真・恋姫†無双〜李岳伝〜 (ぽー)
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第一話 北の地にて

 秋風吹き荒び草莽枯れ行く。

 そんな言葉が頭の中を行き交った。言葉はとうとう現れた獲物の前にあてどもなく消え去り、やはり彼の頭からはすぐに消えさってしまった。

 見渡すかぎりの大草原も、川沿いにたどれば山も森もある。数えで十五になる少年は、大陸に住む多くの人とは違い獣の毛や皮をまとっている。その姿は、多くの土地を支配する漢人から蛮族のそしりを免れ得ないものであったが、日々の糧を得ることにのみ注力する彼は、余人の風評など歯牙にかけたことすらなかった。

 大地に身を伏せ、まるで巌か骸のように紛れて一刻が経った。左手で弓を握り、右手で矢を掴む。乾いた風が頬を撫でた。雨はもう一月も降らない。風に乗せられて土埃が宙を舞ったが、どんなにむせ返りそうでも咳こむわけにはいかなかった。

 その心意気をよしとしたのか、獲物は不意に草むらから飛び出してきた。茶色い毛並みの野うさぎは、転がっているどんぐりを一つ二つと拾っては頬張り、時折立ち上がってあたりを警戒する。ひくつく鼻は影に潜む人影を見つけることは出来なかった。そのつぶらな両目も、泥で輝きを曇らせたやじりを捉えることは叶わなかった。

 男は静かに矢を引くと、たった一つの気の張りを見せることもなく放つ。解き放たれた矢は一直線に突き進み、狙いを違うことなく野うさぎのこめかみを貫き通し、その命を奪い去った。

「……うん」

 二射目は必要なかった。射手は獲物に出会えた幸運に感謝し、両手を合わせた。野うさぎはこれで二羽目、雉は三羽だ。一日の狩りにしては十分な成果といえる。青年は獲物を腰に結わえながら、どうにも苦笑せざるを得なかった。こういった生活にすっかり馴染み、なんの違和感もなくこなしていることが滑稽に思え、運命のいたずらに呆れ驚いてしまうのだ。

 ――姓は李、名は岳、字は信達。

 漢の天下の最北端、匈奴が収める大草原に暮らす、ひとよりわずかに故ある少年。

 その故とは……

(こんな生活、テレビのバラエティでしか見たことなかったよ)

 前世や生まれ変わりといった現象が現実に起こりうるとは、実際に身に降りかかるまで思いもしなかった。

 この漢の天下より千数百年も光陰が過ぎ去りし彼方の時代が、生前――という表現が正しいかどうか――岳の生きた時代であった。当時の名前を、岳はもう思い出すことができない。気づいたときには大昔、異国、異世界に生まれつき、日々生きることに全精力を傾けてきた。今では生まれ変わる前、日本の地での生活のほうこそ夢ではなかったのかと思えてしまう。

(胡蝶の夢、か……)

 幼少時代、自らが息をするこの時代と場所を正確に把握した瞬間、胸に染み渡ったあの感慨を岳は忘れられない。

 三国志。

 日本で生きるのなら、一度は誰もが目に見て耳に聞く有名な物語。その前夜の時代に岳は生まれ変わったのだった。

(群雄割拠の戦国時代、ね……)

 とはいえ生きることこそまずは先決。李信達は、日々を狩りとわずかな農作、そして自らを練磨することだけで細々とこなしていた。いずれ訪れる動乱の嵐に対してどう生き、どう立ち向かうのか、その答えすら出すことはなく――并州の北端の地、長城は雁門関を臨む野山の小屋――その小さな納屋で、自らの鬱屈を自覚することもなく、ただ、生きていた。

 

 

 

 

 

 

 山道を伝って徒歩で一刻半、岩肌険しい山の中腹に佇む粗末な小屋が彼の目指す目的地であり、生まれ変わってこの方住み続けている家でもあった。

「ただいま」

 返事はない、父は静かに目配せするだけだった。親子二人の暮らしである。

 父の名は弁。匈奴の生まれ育ちだが漢人との混血で、母は桂という、こちらは生粋の漢人だった。

 口数の少ない弁と闊達で笑顔の絶えない桂は、岳の目からもよい連れ合いに見えたが、桂は月に十日も家に居れば良い方で、ある日を境にとんと姿を現すことなく行方をくらませた。弁はそのことについて何も言わず、岳もそんなものだろうと思うだけだった。最後に会ってから二年が経つ。

 岳は父に馴染み、猟師としての技をよく学んだ。息を潜めて野山に隠れる技、獣の後を追い続ける術、弓矢の扱い……弁は弓を扱わせれば匈奴一の誉れも高く、馬上で騎射をさせれば天下に名だたるものと言えたが、岳もよくその血を継ぎ狙った的を外すことは百ぺんに一度もなかった。

 それは李岳の身体が宿した天性の才と言えた。思う様体が動く――それは生半な膂力よりもなお優れた力だと言える。

 前世では特に秀でた運動能力を有さなかった岳には、これは嬉しい誤算であった。むくつけき時代において、それは生き延びる術としては第一に求められる才であったから。英雄英傑に比肩しうるほどの膂力は持てなかったが、岳はそもそも名を成そうとは思っておらず、己が身を守ることができるのならそれで満足と考えていた。

 岳の扱う撃剣は母、桂の教えであった。碌な思い出もなかったが、数少ない絆とも言えるのが剣捌きであった。一つ教わっては二月会わず、一つ習っては季節が変わった。だがその会わない間に、岳は母より教え諭された技は全て身に染み込ませた。その懸命さと一つも漏らすことなく教えを吸いあげる岳の頑なさに、修業は次第に苛烈となり、だがよく岳も応えた。やがて十四を迎えたころ、峻烈な桂を以って

「皆伝である」

 と言わしめる程にまで成長した。

 父の弁は子から見ても驚くほど寡黙であり、用事がなければ話すこともなく、親子二人で顔を合わせながら一日声をかけないままでいることなども珍しくなかった。しかし岳は不思議とそんな父を疎ましいとは思わなかった。母が消えてからも荒れることはなく、ただ寂寥を胸に秘めたまま静かに日々を暮らす。この男が父で誇らしく思った。年季の入った分厚い手で、時折頭を撫でてくれる。それだけで十分に気持ちが伝わるのだった。

「もう昼間……そろそろ匈奴の旦那方が来ちゃうかな」

 獲物の血抜きを手早く済ませると、岳は父の弁が手ずから打ち鍛えたやじり――それも百や二百では済まない数――の入った籠を背負った。

「じゃあ行ってくるよ」

 弁は静かに頷くだけだった。

 えっちらおっちらと斜面を登り、そびえ立つ恒山を横目に斜面を下ると、見渡す限りの大平原に出る。吹き下ろしの風に背中を押されながら、岳は約束の沼地のそばへと向かった。視界の端、地平線の手前で土埃が立ち上がっているのが見える。馬上の彼らと徒歩の自分、落ち合うのはちょうど同じくらいだろうと、ぼやぼやとあたりをつけながら岳は急ぐともなく、やじりの転がる音に耳を傾けながら歩を進めた。

 見立ては正しかった。双方同時に相まみえると、岳は荷物を置き、相手は馬上からひらりと降り立った。

「久しいな、兄弟」

 豊かなひげを蓄えた巨躯の男は遠慮することもなく岳を抱き上げると、その六尺五寸の身の丈にそぐわぬ明るい笑顔を見せた。卒羅宇(ソラウ)という名で単于の信頼厚く、匈奴の中でも指折りの猛者だった。そして岳の父の古い友人でもある。

「また重くなった。報元も喜んでいるだろう」

 報元は岳の父、弁の字である。

「ありがとうございます……叔父上もご健勝そうで」

「健勝か……フフフ。相変わらず年に似合わん言葉を使う」

 こればっかりは、と岳はごまかすように頬をかきながら、自分を抱き下ろす偉丈夫を見上げた。

「報元は人付き合いは悪いがいい男だ。鍛冶師としても」

「父も喜びます」

「堅苦しく、酒も満足に飲まんが。全く、長く匈奴の生まれ育ちだというのに漢人の血はまだ絶えんようだな」

 無礼な言葉だったが、そこにはひねくれた友情が垣間見え、岳はちっとも嫌な気持ちにならなかった。

 岳の持ってきた籠の中身をあらためながら、卒羅宇は満足気に首肯した。弁の鍛えたやじり、そのどれもが彼の眼鏡に適ったようだ。弁の鍛冶屋としての腕はあまねく知られており、漢の町は州都・晋陽の大都市をはじめ、雁門から太原、上党に至るまで并州のいずこでも求めるものがいた。同時に偏屈でも知られており、噂を聞きつけてはるばるやってきた一見を睨みつけて追い返すこともしばしばであることから、本人の意図しないところで希少価値が付いてもいる。

 商談はすぐに済んだ。岳はいつも通りの代金を受け取ったが、山積みの干し肉や毛皮、さらに山羊も一頭譲り渡された。

「去年生まれた山羊だ。母に似ればいい乳を出すだろう」

「ちょっともらいすぎな気が」

「遠慮はいいの! これは家族の分なんですから」

 そう言って岳を抱きしめたのは、付き添いでやってきた大柄の女性だった。卒羅宇の妻で岳とも馴染みだ。母を失った不幸、父子二人だけで暮らす悲しみ、その苦労を涙ながらに嘆いては、愚痴ひとつこぼさない岳の心性を褒め称え、きっと大地の神が遣わした心優しい化身なのだと何度も何度も言った。

「いつでもいらっしゃいね。住む所も食べるものもなんだって用意しますからね!」

「……はい」

 卒羅宇も続いた。

「冗談やおためごかしではないぞ、岳。俺の部族で剣を振るわんか」

「いや、僕は」

 岳は返答に困り、癖の強い黒い髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。叔父の瞳は冗談のかけらさえ含んでいなかった。

「お前の父を悪く言うつもりはない。だがその年で隠居もないだろう。漢の町で暮らすか? つらい目に会うぞ」

 叔母が何度も、そうそれがいい、そうしたほうがいい、と声を上げながらたくましい腕で岳を抱いた。岳は苦笑交じりにそれに抗いながら、くすぐったくて仕方がなかった。卒羅宇はしきりに岳のことを誇らしいと笑いながら――卒羅宇はすぐさま後悔するのだが――言った。

「単于も喜ぶだろう」

 岳の表情は固く険しい物になり、卒羅宇の手をやんわりと――しかし頑なに解いた。

「単于は喜びませんよ」

「李信達」

 岳は幼い頃に当時の単于と対面したことがある。そのときは漢人が匈奴の地で生きていることを散々に罵倒された。彼自身不愉快に思ったが、あの朴訥たる父親が悔しさに唇を噛み拳を握りしめていたことを忘れることはできない。父への侮辱を岳は許すことはできないと思ったのだ。

 あたりを気まずい空気が漂い、居心地の悪さに叔母が再び岳を褒めちぎり始めた。それさえややめんどくさく感じられ、岳は話を変えるように聞いた。 

「ところで何か変事でも? 今日は随分と大勢だ」

 岳は夫婦の後ろをちらりとのぞいた。常なら多くて五人程度のはずが、今日は三十人を超す大所帯になっている。戦でもあるのか、とでも思ったが噂に聞いたこともない。

「虎だ」

 卒羅宇は眉間に険しい皺を寄せ、悩ましげに髭を撫でた。

「とんでもない人食いが山を越えてこのあたりにやってきた。足は丸太より太い。爪と牙は岩をも砕くだろう」

 虎だ、虎だ。後ろに控えた屈強な男たちも声を揃えて言った。恐怖にひきつった表情にただならぬものを岳は感じ取った。

(……こういう噂ってのはだいたい大げさになるもんだけど)

 半信半疑であることをおくびにも出すまいとこらえながら詳しい話を聴きだして、岳は別れの口上を述べた。

「気をつけろ」

「用心します」

「……ところで、例の遠出の件だが」

「ああ、またですか。いいですよ、種まきが終わった頃であれば」

 卒羅宇は鷹揚に頷き、岳の肩を叩いた。

「便りを出す。また会おう、兄弟」

 力任せの乱暴な抱擁を受けて息も絶え絶え、岳は手を振って卒羅宇たちを見送った。叔母は何度もこちらを振り返っては手を振っている。夕焼けが目に痛い。冷たいやまおろしが吹きすさぶ前に家に帰ろう、岳は仔山羊を引いて家路を急いだ。

 




 はじめまして、こんにちは、ボンジョルノ、ブエノスディアス。ぽーと申します。にじファン閉鎖に伴いこちらでお世話になろうと転がり込んできました。チンケな物書きです。よろしくお願いします。作る人に最大限の感謝を。

 改定とかチェックとか終えた順に投稿させて頂きます。ぼちぼちゆっくりで。まいどおおきにです。


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第二話 出会い

 次の日はそろそろ春の訪れを予感させる朗らかな晴れ日で、岳は久しぶりに散策をしようと昼弁当をこしらえた。

 塩をよくまぶした干し肉と蒸した粟をこねて作った饅頭はどちらも岳の大好物だ。母がよく作ってくれたその味を、ここ最近ようやく再現できるようになった。塩は庶民の手には中々届かない高価な「食べる銀」ではあるが、恒山の一角に岩塩が出ることが匈奴では知られており、もちろん弁と岳もおこぼれに与っている。

 岳はその塩を用いたとある計画を温めているのだが、それを誰かに言ったことはまだない。

(ま、次の『お使い』の時くらいが頃合いだろうな)

 卒羅宇から譲ってもらった仔山羊が伴である。仔山羊は言うことをよく聞き健脚で、額に黒い模様があるので岳は点と名付けた。家の周りにはシダなどの固い草ばかりで、点を不憫に思って放牧の真似事をと思い立ち、よい場所を求めて普段立ち入らないような所に目当てをつけて巡っていた。

 産湯に浸かってから住み続けた山である。もうその大半が庭のようなものだったが、改めて回ってみると四季の彩りに目を見張る。道すがら、かかれば御の字とばかりに手慰みの罠をしかけながら、飽きることなく岳は散策を続けた。それを半日も過ごした頃か、いい具合の泉にたどり着くことができた。川のせせらぎの溜りになっており、流れは淀まず水も腐ってはいない。

(この前の雨で新しく流れがつながったのか、地下から湧いたか。何にしたってめっけもんだよね……ん?)

 ふと、茂みの奥から異様な気配を感じ取り、岳は金縛りにかかったように身動きがとれなくなった。額や胸、背中から汗が吹き出す。見る間にぐっしょりと濡れそぼった掌を服にこすりつけながら、岳は喘ぐように後ずさった。常人離れした筋力の持ち主の卒羅宇、丸太を容易く両断する母の殺気がまるで児戯に等しく思えるほど、むせ返るような熱だった。

(なんだよこれ、こんなの人間じゃない! ……例の虎か!? どうする。点を身代わりにして助かるなんてしたくないぞ……)

 隣で自分以上に震える仔山羊を見て岳は選択肢のいくつかを捨てた。出会って一月だが、もう情が湧いてしまっていたのである。

(……そもそも逃げられるのか?)

 山野で生きてきた岳は、その気配の異常さを正確に捉えていた。

 気配は秒刻みで、確実に迫ってくる。もう囮など意味はない、見逃してもらえるはずはない。絶望的な未来を確信できるほどの濃密な殺意に対し、岳は気づいたときには弓と矢を構えていた。父が手ずから鍛えた腰の剣でさえ今は心もとない。

(こんなのが一体何の役に立つっていうんだ? まるで玩具じゃないか……)

 目を狙うしかない。しかも両目とも間髪入れずに。そして一目散に逃げるのだ。その他に生き延びる術はないだろう。岳は矢を一杯まで引き絞りながら固唾を飲んだ。不思議なことに、出会うことがなければそれ以上の幸せはないというのに、覚悟を決めれば今か今かと待ち遠しくなる。岳は自らの殺気を極力潜ませながら、だが恋焦がれるように茂みの奥を見つめ続けた。絶望的な死への確信を胸に秘めて。

(生まれ変わった先で、虎に食い殺されておしまいか……あっけないもんだ。次に生まれ変わるのならどの時代がいいかな)

 走馬灯など見なかった。不謹慎な冗談を考えついては、それがあまりにおかしくて岳は笑いをこらえるのでやっとだった。

(さて、来そうだな……っ!)

 影は目にも止まらぬ速さで飛び出し、岳の目論見をあざ笑うかのように跳躍した。ましらのごとく樹間をはね跳びながら、影は岳に迫った。岳は矢を放った! 速すぎる動きにその姿さえ満足に捉えきれていなかったが、鋭い眼光を見紛うことはなかった。

 影は岳の頭上を素通りし、背後に着地した。慌てて茂みに飛び込み、伏せて二の矢をつがえる。

(手応えはあった! 狙い通り射れたはずだ)

 岳の感覚に反し、影は身悶えすることも痛みにもがき苦しむこともなく、静かに振り返り岳を見つめた。岳もその者を正面から見据えた。

 唖然とし、見間違いではないかと思った。気配の源は虎などではなく、まごう事無き人だった。それも年端もいかない少女である。

 岳は目をしばたきながら思わず弓矢を取り落としかけた。自分と変わらぬ歳と思しき、すらりとした細身の女の子。だが確かに殺気を振りまいていたのはその少女であり、彼女の右手がしっかと掴んでいる矢は間違いなく岳が放ったものだった。少女は静かだが、刃物よりなお透き通る隙のなさで岳に立ち向かっていた。

「……上手」

「え?」

「矢」

「……あ、ああ。うん。ありがとう」

 そう言った後、岳は心底から怒りを覚えた。

(何がありがとうだ! 馬鹿め! もう少しでこの子を射殺す所だったんだぞ!)

 あわてて頭を下げる、事態が。

「あ、あの! ごめん! もうちょっとで君を」

 その言葉に少女はうんともすんとも反応することはなく、むしろ岳さえ見ることはなく、彼の背後でまだ怯えている山羊の点に近づいていった。きょとんとする岳を放ったらかしたまま、少女は点を誘うように掌を差し出す。はじめは怯えていた点だったが、やがておずおずと差し出された手に頬をこすりつけると、程なく懐いてしまった。

「いいこ、いいこ」

 点はメェ、メェと可愛らしい声で女の子に体をすり寄せては甘えている。その光景がどうにも呑気なもので、岳はすっかり毒気を抜かれてしまった。

「……点というんだ。そいつの名前だよ」

 少女は口には出さずに頷くだけだったが、岳には彼女の気持ちがなぜかよくわかった。動物が好きなのだ。

「うん。そう。俺の家族。一緒に暮らしてる家族」

 点、点。

 声には出していないというのに少女の声が聞こえた気がした。仔山羊を可愛がり続けた。どれほどそうしていただろう、やがてキッと岳に向き直るや否や――今度ははっきりと口に出して――少女は言った。

「食べ物」

「へ?」

「食べ物」

「……」

 ぐぅ、とダメ押しのように少女のお腹が鳴った。さっきの死を覚悟したやり取りは何だったのか、ほとほと呆れ返りながらも、どうしてもその子を憎むことが出来ずに岳は自分の昼食となるはずだった饅頭と干し肉を渡した。途端に、少女は饅頭を頬張りはじめた。

「……んぐ」

「落ち着きなよ、ほら水」

「……おいしい」

「そう、よかった」

 頷く。

(変な子だ……けど、相当強いんだろうな)

 おそらく、自分などは歯牙にもかけないくらいに、と岳は彼我の力量を測った。生まれ変わって身体能力が増したとはいえ、岳は所詮一般人の域を出るものではないと自認していた。比べて目の前の少女は間違いなく、英傑。それも生半可なものではないだろう。知り合いがそれほど多いわけではないが、これはと思うほど強い人間もいた。その人達が赤子に見えるほど少女の迫力は突出していた。

(卒羅宇が虎と見間違える程だからなあ……ん?)

 よっぽど気が抜けていたのか、李岳は自分でもいまさら何を、と思うような質問をした。

「そういえば、どうしてあんなに殺気を?」

「……んぐ。追っ手」

「と、勘違いしたのか」

 コクリ。少女は自前の水筒に口をつけながら困ったように、曖昧に頷いた。

 ひょっとしたら照れているのかもしれないなと思い、岳は内心おかしくなった。

「……失礼なこと考えた」

「……いやそんなことは全く。美味しかった?」

「……ん」

「そりゃよかった。ところで追っ手って、いったい何をしたのさ」

「盗み」

 平然と言ってのけた少女に悪びれた様子はなかった。何か理由があるんだろうとすぐに察しがついた。身なりがみすぼらしいわけでも性根が腐ってそうなわけでもない。だが聞いてもいいものかどうか、岳は束の間迷った。人には誰しも踏み入れてはいけない領域があるものだ。

 その迷いをかき消したのは点だった。メェメェ、と戸惑ったように鳴き始める。見れば小さな仔犬がじゃれかかっていた。

「あの仔のため」

「え」

「お乳……セキトの……」

 少女が声をかけると、仔犬は耳と尻尾を忙しく振り回しながら飛び込んできた。少女は仔犬に小さくちぎった干し肉を与えている。食べにくそうにしているが、セキトと呼ばれた仔犬は辛抱強く噛んでは少しずつ飲み込んでいく。

「……そっか、まだお乳がいるんだな。そして匈奴の牧場かどこかに忍び込んだのか」

 岳は無心に頬張る仔犬の頭をそっと撫でた。

(ん? セキト……? どこかで聞いたような……)

「言ってもわけてもらえなかった」

「……君、漢人でしょ。まぁ、匈奴の人は漢人に優しくないからね。だから盗みか……」

「お金がない……自分で出せれば解決するのに」

 そう言うと、少女は自分の胸をもみ始めた。豊かな乳房が手に合わせて形を変える。

「わあわあ! なにしてんの」

「でない」

「そりゃそうだ! 子供いないでしょ!」

「……ちぇっ」

 なんだか独特の間を持つ子だなあ、と岳はドギマギしながら話題を変えた。

「お金がなければ仕官すればいいんじゃないかな。禄が出るはず。君の武術の腕ならすぐに出世できるんじゃないか」

「仕官すればお金がもらえる?」

「もらえる」

「仕官する」

「……そんなんで決めていいのか? 自分で言っといてなんだけどさ」

 なんでかトントン拍子に進んでしまった。こんな風に迷いなく決めてくれるのなら進路指導なんてチョロいもんだよな、と思った。だが意見を変える気はなかった、忠告が的外れとも思わない。

 与えられた干し肉を全部食べてしまうと、セキトはまた点を追いかけまわし始めた。点も逃げまわるが心底嫌そうなわけではない。動物同士気が合うのかもしれない。

 さてそろそろお暇しよう、と岳が別れを切りだそうとした時、少女が不意に口走った。

「……呂布。字は奉先。真名は恋」

 はじめ、彼女が一体何を口走っているのか岳には見当が付かなかった。

(どこの言葉だろうか……俺も北匈奴の言葉はさっぱりだからなあ)

 しかしやがて彼女が姓名字、挙句の果てに真名まで含めて名乗りを上げたということをはっきりと理解すると、目に明らかなほど動揺し、思わずのけ反らんばかりになった。

「……?」

「……いやいや! ちょっと待って!」

「名乗った」

「それはわかるけど……!」

 岳の動揺は尤もだった。

 --呂布。

 長い中華の歴史において、その名を凌ぐ豪傑がいるかと言われたら誰もが唸る。豪傑入り乱れる三国志の中でさえ『人中の呂布』と謳われた最強の人物。金に汚く信義を守らず、董卓の暴政に加担し、悪辣という誹りを鼻にもかけずに跳梁した魔将軍――だが掛け値なしに、乱世を大暴れした稀代のもののふ。

 それがどうして女の子なのか、こんなところで出会うのか、次から次へと疑問は頭をめぐるが、とりあえず自らの動揺を説明する必要があった。

『君はこれから乱世で大注目を浴びる人だから』

 だなどと本音は言えたものではないが、幸いなんとか説明できる材料はあった。

「……そんなすぐに真名を言うもんじゃないでしょうに」

「いい」

「いいって……」

 呂布と名乗った少女は真っ直ぐ岳を見据えたまま頷いた。

 ――真名とは、その者の魂さえ明らかにすると言われる秘中の秘、根源的な名前である。それを他者に教えるということは、相手を心の底から信じ、許し、命を預けたことに等しい。

「いい。セキトの恩人」

 少女――恋はセキトを抱き上げながら、そっと笑った。

 迷いのない信頼の眼差し。岳は、困ったなあ、と呟いては頭をかくことしか出来なかった。内心は混乱と動揺で頭がおかしくなりそうだった。

(呂布と知り合っていいことはあるのだろうか、危険はないのか、だが史実とはどうも違うようだし、とはいえ武力は間違いないだろう……じゃあやっぱり本人……)

 悩み続ける岳に、恋は抱き抱えているセキトを手渡した。仔犬は何もわからず、ただはしゃぎながら岳の顔を何度も舐める。その愛嬌に苦笑しながら懐に隠してあった干し肉の最後の一切れを与え、岳は意を決した。

(あーあ、だよなあ……そうなんだよなあ。残念なことに、俺は、犬が好きなんだよなあ)

 そして犬を大事に可愛がる人も、やっぱり好きなのだった。

「姓は李、名は岳。字は信達……真名は冬至」

 肉親以外、誰かに真名を預けるのは生まれて初めてになる。それがまさか歴史や物語で親しんだ呂布だとは。岳は自らの身体に鳴り響く鼓動はきっとそのせいだと、不意に花のように微笑んだ目の前の少女から目を背けながら念じた。

 

 ――この出会いが、彼の運命を大きく変えてしまうきっかけになるのだとはつゆとも知らずに。



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第三話 春

 三寒四温もどこへやら、ようやく春が右往左往をやめた頃、岳は春の獣を追い、新芽を頼みに種を撒き、薪割り仕事が減ったことに安堵の息をこぼしていた――卒羅宇からの頼りが届いたのは、そんなある日の午後のことだった。

『山を越え、公孫賛の元まで馬を届けて欲しい』

 要約するとそうなる。

 匈奴の馬は河内のものよりたくましく、疲れ知らずで、軍備を整えんと企む太守や将軍からは喉から手が出るほど欲しい代物だったが、匈奴に対する偏見を始め様々なしがらみにより、求めるものはそれほど多くはなかった。

 幽州に基盤を置く公孫賛は珍しくそのような偏見にとらわれない領主のようで、何度か匈奴に対して取引の話を持ちかけていた。公孫賛は特に白馬を指定して求めたが、白備えの部隊を揃えているというのがもっぱらの噂だった。

 だが求めるもの、提供するものが揃った所で、行く先々で難所がいくつもある。まず関所であった。匈奴の者が通行許可の竹簡を持っていた所で、怪しまれれば追い返されることは常である。ましてや公孫賛の待つ幽州までは常山郡を通過して匈奴嫌いの袁紹が収める冀州を通過せねばならない。冀州が豊かであり、警備の締め付けも厳しいことから審査もおざなりではなく、匈奴の者がたとえ出自を隠したとしても言葉遣い一つで露見することもあった。数百頭からなる馬を全て押収されることもあり得る話で、おいそれと試せる話ではなかった。卒羅宇が岳に頼むのは、彼が訛りのない流暢な漢の言葉を話し、外見もそうと言われなければ気づかないからだった。さらに最も重要な理由として以下の一文が挙げられる。

『常山郡は李岳でしか越えられない』

 実は常山を突破する、それこそが余人には頼めず、岳という個人にしか頼めない訳でもあった。実際に予行演習として幾度か道程の突破を図ったことがあるのだが、岳が任された二回以外は全て常山で断念している。冀州にすらたどり着けていないのだ。仮に常山を通らず迂回を行なって幽州を目指すのなら、多くの山脈を越えねばならず、旅程は恐ろしく遠大になり危険もいや増す。岳に頼むことが確実に安全であり信頼も置けた。誰も岳を疑いはしない。

 それも含めて、竹簡を読みながら岳は思惑を練った。

(まぁちょうどいいぐらいか。こっちも準備に随分と時間がかかったけど、なんとか間に合いそうだしな)

 岳には胸に秘めたいくつかの計画があった。それはこの世に生まれ落ち、二度目の生を過酷な時代に生きることをはっきりと自覚してから企てはじめた、まさに岳の生き様を全て決定する類のものだった。今回、この馬の受け渡しが滞りなく済めば計画は飛躍的な進展を見せるだろう。大事な試金石といえた。

 そのためいくつかこなすべき準備を、卒羅宇から依頼が届く前に、必要以上の入念さで準備し始めてしまったため、全く暇が無くなってしまった。何せ春は忙しい。その上夜を徹して秘密工作にかかりきりになったのだ、ろくな休みもなく始終忙しく走り回っていた。そのためいくつか不都合が降って湧いたりしたのだが――最大の誤算は呂布だった。

 力仕事が大半を占めるため、岳は呂布にも助力を頼み込んだ。呂布も嫌がらずその豪腕を思う存分発揮して大いに岳を助けたのであるが、二人で暗黙の了解となっていた『日課』が全くおろそかになってしまった。

 岳はその『日課』をこなさんと二人が初めて出会った泉の前へ、山羊の点を連れて向かっていた。小道を抜けてたどり着いた先に呂布は既に待ち構えていた――まるで仁王の憤怒が如き恐ろしいまでの覇気を余すことなくまき散らしながら。

 岳は「あ、死んだ」と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腹に叩きこまれた一撃に吹き飛ばされ、絶息、痙攣を経た後、ようやく岳は搾り出すように言葉を吐いた。

「死んだ……」

 よだれが糸を引いた。まだ全身が蠕動しており、瀕死の体であることを疑う余地はなかった。

「……死ぬ。これ折れてる。肋がへし折れてる。きっと肺に突き刺さる。そろそろ血が出る……死ぬ……恋、死んだよこれ……」

「死ね」

「そこは……嘘でも否定してほしかった……」

 息も絶え絶え、岳は這いつくばった不自然な姿勢のまま痛みに呻いた。

 久方ぶりの『日課』の成果がこれだ。呂布は李岳に冷たい一瞥を投げかけ、棍を目にも留まらぬ速さで振り回したあと、さっさとセキトとじゃれつき始めた。点が寄ってきて岳の頬を慰めるように舐めるが、痛めつけられた肋間を抑えたまま呻くのが精一杯であった。

 二人の『日課』とはすなわち武術の鍛錬だった。

 岳は母の桂から稽古を受けることが出来なくなって数年、全く成長が止まってしまったことを自覚していた。もちろん我流で鍛錬は欠かさず行なってきたが、それも所詮程度が知れている。母からお墨付きをもらったとは言え、型や動き方の話でしかなく、細身で華奢、膂力に劣る李岳としては何としてももう一皮剥けたいと思っていたところだった。

 呂布にとっても岳との稽古は楽しいものだった。思う存分殴り飛ばすには岳は頼りなく脆いのだが、動きが奇妙で――呂布は武術の動きに慣れていなかった――油断はならない。特にちょこまかと逃げまわり、虚実織り交ぜ紙一重でかわし続ける防御の技は呂布を以って感嘆させ、その倍はいらつかせた。

 天賦の才それだけで戦える呂布ではあるが、岳の動きや剣さばき、そういった技術を見よう見真似ではあれ身につけようと考えていた。力任せに武器を振り回すだけではなく、よりよい体の運用によって威力は何倍にも増える――呂布にはその理が段々と面白く感じてきたのだ。そして何より、対等に付き合える人ができたことが嬉しい。

 呂布が普段住んでいた村はここから五里、田畑を耕し糊口を凌ぐだけの人生を呂布は疑問に思ったことはなかったが、ある日襲ってきた野盗によってその運命はねじ曲げられた。呂布は野盗に立ち向かい襲い来るもの全てを叩き伏せたが、いかんせん敵は数が多かった。村の多くの者が命を失い、家族は散り散りに、集落を守ることも出来ずほとんどの人が離散していった。呂布の家族もみな去っていった。呂布にはただ友だけが残った。セキト、そして他の動物たち。天涯孤独の身の上で、呂布は新たにできた家族の口を糊するため、卒羅宇を持って『虎』に見間違えられるほどの暮らしを過ごしてきたのだった。

 呂布はまだ少女といえる歳で、生まれ育った境遇から自らの心の有り様を上手く表現することが苦手であった。どうして岳と会えなくなってこんなにも腹が立つのか自分でもよくわかっていなかった。理解出来ない、やり場のなさというものがまた呂布を苛立たせ、矛先が岳に向いたという顛末なのだった。

「……さて……」

「次」

「はいはい……」

 悶絶するほどの激痛がじわじわとした鈍い痛みに変わった頃、岳は呂布に引き起こされて続きを急かされた。

 武術の鍛錬といっても取っ組み合いがほぼ全てだった。棍ほどの長さか、あるいは剣に見立てることのできる棒切れを拾ってきてはへし折れるまで振り回し続ける。あるいは徒手の時もあった。その全てで呂布は岳を凌駕し、負けはおろか一撃を見舞われることさえ少なかったが、ただ一つだけ岳に勝てないものがあった。弓矢の扱いであった。

 前半は取っ組み合い、続いて弓矢を競い合うというのが『日課』の大まかな流れである。

 いそいそと弓と矢を取り出しては準備を始める呂布を見て、岳は深呼吸しながら考えた。

(史実じゃ、呂布って弓矢も天才的だったよな、確か。何里も先の鎧を正確に射ぬいたんだっけか? ……ま、今だけだな)

 岳は自らの懸念が一時の杞憂であることを誰よりも――呂布本人よりも――よく理解していた。二部制の『日課』を一勝一敗で持ちこたえているからといって、それは一日の長に過ぎない。いつか追い抜かれる日が来るだろう。夢中になって弦を弾き続ける呂布を見つめながら、岳は師の風情を味わうのもあとどれくらいだろうなあ、と考えおかしくて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もっと」

「はい」

「……ん」

 どんぶりを受け取る呂布の笑顔を見ながら、岳はこれは一体何度目かのおかわりだろう、と思ったが数えるのも面倒くさくなるほどの回数なのは間違いないと結論づけて、少し呆れたようにふうと息を吐いた。

 よく食べる――決して楽な生活を送っているわけではない李岳にとって、呂布の飲食は結構な負担となっていたが、目の前の大食らいが口いっぱいに頬張るのをどうも嫌いになれないらしく、そんな自分自身にも李岳は半ば呆れてしまっていた。誰かに喜んで食べてもらうというのは、掛け値なしの喜びをもたらすのである。

(けど、どっかで食料補填せんとなあ。きついよな)

 蓄えに余裕はある年だったが、いかんせん呂布一人だけが食料を腹の中に詰め込んでいるわけではない。呂布の後ろには兎、犬、鳥、狸に狐たちがもそもそと群れて食料を口にしている。自分で獲物を取れないかわいそうな子たち、というのは呂布の弁である。確かに皆体が小さく幼く見え、痩せている。自然の中でたくましく生きている動物とも交流しているようだが、弱っている仔を見ると見兼ねて餌を上げたくてたまらないらしい。

 呂布が幼い仔を抱きかかえて懇願するように李岳をじっと見つめてくるのも一度や二度ではない。だが瞳を潤ませて見上げてくる彼女に抵抗する術を李岳は持ち得なかった。

(ま、なんとかなるよな。馬さえ無事に届ければ色々とまとまった手段が増えることだし)

 内心の企みを呂布に伝えるつもりは李岳にはなかった。汚い、暗い――そういった印象を呂布に抱かれたくなかった。清流のように純粋で、汚れていない呂布の瞳を哀しみや落胆で濁らせたくなかった。どうしてそこまで呂布に嫌われたくないのか、李岳は未だ深く考えずに日々を過ごしており、その度に無理して笑うようにしていた。

 食事も済み、のんびりと芝生に寝転がって風に身を任せていた。二人でこうした時間を過ごすことを李岳はとても気に入っていた。隣を見れば呂布はうとうとと舟を漕いでいる。李岳にばかり頼ってはいけないと野山を駆けまわって木の実を採ったり魚を獲ったりしているようだった。

 安心して全てを任せろ、と李岳は何度その言葉を喉の奥でつっかえさせただろう。そんな簡単に人の人生を請け負えることなど出来るはずもないし、したら不義理の愚か者だ。ましてや相手は歴史に燦然と輝く英雄なのである。思いつきで呟いた一言が歴史の流れを狂わせ呂布の人生を狂わせることにもなるのである。

(けど……史実じゃ十分に狂っているともいえる人生なんだ……それを変えて、いったいなにが悪いというのだろう……)

 正しい行いとは、自分がすべきこととは一体――鬱々とその場で回転するばかりで一向に前に進まない悩みを抱えたまま、岳はその場で何度も寝返りを打っては静かにもがいた。隣で寝ている少女がいつまでも穏やかな寝息で休んでいられることだけを願っているというのに、それの何と難しいことか、と。




後半ちょい増やし。


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第四話 黒山の砦、頭目・張燕

 光陰矢の如し。日にちは瞬く間に過ぎ去り、とうとう出発の日になった。慌ただしく過ぎ去った日々も終わってみればあっという間に感じるが、付いて来たがる呂布を引き剥がし、諦めさせるまでが最大の難事だったのではないかと思う。決め手は点の世話を頼んだことだったのだが、それでさえ渋々であった。

 旅の身の上となり五日が過ぎた。旅にはいい時期だった。二十四節気でいうところの雨水も過ぎて雨も少ない。新芽が伸び始め(まぐさ)の代わりも困らない。雪解け水はまだ残っており、乾くことはないだろう。

 馬群が大地を引き裂くように突き進んでいる。立ち上る濛々たる土煙は全てを覆い尽くす荒波のようだ。岳はその先頭で馬を駆っていた。日は中天にさしかかり蒼天は見果てぬほど透き通っている。軽快に駆ける黒狐も気持ちよさそうに首を上げ下げしている。

 黒狐。先の戦のとき、部族長の卒羅宇がその勇猛果敢なる戦働き、さらには敵の隊長を自ら一騎打ちの末、見事に首級を挙げた功から、時の左賢王より下賜された汗血馬である。黒毛で、嘶きが狐の鳴き声のように甲高いことからそのように名づけられたのだが、卒羅宇には既に長年連れ添った愛馬がおり、事ある毎に岳が借り受けていた。

 馬の扱いに達者な匈奴の者でさえ滅多に乗りこなせない荒れくれのじゃじゃ馬だったが、岳にはなぜかよく懐いた。いつか貰い受けたいと岳は本気で思っていたが、よほどの功績を立てなければ時折借り受けるのが関の山だろう。

 恒山を迂回し、長城を横目に眺めながら并州をまっすぐ横断している。今までと違い数百頭もの馬を運ぶことになるので、不測の事態に備えて余裕をもって旅程を組んだが、問題は全くなかった。常山を目掛けて快走が続く。そろそろ郡境に差し掛かる頃だろう。

 一頭の馬が最後尾から数百頭を追い抜いてやってきた。馬上の男はピタリと岳に馬体を寄せると、馬蹄の音に紛れぬよう大声で叫んだ。

「そろそろ休憩じゃないかね!」

「この先、半里も進めば小川がある! そこまで行こう!」

「あいよ!」

 威勢よく返事をすると、男は再び殿に戻っていった。

 香留靼(カルタン)という名の生粋の匈奴の男で、岳より二つほど年長になる。匈奴は皆、幼少の頃より馬に親しみ自然その扱いにも長けるが、卒羅宇のもとに集まる部族の中でも香留靼は指折りの達者であった。家族以外、匈奴にも漢人にも上手く馴染めなかった岳にとって、数少ない友であり気の置けない仲間だった。

 ちょうど半里を進んだ頃、目論見通り小川が見えてきた。岳は巧みに馬群を蛇行させ、なるべく急に足を止めないようにゆるゆると速度を落とした。馬は商品である。消耗させずに取引相手に運ぶことが望ましい。

 馬たちは思い思いの体勢で休息を取り始めた。秣ほど上等なものはないが匈奴の馬は逞しく、どんな草でも気にせず口に運ぶ。五百余頭のほとんどが生まれて半年に満たない。軍馬としてしつけるのなら若いほど良いが、あまりに早く町に入れると走りが鈍くなる。大草原で伸びやかに遊ばせてちょうどよいのが半年、という塩梅なのだった。

 届ける先は冀州の最北端、幽州との関所に設営された公孫賛軍の駐屯地である。まっすぐ横切るための旅程であり、おそらく今日にでも山賊のはびこる常山を通ることになる。馬以上にのんびりと骨休みをしていた香留靼を揺すって、岳は黒狐を引き寄せた。

「……起きなよ。そろそろ行こう」

「んんん……? ……ええい、ちくしょう、いい夢みてたんだぜ。岳、殺生なことをするよ」

「どうせいやらしい夢だろう」

「ひひひ」

 香留靼のぼやきを聞き流しながら、はぐれた馬がいないかを確かめてから渡河を始めた。深さはなく一気に渡りきることができた。休みを与えられて馬たちも元気いっぱいといったところだ。

 やがて街道が見えてきたが、馬群を走らせるには無理がある。周りからはのっぴきならない事態に見えるのだろう、度肝を抜かした商隊を横目に一気に常山を目がけた。

「あんまり飛ばすなよ! お前さんがまたがってる黒狐は特別なんだからな!」

 最後尾から笑い交じりの怒鳴り声が大平原にこだました。

「飛ばしてるか? 黒狐」

 黒狐はもどかしいとばかりにたてがみを振った。

「そうだよね、物足りないよな」

 風を感じる。岳は喜びを噛みしめながら、天与の運命に思いを馳せた。

(物足りない。果たしてそれは黒狐だけか? 俺は?)

 思いは取り留めもないまま風にさらわれ、明確に形作られることもなく溶けていく。やがて馬蹄の音が硬く尖ったものに変わったことを知った。柔らかい土ではなく、岩山に足を踏み入れたのである。道は狭まり両脇に森が迫る隘路となった。岳はぴったりとついてくる幾人もの気配に知らぬふりをしながら、馬が足を傷めないようになるべく軽快に闊歩をさせた。

「そろそろか、ご案内はお任せしてていいのかね?」

 香留靼が笑う。岳は答えずに馬群を道なりに進めた。並走する人影は次第にその数を増し、小さな丘を二つ越えたあたりで既に百を超えるに至った。

 前方に一際大きな杉の大木が見え始めると、その下に一人の男が立っているのが見えた。見上げるほどに背が高く、痩せた男で、全身黒ずくめの装束を身にまとい、油断なく気合を充実させている。

 黒ずくめがペコリと頭を下げたのを見て、岳も馬から降りて手を合わせた。

「通行許可の札を」

 岳は竹簡を渡した。ここもまた立派な関所なのだった。

「李信達殿ですな」

「はい」

「お頭がお会いになります。ついてこられよ」

 丁重なこって、と香留靼が舌を出す。黒ずくめは杉を左に曲がり、続いてすぐに左の斜面を下っていった。傍目には崖から落ちたのかと思えたが、木々に隠れて道があり、案内されなければ到底わからなかったであろうと思えた。

「なんだってこんな……手間な道を」

 狭い道で気を付けなければ崖下へ真っ逆さまである。全ての馬を一頭ずつ渡しながら香留靼は愚痴った。

「攻めこまれにくいんだ。罠も仕掛け放題」

「なるほどね。とはいえ手間だぜ」

 全てを渡し終えた頃、日は大きく傾き始め空に赤みがさしてきた。案内されるまま先へ進むと、山の中腹だというのに広大な平野へ出た。何度見ても不思議な光景だ、外から見れば全く気付くことは出来ないだろうと、岳は内心舌を巻き、香留靼は盛大に口笛を吹いた。

「馬はしっかりとお預かりします。ご安心めされよ」

 言うや否や、地から湧き出るように何十人もの男たちが現れ、あっという間に馬囲いの柵を打ち込み始めた。

「安心? あんたら盗っ人だろ」

「香留靼」

 たしなめたが、香留靼は引かなかった。この馬たちは決して安くはない、張燕の為人をよく知っている岳だからこそ特に疑問には思わないが、彼の態度は当然と言えた。

 黒ずくめの男は気を悪くした風もなく答えた。

「かまいません。ええ、(それがし)どもはしがない盗っ人に過ぎません。ですがお頭に生きる道を与えてもらいやした。仁義の名のもとに、堂々たる悪党として生きる道です」

「仁義、ですか」

「我々が狩るのは横暴を成す官軍、そして堅気の衆を付け狙う外道どもだけです」

 黒装束の奥で、男の眼光は鋭く光った。仁義。その言葉はおそらくこの男の誇りなのだろうと思えた。そしてきっと、この山に集った黒山の男女は皆似通っているのだろうとも。

「……ふうん、面白いねあんたら。後で一緒に酒でも飲もうぜ」

「……アンタも変わったお人だ、匈奴の旦那」

 香留靼が愉快そうに黒ずくめの男の肩を抱いた。誰とでもすぐに仲良くなれる才が彼にはあった。

 平原をわずかに逸れ、もう一丘越えるとそこには果てまで連なる広大な家々が並んでいた。

 何千戸で利くだろうか、一つの町が山の中腹に丸々収まっていた。炊飯の煙が幾筋も天に昇っている、ここには確かに生活があり、みすぼらしい野党の砦などとは隔絶しているのだと訴えかける狼煙のようだった。

 一際大きな屋敷に岳だけが案内された。香留靼は一足先に酒家へと向かっていた。何を勘違いしたのか「気にせず楽しんでこいよ」と岳を小突いて。

 

 屋敷の中には目も眩まんばかりの金銀財宝で満ちており、初めて訪れたわけではない岳でさえ息を呑む。

 

 金糸銀糸で編まれた豪奢な絨毯、壁にかかるは都の名工が鍛えたであろう見事な装飾刀、巨虎と大熊の皮はまるで今にも襲いかからん迫力で睨みを利かせており、天竺でしか手に入れることの出来ない楽器が今にも天上の音楽を奏でんと控えている。

 しかし部屋の主は、それら宝物の全てを凌駕する輝きを内包しているかのような、圧倒的な存在感で床机に腰を下ろしていた。

「ご無沙汰じゃないか」

 嬉しそうに哄笑しながら、妙齢の女性は美しく流れるような髪をかきあげた。

「……すみません」

「フフフ。言い訳くらいおしよ。しかし、相変わらず乙女のような顔をしておいでだね。ホント可愛い坊やだ」

「知りません」

 岳が面倒そうにそっぽを向いたのを見て、この山でただ一人『お頭』と呼ばれる女は長い髪を振り乱しながら大笑いをした。

 

 ――其の者、常山一帯を支配する黒山賊と呼ばれる盗賊の頭目であり、姓は張、名は燕。配下の数は十万から二十万と言われ、圧倒的な武力と情報網を背景とした支配力は盤石の一語に尽き、その規模はもはや郡の監督の範疇を遥かに超え、遂に朝廷から官位さえ“盗み取った”という漢の天下で最も傾き、世紀の大盗賊であった。

 

 艶やかな唐草模様の着物は肩口が大きくのぞいており、そこには空を切り裂き自由に羽ばたく燕の刺青が煌めいている。燕の嘴には何者にも縛られない自由の証、血のように赤い梅の花がくわえられていた。

「両親は息災かね?」

「相変わらずです」

「てことはあのアマもくたばってねえってわけ、フン」

 岳自身細かいいきさつは知らないままだが、張燕は李弁とも桂とも古い馴染みのようで、その伝手でもって卒羅宇は岳に馬の輸送を頼むのであった。これまでに二度、岳は少数の馬だけを率いて常山に訪れていたが、それ以前にも上等な鉱石を求める弁に連れられてやってきていた。

 卒羅宇や香留靼などは、知己の情で岳が自由に常山を行き来できると考えているが、現実は彼らの考えと大きくかけ離れており、張燕はいつも岳に無理難題を持ち込んでは困らせるのが常だった。匈奴の者たちが常山を通過できないのはその難題に応えることができないからであって、加減はされたとしても岳とて条件は変わらぬのだった。

「さて、土産もなしにここを通るのは許されんのだが……?」

 不敵に笑う張燕。一度など私服を肥やす官庁への討ち入りへ同行せよなどという条件を突きつけられたことだってある。

(いい顔で笑うよホント……)

 きっとまたひどいことを考えているのだろう、手元の扇子を弄びながらにやにやと笑みを浮かべる張燕を見て岳はうんざりとした。

「吹っかけようってわけじゃないでしょうね」

「さぁ、どうかしら……ね?」

 パチン。

 扇子が軽快な音で鳴った刹那、張燕の姿は霧のように消え去り、三間の距離を一瞬で詰め、岳の腰に手を回していた。

 幽玄の術と見紛う程だが、その神速はれっきとした体術なのだった。この技を以って張燕はいずこなりとも忍び込んで目当てを盗みとってきた。体術は堅実な鍛錬とたゆまぬ努力でしか培われないが、張燕は誰にも苦労の影を見せたがらず誤魔化しがわりに幽玄の技と言いはり続けていた。昔、一度だけそのことを指摘した時、照れ隠しに大暴れされてしまい岳は大いに痛めつけられた苦い思いがある。

 張燕の手がそっと岳の体を這った。

「その体で払ってもらう、ってのはどうかね?」

「……冗談でしょ」

「フフン。筆おろしはお済ませかい?」

 腰を撫でまわしながら、次第に腕は下へ目指し降りていく。甘い吐息が岳の耳にかかった。

「……勘弁してくださいよ」

「アラ? その様子じゃホントにウブなんだねっ」

「なんでそんな嬉しそうなんだ……」

「なぜって……」

 岳の耳を甘く噛み、袍の帯をほどきにかかりながら張燕はまるで子供のように目を輝かせた。

「あんたはまるでキラッキラの宝石みたいだからさ……アタシゃ盗みたくて仕方がないのよ」

 強欲、直載、豪放磊落といえた。貪欲でありながらそれを隠さず、求めるものを得、飛躍し、そのために戦う。盗賊でありながら多くの人から支持され世に名を馳せた理由が岳には垣間見えた。彼女は子供なのだ。欲しいものを欲しいという。そこに理由はない、あるとしても後でついてくるのだろう――彼女こそ、誠に乙女のように純粋なのだった。

 岳は這いまわる手の甲をつねりあげ、何歩か後ずさった。

「チェッ、いけず。つれないのね」

 舌を出して残念そうに拗ねる張燕に、どぎまぎした内心を悟られまいと平静を装いながら岳はきびすを返した。

「体で払うというのは無理ですが……その代わりに面白いものをお見せしましょう」

 屋敷を出て再び平原へと戻る。どれほど面白そうな催しが始まるのかと張燕は至極上機嫌に後に続いた。夕焼けがそろそろ目にしみる。標高の高さでまだ明るさがあるが、下界は既に宵闇が降りてきているだろう。

 岳は自らが率いてきた、柵の内側で思い思いに羽を伸ばしている馬群の中から一頭選んで曳いてきた。

「おまたせしました」

「馬一頭で済まそうって?」

「お気に召しませんか」

「……つまらない真似はおよしよ。アンタのことだ、なんかウラがあるんだろう?」

 張燕はほくそ笑みながら岳の曳いた馬を眺めた。別段代わり映えのしない栗毛だった。駿馬と言えるかどうかは走らせてみないとわからないが、岳のまたがる黒狐ほどではないだろう。

(となると……)

 張燕はしばらくグルグルと馬の周りを回りながら、やがて合点がいったという風に口の端を釣り上げ、腰に両手を伸ばした。

「なるほどね、そう来たか――ハッ!」

 張燕の腰に佩かれた二本の曲刀、その名も『銀翼』が目にも留まらぬ速さで鋭い軌道を描き、馬の腹を切り裂いた。警戒心の強い馬が刃を振り回されたことさえ気づかない素早さであった。切り裂かれた馬の腹からこぼれ落ちたのは真っ赤な臓物ではなく、白く輝く岩くれだった。

「お見事」

 張燕は塊を拾い上げると赤い舌でペロリと舐めとった。

「――岩塩か!」

「并州北部の山から出土します。ほとんど手付かずです」

 塩はこの時代官公が管理、売買を独占しており公の手を経ずみだりに入手したり売買すれば即死罪に処せられるほどの重罪とされた。だが塩は人民の生活になくてはならず、闇塩は絶えなかった。張燕も塩には手を出していたが、官軍の守りが厳しく取り扱いは細々としたものだった。

 それが大量に出土した。恒山付近の小さなハゲ山、巨大な岩石が転がる一角に見えにくいが人一人通れる程度の洞穴があり、中に入ってみるとあたり一面塩だったのだ。卒羅宇にかまをかけ裏をとってみたが、塩洞窟の存在を知っているのは匈奴の中でも一部の者だけだという。また闇で売りさばくにしても匈奴の身分では相手にされず、無理に採掘して官公に睨まれてもつまらず、生活に細々と消費できればいいとする穏健派の意見が大勢とのことだ。ゆえにほとんど掘り返されることはなく、大鉱脈は無傷で残っている。固い岩盤だったが弁にこしらえてもらったツルハシで呂布と二人でようやく掘り返すことができた。洞穴にはまだ三千斤がすぐにでも運び出せる形で隠してある。

 張燕は続いて自らが切り裂いた馬の腹だったものを手にとって検分した。

「なるほど……死んだ馬の皮を縫い合わせて袋に、同じく皮の帯で胴に巻きつけると。んで、たてがみを縒って結び紐にしたわけか」

「せいぜい五十斤といったところですが、まぁ挨拶がわりです。お納め下さい」

 燕は神妙な顔で岩塩を確かめているようだが、岳は質には自信がある、何より張燕は喉から手が出るほどこれが欲しいはずだという確信があった。

「通行料にしては過ぎた額じゃないかしら?」

「貞操を守るためにはやむを得ない出費でしょう」

 張燕は岳の冗談に付き合わなかった。部下合わせ十万を超える一大勢力の頭目の顔で、岳にはっきりと聞いた。

「見返りは」

「これは手付です。三月に一度、同じ方法で一万斤の塩を持ち込みます。売りさばいた額の五割を譲り受けたい」

「……ハッ! よくもアタシにでかい口叩けたもんだ。吹っかけてんのはどっちだい?」

 眉間にシワを寄せて、張燕は早口で文句を並べ立てはじめた。だがそれが懸命に思案している時の彼女の癖だということを岳は既に知っていた。

「悪い話とは思いませんが。飢饉に農民の野盗化。そして黄巾賊……畑の収穫は減り続け一方で米の値段は上がる一方だ。大所帯であればあるほど困ることでしょう。この山で農作も行なっているようだが、あまり実りはよくなさそうだ……匈奴の地には手付かずの岩塩が豊富に残っています。それを掘り返すことは簡単だが、漢の地で売りさばくことは難しい。逆に、漢人が匈奴の土地で大手を振って塩を採るのもまた自殺行為だ」

 両者にとって手が出ない宝をみすみす逃す手はない。岳は双方に旨味があるとして、理で張燕を説いた。

「確かに銭はいる。しかし使われるのは気に入らんな」

「五割で多すぎると? こっちも危ない橋は渡るのだから、折半が妥当でしょう」

 残り五分までなら譲ってもいいが、条件の付け合いになれば有利なのはこちらだ。最悪の場合塩の取引先を西方の豪族に切り替えることをちらつかせれば相手は折れざるを得ない、たとえその苦労は倍では済むかどうかは不明にしても――だが張燕は岳の思惑をあざ笑うように流麗な刺繍の刻まれた袖をひらひらと振った。

「そうゆうこっちゃない、そうゆうこっちゃないんだ……アタシゃね、この歳になるまで修羅場をいくつも渡ってきた、渡世の苦渋もさんざ舐めた……だからじゃないが、人の考えってのが大体はわかるんだよ。けどね、李岳よ、あんたは一体何を考えている? 年に四万斤の塩を売りさばいた銭、その半分があんた一人の懐に入るって? アタシが気になるのはね、その額じゃない。その使い道さ……テメェ、いったいなに考えてやがる?」

「安全です」

 一言、それきり黙りこくった岳に、張燕は鼻を鳴らした。

「安全?」

「金があれば安全は買えます。それで生きる。生き延びることこそが、俺の中の正義です」

 

 ――生き延びること。生きる。死を避ける。命を長らえる。

 

 岳はいつからそういう考えに囚われるようになったのか、自分でも定かではなかった。気づけば四六時中この先どうやって無事に生き延び続けるかを考える日だってある。

 岳の計画は単純なものだった。金をため、金がたまる仕組みを作り、その金でもって争いのない地域に移住することである。幸い岳は三国志の大まかな歴史を知っている。狙い目は曹操の支配する都市だ。いずれ新たな都に制定され発展し続ける許昌に潜り込めればもう安泰である。あるいはそれまで陳留に滞在してもいい、豊富な金銭でわずかながらでも曹操を支援すれば覚えもめでたくなり非常に生きやすくなる。

 塩の密売も最初だけ上手くいけば、ある程度の貯蓄を作ってすぐに誰かに譲り渡してもいい。所詮あこぎな商売だ、いずれ露見することは火を見るより明らかだ。元手さえあれば増やしていくのは難しくはないだろう、なにせ同時代人に比べて知識は豊富で歴史も知り、手抜かりさえなければ外れるはずのない博打を張り続ける事ができる。

 

 ――いつどうやって終わったか定かではない前世。唐突に死んだのか、あるいは覚えてないだけで壮絶に苦しんだのか。いや本当に真実なのか。時折夢に見る思い出さえ実は幻なのか……

 

 やり残したこと、無念と思っていることはあるかと問われても、岳ははっきりと答えを返せるだろうか。むしろそれさえ定かでないことに悲しむだあろう。わけもわからず赤子からやり直すハメになった人生で、今度こそ穏便に生を全うしたいと思う岳の心中を誰が見透かすことができるだろう。だが張燕はまるでそれを成したかのように――ある種の確信をもって――岳に言った。

「さぶっ」

「……はい?」

「つまんねっ。はぁ、さぶいさぶい」

 両手で二の腕をさすりながら、張燕は「さぶいさぶい、つまらんつまらん」とこぼしては不意に神妙な表情に戻り、岳の胸を指でつつきながら言った。

「アンタは怯えてんのさ。ビビってんだ。賢しげに生きていこうとそればっかり考えてやがる。けどね、生きるってのは飯をクソに変えることじゃあないんだよ。アンタは逃げ場のない時代に、逃げを打つにゃ許されない血筋の元で生まれて、逃げることばかり考えてる。それは、不自然なのさ。そういう無理はね、いずれおっつかなくなる」

 張燕の言葉に、岳は束の間我を忘れて剣の柄に手をやっていた。それを左手で押しとどめながら、一語一語はっきりと、張燕に告げた。

「血筋の話は、やめてください」

 殺意が抑えられない、岳は自らの怒りにこそ動揺した。怒りに震えながら目をつむったが、まぶたの裏にはいつか投げかけられた侮辱に耐え忍ぶ父の姿が浮かぶのだった。そして耳には、血にまみれたような震える弁の声……

 

 ――我が不明、汲めども尽きぬ……

 

「フン、大昔に大活躍したお偉いさん、その子孫に生まれたのがそんなに嫌かね? 親父がハマった悩みの迷路にアンタも惑うかい? ……テメエにゃ無理だ。やる気満々の目してるよ。遅かれ早かれ直面する。きっとね、きっともうすぐ、自分の生き様を目の当たりにする時が来るよ――枝鶴だって怒りゃしないさ」

 枝鶴とは李弁の真名である。岳は張燕が父・弁と真名を交換していることをこのとき初めて知った。ひょっとしたらこの二人――あるいは母を含めた三人は――自分が思っている以上に深い関係なのかもしれない。

 その隙を逃すまいと、張燕は岳を正面から抱擁した。

「……話しすぎた。詮索屋は嫌われるのがこの稼業だが……最後にこれだけは言っておくよ……」

「な、なにを」

 張燕は襟を引っ張り、岳の唇を無理やり奪った。

「――フフ。どうだい気分は。これこそが人生の妙味よ。好きなことをし、好きに生きる! それこそ人の生きる道!」

 怪傑、張燕。その目に曇りはなく、その声に淀みなし。この女を侮ってはいけないと、岳はいつも心に念じていたはずだが、もうこうして呑まれてしまっている。乱世の傑物、ただならぬ。世に英雄は多いだろう、だがその中でどれほどの人間が、目の前の艶女のように自由で、どこまでも飛び続けようとしているといえるだろうか。

「考えを変えて外連に染まる気になったのなら真っ先にアタシに言いな。悪巧みをするときはハブんじゃないよ。必ずアタシを誘うこと……い・い・わ・ね? ……そしてもちろん、乙女の唇は安かない。塩の儲けはアタシらが六割で構わんね?」

 最後に一撃。払い腰で勢い良く岳を投げ捨てると、張燕は腹の底からの大声で呼びかけた。

「さぁて、宴だ! 野郎ども! 火をたけ! 酒をもて! 今夜は我が友、李信達のためにしこたま飲むぞ!」

 威勢のいい返事が木霊し、かがり火が焚かれた。今宵は眠るを許されぬ。岳の怒りや動揺さえも酒の肴に、張燕は舞い踊るだろう――全くもって手玉に取られた。負けだ負けだ、大盗賊め。いいさ今夜は勝ちを譲ってやるよ……李信達は諦めて、嘆息と笑いを同時に漏らした。



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第五話 宴のそばで

 宴は盛大を極めた。あるいは遠くに駐留する官軍にまで居場所が知れるのではないかという程の華やかさだった。岳の訪れにかこつけて精々騒ぎたいということなのだろう。

 岳も大いに食べ物を口にし、酒もそこそこ飲んだ。匈奴の酒に比べればまだ飲み口は優しく安心したが、多少酔ったことにより思考が沈殿していた。酔うと考え事に耽ってしまう癖が岳にはあった。

 一人輪を外れ、岳は昼間張燕に激昂したことを反省していた。

(大人気なかったな……もういい加減年なのに。延べ年齢でなら、だけど)

 けれども、仮にそういった戒めをしたとして次に似たようなことがあればやはり激怒してしまうのだろうと岳は思った。どうにも、父を侮辱されることだけは耐えられそうもない。自分の体に流れる血筋を侮辱されることも、やはり父を汚すことになるので耐えられない。

 いつか、匈奴の右賢王である於夫羅(オフラ)が弁と岳の二人に投げかけた侮辱を思い出していた。於夫羅は傲慢を絵に描いたような人物だった。

 当時山を隔てた向こう側から鮮卑が攻め寄せており、偶然卒羅宇の部落に岳は居合わせていた。

 鮮卑は飢えており、途轍もない勢いで略奪せんと襲ってきたが、その場で岳が献じた策によって大勝してしまった。勢い勇んで先陣を切った於夫羅は何の戦果も挙げることが出来ず、当時ただの部族長でしかなかった卒羅宇は戦功第一の勲を得て左賢王より馬を――これが黒狐だ――さらに右骨都侯の地位にまで躍進した。

(面白くなかったんだろうな、まあ確かにやつは無様だったよ)

 論功行賞の席だった。於夫羅は鬱憤を晴らそうと、戦功を挙げた岳ではなくその父である弁を散々に罵倒した。臆病者、役立たず、無用物……思いつく限りの愚弄をしたが、弁はどこ吹く風だった。それがさらに於夫羅の怒りを煽り、とうとう侮辱は弁本人ではなく、岳と、さらにはその先祖にまで向けた。どこで聞き及んだのか、於夫羅は弁と岳の血筋を知っていたのだ――岳さえ聞いてはいなかった、出自の秘密を。

 

 ――貴様の先祖は馬鹿揃いだ。飛将軍と謳われたが下らんことで自決した阿呆に、胆力なく国を裏切った恥知らずだ。お前はその醜い血筋を継いだばかりか新たに次までこさえた。恥知らずにも程がある。

 

 途端に弁の顔色が変わった。怒りの余り蒼白になり、一筋の血が口の端から漏れていた。震える手が剣の柄を求めていることに岳は気づいた。卒羅宇が割り込んでこなければおそらく弁は飛びかかり叩き斬っていただろう。

 李広。

 漢の天下において、高祖劉邦の御代からこの方、最強の武人にして誉れ高き男として、老若男女を問わず知らぬ者はなきその名。匈奴との戦では常に先陣を切り、万を討ち、中原を守護し、百戦百勝の武を以って名実ともに天下第一とされたが、身に降り掛かった汚辱を雪ぐために最後は誇りに殉じた戦神。その名も高き飛将軍。

 彼の子孫に李陵という男がいた。やはり軍職につき、匈奴との戦でその名を馳せた。五千の手勢で三万の匈奴軍を相手にし、八日間戦い抜き敵一万を屠り去ったが、とうとう捕虜となった。その後幽閉の身となったが、勝敗は兵家の常であり、李陵の戦いぶりは匈奴の中でさえ『男の中の男』と讃えられ尊敬を集めた。やがて彼の与り知らぬところで心ない風聞が皇帝の怒りを誘い、彼の家族が誅殺されるという悲劇に見舞われた。漢の武人としての誇りと、匈奴での暮らしとの間で板挟みになった男であった。

 誤解のために凄惨な運命に翻弄され、匈奴の大地に落ち延びた李陵。彼の死後、その子はやがて単于の位をめぐる陰惨な争いに巻き込まれ大平原に果てていったが……李陵の末の息子は争いを好まず自ら後継者闘争から身を引き血を繋いだ。その子孫たちは日々の糧を得るために懸命に生きるのみであったが、しかし連綿とその誇りを伝えていった。そして最後に残された血筋こそが李弁であり、李岳なのである。李家の血筋は彼ら自身と、匈奴の中でも一握りのものにだけ伝わる秘密であった。

(あんときは驚いたよ。李広も李陵も前世からよく知ってる。全く驚きだ、俺がその子孫だって? 生まれ変わった先が李広と李陵の子孫……道理で身体能力がそこそこ高いわけだ。この漢じゃダントツのサラブレッドだよな)

 自分が飛将軍李広、さらには悲劇の将軍李陵の血を受け継いでいることを、岳は於夫羅の侮辱によって初めて知った。

 弁の怒りにはそれを他人に勝手に暴露されたことも含まれていた。岳の想像だが、きっと弁は岳に話す時期を定めていたに違いない。二十歳か、あるいは自立するときか……岳が生まれた頃から、誇り高き先祖の話を告げる日を、他愛のない想像として楽しんでいたに違いない。それを侮辱を以って台無しにされた。弁の怒りは察するにあまりある。

 卒羅宇のとりなしによって場は収まったが、その夜、弁は自らが鍛えた短刀を引きぬいて、月光の下でその照り返しを浴びていた。

「――我が不明、汲めども尽きぬ。この期にいたっては……」

 その刀をどうするつもりだったのか、弁本人にしかわからない。だが岳がその場に現れて、どうしてだか溢れてしまった涙を拭きもせず、ただ父の前に立たなければ、おそらく凶事となっていたことは間違いない。

(いかん。思い出し怒りしてきた。やめとこう……だがそれにしても不思議なのは張燕が知ってることなんだよな。やっぱり父さんと母さんと三人で、昔なんかあったのか――まずいな)

 岳の危惧は自分の出自が他人に知られているということについてではなかった。自分と張燕の縁が意外と深い、ということであった。

(……ここは三国志の世界だ。生まれ落ちたとはいえ俺は元々この世界の人間じゃない。どうして黒山賊の頭目や呂奉先が女性なのかは、とりあえずあんまり深く考えないことにして……変に関わって歴史をねじ曲げたりなんかしたら良くないだろう――)

 平々凡々と暮らし戦乱を避けて安全第一に天寿を全うする、それが岳の望みだ。

 いずれ魏、蜀、呉が起こり晋の台頭によって統一される。それがこの国の歴史。些細なちょっかいを出していたずらにそれをかき乱して良かろうか、と岳は何度も自分に言い聞かせるように考えた。

 だがそのような葛藤を必要とするということは、己が迷っているという証でもある。岳の迷いは先ごろ山間で出会った、一人の少女が原因だった。

(呂布……都を守護する執金吾、丁原の養子として歴史に現れ、やがて己の欲を満たすために裏切り、洛陽を牛耳った悪政の権化董卓に仕える。しかしまた担がれて董卓を裏切っては殺し、徐州に逃れては劉備を頼ってやはり裏切り、最後は曹操に破れて……恋がそんな人生を、本当に歩むのか?)

 類稀な膂力に武器の扱い、特に戟を持たせれば近づくことさえ容易ではなく、そのことだけ見ても正真正銘の『呂布』であることは間違いないと思える。

 だが同時に『恋』は動物をこよなく愛し、すっとぼけたところもあるが、争いごとを好むようには思えない。

 戦乱に巻き込まれて孤児となり、愛犬のセキトと流浪の旅をしていたというが、畑仕事に従事してその一生を終えたとして何の咎があろうか。岳はあまり考えもせずに仕官せよなどと言ったが、それが本当に彼女の幸せになるのだろうか――

 だが、その介入は決して岳の『歴史に触らず』の理念にそぐわぬことはないだろう。『人中の呂布』が登場しない三国志などありえないのだから。

(だからって、見殺しが正義か……?)

 ふてくされたような『恋』の顔が、焼き付いて離れない。

 岳は宴の喧騒に反するように、深く深く思考の海に沈殿していった。

 そもそも、もっと根本的なことを考えなければいけないのかもしれない、と岳は考えた。今までは生活に追われていたこともあり「徴兵されることがないように気をつけながら平和に生きよう。官渡と赤壁くらいは見物に行きたいけど」程度のことしか考えていなかった。

 そのような怠慢はそろそろ許されそうにない。この世界は一体なんなのだろう。古代中国後漢の末期、世に言う三国時代の前夜なのは間違いない。しかしこの世界の人々には『真名』という見たことも聞いたこともない風習がある。遠い未来とはいえ、残された文献は至極正確なはずで、当時の風俗を全て書き残すことはできないにしても、この時代漢人の中ではこんなにも一般的な命名法が、歴史書にただの一文も登場しないなどということがあるのだろうか。

 この世界はどういう理で動いていて、そこになぜ自分は生まれ落ちたのだろう。

 答えの出ない悩みの迷路にはまったために、双刀を携えて背後に迫った張燕の影に岳は全く気づくことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宴は目を見張るほど盛大なもので、歌や飛び交い舞が入り乱れ、香留靼はすっかりこの砦が気に入ってしまった。

 盗賊たちも気のいい連中ばかりだった。互いに武勲を誇りあい、倒した敵の数を張り合い、最後は取っ組み合いの大げんかにもつれこみ、周りはその勝敗に博打を張る。酒の酒精がいささか弱いのが難点だが、匈奴の飲み会と大差なく愉快で馬鹿馬鹿しく香留靼は至極上機嫌だった。

「楽しんでますかい、匈奴の旦那」

 最初にここまで案内した、背の高い男がいつの間にやら隣に座っていた。黒装束ではなく普通の袍で、顔の手ぬぐいもとっている。短く刈り上げた頭と額の左側に走る刀傷が目立つ。香留靼はまだ酒のたっぷり入った杯を上げた。

「旦那はよしてくれ。匈奴の生まれ。卒羅宇の一族、香留靼だ」

「親からもらった名前は捨てちまいました。今は化と名乗っています。姓は廖。字は元検」

廖化(リョウカ)ね、よろしくな」

 香留靼が杯を差し出すと、廖化も受けた。お互いそれを一息に飲み干すと、廖化は意外に人懐こい笑顔を見せた。

「ああ、よろしく頼む」

 盃を交わせば気を許したというわけなのだろう。これがこいつらの仁義か、と香留靼は小気味よかった。

 しばらく蒸した魚をあてにして二人で酒を飲み続けた。喧騒はいよいよ騒々しさを増して何千人にも上る人間が喝采を上げている。その中心には頭目の張燕がいた。天から降り注ぐ月光と巨大な火柱を上げる宴の焚き火。それぞれを二本の曲刀に映しながら華麗に舞い踊っている。香留靼は剣舞というものを初めて見たが、中々見事なものだった。しかしよく見れば張燕の相手をしているのは岳で、いつも佩いている得物でたどたどしく相手を務めていた。おそらく無理やり引きずりだされたのだろう。

「あんたんとこのお頭、どういうお方だい。偉い美人だが、女だてらに盗賊の頭目ってのも半端じゃねえ」

 廖化は懐かしそうに目を細めた。

「俺たちゃ元々ろくでなしよ。手前勝手な言い分で人の道を外れかけた。だが最後の一線で踏みとどまらせてくれたのがお頭よ」

 廖化の言葉にはまさに万感というものが詰まっているようで、香留靼にはその全てを汲み取ることが出来なかった。それでいい、とも思った。容易く伝わるような気持ちに面白みなどないのだ。

「不憫さ、ツバメは翼をたたんじまった。その背中に今や十万以上の人間の命が寄っかかっちまってるからな。だが本当は――飛びたがってる」

 廖化は遠い目をしていた。香留靼からは火影がちらつきその横顔がよく見えなかった。

「惚れちまってんだなあ」

 廖化は答えずにただ舞を見ていた。香留靼は酒を干した。全く、酒精が弱い。こういう時はもっと強い酒を飲むもんだ。香留靼は空の杯を放り投げて「岳は」と話し始めた。

「変わりもんでね、匈奴の血が混ざっちゃいるが元々漢人の家柄だってよ。歳は十五か十六か。童のような顔をしているわりに落ち着いてるだろ。何でも大層な将軍様の末裔らしいがおいらにゃわかんねえ。恒山の隅っこの山で細々と猟をして暮らしてる。うちの族長のお気に入りでな。どうしようもない甘ったれだが、俺は気に入ってる」

「まるで都育ちのような面構えだ」

 その言葉に香留靼は盛大に笑って頷いた。背は十人並みより少し低いくらいで華奢、顔も小さく、髪はくせっ毛でかすかに波打ってる。

「確かに晋陽かそこらで成金商人のボンボン息子やってそうな顔だなあ」

 香留靼の言葉に今度は廖化も笑った。言い得て妙だ。

「だがああ見えて凄腕の射手(いて)だ。そんなことはないと謙遜するけどね。猟に出てやつが獲物を外したことなんざ見たことない」

「それほどに」

「おっかさんが相当の武人だったらしくてな、しこたま鍛えられたらしいぜ。剣捌きだって相当なもんよ。そこいらの武芸者気取りよりもよっぽど使えるのは確かさ。本人にその自覚はないがよ」

 香留靼は何年か前、父親を侮辱した匈奴の悪ガキ共を一人で絞め上げた岳の姿を思い出した。普段はおとなしく、同年代に囲まれても二回り上から見下ろすように懐深く見えるが、触れてはいけない逆鱗もある。まるでよく躾けられた猟犬のようだ。あるいは人に懐いた狼なのか。

「今回の旅は楽しいよ。久しぶりにあんな生き生きとした岳を見れたしな」

「普段は違うのか」

「もっと暗い。どうも、ヤツには悪巧みが似合うようだ。塩の話、聞いたろ? あれをこしらえてる岳の顔ったらなかったぜ、ニコニコしてな」

 もっと自由に生きればよい、と香留靼はいつも岳に対して思う。『翼をたたんだ』とはきっと岳にも当てはまるだろう。自由気ままに生きて欲しいと思うのだが、いつも何かに気を使っている。誰もそんなことは望んでいないというのに。岳はどうにも人の気持ちには鈍い、そのくせなんとも世話を焼きたくなるような感じなのだ。

(それもこれも、岳には皆恩を感じているからだ。俺だけじゃない、母者も、卒羅宇も、部族のみんなだ。岳がいなければ今頃この世にはいない)

 香留靼は三年前の戦いを思い出していた。

「ひどい飢饉があった。うちの部族は漢の町とも近いから金があれば備えられる。一冬越せるだけの食い物は蓄えてたんだが、そいつを奪おうと山向こうの鮮卑のやつらがやってきてね。ちょうどその時、使い走りで岳もうちのゲルに寄ってたんだ」

「ゲルってのは、匈奴の家だね」

「ああ。連中も必死さ、生きるか死ぬかなんだからな。数もうちの二倍はいたな」

 しかも飢えた人間だ。生きるためには奪わなくてはならない。悲壮な決意と絶望感、それを覚悟に変えて襲ってくる人の波は全てを破壊し尽くす。あれほど恐ろしいものがあるか、飛蝗や大雨などあれに比べれば何ほどのこともない。逃げる先まで追ってきて全てを台無しにするのは、人間だけなのだ。

「族長は岳だけでも逃がそうとしたんだが、やつは梃子でも動かなかったよ。匈奴は男も女も、じじいもガキも戦になれば敵に立ち向かう。こーんな小さな子が震えながらも立ち向かおうとしてんのを見て、逃げられねえと思ったんだろうね」

 三年前だ、十二歳だから岳だって十分子供である。

 それでもたまに部族のゲルに遊びによって自分より小さな子供の世話をしていた岳には、その子供たちを置いて逃げることなど出来なかったのだろう。

「そばを離れるなと厳命されて本陣の中央、族長の卒羅宇の隣にただずっといただけだったんだが、何を思ったかいきなり口を出し始めてな。それからあれよあれよという間にこっちが相手を包みこむような形になって気づいたときには勝ち鬨を上げてたよ。わけわかんねえよな」

 詳しくは言わなかったが、香留靼は鮮明に思い出すことができる。

 いきなり卒羅宇に『死にたくなければ二里下がれ』と噛みついたのだ。子供の戯言に耳など貸さぬとにべもない卒羅宇に、岳は朗々とその根拠を説明し始めた。最初は訝しげに、次に面倒そうに――だが最後は驚きのあまり口も挟めず卒羅宇も周りの人間も岳の話に聞き入っていた。間髪入れずに卒羅宇は二里の後退を命じた。慌ただしく後退し始める姿を見て、敵は勝ったと確信したのかそれこそ気が狂ったかのように突撃をしてきた。だが敵の勢いはそれまでの連携を乱すほどの激しさで、追い討ちになった途端統制がとれなくなっていた……まるでよっかかりを失ったけが人のよう。支離滅裂な攻撃はてんでバラバラの方向に向い、突撃は中央突破ではなく自ら包囲の網にかかるという結果に終わった。

 その全てを指揮したのは岳だ。あまつさえ二里下がる際の殿軍を自ら申し出た。その言葉に、あのときあの場にいた全ての戦士が涙して奮い立った。

 

『こんな童が最も恐ろしき死地に立つ。我ら屈強なる匈奴の戦士が出遅れてなるものか』

 

 岳はその手から放たれる騎射で幾人もの敵を撃ち落とす見事な武者働きを見せつけ、戦士をさらに奮い立たせた。あの戦の勝因は献策だけではない、口賢しいだけの小細工に匈奴の男はついてはいかない。李信達という男の比類なき覚悟が戦機を呼び寄せたのだ。

 最後は族長卒羅宇が先頭を切って敵の中核に飛び込み、直々に大将の首を挙げるという堂々たる戦果を残して終結した。

「戦って戦って戦った。あのとき俺は戦士になったと思ったよ」

 襲い来る敵から家族を守り抜いた。これ以上の誉れはなく、生き残ったすべての人間が喜び合った――ただ一人を除いて。

「捕虜は奴隷として売るか後腐れ無いように皆殺しにする。殺した相手の身につけたものは全部戦利品だ、死体から武器やら毛皮やら、まだ使えるものは集めてたんだが、それがヤツには堪えたらしくてね……ま、ちょっと色々あってそれきり戦には一切関わらなくなったな。何度も誘われたみたいだが全部断ってるようだ」

 しかもその後もいけねえ、香留靼は続けた。

「幼い軍神の誕生、ってわけだ。しかしどうも嫌な風に噂が回ってな。戦勝報告の儀で揉め事があったんだよ……うちの族長は戦果に報いるってんで見事な馬を頂いたんだ。だってのに岳は付き添った親父もろともコケにされたのさ。右賢王の於夫羅って間抜けさ。馬鹿な事をと、あの場にいた全員が思ったよ。『何を怒らせてる馬鹿め、次は俺たちが滅ぼされるぞ』ってな」

 それきり岳は匈奴の土地で寝泊まりすることはなくなった。父、弁の鍛えた武器を受け渡すときも、必ず取引場所を定めてそこに来るように仕向けた。岳は匈奴を見限ったのだ。俺だって見限りたくなった、と香留靼は心の底から思う。

 戦勝の誉れを戦士に与えないのは、匈奴の名折れだ。あの時あの場にいた全ての人間が、於夫羅を見限った。

 李岳はわかってない、と香留靼は剣舞にきりきり舞いする弟分の姿を見やりながら思った。匈奴の多くの人間があいつを覚えている。その誇り高き戦果を、背中を、危機を救った奇跡のような登場を。

 だからいい加減、謙遜の塊みたいな態度はかなぐり捨ててしまえ、と香留靼は思った。



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第六話 遭遇

 宴は盛大であればあるほどその終わりは物悲しさを増す。

 出立の朝、寂寥を誤魔化すように張燕は笑顔を見せた。

「次はあんまり間空けんじゃないよ」

 岳はまだ覚めきってない目をこすりながら答えた。

「はぁ……」

「ばかちん! そこは嘘でも『ああ、すぐに会いに来るぜ』くらい言っとくもんだわさ」

 バンバンと岳の背中を叩き上げながら張燕は照れ隠しのように笑った。

 日が出て一刻は経つ、馬群も揃わせ秣と水も与えた。張燕の背後には五十人の男たちが整列している。張燕がどうしても連れて行けという精鋭五十人――つまり護衛である。必要ないという岳に、張燕は目をいからせ凄んだ。

「足りないオツムにひらひらの黄色い布きれ垂らした馬鹿どもが仁義も情もなくのさばってやがる。アイツらにヤラれたりすることはないとわかっちゃいるが、心配したくなるのが乙女心ってもんさね」

「乙女心……」

「歳の話をしたら殺す」

 腰の双剣に手を当てた張燕を、岳は押しとどめるのに苦労した。そして護衛と言われた五十人を見やった。皆屈強な猛者に見える。一人ひとりが相当の遣い手だろうと思えたが、何より先頭に立っているのは昨日岳を迎え入れた、背の高い黒装束の男だった。

 岳は今朝になって聞いた話なのだが、三国志の世界ではほとんど最後まで登場するあの廖化である。まさかこんな所で出会うとは思ってもみなかったので岳は心底たまげた。

(史実だっけ演技だっけ、確か盗賊上がりで関羽にこらしめられたとかそんなんだったよな……黒山にいたのか。しかしこれで『登場人物』と直接会うのは張燕、呂布、そしてクソッタレの於夫羅を合わせて四人目だ)

 岳は昨夜の自分の考えていたことをもう一度反芻して内心ため息を吐いた。三国志の世界に関わるべきではないという思いは依然強く持っているが、こうして出会ってしまうのだから思うままにならない。

(ま、仕方ないか。どうせすぐ別れることになる)

 割り切って心強い護衛がついたことを喜ぶほうがいいだろうと頭を切り替えた。

 岳にも拭い切れない不安があった。常山から向こう、冀州から幽州に至るまでの情勢がよく把握できていないということだった。これまでに数度に渡って公孫賛軍に『試供品』としての馬を届けている。道のりや停泊地などは頭に入っており問題はない。ただ黄巾賊を含めた動乱のうねりは刻一刻と変化をしており予断を許さない。冀州、幽州では官軍や黒山賊の睨みが利いているのでそれほどの無法はないとの話だが、慎重を期して足らぬことはない。

「特に烏桓(ウガン)には気をつけな」

 張燕の意外な台詞に岳は首をかしげた。烏桓とは幽州に根拠地を置く異民族の名だった。馬を駆り矢に長け、山に住み勇猛果敢。漢人と隣合わせで生きながら異なる生活様式で暮らしていると聞く。

「烏桓、ですか」

「ああ、特に向かう先は公孫賛の元だろ? もし烏桓と出会うことがあったら、いいね、絶対にそのことは言っちゃいけない」

「どういうことです」

「どうもこうもないさ、公孫賛はこの頃ひどく烏桓を締め付けているのさ。ありゃまんま弾圧だ。軍勢でもって押しこむこともままある」

「……おかしな話だ」

 公孫賛は武断の人だと知られている。だがそれは北方から侵入を試みる鮮卑などに対してであって、もともと領内に住む者を締めつけていいことなどない。いや、と岳は内心保留を置いた。

(いや、正史なら確かに異民族とは徹底抗戦していたはずだ……だけど、だったら匈奴に馬なんか頼むか? それにこれまで何度か受け渡しに向かったが、差別や偏見なんかは受けることはなかった)

 考えこむ岳に張燕は念を押した。

「実はアタシもおかしな話だと思う。ただ烏桓にとっちゃあ事の真偽なんざどうでもいい。公孫賛憎しで凝り固まっちまってるよ。気をつけるこった」

「肝に銘じます」

「じゃ、またな」

 張燕は笑顔で見送った。

 別れを惜しみながらも岳と香留靼は出立した。馬群は朝の冷気の中、気持ちよさそうに走っている。黒狐も朝もやの中で泳ぐように走るのが心地よいとばかりに楽しげに鼻息を荒らげている。黒山の男たちはそれぞれ思い思いの馬に乗っているが難なくついてきている。選りすぐりの者を選んできたのだろう。宿営するのも手馴れたもので、食料も皆思い思いに携えていたから面倒は少なかった。夜中は順番に歩哨に立ちながらも、焚き火を囲んで多くの話を交わした。どうして賊になったのか、なぜ張燕に付き従うのか。不毛な時代、という言葉だけでは表せない苦労や波乱を皆それぞれが抱えていた。

 冀州に入っても問題は少なかった。人口が多く豊かとは言っても并州から程ない地域は過疎なのだ。むしろ漢人ではなく匈奴や烏桓の方が多い。岳がこのまま幽州まで無事ついてくれればと思ったその頃――もう一山越えれば(タク)郡※に入るというちょうどそのとき、喚声が聞こえてきた。一行に緊張が走り、廖化の一声で五十人が一塊になった。馬群も興奮し、何頭か一斉に棹立ちになったが、香留靼が二度三度往復しながら独特の奇声を上げると落ち着いた。

「戦かな?」

「なんとも。黄巾賊やもしれません」

 廖化が応えた。

「……無視して突っ切るのも危険だな。直接見に行くか。廖化殿、半数を連れてついてきてください。香留靼は面倒を見といてくれ。何かあったら来た道を真っ直ぐ戻ること」

「お待ちくだされ、我らが手の者だけで向かいますので」

 廖化の言葉を岳は掌で遮った。

「行くか戻るかの判断は私がくだします。二度手間になるでしょう。それにいざとなれば一目散に逃げますよ。なぁ?」

 黒狐が岳の言葉に答えるように首を振った。廖化はやむを得ないと頷き、半数を選り抜いて整列させた。香留靼は「面白い事になってきた」と不謹慎にもひどく楽しそうだ。

 岳は指揮権は自分にあること。勝手な真似はしないこと。気づいたことは全て報告すること。その三つを廖化に言い含ませたが、意外にもすんなりと了承されて気が抜けた。年下の子供に指図される謂れなどない云々と抵抗されると思ったのだ。廖化の内心としては昨晩香留靼から話を聞いていたので、よほどのことがなければ大丈夫だろうと考えていた。

 なだらかな斜面に従って駆け降りていき琢郡の境を越えた。黒狐は興奮しているように首を振り回した。やや遅れ気味だが廖化たちもよくついてきている。戦場へは間もなく着いた――否、戦場ではなかった。それは一方的な攻撃であり、傍目にはとっくに決着がついているように見えた。

 どうも移動中の一団が奇襲を受けたようだ。射殺された馬と横転した馬車が見える。岳は茂みに伏せてその様子に目を凝らした。今現在行われているのは戦後のただの略奪に過ぎない。予想を裏切ったのは、略奪を行なっているのが黄巾賊や野盗などではないということだった――見間違い得なければ、確かに『官』の旗がたなびいている。

「官軍が襲撃を……?」

「公孫家の旗も立ってますな」

 廖化が指さす先には確かに公孫賛を示す『公』の旗がはためいていた。勝ち名乗りを上げている官軍と思しき連中は、皆口々に

『白馬将軍に逆らうか!』

『我々は公孫賛将軍の命令でやってきた!』

『我ら白馬義従』

 と声を上げてさえいる。岳は草むらに伏せたまましばらくその様子を見守っていたが、やがて襲われている人々が漢人ではなく烏桓族であるということがわかった。倒れ伏している人々の姿格好が胡服であり、兵卒も口々に『蛮族が』『夷狄が』と罵っている。

「張燕はこのことを言ってたのか……だけど変だ」

 確かに公孫賛といえば北方の異民族の侵入に対抗して勲を得た将軍だ。だがそれは主に烏桓ではなく鮮卑であるし、このような小規模な一団まで迫害する必要などどこにもない。なによりここは公孫賛の勢力範囲すれすれである。そこにあんな少ない手勢でやってくるなどあり得るのだろうか。そして何より――

「白馬、見える?」

「見えませんな」

 白馬義従と名乗ってはいるが誰一人白馬にまたがってはいないしほとんどが徒だ。確かに装備は官軍のように見えるし公孫賛の旗も振ってはいるが、あんなものいくらでも作ることが出来るだろう。岳は勝ち鬨を挙げる男たちが正規軍ではないだろうと思った。

「……騙りか」

「……さて、何のためでしょう」

 廖化の言うとおり『では誰が』『一体何のために』という疑問が沸き起こる。

 偽官軍の中でただ一人馬上の男がいた。尊大に睥睨しながら口汚く喘ぐように大声を出している。男は矢継ぎ早に指示を出しているが、怒鳴りちらしては辺りを何度も見回していた。

「……遠いな、聞こえない」

 と岳が悔しそうに呟いた時、隣の廖化がささやいた。

「娘、探せ。はやく見つけろ」

 岳は耳を疑ったが、それも無理はなく、ここからあちらまでは木々や茂みで隔てられている上に相当離れている。未だ兵卒の喧騒も醒めやらぬ中で、ただ一人の男の声だけをより分けて聞き取ることなど不可能に思えた。

「聞こえるんですか?」

「唇を読んだまででさ。そんなに大した技術じゃあない」

 平然と言い放つ廖化だったが、岳は自分も耳や目に自信があるからこそその技が大したものだと察した。

「しかし、娘か……誰のことだ? ただの略奪じゃないってわけだ」

 そのとき黒狐が何かを見つけたかのように鼻を鳴らした。岳は黒狐が望むがままに馬首を巡らせた。迷いなく駆け始める黒狐の後に遅れて廖化たちが続く。束の間駆けるととうとうその先に黒狐の察したものが見えた。

 人影が一つ、背後から迫る男から懸命に逃げているが、まさに振りかぶった凶刃がその背中を裂くのが岳の目に見えた。岳は腰に結わえていた弓矢を取り出すと馬上から射た。矢はとどめを刺さんとする男の左肩に命中した。もんどりうって転げまわる男を無視して、岳は切られた人影に駆け寄った。

(浅手なら……!)

 だが岳の願いも虚しくその傷はもはや直視がかなわぬ程の凄惨さだった。胡服を身に纏った女は死に瀕した蒼白な顔で、最後の力を振り絞るかのように岳に言った。

「こ……この……」

「話すな!」

 岳は彼女の死を確信しながらもそう言わずにはおれなかった。だが女もまた同じ確信を抱いていた。残された生の最後の刹那に岳へ遺言を託そうとしているのだった。

「ま、まも……て……こ、この……こ……を……」

 女の目から一筋の涙が頬をたどった。その雫が地に落ちることさえ待たず、彼女の命は去った。死は無情にも遺言の返答さえ聞く間を与えなかったのだ。

 

 ――岳は上空を見上げた。この怒りが収まることはあるのだろうか。憤怒は真逆、氷のように岳の心を冷やし、神経は普段では考えられないほどその鋭敏さを増した。樹上から舞い落ちる木の葉の節々まで全て見通せた。

 

 ――だから当然、背後から迫った一撃も手に取るようにわかっていた。

 

 言葉はもう必要なかった。岳は腰に佩いていた剣を抜き撃った。母の桂から伝えられた撃剣の奥義は小手への攻めにある。抜刀からまっすぐ敵の握り手の指を切り落とし、返しの二の太刀で敵を屠る必殺剣である。閃光が交差する。父、弁によって鍛えられた血乾剣。岳の剣速も合わさって返り血すらその刃には纏わりつかぬ。断末魔の声を挙げることもなく男は両断された姿で永遠にこの世を去った。

 岳は刀を納め、凶刃によって虚しくこの世を去った遺体に近づいた。不自然に膨れ上がったその体――岳は女の着物を解いた。腰帯を何重にも巻いて、一人の子供を抱いていた。齢は十二か十三か。血の気の失せた頬の色をしているが確かに息はしている。この子を守るために、我が身を呈して背で刀を受けたのだ。岳は帯をほどいて少女を解放した。意識はなく、浅い呼吸を何度も繰り返してはぐったりとしている。

 廖化たちがようやく追いついてきて、彼らは全員岳が切り捨てた死体を見て戦慄した。生半な太刀筋でないことが明らかだった。

「……李岳殿」

「間に合いませんでした。この子を託されましたよ」

「……少女ですか」

「息はあるようです」

 辺りは静かだった。官軍のふりをした一団もこことは離れた所で捜索している。おそらく岳が斬り捨てた男は手柄を独り占めするために同僚を出し抜こうと手勢を呼ばなかったのだろう。その浅ましさが僥倖を呼んだ。

「どうされますか」

 廖化は顔色の悪い少女の顔を見つめながら岳の答えを待った。旅に連れていくのもどこかの村に預けるのも適当ではないように思える。育てるとも簡単には言えぬ。あるいは頭目の信頼厚きこの男なら妙案を持っているのかも知れぬと期待を込めたが――しばらく顎に手をやって考え込んでいた岳が意を決したように口にした言葉を聞いて、廖化は愕然とした。

「やつらに引き渡しましょう」

 岳の瞳に迷いはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姓は張、名は純。それが男の姓名であった。代々地をよく治めた能吏の家系で、彼の父もまた令を任じられていた。張純ははじめ能く町を治め余った税は返しもした。その評判はよく人の口に上り彼が孝廉に推挙されたのは二十三の歳であった。司空張温の覚えも目出度く、帝直々の手による軍制改革にも推薦され、中山国の相から一気に栄達への道が拓けるかに思えた。

 ところが一昨年のある日、張純は朝廷からの使者の面前で突然癲癇に襲われた。白目を剥き口から泡を吹きながら昏倒して頭を強く打った。半日で意識は回復したのだが使者の前ではあまりに折が悪く、張純はその場で使者に多額の賄賂を送ったが、結局彼の口を戸で塞ぐことは叶わなかった。

 癲癇を理由に中央への推薦は白紙とされ、彼の官吏、あるいは一軍の将としての試金石となるはずだった西涼への反乱鎮圧への出征も取り上げられ、あまつさえ――これが最も腹立たしかった――後任に卑しい出自の公孫賛が充てられた。張純は予てより公孫賛の生まれ、その武断な性格が気に入らず女であることも含めて軽蔑していた。健康であり、若く、巷で『白馬将軍』などと謳われては人々の注目を集める――その全てが気に入らなかった。一県の令から自らと同じ地位である相を飛び越えて郎にまで出世するのではないかというまことしやかな噂が流れた時、張純はいても立ってもいられず自らの剣で庭の木を散々に切り刻む程だった。

 そのような境遇であった彼に、ある日囁かれた秘密の誘いはあまりに甘く抗い難かった。

 

 ――あのような卑人の出世を指をくわえて見ているのか?

 

 手引きを聞くに間違いのない計画に思えた。それから張純は全ての情熱を傾けて幽州、冀州を走りまわった。あるいは走狗のようであったが、張純の胸には希望と充実で満ちていた。不満もある――なぜ夷人、蛮族と関わり合わねばならないかといったものだが、それも今だけの辛抱に違いないと思えば何ほどのこともなかった。公孫賛さえ亡き者にすることさえ出来れば全ては解決する、きっとまた中央への道が拓けるだろう。刺史、牧、三公!

(だというのに……!)

 張純はもどかしく唇を噛んだ。計画の最後の総仕上げであるこの襲撃、そこでなぜ手間取らねばならないのか。標的が今日移動することは情報通りだ。だが選んだ道が違うではないか、と張純は思い出しても歯軋りした。そのために攻撃は機会を損ね、威力もちぐはぐとなり、目的の女が道中逃げ延びていることに気づかなかった。

「早く探せ! このあたりにいるに違いない! 見つけた者には金二十をくれてやる! 急げ!」

 そうして声を荒らげてもう一刻は過ぎた。この襲撃がいつものように公孫賛の仕業であるという証拠は十分に残している。あとは目当ての女だけ捕まえれば撤退できる――張純の待ち望んだ声がそのときようやく届いた。

「娘を捕らえました!」

「遅いではないか!」

 張純が呼び寄せるとひどく返り血を浴びた兵卒が少女を抱えていた。間違いない、と張純は人相を改めて確認した。

(間違いない、この女で間違いない、これで公孫賛は滅びる、間違いない!)

 その喜びのあまり、張純は兵卒が見も知らぬ男も一人連れ立って来たことにようやく気づいた。卑屈な笑みを浮かべた小柄な男であった。

「なんだ、貴様何者だ」

「はい、わたくしは李岳と申します。しがない商人の使い走りで偶然この辺りを通った次第です。名高き公孫賛将軍の麾下の方とお見受けいたします」

 小男は美辞麗句を並べ立てながら平伏した。よくも騙されるものだと張純は内心鼻を鳴らした。旗だとて夜っぴて針子を急かせて拵えた急場の拵えだが、そうと言われなければわからないものかもしれない。

「お探しの娘はこの者で間違いございませんでしょうか。この李岳が召し捕らえましてございます」

 張純は訝しげに血まみれの男に目を向けた。兵卒は曖昧な表情で頷いた。どうやらこの李岳と名乗った男が見つけ、兵に引き渡したということらしい。無能め! と内心張純は罵ったが、こうなってはやむを得ない。適当に言い含めて追い返すのが得策だろうと思った。

「名は覚えておく。将軍へも確かに伝えておこう」

「ははあっ! ありがたく存じます」

 手揉みをするので懐から銭を一握り放り投げた。商人は浅ましくも鼻息を鳴らしてそれを拾い集めて平伏した。

「ひとまずはこれで許せ。追って沙汰があるだろう、待つがよい」

「はは、約定確かに承りましてございます。何卒よろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます」

(残念ながらお前のような男の手柄などどこにも伝わらぬ。そもそも公孫賛など、あのような小娘の元にどうして馳せ参じることができようか)

 張純はこみ上げる笑みを抑えることが出来ず、愉快だ愉快だととうとう笑い出しながら馬上へ戻った。号令をかけて進軍を始めた。だらだらと後に付き従う兵卒が疎ましかったが、この後綺麗さっぱり始末してしまうのだから辛抱ももう少しだ。証拠は残さぬ、と張純はやはりにたにたと笑いながら思った。馬鹿どもめ、貴様らは元の黄巾賊のまま死にゆくのだ、この小娘さえおれば残りは用済み――

 そう思って隣を歩く兵卒を見た。両腕の中で優しく抱きしめられた女だが、はて、と張純は首をかしげた。この返り血にまみれた兵士、手柄をねだらぬ。また巨躯とは言わんが背も高く精悍で、まるでいっぱしの武人のようだ。このような男が一団にいたであろうか。

 張純は疑問の答えを自ら見つけ出すことが出来ず、とうとう口に出して聞いた。

「お前、名前はなんだ?」

「お忘れですか?」

 一人ひとりの兵卒の名前など毛頭覚える気はない。だがこのとき張純は目の前の男からただならぬ気配を感じていた――どうしても名前を知らねばならぬ気がする。そう、きっとこの俺はこの男の名前を知って置かなければならぬのだ、と――

「姓は廖、名は化……」

「廖化か」

「黒山賊頭目、張燕が第一の部下なり」

 廖化が左手一本で少女を抱え直し、反対の右手を空に掲げたのを張純はボケッと見ていた。一体この男は何を言っているのだ、黒山賊? 張燕? 一体どこの誰のことを――間もなく山間に響き渡った悲鳴が、彼の正気を引き戻した。廖化の周りにつき従っていた男が二人三人と悲鳴を上げて倒れ伏していった。胸に喉、頭蓋にそれぞれ矢が突き立っている。張純は不思議と平静であった。夢の中の出来事を俯瞰しているかとでも言うように……

「て、敵襲!」

「敵? 敵とは誰だ? 誰のことだ!?」

 張純が何一つ判断を下せぬうちに、右手の斜面から数十人の男たちが逆落としをかけてきた。全員が騎乗しており、その最初の突撃だけで十人以上が蹴散らされた。狙いを違わぬ矢が一切の間を空けずに一人、また一人と射倒していく。廖化の剣が二人同時に倒したが、もはや混乱の極みに堕した張純は彼が一体誰を切り捨てているのかさえ見落としてしまっていた。

「一体どこの誰だ! う、討ち取れ! 廖化、全て討ち取れ!」

「全て討ち取りましたよ、あなた以外」

「なっ」

 所詮付け焼刃の装備を身に纏っただけの、お世辞にも軍勢とは言えない集だった。斥候も出さずに堂々と隘路を進み見事にはめ殺しを食らったのも致命的であり、倍する兵力を持っていたにも関わらず半刻を待たずして張純の手下は全滅していた。

 廖化は容赦なく張純を馬上から蹴り落とした。地面に背中をしたたかに打った張純は絶息し苦しげにもんどり打ったが、誰も意に介すことはなく素早く後ろ手に縛り猿轡をはめた。

 縛について初めて張純は状況を察して、縊り殺してやらんとばかりに前方を睨みつけたが、目の前に現れた男の顔を認めると殺意も怒りも全て疑念と驚きに塗りかえられてしまっていた。

 先ほど目の前でこれ以上ないほどへりくだっていた商人が、氷のような目で自分を見下ろしていた。

 

 ――張純。彼が三公として参内を叶える日はもう来ない。




※琢は当て字です。本来はさんずいへんです。


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第七話 真偽

 乾いた北風がつむじを巻いて、肌を切り裂くように一陣吹いた。公孫賛は口元を覆って咳をこらえた。

 幽州の冬は冷たい。あるいは雪は少ないかもしれないが、大地は凍てつき春までがことさら遠く感じる。并州、冀州で花が咲いたといっても、幽州ではまだもう一息堪えなくてはならない。だがそのような過酷な大地でも草木は生え、獣は育ち、人は営みを紡ぐ。守るべき人民がいる限りここにいる意味はあるはずだと、公孫賛は自分に言い聞かせるように思った。

 斥候に出した兵卒が帰参した。報告ではもうそろそろ見えるということだ。并州から数百頭の馬を運ぶ。口に出せば簡単だが昨今の世情を考えれば難事だといえよう。公孫賛は晋陽から州境を踏破し、この北の地に至るまでの道程を描いてみようとしたがさっぱり思い浮かびすらしなかった。天下は広い。だから力を付けなければ。やはり言い聞かせるように、公孫賛は頭の中で繰り返した。

「来ました!」

 ハッとして前を向いた。地平線から浮き出たような一群が目の端に映った。今朝にちらついた僅かな雪を蹴立てて、馬群がこちらへ向かっている。憎いことに、おそらく横一線に走らせているのだろう。実際は五百頭だというのに、その二倍や三倍にも思えた。此方彼方が嘆声、歓声でざわついた。

 約束の日取りは旅程が定かならぬので五日の幅をもたせた。一日の余りをもって到着したのは上出来といえるだろう。

 およそ半里手前で馬群は停止し、その中から一頭の大きな馬が歩を進めてきた。見事な黒毛だ。大きな馬体、引き締まった筋肉が遠目にも見える。だが馬上でまたがっている人物は不釣り合いなほど華奢で、馬に乗せてもらっているという表現のほうがピタリと合うような気がした。

「姓名を名乗られよ」

 側近の誰何に、男は馬上から降りるとその場で平伏し、晋陽の商人、永家の手下で姓を李、名を岳と申し出た。差し出した竹簡を公孫賛も直々に目を通した。どうやら間違いないようだ、太守の印まで入っている。公孫賛は平伏したままの男に近寄り、面を上げさせた。

「立たれよ」

「恐縮でございます」

 男が立ち上がる。公孫賛は目線が大して変わらないことにまたもや驚いた。自分が思い描くことすら出来なかった旅をこの華奢な男がこなしたというのか、屈強な男を予想していただけに意外な思いを隠しきれなかった。

(女の子でも通じそうだな……)

 少々無礼にすぎる公孫賛の内心、それを少しばかりでも読み取ったのだろう、男は苦笑して答えた。

「馬丁に匈奴のものがおります。道にも明るく馬の扱いも達者で、その者と共に参りました。わたくし一人の旅ではございませんでした」

 公孫賛は慌てて打ち消すように言った。

「ああいや、他意はないんです。すまない。誰か椅子をもて」

「恐れ入ります」

 李岳と名乗った男の身のこなしは、まるで司隷で育ったかのように立派なものだった。身に纏っている袍も美しい刺繍が施されている、馬上の旅なため下は胡服を着ているが、取り合わせは悪くない。けれどどうにも着せられていると言った風情で可愛げがあった。

「私が公孫賛です」

「これは」

 李岳と名乗った男は一瞬目を丸くした後、何か面白がってるような表情を浮かべた。

「どうされたかな?」

「いえ、将軍直々のご足労恐れ入ります。お約束通り并州生まれの馬、五百頭をお渡しいたします」

 男はやはり面白がっている風な表情で見てくる。あるいは礼を失する行いだが、公孫賛は嫌な感じはしなかった。幕僚が咎めるように咳払いすると、李岳は慌てて顔を伏せた。もう少しこの者の顔を見たかったのに、と公孫賛は内心勿体ながった。

「数は確かかな?」

「それが」

 言うと李岳は困ったように頭をかいた。冠が右に左に揺れる。寸法が合ってないのかもしれないが、どちらにしろ似合ってない、とんちんかんな印象を与える。公孫賛はその仕草への可愛さあまって笑いを堪えるのに大層頑張らねばならなかった。

 主の葛藤をよそに、隣に控えていた文官が見て口を挟んだ。

「足りないのですか? まぁ長旅です。そういうこともあるでしょう。ですがこちらとしても代金は前払いでお渡ししてるはず。頭数での値段しか支払うことはできません……返金のご用意はおありか?」

 してやったりと笑ったのは文官ではなく、商人の方だった。ニコリと花のような笑顔を浮かべて言った。

「いえ、それが逆なのでございます。実は何頭か失うものだろうと多めに連れてきたのですが、幸い脱落することなく全頭連れて参ることが叶いまして、若干余りがあるのでございます。そうですか、頭数分ということは代金も多めにいただけるのですね、いや安心しました」

 予想だにせぬ返答に文官は息を詰まらせ引っ込んだ。

(……なにやりこめやられてんの)

 だが公孫賛はその文官を責めるより、目の前の商人を褒めるほうが正しいだろうとわかっていた。

(飄々と……怖くないのか。私の背後には三千の軍が控えているというのに)

 もちろん約束を反故にするつもりもなければ、余った馬を買い取ることだって嬉しい誤算だ。日々黄巾の乱は拡大している。いまだ琢郡一つの長に過ぎないが出撃は機動性を求められる。幽州は横に広く、賊の侵入に対応するためにはどうしても馬が必要だ。それに間もなく西涼への出兵が企画される。軍備は急務だ。

 結局余りの馬も全て買い取ることにして代金と馬の受け渡しを行った。確かに河北でもあまり見ることがない駿馬がゴロゴロといる。気性は荒そうだが、それはこれから軍馬として調練すればよいだけの話だ。全頭のうち百ほどが白馬であった。これほどの数を揃えるのは大変だったろうと問うと

「『白馬義従』のためならば」

 と返された。白馬は求めたが部隊の名称までは伝えていなかったので驚いた。

 北方で地味に戦う日々ばかり過ごし、有名を馳せるというほどではないと思っていたが、他州の一商人に『白馬義従』の名前を知られていたなんて、と公孫賛は心から嬉しくなった。

「今宵は宴席を設けるから、くつろいでいって頂戴」

 折しも夕暮れが迫ってきている。琢県の町まで半里もないので一駆けするとすぐに到着した。道中、並走する李岳の馬があまりに見事なのでいくら出せば譲ってもらえるかと聞いてみたが、自分の持ち物ではなく借りているだけなので交渉の権利がないと言われた。

「じゃあ仮にあなたの持ち物だったらいくらになるだろうか?」

「同じ事です。『私の持ち物ではない』と嘘を言ってお断りしたでしょうね」

 愉快な返答だった。

 町につくと庁舎の一室に席は整っており、幕僚を引き連れて着座した。一商人に対しては遇しすぎと言えたが、これから長い付き合いとしたい公孫賛にとっては当然の接待だった。李岳の懇願により公孫賛は連れの一人までの宴席へ臨むことを許した。背の高い男であった。

 幕僚を含めて話は大いに盛り上がった。天下の趨勢如何か。

 

『蒼天已に死す』

 

 檄文は燎原の火の如く河北を走り、世は黄巾の賊に荒れ、北方は鮮卑の侵入が頻繁となっている。誰もが群雄割拠の時代の到来を予見し、天下に名だたる将軍の名を競うように並べ立てはじめた。幕僚の将軍たちは并州、あるいは司隷の情勢を知りたがり李岳にいくつもの問いを投げかけたが、彼はその全てに鮮やかに応えた。

「黄巾の乱は終息が見えませぬが中央ではどうお考えかな」

「多くの将軍、都督が人心を安寧に導かんと奔走されております。鎮定はいずれなされるでしょう」

「その中で特に有力な方といえば誰でしょうかねえ」

「皇甫嵩、朱儁両将軍が多大な勲功を競い合っていると耳にしました。あとは名門袁家の袁本初様、涼州の董卓様、揚州の孫堅様に曹操様といった方々の勇名が特に人々の口の端に上ります」

 公孫賛は李岳の言葉にいちいち頷いては感心した。朝廷にて三公のうち太尉を任ぜられた張温より、此度涼州で巻き起こった韓遂を首魁とする大規模な反乱の鎮圧に幕僚として従軍せよとの達しがあった。太尉より直々に命が下るなど抜擢といってもよかったが、公孫賛は嬉しさ半面不甲斐なさも感じていた。縁故を頼っての参陣だという周囲の声が聞こえてくるからだった。

 公孫賛は盧植門下で学びを得ていた時分、当時尚書郎であった張温に偶然面通りがかなったのであるが、張温は字を伯慎といい、伯圭である公孫賛と一字を同じくする。その誼でもって親しくやり取りを交わすようになったのだから、完全な実力とは言いがたいだろう。

 参軍はもはや内定といってよかったが、達しでは出撃まで間もない。それで慌てて馬の購入を急がせた。

 涼州征伐の遠征において董卓、孫堅とは轡を並べることになる。公孫賛は序列はあれど同輩となる将軍たちの話を幕僚として席を並べる前に耳にすることができ大いに喜んだ。公孫賛だけではない。彼女の麾下も李岳の話に興味津々の様子であった。李岳が挙げた名前をめぐりその中で誰が最も優れているか、昇進はどうなるか、三公は、と喧々諤々の議論が飛び交ったが、不意に場違いとも言える質問が飛んだ。

「并州からどうやってこの地へ?」

 末席から一人の女性が立ち上がると、口の端に愉快気な笑みを浮かべながらこの地までの道順を聞いた。 

 先月より公孫賛の元で客将として幕に参じている趙雲という容姿端麗な武芸者で、その槍捌きを以って比類なきこと甚だしいとして常山に趙雲ありと謳われている。

 李岳は彼女の問いに訝しげに首をかしげ「当たり前のことですが」と前置きをして答えた。

「……道に沿って来たまでです」

「では常山郡を通られたということでよろしいですかな」

「ええ」

「何か変わったところはございませんでしたか?」

 場がしんと静まり返り、どこぞで小さく「それがどうした」という声が漏れた。だがその声にも彼女は悪びれもせず、快活に笑ってから続けた。

「あいや失礼。それがし常山の生まれにて、近々における故郷の様子をぜひともお伺いしたいと思いましてな」

「……ご芳名を伺いしても?」

「姓は趙、名は雲。字は子龍。常山郡の生まれで今は公孫賛殿の食客に甘んじております」

 途端、李岳は顔をハッとさせた。公孫賛はおや、と思った。常山の趙子龍といえば確かに近年類稀な武芸者として名を馳せてはいるが、いくら何でも他州にまで知られている程ではない。李岳はすぐに平静な表情へと戻ったが、公孫賛――そして趙雲本人にだけは、その動揺を覚えられてしまった。

「――趙子龍殿、わたくし共は并州の雁門群より真っ直ぐ冀州を越え、幽州にまでやってきました。常山郡は避けては通れぬ道です」

「それでよく無事だったものですな。あの一帯は黒山賊の巣窟のはずです。それがしが故郷を後にして数年になるが、風に聞く便りではより一層勢力を増しているとのこと。五百を超える駿馬はどこの誰にとっても垂涎ものでしょう、無傷でよく辿りつけたものだ」

「……これは参りました。趙子龍殿はわたくしをお疑いのようだ」

「いや、是非その理をお伺いしたいと思うたまで」

 視線が李岳に集中する。趙雲は一献飲み干して、さてお手並拝見と面白がった。

(初め見た時からおかしいと思ったのよな。あんな大層な馬を持つ使い走りなどと聞いたことがない。本当にただの商人か、な?)

 ここで無様をさらせば程度が知れるが、その時は自分の勘が鈍かったのだと反省するだけだ。

 李岳は自分を見つめる周囲をゆっくりと見回して、まるで観念したように一つ嘆息をこぼすと、立ち上がって弁舌を振るい始めた。

「……皆様ご不審のようなのでご説明いたします。商人というのは人の伝手を頼って進みゆくものです。それはさながら薄く張り巡らされた蜘蛛の巣の上を歩くようなもので、いくつもの人と人を結び目にして網目のように道を作るのです。その道をどんどんと広げていけば、天下に名だたる張燕様に行き着くことも自然なこと。ご明察、将軍にはお見知りおきを頂いております」

 李岳の対面に座っていた武将が立ち上がり「盗賊の手引きを受けたか!」と真っ赤な顔で大喝した。その威に気圧されることもなく、李岳は肩を竦めた。

「以前に何度か商いをさせていただいた、それだけの関係です。誓って言いますが世に憚られる類のものはやり取りしておりませんよ……ま、その縁を伝って通行許可の竹簡に書いてある通りのことを履行していただきたいとお願いはしましたが。張燕様は帝の印可によって任ぜられた中郎将の位階を持つお方、特に大過なく通していただけました、おかしなことはありますまい」

 立ち上がって大声まで出した武将だが、李岳の説明にそれ以上突っ込むことは出来ず、盗賊ごとき云々、憮然と呟きながら席に戻った。趙雲も礼を言って腰を下ろした。だが内心では疑惑がさらに募った。

(なるほど、理は通っている……が、実物を知っている身からすればあの『飛燕』が易々と通すなどという説明、失笑モノだ。寝言にも程がある。そのような甘い相手ではない。よほど懇意にしているか、あるいは特別な荷物を下ろしたか……かな)

 あれ以上突っ込めば『帝の印』にケチを付けることにもなるので諦めざるを得なかったが、趙雲の中では李岳という男への興味がふつふつと湧いてきた。弁は立ち胆もある。あるいは武術の心得さえあるかもしれない。願わくば一度槍を交えてみたいものだと思った。

 だが趙雲の手にした収穫とは裏腹に、場の空気は白けてしまっていた。李岳も困ったように小首を傾げている。最も上座にいるはずの公孫賛が、場をとりなすように慌てて話を変えた。

「面白い話だったわ、うん、そういえばさっきこの中華で多くの将軍が活躍していると言ってたわね。どうかしら、この公孫賛がより一層有名……じゃなくて、飛躍するためにはどうしたらいいかしら、李岳殿?」 

 李岳は束の間思案したあと、道中の短い見聞でしたが、と前置きをしてから話した。

「涼州の乱を征伐に参られるとか」

「これは耳が早い」

 公孫賛の配下の一人が感嘆の声を上げたが、李岳は大したことはないと首を振った。

「戦乱の世です、耳聡くもなりましょう。さて、従軍はよいとしても、失礼ながら位階において公孫賛将軍はいささか低きにあられる」

「無礼な!」

「お許しください……しかし此度のご指名、位階にこだわらぬ司空様の御英断によりあるいは卑人の妬みを買うこともありましょう」

 思うところがあるのだろう、公孫賛は頷いて続きを促した。

「ここへ参る道すがら、公孫賛将軍の旗を掲げた軍勢が、無抵抗な烏桓族の旅の一行を襲撃しておりました。軍勢は少数とはいえ十分に武装し、一行を蹴散らし収奪を働いたのです」

 一瞬の間を置いて席がざわめいた。公孫賛は耳を疑ったが、李岳は間違いないとばかりに真っ直ぐ視線を譲らない。

「……なんですって、私はそのような命令を出した覚えは……誰ぞ指示したものはいるか」

 戸惑った公孫賛が辺りを見回しながら問うたが、幕僚を含めてその場の全員が沈黙した。お互いを責めるように目配せしあう武官、文官。だが誰も名乗り出るものはいない。思い当たる節などないと誰もが首を振っては訝しげに隣席の者の顔色を疑い――やがて公孫賛が拳を震わせながら立ち上がった。

「……ちょっと待って、誰も指示していない? だというのに私の軍勢が? それどういうこと?」

 公孫賛はまっすぐ李岳を見つめ、李岳もまた公孫賛を見た。二人の視線が鋭く交差する。身に覚えがない略奪を指弾されまさに侮辱であると、その顔は言葉よりなお雄弁に物語っていた。

「その烏桓のものたちは何か悪事を働いたのだろうか」

「いいえ、無辜の民と思われます。大半が……女子供でした」

「……たばかっているのではないでしょうね」

「お疑いはごもっとも。わたくしも公孫賛将軍がそのような愚挙に出るとは全く思っておりません。ですが間違いなく、公孫賛軍の旗を立てて烏桓を襲う軍勢をこの目にしたのです」

「意味が分からない。一から説明してくれ」

「騙ったのです――公孫賛様の名を汚そうと、不逞の輩が」

 席に列する一同が驚愕に騒然とした。面白いことになってきた、と興を得たのは趙雲ただ一人。色めき立って気勢を吐く武将に、眉根を寄せる文官。公孫賛は思わず立ち上がると剣の握りを手にしていた。後頭から流れる美しき赤髪、その色を凌ぐほどに顔は怒りの紅に染まっている。激怒の余り声にもならず、公孫賛は喘ぐように言葉をこぼした。

「そんな……まさか」

「しかもその行いは一度ならず複数回に渡ります。廖化殿、あれを」

 頷くと廖化と呼ばれた男は懐から一枚の織物を取り出した。それをヒラリと広げると、場を占めていたざわめきはとうとう怒号へと変わった。ひどい出来で正規のものには見劣りするが、間違いなく公孫賛軍の旗なのであった。

「粗末な贋作ですが襲われた者に真贋の判別は難しいでしょう……」

(私の名前を騙った? それで何の罪もない烏桓の人を襲ったですって……)

 しかも誇り高き軍旗まで偽造し、濡れ衣をかぶせるとは。

 一息置いて李岳は言った。その次の言葉こそ破壊的な衝撃で居並ぶ人々の心胆を震え上がらせた。

「ましてや『白馬義従』を騙った者は、烏桓の長であらせられる丘力居大人の一人娘、楼班(ロウハン)殿の身柄を狙ったのです」

「……領内の叛乱を煽ったというのか!」

 このときにしてようやく公孫賛は合点がいった。

 公孫賛軍の旗を掲げ烏桓の村を襲う。略奪に始まる暴虐を働き公孫賛の名を貶める。さらに烏桓の叛心を煽るために族長である大人の娘を害する。そこまで至れば叛乱、内乱は決定的となる。しかもお互いに了見を得ない言い分を押し付けあう形になるので決着はいつまでも付かない。泥沼の消耗合戦に突入することは火を見るより明らかだ。

 烏桓族の大人、丘力居。烏桓山を本拠とし、その傘下の部落は五千を軽く超えるという。彼が一声上げれば配下全てが直ちに決起し、瞬く間に幽州全域を席巻するだろう。元々、食い詰めた農民などが主体であった黄巾賊とは違い、烏桓は民草総じて武芸に秀ですぐさま精強な軍勢を整える――昨今の乱とは比較にもならないほどに悲惨なことになるだろう。

「楼班殿は、無事なのか!」

「……不運でした」

「そんな」

 公孫賛を含む、一座全てが沈黙した。これから巻き起こる戦乱を想像し目の前が暗澹とした。西涼に出陣するどころではない、領内が全て焼き払われ荒廃するかもしれぬ危機なのだ。しかも非は明らかに漢人にある。地獄の足音が聞こえてくるかのようだった。

「異民族といえど領内に住むものたちに差を作っては人民の安寧を損ねることになりましょう。ましてや収奪などもっての外。挙句の果てには大人のたった一人の姫を……反乱の種を蒔いて水をくれてやるようなものです。誇り高き烏桓が黙っているはずがありません……」

「一体どこの誰が――!」

 事ここに至って公孫賛の怒りは頂点に達した。ただ飢えた挙句の略奪ではない、これは政治的意図を持った明確な犯行計画だ。彼女の大喝は部屋を揺るがすほどだったが、李岳は神妙な表情を崩さなかった。

「お怒りは当然のことです。首魁を連行してきております……彼をここに」

 男は手に掲げていた軍旗を床に置くと黙って戸口より出ていき、それほど待たせることもなく縛についた一人の男を曳いてきた。列席したうちの何人かが驚愕の声を上げる。

「幸いわたくしが護衛に雇ったものが義憤に駆られ、馬上で指揮しておりました主犯格の者を捕らえることが出来ました」

 経緯を述べた李岳の言葉は公孫賛の耳には全く届いていなかった。怒りのあまり頭がどうにかなってしまいそうであった。その瞳は両手を後ろ手に縛られグッタリとしている男に向いていた。

「貴様、張純――!」

 その顔を見忘れるはずがない。公孫賛の脳裏に今まで散々なめてきた苦渋の味が染みた。

 

 ――中山相、張純。

 

 代々官吏を務めてきた家系であることを鼻にかけ、出自の軽重を以って人の価値を計る癖がこの男にはあった。位階が優っていることをいいことに、公孫賛の生母が庶子であることをこれまで幾度と無く侮辱混じりに吹聴し、さらには執務の妨害を度々働き、あらぬ風聞を振りまこうとしてきた男がこの張純だ。それに屈するものかと人馬を鍛え励んできた。だが今まで受けた屈辱が全て無かったことになったわけではない。

 そして今また騒乱の元凶として眼前に現れた。

(この男が……っ!)

 我慢にも限界がある、と公孫賛は剣を引き抜いた。配下は誰も止めはしなかった。猿轡にもがく男だけが必死に拒むように首を振っている。

 李岳が間に入らなければ無様に振られていた首はそのまま勢い良く宙を舞っていたことだろう。

「お待ちください」

「止めるな!」

 李岳は残念そうに首を振った。

「お待ちください、この者を裁くのは失礼ながら公孫賛将軍、貴方ではありません」

「何を言っている」

「……猿轡を」

 李岳の命に従って廖化は猿轡を解いた。よほどきつく縛られ苦しんだと見える、その口からはよだれがひどく垂れ何度もえづいていた。

「さあ、約定を果たしてもらいましょうか……」

「……くっ、くそ! ええい、この手も解け! 我を誰だと心得る! 中山郡太守張純よ! 公孫賛将軍よ、この俺に指一本でも触れてみよ、ただではおかん」

 後ろ手は解放されていないので、垂れたよだれを拭うことも叶わぬまま男は声を裏返して叫んだ。

 その言葉に呆れてものも言えぬと李岳は肩をすくめた。

「公孫賛殿の名を騙ったばかりか、今度は中山相張純様の名を騙る始末。まことに許しがたき次第でございますね」

「騙ってなどいるものか! 私は本物の張純だ!」

「貴方が真実中山相であらせられるのであれば、なぜあんなところにいらしたのです?」

「馬鹿者、領内の不逞の輩を取り締まっていたに過ぎん! 中山郡とこの琢郡は隣り合わせの地よ、逃走した者共を追ってやむなく踏み入ってしまったまでだ」

 張純はここに引きずられてくる間、息苦しさに耐えながら何とか弁解の余地がないかと頭を巡らせていた。よろしい、確かに烏桓を討った。公孫賛軍にも扮した。大人の娘も狙った。だがそれが一体何の咎になる? そもそも領内の不穏分子を放置している公孫賛の方にこそ怠慢が指摘できるだろう。

 一郡の太守をそう易々と斬って良いはずがないのだ、助かる道が潰えたわけではない――忌々しき眼前の小僧を言い負かすことさえ出来れば勝ちなのだと、張純は乾坤一擲の心持ちでこの場に臨んでいた。

「……わたくしの記憶が確かならば、張純様といえば、近年烏桓族はじめ異民族とは宥和政策を取っておられたと存じますが」

 張純が治める中山郡は人口が少なく、賄える兵卒も少ない。よって烏桓と対峙するだけの地力がないので友好を結ぶために年に何度か進物をしていたが、それが問題視されたことはない。他の地の太守も同じような政策をとっており、実際干戈を交えるより遥かに安全で安上がりなのだ。

 だが張純は首を振った――自らの弁護のためには首を振る他なかった。

「……フン! 兵法の何たるかを知らぬ商人風情が、戦や治安維持の常道を説かれたいか! 笑裏蔵刀という金言を知らぬものに何がわかる! 烏桓の者共に擦り寄ったのは油断をさせて一網打尽にすることが目的よ!」

 李岳は目を閉じ、天を仰いだ。一語一句を噛み締めるかのような厳かな姿であった――あるいは誰かの死を悼むかのような。張純にはしかし、論理で破れて悔しがっているように見えたのだろう、しつこく侮蔑の言葉を吐いては喚いた。

 張純の奇声が止むのを平然と待ち、気を取り直して李岳が尋問を再開した。

「よろしい。ではなぜ張純殿が公孫賛軍に扮する必要があるのです? あなたには官公として配下に従える軍勢をお持ちでしょう。黄巾賊に身をやつしていたような、およそ官軍とは程遠い者どもをなぜ引き連れていたのです?」

「大規模な軍勢を動員して取り逃がしてどうする、また手勢が元黄巾賊の者だとて何が悪い、功をもって罪を雪がんと改心した我が兵を侮辱するか!」

「軍旗はなぜ?」

「一貫した軍事行動を取るため念のため用意した。郡境を侵犯したと見咎められては敵を取り逃がすことになる」

「つまり、あの烏桓を襲った手勢は貴方の指揮下で動いていた、公孫賛軍を名乗ったのは任務上仕方なくだった、と」

「そうだ! 烏桓を根絶やしにするためにはやむを得ん措置だった!」

「……それが本当であるのなら、貴方は功績を以って称えられるかもしれませんね」

「そうだ……その通りだ! 烏桓は根絶やしにせねばならぬ。公孫賛、貴様があまりに手ぬるいので手伝ってやったまでよ。やつら烏桓はまさに羽虫よ、ひとつずつ虱潰しにしておくしかあるまい……ええい、わかったらさっさとこの縄を解け!」

 しばしの沈黙が場を包んだ。誰もが彼を――李岳を見ていた。張純の演説など誰も聞いてはいない、目の前で飄々と佇む男の掌の上で踊っているのは明らかだったからだ。なにか目的があって張純にさえずらせている、だがその真意とは一体?

 李岳は皆の注目を知ってか知らずか、クスクスと声を漏らしたあと、乙女のようににっこりと笑った。笑顔は不敵であった。張純だけではなくその場の全員が戦慄した。目の奥に暗い怒りの炎を宿らせたまま、人はこのように笑うことが出来るのだろうか。

 趙雲は内心呟いていた。

 

 ――天が鬼神を遣わしたか、と。

 

 本当なら裁可を下すべきは主人たる公孫賛なのだが、彼女はどうすればよいのかと李岳に目で問うばかりだった。だがそれを無責任だとなじることはできないだろう。この場は完全に李岳と名乗った小柄な男の独壇場だった。彼が支配し、彼が決める。

「これは参りました。中々上手に話すものですね」

 まるでここまで上手に踊ってくれるとは思ってもみなかった、と傀儡の出来栄えを喜ぶかのような物言いであった。その場にいる者全てがその異様さに飲まれていた。この男が本当に一介の商人かと信じているものはもはや誰もいなかった。

 怒りに猛っていた公孫賛でさえ、彼の異様さに圧倒されて冷水をかけられたかのように静まっていた。

「公孫賛殿、どう思われますか?」

「……何をだろう」

「貴方様もやはり彼のように烏桓の人々を殺し尽くすべきだとお考えですか?」

 公孫賛はしばらく考えたあと、縛った髪が激しく揺れ動くほどに首を横に振った。

「馬鹿な。この琢郡に住む限り彼らは領民だ。人は罪によって罰せられる、出自がどうというのは関係がない。確かに異民族とは軋轢がある、戦乱もある。だが皆殺しにしてよいとは思わない」

「……お見事でございます」

 公孫賛にはわけがわからなかったが、突如李岳は袖で顔を隠して敬意を込めて礼を取った。その真意を告白しないまま、続いて張純の前に立つ。

「ええい、縄だ! さっさと解放しろ、この馬鹿どもが! 私が張純だ!」

「ええ、そうでしょうね。最初からわかってましたよ」

「な、なに?」

「知りたいことは全部吐いてくれました、無駄な拷問もすることなくね、手間が省けました……ですので御託はもう結構です」

「な、なんだと!」

 水を打ったように静かな声――李岳はもう笑ってはいなかった。眼差しは酷薄といってもよいほど冷たく、喚き散らしていた張純に対する軽蔑の念を隠そうとするのをやめた。

「どっちでもいいんですよ私にとっては。貴方が本物の張純様であろうと、偽物であろうと。どちらにしても末路は変わりません。まぁ偽物ではなく本物の張純様として死ねる方が気分も落ち着くというものですか……私が聞きたかったのは一つだけ。烏桓襲撃を指揮したのが公孫賛将軍ではなく貴方だ、ということ。それだけなのです。誤解を解きたかっただけ。貴方が間違いなく張純という名前の人物であるかどうかはどうでもいい、仇が誰であるか、それだけをお聞かせしたかった」

「……何を言っている?」

 不安に目を泳がせる張純を無視し、岳は背後の戸口へ向かっていった。

「お入りください」

 戸が引かれるとそこには一人の少女が立っていた。幼く背もまだ伸びきっていはいないが闊達そうで、長い足は胡服に包まれているので異民族だと一目でわかる。いやそれ以上にはっきりとその姿は漢人とは異なっていた。天鵞絨がごとき滑らかな青い髪に、わずかに尖っている耳、瞳はそれに対照をなすかのような漆黒――だがその黒を塗り替えんばかりに燃え盛る、怒りに滾る赤い炎は誰の目にも明らかであった。

「皆様、ご紹介申し上げます。烏桓族の大人、丘力居様がご息女……楼班様でございます」

 李岳が厳かに頭を垂れると同時に、楼班と呼ばれた少女が刺突剣を引き抜いた。

 風の祝福を受けたとされる不可思議な霊剣『大精霊』は、烏桓の王族にのみ引き継がれるものとして漢人にも知れ渡った勇名だった。秀麗な装飾が施された持ち手、細く透明な刃剣には摩訶不思議な霊力が宿り、主の意に従いて風を呼ぶ――その伝説はいまや確たるものとしてこの場に顕現し、居並ぶ全てを圧した。少女を中心に激情の暴風が渦巻き、憤怒の電荷を帯びた冷気がほとばしる。

 

 ――いざ、嵐の刻。



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第八話 悲しみの楼班

 時はわずかに遡る――

 

 公孫賛軍に扮していたと見られる一行は、最初の突撃ですぐにその隊列を瓦解させ散り散りに逃げて行ってしまった。立ち向かおうとした敵勢のほとんどを討ち取り、逃げた者も後方に控えていた予備の連中が追走し余さず捕らえている。廖化はそこで李岳の顔をみた。恐ろしく透き通った瞳は玲瓏とさえ評していいだろうが、その冷たさはまるで怒りの氷だ。

(張燕様とはまた違うな)

 自らが仰ぐ頭目、張燕の怒りは炎のようで、口元に酷薄な笑みを浮かべながら殺戮に興じる。その昔、彼女の覇気を真正面から受けたことのある廖化は思い出すだけでも背筋が震えんばかりだったが、目の前にいる李信達という少年の怒りも種類こそ違えど等しく恐ろしく感じられた。

「廖化殿、そいつが起きていては困るんですよ」

 捕らえた部隊長と思しき人間を、まるで虫けらを眼差すかのように見下げていた。

「生かしたままで」

 廖化は頷き、後ろ手に猿轡まではめられている男の腹に一撃を加えた。男はひどく呻いた後、幾度か痙攣してからピクリとも動かなくなった。半日は目覚めないだろうと思えた。懐をまさぐると竹簡が一つにしまわれていたので李岳に渡し、手の空いたものから死体を端から改めていった。葬るつもりも汚すつもりもないが、調べるに越したことはない。二、三の死体を改めるとその懐から見慣れた黄巾が出てきた。李岳の指示に従って旗や指物、そういった証拠になるものは何でも集めた。一体どうつもりなのだろうか、李岳の思惑はわからなかったが、廖化は黙々と従うことにした。

 その後、男を馬の背に乗せて馬群の方へと戻った。李岳を始め、襲撃に参加したものは誰一人かすり傷すら負っていなかった。服や体に浴びた血も全て敵のものだった。全く問題なかった、襲撃は大成功と言っていいだろう。だが廖化が不審に思ったのは、その勝利でもって戦闘を終えても一向に晴れることのない李岳の様子であった。まるで能面のように硬い表情を顔に貼りつけたまま、指示だけを的確に出している。

 廖化とは違い、香留靼には李岳の心境がよく理解できた。脳裏には匈奴と鮮卑が干戈を交えた数年前の戦が鮮烈に浮かび上がっていた。

 

 ――数万はくだらないおびただしい数の鮮卑が急襲してきたあの戦、古今稀に見る程の多くの死者が累々と大地の隙間を埋めた。その半数をこさえたのは李信達、当時十三にもならぬ少年だった。無謀な突撃を繰り返す鮮卑の戦士の脆弱さを看破し、あえての撤退から誘引を惹起、包囲殲滅からの勝利を導いた。若輩者の意見など誰も聞かぬということさえ察知し、その殿軍をさえも自ら務めた。

 その結果は匈奴の大勝利だったが、同時に敗残の鮮卑には悲惨な運命が待ち受けていた。略奪を試みた者が捕まった時、容赦など無い。奴隷としての価値有るものを除き全て殺されていった。老若男女はもちろん問うた――禍根が残るため、子供と女から殺すのだ。

 そういった事態になるとは岳には想像出来なかっただろう、彼は生き残るのに必死で、そして自らが知っている人々の生命を守るために賭けに出ただけなのだから。だが戦場に甘えはない、李岳が口を差し挟む余地などないままに戦後処理は終了した。大地一面を覆う死塁を築いて――

 

 あれから人殺しには関わらなくなった、ましてや自らその手を下すなどもっての他と、争いの気配が立ち昇った地域には近づきさえしなくなった。

 その李岳が人を斬った、香留靼はその場にはいなかったが逃げ惑う母と子を救うためだったらしいと聞いて合点がいった。

(見過ごせないやつなんだな……あるいは罪滅ぼしか)

 黒狐が走り始めた時、無理矢理にでもついていけばよかった、そうすれば自分が手を下し返り血を浴びさせることなどなかったのに。

 後悔と無念さで、香留靼は居ても立ってもいられずにとりあえず何か食えと水と干し肉を渡したが、岳は水しか受け取らなかった。何かを食う気分にはならないのだろうが、今じゃなくてもいいと強引に押し付けてしまった。そのまま何も言わずに――何も言えずに――岳の肩を抱いてやる。恐ろしく冷えている、そして震えていた。多分、周りからは異様な目で見られていることだろうが、そんなことは知ったことではなかった。やがて岳はもう大丈夫とばかりに手を振りほどき、そして廖化を呼んだ。

(心配させちゃったかな……いや別に大したことない、ほんと)

 香留靼の気遣いに、岳はありがたさとほんのわずかな煩わしさを感じていた。だがここで思い悩んでも仕方がないと、気を取り直して救出した少女の方へ向かった。

 柔らかい芝生の上に寝かされた少女は、浅く早い呼吸を繰り返して、何かから逃げ惑うようにもがいている。病だろうかと思ったが熱はない。

「こいつは、しびれ薬を盛られていますな」

 横から手を伸ばして少女の耳もとや首元を確かめてから廖化が言った。

「しびれ薬? 誰かに盛られたっていうのか」

「そんなにきついものではありませんが、半日は役立たずになる。最初はもっと大げさに荒い呼吸だったはずでさ、けどこれだけ呼吸が浅くなれば快復は間近でしょう」

 耳の裏に赤い斑点ができるのがこの薬の特徴だ、と廖化が言うので岳も手を伸ばして見てみた。確かに小さなニキビのようなもの幾つか出ているが、なるほどそれも大きくなく消えかかっているものもある。半刻程で目覚めるという廖化の言葉に岳は頷いた、が――そこでようやく、岳は少女の普通でない出で立ちに気付いた。

(……耳、尖ってる)

 自分が持ち上げ裏返した耳は長く横に突きでており、もちろんだが普通の市井で見かけることはない。

 さらによく見てみれば耳だけではなく、髪は空を溶かしたような青色、肌も白磁のように透き通った美しさ、およそこの大陸のものとは思えないほどだった。

「ん? こいつは烏桓だな」

 覗き込んだ香留靼が言った。

「烏桓? 俺だって会ったことあるけど、こんな人見たことないよ」

「部族の全員がそうというわけじゃあないが、王族は確かこんな姿をしていると聞いたことがある。他にはいねえはずだ、間違いねえ。なんせ馬鹿の俺が覚えてるくらいだからな」

 香留靼の冗談に思わず笑ってしまったが、岳はこれが笑えない事態だとすぐに察知した。

 

 烏桓の王族――つまり王である単于に連なる者が公孫賛軍に巧妙に偽装した何者かに襲われ、拉致されかけたのだ。

 

 もうここは琢郡と言っていい、粗末なものであれ偽装が見破られることはないだろう。おそらく烏桓の一行は人足を雇っていたはずだ、荷物の割に死体が少ない。彼らは殺されずに逃がされた。そして逃げ込んだ町で吹聴することを期待されている。岳は少女が腰に下げていた得物を預かると、微に入り細に入りあらためた。この時代、この国では間違っても見ることがない特異な形をした刺突剣だった。

(サーベル? レイピア? どっちだっけ……)

 だがどちらにしろ美しい装飾、他に見たことのない加工、そして湖面を波立たせたような目を見張る壮麗な刃紋。平民やただの腕達者が持つものではない、香留靼の説明の真実味がいよいよ増した。

 続いて岳は敵兵からの拾得物を全て目の前に並べさせた。公孫の旗、黄巾、統一された武装――そして首魁と思われる人物が懐に持っていた竹簡。

 竹簡にはただ一文だけが記されていた。

 

『烏桓の出立は正午 街道を西 中山殿迄』

 

 岳は内心呆れて昏倒している男に目を向けた。なるほど確かに間抜けな顔をしている、このような証拠になりそうなものを後生大事にいつまでも懐に隠し持っているとは。しかも宛名まで記された致命的な代物だ。

 中山殿。中山郡の相といえば張純という男だったはず――岳は記憶の中に埋もれかけていた『三国志』の知識をさらい出した。確か異民族と結んで乱を起こした人物で、公孫賛と対決しながら落ちぶれていった……

(くそ、マイナーすぎるって。完全にうろ覚えだ……)

 とはいえうろ覚えであっても引き出せた情報は大きい。岳は驚きから興奮を抑えるのに大変苦労しなければならなくなった。立ち上がるとグルグルと周りを歩き出し――そうかそうか、なるほどな、そういう理屈か――と呟いてはうんうん唸り始めた。廖化やその手下は怪訝な目で彼を見たが、香留靼だけはどこかほっとしたような表情で「始まったよいつもの癖」と肩を竦めた。

 岳の脳内では急速に一つの仮説が組み上がっていった。

 史実では、公孫賛は北方の異民族と強固に対立し、幽州において内憂外患に見舞われていた。それに対して他の諸侯は友好政策を取って異民族とは穏便に済ませていた。

 だが、果たしてそうだろうか?

 鮮卑の強烈な攻撃力、機動力を最も身近に感じて骨身に染みているのは間違いなく公孫賛だ。その彼が領内の不穏分子まで刺激するようなことをするだろうか? 敵愾心に煽られて憎しみに駆り立てられたのだと言われたらそうかもしれないと言えるが、そのような人物が仮にも幽州を実効支配し『北方の雄』とまで謳われるだろうか?

 黒山の砦で張燕と話した時の違和感が、岳の頭の中で自然な形に落着していった。

(因果が逆転だったんだ)

 異民族を攻撃したから叛乱が起きたんじゃない。叛乱が起きたから異民族を攻撃せざるを得なくなったのだ。

 公孫賛は鮮卑の攻撃を抑え、その鍛え抜かれた騎馬隊でもって今度は南進に転じようとした。実際史実では何度も何度も袁紹を攻撃している。下手をすれば打ち破りかねない程の攻撃力を持っていただろう、なにせほとんど一勢力で異民族の侵入に耐えてきたのだ。半端な代物ではない。

 その戦力の集中運用を阻むために領内の異民族を煽りたてた。公孫賛がその鎮圧に向かえば今度は鮮卑の攻撃をそそのかす――公孫賛からすれば内憂外患どころではない、まさに三正面作戦を強いられているようなものだ、せめて領内の安定だけでも一刻も早く成し遂げんとして、鎮圧は過酷なものになっただろうという想像は容易い。

 公孫賛を翻弄させるための手引きを受けた一枚目の札が、張純というわけだ。あそこで昏倒している男が張純本人かどうかはさておき関わり合ってるのは間違い無いだろう。おだてられたか物や官位に釣られたか、いずれにせよろくでもない理由で指図に従っているのだろう。

 裏から糸を引いていた人物が一体誰か、岳はこの時代の勢力図を頭に思い浮かべながらその名前を挙げていった。順当にいけば袁紹だろう。だが――と李岳は首を振った。断言できない、なにせ蛇の道は蛇とばかりに油断のならない群雄が割拠したのがこの時代だ。誰もが背中に刃を隠し持って平然と握手を求めてくる。しかも問題は相当に組織的なことだ、この竹簡には一行が止まった宿まで全て把握しており、さらに少女にだけ狙いを定めて薬を盛ったことを推察させる。諜報を専門とした集団が動いているのは明白だ。

 とにかく、ここにある材料をまとめて推理するとこうなる。

 

 ――公孫賛の台頭を望まない者が利害の一致する張純という男を操って、徴発した元黄巾兵を公孫賛軍に見せかけたのち、幽州領内の烏桓族を締め付ける。烏桓の不満が溜まった頃合いを見て、烏桓の王族の一行を襲って叛乱を決起させる。

 

(……こんなところか。けどいずれにせよ情報が少なすぎる。あくまで推測の域を出ないしな)

 熱中してきた考えを一度棚に置いてから、香留靼から受け取った水を一口含んだ。あるいは公孫賛は史実通りの人間なのかも知れない、果断で勇壮な将軍だが、異民族排斥に積極的な傲慢さも持ち合わせている――馬を頼んだこととて戦力増強のためにと臥薪嘗胆くらいの気持ちで臨んでいる可能性だってあるのだ。これ以上は会ってからでないと判断できない。

(ま、俺なんかが判断したところで何の影響力もないんだからどうでもいいんだけど。ただ乗りかかった船というか、首を突っ込んじゃったしな……)

 折も悪く、最後の決定的な瞬間に岳は偶然居合わせた。そしてその計画の総仕上げといえる部分を阻害し、粉砕してしまった。これからの身の振り方で否が応でも陰謀に巻き込まれる可能性がある。爆弾の導火線は李岳のすぐそばで火花を散らしているのだ。最も容易く回避する術としては、この少女も縛り上げた男も切り捨てて何事もなかったかのように旅を続けることだが、岳は検討すらしなかった。

 岳は横たわっている少女に目を向けた。息はもう平静に戻りつつあり、かすかに瞼が震えている。目尻に涙。そろそろ目覚めるだろう。

 内心、爆弾に例えたことを少女に詫びた。岳は少女が目覚めた後の処遇を周りの全員にきつく言い含めて、静かに時がすぎるのを待った。

 

 

 

 

 

 

 

 目覚めた少女は当然ながら暴れた。自分たちを襲った一行だと勘違いし、野盗だ、公孫賛のごとき匹夫の手下め、などと散々に喚いた。確かに前者に関しては二人を除いて盗賊であることは間違いなく、さらに公孫賛まで荷を届ける最中なのだから後者もあながち大外れというわけではない。全員困ったような顔をする他なかった。

 さらには縛り上げられている賊の指揮官を見るや否や羅刹のごとき覇気を放ちながら、今にも殴殺せんと跳びかかった。

 それを押しとどめたのは岳だった。

「お鎮まりください」

 岳は跪き礼を取った。

「貴様! 卑しき野盗の分際で! 私に触れるな!」

 少女の拳が岳の頬にしたたかに打ち付けられた。身構えもしていなかった岳は直撃して仰向けに倒れこんだが、再び身を起こすと同じ姿勢をとった。

「お鎮まりください……李、名を岳。字を信達と申します。并州雁門郡の生まれ、匈奴の父、漢人の母から生まれししがない狩人でございます――お鎮まりください」

「うるさい! 貴様の出自など知ったことか!」

 拳は再び打ち付けられた。倒れこんだ岳を蹴り飛ばし、今度は馬乗りになって少女は殴り続ける。五発、六発。口の中が血であふれたが、岳は殴られるままになっていた。そして少女の息が切れ、喘ぐように離れると、よろよろと腰を上げて再び元の姿勢に戻って同じ言葉を口にした――お鎮まりください、と。

「なんだ、貴様は! 何なんだ!」

 少女はやがて困惑したように辺りを見回した。五十程の数の男たちが少し離れた所でこちらを見ている。間違いなく眼前の男の仲間のはずが、自分が一方的に打擲する様を助けもせずにただ黙って見守っている。

「……李、岳と申します……」

 少女の体重は軽く膂力はたかが知れている。それでも自らの手が傷つくことさえ厭わずに振るった怒りの拳だ、李岳と名乗った男の顔にはいくつもの痣ができていた。

「そんなこと、そんなことは……」

「お鎮まりください……」

 少女はとうとうその場に立ちすくみ沈黙した。両手に滲んだ傷も気に留めないまま、荒い呼吸が静かなため息に変わるまで、何かをこらえるかのように俯いた。

 四半刻、あたりを不思議な沈黙が支配した。夕焼けが迫る山の中、あたりは開けているが時折鳥の鳴き声が聞こえる他に音はない。茜色に染められた二つの人影はまるで石像のように黙然と向かいあい続けた。

 やがて、少女は一際大きなため息を吐いてから、冷静さを取り戻した声で語りかけた。

「楼班。烏桓山の生まれ、誇り高き単于、丘力居の娘」

「恐れ入ります」

 王族どころか、単于の娘――岳は内心陰謀の深淵に手を突っ込んだ感触を覚えて戦慄した。まさに叛乱を煽ろうとしていた――それも幽州全てを灰燼に帰さんとするほどの。

 少女の瞳に不意に恐怖の色が宿り、頼りなさげに周囲を見回してはその漆黒の瞳を不安で淀ませ始めた。

 震える唇からか細い声が漏れる。

「……母様は」

 岳は一度目をつむり深呼吸をしたあと、立ち上がり先導した。

 廖化や香留靼が付いて来ようとするのを手で制した。夕焼け空に一陣の風が吹く。常緑の木だけが葉音を鳴らす。坂道を行く二人に言葉はなかった。岳が歩き、その後ろを楼班と名乗った少女が付いていくだけだった。宵闇の気配がする。だが少女の顔に差した陰は決してその暗がりのためではなかった。

 やがてその場所に着くと、岳は袖で顔を隠したまま一歩下がった。日はとうとう山際にさしかかり、明かりは幾ばくもない。だが彼女は木々の枝葉が開けた隙間の真下に寝かされており、その姿は鮮やかに照らしだされていた。

 

 ――仰向けに寝ていた。彼女は岳の手によって清潔さを回復させられていたが、そこに命はなく、青白い肌は血の通いが失せたことを突きつけている。

 楼班はしばらくそのまま自らの母親を見下ろしたあと、跪き、全身で覆いかぶさって鬼哭した。

 やがて訪れた宵闇が二人の姿を隠したが、慟哭はいつまでもいつまでも山間に木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 宵闇の中、焚き火を囲んでいた。陽が落ちると暗くなるまでは早い。元の場所に戻ったときには既に野営の準備は整っていた。

 岳は今宵の夕食の支度をあらかた済ませると、所在無さげに座っていた楼班の隣に座った。

「お返しいたします」

 楼班の母親の埋葬を終えると、岳は彼女の腰の物を返却した。楼班は束の間ためらったあとそれを受け取り腰帯に差した。

「……そなた達は何者だ」

「私たちは貴方が襲撃を受けているところ、偶然居合わせたものです。公孫賛の旗を掲げた者たちが非道を働くのを見過ごせませんでした」

「……やはり、あのとき私を助けたのはそなたか」

「意識がございましたか」

「いや、薄ぼんやりとだけだが……母様に抱えられたのは確かに覚えている。その後、ちらりとそなたの顔を見たような気がした」

 楼班はまるで夢の中で起きたかのような出来事を反芻した。

 

 ――全身に感じる母のぬくもり、その胸から伝わる狼狽と恐怖、襲い来る凶刃……そして突如現れた、騎馬にまたがった御仁。刀を振ると敵は一撃で四散し、自分と母とを救ってくれた――

 

 悲劇が夢ならばどんなによかっただろう、その夢が正しかったならば母は死なずに済んだのだ。楼班は口惜しさに唇を噛み締め、溢れ出そうになる涙をこらえた。

「……不甲斐ない。今朝から何故だか体が動かなくなった……そうでなければあのような者共、私一人ででも殲滅できたものを……!」

 岳は束の間迷ったが、しびれ薬のことはまだ伏せておくことにした。おそらく今それを告げられても少女は混乱するばかりだろう。解くべき誤解は他にある、いらぬ回り道をしては収拾がつかなくなる。

「そなたらには申し訳ないことをした……李岳殿。助けていただいたというのに敵と思い込んでつらく当たってしまった……恩人に仇なすなどと許されることではない」

「お気になさらず。致し方ないことです」

 そう言って岳は笑った。不意に見せた笑顔に楼班はうろたえた、落ち着いた物腰から年上と思い込んでいたが、ともするとそれほど離れていないのかも知れない。だがまだ気を緩めることはできない、元より目的を果たすまで安堵する暇はないと肝に銘じていたが、楼班の中にはまだ納得できなことがあった。

「だけどわからない……なぜ我が母様の仇討ちを邪魔するんだ」

 岳の背後、木に括りつけられてうなだれている男を睨みつけながら聞いた。

「……これは陰謀です。あの者だけの考えで動いたのではありますまい。それを突き止めなければなりませぬ……」

「そうか、そうだな……公孫賛め……許せぬ」

「……いかがなさるおつもりでしょうか」

「決まっておろう! 母様の仇を取る! 何としてでも公孫賛の首級をあげる! 公孫の一族全て根絶やしにしてくれる!」

 仮に逆鱗に触れられた龍が気焔を吐くのなら、おそらくこうだ――そう思わせるほど楼班の怒りは天を衝かんばかりだった。幼い龍だがその牙は見間違えること無く鋭い。

「李岳殿。お恥ずかしい限りだが、ご助力を頼めないだろうか。私は今一人だ。荷も銭もない。旅を続けることは叶わぬ。公孫賛を討つには烏桓山まで戻り挙兵する必要があるが……そこまで辿りつけるかすら覚束ない。不甲斐ない限りだが何卒……」

 楼班はほんの少しためらったあと、岳の隣に腰を落ち着け直してその手を取った。手は緊張と恐怖で震えていたが、意志と覚悟がそれを上回った。

 さらに頭を下げようとする楼班を岳はおやめ下さい、と声をかけて制した。少女は恐らく誇り高く、傲慢とも言える性格だったのではないか、と岳は考えた。異民族の首長とその血縁は絶対的な権威とそれに伴った権力を持つ。誰かに頭を下げたり媚びへつらうことなど天地が返ってもありえない。

 だが目の前の少女は恩人とはいえ一商人に頭を下げようとした。その強さが、悲しかった。

「せっかくお助けした人を見捨てることは、自分の行いにすら背くことです。喜んでご助力差し上げます。ですが……」

「なんだろう」

 褒美か、見返りは何が欲しい――その言葉を楼班はぎりぎりで飲み込んだ。このような生死に関わるやり取り、交渉などは未経験であったが、それだけは決して口にしてはならないと――李岳の真摯な瞳を見て思った。

 岳は接収した公孫賛軍と思しき者共が携えていた旗を取り出してその場で広げた。訝しげな楼班に一語ずつはっきりと伝わるように岳は述べた。

「この旗、一見公孫賛将軍のもののようですが、あまりに出来が悪い。おそらく適当に拵えた贋作でしょう。公孫賛軍の仕業と見せかけるための」

「……え?」

「公孫賛将軍は無関係の可能性があります」

 動揺に、楼班はその場で立ち上がり激した。

「だが、我らの中では公孫賛の悪名を聞かない日はない! やつは烏桓を迫害し一方的に攻撃している!」

「存じております」

「……そ、それすら偽物だというのか?」

「……わかりません。あるいは楼班様のおっしゃる通り公孫賛殿は正道を顧みない悪人、ということもあるでしょう……」

「つ、つまり……どういうこと?」

「ご自分の目でお確かめになってはいかがでしょう」

 岳の口から、明日公孫賛軍に馬を引き渡す用意があるということ、公孫賛本人には会えないだろうが、その幕僚と話すことでも真偽を確かめることは可能であること、そして首謀者を連れているので利用価値があるということ、その諸々が告げられた。

「そして鍵となるのがあの男です。裏で糸を引いている者を定めます。必ずや真相を明らかにします。御母堂の仇を討たれるのは何卒お待ちください」

「真相が暴かれた後は、仇を討てるんだな?」

「この命に替えても」

「仇を取りたいんだ……そして知りたい。母様がなぜ死ななくてはいけなかったのか……」

「必ずや。ではその段取りをお伝えします」

 岳は香留靼と廖化を呼んで、楼班と合わせて四人で車座になった。香留靼はすぐに腹を抱えて笑い始めた。

「ひでえ顔だな、岳。ははは! 男前になったぞ!」

 香留靼が手を叩いて喜べば喜ぶほど反比例するように楼班の肩が縮こまっていった。

「……うう、申し訳ない……」

「いや! お気になさらず! ええ、まずは紹介します。いま笑ってる馬鹿が香留靼です。匈奴の生まれです。そして隣が黒山賊の廖化殿」

 貶されたというのに香留靼は胸を張って喜び、廖化は黙って首肯するだけ。楼班は目が点になった。

(なぜ匈奴と、そして黒山賊? え? やっぱり危ないやつら?)

 楼班の懸念をよそに岳は会議を進めた。

「馬の届け先まであとどのくらいかな」

「……明日の夕方には着くでしょう」

 廖化が応える。ここは琢郡にしても町に近い。公孫賛軍の駐屯地までもそれほど離れてはおらず、夕方と言ったが急げば昼にでも到着できる見込みだ。

「良し、じゃあそのまま馬は運ぼう。次回の段取りや交渉もある。おそらく近くにある琢県の町に入るはずだ。付かず離れずついてきてくれ。宴席で一つ粗末な劇を演じよう。舞台役者はあの張純かもしれない男と、楼班様、そして俺。廖化殿には手伝いをしていただきたいのですが……塁が及ぶかもしれません。断っていただいても」

「野盗の身で塁もクソもないでしょう。元々お尋ね者だ。居並ぶ官の者共の前で堂々と遊べるってんなら断る道理はないでしょうよ」

 むしろ楽しみだと言わんばかりに廖化は愉快気に口の端を歪めた。

「おいおい、匈奴丸出しの俺はお邪魔虫かよ」

「胡服じゃなあ。着替えて出演するかい?」

「……ま、今回はやめとくよ。見世物は嫌いじゃあないが出るとなりゃ話は別だ。お前はそこんとこ上手くやるだろうがな。名役者だからよ」

「いずれ旅芸人にでもなるか」

「悪くない」

 笑いが起こった。そのあとは細かい段取りが告げられた。といっても行き当たりばったりと言ったほうがいい。ほとんどが李岳の機転の依る所となったが、心配なさ気な岳の態度を見ているうちに楼班は上手く行くだろうと信用を寄せ始めていた。

 そのとき楼班の鼻が嗅ぎ慣れない臭いに反応した。

「……ところで、なんだか、変な匂いがする」

「ああ、そうですね。そろそろできたかな。まずは腹ごしらえです」

 岳は立ち上がり煮立った鍋の蓋を開けた。

(とりあえず今夜はいいものを食おう。辛い時は食べるに限るさ)

 岳は出立の際にこれまで自分で収集した様々な植物を荷物に放り込んでいた。

 この時代に二度目の生を受けて、岳が困ったのが何より食事だ。何でも気にせず食べたし好き嫌いもないけれど、味の種類が非常に狭い上に全体的に薄い。調味料の類は高価なのだ、塩でさえ手に入れるのに苦労する。

 そこで岳が注目したのが香辛料だった。野山の植生は想像以上に多様で、探せば意外なものが見つかった。

(馬芹の種はクミンシード……桂皮はシナモン……月桂樹の葉に、もちろん香菜! こいつは干せばコリアンダーだ!)

 カレーである。

 うこんはこの時代にまだ伝わっていないのか、あるいは岳が手に入れることが出来なかっただけなのかわからないが、ともかく現時点では入手することができなかった。元々諦めているココナッツミルクの代用としては山羊の乳を用いる。風味は劣るがこの時代の味としては申し分なく上出来だと過去に試してお墨付き。きっと喜んでもらえるだろうと岳は希少なスパイスをふんだんに使った。

 

 ――だが。

 

「……なに、これ」

「え。美味しそうでしょう?」

「……全然」

 見れば楼班は鼻を塞ぎあさっての方向を見ながら匂いを避けていた。どれほど嫌なのだろう、尖った耳まで垂れていた。

 黒山の男たちも何やら異臭がすると遠巻きに見ていることしかしない。食べる? と器を差し出してみても後退りするだけ。廖化ですらそのでかい背を縮こめて名指されないようにしていた。

「いやおいしいんですって。本当に! 傑作! ほら! ほら!」

 一向に食べようとしない、あるいは逃げ出しそうな楼班の目の前で岳は一口食べてみた。口の中に広がる香ばしい薫り、まろやかな舌触り、うさぎの干し肉にまで味は染み渡り……

(あ、いかん。泣きそうだ。壮絶なホームシックになりそう)

「うまいうまい、おいしい……」

 半ば涙しながら食べ続ける岳を見て、心が揺れ動いたのか、あるいは恩人の親切に応えなければ申し訳が立たないと思ったのか、一度二度岳を見やってから楼班はおずおずと手を差し出した。それは半ば怖いもの見たさもあったのかもしれない。

「た、食べます!?」

「……一口だけ」

「ええ! ええ! お口に合わなければそれで結構ですんで」

 手渡された器には見たこともない黄色い汁が。かすかに肉が浮いているがそれさえ得体のしれないものに見える。それにこの匂い! 初めて嗅ぐにしてもこれほど他に例えようのないものがあるだろうか。だが烏桓に二言はない。ここで逃げれば王女がすたる。ええい、ままよ! とばかりに匙いっぱいのそれを楼班は口に運んだ。周りを囲んでいた黒山の男たちが「おおお」と喚声を上げる。どうでもいいがこいつらは情けなくないのか、と岳は内心毒づく。

 パクリ。

 食べたそれきり、楼班はしばらく動かなかった。一体どうなったのか――味は、うまいのかまずいのか、そもそも食えるのか、毒ではないのか、死んだ?――遠巻きに見ているだけの情けない男達の興味は今や楼班の体一点に絞られていた。そして――

 

 ――ピーン!

 

 と耳がはねた。

 それからすぐ威勢よく動きを取り戻した楼班は二口三口と次々食べ始めた。そのたびに――ピーン! ピーン!――耳が跳ねる。

 誰かがゴクリと唾を飲んだ。

「賊上がりのはずが食べ物一つで情けない」

「されど腹が減った」

「もしかこれはよい薫りやも知れぬ」

「しかし勇み足で毒を平らげるは匹夫の勇ではあるまいか」

 とそれぞれに内心は渦巻く葛藤に苦しんでいたが、そうこうしているうちに楼班は器の全てを綺麗に平らげ、許可も取らずにそのまま二杯目を勝手に注いでは食べ始めた。岳は得意である。とうとう辛抱出来ずに黒山の大丈夫たちが我も我もと殺到した。廖化もしれっと器に盛りつけたが、香留靼はとっくに自分の分を取り分けていて悠々と美味を堪能していた。

 

 ――そんな有様で、岳がこしらえた料理は瞬く間に皆の胃袋に収まってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さまでした」

 食後の後片付けに入っている岳に楼班は礼を言った。片付けの手伝いをしないのは礼を失しているが、あいにく食べ過ぎて動けそうにない。詫びても岳は嬉しそうに笑うだけだ。

「そこまで喜んでもらえるとは思いませんでした」

「……こんなに美味しいものは初めて食べた」

 嘘ではない。まるで未知の味、だというのに間違いなく美味、それでありながら食後にこの全身を行き交う熱はなんだろう。楼班は訝しげに腹をさすった。これはあるいは高名な薬草をさえも凌ぐ温もりではないだろうか、と昔一度処方されたときのことを思い出した。

「李岳殿……その、料理の名前を教えてはもらえないだろうか?」

「な、名前ですか」

 困ったのは岳である。『カレー』などという言葉では不審を買うし不自然だ。

 何か適当な名前はないかと知恵をひねってみたがどうにも上手くない。

「か……」

「か?」

「じゃなくてその……」

 何が困ることがあるのだろうかと楼班は訝しがったが、今まで目の前の男は論理に基づき、あるいは冷徹、されど覚悟と優しさをもって対峙してくれた。それは隙のなさともとれるが、目の前であたふたしている姿を見ると途端に幼く見えた。命の恩人、李信達。この恩をいつか返せる日が来るのだろうか、それとも一期一会に過ぎずもうすぐ会えなくなるのだろうか。胸の内で熱いものが溢れ出そうになったが、楼班は今食べた料理の温かみなのだと思い込んで疑わなかった。

 そんなことを目の前の少女が思っているとは露知らずうんうんと悩んでいた岳だが、とうとう天啓を得たと拳を握った。

「……そう! 天竺鍋! 天竺鍋です!」

「天竺鍋……」

「天竺から伝来した鍋料理です! 米に合わせてもよし、挽いたむぎ粉を焼いてつけてもよし!」

 思い出せたのがそんなに嬉しいのか、岳は飛び跳ねて名前を連呼している。その姿がおかしくて楼班は微笑んだ。

(うん、やっぱりこうしてみると子供っぽい)

 天竺鍋、本当に美味しかった。温かい料理に人とのふれあい。傷ついた心には何よりの癒しとなる――だから彼女は油断をしてしまったのだろう。

「美味しかった……今度作り方も教えて欲しい。みんなにも食べさせてあげたいのです。母様にも」

 ハッとしたのは二人同時だった。我慢する間もなく、押しとどめようもない涙がその美しい宝石のような両目からハラハラと流れた。

 悲劇は今日のこと、すぐにその心の傷がどうにかなるはずがない。身勝手な横暴は永遠に彼女の心を傷つけた。そして命を――

 すがってきた楼班の背中を抱きしめた、楼班は声を押し殺しながら涙を流し続けた。昨日まで隣にいた母はもうどこにもいない。失われた者の大きさ、重さ、そして二度と戻ってはこないのだという絶望が癒えるのはまだまだ先だろう。

「母様……お、お母さん……! 会いたい……!」

 歩哨以外は寝静まった夜。楼班が泣きつかれて眠るまで、岳は胸を貸し続けた。

 



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第九話 決闘と真名

 ――時は戻り、琢郡の街。

 

「縄を解け」

 楼班は渦巻く嵐の中心で溢れ出る殺気を懸命にこらえながら口にした。

 だが平静さを装うとしたために声は音の低きを流れ、その殺意と怒りをいや増して余人に伝えた。

「公孫賛……我が名は楼班。その者は私の母様を殺した……張純の身柄をよこせ……縛られたまま撫で殺すことはしない……武器を持て……武器を持って向かって来い……!」

 公孫賛は立ち上がると進みでた。見れば李岳は跪き平伏している。

「成り行き上とはいえ楼班殿の安否を伏せましたこと、お許し下さい。真実を申しますと、楼班殿は襲撃から逃れご覧の通り御無事でした。が……御母堂が身代わりとなられ凶刃のため、御命を……」

 再び風が巻き起こり、楼班の青い髪が逆立ち熱波を吹いた。公孫賛も初めて会うのだが彼女の姿は伝え聞く烏桓の王族の姿そのままであった。

(……ご息女は無事だったが、単于の妻君が死んでいるのか……)

 楼班についての情報、話を上手く進めるためにあえて誤魔化したのだろうと思うと怒りはわかなかったが、それよりも公孫賛は困惑で狼狽しかけていた。

 怒りに燃える楼班の前で縛り上げられたまま恐怖に震えている張純――自白した通り憎しみをもって烏桓を迫害し、しかもそれを自らの責任ではなく公孫軍に扮し狼藉を働いたことになる、それに対して公孫賛は容赦するつもりはない。さらには叛乱を誘発しかねない愚挙、烏桓族の長である単于の娘、楼班を害しようとした。それには失敗したようだが楼班の母を殺したということ……容赦の余地はないだろう。

 楼班は張純を解き放ち武器を渡せと――つまり決闘を望んでいる。武人として生きてきた公孫賛にはその気持ちが痛いほど理解でき、気持ちとしても同情している。だが果たしてそれを許可して良いのか、今の公孫賛は一人の武人ではなく郡の太守として判断しなくてはならず、板挟みの中で決心が付かない。

 跪いたままの李岳が膝立ちで一歩進み出て、顔を伏せたまま言上した。

「恐れながら、誇り高き烏桓族を一方的に害し、その誇りの結晶たる単于の姫をかどわかそうとした罪はあまりに大きく、それに飽きたらず楼班殿の母親、つまり単于の妻君を殺害した浅はかさに弁護の余地はありません」

「わ、私は指示してない、わ、私じゃない」

 張純の喚き声に李岳は一顧だにせずに言葉を続けた。

「烏桓族のしきたりに、女系への攻撃は徹底的な報復をもってこれを贖うというものがあります。それが単于のご家族ともなれば一族全てを挙げた猛烈なものとなるでしょう……楼班殿は御母堂の仇をその手で討つことができれば決して戦火を広げるつもりはないとおっしゃっております」

「……まことか?」

 公孫賛の問いに答えたのは岳ではなく楼班だった。

「うむ。我が烏桓の誇りにかけて誓おう」

 公孫賛の目には楼班が嘘を言っているようには思えなかった。ひとたび誓えば決して違えぬという証のごとき黒い瞳――烏丸の瞳――が公孫賛に決断を迫っている。

 このままでは烏桓族の叛乱は不可避だ、楼班の申し出は大きな譲歩といえるだろう。実行犯との決闘をするだけでそれを済ませるというのだ、破格と言えた。しかも見た目から齢は十五を超えないような少女が単身現れ母親の仇を討とうとするその心意気は、民族や血統を問わず高潔で瑕疵などない。

 感極まったように趙雲が立ち上がると――見事! と声を挙げた。

「仇討ちの覚悟あっ晴れ! 伯珪殿、ここは決闘を許可するべきでしょう」

「ま、待たれよ! 仮に事実だとしても張純殿を黙って引き渡してよいものか。ここは一度日を置いて裁可を上位に諮るべきではありませんか」

「ほほう。そして戦乱に興じるか。なんとも悠長な意見」

 趙雲が声を大にして楼班を支持しそれに多くの武官も追随したが、対して何人かの文官が慎重意見を主張した。公孫賛には両方の気持ちがわかる――仮にも張純は中山相であり皇帝の印綬を下賜された正式な官位を持つ者だ。非があったとしても異民族にその首を差し出すような真似を許可することは、同じ身分である琢郡太守としては肯んじがたい、権限も曖昧だった。

 だがそれが最後の命綱と気づいたのだろう、張純までもが大声で喚きはじめた。

「そうだ、幽州様だ! 幽州様に取次ぎを! 公孫賛、貴様に一体何の権利がある!」

 幽州様、幽州様をお呼びしろ。

 張純の浅ましい響きが部屋内に木霊し、彼を擁護しようとした文官でさえ眉を顰めるほどの浅ましさを露呈した。

 喧々諤々の議論が部屋を飛び交った。誇りと信義、責任と権限。相反する二つの概念がそれぞれ正当性をもってぶつかり合う。誰が正しいかはわからない、だがそのどちらかを選ばなくてはならない。公孫賛は一人一人の顔を順繰りに見回して――楼班の姿を認めて固まった。死さえも恐れぬ決意の瞳。公孫賛の心は決まった。

「静まれ!」

 途端に室内は静寂を取り戻した。公孫賛は喘いでは立ち尽くしている張純に向かって言った。

「中山張純殿。相の身でありながら我ら公孫軍に扮し常日頃烏桓を攻撃し、あまつさえ丘力居大人のご息女、桜班殿一行を襲い、その身柄を手に入れ内乱を起こそうと企てたに相違ないな」

「ち、違う……お、俺は張純じゃない……お、俺は……」

「見苦しい!」

 ひぃ、と情けない声を上げて張純はその場にへたり込んだ。公孫賛は続いて楼班に声をかけたが、その響きは張純へのものとは違い微かに優しかった。

「楼班殿。まずは御母堂の不幸まことに残念に思う。この公孫賛、烏桓に対して隔意はないが相互に謂れ無き誤解が芽生えるよう画策した陰謀があったようだ……」

「承知している」

「決闘が望みか」

「応」

「貴方が勝てば叛乱は」

「二言はない」

「――承知した。前の庭に篝火をたく。双方武器を持て! 只今より決闘を執り行う! これは決定だ!」

 はっ、と居並ぶ文官と武官が頭を垂れた。座で前を向いているのは楼班と、呆然と虚脱した張純だけだった。

 太守が決定を下せばそれに異論を立てるものなどいるはずがない。一同は揃って戸を出ると月夜に照らされた前庭へ向かった。広間には責任者の公孫賛、第三者の李岳、そして当事者の片方である張純が残された。決闘の前にはその主旨を詳細に記した証文を残し当事者の血判を押すのが誤解を招かないよい方法とされている。

 だが張純はしきりに首を振り、幽州様を呼べ、幽州様に裁可を、と何度も声を荒らげた。が、やがて李岳がその顔に酷く残忍な笑みを浮かべると、うろたえる張純の耳元に近づき囁いた。

「どうにも貴方はまだよく理解していないようですね、まだ命が助かるとでも?」

「ば、馬鹿な。我は太守だ、中山相だ! なにが決闘だ! 皇帝陛下の印を以って任じられた位階の者だぞ! 天意に背く気か! ど、道理に反するだろう! せめて幽州様の御判断を仰ぐべきであろうが!」

「いざとなればそう言えと、幽州刺史様に言い含められましたか?」

 その言葉を聞いた途端張純の顔は蒼白になり、歯の根がガチガチと音を鳴らした。張純だけではない、公孫賛も唖然とし声を失った。

 

 ――幽州刺史! 中華全土十三州の内、その一つを統括することを皇帝より印綬を以って任された人である。十一の郡を領し備えた城塞は九十、統べる民草は二百万に至らんとする幽州の頂点である。

 

 現在の幽州刺史は一時の断絶はあれど数百年続いている偉大な漢朝、その太祖である劉邦の血と姓を受け継ぐ宗室の一人であり気質清冽なることを以ってあらゆる群雄を凌駕し、あるいは今上皇帝をも凌ぐ聖人と謳われる名高き名士――姓は劉、名は虞。字は伯安。逆賊王莽の醜行により一度は汚された漢の威信を、再びあまねく光として天地にもたらした偉大なる中興の祖『光武帝』の末裔であった。

「な」

 色を失った張純は腰を抜かしたようにへたり込むと何かから逃げるように後退りを始めた。だがそれを逃すまいと李岳は背後に回りこんで再び耳元に囁く。

「劉虞様が本当に貴方を助けてくれると信じておいでで?」

「なぜ、なぜ」

「名声を失えば糾合するものがいる。これは道理です。ですが、失礼ながら貴方のような小物が『白馬将軍』の美名の受け皿になるだなんて到底無理でしょう。司空様から袖にされるようなお方がたったお一人で烏桓の大人への陰謀を練れるだなんて、誰も信じませんよ。貴方は担がれたんです、張純殿。劉虞様はきっと貴方にお味方することはございますまい。まぁ御自らの美談を増やすために涙の一つは流されるかも知れませんが」

「そんな……そんな……き、貴様、何者だ……?」

「さあ、今から死に行く貴方がそれを問うてどうします。貴方こそ、何者です?」

「私……私は……」

「貴方が生き残る道はただ一つ。剣をとって楼班様に打ち勝つこと……それだけです」

 うつろな瞳でうわ言を呟くばかりの張純、その手を取って李岳は血判書に押捺させた。公孫賛が一声かけると屈強な兵士が二人やってきて、連行されていくように張純は歩かされていった。虚ろな響きで『私は張純じゃない、張純じゃない』と漏れ聞こえた。

 公孫賛は一体何から問いただせばいいのかと李岳を見やったが、言葉を発する前に入れ替わり楼班が現れた。楼班の前で陰謀の真相が幽州刺史に端を発するかもしれない、と告げるのはまずい。この真相は機密もいいところだ、事の漏洩は公孫賛の身を危うくするだろう。しれっとした顔の李岳が憎たらしく、公孫賛は舌打ちをこらえるのに多大な労力を用いた。

 楼班は躊躇うことなく指を傷つけ捺印した。すぐさま踵を返そうとした楼班を公孫賛は呼び止めた。彼女にはまだ一つ保証が足りていない。

「……楼班殿。決闘を前に一つ聞いておきたい。貴方が敗れた場合はどうするのだ。貴方の骸を烏桓に渡して単于が納得するとはとてもじゃないが思えないぞ。血判も偽装と疑われては意味が無い」

「問題ない――李岳殿、こちらへ」

 顔を伏せたままであった李岳が驚いて立ち上がった。楼班は一度コクリと頷くと、歩み寄った李岳に向けて言った。

「李岳殿……烏桓の王族に字はないが、真名はあるのだ。王族は自分の伴侶となる者と血縁以外、余程のことがなければ真名を預けることはない……どれほどの拷問を受けようともだ。その真名をそなたに預けよう。もし私が破れて果てた場合、ことのあらましと交わした盟約を単于にお伝えして欲しい。私の真名を出せば絶対に信じてくれるはずだ」

「――よろしいのですか」

「ああ、そなただから頼むんだ」

「……はっ」

「私は」

 すっと小さく息を吸い込むと、楼班は白い頬にわずかに紅をさし、だが一つの照れも憂いもなく、これ以上の誇らしい宣言はないのだとばかりに笑顔で告げた。

「私は楼班。真名は……美兎(ミト)……」

 李岳はこれ以上神聖なものはないとばかりに大きく頭を垂れた。そして再び楼班の顔を見ると自らの名を口にした。

「姓は李、名は岳。字は信達。真名は冬至」

「冬至……頼んだぞ」

「はい……ご武運を」

 他の誰にも口を挟めぬ厳かな雰囲気が、心温かい柔らかな空気が二人を包んでいた。真名を交わすやり取りは誰にも邪魔立てすることのできない神聖な儀式だ。公孫賛は烏桓の王女が勝つだろうと思ってはいたが、二人の姿を見るに予想ではなく願望として、彼女の勝利を信じた。

 三人は居並んで急拵えの闘場へ向かった。

 周囲四方に明かりを灯し、月光の輝きも相まって明かりは申し分ない。周囲を取り巻いた公孫賛の手勢の誰もが息を飲み密かに興奮していた。決闘の両者が向かい合う。楼班は自らの得物一本で仁王立ちし、張純は並べられた武器からおずおずと槍を選んでは穂先を向けた。両者の準備が整ったのを確認して公孫賛は宣言した。

「この決闘、琢郡太守、公孫伯珪が立ち会いを務める! はじめよ!」

 銅鑼などない、公孫賛の声と一陣の風が二人を駆け抜けたのが合図の全てだ。

 両者は二間の距離を取って相対した。

 楼班は刺突剣を眼前に立て、決闘は始まったというのに瞳を閉じて母との思い出を反芻した。些細な生活の全てが色鮮やかに浮かび上がり、その日々が今にでも再開しそうな錯覚に囚われる。だがそれは夢に相違なく、現実において母は楼班を庇い討たれ、声なき骸と化した。

 

 それを指図した者が眼前に控えている。屈辱を雪ぐは今この時をおいて他にない――!

 

 半身になり右手を前に突き出した構えはこの大陸において異様な戦型であったが、刺突剣を扱うには至高の型であり、ピタリと標的を目指して動かない切っ先はたゆまぬ鍛錬の結晶だった。一方対する張純。槍を構えてはいるが戦意も闘志も皆目見えず、突きつけられた剣先と殺気に飲まれ、怯懦と恐怖から槍の穂先はフラフラと揺れ動いていた。恐慌状態の逆上から発生する混乱した殺気だけが散らかっていた。

 対峙は楼班の開眼でもって終焉を迎えた。

 まるで何かから逃げ出すように繰り出された張純の槍。二度三度と振り回されるが楼班は一歩引いては横に避けるを繰り返し、いずれも紙一重で躱した。間合いは圧倒的に槍が長く、こうして振り回し続けていれば楼班の踏み込みは躊躇われるかと思われたが、彼女は一縷の逡巡も挟むことなく敢然と間合いに踏み込んだ。

 霊剣『大精霊』は疾風の加護を存分に発揮した。燃える怒りの楼班の背中を押す。

 地を蹴り抜いて張純に迫った楼班の速度は肉眼が捉える限界に肉薄した。『大精霊』が巻き起こす風の渦に従って剣先は螺旋の動きを描いた。白銀の渦は張純の槍を容易く跳ね上げ、楼班は速度もそのままに懐に侵入した。

「ハァッ――!」

 絶叫が響き渡ったとき、既に少女は駆け抜けていた。

 終わってみれば一瞬の交叉――攻撃を受けた張純さえ微動だにせず立ち尽くしており、ただ位置が入れ替わっただけかのように思えたが……跳ね飛ばされ宙に舞った槍が地に落ちカラカラと音を立てた瞬間、張純は全身から血が噴きだし呻き声をあげることさえなく倒れ伏した。その壮絶な有様に絶命を疑うものは誰一人いなかった。

 飛び込み繰り出した連突はその数二十二。眉間、心の臓、水月を始め全身のあらゆる急所を正確に貫き通し、死は一度ばかりではなく突いた数だけ殺し直していると思わせるほどであった。

 楼班はまぶたを閉じて、仇の死を捧げるかのように天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 決着ののち、夜半に李岳は公孫賛の私室に訪れていた。男女の密会という醜聞が起こればつまらなかったが、どうしても余人を交えず話したいということで公孫賛が無理やり招いていた。卓を挟んで座り酒を酌み交わした。宴の最中に沙汰が起こったので食事はお預けだったのだ、二人してしばらく遅い夕餉に興じてから公孫賛は話を切り出した。

「楼班殿はよくお休みかな」

「別室なのでわかりかねますが、決闘の後気を失うかのようにお休みになられましたからね。朝まで目を覚ますことはないでしょう」

「そうか……李岳殿、ところで今日のことだが」

「はい」

「私はきっと貴方に感謝しなければならないのだろうな、いやきっとそうなのでしょう」

「……私は何もしておりませんよ」

 功績を元に金や地位をねだってもいい、要求して当然なのだが李岳はおくびにも出さなかった。

「内乱を回避してくれた。この功は大きい。もし李岳殿が張純を捕えていなければ陰謀によって幽州はことごとくが荒らされつくしただろう」

「将軍のご決断あったればこそです。決闘までの差配、ご英断お見事でした」

「……あれで良かったのだろうか」

「わかりません……ですがこれ以外の解決は、少し胸糞が悪いでしょうね」

「……うん! それには全く同意する!」

 二人して笑いながらもう一献酌み交わした。このあとの細かい段取りを李岳は聞いた。張純の遺体は礼を以って埋葬されるとのことだ、その死に至った要因は聞こえにはよくないが、武器を携え決闘に臨んだ者にはそれ相応に遇する礼がある。空いた中山相の地位については中央朝廷に諮る必要があるが、当然刺史への通達も避けては通れない。

「幽州殿のことだが……」

「カマをかけただけのつもりだったのですが、あっさり吐き出しましたね」

「そんな余裕はなかったんだろう……けど、青天の霹靂とはこのことだ。いつから気づいてた?」

「すぐにおかしいと思いました。今回の陰謀、張純殿の器量では少し無理がある。裏に誰かがいるのは間違いないとは思っていました。誰が、というのがわかりませんでしたが……劉虞様の名を出したのは、まぁやたらと幽州様と言ってたからですね。大体中山郡は冀州の領内です。本当なら冀州刺史の名前を上げるほうが自然です。なるほど、窮すれば最後は黒幕に頼るのかな、と。当たっても八卦外れても八卦の気持ちでしたが」

 最後の最後、張純がヘマさえしなければ到底わからない陰謀のからくりだった。冀州の相が幽州の刺史とつながっているなどとは確かに思いつきにくい。劉虞の美名を考えればなおさらだった。

「……聞いて嬉しい真相ではない。怒りよりもまず疲れが先にくるよ」

「厄介なことですね」

 そう言うと饅頭をぱくりと口にした。李岳は小柄の割に意外と健啖で見ている限りに気分はいいが、今この時ばかりは他人ごとのように話す李岳に公孫賛はむっとした。

「ちょっと、もうちょっと何かないのか? 貴方だって当事者なんだぞ」

「さて……ですがすぐに危険が押し寄せるということはないでしょう」

「そうだろうか」

 ただ呑気なばかりではなく推論があるらしく、公孫賛が促すと李岳は卓上に広げられた幽州の地図を指さしながら言った。

「刺史と言いましても兵権はなく征伐のために動員令をかけるということもないでしょう。ただ……中央では昨今の情勢不安を憂慮し刺史ではなく、兵権をもたせた州牧の地位を再び作るという噂もございます。仮に現幽州刺史が牧へと位を上げた場合、保有兵力はどれほどになるか。琢、広陽、代、上谷、漁陽、北平、遼西、玄菟、楽浪、遼東、そして遼東に属する近傍国が幽州の構成ですが、その軍権を一気に手に入れることになります。北平以東は豪族の力が強くどれほど徴兵に協力するかは疑問ですが……とはいえ、即時動員できる数は五万を下りますまい」

 公孫賛の見立てと近い、彼女自身は六万強に上ると考えていた。

「刺史から牧か……その話は私も耳にしたことがあるぞ……その制度に劉虞殿が指名を受けるという話はまだ聞かないが」

「確実でしょう」

 公孫賛は手のうちようがないように思えた。

 張純を裏から操っていたのが本当に劉虞だとしても証拠はない。証言した張純は死んだのだ、しかもその言葉自体耳にしたのはここにいる二人だけ。他人を信用させるにはあまりに証拠として弱い。公孫賛の心配をよそに李岳は引き続き地図を睨みながら琢郡の周囲をなぞっている。

「ただまぁ、直接的な攻撃は心配しなくてよいでしょうね。領郡を攻めるということはその地域の徴兵を難しくするということでもありますし、何より名声を落とします」

「……つまり、もっといやらしい手が来ると」

「そうですね……さしあたり、中山相も兼務せよとの達しがくるなどでしょうか」

「まさか、それはないだろう。私は張純を見殺しにしたんだぞ」

「だからです」

「……反目を煽るのか」

 理解の早い公孫賛に李岳は笑顔を見せた。公孫賛自身、こんなに察しがよい自分に驚くほどだった。おそらく李岳の話し方が機微に富み、面白く、それに引きずられて自分も集中できているのだろうと思った。

「中山郡の領民の受けはよくないでしょうね。ましてや付き従わなくてはならない官僚達は何を思うか。周囲の人々もそうです。領地欲しさに太守を騙し異民族と結託して討ち取ったという風聞が巻き起こりかねません。そして不満をもった者共が上奏するのは……」

「高潔で名高い幽州刺史……いやもうそのときは牧か……くそ! 烏桓を利用しようとしたのはあちらだぞ!」

「『白馬将軍』の威光を貶めることができるのなら手段は問わないでしょう」

「どうしてそんなにまでする! 刺史に恨まれるような覚えはないぞ……!」

「さあ、そこまでは……」

 地図を見れば見るほど公孫賛の不安は増した。李岳の言うとおり州をまたいでの二郡の統治など経験がない。今も琢郡一つの領地経営に自信を持って臨めているとは言いがたい。公孫賛は暗澹とした気分に襲われ思わずため息を吐いた。

「断れば……」

「無責任であると弾劾される」

 八方塞がりじゃないか、と頭を抱える公孫賛に李岳は一抹の不安もないようなあっけらかんとした声で言った。

「ま、大丈夫です」

「なぜだ、なぜそう言い切れるんだ。私はたかが一郡の太守に過ぎない。動員兵力も三千がいいところで、その半分は義勇兵だ! 勝てる見込みなんて」

「ですが烏桓を味方につけられました」

「あ」

 すとんと憑き物が落ちたように公孫賛の中から焦燥が消えた。

 李岳の余裕はまさにそこに起因していたのだ。烏桓族に常日頃から襲撃を繰り返し、今回王族の姫を拉致せしめんとした上に単于の妻君を殺害した不届き者――張純に対する楼班直々の仇討ちを、太鼓判を押して保証をしたのだ。烏桓における悪評は全くの筋違いであったとして楼班も報告するだろう、公孫賛への印象はこれまでとは真逆のものとなるはずだ。

「公孫賛将軍、優勢なのは貴方の方なのです。琢郡の治安はよく、鮮卑の侵入を防ぎ、領民の評価は高い。『白馬将軍』の異名は伊達ではないのです。中央から招聘されて西涼で沸き起こった乱の鎮圧に参軍せよとのお達し、それは天下に勇名を馳せているというお墨付きに他ならないのです。中山郡の維持も最初は苦労するでしょうがすぐに落ち着くはずです。何ほどのことはない、自信をお持ちください」

 まるで目の前を覆っていた曇りが晴れたかのように清涼な気分だった。烏桓の協力があれば誰が襲ってきたとてその後背を突くことができる。領内の治安も相当に改善されるだろう。さらに他郡、他州にまで影響力を伸ばすことができる。中山は人口も少なくない、統一した政策を行えば蔵も潤うだろう。

 また一つ饅頭を口に放り込んで美味しそうに咀嚼している、目の前の男をまじまじと見つめた。これほどの洞察、一商人のものではないだろう。いや、そもそも張純を捕縛した時点で市井の者の業ではない。裁定における意志の主張、張純の背景への推理――不意に公孫賛の肌に粟が生じ、背筋を冷たいものが流れた。

 だが同時に疑問もある。なぜこの男はここまで与してくれるのか、味方してくれたのか、ということだった。

「……どうしてそこまで私を信用してくれるんだ? 烏桓族襲撃の件だって、旗が贋作ではなくただ粗雑なだけかもしれないじゃないか。どうしてああまで言い切れたんだ?」

 饅頭をゆっくりと飲み込み、酒で喉を潤してから李岳は答えた。

「はい。七分三分で公孫賛将軍ではないと思っていましたが、正直断言できませんでした。仁義を尊ぶ方という噂は耳にしますが、風聞など何の当てにもならない時代です」

「……じゃあどうして」

「それは……」

「それは?」

 李岳の返答は公孫賛の意から外れるものだった。

「敬語を使われたでしょう」

「え?」

「初めて会った時ですよ。馬をお渡ししたとき。まず公孫賛将軍が直々に足を運んで来た、そのことに驚きました。商人は卑小なものとして侮られるが常の身分です。だというのに太守様でありながら自ら出迎え、あまつさえ礼を失さぬ敬語を使われるなんて――その瞬間に思いました。ああ、違うなって。そのようなお方が異民族排斥を謳って略奪や虐殺を働くなどとは到底思われなかったのです」

 予想外の賞賛の言葉に公孫賛はそうだったかなと記憶を辿ってみたけれど、その後に起きた事件があまりに衝撃的すぎてすぐには思い出すことが出来なかった。やがてどうにも照れてしまい、いやぁ、とあさっての方向を見ながら頭をかいた。

「そ、そうかな? ……あ、いや……そうですかな?」 

「だから、敬語はよろしいのですよ私ごときに」

「いや、そうもいかないでしょう。ぜひとも懇意にしたいのです。馬は必要だ、まだ私は太守になったばかりで治安もままなりません。それにお世話になりました」

「……フフフ。ご心配はないでしょう公孫賛将軍。一郡の太守など貴方様にとってはただの通過点です」

 安易なはげましや激励には思えず、李岳の言葉から一種の確信が伝わってきた。

「……通過点?」

「ええ。きっともっと大きく飛躍できるお方です。一郡の太守にとどまらず、もっと広い土地、多くの民草を導いていけるお方です。ですから、わたくしのような官位すら持たぬものに汲々となさいますな。武人としての大望をお持ちください。大きく羽ばたくために」

「武人としての大望……」

 不思議だった、一つ一つの言葉が胸に染み渡っていく。李岳の言葉は意欲をかきたてる、歩くべき道を指し示してくれる気がする、その道を迷いなく進めばきっと自分は今以上に成長できるだろう! ――公孫賛の胸に爽やかな風が吹いたかのようだった。

 李岳は最後の饅頭をもったいなさげに手に持ちながら、いたずらを思いついた悪ガキのように、意地の悪い笑顔で付け足した。

「それに……将軍はいささか敬語が下手です。入り乱れてしっちゃかめっちゃかになってます」

 狼狽するは公孫賛である。自覚があっただけにお恥ずかしい。

「っっ! も、もうっ! そういうこと、言うなよっ! ……あっ! じゃあ最初に会った時何だか面白そうに私の顔を見てたのは……!」

「ははは、バレちゃいましたか」

「バレちゃいましたかじゃなーい!」

 照れ隠しの怒りに任せて公孫賛は李岳の手から饅頭を奪い去ると、ああっ、と声を上げる彼を尻目に一息で食べてしまった。もぐもぐと口を動かしながらそっぽを向くが、赤く火照った頬はまだしばらく戻りそうにない。だがそれさえおかしいと李岳は笑って言った。

「――その調子です、堂々と自然体でおられる方がよっぽど魅力的です。戦乱の時代です。これからもっともっと乱れるでしょう。食うか食われるか、蛇蝎の如く付け狙う輩も出てきましょう。周囲の視線を窺うのではなく、公孫賛殿は公孫賛殿らしく振舞われませ」

 李岳の言葉に嘘はないように思える。これだけ確信を持って人を鼓舞できる者がどれほどいるか、誰もが利害を念頭に動いていると思わせる心狭き時代――公孫賛の脳裏には同じ師に教えを仰いだ竹馬の友といえる一人の少女が思い浮かんだ。彼女は元気だろうか。きっとこの男とは気が合うに違いない。お人好しでのん気だが、誰にも譲らぬ固い信念の元に走り続ける少女――

 自分もそうしよう、もう決して迷うまい。公孫賛はそれを新たな信念として胸に刻み込んだ。

「そうか……そうだな! わかった! 私は私らしく生きる! ――改めて、宜しく頼む!」

「こちらこそ、願わくば末永くお付き合い頂けますよう宜しくお願い申しあげまする」

 そうしてしばらく他愛もない話を交わしたあと、李岳は公孫賛の居室を辞して帰っていった。公孫賛は背後の燭台の明かりがかすかにゆらめくのを感じたが、後ろも振り向かずに言った。

「どう思う? 趙子龍」

 趙子龍――趙雲は公孫賛の向かい、先ほどまで李岳が座っていた椅子に腰を下ろすと、断りもせずに杯に酒を注いだ。

 一客将でありながら公孫賛はこの趙雲という女性をよほど信用していた。いつまでも自分の隣に居て欲しい、僚友となってほしいとも思ったが、いつ飄々と姿を消すかもしれない怪しさを趙雲は隠そうともせず、それを押しとどめるのはまさに『雲』にいたずらに手を伸ばすかのような所業に思えた。

「いやはや、只者ではありませんな」

「本当に商人だろうか」

「まさか」

 趙雲の顔には至極愉快と文字で書いてあるかのようだった。

「見当さえ付きませんな。真実を言っているようで巧妙に自分のことは隠している。馬を運んだついでに幽州全域を巻き込むかもしれない陰謀を暴き、烏桓の姫を助け、遺恨を絶つための決闘を演出した……」

「間者とか」

「にしてもお人よしでしょう」

 答えは出ないだろう、あるいは彼は本当のことを言っていたかも知れないのだ。検討の余地も推理の材料もほとんどない。酒を交えての李信達にまつわる二人の会話はやがて尻すぼみとなり、苦笑交じりにお手上げするという形で終わった。あとは飲むばかりだった。深酒になる、そうだろう、だが構わない――二人は心の底から愉快だった。

「ところで、本日のご決断は中々見事でしたな。かっこよかったですぞ」

「お、お前までやめてくれよ……照れるじゃないか」

 フフフ、と趙雲は笑うと、ほろ酔いで染まった頬のまま、立ち上がり公孫賛の手を取った。

「本心にてそう思います。さて伯珪殿。今宵私は貴方に我が真名をお預けしようと思うのですが」

「えっ」

「驚かれることはありますまい。『白馬将軍』の堂々たるところをお目にかかれて今日は良い日でした。是非真名を預けたいと思うほどに、ね」

「子龍……」

「ま、最後まで仕えるかどうかはまだですが」

「そんなことで縛ろうとは思わないさ」

「では」

 二人は厳かに己が魂に記された比類なき誇りの名を交わした。

 真の友が今ここに。

 心からの喜びを胸に、二人は新たに繋がった友情を確かめるように、しずしずとその名を口にし合った。



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第十話 鴈門を挟んで

 呂布は李岳の家から歩いて一刻のところに住んでいた。より一層山奥で森も深く、人が立ち入ることのないようなところだが、周りには動物たちもたくさんおり居心地は良いくらいだった。木で組み上げ皮を貼り合わせた住まいは岳に作ってもらったものだったが、元々夜露を凌ぐことさえ出来れば構わないと思っている呂布は上等に過ぎると始めは戸惑った。

 李岳の近くに住まなかったのは彼らが動物を獲り肉を食うからだった。友達と呼べるほどの生き物たちは李岳の家のそばには近づかず、血の匂いを嫌った。呂布も干し肉などをもらえれば食べる。だが自ら狩りをする気にどうしてもなれず、動物たちに木の実の在り処を聞いてそれを食べたり、川の魚を獲っては食べた。あとは山羊の乳などを好んだ。だが常に腹を空かしていたので、よく岳に穀を引いて蒸したものなどを分けてもらった。

 呂布は食欲旺盛健啖極まり、岳の持ってきた食べ物をぺろりといつも平らげてしまったが、特に時折岳の作る独特な香りの黄色い鍋が気に入っていた。三日三晩毎食その鍋でも良いと思えるほどであったが、普段でさえ乏しい食料を李家から分けてもらっているので、生まれて始めて呂布は遠慮という感情にとらわれてあまりねだることが出来なかった。

 幸い山の幸、川の幸が豊かで、友人とした動物たちは思い思いに食料を求め、食べ、暮らすことができていた。自然の掟は厳しく、時に食べられてしまう友達もいたが――呂布は叶う限り友を守り、友を襲おうとした動物とも友になろうと努めていた。矛盾する行いであることはぼんやりとはいえ理解していたが、呂布にはそうする他なく、李岳から分けてもらった自分のための食料まで与えてしまうこともしばしばだった。

 岳の家に居る山羊の点を恋は大層気に入っていた。おとなしく気を遣う質だがおしゃべりで、李岳や彼の父の李弁の話をよく聞かせてくれた。点はまだ自分が乳を出せないことを悔しく思っており、早くそうなるよう毎日悩んでは恋に方策を尋ねるも、恋もまたそれを知りたいと思っていると返しては一人と一匹でよく悩んだ。

 ある時から岳は旅へと出た。恋と二人で掘った塩を売りに行くのだと言って、多くの馬たちと一緒に東へ向かった。恋は馬たちと旅に出ることを羨ましく思い、自分も一緒に連れていけと言ったがあえなく袖にされた。

 

 ――何が起こるかわからないから。

 

 と申し開きをしていたが、とにかく呂布は不愉快になった。なので呂布は岳がいない間に目一杯、点と遊ぼうと毎日李岳の家へと通った。李岳が戻れどそっぽを向いて自分との仲の良さを見せつけてやろうという魂胆だった。計画は順調である。

 李岳には弁という父がおり、ほとんど話しもしなかったが呂布は彼が嫌いではなかった。呂布はすぐに腹が減る。たくさん食べたいと思っても李岳がいないので耐えていたのだが、弁が見兼ねたように酪(作者注:ヨーグルトに類する飲み物)を分けてくれたので、呂布は弁が良い人だと思った。

 呂布ははじめ弁と岳があまり似ていないと思ったが、ふとした拍子に同じ仕草を見せることがあり、それを見つける度に妙に面映い気分になった。頷く様子に食事の仕草、顔立ちは特に鼻が似ている。弁は寡黙で岳はおしゃべりだったが、呂布には些細な違いにしか思えなかった。弁と話す日々が続いた。話すと言っても口やかましく言葉を交わすことではなく、わずかな仕草や表情の移り変わり、いやただ同じ時を過ごすだけで何を考えているのかはお互いに大抵わかった。そういうところも岳とそっくりであった。

 一方弁も呂布のことを気に入った。一目で生半ではない武術の腕前を有していると見ぬいたが、同時に心優しい性根をしているとも思った。呂布の周りにはいつも動物たちがおり、逃げない。動物を友とし、同情のため狩りも満足に出来ずいつも腹を空かせていたが、優しさという美徳の前においては些細な欠点など霞んで見えない。点もよく懐いている。岳の嫁になればよい、と弁は思ったが口に出すことはなかった。真名を桂という女との間に岳をもうけたが、結局添い遂げることもなく別々に暮らしている己に何を言う資格もないと思ったからだった。

 岳が旅に出て十日も経った頃か、ある日珍しく弁は酒を飲んでいた。呂布はこの頃毎日そうしていたように夕飯を共にしていたが、弁に献を差し出されそのまま酌を共にした。その晩、弁は饒舌であった。弁は鍛冶師である。鉄を熱し打ち鍛える技の妙を呂布に語って聞かせたが、彼女にはよくわからなかったのが本当のところだ。呂布は一向に酔わなかったが、弁は四杯五杯のあたりですっかり酔ってしまいふとした拍子で倒れこんでしまった。

 呂布は驚き体を支えようとしたが、そのとき初めて弁の異変に気づいた。呂布は思わず声に出して言った。

「……目が」

 弁は首を振って、恥ずかしくてたまらないという風に苦笑いを浮かべた。

 目がぼやけると感じたのはいつからか、すでに三年は経ったように思える。いつでも全く盲いてしまうというわけではなく、見えにくいというだけで済むのがほとんどであったが、目の白濁は進みゆく一方で時に全く闇に包まれてしまうことがある。弁の異変は岳にすぐに気づかれてしまい、気づいたその日から彼が家事の一切を担うようになった。狩り、獲物の絞めからなる食料の調達、生活における細々としたもの……弁の打ち鍛えた武器も全て岳が運んでは一つずつ売って暮らしの足しにした。今回の旅の前にも十分な程の食料をわかりやすい場所に置いていくという用意周到ぶりだった。弁は一時も傍らから離さない馴染みの杖を手にして外に出た。

 弁にできることは武器を打ち鍛えることだけだった。家の裏の竈に火をくべ、その熱を手のひらで持って測る。鉄の熱さも柔らかさも目が見えずとも問題などなかった。鎚で叩いた感触により仕上がりも重々理解できた。

 そのような弁の状態をわかった呂布は岳に怒った。放っておいて旅に出るなどどういうことかと内心に怒りを覚えたが、それを先回りするように弁は答えた。

「私のためだ」

 李岳はいつでも町に行こうと弁に言っていた。弁には岳の考えがわからないことがよくあったが、その言葉の裏に自分への配慮があることは容易く理解できた。冬は手がかじかみ、雪がつもれば身動きさえ取ることができかねなくなる。長城の北は生きるには過酷だ。目を病んでからは一層岳は頑なに、町へ行こう、町で住もうと言ったが、弁は常に首を振り続けた。

 この度李岳が旅に出た理由も弁は聞き伝えられていたし、岳の目的というのもわかっていた。戦乱を避けること、人の多い町で生き何不自由ない暮らしを送ること――弁はそれをありがたいと思ったが、同時に自分がこの地を移り住む気がただの一つもなく、それを岳に十分に伝えられないままでいることを心苦しく思っていた。そして親孝行に気を使わせてばかりの己のことを不甲斐ないとも感じていた。

 

 ――普段李岳にすら言わない自らの気持ちを、酒精のせいにして弁は訥々と語った。

 

 弁の父は尚と言い、やはりこの地に住んでいた。尚は自らが漢人であることを強く認識し、匈奴から離れ中原へ戻ろうと常々企てていた。それは悪しきことでも裏切りでもないのだが、時に匈奴と漢とでいくつもの小競り合いが頻発していた時期であることが災いした。尚は漢の町に入ることすら叶わず、匈奴の者からも阻害され、失意のうちに死んだ。母もその後、後を追うように天に召された。

 それからというもの自らの出自を意識しない日はない。だが弁には名を馳せた英雄、飛将軍李広よりも、李陵という人が常に脳裏にあった。戦に敗れ囚われて、匈奴か漢人であるかを悩み続け、そして住む地に根付くことを選んだ男――弁には彼の気持ちが痛いほどわかった。

 

 ――漢人でも匈奴でもない。どちらでもないこと。それが弁にとっての誰かであることとなった。だが、果たしてその生き様を岳にも押し付けてよいのだろうか、と。岳と己は全く違う人間と言えた、親子は似て非なるものだ、己が李陵であるのなら、あるいは岳は李広の先祖帰りではないだろうか――

 

 呂布は決して饒舌ではない弁の語りに、黙って耳を傾けていた。人の話を聞くことは嫌いではない。弁は普段何も言わない。その人がこうして気持ちを言う。呂布にはわからないことも多くあったが、何度も頷いてはしきりに続きを急かし、弁もその相槌が心地よくついつい話を弾ませた。

 どれほど話したか、かめの酒もおおよそ干してしまった頃、弁は呂布を外に誘った。春を迎え夜でも冷え切ることはなくなったが、二人の息は宙で白く濁り鼻を濡らした。山の斜面を行くと木立ちを抜けた先に眩いばかりの満月が見えた。真っ白い真円の月が見渡す限りの平原を青白く照らしている。一斉に産声を上げるように、大地では新芽が顔を出し始めている。夜に水を吸い、朝には吐くだろう。ここしばらくは朝には濃い霧があたりを覆っていた。

 弁はさらに歩き続け、呂布を切り立った崖の先に誘った。目の不自由な弁があるいは転落するのではないかと呂布は心配したが、不思議なことに弁は一向に躊躇することなく軽快に道を進んだ。弁が連れてきたのは山の南端であり、遠くには見上げんばかりの山々がその荒れた地肌を晒して月の光を反射している。

 その淵に立ち、弁はしばらく黙っていた。

「なにを見てる?」

 呂布の言葉にも答えることなく弁は立ち尽くしていたが、やがて腕を伸ばして真っ直ぐ南を指さした。その方向には全てを避け、拒絶してしまうような長城があり、切り立った崖に挟まれた雁門山が見えた。両側からせり上がったような山峰が、わずかに許したような隘路を残して屹立している。二羽の雁が翼を並べて羽ばたいているかのように見えるその様――麓には雁門関という関所があり、長城のうち最も手荒く漢と北方を分け隔てた要衝の一つであった。

 弁は黙って雁門を見ていた。厳かであった。弁は一向に説明することも何かを促すこともせずにただ立ち尽くしており、その様子に呂布も口を挟むことが出来なかった。ふと弁の顔を見た恋は、なぜか切なさに襲われ、胸が苦しくなり、彼の顔を見ることをやめて背を向けた。深く刻まれたしわに言い知れぬ心が滲んでいた。どうしてこんなにも寂しくなるのだろうと思ったが、呂布には言葉が思い浮かばず、ただ東の方へ向き直るばかりだった。

 この先には岳がいる。岳は東へ向かったので、きっと今は同じ月を見上げているだろう。全てを照らすような淡く鈍い青白さ――呂布の胸に巣食った切なさが、にわかに和らぎ温かいものへと変わっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女は并州の生まれである。

 代々しがない武官の家系で父母共早くに亡くしたが、民を守るため賊との戦に二人して赴き誇り高く戦死したと祖父に言われた。では己がその敵を取ろうと七つの時に思い込み、その頃から武官を志した。祖父は女を戦場には出さぬよう着物や楽器をあてがい、どうか平凡に嫁にでも行ってくれればこれ以上の幸せはないと常々言い聞かせていたが、その願いを天邪鬼に捉えたかのように女は暴れまわった。

 寒門の生まれであることや、親の早世を馬鹿にする者はどんな名士の子であれども容赦無く叩きのめした。幼い頃から膂力に恵まれ対等の喧嘩では一度も負けたことがなく、多対一であっても半数は蹴散らしてしまう程の力自慢、次第に暴れん坊の男どもを束ねては盗んだ馬で平原を駆けまわり周囲から遠ざけられるようになった。

 匈奴と付き合うことを好み、よく胡服を着ては弓矢の腕を競った。馬の呼吸を読むのが達者で、立射では負けることはあれど騎射では頭角を現した。どのような荒くれのじゃじゃ馬でもすぐに乗りこなすことができ「私は将軍になる」と言って憚らなかったが、十七を超えたあたりから笑うものは誰もいなくなった。

 しかしある時、旅の武芸者に戦いを挑み散々に叩き伏せられることがあった。それ以来女は暴れることをやめ、わずかに伝えられた剣の技を磨くため山にこもった。月に一度だけ祖父の元に戻っては孝行をしたが、その祖父が間もなく流行り病でこの世を去ると女は家を売り払いそれきり町に戻ることをやめた。

 山ごもりの最中、とある匈奴の男と知り合いになった。見た目は粗末な胡服でありながら話を聞くだに古に名を上げた武者の末裔だという。だが女にはどうでもよく鼻を鳴らすだけだったので、男も女を好いた。女は漢の町で暮らそうと言うと、男は匈奴の村で暮らすと首を振った。月に一度、どちらかが長城を越えて逢瀬をすることが自然と定められた。

 二十を過ぎた辺りから女はどのような武芸者にも負けることがなくなった。そして晋陽の町に出向き、私より強いものはいるかと州軍の営所の前で言い放った。

 偶然居合わせた宋果(ソウカ)という男が配下の兵に向かって、それでは誰か相手をしてみよとふれた。女が五人までも打ち倒したところで、よし今すぐ召し抱えようと女に告げた。女は自分の位はどうなるかと聞くと、宋果は五人倒したので小隊長だと言った。すると女は、ここの者共全てを叩きのめすので将軍にしろと言った。ならば続けてみろと刺史は言ったが、二十人打ち倒したところでとうとう将軍にすると喝采を挙げた。宋果は時の并州刺史であったが、すぐに女に一千の兵の指揮を任せた。

 やがて県の令になり自らの兵を養うようになると、よく暴れる賊や地を侵す外敵の討伐命令を受けるようになった。引き連れた部隊は負け知らずで女は常にその先頭を駆けた。黄巾をまとった賊を相手に南を行けば、日の内に郡をまたいで東の鮮卑を討ちもした。

 女はやがていくつもの大きな戦にも出征するようになったが、どのような敵と対する時でも先頭を駆け、時に大将首を挙げた。その功を以っていよいよ并州刺史へと推挙されたが、政は能ある官吏に全て任せ依然として武辺者で在り続けた。

 并州は北に匈奴と国境を分かつ最前線を抱えながらも南は司隷の守りもつとめなければならない要害として、本来軍権を持たない刺史であるにも関わらず動員令を発することを許されていた。

 女は匈奴と戦をしたが、されど時折ふらりと長城を越えては匈奴の男と会っていた。月に一度の約束は守れないことが多く、だがその度に切なさは募った。付き合いはもう数年に及んでいたが子の気配は一向になく、望みはないと諦めはじめていたが、冬の最も長い夜に一筋の流星をその身に受けるととうとう身篭った。兆しが訪れ臨月が近づいても女は顔色一つ変えることなく戦場にも訪れたが、幅のある甲冑のために誰もそのことには気づかなかった。

 やがて生まれた子は小さく軽かったが元気な男ですくすくと育った。女は軍務の傍らに子を育てる自信がなく、匈奴の村人と交流の深い男の方が適任だろうと考えた。多忙を極める刺史の身の上、暇が出来れば会いに行ったがその回数も年に何度かというところで、会うたび会うたび子は確かに大きくなっており、その都度女は面映くもあり寂しくもあった。

 匈奴の者として育つ子に、時には匈奴の者さえ討つ我が身を知られたくないと思い、連れ合いの男と相談した。子には二十を迎えるまで母の身分を伏せようと取り決めた。また同時に男の血筋、流れ星のことなども元服を待とうと決めた。

 子が齢を重ねるにつれ、女は母として接することが出来なかったことを恥じ、せめて何か伝えたいとして剣を習わせた。身を守る術を仕込むが親の役目と割り切り修行は苛烈を極めたが、子は真面目で飲み込みもよく、足繁く通えぬ母の教えを余すことなく身につけていった。

 剣に関してもう教えることがなくなり始めた頃、中華の地に動乱の気配が色濃く漂い始めた。軍務につきっきりになり頻繁に尋ねることができなくなったまま数年が経ち今に至る。女の武名は動乱を増すことに人々の口の端に上り、とうとう中央より招聘されることが内々に定められた。

 

 ――女の姓名は丁原(テイゲン)。字を建陽(ケンヨウ)といった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 春の日の夕暮れ、丁原は刺史としての最低限の裁可を終えると、楼台立ち並ぶ晋陽の城壁に登った。西日の照りが顔の左側を染める。三方を岩山に囲まれた町は、古来は国の都として栄えた。彼方に雄大な汾河の流れが見える。時は雄大である。

 しばらく眺めを見ていた。丁原の目は近くになく、遠く、山を越えてさらに遠くを見るかのように細められていた。まるで誰かを見るように、誰かを探し求めるかのように。晋陽は太原郡にあり国境までは五十里を超える。されども丁原の目はさらにその垣根を越えて、北を見据えていた。頭の中には言葉になることすらない漠々とした焦燥が募り、心を曇らせる。どれほどそうしていたか、日が没し平原が闇に没し始めた頃、丁原に声をかけるものがいた。

「何見てますん?」

 丁原は一息大きなため息を吐くと、振り返り自らの部下に向き直った。無粋を働かれたということで不機嫌であったが、声をかけてきた者はそのようなこと一向に気にする気配もなかった。

「ぼんやりしてはりましたな」

「覗き見か?」

「いやいやいや! そんな凄まんとってください! 別に普通に居合わせただけですやんか!」

「……そういうことにしといてやろう。いつ戻った」

「いまさっきっすわ」

 紫がかった長髪をざっくりとまとめ上げ、さらしに上着を肩から羽織るだけの傾いた服装、鉄篭手に偃月刀を担いだ女は戦帰りの疲れを微塵も見せずに笑っている。

 

 ――張遼という名の武芸者で、馬の扱いも武器のさばきも目を見張るものがあり、丁原はすぐに部隊を率いる長として取り立てた。平時においてはのらりくらりと昼行灯ではあるが、一度戦場に立てば機を見るに敏の素質甚だしく、自らの得物である大刀を小脇に携え敵の急所を見極め食い破るのはひと度ではなかった。

 

 一個の武芸者としてもその速度においては丁原を凌駕し、いつか全てにおいて上回りいくだろうと目算している。ただの一個人に置いておくのは惜しく、先日の西涼における動乱には援兵の要望に名代として赴かせ、董卓麾下一個師団の元で戦果を挙げて帰ってきた。

「董卓はどうだった」

「……なーんか、予想と違っとった。とても涼州でのし上がった豪族の雄とは思えへんかったなあ。戦場なんかちっとも似合わへんちーっちゃい女の子やったもん」

 丁原は董卓の姿を思い浮かべた。何を間違って戦場に立っているのか、と思える程に華奢で幼い。心細さを隠し通せないような脆さもあるが、弱きを見捨てることも出来ない気丈さも併せ持つ。その健気さがどうにも捨ておけず、お節介ではあるが丁原は助太刀したく思い、張遼を向かわせた。

「危ないところもありましたけども、まぁなんつーか、烏合の衆の悲しいところっつーんかなあ。終わってみればあっけないもんでしたわ。あと、押し通ろうとしたのに味方が邪魔で邪魔で……結局誰とも一騎打ちでけへんかった。くっそ! もったいない……」

「馬の一族も出て来なかったようだしな」

「そう! 馬超ともやりおうてみたかった!」

「『錦馬超』か。馬家に伝わる一子相伝の十文字槍……自在に操ると聞く」

「ま、またいつか機会があるはず」

 そう言って張遼は丁原の隣に立つと、同じように目を細めて北を見た。

「私の生まれもあっちです」

 張遼の声は不意に切ないものへと変わっていた。

「どこだ」

「雁門のすぐ近くですわ。ひどいド田舎でうんざりしてましたけど、今はちょっとくらい……うん。懐かしいかも」

 雁門の生まれとは初めて聞いた。ふとした拍子に情けないことを尋ねてしまいそうになったが、丁原は土壇場で押しとどまった。まさか部下に自分の連れ合いの話など、出来るわけがない。

「何か悩み事で」

「どうしてそう思う」

「人って誰でも、どうしようもないとき……故郷を見てまいますやん。まぁウチかてそういう時あるし」

「慰めているつもりか?」

「……にゃはは!」

 無骨なところばかり見せるが、意外に繊細な一面もあるのかもしれない。丁原と張遼は親と娘ほどの歳が離れている。仮に娘がおればこのように育ったかもしれない――そのとき初めて、丁原は自らの胸の内に巣食った感情が、寂寥であることを知った。

 

 ――いっそ雁になれたらいつでも羽ばたき会いにいけるというのに。

 

 丁原は身の内から生じた弱さを恥じた。二人でさんざ話し合い、とうに生き方は決めた。誰かを顧みることのないまま生きることになれど、決めたことなのだ――と自分に言い聞かせ、振り払うように胸にしまっていた一枚の書状を出した。

「不穏な気配が漂っている。これを見てみろ」

 目を走らせた張遼は驚きに声を上げた。

「これは……! 勅任の書!」

「……執金吾になれとのことだ」

 執金吾とは都――皇帝の龍体を守護するための近衛『禁軍』を統帥し、軍務における独立した命令権を持ち、徴兵を募るための動員令を独自に発することが許された高官であった。装備も充実、訓練を怠らぬ常備軍として執金吾以下の軍勢は中華最強として名高かった。

「うわー、大出世ですやん。夢の都住まい!」

「代わってやろうか?」

 張遼は束の間考えたあと、口をへの字に曲げて首を振った。

「……やっぱ遠慮しときます。宮仕えなんてできっこない」

「私もだ」

 二人の笑い声が城壁の一角で響いた。大草原を舞台に馬を駆る方がどれほど楽しく気兼ねないだろう。

 ひとしきり笑ったあと、丁原は声音を正して続けた。

「だが話はそう単純でもない……最近、出撃が増えているとは思わんか」

「確かに増えてますけど……」

「幽州では鮮卑(センピ)が。西では(キョウ)族が侵犯を繰り返している。黄巾賊は鎮圧が進めども一向に減らんばかりか青州に大集結を図っている。群雄気取りの者共が戦国時代を真似て動乱に興じるのもそう遠くはない。しかも……」

 さらにもう一枚の紙を張遼に見せた。彼女はあからさまに怪訝な表情を見せた。

「ハァ!? なんやこれ?」

「書いてある通りだ」

「……『匈奴の軍勢を引き入れる』て」

 朝廷からの正式な書類であることを示す印字の入った文書――丁原へは事後報告として通達が届いたまでで、肝心要の要請書はとうに匈奴の地へたどり着いているだろう。丁原の口調は自然苦々しいものとなった。

「黄巾の乱が収まらんから匈奴の兵を引き入れて使役する。去年もその前も匈奴は大人しくしていたが、今年も同じようになるとは思えん。そして時期を見計らったかのように私を并州から引き剥がして都に押しこもうとしている」

「……策略ってこと?」

「わからん。だが落ち着かん」

 策略であるとして、自分に一体何が出来るのか。仄暗い朝廷の闇の中、跳梁跋扈する陰謀の真意を一武官である自分にわかるわけがない。ただ一振りの剣として戦場を駆け回る他に一体何ができるのだろう――丁原は去来した不安を取り除く方法が見つからず、もどかしさに呻いた。

(枝鶴……冬至……)

 父と母は賊に殺され、志した仇討ちもかなったかどうかわからない。ただ一つこれしかないと打ち込んだ武の道。愛した男の側に駆け寄ることもできず、粗略なばかりで子にも厳しく当たることしか出来なかったが、それでもいま隣に二人がいてくれればどれほど簡単に迷いを明断できたことだろう。

 それは叶わぬ。だから今回も、今までそうしてきたように迷いは振り払う術は――

「張文遠。表へ出ろ。久しぶりに揉んでやる」

 その言葉に、張遼は満面の笑みを浮かべて飛び跳ねた。

「あはは! いつまでも揉まれっぱなしとちゃいまっせ。そろそろ揉み返したりますわ」

「それは楽しみだ」

 振り返った晋陽の町には明かりが灯り、煌々と夜の営みを知らせる。練兵場、軍営はいつでも緊急出動が可能なようにいくつもの常夜燈を設けてある。今宵は夜っぴて剣戟に興じよう。いざという時、決して遅れを取らないように。



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第十一話 子龍の旅

 西涼で巻き起こった韓遂(カンスイ)を首魁とする羌族の反乱は、車騎将軍を拝命した司空・張温を総大将とした十万を超える朝廷軍の攻撃により一定の鎮圧が見られた。慣れぬ土地で糧道がしばしば断たれ、朝廷軍は一時混乱の後に敗退するかと思われたが、破虜将軍を任じられていた董卓の活躍、および『白馬将軍』公孫賛の武勇により西方へ押し込むことを成した。

 公孫賛の名は最も激戦となった『楡中の戦い』において轟いた。朝廷軍は長征の不自由さに着目した敵の策にはまり、糧道を完全に断たれた上に待ち伏せに遭いあわや全滅の危機かと思われたが、公孫賛は後背を扼さんとした反乱軍に対して馬を用いた迅速な機動力でその出鼻を叩き潰した。

 総勢千あまりの『白馬義従』を自ら率いて横合いから急襲、猛烈な逆撃により朝廷軍の危難を救った。退路すら一顧だにしない騎馬隊の突撃は馬の扱いに長けた涼州兵さえ息を呑むほどの凄まじさで、反乱軍は決定的な好機を逃して後退を余儀なくされた。さらには敵将・李文侯(リブンコウ)に重傷を負わせた戦果はまさに勇名と言ってよく、公孫賛は戦後の洛陽における評価の場で勲功第二位を得た。

 勲功第一位の董卓は将軍位を獲得したまま中央に招聘された。公孫賛も一挙に中央へと進出するかと思われたが、それを固辞し、代わりに『護烏桓校尉』の位を任されることとなった。対烏桓の防衛政策を一手に任されることを表すその地位は秩石年間二千石の堂々たるもので、その影響力は当然ながら直轄地である琢郡だけでは足らず、代、上谷の両郡も支配下に治めることとなった。その際以前に兼任していた中山郡を返上したが、それを以って人々は清廉潔白であり慎ましく為人も見事と喝采を上げた。後任の中山郡太守は領内の治安の高さに舌を巻いたという。

 公孫賛はこれにて幽州の西半分を完全に自領として切り取りその影響力を行使することになったが、北平以東こそが公孫一族の本拠地であることを考えると、河北勢力としては幽州牧劉虞のそれに匹敵、あるいは凌駕し得るとして世人は『北方の雄』として注目した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行くのか」

 背中からかけられた声に、趙雲は不覚を取ったと苦笑した。

「これは……私も修行が足らないな」

「そろそろかと思ったんだ」

「お見事、白蓮殿」

 趙雲は苦笑を浮かべて振り返った。朝靄の色濃い夜明け前、東の空に朝日が滲み始めている。趙雲はいつも身に纏っている白い着流しのような軽装に、一心同体とも言える直刀槍の『龍牙』を携えそこに一抱えの荷物を括りつけただけの出で立ちで西の門を出ようとしていた。

「戦場を共にしたんだ。さよならの言葉くらいあっても罰は当たらないと思うけどな」

 笑い混じりの呆れ顔で公孫賛は肩をすくめた。

 司空張温の召集令により、公孫賛は約二千の兵をまとめて西涼へと向かった。千の徒に千の馬で、寡兵とはいえ他に類を見ない騎馬の比率にほとんどの将軍は「戦を知らぬ北の田舎者め」と肩をいからせ嘲笑ったが、孫堅や陶謙、董卓配下の賈駆といった目端の利くものはその英断に内心唸っていた。

 戦いは糧道を断とうとする西涼兵十万と、それを守り押し包もうとするやはり十万からなる朝廷軍六個師団との間で激戦が繰り返された。趙雲も公孫賛麾下として参軍し、次席指揮官として位を得ていた。朝廷軍は威を着て嵩に懸かって攻めるには強かったが、一旦背後を取られると脆く、敵将韓遂の巧みな用兵によって鎮圧は手間取っていた。唯一董卓軍だけが戦果をあげていたが、伝え聞くところによると配下の賈駆という参謀の智謀、さらに并州刺史からの援軍として幕僚に加わった張遼という武者の突撃力を頼みにするところ大だったという。

 一方、公孫賛軍の配された張温率いる中央一個師団は楡中において敵の陽動にからめとられ、とうとう背後からの急襲を許した。事前の軍議において公孫賛は軽々な行動は糧道の寸断に遭うと諫言していたが、功を焦った張温は聞く耳を持たなかった。勝手知ったる西涼の地とばかりに、朝廷軍を巧妙に隘路にはめ込んだ敵将李文侯は勝利の確信にせせら笑っていたことだろう。

 それを阻んだのは公孫賛軍騎馬一千であった。趙雲と相談の上、独断専行ではあったが敵の挟撃を危険視し一つ上の丘から進軍していたのであるが、地から湧いたような敵軍の出現に公孫賛はためらうことなく突撃命令を出した。

 奇襲の成功を確信した軍ほど奇襲には弱い。その証左のように敵軍は一千の突撃に大混乱に陥り、不審を察知した朝廷軍が取って返したことにより攻防は一進一退となった。

 敵軍を切り裂いた功の多くが、趙雲の力に依るものと公孫賛は思っていた。

 借り受けた白馬にまたがり、雷光のごとき槍捌きで血路を切り開き、一千の突撃をまるで三千にも四千にも思わせる程の威力に昇華させたのである。

 だが戦後の評定の場で、趙雲はらしくない神妙な顔で控えており、結果として公孫賛の名は多くに知れ渡ったが、趙雲の名はその功に比してささやかと言わざるを得ない評判しか獲得しなかった。

 そして今また、趙雲は白蓮の元を挨拶の一つもなく辞そうとしている。

「置き手紙は書きましたぞ。ただ湿っぽいのは苦手でしてな」

「……どうしても行くのか」

 公孫賛は慰留の言葉を喉元までせり上がらせていた。戦の後、公孫賛の位は上がった。治めるべき領地も増えた。人手は足りず、ましてや『常山の子龍』の力があればどれほど助かることだろう。望むだけの地位も禄も与えることが今ならできる――だが照れ隠しのように頬をかく趙雲を見て、公孫賛は諦めた。この人を物品で押しとどめようなどと浅はかにすぎるのだ。公孫賛は未練を手放すことにした。

「……ふん! あーもー! わかったよ! ただ、餞別もないまま送り出してはこの『白馬将軍』の名がすたる」

 涼州における趙雲の槍に、十分に報いることが出来たと思ってはいない。だが趙雲に一体何を与えることができるのか――『白馬将軍』の名前を広めてくれたのだ、もらっていただくならその分け前以外何があるだろう。

「これは……」

 公孫賛が物陰から曳いてきたのは涼州征伐において趙雲が跨っていた白馬であった。

 小柄な馬体でありながらすらりとした長い首、足。李岳が運んできた馬の中から最も俊敏で長く走り頭のよい馬だった。趙雲は出征の際に公孫賛からその白馬を借り受けたが、密かに『白龍』と名づけ愛していたことを公孫賛は知っていた。白龍は我が主人を取り戻したとばかりに鼻先を趙雲にこすりつけ、趙雲もまたくすぐったそうにした。

「白龍……」

「連れてってくれ。二人の仲を裂くのは忍びない」

「感謝!」

 趙雲はひらりと白龍にまたがると、いとおしそうにその首を何度も撫でた。

「行く先は?」

「さて。どうしてもある男の正体が気になってしまって」

「ある男?」

「この白龍を届けた、小柄な商人」

 途端、公孫賛の脳裏に鮮烈に一人の男の姿が思い浮かんだ。見た目は取り立てて特徴のない、強いて言えば小柄であることとちぢれたくせっ毛が印象に残る程度。だというのに幽州をあわや大混乱に陥れかねなかった陰謀を未然に阻止し、鮮やかな決着をもたらした恩人でもあった。

「李岳……仕える気なのか?」

「いや。ただ見極めてみたいと、見極めなければならぬと思ったのですよ」

「勘ってやつ?」

「そんなもの」

「あては」

「常山一帯を支配する黒山賊の頭目、張燕とよしみがあると言っていたので」

「そっか。寂しくなるな」

「……白蓮殿の元で客将として居られてよかった。最初は路銀目当てだったのが嘘のようだ」

「……くっ、くくくく」

 耐えられなくなった公孫賛が吹き出し、趙雲もその笑いに釣られるように腹を抱えた。いや、やはり別れはこうでなければいかん――ひとしきり笑ったあと、趙雲は手を上げた。白龍が軽快に馬蹄を響かせた。

「達者で! 星!」

 公孫賛の声が趙雲の背中を暖かく押した。

 未練がないというと嘘になるが趙雲は行かねばならぬという何か言い知れぬ衝動に突き動かされていた。

 恩賞も階位も足かせになるならいらない。自らの『雲』が本当に落ち着く場所を見つけたいだけ。この槍を捧げるにふさわしい主を。李岳という男がその主にふさわしいかどうかはわからないが、あの夜からどこか脳裏に引っかかり続けている。このもどかしさを解きほぐせぬままどこかに落ち着くことはできそうもない――趙雲は納得のために旅立った。

 白龍は主の悩みを聞き及んだかのように、それを吹っ切るように疾駆する。背後の町が霞み行くが、趙雲は決して振り返ることなく一路山を目指した。白龍はまさに翔ぶが如く走り、初夏の雨の中でも気持ち良いとばかりに飛んだ。龍と雲、これ以上の相性はあるまいと趙雲は愉快極まりなかった。旅はそのことごとくが軽快に進み、道中村や町に厄介になりながら西へ西へ駆けた。どの村も馴染みの者がおり、特に兵卒の詰める屯所などでは豪勢にすぎる待遇を受けた。

 数日後、趙雲は幽州を脱しいよいよ并州常山郡へさしかかろうとしていた。懐かしき生誕の地、真定県――生まれ故郷を貫くのは膨大な雨を集めて流れる呼沱河である。その勢い急にして激。趙雲の記憶の中のそれと全く変わらずに雄大であった。白龍は流れの中に身を浸すのを好むようで、休憩の折には喜んで飛沫をあげていた。本当にいつか龍となって空に飛び立っていくのではないかと趙雲は笑った。

(さて、何年前だったかな……)

 趙雲は『飛燕』との出会いを反芻していた。 

 何年前か、趙雲の中でも最早定かではないが、槍をもって世に出ようと志したばかりの頃。はびこり始めた野盗や賊を片端から倒し、貫き、弱きを守る者として四方八方を駆け回っていた。幼く直情だったと今では笑い話だが、必ず最強の武人となり世を変えて見せるのだ、と日々気炎を吐いていた。信念だけはいまだ変わってはいない。

 そんな若かりし趙雲にとって最も許しがたかったのは、当時常山郡を荒らしまわっていた名高き盗賊、その名も『黒山賊』である。その郎党の数は数万に及び、あこぎな外道働きや火付けはしなくとも、民が収めた税を官よりさらうは趙雲の目には同じ穴の狢としか思えず、単身黒山へ殴りこんだのである。並み居る敵を叩き伏せ、野山を疾駆し趙雲はとうとう単身にて黒山の大本営とも言える町に到達した。周囲を囲む数千の賊――だが彼らは数をたのんで趙雲に跳びかかろうとはせず『飛燕』――黒山賊の頭目である張燕との一騎打ちを演じることとなった。趙雲は張燕が同じ真定県の生まれ育ちということもあり、なおさらその所業が許しがたく必ずや討ち果たして見せんと意気込んでいた。

 

 ――果たしてどれほどの数の火花が迸ったか。

 

 流れるような双刀の舞いは攻めに守りに柔軟で、繚乱の如く乱れ打った趙雲の豪槍を余すことなくいなし続けた。まさに燕が如く軽やかに飛び、幾度と無く趙雲の首元に刃は迫った――『龍牙』の胴で斬撃を幾度弾いたか見当もつかぬ。趙雲も度重なる連突きによりあわや張燕の心臓を貫き通すかと思われたのもひとたびではない。双方一歩も引かず、打ち、突き、斬り合い……とうとう決闘は二刻を超えて、固唾を飲んで見守っていた周囲の舌さえ乾ききった。

 決闘の記憶はおぼろげだった。手のしびれ、首筋の悪寒、死の恐怖、勝利への渇望――その全てがないまぜとなって、ただの印象として残っているばかり。気づいた時には肩を抱いて酒を飲み、夜っぴて騒ぎ通したのだから全く前後不覚である。

(あの頃は未熟な故に遅れを取りかねなかったが……)

 愉快ではあったが、勝てなかったことが趙雲の胸にさらなる飢えを与えた。強くなりたい――黒山への襲撃の後、趙雲はさらに苛烈な修行を自らに課した。常山を問わず諸国放浪、強さを求め、険しきを求め……やがて気づいた頃には『常山の趙子龍』とあだ名された。

(さて、今は……)

 水しぶきを散らして白龍が戻ってくる。趙雲はその豊かなたてがみを撫でると、彼方の山を目指して馬上に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 折角よく眠っていたところを叩き起こされ張燕は機嫌が悪かった。昨日の酒も残っているので昼を過ぎるまで横になっていたかったというのに、どこのどいつが安眠を妨げたかと眉間には深刻なしわが寄っていた。官軍が襲ってくるようなわけでもあるまい、間者は全土に散ってわずかな気配さえ漏らさず届く。急襲されるなどありえない。またぞろ馬鹿が横恋慕して取っ組み合いでも始めたか――寝乱れた髪を乱雑にかき上げると、張燕は得物を携え寝所を出た。寝間着のままで胸元は大きくはだけ足も露わだが、着替えた所で似たような装いでしかなく刺繍が豪奢か無地かといった違いしかない。

 表へ出ると数千もの郎党が地を踏み鳴らし喝采をあげ、喧騒は耳を叩くほどの大きさ。だが不思議なことに降って湧いたお祭り騒ぎのような明るいものだった。近くにいた者の頭を小突くと、男は早くいかせてくれとばかりに慌てて叫んだ。

 

 ――やつが来たんでさ! 趙子龍のやつが!

 

「早く言わんかこのばっかども!」

 ついでのようにもう一発頭を小突いて、張燕は人垣に向かって走りだした。

(やつがきた! また殴りこんで来やがった!)

 朝っぱらだというのに既に酒が出まわり歌に賭けにと宴もたけなわ、出遅れたと張燕は歯噛みして立ち塞がる子分を手当たり次第に投げ飛ばしてとうとう中心へ躍り出た。そこでは既に剣戟が繰り広げられており、叩きのめされた男どもが息も絶え絶えな様子で山となっていた。全くだらしない、と張燕は鼻を鳴らしたが、いま目の前で繰り広げられている武闘は相当に見応えのあるものだった。賭けの親元を務めるやつの声が響く。

「――さあさあ! 張った張った! 『常山の趙子龍』と『虎狼の廖化』の一戦、率は四分六! 四分六で趙子龍!」

 身内びいきもなんのその、現金な野盗上がりには勝ち目の方がなにより大事ということか、半分以上が趙雲の勝ちに賭けていた。

 だがしかし廖化もさるもの。目にも留まらぬ連突を紙一重でいなしながら逆転の横薙ぎを放ち、趙雲の突進を巧みにいなしていた。

 やがて趙雲は宙を舞い、上空から裂帛の一撃を放った。『神槍』の二言は伊達ではない。後ずさりがもう少し遅ければ、地を真綿を切り裂くかのように断ち割った槍の穂先が、廖化の体を刺身にしていたことだろう。

(また速くなってるな……男子三日会わざれば刮目して見よ、女子なら目玉を引っこ抜け、だな……いや、もう少し上手い言い回しがあるかしら……)

 張燕が二日酔いの頭でくだらないことを考えている間に、次は廖化が攻めた。大きな熊手のような鉤爪に、石突には半月を模した月牙を備えた一振り『虎口狼眼』――その奇抜な形状から繰り出される、死角を付け狙うかのような技の数々は張燕でさえおいそれと勝てるとは言えない。さらに――

 『虎口』が大きく薙がれ、趙雲の槍の胴を捉えた。それは問題なく防いだかのように思えるが、次の瞬間『虎口』の鈎ががちりと噛み合い捕らえると、胴の節々が折れ曲がりいびつに跳ねた。仕込み三節。石突『狼眼』は梃子に従い廖化の背後から円を描いて趙雲を襲う――廖化の『虎口狼眼』は繰り出す全てが不慮の一撃である。見事に虚を突き技は決まった――と、三名を除いたその場の全員が確信するほどであった。目を見張る張燕、驚愕する廖化――不敵に笑う趙雲を除いて。

 趙雲の後頭部を襲った『狼眼』だが、まるで後ろに目が付いているかのようにわずかに首を傾げてかわすと、くわえて離さない『虎口』を逆手に取り、くるりと回転させるやものの見事に廖化を投げ飛ばした。そして握り直した槍の穂先を突きつけ――

「……参った」

 廖化の降参を皮切りに、興奮に飲まれた郎党が一斉に叫び声を上げた――賭けの勝ち負けに従って、四分六で喜びの歓声であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まぁた強くなったな、常山の」

「お前は相手をしてくれないのか、飛燕?」

「アタシは二日酔いなんだ。今日は都合が悪い。日を改めて出なおしてくれ」

 結局昼さえ待たずに酒宴に入った。趙雲は酒をぐいぐい飲みながら再戦を何度もねだってきたが、張燕はひらひらと手を振って断った。

 おそらくもう勝てないだろう、と張燕は確信していた。いい勝負はできるかもしれない、だが本気の勝負になれば勝ち目はない。先ほどの廖化との戦いを見ても、軽くあしらうように勝ってしまった。

 あのおぼこ娘がこんなにも見事になって帰ってきた喜び、気持ちの良いままいさせてくれてもバチはあたらないだろう。だからもう戦うまい。いいだろう? アタシはこう見えてお頭ってやつなのさ、見栄を張るくらい許してもらわなきゃさ――されど張燕の心に敗北感はなく、英雄を目にしたという確信の中で晴れ晴れとしていた。

「うむ。酒がうまい!」

「二日酔いじゃなかったのか?」

「だからさ!」

 趙雲の背中を荒々しく叩きながら、近くにいた子分に酒をありったけ並べろと怒鳴った。

 やがて壺が持って来られたのだが、運んできた一人は廖化であった。恥ずかしそうに頭をかいては苦笑いをしている。

「いや、お見事。こりゃかなわねえ」

「あなたもお強かった。あわやでしたな」

「謙遜も過ぎると、失礼ですぜ」

「そのような。さて、あらためて名を。趙、雲。字は子龍」

「廖化、字は元倹」

 趙雲と廖化が笑って握手を交わす。確かに趙雲が一枚上手であったが廖化も見事その技を披露した。お互い認めうところがあった。握手も終わり、二人の手が離れようとしたとき、いきなり趙雲がさらに強く握って廖化を離すまいとした。そして囁くように話す。

「お久しぶりですな」

「……ちっ。やっぱり覚えてたか」

 廖化があっさりと認めて頭をかいたので、趙雲は手を離した。張燕も聞き及んでいる話なのだが、知らず存ぜずを装って聞いた。

「どこかで会ってたのかい?」

「しらばっくれんでもよかろう」

 張燕は廖化の報告を思い返した。

 先だって、李岳という男が馬を届けに公孫賛の元へ向かった。黒山とも塩をめぐって一つの取引があったのだが、無事幽州へたどりつけるよう廖化を筆頭に腕利きを護衛につけた。道中、烏桓の姫がかどわかされそうになる現場に遭遇し、李岳の判断で救出、さらに公孫賛の没落を狙った陰謀だったということも判明し、ただ馬を届けるだけで済むはずの旅がとんでもない大事となってしまった。

 廖化はくだんのあらましを微に入り細を穿ち張燕に報告していた、もちろん趙雲がいたことも知っている。それでも張燕は素知らぬ振りをしたが、その振りは当然ながら露見していた。張燕が自らの勢力範囲で知らぬことなどないという話は有名だ。無数の間者、諜報の者があらゆるところに忍び入り知らせを届ける。その中でも廖化は目立って腕利きだ。忠誠も厚いだろう。自らが付き従った旅の詳細を伝えていないはずがなかった。

「いやしかし廖化殿。まさか黒山の者だとは。あのときは全く気づかなんだ」

「その他大勢の一人でさ。無理もない。こっちはしっかりと覚えてましたが。あんときゃ気が気じゃなかった。李岳殿の足を引っ張るんじゃないかとひやひやでね」

 単身黒山に殴りこみ、張燕と一騎打ちを演じた話はことに印象に深い。あの決闘を目撃した取り巻きの一人に廖化もいた。

「邪魔せずによかった。お陰で良いものも拝めた。烏桓の姫、相当な使い手だった」

 武勇に優れ不可思議な力にも近いと噂される烏桓族である、仇討ちの決闘を見て趙雲の血が騒がないはずがなかった。

「いずれ機会があれば、刃を交えてみたいものだ」

「決闘中毒め。さて、西涼じゃあ大活躍だったようだねえ」

「耳ざといな」

「アタシの知らないことはないよ」

 

 ――韓遂という男を頭に据えて、羌族が蜂起した。討伐するため出兵した朝廷軍に公孫賛と目の前の趙雲が従軍することは、召集令状が幽州に届いた次の日には張燕の耳に届いていた。張燕は五分五分の戦になる、と思っていた。朝廷軍は羌族や西涼兵を侮っているが、やつらは精強であり韓遂の手練手管も侮れない。さらに朝廷軍は討伐とはいえ敵地に攻め入るという形になる、よほど上手くしなければ鎮圧は難しいだろう、と張燕は考えていた――

 

 予想通り朝廷軍は苦戦を強いられ、糧道を狙われてはあわやという場面に何度も出くわした。最終的に勝利を収めることが出来たのは運否天賦によるところも大きいが、公孫賛率いる白馬の騎馬隊『白馬義従』の槍のような突撃により敵の伏兵の出鼻をくじき、危機的な状況を回避したことが勝敗の分かれ目だったろう。そしてその槍の穂先こそ、目の前にいる趙子龍なのだった。

 その功でもって公孫賛は一気に幽州での地盤を築き『北方の雄』として君臨した。勢力が隣り合わせる張燕は人ごとではない。公孫賛への間者の数を『涼州の乱』以後は二倍に増やしている。

 しかし、張燕が本当に警戒しているのは公孫賛ではなかった。武者上がりは戦になると強いが、動き方が読みやすく、であれば躱し方もある。本当に厄介なのは自分は矢面には立たずに裏で糸を引くもの――公孫賛の足元で動乱を目論み、企みを仕掛けた劉虞のような手合いである。間者の数は元々多かったが、さらに三倍の人員を投入している。

 ところが成果ははかばかしくない。手練が何人も食い込めずに敗退しては戻ってくる。こと劉虞本人に接近しようとした者はまさに忽然としか表現できないような消え方をする。張燕はまだまだ火種は残っているものとして、警戒を緩める気にはなれなかった――しかし予断を許さぬ話でもある、どこで漏れるかもわからない。この張燕の考えを知っているものは黒山でも一握りしかいない。趙雲のことは気に入っていたが、やはりおいそれと話せる類のものではなかった。

「んで、その公孫賛の客将閣下が一体何しにきたんだい?」

「――李岳という男について知りたい」

 意外な言葉に張燕は愉快になった。口にした酒を一気に干して、おかわりを注ぐ。それもまた口にしながら、さて、どうしたものかと思案した。

「琢郡で会った時、おかしいと思ったのだ。あのように上等な馬の群を『飛燕』が安々と通すはずがない。よしみだとしてもただの知り合いというわけではあるまい。知り合っている、それだけで黒山の通過を認めるはずがない。何をもって取引をしたのだ」

「ん? 塩よ。一緒に密売するの」

 張燕は喝采を上げた。

 

 ――そう、そういう顔が見たかったのだ!

 

 呆気に取られた趙雲の顔が愉快でたまらぬと、張燕はさらに興が乗って酒を飲み干し、おかわりを注ぎ、趙雲の盃にも注いだ。隣では廖化が複雑な表情で蒸米を口に運んでいる。

「……そんなにあっさり吐いていいのか」

「別に構わん。密告しようってわけじゃあないんだろう?」

「……ふてぶてしいやつだ、お前もそうだがあいつもそうだ。私は覚えているぞ。世に憚られる類のものはやり取りしておりません、とな」

「フフフ。口が回るやつね。身分証も服もアタシのこしらえさ。よく似合ってたろう?」

 確か并州晋陽永家の使いと言っていたが、それすらも嘘だということなのか――趙雲はますます李岳という男が気になった。あの慧眼、確かにどこぞの勢力で辣腕を奮っていてもおかしくはない。だが、だというのならわざわざ馬を運びに使い走りをする必然性が欠ける。やはり間者か、あるいはその他の工作を行いに幽州へ来たか。塩の密売、一体何を考えている――

 趙雲は単刀直入に聞いた。

「何者なんだ?」

「……ま、今は狩人ってところかね。ほとんど匈奴みたいな暮らしをしてるが」

「漢人じゃないのか」

「両方の血を受け継いでいる」

 嘘は言ってないようだが人物像が浮かび上がらない。匈奴の狩人がなぜあのように振る舞える? それにどうして公孫賛を守るが如き活躍を見せるのだろうか。

 趙雲の葛藤を察した張燕は、ひょっとするとこの二人を引きあわせれば面白いことになるのでは、といたずら心が鎌首をもたげた。李岳の情報を売ることになるが、この内心に巣食ったたちの悪い蛇に、張燕はいまだかつて勝てたことはなかった。

「……并州は最北端、長城の北。多分そこに暮らす匈奴の集落を訪ねるほうが早いだろう。恒山の麓の小さな山に父と二人で住んでいる。父の名は弁。匈奴とも漢人とも付き合いはあるが、その両方から距離をおくように暮らしている。気になるなら直接訪ねて見る他ないね」

「会ってみよう」

「面白いやつさ、アタシは気に入ってる。しっかりしていて隙もなさそうだが、その実ウブで油断だらけだ。いずれ大物になると踏んでいたが、ま、それはこれから次第かしらね」

 趙雲の目にもいたずらっ気に満ちた光が宿った。知らぬ間に外連の甘さに味をしめたか、と張燕はことさら愉快で、ならばこの度李岳をいじめる役はこの趙子龍に任せよう、と思った。だが条件がある。まずはここに並べた酒を全て飲み干していくことだ――だが張燕が何を言う前に、不敵な笑みで趙雲は盃に酒を手酌で注ぎ始めていた。何も言うな全てわかっている、とばかりに。



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第十二話 明暗

 山の麓には、鉱山町と言っても良いほど多くのゲルがひしめき合い、馬頭琴の響きが思い出したように響いた。

 岳の知らぬ内に塩の発掘は卒羅宇の部族総力を上げてのものとなっていた。

 塩山の開発、発掘は匈奴の許可と協力なしには無理だ。方法も公孫賛と匈奴の馬という繋がりを利用するのだから、自分ばかり甘い汁を吸うなど仁義にもとるだろう。遊牧生活とはいえ匈奴の人々だって耕作をし収穫に期待をする。ただ町と町の交流のような物品のやり取りが少ないので、一度凶作になればすぐに飢えてしまう。だから死ぬよりはましと漢へ略奪に走ったりするのだ。飢えることさえなくなれば揉める動機も解消される。

 漢と匈奴の間の問題点の全てを改善しようというところまでは無理だが、せめて親しく付き合っている卒羅宇の部族くらいその窮乏から脱してくれれば――岳は匈奴に積極的に貨幣を流通させようと考えていた。

 もちろん今でも漢との交流はある。だがその際の基本は物々交換だ。自然行き交う物の数も人の数も限定されてしまう。匈奴には特産と言えるものが多くある。羊毛を用いた織物、山羊の乳から作った酪、力強い馬、毛皮、鉱石……様々なものが産出されるというのに全く生かしきれておらず、もったいないもったいないと岳は日々考えていた。

 塩の密売はそれを改善する劇薬だ。一挙に多くの銭が卒羅宇の元へ渡るだろう。はじめはそれを町に持ち込み商品に替えて部族の皆に配るということになるだろうが、次第に金銭自体を分配し、加速度的に匈奴と漢との交流は増えていくだろう。そうなればいざ飢えるような事態になったとしても糧食を買い揃えることができる。人と人との繋がりが増えれば偏見やいさかいも減る、国境を挟んでの戦いも減っていくのではないか――

 確信などないし、その全てを自分の手で調整することなどできないが、岳にはそのような目論見があった。もちろん塩の密売はいずれ発覚するかもしれないので恒久的に続けていけるわけではないが、その塩山を官の管理下に置いたとしても別に構わないのである。匈奴の土地の塩山なので官も手が出しにくいだろうし、匈奴からの反発もあるかもしれないが、既にその点は卒羅宇に相談しており、塩は匈奴に安く融通する、山を持つ権利は匈奴にあるので官は匈奴から買い取るという形で塩を譲り受ける、といったいくつもの案を竹簡に認めて渡している。

 発掘時の岩塩の総量を百とすると、そのうち余分なものをこそぎ落として得られる量が少なく見積もって半分の五十、それを張燕に送り届けてさばいてもらうのだが、張燕以降の取り分が三十である。本当は比率は半々まで持って行きたかったが妥協させられた。取り締まられ裁かれる恐れは漢の地で売りさばく側なので理解はできるが、一旦流通経路が整えば交渉の余地はあるだろう。

 さておき、匈奴に戻る塩の取り分は金に換えて堀り出した百の塩のうち二十である。銭の受け渡しは届けてすぐに十、売りさばいた後に十である。はじめの十は全て匈奴にわたり、残りの十のうち一が李岳の取り分であった。百のうちのわずか一だが、岳は発案と運搬しかしないのでその程度のものだろう、と苦にもしなかった。山は匈奴のもの、危険は黒山賊。あるいは貰い過ぎかもしれないというほどでもある。

 発掘は匈奴の若者三百人が担っている。雨季の前後は草の育ちもよく、放牧は手間がかからない。春を過ぎれば山には獣も増えてくるので狩りも難しくなく、花の後に実る果物もある。月のうち十日ばかり労働力として動かせないかと提案したが、暇を持て余している当の本人たちが最も乗り気で、精を出して掘り始め瞬く間に目標の量へ達そうとしている。

 卒羅宇はいま招集を受けて大平原の最奥、匈奴の都へと向かっているが、指揮はいい加減ながらも香留靼がとってくれたので楽だった。ただ当の香留靼本人がすぐ仕事を放り出して怠けることを除けば問題などどこにも見当たらない。ただ予想外のことが一つだけあった――呂布がすっかり匈奴に馴染んだことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 匈奴の人々は生まれてから死ぬまでほとんど部族の中で暮らし、自然と交流する人脈も少なく、有り体にいってよそよそしい。岳が溶け込んでいるのも弁と卒羅宇の付き合いがあるからで、そうでなければ香留靼とも仲良くなれたかどうかわかったものではない。ところが呂布はいっぺんに馴染んでしまった。きっかけは塩山での働きぶりだった。

 岳が幽州への旅より戻って、呂布は手伝わせろと塩山に逐一付いてくるようになった。呂布の膂力には周囲の誰もが目を見張り、遠巻きに見物する者が出るほどであったが、決定的に距離が近づいたのはとある事故がきっかけだった。

 塩山には当然もろい箇所もあり崩れる危険がある。岳も香留靼も細心の注意を払って作業を指示していたのだが、人の注意を聞かずに焦って掘り進めた者がおり、とうとう岩盤が崩れ落ち崩落の危機に瀕した事態にいたった。

 濛々と立ち込める土煙に、人死にが出たかもしれないと誰もが不安になったが――二本のつるはしを暴風のように振り回し、崩れ落ちてくる岩を叩いて砕き、巻き込まれかけた男を肩に担いで出たのが呂布である。土煙が晴れてその姿を認めた瞬間、再び崩落が起きるのではないかという程の喝采が轟いた。

 それからというもの、匈奴は呂布を仲間と認め、戸惑う呂布をよそにはっきり言って懐いた。

 

 ――呂布の姐さん。

 

 という呼び名には本人が一番戸惑っていたが。

 一見粗野とも取れる呂布の立ち居振る舞いは匈奴の性向と咬み合わないこともなく、特に塩山の麓のゲルで炭鉱町のように居座っている女たちに評判が良かった。呂布の手が空けばすぐに引っ張り込み――

「これは去年嫁に出た娘のお古の服なんだが……おや似合うねえ!」

「ちょっと、これ食べてごらん!」

「歌と踊りを教えてあげようかねえ……ほら、真似して?」

 という風にたらい回しで可愛がられ、格好のおもちゃになっていた。あわよくば自分の息子の嫁に仕立て上げようと企む婦人もおり、さしもの呂布もほうほうの体で逃げ出してくる始末。だがその全てが岳には微笑ましく、呂布が多くの人と触れ合えるようになって良かったと思った。

(……俺がいなくても大丈夫か)

 過剰な心配かもしれぬし、余計なお世話かもしれないが、呂布にはどうしても捨ておくことの出来ない、構ってしまいたくなるような気を起こさせる何かがある。だから匈奴のおばさん達も競って世話を焼くのだろう。世間知らずで無口だが、不器用な優しさを隠し持った本当は素直な優しい娘――

「おやおや、寂しがってますか」

 いつの間にやら隣にいた香留靼が岳をからかうように言った。

「何のことやら」

「素直になりなっせ」

「俺はいつでも素直だよ」

「と、いうやつほどひねくれてるのが常だよな」

 その手には乗らない、と岳は肩をすくめてつるはしを置いた。もう夕方だ、今日も一日よく働いた。掘り出した岩塩はもうすでに結構な量で、張燕との期日には十分に間に合うだろう。早めに切り上げてねぎらうのも大事なことだ。

「素直なやつは、自分のやきもちだってよく分かるはずさ」

 何を言っているのか見当もつかぬと、岳は大声を出して作業中の人々に声を出した。皆が我先にと下山していく。岳も含めて皆疲れているが、夕日を浴びた横顔は充実した面持ちで辛さは感じない。あるいはこういう日がずっと続くのかもしれない、と岳は考えた。『三国志』の世界に生まれ落ち、十数年が過ぎた。正史の通り進むのか、演義のように争いが繰り広げられるのか岳には判断がつかなかった。あるいはそのどちらでもないかもしれない、と最近では思い始めていた。そもそも『呂布が女性』『公孫賛も女性』『もちろん張燕も女性』なのだ。さらには烏桓の姫の姿形――そこで岳は幽州からの帰りに烏桓山へ寄った旅を思い出し、うんざりした。

 仇を討ったとはいえ、楼班は母を失ったばかりで意気消沈していた。そのまま見捨てるには忍びなく、また最初に送り届けると約束をしてもいる。遠回りになるが常山からではなく幽州の北から回り烏桓の総本山、その名もまさに烏桓山へと向かった。ほどほど平和で問題などない旅だったが、支障は到着してからが本番であった。

 大人の妻が殺され、その娘がかどわかされかけた。これ以上激怒させよという方が難しいだろう。それを偶然とはいえ拉致されかけた娘を助け出し、その仇討ちの場を整え、あまつさえ娘が真名を預けるほど信頼している――山をひっくり返す婚儀騒ぎになり、面白がって腹を抱える香留靼を引きずって逃げまわる李岳――だが決して他へはやるまい婿になれと、大人の号令一過、泣き叫んでやめろと叫ぶ楼班をよそに大捕物になってしまった。その顛末がどうなったかは、今ここに無事戻ってこれたことをもって推して知るべしというところである。

 なにはともあれ、李岳にとって先入観を取り去るための旅であったような気がする。

 岳にはこの世界に生きている、という実感が希薄であった。前世の記憶があるから故に、どこか腰掛けでいるかのような錯覚を覚えてしまうところがあった。それは無力感と隣り合わせる感情でもある。自分には何も出来ない、歴史の通りになる、意味などどこにも――

 しかし、自分の関わったこととはいえ、烏桓の反乱は起こらず『西涼の乱』でも歴史にない活躍を公孫賛が見せた。人の営み。何が起こるかわからない、わずかなことで人の人生は動揺し、思いも知らないところに不時着する。けれど多少歴史を知っているからといって、それら全てを掌の上にあるかのように操るだなんて不可能だ。皆、登場人物ではない。人なのだ。そして思い思いに、命のままに生きている――だから逆説、自分にもきっと何か出来るのではないか、と岳は思った。

 岳はつるはしを小脇に置いて、眼下に広がる平原を見渡した。

 この土地はもっともっと栄えるのかもしれないという希望――父の弁には豊かな暮らしをして欲しいし、自分も戦乱に巻き込まれたくはない。そのために移住のための銭を蓄えようとしたが、あるいはここを漢人と匈奴が両方暮らす町に出来ることが可能なのではないか、そしてそれくらいのことならば、自分の一生の事業として思いを決めれば叶えられるのではないか――呂布が匈奴に受け入れられたように、誰が誰であるかということを問わずに、誰もがいさかいなく暮らせる町。

 まだ夢物語でしかなかったが、それが不可能ではないという希望の種が、岳の胸の奥底に埋め込まれていた。

 岳は自分の分の道具も片付けながら、掘り出した塩を確認した。明日からはこれを馬に括りつける仕掛けを整えた方がいいかもしれない、それは男連中ではなくゲルにいる婦人方の力を借りたほうがいいだろう、嫌がるかもしれないが呂布もやってみてはどうだろうか――ふと岳は少女の姿を探した。左手の斜面にて最後の一撃とばかりにつるはしを振り落としていたところだった。重厚で気味の良い音が渓谷に響いた。頬に泥をつけて、今掘り出したばかりの人一人分もあるような岩塩を掲げては誇らしげに笑みを浮かべている。

(誰が誰にやきもちを焼くって?)

 香留靼の軽口を振り払うように、岳は手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 卒羅宇は旅の空の下にいた。十日の間馬を乗り続けたがようよう目的地が見えてきた。伴の若衆がほっと一息吐く音が聞こえた。

 匈奴が占める大地の中央、高貴なる王族と単于に連なる一族が住む都――単于庭。並び行く家々は広大な平原を四方に埋め尽くし遥か彼方の砂漠にまで至らんとするかのようだった。三十万を超す大部落は馬を十五万、駱駝を四万、山羊に牛を合わせるとどれほどの畜を伴っているかもわからぬ。動物の糞の匂いがわずかに漂ってきたが、勢力尊大なることを専ら示す証に違いない。卒羅宇は単于直々の招集を受け、この地に訪れていた。

 秋の大集会にはまだ遠いというのに、これほどの部族が集合していることに卒羅宇は怪訝に思った。また武装した戦士が整然と居並んでいるのも訝しんだ。まるで出兵のようだ。だが漢の先鋒として黄巾の乱の鎮圧に去年もその前も出兵した。今またその尻拭いを行うというのなら単于は信を失うに違いない。卒羅宇は齢七十をとうに超えた老単于、羌渠(キョウキョ)の矍鑠たる様を思い浮かべようとしたが、もはや遠い昔のことであるかのようにぼやけて浮かびはしなかった。

 馬上のまま歩みを進めたが、誰何を待つ前に伴の者が大声で訪いを入れた。駆け寄っては列を作る同胞を前に卒羅宇は豊かな髭の奥で相好を崩した。

「卒羅宇! この馬鹿者が! まあだ性懲りもなく生きていたか!」

醢落(シュウラク)! くたばり損ないめ!」

 真っ先に駆け寄ってきたのは古くからの知り合いで、ともに何度も轡を並べた醢落という部族長であった。身長は六尺にようやく至らんとする程度だが、その怪力無双なること同胞の内でも比肩するものはおらず、傷ついた愛馬を見捨てるが忍びなく、自ら背負って五十里を踏破したという伝説がまことしやかに語られるほどであった。

 乱暴に背中や肩を叩き合いながら抱擁を交わし、二人は並んで中央へと向かった。大声で笑いながら、その合間合間で醢落が囁くように言う。

「不穏じゃ。動員令がかかる」

「そうじゃ! 貴様が狩ったという虎の皮、もう一度見せてみよ、わしがこの前射殺した山の主はその倍はでかいぞ」

「何を! どうせ若い者を使って追い立てたんじゃろうが! わしは正真正銘一騎打ちよ」

「まことか」

「わしは嘘は言わん! 貴様と違ってな!」

 二人は大きい声で笑いあいながら部族の間を縫った。その声を聞きつけてゲルというゲルから人々が出てきて歓迎の声を上げた。卒羅宇も醢落も音に聞こえた武人だ。対漢、対鮮卑、対烏桓――いずれの戦でも遅れを取ることなく戦場の数だけ武勲を挙げた。勲の歌さえ作られるほどで、馬頭琴の調べに乗せて戦勝を祝うことさえ単于に許されていた。

 三百人はゆうに収まる一際大きい天幕に立ち入ると、既に居並んでいた大勢の長から歓迎の声が飛んだ。鮮卑との戦で挙げた武勇がここ近年で最も音に聞こえた勲だ。戦のために断絶した前の骨都侯の地位を譲り受けても堂々たるもの、誰もが卒羅宇の入場を待ち受けていたとばかりに歓声が上がった――が、卒羅宇はそれこそを訝しんだ。只の戦でこのような熱狂を呼ぶことがあるだろうか、それに例年とは違いこのような夏の時期に祭りではなく緊急の集会を開くなどと。よほどの喫緊の問題が発生したか、あるいは誰かの思惑が左右しているのか――卒羅宇は声の全てに笑顔と頷きで応えながら地位によって定められた場所にたどり着いた。

 やがて天幕の最奥にかけられた豪奢な生地――敦煌から漠北路を通りはるか西方の異国・波斯(ペルシア)より手に入れた至上の一品――が上げられると、奥から単于と左右の賢王が登場した。周囲はどよめきにあふれた。七尺を超える魁偉であった羌渠単于――十年前、先代の単于が漢の役人に卑劣にも背中から斬られその生命を絶たれた時、怒りに任せ単騎で漢の地平に押し入り暴れまわったとされる偉丈夫はもはやその影さえなく、ひどく曲がった腰に痩せた体、目に光がないのは明らかで、横で支える右賢王の於夫羅がいなければこの場に現れることさえ叶わなかったであろう。

 その於夫羅が一同を睥睨して宣言した。

「同胞よ、お集まりいただき大変頼もしい! 単于の御口上代わりに申し上げる非礼を許されよ! 此度漢より以下の書状が届いた! 黄巾賊の乱れること甚だしく、漢朝の命により匈奴の勇者は右賢王於夫羅を頭領に戴き騎馬を並べて進軍せよ!」

 一人の部族長が異論を上げた。

「待たれよ、先年も、その先年も漢に出兵したではないか、しかも彼奴らの動乱を鎮めるためという情けない理由で!」

「そうよ、納得がいかぬ」

 どよめきが一座を支配し、困惑から不審、疑惑へと様相が変化し始めた。卒羅宇は腕を組んで黙って見ていた。醢落も同じように腕を組んで眉を顰めている。

 動員は成らぬ――卒羅宇は確信をもって考えていた。毎年の徴兵により多くの部族が疲弊している。若い男が死ねば資産が減るということだ。働き手が減れば収穫も減り、侘しくなった村には子も生まれなくなる。しかもその動機も良くない。

 戦争は誇り高き武人の性。だが漢人の走狗として使役されることを喜ぶことはその限りではない。醢落の目が炯々たる輝きを放つのを於夫羅は認めた。あるいは弑逆もありうるとその目は何より雄弁に物語っていた――だが卒羅宇は醢落よりも於夫羅の様子に異変を感じていた。

 一座の不満を存分に見回しながらやがて、たまらぬ、と一言こぼした。

「……まことにたまらぬ! ここはまさに勇者の集いよ! よろしい! 同胞諸氏の胆の太さにこの於夫羅、感じいった!」

「……右賢王、一体何を言っているのかよく聞かせて欲しい」

 右大将が進みでて問うた。

 すると右賢王は漢からの書状――皇帝の玉璽でもって捺印された正当なる国書を、その場で無残に引き千切り始めた。一座は動揺にて再びざわめき、少数だが喝采を投げかけるものもいた。

 手紙をすっかり細切れにしてしまうと、於夫羅は意を決したように言った。

「同胞諸君。我ら匈奴は誇り高き大草原の民なれど、漢人の卑劣さに苦渋を舐める日々を余儀なくされてきた。使役され、使い潰され、舐められてきた! 古の時、我らの元にも玉璽があったが、それも卑劣な漢人により奪われ砕かれた。このような侮辱にいつまでも耐え忍ぶことは我が子ら、孫らのためになるまいと、単于はある一つの決心を持ってこの場においでになっている」

 右賢王於夫羅に背中をさすられ、単于はしわに埋もれたようなくたびれた口で呟いた。

「……か、漢を討て」

 その言葉に、一座は再びどよめいた。聞き間違いではないかと耳を傾ける者、またその声がか細かったために後列のものには聞こえなかったようで、前の者が後ろにまで聞こえるように大声で繰り返した――単于が漢を討てとおっしゃった!

 ざわめきは次第に潮位を増し、天幕の内側を目一杯まで満たした。

「聞こえたか、聞こえたか諸君! 漢を討てとおっしゃった! 単于はいまお命じになった、同胞!」

「聞こえたぞ! 単于の声に従う! 俺は単于に従うぞ!」

 若い者から喝采を上げ始め、次第に場は戦の熱に侵され始めた。鬨の声が起こり始め、既に潮位は天幕を満たして多くの者を溺れさせたことに卒羅宇は気づいた。激情は熱を増す一方であり、巻き起こる嵐のような絶叫の中で卒羅宇の呻きは髭の奥に隠れて埋もれた。

「よろしい! ならば我に策がある。我々匈奴は一旦漢の要望を受け入れたことにし、忌まわしき長城の壁を越えたところでその本意を示す。単于いかがお考えか!」

「さ……左様せい」

 その言葉ののち、陣幕の内側は完全に於夫羅の独壇場となった。

 その演説ぶりはまるで別人であるかのように朗々たるものであった。必勝の策、漢人の鼻を明かす、全てを奪う、誇りを取り戻す、と過激な口ぶりで匈奴の戦士を鼓舞した。

 だが於夫羅は間違いなく何者かの意図の上で踊っていると卒羅宇は感じていた。あたりを見舞わせば醢落を始め、幾人もの古参、古豪とも言える武人たちが訝しんだ目をして場を見回している。

 於夫羅の演説はとどまるところを知らず、そして不意に卒羅宇を真っ直ぐ見据えると、口をひどく歪めて笑った。

「幸いここには多くの戦士がいる! 百戦百勝のもののふ! 皆の衆も記憶に新しいであろうが、その最たる方をお一人紹介しよう……卒羅宇骨都侯、出ませい!」

 人が避け、卒羅宇の前に道が出来た。喝采が飛び交うが卒羅宇の内心は怒りに煮えくり返っていた。この若造めが、今すぐ縊り殺しくれようか――だがそれを許さぬこの場の圧力、熱気は既に於夫羅の掌中であった。

「骨都侯殿は先の戦で忌まわしき鮮卑の者共に膺懲の一撃を加えた大功あるお方だ!」

 喝采が上がる。卒羅宇は憮然としたままでいたが、次の瞬間耳を疑うことを於夫羅が口にしていた。

「だがもう一つ! 各々方肝を落とされるな。卒羅宇殿の部族には、遠き過去、我らが先祖にさんざ苦渋を飲ませたかの飛将軍李広、そしてその子孫の李陵! 匈奴の我らさえ認める武人の末裔が住まわれている!」

 雄叫びが上がる。場の興奮に、もはや意味もわからず絶叫している者もいるだろうが、その伝説の名前は匈奴の地でこそ漢より遥かに轟いている。一同の視線が一挙に卒羅宇に集まった。

「我らは強者を愛する! 李広も李陵も敵ながらあっ晴れの将軍であった! だが卑劣な漢人は強者を妬み辱める卑人共だ、逼塞したその末裔……李岳という少年はなんと匈奴の側に立ち、対鮮卑の戦で初陣を飾り、獅子奮迅の働きをしたとして功を挙げたのだ! 漢人どもの顔色なからしめる先鋒役としてこれ以上の適任はおるまい! 近しい部族の長である卒羅宇殿と合わせて先鋒をつとめて頂こう! いかがが単于!」

 左様せいという単于の言葉は、既に熱狂の渦とかした男どもの声と、踏み鳴らす地響きがごとき足音のために誰の耳にも届くことはなかった。誰が筋書きを書いた、と卒羅宇は饒舌な於夫羅を眺めて不審に思った。この男がこれほど達者に歌えるなどと誰が信じよう――あるいは漢に討ち入るなど大したことではない、ひょっとするとこの者を裏で操る影の思惑こそより一層匈奴の脅威になるのではないか――卒羅宇は単騎で敵陣に突っ込む時でさえ覚えぬ恐怖に、全身の肌が粟立つのを感じた。

 

 ――出征総勢二十万の陣容はその日のうちに決定された。



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第十三話 おしよせる波

 於夫羅は演説を終えると悠々と宮殿へ戻った。返す返すも小気味よく、その大きく突き出た腹を叩きながら哄笑を響かせ続けた。

 現単于である父の羌渠にはわずかに及ばぬが、その血をよく受け継いだ於夫羅はやはり魁偉とよべるだけの大柄であり目方は二百斤に届かんとした。しかし突き出た腹も盛り上がった肩もよくよく見れば脂ではなく隆々たる筋骨であり、戦場においてはその大きく見開いた両の瞳を炯々と輝かせ四方八方を駆けまわり、陣営の区別も付けずに血を求める荒武者ぶり。敵も味方も、よもや人ならざる者ではないかと畏怖と嫌悪の目で彼を見た。

 暗殺を警戒し、私室は子飼いによる十重二十重の警備を敷いてある。単于のそれより厳重なのは於夫羅の疑り深さ、執念深さをよく表していた。

 

 ――だがその男は、かような警戒など児戯に等しいとばかりに待ち構えていた。

 

「お見事でした」

「……これは驚いた、部族の者さえ容易には通さぬように申し付けてあるというのに、よくぞ入り込めたものだ」

「まぁこの程度であれば」

 こともなげに言い放つ痩身の男――田疇(デンチュウ)とだけ名乗った顔色の悪い、書生がごとき男である。身の丈は八尺もあるが、柳のように痩せた体、か細い腕、かすれた声は病身のようにも見える。全身に気怠い淀みをまといながら田疇は一礼した。

 武芸の心得などありそうもなく、於夫羅が戯れに手を伸ばせばどことなりともへし折ってしまえるに間違いない。だというのに単身忍び込み、幽鬼のように精の欠けた顔で怯え一つ見せない。こいつが狼狽した顔色はどんなものか、今ここにある刀で両断してみれば驚くだろうか、あるいはやはり何も感じないと無表情のまま死ぬか――於夫羅は自らの内から噴出しかけた欲望を押しとどめることに大層苦労した。

「――フン! まあよい。御主君のご機嫌はどうだ。漢の詔書、さぞや手練手管を用いただろう」

「何ほどのこともなく……」

「フフフ、洛陽を落とした暁には謝礼をさし上げねばな……女を千人ばかり贈れば足りるか?」

 田疇はため息さえこぼすことなくわずかに頭を振るばかりだった。

「お気になさらず……戦後のことよりも、まずは本分を。此度の戦は誠にもって重要となるもの。努々油断成されぬように」

「ここまでお膳立てを頂いたのだ、あとは喰らうだけよ、食い残しだけを気にしなくてはならんな!」

 於夫羅は鋭い犬歯で笑いを噛み殺しながら豊かな髭を撫でた。

 

『長城の南へ匈奴の騎馬隊を漢の手引きにより誘引する。そのまま洛陽を攻め落とし皇帝を確保。さらに長安、漢中と西へ攻め込み羌族と合流――騎馬民族による帝国を築く』

 

 その案を持ちかけてきたのはこの田疇であった。はじめ於夫羅は自らを謀るかと田疇を殴り殺しかけたが、命乞い一つせずに十日後には満足する知らせを寄越すと言ったふてぶてしさを面白がり、さて約束を守れないであろう田疇に対してどのような残忍な方法で処刑してやろうかと思いを巡らせながら待つことにした。

 於夫羅がその誘いに乗ったのは気まぐれとしか言いようがなかったが、だが確かにその十日後に羌族が西涼で決起し、中原は戦乱の予感に緊張し、朝廷軍が鎮圧すれども手間取ったことには間違いなく、とうとう皇帝の名で匈奴への兵力供与の打診が寄越されたのである。

 夢物語としか思えぬ計画であったが、難関であったはずの(かんぬき)は容易く外れ好機は天与のごとく訪れた。帝国を築く――帝国? ……帝国! 漢帝国を廃しそれに代わり河北を収める匈奴の国! あるいは羌、あるいは鮮卑、あるいは烏桓をも糾合し、そしてそれを治める者は――!

 長江黄河流域の肥沃な大地をなぜ漢人ばかりが独占してきたのか。辛く長い冬。砂漠が運ぶ乾燥した風。長城などという馬鹿げた代物まで建ててやつらは北方に怯えてきた。そのような惰弱な者共は今や内紛に荒れ自力で動乱を鎮める力すらなく、今上皇帝は配下の言に右往左往踊らされまともに治世さえ取れない。戦上手の衛青(エイセイ)霍去病(カクキョヘイ)も死して百年をとうに過ぎ代わりの将軍さえいない、我が騎馬軍団を押しとどめるものなどどこにもいない! そして樹立するのだ、匈奴の帝国を。一時の略奪ではなく、長城の内側に匈奴のための王道を開く。胡による、胡のための国。そして我が初代皇帝として――田疇の言葉は於夫羅の思考のくびきを外し、野望を植えた。

「……河北においてすでに太祖劉邦の血は衰え、その根源は匈奴でこそ色濃く受け継がれておられると聞きます。武を以って興された天下であるならば、武力で滅び苗床となることもまた本望でありますまいか」

「耳聡い男よ」

 今の単于の血統は代々漢の皇室に連なる者を妻としてきた。劉の血が尊いというのなら、自らの血こそまさに何よりも濃いものだと於夫羅は自負していた。そして後にも先にも例のない勇者であるとも。

 於夫羅はかめから柄杓で馬乳酒を汲み出すとそのまま飲み始めた。昂ぶりが腹の底をもどかしくかき混ぜた。二斗を飲んだまま戦場に出て三十人斬ったことさえある。飲むかと田疇に差し出してはみたが、書生がごとき男はやはり魚の死んだような目を伏せ首を振るばかりであった。

 

 ――田疇の持ち込んだ機会は千載一遇と言えた。毎年漢から黄巾賊討伐のために出兵せよとの要請を受け、それに応じてはきたものの精々数万の動員でしかなかった。長城の監視は厳しい。わずかなりとも約定の兵数と違えば門が開くことはないが、ところが今回は元々十万以上の動員を要望されており、堂々と大兵を率いることができる。黄巾の乱によって中央の兵力は地方に分散し、司隷の守りは手薄、主たる将軍も手足をもがれたようなものだ。問題は并州の防備であったが――

 

「防衛戦を張るとしたら……丁原。俺とて一目置く武者だが」

「ご心配なく。丁原は并州刺史の任を解かれ中央へ召されます。執金吾の位が代わりに与えられますが、兵の掌握には時間がかかるでしょう」

 田疇はくたびれたように言った。

「なんだと?」

「……露払いのようなものです。お気になさらず」

 於夫羅には既に勝利が確たるものとして差し出されたかに見えていた。

 その顔にはいよいよ獣のような笑みが浮かんだが、彼の暴虐なる姿を見せられて怯まぬ者がいるかどうか、そう思えるほどのいびつさであったが田疇は臆するという感情を母の腹に忘れてきたかのように変わらぬ平静さで聞いた。

「ところで、先ほどの御口上にて、聞き及ばぬ名を耳にしましたが――確か、李岳、と」

 この時はじめて暗い光をたゆたえているだけだったカラス色の瞳に、わずかだけ精気が灯った。於夫羅は憎々しげに口の端を歪めると、人のものとは思えない犬歯をむき出しにして吠えた。

「飛将軍の李広の末裔だといういけ好かん餓鬼だ!」

「飛将軍の子孫?」

「本当かどうかすらわからん。いつぶち殺しても構わんが、ただの死に方ではこの於夫羅の気が済まん! あのような漢人か匈奴かもわからぬ、成り損ないの惰弱な餓鬼、すぐにその本性を暴いて死罪にしてくれる」

「……どうしてそこまで拘わるので」

「鮮卑との戦で、我が功を横取りしたのよ。あの時の不敬、ただでは済まさん!」

 於夫羅の殺気は波紋を帯びて部屋を揺らしたが、やはり田疇は気にもとめずに思案した。数年前に匈奴は鮮卑と戦をしている、その時に李岳という名が挙がったかどうか、田疇の記憶にはなかった。功を上げたというのなら論功行賞の席にて何かしらの名誉を賜るはずであるが、あるいは見逃してしまったか――そのとき、於夫羅とはまた異質な殺気が部屋の外でこだました。折り重なるような悲鳴と打撃音が轟いたあと、扉を押し破るように入ってきたのは於夫羅の実の弟、呼廚泉(コチュウセン)であった。

 部屋には誰にも入れるなと衛兵に言ってある、わずかに開いたままの扉の床にはひどい血溜まりが広がりを見せている。自軍の兵士であろうと構わず両断して呼廚泉は入室してきたのだ。於夫羅はとっさに後ろを振り向いたが、その時すでに田疇の姿はどこにもなかった。

「先鋒を任せた男のこと、聞き及んでおりませんぞ……!」

 呼廚泉は血の滴る大刀を構えたまま、於夫羅ににじり寄って先鋒の大役を任せてもらえなかった不名誉に憤った。熱弁するあまり刃が何度も於夫羅の目の前を横切りその鼻先をかすめる。

「おお、弟よ……そこまで言うのであれば」

 於夫羅は呼廚泉の肩を抱くと、李岳という名を何度も口にしながら、望むのならばその男が先鋒に相応しいか否か確かめれば良い、とささやいた。脳裏には八つ裂きにされる小柄な男の悲鳴を想像して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休み、一緒に昼を取ろうと呂布は岳の元へやってきたが、岳は鼻歌まじりに地面に落書きしており一向にこちらへ向き直ろうとはしなかった。

 上機嫌なのはよいことだが、相手にされないのはつまらない。

「何してる?」

「うん、ちょっと」

「ちょっと?」

「そう、ちょっと」

 岳はあぐらを書いて地面を睨んだまま、時折指先で字を書き連ねては再び唸ることを繰り返した。

 呂布はその様子を眺めながら自分の分の食事をペロリと平らげた。が、一向に足りないので岳の分の包みを手にした。

「昼」

「うん」

「食べる?」

「んんん」

「食べない?」

「ん、うん。ごめん、今ちょっといいところだから」

「……そ。もらっていい?」

「うん」

 ぶすっとつまらなげに、岳の分の食事で頬をいっぱいにふくらませながら呂布は遠ざかっていった。その背中を目で追いかけることすらせず、岳は地面にいびつに書きこまれた文字を睨み続けていた。そしていくつか書き込みを増やしては消し、また書き足しては消した。

 ここ数日、岳は暇さえあればとある計算を行なっていた。

(さすがにアラビア数字じゃないと計算なんかは不便だよな……いやしかし、これは結構楽しいぞ)

 新たな町の建設ということを岳は本気で考え始めていた。長城を越えて北側は匈奴の大地であるが、そこに匈奴と漢人が共に暮らせる町を作る、という想像がここ数日彼の頭を離れない。

 目下最優先事業として卒羅宇の部族と共に塩の発掘を営んでいるが、あくまで一時的なものであることは関わりあう全員の見解が一致するところだった。

 いずれ破綻することは目に見えている。漢での流通に限度があるからだ、漢の富も無限ではないし、歪な金の流れはいずれ誰かに察知されるだろう。だがそうなった場合、果たして漢の役人は取り締まる事ができるだろうか。

 まず漢の領内においては売買、流通に対して厳しい取締りが行われるだろう。塩はその取り扱いを厳しく制限され、国家による専売が基本だ。だが黒山賊の張燕もさるもの、容易くしっぽを掴まれるようなことはするまい、あの手この手で誤魔化し続けるはずだ。

 だが、仮に急に普及し始めた闇塩の生産拠点が匈奴の地にあると役人たちが知ったらどうするだろうか――軍を差し向ける?

(ありえない。匈奴は名目上は漢に礼を取ってる同盟国だ。匈奴が匈奴のために塩を取ることを規制するなんて出来るわけがない)

 可能性は二つある。

 まずは漢人には売るなと厳しく言いつけることで、それによって匈奴の消費は許しても漢への流入を防ごうという目論見である。が、これは消極策に過ぎない。賊はあの手この手で漢に塩を持ち込むだろう。匈奴の地で匈奴が誰に塩を譲るかは基本的には自由意志だ、どれほど強く要請しても口約束では心もとない。

 岳が期待するのはより積極的な策だった――漢による塩山の買収である。

(そうなれば……)

 条件が少ないので雑な試算しか組めないが、仮に漢人が塩山を買収した場合、はじめは匈奴の労働者と漢人の管理者という形を取ることになるだろう。匈奴が掘り出した塩を買い取り、漢へと持ち込む単純な構図であるが、物事というのは全て発展を遂げるものだ。つまり、漢人の流入が増えやがて定住するものも現れるということだ。だが匈奴の土地であり匈奴の塩山でもある、匈奴の者の中にも住み着くものが現れるはずだ。

(なるほどな……)

 岳は現在の産出量と規模と必要な人員を概算で地面に書きこんでは、日々の食料や生活必需品などの項目を書きたした――漢人が二千人暮らすにしても膨大な量である。塩山の官吏を受け持つことになった官吏の扶持では到底賄いきれる量ではない。恐らく并州を挙げての事業となるだろう――行き着く先は『炭鉱町』の建設である。

 匈奴と漢人、あるいは鮮卑も烏桓も、民族出自が関係なく入り乱れる誰のものでもない、どこでもない町――理想郷とまでは言わない。全てがうまくいくとも思わない。だが始めてしまえば何かが動き、その都度修正を繰り返していけばいつか目標にしたものに辿りつけるのではないか、と岳にはこの地に生まれ落ちて初めて希望に近い感情が胸に沸き起こるのを感じた。

「楽しくなりそうだ」

 匈奴の人々が岳は嫌いではない、漢人も嫌いではない。ただ暴虐的な君主や人を侮る不遜な輩が嫌いなだけであった。塩の発掘やその売買を行う商人ばかりが暮らす町さえ作ることが出来れば、きっと素晴らしく居心地がよく面白い町になるだろう、岳には美しく張り合いのある未来に夢中になっていた――やがて、遠くから彼の名を呼ぶ声が聞こえるまで、岳は夢を描き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 噂に聞いた塩山は意外な程の規模で、趙雲は舌を巻き苦笑した。

 道案内を務めてくれた黒山の使いに礼をいい、趙雲は白龍の体をももでしめて急ぐよう促した。白龍は我が意を得たりとばかりに斜面を駆け下ると、匈奴の人々が住む移動式の家々に向かって一直線で飛んだ。数百戸、いや数千戸に及ぶだろう。道具で岩を叩く音もまだ一里は離れているというのに小気味よく聞こえる。遊牧生活が常となる匈奴の人々が岩山を掘り抜く光景は趙雲には馴染みがなく、これを指揮している小柄な男の正体への興味がいや増した。

 程無く集落に近づいてくると、馬蹄の音を聞きつけた匈奴の者が二人三人と顔を出してきては待ち構え始めた。

 馬上の女性に見覚えはないが、敵だというなら一騎で来るのもおかしい、とはいえ見知らぬ者をやすやすと入れるわけにもいかない――人々の思惑をよそに、趙雲は一息に集落まで寄って白龍から飛び降りると、臆面も無く言った。

「李岳殿はおられるかな? 愛しの趙子龍が訪ねてきたと伝えてくださればわかるはず」

 

 ――果たして李岳は飛んできた。困惑と驚きが同居したような顔をして。

 

「……これは、趙子龍殿」

「久しいですな、李岳殿」

 胡服に身を包んだ男の姿を見て、趙雲は初めて会った時の印象をがらりと変えてしまった。いやこちらが普段の彼、つまり本物であるからして、上手く騙されていたに過ぎないのだと思うと、趙雲は笑わずにはいられなかった。李岳はその趙雲の笑い声に不愉快に過ぎると眉根を寄せたが、やがて盛大に溜息をついてから言った。

「張燕から聞きましたか」

「ほう、さすがだな。話が早くて助かる」

「他に伝手はないはずですから……」

 確かに、と趙雲は頷いた。張燕のことをあらかじめ知っていなければ、幽州で披露した李岳の説明に疑問を浮かべることはなかっただろう。地理に疎い并州の地でもある、途中まで案内されたからこそ何とか辿りつけた側面もあった。

「しかしよくまあ堂々とあれだけの大嘘をつかれたものだ」

「見破っていた方が何をおっしゃいますか」

「ま、上手くかわされたが」

「よく言います。本当に困りましたよあの時は」

 李岳はふてくされるように頬を肩を竦めて続けた――楼班の仇討ちをするためにはあの場で公孫賛に対して信頼を得る必要があった。だというのに目の前にいる誰かさんが興味本位でぶち壊そうとした、あの場で馬をどうやって持ち込んだかという追及が続けば張純の言い分がもっともらしく聞こえ、あるいは事をしくじっていたやもしれぬ、と。

「そんな風には見えなかったが」

「その場で上着を脱いで差し上げたかったですよ。どれほど汗をかいてたか……」

「なに、結局首尾は上々だったろう?」

「ええ、お陰様で。ご助力いただきましたし」

 趙雲は公孫賛が決闘を受け入れるか否かで逡巡した際、真っ先に立ち上がると『仇討ちの覚悟あっ晴れ!』と支持を訴えた。その言葉を皮切りに雪崩れを打つかのように武官が共鳴したのだが、趙雲は自らの手柄だとは全く思っていなかった。

「私の声など意味はない。白蓮……公孫伯珪殿は優柔不断で抜けてるところもあり時におっちょこちょいで頼りなく思える時もあるひどいお人よしもいいところだが……」

「ひどい言い草だ……」

「だが、大きなところで間違えることのない根のしっかりとした武人だ。私がいらぬお節介をせずともきっちり李岳殿の期待に応えてくれたことだろう」

「……それこそ私の力ではありません。全ては楼班様のお力ですよ」

 趙雲の脳裏にけなげな少女の凛とした立ち姿が思い浮かんだ。鮮烈な青の髪、突き出た耳、揺らぐ事無き双眸に風を纏いて打ち放った目にも留まらぬ技――時期が悪かったが、いずれ手合わせ願いたいと思うほどの力量を備えた人であった。

「その後は?」

「送り届けました。ご葬儀を終えて私は帰りました」

 不意に李岳の表情に名状しがたい複雑な表情が浮かんだが、なんと言ってよいかわからず趙雲は首をかしげた。そして思い出したように周りを見渡し、作業に勤しむ匈奴の人々の動きを見て言った。

「ところでお主は心配にならないのかな? 私が官軍に通報してもよいのですぞ」

「ここは匈奴の土地ですし、別に漢に密売しているわけでもありませんから」

「まだ、であろう?」

 趙雲の表情には意地の悪い笑みが浮かんでいたが、李岳は期待に応えることもなく素っ気なく首を振った。

「……いずれにしても、趙子龍殿は密告などということはなさらないでしょう」

「なぜそう思う?」

「そうであるならここへは辿りつけていないからです」

「その心は」

「張燕はあこぎで何を考えているかもわからない一筋縄ではいかぬ人ですが、判断に間違いはない。張燕が貴女をここに寄越したということは、危険がないと考えたからでしょう。私は貴女を信用しているわけではありません、張燕を信用しているだけです」

「なるほどな」

 やはり切れる、内心溜息が出るばかりの回転の早さであったが、恐らく武のほうも持っているだろう。袍を着ているときにはぼんやりとしかわからなかったが、胡服になるとその身のこなしの柔らかさがよく見て取れる。人並み以上の修練を課したものにしか宿らない気の巡りも趙雲には手に取るようにわかった。

「ところで、一体何をしにはるばるこの地までいらしたのですか。まさか世間話というわけではないでしょうに」

「別段世間話でも構わん。構わん、が……」

 趙雲はいつも浮かべる不敵な笑みではなく、にこりと花のような微笑を浮かべてやおら槍を李岳に突きつけた。

「何を使われるのかな……戟かな、槍かな?」

「……ご冗談を」

「乙女の純情を冗談とは言葉に過ぎる。張純率いる軍勢を押しのけて楼班殿を救いだした手並み、是非拝見したいと思うたまで……」

「ただの素人の手慰みです。面白いことなどありませんよ」

「それを決めるのは私だ」

 場所を移しましょう、という李岳の言葉に趙雲はいつもの不敵さで笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塩山から程なく離れた竹林まで歩くと、三間離れて岳は腰の物を抜いた。趙雲は既に奇形の槍を構えてこちらに向かっている。その穂先が眼前三寸に突きつけられたかのように感じられ岳は息を飲んだ。

 

 ――趙雲。

 

『三国志』が紡ぐ物語の中でも特に気高き武人として誉れ高き人。岳の脳裏に『演義』における数々の武勇伝が思い浮かんでいった。単騎で敵軍の中を駆け抜け劉備の妻子を助けたこともあれば、蜀と魏の雌雄を決する戦の一つであった『定軍山の戦い』では大胆な戦略で魏軍を圧倒し「子龍は一身これ胆なり」とまで称された知勇優れた将軍である。

 眼前に控えたる女性がその趙雲であるという証は、まさに槍の一本で済んだ。女性であることも艶やかな出で立ちも関係ない。その槍を構えた立ち姿だけで、岳は趙子龍であることを確信した。

「さて、はじめようか」

「……もう既に降参したい気分ですよ」

 岳の軽口を装った本音に、しかし趙雲は言葉を返すことなく気を放った。言葉が風に流れ余韻さえ消え去った瞬間、二人は何の予兆もなく馳せ違った。

 竹林の中を硬質な音が響き、切り捨てられたかのように笹の葉が散った。

「――何が素人の手慰みだ。李信達殿、相当の使い手ではないか」

「まさか……」

 赤い軌跡を描いて槍は走る。一撃必倒の勢いも甚だしい。

 二度、三度まで受けきったが、四度目には押され始め、五度目には得物を弾き飛ばされ岳は地面を転がった。手から離れた得物を拾い直しもう一度向かい合う。再びの趙雲の攻め――様相は巻き戻されたかのように全く同じことが再び繰り返された。得物が弾き飛ばされ、岳が転がる。そこから三度の対峙。岳だけが一方的に荒い呼吸を繰り返しており、趙雲はそよともしない。

 風よりも疾く、雷より迅い。天下無双の槍の使い手、趙子龍。岳は本心から賞賛した。これほどの武を修めるために一体どれほどの苦難を乗り越えてきたのか、速いが上手く、意図にも勘にも頼り切らぬ。磨き上げられ織り成される技はまるで精錬された玉の如く、到底自分ごときが太刀打ち出来るものではない。そうして三度転がされた岳は再び立ち向かおうと構えたが、趙雲は既に殺気を収めつまらなさそうに岳を見ていた。

「もう良い。わかった」

「……ありがとうございました」

 何か怒らせてしまったように不機嫌だったが、岳には見当もつかないのでただ謝辞を述べるにとどまった。あるいは己が未熟に過ぎて不機嫌になったのだろうか――

「一度目は様子を見た。二度目は侮った。三度目は倒しにいったが、ことごとく躱されたな」

 趙雲の目にははじめ会った頃の諧謔や笑いなどなく、ただ怪訝と不信だけが宿っていた。

「……運が良かっただけです」

「ならば、私の腕がまだまだだということになる」

「そのような……」

「あるいは、いつも私の槍より速いものを相手にしているか、かな?」

 再び槍を構え、李岳に突きつけながら趙雲は凄んだ。岳は趙雲の槍を見切ったわけでもかわし切ったわけでもない、ただ逃げただけだった。追い打ちをかけられないような巧妙さを発揮してはいたが、背を向けて逃げ出すことと変わりはない。ただ尻尾を巻いて逃げ出すこととの違いは、恐れ怯えるかそうでないかとの違いでしかないのだが、やはり趙雲には全てが見透かせるようで――さてなんと弁解しようか、と岳が頭をかいたとき、不意にもう一つ人影が現れ二人の間に割って入った。岳が驚いたように一歩後ずさったが、新たに現れたもう一人は彼には目もくれず趙雲を鋭く睨んでは気を放った。

 それは見慣れた背中であった。

「恋!」

「……誰」

「ええと、趙子龍殿といって」

「冬至には聞いてない……誰」

 呂布の体から全身全霊の殺気が迸り――岳は初めて彼女と会った時のことを思い出していた。虎と見間違う程の圧倒的な捕食の色、抗う術すら思い浮かばない程の力量差――だが向きあう趙雲の闘気もいささかの遜色もなかった。口元には獰猛な笑みを浮かべ、低く低く腰を下げての構えは今にも飛び立たんとする龍の趣さえある。やはり趙雲は謙遜を言った、と岳は思った。初めからこのような本気の気をぶつけての立ち会いであったなら、自分などは一合たりともまともに打ち合うことはできなかったであろう、と。

「なるほど……この者が李岳殿の師か。納得だな……」

「……冬至をいじめた」

「違う、恋」

「いいや何も違わん。私はそこの者を突き殺そうとしていたのさ」

 呂布の体勢が一段と低くなった。獣のような唸り声が喉から溢れる。

「いやはや……常山を出て幾星霜、無頼の放浪を続けてきたものの、終ぞ出会わなかった本物の強者にようやく出会えた。震えが止まらぬ……我が名は趙子龍。尋常に立ち会われよ」

 呂布の手には今まで山を掘り抜いていたつるはしが握られているばかりだったが、今の彼女が手にしているそれはどんな敵だろうと打ち砕く武器にしか見えなかった。岳は耳鳴りを覚えた。その場に踏みとどまっていることが何かの幸運であることのように思えた。竜虎相搏つ。竹林の笹が全て吹き散らかされるのではないかと思えるほどの強風が吹いたが、それがうち波寄せる二人の闘気であることは何より明らかだった。

 もう既に激突することを待つばかり。岳には戦いの行く末がもはや見え無かったが――二人の武器が打ち合わせられることはなかった。集落めがけて駆けてきた早馬の知らせが、こだまとなって届いた。

「単于よりのお達し! 匈奴の全兵出陣の用意! ――漢を討つ! 漢を討つ!」

 知らせは竹の海を泳ぎ、さざなみとなって幾度も押し寄せた。



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第十四話 訣別

 早馬の知らせに岳も呂布も趙雲でさえも動きを止めた。信じられないという顔で、だが苦渋に満ちた表情で岳が呻いた。その岳の様子に呂布は気もそぞろになり、自然趙雲も興が削がれたと槍を下ろした。

「戻ります。普通の知らせじゃない……念のため二人はここに残って……ほら、さっさと仲直りして。恋、こちらはこの人とは知らぬ仲じゃないんだよ。趙雲殿、彼女は私の友達です」

「……私の名は趙雲、字は子龍。李岳殿とはじゃれついていただけだ。誤解を招いたようであいすまなかった」

「ほら、恋も」

「呂、布……奉先……」

 まだ納得いきかねるという表情だったが、呂布も促されるまましぶしぶ頭を下げた。

 見たこともない漢人がうろうろしていては誤解を招きかねない。岳は一人でつるはしや道具をまとめて村へと戻った。竹林を出ると香留靼が塩山で働いていた連中をまとめ上げて下山させているのが見える。人々は騒然とし、常日頃の穏やかさは雲散霧消していた。

 近年漢からの要請に従って、匈奴の男たちは河北の戦場に駆り出された。黄巾賊の討伐のための戦力として使役されていたのである。走狗の如く扱われているとしてその不当さに顔をしかめる者も少なくなかったが、それが漢と匈奴の力関係を表しているとも言えた。論功行賞においても匈奴は朝廷に出仕することは叶わず、おざなりな対応で慰められるのが関の山。だというのに現在単于の位にある羌渠は漢の威信に怯え、息子である右賢王於夫羅に言われるがまま頷くだけの惰弱な傀儡である――多くの部族の人々から信を失っていた。

(だが、確かに漢を攻めるって聞いたぞ……どうなるんだ、声を大にして招集するってことは中途半端な略奪じゃない、侵攻ってことだろう……そんな大事件あったか? さっぱりわからん。匈奴の歴史か……元々何人か単于の名前に見覚えがあるくらいだからな……困った)

 岳は村に戻り何人かを捕まえたが要領が全く得ない。やがて戻ってきた香留靼と話してみても、彼もさっぱりわからないということでお手上げだった。早馬で駆けてきた男は幾重にも取り囲まれては質問攻めにあっており、おおよそのことは聞き耳を立てていればわかった。曰く、漢の走狗から匈奴は訣別する。彼奴(きゃつ)らの要請を受けたものとして匈奴は二十万の大軍を動員、漢に入った後に反旗を翻し洛陽を攻め落とす――とのことだった。

「どう思う」

 香留靼の訝しげな声に岳は束の間考えてから答えた。

「今はまだなんとも。洛陽ということは、河南にまで攻めこむつもりなんだろうけど……兵数が二十万……ひどいことになる」

 匈奴における徴発や動員は多数あるが、それは全て部族単位で行われるものであり、近くに住んでいるといっても岳は部外者扱いされるのが常であった。数年前の鮮卑との戦は偶然居合わせただけであり、その後何度も卒羅宇に戦に立たないかと誘われはしたが命令を受けたことは一度もなかった。が――今回の規模、岳自身が参軍することはまさかありえないと考えていたが、他人事だと言うには規模が大きすぎた。記憶の中にある歴史知識との違いに岳は困惑した。

 しばらくして早馬の男への質問攻めが収まり始めると、李岳と香留靼もいくつか話を確かめたいと近寄っていった。どこか興奮気味の男は、李岳の顔を認めると嬉しそうにその手を取って喝采を上げた。

「おお、李信達様ですね! おめでとうございます! 右賢王直々のご下命により、貴方は匈奴軍二十万の先鋒を任されることになりました!」

「……は?」

「名将李広のご子孫だなんて……その方が今や匈奴の側に立ち、漢に矢を向ける、心震えます!」

 心がひやりと冷えたのを感じた。手が先ほどまで手にしていたつるはしを求めて宙を泳いだ――その時、香留靼が飛び出し男の顔をしたたかに殴り飛ばしていた。辺りが騒然としかけたが、香留靼の声はそれら全てを圧する程の威であった。

「貴様に誇りはないのか! 自分が先鋒に選ばれたかったくらい言ってみろ!」

 呻く男を残して、香留靼は岳の腕を引っぱった。李岳の横顔にぞっとしながら、おそらく自分があの男を殴っていなければこいつはつるはしで打ち殺していただろうと半ば確信してしまうほどの冷たい表情であった。

「岳……」

「一人にしてくれないか」

 香留靼を振りほどき、李岳は人の輪から外れ遠くを見やって立ち尽くしていた。香留靼はとても声をかけることなど出来ずその後ろ姿を痛々しく見やった。

(なんて背中だよ……)

 李岳の気持ちを慮ると香留靼は馬に飛び乗ってどこまでも駈け出してしまいたくなった。そして天に地に怒りをぶつけてしまいたくなる。李岳は匈奴の土地に生まれ育ち、今も胡服を身に纏い馬に乗る。出で立ちだけを見れば匈奴そのものだが、やはり明らかに違いがあるのだ。それが先祖から受け継いだ血統のためなのか、それともこの男特有のものなのか香留靼にはわからなかったが、李岳が匈奴と同じくらい漢にも思い入れがあるということは傍から見てもよくわかった。

 根が暗いのか、自分から笑い話を仕掛けることなど全くないような男だったが、ここ最近の変化に香留靼は内心喜んでいた。塩の密売から始まり、匈奴を巻き込んでの発掘作業――それを取りしきる岳の嬉しそうなこと! 付き合いは長かったが、彼がこんなにも目を輝かせて何かに打ち込むのを香留靼は初めて見た。

(だってのに……)

 誰とも同じくすることの出来ない苦悶が、李岳という男をいま引き裂こうとしている。李岳は香留靼にだけちらりと漏らしたことがあった――漢人も匈奴もひとところに暮らすことが出来ればきっと双方によいことが起こる、両方の血を受け継いだ自分にならそれがなせるかもしれない――淡い夢だ、だが明るく価値のある夢だと思った。そして李岳が望むのならどんなことでも手伝おうと香留靼は心に決めていた。だというのに、この知らせ。香留靼は叫び声を上げてしまいそうになる衝動に全霊を持ってこらえていた。

 既に塩山の麓は騒然とし、仕事どころではなくなっていた。女性は皆、自分の子供を抱きしめて不安そうに俯いている。男も時折威勢よく張り切ってる者以外は憂鬱そうな顔を隠さなかった。香留靼はただ傾きゆく日を、肩を落としたまま眺めるばかりの李岳の後ろ姿を見ることしか出来なかった。なんという細い肩だ、震えているじゃないか、まるで女のそれだ、だっていうのに二十万の匈奴軍の先鋒に立って漢を攻めるだと? 李広の子孫だと吹聴されるがままになって――それは李岳に対する愚弄に他ならず、耐え難い辱めに他ならない。

 とうとう香留靼は李岳の隣に並びその肩を抱いた。はじめは嫌がるように押しのけてきたが、構いやせんと腕に一層力を込めた。岳はやはり震えていたが、その目はまっすぐに夕日を貫き赤々と燃えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方になると匈奴の都へ行っていた卒羅宇が帰参してきた。隣には見慣れぬいかめしい男が立っており、数百騎に届くのではないかという程の兵を引き連れものものしい。

 部族の皆が待ちわびたように卒羅宇の周りを囲み詳細を聞き出そうと質問攻めにした。その人垣を宥めすかしてから卒羅宇は輪を抜け出し岳を見つけると、彼らしからぬ大仰な笑いを響かせながら近寄った。

「李岳よ、此度の大任、まことに素晴らしいな! 飛将軍の子孫だけある。右賢王於夫羅殿の抜擢に必ずや応えるのだぞ!」

 卒羅宇の口から信じがたい言葉が飛び出し、香留靼は我が耳を疑った。何度も先祖を褒め称えながら、その才は必ずお前にも受け継がれているとしつこく誇示し岳の肩を何度も叩いた。香留靼は慌てて李岳を見たが、まるで予想外のものを目にしてぎょっとした。先ほどの早馬の時とは違いその顔には満面の笑みが浮かべてあった。

「ええ、憎き漢に先祖の恨みを返すことがようやく叶います。これほどの誉れはありません」

「――おお! そうか、見事な覚悟だ!」

 卒羅宇は何度も岳の肩を叩きながら、時折意味深な力強さで握りしめた。

「……今年もまた黄巾賊の討伐をせよと、漢より出兵を求める書が届いた。右賢王於夫羅殿はそれに乗じて河北に攻め入る計画を立てた。雁門関より長城をくぐり抜けた先で、洛陽に向けて馬首を巡らせるとのことだ」

「兵力は二十万と伺いましたが」

「確かに、そう号された」

「進発の日取りは」

「……匈奴の都では既に準備が整っておる。進発は十日もあれば始まるだろう。道中、参集する兵を糾合しながらこちらへ向かってくる手はずだが、全ての部族の兵力を結集するには時間がかかるやもしれぬ」

「では私も急ぎ支度にとりかからねばなりませんね」

「……先鋒は大役だ、相談があればなんなりと申せ」

「ありがとうございます」

「今宵は戦勝を祈願して宴会を開く。李信達、出席せよ」

「はい。ところで、お隣の方は……」

 先程から卒羅宇の隣で肩をいからせている男に李岳は目を向けた。於夫羅に迫らんとする見事な体躯に長く縮れた髪、そして殺気を毛程も隠さなかった男は、李岳をまじまじとと見ると嘲りを隠そうともせず鼻を鳴らした。

「紹介しよう。右賢王於夫羅殿の弟君、呼廚泉殿だ」

「……名高き呼廚泉殿に拝謁できて恐悦至極でございます」

「こんな小さい男が何の役に立つというのだ……李広の子孫だと? 貴様、腕に覚えはあるのか?」

「……若輩者ですが、粉骨砕身いたします」

 呼廚泉は鼻が突き合うのではないかと思うほど李岳に顔を寄せて凄んだ。傷口のような縦じわが眉間を二つに割っている。

「貴様、惰弱な漢人の血も流れていると聞いたが役に立つのか? こんなやつが俺の代わりに先鋒を務めるだと? ふざけているのか貴様!」

「呼廚泉殿」

 呼廚泉は今にも李岳の首に手をかけようとしたが、卒羅宇が間に入らなければその手が同じように宙で止ったかどうか定かではない。一軍を指揮するには荒くれに過ぎるが、なればこそ武力においてはあるいは兄を上回るのではないかともっぱら噂される呼廚泉であるならば、その片腕でさえ李岳の細首をねじ切るに余るであろう。

 促され岳はその場を離れたが、卒羅宇に対して呼廚泉は未だ鼻息も荒くひどく汚い言葉で侮辱してはわめいていた。周りの部族の者達も皆しかめ面をして呼廚泉を憎々しく見ている。どうやら卒羅宇のことも罵っているようだった。

 無感情にそれを見やっていた岳がきびすを返して歩いて行くのを、香留靼はとても一人にはできないと追った。隣に並んで横顔を除くと、憎悪に燃える瞳が揺れもせずに真っ直ぐ前を見据えていた。どういう風に、なんと声をかけたらよいかわからず香留靼がやきもきしていると李岳の方から話しかけてきた。

「……卒羅宇の叔父上には感謝しないとね」

「……は?」

「お陰で生き延びることができた」

 訳がわからないと香留靼は声をあげようとしたが、それを手で制して物陰まで岳は歩かせた。周りに誰もいないかをしつこく確認してからのち、絶対に大声を出すなと念を押してから岳は言った。

「あそこで俺が嫌がったら、呼廚泉に切られてたよ」

「……なんだって」

 香留靼は茂みからそっと顔を出して卒羅宇の方に目を向けた。族長の隣には先程の男が未だ険しい顔をしたままきょろきょろと何かを探すように首を回している。

「間違いない。殺気が隠しきれてなかった」

「な、なんでだよ」

 香留靼には訳がわからなかった。わからないことだらけだ! と声を大にして叫ぶことができたらどれだけ楽だったろう――だが李岳は相変わらず声をひそめて、秘して漏らせぬ陰謀の内訳をこぼし始めた。

「さあ、気に食わないんだろうな。まあ理由はどうとでもなる。実は漢の間諜だったとか何とか言えば誰も反論できない。飛将軍の末裔だとか持ち上げた所で、やはり漢人の血は裏切り者の血だ、とでも言えば格好つくさ。だいたい、家にも帰るなだなんて信用してないって言ってるのと同じだ」

「……だが」

「於夫羅が俺を取り立てるなんてあるわけがない。先鋒っていうのも体の良い厄介払いだ。俺の下についたとしたら悲惨なことになるだろうね。援軍もよこされなければ糧食も回ってこないに違いない。あの手この手、さ」

 それはない、いくらなんでもそこまでの事があるわけない――香留靼は反論しようとしたが、それを許さぬほどに岳の顔は緊張と怒りで苦みばしっていた。悶々としたものを抱えながら香留靼は李岳と並んでしばらく物陰から様子をうかがった。ゲルの中から多くの人が出てきて卒羅宇を取り囲み進発の日取りや人数を聞き出している。が、二人のいる場所は離れているので話の中身はまるで聞こえない。顔を覆って嘆き悔しがる女性の声だけが原野に響いている。

「これから、どうする……?」

「……香留靼、俺は漢と戦うなんて出来ない」

「ああ」

「……とりあえず、家に戻るよ」

 岳は卒羅宇の側から呼廚泉が離れたのを見て取ると、竹林の奥にいるはずの呂布と趙雲に自分の家に来るよう伝えて欲しいと頼んでから、背を向けて原野を走り始めた。呼び止めかけた香留靼の声に気づかない振りをして、一目散に駈け出した。

 腕を振って全力疾走する、踏みしめる草が柔らかく耳心地の良い音を立てた。自分でも驚くほどに精神が溌溂としているのを感じる。怒りと悔しさで頭脳はまるで酩酊しているかのように火照り、筋肉は必要以上に躍動する――怒りは時に人にどす黒い希望を与えることがある。

 

 ――どれほど走ったか、とうとう岳は倒れこみ、息を荒げて汗も流れるまま空を見上げて声を上げて笑った。気づいた時には夕日はとうに西の空に沈み夜空には瞬く星が敷き詰められていた。

 

(なんて間抜けなんだ! 戦乱を避けて生きていくつもりがこれだ……塩はもう無理だな。先鋒なんて冗談じゃない、逃げるほかない……父さんをお連れしないと。問題は機会があるかどうかだ、ぐずぐずしてたら身動きがとれなくなる……今日か明日にでも出ないと。ふ、ははは。漢人と匈奴が仲良く暮らす町? はっ! 飛んだお笑い(ぐさ)だな)

 地を覆うばかりの匈奴のつわものが、漢の朝廷の要請に従って黄巾賊を討ち滅ぼすため要害・雁門関を超えて河北に入り込む。しかし一度長城を超えたが最後、匈奴は仮初の姿をかなぐり捨てて、黄巾賊ではなく漢の都、洛陽を急襲し天下を内側から食い破る――岳の記憶にはない恐ろしい計画だった。なによりそれが実現の可能性のある計画だということが驚きでもあった。

 だが見積りは甘いだろう、と岳は思った。洛陽を落としたとしても、皇帝を手中に収めたとしても周囲の軍が黙っているわけがない。包囲網を敷き匈奴は必ず負ける。双方に夥しい死体を積み上げた後で、平原を塗り替えるほどの血が流れた後で――

 あるいは止める手段があるかもしれない、と岳の中に一つの案が浮かんだ。

 どうにかして激突を避け、流血を防ぐ方策――だがそのためには様々なものを捨て去らねばならない、岳自身今までのように生きていくことは叶わないだろう。それは父の弁の側にいられないということでもある。李岳は浮かんだ案をかなぐり捨てて、大きく息を吸って吐いた。

 汗で全身が濡れそぼり、大草原の強い風に体は冷え切ってしまうかのように思えたが体は熱くて熱くて仕方がなかった。草木の息吹に包まれて深呼吸をしながら岳は存分に孤立を味わった。沸き立つ怒り、悔しさに身悶えしながら草むらを転がる。何も出来ない、何をしようにも限界を覚える。いまや全てが忌まわしく、岳は不貞腐れて叫び声を上げた。もうどうとでもなれという気がした。馬鹿みたいな夢を描いたが、絵空事はその端緒に至るまでもなく瓦解したのだ。そしていま、想像を絶する未曾有の惨事が大勢の人を巻き込もうとしている――岳は天を見上げた。

 

 ――天空には無数の星がきらめき、その一つ一つが自分を嘲笑っているように思える。

 

(星か……死んだ人は星になるって、この世界でもそうなのかな。いや、だったら俺がなんでもう一度生まれ落ちてるんだってことになる。星になれたらよかったのに……くそ、言ってる場合か、岳! 時間はないんだぞ。考えろ、考えるんだ。状況は多分俺が考えている以上に切羽詰っている……父さんを迎えにいかないと)

 弁を連れて漢の町に入り、そこで暮らす。元手もないし伝手もないがこの場で殺されてしまうよりましだ。だが問題は匈奴軍の標的となる町ではまたすぐに逃げ出す羽目になるということだった。洛陽、長安、弘農周辺はどれもだめだろう。兗州、豫州、徐州も視野に入れて逃げなければいけない。いっそ荊州に逃げる、あるいは巴蜀……どれだけの戦乱が巻き起こるかわからない、岳はもう自分の中の『三国志』の知識すら当てにならないものとしはじめていたが、三国鼎立は成るのか、官渡は、赤壁はどうなるのか――歴史の前提が覆されることになれば、これから行き着く先も全く白紙のものになってしまう。

 脳裏に弁の小さな背中が浮かんできた。いつかより曲がり、小さくなってしまった背中。もういい歳だ、そのような体で争いに巻き込まれたらどうなるのか――戦乱は起こるかもしれない、多くの人が苦しむかもしれないが、だが身内の一人を投げ捨てて何が成せる。父を守ろう、と岳は立ち上がり再び駆け始めた。今宵の内に出奔する。今ならばきっと長城を越えて漢に逃れ出ることができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弁は鉄を鍛えており、飛び込んできた岳に怪訝そうに眉根を寄せたがすぐまた炉にむかった。岳は弁に向き直ると、匈奴が漢の地を侵犯することを目論んでいること、先祖の名を穢された上に自分を先鋒に取り立てようとしていること、その真意が殺意に基づいていること、このままでは弁も危ないこと、そして漢の地に移り住み難を逃れなくてはならないということを切々と訴えた。

 ひとしきり説明を聞いた後、弁はじっと岳の目を見据えてから言った。

「私はここを離れるつもりはない」

「で、ですが」

「お前は一人で行くのだ」

 岳は弁がまともに判断できていないのではと束の間疑った。岳が出奔すれば当然弁にも類が及ぶ。先鋒という大任を預けられたのに漢の地へ逃れたとあっては、内通したと言われても言い逃れはできない。当然匈奴はこの家に踏み込むことになるだろう。

 だが岳が弁に問いただそうとしたことを、逆に弁が岳へと問うた。

「お前はそれでいいのか。冬至」

「……何をおっしゃっているのです」

「匈奴と漢が相争う地獄が始まろうとしている、それでよいのか」

 弁は静かだった。焼けた鉄を今までうち鍛えていたせいで、額には幾筋もの汗が浮かび滴っている。深くひび割れた顔、手にも深いしわが刻まれており、厳しい冬を何度となく越してきた経験は全てその体に浮き彫りになっている。岳は弁が好きだった。弁の寡黙さが好きだった。だが今饒舌に語る弁の言葉が、岳には一向に理解できなかった。

「漢にも匈奴にも私たちは(えにし)がある。そのどちらかに身を捧げることを正しいとは思わん、逃げるのも悪くはないだろう。だが、お前の目はそう言っておらん気がする」

「……いえ」

「方策が思い浮かんでいるのではないか。誰かを救う方策が。あるいは思い浮かぶ前に打ち消したのか?」

「私は」

「父にはわかる」

 弁が手を伸ばし、何かを探し求めるように揺れた。弁の手を取り、自分の頭へ誘った。岳にはわかっていた。弁が近頃全く外へ出なくなったこと――目が(めし)い始めていることを。

「自分に嘘をつくな。よいのだ……もう良い。私のことは気にするな。私は子の重荷になりたいとはちっとも思っていない。お前はよくしてくれた。何も返せなくて恥ずかしいくらいだ。私は幸せものだ」

 

 ――いい暮らしをさせてあげたかった。

 

 鍛冶師として生きているといっても、この并州の最北端の寒さの中で暮らすのは辛い。ろくな蓄えもない。日々の狩りで何とか飢えずにいるのが精々で、それさえ冬になれば見る間に目減りする。おいしいものを食べさせてあげたい。前世では親孝行なんて考える間もなくこの時代へ来た。だから人生二度分も親孝行をしてあげたかった。大きくなくても住み心地のよい家、温かい食事、食後には茶の一杯……だが弁の掌はどこまでも無骨で、骨ばっており、優しく岳の頭を撫で続ける。岳はとうとう無様に泣き始めた。

「父さん……どうか一緒に逃げてください……」

「もう言うな。よい、私はひとりでも生きていける。お前に狩りを教えたのも、獲物の血抜きを教えたのも私だ。卒羅宇もいる。よいのだ」

「ですが……」

「頼む。冬至よ、私を振り払え。くびきを抜くのだ」

「父さんを、くびきだなんて思ったことはありません!」

「わかっている。だがお前は特別なのだ、私などとは違う」

 弁が何かを思い出すように遠い目をした。瞳を閉じて、思い出のほこりを払うように静かに話しだした。

「……生まれは秋だな」

「はい」

「なぜ真名を冬至というか、教えてなかった」

 ついて来い、というまま岳は弁に連れられて外へでた。手を握り合って弁が躓かないように助けながら、二人は星で橋がかかっていると思わせるほどの満天の下に立った。

 李岳、字は信達。どれもありふれた名前と言えるだろう。だが真名にはなぜか『冬至』と付けられていて、それを問いただしたのも一度ではない。

 何度聞いても決して弁は答えようとしなかったし、頑なに首を振るばかりだった。

「私と桂の間には長い間子供が出来なかった。事情があり、中々会えない日々もあったが……子を諦めかけたその時、二人で冬至の祭りに出かけた。そして別れようとしたとき、天空に輝く一際大きい天狼星から、一筋の星が流れてきて桂の体を貫いた……」

 弁が空を指さした。天狼の星は冬に見える、夏の今では見当たらない星ではあるが、恐らくその指さした先に十数年前の冬の日、天狼星は輝いていたのだろうと岳は思った。

「天の御遣いという伝説が漢にはある……戦乱に喘ぐこの世界を救う、天より舞い降りた使者だという……一年のうち、冬至とは最も暗き日だ、太陽が一番衰える……だが再び太陽が力を取り戻す日でもある。この動乱の世に天から真冬の暗き日に遣わした子……嘘みたいな話だろうが、本当なのだ。その後、早産で体も軽かったが、お前はちゃんと育ってくれた」

 岳はかぶりを振って弁の言葉を遮った。確かに前世から生まれ落ちた、そのことを弁に言うつもりもない。天から星が落ちてきてそれが宿ったというのも自分の境遇を考えれば不思議でも何でもない。だがそれがどうしたというのだろう、なぜ父は自分を他人のように語るのだろう。岳は涙と鼻水にまみれた顔で、搾り出すように言った。

「私は、私は父さんの子です……父さんと母さんの子です」

「――母を恨んでいるか」

「いいえ」

「私はあれを愛した。あれは武人だ。漢の土地で名を上げ、一軍を率いている。丁原という名だ」

「まさか、并州刺史の」

「……并州で、匈奴に対して矛となり盾となった。私のような漢人か匈奴なのかわからぬ者を好いたがために、苦しみ悩んだようだ。戦乱の世だ、お前を産んでからもろくに会いにもこれない。敵同士と言える。しかし紛れも無く家族だ。その矛で突くことも出来ず、盾で守ることも出来ず……私があいつを苦しめた」

 二人共おくびにも出さなかった。岳に対してまで隠し通していた。

「本当ならお前が二十歳を越えた頃に血筋のことも含めて伝える予定だったのだが、全てはままならんものだ。お前があいつを――桂を恨まずにいてくれて私は心底嬉しかった。そしてあいつも、その何倍もうれしかっただろう。素直ではないから、厳しく当たっていたようだが」

「お二人の子で、私は、幸せでした」

 とうとう弁の瞳にも雫がこぼれた。嬉しく、悲しかった。愛は深く、その分根強く息子を縛ってもいる。それを解き放つ時がきた。

 弁は岳の体を正面から抱きしめてから言った。

「大きくなったな……本当に、本当に……」

「父さん……!」

「だが、もう良いのだ。冬至、走れ。翔ぶがよい。お前には翼がある。意志も力も備わっている。それを押しとどめることは許されない。此度の戦乱もきっと思し召しなのだ。時期がきたのだ――天から戴いた子を天へと返す。何の躊躇いもない」

 父の言葉が岳の体の中で反響し、隅々にまで染み渡った。翔べ――

 

 ――そのとき、ふと岳の頭の中で音がした。乾いた薪が爆ぜる音、馬の蹄が枯れ枝を踏む音に近かったが、周りには自分たちの他には誰もいない。だが音は聞こえてくる。それは岳の内側から聞こえてくる。

 

 やがて音だけではなく、目眩を呼び起こすような火花が、細かい電流の輝きのように岳の瞳の中でバチリバチリと爆ぜては明滅した――火花は美しく、鮮烈でありながら儚かった……まるで人の生き死にのように。人の死を想起させる精神の発火。今、岳の心の中で何かが死んだ、そしてそれを苗床にして新たな心が復活し再生している。

(火花――)

 言葉にならない気持ちが自分の奥に潜んでいる。それが考えとして現れる前に火花として爆ぜた。言葉にはならない……だが、何を行えばいいのか、今、李信達にははっきりと理解できていた――岳は自分に一体何が起きたのかということを冷静に悟った。李信達という男の中にある枷、それが粉々に砕け散った火花だった。

 岳の顔を見て弁は全てを悟ったように頷いた。言葉はいらぬ、目が盲したとしても子のことなら全てがわかる、それが親というものだ。子は巣立つ、その時が到来しただけである。喜びでもって迎えるべきで、悲しみはいらないのだ。弁は立ち上がり、粗末な家に戻ると自分の寝所の床の板を引き剥がした。そして奥から長い木箱を持ち出すと、中身を取り出して岳に渡した――それは一振りの刀剣であった。

「これを持って行きなさい。彗星が桂の体を貫いた時、地をえぐった隕鉄から打ち鍛えた一振りだ。天狼剣と名付けた」

 刀身は黒光りし、薄く、軽いが怪しいまでの艶がある。魅了し、蠱惑するように光を照り返した。

 既に弁から授けられた血乾剣は刀身が短く護身用と言えたが、天狼剣と銘打たれた一振りは長刀であった。まさしく戦場でこそ活き、その真価を発揮する刃であった。

「もう迷うな。もし迷った時は、気高きに(したが)え」

「気高きに順う……」

「思うがままに生きよ、冬至」

 うなずき、岳は天狼剣を受け取った。鈍く輝く刀身、虚空のような深み、そして生まれる前から側にいたような落ち着き――李岳は立ち上がり、最後にもう一度弁の手を握って抱きしめた。弁の手は岳の頭を撫でた。父の温もりをいつまでも覚えていようと、子の暖かさを終生残しておこうと。

 やがて岳は立ち上がり、天狼剣を腰に佩くと家を出た。弁が見送りにやってくる。側には何かを察したように山羊の点もいた。その体を何度か撫でてやると、岳は歩き始めた。もう別れは済ませた、男の別れを。だから振り向くまい、決して振り向くまいと岳は歯を食いしばって前だけを見つめた。背後で弁の大きな声が聞こえたが、それでも岳は振り向かなかった。

「天よ、照覧あれ! 我が子、李信達の行く末に誇りと誉れが満ち溢れんことを!」

 振り向かなかった、涙でくしゃくしゃに潰れた顔など見せられるものではない、翔ぶと決めた。涙もこれが最後だ――岳は走り始めた。思うがままに生きよう、戦いを恐れるな、決して羽ばたくことをやめまい、気高きに順おう! 大平原、月と星に照らされ煌くは鴈門の山。その目前を駆け抜けながら、もう二度とここへは戻れないという気がした。その予感は正しく、李岳はその死を迎えるまでこの土地をついぞ訪れることはなかった。



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第十五話 誇りの代償は死

 一刻も進むと向こうから白馬が進んできた。岳は大声で呼びかけて招き寄せた。遠目にも趙雲が乗っていることは明らかだった。

 香留靼はしっかりと言伝を伝えてくれたようだ。人目を盗んで集落を抜け出し、自分の家に向かうようにと頼んだ。

「李岳殿、乙女を捨ておいて先に行くとは感心しませんな」

「お叱りついでに運んでもらいます。折り返しますよ」

「ほう、何か企みですか」

「そんなものです」

「……様子が変わられたな。何かありましたか」

「父と今生の別れを済ませてきました」

 そう言って馬の背に飛び乗ると、岳は趙雲の体に手を回した。趙雲の馬――白龍は二人が乗っても何ほどのこともないというように駆け始めた。草原の風に乗り草露を蹴立てて白龍は匈奴の集落へと向かう。

 趙雲は自分に体を預けている男の鼓動を背中で聞きながら、その早鐘を打つような律動に俄然興味が沸いた。李岳は気軽に別れを経てきたと言ったが、人に軽々しく立ち入らせない響きもこもっていた。静かだが、まるで別人のように覇気たゆたわせている。佇まいが一回り二回りも大きく見えるし、世を拗ねたような感じが綺麗さっぱり消えていた。

「これは、楽しくなりそうだ」

「さてね。ところで恋――呂布は一体」

 ああ、と趙雲は苦笑交じりに答えた。曰く、どうしても趙子龍のことが気に入らない、仲直りといってもつるむ気にはならない、白龍は可愛いが相乗りをするつもりもない――言葉はなかったがなお雄弁に彼女の態度はそれを物語っていた、と。であるのなら趙雲はよく一人で見知らぬ土地を進んで走ったものだと岳も内心呆れた。どうとでもなるだろう、と適当なことを考えていたのかもしれない。

「面白い人柄だ」

「子龍殿が変に絡むから。いい子なんですよ、ただ素直過ぎるというか」

「そして腕も立つ」

「間違いなく天下無双の一人です」

 趙雲は黙ってうなずき半日前の対峙を思い出していた。趙雲はあの時死を覚悟した。負けを確信したわけではないが、覚悟をもって立ち向かわなければ容易く蹴散らされてしまうだろうと思ったのだ。自らの武を打ち鍛え幾度と無く死線を越えてきた。その真髄を披露するにこれほどの好敵手が他にいるとは思えず、趙雲は喜びに打ち震えながら槍を向けた。

 邪魔が入らなければ一体どのような有様になっていたか、趙雲本人にすら見当がつかない。呂布、という名前を趙雲はその胸に刻み込んでいた。

「万夫不当よな。良いのかな、このような場所に逼塞して」

「このようなところとは言葉に過ぎる」

「失礼。だが勿体無い。出るところに出れば必ずや頭角をあらわすであろう。一廉の人物として抜きん出るに違いない」

「――過ぎたるは及ばざるが如しという言葉もあります」

「ほほう。論語から引用するとは、李岳殿はどこぞで私塾にでも通っておられたのかな」

「さて、今は恋の話ですから」

 呂布は確かに強く一対一で向き合って負けることなどそうありはしない。いや多対一でさえ滅多なことでは負けないだろう。一薙ぎで十人を蹴散らし、一振りで敵陣を食い破ることさえできるやもしれぬ。だが果たしてそれが呂布という少女の幸せに繋がるのだろうか。本人さえ苦しめてしまうような才は真に天からの授かりものと言えるのだろうか――李岳の懸念は趙雲にも痛いほど伝わってきた。

「いくら世の目を避けようとしても、嚢中(のうちゅう)(きり)という言葉もある」

「そうですね、あれほどの才です。生半な袋など容易く突き破り人目に付くでしょう。ですが刀が鞘に収まるように、錐も箱にしまえば袋から飛び出ることなどありません」

「とはいえ誰しもが良い錐を追い求める時だろう。箱にしまうことを忘れるほどに誰もが握りっぱなしだ」

「自分でこしらえれば良いのです。拾い物を手にしようなどと」

「良い値で買い上げようとするなら悪くはなかろう」

「そもそも、錐を錐としてちゃんと使える人がどれだけいますか。辺り構わず振り回して、傷つくのは錐ばかり。血を浴びるのも、最後に折れるのも……」

「よほどご心配なようだ」

「……ええ、実はいやな予感もするのです。もう少し飛ばせますか」

「ご要望に応えよう、白龍!」

 趙雲の言葉には応えるが、その意図は知らぬと白馬は稚気のままに快走する

 李岳が心配するほどに、呂布の武力は確かに危ういものだろう。人によれば重宝しすぐに重鎮として取り立てられ、一軍を任される様も容易く想像できる。だが世間は才や力によってのみ評価されるわけではない。世渡り、人柄、時に賄賂――手練手管を用いなければ破滅はある日突如として現れ容易く足元で口を広げる。濡れ衣や陰謀でその命を落としたものが一体どれほどいるのだろうか。確かに呂布という少女はそのような機微には疎いだろう、利用されつくされて捨て置かれることをこの男は警戒しているのだ。

(しかし無頓着よな。嚢中の錐……己もそうだとは気づかないか。そういう意味ではこの男も危うい)

 己に才があるのならば、その才を正しく見積ることも世を渡る上での重要な指標となる。自らの力量と位置を正確に把握できない者は、どの世でもどの国でも破滅の道を知らず選び歩いてしまう。

 趙雲の思惑をよそに、そういえばと思い出したように李岳が言った。

「匈奴の話はどこまで聞いていますか」

「漢に攻め入る、とまでしか。なかなか近づきがたくてな」

「賢明です」

 岳は事のあらましをかいつまんで話し始めた。匈奴の鬱屈、漢からの要請、それを千載一遇の好機と捉えて於夫羅は洛陽を攻め落とす算段であること、そしてその先鋒に自分が指名されていること――趙雲は黙って聞いていたが、岳の言葉が切れたのを待って呻いた。

「右賢王於夫羅、よほどの策士か。なるほど確かにこれは危機といえる」

「於夫羅にそのような才はないでしょう。手引きがあったと踏んでいます」

「……まことか?」

「確証はありませんよ、推論でしかない。ですがあまりにも段取りがよすぎる。於夫羅は大雑把な性格で、武人気質な上に人の掌握が下手だ。だが事態はとんとん拍子に進んでいる。あるいは漢に住まう誰かの思惑が働いているのかもしれない、と」

「……信じがたいな」

「推論ですからね」

 だが半ば確信があるように岳の声音は揺るぎない。そこには間違っていても構わないという余裕すら見えた。所詮推論、状況が変われば論も千変万化するのだとばかりで、この男の中にいくつの推論が並行して走っているのかと思うと肌に粟の立つ思いだった――切れすぎる、錐にしても嚢どころか板すら容易く貫くだろう。だが果たして漢の世界にこの男が益するとは限らず、害をなすならば――

「それで、どうするのだ。先鋒を務めるのか?」

 趙雲は手元の槍を気づかぬように手繰り寄せた。呂布を一廉の人物と評したが、それを言うのなら目の前のこの男は比してなお危険であると趙雲の神経は過敏に訴えている。呂布が将であるのなら、李岳は将の将――人を使い操る男だ。この男が総勢二十万にも上る匈奴の兵を従えて漢に牙を向けるというのなら、今の内に討ち果たしておかねば全てが危うくなる……だが李岳の答えは趙雲の予想の真逆を行った。

「まさか。さっきまでしっぽを巻いて逃げ出そうとしていたのですよ」

「逃げる?」

「ええ。父さん……父上をお連れして、南へとね。ですが考えなおしました。私に策があります。流血を最小限に抑える策が――そのためには趙雲殿、貴女にも一役担っていただかなくてはなりません」

 この私を脅すか――腰に回された手が、あるかなきかのかすかな力加減で趙雲の体を締めた。自らを殺せばその策は永遠に封じられるぞ、と……

 やはり変わった、と趙雲は思った。昼間に打ち合ったのらりくらりとした男と同一人物とは思えない。いや、幽州で初めて出会った頃に逆戻りしているのではないか。開き直ったかのように全てを見通し、あらゆる手段を講じて戦いに挑もうとしている。危機を脱して故郷に戻り、再びかぶった化けの皮をいま脱ぎ捨てて、真に求めるところの己へと戻っている。

 やがて李信達の口からこぼれた秘めたる策は、趙雲を驚愕させるに余りあった。

 この地へ、この男へ会いに来てよかった――趙雲は疾駆する白龍の背で声を上げて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時はわずかに遡り、李岳が呂布と趙雲と別れた直後のことである。

 呂布は不貞腐れていた。目の前の青白い髪の女も気に食わなければ、自分を置いてさっさとどこかへ行ってしまった李岳も気に入らなかった。引き止める趙雲の言葉を気にも留めずに呂布はその場を離れた。付かず離れず隠れていたセキトが飛び出してきて呂布の体にまとわりつく。舌を出して喜ぶセキトをあやしながら、呂布は匈奴の集落へと向かった。

 人々は驚きの知らせに騒然としており、常とは違う慌ただしさに呂布もいささか戸惑ったが、漢を攻めるという言葉も長城を突破するという言葉も、呂布には何の実感ももたらさなかったので気にせずセキトとじゃれ始めた。

 やがて周囲の大人の気配に怯えた匈奴の子供たちが呂布を遠くから囲い始めた。不安げでいらつき、怒りっぽくなったり悲しみ始めたり――そんな大人の中でも常と変わらないのは『力持ちの姐さん』だけだったから。それとなく手招きすると、子供たちは恐る恐る呂布に近づき、順番にセキトに触れ始めると程無く笑顔が蘇った。呂布は子供も好きだった。

 夕闇の迫り来る頃まで恋は子供たちと遊び続けた。そろそろ明かりも乏しくなり、一人二人と母や父の元へ帰っていく。最後には一人の少年だけが残ったが、彼はいつまでも帰ろうとはせずセキトとじゃれついている。呂布は何も聞かずにその間に入って一緒に遊んだ。四方に松明が灯され人影が幾重にも重なり踊る――やがて、もう一つの影が不意に加わった。

「こんなところで何をしている」

「……遊んでる」

「遊んでる? ふざけてるのか貴様! 知らせを聞かなかったのか、戦の支度を整えんか!」

 男は呼廚泉麾下従軍二年の若武者で血気盛ん、此度の遠征もまだかまだかと待ちわびる程の高揚で心身を充実させていた。戦乱が程なく訪れようとしているのに山と有るはずの支度を疎かにしたまま子供と遊んでいる――男にはこの女がだらしのない母に見えた。男は、そもそも漢と近く時には行き来さえするこの南端の部族が元より軟弱だと決めつけては嫌悪していた。

「……うるさい」

「なんだと」

 子供は怯えてセキトを抱いて後ずさった。その子を庇うように呂布は男に立ちふさがると、正面からその目を見据えた。呂布の背は女性にしては高いが男を凌ぐ程でもない。傍目には呂布に分があろうはずもなかった。

「貴様、匈奴のものではないな……漢人か?」

「……」

「答えろ! さもなくば」

 男の声はゲルの間を駆け抜け、それに気づいた多くの人が何だ何だと出てきてたちまち人垣を築いた。はっ、と息を呑む女衆たち。男の手は既に腰の柄にかかっていた。

 李岳の連れてきた口数の少ない女の子は、無愛想で手つきも怪しいが、村の山羊や馬の世話を率先して行う心優しい働き者……集落の母や娘で針繕いや酪の作り方など様々なことを教えては笑いあった。その娘が子を庇って都から来た荒くれ者を相手に一人立ち向かっている――呂布は知らなかったが、最後まで残って遊んでいた子は先年流行病で両親を失ったために、集落の皆で育てている孤児であった。女たちは誰もが居ても立ってもいられず、飛び出して呂布の前に立った。

「なんだい! あんたうちの娘になにしてんだい!」

「そうよ! 女子供に凄むのがあんたの仕事かい!」

「……貴様ら。この娘は漢人であろうが。今から漢を攻めるというのに、その知らせを持ち帰られたらどうする!」

「この子は私達を救ってくれた李岳将軍の連れ合いなんだよ、そんな真似するもんか!」

「はん! 敵に知られて負けるような戦じゃあしない方がよっぽどましさ!」

「こんな娘っ子一人にむきになって!」

 村の男たちはひとところに集まって戦の段取りや協議をしている。呼廚泉の手下として都からやってきた目前の男は、助けを呼ぶ前に踊りかかってくるだろう。女たちは手を握り合って呂布を決して渡すまいと体を盾にして少女の体を取り囲んだ――ひとたびでも同じく仕事をして飯を食い、寝て朝を迎えればそれはもう家族だ。家族を差し出して何の部族、何の集落があろう! 一方の男も戦士としての誇りを傷つけられたとして引くに引けず、とうとう光り物を抜いた。声を押し殺した悲鳴がそこかしこで上がった。

 そんな中、呂布一人だけが心ここにあらずといった体で呆けて立ちすくんでいた。

 なんでこんなに多くの人に庇われているのだろう、とまるで自分がここにいないかのような錯覚を覚えた。自分はただ不愉快な男にうるさいと言っただけだというのに、恐怖に肩を震わせながら自分を囲む何人もの女性たち……呂布にはわからなかった。なぜ自分は庇われているのか、そしてこの胸いっぱいに広がる奇妙な感覚は一体……

 だが何をすべきかは体が知っており、呂布の意志を先導するように自然と動き始めた。

「あ、やめな!」

「……大丈夫」

 制止を振りきって呂布は前に出た。胸を張り、前を見据える姿には欠片も怯えは見えない。眼前に立ち塞がる男はこめかみの血管を浮き上がらせるほどに激怒した。戦士の俺を舐めるか、この女! 良かろう! ならば――そして男は白刃の威力を見せるは今しかないと決心した。柄を両手で握り大上段に振りかぶると、そのまま呂布の頭蓋を立ち割らんとして振り落とした。悲鳴が上がり、周囲の者は皆これから起こる惨状に絶望し目を覆った。当人の呂布を除き、誰もがその死を確信していた。

(……遅い)

 呂布は岳の太刀筋を思い出していた。いつどこから飛び出てくるかわからない攻め、押しても押しても当たらない守り、思考と視野の死角を突く奇抜な動き。天与の速度と膂力で勝負はいつも呂布が上回ったが、一度たりとも油断や侮りはなかった。その全てが真剣勝負、どんなにかすかな刹那でも気を抜けば敗れさってしまう、あの何にも代えがたい楽しく息を呑む緊迫感――それに比べてこの男の攻めはどういうことなのだろう、振り上げ、振り下ろすだけ。それだけで当たるとでも思っているのだろうか、あるいは動きのその次に控える必殺の攻めのための布石なのだろうか――

 呂布は半身を引いて剣を躱した。一刀両断を確信して振り切られた直刀はそのまま激しい音を立てて噛み付いた。まさか避けられるとは思っていなかった男はもんどり打って前のめりに転がっていった。すぐさま慌てて立ち上がったが、屈辱に顔は真っ赤でひどく歪んでいた。間髪入れずに二太刀、三太刀目と繰り出していくがやがてその(ことごと)くが躱しきられた頃、男の目には狼狽しか残っていなかった。

「終わり……? じゃあ次は」

「ま、待て」

「恋の番」

 呂布の右拳は男の顔面をまともに捉えた。振り抜かれた拳が描いた軌道をそのまま綺麗になぞるように、北部地域からやってきた匈奴兵は錐揉みながら弾道軌道で吹き飛び、二間かそこらを地すべりしながら倒れこんだ。呻きながらゴロリと転がったその顔面には、呂布の手による素晴らしい細工が施されていた。

 しばらくの沈黙の後、安堵の溜息と喜びが合わさった奇妙な喝采が沸き起こり、呂布は匈奴の婦人方に揉みくちゃにされた。誰もがその死を確信し、予測した悲劇的な未来は呆気無く覆されたが、胸をつまらせた不安や絶望は嘘ではない。堰が切れたように泣き出す者もいれば、腰を抜かして立てない者もいた。

 大した腕前でもない、勝てて当たり前の戦いで何をこんなに大騒ぎするのだろう――呂布の疑問が氷解する頃、その胸には入れ替わりにこそばゆい照れが入り込んだ。皆、呂布の無事を喜んでいるのであった。

「い、一体何の騒ぎだ!」

 だが騒ぎは余人の知られる程にまで大きくなってしまっていた。集落の者だけならば良かったが、呼廚泉直卒の兵も多数駆けより始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫌な予感ほど当たるという法則は、直面する度に気分が悪くなるものだ。岳は集落の片隅、煌々と焚かれる篝火に囲まれて、異様な程の人だかりができているのを見て舌打ちした。

(宴の余興というわけじゃないだろうな……)

 やはり何が起こるかわからない。趙雲を待たせて岳は態勢を低く保って疾走した。草木に埋もれるような格好で疾く駆ける技は野山で狩りを行う際に身につけたもので、人の目を欺くにも十分な信頼が置ける。

 やがて近づいた先に岳が見たものは、二つに別れて睨み合う匈奴の人々、そしてその中央で五人の男たちの刃に襲われ続けている呂布の姿であった。状況が全くわからない、が、とにかく岳は顔を隠して様子を見た。

 五対一の打ち合いだが普通は問題ないだろう、余程の手練もいないと見える。脇には息も絶え絶えに失神をしている男たちが既に十や二十では利くまいと思えるほどの数で山積みとなっており、それが今まで呂布が打ち倒した相手の数なのだということは疑いようがなかった。

 疲労もあるだろう、敵は武装し呂布は手ぶらであることから不利でもある。が、それにしても呂布の動きは精細を欠いており、なにより岳が怪訝に思ったのは呂布が一つも反撃に及ばないことだった。ただ刃を避け、くるくると弄ばれるように逃げ惑うだけ。五本の刃を躱すのに精一杯で時折繰り出される蹴りに幾度かよろめいている――その度に岳は己の神経が引き千切れるのではないかという錯覚に襲われた。

 反撃に出ない呂布――何かがおかしいと岳が辺りを見回した時、ぐいと腕を引かれて肝が冷えた。引いたのは香留靼であった。

「香留靼」

 声を潜めた岳に応じるように、香留靼も小さな声でまくし立てた。

「漢人だってことであの姉ちゃんが中央から来た匈奴の兵に突っかかられたんだ。そして勢い余って刀を抜いた呼廚泉の手下をのしちまった。二十人抜きしたところで、呼廚泉が提案したんだ。五対一で反撃はなし。その条件で夜明けまで避け続ければ無罪放免って条件をあの姉ちゃんは飲んだ」

「馬鹿な、なぜ飲んだ」

 岳は一瞬で精神を沸騰させた。無謀な条件にも程がある、それを飲んだだと? 岳は目の前が暗くなってしまうのを歯噛みしてこらえた。それを見て香留靼は肩をたたき、気まずそうに付け加えた。

「……お前のことを馬鹿にしたんだよ」

「なんだって」

「呼廚泉さ、お前のことを散々に馬鹿にしたんだ。謝れ、って。呼廚泉は姉ちゃんが朝まで生き残ることが出来ればどんな謝罪でもする、と」

 岳は中央より右手、口元に不愉快な笑顔をたたえた呼廚泉を見た。こんな馬鹿な話があるか、あの顔のどこに約束を守ると書いてあるのか、そもそも侮辱ごときで命を張るなどと何を考えているのか! その内心の叫びをわずかでも口から漏らせばどれほどの大きさの声となったか。

「……なぜそんな横暴を叔父上もお前も黙認している」

「人質を取ったんだ……うちの村の子だ。姉ちゃんが反撃すれば匈奴兵が総出で殺しにかかる、俺達が姉ちゃんに(くみ)すれば漢に造反したとして処断する、と……完全武装した中央の匈奴兵が相手だ、中途半端には動けない……それに姉ちゃんは決闘を飲んだ。決闘の取り決めは匈奴では絶対だ」

「――わかった」

「待て」

 歯噛みは堪えられず、既に口の端には血が滲んでいる。押し止めようとした香留靼さえはじき飛ばして、岳は人垣をかき分け始めて叫んだ。

「道を開けろ!」

 途端、鉈で竹を断ち割ったかのように人が避けた。異様な喧騒も、水をかけたように静まり返り、呂布とそれを囲む男たちの動きもわずかに鈍った。岳はひらいた空間に飛び込むと無用の速さで二刀を抜き、独楽のように回りながら匈奴兵の剣を一息にはじき飛ばした。慌てふためく男たちだが、呼廚泉だけが人並み外れて伸びた犬歯をむき出しにして、浅黒い顔を歪めて笑っている。

「ほほう。とうとう現れたか、臆して漢の地へ逃げ込んだかと思ったぞ、下郎。だが、決闘を邪魔してただで済むと思っているのか?」

 岳は真っ直ぐ呼廚泉を睨みながら進んだ。呂布を囲んでいた男たちは腰を抜かして慌てて遠ざかっていく。

「お前の望みは俺だろう。相手をしてやる。俺を切れば先鋒はお前のものだ。好きにするがよい。一対一が恐ろしいか? 複数がよいか、素手が良いか? 望みのままにしてやるぞ呼廚泉。だから今すぐそこに縛られた子を解き放て……」

「フフフ……放してやる、貴様が勝てばな。助太刀もなしだ。誰かひとりでも助力が入ればその餓鬼の首は飛ぶ」

 呼廚泉にとって願ってもない状況が整い、内心の歓喜で筋肉が蠕動をはじめるほどだった。この男さえ除けば先鋒の名誉は己のもの、そうなれば最高の戦果を得て兄の於夫羅を追い抜き次の単于は己である。自らの武力に絶対の自信を持つ男は、宴にかこつけて李岳という小男をさんざん嬲り、挑発に乗ったところを処断するつもりだったが待てど暮らせど現れない。臆して逃げられては先鋒の確約も取れぬ、この憤り――そんなところにこの騒ぎが起きた、さんざん女を嬲り者にして溜飲を下げることが出来ればそれでよかったが、折もよく元の獲物まで引っかかった、戦果はもはや完全なものとなろうとしている。

 そのような呼廚泉の考えをよそに、岳は呂布を押しのけて前へ出た。

「恋。俺がやる。下がっててくれ」

「冬至……」

「下がってろ」

 有無を言わせぬその口調、呂布は初めて岳に気圧され言われるがままに下がった。拒絶されている、というのがはっきりと分かった。岳は怒っている。呼廚泉に怒り、この状況に怒り、そして呂布にも怒っていた。

 李岳は一度二刀を収めると、用意万端整った呼廚泉に相対した。周囲を取り囲む匈奴の人々の熱気が異様に高まり始める。半円は呼廚泉の麾下、もう半円は卒羅宇の集落の者である。人垣で作られた誰の助けも差し出口もない闘技場が完成していた。

 不意に卒羅宇が身を乗り出してやってくると、二人の間に立った。そして決闘であること、約束は違えぬことを確認しては見届ける旨を宣言した。それで良いのか、と問うような視線を岳に投げかけたが、岳は目線を合わせることすらしなかった。

「よくぞ逃げずにいるな、それだけは褒めてやる。漢人の分際で」

 鼻で笑ったのは呼廚泉ではなく岳であった。開いた口から言葉がこぼれるが、続く罵倒はこの場で同じく怒る卒羅宇や香留靼、他の匈奴の者達でさえ圧倒されるものであった。

「漢人がどうした、貴様は犬畜生にも劣る下衆だ。人質を取り、まるで両手を縛ったような相手に五人がかりで武器も持たせずいたぶるだと? 貴様のどこが戦士だ、どこが王の血筋だ! お前みたいな者をさしてこそ馬鹿という言葉があるのだ、呼廚泉! 見下げ果てたやつだ、単于の子だというのに未だに左右どちらの賢王にもなれず使い走りが精々なだけある、恥を知れ!」

 立て板に水の岳の言葉であったが、それを聞き届けた呼廚泉の表情たるや、何を言われたか理解できないと呆けた表情――それが見る間に赤色となり、汗血馬のように汗を吹き出した。刃渡り四尺に及ばんとする大剣の柄を握り引きぬく。が、それにも臆さず岳は最後の一撃とばかりにその口から放った。

「呼廚泉、貴様は男ではない――!」

 集落の一部で喝采が上がった――男ではない! それでも匈奴か! ――呼廚泉の顔色はとうとうどす黒いものとなり、その肩口から放たれた刀剣が岳のすぐ目前をかすめた。風圧は岳の体を通り越し、三間離れた背後の香留靼にさえ圧する勢いで届いた。

「ただで、ただで死ねると思うな……貴様の死体で一晩遊び尽くしてやる……その皮を剥いで我の寝間着にしてやる……」

 合図などない、既に殺気は二人の間を数えることが出来ない程に往復している。

 呼廚泉の刀剣が根こそぎ引き千切るように空を走って岳に迫った。半身で下がり、その刃を躱して岳はあらためて天狼剣を引きぬいた。柄が熱く燃えるよう、隕鉄からうち鍛えられた黒い刀剣は篝火の明かりでさえ容易く飲み込み、夜よりもなお濃い闇の色をしている。初めて振るう刀剣だが、その癖も長さも手に取るようにわかった。

 岳は正面から踏み込み打ち合いを挑んでは束の間呼廚泉を圧倒した。おっと驚いたような顔をした呼廚泉の二の腕を、浅いが一撃し流血を強いる。しかし呼廚泉もさるもの、面白いとばかりに哄笑しては血など気にもせずに打ちかかった。於夫羅さえ凌ぐと言われる膂力でもって容易く弾き飛ばし、追い打ちの蹴りが体勢を崩した岳の胸をまともに捉えた。

「ぐっ……」

「たやすい、やはり李広の血統など大したことはない。いや、謀ったか? 漢人らしい浅ましさよ……」

「……お前には負けるよ、呼廚泉」

「口の減らん餓鬼だ……!」

 体勢を立てなおした岳に再び打ちかかる呼廚泉、それをいなしながら流れるように岳は打ち込むが、懐の深さに決定機を見いだせず、ジリジリと後退するばかり。重さは何斤あるだろうか、大幅もいいところの刀を片手で旋風のように振り回す呼廚泉の力任せの攻めは、それが一つの武の真髄であるとばかりに隙なく淀みない。勝勢の余裕か、呼廚泉は愉快気に哄笑を浮かべた――そのとき、後背で騒ぎが起こった。ちらりと見ると怒りに任せて飛び出そうとした呂布を匈奴の男たちが十人掛かりで押しとどめている。

「冬至――!」

「恋、下がってろって言ったはずだ!」

 そのとき、興が沸いたと呼廚泉は下卑た笑みを浮かべた。

「その名……そうか、貴様らにはおぞましい風習があったな、惰弱な漢人に相応しい――真名と言ったか」

 白刃の旋風を巻き起こしながら、愉快でたまらぬと呼廚泉は大口を開けた。

「真名を言ってはいかんのだったか、ん? 赦しがなければいかんのだったか?」

「俺の名を言ってみろ、貴様ごときに口にされたところで痛痒もない」

「貴様の名など……! なんと言ったか、うん? 見ればいい女だ、妾にしてやってもよい」

「まさか、やめろ――!」

「そう、確か……恋といったな。」

 岳は身の毛もよだつ思いで頭の中が真っ白になり、呼廚泉の重撃にまともに相対してしまいたたらを踏んだ。岳は呼廚泉にも気にもとめず呂布を見た。十人でようやく押しとどめられていたその力、その意志――だが呂布の目には今や力強さはなく、うつろな色で震えていた――

 この世に二度目の生を受け、真名という前世の記憶にはない風習に戸惑いもしたが、すぐに慣れ身に馴染んでいった。勝手に呼ぶことは許されない、お互いに心を通わせて初めて交換が許される魂の標。どんなに親しく交わっても真名を持たない匈奴の卒羅宇や香留靼はその重きをよく知ってるがゆえに岳に真名をたずねも求めもしない。父母にもらった大切なものであるから、いつか出会う愛すべき人と交わすものであるから……

 だというのに、この男はそれを汚した。常日頃から呂布の表情は乏しく読みほどくには難しい時もあるが、いま、彼女の眉根はかすかに崩れ、瞳が嫌悪に震えている……呂布は傷ついていた。眼前の不遜な男に、その心を、魂を陵辱されたのだ。

「発言を撤回しろ……」

 呼廚泉の大きな鼻が、嘲るように揺れた。

「それが答えか……」

 

 ――とうとう、岳の中の最後の一線が弾け飛んだ。

 

 もはや考えることはないだろう、あるいはこのまま死するかもしれぬ。それでもこの体の中で沸騰する血液の迸りに全てを委ね、荒れ狂う激怒のまま、呂布の真名を汚した男の生命をこの世から断つことに寸毫の躊躇もない!

 李岳の怒りに呼応するかのように天狼剣は刃に不思議な赤みを増した。しかしその変化にさえ気づかぬ程に岳の精神は白熱し、思うがままに体も追随した。低い体勢から目視定まらぬ速度で駆け抜け呼廚泉に迫る。大剣をかいくぐり脇腹を抉ったが、まだ足らぬと岳の心が叫ぶ。まだ足らぬ、まだこの程度では足らない!

「き、貴様!」

 既に呼廚泉の顔色に余裕などどこにもない、一撃の元に跡形もなくしてくれると振りかぶった刹那、その手首を巻きとるように岳は鋒を走らせた。母の桂が剛であるなら柔の岳。その操る撃剣の最も得意とする螺旋の型は刃先の返しで余すことなく舐めまわし筒を寸断する絶技であった――呼廚泉の右腕は宙を舞い、その大剣をしっかりと握ったまま主より離れて大地に突き刺さった。

 衝撃に尻餅をついた呼廚泉はない方の腕を必死に振り回し、痛みと呻きを込めながら命を乞うた。

「ま、待て」

「さようなら」

 一毛の躊躇もなかった。

 閃光。切っ先が醜い首先にまとわりつく。赤。喉が綺麗に裂けていた。吹き出した血が弧を描き大地に吸われる。命乞いは断末魔の笛の音に変わりそれも間もなく途切れた。振り返ったときには、男はもう死んでいた。

 場は静まり返っている。やがて、足を踏み鳴らす音が響き始め。それが怒号になるまで大した時間はかからなかった。背後から賞賛の声が飛び交った。死体のむこうでは沈黙がおりている。光と闇が交叉したのだ。

「右賢王於夫羅の弟、呼廚泉! この李岳が討ち取った!」

 万雷の喝采が、百里の彼方まで届かんと天を突いた。



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第十六話 出奔

 李岳の宣言と同時に、剣を突きつけられていた子はその戒めから解き放たれ、途端わっと何人もの女たちが駆け寄っては涙をこらえることもせずに代わる代わる抱きしめた。安堵の息は岳と呂布からもこぼれた。呼廚泉の部下たちが暴動を起こさないように卒羅宇や香留靼が武器を押収し縛につけていったが、匈奴随一の戦士と言われた呼廚泉が討ち取られるとは露にも思っていなかったあまりに呆然としたままほとんど抵抗すらなかった。

 だが厄介なまでに騒いだのは呼廚泉麾下ではなく、卒羅宇の部族の者たちだった。

 上位に位置する中央から派遣されたとはいえ、我が集落を侮った上に幼い子供を人質に取り、あまつさえ漢人とはいえ友を弄んではその誇りを踏みにじった呼廚泉……同情の声は一つもなかった。

 まず人々は幼きみなし子を守るために衆寡の不利を恐れず戦った呂布を讃え、その後彼女の危機に現れるや一対一の正式な決闘を見事打ち勝ち部族の誇りを守りぬいた少年を讃えた。子供を守るのは女の務めだ、恐れず立ち向かったお前は女の鏡だと、呂布に肩入れしていた部族の女は代わる代わる少女を抱きしめ、塩山の掘り出しにおいて李岳の存在は知ってはいてもその小柄と大人しい性格からいくらか侮り、あるいは怪訝に思っていた男の戦士たちも、一目李岳を拝みどうかその手に触れたいと押し寄せてきた。

 やがて、少年があの幼い時分に鮮卑の攻撃より守った軍神『李岳』であるということが広まると、騒ぎはその派手さをいよいよ増して、二人を祭り上げるかのような方向へと流れていった。卒羅宇を筆頭に集落の主だった者たちが叱りつけ、集を解散させるまでとうとう半刻を用いなければならなかった。

 ようやく静けさの収まった夜の草原の中、李岳は卒羅宇に暇を告げようと月下、相対していた。別れの時が来たことを二人とも察していた。

「……よく打ち勝った」

「危ういところでした」

 岳は腕を抑えながら言った。無傷の勝利などではない、正面から生半ではない攻撃を何度も受けている。体の節々が軋み、いくつもの傷で服は赤く滲んでもいる。

 新たな相棒となった天狼剣、付いた血を拭いながら、あるいはこの武器でなければ正面から得物ごと押し切られていたかも知れないと思うと、岳は興奮の冷めた頭でかすかに震えた。

「叔父上、私は今夜にでもこの地を離れなくてはなりません。呼廚泉を討ちました、於夫羅が知るところになればただちに私を殺すでしょう」

「すまぬ……」

「おやめください」

 頭を下げた卒羅宇を岳は押しとどめた。

「あの娘がいたぶられる様を止めれなんだ。恥ずかしい話だ」

「……いえ」

 五人に取り囲まれ、足蹴にされている呂布の姿がまたもや脳裏に思い浮かび、静まったはずの怒りが再び噴出しかけた。汚辱は雪ぎ、敵も討った。平静になれと自らに言い聞かせた――大事なのはここからなのだ、ここから全てが始まる。

「呼廚泉が死んだことにより、進発の日取りは早まるでしょうか」

「いや、二十万だ。総力を挙げてのものとなる。急げと言われてそう簡単に急げるものでもない」

 総力――河北に侵入し攻撃することになれば今まで形の上では漢に服属してたこと全てを擲つことになる。つまり後戻りするつもりは一切無く、徹底的に戦い続けるということだ。退路を失った二十万の匈奴兵――果たしてどれほど甚大な被害が双方に及ぶのだろうか。岳はおおまかな概算ですら描けなかった。一体どれほどの人が死ぬ。親を失う。子を失う。愛を失う――

「どうすればとめられますか」

「……李信達よ」

「どうすれば匈奴を止めることが出来るか、その方策をお聞きしました」

 困惑したように沈黙する卒羅宇。その沈黙が解かれるのを待つことなく岳は言葉を重ねた。

「叔父上は此度の出兵に賛成なのですか」

「まさか! 多くの若者が仕事を離れ殺し合いに出向くなど、そのような余裕どこにもない。続く出兵で誰も彼もが疲弊しているのだ。匈奴のどの部落も限界を迎えている。去年は豊作だったからよかったものの持たない部族も出ている。その上漢を倒すなどと、なんという浅はかな夢物語か!」

 苦渋の表情で卒羅宇は呻いて続ける。

「この動乱、失敗すれば本格的な匈奴征伐の狼煙となるやもしれぬ。漢軍は黄巾の乱を戦い続け消耗しているとはいえ極めて精強といえる。この前の西涼の乱においても目を見張るものがあった。騎馬で蹂躙すれば勝てる、というのは妄想に過ぎん……このままでは匈奴は滅ぶ……」

「それで良いのですか」

 挑発しているのかと卒羅宇は訝しんだが、岳の瞳は恐ろしい程澄み渡ったような色をしており思わず息を飲んだ。己が知っている少年の面影ではない。一体彼に何が起きたのか――卒羅宇は気圧されたまま首を振って答えた。

「戦場こそ戦士の誉れ。だが躍らされるのは本意ではない」

「匈奴のために単于に叛くこともある、と」

 卒羅宇は答えなかったが、その視線の強さだけで考えは十分に伝わった。

「……仮に、叔父上のような穏健派が反旗を翻した場合、付き従って連動するものはいますか。絶対信頼できるという者です」

「醢落。これは間違いない。最悪わしと二人ででも単于に歯向かう覚悟がある。あとは右大将に左右の大当戸……いずれも老骨だが。わしらが立てば付き従う者もいようが、精々――四万」

「確実ですか」

「うむ」

 卒羅宇はたかが四万不甲斐ないと悔しげに豊かな髭の奥で唇を噛んだが、岳は想像以上に多いとして安堵した。その半分にも及ばぬのではないかと不安であった。

「穏健派が手綱を握るにはいかがすれば」

「……難しい。これがもし例年通り黄巾賊の退治を名目とした出兵であるなら、主だった国人で出兵を抑えこんだであろう。単于を廃すことすら考えていた。漢への不審は根深く、反対意見は少なかったはずだ……が、そこを逆手に取られた。単于の指図が漢の走狗になれ、とあらば不満を糾合してすぐさま討てたのだが……漢を滅ぼすというとどうもな、若く血気盛んな者共がはやっている。一気に難しくなった。だが理解はできるのだ……漢を討つという言葉は……わしでさえ甘美だ」

「なれば、私が匈奴を止めます」

 不遜とも言える、大言壮語とも言えたが卒羅宇は李岳の瞳に宿った勝算、勝利への兆しに近いものを読み取った。

「どうするつもりだ?」

「漢軍を使います。正直なところ於夫羅を討っただけでは心もとない。匈奴軍自体の士気を挫く必要があります。於夫羅はその手段の一つに過ぎません」

「漢軍を引き込むということか? ……動員できるのか」

「これは漢の危機です。伝手もあります。討ち取った呼廚泉の首を持ち込めば信憑性はあるでしょう、名の通った武人ですから――それに、名将李広の子孫ですよ、私は」

「その名を……」

「やります。やらなければ死ぬだけです。なんだって使って動かします。どっちにしろもう匈奴の地では暮らせない。漢に逃げた所で、そこが荒れてしまえばまた逃げなければいけない。まっぴらですよそんなのは。ここで終わらせます……どこに行っても利用される。だったら手札は自分で使い切るまでです――そして必ず於夫羅を討ち取る」

 卒羅宇の目が開かれたが、それが最後の希望なのだと悟ると李岳に頼る他ない自らの不甲斐なさに怒り、必ずや匈奴を押しとどめなければならないと決意を新たにした。

「それと呼廚泉を討ち取った件ですが、決闘ではなく死を恐れた私が寝首を掻いたということにしてください」

「馬鹿な、あれは男と男の勝負であった。何の瑕疵もない」

「ですがこのままでは叔父上が咎められます。叔父上が咎められて参戦できなければ全てはおしまいです」

 拳を何度も自分の胸に打ちつけながら卒羅宇は悔しがり歯噛みした。

「なんということだ……! 我々の命と誇りを二度にも渡って救ったお前を、臆病者として吹聴せねばならんとは……!」

「……部族のみんなに固く口止めをしてください。呼廚泉が引き連れてきた兵もそのまま帰すことはできません。この部族の兵として生きるのならば命は助ける、ということでいかがでしょう」

「うむ……」

 言うべきことは言った。別れの時が迫っている。

「塩、全部お渡しすることになりますね」

「こんなことになろうとはな」

「もう謝らないでください。呼廚泉がやってきたとき、叔父上があえて私の嫌がる口ぶりでお話しいただき、危機を知らせてくれたからこそまだ生きているのです」

「そなたこそよく気づいた」

「……一つだけお願いが」

「なんでも申せ」

「どうか、父を」

 答えはなく、卒羅宇はただ李岳の体を荒々しく抱擁した。もう言葉はいらず、それだけで全ては通じた。豊かな髭が岳の額にかかりくすぐったい。この人が居たから生きてこられた、と岳は思う。匈奴を憎まずに済んだ、父の弁との友情を終生大事にしてくれるであろう。何としても匈奴の漢への侵入を防がなくては、と岳は卒羅宇の体から離れて決心を新たにした。死なせることはできない。

「そろそろ出立の用意をします」

「武運を祈る」

「……三度目の早馬をお待ちください。それが合図です」

 岳は踵を返して急ぎ集落へと取って返した。気づかぬ内に時も過ぎた。ぼやぼやしているとすぐに夜明けを迎えることになってしまう。そうなる前にとっとと南へ出立しなければならない。急がなくては、急がなくては――李岳は自分が焦るよう、焦るようにと念じながら歩いた。焦燥に胸を焼かれていれば、これから告げなくてはならない別れの痛みもかすかに和らぐのではないかと淡い期待をかけて。

 李岳がいつも荷を下ろしていたゲル――その中、片隅には膝を抱えて座り込んでいる呂布の姿があった。

「大丈夫?」

「ああ。恋は?」

「大丈夫……」

 奇妙な距離が二人の間に横たわってはいつまでも消えぬもののように居座った。達成感などどこにもない、どこか不毛でやるせなく、行き場のない苛立ちを二人は等しくわけあっていた。呂布は戸惑い、李岳は悩んでいた。だがやがて決心したように何度か頷くと、岳は呂布の隣に腰を下ろした。

「さようならを言いに来た」

「……」

「この地を離れる必要がある。ぼやぼやしてたら於夫羅の思うがままになぶり殺しにされる。今夜のうちにここを立つ」

「……引っ越す?」

「ああ」

「どこへ」

「南だ、長城を越えて漢へ向かう」

「恋も」

「だめだ」

 すげなく切り捨てた李岳の目には迷いはなかった。力でどんなに厳しく攻め立てられても、どんなに重いものを持っても揺らぐことのない気持ちが、李岳の言葉ひとつでどうしてこんなにも容易くぐらつくのか恋は理解できなかった。

 呂布は肯んじがたいと、何度も首を振って嫌がった。

「……どうして? 恋も冬至と」

 李岳は呂布を手で制し最後まで言わせなかった。岳の言葉は穏やかだがにわかに呂布を責めており、呂布は岳の言葉の節々全てに過敏であった。

「戦争になる。匈奴と漢の戦争だ。このまま置いておけば、匈奴は無傷で長城を越えて中原を暴れまわることになる。自分たちが息絶えるまで……俺はそれを止めにいくよ……呼廚泉を殺したんだ。於夫羅は生きている限り俺を狙い続けるだろう。同じ事だからね」

「恋も行く、戦える」

「……殺せるか、匈奴の人を」

 不意に息が詰まった。自分に牙を向いた野盗を打ち殺したことはある。戦争、ということを具体的に考えたことのなかった恋にとって、それは予想外の気味悪さを伴った問いだった。

 塩山の隣にいた巫山戯ているけど愉快な男たち、嫌がっても嫌がっても嬉しそうに針仕事を押し付けてくる女たち、いたいけな瞳の子供たち――

 呂布ははっとして李岳の顔をみた。李岳の目に涙はなかった。悲しいまでに透徹し何かを強く心に決めたような意志の強さを感じる。だがその強さは、きっと何かを諦めた代償に得たものでしかないのだ。

 唐突に呂布は己を責め、苛立ちに頭をかきむしりたくなった。自分がもっと強ければ――誰よりも強ければ!

「恋はここに馴染めるよ、みんな君を好きになってくれる。家族になってくれる」

 呂布はとうとう耳を手で塞いだ、何も聞きたくはなかった。この李岳は偽物だと呂布は思い込もうとした。二人の間を裂こうとしているそっくりな男が現れた、嘘ばかり並べ立てて、李岳をわけのわからない世界へたった独りのまま放り出そうとしている。

「……恋が戦争に出向く必要はない。幸い、恋の名前は於夫羅の耳には届いていない。匈奴の村に隠れ住むことならできる。男たちは戦に向かうが、女子供は集落を安全なところまで移動させる。もし……もし匈奴が漢軍を打ち破って中原に流れ込んだ時は、いいね、俺は死んだものと思って常山の黒山賊を頼るんだ。そこの頭目の張燕に俺の名前を出せば」

「聞きたくない!」

「聞くんだ」

「やだ、聞かない……恋はついていく」

 突き放さなくてはならない、情にほだされて戦地に連れ込むことなどできるわけがない。岳は天を仰ぎ意を決した。全てを失って匈奴の地を去ることになる、父も、友も、仕事も――恋も。これから育むはずだった淡い夢さえ捨てさって、あれほど避けて通りたかった戦乱の中心に飛び込むことになる。父、弁の言葉があるから怖気づくことはないが、ただ寂しい。なにより、この娘とこんな形で別れなければならないのが、何より寂しいと思った。

 ただその寂しさに引きずられて、この子を戦の荒波に放り出すことが果たして正しいのかどうか――岳は揺るぎがたい確信を持って言った。

「君のせいだ」

「……え」

「恋、なぜ待ってなかったんだ」

「……」

「俺は待ってろと言ったろう。面倒なことになるかも知れないと思って……おかげで呼廚泉を斬ることになった……もうこれで匈奴の地にはいられない。君のせいだ」

 呂布は押し黙り膝に顔を埋めた。なんと言い返していいかわからず、これ以上李岳の言葉を聞いていたくない。耳まで塞いでしまいたくなった。

「……それに、付き纏われるのはもううんざりだ」

 岳は思った、この口から言葉ではなく、血が吐かれた方がどれだけ楽だろう。どれほど喉が裂けようと切られようと、きっとこれほどの痛みを覚えることはあるまい。いや、もう全身から血が吹き出して憤死してしまった方が心も休まるに違いない。呂布は決して泣かないが、その顔には容易く泣くことすら出来ない悲しみがはっきりと浮かんでいた。彼女を傷つけてまで英雄ぶりたいのか、というぐらつきが表出する前に岳は立ち上がり言い切った。

「元々俺達は一人と一人だった。それに戻るだけだ。さようなら、恋。達者で」

 岳は立ち上がり出口へ向かった。呂布の手が怯えたようにわずかに伸ばされたが、それにも気づかない振りをして岳は出た。目に涙はなかったが背中が冷たい。素寒貧になった、と思った。これが孤独の味か、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岳はゲルを出ると物陰で立ち止まり、後ろを振り返りもせずに言った。

「そこにいますね、趙雲殿」

「おっと……バレていたか」

「月に映ってましたよ」

「うむ、これはしまった」

 背後の月明かりに照らしだされて、槍を携えた趙雲の姿は見事な影絵となって天幕の内側に浮かび上がっていたのを岳は見逃さなかった。

 悪びれもせず現れると、趙雲はつまらなさそうに口を尖らせて李岳を詰る。

「愛しきものの危機を救い敵を討ち果たした。さてこの後は愛の言葉を囁き睦み合いの一つや二つ交わすのではと心躍らせていたというのに」

「そんなことはしませんし、そんな暇もありません」

「呂布殿は期待したのではないかな?」

 馬鹿なことを、と岳は張り合いすら見せずに首を振ったので趙雲は手を上げて降参した。

「全くもってつまらん……とはいえ素晴らしい戦いであった。今立ち会えば私は遅れを取るやもしれんな」

 これは嘘偽りのない言葉だ、と訴えかけるように趙雲は真っ直ぐに岳の瞳を見据えたが、李岳はそんな言葉は本気にしないと肩をすくめる。

「『常山の趙子龍』がその槍を握っていたならば、ものの数秒で片付けていたでしょう。大体呼廚泉は油断していた、そこを何とか突いたまでです。生死の狭間でよろめいていた私ごときとは雲泥の差でしょう」

「さあ、どうかな。最後の手首を飛ばした一撃、鳥肌の立つ技だった。私を相手にしたときはついぞ見せなかったな。李岳殿、やはり猫をかぶっておったな――この嘘つきめ」

 岳は苦笑して歩を進めた。趙雲もわずかに後ろを付かず離れず付いてくる。

「趙雲殿こそ約束を破られましたね。待って欲しいと言ったのに果し合いを見ていた」

「別に約束はしていない。李岳殿が一方的に言い放っただけであろう」

「なんとでも言えるものですね」

「いいや、そなたには負けるとも……呂布殿にもしれっと嘘をついて」

「嘘? どこが嘘だと言うのです」

「――元より呼廚泉は始末する心づもりだったではないか」

 李岳は一度歩みを止め、空に浮かぶ爪の先のような三日月に目を細めたあと再び歩き出した。その微かな間を趙雲は肯定と受け取った。

 漢の軍兵を動員するにはそれ相応の証拠がいる。音に聞こえし呼廚泉の首となればお墨付きもいいところである。先程この集落に戻る前、李岳は確かに白龍を駆る趙雲に向かって言ったのだ――何かしら土産を持って漢に下り、并州刺史に兵の動員を促す、と。

「それでよく呂布殿のせいにできたものだ」

「言い訳はしませんよ」

「心にもない言葉ばかり投げつけていたな」

「根が冷たい人間なんですよ。冷酷なんです」

「嬉しかったろう」

「何がですか」

「呂布殿は李岳殿の名誉を守るために戦っていたのだと聞いて」

「……」

「そして李岳殿もまた、呂布殿の誇りを守るためにあんな場所で呼廚泉を斬った。心が冷たい? ならば見捨てていたはずだ。騒ぎの後、寝首をかくなり何なりどうとでもできたはずだ」

「……この話は、恋にはしないでいただきたい」

「なぜそこまで遠ざけなければならない?」

 集落の外れに至ると、岳はとうとう観念したように趙雲に向き直って言った。趙雲の想像とは違い、その表情は静かで湖面のようであった。今にも泣き出しそうな背中をしていたというのに、人はこのような顔が出来るのかと、その心中を知らぬ内から趙雲は切なさを覚えた。

「私は怯えていました。大きな争いに関わることを、自分に一体何ができるのか、自分ごときが関わって良いのか……平々凡々に生きて死のう、そのことばかり考えていましたよ。塩も金が目当てです。戦乱を避けて平和に生きていくための資金にするつもりでした」

「誰も責めまい」

「ええ。ですが私は匈奴の危機、漢の危機をどうやら見過ごせないようです。父が背中を押してくれました」

 今生の別れを済ませてきた、という李岳の言葉を趙雲は思い出した。

「一度言いましたね。この匈奴の動きは不自然だと……匈奴が漢を攻める、おかしな話だ。二十万もの大軍を動員してまで何をするというのです。洛陽を攻める? 何の意味があるのでしょう。匈奴は常に漢と争う立場にありましたが、決して血を求めるだけの蛮人ではない。飢えや、時に漢の横暴に抗するために矢をつがえることもありました」

「誰かの意図がある、と」

「……今は確信しています。匈奴は餌だ。おそらくきっかけに過ぎないんです。中原を乱して、誰かが漁夫の利を得ようとしている――看過できない」

 切れすぎる才は己さえも切り刻むことがある。趙雲はそれを目の当たりにして胸に鋭い痛みを覚えた。いたずらに才を振りかざすような男であれば他人を傷つけはすれ自らが傷つくようなことはないだろう。だが遥か先を見据えることができるからこそ、自らの役割にもひどく重いものを課してしまう。そして周りの人さえその苦難から庇い、遠ざけ、孤立し、より一層その傷を深めていく。

「趙雲殿、私は出世するでしょう」

 字面にはそぐわない、悲しい表情であった。

「匈奴の侵入を防ぎ、中原を、洛陽を守護したとなれば、すなわち天子を守ったということになります。世俗の注目を浴びる功績です……しかも李広の子孫。あまり想像したくない扱いを受けるでしょうね」

「これ以上のない歓待だろう」

「そして宦官と外戚が蔓延る宮廷政治の道具になる」

 趙雲の目にも映る様だった。官位はどれほどのものになるか、県令、あるいは一足飛びに即応部隊を任される官位に任ぜられる可能性もある。漢のどこでも兵を指揮する者は足りていない、傍目にはよい人材が手に入ったと皆が喝采を挙げるだろうが、蛇蝎の如き権力争いが日夜繰り広げられている洛陽で何の意図もない昇進や喝采がありえるだろうか。李岳の考えをただの杞憂、妄想に過ぎないと笑える人などどこにもいないのである。

「一度登れば降りることの許されない道です。死ぬか、勝ち続ける以外にない。そして笑顔で近づき手を差し伸べてくる者の中には、確実に今回の陰謀に加担した者がいるはずです」

 李岳は再び歩みを進めた。やや遅れて趙雲が続く。既に集落の外れの方まで来ており、眼前には暗澹たる闇が横たわっている。

「……嚢中の錐、そうおっしゃいましたね」

「ああ」

「恋はやはり駆け引きが出来ない。ああして人質を取られればきっとしたくもない汚れ仕事をさせられることもあるでしょう。殺したくもない殺しを」

 呼廚泉の眼前で五人の男にいたぶられる姿が、史実に表れる『呂奉先』の姿に見えた。呂布に生き馬の目を抜く宮廷政治をくぐり抜けることは無理だ。宦官か、董卓か、王允か、あるいは他の誰かか――自分が慣れ親しんだ『三国志』の呂布ももしかすると不遇によって翻弄されたのかも知れない。『恋』を戦争に放り出したくないという思いと同時に、手柄を立てて史実が如き『呂布』にしたくない、と岳は痛切に思った。

(飛ぼう、誰よりも高く、早く飛ぼう。そうすれば呂布が求められることなどない、その汚名も苦難も皆洗いざらい俺が被ってやる――『飛将軍』などという汚名は、俺が冠すればいい)

 李岳の内心を知ってか知らずか、趙雲は岳の独白を覗き込んだように言った。

「李岳殿、貴方は違うとでも?」

「違いますね、嘘つきですから」

 趙雲はなんと返したらよいかわからず沈黙した。

「……暗い顔をしていますか? ……いいえ、いまだけです。私の心は晴れています。思うがままに生きますよ。言い訳はしません。自らの力量で救える人がいるのなら、迷わず救う……匈奴も漢も私の血です。二つの血が流れているが、二色ではない。混ざり合い、融け合っている……分け隔てることのできない不可分のものとして、私の中にあるのです」

「それが、漢について匈奴を討つ理由か?」

「――恨まれるのはわかっています」

 話はこれまで、そろそろ行く、と岳は趙雲に手を上げた。

「いつか、本気のお主と立ち会えるかな?」

「また会えるか、とは素直に言えないんですか?」

「芸がなかろう」

「……その日が来ないことを祈るばかりです」

「張り合いのない男だ……さて、これからのことだが、馬上で話した手はず通りということでよいのかな?」

 趙雲の口元に、悪巧みをしでかす者にしか浮かべることの出来ない意地の悪い笑みが浮かんだ。

「ええ、何卒お願い申し上げます。漢の運命、匈奴の運命、どちらも趙雲殿の双肩にかかっていると言っても過言ではありません」

「ふふふ、期待には必ず応えよう」

 そなたの思うがままに動くとは限らないがな、という言葉はかすかな音で、李岳の耳には届かなかった。趙雲は片手に持った槍を上げて背を向けた。手向けなど無い、生きていればいつかまた会えるだろう、と。

(行ってくれたか。さて、ここからが大変だ)

 趙雲に話すわけにはいかなかったが、李岳は責任感に苛まれそうになるのをやっとのことでこらえていた。李岳はずっと考えていた、この前幽州に行った時の騒動の因果を――李岳が生前より知りたる後漢の歴史と今生きている世界には多くの齟齬や違いがあるが、起こっている歴史的な事件はそう大差ない。『黄巾の乱』に『涼州の乱』……だが張純が画策した乱が起きなかった。自分が関わらなければおそらく起こったであろう戦が起きず、そしていがみ合い殺し合うはずの烏桓と公孫賛の仲を取り持った。匈奴の漢への侵攻は記憶にない。

 李岳は一つの推論を打ち立てていた。『張純の乱』が起きなかったから、この『匈奴の乱』が引き起こされようとしているのではないか、と。いや、さらにそれにとどまらず、この事件の源流は数年前に遡り、鮮卑の侵攻を阻んだ時に戻るのではないか、あのとき匈奴の損害が少なかったからこそいまこの時でも漢へ侵攻する余力があるのではないか……

(俺が蒔いた種だ、きっちり刈り取ってやる。なあ、於夫羅)

 南を目指し李岳は歩き出そうとしたが、その歩みを止める声がかけられた。

「黙って行くつもりかよ」

 李岳の考えを断ち切ったのは趙雲ではなく、あらぬ方向からかかってきたもう一人の声だった。香留靼はいくつかの荷物をぶら下げて物陰から顔を出すと、馬鹿にするなと肩をいからせて笑う。

「誰がお前を恨むっていうんだ? え? 自分を追い詰めるのも程々にしなきゃよ」

「香留靼……」

「ほらよ、土産だ」

 夜の闇で分からなかったが香留靼は一人ではなく、その背後には大きな影が控えており、岳はその正体を察すると驚きで声を上げた。

「黒狐……!」

「連れてけ。右賢王の弟の寝首をかいたやつが馬泥棒をためらうはずがないだろう」

 卒羅宇から粗方のことを聞いているのだろう、香留靼は黒狐を引いて岳に渡した。またどこへ旅に出る、どれだけ遠くへ走らせてくれる――そう言わんばかりに、黒狐は鼻先を岳にくっつけて甘えた。一人と一匹が仲睦まじそうにしているのを見て、やはりこの馬にして良かったと香留靼は満足気にうなずいてから、続いて手に下げていた一抱えよりわずかに小さいくらいの革袋を岳に投げて寄越した。意外と重いその荷の中身を、岳は中を開ける前に察して今度はうんざりした。

「いくらなんでも人の首だぞ……投げるなよ」

 呼廚泉の首であった。確かに必要なものではあるが、餞別のように渡すものではないだろう、香留靼はしてやったとばかりに笑いをこぼした。

「怒るなよ、ほら、他にもあるから」

 腰に結わえていた弓と矢を香留靼は岳に手渡した。それは香留靼が手ずから作り、長年親しんできた弓だった。使い込まれ握りはすり減っており、滑らかな光沢を放っている。

「いいのか」

「持ってけよ。矢はお前の親父さんが鍛えたものだ。あんまり数はないけど……」

「ありがとう」

 やがて二人はしっかりと握手を交わした。間をおかず両の手が重ね合わされ、痛いくらいに握り締められた。そして香留靼はいつものように悪戯っぽくその顔にひねくれた笑顔を浮かべて李岳に言った。

「偏屈たれの混血児が。お前にはさんざ世話を焼かされたぜ。会えなくなって清々する」

「ろくでなしのいい加減の寝坊すけの嘘つきの馬鹿の」

「言い過ぎだろ!」

「……我が蘇武」

 岳がその名を口にした途端、香留靼の目に涙が浮かび、月のあかりにキラキラと光った。そして涙を流すがままに、香留靼は人目もはばからずにむせび泣きをした。

「泣かせんじゃねえよ、年下のくせに……それに、バカやろう、立場が逆だろう。だったら俺が見送られなきゃいかんだろうが。蘇武がお前だ」

「そうだね、けどやっぱり俺が李陵だよ、爺さんの爺さんなんだから」

「そっか、そうだな……我が李陵」

 李陵と蘇武――李岳の先祖であり、匈奴に敗北したがためにこの北端の地で生きることになった李陵には一人の友がいた。蘇武といい、同じく漢の軍人でありながら李陵よりも過酷な立場におかれ、飢え、寒さに震えながらも誇りを失わなかった男であった。二人には行き違いもあったが、終生固い友情で結ばれたという。

 立場も違う、単純に比べるのにも無理がある。それでもこの地で住む上で、李陵と蘇武に例えることは、血肉を分けた兄弟以上の親友であることを表す。あるいは真名で呼び合う以上の意味があるのかもしれない。李陵は匈奴に残り、蘇武は漢へと戻った。匈奴と漢に分け隔てられることになる二人に、些細な異同などどうでもよかった。李陵と蘇武であった。二人は確かに親友だったのだ。

 

 もう、この素晴らしい日々は戻らない。

 別れはすぐ側に。

 分かれ道でまごつきながら、

 その手をとってまたためらう。

 ああ、空を仰げば、浮雲よ。

 たちまちすれ違っては消えていく。

 風にさらわれここから行けば、

 もはや会うことのできない遠い場所に。

 あの雲のように今、別れの時。

 別れを惜しみ、立ち尽くすばかり。

 朝までこのまま、吹く風に任せて見送りにいけたのなら――

 

 岳は、朝日を待たずに旅立った。黒狐は千里を一息に行くかの如く走る。

 長城がもうすぐ見えてくる。それを飛び越えれば千年を優に超える歴史が営まれてきた中華の地である。今とは全く違う世界に飛び込むことになるが、李信達の胸に臆するところは欠片もなかった。必ずや匈奴の侵攻を断念させ、被害を食い止めてみせるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳が香留靼と別れたちょうどその頃、趙雲は真っ直ぐ白龍を迎えたあとに一つのゲルに立ち入った。そこは先程自分が物陰で聞き耳を立てた場所であり、変わりがないのであればまだ中に人がいるはずだったが――当ては正しかった。

「そのままで良いのか?」

 小さな仔犬に慰められるように頬を舐められながらも、身じろぎもせず膝を抱えてうずくまる少女に向けて趙雲は言った。その姿に一度対峙した時の力強さは欠片もない。すがりついている仔犬よりもよほど幼い生き物に見えた。

「あの男のいいなりのままで良いのか?」

 少女の肩がわずかに震える、趙雲は返事を待つこともなく続けた。

「殿方の言い分に従うだけが乙女の生き様ではないぞ……何より、意地を張る男の嘘を鵜呑みにするようでは落第もいいところだ」

「嘘?」

「……私よりよっぽどわかっているだろう。李岳という人が、どういう男か。どういう気持ちで別れを切り出したと思う? ――さあ、立ち上がれ、前を向け。そして走りださなければ、いつまで経ってもあの男との再会はかなうまい」

 呂布はしばらくまたうずくまっていたが、やがて意を決して立ち上がると足元の仔犬を抱き上げて趙雲に向いた。その表情を見て趙雲は頷いた。なに、男が女を守ると思っていることほど質の悪い思い込みもない。我ら乙女の強さを見せつけてやればよいのだ――趙雲は自らの真名を告げ、求めるのならば一緒に来るがいい、と誘った。駆けるのだ、あの三日月のかかる東の山へ!




作中、実在した人物である李陵の詩『與蘇武詩』を意訳し掲載しました。
本人の作ではなく後世の創作ではないかという意見が有力のようですが、どちらにしろいい詩だと思います。個人的には本人作のほうが浪漫があって良いと思います。


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第十七話 三鍵の計

 黒狐は喜んでいた。

 夜に駆け、朝に駆け、走れども走れども誰も咎める者はいない。またがる男も決して手綱を弱めようとはせず、走るがままに走らせてくれる。疲れて休むとも、馬脚を緩めろとも決して伝えてこない。この前の旅も悪くはなかったが、多くの馬を付き従えるがために力を抜かねばならなかった。今は天地に人馬一体の他遮るものなし。見渡すかぎりのこの草原! その果てまで辿りついてもまだ足りぬ! ――黒狐は誰にはばかることなく嘶きを上げ、草木を蹴立てて疾駆した。

 やがて草原は緩やかな坂に変わり、足元の柔らかい草も消えていった。だが黒狐は構うことなく駆け上がり、もう千里、もう千里とばかりに先を急ぐ。前方、進路を妨げるように現れたのは遥かな万里に列んだ名高き長城であった。黒狐は怒った。己の道を邪魔する敵が現れたのだと憤激した。黒狐は臆することなく速さを増して、このような壁なぞ物の数ではないと勇んだ。

「行けるか、黒狐」

 誰にものを言っている、我は誇りも高き黒狐――険しく屹立する岩壁に迷いもなく飛び込むと、その激烈な脚力は垂直に等しい程の斜面をわずかに駆け上がるや勢いもそのままに跳躍した。匈奴の地を去り、漢の大地へ――!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁原は速報を聞くや、ただちに一万の手勢の出動を決した。

 緊急出動の動員が発されてからさしたる間を置かずに并州軍兵は隊伍を整えていた。丁原は馬上にてただ一言、出撃、とだけ伝えた。鬨の声が威勢もよく場内に響き渡る。見送る人々が無事の帰りと勝利を願って喚声に混じった。作戦目的や標的の正体を一々知らせる必要はないと丁原は考えていた。命令あらばこれを討ち、その内実に思いを馳せる間もなく戦うことが軍人の本懐である。日々の調練でも何一つ疑問を差し挟まぬよう徹底的に申し伝えてある。

 丁原は開門を告げた。繰り上げられる分厚い門が開ききる前に既に馬腹を蹴り飛び出していた。ぴたりと付き従うは張遼以下四千の騎馬隊である。動乱の気配が色濃く漂い始め晋陽の周辺に野盗が絶え間なく現れるようになってから、即応可能な部隊として選りすぐりの駿馬を与えた騎兵隊を丁原は作り上げていた。後続の歩兵の数は六千である。さらに後方から物資と陣営具を備えた輜重隊が護衛と共に追走してはくるが、速戦撃破の星の数を重ね続ける丁原軍である、持ち運ばれる兵糧や道具が無駄になることもしばしばであった。

 第一報は晋陽の東から早馬によって伝えられた。東から流れてきた黄巾賊、その数およそ九千。立て続けに第二報、第三報が届く。すでに周囲の村落を略奪し放火、現在は并州太原郡は陽邑の領城を包囲しさらなる暴挙に臨もうと南下を目指している。

「遅れてないか、張文遠」

「そんなわけあらへんやん!」

 言葉に違わず張遼はピタリと丁原のそばに付いてきている。この武芸者が遅れるわけないか、と丁原は苦笑を噛み殺した。放っておけば自分一人で駈け出してしまうような女だ、愚問であったろう。

 そろそろ陽邑、というところで敵の姿は見えてきた。陣列も何もなく、集団は無造作に移動をしているだけだった。早馬で飛んできた斥候は確かにあれが件の賊だと保証した。遠目に黄色い旗、はためく布が見て取れる。丁原は近くの丘に部隊を伏せ、斥候を頻繁に繰り出したが決して攻撃を仕掛けようとはしなかった。四半刻待ち後続の歩兵が到着したのを待って全軍に備えさせた。騎馬より遅いとはいえ、歩兵の行軍は十分に早いとも言えた。遅々として進まぬ眼前の黄巾賊に比べて精強さは比ぶべくもない。既に丁原は勝利を確信していたが、自らの中の油断を再度戒めた。

「突っ込むぞ張文遠。二千を率いて右から掛かれ」

「ようやくや! 歩兵待ってなくてもよかったのに!」

「その意気やよし。だが油断はいかん」

 釘を刺せども張遼は今か今かと前だけを向き全く聞いてはいない。丁原は嘆息したが、だが心配はしていなかった。おそらく自分がおらず一人であれば用心深さを発揮するだろう、丁原がいるからその役を投げているだけなのだ、猪突の将というわけではない。

 作戦は単純で、騎馬が乱し、断ち割り、歩兵が打ち掛かる。調練は十分積んでいる、遅れは取らないだろう。

 丘に上り、敵陣を見下ろした。九千という報告だったが、既に一万を超す程にふくれあがっている。しかし陣営全体から漂ってくる覇気は大したことはなく、丁原は手にしている槍を掲げて吠えた。

「牙旗を掲げよ――吶喊!」

 合図の太鼓に銅鑼が響く。喚声が沸き起こり、『丁』の旗が掲げられる。一気に逆落しをかけた。砂塵を巻きあげた四千の騎馬隊は二つに別れて獲物に食らいつこうと狼の顎のように鋭く走る。敵は地から湧いて出た正規軍に対して慌てて方陣を組み始めたが、迎撃の矢が放たれる前にすでに張遼率いる右部隊は食らいついており、丁原が舌を巻くほどの速さで前衛を食い破っていく。偃月刀が煌いたと思えばいくつもの首が同時に飛んだ。負けじと、半歩遅れて丁原も左陣に突っ込んだ。槍で二人、三人と突き落としながら猛然と敵陣を貫いていく。突破は左右同時であった。さらに敵を半包囲するような形で取って返しては間髪入れずに側面からの突破を狙う。騎馬を走らせながらも丁原は騎射を行い幾つもの胴を貫いていった。音に聞こえし剛弓は一撃で人体を貫くやその背後にいたもう一人にまで突き刺さるほどの凄まじさだった。左右の騎馬隊は再び敵陣に食らいつくと、中央をずたずたに引き裂いてすれ違おうとする。丁原の目は真っ直ぐ敵の指揮官を捉え、ただちに迫った。

「そ、蒼天已に死す! 朝廷の手先なぞに我々が……!」

「今より死す者が何ぞ天を語るか」

 丁原の槍は男の胸の正中を捉え一瞬の内に突き殺した。勢い余って男の体は真上に高々と跳ね上がり、これ以上ない確かな勝利宣言をもたらした。すれ違いざま、先を越されたと張遼が悔しげに舌打ちをした。

 一万を超えていた黄巾賊は四つに断ち割られ、指揮も失ったため一貫した行動も不可能な程に脆く崩れ始めていた。そこをとどめとばかりに歩兵の六千が押し込んだ。長柄の槍で正面からぶつかり合ったが、衝突した時すでに黄巾賊は潰走を始めていた。丁原は戦いを決着したものとみなした。

「追撃。投降すれば助命せよ。歯向かう者には容赦はするな」

 騎馬隊の半分と歩兵四千が追撃を行い、残りをまとめあげて丁原は周囲の警戒を怠らなかった。勝ったと思い込んだ途端に背後から増援に急襲され苦渋を舐めた、という教訓は古来枚挙に暇がない。領城の守兵とも連携を取り周囲の警戒と索敵には十分な人数を差し向けたが、追撃部隊が夕日を背負って帰参する頃には増援部隊などどこにもいないと結論づけた。

 黄巾賊一万のうち半数を討ち取り三千を捕縛した。散り散りになった者も当てどもなく流浪する他ないだろう。後始末は県令に任せ、丁原は兵をまとめて駆け始めた。縛り上げた黄巾賊も遅れを許さぬ行軍を強いる。逃亡は死。行き倒れても文句は言えぬ。無事に晋陽まで走り切ることが出来れば軍管轄のもと刑罰を与えることになる。それでもまだ問答無用で首を刎ねないだけ寛容な方であった。

 日没を過ぎた頃、部隊はようやく晋陽の町に到着した。部隊に死者はおらず完勝と言えるが、負傷者なら何人もいる。その者たちを労っていると、留守を預けていた張楊が血相を変えて飛んできた。

 張楊。并州雲中郡の生まれで字は雅叔。武官として取り立てられたが内政にも通じ、地や町を治めるのに決して明るいとは言えない刺史丁原の補佐として晋陽にて第二位の席を与えられていた。頬がこけるほどに痩せておりぎょろりとした目で肌は青白く、人から警戒を受けやすい男だが実直で物腰柔らかく、丁原に最も信任する部下は誰かと問えば迷うことなく彼を推すだろう――張楊は青い顔をさらに青くして丁原を今か今かと待っており、その帰還を伝え聞くや否や飛んで参じたのである。

「どうした張雅叔。また中央からの催促か」

 執金吾になれという命令が下りてから既にしばらくが経つが、丁原は賊の頻出を理由に予定を引き伸ばし続けていた。反逆者扱いされてしまうぞという半ば脅しのような竹簡が届くこともあり丁原自身も潮時かと考え始めていたが、見るに張楊の様子は竹簡一つのものには思えない。

「それどころの騒ぎではありません。こちらへ……」

 張楊は府ではなく自らの居室へ案内した。引かれた戸の先には男が胡服の出で立ちで座っており、気配を察して立ち上がるとこちらを向いて頭を下げた。

「お久しゅうございます、丁建陽様」

 丁原は束の間言葉を失い胸を衝かれたように後退りしかけたが、動揺の全てをこらえて踏ん張った。お座りになりませんか、と張楊が声を上げるまで二人は見合っていた。丁原は胸に迫り来る万感を押し殺し卓の椅子に腰を下ろした。促すと張楊、胡服の男の順番で腰を下ろす。張楊が男を紹介した。

「李信達殿は、并州様とは既にお会いしたことがあるとおっしゃられてますが、まことですか」

 張楊が真偽や如何にと目で問うてきたが、問題ないと頷いた。

「并州刺史、丁原である。久しいな……李岳」

 李岳は深々と頭を下げた。目に力がある、丁原はそれが嬉しかった。子である。最後にあって何年経つだろう、丁原の胸に温かいものが満たされそれがあわや溢れんばかりになった。張楊と李岳の様子を見るに予断を許さぬ状況であるらしく、軽々に親子と明かすのは良からぬ事態を招きかねないと李岳は判断しているのだろう。ここで母が情に流され無様な失態を見せるわけにはいくまい、と丁原は発言に細心の注意を払った。丁原の心中の葛藤を知る由もない張楊は口早に用向きを伝える。

「李信達殿は……とある知らせをお持ちになられたのです、その、なんと申せばよいか……」

 一度張楊は言葉を切ると慌てて戸の外へと出てから余人がいないかどうかを確かめた。再び椅子に戻り声をひそめてから言った。

「匈奴が漢において動乱を企んでいると……朝廷の要請に従って黄巾討伐の軍を中原に入れるが、その実洛陽を狙っているというのです……総勢二十万の大軍という話です」

 総勢二十万。丁原は衝撃を受けるよりもまずその戦力の評価を行った。長城を越えた二十万の匈奴兵が洛陽に殺到する。守備兵は精々五万がいいところである、長安、京兆尹を始め司隷の兵は緊急動員されるだろう。さらに并、豫、兗、冀、荊、雍の六州全ての兵が出陣し洛陽守護のために赴くだろうが、いかな漢王朝の危機とて大軍を起こすことは容易ではない、また速度が敏なるを以って匈奴兵は無双である。并州から司隷までは街道も整備され平坦である。何を遮ることもなく全てを蹴散らし匈奴は洛陽を易易と落とし全てを壊すだろう。二十万の戦士の口を糊するために、全てを奪いつくすに違いない。

「寝耳に水で、それがしも容易く信じるのは難しいと追いだそうとしたのですが……証となるものを持っておられまして……どうか并州様におかれましてもご検分頂戴したいところなのです」

「ものは」

「こちらでございます……」

 張楊は一抱えある革袋を持ち出すと、それをほどいて一つの首を取り出した。丁原はものの一目で首実検を終えた。

「匈奴は右賢王の実弟、呼廚泉だな」

「なんと……まことでしたか……」

 張楊の顔は常よりさらに青褪め、丁原も厳しく眉根を寄せた。李岳だけが平然と座っている。

 匈奴でも指折りの猛者である呼廚泉――単于羌渠の息子であり右賢王於夫羅の弟である。并州の北端にて境を脅かすために兵を興したこともひと度ならず、戦場で幾度も相まみえ実際に干戈を交えたこともある。呼廚泉の繰りだす剣は人体を鎧ごと容易く両断し、戦場においては暴風が如き猛威として敵味方隔て無く恐れられていた。

「誰が斬ったのだ」

 丁原の問いに李岳が頭を下げた。

「私が討ち取りました」

 どうして今ここでこの子の頭を撫でてやることができないのか――もどかしさに丁原は思わず拳を握りしめた。真相もわからぬしきっかけもなかったが、丁原は李岳が一対一の正々堂々たる死合いによって、音に聞こえた匈奴の戦士を討ち取ったのだということを確信していた。

「これは……なんということだ。并州様、李信達殿は匈奴の地にて陰謀を察知し、それを知らせて漢を救わんと単身やってこられたのです。証拠がなくては誰も信じはしないとこの首を持たれて。いかがなされますか、一大事でございます、これは漢の存亡の危機です」

「わかっている、張雅叔。まず仔細を明らかにせねばならん。間違いは許されん。誰に伝えるか、どう対応するか、全ては私が決定する。首は元に戻してお主が持て。絶対に他言するな。厳命である」

「御意」

「……常と異なってはいかん。帰参した部隊を解散させねばな、それを任せる。追って沙汰するまでいつも通りだ。私はこの――李岳殿と話を詰める」

 はっ、と首肯して張楊は部屋を辞した。戸が閉まる音が部屋に響き、その余韻が完全に打ち消えるまで二人は微動だにしなかった。やがて李岳は立ち上がると床に膝を突き、頭を下げて言った。

「お久しぶりです……母上」

「――冬至」

 母子は抱き合った。これまで失っていた時を取り戻すように、体温の交換は千の言葉を交わすよりなお雄弁に二人の気持ちを伝えた。

「息災であったか」

「はい、母上も……」

「このとおりだ。父は……枝鶴は」

「はい、お変りなく」

 一語一語が二人の溝を埋め、失ったと思っていたはずのものが急速に埋まっていく。丁原はやはり自らが母に足らないと思った。恥ずかしくて身を離してしまったのだ、本当なら一晩ずっと抱きしめて上げていたい、だというのに武人としてのむくつけき顔がすぐに表れる。

「父さんは全てを話してくれました。私の血筋のこと、生まれのこと、全てを」

「そうか……多くは聞くまい。枝鶴がそうしようと決めた。ならばそれに足る理由があったのだ」

「気高きに順え、とおっしゃいました」

 李岳の言葉を丁原は口の中で何度も呟いた。気高きに順え。普段寡黙なくせにいざ話すと人の心の最奥に染みこむような言葉を矢のごとく放つ。今ここで再び射ぬかれるか、と丁原は苦笑した。気高きに順う。丁原はその言葉が全くもって李弁らしい言葉だと思い、笑った。

「……冬至、よい顔になったな。苦労があったか」

「いえ……であるのならばこれからでしょう。戦が始まります」

「ただならぬ知らせだな。務める気か」

「はい。今宵……お話できますか。内密に、絶対に信用できる幕僚の方を……含めて……」

「どうした」

「申し訳ありません……安心して、その……眠気が」

 李岳はおもむろに目を閉じると、そのまますとんと言った具合で眠りに落ちてしまった。火急の知らせを携えて昼夜の別なく駆け通しだったのだろう。いつの間にこんなに重くなった、と丁原は李岳の体を抱き上げるとその成長の早さに驚いた。体を抱きしめ、自らの寝台に運んでから隣に並んで横になった。もうしばらくこうしていよう、しばらくだけ。我が子の寝顔を何年も見なかった、その欠片だけでもいま拾い集めたいのだ……顔には、母の笑み。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜、会議は丁原の自室で催された。黄巾賊鎮圧の勝利を祝した内々の酒宴という名目で丁原、張楊、張遼、そして李岳が参加している。侍女によって料理や酒も持ち込まれており、実際はじめは杯を酌み交わすことから始まった。張遼に対して丁原は李岳を昵懇である古馴染の子であり数年ぶりに訪ねてきてくれた、と説明した。

「ふうん。ウチは張遼、字は文遠。よろしゅうな」

 李岳は童子のような幼顔を楽しそうな笑みで花咲かせてから、よろしくお願いしますと頭を下げた。何をそんなに嬉しいことがあるのか、訝しんでしまうような朗らかな笑顔であった。丁原の知り合いということは武を用いるのだろうか、張遼はまじまじと李岳の体を眺めたが、豪傑と呼ぶにはいささか華奢に過ぎた。が、その身の動かし方はしなやかさを感じさせるもので、あるいは相応に使うのかもしれないと思い身の内に秘めた武芸者の闘気をくすぐられた。

 酒宴は長くは続かなかった。景気よく杯を呷っていた張遼を丁原は押しとどめ、李岳がもたらした情報と匈奴の陰謀を伝えた。

「……ほんまかいな」

「確実です。匈奴の都において単于である羌渠の名において命令が発されました。総大将は右賢王於夫羅。左右に居並ぶほとんど全ての位階の者が参陣し、その数は二十万」

「二十万……!」

 驚いた後に舌なめずりをした張遼を見て、丁原はこの者が心底の武芸者だと笑わずにはいられなかった。

「さて、方策を講じよう」

「まず、司隷は洛陽に知らせを飛ばさねばなりますまい」

 張楊の言葉に丁原は頷いた。

「匈奴への動員令も皇帝陛下の勅命として発せられたものだ。朝廷の裁可を仰ぐ必要があるだろう」

「并州様の命令により即応可能な人員は三万を数えます。即刻全戦力を長城に詰めましょう。その上で後詰を頼むのです」

「うむ」

 丁原と張楊はそのまま防衛戦の段取りを詰め始めた。張遼はつまらなさそうに酒を盗み飲み始める。籠城、防衛戦はあまり欲求を満たされないのだろう。

 二人の相談が煮詰まり始めた頃、李岳が手を上げて言った。

「私は反対です」

 張楊が不審そうに首を傾げていった。

「何がでしょう?」

「被害が大きくなります。それに長期戦になるでしょう」

「それは……そうでしょうが」

「……これは皆様の胸にお秘めいただきたいのですが、此度の於夫羅の作戦に全ての部族が賛同しているわけではありません。匈奴の中にも此度の遠征が危機と捉えている者がいるのです。主戦論者ばかりではないのです。彼らが決起すれば四万の兵は従います」

 唸り声が張楊の口から漏れた。丁原は腕を組んで目をつむっている。張遼はまだ興味を催さないようで饅頭に手を伸ばした。

「……ではどうしろというのだ、李信達殿。その者どもが反旗を翻す確約があるとでも言うのか」

「はい、条件さえ揃えば」

「条件とは?」

「於夫羅の死」

「……総大将の首だぞ、決して容易くはない」

「はい」

 その時、つまらなさそうにしていた張遼が饅頭を李岳に向かって放り投げた。李岳は見事片手でそれを受け止めたが、張遼は口元に不敵な笑みを浮かべて言う。

「なんや、策があるんやろ。はよ言いやもったいぶらんと」

「失礼いたしました」

 饅頭を皿に戻し、李岳はそれを取り上げた。そして卓上の箸と皿を並べ替え簡易に地図とした。箸が長城、饅頭の皿が并州軍、メンマの皿が匈奴兵である。

「まず、極秘に長城に兵を詰めます。雁門関を拠点にすれば寡兵でもって大軍を凌げるでしょう――仮に二日関を守るのであればどれほどの守兵が必要でしょうか」

「三千」

 丁原の答えに岳はうなずき、饅頭をちぎって箸に載せた。

「三千で関を守りますが、直前まで伏せます。匈奴には易々と通れると思わせます。そして不用意に近づいてきたところを一撃します。敵は動揺するはずです、難所である鴈門を無傷で通ることができるというのが今回の作戦の骨子です。それが端緒で躓いた。十分に戦意は削がれるはずです」

「……お待ちください。別に全軍を詰めてもよいのではないですか。雁門関の前は隘路になっており二十万の兵の運用には適しません。この晋陽には三万の軍勢が駐屯しています、五千で関に詰め、残りを関前に展開して動かせばよいでしょう」

「それでは於夫羅を討てません」

 李岳はさらにもう一つの饅頭を皿から取り上げると、ぐるりと箸を迂回してメンマの皿に載せた。まさか、という顔をして張楊が立ち上がる。張遼の瞳にはきらりと光りがよぎりようやく興が乗ったと身を乗り出してきた。

「ば、馬鹿な……側面を突くだと、死兵なぞ、そんな……」

「勝算はあります。死兵ではありません」

「死兵でなくて何だというのです。二十万の只中にわずか二万かそこらの兵を放り出すのですぞ!」

「二十万ではありません」

 わけが分らない、と張楊は首を振った。李岳はさらに青菜の乗った皿をメンマの後ろに並べた。

「匈奴の後背を――匈奴の都を別軍が突きます。二十万……ほとんど全軍といっていい程の兵を連れてきているのです。もぬけの殻だ、於夫羅の肝は冷えるでしょう。すぐに自らが信任する部隊を差し向けるに違いない。ここではその数を仮に五万といたします。残りは十五万。ですがその内の四万は叛意を秘めております。二十万全てが敵というわけではないのです」

「別働隊? どれだけの長駆になると思っておる、地理がわかっておらぬのではないか……」

「并州兵ではありません。別働隊は幽州から進発します。今頃既に知らせは届いていることでしょう――白馬将軍の元に」

「公孫賛が!」

 その声は李岳を除く三人が同時に上げた。李岳ははい、と頷きながら公孫賛と懇意であること、匈奴を離脱する前に既に知らせを放っていること、確実に出撃をしてもらえるという確信に近い思いがあることを述べた。

 次に呻いたのは丁原であった。立ち上がるとおおまかな地理を示した紙を持ってきて広げた。匈奴の都はさらに北、砂漠に近づく草原の只中にあるが最果てというわけではない。幽州から進発した軍が名高き白馬将軍の手勢であるのならばはやての如く進撃し、三日もあれば単于の喉元にまで迫りうる。途端に李岳の献策が真実味のあるものとして立ち上ってきた。張楊は腰を下ろし、一口杯を呷ると地図を睨み何度も頷く。消極論を出してはいるが張楊もまた武人であり隔意も反意もなかった。

「公孫賛将軍の余力を考えれば精々数千ですが、それだけで十分なのです。少ない、わずかに軍を割けば守れる、と於夫羅に考えさせなければなりません」

「都は落とさんのか」

 李岳は丁原に頷いた。青菜の皿をメンマの後ろにちらつかせる。

「落とすことは、まあ難しいですし意味はありません。匈奴を飢えた獣に仕立て上げ於夫羅の元に一致団結させかねません。これはただの陽動です……於夫羅は漢を攻めるとした際、かなり強い口調で匈奴を煽りました。中途半端な戦果では帰還できない程度の鼓舞です。恐らく数万の軍勢を取って返させることはしますが、自身を含めた全軍が引き返すことはしないでしょう。何としても洛陽を落とさなければならない、と考えているはずです」

「つまり」

「士気が落ちます。故郷に家族を残しての出兵なのです。それを無視して漢を攻める意義などどこにあるというのでしょう。手勢を差し向けたといってもほとんどの兵は動揺するはずです。四万と申し上げましたが、ともすればその倍は反旗に集うやもしれません」

 当てずっぽうの数、とは誰も言わなかった。戦争とは郷里に利益をもたらして初めて体をなす。家に置いてきた妻に子、老いた父母の安否が定まらぬ中敵国を攻めることなど道理に反するのである。誰もが全軍で取って返すべきだと考えるだろう。ましてや南下を続ける戦である。家族を見捨てることに他ならないのだ。

「そこを并州兵本隊が突きます。鴈門関の前は隘路、大軍を用いるのに適しません。戦意の落ちた敵の脇腹を一撃し、於夫羅の首を挙げます――於夫羅が死ねばもはや漢を攻める理由などどこにもありません。即座に取って返すでしょう――悠々とやってきた匈奴の出鼻を挫く。後方を撹乱し動揺を誘う。そこを迂回した本隊で急襲し於夫羅を討ち取る。匈奴の内部分裂を促すための三つの鍵――これが私の策です」

 メンマの皿にそっと箸を立てて李岳は言った。その箸の意味するところは誰にも明白であった。

「そして大事なことをもう一つ。この策の肝は秘匿です。敵に知られて後方に予備部隊を置かれるなどすれば全てが覆ります……まず、洛陽に知らせてはなりません」

「お待ちいただきたい。なぜ洛陽に知らせてはならないのかわかりません。確かに策は秘めなくてはなりませんがそれは敵にであって、仮にも天子様に危険の及ぶ戦となるのです、お知らせせぬわけには」

「……どこで情報が漏洩するかわかりません。洛陽は危険なのです」

「馬鹿な! 洛陽に匈奴の手先がいるわけなぞ」

「待て」

 丁原が手を出し張楊を止めた。懐から一枚の紙を取り出すと張楊に渡す。それに目を通した張楊はうなだれて呻き声を上げた。それは執金吾就任を一刻も早く済ませろという朝廷からの催促で、先程届いた最新のものであった。三日以内に并州における軍権を放棄し上洛せよ、さもなくば逆賊として任を剥奪し獄に落とすと記されてある。確かに執金吾に付けというのは勅命であるがその就任を渋ったからと言ってさらにもう一つ勅命を使ってまで急がせようとするなど前代未聞である。ましてやこの火急の知らせの後のこと、その二つの因果を結ぶなという方が無理な話である。

 張楊の顔は常になく青くなった。匈奴の計画と洛陽の陰謀が連動しているなど、古今中華の歴史で聞いたことなどない。

「……まさか、そんな……匈奴は洛陽にそこまで影響力を及ぼせるというのですか……」

「いえ、逆でしょう。朝廷のなにがしかの思惑により匈奴が引き込まれる、ということだと考えます」

「そのような、そのようなことが……」

「――いずれにせよ、決断は一両日中に済まさなければなりません。時間はないのです。朝廷に知られることなく行動を移さなくてはなりません」

 のしかかるような沈黙が部屋を支配した。李岳は言うことは全て言ったと、饅頭を手に取り頬張った。丁原は目を閉じ腕を組み、張楊はぶつぶつと地図をさしながら計算をする。その中で張遼は杯を片手に立ち上がると、中身を一息で飲み干してにやりと笑った。

「おもろいやん。たぎる……たぎるわ、これ。ええやん、ええ策や! 刺史様! 急襲部隊はウチが率います。於夫羅の首、この張遼が挙げます」

「いけるか、張文遠」

「籠城戦なんかよりよっぽどやる気でますわ。勝算もある、武人の血もたぎる、目標は敵の大将首! これで燃えへんかったら武人やってる意味あらへん!」

 そして自らを含めた四つの杯に酒を注ぎ始める。意味は誰もが理解した。勝利の前祝いの杯である。

「二人とも、その心がほんまはもう決まってるん知ってます」

「……并州様、ご下命あらばこの張楊、いかような任とて務めまする」

「よし」

 丁原はなみなみと注がれた杯を手に取ると立ち上がった。張遼、張楊、そして李岳が後に続く。四つの杯が軽快な音を立てる。これより戦は始まった。死して屍拾う者などない、匈奴対一州、二十万対三万の戦である。勝利の他に道はなし。



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第十八話 初戦

 并州刺史丁原がその職を返上し、一路洛陽に向かい執金吾に就任するという話は風聞として晋陽の町に流れてはいたものの、いざその日が来たとなると人々は皆渋い顔をした。

 武人肌でとっつきにくく、民草に愛されていたかと言われれば難しいところのある丁原だが、鍛えあげた兵と指揮統率、その武力により町の治安は目を見張る程良くなり、誰もが住みよい所になったと考えていた。

 晋陽は古は趙国の都として栄えたが、北に異民族との国境を抱えるが故に情勢は絶えず不安にさらされ続けている。安全に田畑を耕し商隊を送り出迎え、日々の糧を得られることこそが何よりの喜びである。州全域にわたって決して賊徒の氾濫を許さなかった丁建陽の出立と聞き、人々はこぞって城門まで足を運んだ。春を過ぎて咲き乱れる花を摘んではそれをひらひらと散らして丁原の無事を祈り、その去就を惜しんだ。一万の軍兵を直卒として付き従えて、仰げば見事な武者備え。喝采の中、丁原は南門より晋陽を後にした。

「さて、ここまでは手はず通りだがな」

 晋陽の城門を出て四半刻が過ぎようとした頃、ほっと一息つくように丁原は言った。

 先頭を進む丁原の隣に李岳はいた。既に胡服は下のみで、上着は中華の袍をまとっている。身につけている具足は寸法が合わないのか、袖は余りどちらかというと着られているという風で、出立前は張遼に散々に笑われむくれていたが、機嫌も晴れたのか今は朗らかな笑顔を隠そうともしない。丁原の言葉に李岳は笑顔のまま頷いた。

「何がそんなに嬉しい?」

「いえ、刺史様は皆に慕われているのだと思い、嬉しくて」

「……そうか」

 我が子の言葉と眼差しになんと返したらよいかわからず、丁原は俯いて言葉を濁した。自らが歩いてきた道に後悔などないし、何一つ恥じる所などないのだが、こうして職務に携わる己の姿を興味津々な瞳で見つめられると面映かった。何より無用な心配をして子には隠していた地位なのだ。照れ方など知らない。丁原は振り払うように速力を上げ始めた。苦笑して並んでくる李岳が愛しくも疎ましい。

 

 ――対匈奴防衛戦の配置は方針が示されたその晩に即座に決定された。

 

 総大将丁原、副将に張遼、李岳。鴈門にて敵を防ぐ最前線には二万五千。晋陽の防備には張楊以下五千。事が敗れた場合ただちに知らせが長城より晋陽へと届く手はずとなっており、その際は洛陽、長安を始め河北から河南地域にかけての主要都市全てに援軍を求めるための早馬が飛ぶ。李岳の扱いは客将ではなく丁原の副官とした。実力主義の抜擢を丁原は度々行なってきたので異論はどこからも出てこなかった。

 いま丁原は一万の兵のみを率いての道すがらだが、秘匿こそが計画の肝という李岳の進言を受け入れ、張遼の指揮のもと一万五千の兵を十隊にわけて前日密かに城外に出していた。

「張楊殿の手を煩わせることになりたくはないですね」

「そうだな」

 李岳は遠い目をしていった。

「その時は全滅の憂き目に合っているはずですから」

 仮に策が敗れた場合、撤退する場所などない。勝勢に乗った匈奴の騎馬隊の追撃を振り払う余力などどこにでもないだろう。危険な策と言えた。

 だが并州兵の全てを長城に詰め籠城に徹した所で全滅がわずかに延びるだけでしかないのだ。他州の兵も応援に駆けつけるより先に自領と司隷の防備を固めるに腐心するだろう。匈奴を長城で止めるという事はすなわち并州の存亡を賭けている事と正しく意味を同じくしている。

「いざとなれば単騎で逃げよ」

「嫌です」

「そなたは軍人ではない。誰も笑わん」

「いいえ、私が笑います。お前は本当に誇り高き母から生まれたのか、と」

「……聞き分けのない子に育った、困ったものだ」

 部下に聞こえぬように声を潜めて丁原は言った。だが何を言っても李岳は頬をほころばせる、丁原はやりにくさに歯噛みして、だがどこかで喜びも感じており、同じように口元が緩んでしまうのを耐えた。

(この子は死を覚悟している、投げ遣りな思いでではなく必ずやり遂げねばならないという決意の元に、この私と同じように……もはや戦人か)

 体だけではなく、心までも大きくなったと感じた。李弁に感謝し、丁原は心中で大いに喜んだ。

 その時一人の兵卒が駆けてくると、報告、と声を上げて丁原に寄った。今朝より従事に任じた齢二十歳に届かんとする娘ではある。

 昨夜のことであるが、配下の隊長の名簿が欲しいと李岳が申し出てきた。丁原はその場で許可し張楊に渡しておくよう言い含めた。張楊と丁原は部隊に馴染むために名簿を睨んで名前を覚えるのだろうと思いその意気込みを皆よしとした。

 だが翌朝早くに李岳は丁原の元に一人の少女を連れてきて、優秀な人材と思われるので防塞戦において副官に取り立ててはどうか、と言った。目を丸くする丁原をよそに、この者は孫子に通じ規律に厳しく部下の掌握に長け、必ずや役に立つと太鼓判を押し続けるのである。

 

 ――娘の姓名は赫昭(カクショウ)。字を伯道と言った。※

 

 試しに話してみれば眼光鋭く応答も明快、軍人としての本分もよくわきまえており、丁原はその場で推薦を受け従事として取り立てることにした。後ほど部下の屯長に確かめてみると百人隊長の中でも抜きん出て優秀であるという話であったが、なぜ李岳は名簿一つ、たった一晩でこの者の才を見ぬくことができたのか。丁原は未だ聞けずじまいであるが何やら迂闊に触れられぬただならぬ才を感じていた。

(李広の血、か……あるいは天の御遣いか。枝鶴よ、いずれこの子は私のことなど軽く飛び越えていくぞ)

 いや、そんなことはきっと自分よりずっとよくわかっているだろう、と丁原は思った。常に暮らしを共にしていた父なのである。

「ご報告申し上げます。晋陽の北五十里にて黄巾賊の一団を確認。南進中との知らせです。数一万五千」

 赫昭の言葉に丁原は我に帰った。丁原は即座に行進を停止させると声を上げ、馬を反転させた。

「告げる。我は既に晋陽を治める并州刺史の任を解かれた。だがここで野盗の狼藉を看過してなんぞ執金吾の地位を頂戴できようか。これより北に馬首を巡らし并州を荒らさんとする敵を討つ」

 五千の軍兵が鬨の声を上げる、それに押されるように丁原は馬首を巡らし晋陽の町を大きく迂回するように北上を始めた。街道をわずかに西にそれ、草原を軽快に疾駆する。歩兵も十分についてこれる速度であり、一万の軍勢は一個の塊のようになって進む。

 黄巾賊の首魁は既にわかっている。張遼という名の武芸者で、元々并州兵であった一万五千の兵に黄色布をくくりつけ晋陽を脅かそうとしているのだ。

「……三文芝居ではあるが」

「しないよりマシです。案外欺けるものです」

 李岳は悪巧みがそれほどに楽しいのか、愉快気に馬を駆っている。

 黄巾賊に扮した味方を追うような形で鴈門まで一息に駆け抜ける。黄巾の残党を追い続けて国境までたどり着いてしまっても朝廷の意に反する動きではない、とする発想は唖然とするほど人を小馬鹿にしていて、思わず丁原は何年ぶりになるか人前で声を上げて笑ってしまった。結局総勢二万五千で移動することには変わりないのだ。

「赫伯道はどう思う」

「自分にはわかりかねます」

 興味はないとばかりに赫昭は前だけを向いている。

 この新参の娘には作戦の内容を事細かに伝えてある。ならばこれより死地へ出向くとわかっているはずがこの落ち着き様、この赫昭という女も胆力は十二分ということか――丁原は大きく頷いた。

 武人としての悪癖が思わず顔を出す。勝てるか否か、生か死か。決死の戦いでこそこの血は滾る。丁原はふつふつと湧き上がる血の熱きをまだ早い、まだ早いと押し殺した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 於夫羅の怒りようは天地開闢以来果たしてありえたかと思わんばかりの激しさで、手傷を負った獣の如く荒れ狂い、憤怒と慟哭を数度繰り返してようやく人語を解するまでに落ち着いた。知らせを持ち帰った卒羅宇を打ち殺そうと飛びかかるのも一たびならず、周囲の者全てが体を張って止めなくてはならなかった。

「なぜだ、なぜ呼廚泉が討たれなくてはならない」

 卒羅宇は目を閉じてかすかな嘆息を漏らした。呼廚泉の首のない死体を本陣に直々に届けてきた卒羅宇だが、於夫羅の嘆きぶりは想像を上回る激しさだった。下手人の名は伝えていない、だというのにこの激しよう、名を知ればどれほどのことになるか。

「討ったのは誰だ!」

「李信達」

 卒羅宇は観念したように言った。於夫羅はとうとう剣を引き抜き卒羅宇に向けて突きつけた。飛び出した両目が真っ赤に血走り今にも血の涙を流さんばかりになっている。

「……なぜここに連れてきていない!」

「逃げ申した。寝首を掻きそのまま逃れでたのでしょう、漢へ下ったに相違無く。単于より賜ったそれがしの愛馬も盗まれ申した」

「なんという匹夫だ、なんという卑怯者だ」

 於夫羅は有らん限りの罵詈雑言でもって李岳をののしり、性根、血筋、魂の欠片にいたるまで全てをこき下ろした。卒羅宇は呼廚泉の死を悼むように眉根を寄せていたが、真意は李岳への汚辱を聞き難いとして堪えているに過ぎなかった。

「……なんとしても漢を落とす。漢を滅ぼす! 洛陽で皇帝を撫で切りにしたあと、全土に小僧の人相を手配してくれる。草の根分けてでも探しだして必ずや縊殺(くびりころ)してくれる!」

 その後しばらく於夫羅の怒号にこらえたあと、卒羅宇は本陣を離れて自らの陣に向かった。幕には醢落が待っており、憮然とした表情のまま胡床に腰を下ろしていた。

「浮かぬ顔だな卒羅宇」

「貴様には負けるぞ」

「何と言っていた」

「先鋒の任を解くとな」

 醢落は苦笑し、卒羅宇も髭をしごいてにやりと笑った。先鋒は名誉である。それも鴈門の関を越え漢の地に一番乗りをするというただならぬ功績である。それは本来李岳の役割であり、同じく卒羅宇もその名誉に与るはずだったのだが――

「どうせ漢に立ち入ればもっとも過酷な戦場をあてがわれるに相違あるまい、安堵することは出来ぬよ」

「だが嬉しそうではないか、卒羅宇」

「痛い思いをしたくはないからな」

 鴈門の先鋒を外す……それは於夫羅が李岳や卒羅宇の目論見に気づいていないということだ。もし陰謀を察知しているのなら迷うことなく卒羅宇を磨り潰すべく突っ込ませるだろう。代わりに先鋒を任されることになったのは於夫羅の血族である右大将であり、真っ先に門を潜るのは於夫羅自身である。

 予定では、雁門関には并州兵が密かに陣取っている手筈であった。

「……大丈夫なのか」

「何がじゃ」

「あの李岳という男……お主の言う通り動いてくれるのか」

 いざとなればその身を犠牲にしてでも於夫羅と単于を討つ覚悟が卒羅宇にも醢落にもある。だが今の情勢では出陣を撤回できるかどうかは危うい。醢落は卒羅宇より李岳の策を聞き及びその成功の他に匈奴を押しとどめる術はないだろうとすぐさま考えを同じくしたが、一抹の不安は拭い去れずにこびりついていた。

「信じる他あるまい」

 卒羅宇は醢落の肩を叩いて頷いた。その手には自信からくる力で漲っていた。

「……それほどの男か」

「李広の子孫、我が知己の子、鮮卑を防いだ男であり呼廚泉を一騎打ちで仕留めた――だが何より、あの(かんばせ)よ。お主も会えばわかる」

「楽しみにしていよう」

 そう答えた時、地鳴りのような声が二人を襲った。何万人もの男たちが一斉に同じ声を出せば地は震え山さえ崩れる――進発、進発! 二人は兵舎を飛び出て草原を見た。朝日が東の空より滲み出し、平野を埋め尽くす人と馬を照らした。荒ぶる戦意と欲と恐れ。それが混じり合い進発の叫びはさらに増幅し天さえ崩さんとした。

「出立を早めたか」

「よほどお怒りと見える」

「頼むぞ醢落。手筈通りだ。三度目の早馬だぞ」

 二人は頷き合うと別れた、将である、進発となれば指揮を執らねばならない。

 左右大将を先頭に於夫羅の指揮する中軍、両翼には卒羅宇を始め骨都侯が配され、後方には大当戸が居並ぶ錚々たる有様だ。名目では天子の要請に従い漢の地にて黄巾賊を撃滅せんとする援軍であるのだが、実態は飼い主面をする漢を食い殺そうとする狼のそれ。

 総勢十九万二千騎。蒼天を突き破らんと猛々しく、燃え盛る野望によって中原を野焼きにせんとする軍――まさに地が蠢き波濤とならんとする威容であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬蹄の響きは十里の彼方からですら腹に染み渡る程だった。二万五千の軍勢がひしめき合うように詰めている。皆、顔には緊張が浮かんでいた。

 迫り来る匈奴軍二十万――頭ではわかっていても事実目にした数はまさに地を埋めんとする程の凄まじさだった。数はそれだけで暴力である。小手先の対応策など大波の如く飲み干してしまうだろう、鴈門から北に望む道の全てが蠢く人頭で埋め尽くされており、対する漢軍はその十分の一あまりなのである。

「手筈の通りだ」

「応」

 城頭にて丁原は主だった者たちへ言った。勝ち鬨、喊声は全て厳禁としている。牙旗も旗竿も横たえ二万五千の兵は死に絶えたかのようにひっそりと身動き一つしない。手に握りしめた弓、矢、剣把がじっとりと汗で染み、高ぶる戦意と恐怖、覚悟の混沌の中で喘ぐような呼吸だけが雁門関に満ちている。

 関の門は開け放している。漢は匈奴を信任している、皇帝の名で命じられた援軍を露とも疑っておらぬ。そう思わせなければならない。匈奴は悠々と門をくぐり漢の地へ殺到できると思い込んでいる。その出鼻を挫き痛撃を与える――だが誰もが胸中に一抹の不安を抱えずにはいられなかった。果たして我々の目論見を見ぬかれていることはないのか? こちらの考えを誰か一人でも看破していれば全速力で殺到してくるだろう。さすれば開け放した雁門関の扉を閉じる間もなく匈奴は雪崩れこんでくる。

 誰もが恐怖に相対した。それに打ち勝つもの、負けじと歯を食いしばる者、目を逸らす者……千差万別の中で丁原は黙念と腕を組み目をつむっていた。

 数刻後。ゆっくりと地を這う匈奴の軍勢は、とうとう丘を上り雁門関の手前にさしかかろうとしていた先頭は――於夫羅であった。一番乗りの功績を我が物にしようというのだろう。

 馬にまたがったまま巨体は進んでくる。鴈門の関は開け放たれたままである。隣の李岳が耐え切れないという風に立ち上がろうとしたのを、丁原が押しとどめた。まだ早い、まだ一息早い。丁原はその肩を握りしめ再び座らせた。あと一呼吸必要だ、ここは辛抱しなくてはならない――於夫羅率いる親衛隊が、いよいよその門を潜ろうとしたのを待って、丁原は立ち上がり声を上げた。

「閉門!」

 声を遅しと関の扉は走りだし、その口を閉じた。九尺の高さを誇る鉄の門扉は鋼鉄の閂を三つも備え、これを敵によって砕かれる時は死ぬる時、打ち破られる時は漢の滅ぶ時とばかり。

 狼狽する於夫羅と親衛隊、その只中に向かって丁原は吠えた。

「これはこれは於夫羅殿! 何用によっていらしたか!」

「丁原! うぬ、我らを漢の援軍と知っての狼藉か。ただでは済まぬぞ!」

「ほほう、援軍とな。詳しくお聞きしたい。場合によっては再び門は開かれるであろう」

 於夫羅は唾を吐き捨てながら吠えた。

「貴様らが内乱に苦しみ喘いでいる様を見かねて、朝廷より援軍の依頼が来たのだ! あらぬ疑いをかけるより先に己の不甲斐なさを恥じるがいいわ」

 途端、丁原は哄笑を上げた。その笑いは両側の切り立った鴈門山の崖を弾き疾く行き交い、二十万匈奴兵の隅々にまでこだました。

「片腹痛いわ下郎。貴様の浅知恵などとうに知れておる。我らを謀り天子の御龍体を害し奉ろうなどと驕ったか、於夫羅!」

 続いて李岳が立ち上がった。動転し、言葉に喘いでいる於夫羅に対して包みを放り投げる。於夫羅の親衛隊の一人がそれを受け取ると、息を飲んで後ずさった。

「弟の首だ、於夫羅。悪いことは言わん、郷里に持ち帰って埋葬してやるが良い」

「小僧……! 貴様! 弟の寝首をかくだけに飽きたらず……」

 血走った目と血管の浮き出たこめかみは距離があってもはっきりと見て取れた。李岳は於夫羅の顔を見ると、鼻で笑ってから遠くを見定めた。

「匈奴の者共、聞け! 我は李広の子孫にして飛将軍を継ぐ者……名は李岳! 匈奴の誇りを(わたくし)して単于を騙し、己の野望のために不義に走るこの男が果たして貴様らの大将として相応しいか否か! ……今この時、我は義に依って漢に立ち、匈奴の誇りを愚弄するそこな於夫羅の横暴を、微塵に砕く剣となる!」

 どよめきが眼前の地平から蒸気のように揺らいではうっすらと覆った。鮮卑より匈奴を守りし軍神が、今ここで匈奴に向かって矢を向けている――怒りではなく戸惑いが匈奴を走った。

 李岳は手にした弓矢を携えると、引き絞り、放った。風を切り裂いた一撃は真っ直ぐに於夫羅のまたがる馬の眉間に突き刺さり、一瞬で絶命させた――なんという弓矢の腕! あれは確かに李広の子孫に相違なし! ――敵味方問わず、李岳への眼差しが熱いものとなった。

 馬上から転げ落ちる於夫羅を見て、丁原は剣を抜き放つと号令した。

「この鴈門の関を無傷で通れると思うな、長城が今なお破られぬ所以、その身でとくと思い知るが良い!」

 耐え忍ぶ時は丁原の剣が日輪の輝きを照り返したことによって終わりを告げた。喊声は木霊した。城頭に、あるいは鴈門の山上に潜んでいた漢軍は皆々立ち上がると、意気も激しく絶叫した。

 二万五千の雄叫びは二十万匈奴兵の心胆を飲み込んだ。城壁に立ち並ぶ『漢』と『丁』の旗。風に靡きはためきながら、決して断ち折られることはないとばかりに誇り高く雄壮――ここより後ろに道はなく、押し迫る二十万郎党を防がねば郷里は滅ぶ。漢兵の覚悟並々ならぬ。天を突かんばかりの鬨の声は、配下の馬を奪い取り慌てて後退する於夫羅の背を強かに打った。

「放て!」

 丁原の号令一下、引き絞られた矢は豪雨の如く匈奴兵を襲った。無傷で通れるはずの関所には敵兵が満ちており、夢にも思わなかった奇襲を受けている、しかも敵将は剛の者と名高き并州刺史丁原に、本来先鋒としてこちらに味方するはずの飛将軍――匈奴の足並みは揃わず、部族長が声を荒げようとも一貫した行動は取れようもなかった。

 丁原はすかさず城壁から地面に降りると開門を告げた。手には槍、付き従うは精鋭一万五千。

「開門」

 鉄扉は攻めどきを喜ぶかのように軋みを上げて開ききった。二十万を背にしたがために前衛の撤退はもどかしい程に遅々とした、その隙を逃す手はない。

「尽く討ち果たすぞ……突撃!」

 丁原の号令に、并州兵の叫び声が覆いかぶさる。

 

 ――果たして漢軍の攻撃は関前を匈奴の死体で埋めた。

 

 ほとばしる丁原の槍、立ちふさがる全てを切り裂く張遼の大刀はもはや単騎で数万を圧倒した。後退ままならぬ敵を撃ちつくさんとした并州兵の最強戦力はとうとう十倍する敵軍を十里までも押し込み、散々な失血を強いたのちに堂々と帰還した。

 敵兵四千余りを討ち取り、その中には右賢王於夫羅の股肱の臣とも言える大都尉までもがいた。討ち取ったのは張遼である――敵陣の間隙を見咎めるや否やすかさず疾走し、立ちふさがる兵卒の首を一挙に五十も刎ね飛ばし、慌てて逃げようと背を向けた敵将の首を宙に舞わせた――張遼の名は匈奴の全てに知れ渡り『遼』はとうとう忌み字となり、後世名高き『神速』の異名はこれより始まることとなった。

 後に言う『雁門関の戦い』の初戦は、漢軍の完勝によってその幕を開けたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎馬隊が帰還すると、鴈門の鉄扉は再び重々しく閉じた。并州兵の意気軒昂はかつてない程であり、一部を除き興奮の坩堝と化していた。

 李岳は帰還した丁原と張遼を労った。興奮気味の張遼は満面の笑みで自らの武勇を誇っている。

「討ち取ったで! ちょろいもんや!」

「お見事でした」

「こんなん小細工せんでもそのまま行けるんちゃうん!? もう敵なしやでこれ!」

 愉快気に哄笑する張遼に李岳は思わず苦笑した。これほどの戦果に敵将さえ討ち取っている。大言壮語も無謀な戦意もその全てが味方の利する所になるだろう。

 その中、丁原はいつも通りに自らを律するような硬い表情のままであった。その心中はいささか複雑である。李岳は本来秘し、吹聴したくはないはずの自らの血筋の話をあえていわねばならなかった。匈奴の戦意を挫くには確かに有効な一手であり、勝利のためならばこのくらい、と自ら進言した李岳のことを慮ると丁原は将としての喜びよりも親としての憂いが勝りかねない。

 自らの惰弱さを戒めるように、丁原は李岳に聞いた。

「本当にあれでよかったのか、於夫羅を討ち取れたであろう」

 李岳の放った矢は、狙い定めた通りに命中した。元々於夫羅の命を狙ったのではない。李岳は肩をすくめた。

「やつの命には元手がかかってるんですよ。きっちり回収してから死んでもらいます」

 平然と言い放ったが、瞳は冷酷、声音は怨嗟を隠しきれていなかった。浮かべた笑顔が痛々しい陰影となっている。

「……あの場で殺せば匈奴は引っ込みがつかなくなります。遮二無二突っ込んでくるかもしれません。当初の作戦通りにいきましょう」

「そうだな」

 夕暮れは鴈門山の西の峰にかかり、既に没している。この後の配備は丁原の令に基づく。丁原は張遼を呼び、二万騎の指揮を預ける、と告げた。

「公孫賛の軍勢が匈奴の都である単于庭を脅かすという知らせが届くのは何日後になるかわからぬ。それは明日やも知れぬ。明朝より匈奴は二十万の全兵でこの砦を囲むだろう。宵闇を突いて出るには今この時を置いて他にない」

「ウチ、やります」

 常の軽口ではない、張遼は初めての大任にその頬を紅潮させた。

「命じる。討て。他にはない」

 張遼の威勢のいい応答が響いた。武芸者の真髄、披露するにはここを置いて他にはない。

 その後の配備命令は簡易である。守城の指揮は総大将である丁原、副官に赫昭が任せられることになった。実績のない赫昭ではあるが、先の戦闘で自らに付かず離れず敵陣に食らいついていたのを丁原はしっかりと見ていた。冷静沈着でありながら闘志もある。例にない抜擢と言えたが丁原に迷いはなかった。申し渡された赫昭は耳を紅に染めて、緊張と意欲の眼差しで頷いた。

 時に、李岳が手を上げて言った。意気揚々ときびすを返そうとする張遼を、呼び止めると丁原に言った。

「私も別働隊にお加えください」

 丁原を中心にわずかに沈黙が馳せた。張遼は足手まといは御免だと不貞腐れ、丁原は鉄面皮は変わらずとも動揺していた。

「山は険しく土地のものでなければ不案内です。私はそこで生まれ育ちました」

「ウチかて鴈門の生まれやで」

「長城より北ですよ。それに二万の兵が極秘に踏破しなくてはいけない道です、半端では露見しますし迷ってもいけません。私は日々狩人として生きてきました。熟知しております。誰よりも道に明るいと自負しております。それに張遼殿だけでは部族長との面識もなく停戦合意もままなりますまい。於夫羅を討って終わりというわけではないのです。窓口は必要です」

「んなこと言うたかて自分も討たれたら終わりやで。ついてこれるんかいな」

「ご所望とあらば」

「……おい、ええ度胸しとるやんけ」

 張遼はそれを自らに対する挑戦と受け取った。策は持っている、体捌きが愚鈍ではないということもわかっている、矢もいいだろう。だが自分自身が気に入り認めるかどうかは別問題だ。

 今回の戦、張遼はこれ以上ない大敵だと武芸者の心意気からはやってはいたが、同時に自らの故郷を守るための絶対に負けることが許されない戦いであるとも認識していた。長城のすぐ南に位置する鴈門郡の生まれである、并州軍が敗退すれば瞬く間に蹂躙されてしまうのだ。

「……私にとってもこの戦は負けられないものなのです。野戦の経験ならあります。籠城戦よりはお役に立ちます」

「野戦が簡単みたいに言うてくれるやん」

「そんなことは考えていません。ただ……」

「ただ、なんや」

「――於夫羅をぶち殺すのは譲れません」

 束の間、李岳が何を言ったのか把握できない時間が過ぎた。沈黙を打ち破ったのは張遼の爆笑であり、血染めの衣のまま床に転がると腹を抱えて苦しんだ。息も絶え絶えに喘ぎながら、とうとう張遼は言った――よっしゃ、競争やな。

「……時はない。すぐさまかかれ」

 丁原ももはや否やはなかった。命じると李岳と張遼はその足で軍勢の方向へ向かって歩き出した。我が子が行く。死地へと行く。しかし勝てばまた会えるのだ。それを疑ってはいないから、李岳はこちらを振り向かないのだろう。丁原は赫昭を呼び寄せ指示を出し始めた。死守する。ここは我が子が帰る場所――そっと開いた正門から整然と出立していく二万騎を眺めながら、丁原は山の峰にかかる月を見上げ、固く手を握りしめた。




※赫は当て字です。正しくは【赤】に【おおざと】ですが、機種依存文字のため【赫】の字を当てました。


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第十九話 赫昭

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その男は突然訪ねてくると、己の運命をたやすく変えてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は晋陽出立の前に遡る――岳は夜、燭台の明かりを頼りに名簿を睨み続けていた。

 配下の隊長の名簿を借り受けたいという言葉はすぐに通り、李岳の居室に竹簡が山と積まれた。丁原も張楊もただ名を覚えるだけだろうと思っているに違いないが、李岳は他に密かな目論見があり、それは余人には思いもよらぬことであった。

(歴史上の人物を探すなんて、言えるわけないよな)

 李岳は会議で決定した作戦配置にわずかな不安を見出していた。人材が少ないのである。もちろん何万もの兵がいるのだ、部隊長を始め軍人は多くいる。だが丁原の隣で補佐を行える程の武将が正直に言って心許ない。別働隊の指揮は張遼が執ることになるだろうが、どんな手段を使っても随伴する心づもりの岳、籠城戦の補佐が欲しいところだった。

 守備兵も当初の案より二千を増やしてはいるが、守城の指揮を丁原がほとんど一人で執らねばらないことになっている。攻めるに難く守るに易い雁門関とはいえ手の行き届かないところも出るのでは、と危惧していた。

(聞くだに、攻めの戦ばかりだったはずだ……母上はいつも自分が先頭だったと聞いた。籠城が下手だとは思わないけど、誰か他にいてくれたらきっと……)

 かすかな燭台の明かりを頼りに李岳は竹簡に書かれた名前を追い続けていた。百人隊長以上の名前が記されているので細かな役職を含めてその名前は四百以上に上る。姓と名、字に出身地しか書かれていない。

(関羽とかいないかなあ……いやいくらなんでも関羽はないよな、ぼけてるのか俺は……でも本当に関羽がいたらなあ、すごいだろうな。なんせあの美髭公だ、青龍偃月刀で千切っては投げ千切ってては投げ……ってそうなると張遼とのツートップか。夢があるなあ。そういえば張遼も女性だったな、まあもう驚かないけど)

 

 ――不思議と、呂布がいれば、とは李岳は一度も考えなかった。

 

 夜通し駆け続けてやってきた、疲れもあり眠気も取り切れていない。朧気な意識は時折虚ろに飛び跳ねあらぬ方向へと転がっていったが、その度に首を振って目を覚ましあきらめずに字を追った。自分にできることは全てやりつくさなくてはならない、武力も知れている、部隊の統率も出来ない……であるのならば、生前の知識だけが今使うことのできる武器だ。張遼がここにいたのだ、だったらきっと他に誰かがいてもおかしくはない。味方の部隊にいまだ埋もれたままの珠玉のような人物を見出すことが出来れば素晴らしい戦力の向上となるだろう。

 何冊に目を通したか、山と積んだ読破済みの竹簡……残りのものも心もとなくなり、甘い考えをしたか、無駄な試みだったかと岳がぼんやり考え始めた頃、ひとつの文字が目に飛び込んできた。歴史に名だたる英雄というわけではない、誰よりも武に長じ中原を跳梁したというわけでもない。眼前の竹簡に記された位は百人隊長の末席の一人である。丁原率いる并州兵の中で頭角すら現してもいない。

 だがその名前を李岳は見知っていた。生前読み通した『三国志』の歴史の中に確かにその名前はあったのだ。字は覚えていないが、電流のようにほとばしった直感が間違いないと囁く。

 朝日が差し込み雀の鳴き声もかしましいが、李岳は燭台の隣でその竹簡を手にしたまま微動だにすらせず、炯々と眼光を輝かせた。

 

 ――赫昭。

 

 史実では曹操の興した魏に仕え、将軍として活躍した人物である。

 その名が千年後も勇名として語り継がれることになる一つの戦いがある。『陳倉の戦い』――中華の大地に、魏、蜀、呉の三国が鼎立し、正しく『三国時代』と呼ばれることになる情勢下、天下にその名を轟かせる稀代の名軍師、諸葛亮は蜀漢の正統性を謳い、漢の帝より禅譲を強いて帝位を簒奪した魏皇帝曹丕を討つべく北伐の兵を起こした。鍛えあげられ戦意も高い蜀漢数万の軍に対し、防衛するは陳倉城に旗を立てる赫昭麾下数千。

 天下の趨勢を占うにしてもあまりの戦力差、勝負は蜀の勝利で揺るぎないと思えたが――果たして赫昭は名軍師諸葛亮の采配する攻城作戦の全てを看破し、とうとうその兵糧が尽き撤退已む無しとなるまで凌ぎ切ったのである。諸葛亮の指揮する戦においてほとんど初めて土をつけたのだ。

(あの赫昭! ほんとか? 太原の生まれ……いやありうる。魏に仕えたんだ、ここだって曹操の勢力範囲になるんだ。紆余曲折あっても死ななかったらほとんどが曹操の軍勢に加わることになるわけだからな……陳倉の守護神……赫昭)

 まるであつらえたかのような天の配剤であるが、李岳にはまだ本当の『赫昭』であるという確信がなかった。同姓同名など珍しくもない時代であるし、残念なことに赫昭の字まで記憶をしているというわけではない。直接会って確かめなくてはならないだろう、見込みがあればよし、仮に予想が外れていたとしても優秀な人材であるなら推薦しよう、と思った。後の『守護神』か否かなど些細な問題に過ぎないのだ。

 翌朝、結局興奮した頭で熟睡できぬまま李岳は兵舎にいるはずの赫昭を訪ねた。

 出動を待つ軍勢の営舎は祭りを控えているような騒然さに包まれていた。

 李岳の配置に関しての布告は済んでいるらしく、手近な者に声をかけ名を名乗ると、居住まいを正して対応してくれた。

 ちょうど良い、と李岳は赫昭という人物の評判を尋ねて歩いたが、誰もが褒めちぎり信頼出来る仲間だと胸を叩いた。百人隊長など今だけだろう、すぐに出世して多くの軍勢を率いることになる、とも。

(本物っぽいけどなあ)

 あいにく留守であった赫昭だが、しばらく待つと折よく警邏から戻ってきたので李岳は話を聞く機会を得た。赫昭は背が高く纏った鎧も堂に入った見事な戦国娘であった。

「李岳、字は信達です。鴈門の北の生まれです」

「はっ。姓は赫、名は昭、字は伯道と申します。太原の生まれであります」

 李岳は名乗った少女をまじまじと見つめた。すらりと伸びた手足にはいくつもの刀傷があり、戦場を駆け回っていたことを雄弁に物語っている。邪魔にならないようにか赤色がかった髪は肩口にすら至らず、鋭い光を湛えた目は戦士のそれだが、それをやたらめったらに振りまかない意志の強さも現れていた。

「軍にはいつから」

「四年になります。家が貧しく志願しました」

「歳は」

「……おそらく二十二になります」

 自分の生まれ年を正確に記憶していない者がざらにいる時代だ、李岳は頷くとさらに質問を重ねた。

「今日より私が貴方の上官になりますが、質問はありますか?」

「ありません」

「ないんですか? 貴女は四年勤めた百人隊長、私は新参ですよ。しかも明らかに年若い」

「自分は軍人です。軍人は命令を聞くのが仕事です。質問を返すことは仕事ではありません」

 卑屈や無為な謙虚ではなく、本心からそう思っているらしい、細い目は微動だにとも揺れなかった。

 丁原も鉄面皮といえる程に表情が固く、軍規に厳しくとっつきづらいが、この少女はさらにその上を行く固さだった。武芸者上がりの丁原と、まず軍人であるというところから始まった違いだろう。

「百人隊長ですね。部下の掌握はできてますか」

「はっ」

「聞くところによると、貴女の部隊は他に比べて戦死が少ない。なぜでしょう」

「部下が優秀なためです」

「優秀な部下はよい上司の賜物でしょう。要諦は?」

 束の間口ごもったあと、赫昭は意を決したようにハキハキといった。

「彼を知り己を知れば百戦して(あや)うからずと言います」

 李岳は目を細めた。『孫子の兵法書』からの引用であった。

「……続けてください」

「百人で走り、百人で飯を食い、百人で寝ました。お互いに名前を覚え合いました。仲間であることが強いことだと自分は考えました。自分は孫子の言う『彼』を知る立場にありません。ですから『己』を知ろうと思いました」

 配下を掌握するには正道とも言える手法だ、隊長が部隊員と共に同じ苦しみを味わい、同じ生活を営めばそれだけで仲間意識が芽生える。李岳は眼前の人物が自らの知る赫昭と同一人物か見極めることができないと思った。同姓同名など珍しくないのだ。だが、例え史実の通りの人物でなくても、この人ならば丁原の良き補佐となるだろう、と確信した。

 とはいえ結論を急ぐことはできない、李岳は今のやり取りでわずかな瑕疵を見出していた。

「どこで覚えましたか?」

「はっ?」

「『孫子の兵法書』です。道端に捨ててあったわけじゃないでしょう。貴方は自ら貧しい出自だと言った。年齢すら定かではない。それに武官だ。文書を学ぶことなど普通はない。どこで読みましたか?」

「……」

「黙りこくるのが部下の仕事ですか?」

「……いいえ」

「では答えなさい」

「――訓練のあと書庫に忍び込み許可無く借り受けました」

 このように追及を受け、それを自白するという形になっても赫昭は気をつけの姿勢から微動だにせず真っ直ぐ李岳の目をみていた。

「借り受けた? それは盗みというのでは」

「……はっ」

「軍に居る者が規律を守らず貴重な兵法書を私した……その罪に対する罰はいかほどかご存知ですか?」

「――放逐であります」

 赫昭は息を飲んで答えた。岳は手を顎に当て、さて困ったと首をかしげる。

「……さて、どうしましょう。貴方はどうしたらいいと考えますか?」

「……と、おっしゃいますと」

「貴官はこの場合どのような処罰が相応しいと考えますか」

「……軍規は軍の依って立つところです。罪には罰で報いることを避けてはいけないと自分は考えます」

「放逐ですよ。二言はありませんか?」

「ありません」

「……では、なぜ泣いているのです」

 赫昭は思う。戦死を減らしたかった。兵法書を読めばそれがひとりでも減らせると思った。悪いとは思っても欲望を我慢できなかった。だがそれはいけないことなのだろうか。同じ位の隊長たちはそんなもの読んでも役には立たないと笑うばかりだし、直属上司の屯長はいずれいずれと言うばかり。忍び込み盗み読む他にどういう手立てがあったのだろうか。

 突如目の前に現れた李岳という男。并州刺史の一存でいきなり抜擢されたのだ、きっと自分などよりよっぽど優秀であるのだろう。だが赫昭の胸の内にはやるせなさが募り、自分がしでかした愚かさと自己弁護の葛藤の間で、目の前の小柄な男の顔など見たくないと訴えた。

 男はこほんと息を吐いて、あさっての方向を見ながら言った。

「数日後、匈奴が国境を脅かさんとやってきます。并州軍は鴈門の城塞にてこれを迎え撃つ。丁原様の副官に貴女を推薦します。城塞防衛軍五千の副官です、責任は重大です――寄せ手は二十万。激戦となるでしょう」

 赫昭は李岳の言葉に思考が追いつかなかった。副官、と確かに目の前の男は言った。罪に問うと言ったのに出世を命じられている状況がどうしても赫昭の納得に届かない。

 さらに戦の知らせがまた混乱に拍車をかけた。匈奴が国境を脅かさんと迫ってくるというが、その数が二十万――二万と聞き間違えたわけではなく、確かに李岳は二十万と言った。前代未聞の大軍であった。

「……お言葉ですが、何をおっしゃっているのか、わかりません」

「守兵の指揮につけ、と言いました。無事守り切ることが出来れば罪は不問とします。敗れれば追放です……望むのならば、今ここで追放を選んでも構いません」

 李岳という男の瞳に嘘や偽り、冗談などは見いだせなかった。反対に慮るような風さえあり、赫昭は束の間これは夢なのではないかと疑いさえした。

「……」

「返事は」

 返事を求められている。軍人としての本能で赫昭は反射的に応えてしまっていた――おそらく数日かけても同じことを述べるであろう答えであった。

「――はっ! 機会をお与えいただきありがとうございます!」

「……丁原様にお引き合わせします。付いてきてください」

 くるりときびすを返して歩き始めると、李岳は作戦の詳しい内容については丁原から直接聞くように、と声を潜めた。しばらく歩き官舎に足を踏み入れようとした頃、ああそういえば、と思いだしたように李岳は言った。

「私も孫子には学ぶべきところが多いと思います。多くの人が学べば良いとも……戦が終わり無事に生きて帰れば、読み解きの会でも設けますか……」

 ぽりぽりと鼻頭をかきながら言い捨てて、李岳はそそくさと足を速めた。

 良い人なのかも知れない、とふと赫昭は思った。厳しく口を引き結び露骨な優しさは見せないが、明らかに自分の涙に動揺しているし最後はどうにか聞き取れるという程度の早口にもなっていた。

 大体おかしな話だ。二十万もの大軍を迎え撃ち、防ぎきることが出来れば罪を不問とするなどと、破れたら死は確実なのだ。目を瞑る、ということと同義である。そしてこの場での追放とは、死地のような戦場へと出向くことを拒否する権利を与える、ということを指す。

 何より総大将である丁原の副官につけなど、百人隊長しか任されたことのない赫昭にとっては唖然とするほどの抜擢だ。

(李岳……一体、どういう人なのだろう)

 頭ひとつ小さい男、くせっ毛が耳のとなりから飛び跳ねている。赫昭はひょうきんに揺れ動くその髪の毛を目で追いながら。李岳の後ろを刺史の居室まで付いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は戻り雁門関、関をかけた匈奴との攻防戦は三日目に至っていた。

 赫昭は運び込まれた石を手当たり次第に投げ落としながら叫んだ。

「落とせ! 城壁に上げるな!」

 今日だけで三度目になる総攻撃であった。総勢二十万の匈奴兵が代わる代わる寄せ手となって鴈門の砦に殺到してくる。狭く切り立った崖を塞ぐような関ゆえに、一度に突っ込んでくる兵は二千から三千に過ぎない。だがその背後には蠢くような人の波が打ち寄せようと揺れ動いている。

 この砦が打ち破られるまで寄せ手は永遠に朽ちることなく攻めつづけてくるのではないか、そう思えるほどに物量は圧倒的であった。

 投石は城壁に取り付いた匈奴兵の頭をいくつも押し潰した。下にいた者共もそれに巻き込まれて被害は拡がる。赫昭はさらに合図を出した、すると引き絞られた矢が一斉に放たれた。矢は吸い込まれるように再び押し寄せようとした第二陣の出鼻を挫き、ようやく敵はさざなみのように引いていった。昼から二刻続いた攻勢が何とか一段落というところなのだろう。

「前列を交代。負傷者の手当てを急げ――丁建陽様。私は工兵を連れて岩を砕いて参ります」

「うむ」

 丁原は額の汗を拭いながら頷いた。赫昭は間近でその弓矢の威力、振り回す刀剣の凄まじさをその目で見ていたが、流石に仰ぐに相応しい大将だと誇らしさを感じるほどであった。

 無数にいる百人隊長の一人でしかなかった自分が、憧れた刺史の副官として五千の兵を率いる二位の席を与えられることになるとは、ひどい籠城戦を戦っているというのに何度考えてもまるで夢の中のようでさえあった。

「工作隊」

 声を上げると二千弱の兵が威勢のいい声で応答して赫昭に続いた。顔に出しはしないし臆しもしないが、赫昭は内心、ああ私は指揮をしているのだな、と胸がドキドキと高鳴り、誇らしい気持ちが沸き起こるのを止められなかった。

 事実、赫昭は見事に副官としての任を全うしていた。

 五千の兵をいっぺんに防備に振り分けても混雑し統率が取れない。赫昭は丁原に進言し防衛隊を三隊に分けていた。前衛、工作、予備であった。前衛は敵の攻撃を受け止め防ぎ、工作は岩を砕き投石用に備え、予備戦力は危うい箇所への援護、負傷者の手当て、炊飯などを行う。その甲斐あり人員は滑らかに移動でき、物資の不足もその陰りさえない。赫昭はその全ての現場で休みなく奮闘していた。

 全身が岩のように重く、気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうになるのを叱咤して赫昭は兵を連れて裏の岩山へ向かった。矢はすぐに足りなくなるので防塞戦では岩が意外な程に効く。鴈門の山に挟まれているので岩くれには困らない。

 そして工作隊の半分は木々の伐採に振り向けている。木の幹を頭上から落とすのだ。直撃を受ければ一溜りもないであろうし、城壁の下は斜面である。豪快に転がり落ちて匈奴自慢の騎馬隊の足を絡めとるだろう。

 死闘の後だというのに赫昭は誰よりも多くつるはしを振るい、誰よりもたくさんの石を運んだ。常日頃の訓練でも誰かに遅れを取ったことはない。特別な武勇は持ち合わせていなかったが、昔から体力だけは人一倍であった。

 一刻程作業を続けたあと、一つの人影が寄ってきて赫昭に声をかけた。

「赫昭……」

 照れくさそうに頭をかくのは入隊した頃から面倒を見てもらっていた男で、百人隊長であった頃の上司であった。

「屯長……」

「その、なんだ」

「あ」

 赫昭は髭面の屯長が気まずそうにしているのを見てはっと思い当たることがあった。若輩の自分が口利きによって、多くの先達を飛び越えて上位に配置されたのだ。不義とまでは言わないが不満があって然りだと赫昭も思う。嫌味の一つが飛んできた所で当然なのだ、と内心覚悟したが――

 男は照れくさそうに笑ってから、赫昭をねぎらった。

「おめえ、よくやってるな」

「……え」

「俺、ビビっちまってよ、逃げたくてたまんねえんだ……けど、お前はすげえよ、指揮して戦ってる。最前線で血まみれになって、すぐに次は工作隊と一緒に汗かいて……立派だ、俺はお前に……いえ、副官殿についていこうと決めましたぜ」

 頭を下げた男を赫昭は押しとどめた。

「お、おやめください屯長殿」

「赫昭、お前はもうおいらの上司なんだ、これが普通なんだぜ」

「ですが……いえ、そうですね」

「飛将軍に認められたんだ、胸を張れよ」

 飛将軍――自分を引き立てたのがただの武官などではなく、漢の地にて最早伝説として語られる将軍、李広の子孫なのだと赫昭は初戦にて知った。

 

『――我は李広の子孫にして飛将軍を継ぐ者……名は李岳!』

 

 李岳の叫びが今ここで再び唱えられたかのように赫昭の耳朶を打った。その後の武者働きも凄まじかった、近づいていたとはいえ敵の大将の馬を見事に射抜き味方の士気は天を突かんばかりになった。

 自分よりも背の低い、あの癖毛の少年――赫昭は自らが仕える者にひょっとしたら出会えたのかもしれない、と思うと胸が熱くなった。少なくとも取り立てて頂いた恩は返さなくてはならない、この身を粉にして働き、戦い、あの将が無事に帰ってきた時にきっとこの関所で出迎え己の罪を赦してもらうのだ。そして孫子の講釈を聞かせてもらう、きっと――

「……勝てるって気がしてきた。并州様……いや、今はもう執金吾様か。そして飛将軍だ。きっと勝てる。生きてかかあに会えるな」

 屯長は笑って敬礼をすると、背を向けて作業に戻っていった。大声で怒鳴り散らしながら作業が差し支えていた場所に手を加えている。赫昭はついぞ知ることはなかったが、この不器用な元上司の計らいにより、百人隊長以下の兵士が軒並み不信や反感を抱かずに赫昭の命令に従っていたのであった。

「……勝ちましょう」

 もう目の前には誰もいないが、誰ともなく赫昭は言った。そう、勝つのだ。無事に生きて帰り孫子の講釈を受けなくてはならない、そして受けた恩を返さねば死ぬにも死ねない。城を守りぬき罪を雪げと李岳は言った。自分は軍人だ、命令には絶対服従が原則――だからこの雁門関を絶対に守りぬこう、赫昭は自分の全てをもって誓った。

 不意に敵襲を知らせる叫びが反響した、こちらを休ませずに攻め立て疲労を蓄積させようという腹なのだろう。

 疲弊させたければさせてみよ、どれだけ困憊しようともここは抜かせぬ。死守するは赫昭、全ての攻勢を跳ねのけて必ずや仲間を生きて家に帰らせるのだ――剣を抜き放ち赫昭は号令をかけ走り始めた。

 

 

 

 

 

 

 ――後に『赫昭伝』は言う。姓は赫、名は昭。字は伯道。太原の生まれ。若くして軍に属す。晋陽にて執金吾丁原に従卒として取り立てられる。丁原の死後は校尉となり李岳に仕える。霊帝崩御後は賊の鎮圧に功ありとして中郎将となる。寡兵よく敵を凌ぎ城を守れば侵入を許さず、百戦百勝叶わずとも城塞を守りて百戦百守す。配下の兵卒をよく監督し皆喜んで指揮に服した。人は皆彼女をして歩く関が如くと称し、難攻不落の勲はまさに長城が如しと謳った。後に鎮護将軍。晩年、漢中にて病没。列侯に封ぜられる。

 



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第二十話 露見

 公孫賛は目が回るような日々を送っていた。

 西涼の乱からこちら、その功績によって元々の所領である琢郡の他に、代、上谷の二郡を任せてもらうことになったはいいものの、元々軍人上がりで政が得意とは言いがたい公孫賛である、赴任してすぐの頃は文字が読めればそれだけでいいとばかりに町には札を立て文官を補充せんと躍起になっていた。三郡でこの有様である、せっかく経営も軌道に乗ってきたのだからと欲張って中山郡を手放さずにいたらどうなっていたか、想像するだけでもぞっとした。

 休みも満足に取れず、古参の者にも負担をかけてばかりで申し訳ないと思う。だがそれでも成果は着実に上がっており、公孫賛は日々が楽しかった。賊の討伐を円滑に行うために街道を整備すれば民がそれを用いて三郡を行き交い始め、物が動き、町は栄え、人も集まる。『護烏桓校尉』の位官を正式に賜ってからは武官、文官問わずにさらに人も集まってきた。異民族との軋轢がないとなれば田畑の拓きも増え、北方特有の物産も徐々に町に流れ込み始めた。

 烏桓との付き合いは徐々に密さを増し、公孫賛の求める騎馬隊の充実も日を追う毎に成されていった。なにせ遠く并州に求めずとも同じくらい馬に馴染んでいる隣人がいるのである、金と物とで分けあう事ができるのならばそれに越したことはないし、双方の益となる。烏桓は匈奴に比べて馬を用いた戦法、戦術の中身を異にするが、多くの駿馬を産出するのに変わりなかった。

 烏桓への防衛対策として下賜される秩石二千石のほとんどが烏桓へと渡っているという事実を朝廷が知ればいかに思うだろう、だが矛を突き立て合うよりも手を取り合う方が百倍も優れた防衛政策なのだ、と公孫賛はしみじみと実感していた。

 とうとう公孫賛の持つ兵力は一万四千を超え、三郡の相としては抜きん出たものとして『北方の雄』の名を欲しいままにしたが――凶報は、そんな折にこそよく届く。

「なに、趙子龍……星が戻ってきただと?」

 知らせにやってきた程緒(テイショ)――最近文官に雇った男で、中肉中背の特徴のない男ながらよく言えば公明正大、悪く言えば毒舌吐きの堅苦しい頑固親父――の言葉に公孫賛は目を丸くした。趙雲は李岳という男の本質を見極めなければならないとして先日ここを発った。あれから一月も経っていない、無事に目的地へ辿りつけたか、あるいは見つからなかったか、見つかったとしてもとんぼ返りとして戻ってきたか――だがどちらにしろ『朋有り遠方より来る』に相違はない。

「また楽しからずや、か……よし、すぐに連れてきてくれ」

 朝から昼まで未だ慣れない文官仕事にかかりっきりだったのだ、頭も痛ければ肩も重い。まさにこの窮状を察し救出せんとして来訪した友である、散らかった部屋を見せることはできないと公孫賛はいそいそと書類を片付けてから、程緒による諫言と言う名の小言さえも強引に聞き流して押し付けた。

 趙雲はいつものように飄々と現れた。

「元気そうだな、星」

「白蓮殿こそおかわりないようで」

 二人は笑いあうとお互いの無事を喜んだ。この時勢である、いつ何時死に臨むことになるやらわからない。朝に五体満足でありながら夕暮れには埋葬されていたとして不思議なことなどない。旅だった友が無事にまた会いに来てくれた、これ以上の喜びがどこにあるのだろうか。

「どうだった、旅は」

「中々得るものが多く、積もる話も山とあるのですが……実は時があまりない」

「時がない? 少しゆっくりしていってもいいだろうに」

「そうも言ってられないのですよ。火急の時、というやつでしてね。実は白蓮殿には助力を願いたく参上いたした次第なのです」

 親しい友の頼みだ、どんな類のものであろうと応えるにやぶさかではない。水くさいことは言うな、と公孫賛が頷いたのを認めて、趙雲はフフフ、と笑いながら言った。

「これは助かる――それでは二、三千ばかり騎馬隊を引き連れてちょっと出陣と参りませんか」

「出陣? なんだ、賊でも出たのか」

「うむ、賊と言えなくもないですな。とんでもないものを盗みとろうとしている」

「わかった。この公孫賛、相として応えなくちゃな。で、相手はどこの誰かわかっているのか? 黄巾か?」

「いいえ」

「じゃあ黒山か?」

「いえいえ」

 そんな大層なものではない、と趙雲は首を振るので公孫賛ははてなと思った。黄巾でもない、黒山でもない、どこぞの新手が流れてきたか、だがそうであるならば自分が聞き及んでいないはずもない。趙雲はにんまりと意地の悪そうな笑みを浮かべると種を明かした。

「匈奴の精鋭二十万、漢の天下を盗み取らんと南下をしているのです」

「そっか。匈奴が二十万」

「ええ」

「――おえあ?」

 あまりにも現実離れした回答に、口からわけのわからない声が漏れてしまった。趙雲は愉快そうに笑うばかりで、あるいは冗談なのかと公孫賛も笑みを浮かべようとしたが、途端唇を固く結んで言った。

「右賢王於夫羅を総大将とした二十万の匈奴兵、長城を乗り越え洛陽を掌中にせんと蠢いております。まさに火急の時。三郡相におかれましては今この時を置いて立ち上がる機はありませんぞ」

「待て、二十万の敵に数千でどうするというんだ!? 他の諸侯も立ち上がったのか? こちらの兵力はいくらなんだ」

「并州刺史、丁原率いる兵およそ三万」

 公孫賛は趙雲がさらに名と兵力を連ねるのを待ったが、それでしまいだとばかりに口を固く引き結んでいる。公孫賛の手に汗が滲み、喉の渇きに呻いてつばを飲み込んだ。

 中華の歴史において最も巨大な災厄とは内乱でも、大雨でもいなごの大群でもない――それは北方騎馬民族の攻撃に他ならない。今までどれほどの数の激戦を繰り広げてきたのか、そしてどれだけの被害が出たのか――そんなもの、何百里、何千里に及ぶ長城を見れば万言を尽くすよりも早い。

「無茶だ、無謀だ!」

「無茶、無謀……確かにそうでしょう。ですが白蓮殿、時は無いのです。今すぐ騎馬隊を率い、出陣しなくてはなりません」

「だが数千ばかりで何ができるというのだ」

「できるのです。この戦は貴女と、貴女が率いる『白馬義従』の働きこそが肝なのです」

「……一体、何をさせようというのだ」

「――匈奴の都、単于庭へ。敵の後背を扼し匈奴の結束を瓦解させる矢となっていただきたい」

「馬鹿な!」

 なんという策なのだろう! 二十万の匈奴が漢を狙って南下を企てるというのならその正面を食い止めなくては、となる。だが側面、あるいは背後を狙うとは――しかし戦法としては正しいだろう。敵の弱点である兵力の薄くなった首都を狙うのは兵法としても理にかなっていた。『囲魏救趙』という言葉もある。古の戦国時代、魏国に取り囲まれた趙国を救わんとして、斉国は囲みではなく魏本国を狙い、見事目的を果たした。『孫子』の名を受け継いだ偉大な軍略家、孫臏(ソンビン)の献上した策であった。

 とはいえ、たかだか数千で都を落とすことなど出来はしないし、三万でも四万でも予備兵力を差し向ければそれでお終いなのだ。やはり無謀だと公孫賛は首を振った。

「趙を救った斉の将軍、田忌になれとでも? だがあまりにも兵力が違いすぎるぞ、それに都など落とせるわけがない」

「それが出来るのです……それを成し遂げんとする男がいるのです。匈奴の野望を食い止めんとして立ち上がった、たった一人の男の頼みで私は参ったのですよ」

「……誰の話をしてるんだ」

「この秘策を考えた、この時代に蘇った孫臏――姓は李、名は岳。懐中の秘策を携えてこの趙子龍、まかりこした次第でござる」

「李岳……!」

「彼は言っておりましたよ。公孫賛殿なら大丈夫、と」

 そして趙雲は述べた、李岳が述べた救国の策を。公孫賛は見る間に顔色を変え、気づいた時には興奮に歯を食いしばっていた。

 脳裏には小柄で柔和な笑みを口元にたゆたえた男の姿が浮かんだ。李岳は公孫賛の脳裏でわずかに顔を伏せると、いつか見せたあの酷薄な笑みを浮かべている。

 偶然立ち会ったというそれだけの理由で公孫賛を貶めんとした陰謀を暴き、烏桓との軋轢を解きほぐしてしまった男。李岳があの場にいなければ現在のように三郡を治めることなど出来るわけもなかったし、烏桓の反乱により血と泥に塗れて駆けずり回っていたかも知れない。

 その恩人が立ち上がった、趙雲に必殺の策を預けて寄越し、公孫賛の力を頼みにしている――借りを返せと言葉に出すことすらなく。

「ふふふ……相も変わらず意地の悪い男だ」

「さて」

 とぼけているが、趙雲も同じようにおかしく笑った。公孫賛は立ち上がると麾下に服す田楷と従妹の公孫範を呼んだ。留守を預けるための命令を下すのだろう。公孫賛は策を飲んだ。趙雲は満面の笑みを浮かべてきびすを返し――そこでふと思い出したように付け足した。

「ところで白蓮殿、頼みついでにもう一つばかり」

 怪訝な顔を浮かべる公孫賛に、趙雲は李岳に負けじと自らの悪巧みを嬉しそうに打ち明けた。

 

 

 

 

 

 

 

 日は中天にさしかかったが、公孫賛率いる騎馬隊は速力もそのままに北上を続けた。幽州を進発し二日が過ぎた。既に三つの領城を抜いている。匈奴の城は漢のものとは違い簡易な柵を組み合わせた関所のようなものでしかなく、守兵も五百そこそこで問題などなかった。三千の『白馬義従』はその全てを瞬く間に抜き去り、一路匈奴の都、単于庭を脅かさんと疾駆していた。陰謀に耽溺し中華の平和を乱さんとする匈奴を食い止めるために。

 曰く、黄巾賊の討伐の要請に応じる振りをして長城を越えすかさず矛を洛陽に向けるや天子の身柄を侵し華北を掠奪せしめんとするという恐るべき陰謀で、既に出撃したであろう匈奴の兵は二十万にも上るという。

 趙雲の要請に公孫賛は自らが指揮する騎馬隊の出陣を決断した。周囲の刺史、太守、令を始め軍権を持つもの全てに押し黙っての緊急出撃だった。胸中には李岳より携えられし策――匈奴はもちろん漢さえも欺いて敵将於夫羅を討ち取り匈奴の進軍を押しとどめる、まさしく必殺の策が秘められていた。

 三千の騎馬隊は公孫賛を先頭に戴き、両脇に趙雲と呂布を置いて背後に続く。

 呂布、という娘は李岳の馴染みの娘らしく、必ずや役に立つとして趙雲が推した。三千の『白馬義従』の中で、呂布の馬だけが異様な程に大きな馬体で並々ならぬ存在感を放ち、そして何より鮮烈な赤毛が目に痛い程……紅一点と呼ぶにふさわしかった。

 馬の扱いが達者であることはすぐにわかったが、武器を扱わせるとその比ではなく、もはや唖然とするほどであった。五百の兵が守る領城の突破、そのどれもが呂布の功績といっても差し支えないだろう。趙雲と二人で騎馬隊を駆けるやいなや、戟の一振りで十人余りを弾き飛ばし、返しの一撃でさらに十人――それを間断なく続けるのだから敵はたまったものではない。趙雲の槍も相変わらず目を見張る程の冴えを見せたが、呂布の活躍はそれさえ霞ませた。

 仮に呂布と趙雲が一対一で戦えばどうなるか、公孫賛は想像してみたが勝敗を決するのは時の運としか思えなかった。だが数千、数万の軍勢同士の衝突の場合、より強大な攻撃力を発揮するのは間違いなく呂布だろう、と思った。

 武芸者としての趙雲の戦法は根が対人であり、一騎打ちなら天下第一を競えるだろう。だが呂布はもはや対陣、対軍のそれである。味方でさえ怖気を覚える程の武力……だが話してみれば稚気の塊みたいな娘なのがまた公孫賛を驚かせた。

「呂布殿……疲れてないか」

「大丈夫」

 公孫賛は気遣ってみたが、呂布はフルフルと首を振って馬の首を撫でた。趙雲の言葉によると李岳と親しく、同じように匈奴の地を出奔してきたとのこと。李岳は安全な集落に残るよう言い含めたようだが、趙雲は思うところがあって連れだしてきたらしい。公孫賛も知己の武芸者の気持ちがよくわかった。呂布の持つ武力、天下の片隅に逼塞させておくのはあまりに惜しい。万夫不当、天下無双――どのような修辞でさえ足りるということはない。

 出立の際に部族の族長から詫びとして受け取ったという馬も見事なもの。呂布はなぜかその馬を『二号』と呼んでいたが、愛しそうに撫でるのを見ると含みがあるわけではないようだった。

「申し上げます、前方に敵兵、約三千!」

 はっとして前を向いた。およそ前方四里、横に広がる砂塵が見える。目算では匈奴の本拠地と言える地域まで残り五十里まで迫った。二十万もの兵を興して攻勢に出ているのだ、あの三千がなけなしの防衛線というところなのだろう。抜けば相当な動揺を与えられるに違いない。

「皆、臆するな! 李岳の策の成否はこの一戦にかかっているといっても過言ではない! あれを蹴散らし……って、おいちょっと待て!」

 公孫賛の指示もそこそこに呂布が飛び出していき、苦笑して趙雲が続いた――公孫賛も慌てて号令をかけた。同数の相手だ、本来ならば慎重を期さなくてはならないだろうが……しかし公孫賛は勝利を確信していた。呂布と趙雲、この二人が見る間に敵を打ち取っていく光景がありありと思い浮かぶからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 於夫羅は血まみれで己の営舎に戻った。全て返り血である。

 急報が本陣に届き、それに対処せんが為の緊急動議が催された。その軍議の折、撤退を進言した二人の長を己の剣で刺し殺した。敵前逃亡を促したとして、庇い立てするのならば同様に血祭りに上げる、と声を上げるとようやく場は静まり返った。

 

 ――幽州にその名を轟かせる『白馬長史』公孫賛急襲、宮廷を目指し一路北進!

 

 早馬の知らせは匈奴の全軍に衝撃をもたらした。

 今回興した漢攻めのための二十万は総力を上げたものである、本国にはその十分の一にも満たない兵しか残っていない。予想だにしていなかった幽州兵の急襲はものの見事に匈奴の間隙を突いた。騎馬隊のみ数千の兵力だというがその勢いは水際立ったもので、瞬く間に砦や城を抜き、同数の軍勢でさえ目ではないと蹴散らしたという。

 於夫羅もそれを看過するわけではなく、すぐに手勢の五万を差し向けると宣言した。たかが数千の部隊である、五万もあれば十二分に防ぎきることは可能であろう――軍議の途中であるにも関わらず、左大将を筆頭に五万の軍はただちに進発した。郷里を守るための出陣に皆喚声を上げたが、撤退の声はそれでも上がった。

 曰く、公孫賛の時期を見計らったような攻勢を見るまでもなく、丁原の防衛部隊をはじめ既に漢軍は匈奴の計画に気づきその対策をこしらえていた。これは作戦が筒抜けであったことを示すものでもある。漏れた計画を推し進めるのには無理がある、出撃した兵が公孫賛のみとは限らない、迂回路を通って他の大部隊が後背を狙っているとも限らない。

 まともに聞くに値しない惰弱な言葉であり、於夫羅は鼻で笑い反論した。

 

 ――匈奴の計画を知らせたのは李岳という小狡い小男に相違ない。やつが漢に逃れ出ての時間を考えると鴈門の部隊を動かし、公孫賛に知らせを届けるのが精々でしか無い。仮に大軍が催されているのならば今頃本陣であるここが襲撃されている。遠く離れた匈奴の都に数万の軍を派遣するなど、補給路を断ってくれと言わんばかりのもので、そのような愚策を取るはずもない。数千の幽州兵などただの陽動部隊に過ぎず、数万の軍勢を戻して公孫賛を防ぎ、本隊は計画そのまま長城を越えることを目指すべきなのは明白である。

 

 それでも執拗に上がった撤退、帰参の声に於夫羅の堪忍袋の緒は断裂し、連名で撤退を進言した二人をその場で手打ちにした。

 いま、於夫羅は一人である。怒りは収まらず、血に濡れた剣を放り投げるや憚ることなく怒声を上げた――だが営舎に一人でいる、というのは於夫羅の錯覚でしかなく、その声は部屋の片隅から確かに於夫羅に届いた。

「お怒りのようで……」

 幽鬼のような青白い顔、憂鬱そうな瞳、気だるげに結ばれた唇……田疇はいつものようにゆらりと現れた。

「田疇、貴様!」

 於夫羅の恫喝に竦むこともおびえることもせず、田疇は悩ましげに眉根を寄せた。

「李岳という男……手強いですな。丁原を丸め込み、執金吾就任の勅さえ無視させた」

 朝廷に働きかけ打った手が無駄になった。并州での軍権を直ちに手放さなければ反逆者として処分する、というこれ以上ない脅し文句を添えたというのに、丁原は李岳の言葉を選んだ。

「丁原が動いたこと、なぜ気づかなかった! 初戦であのような無様な敗戦を喫しなければまだやりようはあったぞ!」

 雁門関は音に聞こえし頑健な砦なれど、二十万に対するは二万に過ぎない軍勢である。露見したとしても圧倒的な物量で蹂躙し押し潰せるはずだった。それが初戦に完膚なきまでに叩きのめされたことにより味方の士気が著しく萎えていた。

 個人的な怒りもあった。李岳の一撃により無様に落馬し、這々の体で遁走したのだ。今頃城中で笑っているのではないかと考えるだけで怒髪天を衝く。

 その後の敵方は意気も高く、防衛する指揮もこちらが臍を噛む程に的確で攻略の糸口すら見えない。

「ええ……まあ、言い訳ですが……洛陽に向かうと南下したが、途中で折り返したのですよ。黄巾賊の一団が晋陽を狙っているとして……偽装工作だったのですな」

 田疇は人差し指をくるくると動かし、晋陽から鴈門に駆け抜けた并州兵の動きを表現した――だが、その動きが於夫羅の怒りの火に油を注いだ。先程放り投げた剣を再び手に取ると、於夫羅はこの痴れ者の生命を断たんと振り下ろした。手に走る手応え――しかしそれは見事な程に空虚で、霞を斬るよりもかすかであった。

「貴様!」

「お怒りはごもっとも……ですが、お鎮まりください……」

 武術などとても身につけた気配のない男であるが、於夫羅の一撃を見事に躱した身のこなしはまるで柳の枝、流水のそれであり、押せば倒れそうな顔色の悪さからは想像できないほど流麗であった。怖気を震う程の静かな技だった。

「せめてもの詫びですが、一報をお届けします……并州兵は別働隊を組織しました。およそ二万の軍勢が長城を越え、山を迂回し本陣を狙っています」

「なんだと!」

 田疇は再び指先を動かした。両手の人差し指を二つにわけるように動かし、半円を描いた右の指で自らのこめかみをトン、と突いた。

「於夫羅殿、貴方の首級を挙げようとしているのです……貴方を仕留めれば匈奴は引く、と……」

 脳裏の地図に別働隊の動きと自陣の配置が浮かぶ。於夫羅は笑った。

「フフフ……よくぞ知らせた。でかしたぞ。これで返り討ちにできる……あるいはあの李岳とかいう餓鬼もおるかもしれんな……いや、やつは必ず居る! 不遜にもこの於夫羅を討たんとするはずだ! 俺にはわかる!」

「……撤退はいたしませんか」

「笑わせるな! 千載一遇の好機とはこのことよ。舞い上がったか、馬鹿が、吠え面をかくが良いわ……!」

 陣幕を飛び出して於夫羅は出ていくと、再びの軍議の招集を連呼した。これより策を練り敵を討ち取ろうとするのだろう。確かに二万もの軍勢を動員しての奇襲である。それを挫き全滅させることが出来れば雁門関の守兵の士気は衰え、寄せるだけで散り散りに逃げ去るだろう。田疇は於夫羅の計画を英断とも愚かと断ずることは出来ず、果たして成るかどうかはわからぬと保留した。

 二万の軍勢も決死である、もはや運否天賦の争いとなるだろう。お互いの企ては露見し、知の羽はもがれた。より天に愛されているどちらかが再び翼を授けられて舞い上がるだろう。敗れた方は虫のように地を這いつくばったまま、あわれ踏み潰されることになる。

「さて、匈奴の王か、今飛将軍か……『天下蠱毒の計』……成るや成らざるや……」

 田疇の表情にはただ憂いがあるのみであった。




(^q^)おえあ?


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第二十一話 天地よ、刮目せよ

 まるで地を這うような遅々とした歩みで別働隊は恒山の西を進んでいた。

 二万の軍勢、そのほとんどが騎馬だ。一息に駆け抜ければ半日で済む所を、馬から降りて手綱を引き、ゆっくりゆっくり移動した。敵に察知されれば全てが瓦解する計画、馬の嘶き一つさえ許されない。

 時折響く剣戟と喊声の音は匈奴が雁門関に殺到する余波だ。その音が聞こえる度に部隊は一度足を止め、悔しさに唇を噛み締めた。二十万の大軍が生きない立地、関の上での専守防衛の利、大将丁原への信頼――だがそれにしても五千は寡兵だ。昼夜の別なく攻め立てられることもあり、部隊の誰もがもどかしさに歯噛みして進んだ。張遼もじれったそうにしていたが、先導する李岳もまた耐えていることを知っていたので文句をぐっとこらえて足を進めた。

 渓谷の合間を縫うような桟道で、これを知り得るのは自分を除けば黒山の張燕くらいであろうと岳は思っていた。まず見つかるはずがない。後は公孫賛が思惑通りに動いてくれれば――

 霧の中を手探りで進むように進軍して数日が経った頃、ようやく匈奴の本陣が見下ろせる場所へとたどり着いた。誰もが息を呑み、手にじっとりと汗を滲ませた。

 長く伸びた本陣は見るからに防御が薄く、攻められることなど欠片も考えていないように思える。逆落しの勢いは何に遮られることもなく本陣へと我らの牙を届かせるだろう――勝てる、いける――誰かが囁いた。於夫羅の首を挙げることは夢物語などではなかった!

「ええ場所やな……これ以上ない」

「はい、後は公孫賛殿の活躍を待つのみです」

 このまま食い破ることも可能だが、目的は於夫羅を打ち破ることだけではない。匈奴の撤退を促すことだ。二万の軍勢で大将を討ち取ったとしてもそこは援護のない敵の只中、挟撃されれば全滅の憂き目に遭う他ない。匈奴の軍を本国へ撤退させるためには、幽州から進発した公孫賛の快進撃がどうしても欠かせない。そしてそれを独自に知る術は張遼率いる別働隊にはなく、匈奴の本陣から脱落し帰国していく軍勢の動きから察する他はない。

 その夜はもどかしい露営になった。お預けを食らっているようなもので、誰もがそわそわと居心地の悪さを感じていた。火を炊くこともままならないので、挽いて蒸した粟の餅をさもしく口に運んでは何度も何度も味がなくなるまで噛み締めた。馬にも口はみを噛ませたままでいる他なく、順番に小川へ連れて行っては水と少量の秣(まぐさ)を与えて耐えてもらう他なかった。

 夜空には満天の星が煌めいており、皆思い思いにくつろぐ中、李岳は横になった黒狐の腹にもたれるようにして空を眺めていた。

「なぁに黄昏てんねん」

 降って湧いた声に李岳は笑った。

「邪魔すんで、李岳っち」

 李岳ではなく黒狐に声をかけてから張遼は隣に腰を下ろした。

 どこか上気したような紅のさした頬、芳しいうっすらとした香り、李岳を見つめる瞳はとろんとしており、わずかに息苦しそうに吐息を漏らしている――

「呑みましたね」

「にゃはは!」

 バレたかあ! と小瓶のとっくりを取り出してから張遼はニマニマと笑う。

「……隠し持ってきたんですか? いやぁ、流石に示しがつきませんよ」

「せやからアンタの隣でやんか。目つぶっててくれるんやろ?」

「条件があります」

 やだっ、と張遼は豊満な胸元を両手で隠してからいやいやと首を振った。

「ウチを、ウチをどうするつもりなんや……! 弱みを握ったのをええことに、戦の前に荒ぶった精気をここぞとばかりにウチにぶつけるつもりなんやろ……! ケダモノ……!」

「――なに考えてんスか。どうもしませんよ。一杯分けて欲しいと思っただけです」

 張遼ははぁとため息を吐いてから言った。

「……李岳っち。あんた、よくつまらん男、って言われへんか?」

 渡されたとっくりに口を付けながら李岳は答えた。

「もう嫌になるくらい言われますよ。なんだってんだっつーくらい言われます」

 趙雲に張燕に匈奴の悪友に、枚挙を上げればきりがないと岳は唇を尖らせた。

「堅物って感じやもんな」

「親譲りなんですよ」

「あー、そら言えてるわ。お母ちゃんそっくり」

 そうそう俺が悪いんじゃないんです、と言ってもう一口呑もうととっくりを傾けた瞬間、李岳はむせ返って吐き出してしまった。うるさい、と黒狐がしっぽではたいてくる。してやったりの張遼。よだれを拭きながら李岳は聞き返した。

「……知ってたんですか?」

「いやもうバッレバレやで。突っ込んでくださいと言ってるようなもんやで」

「……そんな」

「なんか隠したそうやったから言わんかったけど。アンタら鈍感親子だけやで、隠せてると思ってんのは。大体并州様は普通は字で呼ばはる。ウチとかなら『おい、張文遠』てなもんや。せやのに自分の時だけ『ねえねえ、李岳ちゃん』やで」

「ちゃん付けはしてないでしょ!」

「してるようなもんやで、いやこれほんまの話」

 李岳は自分と母、丁原のやり取りを思い返してみたが、何もおかしいところはなかったように思える。だが周囲からすれば丸わかりだったのだろうか、そう思うと妙に気恥ずかしくなり、李岳は俯いてもぐもぐと言葉を飲み込んだ。

「……ひひひ。まあバレバレは言い過ぎかな」

「……脅かさないでくださいよ」

「けどな、剣の使い方が一緒や。それでピンと来た。よう見れば顔立ちも似てる。こら間違いないなあ、って」

 意外と鋭い洞察に、李岳は照れてあさってを向いた。自分の内心を察してほしくはなかった――まさかこんなにも嬉しくなるなどとは夢にも思っていなかった。師と剣の使い方が同じと言われて喜ばない武芸者がどこにいるだろう。

 コホン、と咳払いをして李岳は話を変えた。

「ところで……李岳っちってなんです?」

「呼びやすいやろ?」

「はぁ……」

 まさかあの張遼を『張遼っち』と呼ぶわけにもいくまい、李岳はもやもやした気持ちのまま二つ目の質問を投げた。

「仮に公孫賛殿が約定通り動いているとするならば、匈奴の撤退はいつ頃になると思いますか?」

「明日、かな」

 間を置かずに張遼は答えた。

「なぜそう思いますか」

「根拠なし。ただの勘。アンタはどう思うん?」

「私も明日だと思いますね。張遼殿の勘なら間違いなさそうだ」

 というより明日でなくては困る。李岳はその言葉は口には出さなかったが、雁門関に詰めている留守部隊のことを考えるとそう何日も持つまいと考えていた。

 正直な所、焦りがあった。於夫羅は絶対に兵を後方に差し向けなくてはならない。これは道理だ。だが強引に全軍突破を狙うような暴挙に出ないとも限らない。それが一番不味い、なにせ公孫賛は精々数千、やはりとてもじゃないが都など落とせない。それを看破し、反対意見を封殺して南下を断行するのならば、この策は無残に崩壊するのだ。

「霞や」

 不意に張遼が言った。照れ臭そうにとっくりを奪い取って口をつけている。

「これから二人、死地へと向かうんや。自分の背中を……命を預けるんや。真名も預けて当然やろ」

「冬至です」

「敬語も禁止」

「……だ」

「よっしゃ、よろしゅうな、冬至」

「よろしく。ただ、軍務の最中は敬語で呼ぶけど。序列もあるし」

「固っくるしいやっちゃなぁ」

「母親似、でしょ?」

 違いない、と愉快気に笑うと、張遼はまだ半分残っているとっくりに栓をした。残りは戦勝の後の祝い酒というわけだ。

 李岳は張遼に感謝した。李岳は恐怖と戦っていた。それは怯えと言い換えても良い気持ちで、晋陽を出立したその瞬間から苛まれ続けていた暗い感情だった。

 初めて一から十まで戦を描いた。前世の頃に『三国志』好きが高じて種々の兵法書や戦絵巻に目を通し、それらの引用を継ぎ接ぎして献策した。成る、と思う。成らねば困る。だが果たして成るのか、何か見落としはなかったのか……

 煩悶はおそらく勝利を手にするまで消え去ることはないだろう。ただ、今は隣にいる張遼に感謝していた。自らにとって初めての戦友に。

 星の瞬きが一際強く滾る春の夜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、張遼以下二万の軍は朝も早くから食い入るように敵陣を眺めていた。撤退しろ、と誰かが囁く。撤退しちまえ、と他の誰かが続いた。

 どれほどそうしていただろう、陣営の中に微かな動きが見受けられた。その動きはやがて大きなうねりとなり、ひしめき合っていた人の群れの中から、粘着の大きな塊がこそげ落ちるように一群が離脱すると、真っ直ぐ北を目指して鴈門から撤退していった。喚声が上がりそうになったが、それを張遼が叱咤した。

 策は成った。趙雲は約定を果たし、公孫賛は頼みを聞いて動いた。慌てふためくように数万の軍勢が全速力で北上していく。間違いない、幽州兵が匈奴の背後を脅かしたのだ。二つ目の鍵がこじ開けられたのであろう。

 それからがまた辛抱の時間であった。すぐさま攻め掛かっても離脱した軍が取って返してきてしまう。今日もまた懲りずに雁門関を攻めるだろう、その時こそ陣営は最も間延びし防御力が弱まるはず――李岳の提案を張遼は受けた。およそ一刻半待った。匈奴は濛々たる土煙を上げて幾度目になるか、雁門関に殺到し始めた。伐採した木の幹を抱えて坂を駆け上り、関の正門を打ち破ろうと迫る。矢と石、油と火でそれを防ぐ友軍并州兵。その攻勢が始まってからも四半刻待った。

 不思議なことだ、と張遼は場違いな思いで考えていた。こんなに辛抱強い自分がいるなんて考えもしなかった。隣にいる李岳の影響だろうか、それともまだ知らなかった新たな自分がこの限界の状況で現れたのだろうか。どちらにしても悪い気分ではない。最大にまで引き絞った矢を解き放つときの快感に似ている、あるいは極限の空腹に耐えてから肉を喰らう時の気分か――

 張遼が一声かけると、二万の軍勢が整然と列を成した。その目には期待と希望、勇気と決意が滲んでおり、その全てが合わさり猛々しい戦意となって天に昇っている。

「総員出撃準備」 

 張遼の騎乗を待って全員が馬上に揃った。片手には見事な照り返しを見せる偃月刀。李岳を始め并州兵は皆々彼女に続いた。見下ろす先に平野を塗りつぶす程の敵兵だが、策略にかかり兵を分けた。こちらの目論見には気づいていないに違いなかった。李岳の瞳に鮮やかな炎が灯る。

(於夫羅……俺はお前の喉を掻き切るためにやってきた。俺の因縁は全てお前から始まった。ケリをつけよう、右賢王)

「時、(きた)れり」

 李岳が思わず呟いてしまった声に、応、と二万が答えた。いななきをさせないために施した馬への封印も解かれている。もはや咎める者はいない。

 張遼が武器を握ったままの右手を上げた。そして天地の全てに届けとばかりの雄叫びを上げた。狙うは敵の総大将、於夫羅の首唯一つ。

 上げた大刀が振り下ろされるのと同時に并州兵は疾走した。逆落しは無類の威力を発揮し、瞬く間に山を駆けおりた。目前の匈奴の軍に動揺が走るのが見える。長く伸びた戦列、その横腹を食い破り、漢の牙を打ち立てる!

「泣く子も黙る張文遠! ウチが張遼や! さあ、張遼がきた、張遼が来たで!」

 張遼の名乗りにどよめきはさらに大きくなり、并州兵の勢いに匈奴はたまらず後退した。立ち塞がってくる前衛をまさに一撃と言っても良いほどあっさりと蹴破る。まるで障害などないかのように疾走し、敵兵二十万の中心に踊りでんとした。二つに分かれた騎馬隊が並行して突き出された槍のように突貫する。匈奴の守りを突き破りながら容易く二里までも押し込んで――張遼と李岳が異変に気づいたのは同時であった。

 敵兵の動揺はすぐに止み、突き破られようとしていた横腹は柔軟にその陣形を変えると、双頭の蛇のようにくねり并州兵の両脇を押し包むように駆け始める。さらに待ち構えていたかのように矢が雨のように飛来した。呻き声を上げては僚友が何人も脱落した。

(早い、対応が早すぎる……!)

「こら――あかん」

 大刀を一振りし、立ちふさがった敵兵を吹き飛ばしながら張遼は舌打ちした。李岳は声も出すことが出来ず、手にしている弓を砕けんばかりに握りしめた。

「読まれとる……!」

 匈奴の動揺はたちまち収まり、備えていたかのように――いや、確実に備えていた。こちらを待ち受けていたのだ。全ては想定内だとばかりに戦列を広げると、巨大な鶴翼の陣を敷き、敵兵は罠にかかった獲物に舌なめずりをするかの如く、じりじりと距離を狭めてきた。十倍する敵の包囲網は、絶望を呼び起こすに造作もなかった。二十万の包囲網……

 李岳は己の失策に頭が真っ白になっていた。

(どこかで於夫羅を侮っていなかったか……『三国志』では埋もれた男だと舐めてかかっていた! 最低だ……二万人の味方が死ぬ……并州も洛陽も……陥落する)

「――総員、迂回!」

 その声にようやく李岳は我に帰ると、ゆるんでいた手綱を再び握りしめた。呆けている暇はない、まだやり残したことがある。失策があったのならそれを取り返すべく動かなくてはならない。

 張遼が左に旋回をはじめる。目論見は理にかなっていた、山沿いは密集が薄い。まっすぐ敵軍を突き抜けて関所に打ち掛かっている攻城兵の背後を襲おうというのだろう。張遼率いる別働隊が取って返してくるということの事態、丁原ならばすかさず見抜くに違いない――だがこちらの思惑の全てを丸呑みにしているとばかり、攻城兵ですらも別働隊を釣り上げるための偽兵に過ぎなかったらしい。敵の猛攻をかいくぐってようやく二里程進んだ先では、攻城兵はその矛を関所ではなくこちらに向けて取って返して来ていた。

 李岳は覚悟を決めた。

「ここで食い止めます。兵三千をお貸しください」

 振り向き様、張遼の張り手が李岳の頬を襲った。火花が弾けたような派手な音がしたが、口の端に血を滲ませながらも李岳は引かなかった。

「殿軍を務めます」

「何言うとんねんボケ!」

「隊長を死なせることはできません」

「もう一撃くらいたいんか……エエかげんにせえよ、お前を残して撤退しろっていうんか! 勝手に決めんな! この別働隊を率いる隊長はウチや! ウチが残る」

「隊長が討たれてどうする! 匈奴の侵略は何としても食い止めなくちゃならない、そのためには張文遠の力が要るんだよ……霞! それにこれは俺が考えた策だ! 破れたのならその責は当然俺にある」

「責もクソも、そんな言葉出したら意見が通ると思いなや! 并州様、丁原様になんて言うたらええねん! アンタの子を身代わりにして生きて戻っちゃいました、ってか? 言えるわけないやろ! アンタは意地でも生かして送り届ける!」

「知るか! 言えよ! 別働隊とはいえ隊長が死ぬわけにはいかんだろうが!」

「ほな隊長は今からアンタ!」

「無茶苦茶言うな!」

 自分を見殺しにしろ、という押し付け合いは長くは続かなかった。顔を蒼白にした兵卒が馬群から駆け寄ってくると、凶報を告げた。

「――も、申し上げます! 後方に砂塵! おそらく……て、敵騎馬隊です。その数およそ二万……!」

 ピタリと言い争いをやめて、李岳と張遼は向かい合った。果たしてどちらが先であったろう――笑い声を上げたのは。張遼は李岳が先だと思い、李岳は張遼が先んじたと思った。だが周囲の兵にはどちらも同時だとしか思えなかった。二人とも腹を抱えて笑い、その目に涙が浮かぶまで哄笑を上げ続けた。いまだ敵の攻勢はやまない。こちらを並走しながら騎射が続いているが、それをさばきながらも二人は笑った。

 やがて声が枯れた頃、李岳はため息を吐いて見事、と呟いた。

「まさかここまで用意周到だったとは……参ったな」

「完全にしてやられてもうたな」

「ああ――全滅だ」

 退路とすべき後方、東の山からの伏兵である。どうやって回りこませたか、自分たちに気付かれないように背後を取り、襲撃を待って追い討ちをかけたのだ。策を完璧に読んだ上にこちらの退路を断ち全滅を余儀なくする盤石の布陣……もはや於夫羅を賞賛する他なかった。

 どちらかを逃がすなどという言い争いはこの期に及んで意味を失った。李岳に張遼、付き従う并州兵二万弱。その尽くがここを死地と定められた。あとは死に様、散り様の話になる。あの於夫羅が捕虜を取るなどという真似をするわけがない。仮に捕らえられたのなら想像を絶する残忍さで処刑されるだろう。ならば選ぶべき道は一つしかなかった。

 張遼は全軍に向かって振り向くと、大声で言った。

「すまん! ウチらの負けや! 悪いけど生きて帰ることはできそうにあらへん……一緒に死んでくれ!」

 誰一人怨嗟の声を上げることはなかった。同じように笑顔を浮かべる者、まなじりを濡らしながらも気合の声を上げる者、ただじっと敵を見据える者……并州に弱卒なし。

 張遼は満足気に頷いてから李岳に聞いた。

「冬至、どっちがええ?」

「そりゃ、前、かな」

「せやな、万が一ってこともあるしな」

 このまま立ちすくんで討ち取られるなどもっての外、玉砕するならどちらに突っ込むと張遼は聞いていた。

「食い破ってやろう。そして於夫羅の喉元をとらえる……ちぇっ、殴られ損か。思いっきり張ってくれたよな」

「ははっ、ほなあの世でいっぺんしばかせたる」

「忘れてなければ」

「よっしゃ、ほな行こか――匈奴兵二十万、あの世への道連れに不足なし!」

 二万の兵が張遼の号令と共に動き始めた。誉れはないが悔いもない。常にここが墓場と思い定めて戦ってきた。いつどこで果てようとも良し、それが故郷の地を守りぬくための戦で散るとなるのならば、本望と呼ぶ他ない。并州兵は常に最前線にて戦ってきた精兵中の精兵。その心意気、今ここで満開と咲かせずして如何とする。

 李岳は弓矢をしまうと天狼剣を抜いた。怪しい輝きがしとどに濡れて、まるで血の涎のように見えた。

 父、弁から授かった形見がごとき一振り。飛べ、と父は言った。その言葉を守ることが出来ず、今ここで地に這う破目となりそうである。だがもう一つの言葉には李岳は忠実であったと自負していた。気高きに順え――その言葉に忠実であったからこそ今ここに立っている。指をくわえて手をこまねいて、己一人助かるならばそれで良いとしたあの頃の自分はもういない。

「武芸者の心意気とくと見よ。血塗れの徒花(あだばな)、見事に咲かしたるわ……この張遼の首、取れるもんなら取ってみさらせ!」

 号令一下。死兵、駆ける――さあ、誇りに殉じよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前陣と衝突した。小細工などない、力と力のぶつかり合いだった。天命を悟った并州兵の勢いは古今東西ありえるかというほどの力強さであった。

 餓狼の如く遮二無二押した。張遼が血路を切り開くと、すかさずそこを李岳が押しこむ。天狼剣を口にくわえ、再び持ちだした弓でもって一度に五本の矢の束ね撃ち……その全てが匈奴兵の命を略奪していく。并州騎馬隊が鋭い槍のように突っ込んでいく。押し包むように狭まってくる敵兵から、千の槍、万の矢が繰り出された。次々に討たれていく騎馬隊だが一騎たりとも止まらない。もはや退路はなく、前進に一握の希望があるのみ。

 その決死の様が匈奴兵の動揺を呼んだ。腰が引けたかのようにわずかに間隙が空き、そこを逃すまいとさらに張遼が先頭で突き進んでいく。口に放り込んだ硬い肉がいつまでも噛みちぎれないかのように、伏兵の挟撃は漢兵を押し包み切れない。張遼は一縷の希望が見えたかに思えた。このまま速度を落とさずに駆け抜けることさえ出来れば――

 しかし。

「後方……! 敵騎馬隊迫って参りました!」

 三方から押し包まれ、攻撃をかいくぐりながら敵を打ち取っていく自軍と、ひたすら駆け通してくる敵の最後の伏兵との速度の差は明らかだった。とどめの蓋をするように後方から馬蹄が迫ってくる。張遼の絶叫が鴈門の原野に轟いた。

「後ろはええ! 前だけ見つめ! ウチの背中を見ろ! ここに張遼在り! ――ナメるな、ウチを殺すまで勝負はつかへんぞ!」

 鬼神、鬼神だ――敵兵からは恐怖のどよめき、味方からはこれほどの頼もしい隊長はいないと涙ながらについてくる。

 言葉は戦場にさざなみ打った――張遼が来る、張遼が来る!

 されど敵陣中央に斬り込めば斬り込むほど多勢に無勢も度を増した。周りは全て敵のように思えた。李岳はとうとう血乾剣を抜き、二刀を握って狙いも定めず振り回し始めた。どこを振っても誰かに当たる。黒狐にも浅手が無数に走っており、苦痛と疲労で喘いでいたが、最後の疾駆とばかりに速力はなお増した。

 そのとき、ドン、という音がして李岳は崩れ落ちた。敵兵の一撃がまともに李岳の体を捉え、小柄な体は吹き飛ばされて落馬したのだ。

 慌てて手綱を引き、返した大刀を振り抜いて李岳の体をすくい上げると張遼は強引に黒狐の馬上に戻した。見れば一撃はまともすぎた故に鎧に阻まれている。血が流れているが深手ではない。

「冬至! まだ行けるやろ! もうすぐや!」

「霞……」

 だが疲労は李岳の全身を蝕み、流れた血がなけなしの体力を根こそぎ奪っていく。見ればいつ刺さったのかわからない矢が左肩に突き立っているが、もはや痛みさえない。意識が朦朧とする中、何度手綱を離しかけたかわからない――もはや李岳は生きているのか死んでいるのかすらわからなくなっていた。

 張遼はもうすぐ、と言った。李岳はその言葉を信じて意識を取り戻し、再び黒狐のたてがみにしがみついた――なんだ、本当にもうすぐじゃないか、あと精々二万騎程度だろう、あの中を突破すればいいだけなんだろう? 全然いけるじゃないか――

 不意に、圧力が消えた。今度こそ本当に死んだのか、と李岳は思った。この命潰えて、苦しみから解き放たれたのではないか。

(霞、済まない。父上、母上、申し訳ありません。さよなら、恋…!)

 断末魔など上げるものか、歯を食いしばったまま死んでやる――李岳を包んだ死の錯覚を打ち砕いたのは、味方の絶叫だった。

「こ、後方の騎馬隊、敵兵に打ちかかっています!」

 一体何を言っている――李岳は辺りを見回したがまだ打撃の威力が体内で踊り狂っておりよく見えない。だから代わりに耳をすました。疑い、不信、そして狼狽の声を。

「なんやと!」

「……す、すごい!」

「仲間割れか?」

「いや、あ、あれは……」

 朧気な意識は徐々に焦点を合わせ始めようやく目の前の景色をしっかりと把握できるようになったが、李岳はやはり眼前に拡がる光景を信じることができなかった。後方から并州兵を討ち滅さんとやってきた増援部隊が、我々ではなく敵の匈奴に猛然と襲いかかっているのだ。今まで見たこともないその戦法、戦型で。

 

 ――古来、漢は匈奴との戦では常に機動力で敗れ、その後背を突かれて散々に苦渋を舐めてきた。だが血の流れを流すままにしたわけではない、様々な工夫を凝らし対応してきた。その中の一つに、乗り慣れぬ馬に無理にまたがるのではなく、車を牽かせて機動部隊を形成するという戦法があった。その攻撃力たるや絶大なれど、柔軟性に劣り歴史の影に消えていった戦法であった……しかし、一部の部族の間では逆にその戦法に着目し、改良が加えられ、さらに洗練され、今この時代でさえも主力として名を馳せていた。

 機動力を補うために戦車と騎馬の混合部隊とし、戦型は蜂矢。弓矢による射殺と槍の投擲を両脇から散々に繰り返し、まさに敵無しのごとく突き進んでいく圧倒的な凶暴性である。

 死体を量産するかの如き血生臭い戦法を先頭でもって率いるのは、年端も行かない少女であった。青い髪、鮮烈なる剣技、誇り高き眼差し、そして忘れもしないその声とその名――天は見よ! 地は聞け! 匈奴の騎馬隊何するものぞ! 原野を蹂躙するは、その名も高き烏桓の戦車隊!

「仁と義によりて、我ら烏桓の精鋭二万騎、漢の援護に馳せ参じた! 我が名は楼班――推して参る!」

 

 ――後に言う『鴈門関の戦い』は、これより最終局面に至る。



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第二十二話 あの草原の風に抱かれて

 怒涛の如く打ち寄せる戦車隊は、勝利を確信していた匈奴の意表を物の見事についた。度肝を抜かれた匈奴兵の統率を決して蘇らすまいと、先頭を駆る主将・楼班は立ちふさがる何某全てを疾風を思わせる剣さばきで次々に切り伏せていく。

「う、烏桓やて……? なんで匈奴を攻めてるんや……」

 訳のわからないまま目をしばたたかせている張遼を置いて、李岳は一人打ち震えていた。その目は戦車隊の先頭に釘付けにされていた。だがすぐに思い直した。感慨に浸るのは後でいい、李岳は張遼の肩を揺さぶって叫んだ。

「烏桓は味方だ、細かい話は後だよ!」

「……そうやな、今は……」

 困惑していた并州兵をまとめ上げると、張遼は烏桓に連動するように走り始めた。死に様ばかり頭にあった一軍に活路が差したのだ、体力も気力も限界に達していたが、まるで戦闘は今始まったばかりだと言わんばかりに力を取り戻す。

 并州兵の死を覚悟した突撃は自滅覚悟の猛攻だっただけに見事なまでの(くさび)となった。開いた間隙をここぞとばかりに烏桓が突いた形になる。実際のところ、匈奴軍は李岳や張遼の想像以上に動揺していた。烏桓族の攻撃を并州の予備兵力だと思い込み、右賢王於夫羅の策のさらに上をいかれたのではと疑心暗鬼に駆られ完全に腰が引けていた。敵の総数を二万だと決めつけ、罠にかけようと防備を薄くしたことも裏目に出た。長く伸びた戦列を舐め回すように烏桓兵が切り刻んでいく。

 楼班は戦況を見るやすぐに馬首を右に巡らせた。敵の左翼を突かんとする構えである。戦車隊の突撃は腰の引けた敵へ飲み込むようにかさにかかって攻め込んだ。張遼がその動きを察知して右方に圧力を向ける。并州兵を包囲殲滅しようとした敵左翼が逆に半包囲の憂き目に遭い散々に討ち減らされていく。大軍故に指揮が行き届かない、突撃と撤退の行動が入り乱れて足は止まり、的に向かって射的をするように烏桓兵は次々と射落としていった。

 張遼率いる別働隊はその乱戦の中、鋭い針のように尖り、牛皮を貫くように匈奴軍に差し迫っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――於夫羅はその様子を見て、拳を振り回して怒った。

 

「なぜ烏桓がここにいる! なぜ漢に与しているのだ!」

 応える者はいない。於夫羅も答えなど求めていない、ただ怒りをぶつける相手を探しているだけであった。

 烏桓とは幾度も干戈を交わし、主力に定めている戦車隊の恐ろしさも、その対処法も於夫羅は知り尽くしていた。勝勢に乗ると手が付けられない猛攻を発揮する戦車隊には、まず騎馬隊の機動力で以って正面から戦わないという方法を取るのが上策だ。右回りで旋回しながら騎射をし続け持久戦に持ち込む。車という重荷を担いでいる分、烏桓の馬がより早く疲労が重なるため時を追う毎にこちらの有利は増して行く。機動力にも自ずと差が出る。於夫羅はその戦法を用いて烏桓の大人・丘力居相手に幾度も五分以上の戦いをこなしてきた。

 だがその戦法ももはや使いようがない。完全に硬直状態に陥った自軍に対して、虎が獲物を食むように烏桓は噛み付いてくる。馬を走らせる空隙も限られている、正面からの戦では分が悪い――前衛がまだ持ちこたえている間に対処を練らなくてはならない。於夫羅は雁門関に攻めかかる振りをしていた陽動の兵に指示を出した。

 山を回り込んだ并州の別働隊を誘い出すために、昨日と同じように鴈門に攻め寄せた手勢は全て偽装であった。別働隊が本陣に雪崩れがかった瞬間に反転し、その左方を塞ぎ退路を絶つというのが指示だ。あまりにひどい混雑を避けるため、圧力をかけろとだけしか指示を出していなかったが、しびれを切らした於夫羅はとうとう并州兵の後背を襲え、と下知した。

 仮にこちらの左翼が烏桓に釘付けになったとしても并州兵別働隊は既に一万近くまで減損している、二方向からの攻撃からは耐えられまい。まず別働隊を打ち滅ぼし、その後は大軍の利でもって烏桓を包囲殲滅する。とっさに打ち立てた於夫羅の対処は一軍の将、一族の王の才覚を存分に魅せつけたが――やがて届いた悲鳴のような報告がその目論見を打ち砕いた。

「て、敵并州兵本隊! 雁門関より打って出ました! 先頭、丁原! 凄まじい勢いです!」

「なに……」

 床机に腰を下ろしていた於夫羅は思わず立ち上がると、丘に駆け上がり遠くを目にした。あれだけこじ開けたいと思い、自らの野望の鳥羽口となるはずだった雁門の関――鉄の扉はこちらをあざ笑うかのように全開しており、そこから吐き出された并州兵によって味方部隊が完膚なきまでに叩きのめされていた。

 於夫羅は叫び声を上げ、目の前のけやきの幹を殴りつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁原は関への寄せ手が引き潮のように去っていったのを見るや否や、麾下の全兵に出撃用意をさせていた。

 長年戦場に立った経験と勘がささやいていた。敵の撤退があまりにも早すぎる。李岳の策は露見していたのかもしれない、於夫羅はこちらをおびき出すため常のように攻めかかって来たが、合図を待っていたのだろう、敵は何の動揺もなく整然と撤退を始めているではないか。丁原の背筋に悪寒が走り、それを食い止める術はもはや槍を握る他思い浮かばなかった。

 勘の囁きが正しかったならば敗戦となる。二万の軍はもはや退路を失い散々に弄ばれた後に全滅するだろう。李岳の胴と首が離れる絵が丁原の心中に絵として浮かび上がった。肯んじることはできぬ。そもそも奇襲が失敗となれば兵の大半を失うこととなる、雁門関にこもった所で大した差はなく敗れ去るのだ、乾坤一擲に賭けて於夫羅の首を狙う方がまだ勝算はある。

 雁門関から引き返す敵の後背を突けば、少なくとも別働隊への圧力はいくらか減らせることが出来るだろう。於夫羅の首に刃が届く可能性があるのなら、今すぐ打って出る以外の道はなかった。まともに出撃できる人員は四千に過ぎず寡兵と言えるが、敵はこちらを全く警戒している様子はない。不意は突けるだろう。全滅を見届けるや否や早馬は飛び出す手はずとなっているので後顧の憂いはない。

 残兵の指揮を赫昭に任せて丁原は馬上に控えた。だが赫昭はその命令を肯んじることなく丁原に食らいついた。

「命令に服せ」

 丁原の怒気に歯を食いしばって耐え、赫昭は進言した。

「自分も参ります」

「死地だぞ」

「参ります!」

「……よし、来い」

 指揮は次席の屯長が行うことになった。濃い髭を蓄えた中年の男は頬を赤らめて復唱した。

 騎馬隊と歩兵の入り混じった四千の兵は、その誰もが籠城戦に耐え顔には色濃く疲労を宿していた。だがこけた頬の奥、両の瞳には炯々とした輝きが灯っていた。故郷を守る戦にて果てる。窮地に陥った味方を助ける。大将の後に続いて敵の後背を討つ! ――武人の誉れとしてこれ以上のものがあるだろうか。戦機はかすか、だが皆無ではない。死出の旅と決め込むのはまだ早かった。

 丁原は開門を告げた。数えきれない程の猛攻に耐え、見るも無残にひしゃげた門扉は、しかしまだ健在であり雄々しく軋みながらその手を広げた。匈奴兵はまだ気づいてはいない。鴈門に詰める并州兵の動きなど気にもとめていないだろう。

「これより指示はない。我が後に続き、敵を討て。駆けに駆ける。并州兵の意地を見せよ」

 整然と並んだ四千の兵が腹の底から声を張り上げた。丁原は振り返ると前方に向かって槍を差し出した。出撃。愛馬が棹立ちになり、そして駆け出した。引き返していく匈奴軍が馬蹄の音に気づいた頃には既に遅かった。丁原は馬体ごとのしかかるように突っ込んでいき、振り回した槍で一度に五人を突き落としては敵陣深く突っ込んでいった。赫昭が短戟を振り回して後に続く。寄せた敵兵は二万を超えたが、逆落しと後背からの不意打ちもあり、最初の一撃で千あまりが散った。

「大将首がいらぬか、欲しければ獲ってみよ! 匈奴の大軍なにするものぞ! 并州の丁建陽、ここに在り!」

 過去にない吠え声を丁原は上げた。親不孝など許してなどおらぬ。激情とは裏腹の無表情のまま、槍を振るい血に塗れ、なおも先頭で突き進む将に遅れまいと四千の兵は匈奴軍の只中に埋没していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁原の攻撃は何ら示し合わせたものではなかったが、結果として別働隊に向かっていくはずの匈奴の右翼四万を完全に足止めすることになった。張遼率いる別働隊と烏桓の戦車隊が左翼四万を壊滅させた頃、とうとう正面の七万を残すのみとなる。全く圧力を失った并州兵別働隊の前に於夫羅率いる中核軍が完全なる無防備でさらされた形になる。

 だが烏桓勢と合わせてもまだ倍以上の兵力を持っている。まともにぶつかり合えば匈奴の勝勢と言えたが――この時機を見計らったかのように、信頼を損ねたとして戦場から離されていた、名目上は戦略予備として控えていていた卒羅宇と醢落率いる四万の軍勢が押し寄せてきた。

「敵の新手現る、味方を救え」

 そう合唱してはいたものの、連絡もなく本陣に押し寄せたせいでさらに指揮系統は千々に乱れる有様、撤退と反抗の指示が交互に部隊長に届けられる始末。戦場は大混乱に陥っていた。指示が行き届かず攻撃目標も定かではない。敵の一軍を包囲殲滅すれば勝てるはずが、あれよあれよという間に自軍が三方から包囲される形になってしまっている。隘路で大軍も容易には動かせず、不意打ちに不意打ちを重ねられ虎の子の騎馬隊も満足に走ることは出来ず、匈奴兵は右往左往するほかなかった。結果各個で散漫な反撃に及ぶ他なく、一丸となっている并州兵の跳梁を許した。

「どけ、どけ! 怖いのがきたでぇ! 張文遠見参! さぁ、死にたいやつから出てこんかい!」

 張遼の名乗りは正しく匈奴を圧倒した。かすかな躊躇を張遼が見逃すはずもなく、すかさず間隙を縫って張遼は疾走した。一瞬怖気を催した左方からの圧力は先程突如として失われたが、訳は後で考える――張遼は偃月刀を振り回しながらそう思った。背後には懸命に付き従う李岳の姿があった。

 烏桓の攻撃に対応しなくてはならないのか、芋洗いのように押し寄せていた敵兵も今や漫然としており張遼の速度についてこれるものはいなかった。あとは正面の半円陣を突き破ることさえ出来れば於夫羅の喉元にこの刃を突き立てる事が出来る!

 騎馬隊を右側から迂回するように突っ込ませた。烏桓の圧力が効いている。先頭を駆ける青い髪の大将は中々の剣さばきを見せている。後で酒の一杯でも奢らねば、と張遼は思った。それもこの戦を勝ち抜き、生き残った後だ。烏桓の攻勢の影に隠れるように并州兵を前衛に食い込ませた。狙いを悟ったかのように烏桓の半数がこちらに合流しては、二頭立て、四頭立ての戦車が揉み潰すように匈奴兵をすり減らしていく。戦車本体が破損しても、その端から牽いていた馬に乗り換えて騎馬として戦場に舞い戻るのだから手に負えない。

「於夫羅はどこや! この張遼と打ち合え! 首ぃ、置いてけぇ!」

 とうとう前衛を破り、本隊に食い込んだ。戦場を駆けまわりながら張遼は叫んだが一向に大将の姿は見えず、やむなく態勢を立て直そうと引き下がっていく匈奴兵に追い討ちをかけながら姿を求めた。

 だがどこを見ても大将首が見当たらない。どこに行った、どこに隠れた――張遼は崩壊しつつある陣中を駆けまわりながら声を張り上げたが、一向に敵将の姿は現れない。

「……逃げたのかも」

 横に並んだ李岳が囁くように言った。まともに刃を受けていたが顔色も元に戻ってきている。瞳にも強い光が宿っていた。

「於夫羅の首がいる。匈奴がもう二度と攻めてこない、不可侵の約を結ぶためにはあの首が不可欠だ。見る限り敵の反攻はもうない。総大将は逃げた、戦意はないはずだ。卒羅宇と醢落の二人の族長が敗残をまとめはじめている」

「ほな最後の仕上げに首一つっつーわけやな……」

「ああ」

「せやけどどこへ」

 李岳は北と南を同時に指した。何を言いたいかは言葉にせずともわかった。張遼と李岳、半数ずつを率いて二手に分かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 匈奴兵十五万は総崩れとなり、敗走を始めていた。

 まるで描いたような敗残の姿だったが、於夫羅は馬上で怒りながらも冷静に考えを巡らせていた。負けた、それは認めなくてはならない。二十万の匈奴兵のうち討ち取られたのはおそらく三万かそこらだろうが、指揮がここまで分断されている惨状では建てなおすことはもはや出来まい。それに敵は真っ直ぐ己の喉元を狙って突き進んできている。みすみすこの体を晒していい理由などどこにもない。

 最後に自らを守る五百の親衛隊に守られながら、於夫羅は戦場を離脱するべく退路を駆け抜けていた。

 道は二通りある。一つ目はここで撤退する兵をまとめ上げ都に帰還する北上の道だが、成すためには并州の追撃を待ち受けなければならない。それに都に戻った所でこの機に依って於夫羅の命を亡き者にしようという者も現れるやもしれない。敗戦の責を問うといえば大抵のことは通りそうだ。

(望み薄よな。ならば)

 於夫羅はもう一つの道を選んだ――南下である。長城を越え洛陽まで逃げ延び、皇帝に拝し今回の丁原の不埒な真似を糾弾するのだ。恐らく匈奴では、今回の出兵に反対した穏健派勢力は都の羌渠を除いて新たに単于を立てるだろう。それを不忠であり、我が父を殺させた己の不孝を雪がせよと訴える。田疇の手引きもある、彼の者の主に伝手さえ付けば後は如何ようにもやり方は残されているはずだった。

 内心の怒りに比して於夫羅は冷静だったが、それにしても李岳という男への殺意はこれ以上あるのかという程に胸に満ちていた。どこでどう烏桓に渡りをつけたのか、あの奇襲さえなければ関から打って出たたかだか四、五千の守備兵などなんということもなかった。包囲網は盤石だったのだ。本当ならば今頃あの小僧の四肢をもいで車裂きにしていたはずだったというのに。

 鴈門山の西側の隘路を縫うように於夫羅は駆け抜けていた。峠を越え、両側から切り立った崖が狭まり始めた。この先の岩山さえ抜ければなんとかなる――その時、一節の歌が於夫羅の耳に届いた。

 

 ――悲しや悲し。あな悲し。

 

 敵兵が追いついたか、だかあまりにも早すぎる。於夫羅と麾下は足を止め当たりを見回した。されど敵兵の姿はどこにも見えず、艶やかな女声の恋歌が聞こえるのみだった。

 

 ――好いたアンタと白髪になるまで。一緒にいると決めたから。

 

 とうとう於夫羅は剣を抜いて怒号を発したが狭い崖の隙間を通っていたために声は反響し、その出所を明らかにしない。

 

 ――アラ、アンタの釣り糸立派だね。ほらほら魚も寄ってきた。

 

 まるで鈴の音のような涼やかな声音を響かせていたのはやはり女で、頭上を見上げていた於夫羅の眼前、真正面に忽然と現れた。白地に鮮やかな晴天が如き青の刺繍を施した着物。うつむき加減のその顔には薄い絹が秘宝を隠すように垂らされており、ただ血のように赤い紅をさした唇が、いたずらっぽく歪んでいる。

「貴様……何者だ」

 於夫羅の誰何に、ホホホホ、と女は哄笑を上げた。

「あらやだ、アタシの名をお知りになりたいので?」

 そして再び狭い岩壁に跳ねまわるような甲高い声で笑う。その響きが於夫羅の逆鱗に触れた。刀を抜き放つと、もはや興味はないとばかりに振り下ろした――確かに捉えたと思えたはずの一撃は霞を斬ったように手応えなく、ただ女の顔を覆っていた絹を引き裂いただけにとどまっていた。

「強引だこと……そんなに欲しけりゃアタシの名、教えてさし上げてもよろしくてよ?」

 女は着物の左袒を捲ると、肩に焼かれた色鮮やかな紋々をさらけ出した。

 血塗れの梅を一本くわえ、白磁の肌に舞う燕――

「乱世に舞う飛燕――『黒山の張燕』たぁアタシのことよ」

 その名乗りが合図だったか。両側の崖の頂上にいくつもの人影が現れると一斉に矢を放ってきた。針鼠のようになっていく親衛隊の兵士たち。逃げ場も隠れる場所もなく、ただ無残な骸が増えていく中で、於夫羅は再びけたたましく叫び声を上げ、無数に飛来した矢の尽くを打ち払ったが――だがある者は死に、ある者は深手に呻き、手勢は見る間に半数近くにまで減らされた。

「あらお見事」

「黒山の張燕! 聞いたことあるぞ。貴様、一体何の目論見で俺の邪魔をする!」

「ウフフフ、殿方にそう凄まれちゃあ滾っちまうね」

「あばずれが!」

 おっ、と張燕が驚いたように目を見開いた。山脈が鼓動するかのように於夫羅の筋肉は盛り上がると、再び旋風を起こさずにはいられないような猛撃を繰り出してきた。再び迫った巨躯に今度は張燕は避けなかった。一合、二合……舞い踊るかのような双刀の舞に於夫羅の剛剣は噛み付くが、一太刀たりとも燕の翼に触れることは叶わなかった。

「……しゃらくせえ」

 張燕は双刀『銀翼』を交差させると於夫羅の大剣を絡めとり、走りぬけながらその両腿に切り込みを入れる。

 悠々と帯を舞わせながら、張燕は先程口ずさんでいた歌の最後の一節をさえずった。

 

 ――男にゃ意地だけあればいい。他のものなんていりゃしない。

 

 膝をついた於夫羅の前に立つと、煌く双刀を突きつけてから張燕はニコリと笑った。

「勝ち戦に負け戦、勝敗は兵家の常なれど、いくらなんでも年貢の納め時ってものがあらぁな。匈奴の右賢王於夫羅様、粘り強いのは夜伽だけで十分……この先に道はなし。アタシはあの世への道案内。提灯下げて行くことは出来ねども、せめてほろ酔い心地で逝きなっせ」

 鮮やかな輝きを見せる『銀翼』に於夫羅は息を飲んだ。於夫羅はその身体に猛然とした気合を充実させて立ち上がった。この程度の傷など何ほどのこともない、痛痒さえ覚えぬ。匈奴の王は伊達ではない、極寒の吹雪、乾燥した焼けた風、狼の群れ、飢え……苦難の中に生きた我ら匈奴、草原に生きる者の前には恐れるものなどない。

 悲願の南下を遂げて肥沃な大地を手に入れるための策動は未だ潰えぬ。この於夫羅が居る限り、匈奴は何度でも立ち上がり漢の天下を揺るがすのだ――

 だが、その闘気を袖にするように張燕は一歩後ずさるとひらりと背を向けた。

「……どうやらアタシの出番はおしまいのようだ。於夫羅の旦那、アンタの幕引きはあの坊やに任せることにするよ」

「なに!」

「お達者で」

 その声が呼び寄せたかのように、峡谷には突如馬蹄の音が響いた。於夫羅は後方を見た。土煙を上げて迫る漢の旗――二千は超えるであろう騎馬隊の先頭には小僧、と何度も罵倒した男がいた。そして振り返ると先ほど自分を追い詰めていた女は跡形もなく消えており、山上の伏兵も雲散霧消していた。

 李岳は麾下で於夫羅を包囲し、矢を構えさせて言った。

「於夫羅、投降しろ」

 於夫羅の周囲には最後までつき従うとした数百が残されるのみ。そのほとんどが親族であった。自分の身柄を守ろうと円陣を組むその者たちを押しのけて、於夫羅は悠々と前面へ出でた。

「小僧……もう一度言ってみろ」

「投降しろ」

「この於夫羅を侮るか――!」

 於夫羅の大喝は峡谷に弾け、李岳を除いた并州兵のほとんどが息を飲んだ。あれが於夫羅、単騎で漢を脅かそうとしたことさえある匈奴の勇者――李岳はもはや聞くまいとして自らの矢をつがえた。血が流れすぎている、意識も朦朧だった。だが於夫羅の顔ははっきりと見え、構えた矢は的中するだろうという確信があった。そして恐らく、於夫羅も全く同じような確信を抱いているだろう、ということも。

「わかった」

 それ以上言葉はいらない。李岳は一人構えた矢の弦を引き絞った。

 於夫羅は自らの死を覚悟し、それを受け入れた。敵わぬ――敵兵は意気も揚々たる戦勝軍、はたしてこちらは傷だらけの敗残……もはやこれまで。運否天賦もあったろうが、ここで土を付けられるような男に天下を飲み込む器はなかったということなのだろう。眼前に佇む、小僧と蔑んだ男を見て於夫羅はたまらなく愉快な気持ちになった。あれが俺の首をとるか――この於夫羅の首を!

 途端、子供の頃からいつも隣に寄り添っていたあの雄大な大草原の風、果てしない地平線を駆ける勇壮な風が胸に吹き荒れた。母の(かいな)に抱かれて、馬上で悠々と散歩した遠き時の源流……いまその心地良い肌触りを頬に感じながら、於夫羅は歩を進めた――これが誇り! 死への誇り! 再び於夫羅は笑い声を上げると、剣を掲げて走り始めた。

 足元の土を蹴り上げ、堂々と李岳に向かって突き進んだ。騎馬民族匈奴の王、流石の末路を見よとばかりに疾走する。見る間に迫り来るその巨躯、李岳は矢の狙いを定めた。

「その目にしっかりと焼き付けろ! 匈奴を率いて漢を下し、新たな皇帝となって国を興さんとした男の最期を!」

 叫び声を上げながら一路駆け抜けていく於夫羅に、李岳は最大まで緊張していた矢を解き放った。閃光のように迸った輝きは、吸い込まれるように於夫羅の眉間に迫った。

 

 

 

 

 

 

 二十万の匈奴兵を興し、漢の天下を転覆せしめんと企んだ稀代の野心家、剛猛なる群雄、類稀な腕力と野望を誇った戦士――

 梟雄・於夫羅、雁門関にて死す。




 作中、張燕が口ずさんでいる恋歌は前漢時代の美女、卓文君による『白頭吟』をアレンジしたものです。


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第二十三話 戦う理由

 夜が泣き濡れているような月明かりであった。

 夕暮れのあと、慈悲のような小雨が降った。四半刻もすればまたいつもの雲ひとつない乾いた群青色の空に戻ったが、降った雫は立ち込めた血の匂いをかすかではあれ流してくれただろうか……李岳は一人、鐘楼に登り北の大地を見渡していた。まだわずかに湿っている石積みのへりに手をやって、春の夜の目の覚めるような風に身をさらしていた。

 数日前にはこの大地を埋め尽くしていた騎馬民族の姿は、既に夢だったのではないかと思わせるくらい忽然と消え去っている。

 匈奴兵二十万と漢兵二万五千との戦いは、野戦急襲により漢の勝利で終わった。だが実態は辛勝もいいほどの厳しさで、匈奴兵の一万二千あまりを討ち取っていたが漢にもほとんど同数の死者が出ていた。部隊全軍から半数近くの損害が出るなど並の戦であったならば全滅と呼んでも差し支えのない水準であり、卒羅宇はじめ匈奴の穏健派が残兵をまとめ上げ収拾を図っていなければどうなっていただろう。

 戦後、数日をかけて両軍は遺体の埋葬と行った。合計二万人以上の死者だ――おびただしい数である。血塗れの山、鴈門山。その裾野に広がる標(しるべ)なき墓所がまた数を増やした。大地に伏した(ともがら)の骸を弔い、匈奴兵の大半は帰国の途についた。

 匈奴の撤退を見届けて、漢兵も明日前線配備を解いて晋陽に帰還する。階下は張遼を筆頭に兵卒まで含めて戦勝を祝った宴に興じている。葬送の沈鬱さをいつまでも引きずるのは士気に良くなく、勝利は勝利として祝わねば死者も報われない。だが李岳の心は晴れず、宴もたけなわに至るを待つこともなくそこそこに抜け出すと、黙って月明かりを浴びていた。

 左腕に痛みが走る。肩に突き立った矢傷は深くはなく他に負った傷も大したことはなかったが、於夫羅を討ち取った後関所に帰還した際、赫昭に無理やり包帯を巻き付けられて、今の李岳は見た目は重傷者もいいところであった。階級を盾にしてやめろと命令することができたが、気丈で表情など崩しそうもない娘が人目も憚らずに号泣しながらしがみついてくるのだから断りようがなかった。

 

 ――守兵の指揮にあたっていた屯長が死んでいた。

 

 嘘のような流れ矢が胸を貫いたと聞いている。一瞬のことだったようだ。赫昭の元の上司であり、最後の混戦の際に丁原の後について出撃したため、その代わりとして留守を任されていた男であった。赫昭は自分の身代わりで死んだと思っているのだろう。傷だらけの李岳に対して見せた過剰な程の狼狽はそれがあったからに違いない。守ると決めたのに、と何度も呟きながら涙を流すままうなだれていた。

 激戦地で短戟を振るっていた赫昭にはかすり傷しかなく、より安全な後方の指揮官が流れ矢で落命している。五割に届く損害なのだ、誰が死んでもおかしくなかったことを改めて実感させる。

 李岳はひと巻きひと巻きゆっくりと包帯を解いた。肩の矢傷の血はすでに止まっているが、青黒く腫れ上がっており、腕をあげるとかなりまともな痛みが走る。うんざりするような疲労が全身に残っていて、痛みもそうだが気怠さもつらい。今日も最後まで寝床から起き上がることが出来ず、自分の貧弱さが嫌というほど自覚できた。初陣だった、と皆は慰めてくれるが情けないことには変わりない。

 丁原、張遼、赫昭。主だった面々は皆無事で、それだけが救いだった。だが損害はやはり大きい。そして漢兵だけではなく、匈奴の死者にも李岳は思いを馳せてしまっている。香留靼は果たして無事だったろうか。

(これが戦か……)

 不毛だった。何をもって争わなければならなかったのか未だにもってわからない。於夫羅はなぜ立ったのか、誰かの手引きがなければ皇帝位に就こうなどと思うはずがない。どう考えても野心を植えつけたものがいる。自分が知っている『三国志』の歴史との齟齬――己自身が持ち込んだ因果が歴史の波を狂わせているのかもしれない、と李岳は考えた。歴史の歯車を狂わせた小さな小石――

(張純の反乱を防いだために、匈奴が煽られた? そんなこと、あるのだろうか。だがそうとしか……)

 答えの出ようもない問いで、考えるだに全身の疲労が増すような気がした。だが逃げることを許されない問いでもある。臆するな、逃げるな、立ち向かえ――腰に佩いた二本の剣がそうささやいているような気がした。そしてそれこそが二度目の生を与えられた理由でもあるのだろう。自分のせいで引き起こされた歴史の狂いであるのなら、それから逃げずに徹底的に立ち向かってやる――父の言葉が心の中で李岳を勇気づけた。

 とはいえ体が資本。不意に李岳は空腹を覚えて、何か宴会からくすねてこようと振り返ったが、あるものを見つけて立ち止まった。思わず苦笑がこぼれかけたが、それをため息で相殺して声をかけた。

「美兎様」

「う」

 不意打ちに驚いたろうが、繕う気もなかったようだ。柱の影から小柄な姿は現れ出ると、居心地の悪そうに視線を泳がせている。盗み見したことを悪いと思っているのかもしれなかった。

「さ、さすがだな冬至! 私の隠密を見破るとはっ!」

「……ええまあ、なんとなく」

 李岳は誤魔化すようにあさってを向いた。

(耳が見えてた、なんて言えるわけないよな)

 李岳がなんとも言えない笑顔を見せると、楼班は両手のお盆を掲げてよってきた。そこにはいくつか料理が載っており、見るだに腹の虫を刺激した。二人で椅子と机に移動した。饅頭に漬物、そして白湯だった。酒は傷に触るということで慮ってくれたのかもしれないが、根が飲兵衛の李岳には少々物足りなかった。

「途中でいなくなったから、空腹かと思ってな」

「ご慧眼恐れ入ります」

「むう」

 だが楼班は一度差し出した盆を渡すまいと背後に回した。そして拗ねたように頬をふくらませている。

「……えーと、なんでしょう」

「ま、真名を交わしたというのに、よそよそしいじゃないか! 敬語もそうだし、様づけだし……」

「いえ、ですが、美兎様」

「聞こえない聞こえない」

「……いやもう慣れないんですよ! わかってくださいよ! 烏桓の王族の方の真名って漢人に比べても普通とは違うじゃないですか。だからその……」

「つーん」

「……えーとその」

「名前」

「……」

「な、ま、え」

 意を決したように李岳は言った。

「――美兎」

 蚊の鳴くような声であった。楼班はお盆をつきつけると大声で笑い始めた。

「……ふふ! あはは! まあいい、許してやろう! ――しかしそんな面白い表情で真名を呼ばれることになるとは思わなかった!」

 やり込めて喜んでいるのだろうが何がそんなにまで面白いのか、楼班は腹を抱えては耳をぴょこぴょこと動かして笑った――助かった、と李岳は汗ばんだ額をこっそりと拭った。なかなか常には味わえない緊張感だった。

 二人は机に向かい合って座り、李岳は夕餉を取った。

 一つ一つ口に含んでゆっくりと咀嚼した。胸に打ち付けられた一撃が意外な程痛み、体の芯でまだ残っている。嚥下する度に鈍い痛みが胸の辺りを走ったが、それをこらえて李岳は食事を続けた。楼班は宴会の席で済ませたのだろう、酒も口にしたようで耳までほんのり赤い。今回の戦の殊勲の筆頭とも言えるのだ、皆、楼班には感謝している。烏桓の助力がなければどうなっていたか、考えたくもない。

 全てを平らげることは出来なかったが、程々に片付けると李岳は居住まいを正して楼班に礼をした。戦が落ち着いたあとも仕事に追われ、ようやく落ち着いて話すことができる。李岳はあらためて感謝を述べた。

「此度のご助力、まことにありがとうございました」

「いや」

「……烏桓の助力がなければ全滅していたに違いありません」

 楼班は照れくさそうに頭をかいている。

「護烏桓校尉からの要請だ。否やはないさ」

 護烏桓校尉は公孫賛だが、そこまで気を利かすだろうか、と李岳は考えた。おそらく趙雲の差金だろう。脳裏に「してやったり、ふふん!」と鼻を鳴らす青い髪の戦乙女の姿が思い浮かんだ――また借りが増えた。借りてばっかりだ。いつか首も回らなくなるんじゃないか――李岳は決して忘れないと心の帳面に書きこんでおいた。

「とはいえ、二万騎もの精鋭を率いて参戦いただけるとは」

「いや……そなたの危機と聞いて……その、借りを返したかった」

「美兎様、借りというのならこちらこそです。どのように返せばよいか」

「違うんだ、私だってそなたに全てを返すことができたか」

 李岳は再び礼を取ろうとしたが、楼班も同時に頭を下げようとしており、二人して思わず笑ってしまった。

「礼はいい。本当に! それにこれは烏桓族の総意でもある。大きな乱など望んではいないのだ」

「……説得していただいたのですね」

 照れたように俯いて、楼班は小さく頷いた。

「力になれたのなら、よかった」

 顔を上げ朗らかな笑みを浮かべた楼班に、李岳は思わず胸が締め付けられた。なぜだろう、と自分で思った。誰かの優しさに、心が容易く感傷的になってしまう。きっと月明かりが自らの意識をたぶらかしてしまったのだろう、と考えた。

 李岳は立ち上がり、未だ戦闘のあとが生々しく残っている砦の先に歩いた。岩、血糊、矢の跡……城壁の傷み具合を確かめるようにそっと手を這わせた。

「……多くを死なせました。私の力不足です。どこかで侮っていたのかもしれません。万全の策を献じた、これで敵を翻弄出来ると……自覚はありませんでしたが、今になって思えば驕っていたのですね。恥ずかしい話です。おこがましいとさえ言える。於夫羅は勇者でした。私は彼を侮り、ともすると味方を全滅させかねませんでした」

「そうだな」

 楼班は甘い言葉は一つも言わず、それが李岳にはありがたかった。

 於夫羅に対する怒りはもうなかった。戦士として戦い、散っていった。見事な死に様だったと思う。用兵も流石に匈奴の王と言えるもので、やはり今回漢兵が勝利できたのは多くの僥倖があったからなのだと思った。遺体は丁重に包まれて郷里へと運ばれていった。

 これから匈奴の勢力図、権力構造はどうなるか、恐らく匈奴の単于はすげ替えられることになるだろう。すぐさま他の単于が立つか、しばらくは数人の王によって治められるのか。卒羅宇が単于となることは難しいだろうと思えた、流石に血筋の面で説得力が乏しい。

 大草原を見渡していた瞳を楼班に戻して李岳は話題を変えた。

「ところで、丘力居大人はお元気ですか?」

「ああ、元気も元気。今回も付いて来ようとして大変だった。違うというのに何度も何度もそなたを」

「え?」

「……いや、その、なんでもない……忘れて……」

「はあ」

 突如口ごもった楼班だったが、忘れろというので李岳は気にしなかった。立ち上がり両手を思いっきり突き上げて伸びをした。左肩は突っ張るが、気怠さがだいぶましになっており、心地良い眠りを誘うものに変わっていた。楼班が気を使ってくれたおかげで心の凝りがとれたのだろう、と思った。

「これからどうするのだ?」

 楼班の問いに、李岳はしばらく考えてから答えた。

「丁原様は執金吾に就任するため上洛します。それについて行きます」

「洛陽へ……なぜ?」

「陰謀がありました。匈奴はそれに乗せられたに過ぎません……その根を断ちます」

「……劉虞?」

 はっとした。張純をそそのかしたのは幽州刺史劉虞だということを公孫賛から聞き及んでいる、そのことに李岳は考えが及んでいなかった。楼班の瞳にかすかに火の粉が灯ったのを李岳は見た。

 そう、張純をそそのかした劉虞が匈奴をそそのかさない理由などないのだ。一体何の目的で、どういう手段で煽りたてたのか未だ見当もつかない。しかし嫌な予感がする。李岳も楼班もそれをひしひしと肌で感じているのであった。

「――幽州刺史がどれだけ根深く今回の陰謀に関与しているか、私にはわかりません。黒幕なのか、さらに影に潜むものがいるのか。あるいは無関係なのか……まずはそれを確かめます」

 楼班には言わなかったが、李岳の内心には天下の情勢に関する燃えるような関心があった。生まれてこの方押し殺してきた感情でもあった。なぜ『三国志』の世界に生まれ直したのか。その理由を見つけることが、生まれてきた理由を知る一歩目に違いない――こうなったらとことん関わってやる、父の言葉のままに飛んでやる――李岳の心にはもう安穏と隠遁する、という言葉は消え去っていた。

「私に出来ることなら何でもする。いつでも言って欲しい」

「――ありがとう、美兎」

「う」

 不意打ちに戸惑った楼班をからかって李岳は階下に逃げた。照れ臭さがあまってとうとう耳まで真っ赤になった楼班が怒って後を追いかけてくる。鴈門山にかかる月は変わらずに煌々としていて、二つの影が舞台劇のように軽やかに踊った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 匈奴本国の中枢、単于庭まで残り三十里と迫った頃、南方から合図の狼煙が上がった。漢へ侵攻しようと南下していた匈奴の軍勢が幽州兵の北進に気づき兵を分けたという合図であり、同時にその後背を狙って走り始めたという知らせでもあった。公孫賛率いる『白馬義従』はかねてより申し合わせていた通りに反転すると、全速力で帰参の途についていた。快進撃を続けているとはいえ所詮数千の軍勢である、敵地にて万を超す軍勢を相手取るには何もかもが足りない。

 撤退をはじめて数日後、さらなる続報は届いた。匈奴の全兵が帰国の途についたという報告である。大軍に立ち向かった并州兵は一歩も引かず、半数が討ち取られるという激甚な被害をこうむりつつも、駆けつけた烏桓兵の助力もありとうとう敵将於夫羅を戦場にて討ち取ったという――於夫羅の首を上げた男の名は、李岳といった。

 思わず拳を握りこんだのは公孫賛だけではなかった。趙雲も、呂布も、幽州兵の多くも、この戦が漢の危機でありそのために并州の同胞たちが命を張っているということを重く受け止めており、夜営のさなかの知らせに歓喜の雄叫びは陣幕を貫いて夜に轟いた。

 すでに軍勢は幽州に入り後は城に戻るだけであったが、公孫賛の許可を得て近くの村から買えるだけの酒と食べ物を買い取っての宴会となった。もはや敵襲の恐れはなく、当直の歩哨の者以外は思い思いに火を焚き車座に囲んでは武勇談義に花を咲かせた。

 公孫賛、趙雲、呂布の三人もまた同じように火を囲み、保存食としてこしらえた味気ない兵糧を除けば久しぶりのまともな食事に舌鼓を打っていた。

 成るか成せぬか。きわどい策だったがどうにかものにすることができた――烏桓への援軍要請が役に立ったということもあり、趙雲も公孫賛も祖国防衛に一役買えたと内心満ち足りていた。飯は美味く酒も進む――だが一人だけいつも以上に口数少ない者がいた。黙って口に食べ物を運んでいるだけの呂布に、趙雲はおもむろに話を振った。

「よかったな、恋。李岳殿はご無事のようだ」

 二人、そして公孫賛も合わせて戦場を共にした三人は既に真名を交わし合っていた。戦場に肩を並べて立ち命を預けあった戦友なのである、万の言葉を交わすより多くのものを既に交換しており、真名のやりとりも自然な成り行きだった。

 趙雲の言葉に、呂布は一度だけ深く頷きを返した。もっと喜ぶのではないかと思っていた趙雲にはささやかな反応が意外であった。

「嬉しくないのか?」

「嬉しい」

 その言葉は本当だろうと趙雲も公孫賛も思ったが、呂布の顔を曇らす物憂い影は晴れる気配がない。趙雲は薪を二本三本と火にくべた。パチリと乾いた音を立てて火の粉が散る。舞い上がった炎が呂布の表情を一瞬だけ明るく照らし出した。

「恋は、これからどうするつもりなのかな」

「李岳殿の元へ戻るんじゃないのか?」

 趙雲の問には公孫賛が答えたが、呂布は首を振った。

「良いのか?」

 趙雲の言葉にも呂布は首を振る。

 呂布はなぜ李岳が自分を突き放したのかずっと考えていた。戦えるのか、と李岳は呂布に問うていたが、呂布は答えることが出来なかった。趙雲に誘われて生まれて初めて戦場に足を運び、匈奴の支配する北の大草原で初陣を飾った。盗賊を叩きのめすとは訳が違う、本物の戦場で。

 一つ一つ、自分の中にある言葉を探り当てては彫り出すように呂布は言葉を紡いだ。自分が落としてきた小石を拾い上げるように、風にさらわれてしまった花びらを掴みとろうとするように。

「冬至には会えない。冬至は、匈奴と戦うって言った。恋はすぐに戦うと言えなかった」

 趙雲も公孫賛も黙って聞いていた。兵卒たちの歌が響いているが、その喧騒も全く耳に届かない。長い沈黙を挟んでポツリと言葉をこぼす呂布を辛抱強く待った。

「星」

「ん?」

「恋は変わりたい」

 再び火の粉が舞う。呂布の顔からわずかに影が晴れはじめ、その瞳に力が宿り始めているのを趙雲は知った。

「どう変わりたい」

 呂布はしっかりと考えて、しっかりと自分の言葉を見つけて、小石を拾い、花びらを集め、思いを形にした。

「強くなりたい」

 趙雲はとぼけたようにニヤリと笑った。公孫賛は何を不可思議なことをと首を傾げる。

「もう十分強いじゃないか」

「はぁ……わかってないなあ、白蓮殿は」

「ええ?」

「そんなんだからイマイチなのではないだろうか」

「イマイチ!?」

「そんなんだからモテないのではないだろうか」

「モテない!? ……いや待て! モテは関係ないぞ!」

 二人のかしましいやり取りにクスリと笑って、呂布は再び言葉を紡いだ。

「二人は強い?」

 さあ、と『神槍』と名高い『常山の子龍』はとぼけて笑った。『幽州の雄』と謳われる『白馬長史』もまた、何のことかと酒に口をつける。

「強いとはどういうことだと思う? 例えば、白蓮殿にとっての強さとはなんだろう」

「民草を守れる力だ」

 酒気を帯びほのかに赤らんだ表情のままだったが、間髪入れずに公孫賛は言った。その瞳に胡乱な様は欠片もなかった。寒さの厳しい遼東に生まれ育ち、父母より受け継いだ身分とはいえ、夏の乾燥と冬の凍土にまともに食物が育たない痩せた土地、そのどこにも甘んじる余地などなく、学んでは鍛え、領民のせめてもの生活を守らんと懸命だった。

 志は三郡を統べる身となっても何ら変わることなく、いやより一層増して公孫賛の心に根付いている。

「星は?」

「弱きを助け強きを挫く。無法を許さず仁愛を守る――正義の味方になりたいのさ」

 趙雲もまた即答した。幼き頃、槍一本で世の中を渡ると誓った。天下無双の頂きに立ち、武の誉れを独占する――だがその根には常に世への憂いがあった。当たり前の人生が当たり前に続くことこそが本道であり、暴虐な理不尽が罷り通る今の世を心の底から憂い、趙雲は武を練磨した。

 奪い奪われる世ではなく、育てはぐくみ合う素朴な世の中――具体的な施策など浮かびはしなかったが、目の前の暴力や邪悪を一つずつ打ち倒していけば、自ずと理想に近づけるのではないか、助力になるのではないかと今でも素朴に、確固に信じている。

「恋、私たちは強いぞ。なにせ負けられない理由があるからな。誰かのために戦える者というのは、自分のために戦う者よりもよほど手強い」

「……ふたりともすごい」

 小石、花びら……上空を見上げて、暗い夜空に散らばる星に手を伸ばすように、呂布は言葉を紡いだ。

「……恋は弱い」

 呂布は嘆息し、俯きかねないほどに自分の貧しさを身に染みて感じた。自分に一体何があるというのだろう。戦えば勝ち、打てば勝つ。されど誉れを感じたことなどなく、わずらわしさが増すばかりであり、匈奴の村で慎ましく生きていればそれで良かったものを兵士の横暴に苛立ったという理由だけで叩きのめしてしまい、全てを見失ってここにいる。

 

 ――たどたどしい語りを、趙雲も公孫賛も微笑ましく聞いていた。

 

「なんだ、あるじゃないか」

「うむ、白蓮殿の言うとおり」

「なにが?」

 キョトンとしている呂布の肩を趙雲はそっと抱いた。

「見過ごせなかったのだろう、横暴を」

 まるで張りあうように反対側から公孫賛がもたれかかってくる。

「子供のために戦った。立派な理由だ!」

 二人に挟まれて窮屈でもどかしかったが、同時に温かく和やかで、ああひとりじゃない、と呂布はほっとしていた。こんなに心が安らいだのはいつ以来だろう、そう、

きっといつも泉の前で二人で遊んだあのとき以来――くせっ毛の少年の姿が呂布のまぶたに浮かんだ。

「冬至も?」

「李岳殿の戦う理由? さあ、どうだろう。いつか直接聞いてみればよいのではないかな」

 いつかまた会う日があるだろうか――いやきっとある、と呂布は信じた。確信と言える程の力強い予感があった。

「そのためにも、己が戦う理由を……戦い続ける理由を見つけるがよい。さすればきっと、強くなったと思える日が来る」

 何かを察したように公孫賛は酒を置いた。趙雲は眼前の娘の変わり様に瞠目し、サナギが蝶に変わる瞬間を目にしたかのような感動を覚えていた――滲み出るような覇気が隣の少女から漏れ出しているのだ。それは静かで大人しくあるいはかすかなものでしかなかったが、だがそれゆえに山脈のように雄大で、地鳴りのように力強かった。

 目の前の少女は戦場で誰よりも強かった。弓矢を扱わせれば二、三人まとめて貫く剛弓豪矢を放ち、戟を振るわせれば立ち塞がる者全てを薙ぎ払った。しかしどこかで儚さ、脆さを感じたのも確かだった――だがどうだ、自らを弱いと認めるこの娘のどこに脆さがあるのだろう! 迷いなき強さなどない。この目を見るがいい!

「強くなりたい……!」

 その瞳には、天空の星のような煌きが映り込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雁門関には常時の守兵を残して并州兵は丁原を先頭に晋陽へと戻った。烏桓兵の出立の二刻後であった。

 満身創痍の者も多い。行軍は遅々としたが、どの顔も晴れやかだった。戦勝の軍だ、勲に謳われても良い勝利を得た。天空の青空のように誇らしく、凱旋の歩みは森の大木のようにしっかりとしたものだった。

 やがて晋陽の城門が近づいていた。だがどうにも異様な雰囲気に包まれており、丁原も張遼も顔をしかめた。正門に多くの兵卒と民が群れており、常に無い不穏さでざわめいている。残り半里を切ったというところで、その異様さの原因を丁原は理解し、馬腹を蹴って単身疾駆し始めた。慌てたように追随する張遼、李岳以下の并州兵。丁原の表情には憤怒の化身のような怒りの表情が刻まれていた。やがて張遼も李岳も城門付近の異常さに気がつくと、狼狽を隠し切ることが出来なかった。

 

 ――城門には留守を任されていたはずの張楊が体を縄でくくりつけられて吊るされていた。

 

「誰の仕業だ」

 静かだが、地響きのように人を震え上がらせる丁原の怒声が周囲を圧した。守兵も民も皆恐縮、畏怖し頭を下げる。丁原の命令で慌てて縄が切られ張楊の体が地に寝かされた。息はあるようだが顔は真っ青に憔悴し、一筋二筋交じるだけだった白髪が頭髪の全てを覆っている。意識はないようだが脂汗がとめどなく滲み、どれほどの長い時間吊るされていたのか、生死の狭間を彷徨っているのは確かだった。

「――誰がやった」

 丁原の質疑に守兵の長と思わしき女が進みでて告げた――張雅叔様は自ら己を吊るせと申されました、と。

 そのときだった。瀕死の体であったはずの張楊ははっと目を開けると、幽鬼のように飛び上がり丁原の膝元に平伏して叫んだ。

「殺してください!」

 乾ききった口内のまま叫んだからか、口元からかすかに血が滲んで飛んだ。何を言っている、という丁原の声に張楊は重ねて叫んだ――殺してください!

「私が、私が作戦を漏らしました! 私は内通者なのです! 匈奴の手先に別働隊が於夫羅を狙うことを漏らしたのは、私なのです!」

 周囲が否応なくどよめいた。作戦が漏れていた! 内通者は丁原の信頼厚い張楊であり、李岳の献策の肝が秘匿であると知りながら別働隊の存在を於夫羅に明かしたという。張楊は丁原の足元で石畳に何度も何度も頭を打ち付けながら叫び声を上げた。

「殺してください! 罰してください!」

 天地に慟哭しながら張楊は絶叫し、やがて雷に打たれたかのように白目を向いて痙攣するとそのまま意識を失った。息はある。だが一体何がどうなって張楊は作戦を漏らし、そしてこんなにも錯乱しているのか――怒りよりもまず疑問と困惑が押し寄せ、丁原は守兵を呼ぶと事の顛末を質した。

 曰く、并州兵が出立した二日後の朝、張楊はいきなり屋敷を飛び出すと詰所に押し入り、今すぐ自分を城門に吊るせと叫び始めた。剣を振り回し逆らえば命はないと叫びながらで、兵も従わざるを得なかった。吊るし上げられている最中に幾度も意識を失う張楊、その度に地に下ろして介抱しようとするが意識が戻れば再び剣を振り回して吊るせと叫ぶ。それを既に何日も繰り返したとのこと。

「なぜだ。張雅叔はなんと言っていた」

「一度だけ、ご妻子が人質になった、と」

「――なんということだ」

 沈黙が周囲を包んだ。敵に情報を漏洩したとなれば斬首は免れ得ない罪だ。だが妻子を人質に取られたというある種の究極の事態に陥ったとなれば――

「人質にされた家族は無事なのか」

「お命は。ただ……」

 答えていた兵士が口ごもった。容易に答えることは出来ない状態だというのか。張楊は線の細い男だが胆力に優れ義に厚く、例え家族を人質に取られたとしても易々と機密を漏らしたりはしない。その張楊が思わず口を割ってしまった――拷問、という単語が脳裏に浮かび、丁原は眉根を寄せて天を仰いだ。己にではなく、家族への拷問。想像を絶する葛藤の果てに、張楊は機密を漏洩し、そしてその慙愧の念がために死を賜ろうとしているのだろう。

「自裁は許さん」

 丁原は誰ともなく言った。そして二、三人の顔を見知った兵卒を呼び寄せると張楊を居室に押し込め休ませるように厳命した。

「……情報漏洩は罪だが、沙汰は追ってしよう。武器は没収し、見張りを絶対に離すな」

 自殺を防ぐための人員だったが、表立って気を使えば張楊の自責を加速させかねない。裁きを待てといえば思いとどまるかもしれない――そんな一縷の望みに賭ける他なかった。

 想像だにしていなかった異様な事態に、どこか浮き足立ったような落ち着かない雰囲気に誰もが包まれていた。戦勝の浮かれ気分などとうに雲散霧消している。やはり陰謀はこの地にまで伸びていた。そして手を下したのは明らかに匈奴の者ではなく、獅子身中の虫とも言うべき誰かなのだった。匈奴の者が人知れず晋陽に忍び込み、第二位の席次のものの家族をかどわかすことなど到底出来まい。動乱の呼び水として匈奴を誘引しようとした者がいる――

 おそらく并州と司隷の境付近に放たれていた隠密の者が、上洛するために出立したはずの并州兵がいつまでも通過しないことを不審に思ったのだろう。匈奴の攻撃を防ぐために見せかけの南下後すぐさま反転し、鴈門目掛けて北上を開始した并州兵――闇の者は目まぐるしく蠢いただろう。鴈門の防備が固められているという知らせを届けるには間に合わなかったが、その作戦の内容を知るべく急遽留守を預かった張楊の元へ人をやった。そして下手人は張楊にではなく、その家族を痛めつけることで口を割らせた。

 おぞましい。丁原は率直にそう感じた。武人の為すことではない。これより執金吾として上洛する道を歩むことになるが、そこには一体どれだけの毒が滴っているのだろうか。

 漢に潜む闇の手が這い回っている。丁原、張遼――そして李岳も、その冷たい手がヒタリと首筋を撫でたような悪寒を感じ、身震いを抑えきれなかった。

 南からの風が吹いてきた。夏に近づいている。風は湿り気を帯びており、いずれ大いに雨を降らす暗雲となるだろう。

 魔都・洛陽からの風が吹いている。



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第二十四話 洛陽にて

 ――闇から光へと出た。

 

 曹操は思わず呟いていた。ささやきは人々の喧騒に飲み込まれ、誰にも聞こえなかったようだ。

 官僚がうろうろする狭く広い府から出ると、多くの人々がひしめき合う広く狭い洛陽の大通りに出る。手勢も少なく徒歩である。付き従う配下が遅れまいと追随する。明暗の変化に慣れてないことをおくびにも出さず、曹操は先頭を歩いた。

 ほとんどの者は気にもとめなかったが、時折はっと顔色を変えて道を譲るものがいた。北部尉を務めていた時、この周辺の取り締まりは曹操直々に行なっていた。容赦も情状酌量も与えず、法を法として厳守することを求め、身分を問わずに罰を与えた。今でもその頃を覚えているものは畏怖を以って曹操に相対する。

「よかったですね、華琳様!」

 右に並んでいる夏侯惇が大きな口を開けて哄笑した。

 姓は夏侯、名は惇。字は元譲。

 黒く美しい絹のような髪を腰まで伸ばした快活な女性であるが、腰に指した刀剣『七星餓狼』を扱わせれば並ぶもののいない武人である。猪突猛進のきらいが見えるが、最も信任する武将の筆頭であると断ずるにいささかの躊躇もない。

「事はそう単純でもなさそうだ、姉者」

 答えたのは姓は同じく夏侯、名は淵。字は妙才。

 夏侯惇の双子の妹であり、青味がかった短髪に隠れた瞳の奥には思慮と智謀を湛えている。姉と同じく武芸に優れ、特に『餓狼爪』と名付けた弓矢を扱わせれば余人の追随を許さない技倆を魅せつける。思慮深く、武一辺倒である姉・夏侯惇の補佐役としてこれ以上の適任は思いつかない。

 二人に兵を任せて打ち破れなかった敵は今まで一度たりともなかった。曹操にとって最も信頼篤き股肱の臣と呼べる姉妹であった。

「なにを言っている、もっと喜べ秋蘭! 華琳様が御出世されたのだぞ! これを喜ばないでどうするというのだ!」

 嬉しそうに飛び跳ねる夏侯惇を無視して曹操は進んだ。

 

 ――曹孟徳殿、貴殿を『西園軍』が八校尉の一人、典軍校尉に任ずる。

 

 今上皇帝自ら『無上将軍』と名乗りを上げて直卒の軍勢を組織、その名も『西園軍』と号した。

 歴代の漢皇帝が喉から手が出るほど欲した勅撰武力である。大将軍何進の勧めに従って八人の将軍がその補佐に選ばれたが、いずれも黄巾賊討伐において名を上げた新進気鋭の武将であった。実働部隊を率いる隊長の一人として先程曹操自身も宮中で拝命を受けた。位は典軍校尉。第四位である。他には虎賁中郎将の位を与っている名門袁家の嫡子、袁紹が中軍校尉、下軍校尉に鮑鴻(ホウコウ)、助軍左校尉に趙融(チョウユウ)、同右校尉に馮芳(フウホウ)、左校尉に夏牟(カボウ)、右校尉には淳于瓊(ジュンウケイ)、そしてそれらを束ねるは宮中における権力を欲しいままにしている宦官、その頂点の一角である中常侍の位の中でもさらに皇帝の信任厚き男。上軍校尉、蹇碩(ケンセキ)――

 傍から見れば夏侯惇の喜びようの方が正しく、出世を喜ばない曹操の方が異端であろうが、夏侯淵の言うように事態を額面通り受け取ることはできない。

「これで喜んでいるようでは、ダメね」

「え、う! そ、そうなのですか華琳様?」

「少し自分で考えてごらんなさい、春蘭。秋蘭に聞いてはだめよ」

 艶やかで腰まで届く黒い髪が、うんうんと呻く度に左右に揺れた。兵を指揮させ戦場に投じれば、どのような敵でさえ粉砕する猛将に腹芸は期待できない。だがそのままの力量で甘んじてもらおうという気が曹操には一切なかった、試練を与え、育てなければならない。覇道の成就には麾下武将の成長が不可欠だからである。答えは宿舎にたどり着くまでおあずけにしておこうと曹操は思った。

 蹇碩――曹操は内心でその名を呟いた。軍を率いて前線に立つことは未だかつてないが、諸国放浪して修めた剣の技は達人として名高く、見事な体躯と精悍な顔付きには軍を統率する十分な迫力がある。過酷な訓練を課されるであろう『西園軍』の大将としてはこれ以上ない人物だと噂されていた。無上将軍を頂点に戴き、八人の将軍を合わせて『西園八校尉』と呼び天下に号する、皇帝の意欲並々ならぬということが嫌という程伝わってくる。

(嫌な男を持ってきたものね)

 蹇碩と曹操には因縁があった。過去、法を犯したとして曹操は蹇碩の親類の一人を処断している。その際、蹇碩からは問責も糾弾も一切なかったのだが、それゆえに貸しが一つあるような振る舞いを求められる可能性もある。全てを無視して突き進むには彼我の力量差がまだまだ大きい。堂々と相対してくるならばこちらの正当性を押せば済むというのに、沈黙を決め込まれると立ち位置が途端に際どくなる――だが、それで頭を抑えつけられると思っているのであれば、朝廷の見積もりは生ぬるいとしか言いようがない。

(皇帝を頂点に大将軍何進を控えさせ、西園軍の筆頭に宦官の蹇碩、指揮下に反宦官主義を明確に押し出している清流派の袁紹や私を組み込んだ……挙国一致の色を出したかったのでしょうけど)

 甘い、と曹操は断じた。皇室保守のため武力を備えようという天子の思惑は悪くない。だが筋も詰めも悪い。

 皇帝は自ら直卒する軍勢の力量が備わらない内から最強戦力として整えようとしている。それは外戚や地方豪族の力に根付かない純粋な武力を持つという目論見の点では慧眼ともいえたが、性急過ぎた。宦官をはっきりと拒んでいる大将軍何進の勧めで設立した皇帝軍であるというのに、最上位に蹇碩を位置づけたのだ。皇后の兄であり宮中でその権力を謳歌している何進は、軍事的頂点であったはずの大将軍という自らの地位に疵がついたと思い面白くないだろう。

(戯れにおもちゃを欲しがったと据え置ける度量が何進にあるのなら成り立ったでしょうけど)

 だが期待はできないだろう。洛陽の中心街を進みながら曹操は考えた。

 さらに人員の選出もお粗末だ。皇甫嵩(コウホスウ)朱儁(シュシュン)盧植(ロショク)、董卓といった黄巾の乱において最も功の篤い者たちを避けての登用である。軍閥の強大化を抑えつけようという目論見があるのだろうが、新興勢力の将軍たちなど蹇碩に手綱を握らせておけば済むと侮っている。乱世が収束していくのならそれでも構わなかったろうが、皇帝自らが外戚と宦官との権力闘争を煽っているのだ。『西園軍』がまともに機能するかどうかは疑わしい。

(ま、その中の一人に選ばれているのだから私もひとのこと言えた義理じゃないわね。まだまだ力が足りないか……この中華の頂点である皇帝でさえこの苦境。やはり借り物の力ではいけないというわけね。受け継いだ血だけに依拠した力など所詮、虚の力。私は実の力を身につけなくてはいけない……)

 自らがまだ飼い慣らすことの出来る弱小勢力の一将軍にしか見られていない、ということを曹操は身にしみて感じた。まだまだ警戒には値しない手駒として見られている。

 曹操の祖父は曹騰という名の宦官で、大長秋という宦官における最高位に着いていた。その養子となった曹嵩は一億銭という大金でもって三公の一つ、大尉の地位を奪取している。現在の曹家の地位はそのように、成した財によって宮中の汚泥の中を泳ぎ切った結果ではあるが――『覇道』を掲げる曹操、その財に依拠して宮中での栄達を望んでいるわけではない。実家からの援助も最小限に留め、実力でもってのし上がろうと、この乱れる乱世に覇を唱えるのだと心に決めていた。

(許劭は私を治世の能臣、乱世の姦雄と評した。ならば更に乱れゆくこの時流に乗り遅れてはならない……遠からず先、外戚と宦官が食い合うことになるはず。その時こそ、この曹孟徳の飛躍の時なのだから)

 不意に夏侯惇が前に出て曹操の道を遮った。何を、と声をだそうとした瞬間に夏侯淵も自らの姉の隣に並んで道を遮る。二人が油断ならぬと見据える先を曹操も見やった。前方にはこちらに向かって迫ってくるものものしい一団がいた。

 曹操が夏侯姉妹を従えるが如く、二人の武人が自らの主人を守ろうと立ちふさがっていた。その両方共を曹操は見知っていた。

 

 ――『長城の剣』と『長城の盾』

 

 昨今、揃いの異名で名を馳せた二名である。『剣』と呼ばれた張遼はその両の瞳に覇気を漲らせ、自らが鍛え上げた武を隠そうともせずに溢れ出すままにしていた。それに対して『盾』の赫昭は稀代の守将として名を馳せるは流石と思わせる沈着さで佇んでいる――古今東西名将は多かれど、両者とも曹操は自らの幕に迎えたいと掛け値なしで思う逸材であった。そして二人の背後には規律正しいが荒々しい気配を漲らせた兵士たちが付き従っている。

 ここ数カ月、洛陽の治安維持を一手に担い悪党を震え上がらせている実力集団――并州兵である。

(春蘭と秋蘭が警戒を怠れないほどの武将……そしてあの兵団。それらを従えているのが……)

 まるで睨み合うように対峙した曹操麾下の兗州(エンシュウ)兵と并州勢力だったが……張遼と赫昭、体躯も覇気も見事な二人の間から一人の男が姿を現した。

「これは、曹孟徳様」

 曹操が垂涎の思いで欲する程の二人の将――その間から姿を現したのは、肩透かしかと思うほどに見劣りする男であった。小柄であり載せた冠はどこか似合わず、纏う袍には見事な刺繍が施されているがどこか着せられている風情であり、慇懃無礼な程に丁寧な礼を曹操に向けている。曹操は眉をしかめて礼を返した。

(李岳……)

 姓を李、名を岳、字は信達という小柄な男で、以前、戦勝祝いの宴席で会った時と同じようにあやふやな笑顔を浮かべていた。

 

 ――この物騒な一団が洛陽に来訪したのは半年を遡る。

 

 北方騎馬民族の匈奴が二十万の大軍を挙げて漢の天下を侵さんと牙を向いた。その襲来を看破し未然に防いだのが当時并州刺史であった丁原である。対匈奴防衛における牙城・雁門関を巧みに使い、三万に満たない軍勢で敵を撃破し総大将である右賢王於夫羅の首を上げた。並々ならぬ功績であるとしてその多大な労にどのようにして報いるか、諸侯も民も身分を問わず皆の耳目を集めたが、丁原には防衛戦の際に刺史としての兵力を手放し執金吾に就くようにという勅命に逆らった咎があるとして、洛陽に来るや否や獄に落とされてしまった。

 結果、戦の誉れは李岳が独占するという形になり、世の賞賛を一身に浴びることとなった。

 どう考えても不自然な処遇であり、誰もが不審に思ったが、その絵を描いたのが李岳という男ではないかというのが専らの噂となっている。飛将軍李広の子孫であると名乗り、対匈奴防衛戦でも於夫羅を討ち取ったという堂々たる戦果を上げる。だがその戦果に比して功が少ないと不満を持ち、主であった丁原を官僚に売り飛ばしその後席を埋めてしまった――というのが多くの者たちの見解であった。

 その後、荒くれの涼州兵をまとめ上げる豪族の雄・董卓に擦り寄って宮中にも出入りするようになったと聞いている。

 涼州と并州、異民族相手に激戦を重ねる精強な騎馬兵の産地として一二を争う二州がこの洛陽にて合力した。胡服姿の兵士がこんなにも溢れるとは、洛陽の民たちは夢にも思っていなかっただろう。だが市井における風評は悪いものとは言えなかった。飛将軍李広の子孫という名だけでも十二分と言える程の名声、さらには敵の大将首を直々に挙げるという勲はとうに歌となり物語となり中華全土に知れ渡った。

 降って湧いたようなこの男、執金吾の管轄下にあるとされる『中塁校尉』の役職がついているが、元々形骸化していた尉官であり、実質的に執金吾の職務範囲のほとんど全てを統括するための便宜上の名目でしかない。実際、獄中の丁原の代理として洛陽の治安を司り、犯罪や野盗の出没を実力でもって封じ込んでいた。間違いなく、現在洛陽に駐屯する中では最強の実力集団の一つに数えられる并州兵。それを指揮しているのが、目の前で愛想笑いを浮かべている男なのである。決して油断することなど許されない。

「ご丁寧な挨拶ね、李信達」

「曹孟徳様にご挨拶申し上げるのです、過ぎるということはないと思いますが」

 男は困った、という風に苦笑して愛嬌のあるえくぼを見せた。嫌な笑顔だ、と曹操は思った。

 昼行灯のようにヘラヘラと笑っているが、その上辺に騙されて侮った役人、富豪、商人を軒並み摘発し斬刑に処している。『冷血校尉』とあだ名されているのを本人は知っているのだろうか、と曹操は訝しんだ。

 どのような賄賂を積まれても不正を見咎めるや否や断固として処分を科す、その苛烈さは騎都尉であった頃の曹操さえ凌ぐのではないかと思うほどだった。死地をくぐり抜けたであろう并州兵の精強さも目を見張る程で、洛陽近くに出没した賊の群れを騎馬隊を中心とした即応部隊によって、ただの一撃で蹴散らしてしまったという。巷ではこの男の話題で持ちきりであった。

 

 ――李岳という男の素顔が見たい、不意にとてつもない欲求として曹操の内に噴出した。この男の本性とは、一体。

 

(単なる謀略家か、実力を伴った野心家か……虚の力、実の力……)

 出世と金のために媚びへつらう男。そんな不埒な噂は出まわってはいるものの、執金吾の職責を一時であれ全うしていることは間違いない。

 多くの人々の賞賛を一身に浴びているが、それに実は伴っているのか、歓心を買うことに腐心しながら邪な野心を育んでいるだけではないのか……未だ李岳の評価定まらず、曹操は油断成らぬ気持ちで相対した。笑顔も、雰囲気も、功績も、経歴や血筋とて信用には値しない。ここは魔都洛陽也。陰惨な謀略が挨拶がわりに繰り広げられる地獄に最も近き天子のお膝元。迂闊に人を信用しては生き延びることさえ出来なくなる場所。

「ところで、宮中からお出でになられたようにお見受けしますが」

「ええ、今でてきたところよ」

「なるほど、御昇進されましたか」

 全てを見透かしたような言動に曹操は思わず眉をしかめた。

 そう、この男は自らを上段より見下しているのではないかと思わせる不快さを覚えさせる。この曹孟徳を全て見透かしているような、行き先を知っているかのような、あるいは手の平で弄んでいるかのよな。

「なんだ、なぜそのことを既に知っているのだ。誰から聞いた」

 夏侯惇が呆れるほどの直截さで李岳に質問を飛ばしたが、その呆気なさに曹操は内心舌を巻いた。何も考えずに放つ一言というのは、時にどんなに練りこまれた言葉をも凌駕する。

 たったいま内示を受けたばかりの役職をどうして知り得ているのか、耳が早いというにも限界がある。特殊な伝手を既に築いてしまったのかと疑わせるには十分である。

 夏侯惇の真っ直ぐすぎる言葉に、李岳はやはり困ったように首をかしげた。

「まぁ、昇進にまつわる話というものはよく回るものでございますから。天子様直々に選抜される西園軍の陣容ともあらば皆躍起になって探るというものです」

 西園軍のことまで耳に入っている、伊達に宴会ばかり開いているわけではないということなのだろう。

「それにしても耳ざといのね。人付き合いをしっかりとこなしているように見受けるわ」

「いえそのような」

「盛大に遊んでいるようじゃないの」

 李岳の悪評が収束することもなく出回り続けた原因が、常日頃のこの男の振る舞いであった。国土防衛の功あり、執金吾代理としての職務にも忠実。李広の子孫ということで注目を集める血筋でもある。屋敷に訪いを入れる者は後を断たなかった。皆、話題の渦中にあるこの男の素性、為人を試そうと思っていたのだ。善人か否か、驕慢なるや否や。

 だがそこでこの男は皆が期待した清廉さの欠片すら見せることはなく、人が来る度に酒盛りを開いては盛大に遊び、人に媚び、気に入られようと部下に武芸を披露させ、誰も彼もを褒め称え、賄賂紛いの金銭でさえも断らずに全て懐に収めているという。私欲のために上官を売ったという風評を補強するかのような振る舞いであった。

 露骨な厭味にも反論せず、今もこうしてへらへら笑いながら悪びれもせずに頭をかいている。

「田舎生まれのおのぼりですから。皆々様のご指導を賜らなくてはにっちもさっちも行かないのです。そして困ったことに、洛陽の酒は美味い。誘われれば断れないのがつらいところです」

 ねえ? と後ろに控える并州兵に話を振ると、全員が豪快に笑い始めた。并州最大の都市である晋陽も中々の規模ではあるが、この洛陽に比べればただの地方都市の一つに成り下がる。中華の中心で咲き誇る栄華に酔いしれたとしてもおかしいものはないだろうが――張遼も肩の羽織りを翻して笑っており、赫昭だけが憮然と表情を崩さない。

「なるほど。この曹孟徳さえも宴会の席では単なる酒の肴として味わった、というわけね」

「そうおっしゃられますと立つ瀬がありませんが」

「他にどのような噂話をしているのかしら?」

「さて、お耳に入れる程のものは……とはいえ洛陽の噂というのも存外馬鹿にできないものですね。事実、陳留刺史様の栄達を当てた」

 陳留刺史。

 その呼ばれ方を曹操は黙認していたが、目の前の男から言われるとあまり心地のよいものではなかった。

 (エン)州陳留郡の太守、それが曹操の正式な役職である。地をよく治め順当に武力を付け、汚職を許さず税を調え、野盗の出没を許さず農工を改めた。その影響力は一郡に留まらず州全域にまで及ぶ。(エン)州刺史・劉岱(リュウタイ)さえも凌ぐものとして、世の人はみな陳留軍太守ではなく『陳留刺史』という呼び名で曹操の功績を讃えた。

 李岳は媚びへつらうような声と笑顔……そして相変わらずどこか自分を見透かしたような視線が、とうとう曹操の我慢の限界を超えた。

「……行くわよ春蘭、秋蘭」

 曹操は道を譲る并州兵と交錯し、真っ直ぐに朱雀門へ向かった。そして夏侯姉妹の問いにも応えず馬上に身を翻し、単騎で疾駆し始めた。慌てたように追走してくる配下の者たちを振り返ることなく、曹操は胸のつかえを解き放たんと駆けに駆けた

 有能だった。一廉の人物とも言える。一軍を任せれば容易く操り敵を撃破するだろう。一州を任せたとしても上手く経営するに違いない。

 臣下に欲しい、と曹操は思った。だが同時にこの男は始末しなければならない、とも思った。覇王へ至る道程にて、決して避けては通れぬ障壁がこの男なのではないかと。

 いずれ激突する。それは確信だった。天へと至る道は狭く、一人が歩くに精一杯の狭さなのだから。

 李岳。その名前は曹操の口内を苦い味で汚した。服従か死か、いずれわかるだろう。敵に回るのであれば確実に殺さなくてはならない――予感めいた覚悟が曹操の中に根を下ろしていた。



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第二十五話 二龍の胎動

 十五を数える戸をくぐり抜けて田疇はようやく彼らの居室にたどり着いた。焚き染められている香は人の正気を失わせるとさせる天竺で産出された極上の麝香(ジャコウ)であり、一摘みの粉末で屋敷が買えるとさえ言われるほどの貴重品――それがまるでただの埃のような粗末さ、豪儀さで扱われていた。

 まだまだ残り香が濃く漂っており、袖で鼻と口を隠して田疇は奥へと進む。その顔にはいつも以上の憂鬱さが眉間のしわとして刻まれており、窒息しているのではないかと思えるほど蒼白な表情をしている。煌めく黄金、眩しいほどの銀細工、むせ返るような香り――敦煌から出立した旅団が持ち帰った西域の絹をめくると、ようやく屋敷の主たちへの目通りが叶った。

 部屋には眼にしてはならないものがあることを田疇は理解している。自らの精神安定のために決してそれを視野の端にすら入れまいと心で念じながら、田疇は膝を突き頭を垂れ、最上級の礼を捧げた。

「御無礼仕ります……劉岱(リュウタイ)様、劉遙(リュウヨウ)様」※

「あっ、田疇! 久しぶりだね」

 姓は劉、名は岱、字は公山。

 高祖劉邦より連綿と受け継がれる高貴な『劉』の血の継承者は大陸に数多かれども、彼の者を凌ぐ血統が天子直系を除いてどれほどあるだろう――偉大なる劉邦の嫡男でありながら母親の身分卑しく天子の座から遠ざけられた不遇の士、悼恵王・劉肥(リュウヒ)……『呉楚七国の乱』において決して反逆を良しとしなかった至仁の王――斉王・劉将閭(リュウショウロ)……牟平共侯・劉渫(リュウチョウ)を経て、平原郡の劉本を祖父、山陽郡太守である劉興を父に持つ、いみじくも侍中の地位を戴く世に知らぬ者のない名士の筆頭である。

「本当だ、田疇だ!」

 続いて声を上げるは姓は劉、名を遙、字は正礼。

 劉岱の弟でありながら兄の盛名にあやかるばかりではなく、盗賊の跋扈を許さず、劉の血を啜ろうとする羽虫が如き取り巻きを良しとせず、不正を(ただ)し、義を保ち、郷挙里選においてはただの一つの不可もなく満場一致で奏上され、麒麟児の弟もやはり麒麟児であるとして天下にその名を兄に並び立たせた。月旦評の許劭と並ぶ人物鑑定の大家、陶丘洪をして宗室に連なる高貴極まる兄弟に対して口を極めての賛辞を与えた。

 

 ――世は云う。山陽に『二龍』あり、と。

 

「顔を上げなよ」

 劉岱の声に従い田疇は面を上げた。寝台に腰をかけている二人の兄弟は齢三十をとっくに超えているというのに、どう見ても十かそこらに見える幼さであった。傷ひとつない白磁が如き肌に絹衣を一枚纏っただけのあられもない姿。顔立ちも声音も瓜二つ、区別は冠の色でもってでしか叶わないだろう。

 青い冠の劉岱がはだけた衣服を直すこともなく笑った。

「君だけだよ、恥ずかしがって顔を背けないのは」

「はぁ、畏れ入ります」

「褒めてないんだけどね」

 劉遙は赤い冠を左右に揺らしておかしそうに笑った。やはり衣一枚で帯も締めていないので全てが露わになっている。田疇は気にもせずに言葉を続けた。

「ご無沙汰申し上げておりました……」

「そうだね。でも忙しかったんでしょ?」

 劉岱の言葉に劉遙が続いた。

「行ったり来たりしてたらしいじゃない」

 田疇は困惑したように眉根を寄せた。劉岱も劉遙も面白おかしそうに笑っているが――骨身を削るような日々であった。洛陽と晋陽、雁門関に迫った匈奴の本陣との間を決死の思いで往復したのだ。元々体が丈夫ではなく馬の扱いにも長けていない。役目を終えて洛陽に戻った頃にはそのまま二日も寝込んでしまった。今も尻の痛みはわずかに残っている、あんな思いはこりごりだと田疇は『二龍』の笑顔から顔を背けた。

「またやったらいいじゃない」

「真っ平でございますよ……」

「そんなに頑張ったのに負けちゃったんだ! 田疇ったらおっかしい!」

 声さえ似ているのでどちらが言ったのかは判別つかなかったが、どちらにしろ二人の笑いは見事な和音となって響いている。頭痛さえ催すようなその哄笑に田疇はしばらく忍耐を試された。

 匈奴は敗れた。中原に争乱を催すための壮大な計画はその端緒に付く前に無残に崩壊した。於夫羅の計画は事前に并州の軍兵に漏れ、長城は雁門関を突破することもなく無様に敗残した。匈奴の中の穏健派は死んだ於夫羅の咎を単于に追及し、とうとうその地位を廃した。新たな単于は未だ立てず老王による協議で政を行なっていると聞いている。

 於夫羅をその気にさせるのにすら四年を費やしたのだ、今この時機に陰謀を食い込ませる間隙はないだろう。

「でもさ、并州兵が動いたこと、於夫羅も気づいていたんでしょう?」

「……ええ」

「影の者も貸してあげたじゃん。不意打ちしてくることはわかってた。だってのに負けちゃうなんて、情けないんだあ」

 雁門関に篭るだけではなくあえて伏兵を忍ばせ、長く伸びた戦列の中央を食い破るための奇襲を催す――その情報を田疇は晋陽に残っていた刺史丁原の部下、張楊から聞き出していた。張楊の口を割らせたのは劉岱、劉遙の手下である影の者。血なまぐさい行いは避けたかったが、張楊の口は固く、時間は一刻を争うためやむなく彼らの応援を頼んだのだが、家族を人質に取っての苛烈な責めは田疇の直視し得る限度を超えていた。

 得た情報はすぐさま於夫羅に届けたが、結果はさらなる上手を取った并州兵の勝利に終わった。不意打ちを目論んだ二万の軍を包囲殲滅しようとした匈奴軍――勝利を手繰り寄せたかに思えたが、突如として現れた烏桓の戦車隊によって散々に蹴散らされ始め、とうとう大将於夫羅の首を献上する事態にまで至った。匈奴軍の完敗といってよいだろう。

 五分五分の戦、勝負を決めるは運否天賦と田疇は考えていたが、それは過ちだと引き上げていく匈奴兵を見て考えた。并州の者たちがより多くを謀っていた。それゆえに策は打ち崩され手駒を毀してしまった。

「ほら、あの男のせいでしょ、最近すっごく話題になってる」

 劉岱の言葉に田疇は一人の男の姿を思い浮かべた。名前を知って既に数ヶ月も経つが、未だにその顔を直に見ることはかなっていない。何年にもわたって仕込んだ匈奴への陰謀を容易く瓦解させた侮らざる者――男の名は李岳と言った。

「飛将軍ねえ」

 劉岱のつぶやきに劉遙は眉根を寄せた。

瑠晴(ルセ)兄様、あの男が気になるの?」

「気にならないといったら嘘だな、紗紅(シャク)

「どういう男だい、田疇?」

 二人の問いかけに田疇は束の間考えを巡らせた後、苦渋をこぼすように答えた。

「……測りかねます」

「ふうん。珍しいね、君が適当な返事をするなんて」

「畏れ入ります」

「だから褒めてないってばさ!」

 どうしようもなくおかしい、なんともたまらない。そう言わんばかりに劉遙は笑った。

 事実、田疇は李岳への評価を定めかねていた。飛将軍李広の子孫であり、匈奴において対鮮卑の戦にて初陣を飾りその知勇を示した、と於夫羅から聞いたことがある。はじめは匈奴の先鋒として漢に侵攻する手先となるはずだったが、漢に寝返り匈奴を挫く策を練り於夫羅の首を取った。齢二十に届かぬ若輩者に見えるが、油断ならぬ者として田疇の脳裏にその名は刻まれていた、が――洛陽に上ってからはその才の片鱗をのぞかせることもなく日々宴会に明け暮れているという。仕えていたはずの丁原を獄に落とされても知らぬ顔、忠義に厚き先祖の面影は胡北の地にてすっかり薄まったか、と洛陽の一部からは嘲笑さえ上がり始めていた。

 田疇の思索を知ってか知らずか、劉岱は不意に厳しい視線を田疇に注いだ。直視していなかったとはいえその矢のような眼光を田疇も感じた。まだまとまりきっていない彼の者の印象を一粒一粒拾い上げるように口にした。

「……まず、此度の匈奴誘引を図った際に丁原に対して并州における軍権を手放しすぐさま上洛せよとの勅命を出しました。戦の功あれどその勅命に従わなかった旨を重く受け止める、という名目により獄に落としております」

「誰を使った?」

畢嵐(ヒツラン)段珪(ダンケイ)です」

 あっそ、と二人はつまらなさそうに相槌を打った。宮中にて比類ない権勢を振るう中常侍の筆頭でさえ『二龍』にかかれば足元の落葉に等しい。

「そのまま首を刎ねてしまうべきだと声が上がったのですが、匈奴防衛の功が大、また勅命に従わなかったのも賊に遭遇したためやむなく北上、のちに匈奴の陰謀に気づいたという経緯を重く見て、現在謹慎中に置いております」

「殺さないの?」

 どこから取り出したのか、真っ赤な林檎をかじりながら劉遙は聞いた。

「何進が反対しているようですね」

「ああ、お肉屋さん。がんばるんだね」

「西園軍の設立を前に大将軍としての存在感を出しておきたい、というところでしょうか」

 だが、不思議なことに丁原の釈放を訴える者の中に李岳という名前が一切出てこない。謁見は叶わずとも皇帝の傍に侍る主だった者たちとは面識が通っているはずだ。祝勝の宴会においても丁原など元よりいなかったかのように喜び勇んでやってきたと聞いている。その場で声を大にして釈放せよと論じた、という話も聞かない。ただ飲食しては武勇を誇って帰ったという。

「主であるはずの丁原を容易く獄に落とさせました。それに特に反対することはなく、出世や栄達を仄めかせば喜び、賄賂を渡せば受け取ります」

「ふうん」

「でもさ、なんでそれで測りかねるの? こっちの思惑通りじゃん」

「そうだよ。扱いづらい丁原じゃなくて代わりを立てたいってことで、宦官に言うこと聞かせるように働きかけたんでしょ」

 丁原の処遇は、結局董卓の圧力により獄にて謹慎という措置にて落ち着いた。年が明ければ恩赦が出て釈放となるだろうが、官位がどうなるかはまだ読めない。

 執金吾以前の丁原は幷州刺史であったが、その後任として選ばれたのが先だって起こった『涼州の乱』において武功を立てた董卓であった。匈奴侵入の一事でもってさらなる軍権が求められるとして牧に昇格されての就任である。その際、本来手放すべき涼州兵の軍権を未だに保持したままになっていることが問題として浮き上がり始めているが、匈奴再侵入に備えるとの名目で董卓はその一切を手放さずにいる。

 劉焉の提言により復活した牧の座――益州牧劉焉、荊州牧劉表、徐州牧陶謙、そして幽州牧劉虞――あらたに就任した顔ぶれの中でも董卓の所持兵力は飛び抜けている。また李岳の身分の預かりも董卓に属した。そのため司隷周辺において彼の者の所有兵力は多勢を大きく引き離す規模にふくれあがっており、何進との距離が近いこともあり宦官並びに他の位階の者も及び腰となっているのが実状だった。

(李岳……絶妙な地位にいる。何進の膝元で董卓の管理下だが今はまだ丁原の部下……誰にも嫌がられず、誰からも使われにくい……)

 その名前を田疇は今度こそ念頭から外さないものとして記憶にとどめた。あのときもう少し注意を払っていれば鴈門でしくじることはなかっただろう、兆候は一度で捉えきりその芽を摘みとらねばならない。その教訓をこれ以上ない形で学ばせてもらったが、嫌になるほど高い授業料となってしまった。

「んで、次どうすんの?」

 途中で飽きたのか、食べかけのりんごを放り投げて劉遙は聞いた。

「そうだよ、折角準備した兵が遊んじゃってる」

「折角喜び勇んで暴れてる匈奴を血祭りに挙げられると思ったのにさ」

 青冠と赤冠が田疇を取り囲んでくるくると回った。幼さと妖艶さが同居したような歪さに田疇は吐き気を催しかけたが、そのような粗相を犯せばこの場にて首が飛ぶ。

 

 ――匈奴を血祭りに。

 

 仮に於夫羅が雁門関を突破した場合どうなっていたか。匈奴兵は漢の支援に来たという名目をかなぐり捨てて洛陽の城内に殺到し皇帝を弑し奉り新たな皇帝を立てようとしただろう。だが哀しいかな、劉岱が口にしたようにその願いが叶えられることはどの道なかった。洛陽に殺到し程良く破壊と略奪を堪能してもらった頃合いを見計らって、(エン)州、荊州、揚州、幽州、豫州の軍が殺到し包囲殲滅する計画となっていたからである。十八万の兵であるが、糧道を絶った後に囲んでしまえば生殺与奪は思うがままであっただろう――つまるところ、於夫羅の野望はどの道挫かれ遠からず死ぬ手筈となっていた。遅いか早いかの違いでしかなかったが、もとより謀られていたと思い知らされて絶望の内に朽ちるのではなく、匈奴の戦士として堂々と討ち果たされた方が本望であっただろう、と田疇はぼんやりと考えた。

 洛陽および帝室の権威は失墜し、その残りかすを貪ろうと司隷は荒れる。目端の利く群雄は地方にてその勢力を伸ばし独自の行動を取り始めただろう。未だ鎮圧定まらぬ黄巾賊に賊の氾濫、未曾有の混乱がこの中原を覆ったはずだった――だが既にその計画は端緒にて躓き、修正を余儀なくされている。しばらくの時と策が必要とされるだろう。

「――田疇?」

 わずかに込められた稚気混じりの殺気を田疇は的確にかぎわけていた。憂鬱さが腹の底からこみ上げて全身を気怠さで冒した。それを察知されまいと田疇は跪き、面を伏して言上した。

「……我が主より指示を仰せつかっております」

 その声に、劉岱と劉遙の二人はピタリと動きを止めて、田疇の前に居直った。

「申せ」

 田疇は幽州より持ち帰った指示を、一語ずつ静かに口にした。

「次代の皇帝を乱せ、と」

 劉岱も劉遙もぴくりと眉を動かした。次代の皇帝――いずれ衰え死ぬであろう現在の帝ではなく、その次代を乱す。後継者問題に手を入れる、ということを二人は間を置かずに察した。計画は頓挫したが、全てが崩れ落ちたわけではない。外敵の侵入は防ぐことは出来たとしても内憂は健在なのだ、その最たるものが未定のまま放置されている今上皇帝の後継者である。

「具体的には」

「陳留王を立てます」

「誰を使うの?」

「遺勅を蹇碩に授けます」

「……えげつないなあ」

 現在、後継者として最も有力なのは何太后とその兄である大将軍の何進の元で育った劉弁である。その即位を待ってから、宦官の蹇碩を用いて混乱を発生させる――先帝は劉弁ではなく、陳留王に封ぜられる劉協を指名していたと!

 先帝の信頼厚い蹇碩の言葉、しかもその手にはなぜか遺勅があるのだ――生前指名しなかった後継者を遺勅として残すという不可思議さを何進は訴えるだろうが、哀しいかな本物である。確実に混乱は宮中を席巻するだろう、宦官と外戚は士人と群雄を巻き込んで対決し、世は再び混迷を深める。双方の勢力どちらが勝とうとも、である。

 皇帝の憐れな様、そしてそれに尽くす蹇碩の献身ぶりを思い浮かべて劉岱は笑った。皇帝の側にてその世話を仰せつかる侍中の地位――その立場を利用し、思うがままに勅令を発布させていることを知っている者はこの大陸において五指を超えまい。クスクスと笑いながら劉遙が飛び跳ねた――わあい、争いだ、殺し合いだ!

「皇帝はいつ死ぬかな」

「こればかりは。まだ数年先になりますか……」

「五年生きることはないね」

 劉岱は自信を持って断言した。田疇はあえてその由を深く聞こうとはしなかった。陰謀渦巻く宮中とはいえ、皇帝の側に至ればその陰惨さは想像を絶する。耳にするだけで毒されるようなおぞましさに、田疇は吐き気を催し目頭を抑えた。

「……さあて、じゃあどうなるんだろうね? 中央は放っておいても勝手に乱れてくれるって感じだけどさ」

「紗紅。時機を見て外に出るか――指示は遂げる。だがそれ以外は自由にさせてもらうよ、田疇」

 田疇は黙って伏して頭を垂れた。

「――何か悪いこと考えてるね、瑠晴兄様」

 劉岱は答えることはせずにただその口元を歪めた。

「まあ良いけどさ。瑠晴兄様――(エン)州刺史様が何の憂いもなく田舎に引っ込もうとする気持ちはわかるよ? 曹操が勢力下にいるんだもんね。あの娘、とっても可愛いじゃない」

「何を言うんだ紗紅。お前の地盤が生きてる揚州なんて、孫策がいるじゃないか。あの娘、とっても可愛いだろう。僕が欲しいくらいだよ」

「やあだよ、孫策は僕のだもん! いっぱい遊ぶんだもん!」

 戯れにくるくると追いかけっこで遊びながら『二龍』の兄弟は田疇に興味を失ったように去っていった。

 既に自分など視野の端にすら映ってはいないだろう、田疇は礼をすると部屋を辞去した。そのとき不意に限界が訪れ、口元を抑えながら足早に麝香でむせ返る部屋を脱出した。十五の扉をくぐり、宮中の離れの渡り廊下に出た時ようやく生きた心地を取り戻した。高い身長を何度も折り曲げて深呼吸を繰り返す。真っ青な額には脂汗が玉となってにじみ出ていた。

 迫り来る冬がもたらす冷たい風、それが心地よく田疇の体を冷やしてくれた。まだかすかに麝香の残りが残っているが、しばらく日光を浴びれば薄れていってくれるだろう。血塗れの部屋、散らばった人体、おぞましい程に垂れこめた血臭を曖昧にするための麝香の臭い――




※劉遙の「遙」は機種依存文字のため当て字です。


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第二十六話 誰が為の位

 少女は頭を下げて自らの主に事の次第を伝えた。主は無表情に窓の外を眺めるだけで、一向に返事をよこそうとはしない。少女は耐えた。主が心中では推し量れないほどの苦悩に苛まれていることを重々承知しているが故に、何も言上することが出来ずただじっと瞳を閉じている他ない。

「余は」

 声は震えていた。少女の瞳に涙が滲んだ。代わりに泣くことが臣下の務めとばかりに。

「余は皇帝にならねばならぬ」

「殿下……」

 今上皇帝が何者かの言いなりのままに勅を遺したという情報を得た。その相手は天子の信頼厚き宦官・蹇碩。未だ存命中に長子ではなく異父妹に帝位を譲るという言葉を遺すとは――まるで火種を撒いて風を送るかの如き所業。常よりその精神に疑問を感じていた少女でさえもおぞましき陰謀の香りを嗅がずにはいられなかった。

「蹇碩を討て……勅を出させてはならぬ」

「はい……ですが……誰に」

 蹇碩は皇帝直属の常備軍『西園八校尉』の筆頭にして剣技の達人である。生半可な使い手では返り討ちになるのが関の山。ましてや大々的に動ける立場でもない。密かに接触ができ腕もたつ、そしてなにより信頼がおける者――

「そなたがいつも言うておったあの者ならば……余はあの者がよい」

 少女は自らの主が挙げた名に驚き、困惑した。その指名の正しさに納得しながらも、心では肯んじがたい。

 だが首を振るわけにもいかなかった。少女は頭を垂れ、委細取り仕切る旨を伝えた。

 季節はずれの雪が降る洛陽――二人は揃って窓の外を見た。牡丹の華が咲いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姓は賈、名は駆。字は文和。涼州武威の生まれ。

 その頃の思い出はあるようでない。どこまでも続くかと思えるような草原、不意に途切れたその先には永遠を垣間見る砂漠、ふとした拍子に現れる岩くれ、乾燥した風、馬のいななき、そして一人の少女の笑顔――

 涼州では(テイ)族※をはじめ多くの部族が混ざり合い、隣りあわせ、手を取り合いながらも時に争って生きてきた。何の天命か、そのような逞しくも雑多な人々を統べる地方の豪族の娘として生まれ育った少女、董卓。賈駆は彼女を守るように、寄り添うように生きてきた。儚く可憐な、まだ咲きもしない白い牡丹の蕾のような女の子……

 いつか咲きほころぶであろうその華、ただ健やかに育ちゆく様を見守り続けることが出来ると思っていた漠然としたあどけない時代は、けれど賈駆の思惑を嘲笑うように潰えた。風雲急を告げて久しい戦国の業風は淡い月光さえもかき消さんと叢雲を連れて遠き涼州にまで吹きすさんだ。

 権力闘争の嵐。破れば死なざるを得ない苛烈な野火は今まさに董卓の運命を焼きつくさんとしていた。それを座して見ているのか、彼女の無残な骸の前にただ何も出来なかったと悔いて涙を流すだけで満足なのか! 否! ――賈駆は決意した。この華を手折らせてなるものか、自分が守らなければ!

 か細い腕である。腕力で彼女を守ることは出来るはずもない。古今東西の兵法書、歴史書などを読み漁り、砂が水を吸うようにその教えを頭脳に叩き込んできた。対匈奴戦、対馬一族戦、対黄巾賊戦――御輿として担ぎ上げられ前線に送り込まれてしまった董卓の行く先行く先で賈駆は華々しい勝利を上げ、自らの主に捧げた。いつか誰も手出し出来なくなるほどに強くなれば、燦々たる月明かりの下で何に脅かされることもなくその美しい花びらを輝かせることが出来ると信じて。

 功名はやがて出世をもたらし、同時に容易く逃げるを許さぬ重責までをも二人に抱えさせた。

 一度勝てば二度目を期待され、三度目は求められ、四度目は勝って当たり前とされた。気づいたときには山のような死体を積み上げて作った軍功の(きざはし)を上りつめ、その名は天下において知る人ぞ知る、あるいは知らぬはもぐりばかりとさえ囁かれるようになった。だがいつまで経っても董卓の顔は晴れず、賈駆の気苦労は終わらない。

 

 ――遠くまで来た。けれどどうしてこんなことに。

 

 夢うつつの中、賈駆はとりとめのない思いにとり憑かれていた己を、こめかみを揉んで覚醒させた。

(昔のことを思い出すなんて)

 賈駆は身じろぎすると体を起こした。徹夜明けにそのまま机に向かっていたが、途中から記憶が曖昧に濁っている。

 いつの間に突っ伏して寝てしまっていたのやら覚えがない。賈駆は腫れぼったい眼をこすって外から漏れ聞こえてくる雀の鳴き声に耳を傾けた。まばゆいまでの陽の光は、整理の行き届いていない部屋を責めるように差し込んでいる。ひどい顔をしているだろう、節々の痛みをこらえて水場で顔を洗おうと賈駆は腰を上げた。

 宮殿からわずかに離れた西方に賈駆の居宅はある。質素と言う他ない。涼州の雄と恐れられる董卓の懐刀として名を知られているが、官位は董卓付きの校尉でしかなく、分相応の屋敷を与えられていると賈駆に不満はなかった。一年のほとんどを主である董卓の屋敷にて寝起きを共にしていたが、仕事に没頭するときたまにこうして掃除さえ行き届いていない自宅を利用する。

 冬も間近で吐き出す息は白く、彼女のかける眼鏡を度々曇らせた。極度の近眼のために日々の生活でさえ苦労を催していた賈駆、主であると同時に友でもある董卓はそんな彼女を慮って八方手を尽くしてこの逸品を贈った。適度に歪ませた硝子細工は見事の一語に尽きる。一体どれほどの値が張るものなのか賈駆は未だに調べることができていない。

 水汲み場で背筋が震えるほどの冷水で顔を洗えば、ぼんやりと靄がかかったような思考も次第に晴れてきた。髪を結い直して簡単な食事を取り、食後には白湯を口にする。よく言えば清貧であるが、人によれば粗末と言えるような日々の暮らし――だが荒涼とした環境で育った彼女にしてみれば何一つ不自由などなかった。

 食事を済ませて再び書斎の扉を開けて腰を下ろし、(うずたか)く積み上げられた眼前の竹簡に目をやってため息をついた。心待ちにしていた知らせは今日届くはずである。それを待つ間書類仕事に没頭しようと決めた。

 そのまま昼過ぎまで集中して仕事に取り組むことができた。おかげで泰山にも等しかった書類の山は、なんとかそこらの岩山程度にはなっていた。新たに并州牧に就任したために下すべき決裁は倍に増え、さらに涼州からの知らせはもちろん、宮中での情報工作や全土から届く情報の全てを合わせれば膨大な量になる。その全てが賈駆に届く。一日のほとんどをそれらの精査に費やしてしまう。

 昨日の夕飯に食べきれずに残した饅頭を蒸しなおして、昼食の代わりにつまみながらさらに夕方まで粘った。岩山も付き崩れ、とうとう机の表面が顔を出した。朝とは反対側の格子から今度は夕焼けの明かりが差し込んできている。一日がわけもわからぬ内に終わろうとしている、しかしそれもいつものこと――

 そのとき呼び声がした。賈駆はがばっと顔を上げると玄関に急ぎ向かった。外にはいつも連絡係に使っている見慣れた男が立っており、黙って竹簡を差し出してきた。居間に戻って封を切る。賈駆は溜息をこぼして外出の支度を整えはじめた。

 夕方に会う約束だったが知らせが届いた以上急ぎ向かわねばなるまい、少し早過ぎるくらいだが気にはしないだろう。

 わずかばかりの支度を終えて賈駆は屋敷を後にした。輿や車などもちろんなく、徒歩にて通りを行く。洛陽の繁華街は食材を買い求める者、帰宅を急ぐ者、一杯飲みに行こうとする足取り軽い者などでごった返しており、それら全てが橙色の夕餉の煙に包まれている。

 それほど歩くこともなく目的の屋敷にたどり着くことが出来た。連日、来客で騒がしい李岳の屋敷は今夜も大賑わいだろうが、日の明るいうちはまだ閑散としており隣家とさして変わりはなかった。

「御免」

 (おとな)いにしばらく待つと一人の少女が出てきた。董卓よりも低いのではないか思うほどの小柄な身長で――事実子供なのだろう、歳相応の快活さが節々に表れている――浅葱色の髪が元気よく揺れていた。目深に被った帽子の奥で、こちらを訝しげに覗いている。

「どちらさまですか?」

 こんな娘がいただろうか、最近雇った女中とか侍女だろうか。そんなことをぼんやりと考えながら賈駆は答えた。

「賈文和。主人の李信達殿とは約束していたはず」

「おおー! 冬至殿から仰せつかっておりますぞ!」

 少女はきびすを返すとズンズンと威勢よく歩いて屋敷の奥へ案内した。賈駆はその後に付き従いながら目の前の少女は一体何者だろうと考えた。真名を交わし合っているということは、家族か心を分け合った臣下か。どうも気に留めてしまうような存在感があった。

 しばらく行くと向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。李岳ではない、はるかに高い身長で不穏な威圧感がある。頬にうっすらと切り傷が癒えたような痣がある。男は傷痕の剣呑さに似合わない柔和な表情を浮かべて愛想よくお辞儀をした。

「廖化殿! もう行かれるのでありますか?」

「急ぐんでね。じゃあな、陳宮の嬢ちゃん――あいや御免」

「いえ」

 男は振り返らずに外の戸に歩いていった。伊達に涼州の懐刀とは言われていない、賈駆は通り過ぎていった男から漏れ出すただならぬ雰囲気を見過ごすことなく感じとっていた。

 陳宮という名の少女にそのまま奥の間まで通された。李岳は椅子に腰を下ろして山ほどの竹簡に埋もれていたが、その光景が他人事のようにようには思えず、不覚にも賈駆は苦笑いを浮かべてしまった。賈駆の存在に気づいた李岳は、おっ、と少し驚いたような顔をして礼を取った。

「いらっしゃいませ。お早いお着きで――散らかってましてお恥ずかしい」

「……どうも」

 賈駆はわずかだけ頭を下げると勧められた椅子に腰を下ろした。

「それでは冬至殿、ねねはこれで失礼しますぞ」

「ありがとう」

「張々と中庭にいるのです!」

 駆け足で去っていく少女を困ったように見送ってから、李岳は頭をかいては弁解するようにいった。

「落ち着きがなくて」

「元気なのはいいことかと……ご親戚とか」

「ううううん」

 やはり困ったように苦笑して、そのようなものです、と李岳は言葉を濁した。

「身寄りがない少女で、飢えているところに出くわしてしまったんですよ。見捨てるには偲びなく」

「……そう」

 李岳の善意が賈駆の虫の居所を悪くする。非の打ち所が無い善行だからこそ、どこか胡散臭く打算的なものを感じさせた。この男が行うことには全て意味がある、あるいは裏がある、そうでなくても含みがある――ここ数カ月の付き合いでしかないが、賈駆は巷で飛将軍ともてはやされているこの男の底意地の悪さを嫌という程思い知っていた。全てを見透かしたような態度に年に似合わぬ落ち着き。知れば知るほど賈駆はこの李岳という男が好きになれなかった。

「先ほど大柄な男性とすれ違ったけれど」

「……并州晋陽に居を構える商人で、永という家がありますが、そこの下の方です」

「この洛陽ではなく晋陽の商人とやり取りだなんて、一体何のために?」

「私には用はありませんよ。あちらからいらしたのです。知らぬ仲ではないですからね……ま、伝手を作って洛陽を経ての商売にありつけたらいいな、ということでしょうか」

「……フン」

 もっともらしい言葉を口にしてはいるがどこまで信用できるか知れたものではなかった。

「そうね、確かに晋陽から人が来てもおかしくないわね。色々と有名になりつつあるもの」

「これは手厳しい。実は最近、私は人を使って自分の評価というものを調べてみたんですが」

「自虐的な趣味ね」

 賈駆の厭味は通じなかったようだ。李岳は嬉しそうに何度か頷いては調査結果を話し始めた。 

「気前のいいやつ、調子のいいやつ、腕は立っても怖くないやつ、兵はあっても使い道のしらないやつ、野心はあっても政治的判断ができないやつ」

 ひどい評価だ、と賈駆は思った。手を変え品を変えながら『馬鹿』と罵っているようなものである。

 だが確かにその評価は的を射ているとも言える。毎夜宴会を飽きずに開いては酒肉を遊び、人からの褒め言葉にはこれ以上嬉しいことはないと手を叩いて喜び、匈奴の王を討ち取った武芸の技は確かと言えども覇気は見えず、この洛陽において最大規模の軍勢に影響を及ぼすことができるというのにそれを有効活用できず、丁原の後釜を狙っていると誰からも見え透いているのに効果的に動きまわることができていない。

 涼州の董卓、并州の丁原。その狭間で宙ぶらりんとなっている李岳という男に対する評価は、その功績に全くそぐわない散々なものだった――賈駆とてもう少し距離を置いていたならばそういう風に思ったに違いない。

 賈駆は不愉快極まりないとして眉根を寄せた。それら不当な評価の全てが想定していた通りなのだと、口には出さずとも、我が意を得たりと微笑んでいる李岳の顔を見れば十二分に知れた。

「毒にも薬にもならない、というやつです。李岳という男はよほどの間抜けのようですね」

「……そうね。半年前に企んだ通り、というわけかしら」

「嫌だなあ、ちょっとは慰めてくださいよ!」

 何がそんなに嬉しいのか、李岳は上機嫌に笑っては立ち上がり、自ら茶をいれ始めた。室内を温めている小さな炉から薬缶を取り出すと葉に落として蒸らす。いい香りが賈駆の鼻をくすぐった。

「毒にも薬にもならないようなやつがまた新たに功を挙げて改めて出世したとする……これは美味しい。皆の私を見る目はがらりと変わるでしょう。物珍しい英雄の子孫から利用価値のある新進気鋭の将軍に位上げです。それに今のうちに評判を落としておけば警戒も薄まる。宮中付近を出入りすることになったとしても弊害は少ないはずです」

「敵の目をそらすための逼塞とやらはもう終わり、ということかしら」

 さて、と李岳は相槌を打ってから賈駆に茶を出した。賈駆はなぜかそれに口を付ける気にならず、ただ掌を温めるだけのものだとでも言うように手にもったまま微動だにしない。

「時機が近づいています。待ちに待った時機が……時は風雲急を告げるでしょう。その前に本当の敵を炙り出す。これからはもう少し目立った方がいいんですよ……涼州と并州を結びつけて洛陽にて名を挙げ始めた男……ようやく執金吾の位に手が届く」

 李岳は腰を下ろそうとはせずに立ったまま茶をすすった。その視線は壁にかけられた河北の地図に注がれていた。顔に浮かべていた薄っぺらい笑いをとうとう引っ込めた。その顔には噂される軽薄な男の顔はどこにもなかった。覚悟を決め、計画を立て、遂行する。強い意志を持った者にのみ宿すことが可能な力で漲っていた。

 執金吾――丁原が保有していた武力のほとんどを継承したのは眼前の李岳だ。執金吾といえば相当な高官だが、だからこそよくわからない者をおいそれと就けるわけにはいかない。昇進するとしたらその後任というのが最も手堅い位階と言える。丁原の兵を掌握したままでいる李岳が今更執金吾に指名された所で実質に名目が追いついたということでしかない、と考える者もいるだろう。

 全ては半年前、李岳が申し述べたとおりになっている。

 だが未だに一つだけ、賈駆の理解が及ばないことがあった。

「新たな功って、一体何するつもりなのよ」

 功績を挙げる。それを口にして容易くなるのであればこれほどお気楽なものはない。立身出世は多くの者の生き甲斐であり夢でもある。金、時間、命――人生の多くの物を賭けたところで郎や令にすらなれないものもいるのだ。敵を炙り出すためには昇進する、大いに結構! だがその昇進こそが肝であり、敵を打ち破るか乱を鎮めるか、そのような大功を立てなければただの画餅でしかない。

「それはまだ……秘密ということにさせてください。八割方は上手く行きそうです」

「残りの二割は?」

「わかりません」

「わからない?」

「そう、わかりません。万全の態勢を整えても意外な所でほころびが出る。それは徹底的に勉強しましたよ、并州の鴈門で」

「よくわからないけれど」

 油断はしない、という程度の意味として賈駆は受け取った。李岳の横顔は賈駆の推測を許さない程に複雑な色を帯びていた。

 とにかく李岳の言葉に賈駆は納得したように頷き、袋から一本の竹簡を取り出しては卓上に広げた。代金は既に受け取っている、あとは商品を引き渡すだけだ。

 竹簡には現在獄中にある丁原への特赦が記されていた。ここ数カ月、高官、宦官、端役の役人に至るまで洛陽の伝手という伝手を駆使し続けた結果である。誇りと自信を持って賈駆は――自慢し見せびらかすような気持ちで――いささか胸を張って李岳を見た。感謝と賞賛が浴びせられると確信して……だがすぐに自らの他愛ない浅ましさを賈駆は恥じることとなった。

 李岳の瞳は赤く腫れぼったくなっていた、まるで涙をこらえているかのように。微動だにしない全身、だが長いまつ毛だけがかすかに震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――二人の出会いは夏にまで遡る。

 

 うだるような暑い日、董卓と二人で郊外の小川に涼をとりに来ていた。涼州は暑いが乾いており苦は少ない。だが洛陽は人が多く蒸し、不快さは倍では利かなかった。人が見えなくなる外れまできてようやく一息を付くことが出来た。二人は素足になって小川に足をひたしてのんびりと午後のいっときを過ごしていた。

「気持ちいいわね、月」

「うん、詠ちゃん」

 体が丈夫とは言えない董卓、朝には夏のつらさにうんざりしたような蒼白な表情をしていたが、今は血色も戻り笑顔を浮かべていた。

 こういう時間が一番心地よい。いつまでも続けばよいと思う――

 押しも押されぬ破虜将軍の官位を借り受けた後、中央に招聘され、その武威とどまる所を知らぬとばかりに唸りを上げる。だが力を付ければ付けるほど、何かの引力に雁字搦めにされていくおぞましい感触から賈駆は抜け出すことが出来ずにいた。

 陰謀と暗闘においては百戦錬磨の宦官や宮中の高官に良いように左右される予感をひしひしと覚えていた。懸命に情報を集め己の才覚の全てを賭す日々であったが、おぞましい未来への予感が脳裏について離れず暗澹たる気持ちになった。

「本当、気持ちいいわね……」

 賈駆は笑った。鬱屈や閉塞感を董卓の前で見せるわけにはいかない。日の光を浴びて眼鏡が眩く反射する。光の中で董卓も笑っていた。こんな時間がいつまでも――

 そのとき、目立たないように二人の護衛についていたはずの華雄が姿を現し静寂を終わらせた。

「失礼、何者かがこちらへやってきております。およそ三騎」

「誰?」

「わからないが……先頭の者は見事な黒い馬に乗っている」

 華雄は大斧を構えながら馬を引き寄せた。熱くなり過ぎる猪武者のきらいがあるが、その武勇はどこに出しても恥ずかしくない見事なもので、天下の英雄と並んでも遜色ない。その膂力でもって繰り出される大斧の一撃は何人もの敵兵を一度で薙ぎ払うことが出来る。

 馬蹄の音はやがてはっきりと聞こえる程に大きくなってきた。郊外である。偶然誰かがやってくることなどあるだろうか。そのまま通り過ぎるのならば偶然だろうが――だが馬蹄の音はやがて小さく大人しくなり、静まった。緊張が高まる。やって来た者たちはこちらが……いや董卓が目当てなのだ。

「華雄、あやしいものであれば斬りなさい」

 華雄が瞳をぎらつかせて頷いた。並みの使い手ならば三対一でも華雄の勝利は揺るがないだろうが、手練がいるのならばわからない。賈駆は自分たちが乗ってきた馬にいつでも飛び乗れるように備えた。

 間もなく三人組は茂みを一つ隔てた先まで近づいてきた。姿は見えないが気配ははっきりとわかる。賈駆はおや、と思った。自分にさえ気配を悟ることができるのであれば、あるいは――賈駆ははっきりとした声で誰何した。

「誰か」

 返事はすぐさま戻ってきた。

「失礼仕ります。我が姓名は李岳、字は信達。涼州の董仲穎様に一度お目通り願いたいと無礼を承知しながら馳せ参じました」

 

 ――李岳。

 

 ほんの少し前のこと、黄巾の乱に苦しむ漢への援護を装って匈奴が攻め寄せてきた。それを土壇場で防いだのが当時并州刺史だった丁原である。彼女は執金吾に昇進することが決まっていたが、陰謀を察知したがためにそれを拒んで迎撃に乗りでた。その英断の甲斐あり長城以南の土地は荒らされずに済んだのであるが、その功績を疎まれたかのように丁原は逮捕、投獄された。罪状は勅命に背いた罪。極刑もありえた。

 不可思議な処置だ、そう思うときには必ず誰かの思惑が働いていることを賈駆は十分に学んでいた。不審に思ってすぐ配下の細作を全て動員して調査に乗り出した。激しい情報戦の果てに得た真相は、賈駆の耳を疑わせるに十分だった――匈奴が兵を興したのは洛陽内部の何者かの思惑が働いたから、であるという。

 元来武人肌で政治的野心がなく陰謀には無縁、命令には忠実で戦には強い。そのような為人を持った丁原は都合のいい駒であるはずだった。匈奴の侵入を助けるために并州の守りから引き剥がし洛陽の守護を司る執金吾に就任させる。匈奴はやすやすと長城を突破し河北を席巻するだろう。

 丁原の役割は皇帝を中心とした貴族や高官の命を守り通すことにあったのだろう、まさか彼女が詔勅に叛くとは誰も思わなかったに違いない。

 だが陰謀に気づいたがために丁原は勅令を無視して匈奴に立ち向かい、見事その野望を阻止した。計画を企んだものは怒り心頭であったろう、その多大な功績に本来なら恩賞でもって報いなければならないはずが罰でもって獄に落としてしまった。

 軍は規律を以って成る。如何に功績が大なれど独断専行の果てに得たものであるならば価値はない、ましてや勅命に逆らっての出撃――死罪もありえるのではないか。賈駆自身そう考えていた。

 その丁原の部下であり、陰謀を看破した立役者の名が李岳という男だった。嘘か真か、飛将軍李広の子孫であると名乗っており、匈奴戦において敵の総大将である右賢王於扶羅を討ち取り名を上げた。洛陽において彼の名は一時英雄の登場だともてはやされ位の上下に関わらず様々な噂話が飛び交った。そのどれもが英雄絵巻のように華々しいもので、暗い評判は未だ耳にしておらず、また丁原失脚後誰かに抱きこまれたという話も聞かない。

 賈駆は董卓に振り向き一度小さく頷いた。董卓は全てを任せるという風に頷き返す。

「参られよ」

「はっ」

 茂みをかきわけて三人の人影が現れた。先頭にいる男が李岳だろう。見上げる程の大男という話も聞いたことがあったがやはり根も葉もなかったようだ。小柄な方と言っていいだろう。付き添っている内の一人は知らないが、もう一人はよく見知った顔であった。

「久しぶりやなあ、月ちん。賈駆っちもおひさ!」

 現れたのが張遼ということでほっとしたのだろう董卓ははにかんでは手を振っている。

「張遼……久しぶりね」

「せやな、うちが涼州に援軍に行って以来やな」

 嫌なことを言う、と内心賈駆は舌打ちした。

 確かに丁原と張遼には借りがある。先だって起こった涼州の乱においては無償で援軍を受けている。張遼も武功を上げて勝利に貢献した。ただほど高いものはない、とはこのことだろうと賈駆は気が滅入った。

 賈駆は李岳に向き直って言った。

「飛将軍殿、董卓様は避暑に参られている。無礼であろう」

「平にご容赦を。此度は内密のお願いがあり、人目につかぬよう忍び参った次第にて」

 やはり厄介ごとである。賈駆は露骨に顔をしかめた。

「……用向きを話されよ」

 董卓と賈駆を前にして李岳は居住まいを正すと滔々と話し始めた。

 丁原は救国の英雄であるというのに朝廷は些細な咎を根拠に罰でもって報いようとしている。そのようなことが罷り通れば全土で体を張って反乱を食い止めている英雄たちは背を向けるだろう。大義はどちらにあるか明らかである。また丁原は先の『涼州の乱』において配下の張遼に兵を預けて董卓の助力にならんと派遣した。それを忘れて丁原の不幸を無視しようものなら、天網恢々疎にして漏らさず、その不義は必ず見咎められるであろう、と。

 李岳の言葉には頷くところが多く、賈駆も始めは否やはなかった。しかし、二つ返事に承諾しようとした董卓の口を塞いだのは、天啓が賈駆の頭脳を打ったからに他ならなかった。賈駆の唇は震えを帯びていたが吐き出された声は雷光のような閃きの元、確信に満ち満ちた力強さをたたえていた。

 

 ――万事の責、罪科(つみとが)はこの賈駆が背負おう。乾坤一擲の覚悟の策謀、我が身命を賭すに足ると賈駆は信じた。

 

「貴方が董卓軍の傘下に加わるのであれば、丁原の命は助けてあげるわ」

 その声は真夏の只中、小川から流れ込む爽やかな涼風に乗って人と人との間でくるくるとつむじを描いた。誰一人微動だにしない。額に浮かんだ大粒の汗が顎から滴り、固く握り結んだ自らのこぶしを濡らしたことにさえ賈駆は気づかなかった。

「――詠ちゃん!」

「月は黙ってて」

 不義理に非難の声を上げた董卓を手で制して賈駆は李岳に相対した。李岳は顔色ひとつ変えない。直立不動のまま無表情にこちらを見ている。対匈奴軍事行動における正当性、逮捕理由の不当さ、国家の重鎮である董卓のなすべきこと、以前『涼州の乱』において受けた義理――董卓が丁原の危難を救い出すべき動機を並べ立てたときのまま李岳の顔色は変わらない。

 だからその代わりに私が怒るのだ、そう言わんばかりに激したのは側に控えていた張遼だった。

「おい、ちょ待てや! それどういう意味や賈駆!」

「言葉の通りよ張遼殿。并州兵全軍の指揮権を明け渡すことが条件」

「そんなん通るか!」

「この世界は甘くないのよ……貴方に借りはあるわ、それを返さないとは言わない。本当なら耳も貸さずに追い返しているところよ……本音を言うなら丁建陽殿には同情してるし助かってほしいとも思う。けどそのために危ない橋を月に渡らせるわけには行かないの。本当にボクたちの力を借りたいのなら、その危険に見合った対価を要求することは当然よ」

「そのために兵二万をただで手に入れようってか」

「ボクは月を守る。そのために手段は問わないわ!」

 堪忍袋の尾が切れたと張遼は一歩詰め寄った。見知った顔に言われるからこそ激昂する言葉もある――だが張遼の歩みをそれまで黙って聞いていた華雄が体を分け入って遮った。 

「オイ、そこどかんか三下」

「どちらが三下かわからせてやってもいいぞ」

「猪武者が!」

 戦斧を振りかざした華雄に大して張遼も大刀の柄に手をやった。一触即発の空気が郊外の避暑の雰囲気を一気に緊張させたが――

「――控えろ」

 李岳の言葉は夏の暑さを吹き飛ばすほどの冷たさで居並ぶ人々の耳元を撫でた。怒気は静けさにこそ潜むことがある。張遼は李岳が本気で怒っていると悟るとしぶしぶ引き下がり、それを見て華雄も斧を下げた。

「どうやって丁原様を解放するつもりですか」

「大将軍何進様に言上申し上げる。大きな貸しもあるわ、きっと聞いてくださる」

「いつ」

「来年には」

「だめだ、年内……いや半年で」

 賈駆は様々な手配や根回しの段取りを頭に描いたが、年内になら十分に間に合う。年をまたぐというのは水増しした見積もりに過ぎない。

「いいわ」

「具体的にはいかがせよと」

「并州兵に対する指揮権の放棄、徴兵をはじめとした軍権の委譲、并州に関する情報提示と協力」

「并州牧の内示はただの噂話というわけではないということですね」

「……そちらこそ、まるっきり馬鹿というわけではないのね」

 并州牧の内示は三日前に下されたばかりで、この洛陽でも一握りのものしか知ってはいないだろう。そこそこの情報網は持っているということだ。

 州を管轄していた位は元は刺史であった。だが益州を支配する劉焉の言上により朝廷がより軍権を強大化した牧の地位を復活させたのがついこの前の話である。その第一波として董卓は戦乱を巻き起こしかねなかった并州の防備を頂戴することになった。

 強兵の産地である并州が手に入ればこの洛陽においても発言力は強まる。加えて統率までも両得できたのならその利得は計り知れない。当然涼州兵の軍権も手放すつもりはない。中央に地盤のない董卓と賈駆にとって兵力こそが最初で最後の頼みの綱なのである。

 吹っかけているということは自覚していたので非難めいた罵倒、あるいは譲歩を求める交渉が来るかと思ったが、李岳はそのどちらも口には出さず顎に手を当て思案している。その姿に拒絶の様子はない。

「まず、一つ聞いておきたいことがあります」

「なに?」

「丁原様の投獄を最も声高に叫んだのは誰でしょう?」

「……段珪と畢嵐」

 

 ――十常侍。

 天下を牛耳る宦官の頂点であり、董卓を取り立てて利用しようとしている者たちでもある。その支配力は圧倒的であり影響力の(くびき)から脱することは容易ではない。

 

 段珪と畢嵐。国家を専横し大漢の斜陽を招いた元凶とも言える宦官の二人。その名を聞いて李岳の目が猛禽のごとく細まるのを賈駆は見落とさなかった。李岳はやがて目を閉じて考えに没頭し始めた。長い時ではなかったと思う。百を数えはしないだろう。だが一刻もそうしていたのではないかと思うほど、時間はもどかしいまでに緩やかに過ぎた――再び李岳が目を開いたとき、そこには決断の色がはっきりと浮かんでいた。

「指揮権は渡す、軍権もいいでしょう。ただそのまま素直に董卓様の指揮に服することはまずい。私はあくまで丁原様の幕僚で正式な官位を授かっているわけではないのです――大将軍に通すだけではなく声高に丁原様を擁護してください。それで董卓様に追随する不自然さが消える」

「……わかったわ」

「あと官位も頂きたい。執金吾の位をみすみす誰かに明け渡すのもつまらない。こちらとしても禁軍の兵力をいくらかでも保持しておかないとつらいのです」

「執金吾は無理よ、丁建陽殿は解任されたわけではないのよ」

「執金吾はいずれ自力で取ります」

「自力ですって?」

 人のことは言えないが、唖然とするほどの傲岸さだった。

「まあ、そのあたりはおいおい。とにかく今は次席でよいのです。何とか宮中に近い場所に任官したい。董卓様のお声ならなんとでもなるでしょう」

「近いといっても……かなり中途半端な地位でしかないわよ。役に立つの?」

「妬みも少ないでしょう。それに動きやすい。適当な名前の校尉を。あまり目立ちすぎないもので」

「用意するわ」

 賈駆の怪訝な様子に気づいたのだろう、李岳は何か不審なところでも、と聞いてきた。賈駆は束の間迷った後に正直に言った。

「なぜそんなにも協力的なの、もっと怒るかと」

 背後に控えていた張遼やもう一人の武将でさえも賈駆と同じ気持ちだったのだろう、華雄と合わせて三つの頭がうんうんと頷いている。

「別に、どうでもよいのです。目的を成す為に手放すべき物を手放す時期がきた。それだけでしょう。并州刺史ももう解任されて実権はない。こだわったところで立ち位置が不味くなるだけ、手放す方が利口です……それに、丁原様の命には代えられない。力や権力などいくらでも手放しましょう」

「……そう」

 不意に賈駆に李岳の心が理解できた。企みも狙いもあるだろうが、根底には丁原に対する忠誠があるのだ。ただ助けたいだけ――賈駆は自らの身を李岳に置き換えて考えてみた。きっとあらゆる手段を使い、この身が朽ち果ててでも董卓を助けるだろう。

 男は苦手だ、いい思い出などない。けれど李岳に対してはその類の嫌悪感はわずかに薄まったような気がした。

「賈駆殿、兵力の移譲は即刻行えるように手配します。并州の都、晋陽に張楊殿という方がいて内政を一手に任されています。彼が万事手伝ってくれるでしょう、竹簡一つで徴兵も調えてくれるはずです」

「至れり尽くせりね」

「ただ、しくじれば困ったことになりますので、ご理解ください」

 困ったこと……誰にとって困ったことなのか、李岳はあえて明言しなかった。李岳にとってなのか、丁原にとってなのか、賈駆にとってなのか――董卓にとってなのか。

 嫌な言い回しをする、言葉の節一つ一つにいやらしさが宿っている――やはりこの男は嫌いだ!

 賈駆は一語一語はっきりと区切って答えた。

「約束は果たすわ」

 言質は取った、そう言うかのようなお辞儀を見せて李岳は振り返って去っていった。一顧だにしない。覚悟、という言葉を賈駆は胸のうちで幾度か呟いた。覚悟が必要だ、引くに引けない取引をした。洛陽における最大勢力を得る。たった一人の武将の解放の対価としては破格だろう。

 振り返った先、董卓の表情はすでに蒼白なものになっている。野望を剥き出しにした己を見て幻滅しているのかもしれない。それでもいい、と思った。先ほど口にした通りだ。手段など問わない。

 賈駆は黙って歩みを進めて小川で顔を洗った。手には滴る程の汗が滲んでいた――




※本来の字では【邸】の左のみ。機種依存文字のため当て字です。


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第二十七話 張貘

 午前中は夏侯惇の指揮する調練を見学した。

 巷の賊であれば倍する相手であっても決して遅れを取ることのない強さはあるが、敵が賊とは限らない時代がすぐそこまでやってきていることを曹操はひしひしと感じとっていた。ある地域を支配している諸侯、群雄らが率いる軍隊――統率が取れ武装も充実している正規軍と干戈を交えることになるのはそう遠くない。であるのなら、今以上の精強さを曹操は欲した。夏侯惇は主の意を汲んだように懸命に兵を鍛え上げようとしている。

 夏侯淵は(エン)州に残してきた。陳留郡の治安と内政を任せるには他に適任がいない。まだまだ人材が足りない、と(ほぞ)を噛む思いではある。夏侯惇の訓練は野営の支度までが含まれていて、兵たちは息も絶え絶えに走りまわされた後に天幕を張り飯炊きをしなければならない。昼食時くらい総大将の監視から外れてもよいだろう、と思って曹操は洛陽場内に馬首を巡らせた。治安はよい、十騎ほどの供だけを連れて自らが起居する屋敷へと戻った。

「……で、どうして貴方たちがいるのよ」

 いるはずのない先客に自室で迎えられて、曹操はこめかみを揉んだ。

「あらっ! もうちょっと素直に喜んでもよろしくてよ! せっかくこの袁本初がわざわざ……わぁざわざ! こんな手狭で窮屈でちんちくりんなお家にやってきて上げたのですから!」

 おほほほ! と頭痛を覚えるような笑いを上げるのは袁紹である。黄金色の豊かな巻き髪、たわわな胸がその度に揺れるのに曹操はうんざりした。

 

 ――四世に渡って中華の統治機構の頂点である三公を排出した名門袁家。その頭領として堂々たるは姓は袁、名は紹。字は本初。河北随一の豊かさを誇る冀州を盤石の態勢で付き従え、さらに北方四州に存分に影響力を及ぼし始めている大勢力の頭目である。その名と勢力に心酔し、集う名門、俊才、勇者は数知れないともっぱらの噂であった。

 

 とうの本人に未熟な点も多く、だが同時にそれは伸びしろがあるとも表現できる。決して侮ることが出来る相手ではないが、現状、誇り高さだけ頭領の格に見合っている、と曹操は思っていた。

「勝手にやってきた上に勝手にお茶まで飲んでるくせに、ずいぶんな言い草ね本当……そして京香。貴女まで一緒だなんて」

 もう一人の来客に向かうと、曹操は溜息をはいた。

「まぁ、そう怒らないでよ華琳」

「なら、元から怒らせるような真似をしないで欲しいわ」

「うふふ。お茶がしたくなっちゃって、私が麗羽を誘ったの。ごめんなさい」

 ぺろりと舌を出して謝ってはいるが、悪びれた様子などない。だというのに憎めず、むしろかすかなときめきを覚える程の愛嬌が彼女にはあった。

 目の上で切り揃え、腰まで伸ばした黒い髪。少しだけ垂れ下がった瞳は優しさと思慮深さをたたえ、白地に黒の着物を身にまとっている。一見地味だが絹の一本一本にまで意匠が尽くされた贅を凝らした一品である。その見事な調和たるや天下の大都市・洛陽においてでさえ比するものが見つからない。慎ましき美、たおやかな智、清冽な気、誰もが恋に落ちてしまう愛らしさ――『漢の八俊』と謳われる名士の一角であり、騎都尉として曹操と共に洛陽を守護した同僚でもあった。

 

 ――姓は張。名は貘(バク)。字は孟卓。真名の京香は友である曹操と袁紹を含め、未だ五指の者にしか許してはいない。※

 

「京香さん、そんなちんちくりんに申し訳なさそうにせずとも良いのですよ!」

「あら」

「むしろわたくしたちを(もてな)す栄誉を光栄に思うべきなのですわ!」

 袁紹はフンと曹操に向かって鼻を鳴らした。袁紹は度々こうして曹操を小ばかにしたような態度に出るが、それは曹操が宦官の家系であるということを卑しいものとして見下しているからだった。

 曹操は常なら相手にしないが、虫の居所が悪い時などは我慢の限界に至ることもある。今日は大人しい方ではない。はっきりとした怒りが胸のうちでとぐろを巻くのを感じたが――

「――私、そういうこと言う人好きじゃないわ」

 にこりと、小首を傾げて張貘は微笑んだ。袁紹の顔から笑みが消えて怯えたような表情になる。笑いながら怒る者ほど恐ろしい者はない。張貘はその類の人間だった。

 貧しい者には躊躇うことなく施し、不正には断固として便乗しない。清流派と呼ばれる新進気鋭の名士の中でも殊に見事な魂魄の持ち主であると囁かれる張貘だが、その怒りが人並み以上に冷酷なることを知るものは少ない。誰もが口ごもるからである。

 もごもごと袁紹が言い訳をこぼしているが、張貘はお茶を口にしながら嫌な間を置いている。

「わ、私は別に京香さんに言ったわけじゃないんですのよ?」

「あら、とっても美味しいお茶ね。華琳、これはどちらのかしら?」

「江陵よ」

「素敵」

「きょ、京香さん!」

 まるで袁紹をいない者のように扱い始めた張貘に向かって、とうとう袁紹は涙目になっていた。やれやれ、と張貘は袁紹の手のひらをそっと握ると、羽衣のように滑らかな髪さらりと流しながら言った。

「麗羽、私と貴女は友達よね」

「もちろんですわ!」

「私は友達が好き。私の大切な親友である貴女が侮辱されたら何をもってしても相手を滅ぼすわ」

 滅ぼす、という単語の価値を下げないままこんなに気軽に使う者がいるだろうか。張貘は嘘はつかない。やるといったらやる。物腰柔らかく静かで、深窓の令嬢という風な見た目ではあっても、その性は時として峻烈であった。

「私だって、貴女が誰かに馬鹿にされたら許しませんわ!」

「ありがとう……嬉しいわ」

「京香さん……」

「けどね、麗羽。私は華琳とも友達なの」

 張貘の手は左手を伸ばして曹操の手を握った。どきりとするような冷たい手であった。長くか細い指……その爪の感触が自らの心に食い込んでくるような錯覚を曹操は覚えた。

「麗羽。私は貴女が好き。そして華琳のことも大好き。私たちは友達。ずっとなかよしの三人組。そうよね?」

 張貘の手が動き、曹操の手と袁紹の手を導いて合わせた。普段決して触れ合うことのない手が触れ合い、それを張獏の手が包み込む。

 妙な気分だ、と曹操は思った。袁紹も同感だろう。二人は毛嫌いしあっており、犬猿の仲とも言えたが、こうして張貘の手に包まれれば嫌悪感が薄まり、しっくりと落ち着いた心持ちになる。

 袁紹はやがていつもの哄笑を響かせた後、意を決したように言った。

「……ふん! 大・親・友の京香さんに免じて今日のところはこの袁本初が自らの未熟さを認めて引き下がってあげるのもやぶさかではありませんわね!」

「素直にごめんなさいって言いなさいよ」

「含意を読み取りなさい、含意を!」

「うふふ――なかよしね、本当に」

 誰がこんなやつと! いつものようにきっと袁紹もそう思っていることを曹操は察した。だが全てを包み込むかのような張貘の笑顔が意地のぶつかり合いをぼやけた、よくわからないものに変えてしまう。

(京香……貴女が私の覇道を助けてくれるのなら、こんなにも心強いことはないというのに……そして……)

 臣下として仕えてほしいという想い。同時に、彼女の存在すべてを我が物としたい――自らの内にある強い、抗いがたい程強い欲求を、しかし曹操は未だに告げる事が出来ずにいた。悶々とした思いを何とか御してこらえながら、曹操は席について自らの分の茶を口にした。

 元より曹操に用があったのだろう、袁紹が口火を切って西園軍の閲兵式について切り出し始めた。皇帝直卒の軍勢、その部隊の指揮を預かることになるのだ。名門の頭領として張り切るところがあるに違いない。袁紹の質問や提案はいつになく真剣で熱を帯びたものだった。その話をしたいがために袁紹は張貘を誘ったのだ、と曹操は勘付いた。つまらない意地のために張貘が誘ったと言わせて、あるいは張貘自らがそう言い出したのか。

 

 ――閲兵式。

 総勢二万あまりゆえ一校尉あたりおよそ二千の兵を統率することになる。宮城前の広場を練り歩き洛陽の街を行進する。戦闘ばかりではなく、そういった儀礼の訓練も十分に積ませているので曹操に不安はなかったが、袁紹は武具の映えや装飾の揃いにしか考えが及ばぬらしく、やれ金色の武者備え、やれ流行りの色のひたひれで、などとばかり言っている。少しは行軍の訓練もしなくてはもしもの時に名門としての立つ瀬がない、と張貘に諭されてようやく

「盲点を突かれましたわ!」

「そういう考え方もありますわね!」

 などと精一杯の譲歩でもって考えを改めていた。

 打ち合わせが一段落すると、そういえば、と前置きしてから張貘が言った。

「丁建陽殿に特赦が下りるようね」

「特赦? なんですのそれは」

 丁原の現在の状況について説明しようとすると、袁紹はふてくされたようにぷいっと顔を背けた。

「そんなことはとっくのとうに先刻承知してますわ! あまり侮らないでくださいまし! わたくしが言いたいのはどうして今頃になって特赦が出るのか、ということですわ」

 なるほど、袁本初といえども世情には(さと)いか、と考えた時、ふと意表を突かれたような気になった。

 丁原の釈放は曹操とて何日も前にすでに耳にしている。特に気にはしていなかったが、言われてみればおかしな話だった。半年間獄中にいた。涼州の董卓がその身柄をあずかり軟禁しているという話だったが、本来ならば打ち首になってもおかしくない。

「何か取引があったのかもしれないわね」

 張貘の言葉に曹操は疑問を呈した。

「まさか董卓が動いたというの? おかしな話ね」

「麗羽は今頃といったけれど、ようやく、という方が正しいのかもしれないわ。ようやく段取りがついた。取引や裏工作は半年間ずっと続いていた……」

「そんなに精一杯頑張る必要がどこにあるというんですの? 丁原さんなんて朝廷からぽぽいのぽい、とされちゃった人じゃありませんの。いまさら自由にしたところで」

 曹操の脳裏に一つの予測が立つ。予測は推理という車に乗り、雷光の如く結論という極地へと至る。

「……待ちなさい。董卓は確か今度并州牧に任じられるはずよね」

「そうですわね」

「并州は長く丁原が治めてきた。そして功を立てたというのに弾劾され投獄された」

 なるほど、と理解したように張貘が言葉を継いだ。

「治められていた民や配下の者たちは面白くないわね。蔑ろにされた、馬鹿にされていると捉えかねないわ」

「そんなところに赴任しなきゃいけないだなんて、董卓さんも可愛そうな人ですわね」

「だから取引したのよ」

 そこまで言うとようやく袁紹も理解したと縦巻きの髪を盛大に揺らせて頷いた。

「丁原釈放に尽力する。そうすれば并州は黙って董卓の言葉につき従う。兵力供出も譲歩したのかもしれないわね」

「華琳の言うとおりね、董卓は涼州の手勢を手放すつもりもないでしょう。そうすればこの洛陽において最大勢力を誇ることになる。丁原の兵力は二万そこそこだったけれど、それはあくまで刺史としてのもの。牧の董卓ならさらなる増派が可能」

 曹操の脳裏に一人の男の名が浮かんだ。董卓に条件を提示でき、丁原のために動く者――考えるまでもない、李岳という男が裏で動いたのだ。

「心当たりがあるのね、華琳」

「十中八九間違いないわ、京香。李岳が動いたのよ」

「李岳? 大昔大将軍にまで上り詰めたあの飛将軍の末裔ですの?」

 名門名家の情報にはやはり詳しいようだ、袁紹は李岳、李岳と何度か呟いた。

「けれど何だかヘラヘラして、そんなキレ者には見えませんでしたわ。丁原さんの手柄も自分独り占めだったじゃありませんの。助けるつもりならすぐに声を上げるんじゃなくて?」

 袁紹と張貘の疑問ももっともだ、と曹操は思った。だが他に回答の選択肢がない場合、どれほど歪で不自然な答えであってもそれが正答なのである。

「丁原と董卓は近かった。『涼州の乱』では并州から援軍が出ていると聞いたわ。その伝手を李岳は使ったのよ。洛陽に来てからも両者は近すぎず遠すぎず距離を保っていたのはそれを悟られまいとしたからね。あんまり距離を置きすぎても、周囲からは不自然に映る」

「李岳さん自身が声を上げないのはなんと説明つけますの?」

「私たちの知らない理由がある、としか今は言えないわね。目立ってはいけない理由、密かに動かなければいけない理由がある――」

 何者かと戦っているのかもしれない、と曹操は思った。宦官か、外戚か、あるいは自分が知りえない何者かと戦っている。二十にもならぬ少年が洛陽にて庇護者を失いながらも校尉としてどの勢力にも組み込まれずに奇妙な空白状態の三角州にいる――あるいはそれは戦慄すべきことなのかもしれない。曹操は李岳の面影を思い浮かべて眉を潜めた。

(……とことん不愉快な男ね)

 やがて張貘が呆れたような声で沈黙を破った。

「あらあら。陰謀論も結構だけれど、董卓の勢力を把握する方が先じゃないかしら。涼州の手勢が三万、并州からおそらく五万。執金吾の軍勢三万も今は李岳の掌中にあると考えていいから、その全てが一個人に帰することになるのよ」

「単独で十万以上になるではありませんか!? そんなの、そんなのずるいですわ!」

「董卓李岳による涼并州連合――考えもしなかったわね」

 陳留に帰らなくては――曹操はかねてより決めていたことを実行に移そうと考えた。今はまだ洛陽に片足を置いているが、その全てを陳留に移そう。

 このまま漢が続くのならば洛陽に居た方がいい。出世や栄達はその方が近いだろう。だがこの曹操、治世がいつまでも続くとは考えておらぬ。乱は続発し宦官の専横は大波の如く、税は上昇し民の不満は潜めど確かに盛り上がる一途である。董卓のような地方豪族がそのような強大な武力を単独で保持する軋轢はいずれ顕著になるだろう。宦官と外戚、豪族と名士――勢力争いは血みどろの様相を呈するはずだ。このまま都に身を置いていればいずれはその消耗戦に巻き込まれることになる。自領に戻って力を蓄え嵐に備えることこそが今は求められている。西園軍の運用とて本格化するにはまだ遠い。今度の閲兵式が済めば直ちに司隷を離れるが賢明だろう。

 

 ――奸雄は乱世においてこそ跳梁する。荒れるがよいわ、と曹操は思った。暴風が荒れ狂えば荒れる程、天高く舞い上がる推進力となるだろう。

 

 董卓の勢力拡大に憤懣やるかたない、と気炎を上げる袁紹。彼女を宥める張貘。考えにふける曹操――議論と意見交換はやがて煮詰まり、飽和した空気に疲れたように曹操は遅い昼食を提案した。冬が本番の気配をのぞかせている。暖かい汁物を作るようにと曹操は厨房に申し渡した。

 やがて揃えられた食卓。一口一口美味しそうに食べながらも搾り出すようにケチを付ける袁紹。張貘はそれをたしなめては曹操の料理人を褒める。

 一廉(ひとかど)の勢力者達が一室に集まり世の行く末を占いながら、昼餉を一緒に取りつつ時に他愛のない話を交わらせる、その空間に曹操はわずかな錯覚を覚えた。現実味に乏しい、何か不思議な時間だった。どこか懐かしいような、心細いような――思えばもう長い付き合いになる、ともに学び、ともに育ったと言える。こんな時があるいはいつまでも続くのかもしれない、いや、そんな惰弱な考え方は……

「嬉しそうね、華琳」

「え?」

「笑っているわよ。ね、友達っていいものでしょう?」

 黒い瞳が曹操の内心を見抜いたかのように細められた。暖かい料理でわずかに火照った頬、白い肌に咲いた赤い花のようだった。

 やれやれ、と曹操は思った。困った親友を持ってしまった。頂点を、覇王を目指す己に対してこんなに簡単に優位に立つ人間がいるだなんて。曹操は恋煩っているかのような胸の高鳴りを、どこか誤魔化すように肩をすくめた。

 

 ――遠くない未来。この可憐な乙女を悲しみの業火の中、自らの手で焼き殺すことになるとは、曹操はまだ知るよしもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 賈駆から便りが届いた。特赦は西園軍の閲兵式において成されるとのことだ。

 とうに陽は落ちて冬らしい早足の夜の帳の中、李岳は燭台の明かりもつけずに竹簡を握りしめたまま座り込んでいた。

 暗闇を見つめていれば何か見えてくるのではないかと思った。だが反対に何かがこちらを見つめているような気にしかならなかった。先の見えない、確信のない戦いに身を投じている。推理と疑念の境目さえ曖昧になり、疑わしき者すべてを殺し尽くすことが出来たならどれほど楽だろう。

(……殺し尽くす? 殺し尽くすか……馬鹿だな。洛陽の毒に俺も冒されたか。落ち着け、焦るな。母さんの釈放はほとんど確かだ。廖化の手下が裏も取っている。間違いない……董卓と賈駆は黒幕じゃあない、自分の保身しか考えていない。だからあんな取引を持ち出してきたんだ。今のところ、俺の敵はあいつらじゃあない……)

 岳は膝を抱えて黙念と思考の海に沈んでいた。考えなければならないことが多すぎるというのに、決断をするにはもどかしいまでに不自由である。

 匈奴を誘引しようとした敵の正体を見破る。そのためにはどうしても段珪と畢嵐の身柄がいるが、このまま事が順調に進めばその機会は訪れるだろう。だが心の中にある不安だけが一向に晴れていかない。それはやはり、母・丁原のことがあるからだった。この不安は丁原が自由の身になるまできっと晴れないに違いない。

 洛陽に来て半年、即日逮捕された丁原を獄中から救い出すためにあらゆる手段を講じてきた。賄賂、取引、勧誘、手引き――しかしそのどれもが問題を孕んでおり、真逆、こちらを釣り上げるための罠なのではないかと思えることもしばしばであった。迂闊に手を出せば丁原ごと引きずり上げられくびり殺されてしまうような凄惨な罠である。そしてその罠は匈奴の反乱を画策した者が裏で糸を引いているに違いないという確信が李岳にはあった。

 駄目で元々、董卓に話を持ち込んだ際に賈駆の提案が全てを決した。案の定兵力を欲してきたが、そのお陰で丁原の当面の身の安全を確保することが出来たし、遠からず釈放することも出来る。些細な譲歩だ、兵力など後でどうとでもなる。

(母さん捕縛の非を声高に非難してもらえたのも大きい。そのお陰で俺に目が向かなかった)

 だが、一番助かったことは、董卓がかなり親身になって丁原の世話を買ってでたことだった。自らの名義で牢獄より出し、軟禁という名目で一つの家を与えてくれた。董卓以外には面会は許されないが物品の持ち込みは武器以外許された。李岳自身、そのことでかなり気が休まった。

(本当に感謝してる。恩は返さないと。だが……かなしいかな、油断は出来ない……なんせあの『董卓』だからな。少女だからどうした。人は変わる。賈駆の智謀も侮れない……自覚のないままに操られている可能性だってあるんだ)

 誰が動いているのか、何が目的なのか、宦官か、武官か、あるいはその他の諸侯か――茫洋とした疑問がここ最近になりようやくある種の形を表し始めている。今はまだその輪郭さえ朧げだが、全容が浮き彫りになる前兆を岳は肌で感じ取っていた。

 はじめは雲を掴むような話であった。もがき苦しんだ半年だった。黒山の賊にわたりをつけ、細作を雇い、賄賂の金は全てそこに注いだ。情報を集めることに躍起になり、本心を隠して笑顔を浮かべることが常態化した。一歩一歩、間違いを踏めばすぐさま奈落の底に転落してしまうような危うい登攀を繰り返し、とうとう雲の間近にまで迫ったのである。

 時が近づいている、全ての者の行く末を決める時が。そして、その時が確実に到来することを李岳だけが知っていた。天下を揺るがす青天の霹靂は激動の時代の到来を告げる早鐘となってこの洛陽を動揺させるだろう。その時こそ動く機。鳴り響く豪雷が全ての光と影を塗り潰す時、この手は敵の喉元に伸びてその姿を暗幕の奥から引きずりだすのだ!

 どれほどそうして考えていたか、やがて心配して恐る恐るやってきた陳宮が、暗闇で一人俯いている李岳を見つけて小言をまくし立てながら明かりを灯すまで、思考に耽溺したままずっと座りこんでいた。

「一体何をしているのですか、冬至殿!」

「……ねね」

「こんな暗がりで膝を抱えて、まるで迷子の仔犬のようではありませんか! ねねにあまり心配をかけさせて欲しくないのです!」

「……うん、ごめん」

「謝って済めば校尉はいらないのです!」

 参ったなあ、と李岳は頭を掻いた。昼行灯で通し、任務においては冷血校尉の異名を持ち、鴈門では於夫羅を討ち取った誉れも高き今飛将軍。脱落者続出の過酷な練兵も笑顔で指示する中塁校尉がこの少女の前では形無しだった。

 

 ――洛陽に来てしばらく、自分を押し殺すかのような日々に耐えかねて李岳は一人黒狐と共に夜営に出たことがある。食料と水だけを持って野の山の中で孤独に浸っていた。

 多くの人に囲まれて我が心を打ち明ける友も少なく、先の見えない暗い戦いに身を投じたがために疲れはてていたのだ。一人になることで得られる癒しもある、李岳は久しぶりに焚き火を熾してこっそり買い揃えた種々の材料でもって、得意の天竺鍋を作っていたのだが――それに釣られて現れたのがこの少女と一匹の犬だった。

 姓は陳。名は宮。字は公台。一緒にいるのは犬の張々。

 瞳をきらめかせながらよだれを垂らし、腹の虫で合唱を奏でる一人と一匹を無視することは李岳には出来なかった。郷里を離れて身寄りもなく、このまま飢えて死ぬかもしれない所に不可思議な匂いが流れてきた。嗅いだことのない香りを不審に思いつつも、それが食べ物の匂いに違いないということだけははっきりと理解でき、誘われるがままに現れたとのこと。

 ひとしきり貪った後に満腹の顔で少女は自らの名を名乗り、借りた恩義は必ず返すと元気よく口上を述べたのだった。このままではどのみち餓死する他ない。李岳は哀れに思って連れて帰ることにしたのだが、内心は複雑な思いでいた。

 陳宮と言えば史実において呂布と同腹一心のごとく運命を共にした参謀である。敗残にまみれたとはいえ世に名を残した軍師の一人――試しにいくつか言葉を交わせばなるほどと思える頭の冴えを見せ、自らの知る陳宮に間違いないと思えた。陳宮も李岳を命の恩人として慕い、二人はやがて真名を交わした。音々音といった。その後、陳宮はいくつかの事柄において李岳のよき相談相手になっている――

 

「もうっ! 聞いておられるのですか、冬至殿!」

 上の空であったことが陳宮の怒りにさらに油を注いだようだった。

「聞いてるよ」

「オウム返しだけで済むなら司空はいらないのです!」

「確かに」

 小言にも全くこたえていない李岳に苛立ちを募らせたのか、ぷんぷんと音が聞こえてきそうなくらいのわかりやすい怒りを表現しながら、陳宮は地団駄を踏んでいる。微笑ましい少女だった。戦乱に巻き込むわけにはいくまい、内政や後暗くない計画の相談以外には携わらせないようにしていた。

 史実通りに事が運んだ場合であっても、きっと呂布とも気があっただろう。なにせどちらも動物が好きだ。意気投合するさまが目に浮かぶようだった。いずれ引きあわせてやりたい。史実においての悲劇も事前に知っていれば回避させる事ができるし、なにより極力『紛れ』を起こさないように振舞ってきた。

 

 ――『紛れ』

 

 この先起こる三つの事件が李岳の企みの根幹を成していた。史実は参考程度にしか当てにならないということを李岳は骨の髄から思い知っている。生半可なことを信じるわけには行かないが、人為の及ばぬ歴史的事実というのもある。それを頼みにすることこそが李岳の計画の根本だった。

 皇帝の死。宦官による何進暗殺。そして袁紹による宦官虐殺の三つがそれである。李岳はそれに賭けた。乾坤一擲の賭けを。

 李岳の読みでは年明け早々か、あるいは春。それまでに出来ることは全て行わなければならない。軍事力のほとんどを董卓に譲り渡したが、正式に認可されている三千の兵力がまだ李岳には残っていた。虎の子の軍勢である。この先しばらくは寡兵で全てを成し遂げなければならない。

 ぷりぷりした怒声の合間を縫うように李岳は言った。

「赫昭はいるかな?」

「……今も一緒に孫子を読んでましたけど」

「呼んでくれるかな」

 陳宮は再び小言を重ねようとしたが、李岳の表情が真剣なものに変わったことを察するとため息を一つ、そしてくるりと背を向けて駆け出していった。二つに結んだ髪の毛が呆れたように揺れ動いている。

 やがてやってきた赫昭に対して李岳は言った。

「緊急出動。機動部隊集合」

 赫昭は顔を強張らせて直立、復唱した。そして全速力で駈け出していく。赫昭が屋敷を飛び出していくのを待って李岳も自室に戻った。具足はいつでも着ることが出来るように控えさせてある。それらを身に纏うと陳宮に留守を頼んで厩へ向かい、李岳は黒狐の背にまたがって兵舎へと走った。到着した頃には既に洛陽城内に駐留することを許された一千の部隊が暗闇の中で整然と並んでいた。

「これは訓練である」

 応、と腹の底から絞り出された声が和する。李岳は無言で宮中に真っ直ぐ伸びる洛陽の大通りを疾駆した。後に一千の騎馬隊が続く。まるで宮城に攻め入るのではないかと思える程の迫力だった――いや、まさに宮中に攻め入るための訓練なのである。袁紹による宦官虐殺に便乗するための、混乱に乗じるための極秘の訓練なのだった。

 やがて西に馬首を巡らせると城門から郊外へ飛び出した。そのまま二刻、隊列を小刻みに入れ替える騎馬隊の訓練を繰り返した。

 騎馬隊は日々当直を入れ替えてはいるが、必ず誰もがこうした緊急出動の訓練を行わせている。遅れる者がたまに出るが、二度の失態で騎馬隊からは除名にした。容赦はない。李岳は機動力を何にも増して重要視しており、部隊訓練を責任持っている赫昭もそこに重点を置いて指揮を執った。

 朝日が上るまで李岳は部隊を引き連れて駆け通した。黒狐が嬉しそうに嘶きを上げて河北の平原を威かせる。黒狐もすっかりこのあたりの風土に馴染んでいる。特に朝靄の中を泳ぐように駆けるのが大のお気に入りのようであった。だが馬上の主の心はいまだ曇ったままで、立ち込める暗雲の濃度に窒息するかのようであった。

 閲兵式は二日後に迫っていた。まずは一つ目の賭けである。仕込みは済んでいる。後は脚本をなぞるだけだ。

 蒼天は見事なまでの快晴であった。




※『貘』は機種依存文字回避のための当て字です。


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第二十八話 閲兵式 その一

 酒と香水、そして淫らな香りが充満した部屋の中で、廖化は呆れたように溜息を吐いた。

「破目、外しすぎでしょう」

 部屋の主は寝床の中からむくりと起き上がると、隣で寝息を立てたままの娘たちにそっと衣をかぶせた。その一部始終を何とか見まいと廖化はわずかにあさっての方を向いている。

「堅いこたぁいいっこなし。久方ぶりの洛陽なんだ。遊べるときに遊んどかなきゃ損ってもんだろう?」

 さんざっぱら飲んだ後、女楼に入っては片っ端から女を買い漁って可愛がるのが張燕のいつもの遊びだった。張燕はいつでもどこでも、春を売って生計を立てる女を買い上げては一晩慰めるように抱く。そして本人が望むのであれば身元を引き受けて黒山へと連れて行くのだ。

 畑を耕し獣を飼い、米を挽いて柿を干す。天下の洛陽で叶わぬ暮らしが盗賊の砦で叶うといってもおよそ誰も信じない。誰もが初めは半信半疑で、またぞろ売り飛ばされるのではないかと戦々恐々する日々がおよそ一月は続くが、やがて慣れれば何も考えずに日々の生活に汗みずくになる。苦労はあっても侮辱はない、人間らしい誇りのある暮らしを過ごすことができる稀有な場所の一つが黒山だった。

 だが今回は仕事をしに洛陽へとやってきている。女を連れて帰ることは出来ないが、その分多目の金を握らせているだろうということを廖化は知っていた。

「さて、じゃあそろそろ打ち込むかい」

 寝ぼけ眼をこすりあげて張燕は立ち上がった。派手な(つむぎ)が翻り裏地の黒が表になる。黒地に赤で燕と書く、天に唾する大盗賊の仕事着がこれだった。

 間借りした『永家』名義の屋敷は広く立派で、晋陽の商人が洛陽で新たな商売を進めるための仮の住まいと聞けば誰も疑問を挟むまいが、その正体は洛陽における諜報、工作などを行う黒山賊の拠点なのだった。

 全ては李岳の手引きによって今夏より整えられた。活動資金は李岳の得た賄賂や扶持であり、常日頃は副頭目の廖化がまとめ上げているのだが、大仕事ということも相まって張燕が直々に陣頭指揮を取ることとなった。階下に下りていくと既に手下が控え揃っていた。洛陽の流行の最先端を取り入れた見事な作りの屋敷ではあるが、そこに集う者たちの素性はまったくそぐわない。

 百戦錬磨の黒山賊、その中でも選りすぐりの手練が五十ばかり出張ってきていた。李岳より持ち込まれた一世一代の大仕事……皆その瞳は爛々と輝き、天下を轟かせる(かぶ)き仕事を今か今かと待ち望んでいた。

 張燕はニヤリと笑って宣言した。

「さぁ行くよ――天子のケツの毛まで盗んでやる」

 下卑た笑いが鬨の声代わりに広がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天は快晴、風もなく! 洛陽の上空は大漢の永劫を寿くかのような蒼天であり、閲兵式に参列したほとんどの者たちが感嘆の溜息で鼻先を白く曇らせた。眼下、居並ぶ西園軍の威容は見事の一語に尽き、天子の御威光未だ衰えずと思わせるには十分な程の豪勢さである。

 今は中軍校尉である袁紹が黄金色の武装に身を包んだ兵を率いて皇帝の眼前を進んでいる。金色に輝く美しい巻き髪だが、その表情は緊張で常になく固くなっており頬には赤みが差していた。漢の頂点でありこの大地の絶対者――劉漢の旗がはためく真下、そこに御座する皇帝の前を進み行くのだ、袁紹の内心には三公を排出し続けてきた名門袁家の領袖に相応しき栄誉にあやかったという誇り高き思いで一杯なのかもしれなかった。

 皇帝は天幕と御簾の奥に控えており顔を誰にも見ることは叶わないが、直視すれば目を焼かれ死んでしまうという龍顔なのである、天子の配慮と皆が皆考えていた。

 岳は宮中の広間を練り歩く西園軍の行軍を最前の特等席で拝観していた。行軍はこのまま洛陽の町中を練り歩くのであるが、辻々ごとで喝采と歓声、声援が飛び交っている。

 始点はここ宮城の大広場。呼び出しと名乗り、決意の奏上を述べた後に天下を守護せよという詔勅を賜るという儀式が行われている。確かに中々の見物であり、あと半日もこうして見続けなければいけないことと、隣に董卓が座っていることを除けば李岳に不満はなかった。

「あ、あの……」

 耐えろ、と思っても顔が引きつってしまう――李岳は自分で自分を褒め殺してしまいたくなるような鉄の意志でもって、何とか笑顔を浮かべて応答した。

「はい、なんでしょう」

「いえ、その……お寒くありませんか? お茶……お淹れしましょうか?」

 

 ――董卓に茶をつがせる!

 

 思わず李岳はのけぞり倒れかけた。暴れだしてしまいそうになる表情筋をねじ伏せることに何とか成功したが、声はわずかに裏返ってしまった。

「お構いなく……」

「そうですか……あ、じゃあ、なにか……お菓子でも」

「本当にお構いなく」

「えと、えと……」

 諸侯からはどのように見えるだろう、あの最近名を上げ始めた飛将軍が天子の雄姿を拝謁するのに女児を側に侍らせる増上慢と映るだろうか、あるいは、董卓と李岳は世間の評判とは真逆に実際のところ後者がより力を持っており董卓の庇護下にいるように見えるのは擬態ではないのか――どちらにしろうんざりするような売名の仕方である。皆が西園軍のお披露目に夢中になってこちらなど見向きもしないことを願う他ない。

(『三国志』一の大悪党が……まさかだよな。何がきても驚くことはないと覚悟していたけど……無理)

 天子を廃し、傀儡を据え、臣従せぬ者は殺し、戯れに殺し、税を上げ、悪銭を蔓延(はびこ)らせ、洛陽を焼き、民を苦しめ天下を狂わせた悪名の権化とも言える董卓――中華の歴史においても有数の暴虐さを発揮した男は、王允の策略に乗せられた呂布の裏切りによって死を迎えるのであるが、史実とは相反した眼前の『董卓』に李岳ははじめ開いた口が塞がらない思いであった。

 丁原は入洛前「董卓は悪いやつではない」と言っていたが、それは嘘や冗談などではなく本当のことなのだったと、李岳は半信半疑であった己を恥じた。

 李岳の素っ気無い態度に俯いてしまった董卓の側には、いつも控えている賈駆の姿はない。賈駆の位階、序列ではこの場への列席を許されることはない。名だたる名士に将軍、新進気鋭の太守や令ばかりが肩を並べており、李岳が出席していることでさえも破格のもてなしと言えるのだ。賈駆は公式の場では董卓の私兵扱いしかされないのである。

 涼州でその名を轟かせ、先の乱でも武名を挙げた豪族の雄である董卓――だが実際に軍権を揮っているのは彼女に付き従う配下の中で智謀の士と名高い賈駆であり、李岳の隣に座る小柄な少女が軍事になど携わることなど生を受けて一度たりともなかったに違いない――李岳は断言できた。

 権力闘争と陰謀渦巻く暗闘の舞台である洛陽において、この少女は賈駆に手を引かれておっかなびっくり歩いて来たのである。政治的洞察力がないとは言わないが、いざという時に物を言う決断力などは到底持ち合わせていそうにない。酒家で給仕をしていてもおかしくないような娘なのである。

(賈駆は今の状況にやきもきしてるだろうな。軍権を手に入れたはいいものの、朝廷での発言力がないからいいように使われかねない。それならいっそ兵力なんかない方がいいんだけど、地方出身の豪族には庇護者がいないという事実が焦らせているのか。董卓への入れ込みようは半端じゃないから……あの二人の関係も史実だけではわからないことだったなあ、本当に『三国志』は参考程度にしておいた方がいいみたいだ)

 戦乱の予感が賈駆の選択を導いたのだろう、と岳は考えた。涼州へ戻ったところで豪族として担ぎ上げられることに変わりはない。馬一族や韓遂による乱が再び起きた場合、その矢面に立たされることになる。

 圧倒的な力を得る――賈駆はいくつかある選択肢の中で、董卓を守るための最善が鉄血の道なのだと思い定めたに違いない。悲しい道だった。そして不毛でもある。天上へと続くかのように見える登坂の隘路(あいろ)を、実は奈落に至る道とも知らずに歩んでいるような危うさだった。

(大きな事件が史実のとおりに進むのならば……全土から董卓討つべしで群雄が殺到するわけだからな……)

 恨みはない、哀れみもある。だが李岳のうちに同情はなかった。お陰で動きやすくなったとさえ思っている。無駄に多い兵力は敵をも増やす。虎の子の并州兵、みすみす渡すのは惜しいが維持費もただではない。取り潰されるくらいならば今のうちに董卓に養ってもらっても構うまい、という目論見であった。

 兵一人一人とはあの雁門の戦いからこちら、心が通じあっているとさえ言える程に信頼関係を築いている、いざとなったときに取り返すことは不可能ではないだろう。

 誰もが誰かを利用しあっている。丁原を取り戻し、裏で糸を引いていた者を見つける。その為には手段を選ぶ必要を一切感じることはなかった。

 閲兵式は粛々と進んでいる。そろそろ頃合いである、李岳は立ち上がった。

「少し席を外します」

「……どちらへ?」

 李岳の声に怯えたような表情を見せた董卓。洛陽における陰謀の応酬は身に沁みて知っているのだろう。怯える様子は年相応の娘にしか見えない……ふと手を伸ばして頭を撫でてやりたくなるような、怯えた仔犬のような愛らしさがあって李岳は一瞬妙な気分になった。それを振り払って席を立つ。

「野暮用です。ご心配なく」

「そうですか……行ってらっしゃい」

 小首をかしげて見送る董卓、その姿に李岳は一抹の罪悪感を覚えたが――何かから目を背けるように後ろを向いた。人目を盗んでは群衆からわずかに外れた方へ向かう。路地をいくつも回るとかねてより用意していた騎馬隊が李岳を待ち受けていた。先頭にいるのは張遼である。

「準備はどう」

 李岳の言葉に張遼は頬をふくらませた。

「なぁあにが、準備はどう、や! 散々待たせよって、エエかげんにしいや! こんな祭りの日になんでうちが待機やねん! 酒飲みたい!」

 皇帝の晴れの日も張遼にとって『飲める日』の一つでしかない。

「まぁまぁ、この後存分に飲ませてあげるから」

「ほんまやで! 遠慮せんとよばれるからな!」

「うん、いくらでも」

「……んで、そろそろ言うたらどや。何を企んでんねん」

 珍しく不安げな表情を見せた張遼に、李岳は隠していた計画を耳打ちした。その大胆さ、不遜さ、馬鹿馬鹿しさに、張遼は彼女らしい素直さで驚いた――危うく馬上から転げ落ちかけたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 豪華極まる金色の部隊が姿を消すと、続いて曹操の番となった。率いる兵卒の鎧兜の色は黒で統一している。質実剛健さこそ軍人の本懐とばかりの出で立ちで、実際行進の規律正しさは他を凌駕していると自負していた。

 嘗め回すように見てくる大将軍何進、その隣に控えている西園軍最高指令官の蹇碩はまるで何も興味がないかのような瞳で周囲を見渡していた。高い背、細い腰、微動だにしない唇。これと言って特徴のない男だが、その細く猛禽のような瞳には武断の者特有のぎらついた輝きが潜んでいるように思われた。剣の達人として名高い、諸国放浪の果てに極めた撃剣の腕は、いまだ負けなしという噂を聞いたことがある。

(いつまでも御されるわけにはいかない……けれど宦官といって侮るわけにはいかないわね)

 曹操は続いて皇帝の前にさしかかった。側に控え、皇帝の玉声を代わりに伝える侍中、(エン)州刺史・劉岱の声が響いた。

「下軍校尉、曹孟徳殿――」

「はっ」

「漢の天下の騒乱を治め、天子に捧げることをここに命ずる」

 ニヤニヤとした童顔に、不意に曹操は抑えがたい程の怒りと苛立ちを覚えたが、それをぐっと堪えて膝をついて頭を垂れた。

「この曹孟徳、必ずや陛下の宸襟を安んじ奉り、その御世を御守り申し上げることを誓いまする」

 天子の眼前、控え居並ぶ宦官たちは総勢二千名を超える。曹操の返答を待って、彼らも一斉に頭を垂れて祝辞を述べた。

 

 ――天子の御世に満ちる、永久(とこしえ)の光を寿きまする。

 

 洛陽の辻々から喚声が上がり、その言葉を繰り返し繰り返し誰もが謳った。蒼天の真下、洛陽にどれほどの人がひしめきあっているのだろう。人々の声は波動となり中華全土に至るのではないかと思えるほどだった。いや、事実波及するのだ。『皇帝、無上将軍を冠す』の報は、やがて人づてに十三州全てに届くだろう。

 豪族、官僚、外戚、宦官――その全ての(くびき)から脱さんと欲した天子悲願の西園軍は、抗うことさえ許さぬ堂々振り。権威とはまさにこういうものだ。まるでそういわんばかりの壮大な光景であった。

(張子の虎の西園軍とはいえ……)

 自らが覇者になったとき、こうして直属の武力を保持することは必要不可欠だろうということを曹操は実感していた。だがそれには順序がある。圧倒的な力でもって居並ぶ敵を打ち倒して初めて力は正当性を得るのだ。財と権威を笠に着ての武力などやはり一枚岩とは言いがたい。西園軍の武将の内のどれほどが真の忠誠を誓っていると言えるだろうか――

 曹操が内心、そのような不穏当なことを考えながら場を辞し、続く将が自らの兵のお目見えを行おうとしたとき、突然壮絶な爆発音があたりに轟いた。悲鳴と怒号が行き交う。

「何事だ!」

 緊迫した空気が辺りに満ちる。曹操は夏侯姉妹を叱咤して配下の兵卒の混乱を収めた。だが状況が定まらない。宦官や官僚が慌てふためき逃げ出そうとすることを蹇碩が身体に似合わぬ大きな怒声で抑えつけた。斥候でも何でも放って状況を確かめたかったが、権限が曖昧だった。目の前では飛び出そうとした袁紹がやはり蹇碩によって制止させられている。

「八校尉は集え。混乱は許さぬ。陛下の御身をご守護する。円陣を組め」

「このわたくしは司隷校尉でしてよ! 騒乱の鎮圧はわたくしの責務ですわ!」

「命令権は私にある」

 皇帝から直々に剣を預かっている、その権限は果てしなく強大だった。袁紹が悔しげに唇を噛んでいるが、ここで命令違反し飛び出してしまえば反逆罪に問われかねない。彼女の忸怩(じくじ)たる思いを曹操はおよそ悟った。

 皇帝を中心に西園軍が円陣を張る。緊張感は常の戦場でさえありえない程のもので、皆が皆あり得るかあり得ぬかもわからぬ敵襲に備えて唾を飲んでいる。

 西園軍は一応の落ち着きを見せたが、周囲の文官たちはいまだあわてふためいており、武官たちですら我先に飛び出そうとして混乱していた。蹇碩と何進の決定により、この場にいる者全ての独断専行が禁じられた。

 蹇碩が矢継ぎ早に指示を出す。状況を把握するために斥候が何十人と駆け出していった。情報は逐一届けられるが決定的な知らせはもどかしいまでに届かない。半分の部隊だけでも城外に展開してはどうか、西園軍の部隊ではなくそれぞれの手勢を出撃させてはどうか――袁紹と曹操の献策は全て却下されてしまった。皇帝守護を最優先に掲げる蹇碩の意向は揺るがない。

 憤懣やるかたない、といった風の袁紹。曹操に近寄ってくると怒気もあらわに愚痴をこぼした。

「まったく、何を考えているのかしら! このままではみすみす賊を逃がすことになってしまいますわ」

「どこまで行っても宦官なのよ。儒の精神に縛られている。皇帝の身体を守ることだけに腐心している」

「くだらないですわねまったく!」

 人目を盗んで言葉を交わす曹操と袁紹だったが身動きが取れないことには変わりがない。洛陽の市民の多くは巻き添えを食うまいと自宅に引きこもった、西園軍のお披露目の壮麗さは雲散霧消してしまい祝事の華やかな雰囲気はもはやどこにもない、閑散としたものである。

 もどかしい時間が過ぎた。四半刻の後、事の真相に近いと思われる情報が届けられた。西園軍の武将と主だった重鎮たちが円陣の中心部分に呼び出された。蹇碩と何進を中心にそうそうたる顔ぶれであるが、誰も彼もが身動き一つ取れない滑稽な無様さを晒してばかりであり、そしてそれは己自身も含まれるのだと考え曹操は苦笑した。

「何か面白いことでもおありかな、曹孟徳どの」

 蹇碩が不気味な程の無表情で聞いてきた。

「そんなことありはしないわ。さて、我らを呼んだということは確定情報が入ったのでしょう、お聞かせ願いたいわね」

「うむ。出よ」

 蹇碩の言葉に一人の斥候が前に出て、頭を垂れて述べ始めた。

「騒乱の首魁は盗賊張燕と思われます。宝物殿に忍び込み金銀財宝を略奪、またここに居並ぶ方々のお屋敷に侵入しその財を掠め取ったとのことです」

 そういうと男は一枚の紙を差し出した。『燕』と朱書きされた紙は黒山を根拠地に据える大盗賊・張燕の襲来を示す何より雄弁な証拠であった。

 怒りの声があちらこちらで巻き起こった。色を失う宦官に官僚たちだが、その者たちは誰もが自らが不正に蓄財した金や宝物を心配しているのであろう、やはり滑稽に過ぎる集まりのようだった。その中でも平時と変わらないのは曹操を除けば拠点を洛陽から移した袁紹や一部の諸侯、そして蹇碩くらいのものであった。西園軍の頂点である上軍校尉は金や財宝などどうでもよいと鼻を鳴らした。

 だが張燕――意外な人物だと曹操は訝しんだ。かねてより洛陽を武力で窺わんと幾度か兵を挙げたことはあるが、少数でもって宝物のみを掠め取っていくとはらしくない。その目的と意図はどこにあるというのか。

「陛下の御命を狙ったわけではないのだな」

 意外なまでのほっとした顔を見せた蹇碩だったが、すぐに顔を引き締めた。斥候から戻った兵卒はさらに言葉を続ける。

「現在、場に居合わせた李信達殿が張燕を追撃中」

 あたりを再びどよめきが支配した。命令違反だ、厳刑だ、と声が上がるが、張燕の現行犯をその目で見咎めたために緊急出動したとのことである。独断専行の禁は李岳にまで届いてはいなかった、責めは受けることはない。

「手勢は幾人連れている」

「数百、とのことですが……」

 はっきりした数は戻るまではわからないだろう。だが精鋭として聞こえる李岳の麾下である。迅速な働きを見せるとして名高い騎馬隊が共にあるのであれば、思わぬ戦果を上げて戻ってこないとも限らない。そうなれば李岳の軍功は皇帝の覚えも目出度く庶民の喝采も一身に、というわけだ。

 できすぎている、と曹操は思った。この場の内でどれだけの人数が同じように感じているかは分からないが、曹操は李岳が場に居合わせたことを僥倖(ぎょうこう)だとは考えなかった。この世に満ちる幸運などというものは、そのほとんどは幸運に見せかけた意図なのだ――だが証拠もなく迂闊なことは言えない。曹操は心赴くままに怒り、嫉妬しては歯噛みする袁紹をよそにじっと物思いに耽った。

 情報をあらかた聴き終えた蹇碩は踵を返すと皇帝の元へ向かい、報告をしに御簾の奥へと消えた。再びもどかしい時間が過ぎる。袁紹がイライラし始めその豊かな髪を意味もなく何度も手入れし始めた頃、蹇碩は再び姿を現し、緊急配備の解除、通常警戒への移行、西園軍の披露の続行を宣言した。

 異常事態が終了したことの宣言ではあるが、自らの財物の心配に汲々としている宦官、官僚たちは口を極めて援軍を出すべきだと争ったが、蹇碩のひと睨みでそれも収まった。

 だが、それで収まらなかったのが一人いた。袁紹であった。

「ご進言お許しくださいませ!」

「申せ」

 蹇碩は興味のなさそうに答えたが、袁紹は怯むことなく言葉を続けた。

「西園軍の威光を天下に知らしめるには今このときを置いて他にはありませんわ。天子様――無上将軍御自ら進軍遊ばされ、その御威容を以って賊の悪行を鎮撫されるべきです! 露払いは名門袁家の頭領にして司隷校尉、そしてこの西園軍の中核を担う中軍校尉であるこの袁本初が務めますわ!」

 そうだ、そうすべきだ。今すぐ援軍を! ――袁紹の言葉に何人もの官僚や血気盛んな武将が続いた。だが曹操はそれに便乗せず、一歩引いて場の趨勢を見極めようとした。あまりにも危険だからである。

 蹇碩は袁紹の懸命な訴えを、まるで小鳥の囀りを聞いたかのような興味のなさで却下した。

「ならぬ」

「なぜに! 盗賊の跋扈を許してこの洛陽の安全が守れるというのですか! この西園軍の価値は」

「――控えよ。天子様にご意見申し上げる気か」

 ハッとして、袁紹は悔しげに唇を噛んでは一歩引いた。危ういところだったろう、あと一言余計なことを口にしていれば首を刎ねられていたとしてもおかしくはない。

「……申し訳ありません。差し出口でございました」

 血が滲むのではないか、そう思わせるほどに袁紹は唇を強く噛んで後ろに下がった。彼女を、二人の部下が慌てて抱きとめる。確か顔良と文醜という名の二人であった。そしてその瞬間を見計らったかのように再び斥候が現れ、大きな声で報告を述べた――李信達どの、賊より財宝を奪還し只今帰参!



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第二十九話 閲兵式 その二

 その日、歩哨の任についていた男は貧乏くじを引いたと朝から嘆いていた。

 洛陽から程ない郊外の生まれで土地もなく、生きるためにやむなく兵卒に志願した。幸いにも大きな戦に駆り出されることのないまま見張りと使い走りの日々ではあるが、食いっぱぐれる心配だけはなく、つまらなくも特に大過ない日々を男やもめで暮していた。

 だが年に一度もない――あるいはこの先二度とないかもしれない催事の日にさえこうしてあくびをかみ殺さなければならないとは、ほとほと自分には運というものがない、と男は誰(はばか)ることなく嘆息を漏らした。

 皇帝陛下直々に将軍を名乗り、天下に平安をもたらすために鎮撫に乗りだす。そのための直属兵力としての西園軍が本日披露される。

 話題はもう何か月も前からもちきりだった。めでたいことこの上ない、天下はこれからきっとよくなっていくであろう、蒼天は再び煌めくような美しさを取り戻すに違いない――

 皆、これ以上嬉しいことはないと称賛した。近年滅多になかった祝い事である、天子の御膝元で暮らす民草もかなう限りの事でもって盛り上げなければなるまい、と意気揚々。出店に見世物、興行に博打。春節でさえかくも華々しく飾り付けられるだろうかという街路の賑わい――

 それを横目で見守らなければならないこのもどかしさ! 振る舞い酒の一杯もなければ暴動さえ起こりかねんぞ、と男はぶつぶつぶつぶつ、誰にも届かぬ小声で愚痴をこぼしては天を仰ぐのだった。あとどれほど意味のない見張りをせねばならないのだろう、こんなところに忍び込んでくるものなどいるはずがない、誰もが西園軍の勇姿をひと目見ようと目抜き通りに押しかけているはずだ――彼がそんなことを考え、あくびのために滲んだ涙を拭おうとしたその時、不意に一陣の風がその背後を掠めた。

 風は音もなく疾く走り、男の頸部に強かな一撃を加えた。痛みにさえ気づくことはないまま男は意識を失い倒れこむ。あわれ、彼が目を覚ますのはこのあと一日を待つことになるのであるが、そのときには全ての事が終わった後であり、お祭り騒ぎもその後の騒乱も直接お目にかかることはなくただただ伝え聞くばかりであったという。

 

 ――倒れ伏した彼のそばを悠々と歩きゆくのは中華最強の盗賊集団、黒山賊。

 

 先頭を行くは名高き『飛燕』であり、付き従うは百戦錬磨の黒ずくめの者たち。

 盗めぬものなどこの世にない、その生きざまを表すかのように彼女は挙句皇帝の膝下に立った。周到で綿密な手引きの果てにとうとう宮殿の宝物にまで手を伸ばさんとする一味郎党にはもはや臆するところなどない。この仕事ののち、黒山賊の悪名は時代を席巻する勢いで人々の口の端に上っていくだろう。一歩を踏み出す張燕の脳裏には、この計画を持ち込んだ男のやり取りが鮮明に浮かび上がっていた。

「……かかりな」

 合図と同時に黒ずくめの男たちは襲撃に臨んだ。宝物殿は普段は十重二十重の防備に包まれているが、今日は皇帝が洛陽を練り歩くということで人手は減じている。壁伝いに影は『敵陣』に浸透していく。略奪にしてはあまりに鮮やかな手口でもって、漢帝国の輝かしい歴史を何よりも雄弁に物語る財宝を攫いつくしてしまうだろう。

 その先頭で、張燕はこの計画の端緒を思い返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――西園軍の閲兵式に紛れて、歴代皇帝の財宝と宦官の不正蓄財を強奪する。

 

 李岳が持ちかけた企みを、張燕は二つ返事に快諾した。面白そうだ、それが理由の全てであった。

 洛陽にて警護の任についている李岳である。どこに誰の屋敷があり、どれほどの大きな倉を建てているのか、調べ上げるのは造作もないことであった。誰が賄賂や汚職によって不正に富を蓄えているか、その詳細を李岳は余すことなく張燕に伝えた。

 計画実行は西園軍の閲兵式当日。主力の張燕は防備の手薄となった漢朝皇帝の宮殿の宝物殿を襲撃し、代々受け継がれてきた高貴な財宝を盗み出す。別働隊は朝廷にのさばる業突張りの屋敷を同時多発的に襲ってはその財を頂戴する。

 なるべく静かに、なるべく人死にを出さず。そして全ての盗みが達成されるや否や、盛大に狼煙を上げて洛陽城外に遁走するのである。

 洛陽のしがない居酒屋、その一角で二人は膝を突き合わせて事の次第を打ち合わせていた。周囲は全て配下の者が固めている、誰に聞き咎められることもない。

 張燕は李岳の提案を全て聞き終えると、杯を飲み干してから聞いた。

「取り分は?」

 張燕の言葉に李岳は興味はないとばかりに肩をすくめた。

「全部差し上げますよ。お金はいりません」

「豪儀だこと! ただ、アタシの耳にゃ金以外のもんをねだってるように聞こえるんだけどね」

 元より隠すつもりはない、と李岳は真正直に答えた。

「そのとおり。差し上げるのは不正蓄財だけです。皇室の財宝は返却してもらいます」

「その心は」

「奪い返した、という形で私の功績にします」

「……しばらく見ない間にふてぶてしくなったじゃないか」

 愉快愉快、と張燕は手にした杯を飲み干した。

 黒山賊を用いて皇帝の財宝を盗み出す。皇帝、宦官、諸侯、民草全ての視線が集まる閲兵式当日に起こる大事件だ、その場で功を立てたのなら何一つ異議の出ないまま出世することが叶うだろう。報酬は宦官が売官によってせっせと蓄えた金銭である、千万銭は下るまい。

 悪巧みを持ちかけられるのは二度目であるが、規模の桁が違う。張燕はしばらく見ない間にこの男に一体何があったのか、と目を瞠る思いであった。闇塩の売買が可愛らしく思えるほどの悪辣さである。

「天子様の覚えも目出度くお成りあそばして御出世が目当てかい?」

「はい」

「位は」

「宮廷を含む洛陽全域の治安維持の長――執金吾」

 執金吾とは実力を備えた治安維持部隊の筆頭であるが、名誉職でもある。なるほど、李広の子孫で戦は強い。腰を低くしての洛陽暮らしで御しやすしと皆には思われている。後は目に見える形での功績が必要、というわけだった。

 現職の執金吾は軟禁中とはいえこの少年の母、丁原である。彼女の釈放のためにここ数ヶ月尽力してきたことを張燕は知っている。彼女の身柄の自由と同時に職責から解任させ、その後任を自らが襲う――張燕には理解しがたいまどろっこしさであった。

「よくわからないわね。自分の母を蹴落としてまでその地位が大事なのかい? なぜ桂を追い落とそうとする」

 杯にチビリと口をつけながら、李岳は沈黙を守った。答える気はない、何より雄弁な所作だった。一筋縄ではいかない図太さに育った少年である、張燕も元より全てを聞きだせるとは思っていない。

 

 ――張燕の疑問は当然だった。どうして執金吾の地位に李岳がこだわるのか、理解できるはずもない。この先起こるであろう宮中の動乱に一目散に乗り込むために都合がよいと、説明したところでより一層理解できないであろう。李岳の沈黙もまた当然なのであった。

 

「……聞いても答えそうにないね。わかった。いい、それはいい。ただ一つだけ聞かせな。自分の母親の桂――丁原を一体どうするつもりなんだい」

 ここだけは譲れない、と張燕は食い下がった。丁原とは犬猿の仲である。李岳が生まれるずっと以前からの付き合いであり、一晩では語り尽くせぬ程の繋がりがあることを目の前の少年はどれだけ知っているか。

 心配しているわけではない。没落を望んでいるわけでもない。ただどうするつもりなのか、それだけは聞いておかなければならないと思った。

「母は……丁原は暗殺される可能性があります」

 ただごとではない。李岳の瞳には強い光が宿っていた。

「根拠は」

「匈奴の侵入を防いだ……この洛陽に潜む何者かの手引き、陰謀、企み……それを打ち砕いてしまったんです。恨みを買っている」

「それはアンタだって同じじゃないか」

「私は兵権は持っていませんよ、それにこの洛陽に来てから腰を低く低く暮らしてきました。最低限の仕事はしながら、ね。まぁ扱いやすく見えたでしょう」

 媚を売ったのも、世渡りが下手そうに見せたのも、浅はかな男に見せかけてきたのも、この男には一貫した目標があってのこと――その目的が一体何なのか、手段は、方法は――聞いてもやはり答えることはないだろう、それを見届けることさえできればよいと、張燕は質問を胸にしまいこんだ。

「……母さんは強すぎる。執金吾の地位、并州という盤石な地盤、掲げた功績、付き従う将兵……及ぼすことの出来る兵力は実際群を抜いています。この洛陽からの距離を考えれば涼州を地盤とする董卓よりも潜在的には脅威と考えるものもいるでしょう」

「敵のあたりはついているのかい?」

「――さしあたり、中常侍」

 恐怖や怯えといった感情から離れて久しい張燕だったが、いつ以来となるか、肌を怖気がふるった。この漢の頂点に位置する都の洛陽、皇帝の玉座を取り巻く宦官の最上位を戴いたものたちが匈奴の誘引を企み、この中原を乱そうと策動したというのか。

 そうであるならば確かに丁原は危険と言えた。入獄ののち、董卓預りという形で軟禁されてはいるが、李岳はその状態が最も安全だと考えたに違いない。確かに最大兵力を付き従える董卓をおいそれと向こうに回すことを決断できるものは少ない、その庇護下に置かれていれば身の安全の保証にはなる。

「……この洛陽にいる限り付け狙われ続ける。その前に失脚してもらう必要があるんです、より執金吾に相応しい人間が登場するという形で」

「それが……」

「李岳、というわけです」

 張燕は店の親父を呼んで酒のおかわりを頼んだ。小瓶を二つである。

「その後はどうするんだい、桂の話だよ」

 李岳は臆面もなく言い放った。

「……父の元へ戻ってもらうよう、説得するつもりです」

 途端、張燕は手にしていた杯を取り落とした。杯はコロコロと卓の上を皿にもたれかかるまで転がった。わずかに残っていた酒が卓にしみを作る。張燕は笑った。腹の底からしぼり出すような声で笑った。そして再び店の者を呼んだ――おおい、おおい! 親父! 小瓶二つじゃあ物足りねえ、かめごと持っておいでな!

「あの桂が隠居ってえわけかい!」

「……何がおかしいんですか」

「いやいや感心しただけさ、考えつきもしなかったよ! 親想いだねえ」

 腰の曲がった老店主がえっちらおっちら担いできた酒のかめに直接杯を突っ込んで、がぶがぶと口の端からこぼれるのも気にせず張燕は酒を飲んだ。一向に酔う様子もないまま思い出したようにケラケラと笑う。

「共白髪になるまで、か……ふふ、ふふふ」

「何がおかしいんですか」

 笑ってばかりの張燕に機嫌を損ねたのか、李岳は口を尖らせている。酒も一向に減っていない。どうして自分がこんなにも笑ってしまうのか、李岳には見当もつかないのだろう、それがなおさらおかしくてたまらないのだと、張燕は自分の呼吸が落ち着くのを待ってから告げた。

「李岳の坊や、アンタの悪い癖だ。大事な人を遠くに、遠くに置き去りにしようとする。今回だけじゃないだろう、察するにアンタ、今までも誰か大事な人を傷つけまいとどこかで捨ててきたんじゃないだろうね?」

 よくもまあ、図星を突かれたとそんなにもあからさまに表情に出して、今まで洛陽の海千山千を騙し通すことが出来たものだ、と、内心張燕はその素朴さを微笑ましく思った。

 誰かを守るために自分から遠ざける、誰かを守るために自分が最も危険な場所に立つ。この調子でいけばいつかこの男は一人になるだろう、孤立して路傍の石のように朽ち果てるだろう――張燕の心に予感めいたものがよぎった。

「アンタは賢い。目端も利く。けどその聡さでもって人を思うがままに動かそうとするのは悪い癖だ。命の危険、死の恐怖、切った張ったの危なっかしさ――それら全部を飲み込んで場に立つ者の覚悟を舐めちゃあいかん。人の道を勝手にずらそうとするのはとんでもない傲慢さよ」

「それでも、私は……」

「年の割に大人びてると思える時もあるのに、肝心なところではヒヨっ子だねえ――まぁいい。好きにしな。仕事は承った。出世でもなんでも好きにするがいいさ。アタシゃアタシのヤマをこなす。この張燕の名を洛陽にて轟かせるさ。それがアタシの生きる道なのだから」

 反論の糸口さえないというように、俯いてはもごもごと口を動かすだけの李岳に張燕は酒のおかわりをなみなみと注いだ。話すことがないのなら、お顔に引っ付いている口の仕事は一つしかないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 張燕とのやり取りを思い返して、李岳は馬上で口内に苦い味を思い返した。あの日は結局朝まで飲んで、うんざりする程の二日酔いに襲われた。しばらく酒はいらないと思えるほどの苦痛であった。

(張燕にはどうにも頭が上がらない……説教受けるみたいになっちゃうんだよな、いやはや。しかしまあ嫌なこと言ってくれるよ、恋の顔が浮かんで消えなかったんだからな……)

 とはいえ張燕の気持ちもわかる。李岳とて彼女の立場であれば説教の一つでもしてたしなめようとするだろう――そう、歴史さえ知らなければ。

 丁原がどれだけ切羽詰まった状況にあるか、李岳にはわからないのが事実だ。実は見向きもされていないのか、想像以上に切羽詰まっているのか……しかしどうしても脳裏から離れないのは史実における丁原の末路であった。

 并州刺史として歴史に登場し、洛陽において執金吾を拝命した『三国志』の『丁原』は、子飼いの将軍であった『呂布』によって討たれている。『董卓』にそそのかされたと歴史には書かれているがどこまで真実かは疑わしい。はっきりしていることは『丁原』は暗殺された、というそのことである。

 仮にも洛陽を守護する治安維持部隊の責任者である執金吾である、その地位を戴いたものが易易と暗殺されるのだ、尋常な事態ではない。その異常さ、突拍子のなさ――果たして今この世界の洛陽が、史実の中の『洛陽』よりもましなのかどうか、李岳には判別がつかなかった。事実丁原は捕縛され獄に繋がれたのである、恩赦によって自由の身になったのち職務に復帰すれば、再び陰謀の手が伸びてくるであろうことは想像に難くない。

 李岳が知る董卓が丁原を殺すようには思えない、やるならとっくに始末はつけているだろう。だが陰謀の糸を手繰るものが他にいないとは誰にも言えないのである。

(……暗闘は母さんには無理だ。根っからの武人だ、水が合わないなんてもんじゃない。だからって自分の職責を放棄するとも思えない……この手しかないんだ)

 雲ひとつ無い晴れ間を疾駆する。部隊は既に洛陽城外に出ており、砂塵を巻き上げて南南東に進撃を続けている。まるで自分に言い聞かせるような言葉を内心で繰り返しながら、李岳は手綱を緩めることなく黒狐を走らせた。

 先頭には張遼、続いて李岳。殿には赫昭が詰めている。中塁校尉麾下八百騎。并州兵より極秘裏に引きぬいた精鋭部隊である。風のような進軍速度、追撃を逃れ得るものはいないように見える。部隊は冬のわびしい田園を突っ切り直進を続けた。

 どれほど進んだか、やがて古よりこの地を潤し、時にその気まぐれであらゆるものを押し流す、人と物の行き交いを際限なく助けてくれる偉大な河――黄河が見えてきた。

「張燕はこのあたりから船に乗ったと思われる。用意周到な盗賊だ、既にかなり先に行っているかもしれない」

「どないするんや」

 張遼の質問に李岳は小首をかしげて答えた。

「あたりを捜索してみましょう」

 李岳の言葉に張遼はてきぱきと指示を出し始めた。部隊を三隊に分けて船着場を中心に上流と下流である。矢継ぎ早に声をかけては自らが先頭となって駈け出していった。さっさと済ませて酒を飲みたい、その欲望が背中からにじみ出ている。張遼は上流に、赫昭が下流に向かった。船着場は李岳が受け持った。

 おざなりの指示を下してから李岳は黒狐から降り、黄河の(ほとり)に立った。手筈では張燕はこのあたりに荷を置いて去ったはずだ。彼女らが乗り込んだ快速船は河の流れにまたがって、はるか彼方の下流に運び去られているであろう。

(自分で描いた絵面とはいえ、ひどい自作自演だな……まあでもこれで出世の足がかりになるのなら、上等上等)

 勝負の見えた戦い程つまらないものはない、李岳は束の間思う存分羽を伸ばすことにした。目前に横たわる雄大な流れ。乾季であるというのにこの水量――李岳は実は初めてこの大河を間近に見た。岸辺の岩に腰を下ろしてじっくりと流れを見やった。

 小石を拾って投げてみた。ポチャリと間抜けな音を立てて石は河に飲まれた。駆け通してきたので汗をかいてはいたが、冬の冷気は心地よいくらい、日差しの下で李岳は久しぶりに穏やかな時間を束の間味わった。

 よく考えてみれば誰にも見られることなく一人っきりになるのはいつ以来のことであっただろうか。雁門の北ではいつもこうした時を過ごしていた。山や野でのんびりと仰向けになっては昼寝をする時間――洛陽に来てからはそんな暇はほとんどなかった、毎日神経を張り詰めて生きていた。

 自覚はなかったが無意識のうちに疲れていたのだろう、誰にも見られていないということもあり肩や背中にぐったりとした疲労がのしかかってきた。大きく息を吸っては吐いた。のんびりとした時間だった。

 

 ――だから、その者の接近を李岳は許してしまった。

 

「失礼します……」

 その声に李岳はハッとして振り向いた。今まさに馬上から降り立った男は真っ青な顔で汗みずくになりながら、荒い呼吸を何とか静めようと深呼吸を何度も繰り返している。はぁ、と長いため息を吐いて男は李岳の隣に立ち、まるで瀕死の力を振り絞るかのようにしてかすかな笑顔を浮かべた。

 痩せた男だった。背は高いがひょろりとしており見るからに体力はなさそうである。疲れているようだが顔は上気せず、白を通り越して真っ青になっていた。袖から覗く腕は細くとても武人には見えない。どこかの文官か何かだろうか、と李岳は立ち上がりながら考えた。

「大丈夫ですか」

 男は恥ずかしそうに頭をかいては、いや面目ない、と言い訳をした。

「馬には慣れないのです。どうにも……その、体力もなく」

「ご無理なさらず、お座りになっては」

「いや、座ると次に立てるかどうか」

 流石にそれは冗談だろうと思ったが、男は至極曖昧な顔で首をかしげるのでひょっとしたら本気で言っているのかもしれない、と李岳は思った。自らが携えていた竹筒を差し出すと、男は初めは固辞したがやがておずおずと受け取り中の水を勢い良く飲みはじめた。相当にこたえているようで、しばらく飲んだ後にようやく血色がよくなってきた。

「面目次第もない……」

「いえ」

「あんまりに急いで駆けてきたのですが……いやはや、無理はよくない」

「お体を冷やすとよくないですよ、冷たい風はすぐに体温を奪う」

「なるほど……」

 半分ほど残した水筒を李岳に戻すと、男は途端に神妙な面持ちとなって汗を拭き始めた。体力によほど不安があるのだろう、至って真剣な様子がどこか滑稽さすら感じさせる。こけた頬、頬骨もわずかに浮いている。気だるげな表情ではあるが、瞳には意志の強さがあるように思えた。

「素晴らしい騎馬隊ですね」

「いえ」

「并州兵ですか、李岳将軍」

 半ばわかっていが、李岳ということを知ってこの男は近づいてきた。

「ご芳名をお伺いしても」

「田疇。字は子泰と申します」

「田疇どのは何用でこんなところにまで」

「李岳将軍の勇姿をこの目で直接拝見したいと思い……」

 そう言うと田疇は組んだ手を掲げて礼をした。訝しげな思いではあったが、内心を吐露することなく李岳は礼を返した。

 田疇は意外なまでに饒舌であった。雁門での活躍、洛陽での仕事ぶり、寝物語で聞かされた李広と李陵の話、自分が生きているうちにその子孫に会えるとは夢にも思わなかった、張燕の逃げ足がこれほどでなければ活躍ぶりをこの目で見ることが出来たというのに――

 朗らかで、無難、他愛もないが、しかし針の筵のような会話をどれほど続けだろう、やがて一人の兵卒が駆け足でやってくると、張燕が荷の一部を置き捨てていったことを報告した。

 輜重隊を伴ってはいないので近くの村で荷車を買い求めてくること、すぐに行動に移れるように荷支度をすることなどを命じた。船着場の側に打ち捨てられていた荷は装いも豪華な代物で、ひとめで皇室のそれとわかる。

「楽しいお話でしたが、お時間のようですね」

「こちらこそ」

「御出世、おめでとうございます」

「いや、そのような……」

「李岳どのの迅速な行動が、一部とはいえ盗まれた荷の奪還を成したのです。立派な功績でありましょう」

 誉めそやす田疇に頭を下げて、李岳は黒狐にまたがった。

「またいつかお会いできるでしょうか」

 李岳の言葉に田疇は小さく頷いた。

「ええ、近いうちにきっと」

 にこりと笑うと、黒狐の胴をももで締めあげた。いななきを上げて黒狐は走り始める。田疇が追いかけてくる様子はない。しばらくそうして走り、姿がようやく見えなくなったのを確かめてから李岳は手の汗を拭った。背にはびっしりと鳥肌が立っている。

 穏やかであった、憂鬱そうだが優しげでもあった、武術の腕が立つわけでもないだろう。それでも李岳は死を垣間見、殺人を決意しかけていた。逡巡と当惑の狭間で刃傷沙汰が起こらなかったというのは僥倖という他ない。

 確信のない悪寒に苛まれながら、李岳は集合し整列している部隊の元へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 去りゆく李岳の姿を見送りながら、田疇は魂までこぼれ出てしまうのではないかという程の大きなため息を吐いた。

 容易く殺せた。手の中で握り締められたままの丸薬を地に放り捨てながら田疇は思った。だが殺せなかった。竹筒を返すときに一粒放り込めばそれで始末はついたはずだったというのに――

 人懐こい笑顔、理知に輝く瞳、そして怯え……遠目に見たことはあったし、於夫羅を始め彼を知る多くの者からその為人を聞いて場に臨んだ。けれども田疇が受けてきた説明のそのどれもに李岳は当てはまらなかった。臆病、冷酷、陳腐、惰弱……そのどれとも違う、何かが違うと思わせるような不思議な人物だった。幼さと透徹、沈着と闊達、そういった相反するものが同居しているような、二つの魂が混在しているような奇妙な印象を田疇は李岳に抱いた。

 田疇が関わった企てを二度までも阻止し、今再び眼前において目障りな動きを始めようとしている。長年関わってきた遠大な計画の成就のためには一縷の躊躇もなく排除すべきであったのかもしれない。事実、場を抜けだして張燕の追撃を開始した李岳の背を追いながら、田疇は暗殺を決意していた。

「いつかまた、ですか……」

 敵か味方かわからない、無自覚ではあるが、そう考えたがために自分の身体は動かなかったのだろうと田疇は考えた。幽州でも、雁門でも味わうことのなかった敗北の苦味が田疇の口内に広がった。意外に悪くない。渋く、歯軋りしてしまうような味だが、決して悪くない。今ここで毒殺に及んでいたのであれば、より一層不快な勝利の旨みが満ち満ちていたであろうから――

 味方になってもらえればいい、と思った。殺さずに済めば――輝かしい蒼天に照光を受けながら、田疇は憂鬱極まる表情で俯き苦渋を噛み締めた。



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第三十話 閲兵式 その三

 李岳将軍、天子の財物を山と積んだ飛燕将軍を疾風の如く追撃す。神速の張遼に鉄壁の赫昭、率いる騎馬隊は並ぶものさえないという。

 神仙の技を極めた飛燕といえど、三千貫の宝の重荷によりまさに這々の体。千里を駆ける名馬、黒狐の嘶きは張燕に付き従う黒山賊が騎馬たちを悉く怯えさせ、とうとう遙かな黄河を眺望する丘の上で李岳将軍は盗賊に追いついた。

 かの飛将軍李広の子孫である李信達。身の丈八尺三寸、岩をも両断する切れ味の天狼剣を掲げ、盗賊に向けて轟かせた大喝は黄河を渡り河南は孟津の町にまで届いたという。

「やあやあ、そこな盗賊。天子様の宝物を私しようなどとは不届き千万」

 飛将軍李広より受け継ぎし剛弓は、早くも背を向けて逃げ去る盗賊の背中を次々と射抜いていった。これは敵わぬ、と飛燕が財物の大半を放り捨てて舟に飛び乗るまでに、李岳の矢は百の盗賊を射倒してしまっていた。宝も味方も見捨てては尻尾を巻いて逃げ去る張燕に向かい、李岳は最後の一矢を放った。矢は風よりも早く走り、長い髪を結わえていた張燕の頭巾をものの見事に射抜いてしまった。

「次はその頭を射抜いてしまうぞ。この李岳の目の黒いうちは決して洛陽に戻るな」

 腰を抜かして逃げ去る張燕は、それから二度と洛陽に近づくことはなかったという。(劇『孟津口』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洛陽に住む人々による歓喜の爆発たるや、帰還した李岳が戸惑い思わず足を止めてしまうほどであった。

 辻という辻、戸という戸、窓という窓。全ての隙間から人々は顔を出し、天下の誇りを死守した李信達の顔を一目拝まんと押し合い()し合いになりながら声を合わせて合唱していた。

 洛陽の民の心中如何ばかりか、さても聡明な曹孟徳でさえその色合いは真には察せまい。誇り高き栄光の漢朝の中心地に住んでいるというのに、先細る豊かさの中で日々暗く寂しい知らせばかりを耳にして生きる人々である。宦官の横暴、外戚の専横、荒れ狂う権力対立の中で愛する皇帝の存在感は影と薄れ、外には盗賊が溢れ黄巾党なる不埒な輩まで現れる始末。官軍の戦績も振るわず、戦々兢々とする毎日なのである。

 そんな中、春節も遠くはないといえ祝い事が催された。皇帝直率の軍が発足し、そのお披露目が大々的に催されることになると聞くや人々はみな喜び準備に励んだ。だというのに――

 荘厳な趣さえある閲兵式が始まって半日、喝采と期待の眼差しは争乱と落胆によって塗り替えられた。

 漢の権威は剽窃され、尻尾を巻いて逃げる盗賊に西園八校尉は追撃さえまともに出来ない。事情など知らぬ。指を咥えて敵を見送る軍隊に一体何が出来るというのだろう――数刻が経ち、意気消沈した人々の間を夕暮れの赤い光が薄暗い影を伴って長々と差し込んで来た頃合い、暗く翳った皆の顔をハッとさせる知らせが飛び込んできた。

 

 ――李信達どの、賊より財宝を奪還し只今帰参!

 

 その知らせはさざ波のように人々に伝わった。李信達が、今飛将軍の李岳が漢の威信を取り返して戻ってきた――誰もが誰かに知らせなければならぬと喚き立て、洛陽全域にその声が届くまでさしたる時はかからなかった。誰もが通りに飛び出した。あの李岳! 匈奴を討滅した飛将軍の生まれ変わり、そいつが今度はこの洛陽で武名を上げた!

 男は腕を掲げ、女は花を散らした。歌が聞こえる、舞が繰る、この街に誇りが取り戻された音がする……ああ、これはきっと物語になるだろう!

 

 ――その様子の只中で、主役とも呼べる一団は呆然と押しやられるままに歩を進めるほかなかった。

 

「うわ、こらすごいな!」

「いくらなんでも……」

 張遼と赫昭が隣でほぼ同時に呟いたが、李岳はその呟く言葉さえ見つけられずにいた。

 財宝を奪わせたのも、それを取り返すことが出来たのも前もって打ち合わせていたからで、こうして祭り上げられたり感謝の言葉を捧げられると、心のささくれを剥ぎ取るような罪悪感で胸が痛む――しかし李岳は笑った。手を振り、人々の歓喜に応えた。

 迷わないと決めた。逡巡も葛藤も内心で済ませるだけでよい。事実、胸のすくような光景でもある。戦いは始まっているのだ、とうに。洛陽の目抜き通り――朱雀大路は道を開けて自分を待っていた。その先には荘厳な宮廷が控えており、喝采を従えた李岳を遮る者はもはやいない。棹立ちになった黒狐を御し、天狼剣を夕日に照らしながら李岳は敢然と声を上げた。

「大漢に幸あれ!」

 岳の声に答え、人々は繰り返し繰り返し同じ言葉を叫んだ――幸あれ、大漢に幸あれ――その声の中を李岳は進撃した。無人の野を行くかの如く、しかしひしめき合う人々に包まれて真っ直ぐ宮殿に。

 正門をくぐれば出発時と同じように円陣を組んだままの西園軍が控えていた。李岳が一歩進めばその防備は容易く打ち砕けた。李岳はゆっくりと歩いた。それが最も重厚な攻撃であるとでもいうように。それを黙ってみている他ない諸侯、宦官、官僚の姿――李岳はその中に一際厳しい目があることに気づき、ちらりとそちらを見た。

 燃えるような強い眼差し、固く閉ざされた唇、背後から立ち上る覇気が何よりも彼女の意志を雄弁に物語っていた――曹孟徳。

 だが李岳は一顧だにせず進んだ。嫌われてもよい、敵対しても構わない。乱世の奸雄を向こうに回そうとも構わぬという決意こそ不退転。

 とうとう最後の防備までも突破した先には、西園八校尉の筆頭、蹇碩が控えていた。

「名乗れ」

「姓は李、名は岳、字は信達。飛将軍李広の末裔」

 どよめきが周囲を打った。李広の末裔! やはり噂は本当であった。いや証拠などどこにもない、どこの馬の骨ともつかぬ。しかし事実功を上げた――周りの関心も動揺も李岳には何の影響も及ぼさない。

「張燕より財を取り返したか」

「はっ」

「……陛下が直々の拝謁をお許しになられた」

 どよめきはとうとう悲鳴じみたものにまでなった。大将軍何進を筆頭に外戚を成す何一族、圧倒的な権力を誇った十常侍に地方の諸侯、新たに功績を上げては都に招かれた若き将軍に名家の御曹司――こと袁紹に至ってはその場で失神しかねないほどの衝撃で、脇から咄嗟に支えにやってきた側近である顔良と文醜の二人がいなければ床にへたりこんでいたやもしれなかった。

 背中に痛いほどの視線を感じながら、李岳は蹇碩に導かれるままに進んだ。道は豪華絢爛。進めば進むほど薄暗く、壮麗で、寂しい。人に緊張を強いざるを得ない不可思議な空間、皇帝にだけ許された最後の砦であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 通されたのは本宮ではなくなぜか離宮であった。一目にはわからないであろう狭い戸をくぐったので、正式な謁見と言うよりはお忍びということなのだろうか、と李岳は考えた。通された控えの間でしばらく待ち、念入りな身体検査を受け、いくつかの教えを李岳は賜った。岳に謁見の作法を教えたのは誰あろう董卓であった。

「……野暮用って言ったのに……」

 董卓らしからぬふくれっ面であった。ちょっと赤く染まった頬を膨らませこちらを見上げている。思わず指でつついてしまいたくなったが、馬鹿なことを考えている、と李岳は苦笑した。目の前にいるのは董卓なのだ。

「あの……な、なにがおかしいんですか……」

「いや、他意はないんです」

「……ほ、ほんとですか?」

「そんなに睨まないで下さい」

「に、にらんでなんか……」

「ほら、にらんでる」

「え、えぅ……」

 おっとりした口調で、怒りや憤りといった感情からは最も遠そうな人ではあるが、李岳の行いには不満を持っているらしい。当たり前だ、と李岳は思った。この事態に及んで笑い声を上げるのは張燕や趙雲のような根性悪だけだろう。

「あんまり月をからかわないでほしいわね」

「からかってなんかいませんよ、賈駆殿」

 どうだか、と賈駆は肩をすくめた。

 董卓が戸惑いふくれているのなら、賈駆は呆れてものもいえないという表情で立っている。まさか張燕と繋がりがあり、あえて宝を奪わせ奪い返すなど、狂言もいいところだ。それを洛陽を含める全土の有力者の耳目が集まる西園軍の閲兵式で行うとは、バカ度胸だとでも思っているのだろう。いや単なるバカとしか思っていないのかもしれない。

 どこに目があり耳があるかもわからない宮中である、賈駆は黙って目で李岳を責め、李岳も目でしらを切った。

「ふん、まあいいけどね。そうそう、丁建陽殿は先程自由の身になられたわ」

「――痛み入ります」

 深く、深く李岳は頭を下げた。駆け引きをした、取引もしたが、それでも感謝の念が止めどなく湧いてくる。

 無事を祈らない日はなかった、会いたいと思った。そのために媚びへつらい、手柄を横取りし、嘘をつき、歓心を買った。何ほどのこともない、何ほどのこともない――この日を迎えることが出来たのだから、積み重なった負い目など既に溶けて消えてしまった。

 賈駆も腰に手をやり、ふっ、と小さく安堵の息を吐いている。危ない橋を渡ったのかもしれない、感慨もあるのだろう。

「丁原様を、本当にお大事に思われてるんですね……」

「あの人がいなければ、私はいません」

 嘘ではない、これ以上の真実もないだろう。

「ま、上手くいってよかったわ」

「まあここまでは」

「問題はここから、という顔をしているけど」

 李岳は曖昧に微笑んだ。

「そうね、まだ最後まで成功したわけではないものね。それにこれで貸し借りもなし、と……ま、けれど、一応、その、なによ……お、お、おめでとう! と、い、言っておくわ!」

「……ありがとうございます」

 意外な言葉に李岳はいよいよ照れたが、それは賈駆も同じようで二人してそっぽを向く始末。そのやり取りが嬉しいのか、董卓だけがふふふ、と声を漏らして笑っている。

「よかったね、詠ちゃん」

「……なにが」

「だって、ずっと李岳様のことを心配してたもの……」

「ちょっ!」

 ばかばかそんなこと心配なんてしてないボクは自分の仕事をちゃんと全うできたかどうかというその事だけが心配でそりゃ初めは受け入れがたいしやる気もなかったけど丁原様を心配する気持ちはちゃんとあるんだなって思ってそれは痛いくらい理解できたから片手間にやるんじゃなくてしっかりと頑張らなくちゃって――

「そこらへんでかんべんしてください」

 心が死んだ虚ろな表情で告げる李岳に、賈駆はようやく我に返りただでさえ赤かった顔をさらに赤くしてブンブンと手を振った。

「えっ、あっ、違うの、違うの!」

「かんべんしてください。ゆるしてください」

 羞恥が過ぎると虚脱する李岳。渦巻きのように目をぐるぐるさせて言い訳に忙しい賈駆……二人を微笑ましく見守る董卓。三人の間には奇妙に居心地のいい空気が漂っているが、それを自覚しているのはおそらく董卓一人だけだろう。

 コホン、と気を取り直してから賈駆は言った。

「いずれにせよ、貴方には栄達の道が開けた。逼塞の時は終わり、飛躍の時ね……この魔宮の瘴気に毒されないように、と忠告しておく――」

「おめでとうございます、李岳様」

「ありがとうございます、お二人とも。あのところで……様付けはやめてください」

 李岳の心中など考えたこともないだろう。董卓は何が不思議かわからない、と首を傾げて聞き返した。

「じゃあ、なんとお呼びすれば……」

「様じゃなければなんでも」

 呼び捨てのほうが一万倍ましだ、と心の底から思う。

「じゃあ、李岳くん……」

「……はぁ、まぁ、じゃあそれで……」

「えへへ」

 全くもってこの人はやりにくい……岳は頬をかいてあさってを見た。

 同じように照れくさそうにそっぽを向いていた賈駆が急に不機嫌になり、いいから早く行きなさいよ、となぜか怒気を込めて言った。

 ほどなく李岳は席を辞すると奥の扉へと向かった。ちょうど呼び出しのものがやってきていたのである。戸を一つ二つと抜ければもう帝の御前である。いやでも緊張感は高まった。岳は案内された先の部屋で自分を先導したものに促され指し示されるままの姿勢で待った。佩剣は許される身分ではないので二振りとも預けている。不思議なことに蹇碩以外には誰もいない。人払いは済んでいるということなのだろう。

 十常侍の一人でもある蹇碩と二人で待つという時間が奇妙に重苦しく感じたが、不意に蹇碩の方から声がかかった。

「よくやった」

「……はっ」

「我らの務めは帝を御守りすることにある。不用意に動けんところを突かれた」

 そう、そこを突いた。西園軍は必ず微動だに出来ない、と李岳は確信を持っていた。宦官が筆頭なのである、皇帝の安全を守るためにまずは警備を厳重にするだろうと読んだ。蹇碩はその企みを李岳が主導したとは夢にも思っていまい。そのためか、声音には意外なほどの親密さがあった。

「帝を守れ。李信達。宮中には虫が多い、吐き気を催すような虫がな。それをいずれは焼き払い、帝の平安を取り戻すことこそが臣下の務めでもある」

 軍部の訓示を頂いている、と程無くして李岳は気づいた。蹇碩の瞳は真剣そのもの、李岳は深々と頭を下げた。

(虫……)

 真意を問いただそうと思わず顔を上げかけた李岳を制するように、蹇碩が一際大きな声で宣言した。

「――皇帝陛下出御」

 蹇碩の声と同時に李岳ははっと跪き、最上級の拝礼を行った。あっけないものだった、皇帝は眼前にいる。この世界の頂点に位置する人間が、目前に座している。一年前は山で狩りにいそしむ猟師でしかなかったというのに、今こうして皇帝の御前にいる。その奇妙な運命の悪戯に李岳は内心苦笑せざるを得なかった。場違いなことを考えている岳、だがその心中を察することの出来るものはいない。伏したままの表情もまだ誰にも覗かれることはない。

「面をあげよ」

 女性の声。穏やかで、潤いに満ちた声だった。

「はっ」

「此度はよくやった」

 おざなりとも言える言葉が続いた。

 宝物殿の財宝を取り戻したことを労われ、謙遜を返し、忠臣ぶりを褒められるややはり謙遜を返し、望みはあるかと聞かれ、それも固辞した。私心なきことを褒められ、やはり何か褒美を与えねばならぬ、いずれ追って沙汰があろうという皇帝の言葉に李岳は感謝の意を示し、身に余る光栄というお決まりの言葉を返した――このまま脚本通りに終わるのか、とホッとしていたのも束の間、意外な台詞が李岳に降りかかってきた。

「……小さい、わね」

 聞き返すことは無礼に当たるので李岳は口を閉じたままだったが、内心ではいく種類もの疑問符が飛び出ていた――小さい?

「……いま少し、面をあげよ」

「……しかし、臣は」

「よい」

 皇帝の言葉を固辞しきれずに李岳はまたわずかに顔を上げた。常識的な儀礼として、直接皇帝の顔を見ることは不遜に値する。が、皇帝がそれを許せば限りではないだろう。

 天子は女性であった。年は四十を超えたあたりであろうか、重そうな冠と玉の向こうに穏やかそうな表情が見える。

 龍の血のように赤い瞳。金色の刺繍に彩られた纏いまでもが真紅。翡翠と瑪瑙で埋め尽くされた玉座に腰を下ろしたまま、帝はとぼけたような声を上げた。

「……やっぱり小さい」

「……はっ」

「……それに、若い、ね」

「……はぁ」

 玉座に座ったまま、帝は右に左に身体を揺らしながら李岳をじろじろと見回し始めた。岳は眼前の女性の声色が変わったことに気づいた。皇帝のそれから、人の血色を帯びたような生気を感じさせる声である。

 特別若いわけでも、特別美しいわけでもない。豪華絢爛な衣装に艶やかな化粧を施されてはいるが、気だるげな様子からはただの仕事着にしか見えなかった。一人の母、一人の女、一人の人――話すごとに何層もの張りぼての権威がどんどんと剥がれ落ちてその素顔が露わになっていく。

「朕の子らとそう変わらぬ。いくつになる」

「はっ。十五でござりまする」

「なんと弁より下かえ。協と同いか」

「恐れ多くも」

「まことに李広将軍の血筋であるのか?」

「はっ。父はそう申しておりました」

「そうか。父の名はなんという」

「……」

「なぜ言わぬ」

「恐れながら、父の名は僭越にも……弁と」

 儒の教えにより上下の秩序を徹底的に定めた中国において、目上の者と同じ名を名乗ることは無礼に値するとされる。先に名付けられていたとしても、即位した皇帝が同じ名を付けられているのであれば進んで改名をしなければ不忠に値するとされる。それを避諱(ひき)といった。皇帝の長子――次の皇帝を約束された皇太子と同名を持つということも、やはり褒められることではなかった。

 だが、帝は李岳と李岳の父、李弁を非難することはせず、面白そうに目を丸くするばかりであった。

「なんと。それはまた、我が子とそなたの父は名を同じくするか」

「并州の最北に住み、都の知らせにも疎く、名を変えることをせぬ不忠を」

「よいよい」

 気にするな、と手を振る帝を李岳は意外な思いで見た。謁見の可能性を予見して拝謁のための手順や言葉のやり取りなど、十分に予習し予想もしていたが、その全てを裏切る穏やかさだった。眼前の女性はどこか嬉しそうに自らの娘たちについて語った。そこには陰惨な権力闘争の悲嘆さはない。

 妹思いで心優しい義務感の強い姉の劉弁と、大人しく聡明で勉強熱心な劉協――嬉しそうに二人のことを語るその姿は、漢朝第十二代皇帝劉宏の姿ではなく、ただの母親の姿であった。

 それからひとしきり二人の娘の話を繰り広げた。岳はただ相槌を打つばかりであったが、決して悪い気はしなかった。むしろこの眼の前の帝を好ましいとさえ思った。

「いやしかしそうか……これも何かの縁じゃのう」

「光栄の至りでございます」

「父に尽くすように、我が娘にも尽くしてくれるか」

「はっ」

「――望みを申せ」

 人の声から帝の声に戻った、と李岳は思った。再び面を下げ、視線を床に釘付けにした。追って沙汰などという上っ面の言葉ではない、今ならば本当の望みが通るであろう。

「そなたの先祖には不義を働いた。朕はそれに報いねばなるまい。」

「……恐れながら申し上げます。此度の騒動、臣が今少しの兵を率いることが出来ておりましたのなら、張燕を取り逃がすことなく捕縛することが叶いました」

「兵か、物騒なことを言うの」

「申し訳ありません」

「いや、それでこそ飛将軍の血であろう」

「叶うのならば、執金吾の空位を埋め陛下をご守護する栄誉を賜りたいと」

 ふふふ、と帝は袖に顔を隠しながらもはっきりと笑いを漏らした。

「ふてぶてしいやつじゃ、もそっと下積みをしようという気はないのか?」

「長く逼塞していた血筋なもので、早く出世しては名を挙げよと先祖の声が聞こえます」

 帝は再び蹇碩を見たが、蹇碩はやはり同じように小さく頷くだけだった。御意のままに、という意味の仕草なのかもしれなかった。

「……丁原には赦しを与えたのじゃが執金吾の位は返上しおった。朕の慰留も頑なに拒みよった。牢屋に放り込まれたままの執金吾などいない、火急の時に帝を守れぬ執金吾など案山子にも劣る、と」

 母らしい豪儀な言葉だった。皇帝に対してこの物言い。不遜一歩手前だが、逆に清々しくさえある。

「西園軍もまだまだ整いきってはおらぬ。張燕め、中郎将の地位をやったというのに、小憎らしいことをしてくれる。じゃが、それゆえにより西園軍への補強の理由もついた。征伐はいずれじゃな。しかしまあ、そちがもう少し早く現れておれば、西園九校尉となっておったかもしれぬの」

「恐れ多いことです」

「ふふふ、禁軍統括の地位を望んだものが心にもないことを……まぁよい、今日この場よりそちがこの洛陽を守護する執金吾じゃ」

「――はっ!」

 成った――総身に鳥肌が立っていた。執金吾……宮中に最も近い武力を持つ者! これで母はお役御免で無事に洛陽を脱出できる、今更利用しようと寄り付いてくる宦官もいないだろう。これから自分が狙われる立場になる。防備に訓練、暗殺の警戒だってしなくてはならないかもしれない。立ち位置を明確にせよと迫ってくる者もあるだろう。やらねばならない仕事は山ほどあるに違いない。

「なに、礼には及ばぬ――そちには洛陽の民を安堵に導いたという恩も」

 不意に言葉が途切れた。

 帝は急に言葉を区切ってしまい、それきり音を発さなくなった。不審に思った李岳は顔を上げた。皇帝は目を見開き、口をわなわなと震わせながら一点だけを見ている。

 

 ――その者は、いつの間にやら李岳の背後の戸口に立っていた。

 

「うふふ、僕に黙って内緒話?」

 男は皇帝の前だというのに跪きもせず、礼もせず、まるで己が主人かのように御前を歩いた。それを皇帝も蹇碩も見咎めようとしない。皇帝はただ首を振るばかりであり――だが、蹇碩がただの一瞬だけ殺気を漏らしたことを李岳は見逃さなかった。

「ねぇ陛下。僕にご相談もなくこんな謁見開いちゃうなんて、ひどいや」

「違う、違うの――劉岱!」

 劉岱。その名を李岳は心の中に刻んだ――劉岱。

 李岳よりさらに一回りは低い背、青を基調とした豪奢な衣。にやにやと口元に浮かべた笑みは無邪気で明るく子供らしいが、どこか陰惨な影も見える。後ろ手のまま劉岱は皇帝の隣にまで行くと、その顎に手をやって優しく、限りなく優しく撫で始めた。

「落ち着きなよ、陛下。臣下が見ているよ」

「え、ええ……落ちついているわ、落ち着いている……」

「そう、いい子だね……」

「ええ! そうよ、何も、何も悪いことは……」

 劉岱は跳ねた。悪巧みが成功したことが嬉しいのだとばかりに。

「う・そ! 悪い子だ、陛下は。うふふふ。僕に黙ってこそこそするなんて――お仕置きが必要だ」

 その言葉を聞き終わらない内に、帝はまさに乱心としか言い様のない有様だった。

「違うの! これは違うの! あああ!」

 劉岱の哄笑が響き渡る。背を向けて歩き去る少年、その姿が消えるや否や蹇碩は皇帝に駆け寄り肩を揺すった。李岳という男などもう意識の外であった。うなだれて呻きを上げる皇帝は、そのまま力なく支えられた格好で部屋を出ていった。李岳は唖然とし、言葉にすらならない悪寒を御するのに精一杯であった。

 中華の最上位に位置する人間が、あんな少年の一言で取り乱すとは……劉岱。一体どのような存在なのか、そしてこの宮中に巣食う闇の深さとは――虫、という言葉が脳裏について離れない。

 暗黒の宮中で、自我さえ失いつつある哀れな天子。今上皇帝でさえこの有様であるというのなら、漢王朝の神髄はもはや――

(劉岱……調べなくちゃな……)

 だがその決意さえ、今の異常な光景を拝んだ後では固く結び切ることができない。李岳は呆然とした思いで前を見つめていた。

 蹇碩に抱きかかえられて去っていく天子の背中――それが李岳が見た劉宏の最後の姿であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その日から年を隔てて二月後、朝からしんしんと静かな雪が舞い降りるある朝、漢朝皇帝劉宏は何の前触れもなく虚血のために崩御した。享年四十三。孝霊皇帝と諡され、天下はその死に涙した。三日三晩雷雪が吹き荒れ、天すら泣いたと人々は囁いた――乱世が始まるのだと囁き合った。



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第三十一話 新たな御代、思いは交叉せり

 皇帝が崩御した。重たい雪の日、見渡す限り積雪するほどの寒い日のことだった。その知らせを聞いたとき、李岳は誰にも聞こえない小さな声で、一つ目、と呟いていた。

 三国志のようで三国志ではない歪な世界。そこで戦い続けるのであれば、歴史の知識はどうしたって活用しなくてはならない。けれど微妙な齟齬を無視して決断を下せば、自分だけではなく多くの人の死を呼び込むことになるであろうということも、李岳は雁門の戦いにおいて学んでいた。

 重要なのは何が起きて何が起こらないのか、その判別であった。歴史の確度、と李岳は呼ぶ。確度の高い歴史に基づいて行動を起こすのが肝要なのである。すべての事象を把握している、などという傲慢は捨て去るべきだった。大体『三国志』というもの自体、数十年後の人物が聞き取りなどによって得た情報を編纂したに過ぎないのである。過信はあまりにも危うい。

 その中でも特に確度の高い史実を李岳は選り分けていた。拠り所は一つ。皇帝にまつわる歴史である。

 皇帝の生死に関する情報は国の根幹を左右する。どこそこの乱、どこそこの戦いなどに比べて格段に情報の価値が違う。『三国志』を編纂した陳寿も、また他の歴史家も絶対に間違えてはならない個所として考えていただろう。

 史実通りの時期に死んだのか、李岳にはわからない。だが重要なのはその後だ。

 皇帝が死ねば、即位がある。皇太子劉弁である。史実ではそこから劉弁の血筋に依拠した外戚派閥と、旧態依然とした体制派である宦官との間で熾烈な闘争が繰り広げられていくことになる。

 その末路もまた、李岳は知っていた。宦官による大将軍何進の暗殺、それに逆上した袁紹による宦官の虐殺……残りの二つの事件ももう遠くはないだろう。

 この三つの史実こそ、李岳は最も確度の高い歴史だと判断した。もちろん知っているのは間違いなく李岳だけ。なればこそ間隙もあろう、その時こそ動く機なのだ。ただ、どこまでも浅ましい。卑劣なのは自らも決して変わるところはない、と李岳は自嘲した。人の死を願望し、期待している己の卑劣さを、李岳は降り積もった雪のために白く白く塗りつぶされた洛陽の街を眺めながら、苦く苦く噛み締めた。

 

 ――即位式まで間もなく。薄暗い日であった。李岳は声を上げた。

 

「儀礼兵、整列」

 艶やかな色彩の鎧をまとった執金吾麾下一万の部隊が隊伍を整える。練度は高いとは言えない。だが儀礼程度なら勤まるだろう。隊列の指示を下して、李岳は天空を仰ぎ見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曇天。厚い雲は日差しのほとんどを遮っている。昼だというのに薄暗い。吉日である。だが天は人の世の吉を笑顔で迎え入れはしなかった。

 空を仰ぎ見ていた視線を地へと戻した。祭礼を司る官たちが口々に祝詞を謳っている。寒さに震えながら懸命に口と舌を動かしているが、何を言っているのかいまいちよく理解できない。風が強いのである。人々の熱を奪い去る程の強い風である。降り積もった雪をまるでチリのように吹き飛ばしては視界を眩ませる強い風……

 母もこの冷たい風に耐えていたのだろうか、と思うと、どうにもいたたまれない気持ちになる。祖母も、そのまた先代も、偉大な高祖に至るまで全ての(すめらぎ)が! ――順番が回ってきた、ただそれだけの話なのかもしれなかった。

 だが歴代の皇帝の中でも己はことに惨めである。突如崩御したがために急ぎ即位が叶ったが、先帝の遺勅には己ではなく妹を継がせよと記されており、まずはそれを隠蔽するための暗闘をせねばならない――このような哀れで、惨めで、寒く、孤独な席をあのように可愛い妹に押し付けられるはずもない――この席は私のものなのだ!

 気づいた時、祭事(まつりごと)はすでに終わりにさしかかりつつあった。朝廷を支える数千人が一同に居並び祝辞を合唱している。周囲を守るは万を超える禁軍である。少女は玉座に着き、その名を宣言しなければならない。なんという宿業、宿痾(しゅくあ)だ。祝いの言葉は呪いの言葉にしか聞こえない。

 言葉通り、まさに今一人の人間が神に準じるものとして祭り上げられている。この病を、このおぞましき絶望を、一体他の誰に味わわせられるというのだろうか。誰にも譲ることなど出来はしない。ましてや愛しき我が妹などには決して……ああ! この椅子のなんと冷たいこと!

「朕が、新たな皇帝――劉弁である」

 万雷の呪いが世界を覆い尽くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同刻。離宮にて。

 

 劉岱は式に参列することすらなく、自室にて黙考に耽っていた。

 予想外の事態が起こった。まさか皇帝がこんなにも早く身罷(みまか)ることになろうとは。五年生きることはなかろうと思いつつ、少なくとも二年は時間があると踏んでいた。見積もりが甘かったと悔いるところがある。

「ま、悩んでも仕方ないんじゃないかな」

 弟の劉遙が枇杷(びわ)を齧りながら興味なさそうに呟いた。あっけらかんとした性格は劉岱以上で、何かに思い悩んでいる節は数えるほどしか見たことがない。

「はぁ、紗紅。お前のそういうところが時折羨ましい」

「ま、僕は先帝とはあまり関わりなかったからね、他人事だもん。しかしまぁさくっと死んじゃったね。兄様の責めが厳しすぎたんじゃないかな」

「どうだろうな」

 夜のことを思った。先帝……諡号を孝霊皇帝とされた劉宏は、劉岱の手管により籠絡された。不憫な女だった、自らの夫は次代の争いに腐心するばかりで宦官の好奇な視線から身を守る術も知らず、少し手を出すだけでボロボロと崩れ落ちる程の弱さだった。責めるだけ責め尽くした後に、優しく語りかけてやれば何とでも言うことを聞いた。詔勅の一つや二つ意のままにできたのである。

 潔癖な心を保とうとする様もまた劉岱の嗜虐心をくすぐった。特にあの李岳という男と勝手に謁見を持ってからの夜の営みは激しさを、残虐さを増した。直接的な死因というわけではないだろうが、短命に拍車をかけた可能性は否めまい。

「くよくよしても仕方ないよ、前向きに行こう」

「いいこと言うな、紗紅」

「瑠晴兄様に褒められた!」

 嬉しさ余って、劉遙は枇杷を握りつぶしてしまった。飛び散った汁を舐めとりながら嬉しそうに笑い声をあげる。赤い舌がチロチロと掌を這った。

 さて、と劉岱は考えた。とにかく動かねばなるまい。本来ならば先帝の遺児である劉弁、劉協の二名の心に食い込んでから死んでもらわなければならなかった。だがそれを待たずして劉宏は死んでしまった。

(最後の親心のつもりか? フン!)

 もう一度皇帝……今即位したばかりの劉弁の心に食い込むのにはかなりの時間を費やすだろう。となれば田疇の持ち込んできた策を用いる他ない。段取りも何も行ってはいないが、現実的な方向ではあるだろう。

「陳留王の手札を切るかな」

「お。(エン)州刺史」

 陳留は(エン)州にある。今上皇帝の妹であり、英邁と名高い劉協。なるほど、籠絡するのならばこれほど面白い相手もいまい。

 劉岱は再び黙考した。陳留王をかどわかし、手に入れ……そう、そうなれば今の帝は廃し新たな皇帝として据え置くことになるだろう。即位式のその日に廃位のことを考えるとは、なんという不義か! 劉岱は思わず腹を抱えてしまった。陳留王を即位させるべしという動きは蹇碩を使えばよい。仕込みはとっくに済んでいる、劉岱の言うがままに書かれた霊帝の遺勅を馬鹿みたいに忠実に実行しようとするだろう。

「愛とは悲しいな、紗紅」

 そう、あまりに悲しい。それはいつでも無残に打ち砕かれてしまうものだから。

 劉遙は興味なさそうに二つ目の枇杷を剥き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 即位式より五日後。

 世知辛いことに、死は仕事をもたらす。洛陽中に散らばった絵師、彫刻師、金細工師が呼び集められ霊帝の功績を称える作品を(こしら)える。厳粛で哀切な雰囲気に包まれながらも、それに不釣り合いな押し殺したような活気が往来していた。

 新帝即位の祝い事を催すことになるのだからもう少しはっきりと明るくなってもよいのであるが、時宜の情勢というものもある。街は人の目を窺うようなどこか窮屈な活気さで包まれた。

 官軍とて同様である。陰鬱な空気は犯罪や暴動を誘発しかねない。執金吾以下実働部隊として李岳の幕僚もまた多忙な日々を送っていた。

 張遼、赫昭ともに執金吾直属の副官である丞に抜擢された。それぞれ一千石の扶持を賜る立派な高官である。二人ともとんとん拍子の出世に現実感が湧かないらしく、目をぱちくりさせていた。だが嬉しいことばかりではなく、幕僚の選抜から面通し、配属の手配に至るまでの手続きで皆きりきり舞いになった。令、侯、都尉をはじめそれぞれに副官がつく。それをいちいち選抜するのは多大な労力を用いるが、洛陽の現状を見るに適当な人員を放り込むことも厳しいものがある。

 仕事は山積している。が、その全てが事務仕事であるが故に、并州からやってきた実力集団は途端無力化し、何もなせぬ烏合の衆と化してしまった。

(予想以上の脳筋集団であった……)

 そもそも書類仕事をやる気のない張遼、やる気はあっても一枚の書面を読みほどくのに半日かかってしまう赫昭……彼女たちに官吏としての能力を求めるという方が酷なことであり、不適材不適所でしかないということを早々と察した李岳は、単身まさに忙殺としか言い様のない日々を送っていた。

 二人には兵の訓練に没頭してもらう方がよい、と李岳は判断した。霊帝の葬儀、続いて行われる新帝の即位式においても執金吾は儀仗兵の役割を兼ねたが、いかにも警備兵どまり、というものであった。この兵たちを従えて戦に臨む勇気は李岳にも張遼にも赫昭にもなかった。

 だが事態は切迫している。黄巾賊の跋扈は日に日にその酷さを増し、李岳に出撃命令が届く日も遠くないのである。だが就任早々部隊編成は遅々として進まず、李岳軍は発足して間もなくにして既に戦線崩壊の危機に直面していた。

 董卓と賈駆に頼み込んで何とか数人の文官を派遣してもらいはしたが、彼、彼女らはあくまで李岳の命令を聞くだけであって判断を下したり提案を寄越したりすることはしない。裁可に立案、その全てを李岳が行わねばならず、食事の時間さえままならない。

 丁原にも頼ることはできない。解任された人を頼る現職など笑い話にもならない。権威は失墜し部下は言うことを聞かなくなるだろう。

 そのあたりの事情などとっくにわきまえているのか、丁原自身も全てを岳に委ねたようで手伝うつもりもないようだ。今もちょうど庭で剣を構えている。もう二刻も一つの型のまま微動だにしていない。冬の冷気の中でただ一つもうもうと湯気を立てている存在が丁原の肉体だった。

(……母さん、釈放されてからずっとあんな感じだな。一武芸者に戻ったというか)

 わずらわしさから解放されたのならそれにこしたことはない、と李岳は束の間頬杖を突いた――丁原の様子に覚えたわずかな違和感、それをしっかりと考察しなかったことを、この後李岳は一生後悔することになる。

 閑話休題。李岳に攻勢をかける敵の攻めは怒涛の勢いであり、今もまた新たな増援が襲来していた。

「李岳将軍、兵糧の手配なのですが」

 束の間の考え事さえ許されない。山と積んだ竹簡は増殖の一途であり、事実先程から全く減ってはいない。未決済の案件を持ち込む文官はすでに長蛇の列と化している。

 武官の真似事のようなことをここ数ヶ月はしてきたとはいえ、実際に差配する立場になったのは今回が初めて。執金吾などという高官にもなると手配しなければいけない要件は山とあり、なおかつ時間も足りない。敗戦も間近なのではないかと、天を仰いだ李岳であった。

 

 ――少女が単身李岳の執務室に突撃してきたのは、そんな窮地においてであった。

 

 ドカンと扉を蹴破り、ノッシノッシと大股で先頭の文官に歩み寄ると、竹簡を強奪。フンフンと鼻息を荒くしながら数秒読み込み、そしてキリリと面を上げると李岳に向かって怒鳴り散らした。

「兵糧の備蓄は少々割高でも市場から買い集めるのが手っ取り早いと愚考しますが冬至殿はいかにお考えでありますか!」

「……えっ、え、あ、ああ」

「了解を得た! すぐさま取り掛かるべしなのです!」

 答えを聞いた文官は少女の勢いにのまれ、何一つ悪いことはしていないというのに頭を下げて詫びを入れる。まずは敵の増援を食い止めた。だが劣勢なのは変わらない。少女――陳宮の勢いは止まらない。敵陣を打ち破る好機は今まさにここであるとばかり。

 山積した書類を目につく端から拾い上げると、陳宮は案件という案件を千切っては投げ千切っては投げた。

「急務は騎馬隊の充実であります、厩舎の設立は兵舎のそれより急がせるよう現場のものに伝えるべきだと考えますです! 執金吾就任祝いは陛下が身罷られた由を考え却下、武装は宙ぶらりんになった西園軍の余剰を回してもらうよう手筈を整えるべし、そのためにも秩石二千石の支給をとっとと急ぐように董卓殿に使いを出すのです。何より李岳軍の幕僚を揃えるのが目下最優先事項、即刻布告を出せなのです!」

 まるで単騎で戦陣を突破する一騎当千のもののふのように、陳宮は山と積まれた書類と案件を抱えた官吏の群れを一掃してしまった。最後の一つを鋭利な刃物で切り捨てるように決済し、背丈を超えんばかりの竹簡を抱えた文官を蹴りだすと、再び李岳に向き直って絶叫した。

「一体、何をしているのでありますかーーーーー!」

 その声は六軒隣の屋敷にまでとどろいたという。過去に相対した匈奴の王以上の迫力である。迸る気炎、吹きすさぶ風圧に李岳は思わずのけぞった。

「ねねにあまり心配をかけさせて欲しくない、といつも言っておるではありませんか!」

「面目ない……」

 陳宮は一度周りを見回した。ここで書類を片付けたとしてもまた再び重なるだろう、そして目の前の男はきっと音を上げまいと一人で頑張るだろうが、最後は致命的な事態になって倒れるに違いない。この男は誰かが見張っていなくちゃいけないのである――陳宮は己と李岳との初めての出会いの日を反芻した。

 

 ――瀕死であった、自分も、友である犬の張々も。偶然であれ気まぐれであり、友と合わせて命を救ってくれたのが李岳なのである。

 出会ったきっかけは運以外の何物でもなかったが、李岳という男が確かに自分を救ってくれたという事実は揺り動かしようがない。陳宮のそれまでの暮らしは惨憺を極めた。放浪に次ぐ放浪だった。安住の地などどこにもないかと思えた。飢えと渇き、そして孤独……ひもじさに耐えかねて、よからぬことを考えたことも一度や二度ではない。

 廃屋で横になり、この世の終わりか、これが死か、と覚悟を決めかけたその時、不可思議な匂いが陳宮の鼻を突いたのである―のちに聞くところによると、天竺鍋という料理であるらしい。

 無我夢中で平らげ、鼻水と涙でよくわからないことにさえなっていたが、確かに美味しいと思い、こんなに美味しいものを食べることができるなんてきっと自分は死んでしまいあの世に行ってしまったのだ、とさえ思った。

 食べると、気を失うように眠ってしまい、次に意識を取り戻した時には洛陽の邸宅であった。飛将軍李岳。その時はじめて自分を助けてくれた男の名前を知った。

 暖かな寝台には自分だけではなく、穏やかな顔で眠っている張々も一緒であった。それを見たとき、ああ、一生を賭そう、と陳宮は心に決めた。一生を賭すに値する恩である、と。真名の交換も何一つ迷いはしなかった。

 だが李岳は陳宮の助力したいという思いを拒み続けた。他愛のない人生を過ごすことを陳宮に強い、自らは過酷な道を歩まんとしているというのにその後を付いて歩くことを頑なに拒否し続けるのである。

 危険だ、他によりよい生き方がある、無理する必要はない――何度耳にしたことだろう!

 あの救いを、あの時の自分の気持ちを、この男は侮っている。その恩を返そうとすることを拒みただ安寧を頂戴することの何と辛く苦しいことか! 大したことをしていないと言うのは構うまいが、それが過ぎたるはこの感謝と誇り、そして友である張々の命を軽んじることにまでなるのである!

 

 ――もはやこの期に及んで一刻の猶予もない。不退転の決意を胸に、陳宮は李岳の前に敢然と立ち、跪き、手を合わせた。

 

「姓は陳、名は宮! 字は公台! 真名は音々音! 心の友である張々と合わせて命を救って頂いた恩義を返す時は今ここと心得ましたなのです!」

「ねね……」

「冬至殿のお気遣いは重々ありがたいのですが、ねねだけみそっかすにされるのは我慢の限界なのです! この陳宮の覚悟をお疑いなのであれば、冬至殿にはこの先何かを成す器量はないと断じさせていただくのであります。ていうかまずそんなことより、これ以上まだごちゃごちゃおっしゃるのであれば天下にその名を轟かせる『ちんきゅうとびひざげり』が火を吹くのですよ!」

 顔を真っ赤にして涙目、唇を噛んで陳宮はじっと李岳の瞳を見据えている。覚悟の瞳だった。李岳は心から反省した。この少女の力と誇りを見誤り、侮辱した。自分はこの少女をもっと信頼すべきだったのだ……

「ちんきゅうとびひざげりか……そいつは痛そうだ」

「とっても痛いのです!」

「――じゃあ仕方ない。助けてくれるかい、ねね」

「御意のままに!」

 立ち上がると、陳宮は今一度ガバっと勢い激しく頭を下げ、そして部屋を出ていった。大声で文官に指示を出しながら、執金吾の職務を支えるのは我であると。

 

 ――これより後、陳宮は李岳率いる軍勢の兵糧や武具などの兵站をはじめ、軍事行動に不可欠な事務や内政を一手に引き受けることになる。彼女がいなければ李岳のその後の活躍はありえなかったとまで言われ、李岳自身も後に太祖劉邦を支え続けた王佐の才、稀代の名宰相に喩え「我が蕭何(ショウカ)」とまで評することになる。司空の地位にまで上り詰めるのはまだ大分先の話ではあるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 庭先で剣を握ったままの丁原は、その様子を眺めてかすかに笑顔を浮かべた。子には友がいる。それを知ることができる喜びよ。

 構えを解く。全身を気力が這いずり回り、飛び出さんとするほどに充実していた。

 獄に投じられ、日々を座して瞑目し、ひたすら剣技のことばかり考えた。李岳の働きかけと董卓の手引きにより、獄より出でて董卓の屋敷にて謹慎することになってもその日々はさして変わらなかった。目を瞑って考えを締め出し、剣を握ってただ立ち尽くす。

 師から伝えられた撃剣の技はすべて修めた。師は丁原に向かって言った。後は自らを充実させるのみである、と。并州刺史となり軍権を戴くことになっても、日々の修練を欠かしたことはない。

 汗を拭いて丁原は上着を着替えた。熱気は雪さえも溶かすのではないかと思えた――約束の時間となっていた。

 堂々と正門から出て、真っ直ぐ目当ての屋敷に向かった。飯店であり、流行っているのか流行っていないのかよくわからない店だが、味は悪くはない。扉を潜った丁原に向かって店の主が愛想なく言った。

「何が食べたいんだい」

「白い饅頭と赤い饅頭」

「数は」

「四つと二つ」

「時間がかかる。奥の部屋で待っててくれ」

 通された部屋でしばし待った。出された茶は相当に高価なものと思えるほどの華やかな香りであった。

 待ち人は四半刻と経たずにやってきた。丁原は立ち上がると剣を床に置き、跪いた。

「よい。面を上げよ」

「はっ。ですが」

「よいのだ。今ここにいるのは豪商の娘だ。世間知らずの箱入り娘で、ことさら畏まる必要はない」

「……はっ」

 丁原は顔を上げたが、やはり直視することにはいささかの抵抗があった。華奢な体、陳宮より少し高い程度の背丈だろうか、おそらくもっとも地味な着物をまとってきたのであろうが、布地の質などには疎い丁原であっても目を瞠るばかりの逸品だった。

 火竜の如き赤い瞳、艶やかな黒い髪は腰にまで流れ世の穢れなど何一つ知らないかのよう。

 先ごろ即位したばかりの漢朝皇帝、劉弁その人であった。

「よう来た」

「はっ」

「座れ」

 いわれるがままに丁原は椅子に腰かけた。帝も同じように座っているが、背丈が足りずに足が浮いている。微笑ましい姿ではあるが、背に汗が滲む程の迫力を漂わせており歴戦の丁原さえあわや圧倒しかけた。覚悟を持つ者にしか宿らない気迫である。

「既に知らせは届いておるな」

 丁原は首肯し、帝の背後に佇む少女に目を向けた。

 皇帝が皇女であった頃から陰日向に侍り、その孤独や悲しみを癒してきた少女。先ごろ内密の手紙を丁原にまで届け、此度の極秘裏の謁見もこの少女が整えた。

 少女は相反する葛藤に苛まれていることを隠し切れていない。その目は見る者を否応なく悲しませる、昏い昏い輝きがあった。丁原はその侍女をよく知っていた。誰一人として傷つけたくはないという優しい心を持っていることも知っていた。丁原を危険にさらすことに戸惑いがあるのだろう、このような武骨な己を慮ってくれるその優しさ……丁原の胸の内を温かいものが満たした。

「先帝を侮り、辱めた輩どもの手が朕……私にも伸びつつある。だがそれすら待てずに私を廃し妹を立てようという動きも……先帝を、我が母様を愚弄し、遺勅を作らせた。帝にふさわしきは私ではなく、異父妹の劉協であると!」

 カッ、と喉を熱いものが駆け抜けた。何という不遜か、皇族をまるで物のように右に左に()げ替えようとは! 丁原は震えんばかりの怒気を何とか収めることに成功したが、織のように燃え燻る怒りは変わらずに内心に蠢いた。

「丁建陽。勅じゃ。我が帝位を脅かす者を討て」

「必ずや」

「母様の遺勅は……宦官の蹇碩のもとにある」

 動揺が丁原の心を揺さぶった。日々修練を積んでよかった、と丁原は思った。この動揺が体の表に出ることはなかったから。

 丁原は頭を垂れて、その勅を戴いた。恭しく受け取った丁原を見て、帝は踵を返して部屋を後にした。即位して間もなく仕事も山積しているであろう、長居できる余裕などどこにもないに違いない。それでもこうして自ら足労して直接顔を合わせて勅を下した。丁原が思っている以上に今の皇帝は孤立しているのかも知れない。

 天からの指示である。もはや否やはない。取り残された丁原はしばらく部屋で冷めた茶を楽しんで飯店を辞した。代金はすでに払われていた。

 通りを行く。かすかな緊張と興奮が丁原の胸を熱く焼いた。肩で風を切るようにして歩き、やがて角を曲がったところで丁原は足を止めた。

「丁建陽さま……」

 帝に侍ることも擲って少女は戻ってきた。思わず苦笑して丁原は歩調を合わせた。

 涼州の豪族の長として祭り上げられ、幾多の戦いに担ぎだされた。その様に同情し、柄にもなくお節介を焼いたこともある。今では中央で一定の戦力を保持する大御所とさえ言え、執金吾を解任された己より遙かな有力の諸侯の一人として数えられている。

「このようなところで何をしている」

「……あの」

「陛下に侍らずよいのか」

「あの……お許しは得ました……」

「なら、よい」

 上手く言葉にならないのか、少女は黙って丁原を見上げてくる。責めているような、同情しているような、よくわからない目だ。憂いていることだけははっきりしているだろう。

「そなたはそなたの務めを果たせ。私も私の務めを果たす」

「……蹇碩様は剣の達人と聞きました……」

「知っている。誰よりもな」

 私の言葉に少女は小首を傾げた。だが聞いてはこなかった。覚悟が伝わったのだろう、と丁原は思った。

「李岳くんには……」

「言わん。そなたも言うな」

「け、けど」

「あの者は私を守ろうと動くだろう。それは私の本意ではない」

 自分と李岳との関係を少女に伝えたことはない。だがどこかで察するものはあるのかもしれない。ある種の絆、情、思いといったものは自分の予期せぬところで零れてしまう。まだまだ修行が足りない。この未熟な己が木鶏たり得ることはあるのだろうか。

「私は蹇碩を討つ。その知らせをお待ちください、と陛下にお伝えせよ」

 そう述べて、丁原は歩幅を戻して通りを歩き始めた。少女――董卓はもはやついてこようとはせず、ただ背中を立ち尽くし背中を見送るだけであった。



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第三十二話 産声、そして……

 悪夢で目覚めた。

 夢の中身はさっぱり覚えてはいない。だというのに李岳は言いようのない悪寒に苛まれ、まだまだ寒さの厳しい朝だというのに汗だくで飛び起きた。

(……今日は模擬戦だってのに)

 ここしばらく、張遼と赫昭によって鍛えあげられてきた新兵たち。その訓練の総仕上げとして紅白戦が予定されている。総大将として李岳も参観するのだが、寝ぼけ眼をこするのは当然不味い。

 しかしもう一度寝ようと横になっても、どうにも寝苦しく落ち着かない。夜明けまでまだしばらくありそうだが、部屋着のまま李岳は水を求めて外へ出た。戸の外は暗く、月明かりも届かない。

 洛陽の町も暗闇に没している。宮殿にほど近い屋敷をあてがわれているので市場からも遠く、喧騒からはほとんど隔絶されてしまっている。静かだった。山の方がいくらも騒がしく活気に満ちている。李岳は瞳を閉じて雁門の山を思い浮かべようとしてみたが、うまくいかなかった。洛陽にやってきて半年以上経っているが、心の底から安心して暮らすには後どれくらいの時が必要なのだろうか。

「誰だ!」

 不意の誰何に李岳は振り向いた。明かりを持った兵士が隙なくこちらに近づいてくる――赫昭であった。

「――李岳様でしたか」

 失礼いたしました、と赫昭は頭を下げた。左手に明かりを持ち、剣の柄にかかっていた右手を放した。

「赫昭もこんな時間に何を」

「何をとおっしゃいましても。警備ですが」

 確かに他に何をするという格好でもないだろう。具足姿に明かりである、宵闇の散歩にしては備えがいかめしすぎた。

「……いやそれはわかってるんだ。じゃなくてさ、君は警備される側だと思うんだけど」

 仮にも執金吾の副将である。それなりの高位に就くものが直々に夜の歩哨に立つなどと聞いたことがない。

「御味方を守るのが自分の仕事です。これは自分の責務であります」

「もしかして、毎晩君が?」

「……いけませんでしたか?」

 いけないことはない、いけないことはないのだけれど――シュン、としおらしくなってしまった赫昭に途端李岳は何も言えなくなってしまった。あー、と誤魔化すようにあさっての方向を向きながら答える。

「暗殺の守りは廖化が担当してくれてるはずだけど」

 話のずらし方がうまくなかったか、と李岳は赫昭の顔を見て思った。途端に赫昭はブスッと顔をしかめてそっぽを向いている。無表情のようでその実誰よりも感情豊かでわかりやすい。思わず笑ってしまうほどの素直さだった。

「な、何がおかしいのですか」

「い、いや……なんでもない……」

 贔屓目なしに考えた時、李岳がこの洛陽において最も頼りにしている者は廖化であった。黒山賊の選りすぐりを率いて情報収集、工作活動、警備などを担ってくれている。

 并州の豪商、永恭という架空の人物を作り上げ、その主人の信頼厚き男として廖化は堂々と洛陽を出入りしているのだ。李岳の使う影の者たちの呼び名も自然と『永家の者』と呼ばれるようになった。報酬は銭と情報。黒山賊にとっても洛陽の情報は喉から手が出る程欲しいのだ、李岳という楔は利用価値が高いのである。

 実際に商売も行い李岳とも物品のやりとりを交わしているので疑われることはまずない。どういう技か、彼の顔に刻まれた傷も余人を交えるときには綺麗に消え去ってしまっている。

「盗賊の助力を得るなど」

 潔癖だった。美点だろう、武人でなければ。頑ななのだ、この娘は。

(赫昭は黒山賊をよく思ってないのか。当然と言えば当然だけど……仲間内に含むところがあるのはよくないな)

 岳は縁側に赫昭を誘った。汗も引いて冷気が心地よいくらいであった。酒が欲しくなったがきっと彼女は顔をしかめるだろう。

 はじめは躊躇っていたが、李岳が何度か頼むと赫昭は静々と隣に座った。照れているのか、表情は前髪の奥に隠れて見えない。

「赫昭は廖化が嫌いかい」

「……命令であれば従います」

 横顔には不本意と書いてあった。

「そうか……ところで、洛陽暮らしには慣れた?」

「別段、不便はありません」

「俺は、一向に慣れないんだ」

 赫昭が意外そうな目で李岳を見つめてきた。次に不本意な表情をするのはこちららしい。

「なに、なんでも上手にこなすと思ってた?」

「は、はい」

「気が気じゃなかったよ。少し痩せたくらいだ」

「……」

「赫昭がいなければ、耐えられたかな」

「そんな」

 雁門の戦いからこちら、洛陽で共に辛酸を舐めた仲間たち。張遼と二人、李岳の後押しを躊躇いもせず日々盛りたててくれている。

 軍とは名もなき将兵からなる。その中で名実ともに英雄といえる張遼が文句の一つも言わず従い、階級などない兵卒一人一人にまで声をかける赫昭の献身があったからこそ、李岳たちは一塊に結束できている。李岳一人では、いくら飛将軍の末裔と吹いたところで若造と舐められ相手にされないのが関の山なのだ。

 今では陳宮が雑多な事務を手伝ってくれ、時によき相談相手にもなってくれる。それに洛陽における身の振り方も廖化がいなければどうなっていたかわからない、有象無象相手に言い様にあしらわれてしまっていただろう。

「本当だよ。それにもちろん霞、ねね、廖化殿……みんなのおかげだ、本当にそう思うよ。みんながいたから、丁原様もお救いできた」

「違います、李岳様がいたからです。自分たちだけでは何も出来ません……張遼殿もそう言ってました! 自分も、廖化殿に思う所もありません!」

「なら、よかった」

「はい! ですので、元気出してください!」

「……はい」

 

 ――元気だせ。

 

 慰めているはずがなぜか勢いに負けて慰められてしまった。しかもそれが元気出せ――いけない、と思ってもどうにもツボで、岳はじわじわと腹の底がくすぐられるのを感じた。やがてその疼きは耐え難いほどになり、とうとう爆笑に至った。

 夜中であることを思い出して我慢しようと必死に口元を抑えるが、どうにも笑いは止まらない。赫昭は顔を真っ赤にして怒っている。

「な、なにが面白いのですか!」

「く、くくく……くはは! 元気! 元気って!」

「そ、そんな、ふ、笑わなくても……ふふふ」

 釣られたように赫昭も笑いをこぼし始め、とうとう二人してみっともなく腹を抱えた。ホーホー、と梟の夜泣きを背景に、縁側に転がって『飛将軍』と『雁門の盾』が幼子のように転げまわる。ひとしきり騒いでから、二人は息も絶え絶えに体を起こした。

「はぁ……笑わせてくれるよほんと。はーもう、だめだ、笑った」

「わ、笑わせたのは李岳様じゃないですか……あーもーやだ、私、涙が出てきちゃって……」

「――私!?」

 すわ一大事、とばかりに李岳はその場に立ち上がった。私、私! 何度か呟きながら天与の機会に感謝したように拳を握りしめる。

「な、なんですか」

「いま、私って言った! いつも自分、っていうからいつでもそうだと思ってたんだけど、やっぱり普段は違うんだな」

「あっ! やだ! ち、違うんです。や、やめてください! 自分はそんなんじゃないんです」

「いいじゃないか、私。変じゃないよ」

「……いいえ、自分は軍人ですから。日々是戦場なのです――今は油断しました。不意打ちです。笑殺の計です。武士の風上にも置けません。最低です」

「……ひどくない?」

「仕返しです!」

 べーっ! と舌を出して赫昭は立ち上がった。

 李岳は内心ほっとしている自分に気づいていた。どこか無理をしている、無理をさせてしまっている――赫昭を見る度にそんな自責の念にかられていたのだが、こうして年相応の乙女の表情も出来るのだ。

 宵々、東の空が白み始めていた。わずかに眠る時間はあるだろう、李岳は少し軽くなった腰を上げた――なんだ、自分も慰められてるじゃないか、元気づけられてるじゃないか――赫昭の表情もまた、どこかすっきりした様子。

「さあ、じゃあもう寝ようか」

「はい、もう宿直が回る時間です。自分も一休みします」

「うん、おやすみ」

 そう言って踵を返そうとしたとき、赫昭がひときわはっきりとした声で告げた。

「李岳様。明日の紅白戦、自分が勝った時は、一つだけお願いを聞いていただきたいのです」

「なに、急に改まって」

「――お願いを、聞いていただきたいのです」

 真摯な瞳だった。羞恥に耐えているような、それでいて怯えているような――それらを飲み込んでの決意の声。

 李岳もまたしっかりと彼女に向きあって、うん、と頷いた。

「わかった。勝てば聞こう」

「ありがとうございます――明日は、勝ちます」

 力強い声だった。五分五分の条件での野戦である。普通に考えれば分があるのは張遼だろう。だが赫昭の意気込みは並々ならぬ。ひょっとすると番狂わせもあるのではないか、と李岳は自室に戻りながら考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼下、二つの軍が猛然と砂埃を上げて移動している。向かって右が張遼、左が赫昭率いる部隊である。それぞれ五千、うち騎馬が五百である。二人がここしばらく心血を注いで鍛えあげてきた兵たち、その訓練の総仕上げとも言うべき模擬戦であった。

 兵数も兵科も揃えており、両者の指揮官としての質が問われる一戦でもあった。攻めの張遼に守りの赫昭。開戦を伝える銅鑼の後、当然のように陣から突出したのは張遼であり、一方の赫昭はその進軍を見てから陣形を柔軟に変化させ受けようとする。

「これはこれは、特等席で見応えがありますな」

 李岳の隣に座している廖化が絶景絶景、と感嘆の声を上げた。戦場を見下ろす小高い丘の上、日よけの陣幕を張って李岳以下、丁原、董卓、賈駆、陳宮、廖化が居並んでいる。董卓と賈駆は丁原が招いたのであるが、董卓はいいとして賈駆などは廖化を訝しく眺めている。并州の富豪の永家の人、という説明など毛頭信じていないという風である。まるで手品のような真似をして一日にして執金吾の地位を掠め取った李岳――賈駆の警戒心はとうとう頂点に至っている。

 李岳としては丁原の釈放にかなりの尽力を頂戴していたので、二人に対する不信はかなり拭い去られている。そのように邪険にせずともよいのであるが、いやはや三枚目はつらい、と頭をかく以外にない。

 知ってか知らずか――いや、そんな皆の思惑などとうに知っているだろう。だからこそ面白いのだ、と言わんばかりに廖化は手を叩いて模擬戦を喜んでみている。逐一ガンを飛ばす賈駆に李岳はため息をこぼさずにはいられない。

「お人が悪い」

「何の話で」

「煽るのやめてくださいよ、後で収拾つけるの私なんですからね」

「責任者ってのはつらい仕事ですな……お、張遼将軍が突っ掛けましたぞ」

 他人事だと思って全く――李岳はため息を飲み込んで戦場に目を戻した。

 張遼は五百の騎馬隊だけを率いて、赫昭の方陣の角を抉りとるように突っ込んでいった。先頭に立つはもちろん張遼自身。刃引きをしたとはいえ武器である、迫力は十分であり迂闊にうければ大怪我をする。両軍からは盛んに声が発せられていた。

 張遼の突撃に対して赫昭は柔軟に陣を変化させた。方陣から円陣に形を変えて突撃の威力をうまく殺している。深入りをすればさらにそこから鶴翼に移る構えを見せているので攻め手も大胆な攻撃に移れない。

「ふふん、流石の赫昭なのです!」

 まるで自分の手柄だとでも言うように陳宮は胸を張った。

 赫昭と陳宮は二人で夜ごとに『孫子』の読み解きを行なっていた。李岳も時間を見つけてはなるべく参加しているのだが、どうにも二人は馬が合ったらしく、読み解きの会は途切れる気配もなく続いている。既に孫子に限らず何冊もの書が読破されたとのこと。

「ふん! 張遼の攻めはあんなものじゃないんだから! あれで凌ぎ切ったと思っているのなら甘いという他ないわね」

 賈駆がそれに張り合うように張遼を推す。『涼州の乱』において董卓軍の助力に駆けつけた張遼――賈駆とは長征の辛苦を共に分かち合った仲だ、恩や貸し借りとは別に情もあるのだろう。賈駆の後ろでは董卓までもが控えめにコクコクと頷いている。

 その言葉にカチンときた陳宮が席から立ち上がると賈駆に向かって詰め寄った。

「だ、誰が甘いというのですか!」

「今まさに大声上げてる誰かさんね」

「むっ! むっ! むううう!」

 いがみ合う二人とは裏腹に、干戈を交えている両将は冷静そのものであるらしい。騎馬隊のみの攻撃では総攻撃の端緒を得られないと判断した張遼は颯爽と後退した。赫昭からすれば深追いしたくなるような憎らしい機の見極めだったろう。だがその誘惑に耐え、赫昭は陣を整え直した。

 歩兵の本陣と合流した張遼は今度は本陣を前に押し出し、騎馬隊を左に置いた。赫昭もまた鏡写しのように同じ陣を敷く。両軍はそのまま前進した。正面衝突――練兵の精度を確かめてみようというような展開である。

「むっ!」

「おおお」

 いがみ合っていたはずの賈駆と陳宮も、正面から激突している軍勢の迫力に思わずつかみ合ったまま呻きを上げた。確かに目を奪われてしまう程に両軍歩兵の攻撃は統制がとれており迫力も十分であった。

 并州兵のように猛烈な騎馬隊の威力は持っていない。だが戦を決めるのはほとんどの場合歩兵なのだ。騎馬隊は維持も運用も難しい、堅固な城壁に対しても無力である。戦の正道はやはり歩兵なのだ。

(并州兵とこの歩兵が合わされば……)

 そう考えているのは李岳ばかりではあるまい。陳宮と取っ組み合った姿勢のままの賈駆、その瞳に炯々とした輝きが灯っているのは李岳は見逃さなかった――食えないやつだ、いっそ清々しいまでに!

「お。騎馬隊が動き出すようですな」

 赫昭右翼側の騎馬隊が側面を突こうと動き始めた。それを牽制するように張遼の左翼が突出し始める――が、それは罠だ。岡目八目、高みにいればその動きの真意がよく見て取れる。赫昭は張遼を含む騎馬隊を戦場から離して無力化しようとしているのだ。

 今しがたは切り崩せなかったとはいえ、張遼が先頭に立った騎馬隊の攻撃力は半端ではない。逆説、張遼のいない歩兵同士ならば勝機があると赫昭は考えた。騎馬隊の動きさえ止めれば歩兵では圧倒できるだろうと見込んでいる。敵の強力な戦力を無力化し、此方の強みである歩兵を活かそうとしている。まことに孫子に忠実な戦術と言えるだろう。

 対して張遼は敵の騎馬隊を粉砕すれば一気に包囲できる好機でもある。が、歩兵の救援に向かおうと背を見せれば追撃を喰らうが故に騎馬隊同士の決戦に固執せざるを得なくなった。既に泥仕合に突っ込んだと見ていい。

 

 ――赫昭は時間稼ぎさえ出来ればいいと考えている。その前提が生きた。両者の騎馬隊が徐々に戦場の中心地から逸れていく。勝敗の決定は歩兵の戦力の趨勢にかかったように一目判断できそうであった。

 

「赫昭! 素晴らしい戦術なのです! ねねの教えの賜物!」

「な、なにしてんのよ張遼! あんな見え見えの陽動に引っかかるなんて!」

 掌をつかみ合ったまま、陳宮がグググッと賈駆を押し返している。賈駆はあわや押し切られんばかりになっているが、プルプルと震えながらもまだ耐えていた。一体何の争いだろう、とはもちろん当の二人を除いた全員が感想を一致させている。

「見え見え、というのはここから見てるからだな。実際に戦う身であれば、あれは、嵌るよ」

「緻密な用兵ですな」

「……考え抜いたんだろうな」

 勝ちます、という赫昭の声が再び耳朶を打った気がした。

「さて、これで決まりですかな」

 廖化があご髭を撫でながら呟いた。李岳もそれに同調するように頷きを返す。

「ええ、決まりました」 

「では李岳殿も赫昭殿の勝ちだと?」

「……いいえ、張遼の勝ちです」

「ほう?」

 意外そうな廖化である。

「騎馬隊は戦場を離れつつありますが……では張遼殿が瞬時に相手を粉砕して舞い戻ってくると?」

「それは難しいでしょう。同数の騎馬隊で練度も同じです。無理ですね」

「では」

「歩兵だけで、張遼は赫昭を圧倒するでしょう」

 廖化は解説しろ、と目が訴えかけた。李岳は肩をすくめるだけにとどめた。

「ま、ご覧になっていればわかります」

「そうですか。それでは、お手並み拝見」

 一体誰のお手並みを見るのやら、廖化は李岳の予想が当たるかどうかの方に興味を移したようだった。

 本陣の方はがっぷり四つ、真正面から打ち合う堂々たる戦いの様相を呈してる。若干赫昭が押しているように見えるのは思惑通りに運んだという意気込みの表れか。騎馬隊は既に戦場の中心地から離れてしまっており、攻防は一進一退というところであった。

 もう十分に離れてしまったと赫昭は判断したのだろう、歩兵の布陣を一気に左右へと展開した。包囲してしまおうという目論見である、基本に忠実でありながら隙はない。戦線を維持したままじわじわと陣形を変えていく手際は見事という他なかった。

「決まったのです!」

 陳宮が勝利の凱歌を上げ、そのまま賈駆を押し倒してしまうほどにのしかかったその時――歩兵の戦線の均衡は突如として崩壊した。

 張遼側の歩兵がまるで獣の群れのように前線を打ち破ると赫昭の部隊へ雪崩れ込んだ。その様は食い破った、としか言い様のない激しさで今までの接戦は何だったのかと思うほどに一方的であった。左右に広がった瞬間を見極めての突撃、機の見極め見事という他ない。

「やったわ張遼!」

「な、なぜ!」

 今にも地に膝を突くのではないかと言うほどに押されていた賈駆が、今度は陳宮を完全に押し切っていた。趨勢はまさにその二人が表すままであり、張遼部隊は結局そのまま赫昭部隊を押し切り戦場を完全に制圧してしまった。ぎゅむぅ、と声を上げて地に沈んだ陳宮こそ哀れ。

「終了の銅鑼を」

 李岳の合図に銅鑼が打ち鳴らされた。その音が原野に響き渡るや否や全軍は整然と列を成して撤退を始めた。負傷者の確認と治療、そして帰投までが訓練である。

「……ご説明いただけるのでしょうな」

「何がでしょう」

「焦らすたぁお人が悪い」

 李岳は何のことはない、と肩をすくめて笑った。

「難しいことなどありませんよ。赫昭は騎馬隊を戦場から離して無力化しようとした。ですがそれは張遼の思う壺だった、というだけのことです」

「お待ちくだされ。張遼殿の攻めは騎馬隊頼りじゃあないんですかい?」

「そうですね。それを逆手に取ったのです」

 うん? と廖化は束の間考えたが、やがて合点がいったように手を打っては笑い声を上げた。

「こいつぁ、してやられた」

「お分かりになりましたか」

「張りぼての騎馬隊だったとはね」

 廖化の理解に李岳は満足そうに頷いた。張りぼての騎馬隊。上手いことをいうものだ。

 

 ――真相は単純明快。張遼は騎馬隊を率いていなかったのだ。

 

 張遼はまず自分の騎馬隊の攻撃力を見せるために先頭に立って突っ掛けた。陣を変えて対抗してきた赫昭を見て、騎馬隊をかなり警戒していることを把握する。そして本隊と合流したあとはこっそり歩兵に隠れ、騎馬隊は他の者に任せる。赫昭が騎馬隊を離してくる、あるいは真っ先に潰してくることまでを読み、あとは相手が攻めに転じた隙を突くまで潜んでいたのだ。

 自分の実力を正当に測り、相手もまた同じく測ってくるだろうとまで読んだ張遼の用兵が一枚上手だった、と評していいだろう。

 見れば折よく張遼と赫昭もやってきていた。上機嫌の張遼に口惜しいとばかりに唇を噛んでいる赫昭の好対照が何よりの象徴だろう。二人へのまとめは李岳の仕事である。

「霞、お見事」

「いやーっはっはっは! せやろ! もうほんま……せやろ! もっとゆうて!」

「騎馬隊で突撃しておいて、後でこっそり歩兵の方に隠れるなんてよく思いついたなあ」

「ま、一筋縄でいかへんのはわかっとったからな。どうにかして騙くらかさなあかんと、これでも頭ひねったんやで?」

 花を持たせている、というわけではないだろう。張遼もまた赫昭の力量を正確に推し量っていた。騎馬隊を離れさせずにただの力押しできていたのであれば際どい勝負になっていたはずだ。張遼もまた賭けていたのだ。

「赫昭、惜しかった」

「……はっ」

 慰めの言葉は逆に辱めとなろう。李岳は昨夜の約束を頭の奥にそっと仕舞って背を向けた。

 李岳が歩き出すと、張遼と赫昭、続いて廖化と陳宮が付いてくる。丁原と董卓、賈駆は天幕の中で座ったままだ。

 李岳は全軍の前に立った。息を荒げているもの、肩を貸されてようやく立っているもの、無傷なものは誰もいない。それほど厳しく鍛えぬいた。李岳の指示した訓練の内容は張遼すら唖然とするほどのものであったのだ、脱走するものも少なくなかった。

 だが新兵だからこそ鍛えぬかなければならない。実力も自信も曖昧なまま戦場に放り出せば死が待ち受けるのみなのだ。

「厳しい訓練、よく耐え抜いた」

 応、と威勢のいい声が返ってきた。その声までもが初めの頃より野太くなったように思える。男女を問わず多くの戦士がここにいる。この中から少なくないものが死ぬだろう。殺すのは自分なのだ、と李岳は言い聞かせた。一人ひとりの顔を自分の胸に刻みこむようにゆっくりと全軍を見回した――仲間の顔を。

「陛下からお預かりしたものを授ける」

 張遼が声を上げると、先頭のものが一人出てきた。李岳は陳宮に声をかけ一枚の布地を受け取る。

 蒼天に溶け込む、青地に黒の李の牙旗。

「鬨を上げろ」

 李岳軍発足。その産声は原野を震わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一万人に酒を行き渡らせるのは大変な出費になる。執金吾といえど扶持に余裕はなく、一人一杯が精々であった。それでも兵士は皆嬉しそうに乾杯し、次いで飲んだ水でさえも酒精が宿っていると思い込んでは酔いに酔い、歌って踊った。

 首班の酒席は流石にもう少し豪勢であり、洛陽に戻った後李岳の屋敷でうわばみが何匹いても持ちこたえられる程度には酒を用意している。

 先頭を駆けて騒ぐのは当然張遼、それに引きずられるように陳宮が騒ぎ、なぜか居合わせている賈駆が後に続いた。そんな気分じゃない、という赫昭に対してはとうとう張遼の口移しによって強引に飲ませるという暴挙。

 全くもってひどい乱痴気騒ぎで、誰も彼もが笑っていた。董卓も飲酒はしなかったが楽しそうにコロコロと笑っている。廖化もまた楽しそうにやんやと(はや)し立てている。昼から始まった宴会はきっと夜を徹しても終わるまい、と誰もが確信した。

 李岳軍発足の日なのである。しかも憎いことに総大将は下賜された旗を最後の最後まで隠し通していた――なんて性悪! 張遼が無理やり口を開かせて酒を飲ませるのもやむを得ないと言えるだろう。

「し、霞、勘弁!」

「何が勘弁やドアホ! とっとと飲まんかーい! にゃーっはっは!」

「……げふ」

「ええ飲みっぷりやなあ! さあ、今日は逃がさへんで! うぇっへっへ……っていうてるそばから逃げようとすんなよ賈駆っち!」

「げっ」

「今日ここにおる奴らは誰一人逃さへんでー!」

 こんなに楽しい場所はない、こんなに心安らげる場所もない――皆、そう思ってくれればどれほど良いことだろうか。丁原は茶を傾けながら、いつぶりかと思えるほどに無邪気に笑っている自分に気づいていた。

「董仲穎、楽しんでいるか」

「建陽様……」

「楽しんでいるか、と聞いている」

 丁原の言葉を聞いた瞬間、董卓の表情は翳った。否応なく丁原のこれからを考えてしまうからである。

 お忍びでの謁見から数日、董卓は二度丁原に考え直すように伝えていた。恐れ多くも帝に対してさえ言上している。別に一対一でなくてもいい、武人の誇りよりも生きて帰る方が……だがその度に丁原は一対一の決闘以外に選択肢はないと答え、帝もまた丁原が決めるだろうとしか返さない。

 その三度目の訴えを董卓は投げかけようとしたのだが、機先を制したのは丁原だった。

「蹇碩の居場所の目星は付いている。今日、これより向かう」

「……建陽様!」

「李岳が今日、本当の意味で独立した。もう私の助力は必要ないだろう――もちろん死ぬつもりはないがな」

「ですが……」

「――何も負けると決まったわけではない。勝てばよいのだ。それに決闘は私の望みだ。今更勅命が撤回されたところで、私は行くぞ」

「け、けど……ですけど……」

 丁原の言うことは最もだ。だがどうしようもない悪い予感が董卓の胸の内にへばりついて離れないのである。ひょっとしたら一生後悔することになるのでは、どうしようもない悲惨な事態になるのではないか……確信に近いほどの悪寒!

「もう言うな」

 そのとき、席に倒れこむように李岳が隣にやってきた。どうやらかなり酔っているらしく、顔は酒気で赤い。

「お恥ずかしくも酔ってしまいました……」

「情けないな」

「霞が悪いのですよ、無理やり飲ませるから……」

 丁原の声はいつものように無骨であったが、どこかいつも以上に優しかった。その声音に錯覚し、失言をしてしまった李岳を一体誰が責められるというのだろう?

「まったくもってお恥ずかしいです、母上」

 

 ――母。

 

 董卓の愕然とした表情を、李岳は単に驚いているだけのものとして捉えた。だがその心中は既に嵐である。丁原は心優しい表情で李岳の姿を眺めている。この二人は親子――! だからあんなにも懸命に丁原の助命を嘆願し、あらゆる方策を使って助け出そうとしたのだ。

 董卓の中で不可思議だったものが答えを伴って鮮やかに映し出された。二人は親子……しかし、真実が鮮やかであればあるほど董卓の脳裏は絶望の暗黒で染まった。その暗黒を振り払うにはたった一つの方策しかないように思えた。

 言ってしまおう――!

 董卓は衝動に任せて口を開きかけたが、董卓にだけ伝わるように丁原は淀みのない殺気を放った。金縛りのように居竦んでしまった董卓は、まともに声を発することすら出来ない。

「隠しておこうと言ったのにな、自分から言う奴があるか」

 自分に対しての言葉ではなかった。丁原は李岳に向かって話していた。だがその真意は当然董卓に向かっている。

「いえ、よいのです。董卓殿は、母上を……助けてくれました。私は誤解していました。董卓殿は、良い方です」

 いっそ死んでしまいたい、この世から消え去ってしまいたい。

 李岳がなぜか自分を嫌っていることは知っていた。避けていることも知っていた。何かの誤解があるのだと思い、それを解きたいと願っていた。丁原には世話になったしその恩も返したい。親友であり自分の生きがいでもある賈駆とも仲良くして欲しい。いや、それより何より、賈駆と李岳が協力すれば不可能はないように思える。この二人が手を取り合ったのなら、きっと多くの民を救う事ができるし、多くの偉大な事業を成せると思った――

 丁原を危険にさらすことは、李岳のためにもならない。今からでも勅命は撤回できるに違いない。蹇碩を討つにしてもたった独りに任せる理由なんてどこにもないのだから。

「……どうされました、董卓殿」

「実は」

「体を少し冷やしたらしい。董仲穎は私が送ろう」

 さっと抱きかかえられ、やはり董卓は言葉を喉の奥から出しそびれてしまった。痛くはないが、抵抗を許さない力強さで丁原が二の腕を掴んでいる。

「大丈夫ですか」

「大事ではないようだ。幸い私も用がある。ついでだ」

「すぐお戻りになりますか?」

 他愛無い、他意のない言葉であった。だが丁原は立ち止まり、はっきり言い切るようにして答えた。

「ああ、必ず戻る」

 董卓は袖口で自分の顔を覆った。涙がとめどなく溢れてくる。

 そのすすり泣きの声さえ、宴の喧騒にかき消されて李岳の耳には届かなかった。丁原は歩き出した。辻を一つ曲がってから董卓を下ろした。やがて心配して追いかけてきた賈駆に声をかけられるまで、董卓は壁にもたれ涙を流し続けるしかなかった。



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第三十三話 もののふは愛に死す 死命剣・虎穴通し

 蹇碩は肉を買った。

 国の頂上とも言える十常侍の筆頭が自ら食事の準備をすることなどあり得ることではない。だが数日前、自らに仕えていた侍女たちには全て暇を出したので、それきり三食は自分自身で賄っている。店の者も宦官でありながら西園八校尉を束ねるまでに至った先帝の信頼厚き男だなどと気づくはずもない。どこぞの下級官吏が来た、という程度しか考えなかった。

 蒸し豚に甘辛いタレをかけたもので、一塊を薄く切ってもらった。笹の葉の包みに入れて食べながら歩いた。ここ十年、宮廷ぐらしが染み付いており、こうして他愛のないだらしなさを発揮することなど一切してこなかった。皇帝の隣にいるため、皇帝の側で仕えるために己の全生命をかけ、それのみに邁進していた。人に弱みをつけこまれないようたった一つの落ち度もないように暮らしてきたはずが、結局何も得ぬまま全てを失いこうして歩いている。だが同時にある種の清々しさを蹇碩は感じてもいた。

 肉は美味かった。諸国放浪していた時代が懐かしい。昔はよく野豚を狩り丸々焼いたりもしていた。遠い日々である。そして全て失われてしまった。今ではもう昇進に血道を上げる必要もなくなった。

 蹇碩はあてどもなく道を進んでいたが、やがてふと思い立ったように脇道に入ると真っ直ぐ郊外を目指した。洛陽城外への出入りは日没までと定められている。昼を過ぎたあたりなのでまだまだ人の出入りは多い。盗賊の跋扈と官軍の不振により治安は悪化していたが、たくましい民の動きはそれにめげようともしない。

 北への街道をしばらく進み、小川に沿って西に折れた。未だに残雪はほのかに積もっているが、ちらほらと色づき始めた梅の蕾が春の訪れを予感させる。香り立つにはまだ温もりが足りないだろう。あとひと月もすれば目がさめるような爽快な香りを放つに違いない。

 蹇碩はしばらく梅の木の下で立ち尽くしていた。痩せた小川がかすかな音を立てて流れる他には何の気配もないように思える――だが。

「隠れずともよい」

 振り返りもせずに蹇碩は言った。背後の草むらから、突然湧き上がったという風に一人の人間が姿を現した。蹇碩は意外そうな顔すら見せずに静かに首肯した。

「久しいな」

「はい。師父」

 拝礼する丁原を、蹇碩は遠い目をして見つめた――二十年は経つまい。蹇碩が未だ一介の剣士であった頃、并州で未だ若かりし丁原と出会った。女だてらに腕っ節が強く、近所の男どもを束ねては馬を乗り回し暴れまわっていた。しかし不義理はせずに、逆に盗賊を追い散らすような勇ましさを発揮していることもあって評判は悪くなく、蹇碩はらしくなく興味を駆り立てられたのだった。

 初めて会った時の丁原の瞳を蹇碩はよく覚えている。その力で何人もの取り巻きを従えてはいたが、孤独で、寂しく、何かに満たされたことなどないと訴えかけるような暗い瞳であった。軽い挑発ですぐに怒りを剥き出しにしてくるあたり、まるで獣のようでもあった。

 一度目は素手で、二度目は木剣で叩きのめした。三度目は真剣であったが、前髪だけを綺麗に切り落としてしまったところで丁原はその場で跪き師事を乞うた。

 それからほとんど毎日手ほどきをするようになった。荒くれ者に過ぎなかった丁原は見る間に(ことわり)を修め、一人前の撃剣の使い手として形を成していった。綿が水を吸うように教えを修め、そのほとんどを伝えきったと思った時、蹇碩は并州を去った。

 その後、蹇碩は宦官となり洛陽で栄達に励むのであるが、風の噂で時折丁原の名を聞いた。その武力は他の将軍の追随を許さずついには并州刺史にまでなったという。近頃などは匈奴の大軍相手に並々ならぬ武功を上げたと聞いた。そしてそれが暗躍する陰謀の阻止に繋がり、疎まれ、投獄に至ったのだということも。

 丁原は蹇碩の隣に並んだ。二人で川面を見つめる静かな時。奇妙な静寂だった。その空気がより不得手だったのは丁原であったのだろう、もどかしさに耐え難くなったように口を開いた。

「勅を受けました」

「内容は」

「逆賊、蹇碩を討てと」

「そうか」

 丁原は二歩離れ、腰に下げていた光り物を抜いた。透明な輝きを放つ一振りであった。見事な逸品と見える。

 蹇碩も向き合い、半身となった。未だ柄に手はかけず。

「貴様に討てるのか?」

 途端、袍のみで具足すら纏っていないが、丁原の全身からむせ返る程の剣気が立ち上り、爆ぜた。袈裟斬りは雷光のように迸り蹇碩に迫った。幾度と無く受け、打ち払ってきた剣筋である。だがその切れ味は当然いつかの比ではない。躱したが、振り抜かれた先では切り払われた葦の葉が風に舞い散っている。そのまま下段に構えた姿勢で、丁原は油断なく切り上げを狙っていた。

 蹇碩も剣を抜いた。水平に構えた。丁原の瞳に炎のような輝きが灯るのが見えた――刹那、交叉した剣閃は二十合を超えた。馳せ違い、振り向きざまに首めがけて技を放つが、見越しているとばかりに丁原は半歩奥へ引いている。

「腕を上げたな」

「光栄です」

 蹇碩は鞘を帯から抜き放り投げた。両手でしっかりと、感触を何度も確かめて柄を握りしめた。空っぽになったと思っていた自分の中に、まだこうして熱く滾るものがある――剣に生き、それに全てを費やした一生だった。最早自分自身さえ一振りの剣となるほどに。打ち鍛えた一本を捧げた主は死に、さりとて他の誰かに握られる気もなく後はただ錆びつくのみ。

 勝っても負けても、自分自身を保ったままの戦いはこれが最後だろう、と蹇碩は確信した。

「俺の全てを超えてみよ、丁原」

 呟き、蹇碩は腰を落とした。自らの内奥に火が灯る――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必殺。そう思えたはずの攻めが全て空を切る。そして網目のような死線がこの首を刈り取らんと迫るのだ。感嘆するほどの――いや、仰ぎ見るほどの技倆だった。

 白刃をかいくぐるように避け、丁原は距離を取った。三十合を超えるほどに打ち合わせたが、既にいくつもの浅傷を負っている。肩に二の腕、そして首筋である。あわや死。(きっさき)をこちらに向けて構えている蹇碩の構えは盤石。丁原は大きく深呼吸をして剣を下げた。切り上げから手首を狙う構えであるが、そのような目論見は師である男には筒抜けであろう。

 相手は蹇碩。自らを鍛えぬいた師であり、諸国十三州にその名を轟かせた天下無双の撃剣の使い手なのだ。容易く勝てるとは思っていない。されど、この蹇碩を討つのであればこの自分を差し置いて他に誰が任されるべきだというのか――師を倒すのは、いつだって弟子の役目なのだ。

 蹇碩は大上段に構えている。地を断つ、とまで言われた振り下ろしの威力は誰よりもこの身体が覚えている。丁原は一足一足にじりよった。知らずに流れていた汗が顎先から柄の根に一滴落ちる――

 昇龍が如き切り上げと、霹靂が如き振り下ろしであった。二撃の邂逅は操る両者の体ごと根こそぎ弾き飛ばし、明確な火花となって足元の乾いたすすきに火をつけた。微かな燎原の中で二人は再び向かい合う。両手の痺れは尋常の域を超えており、おくびにも出さないが、丁原は師の一撃に明確な恐れを抱いた。

「よい剣だな。銘はあるのか」

 パチリパチリとくすぶる足元の火。それを一払いで消してしまいながら、なぜか嬉しそうな蹇碩の言葉であった。

「未盲剣」

 最後に李弁と会った時、手渡された一振りであった。水晶を打ち鍛えたかのような刀身。白く、まるで銀細工のような剣で、日光に照らせば燦然と輝きを返し、夜闇の中でも星々の煌きを映した。

 それまで決して李弁は丁原に自らが打ち鍛えた武器を渡そうとはしなかった。戦場に臨むことを非難することもなかったが、どこかで歓迎しない気持ちもあったのだろう。重責と、自ら定めて生き様に従い続