届物語 (根無草)
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こよみアニバーサリー
其ノ壹


この度は届物語のご観覧、真に有難うございます。稚拙な文章故に原作の世界観を損ねる事もあるかと思いますがお付き合いの程、よろしくお願いします。ではーーー



開幕


【001】

 

 

  僕がこの物語を語る前に一言謝罪しておかなければならない。冒頭から謝罪文を差し込むあたり、僕の愚かぶりも極まったかと思われるかもしれないけれどそこは心配しなくても大丈夫、僕の愚かぶりならば約一年前の春休みに既に極まっている。

 

  僕であって僕ではない、僕自身の折紙付きで。

 

  だから僕が謝罪すべきはそういった愚かな行いではなく、もっと基本的で社会的で常識的な部分においての謝罪だと受け取ってもらいたい。

 

  そう、僕がこれから語る物語は語るに足らない、語るに落ちないただの自慢話なのだから。

 

  他人の自慢話に付き合わされる事がどれだけ疲弊するかなど、いくら愚か者と呼ばれる僕でも理解しているつもりだし、だから僕の自慢話なんかに割く時間を勿体無く思う人はこの先を聞く必要はない。

  すぐにでもその目を閉ざし有意義な自分だけの時間へと戻って貰えれば僕としても幾分か気が楽になる。

 

  などと、ここまで言ってしまえばいつかの物語よろしく誰も聞く耳持たず見向きもしない独り言のような語りにもなりかねないけれど、実際のところ他でもない僕自身がそれでも良いと思っている事を承知してもらいたい。

  さて、謝罪と言いながら長々とした言い訳になってしまったけれど再三の忠告もした事だし語らせてもらうとしよう。

 

 僕のような愚かで薄くて弱い、中途半端な半人半鬼が体験した、吸血鬼もどきの僕の身では燃え上がってしまいそうな程に眩しくて暖かいーーーそんな自慢話を。

 

 

 

【002】

 

 

 

「デートをするわよ暦」

 

  五月の第二週金曜日、学生達で活気付いた食堂で昼食をとっている僕の目前でひたぎが切り出した。

 

  いや、切り出したっつーよりも切り込んできた感じだ。

 

  高校を卒業して互いの呼び名も苗字から名前へと変わったというのにこういう部分についてだけは初期設定に忠実なんだよな、こいつ。

 

「違うわね。こうじゃない。デートを……デートをして……いただけませんか?デートをし……したらどうな……です……」

 

  それでも初期に比べたらいくらか改善はされたものの、誘い下手というか主導権を死守する姿勢を崩さないというかーーー照れ屋とは違う不器用さが抜けていないように思う。

 

「デートをしましょう暦」

 

「言い直さなくても理解してるよ。でもひたぎ、デートは構わないけどいつにするんだ?平日の講義はどれも落とすわけにはいかないんだけれど」

 

  言い忘れていたけれど現在僕とひたぎが昼食をとっている食堂とは、お馴染みの直江津高校の食堂ではなく僕とひたぎが通う大学の食堂だ。(そもそも直江津高校の食堂なんて利用した覚えはない)

 

  怒涛とも言える春休みからこっちの物語を乗り越え、挙句は試験会場に到達できないから落ちるなどという平成初期のギャグ漫画のようなあれこれをこなし、やっとの思いで通う事を叶えた大学生活。

 

  もっともそれは優雅なキャンパスライフという訳でもないけれど昼食時は大体の場合、僕とひたぎはここで揃って食事をしている。これに関して言えばいつまで経っても大学で友達ができないでいる僕に対するひたぎの気遣いという意味合いが強いのが否定できないところであり、彼氏という立場としてはそれが少しだけ悲しくもある。

 

「心配しなくてもいいわ暦、幸い私は配慮のできる優秀な彼女だから入学早々既に単位に悩まされている彼氏に負担をかけるつもりはないわよ」

 

「言ってる内容が既に配慮不足な事に気付け!お前の配慮はお前自身にしか機能しないのか!?さすがにこの時期から単位で悩んだりはしてねえよ、ただ講義を落とすとすぐについていけなくなりそうだからな。高校生活の失敗を繰り返したくないだけだ」

 

 

  高校入学時は勉強について早々と諦めたせいで成績は散々だった僕である。今でこそこうして大学へと進学できたけれど、それも羽川とひたぎの熱心な指導と僕みたいな奴を見捨てずにいてくれた忍耐力の賜物と言えるだろう。

 

  思い返せばその事が既に奇跡のように思えるぜ。

 

  そこまでしてもらっておいて大学入学直後から講義に取り残されているようでは面目が無い。

 

  羽川にはお叱りを受けるだろうしひたぎには…多分だけど殺される。

 

「だからそんな心配はしなくても良いと言っているでしょう。デートは日曜日、大学の休みに行くのだから」

 

「日曜日?日曜日って次の日曜日か?それはまた急だな、何かあるのか?」

 

「何かあるのか、ですって?…今ならまだ聞こえなかった事にしてあげなくもないわよ、ねえ()()()()()

 

「え?」

 

  暦じゃなくて阿良々木君?

 

  今となっては聞く事もなくなったひたぎによる苗字呼びに意表を突かれて反応が遅れてしまった。

 

  いや、反応が遅れたというのも実際は建前であり、たとえ身構えていた所で僕が反応する事は出来なかっただろう。

  或いは直江津高校在籍中ならば、正確に言うと専門家の元締である臥煙伊豆湖に輪切りにされる前の僕ならば、文字通り人間離れした吸血鬼の動体視力が備わっていたけれど、幸か不幸か今の僕は限りなく人間のステータスである。

 

  つまり仮にひたぎが初期設定に返り咲き、手元にある鋭利な形状の生活雑貨を武器として使用したとしても僕ごときが反応できるはずはないのだ。

 

「ちょっと待てひたぎ!刺さる!刺さるから!待って下さい、ひたぎさん!」

 

  僕の眼球から一ミリ程度の所で形良く握られた二本の箸が静止していた。

 

  つーかこれって前にもやられたよな?前は確か鉛筆だったけど。

 

  しかもいつの間にか空いた手で後頭部を押さえこんでやがる!くそ、逃げるに逃げられねえ!

 

「待て、ですって?私の方こそあなたの返答を待っているのだけれど。日曜日のデートの意味、そんな事すらわからない彼氏には罰が必要よね?答えによってはこのまま眼球を頂くわ」

 

「初期より悪化しているだと!?」

 

  しかもこの状況だと僕が正解を回答できなければ僕の眼球は間違いなく持ってかれるじゃねえか!誉め殺しで切り抜けられた分だけ初期の方がハードル低かったぜ!

 

  しかしどうしてひたぎはここまで怒りを露わにしてるんだ?デートというなら先日のゴールデンウィークにだって二人で出かけたのに…ん?

 

  ゴールデンウィーク…そう言えばゴールデンウィークと言えば真っ先に思い出されるのは羽川の猫があったあのゴールデンウィークだ。

 

  そしてそれからは息もつかせぬ怪異ラッシュで…まずは…

 

 

 蟹ーーー重し蟹

 

 

  そう、羽川の障り猫の一件が済んですぐ僕はこいつを、戦場ヶ原ひたぎを受け止めたのだ。

 

  そうだ、そうだよ!ここまで想起しても気付かない程に僕も手遅れではない。むしろどうしてこんな簡単な事にすぐ気付けなかったんだ僕は。

 

  老倉との一件が全く生かせないところだったぜ。

 

「ふっ…この箸を僕の眼球から離すんだひたぎ。箸は御飯を食べる為の物であって僕の眼球を頂く為のものじゃないんだぜ?」

 

「あら、随分な余裕じゃない暦。それだけ自信に満ち溢れた態度ならばさぞかし良い返答を聞けそうね」

 

「当たり前だ、僕を誰だと思っているんだ?僕はお前の彼氏なんだぜ?愛する彼女と付き合った一年目の記念日を忘れる筈がないだろ」

 

  まあ、何を隠そう僕こと阿良々木暦は大のアニバーサリー嫌いなんだけれど…という意見はこの場合、死んでも言えない。

 

  死にはしなくても失明する。

 

  しかしそのアニバーサリーも国民的な記念日とは違い、二人のみに有効な記念日なのだからアニバーサリー嫌いとは言ってもその限りではない。

 

  そう、記念日ーーー去年の五月八日に階段から落下するひたぎを受け止め、そこから少し後の事。僕とひたぎは目まぐるしくも迅速に再び怪異と遭遇する事となる。

 

  そしてその末(何がその末なのか?)僕とひたぎは晴れて交際する事となったのだ。

 

  それが五月の第二週、日付で言えば五月十四日ーーー母の日の出来事である。

 

  だなんて格好良さげに纏めてみたけど実際危なかった!今でこそ無いとは思うけれど初期のひたぎならやりかねなかったぞ…

 

「御名答、流石は私の愛しい彼氏ね。けれど即答できなかったのはいただけないわ、危うく暦の眼球をいただくところだったじゃない」

 

「危うかったのは僕の眼球だけだ!確かに即答できなかった僕も悪いけど限度があるだろ」

 

「あら、それだけ私の暦に対する愛が情熱的という事でしょう、眼球の一つや二つで小さな男ね」

 

「都合よく曲解するな、あれは情熱的じゃなくて猟奇的って言うんだ!眼球の一つや二つって眼球は二つしかないんだぞ!」

 

  何より情熱的に眼球をいただく彼女なんていてたまるか!

  しかしそれでも満足したのか、ひたぎは箸をテーブルの上へと戻し席についた。僕の失明の危機は回避できたようである。

 

「情熱的であるにせよ猟奇的であるにせよ愛である事に違いはないわ、誤差の範囲よ。それよりも暦、日曜日の予定は勿論空いているわよね?」

 

  僕としては誤差の範囲で生きるか死ぬかを左右される現実を看過できないんだけど…

 

  しかし遅れ馳せながら一年目の記念日と気付いておきながら予定の有無を聞かれても僕の答えなんて決まっている。

 

「勿論空いてるさ。僕は一年の記念日に他の予定を入れるようなデリカシーに欠ける男じゃないんだぜ?」

 

「それは暦の交友関係が…いえ、何でもないわ」

 

「配慮した結果がこれだと!?せめて言い切りやがれ!」

 

「それは暦の交友関係が絶望的に皆無だからじゃないかしら?」

 

「やっぱり配慮して下さい!」

 

  はっきりと言い切りやがった。

 

  言い切ったというより切り捨て御免だった。

 

  彼女に自身の交友関係を絶望視される彼氏なんて僕をおいて他にいるのか?

 

「でも予定が空いているのなら良かったわ。それなら日曜日は暦が私をエスコートをしなさい」

 

「え?僕が?」

 

  いや、突然すぎて聞き返してしまったけれどデートするなら二人で決めたら良いんじゃないのか?

 

「何よ、まさか暦は一年の記念日なのに彼女のエスコートもできない甲斐性無しなのかしら?」

 

「できる!できるから箸に手をかけるな!」

 

  隙あらば眼球を狙うんじゃねえよ…

 

  でも勢いまかせにできるとは言ってしまったけどどうしたものか?ひたぎとのデートとなると思い出されるのはやっぱりあの星空だ。道中こそ拷問のようなデートだったけれどあれは最高の思い出として今でも鮮明に覚えている。

 

  かと言って僕のエスコート(?)したデートと言えば…

  いや、やめておこう…あれは思い返すだけでも黒歴史ーーー

 

「断っておくけれど暦、またいつかの廃墟案内ツアーのようなデートを企画してきたら…ちぎるわよ?」

 

「どこの部位をですか!?つーか僕のモノローグを読むなや!」

 

  行間は読めるが空気の読めない戦場ヶ原ひたぎは今日も健在のようだ。

 

  しかし我ながらあの時の僕もどうかしていたと思うけれど…それでもまさかあそこまで逆鱗に触れるとは思っていなかったぜ。

 

  羽川に話たら苦笑いを浮かべていたっけ。

 

「もっとも、暦がまず考えるべきは日曜日のデートよりも今この瞬間の事なのでしょうけど」

 

「あ?今この瞬間って…どういう事だ?」

 

  飲みかけのドリンクに刺さったストローを咥えながらひたぎは悪戯な笑みを浮かべた。そして一呼吸おいた後にとんでもない発言を繰り出すのだったーーー

 

「こんな場所であんな大きな声であれだけ過激な事を叫ぶだなんて、私よりよっぽど情熱的なのね、こ・よ・こ・よ」

 

  お昼時、学生達でごった返す大学の食堂。

  そのど真ん中で惚気ながら騒いでいるバカップルを注視する冷ややかな視線の数々ーーー僕は全力疾走で食堂から逃亡したのだった。

 

 

 

【003】

 

 

 

  結局その後に控えていた午後の講義は出席はしたもののーーー

 

  出席したという既成事実だけは作ったものの、その内容は全くもって頭に入ってくる筈もなく、悲しい程に空白だった。

 

 驚きの白さだった。

 

  自己評価としては言うだけ虚しくもあるけれど、元々僕は悪目立ちを嫌うクールな奴というキャラ設定の時代があった程の人物だぞ。

 

  それが白昼堂々と白昼食堂でその視線を一身に集めたとなれば落ち着いて講義を受けるコンディションなんて望むべくもない。

 

  私生活においては絶えず少女や童女にその動向を監視されている僕だけれどキャパシティは存外狭量なのだ。

 

  その勤勉さにおいて比肩しうる者なしと名高いかの二宮金次郎が真に評価されるべきは、勤勉さではなくあんな目立つ勉強方法で周囲の視線にも負けず勉強に没頭できたその超合金メンタルにこそあるんじゃないだろうか?

 

「そうでもないよ阿良々木君、二宮金次郎さんはどちらかというと当時は誰にも見向きされなかった側面が強いし、勤勉でありながらそれよりも高評価なのは勤労者としてじゃないかな」

 

  勤勉さを評価されたのは実績を残してからなんだよーーーと、電話越しの彼女は言った。

 

  自室、勉強机の椅子ではなくソファにもたれながら(アニメ版で出てくるバナナのようなあれ)通話しているのだけれど、通話の相手は他でもない僕の親友にして恩人にして女神であるところの羽川だ。

 

  羽川翼ーーー

 

  僕達が直江津高校を卒業してから、正確には卒業直前のロケハンもそうなのだけれど、今もなお世界中を飛び回っている僕の親友にして恩人。

 

  本来ならば時差の関係上、通話料金の問題上、こうして雑談に興じる為に気軽なのりで電話をかけるような事はないのだけれど、今回はある種の危機なだけに羽川の迷惑を押して国際電話に及んだ運びである。

 

「デートのエスコートを危機って…困っている事は十分伝わってくるけど阿良々木君、それは危険視するような相談じゃないでしょ。そんな事で大学の講義が頭に入ってこない事の方が問題だよ」

 

  二宮金次郎さんに笑われるよ、とーーーあの頃と変わらない声で羽川は言う。

 

「何を言ってるんだ羽川?このエスコート次第では僕がちぎられるかもしれないんだぜ?良くしても眼球をいただかれる。どちらに重きを置くかで議論するならば講義よりも眼球だろ?」

 

「ごめん阿良々木君、デートのエスコートを失敗した代償に眼球を失うケースを私は想定できない…」

 

「僕が眼球を失ったら二度と羽川の胸を拝めなくなるじゃないか。これを危機と呼ばずして何と呼ぶんだ!」

 

「いや、その一言で危機感を覚えたのは私の方なんだけど」

 

  相変わらずだね、阿良々木君はーーーと、羽川。

 

  相変わらずというのが遠く離れた友人が昔と変わらずにいてくれている事への安心を指してなのか、はたまた遠く離れた問題児が一向に進歩していない事への呆れなのかは言及しなかった。

 

  後者だった場合僕のダメージが計り知れない。

 

  羽川に呆れられるのはある意味でちぎられるに等しい傷を負う僕なのだ。

 

「でも一年も経つんだもんね、月日が流れるのはあっという間だよ」

 

「ん?ああ、そうだな。確かに一年前は自分が大学に行ってる事はおろか高校を卒業できている事すら想像もできていなかったぜ」

 

  むしろ一年先まで自分が生きている事すら想像できてなかったようにも思える。

 

  何せあの時期は吸血鬼に始まり猫、蟹、蝸牛と怪異絡みの事件が立て続けに起こっていたからな。

 

  この調子で怪異に巻き込まれっぱなしではそのうち死ぬんじゃないかと割と本気で考えていた時期でもあった。

 

  とは言っても毎回のように怪異に関係するのは巻き込まれたからじゃなくて自分から首を突っ込んでいく所為だった訳なんだけど…

 

  本当、生きてて良かったなあ。

 

「そこは明確なビジョンとして想像できておこうよ…それと五月十四日は私にとってもある意味では特別な日なんだよ?」

 

「特別?なんでだよ?」

 

「ひたぎちゃん流に言うと『対羽川戦争』だったかな?今は名前で呼んでくれるから『対翼戦争』だね。その日はほら、その『対翼戦争』で私が初めて黒星を付けられた日だから」

 

  まさかひたぎちゃんに先を越されるとは思わなかったよーーーと、羽川はあっけらかんと言った。

 

  いや怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!

 

  そんな意味の特別な日だったのかよ!

 

  しかも話題の中心が僕なだけに迂闊な事は絶対に言えねー!

 

  何が一番怖いって、お互いこんな事をサラッと言うのにひたぎと羽川が大の仲良しだという事実が一番怖い。

 

「それにほら、私にとっても決して悪いばかりの日ではなかったじゃない。言うなら私にとっても記念日と呼ぶべき日なんだし」

 

  羽川にとっても記念日?

 

  自分が当事者の分際でありながらこう言うのも些か自意識過剰すぎるように思うけれど、意中の相手に恋人ができた日が記念日になり得るだろうか?

 

  以前の羽川ならばーーーその髪の毛が白黒の縞模様になる前の羽川ならば、あるいはそのような綺麗で白くて白々しい台詞もあったかもしれない。

 

  けれど今の羽川、自身の悪い部分、黒い部分、汚い部分も受け入れた羽川がそんな敗北の日を自分の記念日などと言う事は無いだろう。

 

  ならば何を持って記念日なんだ?

 

「あれあれー?もしかしてひたぎちゃんに夢中すぎて忘れちゃってるのかな阿良々木君?そんな事じゃまた大好きな女の子を泣かせちゃうよ?」

 

「またって言うな!人聞き悪いわ!って…大好きな女の子を泣かせるって何だよ?ひたぎが泣くような事なのか?」

 

「え?本当に気付いてないんだ!?これはある意味驚きだなあ。阿良々木君にとっても記念日でしょ?いくら阿良々木君がアンチアニバーサリーな人とはいえ良くないよ」

 

  アンチアニバーサリーって言葉が僕を語る上で既に良くないだろ…

 

  しかし困ったな、全く思い当たる節がない。

 

  僕にとっても記念日でひたぎとは別の話ってーーー何があるんだろうか。

 

「しょうがないな阿良々木君、本当にわかっていないようだから特別に教えてあげる。本来ならちゃんと自分で気付くべきなんだけど時間も無いしあの子が悲しむのも見たくないしね」

 

「さすが羽川さん!さあ、僕にもわかるように懇切丁寧に説明してくれ!」

 

「頭が痛くなるよ…良く思い出してみて阿良々木君。恋人と付き合った日を記念日とするなら出会った日だって立派な記念日だよね」

 

「まあ確かに言われてみれば記念日とも言えなくはないけれど…ひたぎと出会った日をどこだと定義すれば良いんだ?直江津高校の入学式なのかひたぎを階段で受け止めた日なのか、それによっては時期も印象もだいぶ違ってくるぜ?」

 

「違う違う。ひたぎちゃんとの出会いじゃないよ。本当に鈍感なんだから阿良々木君は。私が思い出して欲しいのはひたぎちゃんと付き合った日の事」

 

  ひたぎと付き合った日?

 

  だからそれは付き合って一年目の記念日であって出会った日ではないし…

 

「じゃあこれでどうかな?ひたぎちゃんと付き合った日は()()()だった?」

 

「あっーーー」

 

  ーーーそうだった。

 

  失念というか忘却というか、ひたぎをエスコートする事ばかりを考え過ぎていてすっかり忘れていた。

 

  僕とひたぎが付き合ったあの日。即ち五月十四日…母の日。

 

  あの日、僕は確かに出会っている。

 

  行き遭っている。

 

  母の日と言われて思い出さずにはいられない一人の少女。

  迷いながらも迷わずに歩み続けた僕の誇るべき親友。

 

「良かった良かった、ちゃんと思い出したみたいだね。次からは忘れちゃ駄目だよ」

 

「ああ、サンキューな羽川。確かにあいつの悲しむ顔は見たくねえや」

 

  八九寺真宵。

 

  そう、あの日は僕と羽川が初めて八九寺と出会った記念すべき日じゃないか。

 

「それじゃあちゃんと思い出したみたいだし通話料金も安くないからこの辺で切るね。アンチアニバーサリーかもしれないけど阿良々木君は男の子なんだから頑張って喜ばしてあげてね」

 

  教えてあげると言いながらもちゃんと僕に気付かせてくれるあたりが羽川の優しさなのだと僕は思う。

 

  って切るねって何だ!?プランニングの話は何処に行ったんですか羽川さん!?

 

「ちょっと待ってくれ羽川!僕はまだひたぎとのデートプランがーーー」

 

  僕の哀願も虚しく、僕の中で女神にして天使である羽川は最後に悪魔のような死刑宣告を告げて通話を終了した。

 

「真宵ちゃんの事を忘れてた罰としてプランニングは自分の力でするように」

 

 ーーーこれは羽川なりの『初黒星』に対するささやかな仕返しだったのだろうか?




【次回予告】

「貝木だ。貝塚の貝に枯れ木の木で貝木。貝木泥舟だ」

「記念すべき第一話の次回予告から俺が出演する事を予想できなかったお前達に言わせてもらおう。お前達は総じて再び俺に騙された」

「だが物の見方というやつを変えてみれば、かつて『恋物語』において俺に騙されたお前達がこうして阿保の如く再び俺に騙されるという事はある種の平和を享受できているという事だろう。平和呆けできているという事だろう」

「そのある種の平和とやらに心からの賛美を送らせてもらいたい」

「というのは嘘だ」

「エイプリルフールというだけで公然と嘘を許されている国が平和であってたまるか。嘘が許されるのは嘘つきだけだ」

「そもそもその理屈で言うならばエイプリルフールにこそ嘘つきは真実のみを口にすべきなのだろうがな」


「次回、『こよみアニバーサリー 其ノ貮』」


「もっとも、この次回予告を担当している俺が貝木泥舟というのが嘘かもしれないが」


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其ノ貳

開幕


【004】

 

 

「ちょっとマジこれヤバくない!?見るがよいお前様よ!しばらく顔を出さんうちにまたも新参のドーナツが発売されておるとは…儂としたことが迂闊じゃった!古参の放つ魅力的な安心感かつ安定感はやはり捨て難いがミスタードーナツが満を持して送り出した新顔に対して挨拶も無しとはミスタードーナツのマスコットキャラクターとしてあってはならぬことじゃ!しかし何度見ても絶景じゃの!このショーケースにディスプレイされたドーナツ達を見ておるとまるで夜空を彩る数多の星々を眺めているようではないか!そしてゴールデンチョコレートという名の月が見事にその調和を成しておる!陳列からして既にミスタードーナツの高い仕事振りが伺えるぞ!これには儂もまたひとつミスタードーナツに対する評価を上げざるを得ないようじゃな!もはや月など拝まずとも良いからこの景色を未来永劫眺めていたい!このショーケースの中に儂も住みたい!その願いが叶った時こそ儂はこう叫ぶじゃろう…ギガぱないの!」

 

 

 ーーー翌日、日付けにして五月十三日、土曜日。

 

 今日も今日とて変わりなく、未だグッズ化こそされていない『とけいもうと』の

 

「兄ちゃん、朝だぞこらー!」

「お兄ちゃん、いい加減起きないと駄目だよー!」

 

から始まる凶悪にして極悪なアラームで目覚めた僕は、この街唯一のミスタードーナツの支店へと足を運んでいた。

 

 そして現在、この有り様である。

 

 何がこの有り様なのかといえば、目も当てられないこの現状こそがこの有り様なのだけれど。

 そもそも田舎の地方都市であるこの直江津市において外人や不良の類を始め、金髪という存在はただそれだけで注目される。

 

 一身に注目を集める。

 

 しかも当の忍はというとそれだけでも相当なハイスペックだというのに、それだけに留まらず、本当ガラスと一体化するんじゃねえかと疑う程にドーナツを陳列しているショーケースへとへばり付くものだからその注目度は先程から上昇の一途。

 飛ぶ鳥を落とす勢いどころか飛んでる不死鳥もガクッと落下するんじゃねえのかって勢いでへばり付いている。

 アニメ版では不思議な程に一般人が出てこない僕の街だけれど、さすがに土曜日の昼間なだけあって店内にはそれなりの客数がみうけられる訳でーーー

 仮にアニメ版の人口密度スッカスカな店内だったとしても最低限の条件として店員くらいはいるだろう。

 それら全ての視線を余すとこなく忍が独占している状態だ。

 

 重ね重ねーーーなんだよこの有り様…

 

「…開口一番で長台詞を噛まずに言えた事は褒めてやるけどな忍、これ以上の悪目立ちをするようなら僕はドーナツをひとつも購入しないままお前を担いで全力で逃げるぞ」

 

 同じ大学に通う生徒達に比べれば二度と会う事もないであろう、会ったとしてもわからないであろう一般客からの視線はまだ耐えられるけれど、それでも悪目立ちに変わりはない。

 

 遜色なく寸分の狂いもなく悪目立ちだ。

 正直なところ一刻も早くドーナツを購入してこの場から立ち去りたい。

 

 脱兎の如く。

 

「これだけのドーナツを目の前に平静を保つのはドーナツに対して失礼というものじゃろ!?うぬはそれでも人間か?」

 

「ドーナツを目の前に自己を見失うのはお前だけだ!つーかお前が人間を語るな!少なくともお前よりは人間だよ!」

 

 ギリギリだけど人間だ。

 そしてお前はギリギリだけど吸血鬼だ。

 ドーナツを目の前に自己を見失うのが吸血鬼の常だというのならお前は今すぐ全世界の吸血鬼に対して土下座しろ。

 

「ふん。儂は誰にも頭は下げん。しかしお前様も進歩したのう。金銭の定期支給日でもないのに儂をミスタードーナツへと連れてくるとは。やっと我があるじ様も生涯のパートナーに対する気遣いを覚えたか、褒めてつかわすぞ」

 

「つかわすんじゃねえよ。それと僕のお小遣い日を定期支給日とか言うな。まあ珍しい事であるというのは概ね認めるけれど、今日ミスタードーナツにやって来たのは別の目的も兼ねてだよ。だからお前へのドーナツはその副産物だ」

 

 断じて生涯のパートナーに対する気遣いではない。こいつにそんな気遣いをしていたらそれこそ気遣いもなく僕の財産を食い潰される。

 

 ドーナツのようにぺろりと食い尽くされる。

 

 だからそんな奉仕的な感情からミスタードーナツへと赴いた訳ではなく、あくまでも別の目的なのだ。

 いやさドーナツ店へと赴いた時点で目的はドーナツなのだからーーーそう、理由。

 こうして休日の昼間からミスタードーナツへと来た理由は別にある。

 

「理由なんぞ、そこにドーナツがあるからで十分じゃろ」

 

「ドーナツを山みたいに言ってんじゃねえよ。理由はだからあれだよーーー」

 

 一年前に出会った親友へのプレゼント、とでもいうのか。

 その友達も今や我が街を守る神様へと出世したのだからプレゼントというか奉納品に近いけれど、いわば気持ちばかりのささやかな贈り物。

 

 そもそもは僕の彼女である戦場ヶ原ひたぎとの交際一年記念のプランニングを考えていた筈なのだけれど、救済を求めて泣きついた羽川にまさかの三行半を突きつけられて八方塞がりに陥ってしまったのだ。

 それどころか失念していた八九寺との出会いまでも思い起こして追加ミッションが発生してしまった。

 

 そして言うまでもなく、それについて必死に考察したのだけれど妙案は閃かず、堂々巡りを繰り返した結果、彼女との記念日はさすがに当日じゃなければいけないというーーー

 当日でなければプランニングの内容を審査される前にちぎられるという結論に至った。

 

 八九寺には悪いけれど記念日のダブルブッキングは僕の生命に直結するのだ。

 

 しかし愛する八九寺に何もせずという訳にもいかないし(そんな事をしたら羽川に怒られる)、こうして妥協案的にドーナツを持参して参拝に馳せ参じた次第である。

 

「成る程のう。つまりはあの迷子娘への貢物を購入しに来た、と」

 

「まあそんなところだよ。あいつの所には頻繁に遊びには行くけれど賽銭とかはろくに入れないからな、たまにはこういうのも悪くないだろ」

 

「悪い悪くないで言えば心底どうでも良いが、ならばお前様は儂と出会った記念日をすっぽかしておる分余計にドーナツを儂へと献上すべきではないか?」

 

「お前と出会った春休みのどこに記念すべき要素があるんだ!」

 

 記念どころか地獄を見せられたっつーの!

 この際なので明言しておくが、原爆記念日にしてもそうだけれど、甚大な被害を被った日を記念日だと定める風習には心底物申したい。

『記念』という単語が持つ意味が、めでたい事にのみ適応しいる訳ではないなんて当然知っている。

 その上で意義を唱えたいのだ。

 確かに言葉の意味として『記念』という意味は決しておめでたい事柄に直結はしない。

 だが一般的認知度で語るならば記念の言葉が持つ意味合いはやはり祝事を始めとするプラスなイメージが強く定着している事は否定できないだろう。

 その出来事を記し念頭に置くという意味で記念日という言葉を使う時代はとうの昔に終わったのだ。

 

 そんな日本語文化は滅んだと言えよう。

 

 むしろ古き良き正しい日本語を駆使して世の中を語るならば、物語を語るならば、僕の語りなんて支離滅裂の怪奇文章になってしまう。

 二度と同じ過ちを繰り返さぬようにという意味合いを込めてのものらしいが、それはあくまで意味合いであってやっぱり記念すべき日ではあるまい。

 僕博士の見解ではそれは記念日ではなく忌み日だ。

 

 断固として譲らない。

 

 一歩たりともここを譲る気はない。

 

「極論、理由なんぞどうでも良いのじゃがな。儂はドーナツが食えるなら何の文句もない」

 

 僕の熱い語りを纏めて無に返すような温度差で元も子もない事を忍は言った。

 

 返せよ、僕の熱弁。

 

「さいですか…ならさっさと見繕って店を出るぞ。今日はテイクアウトだからな」

 

 無論、この見た目八才児の吸血鬼幼女がこうして今も僕と共に有ってくれる事に対して何も思うところが無いわけでもない。

 そんな事を素直に言えばこいつは天井知らずに調子に乗るから言わないけれどーーー

 

 僕が地獄と称したあの春休みは、忍野忍にとっても等しく地獄だった事だろう。

 それすらも飲み込み、互いに互いを許しはしなくとも歩み寄る事を選んでくれた忍に対してはやはり感謝の念はあるのだ。

 

 まあドーナツくらいならばご馳走しても良いかと思う気持ちにはなる。

 

「ではお前様、とりあえず儂はこのショーケースのドーナツを全部…」

 

「駄目だ。三つまでしか認めん」

 

「マジで!?」

 

「マジで」

 

 ご馳走はするけれど限度はあるんだよ忍ちゃん。

 つーか遠慮とか感謝とかを覚えてくれ。

 

 その後、ショーケース前でゴネにゴネまくる忍に根負けする形で四つまでの購入を許可する羽目になるも、目的であった奉納品のドーナツも無事購入し、僕達はミスタードーナツを後にした。

 突き刺さるような視線の数々と予想外の出費が身にしみる程に痛かったので、しばらくはミスタードーナツへの来店は無いだろう。

 

 

 

【005】

 

 

 

 八九寺真宵は神様である。

 

 小学五年生にして短い生涯に幕を閉じ、舞台に幕を降ろし、舞台裏へと迷い込んだ少女。

 人から怪異へ、怪異から神へとーーーとんでもない出世街道を猛進する僕の親友。

 二階級特進どころか何階級特進すれば神様なんて立場へと行き着くのか僕にはさっぱりわからないけれど、その出世ぶりはその界隈ではエリートコースとでも言うのだろうか。

 

 そんな神様であられるところの八九寺真宵大明神が住まう社がこの山の頂上に存在する。

 この山というのは僕が現在進行形で登っている山の事だ。

 

 思い起こせばこの山道も幾度登った事だろうーーー

 

 四季折々の山の表情とでも言おうか…一年を通して事あるごとに登った山なのだ。

 恐らくだけれどこの街に住まう誰よりも僕がこの場所を熟知している自信がある。

 

 北白蛇神社ーーー

 

 かつて忍野忍の一人目の眷属である初代怪異殺しの灰が集まった場所であり、僕と忍が過去へと飛んだ場所であり、千石撫子が蛇神に成った場所であり、そしてーーー現在では八九寺真宵が住まう場所。

 詳細に回想するならばまだまだ思い出が、トラウマがあり、それはある種の因縁とも言える。

 因縁が因果となり全て因果応報として僕の元へと返ってきた。

 

 そんな場所。

 

 ともあれ、その全てとは言えないまでも粗方のあれこれは高校卒業までに精算できたので今では単純に友達の家といった印象なのだけれど。

 

 友達の家というか神の社なのだけれど。

 

 少し前までは山道も雪まみれだと思っていたが、今ではすっかり春の陽気であちらこちらに花々が咲き乱れている。

 ドーナツ片手に歩いているだけあって気分なさながらピクニックだ。

 

「儂は景色なんぞどうでも良いのじゃがのう。それより一刻も早くドーナツを食したい」

 

「喋り方は古風なくせして情緒とか全くねえよなお前。せっかく八九寺へのお土産で買ったんだからもう少し我慢しろよ」

 

 道中、僕の車の中で我先にとドーナツを食べようとした忍だったが車内で食べるなら二度とドーナツは買わないと脅してやめさせた。

 まだ新車なのにドーナツのカスを落とされてもかなわない。ゴールデンチョコレートのゴールデンの部分が散りばめられたシートに乗車したいと思う奴がどこにいるというのだ。

 何よりも新米ドライバーの僕の横でドーナツ相手にはしゃがれても挨拶に困る。

 慎重に慎重を重ねて、早朝や深夜の交通量の少ない時間帯に運転練習はしているものの、助手席でドーナツ相手にはしゃぎまわるナビゲーターがいては運転に集中できやしない。

 

「ならばあの迷子娘を連れてミスタードーナツへと行けば良かったじゃろうが。ドーナツを目の前にした儂に冷静を期待するな」

 

「生憎だけどな忍、神様引き連れてドーナツを食べに行く度胸は僕にはない」

 

 なら吸血鬼を引き連れてドーナツを買いに行く僕はなんなのだという話だけど。

 

「店舗を離れてしまえばドーナツの追加注文ができんというのが難儀なところじゃ」

 

「欲望がそのまま口にでてますよ忍さん!?」

 

 遠慮の学習はこの際諦めるからせめて僕の経済状況を知ってくれ。

 お前とミスタードーナツに行くたびに大暴落する僕の経済状況を。

 

 しかし八九寺を連れて行くという案には僕も賛成したい気持ちはあるのだ。

 反対意見の本心を言うと自分の運転する車に人を乗せる程に僕のドライバーテクニックは高い水準にない事が理由としては強い。

 

 忍は言うまでもなく一蓮托生の運命共同体なので僕が乗車する事はイコール忍の乗車を意味する。

 ひたぎに関しては先日のデートの際、強制的、脅迫的に乗車してきた。なんでも彼氏の運転する車の助手席とは女子の憧れらしいのだけれど…殆どカージャックだった事は記憶に新しい。

 

 しかもあの女ときたら乗るだけ乗った挙句

 

「酷い運転ね暦。この運転でドライブするなら神原を馬にして走らせた方がマシという程に悲惨な腕前だわ」

 

 と、ぬかしやがった。

 

 ふざけんな。

 

 だがしかし悲しいかな実際問題、神原の乗り心地が如何程なのかは測りかねるけれど僕の腕前が悲惨である事は間違いないらしい。

 言うだけあってひたぎの運転技術はベテランドライバーを思わせる程の手腕なのだ。

 

 僕なんかと比肩することがそもそも烏滸がましい程に。

 

 以上の例外こそあったものの、以上の理由から僕の運転技術が向上するまでは可能な限り誰も乗せたくない。

 ひたぎには申し訳ないけれどそれまでは神原を乗り回して我慢して頂けたならば幸いだ。

 

「ほれ、その知っても知らなくてもどーでもよい雑談を披露しておる間に着いたようじゃぞ」

 

「どーでもいいとか言うな!僕にとっては重要な問題なんだぞ」

 

「そんなものは帰って妹御にでも話せばよかろう。今はドーナツが先決じゃ」

 

「今日の僕に対する食いつきが悪すぎる!」

 

 むしろドーナツに食いつきたがり過ぎだよ。

 

 つーか話せる訳がねーだろ。

 あいつらですら未だに乗せてないんだから。

 既にひたぎは乗せたなんて話したら何をされるかわかったもんじゃない。

 

「まあ立ち話をしに来た訳じゃないしな。さっさと八九寺大明神に顕現してもらおうか」

 

 しびれを切らした忍が暴走する前に。

 

 

 

【006】

 

 

 

 時刻は正午に差し掛かろうとしている。

 太陽はちょうど真上に登りきっていて雲ひとつない快晴の青空で燦然と輝いていた。

 そんな日差しの中、しかも神社という場所で、吸血鬼もどきの人間と純正の吸血鬼が揃いも揃って何をやっているのだという話なんだけれどーーー

 

 何をやっているも何も…ただ立ち尽くしていた。

 

「なんだ?八九寺のやつ例の如く散歩にでも出かけてるのか?」

 

 そう、八九寺が不在だったのだ。

 正確には不在かどうかは不明だけど顕現はしなかった。

 

 確かに八九寺はこの北白蛇神社に住まう神様ではあるけれど、その行動の自由度でいえば迷い牛だった頃よりも上がったらしく、頻繁に見回りという名の散歩に出かけていたりする。

 

 しかし…いざこうして肩透かしを食うと実感するけれど、参拝客が来たらどうするつもりなんだよあいつーーー

 

「お前様の参拝作法が間違っておるのではないのか?そもそも賽銭も入れておらんじゃろ」

 

「おいおい忍、どうして僕が八九寺にお金を差し出さなければならないんだ?お金よりも価値のあるものを常に差し出している僕だぜ?」

 

「ドーナツか?」

 

「違えよ!なんかこう…愛とかだよ!」

 

 嫌だよ、ドーナツで釣られる神様とか。

 賽銭を入れないから出てこない神様はもっと嫌だけど。

 

「それに二礼二拍一礼はしてるだろ。御手洗はないけれど鈴も鳴らしたし」

 

「ならば単純にうぬが嫌われておるか外出してるかのどちらかじゃな」

 

「頼むから後者であってくれ!」

 

 手を合わせて神様にお願いした。

 

 というか神様は八九寺本人なんだけど。

 

 神様に嫌われたって事実よりも八九寺に嫌われている現実の方が大ダメージだ。

 

「それならそれであの迷子娘のドーナツを儂が貰い受けるだけじゃから儂にとっては好都合じゃがのう」

 

「ドーナツの為に結論を急ぐなよ忍。まだ不在と決まった訳じゃないだろ」

 

 それでなくてもそこそこな規模の神社なのだ。

 もしかしたら奥の部屋にいて声や柏手が聞こえてなかったのかもしれないからな。

 これは実際にこの目で見て確認せねばなるまい。

 

「いや、なるまくないわ。どこの世界に少女が住まう社に不法侵入をかます不届き者がおるんじゃよ」

 

「僕は友達の安否を確認するだけだ。もしも何らかの事件に巻き込まれて八九寺が助けを求めていたらどうするつもりだよ」

 

「今まさに何らかの事件を起こそうとしている奴の台詞ではないがのう…」

 

 ゴミでも見るような目で忍は言った。

 

 やめろよ。興奮するじゃないか。

 

「という訳でお邪魔しまーす」

 

「神罰がくだっても儂は知らんからな」

 

 神罰がくだったとしてもそれをくだすのは他ならぬ八九寺だ。

 ならば僕はその全てを受け入れよう。

 愛する八九寺の全てを受け入れる男、それが阿良々木暦である。

 

 靴を脱いで社へあがると、木造建築物特有の家鳴りが鼓膜を擽る。

 特に日本文化への造詣が深いという訳ではないけれど、やはり日本人としてこういった神聖な場所を好む遺伝子は僕にも備わっているらしく、どことなく気持ちが落ち着くのを感じた。

 

 この場所で幾度となく死にかけ、敗北を味わい、輪切りにされた事が嘘かのように。

 

 落ち着いたのだ。

 

「良い感じに纏めるなよお前様。やっとる事はただの住居不法侵入じゃ」

 

「感傷に浸るくらい良いだろ!」

 

 まあこれも良いか悪いかで言えば、だから悪いに決まってるんだけれど。

 

 住居不法侵入かーーー言葉にすると犯罪性が凄まじいな。

 

 何かと廃墟や廃屋に縁のある僕なので(どんな縁だ)、いくら新築とはいえども家屋ではなく神社に這入る事はあまり抵抗がなかったけれど…確かに犯罪だよな。

 そういえば羽川の自宅へと侵入した事もあったけどーーー僕ってもしかして犯罪予備軍なのか?

 行く行くはかの大泥棒、石川五右衛門のような伝説の大物として名を馳せるかもしれない。

 

「予備軍ではなくはっきりと犯罪者じゃろう。少なくとも元委員長の家に這入ったのは間違いなく犯罪じゃ」

 

「断定するなよ…ケースバイケースの観点で言えばあれは冤罪だ。僕は無罪を主張する」

 

 それにあれは忍野に言われてやった事だ。

 僕を罪に問うならば忍野も共犯だろ。

 重ねて弁解すると仮に罪に問われたとしてその直後に僕はあの色ボケ猫に片腕を噛み切られている。噛みちぎられている。

 不法侵入で腕一本が罪の価値だというならば僕は最高裁まで争うぞ!

 

「怪異相手に裁判とは正気の沙汰とは思えん発想じゃのうお前様。それこそ石川五右衛門のように油で釜揚げにされるくらいの潔さはないのか?」

 

「そんな潔さはない。つーか何でお前が石川五右衛門について知ってるんだよ?」

 

 石川五右衛門の怪異でもいるのか?

 それか忍が最初に日本に来た時に石川五右衛門が存命だったとか?

 

「ときにあの迷子娘はどこじゃ?これは本当に留守ではないのか?」

 

「うーん…僕の灰色の脳細胞が事件を予感したんだけどな」

 

「何が灰色じゃ。燃えて灰になれ」

 

「言い過ぎだろ!つーか吸血鬼が燃えて灰になれとか言うなや!殺意をより一層リアルに感じるわ!」

 

 我ながら大泥棒なのか名探偵なのか訳がわからない奴だった。

 

 そもそも神社の内側を始めて見たのだけれど、一見して言える事はーーー

 

 イメージと違う、だ。

 

 いや、これについては素人考えも甚だしいけど僕の中で社とは仏像や祭壇のような神具が所狭しと並んでるイメージなのだ。

 それがこの神社はなんというか…普通の和室とでも言おうか、小さな祭壇のような物こそあるけれど、阿吽像や千手観音像のような物もなく質素な畳張りの内装だった。

 壁にはこれもまた何と言うか…まるで綾取りにでも使うかのような輪っか状の紐が何本か掛けられている。

 

 八九寺に綾取りの趣味なんてあっただろうか?

 

 兎に角、これがリビングというかメインに使われるであろう部屋の全てだ。

 

 その脇には襖で仕切られた部屋があるようだけど…やっぱり不在なのか?

 

 ひとまず残りの襖を調べて不在を証明したら僕達も帰路に着くとするかーーー

 

「まだ調べるのかお前様よ?そろそろ神罰どころか刑罰が見えてきたように思うのじゃが」

 

「お、脅すなよ忍。刑罰はさすがの僕も洒落にならないんだから」

 

 何がさすがの僕なのだという話なのだが。

 

 しかし刑罰は困る。そんなもん誰だって困るだろうけど僕の場合はより一層困る理由がある。

 

 何を隠そう、僕の両親は警察官なのだ。

 

 八九寺からくだされる神罰ならば受け入れるだけの男気もあるというものだが、両親からくだされる刑罰という名の正義の鉄槌は耐えられない。

 それでなくても高校時代はその素行の悪さから両親の信用を見事に失い、いつの間にか関係もギクシャクしていたのだ。

 しかし高校三年生の一年間、羽川やひたぎの尽力もあって少しずつではあるけれど信頼も取り戻し、努力の甲斐あってか見事に大学合格した事を認めてもらい、今ではやっと大学の入学祝いに車を買ってくれるまでに関係を修復できたと思っている。

 

 それがその矢先、神社への不法侵入で逮捕って…取り返しがつかないどころの騒ぎじゃねえよ。

 あらゆる全てが終了すると言っても良いだろう。

 

 つーかそんな家庭の云々を抜きにしても刑罰は駄目だろ。

 

「ならば石川五右衛門とまでは言わずとも潔く引き返すべきじゃろう?あの迷子娘の件はまたの機会にしたらどうじゃ我があるじ様よ」

 

「それもそうだな…現実味のある危機を感じるし今日は諦める事にするよ」

 

 一年の記念日に逮捕なんて事になったら今後の人生におけるあらゆる記念日を謳歌できなくなりそうだしな。

 

 八九寺には悪いけれど貢物はまた会った時にアイスでも奢る事で許してもらおうーーー

 

 僕は一度は開けようとした襖から手を離した。

 

 そしてそのまま社を立ち去ろうとした矢先ーーー

 

「…う…ん……おか…さ…ん……」

 

 声が聞こえたのだった。

 

「お、おい忍!」

 

「うむ、今のは…」

 

 間違いない。八九寺の声だ。

 

 八九寺マイスターを自称する僕が八九寺の声を聞き間違える筈がない。

 それについては僕がその気になれば第一期まよいマイマイのOPの中からでも本物の八九寺を見つけ出せると自負している程に自信がある。

 だから例えそれがどれだけ消え入りそうで、力無く、微かな声だったとしてもーーー

 

 僕が間違える筈が無いのだ。

 

 前言撤回。

 

 この際僕の脳細胞が何色だろうと構わない。

 そんなものに関わらず八九寺が本当に何らかの事件に巻き込まれているならばーーー

 

 あの天真爛漫な少女があんなにも弱々しい声をあげるような事態にあるならばーーー

 

 僕は天罰だろうが神罰だろうが刑罰だろうが受けてやる。受け入れてやる。

 

 なんたって僕の称号は平成の石川五右衛門でもなければ八九寺マイスターでもなくーーー愚か者なのだから。




【次回予告】


「忍野忍じゃ」

「此度も儂からドーナツの話をしてやる、有難く聞くがよい」

「ドーナツと言えばミスタードーナツが世の主流であると誰もが思うじゃろうが昨今はコンビニエンスストアなる店の店頭でもドーナツを購入できるらしい情報を極秘ルートから入手したのじゃが…」

「ぱないの!」

「そのクオリティこそミスタードーナツと比べるまでもないじゃろうがコンビニエンスストアの需要を考えればドーナツ業界においての大躍進と捉えて間違いなかろう」

「次回、『こよみアニバーサリー 其ノ參』」

「日本人の主食が米からドーナツになる日も遠くはなさそうじゃな!」


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其ノ參

開幕


【007】

 

 

 天真爛漫

 

 それはまさに八九寺真宵という少女を表す為にある言葉であり、逆説的言うならば元気と笑顔とツインテールがトレードマークみたいな少女こそが八九寺真宵だと言っても過言ではない。

 実際に自分の持ち歌でもその笑顔が目印だと言ってたくらいだし。

 

 それこそ八九寺に纏わる暗い過去から始まる様々な出来事を知る僕としては、あの天真爛漫さは奇跡の体現者なんじゃないかと思う域に達している。

 僕が八九寺と同じ立場だったと考えると余りにぞっとしないけれど、とてもあんな快活さは発揮できないだろう。

 

 どころか確実に非行に走るとさえ断言できる。

 

 実際に羽川から不良のレッテルを張られていた僕が何を言うのかという話なんだけれどーーいや、今は僕の話なんてどうだっていい。

 

 今は八九寺の話だ。

 

 今の八九寺の話だ。

 

 さっき聞こえた声は間違いなく八九寺の声だった。

 それこそ間違いであって欲しいと思う程に微かで小さくて消えそうな声だったけれど、間違いなく八九寺の声だったのだ。

 

 そしてそんな八九寺の声を聞いた僕は、僕の心臓は、早鐘のように鼓動していた。

 誰よりも八九寺を知る僕だからこそわかるーーあいつはあんな弱々しい声をあげたりしない。

 

 いや、そんな八九寺の声を聞いた事が無いわけではないけれど……それはいつも八九寺が人生の岐路に立たされた時だった。

 既に死んでいる彼女に対して人生の岐路というのも違うかもしれないが、つまりは八九寺にとって良くも悪くも重大な事実に直面した時ーー

 

 辿り着けなかった母親の家の跡地に辿り着いた時。

 

『くらやみ』に呑まれる前に成仏を選択した時。

 

 地獄において蘇る僕を見送ろうとした時(この時は連れ帰ってしまったけれど)。

 

 そんな時にこそ八九寺は、いつもの快活さを感じさせない声をあげていた。

 

 それらをどんな時でも一番近くで見てきた僕なのだ。

 微かに聞こえた八九寺の弱々しい声ーーそれだけの事が僕の心を揺さぶるには十分過ぎる程に十分な理由だった。

 

 一度は離した襖に再び手を掛けて、さながら討ち入りでもするような勢いで開け放つ。

 勢いよくとは言っても体感的には永遠に感じられるような心境で。

 

 どうせいつもの悪ふざけなんだろ?

 

 焦った僕が襖を開けば

 

「騙されましたね阿良々木さん」

 

 だなんて言いながら大笑いするお前がそこにいるんだろ?

 そこからいつもの名前を噛む一連の流れをやってバカな話に花を咲かせてーー

 

「八九寺!」

 

 ふざけんなよ畜生!

 せっかくの記念日に神様が事件に巻き込まれるなんて冗談にもならねえよ。

 これでお前に何かあったら僕は今後一生、アニバーサリーというアニバーサリーを引き篭もって過ごすぞ!

 だからーー無事でいてくれ!

 

 およそそんな願いを込めながら襖は完全に開かれた。

 

 しかし……襖の先に見た光景は僕の願いなんて遥かに裏切るものだった。

 

 あの天真爛漫な八九寺の姿はどこにもなく、トレードマークの笑顔だって見て取れない。

 大きな眼は固く閉じられて、特徴的なツインテールすら解かれ、いつも背負っているリュックサックすら傍に放置されたまま、八九寺は静かに横たわっていたのだから。

 

「おいお前様、これは……」

 

 僕の後ろに控えていた忍から声がかかる。

 顔こそ見ていないけれど、忍の声色からも自分が見ているものが信じられないという感情が伺えた。

 

 それもそうだろう。

 

 この僕ですら襖が開かれた瞬間、目の前の少女を八九寺だと同定できなかったのだから。

 

「マジかよ……」

 

 僕の第一声は自分でも笑ってしまうくらい気の抜けた声だった。いや、人なんて予想外の現実に直面した時はおよそこんな感じなのかもしれない。

 

 予想外。

 

 そう、僕は予想できていなかったのだ。

 なぜなら八九寺はーー

 

 

 

「寝てんじゃん」

 

 

 

 すやすやと眠っていたのだから。

 

 いや、眠っていたのだから、じゃねえよ。ふざけんな。

 

「なんだよこれ!どんなオチだよ!つーかさっきの声は寝言かよ!!」

 

 昼時だぞ?

 

 昨今の神様業界はこんな時間まで寝ていても許される程に緩いのか?

 阿良々木家で昼時まで寝ようものならそれだけでファイヤーなシスター達にぶっ殺されてるぞ。

 そしてこれだけ騒いでるのに一向に起床する気配が見えないんだけどこいつどれだけ心臓が強いんだよ。ストロングハートすぎだよ。

 

「吸血鬼の儂でさえ起きとるっちゅうに天晴れな熟睡っぷりじゃな。この新人神様は本気で信仰される志があるのかのう?」

 

「やめてくれ忍……このタイミングで本気のダメ出しをされたら僕が心を折られそうだ」

 

 昼まで寝てても信仰される神様って何の神様だよ。

 

 むしろ何様だよ。

 

 ニートの神様にでもなるつもりなのか?

 

「してお前様よ、どうするんじゃこれ?起こすならさっさと起こしてドーナツを食したいんじゃが」

 

「いや、どうするって言われても……」

 

 相手は八九寺とはいえども神様だし……寝ている神様を起こすってどことなく祟られそうだよなあ。

 それに確かに時間を考えると少々寝過ぎな感は否めないけれど、こいつだって慣れない神様業務に身を窶して疲労困憊なのかもしれないし。

 

 何よりも毎日のように『とけいもうと』に起こされている僕としては、睡眠を無理矢理に妨害される憤りを深く察してしまう。

 せっかくの睡眠を妨害されるストレスは他人が思うよりも深刻だったりするのだ。

 

 けれど八九寺の事を真に想うならばここは心を鬼にして起こしてやる方が良いのか?

 今はまだ新人で慣れない仕事をこなす疲労が免罪符にもなるけれど、今後もずっとこんな生活を送る訳にいくまい。

 ならば今のうちからせめて人々の信仰を集められるだけの振る舞いを指導するのも必要じゃなかろうか。

 

 つーか良く良く考えてみれば神様がこの時間に寝てるって事は世の中の神にも縋りたい気持ちで参拝しに来る人々の願いや助けを寝過ごして聞き過ごしてるって事だよな。

 

 そう考えると腹が立ってきた。

 

 僕は神頼みなんてしなかったけれど、世の中の受験生達がどんな気持ちで手を合わせてると思ってるんだこいつは。

 

 そんな気持ちで寝顔を拝んでみるとさっきまで可愛く見えていた八九寺の寝顔すら小憎たらしく見えてくる。つーかちょっと涎が垂れてんじゃん。

 少女が寝ながら涎を垂らすのは二次元で見るから可愛いのであって現実で見ちゃうと僕ですら挨拶に困る。

 

 大体こいつ、僕にはいつも厳しい事を言うくせに自分には甘すぎやしないか?

 

 いくら精神的にも肉体的にも小学五年生とはいえ限度ってものがあるだろう。

 いっそこいつの将来の為とか考えていた自分が恥ずかしくなるレベルだぜ。

 もはやこんな怠惰な神様に親切にしてやる必要があるのだろうかと疑問を抱いちゃうよ本当。

 このまま知らぬ存ぜぬで好きなだけ寝かせといて僕と忍はさっさと帰って自宅でドーナツを食べてた方が有意義かもしれない。

 

 でもな……八九寺の分のドーナツまで食べるとなると量が多過ぎるし、かと言って妹達の分までは買ってないし困ったぞ。

 というか本題は八九寺と出会った記念日だった筈だよな。ならばこのドーナツも八九寺にプレゼントしない事には意味を成さないのか……

 

 甘やかすのは良くないとはいえドーナツには罪はない。

 ここでドーナツを無下にする事は心を込めてこのドーナツを作ってくれたミスタードーナツの店員さんの心を無下にすると同義だ。

 

 となるとやっぱりここは八九寺を起こさなきゃならないのか。

 

 だがしかし、どうしたものだろう。

 

 如何に僕といえども少女相手に妹達のような起こし方をする訳にいかないけれど、僕の内心だってこんな時間まで寝ている神様に対して何も思わないではないのだ。

 

 むしろ業腹だ。

 

 できることなら眠る八九寺の足を掴んでジャイアントスイングから始まるスペシャルコンボをお見舞いしてやりたいくらいに。

 

 斧乃木ちゃんをして鬼いちゃんと言わしめるまでの鬼っぷりを発揮したい。

 

 でもそんな事をやった日には、やらかした日には、都条例やら教育委員会やら関係者各位からの叱咤叱責を受けるのが関の山だろうし、僕のやってる事があの馬鹿な妹達と変わらないというレッテルを張られてしまう。それは避けたいところ。

 

 ならば。ならばだよ(お待たせしました)。

 

 ここは昼まで寝ている呑気な神様に対する諸々の感情を殺して、堪えて、大人になってーー優しく起こしてやるのが模範的な対応というものではないだろうか?

 あの馬鹿な妹達が毎朝僕に対してやっているようにではなく、まるで幼馴染の優しいお兄さんが起こしにきたかのような紳士な対応こそが求められているのではないのか?

 

 そして起きた八九寺に諭すように早寝早起きを促すーーこれこそができる男、阿良々木暦の使命だろう。

 

 本来ならば怠惰なんて七つの大罪に数えられるくらい罪な行いだけれど、人は過ちからこそ初めて学ぶのだから。

 

 全く、つくづく僕も甘い。

 

 では未だ起きる気配のない子猫ちゃんを起こすとしよう。あくまでも紳士的にーーーー

 

 

 

「はちくじいいいいいいいいいっ!」

 

「きゃー!?」

 

 

 

 ダイブした。石川五右衛門のような男にはなれなくてもルパン三世のように八九寺が眠る布団へとダイブした。

 

「起きろよ八九寺この野郎ー!いつも可愛いのに寝顔まで可愛いだなんて反則だぞ!どこまで僕を虜にすれば気が済むんだお前は!ギガぱないどころかテラぱないぜ!あ、涎が垂れてるじゃねえか!僕が舐めて綺麗にしてやる!安心しろ!ここは既に布団の中だ!僕達が物理的に結ばれる為のフィールドは既に用意されているぞ!後は僕に任せろ!痛くしないから!じっとしていればすぐに終わる!今日が僕と八九寺の新しい記念日だ!」

 

「ぎゃー!ぎゃー!ぎゃー!」

 

 夢の世界から強制的に引き戻された八九寺が布団の中で暴れ狂う。

 

「こら!暴れるんじゃない!うまく合体できないだろうが!」

 

「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああかあああ!!!!!!」

 

「がうっ!」

 

「がうっ!」

 

 右手に八九寺が、左手に忍が噛みついた。

 つーか二人とも全く手加減してねえ。骨まで歯が達してるんじゃねえのかこれ。

 

「痛い痛い痛いっ!何すんだこのガキ!!」

 

 本当に毎度の事だけれど。

 

 痛いのも、何すんだも、やっぱり毎度お馴染みの僕だった。

 

 

 

【008】

 

 

 

 秘技・章変えリセット

 

「さてと、本題に入ろうか八九寺。実はな……」

 

「ちょっと待って下さい阿良々木さん!異議ありです!異議が有り余ってます!」

 

 ぴんと伸ばした腕を真上に上げた八九寺は叫んだ。

 

 それも結構な形相で。

 

「なんだよ八九寺、僕はまだ何も言ってないぜ?話を聞く前からの異議申し立ては認められないな」

 

「いよいよ本気で馬鹿なんですかあなたは!?先程の凶行について言及する間もなく話題を切り替えないでください!」

 

「そうじゃぞお前様!こればっかりはこの迷子娘の言う通りじゃ!きちんと弁明せい!」

 

 忍までご立腹かよ……しかし先程の凶行とはこれ如何に?

 僕は先程どころか今までの人生において凶行に及んだ覚えはないんだけれど……あったとしてもそれは凶行ではなく愚行だ。

 

 春休みから始まる数々の愚行くらい。

 

「待ってください忍さん。わたしはもう迷子じゃありません、神様です」

 

「なんじゃ?それがどうした。儂が呼びやすいのじゃから文句を言うでないわ」

 

「いえ文句ではなく訂正ですよ忍さん。今も迷い牛であるかのような呼び方をされてそれを否定しなければ例の『くらやみ』が来るかもしれないじゃないですか!なので迷子娘はやめてください。呼ばれる度に訂正するのも手間ですし」

 

「ああ……『くらやみ』か……確かに儂ら怪異にとって呼び名は人間のそれとは意味も違ってくるしのう。そのせいでこの場に『くらやみ』が顕現したら厄介じゃ。うむ、迷子娘はやめておこう」

 

「わかれば良いのです、わかれば。これからはハッチーと呼んで下さい!」

 

「なんで上から目線じゃ。なんで副音声ネタじゃ。渾名で呼び合う程に儂とうぬの距離は近くはないじゃろ、うぬなんて変わらずカタカナ表記でハチクジでよいわ!」

 

 あれ?

 

 聞きたくないフレーズと出しちゃいけないフレーズが幾つか聞こえた気がしたけれど、それは兎も角こいつらってこんなに仲良かったっけ?

 

 少女と幼女で通じるものがあるのかもしれないけれど、確か夏休みに初対面した時はもっと殺伐としていた気がするけど……

 あ、そういえば扇ちゃんと決着を付けるにあたって一度ペアリングが切れた時にもこの二人は会ってるんだった。しかも仲良く公園でクリケットに興じてたし。

 

 とは言ってもその時の忍は完全体で少女と幼女ではなく、どころか少女と女王みたいな図だったけれど。

 

 でも気が合う事は良いことだ。

 

 うん。良きかな良きかな。

 

 

「良きかなではないわお前様!儂という生涯のパートナーがおりながらさっきのあれはなんじゃ!?やるなら儂が寝ている時にしろと言うたじゃろう!」

 

「冗談じゃないですよ忍さん!寝ている時なら許すって浮気に関して寛大すぎます!というか忍さんが寝ている時でもお断りです!次にあんな真似をしたらわたしは最高裁まで戦いますからね!」

 

「うぬも怪異でありながら裁判を起こす口か!?それでは我があるじ様と発想が同じじゃぞ?というかうぬは仮にも神様なのじゃから神罰なり天罰なりを自分でくだせよ」

 

「新米神様であるわたしにそんな神通力じみたことはできません。というかこの手の変態は然るべき公的機関で断罪された方が世のため人のためでしょう」

 

 うわー。言ってる事は酷いけどこの二人すげえ面白い。

 このロリコンビなら一日中見ていても飽きないかも。

 妹達ともヴァルハラコンビとも違う味がある。

 

「何を他人事のように傍観しているのですか阿良々木さん。あなたは当事者でしょう。当事者にして容疑者でしょう」

 

 容疑をかけられた。

 

「つーかさっきから二人とも何の話をしてるんだ?聞けば凶行とか最高裁とか天罰とか、挙げ句の果てに容疑者だって?何かあったのか?」

 

「本気で言っているなら正気の発言ではありませんねそれ」

 

「自分が何をしたのか忘れとるのか?」

 

 何をしたって言われてもな……告訴されるような事をした覚えはないんだけど。

 

「小学生の眠る布団に飛び込んで強姦紛いな事をしたらそれは立派な犯罪でしょう」

 

「とても立派とは言えん行いじゃがの」

 

「おいおい、章が変わったら前の章の話は持ち出さないルールだろ?ちゃんとしようぜみんな」

 

「ちゃんとするのは阿良々木さんです。ちゃんと罪を償ってきてください」

 

 ちゃんと覚えてやがった。

 

 くそ。どうしてこいつらは章変えリセットが適応しないんだ。

 正当すぎる意見は時に凶器になるんだぞ。

 

「あれは昼時まで寝ているグータラ神様を優しく起こしてやった結果だ。いつ参拝客が来るかもわからない立場で寝ている八九寺が悪い」

 

「弁明しろとは言うたがひどく不細工な言い分じゃな……章変えリセット云々の前に少女の寝込みを襲う為に一章節使うのも考えものじゃが」

 

「まったくです。それにこのシチュエーションは非常によろしくありませんよ阿良々木さん。ここに斧乃木さんまでいたらあの日のトラウマが鮮明に蘇ってきます」

 

「そういえばあの時も眠っておったうぬに我があるじ様が飛びついていったのじゃったな」

 

 あの日というのは初めて『くらやみ』に遭遇したあの日だろう。

 確かに『くらやみ』の事件ではそんな事もあったな。

 あの時は少女と幼女と童女に噛みつかれたんだっけーー

 

「とはいえ今となっては『くらやみ』の現れる心配はないんですけどね。ときに身延(みのぶ)さん」

 

「待てよ貴様、いくら儂が富士山見たさに日本へとやってきた設定があったとはいえ儂の名前を山梨県にある市町村の地名のように呼ぶでないわ。儂の名前は忍じゃ」

 

「失礼、噛みました」

 

「違うな、わざとじゃろ」

 

「噛みまみた」

 

「わざとじゃないじゃと!?」

 

「鼻かみますか?」

 

「季節柄ではあるが儂は花粉症ではない……ちゅうか吸血鬼が花粉症なんかになるわけなかろう!」

 

 あれ?あれあれ?

 僕の気のせいかもしれないけれど妙に疎外感を感じるぞ……

 というかそのネタって僕と八九寺でこそ成り立つやりとりじゃなかったのか?

 心なしか八九寺が頑なに僕と目を合わしてくれない気もするしーー

 

「あのー、八九寺さん?」

 

「はい、なんでしょうか阿良々木さん」

 

「いや噛めよ!僕の名前も噛んでくれよっ!!」

 

「あれ?良く見たら全然知らない人でした。どちら様でしょうか?」

 

「噛まなくていいから忘れないでっ!!」

 

 消えて下さいって言われるくらい心にくるわ!

 かれんビー以来のダメージだわ!

 

 しかし八九寺と忍ってここまで仲が良かったのか…少なくとも噛みネタが通用するくらいには。

 まあ初対面ではないしな。忍にしても僕と八九寺のやりとりはいつも影の中から見ているだろうし当たり前といえば当たり前か。

 

 でも僕も八九寺とのネタやりたかったなー。

 

「いや、そこまで本気で不貞腐れないで下さい阿良々木さん。ここまで成長した男性が拗ねる姿こそ心にきます」

 

「数少ない楽しみのひとつを奪われた僕の心の傷がわかるか?このダメージは普段見る事ができないお前のパジャマ姿を拝めたってだけじゃ癒しきれないぜ」

 

 髪の毛だってツインテールじゃないから新鮮さはだいぶ割り増しされてる。

 そういえば蝸牛から貝殻と触角をとったら何になるんだろう……(ひる)とか?

 

 うわー、すげえ嫌だ。

 

 同じ血を吸う生き物として考えても吸血鬼より嫌だ。

 

「誰が蛭ですか!それに普段どころか普通は見れちゃ駄目な姿なんですけどね」

 

 女性の寝込みを襲うとは紳士の風上にも置けません、と八九寺。

 言うほどに女性的な寝方はしてなかったという僕の意見は伏せておいた。

 

「それはそうと阿良々木さん、今日はどういったご用件だったのですか?室内まで侵入するなんてよっぽどの有事だとお見受けしますがーー」

 

 すっかり眠気もさめてぱっちりと開いた眼でちらりと忍を見ながら八九寺は続けた。

 

「忍さんまで姿を現しているという事は……怪異絡みの話でしょうか?」

 

 どうやら昼時まで寝てはいても、しかし立派に神様の自覚があるようで八九寺は神妙な面持ちで聞くのだった。

 

 

【009】

 

 

 

「記念日?」

 

 とは言っても八九寺の心配は杞憂な訳で、僕と忍が北白蛇神社を訪れた理由はひとまず怪異が絡む話でもなければ怪異に絡まれる話でもない。

 もっとも、この場において人間は一人しかおらず、残す二人は怪異なのだから怪異は絡んでいる話なんだけれどもーー

 

 危険性を孕んだ話ではない事は確かだ。

 

 つまるところ記念日。

 

 事の詳細を説明するにあたって羽川に言われたから思い出しましたという部分は割愛したけれど、八九寺に対して何かしてやりたいと思った気持ちは正真正銘僕の本心なのだから問題ないだろう。

 むしろそれを馬鹿正直に話したところで誰も幸せにはなるまい。

 

 決して僕が格好付けて出来る男アピールをしたかったわけじゃないからね。

 

「成る程、わたしと阿良々木さんが出会ってから一年ですか。月日が経つのは早いものですね。で、なぜ忍さんまで?」

 

「ふん、儂はそんな記念日なんぞどうだって良いのじゃが我があるじ様がどうしてもと言うから仕方なく来てやったのじゃ」

 

「嘘をつくな忍!ミスタードーナツから先の行動は全てお前の自由意志だろうが!全自動で勝手に現れてここぞとばかりに恐喝しやがったろうが!!」

 

 もしかしたら直江津市で一番ミスタードーナツの売り上げに貢献しているのは僕なんじゃねえのか?

 

「過ぎた事をいつまでも言うのは感心せんぞお前様。それにこうして目的も果たせたのじゃからよいじゃろう」

 

「章変えリセットを断罪した奴の台詞じゃねー!」

 

 章変えリセットどころか前回投稿分の話でも僕は忘れないからな!

 ショーケース前で散々駄々をこねた分の代償は後で鎖骨を味わう事で償ってもらう。

 

「では阿良々木さんと忍さんはわたしのために態々お土産まで持って来てくださったと?これはこれは……そうとは知らず失礼いたしました」

 

「うむ、苦しゅうない。面を上げよ」

 

「いえ、上げる必要がある程に下げてはいませんが……」

 

 ともあれ一通りの説明も終え、事の次第を理解した八九寺はぺこりと頭を下げた。

 

「そういう訳だからさ八九寺、つまらない物だけど出会って一年の記念日を祝う僕からのプレゼントだ。遠慮せずに食べてくれ」

 

 小箱に収められたドーナツを差し出す。

 ここに至るまでに忍という飢えた猛獣から守り抜いた僕からのプレゼントを。

 

「ドーナツをつまらない物とはどういう了見じゃお前様よ!事と次第によっては只ではおかんぞ!それとうぬっ!その小箱の中身には儂の分のドーナツも含まれとるんじゃからな!全て食えると思うなよ?」

 

「建前とか謙遜とか考えろよ!ドーナツに心酔しすぎだお前は!」

 

 僕も人の事をとやかく言える程に立派な人間じゃないけれどお前は別格だよ。

 学んで欲しいあれこれが多すぎてどこから手を付けたら良いやら見当もつかねえ。

 六百年もの年月で身に付けといてくれよ。

 

 逆に六百年もの年月で身から離れてしまったのか?

 

「ああ……なんというか、ありがとうございます」

 

 ドーナツに対する愛情が深すぎて阿保なやりとりをする僕達を他所に小箱を受け取った八九寺が礼を言うーー

 

 礼を言うには言ったんだけれど……

 

 なんだろう?

 なんか元気がないように見えるけど……どうしたんだ?

 てっきりドーナツなんて見た日には忍程ではなくても

 

「きゃっほー!あっりがとうございます阿良々木さん!!今日はこのままパーリナイですっ!!」

 

 ってくらいには喜んでくれると思っていたんだけれど……

 

「ひょっとして八九寺、ドーナツは嫌いだったのか?」

 

 横ではドーナツ信者の幼女がドーナツ嫌いとは何事だと喚いていたけれど無視。断固として無視。

 それよりも笑顔ではあるけれどどこか浮かない様子の八九寺が気になってしょうがなかった。

 

「えっ?ああ……いえ、ドーナツが嫌いとかそんなじゃなくてですね……まあ時期も時期ですし色々と思い出すところがありまして」

 

 快活ではっきりと物を言う八九寺にして珍しく煮え切らない物言いだった。

 

 時期も時期?

 

 思い出すところ?

 

 まいったな、この手の含みがある言い方は僕が最も苦手とする分野なんだよな……全然見当もつかねえ。

 

「……本当にどうしようもない奴じゃのうお前様は、察せよそれくらい。お前様にとって記念日だったとしても相手にとって記念日とは限らんじゃろうが」

 

 さっきまでのテンションとは打って変わって真剣味と呆れを混在させた表情の忍が小声でそう言った。

 どうやら八九寺には聞こえないように話ているみたいなので僕も小声で返す。

 

「僕にとっての記念日がって言われても……どういう事だよ忍」

 

「うぬは真性の阿保か、言い方も渡し方も配慮に欠けすぎじゃ。明日はあれじゃろ?お前様達の言う母の日というやつじゃろ?という事はじゃーー」

 

 理解した。

 

 忍の言わんとする事も、僕という人間のどうしようもない愚かさも。

 

 母の日ーーそれは確かに僕にとっては八九寺と出会った記念日たけど、それは同時に八九寺の命日。

 ただ母親に会いたくて家を出た少女がその短い生涯を終えた日だ。

 

 そんな日を前日とはいえ祝おうとしていたなんて僕は八九寺に対してどれだけ酷な事を要求したいのだという話だ。

 

 つーか忍も忍で気付いていたなら止めてくれよ。

 

 いや、忍だって僕がこんなにストレートな言い方、渡し方をするとは思ってなかったのだろう。

 止めてくれよだなんてそれは自分の愚かしさを責任転嫁してる言い訳に過ぎないーー突き詰めた話、僕が悪いのだから。

 

 忍は何も悪くない。

 

 だからそれは隙もなく、容赦もなく、余地もない程にーー僕が悪い。

 

「ごめん八九寺っ!僕の気遣いがなさすぎた!悪気はなかったんだけど……本当にごめんっ!!」

 

 土下座した。

 

 というか気付いた時には土下座していた。

 

 普段から簡単に土下座を披露する僕だけれど、今回ばかりは誠心誠意、本気で頭を下げた。

 それこそ卒業式の土下座なんて比にもならないくらいに必死で謝った。

 

「や、やめてください阿良々木さん!別にそういう意味の思い出すではないですし!」

 

「いや、こればっかりは僕が自分を許せねえよ。こんな日を祝うだなんてどうかしてた」

 

 そう。

 

 どうかしていた。

 

 自分が死んだ日を祝われて喜ぶ奴なんている訳ないのに。

 

「……面を上げて下さい阿良々木さん。わたしが前に言った事をお忘れですか?」

 

 依然として土下座中の僕の肩に小さな手が置かれる。

 

「幽霊になったことは不幸せです。でも、阿良々木さんに会えたことは幸せですね、と言ったはずです。ですから阿良々木さん、こうしてわたしと出会った日を覚えていてくれてプレゼントまで頂いた事は全く不快じゃないんですよ」

 

 むしろ本当に嬉しいです、と八九寺は笑った。

 

「それに命日はお墓にお供物をする事もあるでしょう?そう考えればノープロブレムです!……だから思い出したのはどちらかと言えばドーナツですね」

 

「ドーナツ……?」

 

 八九寺に促されるまま、僕も土下座の体制を崩して八九寺の話に耳を傾ける。

 さすがの忍もここは空気を読んでか目の前のドーナツに手を付ける事もなく、腕を組んで聴受の体制をとっていた。

 

「はい、ドーナツです。湿っぽい話ですが聞きますか?」

 

 この問いには普通ならば即答しかねるところだけれど、生憎なことに僕は知っている。

 なんたって僕は八九寺の親友なのだから知っていて当然だ。

 こういう時の八九寺は選択肢こそ与えてくれるけれど、本音は話を聞いてもらいたいのだと。

 だから僕の答えは決まっていた。

 

「聞くまでもないだろ八九寺?お前の話なら僕はなんだって聞くんだから」

 

 くだらない雑談から地獄を巡るような真剣な話までーー八九寺の話ならなんだって聞くに決まってる。

 

 そして八九寺は、そうでしたね、と笑ってから話し始めた。

 

 

 

「生前の話なんですけどね、それもわたしのお母さんとお父さんがまだ離婚する前の仲が良かった頃のお話です。

 

「お母さんは家にいる方でしたけどお父さんは仕事がありましたので週末くらいしか家にいませんでした。とは言っても夜には帰ってくるんですけど、わたしも小学生ですのでその頃には寝ています。なのでまともに顔を合わせるのはやはり週末だけでした。

 

「それでもですね、お父さんも一人娘との時間を取れない事が寂しかったのでしょう。たまにですけど仕事が早く終わった日にはお土産を買って帰ってきてくれました。

 

「それが決まっていつもドーナツだったんですよ。

 

「最初わたしが大喜びしたからなんでしょうけど、それからというもの毎回毎回ドーナツをいっぱい買ってきてくれるお父さんは子供ながらにどこか可愛かったものです。

 

「週末には一緒にミスタードーナツにも連れて行ってもらいましたよ。本当にどれだけドーナツ好きだと思われていたんでしょうかね、わたし。

 

「いえ……やっぱり実際のところは本当に大好きだったんですよ、ドーナツ。

 

「正確には家族で楽しく食べるドーナツが大好きだったんです。

 

「最終的にはお母さんとお父さんは喧嘩ばかりの間柄になってしまいましたがその頃は家族三人で仲良く笑いながらドーナツの取り合いをしたりして……それがどうしようもなく楽しくて。

 

「ですから今でもドーナツを見るとあの頃を思い出してしまうんですよね。

 

「あの頃の楽しくみんなで食べたドーナツは美味しかったなーって……」

 

 

 どこか懐かしむように八九寺は話を終えた。

 

 八九寺の家族に対する思い出。

 

 それはなんとなく触れる事がタブーのように思えて、というかデリケートすぎて僕から聞く事が憚られるような話題で今の今まで知らなかった話だった。

 

 そして聞けば聞く程に納得してしまう話だった。

 

 結果にばかり目が行きがちで、つい不仲な夫婦を想像してしまうけれど最初から仲が悪い二人が結婚なんてする筈がない。

 八九寺の両親だってその例に漏れず最初は仲睦まじい二人だったに決まっている。それ故に二人の間に八九寺真宵という愛娘が産まれたのだから。

 結果として離れて生きる事を選択してしまったけれど、八九寺の家族にだって団欒な時は確かにあったのだ。

 

 それにミスタードーナツ。

 

 既に言ったことだけど、僕の街にはミスタードーナツの支店は一つしかない。

 

 六月十四日のあの日ーー

 

 忍と僕がまだ和解する前、忍があの廃塾から家出したあの日。

 家出した忍を最初に見つけたのは八九寺だ。

 

 そしてその場所はやはりミスタードーナツだった。

 

 アニメ版では大袈裟な程に孤立した店舗のような表現をされているけれど、あそこまでじゃないにしろミスタードーナツはそれなりに離れた場所にある。

 なのに何故あの日、八九寺はあの場所にいたのかーー

 

 答えは簡単だ。

 

 八九寺はただ思い出の場所へと足を運んでいただけだった。

 

 両親に連れてきてもらったという店がミスタードーナツだったならば、必然的にその店舗は他でもない僕と忍が芦毛なく通うあのミスタードーナツに他ならない。

 

 いつか両親と訪れたミスタードーナツに思い出の中に今も残る家族の姿を見ていただけなのだ。

 

 たかがドーナツ、されどドーナツ。

 

 合縁奇縁、それぞれの縁がドーナツのように丸く輪になって繋がったようなそんな気がした。

 

「家族というものは儂にはわからんがしかし、あの廃墟で食べたドーナツより我があるじ様と食べるドーナツの方が好きだという点では共感できなくもないのう」

 

「結局のところドーナツの話かよ」

 

 それでもどこで食べるかは気にしないと公言した忍が誰と食べるかについては違いを認めてくれるのはありがたいんだけどさ。

 

「はい!湿っぽいのはここまでにしましょう!」

 

 ぱんっと両手を叩いて八九寺が明るい声で場の空気を変えようと振る舞う。

 

「折角こうして来てくれたのですから暗い雰囲気はなしにしてドーナツをいただきましょう。大したおもてなしはできませんけどお茶くらい入れますよ」

 

 着替えもしたいですしね、と八九寺は立ち上がった。

 怪異……つーか神様がお茶を入れるってのもどうなんだよ。

 神様にお茶を入れさせる僕達もどうなんだという話だけど。

 

 さて置き、そんな事はどうだっていい。

 

 そんな事よりもーー

 

「待て八九寺、着替えは必要だけどお茶は必要ない。ドーナツはしばしお預けだ」

 

 横の忍がこの世の終わりみたいな顔をしているけれど無視。断固として無視。

 

 

「今から出かけるぞ」

 

 

 男の子なんだから頑張って喜ばせてあげてという羽川の言葉が思い返される。

 

 全くもってごもっとも。

 

 他でもない僕自身が記念日だと言ったのだ。

 少しくらい大好きな親友の為に頑張っても良いだろう。

 記念とは祝いの言葉なのだから。




【次回予告】


「きゃっほー!全国億兆人のロリカッケー皆さんコンバトラー!あなたの心に住まいを構える永遠の小学五年生!ゴッドオブロリ!八九寺真宵でーっす!」

「さて、よく聞く『思いやり』という言葉ですがどうでしょう」

「『思いやり』をもって接する側の人は『思い』を『やって』るわけですから良いでしょうけど『思い』を『やられて』る側の人はたまったもんじゃありません!ひとたまりもありません!」

「『思い』を『やられて』る人はすなわち『おもいやられる』人ということではないですか!」

「親切心が一周して悪口です」

「そこで不肖わたし、『思いやり』という言葉の改変を提案します」

「世間に投じる一石、いやさ世間に仇なす乾坤一擲!親切と自己満足の境界線!善と偽善の不協和音!」

「次回、『こよみアニバーサリー 其ノ肆』」

「阿良々木さんには思いやりをもって接します」


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其ノ肆

開幕


【010】

 

 

 

 右手首に巻かれた腕時計を確認してみれば、既に時刻は正午を過ぎていた。

 雲ひとつない晴空は休日を謳歌する人々としては最高の天候なのだろうけど、生憎、僕は兎も角として忍は吸血鬼なのだ。

 

 ギリギリだけど吸血鬼。

 

 ただでさえドーナツを所望のところを、おあずけに次ぐおあずけをくらってご機嫌斜めなのに、そこに追い討ちをかけるが如く快晴の空から射す陽射しは些か堪えたらしく、今は僕の影の中で待機している。

 

 影に潜る時にはご機嫌斜めどころか、ご機嫌が直角だった。

 

 全盛期ならば今この瞬間にでも奴を倒してやるのにと豪語していたし。

 もしかしたら今頃、僕の影の中で完全復活してるんじゃねえだろうな……

 

 対して僕はというと、今は北白蛇神社下の駐車スペースにて待機中。

 僕としてはパジャマ姿の八九寺をもっと堪能したかったのだけれど、着替えをするという八九寺に追い出されたのだ。

 

 最後の最後まで着替えをするならば僕が手伝ってやると粘ったが、最終的には獣化しやがった。

 

 読書の皆さんには八九寺の生着替えをリアルタイムでお伝えできない事を心からお詫びする次第である。

 

「心からお詫びするならまずわたしに対してでしょう阿良々木さん」

 

 皆さんお馴染の、いつも通りなファッションで八九寺が後部座席へと乗り込んできた。

 流石にあの大きなリュックは乗車するにあたって邪魔になるらしく、今は八九寺の隣の座席に鎮座している。

 

「なんだよ八九寺、いつからお前は僕の親切心に対して謝罪を求めるような子になっちまったんだ?僕は悲しいぜ」

 

「わたしの友人が犯罪者だったという現実の方がよほど悲しいです!というよりも阿良々木さんは少女の着替えを見たかっただけでしょう」

 

「誰が犯罪者だ!?それに誰彼構わずみたいな言い方は心外だぜ、僕が着替えを見たいと思うのは少女だからじゃない!相手がお前だからだっ!」

 

「残念ですけど阿良々木さんが思っているほどカッコいい台詞ではありませんよ、それ」

 

 バックミラー越しに八九寺が僕を睨む。

 

 少しくらいときめけよ、今の台詞に。

 

 しかしこうして車の鏡越しに会話していると、なまじ助手席に乗られるよりも僕が運転手である事を強く実感する。

 

 タクシーの運転手もこんな気持ちなのだろうか?

 

 少なくとも距離的には短いとはいえ、

 ここから暫くの間は八九寺の安全は僕の腕に託されているのだ。

 安全に安全を重ねて慎重に慎重を重ね着して運転に努めなくては。

 

 幸か不幸か、八九寺が支度を済ませるまでの間に発信準備は整っていた。

 車外車内の安全確認は勿論、十分な暖機運転、機能点検まで完璧だ。

 

 僕が安全運転に努める限り危険はないと保証されたところで、八九寺にシートベルトを着用するよう促し車を発信させた。

 

「阿良々木さんと密室で二人きりというシチュエーションが既に安全ではないのですが……というか忍さんはどうされたんですか?」

 

「残念だけど初心者ドライバーである僕に密室で二人きりになったチャンスを活かすような余裕はねーよ。そして忍はふて寝中だ、ドーナツに関してはマジで狭量な奴だからな。再三にわたるおあずけですっかり(へそ)曲がりだったぜ」

 

「女性から大好物を取り上げれば誰でもそうなりますよ。スイーツなら尚更です。阿良々木さんはその辺の女心がまるでわかっていませんね」

 

「ドーナツを目の前にした瞬間、我を忘れて鯨飲馬食の如く食に没頭するような奴に女心が備わってるのか?」

 

 満腹中枢すら搭載されていない奴に女心なんてあってたまるか。

 

 まあ確かにあれだけ好きだと明言しているドーナツを寸止め感覚でおあずけしていれば心中穏やかではないだろうけど、それでも今日の主役はあくまでも八九寺なのだ。

 

 突発的とはいえ僕が八九寺に対してしてやりたい事を閃いた以上は一連托生の忍にも付き合ってもらいたいところなんだけれど……ふて寝ってどうなんだよ。

 

 どちらにせよこの後すぐに影から飛び出してくる事は間違いないんだけれどーー

 

「言葉には気をつけろよお前様」

 

 頭の中に言葉が響いた。

 これはあれだ……多分だけど僕にしか聞こえていない声だ。

 

 影を通じての会話。

 

 確か貝木の囲い火蜂の時に火憐にボコボコにされた時もこんな事があった。

 僕からの発言はさすがに声に出さないと通じないけれど、忍からの声は頭の中にダイレクトな声で聞こえてくるやつ。

 事実、後部座席の八九寺は忍の声に反応してないない。

 

「ドーナツを目の前にして度重なる寸止め、それが儂をどれだけ傷付けておるかうぬにわかるか?」

 

 ーーわかる訳がなかった。

 

「その上で更に暴言まで吐くようではいくら寛容な儂といえども考えがあるぞ」

 

 お前のどの辺が寛容なのかとつっこみたくもあったけれどしかし、忍が僕だけに聞こえるように話している以上、八九寺の前で返答に及ぶ訳にもいかない。

 仕方なく僕は黙って忍の言葉に耳を傾ける。

 

 実際には耳を傾けるどころか頭を抱えたいところだけれど。

 

 つーか考えがあるとか言っていたけど考えってなんだ?

 いつかの家出以来になる長期の(だんま)りでも決め込むつもりだろうか?

 

「お前様とハチクジの命は儂が握っておる事を未だに理解しておらんようじゃな」

 

 そんな言葉が頭の中に聞こえた瞬間、僕の右足首に違和感がーー

 

「お、おい!」

 

「突然大声を上げてどうかしましたか阿良々木さん!?とうとう頭がおかしくなりましたか?」

 

 頭の中で声が聞こえる時点で頭はおかしいけれど、真に頭がおかしいのは僕じゃなくて忍の方だ!

 

 運転中につき進行方向から目を反らす訳にはいかないが、感覚から察するに忍のやつ僕の右足首を掴んでいやがる。

 

「おっと……車を停めようとは思うなよお前様。そんな素振りを見せれば即座にアクセルを全開に踏み込む。儂を愚弄した分、恐怖のドライブを堪能して反省するがよいわ」

 

 ひたぎなんて比べものにならねえーーマジなカージャックをされた。

 

「ちょっと待て!本当にシャレにならねえから!!頭がおかしくなったのかお前は!?」

 

「ちょっと待つのも頭がおかしくなったのも阿良々木さんです!少し落ち着いてください!わたしが乗ってるんですよ!?神様が乗っているのですよ!?」

 

「わかってるよそんな事!だからそういう事じゃないんだって!!」

 

「ならどういうことですかっ!?」

 

 駄目だ。

 

 話が全く噛み合わない。

 

 この物語が始まってから未だに八九寺に名前を噛んでもらってないのに会話が噛み合わないって理不尽すぎるだろ!

 

 じゃなくてーー本当に何を考えてんだよこの吸血鬼幼女!?

 ドーナツの仕返しで生命を弄ばれるって忍の中でドーナツの位置付けが確実に間違ってる。

 

「ほれ、余計な事を考えずに運転に集中したらどうじゃお前様よ。あまり動揺しすぎると儂にもその動揺が伝わってうっかりと手が滑りそうじゃ、かかっ」

 

 ーー良し、決めた。

 

 こいつは後でぶっ飛ばす。

 

 つーか動揺も何もないだろこの状況。

 どれだけ入念に安全確認をしていた所で肝心要の僕が安全運転をできないならば元の木阿弥だ。

 

 実際のところ忍は運転に支障をきたすようなアクションは起こしてないけれど、足の自由をいつ奪われるかわからないってだけでここまで平常心を乱されるものなのか。

 

「僕が全面的に悪かったからもう勘弁してくれっ!お願いしますっ!」

 

「ですから何を誤っているんですか!?わたしの寝込みを襲った事ですか!?」

 

 だから八九寺じゃないんだって!

 

「謝らねえよ!そんなもん生命に比べれば小さい事だっ!」

 

「小さいとは何ですか!?確かに生命に比べれば些事かもしれませんけど乙女にとっては死活問題です!というか本気で法廷までもつれこむ発言ですよ、それ!?」

 

「法廷にもつれこむとしたら別件だろうけどなっ!」

 

 器物破損に危険運転、最悪の場合は人身事故までありえる……

 よりにもよってこんな日に八九寺を乗せて人身事故なんて冗談にしても笑えねー!

 

「どうじゃお前様、少しは儂の無念が理解できたか?」

 

 ……だから理解できる訳がなかった。

 

 つーかドーナツで無念もないだろ……なんて言ったならばどうなるかわかったもんじゃないんだけど。

 

 死んでも言えないっつーか言ったら死ぬ。

 

 忘れていたけれどこいつってドーナツが絡むと割と本気で危険思想に走る傾向があるしーー

 

 せめて僕が死ぬなり逮捕されるなりすればドーナツは手に入らなくなる事くらい気付いてくれ。

 

「悪かったよ忍、お前の事を蔑ろにしていた訳じゃないんだけど八九寺の為だと思っての事だったんだ……理解の深いお前ならわかってくれると思ってたんだけどこれは僕が悪かった」

 

 足元の白くて細い手首にむかって小声で話しかける。

 車のエンジン音と風切り音も手伝ってか、後部座席の八九寺には聞こえていないようだ。

 

 これで本当に事故にまで発展しては元も子もない。

 口先だけの謝罪なんて本来は心外ではあるけれど、誰だって生命は惜しいだろ。

 

「わ、儂の理解が足りないとでも言いたいのかお前様は!?」

 

「そうじゃないって……ただ僕がお前に甘えてたってだけの話さ。心が広くて寛大で偉大な忍に甘えきっていた、外見から内面まで完璧すぎる程に完璧なお前の善意を踏みにじるような事をしてしまって僕は何て愚かな事をしたのかと今にも死んでしまいそうな思いだよ」

 

「……そ、そうかのう?儂ってそんなに完璧かのう?」

 

「ああ、そうだとも!完璧という言葉はお前の為にある言葉だろ?非の打ち所がないどころか非を打とうという発想が烏滸がましいレベルだよ。頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備ーー僕ごときが思い付く言葉では表現できないくらいお前は完璧だ」

 

 心にもない事を並べ立てた。

 まあ実際には頭脳明晰は嘘だとしても眉目秀麗はあながち間違いだとは思っていないんだけれど。

 

 触ってみなければわからないだろうけど忍の髪の毛ってフワフワで、肌の色だって透き通るような白さだし、顔立ちも日本人とは違う外人らしい整った造形なのだ。

 どれだけ贔屓目に見ても眉目秀麗の評価は過大評価にはなるまい。

 

 おまけに成長したら巨乳どころか魔乳になる保証までついている。

 

「……か……かか……かかかっ」

 

 突然静かに笑いはじめる忍。

 

 ドーナツの禁断症状でも出始めたのか?

 そもそもドーナツに関する中毒性なんて聞いた事がないけど。

 でもここにドーナツの中毒者がいるんだしあるのかもな、中毒性。

 

 ドーナツは用法容量を守って正しくお召し上がりください。

 

「そうじゃ……そうじゃった!儂は完璧じゃった!かかっ、よいよい!気にせずとも儂は毛程にも気にしておらんぞ我があるじ様よ。何せ儂の心は海よりも深く空よりも高い巨大な容量をしておるからのう!お前様に考えあっての行動ならば儂は何も言うまい、何せ儂は理解の深い完璧な存在なのじゃから!」

 

 容易く籠絡できたーー

 

 さすがにちょろいよ、ちょろすぎるよ忍さん……

 そもそもお前の心はお猪口の裏側くらい狭量だろう。

 

 それでも気を良くしてくれたのか、僕の右足首から小さい手の感触がなくなった。

 

 自由って素晴らしい!

 

「それではお前様よ、儂はしばらく影の中で休んでおる。お前様の言うハチクジにしてやりたい事というのが何であれ儂は知らんがドーナツを食べる時に呼ぶがよい。言うておくが……如何に寛大で寛容で完璧な儂でも次はないぞ?」

 

「わかってるよ。次はちゃんと待望のドーナツにありつけるから楽しみにしてろ」

 

 それだけ言うと忍はもう何も言わなかった。

 吸血鬼のお子様は恐らくお眠りしたようだ。考えてみればこの時間まで起きていたのが忍にとっては一番のストレスだったのかもしれない。

 吸血鬼に睡眠は必要ないとはいえ、僕に影響されている上に今は吸血鬼性も殆ど失われているのだから生活リズムだってある程度は人間に寄る部分もあるだろう。

 

 しかし理解が深いと自己評価するくらいならば僕の事をもうちょっと理解してもらいたいものだ。

 よく考えればわかることなんて言葉は僕こそがよく言われる言葉ではあるけれど、それこそよく考えればわかることだろうーー

 羽川をしてアンチアニバーサリーとまで言われるこの僕が突発的に閃くサプライズなんて、こんなところが関の山だということが。

 

 

 

【011】

 

 

 

「すいませんでした」

 

 車を降りると同時に忍へと声をかけて影から呼び出した。そして眠気まなこをこすりながらも気怠そうに現れた忍が発した第一声がこれだった。

 

 そりゃそうだろう。

 

 何せ僕が八九寺と忍を連れてやって来た場所はーー

 

「まさか一日の内に二度にわたってミスタードーナツへと来店するとは、儂とした事が想像もしとらんかった!それどころかそんな事とは露知らずお前様に不敬を働いてしまった……それでもこうして再びミスタードーナツへと連れて来てくれるとはお前様は実は儂よりも大きな器の持ち主やもしれん!いや、この世に神がおるのだとしたらそれは間違いなくお前様の事じゃろう!もしお前様以外で神の名を語る不届者がおるとしたら儂が叩っ切る!そして儂はそんなお前様を一生涯信仰してゆくとここに誓うぞ!いやマジで本当お前様ぱないの!」

 

 僕はぱないらしかったーーというか神様ならお前の目の前にいるんだけどな。ーー蝸牛の神様が。

 

 叩っ切るとか言うな。

 

 ともあれ僕達は無事に目的地へと到着した。

 

 そう、ミスタードーナツ。

 

 さすがに僕だって同日中に二度も来る予定はなかったけれど、それでも八九寺のあんな話を聞いたらこれくらいはしてやりたくなるというものだ。

 今や神様という高位の存在になった八九寺とはいえ、僕にとっては大切な友達だし、八九寺だって本質的には小学五年生なのだから神社で差し入れのドーナツを食べるくらいならば思い出の残るこの店で食べた方が記念日として相応しいだろ。

 

 忍はロケーションなんて気にしないと言っていたけれど、僕は食事の重要性は何を食べるかではなくどうやって食べるかだと思いたいのだ。

 

「あ、あの……阿良々木さん、これは……」

 

 車から降りた時点でポカンとして八九寺は、それでも自分が置かれた状況というものを理解したようで、というか理解したからこそだろう、より一層ポカンとしながらミスタードーナツの入り口を見つめていた。

 

「ほら、行くぞ八九寺。そんな所に突っ立っていてもドーナツは食べられないぜ」

 

「そうじゃぞ、我があるじ様の言う通りじゃ!折角の我があるじ様からの粋な計らいを無下にするなよ」

 

 いや、お前はドーナツに目が眩んでるだけだろう。

 

「ですがわたしは……それにここまでして頂くのも申し訳がないですし……またあの時のような事になったら……」

 

 相変わらずもじもじとしたまま車の側を離れようとしない八九寺。

 まあ過去に僕の家に宿泊した為に『くらやみ』に追い回される羽目になったこいつならその戸惑いも理解に難しくはないけれどーー

 

「気にするなよ八九寺、今のお前は迷い牛ではなく神様だろ?ならこんなもん問題にもならないさ、何せ八九寺信者である僕がそうしたいと思っての事なんだから。それとも八九寺真宵大明神は一番熱心な信者の願い事も聞けない神様なのか?それこそルール違反だろ」

 

 迷い牛ーー道に迷い道に住まう怪異。

 

 八九寺が神様へと二回級特進する前の存在。

 

 確かにあの『くらやみ』に纏わる出来事では八九寺の阿良々木家への宿泊が引き金になったのかもしれない。

 

 でも今や状況も状態も違うのだ。

 

 八九寺は蝸牛の神様にしてこの街の神様、ならばそれがどこであろうとこの街の中ならば広義の意味ではルール違反にはなるまい。街の治安維持と称してパトロールという名の散歩に従事しているくらいなのだからこれだってパトロールの一環だろ。

 

 つーかそんな事で『くらやみ』に襲われるなら昼時まで惰眠を貪る神様なんて今頃とっくに『くらやみ』に喰われてるっつーの。

 それに信者の願いを叶える事だって神様の立派な仕事の一つなのだから。

 

「それはそうですけど……いえ、そうですね。確かに信者さんの願いを叶えない訳には行きません、それでは神様の名折れです。ですから阿良々木さん、ここは謝るのではなくこう言うべきでしょう」

 

 困惑していた顔の両頬を軽くぱちんと叩いて、まるで太陽のような笑顔の八九寺は言うのだったーー

 

「ありがとうございます」

 

 

 閑話休題

 

 

 店内、もとい店員さんの対応がまずは辛かった。

 そりゃついさっき来店した奴が出戻ってきたのだから珍しくも思うだろうけど、その中でも僕と忍は周囲の注目を一身に集めた客なのだ……そんな奴が戻ってきたのだから店員さんの方こそ挨拶に困るだろう。

 

 知り合い以下の顔見知り同士が偶々鉢合わせてしまった時のような複雑にして微妙に気まずい空気がレジ前に流れていた。

 僕のメンタルがもう少し弱かったら両脇に少女と幼女を抱えて逃亡するところだったけれど、そこをグッと堪えて……何とかギリギリで堪えて……やっとこさドーナツを注文し、店員さんの立場からは予想外であろう店内でお召し上がりというミッションをコンプリートして僕達は席に着くーー

 

「儂は……うっ……儂は今ここで死んだとしても悔いはない……えぐっ……」

 

「そこまでのことですか!?というかこの場面で泣くとすればわたしこそが泣く場面でしょう!」

 

 忍の目の前には午前中に買ったドーナツが四つと、更に買い足したドーナツが三つ。合計七つのドーナツが積まれている。

 

 ドーナツが過去最高の標高を記録している。

 

 ドーナツ店にドーナツを持ち込むのもいかがなものかと思ったけれど、どちらのドーナツも同じ店で購入したのだから気にしない事にした。

 これにしたって予想外な出費ではあったけれど、泣いて喜ぶ程に嬉しがってくれるのならそれはそれで良かったとも思えるーー

 

 正直、ガチ泣きはひくけど。

 

 対して八九寺もドーナツ三つとミルクティーを目の前にして泣きはしないまでも満更ではない様子だし、僕としても記念日のお祝いは大成功といっていいだろう。

 

「突然ミスタードーナツまで連れてこられた時は驚きましたけどね。その場の勢いで行動する阿良々木さんらしいサプライズです」

 

「それは褒め言葉として受け取って良いんだよな?」

 

 八九寺の発言じゃなければこの場で崩折れてるぞ。

 目先の事しか考えないなんて散々言われてきたことだから今更といえば今更だけどな。

 

「もちろん褒め言葉ですよ、このお店に来れた事が既に最高のプレゼントですから」

 

「あ、うん……」

 

 あまりにストレートな言葉に僕の方が赤面してしまったーー照れ隠しにドーナツを頬張る。

 

 臆面も無く言われると照れるな……こういう事をちゃんと伝えられる八九寺はやっぱり僕よりも幾らか大人なのかもしれないけど。

 

 口腔内の水分をドーナツで奪われた分、一緒に頼んでおいたコーヒーで飲み下す。

 

 照れて口籠ったばつの悪い言葉ごと。

 

 ともあれ、忍はもうドーナツの虜で他の事なんかに入らない状態だけど、満足気な八九寺を見ているだけで僕の方も満たされる思いだ。

 母の日ではないし、まして記念日と呼ぶにもその当日ではないけれど、こう して自分の行為が誰かを喜ばせる事は僕みたいな奴からすれば万々歳だ。

 

 でもーー自己評価は良しとして、それとは別に気になる事はまだある。

 

 それはやっぱり八九寺の事なんだけどーーなんでこいつはドーナツを食べようとしないんだ?

 

 ひょっとして胸が一杯でドーナツすら喉を通らないとか?

 

「そういう訳ではないんですけどね。ただわたしがここでドーナツを食べると色々と面倒と言いますか……ちょっとしたホラーになりますよ?」

 

「ホラーって……そりゃ正体というか本質を語れば多少のホラーにもなり得るだろうけど」

 

 神様と吸血鬼と半人半鬼だもんな。

 そんな面子が揃いも揃ってドーナツを食べてるんだから……それでもホラーというよりコメディにしか見えねー。

 

「見える見えないの話で言えば、見えないからこそホラーなんですよ」

 

「見えないからこそ?」

 

 なんの捻りもなく反復して聞き返してしまったけれど見えないからこそホラー……?

 コメディにしか見えないものがどうしてホラーになるんだ。

 

「そういう意味ではなくて視認できるかどうかという意味ですよ阿良々木さん。わたしがまだ迷い牛だった頃は視認できるか否かの制約も明確だったのですが……」

 

 そう言うと八九寺は店内を見回す。

 カップルや家族連れなんかで賑わう店内を一通り確認するとこう続けた。

 

「現在のわたしは神様ですからね、霊感の有無であったり条件はわかりませんが誰から見えていて誰から見えていないのかがサッパリです」

 

 小首を傾げで困ったような笑みを浮かべる八九寺。

 

 視認できるかできないかーー確かに迷い牛としての八九寺ならばある程度ははっきりとした条件もあったけれど、今の八九寺ーーつまりは神様としての八九寺を視認できる条件とはなんだろうか。

 

 少なくとも僕や羽川は当たり前に見たり触ったりができるけれど、かといって誰にでもそうなのかといえばそうではない。

 神原なんかは八九寺の事をランニングついでに探しているらしいけど未だに目撃した事はないってボヤいていたし。

 まあそれに関しては八九寺の身の安全を考えれば一生見つからないままでいてもらいたいところだけどーー

 

 あの変態で百合な後輩が八九寺を視認できたかと思うと余りにぞっとしない。

 

 でもそれとホラーがどう関係してくるだ?

 個人的には神原が八九寺を見つけたことを想定した方がよほどホラーなんだけど。

 

「良く考えればわかることですよ阿良々木さん、わたしを視認できる人とそうでない人がいるという状況でわたしがドーナツを食べればどうなるか」

 

 見える人ーー

 

 見えない人ーー

 

 その差異とはーーーー

 

「……なるほどな」

 

 確かにホラーといえばホラーだった。

 

 八九寺が見えている人からすれば少女がドーナツを笑顔で食べている微笑ましい光景だろうけど、八九寺が見えない人からするとドーナツとミルクティーがひとりでに消えるという怪奇現象に他ならないのだから。

 

「それにも多少の相違がありますけどね。正確にはわたしを認知できないということは、わたしが食べているドーナツも認知できないということです」

 

 ひとりでに消えてるというよりも気付いたら無くなっているといった感想でしょうかーーと八九寺。

 

 結果としてそんなに大きな違いがあるようには思えないけど……一種の神隠しのようなものなのか?

 神隠しと聞けば嫌が応にも『くらやみ』を想起してしまうけれど、存在が認知できないということは即ち非存在という認識になるーーだとすればここで八九寺がドーナツを食べる事も『くらやみ』が怪異を呑み込む事も第三者的な視点では起きていることの内容に変わりはないのかーー

 

 ならば僕のサプライズは万々歳どころか及第点以下じゃねえか。

 

 こうして八九寺も喜んでくれている雰囲気ではあるけど、こうなってしまうと逆に気を使わせてしまったのではないのかという勘繰りが首を擡げる。

 

「そう気にしないでください、わたしはこれでとても嬉しいんですから。少なくとも二度と来れないと思っていた思い出の地にこうして来れただけでもほんの少しですがお父さんとお母さんを思い出せましたし」

 

「そんな打算的な満足をされてもさ……」

 

 実際にはドーナツを食べていないというだけの事も八九寺にとって辛いことを思い出させただけのように思えちまう。

 

 北白蛇神社の神様に使う言葉としては些か縁起が悪いけれど、これじゃ蛇の生殺しじゃねえか……

 

「良いんですよ阿良々木さん、それが怪異なのですから。神様たるもの我慢も必要なのです」

 

 ドーナツは神社に帰ってからいただきますよ、とーー八九寺は笑って言った。

 

「難しいよな、そういうの……見えるか見えないってだけの差なのにさ……」

 

 それが怪異だからなんて言い分で済ませていいなら僕の横でドーナツに心酔しているこいつはどうなんだよ。

 

 そもそも同じ怪異でありながら何で八九寺は人によって視認できなくて、忍は誰からも目撃されるんだーー

 

「せめて八九寺が誰からでも目撃されるような怪異だったらなーー」

 

 それは誰に向けた訳でもないほとんど独り言のような呟きだった。

 

 八九寺もそれ以上は何も言わず席を立って店内のポスターや装飾の観覧を始める。

 

 こんな日くらい、いくら八九寺が神様だからとはいえ楽しませてやっても良いじゃないか……それこそそんな事くらいで罰を当てるような神様がいるなら僕が叩っ切るつーの。

 

「誰からでも目撃のう……まあできなくもない話じゃろ?」

 

 いつの間にかあれだけあったドーナツが残り一つになった状態で忍は小さく言った。

 

 いや、あの物量をどこに消したんだよ!?

 

 お前の胃袋はブラックホールにでも直結してるのか?

 

 ってーー

 

「今なんて言ったんだ忍っ!?」

 

 僕の聞き間違いじゃなければ、できなくもないって言わなかったか!?

 

 肝心の八九寺は思い出にでも浸っているのか、店内をキョロキョロと観察していて僕達のやりとりは耳にも目にも入っていないようだーー

 

「じゃからできなくもないと言ったのじゃ、お前様も大概くどいのう」

 

 最後のゴールデンチョコレートにパクリと食い付くと忍はやれやれといった感じのリアクションをとる。

 

 すげえウザいリアクションだな、それ。

 

 アメリカのコメディアンかよ。

 

 しかし忍がそう言うのならーー特に怪異の事に関してそう断言するのなら本当にできることなのだろう。

 

 八九寺の視認化。

 

 この際、視認化なんて日本語が存在するのかはさて置き、それができるなら八九寺も問題なく今日という日を謳歌できるじゃないか。

 まあ話題の中心である八九寺は心ここにあらず状態でミスタードーナツご来店を楽しんでいるんだけれど……

 

「それができるなら忍、さっさとーー」

 

 気持ちごと前のめり気味に食いついた僕だったけど、それは忍の一言の前にあえなく遮られた。

 

「追加注文」

 

「……は?」

 

「じゃから儂は追加注文を所望しておる。この情報と方策は儂にとっても多少の苦痛を伴うのでな、ドーナツ三つから商談のテーブルについてやろう」

 

 さっきまで僕を神様だと崇めていた奴が脅迫してきやがったーー

 

 つーかどれだけ食べるんだよ、ドーナツ。

 

 三つの追加注文と聞けば安い買い物のように思えるけど実質これでドーナツ十個だぞ…

 今日一日で購入したドーナツの総数がとんでもない事になってるじゃねえ

 か。

 

「嫌ならば無理にとは言うまい、じゃがその方法は例え教えてやってもお前様には実行できんぞ?あくまでも儂だから可能な事じゃからな」

 

「……その方法ってやつは確かなんだろうな?」

 

「当たり前じゃ。この完璧である秘策士しのぶがそんな適当な事を言うと思うか我があるじ様よ?」

 

 適当だとしか思えねえよ。

 

 つーかそのネタまだ有効だったのか。

 

 そりゃ怪異に関する知識でいうならば六百年の歴史と忍野直伝の薀蓄がある忍だ、僕なんかよりも遥かに確かな事だろうーー

 それでもこいつの場合はドーナツに目が眩んで口からでまかせを言わないとも限らないという疑いが拭いきれない……

 

「ならドーナツ三つは成功報酬でどうだ?」

 

 成功報酬ーー

 

 これならば仮に忍が物欲から嘘を言っていたとしても僕が損をすることはない。

 本当に八九寺の視認化が成功したならばそこは素直にご馳走しても良いと思えるしーー実に最善策だろう。

 

「ほう……中々交渉が上手くなったなお前様。まあよい、結果は変わらんからのう」

 

 意外にもすんなり了承した。

 

 契約成立ーー

 

 これで僕が約束を反故にしたら本当に命を狙うと補足されたけれど、それでも忍は満足気に笑った。

 

 ドーナツがかかっている状況でこの余裕……そんなに自信があるのか?

 

「ではお前様よ、ひとまずやってもらいたい事がある。耳をかせ」

 

「なんだよ改まって、助手みたいなもんか?」

 

「そんなところじゃ、ほれ近う寄れ」

 

 そんなに大掛かりな事なのか?

 とはいえ、現状は忍の秘策とやらに頼る他ないーー僕にできる事ならば何でもやらせて貰おう。

 

 その秘策とやらを拝聴するべく忍の口元へと耳を寄せる。

 

「よいか?お前様はまずーー」

 

「ーーえっ!?」

 

 秘策というかーー本気か!?

 

 秘策っつーか本家奇策士よりも奇策じゃねえか!

 

 口元から耳を離して忍の顔を見ると、その顔は凄惨な笑みを浮かべていた。

 

「お前様にとっては造作もない簡単な仕事じゃろ?」

 

「そ、そりゃそうだけど……けど本当にここでやるのか?」

 

「嫌ならやめておけ、儂も泣く泣くではあるがドーナツを諦めるまでじゃ」

 

 こいつがドーナツを天秤にかけてここまで言い切るのだからこの策に間違いはないのだろう。

 

 しかし……本当に逮捕されたりしねえだろうなーー

 

「その段階では誰もハチクジを目撃できておらんから逮捕はされんじゃろ、で……やるのか?やらんのか?」

 

「……これが嘘だったら当分はドーナツ抜きだからな!」

 

 覚悟を決めるよ。

 

 僕はいまだに店内を物色中の八九寺を呼び付けた。

 

「どうしました阿良々木さん?もうお帰りですか?」

 

 これから自分が何をされるか全く予想もできていない八九寺が僕に歩み寄ってくる。

 そして僕はそんな八九寺の両肩を掴んでーー

 

「八九寺……許せっ!」

 

「えっ?」

 

 ーーキスをした。

 

 いや、違うんだよ?

 これは僕がしたくてしたって訳ではなくあくまでも忍がそうしろと言うからなのであって悪意は無いんだからな?

 そりゃ八九寺とのキスなんていつ如何なる時だろうと望むところではあるけど、僕だってまさかミスタードーナツの店内で事に及ぶとは思っていなかったし、率直に言うと僕だって恥ずかしいんだぞ?

 

 だからそのーー何でキスしてるんだろうか、僕。

 

「ーーーーーーーっ!?ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 八九寺が壊れた。

 

 というか発狂した。

 

「な、な、何を考えてるんですかあなたは!?とうとう欲望の枷が限界を超えて解き放たれたんですか!?」

 

「ち、違うんだっ!これには海よりも深い事情があってだな!」

 

「そんな事情は知りません!一度チューした相手なら何度しても同じだとでもお思いですか!?最低ですっ!獣以下ですっ!」

 

 半泣きで怒鳴り倒した八九寺はテーブルに置かれたままのミルクティーを一気飲みした。

 

 どれだけ嫌がられてるんだよ……さすがに落ち込んできた……

 

「二度と近寄らないでくださいっ!あなたの事は嫌いですっ!」

 

 空になったミルクティーのカップをテーブルに叩きつけると八九寺はとどめの言葉を叫んだ。

 

 それはもうマイクでも使ったかのような声量で。

 

 そしてその瞬間ーー

 

「ーーえ?」

 

 店内にいた人々の視線が八九寺に集まったのだった。

 

 

 

【012】

 

 

 

「……本当にチューする必要がありましたか?」

 

「仕方がなかろう、うぬの注意を逸らしつつすぐに飲み物を口に運ばせるにはあれが最善だったのじゃから」

 

 八九寺のテンションもとりあえずは落ち着きーーというか、自分の絶叫のせいで注目の的になった挙句、持ち前の人見知りスキルを遺憾なく発揮したところで、僕達は再びテーブルを囲んでいた。

 

 忍は追加のドーナツに上機嫌、八九寺は突然のキスにいまだ納得いかずに不機嫌なまま、僕は罪悪感と羞恥心から沈黙という、温度差の激しいテーブルではあるけれど。

 

「しかし吸血鬼の血にそんな効果があるとはな……」

 

 そう、血。

 

 血液。

 

 現在、八九寺の姿は誰の目から見ても確認できる状態になっていた。

 それについては忍の追加ドーナツの注文を八九寺に行ってもらう事で確認しているので間違いはない。

 

 問題はその現状の理由なんだけれどーー

 

「そもそも吸血鬼の血には他者に強く作用する効果があるからのう。傷を癒すのは勿論じゃが儂ほどの強い影響を及ぼす吸血鬼にもなれば効果は他にも出てくる、その中でも今回使ったのは吸血鬼性ーーというか儂の怪異としての存在力の付与じゃな」

 

 だそうだ。

 

 大まかに説明するとこういう事らしい。

 

 吸血鬼の血には再生能力とは別に、体内に取り込んだら吸血鬼性を付与する事ができるらしい。

 もっともそれは相手が吸血鬼になるとかではなく、あくまでも治癒力や動体視力ーー身体能力の向上なんかに現れるらしいのだけれど。

 

 あの春休み、吸血鬼だった僕の血で瀕死の羽川を助けたのがまさにそれ。

 

 しかし例外が存在する。

 

 その例外とは、吸血鬼の血を取り込んだ相手が怪異であった場合。

 

 吸血鬼以外の怪異が吸血鬼の血を取り込んだ場合、それはそのまま怪異性の上昇に繋がるらしいのだ。

 つまり普段は目撃すらされない存在力の弱い怪異が、吸血鬼の血によって強化されるとーー誰からも目撃される程に存在力が強まる。

 

 視認されるようになる。

 

「簡単に言うならばエナジードレインの逆という事じゃな」

 

 エナジーの注入。

 

 それによって目撃されるーーさながら吸血鬼のように。

 

「だからといって突然のチューは納得いきませんっ!遺憾の極みですっ!」

 

「ならばうぬ、儂の血を飲めと正直に言っておれば飲んだとでも?吸血鬼でもないうぬが?」

 

「そ、それは……」

 

「じゃろ?飲めんじゃろ?だから仕方なく我があるじ様に接吻をさせたのじゃ、文句どころか感謝してもらいたいくらいじゃわい」

 

 あの瞬間ーー

 

 僕が八九寺にキスをした瞬間、忍は手首に傷を付けて八九寺のミルクティーにその血を混ぜたのだった。

 それも再生と同時に蒸発して消えてしまう吸血鬼の血液を迅速に飲ませるためのキスだったのだけどーー

 

 確かに吸血鬼でもない八九寺に怪異とはいえ生き血を飲めというのは無理があるだろうーーそしてその結果、忍の秘策通り何も知らない八九寺は血液入りのミルクティーを一気飲みした。

 

 こう考えてみれば吸血鬼とはいえ幼女に自傷行為をさせてしまったのだからドーナツ三つの成功報酬はあって然るべきかーー

 

「心配せんでも効果は一時的じゃ。純粋な吸血鬼でもないうぬならば一日程で元の状態へと戻るじゃろ。我があるじ様の吸血鬼性が徐々に低下していくのと同じ原理じゃよ」

 

「今更ですけど忍さん、あなたは本当になんでもありですね……」

 

 八九寺も訳がわからないうちに事態がこうも急変したことで怒る気力も無くしたようだ。

 

「悪かったよ八九寺……ただ今日くらいは何も気にせず楽しんでほしかっただけなんだ」

 

 僕の名誉の為に明言しておくけれど、それ以外に他意はない。

 

 公衆の面前で不意打ちのキスはやりすぎたと思うけど。

 

「……はー。もう良いですよ阿良々木さん。確かに驚きはしましたけど言う程怒っている訳ではありません」

 

「え?怒ってねえの?」

 

「怒ってはいませんが次は許しませんからね、ロリカッケーにも程がありますよまったく……それにあの場面でわたしが変に恥ずかしがるようなリアクションをすれば複雑な空気になるじゃないですか。物語の趣旨が変わってしまいます」

 

 タグの追加を検討しなければいけないところでしたと八九寺は言った。プロデューサー業務は今日も健在のようだ。

 

 さすが八九寺P。

 

 空気を読んだ上であれだけ罵倒されたのであれば空気なんて読まないでもらいとも思えるが、実際に嫌われている訳ではなさそうなので良しとしよう。

 

 ……嫌われてないよな?

 

「ほれ、目的は無事に達成したのじゃからいつまでも惚けておらんでドーナツを食べよ。乾いてしまってはドーナツに失礼じゃ」

 

「お前の態度は神様に失礼だけどな!」

 

「それこそ今更ですけどね。でもこうして忍さんのおかげで弊害も無くなったことですしここは素直にご相伴にあずかるとしましょう」

 

 いただきますと、八九寺は本日はじめてドーナツを口にした。

 

 やはりその姿は神様とはいえ年相応で、どう見たって可愛らしい小学生にしか見えないーーだからこそ、こうして当たり前にやりたい事をやれる喜びみたいなものを感じて貰た事はこの上なく僕も僥倖だ。

 

 出費に関しては本当に痛いけど。

 

 激痛だけど。

 

「おいうぬ、ポンデリングはもっと敬意を込めて食せよ。ポンデライオン先生に失礼じゃろ」

 

「先生って……そんなにポンデリングがお好きなのですか?公式設定ではゴールデンチョコレートにご執心なはずでは」

 

 女子会みたいなノリでメタトークが始まった。

 

「唐突に公式設定とか言うなよ!それにしても忍、八九寺の言う通りお前はゴールデンチョコレート派だろ?つーかミスタードーナツのマスコットキャラを狙っていたお前としてはむしろポンデライオンは敵対関係じゃないのか?」

 

 こいつがどれだけ頑張ったところでポンデライオンを引き摺り下ろす事は土台無理な話だけれど。

 というかお前が狙うべきはミスタードーナツのマスコットキャラじゃなくて物語シリーズのマスコットキャラか正ヒロインの座だろうに。

 

「ふん、そんなものは後数十年も経ってあのツンデレ娘が寿命を迎えれば勝手に儂のものになるわ」

 

「とんでもねえメタネタをかますなや!」

 

 僕の彼女が死ぬ前提のメタネタなんて聞きたくねー!

 

 というか百歩譲って考えてみても、人間以外でヒロイン候補が多すぎる作品だからなーー八九寺や斧乃木ちゃんならば数十年後も健在だろう。

 

 忍がメインヒロインになる確約なんてどこにもないじゃん……ミスタードーナツのマスコットキャラよりは可能性があるけど。

 

「では忍さんはどうしてそんなにポンデライオンの肩を持つのですか?」

 

「それはのう……思い出すだけで胸が締め付けられるような話なのじゃが……」

 

 コーヒーを一口飲んでから、忍は悲痛な面持ちで語り出すーー

 

「あれは我があるじ様の影の中でいつものように過ごしておった時の事じゃった……儂はその日も寝る前の日課にしておる某動画サイトの観覧を楽しんでおった」

 

「ストップー!はっきりとストップー!!動画サイト!?お前、僕の影の中にインターネット回線をひいてるのか!?」

 

 初耳だぞ!

 

 ポータブルゲームなんかの存在は認知していたけれどインターネットってーー

 僕の影の中がどんどん漫画喫茶みたいになってるじゃねえか!

 

「儂の物質創造能力で作ったPCじゃから回線も当然ダミー回線じゃがの」

 

「おいおいマジかよ……下手したら違法行為じゃん」

 

 下手をしなくても違法行為なのだが……

 

 まさかルールを重んじる阿良々木家の長男が犯罪者を影で飼っているとは思わなかった。

 

「忍……自首しよう」

 

「じゃから怪異を法律で裁こうとするなよお前様。兎に角、その某笑顔動画で儂は見たのじゃ……」

 

 某笑顔動画って……確信犯だろ。核心に触れ過ぎだろ。

 

「見たとは一体なにを見たのですか?」

 

「うむ……兼ねてよりミスタードーナツのマスコットキャラを狙っておった儂はポンデライオンの生態と弱点を知るべく『ポンデライオン』で動画を検索しておったのじゃ、その折気になる動画を見付けてのう……タイトルは確か『ダンデライオン』じゃったか」

 

 ダンデライオンーー確か蒲公英(たんぽぽ)の英名だったかな。

 

「その動画は歌に合わせてポンデライオンが……うっ……駄目じゃ!儂の口からこれ以上は説明できん……!」

 

 何かを思い出したのか、忍は嗚咽を堪えるように啜り泣き、それ以上を語らなかった。

 

 いや、マジでなんなのこれ?

 

「阿良々木さん、携帯電話はお持ちですか?」

 

「え?あ、ああ……そりゃ携帯電話くらい持ってるけど」

 

 八九寺に促されるままポケットにしまっていたスマートフォンを取り出す。

 

「でしたらそれで忍さんの言う動画を検索してみてはどうでしょう?確かできるはずですよね」

 

 成る程。

 

 確かに今の動画サイトはスマートフォンからでも視聴できたはずだ。

 忍が説明できないまま崩折れた以上、実際にその動画を見た方が早いだろう。

 

 ろくに使いこなせていないスマートフォンを起動すると、滅多に開かないインターネットを立ち上げるーーそのまま慣れない手つきで某笑顔動画にアクセスーー

 

 えっと……『ダンデライオン』っと。

 

 この時、安易な気持ちで行動してしまった事を僕は後悔している。

 

 なぜならば僕と忍と八九寺ーー三名が揃いも揃って号泣してしまったのだから。

 

「阿良々木さん……わたしはもうポンデリングは食べれません……」

 

「僕もだぜ八九寺……どころかこれから先、蒲公英を見かけたら思い出して泣いちゃいそうだ」

 

「わたし、帰ったら神社の庭にタンポポを植えますっ!一面タンポポの花で埋め尽くします!」

 

「手伝う……いや、ぜひ僕にも手伝わせてくれ!あの悲しいポンデライオンの為にも僕にできることがあるならば!」

 

 結果から言うと、感動した。

 

 感動しすぎた。

 

「じゃろ!?そうなるじゃろ!?この動画を見た上でポンデライオンを倒すなんて言えんじゃろ!?そんな無慈悲な事をいうような奴は人間でないわ!」

 

 だからお前は人間じゃないんだって。

 

 鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼って設定はどこにいっちゃったんだよ……

 

 しかし忍がここまて言うだけあって本当に感動する動画であったことは事実だ。

 詳細を語るにはタチの悪いネタバレのようで無粋になるから控えるけれど、是非とも視聴していただきたい作品だった。

 

 非合法とはいえこの作品に出会わせてくれた忍にお礼するくらいに。

 

「しかし忍、いかに暇だったとはいえよくこんな動画を見つけたな。というか動画サイトを閲覧している時点で驚いたけど」

 

「言い方に棘を感じるのう……まあ、某笑顔動画のチェックは儂にとって当然の事じゃ」

 

 当然の事なのか?言ってる事とやってる事は完璧にフリーターやニートと呼ばれる存在のそれのように思うけどーー

 

「某笑顔動画において儂やお前様が活躍するアニメ物語シリーズの配信は相当な世話になっておるからのう」

 

「って、結局は宣伝かよ!」

 

 某笑顔動画の存在が話題になった時点でまさかとは思ったけれどーー前フリが長いわ!

 

「アニメ化物語、某笑顔動画のチャンネルで好評配信中です!」

 

「プロデューサーまで仕事をはじめやがった!?」

 

 ダンデライオンの感動が行方不明だぞ!?

 

「言ってしまえばこの二時創作というジャンル自体が既に原作の宣伝ですからね、ネット文化の発展を感じます」

 

「二時創作とか言いだしたら元も子もなくなるだろ!」

 

「今作の出演に対するギャラはどこに請求すればいいんでしょうね」

 

「ギャラ出てたの僕達っ!?」

 

 ドーナツの支払いで簡単に追い詰められている僕としては寡聞にして聞かない事実だ!

 

 まあ、あれだけの黒歴史を詳らかに語ってきた僕としてはギャラとまでは言わないまでも慰謝料くらいは貰いたいものだけど……

 

 ーー結局、この後も他愛も無い話で僕達は盛り上がった。

 主に語り部としてお伝えできないメタネタがほとんどだったけれども、終始笑顔の絶えない時間を過ごす事ができたと思うーー

 

 とはいえ、物語は始まったばかり。

 

 いや、物語は始まるばかりで終わらない。

 

 僕達の知らない所で、知る術もない物語は確かに始まっていたのだった。

 

 

 着信ーー神原駿河




【次回予告】


「やあ、届物語をご覧の皆さんこんにちわ、私は臥煙伊豆子。何でも知ってるお姉さんだ」

「以前、ソードと仕事をする機会があってね……ああ、ソードというのはエピソード、吸血鬼ハンターにしてヴァンパイヤハーフの男の子なんだけど」

「仕事ばかりで堅苦しいのも悪いと思って雑談に興じていたんだよ。私はお姉さんだからね、気遣いのひとつくらいできるのさ」

「その中でソードに質問したんだ、結婚するなら吸血鬼と人間のどちらが良いんだいってね」

「そうしたらソード、こんな事を言ったんだけどーー」

『何でも知ってるあんたが俺の歳も知らねーのかよ?この歳で結婚の事なんて考える訳がねーだろ、超ウケる。臥煙さんはそんな事ばっかり考えてんのか?』

「…………」

「彼にかけられている無害認定については考える必要がありそうだ」

「次回『するがダウト・其ノ壹』」

「いつか機会があれば神原家の湯船にでも浸からせてもらおうかな……」


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するがダウト
其ノ壹


開幕


【001】

 

 

 神原駿河という人物を語ろうとするならば僕はその全てを語り尽くせないだろう。

 

 いや、誰かが誰かを語り尽くすなんて事は土台無理な話であって極論を言えば自分自身の事ですら語り尽くせはしないのかもしれないーー

 だとして、それでも誰かに誰かを説明する場合、やはり僕には神原を説明できない。

 

 説明が追いつかない。

 

 ひたぎを始め、羽川や八九寺、延いてはもう二度と会う事も叶わないであろう千石撫子のことだって、その人物像の説明くらいならば僕にもできる。

 

 その内容の正否に関しては保証しかねるが、説明はーーできる。

 

 しかし、ただ一人の例外として神原駿河という人物は例外というよりも特例的に説明が困難なのだ。

 というのも、その人物像があまりにも混沌としているというかーー良くも悪くもハイスペック過ぎるというのが理由としては大きい。

 

 ハイスペックにしてハイブリッド。

 

 仮に、直江津高校在学生に神原の印象を聞けば皆が揃ってこう答えるだろう。

 直江津高校のスターだ、と。

 直江津高校の歴史に名を残す天才といえばご存知の通り羽川翼なのだが、直江津高校の歴史に名を残すスターといえばそれは神原駿河になるのだ。

 

 進学校として名高い僕の母校、それと同時にスポーツに関しては弱小高校の直江津高校において、そのバスケ部を全国大会にまで導いた実績は記憶に新しい。

 本人いわく、最大九人にまで分身できるだとか、本気で走れば体育館の床が抜けるなどという残念な逸話がないでもないけれど……

 話が逸しすぎているけれど……

 それでなくても、その類稀なる運動神経は人々の羨望の的だった事だろう。

 例に漏れず僕だって別段スポーツに興味関心がある訳でもないのに神原の試合を観戦しに行った事がある程だ。

 

 エースナンバーを背負い、華麗にダンクシュートを決める彼女は確かに格好良かった。

 

 更にその名声は直江津高校だけに留まらず、他校生の間でも有名で今や中学生の間でも名を轟かせる程らしい。

 芸能人でもないのに非公式とはいえファンクラブまで存在するのだから恐ろしいとさえ言える。

 

 尚且つ、神原はそれを鼻に掛ける事もせず誰にでも人当たりの良い優良生徒で通っているのだ。

 成績について実際のところどうなのかは僕の知るところではないけれど、あれだけの知名度でありながら特に目立った悪評を聞かないという事は少なくとも文武両道ではあるのだろう。

 

 男女問わずに人を惹きつけるのも頷ける。

 

 と、ここまでは学生として一般的に知られる神原駿河の人間性になるのだけど、詳しく掘り下げればまだまだ多くの武勇伝があるが、それを語ろうと思えばキリがないーーそれこそ語り尽くせないので割愛させてもらう。

 

 では、少し視点を変えてもっと親しい間柄の人間ならばどうだろうか?

 

 視点を変えるというか、視野を絞る。

 

 漠然と全校生徒という訳ではなく、神原駿河を良く知る人物からの視点。

 

 まあ、これもまた通例で、良く知るとは言っても実際のところ知っている部分はほんの一部であり、やはり全てを知る事は無いのだろうけどーー羽川の台詞のように、知っていることだけなのだろうけど。

 それでもその名声だけを知る人よりは遥かに深く詳しく知っているとは言える。

 そして、そんな人々から見た神原駿河とはどういった印象なのかと言えばーー

 

 ガラリと変わるだろう。

 

 ガラガラと崩れ去るだろう。

 

 もはやそれは二面性などではなく多面性とさえ言える変貌を遂げる事だろう。

 

 万華鏡かよあいつは。

 ともあれ、触れるべきはその側面ーー二面にせよ多面にせよ、一般的には認知されていないもうひとつの神原駿河の人間性なんだけれど……

 

 変態なのだ。

 

 これが冗談などではなく、冗談じゃない程に極めて変態なのだ。病的に。

 

 その原因の一端を担っているのが他でもない僕の彼女である戦場ヶ原ひたぎだというのだから受け止めるべき現実としては些か悲しいところだけれど、彼女を良く知る人物がその人間性を問われたならば確実に挙げられるであろうステータスである。

 

 BL好きの腐女子で百合でマゾヒストで受けでロリコンで露出狂で欲求不満ーー

 さらには所構わず僕のエロ奴隷だと公言する始末……

 

 属性過多にも限度があるだろう。

 

 どんな欲張りだ。

 

 これもまた本人いわくなのだが、相手が年下の女子であるならば十秒以内に口説けるらしい。

 

 逮捕されろ。

 

 ちなみにこれこそ極一部の人間、主に僕やひたぎくらいしか知らない事だろうけど、神原は致命的に自分にルーズな部分がある。

 それはアスリートとして肉体を管理、酷使する神原からは想像もつかないーー自堕落さだ。

 

 その片鱗というか正体がもろに露呈しているのが、他でもない彼女の自室なのだけど……僕としてはあれを部屋だと定義する事が既に抵抗を覚える。

 

 有り体に言えば、究極的に散らかっているのだ。

 いつか神原の部屋を片付けた時の感想は部屋ではなく倉庫だった。

 しかもあいつはそれを当たり前としているし、開き直って書庫だと言いきりやがった過去さえある。

 

 蔵書が全てBL本の書庫なんてあってたまるか。

 

 室内において遭難や滑落を危惧される状況を僕は神原の部屋を置いて他に知らないし、平面的にではなく立体的に散らかっている部屋も他に知らない。

 

 散らかす系女子にして散らカオス系女子。

 

 まあ、ここであまりにも酷評を連ねたならばまるで神原に対する悪口のようになってしまうのでこの辺りにしておこうと思うがーー誤解のないように言っておくけれど、僕は神原が嫌いな訳ではないのだ。

 

 むしろ大好き。

 

 つまりは直江津高校の全校生徒が憧れるスーパースターの裏側には、知られざる別の顔があるということだけ理解してもらいたい。

 

 そして、ここまで挙げただけでも神原駿河を説明できないという僕の言葉の意味がわかってもらえるとは思うけれど、神原にはもう一つの側面がある。

 

 側面というか内面、または仮面や裏面とでも言うべき一面がある

 

 怪異ーー

 

 今も尚、神原の左腕には痛々しいほどの包帯が巻かれている。

 それこそが栄光あるバスケットボール部エースの座を退く理由にして神原駿河の真の裏側と言っても過言ではない闇の顔。

 

 レイニー・デヴィル

 

 雨降りの悪魔、雨合羽の悪魔、泣き虫の悪魔ーー猿の手。

 

 神原はその悪魔に、猿に願った。

 そしてその身に怪異を宿すことになった。

 この怪異に纏わる話にはとりあえずの終止符が打たれており、今は神原の身体から悪魔が離れるのを待つばかりなのだけれど、悪魔に願うにまで至ったその激情は、だからどうしようもなく神原自身であり今も神原の中に存在している。

 

 直江津高校のスターにして、類を見ない類稀なる変態、そしてその身に怪異を宿す少女ーー神原駿河。

 

 極め付けはその親戚はあの専門家の元締めである臥煙伊豆湖なのだ。

 あの人の脅威は僕が一番この身をもって味わっているから臥煙伊豆湖がどれだけ規格外な人物なのかは保証できるとして、その専門家の元締めにしてなんでも知ってるお姉さんをしてそのまま埋もれさせておくには惜しい逸材とまで言わしめている。

 

 そんな奴の説明なんて僕に務まるはずがない。

 

 手に負えない。

 

 手に負えなくて、打つ手がなくて、手の付けようがない。

 

 だからこそーーそんな様々な自分自身をコントロールしながら、それでも確固たる自分を持ち続ける神原だからこそーー

 僕にはにわかに信じられなかったのだ……電話口から聞こえた彼女の弱々しいその声が。

 

「助けてくれ……阿良々木先輩……」

 

 

 

【002】

 

 

 

 ミスタードーナツにてお腹は満腹、財布は極度の飢餓状態な僕達は店を出た後そのまま帰路へとついていた。

 

 結局、僕が最初に購入した八九寺のためのドーナツと僕の分のドーナツはお持ち帰り用として袋に入れたままだ。

 そもそもドーナツをプレゼントしに行った筈の相手とドーナツを持ってドーナツを食べに来た挙句、ドーナツを持って帰るって……とんでもなく不経済な事をしたな。

 

 文にしたらドーナツがゲシュタルト崩壊を起こしそう。

 

「ご馳走様でした阿良々木さん」

 

 バックミラー越しの八九寺が礼を言う。

 

「突然のサプライズに加えお土産のドーナツまで頂いてしまって」

 

「良いんだよ別に、僕がしたくてした事なんだから。それに忍と八九寺があれだけ喜んでくれたら僕も満足だしさ。ドーナツは夜にでも食べてくれ」

 

 当の忍は目的のドーナツを食べ終えたからか、店を出る頃にはすっかり睡眠モードだったけど。

 普段は寝ている時間を押してまで僕に付き合ってくれたのだからそれもしょうがないだろう。今は影の中で熟睡している。

 

 それよりも神様とはいえ育ち盛りの女の子が昼も夜もドーナツを食べて過ごすとは余り良い食生活とは言えないけれど……八九寺の食生活ってどうなってるんだろ?

 ドーナツやジュースなんかは吸血鬼と同じように単なる趣向品で、実は食べなくても平気なのだろうか。

 信仰さえあれば生きていけるとか?

 

 いつか機会があれば専門家に聞いてみたい事柄ではある。

 

「ですが記念日ということでしたらわたしからも何かしらのプレゼントを用意するべきでしょう。あいにく手持ちでプレゼントできるような物はないのですが……」

 

「いやいや、本当にそこまで気にする必要はないって。その気持ちだけでも十分嬉しいよ」

 

「そうはいきません!それでは新人とはいえ神様の沽券に関わります。なので阿良々木さん、わたしに叶えてもらいたいお願いはありませんか?」

 

 新人神様の沽券というものが何なのか、僕にはいまいちわからないけど……お願いかーー

 

 唐突に問われても返答に迷う質問だな。

 

「なあ八九寺、そのお願いっていうのは何でも良いのか?」

 

「構いません。とは言っても七つの玉を集めて出現するドラゴンのようにとはいきませんが……不老不死や億万長者なんかは無理ですね。わたしに叶えられる範囲のお願いならば何でも言ってください」

 

 なるほどーー何でもとは言っても八九寺の力の範疇で、か。

 もっとも、某ドラゴンが目の前にいたところで不老不死も億万長者も願わないだろう事ははっきりしているけれど。

 

 不老不死なんて特に。

 

 ギャルのパンティーを願った豚さんがやけに堅実に思えたものだ。

 

「なら八九寺、お前でも確実に叶えられる願い事なんだけど……良いか?」

 

「決まっているのなら遠慮せずにどうぞ。八九寺真宵大明神は信者を裏切りませんよ!」

 

『ドン!』という擬音が聞こえてきそうなくらい胸を張る八九寺。

 頼もしい限りの神様だな。

 そうとなれば僕も遠慮はいらないだろう。神様からここまで言っていただいたからには素直な気持ちを願いに乗せて進言するまでだ。

 

「なら……眼球を舐めさせてくれ!」

 

「…………」

 

 神様が固まった。

 

『ドン!』という擬音が聞こえてきそうな体制と表情のまま石化した。

 

「どうしたんだよ八九寺真宵大明神様?信者のささやかな願いを叶えてくれるんだろ?」

 

「……念のためにお伺いしますけど、それは神様に願うようなことでしょうか?」

 

「当たり前だ。こんなこと神様というかお前にしかお願いできないだろ」

 

 本当は羽川にもお願いしたけど。

 

「わかりました……阿良々木さんをわたしの信者から解任します!穢れた信仰はいりません!」

 

「神様からクビにされた!?」

 

「当たり前でしょう!ロリコンを始めとする特殊性癖のハイブリッドなかただとは思ってましたけどそこまでいくと危険人物でしかありませんっ!」

 

 何故だ!?

 少女の眼球を舐めたいって健全な男子ならば誰しも願うことじゃないのか?

 それならそれで肋骨を心ゆくまで触らせてもらうとかーー

 

「ーーあれ、電話がなってる?」

 

 頭の中で八九寺に叶えてもらうべき僕の欲望ーーもとい、お願いを考えているとポケットの中の携帯電話が振動した。

 ちなみにだけど僕は運転中、携帯電話をマナーモードにしている。

 突然の呼び出し音にびっくりして予想外な事故を防ぐための処置として。

 まあ、実際にはそんな処置をしなくても僕の携帯電話が着信を受けることなんて滅多にないんだけど……自分で言ってて凄く悲しい。

 例外的に着信やメールが携帯電話の容量をパンクさせる程に寄せられる事もあるんだけど。僕が失踪した時とか。

 

 それにしたってバイブレーションが長いな。

 という事は電話だろうか?メールなら後で読めば良いけれど、電話となると気になるな……緊急の用事かもしれないし。

 これで火憐や月火からのくだらない電話だったならば帰宅してから然るべき制裁をくわえようーー主に月火に。

 

「八九寺、悪いけど少し車を止めるぞ」

 

「ま、まさか阿良々木さん……とうとうこの密室を利用してわたしの眼球を!?」

 

「そうじゃねえよ!電話が鳴ってるからだ!ながら運転は事故の元なんだよ」

 

 そもそも運転中の携帯電話使用は法律で罰せられる列記とした犯罪だっつーの。

 ルールは破りまくってきた僕かもしれないけれど法律くらいは守らなければ。

 

 後方確認、標識確認、ポンピングブレーキ、ハザードランプーー教習所で習う手順通りに車を路肩に停車させる。

 

 着信・神原駿河ーー

 

 ポケットから取り出した携帯電話のディスプレイには神原の名前が表示されていた。

 そりゃあ友達だし、携帯電話の連絡先くらいは交換している。それに今日は土曜日で直江津高校も休日なはずだ、神原からの着信があってもおかしな事ではないだろう。

 しかし、この着信に対して僕の抱いた感想はーー珍しいな、だった。

 

 ヴァルハラコンビと自称するだけあって、ひたぎと神原の二人は頻繁に連絡をとりあっているようだけど、僕と神原が連絡をとりあうことは実は少ない。

 その上、その少ない連絡の殆どが僕から発信するものであり神原から僕へと連絡をしてくることはそんなにないのだ。

 

 直江津高校を卒業してからは特に。

 

 改めて言ってみるとまるで僕が神原のストーカーであるかのような語弊もあるけれど元はあいつの方がストーカーだったし、その要件の大半があいつの部屋の掃除だという事を忘れないでもらいたい。

 

「いや、誰に対しての言い訳ですか?」

 

「世間だよ。しかしひたぎにじゃなくて僕に電話って何の要件なんだろう?」

 

 あいつの部屋を掃除するのはもう少し先の約束なのに……そう思いながら画面に表示されている通話ボタンをタップする。

 

「もしもし、どうしたんだ神原?お前から電話なんて珍しいじゃないか」

 

 とはいえ、珍しいとは言っても全く連絡がない訳じゃない。

 内心はどうせいつもの例に漏れない雑談だと思っての第一声だった。

 しかし、神原の開口一番の声に雑談を感じさせる雰囲気は無かったーー

 

「助けてくれ……阿良々木先輩……」

 

 掠れた声で、絞り出すように聞こえる受話器越しの神原の声はどうしようもなく弱々しく泣くようにーーだから全く神原とは思えないような声をしていた。

 そもそも良くも悪くも唯我独尊、猪突猛進なこいつが助けを求める事が異変なのだ。

 

 異なるしーー変すぎる。

 

「お、おい!本当にどうしたんだよ神原!?とりあえず何があったのか説明しろ!」

 

 どちらにせよ運転中に電話応対はしないけれど、それでも運転中じゃなくて良かった。

 こんな声をいきなり聞かされれば僕は運転どころじゃなかっただろう。

 

「尊敬すべき阿良々木先輩に対してアポイントメントもとらずに電話をしてしまって申し訳ないが……私はもう……駄目かもしれない……」

 

「アポは電話でとるものであって電話をするためのアポをとるなんて話はきいたことがないぞ!じゃなくて……本当に何があったんだ!?」

 

 お前は元から駄目だよと突っ込みたかったけれど、そんな突っ込みが許されるような雰囲気じゃない。

 どころかそんな不躾な事を言ったら勢い余って自殺でもするのではないかというほどに覇気が感じられない。

 

「うむ……こんな私事を偉大なる阿良々木先輩に相談すること自体が神に唾する行為なのだが……実はーー」

 

 私事を僕に相談することは後ろの少女に唾をかけるに等しいのかよーー神様の名前を使った比喩も神様を目の前に聞いてみると殆ど虐めじゃねえか。

 しかしそんな突っ込みもご法度。

 今は可愛い後輩の相談とやらを聞いてやらねばーー

 

「……私のおば『ピー』」

 

 私のおばピー?おばピーってなんだ!?

 

 この後輩……とうとう変態を(こじ)らせすぎて二次創作の文字媒体ですら規制がかかるような変態になったのか?

 

 って、そうじゃない!

 

 さっきまで某笑顔動画をこの携帯電話で見てたんだ……僕は普段からまめに充電するタイプでもないし、そもそも携帯電話の充電がなくなるまで使う事がないせいかバッテリーに関する危機感なんて皆無に等しいーー

 

 つまり、『ピー』は伏字ではなく電池残量がなくなる警告音だった。

 

「ごめん神原!訳あって今は電話できないんだ、お前どこにいるんだ!?」

 

「なんだ阿良々木先輩、取り込み中か……?私は自宅にいるが……良いんだ、もう私の事は忘れてくれ……どうか私の分まで幸せにな……」

 

「重っ!お前は命の危機に瀕した悲劇のヒロインか!単に充電切れなだけだよ!今から行くからそこを動くなっ!」

 

「今からか?ならば私は服を『ピー』」

 

 服を『ピー』ってなんだ?今度こそ規制されたか?

 しかしどうやらその心配は杞憂で、今度の『ピー』は充電が切れる音だった。

 ……いや、杞憂なのか?凄まじく嫌な予感がするんだけれど。

 

 ひとまず充電の切れた携帯電話をポケットにしまって周囲の安全確認を始める。

 

「悪いんだけど八九寺、少し予定が変わった。先に神原の家に向かいたいんだけど構わないか?」

 

「え?それならわたしは歩いて帰りますよ?電話の様子から察するに緊急を要するようですし」

 

「そんな訳にいくか。いつものお前ならともかく、今のお前は誰からでも目撃できる状態なんだぞ?いくら昼間とはいえ何かあったらどうするんだよ、今の世間はお前が思う以上に物騒なんだぜ?」

 

 変態が横行しすぎて連日連夜その手のニュースがテレビを賑わしているくらいだからな、用心は必要だし用心しすぎるくらいで丁度良いんだ。

 とは言ってもこの街は大きな犯罪なんて聞いたこともないような田舎なんだけどーー

 

「そういう事でしたら阿良々木さんと行動を共にしているこの現状が一番危険だと思うのですが」

 

「何を言ってるんだ八九寺?少女にとって僕の腕の中ほど安全な場所はないとまで断言できるぞ」

 

「死んでください、できるだけ苦しんで」

 

「何のひねりもなく罵倒された!?」

 

 バックミラー越しに見える八九寺の視線は体感で氷点下どころか絶対零度かと思うほどに冷ややかだった。

 

 マイナス273°Cだった。

 

「……ですがしょうがありませんね。わたしが何と言ったところでロリコンの阿良々木さんが今のわたしをそのまま帰すとも思えませんし。ご同行しますよ」

 

「ロリコンという部分については否定させてもらうが解釈としてはそれで良い、そうと決まれば出発だ」

 

 八九寺との会話は楽しいんだけど今は雑談を楽しんでいるような状況じゃないからな。

 一通りの安全確認を終え、僕達は一路神原邸へと発進したーー勿論、法廷速度は厳守した上で。

 

 

 

【003】

 

 

 

 気持ちの上では大切な後輩の有事に押っ取り刀で駆け付けたつもりなんだけれど、そこはやっぱり新米ドライバー。

 交通ルールに殉じてそれなりの時間をかけて神原邸へと到着した。

 

「堅実な表現で悠長に語っていますけどね阿良々木さん、いくらなんでも安全運転すぎますよ。親しい人のピンチくらいもう少し急いではいかがかと」

 

「これでも急いだんだよ。ただ交通ルールを破ることは事故に繋がるだろ?車で移動する以上は急ぎようがないじゃん」

 

「ですから刑事ドラマよろしくの緊急時のみ適応されるダイハード的な運転をするとか」

 

「お前だけはそれを推奨するんじゃねえよ!」

 

 そんな危険運転のせいでお前は死んじゃったんだぞ!?

 本当の八九寺ならそんな事は言わないなんて批判がきたらどうするんだよ!

 

「まあ、それは良いです。とりあえず行ってきてはどうですか?わたしはここでお待ちしてますので」

 

 新章開幕で交わすにふさわしいジャブ程度の会話の後、八九寺はそう言った。

 

 車内待機か……

 八九寺の見た目だけならば車内放置と言っても良いかもしれない。

 いくら今が5月で陽気も穏やかとはいえ、車内温度って結構高いらしいし……直江津市では聞かないけれど全国ニュースではパチンコ店なんかでの子供の車内放置の事故は良く聞く。

 少なくとも普段の僕ならば絶対に選択しない行動だろう。

 

 そう、普段の僕ならばーー

 

 悪いことに、というか最悪なことにここは神原駿河の根城なのだ。

 つまりは八九寺の身を案じて車から連れ出したならば、それは八九寺と神原の対面を意味するーー

 

 うん、超怖い。

 

 幸か不幸か今の八九寺ならば神原からでも視認できるだろう。

 そしてこっちは確実に不幸なことに、そうなった場合の八九寺は……想像もしたくねー。

 

 十中八九、八九寺の花は散る。

 

 神原が咲き乱れる。

 

 変態の度合いにランクがあるとして、あの後輩は間違いなくそのランクの最高峰に君臨している。

 少し想像するだけで車内と神原の部屋、どちらの方が危険かなんて答えが出るというものだ。

 

「……とりあえず窓は開けておくしロックもしないから暑くなったら車外に出るんだぞ。熱中症にでもなったら大変だからな」

 

「そもそもわたしが熱中症になるのかが疑問ですが……そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

 

 いってらっしゃいませ、と八九寺。

 確かに八九寺の事は心配だけど、かといって神原のことだって心配だ。

 どんな状況に置かれているのかは定かではないけれど、あの声から察するによっぽどの事態なのだと推察できる。

 八九寺には申し訳ないけど、僕は車をあとにして神原邸の玄関へと向かった。

 

 後輩の自宅を指して通い慣れているというのも中々聞かない話だと思うが、僕は通い慣れたその敷地を進みインターフォンを押す。

 程なくして玄関が開き、中から神原のお祖母さんが顔を出した。

 ここでも様子がおかしかったのは、いつもはいらっしゃいと笑顔で出迎えてくれるお祖母さんが心なしか曇った顔だった。

 

 ーー暦くん。

 

 ーー駿河をお願いね。

 

 とても申し訳なさそうに頭を下げられた。

 ここまでで大方の想像はつきそうなものだけど……今度は何をしやがったんだあの後輩。

 神原のお祖母さんにこんな事を言われるのはあいつが全裸で電話しているのをお祖母さんが目撃した時以来だーーつまりはそれに準じる事をしやがったのか……

 僕も大概だけど、学習しようよ……神原さん。

 

 かといってお祖母さんの前で可愛い孫娘を罵倒するわけにもいかず、当たり障りのない挨拶だけ交わして家へとあげてもらう。

 

 神原邸ーー

 

 絵に描いたような日本家屋で資産家の邸宅である事を容易に想像させるような立派な佇まい。

 その庭だって広大な敷地を有しており、阿良々木家が庭に収まるような広さを誇っている。

 枯山水がある庭ってなんだよ……

 そんな立派な家の廊下を進んでいくと程なくして神原の部屋に到着した。

 

 いや、正確には神原の部屋には到着できなかったーーだからその部屋の前、立派な襖の前で僕は足をとめてしまったのだから。

 

「えっと……神原……だよな?」

 

 そこには成仏できない地縛霊のようなオーラを纏った女の子が座り込んでいた。

 それがタンクトップにホットパンツという無駄に露出の高い服装だったから神原だと同定できたものの、それがなければ到底本人だとは思えない雰囲気だ。

 

「阿良々木先輩か……わざわざ出向いてもらってすまないな……」

 

 こちらを振り向いた神原は泣いていた。

 ポロポロというかボロボロと。

 

「ど、どうしたんだよ神原!?何があってそうなってるのか僕にもわかるように説明してくれ!」

 

 いや、本当に訳がわからない!

 出向いてみれば部屋の前で座り込んで泣いてる後輩に出迎えられるってどんなシチュエーションだよ!?

 

「それは……それはっ……!うああああああああん!」

 

 元バスケ部エースの大スターで変態の後輩が声をあげて泣き出した。

 

 号泣しだした。

 

「とりあえず落ち着け!なんとかしてやりたくても状況が把握できなきゃ何もできないぞ」

 

 この神原を見ていると状況を把握したところで何もできなそうだけど……

 

「うっうっ……すまない、ちゃんと話すから助けてくれ阿良々木先輩……」

 

 助けてくれ、か……

 そういえば面と向かって助けてくれと言われるのは千石以来かもしれないな。

 どこかのバランス大好き野郎が聞いたらお決まりの台詞が返ってきそうだーー

 まあ、それでも僕はあいつじゃないし、後輩が助けを求めてきたならば助けたいと思うんだけれど。

 

「話は今日の昼頃なのだが……」

 

「ついさっきじゃねえか、まさかこの家で何か起きたのか?」

 

「いや、起きたというか元から起こっていたと言うべきだろう……あるいは怒っていたのかもしれない」

 

 怒っていた?

 誰が?誰に?

 

「その時私は昼食を済ませて部屋で読書に勤しんでいたのだ……ああ、安心してくれ。読書とは勿論BL小説のことだ」

 

「安心できるかっ!お前は今、真剣に相談しているんだよな!?」

 

「当たり前だ!私の世界一尊敬する世界一の阿良々木先輩にふざけて相談などするものか!」

 

 そりゃあ僕は一人しかいないんだから阿良々木先輩というカテゴリーで順列を付ければ必然的に世界一位にランキングされるだろうけどさ……

 何で真剣な相談をする時にBL小説という単語が出てくるんだよ。

 

「まあ、私の事はどうでもよい。それよりも話の続きなのだが……その時、いつもならありえない出来事が起きたのだ……」

 

「ありえない?何がどうありえないんだ?」

 

「お祖母ちゃんが……私の部屋へとやってきたんだ……」

 

 ーーああ……もうわかった。完璧に理解した。

 状況を把握するならばそれだけ聞けば十分なくらいだ。

 要するにこの馬鹿、ゴミ屋敷と化した部屋をお祖母さんに見られて落ち込んでいるのだろうーー

 そりゃあ可愛い孫娘が休日に部屋に篭ってゴミに埋もれながらBL小説を読んでいるとなればお祖母さんだって何かしらのリアクションを起こすだろうし、神原は筋金入りのお祖母ちゃん子だからそのリアクションは精神的に相当なダメージを与えた筈だ。

 

 ……ん?ちょっと待てよ?

 神原のお祖母さんて無許可で部屋の襖を開けるようなタイプの人だっけ?

 どちらかといえば神原のプライベートには極力立ち入らないような印象があったんだけど……

 

「うむ、それに関しては私が入室を許可した」

 

「馬鹿かよお前は!それってもう完全な自爆じゃねえか!自業自得のハードルを自分から高めてるじゃねえか!」

 

「しょうがあるまい!小説が良いところで手が離せなかったのだ!お祖母ちゃんが襖を開けるところまで頭が回るはずないだろう!」

 

「お前の頭は元から回ってねえよ!首ごと回っちまえ!」

 

「阿良々木先輩にそこまで言われるとときめかざるを得ないが私はこれでも本気で落ち込んでいるのだ!そういったプレイは日を改めてくれ」

 

「改めるべきはお前の人格だよ!」

 

 ちくしょう……本気で心配してやってきたのにここまで損した気分にさせられるとは思ってもみなかった。

 今日からは絶対に携帯電話の充電を使い切るような事は避けようーー

 

「想像してみるがいい阿良々木先輩……あのお祖母ちゃんが部屋を開けて中を見るなり『駿河……あなたももう高校三年生、大人の部類なの……もう少しで良いから自覚を持って……お願い……』と呟いたのだぞ……」

 

「ああ、本当に同情するよ……お前のお祖母ちゃんに」

 

 僕がお祖母さんの立場ならひとまずこいつを家から追い出してる。

 即決即断で。

 

「私だって始めてそんなことを言われたのだ、さすがにマズいと思って片付けようと思ったさ……だが……」

 

「だが、なんだよ?」

 

「改めて見てみると片付けようにもどこから手をつけるべきかもわからなかった……いつか阿良々木先輩が言ってたように、ダイナマイトで爆破処理をした方が早いとさえ思えた……」

 

 こいつ……この前僕が掃除をしてから今にいたるまでの間にどれだけ散らかしたんだよ。

 

「結局、私の手には負えず……呆然と部屋を眺めながらお祖母ちゃんの言葉を思い出していたら涙が止まらなくなってしまってな。そこで阿良々木先輩に電話した次第だ」

 

「つまり助けてくれって……部屋を片付けてくれって事か……」

 

「うむ、さすがは万人の心の声を聞き分けると名高い阿良々木先輩だ!話が早くて助かるぞ」

 

「今の僕に聞き分けられる心の声はお祖母さんの悲痛な叫びくらいだけとな」

 

 それでもお祖母さんには申し訳ない限りだが、僕は今更……本当に今更、神原の部屋が散らかっているくらいでは動じやしない。

 どころか納得してしまうだろうし、逆説的に言うならばこいつの部屋が綺麗に整理整頓されていたならば狼狽えてしまうだろう。

 そう考えると僕も大概、神原に毒されているのかもしれないーー

 

 兎に角、今はこの阿保な後輩のためーーひいては孫思いのお祖母さんのために掃除に手をつけるか。

 どちらにせよ酷い有様であることを想定して、襖を開けはなつーー

 

「…………」

 

 絶句。

 

 予想以上に予想以上だった。

 観る人が観れば現代アートと言ってしまうかもしれない仕上がりだ。

 

「どうしたのだ阿良々木先輩?そんな所で固まっていては始まるものも始まるまい。不動の寡黙とまで言われた阿良々木先輩らしいといえばらしいがそれでは先が思いやられるぞ」

 

「始まるまい、じゃねえよ!始まる前から色々と終わってるんだよお前はっ!」

 

 思いやられるのもお前だよ!

 つーか何でお前がそのあだ名を知ってるんだ。

 

「何でもは知らないが阿良々木先輩のことならば何でも知ってる私だからな、あだ名どころか性癖についてだって熟知している!」

 

「……神原さん、僕にはこの部屋の掃除を放棄してお祖母ちゃんに日頃のお前を語るという選択肢もあるからね?」

 

「それは放棄と箒をかけての冗談か?さすがは阿良々木先輩、落ち込む後輩のケアも忘れない気遣いの人だな」

 

「この部屋のどこを見れば箒なんてアイテムが出てくるんだ?箒どころか重機が必要なレベルじゃねえか!」

 

 ああ!駄目だ!

 こいつと話していたらそれこそ始まるものも始まらねえ!

 襖はかろうじて開いたけど埒があかなねえよ。

 もっと別の相談かと思っていたけれど、これじゃあ八九寺を先に神社まで送った方が良いかもしれないな……どう見たって長丁場になるだろうし。

 

 とりあえず作業スペースだけ確保するしたら八九寺を送っていこう。

 そのついでにゴミ袋なんかも仕入れてくれば丁度いいだろう。

 

「そういえば阿良々木先輩、もう昼食は済ませたのか?」

 

 いつものように僕の掃除を鑑賞する体制になった神原が訪ねてきた。

 

「昼食っていうか……まあ、ご飯ではなかったけれどお腹はそれなりに満たされているよ。それがどうした?」

 

 良く考えれば今日の昼食はドーナツだったもんな……食生活としては非常によろしくない。

 もう受験生でもないのに糖分の過剰摂取は控えなければ。

 いつぞやの忘却探偵にがぶ飲みさせられたジュースを思い出してしまった。

 

「いや、いくら私といえども予定外の労働を強いてしまって申し訳なく思う気持ちくらいはある。まだ昼食前だったなら食事くらいは用意しようと思ったのだ」

 

「そういうことか。気持ちはありがたいけど今は遠慮しておくよ」

 

 それにその食事はお前じゃなくてお祖母さんが作るものだろうが。

 ついさっきお叱りを受けた相手に気楽に料理を要求するなよ。

 

「それならば飲み物くらいは用意させてくれ。私だって食事は無理でもジュースの買い出しくらいはできる」

 

「胸を張って言うような事かよ……ああ、でも飲み物はありがたいな。掃除してると埃っぽくなるし」

 

 ついでにマスクでもあればありがたいけど、それは後でゴミ袋と一緒に買えばいいか。

 

「それでは行ってくる!阿良々木先輩はお茶で良いか?」

 

「甘くなければ何でもいいよ、コーヒーでもお茶でも。ただホットはやめてくれ」

 

「ははっ、この陽気でホットドリンクを差し入れするほど私も愚かではない。しかし阿良々木先輩がどうしてもと言うのなら……この身体を使って温めたドリンクを飲んでもらうまでだ」

 

「お前の変態っぷりを僕が当たり前に理解できる前提で話すな!身体を使って温めたドリンクってなんだよ!?」

 

 身体のどこをどう使うつもりだったんだこいつ……

 

「委細承知!では行ってくる!」

 

「急ぐのはいいけど車には気を付けろよ。それでなくても土曜日の昼間ならいつもより交通量も多いだろう……しーー」

 

 つっても道を歩く事を知らないような奴だからな……忠告も虚しいくらいに全力疾走なんだろうけど。

 案の定、僕のそんな呼びかけが終わるかどうかというタイミングで神原はもう飛び出していった後だった。

 火のついた花火どころか発射されたミサイルのように。

 

 さて、とーー

 

 僕ものんびり神原の帰りを待つだけではいけないし、そろそろ作業にとりかかるか。

 見れば見るほど心が折れそうになるけれど、部屋の最深部まで到達するためにまずは入り口の確保くらはいはしておきたい。

 つーか散らかっているものの大半が腐った感じの本なんだけれど……お祖母さんのため、神原の将来のためーー帰ってくる前に捨ててしまおうかと本気で考えてしまうな。

 このシリーズのアニメ版における誇張表現には一家言あるところだが神原の部屋と火憐の馬鹿さはあながち間違ってないと思うし。

 

 でも本気でこのBL小説を全て捨てたらあいつはどんなリアクションをするのだろうか……

 パターンがあり過ぎて断定はできないけれど、うっかり僕が殺されるくらいはありえそうだ。

 それかこの世の終わりと言わんばかりに落ち込むとか。

 あの神原が信じられないくらい大絶叫したりしてーー

 

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 

 そうそう、そんな感じにーーって、今の声!

 

「は、八九寺!?」

 

 嘘だろおい……やばいやばいやばいやばい!

 完璧に僕のミスだ!真に八九寺の身を案じるならば神原を野に放つべきではなかったーー

 

 手に持っていた小説をゴミのように投げ飛ばして僕は駆け出した。

 早くしなければ八九寺が何をされるかわかったものじゃない!

 花を散らされた挙句にとんでもない変態へと調教でもされたら完全に僕の責任だ!

 つーか僕の八九寺に手遅れな事をしやがったらあの後輩は生かしておかねえからな!

 

「八九寺ーーーーーー!」

 

 僕はそのまま靴も履かずに飛び出した。

 




【次回予告】


「この度は『届物語・するがダウト』を読んでくれてありがとう。神原駿河、阿良々木先輩のエロ奴隷だ!」

「しかしこの『するがダウト』というネーミングはどうだろう」

「これまでも『するがモンキー』や『するがデビル』と、他のタイトルに比べてどこか間抜けな感が否めないタイトリングだったが……『するがダウト』は酷いだろう!」

「ダウトとは疑うとか嘘という意味じゃないか!昨今は私の事を口だけ変態だとか実は純粋初心だとか言う輩が横行しているというのに、これではそんな輩に拍車をかけてしまう」

「断っておくが私は列記とした変態だ!今もこの次回予告を全裸でおこなっているぞ!」

「次回『するがダウト・其ノ貳』」

「ところでネーミングといえば『がんばるするがちゃん』改め、『なんでもするがちゃん』はどうだろうか?」


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其ノ貳

開幕


【004】

 

 

 天を衝くような八九寺の悲鳴に駆け付けた僕が目にしたのは……なんというか、予想以上に予想以上な想像通りの光景だった。

 いや、予想以上も想像通りも……そもそも神原駿河という後輩が僕の予想や想像に収まった試しがないし、あらゆる腐属性を配合したような変態の最終形態である神原に今更なにを期待するんだという話だけれどーー

 

 それでもやはり、予想以上だった。

 

「あはは、八九寺ちゃんだ!本物の八九寺ちゃんだー!想い焦がれて幾星霜、やっと私の前に姿を現してくれたのだな!願えばいつか必ず叶うとは言うものだが、こうも突然に叶ってしまうとは!猿の手に願った私を愚かだったと言わざるを得まい!いや、出会いもラブストーリーも突然である事は今も昔も変わらないのだが!しかし噂には聞いていたが噂以上の可愛さではないか!この肌、この顔、この身体!どこから食べても幸福の味しかすまい!世界一尊敬する阿良々木先輩ではあるが今日までこのような可愛い少女を独占していたのかと思うと業腹だ!今日からは私が八九寺ちゃんを独占するとしよう!」

 

「きゃー!」

 

「そんなに照れずともよい!すぐに気持ち良くなるはずだ!安心しろ、私はその道の事に関しては匠であると自負している!」

 

「ぎゃー!ぎゃー!ぎゃー!」

 

「こら!暴れるな!……いや、暴れても良いぞ!それはそれで興奮するっ!」

 

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 

 不思議なもので、本来ならば僕がやっているであろう行為を第三者視点で客観的に見てみるとーー

 酷すぎるだろ、これ……

 神原が僕なんかとは比べ物にならない変態だという事は周知の事実だけれど、だからといってこれはもう酷いとかそういう話じゃなくて神罰を通り越して本物の刑罰までありえるレベルじゃねえか。

 人のふり見て我がふり直せとは言うけれど、これが僕を映す鏡かと思うと自殺したくなってくる。

 自殺願望が一年前の春休みを置き去りにしている。

 八九寺はあの一連の流れを振りだと言っていたけれど、これは今後のお約束も考える点が多そうだ……

 

 つーかお祖母さんの心労もこんな光景を見せられればたちまち臨界点を突破するだろうなーー

 

「がうっ!がうっ!がうっ!」

 

「良いっ!凄く良いぞ八九寺ちゃん!できればもっと強く噛んでくれっ!」

 

「アウトーっ!そこまでだ神原!」

 

 蹴った。

 

 思い返してみれば火憐に神原を紹介した時もその背中に飛び蹴りしたけれど、今回は突っ込みとかそんなんじゃなくて、ただただ蹴った。

 初代さながらのライダーキックをお見舞いしてやった。吸血鬼性が高い時ならば割と本気で背骨が砕けるくらいの力で。

 ここで『女の子に暴力を振るうなんて最低だ』という意見があるならば、僕としては大変遺憾であるし声を大にして反論させてもらうけれど、そもそも生半可な力で対抗しようとするには神原駿河は余りにもスペックが高すぎる。

 さっきの八九寺の噛み付きだって頻繁に食らっている僕が証明できるけれど、かなり痛いんだよ、あれ。そんな噛み付きをされながら恍惚の表情を浮かべるのが神原駿河という変態なのだ。

 今となっては忍の食事以外の目的で吸血することもなくなった僕の平凡すぎる力では手加減なんて必要ないだろうし、念願の逢瀬を邪魔立てされた神原が相手となると下手をすれば返り討ちにあってしまうだろう。

 そして何よりーー中途半端な暴力なんて神原にとってはご褒美でしかない上にプレイの一環にしかならない。

 

「何をするのだ阿良々木先輩!これからというところだったのに!これといって阿良々木先輩からご褒美をいただけるような覚えはないぞ」

 

 ほら見ろ……案の定ノーダメージじゃねえか。むしろ蹴った僕がダメージを受けたわ、精神的に。

 せめて転倒くらいするかと思ったけどそれすらも無駄に綺麗な側転で体制を立て直しやがったよ。

 どうして火憐といいこいつといい、僕の周りの体育会系はこういうところで無駄に出来が良いんだ?

 

「何をするのだ、じゃねえよ!お前が何をしてんだ!」

 

「見てわからんのか?八九寺ちゃんと愛を育んでいたに決まっておろう!」

 

「どんな視点から見てもそうは見えなかったけどな!」

 

「しかしこの一連の流れは阿良々木先輩がいつもやっている事ではなかったか?」

 

「そ、それを言われると……って、だから何でお前がそれを把握してるんだよ!」

 

 ストーカーをこじらせ過ぎだ。

 現に神原の魔手から解放された八九寺は僕の背後に隠れてるじゃねえか。めちゃくちゃ震えてるし……

 忘れられがちだけどこいつのキャラ設定って基本的には人見知りなんだよな。完全な初対面ではないにしてもこれまでコミュニケーションをとったことのない相手にあそこまで捏ねくり回されたら八九寺じゃなくたってこうなるよ……

 

「ん?待てよ神原、お前はどうしてこの子を八九寺真宵だと同定できたんだ?話には聞いていたとしても見るのは初めてだろ?」

 

「おやおや、どうやら阿良々木先輩は私の洞察力を低く見過ぎなようだ。リュックサックに名札があるではないか。『5の3、八九寺真宵』と」

 

 いや……吸血鬼でもないのに何でこんな小さな名札を確認できたんだよ、お前。

 それって単純に変態の為せる技ってだけじゃん。

 

「それにここまで特徴的な少女もそうはおるまい。仮に名札がなかったとしても私が取るべき行動は何も変わらなかっただろうな!」

 

 僕の後輩が無差別的犯行に及ぶ変態さんだという事実が確定した。

 確かな確証もないのに可愛いって理由だけで少女を襲うんじゃねえよ。いや、確証があっても駄目だけど。

 

「阿良々木さん、わたし……初めて人をこんなにも怖いと思ったかもしれません……」

 

「ああ、僕も相当に戦慄してるよ……」

 

 先に投稿されている『こよみアニバーサリー』において犯罪予備軍どころか完全な犯罪者として扱われた僕だけど、この分だと僕よりも先に犯罪者になるのは間違いなく神原だろう。

 帰宅したら両親に情報提供してやろうか。

 

「とはいえ、私とした事が少し舞い上がりすぎたようだ」

 

 一通り興奮の熱もクールダウンしたのか、神原は落ち着いた様子で向かい治った。

 

「八九寺ちゃんのあまりの可愛さに理性を失いかけてしまったが危なかった。こんな事では阿良々木駿河と呼ばれてしまう」

 

「呼ばれねえよ!僕の名前を侵略するなや!つーかお前は僕を尊敬してるんだよな!?」

 

「無論、尊敬はしている。しかし『まよいルーム』では理性を失った阿良々木先輩が八九寺ちゃんを誘拐していたではないか。それに阿良々木の性を名乗るには私は余りに役不足だ、何より私はこの神原という名が嫌いではないしな」

 

「メタネタが過ぎるぞ!どちらかというと神原の名折れみたいな暴挙だったじゃねえか。お前が好きな神原の名がお前によって地に堕ちかねねえよ」

 

 

 その暴挙すら、普段は僕の役回りだと思うと一概に責めてばかりもいれないのだけれどーー

 

「そんな訳でーー」

 

 神原は軽快に歩いてくると僕の目の前で立ち止まり、警戒しまくってる八九寺の目線の高さに合わせるようにしゃがんでから包帯の巻いてない右手を差し出した。

 

「先ほどはすまなかった。阿良々木先輩や羽川先輩から聞いて既に知っているかもしれないが私は神原駿河、阿良々木先輩のエロ奴隷だ。よろしくな八九寺ちゃん」

 

 一言二言、どう考えても余計な言葉が混ざってはいるけど、さっきまでの変態っぷりがうって変わってスポーツ少女らしい清々しい握手の申し出だった。

 本当、普段からこうだったらどれだけ格好いいんだろうな、こいつ。

 そしてそんな神原に対して八九寺はーー

 

「話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」

 

 当たり前の反応を返すのだった。

 

 

【005】

 

 

「お願いだから話してくれないかな、八九寺ちゃん」

 

 その後、僕の背中にしがみついていた八九寺もなんとか警戒のレベルを下げたようで、無言ながらも僕から離れた。

 とは言っても神原とは一定の距離を保っているし受け答えも『あなたのことが嫌いです』の一点張りだけれど……

 しかし、当初は神原との接触を避けるため足早に八九寺を神社へと送り届けるつもりだったけれど、こうなってしまえば元も子もないとうか本末転倒というか元の木阿弥ーー覆水盆に返らずな訳で、要は開き直って神原のゴミ箱と化した部屋の掃除へと戻ったのだった。

 

「なあ阿良々木先輩、八九寺ちゃんが一向に話してくれないのだがどうしたものだろうか」

 

「僕が言うのもなんだけどな、自分の胸に手を当てて考えてみろ」

 

「胸に?何故ここで今から自分を慰めなければならないのだ?まあ、阿良々木先輩がどうしてもと言うのならやらないわけにはいかないが……」

 

「ああ、すまなかったな神原。あたかもお前が然るべき常識をわきまえている前提で話してしまって悪かった。お前はそこで八九寺に土下座してろ」

 

 お前のそういう限度知らずの変態っぷりが大きな要因になってるんだっつーの……

 成長していれば僕や神原よりも年上だとはいえ、八九寺はあくまでも小学五年生で10歳の女の子なのだ。話す内容や知識なんかは大人顔負けな八九寺でもさすがに神原クラスの変態に対応するだけの教養はないだろう。

 

「ははっ、これで私まで土下座を始めてしまえばいよいよ阿良々木駿河になってしまうではないか。いくら私でも尊敬する先輩の専売特許を奪うような事はできん。しかしここまで頑なに話してもらえないとなると阿良々木先輩に伺う他ないのだが、どうして私にも八九寺ちゃんが見えているのだ?」

 

「人を常に土下座している先輩みたいに言うな。八九寺の事は、そうだな……」

 

 そりゃ気になるだろうけどさ。

 どう説明したら良いものか……というか、どこから説明したら良いものか。

 いやーーどこまでを説明できるものか。

 そもそも僕の周りの奴はそれぞれがそれぞれに複雑な境遇の奴が多いんだけど、その中でも八九寺ってぶっちぎりでヘビーな人生を歩んできているからな。

 人生を歩むどころか途中からは幽霊だったし……家庭環境や怪異絡みの体験談ならば皆が共通して不幸に身をやつしているけれど、八九寺は別格すぎる。

 何せ本人が死んでしまっているのだ。そういう意味でも、こんな不幸自慢みたいなものを比べあったところで虚しいだけだけれど、それでも比べるまでもなく八九寺は独走している。

 そこまでの詳細を懇切丁寧に説明する必要もないだろうけど、だからといってどこからなら説明できるということもない。

 

 説明なんてできっこない。

 

 突き詰めた話、八九寺の物語は始まりから現在までがトップギアで悲劇的すぎるのだ。

 それは僕みたいに家庭や人間関係に恵まれた奴が、おいそれと安易な気持ちで語っていいような物語ではないし、神原を信用しているとか信用していないとかの問題ではなく、もっと基本的なーーいわばモラルの問題だと思う。

 

「なんだ?言いにくいことだったか?ならば無理に説明せずともよいが」

 

 小首を傾げながらも、神原はあっさりと引いた。こういうところで神原のさっぱりとした性格は本当にありがたい。

 後輩に気を使わせることは多少の抵抗はあるけれど、だからといってこのまま頭を捻っていたところで僕の口から説明する術はなかっただろうからなーー

 

「わたしはかまいませんよ」

 

 それは頑なに沈黙を守り続けていた八九寺の発言だった。

 

「かまわないって八九寺……それはだってお前のーー」

 

「わかってますよ阿良々木さん。ですがそこまで気を使われても挨拶に困るというものです。それに、わたしは神原さんのことを直接は存じませんが阿良々木さんが信用している方なのでしょう?話してもいい理由としてはそれで十分ですよ」

 

「おおっ、やっと口をきいてくれたか!これは私に対して心を開いてくれたということで間違いないな!」

 

「違います。警戒のレベルを下げただけです」

 

「つまりは印象が上昇中ということだな?」

 

 理由としてはそれで十分、か……

 当事者である八九寺にそう言われては説明するのも吝かではないけれど、なんだって僕の周りの奴はこういう部分で僕への信用がこうも過剰なんだろうかーー

 そんな事を思いながらやっと口を開いた八九寺と、それに歓喜する神原を見ていると自然と笑みが浮かんでしまう。

 

 たく……もう少し僕に対する信頼のレベルを引き下げろっつーの。

 もっとも、これが神原だったからこそ八九寺は真相の説明を良しとしたんだろうけど。

 

 舞台裏ーー

 いつか八九寺と怪異に絡む話をした時に、そう言っていた。

 怪異とは舞台裏であり、それを知らない人間がわざわざ覗き見るような世界ではない、と。

 今も神原の左腕に残る怪異。レイニーデヴィル。

 怪異を知るどころか、その身に怪異を宿す神原だからこそ、八九寺はその話を知っても問題ないと判断したのだろう。

 いや、それすらも僕の憶測の域を出ないんだけれど……

 

「どうしました阿良々木さん?なんでしたらわたしが説明しましょうか?」

 

「いや、僕が説明するよ。お前の口から説明してわざわざトラウマを思い出す必要はないだろ」

 

 誰の口から説明したとしても結果的には変わらないとはいえ、やはり辛い思い出を本人に語らせるというのはあまりにも良心に欠ける。

 辛いばかりの今まででもなかったとは思うけれど、だからといって幸福に恵まれた物語でもなかったのだ。

 八九寺にだって人として人生を謳歌し、人並みに生きてみたかったという思いが無いわけでもないだろう。

 特に、八九寺が生存するルートを実際にこの目で見ている僕としては尚のこと強くそう思ってしまう。

 僕は清掃作業に使っていた軍手を外し、かろうじて確保したスペースの中で神原と向かい合った。

 

「ふむ……どうやら真面目な話になりそうだな。佇まいを正して拝聴しよう」

 

「そうしてくれると助かるよ。それじゃあまず八九寺が見えている理由についてだけどーー」

 

 こうして僕は八九寺に纏わる物語を語り始めるーー

 両親の事、事故の事、迷い牛や『くらやみ』、北白蛇神社についてーー

 そして一年という時が経ち、今日という日に八九寺真宵に僕がしてあげたかった事の全てを。

 張本人である八九寺も時折小さく頷くだけで特に口を挟まず、普段はあんなにも落ち着きのない神原ですら物静かに聞き手に徹してくれた。

 そして何より、語り始めれば弁も立つかと思っていた僕自身が、語り始めれば語り尽くせない程に様々な思い出を想起してしまい、思いの外長い説明になってしまった事に驚いた。

 あの日、一年前の母の日に白浪公園で始めて八九寺に出会ってから今日に至るまでの一年間……それはどうやら僕が思う以上に僕の中で色濃い一年だったようで、それでいて全ての出来事がまるで昨日の事のように鮮明に思い出せるのだからやはり特別な一年間だったのだろう。

 八九寺が成仏した時の話なんてうっかり泣きそうになったし。

 

「ーーと、まあ、僕から話せるのはこんなところでこれが全部だ。これが今日に限ってお前にも八九寺が見える理由だよ」

 

 全てを語り終えた時、あれだけ照りつけていた日差しはゆっくりとその一日の業務を終えようとしていた。

 五月の気候も穏やかになってきた時期とはいえ、どこからともなく吹き込んでくる風は少しだけ冷たさを感じさせる。

 

「さすがはシリーズを通して長年語り部を務めている阿良々木さんですね、わたしの話なのにうっかり聞き入ってしまいました」

 

「いや、なんつーか……僕にとってもそれだけ内容の濃い一年間だったしさ。別に僕が語り上手って訳じゃねえよ」

 

「惜しむらくは今の阿良々木さんの語りをお届けできなかった事が悔やまれますね。その辺りの回想シーンに関しましては是非ともお近くの書店にて『物語シリーズ』をお買い求めください」

 

「結局のところ宣伝かよ!」

 

「プロデューサー業務も楽ではありませんからね。映像作品に関しましても是非BLD、もしくはDVDの購入をお忘れなく!」

 

「プロデューサー業務を一旦お忘れしてくれっ!」

 

 メリハリが効きすぎてて侘び寂びが置き去りじゃねえか。日本語のプロを自称しておきながら残心って言葉を解さないのかこの小学五年生は。

 僕のシリアスな語りが見る影もなくギャグパートと化しちゃったよ……プロデューサーならばその辺の空気こそをプロデュースしてくれ。

 張本人のお前がそんなギャグパートの空気を出したら神原が黙ってる訳がーー

 

「……した」

 

「え?」

 

 ほら見ろ。

 ギャグパートにおいて羽川ならまだしも神原が黙ってる筈がないのだ。

 こいつまで宣伝を始める事もないだろうけど、その分どんな奇天烈発言が飛び出す事やら……

 

「感動したぞ阿良々木先輩!」

 

 ……本当に奇天烈発言が飛び出した。

 

「ど、どうしたんだ神原!?」

 

 シリアスパートにおいてもプロデューサー業務を怠らない八九寺のプロ意識に感動したのか!?

 

「謙遜することはないぞ阿良々木先輩、いきすぎた謙遜はかえって嫌味だ。いや、兼ねてより偉大なお方だとは認知していたが私の認識など軽く超えてしまうのだから底が知れない」

 

「えっと……底が知れないのはまさしくお前の頭なんだけど。おい八九寺、どうなってんだよこれ?」

 

「わたしに振らないでくださいよ!こんなの羽川さんでもわかりませんって」

 

 羽川でもわからないって事はないだろ。あいつならこの状態の神原をどうにかできるに決まっている。

 が、残念な事にこの場には僕と八九寺しかいないのだ。

 

 とどのつまりは手詰まり。

 奇天烈大百科神原駿河の独壇場。

 

「何を困惑することがあるのだ二人とも?私はこれでも感動しているのだぞ」

 

「困惑もするわ!終始一環して意味がわからねえよ、何に感動したって?」

 

「またまたー、とぼけるもんなー阿良々木先輩は。確かに八九寺ちゃんのエピソードには胸を打たれた、少なくとも私の過去なんて及びもしないと思うくらいにな」

 

 神原の過去ーー

 生きてさえいれば幸せだ、なんて言う声もきかれる世の中ではあるけれど、それでもやっぱり神原の過去を軽んじて見る事はできない。

 両親との死別、同級生からのいじめ、失恋からいき遭う怪異ーーそんなもん軽んじて見れるはずがねえだろ。

 というか、誰かと誰かの過去を並べて比べて優劣を付けるという発想がどうしようもなく間違っているのは明白だろう。

 が、神原はどうしても自分の事をないがしろにするというか軽視するというか……計算から外した考え方をする傾向があるからこの場合は仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。

 自分はともかくとして、なのだ。

 やはり僕にはその考え方を肯定できないけれど……まあ確かに八九寺の話を聞いて心が動かないという事もないだろう。

 だから、神原が胸を打たれたとまで言うのは理解するとしよう。

 

 納得はできないにしても理解はしたとしよう。

 

 で、感動って何に?

 胸を打たれたって……何に!?

 

「決まっておろう!温柔敦厚な阿良々木先輩の行いにだ!」

 

「やっぱりこの人怖いです!」

 

 僕も怖いよ。

 少なくともテンションが上がるような話はしてないよ。

 

「確かに八九寺ちゃんの過去は悲しいが、それでも過去を変えられないのが人間だろう。ならば昔の事をあれこれと言うよりも今からをどうするかが重要だと私は思うのだ」

 

「か、神原さん!?どうしちゃったのかな!?」

 

 いよいよ熱の入り方が尋常じゃなくなってきたぞ!

 

「そこにきて阿良々木先輩の優しさときたらどうだろう?因縁とも呼べる母の日に八九寺ちゃんをあのような辺鄙な場所に一人ぼっちにしておけずこうして連れ出した上に一日を共に過ごしてあげようとは……阿良々木先輩の優しさを目にすればガンジーも裸足で逃げ出すに違いない!」

 

「わたしの家を辺鄙な場所などと言わないでください!丁寧な言葉遣いに見えて頗る失礼です!阿良々木さん、この人は常にこんな感じなのですか!?」

 

 熱り立つ八九寺には悪いけど残念ながら通常運転だよ……僕が裸足で神原から逃げ出したくなるくらいにな。

 

「ちなみに私は裸足という言葉で興奮する逸材だぞ!」

 

「常軌を逸しすぎだ!」

 

 逸材って言葉をそんなふうに使うな。

 それに優しさかどうかは兎も角として、こんな事は誰だって当たり前に思い付く事だろう。

 羽川だって電話で八九寺の事を気にかけていたし、僕が特別優しいという訳ではない。

 特別なのはあくまでも僕にとっての八九寺で、母の日というその一日が特別なのだから。

 

「しかし阿良々木先輩、それではこんな事をしている場合ではあるまい?」

 

 一通り熱い思いを吐き出した神原は少しだけ落ち着いたトーンで僕に問う。

 こんな事って……掃除のことか?

 

「私が頼んで来てもらっておいてこんな事を言うのもなんだが今日は八九寺ちゃんのための一日なのだろう?私への気遣いはありがたいが阿良々木先輩は一人しかいないのだ。部屋の掃除など後日してくれれば構わん」

 

 それでも後日しなきゃいけねえのかよ……自分で片付けようとした意気込みはどこへ消えてしまったんだと聞きたくなる。

 

「つーか八九寺のための一日って言っても用事というかサプライズの方は粗方終わっちまったしな……別にこの後の用事が立て込んでるとかでもないんだぜ?」

 

 お土産のドーナツも購入してあるし。

 

「え?何を言っているのだ?だってこの後は八九寺ちゃんを連れて阿良々木先輩は自宅へと帰り、ご家族と一緒に晩餐を囲むのであろう?」

 

「あろう、じゃねーよ!あろわねーよ!何だよその企画外の企画は!?」

 

「そうとぼける事もなかろう。それとも何か?阿良々木先輩は前日に少しばかりのサプライズをしたからといって命日の当日をこんな小さくて可愛い少女に一人で寂しく神社に篭って過ごせと言う畜生にも劣る下衆な人間だったとでもいうのか?そんな日くらい家庭の温かさに触れてもらいたいという気概もないと?」

 

「うっ……」

 

 ボコボコに言われた。

 確かにそう言われてしまうと命日を迎える瞬間にあんな山の上の神社に一人ぼっちというのは酷な気もするけれど……

 つーかここまで言われるとかえって僕が極悪非道な奴に思えてくるけれど……

 

「あの……」

 

 僕が頭を抱えていると八九寺が遠慮がちに言葉を発した。

 

「お気遣いは素直にありがたいのですがそれはさすがに遠慮しておきます……ほら、突然お邪魔しても阿良々木さんのご家族もご迷惑でしょうし。それに見えるようになっているとはいえ私は神様でーー」

 

 怪異ですからーー

 八九寺はそう言うと困ったように笑ってみせた。

 

 言うまでもないだろうが、勿論僕だって八九寺を招くことを迷惑だなんて思っていない。

 というか神原に言われて初めて自覚したけれど、今は命日を迎える瞬間をあんな場所で一人にしておきたくないと思っている。だってそれは八九寺が十年にわたって味わってきた苦行そのもので……迷い牛だった頃と何も変わっていないのだから。

 それでも即決できるほどに簡単な事じゃないという事実もまた揺るがない。

 どうにかしてあげたくてもどうしたら良いものかわからないジレンマで僕は口を開けなくなっていた。

 

「八九寺ちゃん」

 

 何とかならないものかと考えていると神原は八九寺の前に移動して真っ直ぐにその眼を見つめている。

 考えるよりも行動する女、神原駿河ここにありだ。

 

「いいか八九寺ちゃん、確かにきみは私や阿良々木先輩よりも本来は年上なのだろう。それでもきみは子供だ。怪異だろうと神様だろうと八九寺ちゃんが小学五年生の可愛い少女である事にかわりはない、きみは少女五年生の神様なんだ」

 

「は、はい……え?どういうことでしょうか?」

 

「つまりな、子供が遠慮なんてするもんじゃないということだ。きみは神様で人間より上位な存在だとしても子供である以上は甘えて良いのだ」

 

「…………」

 

「それに私は『くらやみ』というものは知らないが八九寺ちゃんはこの街の神様なんだろ?ならば阿良々木先輩の家だってその管轄の範囲内ではないか。何もルールは破っていない。きみはきみのやりたいようにやれば良いんだ」

 

 諭すように、それでいて力強く神原は言った。

 遠慮なんてするなーー

 それは簡単なようで簡単ではない、特に誰も巻き込みたくないが故に迷い牛であった時も頑なに人を遠ざけていた八九寺なのだ。

 仲良くなってしまえば天真爛漫で快活な少女だけれど、その内面は想像以上に繊細で弱々しい。けれどーー

 

「そうだな……八九寺、お前が僕に遠慮するなんてお前らしくもないぜ」

 

 けれど、僕は八九寺の親友なのだ。

 辛い時は辛いで良い。嫌な時は嫌で良い……遠慮なんてするようなレベルの関係性はとっくの昔に終わっている。

 そんな事すら頭から抜け落ちていた僕はやっぱりどうしようもなく愚か者なのだろうーー真っ黒な瞳であの子が僕を嗤うのが少しだけ理解できた。

 

「今日くらい甘えたって罰はあたらねえよ。つーか罰をあたえるのは神様の役目なんだから他でもない神様のお前が気に病むんじゃねえよ」

 

「阿良々木さん……」

 

「おお!さすがは阿良々木先輩、器の大きさが常人とは桁違いだな!大きすぎて全容が掴めない程の器の持ち主だ!」

 

「お前は僕に対する評価を改めやがれ!……でも神原の言う通りだ、こんな日に一人でいることを子供が我慢しなきゃいけないなんて間違ってる。八九寺は今日一日を楽しく過ごす義務がある筈だ」

 

 そう、我慢なら今まで散々してきただろう。これ以上の我慢なんて必要ないほどにーー

 

「ですが阿良々木さん、ご家族に対してわたしのことをどう説明するおつもりですか?見えている以上は人間でも通るかもしれませんし、わたしと阿良々木さんの関係は友人ですが……世間がそれを受け入れられる程に身分が近い訳でもありません……年齢的にも無理があるでしょう」

 

「それは……まあその時考えるとしてさ……」

 

「ふふ、無理ですよそんなの。阿良々木さんはそこまで嘘が上手ではありませんから」

 

 だからそれ以上迷惑になることはしないでくれ、とでも言いたげに八九寺は笑った。

 確かに僕と八九寺は友達だ。でも、そんな説明で納得させるには余りにも存在が遠い……小学五年生の少女と大学生の男子が友達ってーー犯罪の臭いが半端じゃない。

 

「なんだ?そんな事で悩んでいるのか?」

 

 ここで場違いな声を上げたのはキョトンとした顔の神原だった。

 

「そんな事でって言うけどな、大学生の僕が小学生の女の子を連れて帰ったら確かに怪しいだろ……その辺の説明は中々骨が折れるぞ」

 

 特にでっかい方の妹が勘違いしやがったら物理的な意味でも骨が折れる。あいつは冤罪を疑わずに死刑を執行できる奴なのだ。

 

「ならば私が一緒に行って説明しようか?」

 

「お前が?まさかいつかの月火が起こした茶道部の幽霊部員の時みたいにうまい嘘でもついて誤魔化すのか?」

 

「そんな事はしない。いくら私といえども尊敬する先輩の可愛い妹に平気で嘘をつこうなどと考えるものか。というかそもそも嘘をつく必要すらない」

 

 嘘をつく必要すらない?

 ならばどんな説明をもってして我が家のゲートキーパー二人を納得させるというんだ?

 確かにあの二人は馬鹿だけど、だからといって悪と名のつく事に対しては強固な程に頑固だぞ。いくら神原とはいえ、そこを簡単に譲るとは……

 

「そんなに心配するな阿良々木先輩。私のような若輩者が偉大なる阿良々木先輩のお役に立てる日がこようとは思ってもみなかったが、こうなればこの神原駿河、全力を持って阿良々木先輩に降りかかる火の粉をはらってみせよう!」

 

 こいつは僕の妹二人を殺すつもりなのか!?

 ファイヤーシスターズを名乗っていたとはいえ火の粉をはらうとか比喩にしても些か物騒だわ!

 

「ですが神原さん、任せておけとは言ってもどうするつもりなんですか?」

 

 もはや神原の勢いに押されてしまい、遠慮どころか反論すらできなくなった八九寺の質問はさながら最後の抵抗だったのかもしれない。

 しかし神原はそれすらも意に介さず、ただ簡単な口調ではっきりと答えるだけだった。

 

「無論、真実を語るのみだ」




【次回予告】


「どうも、『届物語』をご覧の皆様御機嫌よう、戦場ヶ原ひたぎです」


「突然だけれど本日七月七日が何の日かと聞かれて七夕と答えた愚かな愚図共はさっさと死んで来世からやり直しなさい」


「という訳で、本日七月七日は私戦場ヶ原ひたぎ様の誕生日です。ハッピーバースデートゥー私です。はい拍手ー。プレゼントは現金で構わないわよ」


「とは言っても、私ってこの七夕という日が誕生日だという事にそこまでの喜びを感じてはいないのよね」


「どちらかといえば七夕が嫌いでしょうがないわ」


「まあ、阿良々木君でもない聡明な読書の方々ならご存知でしょうけれど、あの織姫と彦星の話って全然共感できないじゃない。わかりやすく愚かしい御伽噺じゃない」


「愛を免罪符に自堕落な生活を送っていた結果、その関係を引き裂かれた二人のお話って……笑でも誘っているのかしら?そんな日に誕生日を迎えた私の迷惑を考えてもらいたいものね」


「愛する人と一緒にいられるための努力を怠った結果に悲劇のヒロインとして君臨するだなんて随分と神経が図太いというか、私を見習ってもらいたいものだわ」


「次回『するがダウト・其ノ參』」


「それでも短冊に願い事は書くのだけれど」


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其ノ參

長いこと更新が空きましたが

開幕


【006】

 

 

「どうするおつもりなんですかね、神原さんは……」

 

 ニュービートルの後部座席、傍にリュックサックを置いた八九寺は皆目見当もつかないといった様子で呟いた。

 

 結局、神原の部屋を掃除する為に出向いた筈の僕達は、しかし掃除なんて触り程度にしかこなさないままこうして帰宅の路についている。

 それも善は急げと囃し立てる神原自身の手によって。

 

 済し崩し的に。

 強制的に。

 

「あいつが何をするつもりかなんて誰にも予想できねえよ。できたとしてもひたぎくらいのもんだろ」

 

 脊髄反射だけで生きているような奴だからな。スポーツ選手としては超一流なんだろうけれど、こういう状況になると軽々と想像の範囲を超えてくれるのが痛し痒しだ。

 あいつほど単純で真っ直ぐ進む奴もそういないだろうけれど、その真っ直ぐさだって行き先が不明ならばシンプルな分、予想は困難を極める。

 真っ直ぐさのベクトルが変化球どころか消える魔球なのだ。

 そしてその証拠に、この状況の生みの親である肝心の神原はというと、驚くべきことにここにはいない。

 八九寺を僕の家へと招待する事を発案し、それを一分一秒を争う事態のように急かした本人はーー

 

「先に自宅へと戻っていてくれ阿良々木先輩。私は支度とお祖母ちゃん達への説明をしてから後を追う」

 

 と、僕達を見送ったのだった。

 これに関しては、今はできるだけ車に他人を乗せたくない僕としてはありがたい申し出だったのだけれど、あいつがどのように僕の妹二人を看破するつもりなのかを聞けなかった危機感も同時に胸に渦巻く。

 火の粉を払うなんて言ってはいたけれど……実力行使にでたりしないだろうな?

 消える魔球こと神原駿河がデッドボールとして僕の命に深々と突き刺さる可能性も決して低くはないように思うんだけど……

 

 マジで勘弁願いたいーー

 

「それにしても本当に良かったんですか阿良々木さん?……今なら神原さんもいませんし引き返せますよ?」

 

 僕が妹と神原の行く末について頭を抱えていると、後部座席から小さい声が聞こえた。

 それは他でもない八九寺であり、ルームミラーに映る八九寺は、柄にもなく消極的に弱々しく僕を見つめていた。

 帰宅の路とは言ったものの、この道程は八九寺にとって帰宅ではない。外泊なのだ。

 言い出したのは神原だとはいえ、僕も同意の上で今日は八九寺を僕の家へと招待すると決めたーーどうやら八九寺はそのことを未だに申し訳なく思っているらしい。

 らしからぬといえばらしからぬ、それでも当然といえば当然な反応。僕が八九寺の立場だったとしても気まずさや遠慮を覚えることだろう……それでもーー

 

「引き返したりしねえよ。神原に言われたからじゃない、僕がそうしたいからそうするんだ。今更そんな遠慮をするくらいなら腹を決めて僕の妹と打ち解ける方法でも考えてろ」

 

「…………」

 

 困ったような呆れたような顔をするものの、八九寺がそれ以上の発言をする事はなかった。

 去年の夏休みに起きた『くらやみ』を巡る一連の事件を思い起こせば僕の家へと再び宿泊するのはどうにも気が休まらないだろうけれど、それでも八九寺にこんな日まで一人でいてほしくないというのは僕の我儘だ。

 

 そして僕の我儘で構わない、なんたって八九寺は僕の親友なのだから。

 

 むしろ僕にとって真に危惧すべきは『くらやみ』なんかではなく、八九寺が遠慮しているという事実があるから助かっているようなものの、はっきりと拒絶された場合は僕と神原による行為は親切から一転して拉致や誘拐の類になってしまうというところなんだけれど……大丈夫だよな?

 

「ああ、そういえば八九寺、そのリュックの中ってまだ着替えとか入ってるのか?」

 

「何を想像しているんですか?まさか……夜な夜なわたしの下着でも漁るおつもりですか!?」

 

「漁らねえよ!外泊の支度もなしに連れ出したなら悪かったと思って気を使ってみたら何て言われ様だ!」

 

 前回、八九寺を僕の家に泊めてから大分経ってるから荷物の中身がガラリと変わっていても不思議ないと思って言っただけだっつーの。

 

「ほう、阿良々木さんのわりにうまい言い訳を考えましたね。強いて言わせてもらうならわたしは泊めてもらったのではなく誘拐されたのですが」

 

「言い訳じゃない、純然たる事実だ。そして誘拐じゃない事実無根だ」

 

「誘拐こそ事実でしょうに……まあいいでしょう。そして心配ご無用、わたしのリュックの中には常にお泊まりセットが入っていますよ。怪異としての性質は変わっても本質的にはわたしのままなので身体は勿論、持ち物だってあの日のままですから」

 

 あの日のまま、かーー

 それはつまり、十一年前の明日を指しての『あの日』なのだろう。

 十一年前どころかたった数年前の事すら忘れている僕にとって、その時間は余りに膨大で遥か追憶の彼方なんだけれど……こいつはその十一年もの間、たったそれだけの荷物で歩き続けてきたのだと思うと心底頭の下がる思いだった。

 それが怪異としての八九寺真宵の在り方であったとはいえ根本的な部分でやっぱりこいつは、強い。

 

 僕なんかよりも遥かに強く、挫けず、真っ直ぐだ。

 

 パラレルワールドで出会った大人ヴァージョンの八九寺お姉さんがそうだったように、やはりここにいる八九寺だって立派に真の通った本当の意味での強さを持った人間なのだと再認識させられる程にーー

 が、あの八九寺お姉さんとこの八九寺で決定的に違うのは僕と共に過ごした親友であるかどうかだ。

 本来ならばここはシリアスな空気になって然るべきシーンなのだろうけど、ご生憎様、僕と八九寺の間にそんな気遣いが必要な程の距離感なんてもうない。

 いっそ辛い過去ごと一緒に笑い飛ばせる程の親友だと僕は思っている。

 

 だからこそ、僕はあえて悲観的にならず笑って応えるのだ。

 

 いつも通りーー

 

「ああ、そうだったそうだった。変わらないのがお前のアイディンティティだもんな。その胸や身長が変わらないようにリュックの中身だって変わる訳がないよな。僕としたことがうっかりしてたぜ、ははは」

 

 そういって笑う僕に対し、その意図を汲み取ってか八九寺もルームミラー越しに笑顔で応える。

 そしてゆっくりと身を乗り出した八九寺はその小さな両手でーー

 

「見る目がないなら何も見る必要はありませんね」

 

 運転中の僕の両目を塞いだのだった。

 

 

【007】

 

 

 ともあれ、走行中の車内で運転手が視覚を遮断されるというアクシデントも奇跡的に無事故のまま乗り越えた僕と八九寺は、ほどなくして阿良々木家へと到着した。

 アクシデントと呼ぶには余りにぞっとしないけれど……というか友達の家から帰宅するのに命がけって世も末すぎるだろ。

 それもまさかこんなに小さくて細く、弱々しい小学五年生の手の平で殺されかけるとは。

 物騒な世の中になったなあ。

 

「どれもこれも自業自得でしょう」

 

 剣呑とした雰囲気の八九寺は車から降りながらふくれていた。

 

「だとしてもお前は初心者ドライバーに対する配慮がなさすぎるぞ。もしも事故でも起こしてたらどうするんだ」

 

「配慮で言うならば阿良々木さんは女性に対する配慮が欠けすぎです。欠けすぎて欠如してます」

 

 なんと。

 僕ほど女性という生物に対して思慮深く発言・行動する男もいないだろうと自負していたんだけどな。

 いつだって羽川の胸や斧乃木ちゃんのパンツ、忍の肋骨に八九寺の唇の心配をしている紳士的な男だというのにーー

 実に見る目のない少女だ。

 

「やはり潰しておきますか、両目」

 

「冗談だ!いや、冗談です!お願いだからそんな真剣な顔で物騒なことを言わないで!」

 

「ちっ……わたしにもっと信仰の力があれば神の力でその両目を奪うこともできたんですが今は無理そうですね。残念」

 

「神様の台詞じゃねえな、それ」

 

「上で挙げた人物の中に彼女さんの名前が無かった人に言われたくありませんね」

 

 突っ込みに切れしかない神様だった。

 

 つーかそれって神様っていうよりほとんど悪魔じゃねえか……神罰で両の目を奪うなんて話、聞いたこともねえよ。

 いや、聞いたことはあるのかもしれないけれどーーというよりも、ありそうな話ではあるけれど。

 だとしても興味本位でミサイルの発射ボタンを押してしまうような分別のつかない小学生に神通力なんて与えたら駄目だろう。

 ひたぎの重し蟹の一件において、忍野は神様をいい加減呼ばわりしていたけれど、たいした理由もなくして両眼をなくすのならば、いい加減だなんて粋は逸脱している。

 願わくば、このまま北白蛇神社への参拝客が増えませんようにーーと、とりあえず目の前の神様に手を合わせておいた。

 今回の物語において危機に晒されすぎな僕の両眼のために。

 

 だが、しかし……それがはたして神罰なのか僕の日頃の行いのせいなのかーー僕のそんな祈りも虚しく、次の瞬間、やっぱり両眼をどうかしてしまったのではないかという錯覚に襲われるのだけれどーー

 

「おや?早かったな阿良々木先輩」

 

 ーー神原駿河が現れた。

 野生の変態、神原駿河が現れた。

 合掌する僕と、合掌されて不思議そうな顔をする八九寺の前に、何故かいつかのバスケットの時のようなロリータコスチュームに身を包んだ神原駿河が現れた。

 って……どうしてお前がここにいるんだよ!?

 そりゃあ僕の家で落ち合う手筈だったんだから僕の家の前に現れはするだろうけど、だとしても早すぎるだろ!?

 僕達が車を駐車して玄関前へと移動するまでの間にどれだけのタイムラグがあったつーんだよ……ほとんど同着ゴールしてんじゃねえか。

 神原邸を出発したのは間違いなく僕達の方が早かったし、その後の移動は車なのだ。

 いかに僕が初心者ドライバーで法定速度を厳守していたとても帰り道で寄り道をした訳でもないのに普通の人間が車と同じスピードで同着ゴールしてんじゃねえよ。

 

「どうしたのだ阿良々木先輩?鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をして。ひょっとして私のこの服装に見惚れているのか?」

 

「断じて違うっ!確かにそれはそれで驚異的ではあるけれど僕が絶句しているのはもっと別の理由でだ!」

 

 鳩が豆鉄砲どころか吸血鬼が銀の弾丸をくらってもここまで驚かねえだろうよ。

 

「そうなのか?しかし他の点では特に言葉を失うようなことはしていないぞ?」

 

 小首を傾げてんじゃねえよ……つーか前にも感じたことだけれど、神原がこういった女の子らしい服装をしていると違和感が凄まじいんだよ。

 そりゃあ以前よりは髪の毛も伸びて些か違和感は軽減しているけれど、かと言って僕はこいつの中身を知ってるからな……なんつーかスポーティとガーリーの灰汁が強い部分だけ掻い摘んだようなむず痒さが拭いきれないーー

 

「じゃなくって、どうしてお前がこんな早く到着してるんだ!?空でも飛んできたのか!?」

 

「空って……それはアニメの見過ぎだ阿良々木先輩」

 

 残念な事に空を飛んで移動する奴は現実にいるんだよ……それもわりと身近に。

 

「私はただ、阿良々木先輩のお宅へとお邪魔するのに軽装では失礼かと思い着替えをしてきただけだ。それに部屋の片付けの件に関してお祖母ちゃんへの説明もあったしな。しかし、それが原因で尊敬する阿良々木先輩を待たせたのでは元も子もないからな、こうして全力で走ってきたのだ」

 

 そうか、人間は全力で走れば車と同じレベルで走れるのか。

 ここまでくると東京五輪には神原を代表選手として起用するべきではないかと進言したくなるな。

 世界規模で日本の汚点を残す結果になるだろうけれど。

 つーか軽装では失礼って、前回僕の家に来た時は上下ジャージだったじゃねえか。

 

「千石ちゃんの時は事情が事情だったろう。というか徒歩の阿良々木先輩達とほとんど同時に到着しているのだから言葉を失う程のことではあるまい?」

 

 言葉を失う程のことではあるんだけれど……そうか。僕が車を所持している事を神原はまだ知らないのか。

 てっきり僕の車に乗るくらいなら神原を乗り回すとまで豪語していたひたぎが既に言っているのかと思っていたけれど、この様子だとそれはなさそうだな。

 となると、神原がひたぎに乗り回されているかどうかは兎も角として、こいつも僕が車を所有していると知れば乗せろとせがむに決まっているーーそれも結構な力技で。

 ……ここは黙っておくのが得策だな。後で八九寺にも口裏を合わせておこう。

 

「まあよい!それよりも他に言うべき事があるだろう!ほらっ、ほらっ!八九寺ちゃんならば同じ女の子としてわかるのではないか?」

 

 そう言いながら軽やかにクルクルと回る神原。

 これにはいかに鈍感さに定評のある僕でもわかる……暗に服装を褒めろというアピールだ。

 さながら初デートで目一杯のお洒落をしてきた彼女みたいなアクションしやがって……どうすりゃいいんだよこんなもん。

 お前のアクションに対してこっちのリアクションがとりずらすぎるんだよ。

 振られた八九寺だって流石に困るんじゃーー

 

「似合っていません、壊滅的に。どうしたらそこまでミスチョイスができるのかというレベルです」

 

 僕ですら見たことのないような無機質な表情のまま八九寺は断言した。どうやらこいつは神通力がなくても人を殺せるタイプの神様だったようだ。

 

 見る間に神原の顔が一時停止でもしたかのように固まっていく。

 

「は、八九寺?さすがにそれは言い過ぎじゃ……」

 

「勘違いしないでください阿良々木さん、わたしは批判的な意味で言っているわけではありません。いいですか神原さん!」

 

「は、はいっ!?」

 

 あの全否定が批判的でなくて何だという話なんだけどーー

 しかしそれでも、八九寺に名指しされたことによって一時停止が解けた神原が変な声で返事をする。

 

「まずあなたはご自分のキャラクターというものがわかっていません!世間に求められているもの、需要と供給、ニーズというものがまるで置き去りです!どれだけ独走するおつもりですか?」

 

 仁王立ちの小学五年生に指さされながら説教を受ける高校三年生の姿がそこにはあった。

 そんな事を言い出したらこんなに弁の立つロリというのも世間のニーズというやつに沿っているのかと問いたくなるんだが……

 

「し、しかしだな八九寺ちゃん、私も女の子に生まれたからには可愛らしい服装の一つや二つしてもよいだろう?」

 

「ごもっともです。ごもっともですが、却下ですね」

 

「何故だ!?」

 

 ……そうだよな、八九寺には悪いが僕も神原の立場ならそう言いたくなるよ。

 確かに神原のロリータファッションには物申したくもなるけれど、根本的にファッションなんて個人の自由であるべきだし、そこは神原だって思春期の女の子なのだからお洒落だってしたいだろう。そのファッションセンスについては大暴走してしまっているけれど、暴走しすぎて地平線の彼方だけれど、でもそのくらいの自由はあって然るべきだ。

 と、いうか……ファッションセンスについての話題で僕が言えることなんてねえもん。

 持ってる服のほとんどがデニムとパーカーだし。

 

「ではお伺いしまが神原さん、仮にこの物語シリーズの記念ポスターを作成する企画があったとして、内容がヒロイン集合の水着ポスターだったとしましょう」

 

「なんとっ!それは素晴らしいな!そうなれば観賞用と保存用、そして使用用の三点は手に入れねば!」

 

 使用用ってなんだよ!?

 つーかそんなポンポンと物を購入するからお前の部屋はいつまでたってもあんな部屋なんだよ!汚部屋なんだよ!

 

「……また黙秘権を行使しますよ?」

 

「す、すまなかった。もうふざけないから話を進めてくれ……」

 

 さすがの無敵メンタルを持つ神原も、八九寺の無視はこたえるらしい。

 

「……では続きです。そのポスターにおいて戦場ヶ原さんがスクール水着、羽川さんはタンキニ、私が黒ビキニを着ていたら……果たして世間の反応はどうなるでしょうかね?」

 

 なんと!?

 この時、僕と神原に電流のような衝撃が走った。

 あの強気で大人っぽいひたぎにスクール水着?羽川にはせっかくのわがままボディを隠してしまうタンキニ?さらにロリを最大の武器にしている八九寺に大人の象徴である黒ビキニだと……馬鹿な!せっかくのヒロイン集合の水着ポスターにおいてなぜそんなミステイクを犯す必要がある!?

 各々の魅力を最大限に引き出すはずの水着が魅力を殺すだなんて、マッチポンプじゃ済まされないぞ!

 

「ふむ、確かにそれは余りにもアンバランスというか……私レベルの変態であればそれをも興奮へと変える事ができるだろうが世間という視野で語るならば企画倒れと言われても仕方あるまい」

 

 お前レベルの変態なんてそうそういねえよ。

 しかしあの神原にしてこのコメント。八九寺の言う事がどれだけ荒唐無稽な話なのかを如実に物語っている。

 でもこの話って何の話なんだ?いくら八九寺がプロデューサーを自称しているとはいえ、そんな企画は持ち上がってないだろう。

 

「つまり神原さん、あなたの服装はそういう事なのです」

 

「そういうこと?それはどういうことだ?」

 

「簡単に言いましょう、世間が神原さんに求める印象を大まかにまとめると『スポーツ少女』と『変態』です!断じて『女の子らしさ』ではありません!」

 

「…………」

 

 神原が再び黙った。

 というか膝から崩折れた。

 よくもここまではっきりと女の子に対して女の子らしさを求めていないなんて言えるよな、こいつ。

 もう二人の構図が部活の選手と監督みたいに見えてきた。

 

「確かにファッションは自由であるべきです。ですが、その枠は存在して当然ですよ神原さん。それは他でもないあなた自身が長年にわたって作り上げてきた枠組みなのです!キャラクターなのです!」

 

「キャラクター……だと?」

 

「ええ!仮に水着企画においてわたしに用意された水着が何万着あろうとも、わたしは迷わずスクール水着を選びますね!名札付きの!それがわたしという枠組みの中で最良にして最強の一手だからです」

 

 なんともプロ意識の高い神様だな!

 しかし成る程……先の例え話において自ら企画倒れとまで言ってしまった神原が、その実、まさに企画倒れを自演していたという事か。

 だとすればあの負けん気の強い神原でも言い返す事はできないーー凄えな神様、つーか八九寺!

 

「わたしは神原さんに魅力がないとは言っていません。むしろ魅力的な女性であると思います。しかしそれはそのようなフリフリの服装で表現するべき魅力ではないはずです!あなたにはあなたの土俵がある!違いますか、神原さん!」

 

 そう言うと、八九寺は崩折れた神原へとその手を差し伸べた。

 

「は、八九寺ちゃん……いや、八九寺真宵大明神様っ!」

 

 涙を浮かべた神原はその手をがっしりと両手で掴むーー本当、どうなってんだこの図は……

 

「私が間違っていた!いや、愚かだったと言わざるを得ない!まさか私が私のアイディンティを放棄していたとは……」

 

「失敗から学ぶのが人間です、今回の失敗を次回に生かしましょう」

 

 それだけ言うと、二人は力強く頷いた。

 これに学んで神原がロリータファッションに力を入れることが無くなると思えば八九寺の仕事ぶりも匠の技なんだけれど、本来の目的を思えば寄り道というか遠回りというか……

 このシリーズにおいて話が脱線するなんて事はもはや恒例行事なんだけれど、それにしても脱線しすぎだろ。

 

「そうとなればこの服はここで捨てるとしよう!そして今こそ私があるべき姿へとーー」

 

「どうしてそうなるんだお前は!?」

 

 ようやく八九寺と神原を率いて阿良々木家へと入ろうとした矢先、本来の(?)自分を取り戻したらしい神原が、細やかな細工の施されたロリータファッションにはおよそありえないほどの乱雑さでその服を脱ぎ捨てようとしやがった。

 つーか上半身に関しては既に下着が丸見えだった。

 

「ええい離せ阿良々木先輩!私は本来の姿に戻るのだ!」

 

「何が本来の姿だ!産まれたままの姿にまで戻ろうとしてんじゃねえよ!」

 

「世間が私にそれを求めているのであれば私は一向に構わん!邪魔立てすれば阿良々木先輩に神罰がくだるぞ!」

 

「邪魔立てしねえとお前に刑罰がくだるんだよ馬鹿!」

 

 しかも刑罰をくだすのは恐らく僕の両親だ。

 自分の後輩を逮捕したのが自分の両親だなんて仰天ニュースを黙認できるか。その上、事件現場が自宅前なんて笑い話にもなりゃあしない。笑われ話のできあがりだよ。

 そりゃあロリータファッションがここまで似合わない奴も神原をおいて他にいないだろうけれど、だからといってその服を今すぐ脱ぎ捨てられてたまるか。

 誰かに目撃される前にさっさと神原をなんとかしないとーー

 

「さっきからあたしん家の前で騒いでる奴はどこのどいつだ!ここが正義の味方、阿良々木火憐の家だってわかってやってんだろーな!ぶん殴るぞ!」

 

 前言撤回。

 

 恐らく神原以上にロリータファッションが似合わない奴、でっかい方の妹ーー

 阿良々木火憐が玄関を壊す勢いで飛び出してきた。

 

 

【008】

 

 

 阿良々木火憐と阿良々木月火。この二人について今更説明はいらないだろうーー

 僕の妹にして自称正義の味方。少し前まではファイヤーシスターズなどと名乗り、正義活動という名のテロ活動に邁進していた問題児達である。

 正義という大義名分を掲げた自己満足。ごっこ遊び。誰よりも正しく、誰よりも偽物な二人の妹。

 もっとも、そのファイヤーシスターズというタッグは年長者であるところの火憐が高校へと進学するにあたって解散したのだけれどーーだからといって姉妹という関係性までもが解散された訳ではなく、やはり今でもその猛威を存分に振るっているであった。主に僕に対して。

 

「で、これは一体全体どういうことだよ、兄ちゃん」

 

「場合によっては拷問の末に極刑だよ、お兄ちゃん」

 

 阿良々木家のリビング。ソファに腰掛ける神原と八九寺。僕を見下ろす火憐と月火。そして正座を強いられる僕の姿がこそにはあった。

 正座というより、正確には土下座だった。

 

「お願いします、僕の言い分を聞いてください……」

 

 そもそもどうしてこうなったかといえば、脱ごうとする神原を必死に止める僕の前に現れた火憐が僕をボコボコにしたのが事の始まりだ。

 どうやらこの馬鹿、僕が神原の身包みを剥がそうとしていると勘違いしたらしく、敬愛する神原先輩を守るため、ひいては自身が貫徹する正義とやらを執行するため、事情徴収の段取りをすっ飛ばして暴力に訴えたらしい。

 格闘技有段者の決断にしては思慮に欠けすぎだし、僕じゃなければ死んでいたと思うくらいの猛攻だった。というか少し死んでいたかもしれない。

 心なしか手折正弦に会ったような気もする……どれだけ短絡的なんだよこの人間兵器。

 

 しかも事態はそれだけに留まらず、最悪に最悪を上乗せする形で、騒ぎを聞きつけた小さい方の妹、月火までもが玄関先へと現れたのだ。

 こいつに至ってはキレると火憐よりも暴力的になる反面、火憐が暴走した時は冷静になる習性がある。その為、火憐が僕をボコボコにしている現場を見て

 

「ちょいと火憐ちゃん、ここで始末すると人目につくから家の中で片付けよう」

 

 と、兄を兄とも思っていない発言をして帰宅という名の拉致監禁に至った運びだ。

 正義の味方がそんな悪の親玉みたいな台詞を吐くんじゃねえよ。

 

 ちなみにこんな時こそ僕を助けてくれそうな神原はというと、突然現れて暴力の限りを尽くす火憐を目の当たりにして、完全にビビってしまった八九寺にしがみつかれて動くに動けなかったらしい。

 そりゃあ、ただでさえ人見知りな八九寺があんな現場を目撃してしまえばそうもなるだろうよ……

 

「待ってくれ二人とも、ここは私の口から説明しよう」

 

 今にも僕のことを拷問の末に極刑に処そうとしている二人に対し、口を開いたのは神原だった。

 

「え?でも神原先生は被害者じゃねーか。はっ!まさかさっきの強姦未遂の他にも被害があるのか!?」

 

「強姦未遂とか言うなや!僕はただぶべらっ!?」

 

 咄嗟に否定しようと土下座の体制から頭を上げようとしたら頭を踏み潰された。

 暴力に一切の躊躇がねえなこいつ……

 

「私が阿良々木先輩に強姦される?ははは、そんな事があるはずないだろう。仮にあったとしてもそれは被害にはならない、むしろご褒美だ。だからその足を阿良々木先輩の頭からどけてくれ」

 

「ご褒美……?まー、なんだか良くわからねえけどさすがは神原先生だぜ!器の大きさが桁違いだ。神原先生に感謝しろよ兄ちゃん」

 

「桁違いなのはお前らの頭の悪さだ……」

 

 ようやく頭蓋骨が圧迫痛から解放されたはいいが、他の理由で頭痛がしそうだよ。

 

「それで、どうして神原さんはうちの玄関先でお兄ちゃんとあんな事をしていたの?それに見たことのない子も一緒だし。ひょっとして何か困りごとかな?かな?」

 

 さっきまでの僕に対する剣呑とした雰囲気を一転させ、にこやかに神原と八九寺を見るのは月火だ。

 勿論、八九寺はそれにすら怯えたように神原の後ろへと隠れてしまうのだが。

 

「さすがは阿良々木先輩の妹さんだ。一目見ただけで困りごとだと見抜いてしまうとは、聡明という言葉が服を着ているような女の子だな!」

 

「えへへー、そんな事もありますけどね。で、困りごとって言うのはやっぱり……?」

 

「なーんだ、あたしはてっきり兄ちゃんが強姦未遂の他に少女誘拐の罪まで犯したのかとハラハラのヒヤヒヤだったぜ。ハラヒヤだったぜ。」

 

 何だよ、ハラヒヤって。腹でも冷えたのかよ。腹痛でのたうちまわりやがれ。

 ーーでも困りごとってどういう事だ?神原は「私が説明する」と言ったけれど、困ったことなんて何もないだろ。

 部屋の掃除をこの馬鹿二名に依頼する訳がないし、だとしたら何の困りごとなんだ?

 

「うむ、月火ちゃんの察しの通り、この子のことだ」

 

 そう言うと神原は八九寺の頭を優しく撫でた。

 

「実はこの子を今晩だけこの家に泊めてもらいたくて今日はお願いしに来たのだ」

 

「お、おい神原ーー」

 

 それはいくらなんでも直球すぎるだろ!?

 神原邸を出る時、こいつは妹を説得するにあたって事実を語るのみだと言った。

 しかしそれがその言葉の通りならば、それは同時にこの二人にーー火憐と月火に怪異について説明するという意味になってしまう。

 

 怪異を知れば怪異に惹かれるーー

 

 そんな事は僕は勿論、神原だって重々承知なはずだ。なのに何故ーー

 そんな意味を込めて僕は声を発したのだが、神原は僕をただ見つめて訴えてきたのだ。

 

 ここは黙って任せろ、と。

 

 死屍累生死郎の時といい今といい……どうしてアイコンタクトだけでそこまではっきりと意思の疎通ができるんだこいつ?

 

「その子を泊めるっつーのは構わないけどさ、そもそもその子はどういう関係の子なの?いくら神原先生の頼みとはいえ、素性の知れない子を親の許可もなく預かれないぜ?」

 

 質問したのは火憐。いくら馬鹿だとはいえ、火憐だって正義の味方を自負している上に僕なんかよりは遥かに優秀で通っているのだ。

 ここでそんな正論が出てきても不思議はない。

 ここは任せろと言ったは良いが、これをどうやって説明するつもりなんだ。

 

「この子は私の友人だ」

 

 たった一言、神原ははっきりと言いきった。

 それは神原にしがみついていた八九寺ですらもびっくりするほどに。

 

「私の友人であり阿良々木先輩の友人でもある。羽川先輩にとっても大切な友人だ」

 

「友人って……結構な歳の差があると思うんですけど?」

 

「なんだ?月火ちゃんは友達に年齢制限を設けているのか?」

 

「いや……そんなことはないですけど」

 

 当たり前のように問い返す神原に対して尻窄みな返答をする月火。

 そんなことはないと言う月火の言葉はその通りの意味だろう。

 こいつの交友関係はとんでもない広さなのだ、年上や年下の友人だってどれだけいるかわからない。もっとも、僕と八九寺ほどに年齢が離れた友人がいるとも思えないけれど。

 

「この子を泊めてもらいたいというのは私と阿良々木先輩からのお願いだ。ただ火憐ちゃんの言う両親の許可というのはあいにくだが取ることはできない」

 

「え?どうして?」

 

「この子は両親というものを持たないのだ」

 

「え……」

 

 普通なら言いにくい事を神原は迷わず言った。

 全く予想外な返答なだけに、さすがの火憐と月火もこれには言葉を詰まらせる。

 

「こらこら、そんな顔をしてはこの子に対して失礼だぞ?それに私だって両親はいない。そんなに悲観的なリアクションをされてはこの子や私も挨拶に困る」

 

「いや、そんなことは……すいません」

 

「ごめんなさい……」

 

 そうか……神原は自身が生きているというだけで両親とは死別しているんだった。

 奇しくも八九寺と同じ、交通事故という形で……

 だからこそ神原はあんなにも言いにくいことをはっきりと口にできたのだ。

 そして、悲観的になるなというのは火憐や月火は勿論ーー何よりも、八九寺に向けての言葉だったのかもしれない。

 こいつは生きているとか死んでいるとかの概念すら飛び越えて、ただ真っ直ぐに想いを伝える奴だからな。

 死屍累生死郎の時、忍に対してそうだったようにーー

 

「まあ、そのような反応になってしまうのもわからなくはないがな。話は戻ってこの子を泊めてもらいたいという件なのだが、理由はその辺にあるのだ」

 

「つまりその子の家庭の事情ってことですか?」

 

「そう。この子は家族というものから離れて久しい。そしてちょうど明日は家族と離れたその当日に当たる日なのだ、私と阿良々木先輩はそんな日にこの子を一人にしておきたくはない。そんな日くらい楽しく過ごしてもらいたい」

 

「なるほど……そういう事情だったのか……」

 

「確かにこれは困りごとだね……」

 

 詳しく説明された訳ではないにしろ、内容の大筋を理解した火憐と月火は大きく頷いた。

 

「本来なら私の家に招待しても良かったのだが生憎、私の家もそう賑やかなもてなしはできなくてな。なにしろ老夫婦と私しかいないのだ。その点、同性で人望に厚い二人ならばまさに適任だと思ったのだが……迷惑だったか?」

 

「そんな……迷惑だなんて事はねーけどさ」

 

「あー、いや無理なら構わないのだ。なにせ二人は正義の活動で忙しい身だもんなー。こんな小さな女の子が寂しい思いをしていても手を差し伸べられないくらい忙しいもんなー」

 

「…………」

 

 僕は見逃さなかった。今までどこか気まずそうにしていた二人の表情が強張るのを。

 つーかこの手口ってーー

 

「はー、この世に本当に正義の味方がいるならこんな可愛い女の子をほっとくなんてできるはずないのになー。この世に正義なんていないのかなー」

 

 ……この後輩、わかっててやっていやがる。

 ヴァルハラコンビはどっちもこうなのか!?つーかどう考えてもひたぎの影響だろこれ!?

 

「ちょっと待ってくんなー神原先生!」

 

「正義に助けをお求めだね神原さん!」

 

「ん?どうしたのだ二人とも?さっきまであんなに気まずそうな顔をしていたのに」

 

「気まずそう?記憶にねーな!」

 

「うんうん。気まずそうどころか気おいしそうな顔をしていたくらいだよ!」

 

 完全に火がついた……

 兄である僕にはわかる。というか知っている。

 こうなったこの二人はもう止まらない。それこそ火のついた花火のように突き進むことしかできない。

 状況を飲み込めていないまま目を白黒させている八九寺には申し訳ないが、お前の所有権はもう決定されちまったよ。諦めろ、八九寺。

 

「しかし二人は多忙な身であろう?無理はしなくていいのだぞ?」

 

「はっ、無理だって?舐めてもらっちゃあ困るぜ神原先生!今日に限りファイヤーシスターズの再結成だ、なあ月火ちゃん!」

 

「おうともさあ火憐ちゃん!今晩のこの子の笑顔は正義そのものであるファイヤーシスターズが保証しちゃうよ!」

 

「おおっ!そうかそうか、それはありがたい!さすがは直江津市の守護神とも名高いファイヤーシスターズだな!徳高望重(とくこうぼうじゅう)とはまさに二人のことだ!」

 

 どうやらこの駆け引きは神原に軍配が上がったらしい。考えてみればあの忍を一対一で負かすような女なのだ、最初から心配なんてしなくても神原ならばどうにかしていただろう事は明白だったのかもしれないーー

 

「さぁ、そうと決まればこの子の紹介をせねばなるまい。ほら真宵ちゃん、こっちへおいで」

 

 これまで沈黙を守ったまま、神原の後ろへと隠れていた八九寺の両肩に優しく手をまわし、火憐と月火の前へと姿をあらわす。

 いつもの天真爛漫な様子は伺えず、持ち前の人見知りをいかんなく発揮した八九寺は俯き気味にその場に立っていた。

 

「この子は八九寺真宵ちゃん、小学五年生だ」

 

「は、はじめまして……八九寺真宵です」

 

 普段の八九寺を知る者としては本当に八九寺なのかと疑ってしまうような弱々しさだった。

 まるで借りてきた猫だな。

 

「今は初対面で緊張してしまっているが本当はこの子はすごい子なんだぞ」

 

「すごい子?格闘技のジュニアチャンピオンとか?」

 

 実の妹の中で『すごい=強い』の図式ができあがってきることに戦慄するわ。

 そりゃあ格闘技のジュニアチャンピオンだって十分すごいだろうけれど、もっと他にもあるだろう、すごい人って。

 

「確かに八九寺ちゃんの精神力は格闘技を始めとするスポーツ全般に通じるものはあるがジュニアチャンピオンではないな。何を隠そうこの子は神様なのだ!」

 

「か、神様っ!?」

 

 僕と八九寺が再びフリーズした。

 

 ーーじゃなくて、さっきは怪異についての説明をあんなに格好良く回避したのに何を見事な自爆を披露してくれてんだよこの後輩!?

 

「神様って言われてもなあ……この子のどの辺が神様なんだ?あたしにはわかんねーよ。月火ちゃんはわかるか?」

 

「うーん……残念だけど私にもわからないね。皆目見当もつかないね」

 

「ふふ……阿良々木先輩の妹ともあろう二人がこの子の真価を見抜けないはすがあるまい。が、あえてこの子のすごさを説明させてもおう」

 

 こうなってしまえばもう止められない。

 いや、止めようにも僕は驚愕と動揺で絶句したままだったし、本人である八九寺にいたっては人見知りと予想外な暴露でほとんど気絶に近い状態だっただけなんだがーー

 

「まず、この子は小学五年生にしてこの街の地理を誰よりも熟知している!おそらくはフリーハンドで精巧な直江津市の地図を描ける程度にはな!直江津市の伊能忠敬といえばこの八九寺真宵ちゃんをおいて他にいまい!」

 

「な、なんだって!?」

 

「ほえー、それはすごいねえ」

 

「それだけではないぞ?八九寺ちゃんはあの羽川先輩ですら一目おくほどの日本語のプロフェッショナルなのだ」

 

「あの翼さんが!?おいおい……そりゃあとんでもない神童じゃねーか!」

 

「これにはさすがの月火ちゃんも驚きだね。羽川さんの名前が出るだけで私達からの評価も上げざるを得ないよ……」

 

 硬直しながらも僕と八九寺は何かに納得しはじめていた。

 羽川のネームバリューは勿論そうなんだけれど、それよりも神原の演説じみた説明にこそ、だ。

 神原はここに至るまで、ひとつとして嘘をついていない。その上で、八九寺が神様であるということを納得のいく説明で通そうとしているーー

 

 怪異の嘘は『くらやみ』に呑まれる。

 

 この法則に基づいて八九寺を紹介するのであれば、八九寺が神様であることは説明の絶対条件ーー

 もし仮に、八九寺のことをどこにでもいる普通の小学五年生として紹介したならば、その正体を知る僕や忍がここにいる以上、十中八九『くらやみ』が現れることだろう。

 それをあえて誇大妄想のような誇張表現をすることで、ギリギリのライン……いわばグレーゾーンに話を納めている。

 

 大胆な嘘こそ人は騙されるとは良く言ったものだが、ありえるはずのない真実だったとしてもそれは同じなのだ。

 

「さらに八九寺ちゃんの伝説は挙げればキリがない程にあるのだが……それらを抜きにしても、この可愛さでこの有能さ、これを神様と言わずに何と言う!ちなみに阿良々木先輩や羽川先輩の間では八九寺ちゃんを目撃した日は幸運に恵まれるというラッキーアイテムのようなマスコット的存在までこなすマルチ神様だ!」

 

「す、すげえ!神原先生がここまで絶賛する小学生……言われてみればどことなく神々しさを感じるぜ!」

 

「確かに火憐ちゃんや神原さんみたいなタイプの人が褒める相手って常人とは違った才能を持っていそうだもんね。これは参謀家の私でもノーマークな逸材だったよ」

 

 すげえ……本当に真実だけを語って二人の妹を攻略しちまった。

 真実さえも人を騙す武器にするっていうのは神原のような大胆不敵な奴だからこそできる芸当だろう。少なくとも僕みたいな肝の座っていない奴には到底真似できない。

 もしくは相当に嘘に精通した、例えば詐欺師のような奴ならあるいはやりそうだけれどーー

 

「二人にもわかってもらえたみたいだな!そういう訳で今晩は八九寺ちゃんをよろしく頼む」

 

「任されたぜ!今日という日が楽しすぎて明日の朝には腹筋が割れてたとしても責任はもてねーけどな!」

 

「そういうことだからよろしくの覚悟しておいてね、真宵ちゃん」

 

 こうして、八九寺は阿良々木家へと招き入れられたのだった。




【次回予告】


「お初にお目にかかる、拙者は死屍累生死郎。此度は次回予告なる催しに抜擢された次第、以後お見知り置きを」


「しかし難儀なことに、拙者が復活するまでの間に日本という国も変わり果てたでござるな」


「あの時、阿良々木殿が購入しようとしていた文献。あのような不埒な書物が世に出回る時代になろうとは……誠にけしからん」

「幻滅とまでは言わぬがしかし、こうも大和の男子が腑抜けた姿を目にする日が来ようとは……拙者、誠に痛恨の極みでござる」


「そういえば、阿良々木殿と接触した本屋と呼ばれる書店、そこで見かけた『刀語』なる文件に登場する四季崎なる刀鍛冶……拙者のよく知るところの心渡をうった刀鍛冶と同名であった。偶然とはいえ、昔を思い出して拙者も心踊って拝読したものだ」


「次回『するがダウト・其ノ肆』」


「次に出番を頂いた暁には、キスショットも頂くのであしからず」


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