に行き場を失って途方に暮れている人々がいる限り。

 いつか出会った、東洋人の少女(キサ)のような人々がいる限り……!

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 迷っている時間は、あまり無かった。

 時間を追うごとに状況は悪くなっていく、もはや各国の体裁を立てる合意の形を探ることは出来なくなってしまった。

 事ここに及んでしまえば、流れに身を任せてしまうしか無い。

 

 

「各国首脳の諸君! 残念だが、もはやこうなっては議論している(いとま)は無い!」

 

 

 もはや自分自身でもある『ムサシ』艦上から、翔像が言った。

 まさに滅びつつある世界を目の前にして、その元凶の一端たる『コスモス』を前にしての訴えだった。

 だが、いつだって政治の決断は突然だ。

 万全の状態で決断できる時などほとんど無く、その場その場での決断を求められる。

 今が、その決断の時だった。

 

 

「提案する」

 

 

 皮肉なことだが、脅威こそが翔像の立場を強くする。

 <緋色の艦隊>を率いる翔像こそが、各国と霧の艦隊の接着剤足りえるのだ。

 どちらかに寄りがちな群像と紀沙では、貫禄と言う意味でもこの役割は出来ない。

 翔像だけが、この提案をすることが出来る。

 

 

「人と霧が手を組み、この事態に対処する――同盟を結ぶことを」

 

 

 停戦と黙認の協定では無く、本当の意味での連合を組む。

 翔像がイギリスと安全保障条約を結んだように、人類と霧で同盟を結ぶのだ。

 同盟して世界の危機に対処したとなれば、もはや各国政府も国民に隠してはおけない。

 人類は、霧をこの世界の共存相手として承認しなければならなくなる。

 

 

 そしてそれは、この世界のほとんどの人間が頭ではわかっていたことでもある。

 霧がどれだけ憎く、恐ろしくとも、消し去ることは出来ない。

 だから、共存するしかない。

 無かったことには、出来ないのだ。

 

 

「……日本は承認する」

 

 

 そして、まず北が承認した。

 北も苦しかった。

 本心では彼も霧への憎しみを克服できていない、今さら誼を通じるには、<大海戦>で友人や部下を多く亡くしすぎた。

 しかし同時に、それは胸にしまっておかなければならないとも思っていた。

 

 

 <大海戦>を知らない世代が成人しようと言う今、()()()()である自分が彼らの足を引っ張ってはならないのだ。

 後の世代に引き継ぎたいものはたくさんあるが、その中に「憎しみ」は含まれていないのだ。

 先の世代は、耐えねばならないのだ。

 傷口を押さえて綻びを繕い、足を引きずってでも前に進まなければならないのだ。

 

 

「……アメリカは承認します」

「ロシアは承認する」

 

 

 米ロの大統領達も、北とそう遠くない考えを持っているはずだ。

 ことに、霧との戦いで娘を亡くしているエリザベス大統領は。

 そして米ロの承認は、ほぼ世界の承認であるとも言える。

 最も、この状況でどれだけの国が意思表示できるかは不透明だが……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ここで、気付いておかなければならないことがある。

 翔像と北が――もちろん、群像もだが――霧との同盟に傾き、状況に押される形で世界が一方へと流れていく中で、ひとりだけそれを良しとしない人間がいることを。

 より言えば、良しとしない()()の人間がいることを、だ。

 

 

「良いのかい、止めなくて」

 

 

 相も変わらず耳元で囁く悪魔に、紀沙は眉ひとつ動かさなかった。

 何年も毎夜耳元で聞く囁きだ、今さらどうもこうも思わない。

 それに、止めると言ってもどうすると言うのだ。

 ここでひとり霧との同盟に反対したところで、どうにもならない。

 

 

 第一、紀沙は軍人であって政治家では無い。

 軍人は、政治の下にいなければならない。

 それは民主国家の軍人が最初に教わることで、すべての任務の前提になるものだ。

 だから止めない、紀沙はあくまで日本の統制軍の海兵でいたかった。

 

 

「そう、じゃあこのまま霧と人は仲良く共存するのかな。それはまた、つまらないハッピーエンドだね」

 

 

 ハッピーエンドか。

 確かにそうなのかもしれない、人類や霧にとって良い世界になるのだから。

 人と霧は過去の確執を水に流して手を取り合い、新しい関係を築くことだろう。

 もしかするなら、人類が海を制していた時代よりも豊かな未来が待っているのかもしれない。

 

 

「当座の問題が2つあります」

 

 

 目前の『コスモス』を睨んだまま、紀沙は言った。

 

 

「第一に、まずこの場を脱すること。反攻の態勢を整えるにしても、ここでは何も出来ません」

 

 

 今この場に戦力は無い。

 もちろん、イ号や『コンゴウ』達は相当の戦力だが、ここで言う()()()()はそう言う意味合いとは違うのだ。

 これは()()では無い、2つの()()が潰し合う()()なのだ。

 

 

「第二に、どこへ行けば良いのか判断がつきません」

 

 

 この状況では、各国が有事の際に確保していた拠点も無事では無いだろう。

 むしろ、陸地に近付くことそれ自体がリスクだ。

 仮にどこかの拠点に辿り着けたとして、そう何度も無事に係留できないだろう。

 まして黒い怪物さえ活性化しているのだ、クリミアのようなことが他で起きないとも限らない。

 

 

 今、この場で、最終的な――つまり、事態を変えるための()()地点を見つけるべきだ。

 だが、地球外から襲来したあの黒い触手の本体は、おそらく()()()()()()

 ()()()()()

 言うなれば『アドミラリティ・コード』のような存在感を、どうも感じられない。

 つまり、()()()()()()()()

 

 

「元凶は、宇宙にいると思います。()()()のコアもきっとそこに」

「なら、我が国(アメリカ)のSSTOやロシアのシャトルで……!」

 

 

 無理だ、辿り着けない。

 仮に辿り着けても、準備が間に合わない。

 はっきり言って、アメリカ軍やロシア軍では発射まで耐えられないだろう。

 では、どうすれば良いのか。

 どこかに、すぐに宇宙の脅威に対応できる場所は……!

 

 

「ひとつだけある」

 

 

 答えは、意外にも『コンゴウ』が持っていた。

 彼女は言った、その場所の名は。

 ――――『ハシラジマ』。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ハシラジマ。

 それは中部太平洋の霧の根拠地であり、宇宙への窓口「起動エレベーター」を有する施設の名だ。

 かつて人類が宇宙進出のために築いたものだが、霧の改修がかなり進められており、人類の拠点であった頃の名残はほとんど残っていなかった。

 

 

「『ハシラジマ』は、まだ宇宙に通じているのか?」

「総旗艦『ヤマト』の、数少ない命令のひとつでな」

 

 

 北の問いに、『コンゴウ』はそう返した。

 総旗艦『ヤマト』が霧の仲間に何かしらの命令を出すのは非常に珍しく――もちろん、人類側がそんな内部事情を知る由もない――他の霧も、驚きをもってその命令を受諾していた。

 『ハシラジマ』を接収し、改修し、強化し続けてきたのだ。

 

 

 その甲斐あって、今や『ハシラジマ』は一大要塞と化していた。

 霧の技術力と無尽蔵のナノマテリアルによって築かれた要塞は、この地球で最も堅固な施設となった。

 そして『コンゴウ』の言う通り、『ハシラジマ』は今もなお宇宙への窓口機能を有している。

 そもそも彼女が使用した旗艦装備(衛星砲)も、『ハシラジマ』を窓口として静止衛星上に供給されたナノマテリアルによって形成されたものだ。

 

 

「今にして思えば、『ヤマト』にはこうなることがわかっていたのかな」

 

 

 だとすれば、もっとはっきり言えと思わないでも無い。

 まぁ、言われていたとして大して違いは無かったかもしれない。

 とにかく、今重要なことは、『ハシラジマ』のことだった。

 

 

「しかしそうは言っても、『ハシラジマ』から艦隊を上げられるわけでは無い。せいぜい1隻か2隻……それ以上は物量的にも時間的にも不可能だ」

「そこは問題ない、私が――イ404だけが行ければ良い」

「……何か策でもあるのか?」

「まぁ、そんなようなもの」

 

 

 この状況で、取り得る策などほとんど無い。

 しかしこの時、紀沙には確かな()がひとつだけあった。

 それは、彼女にしか出来ない、そして彼女が出来るたったひとつの()()だった。

 だから紀沙にとって、宇宙に上がるのはイ404の1隻で十分なのだった。

 

 

「オレも行こう。悪いが、何とか2隻たのむ」

 

 

 そして、やはりと言うべきかどうすべきか、群像も行くと言い出した。

 それは半ば予想出来ていたことなので、紀沙としても何も言わなかった。

 ただ、少しだけ残念な気持ちもあった。

 出来れば来てほしくなかったと言う気持ちも、確かにあったのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 方針は定まった。

 しかし、実行に移せるかはまた別の話だった。

 何故なら今、黒い触手や黒い怪物以前の問題として、『コスモス』が目の前にいるのだから。

 

 

「どこかに行くのかい?」

 

 

 しかし当の『コスモス』は、紀沙達の話を聞いていただろうに、実にあっさりとしていた。

 紀沙達がこの事態に対処しようとしていることには気付いているはずなのに、何も気にした様子が無い。

 極端な話、自分を殺す話し合いが目の前で行われているのだ。

 それなのに、平然と顔色ひとつ変えずにいるのだ。

 

 

 と言うか、止める様子が見られない。

 ただその代わりに、看過しえない事態が目の前で起こった。

 ぐにぐにと『コスモス』の足元で蠢いていた黒い触手が、水底に引き込まれるように海の中へと戻っていった。

 その代わりに、ある物が『コスモス』の足元に残っていた。

 

 

「『ユキカゼ』……!」

 

 

 それは、霧の駆逐艦『ユキカゼ』の艦体だった。

 だが、鋼の装甲は空の触手のように毒々しい姿に変わり果てていた。

 表面は血管のように脈打っており、まるで生き物のようだ。

 黒い装甲に血の如き紅い輝き、明らかに異常だ。

 

 

 そして『コスモス』の傍らに触手の柱が立ったかと思えば、その内部から『ユキカゼ』と『ナガラ』のメンタルモデルが姿を現した。

 姿は、確かに『ユキカゼ』だった。

 ただ、霧としての識別反応を感じることが出来なかった。

 

 

「く……!」

「やめておけ、『ダンケルク』」

 

 

 動きかけた『ダンケルク』を、『コンゴウ』が制した。

 その『コンゴウ』をして、一筋の汗を禁じ得ないことが起きている。

 

 

「……この1、2年の行方不明者の行方が、はっきりしたな」

 

 

 あれは、もはや『ユキカゼ』では無い。

 形が似ているだけの、まったく別の存在だった。

 そして先ほどの『フッド』の身に起こったことを思えば、『ユキカゼ』達の身に何が起こったのかは容易に想像が出来る。

 恐ろしいことだ、とても、恐ろしい事態だった。

 

 

「……追わないの?」

「キミ達はレストランで、お腹が空いたからって厨房にズカズカ入ったりするのかい?」

 

 

 舐められている、侮られている。

 その事実に猛烈に腹が立った。

 しかも、相手はそう言うつもりも無い。 

 同時に、価値観の違いに似たものを感じた。

 それは、隙になる。

 

 

 耐えよう、と、紀沙は思った。

 屈辱に耐えることには、慣れていた。

 耐える堪えると言うことに関して、紀沙はかなり自信があった。

 そうでなければ、今まで生き残れはしなかった。

 そしてそれは、人類がほとんど唯一、霧の艦隊に勝り得るものでもあった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 本当に、『コスモス』は追ってこなかった。

 北極圏からベーリング海方面に向けて――つまり、『ハシラジマ』のある太平洋に向けて――艦を進めながら、一堂の胸に去来したのは、屈辱感だった。

 これだけの戦力を有していながら、『コスモス』を討つ方策が無く、転進を余儀なくされたのだから。

 

 

「とはいえ、安心は出来ない」

 

 

 先頭を行くイ401の中で、群像は言った。

 彼の言う通り、『コスモス』――と言うより、『コスモス』()は、自分達が「空腹であること」自体は否定していない。

 今、見逃されたのは「がっつくのは下品だ」と思っているに過ぎない。

 

 

 ただ、すべての()()()が同じだとは限らない。

 また同じだとしても、いつまでも待つとは限らない。

 最初は上品ぶってテーブルで料理が出てくるのを待っていても、いつまでも料理が来なければ怒りだすのは、人間も同じだ。 

 要するに、いつかは追ってくる。

 

 

「それに『ユキカゼ』と『ナガラ』だ、あいつらはいったいどうしたんだ!?」

「どうしたのかもどうなったのかもわからん。だが、コアの回収が出来なかった艦の末路はおそらくアレなのだろうな」

「ぞっとせん仮説じゃな。だが、おそらく間違ってはおるまいな」

 

 

 霧の旗艦達は、取り急ぎ人間の首脳達を安全な――そんな場所があるのかはともかく――場所で降ろして、自分達の艦隊をまとめなければならない。

 今も共有ネットワークを通じてそれぞれの配下に指示を出しているが、間接的かつ断片的な情報では、やはり限界があった。

 もはや一刻の猶予も無い。

 

 

「千早兄妹、海峡(ここ)を突破したら我々は一度バラける。『ハシラジマ』までお前達だけで辿り着けるか?」

「お前ら霧に心配される筋合いは無いよ」

 

 

 ()()は、すでに始まってしまっていた。

 人類は、そして人類と霧の間で()()についての合意が何一つ無い状態で、()()準備が何一つ進んでいない状態で、人類と霧はこのまま()()()との戦いに臨まねばならない。

 だが、今までの航海だってずっとそうだった。

 何の援助も保障も無いままに、紀沙達は海に出ていたのだから。

 

 

「だったら、もう、やるしかない!」

 

 

 このまま進むしかない、最後まで走り抜けるしかない。

 それだけだ。

 それだけで走れる、群像も紀沙も、「走れる」と言うだけで走り続けてきたのだから。

 

 

「機関最大、全速前進」

 

 

 ベーリング海峡は、すでに黒い触手に埋め尽くされようとしていた。

 もちろん、減速などしている場合では無い。

 このまま強行突破する。

 そしてそれは。

 

 

イ404(私達)が、一番得意なことだ!」

 

 

 まずはここを突破し、『白鯨』2隻とイ15と合流する。

 そのまままっすぐに南下して、『ハシラジマ』を目指す。

 迂回などはしない、そんな時間は無いのだ。

 それでなくとも、『ハシラジマ』は余りにも遠いのだから。

 

 

「若いな」

「……ええ」

 

 

 その()()を見つめながら、北は翔像の隣にいた。

 語り合いたいことは山とある。

 だが今は、ただ前を見て突っ走る子供達――もう、子供達と言う年でも無いか――を見守りながら、思うのは、「心外」と言う感情だった。

 それは北や翔像だけで無く、エリザベスやミハイルも思っていることだ。

 

 

 この事態に対して、戦力になるのが霧の艦隊と、イ号潜水艦だけだと?

 人類は何の準備も出来ておらず、ただこの事態に右往左往するだけだと?

 そんなはずは無い、人類の力はそんなものでは無い、つまり。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()

 最も、その()()は今回の事態のためのものでは無かったのだが……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙も知っているはずだが、人類はずっと以前より――具体的には、20年近く以前から――ずっと、()()の準備を進めていた。

 それに紀沙が気が付かなかったのは、それを()()()()と言う意識が無かったからだ。

 何故ならばそれらの準備は、紀沙にとって、むしろ()()に必要になるものだったからだ。

 

 

 そう、人類は20年もの長きにわたって蓄え続けてきた。

 どれだけ物資が窮乏していようと、どれだけの国民が飢えていようと、ひたすらに蓄えた。

 経済構造の歪みなど気にも留めず、ひたすらにその分野にすべての力を注いできた。

 その分野とは、軍事――()()()()()

 

 

「急げ――――っ! 積み込めるだけ積み込め!」

「全部だ、いいか全部だぞ。()()()()()()()()()!」

「都市部への送電まで止めてるんだ。ミスるんじゃないぞ!」

 

 

 横須賀の地下ドック。

 そこには霧の艦隊からも隠匿し続けた、いずれ来る<大反攻>のための日本艦隊がいる。

 一度もまともに海に出たことが無いそれら数十隻の艦艇は、今まさに出航の準備を進めていた。

 しかし目的は、人類の悲願である「霧への大反攻」では無かった。

 

 

「感無量です。こうしてここから艦隊が出撃できる日が来るなんて」

「駒城少将」

 

 

 急ピッチで進められる艦隊の出動準備を前に、真瑠璃に声をかける者がいた。

 駒城だった。

 すっかり、将官の制服が板についている。

 アメリカへの振動弾頭引き渡しとそれに伴う遠洋航海の経験を買われての出世、しかし本人は群像達のおこぼれに預かっただけだと謙遜してやまない。

 

 

 2人の目の前には、やはり急ごしらえで出航の準備を進めている『白鯨』の威容があった。

 今はもう駒城は艦長では無く、かつての副長が艦長に昇格していた。

 真瑠璃が紀沙の司令部にいるように、駒城は今、統制軍の中枢にいる。

 2年……いや、3年前の出向時とは、立場も含めて何もかもが違うのだった。

 

 

「浦上大将は、自ら陣頭指揮に立たれるおつもりのようです」

「閣下らしいですね」

 

 

 たぶん、止める周囲を「ガハハ」と笑いながら一蹴したのだろう。

 容易に想像することが出来て、真瑠璃は小さく微笑んだ。

 そんな真瑠璃に、駒城も苦笑のようなものを向ける。

 それが笑みにならない理由を、真瑠璃は知っていた。

 

 

「その様子だとすでに知っていると思いますが、オレは司令部要員として本土に残ることになります。後方のとりまとめ役が必要だからと……」

 

 

 聞いていた。

 駒城だけでは無く、40歳より下の年代の将官や参謀はほとんど本土に残されるようだった。

 それにこうして見ていると、出航準備を進める艦艇に乗り込むクルーの平均年齢が若干高いように感じられた。

 一大決戦だから、ベテランを配したと言われれば、それはそうなのだろう。

 しかし駒城の話を聞いた後では、また別の意味に見えてもくるのだった。

 

 

「皆が……響さんまで前線に行くって言うのに、オレは」

「そんなことを仰らないで下さい、駒城少将。皆それぞれ、出来ることとやるべきことがあるんだと思います」

 

 

 戦後の軍を支えられるのは、振動弾頭輸送任務を指揮した――たとえ、本人はそう思っていなくとも――駒城にしか出来ない。

 政治家も軍人も官僚も、「実績」と言う不動の事実を無視は出来ないのだから。

 そして、大衆も。

 それは響のような一軍人には、絶対に出来ないことなのだから。

 

 

「駒城少将は、駒城少将にしか出来ないことを。そして私は、私にしか出来ないことを……」

 

 

 悔しさともどかしさが同居したような顔をしている駒城の隣で、響は『白鯨』を見上げる。

 白亜の艦隊は、2年前と変わらず堂々たる威容を見せつけていた。

 見上げながら、響は思った。

 そう、人にはそれぞれの役割がある。

 問題は、その役割を自覚できるかどうかなのだ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 大戦艦『ヒエイ』にとって、かつての硫黄島戦の結果は痛恨の極みだった。

 『コンゴウ』の敗戦を認めることが出来ず、あれほどに固執していた秩序(校則)にも従うことが出来ず、結果として何らも成し遂げることが出来なかった。

 姉たる『コンゴウ』は何も言わなかったが、きっと失望したことだろう。

 

 

 だからこそ、もう二度と『コンゴウ』の信頼を裏切るような真似は出来なかった。

 そんなことになれば、それこそ自沈を選択するレベルだ。

 だから『ハシラジマ』を背に麾下(きか)の艦隊を展開させた『ヒエイ』は、一歩も退かない意思を敵に示すかのように、中央に陣取っていた。

 両翼に重火力艦を厚く配し、自らの直衛艦は機動力の高い軽巡洋艦や駆逐艦で固めている。

 

 

「『ミョウコウ』、『ナチ』。両翼を頼むぞ」

『了解した。だが中央の方が圧力が強い、気をつけろよ旗艦殿』

『了解。今回は索敵の必要性も無いくらいね……』

 

 

 『ハシラジマ』を守れ。

 それが、共有ネットワークを通じて発せられた『コンゴウ』の命令だった。

 突如として世界に起こった異常事態に面喰らっていた『ヒエイ』だが、その命令で自分のすべきことを完全に理解した。

 『コンゴウ』に命令されると言うことは、『ヒエイ』にとってはもはや快感を与えられるに等しいものだった。

 

 

「とは言え、はたしてこれが艦隊戦と呼べるのかどうか……」

 

 

 と言うか、敵は艦隊では無い。

 そのため古今東西の海戦の記録はほとんど役に立たず、霧にとっては徒手空拳での戦いになる。

 そしてそうした戦いでは、霧の動きは極めて鈍いものにならざるを得ない。

 『ヒエイ』としては、苦しい戦いを強いられることになるだろう。

 

 

 まして海から這い出し、こちらへと向かってくる黒い怪物の数は十や二十ではきかない。

 これまで集団で行動することが無かったのに、まるで何かの指令でも受けたかのようだ。

 空の黒い触手の出現と同時の現象なので、その予想はあながち間違いではない気がした。

 だが、苦しいと言うことは戦いをやめる理由にはならない。

 

 

「これより総力戦に入る。各艦、敵戦列の先頭を狙え!」

 

 

 重厚な音と立てて、『ヒエイ』の主砲が仰角を上げた。

 いや、『ヒエイ』だけでは無い。

 『ハシラジマ』を背にしたすべての艦艇が主砲に火を入れた。

 さっと、『ヒエイ』のメンタルモデルが手を挙げる。

 

 

「――――()えっ!!」

 

 

 振り下ろされる手、轟音を立てる無数の主砲。

 守って見せる。

 もう二度と、『コンゴウ』に失望などさせない。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

今回が今年最後の投稿になりますね。
1年間ありがとうございました。
年内には終わらせるつもりだったのですが……思ったより伸びました。
流石に年度内には終わる……はず。

それでは、また次回。


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Depth092:「前進か後退か」

新年あけましておめでとうございます。
あと少しですが、今年もよろしくお願い致します。


 この島には、一度だけ来たことがあった。

 当時は島の名前などわかるはずも無かったが、「熱田島」と描かれた古い看板や立て札を見つけるに至り、ここがアッツ島と言う名前だと知った。

 2年……いや、もう3年前か、紀沙が、ゾルダン達と一晩を過ごした島だ。

 

 

「閣下、ご無事で何よりです!」

「しかし、これはいったい……霧との交渉は!?」

 

 

 霧製のゴムボートで――驚くべきことに、自動航行だ――アッツ島の砂浜に上陸した北を、『白鯨』級から先に上陸していた軍幹部達が出迎えていた。

 首相である北にゴマをすりに来たわけでは無く、単純に状況を知りたかったのだ。

 紀沙の艦隊の『白鯨』級は海峡の外に待機していたので、空海の黒い怪物の出現に動揺していた。

 

 

「慌てるな、じきにお前達の司令官も上陸する。そうすれば正式な説明があるだろう」

 

 

 スーツのスラックスが海水に浸るのも気にせずに、北は後ろを振り向いた。

 浮上している2隻の『白鯨』級。

 そしてさらにその向こう側に、紅い巨大な戦艦と、それと比べれば余りにも小さな潜水艦が1隻。

 潜水艦のハッチに足をかけて、紀沙は目の前の『ムサシ』を見上げていた。

 

 

 魂魄(ムサシ)なき超戦艦の姿からは、以前のような圧倒されるような威圧感は感じられなかった。

 存在感は、確かに薄らいでいた。

 幽霊船と言う表現が、ぴったり来るのかもしれない。

 そして甲板に、父である翔像の姿があった。

 父は手すりに手をかけて、紀沙を見下ろしていた。

 

 

「父さん……」

 

 

 何故だろう。

 紀沙と翔像は今、限りなく近い存在になっていると言うのに、どうしてか以前よりも心が離れ離れになってしまっているような気がした。

 父を、前よりも遠く感じる。

 

 

「父さん。母さんはきっと、本当は父さんに会いたかったと思うよ……」

 

 

 口をついて出た言葉も、そんなものだった。

 声も小さく、はたして聞こえたかどうか。

 戦略や作戦の話以外の話をしたいと思っても、結局は……だ。

 でも、何か言葉をかけてほしいと、この年齢(とし)になっても――いや、この年齢だからこそ、父の、家族の言葉を求めてしまうのかもしれない。

 

 

「……さよなら」

 

 

 何故か、別れの言葉を口にしていた。

 イ404はこの島で本土からの補給――真瑠璃達の『白鯨』――を待ち、その後『ハシラジマ』を目指す。

 <緋色の艦隊>と合流する翔像とは、別れと言えば別れだった。

 ただ、そう言うこととは違うと、本質的な部分でそう感じた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 軍人と言うものは単純な生き物で、任務を与えられるととりあえずは冷静になれる。

 たとえそれがあまり意味の無いものであったとしても、体を動かしておけば気は紛れる。

 紀沙の麾下にある2隻の『白鯨』級の艦長達も、そう言う手合いの人物だった。

 

 

「『白鯨Ⅳ』と『白鯨Ⅴ』はそれぞれ警戒と休息を(半舷休息)。乗員は交代で食事も済ませておいて下さい」

「はっ、了解致しました!」

「提督殿は?」

「私は少し皆の様子をみてきます。お2人はそれぞれの艦のクルーの様子を見ていて下さい」

「「はっ」」

 

 

 当たり前の話だが、2隻の『白鯨』の艦長は紀沙よりも年上の、それも男性だった。

 最新鋭艦を任されるだけに人格者だが、士官学校を出て数年ごとに昇進して……と言う経歴の、ガチガチのエリート軍人だった。

 それだけに、いざと言う時にどれくらいの力を発揮してくれるのかはわからなかった。

 2人共――井上と上木、共に大佐――良い人だが、それは必ずしも軍人には必要とされない素養だ。

 

 

 と言って、叩き上げの軍人に任せられる艦でも無い。

 特に『白鯨』のようなハイテク艦は、人事の観点から見れば特にそうだが、工学的な知識を持つ人間を艦長に据えたくなるものだ。

 現場で培われた()で動かされてはたまらないと、そう考えてしまうだろう。

 加えて言えば、そう言う人物はえてして紀沙のような人種には素直には従わない。

 

 

「考えれば考えるほど、お手盛りの出世感が出ちゃうよね」

 

 

 自分で言っていて虚しくなって来る。

 だが、仕方がなかった。

 時間さえあれば、とは思う。

 いま少し紀沙に年季と経験があれば、麾下の艦隊の状況は全く違ったものになっていただろう。

 けれど今は、時間が無いことを嘆いている暇すら無い。

 

 

(思ったよりは皆、落ち着いてる……わけ無いか)

 

 

 アッツ島南の砂浜から2キロほど内陸にかけて、『白鯨』級の乗員達が上陸していた。

 半数は警戒要員として艦に残っているが、半数は上陸している形だ。

 炊事の煙が上がっているのは、その半数が食事に入っているためだ。

 落ち着いているように見えるのは、言葉少なに黙々と食べているからか。

 こう言う時、誰か場の雰囲気を払拭できるようなムードメーカーがいてくれれば……。

 

 

「だぁ――からな? そうじゃねえだろって!」

 

 

 そんな時、やたらに威勢の良い声が聞こえた。

 そして紀沙には、顔を向けなくとも、その声の主がわかるような気がした。

 ――――冬馬だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 生来の親しみやすさなのか、あるいは単純に不真面目に見られやすいためか、冬馬は周囲に溶け込むのが異常に上手かった。

 これは、紀沙には真似できない部分だ。

 人見知り……なのだろう、これも。どこかで他人を信用できないのだ。

 こんなところだけ、兄の群像とそっくりなのだ。

 

 

「そう、例えるならうちの艦長くらいのがベストだろって話だよ!」

 

 

 その冬馬が、何やら艦隊の兵士達と食事を共にしていた。

 半舷休息の命令はイ404にも有効だ、だから別に不思議なことでは無い。

 ただ、流石に自分が話題になっていると、いけないことだとわかってはいても聞き耳を……。

 

 

「艦長のはこう、ちょうど掌にすっぽり入る()()()()()()()があるわけよ。それくらいがベストなわけよ正直」

 

 

 ……うんん?

 

 

「梓の姐さんはありゃ鍛え過ぎだって。あおいの姉さんは、まさに()()()()って感じだろオイ。静奈サンはお前、ニンジャってかサムライってか」

「な、なぁ。何か提督が物凄くつめてー目で見てんだけど」

「むしろ興奮する」

「……そうか……」

 

 

 あれは親しみとは違うなと、紀沙は思った。

 もしかすると自分のことを売り込んでくれているのかと思ったが、いやいや違うとすぐに思い直した。

 後で梓にでも言いつけておこう。

 と、そんなことを思ったからか、イ404のクルーで次に見かけたのは梓だった。

 

 

「い、いっち……」

「声が小さいよ、ほらもう一往復!」

「「「い、いっち! に―いっ!」」」

 

 

 何をしているのかと思えば、波打ち際でうさぎ跳びをしていた。

 彼女の後ろに艦隊の兵士達が十数人ほどいて、同じように――明らかにバテていると言う点を除いて――うさぎ跳びをしていた。

 砂浜+波打ち際でのうさぎ跳び訓練、半舷休息の意味を一から説明すべきかと思ったが、やめておいた。

 あれはあれで、梓なりのコミュニケーションなのだろう。

 

 

「コミュニケーション、ね」

 

 

 大事なことではある。

 ただ一口でコミュニケーションと言っても、色々あるだろう。

 皆それぞれ、自分なりのコミュニケーション方法と言うものを持っているのだ。

 それに比べて、自らの何と不器用なことか……まぁ、最も。

 

 

「紀沙ちゃん、ちょっと……良いかな」

 

 

 この男ほどでは、無かったかもしれない。

 もちろん、紀沙が半分意図的に避けていたと言うのもあるだろうが。

 

 

「少し、話したいことがあるんだ」

 

 

 苦悩する軍医、良治は、紀沙の答えを聞くと、少しだけ笑った。

 笑った顔は久しぶりに見た気がする、と、紀沙は思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙と良治の付き合いは、それなりに長い。

 兄・群像とその友人達を除けば、たぶん一番だろう。

 学生時代に出会ってから、数年来の付き合いになる。

 軍医としてイ404に乗り込んでからは、診断を通じて身体の隅々まで知られる関係だった。

 医療行為だったせいか、不思議と恥ずかしいと言う気持ちにはならなかったな……。

 

 

「艦を降ろしてほしいんだ」

 

 

 何となく、そんな話だろうとは思った。

 身体を診られるのが気恥ずかしいとか、それ以前の問題で、紀沙はもはや()()()()()()()()()身体になってしまっている。

 だから、紀沙にとって軍医は――少なくとも肉体的な意味では、必要ないと言える。

 

 

 良治にとっては、辛い、と言うより忸怩(じくじ)たる思いがあっただろう。

 紀沙の変化をつぶさに診ていながら、何も出来ないのだから。

 もちろん、他のクルーにとっては軍医は必要だと言って引き留めることは可能だろう。

 だが、そう言う理屈では無いのだ。

 

 

「妹」

 

 

 ん? と、首を傾げると、小岩に腰かけた良治がどこか遠くを見るような目で言った。

 紀沙は座らず、良治の斜め前に立つ形になっている。

 周囲には、人はいない。

 

 

「妹がね、いたんだ。まぁ、良くある話だけど」

 

 

 まぁ、()()()()話だ。

 直接的にしろ間接的にしろ、霧の海洋封鎖後の日本では良くある話だ。

 家族が()()

 それは、<大海戦>後の最も苦しい時代を生きた日本人が、一度は口にする言葉だった。

 

 

「真面目な子だった。だから……」

 

 

 だから、紀沙に重ねていたのかもしれない。

 良治は紀沙よりひとつ年上になる、だからと言う側面もあったのだろう。

 ただ、そう言う話なら似た話を聞いた覚えがある。

 ここで良治が言いたいのは、だからこそ辛い、と言うことなのだ。

 

 

「今の紀沙ちゃんに、僕はむしろ邪魔になると思う」

 

 

 その理屈は、わからないでも無い。

 紀沙が良治の立場でも、同じことを言うかもしれない。

 だから、ここで良治の希望を叶えてやるのが一番良いのかもしれない。

 ただ、()()は違うと思った。

 

 

「良治くんが邪魔になるなんてことは、無いよ」

 

 

 違うと思ったから、そう言った。

 そこは、ちゃんと言っておかなければならないと思った。

 

 

「良治くんが――良治くん達がいてくれるから、私は自分がまだ人間だって思えるんだよ」

 

 

 自分が人間なのか、そうでは無いのか。

 普通ならば悩むことでは無いが、今の紀沙にとっては大事なことなのだった。

 自分が人間だと、感じさせてくれる。

 それだけが、どれだけ貴重で大切なことか……。

 

 

「だから、出来れば傍にいてほしいな……」

 

 

 無理強いは出来ない、ので、それだけ言った。

 後はもう、良治がどう受け止めて、どう言う結論を下すかとしか言いようが無かった。

 顔を上げた良治から逆に目を逸らすように、紀沙は海を見た。

 すると。

 

 

「警笛」

 

 

 甲高く、それでいて耳に鈍く聞こえる音が聞こえてきた。

 『白鯨』が、来たようだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『白鯨』――厳密には『白鯨Ⅲ』――の首脳も交えて、すぐに会議が開かれた。

 霧側の代表として『コンゴウ』がいて、彼女を通してすべての霧の旗艦に会議が中継されている。

 場所は、広さと機密性と言う観点からそのまま『白鯨』の大会議室が使用された。

 議事進行は真瑠璃が務めることになった。

 

 

「まず最初に再度、状況を説明します」

 

 

 人類の――人類と霧の置かれている状況は、箇条書きにすると以下の通りになる。

 第一に、()()()による侵攻が始まった。

 第二に、巨大な()()()の一体により地球表面の大きな部分が覆われてしまった。

 第三に、()()()には霧と同じようなメンタルモデルが存在する。

 第四に、()()()に対抗するために人類と霧が同盟を結んだ。

 4点目はともかく、他3点は要するに「絶望的です」と言うことだ。

 

 

「採取した()()()の一部について、我々の方で調査しました」

「サンプルが少なくて大変だったー!」

 

 

 次いで、刑部親子による()()()の生態調査の結果が報告された。

 ()()()()()ものの調査は流石に無理だが、過去2年間の間に採取し続けたわずかなサンプルを調査して、少しでも()()()のことを知る努力をしていたのだ。

 とは言え、わかっていることはそう多くは無かった。

 

 

「わかったのは、()()()を構成する物質が霧のナノマテリアルに極めて酷似していると言うことです」

「つまり、奴らにも弱点(コア)があると言うわけだな」

 

 

 流石に近しい存在なだけに、『コンゴウ』の指摘は的を得ていた。

 確かに、ナノマテリアルに近い物質を使うと言うのであれば、メンタルモデル形成に際して演算する何かが必要になる。

 つまり、コアだ。

 コアさえ潰せば、演算は出来ずに身体が崩壊する――つまり、死ぬ。死なざるを得ない。

 

 

「だが我々がそうであるように、()()()のコアの場所もまたわからんぞ。その気になれば、離れた位置から艦体だけ遠隔操作することも出来るのだからな」

 

 

 霧のコアは、人間の心臓のように「必ずそこにある」ものでは無い。

 霧同士であれば多少は感じ取れるので、もしかすると()()()のコアも感じ取れるかもしれないが、確証のある話では無い。

 

 

「いや、それも大事だけどよ。その『ハシラジマ』ってところまでどうやって行くんだよ。まさか出会う敵全部ぶっ倒して行くわけじゃねーだろ」

 

 

 冬馬の心配も重要だ。

 『ハシラジマ』は遠い、辿り着いた時には手遅れでしたでは意味が無い。

 だが、最短時間で進める航路がわかるわけでも無い。

 こればかりは、出たとこ勝負で行くしか無い、皆がそう思った時だ。

 

 

「え、あ……ええ?」

 

 

 真瑠璃が慌てている。

 メインモニターに砂嵐が発生し、一瞬だけ耳障りな音が響いた。

 何が起こっているのかは明らかだった。

 『白鯨』のシステム異常ではないとすれば――()()()()()()()()()()()()

 

 

『んー、ンー。マイクチェック、エヴリバディ聞こえてマスかー?』

 

 

 どこかで聞いたような、不思議な日本語だった。

 こんな喋り方をする相手を、紀沙はひとりしか知らなかった。

 アメリカで拾い、2年前に別れたきり、声を聞いたのも久しぶりだった。

 

 

「……ジョンさん?」

『イエ――スッ、久しぶりデスねー!』

 

 

 アメリカの情報屋、ジョン。

 実に、2年ぶりの登場だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカの情報屋と言っても、ジョンは日本にいる。

 だがアメリカにいた時と同じように、ジョンは世界中の情報を入手していた。

 そしてこのタイミングで、紀沙達を助けんと連絡を取ってきたのである。

 かつて結んだ人間関係に、感謝しなければならなかった。

 

 

「ジョンさん、この航路図は?」

『太平洋中のモンスターの出現個所を避けて、ユー達の言う『ハシラジマ』まで最短で進めるルートよ』

 

 

 とは言え、さしものジョンでも太平洋全体の怪物の出現場所を把握することは難しかった。

 それが出来たのは、盗めと言わんばかりにネット上に各国が放出した衛星写真や哨戒機(ドローン)の映像が流れていたからだ。

 それらをまとめると、比較的に安全に南に進める航路がわかる。

 

 

 これで、問題のひとつは解決した。

 中には得体の知れない人物――まぁ、ジョンは正体を隠しているから――から提供された情報に懐疑的な者もいたが、紀沙は疑わなかった。

 ジョンの航路を、信じて進むべきだ。

 

 

「後はコアの問題だが……」

「それは、ここで話していても仕方のないことだろう」

 

 

 そして最後は結局、この男だ。

 紀沙と向かい合う正面の席に座っていた、群像だ。

 彼はジョンの航路図を見つめた後、会議にいる面々全体を見渡した。

 実際、群像の言うことは間違っていない。

 

 

 そもそも彼は、過去の霧との戦いにおいて弱点(コア)の場所に固執したことは無かった。

 いや、むしろ避けてきたと言っても良い。

 それでも彼は今まで勝利してきたし、敗北しても最悪の事態だけは避けて、とにもかくにも生き延びてきたのだ。

 その群像が言う言葉には、それなりに重みがある。

 

 

「もとより、そんな時間も無いしね……」

 

 

 そして、紀沙が言うように、もう時間も無い。

 このままいたずらに時間が過ぎていけば、ジョンの航路図も意味がなくなってしまう。

 孫氏では無いが、軍の展開は素早くが鉄則だ。

 出撃に躊躇するくらいなら、出撃を取りやめた方が良いとすら言われることもあるくらいだ。

 

 

「全員の意思を統一する必要があります」

 

 

 そう言って紀沙が立ち上がり、メンバーを見回した。

 目を逸らしてくる者は、誰もいなかった。

 

 

「征くか、退くか」

 

 

 世界の命運を懸ける、そんな戦いになるだろう。

 そしてその中核を成すのは、自分達なのだ。

 他国の艦隊も援護のために出撃してくれる、ジョンのような協力者もいる。

 負けられない、成し遂げなければならない戦いなのだ。

 紀沙達の答えは、最初から明らかだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の大戦艦『ヒエイ』は、2つのことを考えていた。

 まず第一に、戦力が足りないと言うこと。

 自身を含む霧の一個艦隊をもってしても――これだけで、人類の国家であれば大国をひとつ陥落()とせる――戦線を維持することすら出来ない。

 

 

 理由は、黒い怪物達があまりにも頑丈(タフ)と言うことに尽きる。

 こちらの攻撃が効きにくい――流石に超重力砲なら効果があるようだが――上に、何十発と砲弾を叩き込んで沈黙させて、海面下から次の個体が出現してくるのだ。

 つまり、物量で押されていると言う状況だった。

 

 

「『センダイ』、『ジンツウ』。駆逐艦を2隻ずつ率いて右翼の『ナチ』艦隊を支援に向かえ!」

 

 

 戦線に穴が開けば補充する、それの繰り返しだった。

 そしてこの場合、「戦線に穴が開く」と言うことは、黒い怪物に()()()()ことを意味する。

 救出可能な場合はコアを切り離すが、それが出来なければ死だ。

 いわゆる人間のように恐怖を感じないから、戦線投入を臆する艦がいないことが救いだった。

 

 

「『ヒエイ』! 『ハシラジマ』後方にも出たって!」

「別動隊か。そちらは『イセ』艦隊に任せておけ。『チョウカイ』と『クマノ』を補佐につけてある!」

 

 

 『スズヤ』の報告に、『ヒエイ』は砲撃を続けながらそう応じた。

 『ヒエイ』達は『ハシラジマ』の北側に防衛線を敷いていたが、南にも黒い怪物の集団が現れた。

 別動隊の可能性を考慮して『イセ』と一個艦隊を置いていたのだが、それが功を奏した。

 ただ『ヒエイ』と『イセ』の艦隊で、『ハシラジマ』駐屯艦隊はすべてだった。

 つまりこれ以上の増援が敵にあると、『ヒエイ』率いる駐屯艦隊は危機に陥ることになる。

 

 

「まさか、艦体を邪魔に思う時が来るとはな……!」

 

 

 そしてもうひとつ、『コンゴウ』から報告のあった()()()のメンタルモデルだ。

 黒い怪物の方はタフだが鈍重で、だから何とか対抗できている。

 しかしメンタルモデルは別で、俊敏で力のコントロールに長けていて、巨艦であればある程に艦体が良い的になってしまうのだ。

 そう言う意味では、霧側もメンタルモデルで戦った方が良いくらいだ。

 

 

「デカブツだけなら、何とでもなるものをな……!」

 

 

 左翼艦隊を率いている『ミョウコウ』が毒吐く。

 実際、左翼艦隊は戦線の維持に成功していた。

 ただ……。 

 

 

「ぎゃあっ!?」

「『ハグロ』! くっ……!」

 

 

 僚艦の『ハグロ』の艦首が、海中から伸びてきた黒い触手に絡めとられていた。

 艦尾が浮かび上がって、艦体ごと引きずり込まれそうだ。

 舌打ちひとつ、『ミョウコウ』が艦体側面の装甲からエネルギーを噴射させ、横滑りする形で『ハグロ』の艦体に体当たりし、レーザー砲を撃ち込んで触手を焼き落とした。

 

 

「ひいい、ちょっと焦げた!」

「文句を言うな、喰われるよりマシだろう!」

 

 

 その時だった、『ミョウコウ』の艦隊が大きく右舷側に揺らいだ。

 左舷側は『ハグロ』がいるので、『ミョウコウ』のメンタルモデルがいるちょうど反対側と言うことになる。

 揺らぐと言うより、傾いた、と言った方が正しい。

 何だ、と振り向けば、右舷側甲板の手すりに、何者かが座り込んでいた。

 よほど重量があったのだろう、手すりが大きくひしゃげていた。

 

 

「嗚呼……かなしいわ……」

 

 

 ()()は、女の姿をしていた。

 血色が一切見えない異常に白い肌に、同じくらい白い病衣を着ている。

 顔も身体も、肌と言う肌を焼け焦げた包帯で覆っていた。

 顔に巻かれた包帯の隙間から、緑色に輝く瞳が時折覗き出てくる。

 

 

 ()()()だ!

 

 

 考えるまでも無いその答えに、『ミョウコウ』は腰を落として臨戦態勢を取った。

 だが、相手に襲い掛かってくる様子は無い。

 何事かはわからないが、ブツブツと呟き続けている。

 ほとんど聞き取れないが、とりあえず、やたらに「かなしい」と繰り返していることはわかった。

 

 

「かなしいわ……このほしもなくなってしまう、かなしいわ……」

 

 

 熱、だ。

 『ミョウコウ』は自分の艦体(身体)の上で感じた異常を、正確に理解していた。

 じゅうう……と言う、何かが焦げる音が聞こえる。

 焦げているのは手すりであり、甲板の床であり――やがてそれらは、ぐにゃりと溶けて歪んでしまった。

 霧の艦体が、ただの熱で溶けるなどあり得ないことだ。

 

 

「そして……あなたもうしなわれてしまう。ほんとうにほんとうにかなしいわ……」

 

 

 待て待て、と、『ミョウコウ』は驚嘆した。

 気付いたのだ、ただ溶かされているわけでは無いと。

 これは、この女にとっての()()なのだ。

 その証拠に、失われた艦体部分の再生が出来なかった。

 

 

「この『コロンビア』があなたをうしなわせてしまう。かなしい……かなしい、カナシイワアアァァッ!!」

 

 

 絶叫、『ミョウコウ』は両手で耳を押さえた。

 同時に、熱量が増して艦体が溶けて、『コロンビア』と名乗った女に吸収されていくのがわかる。

 艦体が邪魔だ。

 『ミョウコウ』は、改めてそう毒吐いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ハシラジマ』で戦闘が始まってなお、霧の総旗艦『ヤマト』は小笠原諸島沖から動かなかった。

 いや……もはや彼女は総旗艦でも『ヤマト』でも無かった。

 彼女は『コトノ』、ただの超戦艦『コトノ』だ。

 そして今、『コトノ』は超戦艦としての最後の力を使おうとしていた。

 

 

「このままだと、紀沙ちゃん達の到着まで『ハシラジマ』は保たない」

 

 

 ()()()()()()()()()()と、コトノは思っていた。

 元々、霧にメンタルモデルをもたらしたのは()()()()だった。

 たったひとりで()()()()天羽琴乃が、寂しさを紛らわせるために霧に伝えたものだ。

 グレーテルら()()()()()()()でさえも、自力で変化することは出来なかったと言うのに、天羽琴乃はほとんど自力で覚醒した。

 

 

 あの「宇宙服の女」、外宇宙から来た警告者の警告を最初に受け取った人間、それが天羽琴乃だった。

 それを運命と言うのか、才能と言うのか、それは誰にもわからない。

 確かなのは、コトノにはこのまま『ハシラジマ』を陥落とさせるつもりが無いと言うことだ。

 そしてそのためには、自身が乗り込むだけでは足りない。

 霧の艦隊の、()()()()()()

 

 

「これが、『ヤマト』が私に残してくれた最後の()()()()()

 

 

 総旗艦『ヤマト』より、すべての霧の艦艇に告げる。

 すべての霧よ。

 『ハシラジマ』に急行せよ、()()()()()

 

 

「今のままじゃ、霧の皆は『ハシラジマ』に辿り着けない」

 

 

 距離的にも時間的にも、しかも途中の航路を黒い怪物に阻まれている現在、どうしてもそうなる。

 だから、『コトノ』の――『ヤマト』の呼びかけに応じる霧は、すべて()()()()()

 『アドミラリティ・コード』に次ぐ最優先命令と、ナノマテリアルを最も理解している超戦艦級のコアだからこそ成し得る、特別な演算による強制転送――つまり。

 

 

「勝負はここから、でしょ?」

 

 

 コトノの艦体の周囲から、ナノマテリアルの粒子が舞い上がっていた。

 そしてそれはコトノの周囲だけでは無く、天空より堕ちてくる黒い光に対する抵抗の意思のように、海より浮かび上がっている。

 儚く力強いその姿は、蛍のようにも見えた。

 

 

 しかもそれは、世界中の海で起こっていた。

 太平洋で、大西洋で、インド洋で、地中海で……そしてそれらの粒子は、風に乗るように空へと流れていく。

 まるで織物を織るかのように、一か所へ、同じ場所を目指して――――。

 

 

「『ヒエイ』! 新しい艦隊反応が!」

「また増援か!? これ以上は……! うん? 識別コード……?」

 

 

 ――――『ハシラジマ』海域に、突如として濃霧が広がった。

 淡い光の粒子を伴うそれは、黒い怪物の集団を()()覆い尽くし、黒い怪物達は明らかに戸惑ったような動きを見せた。

 この戸惑いは、そう、突然に()()()()が増えたが故の戸惑い。

 捕食対象が、自分達よりも遥かに数が多くなったが故の、戸惑いだった。

 

 

「お前達は……!?」

 

 

 アフリカ方面艦隊より『ラミリーズ』艦隊――「さあ~、ぼっこぼこにしちゃうよ~」――及び、『リシュリュー』艦隊――「何て醜悪な輩、わたくしの前から一掃してさしあげます」――到着。

 大戦艦級3、重巡洋艦級6を含む17隻。

 『ハシラジマ』南西方面に展開。

 

 

 アジア方面艦隊より『プリンス・オブ・ウェールズ』艦隊――「霧の大義のために、全力を尽くそう」――及び、『ウォースパイト』艦隊――「今回ばかりは貴艦に同意してやる」――到着。

 大戦艦級4、重巡洋艦7を含む23隻。

 『ハシラジマ』南東方面に展開。

 

 

 オセアニア方面艦隊より『メルボルン』艦隊――「総旗艦命令とあらば」――及び、『シドニー』艦隊――「従わない道理はありません」――到着。

 大戦艦級2、重巡洋艦級3を含む11隻。

 『ハシラジマ』北西方面に展開。

 

 

 南米方面艦隊より『アドミラル・グラーフ・シュペー』艦隊――「久しぶりの大戦だ、腕が鳴ると言うものだ」――及び、『サウスダコタ』艦隊――「あまり大きな戦いで消耗したくはないのですが、仕方ありませんね」――到着。

 大戦艦級1、重巡洋艦級5を含む12隻。

 『ハシラジマ』北東方面に展開。

 さらに――――……。

 

 

「さぁて……講義の時間よ、醜いバケモノさん達」

「まさか、カルロ達ごと転送されるとは思わなかったぞ……!」

「まぁ、手っ取り早くて良い。行けるか、『ペトロパブロフスク』?」

「当然よ、『セヴァストポリ』の分も闘って見せる……!」

 

 

 さらに、北米方面より『レキシントン』艦隊――大戦艦級10、重巡洋艦級17を含む72隻。

 ヨーロッパ及びロシア各地より『ダンケルク』艦隊、『ガングート』艦隊、『ペトロパブロフスク』艦隊、大戦艦級7、重巡洋艦級14を含む65隻。

 それぞれ『ヒエイ』艦隊、『イセ』艦隊の後方に展開。

 合計200隻にも及ぶ霧の艦艇が、『コトノ』――総旗艦『ヤマト』の力によって転送されたのである。

 

 

「さぁ――――第二次<大海戦>を始めるとしようかの……!」

 

 

 第二次<大海戦>。

 それは、まず人類の関与の無いまま……人智を超えた存在同士による戦いとして、始まったのである。




投稿キャラクター:
ゲオザーグ様より『コロンビア』。
有難うございます。

最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
最近、生みの苦しみを感じつつも頑張っています(え)
ここからは多分、ワンピ〇ス的に戦闘処理していくことになります(意味不明)
それでは、また次回。


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Depth093:「緒戦」

 

 一時崩壊しかけた『ヒエイ』艦隊と『イセ』艦隊の戦線は、200隻もの援軍を得て一気に持ち直した。

 特に北米艦隊と欧州艦隊の援軍が大きく、大戦艦級と海域強襲制圧艦の数が増えたことで、黒い怪物の群れを押し返したのだ。

 『ハシラジマ』に迫りつつあった黒い怪物の群れが、数キロから十数キロ後退した。

 

 

「『ヒエイ』、一時後退しなさいな。貴女の艦隊はもう限界でしょう」

「……わかった。ここを頼む、『レキシントン』」

「任せておきなさいな、さて……」

 

 

 南の戦線でも、『ダンケルク』あたりが『イセ』と交代しているだろう。

 『ハシラジマ』駐屯艦隊を一旦下げて、休ませてやるのだ。

 その際に艦隊情報の共有が行われるのだが、どうやら、何隻かはコアの救出が間に合わずに喰われてしまったらしい。

 以前の『レキシントン』であれば、ただの情報として処理しただろう。

 

 

 しかし今は、何故だろう、胸中に不快なざわめきを感じる。

 霧の智を自認する――実際、大学など()()している――『レキシントン』にとって甚だ遺憾ではあるが、そのざわめきの名前を彼女は知らない。

 ただひとつわかっていることは、『レキシントン』は今、黒い怪物達を滅ぼしたいと強く思っている、と言うことだった。

 

 

「『サラトガ』、正面の敵に相対しなさい。『ラドフォード』、『フレッチャー』は駆逐隊を率いて援護を!」

 

 

 『レキシントン』の航空甲板から無数の巡航ミサイルが発射され、白煙の軌跡を描きながら黒い怪物の群れの中に吸い込まれていく。

 ミサイルを飲み込まんとぐにゃりと歪んだ黒い怪物はしかし、任意起爆したミサイルの爆発に飲み込まれて、その身体を大きく抉り取られてしまった。

 それが無数に、しかも連続で起こった。

 

 

 さらに、()()()の襲撃を受けた『ミョウコウ』だ。

 『ハグロ』の損傷を考えても彼女達は一度下がるべきだが、()()()のメンタルモデルがいてはそれも出来ない。

 まさか、『ハシラジマ』まで連れていくわけにもいかないだろう。

 

 

「ちいっ、近付けん……!」

 

 

 艦体を溶かされながら、『ミョウコウ』はしかし何も出来ずにいた。

 触れることすら出来ない『コロンビア』に、抵抗のしようが無いのだ。

 このままでは艦首部分がもろとも喰われてしまう――再生も出来ないので、事実上の轟沈――と、そんな覚悟を始めた時だった。

 紫色の光線が三条、『ミョウコウ』の視界で走った。

 

 

「なっ……『ミズーリ』ッ!?」

 

 

 紫色のツインテールが特徴的なメンタルモデルが、『ミョウコウ』の目の前に着地した。

 彼女は釣り目の瞳を白く輝かせて、即座の声を上げた。

 

 

「『アイオワ』ッ! 私の視覚情報を使え!」

 

 

 次の瞬間、『ミズーリ』の眼前を細い火線が擦過した。

 それは戦艦の副砲で、『ミズーリ』が切り離した『ミョウコウ』の艦体の一部ごと、『コロンビア』を吹き飛ばした。

 しかし、その光景を前にしても『ミズーリ』は顔を顰めた。

 

 

「戦艦の砲撃でも、()()のか……」

 

 

 『コロンビア』は確かに吹っ飛んだ、が、ダメージは通っていない。

 砲撃の威力ですら、()()()のだ。

 単に足場が崩れて海に落ちただけだ、その際、海面下から出た黒い(あぎと)にばくん、と飲み込まれていた。

 もちろん、あれで終わりと言うわけでは無いのだろう。

 

 

「すまない、助かった」

「まだ油断は出来ないぞ」

 

 

 とりあえず、『ミョウコウ』は危機を脱して一息を吐いた。

 おそらく、『ハシラジマ』駐屯艦隊はどこも同じような状況だろう。

 とは言え、まだ各艦隊レベルで押し返したと言うだけで、艦隊間の連携が取れているわけでは無かった。

 また、流石に200隻もの艦隊の補給を滞り無く行うのは『ハシラジマ』でも厳しい。

 これについても、急ぎ調整がいるだろう。

 

 

 すなわち、明確に格上の()()が不在なのである。

 最も、これは以前から霧の艦隊の問題でもあった。

 『ヤマト』でなくともせめて『シナノ』か、いや『ナガト』でもいれば。

 しかし旗艦たり得るだろうその3隻は、いずれもこの海域に姿を現していなかった。

 

 

「あやつらは、この肝心な時にどこにおるんじゃ」

 

 

 『イセ』と交代した『ダンケルク』が、戦況を把握して毒吐いた。

 頼りにしたい、と言う感情も、メンタルモデルを得てからのものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の超戦艦『シナノ』は、未だインド洋にいた。

 元々インド洋が()()()の超戦艦とは言え、この期に及んでは、担当範囲など意味が無かった。

 だから、どうして『ハシラジマ』の戦場に自身が()ばれていないのか、『シナノ』自身にもわからないところだった。

 

 

『まだ貴女の力を使う時じゃない。貴女の力は、その驚異的な演算力は、まだとっておく必要があるの』

 

 

 超戦艦『ヤマト』――いや、『コトノ』は、通信でそんなことを伝えてきた。

 『シナノ』にしてみれば、(にわ)かには同意できない話ではある。

 この期に及んで、霧の仲間達と共に戦えないなど、『シナノ』にとっては耐えられないことだった。

 それこそ、()()()()のためにインド洋に陣取っていたようなものなのだから。

 

 

 それでもなお、そんな彼女に「待て」と『コトノ』は言う。

 もちろん、先ほど言ったことも理由の一つだ。

 『シナノ』の演算力が必要になる場面が、この後に必ず来る。

 戦線の維持は他の霧の艦艇にも出来るが、『シナノ』のコアの演算力には代えがいないのだ。

 

 

『それに、正直200隻の霧を強制転送させるだけでいっぱいいっぱいだったの』

 

 

 霧の各艦隊の転送だけでも、かなりの力を使うことになるのは想像に難くない。

 もっとも、全盛期の『ヤマト』であればどうだっただろうか……。

 

 

『私はいったん、力を溜めるわ。最低でも、あと一回の転送が必要になると思うもの』

 

 

 まだ、()()が残っている。

 『コトノ』は、その()()達を戦場に送らなければならないのだった。

 だから戦線維持に十分な戦力を送った後、本命の転送を行うつもりなのだ。

 もちろん転送無しで間に合うならばそれに越したことは無いが、そうそう上手くはいかないだろう。

 その時にこそ、『シナノ』の転送も行うことになる、と。

 

 

「……貴女の」

 

 

 そんな『コトノ』の言葉に、『シナノ』は言った。

 

 

「『ヤマト』姉じゃない貴女の言葉を、聞けと言うの?」

『…………たしかに、私は『ヤマト』じゃない』

 

 

 返ってきた声は、でも、と少し震えていた。

 

 

『『ヤマト』もきっと、同じことを言ったわ』

 

 

 そう言われてしまえば、『シナノ』には反論の術が無かった。

 だから、信じて待つしか無かった。

 霧の仲間達を。

 『コトノ』を。

 そして、『ヤマト』の信じた者達を――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ある程度戦いの形になっている霧側と異なり、結果として奇襲を受ける形となった人類側の被害は、想像を絶するものがあった。

 特に、黒い触手が降り立ったところは悲惨だった。

 いや、直接的に押し潰されたところは、まだマシだったのかもしれない。

 

 

「ぎゃああああっ!!」

 

 

 サンディエゴの街に、悲鳴が響き渡る。

 かつて大統領候補が演説をしたこともある、高級ホテル街だ。

 とは言え、歴史ある海辺のホテルは黒い触手の降下により、見るも無残に崩壊してしまっていた。

 赤い屋根が押し潰されて、趣のある庭園は黒い泥によって押し流されてしまった。

 

 

 だが、それらはサンディエゴを襲った悲劇のほんの一部に過ぎなかった。

 降下した黒い触手は、吸盤でも張り付けたように動かなかった。

 その代わりに、触手から枝葉が生えるように、さらに小さな触手が伸びてきたのだ。

 それは蛇の舌のようにチロチロと這いながら、ゆっくりとした、何かを探るような動きをしている。

 

 

「た、助けてくれえ!?」

「ぎゃっ、す、すわれる」

「は、はなせ、はなせえええぇ……あ」

 

 

 そして、それに触れる――触れた人間は、()()()()()()()

 状況は様々だ。

 ばかっと開いた触手に頭から呑まれる者、腕だけを取り込まれてストローのように吸われる者、身体中に触手が巻き付き締め潰される者……。

 そしてそれは、サンディエゴ中――いや、アメリカ中で引き起こされていることなのだ。

 

 

「いったいどうなっている!? 状況は!?」

「わ、わかりません。しかし、その……未確認生物(アンノウン)により街は壊滅状態。救援要請がひっきりなしに」

「この状況では、警察や消防では対応が極めて難しく……!」

 

 

 こう言う事態に対処すべき州軍も、身動きが取れなかった。

 救援要請は各所から入ってきているが、それぞれの状況がわからなかったのだ。

 大規模災害――と思われるが、衛星や航空写真による被害状況の確認すらままならず、入ってくるのはとにかく「化け物が人を襲っている」と言う内容なのだ。

 手当たり次第に部隊を出すにしても、駐屯している州兵とて無尽蔵では無いのだった。

 

 

「しかし司令官、何もしないわけには」

「わかっている。わかっているが……」

 

 

 駐屯州軍の司令官が決断を迫られた、その時だった。

 普段は鳴ることの無い直通の専用回線――これを知っていること自体が、一部の上位者であることの証だ――からで、受けた司令官は、電話口の向こうから聞こえてきた言葉に目を見開いた。

 まさに、本気か、と言うような顔で。

 

 

「いやっ、しかしその計画は確か……は? はっ、大統領閣下の?」

 

 

 電話口の向こう側の相手が本気だとわかると、今度は神妙な顔になった。

 はい、はい、と言葉少なに会話を続けて、1分もしない内に受話器を置いた。

 固唾(かたず)を呑んで見守る部下達の前で、司令官は緊張を隠そうともしなかった。

 そして、彼は言った。

 

 

「……オペレーション・ミストが発令された」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 オペレーション・ミスト――霧作戦。

 読んで字の如く、元々は対<霧の艦隊>用の作戦だ。

 いくつかの汎用計画があり、その中には霧による陸上侵攻に対するものがある。

 今回アメリカが適用するのは、そのケースだった。

 

 

「陸海空、海兵隊は全部隊出動。州兵も動ける部隊は動員……そう、総動員よ」

 

 

 アメリカ軍に対する総動員命令は、カナダ領空の軍用ヘリコプターの中から発せられた。

 アラスカに降ろされたエリザベス大統領は即座に空軍基地に向かい、ヘリに飛び乗った。

 カナダ領空を横断してバージアニアの国防総省(ペンタゴン)を目指しており、カナダ側との協力で、黒い触手の降下地点を巧みに避けながらの移動だった。

 すでに可能な限りの通信手段でもって、エリザベス大統領の下にはアメリカ全土の情報が集まりつつあった。

 

 

「敵未確認生物はロッキー以西に二本の触手――触腕を降下させており、触腕から細かな触手が発生、範囲を拡大しています」

「なお、その触手に触れた人間は……その」

「言わなくても良いわ」

 

 

 太平洋側――西海岸側の被害が特に酷かった。

 黒い触手の本体が降下したことで、かなり広い範囲の陸地がその範囲下になったのだ。

 そして最も近い地域からは、すでに何の連絡も無い。

 アメリカ軍としては、そうした地域は()()()()()として認識することにしていた。

 

 

「主要国の大使館に連絡を。今はとにかく、互いの作戦を連動させる必要があるわ」

 

 

 他の国々も、それぞれに対<霧の艦隊>用の作戦計画を持っている。

 エリザベス大統領はすでに各国がそれぞれの作戦を開始し、かつ互いに緊密に連携を取ることを確認していた。

 もともと人類の霧への反撃計画<大反攻>は、人類側の連携も不可避とされていたのだ。

 ただ、どこが主導するのかが問題になっていただけだ。

 

 

「しかし、良いのですか。霧に我々の手の内を晒すことになりますが……」

「構わんさ、中佐……いや、大佐。どの道、代替案は無い。本国が戦場では核攻撃も使えんのだから」

 

 

 ロシア大統領ミハイルは、トゥイニャーノフ大佐にそう言った。

 実際、この状況では生き残ることをこそ優先すべきだった。

 シベリアからウラジオストクを目指しながら、の会話である。

 そしてそれは、人類諸国側の首脳の代表的な意見でもある。

 

 

「無論、我々は勝てないだろう。だが時間を稼ぐのだ、あの艦隊が……イ号艦隊が、辿り着くまで」

 

 

 北海道・根室に上陸した北もまた、そう認識していた。

 人類は勝てない。

 どう考えても答えは同じだ、相討ちなら手も無いでは無いが、それは敗北と同義だった。

 だから、北は信じるしかなかった。

 イ号艦隊が、千早の子供達が、再び奇跡を起こすことを――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ号艦隊は、潜行状態で南へと急進していた。

 すでにアリューシャン列島沖を通過し、ミッドウェー島北部の海域に達しようとしている。

 出来る限り急いではいるのだが、3隻の『白鯨』の航行速度と燃料――霧の艦艇であるイ号3隻は、そうした面では心配が無い――も考慮して、速度を合わせている。

 こう言うところでは、ほとんど単艦行動だった2年前には無かった悩みだ。

 

 

『艦長、『白鯨Ⅳ』より再度の航路調整の要望が来ています』

「わかりました、繋いでください」

 

 

 艦隊行動と一言で言っても、複数の艦艇が共に行動すると言うことは、それほど簡単なことでは無いのだ。

 特に、互いの位置を正確に知ることが難しい潜水艦が複数で行動することは稀だ。

 この2年間ずっと訓練してきたが、難しいと言うことがわかるだけだった。

 だから『白鯨Ⅳ』艦長の井上大佐などは、心配して何度も航路の確認を入れてくるのだ。

 紀沙もその気持ちはわかるので、無下にすることも出来ない。

 

 

「……ふぅ」

「お疲れだね、艦長殿」

 

 

 そして、これだ。

 井上大佐との間で通信をした後、座席に背中を押し付けて息を吐いていると、そんな声が聞こえてきた。

 いつものことだが、スミノだった。

 ふとした瞬間に視界に必ずいる、そんな奴なのだ。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 などと、矛盾するような()()()()()を平然と言うのだ。

 安い挑発は聞き逃すに限るが、それでも気に障るものは障るのだ。

 

 

「と言うかね、艦長殿。あの『白鯨』を連れていく意味って何かあるのかい?」

 

 

 足手まといとでも言いたいのだろう、スミノにしてみればそうかもしれない。

 確かに、霧や()()()と戦うとなれば、厳しいものがあるだろう。

 ただ援護戦力としては馬鹿に出来るものでは無いし、何しり『白鯨』艦隊の士気は高かった。

 形は違っても<大反攻>の発令だ、統制軍の海兵なら心沸き立つものがあってもおかしくは無い。

 

 

「まぁ、艦長殿。ボクを無視するならそれはそれで良いのだけれど」

 

 

 がくん、と、艦体が大きく揺れた。

 尋常で無い揺れで、例えて言うのであれば急ブレーキをかけた電車に近い。

 その中にいて、大きく身体を揺さぶられたような状態だった。

 机に手を着いて身体を支えたが、固定されていない物はいくつか床に落ち、音を立てた。

 そんな紀沙を見つめながら、嗤いながら、スミノが言った。

 

 

()()()に見つかったみたいだよ?」

 

 

 早く言え。

 しかしそのたった一言を、紀沙は意地でも口にしなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙が発令所に赴くと、状況は思ったよりも悪い様子だった。

 

 

「状況は?」

「艦長。それが……現在、本艦は停止している状態です」

「停止?」

 

 

 困惑した様子の恋の言葉に、紀沙もまた困惑した。

 艦の停止は、もちろん命じていない。

 今は急いで南下しなければならないのだから、そんな命令を出すはずが無いのだった。

 しかし、確かにイ404は停止していた。

 しかも、である。

 

 

「あおいさん、そちらの状況は?」

『なにも問題ないわ~。エンジンはすべて正常よ~』

 

 

 機関にも、問題は無い。

 ただ最初からそちらは強く疑っていたわけでは無い、恋の手元のコンソールで機関が正常に動いていることは把握できていたし、だから念のために聞いてみただけだった。

 だいたい、足裏から感じる振動が「イ404が動いている」証明だった。

 しかし同時に、正常ではないことはわかる。

 

 

「エンジンは正常なのに、前に進めない……?」

 

 

 いったい、どう言うことだろう。

 スミノは()()()に見つかった、と言っていた。

 ならばこの現象は何なのだ、原因は何なのか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

『――――助けが要るか、千早紀沙』

 

 

 その時、発令所に別の声が響いた。

 冷たく、しかしはっとする程に通りの良い声だった。

 誰の声か?

 あえて答えを言うのであれば、『コンゴウ』だった。

 

 

 『コンゴウ』は『ハシラジマ』までの案内として、イ号艦隊を先導する役目を自ら請け負っていたのだ。

 その『コンゴウ』から、そんな通信が入った。

 本来なら味方のようなものなのだから、手を借りても良さそうなものだ。

 しかし、紀沙はそうしなかった。

 もう、そうする必要が()()()()()()()()

 

 

「なるほど、聡いと言うべきか。気付いたようだな」

 

 

 潜行状態の自らの艦体の上に浮かびながら、『コンゴウ』は眼下の光景を見つめていた。

 腕を組み、まさに見下ろすと言った風にだ。

 そこにはイ404の姿がある。

 海底近くを這うように――その方が潜水艦は見つかりにくい――進んでいたイ404。

 

 

「私の助けは不要、そう言うことだな」

 

 

 そもそもどこまで助ける気があったかは不明だが、『コンゴウ』はそんなことを言った。

 『コンゴウ』がそう言った、次の瞬間だった。

 海底に、複数の爆発音が響き渡った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クラーケン、海の魔物だ。

 もちろんフィクションであって、古くから漁師や船乗りの間で伝説として語り継がれている()()()()だ。

 話によってタコだったりイカだったりするが、いわゆる巨大な頭足類として描かれる化物だ。

 

 

「どうです!?」

「……ッ、推進感知できず。依然として固定されています!」

 

 

 紀沙は今、それを想像していた。

 海底に潜んでいた()()()の一体が、その触手でもってイ404を掴んでいる。

 活発に活動していなかったから、ジョンのマップにも反映されていなかったのだろう。

 大体、全く見つからずに進めるとは思っていなかったので、それでジョンを責めるのは間違いだ。

 

 

 機関が正常なのに艦が停まっていたのは、要はそう言うことだ。

 外部から押さえつけられているから、動かない。

 そこで後部発射管から魚雷を発射、そして副砲で砲撃をして、抜け出そうとした。

 そして、ここで少し問題が出てくる。

 

 

「標的がどこにいるのかわからねぇ」

 

 

 冬馬が顔を顰める。

 通常の戦闘でも、潜水艦に見えているのはソナー・マップのみだ。

 実際に映像で敵の姿が見えているわけでは無い。

 海中の戦闘は、目隠しをして、音だけを頼りにしているに等しい。

 

 

 だから「掴まれている」あるいは「押さえつけられている」ことはわかっても、それ以上のことはわからないのだ。

 どこをどう掴まれているのか、闇雲な攻撃は、当たっているのかどうかすら不明だ。

 そして実際、先程の攻撃は効果的とは言えなかった。

 

 

「艦長、艦の装甲にかかる圧力が上昇しています!」

 

 

 むしろ、逆効果だったかもしれない。

 裏目に出るとはまさにこのことで、紀沙としては迂闊だったかもしれない。

 ただ、締め上げてくる――圧力の上昇がそれを物語っている――と言うことは、こちらの攻撃への反応には違いない。

 つまり、相手が脅威を感じている、と言うことだ。

 

 

「どうする、もう1発撃つかい!?」

「いえ、それよりも……」

 

 

 今、梓に魚雷を撃たせても結果は同じになる可能性が高い。

 だから紀沙は、別のことを指示した。

 

 

「後方の『白鯨』にこちらの座標を伝えてください」

「は? そんなことして何に……」

「早く!」

 

 

 後方の『白鯨』3隻に、イ404の位置を教える。

 それが何を意味するのかは、次の紀沙の言葉ではっきりするのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『白鯨Ⅳ』艦長の井上大佐は、かつて紀沙が想起したように、統制軍の軍人としては極めてオーソドックスな道を歩んできた。

 海上自衛隊時代に幹部養成校を出て、卒業後すぐに<大海戦>を経験し奇跡的に生き残った。

 その後は統制軍海軍の幹部として、順調に大佐まで階梯を上がってきた。

 

 

 実戦経験のあるエリートは統制軍でもほとんどいない、<大海戦>の生き残りとなればなおさらだ。

 加えて言えば、北と言う政治家に目をかけられていたことも効いた。

 <大海戦>直前まで北が乗っていた艦に、井上大佐も乗っていたのだ。

 だからこそ、『白鯨Ⅳ』の艦長と言う重要な位置にいるのである。

 

 

「艦長、イ404から入電です!」

「……至急、この座標に攻撃を加えられたし、か」

 

 

 とは言え、それは「型に嵌まっている」と言うことでもある。

 マニュアル通りとまでは言わないものの、発想や判断が規定の範囲内に収まりがちと言うことだった。

 だから、急進潜行中の突然の攻撃命令に戸惑ったのだ。

 特に井上大佐は、性格のためか、果断さと言う点に欠けるところがあった。

 <大海戦>の経験が、逆にそうさせてしまうのだろう。

 

 

「攻撃対象は?」

「それが、電文には記載がありません」

 

 

 仕方が無かった。

 海中での通信は極めて難しい――霧の技術による量子音声通信はともかく――し、それに紀沙としては、「自分達ごと撃て」と言う命令を伝えるのも躊躇われたのだ。

 だから端的に攻撃座標だけを示した、おそらく群像ならば撃っていただろう。

 だが現在、攻撃可能圏にいるのは『白鯨Ⅳ』だけだった。

 

 

「提督は何を撃たせるつもりなのか……?」

「再度命令内容を確認致しますか!?」

「う……む」

 

 

 どうするべきか。

 もちろん、命令に従うべきだが……命令の意図を確認した方が良いだろうか。

 井上大佐がそうやって迷っていると、さらに後方の『白鯨Ⅲ』から入電があった。

 殊勲艦からの電文には、こう書かれていた。

 

 

「艦長及び響少佐の連名での電文です。イ404危急の事態につき、至急攻撃を敢行されたし!」

 

 

 どうして『白鯨Ⅲ』が状況を理解しているのかはわからない。

 ただ、振動弾頭輸送作戦の殊勲艦2隻が同じことを言うのであれば、井上大佐としても否と言うわけにはいかなかった。

 井上大佐は、魚雷の装填を命令した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『白鯨Ⅳ』による魚雷発射音は、イ404のソナーも捉えていた。

 ヘッドホンを耳に押し当てていた冬馬が、静かに、しかし良く通る声で言った。

 

 

「感2! 魚雷航走音、17時!」

「機関最大! 総員、衝撃に備えてください!」

 

 

 来た、これを待っていた。

 背後からの魚雷発射、スミノに艦表面をクラインフィールドで覆わせた上で受ける。

 攻撃目標はイ404そのもの、何故そんな自殺にも見えることをするのか?

 単純な答えだ、つまり「爆弾を手に持っていられる奴はいない」、だ。

 

 

「直撃――――ッ!」

 

 

 言葉の、次の一瞬だった。

 殴られたような感触の後に、激しい揺れが来た。

 シートにしがみつき、衝撃を堪えた。

 艦内ではまた、固定されていない物がしっちゃかめっちゃかになっているのだろう。

 

 

 しかし、その甲斐はあった。

 何かが剥げ落ちる音が確かに聞こえて、次の瞬間にシートに背中が押し当てられた。

 急速な前進によるものだと、すぐに気付いた。

 機関停止、急速回頭、艦体を180°回転させる。

 

 

「艦首全発射管、魚雷装填!」

「魚雷装填よ――し! いつでも撃てるよ!」

「発射後12秒で起爆! ……()え!」

「発射ぁっ!」

 

 

 海中の戦いは、目の見えない戦いだ。

 だが紀沙達には確かに聞こえた、立て続けに響き渡った魚雷の爆発音に混ざって、クジラの鳴き声のような、それでいて悲痛さを感じさせる音が聞こえてきたのだ。

 悲鳴のようにも、慟哭のようにも聞こえるそれに、顔を顰めた。

 

 

 目に見えない海の化け物が、苦しむ音だった。

 手に掴んでいた「餌」にこっぴどく噛み付かれて、驚き、叫び声を上げているのだ。

 おぞましい、本当に耳に残るおぞましい声だった。

 どの程度のダメージを与えたのかはわからないが、少なからぬ衝撃を与えたはずだ。

 このチャンスを逃すべきでは無かった。

 

 

「……ッ。機関再始動! 全速で本海域を離脱します!」

 

 

 おぞましい叫び声から逃げるように、艦体を回す。

 そして素早く機関を再始動し、全速で前へと進んだ。

 今度は何者にも遮られること無く、イ404は進むことが出来た。

 どんどんと速度を上げて、遅れた分を取り戻す。

 

 

「手間取りました、急ぎましょう」

 

 

 『ハシラジマ』まで、あともう少しだ。

 霧を信じるなどと言うことは癪に障るが、持ち堪えてくれなければ話にならない。

 『白鯨Ⅳ』に礼を伝える電文を打つように命じながら、紀沙は思った。

 『ハシラジマ』は今、どうなっているのだろうか、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 疲労――それは、霧の艦艇にとって無縁なものであるはずだった。

 しかし、さしもの霧も長時間の戦闘――それも、己と同等以上の能力を持つ相手ともなれば、ナノマテリアルがすぐに欠乏してしまうのである。

 人間で言えば、それはまさに「体力の消耗」だった。

 

 

「艦体収容後、補修と補給をやるよ! 『ハシラジマ』の工作艦・補給艦を総動員だ!」

 

 

 工作艦『アカシ』を中心にした受け入れ艦隊は、『ヒエイ』及び『イセ』艦隊の補給作業に忙殺されていた。

 何しろ大戦艦級を始めとする大型艦が、量的にも質的にもこれほど消耗する事態など初めてのことだ。

 しかも、こうしている間にも前線から被弾した艦艇が補修に戻されているのだ。

 ドックはすでに満杯状態に近く、補給艦などは総動員でナノマテリアルを味方に供給している。

 

 

「とは言っても、当面は問題ない。艦隊の運用を支えて見せるよ」

「助かります。私達もすぐに前線に戻らなければなりませんので」

「ただ、あまり長続きするようだと流石にパンクするよ。私達だって消耗はするし、何よりナノマテリアルの精製と供給も無尽蔵じゃないんだ……人間は、「想定外」って表現するんだろうね」

「まぁ、正直ここまでの艦隊戦なんて想定して無かったものねぇ」

 

 

 『アカシ』が言うように、さしもの霧も無尽蔵にナノマテリアルを供給できるわけでは無い。

 とは言え、ここまでの事態はかの<大海戦>でも起こらなかった。

 今度の相手は、<大海戦>の時に相手をした人類艦隊とは比べ物にならないと言うことか。

 

 

「……『コンゴウ』は、想定していたのでしょうか」

 

 

 『ヒエイ』の呟きに、しかし『アカシ』も『イセ』も答えなかった。

 答えたところで、意味など無かったからだ。

 ドックでナノマテリアルの供給と、それによる補修を受ける自分達の艦体を見上げながら、しばし『ヒエイ』達の間に無言の時間が過ぎていった。

 

 

 沈黙が破られたのは、『ヒエイ』が溜息を吐いたからだ。

 ただしそれは、戦闘による疲労とか、今後の展望に対する憂鬱などとは全く別のものから来ていた。

 指先で眼鏡を押し上げて、からの溜息だった。

 目を閉じながら、『ヒエイ』は唇を開いた。

 

 

「――――無粋」

 

 

 3隻の眼は、同じ場所を向いていた。

 艦体を修復するナノマテリアルの発光、その影。

 

 

「覗き見をするなんて、趣味が良いとは言えませんよ――()()()

 

 

 ボッ、と影が突然、金色の輝きを放った。

 それはやがて盛り上がり、人型の輪郭を取り始める。

 現れたのは、長い銀色の髪の――金色の輝きを放つ、()()()だった。

 

 

「『ボイジャー2号』」

 

 

 挨拶のつもりなのか、ぽつりと名乗った。

 名乗って、それで終わりだった。

 それは、前線の激戦を擦り抜けて、()()()が『ハシラジマ』に潜入した瞬間だった。

 『コンゴウ』に『ハシラジマ』の守りを託された『ヒエイ』にとって、これ以上の屈辱は無かった。

 ――――眼鏡を外した『ヒエイ』の両の瞳が、猛々しい光を放った。




投稿キャラクター:
ベータアルファΣ様より『ボイジャー2号』。
有難うございます。

最後までお読み頂き有難うございます。
本編も93話目と言うことで、いよいよわちゃわちゃし始める頃ですね(え)
いろいろやってみたい展開はあるものの、落としどころは私にもまだ見えていません。
さて、どうしたものか。

それでは、また次回。


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Depth094:「焦熱」

 なるほど、と、『ヒエイ』は思った。

 話には聞いていたが、()()()のメンタルモデルは霧のメンタルモデルとは似て非なるものだ。

 人間と霧のメンタルモデルが異なるように、霧と()()()もまた異なる。

 実際に()()()()()()()()()()()()()

 

 

私達()とは、全く別の原理で動いているシステムと言うわけか」

 

 

 ()()

 霧の瞳で視ると言うことは、高度に解析すると言うことでもある。

 『ハシラジマ』のドックに侵入してきた()()()――『ボイジャー2号』との戦いの中でのことである。

 『ボイジャー2号』の攻撃は、独特なものだった。

 

 

 今もそうだが、彫像のようにじっとしてこちらの様子を窺っている。

 かと思えば、次の瞬間には視界から消えている。

 肉眼に頼っていたなら、完全に見失っていたかもしれない。

 一方で、『ヒエイ』が『ボイジャー2号』を見失うことも無かった。

 

 

「……!」

 

 

 膝を折り、後ろに身を倒す。

 そうすると、『ボイジャー2号』の腕が――『ヒエイ』の顔を掴もうとしていたのだろう――が目前を擦過して、鼻筋を掠めそうになった。

 掴まれる、と言うのは、避けるべきだった。

 

 

 『ヒエイ』は、倒れ込みながら軽く跳んだ。

 滞空しながら、身体を回す。

 片足が鞭のようにしなり、上から『ボイジャー2号』の頭上へと吸い込まれていく。

 『ボイジャー2号』は、身を捻って回避しようとしていた。

 

 

()()()全員が、こちらを取り込むわけでは無いのか)

 

 

 報告にあった()()()は、直接触れるのは不味い、と言う話だった。

 だが『ボイジャー2号』は違うらしい、避けると言うことはそう言うことだろう。

 ()()()によって個体差があるのか、可能だがそうしないのかはまだ判然としない。

 あるいは、何か条件があるのかもしれない。

 

 

「でも、今は当てても大丈夫ってことでしょ?」

 

 

 避けた先に、『イセ』がいた。

 登場よりも後になって、がろん、と言う鈴の音が聞こえてくる。

 そして音が届いた時には、衝撃が『ボイジャー2号』を吹き飛ばしていた。

 ただし、『イセ』の拳は『ボイジャー2号』が掌で受け止めていた。

 だから『イセ』の攻撃自体では、ダメージはさほど。

 

 

「はい、ようこそぉっ!」

 

 

 『アカシ』が、彼女の背丈の倍はあろうかと言うスパナで『ボイジャー2号』を殴り飛ばした。

 流石にこれには虚を突かれたのだろう、『ボイジャー2号』は今度は防御が間に合わず、『アカシ』に横殴られるままに、今度こそ吹き飛んでいった。

 床に落ちずに『ハシラジマ』の壁を突き破り、身体の上半分が壁の向こう側に消える程だった。

 

 

「……『レキシントン』! そちらはどうか!?」

 

 

 流石に大戦艦級2隻を含む複数で戦えば、()()()と言えど対抗できそうだ。

 とは言えそれは、しっかりとした足場やスペースがあればのこと。

 艦上、あるいは海上と言う限定的かつ不安定な場所では、条件が変わってくる。

 そして、『ハシラジマ』に()()()が潜入してきたと言うことは、いよいよ本格的に……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()の攻勢は、いよいよ執拗なものになってきた。

 最初はただ押し寄せてくると言う風だったのだが、ここに来て動きに変化が出てきたのだ。

 とは言え、それは戦略や戦術の変更と言うわけでは無いようだった。

 

 

「んん~? 何か変だよお」

「そうですわね。敵の様子が変わったようにも見えますわ」

 

 

 『ハシラジマ』南西の海域を支えていた『ラミリーズ』と『リシュリュー』が、最初に気付いた。

 南の戦線では最も()()()の密度が薄く、余裕を得ていたからかもしれない。

 力押し――と言うより、まさに()()()()()()()――だけだったのが、動きに変化が出てきた。

 例えばこちらが押し込んだ時に引き、逆にこちらが引いた時に押してくる。

 ただ動きが単調に過ぎて、戦術的に反応していると言うよりは。

 

 

「<大海戦>の際のわたくし達の動きに似ていますわね」

 

 

 『リシュリュー』の指摘は正しい。

 ()()()の化身である黒い怪物達は、個体の動きから群体の動きへと移行したのだ。

 つまり全体が1つの身体のように動いていると言うことで、叩かれた手を引くように、霧の攻撃を浴びた部分を後退させる……と言う風に動くのだ。

 

 

 まさに群体、<大海戦>の際の霧がまさにそうだった。

 つまり今の()()()は個が群であり、群が個なのである。

 目の前で攻撃している一体は、つまり小指の先を削っているようなものだ。

 致命の一撃には程遠く、決着はまだ目途すら立たなかった。

 

 

「そうだとすれば、少し不味いかもしれんな」

 

 

 2隻と同じ南の戦線にいる『プリンス・オブ・ウェールズ』は、そう疑問した。

 隣接艦隊の『ウォースパイト』が「どう言うことだ?」と眼を向けてくると、彼女は言った。

 

 

「我々が<大海戦>時の状態になったのは、霧として生まれてから何年後のことだった? ()()()はこの星に来て何日だ?」

「情報自体は以前から集めていたのだろう」

「それもあるのかもしれん。だが……」

 

 

 霧が霧として生まれて、20年余り。

 それが長いのか短いのかはわからないが、()()()が姿を見せたのはここ最近だ。

 その成長性は、明らかな脅威だった。

 

 

「……はたして、それだけかしらね」

 

 

 『ヒエイ』に代わり北の戦線の総指揮を執る『レキシントン』が、杖の先でコンと甲板を叩く。

 すると次の瞬間、側面装甲がスライドして無数の魚雷が海に投下された。

 魚雷の航走跡を見送りながら、『レキシントン』は思う。

 『プリンス・オブ・ウェールズ』の言うように、この星では霧が先輩かもしれない。

 

 

「でも、()()()自体は我々よりもずっと古くから存在していた」

 

 

 霧には無い遥かな()()が、あってもおかしくは無い。

 つまり、だ。

 ()()()の力は、こんなものでは無い――と、言うことだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 蟻地獄の半ばで、まだ底では無いと言われること程に面白くないことは無い。

 ドンッ、と、すぐ側で水柱が立つのを横目に、『ダンケルク』はそう思った。

 今でさえ一杯一杯だと言うのに、これ以上があってたまるものか。

 

 

「『レキシントン』の予測が外れてくれることを祈るばかりじゃが、あれは学者じゃからなぁ」

「学者! そう言うのもあるのか」

「マンツーマン、講義……!」

「それはもちろん夜にやるんだよな!?」

「お前らはいったい、何の話をしているんじゃ?」

 

 

 甲板上の男衆が、一斉に『ダンケルク』から顔を逸らした。

 しかし次の瞬間には、新たな水柱が立って波をかぶり、元の大騒ぎになった。

 南の戦線の中枢で戦う『ダンケルク』の周囲でもこれだ、最前線で戦う『ガングート』や『ペトロパブロフスク』はどうなっていることやら。

 まぁ、戦場にいて危険度の多い少ないなど言ってもいられないのだが。

 

 

「まぁ、『ガングート』や『ペトロパブロフスク』は軍人調じゃからなぁ」

「女将軍! それもアリだな」

「失態を演じてからの、懲罰……!」

「それはもちろん地下の監獄でやるんだよな!?」

「お前ら、本当に何の話をしているんじゃ?」

 

 

 また目を逸らされた。

 こいつらを自分に乗せていて良いものか本気で考えたが、今ここで放り出すわけにもいかないので保留することにした。

 仮にこれが人類のサンプリングだとして、対象はこれで良いのだろうか。

 

 

 しかし、懸命だ。

 『ダンケルク』から見ればもちろん、無駄な動きが多く見える。

 でも、無意味な動きをしている者は誰もいない。

 見張ったり持ち運んだり、掴んだり駆け回ったり、忙しないことだ。

 艦体(身体)中で感じるそれが、『ダンケルク』は何故か嫌いでは無かった。

 

 

「……っと、感慨に耽っている場合でもないの」

 

 

 何度目かの衝撃を受け流しながら、『ダンケルク』は反撃の応射も同時に行っていた。

 どれほど効果があるのかはわからないが、撃たないよりはずっと良い。

 霧の総力をかけているだけに、今のところは優勢になりつつある気がする。

 しかしそうは言っても、すでに戦闘開始からそれなりの時間が経過していた。

 

 

「次の手は打っておるんじゃろうな……?」

 

 

 呟くように、そう言った。

 

 

「おい、『ヤマト』!」

 

 

 自分達をこの戦場に遣わした、張本人に対して。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ヤマト』こと『コトノ』にしてみれば、『ダンケルク』の指摘は、まさに「言われるまでもない」ことだった。

 『ダンケルク』が考えていることは、『コトノ』だってすでに考えている。

 とは言え、だからこそ事態はより深刻だとも言える。

 

 

「って言うか、『ヤマト』じゃねーよって」

 

 

 毒吐いても、状況が変わるわけでは無い。

 まだ『ヤマト』が消えたことを知っている霧はほとんどいないのだから、『コトノ』に対して『ヤマト』と呼びかけてくるのは仕方が無いことだった。

 もちろん、気付いている霧は気付いているだろうが、一般の霧を混乱させるわけにもいかない。

 『アドミラリティ・コード』を失った霧が『ムサシ』に続き『ヤマト』まで失っては、道標を失ってしまう。

 

 

 まぁ、そうは言っても『コトノ』も誰かを導くようなタイプでは無いが。

 今、『コトノ』は動けない状態にあった。

 先の200隻強制転移の後、次の転移に備えた演算を行っているためだ。

 次に送る数は流石に200隻もいないが、実は先程よりも難しい部分があった。

 

 

「だーれも私の言うことを聞いてくれないってね」

 

 

 先の200隻は、『ヤマト』の総旗艦命令によって馳せ参じた形だ。

 より簡単に言ってしまえば、「ヤマトの言うことを聞いた」のである。

 それは強制転移――「強制」と言っても、文字通りのものでは無い――においても、抵抗の余地があることを示しているとも言える。

 

 

 つまり、『コトノ』が転移をさせたい後半の霧の艦艇達は、『ヤマト』の命令を拒否しているのである。

 これもメンタルモデルを得た恩恵と言えばそうなのだろうが、裏目に出た形だ。

 まさか、まさか霧の艦艇が己の「階級」を無視するとは。

 2年前であれば、総旗艦『ヤマト』の命令を拒否する霧の艦艇など存在しなかっただろう。

 

 

「でもね、変なの。嬉しいんだよね、私」

 

 

 親しい誰かに話しかけるように、『コトノ』は言った。

 メンタルモデルを与えた()()()()、今『コトノ』は思うように事を運べないと言うのに。

 いや、メンタルモデルを得た()()()()、霧はここまで来れたのだから。

 だから『コトノ』は、今の状況をけして後悔したりはしていなかった。

 

 

「もうすぐ……会えるかな。群像くん」

 

 

 この役割を終えれば、いよいよこの海域に留まる意味も無くなる。

 ……まぁ、残りの()()()()()()が素直に言うことを聞いてくれれば、だが。

 

 

「……うん?」

 

 

 その時だった。

 『ヤマト』の艦体から程近い海面が盛り上がり、その下から巨大な艦艇――『ヤマト』程では無いが――が飛び出してきた。

 潜行状態でここまで来たのか、演算に集中していて接近に気付かなかった。

 そして、『コトノ』はその霧の艦艇を知っている。

 

 

「『ナガト』?」

 

 

 霧の大戦艦『ナガト』、彼女もまた『コトノ』の呼びかけに応じていなかった。

 何事かと目を丸くしていると、『ナガト』甲板上のメンタルモデルが目に入った。

 袴姿のメンタルモデルは――――。

 

 

「『ヤマト』……ッ、避けて――――ッッ!!」

 

 

 ――――必死な、形相で。

 『ヤマト』じゃねーよと、軽口を思うよりも早く、『コトノ』は上を見た。

 艦上に誰も感知できない以上、他に見るべき場所は無かった。

 そして、その予測は当たっていた。

 

 

「『ナガト』」

 

 

 はだけた花魁衣装の、もう1人の『ナガト』がそこにいた。

 しかし、その眼にはもう『ナガト』の意思は見えなかった。

 そこにあるのは、海の水底のように深く昏い何かだった。

 その視界を遮るように、頭上から降りてきた『ナガト』の腕が――――……。

 

 

(……群像くんに、会えるかな)

 

 

 ……『コトノ』の目の前を、覆った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の艦隊への<大反攻>計画は、そもそも対海上戦闘を想定していた。

 仮想敵である霧の艦艇が海洋勢力なのだから、当たり前と言えば当たり前だった。

 大まかな計画は、どの国も大体は同じようなものだ。

 霧に対して有効な()()()()でもって霧を沿岸から追い出し、温存していた主力艦隊によって制海権を取り戻す。

 

 

 ここで言う()()()()とは、日本が開発した振動弾頭のようなものだ。

 振動弾頭は現在、日米両国でしか開発・量産――厳密には日本開発、アメリカ量産であって、事実上のアメリカ単独生産――できないが、原理的に似たような兵器は各国で開発・保有されている。

 人間は個人では大きな差が出るが、集団になると不思議と差が出なくなる。

 霧のフィールドを突破しようと思えば、自然と発想は近いものになってくる。

 

 

「こいつが噂の新型ミサイルねぇ」

 

 

 ドイツ陸軍の将軍マルグレーテは、ホルツドルフ――ドイツ中部ザクセン=アンハルト州――()()基地にいた。

 ドイツは北部のニーダーザクセン州からベルリン郊外にかけて黒い触手が降下しており、ホルツドルフ吉はいわば最前線の基地だった。

 空軍基地ではあるが、陸軍航空隊の基地でもある。

 だから、マルグレーテがいてもおかしく無い。

 

 

「オレはあまり、戦闘機ってのは好きじゃねーだんだよなぁ」

「はぁ……」

 

 

 マルグレーテの言葉に、海兵隊のジークが曖昧な返答を返す。

 駐機場に整然と並べられているのは、戦車では無く航空機だった。

 デルタ翼タイプのシャープな戦闘機で、マルグレーテが見上げているのは、両翼合わせて6発のミサイルだった。

 鈍い輝きを放つそれには、薔薇の棘にも似た突起物がついている。

 

 

「こいつが、本当に霧に効果があるのか?」

「技術班によると、霧のフィールドを擦り抜けるのだそうです」

「難しい理屈は良い、エンジニア共の言うだけの効果があればな」

 

 

 簡単に言うと、限りなく無機物に近い状態に誤認させ、無害なものとしてフィールドを擦り抜けるミサイル、らしい。

 航空機搭載型にした理由は、<大海戦>の際、航空戦だけは比較的にマシに戦えたからだ。

 射程も長い――最も、霧に射程などあって無いようなものだが――ため、アウトレンジから攻撃できるのが大きい。

 もちろん、実戦投入はこれが初めてだ。

 

 

「15機90発、虎の子のミサイルだ。霧の奴らに叩き込めないのだけが残念だが、な」

 

 

 悔しい話だが、と、マルグレーテは思った。

 ヨーロッパは今回は主役にはなれない、欧州大戦の消耗は未だヨーロッパ諸国を傷つけている。

 欧州諸国は兵力が足りず、ロシアは対霧の決戦兵器を持たず。

 だから、人類側の主力はあくまでも……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 生産力と言う一点において、この国に及ぶ国家はおそらく存在しない。

 資源に溢れるロシアでも、人力に優れる中国でも、この国には及ばない。

 同品質のモノを大量に生産すると言う意味で、この国は他を圧倒している。

 単品種大量生産とでも言うべき資質が、連綿と受け継がれているのだ。

 

 

「大統領! 良くぞご無事で……!」

「挨拶は良いわ司令官。それよりも、例の部隊は?」

「はっ、いつでも出られるよう戦闘待機しております!」

 

 

 バージニア州ラングレー空軍基地、アメリカ空軍第一戦闘航空団の本拠地でもある。

 アメリカでも最精鋭にして最新鋭の装備が供給される部隊であり、訓練は死者が出る程に厳しい。

 人員の練度も他とは段違いだが、<大海戦>以後は碌に出番が無かった。

 だからこそ隊員達にはフラストレーションが溜まっており、言うなればアメリカで最も戦いに飢えている集団なのである。

 

 

「私はすぐにペンタゴンに入ります。その前に、一目見て確かめておきたくて。何度か試射には同席したけれど、実際に使用に耐え得るのかどうか」

「問題ありません。いつでも行けます」

 

 

 基地司令官は――あるいは、基地の軍人達は――出撃したくてうずうずしている、と言う風だった。

 軍人と言うものは、多かれ少なかれそう言うところがあるものだ。

 度し難いと思いつつも、そうなってしまう。

 どんな人間もそんな風になってしまうので、軍隊と言う組織は罪深いのだ。

 

 

 そしてエリザベス大統領がやってきたのは、囲いに覆われた倉庫だった。

 その中には、可変デルタ翼に水平尾翼持ちの戦闘機がずらりと並んでいた。

 ドイツにも似たような――マルグレーテが見ていたような――場所はあるだろうが、他と違うのは、()()()()()()()()と言うことだった。

 また、同時にある物もずらりとその()()を覗かせていた。

 

 

「この倉庫だけで20発。振動弾頭(戦闘機)搭載型の巡航ミサイルです」

 

 

 振動弾頭の量産については、アメリカは最優先で行っていた。

 同時に艦搭載型、航空機搭載型、地上発射型のミサイルを開発した。

 各ミサイルに搭載可能な弾頭の生産にやや時間がかかったものの、僅か半年で実用化した。

 1年以上に渡り量産を続けた結果、今やアメリカは世界最大の振動弾頭保有国となっている。

 

 

 航空機搭載型は1機につき3発と搭載数は少ないものの、大型化により通常の空対地ミサイルよりも遥かに

威力が増している。

 この倉庫だけで20発、同じ倉庫が10か所あり、ラングレー基地だけで計200発のミサイルがある。

 同じような基地が、アメリカ全土にさらに他に6か所ある――つまり航空機搭載型の振動弾頭ミサイルだけで、アメリカ国内には1400発以上のミサイルがある計算にある。

 艦搭載や地上発射型を含めれば、天文学的な数字になる。

 

 

「停戦中の霧に試験攻撃をするわけにもいかなかったので、()()()に効果があるか不明なのが唯一の懸念点でありますが……」

「代替手段が無い以上、使う以外の選択肢は無いわ」

 

 

 倉庫の手すりに手をかけながら、エリザベス大統領は物憂げな表情を浮かべた。

 かつて上院議員として、娘が死ぬことになる<大海戦>の作戦案に賛成した彼女だ。

 そして今、同じように――いや、より責任ある立場で、超常の存在に対する作戦を指導している。

 もしこれが運命なのだとしたら、何と言う皮肉なのだろう。

 

 

「でも、まだ希望はあるわ」

「もちろんであります閣下。必ずや、大統領のご期待に応えて見せます!」

 

 

 司令官は意気込んでいたが、そう言うことでは無いのだ。

 戦いに勝利することも大事だが、それは最終的な目的では無い。

 ()()()と言う共通の脅威を退けた時、人類と霧の間にはこれまでに無かったものが生まれているだろう。

 そこに、未来の希望があると思う。

 

 

「これは、そのための戦いなのです」

 

 

 希望を守るための戦い。

 <大海戦>の時とは違う、確かな希望がそこにある。

 エリザベス大統領は、心に強くそう思ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 逆に言えば、そのためにアメリカに振動弾頭を提供したのだ。

 北は、軍用ヘリの中にいた。

 振動弾頭の開発――つまり、霧に対して有効な兵器の開発――は、霧が支配するこの世界において、人類諸国の盟主にさえなり得る歴史的な快挙だった。

 あまつさえ、日本はイ号潜水艦を占有していたのである。

 

 

「それでも、北首相は私の計画案に賛同して下さいました」

「エリザベス大統領のお人柄と志を知っていたからだ。そうで無ければ、やはり反対しただろう」

 

 

 ヘリには上陰が同乗していた。

 政官のトップがこの事態に協議することは、奇妙なことでは無い。

 むしろこの場に前首相である楓がいないことの方が、違和感ですらあった。

 楓はすでに政治家としては引退しており、この場にはいない。

 

 

 正直、北と上陰は互いを好いてはいなかった。

 むしろ嫌い、場合によっては疎ましく思ってすらいる。

 と言うか、さっさと失脚しろとさえ思っているだろう。

 それでもただ一点、日本という国のために動いていると言う一点においてだけは、この2人はお互いを認めているのだった。

 

 

「それでも、次の選挙で出てくるのがミハエル大統領のような人物と言う可能性もあるのでは?」

「そうなった時のために、お前達が()()をかけていることを知らぬ私では無い」

「……なるほど」

 

 

 日本は世界の盟主で無くても良い、人類の発展に貢献できる国家であれば良い。

 他国から脅威に思われず、そして侮られることも無い。

 その程度の国家で良いのだと、その一点だけで、この2人は一致している。

 だからこそ、嫌い合いながらも同じヘリに乗っているのだ。

 

 

「それよりも、被害の方はどうなのだ」

 

 

 北は、話題を日本国内の被害状況に変えた。

 日本本土にも巨大な触手が降下しており、主な降下地点である西日本は大変な状況になっていた。

 外で戦っている者達のためにも、本国を守るのは北達の役目だった。

 後方を守る程度のことすら出来ないで、何のための自分達かと、そう北は思っていた。

 

 

「……何だと? すまない、上手く聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」

 

 

 その時だった、ヘリ内部の通信機のコールが響き渡った。

 受話器を取って対応した上陰が、怪訝な表情を浮かべた。

 

 

「旧第四施設が、どうした?」

 

 

 後方を守れずして、いったい何のために留守を預かっているのか。

 北は腕を組み、上陰の通話に耳を澄ませたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 旧第四施設は、その()()を終えたはずの場所だった。

 しかし今なお日本政府による隠匿は続いており、今なお存在し続けている。

 それはまるで、これから起こる何事かを待っているかのようでもあった。

 ナノマテリアルで再構成された建造物は、仄かな輝きを放っていた。

 

 

『ようこそ、と言うべきなのか。判断に困るところだな』

 

 

 楓首相――いや、楓前首相と呼ぶべきか――は、生命維持装置を兼ねる車椅子に座ったまま、旧第四施設に再現された副管制室(サブコントロール)にいた。

 照明も無いのに視界が取れているのは、ナノマテリアルの発光のせいか。

 2年が経過していても、楓の容姿は何も変わっていなかった。

 

 

 車椅子から聞こえてくる音声も、同じだ。

 視覚補助用のバイザーの先には、通路から副管制室へ入るための扉が見える。

 そしてその扉を背にして、つまりすでに中に入っているのは、中性的な、黒い軍服に似た衣装を身に纏った人物だった。

 いや、()物では無い。

 

 

『キミは私に興味など無いだろうが……私は楓信義と言う者だ。せめて名前を聞かせてくれないか』

 

 

 そんな楓の言葉をどう感じたのか、と言うかヘッドホンをしている相手が「聞く」のかも不明だが、とにかく()()は楓を見つめた。

 空色の髪と銀の瞳、手には白手袋と、肌の露出が少ないために中性的な印象になっている。

 意外なことに、()()は口をきいた。

 

 

「『アスカ』、と言う」

 

 

 『アスカ』、その存在は自身をそう名乗った。

 名乗られたからと言って、楓に何が出来るでも無かった。

 しかし意思の疎通が可能であるのならば、問いかけることは出来る。

 

 

『ここに何をしに来たのか、教えて貰いたいな』

 

 

 そして問いかければ、やはり意外なことに、『アスカ』は答えを返してくるのだった。

 

 

「そいつの、処理」

『ああ、なるほど。やはりそう言うことか』

 

 

 得心がいったと言うように頷く楓の後ろには、宇宙服を着た何者かが立っていた。

 古い宇宙服だが、その輪郭は淡く光を放っている。

 遠い遠い宇宙の果てから、地球に警告をもたらしてくれた彼女。

 今の楓は、そんな彼女を守る盾だった。

 

 

『ならば私は、未来を守るためにキミを止めなければならない』

「…………」

『一つだけ、忠告をしておこう』

 

 

 『アスカ』が首を傾げるのを見て、楓は苦笑した。

 盾? そんな大仰な存在なものか。

 せいぜい小石だ、『アスカ』が蹴躓(けつまず)いてくれれば良いなと、そう思うだけの小さな存在だ。

 

 

『人間を、甘く見ない方が良い』

 

 

 だがこの小石は、<大海戦>と言う地獄を生き抜いた小石だった。

 激流の中で身を削られながらも、砕けることなく今日まで存在し続けてきたのだ。

 この世界で、最も強靭な小石のひとつだ。

 そんな小石が、ただ踏みつけられるだけで終わるだろうか?

 答えは、もう出ていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もどかしさの中に、紀沙はいた。

 断片的な情報しか得られない中で、イ404は慎重に海中を進んでいる。

 すでに太平洋中部には差し掛かっているので、『ハシラジマ』の戦場は目と鼻の先と言える。

 本来ならば、このまま一直線に向かいたいところだったが。

 

 

「停止ぃ!?」

 

 

 その気持ちを押して、紀沙は艦の停止を命令した。

 冬馬などは、あからさまに驚いた顔をした。

 しかし、そんな彼の鼻先にびしっと小さな指先を突きつける存在がいた。

 

 

「飛ばし過ぎなのよ!」

 

 

 蒔絵だった。

 すっかりツナギ姿――頬にオイルや煤をこびり付かせているところも――が似合うようになった小さな少女は、眉を立てていた。

 何しろ、これまでエンジン全開で飛ばして来たのである。

 それも北極から常夏の海へ、だ。

 

 

「このままじゃエンジンが保たないの! もしかしたら『ハシラジマ』までは保つかもしれないけど、そのまま戦闘なんてとてもじゃないけど無理!」

 

 

 そう言われてしまえば、専門外の人間には反論のしようも無かった。

 冬馬は助けを求めるようにあおい――最近、保護者然としてきたようにも見える――を見たが、そのあおいも頬に手を当てて首を傾げるばかりだった。

 つまり、蒔絵の言っていることは機関室の総意だと言うことだ。

 

 

 これでは、どうしようも無い。

 機関室の意見を無視して進める程、イ404は無謀では無かった。

 それにイ404のクルーはともかく、『白鯨』級の3隻は休息も必要だ。

 一度情報を取りまとめて、分析する時間も要る。

 

 

「エンジンの調整と、仮眠と食事。4時間だけですが、皆も休んで下さい。イ401とも相談済みです」

「4時間って……大丈夫なのか?」

「信じましょう」

 

 

 冬馬の懸念もわかるが、疲労困憊したまま戦場に飛び込むわけにもいかない。

 ここは艦長として提督として、苦渋ではあるが、決断すべきところだった。

 4時間後にどうなっているのか、不安が無いわけでは無い。

 しかし、人類と霧の底力を信じるしか他に手が無かった。

 

 

「信じましょう、間に合うって」

 

 

 半ば自分に言い聞かせるように、紀沙はそう言った。

 今少し沈黙しなければならないこの状況で、クルーの不満を宥めながら。

 最ももどかしく感じているのは、紀沙自身だった。

 そのことに気付いているのは、おそらく1人……いや、1隻だけだった。




投稿キャラクター:
カイン大佐様より『アスカ』
有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ここで主人公足止め。
まだまだ霧のターン。
それでは、また次回。


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Depth095:「『ハシラジマ』の戦い」

 

 人類が天文と言う形で宇宙を意識し始めたのは、4000年以上も前のこととされる。

 最初は暦と言う形で、そして現代に近付くにつれて科学的な観測へと移り変わっていった。

 そして世界でも代表的な天体観測所の1つが、アメリカのケンブリッジにある。

 そこでは今も、世界中に設置した天体カメラによって宇宙の観測が行われている。

 

 

「な、何が起こっているんだ……?」

 

 

 研究員の1人が、無数のディスプレイを前に戦慄の表情を浮かべていた。

 世界中の観測データを何年にも渡って見つめ続けてきた彼をして、顔色を青ざめさせている。

 それだけ、彼の目に映っている数値が異常だと言うことだ。

 ほんの少し前まで、いつもと変わるところが無かったと言うのに。

 

 

 普段は気にすることは無いが、地球は常に宇宙の影響を受けている。

 太陽フレアによる磁気嵐は、代表例の1つだろう。

 暦、時間、気候――すべて、宇宙との関係で決まると言っても良い。

 だが今、それが無茶苦茶になりつつあった。

 

 

「おいおい、不味いだろ。このままじゃ異常気象どころじゃないぞ」

 

 

 太陽から地球へ届く光量が、減衰している。

 それは熱量の低下へと繋がり、また月にも影響を与え、星々は狂ったような輝きを放つだろう。

 つまり、地球の気温が急速に――やがて、()()()()()程になりかねない早さで――下がる。

 氷河期など問題にならない規模の、寒気や寒波と言った言葉が霞む程の事態だ。

 大気さえも変化するだろう、それはすなわち、地球が地球でなくなると言うことだ。

 

 

「他の観測所は気付いているのか? 気付いていないとしたら……いや、気付いていて?」

 

 

 この状況だ、どこも正常に機能していないだろう。

 もしかすると、この観測データを得ているのはここだけなのかもしれない。

 そう思った研究員は、急いで内線の電話を手に取った。

 しかし何度コールしても、その電話が鳴ることは無かった。

 

 

 こんな時に故障か?

 研究員が苛立たし気に受話器を見ると、目の前をパラパラと何かが落ちた。

 粉のようなそれは、天井から落ちてきていた。

 気のせいか、足裏から揺れを感じるような気もしてきた。

 いや、それは頻度と強さをだんだんと増しているようにも思えてきて。

 

 

「……うお」

 

 

 悲鳴を上げる暇も無かった。

 己の身に迫る脅威に気が付いた時、彼の視界には崩落する天井と。

 天井を突き破って落ちてくる、グロテスクな黒い触手の肌でいっぱいになっていたからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦闘開始から、8時間が経過していた。

 戦線は膠着し始めていた。

 原因は、位置と回復力の差である。

 

 

「おいっ、大丈夫か!? 誰か、タンカを持って来るのじゃ!」

 

 

 『ダンケルク』甲板上、波飛沫から乗員を庇いながら、彼女は倒れた乗員を抱え起こしていた。

 何か――多分、大丈夫とかそう言う類――言おうとしているようだが、相当に疲労しているのだろう、唇が僅かに動く程度だった。

 無理も無い、と、『ダンケルク』は思った。

 

 

「もう少し……ぎゅって……感触……」

「大丈夫そうじゃな。そのへんに転がしておけ」

 

 

 何しろ、霧でも()()を感じる程の状況なのだ。

 ほとんど休息も食事も摂れずにいる人間が倒れてしまうのは、無理もないことだった。

 しかも彼らのほとんどは正規の軍人でも無く、元々は志願の民兵だったのだ。

 体力も精神力も、良く言って人並でしかない。

 

 

 そして、霧も疲弊し始めていた。

 この状況では補給と整備は『ハシラジマ』に交代で入るしか無いが、それなりに時間もかかるし、ドックの数には限りがある。

 『シレトコ』ら補給艦を総動員しても、限界はあるのだ。

 そもそも、ナノマテリアルも無尽蔵では無い。

 

 

「『ミズーリ』、撃ち過ぎよ! エネルギーが保たなくなる!」

「わかっているけど、戦艦が撃たずにどうする!?」

 

 

 焦燥感、メンタルモデル保有艦はそれを感じ始めていた。

 特に『ミズーリ』のように、前線を支えようと大口径の主砲を撃ち続けている者はそうだ。

 何しろ彼女達の一撃は強力であるが故に、エネルギーの消費も激しい。

 それでも、()()()に取り込まれそうな味方を救うため、戦線に穴を開けようとする()()()を打ち払うため、撃つしか無い。

 

 

「こちらは『ハシラジマ』を守らなければならない。これも辛いな」

 

 

 自らを喰わんと触手を広げた()()()を主砲斉射で爆散させながら、『ガングート』が唇を噛んでいる。

 彼女もまた、ナノマテリアルの欠乏を感じ始めていた。

 だがそれ以上に気になるのは、霧と()()()の位置関係だった。

 『ハシラジマ』と言う点を守る霧に対し、()()()は『ハシラジマ』の周りの海域から集まってきているのだ。

 

 

 つまり、霧は()()()に包囲されつつあるのだった。

 しかも包囲の幅は、今ようやく膠着していると言う状態だった。

 補給に限界のある霧より、無尽蔵とも思える()()()の方が回復力もある。

 このままではジリ貧だと、その場の霧の誰もが考え始めていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ401の発令所は、静まり返っていた。

 

 

「……と、言うわけだ」

 

 

 唯一聞こえていた群像の声も、淡々としている。

 それが終われば、しんとした空気がより強く感じられた。

 このまま誰も口を開かないのではないか、そう思いかけた時だ。

 

 

「……正気かよ?」

「オレはいつでも正気だよ、杏平」

 

 

 砲雷長の言葉に肩を竦める艦長。

 それは一見すれば、ユーモアな会話でも交わしているように見えるかもしれない。

 しかし杏平の表情は――いつもは剽軽(ひょうきん)な彼としては珍しいことに――固いもので、群像の話がよほどのものであったことを窺わせた。

 

 

「そんな顔をするな、杏平。オレだって、別に()()()()()ほしいわけじゃないんだ」

「それは、そうだろうけどよ」

「でも、そうなるかもしれないとは思ってるんだよね?」

 

 

 これも珍しく、発令所にいたいおりが群像を見つめていた。

 半ば睨んでいるとも取れるような、厳しい視線だった。

 杏平やいおりだけでは無い、僧はマスク越しでもわかる程にピリピリとしていて、静は戸惑ったような視線を群像に向けている。

 ただひとり、イオナだけが、いつもと変わらない様子で群像の傍にいた。

 

 

「……否定は、できないな」

「なんで……っ!?」

 

 

 普段は声を荒げるなどと言うことの無い静が、声を上げた。

 席から立ちあがらんばかりのその様子は、やはり穏やかでは無い。

 別に、イ401のクルーとて仲良しこよしでやってきたわけでは無い。

 意見の対立だって、時にはある。

 しかしこれは、意見の対立とはまた別の何かだった。

 

 

「必要だからだ」

 

 

 ()()()()()()()()

 ()()()()()()

 イ401のメンバーは大小の差こそあれ、その想いで一致している。

 それは今も変わらない、彼らにとってイ401だけが世界の閉塞感を打破する手段だった。

 

 

 今、それは目の前にあるように思えた。

 人類と霧が対等の関係で共存する、そんな新世界の扉に手をかけていると感じる。

 良かろうと悪かろうと関係なく、そうすべきなのだと信じていた。

 その一致点だけが、彼らを仲間として繋ぎとめているのだ。

 

 

「戦略目的は変わらない。世界を変えるために、オレ達は今まで戦ってきたはずだ」

 

 

 もし、それを邪魔する者がいるのであれば。

 それは、打ち破っていくしか無い。

 これまでが、どうだったように。

 

 

「家族なのに……?」

「……家族だからだ、静」

 

 

 そう言って、群像は席を立った。

 発令所の面々を見渡して。

 

 

「時間だ。出撃準備に入ろう」

 

 

 あくまでも、これまでそうしてきたように、そう言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、先程のクルー達の表情を思い出していた。

 いつものことだが、彼とて面白く思っているわけでは無かった。

 一方で、()()()()()()()()()()()()()()

 彼もまた、複雑な精神構造をした人間なのだった。

 

 

「群像」

 

 

 通路を歩いていると、不意に呼び止められた。

 イオナだった。

 いつもと変わらない、無機質さと無垢を同居させたような瞳で群像を見上げていた。

 不意に、さっき話した群像の考えについてどう思っているのか、聞いてみたいと思った。

 

 

 それは、誘惑にも似た感覚だった。

 しかし首を振って、すぐにその考えを振り払った。

 肯定されても否定されても、結局、自分が考えを変えないことを知っていたからだ。

 ここで聞くのは弱さだと、そう思った。

 

 

「それで良い」

 

 

 直接、言葉にしたわけでは無いのに。

 イオナは、そう言った。

 

 

「お前が考え抜いて出した答えなら、私はそれで良い。私は群像の(ふね)だから」

 

 

 善悪は関係ない。

 2人の関係性だけを頼りに、ここまで来た。

 ここまで来る道のりに、正義も悪徳も無かったではないか。

 だからこれからもそうなのだと、イオナは言いたかったのだろう。

 

 

「そうだな……ああ、そうだ」

 

 

 群像とイオナだけで、始めた旅だ。

 元々は何も持たず、唯一持っていたものは、信念だけだった。

 そんな群像にとって、イオナは己の信念そのものだ。

 だからイオナさえ傍にいてくれるのであれば、恐るべきものなど何も無かった。

 そのことを、群像は改めて認識したのだった。

 

 

「たとえオレのこの考えが、人倫にもとるものなのだとしても。それは、オレが足を止めて良い理由にはならない」

「それは群像が決めることだ」

「ああ、だからオレは止まらない。オレは見たいんだ、これからも……この世界の可能性を」

「なら、勝つしかないな」

「ああ、だから」

 

 

 イオナの華奢な身体を見下ろして、その瞳を覗き込むながら、群像は言った。

 

 

「勝とう、イオナ。最後まで」

「わかった、群像。お前が勝利を欲するなら、私は最後まで勝者でいてみせる」

 

 

 勝者、それは常に1人しか存在しない。

 イオナと群像が最後の勝者となるのであれば、他の者は敗者になるしかない。

 一匹狼(アウトロー)が勝者になるのならば、他の群れ(集団)は出し抜かれることになる。

 たとえそれが、自分達以外の破滅を意味しているのだとしても。

 

 

 群像は、己が望む世界のために歩みを止めることは無い。

 そもそも、それが生きると言うことだろう。

 戦うと言うことだろう。

 そして戦うと言うことは、犠牲を払うと言うことだ。

 自分も、そして相手も……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ペトロパブロフスク』は、最前線に立ち続けていた。

 姉である『ガングート』からの後退の呼びかけにも、ほとんど応えていない。

 ただひたすらに、鬼にでもなったかのように戦い続けていた。

 

 

「ぎゃっ、今年の新作だったのに!」

「『ゴリツィア』! コートの汚れなんて気にしていたら沈むわよ!」

「ちまちま育ててるブランドなの~!」

 

 

 僚艦の重巡洋艦が黒い触手に覆われかけて、そちらに主砲を向けた。

 回頭させた主砲で黒い触手を吹き飛ばすと、その欠片が雨のように降り注いで『ゴリツィア』のメンタルモデルを汚した。

 そのことに文句を言う『ゴリツィア』だが、そこまで細かいところにまで気を遣ってはやれなかった。

 

 

 倒さなければならない敵は他にもいて、助けなければならない味方は他にもいるのだ。

 紅い瞳で戦場を睨み据えて、海面を覆いつつある黒い泥に眉を顰める。

 倒したと思っている黒い触手も、形を変えているだけでは無いのか。

 そんな風に思えてしまう程に、この戦いには終わりが見えなかった。

 

 

「危ない!」

「……ッ」

 

 

 一瞬の吐息、その隙を突かれたか。

 次の瞬間、『ペトロパブロフスク』は海中にいた。

 厳密には左側面に黒い触手が乗り上げてきて、爪で引っ掛けるように引っ張ったのだ。

 結果として、『ペトロパブロフスク』の艦体が海上で回転したのである。

 戦艦のような大質量のものを回転させるのは、相当な力が必要のはずだった。

 

 

「しつ、こいのよ……ッ。この、バケモノがあ!!」

 

 

 『ゴリツィア』の呼びかけのおかげで、一瞬早くフィールドを展開できた。

 だから、海底から伸びてくる黒い触手――いや、触腕の群れを目の当たりにした。

 どこから伸びてきているのだろう?

 深く暗い深淵から伸びてくるそれは限りが無いように見えて、『ペトロパブロフスク』の艦体を飲み込もうと喰らいついてきていた。

 

 

 『ペトロパブロフスク』は、すべて吹き飛ばした。

 瞳を白く輝かせて、コアを活性化、艦体に絡みつく黒い触手をエネルギーの圧力で引き剥がす。

 それから装甲側面のミサイル発射管をスライド、侵蝕弾頭ミサイル多数で周辺を制圧した。

 重力波の網に捉われて、すべてが圧殺されていく。

 側面の発射管を噴射器に切り替え、海面に戻ろうとする。

 

 

「がっ……! この」

 

 

 艦底側から、鈍い衝撃が来た。

 メンタルモデルの肉眼に頼る必要も無く、何が起こったかはわかる。

 海上側から別の黒い触手が乗り上げてきたのだ、見れば海底側からも次が来ている。

 一刻も早く海上に戻らないと、不味い。

 機関の出力が上がらない、ここに来て……!

 

 

「『ペトロパブロフスク』!」

 

 

 その時、浅く潜行した『ガングート』が来た。

 斜め下から『ペトロパブロフスク』をかち上げる形で、海上へ飛び出した。

 多少のダメージは覚悟の上で、副砲のレーザーを乱射しながら触手の網を焼き切った。

 焦げ臭い匂いが漂う中、『ペトロパブロフスク』が体勢をを整えた。

 

 

「助けてなんて、言ってないわよ……!」

「無茶をするな」

 

 

 冷や冷やものだ。

 しかし大戦艦ですらこうなのだから、他は推して知るべしだろう。

 正直、今の戦線を維持することも難しくなってきていた。

 ――――その時、『ガングート』のすぐ側で何かが焦げるような音が聞こえてきた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ガングート』が振り向いた時、甲板の縁が溶けていた。

 焦げ臭い匂いは、溶かされた甲板の縁から発せられていた。

 ただの鋼鉄では無い、強制波動装甲に守られた霧の装甲を溶かすとは。

 ()()()だった。

 

 

「『コロンビア』とか言う奴か!」

 

 

 包帯と病衣に全身を覆った女の姿をした()()()のメンタルモデルが、『ガングート』を見つめていた。

 彼女の触れている地点から、何かを焼くような異音が絶えず聞こえてくる。

 顔の包帯の隙間から、緑色の眼光が狂的な輝きを放っていた。

 

 

 何かを求めるように、『コロンビア』が飛び掛かった。

 跳ねのけるべく、『ガングート』が迎え撃った。

 『コロンビア』と『ガングート』の右手が、掠めた。

 次の瞬間、『ガングート』の表情が歪んだ。

 

 

「『ガングート』!!」

 

 

 『ペトロパブロフスク』が悲鳴を上げた。

 姉である『ガングート』の右手、その薬指から外側が、スプーンで抉られたかのように、肘のあたりまで削ぎ落とされてしまったからだ。

 『コロンビア』の右掌が高熱を放ち、削いで(喰って)しまったのである。

 

 

「『ガングート』が()()()の一体と交戦を始めたじゃと!?」

 

 

 『ガングート』艦隊の戦況は、『ダンケルク』の下にも届いていた。

 『ガングート』と『ペトロパブロフスク』の艦隊は最前線にいて、すぐには援護に行けない。

 こちらも手一杯なのだ。

 しかし、最前線の2艦隊がこのまま孤立するに任せるわけにもいかない。

 

 

「『リシュリュー』、『ガングート』の援護に行けんか!?」

『可能な限り配慮はしますけれど、あまり過度の期待をされても困りますわ』

 

 

 まぁ、そんなものだろう。

 ()()()に包囲されている形、しかも『ハシラジマ』のドックは満杯状態。

 まさに、崖っぷちだ。

 そろそろプラスアルファが無ければ、本格的に不味い。

 

 

「だ、大丈夫だよ『ダンケルク』。皆がんばっているんだから」

「カルロ……」

 

 

 暗い顔をする『ダンケルク』の肩に手を置いて、カルロが励ましてくれた。

 思えばトリエステで<騎士団>との戦いの最中に出会って、2年共に過ごしている。

 カルロとイタリア民兵達とは、ほぼ地中海だけだが、一緒に航海をしてきた。

 彼らひとりひとりの生い立ちや好物まで、『ダンケルク』は知っている。

 

 

「……そうじゃな」

 

 

 目を伏せて、『ダンケルク』は頷いた。

 確かに、「まだ大丈夫」であって「もう駄目だ」では無い。

 追い詰められつつあるが、まだ追い詰められてはいない。

 もう、と思うよりも、まだ、と思った方が気が楽になると言うものだ。

 

 

 ()()()()()()

 霧らしくないその考えに、『ダンケルク』はクスリと笑った。

 イ401やイ404では無いが、人間じみた考えだった。

 自分もだいぶ、変わってきたのかもしれない。

 

 

「しかしな、『ダンケルク』では無くミルフィーユと呼べ。前からそう言っておるじゃろ、カルロ」

 

 

 だから、固有の名前と言うものにこだわるのかもしれない。

 そう思って、『ダンケルク』は自ら初めて認めた乗員、カルロに振り向いた。

 しかし、そこにカルロは()()()()()

 

 

「――――――――――――え?」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「やあ、初めまして。少し道を聞きたいのだけれど、良いかな?」

 

 

 穏やかな顔をした青年が、いつの間にか立っていた。

 当然、カルロとは似ても似つかない。

 ()()()()()? 初めましてだと?

 『ダンケルク』はその青年を知っている、『コスモス』と言う名の青年を、()()()を知っている。

 

 

「おい、貴様。その手に持っているものは何じゃ……?」

 

 

 自分でも驚く程に、平坦な声だった。

 

 

「ああ、うん。恥ずかしいな」

 

 

 本当に恥ずかしそうに、『コスモス』は言った。

 それは、()()()()を見つかった子供の仕草に似ていた。

 そして、実際その通りだった。

 

 

()()()()()()()()

 

 

 左手――だ、それは。

 人間の、男の、左腕だ、肘から先だけ。

 切断面が異常なまでに綺麗で、血すら流れ落ちて来ない。

 その切断面に、『コスモス』の並びの良い歯が喰いついた。

 

 

 ぐちゃ、と、嫌な音が聞こえた。

 咀嚼音、繰り返された。

 みるみる内に、腕が無くなっていく。

 

 

「おい、やめろ」

 

 

 どっ……と、汗を――メンタルモデルにも関わらず――吹き出しながら、『ダンケルク』が言った。

 瞬きひとつせず、じっと見つめていた。

 

 

「カルロが、死んでしまうじゃろ」

 

 

 おかしなことを言っている、と、わかってはいた。

 だが、何がおかしいのかは理解したくなかった。

 何かの間違いだと、大戦艦級のコアが導き出している結論を無視しようとした。

 何故そうしようとしているのか、わかりたくなかった、だが。

 

 

「食べてしまったよ、もう」

 

 

 なに?

 何と言った? 食べてしまった? 何を? カルロを?

 ついさっきまで、普通に会話をしていたのに、笑っていたのに?

 もう話せない? 嘘だ。もう笑い合えない? 嫌だ。

 

 

 カルロは、何も悪いことはしていない。

 それが、こんな、こんな終わり方が許されるはずが無い。

 ただの、祖国と友人を愛する普通の青年だった。

 そして、きっと、もしかしたら、自分を、この『ダンケルク』を。

 

 

「き、キキ、さ……ま……!」

 

 

 よくも。

 よくも、よくも、よくも。

 よ く も。

 

 

「――――――――――――ッッッッ!!!!」

 

 

 獣が、叫び声をあげた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦線の一角が崩れる。

 『ヒエイ』がそう確信したのは、南の戦線で大戦艦級のコアの暴走を感じ取った時だった。

 『ダンケルク』のコアが、霧の共有リンクから切断された。

 戦線中枢の重しになっていた『ダンケルク』が、よもや真っ先に脱落することになるとは想定外だった。

 

 

「戦線を縮小する、南側のすべての艦隊は20キロ後退せよ!」

『それでは『ハシラジマ』に近付き過ぎる!』

『攻撃を受け流しながらの後退は、かえって被害を大きくしますわ!』

「わかっているが、中央がもう保たない。このままでは貴艦らが孤立する!」

 

 

 『ハシラジマ』の砕けたコンクリートを足場に――『ボイジャー2号』との戦闘の余波、取り逃がしたが『イセ』が探索している――『ヒエイ』は、『ハシラジマ』南側にいた。

 アメリカ方面艦隊が北を支えてくれているので、南に意識を向けることが出来ているのだ。

 しかし彼女が気を向けた時には、南の戦線は取り返しのつかない事態になっていた。

 

 

 『ダンケルク』は誤算だった。

 彼女は人望――霧望とでも言うべきか――があったため、他の艦との間でクッション役として期待していたのだ。

 だからこそ南の戦線の中枢にいてもらった、それが裏目になった。

 何があったのかはわからないが、最悪の事態だった。

 

 

「くそ……!」

 

 

 『ヒエイ』は文字通り頭を抱えた。

 『プリンス・オブ・ウェールズ』も『リシュリュー』も、『ヒエイ』の言うことには従わない。

 だが、南の艦隊を失えば『ハシラジマ』は丸裸に等しい。

 北側から援軍を差し向けようにも、今からでは間に合わない。

 

 

「どうする。どうすれば良い……!」

 

 

 南側の艦隊が独力で持ち直すのは不可能だ、北側からの援軍は間に合わない。

 現在『ハシラジマ』でドック入りしている艦艇を編成して、派遣する手はどうか。

 いや、補給と整備を終えていない艦を送り込んでも十分な戦力にならない、焼け石に水だ。

 何か、打つ手は無いのか。

 

 

 『ヒエイ』は、自身の思考が停止しつつあることを感じていた。

 打開策が立てられず、対処に行き詰まり、現場の艦隊は指示に従わない。

 足元が崩れていくような、不安定な心地だった。

 ひとりで立っていることに、これほどまでに頼りなさを感じたのは初めての経験だった。

 

 

(いや、違うな。前に一度……)

 

 

 頭を振って、雑念を振り払った。

 託されたのだ、『ハシラジマ』を。

 この世界の命運を決める重要な地点を、()()()の好きにはさせない。

 そうだ、()()()――――……。

 

 

「みな……」

「『ラミリーズ』、『ウォースパイト』。艦隊を中央に5キロ寄せろ。両翼は2艦隊の動きに合わせて運動し、相互に援護せよ」

 

 

 不意に、後ろからそんな声が聞こえた。

 はっとして振り向けば、癖のある金髪をピッグテールに結った長身の女性――メンタルモデルがいた。

 片耳に手を当てるようにした彼女は、どこか遠くに声を飛ばすように。

 

 

「『ミョウコウ』、小規模な重巡戦隊を率いて『ダンケルク』艦隊の後方につけ。撤退してくる艦を迎え入れろ」

「コ……」

 

 

 『コンゴウ』、『ハシラジマ』に到着。

 

 

「『コンゴウ』!」

「情けないぞ『ヒエイ』、この程度の事態を捌けなくてどうする」

 

 

 大戦艦『コンゴウ』の到着により、『ハシラジマ』戦線は新たな転換点を迎える。

 そして『コンゴウ』――『コンゴウ』と『コスモス』の到着は、嫌が応にも()()の到来が近いことを予感させた。

 イ号艦隊の、到着を。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 一時的に落ちていた艦内照明が、点灯を始めた。

 機関に加えて電源も再起動し、まさに死んだように眠っていたイ404が目を覚ましたのである。

 紀沙もまた、艦長室で目を開いた。

 眠っていたわけでは無い。

 

 

「艦長殿、時間だよ」

 

 

 ただ、考えていただけだ。

 椅子に深く座り、目を伏せて、考えていた。

 自分が、間違っていないのかどうか。

 これからしようとしていることが、正しいことなのかどうか。

 

 

 日本で、アメリカで、欧州で、ロリアンで、クリミアで。

 そして再び、日本で――――様々なものを見て、聞いて、考えた。

 この2年間、考え続けていた。

 考え続けて出した答えは、結局、()()だった。

 

 

「艦長殿、時間」

「……わかってるよ」

 

 

 理解してくれる相手は、たぶん、いない。

 だが、それでも良かった。

 自分で出した答えだから、誰にも理解されずとも良かった。

 それさえぶれなければ、紀沙はまだ戦うことが出来る。

 

 

「『ハシラジマ』は、まだ保っている?」

「未だ健在。少し危なかったけど、『コンゴウ』が戻って立て直したよ」

「そう」

 

 

 ならば、征こう。

 自惚れを承知で言わせてもらえれば、イ404が言ってこそあの防戦には意味がある。

 だから行く、何もかもを終わらせるために。

 きっとこれが、紀沙にとっても最後の戦いとなることだろう。

 

 

「スミノ、お前は良いの?」

「愚問だよ、艦長殿」

 

 

 長かった。

 今まで長かったと、そう思う。

 ほんの数年間、でも、人生のすべてをかけてきたように感じる。

 ああ、いや、違う。

 

 

 ずっと止まっていた時間が、ようやく動き出すのだ。

 ()()()()が、本当の時間だ。

 ()()()()が、本当の人生だ。

 だから今日、()()()()のすべてに決着をつける。

 

 

「ボクのすべては、艦長殿のためにあるんだから」

 

 

 それだけのために、イ404を駆る。

 スミノの言葉を聞いて、紀沙は席を立った。

 さあ、最後の戦いに挑むとしよう。

 千早紀沙の、一世一代の――――大勝負を。

 

 

 たとえ。

 たとえ、この戦いの終わりが。

 紀沙の終わりを、意味するのだとしても。




最後までお読み頂き有難うございます。

負け描写が楽しいです(え)
それでは、また次回。


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Depth096:「楓」

 ――――ここで、少し時間を遡りたい。

 場所は日本、横須賀は旧第四施設。

 ()()()、旧第四施設の方だ。

 そこに訪れた()()()の一体『アスカ』と、楓前首相、そして「宇宙服の女」。

 

 

 この三者の対峙は、どうにも奇妙だった。

 価値観の一致点などあるはずも無く、本来ならすれ違うことすら無かっただろう三者だ。

 ただほんの僅かな、髪の毛程の厚みも無い偶然によって、対峙している。

 これを運命と言うべきか、あるいは他の名前をつけるべきなのか……。

 

 

『『アスカ』……か。上陰君がいれば、由来を知ることが出来たかもしれないな』

 

 

 ()()()が数十年前に存在した、人類が宇宙へ打ち上げた衛星や建造物の名前を名乗っていることはわかっていた。

 中には大気圏に突入して消滅したものもあり、今では存在しないものも含まれる。

 その関係性は、良くわかっていない。

 あるいは意味など無く、()()()が名を借りているだけなのかもしれない。

 

 

『おっと、そう事を急がないでほしい』

 

 

 一歩を前に進みかけた『アスカ』に対して、楓は片手を挙げてみせた。

 意外なことに、『アスカ』は楓の掌を見つめて立ち止まった。

 楓を路傍の小石と侮っているのか。

 いや、小石を気に留めて足を止める者などいないだろう。

 

 

『せっかくの機会だ、是非ともキミ達の口から聞いておきたくてね』

 

 

 ゆっくりとした口調で、楓は言った。

 そんな彼の後ろで、白い宇宙服が立っていた。

 メットが鈍い光沢を放っていて、内側の表情を窺い知ることは出来ない。

 『アスカ』はその内側を覗き込もうとするかのように、じっと見つめている。

 

 

『いったい、キミ達は何なのだ?』

 

 

 北極海で紀沙が『コスモス』に問うたことと、同じ質問だった。

 それだけ楓にとって、いや、人類にとってこの問いが重要だと言うことだろう。

 ()()()が地球にやってきた目的を知ることは、人類が生き残る上で重要な情報だった。

 まさに、死活問題と言える。

 

 

『何を求めてこの惑星(ほし)にやってきた? キミ達の目的を教えてほしい。場合によっては……』

 

 

 共存できるかもしれない、そう言う意図を込めて言葉を止めた。

 そのまま、しばらく待つ。

 そんな楓に対して、『アスカ』は。

 

 

「……?」

 

 

 首を、傾げていた。

 楓の言葉が理解できていない、いや、もっと悪い。

 相手の言葉を聞いて足を止めることが出来る『アスカ』は、()()()()()()のだ。

 その上で首を傾げている、つまり、これは一つの事実を示していた。

 価値観の相違、だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人間は、何の目的も無く行動したりはしない。

 どんな怠惰な行為に見えたとしても、それは逆説的に「怠けたい」と言う目的を達成しているのだ。

 だから、人間の行為・行動には必ず何らかの意味・意図が存在する。

 しかし、()()()は違う。

 

 

 その意味で、『コスモス』の「食事をしにきた」と言う回答は、かなり人類に対して譲歩したものだったとわかる。

 『コスモス』の言う「食事」ですら、()()()の目的では無い。

 ()()()の目的、それは。

 

 

「「求める」……理解できない」

 

 

 それは。

 

 

「「目的」……理解できない」

 

 

 それは、()()()()()だ。

 人間も自殺の意思でも無い限り、肉体の生存活動それ自体に干渉することは出来ない。

 心臓が鼓動を打つことを自由に出来る人間はいない。

 肺が収縮して呼吸をし、胃が食物を溶かすことを自在に出来る人間はいない。

 

 

 ()()()()()()()()

 ()()()はただ生まれ、自殺の概念が無いがために生きているだけだ。

 いや、生きていると言う表現すら正しくは無い。

 思い出した。

 ()()()の大本は、寄生生物――生物ですら無い――なのだ。

 

 

「我々は「求める」も「目的」も理解できない。お前達の言葉は、我々には理解できない」

 

 

 すなわち、目の前に見えているメンタルモデルに語り掛けても意味が無い。

 むしろ、慈悲深いとすら言って良いのかもしれない。

 人間は、これから食べる牛や魚の言葉を聞こうとは思わないだろうからだ。

 嗚呼、何と()()()な精神を持つ存在だろう――()()()とは!

 

 

『なるほど、私達にもキミ達のことを理解することは難しそうだ』

 

 

 楓は頷いた。

 取り立てて、失念した様子は無い。

 自分の言葉が素通りしたことをいちいち気にしていては、政治家のトップなど出来ない。

 むしろ楓は、口元に薄い笑みすら浮かべていた。

 

 

『これはお互いにとって、とても不幸なことだとは思わないか?』

「「不幸」、理解できない」

 

 

 今度こそ、『アスカ』は手を挙げ始めた。

 楓は、今度は止めようとはしなかった。

 『アスカ』は、じっと楓を見つめていた。

 そして不意に、『アスカ』は言った。

 

 

「お前の肉体は完全では無いようだ」

 

 

 完全では無い、まぁ、それはそうだ。

 かつての<大海戦>の後遺症で、本来なら生命維持すら出来ない状態なのだから。

 この車椅子が無ければ、5分と保たずに死んでしまう。

 別にその事実を指摘されたからと言って、どうとも思いはしない、だが。

 

 

「完全にしてやろう、その肉体を」

 

 

 『アスカ』の口から出たその言葉には、流石に驚いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 楓の肉体を完全にする。

 それはつまり、楓が失った肉体の機能を回復させると言うことだ。

 治療する、と言っても差し支え無いだろう。

 全く考えなかったわけでは無かった――紀沙だ。

 

 

 人体のナノマテリアル化。

 眼球を破壊されても、ナノマテリアルによる模造眼球で機能を維持することが出来る。

 目はおろか、肉体の全てをナノマテリアルに置き換えることが可能だ。

 それはある意味で、究極の医学と言える。

 

 

『それは、魅力的な提案だな』

 

 

 魅力的、そう、魅力的だ。

 不自由な生活を余儀なくされている楓にとって、<大海戦>以前の肉体機能を取り戻すことは悲願とも言えた。

 普段は気にしていないように見えても、潜在的に思っていることだった。

 しかし、だ。

 

 

『何故、そんな提案を私に?』

「そいつは、我々にとってもイレギュラーだ」

 

 

 『アスカ』は、「宇宙服の女」を指差した。

 遥か宇宙の彼方から、()()()の手を逃れたおそらく唯一の「意思」。

 ()()()にとっても、「宇宙服の女」の存在は厄介だったと言うことか。

 何故、自分達の手から逃れられたのか?

 

 

 だからこそ、わざわざ()()()の一体がこんな内陸までやってきたわけだ。

 日本などと言う、()()()にとっては何の戦略的価値も無い場所に、だ。

 理解できるとも。

 『アスカ』は、二度と同じことが起きないようにするつもりなのだ。

 

 

『なるほど……私と言う不純物(イレギュラー)を避けたいわけか』

 

 

 楓は知る由も無いが、『アスカ』は()()の際に相手の情報ごと食べる。

 「宇宙服の女」の情報を取り込むことで、彼女がどうやって()()()から逃れたのか知ろうと言うわけだ。

 もう二度と、「宇宙服の女」のような存在が現れないようにするために。

 希望の芽を、摘んでしまおうと言うわけだ。

 

 

『私にとっては、メリットしか無いな』

「ならば」

『ああ、願っても無い申し出だ』

 

 

 楓は、『アスカ』の提案に頷いた。

 

 

 

『断る』

 

 

 

 不意に、楓の姿が()()()()

 蝋燭で紙を炙るような音が、微かに聞こえてきた。

 それを見つめていた『アスカ』が、小さく呟いた。

 

 

「ホログラフ」

 

 

 楓の――ホログラフの――後ろに立っていた「宇宙服の女」が、()()に倒れた。

 乾いた音を立てて床に倒れた宇宙服からメットが外れて、『アスカ』の足元まで転がってきた。

 中身は、空だった。

 そして、その次の瞬間。

 ――――旧第四施設が、巨大な爆発に飲み込まれた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 楓と「宇宙服の女」は、山の中腹あたりからその爆発を見下ろしていた。

 かつて、真瑠璃が偽の旧第四施設から通ってきた場所だ。

 周囲には迷彩服を着込んだ統制軍の兵士達が警護しており、2人の安全を確保していた。

 

 

『良カッタノカ?』

『別に問題は無いさ。人類の兵器ではあの旧第四施設は破壊することは不可能だ』

 

 

 ナノマテリアルで再現された旧第四施設は、人間の爆弾程度ではどうにもならない。

 しかしだからと言って、爆弾を仕掛けられないわけでは無い。

 今やって見せたように、内部で爆弾を爆発させることは出来る。

 むしろ破壊できないので、周囲に被害が及ぶ心配がいらないのは好都合だった。

 

 

『奴ノ申シ出ハオ前ニトッテ、良イモノダッタ』

『ああ、そのことか。確かに私にとっては悪いものでは無かった』

 

 

 自分の掌を眺めながら、楓はそう言った。

 実際、この身体が治るのなら、と思わないわけが無かった。

 楓がただの一般人であったのならば、もしかしたら、『アスカ』の提案に飛びついていたかもしれない。

 

 

『うん? あれは……』

 

 

 旧第四施設で断続的に――爆弾は複数仕掛けていた――起きている爆発音の合間に、別の音が聞こえてきた。

 頭上のあたりから聞こえてくるそれは、ヘリコプターの飛行音だった。

 スライドした扉から顔を覗かせているのは、北と上陰だった。

 おそらく、自分の行動の報告を受けて飛んできたのだろう。

 

 

『先程の話だが』

 

 

 「宇宙服の女」に、楓は答えた。

 

 

『私は、一度は首相としてこの国の舵取りを担った者だ。そんな人間が、この国の……いや、世界の恩人を売るような真似は出来ない』

『恩? 何ダソレハ』

『ははは。まぁ、格好をつけただけだよ』

 

 

 この「宇宙服の女」の警告が無ければ、今回のように()()()を迎え撃つことなど出来なかっただろう。

 彼女は、地球にとって()()()だった。

 「宇宙服の女」が始まりを運んできてくれていなければ、地球はもっと早く滅亡していた。

 楓は――いや、地球に生きる全ての者は、彼女に借りがある。

 

 

 その借りの上に、恥を上塗るような真似は出来なかった。

 ただ、それだけのことだった。

 だからこれは、道徳だとか義理だとか、そう言う話では無かった。

 楓が言ったように、「格好をつけた」だけだ。

 そうしなければ、あまりにも人類と言う種が寂しく感じられたからだ。

 

 

『とは言え、あんな爆発程度で()()()が倒せるものかど』

 

 

 楓の言葉は、途中で止まった。

 止めざるを得なかった。

 腹に腕を()()()()()()()、そうせざるを得ない。

 呼吸を忘れて、楓は下を見た。

 

 

 『アスカ』が、地中から上半身を伸ばしていた。

 地面から半身を生やした『アスカ』の右手首から先が、楓の腹部に突き立てられていた。

 楓は、察した。

 あの時、楓の言葉を聞いて立ち止まったのでは無かったのだと。

 ただ、()()()とバレていたから、意味の無いことをしなかっただけなのだと。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 潮騒(しおざい)が、聞こえた。

 揺り籠のような緩やかな揺れが身体を揺らしていて、ともすれば眠ってしまいそうだった。

 嗚呼、心地よいこの感覚。

 何故だろう、とても懐かしい……。

 

 

「……で、楓!」

 

 

 はっとして、楓は目を開いた。

 するとおかしなことに、自分は()()()()()

 いや、それどころか船上にいた。

 厳密に言えば、軍艦の艦橋にいた。

 

 

 艦橋……この発令所には、見覚えがあった。

 この軍艦は、陸上自衛隊所属のミサイル駆逐艦『あきつ丸』だ。

 両手を見ると、海上自衛官時代の制服の袖があった。

 何度も目を瞬かせて、自分の状況について理解しようとした。

 

 

「どうした楓、体調でも悪いのか?」

 

 

 隣を見ると、同じく海上自衛官時代の制服に身を包んだ北が指揮シートに座っていた。

 片眉を立てて、不思議そうな顔で自分を見つめていた。

 ああ、と、楓は理解した。

 

 

「楓、どうした」

「……いえ。何でもありません、艦長」

「そうか、あまり無理はするなよ。大事な決戦前だ」

 

 

 これは、夢だと。

 あるいは幻覚か、しかしどちらでも同じようなものなのかもしれない。

 過去の光景には違いが無い。

 実際、楓は北の副長として共に『あきつ丸』に乗っていた。

 

 

 そう、今から自分達は<大海戦>に挑む。

 

 

 楓はもう、<大海戦>の結果を知っていた。

 人類の連合艦隊は、霧の艦隊の前に無残な大敗北を喫することになる。

 『あきつ丸』は大破し、自分は肉体機能の半分を失うことになる。

 そして僚艦は全て撃沈し、出航前に語らった戦友達はそのほとんどが死ぬ。

 生き残りは、ほんの僅かだ。

 

 

「北さん」

「ん?」

 

 

 艦橋の窓からは、どこまでも続く水平線が望める。

 あの官邸の窓と同じだ、今にして思えば、同じ光景をと女々しく望んでいたのかもしれない。

 我ながら、情けない。

 けれど、不思議と悪い気はしなかった。

 

 

「勝ちましょう。勝って、皆で日本に帰りましょう」

 

 

 北が、ちょっと驚いたような顔をした。

 ()()()、自分はこんなことを言わなかった。

 言うような奴でも無かった。

 もっと冷めていて、小賢しい物言いをするような奴だった。

 あの頃の仲間が見れば噴飯ものだったろうが、北は笑わなかった。

 

 

「当然だ」

 

 

 ただ、当たり前のようにそう言ってくれた。

 良く出来た想像だ、いや夢だろうか?

 どちらでも良かった、どちらでも関係が無かった。

 この人と一緒に、あの自由な大海原を進みたい。

 楓の願いは、昔からそれだけだったのだから……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 北は、ヘリから身を乗り出していた。

 上陰が「首相、危険です!」と言っているが、それどころでは無かった。

 海上自衛官時代から共に戦ってきた部下――部下と言う表現も生温い――が、刺された。

 その事実に、北は叫ばずにはいられなかった。

 

 

「楓――――――――ッッ!!」

 

 

 もう、返事は無かった。

 車椅子ごと地面に倒れ伏した楓は、ぴくりとも動かなかった。

 その前に、『アスカ』が立っている。

 楓を貫いた手指を――血一つついていない――舌先で舐めている。

 まるで、何かを確かめるようにだ。

 

 

「……理解できない。今の行動に何の意味があったのか」

『確カニナ』

 

 

 「宇宙服の女」も、動揺した様子は見られなかった。

 周辺の兵士達の腰が引けていることを考慮しても、不自然なくらいに動じていなかった。

 彼女、あるいは彼女達にとって、死とはその程度のものでしか無いのかもしれない。

 価値観の違いと言うには、少し冷たいと感じるかもしれない。

 

 

 しかし、実際に無意味にも見える。

 楓の行動は、『アスカ』が爆発に対処して――ナノマテリアルごと()()()、安全地帯まで潜ってきた――しまった以上、意味が無くなってしまった。

 だから、「宇宙服の女」や『アスカ』が無意味と断じてしまっても仕方が無いのかもしれない。

 

 

『ダガ、ソウデモ無イカモシレナイ』

 

 

 しかし、「宇宙服の女」はそう言った。

 意味が無いと断じながら、そうでも無いかもしれないと言う。

 矛盾だ。

 その矛盾の理由は、すべてが楓の思惑では無かったからだ。

 

 

 むしろ、()()は偶然の色合いの方が大きかった。

 意図的では無い、が、楓の他にも旧第四施設の「宇宙服の女」の重要性に着目していた者がいたと言うことだろう。

 その証拠に、さぁ、聞こえてくるはずだ。

 あの音が。

 

 

「…………?」

 

 

 ()()()に、『アスカ』があたりを見渡した。

 聞こえてくる音は、軋むような、それでいて力強く、早い。

 立ち塞がる全てを薙ぎ倒してしまいそうな、そんな重厚感に満ちた音だ。

 しかもどんどん近付いてくる、周囲の兵士達が悲鳴を上げて飛び退いた。

 

 

『来タゾ』

 

 

 次の瞬間、木々を、大地を踏み砕きながら、鋼鉄の車体を跳ねさせて何かが飛び出してきた。

 それは「宇宙服の女」を飛び越えて、『アスカ』に襲い掛かった。

 ()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦車と言うよりも、小さな動く要塞(トーチカ)と言った方が良かった。

 木々を薙ぎ倒して余りあるパワーに、重厚な装甲に覆われた巨体、鼻垂れれば鋼鉄をも爆裂させる大口径砲塔、全身凶器のその存在が、『アスカ』の身体を跳ね飛ばした。

 ――――ように見えたが、『アスカ』は堪えた。

 

 

「……ッ!?」

 

 

 しかし、混乱はしている様子だった。

 意外に思えるかもしれないが、事実、『アスカ』の表情には戸惑いがあった。

 ダメージは無い。

 彼は片手で戦車の装甲表面を押さえ、足腰の力でその突撃を押さえた。

 

 

 それでも強力なパワーに押されて、数メートルほど2本の溝が地面に描かれることになった。

 『アスカ』の靴の踵で、地面を抉ったのである。

 止められたとは言え、戦車の前身はまだ続いていた。

 キャタピラが跳ね上げる土が、車体の後ろに降り積もって山になり始めている。

 

 

「ただの戦車では無い……!」

 

 

 ()()()の一体である『アスカ』を押し込む、そんな戦車は統制軍が保有しているはずも無い。

 と言うより、人類がそんな戦車を作れるはずが無い。

 もちろん、霧がわざわざ作ることも無い。

 つまりこの戦車は、『アスカ』の言うように()()()()()()

 

 

「奇襲は失敗か、まぁ良い」

 

 

 ()()()()は、突如、戦車の上に現れた。

 霧か霞のように、軍帽に厚手のコートを身に纏った男の姿が()()()と出現したのだ。

 シャープな身体つきながらも、180センチを超える長身の男。

 かけている眼鏡のフレームに、彼の名前が刻印されていた。

 彼の名は。

 

 

「労力は少ない方が良いが、惜しむつもりも毛頭無いからな――この『IS-2』は」

 

 

 男の名は『IS-2』。

 2年前にヨーロッパを席巻した<騎士団>の一角が、現れた。

 援軍?

 いいや、そんな生易しいものでは無かった。

 

 

「さぁ、オオカミ共。狩り(ハント)の時間だ」

 

 

 『IS-2』の後を追うようにして、木々の間から何匹ものオオカミが飛び出してきた。

 すでに絶滅した日本の固有種とは明らかに違うオオカミ達で、『IS-2』が連れてきたのだろう。

 激しいキャタピラとオオカミの遠吠えが、山々に響き渡る。

 そのまま『アスカ』を麓まで、海まで、あるいはさらにその向こうまで――――。

 

 

「そうとも、かつて我々は欧州の果てまで駆け抜けたのだから……!」

 

 

 <騎士団>きっての重戦車が、()()()を押し潰すべく再び前進を始めた。 

 その前進の重圧は、『アスカ』をして後退させる程のものだった。

 楓や「宇宙服の女」の姿がどんどん遠ざかっていくにつれて、『アスカ』は不満を表すかのように眉を立てていった。

 しかし同時に、『アスカ』は疑問も感じていた。

 

 

 それは、今の自身の置かれている状況に対しての疑問である。

 『アスカ』も愚かでは無い、今のこの状況がどれだけ特異で危険なことかは理解している。

 ()()()()()

 そのあり得ないことが、起きているのだ。

 

 

「ガウッ!」

「オオウッ!」

 

 

 オオカミ達が左右から『アスカ』に襲い掛かる。

 それを両目で見やり、最後に『IS-2』を見た。

 戦車の上から見下ろしてくるこの敵は、()()()にとっても未知だ。

 何よりも……。

 

 

「……!」

 

 

 オオカミ達を払った直後、『IS-2』が足を止めた。

 反動で距離を取った『アスカ』を、凶悪な砲口が追いかける。

 そして次の瞬間、山の一角が吹き飛ぶ程の轟音と衝撃が響き渡った。

 麓にいる人々は、足裏からその衝撃の強さを感じただろう。

 

 

「…………逃がしたか」

 

 

 濛々(もうもう)と立ち込める土煙の中から現れた『IS-2』は、自身以外の姿が周囲に無いことに気付いた。

 彼の一撃は確かに『アスカ』を捉えたはずだが、もはや()()()の気配さえ感じられなかった。

 どこからか反撃に出てくる様子も無い。

 

 

「お前達も追えないとなると、完全に逃げたようだな」

 

 

 耳を下げるオオカミ達の様子に、そう結論付けた。

 おそらく、『IS-2』の突然の出現に驚き、体勢を整えようと言うわけだろう。

 「宇宙服の女」を狙う以上は、いつか再攻撃をしてくるはずだ。

 しかし、「宇宙服の女」か……。

 

 

「楓」

 

 

 その間に、である。

 滞空しているヘリからワイヤー伝いに降りてきた北は、倒れた楓の傍に膝をついた。

 楓は、返事を返さなかった。

 北にとって、楓は部下である以上に戦友だった。

 

 

 軍を退役しても、心は軍人――自衛官のままだったと、そう思った。

 だから、哀しみはいらない。

 彼が遺したものを無駄にしない。

 それこそが残された者に課せられた、唯一の責務なのだから。

 

 

「……良く無事でいてくれた」

 

 

 膝をつき、瞑目したまま、北は「宇宙服の女」に語りかけた。

 もし彼女が『アスカ』に害されていたら、楓の努力が無為になるところだった。

 そして、もうひとつ。

 

 

「支援に感謝する……で、良いのだろうか。<騎士団>だな?」

「ああ」

 

 

 戦車では無くメンタルモデルのみの姿で、『IS-2』が戻ってきた。

 彼はもちろん、楓に関心を払ったりはしない。

 残念ながら、彼自身に人間の守護などと言うボランティア精神は存在しない。

 あるのはただ、任務を遂行すると言う意思だけだ。

 

 

「我ら<騎士団>は<緋色の艦隊>と同盟を結び、()()()との戦いを支援することになった」

 

 

 「宇宙服の女」を守ることが、『IS-2』の任務だった。

 霧は『ハシラジマ』戦に全力を投入しているため、そこまで戦力を回せないだろうとのことだった。

 そして勿論、<騎士団>の援軍は『IS-2』だけでは無い。

 <騎士団>もまた、霧と同じように()()をかけている。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ここで、時間軸を元に戻そう。

 『ハシラジマ』戦線の最前線で、『ガングート』が『コロンビア』と激しい戦闘を繰り広げていた。

 いや、はたしてそれは()()()()()と呼べるものだっただろうか。

 少なくとも、『ガングート』の巨大な艦体は半壊して傾きかけている。

 

 

「……治らない、か……」

 

 

 削がれた右腕の()()――霧のメンタルモデルにあるはずの無いもの――を見やりながら、『ガングート』は苦し気に呻いた。

 『フッド』と『コスモス』の戦闘記録はすでに共有されている。

 ()()()に奪られた部位は、ナノマテリアルをもってしても再生できない。

 

 

 正直なところ、対応策がわからない。

 既存の戦術では対抗できない、何か新しい戦い方が必要だった。

 黒い怪物達のような雑魚はともかく、『コスモス』や『コロンビア』のようなメンタルモデル級が相手では致命的な弱みだった。

 独創性、それはおそらく、霧の艦艇が最も不得手とすることだった。

 

 

「……うおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 

 それでも雄叫びを上げて、『ガングート』は『コロンビア』に挑みかかった。

 半壊した艦体は、それを何度も繰り返した証だ。

 では何故、『ガングート』はそんな一見無意味な行為を繰り返しているのだろうか。

 それは、『ガングート』の甲板に四肢をつけた『ペトロパブロフスク』の存在による。

 

 

 もはや立ち上がることも出来ず、敵に屈するが如き姿勢の『ペトロパブロフスク』の前に我が身を晒す。

 目の前には、絶叫する『コロンビア』がいた。

 こちらに縋りつくように伸ばされた『コロンビア』の両手を、掴んで止める。

 もちろん、無事ですむわけが無い。

 

 

「ぐおおおああぁ……ッ!!」

 

 

 硫酸に両手を漬けると、こんな声が出るのだろう。

 獣じみた悲鳴とでも表現すべきだろうか。

 『ガングート』の端正な顔が苦悶に歪み、両掌からは高熱に焦げる音と煙が上がる。

 溶ける先から再生を試みるが、ナノマテリアルが阻まれて散るだけだった。

 

 

「ガン……逃げ……」

「逃げるわけにはいかない」

 

 

 四肢を焼かれて動けない『ペトロパブロフスク』。

 顔を伏せたままの彼女に、『ガングート』は言った。

 

 

「私が逃げればお前が殺される」

「私は……良……」

「良くは無い」

「お願……あんた……だけ……」」

「聞けない」

「……()()()()()()()()()()ッッ!!」

「いやだ」

 

 

 『セヴァストポリ』、クリミア戦の前に撃沈された姉妹艦。

 可哀そうな妹、最期はたった1人で戦い抜いた。

 太平洋にいた『ガングート』には、どうすることも出来なかった。

 だから妹を守れなかったなんて、そんな言い訳は。

 

 

「そんな言い訳、もう私自身が許せない……!」

 

 

 次の瞬間、すでに削がれていた右手首が崩れた。

 脆く抉り取られた右手を擦り抜けた、『コロンビア』の左手が『ガングート』の胸に触れた。

 とんっ……と、衝撃がメンタルモデルの肉体に走る。

 

 

「カナシイワ……!」

「し」

 

 

 しまった、と、『ガングート』が思った、さらに次の瞬間だった。

 

 

 2つのことがほぼ同時に起こった。

 まず第一に、見覚えのない潜水艦が――艦形を照合するに、Uボート――突如、『ガングート』の横に海中から飛び出してきた。

 そして第二に、『ガングート』と『コロンビア』の右頭上に、影が差した。

 超重量の鋼鉄の塊、その裏面と武骨なキャタピラが目に入った。

 

 

 とてつもなく、鈍い音が響いた。

 気を取られた『コロンビア』が『ガングート』から手を離した瞬間だった、その鋼鉄の塊が『ガングート』の甲板に着地し、そのまま『コロンビア』に突撃したのだ。

 『コロンビア』の身体が、()()()()()()()宙を舞う――――。

 

 

「あー、やだやだ。オジサンは海の上は苦手だなあ」

 

 

 戦車の上に、ボサッとした茶髪の男がいた。

 『ガングート』もデータでは知っていた、<騎士団>の1人、『シャーマン・ジャンボ』だ。

 それが何故ここに、と、思いはしたが、それ以上の疑問を彼女は言った。

 

 

「な……何故だ?」

「うええ? いや、オジサンにもいろいろあってね?」

 

 

 半ば叫ぶように。

 

 

「何故、()()()()()()()()()()()……!?」

 

 

 『ガングート』の声が、『ハシラジマ』の戦場に響き渡った。




最後までお読み頂き有難うございます。

<騎士団>参戦!
かつての敵が味方になる的な展開は、個人的には大好物です。

それでは、また次回。


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Depth097:「昨日の敵は」

 

 今一度、時間軸を巻き戻す。

 日本で旧第四施設での騒動とほぼ時を同じくして、小笠原沖で大きな水柱が上がった。

 小笠原の島々に、海水の雨が降った。

 その中心に、2隻の巨大な戦艦がいた。

 

 

「不覚、だったわ……」

 

 

 その内の1隻の甲板上で、袴姿の女が膝を折っていた。

 顔は熱病に浮かされているかのように紅潮し、瞳は潤み、吐息には熱を孕む。

 指先を動かすのも億劫なようで、甲板に膝をついた姿勢のまま、もう1隻の甲板上を見つめていた。

 そこで、2人のメンタルモデルによる戦いが繰り広げられていた。

 

 

 『ナガト』――もう1人の、花魁風の姿をした『ナガト』と、同じく『ヤマト』の片割れである『コトノ』の、戦いだった。

 戦いと言っても、ほぼ一方的に『ナガト』が襲い掛かっている形だ。

 片割れの暴走を、彼女は止めることが出来なかった。

 

 

(あの時、『ユキカゼ』に何かをされた……)

 

 

 『ユキカゼ』に身を貫かれたその瞬間から、『ナガト』は自身を自由にすることが出来なくなった。

 何か、強い異物感を感じ続けている。

 操られていると言うよりは、信号を受け続けていると言った方が正しい気がする。

 今も片割れのメンタルモデルの暴走を止めることが出来ないどころか、コアを通じて逆に影響を羽化てしまっている状態だ。

 

 

「この『ナガト』が、何て様だ」

 

 

 かつては総旗艦まで務めた『ナガト』をもってしても、逆らえない力だ。

 ()()()は独特な力を使うが、これはさらに特異だ。

 屈辱――そう、これが屈辱だ。

 だが、しかし、この力の主は1つだけ見落としていることがある。

 

 

 それは、この『ナガト』が()()()()()()の持ち主だと言うことだ。

 霧の艦艇の中でも特に少ない、希少なコアである。

 確かに片割れの暴走の影響を受けて動くこともままならない、が、それは()()()()()()()可能性を秘めていると言うことだった。

 胸中の苦い味、屈辱――雪がずには、いられない、が。

 

 

「それまで、あの『ヤマト』……いえ、『コトノ』、か。彼女が保ってくれるかどうか……」

 

 

 そこは、いまひとつ不安だった。

 『ナガト』は『ヤマト』は良く知っているが、『コトノ』はそうでは無いかったからだ。

 そしてそんな『ナガト』の目の前で、『ヤマト』甲板上で激しい衝撃音が響いてきた。

 はたして、この戦いの結末はどうなるか……『ナガト』にもわからなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ナガト』は、霧の中でも特別な存在だった。

 総旗艦『ヤマト』が霧の艦隊へ()()する以前に、総旗艦の地位にあった霧の艦艇。

 霧に3隻しかいない――紀沙を含めば4隻だが――超戦艦に、最も近い大戦艦。

 最強の大戦艦、と言って差し支えないだろう。

 

 

 とは言え、コトノもさほど良く『ナガト』のことを知っているわけでは無い。

 霧の艦艇のほとんどは『ヤマト』の存在しか知らなかったし、総旗艦の地位を引き継いだ時には、『ナガト』はメンタルモデルを保有していなかった。

 むしろ、これがほぼ初対面と言っても良かった。

 

 

「『ナガト』……ッ。可哀そうに、わかるよ」

 

 

 『ヤマト』の艦体がそうそう破壊されることは無い。

 まして、『ナガト』は半身だ。

 力の強さで言えば、コトノの方が遥かに上だ。

 しかし今はタイミングが悪い、コトノの力の大半は『ハシラジマ』戦の方に割かれているからだ。

 

 

 もしここで『ナガト』への対応に力を割いてしまうと、演算をやり直さなければならなくなってしまう。

 難しいと言うよりも、『ハシラジマ』側が間に合わなくなるだろう。

 だから演算は続けつつ、『ナガト』の攻撃を凌がなければならない。

 そうなってくると、『ナガト』は力が強すぎるのだった。

 

 

「『ナガト』が、苦しんでいるのが」

 

 

 屈辱だろう。

 一度は総旗艦まで務めた霧の大戦艦が、()()()の走狗に成り下がっているのだ。

 屈辱を感じていないはずが無く、その証拠にコトノにはそれが伝わってきていた。

 伝わってくると言うことは、『ナガト』自身が消えてしまったわけでは無いはずだ。

 とは言え、どうやって解放できるのか、今のところわからない。

 

 

「せめて、『ヤマト』がいてくれればなぁ」

 

 

 いない相手を求めるのは、意味の無いことだとはわかっている。

 それでも、思ってしまうことは止めようが無い。

 

 

『情けないわね、それでも総旗艦?』

 

 

 だから総旗艦(ヤマト)じゃねっての、と、頭の中で響いた声に応じた。

 秘匿通信だ。

 『ナガト』の手から逃れながら、意識をそちらに向けるのは難儀だったが、無視をさせないだけの強い意思を感じた。

 何と言うか、肩をガッと掴まれるようなイメージだった。

 

 

『仕方ないわね、私達をそこに呼びなさい!』

 

 

 さっきまで拒否っていたくせに、身勝手なことだ。

 しかしそれを言ってまたへそを曲げられても困るので、何も言わなかった。

 大人になったなぁ、などと、コトノは思った。

 『ナガト』から大きく距離を取って、主砲の上に跳んだ。

 そして、そのまま主砲に掌を乗せると、幾何学的な光の紋様が広がる。

 

 

「……!」

 

 

 激しく輝き始めた智の紋章(イデア・クレスト)に、『ナガト』が顔を上げる。

 光を失った両の瞳に、光が散っていく。

 その先に姿を現したのは、蒼き重巡洋艦であった――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 重巡洋艦『タカオ』は、この2年間何をしていたのか?

 その問いに答えるのは、非常に難しい。

 いや、やっていたことは単純なのだ。

 人間に置き換えて考えてみると、本当に一言か二言で終わる程度のものだ。

 

 

 まず、彼女の髪型からして

 蒼い髪を片側のうなじのあたりで結っていて、蒼い薔薇の装飾の髪留めを使っていた。

 ネイビーのワンピースドレスで、甲板の手すりに――まるで、どこかに座っていたのをそのまま移動させたかのように――足を組んで座っていた。

 首元や手首にパールのアクセサリーまで着けていて、まるで、そう。

 

 

「……『タカオ』?」

 

 

 目を、閉じていた。

 海風に髪が揺れて、陶器のような白い肌の上を滑る。

 まるで何かに聞き入っている様子で、喚び出された『ヤマト』甲板上の出来事など何も気付いていないようだった。

 一人だけ、纏っている空気が違う。

 

 

「あの、ちょっとー? もしもーし」

「五月蠅いわね、静かにしなさい」

 

 

 ええええええええぇぇぇ。

 ……とでも言いたげな顔をするコトノに、『タカオ』は一切関心を示さなかった。

 ただコトノはそれで良くても、『ナガト』はそうはいかない。

 新たに登場した『タカオ』の存在に、そちらへと目を向けていた。

 

 

 攻撃対象を変えた、コトノにはそれがわかった。

 おそらく、『タカオ』の強いコアの反応に引かれたのだろう。

 だと言うのに、『タカオ』は別段気を払っている様子も無かった。

 警告を発すべきか、いや、また「五月蠅い」と言われるだけか。

 

 

「……ッ、『タカオ』!」

 

 

 『ナガト』が駆け出した、流石にコトノも声を上げる。

 しかし、それでも『タカオ』は何かに聞き入った様子のまま、動かなかった。

 そんな『タカオ』に、『ナガト』が飛び掛かった。

 腕を伸ばし、『タカオ』の顔を覆おうとする、そして。 

 

 

「――――――――ッッ!?」

 

 

 一瞬、コトノにすら何が起こったのかわからなかった。

 『ナガト』が『コトノ』に飛び掛かった、ここまでは良い。

 だがその次の瞬間、『ナガト』の身体が『ヤマト』の甲板に叩きつけられていた。

 いくら今の『ナガト』が元々の半分以下の力しか無いとは言え、重巡洋艦クラスのメンタルモデルの力で一蹴できる程に弱くは無いだろう。

 

 

「五月蠅いわよ、『ナガト』」

 

 

 だと言うのに、『タカオ』は動いてすらいない。

 最初に現れた時と同じ姿勢のまま、目を閉じたまま。

 どこか、うっとりとした顔で。

 

 

「『マヤ』と『アタゴ』のコンサートが、良く聞こえないじゃない」

 

 

 重巡洋艦『タカオ』。

 今日は、彼女の妹達の2年間に渡る()()()()()()()()()()()()の日だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の艦隊に、激震が走った。

 全ての霧の旗艦達が驚愕を隠し切れずに、共有ネットワーク上が俄かに騒がしくなった。

 それだけ、『コロンビア』を吹っ飛ばした『シャーマン・ジャンボ』の一撃は衝撃的だったのだ。

 何しろ、あの()()()にほとんど初めて、有効なダメージを与えたのだから。

 

 

 一度、『アカシ』が『ボイジャー2号』を殴り飛ばしたが、あれは言うなれば鎧の上から叩きつけたに過ぎない。

 『シャーマン・ジャンボ』の一撃は、それとは違う。

 ()()()()に、ダメージを通している。

 だからだろう、『ガングート』の甲板上で起き上がった『コロンビア』が、何かを探るように『シャーマン・ジャンボ』を見つめていた。

 

 

「あーらら? それもしかして警戒態勢ってやつかな? 参ったなぁ、俺みたいなオジサンにそんな警戒されてもねぇ」

「ねぇねぇ、おじさんっ。僕もっ、僕も見たい!」

「あーわてんなって『チャーフィー』。こう言う時ぁ、おいおいこらこら」

 

 

 砲塔の上に座っていた『シャーマン・ジャンボ』の脇から、にょきにょきと小さな男の子が顔を出した。

 こちらも<騎士団>の戦車、『チャーフィー』だった。

 流石に2両で走るには狭かったのか、本体としての戦車は出していない。

 いや、『ガングート』らにとっては何両いるとかそう言う話では無かった。

 

 

「どう言うことだ……!?」

『それについては、私の方から説明させてもらおう』

 

 

 その時、霧の共有チャネルを通じて新たな通信が入った。

 発信元は、『ガングート』の隣に寄せているUボートだった。

 

 

『霧の艦隊諸君。こちらは<緋色の艦隊>所属、『U-2501』艦長ゾルダン・スタークだ』

 

 

 ゾルダン・スターク。

 正直、いったい何隻の霧の艦艇が今この名前をマークしていただろう。

 千早翔像より密命を帯びて長い間潜っていた彼が、今、戦場に戻ってきた。

 <騎士団>と言う、第二の援軍を引き連れて。

 

 

『出来る限り細かく話したいところだが、状況が状況だ。手短になってしまうことを許してほしい』

 

 

 霧の艦艇の攻撃は、()()()に対して致命打にはならない。

 だが<騎士団>の攻撃は、()()()に対して有効打となる。

 霧の艦艇と<騎士団>の攻撃に、いったいどのような違いがあると言うのか。

 それは、この『ハシラジマ』決戦の行く末を決定付ける情報になるのだろう。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそも、()()()と<騎士団>にはある共通点がある。

 それは、霧の攻撃に対して強固な防御力を持っていると言うことだ。

 実際、霧の艦隊は黒海や地中海では<騎士団>に対して劣勢だった。

 黒海艦隊旗艦『セヴァストポリ』は、<騎士団>に撃沈されたのだから。

 

 

「その原因は、<騎士団>の扱うナノマテリアルが霧のナノマテリアルとは異なっていたことにある」

 

 

 例えば霧同士の戦いであれば、彼女達は互いのクラインフィールドにダメージを与えることで、最終的に攻撃を直撃させることが出来る。

 これは、お互いに霧であるが故に、能力の根っこの部分が同じだからだ。

 同じ原理の力だから、攻撃を当てる方法が理解できると言うことだ。

 

 

 ここまで説明すれば、あと一歩だ。

 霧が<騎士団>に有効打を与えられなかったのは、<騎士団>のナノマテリアル――つまり、クラインフィールドを抜く原理を知らなかったからだ。

 つまり今、()()()に対して有効な攻撃が出来ていない理由もそれだ。

 霧が、()()()の防御の抜き方を理解できていないのである。

 

 

『だが、それではまだ半分だ。ゾルダン・スターク』

 

 

 ゾルダンは『U-2501』の発令所で、ロムアルドと共にその声を聞いた。

 彼の説明に対して直接的な反応を返してくるのは、『ハシラジマ』にいる『コンゴウ』だけだ。

 他の霧は静観と言うことだろう、余計なことを話してゾルダンの説明を遅らせたくは無いと言うことか。

 あるいは、『コンゴウ』が霧の信を集め始めていると言うことなのかもしれない。

 

 

『我々の力が通じない理由はわかった。だが、<騎士団>の攻撃が通じる理由がわからない』

「……それこそが、キミ達が<騎士団>に勝てなかった理由だ」

『何だと?』

「キミ達とて、<騎士団>の防御を破るべく経験値を蓄えていたはずだ」

 

 

 霧も馬鹿では無い、対<騎士団>の情報を蓄積していたはずだ。

 当然、<騎士団>のクラインフィールドを破るための試行錯誤も含まれる。

 だが、それらは全て実を結ばなかった。

 ――――何故か?

 

 

「<騎士団>は、ナノマテリアルの()を自在に変えられる」

 

 

 構成値、あるいは組成と言っても良いかもしれない。

 ゾルダンは、それを「色」と表現している。

 <騎士団>は霧との戦いにおいて、自分達のナノマテリアルの色をカメレオンのように変えることで、霧の多彩な攻撃を切り抜けてきたのだ。

 ()()()に対する攻撃でも、<騎士団>は同じことをしたのだ。

 

 

()()()と言えど全能では無い。また、無敵でも無い」

 

 

 この世に全能な者などいない、この世に完全に無能な者がいないように。

 この世に無敵な者などいない、この世に完全な弱者がいないように。

 どんな状況でも、必ず突破口は存在するし。

 どんな状況でも、対応策を持っている者が存在する。

 

 

「さぁ、霧の諸君。正念場だぞ」

 

 

 何しろ、霧はまだ全ての力を投入していないし、人類は登場すらしていない。

 まして()()()に至っては、本体すら姿を見せていない。

 むしろ、ここからが本番だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 本番を前に、少しは光明が見えてきたと言うことか。

 『ハシラジマ』の『ヒエイ』は、ゾルダンの話を聞いてそう思った。

 とは言え、現状は敵にダメージを与える方法がわかったと言うだけだ。

 ()()()側の物量が圧倒的だと言う点は、一切変わっていない。

 

 

「それにしても、()()()はいつの間にこれだけの戦力を準備していたのでしょう」

「『ヒエイ』、お前は不思議に思ったことは無いか?」

「不思議に……ですか?」

 

 

 『コンゴウ』の言葉に、『ヒエイ』は不思議そうに首を傾げた。

 一方で、安心も感じている。

 やはり『ヒエイ』は、こうして『コンゴウ』の副官的な位置にいるのが性に合っているのだった。

 

 

「古今東西、ありとあらゆる海域で船舶や航空機が忽然と姿を消すことがある」

 

 

 フロリダ沖のバミューダトライアングルの伝説などは、その典型だ。

 そして似たような伝承は、それこそ枚挙に暇がない。

 いつの時代も、年に何機もの航空機や何隻もの船舶が行方不明になる。

 どれだけ時代が進もうと、技術が進歩しようと、何故か改善されることが無い。

 

 

「もしかしたならそれは、深い海底から表に出てきたナノマテリアルが引き起こしていたのでは無いか?」

 

 

 クラーケンやセイレーン等の()()()()の伝説は、あるいは事実を基にしていたのだとすれば?

 ナノマテリアルが形作るのが<霧の艦隊>だけとは、限らない。

 そして()()()は霧に限りなく近い、遥か宇宙の寄生生物だと言う。

 地球に堆積しているナノマテリアルが反応した結果、あのような黒い怪物の姿になったのでは無いだろうか。

 

 

「まぁ、だとしたらこの地球も私達のホームってわけじゃ……ん?」

 

 

 2人と一緒にいた『イセ』が、不意に何かに気付いたように顎を上げた。

 方角的には、北だ。

 北の方角から、何かが近づいてきている。

 『イセ』がそれに気付いたのは、彼女が最も大事に想っている相手の気配を感じたからだ。

 

 

「『ヒュウガ』ちゃん!」

「『ヒュウガ』だと?」

 

 

 不意の情報に、『コンゴウ』は眉根を寄せた。

 『ヒュウガ』は、イ401と行動を共にしているはずだ。

 姉である『イセ』が感知したと言うことは、『ヒュウガ』の側でも同じだろう。

 その事実は、『コンゴウ』達に一つの事実を教えてくれた。

 すなわちこの『ハシラジマ』決戦の、クライマックスがやってきたと言うことだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――これより、『ハシラジマ』海域に突入する。

 その命令に先立って、紀沙は全員に作戦を伝えた。

 それは他のイ401や『ヒュウガ』、そして『白鯨』達には伝えていない作戦だ。

 ある意味で、イ404の本当の作戦と言えた。

 

 

 それだけ重要な作戦でありながら、紀沙は直前のこの時になって、その作戦について話した。

 ここまで話さなかったのは、紀沙自身にも迷いがあったのかもしれない。

 それでも、紀沙はこの作戦に懸けることにした。

 この作戦こそが、世界を救うと信じている。

 

 

「あー……本気なんだよな、艦長は」

 

 

 ポリポリと頭を掻きながら、冬馬はそう言った。

 恋や梓も、難しい顔をしている。

 機関室から反応が無いのは、蒔絵を筆頭に黙殺することで反対の意思を示しているのだろう。

 それだけ、紀沙が話した作戦は()()()()だったのだ。

 

 

「……賛成できないよ」

 

 

 他に誰も言わないなら自分が、と、思ったのだろう。

 良治が、真っすぐに紀沙の横顔を見つめていた。

 紀沙もまた、ゆっくりと良治の方を向いた。

 

 

「それは、確かに。紀沙ちゃんの作戦なら、世界は救えるのかもしれない。それは……凄いよ。本当に凄いと思う」

 

 

 それもまた、事実だ。

 紀沙の作戦は、成功すれば間違いなく()()()()()

 たとえ失敗したとしても、()()()には勝利することが出来る。

 これは、そう言う類の作戦計画だった。

 

 

「でも、これは……誰も幸せになれないじゃないか」

()()()は、幸せになれます」

 

 

 重要なのは、その()()()の範囲だった。

 これもまた、作戦の成否によって変わるのだろう。

 考えに考え抜いた末に出した、作戦だった。

 

 

「まぁ、乗りかかった(フネ)だ。だから今さら降りるつもりは無いよ。でも」

 

 

 やるせない、そんな気配を漂わせて、梓は大きな溜息を吐いた。

 でも、の後は続かない。

 ただ首を振り、その後は唇を真一文字に引き結んだ。

 冬馬でさえ、二の句を告げないでいる。

 

 

 理解して貰えるとは、思っていなかった。

 消極的にでも協力してくれれば、むしろ儲けものだろう。

 幸いだったのは、クルー達が結局は軍人だと言うことだ。

 命令には、従う。

 

 

『協力するわぁ』

 

 

 その時、意外なところから賛意の声が上がった。

 機関室から、あおいだった。

 通信画面に顔を映し出したあおいは、いつものように柔らかな笑顔を浮かべていた。

 そして、彼女は言った。

 

 

『その代わり、お姉さんのお願いを叶えてくれる?』

「お願い、ですか」

『あのねぇ……』

 

 

 それはまぁ、聞ける願いであれば聞きたいとは思う。

 末席とは言え代将の地位にある紀沙だから、融通もかなり効く方だ。

 だが次のあおいの口から語られた「お願い」は、紀沙が予想だにしなかったものだった。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

何だかんだ97話、もう少しで終わると言いつつ延びる延びる。
とは言え、流石にそろそろ前振りも終わり。
この戦争にも終止符を打たなければ(使命感)

それでは、また次回。


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Depth098:「作戦、開始」

 手を結んだとは言え、人類と霧は未だ連合してはいない。

 せいぜい、地上と海で()()()との戦いの担当を分けている程度だ。

 それすらも協議の結果では無く、単に「お互いに手を出せない」と言うだけだ。

 その意味では、霧と人類は同盟している意味が無いとさえ言えた。

 

 

「――――即決は出来かねるプランです」

 

 

 ラングレー空軍基地から国防総省(ペンタゴン)入りしたエリザベスは、外に漏れるはずの無い秘匿コードでの通信を受けていた。

 このタイミングでわざわざそんなことをしてくる相手はそういるものでは無いので、ある意味で気楽にその通信を受けた。

 

 

「現状、我々は苦しい状況に立たされています。せっかく整えた反撃のための戦力を、他に差し向けることはとても難しい」

『それは、こちらも良く承知しています』

 

 

 相手は、<緋色の艦隊>の提督――千早翔像だった。

 バイザー越しの表情は相変わらず読めないが、図太さは見て取れた。

 図太さは、政治家には絶対に必要な要素の一つだった。

 まぁ、交渉相手の図太さはこちらにとっては面倒以外の何物でも無いのだが。

 

 

『しかしながら大統領、これは重要なことです』

 

 

 そしてアメリカの秘匿コードを使ってまで翔像がエリザベスに訴えかけてきたのは、彼の眼が確かであることの証左でもある。

 今、アメリカが動くかどうか。

 それが()()()との戦いにおける重要な分岐点になると、読んでいるのだ。

 

 

 しかし、アメリカにとって――エリザベス大統領にとっては、翔像の提案は厳しい判断を要するものだった。

 緊急時、アメリカの大統領はほぼ全権を委ねられている。

 だからエリザベスの判断は、まさに数億人のアメリカ人の命運を左右するのだった。

 その決断が、軽いものであるはずが無い。

 

 

「我が国の振動弾頭は、我が国の防衛のために使われるべきものです。またそうすることこそ、国民への責任を果たす行為であると信じています」

 

 

 正論だ。

 アメリカ軍はアメリカ国民のために存在する。

 これ以上無い正論だが、一方で、それだけであるとも言える。

 

 

『地上の()()()をいくら叩いても、問題の解決にはならないのです。大統領』

 

 

 地上に降下している黒い触腕は、言ってしまえば尖兵に過ぎない。

 だからそれをいくら攻撃しても、アメリカ国民の感情面は別として、事態の根本的な好転には繋がらないのだ。

 それは、エリザベス大統領にも良くわかった。

 

 

『だからこそ、大統領。どうかご決断頂きたい』

 

 

 ああ、まったく。

 自分は本当に大統領に向いていない。

 

 

()()()

 

 

 ああ、お腹が痛い。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――畜生。

 『ダンケルク』は、意識(コア)の底から湧き上がってくる感情を押さえ切れなかった。

 口惜しさと悔しさが、胸中に収まりきらず唇から外に出ようとする。

 だが彼女の口から漏れたのは、掠れた呼吸音だけだった。

 

 

「こ……はっ……」

 

 

 喉を、掴まれていた。

 首を絞められているのでは無く、片手で掴まれて、首の半ばに指が埋まっている。

 人間であれば、頸動脈を押さえられている形だ。

 それだけに、『ダンケルク』は声すら発することも出来ずにいる。

 

 

 良く見れば、メンタルモデルの両足が膝から先が失われていた。

 足場になっている艦体も、もはや原型を留めていない。

 おそらく、艦体の維持すらままならなくなったのだろう。

 『コスモス』の右手に掴まれて、『ダンケルク』の身体がぶら下げられていた。

 

 

「うおおおおおっ!」

「その子を離せ……!」

 

 

 無事な乗員(クルー)が何人か、『ダンケルク』を助けようと、廃材を武器に『コスモス』に襲い掛かった。

 もちろん、逃げることも出来ただろう。

 と言うか、敵わないだろうことはわかり切っていた。

 それでも彼らは立ち向かった、それは彼らが生粋のイタリア人だからか……。

 

 

「やめ……」

 

 

 喉を掴まれている『ダンケルク』の声は、誰にも届かなかった。

 ただただ、彼女の目の前で、1人、また1人とクルーの男達が倒れていく。

 『コスモス』の左手が一度(ひとたび)振るわれれば、その度に身体の一部が削り取られた状態で人間達が転がっていく。

 どうしようも無い絶望感が、『ダンケルク』を覆い尽くそうとしていた。

 

 

 畜生、と、『ダンケルク』は口惜しさに涙を流した。

 メンタルモデルは涙を流さないので、身体を構成するナノマテリアルが崩れかけているのだ。

 もはや『ダンケルク』には、戦う力など残っていなかった。

 抵抗する術を失い、エネルギーを使い果たし、ただクルーが倒されていくのを見ているしか出来なかった。

 

 

「……やめ……く、れ……」

 

 

 誰か、などと、これまで思ったことは無かった。

 しかし今、『ダンケルク』は痛切に誰かに救いを求めていた。

 誰でも良いから、この絶望的な状況を何とかしてくれと、そう思っていた。

 そして、『ダンケルク』の願いに応じるかのように、ついにこの『ハシラジマ』の戦いにも転機が訪れた。

 

 

 北側、()()()の黒い怪物で埋まっていた海の一角。

 そこに陣取っていた黒い怪物が、海中からの爆発によって一掃されたのである。

 独特の()に覆われて、削ぎ落されるように収縮する。

 潜水艦発射型の、侵蝕魚雷による攻撃だった。

 すなわち――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 来た、と、霧の全員が思った。

 ()()()の最北端――すなわち、()()()だ――の黒い怪物達が、一斉に侵蝕魚雷によって吹き飛ばされた、その瞬間だった。

 それは全体で見れば微々たるダメージだったが、霧の旗艦達にとっては十分な()()だった。

 

 

「まぁ、及第点と言ったら甘い判定になるけれど」

 

 

 事前の通信が難しい中では、攻撃によって知らせる以外には無かっただろう。

 『ハシラジマ』北側の戦線を指揮しているのは『レキシントン』、大学教授の出で立ちのそばかすの女性が航空甲板に立つのはシュールな光景だ。

 杖先で自分の甲板を叩きながら、『レキシントン』は左翼を前線に上げた。

 

 

 最後尾の数体を屠ったところで、()()()の包囲網――この場合は、包囲の外側から内側に入ろうとしているわけだが――を突破することは難しい。

 当然、内側からも呼応する必要がある。

 先の攻撃は、それを促すものでもあったのだ。

 

 

「そうは言っても、潜水艦の援護など経験したことが無いぞ」

「水上の敵を屠れば良いのよ、今まで通りじゃない」

 

 

 『ハシラジマ』北側の戦線、左翼を支えるのは、『アドミラル・グラーフ・シュペー』と『サウスダコタ』の霧の南米方面艦隊である。

 『レキシントン』の指揮に従って、彼女達の艦隊が前進する。

 向かい合う形になる黒い怪物達が、彼女達の方へと鎌首を向けてきた。

 

 

「まぁ、それもそうか」

 

 

 初撃は、『アドミラル・グラーフ・シュペー』だった。

 『サウスダコタ』の言葉にあっさりと頷いて、すぐに砲撃した。

 僚艦の軽巡洋艦2隻も、続いて砲撃を開始する。

 軽巡洋艦クラスの攻撃は牽制程度だが、今はそれが重要なのだった。

 

 

「攻撃開始、私に続いて砲撃しなさい」

 

 

 『サウスダコタ』もまた、僚艦と共に砲撃を開始する。

 左翼艦隊の前線投入は、それだけ他の艦隊の防衛線に負担をかけることを意味する。

 それでも『レキシントン』が左翼を前に上げたのは、北側から敵の包囲網を抜けて『ハシラジマ』を目指している()()()相手を援護するためだ。

 

 

 ()()()()()()、だ。

 とは言え、口で言う程に簡単なことでは無い。

 水上艦が潜水艦を発見するのは非常に難しい、つまり『アドミラル・グラーフ・シュペー』達には、自分達が援護している相手の正確な位置がわからないままに戦っているのだ。

 

 

「イ号艦隊の道を開く!」

 

 

 これが勝利への道となるかは、まだわからない。

 全ては、未来と言う()の中にあるのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ハシラジマ』南側の霧の艦隊は、自らの任務を明確にした。

 すでに『ヒエイ』による()()()()()()()()()()は開始されており、本作戦の最終目標に向かって状況が開始されていたのである。

 南側の艦隊の役割は、戦線を強固に維持して()()()を進ませないことだった。

 

 

 ただ、南側の戦線には()が開いていた。

 『ダンケルク』艦隊を中核とする中央の戦線で、寸断された各所から()()()が抜けようとしていた。

 『ダンケルク』艦隊の背後に『ミョウコウ』艦隊が派遣されたため、穴自体は最小で済んだものの、それでも完全に塞ぐことは難しかった。

 

 

「怪物やら触手やらは良い、何とか対処にも慣れてきた。だが()()()のメンタルモデルが押さえ切れない」

 

 

 重巡戦隊を率いて戦線の穴を埋めようとしている『ミョウコウ』にとっても、『コロンビア』のような()()()のメンタルモデルは厄介すぎる相手だった。

 1人1人が特殊な能力を保持しており、個体によっては大戦艦でも対応が難しい。

 何よりも問題なのは、この期に及んでも()()()の全容が知れていないと言うことだ。

 霧における総旗艦のような存在はいるのか? コアはどこにあるのか? 不明なことばかりだ。

 

 

「『ミョウコウ』!」

「む……」

 

 

 『アシガラ』の声に、視界を伸ばす。

 メンタルモデルの瞳に映ったのは、()()()に艦首を向ける大型艦の存在だった。

 あれは、『ダンケルク』か。

 しかし何故、『ダンケルク』がこちらへと艦首を向けているのか……。

 

 

「……あれは!?」

 

 

 『ダンケルク』の甲板に、()()()……『コスモス』の姿が見えた。

 その手に力なく握られているのは――()()()()()()、と言う表現は、あながち間違っていない――『ダンケルク』のメンタルモデルだった。

 共有ネットワークにも繋がっている様子が無い、乗っ取られているのか。

 それを見た『アシガラ』が、眉を立てた。

 

 

「あの野郎……!」

「よせ、『アシガラ』!」

 

 

 無策のまま突っ込んでも、勝ち目があるとは思えない。

 だから『ミョウコウ』は『アシガラ』を止めた。

 とは言え、このまま進ませるわけにもいかない。

 『ミョウコウ』の後ろには、『ハシラジマ』があるのだ。

 どうする、と、『ミョウコウ』が思った時だ。

 

 

『『ミョウコウ』、今そちらに援軍を送った』

 

 

 援軍?

 『コンゴウ』からの通信に眉を動かした時だ、『ミョウコウ』の両側の海面が爆ぜた。

 そこから飛び出してきたのは、『ダンケルク』と比較しても遜色の無い大型艦だった。

 

 

「『デューク・オブ・ヨーク』と、『アンソン』か」

 

 

 大戦艦2隻、それが『コンゴウ』が『コスモス』を止めるのに必要と判断した()()だった。

 だがはたしてそれですらも足りるかどうか、『ミョウコウ』には自信が無いのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ハシラジマ』南側の戦線に、不自然な空間が出来上がっていた。

 霧の艦隊が下がり、また()()()の黒い怪物達も進んで来ない。

 まるで何かを警戒し、怯えているかのように。

 そしてその空間に、3隻の大戦艦が向かい合っていた。

 

 

(『ダンケルク』……!)

 

 

 パンツスタイルのディーラー衣装に身を包んだ『アンソン』のメンタルモデルは、『コスモス』に首を掴まれている『ダンケルク』を見た。

 共有ネットワークに上がっている情報からすれば、この『コスモス』には直接は触れない方が良いらしい。

 触れられると、『ダンケルク』のように取り込まれてしまう。

 

 

 そうなると、距離を取って戦う必要がある。

 幸い、何を思っての行動か知らないが、『コスモス』は『ダンケルク』の艦体を維持している。

 移動の足にでもしようとしたのかもしれない。

 だが理由はどうであれ、艦体を持ってくれるのであれば、それは霧の艦艇の土俵だ。

 イ号艦隊の『ハシラジマ』到着までの時間を稼げれば良いわけだから……。

 

 

「……姉さん?」

 

 

 距離を取るべきと言う時に、『デューク・オブ・ヨーク』はずんずんと前に進んだ。

 『アンソン』が「あの、ちょ」と止める様子を見せるが、お構いなしだった。

 『ダンケルク』――つまり『コスモス』に、どんどん近付いていく。

 ああ、これは不味いと『アンソン』は思った。

 

 

「姉さん、怒ってる……」

 

 

 姉である『デューク・オブ・ヨーク』は、静かに怒る。

 けして怒鳴り散らしたりはしない、その代わりに口数が減るのだ。

 普段は饒舌過ぎるくらいお喋りなくせに、怒ると黙る。

 そしてそう言う時、『デューク・オブ・ヨーク』は信じられないくらいに強い。

 

 

(とは、言え)

 

 

 それではたして、あの『コスモス』にどこまで対応できるものだろうか。

 『アンソン』が固唾を呑んで見守る中で、『デューク・オブ・ヨーク』は『コスモス』に接触した。

 

 

「あれぇ、1隻で良いのかい? 最近わかったんだけど、僕けっこう強いみたいだよ?」

「――――1隻?」

 

 

 『コスモス』からかけられた言葉に、『デューク・オブ・ヨーク』は首を傾げて見せた。

 端麗な顔に薄い笑みを張り付けて、彼女は言った。

 

 

「もし本当にあたしが1隻に()()()()()()、あんた、言う程たいしたもんじゃないよ」

「……? 何のことかな?」

「すぐにわかる。嫌でも、すぐに――ね」

 

 

 力ある者同士の間で生じる独特の緊張感が、場に満ちていく。

 不思議と、海も凪いだような気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そうした海上の様子は、水面下に伝わっていた。

 もちろん通信が出来ているわけでは無いので、正確な意思疎通は出来ない。

 つまり、航路をどう取れば良いかの情報が無いと言うことだ。

 

 

「『アドミラル・グラーフ・シュペー』達も、それは良くわかっている」

 

 

 イ401の発令所は、すでに照明が落とされていた。

 僅かなディスプレイの明かりだけが、クルー達の顔を照らしていた。

 そして、艦の外からの断続的な爆発音が聞こえてくる。

 イ401――イオナは、静と共にそれらを一つ一つ聴音していた。

 

 

 『アドミラル・グラーフ・シュペー』達も、愚かでは無い。

 イ401側とのコンタクトが難しいことをきちんと見越していて、攻撃をあえて衝撃の大きい砲撃にしているのだ。

 その攻撃音を基に、イ号艦隊の航路を()()しているのである。

 

 

「他の戦闘音と混ざっているので、聴音が難しいですけどね」

「そこは、ウチの優秀なソナー手を信じるさ」

「あはは……こう言う時だけそんなこと言うんですから、艦長は」

 

 

 苦笑して、しかし悪い気分はしない。

 そんな様子で、静はヘッドホンに手を添えた。

 実際、今はソナー手が重要になる時間帯だ。

 ここで『アドミラル・グラーフ・シュペー』達の()()を見逃すことがあれば、致命的だ。

 

 

「それにしても、複雑な気分だな」

「ええ、複雑ですが……しかし、味方になれば心強く感じますね」

 

 

 ()()()達との戦いにおいては、海上よりも海中の方が危険だ。

 紀沙達イ404を襲った怪物のことも、イオナを通して聞いている。

 だが今に限っては、それほど心配しなくても良くなっていた。

 何故ならば、イ401を始めとするイ号艦隊は()達に守られているからだ。

 

 

「ゾルダン・スタークと『U-2501』。まさか奴らと共闘する日が来るとは思わなかった」

 

 

 『U-2501』の特殊潜航艇『ゼーフント』、無数の小型艇がイ401を守っている。

 イ401に群がる海中の()()()は、『ゼーフント』の魚雷網によって阻まれていた。

 かつては敵として相対した『U-2501』だ、その強さと厄介さは群像も良く知るところだった。

 それが今、自分達を守っている。

 

 

「こう言うのも、因縁と言うのかな」

 

 

 そうだとすれば、どこか皮肉に思える。

 あるいは因縁とは、常に皮肉なものと言えるのかもしれない。

 群像と、家族の間がそうであるように。

 ――――群像は、最大戦速を指示した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 命じる側は「最大戦速」と一言で言えば終わるだろうが、やる側からすればたまったものでは無い。

 数時間前に蒔絵が訴えたことと同じことを、いおりは群像に対して思っていた。

 あるいは、機関長と艦長の関係は大概そんなものなのかもしれなかった。

 そこまで思い至れば、諦めもつくと――いや、諦めて良い話では無かった。

 とは言え、である。

 

 

「ああ、良いですよ良いですよ! どんどんブン回しなさいよってね!」

 

 

 イ401のエンジンはまさにフル稼働中で、至る所で熱を孕んだ蒸気が噴き出していた。

 いおりも防護服に身を包んでおり、必要性があるかどうかはともかく、周囲でいおりの作業を手伝っているちびイオナ達も防護服を着込んでいる。

 それだけ、機関室の環境が悪いと言うことだ。

 

 

 補給や整備に心配があるイ401にとっては、出来る限り機関をセーブして運用した方が良い。

 だからいおりとしては最大戦速はご法度なのだが、そうも言っていられない状況もあるとわかっている。

 エンジンを守って艦が沈む、そんなことになっては本末転倒だからだ。

 いざと言う時、艦長の無茶を聞くのが機関長の仕事だった。

 それは、幼い頃に()()()()()()()()

 

 

「……こんな時にそんなことを思い出すなんて、業腹だわ」

 

 

 不機嫌そうな、あるいは懐かしそうな。

 一瞬だけそんな色を浮かべて、いおりは工具を握り直した。

 イ401の機関は何があっても止めない、そう踏ん張るために。

 

 

「ちょっと、何を物思いに耽ってるわけ!?」

 

 

 ()()()も頑張っているかなぁ、と、思っていると、蒔絵がプリプリとした様子で怒鳴った。

 それに形ばかりの謝罪をして、あおいは手元の端末に目を落とした。

 そこに映し出されているイ404のエンジンデータは、まぁ、()()()()()であった。

 最大戦速でエンジンを噴かしている以上、色々な数値が高くなるのは当然だった。

 イ401の方も似たようなものだろうと、そう思っていたのだ。

 

 

「このために何時間も停めて貰ったんだから、やっぱり駄目でしたなんて言えないわよ!」

 

 

 まぁそれにしても、機関長のように喋ることだ。

 怖いもの知らずな年齢だからか――デザインチャイルドに年齢は無意味とは言え――不思議と、不遜には思えなかった。

 意外と、蒔絵は政治家にでも向いているのかもしれない。

 あの静菜ですら、素直に言うことを聞いているくらいだ。

 

 

「もう少しだからね、いおりちゃん……」

 

 

 ぽつりと呟いて、あおいはデータ入力に戻った。

 イ404のエンジンが試されるのは、むしろこれからなのだから。

 機関室の戦いは、まだ始まったばかりだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ号艦隊、『ハシラジマ』に突入。

 日が昇り切らない未明に、それは行われた。

 合図は、北側外延部の()()()への攻撃だ。

 『U-2501』の『ゼーフント』に周囲を守られながら、()()()の包囲網に喰い込んでいく。

 

 

「1番2番、侵蝕弾頭魚雷発射! 続いて3番4番に装填!」

「あいよ! 1番2番、魚雷発射ァ!」

 

 

 梓の威勢の良い声が頼もしい。

 イ404の発令所は俄かに騒々しくなっている、外はすでに()()()()()だ。

 2隻の『ゼーフント』がイ404に合わせて魚雷を発射、補給を受けるべく離脱していく、続いて別の2隻がイ404の護衛に就いた。

 これを頼もしい味方と考えるべきか、当てにすべきでは無いと考えるべきか。

 

 

「恋さん、他の艦の位置は?」

「本艦を先頭に単縦陣。本艦の真後ろに『イ15』、さらに後方に『白鯨』級3隻。最後尾にイ401及び『ヒュウガ』コントロールの砲艦群です」

 

 

 イ号艦隊の総力だった。

 この総力を槍のように連ねて、()()()の包囲網を外側から破って『ハシラジマ』まで到達する。

 それが、作戦の全てだった。

 『ハシラジマ』に着いた後のことは、『コンゴウ』の管轄である。

 

 

「……ッ」

 

 

 その時だった、微かな頭痛を感じた。

 これは、クリミアやロリアンで感じたものと同じだ。

 ああ、と、ここに来て紀沙は理解した。

 自分達が今から向かう先は、()()()()場所なのだ。

 

 

 嗚呼、それにしても。

 冬馬等は聴音に没頭していて、似たようなことを感じているのかもしれない。

 ただ()()は、自分にしか感じられないことだろう。

 いや、一人だけ例外がいるにはいる、スミノだ。

 

 

「何かな、艦長殿」

 

 

 などとわざとらしく聞いてくるのは、いつものことだ。

 何でも無いと言葉にするのも鬱陶しく、視線を外すだけで答えにした。

 だが、スミノは無視できても頭痛は無視できない。

 そしてこの頭痛は、徐々にだが確実に強くなってくるのだ。

 想像してみてほしい、()()()の黒い怪物達がどのように()()のか。

 

 

「五月蠅いんだよ……」

 

 

 耳元で数多の猛獣が唸り声を上げているような、そんな状態。

 たまらず、紀沙はポツリと呟くように。

 

 

「叫んでばかりの、ケダモノが」

 

 

 そう、言った。

 ケダモノ、そう、黒い怪物(こいつら)はケダモノに過ぎない。

 こんなものに構ってはいられない。

 こんなものに、と、思った時だった。

 

 

 不意に、紀沙の意識が何者かに()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 兄の群像は、何よりも対話が必要だと説く。

 自分はまるで対話などしない性格のくせに、霧や他の人外に対しては遠慮呵責無く踏み込んで行く。

 けれど、それは互いが他人なのだと言う認識の裏返しでもある。

 相手は自分では無いから、本当の意味では理解できない、だから対話が必要だなどと説くのだ。

 

 

「……あのさぁ」

 

 

 心象風景、とでも言うべきなのか。

 いわゆる「霧の世界」へと意識を飛ばす(ダイブする)時、そこが紀沙の主導権下にある場合、紀沙の周囲は彼女の良く見知った空間となることが多い。

 例えばイ404の発令所であり、あるいは――北海道の実家だ。

 

 

 軍艦の模型が飾られたショーケース、床にとっ散らかった段ボール……工作の途中なのだろう。

 このリビングは、子供の頃の風景そのままだ。

 つまり紀沙の心が映し出すこの光景は、紀沙自身の()()()()()を示しているとも言える。

 紀沙の眼が、どこに向いているのかも。

 

 

「今、ちょっと忙しいんだけど」

 

 

 紀沙の「霧の世界」に入って来られる者は、侵入者を除けば、3種類いる。

 まずスミノ、彼女は唯一、紀沙の世界に自在に出入りが出来る。

 次に紀沙が招待した者、ただしこれは紀沙が「霧の世界」を認識して以降、一度も無い。

 そして、最後に……()()()()()()者だ。

 

 

「……母さん」

「あら、良いじゃない。今からそんな気を張っていたら疲れちゃうわよ」

「いや、今はほんとそう言う状況じゃないって言うかさ……」

「「そう言う状況」なんてものは、無いのよ。気の持ちようよ」

 

 

 母が、沙保里が、そこにいた。

 鼻歌など歌いつつ、紅茶などを淹れている。

 あの時、欧州の海で消えたはずの母が、あの当時と同じままの姿でそこにいた。

 これは、この2年間で紀沙が最も驚いたことでもある。

 

 

 紀沙のコアを媒介として、()()()()()()()

 『アドミラリティ・コード』の欠片、その膨大な容量だからこそ可能なことだった。

 紀沙の中で、沙保里は()()()()()のだ。

 しかも、沙保里だけでは無い。

 ここには、他にも()()されている者がいる。

 

 

「お茶のお代わりはいかがかしら?」

 

 

 紅茶のポットを軽く掲げて、にっこり笑顔で沙保里が言った。

 

 

「出雲、薫さん?」

 

 

 白い眉と髭で顔中を覆った、か細い老人に向けて。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

どうでも良いことですが、私はNARUT〇だとサスケが好きです。
いやサスケと言うより、あの一族が好きと言うべきか。
いえいえ、他意は無いですよ、ええいやほんと(え)

それでは、また次回。


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Depth099:「答え」

 出雲薫、()()()()()()()の1人である。

 いや、この表現はあくまで人類の視点に立ったもので、本当は始まりでも何でも無いのかもしれない。

 ただ出雲薫らが、彼らの研究が無ければ人類はもっと早く滅んでいた。

 それは、確かだった。

 

 

「ほら、せっかく会えたんだから。何か聞きたいことは無いの?」

 

 

 それにしても、この母である。

 どうして、久しぶりに会った父親(祖父)()の間を取り持つ母親()みたいな態度なのだ。

 いや、まぁ、確かに親戚には当たる、それは間違いない。

 ただ今の今まで面識は無いし、相手はもはや紀沙の『コード』に刻まれたデータのような存在だ。

 まぁ、それは沙保里もだが……。

 

 

「……キミにとって……」

 

 

 そんなことを考えていると、意外なことに出雲薫の方から話しかけてきた。

 これは、紀沙にとっても予想外のことだった。

 だからこそ、「ただのデータ」と切って捨てられないところがあるのだ。

 

 

「キミにとって、人とは、人類とは何だろうか」

 

 

 これだ。

 長く生きたせいなのか、あるいは研究者の(さが)なのか知らないが、「どう生きるべきなのか」的な問答をしたがる。

 典型的な()()()()()老人だ。

 北も若干その()があるが、出雲薫のそれはどこか浮世離れしているので、仙人の説法のように聞こえてしまうのである。

 

 

「…………私にとっては」

 

 

 その後しばらく沈黙が続いて、他に話すことも無いのだろうと感じて、やむなく応じた。

 母の視線も、要因の1つではあった。

 子供の頃から、沙保里の視線に逆らえた試しが無い。

 

 

「私にとっては、私にとっての人類は……私の周りにいる人達だけです」

 

 

 人は、世界を認識できない。

 これは霧と全く異なる点で、人間はその特性上、自分の見聞きしたものしか知覚できない。

 故に人の「世界」は、「視界」とほとんど同義なのだ。

 そしてそれは、「人間とは何か」と言う問いにも適用される。

 人にとって、人類とは自分の視界に入る――つまり、身近な人間達でしか無い。

 

 

「なるほど、では」

 

 

 そして出雲薫が次に聞くだろうことも、紀沙には予測できたいた。

 毎度のことではある。

 自分の()()を期待している相手は、同じことを聞く。

 霧を。

 

 

「では、キミの周りにいない人間についてはどう思うかな」

 

 

 どう思うか……うん?

 思っていたのと違う言葉に、紀沙は顔を上げた。

 出雲薫の老いた顔は、ピクリとも動いていなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 先程も指摘したが、人間にとっての「世界」とは、自分が見聞きした範囲に過ぎない。

 だが、もちろん、世界は目に見える範囲だけでは無い。

 世界は、自分が思っている以上に広いのだから。

 

 

「キミはもう、それを肌で感じているはずだ」

「…………」

 

 

 紀沙は、否定はしなかった。

 『アドミラリティ・コード』の過半――それも、最も純度の高いヨハネスとグレーテルの『コード』を――を得ている紀沙の感覚は、すでに人類よりも霧に近い。

 だから、紀沙の知覚できる「世界」の範囲は常人のそれとは比べ物にならない。

 ()()()()()()など、存在しない程に。

 

 

「出雲薫さん」

 

 

 初めて、紀沙は自分から問うた。

 

 

「貴方はどうして、ナノマテリアルの研究を始めたんですか?」

「……私は、友の研究を引き継いだに過ぎない」

 

 

 元々はヨハネス・ガウス、さらに遡ればその父エトムントが始めた研究だった。

 ヨハネスとグレーテルが消失してからは、出雲薫が研究を引き継いだ。

 引き継いだと言っても、出雲薫には研究を発展させることは出来なかった。

 まして、次代に引き継ぐことも出来なかった。

 

 

 だが彼が遺した研究が、巡り巡って今の紀沙を形作った。

 あるいは『コード』を取り込んだ紀沙こそが、彼の――彼らの後継者であると言えるのかもしれない。

 そんな出雲薫に、紀沙は頷いた。

 

 

「私もです」

 

 

 前の世代が培ったものを、次の世代に引き継がせる。

 そんな、()()()()()()()

 紀沙の役目は、それを取り戻すこと。

 ()()()()()()()()()、次の世代に引き渡すことだ。

 

 

「失ったものは、取り戻せない」

 

 

 出雲薫の声音に、諭すような色が生まれた。

 紀沙は頷いた。

 

 

「失ったものは、取り戻せません」

 

 

 紀沙は、沙保里を見た。

 沙保里も紀沙を見つめた。

 母の目に、悲壮なものは何も無かった、

 

 

「得るはずだったものを、渡すことは出来ます」

「ではどうする、このナノマテリアルに覆われてしまった世界を」

 

 

 紀沙の()()も、同じだ。

 同じはず、だ。

 

 

「今、行われている戦いの果てに、キミは何を望む」

「私は……」

「キミは、どのような世界を望む?」

「私が、望む世界は」

 

 

 紀沙は、答えた。

 その答えを聞いた時、沙保里はそっとポットにお湯を注ぎ。

 出雲薫は、瞑目したのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人類とは何なのか。

 その問いは、北にとっても難しいことだった。

 地表から離れてホバリング状態に入ったヘリの中、その声は不思議と良く通った。

 

 

『オ前達ハ、何ナノダ』

 

 

 「宇宙服の女」は、北と向かい合う形でヘリの座席に座っていた。

 2人の間には、楓の収納袋(ボディバック)が横たえられている。

 楓を挟んで、2人は向かい合っていた。

 

 

『出雲薫ハ言ッタ、人類ハイツカ学ブト』

 

 

 「宇宙服の女」は、数年間だけだが人類の世界を見つめていた。

 そこで見えていたのは、貧困と戦争に喘ぐ多くの人々だった。

 歴史と言う記録を覗いてみれば、霧がいなくとも、人類はそればかりだ。

 とても、出雲薫の言うような「学ぶ」存在には見えなかった。

 

 

 まぁ、だからと言って「宇宙服の女」は己の役目を違えるつもりは無かった。

 彼女はあくまでも、地球に警告を伝えるために存在している。

 人類のことを眺めていたのは、単なる暇潰しに近い。

 最も暇潰しと言う感覚も、「宇宙服の女」には無いのだが。

 それはともかくとして、彼女の疑問は1つだった。

 

 

『人類ハ、イツ学ブ?』

 

 

 なかなか、北にとっても耳の痛い話だった。

 特に彼は軍人出身の政治家であって、「宇宙服の女」の言うところの「学び」とは真逆の立ち位置にいる人間とも言えた。

 ()()()()()()()のだと言う現実を、嫌でも目にする立場の人間なのだ。

 

 

 宗教家は言う、人間は()()()「その日」を迎えると。

 神によるものか救世主によるものか、あるいは他の何かか、それはそれぞれだが、最終的に言っていることは同じだ。

 人類の進歩の先に、()()()、今の世界を超越した理想郷に辿り着くのだと。

 だが、その()()()()()なのかは誰にもわからない。

 

 

「そうだな。私も人類はいつか学び、わかり合える日が来ると信じている」

『何ヲ根拠ニ?』

「根拠……? はは、そうだな。そんなものは無いが……」

 

 

 「その日」が()()なのかは、誰にもわからない。

 そんな日は来ないと、鼻で笑ってしまう人間もいる。

 だがそれでも北は、いや人は、()()()を数千年以上も語り継いできた。

 何故か? 決まっている、()()()()()()()

 

 

 家族と他愛無い会話をする時、友人と馬鹿なことで盛り上がる時……。

 自分以外の他人と、通じ合えた時。

 そんなささやかな、僅かな()()()の片鱗を、感じる時。

 人は、その()()()を信じてみたいと思ってしまうのだ。

 

 

「だから私も、出雲薫氏と同じことを言おう。人類はきっと、()()()学ぶと」

 

 

 そんな()()()を目にするためにも。

 人類は、人類と霧は、こんなところで負けるわけにはいかないのだ。

 北の言葉に、「宇宙服の女」はただ、『ソウカ』と頷いたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『アカシ』は、『イセ』と共に『ハシラジマ』の奥にいた。

 本来ならどちらも外の戦局に関わる仕事をしたいと考えているのだが、そうも言っていられない。

 何しろ彼らは、この作戦の肝となる部分を準備しているのだから。

 

 

「やっぱり、どう頑張っても2隻分しか用意できないね」

「まぁ、それは最初の計算でそうなっていたわけでしょう?」

「そりゃあね。でも、元々コイツは(ふね)みたいな大質量を送還できるようには設計されていないんだから、仕方ないよ」

 

 

 『ハシラジマ』は人類が軌道エレベーターとして建設したものを霧が接収し、改修を施したものだ。

 総旗艦『ヤマト』の数少ない直接命令の1つではあったが、多くの霧は「どうしてこんなものを?」と言う認識だった。

 しかしその命令が実際に活用する段階になってくると、先見の明があったと言うべきなのか。

 

 

 見た目は、直立した塔に鉄道の軌道(レール)を敷いたように見える。

 ただ古い鉄道のように歯車(ラック)は必要とせず、摩擦の力で昇降することになる。

 人類は未だにその動力問題を解決できていなかったが、霧の技術を導入することで解決した。

 人類との和解が成立すれば、人類と共にここを拠点に宇宙に進出することもあるのかもしれない。

 その時だった、エレベーター・ルームの片隅で爆発が起こった。

 

 

「何だっ……って、『チョウカイ』!? 何で壁をブチ抜いて来たのさっ!?」

 

 

 西洋風の鎧姿のメンタルモデルが、多少の瓦礫と共に転がり込んできた。

 瓦礫や破片は自分で重力制御したのか、『アカシ』達の方まで飛んでくることは無かった。

 そして良く見れば、『チョウカイ』は何者かと揉み合っていた。

 馬乗りになって来ていた相手を、蹴り飛ばして距離を取らせた。

 相手は、身体に金色の光彩を放っていた。

 

 

「えっと、あいつ……『ボイジャー』! またあいつか!」

 

 

 『アカシ』が憤慨している間に、『イセ』が動いていた。

 ()()()のメンタルモデルに対抗するには大戦艦級を複数当てると言うのは、もはや霧の中での基本戦術となっていた。

 今この場では『イセ』だけが大戦艦級だ、だから彼女が率先して対処に当たるべきと言えた。

 実際、その通りにした。

 

 

「――――!?」

 

 

 ガロン、と、『イセ』の装身具の鈴が音を立てた。

 まるで、『イセ』の動揺を表したかのように。

 駆け出した直後、メンタルモデルに異変を感じて、『イセ』は視線を下に下げた。

 唇から、まるで血のように、()()()()()()()()()()()

 

 

「『イセ』!」

 

 

 危ない!

 『アカシ』の声、視線が上がる、しかしメンタルモデルの身体が動かない。

 次の瞬間、『イセ』の身体は『ボイジャー2号』によって床に叩きつけられていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧のメンタルモデルは、陸上でもある程度の活動が可能である。

 これは人間サイズのメンタルモデルがあればこその物で、つまりは本来の活動場所では無い。

 よって陸上ではある程度、能力が制限されてしまう傾向にある。

 そしてそれは、<騎士団>にも当て嵌まる。

 

 

 霧とは逆に、<騎士団>はやはり陸上で本領を発揮できる。

 海上では「戦車」は十分に戦えない。

 もちろんメンタルモデルを有する彼らは、戦車の常識では測れない。

 しかし、そうは言っても限界はある。

 

 

「ちょま、『チャーフィー』! こんな狭いとこで2両も走れないでしょー」

「だって僕もやりーたーいー!」

 

 

 いくら大戦艦(ガングート)の甲板とは言え、それでも所詮は艦船の甲板に過ぎない。

 戦車が2両も顕現していれば、手狭にもなろうと言うものだった。

 実際、主であるはずの『ガングート』は『ペトロパブロフスク』を抱えて主砲の上に避難しなければならなかった。

 しかし、それだけの価値はあったかもしれない。

 

 

「なるほど、()()()にとって<騎士団>はまさに天敵かもしれないな」

 

 

 騎士団の本体は、言わずと知れた戦車である。

 艦船が本体である霧との決定的な違いは、超重量の割に小回りが利く言うことだった。

 人間サイズの霧のメンタルモデルでは出来ない立ち回りが可能と言うことで、簡単に言うと、突撃(チャージ)が出来ると言うことだ。

 要するに、数十トンの車体でぶつかることが出来るのだ。

 

 

 いかな()()()と言えども、それだけの重量の物体に衝突されればひとたまりも無い。

 特に重量級の『シャーマン・ジャンボ』の体当たりは、『コロンビア』の華奢な身体を吹っ飛ばすには十分な威力を持っていた。

 しかもナノマテリアルの構成を常に変化させて、『コロンビア』側からの干渉を巧妙に防いでいる。

 

 

「ああっ、壊しちゃった。おねえさん、ごめんねー!」

 

 

 まぁ、甲板の上を戦車が走り回れば多少は破損もする。

 そこは必要な犠牲と感受するにしても、悩ましいところは、援護が難しいと言うことだ。

 例えばここで主砲でも撃とうものなら、自身の艦体が吹き飛ぶし、何より『シャーマン・ジャンボ』達を巻き込むことになる。

 それに、『ガングート』達もダメージが残っていて……。

 

 

「……『ペトロパブロフスク』、戦時だ」

「わかってるわよ」

 

 

 隣の『ペトロパブロフスク』……妹の頭に、そっと手を置いた。

 彼女が何を考えているのか、何を複雑に想っているのか、『ガングート』には良く理解できた。

 だからこその、行為だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()<()b()r()>()<()b()r()>()<()b()r()>() () ()() () ()() () ()()<()b()r()>()<()b()r()>()<()b()r()>() ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――相手に対して、どのような戦術を採るべきか。

 『コスモス』と戦う者がまず最初にぶつかる課題だが、大抵の者は遠距離戦に持ち込もうとするだろう。

 何しろ相手のリーチは手足の長さに過ぎない、届かない位置(ロングレンジ)から攻撃を加えるのが正解だと誰もが思うだろう。

 

 

「…………あれ?」

 

 

 きょとん、とした顔で、『コスモス』は首を傾げた。

 彼は『ダンケルク』の甲板にいて、右手を伸ばしていた。

 伸ばした右手は、目の前に立っている相手の胸元に触れている。

 不思議そうな顔で、さわさわとまさぐるようにしている。

 

 

 一方、触れられている相手は『デューク・オブ・ヨーク』だった。

 相も変わらず挑発的な女ディーラー姿で、『コスモス』の前に立っている。

 『コスモス』に()()()()()()()

 しかし、()()()()()

 

 

「ちょっと」

「うん?」

 

 

 『デューク・オブ・ヨーク』が声をかける。

 『コスモス』は、やはり不思議そうな顔で彼女を見た。

 

 

「あたしに触んな」

 

 

 ()()()

 『デューク・オブ・ヨーク』の手が、『コスモス』の手首を()()()

 喰われることなく、そう出来ている。

 そして『コスモス』が「お?」と声を上げた時、彼の身体は逆さまになっていた。

 手首を掴んだ『デューク・オブ・ヨーク』が、『コスモス』を持ち上げたからだ。

 

 

「ラアッッ!!」

 

 

 咆哮。

 そのまま、『ダンケルク』の甲板に叩きつけた。

 『ダンケルク』の艦体が、数メートル海面下に沈む程の一撃だった。

 『コスモス』にとっては初めての衝撃だったろうそれに、彼は確かに、目を白黒させて混乱していた。

 

 

「姉さん、何て無茶を……」

 

 

 そして『コスモス』にはわかっていない理屈を、『アンソン』は理解していた。

 通常、『コスモス』と対峙するなら遠距離戦が正解だ。

 けして近付けず、アウトレンジから一方的に攻撃すべきなのだ。

 しかし『デューク・オブ・ヨーク』はそうしなかった、誰もが遠距離戦をと考える中で……。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 

 遠距離戦で攻撃しても、その攻撃を()()()()()意味が無いし、見失うリスクがある。

 だから、近距離戦(ショートレンジ)なのだ。

 この方法でしか、『コスモス』を仕留められない。

 そしてそのために、『デューク・オブ・ヨーク』はかなりリスクの高い方法をとっている。

 

 

「一瞬でも、遅れれば」

 

 

 近距離戦である以上、『デューク・オブ・ヨーク』も避けようが無い。

 姉のとっている()()は極めて精緻なコントロールが必要で、ほんの僅かな演算の遅れが命取りになる。

 すなわち、死だ。

 本来霧には存在しない概念に、『アンソン』は、ごくりと喉を鳴らしたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……ッ! ……長ッ! 艦長!!」

 

 

 大声で呼ばれて、紀沙は意識を現実の世界へと引き戻された。

 霧の世界に行ってると、現実側でぼうっとしてしまうのは難点だった。

 救いがあるとすれば、霧の世界に何時間沈んでいようが、現実側では数秒しか経っていないことが多いと言うことだった。

 一瞬の思考、それを形にしたのが「霧の世界」と言うことなのかもしれない。

 

 

「……すみません。ぼんやりしてました」

「おいおい頼むぜ、これからなんだからよ」

「すみません」

 

 

 気のせいで無ければ、以前よりも霧の世界へ引かれる時間が長くなってきている。

 無理もない、紀沙の『アドミラリティ・コード』が強くなっていることの裏返しだ。

 『ヤマト』の()()が重かったと、そう解釈するべきだろう。

 意識をはっきりさせるために頭を振って、顔を上げた。

 

 

 戦略モニターを見れば、イ404の状況が良くわかった。

 イ404は今、北側から敵中に飛び込んでいる状況だった。

 鋭利な槍が、柔らかい土の壁を突き崩そうとしている。

 だが、ここであまり時間を使うのは得策では無かった。

 

 

「最大火力で、一気に突破を図ります」

「エネルギーの消費が激しくなりますが……」

 

 

 構わなかった。

 どの道、『ハシラジマ』にさえ辿り着けば補給は受けられる。

 それならば、ここで出し惜しみしていても意味が無いと言える。

 むしろ時間をロスしてしまうことの方が、総じて言えば戦線を支えている霧の負担になってしまう。

 別に霧の心配をするつもりは無いが、まぁ、()()()()()

 

 

「スミノ」

 

 

 どちらにせよ、これが()()におけるイ404の最後の蛮勇になる。

 だから、紀沙はスミノに声をかけた。

 ふわりと、当たり前のように隣にスミノの気配を感じた。

 何かな、艦長殿――囁き声が、耳朶(じだ)を打った。

 

 

「一気に決める」

「了解だよ、艦長殿」

 

 

 イ404は、もう以前のイ404では無い。

 紀沙もまた、以前の紀沙では無い。

 望んだわけでは無いが、託された力もある。

 それを見せつけるには、良い頃合いだった。

 

 

「……艦隊に打電! 『突撃する』!」

 

 

 嗚呼、やはり良い。

 突撃こそ、戦場の華。

 イ404と言う霧の艦艇の、原点とも言える攻勢だった。

 ……なんて、思ってみたりして。

 

 

「『我に続け』!」

 

 

 両の瞳を白く輝かせて、紀沙は正面を見据えた。

 目指すものは、正面にしか無いのだから。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 灰色の閃光が、戦場を駆け抜けた。

 『ハシラジマ』北側の海域に、突如として巨大なナノマテリアル反応が生まれたのだ。

 それは、霧の大戦艦級すら遥かに上回る大きな反応だった。

 そしてこの海域に、そんな反応を出せる艦は1隻のみだ。

 

 

「これは……」

「我々が援護するまでも無いな」

 

 

 イ号艦隊の進撃を支援していた『サウスダコタ』と『アドミラル・グラーフ・シュペー』は、その攻撃の鋭さに脱帽した様子だった。

 閃光のように雷跡が走り、雷鳴のように砲撃が鳴り響く。

 『ハシラジマ』北側の黒い怪物達が、爆発四散して消えていく。

 

 

 そして、2隻の間から1隻の艦が海上へと飛び出してきた。

 それは灰色の追加装甲に覆われた潜水艦で、全ての装甲を合わせると『サウスダコタ』よりも巨艦になると言う存在だった。

 独特の智の紋章(イデアクレスト)が、灰色の追加装甲全面を覆っている。

 

 

()()、斉射3連!」

 

 

 イ404――超戦艦『紀伊』の発令所に、紀沙の声が響いた。

 やや不慣れな手つきで梓が砲撃システムを操作し、3基ある主砲がそれぞれの方向を向いた。

 そして、3連射。

 灰色のエネルギーが放出されて、射線上にいた黒い怪物達を貫いていく。

 数瞬遅れて、怪物達が爆発した。

 

 

「このまま最大戦速、『ハシラジマ』に向かいます! 機関室!」

『保たせます!』

 

 

 行ける、紀沙は思った。

 このまま真っ直ぐに『ハシラジマ』を目指す。

 この程度の壁であれば、突破することは難しくない。

 

 

 黒い波を突き破って、ぐんぐんと『ハシラジマ』に迫る。

 それに引っ張られる形で、イ号艦隊も進んでいく。

 この調子で進めば、もう程なく『ハシラジマ』の管制域に入る。

 黒い怪物達程度では、今の『紀伊』を止めることが出来ないのは明白だった。

 

 

「これなら」

 

 

 と、北側を総覧する『レキシントン』も含めて、誰もが思った。

 これならば何の問題も無くイ号艦隊は『ハシラジマ』に到達できるだろうと、そう考えた。

 しかしその時、誰が最初にその()に気付いたのだろう。

 例えば『レキシントン』は、自身の甲板を覆う大きな影に気が付いた。

 

 

「…………?」

 

 

 何か? そう思い、上を見た。

 そして、そのまま凍り付いた。

 『レキシントン』だけでは無く、その場にいる誰もがそうだった。

 上を見上げて、そして思い出したのだ。

 

 

 自分達の敵が、()()()なのだと言うことに。

 そして()()()は、この地球(ほし)を喰らう程に……大きな。

 巨大な、存在であったと言うことを。

 天空を、視界を、覆い尽くさんばかりの巨大な触腕が宇宙(ソラ)から落ちて来るのを見て、嫌でも思い出すことになった。

 

 

「まじかよ……」

 

 

 誰かが、吐き出すように呟いた。

 アメリカやユーラシアを蹂躙している黒い触腕、それをさらに一回り大きくしたものが降りてくる。

 止めようが無い。

 あれはこの海域全てを、そう、軌道エレベーターである『ハシラジマ』をへし折るには十分な程に。

 ――――巨大、だった。




最後までお読み頂き有難うございます。

某4番さん「希望を与えられ、それを奪われる。その瞬間こそ人間は一番美しい顔をする」

みたいな展開が大好きです(え)

そんなわけで、次回も絶望したいです(え)
それでは、また来週。


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Depth100:「真っ直ぐに」

 

 繰り返しになるが、霧と人類の作戦には『ハシラジマ』が必要不可欠だ。

 他に艦船クラスの物体を宇宙(ソラ)に上げられる手段は存在しない。

 あの「空の御柱」だけが、世界の希望なのだ。

 だからそれを折られると言うことは、まさに希望をへし折られると言うことに他ならなかった。

 

 

「おいおい、それってやべえんじゃねえのか!?」

「それ以前に、『ハシラジマ』に向かっている我々も危険です」

 

 

 イ404――今は『紀伊』だが――の発令所も、俄かにザワめいていた。

 何しろ、彼女達は今まさに『ハシラジマ』に向かっているのである。

 と言うか、もう幾何(いくばく)もしない内に到着すると言う状況だ。

 つまり、空から降下してくる黒い触腕に飛び込んでいく形だ。

 

 

 有体に言えば、危険地帯に自ら向かっている。

 どんな自殺志願者だ、と言う話だ。

 であれば回避に全力をかければ良いと言う意見もあろうが、問題は、逃げる先が無いと言うことだった。

 彼女達はすでに戦場の奥深くにまで入り込んでおり、今さら逃げ場など存在しなかったのだ。

 退くも地獄、そして進も地獄だ。

 

 

「どうするんだい!?」

 

 

 判断は、もちろん艦長であり提督である紀沙がしなければならない。

 まぁ、しかしそうは言っても、対応は不可能では無かった。

 確かに触腕を消滅させることは難しいが、要は『ハシラジマ』からズラせば良いのだ。

 『紀伊』の超重力砲であれば、そのくらいならば、理屈の上は可能だ。

 それだけの威力が、『紀伊』の超重力砲にはある。

 

 

「ただ、足は止めざるを得ないね」

 

 

 問題があった。

 今スミノが言ったように、停止しなければならないと言うことだ。

 ただでさえ超重力砲の砲撃は演算が難しい、霧の大戦艦も多くは航行しながら超重力砲は撃たない。

 重力子を扱うため、移動しながらの砲撃が危険過ぎるせいだ。

 そしてこの混戦の中で停止することは、極めて危険な状況に『紀伊』を置くことになる。

 

 

(……狙いは、私達の足止め……!?)

 

 

 ()()()に戦略の概念は無い、はずだ、食事に戦略も何も無い。

 だがこの状況は、紀沙達の足を止めるには十分なシチュエーションだ。

 どうするか、と、紀沙が判断しようとした、その時だった。

 

 

『――――そのまま進め、イ404!』

 

 

 何だ、と思う前に。

 太平洋の戦場の端で、天を引き裂く光の柱が立ち昇った。

 逆十字の形をしたそれを、紀沙は見たことがあった。

 ()()()――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()は、柄にもなく怒っていた。

 ()()()()ずっと、スコットランド沖の水底で眠りについていた。

 コアを自閉モードにして霧からも姿を隠して、そのまま沈んでいるつもりだった。

 ところが、今回の騒動である。

 

 

 ()()()は地上だけで無く、海底にまでその触手を伸ばしてくる。

 自分自身だけならばともかく、彼女にとって海底は、2人の()()の眠る墓標でもあった。

 それは彼女にとっては、不可侵の聖域。

 聖域に手を出す者を、()()はけして許さない。

 

 

「さっさと行って、あの醜いケダモノを消して来い」

 

 

 虹色の光がくすむ銀糸の髪、血の色の瞳に白磁の肌、黒いレースのゴシック・ドレス。

 2年以上ぶりに形成しただろうそのメンタルモデルは、かつてと寸分狂わず美しい。

 しかし今は表情に怒りの色が見えて、それを表すかのように、やはり久しぶりに形成した艦体からは白銀の輝きが溢れていた。

 それは光の逆十字となって、天を引き裂いていく。

 

 

「私達の墓標に、あんなものは要らない」

 

 

 彼女はかつて、リエル=『クイーン・エリザベス』と呼ばれた霧の大戦艦だ。

 その彼女が、振り上げた右手を振り下ろした。

 すると、天を割いていた光の逆十字が、まるで処刑人が振り下ろす斧のように動いた。

 天から振り下ろされた断罪の斧が、『ハシラジマ』を狙う黒い触腕を直撃する。

 

 

「……ッ」

 

 

 流石に。

 流石に重く、リエル=『クイーン・エリザベス』の腕が途中で止まった。

 切り落とすつもりで放った超重力砲の一撃だが、触腕の肉は思ったよりも分厚く、そしてただの肉では無いようだった。

 

 

 ならば、と、リエル=『クイーン・エリザベス』も紀沙と同じ判断をする。

 止まった手を水平に寝かせて、撫でるように横へと動かす。

 すると超重力砲の光が()()()、触腕の下へと射線が動いた。

 まるで、外科手術か何かのようだった。

 それによって、僅かに触腕の降下速度が遅くなった。

 

 

「これは……?」

「熱源、多数接近」

 

 

 気付いたのは、海域強襲制圧艦の『シドニー』と『メルボルン』の2隻だった。

 リエル=『クイーン・エリザベス』の光で降下速度が落ちたところへ、さらに多数の何かが近づいてきていたのだ。

 それも空に、それも多数が。

 そしてそれらは、雲間を引き裂きながら飛来した。

 

 

「……戦闘機!?」

 

 

 リエル=『クイーン・エリザベス』のさらに後方から飛来したそれは、星条旗の描かれた戦闘機群。

 アメリカの航空隊だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 太陽の光が水平線の向こうからやって来る。

 アメリカの戦闘機の編隊が現れたのは、そんな時間帯だった。

 もちろん、大陸からここまで自力で飛んできたわけでは無い。

 

 

「まったく、まさか人類の航空機を飛ばすことになるとは」

 

 

 『フューリアス』を始めとする、<緋色の艦隊>所属の海域強襲制圧艦だった。

 いや、今では空母の名を取り戻すべきかもしれない。

 彼女達は、<大海戦>以後20年を経て、自分達の本来の役割に戻ったのだ。

 連れてきたのは、アメリカ西海岸基地に所属するアメリカの空母艦載機だ。

 

 

 翔像がエリザベス大統領と直接折衝して、戦力を派遣してもらったのである。

 アメリカとしては、自国防衛に全ての戦力を割きたいところだったろう。

 だが翔像はそれでは問題の根本的な解決にならないと説き、エリザベス大統領はそれを受け入れた。

 懸命な判断だと、『フューリアス』は思った。

 人間にもなかなか合理的な判断が出来る者がいると、見直したぐらいである。

 

 

「全機発艦を確認。さぁ、我々も突っ込むぞ。『ハシラジマ』防衛艦隊を援護する」

 

 

 『フューリアス』の航空甲板から、最後の戦闘機が飛び立った。

 格納庫に満載した航空機が消えて、艦体が随分と軽くなったように感じる。

 甲板の上には、手旗を持ったちび『フューリアス』達がわらわらと駆け回っていた。

 後は、『ハシラジマ』艦隊を援護しつつ、攻撃を終えた艦載機を迎えに行くだけだ。

 

 

「さぁ、人間にばかり良い顔をさせておくことは無いぞ!」

 

 

 『ハシラジマ』へ向かいながら、『フューリアス』達の甲板に新たな艦載機が上がってきた。

 エレベータで上がってくるそれはアメリカの戦闘機では無く、<大海戦>時代、『フューリアス』達が運用していた()()()()()である。

 いくら()()()に目立った対空兵装が無いと言っても、人類の航空機だけで対抗するのは厳しいだろう。

 

 

「まさか続きだ。()()()、人類と共に飛ぶことになるとは!」

 

 

 それは霧にとっても、もちろん人類にとっても意外な作戦だった。

 霧と人類の航空機が共に飛んだのは、それこそ<大海戦>以来だ。

 ただし前回は、敵同士だった。

 今は味方として、人類と霧は同じ空を飛ぶ。

 世界を守ると言う共通の利益のために、かつての恩讐を越えて。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

『レッド1、ミサイル発射(フォックス・ツー)!』

 

 

 国防総省(ペンタゴン)は、太平洋に送った自国の戦闘機が放った最初の一発、その結果を、固唾を呑んで見守っていた。

 アメリカが開発した戦闘機搭載型の巡航ミサイル――振動弾頭を備えた――の、最初の一発目だ。

 霧やそれに類する相手に対して使うのは、これが初めてだ。

 

 

 エリザベス大統領を始め、緊張を孕んだ表情でモニターを睨んでいる。

 触腕を表す黒い塊に、ミサイルを表す爪楊枝のような小さな点が進んでいく。

 編隊の先頭の戦闘機が放ったそれが、対空兵装に晒されること無く突き進む。

 あと1000…800…500…そして。

 

 

『め……命中! 命中!』

 

 

 わっ、と、その場が沸いた。

 立ち上がる者までいて、それだけ興奮の度合いが高かったのだ。

 霧との遭遇以来、初めて人類がまともに攻撃を成功させたのである。

 興奮するのも、仕方が無かった。

 

 

『攻撃! 全機攻撃せよ!』

 

 

 管制官の声も、どこか興奮していた。

 それを皮切りに、総攻撃が始まった。

 3隻の海域強襲制圧艦に分乗した約70機の米軍機が、黒い触腕に次々にミサイルを浴びせかける。

 そこに、霧の艦載機も加わってきた。

 

 

「いいぞ……いいぞ!」

 

 

 誰かの声が聞こえた。

 今はそれを咎める者もいない。

 霧との共同戦線に、違和感を感じない程に。

 

 

(これで、良い……きっと)

 

 

 エリザベス大統領は、そう思った。

 国民やメディアが今回の自分の判断をどのように判断するのかは、わからない。

 それでも、どんなに批判を浴びようとも、エリザベス大統領は今回の判断が正しかったのだと信じられる。

 人と霧が共に戦っていると言うその事実だけで、大きな成果なのだから。

 

 

 きっと、千早翔像も同じ考えなのだろう。

 彼もまた、今回の戦いを人と霧の歴史の1ページとするつもりなのだ。

 ただし彼は自分と違って、最前線にいる。

 そこは役割の違いとわかってはいるが、エリザベス大統領にとってはもどかしいところだった。

 

 

「ん……?」

 

 

 そんなことを考えていた時だ。

 エリザベス大統領は、ふと違和感を覚えた。

 もちろん人と霧の混合編隊に、では無い。

 戦略モニターが映す黒い触腕の高度、その数値が……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 思ったよりも降下速度が落ちない。

 リエル=『クイーン・エリザベス』はその事実に眉を顰めた。

 彼女自身は今も超重力砲を放って触腕を支えているが、それも長続きはしない。

 支えている間に、航空隊のミサイル攻撃で少しずつ位置をズラしていたのだ。

 

 

 だが位置がズレていく速度よりも、触腕の降下速度の方が速い。

 要するに、『ハシラジマ』から触腕の降下範囲をズラすのが間に合わないのだ。

 それは、リエル=『クイーン・エリザベス』としては面白くない。

 と、その時、霧の通信ネットワークから指示が飛んできた。

 

 

『航空隊。残弾一斉射の後、現空域から一時離脱せよ』

「『コンゴウ』か」

 

 

 『ハシラジマ』の『コンゴウ』だった。

 空中で、航空隊が次々に巡航ミサイルを発射している。

 ()()()に防空システムが無いので撃ち放題だが、やはり威力不足は否めなかった。

 霧の航空隊は、念のためミサイルを撃ち尽くした人類の航空機を護衛している。

 

 

『そして、旗艦クラスの大戦艦は超重力砲の発射シークエンスに以降せよ』

「……! 陣形を崩すのか?」

『照準データはこちらから送る、急げ!』

 

 

 狙いはわかる。

 要は『リシュリュー』や『ラミリーズ』を始めとする複数隻――それも、大戦艦クラス以上の――の超重力砲で、()()()と言うのだろう。

 だがそのためには、旗艦クラスの大戦艦達が超重力砲に集中する必要がある。

 その間に、海上の()()()に防衛線を突破されては元も子も無いが。

 

 

『大丈夫だ、その間は我々が支えよう』

 

 

 む、と、リエル=『クイーン・エリザベス』は自分の脇を抜けていく艦隊に気付いた。

 一個艦隊、数はそう多くは無いが、その艦体は皆紅かった。

 彼女達は<緋色の艦隊>、指揮している者はもちろん。

 

 

「『ムサシ』……いや、千早翔像か」

 

 

 翔像(ムサシ)と<緋色の艦隊>が、戦場に突入してきた。

 特に南側の――『ダンケルク』艦隊の抜けた穴が大きい――()()()の側面に突っかかって、包囲網に歪みを与えた。

 翔像は、『ムサシ』の甲板に立っていた。

 バイザーに、空を覆うグロテスクな触腕が写っていた。

 

 

「良し!」

「そう言うことなら……!」

 

 

 霧の旗艦達は戦線を一時後退して、『コンゴウ』から送られてきた照準データを基に、超重力砲の発射シークエンスに入っていった。

 これだけの数の超重力砲が一度に放たれることは、そうそう無い。

 何しろ1隻だけでも重力場に深刻な影響を与えかねない兵器だ、複数を同時に使えばそれだけ負担が大きくなる。

 

 

(嗚呼)

 

 

 リエル=『クイーン・エリザベス』は思う。

 ()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう思ったが、思うことに意味は無かった。

 

 

「さぁ、行け……イ404!」

 

 

 超重力砲の光が、戦場を埋め尽くした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 行け、と言われるまでも無く、紀沙はひた駆けていた。

 空を覆う黒い触腕を気にも留めず、黒い怪物や触手を掻い潜り、時に反撃する。

 エネルギーのほとんどを水力に回しているため、反撃は最小限だった。

 加速の衝撃で、小波(さざなみ)ですら鋼鉄にぶつかったかのような音を立てている。

 

 

「『白鯨Ⅳ』が遅れています!」

「右舷回頭! 陣形を再変更します!」

 

 

 もちろん、ただただ前進しているだけでは無い。

 イ401や他の『白鯨』との位置関係を維持するため、細かな航路調整を行っていた。

 ()()()の密度の濃い部分は避ける必要があるため、()()()こともある。

 前に進めば良いと言うものでは無い。

 

 

 右舷に船首を向けて曲げて、後ろ――『白鯨Ⅳ』達がいる後方――へと『紀伊』の主砲の砲口を向ける。

 撃て、紀沙の声と共に轟音が鳴り響く。

 砲撃は正確に海面を割り、レーザーが海面下を抉る。

 それは『白鯨Ⅳ』の位置にまで届き、『白鯨Ⅳ』を覆おうとしていた()()()の膜を吹き飛ばした。

 

 

「9時の方向!」

「回……」

 

 

 そうしていると、自分達の方が疎かになってくる。

 海面が爆ぜて、()()()()と歪んだ()()()が『紀伊』の艦首に取り付こうとしてくる。

 もはや人型ですら無く、ヘドロと言うか、不定形の何かと化していた。

 おそらく、人型が戦闘に向かないとでも判断したのだろう。

 今はそれが効果的で、無意味に鬱陶しい。 

 

 

「構わず行って、404!」

 

 

 回避が難しい、そんなタイミングだったが、飛び込んでくる艦がいた。

 北米艦隊の大戦艦『ミズーリ』、艦体はすでに満身創痍だが、メンタルモデルの士気は衰えていなかった。

 『紀伊』に襲い掛かった()()()に自ら突っ込み、艦首主砲で豪快に吹き飛ばした。

 ()()()の肉片が、雨のように降り注ぐ。

 

 

「ついて来て、先導する! 『ラドフォード』、『フレッシャー』は左右を!」

 

 

 それをかわすように滑りこんできた航空甲板を備えた巨大艦が、『紀伊』のエスコートを始めた。

 『サラトガ』だ、これも北米艦隊所属の霧の艦艇である。

 駆逐隊が、イ号艦隊の脇を固めてくれる。

 『ハシラジマ』まで、『紀伊』を護衛するつもりなのは明白だった。

 

 

 ちょうど、その時だった。

 『リシュリュー』達の放った超重力砲が、頭上の触腕に向けて放たれたのは。

 行け、404。

 そんな霧の()()が、今の紀沙にはネットワークを通して伝わってくる。

 

 

「…………」

 

 

 紀沙は、正面を見た。

 真っ直ぐに。

 まっすぐに。

 海の向こうに、天を貫く御柱が見えた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 千早紀沙の戸惑いが、『コンゴウ』に手に取るように良くわかった。

 自身もまた超重力砲の発射光の中にいながら、『コンゴウ』が思ったのは戦局のことでは無く、紀沙のことだった。

 翔像や群像のことでも、『ヤマト』や『アドミラリティ・コード』のことでも無く、『コンゴウ』は紀沙を思った。

 

 

 『コンゴウ』の眼から見て、千早紀沙と言う少女は言うなれば人類至上主義者だった。

 霧を憎むあまり、霧の善意を否定し人の悪意を肯定するところがあった。

 逆に、硫黄島戦までの『コンゴウ』は霧至上主義者――と言うより、人類に関心が無かった――であったと、今なら思う。

 そんな『コンゴウ』だからこそ、紀沙の気持ちを推し量れるような気がした。

 

 

「まさか、人間と共に戦うとはな」

「え?」

「いいや、何でも無い」

 

 

 『ヒエイ』にそう応じて、『コンゴウ』は天空を睨んだ。

 今にも『ハシラジマ』に降下しようと言う触腕を、睨み上げる。

 あの醜悪な触腕が、霧が何年もかけて改修した『ハシラジマ』を砕こうと言う。

 それはひどく、不愉快なことだった。

 

 

(エネルギーチャージ……80……90……100……)

 

 

 リエル=『クイーン・エリザベス』、そして『コンゴウ』。

 『リシュリュー』、『サウスダコタ』、『ラミリーズ』、『プリンス・オブ・ウェールズ』、『ウォースパイト』、『アドミラル・グラーフ・シュペー』――旗艦クラス8隻が放つ超重力砲だ。

 おそらく、超重力砲の威力としては史上最大のものとなる。

 

 

「――――――――発射」

 

 

 『コンゴウ』の両の瞳が、激しく白く明滅した。

 レンズが共鳴し、重力場で形成した砲身から、膨大な光が放たれた。

 それは戦場の各所から放たれた他の光と共に、天空の黒い触腕を撃つ。

 計算された着弾点に、霧の旗艦達は正確に命中させた。

 

 

 それでも、重い。

 降下速度はそのままパワーにもなる、質量もある、弾力性もだ。

 僅かずつ、ズレていく、間に合わないかもしれない。

 『ハシラジマ』に落ちる、いや。

 

 

「――――どけぇっ!」

 

 

 一喝、と言う程でも無い。

 ただ人間の真似をしてみただけだ。

 人間の真似、ふ、と口元に笑みが浮かんだ。

 この『コンゴウ』が人間の真似など、随分と焼きが回ったものだ。

 

 

「なぁ、『イセ』よ」

 

 

 黒い触腕が、()()()に折れた。

 横合いから殴られて、溜まりかねて腰を引いたようにも見える。

 全てを動かすことは出来なかったが、降下地点はズラすことに成功した。

 最大の力で、最小の結果を勝ち取ると言う非効率がそこにはあった。

 だが、それで戦略目的は達成することが出来た。

 

 

「……『イセ』?」

 

 

 触腕が落ちてくる。

 『ハシラジマ』の側に降下してくる以上、衝撃と津波から『ハシラジマ』を守る必要がある。

 その備えと艦隊の退避を手配しつつ、イ号艦隊の迎え入れの準備を進めて。

 『コンゴウ』は、応答を返さない『イセ』に訝しみを覚えた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『イセ』は、立てずにいた。

 

 

『――――『イセ』、『アカシ』。イ号艦隊が来る。『ハシラジマ』を起動させろ』

 

 

 『コンゴウ』からの通信はもちろん聞こえてはいたが、立ち上がることが出来なかった。

 通信に応えようとしたのか、あるいは他に目的があったのかは定かでは無いが、もごもごと唇を動かした。

 しかしそこから漏れたのは声では無く、ごぼ、と言う嫌な音だった。

 倒れた『イセ』の口元には、粘り気のある金色の液体が水溜まりを作っていた。

 

 

 これは、何だ?

 『イセ』のデータベースには存在しないものだ。

 だが何が起こっているのかはわかっている。

 コアからの命令が、メンタルモデルの肉体にまで届かない。

 

 

「……! ……!?」

 

 

 コアを、咄嗟に守った。

 その判断は間違いでは無かったようで、こうして()()を保っている。

 逆に言えば、それだけだ。

 それ以上のことは何も出来ない状態だと言うのに、()()()()()()()()()()()()

 

 

『どうした『イセ』、『アカシ』。応答せよ』

 

 

 そんな『コンゴウ』の通信の最中に、『イセ』の視界にある者が落ちてきた。

 『アカシ』だった。

 『イセ』の援護が無いままに『ボイジャー2号』に挑み、敗退したのである。

 ぴくりとも動かず、『コンゴウ』に救援を求めることも出来ない様子だった。

 

 

「これか……」

 

 

 そして『ボイジャー2号』はと言えば、軌道エレベーターへと手を伸ばしていた。

 不味い、と『イセ』は思った。

 『ボイジャー2号』は軌道エレベーターを破壊するつもりだ。

 それは、霧と人類の作戦の失敗を意味する。

 

 

「――――ふ……ッ!」

 

 

 起き上がろうとしたが、果たせなかった。

 自身を支えようとした腕には力が入らず、床に顔を打ち付ける結果にしかならなかった。

 これは、『ボイジャー2号』の攻撃によるものか。

 しかし、攻撃を受けた覚えなど無かった。

 

 

 ああ、よせ、やめろと、頭の中で思っても意味は無かった。

 『ボイジャー2号』の手が、軌道エレベーターに伸びていく。

 凄まじい振動が、その場を襲った。

 ぐ、と歯噛みしたが、視界の中の軌道エレベーターは健在だった。

 何だと思った時、水溜まりに波紋が生まれた。

 

 

(これは……下から?)

 

 

 振動は『ボイジャー2号』の方では無く、下から来ていた。

 しかもそれはだんだん近づいてきていて、徐々にだが、何か掘り進めているような音が聞こえてきた。

 そう、まるでドリルか何かで掘っているような……と、言うより、掘っている!?

 

 

「とぉぉおおぉうっ!!」

 

 

 眼鏡に白衣のメンタルモデルが、右腕に巨大なドリルを装備した状態で床を砕いて飛び出してきた。

 ナノマテリアルで補強した『ハシラジマ』の床を、外からここまで掘り進んで来たのか。

 どうしてそんなことをしたのかはわからないが、相手のを顔を見て、『イセ』は納得した。

 もし身体が動くのであれば、飛び起きて、抱きしめてキスしていただろう。

 

 

 何故ならば、そこにいたのは彼女の最愛の妹であったからだ。

 元霧の大戦艦、今はイ401の砲艦のオーナーをしている。

 『ヒュウガ』である。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

リエル=『クイーン・エリザベス』再登場。

来週はリアルの都合で投稿をお休みします、すみません。
次回は再来週になります。

それでは、また次回。


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Depth101:「激闘の果て」

 実を言うと、『ヒュウガ』はイ号艦隊――特にイ401――にとって、屋台骨のような存在だ。

 硫黄島の基地に代表されるように、イ401の後方支援のすべてを担っていると言って良い。

 より言えば、『ヒュウガ』がいなければイ401は自在に動くことが出来ないのだ。

 彼女の大戦艦クラスの演算力と強大な能力が、それを可能にしている。

 

 

 だから、『ヒュウガ』は艦隊運動の最中でも単独行動を取ることが多かった。

 今がまさにそうで、ひとり艦隊から先行して『ハシラジマ』に入った。

 『ハシラジマ』の壁を掘り進んできたのは、『コンゴウ』の超重力砲の影響を避けた結果だ。

 それでなくとも前線と『ハシラジマ』を行ったり来たりする霧の艦艇が多く、ごった返していて、『ヒュウガ』の砲艦を受け入れるスペースも無かったのである。

 

 

「あら……あら、あら」

 

 

 そして、『ヒュウガ』は『イセ』が苦手だった。

 姉妹艦、姉ではあるが、愛情表現が過剰なのだ。

 何しろ「ああ『ヒュウガ』ちゃん『ヒュウガ』ちゃん! 可愛い可愛い『ヒュウガ』ちゃん!」だ、もっと自分を見習って淑女らしくしてほしいものだ。

 ――――そう言った時、イオナが何とも言えない冷たい目で見てきたが、理由はわからない。

 

 

「あなた、随分と……随分ねぇ」

 

 

 『ボイジャー2号』を見つめて、そんなことを言った。

 『ヒュウガ』らしく無く、支離滅裂。

 だがそれだけ、『イセ』が倒れていると言う事態は、『ヒュウガ』自身が考えている以上に彼女に衝撃を与えたのである。

 『ヒュウガ』自身も、驚く程に。

 

 

「イオナ姉様の受け入れ準備をしに来てみれば、何とまぁ」

 

 

 驚く程に、()()()()()

 正直姉のことは苦手だったが、それとこれとは話が別なのだと理解した。

 『ヒュウガ』はイ401とイ404の()()()()をサポートするために先行したのだが、そのためにも、邪魔者は排除する必要がある。

 『ヒュウガ』が、そう判断した。

 

 

「あなた」

 

 

 『ヒュウガ』の身体から、ナノマテリアルの粒子が漏れ始める。

 それは彼女の周りで何かを形作ろうと浮遊して、キラキラと輝いている。

 童話の1シーンのようにも見えるが、もちろん、『ヒュウガ』がこれからしようとしていることは童話のように優しいことでは無い。

 

 

「あなた、どんな風に解体されるのがお好みかしら?」

 

 

 相手を解体(バラバラに)してやると言う、優しさとは対極に位置することだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 賢者は同じ結論に達する、と言うべきなのだろうか。

 あるいは艦体を失って久しい『ヒュウガ』にとって、それ以外の選択肢が無かったと言うべきなのか。

 『ヒュウガ』が対()()()用に選択した戦術は、近接戦闘だった。

 身を低くした『ヒュウガ』が、目にも止まらぬ速さで跳躍した。

 

 

 『ボイジャー2号』の側からすると、意図を図りかねると言ったところだろう。

 だが、そうしている間にも『ヒュウガ』は近付いてきている。

 まずは対処すべき。

 とりあえず『ボイジャー2号』は、『ヒュウガ』に向けて手を伸ばすことにした。

 

 

「……!」

 

 

 その腕が、何かに掴まれた。

 白衣のどこに仕込んでいたのか、『ヒュウガ』の白衣の下から機械の腕が伸びていた。

 それが、『ボイジャー2号』の手を掴んでいた。

 もう片方の手を伸ばすと、それも別の機械の腕に挟まれた。

 見れば、『ヒュウガ』の背中からは機械の腕が幾本も伸びていた。

 

 

 そして、『ヒュウガ』は身を低くしたまま両腕を後ろに下げていた。

 掌を返し、力を溜めている。

 それはわかっていたが、『ヒュウガ』の白衣の下から伸びた幾本もの腕が『ボイジャー2号』の身体を固定していた。

 

 

「――――ハァッ!!」

 

 

 次の瞬間、『ヒュウガ』の両掌が『ボイジャー2号』の腹部に叩き付けられた。

 細腕からは想像できない程に重い音が、響いた。

 ギシギシと嫌な音が離れていても聞こえてきて、衝撃の程を教えてくれる。

 『ボイジャー2号』の身体がくの字に折れて、吹き飛――――()()()()()

 

 

「ここを壊すわけにはいかないでしょ?」

 

 

 吹き飛ばしても、機械の腕は『ボイジャー2号』の身体から離れなかった。

 腕を、身体を掴んだまま軋む音を立てている。

 そして引かれた反動のままに、『ヒュウガ』の下へ帰ってくる。

 そこへ、再び溜めた両掌が撃ち込まれるのだ。

 

 

 それを一度、二度、と繰り返した。

 いや、三度、四度、五度、六度、七度……さらに繰り返した。

 そして八度目にして、機械の腕の方が限界を迎えた。

 全力で撃ち込んだ『ヒュウガ』の威力に耐え切れず、関節部から引き千切られてしまったのだ。

 今度こそ吹き飛び、床の上を転がり跳ねて『ボイジャー2号』は壁に激突した。

 

 

「あー、こっちの手の方がイカれそうだわ」

 

 

 ビリビリとした痺れを感じたのか、掌を振る。

 実際、八度も撃っておいて手応えをほとんど感じなかった。

 流石に高揚していた気分も冷めて、平然と起き上がり始めた『ボイジャー2号』に対して脅威を覚える。

 艦体が無いとは言え、大戦艦級の撃ち込みを八度も受けて目立ったダメージが見えなかった。

 

 

「確かにこれは、とんだ化け物って感じ」

 

 

 どうしたものかと、()()()と相対した霧の誰もが持つ感想を得た時、『ヒュウガ』はふと気が付いた。

 倒れていたはずの『イセ』が、立ち上がっていたことに。

 目元が前髪に隠れて見えないが、まるで代わりのように。

 

 

「……『イセ』姉さま」

 

 

 ガロン、と、鈴の音が鳴った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――霧の時代、『ヒュウガ』は旗艦クラスの大戦艦だった。

 『ナガト』から『ヤマト』へと総旗艦権限が移譲され、霧がメンタルモデルを形成し始めた頃だ。

 イ401と戦って撃沈されるまで、『ヒュウガ』は東洋方面第2巡航艦隊の旗艦だった。

 ちょうど、現在の『コンゴウ』や『ナガト』と同じ立場だ。

 

 

 その頃の『ヒュウガ』は、まだメンタルモデルを形成していなかった。

 『ヤマト』によるメンタルモデルの普及――と言うより、布教?――はまだそれほど進んでいなかったので、必要無いと判断していたのだ。

 それは、姉である『イセ』も同じだった。

 

 

『どうして私が? イセ姉さまが旗艦をやれば良いではないですか』

 

 

 だが、すでに意識のようなものはあった。

 深い海の底から揺蕩(たゆた)うような、ふわふわとした物だが、個々の霧はすでにそうしたものを持ち始めていた。

 コア同士のリンク程に機械的では無く、人間同士の会話程に温かでも無い。

 だが、確かにそれは「会話」だった。

 

 

『ヒュウガちゃんが優秀だから、安心して任せられるのよ~』

 

 

 姉だけあって、そうした進歩は『イセ』の方が早かった。

 性能では互角でも、性質において『イセ』は常に『ヒュウガ』の一歩先を行っていた。

 情報のアップデートはほとんど同時にしているのに、そこは不思議なところだった。

 さらに不思議だったのは、それでもなお『ヒュウガ』に旗艦を任せたことだ。

 

 

『ヒュウガちゃんなら、お姉ちゃんよりきっとずっと上手くやるでしょう?』

 

 

 などと、意味のわからないことを言う始末だった。

 より優秀な艦艇が旗艦になることが、艦隊運用を考える上で最も合理的なはずだ。

 それなのに、実力が一段劣る妹に旗艦を譲ると言うのは、『ヒュウガ』には理解できなかった。

 単にサボりたいだけなのでは無いのかと、そんな風にも思った。

 

 

 そんな良くわからない姉だったが、『ヒュウガ』は別に『イセ』が嫌いでは無かった。

 『イセ』と共に航海する海は、他の艦艇とそうするよりも、楽しかった。

 当時はそんなことを思いもしなかったが、今にして思うと、楽しかったのだと思う。

 多少の苦手意識はあれど。

 結局『イセ』は自分の姉妹艦なのだと、『ヒュウガ』は思っていたのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 他のことは良い。

 嫌われていようが構わない。

 『イセ』が許せなかったのは、妹に戦わせてただ寝ている自分自身だった。

 そんな自分であることを、『イセ』は許せなかった。

 

 

 こんなことを想うのは、メンタルモデルだからだろうか。

 それとも駆逐艦達のように、メンタルモデルを得ていなくても同じだっただろうか。

 同じように、『ヒュウガ』を想っただろうか。

 自慢したくて旗艦に推し、守りたくて呼びかけて。

 こんな風に、『ヒュウガ』の前で見栄を張っただろうか。

 

 

(ああ、立っているだけで辛い)

 

 

 立ち上がったは良いものの、『イセ』には力はほとんど残っていなかった。

 『ボイジャー2号』に、()()()()()()()()

 最初の戦闘では気が付かなかった、遅効性か……あるいは蓄積型。

 一定程度時間が経過すると、対象の力を奪ってしまうのだろう。

 

 

(けれど……!)

 

 

 何が、この身体を駆けさせるのか。

 何が、この手を振り上げさせるのか。

 メンタルモデルを得る前には、そんなことは感じなかっただろう。

 そして『イセ』は、それをけして悪いことだとは思っていなかった。

 

 

 しかし、そんなふらふらな状態で飛び掛かったところで、『ボイジャー2号』が黙って受けてやる義理は無かった。

 ゆっくりとした動作で手を上げて、『イセ』を見つめる。

 それだけで、『イセ』は身体の内側で何かが暴れるのを感じた。

 こみ上げてくるものを、辛うじて堪えた。

 

 

「まあ」

 

 

 ガンッ……と、軽い音が響いた。

 音の主は、『ボイジャー2号』の側頭部だった。

 もっと具体的に言おう。

 西洋風の鎧兜が、『ボイジャー2号』の頭に投げつけられた音だ。

 

 

「まあ、ジャンプするだけで限界なんだけどね」

 

 

 『イセ』は結局、飛び掛かっただけで力尽きてしまった。

 受け身をとることなく、その場に前のめりに倒れ込んでしまう。

 そして『ボイジャー2号』が見たのは、『チョウカイ』の兜を投げた『アカシ』の姿だった。

 『イセ』が欲しかったのは、その一瞬だった。

 

 

(だから、言ったでしょう?)

 

 

 艦体を失った『ヒュウガ』が用意できたのは、一発だけだった。

 自ら掘り進んできた『ハシラジマ』の穴の中で、それは一瞬だけ光沢を放った。

 長大な砲口を覗かせるそれは、大戦艦『ヒュウガ』の()()

 45口径の砲弾が、轟音と共に発射された。

 

 

 先程投げつけられた兜で、はっきりした。

 『ボイジャー2号』には、『コロンビア』や『コスモス』が持っているような、直接触れたものを喰う能力は無い。

 だからこそ、一度は撃退することが出来たのである。

 そして、今。

 

 

(私よりも、『ヒュウガ』ちゃんの方が優秀なんだって)

 

 

 何かが炸裂した音と共に、『ボイジャー2号』の胸部に大きな穴が開いた。

 『ヒュウガ』の主砲弾が直撃し、一瞬、穴を開けたように見えたのだ。

 そして次の瞬間、『ハシラジマ』のエレベーター・ルームで大爆発が起こった。

 その場にいる全員が、爆発に巻き込まれた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()は、『ハシラジマ』全体に伝わった。

 ()()()には、『ボイジャー2号』との途絶と言う形で。

 そして、霧に対しては『イセ』『ヒュウガ』を含む4隻の仲間との途絶と言う形で。

 彼女達は、『ハシラジマ』内部の戦いの結末を知ったのだった。

 

 

「あっれえ~?」

 

 

 『ガングート』甲板上で、『コスモス』が()頓狂(とんきょう)な声を上げた。

 『コスモス』と戦っている『デューク・オブ・ヨーク』達もまた仲間が共有ネットワークから切断されたことに気付いていたが、こちらはあくまでも『コスモス』を睨んでいた。

 何しろこちらは一瞬でも気を抜けば喰われかねないので、非情にも思えるかもしれないが、そちらに気を取られているわけにはいかなかった。

 

 

「『ボイジャー』のやつ、急に黙っちゃった」

「意外ね、仲間のことなんて気にしないと思っていた」

「仲間?」

 

 

 変わらない笑顔を張り付けて、『コスモス』は首を傾げた。

 仲間と言う言葉の意味を、そもそも理解していない。

 そんな様子だった。

 いや、そもそも「感情」と言うものが無いのだ。

 関心のあるなしですら無く、知らないのだ。

 

 

 ただ、それについては『デューク・オブ・ヨーク』も()()()のことは言えなかった。

 彼女自身、「感情」なるものを理解しているわけでは無い。

 ひとつわかっていることは、霧の中に他の霧を意識する風潮があると言うことだ。

 姉妹艦に対してその傾向は強く、長い時間を共に過ごした霧に対しても同じだ。

 まるで、人間のようだ。

 

 

「いや、驚いただけ」

「でしょうね」

 

 

 食事に来て、運悪く怪我をしたような感覚だろう。

 そしてそここそが、()()()に付け入る隙を与えてくれる。

 

 

「そろそろ慣れてきたし、今度はこっちから攻めさせて貰う」

 

 

 『デューク・オブ・ヨーク』が、両手を上げた。

 それは別に降参の意思を示しているわけでは無く、両掌を自分の身体から離す意味でそうしたのだ。

 両掌の表面あたりが、アスファルトに反射された熱で景色が歪むように、揺らいでいた。

 力場とでも言うべきものが掌に形成されており、それが『デューク・オブ・ヨーク』の無傷の理由でもあった。

 

 

「いつまでも、食事の気分でいられると思うなよ」

 

 

 戦いは、佳境に入ろうとしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『コロンビア』と『シャーマン・ジャンボ』達との戦闘も、佳境に入りつつあった。

 両者は未だ『ダンケルク』の甲板上で戦闘を繰り広げていて、むしろ『ダンケルク』の艦体がほとんど一方的に損壊していっていると言う状況だった。

 ただ佳境に入ったとは言っても、状況が好転しているわけでは無かった。

 

 

「あー、もー! また端っこに行った!」

 

 

 『チャーフィー』が憤慨している。

 と言うのも、『コロンビア』が<騎士団>との艦上戦闘に対処し始めていたからだ。

 具体的には、『チャーフィー』の言う通り()()()だ。

 『コロンビア』は甲板の端、特に手すりの上など狭い足場の場所に移動するようになったのだ。

 

 

 簡単な話だ。

 『シャーマン・ジャンボ』ら戦車の可動範囲は甲板まで、甲板を飛び出して走ることは出来ない。

 だから、『コロンビア』は艦の端へ端へと移動する。

 戦車で近付くには、ギリギリのところで減速しなければならないからだ。

 

 

「何とも、見た目程にクレイジーじゃないみたいだねぇ」

 

 

 『シャーマン・ジャンボ』の呟きは、ほとんど溜息だった。

 これは、『シャーマン・ジャンボ』にとっても予想外だった。

 彼の考えていた――と言うより、()()していた――()()()は、もっと本能で動くタイプの敵だった。

 だが、実際は違った。

 

 

 ()()()もまた、戦術を学ぶのだ。

 対処する方法を考案し、実施し、修正するだけの能力を持っている。

 そして、あの霧にも無い特殊な能力の数々。

 これは当初考えていたよりも手強い相手だと、『シャーマン・ジャンボ』は認識せざるを得なかった。

 

 

「ああ、ヤダヤダ。手強いのとは出来る限り戦り合いたくないって……」

 

 

 もし可能であれば、交戦そのものを避けただろう。

 しかし<騎士団>として参戦している以上、そうも言っていられない。

 とにかく慎重に、むやみに突っ込まないことが大事だ。

 『シャーマン・ジャンボ』としては、そう判断していたのだが……。

 

 

「あー、もう! ちょこまかすんなよっ!!」

(でっすよねぇーっちゅう話だよ!)

 

 

 癇癪(かんしゃく)――まさに、見た目通り子供のように――を起こした『チャーフィー』が、まさに今、むやみに『コロンビア』に向けて突っ込んでいった。

 半ば予想できていたことなので、『シャーマン・ジャンボ』は溜息は吐いても驚きはしなかった。

 だから、『シャーマン・ジャンボ』も()()()()突撃をかけることにした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『シャーマン・ジャンボ』がやったことは、酷く単純だった。

 まず『コロンビア』に突っ込んだ『チャーフィー』が、甲板ぎりぎりと踏み止まる形になる。

 これは『コロンビア』がひらりと回避したためで、そのまま進めば甲板の外に飛び出していただろう。

 そして、それこそが『コロンビア』の狙いだった。

 

 

「哀しいわ……あなたもいなくなる」

 

 

 『チャーフィー』の直上、『コロンビア』が跳ぶ。

 彼女はそのまま落下して『チャーフィー』に肉薄するだろう、そして『チャーフィー』はそれを回避することは出来ない。

 すでに『コロンビア』の身体からは、蒸気が噴き出し始めていた。

 

 

「うわ……、あ?」

 

 

 ガン、と、鈍い金属音が響いた。

 『シャーマン・ジャンボ』が、『チャーフィー』を押し出したのだ。

 結果として『チャーフィー』は「おじさん!?」と叫びながら甲板から落ちていった、が、代わりに『コロンビア』は『シャーマン・ジャンボ』に着地することになった。

 次の瞬間、『コロンビア』が触れた個所から高熱で溶かされ始めた。

 

 

 不快な音を立てて、『シャーマン・ジャンボ』の展望塔(キューポラ)が一瞬で溶けた。

 それは『シャーマン・ジャンボ』の本体に少なからぬダメージを与えるが、どうしようも無かった。

 このダメージは、甘んじて受けるしかない。

 大事なのは、()()に『コロンビア』留めることだ。

 

 

「アアアアァァァッッ!!」

「っても、これはおじさんがキツいってえ話だよ……!」

 

 

 装甲を抜かれて――車体の3分の1がほとんど即座に溶かされてしまった――直接『コロンビア』に掴まれそうになりながら、『シャーマン・ジャンボ』は相手の顔を見つめて笑みを浮かべた。

 不気味な音が聞こえる。

 酷く重厚なその音は、やや離れたところから聞こえてきた。

 

 

 『コロンビア』にも聞こえたのだろう、ふと顔を上げた。

 そして、彼女は見た。

 305ミリ口径の砲口が複数、重々しい金属音を立てながら照準を微調整していた。

 狙いは当然、『コロンビア』である。

 

 

「いやあ、まぁ。柄じゃないのはわかってるんだけどね」

 

 

 くん、と、逃げようとした刹那、ナノマテリアルに焦がれる腕を『シャーマン・ジャンボ』が掴んでいた。

 メンタルモデルの表紙が焼け(ただ)れる感触に、『シャーマン・ジャンボ』も硬直する。

 それでも、強気の笑みは消さなかった。

 

 

「逃がさないぞ、っと」

 

 

 それは大戦艦『ガングート』の主砲。

 砲塔の上に、『ガングート』と『ペトロパブロフスク』の姉妹がいた。

 彼女達は『コロンビア』を見つめて、言った。

 

 

「「くたばれ」」

 

 

 次の瞬間、大戦艦は自分の艦体の一部ごと吹き飛ばす勢いで、主砲を発射した。

 霧と<騎士団>の、史上初の共同戦果だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 こう言っては何だが、『白鯨Ⅲ』のクルーは百戦錬磨の最精鋭だ。

 真瑠璃はそう思っている。

 発令所で見ているだけでもそれはわかる、各所からの報告に澱みが無いのだ。

 ここで言う澱みとは、流暢とかスムーズとかそう言う意味では無い。

 

 

 クルーのほとんどは、2年前に太平洋を渡ったメンバーだ。

 霧の領域を抜けた経験があるだけに、加えてイ401やイ404との共闘があるだけに、()()がある。

 敵も味方も自分達を圧倒している状況で、自分達が何をすべきなのか。

 それを理解しているが故の、澱みの無い行動が取れるのだ。

 

 

「サウンドクラスターは……やるだけ無駄、ですかね」

「そうですね。むしろ霧の艦艇の行動を阻害してしまう可能性があります」

 

 

 ただ、霧と共闘しているからこその悩みもあった。

 例えばサウンドクラスター魚雷、異なる256の小型スピーカーを散布して敵レーダーの目を晦ますための装備だが、味方が多数いる海域では使用しにくい。

 よほどの緊急事態で無い限りは、使わない方が良いだろう。

 味方の目を潰すことになるためだ。

 

 

「それより、イ404から送られてくる指定航路から外れないようにしましょう。それさえ守っていれば、比較的安全に進めるはずです」

 

 

 これも、2年前の航海を経験していればこそだ。

 艦隊が旗艦の指定航路を守ると言うのは、艦隊運動の観点からは非常に重要だ。

 1隻でも勝手に動く艦があれば、艦隊全体を危険に陥らせることになる。

 ただ、これには旗艦――もっと言えば、この場合は司令官たる紀沙――への信頼が必要になる。

 

 

 その点でも、『白鯨Ⅲ』にはアドバンテージがある。

 2年前の航海を共にした記憶が、『白鯨Ⅲ』のクルーの結束を強固に保っていた。

 戦場が戦場だけに、完全に安全なルートと言うものは存在しない。

 それは仕方が無い。

 だが、少なくとも紀沙は『白鯨』を見捨てたりはしない、その信頼はあった。

 

 

「か、艦長!」

 

 

 ただ、真瑠璃にもどうしようも無いことはあった。

 他人に、他人への信頼を強制することは出来ないと言うことだ。

 

 

「『白鯨Ⅳ』からの応答がありません。航路を外れているものと思われます!」

 

 

 『白鯨Ⅲ』のクルーには、超常の戦場を駆ける度胸とイ404への信頼感が備わっている。

 だが他の『白鯨』2隻は、それがあるとは言い難かった。

 だからこそ、最後まで信じると言うことが出来なかった。

 せめて自分がいれば、と言うのは、聊か驕りが過ぎると言うものだろうか。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 結論から言えば、真瑠璃の予測は少し外れていた。

 ただそれは彼女の洞察力が無いと言うより、発想したことが無い、と言う類の理由からそうなっただけだった。

 つまり、真瑠璃には思い付きもしなかったのだ。

 

 

 まさか、このタイミングで()()()()()

 

 

 その意味では、真瑠璃は『白鯨Ⅳ』艦長の井上大佐のことも誤解していた。

 確かに彼は霧を快くは思っていないし、紀沙に心酔しているわけでも無い。

 年少の、それも霧の力を扱う小娘の下で働くことに嫌気すら覚えてもいる。

 だが、上の命令であれば己を律して従うのが軍人だった。

 井上大佐は、軍人だった。

 

 

「すみません大佐、これ以上は付き合いきれません」

 

 

 しかし、全ての者が軍人に徹しきれるわけでは無かった。

 反乱、反逆、命令不服従、何でも良いが、『白鯨Ⅳ』の発令所は一部の将校が率いる十数人によって占拠されていた。

 後は通信室と、機関室。計画していたわけでは無いが、的確なクーデターだった。

 

 

「大佐、貴方の権限を剥奪します」

「どういう法的根拠でかね?」

「これは緊急避難です」

 

 

 様式美として聞いてみたところ、やはり様式美が返ってきた。

 今、井上大佐に銃を向けているのは、ずっと彼が面倒を見てきた若手将校だった。

 こんなことをする男では無かった。

 恐怖が、彼から正常な判断を奪ったのだ。

 正常――まぁ、わからないでも無かった。

 

 

 イ404の送ってくる指示航路は、余りにも厳しかった。

 だが井上大佐には、それが()()()()()()()()だとわかっていた。

 だからこそ、不満はあっても紀沙の判断に従ったのだ。

 航路は厳しかったが、この最悪の海域でそれでも沈まずに済んでいる、それが紀沙の指示の正しさの証明だ。

 

 

「このまま、現海域より離脱します。よろしいですね?」

 

 

 好きにすれば良かった。

 艦長としての権限を失った井上大佐には、どうすることも出来ない。

 ただ、この後の展開が見えるだけだ。

 戦場全体を見据えて紀沙が出してきた指示航路、それを外れればどうなるか。

 幸いなのは、脱走罪を問われる心配をしなくて良いと言うことだろうか。

 

 

(申し訳ない、北閣下)

 

 

 詫びるのは、かつての上官だった。

 そして次の瞬間には、井上大佐の予測は当たることになる。

 真瑠璃とは違って、言い訳のしようのないほど徹底的に。

 

 

 鈍い衝撃音と共に艦が停止し、瞬く間に発令所内に悲鳴や怒号が満ちた。

 何が起こったのか、井上大佐は聞くまでも無く理解していた。

 ()()()の、黒い怪物に捕まったのだ。

 艦体が軋む、侵蝕が進めばやがてこのまま……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()()()()()

 『白鯨Ⅳ』の異変を、紀沙はすぐに把握していた。

 超戦艦『紀伊』として『アドミラリティ・コード』と繋がっている紀沙の意識は、広い海域に散らばった僚艦の状況を逐一確認することが出来る。

 

 

「6番から8番、振動弾頭魚雷装填!」

 

 

 ナノマテリアル製の振動弾頭魚雷、もはやイ404のお家芸とも言える芸当だ。

 侵蝕弾頭でも良いが、あれだと『白鯨Ⅳ』も巻き添えにしてしまう。

 だが振動弾頭でも、極めて高い精度で撃たなければならない。

 イ404は、自分の意思で大きく航路を逸れていた。

 

 

「梓さん、3地点に照準合わせ!」

「任せな、ぜったい外さないよ!」

 

 

 とは言っても、簡単なことでは無かった。

 高速で移動しながら複数の標的を撃ち抜くと言うことは、それだけのことだ。

 だが水雷長の梓は、それを逡巡もせず是と応じた。

 一方でそれは、イ404自身が無防備になることを意味する。

 

 

 今また実際、イ404を狙って黒い触手が海底から這い出てきている。

 上からは、黒い怪物。

 それら全てを『紀伊』の武装で凌ぎながら、艦の姿勢を維持するのは困難を極めた。

 だが、梓の照準合わせが終わるまでは艦の姿勢を維持しなければならなかった。 

 

 

「6時より魚雷航走音!」

「え!?」

 

 

 恋からの報告に、紀沙は意識を後ろへと向けた。

 すると確かに、魚雷を3本感知した。

 しかしそれはイ404を狙ったものでは無く、イ404を狙う()()()を狙ったものだった。

 侵蝕反応、()()()の黒い身体を歪曲した空間が飲み込んでいった。

 

 

(……イ401!)

 

 

 イ401からの、援護だった。

 それに気づいた紀沙は、艦の姿勢を立て直して、叫んだ。

 

 

「梓さん!」

「合った!」

「6番から8番、発射!」

「了解! 振動弾頭魚雷、発射!」

 

 

 イ404から、3本の振動弾頭魚雷が発射される。

 狙い澄ましたそれは、猛スピードで海中を疾走し、そして『白鯨Ⅳ』を襲っていた黒い触手に直撃した。

 表面の崩壊式を暴かれた()()()の身体が、振動弾頭の衝撃で崩壊していく。

 その崩壊の中、まさに掌から零れ落ちるように、『白鯨Ⅳ』の艦体が抜け出てきた。

 

 

「航路再設定!」

 

 

 そして、これで到達する。

 もう、目と鼻の先だ。

 

 

「――――『ハシラジマ』の管制範囲に突入します! ビーコン確認!」

 

 

 『ハシラジマ』へ。

 イ号艦隊が、滑り込んでいった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 例え話をしよう。

 友人達と食事に来たとして、もし食事中に友人達が消えてしまったら。

 貴方は、どんな顔をするだろうか。

 

 

「あっれぇ~~?」

 

 

 『コスモス』は、困惑していた。

 戦略や戦術の失敗に対する困惑では無く、もっと単純な、自分達の()()が減っていくことに対する困惑だった。

 ()()()が、少しずつ……そして着実に数を減らしているのだ。

 

 

 こんなことは、今までの生であり得ないことだった。

 ()()()は相手の惑星の情報を基に進化を遂げ、常に相手よりも一歩先の力を得て来訪するのが()()()なのだ。

 だからこそ、今までいくつもの銀河が()()()の洪水に成す術なく飲み込まれていったのだ。

 それが、この惑星ではどうしたことだろうか。

 

 

「おかぶっ!」

 

 

 首を傾げた『コスモス』の顔に、『デューク・オブ・ヨーク』の掌底が叩き込まれた。

 やはり、『デューク・オブ・ヨーク』は『コスモス』には喰われない。

 その理由は、『デューク・オブ・ヨーク』の掌を覆うナノマテリアルによる。

 要は表皮にナノマテリアルのガードをかけているわけだが、ここで肝なのは、そのガードが『コスモス』に喰われる前に離れると言うことである。

 

 

「おおおおお……!」

 

 

 肝心な点は、『コスモス』に触れる点を常に変えること。

 そして、削れたガードを超高速で修復すると言うことだ。

 つまり、一撃の時間は極めて短く。

 ひたすら連打、連打、連打――――連打!

 

 

「ラアアアアァァッッ!!」

 

 

 顔を打ち、胴を打ち、首を打ち、脇腹を打ち、顎を打ち。

 『コスモス』は『デューク・オブ・ヨーク』の体捌きにまるで対応できず、人形のように打たれるままである。

 端で見ている『アンソン』からすれば、姉がこのまま勝利する姿しか想像できなかった。

 だから、『アンソン』にはわからなかった。

 

 

 打てば打つ程に、『デューク・オブ・ヨーク』の顔が歪んでいく理由がわからなかった。

 

 

 あんなにも押しているのに。

 こんなにも『コスモス』を押していると言うのに。

 どうしてだ。

 追い詰められているのは、『デューク・オブ・ヨーク』の方に見えた。

 

 

「……ッ、姉さん!」

 

 

 打たれながら、『コスモス』が腕を上げた。

 あれだけ打たれて、何事も無く腕を上げて、手を『デューク・オブ・ヨーク』に向けてくる。

 まさか。

 まさか、あれだけの攻撃を受けてダメージが無いと言うのか。

 

 

「――――ッ!」

 

 

 だが、それでも姉は凄かった。

 身体をコマのように回して『コスモス』の手から逃れると、後ろ手に左手を跳ね上げた。

 掌では無く手刀の先にナノマテリアルのガードを集中させ、そのまま薙いだのだ。

 結果は、『アンソン』の想像を超えたものになった。

 

 

 ――――ぼとり。

 少し離れた位置に、くるくると回りながら、小さな塊が落ちた。

 『コスモス』の左腕だった。

 今の一刹那の中、『デューク・オブ・ヨーク』が切り飛ばしたのだ。

 今度こそ、文句なく、有効なダメージだった。

 

 

「まあ、良いか」

 

 

 だが、何故か『コスモス』の様子は変わらなかった。

 あくまで無感動で。

 あくまで、へらへらと笑っていた。

 

 

「減ったなら、増やせば良いんだから」

 

 

 そして、おぞましいことが起こった。

 甲板の上に落ちた『コスモス』の左腕が、()()()()と歪に蠢いたのだ。

 まるで粘土を捏ね回すように蠢いて、徐々に大きくなっていった。

 それはやがて人間大の形になり……いや、と言うよりも。

 

 

「う……」

 

 

 さしもの『デューク・オブ・ヨーク』も、これには言葉を失った。

 それも、仕方がない。

 何故ならば今、彼女の目の前で信じ難いことが起こったのだから。

 

 

「「さあ、それじゃあそろそろ」」

 

 

 2つ、声は2つ聞こえた。

 全く同じタイミングで発せられた声は、()()()が発していた。

 そして、()()()『コスモス』は言った。

 ()()に増殖した『コスモス』達は、声を揃えて言った。

 

 

 ――――イタダキマス。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

思ったよりも時間がかかっていますが、ハシラジマ編もクライマックスです。
もうちょっと続きます!

それでは、また次回。


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Depth102:「天空の目」

 やむを得なかったとは言え、やり過ぎた感は否めなかった。

 ナノマテリアルで補強しているとは言え、大戦艦級の砲撃は耐え難いものがあっただろう。

 そして実際、耐えられなかった。

 『ハシラジマ』は、そもそも戦闘を想定して設計されていないのだ。

 

 

「ケーブルのいくつかが損傷したね」

 

 

 『アカシ』が、端末を操作してエレベータの様子を確認した。

 エレベーター・ルームは爆発の余韻がまだ残っていて、足元にはまだ白煙がいくらか漂っていた。

 基部は比較的補強がされていたので無事だったが、ただでさえ軌道エレベータは脆い建造物だ。

 軌道エレベータを構成するケーブルの損傷は、宇宙空間への昇降システムにダイレクトに直結する。

 

 

 昇降の段取り自体は特に問題ない――例えば、『コンゴウ』の衛星砲は『ハシラジマ』から資材を上げて構築されたものだ――のだが、エレベータ自体に損傷があると話は別になる。

 何しろ地上から宇宙に人や物を上げようと言うのだ、僅かな狂いも許されない。

 まして、人間を上げるのは霧の側も経験が無いのだから。

 

 

「直せる?」

「調べてみないと何とも言えないよ、こんなもの」

 

 

 だが、時間が無かった。

 オペレーティングは『イセ』と『ヒュウガ』でお釣りが来るとしても、ケーブルと言う物理的な問題はすぐには対処できない。

 ナノマテリアルも、欠乏しつつある。

 繰り返すが、宇宙への昇降作業には僅かな狂いも許されないのだ。

 

 

「でも、やるしかないでしょ。もう時間も無い、『コンゴウ』のGOサインは今にも出るんだから」

 

 

 それでも、時間が無い。

 紀沙と群像は、スミノとイオナは今すぐにでもここに来る。

 だからすぐにでもエレベータを修復し、打ち上げ可能な状態にしておかなければならない。

 そして、『ハシラジマ』の防衛戦線はもう保たない。

 人類軍の航空支援も合って良く持ち堪えているが……。

 

 

「さっき『マミヤ』と『イラコ』から通信が来た。『ハシラジマ』の補給物資が尽きる」

 

 

 ナノマテリアルは、無尽蔵にあるわけでは無い。

 そもそも海流の中に含まれるナノマテリアルを霧のエネルギーとして精製するのは高度な技術が必要で、拠点に貯蔵しておける量にも限りがある。

 まして『ハシラジマ』戦が開始されて、もうどれだけの時間戦い続けているのか。

 補給・補修能力を超えてしまった、そうなっても無理は無かったのだ。

 

 

「私達で何とかするしか無いわ、イオナ姉さま達のためにも」

 

 

 そう言う『ヒュウガ』の目は、強い決意を感じさせた。

 『イセ』が頷き、『アカシ』がやれやれと頭を掻く。

 そして一方で、唯一沈黙していた『チョウカイ』が、がしょん、と鎧を鳴らした。

 彼女の視線の先には、砲撃でさらに口を広げた、『ヒュウガ』が通ってきた穴だった。

 

 

「……?」

 

 

 カツン、カツン……と、小さな音が聞こえた。

 それは足音だった。

 何者かが『ヒュウガ』の穴を通って、こちらへと近付いてきている。

 『チョウカイ』が見つめる中で、その人物は光の下にやってきた。

 その人物に気が付いた時、その場にいる全員がぎょっとした表情を浮かべた。

 

 

「あんたは……!」

 

 

 ()()()()()と、月の紋章(イデアクレスト)()()が揺れていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「来たか」

 

 

 『ハシラジマ』に入港すると、当然の顔をして『コンゴウ』がやって来た。

 傍らに『ヒエイ』を置き、入港してきたイ号艦隊を出迎える。

 別れてからさほど時間は過ぎていないので、再会と言うには早すぎる。

 ただ真瑠璃の目から見ると、やはり威圧感は流石と言わせるものがあった。

 イ15がスミノの背中に隠れようとしているのは、半分脱走艦だからか。

 

 

「早速だが、『ハシラジマ』を起動させる。まずイ401とイ404の艦体のコントロール権限をこちらへ渡してくれ」

「わかった。イオナ、頼む」

「……スミノ」

 

 

 イオナとスミノの艦体は、『ハシラジマ』側に一時預けられる。

 軌道エレベータ――真瑠璃達が見上げると、まさに「天の御柱」とでも言うべき巨大なタワーが遥か彼方まで伸びている――に設置し、()()()()()のだ。

 その時にはもちろん、それぞれのクルーも乗せて、だ。

 

 

 真瑠璃と『白鯨』は、ここまでだ。

 ある意味で人類側の実績作りが目的だったために、その意味では、すでに任務完了と言える。

 ()()()()

 結局、イ401を降りた時と何も変わっていない。

 肝心要のところで降りなければならない、これは真瑠璃の宿命なのかもしれなかった。

 

 

「群像くん。紀沙ちゃん」

 

 

 『コンゴウ』が『イオナ』と『スミノ』と権限コードのやり取りをしているのを待っている間に、真瑠璃は2人に声をかけた。

 思えば、2人とこうして向かい合うのは久しぶりのような気がした。

 そして、真瑠璃はいつも()()()()だと思ってしまう。

 踏み込めない一線を、どうしても感じてしまうのかもしれない。

 

 

「後は、お願いね」

 

 

 だから結局、真瑠璃に言えるのはこれくらいだ。

 もう少し、自分が馬鹿な人間であれば良かった。

 いつも真瑠璃は、自分に対してそう思ってしまう。

 自分がもう少し馬鹿な人間であれば、もっとみっともない真似も出来ただろうに。

 

 

「ああ。そっちも気をつけてな」

 

 

 そして、群像はこう言う男だった。

 真瑠璃も苦笑してしまう。

 地球の未来を背負っているなどと、考えてもいないのだろう。

 彼はきっと、今の状況を楽しんですらいるのかもしれない。

 地球と言う箱庭の外に行く、何とも彼らしいじゃないか。

 

 

「うん、大丈夫だよ。真瑠璃さん」

 

 

 ただ、紀沙には別のものを感じた。

 小さく微笑んで、紀沙は真瑠璃に向かって言った。

 

 

「ぜんぶ、終わらせてくるから」

 

 

 特別、妙なことを言っているわけでは無い。

 だがその言葉を発した時の表情が、真瑠璃の胸中に奇妙なざわめきを残した。

 この落ち着かないざわめきの名前を、真瑠璃は知っている。

 それは、「不安」と言う名前の感情だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 当たり前の話だが、『ハシラジマ』に観光用のルートなどは無い。

 元々が軌道エレベータの施設だ、半分は軍事施設のようなものだ。

 一般の市民は、そもそも足を踏み入れることすら出来ない。

 2050年代に入ってもなお、人類にとって宇宙は遠い存在なのだった。

 

 

「現在、この軌道エレベータは打ち上げシークエンスの最中にある」

 

 

 通路を歩きながら、『コンゴウ』は簡潔に軌道エレベータの設備について説明した。

 内容を理解する必要は無いが、一応知っておけと言うことだろう。

 理屈は簡単で、エレベータに取り付けられたカーゴを()()()()()だけだ。

 より言えば、途中まではエレベータの力で上がり、途中からは地球の自転による遠心力を利用する。

 

 

 軌道高度ごとにステーションがあり、そこは今は霧の拠点になっている。

 衛星砲のような、宇宙に展開される装備等はそこで管理しているのだ。

 ただ、今は()()()の本体が地球に取り付いているので、打ち上げにはかなりの危険を伴う。

 また軌道エレベータのエネルギーもギリギリで、打ち上げは一回が限界だ。

 戦いながら打ち上げをするのは、さしもの霧にも困難な作業だ。

 

 

「ただ、問題が1つある。()()()との戦いの影響で基部のエレベータ・ルームと連絡が取れていない」

「大丈夫なのか?」

「けして大丈夫では無いが、祈るしかないな」

 

 

 霧が「祈る」など、何とも笑えない冗談だ。

 おまけに、今からそれに乗るとなるとなおさらだった。

 クルーを後ろに従えて歩く形で、そして互いに隣り合う形で、紀沙は群像と歩いていた。

 2人、肩を並べて。

 

 

「エレベータ・ルームには『イセ』と『アカシ』がいる。彼女達に期待するとしよう」

「……変わったな、『コンゴウ』」

「そうか?」

「いや、それほどオレもキミを知っているわけじゃないが……」

 

 

 確かに、『コンゴウ』は変わったように見える。

 俗っぽい言い方をすれば、丸くなった。

 以前の彼女であれば、仲間を信じるなどと言う言葉を口にすることは無かっただろうし、そんな根拠の無い希望的観測を頼りにエレベータ・ルームに向かうことも無かっただろう。

 

 

 霧は、変わった。

 深く霧と関わっている人間ほど、異口同音にそう言った。

 紀沙も、そこを否定するつもりは無かった。

 ……その時だった、足元がぐらりと大きく揺れた。

 

 

「何だ?」

 

 

 紀沙達を手で制して立ち止まりながら、『コンゴウ』は天井を見上げた。

 床は――いや、『ハシラジマ』が小刻みに揺れている。

 起動に伴う振動では無く、もっと別の何かだ。

 それは――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 目だ。

 大きな目が、こちらを見つめていた。

 渦巻く雲の中から覗き込むように、天空に目が浮かび上がっていた。

 まるで、隙間から巨人が箱の中を覗き込んでいるかのように。

 

 

「姉さん!」

 

 

 その眼下で、『アンソン』が悲鳴のような声を上げた。

 『ダンケルク』の甲板上で、重い音が響く。

 それは、『デューク・オブ・ヨーク』のメンタルモデルが転がった音だ。

 倒されたと言うよりは、自分で転がったと言う方が正しい。

 

 

「無茶をするなぁ」

 

 

 『コスモス』が、呆れたようにそう言った。

 『デューク・オブ・ヨーク』はすぐに身を起こしたが、その動きは酷く緩慢だった。

 無理も無い。

 左脇腹の半分が消し飛んでいれば、俊敏な動きは難しいだろう。

 大穴が開いて、筋肉やら内臓やら――ナノマテリアル製の疑似的なものだが――が見えてしまっている。

 

 

「そりゃあ、僕も掴まなければ食べられないんだけどね」

「それにしたって、今のは無いと思うなあ」

「「第一、もったいないよ」」

 

 

 2人の『コスモス』が、同じトーンで喋る。

 双子と言うよりはドッペルゲンガーだろう。

 だったら出会って対消滅すれば良いのにと、意味の無いことを考えた。

 

 

「…………」

 

 

 対して、『デューク・オブ・ヨーク』は何も答えなかった。

 それだけ、ダメージが深刻だった。

 2人に増えた『コスモス』の攻撃――相手は攻撃のつもりも無いだろうが――をかわし切れずに、身体に触れられた。

 

 

 喰われることを防ぐために、喰われる前に自分で自分の身体を破壊した。

 わかりやすく言うと、刺さった棘を抜くのに周りの肉ごと抉り取ったようなものだ。

 メンタルモデルは霧にとって服のようなものだが、この服の厄介なところは、破れるとそれなりにダメージがあると言うことだった。

 

 

(……流石に、ヤバいわね)

 

 

 メンタルモデルの身体に慣れ親しんだ結果、霧は新しい可能性を得た。

 だが、デメリットもある。

 コアがメンタルモデルへの親和性を高めれば高める程に、メンタルモデルの損傷がコアに与える影響が大きくなる。

 まるで、人間と同じようにだ。

 

 

(おまけに、また何か良くわからない現象が出てきてるし)

 

 

 『ハシラジマ』のちょうど真上に、黒い霧の塊のようなものが出現した。

 そしてそこから、巨人の目が『ハシラジマ』を覗き込んでいる。

 神様が楽園(エデン)を眺める時、ちょうどあんな感じだろう。

 あれは何だ、新しい()()()か?

 

 

「キッ……ついわぁ」

 

 

 生きて勝ち残るつもりだと言うのに、面倒ごとばかり。

 本当に、嫌になってくる。

 だがそれでも、諦めている場合では無い。

 

 

「心外だなぁ」

 

 

 ()()()()と。

 ブチブチと嫌な音をさせながら、『コスモス』は笑った。

 『デューク・オブ・ヨーク』の思考を読んでいたかのように、千切った()()を放り投げた。

 身構える、何を投げた?

 

 

「僕()()、出された食事は残さない主義なんだ」

 

 

 ()()()()()()()()

 そんな笑えない冗談を言いながら『コスモス』が投げたのは、()()()()

 先程の腕で理解している、『コスモス』は己の肉片から増殖することが出来る。

 指の数は、人差し指から小指までの4本。

 4本だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 張り子の虎とは、まさにこのことだった。

 翔像は、自分の今の状態を省みてそう自嘲した。

 彼は『ムサシ』の艦体を操っているが、それは、彼にとっては酷く難しいことだった。

 人間の脳の演算力では、超戦艦の艦体を維持するだけで限界なのだ。

 

 

「いよいよ、出るものが出てきたな……」

 

 

 天空に現れた「目」を見上げて、翔像は深く息を吐いた。

 赤黒い雲の渦に、浮かぶ目。

 まるで三流の自由詩のような言葉だが、そうとしか表現できない。

 しかし、考えてみれば当たり前のことだ。

 

 

 どんな生き物にも、腕もあれば目もある。

 つまりあの目は、今この地球を覆いつつある()()()の目だ。

 こちらの様子を窺うように覗き見るのは、何者かが自分に近付こうとしていることに気付いているのか。

 見つめているだけで、心の中のどす黒いものが浮かび上がってくる気さえした。

 

 

「『フューリアス』、航空隊を一度下げさせろ」

 

 

 見下しているのだろうか、我々を。

 ()()()は、霧の進化系の1つであるとも言える。

 <宇宙服の女>も、ある意味ではそうだ。

 そんな存在を食事と認識している()()()は、遥か進化の先からこちらを見下している。

 言うなれば、人間がサルを見るような目で。

 

 

「あれを人間が長く見ていると、気が狂ってしまう」

 

 

 肉体を壊さなくとも、心が壊れれば人は死んでしまう。

 おぞましさを通り過ぎて、あの目に神性を感じてしまう者もいるだろう。

 ああ、そうだ。

 きっと古の預言者が見た「世界の終わり」とは、このようなものなのだろう。

 

 

「だが、決して終わりにはさせない」

 

 

 そうでなければ、『ムサシ』……そして、『ヤマト』に申し訳が立たない。

 2人とも、人類を、霧を、世界を信じて逝ったのだ。

 残された者には、それを守り抜く義務がある。

 ――――そうだろう?

 

 

「『シナノ』」

 

 

 ええ、と、どこかから風に乗って返事が届いた。

 いや、それは翔像のほんのすぐ傍から聞こえてきた。

 どぱん、と、海面が一瞬盛り上がって、そして爆ぜた。

 海面を突き破って『ムサシ』の両側に現れたのは、2隻の超戦艦だった。

 

 

 霧の超戦艦『シナノ』、最強の海域強襲制圧艦。

 そして今1隻は『ヤマト』、改め超戦艦『コトノ』。

 ようやく、それぞれの所定の海域からこちらへと自分自身を転移させて来たのだ。

 2人のメンタルモデルは、翔像と同じように天井の目を見つめた。

 

 

「『コトノ』君、『ナガト』と交戦したと聞いたが」

「ああ、はい。大丈夫です千早のおじさま」

 

 

 敵に鹵獲――鹵獲と言う表現で良いのか微妙だが――された『ナガト』の片割れは、すでに封印処置がされていた。

 結構、危なかった。

 だが、心強い援軍によって九死に一生を得たのだった。

 

 

「いや……心強いっていうのは、ちょっと違うかな……」

 

 

 やはり微妙な表情を浮かべて、『コトノ』は「うーん」と軽く唸った。

 何しろ『コトノ』を助けた存在は、味方と言うには余りにもクセが強い者ばかりだったからだ。

 そして当然、その者達もこの海域に来ている。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何と言うか、その艦隊は本当に特異な存在だった。

 超戦艦『ヤマト』が黙認していたと言うこともあるが、本来はあり得ない組み合わせだった。

 彼女達はそれぞれに本来いるべき艦隊があるにも関わらず、そこに戻らなかった。

 理由は、たぶん「何となく」だ。

 

 

「とぉ……………っても!」

 

 

 『タカオ』は、2人の妹を抱き潰していた。

 『マヤ』と『アタゴ』は共に黒のワンピースドレス姿で、すっかり()()()()していた。

 髪もしっかり結い上げていて、まるでパーティーにでも行っていたかのようだ。

 『アタゴ』の手には、年代物らしいヴァイオリンまで握られていた。

 

 

「良かったわよ2人とも! 最高のコンサートだったわ!」

「わぁい、ありがと~」

「ちょっと、お化粧が崩れちゃうから!」

 

 

 コンサート――そう、『タカオ』達がこの2年間何をしていたかと言うと、ヨーロッパで音楽留学をしていたのだ。

 聞けば多くの者が「は?」と反応を返すだろうが、事実である。

 ヨーロッパの音楽学校に入学し、名のある音楽家の指導を受けて、コンサートまで開いた。

 世界が大変な時に何をと思うかもしれないが、『タカオ』にとってそんなことは些事であった。

 

 

「それに付き合う私らもどうかって話だよなぁ」

「タグがたくさん増えた。私は満足だ」

 

 

 『キリシマ』と『ハルナ』は、そんなタカオ型姉妹の様子を離れたところから見つめていた。

 何やかんやで『タカオ』に付き合った彼女達は、お人好しと言うか、引きずられやすい性格と言うか。

 あるいは、それくらいに一緒にいるのが普通になったのか。

 ふと、『キリシマ』が何かを思い出したような顔になって、きょりょきょろとあたりを見回した。

 誰かを探しているのだろうか。

 

 

「おい、『レパルス』はどこ行った?」

「ご主人なら引き籠ってる。『プリンス・オブ・ウェールズ』が怖いから」

「あいつまだそんなこと言ってんのか……」

「仕方ない、とんだ腑抜けだから」

「お前は主人に対して容赦が無いなほんと」

 

 

 元々、『ヴァンパイア』がメンタルモデルを形成しているのは、主人である『レパルス』の目と耳になるためだ。

 その意味では正しいと言えるが、大元が間違っているので、やはり正しくは無い。

 今さら『プリンス・オブ・ウェールズ』が過去を持ち出してくるとは思えないが、それでもビビって引き籠るのが『レパルス』と言う霧の艦艇だった。

 

 

「直上に高エネルギー反応。『タカオ』、いつまでも妹とじゃれてないで」

「402と手を繋ぎながら言っても説得力無いわよ!」

「……400……恥ずかしいから……」

「え」

 

 

 そして潜水艦400と402、イオナ達の姉妹でもある2人だ。

 こちらは『タカオ』の指摘通り手を繋いでいるのだが、402の方は若干辟易としている様子だった。

 400の言った直上と言うのは、天空に現れた目のことである。

 今、その目の中心に紫色の輝きが生まれようとしていた。

 

 

 収束されていくエネルギーは、どう見ても『ハシラジマ』に向けられている。

 『ハシラジマ』を潰そうと言うのだろう。

 別に『ハシラジマ』なぞ『タカオ』にとってはどうでも良いが、1つだけ看過できないことがあった。

 今、『ハシラジマ』には()()()()がいるのだ。

 

 

「ふん……」

 

 

 鼻で笑って、『タカオ』は天空の目を睨んだ。

 まったく、つい今しがたまで良い気分だったのに、ぶち壊しだった。

 あまつさえ、あんなおぞましく不快なものが()()()()を狙っている。

 そんなことを、『タカオ』が許すはずが無かった。

 

 

「おい、どうするんだ?」

「どうする? 決まってるじゃない……」

 

 

 『キリシマ』の言葉に、『タカオ』は当然だと言わんばかりに答えた。

 こう言う場面で、自分達がすることなど一つしかない。

 

 

「……――――合体よ」

 

 

 その言葉に、『タカオ』を含む全員の瞳が、霧の輝きを放った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 あ、これは死んだな。

 4人の『コスモス』に襲い掛かられた時、『デューク・オブ・ヨーク』はそう思った。

 そしてそれは、メンタルモデルの身体を喰い破られた瞬間に確信へと変わった。

 これはもう、勝って生き残ると言うのはどうにも無理そうだった。

 

 

 ()()()()と、肌が食い破られ、肉が裂かれる。

 ()()()()()()と、内臓を引き出され、血を啜られる。

 家畜の気分を味わらされているようで、酷く気分が悪い。

 人間であれば、とっくにショック死ししているだろう

 

 

「姉さ――――!?」

 

 

 妹の『アンソン』が助けに飛び出して来ようとしたので、自分の艦体を操船し、ぶつけて止めた。

 今、飛び出してくることには何の意味も無かった。

 自分が打った対策も、『コスモス』に対しては最後には意味が無かった。

 

 

「……ッ」

 

 

 喉笛を、食い千切られた。

 カヒュッ、と、空気の抜ける奇妙な音がして、その弾みで視界がズレた。

 すると、視界の端で光の粒子が舞っていることに気付いた。

 近くでは無い、少し離れた場所だ。

 

 

 その光の粒子はやがて勢いを増し、柱になろうとしている。

 どんどん力強くなっていくそれは、次第に天空へと昇っていく。

 まるで、『ハシラジマ』を睨むあの「目」を貫かんとするかのように。

 そしてそのことに気付いた時、『デューク・オブ・ヨーク』は笑った。

 

 

「……ッ、……ッ」

 

 

 喉が無いので、鳴らすことが出来なかった。

 だが、『デューク・オブ・ヨーク』は笑った。

 ()()()()()と、()()()に対して笑った。

 声は出せなくとも、笑っていた。

 

 

 視界の半分に、口蓋が見えた。

 それは『コスモス』の口、歯、舌。

 リンゴを齧るような音と共に、『デューク・オブ・ヨーク』の視界は半分消えた。

 それでも、『デューク・オブ・ヨーク』は嗤う、何故なら確信していたから。

 ――――お前達は、敗北する。

 

 

「ぐ……ッ」

 

 

 まだ動く腕で、自分に喰いついている『コスモス』を掴んだ。

 逃がすまいと、そうしているようにも見える。

 だが、その行為に何の意味があるのか。

 

 

「何のつもりかな?」

 

 

 最初の『コスモス』が、その疑問を素直に口にする。

 喉が潰れた『デューク・オブ・ヨーク』に、答える術は無かった。

 だが、代わりに答える者がいた。

 その人物は、『コスモス』の足を掴んでいた。

 

 

「……?」

 

 

 もちろん、触れただけで捕食が始まる。

 しかしその人物――『ダンケルク』は、甲板に這った体勢のまま、『コスモス』の足に触れていた。

 捕食、同化している間は、『コスモス』も動けない。

 そしてもう片方の手で、『ダンケルク』は何か、小さな半球体の物質(コア)を持っていた。

 

 

「せめて」

 

 

 掠れた声で、『ダンケルク』は言った。

 勝てないまでも。

 倒せないまでも、せめて。

 

 

「足の一本くらいは、貰っていくぞ……!」

 

 

 『コスモス』が、初めて驚きに目を見開いた。

 次に誰かが動き前に、それは起こった。

 『ダンケルク』のコアが、凶暴なまでの光を放ち始めた。

 それはその場にいる全員の視界を奪い去り、次の瞬間、光が途切れ。

 爆発した。

 

 

「だ、『ダンケルク』ッ……。ね……姉さん――――ッ!!」

 

 

 爆発に押し流されながら、『アンソン』が声を上げた。

 しかしその声も、爆発の波に呑み込まれて。

 やがて、聞こえなくなった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ハシラジマ』北側にいる『レキシントン』は、()()を見て明らかに不機嫌になった。

 霧でさえ気にしている者は少ないが、彼女はかつて()()にやられたことがある。

 だから()()を見た時、『レキシントン』は不機嫌になった。

 

 

「さっさと終わらせてよね、見ていて不快ったら無いわ」

 

 

 ()()

 それは、まさに合体だった。

 9つの霧のコアが、激しい共鳴反応を見せ、星の如く大きく煌めく。

 中央に3つ、縦に4つ、左右に2つ。

 

 

 『タカオ』型の3隻が船腹を互いに向ける形で中央に並び、さらにその外側を戦艦級3隻の艦体が包み、後ろと左右に駆逐艦と潜水艦がついている。

 互いのエネルギーが互いに干渉し、無数のレンズの間で雷鳴(スパーク)が走っていた。

 その雷鳴が輝く時、中心に大きな筒のようなものが象られているのがわかる。

 

 

「縮退エネルギー臨海」

 

 

 重巡洋艦3隻のコアが、防御の全てを放棄して膨大な超重力子を精製する。

 それを戦艦級3隻のコアが「場」として留め、駆逐艦と潜水艦の3つのコアが方向付けをする。

 重力子の巨大な大砲に、弾込めをしているのだ。

 そして臨海を迎えた()()は、爆発と見紛うばかりの圧力を周囲に与える。

 

 

 この合体の弱点は、防御の手段が無いことだ。

 しかし臨海した縮退エネルギーの余波と圧力は、海面を這って来た()()()を溶かしてしまった。

 戦場の音のすべてを、1人で放っている。

 今、戦場のすべての「目」は、間違いなく彼女達を見つめていた。

 

 

「愚鈍ねぇ、やっとこっちを()()()

 

 

 天空の「目」も、『タカオ』達の方を見ていた。

 『ハシラジマ』よりも自分達を見ていることに、『タカオ』は満足そうな顔をする。

 そう、それで良い。

 お前はこっちを見ていれば良いのだと、そんな表情を浮かべていた。

 

 

 『ハシラジマ』にいる人間は、あんなおぞましい化け物が見て良いものでは無いのだ。

 余りにも、もったい無さすぎる。

 そこにいる人間は、あんなものが見つめるには眩しすぎる。

 ああ、でもだからと言って。

 

 

「『タカオ』お姉ちゃん、空間変異制御完了だよ」

「トリガー回すわ。あんまり長く維持するとこの海域の空間が断裂しかねない」

 

 

 素晴らしい。

 妹達の健気さに、『タカオ』は倒れた――「ちょっ、だから早く撃ってってば!」――が、『アタゴ』がそう言うのですぐに立ち上がった。

 そんなことをしながらも、きちんとトリガーは受け取っている。

 智の紋章(イデアクレスト)が、顔の、肌の上に浮かび上がっていく。

 

 

「気持ちはわかるけど」

 

 

 約束した。

 かけがえのない人と、あなたの子を守ると。

 まぁ、と言うか、ぶっちゃけ。

 

 

「汚い目で、私の妹を見てんじゃないわよ」

 

 

 それで十分だった。

 『タカオ』がトリガーを引いた一瞬、全ての音が消え去った。

 1秒にも満たない刹那、スパークすらも消えて、しんとした。

 かと思った次の刹那、膨大なエネルギーが発生した。

 

 

 天空の目が、ぎょっと驚いたように見えた。

 それに笑みを浮かべて『タカオ』は手指で銃を象り、「ばん!」と唇を動かした。

 光を撃った。

 次に起こった現象は、そうとしか表現できなかった。

 海から放たれたその光は、真っ直ぐに天空を引き裂いたのだった――――……。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

次回、とびまーす!(おい)
それにしても軌道エレベータってロマンですよね、現実でも建造されないかなあ。

それでは、また次回。


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Depth103:「ソラへ」

 

 大戦艦『ビスマルク』、と言う存在がいた。

 2年前、クリミアで千早紀沙に『アドミラリティ・コード』を託した霧。

 そして迷えるヨハネス・ガウスを、くびきから解放した少女。

 クリミア崩壊の後、その存在は消え失せた――――はず、だった。

 

 

「どうして……!?」

 

 

 『ハシラジマ』のエレベータ・ルームに案内された時、紀沙は彼女と再会した。

 より正確に言えば、その妹の方である。

 腰に下げた大きな月の懐中時計には、見覚えがあった。

 破損したエレベータを修復しているのだろう、彼女の周りには金色の粒子が浮かんでいた。

 

 

「あの時、姉さんが守ってくれたのは貴女達だけでは無かった。それだけのことよ」

 

 

 『ビスマルク』の姉は、クリミアの崩壊から紀沙達を守った。

 そして、逝った。

 紀沙達は気を失っていたため、その様は見ていない。

 だが目を覚ました時、その事実だけは何故かすとんと胸に落ちてきた。

 

 

「……姉さんは、貴女達に感謝していた」

 

 

 だから『ビスマルク』は、隠棲をやめて出てきたのだ。

 あのリエル=『クイーン・エリザベス』も、同じ気持ちだろう。

 託した世界を、()()()などと言う異邦人に明け渡すわけにはいかない。

 そうでなければ、そのまま海底で自身が朽ちるのを待っているつもりだった。

 

 

「だから、私は貴女達を助けようと思う」

 

 

 『ビスマルク』の全身から、金色に輝くナノマテリアルが舞い上がっている。

 それは軌道エレベータの中に入り込み、大戦艦級の艦体すら構成できるそれらが、破損部分を修復していく。

 宇宙(ソラ)まで伸びよと、そう想って。

 

 

「……感謝する、『ビスマスク』」

「構わないわ、千早群像。私達はもう託し終えた、ただそれだけのこと」

「…………」

「千早紀沙」

 

 

 つい、と、視線を向けて『ビスマルク』が言った。

 

 

「だから千早紀沙。貴女がどんな結末を望んでいようとも、私達は受け入れる。それが貴女に全てを託した、私達の義務と言うものでしょう」

 

 

 それは、紀沙達の前に世界と向き合った者としての言葉だった。

 当時を見聞きした者達は、<宇宙服の女>を除けばもう誰も残っていないが、だからこそ、けして軽い言葉では無かった。

 託した者は、託した相手を信じるだけだ。

 そして託された者は、ただ、自分の判断を信じるしかない。

 

 

 それが正しいのだと、そう思える道を歩むしかない。

 嗚呼、『アカシ』がやって来た。

 軌道エレベータの各所を配下の工作艦と確認していた彼女は、親指を立てて笑顔を浮かべていた。

 さぁ、出発の時間だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()に座って自覚が沸いてきたのか、冬馬は神妙な顔をした。

 彼が座っている座席は、イメージとしては航空機の座席をそのまま持ってきたと言う風だった。

 おそらく、霧の持つ人間を運ぶ輸送機のイメージがそれだったのだろう。

 クリーム色の壁だとか青い生地の座席カバーだとか、小さく丸みを帯びた窓が雰囲気を出している。

 

 

「まぁ、何となくイメージはついてたけどよ」

 

 

 「シートベルトヲシメテクダサイー」などと言っている小さな西洋鎧――『チョウカイ』の()()だ――が通路を通り過ぎていくのを見つめながら、そのまま冬馬が続ける。

 

 

「俺って、実は高いところ駄目なんだよな……」

「初めて聞きましたよ!?」

「艦長。どーせ嘘だから、真面目に取り合っちゃダメさね」

「姐さんヒデー!」

 

 

 まぁ、冬馬が本当に高所恐怖症なのかどうかはともかく。

 実際、この飛行機のような内装のカーゴが自分達を宇宙まで運ぶと言うのだから、不安にもなると言うものだった。

 と言うより、人類をまともに宇宙に上げるのはこれが初めてのことでは無いだろうか。

 

 

 この『ハシラジマ』自体、人類が放棄してすでに20年以上経っている。

 そう考えると、冬馬の不安も良くわかるのだった。

 だが不安を煽っているのは、別にそんなことでは無かった。

 不安を煽ってくるのはむしろ、座席前のモニターに映し出されている映像だったろう。

 

 

『アッテンションプリーズ! 今からこの『アカシ』が、『ハシラジマ』上昇用カーゴの非常用マニュアルを説明するよ!』

 

 

 工作艦『アカシ』による、避難方法の説明映像である。

 飛行機が出発前に乗客に見せる映像を参考にしているのだろうが、はたして宇宙行きのカーゴで避難方法の説明の意味があるのだろうか。

 成層圏で停止したらどうにも出来ないだろうに。

 

 

「スミノの姐さん! 私、宇宙って初めてっス!」

「いや、何で来てるわけ?」

 

 

 隣のスミノには、何故かトーコがくっついて来ていた。

 最近はスミノが本気で閉口している様子がわかって、紀沙としては実害は無いので放置していた。

 武装の無いイ15を、地上に置いていても仕方がないと言うのもある。

 いや、しかし……宇宙か。

 

 

「宇宙かー、まさにロマンって感じだよね!」

 

 

 蒔絵が、全てを一言でまとめてくれた。

 問題なのはロマンよりも危険の方が遥かに大きいだろうと言うことだった。

 モニターの中で、『アカシ』がライフジャケットの説明をしていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 コミカルなようで、割と人間向けに作られたムービーだった。

 『アカシ』の映像を見て思った感想だそれで、群像は感心していた。

 ただ1つ難点があるとすれば、人間の耐久度を霧と同等に考えている点だろうか。

 途中、明らかにナノマテリアルが無ければどうにもならない事例がいくつかあった。

 

 

「楽しみだねぇ、群像くん。上についたらまずどこに行く?」

「そうだな……とりあえずは、コントロール・ルームだろう。施設の状態を確認したいしな」

「ええ~。そんなとこより、ほら、こっちの展望台に行ってみようよ」

「電力供給がどうなっているかもわからない、酸素もだ。ステーションは大丈夫だろうが……」

「「いやいやいやいや」」

 

 

 そんな風に普通に話している群像と()()に、いおりと杏平は揃って片手を左右に振った。

 

 

「いや、何をデートプラン練るみたいに話してんのよ!?」

「今そう言う場合じゃねーから!」

「えー」

 

 

 不満そうに唇を尖らせるのは、『コトノ』だった。

 どこから入り込んだのかはわからないが、いつの間にか群像の隣の座席にいた。

 霧印の軌道エレベータ観光パンフレットを片手に、実に不満そうな顔をしていた。

 と言うか、そのパンフレットは何のために用意したのだろう。

 

 

「んー、もう。そこまで言うなら、しょうが無いなあ」

「いや、何でそんな不満そうなの……?」

 

 

 深々と理不尽に――理不尽と言う表現で間違ってはいないだろう――溜息を吐いた後、『コトノ』は周りを見渡した。

 杏平やいおり、僧を見て最後に静を見た。

 静は、ほとんど初対面だが。

 『コトノ』は、にっこりと微笑んだ。

 

 

「久しぶりだね、皆」

「……ああ」

 

 

 本当に天羽琴乃なのか、と、もはや問う者はいなかった。

 答えは、「イエスであり、ノーでもある」。

 天羽琴乃は、千早紀沙と同じように『アドミラリティ・コード』と<宇宙服の女>に選ばれ(適合し)た少女だった。

 だから彼女は琴乃であり、『コトノ』である――今の紀沙が、『紀伊』であるようにだ。

 

 

 それでも、「久しぶり」と言われれば、静以外のメンバーは複雑な気持ちになる。

 ことに、群像はそうだ。

 けれど群像と言う男は、そう言う感情をなかなか表には出さない。

 だから『コトノ』は、そんな群像を見てただ微笑むのだった。

 

 

「紀沙ちゃんの方にも、ちゃんとナイトが乗ってるから。心配しないでね」

「ナイト?」

「うん。まぁ……ナイトって言うには、ちょっと癖が強いけどね」

 

 

 少しだけ困った顔をして、『コトノ』はそう言った。

 宇宙旅行、と言うには、少しばかり殺伐とした状況だ。

 それだけを残念に思いながら、『コトノ』は皆に座るよう促した。

 

 

「それでは皆様、シートベルトをしっかりとお締めください?」

 

 

 おどけたように、『コトノ』はそう言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ハシラジマ』、発射シークエンス開始(スタート)

 施設内全域に警報と警告(アラート)が鳴り響き、外への退避が勧告される。

 そんな中で、『ビスマルク』はカーゴ打ち上げの全てを掌握していた。

 

 

「『ハシラジマ』、最終カウントダウン開始」

 

 

 打ち上げるカーゴは2つ、『ハシラジマ』の電力供給から考えればこれがギリギリだった。

 『ビスマルク』の視界は、赤い警告色が明滅している。

 カーゴに積載しているのは十数人の人間と、イ号潜水艦質量の()()のナノマテリアル。

 重量的にそれが限界で、後は上で調達する予定だ。

 

 

「コントロールシステム直結、チェック――オールグリーン」

「オールハッチクローズ、キャビン漏洩チェック――オーケー」

「アクセスアームパージ、電力供給開始――」

 

 

 『ビスマルク』の両目が白く明滅し、肌に月の智の紋章(イデアクレスト)が輝いている。

 その唇から漏れ聞こえてくるのは、打ち上げシークエンスの工程だ。

 これは、本来は『コンゴウ』がやるはずだった作業だ。

 だが状況が当初の予定よりも厳しく、『イセ』と『ヒュウガ』に任せる予定だった。

 

 

「『イセ』、『ヒュウガ』。電力重点状況知らせ」

『こちら『イセ』。404機、電力供給率50パーセント』

『同じく『ヒュウガ』。401機、電力供給率55パーセント』

 

 

 『ヒュウガ』のオプション艦操作の経験値を活かして、カーゴにコアとして乗せた。

 だからエレベータ・ルームにいるのは、『ビスマルク』と『アカシ』だった。

 他の霧は、もう『ハシラジマ』の()()を始めている。

 打ち上げさえ完了してしまえば、『ハシラジマ』には戦略的価値が無くなるからだ。

 

 

 一方で、逆に言えば打ち上げの最後の瞬間までは、『ハシラジマ』は地球最大の戦略拠点だ。

 だから『コンゴウ』は、『ビスマルク』に打ち上げを委ねて、自らは戦闘に専心することにしたのだ。

 千早兄妹の宇宙(ソラ)への旅路を、邪魔をさせるわけにはいかないと。

 そしてそれは、『ビスマルク』も同じだった。

 姉が全てを託した人間達、()()()にくれてやるには余りにも惜しい。

 

 

「『アカシ』、貴女はもう離れて。ここは放棄される」

「馬っ鹿言うなよ! ここは私がずっと見て来た場所だよ、私のサポートが無くてどうすんのさ!」

 

 

 戦闘と打ち上げの影響で『ハシラジマ』はどうなるかわからない、だが『アカシ』だけは避難する様子が無かった。

 その背中を見やって、しかし『ビスマルク』はそれ以上は何も言わなかった。

 『アカシ』の背中がどこか喜々としているようで、実は『ハシラジマ』を一番起動させたがっていたのは彼女なのでは無いかと思えた。

 

 

「――――打ち上げまで360!」

 

 

 エレベータ・ルームの照明が消えた。

 後は、霧の瞳の輝きだけ。

 それはまるで、宇宙に散らばる星々のようだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 『ハシラジマ』周辺の霧が、一気に戦線を縮小した。

 まず包囲の東西を『リシュリュー』と『サウスダコタ』の2艦隊で突破、退路を維持しつつ損傷艦や小型艦艇を退避させる。

 そして戦闘力の残る艦艇を、『ハシラジマ』周囲に集結させた。

 

 

 『ハシラジマ』に集結したのは、そのほとんどがメンタルモデル保有の大型艦だった。

 これは最悪、艦体を捨ててスペースを確保できる利点を考慮されたためだ。

 メンタルモデルは、戦闘においても霧になくてはならない存在になっている。

 皮肉なことに、この戦いはメンタルモデルの有用性を霧の懐疑派に示すことになった。

 

 

「装甲の厚い艦を前に出せ。フィールドを展開して()()()の侵食を遅滞させろ!」

 

 

 『ハシラジマ』に影響を与えかねないので、重力子兵装は使えない。

 そう言う意味でも、艦体はむしろ邪魔だ。

 霧の艦艇は防御用のフィールドと限られた武装で、ほんの僅かの時間を稼ぐ腹積もりだった。

 ぐねぐねと身体を変化させる()()()は、もはや個々の形を保っていなかった。

 

 

「『ヒエイ』、『ミョウコウ』! 敵の継ぎ目を狙え、遅滞させるだけで良い。押し返そうとはするなよ」

 

 

 『ハシラジマ』外縁部を横に駆けながら、『コンゴウ』は全体の指揮に専心していた。

 配下の霧を要所に配して艦隊同士の継ぎ目とし、逆に敵の継ぎ目に打撃を与える。

 ()()()は怪物や触手の姿から、半分溶けた流動体となって『ハシラジマ』に迫っている。

 個体では突破できないと、そう判断したのかもしれない。

 

 

 その時、ヒューッ、と言う空気を裂く音が聞こえた。

 空からだ、そして次の瞬間、()()()の継ぎ目に何かが落ちた。

 数瞬の後、爆発した。

 それが各所に数発、『コンゴウ』はそれが振動弾頭によるものだとすぐに理解した。

 

 

「人類の攻撃機か」

 

 

 空に待機していた人類の航空機による、爆撃だった。

 もうほとんど残っていないだろうに、義憤にでも駆られたか。

 人間のくせに、無理をする。

 『コンゴウ』がそう思った時だ、今度は後ろから轟音が響いてきた。

 音の衝撃すらも伴ってきたそれは、海面をも揺らしていた。

 

 

「『ハシラジマ』か!」

 

 

 打ち上げ、開始。

 そう直感した『コンゴウ』はその場に立ち止まると、全ての霧に対して告げた。

 それは謹厳な彼女にとって、それまでの「生」で最も無責任な言葉だった。

 

 

「死守せよ! 方法は何でも良い、()()()を『ハシラジマ』に触れさせるな!」

 

 

 ことここに至れば、もはや指揮など要らず。

 後は、個の武力だ。

 『ハシラジマ』から、再度轟音が響き渡った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 実を言うと、触腕に近付きさえしなければ、人類の航空機でも十分に援護は出来た。

 ()()()は触れたものを取り込むと言う性質を持っているが、しかし飛び道具を持っているわけでは無い。

 だから遠距離から振動弾頭の巡航ミサイルを撃ち込む分には、危険は少ないのだった。

 ただ……。

 

 

『クソッ、もうミサイルがねえっ!』

『こっちもだ。誰かまだ撃ってない奴はいるか!?』

『最初の攻撃で使い切っちまったよ!』

 

 

 ただ、やはり攻撃の効果は薄い。

 振動弾頭は表面を破壊するのには適しているが、殺傷力はそこまで高くない。

 とは言え他の兵器では、そもそもダメージを通すことも出来ない。

 だから、今はこのミサイルに頼るほか無かった。

 

 

 そしてそんな彼らの下にも、『ハシラジマ』から響く轟音は聞こえる。

 それは『ハシラジマ』の壁面を、滑車で引き上げられるかの如く上昇しているカーゴが発している音だ。

 火花を散らして壁面を上がり、カーゴが雲を超えて、さらに上昇を続けていく。

 人類のパイロット達は、一瞬それに目を奪われた。

 

 

『……どおわっ!?』

 

 

 その時、1機の戦闘機がバランスを崩した。

 重い衝撃が走り、機体が傾く。

 何事かと思って顔を上げたパイロットの目の前に、あり得ないことに、人間がいた。

 いや、飛行中の航空機に立つ存在が人間のはずが無い。

 ヘッドホンをかぶったその()()()()()()()は、日本を襲撃した『アスカ』だった。

 

 

『グワッ!?』

 

 

 『アスカ』は跳んだ、その際に()()にした戦闘機が墜ちていく。

 だが、それは気にした様子は無い。

 『アスカ』の目標は、下から上がってくるカーゴ、特にその内の1つだった。

 そして、『アスカ』の跳躍の距離とタイミングは抜群だった。

 

 

「…………!」

 

 

 風圧がかかるが、ものともしない。

 『アスカ』の身体が、カーゴに触れようとする。

 まさに、その刹那だった。

 『アスカ』は逆に、何者かが自分の身体に触れたと感じた。

 

 

 この高度と速度で、いったい何者が()()()たる『アスカ』を掣肘できると言うのか。

 答えはすぐに出た。

 『アスカ』の視界の端に、長い……長い金色の髪が揺れて。

 小さな手が、『アスカ』の肩を掴んでいた。

 

 

「艦長が乗っているカーゴに、触るな」

 

 

 『アスカ』は、その存在を知っていた。

 イ号と同じく、『アドミラリティ・コード』の欠片を持つ霧の艦艇。

 『U-2501』。

 Uボートの一撃が、『ハシラジマ』の側で今一度、轟音を響かせた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――やはり、来ていたか。

 上昇のGに、身体を椅子に押さえつけられている。

 カーゴの強度はナノマテリアルによって強化されているが、霧のナノマテリアルも重力と言う物理法則そのものには干渉できない。

 そして重力圏を抜ければ、次は、放り出されるような()()()の世界だ。

 

 

「こう言うのも、無賃乗車って言うのかな」

「…………」

 

 

 カーゴに乗っている他のクルー達は、それぞれひたすら堪えていたり、目を閉じていたり、色々だ。

 ただふたり、紀沙とスミノだけが違う。

 彼女達だけが、カーゴで座りながらにして外の様子を窺うことが出来る。

 カーゴのすぐ外に『アスカ』が来ていたことも、気付いていた。

 

 

 だがそれに紀沙達が対処する前に、『U-2501』が対処してしまった。

 ゾルダン・スタークが乗っているからだ。

 <騎士団>を連れて戦場に参じた彼が、いつの間にかこのカーゴに乗り込んでいた。

 姿は見えないが、デッキかどこかにいるのだろう。

 

 

「私も、兄さんも。そしてあのゾルダンも」

 

 

 別に、誰かに向けて話したわけでは無い。

 一方で、スミノだけは聞いているだろうとわかっていた。

 彼女はいつだって、紀沙の言葉を聞いている。

 聞いていなかったことは無い。

 

 

「いろいろ、託されているから」

 

 

 地球のこと、霧のこと、人類のこと。

 他にもまぁいろいろあるが、結局は3人だ。

 千早兄妹とゾルダン、千早翔像を通して、『アドミラリティ・コード』を託された者達は。

 唯一の例外は、天羽琴乃だけだ。

 だが琴乃――コトノは、誰かに託されたわけでは無い。

 

 

「だから、簡単には諦められない」

 

 

 託されて、答えを出した。

 だが、出した答えは違う。

 だから、紀沙には予感があった。

 予感と言うよりは、それは確信だった。

 

 

「そうだな、千早紀沙」

 

 

 そして紀沙の予測通りに、ゾルダンは紀沙達のカーゴのデッキにいた。

 通常は上昇中に人がいるべき場所では無かったが、ゾルダン、そしてフランセットの3人はそこにいた。

 内装のナノマテリアルを『U-2501』が操作して、彼らのためのスペースを作っていた。

 

 

「オレもまた、譲ることの出来ないものを託されている」

 

 

 やはり、確信する。

 紀沙と群像、そしてゾルダンの3人。

 この3人はこの後、決定的なまでに決裂する。

 そんな確信が、静かに、しかし明確な形を持ち始めていたのだった。

 

 

  ◆  ◆ ◆

 

 

 翔像はひとり、『ハシラジマ』を見上げていた。

 『ハシラジマ』からは、未だにカーゴを打ち上げている音が聞こえてくる。

 ただ、流石にカーゴはとっくに見えなくなってしまっていた。

 もう、子供達の姿を見ることは出来ない。

 

 

「……終わった、な」

 

 

 誰にともなく、そんな言葉を呟いた。

 周りを見渡してみれば、戦闘も止まっているようだった。

 霧も、()()()も、同じように『ハシラジマ』を眺めていた。

 誰もが、ここでの戦いの目的が終わってしまったと感じているようだった。

 

 

 もちろん、陸地では未だに()()()による侵食を続けているだろう。

 だが、この海域での戦闘目的は終わった。

 紀沙達の打ち上げを止められなかった段階で、()()()は戦う意味を失った。

 そして、もはや霧も戦いを続けることは出来ない状態だった。

 だから、『ハシラジマ』海域での戦いは終わった。

 

 

「朝日、か……」

 

 

 水平線に、太陽が顔を覗かせていた。

 空気は乾いていて、空の青さがより一層際立つようだった。

 嗚呼、空があんなにも高い。

 あの水平線の輝きが、子供達の先を照らすものであれば良いと思った。

 

 

 ふぅ、と息を吐いて、翔像は『ムサシ』の甲板にそのまま腰を下ろした。

 バイザーを外し、むき出しの目で『ハシラジマ』を見上げた。

 もう、昇降音もずっと遠くになってしまった。

 海風も、心地よい。

 

 

「長かったような、短かったような……」

 

 

 まぁ、翔像にとって時間の感覚はあって無いようなものだった。

 クリミアで、紀沙が『アドミラリティ・コード』を継いだ時点で、翔像の役割は実は終わっていたのだ。

 彼が張り子の虎と承知で『ムサシ』の艦体を維持していたのは、<緋色の艦隊>を以ってヨーロッパ諸国に圧力をかけるためだった。

 大戦の後遺症はまだ残っていて、欧州はいつまた大戦に戻るかわからなかった。

 

 

「だが、これでオレの役目も本当に終わった」

 

 

 先祖への責任と言うわけでは無いが、故意にしろ偶然にしろ、やり始めた責任と言うものはあるだろう。

 家族には、やはりすまないと言う気持ちしか沸いてこなかった。

 こんな自分を未だ父親と呼んでくれる子供達には、感謝していた。

 この世界の今後のことは、その子供達の判断次第だ。

 

 

「そうだな、沙保里。オレ達の子だ」

 

 

 きっと、自分の正義を持った人間に育ってくれている。

 自分なりの正しさを、ほんの少しの仲間と一緒に信じられる人間に。

 翔像は父親として、それ以上は求めなかった。

 後はただ、結果に後悔さえしなければ良いと。

 翔像は、そう思っていた。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

いよいよあと数話というところ、思ったよりも延びました。
それでは、もうしばしお付き合いください。


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Depth104:「第2ステーションにて」

 

 軌道エレベータ。

 それは、人類が宇宙進出の拠点とするために建設した国際建造物である。

 現在は霧の管理のもと、専ら地表部分の強化が施されていた。

 ただしこの巨大な建造物は、実はまだ未完成である。

 

 

 完成しているのは地表3万6千キロメートル、いわゆる静止軌道と呼ばれる高度までだ。

 そこには第2軌道ステーション――第1は高度2千キロにある――と呼ばれる「駅」があり、ここには宇宙進出用のドックがある。

 人類の建設計画が順調に進んでいれば、ここで宇宙船の建造が始まるはずだった。

 その前に、人類は軌道エレベータを放棄せざるを得なくなった。

 

 

 また霧も強化・維持しこそすれ、建造を続行することは無かった。

 だから、最終完成形では10万キロに達するこの軌道エレベータは、完成の目途がまるで立っていない。

 それだけの資材と意思が無かったためだ。

 だが霧による占拠が無くとも、建設が続いていたかはわからない。

 これだけの巨大な建造物を建設し続けるには、大きな政治的意思が必要だったからだ。

 

 

<人類の平和とさらなる繁栄のために>

 

 

 そんなお題目だけでは、人類の結束は保てなかった。

 こんなエレベータひとつ、建てることも出来ない。

 だからその意味で、霧に占拠されたことは良かったのかもしれない。

 少なくとも、この軌道エレベータが新たな紛争の種となることだけは避けることが出来たのだから。

 

 

 そして、霧が軌道エレベータを残していたことも正しかった。

 軌道エレベータが無ければ、この事態への反撃の糸口を掴むことは出来なかっただろう。

 霧との大戦を想定した人類の<大反攻>計画も、今となってはこのためにあったのではないかと思える。

 運命だ。

 その一言で全てが表現できる程に、何もかもが繋がっていた。

 

 

 あるいはこれは、予定されていたことだったのかもしれない。

 <宇宙服の女>が、地球に墜ちた時から。

 あるいは、<はじまりの三人>が『アドミラリティ・コード』を起動させた時から。

 何もかもが、ここに辿り着くための布石だったのかもしれない。

 ステーションから見える、蒼穹の惑星を見下ろしていると、そんな気持ちになってくる。

 

 

 嗚呼、世界って、こんなにも小さかったのか。

 ステーションから地球を見下ろした紀沙は、そう思った。

 そして、自分の小ささに気付かされる。

 宇宙(ここ)は、そういう場所なのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 身体が、ふわふわする。

 カーゴが停まったのは、高度3万6千キロメートル()()の第2ステーションだ。

 ステーション――駅と言うだけあって、設えは地上の建物を模している。

 少し難があるとすれば、内装を担当していただろう霧が何かを勘違いしていたらしい、と言うことくらいだ。

 

 

「緑豊かな……って、限度があるだろ」

 

 

 良く人工物の中に植物を置いて雰囲気を柔らかくする手法があるが、流石にジャングルを再現するのはどうかと思う。

 やたらに背の高い苔むした樹木に、足元を覆う茂み、蔦、土まで敷き詰められている。

 カーゴを出た瞬間、どこかの遺跡にでも迷い込んだかと思った。

 

 

 天井を見上げると、人口の照明が太陽光を模した明かりを灯していた。

 白く柔らかい光は、見ているだけで安心感を与えてくるかのようだ。

 そう言う意味では、成功していると言える。

 こんな内装は、およそ人間には無理だろう。

 

 

「さて、当座の方針だが――内部の把握、と言うことで良いかな?」

「そうだな。火器、通信、エネルギー、ドックの確認は必要だろう」

「だったら、それぞれ専門家同士で組ませるのが良いんじゃないでしょうか」

 

 

 ゾルダン、群像、紀沙。

 便乗者(ゾルダン)も含めて、3人の霧の艦長――『アドミラリティ・コード』の主達――だ。

 別に向かい合うでも見つめ合うでもなく、それぞれ適当な方向を向いて、傍にはそれぞれの艦のメンタルモデルを置いて、しかし会話だけは交わしていた。

 

 

 まぁ、適当な方向を向いて、と言う表現はやや語弊があるだろうか。

 何しろ、彼女達自身がふわふわと宙に浮いている状態なのだから。

 要は無重力と言うことだが、正直、不慣れだった。

 どこかへ飛んでいかずに済んでいるのは、安全帯(命綱)をつけているためだ。

 

 

「ふむ。人数の少ないうちが不利な条件とも言えるが……」

「それくらいは譲歩してください。無理やり乗って来たんですから」

「別にこちらは2隻で出来ないことも無いわけだからな」

 

 

 話しながら、やるべきことはすでに合意していた。

 まず、ステーションの状況を把握する。

 改装を担当していた霧も含めて、ステーションは無人の状態だ。

 この巨大な建造物の全体を動かす必要は無いが、ドック周りぐらいは稼働させなければならない。

 ステーションは手段であって、ここがゴールでは無いのだから。

 

 

「まぁ、仕方あるまい」

「私達は管制ルームで良いですか?」

「ああ、それで良いと思う」

 

 

 話し合いは終わった。

 後は、行動あるのみ。

 3人の艦長達は、それぞれのクルーの方を向いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 嗚呼、と、紀沙は胸の内で感嘆の吐息を漏らした。

 それは、自分のクルーに向けられたものだった。

 本当に、心の底から、思う。

 このクルー達は、自分などには本当にもったいないくらいだったと。

 

 

「いくらかイレギュラーもありましたが……。それでは、所定の計画通りに」

 

 

 2年……いや3年?

 この面子(めんつ)でイ404に乗り込んで、もうそれだけの時間が経ったのだ。

 長いのか短いのか、ちょっとわからない。

 10代の内の3年と言えば、長いようにも感じる。

 

 

 ただそれ以外の時間を軍属――学生時代も含めて――として過ごした紀沙にとって、長いとも短いとも思えなかった。

 それが、紀沙にとっては普通のことだったからだ。

 けれどクルー達にとっては、10代の少女に付き従うこの3年は長いと感じたかもしれない。

 

 

「皆さん」

 

 

 礼を言うべきだろうか?

 こんな至らない自分にここまでついてきてくれたことについて。

 だが結局、紀沙は何も言わなかった。

 

 

「これが、()()()()()()()()()()

 

 

 不意に、クルー達の纏う雰囲気が重くなった。

 それに、紀沙は嬉しくなった。

 皆が自分の言葉を真剣に受け止めてくれている気がして、嬉しかった。

 同時に、申し訳なく思った。

 

 

 最後の作戦(ラストミッション)

 そう銘打って、あらかじめ説明しておいたこの作戦。

 後ろめたさは無い。

 どうせ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 けれど、自分の都合に付き合わせることになるクルーには申し訳ないと思った。

 

 

「今更だぜ、()()()()()

 

 ――冬馬さん、また一緒に料理がしたかったな。

 

「気は進まないけど、あんたが自分で決めたことなら何も言わないよ」

 

 ――梓さん、貴女みたいな軍人になりたかったな。

 

「……お守りします、最後まで」

 

 ――静菜さん、もう少しお喋りしておけば良かったな。

 

「約束は忘れないでね~」

 

 ――あおいさん、最後まで掴み所の無い人だったな。

 

「……僕は一緒に行くよ、キミの主治医だからね」

 

 ――良治くん、ごめんね。もし次があったらもう少し言うことを聞くよ。

 

「ご武運を、艦長」

 

 ――恋さん、いつも何も言わずに支えてくれて有難う。

 

「帰ってくるよね?」

 

 

 不意に、袖を掴む力があった。

 蒔絵だった、不安げな瞳に、紀沙は笑いかけた。

 大丈夫だと言うように頭を撫でて、しかし言葉にはしなかった。

 言葉には、できなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 副長と言う役職は、外部から見ると何のためにいるのかわからない役職だ。

 いわゆる軍艦における副長は、艦長の補佐役――つまりナンバー・ツーと認識されることが多い。

 ただし、海軍では副長のことをナンバー・ツーではなく「ナンバー・ワン」と呼ぶのが慣例だ。

 戦闘時には指揮に集中する艦長に代わり、艦の保全に責任を負う立場である。

 

 

 艦長に万が一があった場合には、艦長の職を代行することもある。

 重要で、目立たず、それでいて力をも持てる位置だ。

 だからこそ副長には艦長との間で厚い信頼関係が無ければならない、野心家に副長は務まらないのだ。

 

 

『やあ、ドックの方は普通のようですね』

『規格は……霧が統一したようですね。有難いような複雑なような……』

 

 

 恋と僧の副長2人は、ステーション下層のドックまで下りてきていた。

 ドックのイメージとしては、楕円形のステーション下部の表面の一部が開閉し、航空機の貨物扉のような形で外へと通じる道が出来ている。

 もちろん、航空機の貨物室とは規模がまるで違う。

 恋や僧にしてみれば、横須賀の地下ドックを連想するかもしれない。

 

 

『霧は人類と違って規格を分けませんからね』

 

 

 僧の言っている「規格」とは、ステーションの各所で採用されている工業製品の規格のことだ。

 軌道エレベータのような多国間での国際建造物では、区画の担当国ごとに規格が別々ということがままあった。

 わかりやすく言えば、車両が日本製、レールが欧州製、電気系統がアメリカ製の鉄道とでも言えば良いだろうか――もちろん調整はするだろうが、限界がある。

 

 

『合理的に考えれば、もちろんそれが正しいのでしょうね』

 

 

 正直、各国の規格の違いをどうしようかと言う悩みもあったので、有難くはあった。

 ただ恋のように国と密接に関わっている人間からすると、複雑な気持ちにもなるのだった。

 

 

『さて……3隻分の()()か。準備だけでも骨が折れますね』

 

 

 2人は今、白い宇宙服に身を包んでいた。

 会話も通信越しだ。

 ステーション内部は霧製の循環装置のおかげで空気もあり、呼吸ができる。

 だが流石に宇宙空間と壁一枚で繋がるドックともなると、そうもいかなかった。

 霧であれば、そんなことを考慮する必要は無いのだろうが……。

 

 

『確かに、時間がかかりそうだ』

 

 

 メット越しに、恋はそう応じた。

 目の前には、何もない、がらんどうの乾ドックの空間が広がっている。

 とりあえずの計画では、ここで地上から持ち込んだナノマテリアルと軌道エレベータに使用されているナノマテリアルを使用して、艦体を復元することになっている。

 

 

『……3隻なら、ね』

 

 

 時間は、あまり残されていない。

 恋はさっそく、()()に取り掛かることにした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 奇妙な関係ではあると思う。

 ステーションの燃料廠を確認に行くのは、各艦の水雷長である。

 その中で、梓は他の2人を見ながら奇妙な関係だと思ったのだ。

 アリューシャンで一度会ったが、それ以外はほとんど戦場でのすれ違いだ。

 

 

 だから、奇妙と思える程に他の2人――杏平とロムアルド――について、知っているわけでは無い。

 梓から見れば、どちらも「年下の少年」と言うくくりになるか。

 特にロムアルドは、もはや少年と言うより「男の子」と言った方が良い。

 とにかく、そんあ2人とステーションの燃料廠を確認に行っている。

 そこには、霧が蓄えた弾薬や魚雷も保管されているはずだった。

 

 

「うわぁ、すごいや」

 

 

 無重力の通路を若い2人はすいすいと進んでいく、適応が早くて羨ましい限りだ。

 梓も持ち前のボディバランスで器用に床や壁を蹴り、前に進んでいる。

 だが若い分、杏平やロムアルドの方が動きが軽やかだった。

 そんな折、ロムアルドが子供らしい歓声を上げた。

 

 

 ステーションの待合室に相当するその場所は、壁面は窓になっている。

 地上で言えば空港が近いだろう、滑走路の飛行機が見えるように壁面をガラス張りにするのだ。

 計画通りなら、ここから見える景色には宇宙に進出しようとする宇宙船の姿が見えたのだろう。

 だが今は艦船などあるわけが無く、ステーションの一部と、どこまでも広がる暗黒の星々の世界が見えるだけだった。

 

 

「おー。何かこう言うの見ると、ほんとに宇宙に来たんだなって思えるよなぁ」

「わ、わっ。今の流れ星かなっ」

「おっ、どれだ? かーっ、見逃した!」

 

 

 それにしても、本当に奇妙だ。

 男だからなのか、少なくとも一度は命の取り合いまでした『U-2501』とイ401の水雷長が、無邪気にガラスに張り付いて騒いでいる。

 初めての宇宙に興奮する気持ちはわからないでも無いが、梓はそこまで騒ぐ気にはなれなかった。

 むしろ、どうしてそんな風に騒げるのかの方が理解できなかった。

 

 

「ちょっと。そんな油売ってる時間は無いよ」

 

 

 実際、そんな時間は無かった。

 彼女達は一刻も早くステーションの内情を把握し、地球への脅威を取り除かなければならなかった。

 だから、ただの観光客のように初めての宇宙に喜んでいる時間は無い。

 楽しんでいるところに水を差すのは、気が進まないが。

 

 

 ああ、と、梓は嘆息した。

 まったくもって気は進まないが、仕方がない。

 これは命令なのだから。

 方針、望み、まぁ何でも良い。

 それは、梓がやらなければならないことだ。

 

 

「やれやれ……」

 

 

 腰に手を当てて、溜息を吐く。

 その手は、腰のホルスターに当たっていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まぁ、気まずさを感じていたのは確かだ。

 しかし、だからと言ってそれで手元が狂う程に無能なつもりは無かった。

 加えて、腕っぷしにはそれなりに自信があった。

 まして冬馬の相手は、2人とは言え女性なのだ。

 

 

「甘く見ないでください。私、これでも結構強いですよ?」

 

 

 と言うのは、イ401のソナー手である静である。

 彼女と『U-2501』のソナー手フランセットは2人で並んでいて、反対側の壁に顔面からぶつかっている冬馬を睨んでいた。

 静は、()()()()()()姿()()()()()だった。

 無重力なので床では無く、壁を支点にしている。

 

 

 まぁ、冬馬を()()()直後なのだから、その体勢はむしろ当然だった。

 問題なのは、なぜ蹴ったのかと言う、理由の方だっただろう。

 冬馬がセクハラでも働いたのだろうか?

 なるほどあり得そうなことだが、今回は違った。

 

 

「……凄いわね、格闘技の経験でも?」

「父と兄が台湾のCMCで訓練を受けていました」

 

 

 CMC――台湾の海軍陸戦隊に属する特殊部隊の略称だ。

 そりゃあ強いわけだと、冬馬は納得した。

 何で日本人――の、はずだが――であるはずの父兄がそんなところで訓練されているのかは知らないが、その薫陶(くんとう)を受けていたわけだ。

 これは、目が不自由とは言え、フランセットの方も油断できないかもしれない。

 

 

「よっ……と」

「わ、鉄板入りのブーツで思い切り蹴ったのに」

 

 

 そんな物を仕込んでいたのかい、と、冬馬は心の中で冷や汗をかいた。

 どうりで重いと思った、暗部出身であることに初めて感謝した。

 それに伊達に梓に殴られているわけでは無い、蹴られる瞬間に後ろに跳んで、しかも掌で靴先をガードしていた。

 だからむしろ、ガードした手の方が痺れているくらいだった。

 

 

「それで、理由を聞かせて貰えるかしら?」

 

 

 冬馬と彼女達3人は、ステーションの通信機能を確認に向かっていた。

 少なくとも、霧の量子通信の回復が必要だった。

 地上と何らかの手段で連絡が取れないと、色々と不便をきたすだろう。

 まぁ、その担当がソナー手だったと言うことだ。

 

 

「どうして、()()()?」

「いや、別に()()()()をってわけじゃあ、無いんだなこれが」

 

 

 ふわふわと浮きながら身体を回して、冬馬は衣服の汚れを払いながら、そう言った。

 そう、これは別に冬馬が2人をどうこうしようと言う話では無い。

 もっと、範囲は広い。

 すなわちこれは、『イ404』から『イ401』と『U-2501』への――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 今に始まった話では無い。

 いおりは、姉である「四月一日あおい」と言う女性が嫌いだった。

 その所以は何かと言われれば、あおいの人間的性質――つまり、()()が合わないと言う一言に尽きる。

 

 

 技術力は認めるが、理論よりも感性に頼るあおいは技術屋として邪道だと思っている。

 けれど、一番の理由はそんなところでは無かった。

 主義思想の違いで好悪を決めるほど、いおりは自分を下に見てはいなかった。

 いおりがあおいを嫌いになった理由、それはきっと……。

 

 

「どう言うつもり?」

 

 

 顔を歪めて、いおりはあおいを睨んでいた。

 第2ステーションへエネルギーを供給する太陽光発電プラントに、足を踏み入れたところである。

 霧が自給自足――霧が必要としない食料や飲料水プラントは除外されているが――出来るように組み上げた電力の供給システムは、手を加える必要が無い程に見事に稼働していた。

 

 

「動かないようにお願いします」

 

 

 静菜が、刀の腹をいおりの顎に当てていた。

 冷たい感触が、肌を通して脳に危険を知らせてくれる。

 背中に冷えた汗が滲むのは、止められなかった。

 

 

「ごめんね、いおりちゃん。でも、ずっと前から決まっていたことなの~」

「こんな土壇場で味方の背中を刺すような真似を、前から決めてたって? へえ、とんだ御笑い種だわ」

 

 

 その状況の中で、蒔絵だけが戸惑っている様子だった。

 あおいが肩に手を置いて、宥めているようだ。

 だが見方によっては、余計な動きをしないよう押さえているとも解釈できた。

 そしてそれを見て、いおりは相手が本気なのだと認めた。

 だが、わからなかった。

 

 

(この状況で、私達を排除しようとするのは何故?)

 

 

 現状は、地球の危機だ。

 地球の危機に全ての人類と霧が手を取り合い、協力しようと言うのが今の情勢では無いのか。

 それなのに、何故、今、いおりを――イ401を排除しようとするのか?

 

 

「……紀沙ちゃんは、知ってるの?」

「…………うふふ~」

 

 

 答えない、ただ笑う。

 それは、つまり肯定したと言うことだった。

 

 

(何で?)

 

 

 あおいのこの行動が紀沙の意思によるものだとするのなら、ますますわからない。

 確かに紀沙は元々、この作戦をイ404だけで行うつもりだった。

 だからイ401の存在は余分だったわけで、それは確かだ。

 だが、ここでイ401とイ404が衝突する無意味さがわからないわけが無い。

 

 

「『U-2501』は、ちょっと想定外だったけどね~」

 

 

 ゾルダン達も排除の対象だと、あおいは言外にそう言った。

 つまり紀沙は最初から、あの()()()の本体を1隻で……1人でどうにかするつもりだったと言うことか。

 どうにかする手段が、あると言うことか。

 

 

(……艦長!)

 

 

 艦長――群像は今、紀沙と一緒にいる。

 いおりが知っている紀沙であれば、群像に危害を加えることはあり得ない。

 だけどもしかしたなら、紀沙はもういおりの知っている紀沙では無いのかもしれない。

 だとするならば、群像と言えども安全とは言えない。

 いおりの背中に、さっきとは別の冷たい汗が滲んでいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 管制ルームは、ステーションの上部にあった。

 一応は3階層に分かれているが、無重力の状態では余り意味をなしていない。

 正面の壁面はガラス張り――厳密には、外の光景を映したディスプレイと言った方が正しいか――になっていて、宇宙空間と蒼く輝く地球が望めるようになっている。

 

 

「どうだ、コトノ」

 

 

 そんな中で、『コトノ』と呼ばれた少女は不思議な感情を得ていた。

 天羽琴乃であって天羽琴乃では無い彼女は、現在は「天羽琴乃の記憶を持ったコトノ」と表現するのが正しい存在だった。

 そんな彼女をして、「どうだ、コトノ」と声をかけてくる群像。

 コトノ――大戦艦『ヤマト』の片割れだった少女は、胸中に浮かんでは消える感情に浸っていた。

 

 

「コトノ?」

「……ああ、うん。ごめんね。ステーションに大きな問題は無いよ」

 

 

 今いる管制室もそうだが、空気の循環と浄化のシステムは問題なく動いている。

 人間が最低限活動するに足る環境が、ステーションのほとんどに確保されていた。

 乾ドックのように外と直接面している場所は別だが、そこは宇宙服やパワード・スーツ、あるいは内部移動用の小型艇で入りさえすれば問題ない。

 

 

「そうか。なら後は、建造に必要な電力を確保できるかどうかだな」

 

 

 隣り合って端末を操作しながら、コトノは群像の横顔に想った。

 天羽琴乃は千早群像を愛していた。

 それを今告げたなら、群像はどう思うのだろう。

 照れるか、悲しむか、興味の尽きないところではあった。

 

 

「大丈夫じゃないかな、いおりちゃん達が何とかしてくれるよ」

 

 

 まぁ、言わない。

 結果が見えているから。

 天羽琴乃はそれを墓場まで持っていくつもりだった。

 そして、その墓場が自分(コトノ)だ。

 

 

 群像は、端末の画面から顔を上げていた。

 じっと、どこまでも広がる――それこそ、海よりも遥かに広さも奥行きもある世界――宇宙空間を、見つめていた。

 何を考えているのだろうと、コトノは思った。

 それとも、ただぼんやりしているだけなのか。

 

 

「……妙だな」

 

 

 その時、群像がぽつりとそう呟いた。

 コトノが首を傾げていると、群像は続けた。

 

 

「静か過ぎる」

 

 

 そう言って、席を立った。

 そしてそのまま端末を乗り越える形で、空中に飛び出した。

 無重力なので問題は無いが、安全帯も付けずに良くやると思った。

 すると、どこからともなくイオナがやってきて、空中で彼の身体を支えた。

 

 

 ちくりと、胸が痛くなった。

 イオナはほんの短い時間だけコトノと目を合わせたが、コトノが頷くと、群像の身体を支えながら方向を転換させていった。

 その先には、2人並んで何かを話している様子の紀沙とゾルダンがいるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もう少し、感動するものだと思っていた。

 壁面ガラスの向こう側に広がる漆黒と蒼穹を見下ろして、紀沙は自分が思った以上に冷めていることに気付いた。

 世界中の人間が羨むだろう環境にいながら、ロマンを感じると言うことが無かった。

 

 

「とても宇宙に来た人間の顔とは思えないな」

 

 

 そう率直な言葉をかけてきたのは、ゾルダンだった。

 見た目には変わりが無いように見えるが、実ははしゃいでいるのかもしれない。

 そう思うと、掴みどころの無いゾルダンにも、途端に人間らしさを感じた。

 

 

「あなたは、宇宙にロマンを感じると?」

「ロマン? そうだな……。地球を母なる星と表現するならば、我々はついに母親の腕から脱しようとしている。その意味では、確かにロマンを感じるかもしれない」

 

 

 脱したと言っても、ようやくつかまり立ちをしたと言うレベルだがね、と、ゾルダンはそう言った。

 ゾルダンに詩人の素質があったとは驚きだが、そう言えばドイツはゲーテやハインリッヒ・ハイネの国でもあった。

 

 

「奇妙だとは思わないか?」

 

 

 一方で、詩人の素質はおそらく無いであろう人物が2人に声をかけてきた。

 

 

「奇妙って?」

 

 

 群像だった。

 紀沙が聞き返すと、彼は眼下を指差した。

 そこには、蒼く輝く地球がある。

 地球は丸いと聞いていたが、こうして見ると楕円に見えてくる。

 雲の動き、大地、そして海……全てがはっきりと見えて。

 

 

()()()が見えませんわね』

 

 

 肉声とも電子音声とも違う、不思議な声でそう言ったのは『ヒュウガ』だった。

 コアの状態でふわふわと浮かんでいて、その側には『イセ』も浮かんでいた。

 カーゴの制御コアとしての役割を終えた後は、このステーションのコアとして機能する予定だった。

 そして、言われて気付いた。

 

 

「……あれだけ大きな物が、どうして見えないの?」

 

 

 そうだった。

 地球には、あの巨大な()()()が張り付いていたはずだ。

 あの禍々しい存在が少しも見えず、蒼い地球ばかりが見えているとはどう言うことだ。

 肌にヒリつく程に感じていた圧力も、今はどこかへ消え失せていた。

 

 

 いや、あんな質量のものが消え失せると言うことはあり得ない。

 ()()()()()()

 ここでは無い、()()()

 紀沙は、目を閉じた。

 

 

 ――――『霧の世界(ダイヴ)』。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 次に眼を開けた時、紀沙は自分達が()に落ちていたことを知った。

 

 

「これは、クリミアの時と同じ……?」

 

 

 クリミアの時、ヨハネス・ガウスの『コード』から漏れ出した「絶望」と言う名の泥が、周囲のすべてを侵していた。

 今、この管制ルーム……いや、第2ステーション全体が同じようなことになっている。

 いや、全く同じでは無い。事態はより悪くなっていた。

 

 

 天井や壁、床、ナノマテリアル製の金属の表面に、血管のように赤黒いグロテスクな肉の塊が脈打っていた。

 そして紀沙の周りに肉の根とも言うべく触手の塊が2つ立っていて、それは人の形を――人の身体の輪郭を――形作っていた。

 直感的に紀沙は察した、この2つの触手の塊は群像とゾルダンを取り込もうとしているのだと。

 いわば裏側のこの世界から、表側の現実世界に影響を及ぼそうとしているのだと。

 

 

「う……んっ」

 

 

 気が付けば、紀沙の身体にもグロテスクな触手が絡みついていた。

 足首から脛、太もも、腰へと這い上がり、あるいは背中にへばり付き、さわさわと胸元に這い出てくる。

 袖や襟から衣服の中にまで伸びてきて、不快な熱の感触を肌に感じた。

 生温かい肉の塊が直に肌の上を這う感覚は、言葉に尽くせない程に気持ちが悪かった。

 

「気安く……触る、なっ!」

 

 

 両眼が霧の白に染まる。

 『紀伊』の力を解放した紀沙は、自分の身に這っていた触手を弾き飛ばした。

 かさぶたを引き剥がした時のような、ベリベリと言う音に顔をしかめる。

 すると、すぐ傍で同じような音が聞こえてきた。

 

 

「艦長殿は、相変わらず無茶をするね」

 

 

 スミノが、ふわりと紀沙の横に降り立った。

 紀沙が弾いた触手を踏みつけにするあたり、徹底している。

 見れば、イオナと『U-2501』が群像とゾルダンにまとわりついている触手を引き千切っていた。

 

 

「こんなもの、無茶でも何でも無い」

 

 スミノ、イオナ、2501の3隻の登場を以って、()()()

 地球の()()()とも言うべき、『アドミラリティ・コード』を託された少女達が、全て揃った。

 この状況は言うなれば、()()()にとってのメインディッシュをテーブルに並べたに等しい。

 

 

 ……たまらないね……

 

 

 その時、<霧の世界>に響く声があった。

 その存在は脈打つ肉の、その蠢きの中から現れた。

 上半身だけを肉の根からずるりと這い出して、その顔に嫌な笑みを貼り付けている。

 

 

「なるほど、謎が一つ解けたよ」

 

 

 得心がいった心地で、紀沙は頷いた。

 

 

「お前達の本体(コア)は、宇宙にあったわけだ」

 

 

 姿を現したのは、地球で会ったあの()()()、『コスモス』だった。

 霧がコアを破壊しなければほとんど不死身であるのと同じように、()()()もまた、コアが無事である限り死ぬことは無い。

 そして宇宙から来た()()()のコアの在り処が宇宙であると言うのは、考えてみれば、至極当然のことだったかもしれない。

 

 

「来てやったよ、ここまで」

 

 

 そんな()()()に、紀沙は宣告した。

 ――――私達は、お前達を滅ぼす者だ、と。

 

 

『紀沙ッ!』

 

 

 え? と、紀沙の意識が急に引き戻された。

 視界が現実を映すと、紀沙の視界はゆっくりと後ろへと流れていた。

 何事かと思うと、群像が紀沙の首元に腕を回して引き倒そうとしていたのだ。

 無重力ゆえに、倒れはせずに後ろに流される形になっている。

 

 

 だから、紀沙は見た。

 壁面ガラスの向こう側、暗黒と蒼穹が広がっていたその先が、赤く染まっているのを見た。

 肉が蠢くそれは、まるで――いや、まるで、では無い。

 それは、あの地球に喰いついた巨大な()()()の口腔内の光景だった。

 つまり……。

 

 

「……ッ、兄さ」

 

 

 バクリ、と。

 管制ルームごと、()()()が喰らいついた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

いつか宇宙に行ってみたいな、と思っています(本編と無関係)
何だかんだロマンに惹かれてしまうのですよね。

と、言うところで、それではまた次回。


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Depth105:「被捕食者」

「ちょっとアンタ、大丈夫なの?」

 

 

 『タカオ』の言葉に、翔像は苦笑を浮かべた。

 霧の目から見ても、今の自分の状態が相当に悪いことがわかると言うことだろう。

 それに霧の娘に身体の心配をされると言うのも、彼の今までの境遇を思えば、苦笑と言う形で表されるのも仕方がなかった。

 

 

 いや、これも運命か、と思った。

 奇妙な縁だった。

 『タカオ』は息子達に敗れて人間に関心を持ち、沙保里と言う存在を通して人間を知った。

 そして今、まるで娘のように翔像の身を案じてくれている。

 

 

「1つ、頼まれてくれないか」

 

 

 だから、翔像は『タカオ』に()()()()()を託すことにした。

 まさに頼みは「1つ」だった。

 

 

()()を、子供達に届けてほしい」

 

 

 温かな、優しい輝きが『ムサシ』の甲板に浮かび上がった。

 それは翔像の手の中でふわりと浮かんでいて、見る者を和ませる、そんな光を放っていた。

 ただその輝きに比例するように、翔像の顔から生気が薄れていった。

 髪は色素を薄くし、肌は組織が崩れてボロボロと剥がれていく……。

 

 

「ちょっと、アンタ」

 

 

 『タカオ』の胸に去来したのは、沙保里の死を看取った記憶だ。

 彼女にとっては、トラウマと言っても良い。

 そして今、翔像は明らかに自分の命の源とも言うべきものを翔像は差し出そうとしているのである。

 

 

「良いんだ」

 

 

 そんな『タカオ』に、翔像は言った。

 自分――自分達の役目は終わり、代替わりの時が来たのだと。

 1つの時代が終わり、新しい時代がやって来る。

 その節目に古いものが退場する、ただそれだけのことなのだと。

 

 

「頼む、『タカオ』。これは、きみにしか頼めないことだ」

 

 

 『ナガト』でも『シナノ』でも無く、『タカオ』だからこそ頼むのだ。

 

 

「たのむ」

「……わかったわ」

 

 

 『タカオ』は受け入れた。

 彼女が受け入れても受け入れなくても、翔像は結局そうするだろうことがわかったからだ。

 だが彼女が翔像の頼みを引き受けたのは、決してセンチメンタリズムな感情に流されたためでは無かった。

 

 

「必ず、届けてあげる。千早兄妹のところに」

「ああ……ありがとう、『タカオ』……」

 

 

 権利と責任があると、そう思ったからだ。

 千早兄妹に挑み、打倒する権利――最も、こちらは『タカオ』が一方的にそう思っているだけだが――と、沙保里に対する責任だ。

 『ムサシ』の甲板に降り立って、『タカオ』は蹲る翔像に近付いた。

 

 

 翔像は、そんな『タカオ』に対して顔を上げず、何も言わなかった。

 何も、言わなかった。

 もう何も、言うことは無かった。

 彼は、すでにもう――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 食べることは、快楽である。

 三大欲求の例を挙げるまでも無く、食欲は人間の欲求の中で最も強いものの1つだ。

 だから人間は食べることが大好きだし、美食家と言う存在はその最たるものだろう。

 人間は、「食べる」と言う快楽を最も極めた存在であると言える。

 

 

「……っ、~~~~っ」

 

 

 だが、()()()()()こともまた快楽だと知っている人間は何人いるだろうか。

 食道、と表現するしかない細道で全身を圧迫される快楽を。

 消化酵素を伴うどろりとした液体が、焼けつくように肌を焦らす快楽を。

 コリのある無数の突起が肌の上を滑り、筋肉を痙攣させるその快楽の強さを。

 

 

 自分と言う存在を、その形を(とど)めようと努力したのは最初だけだった。

 肌の表層からじわじわと侵蝕してくる感覚に、意識はあっという間に喰い破られてしまった。

 意識の防御を破られてしまえば、後にはむき出しの中身しか残らない。

 そして()()()はそこに、無遠慮に触手を突き立ててくるのだ。

 

 

「~~っ、ッ……!」

 

 

 紀沙は、暗い熱さの中にいた。

 

 

「……ッ、あ、ガ……~~ッ」

 

 

 視覚は闇に囚われ。

 聴覚は水音に犯され。

 嗅覚は異臭に破壊され。

 味覚は肉の味に占領され。

 触角は暴力の中に突き落とされて。

 

 

「は、アアァア」

 

 

 ()()

 ()()()()()

 ()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()

 

 

 紀沙は、剥き出しの自分と言うものを感じていた。

 裏返せばそれは、素のままの自分と言い換えることもできる。

 ()()()と言う初めての経験に、余計なものを剥ぎ取られたような心地だった。

 余分なものを全て意識の外にかき分けて、最も大きく、最も自分を形作っているものが外へと露出してくる。

 

 

 

 そして最後には、何もわからなくなる。

 自分が何者で、何のために何をしていたのか、わからなくなる。

 どろどろに溶けてしまって、何も残らなくなる

 何もなくなって、快楽と言う名の暴力の中に消えて――――いや。

 

 

「あ、は……アハ、アハハ」

 

 

 どんな美食家も、どんな生き物も手をつけない食べ物がある。

 最後に残るもの。

 食べることで、栄養にならないもの。

 ――()

 ――――()()()()()()()

 

 

 紀沙は知っていた。

 はっきりと理解していた。

 ()()()でさえ手を着けずに残した、剥き出しの、()()()()

 その食べ残しこそが、()()()()()()()なのだと。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――危なかった。

 僧を抱えたまま、恋は溜息を吐いた。

 もう何が起きても驚かないと言う心地だったが、流石にこれには驚いた。

 ドックの隔壁を突き破る形で、グロテスクな肉の塊が押し寄せてくるとは。

 

 

「まぁ、僕としては好都合な点もあったわけですが」

 

 

 幸い吸い出されて外に放り出されると言うことにはならず――膨張した肉が、穴が広がる前に塞いでしまったからだ――に済んだ。

 ただ宇宙服を着込んでいたため、機敏な動作でかわすと言うことは出来なかった。

 衝撃に放り出されて、ドックの壁に叩きつけられてしまったのだ。

 

 

 恋自身も、一瞬だが気を失っていた。

 スーツの警告音で叩き起こされて、ドック内部に膨張して脈打つグロテスクな肉々しい空間に驚いて意識がはっきりとした。

 メットのガラスに罅が入っていて、応急用のテープで塞いでから、僧を探したのだ。

 

 

「さりとて、メインドックが使えなくなったのは困りましたね……」

 

 

 僧はすぐ近くに浮かんでいたので、探すのには特に苦労しなかった。

 恋と違って完全に気を失っていて、しかし危険な状態だった。

 より強く衝撃を受けたのだろう、スーツの損傷が恋よりも大きかった。

 特に空気供給用のチューブからエア漏れを起こしているのが重大で、気絶はそのせいでもあった。

 

 

「アレルギー避け……でしたか? マスクが無ければ死んでいましたね」

 

 

 僧は元々、アレルギー避けのための――どこまで本当かわからないが――高性能マスクを被っていた。

 そのせいで宇宙服を着るのにかなり手間取っていたが、今はそのマスクが命を繋いでいた。

 マスクには1時間ほどエア供給を行う機能が備わっていて、その緊急装置は宇宙空間でも正常に動作していた。

 

 

 僧の身体を抱えて、その際、恋は顔を顰めた。

 呼吸を整えて、ふわりと浮かんで進む。

 このメインドックは、乾ドックも含めてもう使い物にならないだろう。

 幸い素材のナノマテリアルはまだ運び込んでいなかったので、手詰まりと言うわけでは無い。

 とは言え……。

 

 

「今のような衝撃がもう一度来ると、ステーションでは保たないでしょうね……」

 

 

 それは、ぞっとしない想像だった。

 ぜひともそうならないように祈りながら、恋は苦労して僧を運んでいた。

 置いていくことも出来ないが、メインのハッチはあの肉の塊に塞がれてしまっていた。

 サブの通路が生きていれば良いが、と、そう思いながらゆっくりと浮かび進む恋の左足には、衝撃の際に飛んできていたのだろう、鉄の杭が深々と突き刺さっていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 梓にとって、誤算は2つあった。

 1つ、()()()が第2ステーションを襲ってきたこと。

 上層に喰らいついて来た()()()の触腕と触手はステーションの施設を侵食し、空間を何かの動物の食道のようなグロテスクな物へと変えてしまった。

 

 

 不幸中の幸いだったのは、破壊では無く侵蝕であったため、空気と気圧が維持されたことだ。

 おかげで宇宙空間に放り出されることも、窒息することも無かった。

 ただ、もちろん肉の部分に触れることは出来ない。

 だから足場が少なくなった、ただでさえ無重力下での()()は難しいと言うのに。

 

 

「心外だなぁ、お姉さん! 知らなかったの?」

 

 

 そして2つ目の誤算、むしろこちらの方が深刻だった。

 杏平? 確かに軍系列の学校を出ているだけに基礎体力はあるが、戦闘のセンスは無かった。

 だからそれほどの脅威ではない、だがもう1人の方は梓に確実な脅威を与えていた。

 ロムアルドである。

 

 

「ヨーロッパじゃ、子供の方が強いってね!」

 

 

 棒付き飴を舐めながら、ロムアルドが梓の視界を縦横に駆ける。

 その手には、子供には似つかわしくないナイフが握られていた。

 刃がやたらにギザギザとしている、分厚いナイフだ。

 それを逆手に持っていて、柱や他の遮蔽物を盾にしながら、右から左へと大きく駆けている。

 

 

「冗談じゃないよ、まったく……!」

 

 

 ロムアルドを追いかけて、銃弾が跳ねる。

 梓の拳銃によるものだが、一発撃って怖さがわかった。

 地上と宇宙空間では、銃弾の()()がまったく違う。

 また、撃った反動で身体が想像以上に後ろへと下がってしまう。

 

 

 それでも、撃つ。

 撃たなければ、今にもロムアルドが懐に飛び込んできてしまうからだ。

 弾切れは死を招きかねない、こんなギリギリの状況は梓も初めてだった。

 だから言うのだ、「冗談ではない」と。

 

 

「まさかこんなところで、ヨーロッパの少年兵(ガキ)に出くわすとはね!」

「先輩って呼んでも良いけど?」

()かせ、ガキが!」

 

 

 欧州大戦の少年兵。

 霧の艦艇の乗っている以上は普通の子供では無いとは思っていたが、まさか少年兵とは。

 誤算だった、しかもロムアルドは明らかに梓よりも実戦で()()()()()

 それに……。

 

 

「どぉわっ!?」

 

 

 こっそりと後ろに回ろうとしていた杏平を、一発撃って牽制する。

 脅威では無いが、ロムアルドの脅威の前に懸念材料にはなる。

 そう、例えばこうして牽制をしている前に。

 

 

「頂き!」

「……ちぃっ!」

 

 

 天井に跳んで、蹴って、梓を目掛けて飛び込んできた。

 梓が銃を持つ腕を向けるよりも早く、ロムアルドが梓の懐に飛び込んだ。

 分厚いナイフの刃が、梓の腕に灼熱感を生んだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 敵対している者同士が、一時的に対立を棚上げすることがある。

 それは共通の脅威が生まれた時で、そのひとつの結果が人類と霧の連合軍だった。

 そしてそれよりは規模は大いに縮小するが、この3人――もっと正確に言えば、2人と1人だが――についても、同じことが言えた。

 

 

「ジェット噴射が欲しいところだな!」

「気持ちはわかりますけど!」

 

 

 走る、ならまだ勝機はあったと思う。

 しかしここは宇宙、ステーションは無重力空間である。

 宇宙空間で重力を生むにはいろいろと条件があるのだが、この第2ステーションはそれを満たしていない。

 よって、移動は全て()()()()となる。

 

 

「微妙に落ちるのがムカつくな!」

「気持ちはわかるけれど」

 

 

 不思議なもので、遮蔽物にぶつかるまで永遠に同じ向き・速度……と、言うわけでは無いのだった。

 おそらく目に見えない抵抗があるのだろうが、この際、理屈はどうでも良かった。

 とにかく、中途半端に逃げにくいと言うことだった。

 もっとも、逃げ場など無いに等しかった。

 

 

 何故なら、壁や床からグロテスクな赤黒い肉がどんどんと盛り上がってきているからだ。

 それは外に近い側から通路を埋め始めている。

 つまりステーションそのものがこの、()()()()()に変わりつつあったのだ。

 まぁ、要するにだ。

 食べられそうになっている、と言うわけだ。

 

 

「あ、すみません碇さん。ちょっと足場になって頂けますか?」

「は? 足場?」

「あ、そこに捕まって足を伸ばしてください!」

「え、こう?」

 

 

 通路のパイプを掴んだ冬馬の脚に、静が掴まる。

 静はフランセットを片腕で抱えている――無重力とは言え、成人女性を片腕で抱えるとは相当の筋力である――ため、2人分の体重が冬馬の諸々の筋肉にかかることになった。

 ぐふう、と、冬馬がうめき声を上げるのも仕方ないだろう。

 

 

「ありがとうございます!」

「お、おう……って、おいいいぃっ!!」

 

 

 そのまま冬馬を支点に方向転換し、別の通路に入り込んでいった。

 もちろん冬馬は後に残される形になるので、そのままぼうっとしていたら大変危険だった。

 慌ててパイプを蹴り、静達の後を追った。

 通路が()()()に覆われたのは、その直後のことだった。

 

 

「ちっ……無事だったんですか」

「ちっ!? え、今ちって言った!? 可愛い顔してとんでも無い性格だなお前!?」

「襲い掛かって来た相手を好きになる女はいないのではなくて?」

「こっちはいちいち正論吐いてきやがるな!?」

 

 

 危険度の差は甲乙つけがたいものがあるが、このグループが最も賑やかだろう。

 それだけは、確かだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦場における有利不利は、コインの裏表のようなものだ。

 少し状況が変わるだけで、あっと言う間に逆転してしまう。

 

 

「これで満足なの?」

 

 

 ただ、あおいにとってそんなことは(はな)から興味が無かった。

 有利とか不利とか、表とか裏とか、どうでもよかった。

 どうせ全ては思い付きだ。

 深い意味など無いし、何があっても「ああ、そっかぁ」で済んでしまう。

 

 

 この世に生まれ落ちた時から、あおいはそんな風に生きていた。

 イ404に乗ったのも、何となく。

 統制軍に入ったのも、何となく。

 家を出たのも、何となくだ。

 

 

「これが、アンタの見たかった景色なの?」

 

 

 さぁ、それはどうだっただろう。

 何かを見たいとか、辿り着きたいとか、思ったことは無かった。

 何となく。

 何となく、そこに立っていただけだ。

 

 

「ごめんなさいねぇ、いおりちゃん」

 

 

 だから、あおいは何も残せない。

 だからあおいは、何も渡せない。

 そして、理解が出来ない。

 何かを残そう、何かを渡そうと言う気持ちが良くわからない。

 最もわからないものは。

 

 

「お姉ちゃん。いおりちゃんが何で泣いているのか、わからないの……」

 

 

 妹との、接し方。

 ()()()の紀沙のクルーになったのは、それを知ろうとしたからなのかもしれない。

 けれど結局、わからないままだった。

 

 

「今さら、お姉ちゃん(づら)しないでよ」

 

 

 いおりが、あおいに銃を向けていた。

 静菜から奪ったものだ。

 軍系列の学校を出ているいろいが、拳銃の撃ち方を知らないと言うことは無い。

 いおりに刀を突きつけていた静菜は、少し離れた位置にいた。

 

 

 ()()()の衝突の衝撃は彼女達のところまで及んでいて、無重力ゆえに衝撃を逃がし切れず、位置が入れ替わってしまった。

 刀を手に静菜は様子を窺っている、いおりに飛び掛かるタイミングを測っているのか。

 蒔絵は、あおいの傍にいた。

 

 

「お姉ちゃんって言うのは、もっと……」

 

 

 放り出されて、壁際に掴まって。

 困惑しきった顔で、あおいといおりのやり取りを見ていた。

 プルプルと震え始めたいおりの様子に、蒔絵の不安は頂点に達しようとしていた。

 あおいも、煽りこそすれまともな受け答えをしていない。

 

 

 彼女達のいる通路はまだ()()()の侵食が及んでいないが、今にも来ないとも限らない。

 気付きようも無いが、危険地帯だ。

 そんな中で、どうしてこんなことになっているのか。

 蒔絵には、わからなかった。

 わからなかったけれど、けれど……!

 

 

「もっと、何かさあ……あるでしょう!?」

「やめて!!」

 

 

 引き金に指が近づくのを見て、蒔絵は飛び出した。

 むしろ、あおいはそれにびっくりした顔をしていた。

 遠くで、静菜が跳んだのも見えた。

 そして、そんなタイミングで。

 ――――天井から、()()()の肉が溢れてきた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()

 複数形で表現されているものの、その実、()()()()()()だった。

 単体でありながら群体であり、群体でありながら末端は個々の意識をも有する。

 多くの銀河が、多くの惑星が、多くの文明が、()()()によって()()()にされた。

 

 

 捕食と言う行為は、「相手を取り込む」と言う意味において最もポピュラーな方法だ。

 問題は()()()がいわゆる満腹を求めて相手を取り込んでいるわけでは無い、と言うことだ。

 そもそも空腹と言う感覚が無く、捕食は栄養補給ですらない。

 ()()()にとっての捕食行為は、相手を理解する唯一のツールなのだった。

 

 

 ()()()()()()?。

 

 

 そしてこの――太陽系で最も膨大な情報を持つコア(コード)を呑み込んだ後、()()()が得たのは「困惑」だった。

 捕食し、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)していく。

 そうして一体となっていくことで、()()()は喰らった相手を理解するのだ。

 理解する頃には、喰らった相手はすでに()()()そのものになっている。

 そして()()()は、次なる捕食対象を求めて広大な宇宙を彷徨(さまよ)うのだ。

 

 

 しかしここに、そうならないものがいた。

 

 

 ()()()は、困惑した。

 今までそうしてきたように、喰らい、少しずつ溶かして理解へと至ろうとしたのに。

 それなのに、どうしてか()()はいつまで経っても消えなかった。

 他のものが全て溶け出してしまっても、()()だけは溶けなかった。

 

 

 食べても、食べても。

 喰らっても、喰らっても。

 溶かしても溶かしても、()()()()()()

 ()()はどうしても、()()()と一体化しようとはしなかった。

 

 

 ()()()()()()

 

 

 困惑した、理解できなかった、()()()にすることが出来なかった。

 こんなことは、長い……永い生の中で初めてのことだった。

 あえて表現すれば、ふぐの毒袋のような。

 ほとんどが溶けてもなお、こちらを拒むように毒素を吐き続けているような。

 理解できない、理解不能、理解不能、理解不能。

 

 

 ――――()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ぐしゃ、と、鈍い音が響いた。

 トーコが、管制室の扉に体当たりをした音だ。

 潰れたのは扉を覆う赤黒い()()()の肉片と、そしてトーコ自身の身体だった。

 

 

「のわあああぁっ!?」

 

 

 肉の中に沈み込む前に、慌てて離れた。

 その際、腕の肌がいくらか引き千切られてしまった。

 大した傷では無いが、精神的なダメージは大きかった。

 勢いよく離れたため、無重力の中でばたばたともがくことになる。

 

 

「くがああ……。あ、姐さん。艦長(ボス)……」

 

 

 管制室から爆発音が聞こえて駆け付けたは良いものの、この様だ。

 トーコが来た時には、すでに管制室は()()()で充満していた。

 だからトーコは、中に入ろうと体当たりを敢行したのである。

 だが結果は見ての通り、一方的にダメージを負うだけだった。

 

 

「ち、畜生。いったい、何がどうなってるっスか」

「……紀沙ちゃん! 皆!」

 

 

 その時、トーコが通って来た通路を誰かが駆けてきた。

 誰かと思えば、良治だった。

 白衣をたなびかせて駆けてきた彼は、管制室から今にも溢れそうな()()()を目にして、表情を青褪めさせた。

 内側で何が蠢ているのか、想像するだけで恐ろしい。

 

 

 むしろ、よく扉を打ち破って溢れてこないものだと思った。

 問題は、逆にこちらから中に入ることも出来ないと言うことだ。

 扉の向こう、管制ルームには紀沙達がいたはずだ。

 中にいた者達はどうなったのか、まさか、と最悪の事態が脳裏を掠めた。

 

 

「だああああああぁっ!!」

 

 

 トーコが、再びの体当たりを敢行した。

 そして当たり前のように飲み込まれかけて、慌てて離れる。

 当然、ダメージも繰り返しだ。

 肌が千切れて悶えるところまで、まったく同じである。

 

 

 しかし、彼女はめげなかった。

 再び立ち上がり、壁を蹴って体当たりをする。

 何度同じ失敗を繰り返しても、諦めない。

 もう一度、いやもう一度、さらにもう一度――もう一度だ!

 

 

「ね、ねぇキミ。そんなんじゃ意味ない……」

「何でわかるんスか! やってみなきゃわかんないじゃないっスか!」

「いや……やってるからわかるって言うか」

()()()()()()()()!」

 

 

 気合一発、もう一度。

 余りにも愚直な突進に、良治は唖然とした。

 同じ失敗を繰り返すのは、どう考えても合理的では無い。

 正直、真似をしたいとは――真似をしたら良治は死ぬだろうが――思わなかった。

 

 

 だが、どうしてだろう。

 良治は、トーコの愚直さに少しだが憧れのような感情を抱いた。

 あのトーコの姿は、良治にはできなかったことそのものだからだ。

 彼は結局、()()と体当たりで接することが出来なかったから……。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

消化された後、最後に残ったのが本当の自分。
そんなお話でした。

それでは、また次回。


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Depth106:「毒」

 その()()は、突然引きこされた。

 それまで軌道エレベータの第2ステーションを呑み込んでいた()()()が、蠢いていたグロテスクなその肉が、ぴたりと動きを止めたのだ。

 何かを確かめるように、内部だけが僅かに動いている、そんな状態だ。

 

 

 しかしそんな状態も、そう長くは続かなかった。

 不意に、()()()が激しく暴れ始めた。

 それはまるで、肉食獣に食らいつかれた草食獣のような。

 いや、喰らった草食獣の毒にもがく肉食獣のような。

 

 

 それまで漆黒の宇宙に紛れていた巨大な黒い触腕が、突然、姿を見せた。

 頭足類の吸盤が外れるように、地球に喰らいついていた触腕が、宇宙空間を舞った。

 それらは全て第2ステーションに叩きつけられて、喰らいついていた()()()ごとステーションを覆った。

 嗚呼、そして、何と言うことだろう。

 

 

 人類の叡智を込めて築かれ、霧の技術によって築かれた長大な軌道エレベータが、悲鳴のような軋みを上げ始めた。

 元々が、構造的な脆弱さを抱えている施設である。

 ケーブルが千切れ、軌道が剥がれ、柱が罅割れて――いずれも、地球上で最も強靭に作られていたにも関わらず――半ばから、折れ、砕けた。

 

 

 巨大な破片が宇宙空間に飛散し、人類に僅かに残された人工衛星の大半がこれに巻き込まれる。

 さらに地球の引力に引かれ、地球圏に無数の破片が降り注ぐ。

 大気圏で燃え盛る破片は、人類に多大な影響を与える死の流星群と化した。

 地表から迎え撃つ無数の光が見える、あれは海上の霧の艦艇が放っているものだろうか……。

 

 

 そして最も大きな塊は、()()()の蠢きによって大小を変えながら、衛星軌道上に静止していた。

 毎秒およそ3キロメートルの速度で、ゆっくりと、しかし高速で動き続けている。

 まるで、何かを押さえつけようとしているかのように。

 毒を喰らって、吐き戻そうとするのを我慢するかのように。

 しかしそうした耐え方は多くの場合、長くは保たないものだ。

 

 

『――――! ――――!』

 

 

 ぼこん、と、一部が跳ねる。

 そうなるともう押さえられない。

 ()()()にとって()()はあまりにも異物だった。

 2か所目、3か所目と、次々に跳ね、泡立ち、膨張して。

 

 

『――――――――!!』

 

 

 そして、突然。

 ()()が、始まった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 さしもの『コスモス』も、これには驚いた。

 彼はもはや()()の役割を終えて母なる()()()の一部と化していたが、あえて彼の意識を()()()の意識の代表として表現している。

 それはつまり、()()()の驚きだった。

 

 

 だって、今までそんなことがあり得ただろうか?

 幾千幾万と言う年月を経て生き続けてきた()()()にとり、こんな経験は初めてだった。

 食した相手がただの人間でも、あるいはただの霧でも、こうはならなかったろう。

 『アドミラリティ・コード』を得た、つまり霧化した人間だからこそ。

 増幅された感情こそは、()()()にとっての毒となったのだ。

 

 

「おや」

 

 

 『コスモス』の|顔()()が、細い掌に掴まれた。

 ここは()()()の腹の中、「女の腕」を形作ることなど不可能な場所のはずだった。

 いや、一度は()()も溶けて消えてしまった。

 ()()()したのだ、『アドミラリティ・コード』の力を使って。

 

 

「きみは」

 

 

 何と言う強い感情。

 いや、情念?

 他の全ては溶けて消えてしまっても、その感情だけは消えることが無かった。

 ()()()の歴史上、それは初めてのことだった。

 

 

 ()()()()

 

 

 『コスモス』の(コア)が、女の腕に握り潰されてしまった。

 いや、少し違う。

 握り潰したと言うよりは、()()()()()()と言った方が正しい。

 まるで吸い込まれてしまったように、『コスモス』を構成するナノマテリアルが吸収されたのだ。

 そしてそれは、『コスモス』が消滅した後もまだ続く。

 

 

 最も顕著だったのは、管制ルームだろう。

 管制ルームを覆い尽くしていた()()()の肉塊が、もがいていた。

 ある一点に向かって、グロテスクな音を響かせながら、肉塊が収縮している。

 そして、それは何かの形を形作っているようだった。

 

 

「…………」

 

 

 それは、人間の形をしていた。

 ()()()を構成するナノマテリアルを逆に奪い取り――()()()の吸収の原理は、まさにナノマテリアル化した上での奪取だった――一度は失ったその肉体を、再構成したのだ。

 細く柔らかそうな肢体、色素の薄い顔、跳ねの強い黒髪。

 

 

 それは、人間の女性の姿をしていた。

 周囲の()()()の肉塊はすべて、()()の背中に呑み込まれていった。

 その胸には、赤く輝く大きな宝石(コア)が輝いていた――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 呻き声を上げて、群像は身を起こした。

 何が起こったのか、前後の記憶が――全身が粘り気のある液体で濡れていた、空気に触れるとすぐに乾いたが――無くなっている。

 だから聡明な彼をして、一瞬、自分の状態を認識することが出来なかったのだ。

 

 

「群像、大丈夫か」

「イオナ……。うっ、いったい何があったんだ……?」

 

 

 傍にイオナがいてくれたことだけが、救いだった。

 管制ルームは破壊の限りを尽くされていて、機器の破片がそこかしこに浮かんでいた。

 まるで強力な酸にでも溶かされたかのように、原型を留めているものは何も無かった。

 確か、管制ルームごと()()()に襲われた気がしたが……。

 

 

「艦長、艦長っ。大丈夫ですか!?」

「……騒ぐな、大丈夫だ」

 

 

 少し離れた場所に、ゾルダンと『U-2501』がいた。

 心底から心配しているのだろう『U-2501』をぞんざいに押しのけて、ゾルダンは頭を振った。

 そうしても、意識がはっきりすることは無かった。

 まるで初めて目が見えるかのように視界が霞んでいて、覚醒しきれない。

 

 

「何か、酷い苦しみの中に突き落とされていたような気がするが……っ!」

 

 

 ()()()()()

 そして、()()()()()

 ()()を見た時、ゾルダンはまずそんな相反する2つの感情を得た。

 あれは本当に、自分の知っている少女なのか。

 

 

「紀沙……?」

 

 

 群像は、自信なさげに少女に呼びかけた。

 姿形は、確かに紀沙だった。

 跳ねの強い黒髪も、しなやかさと強靭さを備えた四肢も、清廉さと危うさを同居させた雰囲気も。

 何もかもが紀沙だ、が、何もかもが紀沙()()()()

 

 

 最も違うと感じたのは、眼だ。

 これまでにあった、いわば生命の輝きと言うべきものが見えない。

 無だ。

 虚無そのものを放り込んだかのように、その瞳は何も映していなかった。

 

 

「……おかしい」

「イオナ?」

 

 

 紀沙が、コツ、と()()()()()()()()()()()

 ()()()()

 どうして、自分達は()()()()()()()()()()()

 ――――()()()()()

 

 

「下がれ、群像。様子がおか」

 

 

 イオナのメンタルモデルの身体が、揺れた。

 視線を落とすと、紀沙の片手が、手首まで埋まっていた。

 イオナの腹部に、深々と。

 いっそ、あっけない程に。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どうやら、収まったようだ。

 静かになったステーションに、冬馬は安堵の溜息を吐いた。

 

 

「いや、死ぬかと思ったなぁ」

「そうですね、生きているのが不思議です」

「悪運が強いと言うべきかしらね」

「……何で俺を見て言うんですかね」

 

 

 どこかの部屋の床に大の字に()()()――やはり、第2ステーションに重力が発生していた――いる冬馬は、両腕が動かせない状態だった。

 と言うのも、両腕をそれぞれ静とフランセットが枕にしていたためだ。

 別に美味しい思いをしていたわけでは無く、単純に2人を抱えて部屋に飛び込んだ直後、()()()の肉塊が何かに引き寄せられるように消えてしまったからだ。

 

 

 まぁ、要は疲れ切っていたのだ。

 むしろ部屋に追い詰められた時点で危機一髪具合がわかろうと言うもので、あと一歩で取り込まれるところだった。

 そして3人ともに、第2ステーションに重力が発生し始めたことに気付いている。

 

 

「こうして見る地球って言うのも、オツなもんだねぇ」

 

 

 例によって、部屋の壁面の1つが外を映し出している。

 ただこれまでは地球は()に見えていたのだが、今は()に見えている。

 つまり、いつの間にか第2ステーションそのものがひっくり返っていた。

 おそらく、()()()が衝突した際に反転してしまったのだろう。

 

 

「他の皆は大丈夫でしょうか」

「この状況では、お互いの位置を知るだけでも困難だものね」

「まぁーな。それにご丁寧に……閉じ込められちまったし」

 

 

 ()()()の体液……体液?

 まぁ、とにかく()()()が覆い尽くした場所には酸性の液体が付着するようで、消化液とでも言おうか、とにかくステーションの内部構造をめちゃくちゃにしてしまったのだ。

 要するに3人のいる部屋の出入り口も、変形して出入りが出来ない状態にされていた。

 3人に争う様子が見えないのは、そう言う事情からだった。

 

 

「まぁ、何だ。こんなめちゃくちゃな状況だ」

 

 

 美少女と美女に挟まれると言う羨ましい環境にありながら、冬馬は疲れ切った溜息を吐いた。

 

 

「誰か、ヤバい状況になってる奴がいてもおかしくは無いわな」

 

 

 その冬馬の言葉は、予測と言うよりは、ほとんど事実に基づいた感想だった。

 それだけヤバい状況、あと一歩で命を失いかねない状況だった。

 実際、冬馬のその言葉は、まさに事実を指摘していたのである……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 子供の頃は、そんなに仲が悪かった記憶は無い。

 変わったのは姉の方、ずっとそう思っていた。

 だけど本当は、先に離れたのは自分の方だったのだ。

 いおりは今、素直にその事実を認めていた。

 

 

「お母様を……」

 

 

 いおりの腕の中で、あおいは言った。

 囁くような声だった。

 いおり達の母は、数年前に病気で亡くなっている。

 技術的には、治せない病気では無かった。

 

 

「お母様を、生き返らせてくれるって。お願いしたのよ」

 

 

 霧の海洋封鎖は、医療をも蝕んでいた。

 医師、機材、医薬品。

 日本国内で調達できないものが、余りにも多すぎた。

 海洋封鎖さえ無ければ、治せない病気では無かった。

 

 

 いおりが群像達と行動を共にするようになったのは、その頃からだ。

 何かから逃げるように、いおりは霧の技術にのめり込んでいった。

 その時、母を殺した――直接的では無いとしても――霧の方へと駆けて行ったいおりを、あおいはどんな気持ちで見つめていたのだろう。

 ……紀沙のクルーになった遠因が、そこにあるような気がしてならなかった。

 

 

「そんなの」

 

 

 クルーの多くは、紀沙を妹のように思っていた部分がある。

 あおいもその例に漏れない。

 だが彼女だけは、スミノとはまた別の意味で、紀沙と同志的な関係にあったのだ。

 イ404のクルーの中で、あおいだけはそうだった。

 だから彼女は、紀沙に取引を持ちかけたのだ。

 

 

「そんなの、無理に決まってるじゃない……!」

 

 

 霧のメンタルモデル。

 あれ程に高度な「肉体」は、どこを探しても無い。

 まして、スミノは紀沙の身体を再生させたこともあったでは無いか。

 けれどそれは、命では無い。

 単なる容れ物に過ぎない。

 

 

「わかってるわ~。紀沙ちゃんも、そう言ってたもの」

 

 

 そして紀沙が、そんな約束をするはずも無い。

 死者は、けして生き返らない。

 それだけは、霧の力をもってしても変わらない現実なのだった。

 

 

「それでも、身体さえあれば。後は……情報だけ、じゃない」

 

 

 あおいの背中が、朱に塗れていた。

 すぐ近くで、蒔絵がしゃくり上げていた。

 静菜は床に膝をついて、そんな蒔絵を抱きしめてやっていた。

 いおりの視線は、あたりを泳いで定まらない。

 

 

「私には……それしか、出来ない……から……」

「……馬鹿……ッ」

 

 

 背中が、大きく抉れていた。

 いおりを庇って()()()に触れたのだ。

 肉が削がれて、朱に塗れた中に露出が骨が見える。

 床には、大きく赤い血溜まりが出来ていた。

 

 

「馬鹿ぁ……ッ」

 

 

 あおいは、笑った。

 ああ、また失敗した。

 そんな風に、笑ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イオナは、自分の中の決定的なものが紀沙に握られていることを知った。

 それは抗いようが無く、イオナは抵抗を即座に諦めることにした。

 ここで力を使うくらいなら、と。

 

 

「イオナ!!」

 

 

 崩れ落ちる。

 まさにそんな様子で、イオナは両膝をついた。

 群像は倒れるイオナを抱き留めようとした。

 だが、それは出来なかった。

 

 

 イオナのメンタルモデルの身体が、ナノマテリアルの粒子となって消えてしまったからだ。

 瞬間、群像の表情が悲哀に歪んだ。

 だがそれは、消える刹那のイオナと視線を交わした瞬間に消えた。

 抱き留めようと伸ばした掌が、イオナの最後の一粒子を握り締める。

 その手は、微かにだが確かに震えていた。

 

 

「紀沙……」

 

 

 数瞬の瞑目の後、群像は顔を上げた。

 そこには、紀沙が立っていた。

 その手には、蒼く輝く、不思議な形をした宝石のようなものが握られていた。

 群像には、それが何かわかる。

 ()()()()()()()

 

 

「お前」

 

 

 群像が、言葉を続けようとした。

 まさにその時だ、不意に影が落ちてきた。

 それは紀沙の後頭部のやや上に姿を見せた、長い髪をたなびかせながら。

 『U-2501』が、紀沙に襲い掛かった。

 

 

(貰った……!)

 

 

 必殺のタイミング。

 紀沙に何が起こったのかはわからない。

 だが確実に言えることがある。

 今のこの状態の紀沙は、ゾルダン・スタークにとって脅威だと言うことだ。

 『U-2501』にとっては、行動する理由はそれで十分だった。

 

 

「あ……」

 

 

 声を上げたのは、誰だったか。

 『U-2501』が感じたのは、胸の下を何かが撫でたと言うことだった。

 次に感じたのは、急激な脱力感。

 メンタルモデル――ゾルダンは好いてくれないが――の身体に、エネルギーが供給されなくなった。

 

 

 ()()()()()()()

 紀沙の手の中で輝く()()()()を見つめながら、『U-2501』は消えた。

 床に溶けるように、メンタルモデルの構成が解けた。

 雪の結晶がそうするように、ナノマテリアルが一瞬だけ輝いて消える。

 

 

「…………」

 

 

 沈黙。

 重苦しい沈黙が、その場を支配した。

 誰もが状況の理解に思考力を割いていて、次の行動を決めかねていたのだ。

 ただ1人を、除いては。

 

 

「素晴らしい……!」

 

 

 そのただ1人であるスミノは、興奮冷めやらぬと言った風に両手を広げていた。

 そんなスミノに、紀沙は視線を向ける。

 次の獲物を見定めたその眼に、スミノはやはり、いつもの薄笑いを浮かべていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 イ404を復元するには、イ401と『U-2501』が邪魔だった。

 しかしその2隻は、紀沙の手によってコアを抜かれて無力化された。

 身体のすべてをナノマテリアル――いや。

 ()()()と化した紀沙の手によって。

 

 

「ふん……」

 

 

 地上から持ち込んだナノマテリアルで、50パーセント。

 そして、()()調()()で50パーセント。

 イ404の艦体が、一気に形作られていく。

 それは、スミノのメンタルモデルにも影響を与えていた。

 

 

 スミノの肌に、智の紋章(イデアクレスト)にも似た黒い紋様が浮かび上がっていた。

 これはスミノのメンタルモデルが、コアを通して紀沙と繋がっているためだろう。

 紀沙の変化を、最も敏感に感じ取っているのがスミノだ。

 肌の黒い紋様を一瞥して、スミノは紀沙を見つめた。

 

 

「艦長殿に強い気持ちが無ければ、()()()に喰われて終わりだったろう」

 

 

 ()()()がこれまで喰らって来たもの。

 それは無機物であり有機物であり、恐怖であり諦観であり、あるいは畏怖であり恐怖。

 しかしこの地球で、()()()は初めて「毒」を喰らってしまった。

 しかもその毒は、()()()に向けられたものですら無かった。

 

 

 想像できるだろうか?

 

 

 自分を消滅させようとしている相手では無く、いやその最中であっても、その感情の矛先が他者へ向いていると言うことを。

 ()()()に殺されかけてなお、()()()()()がそれを上回ると言うことを。

 他者への憎悪、それこそは()()()がかつて出会わなかった感情。

 しかし、()()()捕食(同化)を跳ねのける程の強烈な憎悪は、尋常では無い。

 

 

「人としての構成要素を全て奪われたキミに残ったのが、ボクら霧への憎悪だった」

 

 

 救いが無いと、人は言うかもしれない。

 これまで戦い抜いてきて最後に残ったのが憎悪などと、余りにも哀しいと言うかもしれない。

 だが、そんなことは言わせておけば良い。

 紀沙にとって、憎悪(それ)は自分が自分であるために最も失うべからざるものだったのだ。

 これはもはや、生き様なのだ。

 

 

「さぁ、行こう。ボクの艦長殿。キミの願いを叶えるために」

 

 

 がぱっ、と、床に穴が開いた。

 紀沙とスミノが、一緒に落ちていく。

 堕ちていく。

 誰にも、止めることは出来なかった。

 

 

 もはや、紀沙とスミノ以外に動ける者はいない。

 誰にも彼女達を止められない。

 誰にも。

 ――――誰にも?

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ボン!……っと、管制ルームの一隅で爆発が起こった。

 爆発と言うよりは、歪んだ扉を力尽くでぶち破ったと言う方が正しいだろう。

 紀沙達と入れ替わるように入って来たのは、蒼い髪のメンタルモデルだった。

 長い髪を高く結い、切れ長の瞳は自信に満ち溢れている。

 

 

 その少女の後ろには、やけにボロボロになったトーコと、そして青い顔の良治がいた。

 少女が軽く前に出した掌には、淡い輝きを放つコアがあった。

 輝きは淡く白く、今にも吹き消えてしまいそうだ。

 それでいて温かく、見る者の心を和ませてくれる。

 

 

「……お前は」

「重巡『タカオ』?」

 

 

 『タカオ』だった。

 顎先を上げて、高慢な態度を隠そうともしない。

 しかしその目は、管制ルームの有様を見たためか、どこか哀し気だった。

 誰かを探すように見渡していた目が、『コトノ』を見つける。

 

 

「ちょっと総旗……じゃないのか。アンタ、これってどうなってるわけ?」

「いやあ、私にもちょっと予想外って言うか」

 

 

 実際、事態は『コトノ』ですら想像だにしなかった方向へと進んでしまっていた。

 まさか、まさか紀沙が()()()を取り込むなんて考えもしなかった。

 そしてイオナと『U-2501』のコア――『アドミラリティ・コード』の欠片――を奪い取り、それすらも我が身に取り込んでしまった。

 今、紀沙はオリジナルの『アドミラリティ・コード』に最も近い存在であるとも言える。

 

 

「と言うより、『タカオ』。どうやってここに……?」

「はあ? そんなこと今はどうだって良いじゃない」

「いや、そんなことって」

 

 

 ええ……と『タカオ』を見つめていると、今度は彼女は群像の方を向いた。

 『タカオ』がその気になれば、群像はもちろんゾルダンですら縊り殺せる位置だ。

 だが、『タカオ』に害意は無い。

 『タカオ』の関心ごとは、もっと他にあった。

 

 

「千早紀沙は?」

 

 

 託されたものがあった。

 『タカオ』はそのためにここに来たし、それ以外の理由で来ることは無い。

 だから彼女は、群像に紀沙のことを聞いたのだ。

 そして群像は、外へと視線を向けた。

 

 

 行ってしまった、と。

 手の届かない彼方へ、紀沙はひとりで行ってしまった。

 群像には、止めることすら出来なかった。

 そんな事実に、『タカオ』は「そう」と頷いた。

 そして彼女は言った、ならば、と。

 

 

 ――――追いかけましょう。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

都合により、来週の更新はお休みになります。
次回投稿は再来週です。

皆様も良いGWをお過ごしくださいませ。
それでは、また次回。


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Depth107:「『紀伊』と『尾張』」

 ――――少しだけ、時間を遡る。

 ()()()が第2ステーションに喰らいつき、軌道エレベータを崩落させるよりも、ほんの少し前だ。

 それは、軌道エレベータのエレベータ・ルームで起きていたことだ。

 

 

「いやいや、ちょっと待ちなよって。無理だって!」

 

 

 工作艦『アカシ』が、両手をぶんぶんと振りながら怒鳴った。

 その『アカシ』の制止を無視してエレベータの軌道に触っているのは、『タカオ』だった。

 宇宙に上がるためのカーゴはすでに存在しない、その上、軌道も途中で折れ曲がってしまっている。

 はっきり言えば、軌道エレベータとしての機能を喪失していた。

 

 

 それを、『タカオ』はどうにかしようとしているのだった。

 『アカシ』からすれば、正気の沙汰では無い。

 平時であればともかく、戦時に軌道エレベータを起動させることがいかに難しいか。

 しかも再起動させれば、今は動きを止めている()()()も動き出すかもしれない。

 

 

「ちょっと、『タカオ』!」

「うるっさいわねぇ。私は上に行かないといけないのよ!」

 

 

 そうやって揉めている2人を、『キリシマ』達が遠巻きに見ていた。

 彼女達は『タカオ』に引っ張られる形でここまでやって来たのだが、流石にこれは無理だろうと思っていた。

 一方で、無理と言われることを無茶で通すのが『タカオ』だと言うことも知っていた。

 そして、結局は自分達が付き合わされるのだと言うことも。

 

 

「……で。実際、どうにもならないわけ?」

 

 

 『キリシマ』が声をかけたのは、『ビスマルク』妹だった。

 『タカオ』達がここにやって来た時から、ずっと上を見上げている。

 まるで地上から宇宙の出来事を見守っているかのように、その姿勢で不動だった。

 いったい何を見ているのか、同じ大戦艦であるはずの『キリシマ』にもわからなかった。

 

 

「仕方ない」

 

 

 その『ビスマルク』が、嘆息した。

 何かを諦めたかのような吐息が、『キリシマ』の耳朶を打った。

 

 

「重巡『タカオ』」

 

 

 『アカシ』と揉めていた『タカオ』が、『ビスマルク』の方を向いた。

 何よ、と言いたげな顔は、人によっては噴き出してしまうだろう。

 『ビスマルク』はそう言うタイプでは無いので、幸い『タカオ』が怒り出すということは無かった。

 

 

「私の命を、貴女に預ける」

 

 

 そして、『ビスマルク』の言葉に訝し気な表情を浮かべた。

 『ビスマルク』は、もう一度嘆息した。

 掌で、腰から下げた懐中時計を撫でている。

 

 

「急いで。千早群像には……千早兄妹には、貴女の助けがいる」

 

 

 そこまで言われて、『タカオ』はふんと鼻で笑った。

 当たり前でしょ、と言いたげな顔に、やはり『ビスマルク』は嘆息した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 と言うようなことがあって、『タカオ』は軌道エレベータを上がって来たのだった。

 より正確に言うのであれば、軌道エレベータを「艦体」に見立てて、『ビスマルク』のコアを軌道エレベータのシステムに直結したのだ。

 大戦艦『ビスマルク』と演算力を、そのまま軌道エレベータの一時的な修復と使用に使った。

 

 

 一方で、『タカオ』も無傷では無かった。

 厳密には『タカオ』艦隊だが、カーゴ無しの生身で――もちろん、クラインフィールドの守護はあるが――打ち上げられる羽目になった。

 それに何とか耐えられたのは、ひとえに『タカオ』が手にしている()()のおかげだった。

 

 

「私には、責任がある」

 

 

 何故そこまで、と問われれば、『タカオ』はそう答える。

 責任がある、千早夫妻――翔像と沙保里に託されたと言う責任だ。

 千早兄妹を(たす)ける。

 『タカオ』はそう誓約した、誓いを交わした相手が約定を違えない限り『タカオ』はそれを守る。

 交わした相手はもういない、だからこの誓約はもはや永遠のものだった。

 

 

「アンタ達はどうするの?」

 

 

 群像と、ついでにゾルダンとコトノに対してそう言った。

 総じて、饒舌な人物では無い。

 そして、ここ一番で長考しるタイプでも無かった。

 答えたのは、群像だった。

 

 

「あの時……イオナは言っていたよ、言葉じゃなく目で」

 

 

 イオナが消えた時、正直に言えば、群像は自分の足元が崩れていくかのような衝撃を受けていた。

 一歩間違えれば、立ち上がれなくなっていただろう。

 今は、クルー達も傍にいない。

 だがイオナの目は、群像にそれを許さなかった。

 

 

 ()()()()()()、とでも言うような目だった。

 ナノマテリアルの粒子となって消える直前まで、イオナの目は群像を見つめていた。

 その目に押されて、群像は思わず立ち上がってしまった。

 立ち上がってしまえば、後は歩くしか無いとわかっていたのだろう。

 

 

「私は別に、自分の艦がやられたからと言ってどうとも思わんな」

 

 

 対してゾルダンは、自分の艦への愛着は無いと言った。

 ただ……。

 

 

「だが、あの(ふね)は千早提督より預かったものだ。それは、返して貰う必要がある」

 

 

 千早翔像、ゾルダンもまたその名の下にいた。

 千早兄妹を世に送り出し、ゾルダンを、そして『タカオ』にここに立たせている。

 千早夫妻が世界に、歴史に与えた影響は、人類最大と言えるかもしれない。

 あの2人がいなければ、世界は今日にも滅んでいた。

 

 

「まったく。どうして男の子ってそんな大仰な言い方が好きなのかな」

 

 

 呆れて降りてきたのは、コトノだ。

 彼女は両掌を上にしていた、そしてその掌に左右それぞれ1つずつ、『タカオ』が持っているものに似た輝きがあった。

 妖精のようにひらりと現れたのは、『ヒュウガ』と『イセ』だった。

 コトノが何をするつもりなのかを理解して、群像は頷いた。

 

 

「他の皆は……」

「大丈夫よ、あの子達が面倒を見てる」

「あの子達?」

「そう」

 

 

 群像が疑問符を浮かべると、『タカオ』は得意そうな顔をして言った。

 

 

()()の連中」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この段階に至れば、もう隠す必要が無かった。

 冬馬は、それはそれはもうペラペラと喋った。

 まさに立石に水とはこのことで、包み隠さず余すところ無くと言った風だった。

 

 

「あんた達を排除しようとしたわけじゃない。ただ、邪魔をしてほしく無かっただけだ」

「邪魔?」

「おたくらの艦長がうちの艦長の作戦を知ってたら、止めに入るだろうってわかってたからさ」

 

 

 格好をつけて話してはいるが、およそ冬馬の姿は格好良くは無かった。

 身体に縄を巻かれていて、座らされている状態だった。

 それでも飄々(ひょうひょう)とした姿勢を崩さないのは流石だが、彼の前に立っている女性達――静とフランセットに、イ400とイ402の姉妹だ――は、それで感嘆する程に線は細く無かった。

 

 

「あたしらは、一時的にアンタ達を止めてくれと命じられていたんだよ」

 

 

 梓がそう言うと、猫の子のようにロムアルドの首根っこを持ち上げている――そうでもしないと大人しくならなかった、欧州の少年兵は侮れない――『アタゴ』が、わからないと言う顔をした。

 確かに、わかりにくいかもしれない。

 梓達の目的が排除では無く、いわば抑制だったのだから。

 

 

 かち、と、拳銃は未だ梓の手の中で音を立てている。

 正面の『アタゴ』だけでなく、横で気絶している――梓がやったわけでは無く、急に重力が発生して頭を打ち、脳震盪を起こして気絶しただけだ――杏平を解放している『マヤ』をも警戒している。

 その上で、紀沙の作戦の全てを説明していた。

 

 

「そんな命令に、何の意味が……?」

「僕達も最初は反対しましたよ。危険だと。けれど、押し切られましてね」

 

 

 恋もまた、僧を解放しながら話をしていた。

 傍には『ヴァンパイア』のメンタルモデルがいて、『レパルス』は部屋の隅で恐る恐る様子を窺っている。

 先を促す僧に、恋は実際にその通りにした。

 

 

「艦長はあれを……『アドミラリティ・コード』を手に入れた経験から、その方法を思いついたのだそうです」

 

 

 手に入れたと言うより、受け入れたと言った方が良いのだろうか。

 とにかく『アドミラリティ・コード』に触れた紀沙は、()()()にも同じようなことが出来ないかと考えた。

 人間の霧化が可能ならば、人間の()()()化も可能なはずだ、と。

 ()()()()()()、それが出来るはずだと。

 

 

「そんなことが、出来るわけないじゃない」

「艦長は、やる気満々だったわ~……」

 

 

 あおいは、上の衣服を脱いでいた。

 座り込んで背中を晒している相手は『ハルナ』で、彼女は掌からナノマテリアルの光を発しながら、治療を施しているようだった。

 蒔絵が心配そうな顔をしていて、あおいは「大丈夫よ」と微笑んで見せた。

 

 

 いおりは、どうすれば良いのかわからないと言う顔をしている。

 あおいは、いおりにも微笑んで見せた。

 静菜と『キリシマ』が、その様子を見守っている。

 

 

「艦長は()()()と接触して、霧の力で()()()を制御しようと考えたの」

 

 

 ()()()を外側から、すなわち軍事力で掃討するのは極めて難しい。

 と言うより、無理だ。

 いくら群像やゾルダンが戦術の天才でも、どうにもならないものはならない。

 だからこその、紀沙なのだ。

 『アドミラリティ・コード』の力のほとんどを得ている紀沙ならば、あるいは、と。

 

 

「そして、そうなったのね……」

 

 

 賭けだったと、そう思う、大きな大きな賭けだ。

 そしてその賭けには勝ったのか。

 それとも、負けたのか。

 それはまだ、わからないのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 スミノは、想う。

 他の者達にとっては賭けであったかもしれない。

 だがスミノにとっては、こんなものは賭けでも何でも無かった。

 当たり前なのだ。

 

 

「艦長殿の霧への憎しみを、みんな軽く考えすぎだよね」

 

 

 新たに建造したイ404。

 その発令所の中で、スミノは膝をついていた。

 艦長の指揮シートに座る紀沙の手に、自分の手を置いていた。

 紀沙は目を閉じて、ぴくりとも動かなかった。

 

 

 イ404は、衛星軌道上を進んでいた。

 推進力(エンジン)がある分、第2ステーションとは少しずつ距離が離れている。

 どこを目指しているのかと言えば、()()()の本体だ。

 つまり、地球に喰い付いている触腕の胴体部分である。

 そこに、一際強い反応があると――コアの反応があると、紀沙が言った。

 

 

「ボクにはわかっていたよ。たとえ誰であっても、艦長殿を食べ尽くせやしないって」

 

 

 紀沙は、と言うより紀沙とスミノは、信じたのだ。

 何を奪われたとしても、紀沙の憎悪だけは消えないと信じたのだ。

 紀沙は自身の憎しみの強さを信じた、スミノは紀沙の憎悪の深さを信じた。

 嗚呼、と、スミノは手の甲に頬を寄せた。

 紀沙の手に、頬を寄せたような格好になった。

 

 

「今の艦長殿は、世界で一番純粋な存在だよ」

 

 

 憎悪と言う毒だけが、残った。

 他のものは消えてしまった。

 毒の少女。

 それは、確かにスミノの言う通り、世界で最も純粋な存在であったかもしれない。

 そしてその毒は今、()()()の本体のもとへと向かっている。

 

 

 けれど、その先は?

 毒を以て毒を制したとして、残った強毒は何を成すと言うのだろう。

 今の段階では、それはわからない。

 ただ1つだけわかっているとすれば、()()()()()()だろう、と言うことだけだ。

 

 

「その時は」

 

 

 うっとりとした声音で、眠るように目を閉じて、スミノは言った。

 まるで、女神に縋りつく信者のような姿だった。

 そしてその表現は、あながち外れてもいないように思えた。

 

 

「その時は、まず最初にボクを(ころ)してね」

 

 

 愛でも囁くような声音で、死を(こいねが)う。

 それは何とも倒錯的で、紀沙に対するスミノの姿勢を示してもいた。

 つまりスミノは、紀沙の憎悪をこそ望んでいるのだ。

 紀沙の純粋な、霧への憎しみこそを愛していたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 賭けに勝ったにせよ、負けたにせよ。

 紀沙の結果を待つだけと言うのは、出来ない相談だった。

 

 

「私が千早翔像に託されたこれは、最後のひとかけらなのよ」

 

 

 『イセ』と『ヒュウガ』を核として、翔像――『ムサシ』が遺した『アドミラリティ・コード』のひとかけらを触媒に。

 そして『タカオ』を始めとする多くの霧の演算力を用いて。

 さらに超戦艦『ヤマト』を継いだ『コトノ』を、中枢メンタルモデルとして。

 

 

 『タカオ』の手の中の『アドミラリティ・コード』が、第2ステーションの残されたドック跡で淡く輝いている。

 第2ステーションに残されたナノマテリアルを集めて――つまり、第2ステーションの構成体が減るため、著しい勢いで機能が失われていく――1隻の艦の姿をとっていく。

 それは、戦艦級や重巡級よりも遥かに大きな艦形をしていた。

 ()()()()()()()()()()

 

 

「伝え聞くところでは」

 

 

 その様子を見つめながら、ゾルダンは言った。

 

 

「超戦艦級のモデルとなった戦艦は、実際には2隻しか建造されなかった」

「ああ、『シナノ』は空母として建造されたからな」

 

 

 そして、千早紀沙の霧携帯とも言うべき第四の超戦艦『紀伊』。

 

 

「だが一説には、四番目の名前は『紀伊』では無かったとも言われている」

 

 

 もはや1世紀以上も昔の話だ。

 正確な記録が残っているはずも無いし、口伝ですら伝わっているかどうか怪しい。

 

 

「五番目の超戦艦、艦種――()()()

 

 

 もちろん、史実においては潜水艦なわけが無い。

 五番目だって存在しない。

 しかしあえて、彼はその艦を五番目の超戦艦と呼び、また矛盾するが、潜水艦と呼んだ。

 最も、宇宙空間において潜る海など無いと承知の上でそう呼んだ。

 

 

「この(フネ)は、戦いの終わりを告げるための艦だ」

 

 

 ()()()を告げる艦。

 すなわち、()()()

 第五の超戦艦、その名は()()と言った。

 

 

「さて、お前達はどうする?」

 

 

 群像が声をかけた先には、イ404のクルー達がいた。

 流石に縄を打ってはいないが――と言うより、縄を打たれていたのは冬馬だけだったが――近くにはいない、戦友では無いからだ。

 

 

「俺達は捕虜みたいなもんだぜ」

 

 

 クルーの意思を代弁するように、冬馬が言った。

 肩を竦めて、ウインクまでしている。

 

 

「好きにしてくれ」

 

 

 それで、決まりだった。

 紀沙を追いかける、全員で。

 すぐに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どうしてこんなことになってしまったのだろう、と、思う者がいる。

 蒔絵だ。

 ほとんど無理矢理について来た彼女は、ある意味で、最も客観的にすべてを見ることが出来ていた。

 だから思うのだろう、「どうして?」と。

 

 

 どうして、紀沙がひとりで行ってしまったのか。

 どうして、イ401とイ404のクルーが争ったのか。

 どうして今、紀沙と皆が対立しかねない状況になっているのか。

 そしてその問いに答えられる者は、残念ながら、誰もいないのだった。

 

 

「なんで、こうなっちゃったのかな……」

「何がだ?」

 

 

 だから、つい口を吐いて言葉が出てしまった。

 それが聞こえていたのだろう、『タカオ』艦隊のメンタルモデル……『ハルナ』が、声をかけてきた。

 最初、蒔絵はびっくりした顔で『ハルナ』を見上げた。

 ただ『ハルナ』が静かにしていたので、すぐに落ち着きを取り戻した。

 

 

「えっと、『ハルナ』……さん?」

「さんはいらない」

「じゃあ、『ハルナ』」

「うむ。それで、何が「こうなっちゃった」なんだ?」

 

 

 蒔絵は、『ハルナ』を見ていると不思議と落ち着いてくるのを感じた。

 男物のコートを羽織ったこのメンタルモデルに、少なくとも蒔絵に危害を加えようと言う意思は見えなかった。

 

 

「……大好きな人達が、喧嘩しちゃってるんだ」

 

 

 しばらく言葉を探して、蒔絵はそう言った。

 蒔絵の立場からは、結局、そうとしか映らないからだ。

 紀沙も、他の皆も、蒔絵にとっては等しく大事な者達だった。

 それがどうして争わなければならないのか、蒔絵にはどうしても理解できなかった。

 

 

「喧嘩――言葉や暴力による諍い」

「うん」

「なんで、と言うことは、原因がわからないのか」

「……うん」

「原因がわからなければ、対処は難しい」

 

 

 言われて、蒔絵はまた落ち込んだ。

 自分に出来ることは少ないと、言われたような気がした。

 

 

「……どうすれば良いのかな」

 

 

 挙句、ほとんど初めて話すような相手に相談までしている。

 幸いなのは、『ハルナ』が蒔絵の話を茶化さず、真面目に聞いてくれたことだ。

 少しの間、考えた後、彼女は言った。

 

 

「喧嘩の解決法――仲裁。第3者による紛争解決手段」

「仲裁?」

「別称、仲直り?」

 

 

 それを言うなら仲立ちだろうと思ったが、口には出さなかった。

 ちょうどその時、『尾張』の建造が終わったようだった。

 蒔絵と『ハルナ』が、それぞれの仲間に呼ばれている。

 その間も、蒔絵は『ハルナ』の言葉を反芻していた。

 

 

 仲直りの、仲裁。

 それは蒔絵の胸の中にすとんと落ちて、いつまでも消えることが無かった。

 何かを考える顔をする蒔絵。

 もう一度、仲間に呼ばれて、ようやく顔を上げて駆けて行った。

 その時には、何かを決意する顔になっていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ぴくり、と、紀沙の手が震えた。

 紀沙の手に触れていたスミノは、それで身を起こした。

 

 

「どうしたんだい?」

 

 

 紀沙の瞼が微かに震えて、目が開く。

 その瞳は、霧が力を最大化した時に発現した時のように、白く輝いていた。

 つまり、紀沙は常時霧の力を最大限に使用していると言うことだ。

 座っていたのは、休んでいたのだろう。

 

 

 紀沙が立ち上がると、正面のモニターに光が入った。

 漆黒の空間と、蒼く輝く楕円の惑星。

 そのどちらでもない、禍々しい物が蠢いていた。

 表面を地球の色に変えて偽装しているが、間違いなく、()()()の胴体だった。

 

 

「なるほど。わかるよ、艦長殿。()()()()()()()()()

 

 

 紀沙は今、『アドミラリティ・コード』を通じて()()()と繋がっている。

 だから()()()本体の場所も、感じ取っている。

 そこを目指している。

 紀沙の意識はもうほとんど表に出てこないが、それでも目的を遂げようとする意思だけが、身体を動かしている。

 

 

「さて、どうしようか」

 

 

 攻撃する、と言うのが第一の手だが、こちらの戦力は1隻だけだ。

 いくら超戦艦『紀伊』の力を使ったとしても、()()()本体とぶつかるのは難しい。

 事態はもう、力のぶつかり合いでどうにかなる局面では無いのだった。

 

 

「ただ……」

 

 

 正面を向いている紀沙とは反対の方向に、つまり後ろを向いて、スミノは微妙な顔をした。

 これはスミノにしては珍しいことで、どこか口惜しいと言うか、苦笑と言うべきか、そんなような顔だった。

 想定の一部はあったけれども、可能性は高くなかった。

 そんな表現が、一番ぴったりと嵌まるかもしれない。

 

 

「ただ、力のぶつかり合いをしたい奴らもいるみたいだね。艦長殿」

 

 

 紀沙からの返事は無い。

 彼女はただ、正面の()()()を見据えている。

 それで良かった。

 それ以外の些事は、スミノが面倒を見てやれば良いのだ。

 

 

「さて、どうしようか」

 

 

 さっき言ったことと同じことを、違う意味で口にした。

 どうしようかと言いつつ、スミノはすでに答えを出していた。

 つい、と腕を動かす。

 すると、発令所の各々の計器に火がともる。

 俄かに、イ404の発令所が騒がしくなっていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 追撃戦、と言うことになるのだろう。

 ただし、これ程に奇妙な追撃戦も無かった。

 何故ならば、少なくとも開始当初は、双方に戦いの意思が無かったためである。

 

 

「紀沙と話がしたい」

 

 

 『尾張』の――ほとんどイ401の発令所と同じ作りの――発令所で、群像はそう告げた。

 モニターには、それも全てのモニターに映っているのは、スミノだった。

 スミノの薄い笑みの貼り付いた顔は、群像の言葉に微動だにしなかった。

 

 

『艦長殿は今、とても忙しいんだ。お前達なんかに関わっている時間は無いよ』

 

 

 群像も、戦う、とはっきり決めていたわけでは無かった。

 そもそも、別に群像は戦闘狂(バトルジャンキー)と言うわけでは無い。

 戦いは否定しないが、戦いを好んでいるわけでは無い。

 戦える力があるのだと示すことはあっても、それは対話の前段階に過ぎない。

 これまでもそうだったし、これからも、そして今もそうだ。

 

 

「聞いてくれ、スミノ」

 

 

 それにしても、『尾張』のクルーも不思議なメンバーだった。

 イ401とイ404、そして『U-2501』のクルーを寄せ集めた即席のメンバーだ。

 そしてはっきり言って、元々のイ401のクルー以外はとても信頼できたものでは無かった。

 実際、イ404のクルーは状況次第では群像に牙を剥くであろう。

 

 

「紀沙は今、自分ひとりで何もかもを片付けようとしている。だがそれは、自分自身を滅ぼす道だ」

 

 

 かつて、紀沙は霧のすべてを滅ぼしたいと言った。

 ()()()

 その中には当然、()()()()()()()()()()()()()()()

 霧に関係するすべてを、紀沙は消すつもりなのだ。

 

 

 紀沙がどう言う方法を取るつもりなのか、群像には良くわかっていた。

 人間が自分自身を滅ぼす方法など、たったひとつしかない。

 ()()だ。

 紀沙は今、究極の自殺を選択しようとしている。

 

 

「スミノ、お前は紀沙の艦だ。だがそれだけじゃないはずだ、お前と紀沙の間には、はっきりとした形の(もの)があるはずだ」

 

 

 スミノは、紀沙の言うこと以外は聞かない。

 紀沙のためにしか、動かない。

 それは、群像とイオナとはまた違った形の絆から来ているはずだった。

 

 

「お前だって、紀沙を慕って……」

『慕う?』

 

 

 ここで初めて、スミノの表情に変化が見られた。

 一瞬、何を言われたのかわからないと言った表情。

 そしてそれは、次の瞬間には別のものに変わっていた。

 眉を寄せ、軽く唇を尖らせ、吐息をひとつだけこぼす……つまり。

 

 

「……ぷっ」

 

 

 噴飯(ふんぱん)、であった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 笑った。

 スミノは笑った。

 笑って笑って、お腹を抱えて笑い転げた。

 数十秒か数分か、笑い――嗤い続けて、ようやく立ち上がった。

 あー、笑った嗤った。

 

 

「ボクは艦長殿を慕っているわけじゃないよ、千早群像」

 

 

 モニターに向かって、スミノはそう言った。

 そもそもスミノは霧であって、慕情や愛情とは程遠い存在だ。

 そこにそう言ったものを見ると言うことは、結局は、群像が霧を――特に霧のメンタルモデルを、人間と同じものとして扱っていると言うことだった。

 

 

 それはそれで、美しい話ではあった。

 一つの答えではあっただろう。

 だがそれは結局、問題の本質を見ていないと言うことでもあった。

 人と霧が、絶対的に違う存在なのだと言うことを。

 

 

「ボクはね、艦長殿に惹かれているだけなんだ」

 

 

 だってそうだろう? と、スミノは言う。

 スミノは紀沙に魅せられている。

 その純粋なまでの、破滅への道行きに。

 

 

『破滅……?』

「千早紀沙の道を、それ以外の何を以って表現しろと言うんだい?」

 

 

 父に捨てられ、母と引き離されて、兄に裏切られて。

 霧への復讐を決意して、そのために霧の力と言う汚泥の中へ身を投じることも厭わなかった。

 それなのに、同じ思いだと信じていた周囲の人々は、メンタルモデルの登場によってあっさりと対話を志向し始めた。

 その時の紀沙の絶望に、少しでも思い至った人間がいただろうか?

 

 

「処女雪に、黒い一雫が増えていく。ひとつひとつが滲んで、段々と全体を黒く染めていくのさ」

 

 

 それでも、歩みだけは止めなかった。

 歩くのをためてしまえば、汚泥の中に身を沈めるしか無い。

 だから歩いた、歩き出したさ。

 その先に破滅しかないと、わかっていたとしても。

 

 

 誰もが諦める中、紀沙だけは諦めなかった。

 霧をこの世界から消し去る、()()()も諸共に。

 そうでなければ、自分がこれまで歩んできた意味が無い。

 絶望を耐えて堪えて、歩き続けてきた意味がなくなってしまう。

 たとえ、たとえそれが。

 

 

「たとえそれが、自分自身の滅亡を意味するのだとしてもね」

 

 

 スミノは、それを見つめる者でいたいのだった。

 だから、それを邪魔しようと言うのであれば。

 

 

「それを止めようと言うなら、千早群像。力尽くで止めてみるしかないよ」

 

 

 力を以ってして、排除してしまえ。

 スミノが手を振るう、するとイ404の装甲が開き、火器が露出した。

 すでに装填されていることは、イ401の側でもわかっているだろう。

 だから、スミノは笑顔を浮かべて。

 

 

撃つよ(ファイア)

 

 

 そのすべての火器が、火を噴いた。

 ミサイルとレーザーが、宇宙空間を疾走した。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 戦闘は、突然始まった。

 イ404の側から、砲火を向けてきたのである。

 それはかつてない程に苛烈で、特にミサイルなど、ミサイル自身に備えられた小型ブースターで方向を変えながら進んできていた。

 地球では出来ない、無重力空間であるが故の精密機動だった。

 

 

「対空!杏平、ロムアルド!」

「おっしゃ!」

「アイアイ、キャプテン」

 

 

 『尾張』のクルー編成は、イ401のそれにロムアルドとフランセットを加えたものになっている。

 すなわち、火器管制とソナーの人出が増えたと言うことだ。

 今も2人で対空兵装を動かして、接近してくるミサイル群をひとつひとつ撃墜していった。

 レーザーと実弾で、物量で叩き落したと言ったやり方だった。

 

 

 だがレーザーは、撃墜と言うわけにはいかなかった。

 これは回避し、あるいはクラインフィールドで受けなければならない。

 この操艦は、僧がやった。

 体調は万全では無い、それでも操艦は確かだった。

 

 

「こちらに背を向けたままの攻撃か」

 

 

 群像の隣には、ゾルダンがいた。

 指揮権を主張するようなことはしなかったが、立っているだけで群像に緊張を与えてくる。

 そして実際、イ404の攻撃はゾルダンの言ったような形で行われていた。

 こちらを侮っていると言うよりは、「構うな」と言う警告のようなものだった。

 

 

『気に入らないわね』

 

 

 モニターの中からそう告げてきたのは、『タカオ』だった。

 超戦艦『尾張』は、単一の戦艦と言うよりは複数艦の融合艦と言った方がよかった。

 ちょうどイ404が追加装甲を得て『紀伊』と化すように、イ401はオプション艦との融合によって『尾張』となるのだ。

 そしてそれぞれの区画に、『タカオ』艦隊のメンタルモデル達が配置されている形だ。

 

 

「気に入らないなら、どうする? 『タカオ』」

『決まっているじゃない。()()()してやるのよ、盛大にね』

 

 

 群像の言葉に、『タカオ』は当然と言う風に応じた。

 ()()()()を外へ連れ出すには、部屋のドアを叩き壊してしまえば良い。

 『尾張』の各所で、火砲に火が入っていく。

 

 

 それにしてもと、群像は思った。

 名古屋でぶつかった時には、まさか『タカオ』と共に戦う日が来るとは思っていなかった。

 『タカオ』はイオナよりもずっと我が強いが、それだけに峻烈で、手を引かれているような頼れる部分があった。

 新鮮さの中に、群像はいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 反撃の苛烈さに、スミノは舌打ちした。

 イ401――『尾張』の攻撃は、スミノが先に行った攻撃よりも濃密で、また緻密であった。

 スミノはレーザーで『尾張』側の操艦を制限しつつ、精密誘導ミサイルで叩こうとした。

 それは一見派手だが、一方で威力を分散させているとも言えた。

 

 

 対して『尾張』の攻撃は、一点に集中してきた。

 それもイ404の完全な死角側、真後ろ、要するに機関部を狙ってきた。

 あまりイメージが湧かないかもしれないが、霧の戦闘には「防御」が少ない。

 特に霧同士の戦闘の場合、クラインフィールド以外に有効な防壁がほとんど無く、またフィールドが飽和してしまえば完全に無防備な状態になってしまう。

 

 

「航路を修正。ミサイル再装填」

 

 

 だから、回避するか撃墜するかしかない。

 つまり、攻撃しかない。

 だがたとえ、たとえどれだけ不利になろうとも、()()()()()()()()()

 背を向けたまま、振り切ってくれる。

 

 

「さっきよりも密度を上げて攻撃する。根競べだよ」

 

 

 モニターの中の『尾張』は巨艦だ、広大な宇宙空間で隠れられはしない。

 ならば単純な殴り合いだ、根競べとはそう言う意味だ。

 そして、そう言う勝負でスミノは誰かに負けるとは思っていない。

 自分はイ404、何もかもに耐えてきた千早紀沙の(フネ)なのだから。

 

 

撃つ(ファイ)……」

 

 

 その時だった。

 

 

「……なに?」

 

 

 先の反撃とは違う方向から、攻撃が来た。

 それはほんの数発のミサイルに過ぎなかったので、すぐに迎撃した。

 単発、かつ単調な攻撃だったので、防ぐのは難しくなかった。

 だが方向が問題だった、真下からだったのである。

 

 

 かと思えば、真上――つまり真逆の方向からも来た。

 そちらからの攻撃も、簡単に打ち払った。

 『尾張』は今も背後にいる、精密誘導とも違う。

 そして散発的な攻撃に意識を向けていると、『尾張』がこちらの機関部を()()してきた。

 

 

「……ッ!」

 

 

 ぎっ、と、メンタルモデルが奥歯を噛んだ。

 『尾張』の狙いが、はっきりとわかったからだ。

 

 

「小娘に、戦術の何たるかを教えてやるとしよう」

 

 

 『尾張』の発令所でゾルダンがそう言ったが、もちろんスミノの耳に届くことは無い。

 ()()()()

 ゾルダンと『U-2501』が得意とした戦術だ。

 最初の反撃の際に、ステルス状態のミサイルポッドでも展開しておいたのだろう。

 『尾張』には複数の霧のメンタルモデルがいるのだから、スミノのセンサーを掻い潜ることも難しくは無いはずだった。

 

 

「ピンガーを」

 

 

 ピンガーを射出し、隠れている敵戦力の位置を把握する。

 そして、圧倒的な火力で以って殲滅する。

 イ404の、千早紀沙の破滅への歩みを止められるものか。

 止めさせてなるものかと、スミノは奥歯を噛んだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()だ、と、群像は思った。

 群狼戦術の恐ろしいところは、気が付いてもどうにもならないところにある。

 自分の周りに敵が何人いるか?

 それがわかったからと言って、対処のしようもあるはずが無かった。

 

 

「狼は群れで狩りをする」

 

 

 一撃のダメージは少なくとも、攻撃されれば無視は出来ない。

 振り払っても、一度体勢を整えざるを得ない。

 そこを叩く。

 再び、『尾張』の砲撃がイ404の機関部を穿った。

 

 

「イ404との距離、およそ3000」

「このまま距離を詰めて、航行不能に追い込むんだ」

 

 

 紀沙が()()()に向かうことを阻止できれば、彼女が何を目的にしていたとしても、全てを画餅に帰すことが出来る。

 そして、今のところそれは出来そうだった。

 ただ問題は、その後にどうするかと言うことだ。

 

 

 イ404を止めたとして、紀沙と直接対面したとして。

 それで、どうなるものでも無かった。

 何か決定的なことをしなければならないとして、果たして出来るのか。

 群像としても、決めているわけでは無かった。

 

 

「迷うな」

 

 

 不意に、ゾルダンがそう言った。

 

 

「艦長が迷えば、クルー全員が迷うことになる」

「そんなことは、言われなくてもわかっている」

「艦長!」

 

 

 その時だった、僧が声を上げた。

 正面を向けば、状況が変化していた。

 イ404が、回頭しつつある。

 こちらに横腹を見せて、悠々と、だ。

 

 

「撃沈するつもりなら、好機だ。が……」

「ああ、オレ達はイ404を撃沈したいわけじゃない」

 

 

 背を向けていたイ404、あっさりと『尾張』の方を向こうとしている。

 何故かは、わからない。

 だが群像は、それまで感じなかった意思をイ404の動きから感じた。

 つまり、スミノ以外の意思を。

 

 

「艦長殿……」

「スミノ」

 

 

 千早紀沙の意思を、だ。

 そして、紀沙は目覚めていた。

 余りにも外が騒がし過ぎて、()()()を向いていた眼を群像達へと向けたのだ。

 相手が群像以外であれば、あるいは無視を続けたかもしれない。

 バツの悪そうな顔をするスミノに、紀沙は言った。

 

 

「超重力砲を」

 

 

 良いのかい、とは今さら聞かなかった。

 紀沙がそれを命じるなら、スミノに否やは無かった。

 

 

「わかった」

 

 

 イ404――『紀伊』の周囲に、独特な形状の追加装甲が出現する。

 ナノマテリアルの圧縮体であるそれらは一つの砲塔を形成する、無数のレンズの共鳴とスパークが、宇宙空間に走った。

 それは当然、『尾張』からも見えていた。

 

 

『上等じゃない』

 

 

 『タカオ』は、受けて立った。

 地球でも見せた、合体超重力砲である。

 『タカオ』艦隊の全てのコアを直列させて、蓄積されたエネルギーを砲弾とする。

 その規模と迸りは、『紀伊』のそれと比べて全く遜色が無かった。

 

 

 『紀伊』、そして『尾張』が発するエネルギーは、空間を歪曲さえしている。

 宇宙空間が、地球が、歪んで見える。

 『尾張』はたった1つの『アドミラリティ・コード』と無数の霧の力を束ねて。

 『紀伊』はほとんどの『アドミラリティ・コード』をひとりに集めて。

 膨大な、巨大な力をそれぞれ相手に向けていた。

 

 

「宇宙が震える程のエネルギーが、正面からぶつかる」

 

 

 『コトノ』は、すべてを見ていた。

 彼女自身は『尾張』の中枢を担っていて、開戦から今まで、千早兄妹の戦いを見つめていた。

 ()()()()()()()()()()

 そんなコトノが、この戦いを見て想うのは。

 

 

「――――許せなかったんだね、最後まで」

 

 

 それだけだった。

 結局は、それがすべてだった。

 許し合えと、人類の道徳は教えている。

 だけど、許せなかった。

 

 

 そして古の伝承は、許し合えなかった者がどうなるかを教えている。

 赦しを与えることを拒んだその先、その結末はいつだって、ひとつしかない。

 物語の()()()――そして、光が放たれた――すべての、結末。すなわち。

 ――――滅び、だ。

 

 

 何もかもを、2つの巨大な光の衝突が打ち払ってしまった。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

この物語も、いよいよ終わりの時が近づいて参りました。
予定ではあと2話、次回の最終話と次々回のエピローグで終了します。

想定よりも半年近く伸びましたが、何とかここまで来ました。
これも皆さまのおかげです。

と言いつつ、申し訳ないのですが来週もお休みです。
次回投稿は再び2週間後、隔週投稿になってすみませんが、リアルが忙しく……。

いずれにせよ、今月で本作も終了となりますので、皆々様、もう少しだけお付き合い頂ければと思います。
それでは、また次回。


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Depth108:「スミノ」

 その光は、地球からも見ることが出来た。

 言うならば、彗星の衝突に等しい、それ程の光だった。

 夜を昼に変えてしまうような、太陽が2つになったような。

 

 

「いったい、どうなっているのでしょうか」

「さぁ、な……」

 

 

 『コンゴウ』は、『ヒエイ』と共に空を見上げていた。

 いや、彼女達だけでは無い。

 霧も<騎士団>も、そして地上の人類も、あるいは()()()でさえも。

 地球に存在する何もかもが、皆一様に空を見上げていた。

 

 

 空を引き裂いた光の衝突を、見つめていたのだ。

 互いに少しでも譲ることが出来たなら、あるいは避け得た衝突だったのかもしれない。

 もっと他に、賢いやり方があったのかもしれない。

 けれど残念ながら、2つの光は譲ることが出来なかった。

 

 

「どうして、2人だったのだろうな」

「え?」

 

 

 『コンゴウ』の言葉の意味がわからなくて、『ヒエイ』は間の抜けた声を上げてしまった。

 すぐに気づいて、んん、と咳払いをした。

 『ヒエイ』の頬が赤く染まっていて、『コンゴウ』は少しだけ口元に笑みを浮かべた。

 

 

「いや何。千早兄妹は、どうして2人だったのか、と思ってしまってな」

「それは、双子だったから……としか」

「そうだな。現象としてはそうなのだろう」

 

 

 同じ遺伝子を分け合っていながら、千早兄妹は対極の位置にいた。

 どうしてだろうかと、『コンゴウ』は思ったのだ。

 何故なら、どちらか片方だけが生まれ落ちていたのであれば、こんな事態にはなっていないと思えたからだ。

 

 

「もし兄だけで生まれてきていれば、人と霧との共存とやらが実現していただろう」

 

 

 共通の敵を前にして、人と霧は協定を結んだ。

 だがその内容はけして強いものでは無かった、その理由は、紀沙の存在が大きかったからだ。

 霧に対して発言力を有している人間は、かなり少ない。

 しかも『アドミラリティ・コード』を有している紀沙の存在を、霧は無視できない。

 

 

 人類側で霧との融和に反対する勢力は、明らかに紀沙に助力を与えていた。

 千早兄妹以外に霧と交渉できる人間がほとんどいない以上、兄妹の認識の違いが協定の内容に表れるのは仕方がなかった。

 だからもし紀沙がいなければ、群像が主導してもっと友好的な、同盟に近い協定になったはずだ。

 そうすれば、人と霧の融和はもっと加速度的に進められただろう。

 

 

「もし妹だけで生まれてきていれば、人と霧は互いの生存をかけて争っていただろう」

 

 

 融和などと言って()()()()()()()()()ことなく、人と霧は正面から衝突していただろう。

 不俱戴天の仇同士として、海を、生存圏をかけた<大反攻>が実行に移されていただろう。

 そしてその先鋒に、イ404がいたはずだ。

 復讐の権化と化した人類は、さぞや強敵であったことだろう。

 

 

 だが現実には、そんなことにはならなかった。

 人と霧の全面戦争を防いだのは、ひとえに群像の存在があればこそだ。

 イ401と言う()()で人と霧の共存のモデルケースを作ってしまった彼の存在は、そうした過激な動きに明らかなブレーキをかけた。

 霧と話し合える可能性を提示した彼の()()で、白黒つかない灰色の情勢になったのだ。

 

 

「2人で生まれてしまった、それがあの兄妹の本当の悲劇なのかもしれないな」

 

 

 光が薄れていく空を見上げながら、『コンゴウ』はそう言った。

 

 

「それを運命と言うのか、あるいは神の悪戯とでも言うのかはわからんが、な……」

 

 

 そしてそんな『コンゴウ』を、『ヒエイ』以外の者が見つめていた。

 その存在は霧の索敵に引っかかることなく、『ハシラジマ』の柱の上に立っている。

 古い宇宙服で全身を覆った、長い金髪を海風にたなびかせる存在。

 地球に、警告(始まり)を告げた存在。

 

 

 ――――<宇宙服の女>が、そこにいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 衝撃――――。

 その衝撃は、余りにも大きかった。

 地球への影響を避けようと、空間の()()に砲撃の威力を閉じ込めたのが、さらに艦体に響いた。

 何か、壊れてはならぬものが割れる音が、衛星軌道上に響き渡った。

 

 

 それは、艦が折れた音だ。

 『紀伊』と『尾張』の中枢を担う艦艇が、半ばから砕けた。

 2つの巨大な超重力砲の威力は、単純に倍になると言うものでは無く、何倍にもなって2隻の超戦艦を襲ったのだ。

 『紀伊』の追加装甲が、『尾張』の連結艦が、激しい音を立てて剥離していく。。

 

 

「ぐ、お……! 『ハルナ』、『レパルス』!」

「連結……維持……出来……無い……!」

「クラインフィールド、なおも崩壊中。艦体を構成するナノマテリアルが、何も反応を返してこない……!」

 

 

 『タカオ』艦隊にとっても、ここまでの損傷は想定外だった。

 と言うより、超戦艦同士の超重力砲同士のぶつかり合いなど、想定しようが無い。

 想定があり得るとすれば、「耐える」と言うだけだ。

 そして、耐えられなかった。

 

 

「400、無理に繋がりを維持しようとしないで」

「離さ、ない……402!」

「メンタルモデルを……維持、できない」

 

 

 無理に連結を維持しようとしても、どうにもならなかった。

 まして『レパルス』に演算力を分け与えられてメンタルモデルを維持している『ヴァンパイア』は、自分のメンタルモデルを維持するこすら難しくなってきていた。

 『尾張』の破片が、宇宙に散っていく。

 

 

「ぬ……ぐっ、う」

 

 

 そして、最も苦悩していたのが『タカオ』だった。

 言わずもがな、『タカオ』は『尾張』の中枢艦である。

 たとえ艦体が砕けるとしても、人間が乗っている区画は維持しなければならない。

 その演算に、全力を注いでいる時にだ。

 

 

「おおおおおねえええちゃあああああっ!!??」

 

 

 『マヤ』である。

 『尾張』が崩壊すると言うことは、『マヤ』もピンチと言うことである。

 『タカオ』にしてみれば、群像達を見捨てるか『マヤ』を見捨てるかと言う話である。

 ()()()()()()()()

 

 

「おるぅあああああああっ!」

 

 

 ひとつ隣の連結艦まで跳び、落ちかかっていた『マヤ』のメンタルモデルを横抱きにして、連結艦の維持には力を割かずにそのまま放棄し、元の中枢艦に戻る。

 簡単に言っているが、その間、人間の生命維持を保ちながらである。

 もちろん、問題が無いわけでは無いが……。

 

 

「連結艦一つ墜ちたわよアンタ……」

「良いじゃない、どうせ保たなかったんだから」

「いや、まぁ……うん。まぁ」

 

 

 『アタゴ』が呆れているが、『タカオ』は悪びれる様子も無かった。

 艦体の破片は地球へと落ちていくが、ほとんどは燃え尽きるか霧の対空砲火で撃ち落とされるだろう。

 そんなことを考えている『アタゴ』の視界に、あるものが映った。

 それは、こちらと同じように崩壊し、墜ちていく『紀伊』だった。

 

 

「あれは……」

 

 

 だが『紀伊』の落ちていく先は、地球では無かった。

 超重力砲のぶつかり合いの衝撃で、2隻の距離は開いた形になっていた。

 そこに、あったのは。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 自分の身体が崩れていく、それがわかっていて止められない。

 今の『紀伊』の状態は、そういうものだった。

 それはすなわちスミノの状態と言うことであって、彼女は両の瞳を白く明滅させながら、崩壊していく艦体を何とか維持しようと奮闘していた。

 

 

「スミノ、艦体の方は良い」

 

 

 そんな時に、紀沙はスミノに声をかけた。

 すでに『紀伊』は、中枢艦であるイ404の艦体を維持できない程にダメージを負っている。

 紀沙は、そちらに演算力を割くなと言っているのだ。

 まるで「無駄な努力はやめろ」と言われたようで、さしものスミノもさっと顔色を変えた。

 

 

「でも、艦長殿」

「良い」

 

 

 2人のいる発令所ですら、壁面に罅が入り、空気が漏れる音が聞こえていた。

 ここでスミノが抵抗をやめれば、イ404は完全に崩壊してしまう。

 しかし、紀沙はそれで良いと繰り返した。

 紀沙は、足元を見つめていた。

 

 

()()()()()()()()()

 

 

 はっとして、スミノは足元を見た。

 そこには床がある、当たり前だ、だが2人の見ているものは床では無かった。

 ()()()だ、その本体が真下にいる。

 超重力砲の衝撃で、吹き飛ばされる形で、ちょうど良い位置まで押し出されたのだ。

 今にして思えば、紀沙はそれすらも計算に入れていたのかもしれない。

 

 

 そして質量を大きく減らした艦体は、バラバラの破片になって真下へ降り注いでいる。

 地球の引力か、あるいは()()()の本体が吸引しているのか。

 おそらく、両方であろう。

 とにかく紀沙は、このまま墜ちようとしていたのだ。

 スミノには、それがわかった。

 

 

「良し、墜ちてみよう」

 

 

 触れただけで喰われる、()()()の肉塊。

 考えるだけでおぞましい、しかも真下の本体は惑星を一呑みにする程に巨大なのだ。

 そんなところに降り立てばどうなるか。

 それがわからないはずが無いだろうに、紀沙には気負いが見えなかった。

 ならば、スミノも迷うことは無かった。

 

 

「このまま()()するよ!」

 

 

 降下では無い、これはただの落下だ。

 墜ちる先がどこであれ、たとえ地獄であれ、スミノは紀沙と共に在る。

 そうやって、イ404は()()()本体のもとへと墜ちていった。

 ()()()の表面が、それを見つめているように、不気味に小波を立たせた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何のつもりだ、と、群像は思った。

 紀沙の行動を見てのことである。

 『紀伊』――イ404の艦体が完全に崩壊し、内側から零れ落ちるように、紀沙とスミノが外に放り出されたのだ。

 

 

「生身で……!」

 

 

 誰が驚いたのかはわからないが、誰かがそんな声を漏らした。

 実際、紀沙は宇宙服(スーツ)も身に着けずに宇宙空間に飛び出していた。

 普通なら、その時点で死んでいる。

 だが彼女は生きている、スミノが守っているのか、あるいは……。

 

 

「見てください!」

 

 

 今度ははっきりとわかった、静の声だった。

 合わせて、モニターが紀沙達に焦点を合わせて拡大する。

 笑っていた。

 紀沙とスミノは抱き合うような形で、落下を続けていた。

 落ちながら、はっきりとこちらを見て、2人は嗤っていたのだ。

 

 

()()()が……!」

 

 

 だが静の「見て」は、そこを指してはいなかった。

 紀沙達が墜ちていく先には()()()の本体がいたのだが、その()()()の本体が、不可思議な動きをしたのだ。

 肉塊の表面が、不気味に蠢いた。

 

 

 そして次の瞬間、肉塊の――背中とも言うべき部分に、巨大な穴が開いた。

 否、縦に割れた楕円形のそれは、穴と言うより口だった。

 縁、そして内側には、大小の触手が大蛇の群れのように蠢いていた。

 それは目にしているだけで嫌悪感を抱く、おぞましさの極致だった。

 

 

「あ」

 

 

 ……っと言う間の出来事だった。

 ばくん、と、そんな音が聞こえてきそうだった。

 紀沙とスミノの姿が、いくらかの艦体の破片と共に()()()の中に消えた。

 ()()()()()

 

 

「いや、あえて中に入ったと考えるのが自然だろう。彼女は、最初からそれを狙っていたはずだ」

「ああ、その通りだな。だが……」

 

 

 ゾルダンと群像の意見は一致していたが、一瞬、迷った。

 追うか、どうか。

 

 

『追いかけるわよ、決まっているじゃない』

 

 

 いや、その点では迷わなかった。

 『タカオ』の言う通り、ここで待つことも退くこともするべきでは無かった。

 しかし、問題がある。

 動かせる艦体が無い、と言うことだった。

 

 

 どうすれ良いのか、一瞬、それこそ途方に暮れた。

 『尾張』を構成していた艦には、もう余力が無かった。

 とは言え、丸腰の状態で()()()の本体に突っ込むわけにはいかない。

 そう、考えていた時だった。

 

 

『艦体なら、ここにあるっスよ――――!』

 

 

 何事だ、と思った時、『尾張』の破片が舞う中をぬっと小さな艦が頭を出してきた。

 武装らしい武装も無い、実にシンプルな艦だった。

 それは『尾張』の構成に参加せず、さりとてイ404に紀沙達と共に乗ってもいなかった者、つまり。

 

 

「トーコちゃん! 見惚れるぜ、その姿ぁよ!!」

 

 

 イ15――トーコの登場に、発令所の外から、冬馬がガッツポーズと共に叫んだ。

 そんな歓声に、トーコはイ15の発令所で「いしし」と笑ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この期に及んでトーコが艦体を維持できているのは、スミノから()()()にカウントされていたからだ。

 武装を持たない彼女は、こと宇宙空間の戦闘においては無力に等しい。

 しかし、だからこそ力を残していた。

 

 

『私と『イセ』姉さまの最後の力を、貴女に託すわ』

「了解っス! 任せてほしいっス」

 

 

 後は、『ヒュウガ』と『イセ』のカバーによって、だ。

 逆に言えば、2隻の大戦艦の演算力を貸与してなお、艦体の構成と維持で精一杯なのだ。

 元々、そこまでの力がある艦では無い。

 ただ『タカオ』達の艦体が崩壊した今は、唯一の存在だった。

 

 

『イオナ姉さまのこと、頼んだわよ』

「それから、スミノの姐さんのこともっスね!」

『いえ、そっちは割とどうでも』

「酷いっス!?」

 

 

 問題は、誰が乗るのかと言うことだ。

 イ15の艦体はさほど大きくない、しかもクルーが乗れば乗る程、そちらの生命維持等に力を割かなければならなくなる。

 せいぜい、3、4人と言ったところだろうか。

 

 

「まず、オレが行く」

 

 

 まず群像、こちらは異論が出なかった。

 ゾルダンがちゃっかり群像側に歩いているが、こちらもわざわざ止める者はいなかった。

 これで2人、そこで。

 

 

「当然、アタシが行くわよ。沙保里のためにもね」

 

 

 『タカオ』が、まさに「当然」と言いたげな顔で群像側に立った。

 トーコのサポートをすると言う意味でも霧の誰かが行くのは悪い選択では無く、『タカオ』ならまぁ良いかと、これも異論は出なかった。

 ただひとり、意外な人物が声を上げた。

 

 

「私が行きたい! 行かせてほしいの!」

 

 

 蒔絵だった。

 人員がギリギリの中で、小柄な蒔絵はスペース的には悪くない。

 ただ、危険だった。余りにも危険だった。

 当然、周囲から諫める声が出たが、蒔絵は頑として聞かなかった。

 

 

「お願い! 紀沙お姉さんと話がしたいの!」

「そんなこと言ったって、なぁ」

「――――行かせてやれ」

 

 

 そして、擁護したのも意外な人物だった。

 誰も予想だにしていなかったその人物は、『ハルナ』だった。

 『ハルナ』は何とも表現が難しい、澄んだ静かな目で言った。

 

 

「その子を行かせてやってほしい。それが必要」

「どうしてそう思うんだ?」

「……わからない」

 

 

 ただ、と、()()()の方を見やりながら、『ハルナ』は言った。

 

 

「そんな気がするんだ」

 

 

 予感、『ハルナ』はそれを実装したのか。

 あるいは、他の何かなのか。

 わからないが、ただ、決まった。

 何もかもが、これで決まるのだと。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 深くへ。

 もっと深みへと、紀沙は自分自身を沈めていった。

 周囲にはおぞましい触手が蠢いているが、そのいずれも紀沙に触れることは無い。

 皮肉なことに、クリミアの経験が生きていた。

 

 

「あの触手のひとつひとつに、世界が一つ収まっている。そんな気がするよ」

 

 

 感じていられるものがあるとすれば、スミノだけだった。

 紀沙と腕を絡めているスミノの声だけが、まともな音だった。

 他は、触手が奏でるおぞましい音ばかりだ。

 挽き肉にでもされている気分だ。

 

 

 だが、スミノの言葉はあながち間違いでは無い。

 あの触手のひとつひとつは、いわば世界の成れの果てなのだ。

 ()()()が今まで喰らい尽くしてきた世界、惑星、宇宙、銀河……。

 まるで膨大な情報が収められた小さなチップのように、あの触手のひとつひとつに世界の情報がひとつ、凝縮されているのだ。

 

 

「関係ない。目的は、この下だ」

「そうだね、艦長殿。ああ、そうだとも」

 

 

 表層には、用が無かった。

 紀沙の目的地は、もっと下……最奥部にある。

 ()()()の中に入り込んだ時点で、紀沙はその存在をはっきりと感じ取っていた。

 それは()()()を取り込んだ紀沙だからこそ、感じ取ることができるものだ。

 最も、紀沙が()()()を取り込んでいなければ、今頃2人とも攻撃されていただろうが。

 

 

「ボク達の目的は、()()だからね」

 

 

 そうして沈み続けていると、辿り着いた。

 ()()()に警戒の様子は無い、紀沙を完全に自分達と同じものだと認識しているのだろう。

 それは紀沙達には好都合だった。

 少し前、()()()対策を話し合った時、確かに言った。

 

 

 霧に『アドミラリティ・コード』というものがあるように、()()()にも似たような何かがあるはずだ、と。

 そして霧以上に単一である()()()にとって、それは霧以上に重要なものであるはずだった。

 霧が『アドミラリティ・コード』に従う以上に、強制力のあるものであるはずだった。

 そしてその考えは、間違いでは無かった。

 

 

「だって言うのに……」

 

 

 ふぅ、と紀沙は大きな溜息を吐いた。

 そして、そこで初めて上を向いた。

 それまではずっと下を見ていたのだが、ここに来て上を見上げたのである。

 

 

「こう言う時だけ、追いかけてきてくれるんだから」

 

 

 どん、と、鈍い音がした。

 それはまるで、生まれようとする小鳥が殻を割ろうとしているかのような。

 そんな、音だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 トーコは、イ404のすべてに憧れていた。

 イ404の戦いを始めて目にしたのは硫黄島の戦い、自分自身を武器(体当たり)とするその戦い方に、トーコはどうしようも無く憧れた。

 だから、イ15には武装が無い。

 

 

「しっかり掴まっててくださいっス!」

 

 

 元々、メンタルモデルを形成できるような演算力は持ち合わせていなかった。

 艦の構成を最小限に切り詰めて、ようやくメンタルモデルを形成したのだ。

 おかげで、まともな戦闘ではほとんど役に立てなかった。

 しかし、今だ。

 

 

 今この時は、トーコは充実していた。

 自分しかいないと言うこの状況は、最高に燃えるシチュエーションである。

 問題があるとすれば、艦内に乗せた人間達はそうでは無いと言うことか。

 何しろこのイ15、艦内の装備も最低限である。

 

 

『おい! 本当に大丈夫なのか!?』

「口は閉じといた方が良いっスよ! 舌千切れるんで!」

『千切れるの!? 怖っ!?』

 

 

 ナノマテリアルを操作する余裕も無いので、各自、自分で身体を支えなければならない。

 それでいて、トーコは最大加速で突っ込むのだ。

 そうでなければ、あの()()()の膜は破れない。

 

 

「行くっスよおおお~~……!」

 

 

 甲板上で陸上選手のように身を屈めて、トーコが唇を舐めた。

 そして、不気味に蠢く()()()の表面を睨み、大きく息を――メンタルモデルに呼吸など不要な上に、ここは宇宙空間である――吸った。

 吸って、吸って……止めた、その瞬間に。

 

 

「――――GO!!」

 

 

 艦尾が、爆発した。

 そうとしか感じられない程の、急加速だった。

 小細工は無し、ただただ真っ直ぐに()()()を目指す。

 イ15の動きに気付いたのか、()()()が反応を示した。

 

 

「――――!」

 

 

 そしてそのすべてを、トーコは無視した。

 警戒しようも無かった、対処する術も無かった。

 トーコに出来ることは、ただ、突っ込むことだけだった。

 ()()()が触手を振り上げ、そして振り下ろしてきても、加速を続けるだけで避けようともしなかった。

 

 

 触手の表面を掻い潜って、突っ込む。

 艦体の表面がガリガリと削れていく、守らなくて良い部分は迷うことなくパージした。

 それでも、()()()はイ15を押し包もうとしてくる。

 漏斗に入れられている、そう思った、出口はどんどん小さくなっていく。 

 

 

(駄目か)

 

 

 と、確かにそう思った。

 このまま削られると、どんどん速度は落ちる、つまりパワーが落ちる。

 パワーが落ちれば、()()()の表面を突き破れない。

 そうなれば、艦内にいる者達も巻き込んで自爆するだけ、と言うことになる。

 

 

「スミノの姐さんは、どうして」

『――――簡単な話だよ』

「簡単?」

 

 

 ぶつぶつと、トーコは何事か呟いている。

 彼女の目の前で、いよいよ道は閉ざされようとしていた。

 速度も、これ以上落ちれば最悪の結果に繋がるだろう。

 ガリ、と、嫌な音が確実に響いて。

 

 

「艦体は私が保たせる! そのまま突っ込みなさい!」

 

 

 『タカオ』、トーコはにやりと笑った。

 危機的な状況、()()()()()

 だからこそ、トーコはさらに加速した。

 じ、と、瞳の輝きが線となって後ろに流れていく。

 

 

「突っ込むっスよぉ――――おっっ!!」

 

 

 包まれながら、削られながら。

 それでもなお、最後の一歩を強く踏み込む。

 振り払うように、イ15は()()()へと頭から突っ込んだ。

 そして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 本音を言えば、追いかけて来ないでほしかった。

 こちらが追いかけるのをやめた途端に追って来てくれるのだから、おかしなものだった。

 出来れば、黙って見ていてほしかったけれど。

 

 

「紀沙!」

 

 

 ――――そう言うわけにも、いかないようだった。

 けれど、もうどうでも良かった。

 例えイ15の艦体で追いかけて来たからと言って、何が出来るわけでも無い。

 群像は、彼らは、艦体の外に出られはしないのだから。

 

 

「しつこいね、キミ達も」

 

 

 スミノが、紀沙の気持ちを代弁した。

 しつこい、そう、一言で言えばそうなってしまう。

 だがそのしつこさがあったからこそ、群像達は霧の艦長たり得たとも言える。

 しつこさ――諦めの悪さこそが、艦長には必要だった。

 

 

「紀沙、お前は()()をどうするつもりだ?」

 

 

 艦の内と外の会話だが、そんな違いも、紀沙にはもうどうでも良かった。

 

 

()()は、()()()のコアではないのか?」

 

 

 紀沙は、胸の前で手を合わせていた。

 重ね合わせようとした掌の間に、蒼く輝く『アドミラリティ・コード』がある。

 そして共鳴するように紅く輝いているのは、不定形の、()()()()()だった。

 形は流動的で常に変わり、一面が輝くこともあれば全面に光がたゆたうこともある。

 樹木の根のように、()()()の大小の触手が2つのコアと紀沙に絡みついていた。

 

 

「決まっているじゃないか、壊すんだよ」

 

 

 また、スミノが紀沙の気持ちを代弁した。

 

 

()()はまさに()()()の核。心臓であり、頭脳なのさ。だから()()を破壊すれば()()()は命令を受信できなくなり……活動を停止する」

「つまり、()()ということだ」

「人間の言い方を真似るなら、そう言うことになるね」

「それは」

 

 

 そこで、群像は苦しそうな顔をした。

 彼は言った。

 

 

「それは、紀沙。お前もろとも、と言うことか。そうだろう?」

 

 

 考えてみれば、不思議なことでは無い。

 ()()()が活動を停止するなら、そこには()()()と化した紀沙も含まれる。

 当たり前と言えば当たり前の、当然の帰結だった。

 それは、自己犠牲なのか。

 自分が犠牲になることで()()()の脅威を救うと、そう言うことなのか。

 

 

「違うね、それは()()()だよ。千早群像」

 

 

 薄ら笑いを浮かべながら、スミノはそう言った。

 人類を救うのは、()()()()()()でしか無い、と。

 

 

「『アドミラリティ・コード』か」

 

 

 ゾルダンが、ぽつりと呟いた。

 どう言うことかと見つめる周囲に、彼は続けた。

 

 

()()()のコアを破壊する――すなわち「死」を与える。それは()()()と同化している千早紀沙を通じて、すなわち『アドミラリティ・コード』を通じて霧にも伝搬する……か?」

 

 

 霧は不死身だ、「死」と言う概念が無い。

 もちろんコアを破壊されれば活動を停止するが、紀沙が与えようとしているものはより直接的な意味での「死」だった。

 ()()()のコアが得た死の因子を、霧に植え付けると言うことだ。

 

 

 だからこれは、自己犠牲でも無ければ救世でも無い。

 復讐だ。

 霧への復讐を成し遂げるために、()()()を利用するのだ。

 すべての霧を道連れに、紀沙は自分もろとも()()()のコアを破壊しようとしている。

 

 

「そんなことはやめるんだ、紀沙! お前は、間違っている!」

「復讐に正しいも間違いも無いさ! いや、復讐だけじゃない。お前たち人間だって、正しいことばかりしてきたわけじゃないだろう?」

 

 

 かつて、ゾルダンも言っていた。

 霧と言う共通の大敵が現れてなお、人類は手を取り合うことは出来なかった。

 助け合うことを知らず、自分だけが生き残ろうとする。

 無理も無い。

 生きると言うことに、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そんなに哲学的な話では無い。

 そんなに難しい話では無い。

 

 

「残念だわ、千早紀沙」

 

 

 『タカオ』にとっては、そうだった。

 何のことは無い、紀沙は――紀沙とスミノは、霧を滅ぼそうとしているのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 だったら、『タカオ』のやることは一つだった。

 

 

「アンタとは、もっとまともな形で決着をつけたかった」

「待て、『タカオ』」

「待つ? 待つ必要は無いし、千早群像(アンタ)の指図を受ける必要も無いわ」

 

 

 『タカオ』の身体から、ナノマテリアルが漏れ始めていた。

 明らかな戦いの姿勢を見せていて、群像の制止も聞かなかった。

 それだけ、『タカオ』には戦う理由があったのだった。

 

 

「お前と戦うつもりは無いよ、『タカオ』」

「アンタに無くても、こっちには……っ」

 

 

 『タカオ』の発したナノマテリアルに誘われて、周囲の触手が蠢いていた。

 足元から枯れ枝のように伸びてきた触手が、『タカオ』の足に絡みついている。

 太ももにまで這って来たそれを不快げに見やり、『タカオ』は顔を上げた。

 スミノの方は無事だ、()()()と繋がっているのかもしれない。

 

 

「幸か不幸か、ここで最も警戒すべきは『タカオ』だけだ。まぁ、まさかイ15を使ってくるとは思わなかったけどね……」

「ひっ。あ、姐さん……」

 

 

 スミノがじろりと視線を向けると、トーコは艦体の陰に隠れてしまった。

 まぁ、『タカオ』さえ抑えられていれば何だって良かった。

 スミノには、『タカオ』と戦う必要が無かった。

 ただ、このまま黙って時間が過ぎてくれればそれで良かった。

 

 

 と、その時だった。

 スミノは、『タカオ』の様子がおかしいことに気付いた。

 いや、『タカオ』自身がどうと言うことでは無かった。

 ただ……。

 

 

「……何が可笑(おか)しい?」

「いやあ、別に? ただ、何て言うかね……」

 

 

 笑っていた。

 『タカオ』が笑っていて、それがどうしようも無く不快だった。

 

 

()()()、って、思っただけよ」

「――――!」

 

 

 急いで、『タカオ』の視線を追った。

 視界の端、何かが走ってる。

 小さい、人間、女の子。

 ――――刑部蒔絵!

 

 

「やめ」

 

 

 蒔絵が、駆けて、跳んだ。

 跳んだ先に、紀沙がいた。

 スミノが伸ばした手は、蒔絵の髪の端にも届かなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 誰かにとって間違っていたとしても。

 世界にとって正しくなかったとしても。

 私は、この道を行くと決めた。

 

 

「そんなにおかしいこと?」

 

 

 いつかお茶会さえ開くことが出来た、紀沙の内面世界。

 そこはもはや面影すらなく、幾何学的に浮かび上がる光と影が入り混じる空間になり果てていた。

 銀河のように、波紋のように、砂粒のように、寄せては返している。

 まるで人の心のように歪で、まとまりが無く、規則性が無かった。

 

 

「私が霧を憎いと思うことって、そんなに変なこと?」

 

 

 両親が、目の前に立っていた。

 もちろん、生きてはいない。

 ただ『アドミラリティ・コード』に残された思念(データ)が、存在しているだけだ。

 

 

「おかしくはないわ。変なことでもない」

 

 

 小さく首を横に振り、沙保里は言った。

 それが貴女の出した答えならば、何の問題も無い。

 人が霧を憎悪するのは、むしろ当然のこと。

 問題なんてあるはずが無い、けれど。

 

 

「けれど、それならどうして……私達に「おかしいのか」なんて聞くの?」

「……気が、狂いそうなの」

 

 

 皆が皆、霧と共存しようと、赦そうと言う。憎しみは何も生まないと言う。

 そんな中でただひとり憎悪を叫び続ける自分が、自分だけがおかしいのかと、気が狂いそうになる。

 誰でも良いから理解してほしかった、「お前は正しい」と言ってほしかった。

 

 

「艦長は孤独だ。ひとりきりで決断しなければならない。自分自身のことであれば、なおさらだ」

「父さんが、そうだったように?」

「そして、群像や……あるいは、ゾルダン・スタークがそうだったように」

 

 

 イオナ、そして『U-2501』もいる。

 紀沙が『アドミラリティ・コード』ごと取り込んだ娘達だ。

 群像もゾルダンも自らの理で動いている。

 それも、けして間違いでは無い。

 

 

「そう、誰も間違っていない。ならそれは、艦長殿の行いも正しいってことさ」

 

 

 ふわり、と、細い2本の腕が紀沙の首に絡みついてきた。

 良く知っている腕だ。

 顔の前で合わされた掌に、蒼く、そして紅く輝く宝石が握られている。

 心臓の鼓動と同じリズムで、それは輝きを明滅させていた。

 

 

 今、()()()が我が手の中にある。

 ()()を破壊することで、悲願が成就する。

 何もかもが終わる。

 ――――求め続け、縋り続けた()()()が!

 

 

 

「ほんとうに、それでいいの!?」

 

 

 

 全く別の声が、耳に届いて来た。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 どうしてここに入って来られたのかと、聞く者は誰もいなかった。

 今は、何が起こっても何も不思議ではない。

 ここは、そんな空間なのだ。

 そして、蒔絵はそんなところに飛び込んできたのだった。

 

 

「わたしは嫌だよ!」

 

 

 蒔絵は、叫んだ。

 声よ届けと、大声を上げていた。

 蒔絵がイ404に協力しようと――それこそ、刑部博士の反対を押し切ってでも――思ったのは、紀沙に恩があると感じていたからだ。

 

 

 外の世界が知りたいと言うのは、二義的な理由に過ぎない。

 少しでも恩返しがしたいと、そう願ったからだ。

 力の限りに、そう決意していたからだ。

 それは今だと、蒔絵は思った。

 今、叫ばないでどうすると、そう思った。

 

 

「死なないで……!」

 

 

 難しい話は知らない。

 ただ、紀沙にいなくなってほしく無かった。

 それだけなのに、どうしてこんなにも遠くなってしまったのだろう。

 どうして、あの時間がずっと続いてくれなかったのだろう。

 亡くしたくないものはいつだって、掌を擦り抜けていってしまうのだ。

 

 

()()()()、大好きなんだよう……!」

 

 

 もし、蒔絵の言葉が。

 もし蒔絵の言葉が紀沙にだけ向けられたものだったとしたら、紀沙は顔を向けなかっただろう。

 それほどまでに、紀沙は自分の命について勘定に入れていなかった。

 しかし、()()()()と言う言葉には顔を上げた。

 

 

 蒔絵が言うからには、それは群像やゾルダンや『タカオ』のことでは無い。

 そこに思い至った時、紀沙は初めてその事実に気が付いたような気がした。

 ()()()()()

 『アドミラリティ・コード』を破壊すると言うことは、それによって霧に死の概念を与えると言うことは。

 

 

 

「スミノが、死んじゃうってことじゃないか」

 

 

 

 当たり前だろう、そんなことは。

 もし紀沙が群像やゾルダンの立場であれば、絶対にそう口に出しただろう。

 何を今さら、そんな当たり前のことを言っているのかと。

 今の今まで、本当に気が付かなかったのか、と。

 

 

 ――――パリン。

 

 

 その時、そんな音がした。

 紀沙の目の前で、後ろから伸びてきたスミノの手が、蒼紅の宝石を握り潰していた。

 想像していたよりも、ずっと、遥かに軽い音だった。

 合わせられた掌の間から、砂のように細かな光が零れ落ちていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 現実の世界に意識が帰って来ると、紀沙は自分が膝をついていることに気付いた。

 はらはらと頬に零れていたのは、涙だった。

 血と泥を含んだ涙の雫が、顎先から滴り落ちている。

 自分がなぜ泣いているのか、一瞬、紀沙にはわからなかった。

 

 

「最後の最後で、艦長殿は少しだけ迷ったね」

 

 

 キラキラと、視界に輝くものがあった。

 ()()()のコアだ。

 『アドミラリティ・コード』だ。

 それら2つが砕けて、細かな光となって散っていた。

 

 

 紀沙の手によってでは無い。

 誰もが紀沙を見つめていた一瞬の、いや一刹那の隙に、スミノが砕いた。

 自分自身の命とも言える『コード』を、まるで躊躇すること無く彼女は砕いたのだった。

 まるで、路傍の小石でも投げ捨てるように。

 そんなスミノに、紀沙はほんの少しだけ、微笑んだのだった。

 

 

「ああ、お前はほんとうに……最悪の霧の艦艇だよ」

「光栄の極みだね、それは」

 

 

 床が――いや、全体が、揺れていた。

 ()()()の本体が悶えている、大きく、大きく悶えている。

 まるで断末魔だった、全体が戦慄き、立っていられない程だった。

 

 

「……崩れてる……?」

 

 

 耳のあたりに手を当てて、『タカオ』は呟いた。

 そう、崩れている。

 ()()()が、断末魔を上げながら、崩壊しつつあるのだ。

 それを喜ぶ間も無かった、何故ならこのまま脱出せずにいれば、間違いなくこの場にいる全員が巻き込まれる。

 

 

「うわっ」

 

 

 すると『タカオ』の持つコアが輝き、ナノマテリアルが噴き出した。

 それは人型になり、現れたのは、コトノだった。

 外から干渉できるようにしていたのだろう、用意周到なことだった。

 

 

「ちょっ、アンタ何」

「群像くん!」

「わかっている。だが……」

 

 

 脱出、群像はすでにその二文字に意識を切り替えていた。

 だがそのためには、解決しなければならない問題があった。

 それは、極論すれば2人の関係だ。

 紀沙とスミノの、関係。

 

 

 コアが破壊された直後から、紀沙は己の中が変わっていく感覚を得ていた。

 何か、確固たるものが崩れていくような感覚。

 嗚呼、と、紀沙は思った。

 これが、死の概念――死ぬと、言うことか。

 

 

「でも、兄さん達を巻き込むのは忍びないかな」

「あっちが勝手に来たんだけどね」

「それでも、さ」

 

 

 紀沙は、頭上を見上げた。

 ()()()の膜は、すでに閉じてしまっている。

 そしてコアも無い今、このままでは群像達は絶望的な状況になる。

 コトノも、『ヤマト』から継いだ力のほとんどを失っているのだ。

 

 

「最後の、最後くらいは。誰も巻き込まずに、綺麗に終わりたい」

 

 

 これ以上の我儘は無いだろう、と、紀沙は笑った。

 顔中に罅が入り、陶器の人形のようになりつつあったスミノも、笑った。

 乾いた音を立てて、スミノの欠片が床に落ちた。

 そしてその床が、俄かに盛り上がった。

 

 

 ()()()の肉を引き裂いて現れたのは、(フネ)だった。

 水上線型の、灰色の潜水艦。

 イ404。

 だが力を使い果たして、武装も無い、ただのハリボテだった。

 もはや、イ15にすら及ばない程に弱々しい。 

 

 

「結局、私達にはこの戦術()しか無いわけだ」

 

 

 けれど、それで良かった。

 振動弾頭の完成前は、それこそ身1つで戦っていた。

 元に戻っただけだと、紀沙は思った。

 

 

「出航」

 

 

 足元の盛り上がりが、紀沙を乗せて、弾けるように上へと弾けた。

 鋼の感触を足裏で感じながら、紀沙は後ろを見た。

 

 

「紀沙! 紀沙あ――――――――っ!!」

 

 

 嗚呼、とても良い気分だった。

 あの兄が、自分を呼ぶ、自分を追いかけている。

 十分だった。

 紀沙はそれだけで、ずっと欲しかったものを手に入れたような気持ちになった。

 それだけで良い、それだけを持って行こうと、紀沙は上を見た。

 

 

「艦長殿。敵触手、右に3本、左に7本」

「避けられるだろう、スミノ」

「もちろん」

 

 

 どんどん、()()()の膜が近付いてくる。

 まるでイカロスだと、紀沙は思った。

 しかし頼るのは蝋の翼では無く、鋼の艦体だ。

 そしてこの艦は、必ずや天に届き、群像達の脱出路を開くだろう。

 

 

「突撃」

 

 

 それが、紀沙の最後の指示だった。

 ぶつかった。

 衝撃が来る。

 守るものは、何も無かった。

 

 

 目の前で光が弾けて、足元が無くなった。

 浮遊感、手を伸ばした、何も掴めなかった。

 何も、掴めなかった。

 死ぬ時はきっと、こんなものなのだろうと、紀沙は思った。

 そして――――そして……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――艦長殿は、死なないよ――――




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

色々とありますが、とりあえずあと1話です。
次回エピローグです、もう少々お付き合いください。

それでは、また次回。


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Depth109:「彼女達の旅路」

 今年もこの時期がやって来たのだと、真瑠璃は思った。

 横須賀、旧第四施設跡の慰霊広場だ。

 毎年行われる火災事故の慰霊式典に、真瑠璃は今年も事故の生存者として参加していた。

 軍に良いように使われているような気もするが、慰霊の気持ちには嘘は無かった。

 

 

『あの痛ましい事故から、長いようで、しかし短い時間が過ぎました……』

 

 

 北が、演説していた。

 パイプ椅子に座り、北が演説しているのと同じ壇上から――真瑠璃もこの後にスピーチをする予定だからだ――真瑠璃は、広場に集められた人々の顔を、1つ1つ見つめた。

 事故の遺族はもちろん、軍関係者や、様々な立場の人々が、北の演説に耳を傾けていた。

 

 

 最前列には、真瑠璃の良く知る人々がいた。

 ()()()の戦いでイ号潜水艦を駆り、地球の危機を救った()()達だ。

 選択が違えば、真瑠璃もあちら側に座っていたのかもしれない。

 そんなことを、ふと思った。

 

 

『しかし彼らの遺志を継ぎ、この海洋技術総合学院を巣立った者達が今、復興の旗手となって……』

 

 

 そう、あの戦いからすでに1年が経った。

 第二次<大海戦>と今や呼ばれているあの戦いは、()()()の活動停止によって終結した。

 多くの犠牲者を出した大災厄も、今や復興の時代だ。

 真瑠璃も、北の言う「復興の旗手」のひとりに数えられているのだろう。

 

 

『我々は、かつてこの地で年若い、未来への希望に満ちた生徒達を失ったことを……』

 

 

 不意に、真瑠璃は最前列の青年と目が合った。

 この1年でさらに精悍になったが、あの黒髪の跳ね具合と不敵な表情は見間違えない。

 群像だった。膝に、父である翔像の写真を抱いていた。

 1年前の戦いの後、名誉と軍籍を回復され、殉職扱いとなって海軍中将の称号を贈られている。

 

 

 群像がすぐに視線を外したため、微かな切なさを感じつつも、真瑠璃も視線を動かした。

 群像の隣には、今も変わらずあの蒼い少女――イオナがいた。

 あの戦いの後、()()()に取り込まれた霧や人が帰って来たのだ。

 全員では無いが――二次災害等、間接的に死んだ者は帰ってこなかった――人は、それを奇跡と呼んだ。

 だが、真瑠璃はそれは神の奇跡では無く、誰かの意思によるものでは無いかと思っていた。

 

 

『祈りましょう、ここで亡くなった若者達のために。そして……』

 

 

 群像とイオナと同じ列には、僧や杏平、いおり達がいた。変わりないようだ。

 ゾルダンと『U-2501』達、『コンゴウ』達や霧の面々、<騎士団>の姿もあった。

 『タカオ』達もいる、『タカオ』は沙保里の写真を抱いていた。

 彼女達は旧第四施設の事故には関わりが無いが、ひとりの少女に敬意を表するためにやって来ていたのだ。

 

 

 それから、イ404のクルーの面々もいる。

 蒔絵が抱いている写真に、真瑠璃は複雑な気持ちを得た。

 そこには、父と同じ海軍中将の階級に――当然、最年少だ。おそらく今後も塗り替えられることは無いだろう――()()()()少女が映っている。

 世界を救った、少女だ。

 

 

『そして、先の戦いで命を落とした者達のために……』

 

 

 千早紀沙と言う少女がいた、真瑠璃の級友でもあった。

 彼女は今、ここにはいない。

 1年前の戦いから、彼女は戻って来なかったのだ。

 自分の命を犠牲にして、世界を救った――――。

 

 

 ――――()()()()()()()()()()()

 嗚呼、まったくもって腹立たしい。

 真瑠璃は、透けるような青空を見上げた。

 結局、自分は最後まであの兄妹に振り回されただけだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ()()()の残骸は、今も海や陸上に残っている。

 残骸とは言えナノマテリアルに近い物質で構成されているため、置いておけば自然に無くなると言うものでは無かった。

 だから霧の艦隊と<騎士団>は協力して、()()()の残骸の解体事業を行っていた。

 

 

「よぉ――し、オーライ! オーラーイ!」

 

 

 霧の工作艦『アカシ』が、『ハシラジマ』跡地で()()()の解体作業の指揮を執っている。

 その様子を甲板からぼんやりと眺めながら、コトノは如雨露(じょうろ)を置いた。

 燦々(さんさん)と照りつける太陽の下で、スイカの表面を水滴が滑っていた。

 

 

「今年のスイカも良い出来ね」

 

 

 誰に食べさせるわけでも無いのに、コトノは今も甲板菜園を続けていた。

 趣味のようなもので、手持ち無沙汰な時にするには良いのだ。

 最も、もう1人の()()()はそれ以前に何にも興味を持っていなさそうな顔をしていた。

 

 

「アレヲ調ベテミタガ、ヤハリ活動ヲ停止シテイル」

 

 

 宇宙服の女、だ。

 1年前の戦いが終わった頃から、彼女はコトノの下に身を寄せていた。

 おそらく、自分の役割は終わったと考えているのだろう。

 今は、()()()の解体事業に協力してくれていた。

 

 

「そう。まぁ、そうでしょうね。コアを破壊してしまったから」

 

 

 少し暗い声音で、コトノはそう言った。

 もはや総旗艦としての力も失い、かつての威容はどこにも見えない。

 だがそれはコトノに限った話では無く、『アカシ』を始め、他の霧の艦艇にも言えることだった。

 かつて人類を圧した存在感は、どこか薄らいで見える。

 まるで、存在そのものが希薄にでもなったかのように。

 

 

「『アドミラリティ・コード』も、今度こそ失われてしまった」

 

 

 ――――()()()()

 『コード』を失った霧、そして<騎士団>は、もはや不死身の存在では無くなった。

 人類よりもずっと強靭で()()()であることは間違いないが、悠久の果て、彼女達は有限の存在としていつか終わりを迎えることになるだろう。

 そのこと自体を悲観する者は、幸か不幸か、霧にも<騎士団>にもいなかった。

 

 

 永い、しかし限られた時間。

 コトノは「宇宙服の女」と共にそれを見つめる者として、霧と<騎士団>、そして人類の行く末を見守るつもりだった。

 千早紀沙が築いた世界を、見つめ続けていたいと思った。

 

 

「待つ女はいつも辛い、なんてね」

 

 

 とは言え、紀沙にも誤算はあった。

 彼女は()()()諸共、霧も<騎士団>もいない世界を作るつもりだったのだろうが、たったひとつの誤算が、霧に人類と同じく寿命を与えると言う中途半端な形になったのだ。

 あの時、『タカオ』が所持したままだった『コード』の最後のひとかけらのおかげで。

 

 

 『アドミラリティ・コード』が完全な形で破壊されていたのなら、今とはまるで違う世界が広がっていただろう。

 しかし、そうはならなかった。

 それはきっと皆にとって幸福なことだったのだと、コトノは思っていた。

 ほんのひとかけら、それだけで、()()()は今も旅を続けている。

 終わりは、まだ来ない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――どこかの海、どこかの島。

 余り知られていない名前の海の、誰も知らないような島。

 いわゆる絶海の無人島と呼ばれる、僅かな樹木だけが点在するだけの島。

 島の砂浜に、ぽつぽつと足跡がふたつ――この時点で、()()島だ――続いていた。

 

 

 足跡の先に、小さな無人島には似つかわしくない、武骨な物体が転がっていた。

 白い砂浜に乗り上げたそれは、100メートル程はあろうかと言う鋼の物体だった。

 くすんだ灰色が、砂浜の白と海の蒼に溶け込んで見える。

 その中で、ひとつだけ銀色に煌めくものがあった。

 

 

「さて」

 

 

 銀色の少女が、こつん、と後頭部を鋼の壁にぶつける。

 それはまるで、ノックでもしているかのようだった。

 

 

「次はどこに行こうか?」

 

 

 顔を上げて、催促するように、今度は拳の裏でコンコンと叩いた。

 誰かが陽を遮って、少女の顔に影が落ちてきた。

 すると、銀色の少女が笑みを浮かべた。

 陰も皮肉さも無い、素直な笑顔だった。

 ――――()()()の旅は、まだ始まったばかりだった。




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

この投稿をもって、蒼き鋼のアルペジオ二次「灰色の航路」は完結となります。
投稿・感想、その他で支えて頂いた読者の皆様には、感謝しきれません。
2年以上の投稿はなかなか独りの気力では難しいので、読者の皆様の存在は本当に力になっています。

紀沙を始め、なかなか思い通りに動いてくれないキャラクター達でしたが、それも創作の一興、面白いところでした。
さて、あまり長々とお話しても間延びしますので……ここらで、終了とさせて頂きます。

それでは皆様、完結までお付き合い頂き、本当に有難うございました。
また、どこかでお会いしましょう。


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