白菊ほたるの幸福論 (maron5650)
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0.不幸と幸福

「幸せってなんだろう?」

 

息をするようになって少し経つと、必ず一度は聞くだろう言葉。

きっと誰もが、ふと疑問に思う時がきて。

きっと誰もが、その答えを知らない。

 

ただ一つ言えるのは、私は幸せではないということ。

 

どうやら、無いみたいなのだ。

傘を持っていない時だけ雨が降るのも。

一度たりとも思った通りにいかないのも。

自分の周りにいる人が、自分と同じようになることも。

普通は、無いみたいなのだ。

だから、私はきっと、幸せではないのだ。

 

私にとっては、それらは全て普通のことで。

不幸だなんて、考えたことはなかった。

でも。

私の普通が不幸ならば。

私は、不幸を他人にばら撒いている。

私は、他人を不幸にしている。

ただそこに居るだけで。

ただ生きているだけで。

 

──プロダクションが、倒産することになった。

 

だから、私は謝る。

ごめんなさい、ごめんなさい。

私のせいで、私のせいで。

 

──ごめん。もう、俺は君の力にはなれない。

 

だから、私は謝り続ける。

すいません、すいません。

許してください、許してください。

 

そんな毎日が千はゆうに超えた、ある日。

学校で、あるものが配られた。

その頃は、そう、いじめの報道が流行っていたんだっけ。

だからそれには、「自殺する前に相談を!」みたいなことが書かれてた。

 

霧が晴れていくみたいだった。

そうか。そうすればいいんだ。

自分を殺してしまえばいいんだ。

そうすれば、私は誰かを不幸にすることはなくて。

そうすれば、私は誰にも謝らなくてよくて。

 

そうすれば、幸せになれるんじゃないか?

 

それしか方法がない、だとか。

悩んだ末に、だとか。

そういうのじゃなくて。

ただ、単純に。

それがとても、とてもいいことのように思えた。

 

その日の私は、とても自然に笑えていたようで。

お母さんに「何かいいことがあったの?」なんて聞かれてしまったから、「内緒」とだけ言っておいた。

 

その週の休日。早速、屋上に行くことにした。

自殺といったら、飛び降りというイメージがあったから。

でも、階段を登っていくうちに。

そういえば、屋上への扉には鍵がかかっているんじゃなかったっけ。

誰かが、身を投げたりしたら困るから。

そんな当たり前のことを、段々と思い出して。

ああ、やっぱり私は幸せではないんだな、なんて思いながら。

それでも諦めきれないように、私は天国のドアノブに手をかけた。

 

抵抗は、無かった。

 

信じられなかった。

こんな幸せなことは、今まで一度もなかった。

最期の最期に、神様がおまけをくれたんだと思った。

私は、きっと満面の笑みで、扉を開けた。

 

誰もいないはずのそこには、女の人がいた。

綺麗な黒髪の、和服が似合いそうな、大人の人。

その人は私を見ると、にっこりと笑って、私に話しかけた。

 

「いい天気ですね。」

 

言われて、空を見上げる。

確かに今日は、文句なしの快晴だった。

 

「……そう、ですね。」

 

笑顔を作り、ありきたりな同意を返しながら、その実、私は困りに困っていた。

今ここで私が死のうとしたら、きっとこの人は止めようとするだろう。

それは、なんとしても避けなければ。

 

「……ここ、立ち入り禁止ですよ?」

 

だから、なんとかして帰そうとする。

 

「ええ、そうですね。」

 

笑顔のまま、その人は言った。

 

「だから、帰りましょう?」

 

「……いや、私は、」

 

「帰りたく、ありませんか?」

 

「……まだ、やることが、あるので。」

 

私がそう言うと、その人の目が、少しだけ鋭くなったような気がした。

 

「……それは、私がここにいては、出来ないことですか?」

 

「……皆を、幸せにできることです。」

 

ひょっとして。

気付いているのか? この人は。

私が何をしようとしているのか。

私がどうして、ここに来たのか。

 

「幸せに、したいんですか? 人を。」

 

彼女はそう言って、じっと私の目を見る。

 

「……はい。」

 

できることなら。

人を、笑顔にしたかった。

自分の力で、幸せにしてみたかった。

疎まれるのではなく、必要とされたかった。

でも。

やっぱり、これしかないみたいなのだ。

マイナスを、ゼロにすることしか。

そこまでしか、届かないようなのだ。

 

「もし、急ぎではないのでしたら。

一日だけ、待ってはくれませんか?」

 

少し考える素振りをした後、彼女は私にそう持ちかけてきた。

 

「一日、だけ?」

 

「はい、一日だけ。」

 

何故、だろう。

何故、一日だけなのだろう。

明日になれば、死んでいいということ?

 

「皆を、幸せにできること。

きっと他にも、あると思うんです。」

 

それは、何度も試したよ。

試して試して、でも、ダメだったんだよ。

そう言いたくなるけれど、言ったところでどうなる訳でもない。

 

「……では、一日だけ。」

 

だから、彼女の言うとおりにしよう。

どうせ、明日にまた来られるのだから。

 

「はい、一日だけ。」

 

彼女はまた、にっこりと笑ってそう言った。

 

 

 

 

 

「君、アイドルに興味はない?」

 



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1. 1-1=?

「……あ、石貯まった。」

 

事務所のソファに寝転がり、スマホをいじること、数十分。

運営からのプレゼントが、何度目かの10連一回分まで到達した。

 

「茄子ー、居るー?」

 

何故オフの日にわざわざこんなところでソーシャルゲームに興じていたかといえば。

圧倒的に、効率がいいからだ。

ソーシャルゲームに限らず、確率に左右されるものは、全て。

 

「は〜い、ナスじゃなくてカコですよ~♪」

 

何故効率がいいかといえば、彼女が。

鷹富士茄子が居るからだ。

 

「またガシャ引くからさ、いい結果が出るようにと。」

 

いつもの決まり文句と、お茶と共に給湯室から出てきた彼女に、早速願掛けを。

 

「はい、お任せくださいっ♪」

 

茄子はソファの前のテーブルに急須と三人分の湯呑を置き、私の隣に座る。

これで、準備は完了。

 

「さて……ポチッ、と。」

 

ガシャを引く、と書かれたボタンをタップし、画面を眺める。

派手に点滅したのち、ガシャの結果の一覧が表示される。

今回はどのSSRが当たったか、と、一枚ずつ確認していくと。

 

「……え?」

 

明らかに、異常であることが、分かった。

 

いつもと同じならば。

そこには2〜3枚程度の最高レア、SSRがあるはずだ。

だが、今回。

いつもと同じように、茄子の隣で引いた、今回は。

SSRが、1枚もない。

次点のSRも、たったの3枚。

これでは、私が一人で家で引いたのと変わらない。

あまりにも、普通の結果だった。

 

たまたまだとか、偶然だとか、そういうのではないのだ。

彼女の幸福は、そんな生易しいものではないのだ。

彼女が歩く道は必ず信号が青で。

彼女が乗る電車は必ず一人分の席が空いていて。

彼女が起きなければならない時間に、必ず自然と目が覚める。

そんな、絶対的なものなのだ。

 

だから。

こんな「まあ悪くはないんじゃないか」とでも言いたげな結果、出るわけがないのだ。

彼女が近くに居る今、あり得ないことなのだ。

 

しかし。

画面の前の現実は、何度見ても変わることはなく。

今この瞬間が、限りなく異常であることを警告し続けていた。

 

「……茄子。今日何か、おかしいことはなかった?」

 

「おかしいこと、ですか?」

 

「赤信号を見たとか、ちょっと寝坊しかけたとか。」

 

「……いえ、いつも通りだったと思いますよ?」

 

少しだけ考えた後、やはり心当たりはないと首を振る。

彼女自身に変化はない。なら後は……

 

「あ、そういえば。」

 

ポン、と手を叩き、彼女は笑顔で言った。

 

「今日から、アイドルが一人増えるみたいですよ♪」

 

「……うーわ。」

 

確定じゃん。

 

「その子、どこに居るか分かる?」

 

私はそのことを聞いていないし、きっと茄子もそうだろう。

にも関わらず「増えるみたい」と言ったということは、既に事務所に居るその子を直接見たに違いない。

 

「応接室で、プロデューサーとお話していました。

そろそろ終わる頃だと思いますよ♪」

 

「ん、ありがと。」

 

そう言って立ち上がり、応接室の扉へと歩く。

不安の種は、早めに何とかしておかなければ。

 

扉の前に立ち、ドアノブに手をかける。

……よりも前に、それはひとりでに回った。

 

黒を基調とした、全体的に暗い雰囲気を纏う服装。

幼いながらも服の雰囲気とマッチした、どこか悲しげな顔。

私は確信した。

間違いなく、彼女が元凶だ。

 

「……ごめんなさいっ!」

 

お互いに「予想外」と顔に書くこと、数秒。

こちらがなにか言うよりも前に、いきなり彼女は頭を下げて謝罪した。

 

「あの、ガシャを引くみたいだったので、終わるまでは入らないようにしたんですけど……。

やっぱりダメでしたよね?全然いい結果じゃなかったですよね?」

 

「あー、いや、うん……思っていたよりは。」

 

SRが1枚だけ、というのが最悪のパターンだから、そこまでではないのだが。

 

「……ごめんなさいっ!」

 

再び、彼女が頭を下げる。

 

「いや、なんで謝るのさ。

杏が自分でガシャ引いただけだよ?」

 

……この反応からして、自覚はある、ということだろうか。

恐らくは、茄子と反対の。

 

「……私、不幸なんです……。

それも、近くに居ると……その、伝染るみたいで……。」

 

俯きながら、心底申し訳なさそうに彼女は言う。

やっぱりか、と溜息をつきたくなるのを、ぐっと堪える。

 

「まあ、そういうことだ。」

 

奥から、プロデューサーがにゅっと顔を出す。

 

「彼女が、新しくウチに所属することになった、白菊ほたるだ。

サポートしてやってくれ。……色々と。」

 

その含んだ言い方の中には、きっと彼女の体質があるのだろう。

プロデューサーの顔を見上げると、彼は茄子の方を向いていた。

 

彼女はプロデューサーとほたるを交互に見る。

そして。

 

「はい、お任せくださいっ♪」

 

幸福はそう言って、幸せそうに笑うのだった。

 

 

 

がちゃり。

 

「……これはー、面倒なことになりそうなのでしてー。」

 



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2.超常現象プロダクション

「レッスンは、前から受けてたんだっけ?」

 

今日は初めての、ほたるを交えてのレッスン。

飴を頬張り、彼女より少しだけ前を歩きながら、私はレッスン場へ移動していた。

 

「はい……でも、じゃあライブに出てみよう、ってなる頃に、プロダクションが倒産してしまって……

その前も……その前も……。」

 

「いやあ今日もいい天気だねうん」

 

彼女の前で昔話は振らないようにしよう。

私は固く心に誓った。

 

「……あの、ここには何人くらいアイドルが居るんですか?」

 

果てしなく微妙になってしまった空気の中、ほたるが問いかける。

彼女にとっては、この程度は慣れっこなのかもしれない。

 

「ほたるを入れて、四人だね。

私と、鷹富士茄子、あとは依田芳乃。」

 

……改めて口にして、思う。

ウチの事務所、濃い。

そりゃあ、妙なあだ名も付けられるというものだ。

 

「茄子さんは、初めて杏さんと会った時に居た人ですよね。

芳乃さん、は……?」

 

「ああ、会ったことなかったっけ。」

 

丁度いい。

ここで、ざっと皆の紹介でもしておくか。

 

「芳乃は、何というか、不思議な雰囲気の子だよ。

趣味は石ころ集め、悩み事解決、失せ物探し……だったかな。

知ってるはずのないものの在り処をバンバン言い当てるんだ。」

 

「失せ物探し……ですか。」

 

ほたるが不思議そうな顔をする。

まあ、珍しいというか、一般的ではないから、当然か。

 

「で、鷹富士茄子。

彼女は一言で言うと、幸福だ。」

 

幸福、という言葉に、ほたるは明らかな反応を見せた。

 

「それって……」

 

「多分、ほたると丁度反対、なんじゃないかな。

彼女自身が信じられないくらい幸運で、それは周囲にも伝播する。」

 

少なくとも、真っ二つに割れた湯呑みを両手で合わせるだけで元通りにし、

「ラッキーですね♪」なんて笑顔で言ってのけるくらいには幸運だ。

……幸運、なんてレベルじゃないような気がするが、本人がそう言うのだからきっとそうなんだろう。うん。

 

「……」

 

「……だから、今までよりはマシになるんじゃない?

少なくとも、さ。」

 

神妙な顔持ちで俯くほたるに、私は励ましの言葉を贈る。

 

「そうだと……いいんですけれど。」

 

彼女は、悲しそうに笑った。

 

 

 

 

「……っと。ここだここだ。」

 

話をしているうちに、レッスン場まで辿り着いていた。

私の役目はここで終わりだ。

 

「後は中にいるトレーナーさんの言うこと聞いてればいいから。

んじゃ、頑張って。」

 

ほたるに背を向け、手を振りながら元来た道を引き返す。

 

「杏さんは、レッスンしないんですか?」

 

当然の疑問をほたるが投げかける。

大丈夫、これは想定済みだ。

 

「杏は今日撮影があってね。

悪いけど、後は三人で頑張って。」

 

「でも、今日は顔合わせも兼ねて全員でやるって、プロデューサーさんが……。」

 

「え゛っ」

 

何それ聞いてない。

なんということだ、既に先手を打たれていたというのか。

 

「……あ、あっれーおかしいなー。

仕事入ってるってこと忘れちゃったのかなー。」

 

非常によろしくない事態だ。

何とか打開策を……

 

「杏殿ー。」

 

のんびりとした独特のイントネーションと共に、腕を掴まれる。

冷や汗を流しながら振り向くと、やはりそこには芳乃が立っていた。

 

「……や、やあ、芳乃。どうしたの?」

 

平静と笑顔を取り繕い、尋ねる。

 

「必ず逃げ出すだろうから見張っておくようにとー、言われましたゆえー。」

 

「おぅ……」

 

なんてこった、私の華麗なる計画が。

 

「サボっちゃダメですよー?」

 

中から茄子も出てくる。

この二人に見つかってしまったら、もう逃げる手段はない。

長年の経験からそう判断し、私は大きく溜息をついた。

 

「あっ、えーと……ほたるちゃん、でしたよね。

私、鷹富士茄子って言います。」

 

茄子がほたるに向き直り、自己紹介を始める。

 

「わたくし依田は芳乃でしてー。」

 

茄子に倣い、芳乃もぺこりと一礼。

私のときと全く同じ口上なのは、それが気に入っているからだろうか。

 

「杏は双葉杏だよ、よろしく。」

 

私も、流れに乗じる。

 

「白菊、ほたるです……。

あの、私……不幸体質でして……

恐らく、みなさんにはご迷惑を……。」

 

それに対しほたるは、やはり、申し訳なさそうに。

 

「……そんなに気にすることないと思うよ?

ここじゃ現代科学じゃ解明できないような事象なんて日常茶飯事だし。

悩み事解決のプロと、自他共に認める幸福が居る訳だし。」

 

言いながら、二人に目配せする。

 

「困っている人には力を貸しなさい……ばばさまのお言葉でしてー。」

 

「はい、お任せくださいっ♪」

 

芳乃はいつものおっとりとした表情で。

茄子はにっこりと笑いながら。

ほたるに手を差し伸べる。

 

「あの……でも……っ」

 

まだ、踏ん切りがつかないようだ。

ほたるは困惑した顔で、両手を胸のあたりに持ってくる。

 

「あーもう、じれったい。」

 

私はその右手を掴み、無理矢理二人の方へ持っていく。

抵抗は、殆どなかった。

 

三人は、ほたるの手をしっかりと握る。

そして、同時に軽く息を吸い込み。

 

「「「ようこそ、超常現象プロダクションへ! 」」」

 

未来のアイドルを、暖かく迎え入れるのだった。



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3.不幸の日常

「よし、全員ちゃんと居るな。」

 

「はいっ♪」

「でしてー」

「は、はいっ」

「は~い」

 

トレーナーさんの確認に、各自言葉を返す。

 

「今日は白菊を入れての、初めてのレッスンになる。

前のプロダクションから移籍ということだから、まずどの程度の実力があるかを確かめさせてもらう。

その出来次第によって、その後のレッスン内容を決める。」

 

いつも通りのハキハキとした口調で、これからの予定を読み上げていく。

 

「では、まずは白菊。いくつか曲を流すから、それに合わせて踊ってみてくれ。」

 

トレーナーさんが傍らのCDプレイヤーに手を伸ばす。

 

「……ん?」

 

しかし、再生ボタンを何度押しても、辺りに広がるのは静寂。

 

「…………。」

 

そして、「まさか」という、この場の全員に共通する意識。

 

「……あの、私、家から持ってきましたので……。」

 

微妙な空気の中心点は、確かにレッスンをするにしては大きい荷物から、少し小さめのCDプレイヤーを取り出した。

 

「……え、持ってきたの? 」

 

思わず、思ったことが口から出る。

 

「今朝起きた時、そんな気がしたんです。

こういうことはたまにあって、大体その通りになってしまうので……。」

 

ある程度は予知と、その対策が取れるということか。

口ぶりからして、意図的にはできないようだが。

 

ほたるのプレイヤーにCDを移し替え、電源を入れる。

今度はちゃんと、聞き覚えのある曲が周囲に鳴り響いた。

 

「この曲はやったことは?」

 

「はい、大丈夫です。」

 

ダンスを練習するにあたって、使用する楽曲はある程度決まっている。

まず最初はこれ、できるようになったら次はこれ、といった具合だ。

そして、トレーナーさんがかけた曲は、今まさに私達が練習している曲だった。

 

スペースのある方へ移動し、ほたるは目をつむる。

力を抜いて、自然体。

リラックスしているのが、傍目にも分かる。

その様子を見て、トレーナーさんが再生のボタンを押した。

 

曲が流れる。

目が開く。

足が踊る。

腕が踊る。

指先が踊る。

ほたるが、踊る。

 

「……すごい。」

 

素直な、本当に素直な気持ちだった。

指先、足先の動き。

重心の安定感。

目線の移動。

動作から動作への、滑らかな繋ぎ。

そのどれを取っても。

ああ、この子は、本当に。

本当に、アイドルになりたいんだな、と。

そう思わせるほどに、完璧で。

そのどれもが、彼女の持つ儚さや、憂愁を際立たせていた。

 

曲が終わり、ほたるがこちらを見る。

トレーナーさんは、大きく頷いて。

 

「これなら、すぐにでも皆と一緒に活動できるだろう。」

 

と、最大級の賛辞を述べた。

ほたるはそれを聞いて、また、困ったように笑った。

 

 

 

「茄子さん。」

 

レッスンが終わり、その場解散。

杏さんは事務所のソファで一眠り。

芳乃さんは散歩に行った。

 

「……一日だけ。」

 

茄子さんは、屋上に居た。

 

「待ってくれたんですね。」

 

彼女はそう言って、にっこりと笑う。

あの時と、同じように。

 

「……一日だけ。」

 

私は、笑顔を作りはしなかった。

あの時と、同じようには。

 

「そう言ったのは、こうなると分かっていたからですか?」

 

その一日の間に私が、茄子さんと同じ事務所の人から、アイドルの勧誘を受ける、と。

そうなることを、知っていたから?

 

「私はあくまで、周りの人を少しだけ幸せにするだけです。

他人の人生を操れたりなんて、できませんよ。」

 

「そう……ですか。」

 

「ほたるちゃん、言ってましたよね。

人を、幸せにしたいって。」

 

「……はい。」

 

私が答えると、彼女は手を後ろに組んで、背を向ける。

夕陽を、眺めているのだろうか。

 

「あの時、言ったとおりですよ。

他にもあると思ったんです。

他にもあると、思っただけです。」

 

茄子さんは、ゆっくりと私に語りかける。

泣いている子供をあやすように。

割れ物に手を触れるように。

 

「人を幸せにしたいと言ったあなたなら。

そう言って、あんなところに来てしまうあなたなら。

あんな顔ができてしまう、あなたなら。

きっと、他にも。」

 

彼女はそう言って、私に向き直る。

 

「……そんなにひどい顔してましたか、私。」

 

「ええ。それは、もう。」

 

茄子さんの悲しそうな笑顔を見るのは、この時が初めてだった。



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4.なりたいもの、変えたいこと

オフの日でも、事務所に行けば大体、皆が居る。

 

「おはようございます。」

 

居心地がいいから、と、皆口を揃えて言う。

私もその通りだと思うし、現にこうして、今日も足を運んでいる。

 

「おやー、ほたる殿ー。おはようございますー。」

 

「おはー。」

 

芳乃さんはお茶をすすり、杏さんは特等席と化しているソファに寝転んでいた。

 

「茄子さんは、今日は居ないんですか?」

 

「買い物。

ついでに商店街の福引やってくるってー。」

 

それは、抽選券の数だけ上から順に景品を掻っ攫ってくる、という宣言に他ならない。

私は心の中で、商店街の皆様に手を合わせた。

 

上着をハンガーに掛け、給湯室へ。

この前買っておいた、インスタントコーヒーの袋を探す。

のだが。

 

「……あれ?」

 

確か、この辺りに仕舞ったはずなのに。

ここにあるものは全て皆の共有物という扱いだから、誰かが使った後に他の場所に置いてしまったのだろうか。

 

「右から2番目、上から3番目の引き出しでしてー。」

 

私がガサゴソと音を立てていると、扉の向こうから声。

指定された場所を見てみると、何種類かのインスタントコーヒーが綺麗に整頓されており。

その中に、私の買ったものがあった。

 

「さすが……。」

 

思わず呟く。

きっと誰かが、種類ごとに整理したのだろう。

私が仕舞ったときには、色々なものがごちゃまぜになっていて、何があるのかよく分からない状態だったから。

 

コーヒーを持ち、芳乃さんの隣、杏さんの反対側に座る。

目についたテレビのリモコンをいじくると、画面上に今まさに目の前にいる少女が映し出された。

 

『早速出場者の紹介です!

あの超常現象プロダクションから、今回も来てくれました!

双葉杏さんです!!』

 

やけにテンションの高い司会の台詞に合わせて、画面の少女がこちらに手を振る。

画面右上には、第37回クイズ王選手権と書かれていた。

 

「そういえば、超常現象プロダクションって呼ばれてるんですよね。」

 

「俗称だけどね。

正式名称よりも有名になっちゃったけど。」

 

私の呟きに、目の前の少女が答える。

 

「まあ、行く先々で理解不能な事象を引き起こしてたら、そりゃそうなるよね。」

 

……なるほど。

隣でのんびりとお茶をすする芳乃さんを横目で見つつ、私は納得する。

 

「ウチで何の特殊能力も持ってないのは杏くらいだよ。」

 

杏さんはそう言って、ごろんと寝返りを打つ。

つまり、プロダクションの殆どが、何かしら普通ではないということか。

ゆったりとした空間に、テレビの音が響く。

 

『杏ちゃんは前回、前々回共に2位以下と圧倒的な差を付けて優勝!

今回もそのチートぶりを見せてくれるのでしょうか!』

 

「……ウチで何の特殊能力も」

 

「二回言わなくていいです。」

 

つまり、プロダクションの全員が、何かしら普通ではないということか。

 

「……みなさんそんなに凄いのに、どうしてわざわざアイドルを?」

 

ふと浮かんだ疑問を、のんびりとした空気に浮かべる。

予想とは違い、先に答えたのは杏さんだった。

 

「夢の印税生活。」

 

何とシンプルな。

 

「杏さんくらい頭が良かったら、ずっと遊んで暮らせるくらいの特許とか、いくらでも取れちゃいそうですけど……。」

 

「嫌だよめんどくさいし。その点ここはテキトーに言われたことやってればいいだけだからね。」

 

「……その割には、サボろうとしてません?」

 

「だってやっぱ面倒だし。」

 

「なら、あんまり変わらないんじゃ……。」

 

「きこえなーい。」

 

何だかモヤモヤするけれど、どうやらこれ以上は話してくれないようだ。

私が諦めるように小さなため息をつくと、続けて芳乃さんが答えた。

 

「わたくしはー、求められましたのでー。」

 

……はい?

 

「プロデューサーさんに、ですか?」

 

そう聞くと、こくりと頷いて。

 

「あの方にはー、ほおっておけない運気がついているのでしてー。」

 

「は、はぁ……。」

 

芳乃さんは、再びのんびりとお茶をすすり始める。

結局、杏さんよりもモヤモヤさせられてしまった。

 

 

 

「そう言うほたるはさ。」

 

私に背を向けた体制のまま、杏さんが言った。

 

「どうして、アイドルになろうなんて思ったの?

……そんなもの持ってるのに。」

 

いつもと同じ声色のはずのそれは、何故だろう。

顔が見えないのも相まって。

まるで私を、糾弾しているようで。

 

「……こんなものを、持っているから。

だから、です。」

 

だから私は、出来る限りの真剣な顔を作る。

 

「だから?」

 

再び寝返りをうち、杏さんはこちらを見る。

私の答えを、待っている。

 

「だって、アイドルは。

皆を、幸せにするものでしょう?」

 

だから、私はアイドルになりたい。

不幸体質な私が。

周りの人を不幸にしてしまう私が、それでも。

それでも、アイドルになれるのなら。

皆を幸せにする存在に、なれるのなら。

奪うのではなく、与えるものに、なれるのだとしたら。

 

「変わりたいんです。変えたいんです。自分を。」

 

私は、杏さんの目を、まっすぐに見る。

彼女は、こちらを見つめ続けていた。

 

「…………。」

 

ぽかんとした表情で、ずっと。

 

「あ、あの……?」

 

何か、おかしいことを言ってしまっただろうか。

ああ、やっぱり私なんかが変わろうだなんて、おこがましいことだったり……

 

「……うん、なるほど、なるほどね。」

 

随分と長い硬直の後、杏さんは何かを納得したように、しきりに頷いた。

 

「案外、似てるのかもね。」

 

彼女はそう言って、私に笑いかける。

 

「……何とでしょう?」

 

「内緒。」

 

ひょっとしてこの事務所では、人をモヤモヤさせるのが流行っているのだろうか。

だとしたら二人ともとんでもなく強敵だし、今すぐに廃れてほしい。

 

雨雲のような何かが私の頭の上を周回すること、数分。

目をつむってお茶を楽しんでいた芳乃さんが、何かに反応するように立ち上がる。

 

「帰ってきた?」

 

「そのようでしてー。

何やら、良いことがあったようですー。」

 

それにいち早く気付いた杏さんが問いかけると、芳乃さんが安心したように微笑んで答えた。

……二言目は、果たして必要だっただろうか。

茄子さんに限って、良いことが起こらないとはとても思えない。

 

やがて、入口のドアが開き。

 

「温泉旅行ですよ〜♪」

 

二枚の紙切れを持った彼女は、満面の笑みでそう言った。



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5.加害者だから

と、いうわけで。

 

「よき湯でしてー……。」

 

「まさか温泉旅行を引き当てるとは……。」

 

しかもペアチケットを二枚。

商店街の人ごめんなさい。

 

 

 

全員分のチケットがあっても、休みが合わせられないのではないか。

そう懸念したのは、意外にも杏さんだった。

チケットを無駄にしてたまるか、私は絶対に休むぞ! くらいは言いそうだと思っていたのだが。

リアリストというか、冷静に状況を考えられる人なのかもしれない。

 

しかしプロデューサーさんに聞いたところ、丁度全員固まった休みが取れる状態だったようで。

私は茄子さんの幸福の凄まじさに、恐ろしさすら覚えることになった。

 

 

 

そして、現在。

杏さんはマッサージチェアと完全に同化。

茄子さんは近くの料理が美味しいと話題の居酒屋に単身突撃。

残った私と芳乃さんは、こうして露天風呂を堪能していた。

 

「ほー……。」

 

目を閉じ、肩どころか顎まで浸かって、ぴょこりと顔だけを出し、全身の力を抜いて湯を楽しむ姿は。

マスコットのような、普段とはまた違う可愛らしさがある。

 

「ほぉー……。」

 

「……寝ちゃわないで、くださいね?」

 

ここまで脱力されると、不安にもなってくる。

それはもう、人間はこれほどまでにリラックスできるのか、と、一種の驚きと感動を覚えてしまうほどだ。

 

「…………。」

 

やがて、ほーという声すら聞こえなくなってしまい。

滴り落ちる水の音だけが、心地よく耳を刺激する。

ゆっくりと、時間が流れていく。

 

そうして、どれくらい経っただろうか。

そろそろ上がります、と、一言かけようと口を開く。

 

「……上がられる前にー。」

 

が、私が喉を震わす前に、芳乃さんが言葉を発した。

完全に不意打ちだ。

驚いて彼女の方を向くと、そこには。

 

 

 

「……芳乃、さん?」

 

 

 

ついさっきまでの、可愛らしさも。

普段の、のんびりとした雰囲気もなく。

それどころか、凛々しさすらも感じさせる、彼女が居て。

私は、目の前の人物が私の知る依田芳乃であることに、確証が持てなかった。

 

「そなたの体質について、お話ししておこうかとー。」

 

「……体質、ですか?」

 

呆然としている私を見て、芳乃さんは言葉を続ける。

 

「あらゆるモノには、気というものが巡っておりますー。

その種類は千差万別、大きく分けるならば、良い気と、良くない気でしてー。」

 

言いつつ、芳乃さんは立ち上がる。

 

「それらは互いに干渉し、形を変えてゆきますー。

そしてそれこそがー、あなたの体質の原因と言えるでしょうー。」

 

月明かりに照らされ、湯けむりに包まれたその姿は。

 

神々しい。

 

私の知る言葉の中で、これが最適だと感じさせるほどに。

それほどに幻想的で、現実味がなかった。

 

「……それって、私の気、が……?」

 

彼女に、呑まれた。

どうしようもなく、そう感じる。

彼女の周囲にあるもの全てが、彼女のために動いているような。

そんな錯覚を覚えると、同時に。

彼女の言葉を、理解しなければ。

彼女の言葉は、とても、とても重要なものだと。

無条件に、そう思わされた。

 

「……はいー。そなたの気は、特に、良くないものですー。」

 

私の気が、他の人よりも、かなり、良くないもので。

それのせいで、周りの人達が不幸になってしまう。

 

「そしてー、干渉が起こる時機なのですがー。

常に起こっている、という訳ではないようなのですー。」

 

「それって……?」

 

よく分からない、と、首を傾げると。

彼女は頷いて、言葉を重ねた。

 

「常にそなたの周りが不幸であるのならー。

そなたはスカウトされることすら、叶わなかったでしょうー。」

 

彼女は私の手を取り、両手で包み込む。

 

「しかしそなたは、確かにここに居ますー。

それはつまり、時機が突発的であるということに他なりませんー。」

 

プロデューサーさんにとって、アイドルの卵をスカウトすることは間違いなく幸せだろう。

そんなプロデューサーさんに不幸が訪れたなら、あの日私を見つけることは叶わなかったはず。

しかし、私は彼と出会い、今こうしてここに居る。

だから、四六時中いつでも周りが不幸になる、というものではなく。

 

「……いつ、誰に起こるか分からないけど、突然。

いきなり、誰かが、不幸になるってことですか?」

 

彼女の言葉をよく噛んで、飲み込む。

答え合わせをするようにそう聞くと、彼女は再びゆっくりと頷いた。

 

「わたくしが分かっているのは、ここまでですー。

そしてー、これが最も、重要なことなのですがー。」

 

私の手を握る手の力が、少しだけ強くなる。

そこにはもう、凛々しさを感じさせる彼女は居なかった。

彼女の目は、優しく。

私を、まっすぐに映し出していた。

 

「そなたの気はー、変わり始めていますー。

初めて顔を合わせた頃より、ずっと、良いものになっているのでしてー。」

 

彼女が、にっこりと微笑む。

 

「それが、何に拠るものなのかは分かりませんー。」

 

茄子さんのものとは、少しだけ違う。

 

「しかし、わたくしたちと過ごすことが、少しでもそなたの為になるのでしたらー。」

 

他者を慈しむような、優しい笑顔。

 

「それをそなたが、望むのでしたらー。

あの時、お伝えしたとおりー。」

 

そして。

 

 

 

「わたくしはー、そなたのお力になりましょうー。」

 

 

 

そのまま、こんなことを言ってくるものだから。

 

「ずるいです。」

 

そのまま、小さな手で、頭を撫でてくるものだから。

 

「……ずるいですよ。」

 

それらが、こんなにも、あたたかいものだから。

 

「……よいのですー。」

 

抑えられないじゃないか。

 

「よいのですよー。」

 

溢れてしまうじゃないか。

 

「そなたは、十分に……十分に、頑張りましたー。」

 

縋ってしまうじゃないか。

 

「だから……よいのですー。」

 

……思えば、いつだっただろうか。

 

「もう、自分を悪者にしなくとも、よいのですよー。」

 

 

 

最後に、こうやって思いっきり泣いたのは。



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6.応急処置

「やっちゃったなぁ……。」

 

マッサージチェアに全身を預け、私は頭の中で、先日の大失態の反省会を開いていた。

 

アイドルとしての私のスタンスに疑問を抱く人は、少なからず居るだろう、とは思っていた。

何とかして乗り切れるだろう、とも、思っていた。

でも。

実際に、初めて、指摘されて。

焦ってしまった。

いや、焦るだけならまだいい。

彼女の、白菊ほたるの。

その自覚がないと、理解した上で。それでも。

私の、奥深くにまで、手を伸ばそうとする行為に。

恐怖感を覚えたのだ。

 

怖かったのだ。

 

その結果が、あれだ。

いくら大人びているとはいえ、まだ13歳だ。

小学生じゃなくなってから、一年も経っていないのに。

そんな子を相手に。

 

「……逆ギレ、なんて、なぁ。」

 

幸い、ほたるはあまり気にしてはいないようだったけれど。

私は、あんなことをしてしまった自分に、苛立っていた。

 

 

私ときらりの関係について、正しく理解している人物は、3人。

当事者である2人と、プロデューサーだけだ。

私がこの事務所に入ってからずっと、きらりと一緒に仕事をする機会が多かった。

きらりとの仕事が殆どだった、と言ってもいい。

私生活でも一緒。

仕事でも一緒。

私ときらりは、文字通り四六時中、一緒だった。

 

ある日、プロデューサーが言った。

これは共依存だ。

互いが互いに、あまりにも依存し過ぎている。

今はこのままでも問題はないが、これから先。

きらりがトップアイドルを目指す、その過程において。

二人が離れ離れになる時が、必ず来る。

その時、お前たちが耐えられるようには、とても見えない。

私は、何も言い返さなかった。

 

言い返せるわけ、なかった。

 

だから、その予行演習として、少しの間。

少しの間だけ、私ときらりは距離をおくことになった。

私は事務所の他のアイドルとユニット活動。

きらりは、丁度ドラマの仕事が入っていたようで。

ウチと仲の良い遠方のプロダクションにお世話になりつつ、撮影や現地でのその他の仕事をしているらしい。

 

きらりは出発前、私に大量の飴を作ってくれた。

元々は、自分に言い訳する為に用いていた飴。

そんな使い方を続けているうちに。

何かをするときには、飴を舐めていないと落ち着かないようにまでなってしまった。

当然、今でも、言い訳としての役割も十分にある。

 

きらりが居なくても、最低限の仕事はできるように。

そう言って、渡してくれたものだ。

徐々に慣らすのが目的だから、と、プロデューサーも許してくれた。

かなりの数だったはずのそれは、今はもう、全てポケットに収まるくらいになってしまっている。

 

 

 

包装をくるくると剥がしなから、私は考える。

いつまでも悔やんでいても、仕方がない。

今は、今直面している問題を考えよう。

 

問題というのは、当然、白菊ほたるの体質だ。

彼女の、不幸体質。

ほたるの思い過ごしだとか、考えすぎだとか、そういうものではない。

あれは、どうしようもなく、本物だ。

それは四六時中起こるものではなく、また、それが起こる一瞬前に、ほたるはそれを察知する。

例えば、プロデューサーの頭上から鉢植が降ってきた時、彼女は「プロデューサーさん、上……っ!」と警報を発していた。

その甲斐なく、見事なまでに直撃していたが。

また、ごく稀に、それが起こるよりもかなり前の段階で、察知することがある。

CDプレイヤーの件が記憶に新しい。

しかし、それを自分で狙って引き起こすことはできないようだ。

 

杏色のそれを、口の中へ放り込む。

 

一つ。彼女の不幸体質は本物である。

一つ。不幸が起こる一瞬前に彼女はそれを察知する。

一つ。ごく稀に、これから起こる不幸をかなり前の段階で察知する。

一つ。不幸が起こるタイミングは完全にランダムである。

以上が、現在確認できていることの全てだ。

 

この問題への対処として、考えられる方法は二つ。

起こった不幸をどうにかするか、起こる前にどうにかするかだ。

試しにまず、起こった不幸をどうにかする、という方向でいこう。

 

……いや、どうしようもないんじゃないか? これ。

鉢植の件で考えてみても、既に落下を始めている鉢植をどうにかできるはずがなく。

だからといってプロデューサーに回避させるというのも、あまりに不確実で非現実的だ。

起こった不幸を損害無しで切り抜けるのは、少なくとも今は不可能。

となると、不幸が起こる前にどうにかするしかなくなってくる。

 

ほたるの事前に察知する力を向上させる?

いや、そもそもそのメカニズムすらよく分かっていないのに、向上なんてできるわけがない。

なら、ほたるの不幸体質そのものを何とかする?

いや、それこそメカニズムが分かっていない。無謀にも程がある。

 

「……情報、不足。」

 

大きなため息をついて、再びマッサージチェアにもたれる。

現状、その場しのぎしか方法がない。

被害をゼロにできないのなら、せめて最低限に。

それが、今できる精一杯。

 

「あら、お悩みですか?」

 

「……茄子。居酒屋は?」

 

あれこれ悩んでいると、頭上から声。

反応して頭を上げると、そこにはいつもの笑顔を携えた茄子が、こちらをのぞき込んでいた。

 

「はい、美味しかったですよ♪

閉店ギリギリまで居ちゃいました♪」

 

どうやらご機嫌なようで、音符の数がいつもより多い。

閉店という言葉に合わせて時計を見ると、いつの間にか日付が変わっていた。

 

「……ねえ、茄子。

ほたると二人きりで居たこと、ある?」

 

彼女の顔を見て、思い出す。

そうだ。

彼女が居るじゃないか。

 

「はい、何度か。」

 

絶対的な幸福である、彼女が。

 

「その時、ほたるに不幸は起きなかった?」

 

彼女なら、あの子も。あの子すらも。

できるんじゃないか。幸せに。

 

「……はい、起きませんでしたよ?」

 

どうしてそんな、当たり前のことを聞くのか。

そう言いたげな顔をして、幸福はさらりと言い放った。

 

ああ、よかった。

こんなに回りくどいこと、考えなくてよかったのだ。

彼女に任せておけば、それでいいのだ。

気付かないうちに肺に溜まった重苦しいものを、ゆっくりと吐き出す。

 

「ああ、でも。そういえば。」

 

私がそうしている間に、彼女がこんなことを付け足すものだから。

 

 

 

「何も起こらなかった、訳では、ないですね。」

 

 

 

安心して、いいはずなのに。

もう、何もしなくて、いいはずなのに。

彼女に任せて、いいはずなのに。

それが最良のはずなのに。

 

やっと吐き出した息を、また少し吸い込んだ。

 

「……どういう、こと? それ。」

 

努めて冷静になろうとするが、それでも動揺が漏れ出す。

 

「いえ、正確に言うのなら、というだけですよ。

ほたるちゃんが怪我をしたとか、そういうことは一度もありません。」

 

いつもの余裕を崩さない茄子が、ひどく対照的だ。

 

「何も起こらなかった。

そういう訳ではないんです。

起こりは、したんです。確かに。」

 

ほたると茄子が一緒に居て。

それで、確かに、何かが起こった。

しかし、不幸は、起きなかった。

と、いうことは、つまり。

 

「起こりはしたけど、回避した。ってこと?」

 

「大正解です、流石ですね♪」

 

私の解答に、彼女は笑顔で丸をつけた。

 

ほたるの不幸と、茄子の幸福。

同じ場所に存在したそれらは、打ち消されるものだと思っていた。

しかし、実際はそうではないらしい。

彼女の口ぶりからすると、ほたるの不幸は茄子が居ても変わらず機能する。

その結果生じた何かしらの事態が、茄子の幸福によって牙を剥くことなく収束する。

 

要するに。

ほたるの不幸と茄子の幸福は、直接互いに関与することはなく。

それによって事態が生じた時初めて、その事態そのものに影響を与える、ということか。

 

「……じゃあ、茄子と一緒にいれば、ほたるは大丈夫ってこと?」

 

とても、確証のない話ではある。

今のところは大丈夫だからといって、いつ不幸が牙を剥くか分からないのだ。

でも、裏を返せば。

今のところは、それで、大丈夫。

何の問題もなく、過ごせている。

そして、それ以上の策は、今は、一つも無い。

だったら。

 

「はい、多分、大丈夫だと思いますよ♪」

 

任せておくべきだ。

この、曇りのない笑顔に。

そうするのが、最良で。

そうするのが、一番で。

そうするのが、最善だ。

そのはずだ。

そのはずなのに。

 

重苦しいものは、肺に溜まったままで。

さっきのように、出ていってはくれなくて。

だから。これで終わりではなくて。

根本的な解決を。

ほたるが確実に、絶対に、幸せになれる方法を。

探さなくては。見つけなくては。

 

「……じゃあ、お願いね。ほたるのこと。」

 

「はいっ♪」

 

そう、強く思った。



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7.違和感

「……じゃあ、このままいけば、自然と何とかなるかもしれないってこと?」

 

確認するようにそう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。

 

1泊2日の温泉旅行は終わり、今は帰りのバスの中。

1つ前の席に座った茄子とほたるの静かな寝息をBGMに、私は芳乃から、不幸体質の原因についての説明を受けていた。

 

「ほたる殿の気が良くなってきている原因は、はっきりとは分かりませぬー。

しかし、ほたる殿を取り巻く環境のいずれかが、関与していることは明々白々でしょうー。」

 

芳乃が、補足するように付け足す。

 

「そっか……現状維持、か。」

 

それならば、昨日最善策を見つけたばかりだ。

茄子とほたるを常に一緒に居させれば、それは難しい話ではないはずだ。

イレギュラーが起きなければいいのなら、それで全てカタがつく。

そうすれば、あとは時が過ぎるのを待つだけ。

ほたるの不幸体質が完治する、その時まで。

 

 

 

本当に、そうか?

 

 

 

確かに、矛盾は無い。

芳乃が嘘をつく筈がないし、それは茄子もほたるも同じだ。

そして、これまでの体験と、皆の発言を組み合わせれば、確かに。

確かに、これでいい。

 

でも。

 

何だ? これ。

何か、変だ。

何か、引っかかる。

何か、おかしい。

何が、おかしい?

 

何か、見落としている?

……一体、何を?

 

昨日と、同じだ。

昨日、茄子と話をしたときと、同じ。

あの、重苦しいものが。

私の中で、蠢いている。

警報を発している。

これではいけない。

このままではいけない。

でも。

一体、何が、いけない?

 

だって、茄子ならできるのだ。

ほたるの不幸を、回避させられるのだ。

これ以上事態が悪化しないように。

それは、現に、できていると言うのだ。

そしてそれが、根本的な解決に、繋がるというのだ。

 

「……杏殿ー?」

 

私の様子がおかしいことに気付き、芳乃が心配そうに声をかける。

 

「これで……これで、いいんだよね? 芳乃。

茄子とほたるが一緒にいれば、ほたるの不幸は大丈夫。

そのまま時間が過ぎれば、ほたるの不幸体質は治る。

……これで、いいんだよね?」

 

芳乃はしばらく考える動作をした後、至極真面目な声で言った。

 

「……もし、問題があるとすればー。

何らかの、予想外の事態によって、ほたる殿の気が悪化しー。

茄子殿でも抑えきれぬほどのものとなってしまうー……。

こんなところでしてー?」

 

茄子の幸福をもって、ほたるの不幸に対処する。

それに問題が発生するなら、茄子が対処不可能な状況に陥る以外は無い。

 

でも、そんなことは有り得ない。

彼女の顔には、はっきりと、そう書かれていた。

 

それもそうだろう。

ただでさえほたるの不幸を跳ね除ける程の力を持っている上に。

その不幸それ自体が、段々と弱まってきているのだ。

もしそれが有り得るとしても、最も可能性が高いのは、今。

しかも、今よりもずっと可能性が高かったはずの過去に、その異常事態は発生していないのだから。

 

確証は、確かに無い。

100%絶対に、これが成功する、という訳ではない。

でもそれは、月が落っこちて来やしないか、と、心配するようなもので。

何度考えても、やはり、この方法が、現状の、最善で。

だから。

 

「……大丈夫、だよね。」

 

このもやもやは、単なる気のせいで。

若しくは、私が心配性なだけで。

神様のお告げとか、忠告とか。

その類のものではないのだ。

 

「……いつもサボってばっかなのに、今回はやたらとやる気じゃないか、って?」

 

そう思おうとしていると、芳乃はどこか、不思議そうに私を見つめる。

思っているだろう事を代わりに口にすると、彼女にしては珍しく、少しだけ驚愕に目が開かれた。

 

いやあ、ここだけの話だけどさ。

実は私のこのニートキャラは後付で。

本当は、自分を変えたい、という思いもあって。

彼女も似たようなことを言うものだから。

親近感とか覚えてしまい。

少しは応援してやろうか、なんて思っちゃったんだよ。

 

「……別に、ただの気まぐれだよ。」

 

なんて、言えるわけないじゃん。

 

 

 

会話が終わり、静かな時間が流れる。

頬杖をついて窓越しの景色をぼんやりと眺めていると、少しづつ目蓋が重くなる。

芳乃をちらりと見ると、既に船を漕いでいた。

私も、ゆっくりとのしかかる睡魔に逆らおうとせず、深呼吸するための空気を、大きく吸い込む。

 

意識と共にそれを吐き出そうとしたところで、きらりの歌声に叩き起こされた。

 

あまりにタイミングが悪かったのと、本当に久しぶりに聞いたのもあって、私の目は急速に見開かれた。

数秒経って、発生源が私の携帯であること、電話がかかってきていることに気付き、画面を確認する。

相手は、プロデューサーだった。

 

3人を起こさぬよう、すぐに応答。

着信音を消し、次いでイヤホンを装着。

マイク部分を口元にあてて、できる限り小声で話しかける。

 

「……何? プロデューサー。今寝ようとしてたんだけど。」

 

露骨に嫌そうな声を作るのを忘れない。

彼からすれば理不尽この上ないだろうが、子供の特権だ。

 

『ん? ……ああ、もう帰りだったか。

最後まで起きてるなんて珍しいな。』

 

しかし、彼はそれを気にするどころか。

この一言で状況を大体察してしまうのだから恐ろしい。

 

『じゃあ、皆が起きたら伝えてくれ。

ほたるのデビューまでの方針が決まった。

それに伴って、協力してもらいたいことがある。』

 

彼はそう言うと、ほたるが正式にデビューするまでの、今後の予定を話し始めた。



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8.薄幸少女に幸せを

「はーい、回すよー。」

 

一通りの操作を確認した後。

皆に一声かけて、私はビデオカメラのスイッチを押した。

 

 

 

ほたるの、デビューまでの方針。

それは、彼女を『薄幸少女』として売り出す、というものだった。

 

彼の基本的なプロデュース方法として、そのアイドルを一言で表す言葉を付ける、というものがある。

例えば、私は『ニートアイドル』といったように。

ほたるの不幸体質は、それ自体が立派な彼女の個性であり。

そのまま唯一無二の武器になる、と、彼は判断した。

 

彼曰く、男は庇護欲をそそるものに、てんで弱い。

それが可愛い女の子であるなら尚更だ。

そこで、不幸ではなく、薄幸というイメージを彼女と結び付けることによって。

「俺が幸せにしてやるんだ」という意識をファンに芽生えさせる。

……と、いうことらしい。

彼は何故か「薄幸」という言葉にやたらと拘っていた。

不幸の類語なのだから、どちらも同じだと思うのだが。

「不」か「薄」かは、とても重要なことなのだそうだ。

 

 

 

で、今行っているこれは、ほたる列車を薄幸イメージ路線に乗せる第一歩。

彼女がどれだけ不幸もとい薄幸か、大いに世に知らしめようという訳だ。

公園とかで撮った方が遊具で遊べていいんじゃないか、という声もあったが、万一の事態を考慮して、事務所内での撮影となった。

まあ、撮影日である現在、窓越しからザーザーと雨音が聞こえてきているため、どっちみちここでやるしかないのだが。

 

「……えっと、これからどうするんですか?」

 

画面の真ん中に映るほたるが、助けを求めるように私を見る。

カメラを向けられることにまだ慣れていないだろうから、当然といえば当然の反応だ。

ここは先輩として、安心させてやらねば。

 

「……どうしよっか?」

 

ならなかったんだけどなー。

 

繰り返すが、ほたるの薄幸ぶりをカメラに収めるのが、今回の目的だ。

そして、彼女のそのメカニズムは、現状、ランダムに発生するということ以外、殆ど分かっていない。

つまり、その瞬間が来る時まで、ひたすら待機するしかないのだ。

 

「差し当たりー、ほたる殿は茄子殿と離れないよう行動するべきかとー。」

 

芳乃が、もっともな発言をする。

茄子が言うには、彼女が居ても、何も起こらないということにはならない。

ならば今回の目的を阻害することにはならず、万一の事態からほたるの身を守る最良の手段となる。

その事はこの場の全員が承知しており、うんうんと同じ動きで頷いた。

 

「うーん、じゃあほたるちゃん、お茶を淹れに行きましょう♪」

 

いつもの笑顔で、茄子が提案する。

ほたるが拒否する理由もなく、2人は給湯室へと向かう。

片手にビデオカメラを携えた私も、2人の後を追う。

 

何故、ニートが撮影係を任されているのか。

簡単な消去法だ。

プロデューサーは外回り。

ほたるはそもそも被写体。

芳乃は機械にてんで弱く。

茄子に持たせたら、何が映るか分かったもんじゃない。

自動的に、私がやるしかないのだ。

 

「……こうして見るとさ。」

 

2人が台所に立つ姿を後ろから収めながら、思ったことをそのまま呟く。

こう、髪型といい髪色といい、各々の特徴といい。

 

「姉妹みたいだよね、茄子とほたる。」

 

すると。

 

「あら♪」

「ええっ!?」

 

茄子は嬉しそうに。

ほたるは恥ずかしそうに顔を赤らめて、こちらに振り返った。

 

「いっ……いえっ! 私なんかと姉妹なんて……そのっ……!」

 

「あら、私がお姉ちゃんは嫌ですか〜?」

 

「そういう訳じゃなくて……!」

 

楽しそうに笑いかける茄子と、慌てるほたる。

うん、とても仲の良い姉妹だ。

 

「ちょっとさ、言ってみてよ。茄子お姉ちゃん、って。」

 

見ているこっちも楽しくなってきて、私はそんなことを提案する。

 

「あ、いいですね〜! 言われてみたいです♪」

 

「そ、そんなの無理です……!」

 

最初は拒否を繰り返していたが、嬉しそうな20歳といじわるな17歳についに根負けし。

 

「か……茄子、お姉、ちゃん?」

 

数分の永きに渡る戦いの末に、ほたるの貴重なボイスを録音することに成功した。

よしよし、ファンサービスは上々だ。

 

「はい、お姉ちゃんですよ〜♪」

 

笑顔満開な茄子に抱きつかれ、ほたるの身体が大きく揺れる。

 

「ちょっ、茄子さん、危な……!」

 

先程とは違う意味合いで、ほたるが慌てる。

火をかけたやかんのことを気にしているのだろう。

茄子もそれを分かっているようで、抱きつく力は微々たるものだった。

 

 

 

彼女の身体が何故揺れたのか、分からないほどに。

 

 

 

「……マズっ!?」

 

一瞬遅れて、私は事態を把握する。

茄子が抱きついた力は、どう見ても、ほたるを動かすには足りない。

にも関わらず、ほたるの身体は、大きく揺れた。

それは、どういうことか。

 

ほたるの身体はバランスを崩し、後ろ向きに倒れ始める。

抱きついた茄子もほたるを支えきれず、彼女と共に落下する。

ほたるは反射的に手を伸ばし、何かを掴もうとする。

しかし、手すりのようなものは辺りに無く。

熱湯が入っているやかんの取っ手に、触れる。

 

「──茄子ッ!」

 

弾かれたように、叫ぶ。

間違いない。

これは、ほたるの不幸によるものだ。

このままでは、熱湯が2人に降り注ぐ。

打開できるのは、彼女しか居ない。

 

私の声を聞いて、今まさに倒れながら、茄子が横を向く。

ほたるの手がひっかかり、蓋が外れかけ、こちらに大きく口を開けているやかんを、見る。

その瞬間、やかんは、物理法則を無視したような、不自然な動きに変化した。

 

外れようとする蓋を追いかけるようにその回転速度を増し。

蓋が元の場所に収まっても尚、回転は止まらず。

美しい曲線を描きながら、誰も居ない方向へ飛翔し。

「カンッ!」と、小気味良い綺麗な音を立てて。

まるで自らの意志でそこへ移動したかのように。

 

「……じ、10.0……。」

 

見事に、着地した。

 

「……御無事、でしてー?」

 

私とほたるが目の前の現象に唖然としていると、芳乃が心配そうにドアから顔を覗かせていた。

やかんが着地した音が向こうまで響いたのか、はたまた彼女の言う「良くない気」を察知したのか。

 

その言葉に反応するように、ほたるに覆い被さっていた茄子が上体を起こす。

キョロキョロと辺りを見回し、悠然と佇むやかんを視界に収めると。

 

「……ラッキーですねっ♪」

 

満面の笑みで、そう、言ってのけた。

カメラ目線で。ピースサインまで付けて。

 

ラッキー?

これだけのことを起こしておいて?

確率や物理法則に従っていては到底成り立つはずの無いことを、起こしておいて?

それで尚、偶然だと言い張るのか?

たまたま、運が良かった、と。

彼女は、そんな言葉で、片付けてしまえるのか?

 

口の端っこをヒクつかせながら、私は事の顛末を理解したらしい芳乃に目を向ける。

 

「……芳乃。」

 

プロデューサーは、ファンの庇護欲を刺激すると言っていたけれど。

 

「……でしてー。」

 

こんなものを見せられては。

 

「……私、あんだけ色々考えてた自分が、馬鹿らしくてしょうがないんだけど。」

 

誰かが幸せにするまでもなく。

 

「……わたくしも、でしてー。」

 

彼女が、あっという間に幸せにしてしまうじゃあないか。

 

「「はぁ……。」」

 

そう、思わずにはいられなかった。



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9.だから、きっと大丈夫

「……おー、これは凄い。」

 

動画をネットにアップして、数時間後。

事務所の公式サイトは、F5キーを押すたびに、コメント欄がそっくり入れ替わるほどの大盛況ぶりを見せていた。

 

「かわいい」

「ニートが働いてる……だと……」

「本当に姉妹みたいだな」

「流石茄子姐さんッス!」

「妹にしたい」

エトセトラ、エトセトラ。

皆、思い思いの感想を書き込んでいる。

 

「あっ、質問とかもあるみたいですよ♪」

 

画面の一部を指差して、茄子が嬉しそうに言う。

ついさっき投稿された、最新のコメントだ。

見ると、「普段使ってるシャンプーは何ですか?」とあった。

……待て、まさか飲む気じゃないだろうな。

ゴクッと1本いっちゃう気じゃあないだろうな。

ダメだぞマネしちゃ。彼等は人間の枠組みを愛でもって超越しているだけなんだ。

 

「……?

これ、答えた方がいいですか……?」

 

控え目にコメントを指差し、純粋な目をこちらに向けて。

PCの前に座るほたるが、おずおずと聞いてくる。

 

「…………一々返してたら、キリがないからさ。うん。」

 

直視できずに目を逸らしつつ、何とかそう答える。

その純粋さをどうか無くさないでください。

 

問題のシャンプー発言を皮切りに、ほたるへの質問が次々と並ぶ。

その大半が真面目なものではなく、コメント欄は半ば大喜利会場と化してしまった。

 

その1つ1つを、ほたるはマウスカーソルを動かして、丁寧に読んでいく。

嬉しそうに。楽しそうに。

こんな顔もできたのか、と、驚きすら覚えてしまうほどに。

 

「ライブに出るようになる段階で、どこも倒産してしまう」。

確か、そう言っていたように思う。

それは、つまり、こういった機会が、一度も無かったのだろう。

自分の行動に対して、誰かが反応をしてくれる。

アイドルという立場であれば、あまりに身近なそれを。

彼女は、体験したことが、無かったのだろう。

 

初めて、なのだろう。

自分がアイドルらしいことをしたという、何よりの実感を手にするのが。

 

「……杏ちゃん、芳乃ちゃん。」

 

私と同じように、ほたるの様子を見つめていた茄子が、彼女に聞こえぬよう小さく呟く。

 

「成功させましょうね。

あの子の、アイドルデビュー。」

 

「……はいー。」

 

芳乃もまた、ほたるの表情を見て、ゆっくりと頷く。

 

うん、勿論。

あんな顔見せられちゃったら、やるしかないよね。

なんて、そう言えるほど素直じゃないから。

 

「やっぱり、お姉ちゃんだね。」

 

こんな回りくどい言い方になってしまうのも、いつか変わる日が来るのだろうか。

彼女が、少しづつ、変わっていっているように。

 

彼女が変われたら、自信がつくだろうか。

胸を張って、きらりに会いに行けるように。

 

再び、ほたるの方へと視線を戻す。

もう少し、あの幸せそうな顔を見ておきたかった。

だけど。

 

「──ほた、る?」

 

彼女の顔に、表情は無く。

マウスの上に乗せたままの右手を、しかし動かすことは無く。

瞬きの1つすら、することも無く。

ただ、画面の一点を。

じっと、見つめていた。

 

彼女の視線をなぞるように、私の目は画面へと吸い寄せられる。

彼女が食い入るように見続けているものを、見る。

 

 

 

『神様は、いると思いますか?』

 

 

 

きっと、この質問に、深い意味は無い。

場のノリに合わせて、けれどそういった引き出しが少ないから、書き込んだだけなのだろう。

ふと思いついた、ありきたりなものを。

 

でも。

彼女にとって。

これまで不幸体質に悩まされ続けてきた、ほたるにとっては。

その言葉は、残酷だ。

 

そのまま、随分と時間が経って。

彼女の指が、キーボードに触れる。

慣れない手つきで、ゆっくりと。

言葉を、打ち込み始める。

 

『もし、神様が』

 

神様。

この世を創り、また、この世を管理している存在。

 

そんなものが、本当に存在して。

存在しておいて。

存在、しているくせに。

 

『本当に、いるのなら』

 

それで尚、こんな仕打ちをするのなら。

彼女だけを、嫌うような。

彼女だけを、迫害するような。

彼女だけを、幸せにするまいとするのなら。

きっと、彼女は。

 

『今すぐに、しんでほs』

 

彼女の、きっと、本心からの言葉は。

後ろから、抱きしめられることによって。

最後まで、紡がれることはなかった。

 

 

「……大丈夫です。」

 

 

 

鷹富士茄子が、紡がせなかった。

 

 

 

「……大丈夫ですよ。」

 

そのまま、片手でほたるの頭を撫でる。

ゆっくりと、ゆっくりと。

 

「あなたはもう、大丈夫です。」

 

茄子は、言葉を繰り返す。

大丈夫。大丈夫。

 

「あなたは、幸せになれます。

人を、幸せにできます。

あんな顔ができる、あなたなら。

あんなに嬉しそうに笑える、あなたなら。」

 

それは抵抗無く、耳から入ってきて。

そのまま、身体のどこか。

大切なところに、すっと浸透していく。

そんな、不思議な声。

 

「だから、大丈夫です。」

 

大丈夫。

何の具体性も無い、気休めにすらよく用いられる、極めて平々凡々な言葉。

それと全く同じはずのものを、ただ、茄子は繰り返す。

けれども、彼女がそれを発することで。

その意味は、まるで違う。

だって、彼女がそう言っているのだ。

絶対的な幸福である、彼女が。

その彼女が、大丈夫だと言っているのだ。

どこに、疑う余地がある。

 

どこにある。

その言葉に。

彼女に。

身を委ねない、その理由が。

 

乗せられている手の重さに合わせて、ゆっくりと頭が下がっていく。

膝の上に置かれた2つの握りこぶしが、少しずつ震えてくる。

 

それ以上は何も言わず、ただ、静かに。

茄子は、ほたるの頭を撫で続ける。

 

やがて。

必要最低限の音だけを立てて、ほたるは涙を流し始めた。

 

「……行こっか、芳乃。」

 

どうやら、私達はお邪魔のようだ。

そう感じて、私は二人に背を向ける。

 

「おせんべいが残り少ないのでしてー、買い足しに参りましょうー。」

 

「分かった分かった。」

 

財布と携帯だけ確保して、事務所の外へ出る。

ドアノブを掴むために振り返ると、二人の姿がちらりと見えた。

 

「……やっぱり、お姉ちゃんだね。」

 

妹のこと、任せたよ。

心の中でそう続け、私は事務所の扉を閉めた。

 

ばたん、と、少しだけ大きな音が響くと、少し遅れて。

その向こうから、ほたるの嗚咽が漏れてきた。

小さなそれは、だんだんと大きくなって。

 

きっと今、彼女は吐き出しているのだろう。

ずっと、本当にずっと、どこにも吐き出せなかったものを。

 

悲しみを。苦しみを。

嫉妬を。憎悪を。

罪悪感を。恐怖を。

怨みを。諦念を。

 

その身を潰さんとするまで、積り続けるしかなかった感情を。

やっと、吐き出せているのだろう。

 

「……いい天気だね。」

 

足下の水たまりが発する光に目を細めつつ、空を見上げる。

 

「……ええー、本当にー。」

 

午後からは、文句無しの快晴だった。



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10.アイドル前夜

何度見返しても、まだ、夢のようで。

私はもう一度、台本を手に取った。

 

 

 

あれからというもの、私は実に順調だった。

今まで生きていた中で、きっと、一番。

レッスンだって、きちんと受けられているし。

日常生活においても、不幸が訪れるのが、最早珍しいと言えるほど。

恐らくこれは、茄子さんのおかげなのだろう。

 

芳乃さんが言うには、私の不幸体質は、どうやら良い方向へ向かってきている。

温泉の時にはただ信じることしかできなかったけれど、今でははっきりとした実感を伴っている。

 

私は、変われてきている。

 

きっと、あの日が、私の、一番幸せな日だったのだ。

学校の屋上。

茄子さんと、初めて出会った日。

あの日に、一日だけ、待ったから。

待ってくれと、言ってくれたから。

だから私は、変われてきているのだから。

幸せに、なろうとしているのだから。

あの日、彼女が言ったように。

もっと、別の方法で。

 

いつも笑顔な茄子さんが居て。

見守ってくれている芳乃さんが居て。

さりげなく支えてくれる杏さんが居て。

そうでなければ、こんなにうまくはいかなかっただろう。

 

 

 

台本に書かれた、私の名前。

それを、ゆっくりと指でなぞる。

自然と、笑みがこぼれる。

 

私の、初舞台。

ついにそれが、現実的な形となって現れた。

 

それは、どこにでもありそうなシンデレラストーリー。

恵まれない少女を偶然目にした女神様が、あまりに可哀想だと天使に少女を救うことを命令する。

天使は部下である妖精を、少女の手助けをするよう遣わせる。

妖精は少女の願いを聞き、協力して問題を解決していく。

そんな物語を、歌を交えて演じるのだ。

 

胸にあるのは、緊張と期待。

そして、ほんの少しの、不安。

不安でいっぱいだったこれまでとは、大違いだ。

 

きっと、今回は大丈夫。

これ以上に恵まれた環境を、私は知らない。

思い描くことさえできない。

今回は、成功する。

アイドルに、なれる。

私がずっと、夢見ていたアイドルに。

やっと、なれるんだ。

 

だから、もし。

もし、今回もダメだったら。

これだけ恵まれて、それで尚、失敗してしまったなら。

その時は、諦めよう。

自分が幸せになることを。

誰かを、幸せにすることを。

あの日自分が、そうしようとしたように。

 

そんなことを、まだ、考えてしまうのも。

きっと、もうすぐ無くなるはずだから。

 

 

 

「……もう一回、見ておこう。」

 

布団に寝転んで、台本の最初のページを開く。

既にパジャマに着替えてしまったけれど、まだ眠れそうにない。

 

寝て、次に目を覚ましたら、本番の日の朝。

そう考えると、中々素直に部屋の電気を消す気にはなれなかった。



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11.結果と考察

彼女は基本的に、事実に基づかない行動を好まない。

何の根拠も無く他者を慰めることも。

希望を持たせるような言葉を発することもしない。

 

「今日はー、とても良い気が巡っておりましてー。」

 

だから。

依田芳乃がこのような発言を、わざわざ本番の日の朝にしたのも。

事実、彼女がそれを感じ取っていたからだった。

 

 

 

彼女は、自らがそう主張する通り、あらゆるモノに宿る気を視認できる。

そして、それらは互いに少しづつ影響を与え合うものらしい。

それが、十数年の経験を経て、彼女が導き出した法則だった。

 

ただ1人、鷹富士茄子を除いては。

 

茄子だけは、違った。

茄子だけは、特別であった。

茄子だけは、突然に、一方的に、他者の気を変化させた。

他者を、幸福にしていった。

 

彼女の目には、それは実に奇妙に映ったことだろう。

ただ影響を与える「だけ」の存在など、一度たりとも見たことがなかったのだから。

だが彼女は、妙だと感じつつも、それを良しとした。

他人に危害を与えるどころか、その全く逆のことをしていたからだ。

放っておいても問題はなく、放っておいた方が都合がいい。

「困っている人には、力を貸しなさい」。

彼女がばば様と呼ぶ人物の、他者を思いやる教え。

それを素直に受け入れた彼女にとって、目の前の現象はとても好ましいものであり。

他者の幸福を喜ばない趣味は、持ち合わせていなかった。

 

しかし、だからこそ。

白菊ほたるの登場は、彼女の頭を非常に悩ませることとなった。

それこそ、ひと目見た瞬間に「面倒なことになりそう」とひとりごちてしまうほどに。

それほどに、分かりやすかった。

前もって茄子の存在を知っていたからこそ、すぐに理解することができた。

この少女は、茄子と同じだ。

茄子と同じように、一方的に影響だけを与える。

この少女は、茄子と真逆だ。

幸福ではなく、不幸をばら撒いている。

この少女は、放っておいてはならない。

茄子のように放置が許される、そんな存在ではなかった。

 

それから彼女は、出来る限り目を離さず、ほたるを観察することにした。

放置してはならないとはいえ、どう対処すればいいのかすら分からなかったからだ。

影響のみを与える者同士が出会ったら、どんな反応が起こるのか。

それを明らかにするまでは、彼女は安心してお茶をすすることができない。

 

注意深くほたるを見ているうちに、様々なことが分かってきた。

ほたるのことは勿論、茄子のことも。

どうやら、二人が酷似しているのは、その体質だけではないらしい。

二人が抱えている、想い。

それもまた、非常に似通っていた。

 

ほたるは、人を、幸せにしたいと言った。

アイドルは、人を幸せにするものだと。

自分も、そのような存在になりたいと。

そしてそれは、茄子の願いでもあった。

茄子が、アイドルになった理由。

それもまた、ほたると同じものであったことを、彼女は記憶していた。

自分はどうやら、他者を幸せにするらしい。

であれば、より多くの人を幸せにしたい。

より多くの人と、触れ合える存在に、と。

 

そんな茄子の目の前に、不幸な少女が現れた。

茄子が起こす行動は、決まりきっていた。

 

そのおかげで、彼女の観察行動はとてもやりやすいものとなっていた。

数日間に及ぶ彼女の努力によって得られた情報を、結論から言うと。

茄子とほたるは、互いに直接影響を与えることは無い。

ほたるの不幸体質が、茄子以外の何らかに影響を与えたとき、茄子の幸運体質がそれを間接的に相殺する。

しかし、どういうわけか、その逆は起こることはなかった。

茄子の幸福を、ほたるの不幸が間接的に打ち消すようなことは。

結果として、ほたるによって引き起こされる不幸の数は激減。

茄子による幸福は、これまでと変わらず、一定数存在し続けた。

 

そして、最も重要視すべき事柄。

茄子が直接影響を与えてはいないはずのほたるの気が、徐々に改善していったということ。

ほたるの不幸体質が、何故かひとりでに治り始めたということ。

これも、茄子の力によるものなのか。

それは、彼女には判断がつかなかった。

そもそもほたるの体質が、時間とともに緩やかに収まっていくものである可能性も十分にあった。

ただ、1つだけ、はっきりしたことがある。

 

ほたるの不幸体質は、現在の環境を維持できれば、自動的に快方に向かう。

彼女は、ほたるの対処法として、放置することが最善と判断した。

 

懸念が、あるとすれば。

このことを、双葉杏に伝えたときの、その反応であった。

杏は、とても頭の回転が速い。

それは彼女もよく存じており、だからこそ、気がかりであった。

それで、本当にいいのか?

本当に、なんの問題もないのか?

杏がそう繰り返すたびに、彼女の胸にも不安が積もる。

しかし、再び考えてみても、この方法で起こりうる問題なんて、殆ど思いつかない。

唯一頭に浮かんだのも、あくまで確定ではないとはいえ、ほぼあり得ないと言えてしまえるもので。

もし、本当に、これに問題があるとしたら。

その時は、きっと彼女よりも先に、この小さな少女が気付くだろう、と。そう判断して。

彼女はこの懸念を、ひとまず、単なる気のせいとして片付けた。

 

それから、時が流れるにつれ。

ほたるの不幸体質は予想通り、順調に改善されてゆき。

今日、彼女が確認した限りでも。

ライブの、メンバー全員から、恐らくは「ライブを成功させる」という一体感によって生まれた、とても良い気が巡っていて。

だから彼女は、分かりやす過ぎるほどに緊張しているほたるを安心させるために、そのことをそのまま伝えたのだ。

 

客入りは十分。

メンバーの状態も良好。

既にデビューしている3人は勿論、努力家であるほたるも、技量不足によるミスを起こすとは考えづらい。

彼女は、このライブの成功を、誰よりも確信していた。

 

 

 

 

 

彼女の意識が途切れる、その直前まで。



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12.暗転

「き、緊張しました……。」

 

「ん、お疲れー。」

 

舞台上から帰ってきたほたるを、私は怠そうに手を振って迎えた。

 

初めての舞台で。

決して狭いとは言えない広さのステージで。

一人きりで、観客の前に立たされた。

失敗しても誰も責められないだろうこの状況で、しかしほたるは、一つも目立つミスをすることなく、一度目の出番をやり遂げた。

 

まずは、大成功。

この調子なら、彼女の力量の心配は要らないだろう。

場に飲まれてしまったとき等の対処法を考えてきたのは、どうやら杞憂だったようだ。

 

「……芳乃さんと茄子さんは、もう準備に?」

 

二人の姿が見えないことに気付いたほたるが、何回か頭を半回転させて言った。

 

「神様と天使は空を飛ぶからね。」

 

今回はなんと事務所初のワイヤーアクション。

……ただ宙に浮かぶだけをアクションと呼ぶなら、だが。

それにはハーネスやら何やらが必要らしく、準備に時間がかかるそうで。

今回は特に入念に安全確認をするから、尚更早めに行かなければならないのに。

二人は時間ギリギリまでほたるの演技をここで見守った末、スタッフに呼ばれて渋々場を離れた。

 

「……お、始まるね。」

 

ほたるを簡素なパイプ椅子に座らせ、タオルと水を差し出す。

彼女の息が整ってきた頃に、ビーッという独特のブザー音が響いた。

第二幕開始の合図だ 。

 

ワイン色の垂幕が左右に開き、同時に床からスモークが焚かれる。

足場に溜まった雲と、白い照明の光が合わさって、そこはさながら、天国を連想させる空間と化していた。

 

『たまにはとー、下界を覗いてみましたらー。』

 

そんな幻想的な空間に、どこからか声が響く。

 

『あれは余りにもー、余りにも不幸な少女なのでしてー。』

 

台詞と共に、空からゆっくりと人影が降りてくる。

白く薄い布地を幾つも繋ぎ合わせて作られたような、神秘的な衣装。

それが、機械によって下から押し出された空気に、ひらひらと揺れて。

 

『何とかして差し上げなくてはなりませぬー。』

 

そう言って現れた、芳乃演じる神様は。

まるで、演技ではなく、本当に。

本当に本物の、神様なんじゃないか、と。

そう思わせるほどに、美しく。

観客は勿論、私やほたるも、感嘆の声を漏らすことすらできず。

息を呑んで、ただ、見とれていた。

 

『天使殿ー。おいでくださいませー。』

 

柔らかな笑みを浮かべたまま、神様は天使を呼ぶ。

それに応えて、私達の居る上手とは反対側の下手から、スキップをするような陽気な足取りで。

 

『は〜い♪ 天使ですよ〜♪』

 

茄子扮する天使が、いつもの満面の笑みで登場し。

そのままの勢いで、ホップ、ステップ。

ジャンプと同時に、ワイヤーによって空へ飛び上がる。

ふわふわと芳乃の元へ近づきながら、一回転してみせたり、観客に手を振ったり。

一通りのファンサービスを披露した後、神様より少し下の位置で静止した。

 

『神様、どうかしましたか? お煎餅が無くなっちゃいました?』

 

今出しますね♪ と続けて、茄子は両手を前に出し、力を込める動作を取る。

……茄子なら本当に出してしまえそうだから恐ろしい。

 

『いえー。あ、お煎餅は後でお願いしたいのですがー、今はそうではなくー。』

 

芳乃が断ると、茄子は残念そうに腕ごと肩を落とす。

こころなしか、背中に生えている衣装の羽もしょんぼりとしているように見えた。

……茄子が登場した途端に、随分とコミカルな空気になったな。

 

『これを見てくださいませー。』

 

芳乃がそう言って後ろを向くと、二人の姿を映していたスクリーンに、先程出番のあったほたるの姿が。

 

『あらあら、これはちょっと、放っておけませんね?』

 

芳乃に倣って映像を見た茄子が、口に手を当てて驚きを表現する。

顔が見えにくい場面では、こういった大袈裟なリアクションが肝要になる。

 

スクリーンからほたるが消え、再び二人を映し出す。

 

『と、いうわけなのですがー。何かいい方法はないものかとー。』

 

『うーん……あんまり私達が下界に影響を与えちゃうのは良くないですし……。』

 

「うーん……」と、二人は腕を組み、同時に声を漏らす。

すると、茄子がおもむろに顔を上げ、ポンと手を叩いた。

 

『そうだ、妖精さんに任せてみるのはどうでしょう♪』

 

茄子とは対照的に、芳乃の声は、明らかに乗り気ではなかった。

 

『……あのー、サボってばかりと有名の妖精殿でしてー?』

 

散々な言われようである。

妖精としては異議を唱えたい。

 

『あの子ならそれほど影響を与える力は無いですし、なんだかんだ言ってしっかりやってくれますから♪』

 

そう言われて、芳乃は再び考え込む。

やがて、「天使殿がそうおっしゃるのでしたらー。」と、組んだ腕を解いた。

 

『ではー……。』

 

芳乃が右手を開いて、茄子の方へ伸ばす。

茄子はそれを見て頭を少し下げ、目を閉じて両手を胸の前で組んだ。

 

すると。

舞台を照らしていた光が消え、辺りが真っ暗になる。

一瞬遅れて、二人の頭上からスポットライトが浴びせられた。

 

『──神、依田芳乃が。』

 

一言。

その、たった一言で。

先程までの、のんびりとした空間は。

完全に。完璧に。跡形もなく、消え失せた。

 

『天使、鷹富士茄子に命じます。』

 

そのくらい、違ったのだ。

彼女の声が。

彼女の顔つきが。

彼女を中心として発せられるものの、全てが。

これまでと、決定的に違ったのだ。

 

『妖精、双葉杏の力を以ってして…………。』

 

芳乃は、何かの儀式をするように、厳かに。

天使への、少女を救うための命令を読み上げる。

 

観客の息遣いすら聞こえない、静寂。

彼女の演技の神聖さは、それほどまでに。

一瞬で場の空気を支配してしまえるほどに、役にぴたりと合っていた。

合い過ぎていた、と言ってもいい。

何故なら。

 

「……杏さん。」

 

この、彼女の沈黙が。

 

「ほたる? ……どうしたの?」

 

次に発する言葉の、重みを増すための。

 

「あの……芳乃さん、」

 

意図的に作られたものなのだと。

 

 

 

「変じゃ、ありませんか?」

 

 

 

そう、思わせてしまったから。

 

 

 

「……嘘、でしょ……!?」

 

ほたるの言葉によって、初めて私は芳乃を観察する。

演劇の鑑賞ではなく、状況の分析を。

 

だが。

余りにも、遅過ぎた。

 

そうだ。

こんな沈黙、台本には無かったじゃないか。

しかし。

ならば、何故?

何故彼女は、台詞を続けない?

……何故、続けられない?

 

彼女が陥っている状況に。

陥ろうとしている結末に。

 

まさか、今、起きたのか?

こんな時に? こんなところで?

 

誰も、気付かないまま。

 

その結果として、彼女が演技を続けられない状態にある?

 

決して、聞こえるはずのない音。

聞こえては、いけない音。

静まりきった水面の世界に、それは。

 

 

 

ぶちん。

 

 

 

耳障りなほどに、酷く、響いた。

 

「──ッ!」

 

そんな。

よりにもよって、それなのか。

入念に安全性を確かめて。それでも、それなのか。

そんなの、無事で済むはずがない。

……助かる、わけがない。

 

支えを失った身体が、ゆらり。

これから、彼女がどうなるか。

どうなってしまうのか。

誰にだって分かる。

分かってしまう。

 

「茄子……ッ!」

 

そう叫びながら。

でも。

彼女も、吊るされているのだ。

目を閉じて、神託を受けている最中なのだ。

間に合うか、分からない。

 

芳乃が、緩やかに落下を始める。

考えるより先に、足が動いた。

 

全力で走りながら、計算する。

落下速度。私の走力。筋力。彼女の体重。

受け止めるのは無理。衝撃の緩和。横に突き飛ばす。

 

芳乃の墜下が止まらない。

呼ばれた声に反応し、茄子が閉じた目蓋を開く。

そこに居るはずの、神様の姿を確認しようとする。

……何も、無い。

 

芳乃の顔がこちらを向いた。

今まさに感じているはずの、虫が背中を駆け上がるような浮遊感。

彼女の表情は、恐怖と、驚愕で塗り潰されていた。

「まさか」。「あり得ない」。

その目は、私にそう訴え続ける。

 

地面との距離が、もう近い。

──違う。

私じゃない。

芳乃が見ているのは、私じゃない。

彼女の、驚愕の目線の先は。

私の、後ろに居る。

 

何だ。

何を見ている。

彼女の目には、何が映っている。

ほたるから、何が見えている。

 

茄子がやっと芳乃を見つける。

ダメだ、間に合わない。

私も、茄子も。

芳乃まで、届かない。

 

「芳乃ちゃ──」

 

 

 

 

 

茄子の、胸を強く締め上げる、悲痛な声は。

ボールを床に思い切り叩きつけたような、鈍い轟音に掻き消された。



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13.願いごと、ひとつ

「はぁ……。」

 

小さくない病院の、小さくない病室の。

ドアの前で立ち尽くしながら、私は何度目かの、小さな溜息をついた。

 

あの後、すぐに芳乃ちゃんは病院に担ぎ込まれた。

色々と身体を調べて、大きな機械に通されて。

あちこちを輪切りにされて、分かったこと。

 

彼女の身体の何処にも、異常は無い。

すぐにでも日常生活に戻れる、そんな状態で。

 

 

 

もう二週間、一度も目を覚ましていない。

 

 

 

それが何に依るものなのか。

いつ意識が戻るのか。

何も分からない。

ただ一つ、確かなことは。

 

ほたるちゃんのデビューは、失敗したということ。

 

芳乃ちゃんの入院を皮切りに、彼女の不幸は再びその勢いを増した。

それも、今まで見たことが無いまでに。

やっと許しを得たかのように、それは一斉に牙を向いた。

 

今日私がこうしているのも、ほたるちゃんの付き添い。

もう、片時も目を離してはならないのだ。

私が彼女と離れたら、その瞬間に不幸は誰かに襲いかかる。

財布を落とすとか、躓いて転ぶとか。

そんな生易しいものではない。

確実に生命活動が停止するようなことが。

断続的に発生しているのだから。

 

平日の午後、太陽の色が濃くなってきた頃。

こんな時間だからか、ここは今、とても静かだ。

こうして立っているだけで、嫌でも耳に入ってくる。

 

「……んなさい。ごめんなさい。芳乃さん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」

 

ずっとだ。

昼頃にここに来て、日が暮れるまでずっと。

そんな毎日を、もうどれくらい繰り返しただろうか。

少なくとも一週間は満たしていないはずなのに。

その何倍も、長く感じる。

 

本来なら。

こんなことは、止めさせるべきなのかもしれない。

律儀に毎日病院に、連れて行くべきではないのかもしれない。

でも。

ひどかったのだ。

こうやって、懺悔を繰り返すようになる、その前の彼女は。

ほんとうに、ひどかったのだ。

 

何を見せても、何を話しかけても反応しない。

手を引いて、初めてよろよろと力無く歩き始める。

ずっと床に座り込んで、ずっとどこかを見つめてる。

見ているものなんて、何もないのかもしれない。

人から心というものを抜き取ったら、どうなるのか。

その模範解答を見ているような。

見ているこっちが、泣きたくなる姿だった。

 

それが何日か続いた、ある日。

久しぶりに彼女は、意味のある言葉を発した。

注意して聞かなければ、空気に吸収されて消えてしまいそうな声で。

「芳乃さんの病室に行きたい」。

……こうなることは、どこかで分かっていた。

分かっていて、それでも。

それでも、幾分かマシだった。

1/1スケールの人形だと言われたら信じてしまえそうな彼女の姿を、これ以上見ていたくはなかった。

 

赤色の丸い光の、半分は隠れてきた。

そろそろ、帰る時間。

彼女が泣き疲れて、眠ってしまう時間。

扉の向こうに意識を向けると、既に声は聞こえなくなっていた。

 

タクシーを呼ぶための携帯と、涙を拭くためのハンカチをカバンから取り出しつつ。

通話可能エリアでもある彼女の病室へと、引き戸に手をかける。

 

「……んで、ですか。」

 

その時だった。

 

「……なんで、私じゃないんですか。」

 

彼女が初めて、謝罪以外の言葉を発するのは。

 

「私なんですよね、不幸なのは。

だったら、私が不幸になればいいじゃないですか。

……私が、こうなればいいじゃないですか。」

 

きっと、誰に問うているわけでもない。

彼女が、優しすぎるから。

だから漏れ出てしまう、やり場のない憤り。

 

「なんで、周りの人ばっかり、こうなるんですか。

なんで、私だけにしてくれないんですか。

なんで、なんで……。」

 

だから、彼女は望む。

もうこれ以上、誰かが傷付かなくていい方法を。

単純で、だからこそ、確実な結末を。

 

「──ねば、よかった。」

 

やっとそこまで思考が至り、私は我に返る。

彼女が次に、言おうとしていること。

彼女が今、思い描いている希望。

それを、言わせちゃ、ダメだ。

だって、やっとなんだ。

やっと、あんなに楽しそうに笑えたのに。

やっと、夢が叶う直前まで来れたのに。

……やっと、幸せになれると、思ったのに。

 

「……こんなことになるんなら。」

 

嫌だ。

認めたくない。

あれだけ頑張って。

あれだけ耐えて。

あれだけ泣いたのに。

それでも、ダメだなんて。

幸せに、なれないなんて。

最初から諦めていた方が、よかったなんて。

 

「あの日、屋上で……。」

 

降ろしかけた手を、再びドアの取っ手にかける。

両手を使って全力で、開ける。

何て声をかければいいかなんて、分からないけれど。

でも。

何か、言わなくちゃ。

 

「ほたるちゃ──」

 

私の、彼女を呼ぶ声は。

最後まで、続くことはなかった。

 

そんな。

確かに、杏ちゃんは言っていた。

私の幸運やほたるちゃんの不幸は、時に物理法則すら無視するって。

でも、まさか、こんな。

 

もう点いているはずの蛍光灯が光っていない。

毎日一本ずつ増えている、花瓶に活けているはずの可愛らしい花が、水浸しの床に落ちている。

窓は閉まっているはずなのに、冷たい風が強く吹き込んでいる。

そして。

 

花瓶、蛍光灯、窓。

凶器と成り果てたそれらの破片が、切っ先を一人の少女に向けて。

彼女を中心に、空中で静止していた。

 

西日に照らされた刃物は、きらきらと輝いて。

これから起こりうる惨劇は、まるで嘘なんじゃないかという錯覚を与えてくる。

 

「〜〜ッ!!」

 

反射的に、走る。

標的となった少女を、守るために。

この身体は、いくら切り刻まれてもいいから。

彼女を包み込むように、抱きしめようと。

 

距離はそう離れてはいない。

あの時のように、動きを阻害するものも無い。

大丈夫。間に合う。

 

部外者の侵入に気が付いたほたるちゃんがこちらを向くと、目が合った。

涙でぐしゃぐしゃになった顔には、ひどく不釣り合いな無表情。

目の前にある非現実を、当然のように受け入れて。

 

 

 

「──私が、死ねばよかった。」

 

 

 

彼女の言葉は、引き金となって。

ドーム状に整列した凶刃が、一斉に少女を目指す。

それと同時に、私は彼女に辿り着く。

 

勢いを殺せないまま、殺さないまま。

私は彼女を抱きしめる。

何かの拍子で離れてしまわないように、強く、強く。

 

「……よかった。」

 

今度は、ちゃんと。

ちゃんと、間に合った。

私は、どうなってしまうのか分からない。

全ての破片をすり抜けられたりしたら、一番いいのだけれど。

でも、死ぬことはないだろう。

そして何より、この子はきっと無事だろう。

目の前で友人が倒れるのは、もう見たくない。

私が幸運だというのなら、それくらいは叶えてほしい。

間も無く襲いかかるだろう痛みに備えて、私は固く目を閉じる。

 

 

 

 

 

風を切る音が、聞こえた。



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14.さあ、考えろ

かりかり、かりかり。

シャーペンの走る音が響く。

 

かさかさ、ぽい。

しわくちゃになったルーズリーフが、また床に落ちた。

 

やり直し。最初から。

頭と紙を真っ白にして、もう一度。

 

事務所には、プロデューサーと私だけ。

机の前で千手観音になっている彼を横目に考え事をするのが、最近の日常となっていた。

 

さて、考えよう。

まず、何故不幸が起こったのか。

何故芳乃が、落ちたのか。

何らかの予想外の事態でも起こらない限り、そんなことはあり得ない。

それが温泉旅行の時点での芳乃の見解であり、私もそれに同意した。

しかし、実際に不幸は発生した。

ということは、「何らかの予想外の事態」もまた、発生したことになる。

それによってほたるの気が悪化し、茄子でも抑えきれないほどにまで膨れ上がってしまった。

 

では、その予想外の事態とは、何だ?

ライブ当日までの間、ほたるの不幸は非常に静かだった。

しかし突然、なんの前触れも無く、芳乃は不幸に襲われた。

そして、ほたるが壇上に上がっていた段階では、不幸は起こっていない。

つまり。

ほたるの出番が終わってから、芳乃が落下し始めるまでの間。

この短い期間のどこかで、それは発生したということ。

 

芳乃と茄子が役を演じている時に、何かがあったのだ。

ほたるの改善されつつあった不幸体質が再び元通りになってしまうような、何かが。

 

これが、一つ目の仮説。

二つ目は、前提を疑ってみる。

一つ目の仮説の基盤となっている、これまでの経験から推測した、ほたるに関する前提を。

 

・彼女の不幸体質は本物である。

・不幸が起こる一瞬前に彼女はそれを察知する。

・ごく稀に、これから起こる不幸をかなり前の段階で察知する。

・不幸が起こるタイミングは完全にランダムである。

・ほたるの不幸と茄子の幸福は直接互いに関与することはなく、それによって事態が生じた時初めて、その事態そのものに影響を与える。

・ライブ当日まで、彼女の不幸体質は改善されつつあった。

 

白い紙に、箇条書きで書き起こしていく。

さて、一つずつ見ていこう。

 

「彼女の不幸体質は本物である」。

彼女の周囲で発生している不幸は、しかし彼女を原因としていないとしたら。

全て偶然? それとも、他の外的要因が存在する?

これまでの現象は、偶然の一言で片付けられるものだろうか。

若しくは、付近に彼女が存在する以外の、別の条件は隠れていないだろうか。

 

「不幸が起こる一瞬前に彼女はそれを察知する」。

不幸が起こった時に、彼女がそれに気付かなかった。

そんな事例は無かっただろうか。

察知出来ないのだとしたら、彼女が気付いている事例は、何故気付けたのだろうか。

 

「ごく稀に、これから起こる不幸をかなり前の段階で察知する」。

彼女自身がそうだと発言し、実際に対策を講じたこともある。

しかしそれは、彼女が事前に察知していなくとも可能であった可能性は無いだろうか。

可能でいて、彼女が察知したと勘違いしてしまうような可能性は。

 

「不幸が起こるタイミングは完全にランダムである」。

突発的でしかないと思っていたそれに、法則性があったとしたら。

彼女が付近に存在し、かつ、何らかの条件が必要だったとしたら。

一つ目の仮説とも、合わせて考えるべきかも知れない。

 

「ほたるの不幸と茄子の幸福は直接互いに関与することはなく、それによって事態が生じた時初めて、その事態そのものに影響を与える」。

……えーと。

これが間違ってるってことは、不幸と幸福が相殺されて、結果として何も起こらなかった事例がある、と。

いや、そんなの判別のしようがないじゃないか。

そもそも何も起きていないのか、結果として何も起きていないように見えたのか。

目に見えるものとして現れるのが結果しか無い以上、その二つを見分けるのは困難を極める。

でもまあ、一応、思考の片隅には留めておこう。

 

「ライブ当日まで、彼女の不幸体質は改善されつつあった」。

不幸の発生する頻度は順調に減っていったが、それは彼女の体質とは結び付いてはいなかった。

芳乃によれば、彼女の気こそが不幸の原因であり、それは徐々に良くなってきていた。

だというのに不幸体質は改善されていなかった、ということは、芳乃の見立てが間違っていたことになる。

そんなことが、あり得るのだろうか。

あり得るとしたら、何故芳乃は勘違いをしたのだろうか。

そして、何故不幸の発生頻度は低下したのだろうか。

 

これらのうちの、どれか。

一つ若しくは二つ以上が、間違っていた。

その間違いが今回の、起こるはずがないと判断した事態を引き起こした。

これが、二つ目の仮説。

 

最後に、三つ目。

「彼女の不幸体質は、いくら知恵を絞ろうと対策は不可能」。

この可能性については、考えない。

これがもし、もし正しかったとして。

そうならば、もう、どうしようもない。

彼女は他人を笑顔には出来ないし、自らを幸せにすることも出来ない。

それを認めてしまったら、その時点で彼女はゲームオーバーだ。

そんなの、私は認めない。

だから、考えない。

対策法は、必ず、ある。

 

思い出せ。

これまでの決して短くない期間で起きた、ありとあらゆる現象を。

些細な会話を。ちょっとした行動を。垣間見えた表情を。巡らせた思考を。抱いていた感情を。

その何処かに、答えがある。

彼女を幸せにする鍵がある。

 

スカスカになってきたポケットの中を探る。

片手で数え切れるようになった飴玉の一つを、口に放り入れる。

 

 

 

 

 

さあ、考えろ。



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15.何かに失望したような

静寂は、彼女の歌によって打ち破られた。

きらりの声を響かせる携帯を手に取ると、鷹富士茄子の文字。

画面上部に表示された時刻を見て初めて、もう日が完全に落ちていることに気が付いた。

数時間ぶりに視線を机以外のものに向けると、いつの間にかプロデューサーが居なくなっている。

ライブの件の事後処理の一環だろう。

 

「もしもし茄子、どうか──」

 

『ほたるちゃんは!?』

 

電話に出た瞬間。

不意打ちの悲鳴に耳をつんざかれて、反射的に携帯を遠ざける。

 

「どうしたの、落ち着い……いや、」

 

ここで「落ち着いて」と言って素直に冷静になれるような人は、そもそも最初から慌てはしない。

なだめようとしても時間がかかるだろう。

こちらが推測した方がよさそうだ。

 

さて、彼女の慌てぶりからして、これが緊急事態であることは間違いない。

彼女がただの一般人ではなく、あの鷹富士茄子である点を踏まえると、相当に緊急だ。

そして、彼女が開口一番発した「ほたるちゃんは」という言葉。

ほたるの行方なら、本来は、彼女が最もよく知っているはずだ。

ほたるの不幸を抑えるために、常に側に居るようにしているのだから。

しかしこの言葉から察するに、彼女もほたるの所在を掴めていない。

離れ離れになってしまったのか。

 

だが、見失っただけであるのなら、単に近くを探せばいい。

少なくとも、事務所に居ると分かっている私にすぐさま電話をかける必要はない。

彼女達が向かった病院は、こことはかなり離れている。

見失ってすぐに来られるような場所ではない。

ということは。

見失ってから、既に少なくない時間が過ぎていることになる。

 

「……こっちには来てない。最後に見たのは?」

 

なるほど、まごうことなき緊急事態だ。

今のほたるは歩く爆弾。

処理班が居ないんじゃ、一体どれほどの被害が出るか分からない。

 

『病院です! ……ああどうしましょう、早く見つけないと……!』

 

「とにかく、杏も近くを探してみる。

茄子は今どこにいるの?」

 

言いながら、事務所の出口へと早歩きで向かう。

飴玉を口に放り込む。

羽織るものを乱雑に手繰り寄せ、袖を通す。

 

『私はまだ病院です! 見つけたら連絡してく──』

 

「……茄子? どうし、」

 

早口でまくし立てる彼女の声が、ぷつりと途切れる。

何かあったのかと口を開こうとすると、数瞬遅れて。

 

『ツー、ツー、ツー』

 

無機質な電子音が、私の神経を下から撫で上げるように、繰り返し響いた。

 

自動的に、脳が思考を弾き出す。

暑さから来るものではない汗が背中をなぞる。

まさか。

もしそうならば、緊急なんてもんじゃない。

最悪の事態だ。

ほたるは行方不明。茄子は冷静さを失っている。

これだけでも十分だ。

十分すぎるほどに危険なのに。

 

どうか思い過ごしであってくれと、祈りながら画面を見る。

しかし。

 

『圏外』

 

予想していた通りの二文字が、そこにはあった。

 

この事務所は、大都会という程ではないが、決して田舎に構えている訳ではない。

少なくとも、携帯が場所によっては圏外になるような所では、ない。

自然とこうなることは、まずあり得ない。

となれば、残る可能性は一つ。

ほたるの不幸の影響だ。

 

携帯の連絡帳を開く。

登録されている茄子の番号を表示し、事務所の有線電話に入力する。

……結果は、同じだった。

 

どうする。

こうなってしまった以上、辺りの公衆電話も、メールも期待はできない。

私は今、電話をすることが、外部と間接的に連絡を取ることができないのだ。

私がほたるを見つけても、茄子にそれを伝えられない。

伝えられない以上、見つけたところで対処のしようがない。

茄子が自力でほたるを見つけるしかなくなった。

範囲すら定まっていない街の何処かに居る、たった一人の人間を、たった一人で探さなければなくなった。

 

「……ああ、もう!」

 

苛立ちのままに受話器を叩きつける。

……思ったより大きな音が出て、少しだけ頭が冷やされた。

 

とにかく、ここで棒立ちしていても始まらない。

これからどうするか、考える。

ほたるが事務所に帰ってくる可能性を考慮して、ここで待っているべきか。

私もほたるを探しに行くべきか。

それとも、茄子との合流を目指すか。

 

頭の中に選択肢を浮かばせていると、自然と事務所の扉の方へ目が動く。

動いてから、何故動いたのかを知る。

違ったのだ。

その瞬間、先程までとのそれとは、決定的な違いが生じたのだ。

扉の、曇りガラスに、ゆっくりと動く。

 

人の、影が。

 

反射的に、足が走り出す。

勢いよく扉を開き、影が過ぎ去った方向を見る。

 

「ほたるッ!!」

 

ほたるだった。

非常階段を登ろうとして、しかし自分を呼ぶ声に、こちらを振り向いたその少女は。

白菊ほたるの、はずだった。

なのに。

 

「──!?」

 

彼女の目を見た瞬間、その確信は簡単に揺らぐ。

いや。待て。おかしくないか。

これは。この少女は。本当に。

本当にあの、白菊ほたるなのか?

 

綺麗な黒髪。

綺麗に整った顔。

華奢な身体。

それら全てが、彼女こそが白菊ほたるであると訴える。

そうだ。その通りだ。

彼女は白菊ほたる。今更間違えようがない。

だが。

だからこそ、感情が否定する。

 

彼女の体質に対して危険だと思ったことは、何度もあった。

注意していなくては、なんとかしなくては、と。

しかし、今感じているこれは。

この恐怖の対象は。

 

彼女、自身だ。

 

こんなこと、今まで一度たりとも無かった。

彼女は、自らの体質に悩まされている、ただの優しい少女で。

怖がる必要なんて、何もなくて。

ああ、でも、どうして、今の彼女は。

こんなにも、こわいのだ。

 

ダメだ。

理論よりも先に、心が結論を出す。

今の彼女を、放っておいてはいけない。

例え私が居ても、何もできないけれど。

それでも。

今の彼女を、これ以上、一人きりにしては、いけない。

 

走る。

わざわざここまで歩いてきたんだ。エレベーターはきっと使えない。

走る。

彼女よりも速く走っているはずなのに、ちっとも近付いた気がしない。

走る。

彼女が目指しているのはきっと屋上だ。

走る。

今の彼女が屋上に行ってやることは。

走る。

……そんなこと、させてたまるか。

走る。

走る。

 

走る。

 

 

 

ご丁寧に閉められたドアを、思い切り開く。

ばん、という大きな音を聞いて、彼女がこちらを振り向いた。

 

「……なに、やって、るのさ。」

 

息を整えようと全力で酸素を取り込みながら、空気を吐き出すタイミングで言葉を紡ぐ。

前のめりに倒れそうになるのを、どうにか堪える。

 

「一日だけ。」

 

彼女は、あの恐ろしい目のまま。

感情の無い声で、呟いた。

 

「……待ってみたんです。あの人の言う通り。」

 

「な、にを、」

 

頭がうまく働かない。

何だ。

彼女は何を言っている。

 

「きっと他にも方法があるって。

だから私は待ちました。」

 

ゆっくりと、一歩ずつ。

緩慢な動作で、彼女は私から遠ざかっていく。

 

「待ってみて、最初はよかったと思っていました。

みなさんに会えて、よかった。

レッスンをしていて、楽しかった。

優しくしてもらえて、嬉しかった。」

 

そっちに行っちゃダメだ。

そっちに行っても、何もない。

端にある柵の、その先には。

 

「でも、やっぱりダメでした。

やっぱり、方法なんてありませんでした。

……これしか、なかったんです。」

 

ついに彼女は端まで辿り着く。

よろよろと、私は彼女を追いかける。

 

「だから、なに、いって、」

 

彼女が柵に手を触れる。

彼女を受け入れるように、柵は下へと落ちていく。

 

「あの人なら、私も幸せにしてくれると思っていました。

思って、しまいました。

そんなこと、あるはずがないのに。」

 

もう時間がない。

疲れ果てた身体に鞭打って、私は速度を上げる。

 

「ごめんなさい。

今まで本当に、迷惑をかけてしまいました。

でも、もう大丈夫です。

私が居なくなれば、大丈夫。

後はきっと、茄子さんが幸せにしてくれますから。」

 

うるさい。

そんなお別れみたいなこと、聞きたくない。

ああ、くそ、もうちょっとなんだ。

もうちょっとで、届くのに。

 

「……。」

 

言いたいことは無くなったとばかりに、彼女は再びこちらに背を向ける。

ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女の身体が傾いていく。

何もない、空間へと。

 

今だ。

こちらを見ていない、今しかない。

体力が無くなった脚に、気力を使って力を入れる。

そのまましゃがみ込み、地面を蹴り飛ばす。

 

彼女はもう、その半分以上が宙に投げ出されている。

手を掴んで、引き上げるしかない。

どうやって走ってるのか分からない足を動かす。

感覚すら曖昧な手を伸ばす。

 

彼女が完全に地面から離れる。

その瞬間、私の手が彼女の手を掴む。

しかし。

全力で走り抜けたその勢いを殺すだけの、時間的余裕は。

もう、残ってはいなかった。

 

彼女と共に、私も空に浮かぶ。

反対の手で、コンクリートのふちにぶら下がる。

自分よりも背の高い人間一人を抱えながら、この状態で耐える。

そんなことができるはずもなく。

十数秒の格闘の末に、私はついに力尽きた。

 

ゆっくりと、私とほたるは落ちていく。

もし私が茄子だったなら、きっと二人とも助かっていたのだろう。

そもそも落ちることすらなかったかもしれない。

でも。

私はただの人間で。

そんなこと、できるわけなくて。

だから、せめて、この子だけでも。

ほたるだけでも、助かりますように。

 

 

 

 

 

地面に触れる瞬間まで、ただ、そう祈った。



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16.最悪の解答

これが夢であることは、すぐに分かった。

とうの昔に失われたはずのもの。

恐らくはもう二度と、手に入れることはできないものが。

私を包み込んでいたから。

 

「ねー、おかーさん。」

 

今よりもずっと幼い声で、私は私を包んでいるものに話しかける。

それが私の方を向いたのを気配で感じ、言葉を続ける。

 

「しあわせって、なーに?」

 

偶然見聞きした、知らない言葉。

お母さんならきっと、知っていると思った。

私の単純な疑問を聞いて、しかしそれは少し困ったようだった。

 

「……それは、難しい質問ね。」

 

随分と考え込んで、それは眉を八の字にしながら笑った。

 

「しらないの?」

 

再び私が質問すると、ゆっくりとそれの髪が私の頭を撫でた。

 

「ううん、知っているわ。

知っているけれど、そうね。

杏ちゃんは、『痛い』って知ってるわよね?」

 

「うん。」

 

転んだりすると、すごく痛い。

そう続けると、今度はそれの手が私を優しく撫でた。

 

「そうね。そうだけれど。

転ぶと痛いことは知っていても、『痛い』そのものは、説明できる?」

 

「えっと、ズキズキしたり、チクっとしたり……。」

 

公園で転んだ時のことや、予防注射を受けた時のことを思い出して答える。

するとそれは再び私に問いかけた。

 

「ズキズキって、どういうことかしら。チクっとって?」

 

「……うー。」

 

少しだけ強く頭を押し付ける。

私にいじわるをしているんだと思った。

その答えも、お母さんなら知っていると疑わなかった。

 

「うまく言えないわよね。

お母さんも一緒よ。

痛いってどういうことか、上手に言葉にできないの。」

 

それを聞いて、私は驚いてそれの顔を見上げる。

お母さんは、慈愛に満ちた瞳で私を見続けていた。

 

「幸せも、それと同じ。

どういうことか知っていても、説明するのはとっても難しいの。」

 

それにね、と、それは言葉を繋げた。

 

「『痛い』なら、みんな同じなの。転べばズキズキ、注射はチクリ。

でも、『幸せ』はそうじゃないのよ。

どうしたら幸せかは、人によって全然違うの。」

 

「えー……。」

 

私は明確な不満の意を告げる。

私の望んだ、はっきりとした答えが帰ってきてくれなかったからだ。

 

「じゃあ、例えば。

杏ちゃんは、お母さんとこうするの、好き?」

 

また困ったように笑って、お母さんはぎゅっと私を抱きしめた。

 

「うん、すきー!」

 

私も、お母さんを抱きしめる。

あたたかくて、やわらかい。

私はこうやっているのが大好きだった。

 

「それが、幸せなのよ。

他にも色々あるけれど、その一つは、間違いなくこれなの。」

 

その言葉に、私はやっと満足した。

他の色々も気にはなったが、とにかく一つのはっきりとした答えを貰えたから。

 

「じゃあ、わたししあわせー!」

 

満面の笑みで、私はお母さんに抱きつく。

私もよ、と返してくれたのが、何故かたまらなく嬉しかった。

それから少し経つと、なんだか瞼が重くなってくる。

 

「眠い?」

 

「うんー……。」

 

お母さんは、お見通しのようだった。

嘘をつく理由もなく、私は首を振り肯定する。

 

「じゃあ、お休みなさい、杏ちゃん……。」

 

お母さんはそのまま、私の背中を一定のリズムで優しく叩く。

それが不思議と心地よくて、すぐに意識が薄れていく。

 

ずっとずっと、昔の記憶。

夢という形で、私はそれを鮮明に思い出していた。

 

あの頃、私は間違いなく幸せだった──。

 

 

 

 

 

「……んずちゃん、杏ちゃん!」

 

誰かの声で、私は目が覚めた。

上半身は、なんだかあたたかくてやわらかい。さっきまで見ていた夢のように。

下半身は、なんだかゴツゴツしたものの上に乗っている感触。

程なくして、ここがコンクリートで舗装された道路の上で、誰かの腕の中なのだと理解した。

 

「か、こ……?」

 

私をしきりに呼んでいたのは、茄子だった。

眠りから覚めたことを確認すると、安堵の息を漏らす。

 

あれ、そういえば。

どうして私はこんなところで寝ていたんだっけ。

確か、屋上で……

 

「──ッ!」

 

やっと状況を思い出して、私は飛び起きる。

自分の状態。痛みは無い。軽く準備運動のように身体を動かすが、どうやらどこにも異常は無い。

周囲の確認。確かにここは事務所のあるビルに面した道路だ。

時刻の確認。最後に携帯を見てから、数時間が経過している。

そして。

 

「……ほたるが、居ない?」

 

辺りを見回しても、彼女の姿はどこにもない。

あまりに唐突な、不可解な事象の連続。

 

どうして。

私はほたると一緒に落ちたはずだ。それも屋上から。

助かるはずがない。なのに私はこうして生きている。携帯すら壊れていない。

ただ数時間眠っていただけだというのか。

ならば何故、芳乃のように眠り続けない?

私も彼女と同じように落ちたのに。

 

ほたるの痕跡は、血痕すら残っていない。

まるで最初から居なかったかのように。

いや、そんなことはあり得ない。

手のひらに残る、彼女の感覚。

それが何よりの証拠だ。

彼女は間違いなく、私と共に落ちた。

ならば何故、彼女はここに居ない?

あと、もう一つ。

 

「茄子、どうしてここに?」

 

何故茄子が都合よく事務所まで来たのか。

 

「電話が途中で切れてしまったので……何か、あったんじゃないかって……。」

 

そう言われて思い出す。

確かに、あの状況で急に電話が切れたら、私の身に何かが起こったと思うだろう。

それで、急いで事務所まで帰ってきた、と。

 

「ああもう、はいはい、泣くんじゃないよ。

私は何ともないからさ。ね?」

 

茄子の目からは涙が止まらず、きっと私が目覚める前からそうなのだろう。

私の言葉に、やっと茄子はゆっくりと泣き止んだ。

 

「……茄子、電話が切れる前、まだ病院だ、って言ってたよね。

それは、病院の中を探していたから?」

 

茄子が落ち着くのを待っている間に、私もこの短時間で起きた多過ぎる出来事を脳内で整理する。

その中で、ふと引っかかることがあった。

 

「いえ、気を失っていたみたいなんです。

気付いたら日が暮れていて……。」

 

「……え?」

 

全身の毛が逆立つのを感じる。

寝起きでぼんやりしていた頭が、急速に冷やされる。

おかしい。

どう考えてもおかしい。

今、彼女は、何と言った?

 

「病院で、何があったの?教えて。……できるだけ詳しく、一つも漏らさずに。」

 

彼女は私の様子に少し戸惑い、やがて語り出す。

私は目を瞑り、注意深く彼女の声に耳を傾ける。

きっと、これが最後のヒント。

最大の矛盾が、この中に眠っている。

気付け。

照合しろ。

これまでの認識、当たり前だと思っていたもの、その全てと。

 

 

──じゃあ、このままいけば、自然と何とかなるかもしれないってこと?

 

その時だった。

 

──今日はー、とても良い気が巡っておりましてー。

 

頭の中で、記憶が勝手に再生される。

 

──芳乃が見ているのは、私じゃない。

 

それらは、パズルのピースのように。

 

──神様は、いると思いますか?

 

自らがあるべき場所へと動き、一つの答えを描き出す。

 

──何も起こらなかった、訳では、ないですね。

 

そうだ。何故今まで気付かなかった。

 

──明らかに、異常であることが、分かった。

 

気付けたはずだったんだ。最初から。

 

──姉妹みたいだよね、茄子とほたる。

 

彼女を救う方法。幸福と不幸のメカニズム。その答えは。

 

 

 

──しあわせって、なーに?

 

 

 

「……分かった。」

 

抑揚のない声で呟く。

やっとだ。やっと分かった。

確証は無いが、きっと間違ってはいない。

 

「分かったって……何が、ですか?」

 

分かった、けれど。これは。これでは。

抗いようのない事実として、それが私に突き付けられる。

 

「……茄子、ゲームをしよう。」

 

私が、私達が、どれだけ頑張ろうと。

どれだけ手を伸ばそうと。

どれだけ頭を悩ませようと。

 

「私に勝ったら、芳乃の目が覚めるよ。」

 

 

 

 

 

ほたるは、救えない。



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17.仮説検証

「うん……うん、そう。それを……。」

 

茄子と共に事務所に戻り、私はプロデューサーと連絡を取っていた。

 

「……うん、よろしく。それじゃ。」

 

通話を切り、携帯を机の上に置く。

これで、準備は完了。

後は私がうまくやれば、芳乃は意識を取り戻す。……はず。

 

「じゃあ、始めよう。」

 

私は振り向いて、テーブルの反対側に座る茄子の顔を見る。

不安。戸惑い。疑心。それと、ほんのちょっとの期待。

そんなところだろうか。

 

「まず、ルールね。これから私が……」

 

テーブルに、表を上にして置かれたトランプの束の側面を押し、横一列に薄く広げる。

リボンスプレッド、と言うらしい。

テレビでマジシャンが最初にやって、種も仕掛けも無いことをアピールするアレだ。

私がわざわざこうして見せたのも、それを目的としている。

 

「このトランプ一組から、私と茄子は裏向きのままカードをそれぞれ一枚選ぶ。

カードの数字が大きい方が勝ち。

それを三回。二回勝ったほうが勝利。

カードの公開は最初は同時、次からは負け越してる方が先にする。

一番強いのがジョーカーね。ジョーカー引いたら問答無用で勝ち。」

 

説明しながら、二枚見えているジョーカーのうち、一枚を抜く。

これで、入っているジョーカーは一枚。

茄子がちゃんとこの動作を見ているか注意する。

 

「で、シャッフルは私だけがやる。茄子に触られたら勝てる気しないからね。

……ルールはこれでいい?」

 

一通り喋ってから、そう問いかける。

茄子はゆっくりと口を開いた。

 

「……本当、なんですか?」

 

努めて冷静を装いつつ、心の中でガッツポーズ。

ここまでは、思った通り。

 

「何が?」

 

それの意味するところは分かりきっているが、気付かないフリをする。

 

「……本当に、芳乃ちゃんは目を覚ますんですか?」

 

茄子がそれを安易に信じられないのは当然のこと。

茄子の幸福を持ってして尚、彼女は眠り続けたまま。

自らの幸運に絶対的自信を持っていた茄子からしたら、まず考えられないだろう。

芳乃の目を覚ます手段が存在するなんて。

 

「……理由は、教えられない。

それを話したら、芳乃は助からない。」

 

ここで種明かしをするわけにはいかない。

それをしてしまったら、何の意味もない。

まだ、茄子にそれを知られてはならないのだ。

 

「でも、このゲームに茄子が勝ったら。

芳乃は必ず目を覚ます。絶対に。」

 

でも。

何も説明のできない状況で、それでも。

私は茄子に信じられなければならない。

この御伽話のような話は、しかし真実なのだと。

 

「到底信じられないのは分かってる。

馬鹿な話をしてるってのも重々承知。

でも、本当のことなんだ。だから──」

 

一度言葉を切り、目を瞑る。

そのまま、大きく深呼吸。

ゆっくりと目を開けて、まっすぐに茄子を見る。

 

「──信じて。」

 

数秒間、視線がぶつかり合う。

茄子は私がやったように目を瞑り、恐らくじっと考えている。

私はただ彼女を見続ける。

息遣いすら聞こえない部屋の中、時計の秒針だけが一定の鼓動を刻む。

そうして、数十秒か、数分か。時間の経過が曖昧になってきた頃。

……彼女の目が、開く。

 

「……ありがとう。」

 

その目を見れば、十分だった。

 

 

 

「じゃあ、始めるよ。」

 

私はテーブルの上に広げられたトランプの端を弾き、ドミノのように裏側に倒す。

そして一つの束にまとめ、シャッフルを始める。

シャッフルと言っても、一般的に用いられるような、ヒンズーシャッフルと呼ばれる方法は使わない。

束を二つに分け、それぞれの端を弾いてそれらを噛み合わせて一つの束にする、リフルシャッフルを用いる。

この方法であれば、きちんと一枚ずつ重ねさえすれば、無作為には混ざらない。

規則性が生じることになる。

あとは前もって覚えておいた並び順を、その規則性に当てはめればいい。

種も仕掛けもない、イカサマの完成だ。

 

「……はい、選んでいいよ。」

 

二、三回リフルシャッフルして、再びリボンスプレッド。

裏向きのまま広げられたカードの中から、茄子は一枚のカードを選ぶ。

左から17番目。ダイヤの5。

それを確認してから、私は右から3番目のカードを選ぶ。

クローバーの13。

 

「じゃあ、いくよ。1、2の……3。」

 

カウントに合わせて、二人同時に選んだカードを公開する。

私は当然、クローバーの13。

茄子は……。

 

「私の勝ち、ですね。」

 

ジョーカー。

 

彼女が選んだのは、間違いなくダイヤの5。

にも関わらず、彼女が公開したカードはそれではない。

……予想通りだ。

 

不幸のメカニズムの予測の一つ。

「不幸が起こる一瞬前に彼女はそれを察知する」。

そうだと思っていた。

その考えで矛盾はなかったと。

逆だ。

因果関係がまるっきり間違っていたんだ。

起こる前に察知するんじゃない。

察知したから起こったんだ。

 

目の前に置かれたジョーカーを見て、確信する。

ほたるの不幸と茄子の幸福は、非常に酷似している。

ただ、ベクトルだけが間逆なのだ。

その発動条件は、ほぼ同じ。

 

今、茄子は心の底からこのゲームに勝ちたいと思っている。

勝てば芳乃が助かると信じているから。

そしてこのゲームには、唯一の必勝法がある。

わざわざ露骨に提示したし、見落としていないか確認もした。

ならば、茄子が考えることはひとつ。

 

「ジョーカーを引けますように」。

 

だから、ダイヤの5はジョーカーに化けたのだ。

彼女がそれを望んだから。

彼女がそれを、彼女にとって幸せだと思ったから。

だから、幸福が起こった。

 

左から23番目、ジョーカーであったはずのカードを引く。

それは、彼女が選んだはずのダイヤの5だった。

ダイヤの5とジョーカーが、入れ替わっている。

 

つまり、彼女が幸福を起こした際に生じた矛盾はそのまま放置されるのではなく、何らかの形で対処されるということ。

今回はジョーカーが二枚になり、ダイヤの5が無くなるという矛盾が、互いに入れ替わるという形で対処された。

 

「……じゃあ、二回戦。」

 

再びリフルシャッフル、リボンスプレッド。

負け越している私が先に公開する。

彼女が選んだのは、ハートの4。

私が選んだのは……。

 

「……ジョーカー。」

 

私が公開したカードを見てから、茄子がカードに手を伸ばす。

彼女が選んだのは……。

 

「……ハートの、13、です……。」

 

やっぱりだ。

彼女が私のジョーカーを見た後に、ジョーカーを作り出すことはできない。

確かに、彼女は彼女が望んだように幸福を引き起こす。

例えその結果、どんな矛盾が生じようとも。

しかし、その逆。

彼女の望みそのものが、彼女から見て矛盾を孕んでいた場合。

その時は、幸福は発生しない。

 

「私の勝ち、だね。」

 

心の底から願う必要があるのだ。

彼女が不可能だと、少しでも思っていることは、決して実現しない。

心の底から、その実現を望まなければならない。

今回は、茄子は既に自分の選んだカードが少なくともジョーカーではないことを知ってしまった。

だから、彼女は一回戦目のようにジョーカーを作り出すことができず、二番目に強い13に変化した。

 

忘れてはならないのが、茄子の幸福は周囲に伝搬するということだ。

一回戦の時のことを思い出してみよう。

一回戦での私にとっての幸福は、ジョーカーを引くこと。

あの時私に幸福が伝搬したのなら、クローバーの13はジョーカーに変化していただろう。

しかし私のカードは13のままで、茄子のカードだけが変化した。

これは、茄子と他の人間が同時には叶えられない望みを同時に願った時、茄子の方が優先されるということ。

……というのが、選択肢の一つ。

 

「流石に運だけで茄子と勝負したら話にならないからね。

ちょっとイカサマさせてもらったよ。」

 

言いながら、一枚のカードを指差す。

右から8番目、スペードの3。

 

「例えばこれは、クローバーの7。」

 

茄子が私の指の先にあるカードを手に取る。

私は念じる。

このカードはクローバーの7。このカードはクローバーの7。このカードはクローバーの7……。

 

「……スペードの3、ですけど……?」

 

しかし彼女が手にしたカードは、スペードの3のまま。

確定だ。

正解は、もう一つの選択肢。

他人の幸福が叶えられるために必要なのは、他人が心の底から願うこと。

茄子がそれについてどう思うかは、関係ない。

 

今、茄子は勝負に負けた種明かしをするという形で、目の前のカードがクローバーの7だと説明された。

それを茄子が疑うわけがない。

そして私にとっての幸福は、このカードがクローバーの7であることだ。

あれだけカッコつけて大見得を切って、その予言が見事に外れている。

そんな情けない状態になることを防ぐのが、私の幸福であったはずだ。

だが、カードが変化することはなかった。

茄子が心の底から信じていただろうにも関わらず、だ。

となれば、原因は1つしか考えられない。

私が信じていなかったからだ。

 

当然、私は知っている。

このカードはスペードの3。クローバーの7ではあり得ない。

だから、条件を満たせなかったのだ。

 

更に言えば。

茄子が心の底から信じていたのに、変化しなかったということは。

単に茄子が思っているだけでは、幸福は発生しないということだ。

発生した一回戦との差は明確。

茄子にとって、それが幸せであるかどうかだ。

別にこのカードが何であろうと、茄子に損も得もない。幸せでも不幸でもない。

だから、茄子の幸福も発生しなかった。

私の幸福が発生しなかったのとは、別の理由で。

 

茄子の幸福は、その人が幸せだと思い、かつ心の底から願ったことが、その人に発生する。

 

ここまで予想通りなら、きっとこれも正しいはず。

私は茄子に見えないよう、テーブルの下でスマホを操作する。

開いたのは、ソーシャルゲームのガシャ画面。

あらかじめ貯めておいた石を消費し、ガシャを引く。

 

結果は、ほたると初めて会った時と同じ。

家で引くのと変わらない、普通の結果。

 

これで、もう一つ条件が判明した。

他人が幸福を発生させるには、茄子が幸福を発生させる条件に加えて、茄子が他人の願いを知っている必要がある。

もし、幸せだと思い、心の底から願うだけでいいのなら。

こんな普通の結果ではないはずだ。

しかし、今回明らかに幸福は発生していない。

それは、私が茄子にガシャを引くことを知られないようにして行ったから。

私がガシャを引くことを、茄子が知らなかったからだ。

 

「三回戦、いくよ。」

 

これで、検証したいことは全部だ。

後は、ただ私が負ければいい。

もう、イカサマをする必要もない。

普通にシャッフルして、リボンスプレッド。

 

「1、2の……3。」

 

お互い一勝だから、同時に公開する。

私はスペードの13。茄子は……。

 

「……私の勝ち、です。」

 

ジョーカーをこちらに見せながら、彼女はそう宣言した。

 

「……これで、芳乃ちゃんは……。」

 

助かる。

目の前の小さな少女はそう宣言した。

だが。こんなことをした程度で。

本当に助かるのか。

本当に、目が覚めるのか。

彼女の表情には、はっきりとそう書かれている。

 

「うん、助かるよ。すぐにでも連絡が来るんじゃない?」

 

ソファに深くもたれかかり、緊張が解けた演技をしつつ。

再び、テーブルの下でスマホを操作する。

 

用意しておいて正解だった。

彼女の不安はもっともであり、事実だ。

芳乃は未だ目覚めていない。

そもそも、このゲームそのものに、彼女を助ける効力なんてありはしない。

ただ、手助けをしているに過ぎないのだ。

 

このゲームを始める前に、プロデューサーに伝えておいた合図。

「空メールを送信したら茄子に電話する」。

それによって、最後の一押しが完了する。

……逆を言えば、これが失敗したら、全ては水泡に帰す。

 

メールを送信して、数十秒。

茄子の携帯が震え、彼女はスピーカーを耳に押し当てる。

ここが、最後の関門。

私は食い入るように彼女を見守る。

彼女が違和感を覚えなければ、芳乃は目を覚ます。

彼女の反応は……。

 

「……芳乃ちゃん!?」

 

ガッツポーズを取ろうとする腕を、どうにか抑える。

成功だ。

これで芳乃は目を覚ました。

これで、現段階において私が出来る最良の行動は、全て成された。

 

スマホが震えて、プロデューサーから電話の着信。

出ると、久しぶりに聞く彼女の声。

 

『杏殿ー……全て、理解したのですねー……?』

 

舞台の上から落ちた次の瞬間、病室のベッドの上だった。

にも関わらず、彼女はとても落ち着いていた。

 

「……うん。全部、分かった。ねえ芳乃、ほたるは……。」

 

『……ここで、待っていますー。詳しくは、直接お話し致しましょうー。』

 

「……分かった。」

 

電話を切り、早くも病室へと駆け出した茄子の後を追う。

 

 

 

 

 

茄子の幸福のメカニズムは判明した。

ほたるの不幸も、ベクトルを除いてほぼ同一のもの。

それが意味する彼女の状態は。

……これ以上このことを考えたくなくて、私は短い手足をがむしゃらに振り続けた。



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18.限界は牙を剥く

「あのー、そろそろ離していただけるとー。」

 

「ダメです。」

 

「だめなのですかー。」

 

「ダメです。」

 

冷静に考えれば、私の走力で茄子に追いつけるはずもなく。

彼女が着いたであろう時刻よりもだいぶ遅れて病室のドアを開けると、芳乃に抱きついたまま離れようとしない茄子の姿があった。

 

「芳乃、身体は大丈夫?」

 

私がそう尋ねると、芳乃はがっちりホールドされている中で唯一自由に動かせる首を縦に振って答えた。

 

「はいー、おかげさまでー。

……あの、茄子殿ー、そろそろー。」

 

「ダメです。」

 

「だめなのですかー。」

 

「ダメです。」

 

きっと、茄子がここに来てからずっと同じことを繰り返していたのだろう。

芳乃が目線で「助けてくれ」と訴えてくる。

わざとらしく目をそらすことで私はそれに応えた。

 

「……芳乃、プロデューサーは?」

 

彼にも色々と説明するべきかと思っていたが、姿が見当たらない。

 

「ご多忙のようなのでしてー、茄子殿が来られるとー、すぐに何処かへ行ってしまわれましたー。

……あのー、そろそろー。」

 

以下省略。

 

まだ、ほたるの一件の後始末がついていないのか。

ここまで時間がかかるということは、彼はほたるを切り捨てるつもりはないのだろう。

彼女をスケープゴートにすれば、それだけでカタがつくのだから。

 

でも。

それは果たして、実を結ぶだろうか。

ほたるは、再び舞台に立つのだろうか。

 

「……芳乃。ひとつ、聞きたいことがあるんだけど。」

 

悪い考えを振り払うように、私は芳乃にそう切り出す。

私がそれを聞くことは分かっていたようで、芳乃は再び首を縦に振った。

 

「あの時ー、私が何を見たのかー……ですねー?」

 

「……うん。」

 

芳乃が意識を失う直前。

舞台の上から落ちた時。

芳乃はほたるの方を見た。

 

あの時、彼女の目には、何が映っていたのか。

ほたるから、何が見えていたのか。

私の考えが正しければ、きっと。

 

あの時の光景を思い出すように、彼女は目を瞑る。

再び開かれた両目には、確信が宿っていた。

 

 

 

「何もー、見えませんでしたー。」

 

 

 

「……そっ、か。」

 

明らかに自然現象ではない何かによって、芳乃を支えるハーネスは破損した。

そして、その瞬間、ほたるからは何も見えなかった。

他人の気を見ることができる彼女の目を以ってして、だ。

つまり、あの時、ほたるの不幸は発生していなかった。

だからこそ、彼女は驚愕した。

「不幸だと感じる事象は全て彼女に起因するものである」。

そんな固定観念に囚われていたが故に。

となれば、自動的に正解が導き出される。

二つしかない選択肢の、もう片方。

 

「芳乃が意識を失ったのは、茄子の幸福によるものだった」。

 

あの瞬間、ほたるの体質は悪化なんてしていなかったのだ。

恐らくは、あの時の彼女の言葉。

事務所の、パソコンの前で。

最後まで言い切ることはなかったけれど、それでも。

それでも、茄子は理解した。

理解されてしまった。

彼女が望んでいること。

彼女にとっての幸せ。

 

「神様の死」。

 

その望みは、しかし望まぬ形で実現した。

ほたるの憎悪する神様とは、決して芳乃を指すのではない。

だが、茄子の中で、結びつくはずのないそれらが結びついた。

彼女の、高すぎる演技能力によって。

 

あの空間にいた誰もが思う。

彼女は神様だと。

彼女こそが、神様だと。

一片の疑問を抱くことすら許されない。

それほどまでに、彼女は神様然としていた。

 

茄子の脳内は、その意志とは別に、自動的に思考を弾き出す。

神様とは彼女だ。

では、神様を殺す手段は。

どうやったら、目の前の神様は死ぬ。

その答えは、どこまでも明白だった。

 

だから彼女は落ちたのだ。

落ちはしたが、死にはしなかった。

その原因は、茄子がとっさに願ったその内容だと考えられる。

あの時、彼女はこう願ったのではないだろうか。

「芳乃が怪我をしませんように」。

芳乃があの状態で死ぬとすれば、それは落下による衝撃によるものだろう。

しかし、茄子の願いはそれを排除した。

「芳乃は高所から落ちて死ぬ」。

「芳乃は怪我をしない」。

相反する二つの願いが、あの時、同時に存在した。

 

トランプで確認した通り、彼女の望みそのものが「彼女から見て」矛盾を孕んでいた場合、それは実現しない。

だがあの時、彼女はそれが矛盾していると気付かない。

だから、全てが同時に叶えば確かに矛盾する願いは、しかし可能な限り再現された。

芳乃は高所から落ち、しかし怪我はせず。

怪我をしないから死にはしないが、それと限りなく近い状態に。

無傷の意識不明状態に。

 

ほたるのせいではない。

茄子のせいでもない。

ただ、圧倒的に、運が悪かった。

その意味では、まさに不幸と言える。

 

しかし、当事者達はそうは思わない。

そう思えない。

ほたるは意識がある限り自らを責め続けた。

その結果、不幸が彼女に再び纏わりつく。

 

今まで彼女の体質が改善されているように見えたのは。

茄子という幸福の存在に、全幅の信頼を置いていたからだ。

彼女が側にいれば、不幸は起こらない。

そう信じることが、最大の予防法となっていた。

 

ほたるの不幸の発生条件は、ほぼ確実に、茄子のものと同じ。

「ほたるが心の底から発生すると信じ、かつそれを不幸だと思うこと」。

茄子の存在は、それだけでその条件を打ち消した。

結果、茄子がほたるの体質をも改善させたように見えた。

いや、事実、間接的に改善させていたのだ。

 

しかし、ほたるの信仰は間違いだった。

間違いだったと、感じてしまった。

茄子が居て尚、芳乃は「不幸な目に遭った」。

茄子が居るだけでは、最早自らの不幸は抑えきれていない。

そう、思い込んでしまった。

 

そして、再び不幸が始まる。

これまでとは比較にならない威力で。

 

自責の念が不幸を助長させ、不幸の助長が自責の念を増加させる。

そのループは誰にも止められない。

それがどうしようもなくなった頃、ほたるは茄子の目の前で願った。

 

「自分だけが不幸になればいい」。

「自分だけが、死ねばいい」。

 

ほたるの不幸は自身のみを標的とし、その生命を刈り取ろうとする。

しかし、決して死ぬことはない。

「不幸な自分は、死ぬことすら許されない」。

追い詰められた彼女の思考回路は、何を疑うこともなくそう確信する。

確信したならば、彼女の不幸が起こる。

 

だから、ガラス片に刺されようとした時も。

ビルの屋上から飛び降りた時も。

決して死ななかった。

死ねなかった。

また、それと同時に、茄子は願った。

彼女の自殺願望の告白と同時に、ほたるの無事を。

ガラス片の時は、自らの無事を。

屋上の時は、私の無事を。

 

私や茄子だけが気絶して、ほたるがその間に姿を消したのは、それが原因だろう。

ほたるはきっと、茄子や私が、死んでしまうと思った。

ほたるを庇うことによって。

しかし、茄子は茄子自身や私の無事を願った。

それらは完全に矛盾していた。

芳乃の時のように、両方を可能な限り、ということはできない。

どちらも少しづつでも叶えようものなら、どうしようもない矛盾が生じる。

結果として、オーバーフロー。

私達の意識は強制終了された。

しかしほたるだけは、そうはならなかった。

ほたるは死を望み、死ねないと思い、そして茄子はほたるの無事を願った。

私達のような1:1ではなく、2:1。

だから、死なないほうが勝り、気絶することもなかった。

横たわる茄子を見て、ほたるは自分のせいだと思っただろう。

だから、茄子から離れたのだ。これ以上傷付けないために。

横たわる私を見て、ほたるは茄子が近くに居ると思っただろう。

だから、私から離れたのだ。願望の成就のために。

 

「死にそうだけど、死なずに済んでいる」のではない。

「死にたいのに死ねない」のだ。

 

 

 

彼女は今、心の底から、自らの死を願っている。

 

 

 

「……っ」

 

これが、全容。

今私達を取り巻いている状況の、全て。

これを、伝えるべきか? 彼女に。

この中の誰よりもほたるの幸せを願う彼女に。

あの子にとっての幸せは、既にあなたの思う幸せではないのです。

そんな残酷な事実を、告げられるのか。私に。

 

「……杏殿ー。」

 

立ったまま悩んでいる私に、芳乃が声をかける。

 

「このまま考えていても仕方ありませぬー。

ひとまず、飴でも買い出しに行かれてはー。」

 

彼女の声からは、気分転換を勧める、私への心配りが見て取れた。

でも。

 

「……飴? どうして?」

 

急激に喉が渇くのを感じて、私は唾を飲み込む。

気持ちの悪い汗が吹き出す。

何故、飴なのか。

それが私には理解できなかった。

いや。

理解、したくなかった。

 

「……はてー、わたくしの勘違いでしょうかー。」

 

彼女の得意技。

失せ物探し。

知っているはずのないものの在り処を、言い当てる。

 

 

 

「もう、ポケットに飴が無いのではないかとー。」

 

 

 

反射的に、ポケットに手を突っ込む。

……無い。

飴が、一つも、無い。

どうして。

確かに残り少なくはなっていたけれど。

まだ数個は残っていたはずなのに。

 

「……え、」

 

──私ときらりの関係について、正しく理解している人は、3人。

  当事者である2人と、プロデューサーだけだ。

 

「考え事をする際ー、飴がないと落ち着かないようでしたのでー。」

 

そう。

彼女は飴の意味を知らない。

だから、この言葉に悪意はない。

分かっている。

 

「……そん、な、」

 

でも。

だからと受け流せるわけがない。

今の私にとって、唯一の精神安定剤である飴が、無いということは、つまり。

 

「杏殿ー……っ!?」

 

考えてしまうことを意味していた。

考えずに済んでいたことを。

考えないようにしていたことを。

考えることから、逃げていたことを。

 

「……ぁ、あ、うあ、っ、あ……!」

 

心臓がバクバクとうるさい。

やっと意識されたそれは、これまでを取り返すかのような勢いで襲いかかる。

頭が締め付けられるように痛い。

もう無理だ。目をそらすことは、これ以上できなくなった。

思うように息をしてくれない。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

手の震えが止まらない。涙が溢れて止まらない。

 

 

 

 

 

きらりが居ない。



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19.現実よりも鮮明な

「いつもそうです、杏さんは。」

 

感情のないほたるの声に起こされて、私は目を開けた。

月も星も見えない、灰色の夜。

高層ビルの屋上に、私達は立っていた。

 

「頼まれてもいないのに余計なことをして。

理解してもいないのに分かったような口を利いて。」

 

俯いて下を向く彼女の表情は、その少し長い前髪に隠れてうまく読み取ることができない。

しかし、淡々としたほたるの声。

それに含まれている、私への明確な敵意。

それだけは、はっきりと分かった。

 

「何のために、やっていたんですか?」

 

ほたるは、一歩ずつ、一歩ずつ、私から遠ざかっていく。

あの日と、同じように。

させてはいけないと、私の両足は前に進もうとする。

その時だった。

 

「……私のため、とでも言うつもりですか?」

 

ほたるが少しだけ顔を上げる。

前髪に隠れていた彼女の目が、見える。

それを認識した瞬間、私の身体は動作を止めた。

 

「……ほた、る?」

 

睨んでいた。

いつも困ったように眉を八の字にして、それでも笑おうとしている彼女が。

いつも他人の心配ばかりして、自分のことは二の次の彼女が。

敵意を通り越して、殺意とすら呼べるものを。

隠そうともせず、誤魔化そうともせず。

視線に乗せて、私にぶつけていた。

 

 

 

「邪魔なんです、あなた。」

 

 

 

目をそらすことなく、彼女が続ける。

邪魔。

その言葉が、私の頭をぶん殴った。

 

「……っ、え、……?」

 

本当に殴られたわけじゃないのに、私は大きくよろめく。

衝撃に耐えきれず、身体が悲鳴を発した。

荒々しく肩で息をする。

大きく目を見開く。

髪を掻き毟りたくなる衝動を、頭に手が触れる段階で堪える。

 

「知ってますよね? 私、死にたいんです。さっさと。」

 

分からない。

私の知る彼女とは、あまりにもかけ離れていた。

 

「どうして邪魔をするんですか? どうして死なせてくれないんですか?」

 

分からない。

もしかして、ずっと、だったのか。

 

「そうするのが私のため、なんて、本気で思っていたんですか?」

 

分からない。

ずっと、そう思っていたのか。

 

「私のためを思うなら、殺してくださいよ。

死なせてくださいよ。

楽にさせてくださいよ。」

 

分からない。

彼女のことが分からない。

白菊ほたるが、分からない。

 

「──っ、はーっ、はーっ、……っ、は……っ!!」

 

足に力が入らず、座り込む。

頭に触れたままの手を思い切り握り込む。

髪が引っ張られる痛みで自分を保とうとする。

涙が勝手に流れていく。

喉が乾いて張り付きそうだ。

心臓が脈打つ度に胸が締め付けられて痛い。

 

「ほら、私のためなんでしょう?」

 

遠ざかっていたはずの彼女は、いつの間にか私の目の前に立っていて。

私の両手を掴んで無理矢理に立ち上がらせると、そのまま、その手を。

 

「──殺してくださいよ。」

 

彼女の、首に。

 

「……ゃ、だ、そん……な、」

 

嫌だ嫌だと、私は駄々をこねる小さい子供のように首を振る。

その態度を見て、彼女の表情が一層険しくなる。

 

「何でですか? 私は死にたいんです。

なんでそれを手伝ってくれないんですか?」

 

私は何も言わない。

言えるわけがない。

ただ、彼女の手に逆らおうとする。

 

「……いいです、もう。」

 

そんな押したり引いたりを繰り返していると、ふいに彼女が手を離す。

支えを失った私は、そのまま地面に再び座り込む。

 

「もう、何もしないでください。」

 

そう言った彼女の声には、さっきまでの激しさは無く。

ただ、氷のように。

ひたすらに、冷たかった。

 

「「……どうせ、私のためだとか思っていたんでしょう?」」

 

不意に、彼女の声が、他の誰かのものと被って聞こえた。

まるで、二人が同時に喋っているような。

驚いて彼女を見上げると、しかし。

 

「「あなたはいっつもそう。」」

 

既にそれは、彼女ではなかった。

 

「「得意げな顔で私の周りをウロチョロして。

役に立ったとでも思ってたの?」」

 

彼女の象徴とも言える黒は、その美しさを放棄していた。

真っ黒な、どす黒い、黒。

それが、人の形を保っているに過ぎなかった。

それが、私の目の前に存在していた。

 

それの手の部分が私を目指して伸ばされる。

私は呆気なく捕まり、そのまま押し倒される。

 

 

 

「邪魔なのよ、あなた。」

 

 

 

私の上にまたがり、私の首を両手で掴む黒は、ぐにゃりぐにゃりと形を変え。

私のとても良く見覚えのある姿で定着すると、再び色を取り戻す。

忘れるわけがない。

気付かないわけがない。

この声は。

この姿は。

この状況は。

 

「お、かあ、さ……ッ!?」

 

私の、お母さんだ。

 

お母さん、と、そう呼ぼうとする声は、途中で遮られる。

お母さんの手が、私の喉に食い込む。

はあ、はあ、と、お母さんの荒い息がやけにうるさく聞こえる。

私の視界一面に映るお母さんの顔は、ひどく歪んでいる。

全部、あの時と同じだ。

 

ああ、そうか。

 

「……め、なさ、」

 

また、間違えたのか。私は。

 

「ごめ、さ……、」

 

また、間違えてしまったのか。

 

「……めん、な、さい。」

 

あの時と、同じように。

 

「ごめ、ん、なさ、い……!」

 

私が殺された時のように。

 

でも、いくら謝っても、あの時のように許してはくれなくて。

私を殺そうとする両手を、離してはくれなくて。

息を吸えないのが分かっているのに動くのを止めない横隔膜が、べこん、べこん、と、嫌な音を立てるのを聞きながら。

ただ、終わりが来るのを待ち続けていた──。

 

 

 

「──っ!?」

 

目を見開き、飛び起きる。

すぐに辺りを見回して、お母さんが居ないことを確認する。

遅れて聴覚が復活すると、心地の良い小鳥の囀りが、場違いに部屋の中に響いた。

 

「……ゆ、め、」

 

病室だった。

あるもの全てが白に統一された部屋の窓から、優しい朝日が差し込んでいる。

カーテンが風を受けて、ひらひらと揺れていた。

 

「……っ、う、ぇ……っ、お゛ぇ……っ」

 

下から恐怖がこみ上げてきて、たまらず吐き出す。

最近咀嚼するものを食べていなかったからか、その殆どが液体だった。

 

「はっ、はっ、はっ、は……っ」

 

短く何度も息をする。

ダメだ。

思い出すな。

意識を向けるな。

忘れるんだ。

そう思おうとする度に、鮮明に蘇る。

 

「──嫌だ」

 

そんな季節ではないはずなのに、身体の震えが止まらない。

歯がカチカチと音を立て続ける。

寒い。

身体中の熱分を奪われたように、寒い。

 

「……嫌だ、嫌だ」

 

かけられていた毛布を手繰り寄せ、抱きしめる。

それでも、寒さは少しも和らいでくれない。

 

「いやだいやだいやだいやだいやだ」

 

口から単調な拒絶が流れ出す。

でも、何が嫌なのか。

私はなにを嫌がっているのか。

それすらもうよく分からなくて。

それすらもう嫌で。

 

「杏ちゃん、起き……!?」

 

誰かが入ってきたことにも気付かず。

いつまでも、泣き喚き続けた。



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20.希望と諦観

「……どうですか、芳乃ちゃん。」

 

飴玉を一つ、握りしめて。

杏ちゃんの病室の前で、私は芳乃ちゃんに問いかけた。

 

芳乃ちゃんが目を覚ましたことをこの目で確認して、すぐ。

杏ちゃんが、おかしくなった。

……とても曖昧で、簡潔で、幼稚な言葉だけれど。

おかしくなった、としか、私には表現できない。

それくらいに、見たことがなかった。

ついさっきまで、普通に私と喋っていた人が。

いきなり、あんな。

まるで、決して触れられてはいけない部分を弄くられたような。

脳味噌の中身をぐちゃぐちゃにされたような。

狂って、しまった、ような。

 

「落ち着いているようでしてー。

……あくまでー、先程までと比べれば、ですがー。」

 

私はプロデューサーに電話をして、芳乃ちゃんはナースコールを押した。

「芳乃ちゃんが飴の話をしたら、急に杏ちゃんの様子がおかしくなった」。

私が見たままを伝えると、彼は何か知っているようだった。

「飴が、無くなったのか」。

何故分かったのか、と聞くと、彼は彼女のことを少しだけ教えてくれた。

「あの飴は、彼女にとって、とても大事で特別なものだ」。

「詳しくは言えない。それは彼女の最も深い部分だ」。

「彼女はあの飴が無ければ何もできない。俺が言えるのはここまでだ」。

普段感情を見せようとしない彼は、絞り出すようにそう言った。

 

「……では、行ってきます。」

 

「どうにかできないのか」。

「私は何もしてやれないのか」。

看護師が飛んできて、続いて医者も病室になだれ込んできて。

錯乱している。ダメだ、鎮静剤を。抑えろ、早く。

ドラマの中でしか聞かないような単語が飛び交う中。

すがるようにそう問うと、長い沈黙の後、彼は答えた。

「飴は、作れるか?」。

 

「……よろしく、お願いしますー。」

 

芳乃ちゃんがお椀にした両手を差し出す。

その中にある、一つの飴玉を、そっと受け取る。

透き通る碧色。とても、彼女らしい色だ。

 

杏ちゃんはクスリによって、一晩眠り続けた。

その間、私と芳乃ちゃんは事務所に帰り。

ネットの情報を元に、飴を作っていた。

一番簡単な、べっ甲飴。

誰が買ったのだろう、戸棚の奥にあった着色料を加えて。

杏ちゃんが少しでも、元気になりますように、と。

そう、祈りながら。

 

「……はい。」

 

翌日。

病室に行くと、物音がするのを感じて、扉を開けたら。

既に目を覚ましていた杏ちゃんは、ひどく、よわっていて。

まだ、話ができるような状態じゃ、なくて。

彼女のもとに駆け寄りたくなるのをどうにか堪えながら。

彼女が落ち着くまで、待つことにした。

 

そして、今。

芳乃ちゃんが、杏ちゃんの気を読み取り、比較的落ち着いていることを確認した。

次は、私が頑張る番だ。

本当は、三人で話したかったけれど。

今回は、芳乃ちゃんは杏ちゃんの精神状態の確認に専念してもらうことになった。

「出来る限り少人数で」。

彼のアドバイスを守るために、私は一人で病室のドアをくぐった。

 

「……杏ちゃん。」

 

極力、優しい声色を出す。

それでも、彼女の肩はびくりと震えて。

恐る恐る、私の方を見た。

 

「……か、こ。」

 

彼女の目は、真っ赤に腫れていて。

頬には、まだ乾かない涙の後が残っていて。

それら全てが、痛々しくて。

私は必死で、笑顔を作り続けた。

 

「はい、ナスじゃなくてカコですよー……♪」

 

彼女を刺激しないように。

ゆっくりと、ゆっくりと近付く。

それでも、杏ちゃんは私に怯えていて。

部屋の端にあるベッドの、更に端へと身体を動かした。

 

「──や、だ。」

 

彼女の口から、弱々しい拒絶が漏れる。

そこで、私の足はぴたりと進むのを止めた。

今、近寄れるのは、ここまで。

ここから、伝えるしかない。

 

「……杏ちゃんをどうこうしようなんて、思っていませんよ。

ちょっと、仕事をお願いしに来たんです。」

 

プロデューサーから言われたように、言葉を紡ぐ。

自分は彼女に何をする気でもないということ。

ただ、仕事の依頼をしに来ただけだということ。

まずは、これを伝える。

 

「……しご、と?」

 

仕事、という単語に、彼女は明らかな反応を示した。

彼の言ったとおりだ。

 

「はい、お仕事です。ちょっとした報酬も、用意していますよ。」

 

穏やかな声を絶やさないように注意しながら、私はそう続ける。

言いながら、両手でお椀を作り、中にあるものを見せる。

碧色と、淡い赤色。二つの飴玉を。

 

「…………。」

 

杏ちゃんは何も言わず、ただ、私の手の中を見る。

何か、考えているのだろうか。

それとも、何も考えていないのだろうか。

彼女の表情は、それすら読み取ることを許してくれない。

 

「引き受けて、くれますか?」

 

聞きながら、半歩、前へ。

今度は、彼女が怖がらないのを確認して、更に数歩。

彼女の目の前まで、移動する。

 

杏ちゃんと同じ目線の高さになるように、私は膝をつく。

お椀にしたままの両手を差し出して、彼女が手に取れるようにする。

……彼女は、ゆっくりと、手を伸ばして。

二つの飴玉を、取った。

 

たどたどしい手付きで包装を剥がし、一つ、口に入れる。

そのまま目を閉じて、深呼吸。

再びゆっくりと目を開いた彼女は、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。

 

「仕事、って、なに?」

 

発音も、今までよりはっきりとしている。

心の裏側で安堵の溜息を漏らしながら、私は答えた。

 

「私達の体質について、杏ちゃんが分かっていること。

……教えてくれませんか?」

 

杏ちゃんは恐らく、私やほたるちゃんの体質について、その多くを解明している。

彼女の言うとおりにして、芳乃ちゃんを助けることができたのがその証拠だ。

そして、ほたるちゃんを助けるためには、その情報は無くてはならない重要なもの。

それを聞き出すのが最善だ、と、私達は判断した。

 

「……分かった。」

 

杏ちゃんは頷いて、姿勢を正す。

よかった。

話して、くれるみたいだ。

これで、ほたるちゃんを助けるのが、ぐっと現実味を増す。

どうすればいいのかすら分からず、ただ走り回るしかなかった現状から、脱することができる。

 

「ああ、でも、ひとつだけ。」

 

私も話を聞く体勢を取ると、彼女は指を一本、ピッと立てて。

感情のこもらない、淡々とした声で、言った。

 

 

 

 

 

「ほたるを助けるのは、不可能だよ。」



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21.我が儘に過ぎないとしても

「死にたい」という言葉に、二つの意味があることは、きっとみんなが知っている。

SOSの意味と、額面通りの意味だ。

 

そして、私達が日常生活で頻繁に耳にするまたは言葉にするそれは、その殆どがSOSとしての意味を持っている。

誰に助けを求めればいいか分からない人が。

或いはまだ死への恐怖の方が勝っている人が。

若しくは誰にも必要とされていない人が。

それでも誰かに助けてもらいたくて。

それでも楽にしてほしくて。

それでも止めてくれる誰かが欲しくて。

あらゆる手段を思いついて試して、最後に、発する言葉だ。

 

だから、その殆どの場合、適切な態度で臨めば、その人たちを生かすことは不可能ではない。

少なくとも、死なずに済む可能性はある。

何故なら、その人たちはまだ、生きたいのだから。

生きたいからこそ、死にたいと言うしかない。

それしか方法がない状況に立たされているのだから。

 

だが。もう一つ。

本当に、言葉の通りの意味で、死にたいと言っている人は。

他人が何をどうしようと、その人を生かすことはできない。

だって、その人は本当に、本当に「死にたい」のだ。

 

心の底から死を願った人間に、生を強制する権利が誰にある?

 

だから、見送るしかないのだ。

そうなるまで耐え切れてしまった人間を。

そうなるまで気付けなかった自分を。

悔やみながら。責めながら。

ただ、見ているしかないのだ。

 

「……これが、私の知っている、全部。」

 

だから、私達にほたるは救えない。

彼女はもう、生に執着なんてしていない。

彼女にとって、生きることは少しも幸せなんかじゃない。

 

彼女の幸せを願うなら。

彼女のためになりたいなら。

彼女を、殺すしかない。

せめて、痛くないように。

せめて、苦しまないように。

彼女は今、彼女だけでは、死ぬことすらできないのだから。

 

説得することも考えた。

でも、不可能だ。

ほたるが最も回避したいのは、自分のせいで誰かが傷つくこと。

もし彼女が生きたとして。

それから先ずっと不幸を発生させないなんて保証は、どこにもない。

ほたるのせいで誰かが不幸になることを防ぐ、最善の方法。

ほたるの存在そのものを消す以上のものなんて、あるはずがない。

彼女の望みとそのために取った行動は、これ以上なく調和していた。

 

私達の望みは、ただほたるを死なせないだけじゃない。

生きた上で、幸せになること。

その二つが同時に実現しなくてはならない。

しかし、それらはどうしようもなく相反していた。

ほたるが生きている以上、誰かが不幸になる可能性は消えない。

ほたるの幸せは、ほたるが死ななければ成就しない。

そして、ほたるがほたるの幸せを願い続ける限り。

ほたるの自殺志願をやめさせる方法は、無い。

選択肢はもう、一つしか残っていなかった。

 

「無理なんだよ、全部を叶えるなんて。」

 

現状を全て知ったんだ。彼女達も気付いただろう。

私が最初に言ったことの意味に。

……本当は、全部は話すべきではないのかもしれない。

情報をきちんと考えて取捨選択して伝えれば、まだ一縷の望みはあったのかもしれない。

私では考えつかない、ほたるを心変わりさせる方法を、誰かが気付いてくれたのかもしれない。

でも、これは「仕事」なんだ。

私が知っていることを話すという、仕事。

そう思わなければ、私はこうやって思考を巡らせることすらできない。

だから、全部話すしかない。

 

「……これで、仕事は終わり、だよね。」

 

そう言って、私は壁を向いて横になる。

私が頼まれた仕事は、ここまで。

これ以上は、私は何もしない。

……何も、できない。

 

「…………教えてくれて、ありがとうございました。」

 

背中にかかった彼女の声は、しかし。

私の予想とは大きく外れていた。

悲しみに沈んでいることも、無力感に震えていることもなかった。

ただ、静かで。

ただ、凛として。

ただ、ずっしりと、重かった。

 

それに少しだけ驚いて、私は寝返りを打つように身体を茄子に向ける。

彼女は、涙で濡らすことも、怒りで皺を作ることもなく。

まっすぐに私を見続ける、その目には。

 

 

 

「ほたるちゃんは、私が助けます。」

 

 

 

決意だけが、静かに灯っていた。

 

 

 

「──は?」

 

間抜けな声が勝手に漏れる。

何を言っているんだ。何を言っているんだ。

話を聞いていなかったのか。理解できていなかったのか。

ほたるはもう救えないんだ。

私達が思い描くような救い方では救えないんだ。

それを、分からないのか。

 

「今まで、頑張ってくれて、ありがとうございます。

今は、ゆっくり休んで。……後は、任せてください。」

 

彼女はそう続けて、病室から立ち去ろうとする。

 

「ちょっと、待ってよ。」

 

私の制止に、彼女は背を向けたまま足を止める。

 

「……これから、どうするの。」

 

「分かりません。」

 

「助けるって、当てはあるの。」

 

「分かりません。」

 

「幸せに、できるの。」

 

「分かりません。」

 

「……あの子が、何を思っているのか、分かってるの。」

 

それを聞くと、彼女はこちらを振り返る。

さっきまでの凛とした表情のまま、彼女は言い放った。

 

「分かりません。」

 

フッ、と、頭の中の何かの電源が落ちた音がする。

嘘のように素速く身体が動いた。

ベッドから抜け出し、低い姿勢のまま茄子へと走る。

体重をかけているのとは逆の脚を思い切り蹴り飛ばし、バランスを崩す。

よろめいた彼女の首に、側転から両手を使って跳ぶ。

両脚を絡ませ、その勢いをそのまま叩き付ける。

彼女が地面に倒れると、私はマウントを取っている状態になった。

……ここまでしなければ人を押し倒す事すらできないという事実が、余計に私を苛立たせる。

 

「──今、自分が何言ってんのか分かってんの。」

 

冷静であろうとする声が、しかし震えるのを止められない。

限界だった。

彼女がしようとしている行動は、的確に私の神経を逆撫でした。

 

「……あの子は!! 死ぬのが幸せなの!! 生きてればあの子が傷つく!! もうそれしか無いんだよ!!!」

 

胸ぐらを掴んで、何度も上下に揺する。

 

「それを何!? 助ける!? 方法も分からないのに!? ……何言ってんだよッ!!!」

 

いつぶりに出したか分からないほどの大声を思い切り叫ぶ。

 

「あの子が悩んで!! 悩んで悩んで悩んでッ!! どうしようもなく辿り着いた結論だ!! それがあの子の優しさなんだ!!!」

 

彼女は何も言わない。

 

「──それを踏みにじろうってのかよッ!!!!」

 

何も、言わない。

 

肩で呼吸する私の荒い息遣いだけが、部屋に響く。

流れ出た涙が落ちて、彼女の頬を伝う。

襟を掴んだままの手が、震えていた。

 

「……分かりません。」

 

私が冷静さを取り戻すのを待っていたかのように、彼女は言葉を発した。

 

「私にあの子を救えるのか。幸せにできるのか。……そんなこと、分かりません。」

 

「だったら」。

その形に開いた私の口は、その通りに動くことはなかった。

今までなされるがままだった彼女が、私の手を掴んだから。

 

「分かりません、けど。」

 

彼女の手は私の手を襟から外す。

決して、強い力ではない。

けれど、彼女の静かさから、確かに発せられている迫力。

それに押されて、私はその手の動きに従った。

 

「私は、認めません。」

 

彼女の目は、私を真っ直ぐに見続ける。

 

「死ぬことが幸せなんて、認めません。

それしか無いなんて、認めません。

絶対に、絶対に認めません。」

 

「そんな、感情論で……!」

 

「杏ちゃんは、納得できるんですか?

納得、できているんですか?」

 

「……っ」

 

茄子は優しく私の肩を掴む。

私はその動きに逆らうことなく、茄子の上から離れた。

 

「だから、私には分かりません。

あの子が何を思っているか、なんて。

……分かりたく、ありません。」

 

茄子はゆっくりと立ち上がる。

私は床に座り込んだまま、それを見ている。

 

「杏ちゃんの言うとおりなのかもしれません。

私がこれからすることは、あの子を不幸にするだけなのかもしれません。

あの子のためを思うなら、するべきではないのかもしれません。」

 

でも、と、彼女は続けた。

 

「私はあの子を助けます。

私はあの子を生かします。

私はあの子を、幸せにします。

どんなに時間がかかろうと。

どんなにあの子に憎まれようと。」

 

「……それで、いいの?」

 

聞いていないのではなかった。

理解できていないわけでもなかった。

彼女は、全て知った上で。全て理解した上で。

尚、ほたるを助けようとしていた。

 

ほたるの優しさを踏みにじって。

ほたるの望みをぶち壊して。

恨まれて。憎まれて。

その全てを、背負った上で。

 

「……これは、もう、あの子のためとは言えません。

私の、我が儘です。

人の決めたことに納得できない、ただの我が儘。」

 

茄子は病室の扉を開け、小さく深呼吸する。

自分に覚悟を決めさせるように、彼女は言った。

 

「私は、私のために、ほたるちゃんを助けます。」

 

 

 

「行かせて、よろしかったのでしてー?」

 

私が病室を出ると、すぐ横から声。

見ると、芳乃が壁にもたれかかるように立っていた。

 

「……さあ、どうなんだろ。分かんないや。」

 

茄子の考えに、共感が無いわけではない。

でも、それが完璧に正しいか、と問われれば、決してそうではない。

 

「……ねえ、芳乃。」

 

ただ一つ、はっきりしていることは。

 

「この飴。誰が作ったか、知ってる?」

 

自分のために、ほたるを助ける。

茄子のその声が、やけに私の頭に響いていた。



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22.理屈と計算と、感情

私は今、二つに枝分かれしている道の上に立っている。

 

ほたるの幸せを確実に叶えるなら、ほたるを殺すのが一番だ。

この考えに、変わりはない。

そうすれば、彼女は誰も不幸にすることなく。

自らも、これ以上不幸になることなく。

そして、白菊ほたるは、死ぬ。

誰かを幸せにしたいと願い、誰かが不幸になることに耐えられない、ごく普通の、優しい少女は。

その優しさを良しとするもの全てに、殺される。

 

「何もするなって、言いましたよね。私。」

 

ほたるの声を聞いて、私はゆっくりと目を開いた。

 

そして、もう一つ。

もし彼女を、生かすとしたら。

彼女の自殺行為を、例え強制的にでも止めさせるとしたら。

彼女の夢が叶う可能性は残される。

誰かを不幸にしないだけでなく、誰かを幸せにする可能性を、残すことはできる。

ほたるがより幸せになれる可能性を。

しかし、それはあくまで可能性だ。

ほたるが生きるということは、彼女の不幸体質が変わらず存在し続けるということ。

再び今回と同じような。

いや、今回よりも酷いことが起きる可能性だって、十分過ぎるほどに残ることになる。

ほたるが、今以上に、不幸になる。そんな可能性が。

 

ここは、昨日見た夢と同じ。

真夜中の、どこかのビルの屋上。

 

茄子は、ほたるを生かすことの危険性を全て承知した上で。

それでも、生かそうとすることを選んだ。

彼女は、認めなかった。

いびつなまでに真っ直ぐなほたるの優しさ。

それを良しとすることを、彼女は決して認めなかった。

自分は誰かを傷付けてしまうから。

自分の存在は他者にとって邪魔だから。

だから、自ら生命を絶つ。

それが、自分が叶えられる、精一杯の幸せ。

そんな優しさは間違っていると、茄子はそう言った。

 

だが、昨日とは違った。

 

そりゃあ私だって、認めたくはない。

あの子の自殺願望は、止められるべきだ。

あんなに優しい子が。人のために苦しんでいる子が。

そのまま死んでいくのを見ているなんて、そんなのは間違っている。

……間違って、いるべきだ。

 

相変わらずの重苦しい空は、しかし完全な灰色ではなかった。

 

でも。

そう思おうとすればするほど。

間違っていないのだ。

彼女の取った行動は。非の打ち所もなく、正しいのだ。

論理的なのだ。

確実なのだ。

これ以上のものは無いと、思わせてしまうほどに。

 

雲の切れ目から、幾つかの小さな星が。

 

茄子は言った。これはただの我が儘だと。

私だって、我が儘を言いたい。

ほたるが死んでしまうなんて、嫌だ。

でも、それではほたるは、もっと不幸になってしまうかもしれない。

 

そして、霞がかった、その向こうには。

 

だから。

自分の気持ちを押し殺して。

ほたるの幸せだけを考えて。

殺してやるべきだ、と。

そう、思っていたのに。

 

光り輝く満月が、確かに存在していた。

 

「……うん。」

 

ほたるはやはり、ゆっくりと私から遠ざかる。

私はほたるを追いかける。

 

「……邪魔だって、言いましたよね。」

 

昨日の夢と同じように、ほたるは私を睨みつける。

私への敵意のみで構成された眼で。

でも。

 

「……うん。」

 

私の足は、歩き続けた。

その目に怯えなどしなかった。

分かっている。

理解している。

これは余計なこと。

これは、邪魔なこと。

 

私はほたるに追い付くと、彼女の手を掴む。

ほたるは驚愕に目を見開き、何かを発そうと口を開く。

 

「邪魔だけど。余計なことだけどさ。」

 

ほたるが音を発するよりも早く、私は言葉を紡いだ。

 

「それでも、やっぱり。死んでほしく、ないんだよ。」

 

ほたるを掴んだ手を、少しだけ強く引き寄せる。

ほたるはバランス崩し、私に倒れ掛かるように。

私はそのまま両腕を開き、ほたるを。

 

 

 

「──生きていて、ほしいんだよ。」

 

 

 

強く、抱き締めた。

 

 

 

「……自分の我が儘のために、私を不幸にするんですか?」

 

「ううん。」

 

ほたるは私の両肩を掴み、無理矢理に引き剥がそうとする。

私の目の前に、ほたるの顔が映る。

そのまま苛立ちを隠そうともせずに問うほたるに、私は臆せずに答えた。

 

「不幸になんて、させない。

どれだけ時間がかかろうと。

どんなに憎まれようと。

無理矢理にでも、幸せにしてやるから。」

 

これが、私の答え。

私は、自分のために。

自分の我が儘のために、ほたるを救う。

目の前の最善を蹴ってでも、私は私の理想にしがみつく。

例え悪者になってでも、私の理想を押し通す。

 

理屈なんてものは存在しない。

ほたるに、死んでほしくない。

生きていてほしい。

それだけが理由。

その感情のみに基づいて、私は行動する。

 

納得したくなかった。

四方を論理で固められ、八方を正論で塞がれようと。

それら全てに、首を縦に振ることしかできなくとも。

それでも、認めたくなかった。

ほたるが死ぬことが正しいなんて、認めたくなかった。

理屈に打ち負かされて大人しく引き下がれるほど、私は大人にはなれなかった。

 

単純な話だ。

私は茄子に心動かされたのだ。

ほたるを救うと語る茄子の姿は。声は。真っ直ぐな目は。

押し込めていた私の矛盾を引きずり出したのだ。

理屈や計算に埋もれた感情を、掘り起こしたのだ。

 

「……ああ、そうですか。」

 

ほたるは両手で私を思い切り突き飛ばす。

私はそれに抗えず、一歩引き下がる。

 

「「また、失敗するつもりなのね。」」

 

ほたるの声と重複して、責めるようなお母さんの声。

ほたるの形をした黒い影。その手が、私の首元へ迫る。

 

「……うん。」

 

右腕を左から右へと大きく払い、肌色に色づいた手を弾く。

予想外と顔に書くお母さんに、私は答えた。

 

「自分のため、だから。」

 

覚悟の上だ。

これが最悪の結果を導き出すことも。

それによって嫌われることも。

それでも、私はこうすると決めた。

だから、言い訳の必要はない。

飴という報酬によって、その本意から目を背けなくてもいい。

正真正銘、自分のため。

自分だけのためだ。

 

不快そうに顔を歪ませたお母さんは再び闇色に染まり、ぐにゃりぐにゃりと形を変える。

一つの球体となったそれは、剥がれ落ちるように無数の鴉へと分裂して。

ばさばさと音を立てながら、空の向こうへと飛んでいった。

 

「……だから、待ってて。」

 

私は、空を見続ける。

鳥が飛んでいったその先を。

幾つもの瞬く星々を。

その中心で輝き続ける満月を。

決して、見失わぬように。

 

 

 

「決心は、つきましてー?」

 

目覚めると、真っ白な部屋。

私の隣で椅子に座る芳乃が、穏やかに問いかけた。

 

「……うん。」

 

私の表情を見て、彼女は微笑んだような気がした。

私が頷くと、芳乃は身を乗り出して。

窓際に置かれた、淡い赤色の飴を手に取った。

 

「この飴はー、茄子殿のものですー。

ほたる殿の死を、止めたいと願った、茄子殿のものでしてー。」

 

芳乃は私に飴を手渡す。

私はそれを受け取り、じっと、その色を眺める。

 

きっと、芳乃は私の中の飴の立ち位置を理解している。

恐らくはプロデューサーから聞いたのだろう。

そうでなければ、あの状況で飴を作るなんてありえない。

そしてプロデューサーのことだ、全てをそのまま話すようなことはしていないだろう。

あの状況を打破するために必要な、最低限の情報のみを伝えたに違いない。

そう、例えば、「双葉杏は飴という報酬がなければ何もできない」とか。

しかし、そこからある程度、その真意を予測することはそれほど難しくはない。

 

だから、芳乃はこのような伝え方をしたのだ。

この飴を作った茄子は、ほたるの死を止めたいと思っているから。

この飴は、それに協力してくれ、という、依頼書とその報酬を兼ねているものだから。

だから、この飴を食べれば、私はほたるを助けるために動くことができる、と。

そのことを伝えたいのだろう。

 

私は飴を握りしめた手を、芳乃へと差し出す。

彼女は少しだけ、面食らったようだった。

でも。

そこまで分かってくれているのなら。

この行動の意味も、汲み取ってくれる。

 

「ほたるを、助けたい。

……協力、してくれないかな?」

 

差し出された手と、私の目を、芳乃は交互に見つめる。

私は目をそらさずに、芳乃を見つめ続ける。

そのまま、考えをまとめるには十分過ぎるほどの時間が流れ、やがて。

 

「……任されましてー。」

 

にっこりと笑って、芳乃は飴を手に取った。

 

「……ありがとう。」

 

この行動の意味することは二つ。

私は自分のために動く。

だから、他人のためであることを誤魔化す飴は必要ない。

という、私の意思表示が一つ。

もう一つは、これが仕事の依頼であるということ。

芳乃がほたるに対してどの立場でいるのか、私には分からない。

しかし、彼女の協力がなければ。

私と茄子だけでは、ほたるを助けられる可能性は皆無。

だから。彼女の意志は考慮せず。報酬を伴う仕事として。

私は彼女に、ほたる救出の協力を依頼したのだ。

 

これは、ほたるを救えなかった場合の保険でもある。

もし、ほたるを幸せにすることができなかったとして。

その責任は全て、私と茄子にある。

芳乃はただ、私に依頼されて行動したに過ぎない。

その依頼主は私なのだから、責任は私が取るべきだ。

「仮に失敗したとしても、あなたの責任は私が持つ」。

その意味を込めての、仕事の依頼だ。

 

「じゃあ、早速お願いしたいんだけど。」

 

私は芳乃に、してもらいたいことを簡潔に伝える。

このままでは、ほたるを救えない。

私達では、ほたるを救えない。

だから。

思いっきり、我が儘を言ってやる。

どうしてできないんだと。おかしいじゃないかと。

理屈も計算も、何もかもを無視して。

おもちゃを強請る子供のように、泣き喚いてやる。



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23.少女の涙は水面に揺れて

男は、アイドルが好きだった。

時に歌い、時に話し、時に踊る。

そして、どの時も笑顔を絶やさない。

その姿は、等しく人を笑顔にする。

男も、その例に漏れない。

 

男にとって、アイドルは自分の全てだった。

 

一度、全てを投げ出そうとした時。

自分の持つもの全てに、失望した時。

練炭とガムテープを抱えて、ホームセンターのレジに並んでいた時。

その時展示されていたテレビの中に、アイドルが居た。

 

惹き込まれた。

少女を包み込む衣装に。

少女を照らすステージに。

少女に合わせて揺れる観客席の光に。

少女が振りまく、笑顔に。

 

男は、手に持っていた諦念を元の場所に戻し。

代わりに手に入れたのは、プラスチックケースに包まれた希望だった。

 

それからは、本当に早かった。

CDやDVD。

テレビやラジオ。

サイン会に握手会。

合同ライブ、単独ライブ。

男は自らの時間を、全てアイドルに費やすようになった。

 

楽しかった。

こんなに単純で、こんなに幸せな感情は、本当に久し振りだった。

自分をこんなにも簡単に、こんなにも救ってくれる、アイドルという存在。

男は、尊敬の念すら持って彼女達に熱中した。

 

そして、現在。

男は、今日もネットで情報を仕入れようと、パソコンの前に座っていた。

すると、何やら掲示版が賑わっている。

それは、男が今まで見たことがない程の勢いだった。

マウスを操り、スレッドを開く。

 

ざっと目を通したものの、上手く状況が掴めない。

いつもならば、定期的に説明を求める声が上がり、それに対し簡潔な解説が返される。

それを読めば大体の事の顛末が分かるし、それ以上自分で調べる必要もない。

だが今回は、それが無いのだ。

 

返されている言葉は、決まって一つ。

「動画を見ろ」。

とにかくまずこの動画を見ろ、そうすれば全て分かる、と。

その内容には、一切手を触れず。

皆が皆、口を揃えてそう言っていた。

 

動画のURL自体は、スレッドの一番上にすでに貼り付けられていた。

とにかく、見てみるしかないだろう。

見れば全てが、分かるというのだから。

 

少しの読み込みを経て、動画の再生が始まる。

画面の中央、ベッドに腰掛けている少女。

小さい身体、二つに結ばれた長い金髪。

『ニートアイドル』、双葉杏だった。

 

『やーやー、ちゃんと見えてる? 杏だよ。』

 

いつものように気の抜けた話し方をする彼女は、しかし、いつもとは違っていた。

まるで入院患者のような服装。いや、それ以上に。

 

『……今日はね、皆にお願いがあるんだ。』

 

こんなに真面目な表情をした彼女を、男は見たことがない。

 

『白菊ほたる、って子。知ってる?』

 

その名に、男は聞き覚えがあった。

つい先日のライブの最初の方に出ていたアイドルだ。

特徴のあるアイドルばかりが集う、彼女の事務所。

確か、彼女の特徴は……

 

『彼女の不幸体質は、本物だ。』

 

どうしても認めたくないものを、しかし、認めるしかない。

淡々と語る彼女の顔には、はっきりとそう書かれていた。

 

そうだ。と、男は思い出す。

事務所のホームページで彼女の情報が公開された時、ファンの反応は大まかに二分されていた。

可愛い。守ってあげたい。という、恐らく事務所の狙い通りなのだろう、肯定的な意見と。

他の所属アイドルに危害が及ぶのではないか、という、否定的な意見。

 

『そして、だからあの子は、アイドルになったの。

不幸な自分が。

他人すら不幸にする自分が。

それでも誰かを笑顔に出来たら、って。』

 

彼女はシーツを巻き込むように、両手をかたく握る。

その声は、震え始めていた。

 

しかし、事務所の所属アイドルは皆、外見だけではなくその内面も、いわゆる一般人ではなく。

各々自衛できるだろう、と。

更には、あの鷹富士茄子が居るのだから、と。

確かに危険性はあるが、そう危ぶむ程ではない。事務所側もそう考えているのだろう。

その時は、最終的にそのように意見がまとまっていた。

 

『でも、あの子は今、諦めようとしている。

……ううん、もう、諦めちゃった。』

 

そう言うと、彼女は項垂れてしまう。

彼女の表情が、見えない。

 

大丈夫なはずだった。

問題はないはずだった。

現に、ホームページに載せられていた動画では、茄子はほたるを助けられていた。

だから、あのライブも。

白菊ほたるのデビューライブとして、成功を収めるはずだったのだ。

 

『……駄目、だったんだ。

茄子が居れば、大丈夫だって皆思ってた。

でも、その場しのぎでしかなかった。

あの子は、茄子の幸福すら、不幸に変えてしまった。』

 

駄目だった。

鷹富士茄子が側に居て、それでも尚、不幸は発生し。

そして、茄子はそれを止められなかった。

依田芳乃が、明らかに無事では済まない高さから、落下した。

当然、ライブは中止。

それからは。一言で言えば。

酷かった。

肯定的な意見は塗り潰され、否定の一色に染まった。

庇いようのない状況だ。そうなるのが当然と言えるほどに。

依田芳乃が目を覚ましたと情報が入っても、その勢いは変わらなかった。

 

それを見て、あまりにも酷すぎる、と。

彼女の擁護に回り始める者も、少数ではあるが存在していた。

そして、事務所も、それを望んでいるようだった。

あれだけの損失を生み出した彼女を、まだ、切り捨てようとはしなかった。

 

『あの子は今、死のうとしてる。

死ぬことが幸せなんだって、本気で思ってる。

そうしなきゃ、皆を不幸にしちゃう。

そうすることでしか、皆を幸せにできないって。

自分が幸せになれない、って、本気で思ってるの。』

 

自分が存在している限り、自分は他人を不幸にする。

自分が生きている限り、自分は、幸せにはなれない。

 

「『……そんなのッ!』」

 

気が付くと男は、彼女と同時に、叫んでいた。

 

『……そんなの、いいわけがない。

正しくて、いいわけがない。

認めて、いいわけがない。』

 

生きていることが、許されない、と。

そう、言っているようなものだ。

お前は生まれてきてはいけなかったんだ、と。

 

『でも……でもね、駄目だった。

私達じゃ、駄目だった。

生きてていいんだって、そんな事、しなくていいんだって。

そう、言ってあげることすら、できなかった。』

 

下を向いたまま、絞り出すように声を発する。

限界、だった。

それは、どう見ても、限界だった。

どれだけ鈍くても分かる。

この問題は。これ以上、その小さ過ぎる背中に。

背負わせていい重荷では、ないのだ。

抱え込ませては、いけないことなのだ。

 

彼女達も同じだったのだ。

彼女達も、白菊ほたるを助けようとしていた。

決して憎んでなどいなかった。

こんなにボロボロになってまで。

瞳に涙を貯めてまで。

それでも。

 

『嫌……だよ、嫌だ……そんなの、嫌だよ……!

だってあの子、頑張ってた!

頑張って頑張って、何回も折れそうになって!それでもっ!!

……それでも、頑張ってっ、たんだよ……!?』

 

止まらなかった。

大きな瞳から流れる悲しさが。

小さな口が吐き出す悔しさが。

彼女の感情の、全てが。

 

『でも……もう、どうしようもないの……。

私達じゃ、これ以上届かない。

私達だけじゃ、あの子を救えない。』

 

彼女は顔を上げ、こちらをまっすぐに見る。

赤く充血した彼女の目には、ガラスのように。

今にも、壊れてしまいそうで。

 

『……だから、お願い。

あの子を、助けてあげて。

それができるのは、もう、皆だけ……だから。

だから……』

 

自分を救ってくれた存在が。

自分を笑顔にしてくれた存在が。

アイドルが。

自分では、救えないと言っている。

自分達では、届かないと。

 

そんな所に、届くだろうか。

そんな人を、救えるだろうか。

自分すら、自分では救えなかった、自分が。

 

『……だから助けて……たすけてよ……っ』

 

アイドルが、泣いている。

画面の向こう。きっと近くて、どうしようもなく、遠い場所で。

 

根拠なんてない。

自信なんて、尚更ない。

でも。

小さな少女が泣いている。

助けてくれと、泣いている。

それは、男が腰を上げるには、あまりにも、充分過ぎる理由。

 

大多数の否定と、極少数の擁護で占められていたその比率が、彼女の涙によって揺らぎ始めている。

今しかない。

彼女を救うなら、今しかない。

 

届かないのなら、届く場所へ。

ファンとアイドルが、一番近くに居られる場所へ。

 

部屋に、カタカタと音が響く。

男は、アイドルが好きだった。



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24.幸福少女の悩みごと

勢い良く啖呵を切って外に飛び出したはいいものの。

 

「どうしましょう……。」

 

雑踏の中を歩きながら、私は一人、途方に暮れていた。

 

ほたるちゃんと接触しなければ、そもそも何も進展しない。

そう思って一通り街中を探索してはみたが、ほたるちゃんを見つけることは叶わなかった。

彼女に会いたいと強く願っているにも関わらず、だ。

杏ちゃんの話によれば、これで私の幸福は発生しているはず。

すぐにでも、彼女と会えるはずなのに。

 

これは、ほたるちゃんの不幸との打ち消しが起こっている、ということなのだろう。

つまり、私の幸福と完全に矛盾するような不幸が発生している。

それは「ほたるちゃんは私に会えない」以外にあり得ない。

彼女は、それを不幸だと、心から思っている。

 

「……それだけ見れば、嬉しいんですけどね。」

 

裏を返せば、彼女は私に会いたいと思ってくれているのだ。

でも、今回ばかりは呑気に喜んではいられない。

それは自力で彼女を見つけ出さなければならなくなったことを意味していた。

 

事故が頻発している場所に向かえばいいのでは、とも思った。

しかし、彼女の不幸は今、彼女のみを対象とするようになっている。

そこまで大騒ぎするほどの規模のものが発生するとは考えづらい。

 

携帯を取り出し、連絡帳を開く。

そのうちの一つをタップしようとした瞬間、振動と共に画面が切り替わる。

それには、私が今まさに電話を掛けようとしていた相手。

依田芳乃の名が浮かび上がっていた。

 

「もしもし?」

 

『もしもしー、わたくし依田は芳乃でしてー。』

 

応答すると、お決まりのフレーズが耳に流れ込んでくる。

 

「……言わなくても、ちゃんと画面に名前が出ますよ?」

 

『……なんとー。』

 

彼女の与える機械類に疎いというイメージは、どうやら実際その通りのようで。

深い衝撃を受けたらしい彼女の感嘆の声を聞くと、自然と顔が綻んだ。

仕事の連絡のためにとプロデューサーが無理矢理持たせたものだから、ロクに使いこなせていないのだろう。

……あとで連絡帳を登録しておいてあげよう。

 

「……芳乃ちゃん、一つ、お願いがあるんですけど。」

 

彼女に話そうとしていた用件を早速切り出す。

普通でないアイドルが集う私の事務所。

彼女の趣味は、失せ物探し。

ほたるちゃんの現在地を把握するくらいはお手の物のはずだ。

 

……本当は、この手は使いたくはなかった。

誰にも頼らず、一人で何とかするつもりだった。

 

杏ちゃんは、明らかに私とは違う考えを持っていた。

いや、例え私に賛同してくれていたとしても、これ以上無理をさせていい状態ではなかった。

 

芳乃ちゃんは、分からなかった。

彼女がどちら側に立とうとしているのか。

彼女の行動は、私に賛成とも反対とも取れないものだった。

むしろ、私達二人の様子を、一歩引いて静観しているようにさえ見えた。

だから、まだ決めあぐねている、或いは反対の立場であると仮定して。

もし賛成であるならば、彼女からコンタクトを取るだろうと予想して。

自分からは助けを求めないと、一度はそう決めたのだ。

 

そうするべきだ思うし、できると思った。

できると、思っていた。

私は自分を過信していた。

これまで、思ったようにいかないことなんて、無かったから。

私ならできるだろうと、何の根拠も無いのに。

 

その結果が、これだ。

どうすればいいのか、その方策が、何一つ思い浮かばない。

そもそも、そんなことは考えたことすらない。

願えば叶うのだ。その時点で叶ってしまうのだ。

普通の人なら持っていて当然のレベルの問題解決能力。

それが私には決定的に欠けていた。

 

『はいー、それを伝えに、お電話致しましたのでー。』

 

悔しさと自己嫌悪に、歯を強く噛み締めながら頼もうとすると。

私の考えとは裏腹に、彼女はさらりとそう言った。

 

「……芳乃ちゃんは、それでいいんですか?」

 

彼女は、私の意見に賛同しているのか?

それが分からないからこそ、私は二人の力を借りるという選択肢を消去した。

しかし今、彼女はほたるちゃんの位置を私に教えようとしている。

それは、私の行動を手助けすることに他ならない。

 

『はいー、頼まれましたゆえー。』

 

数秒の沈黙の後。

私の問いに、彼女はただ、その一言だけを返した。

誰に頼まれたのだろう。杏ちゃんは、私に反対していた。

後は、プロデューサー?

彼はほたるちゃんをアイドルにすることを諦めていなかった。

芳乃ちゃんに協力を要請したとしても違和感はない。

 

だが。

依田芳乃という人物は、ただ人に頼まれただけで動くような、人形のような人だっただろうか。

彼女の行動理念の根幹は、いつだって彼女自身の意志に基づいている。

日々の彼女の振る舞いは、強く私にそう感じさせていた。

 

元々私のような考えを持っていた?

いや、恐らく違う。そうならば「頼まれたから」という理由は出てこないはず。

「あなたと同じ考えだから」と、彼女ならば言うだろう。

彼女に頼んだ人物の影響で考えが変わったのなら、そのまま「考えが変わった」と言うだろう。

しかし彼女は「頼まれたから」と言った。

これが何を意味するのか。

思考を巡らせてみても、私が納得する結論は出てきてはくれなかった。

 

とにかく、彼女は私の味方になってくれるらしい。

今は、それで充分だ。

 

『あとー、伝言がありましてー。』

 

「伝言、ですか?」

 

話の流れからして、彼女に頼んだ人物からの、だろうか。

 

『えー、「あの子が茄子に会いたがっているのは、必ずしもいい意味とは限らない」。』

 

書き置きでも残していったのだろうか、彼女は何かを読み上げるように語り出す。

 

「……え、それっ、て、」

 

ほたるちゃんが私に会いたがっているのを知っている?

そんな。このことは誰にも言っていない。

……どういうこと?

 

『「今のところは大丈夫だが、いつあの子が心変わりするか分からない。被害が拡大しないように注意すること」。』

 

やっぱり。

この伝言の相手は、今の私達の状況を深く知っている。

それだけではない。

私が楽観的な思考をしがちであることも理解して、その上で忠告をしているのだ。

 

『それとー……』

 

それまで淡々と話していた彼女は、そう言って一呼吸置く。

そして放たれた言葉には。

 

 

 

『「ありがとう」。』

 

 

 

単なる伝言ではない、彼女自身の気持ちが、確かに含まれていた。

 

『……伝言は以上でしてー、早速、御案内致しますー。』

 

未だ困惑の中に居る私とは対照的に、彼女は素速く頭を切り替える。

 

「……えっと、はい、お願いします。」

 

頭の上に浮かんだクエスチョンマークを仕舞い込み、私は歩き出す。

考えるのは後だ。

とにかく今は、ほたるちゃんを見つけなくては。

 

『わたくしもそちらに向かいますがー、茄子殿の方が早く着くと思いましてー。

先ずは、時間稼ぎをー。それからー……』

 

彼女の指示を頭に叩き込みながら、言われた通りの道を辿る。

既に日は暮れ、街は人工の光で輝き始めていた。



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25.もう一回の最終回

綺麗とも汚いとも言えない空の下。

都会とも田舎とも言えない夜の街。

高いとも低いとも言えない何処かのビルの屋上で。

 

「ほたるちゃん。 」

 

私を呼ぶ彼女の姿は、天使のように美しかった。

 

「……一日だけ。」

 

足元に散らばったガラクタをぼんやりと眺めながら、私は言葉を紡ぐ。

首吊りは縄が切れた。

刃物は一瞬で錆びついた。

水はどこからか漏れ出した。

火は風が消していった。

 

「待ってみたんです。私。」

 

でも、あなたは来てくれた。

 

「でも、やっぱり駄目でした。

幸せになんてなれませんでした。

誰かを幸せになんて、できませんでした。」

 

だから。やっぱり私は不幸で。

やっぱりあなたは、幸福だ。

 

「だから。あの日の続きをしましょう。」

 

私が幸せになれる方法。

皆を幸せにできる方法。

もう謝らなくていい方法。

あの日辿り着いた結論を。

 

「……ほたるちゃん。」

 

私の足元を見て、彼女は再び私の名を呟く。

私がここで何をしていたかを察したのだろう。

いつも笑みを絶やさず浮かべていたはずのその顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

 

「……ごめんなさい。」

 

あなたは優しいから。

こんな私を助けようとしてくれたくらい、優しいから。

私は心からの、最期の謝罪を口にする。

きっとこれは、あなたが望む私ではないから。

あんなにも力になってくれたのに、こんなものを見せてしまうから。

でも。

どうか、どうか許してください。

あなたにそんな顔をさせてしまうのは。

あなたを不幸にしてしまうのは。

あなたが幸せにできない人間は。

これで、最後だから。

 

私が死ねないのは、私が不幸だから。

しかし、今なら。

一時的にでも私の不幸を抑え込み、こうして私を見つけてくれた。

そんな幸福が目の前に居る、今なら。

 

私は、死ぬことができるはず。

 

ガラクタの中から、まだ使っていない包丁を手に取る。

くるりと逆手に持ち替え、右手を添えて。

しっかりとお腹に照準を合わせる。

 

茄子さんの方を、ちらりと見る。

大丈夫。まだ遠い。

彼女が私に辿り着く前に、私は私を刺し殺す。

 

両腕を目一杯伸ばし、すぐさま引き戻す。

身体がくの字に曲がる。

刃の先端が服に触れる。

同時に、チクリとした感触。

後は、このまま異物を埋め込んでいくだけ。

ちょっと苦しいだろうけど、でも、それだけだ。

それには終わりが確かにある。

なら、過ぎるのを待つだけ。

 

ほんの少しの抵抗を残して、布に亀裂が生じる。

私の表皮に金属が突き刺さる。

それは勢いを緩めず、もっと奥深くまで──

 

 

 

──からん、からん。

 

 

 

「…………え、」

 

何が起こったか、すぐには分からなかった。

お腹にあるのは、握り込まれた私の手の感触。

両手にあるのは、私の互いの手の感触。

音のした方に顔を向けると、数瞬前までしっかりと握っていたはずの包丁が力無く横たわっていた。

 

弾かれた。

どうして。

茄子さんが居る今、私の不幸は起こらないはず。

それとも、それでも、駄目だった?

彼女の幸福ですら抑えきれないほど、私は不幸になってしまった?

 

「……本気、なんですね。」

 

目の前の異常現象に少しも驚かず、彼女が声を震わせる。

泣き出しそうな顔のまま、それでも涙は堪え続けて。

 

「ほんとの、ほんとに、あなたは。」

 

その表情を見て。

ああ。やっぱり、あなたは優しくて。

私の不幸なんて及ばないくらい幸福で。

この不可解な現象も、彼女が起こしたものだということが、はっきりと伝わって。

 

「死んじゃうつもり、なんですね。」

 

だからこそ、私は、死ぬべきだ。

 

「…………はい。」

 

彼女ならば、たくさんの人を幸せにできる。

たくさんの人を、笑顔にできる。

私が足を引っ張らなければ。

私さえ、居なければ。

そして、彼女は私を、幸せにはできないから。

 

不幸は幸福にはなれないから。

 

私は彼女を、不幸にしてしまうから。

私はみんなを、不幸にしてしまうから。

だから。

私さえ居なくなれば、全てが丸く収まるのだから。

 

どうする。

彼女が側に居れば、私の不幸は発生しない。

しかし、彼女は私が死ぬことを許さない。

彼女の近くでなければ私は死ねず、彼女の近くでは私は死ねない。

つまり、私が死ぬには、彼女が私を諦める以外に方法が無い。

 

「だって、そうじゃないですか。」

 

説得する?

私が引き起こした数々の不幸を間近で見て。

それでも私を諦めようとしない、彼女を?

 

「私が居ればみんな不幸になります。

あなたが居ても、不幸になります。

なら、こうすれば、みんな幸せになるでしょう?」

 

……無理だ。

正論をぶつけて折れる相手なら、もうとっくに折れている。

なら、どうすればいい。

理屈で駄目なら、何を使えばいい。

 

「……どうして、邪魔をするんですか?」

 

感情だ。

彼女が私を助けようとする感情を、無くせばいい。

助ける気が失せるほどに、嫌われればいい。

 

飽きるほど繰り返した演技のレッスンを思い出す。

不機嫌な表情と声を作り上げる。

自分でも驚くくらい、冷たい色の音が出た。

 

「……ごめんなさい。」

 

彼女は目を伏せ、謝罪を口にする。

謝るのは私の方だ。

でも、これで、

 

「……でも。それでも。」

しかし。彼女が続けた言葉は、私の予想とは真逆のもので。

再び見開かれ、こちらを真っ直ぐに見つめる両の目には。

……そんな。それならもう、手の打ちようがない。

 

「嫌われようと。疎まれようと。あなたにどう思われようと。

何度失敗しようと。例え不幸になってでも。」

 

彼女は。

一度明らかに失敗したことも。

私がそれを望んでいないことも。

それが合理的からかけ離れていることも。

それに失敗したらどうなるかということも。

それら全てを受け入れて。背負い込んで。

それでも。

 

 

 

「生きていてほしいから。」

 

 

 

それでも。

 

 

 

「……本気、ですか?」

 

心からの驚愕が口から漏れ出す。

しかし、彼女の目に、否応にも確信を持たされる。

彼女は、本気だ。

どうにか心変わりさせようとする気すら、失せるほどに。

 

「……皆を、幸せにできること。

きっと、他にもあると思うんです。」

 

それは、あの日と同じ言葉。

最期にしようとして、もう一度だけ頑張ると決めた、あの日の言葉。

 

「……それは、何度も試しました。

試して試して、でも、駄目だったんですよ?」

 

でも、駄目だったじゃないか。

あれだけ恵まれた環境で。

これ以上は無いと思わせてくれたあの日々で。

 

「もう一日だけ、待ってはくれませんか?」

 

それでも届かなかったじゃないか。

私が幸せにはなれないということは、実証されたじゃないか。

 

「これで最後です。もう一回は、これで最後。」

 

彼女が何をしようとしているのかは分からない。

でも、そんな悠長なことをしている場合じゃないんだ。

彼女が諦めるまでそれに付き合うなんてやってられないんだ。

 

「……そう、ですか。」

 

私は人を傷付けた。

彼女が居たのに、傷付けた。

今はまた収まっているけれど、いつそれが逆転するか分からない。

一刻も早く死ななきゃいけないのに。

 

「やっぱり、私を不幸にするんですね。」

 

考えろ。

どうすればいい。

どうすれば、彼女に握られた私の生殺与奪を手に入れられる。

 

「あなたも、私を不幸にするんですね。」

 

考えろ。

何があろうと手放さないと決めた彼女が、しかし手放さざるを得ない状況を。

 

「じゃあ、しょうがないですよね。」

 

考えろ。

彼女の望みは何だ。

 

「あなたが私を殺してくれないのなら。

幸せにしてくれないのなら。」

 

彼女が最も為すべきと考えるものは、何だ。

 

 

 

 

 

「私があなたを殺します。」



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26.理不尽なまでに気の抜けた

双葉杏の指示通り、二人の様子を少し離れた地点から監視していた依田芳乃は、眼前の光景に歯を強く噛み締めた。

 

杏の予測は、事実だけを見れば、その全てが的中していた。

白菊ほたるは鷹富士茄子の幸福体質を利用するために彼女に会いたいと願い。

そして今、「自分だけが不幸になればいい」という願いを部分的に放棄した。

 

しかし、ほたるがこの願いを放棄したその理由は、杏の考えから大きく逸脱していた。

いや、これは「考え」などではない。

ただの期待だった。

自らの望みの達成。これを妨害しようとする者に対して。

ひょっとしたら彼女は、感情を剥き出しにしてくれるんじゃないか。

どうして邪魔をするんだと、激昂してくれるんじゃないか。

そして、それでもちっとも揺るぎやしない茄子の姿を見て。

その優しさに触れて。

自分は生きてもいいのかと。

その断片だけでも。疑問だけでも。手に入れてくれやしないかと。

そんな陳腐な。月並みな。ありきたりな。平々凡々な。

疑いようのないハッピーエンドを。

期待していたに過ぎなかった。

 

だが彼女は、自らの感情に従って行動しているのではない。

彼女はどこまでも冷静だった。

自分の殺害方法を人質に取られて。

それでも彼女は、その犯人に屈服しようとはしなかった。

癇癪を起こしたフリをして。

逆鱗に触れられたフリをして。

願望成就の最短コースを選んだのだ。

 

ほたるが茄子を手にかけることは事実上不可能だ。

ほたるは、自身の不幸が茄子の幸福より勝ることはないと思っている。

しかしそれでも、茄子は何らかの抵抗をしなければならない。

火をかき消し、刃物を弾き落とし、毒物を避けなければならない。

例え茄子が居たとしても、ほたるの不幸そのものは、確かに発生するのだから。

 

そして、ほたるの狙いはそこにある。

ほたるの攻撃に対して放った茄子の反撃。

それを生身で喰らえばいい。

ほたるの不幸は決して茄子を殺さない。そうほたるは思っている。

茄子も、その反撃がほたるに当たるようにはしないだろう。

だが、ほたるはそれを、茄子の幸福が打ち消すと結論づけた。

そもそもほたるは、自分自身の不幸によって成せなかった自らの殺害を、茄子が居れば達成できると考えていた。

「茄子の幸福は、茄子から見て幸せなのではなく、当事者から見ての幸せに準拠して発生する」。

正解を導くにはあまりにも情報が不足していたはずの彼女が出した推論は、これ以上なく的を得ていた。

 

茄子はほたるに合わせて何らかの反撃をせねばならず、反撃をすればそれに当たりに行けばいい。

当たりに行けば、茄子は嫌でも気付く。

ほたるの本当の狙い。本当の目論み。

 

本当の、幸せ。

 

気付いてしまえば、幸福が発生する。

ほたるに当たらないように軌道が逸れるはずの反撃は、そのベクトルを変えず。

ほたるの望み通り、ほたるを殺す。

 

茄子自身が願った「ほたるを死なせない」という幸福があれば、例え直撃を受けようと怪我はしない。

だがこれからほたるが起こすのは、茄子にとって完全に予想外のもの。

ただでさえ弾いた凶器が当たらないように意識を向けているのだ。

それを見た瞬間、茄子は思ってしまうかもしれない。

ダメだ。これは、避けられない。

ほたるが死んでしまう。

自分のせいで、死んでしまう。

そう思ってしまえば、本当に、ほたるは死ぬ。

 

遂に、彼女はそれを行動に移す。

ほたるが弾かれた包丁に左手をかざすと、それは魔法のようにふわりと浮いて。

ゆらゆらと彼女の元まで移動し、そこでぴたりと静止した。

 

今「自分は死ぬことができない」という不幸が発生していないにも関わらずほたるが気絶していないのは、芳乃が茄子に電話をしたからだ。

あの時芳乃は茄子に、自分は茄子の味方であると告げた。

それは、芳乃もまた、ほたるの死を望まない者であることを意味していた。

つまり、今発生している幸福は三つ。

ほたるの願うほたるの死と、茄子の願うほたるの生。

そして、芳乃の願うほたるの生だ。

これによって、ほたるは気絶から逃れている。

しかし、茄子がそれを願えなくなってしまえば。

ほたるが死んでしまうと、そう思ってしまえば。

その瞬間に、ほたるは気絶する。

茄子の反撃をその身に受ける瞬間、ほたるは行動不能に陥る。

それだけではない。

そうなれば、ほたるの願いと芳乃の願いがそれぞれ打ち消され。

ほたるは、死ぬことができる身体になる。

 

ほたるはそのまま、左手を右へゆっくりと引く。

その動きに合わせて、包丁は茄子へとその切っ先を向ける。

 

杏や茄子が気絶した際に無傷であったのは、それが不幸と幸福の打ち消しだったからだ。

この二つが真っ向からぶつかった場合、少なくとも今は、恐らく幸福の方が勝る。

しかし、今回打ち消されるのは幸福と幸福。

どちらかが勝るということはない。

浅くない傷を負い、意識を失った状態で、彼女は死ねない身体ではなくなる。

確実に無事では済まない。

当たりどころによっては、即死すらあり得てしまうのだ。

 

その状態のまま、ほたるは数秒、動かない。

恐らくは、茄子にこの攻撃を避ける精神的準備をさせるため。

この手を振り抜けば何が起こるかを、理解させるために。

 

ほたるの気を注意深く観察していたことによりこれにいち早く気付いた芳乃は、しかし茄子に伝える訳にはいかない。

伝えてしまえば、茄子は知ることになる。

知ってしまえば、どちらかが死ぬ。

回避しなければ茄子が死ぬ。回避すればほたるが死ぬ。

ほたるの作戦の抜け道は、ただ一点。

茄子がほたるの思惑に気付かなければ成功しないということだ。

 

茄子は、凶器を突き付けられ、それでも尚、動かない。

表情も、手も足も、何もかも。

ただ、目の前の少女を見つめ続ける。

 

杏に報告し、杏の思考を待ち、杏の指示を仰ぐだけの時間的余裕はない。

今まさに、ほたるはその作戦を実行しようとしている。

茄子が自力でこれを打ち破らなければならない。

彼女の真意に気付くことなく、彼女の攻撃を避け、その瞬間に彼女が動けないような状況を作り出さなければならない。

 

ほたるは全身を使い、思い切り左手を振り抜く。

包丁は矢のように、真っ直ぐに茄子を目掛けて放たれ──

 

 

 

 

 

──人間の肉に刃物が突き刺さる音を、芳乃は生まれて初めて聞いた。



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27.ゆっくりと溶けだして

ほたるが凶器を放った次の瞬間。

茄子の下へと素速く一歩を踏み出したその足は、二歩目へと続くことなく静止した。

 

「…………なん、で、」

 

来るはずのものが来ない。

来て当然のもの。

来なければならないはずのものが。

 

茄子は、避けなかった。

 

刃は彼女の喉首を正確に狙い。

反射的に動いたのか、はたまた予測していたのか。

首を囲むように防御した彼女の両腕のうち、左腕を深く貫いていた。

 

確かにそれなら、今この瞬間にほたるが死ぬことは無い。

だが、それでは駄目なのだ。

これは恐らく、この場で彼女が取れ得る、最悪の選択。

 

そもそもほたるがこの行動に出たのは。

「茄子は必ずこれを避ける」という確信があったからだ。

ほたるにとって、茄子が避けずにそのまま死亡するというのは、決してあってはならないこと。

だからこそほたるは、彼女が避けずに凶刃を受け入れる可能性を考慮し。

そして、万に一つもあり得ないという結論を導き出した。

何故なら、ほたるを救うには、茄子の幸福は必要不可欠。

幸福が死に、不幸だけが生き残ってしまっては、完全に詰みだ。

茄子にとって、これを避けないことが幸福である訳がない。

よって、茄子が避けないはずがない。

だからほたるは茄子を攻撃した。

 

しかし今、「茄子が必ず避けようとする」攻撃が命中した。

これは茄子の意志によるもの。彼女はあえて避けなかった。

それを理解できるのは芳乃だけだ。

ほたるは知らない。

杏が発見した、不幸と幸福のメカニズムを。

ほたるは知らない。

彼女を対象とした幸福は、彼女が任意に発生を選択できることを。

ほたるは知らない。

不幸と幸福に、そもそも強さの概念など存在しないことを。

 

だから、ほたるは思考する。

何故茄子は攻撃を受けた。

何故茄子は避けなかった。

だって、茄子の幸福は発生するはずなのに。

まさか。

もう、手遅れだったのか。

もう、私の不幸は。

彼女の幸福では抑えきれないまでに。

 

どうしようもないまでに。

 

ほたるがそこへ行き着くのは最早必然。

行き着いてしまえば、不幸が起こる。

不幸が幸福を上回ってしまった。

そんな状態で、自分は茄子を傷付けてしまった。

ならば、もう、彼女は。

 

まだほたるは目の前の事実を整理できていない。

今から数秒、よくて十数秒が猶予だ。

それまでにほたるの認識を塗り潰さなければ、茄子は死ぬ。

だが、どうやって。

 

焦りばかりが先行する。

まともな思考ができない。

考えろ。考えろ。考えろ。

頭がその一言に押し潰される。

 

「…………っ!?」

 

その時だった。

左腕に重症を負い、苦痛に顔を歪ませる彼女が。

芳乃がたった今、「この場で取れ得る最悪の選択をした」と評価した彼女が。

確かに、こちらを見たのだ。

 

それは、助けを懇願してはいなかった。

それは、死を目前にして恐怖に染まってはいなかった。

明確な意志を持っていた。

何かを、伝えようとしていた。

 

反射的に、芳乃は茄子の気を読む。

芳乃のこれは、テレパシー能力ではない。

非常に漠然とした、曖昧なものでしか読み取ることはできない。

しかし、せずにはいられなかった。

彼女が確かに伝えようとしているもの。

そのヒントを、何一つ見落とす訳にはいかなかった。

 

そして芳乃は理解する。

数瞬前までの自らの茄子に対する評価を、180度改めねばならないこと。

これは最悪などではない。芳乃が思いつきすらしなかった、最善の方法であること。

これから自分が取るべき行動は。

 

 

「──ほたるどの!!!!!」

 

 

 

叫ぶ。

 

ほたるは突然の第三者の大声に、びくりと全身を震わせる。

その後、ゆっくりと、怯えるように振り返る。

 

「…………よしの、さん、」

 

すがるような目でこちらを見るほたる。

突然に予測外の事態が起きすぎて、頭の中で処理しきれていない。

 

「……随分と探しましてー。やっと、見つけることが叶いましたー。」

 

これでいい。

茄子が芳乃に望んだのは、ただの時間稼ぎ。

ほたるが茄子にこれ以上視線を向けないようにするのが、自分のするべきことだ。

 

「……芳乃さん。茄子さんが、茄子さん、が、」

「茄子殿ですかー? わたくしと同じくー、そなたを探しておりましてー。」

 

たどたどしく話すほたるに、被せるように言葉をぶつける。

 

「ち、ちが……もう……、」

「おやー、もう見つけておいででしてー? 流石は幸福といったところでしょうかー。」

 

人の話を聞かないことに若干の罪悪感を覚えながらも、芳乃はほたるにその先を言わせない。

目線の先はほたるから逸らさないまま、その奥に居る茄子へと注意を傾ける。

……よし、大丈夫。

彼女は自分のことに集中している。

 

「……違うんです! 茄子さんが、包丁で……!」

「茄子殿はー、そなたの後ろにおりましてー。ですがー……。」

 

茄子が彼女自身ではなく、芳乃に注意を向けたことを確認して、芳乃は視線を誘導するようにほたるから目を逸らす。

 

ほたるもその動きにつられて、恐る恐る後ろを振り返る。

そこにあるであろう、凄惨な光景を想像しながら。

しかし。

 

 

 

「包丁とはー、一体何処にあるのでしてー?」

 

 

 

無かった。

 

左腕を貫かんとする凶器も。

滴り落ちる血液も。

苦悶に膝をつく少女も。

まるで、最初から存在していなかったかのように。

その痕跡すらも、跡形も無く消え去っていた。

 

「…………そん、な、」

 

当然、ほたるはこれまで以上に困惑する。

確かに見たのだ。

柔肌に突き刺さる凶刃を。

苦痛に歪む彼女の顔を。

夢幻で片付けるなど、不可能なまでに。

 

では、これは何だ。

確かに彼女は傷ついた。

そのはずではなかったのか。

ならば何故、彼女は平然としている。

平然と、立っていられる。

 

まさか。

一つの推測がほたるに芽生える。

そうだ。それしかあり得ない。

こんなことができるのは。

できてしまえるのは。

 

 

 

「ラッキーですねっ♪」

 

 

 

彼女しか、いない。

 

違ったのだ。

不幸が幸福を上回ってしまったなど、思い上がりも甚だしい。

到底及ぶはずもない。

彼女は。彼女の幸福は。

過去の事実すら捻じ曲げてしまえるほどに。

 

私などでは抵抗すらできないほどに。

 

そう思わせるのが茄子の作戦だ。

茄子が攻撃を受ければほたるの不幸によって茄子が死ぬ。

ほたるが攻撃を受ければ茄子の幸福によってほたるが死ぬ。

それら二つの可能性を、完全に排除する方法。

攻撃が誰にも当たらないようにすればいい。

誰にも、当たらなかったことにすればいい。

 

茄子が芳乃に時間稼ぎを求めたのはそのためだ。

まず、茄子は幸福を発生させずに、包丁をその身をもって受け止める。

次に、茄子の幸福を使って、傷の修復と包丁の抹消を行う。

 

この時に、ほたるに正しく思考をさせてはならない。

傷の痛みに耐えながら意図的に幸福を思い浮かべる茄子よりも、反射的に不幸を思いついてしまうほたるの方が、どうしてもその発生は早い。

だから、ほたるの思考を茄子から引き剥がす必要があった。

芳乃は茄子の狙いに気付き、茄子は芳乃がくれた時間で証拠を隠す。

 

「……ほたるちゃん。私のお話、聞いてくれますか?」

 

その結果、ほたるは考える。

自分では、何をどうしようとも彼女には敵わない。

彼女に握られた私の生殺与奪は、決して奪い返せるものではない。

彼女の要求を聞き、その対価として返してもらえるよう交渉するしかない。

 

「…………はい。」

 

今、茄子はほたるとの交渉の席を、無理矢理に用意したのだ。

それも、限りなく自分に有利な形で。

 

 

 

 

 

「それでは、二日後の夜。……待っていますね。」

 

「……はい。」

 

伝えるべきことは伝えた。

ほたるは、行くと答えた。

これ以上自分にできることは無いと、茄子は階段へと続く扉を開ける。

 

軋んだ音が、乾いた空に響く。

ほたると芳乃は、見るともなく月を見上げていた。

 

「……ほたる殿ー。」

 

切り出したのは芳乃だった。

声を聞いてほたるが目を向けると、淡い赤色と目が合った。

 

「お届けもの、でしてー。」

 

それは、茄子が作った飴だった。

茄子が杏の無事と、ほたるの幸福を願って作った飴だった。

杏がほたるを助けるために、芳乃に責を負わせぬために、芳乃に渡した飴だった。

 

渡された時、芳乃は杏の考えを正しく理解した。

それと同時に、強く思った。

この少女達は、なんと、優しい心を持っているのだろうか。

その優しさに、応えたいと思った。

それは半ば、使命感のようなものですらあった。

杏が茄子に心動かされたのならば、芳乃は二人に心動かされた。

 

電話口での茄子の質問に「頼まれたから」と答えたのも、これが理由だった。

本当のことを伝えては、「仕事を依頼された」という形にした杏の優しさを踏みにじることになる。

だから、ただ、頼まれただけなのだ、と。

これは私の意思とは関係のない行動だ、と。

そう答えたのだ。

その結果、事実に基づかない言動はしたくないという、自らの信条に反することになろうとも。

それが、杏の優しさに対する、芳乃なりの礼儀だった。

 

そして今、芳乃はほたるに飴を渡そうとしている。

ほたるを助けるために、茄子が作り杏が渡したこの飴は。

他の誰でもない、ほたるが持っているべきだ。

ほたるの元へ届けるのが、自分のするべきことなのだ。

この行動が悪手であるなど、芳乃は一寸も考えてはいなかった。

 

ほたるはゆっくりと手を伸ばし、飴を手に取る。

何故芳乃は飴を、しかもこのタイミングで渡したのか。

ほたるは芳乃の真意を測りかねているようだった。

しかし、それでも構わなかった。

たとえ伝わっていなくとも、ほたるに、持っていてほしかった。

 

「……それではー。わたくしも失礼致しましてー。」

 

飴を眺め続けるほたるにぺこりと一礼して、芳乃もドアの向こうへと消える。

 

「…………。」

 

残されたほたるは、再び空を仰ぐ。

茄子から告げられた「最後のもう一度」。

それで何かが変わるとは思えなかった。

今更それに希望なんて持てなかった。

ただ、対価のためにやるだけだ。

自分を、殺すために。

 

でも、何故だろう。

この飴を見ていると、不思議と落ち着いて。

今まで休むことなく私を責め続けていた不安が、いくらか和らいで。

だから私は、淡い赤色を口に含む。

 

 

 

 

何かが、ゆっくりと溶けていった。



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28.アイドル

『……いい? これが、最後の確認。』

 

男は、つい先程聞いた少女の声を、頭の中で反芻させていた。

 

『あの子の不幸体質の正体は、あの子が不幸だと思ったことが現実になるってもの。

だから、何が起こるか分からない。……この中の誰かが、死ぬかもしれない。冗談じゃなく、ね。』

 

これから始まるのは、白菊ほたるの二度目のファーストライブ。

その少し前に、参加者は別室にて双葉杏からのミーティングを受けていた。

 

『今、茄子が皆に、私と茄子と芳乃、三人分の幸福を願ったから。

だから、ほたるの不幸は打ち消されるし、それによって気絶することもない……はず。』

 

ビデオ通話、大画面に映し出される小さな少女は、やはり何処かの病室で。

彼女達が今までどれだけ頑張ってきたのかを、男は想像せずにはいられなかった。

 

『でも。今回は大丈夫でも、これから先。

あの子がアイドルとして皆の前に居続ける限り。

皆に危害が及ばないとは言い切れない。』

 

彼女が確認と銘打ったのは、単なるこれからの段取りだけではない。

自分達の、決意を。

白菊ほたるを幸せにしようとする意志を。

たとえ危険に冒されようと、彼女の味方であり続ける覚悟を。

双葉杏は、それを問うていた。

 

『……それでも、助けたい?

あの子を、幸せにしたい?』

 

「──勿論。」

 

あの時返した言葉と同じもの。

その場に居た全員が等しく口にした言葉を、男は小さく呟く。

 

『……ありがとう。』

 

ほっとしたように、少女は笑っていた。

 

 

 

ブザーが鳴り響き、照明が落とされる。

ライブが、始まる。

 

 

 

一瞬の暗闇の後、舞台の真ん中にスポットライトが当てられる。

照らされるのは、黒を基調とした、恐らくは私服を纏う少女。

白菊ほたるだ。

 

『…………、っ』

 

彼女は目の前の光景に驚愕し、直後、苦虫を噛み潰したように眉をひそめた。

この反応は、男にも予想できていた。

彼女はただ「ライブをもう一度する」としか聞かされていない。

ならば決して思わない。

まさか。

三人の先輩の実力をもってして、それでも隅の数席に空きが見られた大舞台。

それと全く同じ場所で。

たった一人。自分だけしか居ないのに。

 

『なんで……、』

 

一席も空きが無い、文字通りの満席であるなどと。

 

『……なんで、ですか?』

 

何故、何故、と、彼女は繰り返す。

これも、頭の中にあったことだ。

 

『知っているでしょう? 見たでしょう?

私は不幸にするんです。

周りの人を、不幸にするんです。』

 

誰一人、物音すら立てない静寂の中。

少女の声は、例えマイクを通さずとも、鮮明に聞き取れたことだろう。

 

『だから、こんなとこに居ちゃいけないんです。

私も。……あなた達も。』

 

分かっていた。

彼女が自分達を遠ざけようとすることも。

彼女が彼女自身をどう思っているのかも。

 

『それなのに、なんで、』

 

彼女が自分達の行動を理解できないことも。

どうしていいのか分からずに泣きそうになってしまうことも。

 

 

 

「知っているから。」

 

 

 

だからこそ、幸せにしなくてはならないことも。

 

 

 

思いがけない声に、彼女は目を見開いて男に顔を向ける。

男はそれに合わせて、小さく微笑みながら会釈を返した。

 

声が届かないのなら、届く場所へ。

白菊ほたるのライブをもう一度行うことを提案したのは、彼だった。

ネット上で声をかけ、連絡を取り、事務所と交渉した。

 

「君が優しい人間だということも。」

 

双葉杏のSOSを受け、行動した何人ものファン達。

その中心に居たのが、他ならぬ彼だった。

だから、彼がこうして皆を代表すると決まった時。

それに反対する者など、誰も居なかった。

 

「君がひどく苦しんでいるということも。」

 

話は事務所側の協力もあって順調に進み。

今日、この大舞台に収まりきらないほどの人が集まった。

ただ一人を救うために。

一人の少女を、幸せにするために。

 

「君が人を幸せにしたいということも。」

 

彼女達のプロデューサーはこの話が形になると、すぐにアイドルと男達との話し合いの場を設けた。

双葉杏が未だ病床に伏していることにより画面越しではあったが、不特定多数と直接連絡を取るにはむしろ都合が良かった。

そこで彼等は全てを知った。

不幸と幸福のメカニズム。

白菊ほたるの夢。

双葉杏の願い。

白菊ほたるの危険性。

鷹富士茄子の誓い。

白菊ほたるの決意。

依田芳乃の想い。

その全てを、彼等は知った。

 

何故白菊ほたるを助けようと思ったのか。

その問いに、彼女のためと答えられる者は、殆ど居なかっただろう。

双葉杏に頼まれたから。

あの双葉杏が、涙ぐんで懇願したから。

それが彼等の動機であり、双葉杏もそれを狙っていた。

白菊ほたるを救おうとするのは、しかし彼女のためではない。

杏とて、それに思うところが無いわけではなかった。

だが、そんな綺麗事を言っている場合ではないのだ。

教科書通りの良心に沿っていられる余裕など、双葉杏は、そして白菊ほたるは持っていなかった。

 

「君は幸せになるべきだということも。」

 

双葉杏のために白菊ほたるを救おうと集まった彼等は、そこで初めて、全てを知った。

そう。知ったのだ。

彼女がどれだけ優しいか。

彼女がどれだけ悩んだか。

彼女がどれだけ苦しんだか。

彼女がどれだけ報われるべきか。

 

心を動かされるに決まっている。

同情するに決まっている。

力になりたいと思うに決まっている。

そんなことを聞かされては。

そんなことを知ってしまえば。

 

「全部、教えてもらったから。」

 

味方になるに決まっている。

 

何故白菊ほたるを助けようと思ったのか。

それは、双葉杏に頼まれたから。

では、何故白菊ほたるを助けようと思うのか。

それは、幸せになってほしいから。

彼女に、幸せになってほしいから。

 

だから彼等はここに居る。

他の誰でもない、白菊ほたるのために。

彼女を幸せにするために、彼等は今ここに居る。

 

『……なら、なんで、』

 

全てを知ったと男は言った。

ならば思考は帰結する。

彼女は死すべき存在だ。

なのに何故。

何故、彼等は。

 

「……知ったからだよ。」

 

男が返した同じ言葉は、しかし違う意味を持っていた。

それは、男がここに居る理由。

かつて男はアイドルに救われた。

そのアイドルが。救世主が。

諦めようとしている。失望しようとしている。

かつての男と同じように。

 

その苦しさを男は知っている。

その辛さを男は知っている。

それがどうしようもなく、正しく見えてしまうことも。

 

自分はアイドルではない。

救世主には成り得ない。

でも。それでも。

かつての自分が苦しんでいる。

未来の救世主が苦しんでいる。

それを、例えたった少しでも。

助けたいと思うのは。

力になりたいと思うのは。

そんなに、おかしいことだろうか。

 

『私は!! ……もう、幸せにはなれないんです。

幸せになんてできないんです。

だったら、せめて、これくらいは……!!

不幸にしないことくらいは、許してくださいよ!!!!』

 

苛立つように彼女は言う。

当然だ。彼女が怒るのは。

感情のままに叫ぶのは。

自分の望みは叶わない。プラスには成り得ない。

ならばせめて、これ以上マイナスにはなりたくない。

そんな、最後の、ささやかな希望。

それすらも奪おうとするのだから。

 

『嫌なんです怖いんです限界なんですよ!!!

もう見たくないんです!! 笑顔でいてほしいんです!!

……もう謝りたくないんです!!!!』

 

自分のせいで不幸になった。

だから彼女は謝った。

その不幸の責は自分にある。

だから彼女は謝り続けた。

それが嫌だと彼女は言った。

その責はもう背負えない。

これ以上は潰れてしまうと、必死になって彼女は叫ぶ。

 

「……謝らなくて、いいよ。」

 

敵なのだ。

彼女にとって、ここに存在する全てが。

彼女を死なせまいとする全てが。

視界を塗り潰す人影の全てが。

自分を幸福から遠ざける敵でしかないのだ。

 

承知の上だ。

彼女はこれを望まない。

我等は単なる邪魔者だ。

ならば。

どれだけ刃を向けられようと。敵意を突き付けられてでも。

邪魔者ならば、邪魔者らしく。

姑息な手法を使ってでも。

 

「ここに居る人は皆、知っている。

君の体質も。君の悩みも。

知った上で、ここに居る。

だから、謝らなくていいんだよ。」

 

白菊ほたるの近くに居れば、不幸になるかもしれない。

その可能性を考慮した上で、彼等はそれでも側に来た。

わざわざ危険地帯に足を踏み入れて、怪我をしたからと怒る者は居ない。

だから、彼女が謝る道理は無い。

例え不幸になろうとも、彼女にその責は無い。

 

『それで本当に……!』

 

「いいよ。」

 

『…………っ!!』

 

それで本当にいいと思っているのか。

最後まで言い切らないうちに、男ははっきりと返答する。

 

「僕達が嫌なのは、君が死んでしまうことだから。」

 

自分が不幸になるよりも。

笑顔になれないことよりも。

一人の少女が。

そんな疲れきった顔ができてしまう少女が。

それほどに頑張ってきた少女が。

それでも死んでしまうこと。

死を選んでしまうこと。

それが。それだけが嫌なのだ。

 

『……分かんない。』

 

吐き出すように呟いたそれは、これまでと違う色をしていた。

 

『分かんない、分かんない、分かんない!!』

 

やっと、年相応の顔が見られたな、と、男はどこか安堵する。

 

『なんで駄目なんですか!? なんで許してくれないんですか!?

なんでそんなこと、言ってくれるんですか!?』

 

色々な感情が一気に押し寄せて、それを受け止めきれていないのだろう。

自分の見つけ出した最適解が否定されて。

彼等の起こした行動の理由が理解できなくて。

掛けられた言葉が嬉しくて。

でも、それは嬉しくないはずで。

ぐちゃぐちゃになった彼女は叫ぶ。

 

『あなたは私を!!! ……どうしたいんですか!!!!』

 

慟哭に対する答え。

そんなものは既に決まっていた。

ここに居る誰もが同じ。

ここに居る理由と同じ。

だからこそ。

前触れもなく。音もなく。一瞬にして。

 

 

 

世界が、純白に染まった。

 

 

 

打ち合わせをしていたのではなかった。

示し合わせていたのではなかった。

ただ、伝えたいと思った。

舞台に佇むアイドルに。ファンである自分が。

その結果。一寸の乱れもなく。

全員が全く同じ動作を取る。

 

これが、答え。

彼女に対する、彼等の総意。

 

あなたの歌が聴きたい。

 

彼女を表す色。

光を握りしめた手を。

何も言わず。ただ、真っ直ぐに。

精一杯に腕を伸ばし続ける。

 

あなたの踊る姿が見たい。

 

ファンがアイドルに向けてできる。

縮めることの可能な、最大限の距離。

伝えることの許される、最大限の意思表示。

 

あなたの笑顔が知りたいんだ。

 

「不幸になりたいわけじゃない。

……不幸にしたいわけじゃない。」

 

目を見開いて、只々驚愕するほたるに、男は声をかける。

彼等が考案した、悪者らしい姑息な手法。

その最後の一手を打つために。

 

「僕達は。」

 

優しい君が。

他者の幸福を願える君が。

他者を幸福にしたいと思える君が。

目の前の、幸福になりたいと言う者達を無視して。

君が死んだら悲しむと言う者達を無視して。

ここに居る全員を不幸にすると知って。

その上で一人さっさと退場してしまおうだなんて。

 

 

 

君を、幸せにしに来た(君に幸せにしてもらいに来た)。」

 

 

 

やれるもんならやってみろ。

 

 

 

永遠とも思えた静寂の後。

 

『…………いいんですか?』

 

やがてぽつりと少女が言った。

 

『不幸になるかもしれないんですよ?』

 

彼等は決して動かない。

 

『幸せになんて、なれないかもしれないんですよ?』

 

光は決して揺らがない。

 

『なのに、なのに…………』

 

少女は俯き目をつむる。

光は彼女を照らし続ける。

いつまでも。いつまでも。

もう転んでしまわぬように。

自分を閉ざしてしまわぬように。

 

『……幸せになってくれますか。』

 

瞳を閉じたままの少女が問う。

 

『私が歌ったら、幸せになってくれますか。』

 

答えは既に知っていた。

 

『不幸になっても、幸せでいてくれますか。』

 

目の前に、在り続けた。

 

だから少女は顔を上げる。

ゆっくりと瞼を開く。

光に導かれるように。

それを見て、男は静かに笑う。

その瞳に宿るのは、決意と覚悟。

 

そして少女は動き出す。

曲が舞台を包み込む。

 

それは、一人の少女の歌。

どこにでもありそうなシンデレラストーリー。

恵まれない少女を偶然目にした女神様が、あまりに可哀想だと天使に少女を救うことを命令する。

天使は部下である妖精を、少女の手助けをするよう遣わせる。

妖精は少女の願いを聞き、協力して問題を解決していく。

これから始まるのは、そんな物語。

 

曲に合わせて少女が揺れる。

指先、足先の動き。

重心の安定感。

目線の移動。

動作から動作への、滑らかな繋ぎ。

そのどれを取っても。

ああ、この子は、本当に。

本当に、アイドルになりたかったんだな、と。

そう、思わせるもので。

 

惹き込まれる。

少女を包み込む衣装に。

少女を照らすステージに。

少女に合わせて揺れる観客席の光に。

少女が振りまく、笑顔に。

 

時に歌い、時に話し、時に踊る。

そして、どの時も笑顔を絶やさない。

その姿は、等しく人を笑顔にする。

それが、アイドルという存在。

 

ならば、十分だろう。

誰一人として異議を唱える者は居ない。

彼女は。

白菊ほたるは、アイドルだ。

そう男は確信する。

楽しいのだ。嬉しいのだ。

こんなに単純で、こんなに幸せな感情が、今、会場全体を満たしている。

 

なんと簡単に成し遂げるのか。

ずっとそう思っていた。

だが、違った。

何ら簡単ではなかった。

彼女も同じだったのだ。

彼女も、全てを投げ出そうとした。

自分の持つもの全てに、失望した。

かつての男と、同じように。

だからこそ男は、尊敬の念すら持ってライブに熱中する。

男は知っている。

それがどれだけ難しいか。

それがどれだけ大変か。

 

そういうアイドルが居てもいいじゃないか。

アイドルが皆を幸せにするなら、幸せにされるのはファンだ。

彼女は彼等を幸せにする。

彼等が幸せになることで、彼女は笑う。

ファンが幸せになるためにアイドルは踊る。

アイドルを幸せにするためにファンは全力でそれを享受する。

そんな相互関係で結ばれた。

そんなアイドルが居てもいいじゃないか。

 

これ以上の成功なんて存在しない。

これが。これこそが。

白菊ほたるがアイドルとなる日に、相応しい舞台。

 

人を幸せにしたいと願った少女は。

少女を幸せにしたいと願った者達は。

この場に居る全員が。

あんなにも。こんなにも。

 

幸せそうに泣いている。



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29.歩くことに慣れたなら

その後の彼女の活躍は、凄まじいの一言に尽きた。

ライブだけでなく、握手会やトークイベントなどの開催要望が数多く寄せられ、彼女はその全てに応えた。

その結果、依田芳乃が落下した一度目のデビューライブにおける損失は瞬く間に回収され、既にその倍以上の利益を上げている、と、千手観音のモノマネがすっかり板についたプロデューサーが嬉しそうに悲鳴を上げていた。

 

彼女がここまで積極的に活動できたのは、彼女のファンの努力の賜物でもある。

彼女の二度目のファーストライブに参加した者が中心となって結成されたファンクラブ。

その会員達は、彼女のアイドル活動を可能な限りバックアップした。

サイトを立ち上げ、彼女の不幸体質とその対処法、加えて彼女が如何に可愛いかを詳細に解説し。

ライブでは観客に口頭での注意と共に要点を簡潔に纏めたビラを配り。

また、会場後方にて怪我人や体調不良者のために医療従事者が順番で待機。

万全の体制をもって、白菊ほたるのライブを楽しんだ。

 

そしてそれは、そのまま彼女の不幸体質の抑制に繋がった。

ファンの人達があんなにも対策をしてくれているという安心感。

それが彼女の不安の大部分を拭い去った。

例え不幸が起きたとしても、彼等がきっと助けてくれる。

実際に不幸が起きても、迅速に対処してくれている姿が見える。

その信頼が、事前に発生を抑制するに至った。

彼等が彼女の舞台を用意し、そこで彼女は歌う。

その姿を見ることで彼等は笑顔になり、笑う彼等を見て彼女は幸せになる。

ファンとアイドルが相互関係で結ばれた、幸せが恒久に循環するシステム。

白菊ほたるのアイドル像は、そのような形で完成された。

 

 

 

「……幸福では、ありませんでした。」

 

「今、あなたは幸福ですか?」

記者の問いに、彼女は次のように答えた。

 

「やることが全部裏目に出て。

周りが皆不幸になって。

私は……謝ることしかできなくて。」

 

過去を思い出しているのだろう、その表情は暗い。

 

「でも、一日だけ、待ってくれと言われたんです。」

 

少しだけ下を向いたまま、彼女は続ける。

 

「待ってみて、それでも簡単にはいきませんでした。

沢山悩みました。沢山泣きました。沢山、傷付けてしまいました。」

 

彼女がどれだけ苦しんだか。彼女の不幸がどれほどのものか。

我々が想像する、その更に上なのだろう。

彼女の表情が、言葉も無くそう物語る。

 

「それでも、その人は諦めませんでした。

私を幸せにすることを、諦めませんでした。

私が諦めてからも、ずっと。

それどころか、味方を何人も、数え切れないくらい増やして。」

 

顔を上げた彼女の瞳には、憧れと感謝。

 

「そのおかげで、私はここに居ます。

私を助けてくれた皆のおかげで、私は今ここに居ます。

叶っちゃったんです。私の夢。

笑ってくれるんです。笑顔で居てくれるんです。」

 

そう言って、こちらを見る彼女は。

 

「だから。私は今、幸せです。

幸福にはなれないけれど。まだ不幸なままだけど。

それでも、私は幸せです。」

 

どこまでも、幸せそうに笑っていた。

 

 

 

____________________

 

 

 

「幸せそうな顔しちゃって、まあ。」

 

画面の中、スタッフロールに見え隠れする彼女の笑顔を、私は待合エリアの席に座りながら見上げていた。

 

あの後彼女がどうなったのかと言われれば、この番組の通りだ。

他人を幸せにしたいという彼女の願いは叶い、そして彼女は幸せになった。

ファン達の活動のおかげもあり、最近では茄子が同伴しなくともライブで大きな事故は起こらない。

白菊ほたるは、すっかり今をときめく人気アイドルだ。

彼女の姿に勇気付けられる、元気をもらえると専らの評判で、特に何かしらの悩みを抱える者達からの人気があるという。

 

「……そろそろ、か。」

 

テレビに表示される時間を見て、私は席を立つ。

ほたるを取り巻く一連の事件で、私にも得たものがある。

それをこれから見せに行こう。

諸星きらりに、会いに行こう。

 

きらりのためでもなく。

飴のためでもなく。

 

ただ、私がそうしたいから。

 

 

 

「はぁ……。」

 

今日何度目かも分からない溜息が、周囲の空気に混ざって消えた。

 

仕事は、何とかなった。

ドラマの撮影でも、元気活発というよりは、憂いを帯びた少女の役だったし。

その他の仕事も、いつものように「ハピハピ」でいることはあまり求められなかった。

ひょっとしたら、Pちゃんがそのように取り計らってくれたのかもしれない。

 

ずっと、杏ちゃんの心配ばかりして過ごしていたように思う。

Pちゃんに指摘された時は、あまり納得できなかったけれど。

実際に離れて生活してみると、なるほど、これは、確かに。

私は杏ちゃんに依存していた。

いや、依存「している」。

電話等の直接連絡は勿論禁止。ネットや雑誌で情報を集めることも禁止。

その中で私は、杏ちゃんのことばかりを考えて自分を保っていた。

 

でも、そんな日々も今日で終わり。

明日からは、また杏ちゃんに会える。

そう思うと、少しだけ気が軽くなる。

 

「……この辺り、かな?」

 

迎えを向かわせるから空港で待っていてくれと、先程Pちゃんからメールがあった。

記された待ち合わせ場所が、この辺り。

彼が直接来るわけではないようだが、誰が来るのだろう。

新しく事務所に加わった人、だろうか。

いずれにせよ、向こうから私を見付けてくれるだろう。

高過ぎる私の身長も、こういう時だけは役に立つ。

私はここで待っていればいい。

 

することが無くなると、また私は杏ちゃんの事を考える。

飴の数は大丈夫だろうか。だいぶ多目に作ったと思うけれど、無くなっていたら大変だ。

食事はちゃんと取っているだろうか。自分で作れないことは無いようだけど、彼女はあまり進んで作ろうとはしない。それはきっと、単に怠けているわけじゃ、ない。

 

あれはどうだろう。これはどうだろう。

積もり始めると、心配はキリがない。

帰ったら、まずは杏ちゃんの家に行こう。

それで、姿を見て、元気かどうかを確かめて、それから──

 

「──お〜い!」

 

彼女の声が、聞こえた気がした。

 

でもそれは、あまりにも久しくて。

本当に彼女のものなのか。ただの気のせいではないのか。

すぐに判断がつかなかった。

 

「お〜い、きらり!」

 

もう一度、声。

聞き間違いなんかじゃない。気のせいなんかじゃない。

これは、間違いなく、彼女の。

 

ああ、良かった。

ここに彼女が居るということは。

迎えに来てくれたということは。

飴はどうやら足りていたみたいだ。

飴がなければ、彼女はここには来られないのだから。

 

急いで辺りを見回す。

私とは違って、小さくて可愛らしい彼女の姿は、群衆に埋もれてうまく見付けられない。

 

「……こっち!」

 

不意に、後ろから手を引かれる。

その力のままに、くるりと振り返る。

そこには、満面の笑みの彼女が居た。

 

「杏ちゃ──」

 

歓喜に震える私の声は、しかし途中で驚愕に詰まる。

何故なら、彼女は。

どうだ、と。やったぞ、と。

胸を張って。得意気に。

 

「──きらり!」

 

私の名を呼んだのだ。──大きく口を開けて。

 

そうか。

彼女はまた、何歩目かを踏み出したのだ。

歩けるようになったのだ。

私の元へと、来てくれるまでに。

 

嬉しさに口元が緩むのを抑えられない。

やっぱり、杏ちゃんはすごい。

そうだ、今日はお祝いをしよう。

杏ちゃんの好きなものを沢山作って、それから、それから──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちくり。

 

 

 

 

              ──あれ?

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「白菊ほたるの幸福論」、これにて完結とさせていただきます。

茄子とほたるが一緒にいて、尚不幸が発生するとしたらどうなるのか、ということを考えて書いてみました。
杏に依存してしまっているままなので、きらりメインの話もいつか書きたいと思っています。

お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ご縁がありましたら、またどこかで。


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