香霖堂始末譚 (カツカレーカツカレーライス抜き)
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『 』 メイン:霖之助 永琳 慧音
前編


 ――永遠の命を、あなたはどう思う?

 

 ――永遠の命……君達のような、かい?

 

 ――えぇ、私達の様な、在り方。

 

 ――……正直に、本当に正直に言わせて貰えれば。

 

 ――貰えれば?

 

 ――ぞっとしないね。

 

 ――あら、あなたなら関心、と言うよりも興味を抱くと思ったのだけれど。

 

 ――半分、と言うだけで、もう沢山の死を見てきた。辛いよ、なかなかに。君ほどではないだろうけれど。

 

 ――そう、ね。

 

 ――だから、僕はごめんだよ。永遠なんて。僕は、僕に在る分だけで良い。十分だ。

 

 

 

『  』

 

 

 

 永遠亭のどこか。物置の様な、それにしては無駄に広く暗い室内で、男と女は向き合っていた。男はその長身を支える足を真っ直ぐに、立ったまま。女は物置に置いてあったのだろう、腰をかけるに適した大きな道具に座して。

 

「あぁ、これはやっぱり、ただのガラクタだ」

 

 男、黒と青の無国籍な、いまいちコンセプトの把握できない服を着込んだ銀髪の男は、詰まらなそうな顔でそう言って、右手に持っていた道具を対面している女に渡した。左手で鼻に掛かった眼鏡を軽く押し上げながら。

 

「あら、そう。少しは価値のある物に見えたのだけれど……」

 

 そう言って男――辺鄙な森の入り口に店を構える店主、森近霖之助――から渡された小さな道具を、軽く微笑みながら眺める。

 

「永琳、それは本気で言っているのかい?」

「あら、何が?」

 

 霖之助に永琳と呼ばれた彼女は、不思議そうな顔で子犬のように首を傾げた。

 

「……」

 

 そういった様も不思議と似合うのだから、女と言うのは分らない。こと霖之助の前で、ガラクタと言われた道具を手に少女の如く佇む女性は、実年齢をグラフ化したらどこまで行くか伸びるか反るか突破するか分ったものではない女性だ。それこそ、地上から月まで届くようなグラフが完成するかもしれない。

 

 だと言うのに、そんな仕草が似合う。

良く店に顔を出す少女達の仕草を見慣れている霖之助にも違和感が無いのだから、本当に女と言うのは、分らない。

 

「なにかよからぬ事を考えてないかしら、店主さん?」

 

 店主さん、の部分を少々強く言葉に乗せ、永琳が微笑みの色を濃くした。

 

「いや、何も。何も無いさ」

 

 軽く息を吐きながら霖之助は首を横に振る。

 

 ――関係のない事だ、永琳の仕草がどうこう等と。

 

 どうにも考え出すと長考に入りやすく、また思考する事で置かれた環境も忘れてしまう悪癖を、頭を横に振る事で一時的にでも追い出せればと霖之助は思った。

 

「でも、やはり信じられないな」

「何が?」

「永琳、君がこれを価値ある物だなんて思ってたことが、だ」

 

 今は永琳の手にある道具を見ながら霖之助はそう言った。

 

「私に道具の鑑定眼なんてないわ。あっても、それは薬物に関係する物よ。趣味趣向品までは、ね」

 

 口元に手を当て、クスクス笑うその仕草。

 大人の女、という言葉がしっくり来る女性だと言うのに、少女染みたどこか素朴なそんな仕草も、彼女がやれば嫌と言うほど様になるのだから、世は不公平なのだろう。もっとも、霖之助の周囲にいる女性陣は殆どこういった仕草が様になる。彼の知己の内は美少女や美人ばかりで、それらは全て多種多様であれど皆見目麗しい。

 

 向日葵の様な女性も居れば、氷の花びらのような少女も居る。楓の様な少女も居れば、桜のような女性も居る。言ってみれば季節不問の花の博覧会だ。

 

 まぁ、その中には食虫花としての側面も併せ持つ心臓に悪い連中が多々居るような気がするが、霖之助はまだまだ自分の人生を謳歌したいのでそんな事は心の底の底だけで思う事にしている。聡い女性が交友範囲に多い以上、彼自身が自己防衛と警戒を怠るわけには行かない。

 

「でも、どうしてそんな風に思ったのかしらね? 私に鑑定眼がある、なんて」

 

 真っ直ぐに、真っ直ぐに霖之助の目を見つめながら、永琳は言う。

 

「あー、君は、永琳は、だ」

 

 そこでこほんと咳を一つ払い、霖之助は言葉を続ける。

 

 ――頭を振った程度じゃあ、染み付いた癖が抜けるものではないか。いや、それよりも。

 

 そう、それよりも。

 霖之助はその真っ直ぐ見つめてくる彼女の瞳に、良く分からないまま圧された。圧された事実をなかった事にするために、常の顔と声で彼は言葉を続ける。それが失敗している事は、目の前にいる女しか知らない。

 

「永琳、君はもう長く生きているだろう?」

「そうね、貴方から見たらお婆さん? かしら」

「いや、君はとても魅力的だよ。そんな言葉は相応しくない」

「お世辞でも嬉しいわ」

「まさか、君がもし人里を歩けば、十人中十人が振り返るだろう。それは僕が断言するさ。しかもその十人は男も女もないだろう。君は異性であれ同性であれ、振り向かせるだけの美貌と、その知性を宿した瞳がある。そうだな……野に降りた女神と言っても過言じゃないだろう。実際の女神様達には、大変申し訳ないが」

「もしかして口説かれてる?」

「いや? ただの事実だが?」

 

 永琳は、今度は声を出して笑った。先程までの慎ましやかな微笑ではなく、楽しくて仕方ないといった笑顔で。

 

 僕は何かおかしい事を言っただろうか?

 

 真顔でそんな事を言う霖之助に、彼女はもう体を九の字に曲げて笑い出した。腹を抱えて、という奴である。

 

 そんな、常の彼女を知る者なら何事かと思う様なその事態に霖之助は、ただただ、またかと思うだけだった。また、だ。

 もう彼は見慣れている。驚く事も呆れる事も無い。最初はいつだったか。

 未だ苦しそうに笑う彼女を視界の端に入れたまま、霖之助は最初の事を思い出そうとしていた。こんな風に、こんなにも彼女が彼に何かを一生懸命曝け出すに至った、その最初の切欠。

 日常の一ページでしかない出来事を。

 

    ■ ■ ■

 

 その日、特に何か変わった事があった訳でもなく。

 毎度の如く、最早当たり前に夕方余りまで居座り続けた紅白と黒白が家路につき、赤々と熱を放つストーブとは違った、先程までの妙な熱が篭った店内で気を静めようと読みかけの本を手に取り、霖之助がさぁ読もうとした時だった。

 

 草臥れたカウベルの音と共に、熱を帯びていた店内が冬の冷たい風に一掃される。

 

「店主、居ますか?」

 

 開かれた扉には、香霖堂の数少ない優良客である永遠亭の頭脳、月のオモイカネこと八意永琳が立っていた。

店主が居る事を確認した彼女は、霖之助に向かって歩く。一切の淀みなく。そこで霖之助はおやっと思った。どうにも、おかしい、と。

 

「今日は……いつもの彼女は?」

 

 読もうとしていた本をまた机に戻し、永遠亭の買出し要員として見覚えた彼女の姿が見えない事に霖之助は少し意外な思いがしたらしく、少々失礼かと思ったが問うてみる事にした。

更に言えばいらっしゃいませの挨拶も抜けているが、ここいらが彼が商売人と言うよりは、一趣味人として皆に捉えられている由縁である。

 

「あぁ、ウドンゲは留守番なの」

「留守番……」

 

 珍しい事だと霖之助は思った。何分、この永琳という女性が来る際には、事前に予約がある。当然ことだが、彼女が求めるような医療品などはそう簡単に用意できる物ではない。

 まして彼女は質の良い物を求める。尚更だ。だというのに、今日は事前の報告も無しに来た。

 

「えぇ、少し風邪を拗らせてしまって。医者の不養生、かしらね」

 

 今は自室で療養中だと呟く永琳の顔には、少々の怒りと優しさが見えた。不甲斐ない弟子だと怒ったのだろうし、まだまだ手のかかる子だと、そこに母性を感じたのだろう。差ほどの付き合いでもない霖之助でも、今の永琳の感情の動きは読みやすかった。

 

 普段の日用品程度の消耗品ならばそれこそ誰が買い物に行こうと関係などないのだが、薬草やそれに使われる道具などとなると違ってくる。命に関わることだ、疎かには出来ないのだろう。当然、彼女が買い物に来る際には良質の物を用意する。

 

 するが、彼女はやはり自らの目で見て、触れられる物なら触れて確かめる。当然そこには会話があり、少々ながらの触れあいもある。自分の人生には少々惰性が見える霖之助だが、道具に妥協はない。専門的な物までは用意できないが、それでも彼には誇りがある。商人としても趣味人としても、薦めるべき道具が片手落ちでは彼の矜持が黙っては居ないのだ。

 

 払われる事のないツケで毎回毎回毎回毎回毎回毎回持っていかれる巫女の服などもそうだ。丹精をこめて作り、編み、繕う。事実上の無報酬だと理解していながら、だ。

大の男が少女趣味全開の巫女装束を一人夜半までせっせと繕う。正直気持ち悪い。

 

 類似事項で某普通の魔法使いが持って来る道具のメンテナンスも含まれる。彼女の場合は、どうも好意でメンテナンスしてくれていると思っている節があるが、いずれ機を見て話さなければなるまい。

 それは空飛ぶ巫女も同じなのだが、出来れば両方一度にではなく、後顧の憂いを断ってから挑みたいらしい。まぁ無理だろうが。

 

 と考えていると、永琳もう霖之助の前まで来ていた。

 

「何か考え中かしら?」

「いや、特に実のある事は何も」

 

どうやら少し待たせてしまったらしいと霖之助は反省し、

 

「それで、今日は何をお求めで?」

 

 少しどころか盛大に遅く、商人――香霖堂――としての顔で伺いを立てる。

 

「今は自信を持ってお渡し出来るような物は、特にありませんが?」

 

 どうかと思うが、事実なので霖之助は正直に言っておいた。こういったところも、商売っ気が全くない。

 

「今日は、違うのよ」

「違う、とは?」

「そうね、まず……」

 

 彼女はそこで目だけでくるっと店内を見回した後、また霖之助に視線を戻し

 

「貴方は、幾らなのかしら?」

 

 そう、はっきりと言った。

 いつも通りの、商談で使うその顔のまま。

 

    ■ ■ ■

 

「もっと、確りと説明してくれたら良かったんだ」

「あら、ごめんなさい」

「そうすれば、僕だってごねはしなかったさ」

「ごめんなさいね。で、はい、これ」

 

 ごく自然に道具を手に取り、それを霖之助に渡す永琳の姿には、言葉ほどの申し訳なさはなく、何か皮肉でも言ってやろうかと考えた霖之助だったが、この長くを生きた女に口では勝てないだろうと思い直し、素直に渡された道具を見る事にした。

 永琳直々に案内された、物置にしてはやたらに広く、暗い室内で。

 

 あの後、つまり幾らなのかと聞かれた後、一悶着があった。

 些細では、あるが。

 

『僕は売り物じゃあない』

『雇いたいの』

『僕も一応、一国一城の主なのだけれどね。君から見たらさぞ小さな兎小屋だろうけれど』

『あら、皮肉?』

『知らないよ』

『で、お幾ら?』

『ここは道具屋だ。生物は扱わない』

『なまもの?』

『せいぶつ』

『じゃあ、良いじゃない』

『僕は立派に生物だ』

『眼鏡でしょう?』

『医者に見てもら――いや、医者だったか』

『えぇ、眼科も兼ねているわ』

『医者の不養生だな……可哀想に』

『あら、こんなところに丁度いい鈍器が』

『売り物の壷で何をする気だ』

『貴方次第ではなくて?』

 

 この様に、ひどくシュールで、かつ普段の商談と少しだけの世間話とは全く違った会話があった。

 そして現在。彼らはここにいる。

 

「つまり、なんだ。僕にこの物置で見つけた道具を、鑑定して欲しいと?」

「えぇ。この前整理していたら、目ぼしい物を数点、見つけたものだから。此処に来るまでにも言いましたけど、勿論鑑定料は払うわ」

 

 ふむ……と呟き、霖之助は手にある道具を見る。

 オルゴール、それもかなりの年代物だ。意匠は凝っており、銅製の箱には勿論の事、音を鳴らすために巻く銀の螺子にまで、宝石と貴重石が下品にならない様に見目良く散りばめられていた。

 

「なるほど、確かに。これは、鳴らしても?」

「構わないわ」

 

 永琳に許可を得てから、霖之助はオルゴールの螺子を回した。オルゴールは、なるほど趣味の世界に属する物だ。置物として、そして奏でる物として。その美しい意匠で人の目を楽しませ、その拙くも原初的に美しい音色で人の心を楽しませる。

 霖之助個人の意見として言えば、奏でる以上は音もまた鑑定するべき物である。外見は十分に値打ち物だと分るのだから、あとはその中身だけだ。

 

 結果として、音は鳴らなかった。回せど鳴らぬ音に、永琳は首を傾げたが、霖之助が中の部品が壊れているんだと言ったので、納得をした。

 

「置物としては、良いんじゃないかな」

「鳴らなければ、寂しいものではなくて?」

「少なくとも、目は楽しめると思うけど」

「このオルゴールには、オルゴールとしての機能がある。それを使えないことは、さびしい事だわ」

 

人で例えるなら、知性がないような物だと永琳は悲しげに囁く。

 

「知性かい? 僕は舌だと思うけどね」

「違うわ。舌は喋るために必要な物。オルゴールにとっての音色足り得ない」

「音色が、知性かい?」

「そうよ」

「それはまた、どうして?」

「舌は――言葉は嘘をつく。音楽は、知性は、嘘をつかない」

 

 知性と音楽は精神の領域に属するからだ、と教師然とした顔で永琳は霖之助に言う。

 

「音楽は感性の分野に身を置く物だわ。なんの衒いもなく心に沁みる。滝の水が上から下に流れ落ちるように、ごく自然に。野に身を置く凶暴な獣でさえ、母の腕の中で穏やかに眠る赤子の様に静かに目を瞑り耳を立て聞き入るのが、本当の音楽という物よ。粗暴な妖怪変化、でも構わないわ。しかも音楽と言う物は人の精神医療分野において有効性を発揮し――」

 

 なるほど、と霖之助は思う。

 なるほど、これは確かに魔理沙や霊夢が僕の薀蓄を嫌がるわけだ、と。それほどに永琳の薀蓄は長かった。嫌気もさしたが、遮って席を立とう等と彼は終ぞ思わなかった。それを上回る何かがあったからだ。

 彼女の薀蓄は長かったが、それ以上に深く、そして理路整然としていた。

 

 刺激される何かが、彼の中にある。そして、身中でもどかしく疼くそれを、彼は良く理解していた。

 

 ――知識欲。

 見る事、聞く事、感じる事。ただ一個の生物として生きるにはさほど重要な物ではないそれも、知識を溜め込む事に生き甲斐を感じる、趣味人として存在する彼にとっては大であり命だ。まして現在目の前で口舌を広げるは、月が幻想郷に誇る最高にして最強のオモイカネ。

 

 聞かぬは、さて余りに勿体無い。

 

 となれば早い。

 彼は手ごろな大きさのガラクタに腰掛け、永琳の言葉を沁みるが如く聞き、吟味する。最初はなるほどと思っているだけだったが、聞き続けていれば疑問も生まれ、また薀蓄を趣きにする存在として、聞くだけでは満足できないと身中で疼く熱がうねり出す。早く、早くとそれは彼を急かした。

 我慢を知らない子供の様に。

 気付けば、霖之助は乾いた唇を一度だけ舐めて湿らせ、我知らず言葉を紡いでいた。口では勝てぬと、先程思っていたにも拘らず。

 

「それはどうかな、永琳」

「あら、何か異論でも?」

 

 気付けば、二人は物置で静かに、だが激しく口論していた。

 

「おーしーしょーさまー、いますーかー? なーんか姫がー……って」

 

 てゐが永琳を呼びに来る間、二時間もの間ずっと。

 

「だから、ケーキは甘い事が使命付けられているのよ。その為ならば百万の命を糧にしてもケーキは甘くある。分かるでしょう? 命題なのよ、これは」

「それはおかしいな。苦いケーキだってある。例えば――」

 

 ケーキの事について。

 

「……いや、なにこれ?」

 

    ■ ■ ■

 

 前日からだった。

 暇だった。それも、どうしようもなく。

 

 彼女の診療所は暇で暇でしょうがなかった。

 助手である優曇華が風邪で病欠しても余裕で回る程に。そして次の日には暇などという言葉ではすまない物になっていた。前日、暇すぎた事で前倒しした仕事が在ったせいで、やる事など何一つもなく、机を指で叩く事だけで10時間もの長い時間を過ごした。

 

 すべき物はないかと、やるべき事はないかと、その優秀な頭脳をフル稼働させた彼女は、雑用係にこれから向かう先と、何かあればそこに連絡を寄越すようにと告げ、すっと席を立ち、小さな札を手にして歩き出す。手にした札には、こう書いてあった。

 

『本日休診』

 

 つまりは、なんであったかというと、彼女は暇だったのだ。

 少し前に整理させた倉庫から転がり出てきた、骨董品を見て欲しいと、誰にも使いを頼まず、自ら森の入り口にある草臥れた店まで足を運ぶ程度に。別れ際、永琳に霖之助はそう言った。

 

『ここが暇だという事は、それだけ平和だと言う事だろう』

 

 平和だ。

 平和であるが、平和ではあるのだが、それ故弊害も生まれる。

 

 ――あぁ、弊害だ。

 

『ねぇ、私今人里流行ってるとか言う、甘味物? それが食べたいの』

 

姫が呼んでいると居ると言うから、それまでの深く静かに白熱した議論を名残惜しいが終わらせ、部屋に入った瞬間これだ。

平和すぎるのも考え物だと永琳は心底思った。買って来いと言うのかこの姫は。というか、そんな用事なら誰でも良いだろうと思ったが、相手はこの姫様である。

 

 適当に言いくるめ、それでもぶーぶー五月蝿いのでまた適当に横に置いてあった壷を片手でナックルボール並みに顔面目掛けて投げ付けたら、鼻から盛大に鼻血を出しながらガタガタ震えつつ今度買って来てくれるならそれでいいですと妥協してくれた。

 別名暴力的解決とも言う。

 

 そのまま滂沱と鼻血を流す輝夜を、幾ら不死とは言え医者としてはどうかと思う無視っぷりで彼女は自室へと戻っていった。更には加害者としてもどうかと思うが、もっと言えば一応の上司にその仕打ちはどうだと傍に居た従者達は思ったが、永琳先生の華麗なる弓術の一つ、ロングボウ置きっぱなし式ナックルボールの圧倒的な威力の前に恐れをなし、誰独り何も言えやしなかった。

 

 何事もなかったのように彼女は汗を流し、髪を梳き、寝巻きに着替え、柔らかい布団に潜り込む。灯りを消して眼を瞑った後、永琳はふと思い出した。

 

 ――オルゴールしか見て貰っていない。

 

 そう、あの一点しか鑑定していない上に、鑑定料も払っていないのだ。

あの男は本当に商売人なのだろうかと疑ってしまう。これはどうにも、もう一度来て貰う必要がありそうだ。鑑定して貰う為にも、料金を払う為にも。

 

 そう思うと、自然と口元が綻ぶ。楽しかったのだ、あの妙な時間が。彼女にとって、どうしようもなく。

 

 音楽性の話から獣の話に移り、人の精神の在り処、薬草学、医療知識、妖怪変化神の残虐性、自然から妖精への発生原因、ウドンゲのスカートの短さ、迫り来る座薬、うちの優曇華は可愛い、僕のとこの魔理沙の方が可愛い、この野郎表出ろと縦横無尽に話題は暴走し、最終的にはケーキが甘いのは神意だという話になっていた。

 

「訳が分らないわ」

 

 ぼそっと、暗い寝室で横になったまま呟く。

 

 ――本当に訳が分らない。

 

 今度は胸の中で呟き、寝返りをうつ。

 自分は月の頭脳だ、彼女はそう自分に言い聞かせる。半妖などの、しかも若造との知識比べが楽しいなんて、どうかしている。そう言い聞かせる。

 

 言い聞かせるが、どうにもならない。

 久々の、程度の差はあれ、知識を持ちそれを利用する術を心得た相手との会話だったのだから、仕方ない。

 

――暇な時にまた来て貰えば良いわね。あれもきっと暇だろうし、嫌だとは言わないでしょう。

 

 また次に。

 筆舌し難い、自身にも不明瞭な満足感に包まれたまま、彼女はその日を終えた。

 

    ■ ■ ■

 

――なぁ、最近お師匠様、機嫌良いよなぁ。

 

――なんか良い事あったんじゃないの?

 

――お師匠様に?

 

――うん、多分だけど。

 

    ■ ■ ■

 

 そしてそれは、二人の日常に組み込まれる。

 暇な時は当人が、そうでない時は優曇華やてゐが。霖之助に鑑定を依頼し、そのまま直接向かう。違う事はそれだけで、やるべき場所もやるべき事も一緒だった。

 

 霖之助が道具を鑑定し、

 

「なるほど、これは確かに中々の物だ」

「あら、そう?」

 

 永琳が語りだす。

 

「人と言う物は加虐性の強い生き物よ。特に、集団になればなるほどに」

「そうかも知れないが、僕は違うと信じたいね」

 

 そこからまた議論討論薀蓄薀蓄薀蓄。

 知識人と趣味人の、楽しい嬉しい面白い時間。来た理由も、時間も忘れる様な二人の時間。

 

 稀の呼び出しが頻繁になり、

 

「やぁ、これはまた……少し苦いお茶だな」

「茶葉、教えてあげましょうか?」

「む、それは僕に対する挑戦かな? 茶葉を味覚だけで当てて見せろという」

「本当に負けず嫌いなのね、あなたは」

「知識に貪欲なだけさ。っと、そんなじっくり飲むところを見ないで欲しいな……苦いからといって、無駄にはしないさ」

「そう願いたいわね」

 

 五日に一度の呼び出しが四日に一度になり、

 

「あら、その頭……どうしたの?」

「いや、なに……道具の整頓中に、上から落ちてきてね。参ったよ、不精者は不精のままで在れという啓示なのかな?」

「また馬鹿な事を……仕方ないわね、少し待って貰えるかしら?」

「いや、僕は診療所へ来た訳ではないのだし――」

「少し待っていなさい」

「……分かったよ、そんな顔で睨まないで欲しいんだが」

 

 三日に一度が二日に一度になった。気付けば、変わっている。

 

「はははは、それじゃ、君の所のお姫様も相変わらずって事なのかな」

「えぇ、本当に。困ったものだわ」

 

 二人の距離や。

 

「おいおい、笑うなんてのは、随分とひどいじゃないか。僕はだね、あの巫女と普通の魔法使いが如何に横暴であるかを」

「くすくす……だって、貴方……ふふふ、そんな優しそうな顔で話す事じゃ、ないもの……ふふふ」

「なんだい、僕だって一商売人としてだね、二人の勝手な振る舞いには辟易して」

「くすくす」

「あぁ、もう、良いさ。歳若い少女に出し抜かれるような不甲斐ない僕を、さぁ存分に笑うが良いさ」

「あははははははは」

 

 二人の仕草が。

 

「今日もまた、一つしか鑑定出来なかったな」

「良いのよ、急ぐ事でもないのだし」

「そうかい? まぁ……僕は楽しいから構わないけれども」

「じゃあ、良いじゃない?」

「……そうかもね」

「じゃあ、また明日」

「あぁ、また明日」

 

 当たり前に重なり合っていく。隣に居るのが自然だと、空気が主張する。誰も違和感など感じなかった。当然、当人達も。

 

「……」

 

 ただ、日常に組み込まれていく。

 それだけの事。

 

    ■ ■ ■

 

――ねぇ、てゐ。

 

――んー、何さ?

 

――最近の師匠、ちょっと――怖くない?

 

――あー……。

 

 女の心の奥底だけを置き去りに、日常は進んでいく。本当に、それだけの事。

 

    ■ ■ ■

 

 もう幾度目か数える事も必要のない普通の中で、二人は語り合い、永琳の腹を抱えて笑うという見慣れた姿を眺めること数分。最近頻繁に出る永琳の発作がようやく収まったところで、霖之助は話しかけた。

 

「もう良いかな?」

「えぇ、えぇ、十分に笑わせて貰ったわ」

「そうかい」

「……また来そう」

「いやいや、勘弁して欲しいんだが」

 

 その為には霖之助が口を閉ざせばいいだけなのだが、当然彼はそんな事を知る由もない。また永琳の肩が小刻みに震えだしたのを見た霖之助は、これでは埒があかぬとととりあえず話を変える事にした。何か話題はないものかと周囲を見回すと、それが視界に入った。

 

「しかし、ここで貰うお茶はどうにも苦いね」

 

 霖之助の前にある、テーブル代わりの置物の上にある、二つの湯飲みが。

 

「良薬は苦い、でしょう?」

「薬だったのかい? これは」

「いいえ、ただの苦いお茶だけど?」

「会話がしたいなぁ、僕は」

「何が一番の弊害となっているか、それが分らない以上は無理かもしれないわね」

 

 ため息をつき、芝居がかった仕草で肩を落とす霖之助を見て、永琳がそう言った。お前がその際たる原因だと込めて。

 勿論、

 

「なるほど、じゃあまずはそれの排除から、という事か」

 

 この男にそれが通じる筈もなく、弊害はこの関係が続く以上解決を見る事は無いのだろうと、永琳は微笑みながら諦める事にした。

 

「あぁ、本当に苦いな……出して貰っておいてなんだが、未だにこの苦さにはなれないよ」

「そうでしょうね」

「珈琲の様な苦味なら、僕も歓迎出来るんだが……永琳」

「なに?」

「……余り、じっと見ないでくれないか? どうも、飲みにくい」

「あら、ごめんなさい」

 

 ここで鑑定をし、ここで会話をし、ここで永琳が発作に襲われ、笑い出す。

 それらは来る度に起きる事で、霖之助がお茶を飲む際、永琳がそれをじっと見つめるのも繰り返された事だった。恐らくは医者という立場上、そういった癖でもあるのだろうと霖之助は当たりを付けていた。止めてくれと何度言えども改善されないのは、それが永琳の深い場所に根差す、自分の突発性長考癖にも似た悪癖の様な物だろうと諦めているが、やはり何かを口にしている最中を誰かにじっと見られるのは、そう気分の良い事ではない。

 

 じっと見つめてきたら、それを止める。霖之助には、今はその選択肢しかないのだから仕方ない。

 

 ――無くて七癖、か。

 

 どうでも良い事だ、と霖之助はそっと目を瞑って苦いお茶を嚥下する。当たり前の事だが、目を瞑っても苦さは消えやしない。

 

 ――純粋な茶葉と言うよりは、薬膳茶葉なんだろうな……ふむ、今からでも銘柄を聞けば……あぁいや、やはりそれは嫌だな。あぁ言った手前、自分で銘柄をあてるべきだ。この苦さが何に近いか、それが分れば、案外特定出来るかも知れないな。

 

 お茶の苦さに辟易しながら、彼はそんな事を考えていた。自身の言う突発性長考癖で。

 

「……」

 

 だから彼は知らない。

 その瞳を。

 彼が知らない、繰り返される毎日に組み込まれた、その仄暗い何かを。

 

    ■ ■ ■

 

 軽く汗を流し、手ぬぐいで濡れた髪を掻きながら、霖之助は日常を過ごす為の部屋に足を運んだ。一息つき、部屋の中央に座り込み――冷たい畳に顔を僅かにしかめ――考えた。

 

 ――どうにも、おかしいな。

 

 と。

 

 おかしい。

 最初のころに鑑定を依頼された道具達は、確かに鑑定するに足る物だった。だが、最近はどうだろうか。

 そう思うと、彼は首を傾げざるを得ない。価値の無い、益体もない小道具が多いのではないだろうか。見れば分る筈なのだ。

 

『永琳、君はもう長く生きているだろう?』

 

 彼は永琳にそう言った。どうでもいい様な話に摩り替えられてしまったが、確かにそう問うた。

 彼女の生は長い。想像も出来ないほどに。あの彼女、永琳だ。

 知識で肉を得、理性で骨を持ち、知性で器官を統べ、知恵で存在を確固と成す八意永琳だ。そこに多大な老獪さもまぶさなければ八意永琳は完成しないのだが、この際はどうでも良い。その彼女が、無為にその長い生を過ごして来たとは、到底霖之助には思えなかった。

 霖之助に鑑定を依頼したのは、恐らく他者の、違う視点からの見解が欲しかっただけだ。

 

 ――道具への鑑定眼はない。

 

 彼女はそう言っていたが、その際少しだけ眼を伏せた事を、霖之助は見逃さなかった。

 分っているはずなのだ、彼女は。永琳は、理解している筈なのだ。

 無為な事をしている、と。

 

「鑑定するまでも無い道具で、何故僕を呼ぶ?」

 

 結局は其処に行く。が、それよりも問題なのは彼自身だ。

 

 ――分っていながら行くのだから、僕も度し難い、か。

 

 彼にとっては、月の賢者は幻想郷の大賢者とは違い話しやすい。どこか胡散臭く、物を聞けども適度にはぐらかし、のらりくらりと人をかわす大賢者こと隙間妖怪とは違い、彼女は誠実に、それでいてお互いに益がある様にと会話を進める。少なくとも、今の関係では霖之助はそう判断していた。

 

 だから霖之助は永琳を尊敬していた。

 その話に聞き入り、星霜も知れぬほどを過ごした知識から零れる言の葉にすれば、なんとも稚拙だと言わざるを得ない知識で対抗し、口舌を縦へ横へと広がせ、永琳が上句を読めばすかさず霖之助が下句を読み上げ、連歌の如くやりあう。丁々発止と。

 残念ながら、今のところ彼に勝ち目など全くさっぱり見えない。

 

 ――何、稚拙なのも今だけさ。彼女と語り合って知識を蓄え智慧と成せば、僕だって同じ場所に立てる。

 

 いつかは分からないが、それで良いと思えた。

 そんな風に考えていると、鑑定する道具の事もやはりもうどうでも良いと思えた。あの程度の小道具なら、店に持って来る事も可能だろうにと思っていた事も、忘れた。

 

 一知識探求者として、偏った求道者として、趣味人として。それで良いと思ってしまった。

 知識と金銭の貯蓄が出来るのだから、受け入れるべき事態だと思い込むことにした。

 

 ――多少の不自然さなど、眼を瞑ってしまえ。

 

 と。

 

 彼は髪が乾き切った事を確認してからすっと立ち上がって、布団を広げた。

 また明日、彼女はあすこに居るのだから早めに寝てしまおうと。灯を消し、もそもそと布団に入り、今日語り合ったことを思い出しながら眠る。

 

 彼は気付くべきだった。

 自己防衛と警戒を怠るわけには行かないと心底思っていたのなら、その時こそ怠ってはいけなかった。

 

 最初はオルゴール、その次は置時計、その次は小型の食器棚。そして最近は、小物の道具ばかりの鑑定依頼。

 受け取る際、渡す際、どうしても触れ合ってしまう、彼の手のひらと、ひやりと冷たい彼女の手のひら。

 

 少女の様な微笑と、その仕草の意味と。

 

 ――私に道具の鑑定眼なんてないわ。あっても、それは薬物に関係する物よ。趣味趣向品までは、ね。

 

 口元に手を当てクスクスと笑う彼女の、その視線が疚しさから伏せられた物ではなく。伏せた瞳で、そっと彼の――霖之助の鎖骨を妖しく仄暗く嘗め回して居たと言う事に。

 彼はやはり、気付くべきだった。

 

    ■ ■ ■

 

 まるでそれは、己から裂け出でる火の華を封じ込めるかのように強く、強く。肩を両手で掻き抱き、顔を伏せ、頭上で煌く見えぬ星々に懺悔する様にうな垂れて。

 

 香霖堂から灯火が消え、夜が帳の羽を広げる頃、同様に暗い永遠亭の一室でそれは濡れていた。唇が血で滲むほどに噛み締めて、爪が刺さるほどに肩を掻き抱いて、普段であれば玲瓏に理性と知性で彩られた双眸を濡らして。妖しく悲しく輝きを湛え。

 

 女は暗いその場所で、自身の中にある何かを御そうと、無駄な事をしていた。

 

 ――楽しい、楽しい。

 

 あの言葉を交わす日々がそうだと。

 

 ――嬉しい、嬉しい。

 

 あの彼女の言葉を聞き入る時の、ざらつくほどに熱い視線がそうだと。

 

 ――愛しい、愛しい。

 

 あの幼稚な知識で、それでも退かず一つでも多く学ぼうとする姿がそうだと。

 

 ――悲しい、悲しい。

 

 彼女がもうなくした筈の情熱やそういった物を、彼は多く持っていた。

 それがまず一つ。

 

 ――悲しい、かなしい。

 

 彼女は永遠に倦んでいた。彼女の上司に当たる、月の姫君の様な永遠に飽く事無い感情の絆――殺し合い――を持たない彼女は、倦んでいた。

 彼女達は円の中にいる対等同士で、自身は姫君にとって時に下に時に上に、円の外にあるだけの関係だった。弟子達は愛おしいが、彼女達は弟子である事しか選ばなかった。ここに、対等はなかった。

 それがまず一つ。

 

 ――かなしい、かなしい。

 

 為に、目の前に飛び込んで来たそれを、離さず逃がさず強く望んだ。対等で在ろうとする、まだ未成熟な半妖の雄鳥を。

 それがそれがそれがまず一つ。

 

 ――かなしい、カナシイ。

 

 だけれど、彼女は分かっていた。

 それを囲う事は裏切り行為だと。対等に成るために、横に立つその為に。真摯なほどに足掻き羽ばたくその鳥の、嘴を引き千切り足をもぎ取り目をくり貫き羽を毟り取る行為だと。

 分かっていた。

 分かっていたのに――それでも。

 それが、それが、まず一つ。

 

 ――カナシイ、カナシイ。

 

 日々が、彼女の歩んできた途方も無い道程からすれば短く、ただ過ぎる日々からすれば長いその時間という時間全てが。

 あの日からのその全てが。

 理解して尚、それでも、寒い怖い辛い淋しいと、親からはぐれた幼女の様に震えて怯える彼女の背中を。誰でもない、彼女自身が押した。

 

 ――悲シイ。

 

 あぁ、あぁ、あぁ。

 いつか気付いてしまうだろう。

 百年後か、十年後か、明日か。老いないその身に、死なないその身に、死ねないその身に。

 いつか彼が――霖之助が気付きそれを詰るだろう。彼女を罵倒し蔑み忌み嫌うだろう。分っていたのに、分っているのに。

 

 それが、それが、それが――

 

 ――あぁ、かなしい。

 

 掻き抱いた肩から血が零れ落ちても、永琳にはもう痛くなかった。

 

 或いは、それがこの顛末の目に見える答えだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

  ――続

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理解していてもそれは顔を背けられない。その鋭い爪からは逃げる術もない。

 それが生物の設計図にこびり付いたインク――愛と呼ばれる物だからだ。



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後編

 ――ねぇ、遊ぼうよ。

 

 ――嫌だよ、本を読みたいよ。

 

 ――そんなだから、真っ白なんだお前は。

 

 ――いいじゃないか、別に。

 

 ――良くないよ、遊ぼうよ。

 

 ――それに、僕は……

 

 ――関係ないよ、遊ぼうよ。

 

 ――……う、うん。

 

 

 

 

 数日前まであれ程に暇だった永遠亭の診療所は、病人と怪我人で溢れ返っていた。

 人間妖怪のわけ隔てなく。別段どこかで人災が在った訳でもないし、病魔が猛威を振るったと言う訳でもない。ただその様に、振られた世の賽の目が、偶々悪く出ただけの事である。

 異変でも事故でも人災でもなく、たった一言で言うなら。それは偶然だった。

 

 手の中にあるカルテに、独逸語で診断結果及び患者の情報を書いて行く。淀み無く、躊躇無く。

「ただの風邪ですね」

「あれまぁ……風邪なんて何年振りか……」

「帰りに薬を出しますので、受け取ってください」

「あぁ、どうも、ありがとう先生」

「お大事に……」

 

 純朴そうな男――患者がその診察室から立ち去り、女二人だけが残される。二人のうち、白衣の下に赤と青の服を着た銀髪の女――永琳は、やや乱暴にカルテを机の上に置き、眉間を軽く揉みながらため息をついた。

 

「……ウドンゲ」

「なんですか、師匠」

 

カーテンの向こうで忙しそうに注射針等を並べ、消毒している助手の彼女――永琳は本日数度目の、同じ質問をした。

 

「あと何人かしら?」

「沢山です」

 

 帰ってくる答えも同じだった。

 

「沢山、なのね」

「沢山、です」

 

 これも同じだった。

 何時もならただ事務的に、営業用の笑顔で苦も無くこなせる仕事だと言うのに、今は違う。

 

 時間が惜しい。

 時間が欲しい。

 時間が――……。

 

 だから彼女は、いつもに比べ若干張りの無い顔に鞭打ち、いつも通りの頼れて理知的で女神だって嫉妬する美貌――自己申告――の八意永琳先生の顔に戻り、新しいカルテをファイルから取り出して口を開いた。

 

「――さん、どうぞ」

 

 早く終わらせる為に。あの日々を取り戻す為に。営業用の笑顔ではなく、本当に笑えた、あの時間を取り戻す為に。

 

「すいません……なんか、足の骨……軽く折っちゃったみたいで……」

「……」

 

 テーブル横のゴミ箱に、折れたペンが沢山入っている事は、今のところ永琳以外誰も知らない。今のところ、は。

 

    ■ ■ ■

 

 少しばかり曇った空を、一人行く者がいた。

 

 女が一人、人里から離れた場所にある森へと向かって飛んでいた。道の先にある森は、様々な理由があって余り人が立ち入る場所ではないのだが、その女は、力強く迷いも無く自身が持つ最高速度で飛び続けていた。

 独特のデザインを持つ帽子をかぶった、そんな女が。

 

    ■ ■ ■

 

 暇だった。

 

「……」

 

 暇で暇で暇で暇だった。

 男は思う。つい数日前までの時間の、なんと濃厚であった事か、と。

 

「……」

 

 その濃厚な時間に比べたら余りに味気ない、と思う。男は思う。

 

「つまらないな」

 

 男――森近霖之助は手の中にある、殆ど流し読む程度にしか読めなかった本を閉じ、天井を仰ぎ見ながら大きくため息をついた。

 自身の城、人も寄らぬ森の入り口に建てられた香霖堂の、最早霖之助の体の一部とさえ噂される椅子の背もたれにだらしなく背を預けて。

 

 栞を挟む事もなく閉じられ、机へ無造作に置かれたその本が詰まらない訳では無い。ただそれ以上に。高みにある知識への憧憬が鉗子となって、長く霖之助の脳袋を掴んでいるだけの事だ。

 永遠亭でのあの日々は、今彼の手元にはない。

 幻想郷でも間違いなく片手に入るだろう賢者、八意永琳との舌戦が諸事情により一時休戦中なのだ。

 

「あぁ、つまらない」

 

 声に出す必要などないと分かっていても、声は出る。数日前までは、話題も尽きず話し相手にも困らなかったからだろう。静寂を好ましいと思っていた筈の彼が、店内の静けさにどうも馴染めない。

 

 店を開いて約十年。

 その十年もの間ずっと霖之助の傍に在った静けさが、今の霖之助にはどこか釈然としない。

 

 ――まるで完成しないクロスワードだ。妙な焦燥感に駆られる。

 

 稀に無縁塚で拾うまっさらなそれを、彼は同じく無縁塚で拾ったボールペンで一つ一つ埋めてく事がある。勿論問題の中には外の世界特有の物が数多く、自然空白に書き記す単語はチグハグな物となり、それを八雲紫に見られて笑われる事多数。からかわれる事大多数。

 

 ――じゃあ答えはなんなんだい。

 

 憮然としながら霖之助がそう聞くと、八雲紫は手にした扇で口元を隠し、こう答えるのだ。

 

 ――さぁ、なんでしょう?

 

 楽しそうに、それはもう楽しくて楽しくてしょうがないと胡散臭く笑いながら。

 

「扇で口元を隠したとしても、あんな声で、あんな目をしたら笑っていると分かるに決まっているじゃあないか」

 

 愉悦の色を隠し切れていない――恐らくは隠す気も無い――彼女の目と声を思い出しながら、独り言がまた彼の口から零れ出る。

 霖之助は力無く首を横に振って、椅子から立ち上がった。

 

――気分転換が必要だ。

 

 今度は口に出さずに、彼は仕入れも兼ねて無縁塚へ行こうと扉へ向かって歩き出して、

 

「霖之助! 今日こそ居る「――づぅお!?」…………か?」

 

 突然勢い良く開いた扉に顔面を強打され、受身も取れず転倒した。ついでに意識も吹っ飛んだ。

 来客を報せるカウベルが、半瞬遅れて鳴り響く。いつもよりは若干元気な音で。

 

 もっとも。

 

「り、霖之助、すまない! 大丈夫か!? 生きているか!? 人工呼吸は必要か!?」

 

 特徴的な帽子をかぶった女の周章狼狽振りに掻き消されてしまったが。

 

    ■ ■ ■

 

「いや、その、本当にすまない」

「まぁ、構わないが……」

 

 香霖堂の奥の一室、霖之助が香霖堂店主としてではなく、森近霖之助個人として過ごす部屋で、二人は向き合っていた。

 片や布団の上に胡坐をかき、片や座布団の上に正座で。

 

「霖之助、勝手に入れさせて貰ったが、お前の好きな熱めのお茶だ。飲んでくれ」

「あぁ、ありがとう慧音」

 

 差し出されたそれを両手で確りと受け取り、愛用の湯飲みから手のひらに伝わってくる心地よい熱さに苦笑いし、霖之助は一口だけ含みゆっくり嚥下する。

 

 ――あぁ、これくらいが丁度良い。

 

 熱さも、味も。

 ただ苦いよりは、断然此方の方が良い。最近ずっと出先で飲んでいた薬膳茶らしき物を思い出しながら、霖之助は思った。

 そうすると舌にあのなんとも言えない苦味が蘇るものだから、霖之助は自然と顔を顰めてしまった。

 

「すこし苦かったか?」

 

 失敗したか? そんな顔で問うて来る慧音に、霖之助は手を振って違うと応じる。

 

「前に飲んでいた苦い物を思い出しただけで、慧音の入れたお茶が苦い訳じゃあない」

 

 まだ疑う様な目を向ける慧音を納得させる為、霖之助はもう一度お茶を口にする。今度はただ、常の顔で。それに満足したのか、慧音は一緒に用意しておいた自分のお茶をゆっくりと飲んだ。

 

「しかし、如何したんだい慧音? 君があんな風に、乱暴に扉を開けるだなんて、穏やかじゃあないな」

 

 ――それとも何かい、君は今じゃあそんな風に清規を寺小屋の子供達に教えているのかい? 反面教師として。

 

 そう続けようとした霖之助だったが、それは慧音の言葉に遮られた。

 

「如何したんだい、だって、霖之助? お前はそれを本気で言っているのか?」

 

 それまでどこか満足げだった慧音の顔に、何か良からぬ物が宿るのを見て、霖之助は何か不味い事を言ったかと、自分の発言やそれ以前の行動会話を思い出す事にした。

 

 慧音。上白沢慧音。

 人里の守護者であり、半獣であり、半人であり、寺小屋の先生であり、香霖堂の売り上げに貢献する上客でありながら、良く値切る厄介な客。

 彼女のそう多くはない収入の内訳で、文房具や教材を多く揃える為には値切るという行為もまぁ仕方ない事なのだろうが、それほど教育と言う物に熱意を向ける暇があるなら、その熱意を一つ色恋沙汰にも向けては良いのではないかと思える位にはもういい歳を独りで過ごす

 

「何か不穏な視線を感じる」

「…………気のせいだよ」

「いいや、私の避雷針に、今何かがびりっと落ちた」

 

 君のあの角はそんな機能まであるのか、それとも僕の知らない別の物か、と心底でため息をつきつつ、霖之助は思考を再開する。

 

 厳密には独りではないのだが、見た目年若い女性が伴侶も持たずにもう百年以上。里の世話好きが過ぎるどこそこのご母堂達からは、良く良縁だと見合いやら一席やらを持ち来られているらしいが、結局それらが慧音の身の上に形となって留まった事は皆無であり、すべては無駄に終わったらしいと霖之助は誰かから聞いた事があった。

 

 ――あれは、あの烏天狗だったか。

 

 烏天狗といえば、その女烏天狗、何か邪推した言葉を一つ残して、山に帰っていった。

 

『そういえば、店主は彼女の幼馴染でしたか?』

 

 ――あの烏天狗は、どうでもいい事ばかりよく見ているな……本当に。

 

 確かに二人はそういった関係である。

 遠い昔、まだ幼く、外の世界など不要で、この幻想郷が大きく広く見えた子供の頃、偶然縁を結び、森近霖之助と上白沢慧音は長い長い時間を共有してきた。互いの弱みを知り、互いの強みを知り、互いの在り方を知り。

 時に笑い、時に泣き、時に喧嘩し、時に手をつなぎ、誰も綴らぬ歴史を二人だけで築き今へと。今この瞬間、霖之助が自身の在る世界から離れ、

 

 ――いやいや、今は慧音の事だ。

 

 と長考の深い海に沈み何も語らず何も目に入れなくとも、慧音は傍でただお茶を飲んでいる。その表情には不満も満足も無い。霖之助がただ霖之助として在るだけだと、彼女は理解しているからだ。それこそが、二人が共に歩んだ道程の中で作られた絆の一つなのだろう。

 

 とは言え、少々長い。

 慧音は何か暇つぶしはないかと周囲を見回し、畳の上に無造作に置かれている本を見て、躊躇わず手に取った。

 

 ――読んだ事がない本だな。

 

 表紙を見た限りでは、彼女の記憶にない本だったので、ページをめくる事にした。そしてそのまま1頁2頁とゆっくりと読み、50頁目に差し掛かる前に、

 

「慧音」

「なんだ?」

 

 霖之助が長考から戻ってきた。慧音は本を閉じ、霖之助の瞳を見つめながら、次の言葉を待つ。

 

「僕は、君に何をしたんだ?」

 

 とりあえず慧音は、手に持っていた本を霖之助の鼻の下に角が当たる様に投げ付けた。鍛錬不可能な急所の一つである。

 

 布団の上で無言のまま転げまわる霖之助を眺めながら、慧音は不満も満足も無いといった顔でため息をつき、投げ付けた本を拾い上げ、読み直す事にした。

 霖之助が無言で転がりまわるのを止めるまで。

 これもまた、二人が共に歩んだ道程の中で作られた絆の一つなのだろう。

 

    ■ ■ ■

 

「だったら、その様に紙か何かに書いて貼っておくべきだろう」

「いや、申し訳ない」

 

 怒りを隠そうとしない慧音に、霖之助は素直に謝る。

 

 ――これは分が悪い。

 

 そう思ったからだ。

 慧音が何に感情を乱し、何故乱暴に扉を開けたかと言うと、それは簡単な事だった。

 彼女は香霖堂の客であり、

 

 ――霖之助、鉛筆を二十本頼みたいんだが……なんだ、居ないのか? 無用心だな……鍵も掛けずに外出なんて。

 

 常連でもあり、

 

 ――霖之助、ノートを在るだけで構わないから……また居ないのか。

 

 幼馴染である。

 

 ――これで一週間連続の不在、か。

 

 多忙が多忙を呼び、気付けば彼女は一ヶ月も霖之助の顔を見ていなかった。忙しいからと近場の道具屋で全てまかない、香霖堂にも行けなかったらしい。此処最近、やっと時間に余裕が出来、さぁ久々に会いに行くかと意気込めば――……

 一週間、そしてそれ以降もすれ違い。

 

 原因は永遠亭への出張鑑定なのだが、霖之助はそれを誰にも語ってはいなかった。霊夢にも、魔理沙にも、他の親しい人間にも妖怪にも妖精にも、当然、幼馴染にも。偶に霊夢や魔理沙に出会えば、仕事で出掛けているとは伝えたが、出先までは伝えて居なかった。

 知っているのは永遠亭の者達だけで、他は誰も霖之助の所在を知らない。おまけに慧音は、運悪く仕事で外出していると言う事を知っている霊夢や魔理沙とも会えなかった。

 

 本当に運が悪い。それが二週間近くだ。一日二日のすれ違いならこれまでも二人にはあったが、これはかつてなかった。

 

 ――あいつ、何かに巻き込まれたんじゃないだろうな……

 

 在りもしない不安にも駆られる。

 

 ――いや、もしかしたらもう何処かで……

 

 馬鹿な妄想も止まらなくなる。来た事だけでも伝え様とメモを残しても、それに対する返事も無い。その点は霖之助も反論しておいた。

 

 ――そんなメモは見た事が無い。

 

と。

 

 すると慧音は、狸の置物の下に挟んでおいたと答えた。

 当然だと言わんばかりの顔で。

 疲れた顔で霖之助が狸の置物の下を覗き込むと、其処には百枚以上のメモ、メモ、メモ。霖之助の背筋に寒気やら怖気が走ったのは、なんというか仕方のない事だろう。

 

『無茶を言う……普通、帰ってきてそんな所は見ないだろう、慧音?』

『子供の頃は、お互いの家の植木鉢の下とかにメモを置いていたじゃないか』

『いや、君なぁ……』

 

 子供の頃は大人達の目を気にしていたし、慧音の家人達とも良好な関係ではなかったから、そういう連絡手段も使っていた。が、今はもう大人で、お互い独立した一己の存在だ。

 

 家、店、寺小屋、そこへ行けばだいたい会えるので連絡手段等忘れていたが、幾らなんでも、そんな昔の事をピンポイントにその時思い出して実行しろと言うのは無茶だ。無茶な筈なのだが。

 

『次からはそうしろ、するんだ、霖之助』

 

 昔は並んでも同じくらいだった慧音が、頭一つ二つ高い所にある霖之助の両の目を、ちょっと涙目で上目遣いに睨め付ける物だから、彼はうなじの辺りをぽりぽりと掻きながら

 

『分かったよ……』

 

 と答えてしまった。

 力関係の分かりやすい幼馴染である。

 

「兎に角、分かったな? 次からは、出かけるなら出かけると書いておく事と、ちゃんと狸の置物の下を見ろ」

「……あぁ、それも分かったよ、了解した、了承だ」

 

 大の男が古ぼけた狸の置物の下を漁る。

 

 ――どうなんだ、それは。

 

 試しに彼は自己の中にある知己の人間妖怪妖精神等々を出来るだけ忠実に再現し、脳内でシミュレーションしてみる事にした。

 

 何かお困りかと純粋に聞いてくれる者が一割……関わり合いになるのを嫌がって無言で立ち去る者が二割。

 加虐的な笑みを浮かべてからかって来るだろう者が四割……いきなり背中を蹴ってくる者が四割。

 

 ――いや、一割もそんな、お困りですか? なんて常識的な反応を示す者が居るだろうか……?

それ以前に余計な一割はどこから湧いてきた?

 霖之助は自身の交友関係の歪さに泣きたくなった。あと合計で十一割になる自身の脳内の不条理さに本当に泣きたくなった。

 

「しかし……八意女史からの仕事か。聞いても?」

「まぁ、隠すような事でもないからね、構わないさ」

 

 霖之助は気持ちを切り替えるため、鼻に掛かった眼鏡を右手の中指で軽く押し上げた。

 

「なんでもない、ただの小道具や置物の鑑定依頼だ」

「……その為に、態々永遠亭にお前が?」

「あぁ、依頼だったからね」

 

 慧音は腕を組み、あごに手を当て、むー、と息を吐き霖之助を見た。見た、と言うよりは、睨んだ。

 

「本当に、それだけか?」

 

 ――怪しむか。いや、妖しいか、確かに。

 

 霖之助自身も思った事だ、おかしな依頼だと。

 人間の、それも非力な女性でも片手で軽々と持ち運べるような小物や置物を、鑑定依頼に来るのではなく、来いという話。そして鑑定を依頼する人物は八意永琳。

 月の重鎮にして、幻想郷の肉体医学精神医学の頂点であるオモイカネ。その知識がどこまで多岐に渡るかは判然としないが、それでも在る程度の鑑定眼はある筈だ。それを霖之助は、他者からの違った視点を求めた為だろう、と思った。それを慧音は、おかしい、と思った。

 

 慧音は永琳と特に親しい付き合いがある訳ではないが、同居人と永琳の上司に当たる姫との関係上、お互い知らない仲ではない。そして慧音と霖之助との関係は、最早言うまでもない。

 其処から、何かに気づいたのだろう。彼女は胡乱げな目で霖之助を凝視した。

 

「八意女史に呼ばれたから行ったのではなく、お前の意思で行ったんじゃないのか?」

「……何か悪意を感じるが、その通りだよ、慧音。僕は、永琳こそが目的だった」

「……霖之助、いや、ちょっと待て、お前、いや、お前それはおおおおお前」

 

 先程までの探る様な、疑う様な目はどこへやら。

 慧音は珍しく――霖之助の前ではそうでもない――狼狽し、水槽の中で空気を求める金魚の如く、口をぱくぱくさせた。

 

「永琳の話は、いや、さすがに面白いよ。薬草学や医療系に偏りがちだが、全く苦にならなかった」

「……あー、うん? ……そうか、そうだな。お前だものな」

「慧音? どうしたんだい? やけに……煤けているじゃあないか?」

「店主、ここの鉛筆とノート、全部貰って良いか。ただで」

「やめてくれ、君まで。それに犯罪だ、それは」

「正当な慰謝料だ。しかも私は、十二分に妥協し、譲歩すらしている」

「君は……なんと言うか、偶に分からなくなる。未だ対処に困るよ」

「誰が原因だ」

 

 霖之助愛用の机を挟んで、二人は言葉を交わす。口が動くなら動くまま、表情も隠さず偽らず、その感情の色が表に出る事を任せ、極々自然に。

 

「分かった……無料には出来ないけれど、サービスくらいはする。良く分からないが、それで許しては貰えないものかな?」

 

 整った慧音の顔が、延々と自身を睨み続けるのは心臓に悪い。

 

 ――慣れていようが慣れていまいが、どうにも良くないな。

「良し、五割引きから始めるぞ」

「いや、待ってくれ、せめて三割引きくらいから」

「九割引き」

「攻撃的にも程が在る」

 

 打てば響き、響けば返し、返せば打ち返し、また響く。

 結局、

 

「では、四割引きだな」

「……あぁ、もう好きにしてくれ。もう、なんだい、巫女も君も、僕にとっちゃあ疫病神だ」

「ふん、山にでも行くんだな。厄を払ってくれと」

「至極面倒だよ」

「だから厄が溜まるんだ、お前は」

「その厄に、そんな事を言われたくはないね」

「まったく、あぁ言えばこう言う」

「それは僕の台詞だ」

 

 戦利品を袋につめて持つ慧音を、恨めしげに睨む霖之助。慧音は、店内の壁に取り付けてある古い時計を見て、そんな視線を無視する。

 

「あぁ、もうこんな時間か」

「そろそろ日が暮れるね。さぁ家にお帰り。同居人もお待ちだろう? それに、今日の天気は怪しい物だよ」

「降る前に帰るか……しかし、少し買い過ぎたな」

「強奪みたいな物だがね」

「同意の上だろう、店主?」

「君の好きなように思うと良い。僕も僕の好きなように思うさ」

「よし、では好きなように思うとしよう」

「……?」

 

 不機嫌そうだった顔を一転させ、きょとんとする霖之助に、慧音は言葉を続けた。

 

「家まで運ぶのを、手伝ってくれ」

「……君、なぁ」

「なんだ。好きなように思って良いのだろう? まだサービスが付く、くらいには」

 

 肩を落として、霖之助は首を横に振った。

 

「なに、この天気だ。念の為に傘くらいは定価で買ってやるから、そう落ち込むな」

 

 割に合わない。霖之助は、素直にそう思った。

 

    ■ ■ ■

 

 窓から見える天気の怪しさに、女は思う。

 あと少し、あと少し。もう少し、もう少し。ゴールは見えてきた。

 

 だから頑張ろう、だから頑張ろう。

 窓から見える天気の怪しさなど、どうでも良かった。目の前にいる患者など、どうでも良かった。彼女が彼に成した事など、どうでも良かった。ただ、彼女は。

 

 ――会いたい。

 

 少しでも、早く。

 

    ■ ■ ■

 

 いつもならもう少し赤い頃だが、その日は空の怪しさの為か、少し暗かった。

 いつ降り出してもおかしくないその空は、息苦しささえ感じさせる。霖之助は、鈍色の空がそのまま落ちてくるような錯覚に囚われて、空から目を離す事が出来なかった。

 

「霖之助、上を見ながら歩いていると、またこけるぞ」

「……また、随分と昔の話を」

 

 子供の頃の話じゃないか、と霖之助は少し前を歩く慧音に返した。

 

「お前は何かに興味を抱くと、その何かしか目に入らなくなる。今も、昔も。だから、誰かが余計であっても、言うべきなんだ」

「余計であっても、かい?」

「あぁ、余計なお世話であっても、だ。お前は……なかなかに危ないからな」

 

 一人で無縁塚に行ったり、その辺をうろちょろしたり、その癖いきなり考え込みだすから、始末が悪い。慧音の小言は続く。二人が歩くあぜ道は少々狭く、大人二人が並ぶには苦しい。

 

 ――おかしな物だ。

 

 霖之助がまだ子供だった頃は、このあぜ道が大きく見えた。今は前を行く慧音と二人で並んで、時にもっと大人数で、走って、歩いた。今のように静かに歩くのではなく、もっと騒いで、無邪気に笑って、怒って、泣いて。感情のままに。

 

 今なら視界の先にうつる人里も、昔は見えなかった。もっともっと先に行かなければ、そんな物は見えなかった。大きくなった、大人になった。

 あの頃の、二人だけが今ここを歩いている。

 

 慧音以外の友人達が、霖之助の脳裏で鮮明に過ぎる。里の人間、狩人だった者、農民だった者、医者の卵だった者、店を開いた者、病気をこじらせて若く死んでしまった者。

 皆、子供だった。

 二人より先に老人になり、孫や子供達に囲まれ、または一人孤独に死んでいった、古い友人達。慧音と共に縁を結んだ、人間達。慧音が居なければ、縁も結べなかっただろう人間達。

 

 今は、残された二人だけが、またこのあぜ道を歩いている。

 

 ――あぁ、おかしな物だ。

 

 気付いたら、霖之助は立ち止まっていた。なんの理由も無く、自然に。

 それに気付いた慧音も、立ち止まった。言葉も無く、ただ二人はお互いの顔を見合う。意味も無く、理由もなく。

 今にも雨が降り出しそうな、薄暗い空の下で、じっと、ずっと。

 

 ――……

 

 そこに、声が入ってきた。

 後ろからだ。霖之助は振り返り、慧音は霖之助の背後を覗き込むように、後ろを見る。

 

 見ればそこには子供が二人。里の子供達だろう。

 まだ幼さの隠せない少年が、純朴そうな、頬の赤い少女の手を引いて歩いている。小さく、二人一緒に歌を歌いながら。拙い、ちぐはぐな歌声だというのに、霖之助は聞き入った。聞き逃すまいと、己の器官全てを使って。

 

 やがて少年と少女は霖之助と慧音を追い越し、人里へ消えていく。

 ここに霖之助と慧音など居ないかのように、二人で。

 

 霖之助は、それをじっと見つめ続けた。先程慧音と見合ったように、意味も無く、理由も無く。姿が見えなくなるまで、ただずっと。そして、慧音が小さく呟いた。

 

「……思い出すな」

「何をだい?」

 

 分かっていても、霖之助は問うた。慧音が何を思ったのか。それを。

 

「私達も、あんな風だった」

「僕達の場合は、逆だったよ」

 

 手を引く少年は慧音で、手を引かれる少女が霖之助。そんな関係だった。

 部屋で一人静かに全てから隠れるように本を読みたがる霖之助を、慧音が無理矢理引っ張り出して駆け回る。先に音を上げるのはいつも霖之助で、慧音はそんな霖之助をだらしないと怒っていた。他の子と遊べと言えば、思いっきり拳骨を食らったことも在る。

 

『お前と遊びたいんじゃないか』

 

 怒ったような、泣いたような、そんな顔の慧音に、霖之助はよく怒られた。

 

「僕は、君に随分振り回されたよ。今の君しか知らない者達が当時の僕らを見たら、さぞ驚く事だろうね」

「案外、知っている連中も居るんじゃないか?」

 

 妖怪の寿命は個体差こそあれ長い。それこそ、千を生きてまだ若々しい者も居るほどに。ならば当時を知っている存在も、確かに居るだろう。

 けれど、霖之助はそう思えなかった。

 霖之助と慧音の関係を知っている烏天狗等も居るには居るが、彼女の場合どこかで又聞きした可能性のほうが高い。実際彼女は、肝心の部分を語る事は無かった。無論、ただの情報の出し惜しみという理由も在り得るが、この場合は出し惜しみする理由が無い。

 

 知っているなら、この札を切らない訳がない。昔の慧音を知る者なら、必ず語るべき事を。

 

「きっと君の事は分からないだろう。今の君と昔の君じゃあ、違い過ぎる」

 

 そう、違いすぎる。

 霖之助の目の前に佇むのは、凛とした白百合の様な涼やかさをもった女性だ。記憶の中にある少女は、生命力にあふれた、野に咲く名もない花のような子供だ。

 余りに違いすぎる。

 

少女が女性に、徐々に成長して行く過程を知らなければ、結びつかないほどに。知っている者、気付いている者が居れば、確実に餌食となる。宴会やら酒の席やら、諸々で。

 それくらい、彼女は変わった。対して自分は、と霖之助は思う。

 

 ――そのままだ。あのまま、大人になったような物だ。

 

と。

 

「蛹を見て、それがいずれ蝶になると分かる子供は居ない。誰かにそれを教えられなければ」

「今の私が、蝶か」

「あぁ、あの少女がこれほど美しくなるとは、正直思っていなかったね」

「……」

 

 慧音はそっぽ向き、歩き出す。

 

「知ってたかい、慧音」

 

 そんな慧音の後ろを歩きながら、霖之助は言葉を続ける。一緒に遊んだ少年を、一人思い出しながら。

 

「何をだ?」

「重蔵……あの頃一緒に遊んだ農家の重蔵は、君の事が好きだったんだ」

「あぁ、告白されたよ、随分昔だ」

「へぇー」

「断った次の日、あいつは後で娶る事になったお菊ともう出来ていたがな」

「流石は重蔵」

「そんな事だったらな、霖之助。花屋の橘はお前が――」

「っと!」

 

 慧音が何か言おうとしたところで、霖之助がころんとこけた。

 

「まったく……少しは動く事を習慣付けろ、霖之助。ほら」

「いや……申し訳ない」

 

 慧音の差し出した手をとり、霖之助は、よっと一声出して起き上がる。何に足をとられたのかと足元を見ると、そこには大きめの尖った石があった。

 

「随分と凶悪な石が埋まってるじゃあないか」

「そうだな……っと、霖之助、お前、手……」

「ん?」

 

 手、と言われて左手を見るが、そこには砂が着いているだけだ。

 

「違う、こっちだ」

 

 どうやら慧音に預けた右手の方らしい。どれ、と手を見やれば、手のひらには綺麗な斜めの傷と、少しばかりにじみ出ている血。

 

「あぁ、こける時、尖った小石にでもやられたか……まぁ、これくらいなら大丈夫だよ」

 

 実際、痛みなど殆どない。それでも慧音は、心配そうに霖之助の顔と手のひらの傷を見ながら言う。

 

「一応、私の家で消毒くらいは」

「いや、降り出しそうだから、邪魔するのも悪い。家に帰ってから、消毒しておくさ」

「そうか……で」

「で?」

 

 心配そうだった顔から、昔よく見た彼女の顔に変わる。部屋に居る霖之助を、無理矢理表に引き摺り出す時に見せた顔で。

 

「どうする、このまま手を繋いだまま歩いてみるか? 昔のように」

「前言撤回……君は変わっちゃあいないな」

 

 歩いていく。

かつて共に歩み、先に息絶えた人間達の名を一つ一つ呼び、彼ら彼女らの出来事を語り、二人は歩いていく。子供の頃、無邪気に走ったその場所で、笑いながら。

 

 そして、楽しい時間という物はすぐに過ぎる。目の前には、慧音の家があった。

 

「着いたな」

「あぁ、着いたね」

「ご苦労様、霖之助」

「香霖堂のご利用、ありがとうございました」

 

 慧音に持っていた袋を渡し、霖之助は笑いながらそう言った。もうこれでサービスは終わりだ。降り出す前に戻ろう、と背を向けた霖之助に、慧音が言葉を掛けた。

 

「私が重蔵の……今も、皆の告白を断っているのはな――」

「え?」

 

 そんな話は確かにしたが、今話す必要は感じられなかった。

 霖之助は不思議そうに振り返り、そして見た。

 

 真っ直ぐ、真っ直ぐに。

 在る姿は凛とした白百合の様に美しく。

 

「先に死なれるのは……嫌だった。残して逝く者に囚われるのも、残される者に囚われてしまうのも、私は嫌なんだ」

 

半分人で、半分獣の彼女は。

 

「        」

 

真っ直ぐ霖之助を見据えたまま、家の中に消えていった。

 

「……」

 

 霖之助は無言のまま、慧音の家に背を向けて歩き出す。振り返る事も無く。

 

 ――幻聴だ。彼女――慧音が。そんな事を言う筈がない。彼女は、そんなのじゃあない。

 

 ――だからお前が良い――

 

 ――幻聴だ。

 

とうとう降り出した雨にうたれながら、霖之助は走った。竹林まで来て置いて、その先にある場所には一切気が行かなかった。

 彼はただ、走った。

 

    ■ ■ ■

 

 降り出した雨の空を、一人行く者がいた。

 

 女が一人、人里から離れた場所にある森へと向かって飛んでいた。道の先にある森は、様々な理由があって余り人が立ち入る場所ではないのだが、その女は、力強く迷いも無く自身が持つ最高速度で飛び続けていた。

 手に、小さなブローチを持った女が。

 

    ■ ■ ■

 

 草臥れたカウベルの音を聞きながら、ずぶ濡れのまま店内に転がり込み、霖之助は乱れた息を整えた。

 

「あぁ、ほんと、に……ぼくは、なに、を……」

 

 手には出る前に持った傘が一つ。それが在りながら、彼は傘もささず雨の中を走った。

 

 ――はたから見たら、なんと滑稽な姿だろう。

 

道具屋の主人が道具を使わず、雨の中息を乱して走る姿。その姿は、どう贔屓目に見ても。

 

 ――馬鹿丸出しだ……

 

 使われる事の無かった傘を舌打ちしながら扉の横に置き、張り付いてくる気持ち悪い上着を脱ぐ。何か拭う物を探し、棚に置いてあった売り物のタオルケットを手に取る。売り物だが、この際はしょうがない。

 

 ――また洗い直せば、売り物に戻るさ。

 

 タオルケットで髪を乱暴に拭い、次は顔、その次は首を拭う。そこでぶるっと寒気が全身を走り、霖之助は風呂も沸かすかと風呂場へ急いだ。薄暗い廊下を明かりもつけぬままに歩き、ふと思い出した。

 

 慧音の、あの言葉を。

 

「幻聴だ、幻聴だろう、……彼女は、そんなのじゃあ、ない」

 

 寒気も忘れ立ち止まり、強く首を横に振る。

 未だ髪に残っていた水が飛び散り、壁や廊下を濡らした。足を拭かないまま廊下を渡ったせいだろう、足元にはもう大きな染みが出来ていた。寒いはずなのに、胸が熱い。顔も熱いし、頭も熱い。

 

 目を閉じれば、彼女の、慧音の姿がはっきりと瞼の奥で蘇る。

 長いまつげも、綺麗なうなじも、すらりとした腕も、足も、指も、声さえも。付き合いが長い分、それは一部の差異も無く、正確に鮮明に再生される。

 

 熱い。

 霖之助は零す。やはり、どうにも熱いと。

 

 ――風邪だ、風邪のひきかけなんだ。

 

 右の手のひらで顔を覆い、自身にそう言い聞かせた。この熱は、そういった熱でしかないんだと、あれは聞き間違いだと。必死に言い聞かせた。

 

 自分一人だけが浮かれているとしたら、余りに悲しいから、そう思う事にした。そして数秒後、顔から手のひらを離し、違和感を覚えた。

 

 ――……

 

 それまで帯びていた熱が、どこかへ消えていく。

 彼は何がおかしいか分からず、理解も出来ず、もう一度同じ行動を取る。右の手のひらを顔にあて、もう一度、数秒後に離す。

 

 ――……

 

 離した右の手のひらを、じっと見つめる。

 目を見開いて、じっと、じっと、じっと、じっと見つめ。

 

 ――……

 

 狂ったように走り出し、霖之助は戻っていく。

 香霖堂に備え付けられた愛用のテーブルに向かい、引き出しを壊すように引っ張り出した。中からペーパーナイフを掴み取り、その鞘を外しそのまま左手の人差し指に当てると、一気に引いた。

 迷い無く、深く、指を切り落とすような勢いで。

 

 霖之助は痛みに顔をしかめながら、血の流れる指先を食い入るように見つめて――……

 

「は、ははははは」

 

 笑い出した。

 引きつった顔で、笑い出した。

 

 目の前で、それは起きた。

 だらだらと流れていた血がやがて止まり、じんじんと来る痛みは潮が引くように消えていく。そして――

 

「はははは、ははははははは」

 

 ――嘘だ。

 

 それがまず頭に浮かんだ。在り得ないから、嘘だと思った。

 あぁ、そうだ、自身は確かに半妖だ。

 霖之助は喘ぎながら、走りながら千々に乱れて纏まらない思考を続ける。

 

 怪我も治りが早く、病気にも為り難い。ただ、それだけだ。彼の体は、それだけだ。

 別段他に優れた所等無く、精々が食事を必要としない事くらいで、メリットを探し出しそれを誇れるほどに、彼の身体は恵まれた物ではない。

 その筈なのに。

 

 ――なのに、なんで……

 

 目当ての場所に、たどり着く。そこは食事を必要としない霖之助から縁遠い、使われる事など殆ど無い台所だった。息も整えず、彼は目当ての物を探す。

普段の彼からは想像も出来ないほど、そこにある全てを薙ぎ倒しながら。

 

食器が割れる。湯飲みが割れる。棚が倒れる。

 

 ――嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 

 理解できない、理解できない、理解なんて彼には出来ない。だからそう叫ぶ事しか出来ない。

 

 魔理沙が置いていった皿が割れた。

 

 ――嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 

 それに憧れが無い訳ではない。だが、それ以上に嫌だった。

 かつての人間の友人達。慧音の話にも出てきた彼ら彼女らの最後が、胸を締め付ける。孫や子供に囲まれて幸せそうに逝った者、孤独のまま逝った者。長い列の葬式、短い列の葬式。周囲から向けられる、胡乱げな視線や、攻撃的な視線。

 

 辛いと思う。この程度の生であっても。彼は辛いと思う。親しい者の死と、別れ。

 

 霊夢のお気に入りのお椀が割れた。

 

 ――嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 

 何より、その先が嫌だった。先に逝った者達が残した子や孫には、彼ら彼女らと瓜二つの者達もいる。その人間達には悪いが、それが嫌だった。

 目の前にまだ生きて在る様で、かつての友人達を汚された様な気がして。そんな風に思う彼自身が――嫌だった。

 

 慧音は言った。

 

『先に死なれるのは……嫌だった。残して逝く者に囚われるのも、残される者に囚われてしまうのも、私は嫌なんだ』

 

 親しい彼女達が居る。

 親しい彼らが居る。

 霊夢、魔理沙、咲夜、魔理沙の父親、母親、兄弟子、弟弟子。かつての友人達、知人達。人間の、彼の人間の知り合い達。

 

 彼女達の死だって、受け入れがたい物だろうと、彼は思う。更に、彼は場合によっては、その彼女達の子供や孫達の死まで見なければならない可能性まで在る。看取らなければならない。悲しいのに、それだけでも悲しいのに、ずっと、ずっと。

 もしかしたら、彼の予感が当たっているのなら――永遠に。

 

 ――あぁ、あぁ。そんなのは、慧音。僕だって

 

「嫌だッ!!!」

 

 先ほど慧音と霖之助が使った湯飲みが割れた。

 

 砕かれ散らばった食器や棚や道具達。それらの下に、冷たいきらめきを放つそれを、彼は見つけた。見つけて、求めていながら、目の前にして躊躇し。

 やがてゆっくりと……左手でそれを掴み見入った。

 

 それに映りこむ自らの顔を眺めながら、彼は考える。

 もし、想像通りだとしたら、いつそれを摂取した。目を瞑り、思い出す。脳内全ての記憶を掘り返し、全てを見逃さず思い出す。

 答えは簡単に見つかった。記憶を深く掘り返す必要さえ無かった。何せそれは、彼の日常の一コマだったのだから。

 

 じっと、彼を見つめる、あの瞳を。飲む際に、じっと見つめていた、あの目を。嚥下するまで、ただ見つめていた、あの双眸を。

 

 ――僕は、僕は、僕は……

 

凶暴さはもう鳴りを潜め、そこには静かな常の彼が戻っていた。ただ、金の瞳には知性の色が見えなかった。

 

 ――尊敬、していたんだ。尊敬、しているんだ。

 

 その答えに辿り着くのが、嫌だった。それでも、全てはそこに辿り着こうとしていた。

 

――本当に……愛してさえ、いたんだ。

 

 自分の様などうでもいい半端者ではなく、そこに在るだけで存在をはっきりと感じさせる彼女に。高い知性と、鋭い智慧に。会話を楽しもうと、自分に合わせてくれる彼女に。

 

 母親を慕う子供の様な感情さえ、あった。姉を慕う弟の様な感情も、あった。純粋な敬愛の念が、あった。

 彼女の長い命から見れば、本当に短い時間でも、自分のような半端物から見ても、短い時間でも。その交わった日々の中で、それらは確かに芽吹いたのだ。

 

 知識と言う沃野と、繋がりと言う糧で。

 

 けれども。

 

『じゃあ、また明日』

 

 彼は裏切られた。

 

 そして。

 

『だからお前が良い』

 

 彼は裏切ってしまう。

 

 ――怖い怖い怖い。

 何が?

 

 ――怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 何を?

 

 ――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 

 手にある鈍く光るそれや、今からやろうとしている事が。

 証明の為には、これしかない。それしかない。

 証明するには、それこそが最も効率的で実践的だ。けれど、もし――……

 

 二度と目覚めない事が怖い。それよりも。

 そんな事よりも、それ以上に怖い。どうしようもなく、それが怖い。

 彼は、怖い。

 

「なぁ、慧音……もしこれで僕がどうにも為らなかったら……君は、どうする?」

 

 居ない彼女に問いかけて、彼はそれを自分の喉に突き立てた。

 

 包丁が喉を貫通し、うなじから鈍い光を放つ、赤に彩られた刃をぬらりと覗かせていた。

 

 口から血をこぼし、見開かれた目から、徐々に光が失われていく。どさりと倒れこむ彼のその両手には、傷など一つも無かった。

 

    ■ ■ ■

 

 雨の中。

 目の前にそびえ立つ和風なのか中華風なのかはっきりしない古道具店――香霖堂――を前に、永琳は少しだけ物怖じしていた。降りしきる雨に打たれるがまま、立っていた。

 入って良い物かと。良いも悪いも無く、店なのだから誰もが入る権利を持っているのだが、今の彼女には此処まで来て――いや、店を前にしたからこそ、彼女には物怖じするだけの理由があった。

 

 右手の中にある小さなブローチを見つめながら、永琳は笑う。

 泣きそうな顔で。

 

 彼女は霖之助の能力――道具の名前と用途が判る程度の能力――が、どの程度の範囲から発揮される物か知らない。

 薬剤に直接触れなければ分からない物なのか、薬瓶越しでも分かる物なのか。薬剤を瓶から取り出し何かと――お茶と混ぜた場合、それは湯飲み越しでも分かる物なのか。それらが判然しない以上、彼女は慎重に為らざるを得なかった。

 

 そしてその為に、彼女は芝居をうった。この茶葉が味だけで分かるか? と。

 

 霖之助が湯飲みを持ち、口をつけた後で、だ。

 博打ではあるが、こうすれば能力の範囲も特定出来る上に、あの負けず嫌いの霖之助だ。舌だけで茶葉を断定しようと躍起になるだろうと考え、結果その通りになった。

 

 永琳はそこまで準備してから、それでも慎重に事を進めた。一気に服用させ急激な変化に副作用が出ないよう細心の注意を払い、ゆっくりと彼の体に浸透させて行く為に一滴、一滴、徐々に徐々に熱いお茶に含むそれは増やしていった。

 まるで永琳の中に在る粘着的な黒いそれの様に。

 

 そんな彼女が、今更怖いと思う。悲しいと思う。

 手の中に在るブローチは、此処に来る為の口実だ。此処に至ってまだ、彼女は理由も無く来るという事に戸惑いと恐怖を感じている。もう引き返せない所まで渡って、渡らせておきながら。

 

 雨に濡れた髪は重く、服も肌に張りつき、気持ち悪い。永琳は髪を一房弾き、扉に手をかけた。

 

 ――大丈夫、まだばれる筈なんて無い。

 

 一年、二年、十年、百年、もっと、もっと。

 きっとばれないばれない。

 

 そんな楽観的な事を考えながら、彼女は胸で未だ燻ぶる恐怖を押さえ込み、香霖堂へ入っていった。

 

 毎度の如く、もう聞きなれたカウベルが草臥れた音を奏でる。

 

「霖之助……? 居ないの?」

 

 灯りの点っていない暗い店内を見回す。

 

「……あら?」

 

 そこでおかしさに気付いた。

 彼が良く座っている椅子が倒れている。そして肘をかけ、いつも本を読んでいるテーブルの上が荒らされていた。

 

「……」

 

 近づき、更にその異常さに目を見張る。

 引き出しはこじ開けられ、引っ張り出されたそれは、そのまま床に打ち捨てられていた。そこからちょっと覗けば見えてくる、居住区に続く廊下には、黒い染みが転々と、また奥へ続いていた。

 どう見ても、良くない事だ。何かあったとしか思えない。そう考えた永琳は、

 

「……上がるわよ、霖之助?」

 

 万が一のため、靴を履いたまま上がり込む事にした。

 

 ギシギシと鳴る廊下は暗く、ぼんやりと奥が見えるだけだ。注意し、警戒し、彼女はゆっくりと歩を進める。香霖堂の壁に備え付けられた時計の秒針と、降り止まぬ雨の音と、廊下の軋む音だけが鳴り響く。

 

 ふと、物音を聞いた。

 奥からだと当たりをつけた彼女は、其処へ向かおうとして――

 

 それを見た。

 

 割れた食器と、道具の散らばった暗い暗い部屋で。ひざを突いて、力なく項垂れている霖之助を。駆け寄ろうとする永琳に、霖之助も気づいたのだろう。

 彼は緩慢に顔を上げて、彼女を見上げた。

 

「りんの――……」

 

 見た、じっと、見ていた。

 光などどこにも無い、濡れた瞳で、霖之助は、永琳を、見上げていた。

 

「……あぁ」

 

 黒と青で彩られた服と、どこかくすんだ銀色の髪。

 光の無い瞳に、男性にしては華奢な体と、白い肌。

 その白い肌を冒す――真っ赤な首と真っ赤な胸元。

 力なく垂れ下がった右手には、血に濡れた包丁。

 

「あぁ、そう……霖之助……そう、貴方――……」

 

 泣きそうな、悲しそうな、笑い出しそうな、壊れてしまいそうな、綯い交ぜになった判別し難い顔で、喘ぐ様に言葉を紡ぐ永琳を遮って。

 濡れた瞳から、涙を零しながら――霖之助は口を開いた。

 

 

 

――『  』

 

 

 

 こつん、と。

 永琳の手に握られていた小さなブローチが、床へ落ちた。

 

 

 

 

 

  ――了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも女は涙を流さなかった。

 或いは、そんな物とうに尽きていたのかも知れない。



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『嘘つき兎はそこで笑う』 メイン:霖之助 てゐ
嘘つき兎はそこで笑う


 その日、魚を貰った。

 

「……これはまた、良いんですか?」

「えぇ、道具を買うにも、わたしは銭なんて持っちゃいないもんで」

 

 人里から少々離れたところにある、瘴気漂う森の入り口に佇む香霖堂と呼ばれる店内で、店主と客が向き合っている。

 店主の方は見た目が華奢で若く、特徴的な黒と青の服がよく似合っていた。客の方はがっしりとした巨躯であり、顔は年を重ねた分だけの皺が刻まれている。眉も顎も頬も目も厳つく、一見しただけでは堅気に見えないのだが、その顔に浮かぶ表情はとても柔和で、彼の持つ雰囲気は気のいいお百姓と言った言葉が良く似合う、総じて言えば実に無害そうな中年の男だった。

 その様な男から魚を受け取った店主――森近霖之助は、珍しく笑顔で感謝の言葉を述べた。

 

「有難う御座います」

「いやいや、店主さん。そんなマシなモンじゃあないさ。たまたま、それなりのが釣れたってだけのモンだよ。いつもは坊主で、女房に馬鹿にされるのが当たり前なんだから」

 

 霖之助の態度に照れたのか、中年の男は言い訳のような事を口にして、胸の前辺りで手をぱたぱたと振っていた。普段憮然とした顔で居ることが多い霖之助の笑顔と、素直な感謝の言葉が面映ゆかったらしい。

 男はそのまま買い取った道具を手に取り、一度会釈して店から出て行った。その顔に浮かぶ表情通りと言うか、実に気のいい男である。

 霖之助は自身の客の、しかも多くは無い人間の客の一人にそんな者が居ることを嬉しく思いながら、道具を売った際に代価として渡された魚を眺める事にした。どうやら釣ったばかりであるらしく、まだ鮮度は落ちていない。

 

 冷蔵庫――恐らくは明治時代辺りのそれ――に入れれば、長持ちはするだろうが、傷む物はどうやっても痛む。生物なら尚更である。刺身として食べるのであれば今の内だろうし、焼くにして旨味が生きているうちに焼いたほうが美味いに決まっている。

 どうやって食べようか考え込み、数秒後。霖之助は結論に至った。

 

 煮るも焼くも捌くも、いいだろう。が、こういった事は案外と単純な事で決まる物だ。

 

 ――そうだ、天麩羅にしよう。

 

 その日の気分により、そうなった。

 そして霖之助は魚を片手に、普段余り用事の無い台所へ向かい――

 

 

 

「全治一週間です」

 

 

 

 両手に火傷を負った。

 ただそれだけの事だった。

 

「しかし、随分とまた派手にやりましたね、森近さん」

「……返す言葉も在りません」

 

 とある診療所の中にある一室で、霖之助は白衣の下に青と赤で彩られた奇妙な服を着る女性――永琳と向き合っていた。自身の手を、永琳のたおやかな手に預けて。

 普段ならまともに日に当たらないが故に、男性としては白すぎるその手が、真っ赤に爛れていた。

 

「それで、痛みは?」

「やはり無いですね」

「……」

 

 自身の手に預けられた霖之助の手のひらを突きながら、永琳はため息を吐いた。これほどの火傷を負い、更に痛みが無いとなれば重症だ。本来は一週間などで治る物ではないのだが、そこは八意永琳の頂とする診療所。純粋な治療技術から非科学的な治療までどんと来いな幻想郷一のとんでも医療機関である。

 逆に言えば、そんな場所でも全治に一週間掛かると言う辺り、霖之助の負った火傷の深刻さが伺える。永琳は預けられていた霖之助の手のひらから手を離し、机の上にあったカルテを取る。

 

「確か……天麩羅を揚げようとして、鍋をひっくり返してしまった……でしたか?」

「はい、その通りです」

 

 カルテにペンを走らせながら、永琳は霖之助と言葉を交わす。その言葉は硬く、親しさなど一切感じさせない。それもその筈。

 二人はさして親しくない。

 霖之助の営む店はある程度扱う商品に幅があるため、永遠亭の存在達も利用するが、その際買出しに来るのは優曇華やてゐだ。永琳は殆どそれを命令する立場に在るだけで、ごく稀にしか直接香霖堂に顔を出す事はない。今でこそ逆の立場ではあるが、客と店主でしかない二人なのだ。その為かどうしても言葉が硬く、外向きの対応しか出来ない。

 

その硬質な空気の中、霖之助は自身の情報が記されていくカルテをなんとはなしに眺めたまま、口を開いた。

 

「そろそろ良いでしょうか? 僕も店があるので」

「――」

 

 その何気なく出された言葉には、さしもの永琳も驚いた。今、彼女の目の前で椅子に座る男は、何を言ったのだろうか。永琳はカルテに走らせてペンを机の上に置き、真っ直ぐに霖之助の見つめ――いや、睨みつけた。

 

「手に感覚はなく、突かれても痛くも無い。そんな重症で、日常の動作が行えるつもりですか、森近さん?」

「……」

 

 霖之助は眼を瞬きさせて、そしてゆっくりと自分の手のひらを見た。真っ赤で、焼け爛れている、常とは全く違う自身の手のひら。

 

 彼の行為は良くある事だ。長い道を歩いた存在に多い――かつては永琳や輝夜にもあった事だ。 妖怪と人間は近い。差異など殆どなく、交配が可能な種も在るほどに。精神構造、肉体の器官の配置、それらは確かに近い。しかし、近いと言うのは同じではない。

 

 妖怪は人間とは違う。

 その最も足るものが、有した時間である。彼ら、または彼女らの生は長く、その身体能力も人とは比べ物に成らない。傷を負えどもすぐ治り、病に伏せる事など個体差もあれほぼ皆無だ。故に、自身の体が現在如何なる状態に置かれているのか、無関心になってしまう事がある。永琳や輝夜や妹紅の様に、文字通り不老不死であればそれもさしたる問題ではない。

 が、霖之助は違う。

 ただ人より多少は頑丈と言う程度の存在でしかない。間違いは、早めに正すべきだ。

 永琳は息を小さく吸い込こんでから、言葉を放った。

 

「良くある事です。長い生を歩み、怪我もすぐに治る妖怪やそれに近い存在は、ごく稀に負う重度の傷に中々気付けず、また余りに無頓着になります。幾ら命が長かろうと、それは自ら生を縮める愚かな事ではありませんか? そうは思いませんか、森近さん」

 

 ――その通りだ。

 

 霖之助は素直に思った。

 長い事物騒事から距離を置き、傷らしい傷を負わなかったからだろうか。どうにもそういった事に対して自身は無関心になってしまっているらしいと、霖之助は自分の迂闊さを恥じた。人よりは治りも早いだろうし、いつか治る物だ。けれども、それは今すぐ治るような物ではない。

 今不安が無いからと言って、今この時、長い時間から見ればほんの僅かな数日、問題が無いわけではないのだから。

 

 ゆっくりと頭を振り、霖之助は頭を下げた。普段の負けん気も、流石にこういった際にはなりを潜めるらしい。ましてこれは年長者、しかも医師からの忠告でもある。特に葛藤も無いまま、彼は頭を下げると言う行為を為せた。

 

「医療に携わる方の前で、なんとも愚かな事をしてしまいました……申し訳ない」

「いえ、理解さえして頂けるのなら構いません。それで、森近さん」

「はい」

「流石にその両手ではお困りになるでしょうから、こちらに入院という事になりますが……」

 

 なるほど、そうなるだろうと霖之助は思った。実際両手がこうもなれば、今まで通り動かす事もできない。

 であるなら、入院と言うのは当然出てくる選択肢であり、それを拒む理由も彼には無い。全く無いわけではないが、この両手では店など開けた物ではないし、むしろやって来た客に迷惑をかけかねない。それ以上にそんな弱みを見せるのは、霖之助にとって嫌な事だった。

 勿論、よく来店しては何も買わず帰って行く魔理沙や霊夢に弱みを見せるのが最も嫌だったわけだが。

 しかし、入院となれば――

 

「その程度の持ち合わせなら、なんとか」

「いえ、そうではなく」

「はぁ?」

 

それなりの金銭が必要なのだろうと彼は思ったのだが、複雑そうな顔の永琳を見る限り、どうやら違うらしい。

 

「その……申し訳ないのですが、他の患者さんも居ますから、森近さんだけを確りと診れないのです」

「それは、そうでしょう」

 

 この診療所はそれなりに繁盛しているのだから、それはそうだ。

 永琳はその言葉に少しだけ救われたという表情で、言葉を続けた。

 

「それで……その、何時もなら助手をしている優曇華も、少し前から体調を崩しがちで、やはり同じ様に確りとは診れません」

「なるほど」

 

 霖之助が察するに、どうやら片手間でしか診れない事を恥じているらしい。しかしそれは仕方の無い事だ。

 

「いえ、構いません。少しでも助けて頂けるのなら、それ以上は望みません」

 

 我を通すつもりはない。

 己の職分の中にある事を行えないと恥じる永琳に、霖之助は辛く当たる理由も無かった。

 

「いえ……四六時中でも貴方を助ける事が出来る者が居るんです。居るんですが……」

「……はぁ?」

 

 分からない。彼女が何を言いたいのか、さっぱり霖之助には分からない。

 永琳は申し訳なさそうな、それでいて若干苦しそうな顔をして――

 

「恨まないで下さいね?」

 

 そう言った。

 

 

 

 

『嘘つき兎はそこで笑う』

 

 

 

 

 何もせず、霖之助は天井を眺めていた。

 入院が決まってから、宛てがえられた一室に敷かれた布団に伏せったまま、彼はただ天井を眺めていた。その部屋は広く、一見質素なのだが良く見れば手が込んでいる。襖は上質の紙と檜で組まれており、活けられた花も実に芳醇な香りを漂わせている。

 他にも散見される柱に掘られた彫刻や、品の良い箪笥等がその一室の質の高さを物語っていた。その様な部屋で、両手が不自由とは言え上げ膳下げ膳、一時だけとは言え俗世の事も忘れて何もせず生活できると言うのだから、さぞ楽な事だろうと思うのだが、

 

「……」

 

 布団に伏せたまま天井を眺める霖之助の顔には、それらに対する有り難味など一切無かった。

 本当に一切無かった。

 

「……はぁ」

 

 そこに在る表情は、どう見ても諦めとしか呼べないそれだった。そんな表情を浮かべたまま、天井を眺める霖之助の耳に異音が入り込んできた。するとその浮かんでいた感情は一層深く濃い物となり、見る者を不安にさせる絶望としか呼べない物になってしまった。

 異音――足音は徐々に大きくなり、それがぱたりと止まった。丁度――そう、丁度霖之助の今居る、この部屋の前辺りでその音は途絶えたのだ。

 霖之助は何もせず、何も言葉にせず、一切の全てを捨ててそのまま布団に伏せる。

 

 一拍。

 

 足音が途絶えてから僅か一拍の後、からりと襖が開き、それは質素でありながら隠しきれない豪華さを醸し出すその一室に転がり入り込んできた。大きな箱を持って。

 

「貴方の幸せ白兎、因幡てゐただいま参上」

「出口は、今君の居るそこだよ」

 

 二人の温度差は、如何ともし難い物だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

   

   

 

 案内された一室を見たとき、霖之助は何かの間違いではないかと、横に居た永琳に言った。これから降りかかるだろう災難を思えばこれでもまだ足りない、と永琳が零したのが、霖之助にはこの時はまだ不可解だった。

 兎にも角にも、通常料金でこれほどの部屋に一週間寝泊り、しかも今は不自由な自分の面倒まで診てくれると言うのだから、霖之助にはこの部屋を断る理由など一分も無かった。

 

 無かった。無かったのだが――……

 

 今となってはこの部屋でも勘弁して欲しいと、彼は思っている。

 

「という訳で、ここにお金をポンとお願いします」

「断るよ」

「ここにお金を入れるだけで、幸せになれるのよ?」

「入れた時点で、僕の不幸は確定だ」

「それさえも塗りつぶす国士無双の幸せが訪れるわよ?」

「それこそ、まさに詐欺だ」

 

 国士無双と言うのは、漢の高祖劉邦の部下、後に斉の国王となってしまった韓信を表した言葉である。つまりは人物に対する言葉であって、その様な使い方は正しくない。

 霖之助は布団に伏せたまま、てゐは自分で押入れから出してきた座布団に正座して。持って入ってきた大きな箱――募金箱か賽銭箱か、いまいち判別出来かねる物を霖之助に突きつけて、二人は言葉を交わしていた。

 

「いや、それ以前にだ。怪我人に金銭を要求するというのは、どうなんだろうか?」

「あら、幸せになるためよ? 必要経費じゃあなくて?」

「どんな事にでも何がしかの犠牲が必要だと言う意見には賛成するがね、僕は今、特に幸せが欲しい訳ではないよ。あぁいや、この拷問から逃げられるものなら、その国士無双の幸せとやらも欲しい気がするけどね」

 

 げんなりとした顔で霖之助は言った。つまりは、目の前の少女が霖之助をこうも気落ちさせる原因であるらしい。

 

 因幡てゐ。

 永遠亭の地上兎達の総括――親玉であり、一応優曇華の部下と言う事になっている存在である。あるが、余り優曇華の命令を聞かない。聞かないどころか、まず耳に入っていない。

 どちらかと言うと永遠亭の住人と言うよりは、永琳の協力者であって、永遠亭の縦構造の中から外れた存在であるらしい。もともと地上兎のてゐである。

 月の住人や月兎に対する尊敬の念も、格別な思いも在りはしない。

 そういった、自身に素直で気ままな少女である為か。それとも霖之助が気に入ったのか、はたまた生来の悪戯癖が騒ぐのか。もっと単純に、弄る者は弄られる者を見分けられるという迷信か。霖之助が入院し、専属の看護士として着けられて以来、毎日毎日ちょっかいを出すのがここ最近の彼女の日課だった。なんとも迷惑な日課である。

 

「まぁ、それは置いといて」

 

 てゐは手に持っていた箱を横へと無造作に置き、その中からミトンを取り出しそれを付けてから、再び箱の中に手を突っ込み……小さな鍋を取り出した。

 

「……便利な箱だね」

「募金箱兼お盆よ。凄いでしょう?」

「その発想が凄いね」

「多分世界初ね」

 

 兼ねるというのは、利便性を追求した上で機能を合わせるということである。この場合――つまりは、お盆と募金箱は共存しない。出来ない。

 そんな物、誰も必要としないし作ろうと思わない。それを必要とする事態はまず訪れないだろう。むしろ訪れたら怖い。

 

 ――いや、本当に在り得ないだろう、それは。

 

 霖之助はてゐの横に置かれた箱を見つめながら、心の中で突っ込んだ。そんな疲れ気味な霖之助の口元に、レンゲが差し出された。

 

「はい、あーん」

「あぁ、どうも」

 

 箱の中から取り出された小さな鍋の中身は粥だったらしい。

 自身の口元に突きつけられたレンゲに小さく息を二、三度かけてから、霖之助はそれをゆっくりと口に含んだ。

 

「冷まさなくても、私がもう冷ましておいたわよ?」

「……それを僕が信じるとでも?」

 

 何やら悲しそうな顔を『見せて』いるてゐに、粥を嚥下してから霖之助は反論した。

 

「あれはそう、もう忘れる事も無いだろう。ここに来て三日目だ。君は粥を持ってきてくれたね」「うん、愛情たっぷりの粥を持って来たわねぇ」

「君は僕の口にそれを運ぶ前に、冷ますような素振りを見せていた」

「ふー、ふーってしてあげたのよね」

「そしてそれを口に含むと、とても熱かった。あぁ、とても熱かったさ」

「あら、不思議」

「何が不思議なものか。そこ、本当に不思議そうな顔をするんじゃあ、ない」

「世の中、不思議な事が多いって言うものねぇ」

「君がやった事だろう。何が不思議なものか。だいたいね、君は初日以外、僕にこんな事ばかりして――」

「はい、あーん」

 

 霖之助の説教から逃げる為か、それともただ単に困った顔が見たいのか。てゐは再びレンゲで粥をかちゃかちゃとかき混ぜ、それを冷ましてから霖之助の口元に突きつける。

 

「……」

 

 霖之助はまだ言い足りないと言った顔ではあったが、無駄かと諦め、素直に口を噤んだ。

 そもそも、口で勝てる相手でもない。霖之助の前で、それはもう楽しそうな顔で佇む少女は、曲者揃いの幻想郷でもかなり口達者な存在であるし、男と女の言葉遊びなぞ古来より男が負けるのだと決められてきた事だ。男が女に勝ちを譲ってきた訳ではない。どうあっても、男が女に口で勝てないだけの事だ。

 今となっては口だけ、という訳でもないが。

 

 霖之助は再び口元に差し出されたレンゲに、ふーふーと息を吹きかけてから、ゆっくりと口に含んだ。

 

「だから、冷ましてるってば」

「……それを僕が信じるとでも?」

 

 粥を飲み込み、喉元を過ぎていく暖かさを感じながら、霖之助は思った。

 

 ――随分とまぁ、薄味な粥じゃあないか。

 

 そっと仰ぎ見た天井には、しみも汚れも、何一つ在りはしなかった。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 どこからか聞こえてくる雀の声に、霖之助は目を覚ました。何をするでもなく、そのまま数分布団の中でぼうっとし、もそもそと動き出す。両手に巻かれた包帯に悪戦苦闘しながら、彼は寝る前に外し、枕からに少し離れた所に置いた眼鏡をかける。まだ季節は寒さを残した頃で、この朝もやはり寒いものだった。

 

 霖之助は朝の寒気に当てられ、背をぶるりと一度震わせた。

 となれば、妖怪も人間も半妖も大差ない。生理現象である。

 包帯に巻かれた両手は不自由だが、流石にこういった事で少女の姿をした存在に世話になるのは嫌であるらしい。厠に行こうと立ち上がり、襖をあけ廊下に出た霖之助は

 

「――ッ!?」

 

 盛大に転んだ。

 両手が使えない為、頭から転び、これは不味いかと思ったが――そこには座布団が敷かれていた。ぽすんと座布団に頭を落とし、鼻腔をくすぐる幽かな。本当に幽かな優しさを感じさせる香りに驚き、これは何だと彼は混乱した。

 

 が、今はそれより気になることがあった。足の裏。自身の足の裏に、異様な感触がある。

 霖之助は何を踏んだのかと確かめようとし――それを見た。

 

「……バナナの、皮?」

「あらあら、まぁまぁ、霖之助さんったら、こんな所で転んじゃうなんて。なんて鈍臭い方なんざましょう」

 

 背後から、もう楽しくて楽しくて仕方ないと彩ってしょうがない声が響いた。霖之助は後ろに振り返り、声の主を確かめた。恐らくは――と言うより、十中十、間違いなく当たりを付けて。

 

「……君だ。これは、君だ」

 

 断定した。彼は断定した。やったのはお前しかいないと。

 

「ううん、わたしわかんないなぁ」

 

 垂れ下がった兎耳を持つ少女、てゐは知らぬ者であればころっと騙されてしまうような笑顔でそう歌う。が、その音色は余りに平坦に過ぎた。つまりは、棒読みである。

 それではやったのは自分だと言っているような物だ。

 

「君は……なんで僕にこうも悪戯をするんだろうか」

 

 ゆっくりと、両手に負担が掛からないように霖之助は起き上がり、どうしても刺々しくなってしまう言葉を零した。ここに来て五日。そのうち飽きて辞めるだろうと思われた、てゐからの悪戯やちょっかいは未だ無くならない。意外な事に確りと霖之助の面倒を見るてゐだ。

 怪我人相手にすべき事でないと言うことは、理解している筈である。あるが、無くならない。

 それはとても不思議な事だった。諦めより先に不思議だと思えるほどに、それは不思議な事だった。

 

「こんな事、君に一体なんの益があると言うんだい。僕にはさっぱりだ」

「楽しいでしょう?」

「君がね。僕は全く楽しくない」

 

 兎だと言うのに、どこか猫の様な素振りで自身に近づいてくる少女に、霖之助は感情のない言葉で返す。てゐは敷かれていた大き目の座布団を両手に抱き、霖之助を見上げた。にんまりと、楽しそうに。

 

「そうね、私は楽しいわよ? ここの皆には、そろそろ飽きてきた頃だったし」

「迷惑な話だ」

 

 本当に迷惑な話だ。

 霖之助はそう思う。

 

「けれどね、あんたも悪いと思うのよ?」

「なんでだい」

「だって霖之助、ずっとムスーっとしてるじゃない」

 

 それでは相手は面白がって続けてしまうだけだ、とてゐは笑顔のまま言う。

 

「だからと言って、限度がある」

「でも、まだ霖之助の限度まで届いていないでしょ? あんたはまだ、余裕を持ってるもの」

「……君は、実に厄介だ」

「あら、褒められちゃった」

「何一つ褒めちゃあいないよ」

 

 褒められたと嬉しそうな顔をしているてゐに、霖之助は無駄だと分かっていても突っ込みを入れる。それがてゐを――紅白や白黒も――喜ばしている等と、彼には気付けない。

 

「君は、一度人里の寺小屋に行って清規を学んでくるべきだ。いや、女今川のさわりだけでもいい」

「懐かしい言葉を聴いたなぁ……そんな言葉、今時通じるものじゃないわよ?」

「通じているじゃないか」

「世間一般の話としてよ。どっちにせよ、嫌なこった、ね。寺小屋の先生って、あの白沢でしょ? あぁ面倒面倒」

 

 規則を重んじ調和を尊ぶ慧音と、悪戯を好み食言を重ねるてゐの相性は良いものではないらしい。当然の事ではあるが。

 

「……はぁ。僕はこのまま厠に行くよ。……分かっていると思うけどね」

「はいはい、流石にそんな事にまでちょっかいは出しませんよーってば。あぁ、あと、はい」

「……?」

小さな手ぬぐいが一つ、てゐの手のひらにあった。

「足の裏、気持ち悪いでしょ? だからはい。足上げて」

「……」

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 彼女は、悪戯も世話も確りする。

 前者は辞めて欲しいが、後者は現在の霖之助には必要な物だ。ただの悪戯好きなら、どちらかと言えば少女達の暴挙に寛容な霖之助でも雷の一つや二つ、そろそろ落すところなのだが、先程の通り、悪戯を帳消しにする事も忘れていない。嘘もつくが、それも後で実害が出ないうちに自分から嘘だと言う。

 

 厠から出て、長い廊下をゆっくりと歩きながら彼は思考を続けた。

 何故彼女は悪戯を続けるのか。それも態々あそこまで準備しておいて、だ。

 彼女は霖之助が転んだ際、どの辺りに倒れるのかまで予測してあれを為した。その予測能力と労力は、方向さえマイナスに向かう物だが、大した物である。ただ、褒められた物ではない。

 それでも彼女は――てゐはそれを為す。

 何がそうさせるのか。霖之助は考え続けた。

 

 いたずらとは、悪い戯と書く。そのまま簡単に読めば、わるいぎ、だ。

そこから最初の一文字、わと言う文字を抜けばどうなるか。答えは、るいぎ、つまり類義となる。この言葉の意味は、形は違えど近い物、である。そこへ最初に外した、わを和と成して戻すと、和類義となる。そう、これは和を以って類義と成すという意味を持つ言葉になるのだ。親しい者や親しくなりたいと願う者へと行われる戯れであるのだから、これはもう間違いない。遠い存在へ、近くになろうとする為のアプローチ。

 それが霖之助自身てゐと付き合いだした事で意味を知った――悪戯だ。

 であれば、あぁ、あぁなんと言うことだろうか――

 

「なんて事だ……彼女は、僕と友誼を紡ぎたかったのか……」

 

 そんな在り得ない理論を展開し、一人勝手な結論へと至った彼に、すぐ後ろから声をかける者があった。

 

「森近さん? 戻って来られましたか?」

「……あぁ、八意女史、どうされました?」

「いえ、貴方がどうされたのかと……いえ、良いです」

 

 振り返り、何事かと首を傾げる霖之助のあどけない顔に、永琳はどこか疲れたで返した。どうやら思考中の霖之助に、いままで声をかけていたらしい。付き合いの長い者なら、思考中の霖之助に声をかける者は殆ど居ない。そんな事をしても無駄だと分かっているからだ。

 永琳にはまだまだ霖之助を理解する為の時間が足りない様である。理解したがる物かどうかは別として。

 

「こんな所でどうされました?」

「いえ、まぁ……少し」

「……てゐ、ですか?」

「それも、ありますが」

 

 ありますがも何にも、霖之助がこうも悩む理由はそれしかない。与えられた部屋に文句など在ろう筈もない。定期的な診断も、こうして稀に出会い交わされる会話も、霖之助にとっては大変有意義なものだ。

 流石というべきか、月の頭脳の知識は深く広い。偶に見せる永琳の日常生活面における常識欠如な一面には驚きこそすれ、特に不快な物でもないのだから。

 

「すいません、今はてゐしか居ない物ですから……」

「いえ、まぁ……十分です」

 

 誠実に見える永琳の態度に、霖之助は明確な返事を返すことが出来ない。正直に霖之助の心情を表に出せば、恐らく何がしかの行動に出るだろう。

 例えば、バールのような物が道端に落ちており、例えば、両手が自由に動くならば。

 例えば、それこそが現状を打破する道だと誰かに諭されたならば。

 彼は数秒迷った後それを手に取り、何事かするだろう。何事かの明記は避けておく。その程度に、霖之助は己の腹に据えかねる物を積もらせてしまっている。

 だが、結局はどうにも出来ないだろう。

 

 てゐはそれを見越した上でか、それとも天然か。悪戯をしながらも、ガス抜きもしている。

 計算だと言うのなら、もうどうしようもないほどにこれは悪どい。彼女は復讐しようとする意思さえも、それが確固たる形となって外へと出る前に、摘んでしまっているのだから。

 しかも悪どくはあれど悪意はない。霖之助は自分との交友を深める為の行動だなどと思っているが、一般的に見れば実に面倒な存在である。

 

「よく言って聞かせておきますので……」

 

 霖之助の思考が透けて見えたのか、永琳は身を小さくしてそう呟いた。ただ、呟いた当人にも分かっていた。当然、聞いていた霖之助にも分かっていた。それが良き事であっても、悪い事であっても。

 因幡てゐという存在はきっと。

 そう、きっと――

 

 永琳と別れ、宛がえられた部屋に入ろうと襖をあけた霖之助の頭へ、何故かゆっくりと落ちてくるタライを、どこか冷めた目で見ながら。霖之助は思った。

 

 ――それを辞める筈がないのだ。

 

 と。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 それが楽しい事であったとしても、対象が変わらず、ただ繰り返される日常に組み込まれていくのなら。それは日常と言う退屈を厭う者にとって、苦痛でしかない。

 

 てゐにとって、久方ぶりの新しい玩具が来てからの日々は、空になった杯が満たされていく様な日々だった。少し前迄はただの客と店主でしかなかった関係は、もう忘却の彼方である。

 あの頃、永琳のお使いとして稀に香霖堂へと顔を出し、永遠亭の日用品を買っていた時に見た霖之助の顔は、もう彼女には思い出せない。恐らくは客商売に有るまじき無愛想な顔だったのだろうが、そんな顔はもう最近知った表情に塗りつぶされている。霖之助の世話をしろと永琳に言われた際には、少々ムッとした物だが、今となっては断らなくて良かったとてゐは本心から思っている。

 霖之助はある意味で悪戯の的にするには問題のある存在だった。脅かせども嘘を吐けども、彼はそのまま受け入れる事が多々在る。しかし。

 そう、しかし。

 千の中にある凡百のクローバーの中から、風に揺れる一つの四葉のクローバーが見つかるように。幸運を探す為のそれこそが、小さな幸運である様に。

 普段はやや憮然とした顔が、稀に驚きに染まり口をへの字にする様は、実に可愛げ――価値の在る物だった。人里の人間達ほど純朴でも従順でもなく、優曇華の様に身を硬くして悪戯に備えるでもなく、永琳の様に看破し反撃に出る訳でもなく。

 

 霖之助という存在は、てゐにとって余りに遊び甲斐のある者だった。まるで神様とやらがてゐの為に設えたかのごとく。彼女はだから、なるほどと思った。

 当初、珍しい物こそ在れ特に面白味のない店にそこそこ入り浸っているという霊夢や魔理沙をおかしな人間だと思っていたが、何が目的であったかを理解すればそれも同意できる。

 

 あの少女に負けて成る物かと躍起になる姿だけでも、てゐにはもう堪らない物だ。実に面白い。

 であるから、彼女は今もお盆を両手に廊下を歩いている。鼻歌を交えて、それはもう楽しそうな顔で。

 

 が為に。

 霖之助にとって如何ともし難い日々は続いていた。緩急織り交ぜて。

 てゐの、霖之助を巻き込んだ――いや、霖之助で遊ぶその戯れ。友好的なモノであるかも知れないが、痛みは無いかもしれないが。笑顔があるかも知れないが、そこに霖之助の我慢少々、苦痛少々、諦め多々にある以上褒められた物ではない。

 

 昼食は何の変哲も無いうどんだと思えば、夕食はやたらと辛い粥であったり。洗濯から戻ってきた霖之助の衣服と一緒に、優曇華の下着を混ぜて置いて行ったり。永琳に懸想し、告白一歩前だと言う事にされていたり。

 

 兎に角、霖之助はてゐの玩具にされ続けた。霖之助視点による解釈により生まれた、てゐの重すぎる思いを無視して無関心を決め込もうにも、余りに被害が大きすぎる。これでは無視も出来ない。

 今を過ごす場所にまで遊びの嘘が蔓延するなら、それを払拭しなければ彼に安息は訪れない。平穏と静寂こそが薬であり癒しだ。その癒しの場所である筈の療養所で、この様である。霖之助は本当に勘弁して欲しかった。反撃に転じようにも、力に自信があるほうではないし、そもそも両の手は火傷で使い物にならない。

 おまけに、口で勝てる相手でもない。流石は永遠亭が幻想郷に誇る詐欺兎。

 

 悪戯を咎め、最初は口論らしき物になろうとも、最後の方は霖之助が悔しそうな顔で閉口するのが常だ。毎日毎日悪戯されては悟りもするだろうと思うが、諦めて悟って尚、口を閉ざさないのが霖之助の霖之助たる由縁である。知識を糧とし、己という肉と知恵を(よすが)とする彼に、それが負ける物だとしても一方的な舌戦など在り得ない。

 

 言葉を聴けば言葉で返す。

 

 それが彼の流儀だ。ただ聞く等と言う選択肢はどこにも在りはしないのだから。

 そして負け戦と言えども、花が要る。花を求めなければ、世と言う世は詰まらないものでしかない。花とはなんで在るかといえば、これは伊達や酔狂と言った揮発性の高い、実体のない物になる。それでも確かに見える。

 

 霖之助がてゐに屈した、と言う事も目に見える物であれば、霖之助がそれでもてゐに屈しなかった、という事も目に見える物だ。もしこれでいい様に遊ばれた等と噂が立てば、霖之助の店へと無銭でやって来る少女二名の暴挙が更に一歩進みかねない。それが兄やそれに準ずる者への親しさから為されるわがままだとしても、流石にこれ以上は霖之助はお断りだった。彼としては、ここを出た後くらいは、もう少し平穏に暮らしたい。

 無駄ではあるだろうが。

 

 が、如何に奮戦しようとも、伊達と花を求めようとも、世は敗者に優しく出来ていない。結局、負けても悔しい思いをするのだから、この辺り彼も難儀な性格の持ち主である。そして、そんな霖之助を見てはケラケラと笑うてゐは、更に上を行く難儀な性格の持ち主である。

 

 つまりは――これを一方からだけで見る事が許されるのならば。

 

「霖之助ー、ご飯持って来たわよー」

「今日は無事に食べられる物なんだろうね?」

「……さぁ?」

「さぁって……君」

 

 てゐの足によって行儀悪く開けられた襖を挟んで、笑顔と苦い顔で対峙するこの二人は。

 そう相性の悪い二人ではないと言う事なのだろう。げっそりとした霖之助を顔を見て、尚もそう思える者が居るかどうかは、別として。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 少女は歩く。

 少女はてくてくと歩く。

 鼻歌を歌いながら、楽しそうに。

 

 お気に入りの玩具だと思った。遊び友達だと思った。おもしろい奴だと思った。楽しい奴だと思った。ドンくさい奴だと思った。結構鋭い奴だと思った。

 嫌な奴と少なからず思っただろうし、いい奴だと多く思った事もあるのだろう。

 そして、それらをひっくるめて。

 仲間だと思った。それが、あの日見せたてゐの顔に浮かんでいた色の答えだった。

 

 少女は歩く。

 少女はてくてくと歩く。

 鼻歌を歌いながら、楽しそうに。視界の先に見える建物を、瞳に映して。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

「あー……」

 

 十日を必要とした。

 

「んー……」

 

 十日もの時間を要した。

 

「はー……」

 

 七日で済む筈が、十日を消費する事態に至った。

 

「あぁ、落ち着く」

 

 霖之助は今、懐かしの我が家になる慣れ親しんだ椅子に背を預け、大きく伸びていた。十日ぶりの我が家は、久しく見なかった主を包み込むようにして迎え入れ、今彼を大いに癒している。

 本来ならその十日もの間店を見てくれていた少女に礼を言いに行かねばならないのだが、それも彼には億劫だった。少なくとも、今少し癒されたいと彼は懐かしい――

 とは言え、余り埃の臭いがしなくなった空気の中でぬるま湯に浸かるが如く全身の力を抜いていた。

 

 結局、十日を費やして彼は退院する運びとなった。

 病は気からと言うが、傷も同様であるらしい。治癒能力は身体が持つ活性機能であり、その機能を生かすのは心の在り方だ。今となっては、てゐとの日々に何事か思わぬ事が無いでもないのだが、やはり玩具にされて安らかに在る事が出来るほど彼は出来た存在でもない。

 

 ――まぁ……偶にならあぁいった物も良いかも知れないが、頻繁は嫌だね。

 

 脳裏に浮かぶ、別れ際に見せた彼女の顔に、霖之助は苦笑しながら思った。

 最後の日、永琳とてゐに見送られながら帰る霖之助に、てゐはなんとも言えない顔で、何一つ言葉を漏らさなかった。神妙な、らしからぬ態度である。

 霖之助にはそんなてゐの顔が、まるで玩具を取り上げられた子供の様な顔にも見えたし、友人との別れに戸惑う少女の様にも見えた。多分前者が正解だろうと彼は当たりを付けたが、本当の正解はどちらでもない。それらを混ぜ込んだ物が、正解だった。

 

 霖之助からすれば兎も角、てゐからすれば霖之助は相性の悪い者ではなかった。悪戯もすれば、面倒も見た。十日もの間だ。もの、と言えども、短いと言えば短い。

 が、その時間が当人達にとって濃密であれば、十日はそう短い時間でもないだろう。暇さえあればてゐは霖之助をからかい、暇が無ければ仕事としててゐは霖之助を助けた。彼と彼女は、同じ時間と同じ空間を多く共有したのだ。

 

 その時間が軽い筈も無い。その過ぎ去った日々は蜜月とさえ言って良かっただろう。

 同じ時間を共有した者達は、時に価値観こそ違えど相手を分け身の様に思う事が在る。てゐとて長いときを生きた存在。そう簡単に他者に心を預ける事も見せる事も無いだろうが、人の面倒などそう見た事もない嘘つき兎だ。そんな時間は、多くなかったのかも知れない。

 ならば、それは彼女にとって新鮮に思えた事だろう。ましてそれが一方的だったとしても、相性の良い相手だ。様々な感情を知らぬ間に抱いていたとしても、おかしな話ではない。

 

 だから彼女は。

 

「おーい、お客よー」

 

 カウベルを盛大に鳴らした。厳かな教会で鳴らされる祝福の音色を、こんな草臥れたカウベルに求めて。

 

「……」

「……霖之助?」

「……短い」

「……ん?」

「短い、平穏だった……」

「あら、平穏って言うのは退屈って事でしょう? 刺激分が来たんだから、あんたはもっと喜ばなきゃよ?」

「もう刺激なんて暫らく要らないよ。君から十分過ぎるほどに貰ったさ」

 

 霖之助の、らしいしかめっ面を求めて。

 

「私は、渡し足りないと思うのよねぇ」

「出口は、今君の居るそこだよ」

 

 或いは、彼女自身の持った感情の行き先を示す標を求めて。

 

 香霖堂の日常に、また一人少女が加えられた。それだけの事である。ただ、それだけの事と言えるほど優しい物ではない事だけが霖之助には分かっていた。それ以外は、もう頭が動かない。

 回らない。

 

 平穏とは、破られるから平穏なのだ。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 研究に没頭する余り、魔理沙は一ヶ月もの長い間全ての交友を断っていた。実際には時折表に出ては消耗品等を補給していたのだが、何せ元最速。びゅんと来てびゅんと帰る。勿論人やそれ以外の者達と口をきく暇さえ無かった。これでは殆ど篭っていたに等しい。

 

 しかも消耗品を求めた店は全て人里の店であり、彼女は香霖堂に一切顔を出さなかった。

 それには理由がある。彼女は研究の結果を霖之助に見せて驚かせようと思っていた。為に、研究していると言うことを匂わせる買い物は出来ない。買い物に向かった店でも、一応霖之助にこの事は伝えるなと言っておきたがったが、そもそもあの動かない古道具屋である。

 一ヶ月でも二ヶ月でも、彼の知的好奇心を掴んで離さない物があれば、動く事はないだろう。そうでなくても、彼は店から出る事がことが少ない。精々補充と称しては無縁塚に向かう程度だ。

 

 なものだから、彼女はそれを今朝アリスから聞いて驚いた。

 

 ――なんだよ、入院してたって!

 

 愛用の箒に跨り、自身の持つ最高速度で森の上を飛んでいく。

 

 ――しかも店番アリスに頼むってどうなんだよ!

 

 何故自分ではないのかと魔理沙は思ったが、それが普段の行動を危惧して選ばれなかったのだと彼女は気付けなかった。道具を持っていく人間に、道具屋の店番を頼む者等居ない。

 悶々としながら、最高速度で飛ばなければ成らないほど遠くも無い――むしろ近い馴染みの店へと行く彼女の目に、ふとそれは入り込んできた。

 小さな荷車を引く、青と黒の服を着た、銀髪の若い男だ。彼女はブレーキをかけ、方向を修正し、その男の傍へと降りていった。

 

「香霖!」

「あぁ、魔理沙。久しぶりだね……」

 

 何やら疲れ気味の顔で霖之助は目の前に降りて来た魔理沙に言葉をかけた。

 

「なんだ、その……えっと!」

 

 言いたい事は山ほどあった筈だ。

 一ヶ月の研究結果を聞いて欲しかった。そして驚いて欲しかった。どうして自分に店番を任せなかったのか、問い質したかった。何より、入院とは何事かと問い詰めたかった。

 しかし、一ヶ月の長くを離れすぎた事が、魔理沙の口をそう素直に動かしてはくれない。故に、魔理沙は帽子を深く被りながら、もごもごと言葉を零した。

 

「その……なんだ、えっと……入院したって……聞いたけど……大丈夫か?」

「あぁ、もう一ヶ月も前だよ。治ったさ」

 

 ほら、っと霖之助は両手を見せた。

 その素振りから、魔理沙は霖之助が両手を怪我したのだと分かった。そしてまた、その時期も分かった。

 

「……丁度、同じ頃だったのかよ……そりゃ迂闊だったぜ……」

「うん?」

「あぁいや、なんでもない」

 

 霖之助はそのまま荷車を引いて香霖堂へと歩いていく。

 魔理沙はそれに無言のまま追従し、調子を戻しながら話しかけていた。

 

「でさ、香霖。なんでアリスに店番頼んだんだよ?」

「あぁ、丁度入院の為の荷物を取りに戻ったときに、彼女が店に来たんでね」

「それだけか?」

「あぁ、それだけだ」

 

 魔理沙は霖之助の前に回りこみ、目を正面から見据えた。そこに嘘の色は無い。

 

「……そっか」

 

 まずは、これで二つ心配事は解決だ。入院後もこうして霖之助は常の通りであるし、アリスに店番を頼んだのも偶然に近いだけの事。彼女が危惧するような事はないらしい。

ほっと胸をなでおろし、今度は霖之助の隣に移動して彼女は今までの分を取り戻すように話しかけ続けた。

 

「にしたって、酷いぜ。誰も教えてくれないなんて。……霊夢も知らなかったのか? 入院の事」

「いや、どこかで聞いたらしく、6日目辺りに見舞いに来たよ……まぁ、見舞いと言うよりは……」

 

 ただのたかりだった。お茶を飲んだり、永琳から善意と謝罪で貰った果物等と堂々と食べていった。それでも、安堵した顔でそれらを口にしていた事を思えば、やはり彼女も心配はしたのだろう。

 

 言葉は交わされ、返せば響き、響けばまた零される。二人の声は消える事無く続き、気がつけばもう香霖堂の前に来ていた。

 

「魔理沙、扉を開けてくれないか。僕はこのままこれを引くから」

「おう、分かったぜ」

 

 どうやらその小さな荷車ごと店内に入るつもりらしい。

 魔理沙は嬉しそうに霖之助の言葉に応じ、扉に手をかけ勢い良く扉を開いた。草臥れたカウベルが鳴り響き、どこか暗い店内に懐古的な音色を木霊させる。懐かしい音色に耳をくすぐられた魔理沙は、小さく微笑んで後ろに振り返ろうとして――

 

「あら、お帰りなさい」

 

 その音を聞いた。

 

 動きを数秒ほど止めて、魔理沙は再び店内に顔を戻した。

 正面。

 扉を開けて真っ直ぐ、正面。いつも霖之助が座っている椅子に、小さな影がある。椅子に座っている事を考慮しても、魔理沙と同じ程度かそれ以下であろう身長の――少女だ。

 

「遅かったのね、あなた。お昼ごはんもう出来てるわよ?」

 

 何かが、何かの音が、魔理沙の鼓膜を振るわせた。その音は魔理沙にとって余り心地の良い音ではなく、どうにも耳の奥が痛む。

 正確には、その音が宿した色が――親愛を思わせる、あなたという歌詞が。

 お昼ごはんと言う言葉が、その歌がどうしようもなく彼女にとって不快で、どうしようもなく不安にさせた。

 

 椅子に座っていた小さな影は、その頭にある白く垂れ下がった耳をぴょこぴょこと動かし、正面から魔理沙と――その奥に居る霖之助を見つめ、

 

「さて、本当かしら?」

 

 首をかしげながら目を細め、

 

「それとも、嘘かしら?」

 

 楽しそうに、嬉しそうにてゐは微笑んだ。

 先程までの魔理沙と同じ彩を持つ、恋色の華やかな笑顔で。

 

 

 

「あなたは、どう思う?」

 

 

 

 さて。

 その言葉は、魔理沙と霖之助、どちらに向けられた物なのだろうか。

 

 

 

――了



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『黒 白 赤 青』 メイン:霖之助 輝夜
黒 白 赤 青


 ふと、それは彼女の視界に入ってきた。

 久しぶりに此方から妹紅の所に行ってやろうと、空を優雅に飛ぶ彼女の瞳に、その二つの影はするりと入ってきた。不吉な羽根を持つ幼い少女と、それに従う少女の姿。

空も飛べる筈だと言うのに、地を這う二つの影に笑ってやろうと思ったが、それが彼女には出来ない。

 原因は、胸の奥に。何かが軋んだ、胸の奥に。

 

――足りない足りない、私にはあれが無い。

 

 とても近いどこかから、そんな音がした。

 

 

 

 

『黒 白 赤 青』

 

 

 

 

「とりあえず、メイドが欲しいわ」

「……」

 

 永遠亭の朝は、いつも通りに……は始まらなかった。

 幾ら従者と言えども、寝起きの顔など見られたくないと言う彼女の為に、長い、本当に長い付き合いのある永琳が、彼女――輝夜を起こしに行く。寝ぼけた顔で何事か呟く輝夜に適当に相槌を打ちながら、目が覚めるのを待つのが常のことだった筈なのだが。

 

「永琳。メイドよ、メイドなのよ」

 

 どうやら今朝は違うらしい。

 寝室に入ったときから、輝夜は既に起きていた。もう見慣れたどころか、忘れる事も一生出来ない様な寝ぼけた、だらしない顔ではなく。永遠亭の主として知られる、凛とした顔で彼女は永琳を迎えた。

 

 永琳は驚いた。大層驚いた。それはもう驚いた。

 マヨネーズかけご飯が意外といける事に驚いた時位驚いた。

 長く生きていると、そんな物を食べる機会にまで恵まれてしまったらしい。兎にも角にも、永琳は驚き、驚いたが故に、その輝夜が今日一番に放った言葉に何も返す事が出来なかった。

 

 だから。

 朝一番から妙に調子の良い輝夜の啖呵に永琳は、

 

「永遠亭に足りないのは。いいえ、私に足りないのは、メイドなのよ!」

「……」

 

 この様に、ただただ無言で居る事しか出来なかったのである。月の頭脳とて、驚きの余りフリーズすると言う生物らしさを残しているのだ。

 ぎりぎり、なんとか。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「えぇー……つまり、直属の、部下が欲しいと?」

「そうね」

 

 朝に起きた椿事に語られた内容は、それだけの事であるらしい。

 

「いえ、でしたら私や優曇華が居るでしょう?」

「……はッ」

 

 永琳の言葉に、輝夜は鼻で笑って返した。

 

「あれは貴方の弟子である事がまず第一に立ってるでしょう。直立に、不動に、ピサの斜塔みたく」

「斜めです、あれは斜めです姫」

「それに、永琳は結局対等みたいな物でしょう。こう、上から目線で指導してくるような」

「対等じゃないです、それは対等じゃないです姫」

「五月蝿いわよ」

「突っ込みどころが多いんです、姫」

「本当に五月蝿い」

 

 二人は永遠亭の廊下を歩きながら話を続ける。

 そこには他の影など無く、いつもは連れて歩いている従者達の姿も無い。

 

「しかし、それで何故メイドなんです?」

「……あの吸血鬼よ」

「はぁ?」

「あの、城の吸血鬼よ」

「……あぁ」

 

 永琳の脳裏に、五百年生きた程度で踏ん反り返る幼い吸血鬼の姿が鮮明に再生される。

 そして、同時に理解した。その吸血鬼の傍には――

 

「そうよ、メイドよ」

「……そう、ですね」

 

 複雑そうな顔で永琳は頷き、なるほどと思った。

 

 ここ――幻想郷での立場は、違うと言えどもやや近い二人である。

 "姫"と"主"。

 

 人をかしずかせる気品と知性と高すぎる能力を有する、二人の少女。でありながら、輝夜には彼女に及ばない部分がある。それが、自身にのみ絶対の忠誠を誓う者の存在だ。

 ある意味ではそれ以上の者が傍にいるのだが、先程二人の会話に在った様に、またその為された言葉の交換でも垣間見れた様に、永琳という存在は師であり、その役目を終えた今も対等に近い立場でしかない。優曇華も、どちらかと言えば永琳を尊ぶ心のほうが強く、もし輝夜と永琳を主として選べと言えば。言えば恐らく悩む格好だけして永琳を選ぶだろう。

 

 てゐに関してはもう語るまでも無い。そもそも彼女は縦構造の中に入っておらず、外側に足場を持つ協力者でしかない。有象無象の従者は、これはもう本当に語る必要が無い。

 

「あれにそれが在って、私にそれが無い、なんてね、永琳。私は、ちょっと我慢出来ないのよ」

 

 美しい眉間に寄った皺の深さを見れば、それはちょっと、等という優しい物ではないだろう。今日になって何故いきなりメイドを欲するのか永琳には分からなかったが、一応――そういう思考が輝夜にも透けて見えるから、メイドが欲しいと言うおかしな事態になっている訳だが――上司だ。

 立場が近い者に負けるのは嫌だと言う気持ちは理解できる。出来るし、その程度の若々しさはこのお姫様にとって必要な事だ。老成した思考は守りに入ることが多い。守りと言うのは受けに回ると言うことであり、誰かが動いた後にやっと腰を上げると言うことだ。

 

 言ってしまえば、鈍い、のである。勝利の女神は、若々しい者にだけ微笑かける。

迅速に、何物をも振り切って突き進み尚輝き続ける一握りの英雄だけに、その女神はその御手を預ける。ならば異変が終わった後であろうと、彼女は前に向くという姿勢であるべきだ。

 少なくとも、自身の主である以上その程度の気概がなくてはならない。それに――その程度の若さと間違いは、彼女にはまだまだ必要だ。永琳はそう結論付け、次に問題の解決にその頭脳を回転させた。

 

 さて、ではどこからメイドを調達すれば良いのだろうか。一番てっとり早いのは、既にメイドである者を連れて来る事だ。

 つまりは……幻想郷におけるメイドの産地、紅魔館からの引き抜きが最も現実的ではあるのだが、正直これは選択肢にも入らない。何せ幼い吸血鬼の傍に立つメイド長以外のメイドは、らしき格好をした最低限働ける居候みたいな物であって、引き抜いてきたとても、ただの置物か案山子にしかならない。

 

 そんなメイドに絶対の忠誠を誓われたところで、輝夜に何が益するだろうか。優れた者に永遠の忠誠を誓わせ、それをかしずかせるからこそ、主であるという事に意味と価値があるのだ。

 凡百を跪かせるだけで満足できるのであれば、現状で十分満足している筈ではないか。現状にあって、まだメイドが欲しいと言う以上、やはり優秀な者を呼ばなければ輝夜は満足すまい。

 

 永琳は声をかけるべき存在を数人ピックアップし、ふむ、と頷き、隣を歩く輝夜と

 

「では、暫らく時間を下さい。なんとかしてみましょう」

「三日よ。それ以上は無いと思いなさい」

「……分かりました」

 

 静かに言葉を交わした。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

「……さて」

 

 時間の流れと言うのは、穏やかなようで早くもある。暇な――平穏である時は過ぎていく時の余りの緩やかさに苛立ちもするものだが、何事か為している時は驚くほど早く過ぎ去ってしまう。

 さて、そんな当たり前の事が何かと言うと。

 

「……どうしましょう」

 

 永琳が輝夜から貰った猶予である三日が、もう過ぎたのだ。人通りの少ない人里から迷いの竹林へと続く道を、永琳はどうにもならない事態に頭を抱えながら歩いていた。

 

 ――本当に、どうしましょうか。

 

 自身が頂となって営む診療所に来る人里の若く有能な娘達に声を掛けたが、

 

『すいません、今家業が忙しくて……』

『急に言われましても……』

『あの……ちょっと時間の余裕が』

 

 等等、全員から断りを入れられたのである。

 

 有能であると言うことは、その能力を開花させた場所が――つまりは、既に働いている所があるという事。それでも一人くらいは失業中の娘や、義理人情でこちらに来てくれるだろうと思ったのだが、そんな物好きは居なかった。それはもう、綺麗なくらい誰も居なかった。

 

 金銭もそうは要求せず、時には無料で治療に当たっているのだから、誰か一人くらい来てくれるとも永琳は思っていたのだが、それが逆に人里の人間達を薄気味悪くさせているなど、この女性は気付いていない。

 タダより怖い物などそうはないのだ。その対価として法外な労働を強いられるのではないかと、里の娘達が慄いてしまうのは無理もないことだった。

 

 駄目元で幻想郷では貴重な常識的かつ暇を持て余している妖怪少女達にも声を掛けたが、答えは聞くまでも無かった。

 もっとも、もし彼女達が快諾したとしても、メイドとしては手に余る存在であるので、断られて良かったとも永琳は思うわけだが。

 

 しかし、そうなるともう後がない。

 本当に後が無い。

 真っ白なほど、後も前も無い。

 いっそ自分がメイド服を着て永琳17歳です、とかやろうかと真面目に考え出すほど、永琳にはもう余裕が無かった。しかも自身の中ではメイド姿の自分に違和感など無かった。

 当然自己申告した年齢にも違和感など微塵も感じられなかった。

 どこかの誰か――明記は避ける――とキャラクターが被ったような気もしたが、そんな事はなかったぜ。八意先生の次回作にご期待ください。

 

 月の頭脳、かなり迷走中である。

 

 だが、古くからこんな言葉がある。

 

「おや、八意女史……こんな所でどうしたんだい?」

「……あぁ、なるほど」

「……なるほど?」

 

 捨てる神あれば――拾う神あり。多分その神様厄病神。

 

 そしてその厄病神は、永琳に声を掛けた不運なる男――霖之助だけに災いと厄を与えた。

 

 混乱。

 その言葉が、まさにこの時混乱した霖之助の頭の中で延々と踊り狂い、全ての情報を遮断し、全ての情報を蹂躙している。彼は、これまでの人生でこれほどに混乱した事は無いだろうという程に混乱していた。

 人里にある霧雨道具店で一緒に修行していた弟弟子の店に顔を出したその帰り道、自身の城である香霖堂のお得意様であり、最近では個人的な付き合いもある永琳を見つけ、声を掛けた。

 掛けたのは良いが、いや、良くはなかったが、掛けた瞬間いきなり両肩をがっしりと掴まれ、拉致されたのである。しかもそのまま引き摺られて、気付けばそこは永遠亭の薄暗い一室。

 混乱しない方がおかしいだろう。

 霖之助は、目の前で自分を値踏みするような目で上から下まで何度も何度も視線を往復させている永琳に、こうなってから数度目の同じ質問をした。極力、自身の弱み――混乱を見せないよう、慎重に。

 

「これは、なんなんだい」

「……」

 

 これも同じく、返事が無い。やはり彼女は無言のまま、視線を往復させて居るだけだ。

霖之助はただ日々をそれなりに過ごしているだけで、いきなり拉致されるような恨みを買った憶えは無い。

 全く無いとは言えないだろうが、少なくとも目の前の女性から問答無用で薄暗い一室に無理矢理閉じ込められるような、強烈を通り越した奇天烈な恨みを売った記憶はない。とんと無い、筈ではある。

 

 何がいけなかったのかと後悔し、馴染みの常連客であるこの女性に声を掛けた事、それ以前に外に出たからこんな事態に巻き込まれたのではなかろうか、今以上店へ引き篭もるべきかと力なく項垂れ思案中の霖之助に、永琳は此処へ来て以来ずっと閉じていた口をようやく開いた。

 

「……霖之助」

「なんだい」

 

 彼の名を口にする永琳の顔に、いつも浮かべている微笑はない。その面影すらどこにもない。

それでも、ようやっと成された会話に混乱は静まり、ゆっくりと消えて行く。

 あとはただ、この状況は如何なる物なのか……それ理解するための情報を、永琳から聞き出す事だけが、霖之助の今出来る限られた行動の中で、最も優先順位の高いオプションだった。

 

「永琳、これはいったいぜんたい何事――」

「貴方、礼儀作法は出来て?」

「……修行時代に、一応一通り教えてもらっているよ」

 

 冷たい、まるで氷で出来た能面の様なその顔に、霖之助は胸に小さな穴が開いたような気がしてならなかった。彼の知っている永琳など、この世のどこにも居ないのだと、永琳自身がそう霖之助に囁いているかの様に、霖之助は思えた。

 自身が親しくなった存在は、朝の露より儚い、大海の水面へ帰す小さな雫の一滴でしかでしかなかったのだと。親しい者の変貌――乃至本性以上に、そんな思いに囚われた自身の精神が未熟に過ぎると、霖之助自身が霖之助を甚振り苛める。

 日常の中で積み重ねられた人格同士の交わりを信じたのが自身であるなら、それに裏切られたと言う感情も自身にのみ帰れば良い筈だ。が、それでもその感情は対象に――永琳に牙を向けようとする。

 

それが霖之助には、気に入らなかった。そして、悲しかった。未熟だと、悲しかった。

 

「永琳……」

「貴方、人の面倒は見るのは得意?」

「……不本意だが、良く面倒を見る羽目になっているよ」

 

 その言葉を聴いて、永琳は何かを取り出し……笑った。

 霖之助の視界が、ぼやける。尊敬していた。目の前の女性が持つ、狂気に彩られて尚、煌々と輝く瞳に宿した知性の眩さを。狂笑に歪められて尚、美しい曲線と艶やかな紅を保つ唇から奏でられる幾億の言霊が宿った玲瓏な歌の響きを。

 なのに、何故だろう。

 

「……じゃあ、これを着なさい」

 

 ――あぁ……何故彼女は執事服を片手に、こんな腐った冷たい目をしているのだろう。

 

「こんな事もあろうかと、キャップの中に常備しておいて良かったわ」

 

 一体どんな事態を彼女は想定しているのだろうか。そしてそれはナースキャップもどきの中に入るものなのだろうか。

 

「君のことが、僕には分からないよ……」

「……きっと、それはまだ貴方が若いからよ」

 

 自身の声とは思えぬ渇いた声で彼は言葉を搾り出し、視界は涙ですべて見えなくなった。

 心から、思った。本当に、心から、彼は思った。

 

 ――これを尊敬してたのか、僕は。

 

 彼は本当に、自身の精神の未熟さに絶望した。この日、森近霖之助は大人にまた一歩近づいた。 すでにいい大人では、あるのだけれども。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 三日目である。

 

「……」

 

 輝夜が永琳に指定した三日目の、既に夕刻である。

 輝夜は大きすぎる自室で無言のまま座り、頬杖をついたまま気だるげに永琳の報告だけを待っていた。経緯はどうあれ、二人の間に交わされた約束であるのだから、それが破られる筈が無い。

 輝夜は永琳を信じていたし、永琳もまたそれに応えるべくこの三日、時間さえあればメイド探しを行っている。輝夜はぼうっとしたまま、そう遠くないうちに開けられで在ろう襖を眺め――そしてぴくりと僅かに動いた。

 

 彼女の耳に入ってくる足音がある。その足音は彼女の部屋の襖の前で止み。

 

「宜しいでしょうか?」

「えぇ、お入りなさい」

 

 待っていた声を聞き、それを受け入れた。

 の、だが。

 

「……永琳」

「大丈夫です。何も問題ありません」

 

 待っていた分だけ、落胆は大きい。

 襖を開け、部屋に入ってきた永琳は開口一番こう言った。

 

『メイドは無理でした』

 と。

 "は"と言ってるのだから、代案は用意したのだろうが、それでも落胆は大きい。輝夜は失意を隠そうともせず、ただ肩を落としてため息を吐いた。しかし、彼女をして問題ないと言うのなら、その代案は価値ある物なのだろう。輝夜は気を取り直して背を伸ばし、皺の寄ったスカートの裾を一払いして、永琳に続きを促した。

 

「侍女は無理でしたが、執事は用意出来そうです」

「……」

 

 伸ばされた輝夜の背が、再び丸められる。

 男と来た。

 男と、確かに自身の耳は聞いた。男と言う生き物に、輝夜は良い思い出が少ない。皆彼女の美貌を見れば、へりくだるか踏ん反り返るかしかしない。しかもその二つの態度は結局一つの欲望の発露でしかない。

 

 ――この女が欲しい――

 

 そんな獣欲染みた物だ。

 稀に彼女を育てた男や、時の帝の様にそれ以外の態度で接する男も居たが、それは本当に稀、少数だ。彼女が欲したのは、そんな稀に期待する必要もない、同性同士だからこそ単純に為るだろう忠誠である。異性では色々とややこしい。

 

「永琳、私は……」

「大丈夫です、大丈夫なんです姫。あれはもう、驚くほど枯れてますから」

 

 枯れてますとか言われても、それはそれでどうなんだとしか輝夜には思えない。とりあえず現物を見て下さいと永琳に言われ、輝夜は一切期待せず惰性で頷いた。永琳が後ろ――入ってきた襖へと振り返り、声を掛けた。

 

「霖之助、入ってきなさい」

 

 同時に、襖が開く。

 

 優曇華とてゐに両脇を固められ、逃がすまいと目を光らせている、その二人の真ん中に。男が一人、憮然と立っていた。特には見覚えの無い顔だ。

 

 服装、黒の執事服。

 銀髪、アホ毛つきオールバック。

 眼鏡、まぁ似合ってる。

 顔、なんとか合格。

 身長、許容範囲。

 瞳、なんでか半泣き。

 

「……なる、ほど」

 

 輝夜の中で、永琳が言っていた意味が理解されていく。同時に、彼女は少し驚いた。

 プリンに醤油をかけたらウニの味になった時位驚いた。

 長く生きていると、そういった物を食べる機会に結構恵まれてしまうらしい。

 

 永琳が推薦するほど、そう上質な男でもない。だが、その瞳が気に入った。

 輝夜を正面から視界に入れて尚、どうでもいいという色を隠さないその瞳は貴重であり、輝夜の失望を払拭するには十分だった。なによりも、そうなによりも。

 

 その受けっぽい容姿が、女の子なら誰でも持っていると言われている腐った心を掴んで握ってきゅっとしてドカーンして離さなかった。意訳すると、きゅっとしてドカーンだったのだ。

 

「永琳」

「はい」

「よくやったわ。褒美に今日は永琳が眠った頃に枕元でえーりんえーりんって朝が来るまでやってあげる」

「なんの嫌がらせですか。なんの怪奇現象ですか」

「よし、今からしろって事ね?」

「いいえ、全く違います馬鹿姫」

 

 すでに腕をぶんぶんと振っている輝夜と、それを疲れた目で見る永琳。そんな二人を更に疲れた目で眺める霖之助に、脇を固める永遠亭の月と地上の兎コンビ。

 

 逃げられない、そして逃がしてもくれない。世界は優しくない氷と、硬い鉄だけで編まれた完全な冷たい檻だ。そんな事は、とうの昔に分かっていた。

 だがしかし、これほどに優しくないのは流石にどうだろうかと、霖之助は慣れない洋装に窮屈な思いをしながら一人心の中で泣いた。が、それでも優しさを求めてしまう。

 こんな、やる気の欠片もない情けないなんちゃって執事を見れば、永琳の主とやらも雇う気など無くすだろうと思っていたが。いたのだが……今のやり取りを見るに、

 

「じゃあ、そこのお前。今日からしっかりとなさいよ」

 

 雇う気満々ではないか。瞳も爛々ではないか。腕もまだブンブンではないか。

 むしろお前がしっかりしろと言いたく為ったとしても、誰も彼を責めないだろう。

 

 ――冷たいにも程がある。

 世も、そこに住まう存在も。霖之助は、ただただ恨む事しかできなかった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 薄暗い、恐らく物置であろうその一室で、項垂れて涙する霖之助に永琳は全てを語った。霖之助の衣服を喜色満面でひん剥きながら、永琳とおぼしき生物は語った。語られる内容の余りに余りな酷さに永遠亭もう駄目だと心の中で小さく呟いた彼は、永琳だった物にされるがまま、魔改造を施された。

 服を剥かれ、眼鏡を奪われ、プライドさえも踏みにじられ――そして。

 それならせめて常識的な範疇で、こちらにも利益が与えられるようにしてくれと懇願した。かつで永琳であったろうその生命体は、ぶむ゙り゙と一つ声らしき物を上げて頷き、こう言った。

 

『すぐ飽きるだろうから、それまでの間姫の相手をしてくれれば良い。その間、私の持つ知識と、永遠亭にある書物を好きに閲覧しても構わないわ。当然、給金も出しますよ?』

 

 と。

 某城の図書館ほどではないが、ここにもそれなりの書物があると誇らしげに語る歪ななまものに、霖之助はもうそれで良いと頭を縦に振った。振るしかなかった。異論は認めないと、その怪奇物体の眼が語っていたからだ。

 もう無事に生きて帰ることしか、彼には望みなど無い。書物の閲覧や、永琳の知識に興味が無い訳でもないが、そんな物結局命あっての事だ。

 

『まだ……何か必要かしら?』

 

 死んだら――元も子もない。

 そこまで物騒な事かと首を傾げられるかもしれないが、霖之助にとってはそこまで物騒な事だった。なにせそれを語る物体が、すでにもう怖い。怖いと言う言葉では足りないほどに、怖い。

 恐怖という感情を理解している生物は、本来未知であるが故に未知のそれを恐れるが、正体を見て尚怖いという感情が出てくるなら、それはもう段違いでも桁違いでもなく、次元違いで怖いのだ。分かりやすく記すと、妙な寒気 振り返る 窓の外 アウターゴッズ SANチェック 発狂 PCリタイア。

 

 そして、すぐ飽きるだろうと永琳が言っていたこの執事ごっこは、

 

「霖之助、お茶」

「……はい」

 

 今日で一週間目を迎えていた。

 

 いつか機会を見て逃げ出そうと思っていたのだが、後々の報復が恐ろしく、結局霖之助は飽きるのを待つという受動的な解決を待つ事にしたのだが……一週間は長い。

 

「暇ねぇ……霖之助、何か芸でもなさいな」

「……」

 

 本当に、長い。

 

「お前、霖之助」

「はい、なんでしょうか、輝夜様」

「暇なのよ、何かなさい」

 

 一週間と言う時の長さと、無常な世の流れに思いを馳せていた霖之助に、輝夜は霖之助の瞳をじっと見つめ、もう一度命令をする。霖之助はその命令に何も返さず、芸をするような素振りも見せず、ただ輝夜の瞳を見つめ返す。勝気な、清楚なその容姿には似合わない――ある意味ではこれ以上無く似合っている――猫の様な瞳。

 

 始め、永琳からこんな馬鹿げた話を聞いたとき、主である姫とやらは少々足りない存在ではないかと思ったものだが、こうして傍で語り合い、その目を見ているとそれは違うと分かる。

 永琳同様、長い生を生きたらしく、そういった存在が良く見せる、気だるげな目こそするが、輝夜が持つ品格や知性の色は間違いなく幻想郷でも稀有に等しい物だろう。永くを過ごし理知的にある妖怪の多いここでは無二とまで言えないが、そう多くお目にかかれる物では決してない。だと言うのに。

 

「霖之助、早くなさいよ」

「断ります」

 

 彼女はどうにもちぐはぐだ。

 

「主に逆らうなんて、なんて可哀想な執事」

「僕は仮初の執事でしかないので」

「あら、ここでくびり殺してしまいましょうか」

 

言っている事は物騒だが、その目に宿っているのは喜色だけで、反抗的な霖之助を面白がっているようにしか見えない。

 

 メイドを欲しいと、彼女は言ったと言う。絶対の忠誠を誓う者が欲しいと、彼女は言ったと言う。なら現状は輝夜にとって満足のいく物ではない筈だ。

けれども彼女は、霖之助を手放さない。斯様に、霖之助で遊ぶ。

 

「それにしても、霖之助。貴方の入れるお茶は、いつも熱いわねぇ」

「お茶はこれ位が良いんです」

「それはお前の好みでしょう? 私の好みじゃないわ」

「でしたら、ご自分でどうぞ」

「可愛げのない奴だこと」

「なら、どうぞ首にして下さい」

「それはお前にとって褒美になってしまうじゃない。やぁよ、そんな喜ばせるような事」

 

 こんな意に従わない存在を、彼女は傍に、近くに置こうとする。

 彼女が欲した物の、紛い物でしかない存在を。

 

 この一週間、彼女はどこへ行くにも霖之助を連れて歩いた。 霖之助にとって幸いな事に、このお姫様はそう外に出るタイプではなく、永遠亭に篭りがちである。歩くと言っても殆ど屋敷内の事。出会う存在は既知の存在だけで、彼女達は霖之助が被害者だと理解しているのでちょっかいなどそうは出さない。地上兎の親分以外は。

 兎に角、余り外に出ない。

 それが今の霖之助にとって、どれだけ有難い事か。

 

 ――間違っても、こんな姿を知り合いに見られる訳には……見られる訳には……。

 

 そういう事である。

 店には、地上兎が『暫らく休みます』と霖之助が書いた紙をこっそりと貼ってくれたらしいので、まぁよしとする。良くはないが。

 不審に思う者もいるだろうが、貼られた紙に書かれた文字は間違いなく霖之助の文字。首をかしげながらも、一応の納得はする筈だ。

 

 が、店はそれでいいとしても、当人の問題はある。余り外に出ないとは言っても、それは"余り"でしかない。つまりは、極々稀に表へ出るのだ、このお姫様は。

 しかも霖之助を連れて。霖之助がどれ程嫌だと言っても、そんなもの通じやしない。

 

 この姿を見知った誰かに見られる事だけは、霖之助の矜持が許さなかった。許さなかったと言うよりは、見られたら間違いなく弄られるからだ。

 巫女とか普通の魔法使いとかフラワーマスターとか天狗の新聞屋さんとか隙間妖怪とか。同情してくれるのはきっと一握りで、後はもうからかって弄って遊ぶだけだ。

 だから彼は、慣れない洋服も文句も言わずに着用し、何時もとはちがった眼鏡も装着し、普段は適当な髪に櫛を確りといれ、外出時だけはと違和感を感じながらもオールバックにしている。少なくとも、外出時には。つまりこれらは、霖之助にとって変装になり身を守る為の盾となるのだ。

 

 実際、輝夜に無理矢理連れて行かれた人里の甘味処に顔を出した際、少々付き合いのある人間達ともすれ違った筈なのだが、誰も霖之助を霖之助として認識しなかった。

 服飾の効果と言うものは絶大であるが、物事全てがそうであるように、絶対と言う事はない。いつばれないとも知れないのだから、輝夜が飽きて霖之助を手放すその時まで、彼は矜持を守る為にばれないまま通すしかない。どうしようもなく危ない綱渡りである。

 

 ――どこの神でも良いから、僕を守ってくれ……。

 

 そんな心構えでは、多分ご利益は無いだろう。

 

 事実、無かった。

 

 執事服、そして常の通りの下ろした髪型。眼鏡は自前の少々野暮ったい物。

 靴は、一応の革靴。それらを身につけ、霖之助は今書斎に居た。

 

 つまり――……二週間目に突入。

 なんでも良いから、誰でもいいから、等という頼み方ではやはり駄目らしい。

 

「……世界は優しくない」

 

 霖之助は自分の肩を軽く揉みながら、自分の前にあるテーブルに座り、本を読んでいる永琳に疲れた顔でそう言った。

 

「……」

 

 が、永琳は無言のまま何も言わない。

 

「永琳」

「……」

 

 返事がない。

 休憩時間、こうやって永遠亭にある書斎で顔をあわす事の多い二人である。付き合いをそれなりに重ねれば、少なからず仲違いもしてしまうものだろうが、二人は冷戦中と言う事もない。

そもそも、喧嘩なんてしちゃいない。ただ、少しばかり永琳がハードルを高くしただけの事だ。霖之助にとっては決して、少し、ではないが。

 

「……永琳、またなのか。また、なのか」

「……」

 

 永琳は何も言わない。

 ただ、俯いて本を読んでいた顔を上げ、霖之助に目で訴えるだけ。それだけだ。

 

「……」

 

 その無情な訴えに、霖之助は弱々しく首を横に振ってから、口を開いた。

 

「お嬢様」

「なぁに、霖之助?」

 

 手にしていた本を、彼と彼女の間にある机にぽんとおいて、永琳は太陽も恥らうであろう可憐な笑顔で霖之助に応えた。

 その間僅か0.03秒。世界を狙える好タイムである。

 

「……世界は、本当に優しくないな」

「うちの姫が、ごめんなさいね」

「君もだよ、君込みでだよ。君2、鈴仙2、てゐ2、輝夜5だよ。……いや待て、1どこから沸いてきた」

「?」

「なんでそんな不思議そうな顔をするんだ」

「?」

「もういい……もういい……」

 

 子犬のように首を傾げ、本当に不思議だと言わんばかりの永琳に、霖之助は全てを諦めた。

 肩を落とし、座っている椅子の背凭れにだらしなく背を預ける霖之助。その様子を見ていた永琳が、霖之助に声を掛けた。

 

「薬でも、用意しましょうか?」

「薬でどうこう出来る物じゃあ……いや、君なら出来そうだな」

「お望みなら、悩みも何もかも吹き飛ぶ薬を調合してあげますけれど?」

「ここに居る限り、悩みがなくなったりする物か」

「それは、貴方が生真面目だからよ」

「……不真面目な店主だと散々言われてきた僕に対する、皮肉かい?」

「いいえ、事実でしょう?」

 

 永琳にとって、霖之助が生真面目だと言う事はもう事実だ。

 

「だってそうでしょう? 貴方は、口で何を言っても、結局ここから去らないし、仕事もしているのだもの」

「……給金を貰っている以上、相応の事はする。当然だ」

「それを当然だと思えるから、貴方は生真面目なのよ」

 

 拉致され脅され、突如好まざる仕事を押し付けられれば、名高い聖人君子とて文句の一つも言うだろう。それが凡人なら尚更だ。与えられた仕事をボイコット、位は当然する。

 が、霖之助は文句を山ほど言いながらも与えられた仕事をする。仮初とは言えども、金銭を与えられ、待遇もそう悪くはない執事と言う職務。

 

 輝夜の世話もすれば、永琳の手伝いも優曇華の手伝いもてゐの面倒も見る。道具屋であると言う事を見込み、頼んだ倉庫になる道具の鑑定まで彼は確りとこなしている。永琳はそれを一つ一つ、霖之助に優しく語り、微笑みかけた。

 

「ね?」

「……ふん、この程度、霧雨道具店の修行時代とそう大差もないさ」

 

 顔をそっぽ向けて、霖之助はぶっきらぼうに応えた。とは言え、その顔にさす朱の色は永琳にもはっきりと見えている。この愛らしさもまた、永琳には好ましい物だった。

 

 ――それは、あの姫も同じでしょうね。

 

 永琳は微笑みの色を濃くして、霖之助入れたお茶を一口、ゆっくりと嚥下した。

 

「……やっぱり熱いわね、これ」

「お茶は熱いのが一番だよ、永琳。君達は、茶葉を無駄にしている。改善すべきだ」

「……」

「……」

「……」

「お嬢様」

「なぁに?」

「……世界は、真っ黒だ」

「うちの姫が、ごめんなさいね」

「君もだよ。全く、君達はなんで僕をこうも手放してくれないんだ……」

 

 ――早く自由になりたいのなら、そんな顔こそすべきではないのだけれどね。

 

 永琳は熱いお茶を口に含み、不機嫌な霖之助を眺めながらそう思った。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 休憩を終え、書斎から出て廊下を歩く霖之助に、声を掛ける者が在った。

 

「おいーっす」

「……あぁ、てゐ」

「てゐお嬢様」

「……あぁ、てゐお嬢様」

「好(ハオ)、実に好」

 

 一人うんうんと頷くてゐ。

 

「私はここじゃああんたの先輩なんだから、ちゃんと服装に見合った呼び方しないとね」

「あぁ、そうかいそうかい。なら君達こそそう呼ばれる努力をすべきだ」

「でね、霖之助、ちょっと助けて欲しいのよ」

 

 霖之助のやさぐれた態度も言葉も無視して、てゐは自らの要求だけを口にする。永遠亭、どうにも性格のふとましい連中ばかりらしい。

 

「……僕の都合は無視なのか、てゐお嬢様?」

「なぁに。何かこの後予定でもあるの?」

「……いいや、別に」

「じゃあ、少し調理場手伝って上げてくれない? ちょっと手が足りないらしくて」

「……」

 

 暇さえあれば顔を出せと輝夜には命令されているが、暇でないのなら顔を出す必要はない。霖之助は輝夜に弄られて過ごす時間と、調理場で過ごす時間を天秤にかけ――

 

「あぁ、手伝うよ」

 

 ほんの数秒で調理場で行く事に決めた。

 弄られるよりは、動いていた方がまだマシであるらしい。霖之助は袖をまくり、台所へと歩いていった。その後姿を、てゐは少しだけ気の毒そうな顔で眺めていた。

 

「あの巫女と魔法使いのせいなのかなぁ……」

 

 どうにも彼は、誰かの面倒を見ている場面が多すぎる。使っておきながら、てゐはそんな事を思った。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 夕餉の席、輝夜は並べられた食事に手を合わせ、箸を取った。夕餉の席とは言っても、傍には永琳以外居ない。

 彼女は一日二食、全て自室でとる事が多い。気が向けば皆が食事を取る部屋まで足を運ぶ事もあるが、基本的にはこうだ。一日二食と言うのも、彼女がこちらで過ごした頃の名残である。後に――鎌倉、室町時代辺り――には今の一日三食制になったのだから、別段ここでは三食でも構わない筈なのだが、今更生活リズムを崩すのも面倒であるらしい。

 

 特に代わり映えのしない、常の通りの食事に口をつけ――

 

「……」

 

 彼女は動きを止めた。

 

「お気に召しませんか、姫?」

「……少し味が濃いわね」

「下げますか?」

「良いわよ、嫌な味じゃあ、ないわ」

 

 彼女は、薄味を好む。

 好むと言うよりは、薄味の料理を多く食したから舌がそれに馴染んでしまった。

 貴族や公家、僧の食事と言うのは塩を余り使わない。味噌、塩、にんにくと言った物は、武家が食事に使う量の半分程しか使わなかった。諸説様々な理由はあるが、濃い物は無駄な血気を肝に溜め込む物であるので、優雅に、また禁欲的にあらんとする階級の者達からは嫌われたそうである。もしくは、武者は坂東、公家は関西――味の濃い赤味噌、味の薄い白味噌を料理に使う地域の境界線が、関東、関西の境界線であるとも言われている――といった風に、ただ単なる地域的な味の差が出ただけかも知れない。

 

 その点、武家は多少の暴力も美徳であり、血気がなければ成り立たない。

 塩分は長旅にも必要な物であり、戦場で長くを過ごす事もある武士達にとって、それらは必要な物でもあった。織田信長が京で食事を取った際、余りの味の薄さに怒り、それを作った高名な料理人を怒鳴りつけた話は有名だ。

 有名です。有名な筈です。

 

 兎に角、そういった事情で彼女の舌は薄味を好んだ。

 が、

 

「……まぁ、悪くないわね」

 

 別段こういった味が嫌いだと言う訳でもない。長く生きれば時代時代の変化に巻き込まれ、膳に並べられる食料も多彩になっていった。輝夜は、それを否定するつもりもない。

 食べられるのだから、食べれば良い。それだけだ。

 

 輝夜は膳に並べられた料理を全て食べ終え、ゆったりと箸を置いて一礼した。

 膳を下げようとする永琳に、少し躊躇った後声を掛けた。

 

「それで……これは、誰が?」

「姫の、お気に入りですよ」

「……」

 

 お気に入りと言われれば、彼女には一人しか思い浮かばない。最近は何をするにも傍においている、あの半端者だ。

 

「作る料理まで、半端ねぇ……あれは」

「食べる分には、十分かと」

「そうね」

 

 言うや、彼女は腰を上げる。

 

「姫、どこへ?」

「分かって聞いてるでしょう、永琳?」

「さぁ……どうでしょうか?」

 

 口元を隠して優雅に微笑む永琳に、輝夜はそれ以上何も口にせず襖を開けた。

 

「褒めて上げるのですか? それとも、なっていないと詰るのですか?」

 

 背に掛けられた言葉に、輝夜はゆっくりと振り返って

 

「決まっているじゃない。両方よ」

 

 霖之助が居るであろう、食事用の大部屋へと向かっていった。

 

 風が一陣、ふわりと過ぎる。

 昼は暖かいが、夜ともなれば少々寒い。風も冷たければ、それに晒された廊下の板は更に冷たい。靴下越しに伝わる冷たさに僅かばかり眉を顰めながら、輝夜は歩いた。

 

 少しばかり歩くと、どこかからがちゃがちゃと耳障りな音が聞こえてくる。その音がそう遠くからではないと感じた輝夜は、立ち止まり周囲を見回し――

 

「……あそこね」

 

 それを見つけた。

 

 廊下からも見える、永琳が薬草の類を育っている中庭。そこにぽつんと置かれた、プレハブ倉庫。純和風の佇まいを持つ永遠亭では少々場違いだが、立派な物置である。

 夜の遅くに何をガタガタさせているのか、輝夜は音の主に小言の一つでも言ってやろうと傍へ行き

 

「……あら、霖之助」

「おや、いらっしゃい」

 

 目当ての男が一人、そこに居た。

 いらっしゃいも何も、この屋敷は輝夜の物であって、招かれた者が受ける言葉など輝夜に向けられた物ではない。が、物置部屋で道具を片手に佇む霖之助には、そこが彼の領域だと主張している何かがあった。少なくとも、輝夜にはそう思えた。

 

「えぇ、で……お前は、ここで何を?」

「道具の鑑定をね。食事の用意も手伝ったのだし、後はこれをやって寝ようかと思って……で、どうでした、輝夜様?」

「何が、どうでした、なのかは分からないけれど、料理の事だったら……及第点ね。もっと精進なさい」

「お気に召さなかった……か」

「当たり前でしょう。濃いのよ、濃いのよあれ。まるで妹紅の殺気くらい濃いのよ」

「もっと平穏な喩えを頼む」

「永琳の外面如菩薩内心如夜叉より濃いのよ」

「多分それは君が悪い」

「そんな事ないもん。お前だって永琳の眩しい笑顔で怒髪、天を衝く、な姿見たら引くわよ。引くよ? 引くしかないわよ?」

「あの彼女をそこまで怒らせる君だから、悪いんだ」

 

 霖之助は道具を手に取り眺め、それを箱にしまい、また別の道具を手に取る。随分と慣れた姿だ。道具を扱う姿も、こうして少女――輝夜と言葉を交わす姿も。

 だから輝夜は、思ったままを口にした。

 

「貴方、道具を?」

「まぁ、道具屋だよ。君からすれば随分と埃臭い場所だろうけれど、僕には心地良いね。まるで僕の店みたいだ」

 

 常には見た事もない、少年のような屈託の無い笑顔を浮かべる霖之助。

 自身の店、またそこに置いてある道具が恋しく、そんな顔が出てしまうほどには彼も寂しさを募らせているのだろう。

 

「道具……ねぇ」

 

 傍にあった道具を無造作に一つ手にとって、輝夜は撫でてみた。

 が、やはり今目の前の霖之助が浮かべているような歓喜の感情は何一つ沸いてこない。

 

「分からないわね……どうせこんな所に在るのだから、どれもガラクタでしょう? 意味の無い物だわ」

「君にはガラクタでも、僕には意味がある」

「理解できないわね。必要な物は、意味の在る物だけでしょう? ……まぁ、貴方の事なんだから、私にはどうでも良いのだけれど」

 

 その若々しい顔に、世に醒めた老女の様な色を宿し、聞く者を酷く狼狽させる艶やかな佳しんだ声でそう言った。

 

「明日もそれなりに早いのでしょう? 早く眠りなさい」

 

 返事も聞かず彼女はくるりと回り、霖之助に背を向けそのままプレハブ小屋から出て行った。結局、彼女は霖之助に労いの言葉など掛けなかった。

 

「……」

 

 霖之助は、輝夜の出て行った後姿が見えなくなるまで無言で見送り――窓から差し込む、儚い光のその先を見上げる。細められた霖之助の目の先には、黒い空と、"赤い"星と、尚"赤い"月が一つ。それを見上げたまま、霖之助は思考を始めた。

 

 ――執事と言うのは……

 

 執事と言うのは、本来貴族の子弟にしか許されない貴い職業だ。

 メイドのような村娘でも教育を受ければなれる、そんな受け口の広い物ではない。それは職業と言うよりは、生き方と言っても良いだろう。彼らには志が在り、なければ執事として大成出来ない。志とは士に通じ、彼らは一人の烈士として忠誠へ殉じる為に生きる。

 

 家政を司り、一人だけの主を補い、自身の手柄と忠誠と命、全てを主人に奉じる。

 それらは無償だ。名誉は無い。

 日本戦国時代の小姓に近いが、小姓は後に独立する。

 が、執事は一生だ。彼らは長い任期を終えた後、ただ隠居するだけ。独立する事はない。

 

 ――僕をそんな物にするというのは、まぁ名誉な事ではあるけれど。

 

 あるが、霖之助が仮とは言え仕える彼女が、ああもちぐはぐでは意味が無い。霖之助は見上げたまま手にある道具を撫で、自身の持つ店を思い出す。そろそろ、潮時だ。

 こんな生活も悪くは無いだろうが、ここに森近霖之助という士の生きる志はない。士は自らの歩む道の烈士でなければならないのだから。けれども、現状が続く限り輝夜は霖之助を手放さないだろう。霖之助自身には理由も分からないが、輝夜は霖之助を気に入っている。

 であるならば、まずは彼女の歪さを如何にかするしかない。

 

――必要な物は、意味の在る物だけでしょう――

 

 それは矛盾だ。

 今彼女の傍には、その意味の無い物が在るのだから。

 

 ――あぁ、面倒だ。

 

「四つでは足りないから、人は億に届きかねないそれらを作った……なら、なぁ君。君の名を冠する彼女は、どれだけのそれらから探そうとしていると思う? いや……彼女が欲しいのは、果たして今あるそれらなのか?」

 

 霖之助は月に小さく話し掛け……そっとカーテンを閉じそこから出た。

 彼の朝は、明日も確かに早いのだ。極めて、不本意ながらも。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……よぉ、グータラ」

「……なぁに、暇人」

 

 人里の小さな店が集まった通りで、それとそれは対峙していた。

 それぞれ、銀髪の付き人を従えて。

 

 事の始まりは、単なる輝夜の暇つぶしだった。人里に行って甘い物でも食べたいと言い出した彼女に、霖之助がつけられた。

 

『いや、僕は余り人里には』

『一人で行かせるなんて、危ないわ。危ないのよ、人里の人達が』

『そっちの心配なのかい』

『幸い、今は貴方と言う得がたい暇人、いえ、玩具、いえ、生贄、いえ、お目付け役も居ることだし、頼みたいのよ』

『幾ら僕がいい年をした男でも、流石に泣いてしまいそうだよ』

『大丈夫よ、貴方なら大丈夫。弄られる事にも面倒を見る事にも定評のある貴方だもの。ねぇ、貴方泣きそうな顔が一番似合ってるって言われたこと無ぁい?』

『人の話を確りと聞け』

『懐かしいわ……昔通知簿にもそんな事を書かれたわね』

 

 その通知簿とやらがどれほどの遥か昔の物であるかは兎も角として、こうして生贄は悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す天上天下唯我独尊気味なかぐや姫に捧げられるに至ったのである。

 

 霖之助自身、なにか永遠亭から逃げ出す為の切欠を探していたので、外に出る事自体に抵抗は無い。無いが、一人で出るなら私服でも出られるだろうが、輝夜が一緒となれば……恐らく、そうなるのだろう。事実、そうなった。

 

 人里に、見た目だけ清楚な和風っぽい大和撫子風味洋装お姫様と、銀髪モノクロオールバックアホ毛似非執事降臨。

 目立った。途轍もなく目立った。

 前に二人で里に降りた際も、様々な視線に晒されたのだが、今回も同等かそれ以上の好悪入り混じった瞳達が、霖之助と輝夜を不躾に眺めていた。

 輝夜はそれらの視線を無視し、泰然自若として優雅に歩みを続けるだけ。その背後に控える霖之助は、誰にもばれない様にと何かに祈りながら、背を這う不愉快な冷たい汗に苛立ちを募らせて歩いていた。

 

 と、そんな霖之助の視界に一つの草が目に入った。

 彼は立ち止まり、それに見入る。小さな、特に個性など感じられない花屋。文字通り、華やいだ色彩の咲き誇る一画に、"青"だけの場所がある。草の名を持ちながら、自生も殆ど出来ないか弱く細い"青"。

 

 ――あぁ、この一色だけが、今の……

 

 天啓か、それとも単なる見落としを今更見つけたのか。

 普段であれば通り過ぎるだけだが、今の彼には自由を取り戻す為に必要な札の一つに思えた。

 

 何事かに震える霖之助を、輝夜は数歩一人で歩いてから気付いた。彼女は口を開き、主を置いて立ち止まった霖之助を叱責しようとして――

 

「……よぉ、グータラ」

 

 驚いた顔をしながらも、しっかりと喧嘩を売る妹紅と、その後ろで頭を抱えている慧音に出会った。

 

 まさかこんな場所で会うとは思っていなかった、と妹紅は驚いた。

 きゅうりに蜂蜜をかけたらメロンの味になった時位驚いた。長く生きていると、そういった物を食べる機会にかなり恵まれてしまうらしい。

 というか食べすぎ。

 なんでも食べすぎ。

 

 兎に角、輝夜に出会った以上ジャブを放つのが妹紅であり

 

「……なぁに、暇人」

 

 いつ何時であれ、妹紅に出会えば死合う事しか基本的に考えない輝夜である。

 

 人里の、普通の通路。

 場所を考えれば荒事をすべき場所ではないのだが、そんなことは関係ない。例え今居る場所が神々の住まう豪華絢爛なる大廈であろうとも、その御前であろうとも関係はない。

 やる時はやるし、やらなくていい時でもやるのが輝夜であり、妹紅だ。

 流石千年に及ぶ殺し合いの歴史。常識なぞまさに豚の餌だった。

 

 さて、花屋の前で立ち止まっていた霖之助だったが、周囲の異様などよめきや、剣呑な空気に当てられては、流石の彼も長考癖からの帰還と成った。その異質な黒い熱気と剣呑な渦の中心が、視界の先に居る輝夜である事に世の無情がどっと彼の双肩に寄りかかって来たが、無視する訳にも行かない。

 霖之助は輝夜に、目立たぬように歩み寄り声を掛けようとして――彼女と、彼女に対峙する少女と。その少女の後ろに居る、銀髪の少女の姿を見た。

 

 何か言葉を発しようとした口は、開いたまま塞がらず、見る者に失笑させる様な間抜けな顔になった。為った筈なのだが、どうした事だろうか。霖之助の視線に気付き、瞳に執事姿の霖之助を映すその少女の顔には失笑の相など欠片も無く。

 

 ただただ、驚き一色だけが鮮明に浮かんでいた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「は、まだ10杯目か輝夜……今日は私の勝ちだな。おかわり、持って来い!」

「く……おかわり! 早く持って来なさい!」

「……」

「……」

「うぷッ……ほら、お前ももう限界だろ……輝夜。早くうぷッ……降参しろって」

「ウプッ……それは、こっちの台詞よ、妹紅……どうせ逆転負けが決まってるんだから、さっさと降参しなさいよ……ウプッ……」

「……」

「……」

 

 人里にある甘味処の一幕である。

 店には客が四人、従業人たちが数名。

 それだけしか人影は見えない。当然だか、これはこの店の日常風景の一つではない。決して無い。

 その辺りは、店の奥でガタガタ震えながらお汁粉を作り続ける元従業員達、現お汁粉製造機械と、テーブルの傍で半泣きになって待機している女給を見れば分かって貰えるだろう。

 

 あの後、何処からか鉈を取り出した少女二人による死とグロと欝の演舞は、慧音の説得によりどうにか中断された。人里の通りの真ん中でスプラッター映画監督もトラウマを負って泣いて逃げ出すような、爽やかな汗と眩しい笑顔と白球を追いかける代わりに真っ赤な何かを追いかける血の雨と肉片が飛び散り降り注ぐ美少女二人の鉈の応酬IN青春群像劇など、良識人の慧音としては心底勘弁して欲しかった。

 

 勝負に水をさされた彼女達は、お互い頬を膨らませて睨み合っていた。愛らしい姿ではあるが、それが殺し合いを邪魔されたから、などと知れば愛らしい等と言っていられるかどうか。

 一度火の付いた闘争本能が収まらない二人、そして輝夜の背後に無言で佇む執事姿の青年。どう見ても厄介事である。背を向けて今すぐ家に帰るのが、上策だ。

 しかし、それでも慧音は提案をした。

 

『平和的な勝負をしたらどうか』

 

 と。

 

「……これで、22……」

「まだよ……私は、まだ……いけるわ!」

「……」

「……」

 

 その結果が、この甘味処でのお汁粉バトルとなった訳である。

 言うまでもないだろうが、どちらが多くお汁粉を食べられるかを競うバトルである。少なくとも、脳漿や内臓がばら撒かれる心配はこれで無くなった。ちなみに、負けた方が全額負担。

 

 いつもならどんな勝負事であれ、頭を抱えて、またはハラハラしながら見ているだけの慧音であるのだが……

 

「……」

「……」

 

今日はかなり違った。

 

「もし」

「……」

 

 話しかけても答え一つも返さない、執事服の青年が居るからだ。輝夜の傍にそんな姿でいるのだから、見た目通り事実執事なのだろう。だが、問題は執事であるというよりも、その中の人だ。厳密には人でもない訳だが、その辺りは割愛する。

 

「もし、どこかで会った事は、ありませんか?」

「……」

 

 やはり青年は無言だった。

 会った事も何も、彼女が良く知っている存在である。あるが、彼女はまだ確信を抱いていない。彼女の中に居る彼は、こんな姿をして表を歩くような男ではないし、執事と言う仕事をする様な男でもない。出来ない、とまでは思わないが、まずやらないだろうと彼女は思っていた。

 その思い込みに、今の所花屋で買った物を抱える執事姿の青年――霖之助は助けられていた。

 

 助けられていたとは言えども、油断は許されない。

 いつばれるとも分からないこの状況、声を出すなど以ての外だ。

 なにせ今霖之助の前に座り、怪訝そうな顔を見せている少女――上白沢慧音は、霖之助にとって自身を語る上で必ず出てきてしまう様な、縁の深い少女なのだ。

 そう、二人の関係は

 

「すいません……どうも私の幼馴染に、貴方が良く似ているもので……」

 

 物心着く前から、今まで続く物だ。

 

 出会いなど、霖之助はもう覚えていない。そしてそれは慧音も同じだった。

 気付けば、二人は傍にあった。まるで鶺鴒の番のように。

 そんな二人であるから、永琳による魔改造の入った変装も見破られる一歩二歩前であり、今でもかなり怪しまれている。その上声まで出そうものなら、間違いなく慧音に気付かれてしまうだろう。慧音ならばれた所で特に何もしないだろうが、それでも霖之助の矜持は黙っていないのだ。

こんな姿を幼馴染に見られ、あまつさえ見破られよう物なら、暫らくはまともに息をする事も出来ないだろう。

 過度な表現であるが、その位に霖之助のプライドは高かった。プライドだけは。

 

 霖之助はもう、全てを神に委ね、時が過ぎるのを待つ事しか出来ない哀れな子羊となっていた。もうどっちの勝ちでも良いから早く終わってくれと、彼は天上の神々へ乞うた。

 願いを叶えてくれるなら、どんな神でも、邪神でも良かった。

 

 霖之助が必死に何かへ祈りを捧げていると、突如軽い揺れが起きた。何事かと霖之助が見ると、そこにはテーブルに伏せた妹紅の姿があった。どうやら、受身も取らずそのままテーブルに倒れたらしい。

 

「……おぇ」

 

 外見上の年頃な女性らしからぬ声を出して、妹紅はぴくりとも動かなくなった。

 

「ふ、ふふふ……どうやら……私の……勝ちね」

 

 口元を手で隠しながら、輝夜が青い顔で微笑む。慧音がやれやれと言う顔で妹紅の介抱をしている姿を、苦しそうな、羨ましそうな顔で一睨みし……輝夜は弱々しく首を横に振ってから、霖之助に声を掛けた。

 

――そして神様は、霖之助ににっこりと微笑んだのだ――

 

「……帰るわよ、霖之助」

 

 多分その神様疫病神とか貧乏神。

 

 そして、輝夜はそれだけを口にして、妹紅と同じ様にテーブルに突っ伏した。

 残ったのは、呆然とした慧音と……同じく、呆然とした霖之助。

 

「……」

「……」

「……りん、の……すけ?」

「……」

「そ、そ――」

「これは、なんというか、その、いや、違うんだ、まず話を聞いてくれ慧音」

「そのアホ毛、やっぱり霖之助だったんだな!」

「まずそこで判断していたのか、君は」

 

 とりあえず。

 どうでも良いから早く帰ってくれと、店員達は思った。心から。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 人里から竹林へと向かう、小さな道がある。かつては竹を必要とする職人達だけが使用していたような荒れた道だったのだが、ここ最近では、人里の人間達が竹林の中にある診療所に向かうため頻繁に使われ、それなりに整備された道になっていた。

 

 その道に、四人と二人の影があった。

 

「そうか……それで店を閉めていたのか」

「極めて不本意ながらね」

「……ふむ、そういう顔だな、霖之助」

「それ以外の顔なぞ、出来よう物か」

「軽口がきけるなら、そう酷い待遇でもないんだろう?」

「……まぁ、あぁ、うん、それなりだ」

 

 慧音がお汁粉の食べ過ぎで気絶した妹紅を、霖之助が同じくお汁粉でダウンした輝夜を負ぶって、ゆっくりと歩く。お汁粉で気絶する不老不死とか、正直どうなんだろうと慧音と霖之助は思ったりもしたが、適当にさっさと担いで帰ろうと言うことになった。

 案外と冷たい二人である。見捨てないだけマシかも知れないが。

 

 お汁粉の猛攻に胃をやられた二人を背負って帰るその道で、慧音から事の経緯を説明してくれと頼まれ、霖之助は渋々と語ったのだ。

 

「……なんだ、結構楽しそうじゃないか」

「君の耳は大丈夫か」

「至って健康だ。ん? そうだ、丁度いい。永遠亭に居るのなら、八意女史に診てもらえ、どうも健康から程遠い存在に見える、お前は」

「至って健康だ。君こそ診てもらえ。耳と目、両方だ。確りと診てもらえ」

「体を心配する幼馴染になんて言い草だ。昔のお前は、それはもう素直で素直で……」

「思い出なんてものはね、慧音。大抵美化されているんだよ。そんなのは君の中だけにある幻だ」「じゃあ、私もお前の中じゃ美化されているのか?」

「……さぁね」

「まぁ、いいさ。にしても……水臭いな、霖之助。今まで黙っているなんて。近くに居た筈だろうに」

「嫌だったんだよ、こんな、僕じゃあない僕を見られるのは」

 

 拗ねた様な――というよりは、完璧に拗ねた顔で霖之助を睨めつける慧音に、霖之助は自身の姿を指してそう言った。

 

「これは、僕じゃあない。僕は、香霖堂店主だ。こんな姿で、偽りでも人に傅くなんてのは、断じて僕じゃあ、ない」

「そして、巫女や魔法使いに弱みを握られたくなかった、と」

「君は、そうやって奥まで勝手に覗くから、嫌だったんだ」

「素直に言わないお前が悪い。なんだ、私が彼女達に漏らすとでも思っていたのか?」

「慧音……口をどう閉じたって、どれだけ塞いだって、一度知られた情報は決して一所には落ち着かないんだよ。それが隠したい事に限って、だ。しかもそれは、何故か一番知られたく様な連中にこそ、いの一番に伝わるんだ」

「人の世は、誰ぞの不幸ばかりが口に上る、か」

「ましてここには、人より性質の悪い存在が多すぎる」

 

 霖之助の脳裏には、一種一妖にして何処からでも出てくる胡散臭い妖怪とか胡散臭い隙間妖怪とか胡散臭い賢妖が浮かんでいた。あと烏天狗とか。

 とりあえず、これらにばれたらもうアウトである。

 霖之助的に軽く死ねる環境が一時間も掛からず造られる事だろう。永遠亭に一応在住している地上兎の総括にもばれているので、十分痛い現状ではあるのだが、彼女場合、自分達だけが知っていると言う優位性で霖之助を甚振る事に愉悦を感じているので、外へと広がる痛みは無い。

 無いが、結構痛い。この上、前述した二人にまでこれがばれよう物なら――

 

 真っ青な顔でぶるりと震える霖之助に、慧音は苦笑を零した。

 

「退屈とは縁遠いみたいで、羨ましい」

「当事者になったら、そんな事が言えるものか」

「あぁ、蚊帳の外だからな」

 

 胸を張って応える慧音のその顔は、少し口惜しげに歪められていた。寂しげにも見えるその慧音の表情に、霖之助は何かを言おうとしたが

 

「さて、私達はこっちだ。お前達は真っ直ぐだろう?」

「……あぁ、そうだね」

「じゃ、またな」

「……うん」

 

 声を遮り、慧音は妹紅を負ぶったまま背を向けて歩いていく。

 その背中に、もう一度声を掛けようと口を開き……霖之助はゆっくりと口を噤んだ。霖之助の瞳にうつる慧音の後姿が、霖之助に語っている。

 

 ――何も言うな。

 

 と。

 

「……本当に、君はいつだって男前だ」

「そうね、お前よりは男らしいわ」

 

 霖之助の独り言に、背から帰ってくる言葉があった。

 ぎょっとして、霖之助は自分の背負って居る少女を見ようとし……頭を叩かれた。

 

「もう十分よ、離しなさい。これ以上お前に背負われていたら、庶民の臭いが付いてしまうわ」

「酷い言葉だ……ここまで背負ってやったというのに」

「ここに居るお前は本当のお前じゃないのだから、礼を言う必要も感謝する必要も無いでしょう」「無茶な理論だ……いや、気付いていたのかい?」

「私が気絶なんてするわけ無いでしょう」

「いや、思いっきりしていたが」

「気のせいよ」

 

 霖之助の背から降りてパタパタと服を払う輝夜は、不機嫌そうに霖之助を見上げた。

 その顔に良くない物を見た様な気がしたが、霖之助は叩かれた頭を擦りながら、そのまま目を合わせ続ける。何か言いたい事があるならどうぞ、と目で訴えて。

 

 一分ほどそれは続いただろうか。輝夜は眉間に皺を寄せ、視線を外した。そしてそのまま、無言で背を向けて歩き出した。

 永遠亭の方向へ。

 霖之助の無言のまま、その輝夜の後を歩く。そのまま何一つ口にせず歩く仮初の主従達。ふと、霖之助が口を開いた。

 

「竹が、青いね」

「緑でしょう?」

「君ならば、何故青いと呼ばれるか分かるんだろう」

「……この国は、四つから始まった」

「そう、最初は四つしかなかった」

 

 黒、白、赤、青。

 

 たったそれだけしか、色を表す言葉は無かった。

 生い茂った生命力の溢れる葉は青葉であり、天に煌く黄金色の太陽も赤であり、小波に濡れる浜は白であり、夜に咲く薄紫の帳も黒だった。

 

「けれども、足りなくなったんだ」

「足りる訳がないのよ。四つでは、この世の全てを表現し切れない」

「そして、寂しすぎた」

「……感傷ね」

「寂しかったんだ、四つは。足りないという以上に、足りない事が足りない者達は寂しかったんだよ」

 

億にも届くそれらが、無いと言う事にされる世が。

四つだけにそれら全てを塗りつぶして、全てに代わり存在しろと言う人の世が。

そして、それを見る者が。

 

「多分、どうしようもなく寂しかったんだ」

 

「在って無く」

「無くて在る」

 

「そもそも、おかしかったのよ。黒は全てを塗り合わせてやっと出来る一色よ。なのに、白と赤と青を混ぜたくらいじゃ、黒にはならないわ」

「だから、後に他の色を作って黒になる様にしたんだろうさ。……少し違うが、ヘンペルのカラスだね。全ての色を並べて、黒ではないから黒以外の何かだと定義して、定義され排除された物を省きただ黒を探す……必要なものだけ見つけるようで、いや、なんと遠い道か」

「……」

 

 輝夜は、もう何も応えずただ歩き続けた。

 永遠亭が見えるまで、彼らは何も口をきかなかった。

 

「惜しいわよね」

「……うん?」

「惜しいのよ。お前、霖之助」

 

 玄関に入った際に成されたその会話が、その日最後の会話となった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 赤い太陽。

 赤い空の中で、それは空に開いた穴の様にあった。空とは……神の住まう場所である。

空は全てを与える。水、光、生、死。そしてそれら全てを含む神。

 

 降臨という言葉を見れば、空がどれほど多くの豊穣と破壊を齎すものか分かるだろう。

 降りて臨む。

 上からだ。

 人が住まうのが地上である以上、降りてくるというのなら、降りる者達が発つ場所は空――天だ。太陽は光と生を司る。

 光が、温もりがなければ生物は生物として存在できない。なら、あの紅く燃える太陽が沈んだ後出てくる月は、なんであろうか。

 簡単だ。

 

「かつて、在った場所」

 

 そう、永遠亭の空を望める廊下で一人夜空を見上げる彼女の、かつて在った場所。

 そこはただ故郷でしかない。

 

 そして、闇と死を司る物。

 死とは光と温もりから離れ、冷たさと闇の中に落ちていく物。月が潮を引き寄せるように、死後の魂もまた月へ引き寄せられる物だと、かつて人は考えた。

 

 けれども、彼女にとっては故郷でしかない。知っているからこそ、彼女はそれ以上なにも思うことが無い。そこに幻想を抱く事も、夢想を思う事も出来ない。あそこは、ただこことは違う遠い土地であるとしか彼女には認識出来ない。

 

 首を横に振って、彼女はそっと息を吐いた。

 そろそろ暗くなってきた空の下、白く吐かれたそれに彼女はまだまだ寒いものかと思い、向かうべき場所へと歩いていった。足の向かう先は、中庭。そこにある、物置小屋と……そこに居るだろう彼女の従者。

 

 果たして、そこに霖之助は居た。

 彼女が前に見た時と同じ様に、子供のような顔で道具を片手に眺めている。

 ふと、道具を見る為に俯きがちだった霖之助が顔を上げた。輝夜の足音でも聞こえたのだろう。

 彼は輝夜の姿を見て、軽く手を上げた。

 

「まず立ち上がって一礼なさい、なによその軽い挨拶」

「すまないね、どうもここに居ると、自分の店に居るような気がして」

「なら、そこに住んでしまいなさい」

「なるほど、それも中々良さそうだ」

「……」

 

 ぽん、と自身の膝を打つ霖之助に、輝夜は頭を抱えて唸った。

 霖之助に用意した部屋は、そう悪い物ではなかった筈だ。

 なのに、この男はこんな埃っぽい上に狭い物置小屋の方が良いと思うらしい。感性が破綻しているとしか、輝夜には思えなかった。

 

「しかし、君は中々良い時間に来てくれる」

「?」

 

 怪訝な顔をする輝夜に、霖之助は応えずただ後ろから何かを取り出した。

 鉢。

 そして、そこのある"青い"草。

 

「身窄らしい草ね……」

「まぁ、弱い草ではあるかな」

「で、それが?」

 

 霖之助の手の中に在る草を興味なさげに、鼻を鳴らして見下す輝夜に

 

「この身窄らしい草が、今君が一番欲しがっている物、だろうと僕は思っている」

 

 霖之助はにやりと笑ってそう言った。

 今自分が一番欲しい物、と言われては輝夜も無視は出来ない。出来ないが、しかしどう見ても目の前にある貧相な草に思う事は無い。

 少なくとも、好い感情は沸いてこない。

 

「……この程度がお似合いだと?」

「まぁ、いま少しばかり見つめておくと良い。この草は、君のためだけに花の香を運ぶ事だろうさ」

「……ふーん」

 

 霖之助は手に持っていた鉢を床に置き、再び道具の鑑定に戻った。となれば、輝夜は一人でその草を見るしかない。

 見なくても良い筈だが、彼女にはここに来た理由がある。なら、少し程度は彼の遊びに付き合ってもいい筈だ。その程度の暇、彼女は嫌と言うほど持ち合わせているのだから。

 

 徐々に黒の色を深くしていく夜空の下、輝夜はずっとそれを眺め……そして、理解した。

 

「……月見、草」

「ご名答」

 

 青く身窄らしい草は、徐々に花を震わせ、そして白の大輪を咲かせた。

 

「夜に咲く、等と言えばそれだけの陳腐な花でしかないけどね。この花は、夜にだけ咲くから、陳腐ではないんだ」

「……」

 

 輝夜は、そう珍しくも無い筈のその花をじっと見つめ、ただ霖之助の言葉に耳を傾けた。

 

「名称は月見草、弱い草で自生は殆ど出来ない草だ。まぁ、その辺りはどうでもいいが……この草は、花の名を与えられていない」

 

 そう、月見草は草と呼ばれ、花を冠してはいない。

 

「夜にしか咲かないのだから、これが花であると誰も知らなかったのさ。彼らはこれを、草だと思った」

 

 遠い昔、人の生活は陽によって全て支配された。日が昇れば仕事を始め、日が沈めば家に帰ってやがて寝る。そんな単調な時間の流れの中で、当時の人間達は稀に道端に在るその草が、花であると知る事が出来なかった。彼らはそれもただの草であると信じ、疑わなかったのだ。

 

 では、何故夜に咲くのだろう。

 

「簡単な事だ。それは、名の通りでしかない」

 

 この草は、ただ月の為だけに花を咲かせた。

 貞淑な妻のように、誰かの為だけに在る誰かの様に、自身を殺してその為だけに在る花。それ以外の存在には、ただ草であると見向きもされず、馬鹿にされても良かったのだ。

 この花と……月は。

 

「この花の為だけに、月が昇るとお前は言うの?」

「花が月の為に咲くのなら、月が花の為に昇る事になんの矛盾がある? 結局、真実を知るのは月とこの花だけだ。僕らは彼らを汚さないのなら、どんな考えを持って良い。だろう?」

「……」

 

 輝夜は、黙って花と……月を見上げた。

 欲しかった物。

 欲しい物。

 今一番、欲しい物。

 

「君が欲しいのは、それだ。自分の為に在るもの、誰かの為に在る自分。一対の……相互」

 

 輝夜の脳裏には、少し前に見たメイドと主がぼやけて見えた。けれども、その二人の表情は鮮明に思い出せる。

 二人は、笑顔だった。とても綺麗な、不純物等一切ない、何物にも冒されない白一色の笑顔だった。

 

 妹紅は、退屈な世を繋ぎ止めるための楔のようなもの。

 永琳は、かつての師で、気の置けない友人のようなもの。そして彼女達には、彼女以外の何かを持っている。

 

 妹紅を心配する慧音。

 永琳に心酔し師事する優曇華。

 絆、楔と呼ばれるそれら。

 重く、疎ましく、それでも暖かく在るその枷。

 

 それは輝夜も一緒だ。輝夜にも沢山の楔と絆がある。

 けれども、輝夜はそれでも自分の、自分だけの物が欲しかった。欲しいのならば、対価を払わなければならない。

 

「なるほど……でも、誰かの為に在る私なんて――」

「そう、それはもう君じゃあ、ない」

 

 ぴしゃりと言い放って、霖之助は肩をすくめた。

 

「君がほしいのは、何処にも無い君だけの色と、この月見草と月の関係だ。分かっただろう? 無理だと」

「……そうね。自分の心の中なんて、分からない物だわ……霖之助、これの褒美をあげましょう」「僕が欲しい物かな?」

「えぇ、諸手を上げて喜ぶ事でしょうとも。有り難く頂戴なさい」

 

 輝夜は月と月見草から目を離し、霖之助をじっと、真っ直ぐ見つめた。小さな、艶やかに過ぎる穢れない唇が、小さく震え……零された音は夜に響いた。

 

「お役御免よ」

「恐悦至極にございます」

 

 苦笑したまま、霖之助は優雅に一礼した。

 月見草を手に去っていく、月の光できらきら光る輝夜の背に。

 

 霖之助の永遠亭での日々は、こうして静かに幕を閉じた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 さてさて、時は流れ日は過ぎて。

 霖之助は古道具屋へと帰ってきた。服装は勿論常の物であり、永遠亭で着用を強制されてきた執事服ではない。おかしな物で、窮屈だった筈のあの服が今では少し懐かしいとも悪くなかったとも、霖之助には思えていた。

 が、やはり彼の居場所は此処であり、彼の服は常のこれで無ければならない。

 霖之助はいつも通り、誰にも命令されない、させない退屈な日々を満喫しようと椅子に座っているのだが――

 

「で、どこに行っていたの? 旅行か何か? お土産は?」

「香霖、ほら、じっとしてってば」

「……」

 

 久方ぶりの香霖堂は、彼に安息など与えはしなかった。

 

「霊夢、そんなにお茶菓子とお茶を急いで口にしなくても、逃げやしない。魔理沙、退いてくれ。足が痺れてきた」

 

 どういったわけか、店を再開したその日から今日まで、自称常連客の少女二名が駐屯する次第となった。駐屯と言うほど物々しい事ではないが、この少女達の場合あながち間違いでもないから恐ろしい。どうにも、自分は不幸の星の下にしか居ないらしいと世を諦めかけた彼の耳に、カウベルの音が届いた。

 

「いらっしゃ――……なんだ、君か」

「あら、こんな所に四つ、全部あるじゃない」

「……なるほど、言われて見ればそうか」

 

 ――黒、白、紅、青。

 

 それは確かに、この店にいる三人が持つ色だった。

 霖之助は口元を手で覆い隠しくすくすと笑い、今しがた来店した少女――輝夜は鼻で小さく笑った。親しげな二人の様子に霊夢と魔理沙は顔を見合わせ、無意識のうちに霖之助との距離を縮めた。その程度に、二人の醸し出す空気は良くない物を持っていた。

 

「魔理沙、痛い、腰が痛い」

 

 魔理沙が膝の上から霖之助の腰をぎゅっと抱きしめていた。

 

「中々、愉快な状況ね」

「何が愉快な物か。輝夜、助けてくれないか」

「あら、嫌よ。楽しそうじゃない」

「何が楽しいも――痛い、痛い、力込めすぎだろう、魔理沙」

 

 更に込められた少女の両手の力にギリギリと絞られながら、霖之助は悲鳴に近い声を上げた。

 が、そんな物で離される少女の手ではない。

 

「ここは、私の日常の証みたいなものなの。輝夜、さっさと出て行ってくれない?」

「ここにお前の欲しがる様な物はないぜ。あっても私が貰うしな」

 

 霖之助の隣で、威嚇するように細められた目で輝夜を射抜く霊夢は兎も角、魔理沙の弁は酷かった。酷かったが、どうあっても改善できない悪癖なので、もうどうしようもない。痛みで歪んだ霖之助の顔が、どうにもならない諦めで更に歪む。それを見て、輝夜はけらけらと笑った。

 

「……で、何の御用ですか? お姫様」

「そうね……寂しいでしょう?」

「……?」

 

 きょとんとする三人に、輝夜は――

 

「色がたったの四つじゃ、寂しいでしょう? ここに私が混じれば……いつか私の欲しい私だけの色が出来るのよ、きっと」

 

 とても綺麗な、不純物等一切ない、何物にも冒されない月見草の花のような、白一色の笑顔で。

 

「今は無理でも……ねぇ?」

 

 そう彼に歌った。

 

 

 

 

――了

 

 

 

 

 足りない足りない、お姫様にはそれが無い。

 けれどいつかは、きっと在る。



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『はんぶんふたつ、えいえんひとつ』 メイン:霖之助 妹紅 慧音
前編


この作品は、当時のスレッド住人の方達が出されたアイデアを元に自分が書かせて頂いたものです。


 何も変化のない毎日だった。

 彼女にとって、それは常の範疇の中にある出来事に過ぎなかった。

 寝て、起きて、食べて、遊んで、殺して、死んで。偶に行き倒れを見つけ、埋めたり、適当に助けたり、放置したままであったり。

 それは彼女にとって常の範疇の中にある、当たり前の事だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 駆けて行く。

 夜を駆けて行く。

 追ってくる足音が絶えないから、駆けて行く。逃げて行く。

 夜を逃げて行く。迫ってくる足音が消えないから、逃げて行く。

 

 傷だらけの体を引き摺って、今にも破裂しそうな心臓を動かして。少年は竹林の中を走っていた。

 

 それを追うは五匹の狼。狼達の体は見るからに痩せ細っており、数日間ろくな食事にあり付けていないのは明らかだ。であれば、その痩身に鞭打ち追う以上、そういう事なのだろう。

 

 走る狼達は捕食者で、走る少年は被食者。牙も爪も持たない少年は、ただ走る事しか許されず逃げて行く。

 

 しかし、それも最早限界だった。

 傷だらけの体は徐々に力を喪い失速し、内臓は限界を超えた負荷に強く圧迫され機能を低下させていく。腕は重くなり足は痛くなり――少年は、その場に伏せた。もう動けない、と。

 

 息も粗く横たわる少年に、狼達は涎を垂らしながら近寄っていく。大きく開かれ、ぬらついた剥き出しの牙を見ながら、少年は思った。なるべくして、こうなったのか、と。これしかなかったのか、と。

 

 数日前までの日々を思い出す。それは当たり前の日々だった。

 どこにでも在る、明日も今日と同じだと信じられる、普通の毎日だった。寝て、起きて、食べて、一人で遊んで、本を読んで、たまに母親を手伝って。けれども、その少年の日々は容易く踏み潰された。

 本当に容易く。まるで地を這う蟻が、知られぬまま潰されるように。

 

 まず、天狗達に追われた。

 ただの人が山に棲む事は許さぬと、追われた。古きを守る排他的な彼らには、どんな言葉も、どんな背景も関係なかった。それまで過ごした少年の家は、無残に焼かれた。

 

 次に、人里の人間達に追われた。

 そんな子供は受け入れられないと、追われた。違う物を恐れる排他的な彼らには、どんな言葉も、どんな背景も関係なかった。それまで守ってくれた母親は、そこで無残に殺された。

 

 残った少年は、ただ追われた。

 人でもなく、妖怪でもないその少年は、母を喪った悲しみに暮れる暇もなく追われた。この世に在る物全てが、無残に少年を追った。

 

 それなのに、これが最後なのかと。少年は強く目を瞑り、この世の全てを呪った。空を、土を、風を、水を、何も知らず輝く星を、月を。

 何もしてくれなかった人間を、妖怪を、神を。少年から全てを奪った人間を、妖怪を、神を。

 

 死を前にした彼を、恐怖が苛み苦しめる。

 自分だけが怖いのは嫌だ。

 自分だけが痛いのは嫌だ。

 自分だけが辛いのは嫌だ。

 

 ――どうして……どうしてッ!! なんで!!

 

 声にならない悲痛な、未成熟な叫びが夜の竹林を震わせた。

 

 そして少年は、辛うじて保たれていたか細い意識を失う。

 最後に思った事が偽らざる本心で在ったのか、それともただの愚痴めいた物だったのか。それは『後の彼』にもとんと分からなかった。

 とんと、分からなかったのだ。

 

 

 

『はんぶんふたつ、えいえんひとつ』

 

 

 

 額に冷たさを、躯に重みを、鼻腔に幽かな花の香りを。それらを同時に感じ取った少年は、目蓋を開けようとした。

 が、それは開かない。

 重く重く、鉛の様に重い少年の目蓋は、開けない。

 

「起きたか?」

 

 少年は体をぴくりと震わせ、起き上がろうとしたが、これも駄目だった。体も目蓋も、指一本少年は自由に出来なかった。精々がぴくりと震える程度にしか動かない。

 それを声の主は感じ取ったのだろう。

 

「無理するな。お前みたいなちっさい奴の体じゃ、まだ起きれやしないよ」

「……だれ?」

 

 どうやら口だけは少年の意に背かなかったらしく、少年は錆びた鉄の様な声で誰何した。

 子供らしさの欠片もない、そんな声で。

 

「お前を拾った奴」

「……ばかなの?」

「こんがり焼くぞ、お前?」

 

 少々突き放した、幼さを感じさせるその女性の声は、少年のすぐ傍からした。

 

 ――近い?

 

 少年が無意識のうちに体を引き、離れようとするとそれは押さえつけられた。

 

「だから、動くなって言ってるでしょうが」

 

 少年の額に置かれた冷たい何かが、強く押し付けられ、少年の動きを封じ込める。額に当てられた手のひらは、そう大きな物ではない。それでも動きを全て封じられたというのだから、いかに少年の体が疲弊していたか如実に語っていた。

 

 そして少年は、そのひやりと冷たい手のひらに自身の現状が如何なる物であるか、理解し始めた。

 まだ、自分は生きている。

 額に感じる手の冷たさは偽りではないし、体を被う久方ぶりの布団の重みは、確かに本物だ。

だからそれが不思議だった。少年は竹林で狼に襲われ、逃げる事も追い払う事もかなわず、すでに物言わぬ屍――いや、骨だけになっている筈だった。

 だのに、生きている。やはりそれは不思議な事だった。

 

「……ぼくは、どうして?」

「だから、拾ったんだって」

「……ばかなの?」

「真っ黒に焼くぞ、お前?」

 

 何かをかちゃかちゃと鳴らしながら、少々甲高い女性の声は続ける。

 

「ふー、ふー……ん、こんなモノかな。ほら、口」

「くち?」

「あぁもう、開けて。あーんって」

「……?」

 

 言われたまま口を開けると、それは口に入ってきた。

 突如口に入ってきた、熱い異物を吐き出そうとする少年を、彼女は叱った。

 

「こら、飲み込む! お百姓さんに悪い事するな、ばか」

 

 言われるまま、少年は恐る恐るそれを飲み込んだ。

 喉を適度に熱い何かが過ぎていく。どうやら粥であったらしい。

 

「よし、食べられるみたいだな。ほら、もう一回」

 

 またかちゃかちゃと音を立てながら、彼女は少年に言った。

 

「……」

 

 それを数分間繰り返し、食事は終わった。

 

「水は?」

「……少し、ほしい」

「よし……じゃあ…………あー……どうしよう? このままじゃ飲めないなぁ……」

「?」

「ん、まぁ子供だし、良いか」

 

 彼女は一人で何かを納得し、隣にある湯飲みを手に取って、それを自分の口に当てた。

 そして――

 

 自分の口に水を含んだまま、少年へ口付けした。

 少年に確証は無い。それがお互いの口が触れているという確証は無い。

 無いが、唇に触れる柔らかい感触と、額に掛かる自分以外の髪のさらさらとした肌触り、何より濃厚な香りが、少年にそれが唇同士の触れ合いだと思わせた。水が少年の喉に流れ込まれていく。

 それをこくこくと喉を鳴らしながら飲むと、少年の顔に熱が灯った。

 その行為の詳細を知らない少年であっても、やはり何か思う事があるらしい。

 

「んー……ぷあぁ……ん、まだいる?」

 

 唇を離して無邪気に聞いて来るその声に、少年はどうにか目を開いて答えた。

 

「……ほんとばかだろう、君」

「ほんと消し炭にするぞ、お前?」

 

 言葉は汚かったが、ぼんやりとする薄ぼんやりとした視野に辛うじて見える、その優しく微笑む彼女――少女の顔は、奪われ、乾き疲れ切った少年には、どうしようもなく綺麗なモノだった。

 目を背けたくなるほどに。

 

「で、お前の名前は? 私は妹紅。藤原妹紅」

「……ぼくは――」

 

 それがその少年――霖之助と、藤原妹紅という少女の出会いだった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 竹林で倒れている者など、真っ当な者ではない。

 まして狼に食われようとしている子供など、本当に真っ当な者ではない。

 それでも妹紅は少年を助けた。拾い、家に運び、世話さえした。

 それは別段優しさから起きた行動ではなく、妹紅なりの暇つぶしだった。常の通り見捨ててもよかったが、流石に幼い子供を見捨てるのは後味が悪そうだった。だから彼女は霖之助を助け、拾った。けれどもそれは、永くを生きた彼女なりの時間つぶしに過ぎない。

 

 ――偶には良いだろう。

 

 その程度しかなかった。ただ、問題が後々生じた。

 

「霖之助、ごはんだぞ」

「はい」

「霖之助、ちょっと出かけるから留守番頼むね」

「はい」

「霖之助」

「はい」

 

――問題が、ある――

 

 狼に襲われ、助けられて、見知らぬ少女に世話をされて。それでもあれ以降何も聞かず、自分の事を話さない少年。

 そこに黙然と在るだけの子供。でもそれは余りに――。

 それは余りに、やはり真っ当な者ではなかった。真っ当ではない妹紅から見ても。

 

 だから妹紅は困った。

 宛がえられた小さな一室で布団に包まれたまま、天井を眺めるだけの少年に。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 霖之助の怪我はそれなりの回復を見せたが、妹紅が見る限り、精神は未だ傷だらけの状態だった。

 話しかければ応じるし、笑い話をすれば笑う。食事を出せばちゃんと食べるし、世話し過ぎれば真っ赤な顔で慌て出す。けれどそれだけだ。

 霖之助は受動的でしかない。受ける立場でしかない。

 妹紅が何かをする、という前提でしか、霖之助は何もしない。食事さえ必要としなかった。

 妹紅が一緒に食べようといわない限り、霖之助は部屋から出てこようとしないし、何も言わない。

 それは霖之助の、未だ幼い年齢を考えれば少し悲しいことに妹紅は思えた。

 何より、気になる事はある。

 

 ――いつから私はそんな優しくなった。

 

 竹林の中にある小さな岩に腰掛け、彼女は指先から小さな炎を出しながら思う。それを横に小さく振りながら消し、また炎を指先から出す。

 意味は無い。

 それに一切意味は無い。

 無いが、何かしなければ落ち着かなかった。

 

 ――私はあの子の母親でも姉でもない。そんな事知らない。怪我が治れば、放り出すよ。

 

 そしてそれは、霖之助も分かっていた。一時の休憩の場所だと、霖之助は理解していた。出て行けと言われれば、霖之助はそれが今日この瞬間だとしても素直に出て行くだろう。怪我の有無など関係なく。

 行く宛て等あろうがあるまいが、関係なく。妹紅にはその、霖之助の年不相応な理解が気に入らなかった。それが、気になる事だった。

 

 霖之助の、らしからぬ聡明さは一緒に過ごして分かった。

 だが幼い少年だ。何かあったにせよ、根っこはまだまだ子供なのだ。もっと人に甘え、無邪気に笑っていい筈だ。

 里の人間には在り得ない、紫がかった銀髪も、今は曇った金の瞳も、問わねば何も食さないその性質も。恐らくはそういう事なのだろうと、妹紅に思わせるに十分ではあったが、それでも子供は子供だ。

 自身の様に姿だけが幼いと言うならまた別だが、数日共に過ごした限りでは、霖之助は大人びてこそいるが、ほぼ外見どおりの年齢だろう。

 

 子供だ。

 子供なのに、霖之助は話しかけて笑わせる時以外には、乾いた瞳で全てをただ見ているだけ。

 子供なのに、世に疲れた老人のような、捨てられ余命幾ばくかの痩せ衰えた野犬のような、そんな目。

 それも妹紅には気に入らない。

 

 ――あぁ、そうさ、気に入らない。あいつ子供の癖にもう大人ぶってるもん。

 

 妹紅は指先に灯した小さな火を大きく振って消し、腰を上げて歩き出す。歩む先には自身が住まう小さなあばら家。人里からは少し遠く、迷いの竹林からは近い勝手に彼女が占拠した元廃屋。

 現在は彼女の家であり、彼の休憩場所。

 

 ――霖之助が何もしないって言うなら、私が動かしちゃえば良いんじゃないか。

 

 霖之助が偶に見せる笑顔を思い出しながら、彼女はそう結論付けた。

 そう、無理矢理動かしてやれば良い。体の傷は未だ癒え切っていないが、動くに困るほどではない。まずはそう、子供らしく動くべきだ。

 妹紅はそれが解決策だと信じて、歩き出した。そんな物、言い訳だと心の中で分かっていても、見て見ない振りをした。

 

 目の前にある自身の棲家の扉を常より大きな動作で開けて、妹紅は口を大きく開いた。にんまりと、楽しそうな目で奥に見える一室を見つめて。

 

 彼女は確かに優しくはない。

 けれど酷くもない。

 何より。自分の中にある、長い年月が作り出した大きすぎる余白を――

 

「霖之助!」

「はい」

「遊びに行くぞ!!」

「……はい?」

 

 見て見ない振りをした。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 そして時は流れていく。

 竹林へ行って竹を取り、それで竹とんぼを作って飛ばしたり。

 

「ほら、こうだって」

「……こう?」

「……不器用だな、お前」

「……」

 

 川に行って水掛をやったり。

 

「さぁ来い! ばしゃっと来い!!」

「……いや、来いとか言われても」

「じゃあ私が行く」

「ばしゃっと来たッ!?」

 

 魚を釣って一緒に食べたり。

 

「美味しいなー、私が釣った魚美味しいなー」

「……」

「あれー、どうしたの霖之助? 一匹も釣れなかった霖之助、どうしたのー?」

「魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され」

「いや霖之助、そんな一所懸命呪詛こぼされても」

 

 別の部屋で寝ていたのに、いつの間にか一緒の部屋で寝ていたり。

 

「恥じらいをもちなさい」

「えー、でも」

「恥じらいを、もちなさい」

「はーい……あれ、なんで私が怒られてるの?」

 

 輝夜との喧嘩――殺し合い――で霖之助に心配させたり。

 

「……何、その血まみれ」

「うん、竹林でちょっと雌狐というか雌狸というか雌豹というかそんなのに出会ったり出会わなかったり?」

「へー、ほー、ふーん?」

「凄い冷たい目で見られてる私!」

 

 黙々と本を読む霖之助を妹紅がくすぐったり。

 

「邪魔」

「あれ、そこはこう、もっと冷たいながらも優しく」

「邪魔」

「あれー」

 

 どちらかと言うと偏った食事ばかり用意する健康管理皆無の無限生命娘の食事を改善したり。

 

「ちゃんと野菜も食べる」

「いや、私これ嫌いだもん」

「わがまま言うんじゃありません」

「……あれ、なんか立場逆じゃない? これなんか逆じゃない?」

 

 霖之助にお姉さんと呼ばそうようと躍起になったり。

 

「はい」

「……」

「はい」

「……」

「……泣くよ?」

「……ね、ねぇ……さん」

「……」

「ねぇ、さん?」

「そうか……これが、萌え……なのか」

「……?」

 

 日々は優しく不器用に、二人の絆を少しずつ繕いながら過ぎていった。

 過日を思い出せば、余りに他愛無く終わってしまうそんな日々を、次に在る真っ白な明日を。二人は一つの鉛筆で手を取り合って綴り、書き記していった。

 

 空白に黒一色で記されていた文字は、やがて多彩な色を交えて記されていく。思い出の数だけ、二人は色鉛筆を手に入れて、それを記していった。

 

 彼女は優しくなかった。

 けれど冷たくもなかった。触れ合いの中で生じた感情を無かった事に出来るほど、彼女はやはり冷たくなかった。

 

 少年は一度全てを恨んだ。けれど恨み切れなかった。

 触れ合いの中で生じた感情を無かった事に出来るほど、彼はやはり恨み切れなかった。

 

 時は流れていく。時は流れていく。

 不器用に、優しく、そして時に冷たく、それでも暖かく。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「ここに、子供がおるじゃろう?」

 

 年老いた男が、ある日妹紅の家にやって来た。里の屈強な若者達を数人ほど引き連れて。

 

「それが?」

 

 妹紅はそれを軒先で迎えた。

 霖之助に出てくるなと伝えて。

 

「これ以上の勝手は困るの……わしらは、あんたが此処に住むのを見逃してやった。それを……」「上から目線とか、すげーむかつくわ」

「事実じゃよ……さて、子供を渡してもらえんかね?」

「断る」

「お前!!」

 

 老人の後ろに居た若い男が拳を振り上げ、一歩踏み出す。それを老人は手を上げるだけで押さえ、言葉を続けた。

 

「あれは雑じり物だ。人ではない。分かるじゃろう?」

 

 老人言葉に、妹紅はやはりそうかと思った。思っただけで、それ以上の事は何一つなかった。

 

「けれど妖怪でもない。だから分からない」

「これ以上の余所者は必要ない……そういう事じゃ」

「霖之助は私の家族だ」

「……これ以上は、暴力で解決と言う事になるぞ?」

「暴力? いいじゃないか」

 

 にやっと、妹紅は凶暴に笑う。それまでポケットに入れていた手をゆらりと出して。

 その余りの凶相に、若者達が怯え、老人は低く唸った。

 

「やりたいならやれば良い。けれどお前達だって知ってる筈だ。家族を守る者は強いって。人に子を傷つけられ、殺された獣が、どれだけ凶暴になるか、お前達は知ってる筈だ」

 

 なら、と妹紅は続ける。両の手のひらから紅々と輝き揺らめく炎を出しながら。

 

「私は、真っ当な人間じゃあない。こういう事だって出来る」

「――……」

 

 最早里の人間達は言葉もなく、ただよろめきながら後ずさっていく事しかできない。

 

「だから、関わるな。何もしなければ、何もしない。偶には、里に被害を及ぼす妖怪変化だって退治してやっても良い。だから、私達にはもう、関わるな、何もするな、あいつに――霖之助に、これ以上渇きを与えるなッ!! そんな事、私が絶対に許さないからな!!」

 

 両の手のひらで揺らめいてた炎は爆発し、大きく四散した。

 それに驚き、恐怖した人間達は我先にと里へ逃げ去ってゆく。その背後に、妹紅は叫んだ。

 

「等価交換だ! 私が里をそれなりに守ってやる! だから、傷つけるな!!」

 

 叫び声が竹林を震わせ、やがていつもの静寂が戻ってきる。妹紅は家に入ろうかと振り返ると、からりと扉が開いた。

 

「……ねぇ、さん」

「……霖之助」

 

 妹紅の目の前には霖之助が居た。

 

「……ごめん、僕のせいで」

 

 目を伏せて、いつか見た、ここに来た頃の、乾いた金色の目で、妹紅を見つめる霖之助が居た。

 

「やっぱり……僕は、駄目なんだ……居ちゃ、駄目なんだ」

「……なんで?」

「……だって、ねえ、さんまで……巻き込んで……」

「なんで?」

「……僕が……半分……妖怪らしい……から」

 

 泣きながら、霖之助は語りだした。かつて母親から聞いた、自身の父親の事を。話にしかしらない父親の事を、勝手に隠れ住んでいた山を、天狗達に追われた事を。人に追われ、母親を殺され、一人迷いの竹林へ投げ捨てられた事を。

 霖之助は流れ落ちる滂沱の涙を拭おうともせず、語った。

 

 妹紅は一歩近づいて……まだ自分よりも背の低い霖之助を――

 思い切り叩いた。

 

「……痛ッ!?」

 

 目を白黒させ、叩かれた頭を抱える霖之助に、妹紅は人差し指を突きつけてた。

 

「子供なんだから、子供らしく甘えてれば良いんだ! お前は変に大人ぶるから、損してるんだバカッ!」

 

 そして妹紅は、霖之助を無理矢理引き寄せ、強く抱きしめた。

 

「お前はもう、私の家族なんだから……そんな事、知ったもんか」

 

 人をそう抱きしめた事もないのだろう。不器用に霖之助を抱きしめながら、妹紅はそう言った。

 霖之助はそれをおずおずと抱き返し……

 

「……うん、覚悟……しとくよ」

 

 笑いながら、泣きながらそう答えた。その後妹紅に、なんだそれは、と小突かれた。

 

 また、一歩前進。

 そんな日になった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 それからと言うと。

 ごく稀に人里との衝突はあったが、妖怪退治と言う札が効果を発揮したのか、特に事件に至るような事も無く、妹紅と輝夜がガチンコに過ぎるセメントバトルをやらかして霖之助を心配させる以外、二人は平穏無事に過ごしていた。偶にトラブルを起こしながら。

 

「また……血まみれになって……」

「あー……ごめん」

 

 出かけてくると言い残し出かけていった妹紅が、いつもよりは若干遅く戻ってきたのを出迎えた霖之助は、そこで頭を抱えた。妹紅は、また血まみれだった。

 

「洗濯、誰?」

「……りんのすけ?」

「うん、僕の番の日だね」

「いや、ほんとごめん」

「……」

 

 それが妖怪退治だと言うのなら、仕方ないと思えた。が、妹紅は妖怪退治でこんな返り血を浴びる事はまずない。霖之助が知る限り、彼女が妖怪相手に下手を打った事など、未だ短い付き合いだが一度も無い。

 

 だから、心配では在った。在ったが、それは言えなかった。

 これを毎度繰り返す以上、妹紅には意味のある事なのだろうと霖之助は思っていた。ただ、それ以上に心配事があった。服にしみこんだその血が、誰のものであるか、だ。

 妹紅を見ても、傷一つ無いのだから、これは誰かの血なのだろう。沁みこんでいる血だけでも、夥しい量である。これほどの血を流せば、相手も無事では済まないと子供の霖之助でも分かる。

 にしては、死体がどこかで上がったと聞いた事が無い。

 それでも、こんな事が続けばいつかこの生活も壊れるのでないかと、霖之助は不安だった。

 

「大丈夫だって」

「……?」

 

 そんな霖之助の思いが妹紅には透けて見えたのだろう。彼女は霖之助の頭をぽんぽんと軽く叩き、笑った。

 

「まぁ、相手も真っ当な人間じゃないから、死なないって。っていうか、人間じゃない?」

 

 それはつまり、目の前の彼女を含めて真っ当ではないと言っている様な物だった。

 それでも、霖之助はどうでも良かった。そこはどうでも良かった。妹紅さえ無事で、この生活が続くなら、それだけで良かった。

 

「ちょっと着替えてくる」

「……うん」

 

 奥にある自室へと向かう妹紅に、霖之助は素直に返事した。

 とりあえず、どうやって染み抜きするかを考えながら。

 

 部屋から出てきた妹紅から衣類一式と、当たり前のように渡された下着を受け取って、霖之助が洗濯籠にそれを投げる様に放り込んだ。

 

「なんだよ! なんでそんな入れ方するのかな!? おねえちゃんの事嫌いなのかな!?」

「ばかだよ、ねえさんほんとばかだよ!」

「馬鹿じゃないよ! 賢いよ! カッコいいよ! 可愛いよ!」

「だからなおさら困るんじゃあないか!」

 

 聞くものが聞けば、砂糖を口からこれでもかと吐き出しかねない漫才を局地的に開催し、二人が共に疲れた辺りで食事になった。

 

「霖之助ー、おねーちゃんねー、これ嫌いー。おかーさんねー、これ嫌いー」

「ちゃんと食べなさい。あとかあさんなのか、ねえさんなのか、はっきりさせなさい」

「……どっちも」

「どっちか一つにして欲しい」

「……じゃあ、幼妻?」

「ねえさんの無茶振りはどこまで行くの?」

「月まで届くよ?」

 

 一般家庭としてはカウントされない、少々歪な会話の中、それは起きた。とんとん、と小さく扉が鳴る。風でも吹いてきたかと思った二人だったが、それは再び、更には三度鳴らされた。

 妹紅が霖之助に目配せし、霖之助が腰を上げた。いつでも動けるようにと。

 用心深く扉に近づき、妹紅が扉を開けると――

 

「誰?」

「……里の、者です」

 

 そこには、子供を抱えた二人の男女が居た。

 頼りない星の明かりだけでも、真っ青だと十二分に判る顔で。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「つまりこれは、妹紅お母さん奮戦記パート2、か?」

「ねえさん、現実はどうやっても変わらないよ」

「うん、そだね」

「そうだよ」

 

 二人は頷き合い、布団の中でうなされる、幼い少女を見た。

 

 銀髪の、恐らく将来美人になるであろう少女を。

 

 その夜やって来た若夫婦は、この子供を妹紅に預かって――いや、貰って欲しいと言った。何を言われたのか判らなかった妹紅は、一瞬だけ考え込み、そして理解した。

 彼女は激怒し、そんな事を言った男を殴ろうとしたが、男の腕の中でうなされる子供を見て、どうにか自身の激情を押し留めた。

 どういう事だと聞くと、訥々と二人は語りだした。

 

 その子供は普通の子供だった。

 ただの人間だった。

 だが、どこかで歯車が狂った。詳細は省くが、事故により怪我を負い、その結果半妖へと転じてしまったらしい。今までどうにか隠し通せたが、もう限界は見えている。

 このままでは子供が里の人間達に殺されてしまうと危惧した彼らは、竹林で半妖の子供を引き取って育てている物好きな少女がいると聞いた事があったらしく、それに縋る一心でここまでやって来たのだという。

 

 このままでは、もう一家全員で死ぬしかないと、ぽつりと零した男の、余りに悲壮な顔に妹紅はため息を吐き、それを承諾した。それを泣いて喜ぶ両親に妹紅は、ただし、と続け。

 

『この子はもう私の子だ。一生会わない、と誓えるなら構わない』

 

 そう言った。

 男と女は顔を悲しみに歪めた。

 自分勝手な物だと思うが、それだけ愛していたという証拠だ。それを罵る必要は無かった。少なくとも、妹紅にも霖之助にもなかった。

 

 男と女は、名前は慧音です、とだけぽつりと呟いて、泣きながら里へ帰って行った。その背中を見送りながら、霖之助は思った。

 捨てても、捨てるという選択肢を選んでいても、親は子を想い愛しているのだと。例え彼らが自身の親の仇であっても……それは尊い事なのではないかと。酷く漠然と、霖之助はそんな事を思った。

 

 そして、時計は回る。

 噛み合うか、噛み合わないのか、判らないまま付け加えられた歯車を伴って。

 

 目を覚ました当初こそ不安に怯え、親に見捨てられたという無慈悲なこの世の仕打ちに泣き暮れる慧音だったが、妹紅と、更には自身に近いと言う霖之助の献身的な世話により、情緒を崩す事は少なくなっていった。

 一ヶ月も過ぎれば、もう泣くことさえなかった。偶に悲しそうな顔をするが、そんなときはいつも霖之助が隣であやした。

 

 未だ半獣の血に馴染まない慧音は、布団の中で過ごす日が多かった。それを不憫に思った妹紅と霖之助は、ただひたすら頑張った。寂しくないように、悲しくないように、楽しくなるように、嬉しくなるようにと。

 霖之助が本を読んであげたり、霖之助が髪を梳いてあげたり、霖之助が優しく背中を撫でてあげたり、霖之助が食事を作ってあげたり、霖之助があーんしてあげたり、霖之助が背中を拭いてあげたり、霖之助が一緒に寝てあげたり、妹紅が慧音ばっかりずるいと邪魔して慧音を笑わせたり。

 霖之助は頑張った。超頑張った。

 同じ様な境遇に陥った慧音が、曲がらず捩じれず真っ直ぐに育つようにと、身を粉にして頑張った。妹紅は、文字にすると 妹紅 がんばった 妹紅 つよい あおーん くらいには頑張った。

 

 それでも、強すぎる半獣の血に苦しめられる慧音に、霖之助と妹紅がしてやれる事など多くは無かった。永遠亭まで薬を貰って来てやれる程度だ。

 そしてそれは、妹紅の役目だった。彼女はその日も薬を貰いに行っていた。文字通り貰いに。

 留守を守る霖之助には、慧音の面倒はちゃんと見ておく様にと伝えておいた。

 咳き込みだしたら背を擦って、落ち着いてから水を飲ませるようにと。無理矢理にでも飲ませるようにと、そう言い付けてから、彼女は永遠亭に向かった。辿り着いた診療所で、慧音の現在の症状を永琳に伝え、それならそろそろ収まる筈だとお墨付きを貰い、薬を片手に帰路につき――

 

 輝夜に絡まれていた。

 

「ねぇねぇ、新しい玩具が増えたんですって?」

「玩具言うな、馬鹿姫」

「あらやだ、怖い」

「今日はもう殺し合いはしないぞ。霖之助も心配するし、慧音の事だって心配だし」

「あらあら、まるで母親みたいな顔してるわ、この子供」

「お前だって見た目子供だろうが」

「心はレディ」

「知るか」

「で、妹紅」

「なに?」

「貴方ご自慢の、よく惚気てくれるその子、見ても良いかしら?」

「……何もしないなら、良いけど。あと惚気てない」

「知らぬは本人ばかりなり、かしら」

 

 二人は普段の険悪さもそこそこに、飛んで家へと向かっていった。

 

 

 霖之助が慧音に本を読み聞かしている時の事だった。慧音が苦しそうに何度も咳き込み、霖之助は慌てて背中を擦り、落ち着かせた。

 数分もすれば収まったが、慧音はそのまま疲れたのか、横になったまま動かない。

 

「大丈夫かい?」

「……うん」

 

 か細い声で返事こそするが、顔色は良い物ではない。心配になった霖之助は、水はいるかい? と聞いた。そんな事しかできない自分を恥じながら。

 

「……うん」

 

 答えども、慧音は腕を伸ばさない。

 霖之助が差し出した湯飲みを受け取れるほどの力も、慧音には無かった。先程までは元気だったのに、今はもうそれが出来ない。それほどに慧音の中に在る半獣の血は厄介で、凶悪だった。

 

 霖之助は大いに困った。欲しいといわれても、飲めないのだからしょうがない。しょうがないが、それを無視する事は出来ない。

 彼からすれば、出来るはずも無い。自身の分け身が如き少女を、このままには出来なかった。彼はいつか自分がそうされたように、湯飲みの中にある水を口に含み、身を屈めて――

 

 扉が開いた。

 

「ただいまー」

「……まるで犬小屋ねぇ」

「お前マジで焼く――」

 

 見た。

 妹紅は見た。

 そして後ろに居た輝夜も、またそれを見た。

 

 何やら頬を含まらせて、今まさに少女に口付けしようとしている少年の姿を。そして霖之助も彼女達に気付いたのだろう。

 妹紅と霖之助が交差した。

 

「――……」

「あら、これはお邪魔みたいね。妹紅、少し外で待ち――」

 

 その言葉を、輝夜は最後まで言うことが出来なかった。

 何故なら。

 その首根っこをむんずりと妹紅に掴まれ――

 

「なにやってんの霖之助ー!?」

 

 投げられたからだ。

 

「貴方こそなにやってるのー!?」

 

 自身に向かって飛んでくる、見知らぬ少女を見つめながら、霖之助は思った。

 

 ――余裕あるなぁ、この人。

 

 そのまま彼は。確りと突っ込みを入れて飛んできた輝夜ごと、吹っ飛んだ。

 

 余裕があったのは、霖之助もまた同じだった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「いや、ねーさん霖之助が犯罪者になっちゃったのかと」

「むしろ助ける側だったよ」

「あぁ、うん、ごめんね? 怒ってる? ねーさんの事、怒ってる?」

「むしろいつものねえさんで安心してるよ」

「そっかぁ……良かったぁ……いや、良くない!?」

「ねえさん、うるさい」

「怒られた!?」

「だから、うるさい」

 

 今は落ち着き、布団の中ですーすーと安らかに眠る慧音を指差して霖之助は言った。

 輝夜は霖之助を眺めるだけ眺め、へー、ほー、ふーん、と呟き、妹紅に。

 

『光源氏?』

 

 と言った後燃やされて帰って行った。けたけたと笑いながら。

 

 今はこの家に、この部屋に家族三人だけである。

 

「……慧音」

 

 妹紅は心配そうに慧音を覗き込み、ひょこっと出てきた手を布団に戻す。優しく、ゆっくりと。そんな姿を見た霖之助は、無言で立ち上がる。

 

「霖之助?」

「ご飯、作ってくる」

「あ、うん……」

 

 すたすたと台所に向かっていく霖之助に、妹紅は何か感じたが、判然としないので口にする事は出来なかった。

 

 台所で、食材を手にして霖之助は考える。皮を剥き、米を研ぎ、湯を交わし、彼は考える。

 ずっと前から考えていた。出来る事が少ないと。妹紅や慧音の面倒を見ているつもりでも、本当は面倒をみてもらっているだけだと。これだけ家事を手伝い、一人で行っても、何一つ妹紅の力に成れていないと思う霖之助は。何も出来ず、何も知らない自分を恥じた。

 もっと、何かを。こういった家事ではなく、深く強い何かを、彼は求めた。

 

 その夜、妹紅は三人で寝る事を提案した。

 

「いや、狭いよ?」

「それが良い」

「いや、分からない」

「慧音だってそれが良いよね?」

「うん」

 

 渋った霖之助だったが、慧音は飛びつくように賛成しそれが決定打となった。慧音に甘い彼が、慧音の意見を蹴る筈が無いのだから。

 

 暗い一室で、三人は一緒に眠る。

 

「親子三人川の字だよ、まさに天国だよ」

 

 妹紅の言葉に安い天国もあったものだと霖之助は思ったが、確かに彼の胸にも、何か言葉に出来ない安らぎの様な物があった。

 

「……おや、こ」

 

 その妹紅の言葉に、慧音が小さく呟いた。

 

「うん、親子」

「じゃあ……わたしは、なにかな?」

 

 妹紅と慧音のその会話を聞いて、霖之助ははっとした。慧音のこの家での立ち位置が、未だ判然としていない事に気づいたからだ。今更になって、彼は気付いたからだ。

 それが悔しく、悲しかった。所詮自分は自分の事しか考える事しかできていないと。やはり、何も出来てはいないと。

 

 慧音の言葉に、妹紅はにこっと微笑み、優しく言った。

 隣にある、慧音の頭を撫でながら。

 

「私は慧音のお母さんで、霖之助は慧音のお兄さん。で、霖之助は私の弟」

 

 ――何その複雑怪奇な家庭。

 

 喉下までそんな言葉が出てきたが、霖之助はそれをどうにか飲み込んだ。きらきらと瞳を輝かせ、その言葉に聞き入る慧音の邪魔をしたくなかったからだ。

 

「……おかぁさん?」

「うん」

 

 慧音の問いかけに、妹紅は本当の母親のような顔で答えた。

 

「……おにいちゃん?」

「……あぁ、まぁ、うん」

 

 慧音の問いかけに、霖之助は少し困った顔で答えた。慧音が笑う。

 嬉しいと、からから笑う。それまで霖之助が見た事もないような、無邪気な笑顔で。

 

 霖之助は、それが嬉しくて。

 少し悔しかった。

 

 自分が何も知らないから、こんな笑顔さえ浮かばせる事が出来なかったと。彼は悔しかった。そして必要だと痛感した。

 知るという事が。

 人をこうも幸せにする、綺麗な笑顔を作る知識が。そう、知識が。それを応用する知恵が。

 子供だからと甘えては居られない。何故なら、その日彼は妹を持ったのだから。

 

 夜は過ぎていく。少女に家族を与え、少年に命題を与え。過ぎて行く。

 

 

 翌日。彼女はやって来た。

 右手に薬箱らしき物を持って、その女性はやって来た。

 

「初めまして、八意永琳です」

 

 扉を開けたまま、霖之助は女性の余りに理知的な瞳の輝きに圧倒された。挨拶を忘れるほどに。そんな霖之助に微笑みかけ、彼女は優しく問いかけた。

 

「それで、貴方が……妹紅のいつも言っている、霖之助……くん、かしら?」

「あ、は、はい……そうです」

「そう。それで、妹紅は?」

「あ、今は洗濯物を干しに……」

 

 と答えると、その当人がやって来た。

 永琳の姿を見た妹紅は視界に並び写る二人の姿に、少し怪訝そうな顔で瞬きし、首を横に振ってからぱたぱたと近づいて来た。

 

「……永琳。なんでここに?」

「なんでもなにも、うちのお姫様がね」

「輝夜が、どうかしたのか?」

「一度直接見て上げなさいって、ね」

「……あいつが、ねぇ」

「あれで結構優しいのよ? 稀に、だけれど」

 

 どこか不機嫌そうな妹紅と、穏やかな、余裕のある永琳。霖之助の前で、二人は会話を続ける。置いてけぼりだが、霖之助にとってそんな事はどうでも良かった。

 

「それで、その女の子は?」

「あぁ、奥に居るよ……診て貰える?」

「その為に来たのよ」

 

 家に上がり、奥に行く二人。その二人を――正確には永琳を、じっと見つめたまま霖之助は動かなかった。そして数分後、彼は慧音の居る部屋に向かっていった。

 瞳に、青白く揺らめく何かを宿して。

 

 診察が終わり、永琳が帰ろうとする際、霖之助は土下座をし、少年らしからぬ真摯な、熱の篭った瞳で永琳の双眸を見つめ、言葉を静かに奏でた。

 

「あなたのそれを、僕に下さい」

 

 静寂が、辺りを包む。まだ日も高く、明るいというのに、どこかから烏の鳴き声が響いてきた。

 そして。

 永琳が、あらあら、私もまだまだ行けるのかしら? と俯き呟いて、その首根っこを背後から妹紅が筆舌に尽くし難い形相で掴み――

 

「いきなり求愛とか、なにやってんの霖之助ー!?」

 

 投げた。

 

「貴方こそなにしてるのー!?」

 

 突っ込んだ。

 

 自身に向かって飛んでくる美しい女性を見つめながら、霖之助は思った。

 

 ――余裕あるなぁ、この人も。

 

 霖之助は空高く吹き飛んだ。永琳と一緒に。

 

 ――まさか二日連続で人間を投げつけられるとは思わなかった。

 

 霖之助、後の言葉である。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「えーっと、つまり、弟子入りしたい、と言う訳ね?」

「はい」

 

 霖之助と永琳は居間で正座し、ちゃぶ台を挟んで向かい合っていた。

 お互い、理不尽に襲ってくる鈍痛に耐えながら。

 

「僕に、あなたの持つ物をくだ――」

 

 そう言い掛けて、彼は言葉を変える。

 視界の隅に写る、永琳の隣で胡坐をかいて座っている妹紅の目が、完全に獣の目になっていたからだ。おまけに、妹紅のその震える手が、ちゃぶ台をがっしりと力強く握っていたのが霖之助には確り見えていた。総合すると、非常に怖かった。随分昔に襲われた狼五匹なんて目じゃないくらい怖かった。

 

「あなたの持つ、知識を教えてください」

 

 恐怖によって言い直された霖之助の言葉に、永琳は腕を組んで小さく唸った。

 そして数秒考え込み、組んでいた腕を解き、霖之助を薬師、医師の目ではなく、一人の教育者としての目で見た。

 

「知識といっても、貴方はどれ程の、どんな分野の知識を求めているのかしら?」

「あなたのその目にある、全部を」

「――……」

 

 その言葉に、永琳は眩暈さえ覚えた。目の前に居るのは子供だ。

 聡明そうな顔と瞳を持っているし、話す言葉も確りしている。が、やはり目の前で正座したまま、真っ直ぐと永琳を見つめる彼は、子供だ。

 そんな子供が、ろくに話をした事も無い永琳の姿を見ただけで知識人だと見破り、あまつさえその知識を授けてくれと頼んでいる。嘘をついているように見えない。飽く迄、胸の内を素直に実直に言葉にしているとしか、永琳には思えない。

 

 永琳は、久しく覚えなかった興奮に身を奮わせた。

 彼女はそっと目を伏せる。知識を得ようとする者は貴重だ。知識を尊ぶ者は貴重だ。それが純粋な、まだ幼いといっても過言ではない、目の前の少年が持つ本心なのだから、尚更だ。

 今まさに芽吹こうとしている新たな幼い学徒の命を摘む等、永琳には出来なかった。何より、この子供は知性と理性が瞳に宿ると言う事を理解している。それが永琳には、妙に嬉しかった。

 

 永琳はぱしんと膝を叩き、霖之助を見た。

 

「なら、まずそこで不機嫌そうな顔をして居る妹紅を、自分だけで説得しなさい。それさえ出来ないのであれば、弟子にする価値もないわ」

 

霖之助がそれに頷き返す。

 

「期限は一週間、その間、可能な限り私はここに来るわ。もし来れなかった場合は、その分の一日を延期。一週間、私が来るその一週間で、妹紅を説得できなかった場合は……分かるわね?」

「はい」

 

 霖之助の返事を聞き、永琳は帰っていった。

 次からはちゃんと言葉を出して返事しなさい、と霖之助を叱ってから。

 

 残ったのは、何かを覚悟した霖之助と、奥の一室で眠る慧音。

 そして。

 

「私は、賛成なんてしないからな」

 

 頬を膨らませて霖之助を睨む妹紅。

 

「なんだよ、私じゃなくて、永琳に教えてくれとか。何さそれ」

「ねえさん」

「ねーさんもう霖之助の事なんて知りません」

「ねえさん」

「……知らない、聞こえない」

「ねえさん」

 

 無視しても、聞こえない振りをしても、その声を妹紅は無視できない。長い生の中で、自分の内側に自分から入れた数少ない存在の声だ。どうやってもその声は外壁を取り除き、妹紅の心にじかに触れてくる。

 

「ねえさん、僕は」

 

 だから妹紅は、霖之助から離れた。いつかの霖之助のように、無言で立ち上がり、そのまま自室へ行く。

 その後姿を眺めたまま、霖之助は項垂れて頭を抱えた。

 

「あぁもう……なんでだよ、ねえさん」

 

 分かるまい。彼には、分かるまい。

 

 彼には一生、分かるまい。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 その日から、永琳は顔を出すようになった。霖之助が妹紅からの了承を得られたかどうか、確かめるため。そして慧音を診る為。

 忙しい時は用件さえ済めばすぐ変えるのだが、暇な時はそのまま留まり、彼女は話をした。自分の知っている事、やっている事、見た事、聞いた事。それらを霖之助と慧音に語り、彼女は微笑む。

 

 その子供達二人は、永琳にとって好ましいものだった。

 霖之助は当然のこと、慧音もまた人の話から知識を吸収する事に長けた存在だったからだ。

慧音は一を聞き十を知る。恐らく、生徒としては慧音のほうが優秀だろう。が、慧音には貪欲さが全く無い。

 水を受ける土のように、ただ沁み込むに任せる姿勢は、優秀という以上の評価を得る事は出来なかった。しかし、霖之助は違う。

 

 ――この子供は違う。

 

 永琳は思った。

 ある意味では、この子供のほうが面白いだろうと。

 

 優秀ではない。

 なるほど、知恵はあるだろう。

 年不相応な知恵はあるだろうが、霖之助の面白さは、そんな所ではない。彼は、永琳から得た知識を、一度整理し、自身の頭の中でバラし、構成し直す。時にちぐはぐに、時に全く逆の方向に、時に永琳さえ考えなかった方向に。得られた情報の矛先を向けていく。

 

 それが永琳には面白かった。

 教育係を勤める事数回、現在においても立場的にはそれに近いものだ。が、これほど面白そうな素材は、かつてない。過去、彼女が教育してきた姫達は、聡明であった。

 聡明であったが故に、彼女達は一個の完成した存在だった。彼女達がどれほど優雅に、理知的にあろうと、それは彼女達の地金がそうであったというだけの事。

 永琳の存在意義など、そう多くない。すでに輝いていた宝石を幾ら研磨しようと、自身の楽しみは少ない。

 

 だが、この少年はどうだろう。聡明とは言えるだろうが、それまでの生徒と比べれば当然質は格段に落ちる。その癖、異質で貪欲だ。歪な輝きを持つ、くすんだ原石。磨く価値は、十分すぎるほどにあるのではないか。

 

 ただ惜しむらくは、妹紅が反対している為、これ以上の事が現状では出来ないという事だ。

 

 ――彼女も、何を思って反対しているのやら……

 

 彼女は気付けなかった。月の賢者は、気付けなかった。

 久方ぶりの、自身の隙間を埋める出来事に、少々浮かれていた彼女は。

 

 楽しそうに話す三人を寂しそうに眺める、少女の姿に。

 

「……」

 

 三人の輪に入らず、ただ静かに立ち去り。静かに、薄暗い自室で胸を押さえて、涙をこらえる妹紅の胸の内など。

 

 永琳と霖之助と慧音が向かい合って語り合うその姿が。

 銀髪の、成熟した女性が、銀髪の、幼い子供達と向かい合って語り合うその姿が。

 妹紅のその両の目に、どの様に見えたかなど。

 

 彼女をさすその絆の中で作られた愛しい言葉こそが、彼女を今苦しめているなど。

 

 

 

――ねぇさん――

 

 

 

 未だ、誰にも分かるまい。

 

 

 

――続




流石に前編後編おまけ、で120kb近くあるので、ゆっくり修正しながら公開してきたいと思います。


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後編

 永琳が妹紅の家に顔を出すようになって、もう六日が過ぎた。

 あと一日。

 霖之助が永琳に弟子入りするため、妹紅を説得するようにと指定された期限が一週間。

 あと一日。

 六日が過ぎれば、あと一日しかありはしない。たったの24時間。

霖之助は自身の領域である、本が堆く積まれた自室の中央に座り込み、腕を組みながら悩んでいた。

 

 ――どうやってねえさんを説得するか。

 

 ここ数日、妹紅と顔を合わせれば場所も時間も関係なく、彼は懇願し続けている。その熱心な姿に、慧音が私も一緒にお願いしようか? 等と言ってくれたが、彼はその気持ちだけを受け取り断った。

 自身が成すべき事である。何より、これは彼を試す物だ。家族であっても、妹であっても、手を借りる訳には行かない。

 けれども、そう、けれども。

 

 この六日間、成果は一向に上がらず、思わしくない。霖之助がその話に触れた瞬間、妹紅は口を閉ざし距離を取ろうとする。何より、妹紅の不機嫌そうな顔は一層深く成って行き、それが霖之助は単純に怖い。何故不機嫌なのか、それが分からないから尚更霖之助は怖い。

 

 ――あぁ、ほんとうにどうしようか。

 

 子供らしくも無い深刻な顔で額に手をあて、彼は大きく息を吐き天井を仰ぎ見る。時間は余りに残り少なく、踏破すべき山は険しく高い。

 頂など地上からは望めぬほどに。しかも取り付く島も無いと言う、遭難プラス吹雪付きだ。

 厄介である。厄介ではあるが、説得しなければならない。

 霖之助にとって、その先にある知識の習得は必要な事なのだから。では何故そこまでして知識を求めるのかと問われれば、それは霖之助にも分からない。慧音の為、妹紅の為、自身の為と言う事もあるだろうが、彼はそれをよく理解しては居ない。居ないが、必要だと思っている事だけは理解している。

 

 だから彼は、それにも頭を悩ませる。

 欲しい物は壁の向こう、または山の上。しかし何故それを乗り越えようとするのか、そこに向かおうとするのか。彼はそれを確りと言葉に出来ないが故に、説得にも戸惑っているのが、現状である。

 

「あぁ……どうしようか」

 

 ぽつりと呟く彼の声にあわせて、襖が開く。この家の廊下はもうぼろぼろで、歩けばギシギシと五月蝿い筈なのだが、彼の耳には一切、襖を開けるまで音などしなかった。彼は少し驚き、このした方向――背に顔を向けた。

 

「霖之助」

 

 少しだけ開いた襖の向こうに、霖之助を覗き込む、彼の姉である少女の愛らしい顔がある。件の壁、または山である少女の顔が。感情の無い、少女の顔が。

 

「……ねぇさん? どうしたの?」

「……いいよ」

「え?」

 

 少女――妹紅がぽつりと零した言葉の意味が分からず、霖之助は無意識のうちに聞き返していた。

 妹紅はもう一度同じ言葉を口にする。

 

「いいよ、永琳の所に行っても」

 

 今度は、もう少し内容に触れて。

 そっぽを向いて、ぶっきらぼうに。霖之助が口を開き、感謝の言葉を紡ぐより先に、妹紅は襖を閉めて姿を消した。今度はギシギシと廊下を鳴らしながら。

 

「――ありがとう、ねえさん!」

 

 少し大きな声で、彼は言葉にする。

 その声が届く様にと。その言葉は、確かに廊下を歩く妹紅の耳に届いた。

 

「……」

 

 ただし、妹紅の心には届いて居なかった。

 

 

 

『はんぶんふたつ、えいえんひとつ』

 

 

 

 それから、時の流れは早かった。

 霖之助が永琳に弟子入りし、まず慧音の為にと医療関係の知識を学ぼうとしたが、その辺りで慧音が半獣の血を克服し始めた。これによって霖之助は薬学及び医学に興味を失い、永琳にそれ以外の知識を求めるようになった。

 

「つまり、この薬草の効能は」

「先生、これはなんでしょうか?」

「……霖之助」

「いや、その……こっちの方が気になるもので」

 

 威嚇するように見つめてくる永琳の、余りに物騒な眼にたじろぎながらも、霖之助は知的欲求を解消するべく、わがままに日々を過ごす。

 

『全てを欲しい』

 

 知識全てを欲しいと言ったのは、この少年である。だと言うのに、その少年は選り好みをするのだ。

 永琳でなくとも、これには少々頭に来るだろう。今日などは薬学の講義中である言うのに、彼は隣に置いてあった術具のカタログに目を奪われていた。

そんな霖之助の、おやつを前にした様な、少年らしい落ち着きの無さに、永琳は仕方ないかと諦めて苦笑をもらし、霖之助の質問に答える事にした。

 後で教えると言えばいいのだが、それではこの少年は動かない。常は受動的なのだが、霖之助は稀に驚くほど能動的になる。永琳に弟子入りを志願した時などもそうだ。

 こうなると、もう梃子でも動かない。

 

「それは術具の本よ」

「……じゅつ、ぐ? なんですか?」

 

 きょとんとした彼は、首をかしげながら永琳に再び問う。

 そこには普段の大人びた少年の姿などどこにも無く、あどけない子供の顔があった。本当に年相応な霖之助の姿に、永琳は少しだけ、今は彼の手の中に在るその本に感謝した。

 

 ――やっぱり、子供は子供らしくあるべきなのでしょうね。

 

「魔法、及び特殊な力を増幅、補佐する道具の総称よ。分類上錬金の世界に属するけれど、本当の"錬金"になるから、中世錬金術の様なまやかしの類ではないわ」

「……ふむ」

 

 霖之助少年は顎に手をあて、本を数頁捲り……

 

「……」

 

 それをパタンと閉じて机に置いた。

 

「それで、先生。少し質問があるんですが」

 

 興味が無い、と言う事だろう。その後彼が口にした質問とやらは、それに関係するような物ではなかった。永琳は移り気で、それでも貪欲に知識を貪る幼い生徒の姿に、やれやれと心の中だけでため息を吐いた。

 

 ――話題の飛び方は矯正すべきかもしれないわね、この子は。

 

 しかしその顔は、見守るような優しさの篭った物でしかない。わがままな生徒ではあるが、彼女自身は、それはそれで楽しんでいるのだろう。

 老成した女性が、未だ幼い少年の言葉に耳を傾けながら、時になるほどと頷き、時にそれは違うと首を横に振り、師弟としては少々おかしな時間は過ぎていった。

 いつものように。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 霖之助が、最近知り合ったてゐという少女の案内の下、帰りの道を歩きながら世間話や冗談を交え、もう案内も要らないという所でてゐと別れた頃だった。

 

「兄さん、おかえりなさい」

「あぁ、ただいま、慧音」

 

 そこに少女が一人、土で小さな山を作りながら待っていた。長く伏せていた為だろう。

 白い肌と、その年頃の少女にしては四肢が痩せている。しかしその表情は明るく、少し前まで常に彼女の顔を覆っていた影は全く無い。

 

 彼女は手を払い、何かを摘まんでから霖之助にとてとてと近づいていった。

 近寄ってきた慧音の頭を撫でながら、霖之助はいつも言っている事を今日も繰り返す。過保護な兄の顔を隠す事無く余すとこ無く、丸出しで。

 

「慧音、あまり一人で表に出ちゃあだめだよ」

「大丈夫だよ、母さんだっているじゃないか」

 

 慧音が指差した先には、妹紅の姿。慧音と霖之助のいる場所から、少し離れた場所にある自宅の縁側に腰掛けながら、妹紅はぼーっと空を見ていた。

 どこから見ても気の抜けた隙だらけの体だが、慧音に何事かあれば鬼神も真っ青な形相で突っ込んで来れるのだから、不思議な物である。そんな妹紅に、霖之助は歩み寄り声をかける。

 その姿は、先程の慧音の姿に良く似ていた。更にその後ろを、慧音が親鳥に続く雛鳥が如く追従する。

 二人で、とてとてと。

 

「ただいま、ねえさん」

「……ん、おかえり」

 

 自身に歩み寄ってくる二人の姿に、妹紅は少しだけ微笑みながら、軽く手を挙げ答える。

 

「母さん母さん」

「ん、何?」

「お山を作っていたら、土からこんなの出てきたよ」

 

 慧音は妹紅に報告する。

 右手にミミズを掴んだまま。

 

「……いや、慧音、戻してあげようね?」

「……かったら、だめなの?」

「それを!? ミミズを飼うの!?」

「だめなのかな?」

 

 慧音の指に尻尾らしき部分を摘ままれたミミズが、ぷらんぷらんと暴れる。若干引き気味な妹紅が、それは無理だからちゃんと元居た場所に戻しなさい、と言い聞かせる姿を、霖之助は声もなく笑いながら見つめていた。

 

 平和な世界だと、彼は思う。

 かつてあれ程半獣の血に苛まれ、一日を伏せたまま過ごす事すら在った少女。それが今はかくの如しだ。

 遊び相手が少ないためか、言葉遣いは若干少女らしからぬ物になってしまったが、霖之助も同じ様な境遇だったので余り気にならない。基準と言うべき世界に身を置いた事のない霖之助には、そも基準と言うものが分からないのだから。

 ただ、妹紅が『もうちょっと女の子らしい喋り方しようよ』と言うからには、少々違っているのだろうと想像できる程度だ。しかしそんな妹紅の言葉も、慧音に毎度毎度こう返される。

 

『兄さんと一緒がいい』

 

 妹紅母さん、へこんでしまう事七回、いじけてしまう事十回、不貞寝してしまう事十三回。

 実に散々な結果である。

 それでも事在れば健気に慧音女の子計画を邁進する妹紅の為にと、霖之助は妹紅の好きな一品を食事に出す。応援と言うよりは、慰めの為であるが。つまり妹紅がへこんでいじけて不貞寝する事は、霖之助の想定内と言う事だ。むしろ失敗するとしか信じていない。

 というか、もし慧音が女の子計画に乗った場合、霖之助がへこんでいじけて不貞寝する。あと一緒に洗濯嫌とか言われても、多分へこんでいじけて不貞寝する。もう一回くらい世界の全てを恨むかもしれない。

 

 平和な世界、平和な時間、平和な今だ。だから彼は怖いと思う。

 今が平和だからこそ、彼は怖い。楽しいから怖い。

 

 可能性という物がある。霖之助と同じ様な事態が、慧音にも起こる可能性がある。表に出るようになれば、当然人の目に付くだろう。

 この家に来た当初、家に篭りがちだった霖之助でさえ、人里の人間達は目敏く嗅ぎ出した。人里の異物への恐怖や拒否感、排除すべしと言うその姿勢は、まさに飢えた獣が如き執拗さとしか例えようがない。

 霖之助が知る限りでは、すでに数度、慧音は里の少年や大人に見られている。

 だから彼は怖いと思う。見られた以上、また彼ら人間は排除しようとするのではないかと。それこそ、今度はもっと大掛かりな、もっと暴力的な何かで。

 

 妖怪退治と言う札こそあれ、それもどこまで意味を持つか分かったものではない。元々口頭だけの約束であるし、人と言うのは騙す事に長けた存在だ。今は何もないからと言って、明日も何も無いとは言えない。

 事実、霖之助の日常は一度あっけなく瓦解している。だから怖い。

 彼は知っている。日常は壊れるものだと。良く理解している。

 

 あの恐怖が、いつか、いつか。

 幼い慧音の身の上にもう一度降り注ぐのかと思うと。

 幼い慧音が犠牲になるかも知れないと思うと。

 霖之助は恐怖に絡め取られ、身の全てを封じられる。この目の前にある、平和な三人だけの世界。それが奪われるかもしれないと思うと、そう思うと彼はもう無力に震える事しか出来ない。

 

 無力だからだ。何も無いからだ。

 力も、知恵も。何も少年は持っていないからだ。

 少女の兄では、ある。少女の弟では、ある。

 ただ、それだけだ。

 そんな言葉に、力も知恵も無い。本当に、ただそれだけの存在だ。

 

「大丈夫だって」

 

 霖之助の頭の上に、暖かい何かが置かれた。

 知らぬ間に俯いていた霖之助は、何事かと視界を正面に戻すと、そこには妹紅の顔があった。隣には、心配そうに霖之助をみつめる慧音の顔もある。

 

「私が……お姉ちゃんが、いるから」

 

 頭の上には、妹紅の手のひら。

 目の前には、妹紅の笑顔。

 それだけで、霖之助の内に巣食っていた恐怖は淡い朝霧の様に霧散して行く。恐怖が完全に消えた後、霖之助の心の空白に入って来たのは、無力な自分をなじる、彼自身への怒りだった。

 彼は再び俯いて、妹紅に撫でられるがままになる。俯いたが故に、霖之助には良く見えていなかった。そんな霖之助を見つめる妹紅の、微笑んでいる筈のその瞳が、悲しげに曇っていた事に。

 

 今彼を撫でるその手のひらの温もりが、安らぎを与える物だとしても。

 その人自身までもが安らかにあるかどうか。

 霖之助はやはり、まだ無知な子供に過ぎない。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 昼食の最中、里から人がやって来た。

 慌ててやって来たのだろう、支離滅裂な言葉をただ叫ぶだけのその若い男に、霖之助は水を出した。それを一気に飲み干し、少しは落ち着いたのか。若い男は少々居心地の悪そうな態度で、それでも下手に出て妹紅に語りだした。

 

 ――妖怪が、三匹出た。

 

 妹紅はそれを聞くと同時に腰を挙げ、慧音と霖之助に留守番を頼み出て行く。若い男に案内を頼んで。

 

 霖之助と慧音は心配であったが、これも里との約束であるので何も口にしなかった。ただ妹紅の言葉に頷くだけである。

 妹紅が居なくなった後、霖之助は夕食の仕込を始め、慧音は居間で霖之助のお下がりである本を読む。ぺたぺらと本を捲っても、その内容は頭に入ってこない。

 慧音が今読んでいる本は絵本のような物で、最近霖之助が永琳から渡される難しい物ではない。聡明な少女が、それを読めない訳などないのだが、どうしても本を読む事が出来なかった。慧音は本を閉じ、ほんやりと中空を眺める。胸の中には、先程ここにやって来た若い男の顔が一つ浮かんだ。

 

 三人――妹紅と霖之助と慧音を、一瞬気味悪そうな顔で見た姿が。

 

 霖之助が慧音に、今夜は何が食べたいか、と聞きに来るまで。その姿が脳裏から消える事はなかった。

 

 少女もまた、何かを知らねば成らない。何かと言う、沢山を。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……」

「あー……んー……むー……」

「……おそいね、母さん」

「あぁ、そうだね……慧音、先にご飯を食べてても」

「いっしょに食べる」

 

 首を横に強く振って言う慧音に、霖之助は困った顔をした。慧音と霖之助の前には、ちゃぶ台が一つ。そこには霖之助の作った夕食が並んでいた。冷め切った夕食が。

 

 窓から見える空はもう暗く、星が瞬き月が顔を覗かせている。妹紅が里の人間に連れられ、妖怪退治に出たのが昼間。

 何時もならとっくに帰ってきて、三人一緒に夕食を食べ、慧音と妹紅がお風呂で汗を流している頃だ。なのに妹紅は戻って来ない。

 これが霖之助一人なら、人里が怖くとも降りてどうなったのかと誰かを捕まえて聞けるのだが、傍には慧音が居る。人里には勿論連れて行けないし、ここで一人にするには危なすぎる。

 永琳に助けを求めようにも、その住いである永遠亭までは、彼一人では物理的に辿り着けない。どうしようかと霖之助が悶々としていると、扉が開いた。反射的に霖之助は、慧音を自身の後ろに隠し、守るようにして扉を見た。

 

「あ、驚かせた? ごめんごめん」

 

 そこには妹紅の姿。片手を軽く上げてぺこぺこと頭を下げているのは、謝罪の意だろう。

 

「母さん、おそいよ!」

「あー……ごめんごめん」

 

 飛びつく様に――というか本当に飛びついて来た慧音を抱きとめ、妹紅はもう一度謝った。少し、笑いながら。妹紅は慧音の頭を撫でながら、霖之助を見る。先程の少しだけの笑顔を消して、すまなそうに。

 

「ごめんね、霖之助も」

「……」

 

 そんな顔を見たくはなかった。

 霖之助は、そんな顔を見たくなかった。姉のそんな顔を、見たくなかった。

 

 妖怪退治。人里との等価交換。約束。

 守ると言うこと、守られるということ。それらは、全て霖之助と慧音の為だ。

 なのに、妹紅が一番被害を受けている。本来なら、何一つ苦労など背負い込まなくて良い彼女が、だ。それなら、自分が妖怪退治をすれば良い。

 霖之助はそう思う。けれども、それは不可能だ。

 彼にはそんな腕力などなく、特別な力も無い。半分こそ妖怪ではあるが、もう半分は人間である。どうやら霖之助は人間部分の方が多くを占めているらしく、そういった外部へ出る能力は無い。永琳の下で用途不明な道具に触れだした事で判然とした彼の能力は、完全に非戦闘的な物だ。

それは自身が前に出る事のできる力ではない。

 守られてばかりで、守る事なんて何一つ出来やしない。その為に知識を得ようとしているのに、その知識さえまだ拙い。挙句――

 

 ――あぁ、そうだ。そうじゃないか。

 

 彼は自ら失点を稼いだ。朝の早くから永琳の下へ行き、彼は何かを見た筈だ。

 見た筈であるのに、このざまだ。選り好みなどをした挙句が、このざまだ。

 恩人に、家族に。こんな顔をさせている。

 全ての重荷を、一人だけに持たせている。

 

 ――僕は、僕は。

 

 力が無いなら、助けに成ればいい。助ける力さえないから、知識を求めた。その知識で、形となる何かを作れば良い。

 永琳の講義の際、興味も無く閉じた本が、霖之助の思考を支配した。

 ルーツ。原点。

 そう呼ばれる根源が、"藤原霖之助"の中に楔となって打ち込まれた。全てはただ、その為に。

 

 ――姉さん。

 

 撃鉄は完全に落された。解き放たれた弾丸は、軌跡を描いて走るのみ。

 ただ、真っ直ぐに。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 歳月は流れ、時は人の身に降り注ぐ。

 里の子供達は大人になり、大人達は老いて行く。そして当然、竹林にあるそのあばら家に住まう者達にも。正確には、二人にも。

 

 男が一人、あばら家の奥の一室で何かをしていた。

 年の頃は20前辺りだろう。我の強そうな金の瞳を細め、男は自身の右手にある何かを見つめていた。黒と青を基調とした、少々奇抜にして奇妙な服を着た、ややくすんだ銀色の髪を持つ男が。

「むぅ」

 

 ――おかしいな……理論上なら、これでどうにかなる筈なんだが。いや、まだ僕が知らない何かがあるだけなのか……理論上の耐久値なんて物は、そう信じられるものではないと先生も言ってたが、それにして余りに

 

「脆過ぎるな……」

「何がだい、兄さん?」

「あぁ、慧音か。おかえり」

「ただいま、兄さん」

 

 突如背後から掛けられた声にも、男は慌てる事無く返事を返した。

 しかも振り返る素振りさえない。男にその必要は無かったからだ。

 男にとってその声は聞き慣れたもので、それこそ四六時中聞いている声なのだから、今更振り返って確かめる必要など無い。廊下を歩く音が聞こえない事は良くあることだし、襖も同様だ。

 何より、彼は物事に夢中になると外の気配を一切感知しなくなる。完全に自身の世界に埋没してしまうのだ。

 

「それで、何が脆いのかな、兄さん」

「ん、どうにもね、これが」

 

 背後から続く声に、兄さんと呼ばれた男は右手に在るそれを少しだけ振りながら返事をする。普段は道具をぞんざいに扱う事のないそんな兄の姿に、慧音は少し驚いたが、それがなんであるか理解しまた納得した。

 

「また、失敗作に終わりそうでね。先生に笑われる。……これも、まただ」

「その前に、母さんに笑われるよ」

「あぁ、姉さんに笑われるね。それも、まただ」

 

 何度も笑われた。未完成品であるそれを妹紅はよく笑った。不恰好だと、不器用だと。

 楽しそうに笑っていた妹紅の顔を思い出し、男は悔しさよりも苦笑を浮かべた。笑われた時は必死になって反論していたと言うのに、今はもうそれが笑い話だ。

 

 ――結局、姉さんの笑顔には敵わないという事だな。

 

 男はため息を付きながら、背後に振り返る。

 

 そこには年若い少女が一人。青みがかった銀の長い髪を持つ、独特な帽子を被った、見目麗しい少女である。そんな少女――慧音の姿を見て、男は、霖之助は一人思う。

 綺麗になったものだ、と。

 

 かつての彼女を知る数少ない者として、彼は心からそう思った。

 体が回復してからと言うもの、慧音はすくすくと育ち、今ではもう母親よりも背が高い。体も女性らしくふっくらとし始め、兄である霖之助から見ても、匂い立つような女性らしい魅力を内包しつつある。それで居て清楚な、冬に咲く花のような冷たさを持っているのだから、これはもう大変な事である。

 実際、大変だった。

 成長途中だった頃でさえ、慧音が家の傍で遊んでいると若い少年達がたむろした。遠くから眺めているだけだったが、これには霖之助が神経をすり減らした。何か良からぬ事をしようとしているのではないかと邪推し、常に監視の目を光らせていたのである。

 確かにその様な少年も居ただろうが、慧音が真っ当な人間ではなく、妖怪だと親から聞いている以上、それは美しい少女を鑑賞するだけの事だった。

 

 ――まぁ、それは良い。それは。

 

 そう、それはまだそれで良かった。

 結局実害など全く無く、ただ霖之助の胃がストレスで荒れる程度で終わったのだから。

 問題はむしろその後である。慧音の身長が霖之助に続き、母親――妹紅を超えた。

 それは良い。そこは妹紅も喜んだ。

 複雑そうな顔はしていたが、子の成長を悲しむ親など居ない。ましてや、昔の慧音は病弱だったのだから、元気に育つその姿は、妹紅にとって確かな喜びとなった事だろう。もう一度記す。

 問題は、そこからだった。

 

 ある日の事である。

 食事が終わり、霖之助が食器を洗いながら、先に風呂に入った妹紅と慧音が出てくるのを待っていた時の事だ。

 

『おぉおおおおおおおおおおおおおおおおぅ!?』

『うわわわわわわわわわわわわわわわわわぅ!?』

 

 そんな大音量かつエコーのきいた絶叫が、突如静かな竹林を揺らした。震撼させたと言っても良い。兎に角静寂は劈く奇声によって切り裂かれたのだ。

 何事かと洗っていた食器を置き、背後に振り返った霖之助の視界に飛び込んできたのは、

 

『霖之助! 霖之助!!』

 

 ほぼ半裸の姿で彼の名を呼ぶ、姉だった。

 彼女は手をにぎにぎさせながら、霖之助にこう言った。大きな声で、こう言った。

 

『慧音のおっぱい、私より大きくなってる!!』

 

 あとからやって来た、タオルケット一枚羽織っただけの慧音が霖之助に抱きつきながら泣く中で、彼は慧音の背を軽くとんとんと叩きながら、ただただ思ったのだ。

 

 ――駄目だ、この姉。

 

 それから、第一次慧音VS妹紅おっぱい大戦が始まった。

 字面としては最悪だが、こうとしか記す事など出来やしない。本当に字面最悪だが。

 

 大戦等と呼ぶ以上、それは戦争である。

 互いが互いを攻撃しあう物だが、この場合中立の霖之助が最も被害を受けた。形が良いのがどうとか、大きいのがどうとか、手のひらサイズがきっと霖之助の好みだとか、背中からくっついた時にちょっとむにゅってするくらいで霖之助は良いよねとか、主に妹紅の爆撃が霖之助を執拗に焼き払い続けた。

 

 慧音は偶に、真っ赤な顔になりながら

 

『そんな事無い……無いよね、兄さん?』

 

 と呟く程度だったが、それはそれで霖之助を苦しめた。

 あい続く焼き討ちとえらくピンポイントな絨毯爆撃に満身創痍となった彼は、衛生兵を求めて永遠亭に顔を出したが、衛生兵たる彼の先生は、ただ笑いながらお大事に、としか言ってくれなかった。味方など、どこにも居なかったのである。

 

 孤立無援。

 そのまま霖之助の胃に穴があくまで続けられるかと思われたチンケな、しかし霖之助にとってはまさに生命の掛かった戦争は、思ったよりも早く終息へと向かった。いがみ合おうと噛み合おうと、それはやはり家族の事である。近しいからこそ消えない恨みもあれば、近しいからこそ消える諍いも在る。家族の絆万歳。

 ようはその一言で終わる。

 

これでようやく平穏な日々が戻ってくると思われたが、その数ヵ月後。

 

『おぉおおおおおおおおおおおおおおおおぅぅ!?』

『うわわわわわわわわわわわわわわわわわぅぅ!?』

 

 そんな大音量かつエコーのきいた絶叫が、突如静かな竹林を再び揺らした。震撼させたと言っても良い。兎に角静寂は劈く奇声によって切り裂かれたのだ。

 嫌な予感をひしひしと感じつつも、現実は変わりはしないと覚悟し、洗っていた金ダライを手にしたまま背後へ振り返った霖之助の視界に飛び込んできたのは、

 

『霖之助! 霖之助!!』

 

 ほぼ生まれたままの姿で彼の名を呼ぶ、馬鹿姉だった。

 

 普段はそうでもないのに、家族の事となると頭が途端足りなくる彼女は、手をにぎにぎさせながら、霖之助にこう言った。大きな声で、こう言った。でっかい声で、こう言った。

 

『慧音のお尻、ふっくらしてきた!!』

 

 彼は何も返事せず、そのまま妹紅の頭へと手にあった金ダライを投げつけた。

 妹紅が倒れた所へ、真っ赤な顔で涙目の慧音による波状攻撃(頭突き)が入ったのは、言うまでも無い。これが後に藤原さんちだけで脈々と語り続けられる事と成った、第二次慧音VS妹紅おっぱい大戦である。おっぱい全く関係ないけども。

 

 兎に角、慧音の成長には色々とあった。その度に霖之助の生命が風前の灯扱いになり、そのうち藤原さんとこ限定絶滅危惧種としてレッドデータブックに記載される事となったのである。

 不憫にも程がある。

 それほどに、霖之助の命と胃と種としての存在は脅かされ続けていた。中立の筈なのに。

 

 ――あぁ、よく生き残れたものだな、僕。

 

 慧音の成長以上に、自身の身がここまでそれなりに無事育てれたと言う奇跡に涙したとしても、誰も彼を薄情者と責めまい。

 

「ところで……姉さんは?」

 

 気を取り直し、霖之助は右手に在るそれを畳の上に置きながら、慧音に聞いた。姿の見えない、この家の一応の家長である姉の所在を。

 

「ん……母さんなら、今村長と話をしているよ」

「……そうか」

 

 昔なら、それが怖かった。

 幾ら力が在ろうと、人と言うのはそれを覆す術をどこかから持ってくる生き物だ。ましてや、妹紅には人に恐れられるだけの力が在る。妖怪をたった一人で退治するだけの、人の枠から超えた力が。罠を仕組み、排除しようとする可能性は常にあったのだ。が、全くと言う事はないが、昔ほど怖くは無い。

 この幻想郷に、変化の時が到来しつつあるからだ。

 

 何時頃からか、その辺りは霖之助にも定かではないのだが、人の意識の中に変化が生じ始めた。それは些細な、今だ小さな蕾の様に頼りない物では在るが、芽吹く可能性を秘めた芽である。

切欠は、様々に。妹紅が妖怪退治をそれなりに引き受けている事、それを慧音が手伝い、また子供達に優しく接している事。妹紅一人だけだった時には、恐怖や不信感を与える事が多かったが、どうやら慧音が居るとそれらが少々緩和されるらしい。

 妹紅はどちらかと言うと現在の人を嫌っており、ぶっきらぼうに接するが、慧音にはそれが無い。

 

 元々人間であり、里の人間だ。彼らに対して、攻撃的に徹する事など、慧音に出来る筈も無い。何より、彼女達は見目麗しくそれぞれが異なった魅力を持つ女性である。しかも、慧音は人当たりが良い。そんな慧音を育てたのは、妹紅なのだ。殆ど霖之助が面倒を見たとは言え、やはり妹紅が居てこそのこの家族である。

 妖怪退治が終われば自分の事よりも慧音を心配し、怪我は無いか、どこか痛くないかと、里の人間達に結果を報告している最中であっても母親丸出しの顔でわたわたおたおたする妹紅を見れば、人も少々態度を軟化せざるを得ない。最近では苦笑さえ浮かべていると言う。

 子を持つ親達や里の若い者を中心に、この一家に対する見方が良い方向に向き出すには、十分な理由だった。例え二人の見た目が、母子逆転していようとも。

 

「怪我はしなかったか、慧音?」

「大丈夫だよ、私だってそれなりに戦えるんだから」

「なら良いんだが……僕はやはり、心配だよ」

「心配性だな、兄さんは」

「もし慧音が僕の立場だったら、同じように心配するだろうさ」

「そうだね」

 

 そして、霖之助も心配する。当たり前の事だ。

 力の優劣の問題ではない。親しい者が命を懸けた戦いの場へと向かうのだから、それを心配しない筈がない。

 

 慧音が妖怪退治を手伝うと言った際、霖之助も妹紅も反対した。危ない上に、慧音は里の子供で顔が知られている。

 成長したとは言え、彼女を事を覚えている者が慧音だと気付く可能性が大いにあるからと。慧音はそれら一つ一つを、反論した。かつて自身を苦しめた血を制御して以来、力や能力は人間とは比べ物にならないほど上がっている事、里に住んでいた頃は、肌はもっと黒く髪も黒く瞳の色さえ違っていたという事。

 何より、一人で妖怪退治を請け負う母の力になりたいという事。慧音はそれらを、霖之助と妹紅に激しく、静かに、瞳に涙を溜めながら訴えた。泣かれたとて、甘い顔の出来る事ではない。

 それでも駄目だと言い続ける妹紅を最後まで説得したのは、霖之助だった。

 妹紅の為というその気持ちが、霖之助には痛いほど理解できた。自身がもし、なにがしかの力や能力を有していたのならば、霖之助も慧音と同じ事を言ったに違いない。家族のため、何かしたいと思う心は、間違いではないのだから。

 

『姉さんの力になりたいという慧音の気持ちを、姉さん。どうか分かってやって欲しい』

 

 真っ直ぐに妹紅を見つめたまま、静かに放たれたこの言葉が、結局妹紅の首を縦に振らせた。慧音は喜び、霖之助も複雑な気持ちではあったが、喜んだ。妹紅もまたそんな二人の気持ちが嬉しくもあり、霖之助と同じ様に、複雑な顔で苦笑していた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「姉さんは村長と話し合い、か……これは少し遅くなるかな?」

 

 場所を霖之助の部屋から居間へと移して、二人は会話を続けた。二人の好きな、熱めのお茶を飲みながら。

 

「だろうね、普段は母さんに用事なんてあっても、人任せな人だし……態々直接、と言う以上は長いと思うよ」

「なら、夕食は少し遅めだな」

「そうなるね……で、結局あれは何が悪かったの、兄さん?」

 

 慧音は霖之助が脆いと酷評してた物が気になるらしく、湯飲みを片手にそう聞いた。

 

「基調とするべき金属が、僕じゃあまだ手に入られる物ではなくてね。代わりに合成した鉄で作ったんだが……使用回数は恐らく6回ほど、しかも自身の火で溶けそうだ」

「火で解ける……なるほど、兄さんはまだ母さん用の物を作っている、と」

 

 やれやれと肩をすくめている自分を、少々呆れた顔で眺める慧音に何か良くない物を感じたのだろう。

 

「初志貫徹、最初に作ろうとした物を、今も求めているだけだ」

 

 お茶を飲む振りをしながら霖之助は視線を逸らしそう言った。言い訳っぽいのはもう慧音も諦めている。正直に言えば、言わせて貰えば。

 

「私も、何か兄さんからの物が欲しいけれどね」

 

そういう事になる。

 

「別に姉さんと慧音に優劣や順番なんて設けちゃいない。けれど、これは僕の最初の目標でもあるんだ」

 

霖之助はあまりに明け透けな慧音の言葉に少々たじろぎながら返す。

 そう、それは目標だ。彼自身が彼のために掲げた目標だ。最初の道具は、まず彼女の為にと。その為だけに、彼は十年近い時を学び費やした。

 だと言うのに、今だ完成には程遠い。

 

 湯飲みに残っていた熱いお茶を一気に飲み干し、霖之助は大きく息を吐いた。それは篭った熱を逃がすようにも、不甲斐ない自身に対する失望のため息にも見えた。

 

 ――十年、十年だ。それでも、僕にはあの程度のものしか作れやしない。

 

 永琳に弟子入りしてからの十年、正確には術具を知って以来の八年。彼はそれに関する知識だけを学び、ただそれを作り上げる為だけに、文字通り寝食さえ忘れて没頭した。

 時に慧音や妹紅が無理矢理寝かせるほどに。それでも、まだ彼は納得の行く物が作れないで居た。目標は常に目の前にあり、助けたい家族が二人、常に目の前に居るのに。自分一人だけが、未だにこうして未熟なままでいる。

 

「兄さん、今日の夕食は私が作るよ」

 

 そんな霖之助を見かねたのだろう。慧音がそう提案した。

 

「いや、今日は僕の番だし……」

「良いから、兄さんは母さんの為に、早くあれを完成させて。で、次は私のを作ってよ」

 

 微笑みながらそんな事を言う慧音に、霖之助は苦笑しながら、うなじ辺りをぽりぽりと掻いて応えた。

 

「……今の僕は、まだまだ未熟だ。悔しいけれど、良い物なんて作れないぞ?」

「それでも、兄さんが作ってくれた物が良いんだよ」

 

 ――私も、母さんも。

 

 霖之助は自室へ戻り、また作業を再開する。慧音は台所へ行って、割烹着と三角巾を付けて下ごしらえを始める。

 平和な日だった。二人には平和な、常の日だった。

 二人、だけは。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「すまない……そして、ありがとう」

 

 妹紅は、目の前にいるその老人が嫌いだった。

 個人的な感情をもっと突き詰めれば、憎んでいたとさえ言って良い。

 だが、今その憎んでいた老人が、妹紅の前に膝を着き、頭を下げている。土下座だ。

 

 落ち着いた一室で、妹紅とその老人は対座していた。その老人は、かつて妹紅の家に霖之助を渡せと、若者達を連れてやってきた老人である。十年の歳月のためか、あの頃よりも老けていたが、確かにあの時の老人だった。

 

 話があると言われた際、妹紅は良い顔をしなかった。なにせ出会いが出会いである。良い顔など出来よう筈もない。

 奥の一室に案内され、毒殺でもされるのかと思ったが、特に気にはしなかった。約束が保護にされるのなら、もうあとは妹紅が暴れるだけだ。いざとなれば、永琳や輝夜の様に、完全に隠れ住む様にすれば良い。何より、毒程度でどうこうなる体ではない。確かに一度は死ぬだろうが、それだけだ。苦しみこそすれ、そのまま本当に死んでしまう事はない。

 今の慧音と霖之助なら、里の人間に襲撃されても逃げ延びる事もできるだろうし、それだけの時間があれば、生き返った自分と合流して、反撃に出る機会するあるだろうと、妹紅は冷静に考えていた。

 

 お互いが暗い一室で対座し、さぁ来いと構えた時。その老人は頭を下げた。

 

 何をされたのか、何があったのか。妹紅は頭が真っ白になった。

 なるほど、これが罠だとしたら相当優秀な罠だ。何せ思考能力の一切を一瞬で刈り取り、混乱させるに十分だったのだから。

 

 老人は、頭を下げたまま言葉を続ける。

 

「……最近、妖怪退治を手伝っているあの子は……あの子は――」

 

 それは、本当に優秀な罠だった。昔、どうにか塞いだ傷口を開かせるには。

 十分すぎる罠だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……あ」

 

 気付いたら、眠っていた。どうやら、妹紅の帰りを待っている内に眠ってしまったらしい。

 目をこすり、辺りを見回す。するとちゃぶ台に突っ伏して眠っている慧音の姿が見えた。

 霖之助は上着を一枚脱ぎ、それを慧音に被せる。少し肌寒かったが、そのまま霖之助は立ち上がり、玄関へと向かう。妹紅の靴は見当たらない。どうやらまだ、帰ってきていないらしい。

 

 ――遅すぎるな。

 

 心配になった霖之助は、極力音を立てないように自分の靴をはき、そのまま表へと出て――

 

 妹紅を見つけた。

 

 竹林の中にある開けた場所で、彼女はただ立っている。何もせず、星空を見上げながら。

 

「姉さん」

 

 霖之助は、その姿が今にも消えてしまいそうに見えて、声をかけた。無意識のうちに。余りにそれが恐ろしくて。

 霖之助の声が聞こえたのだろう。妹紅はゆっくりと霖之助に振り返った。

 

「……あぁ、霖之助」

 

 どこか、暗い瞳だった。

 そんな色が妹紅の瞳に宿った事など、霖之助は一緒に暮らすようになって以来、今まで一度も見た事が無い。

 

 彼は胸の底から込みあがって来る焦燥に鞭打たれ、妹紅へと駆け寄った。

 

「どうしたんだい、姉さん。遅い上に……こんなところで星なんて見て」

「ん……まぁ、ね」

 

 妹紅は再び、星空を見上げる。辺りには虫の声と風の音だけ。

 それは夜の竹林の、いつもの顔でしかない。だと言うのに、霖之助には何か足りないような気がしてならなかった。それは暖かさや温もりと言った物だったのかもしれない。

 少なくとも、彼ら三人の家族が平穏に過ごした竹林は、ただ寒いだけの物ではなかった筈だ。

 

 だから霖之助は、話しかける。足りないのは、多分目の前に居る彼女のが持つ何かだと信じて。

 

「……それで、村長との話は?」

「……ん、まぁ、問題なかったよ」

 

 返ってきた言葉に、霖之助は嘘だと思った。なら、そのまま家に入ればいい。

 なのに彼女は、今もこうして星空なんて眺めている。

 どちらかと言えば騒々しい彼女の趣味ではない。寒い夜に一人静か、どこか儚げに星を眺めるなど、彼女らしい物ではない。

 

「姉さん……何かあった?」

 

 妹紅の肩が、小さく震えた。

 

「……いつもは鈍感なのに、鋭いなぁ……霖之助」

 

 錆付いた、掠れたか細い声が夜に溶けていく。

 

「家族の事だからね」

「家族、かぁ」

「姉さん?」

 

 本当に今夜の彼女はらしくない。錆びた声で、か細い声で、儚い声で言葉を紡ぐなど、霖之助の記憶の中にあるどの彼女とも重なりはしない。

 あえて近い姿があるとしたら、永琳の弟子入りの際に見せた妹紅の不機嫌そうな顔くらいだ。それが正解に一番近いのだと、彼は気付けない。彼には分からない事なのだから、理解など出来よう筈もないのだ。

 

 妹紅は顔を上に向けたまま、ポケットに手を入れたまま、口を開く。

 まるで今から、神へ懺悔するかの用に、静かな顔で、瞳を閉じて。

 

「慧音の両親、死んだって」

「……え?」

 

 言葉の意味が、霖之助には分からない。

 

「もう何年も前に、流行り病で二人とも……だって」

「……」

 

 時間をかけて、その言葉は霖之助の胸に浸透し始めた。

 慧音の両親――家族がすでに他界している。

 

 ――けれども、もう慧音は家族は自分達で……それでも、慧音はきっと悲しむだろう……

 

「村長とこの、次男坊だったって。長男夫妻に子供いないから、慧音は自分の孫なんだって」

「……」

「あれだけ姿が変わっててさ、実際、今まで誰も気付かなかったのに、分かったって。あぁ、孫だって」

 

 凄いね、と妹紅の口から零された言葉は、弱々しい物だった。

 

「村長の息子って体面もあって、慧音を殺して自分達も死のうとしてたって。でも、私達の事聞いて、そうなったって」

 

 朗々と、静々と、言葉は奏で続けられる。星だけが瞬く夜へ献じられる詩の如く。

 

「私達は……なんなんだろうね、霖之助」

 

 家族である。ただ、血は繋がっていない。

 縁だけで紡がれた偽者の家族である。

 彼女はそれは、思い知った。再び、思い知らされた。

 あれ程嫌い、一度は排除しようとまでしてきた相手に対し、頭を下げた老人の姿を。育ててくれて有難うと、そう涙を流しながら言う老人の姿を。

 慧音を泣きながら預け、里へ帰っていった今は亡き若い夫婦を。もう会うなと言われて尚、ありがとうと泣きながら口にした若い夫妻の姿を。

 

 それらを否定する事は出来ない。

 

 なら、否定できないのならば、それは家族だ。血によって繋がれた本当の慧音の家族だ。

 

だったら、彼女は――妹紅はどこに居る?

 

 彼らの家族と言う立ち位置を否定できない以上、彼女は偽者だ。母だと名乗っても、今はどうだ。

 

 彼女は振り返った。言葉もなく、ただ黙っている霖之助の顔を見上げる。そう、見上げる。

 見上げなければ成らない。

 これがもし永琳なら、今は未だ霖之助と同じくらいだ。彼女は見上げなければならない。

 霖之助も、慧音も。

 自分の子供たちを、その幼い姿のまま。永遠に幼いその姿のまま、偽者の家族でなければならない。

 

 悲しかった、苦しかった。

 悔しくもあった。

 恥も外聞も捨てて泣けば。泣ければ。

 胸の中に巣食う薄靄も消えうせるだろうが、彼女にはそれさえ出来やしない。

 

 偽者であっても、立ち位置の判然としない存在であっても。彼女自身は慧音の母であり、霖之助の姉だからだ。自らが望んで求めたその立場が、今は彼女に鋭いナイフの切っ先を向けている。

 

 誰でもない、何でもない、しかし親と姉であるという、その永遠に成長しない躯に。

 優しくは無くとも、霖之助と慧音にとってはこれ以上ない優しい心に。

 

 相応の身であれば良かったのだろう。永琳の如く、女性として母として、姉として。そう誰彼構わず断言出来るような姿であれば良かった。

 彼女は違う。

 小さな体と、長い時を生きた心しかない。心に母性はあれど、体に母性は無い。

 いつか慧音と霖之助が老い、死を前にしても。妹紅はそのまま、ただこの幼いと言っても過言ではない姿のまま、二人を看取る事しか出来やしない。

 覚悟が無かった訳ではない。だが、それでも覚悟は足りなかった。

 

 ただ、家族と言うその場所を奪われた程度でこれほどに苦しむのだから、

 やはり覚悟は足りていなかった。

 

 振り返り、霖之助を見上げる妹紅は寒いのか。ただ震えたまま、何かを耐えるように自分の肩を抱くだけだった。

 

 真っ直ぐに悲しい瞳で見つめられる霖之助にとって、それはどうにも出来かねる状態だった。寒いだろうと言うことはわかる。悲しいのだろうと言うこともわかる。

 しかし、まっすぐに向けられた瞳の奥には、彼では理解できない悲しみ以外の何かが揺らめいてるのだ。恐らく、寒いから家に戻ろうと言っても、この状態では聞く事は無いだろう。

 言葉も無く、ただ困ったままで立ち尽くす霖之助だったが、何か今出来る事は無いかと考え――

 

 思いついたそれが、最善だと思えた。

 

 家族云々の話はなんとなく理解できるが、妹紅ははっきりと口に出していない。神ならぬその身では、足りぬ言葉だけで全てを知る事など不可能だ。不可能であるが、和らげる事は出来るのではないか。

 

「姉さん、少し待っていてくれないか」

 

 返事も聞かず、彼は家へと走ってゆく。普段は面倒くさそうに歩く彼が、だ。

 

 ――失敗作では在るが、丁度いい物が出来上がったばかりだ。

 

 と。

 

 数分後、再び空を眺めている妹紅に、霖之助はそれを差し出した。

 

「……これは?」

 

 差し出された、少し歪で、少々大きめのそれを見て、妹紅は霖之助に問うた。

 

「姉さん用の、ミニ八卦炉……かな、一応。まぁ、ミニではないかも知れないけれど」

 

 それは確かに、ミニと呼べるほど小さい物ではなかった。

 

「数回も全力で使えば、融解しかねない紛い物ではあるけれど、少し温まる程度なら問題ないよ」

 

 うなじをぽりぽりと掻きながら、そっぽを向いて霖之助は答える。

 頬を僅かに朱に染めて。

 妹紅はもう一度、差し出されたミニ八卦炉を見て……手に取った。それは少し暖かく、手のひらを通じてゆっくりと体に暖かさを伝えていく。私は寒かったのだな、と妹紅はようやっと気が付いた。

 

 よく知っている。手の中にあるそれを、彼女は知っている。

 霖之助が部屋に篭って作っている、不恰好な道具だ。それをからかった事もあった。少し馬鹿にした事もあった。

 その度霖之助は、いつもの無愛想な顔を捨て、必死に反論するのだ。それが楽しくて、何度でもからかった。

 

 そんな道具が、今自身に温もりを与えている。

 十年近くもの長い間、霖之助が作り続けた時間がある。

 

「それは火の力もね、補助する能力もあるんだ。だから作ってきたんだけど……難しいな、やっぱり」

 

 まだそっぽを向いたまま、恥ずかしそうに霖之助は言う。

 

「……火の、力?」

「ん、まぁ……うん」

 

 つまりは、そういう事だ。長い年月を、本当に長い年月を、彼はその為だけに費やした。

 

「それが、姉さんの力になればな……って、まぁ、そんなところだよ」

 

 その為だけに。ただその為だけに。

 

 確かな暖かさが彼女を包む。自身が持つ、火の力とはまた違った熱を持った何かが、優しく彼女を包み込む。

 そっぽを向いていた霖之助の顔が、歪みだした。視界全てがぼやけだした。

 だから彼女は、そこに訴える。

 

「霖之助」

「……何、姉さん」

 

 そこに自分の居場所は在るのかと。

 

「霖之助」

「……だから、なんだい姉さん」

 

 そこに居て良いのかと。

 

「霖之助」

「…………姉さん?」

 

 そこなら、いつか本当の姉に――

 

「……慧音は、私をまだ……母さんって呼んでくれるかな……」

「? 何を当たり前の事を。慧音の母さんは、姉さんじゃないか。だいたいね、姉さん。慧音はあぁ見えて結構姉さんに似てる部分が――」

 

 本当の母になれるのかと。痛みも無く、それを誇れるようになれるのかと。

 

 返ってきた答えは、的外れなもので、妹紅の今欲しい答えではなかった。それでも、その答えには霖之助らしさがあった。共に時間を過ごした、弟の温もりが在った。

 だから、妹紅は泣きながら笑う。ぼやけた視界の中で、なんで泣いているんだと慌てだした弟を見つめて。彼女は泣いて笑って、霖之助に抱きつく。それはまるで、いつかのように。

 今はもう、霖之助の背が高くなり、最初に抱きしめたあの頃とは違うとしても。

 

 そこから始まった二人は、三人に増えても変わりはしない。

 

 とても単純な世界で、単純な絆だ。

 また今日のように解れ、昔のように疑ってしまうだろう。それはどうあっても、偽者のか細い絆だからだ。

 けれどそれでも。

 過ごした時がもう戻る事が無い様に。積み重ねた絆は、決して消えやしないのだ。

 

 どれだけ弱々しく、か細くとも。

 霖之助の背に回された、妹紅の小さな手のひらにぎゅっと握り締められる、不細工で、不恰好なそれは。なくなったりはしない。

 

 

 

――姉さん――

 

 

 

 永遠に。

 

 

 

――了




此処から先、妄想的後日談です。
色々抜けてても、気にしない方向で。
そんな方向で。









今日のなにか
夏の陽が、空高くあった。
風はぬるく、地面は呆れ返るほどに熱く、ただ歩くだけで汗が額に浮かぶ。
そんなある日、森近霖之助は博霊神社へ顔を出していた。
手には少し大きめの酒樽と、つまみ少々。
それを見て、驚く者もあればあれは誰だと首を傾げる者もあった。
基本、彼はここへやってくる事が無い。
まして今日のような――
「香霖!」
「あぁ、魔理沙、君もやっぱり居たのか」
「そりゃ居るだろ……けど、珍しいよな。香霖が宴会に出るなんて」
宴会に顔を出す事は、まず無い。
彼は魔理沙と話しながら、顔をきょろきょろとさせる。
「? 香霖、誰か探してるのか?」
「まぁね。少し顔を出せと怒られたんで、態々酒まで持参して来た次第だよ」
と、言い終わると彼は歩き出した。
どうやら目当ての人物を探し当てたらしい。
それに魔理沙は当然のようについて行き、座っていた霊夢も立ち上がり追従する事となった。
となれば、当然その場にいるのんべぇ達の視線は自然霖之助に集まる。
集まるのだが、彼はただ無関心のまま歩き、そのままとある場所に座り込んだ。
「お久しぶりです、先生」
「えぇ、久しぶりね霖之助」
まずその場で静かに酒を飲んでいた、比較的まともな顔色の永琳に挨拶する。
そこでちょっと宴会場がどよめいた。
魔理沙の顔が、何それ? と言う顔になって疑問符をそこ等中にばら撒いていた。

その隣に居る慧音が、霖之助に話しかける。
「酷いな、まずは家族からだろう、兄さん」
「家族だから後なんだよ、慧音」
もう一回宴会場がどよめいた。
霊夢の顔が少々強張った。

そしてダメ押し。
霖之助の背後から、それが飛びついてきた。
「霖之助ー! お酌してー!!」
「姉さん、呼んだ張本人がもうベロベロってどうなんだ」
「母さん、飲みすぎだよ」
爆発した。
何かが、宴会場で確かに爆発した。
初期戦隊物のように、ド派手で色の付いた大爆発で。
魔理沙は混乱した。
混乱しないわけが無い。
妹紅が母で、慧音が妹で、霖之助が弟で、妹紅が姉。
挙句一人で二役やってる奴まで居たのでは、混乱しない筈が無い。

それでも当人達は我存ぜぬの顔で会話を続ける。
基本的に我が道を行く人格を有した存在ばかりが集まったからだろう。
それは滞りなく進んでゆく。

「しかしまぁ、霖之助、お前いつまで一人身なんだよ」
「さぁね、暫らくは森近なんて姓は、僕一人だけだよ」
「森近……森近かっこ悪い、藤原に戻らない? 戻らなくない? なんか最近慧音まで違う姓使い出して、姉さん悲しい」
「僕はこの姓も気に入ってるよ。藤原の次くらいに。慧音との事は慧音と相談だな。まぁ……少しくらいは説得に参加してもいいよ」
「だったら霖之助も藤原に戻ろー、戻ろうよー、ねー、ねー」

「先生、お変わりありませんか?」
「この通り、まったく」
「あぁ、そうですね」
「……やっぱり変な子ね、貴方って」
「いや、もういい歳なんですが、子とか言うのはさすがに」
「私や妹紅、姫みたいに、変わらずに居ても何も言わない。慧音もそうだけれど」
「だって、先生は先生じゃあありませんか。姉さんだって、姉さんです」
「……やっぱり、おかしな子。ほら、酌をなさい」
「ですから、子とか言うのは」

「兄さん、商売はどう? 上手くいってるかな?」
「それなりだよ」
「……聞いた話じゃ、やる気の欠片も見えない店主が座ってる店だとか?」
「誰だ、そんな根も葉もない噂を流した奴は」
「火の無い所に煙は立たないよ」
「いいや、そんな事はない」

実家から出てどこかの道具屋で住み込みの修行を始め、修行が終えたらそのまま帰ってくるのかと思ったら
独立して店を立てて出て行った霖之助に、妹紅と慧音はがんがんがつんがつんと言葉をぶつけた。
謝れ、謝罪しろ、爪切って、ご飯作りに来て、風呂洗いに来て、洗濯物手伝って、あーんってご飯たべさせて、
等等、様々な言葉をぶつけられた。

そんな会話が、それぞれの間でなされてゆく。
ある者は興味深そうに、砂糖を吐きつつそれを眺め、ある者はそれを羨ましそうに見つめていた。
そして、魔理沙は後者であった。
どうやら、ここにもまた自分の知らない過去の霖之助が居ると分かった魔理沙は、なんとも言えない気持ちになっていた。
霊夢ははぶられている事が我慢できず、である。
少々悔しい二人は無理矢理三人の輪の中に入ろうとした。
入ろうとしたが、

「妹紅、貴方霖之助に早く嫁を貰えなんて言うけれど、本当に貰ったらどうするの?」

三人の知己であり、すぐ傍に居た第四の存在――。
永琳のその質問が、二人の動きを――宴会場全ての動きを止めた。
実に興味深い話である。
妖怪と言えども少女。
歳はあれでも姿は少女乃至妙齢。
実年齢が例えあれでも、外見は少女なんですー。
人様のそういった、下世話な話に耳が大きくのなるのは当たり前だ。
特にどこぞの烏天狗とかなどは、もうメモを片手にわくわくした顔で続きを待っていた。

しーんとした場にも気付かないのか、妹紅は質問された事に素直に答える。
「その前にまず紹介されるよね」
「あぁ、だろうね。兄さんはそんな、一人だけで相手を選ぶような薄情者じゃないよ」
それに慧音も便乗してきた。

「じゃあ、霖之助が相手を連れてきたら、その娘さんにどう挨拶するの?」
よしきた、永琳ナイスと様々な少女達がサムズアップする異様な会場の中で二人は当たり前に言葉を紡いだ。
「まず、私が吹き飛ばす」
「その後、私が燃やす」
「「「「「「「「「「「「なんでッ!?」」」」」」」」」」」」
「「で、そのまま埋める」」
「「「「「「「「「「「「何それッ!?」」」」」」」」」」」」

宴会特有の一体感に包まれたその空気の中、霖之助はため息をついて首を横に振っていた。
余談では在るが、その際魔理沙がかなり真面目な顔で霊夢に何事か打診していた。
どっちがどっちを受け持つかやら、コンビを組んだ際、後の報酬はどうなるか、などなど。



日が暮れて、夜になった。
宴会は終わり、後は皆それぞれ好きにするだけである。
その場で寝るもよし、そのまま帰るもよし、掃除を手伝うのもよし。
三番目が最も選ばれることの無い選択肢だとしても、霊夢的にはそれを信じて。

その中で、三人。
月に照らされた、竹林までの道を歩く者達が居た。

「あぁ、飲んだ飲んだ。あと一週間は酒なくても行ける」
「母さん、あれだけ飲んで一週間か」
「慧音、何も言うな。姉さんはまぁ……あぁだから」
「霖之助、今姉さんのこと馬鹿にしたでしょ?」
「いいや、褒めてるんだよ」
「ばれる嘘をつくな、霖之助。罰として、今夜はうちで寝ていく事」
「……実家に戻るのが罰とは、またどうして」
呆れた顔で霖之助は妹紅に言った。
それは罰ではないと。
確かにそうなのだろうが……

「姉さんと慧音の添い寝付き故に」
「それは確かに罰だ」
「慧音、確かに罰だって」
「母さん、確かに罰だそうだ」
二人はそれぞれ、そっちが罰だと擦り付け合ったが、どう見てもそれは醜い喧嘩でしかなかった。
醜いが故に、確かに家族の物でもあった。
隠すことなく、余すことなく、感情のままに。
その絆は、今も続いている。

「こんな暑い夜にくっつかれたんじゃあ、眠れないだろう。そういう意味で、罰なんじゃあないのかい?」
「「そこは気合で」」
「二人の無茶振りは、どこまで行くんだ」
「どこまでも?」
「月まで届くよ?」

彼らが向かう竹林の中。
そこに一つの家がある。
かつては一人が住み、やがて二人が住み、そして三人が住まう事になった家が。
少しがたついたその家は、大きくもなければ立派でもないが、人が過ごした温もりを持っている。

そんな家であっても。
やがていつか、その家は潰れてしまうだろう。
やがていつか、今歩く三人の人影は、二つ消えてしまうだろう。
やがていつか、偽者の家族は無くなってしまうだろう。

時間と言う瀑布に、全て流されてしまうのだ。

それでも、三人が一緒に書き記した、思い出と言う日記は消えないだろう。
妹紅の首に紐で掛けられた、少し大きめの絆が、形となって残るように。
完成品が出来上がっても、これで良いと、これが良いと首を横に振った、その彼女の姿が。
その絆が。
消える筈も無いのだから。

えいえんは、はんぶんをふたつ持って、どこまでも歩むのだ。

きっときっと、いつまでも。
どこまでだって。

それは、月に届くくらい――


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BonusTrack

「……あれ?」

 

 自身の部屋に在る棚の引き出しを開けて、アリスは声を上げた。

 

「……もう少しあったと思ったのに……ないわね」

 

 引き出しの中をがさごそと漁りながら底の底まで確認し、アリスは目当ての布がない事に落胆した。引き出しを力なく押して戻し、横にあった椅子に腰を掛けため息を付く。

 腕を組み、美しい眉間に少々の皺を寄せ、窓から見える星空を睨み付ける様な目で見上げ……小さく唸った。

 

 ――こんな時間に開いている店……ないわね。

 

 考える。眉間に寄った皺を無意識のうちに右手の人差し指で揉みながら、彼女は思考を続けた。

 ――明日にするべき……なのかしら。

 

 しかしそれは惜しいと頭を横に振った。

 生物には波がある。目に見えない上に、酷くあやふやで、天運等とも呼ばれているような波が、だ。何をしても上手くいかない日、普段にはない冴えを見せる日。

 そういった、不確かな、けれども確かに在る納得の行かない物。アリスにとって今はその後者が来ている日だ。このまま何もせず朝になるのを待つのは、余りに勿体無い事だと彼女は思えた。

 

 ――えっと……カーテンとか、一枚取っ払って使う? それか……要らない服を解いて……

 

 余り現実的な解決策ではない。それに、今家に在るカーテンは全てアリスのお気に入りだ。服にしても、愛着がある物しかない。

 

 ――じゃあ、店でなければどう?

 

 アリスは突如降ってわいてきた自身の考えに、おかしな話ではあるがその手があったかと感心し、ならばと交流のある面子をピックアップし始めた。一番近いのは魔理沙の家。

 だが、あの彼女の家にアリスの今求める物があるとは思えなかった。持って行かれた本や道具なら在るが、今はそれも保留していい。一時的に、ではあるが。いつかは返して貰うぞ、今度はいつもみたいに何も返してもらわないまま帰らないぞ、等と自分に言い聞かせ、アリスは候補者の選出を再開した。

 

 一人、二人と脳裏をよぎり、いやそいつは無理だろ、こいつは持ってないだろう、と一人脳内会議を30分ほど続け……

 

「……なんでよ」

 

 一人もかすらなかった事に軽い驚きと眩暈を覚えた。アリスの交友関係にある存在達は、アリス同様容姿に優れた少女達である。ならアリスの今求める物、服用の布を持っていてなんらおかしい事はない。むしろ持っていて良い筈だ。

 だのに、誰一人として当たらなかった。

 

「花嫁修業の一つでしょう……裁縫とか……」

 

 額に手をあて項垂れるアリスの背は、どうしようもなく煤けていた。

 この時代、というよりは、幻想郷に未だ残る明治――厳密には明治初期辺り――の風習ではあるが、服というのは多少の差はあれ家庭で用意するものだ。ここ数年で定着し始めた洋装等は服屋で買う事も在るが、幻想郷で多く着用される普段着の和服というのは、家庭で作られるものである。

 呉服屋で洒落た小袖や訪問着等を作って貰うというのもあるが、作業服も兼ねている普段着は各々が用意するのが基本である。ある筈なのだが……

 

「嫁に行くつもりがないのかしら、皆……」

 

 背を煤けさせたまま呟くアリスの周囲には、そういった事に無頓着な女性が多い。皆外見は兎も角、たいがい良い歳をしている筈なのに。友人の二人ほどはろくに裁縫もしない理由が分かっているので、服用の布が無いのは仕方ない事かも知れない。アリスは背を丸め、弱々しく首を横に振った。

 

 ――上げ膳下げ膳、ですものね。

 

 そんな物は花嫁修業には実に不要なものだ。むしろその上げ膳下げ膳のやり方も学ぶのが花嫁修業である。だと言うのに、だ。

 

「あの店主も、なんのかんの言って食事を用意してあげたり、服とか作ったり――」

 

 件の店主とは親しい仲ではないが、魔理沙と言う共通の友人を持つ為か、どうしても情報が入ってくる。服の事や、メンテナンスの事や、食事の事。

 アリスは、脳裏に浮かんだ眼鏡をかけた昼行灯に愚痴を零し。そのまま、全ての動きを止めた。

 

「あぁ……」

 

 額に当てていた、ひやりと冷たい右手の手のひらをゆっくりと離し、その手のひらをもう一度額に当てる。当てた、と言うよりは打った、と言った方が正しいだろうか。

 ぴしゃりと鳴ったその音が合図になったのか、アリスは腰を預けていた椅子から急に立ち上がり、テーブルに置いていたケープを乱暴に引き寄せ、それを走ったまま肩に"のせ"、ドアノブに手をかけた。ずり落ちようとするケープを左手でかき抱き、その勢いのままドアを開けて……アリスは助走をつけて飛んでいった。

 その一部始終を見ていた人形達の顔が、普段と変わらないのに、どこか苦笑いしているように見えるのは……多分、気のせいなのだ。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 幸いと言うべきだろう。

 アリスが急ぎ飛んで向かったその先、目当ての場所の窓からは、まだ明かりが細々と漏れていた。

 彼女は顔に喜色を浮かべ速度を上げる。恐らく、と言うよりはまず間違いなく、向かう先には服用の布があると彼女は確信した。いつ来るとも知れぬ霊夢の無茶な要望、つまりは編め、繕え、等と言う横暴さに対処する為には、常にある程度余裕を持って布を保管している筈なのだ。

 あの巫女服用の布なら白と赤しかなさそうだが、この際は色はどうでも良い。

 それを売ってくれと頼めば、一応相手も商売人だ。売ってくれるだろうと彼女は確信していた。ここ最近には無かった、久々に来た調子の良い日だ。色がどうだこうだ位は無視して、兎に角創作意欲のまま造るべきではないか。

 

 ――そうよ、今はまずそれよね。

 

 彼女は心の中で満足気に呟き、その姿に相応しく綺麗に着地し、目の前にある建物――古道具屋香霖堂のドアをやや乱暴に叩いた。この店の主は長考の果て思考の殻に閉じこもってしまいがちな存在であるから、夜分であっても明確に音を出さなければいけないからだ。

 

「夜分すいません、もし、もし」

 

 それでも声は荒げる事はない。この辺り、彼女の良識的な一面が良く出ていた。

 この店の店主とそう付き合いのないアリスは、魔理沙の様にいきなりドアを開けて入るなど出来ない。いや、例えある程度仲が良かろうと、彼女はそういった、どちらかと言えば非常識に分類されるような事全般が出来ない性分だった。

 

 返事を待つ事約20秒。

 今の彼女にとっては少々長い時間である。もう一度ノックし、彼女は口を開く。

 

「森近さん、アリス・マーガトロイドです。開けて貰えませんか?」

 

 返事は、やはりない。

 このまま帰るべきかとも思ったが、試しに押したドアはなんの抵抗もなく、軋みを上げて徐々に開いていく。

 

「……」

 

 眉を顰め、息を呑み、逡巡し……一つばかり頷いて。アリスは決めた。

 

「……お邪魔します……よ?」

 

 褒められた事ではないだろうが、とりあえず入ってみようと。

 

 カウベルの音が小さく鳴り響き、薄ぼんやりとした店内がアリスの目に入ってきた。特に変わりない、と言えるほど足しげく通っているわけでもないが、やはり変わりの無い店内。

 

 ――まぁ、本当は違っているとしても、私には分からないか。

 

 彼女、アリス・マーガトロイドは、この香霖堂と呼ばれる店にとっては稀に来る程度の客でしかない。理由は二つほど。

 

 一つ目。

 魔理沙に連れられて来店した回数が四回、そのうち、店主が座っていた席から離れた事1回、本を読んでいた事2回。顔を上げて挨拶する事1回。

 最悪である。接客が、最悪である。

 やる気のやの字も見えないのだ、この店の店主は。趣味でやっていると言うのは、アリスも霊夢や魔理沙から聞いている。だが、だからといって接客を、業務を疎かにして良い理由にはならない。一人の大人が店を持って開いているのだから、もう少し責任をもって真面目にやるべきだと彼女は思ったのだ。

 

 そして、二つ目。

 この店、品揃えがその時々で全く違うのだ。

 裁縫に使う道具が常にあるのなら、彼女は前記した理由などそっちのけてやって来るだろう。彼女の家からは近く、恐らく魔理沙の友人である事から、雀の涙ほどでも"勉強"もあるだろう。

 ほんの少しでも、安いに越したことは無い。が、一々顔を出さなければどんな商品が、どの様に置かれているかも分からない煩雑とした店は、彼女にとって良い店ではないのだ。値が張っても、遠くても、いつも同じ商品がきちんと整頓され並んでいる店のほうが、彼女の性には合っていた。

 

 そういった店は大抵店員の教育も行き届いているから、表面上だけでも笑顔やそれに準ずる感情で買い物が出来る。少なくとも、椅子に座ったまま無愛想に接客をする店員よりは、マシだろう。

 

 つまりは、彼女からすればそう魅力的に見える店ではない、と言う事である。

 

 値札もなく、ただ置かれているような、用途不明の古道具達。少し埃臭い、彼女の家とは比べる事自体間違っている、そんな雑な店内。それらを見回しながら、アリスは足をおずおずと進める。

 

 明かりが灯っている以上、この店の主はどこかにいる筈である。扉には鍵も掛けられておらず、明かりも灯ったまま。

 この幻想郷が昔に比べて平和になったといっても、これは無用心に過ぎる。夜に蠢く危険な生き物が消えたわけでもないのだ。だから、普通に考えれば。考えれば、店主はここに居る筈なのだ。

 

 なにがしかの防衛手段を携えて。

 なのだが、どうにもその姿が見えない。

 

 ――もしかして、軽く外出……とかかしら?

 

 在り得ない訳ではない。

 今の彼女の様に、僅かばかりの外出であれば鍵もかけず、明かりも消さず出る事もあるだろう。

 

「……あぁ、ついてない」

 

 肩を落とし、踵を返そうとしたその時。彼女はそれを視界におさめてしまった。

 

 足。青いズボンと、足。

 それが、外の世界の大きな道具の向こうに見えた。

 

「……」

 

 結論だけ言ってしまえば。彼女はこの日、そのまま朝が来るのを待って他の店に行くべきだった。そうすれば、平穏で退屈でも、平坦な、いつも通りの日常を満喫できたのだ。

 

「……え?」

 

 所詮、調子の良い日が在ろうとも。その不鮮明な運勢とやら自体が良いという訳では、ない。

 何せそれを運んでくる天というあやふやなモノは、意地が悪いのだから。

 

 

 

 

『BonusTrack:少女の見た贋物風景』

 

 

 

 

 体を包む倦怠感と、額に心地良い冷たさを感じ、霖之助は目を覚ました。自分がどこで、何をしているかを考えるよりも先に、まず体は"起きようと"したが、満足に動かない。

 

「そのままじっとしていなさい、霖之助」

「……せん……せい?」

 

 目の前にはかつて幼かった霖之助のわがままに振り回されながらも教鞭を振るった銀髪の女性、八意永琳の顔があり、その横には魔理沙の友人、アリス――

 

 ――……あぁー……なんだったか……アリス……アリス……ま、まー……まが……。

 

 アリス何某という少女の顔があった。どうやら霖之助、アリスのフルネームまでは覚えていないようである。片手で足る程度の顔合わせでは、仕方ない事かも知れない。

 

 ――この際は、彼女の名前はどうでも良い。

 

 当人が聞けば気を悪くするだろう言葉を心の中で呟き、霖之助は目下の問題に取り組む事にした。問題は、何故永琳が自分の額にその美しい手を当て、何故アリスが自分の私室に座って居るのか、何故二人は自分の顔をどこか心配げに見下ろしているのか、そして何故、店内の清掃――自己申告――をしていた自分が、今こうして布団に伏せて居るのか、という事である。

 

「その顔、随分久しぶりね。分からない、って顔でしょう?」

「……まさか」

 

 素直にそうだと言えば問題は今すぐにでも解決するのだが、霖之助の妙に高いプライドが、脊髄反射でそんな言葉を吐き出させた。諸事情により脳が役目を放棄している事も、原因の一つでは、あるが。

 

 それまで浮かんでいた表情を一変させ、自身を見下ろす永琳の顔に徐々に現れてくる、なんとも言えない、背中に妙な寒気が走る笑顔に絶妙なほどの赤い色と懐かしさを感じながら、霖之助はいまいち思考の纏まらない熱い頭を乱暴に振って、額に乗せられていた永琳の手を振り払った。

 払われた手を、見る者に感嘆のため息を吐かせるだろう見事に為された正座、その美しく閉じられた膝の上に落とし、永琳は霖之助曰くの"なんとも言えない笑顔"を尚一層深かめた。横で同じく正座していたアリスが、無言のまま2cm程引いたのは、つまりは笑顔の性質がそういう物だと言う事である。

 永琳はそんな笑顔のまま、じっと霖之助を見下ろし、楽しげに口を開いた。

 

「なら、現状を言い当てなさい」

「……」

「あら、分からない訳ではないのでしょう?」

「……」

「霖之助、早く答えなさいな、ほら」

「……く」

 

 先程自分の手を振り落とされた腹いせか、それとも単にそれが面白いのか。永琳は口惜しげに呻く霖之助の額をぺちぺちと叩きながら、早く片手落ちの、素っ頓狂で、頓珍漢な答えを言えと催促する。じゃれる様なその姿は、本来ならそれなりに微笑ましい物ではあるのだろうが、永琳の顔に浮かぶ言い知れぬ何かが、得も言われぬ恐怖をこの狭い空間に撒き散らしていた。

 しかも極めて濃厚に。

 

「……」

 

 アリスが正座のまま更に2cm程後退したのは、だから仕方のない事なのだ。

 

 さて、子供が見たら泣いて親の元に我も忘れて走っていきそうな空間で見詰め合う、と言うよりは睨み合う二人と、そんな二人から距離を取って少しばかり震える少女の耳に、大きな音が入り込んできた。続いて、普段の懈怠な音など何かの冗談ではないかと思えるほどの、馬鹿馬鹿しい位盛大に鳴るカウベルの音が鳴り響く。その大音量に紛れて、どたどたという足音が二つ。

 

「な、何? なんなのこれ?」

「……」

「……」

 

 何事かときょろきょろ辺りを見回すアリスを端に、霖之助と永琳は睨み合ったまま、無言で同時に頷いた。

 

 永琳はナースキャップらしき物から耳栓を出し、それを自分の耳に確りと詰めた後、両手で満足に動く事も出来ない霖之助の耳を強めに塞いだ。眼前で突如行われた奇行にアリスは戸惑い、永琳に目で問うた。

 何事か、と。

 アリスのその目が言わんとする事を察した永琳は、至極真面目な顔のまま、小さく呟いた。

 

「耳を塞いで置きなさい。じゃないと、暫らく耳鳴りに悩まされるわよ」

 

 しかし、その忠告は少しばかり遅かった。

 言い終わるかどうか辺りで、霖之助の私室を塞ぐ襖は勢い良く開き放たれ、人影が二つ、転がり込んできた。

 

「霖之助、無事!?」

「兄さん、大丈夫か!?」

 

 衣を裂くような悲鳴、と言うよりは、大地を割るような絶叫を伴って。

 

 正座を崩し倒れるアリスは、がんがんと木霊する耳鳴りに悩まされながらも思った。

 

 ――どうして私、こんな目にあってるんだろう……。

 

 思ったが、なんとなく答えは彼女にも分かっていた。

 

 常識的な存在が馬鹿を見てしまうのが、この幻想郷だからである。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……風邪?」

「そうよ、ただの風邪よ」

「……そうか、このだるさは……風邪だったのか」

「いや、兄さん。それは暢気すぎるだろう」

 

 本当に暢気である。霖之助、今朝起きた時から体を包む妙な気だるさには一応気付いていた。

いたが、それがなんであるか、彼には良く分からなかったのだ。何せ最後に風邪を引いたのはもう数十年前、まだ子供だった頃である。

 しかもかかったのは僅かに一回。少なすぎる病歴では、それが風邪だと気付くことすら出来なかった。少々調子が悪いのだろう、程度にしか思えなかったらしい。病気にかかり難いと言うのも、これはこれで考え物なのだろう。

 

 彼はそんな状態の中、一週間ぶりの店内清掃――もう一度記す。自己申告――にかかり、そのまま倒れた。

 

「でも、風邪でいきなり倒れる物なの?」

「霖之助の場合は、引いていた波が一気に来たような物よ。津波みたいにね」

 

 妹紅の疑問に、永琳は温めのお茶を飲みながら答える。その隣では、慧音が霖之助の額に水を適度に絞った手ぬぐいを乗せ、甲斐甲斐しく世話をしていた。更にそこから少し離れたところでは、アリスが耳を押さえて俯いている。

 

 最初から部屋に居た筈なのだが、アリスにやっと気付いたのか。妹紅はアリスの方を見ながら、永琳にそっと耳打ちした。

 

「……えーっと……誰?」

「貴方ねぇ……彼女は、霖之助の……大げさだろうけれど、一応の命の恩人よ?」

 

 そう、永琳の言う通り大げさではあるが、今部屋の隅で耳を押さえて呻いて居るアリスは、霖之助の命の恩人である。彼女は店内で倒れている霖之助の為に、永琳の診療所まで文字通り飛んで行き事態を告げたのだ。その後、永琳は妹紅の家にてゐを、明日の授業の為の準備をしていた慧音の寺小屋に優曇華を、それぞれ走らせ連絡を入れた。

 

 本来なら感謝されて然るべきである立場のアリスが、現実には感謝の言葉など何一つ貰わず、苦痛を与えられ、今部屋の片隅で鳴り止まない耳鳴りに悩まされ呻いている。不憫だと、哀れだとさえ永琳は思い、自身もまた為すべきことを為していない事を思い出し、妹紅に小さく呟いた。

 

「ちゃんと貴方もお礼を言いなさい。貴方は霖之助の保護者でしょう」

「うん、そうする。慧音、ちょっとこっち、こっち」

「? なんだい、母さん」

 

 身動きできない事をこれ幸いと、嫌がる兄、霖之助の髪を撫で回し、甲斐甲斐しい世話――らしい――をしていた慧音は、ちょいちょいと手のひらを縦に振って自分を招いている母、妹紅の傍に名残惜しげに寄って行った。霖之助がばれないように安堵のため息を吐いたのは、言うまでも無い。そして慧音は妹紅に耳打ちされ、なるほどと、アリスの方を見つめながら一つ頷いた。

 

 三人は一糸乱れず同時にすくっと立ち上がり、ようやく耳鳴りに慣れ始めたアリスの前に、これまた一糸乱れず正座した。

 

「……へ?」

 

 それに驚くアリス。

 なるほど、驚くだろう。耳鳴りにも慣れ始め――悲しい事だが、耳鳴りがマシに為った訳ではない――ようやっと耳から手を離し、顔を上げたら正面、左から銀髪の愛らしいが刺々しい印象を受ける少女、銀髪の美しいが冷たい印象を受ける少女、銀髪の同性から見ても妖艶な美貌を持つが胡散臭い印象を受ける女性、それら三名が身長順に整列し、正座をして自分をじっと見つめているのである。

 これからよからぬ儀式でも行われるのかと内心恐れ戦くアリスの心情を全く無視して、三人はまたも乱れず同時にアリスの手を握った。両手で。

 

 左手を妹紅の両手と慧音の左手が。

 右手を永琳の両手と慧音の右手が。

 

「……え?」

 

 唖然とするアリスを無視して、三人は、もう語るまでもないだろうが、一切の乱れなく言葉を発した。

 

「「「有難う御座いました!」」」

 

 そのまま三名は、両手をぶんぶんと縦に振り回す。当然の事だが、両手を握られているアリスの両手も、それに合わせて縦に振り回される。アリスはもう両肩に来る重みに耐えられず、どっと肩を落とし、この室内で恐らくこの脱力感を共有出来るであろう唯一の存在、伏している霖之助に呟いた。

 

「……なに、これ?」

「すまない……うちの家族と先生は……ちょっと独特でね……」

 

 慧音に散々撫で回され、ぐしゃぐしゃに為った髪もそのままに、霖之助は苦笑を浮かべ答えになっていない答えを返した。そんな霖之助の苦笑につられたのか、未だ両手を握ったまま感謝の言葉を述べ続ける三名に、アリスも苦笑を浮かべ……霖之助が言う家族と先生の顔を見ながら、そっとため息を吐いて――

 

「変な家族ね……――家族!?」

 

 驚いた。

 

「あぁ、姉と妹だよ」

「母と兄だよ」

「娘と弟よ」

「いや、おかしい! 今物凄いおかしい家族構成口にしたでしょ!?」

 

 大層驚いた。

 

 そんな反応にも慣れたもので、霖之助は苦笑のまま、熱でぶれる視界の中で各々動き回る女性達を眺めていた。これが、彼女と、某一家+1の付き合いの始点である。やはり彼女は、あのまま家で朝が来るのを待っているべきだったのだ。

 もっとも。

 

 後の彼女、アリスがこの日の事を語る事があるのならば。どう応えるかは、分からないかもしれない。

 ただ、疲れた顔で語ることだけは、間違いないだろう。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 からっと晴れたある夏の日、香霖堂の草臥れたカウベルが客の来訪を告げた。

 

「霖之助さん、新しい布入荷してる?」

「お、また来たな、まー……まーが……まが?」

「あぁ、入荷しているよ。それと、外の世界の服もね」

「あ、それも見せて貰えないかしら。あとそこの姉母、いい加減名前くらい覚えなさいよ」

「横文字なんて覚え難いって。なぁ霖之助?」

 

 入ってきたのは新たな常連客、アリス。迎えたのは香霖堂店主霖之助と、その姉妹紅である。

 アリスは布を吟味しながらテーブルでぐでっと伸びている妹紅に話しかける。

 

「日本語だって横文字在るでしょう。看板とか、漢字を横に書いてたじゃない、昔」

「……そっちの名前、覚え難い」

「長く生きているなら、それくらい覚えなさいよね」

「長く生きているから覚えないんだよ。一々覚えてられないってば」

 

 悪態をつき合う二人をよそに、霖之助は奥へと向かって歩いていく。その際、霖之助はアリスに聞いた。

 

「で、今日は外、どんな物だい?」

「暑いわよ……風もないし、酷い物よね」

「じゃあ家に篭ってれば良いのに」

「気が滅入るわよ、っていうか、貴方火を使うんでしょう? なんでのびてるのよ」

「熱いの使うからって、暑いのに強いわけじゃないでしょ。あんただって、人形使うけど人形ぶつけられたら痛いでしょうが」

「誰だって痛いわよ」

 

 店内の奥から聞こえてくる霖之助の噛み殺した笑い声から察するに、この妹紅とアリスのやり取りは日常の物であるらしい。

 あの日、アリスが倒れていた霖之助を助けてから、この店の風景が変わり始めた。

 

 まず、自分の為に時間を割いて、更には姉と妹と師に、霖之助主観では弄られてしまった彼女の為に、彼は稀に外から流れ着く最高級の布を礼として出した。これにはアリスも驚いた。

 何せそうは無い上質の布であり、霖之助の保存方法が良かったのか、状態も良好だった。これを上質の布だと理解していた霖之助の目利きにも、彼女は軽く驚いた訳だが。

 そして更に。普段は表に出さない、外の世界の進んだ技術で繕われた服まで、霖之助は出した。幻想郷に流れ着くのは型落ちしたものではあるが、かつての最流行品であり、その質までが落ちているわけではない。流行遅れではあるだろうが、時代の流れの外にあるこの場所ではそんな物どうでも良い事だ。

 技術と言うのは基本的になんであれ進化する。そういった物に触れる事が出来たとき、その技術を用いる創作を趣としている存在がどう感じるか、言うまでも無いだろう。

 驚き、妬み、悔やみ、嘆き、目に静かに揺らめく蒼い炎を宿し、目指すのだ。遥か高みであっても、遠い異国の空であっても、それでも上を見るのだ。いつかこれを自分の手で、そして叶うならば、これ以上の物をこの手で、と。

 

 彼女は霖之助の持ってきた服を凝視した。その折り返し、縫い方、材質、用いられた技術を具に目にし、感嘆のため息を吐き、我に返って霖之助に聞いたのだ。

 

『こんな物、本当に貰っても?』

『お礼兼慰謝料だと思えば、そう安いものでもないだろう?』

 

 アリスの胸に抱かれる服と布を指差し僅かばかり微笑む霖之助の言葉に、なんとなくその通りかも、等と思いながらアリスは微笑んだ。

 

 それからと言うもの、アリスはちょくちょく香霖堂に顔を出すようになった。霖之助が気を利かせて、アリスに言われた訳でもないのに仕入先から入手した良質の布や糸、裁縫道具を優先的にアリスの為に置き、更には値段も良心的。

 それらの事実は、アリスにとって嬉しい事だった。そして、好意と言うのは意思の疎通が可能な生物同士の間にただあるだけで、十二分に潤滑油となる。実際、アリスはもう香霖堂とその店主を、悪い目では見ていないし、そんな目で見れない。

 自分の為に取り置きしてくれている店、というのは十分魅力的でもあるし、何より家から近い。外の世界の技術、試み、それらの散りばめられた価値のある服も手に入り、入らないにしても、見て、触れることの出来る店。入り浸るようになるのは、当然の結果だった。

 

「にしても……あんた、良く来るよなぁ」

 

 テーブルにだらしなく顎をのせ、だらしない姿のまま、妹紅はアリスを妙に座った目で観察する。

 

「弟さんの店が繁盛しているんだから、そんな目でにらみ付ける物じゃないと思うけれど?」

「たった一人で繁盛とか言うか」

「そのたった一人の客も来ない日があるんでしょう、ここ?」

「……」

 

 確かに、そうだ。

 妹紅が開店から閉店まで、だらだらと居座り続けた事が何度かあるが、その何度か、魔理沙と霊夢以外来なかった。しかも霊夢と魔理沙は客とは呼べない。

 稀にメイド服の少女が来た事があった位だが、それも本当に稀も稀、だ。たった一人でも、繁盛と言えるかもしれない。

 

「そういえば、此処に来るとき魔理沙も誘ったんだけど……」

「来ないだろ、あいつ」

「えぇ、貴方が居るからパス、って」

「さもありなん」

 

 テーブルに顎をのせたまま、したり顔で器用に頷く妹紅を見て、アリスはその理由がなんとなく分かったような気がした。

 

「貴方、何をしたのよ?」

「霊夢と組んでぶつかって来たから、慧音と一緒に追い返した」

「……まぁ、弾幕ごっこなら、それほど危険もないでしょうけど……」

「うんにゃ」

「?」

 

 妹紅の否定にアリスは首を傾げ、どういう事かと目で先を促した。

 

「弾幕で勝負した」

「……ごっこ、は?」

「ううん、だからちゃんと結界はって貰ってから、弾幕で勝負して、追っ払った」

 

 アリスは無言のまま額に手をあて、何やってるんだこいつらと首を横に振った。危険である。存在と言うか考え方と言うか、兎に角色々、余りにも危険である。

 

「ごっこなら負けるかもしれないけどね、"弾幕"ならまだまだ届かせないってのよ。なんせこっちは、輝夜で百六十五分割以上叩き出せるし、妖怪退治だって慧音と揃ってまだまだ第一線張ってるんだから」

 

 妹紅はけらけらと笑って言うが、その内容は極めて物騒である。

 

「まぁ私も偶に輝夜に百六十五分割以上されてるんだけどさ」

 

 しかも笑って言うような内容ではない。本当に物騒だった。色々と。

 

「姉さん、その手の話はやめた方が良い。アリスもほら、答えに困ってるじゃあないか」

 

 霖之助が布と服を腕に掛け、手にはお盆を持って戻ってきた。

 

「この程度で引くなんて、アリス何某は情けないな」

「なにがしとか言わないで。マーガトロイド、まー、が、と、ろ、い、ど!」

「ううん、無理」

「良い笑顔で! 良い笑顔で否定するとかもう! もー!」

 

 一見歳の近い少女達のじゃれ合いを横目に、霖之助はテーブルの上にお盆を置き、底に置かれていたコップを三つ、一つずつ手にとってぞれぞれの前に置いた。勿論、コップの下にはコースターが敷かれている。

 

「お、水か」

「あぁ、そこそこに冷えた水だよ」

 

 まさに喜色満面、といった顔で出された水を一気飲みする妹紅。

 姉のそんな姿に、霖之助はやれやれと頭を軽く横に振りながら、肩をすくめる。

 

「もう少し、しとやかに在った方が良いと思うね、僕は。姉さん、そんなじゃあ、いつまで経っても独り身だよ」

「霖之助とアリスしか居ないんだから、格好だ作法だなんて気にする必要ないじゃないの」

「作法だ格好だなんてのはね、姉さん。普段の所作から作られて行く物なんだよ」

 

 ぷくーっと頬を膨らませる妹紅に、霖之助は鼻で笑う。が、それらは一種のポーズだ。

 アリスから見れば、そんな妹紅を見る霖之助の瞳は優しい光を宿している。なんのかんのと、アリスがここに来る理由は前述した。

 

「それにね、姉さん。姉さん達のやった弾幕の結果、巫女服をボロボロにされた霊夢が、また僕に繕えと」

「ねーさんなにもきこえなーい」

「ようし、なら聞こえるようにするまでだ」

「こら! 頭を! 頭を掴むな霖之助!」

 

 だけど、とアリスは思う。

 本当は――

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 久方ぶりに、アリスは人里の店に顔を出していた。その隣には。

 

「あちぃー……暑すぎるだろ……ほんとに」

 

 自分の帽子を脱いで、それを団扇のようにぱたぱたとふって風を送っている魔理沙が居た。

 

「そうねぇ……霖之助さんの店なら、冷たい水もでるんだけど」

 

 今日行った店では、水も茶も出なかった。アリスがその店の上客でもないと言っても、この季節である。やはりその程度のサービスは欲しかった。

 不満げな顔でそう愚痴るアリスを、魔理沙がなんとも言えない顔で見ている。

 

「……なに、その顔?」

「なーんか、アリスの口から香霖の名前出るの多くないか? ここ最近」

 

 そうだろうか、と。

 彼女は首を傾げ、ここ数日分、自身の放った言葉をそこそこに思い出し。

 

「そうでもないんじゃないかしら?」

「……そっか。そうだよな」

 

 ははは、と渇いた声で笑う魔理沙に、アリスはなるほど、と頷いてにんまりと笑った。魔理沙の肩に手をぽんと置いて、

 

「大丈夫よ、貴方の心配するようなことは、無いから」

 言った。

 

「なんだよ、心配なんてしてないぜ」

 

 そうは言えども、そっぽを向いた魔理沙の横顔から察する限りでは、その言葉には何の説得力も無い。

 

「あの人は、友達よ」

 

 そう、友人だ。アリスは確かに、霖之助に好意を持っている。しかしそれは友人としての好意だ。

 

「……そんな心配なんてしてないからな? 本当だからな? 本当だからな?」

「はいはい」

 

 その言い方では、そんな心配をしていた事は丸分かりな訳だが、突く必要も無い。なんとなく、魔理沙が可愛いものだからこのまま頭でも撫でてみようかとアリスが思っていると、魔理沙が突如声を上げた。

 

「……あ、悪い、なんかセンサーに来た……ちょっと私こっちに行くぜ!」

「いや、センサーって貴方……」

 

 魔理沙はトップスピードでそのまま脇道に突っ込んでいく。

 

「……なんなのよ」

 

 余りに突然な出来事に呆然とするアリスの視界に、それはきっかり十秒後、ひょっこりと入ってきた。

 

「……センサー、恐るべし」

 

 もうあれは決して普通の魔法使いではない。そんな事を思いながら、アリスは近づいてくるその人物に会釈した。

 

「こんにちわ、永琳さん」

「こんにちわ、アリス」

 

 永遠亭の事実的トップ、当人曰く診療所の綺麗なお姉さん先生、魔理沙曰く香霖絶対防衛線三号、つまりは八意永琳女史である。

 

「魔理沙の姿もあった様に思えたけれど……彼女は?」

「逃げました」

「あら、ショックだわ」

 

 その顔にはショックのしの字も見えない。

 むしろとても楽しそうな顔に、アリスには見えた。

 

「どう接して良いのか分からないんじゃ……?」

「……なるほど、そうかも知れないわね」

 

 この永琳と言う女性、霖之助のかつての師である。魔理沙の持つ完成版のミニ八卦炉も、霖之助が永琳に師事して出来たものだ。しかも霖之助が逆らえない数少ない人物でもある。

 魔理沙としても、現在永琳との距離がどうにも掴めない為、一歩引いてしまうのだ。後、もう一つ理由があるとすれば……

 

「あの子、偶に私や妹紅や慧音を、羨ましそうに見るのよねぇ……」

「あー……」

 

 自分の知らない彼を知る女性達、となれば、魔理沙としては心穏やかでは居られない。まして妹と言う、滑り止めのような"安全圏"を自分が独占していると思っていたのに、ややこしいが"偽者の本物の妹"まで居たという事実。

 本当に穏やかでは居られない事だらけだ。魔理沙が聞けば怒るかもしれないが、存外、彼女は乙女をしている。

 

「良いわねぇ……あぁいうの」

「代わってあげたらどうですか」

「想う人なんて居ないわ。それに、面倒よ。愛なんて、もう面倒と言う言葉すら生温いわ」

 

 永琳の、その遠くを見るような目が、アリスにはなんとなく理解できた。この世で一番長く、それこそ、死んでも"長く"残る感情は愛だ。怒りは最も強いが、持続性に欠く。

 

「あれはね、全てを簡単に越えてしまうの」

 

 愛は際限が無い。

 

「守るべき一線も関係なく、本当に簡単に」

 

 愛は暴走する。

 

「しかも、場合によっては見返りさえ求めない」

 

 愛は無償ですらある。

 

「でも一番厄介なのは、求められる事よ。愛なんて見えない物を」

 

 それでも、与えろと言う。

 

「おまけに、ただの人間を鬼にも菩薩にもしてしまうわ……」

 

 規格外なのだ、愛なんて物は。時間全てを消費して、自身全てを消費して、それはどこへだって蔓延って行く。

 

「じゃあ、良いとか言わなくても」

「だから、面倒なのよ」

「?」

 

 何故、と口よりも語るアリスのその顔に、永琳は静かに歌った。

 

「それでも眩しくて、手の届きそうな場所で誕生石のリングみたいに光っているから……面倒なのよ」

 

 しかもね、そのリングは途中で捩じれているから、"私達"はくるくる回ってしまうのよ。

 静かに、静謐に、朝日にかき消されて行く星の光のような、そんな小さな声で呟く永琳。アリスがその日聞いたのは、謎掛けのような、そんな静かに過ぎる唄だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 永琳と別れ、魔理沙を探していたアリスだったが、途中で暑さに辟易して茶屋に入った。

 と。

 

「あら、慧音……」

「あぁ、マーガトロイドさん」

 

 一人、テーブルで本を読みながらお茶を飲んでいる慧音に出会った。こうして出会ったのも何かの縁だと思い、アリスは

 

「相席、良いかしら?」

 

 そう申し込んだ。

 

「あぁ、私との相席でよければ、どうぞ」

 

 勿論慧音に断る理由など無い。二人はテーブルを挟んで向かい合い、アリスの為にと慧音が女給を呼んだ。とてとてとやって来る、歳若い、恐らく新人であろう少女に、アリスは冷茶と団子セット一つを注文した。緊張した面持ちのまま奥へと走っていく女給の背を見送り、慧音とアリスは会話を始める。

 

「ありがとう、慧音」

「いや、別に感謝されるような事はしてないよ、マーガトロイドさん」

「アリスで良いわよ、言い難いでしょ?」

 

 もう既に、何度も言っている事だ。慧音はどうもアリスを名で呼ばない。

あれ以来良く出会い、友人一歩前位まで付き合いのある関係なのだから、もっと気安くなっても良いとアリスは思うのだが……

 

「いや、母さんがあれだろう? 私くらいはせめて、そう呼ぶべきじゃないかと思って」

「心遣いが染み入るわ……」

 

 本当に。

 彼女、慧音の母に半分くらいでもそんな心遣いが在れば、アリスとしてはもっと良いのだが。

 

「で、今日はどんな用事で人里に?」

「うん、ちょっと小物と生活用品をね」

「あぁ、それは確かに、兄さんの店にはないね」

「あったらちょっと怖いわよ」

 

 アリスが求める小物は、ちょっと少女趣味的な物だ。生活用品、なども、少女特有の物を指すのだろう。ならそれは、香霖堂にはちょっと無いものだ。ある物なら、こんな暑い日に態々遠くの店にまで足を向ける筈もない。

 

「慧音は?」

「あぁ、私はこれだよ」

 

 持っていた本を店ながら、彼女は言う。

 

「……算数、初等編?」

「寺小屋で使おうと思ってね。本屋の主人に頼んでいたんだ」

 

 それが今日入ったと聞き、慧音はここまで来たらしい。

 

「寺小屋の先生、ねぇ……大変でしょう?」

「そうでもないよ、楽しいものさ」

 

 そんな口調と仕草に、アリスは彼女の兄を思い出してしまう。

 

「……なんていうか、良く似てると言うか」

「兄さんとかな?」

「そうそう。妹紅はあんまり似てないのにね」

「私もそう思うんだが、兄さんに言わせると、実は良く似ているそうだよ」

「……慧音と、妹紅が?」

「らしい」

 

 頷く慧音と、ちょっと考え込むアリス。

 

 ――似てるかしら?

 

 妹紅と慧音を並べ、知っている限りで二人の言動やら仕草を重ねてみる。

 

「……似てる?」

「兄さん曰く、だからね。私にはちょっと分からないかな」

 

 そう言って微笑む慧音の目元と仕草が、妹紅と重なった。

 

「あぁー、なるほど……腐っても兄か……良く見てる」

「?」

「ううん、なんでもないわ」

 

 慧音の性格がこう見えて活発なのか。妹紅があぁ見えて意外と落ち着いているのか。もしくは、両方か。兎に角、先程の笑顔は似ていた。

 

「それにしても、兄さんと言えば……兄さんは酷い人だよ」

「なに、喧嘩でもしたの?」

「いや、この前家に泊まったとき、家事を全部やってね。最後に風呂で背を流そうとしたら、凄い剣幕で怒られてしまった」

「……」

「昔は良く一緒に入っていたのに……」

「……」

 

 アリスは無言のまま、慧音の胸元や腰を見て、そりゃ無理だろと心の中で突っ込んだ。

 この少女、妹紅にも言える事だが……どうにも藤原家の女性陣、兄、弟の事となると、普段の毅然とした態度や、聡明さ、社会通念やら当然事やら常識的一面を簡単に捨ててしまう事がある。現状のように。

 

「まぁ、ほら、霖之助さんも慧音も、もう大人でしょう? 子供じゃないんだから」

「そうは言っても、兄さんが家を出てからと言うもの、兄さん分が不足しがちなんだ」

「聞いた事のない栄養素がさらっと出てきたわね……」

「私を構成する大事な栄養素なんだ。もう一つの母さん分は十分過ぎるほどに摂取しているんだが、兄さん分が不足していると、こう……なんだろうな。心に穴が一つぽっかりと開いたような、朝食にご飯が無いような……」

「貴方、可愛いわね……頭撫でてもいい?」

「駄目だ」

 

 少しばかり、慧音がアリスから離れた。

 

「いや、変な意味じゃなくて。ほら、魔理沙とかもそうだけど、猫とか思い出すのよ」

「あぁ、私に対してのは分からないが、魔理沙のそれはなんとなく分かる」

 

 と呟いて微笑を浮かべる慧音を見ていると、アリスはなんとなく、この家族の凄さを思い知らされたような気がする。長い時間、世界から見れば短く、それでも確かに長かっただろうその時間。偶然出来た絆のまま、当たり前に家族だとそれぞれが思う事が出来る様になるまで、どれだけの困難があったのか。本物の家族をもつアリスには、想像も出来ない。

 

 やがて、さきほどとは別の女給がアリスの頼んだ物を持ってきた。それをテーブルに並べ、女給は頭を下げ、奥へと戻っていく。アリスはお茶を飲みながら、そのまま慧音と会話を続けた。

 

「で、話をちょっと戻すけど。良い小物が見つからなくて……慧音、どこか良い店しらないかしら?」

「あぁ、それならこの先にある――」

 

 この意外と愛らしい友人と語らうに相応しい、少女らしい会話を。

 

 楽しいと彼女は思う。嬉しいと彼女は思う。

 だから――

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 里で魔理沙を探しては見たものの、とうとう見つからず、アリスは夜の帳の下、自宅へと続く道を歩いていた。すると。

 

「おや、アリスじゃないか」

「この一家と縁でもあるのかしら……」

「?」

 

 霖之助が前からやって来た。

 

「今日、人里で永琳さんと慧音にも会ってるのよ。それにほら、昨日は店で妹紅とも会ったでしょう?」

「あぁ、それは仕方ないさ」

「仕方ない?」

「僕らは友人同士なんだから、縁があって当たり前じゃないか」

「……あ、そっか」

 

 確かにそうだ。縁と言うのは、一度繋がれば強くなる。なら偶然会う事だって当然の事だ。

 

「ましてこの狭い幻想郷だよ。会うに困る事はないさ」

「偶にまったく会わない日もあるけれどね」

「それは休息日さ、縁の」

「神社の巫女と一緒で、いい加減ねぇ」

「神社は今、二つあるよ」

「紅白の方よ」

「あぁ、じゃあ、仕方ない」

「うん、仕方ない」

 

 顔を見合わせ、二人は意地悪げに笑った。友人同士の共感を、実に良く表した笑みだ。

 

「それで、霖之助さんはこんな時間に里へ何か用事?」

「先生の所へ、薬を貰いにね。すっかり忘れていたんだ」

「あら、ご愁傷様」

「あぁ、怒られてくるよ。しかし、先生も人里まで行っていたんなら、そのまま僕の所まで薬を運んできてくれても良いだろうに」

「師に運ばせるんじゃないわよ」

「それもそうだ」

 

 二人は軽く手を振ってそのまますれ違い、分かれた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 アリス・マーガトロイドは、当たり前にその扉を開けた。聞きなれたカウベルの音を聞きながら、彼女は店内を歩いてく。

 

「おはよう、マーガトロイドさん」

「あら、おはよう」

「おはよう、アリス」

 

 声を掛けてきたのは、慧音、永琳、霖之助の三人。その三人が、店内から見える居住区の今で、大き目のちゃぶ台を真ん中に置き、円になって集まっていた。

 アリスは店内に留まったまま、皆に返事し、霖之助に目を合わせ口を開いた。

 

「おはよう……やっぱり、ちょっと早すぎた?」

「いや、構わないよ。アリスも、一緒にどうだい?」

「どうって……?」

「朝食よ。今妹紅が作ってるのよ」

 

 永琳が台所を指差し言う。

 

「でも……」

「大丈夫だよ、母さんは多めに作るから」

 

 それは悪い、と態度に出すアリスに、慧音は座布団を一枚出し、自分の隣に置いた。どうやら、一緒した方が良いらしい。アリスは靴を脱ぎ、居間へと上がりこんで置かれた座布団の上にちょこんと座った。

 

「でも、言っちゃ悪いけれど……妹紅って料理出来るの?」

「出来るよ」

「出来るよ」

「出来た筈よ」

 

 付き合いの長いこの三人が言うのだから、大丈夫なのだろうとアリスは胸を撫で下ろした。

 が。

 

「久しぶりだね……母さんの料理なんて。十年ぶりくらいかな?」

「いや、ちょっと待って、お願い、ちょっと待って」

 

 右の手のひらを前に出し、先程の発言者、つまり横でのほほんと料理を待っている慧音にアリスは詰め寄った。

 

「じゅ、十年振りって、何?」

「いや、兄さんが出てから、母さんは台所に立つの嫌がってしまって」

「なんでよ!?」

「うちの台所は、兄さんの聖域だったんだ……兄さん愛用の包丁や鍋を見ていると、母さんが……」

 

 駄目だ、この家族駄目だ。そんな事をアリスが思っても、それは多分仕方ないのだ。

 事実駄目だからだ。

 

「大丈夫だよ、人間体が覚えた事はそう忘れないだろう?」

 

 霖之助のその言葉で幾分救われたアリスは、気を取り直して料理を待つ事にした。隣の慧音や永琳、また正面の霖之助と雑談しながら待つ事5分……妹紅が台所からひょこっと出てきた。

 

「よーし、出来たよー……って、アリスなんたらじゃないか。おはよ」

「なんたら言うな。おはよう……その、飛び入りだけど、良いかしら?」

「? 良いに決まってるでしょ? ほら、ちゃぶ台の上に、これ置くから」

 

 と、ちょっと優しい笑顔で言う妹紅に、アリスは不覚にも感動した。のだが。

 どんと置かれた大きな皿の上には、

 

「「「「……」」」」

 

 生野菜がそのまま鎮座していた。

 

 誰も言葉を発しない。

 誰も言葉を紡がない。

 誰も言葉を出さない。

 

 アリスは代表して、口を開く事にした。妹紅にではなく、慧音に。

 

「貴方の家では、これが朝食なの?」

「いや、初めてだ」

 

 そう、と呟き、アリスは元凶に目を向けた。

 

「どういうことなの……?」

「こほん」

 

 アリスと、皆の視線が妹紅を貫くと同時に、妹紅は口元に握った右手を運び、咳を一つ払った。そして、続ける。

 

「後の朝食である」

「今食べられる物を頼みます」

 

 アリスにばっさり切られた。

 

「ボケが! 身を張ったボケが、こうもばっさり!!」

 

 身を折り、何やら口惜しげに畳を叩く妹紅の姿に、誰もがどうしようかと言う顔で互いを見ていた。と、慧音が立ち上がり、皿を取って台所へ歩いていく。

 

「まぁ、その……なんだ。私が作ってくるから」

「慧音……ごめんね、母さんのボケが不発でごめんね……」

「うん、次に頑張れば良いんだよ、母さん」

「頑張らせるな」

 

 アリスの突っ込み、絶好調である。

 

 慧音が台所へ行き、妹紅と永琳、アリスと霖之助が居間に残る。

 

「貴方ねぇ……朝からなんて事してるのよ」

「いや、だってねーさん霖之助に笑って欲しいかなーって」

「想定内だったよ」

「ならとめなさいよ、霖之助さんも!」

「姉さんの身を張ったボケを見るのも久しぶりだったんで、つい」

「いや、ついとか貴方……」

 

 疲れたように、というか事実疲れて肩を落すアリスに、永琳が優しく肩を叩いた。

 

「気をしっかり」

「医者の貴方が言うと洒落にならないです……」

 

 洒落ではないからだ。

 

「にしても……なんでまた、揃っているんですか?」

 

 アリスはそのまま、永琳になんとなく思っていた事を聞いてみた。

 

「そうね……そこの自己管理も出来ていない未熟者が心配で、と言うのが建前かしら」

 

 指を指された霖之助は、我関せずの顔で無視を決め込んでいた。

 

「……じゃあ、本音は?」

「集まれるなら、それだけで良いのよ」

 

 なるほど、とアリスは頷いた。確かに、家族に理由は要らない。家族だから、集まるのだ。

 当たり前に。

 

 そんなちょっとした茶番をやっていると、慧音が台所から戻ってきた。手には先程の大き目の皿が一つ。

 

 彼女は無言のままそれをちゃぶ台の上に置いた。

 皿の中身は、変わっていない。

 

「「「「……」」」」

 

 誰も言葉を発しない。

 誰も言葉を紡がない。

 誰も言葉を出さない。

 

 アリスはまたも代表して、口を開く事にした。慧音にではなく、永琳に。

 

「どういうことなの……?」

「さっき、妹紅が慧音に"そこでボケて"ってサインを送っていたわ」

「そんな高度な技術を無駄遣いしなくていいの! 貴方も律儀にボケなくて良いの!! あと、永琳さんも気付いていたなら止めるの!! もー! もー!!」

「慧音のボケに、薬師として興味があったの」

「薬師関係ないの!」

 

 本当に無い。

 

「すまない……私が未熟だったから……」

「ううん、慧音。いい天丼だったよ」

 

 駄目だ、こいつら本当に駄目だ。そんな事をアリスが思っても、それは多分仕方ないのだ。

 事実駄目だからだ。

 

「あぁもう良い、私がやる」

 

 生野菜のどんと盛られた皿を両手で掴み、彼女は立ち上がった。

 すると、妹紅が何やら複雑な指の動きをアリスに見せていた。なるほど、これがサインか、と思うが、これにこれ以上付き合うのは面倒だ。そも、アリスはそういう事に詳しくない。本当に詳しくない。無視していい筈なのだが……

 何故だろうか、その妹紅の目に宿る、なんとも言えない優しい光が、無視するのもどうかとアリスに思わせる。アリスは困って、皆を見回した。

 すると、皆同じ様に困った顔で微笑んでいた。

 

 その笑顔の一つ一つがアリスには得がたい宝物に見えて、彼女はなんとなく、そのまま意味も無いのに頷いてしまった。

 

 色々理由はあった。彼女がここに馴染んだ理由、それぞれと結んだ縁。

 だけど、とアリスは思う。

 本当は――本当は。

 強い何かで結ばれた存在達の中に、自分を置く事が、置ける事が嬉しかっただけの事だ。アリスには本当の母が居る。姉妹とも、友人とも言える女性達がいる。けれど、それを知って尚、この馬鹿で暖かくて無愛想で常識的で非常識な絆の中で息が出来る事が、彼女は嬉しかった。

 自分も優しくなれた様な気がして。

 

 妹紅はアリスの頷きに、にやっと笑って答える。慧音がそれを微笑む。永琳が口元を隠してくすくすと零す。霖之助が、いつか妹紅を見ていたあの優しい目で、アリスにやれやれといった顔を向けている。

 

 偽者の家族と、それを見守ってきた先生が、アリスに今与えようとしているモノ。

 だから、アリスは常識的に判断し。それを捨てるのは勿体無いと判断し。

 

「居るか妹紅ー! 慧音ー!! 今日こそ勝って義姉さんって呼んだり義妹って呼ばせてやるから覚悟しろー!!」

 

 どかんと扉を開け、何か色々暴露してしまっている魔理沙と、その後ろで面倒臭げに佇んでいる霊夢の、その二人の中間を指差し。

 

「……霖之助さんの、後の嫁である」

 

 そんな事を、言ってみた。いつか魔理沙と霊夢も、この輪の中で優しく微笑む日が来るだろうと思いながら。

 ちょっとばかり、頬を赤らめて。

 

 

 

 

――BonusTrack ...End

 

 

 

 

「な……なんだ、これ?」

「さぁ……知らないわよ」

 

 そりゃあ、分かるまい。

 今は。



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『それでも、長い話』 メイン:霖之助 稗田家
それでも、長い話


 からり、ころり

    ころり、からり

 

 心がどこにあるか。

 等と言う事は、もう随分と前から知識人達や暇人、趣味人達の間で論議されてきた事だ。

 胸を打つ。誰も駈けた事の無い風が凪ぐ静謐な広い草原、終わりを前に生まれた意味さえ知らぬまま一人痩せ細っていく子供、色彩を変えて地平線の向こうへと沈み行く太陽、きらきらと光る埃舞う廃墟で揺れる首吊り死体。それらは、好悪の差はあれど人の胸を打つ。

 ならば心は胸にあるのだろうか。

 

 ――いや、違う。

 

 そう、彼は違うと信じている。

 胸は感性に動悸する器官であり、それは臓器の機能に過ぎない。では心はどこにあるのか。

 

 ――頭だ。

 

 そう、彼はそうだと信じている。思考する場所は脳であり、命令を下すのは脳である。胸を打つのは脳が命令を出した結果であり、感動も恐怖も歓喜も絶望も脳がタクトを振り、胸がその弦をかき鳴らす音に過ぎない。ならば心と言う器官は頭にあるのだと、心は命令を発し律する場所でこそあるべきだと彼は信じた。思考は心の上位存在だと信じた。

 

 故にその夏、茹だるほどに暑い熱気の中、まるで遥か高い空に上がった際の脳機能の低下――六割ほどの稼動――が彼に起こったとすれば。心の鈍化があったとすれば、それは全て説明のつく事だった。

 

    からり、ころり

 

 そうでなければ、繋がりなど生まれなかったのだから。

 

    ころり、からり

 

 風に揺れる風鈴の音は涼やかで、まとわりつく熱さを僅かばかりとは言え忘れさせた。空を見上げれば、馬鹿みたいに青く、高かった。

 

 ――あぁ、良い天気だ。

 

 里の外れに在るなんの変哲も無い家の軒先に座り、霖之助は湯飲みを片手にそう思った。

 そして、彼は出会った。

 

「す、すまん! ちょっと隠れさせてくれ!!」

「は?」

 

 返事も聞かず、霖之助の家に上がり込み、その背後に隠れた見た目同じ年頃辺りの男に。

 だからこれは、そんな遠い昔の夏のお話。

 

    からり、ころり

    ころり、からり

 

 古ぼけた風鈴が見た、ひと夏の短い話。

 それでも。

 

 

 

『それでも、長い話』

 

 

 

「すまん、お邪魔するぞ」

「……」

 

 数日後、その男は霖之助の住む小さな家の、夏だというのにどこか寒々しい居間に霖之助の返事も聞かず上がり込み、包みを自分の脇に置いて両手を合わせてぺこりぺこりと頭を下げていた。

 

「あの時はすまんかった。ほんと助かった。もうなんつーか、言葉も無いね俺」

「いや、かなり言葉出てるだろう君」

「んで、これ感謝の気持ちつーか、お礼つーか、献上品というか、酒の肴つーか、酒くれねぇ?」「人の話を聴かない上に図々しいな君は」

「ははは、よく言われるけどもう慣れた」

「慣れちゃ駄目だろう。改善する為の努力くらいしたらどうなんだい。人間の美徳なんだろう、努力?」

「めんどくせ。しらね。努力、何それ強いの?」

「君には強敵そうだね」

 

 霖之助は一つ息を吐いて立ち上がり、台所へと向かっていった。

 

 ――不思議な事もある物だ。

 

 霖之助は出す酒を吟味しながら思った。彼は"人"付き合いのし易い様な男ではない。

 その性格がややとっつき難いと言う事もあるが、それ以上に、散見される特徴的過ぎる特徴が人間と容易に交じり合える存在にはしなかった。明らかに人では在り得ない色素で構成された彼の髪と瞳は、見る者に不安を抱かせるに十分であったし、彼自身特に理由が無ければ誰とも繋がりを持とうともしなかった。

 ただ偏屈な程趣味に重きを置いているので、その辺りの事で人里にふらりと現れては探索し思考し検分し、満足したら閑散とした茶屋で熱いお茶を一服して家路につくと言う、少々生活面に問題のある存在でしかない。人が身勝手に思うほど危険な存在では決して無いが、だからと言って社会と言う場所で真っ当な付き合いが成立する者でもない。筈なのだが。

 

「ほら、これで良いかな?」

 

 とん、と居間に在る小さなちゃぶ台に酒と湯のみ二つを置いて、霖之助は無防備に酒を待っていた男にぶっきらぼうにそう言った。居間に捨てるように置かれていた団扇をぱたぱたと振りながら、男は霖之助が持ってきた酒を見て嬉しそうに笑った。

 

「お、安い酒も好きだぜ、俺。酔いが早く回って楽しいよな、これも」

 

 扇いでいた団扇を離し、自分の横に置いていた包みをちゃぶ台の上に乗せ、男はけらけらと、けたけたと笑った。

 

「開けないのかい?」

「なんで? これはあんたのだろ? 俺、これあんたに上げたんだぜ? なら……」

「なるほど、開けるのは僕、か」

「そそそそ」

 

 霖之助はその言葉に、苦笑を浮かべた。どうにも変な男と知己を得てしまった、と、思いながら。

 それがどうにも嫌ではないのが、霖之助は不思議だったが、今は包みが気になるらしく、彼は包みに手を掛けた。男はにんまりと笑ったまま、霖之助が包みを開ける姿を、楽しそうに見ていた。待つ事ほんの一拍程で、包みはとかれ中からやたらと品の良い木箱が出てきた。霖之助は少しだけ驚き、その顔を見て男は一層笑みを強くする。それにむっとしながら、もう何が出てきても驚くまいと心に決め、霖之助は箱を開けた。

 すると中には。

 

「……饅頭、かい」

「そ、饅頭」

「……これは、確か」

「おうよ、里で一番の饅頭屋の饅頭。高いんだぜ? 買うの大変なんだぜ? 暑い中だってのに行列長いのなんのってもう」

 

 男は肩をすくめ、首を横に振りながら、箱の中に均一の大きさで均一に並ぶ白い饅頭を指差しながら笑った。

 

「……良く笑うね、君は」

「苦いもん口にしたような顔してるより、笑ってる方が自分も回りも幸せだろう?」

「それは僕に対する皮肉かい?」

「なんだ、あんたいつもそんな顔なのか? 勿体ねぇなぁおい。人生……いや、人生? まぁいいや。そーゆーの? 損してると俺は思うねぇ」

 

 男は良く笑い、良く喋る。そして表情も良く変わる。

 

 ――自分とは正反対だ。

 

 霖之助はそう心の中で呟きながら、饅頭に手を伸ばし

 

「おっと、先にこっちだろ」

 

 男の差し出した湯飲みに邪魔された。差し出された湯飲みを受け取り、中を見るとやや濁った透明の液体で満たされていた。

 

「……呆れたね。何時の間に酒をあけたんだい」

「あんたの目の前で、普通に空けただけだがねぇ」

 

 自分の手の中にある湯飲みを霖之助のほうに向け、男は笑いながら続ける。

 

「お近づきに、まずは名乗ろうか?」

「……あぁ、僕は霖之助だ」

「霖之助、な。おし、覚えた。俺は――」

 

 名乗りを上げて、二人はゆっくりと湯飲みを合わせ――

 なんとなく。本当になんとなく。

 少しだけ、長い付き合いになりそうだと思いながら。霖之助はゆっくりと酒を飲み干した。

 

    からり、ころり

    ころり、からり

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 湿った風が、風鈴を揺らす。

 仄暗い空が、全てを濡らす。

 

「すまん、待たせたか?」

「君は何を言っているんだ?」

 

 ある雨の日、軒先でしとしとと降り続ける雨を眺めているだけの霖之助に、声が掛かった。

 

「いや、待たせたかと思ってな? で、待ったか? 待ち焦がれたか?」

「いいや、待っていないし、そも約束だってしちゃあいないだろう?」

「お前、そこは、ううん、今来たところ、だろ。常識だろ考えろよほんとに」

「ここは僕の家だろうが。君こそ常識ってものを考えろ」

「もういやこんな人! 実家に帰らせていただきます!」

「あぁ、さっさと帰ると良い」

「雨降ってるんだから引き止めろよ」

「断るよ」

 

 男はこちらを見ようとしない霖之助の隣にどかりと無遠慮に座り込み、濡れた髪と体を拭くものは無いかと辺りを見回した。霖之助は苦笑を浮かべ、少し大きめの手ぬぐいを差し出し、男はそれをひったくるように取ってがしがしと頭を乱暴に拭う。

 

「出て行くって言ってるんだから、せめて傘くらい差し出せよ。風邪引くぞ俺」

「大丈夫だ、君はきっと風邪なんて人間らしい病気にはかからない」

「繊細な俺になんて言い草だ。お前が風邪ひいちまえ」

「生憎と僕は病気に嫌われていてね。もう何年も病気にかかった事が無い」

「知ってるか? そういう奴が病気に掛かると、大抵でっかいのが来るんだぞ? こう、嵐の前の静けさとか、引きのあとの津波みたいな」

「へぇ」

「……っと、助かった」

「あぁ、そうかい」

 

 投げ返された手ぬぐいを横に置き、霖之助と男は二人で雨を眺め続けた。

 

「……で、その手ぬぐい。来ると思ってたのか?」

「なんとなく、ね。この雨もついさっき急に降ってきたから、多分こうなるだろうと思って用意しておいたよ」

「お前良い嫁になれるぞ」

「なんだい、ここから蹴落とされてまた濡れたいのか? 物好きだね、君も」

「んなこたぁ言ってねぇ!」

 

 男は器用に笑いながら怒鳴り、一つ息を吐いてまた笑った。

 

「あぁ、畜生なんだなおい、あれだ、霖之助。あれだぞ」

「あれ、これ、それ、で言葉が通じると思ったら大間違いだ」

「俺とお前の仲じゃないか」

「出会ったらどちらかが死ぬまで殴りあうのが僕らだからな」

「そんな物騒な関係があるか!!」

 

 どこか遠くでくしゃみが二つ響いた。

 

「で、なにが、あれ、これ、それ、なんだい?」

 

 霖之助は怒鳴りすぎて、それでも笑顔のまま息を整えている男に続きを促した。

 男は頭を乱暴に掻き毟って

 

「ん、やっぱな。ここは――お前の居る場所は、どうにも落ち着く……ってな」

 

 やはり笑顔でそう言った。

 霖之助は何も応えず、ただ鉛色の重そうな雲眺めているだけだった。

 

    しとしと、しとしと

    からり、ころり

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 暑さに気だるさをおされながら、小さく鳴る風鈴の音を聞きながら、霖之助は本を読んでいた。ふと、本から目を離し、隣を見ると。

 

「よぅ」

「あぁ、居たのかい」

 

 男が暇そうな顔で、それでも笑顔であぐらをかいてた。

 

「で、何を読んでるんだ? 俺を無視するほど面白いのか?」

「君とこの本では、面白さの方向が違うだろけれど……まぁ、なかなかに面白いよ」

「ほー……で、なんだ? 抱腹絶倒か? お涙頂戴か? 冒険活劇か?」

「伊勢の露、だ。……お涙頂戴、になるのかな、これは?」

「微妙だよな……あれ」

「思うこと、感じることは多々あるけどね」

 

 男は霖之助を顔を眺め、浮かんでいた笑みを一層強くした。

 

「なんだい?」

「いや、なにもねぇよ? 別に本を読んで鳴いたり笑ったりしてるお前を想像して楽しんでるわけじゃ、ない。あぁ、うん」

「ちょっと待っていると良い。そこの棚の上に丁度良い本があってね」

「へー……っておい、なんかその本やたら分厚いな」

「あぁ、丁度良いだろう? 君の頭頂部を叩くには、実に御誂え向きだ」

「それは本の用途じゃねぇだろ」

「利便性こそが領域を拡張していくんだ。一つの進化だろう?」

「鈍器扱いは退化だろ」

「知識とは、暴力さ」

 

 霖之助はにこやかに、本当ににこやかに微笑み、知識の書き記された鈍器を振り上げた。

 

    からり、ころり

    どごす、ばたん

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 茹だるほどに暑い日差しと、温い風の中で風鈴がゆらりゆらりと泳ぎ、からりころりと音を響かせる。

 

「うあー……あちぃー……水、水くれ」

「あぁ、奥に井戸から汲んだばかりの冷えた水があるよ」

「おー、ありがてー」

「一滴だけな」

「お前死ね! 箪笥の角に小指ぶつけた後転がった先にあったちゃぶ台の足に鼻の下強打して死ね!!」

「かなり難しいと思うね、それ」

 

 じーじーと鳴く蝉の声を聞きながら、霖之助は団扇を片手に軒先で生い茂った雑草を見たまま、男に応えた。

 

「あー……生き返った」

 

 確りと湯飲み三杯分の冷たい水を飲み、男は額に浮かぶ汗を袖で乱暴に拭った。

 

「それは良いけどね、君、大丈夫なのかい?」

「大丈夫大丈夫。ちゃんとまいて来たし、大丈夫だって」

「……まぁ、程々にね」

「おう、程々に遊んで程々に食って程々に寝てるから大丈夫だ」

「仕事も程々にしろ。そんなだから、君は家の人間に追われるんだ」

「大丈夫大丈夫」

「根拠はどこにあるんだ」

「あいつらが俺を大事に思ってるのは、知ってるからな。蝶よ、花よ、ってなもんさ。あぁ、籠と鉢の中だけで生きろたって、俺には足も頭もあるってのに、自由を奪われちゃ敵わんぜ」

 

 常に浮かんでいる笑顔を消して、男は忌々しそうに空を眺めながらそう呟いた。

 

「……友人から良い素麺を貰ってね。量が多いんだ、これが。君さえよければ用意するが……どうする?」

「お、じゃあ俺も手伝おうか」

「素麺は、食うのは涼しいけど作るのは熱いが?」

「任せた。俺ここで待ってる、頑張れ、応援してる」

「……君ねぇ」

 

 霖之助は、笑顔戻った男を軽くにらんでから立ち上がって台所へ向かい、素麺を茹でる為の火を用意した。自分一人だけ熱いのは嫌だったが、

 

 ――あぁ、あいつはあれで良い。

 

 そう思った。

 

 ――笑顔であれば良い。

 

 そう思えた。暑い日は思考を鈍らせる。

 けれども、心は確かに何かを浸透させていた。

 

    ぐつぐつ、ぐつぐつ

    ころり、からり

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 降るとも降らぬともとれる曇り空の下、僅かに揺れる風鈴の懈怠な音を耳に、霖之助は生い茂った雑草をそろそろ刈るべきかと思いながら口を開いた。

 

「君は、他者との距離の取り方が、実に下手だ」

「お前に言われると重症みたいで嫌だ」

「確かに、僕もそう距離を測ることが上手いと言う訳でもない。けれどね、君。あぁ、そこで不貞腐れてる良い大人の君。そう、そこで今畳の上に指でのの字を大量に書いている君だ。畳が傷むから程々にしておいてくれ。君だ。不思議そうな顔をするな。僕は君ほどじゃあないんだ。いきなり出会った僕の友人に求愛した君ほどでは、決してないんだ」

「普通するだろう、あんな美人」

「美人ではあるだろうけれどね、普通は初対面で求愛なぞしないだろうし、君は大事な事を忘れている」

「んー?」

「彼女は、僕の"古くからの友人"だ。意味が分かるだろう」

「……いいや?」

 

 きょとん、とした顔で首を傾げる男に、霖之助は困った顔になった。

 

「僕が言えた事ではないんだろうが、言わせて貰うよ。君はもっと危機感を持つべきだ。

君は、人間で……僕らは、外側の存在だ」

「霖之助、それはおかしい」

 

 背を伸ばし、子を叱るような態度で向かい合う霖之助に、男はあぐらをかいたまま口の動くまま思うまま言葉を返した。

 

「お前の友人相手に、なんで俺が危機感なんてもん持たなくちゃいかんの?」

 

 自然体で。さらりと。

 

 霖之助は一瞬全てを忘れ、数秒ほど何もかもを遮断して空白の中に身を置いた。

 そして、肩を震わせ顔を俯かせ――

 

「……これは……参ったな」

 

 痙攣する表情筋を覆い隠すように、右手で顔の全てを覆って――

 

「……く、くくく」

 

 笑った。

 

「? なんだ、いきなり。壊れたか? 医者呼ぶか?」

「くく……実に失敬だよ、君って奴は」

「よく言われる、家の外で」

「あぁ、君はこの僕の……君の家以外の僕の家に勝手上がり込んできた時も、たいがい失礼だったよな。くくく……」

「だって、さっさと仕上げろって追って来るんだぜ? あれも大事だって事は理解してるけどよぅ。俺もっと遊びてーしー。まさか他人の家に上がりこむとは、お釈迦様でも思うまい、ってな」

 

 二人は顔を見合わせ、意味も無く笑った。

 

    けたけた、くすくす

    からり、ころり

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 珍しく涼しい風の吹く夕刻、赤い色に染まったまま凪ぐ風鈴の音を聞きながら、霖之助は我等こそが庭の主と主張する雑草を眺めたまま、熱いお茶をゆっくりと嚥下していた。

 

「……行ったか?」

「あぁ、帰ったね」

 

 その霖之助の背後から、男が辺りを見回しながら出てきた。

 

「あぁもう、しつこい。五月蝿い。しんどい。煩わしい。あとちょっとだからって、強制されたら敵わんぜよ」

「君が悪い」

「気味が悪い」

「あぁ、大の大人が男の背後に隠れるなんて、実にきみが悪い」

「いや、あすこの箪笥の陰に隠れてたけど?」

「そういう事じゃあないよ。分かって言っているだろう、君」

 

 息を吐いて首を軽く横に振る霖之助の肩をぽんぽんと叩きながら、男は笑う。

 

「頼りにされてるんだ、誇れって。よ、大将。幻想郷一! 色男! 憎いね! 霖之助!」

「狐矢だ。しかも一発たりとて当たりはしない」

「狐矢とも言えねぇじゃねぇか、それ」

「あぁ、君の放つ矢なんて、そんな物だよ。まぐれでも、当たらない。君はなんて業が深いんだ」「どんだけ出るんだ、言葉」

「君が相手なら、僕は何を言っても言いのだよ」

「じゃあ優しく囁いてくれ」

「ほぅ、そんな事を所望するのかい?」

「……気味が悪い」

「僕もだよ」

 

 二人は同時に肩をすくめて、苦笑を浮かべた。

 湯飲みの中はもう空っぽだった。代わりに、何かは満たされていた。

 

    からり、からり

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 落ちて、昇って、過ぎて、流れて。緩やかに、穏やかに、嫋やかに、健やかに。

 すれ違い、行き違い、生き違い、それでも全ては巡り廻って恵まれて。

 やがて時は枯れて行く。或いは、水を遣り過ぎた花の様に、腐っていく。

 

「書き終わった」

 

 終わり。

 

「……そうかい」

 

 終わり。

 

「もう、儀式の用意をしてる」

 

 終わり。

 

「……そうかい」

 

 終わり。

 

「……霖之助」

「……なんだい?」

「じゃ、またな」

「……」

 

 終わり。

 

    風鈴は、何も語らなかった

 

 空白が続く。霖之助にとって、空白が続く。

 故に記す事は無く、歯車の廻る世界は、その音だけで何も無い。

 感情も、時間も。

 交わりも、絆も。

 空白が、続く。

 

    雑草が風に揺れているのに、風鈴は何も語らなかった

 

 その雑草も、いつしか枯れて失せていた。

 歯車の回る世界で。歯車だけが回る世界で。ただの螺子でしかない霖之助は、歯車だけの世界では誰とも噛み合えず、一人在り続けた。

 真っ白に。

 

 

 

  ■ ■ ■

 

 

 

    ――

    ――

 

 心がどこにあるか。

 等と言う事は、もう随分と前から知識人達や暇人、趣味人達の間で論議されてきた事だ。

胸を打つ。都合の良い物だけを集めた雑音の無い箱庭、産声も上げないまま溶けて消え行く命、黒一色で塗りつぶされた夜、凪いで尚音を鳴らさない風鈴。それらは、好悪の差はあれど人の胸を打つ。

 ならば心は胸にあるのだろうか。

 

 ――いいや、心は。

 

 霖之助自身の中では、とうの昔に答えの出ている事だ。

 彼は住まう小さな何も無いあばら屋の軒先で、何も無い庭をただ眺め続けた。

 

「……もし」

 

 そこに、影がさした。

 

 霖之助は視線を横へと移し、その影と声の主を見る。

 

「……」

 

 女が一人。

 上質の着物を着た、物憂げな、儚い空気を纏った女が居た。

 

    『ちょっと隠れさせてくれ!!』

 ――違う。

 

 霖之助の脳裏に、かつての友人――親友の顔が鮮明に思い出された。

 

「もし」

 

 女が再度、声を出した。顔には、夏の日の日陰を思わせる内向的な笑みが浮かんでいる。

 

    『任せた。俺ここで待ってる、頑張れ、応援してる』

 ――違う。

 

 その笑顔と、違う。

 

 霖之助は、なるほどと思い腰を上げ、女の居る方へと歩いていく。

 

 一歩、二歩、三歩。徐々に二人の距離は近づき、女の足元にある伸びた影が霖之助の足に踏まれ――

 

「……え?」

 

 霖之助は、そのまま横を通り過ぎた。

 呆然とする女をそのままに、彼はそのまま歩み去ろうとし。ふと、何か思い出したかのように立ち止まり振り返った。

 

「……風鈴」

「え?」

「あすこにある風鈴、もし要るなら持って行くと良い」

「あ…………え?」

 

 そのまま、また歩き。

 去った。

 

 ――違う。

 

    『じゃ、またな』

 その声とは、違いすぎる。

 

 違う、違い、違って。

 誓う、誓い、誓って。

 

 ――別の人物だ。

 

 もう、再会を誓った親友は、何処にも居ない。

 

 だからそう、彼はそのまま歩み去る。例え背後から何か声が聞こえても。例え背後から何か音が聞こえても。その音が、何かを振りかぶり――

 

「……」

 

 霖之助は、後ろに振り返った。彼の足元には、あの家の軒先に吊るしていた風鈴が転がっている。そして、後頭部には僅かな痛みがあった。

 見れば女が一人、少し向こうで肩で息をしながら彼を睨んでいた。どうやら、これを投げたらしい。

 

「……風鈴の使い方、間違っていやしないかい?」

「利便性こそが領域を拡張していくんです。一つの進化じゃないですか」

「道具に対する冒涜だ」

「貴方にだけは言われたくないような気がします」

「……そうかい」

 

 霖之助は足元に転がる風鈴を手に取り、指で弾いた。

 

    からり

 

 音が確かに響いた。どうやら、風鈴は再び自身の役割を思い出したらしい。

 くすりと一つ笑いを零し、霖之助は女と向き合った。

 

「僕の事を、覚えていたのかな?」

「……いいえ」

 

 女は頭を横に振って、小さな声で呟いた。

 

「……先代の日記に、貴方の事が書かれていました。もしこれを見たら、出来るなら……可能ならば」

「ならば?」

「おちょくって来い、と」

「君達は、生き急いでいるようにも、暇人にも思えるね」

「見つけたの最近です。ですから、そう暇人でもありませんよ」

 

 女は霖之助に歩み寄り、目の前で立ち止まり手の平を彼に向けた。

 

「……?」

「返して下さい。それはもう、私が貰ったものですよ」

「……おちょくりに来たんだね」

「まさか。私、暇人じゃないですよ」

 

 からりころりと音を奏でる風鈴を、霖之助は女の手の平に置いた。女はそれを満足そうに微笑み、霖之助を見上げた。日陰のような匂いがする癖に、良く見れば瞳にだけは好奇心が詰まった笑みだった。

 

「暇人と言うのは、多分貴方の様な人の事です」

「どうしてかな?」

「待っていたのでしょう?」

「……あぁ、待っていた」

「とても、暇人です」

「あぁ、待っていたんだ。君以外を」

「……そう、ですね。私は、先代ではありませんから」

 

 笑みが消え、女が持つ独特な日陰の空気が強くなる。

 

 霖之助は一つ咳を払い、口を開いて言葉を紡いだ。

 

「あぁ、あいつは嘘つきで薄情者だ。どうやら、もう会えないらしい。だから君、暇人の相手をしてくれないか?」

「……え?」

 

 目を大きく開いて、女は霖之助を見上げる。女が見た霖之助の顔には、薄く笑みが浮かんでいた。

 

「暇人でね。友人を募集中なんだ。こんな形でも寂しい時も、まぁあってね。僕は霖之助だ。君の名前を教えてくれないか?」

 

 まずはそこから。

 

「わ、私は……阿――」

 

 そして、そこから。

 

 風鈴は二人の間でゆらゆらと揺れ、その音色を奏でる。

 

    からり、ころり

 

「私、頑張って霖之助さんの事おちょくりますから!」

「それは必要ない」

 

    ころり、からり

 

 その友人関係がいつまで続いたかは、誰も知らない。知る必要など、無いことだ。

 当人達、以外は。

 

 

 

    ――了




☆後日談もどき
「で……ここに入るまでどれだけ懊悩されたんでしょうか?」
「……」
ある日、大きなお屋敷で男と女が向かい合って言葉を交わしていた。
「蝉の事が聞きたい。なるほど、先代と先々代の日記から知った、実に貴方らしい行動だと思いますが。さて、ここに来るまでどれだけ懊悩されました?」
「……」
「喋らないと、教えませんよ。今後も何か邪魔しますよ。色々とこねを使って色々しますよ?」
「あぁ、忌々しい」
「いきなりなんですか、失礼な」
「忌々しい、実に忌々しい。君の言っていることがただの絵空事や性質の悪い妄想なら僕も鼻で笑えた物を。それが事実だから尚の事忌々しい、本当に忌々しい」
「貴方を玩具にする事も、我が家の決まりですので」
「そんな決まりはない」
「いえ、先代と先々代がちゃんと決まりとしましたので」
「こんな家潰れてしまえ」
「あぁ、先代、貴方の思い人はなんと薄情な人でしょうか。こんな人を我が背、等と書きしたためたなんて、なんて可哀想な先代」
「いや、待て」
「なんでしょう?」
「……君は、どこまで?」
「……さぁ?」
「……」
「恋文は、ちゃんと処分しておくべきでしたね。それと、処分もさせておくべきでしたね」
「あぁ、忌々しい、忌々しい!!」
そんな日があっても、多分良い。


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九の前と、その前の話

 ――ある通りを歩くと、稀に不可思議な風景が見られる。

 

 ここ最近、そんな噂が人里の中で囁かれていた。

 話を友人から聞いた者は何を馬鹿な事をと頭を横に振り、噂を知人から聞いた者は事実ならば世も末だと頭を抱えて嘆いた。

 

 今人里を一人ひたひたと歩く上白沢慧音は、前者である。女性としては長身とも言える背を伸ばし、規則正しく歩く彼女の姿は氷の様に冷たげで、厳としている。

 慧音という女はその姿同様、律格的だ。道義というものを過去から学ぶ保守的な側面を多く持つ慧音にとって、耳に入った噂と言うものは余りに絵空事である。

 

 ――まず、そんな事は無いと言っても良いだろう。

 

 確たる証拠はないが、幻想郷の歴史を見てもまずない事であったから、彼女は自身の断言を絶対の物だと信じた。慧音は、噂に上がった"風景"とやらの対象を両方知っている。

 一人は篭りがちで、まず他者と好んで接点を持ちたがる存在ではない。一人は篭らせられがちで、有名ではあるが直接会う事などほぼないといって良い存在である。

 

 慧音が良く知っているのは前者で、此方とは縁が深い。後者は話に聞いた事と、遠目に見たことがある程度だ。それでも、やはり噂には無茶があると分かるのだ。

 まず在り得ない事なのだから、そこに知己の深さは必要とされなかった。常識が必要だったというだけの事だ。

 

 ――妄言が流れる時は、歴史の節目とあるが……そんな物じゃないだろうな?

 

 なんとはなし、彼女はそう思った。そしてそれこそが妄言だと気付き、頭を抱え、口元に小さく笑みを浮かべる。馬鹿馬鹿しいと首を横に振ってから、慧音は顔を上げ常通りの人里の通りを視界におさめ。

 

「……は?」

 

 らしからぬ、間抜けな声を上げて立ち止まった。

 

「疲れたような顔をして、なんだおい、同情でも誘ってるのか霖之助?」

「憑かれているから、疲れるんだ。離してくれ」

 

 何やら疲れたような、動くのも億劫そうな青年の背を乱暴に叩くもう一人の青年の姿を見て、慧音は両の目を乱暴に擦り、今一度と眼前を、キッとねめつけた。

 

「……」

「……」

 

 そして。そんな慧音を。

 霖之助と呼ばれた男はそのままの――つまりは、疲れた顔のまま眺め。もう一人の青年は、驚いたように眺めていた。

 

「霖之助! 霖之助おい! えらい美人がこっち見てるぞ!」

「あぁ、うん、あれは睨み付けてるといった方が正しいと、僕は思うんだが」

 

 自身の耳に入ってくる二人の言葉が、文字通り右から左へと流れていく中で、慧音は茫然と噂を思い出していた。

 

 曰く "当代の稗田の賢者 阿七 雑じり物と友誼あり。里路を談々笑々と歩く姿 まるで兄弟の如くあり"

 

「想定外だろう……それは……」

 

 無意識のうちに、小さく開かれた口から零れた慧音の言葉に、霖之助は"だろうなぁ"といった顔で頷いた。

 

 

 

《九の前と、その前の話》

     続 それでも、長い話

 

 

 

   ■□⊿ 前の前の場合

 

 

 

「つまり、お前はこんな美人を俺に隠して居た訳だ?」

「君に僕の全てを曝け出す必要がある、と?」

「あるに決まってるだろう」

「なら、君も全部曝け出せ」

「よし、待ってろ」

「いや、待て」

 

 いつも通り、霖之助の家の一室で会話を始め、霖之助の言葉に応じて突如自身の着物を脱ぎだそうとした男を、霖之助は辛うじて、間一髪で止めた。

 

「何故に脱ぐ?」

「裸の付き合いという言葉を、お前は知らないのか?」

「知ってはいるが、君のそれは大分言葉を捻じ曲げている」

 

 頭を横に振る霖之助の、意外に強く留める力に辟易したのか、男は口をへの字に曲げて鼻から息を吐き、襟元を正して座りなおした。

 

「……想像以上に、面白い御仁ですね……稗田の方は」

 

 そんな男に、一応の笑みを浮かべ声を掛けたのは、霖之助の部屋まで着いてきた、未だ出された酒に手を伸ばさない慧音である。稗田の方――そう呼ばれた男、当代の人中の賢者とされる阿七は、ちらりと慧音を見て霖之助を見た。

 

 ――珍しい事もあったものだ。

 

 傍若無人と言っても過言ではない阿七の、常成らぬ大人しい態度に、霖之助は肩をすくめ小さく笑った。なるほど、自身も彼も、確かに理解仕切れていないのだろう、と。

 

 今、当たり前のように彼らは向き合っているが、これは幻想郷という世界において正しい姿ではない。 人間は人間で生きる領域を持ち、それ以外と深く関わることはまず無い。

 自身よりも強大な、それこそ恐ろしいほどの強力を持つ隣人を、好意的な目で見られるほど、人間と言う生き物は善性の者ではない。

 

 恐れる。恐れるが故に距離を置き、交わる事がない。

 同じ狭い世界に生きながら、歩みよりはほぼなかった。在ったとしても、それは個としての歩み寄りであり、契りばかりであった。この問題が一応の解決を見るには、まだ時間が必要であったのだ。

 

 向かい合って、軽口を叩き、笑いあう。

 この時代には相当に珍しい。いや、これがただの人間とただの妖怪の出来事であったならば、ただ珍しいだけで済んだだろう。

 しかしながら、この男達はただの人間でもただの妖怪でも無い。

 

「……在りなのか、それは?」

 

 だから慧音の独り言は、阿七と霖之助の耳に入った。二人は顔を見合わせてから、頷いた。

 阿七は当然だ、と言った顔で。霖之助は、苦笑いで。

 

 そんな二人の顔を見て、慧音は暫し目蓋を閉じ……ゆっくりと目を開いてから今まで手を出さなかった湯飲みを手に取った。中に入った濁った酒を一口含み、嚥下する。

 ふぅ、と息を吐いてから、慧音はここに来て初めて、本物の笑みを浮かべ

 

「まぁ、在りなんだろう――」

「結婚してください!」

「――な?」

 

 湯飲みを手から落とした。

 

 畳に広がっていく染みを、あれは誰が拭くのだろうか、などと思いながら霖之助は眺める。そして、ついと視線を動かし、突如意味不明の言葉を叫んだ物体を見つめて、ぼそっと呟いた。

 

「君は、馬鹿だな」

「人に敬われる俺を捕まえて馬鹿たぁなんだ、馬鹿たぁ」

「ああ、悪かった、言葉が足りなかったな」

 

 霖之助は大きく息を吸い込み、こう言った。

 

「大馬鹿者」

 

 未だ固まったままの慧音の前で、二人は言葉の応酬を始めた。

 

 

 

   ●

 

 

 

「つまり、惚れたと、言われるわけですか?」

「はい」

「……」

 

 上から、頬を朱に染めた慧音、きっぱりと力強く頷く阿七、無言のまま熱い茶を嚥下している霖之助、である。先程の意味不明な言は何かと言えば、つまりそんな事であったらしい。

 

 ――分からないでもない、か。

 

 無言のまま茶をもう一口と含んだ霖之助は、どこかそわそわとした慧音を見ながらぽんぽんと自身のうなじを叩いた。

 

 上白沢慧音は、美人である。どこか色素が抜けたような白い肌も、それに合うようにと用意された銀髪も、森閑とした冬の湖面を思わせる。

 上白沢慧音は、理知的である。切れ長の瞳は、ともすれば誰彼構わず睨みつけているような印象を与えがちだが、慧音のそれは知性と理性を見る者に感じさせる玲瓏な物だ。

 上白沢慧音は、艶やかである。その外見同様、黄色人種からはどこかかけ離れた容姿は、彼女の女性としての曲線にも強く現れていた。

 

 だから、上白沢慧音は美人である。

 それも、酷く非現実的な。

 

 そういった類の物が目に入った場合、拒絶するか無視するか、の二つばかりが選択肢として取られがちだが、稀に三番目、四番目の選択肢を強引に引きずり出して選び出す存在が居る。この場合、阿七がそうであった。

 

「その……いきなり求婚、されましても……どう、言えば良いのか」

 

 霖之助にしてみれば、今の慧音は珍しいどころか、まず今後見る事があるかどうかの稀有な姿である。 あるが、その理由が分かる"同類"としては、助け舟を出すという行為で邪魔して良い物か、このまま椿事を眺めて弱みを握っておくべきか、迷わせるばかりだ。

 

 ――迷惑は、してないか。

 

 霖之助は慧音の顔色を見て、そう感じた。 朱色に染まった頬は春の桜の花弁の様であり、きょろきょろと動く目は困惑にこそ細められているが、そこに嫌悪の色は見えない。

 だがしかし。

 

 ――だがしかし、だ。

 

 さて、と小さく、本当に小さく呟いて、霖之助は頭を抱える。

 阿七の、その熱心な、求愛の熱が篭った視線の先を知れば。知れば、どうなるのか。どうされるのか。彼はどこかに居るのだろう神様に、一人何事も無く終わってくれと嘆願していた。

 

 さて。慧音である。

 慧音は酷く困っていたのは、どうしようもない事実だ。彼女は霖之助の同類だ。

 半分。雑じり物。先天的なそれでこそないが、慧音は半妖だ。厳密には半人半獣。人ではない。だからこそ慧音は霖之助と縁を結び、友人として在る事となったのだが、しかし求愛される要素はそこに一切無い。

 

 それらの、どこかおかしな物を愛でる趣味でもあるのかと慧音は考えたが、彼女を見つめる阿七の目はどうにも真摯で、偏執的な欲情の熱は感じられない。つまり一個人としての、誠実な求愛であり求婚である。

 何度も、何度でも言うが、彼女は人間ではない。真っ当な恋も愛も、もうこの身を過ぎる事も留まる事も無いのだと半ば諦めていた彼女にとっては、阿七の熱気を帯びた視線は、猛毒の様にも思えた。

 

 ――あぁ、困った。

 

 今後あるか無しかも分からぬ、女としての幸福にも似た苦悩に頭を悩ませながら、意味も無く唸る慧音は。ふと、それに気付いた。

 

「……」

「……」

 

 そして無言のまま、慧音と阿七はそれぞれ視線を交差させる事も無く見つめあった。

 

「あの……もし……?」

「分かりました」

 

 慧音の困惑気味な声を無視して、阿七は自身の膝を叩き、声を大きく張った。

 

「結婚が駄目なら、まず友人からどうでしょうか!」

「いや……あの……」

「それも駄目か……」

 

 自身の言葉に、どこか身を引きながら応える慧音に、阿七は顔を俯かせる。

 

「ならッ!」

 

 やおら、くわッ、と顔をあげ、阿七は大声で叫んだ。

 

「幾ら出したらその胸揉ませてくr」

「やはりそこを注視していたのか……ッ!!」

 

 慧音の豪腕から繰り出された拳を頬に受けて、阿七は面白いほどに吹き飛んだ。襖を突き破り、廊下を滑り、柱にぶつかってからやって止まった。

 

「……」

 

 はぁはぁと息をしながら、自身の肩を抱きしめ胸を護るような姿をとる慧音と、無残に破壊された自宅の襖を眺めながら、霖之助は思った。

 

 ――誰が直すんだろうなぁ、これ。

 

「……す、すまない……つい」

 

 殴り倒した事で気が静まったのだろう。慧音が霖之助を気まずげに見ながら、口を開く。が、その姿は肩を抱いたままの、か弱げなそれだ。

 

「だがな、霖之助……言わせて貰うぞ」

「ああ、どうぞ」

 

 諦めきった、悟りを開いたような霖之助の言葉に、慧音は頷いた。

 

「友人は、選べ」

「僕だって、三文芝居をうつような友人達を、好んで欲しいとは思っちゃ居ない」

「三文芝居とはなんだ、三文芝居とは。達とはなんだ、達とは」

 

 眉を危険な角度に吊り上げて、慧音は霖之助の言葉を捕まえる。

 

「だから――」

 

 が、霖之助が何か言おうとして口を開いたところで、違う声が割り込んできた。

 

「霖之助! 今俺殴った時ぶるんって、ぶるるんって震えたぞ!」

 

 阿七の嬉しそうな声である。何が震えていたとは、断言していない。

 いないが、この状況で"何が"震えたのか理解できない者は、悲しいことに、本当に悲しい事に居なかった。

 

「よし、もう一発殴るぞ?」

「僕に聞かれても」

 

 何故か自身を見て息巻く慧音に、霖之助は肩を落として返した。

 

「というか、なんで君は殴られておいてそんな嬉しそうなんだ」

「だってお前、ぶるるん、だぞ! たゆん って程じゃないけど、ぶるるん、だぞ!?」

 

 未だ這い蹲ったまま明瞭とせぬ言葉を歓喜と叫ぶ友人に、霖之助は苦笑いを浮かべながら、心底思った。

 

「君は本当に、大馬鹿だ」

 

 こんな事が楽しいと思える自分も、きっと大馬鹿だ、と。そんな霖之助の笑みに打たれたのか。

「……まったく」

 

 慧音も同じく、苦笑いを浮かべて肩をすくめ、ゆるりと座りなおした。阿七も這いずりながら自身が座っていた場所まで戻り、どうにか座りなおしていた。

 

 誰も言葉を発しない。

 それは気まずさや距離を測るための沈黙ではなく、ただただ自然に舞い降りてきた音の間隙だった。なんとなく浮かぶ苦笑いに、言葉には出来ないくすぐったさを感じながら、ふと、慧音は喉に渇きを覚え周囲を見回した。

 が、彼女の湯飲みは転がったままで、当然中にあった酒はない。霖之助にもう一杯頼もうか、とした彼女の目の前に、湯飲みが出された。見れば、阿七である。彼が湯飲みを持って、慧音に差し出していた。

 

 片目を瞑って差し出すそれは、ちょっとした罪滅ぼし、なのだろうか。

 

 ――そう、だろう。

 

 だから慧音は、笑みを浮かべて一礼し、それを受け取り、湯飲みの中に在ったぬるい茶を飲み――

 

「それ、僕のだぞ」

 

 苦い顔をした霖之助の顔に、勢い良く吹き付けた。

 

「……何が目的で、こうも悪さをするんだろう……貴方は」

「そのけしからんおっぱいが悪い」

 

 真顔で返す阿七に、慧音が再び息巻く。

 

 ――なんだこれは。

 

 慧音が吐き出した茶を顔に残したまま、霖之助は疲れた顔で天井を見上げた。

 いつも通りの面白味のない天井だが、その下でなされる会話や行動は常のものとは程遠い。

 

 人間も、稗田も、半妖、半獣もそこには隔てが無い。誰も彼も、今ここで自由に在るだけで、縛られる価値観も無い。だから彼は、ここも一つの幻想郷なのだと一人頷いた。

 全てを受け入れる。だからこその、狭い世界。

 

 とは言え。

 

 ――自宅の損壊は、受け入れたくはないんだが。

 

 再び暴れだした慧音と、再び吹き飛ばされる阿七を視界の端に辛うじて収めながら、霖之助は着物の袖で顔を拭い始めた。

 

 

 

   ■□⊿ 前の場合

 

 

 

 ――ある通りを歩くと、稀に不可解な風景が見られる。

 

 ここ最近、そんな噂が人里の中で囁かれていた。

 話を友人から聞いた者は何をたわけた事をと頭を横に振り、噂を知人から聞いた者は事実ならば世も終わりだと頭を抱えて嘆いた。

 

 今人里を一人すたすたと歩く上白沢慧音は、前者である。

 

 ――うん、その筈だ。

 

 慧音は何か眼球の奥で疼く既視感と、ちくちくと痛む胸の奥に苛まれながら、それを無視して頭を振った。

 

 もう百年も昔、人と半妖が兄弟の様に歩く姿が見られた。しかも当事者達のうちの一人は、阿礼の転生者その人である。慧音は燦々と輝く太陽を見上げ、悲しげに笑った。

 

 ――もう、彼は居ない。

 

 転生者、と言えば、知らぬ者からすれば、故人がそのまま戻ってくるような印象を与えてしまうが、実際はもっと複雑である。

 

 阿礼が残そうとしたのは知識であり、人格ではない。人格に付随する記憶も、当然残そうとはしなかった。

 或いは、転生の際引き継がれるごく記憶――知識――の継承だけに留める事で、人間から逸脱するその身を、どうにか人間側へと残そうとしたのかもしれない。歴史的には断片となるが、同じ人格と同じ知識を持つ人間が時間の中をこびり付くように残留する事は、どうにも不気味だ。それはもう、人間ではない。妖怪でも、神でもない。

 記号だ。

 

 ――辛うじて、人間。

 

 今の、今までの稗田の賢者達は、まさに辛うじて人間だった。

 違うからこそ、彼らは意味を持つ。違う価値観を持ち、違う史観を持ち、違う知識を集める。それは最終的に見れば人間外の生誕を望む奇妙な手術の繰り返しになってしまうが、個として残って逝った人格達は、時代時代にそれぞれが違う賢者として留まるのだ。

 医学に興味を持つ者も居たであろうし、純粋な文学に気を奪われる者も居たであろう。もしかすれば、恋愛文学とやらに一生を捧げた変わり者だって、居たのかもしれない。やるべき事が幻想郷の縁起を編纂だけだとしても、どこかに特色を表わしたであろう何かを、彼ら彼女らは持っていた筈だ。

 

 ――あぁ、可能性は、ある。

 

 変わり者。

 もう居ない、慧音と霖之助の友人。半獣の彼女にふざけた求愛――いや、あれは求愛なのだろうか――をした正真正銘の変人である。

 

 眩しいばかりの太陽から逃げるように顔を俯かせ、慧音は顔を顰めた。

 

 ――変人……か。

 

 変人だっただろう。稗田阿七は誰が見ても――いいや、阿礼ではない等身大の彼を良く見た慧音と霖之助にとって、彼は変人だった。会えば「今日も良いおっぱいだな慧音」等という人間が普通のはずが無い。間違いなく、変人である。

 しかし、それ以上にどうしようもなく、愛おしい存在では、あった。

 

 短い、本当に短い生命の灯火を与えられてしまった稗田阿七という男は、男女の愛を別して慧音にそう思わせるだけの存在だった。短い路だからこそ、偽らなかった。短い路だからこそ、在りのままだった。

 わがままで、勝手で、縁起以外の何かを、自身の証明として残そうと馬鹿をやって笑い続けた青年は、もうこの世界のどこにも居ない。それは、寂しい事だ。

 悲しい事で、残酷な事だ。そんな物を残すまいと、稗田阿七は笑っていたのだから、より一層悲しくなる。それが個人の想いを汚すかも知れないという事は分かっても、慧音の感情はやはり納得しなかった。

 

 だから、彼女は一人歩く。

 阿七が消えて以来、塞ぎこんだ霖之助を見舞う事も出来ず、稗田の家からも一層遠ざかり、彼女は自身の悲しみを如何にか癒す事で立ち直る事しか出来なかった。傷の舐めあいも、思い出の共有も、必要だとは思えなかったのだから、慧音としては距離を取る以外なかったのだ。

 

 ――霖之助が聞けば強いとでも言いそうだけれど……。

 

 悲しみの海の中に浸る事も、また違った強さであると、慧音は思う。後ろ向きの努力だと人は言うだろうが、痛みと向かい合う姿勢を否定する事は、慧音には出来ない。

 そして、そんな真似も出来ない。だから彼女は、距離を取るという名目で逃げたのだ。

 それらは弱さだとか強さだとかで測れるものではない。在り方が違うだけの事だ。親しい存在が失せた時、どう行動するかという、ただただそれだけの事だ。

 

 慧音は息を吐き、自身の中に篭った長考を共に吐き出した。

 そして、また姿勢を正し常の通り歩き出す。真っ直ぐと前を見ながら、淀みなく。

 

 為に。そんな物を、彼女は目にしてしまった。

 

 自身とはまた違った色彩を放つ銀髪の青年と。そんな青年の三歩後ろを歩く、若い少女の姿を。

 

 眼球の奥で蠢く既視感が、ここぞとばかりに暴れだした。慧音はその暴れだした既視感を如何にかしようと目蓋を閉じ目を揉んだ。

 

 ――よし。

 

 軽く息を吸ってから、彼女は目蓋をゆっくりと開いた。

 

「……」

「……」

 

 そして、無言のままこちらを眺める二人と、目が合った。

 

「霖之助さん……なにやら凄い美人の方が貴方を見つめておられますが……?」

「……いや、待ってくれ、君は多分何か大きな間違いをしている」

 

 自身の耳に入ってくる二人の言葉が、文字通り右から左へと流れていく中で、慧音は茫然と噂を思い出していた。

 

 曰く "当代の稗田の賢者 阿弥 雑じり物と友誼あり。里路を談々笑々と歩く姿 まるで夫婦の如くあり"

 

「……霖之助、ちょっとこちらに来い」

 

 無意識のうちに、小さく開かれた口から零れた慧音の言葉に、霖之助は"何ゆえか"といった顔で項垂れた。

 

 

 

   ●

 

 

 

「つまり……恋仲である、と?」

「えぇ、そうです」

「……」

 

 上から、苦虫を噛んだような慧音、きっぱりと力強く頷く阿弥、無言のまま熱い茶を嚥下している霖之助、である。

 

 流石に人里の通りで話し込むのは不味かろうと、三人は近場に在った茶屋の一室を借りて話を続ける次第となった。約一名としては、話す事なく分かれたかったのだが、女性二人の有無を言わせぬ迫力に負けて頷くより他なかった訳である。

 

 ――譲っただけだ。負けたわけじゃない。

 

 どうでも良い事にこだわりながら、霖之助はちびちびと茶を飲み続けた。

 そんな霖之助を放って、慧音と阿弥は会話を続ける。

 

「これは、稗田の方が恋仲に、と求める程の者ではないと、私は思うのですが?」

「えぇ、万人向け、とは言えませんね」

 

 当人を前に、随分と酷い会話である。

 

「ならば、どうして……とお聞きしても?」

 

「構いません……そうですね。万人向きではないけれど、私向きではあった、という事でしょう」

「……」

 

 断言する阿弥に、慧音は僅かに眉を顰めた。そんな慧音の顔を見て、阿弥は袖元で顔の下半分を隠して続けた。

 

「分かりました、こう言いましょう」

「……はい?」

「早いもの勝ちでした」

 

 小さな、本当に小さな、慧音の耳に辛うじて聞き取れた言葉は、隠されていない顔半分から見える瞳は、勝ち誇った色を持っていた。

 

「……さて、聞こえぬ言葉でしたので、私にはなんとも」

「あぁ、これは失礼を。もうそっと大きな声で言いなおしましょうか?」

「結構です」

 

 憮然と返す慧音に、阿弥はそうですか、と興味無さ気に返して霖之助の世話を始めた。髪が跳ねていると言って髪を撫でたり、襟元が歪んでいるといって直したり、である。が、慧音が見る限り、髪は跳ねていいないし襟元も歪んではいない。何より、興味無さ気にそうですか、等と言った割りに、ちらりと慧音を見る視線は、どこか鋭利だ。

 

早いもの勝ちでした。

 

 なるほど、そうだったのだろう。われ知らず、慧音は頷いてしまった。

 誰も知らない事である。恐らく、この星において、一人――当人以外誰も知らぬ事であるが。

 

 慧音という女性は、霖之助を憎からず思っている。

 

 いた、ではない。いる、のだ。

 雑じり物同士、なんとなく続いた友情ではあったが、何時頃からか判然としないも、確かに女の感情が宿ったのだ。気の迷いであると思ったのは、仕方の無い事だった。

 一年もすれば消える。そう思いこんだ。だが消えなかった。

 二年もすれば、三年もすれば、四年もすれば。だが、消えなかった。

 いつか思いは蒸気となって空へとのぼり消え去るのだと慧音は信じたが、それは阿七の時、距離をとったあの時にさえ消えることは無かった。

 

 彼女は雑じり物だ。人間でもなく、妖怪でもなく、それ以外の何かでもない。一種一妖とさえ言ってしまえるような、孤立した生命だ。

 この狭いとは言え多種多様な命が咲き誇る幻想郷でも、未だ彼女の同類はいない。近い物はあっても、半分獣という変り種は、いない。故に、この身には恋も愛も関係なく、留まる事無く消えていく泡の様な物だと思い込んでいた。

 

 霖之助に出会い、彼と長年を共にするまでは。

 そこに希望を見てしまった。もしかしたらと、思ってしまった。男と女。句の平仄の様な合わさりあう生命の意味を、彼女は霖之助に見てしまった。

 それがどれほどに淡くとも、心から零れ出ぬ小さな想いだとしても、恋をしているという事実は消えてなくなりはしない。

 

 もしかしたら、それは霖之助も同じではないのだろうか。都合のいい話だろうが、慧音はそんな風に心のどこかで思っていた。距離も取らず、そのままで居れば繋がったかもしれない想いは、しかしこうして繋がる事無く、霖之助は当代の阿礼乙女と結ばれた。

 

 口惜しいと、思わないわけではない。だが、傷を癒すと言って逃げたのは慧音で、原因はそこに含まれている。

 

 ――まず、すべき事が、あった。

 

 一言一言、ゆっくりと胸中で呟き、慧音は笑みを浮かべた。その相に、阿弥は首をかしげる。

 

「おめでとう。二人のそれが良縁であると、信じよう」

 

 彼女は独立した一己だ。だから、苦しめたくないと思う。

 繋がった何かを、邪魔したいとは、思いたくない。だから笑う。

 三十年にも満たないだろう阿礼乙女の命は、多分霖之助と役目の為にすり減らされる。

 それは気高い想いだ。きっと、多分、霖之助にとって価値のある優しい時間だ。

 

 自分の恋で邪魔をして良い物ではない。

 慧音は自身の出した答えに満足し、だから微笑んだ。

 

「……強敵、でしたか?」

「さて……今後もぶり返さないとも知れない身としては、過去形にして良い物かどうか」

 

 阿弥の言葉に、慧音は含んだ言葉で返す。そのまま両者は見つめあい……阿弥もまた、笑顔を浮かべ一礼した。

 

「ありがとう御座います。私もこの身を磨き続け、側に在る事を、在った事を後悔させない様、精進いたします」

 

 良縁であった、と慧音は信じた。

 二人はどちらともなく頷き、未来を楽しむ事にした。

 

「……? なんだい、さっきの会話は?」

 

 きょとんとした顔の霖之助に、二人はころころと笑った。

 

 笑われた霖之助は顔を顰めたが、いつしか二人に混じって笑っていた。

 そこに阿七が居ない事が慧音と霖之助には悲しかったが、阿弥との繋がりは彼が運んだ縁である。そう思うと、二人はまた嬉しくなって一層笑った。

 

 

 

   ●

   

   

 

 それで終われば良かったのだろうが、話はまだ続く。あれから二年、少女然とした阿弥にも等しく年は過ぎ去り、彼女を体を少女から女性へと変じさせていった。

 いったが……

 

「絶望的です」

「……」

「絶望的です、慧音」

「いや、それを私に言われても……」

 

 困惑しきった慧音に、阿弥がずずいっと詰め寄る。

 

「どうしましょう! どうしたらいいんでしょう! どうしてこうなった!」

「阿弥、まずは落ち着こう、落ち着くべきだ」

「はー……はー……。落ち着け、と……貴方は言いますが……」

 

 目を据わらせて、阿弥は慧音の体の一部をねめつけた。

 

「持つ者の余裕ですか……こんな悩み、貴方には無縁すぎて鼻で笑える程度でしょうが……」

「いや、これはこれで悩みもあるんだが……」

 

 ねめつけられる自身の体の一部を腕で隠し、彼女は戸惑いながらも返事をする。が、それが逆効果だった。

 

「なら、寄越しなさい!」

「分けられる物じゃないだろう……」

「なら買い取ります! 幾らですか!!」

「なにか懐かしい気分だが、同時にどうしようもなく悲しい気分だ……」

 

 泣きそうな顔の慧音に、阿弥は泣きながら口を動かす。

 

「挟んだり揉み込んだり出来ない私の方が、悲しいです!」

「……」

 

 頬を朱に染め、慧音はそっぽ向いた。それ以外、彼女には何も言えなかったのだ。

 そして、阿弥が泣きながら帰った後、疲れた顔で呟いた。

 

「……あの家の人間は、私の胸に何か恨みでもあるのか……」

 

 

 

   ――了




   ■□⊿ 九の人の場合



「お嬢様、森近様と上白沢様、参られました」
「えぇ、通してください」
「はい」

 返事を返して、侍女は頭を深く垂れて一礼してから退出した。

 この部屋の――屋敷の主である阿求が、上記された二人を客人として招いたのは、実に単純なことだった。先代、及び先々代の個人的な日記に、度々その名が登場するから、である。
 記された内容から見るに、二人はそれぞれ友人として、また霖之助は阿弥の想い人として時間を共に過ごしたらしい。

 記憶を少しばかりは受け継ぐ前転生者と前々転生者といっても、それは阿求の記憶には全く無い個人的な物だった。元を正せば同一存在、とは言え、少々下世話な気がしないでも無いが、人中の賢者としては興味を持ってしまったものは、仕方ない。
 未だ歳若いとすれば許される好奇心だろう、と自身に言い聞かせて、阿求は二人が部屋へとやってくるのを静かに、しかし楽しげに待つばかりだった。

 やがて、少しばかりの時間が流れ、二人が部屋へと入ってきた。
 
「失礼します」

 ゆるりと、余裕をもって一礼し、銀髪の青年が先に入ってきた。

「……まぁまぁ、でしょうか」
「……?」

 阿求の口から零れた意識せぬ小さな一言に霖之助は首をかしげ、阿求はなんでもありませんと返した。

 ――悪いとは言いませんが……先代もまた、不可思議な趣味だこと。
 
 阿求には、阿弥の趣味がいまいち理解できなかった。その辺り、やはり当人ではないと言う証左なのだろうと阿求は得心した。

 そして、二人目。上白沢慧音が、両肩を抱いて、胸を護るような姿でしずしずと室内に入ってきた。

「……」
「……」

 ――変な人が来ました。
 
 阿求がそう思っても、仕方無い事だった。

 しかしその原因は、先代と先々代である。
 その理由を阿求が知り、頭を抱えて部屋を転がりまわるのは、この数十分後の事である。


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『ゑとせとら』
昼寝


 薄呆けたような、不確かな、不明瞭な視界に彼は気を取られた。

 

「おはよう、目が覚めたかしら?」

 

 だから彼は、目の前の少女に気付けなかった。

 

「……あぁ、おはよう」

「今日も良い天気よ、えぇ、憎らしいくらい良い天気だわ」

 

 巫女服を纏った少女に。

 寝ていた彼の頭を、ゆっくりと撫でていた少女の手の平に。

 

 

 

   《昼寝》

 

 

 

 少女の手の平を無造作に払い、眼鏡を外して、彼は眉間を揉んでから一つ背を伸ばした。

 その動作が終えてから、眼鏡を掛けなおし辺りを見回す。

 いつも通り。いつも通りの、錆びた風景だ。

 それ以上、何を思うことも無い。ただ多少とも違う点があるとすれば、それは彼の眼前に佇む巫女装束の少女だろうか。

 

「どうしたんだい、今日はまた、随分と巫女らしい巫女服じゃあないか」

「巫女だもの。これ以外ないでしょ? まぁ……この窮屈な、着せられているって感じも嫌いではないのだけれど……ううん、やっぱり嫌ね」

 

 少女は払われた手を擦りながら、そこで言葉を区切り鬱屈とした音で言葉を再開する。

 

「もっと開放的な巫女服も良いわよね?」

「それが"らしい"物であるかどうか、僕には分からないけどもね」

 

 神に仕えると言う巫女が、開放的な服など纏って良い物かどうかは、今更考えるまでも無い。

 

「私"らしい"のであれば、別に誰も困らないと思うの」

「当代は、巫女の選定からして失敗だと僕は思うのだけれどね」

「なら、それも含めて意志じゃなくて? そうあれかし、みたいな物よ」

「なんとも、君は」

 

 肩を竦めて怖や怖やと嘯く彼に、少女は屈託の無い笑顔を見せた。先程まであった鬱屈の相は無く、それを彼は内心で密やかに喜んだ。

 

「それはそうと、私はお客様よ。それも、起きるまで子守さえしていたのよ、私。お茶の一つも出ないのかしら?」

「勝手に入ってきて、無心かい? やめた方が良いね。里の皆が、巫女の意味を疑ってしまうよ」

「私が疑われないのなら、別に何を疑っても良いわよ?」

「困ったものだ、君は」

「そんな事が出来る場所だから、そうしているだけだもの」

 

 澄ましていれば愛らしいはずの顔に、なんとも含むものがありそうな笑みを浮かべて少女は言った。

 

「あぁ、待っておくといい。昨日から変えていない茶で良ければ、今持ってくるよ」

「嫌よ、そんなの。畳も茶葉も、新しいほうが良いに決まっているじゃない」

「初耳だ」

「そう、寝耳に水でしょう?」

「君はどうにも、言葉に対して挑戦的に過ぎると思うね、僕は」

「一を聞いて十にしてしまうのが、女という生き物よ?」

「少女が、言う」

「女、よ」

 

 少女の軽い拳骨を受けてから、彼は席を離れ台所へと向かっていった。

 

 盆に新茶葉を入れた急須と、湯飲み二つを乗せて戻ってくると、少女の前には煎餅の盛られた皿が置かれていた。そして、それを手にしてぼりぼりと咀嚼している少女も、彼には見えた。

 

「不思議よねぇ」

「不思議だね。なぜ隠していた筈のそれが、今君の前にあるのか、実に不思議だ」

 

 呟きに対して返って来た青年の言葉に、少女はきょとんとしてから手を横に振った。

 

「私たちが不思議だと言うの。煎餅の在る無しなんて、そんなのはね、あなた。あの程度の隠し場所しか思いつかないなら、不思議でもなんでもないの。むしろあの程度で隠したつもりなのが不思議だわ」

「漁っておいてそこまで言うから、君は始末に置けないよ。なぁ、巫女という言葉に物漁りという項目を付け足したら、僕は神様に怒られると思うかい?」

「その前に私が怒るわ」

「君の事ではなく、巫女の事だというのにかい?」

「私を見ながら言えば、私の事でしょう」

 

 つりあがって行く少女の眉を意識しながら、彼は溜息交じりで返す。

 

「君が齧っている煎餅を見ていたんだよ」

「あげないわよ」

「元々僕の物だよ」

「なら煎餅一枚一枚に、確りと名前を書いておく事をお勧めします」

「なるほど……で、その煎餅には君の名前が書かれているのかな?」

「もう食べたから分からないわ。そうねぇ……余ってる分には何も名前も書かれていないし、分けてあげても良いわよ?」

「君の言葉は、異国情緒に溢れ過ぎていて、僕は偶に戸惑ってしまうよ。何語で話しているのか、とね」

「私達の言葉で話しているのよ」

 

 青年はもう何も返さず、湯飲みを少女の前に置き、そこにお茶を注いだ。同じ様に自身の分も注ぎ、彼は息を吐いた。そして、続ける。

 

「それで、君は僕達の何が不思議だと?」

「そういうところ、好きよ」

「それはどうも、在り難い事だね。御利益を期待して、明日は客人の無い日にして欲しい物だよ」「無理」

「……なんとも、冷たい巫女様だ」

「御利益なんてそうは無い物だし、それを下さる神様というのは、空その物よ。冷たいも、温かいも無いわ」

「巫女、言う」

「私が、言ったのよ」

 

 少女は湯飲みに息を二、三度吹きかけてから口をつけ、青年は自身の肩を揉みながら間を置いた。

 

「不思議だと、思うのよ」

 

 少女が湯飲みを置き、呟く。

 

「巫女が、かい? 君が、かい?」

「両方ね。不思議だもの。どうして私達は、こんなに寛いで、向かい合っていられるのかしら?」

 少女はその装束が語るまま、巫女である。その対に座る青年は、見る者が目を見張るほどに、尋常からかけ離れた存在である。

 銀髪、金眼。人では決して在りえない、ある筈も無い特徴。

 

 であれば、こうして向かい合い、一見してたんなる歓談を行っているのは、無理がある。対で向かい合うのは、両者の今の姿だけではない。存在そのものが、完全に対なのだ。

 本来は。

 

「僕が半端者だからだろう?」

「じゃあ、それと平気で話をしている私は?」

「半端者だろう?」

 

 青年の言葉に、少女は瞳に険の色を露にした。

 

「事実だよ、巫女。君。どちらも尊ぶのであれば、どちらも蔑ろになるものさ。人だろうが、それ以外だろうが、一つの器に二つも入りはしないよ」

「あなたは、人間で妖怪でしょう?」

「僕は半妖と言う一つだよ。別に、二つ分が入っている訳じゃあない」

 

 半妖と言う名の一種であると、青年は恥じるでもなく、誇るでもなく、ただ言った。少女はその言葉に呆気取られ、やがて瞳に浮かぶ険を熔かし、常の色彩を放つ瞳で青年を眺めて

 

「あなたは、存在と対話する事が、多分上手なのよね」

 

 諦念の宿った、賢者のような透き通った瞳と相で呟いた。青年を本とすれば、一頁一頁、一文字一文字、見逃すこと無くめくり、全ての意味を解きあばこうとする様な、そんな顔で。

 

「口を開けば閉じない奴だと、昔から良く言われるよ」

「そう言うの、多分一つの才能か、余分なゴミだと思うの」

「どっちなんだい?」

「そう言う事をするようになれば、きっと答えが見つかると思うわ、私は」

「……なんて意味の無い託宣だろうね。捉え様が百とある在り難い予言らしい不明瞭さすらない」「中途半端な私の言葉でしょう? だから、"らしい"のよ」

 

 青年が良く見せる仕草を真似て、少女は肩を竦めて湯飲みに再び口をつける。その中にある茶を嚥下し、飲み尽くし、湯飲みをとんと机に置いて……目を閉じて少女は立ち上がり、皺の寄った袴を軽く払った。

 

 ぱしん、と言う音が辺りに響き渡り、それを目を瞑ったまま聞いていた彼女は、ゆっくりと目を開いて呟いた。

 

「重いし、窮屈だし、汚れは目立つし……巫女服なんて良い事無いわ。そう思うでしょう?」

「着た事が無いから、僕から言える事は無いよ」

「そう? でも、この窮屈な巫女らしい服が、最後の一線で私達をこうして隔てているとしたら、ねぇ、どうすれば良いのかしら?」

 

 歌うような、或いはただの独り言の様な言葉に、青年は少しばかり考えてから、同じ様に囁いた。

 

「なら、中途半端な巫女服にしてしまえば良い」

 

 独り言。

 或いは、願望。

 今はまだ、手を取り合えない人間と、それ以外を一緒くたにするための、嘘。二人の在り様そのままに、差し出された中途半端な手を、少女は握り返す事も無く。

 

「じゃあ、それをお願いするわ」

 

 背を向けて、何も無い錆びた風景を後にした。

 廃墟にも見える、がらんどうの屋。在る意味では、今の逢瀬に何よりも相応しい場所。

 遠い昔、かつて、あの時まで居た錆びた一軒家。

 

 去っていく少女のその背中が、余りに遠く、儚く、また怖かったから、青年は声を上げた。

 

「あぁ、次には用意しておくよ」

 

 けれどもそれは、無理だった。無理だったのだ。

 叶わなかったから、今こんな事を言っているのだ。

 

「嘘つき。……けれど、好きだったわよ、あなたのそんなところも」

 

 理解すると同時に、視界に映るすべての世界は解け失せた。

 

 

 

   ●

 

 

 

 薄呆けたような、不確かな、不明瞭な視界に彼は気を取られた。

 

「おはよう、目が覚めたかしら?」

 

 だから彼は、目の前の少女に気付けなかった。

 

「……あぁ、おはよう」

 

 ただ惰性のまま、言葉に対して返事をした。

 

「まだ寝ているのかしら?」

「おきているよ……霊夢」

「そう、じゃあお茶とお菓子を出してくれない、霖之助さん」

 

 霊夢の言葉を無視して、霖之助は現在の状態を確かめる。

 場所は常の香霖堂、そして座すべき所。つまりは、備え付けの机。

 昼寝していたのだと彼は得心した。したから、言葉を続ける。

 

「夢を、見ていたよ」

 

 ぼんやりとした目で呟く。どこか温かい言葉が、寝起きの渇いた喉を通って香霖堂に零れ落ちる。

 

「ふぅーん……それは私のお茶やお菓子より、大事な夢なのかしら?」

 

 興味が無い、と言外に語る言葉に、霖之助は躊躇せず頷いた。

 

「あぁ、君の着ている巫女服を着たがっていた……遠い昔の少女の夢さ」

「……ふぅーん」

 

 その瞳に何も映さず、霊夢は霖之助の顔を眺め、口を開こうとして……それを止めた。変わりに彼女は、手を伸ばした。 

 

「今日も良い天気よ、えぇ、憎らしいくらい良い天気だわ」

 

 その手が自身の頭を優しげに撫でるから、霖之助はその手を払った。

 

「僕を撫でたければ、僕に君の名前でも書いてみる事だね」

 

 きょとんとした霊夢の顔に、霖之助は微笑んだ。

 今まで、霊夢が見た事も無いような、温かく優しげな笑顔で。

 

 

 

 

   ――了



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こがさがひどいめにあってるはなし

「あぁ……馬鹿馬鹿しい」

 

 そう言って、女は大きな溜息をついた。

 

「あぁ、そうかい」

 

 居たのか。そんな顔をして、女は周囲を見回した。

 薄暗い屋内の、一室だ。狭く、暗く、そこら中に物が散乱した雑然とした部屋である。その部屋に置かれた机の前に、男が一人居た。手には女、風見幽香が常日頃愛用する日傘が在った。

 

「嘘つきの傘は、これまた嘘つきで困る」

 

 日傘を睨み付けながら口を開く男に、幽香は腰を預けていた椅子から立ち上がり、すぐ側まで歩み寄る。

 

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花……ほら、全部嘘だ」

 

 幽香をちらりと見てから、男は鼻で笑った。座っていた時の彼女の姿は、格子の向こうで懺悔を繰り返す死刑囚を眺めるワーカーホリックにはとんと縁の無い看守その物であったし、立ち上がった姿は、得物を片手に戦場へと向かう一方的蹂躙を確信した重武装の歩兵の様であった。

 そして男へ歩み寄る姿は大型の肉食獣然としていた。総合すれば、物騒だ。

 

「花の妖怪を捕まえて、喧嘩を売るわけ?」

「君に角があれば、誰も勘違いしないですんだだろうにね」

 

 男は手に持っていた日傘を軽く振ってからうなずき、幽香に手渡した。

 

「君も日傘も、嘘つきだ」

「どこら辺が?」

 

 頬に手を当て、幽香は首を傾げた。ただし、細められた目の奥は一切の光が無く、泥中を連想させた。蓮の花の無い泥であるから、風情も優しさも彼方の果てである。

 

「君は君で、そんな姿で実に凶暴だし、君の日傘は日傘で、どこが悪いのかはっきり言わない」

 

 ばねが悪いのか、螺子が緩んでいるのか、骨子自体が捻じ曲がったのか。解体するまではっきりと見せることが無い日傘と。

 ふわりとした緑の柔らかそうな髪と、きらきらと輝く瞳の美しさと、緩やかに女性らしい曲線を描く香る程優美な幽香の、その桁外れの剛力と。

 それらを嘘つきと言って許されるなら、それは間違いなくそれその物だ。男は鼻から小さく息を吐くと、机の引き出しから煙管を取り出し加え、無造作に煙草を詰め込み火をつけた。

 

「聞きなさいよ。いきなり吸うのはマナー違反でしょ。調子に乗ってるなら、つぶすわよ?」

 

 眉をひそめて抗議する幽香に、男は灰皿を膝元に寄せながら

 

「で、今日はどんな風に潰したんで?」

 

 机の上に置かれた、日傘の修理の際に交換された布の、赤茶色の染みを指差して、男はにやりと笑う。

 

「……あれよ、ほら、いつも通りね」

 

 幽香は自身の前髪をかき上げ、どうしたものか、といった貌で返す。

 

「いきなり見たことも無いどでかい妖怪に喧嘩売られたから、殴り倒して引きちぎって肛門から日傘突っ込んで脳天まで貫通させただけよ」

「そりゃあ、ばねも狂うし螺子も緩むし骨子も歪むし布も洗浄不能なほど汚れるわけだ……ところで、この赤茶色……脳漿とかそういった物だろうね?」

「そうじゃない?」

「今度からは、まずどうやったか言ってから修理を頼んでほしい」

「えぇ、今度からね」

 

 どうでもいい、と貌で語る幽香に、男は。

 森近霖之助は、煙管の中の煙草をとん、と灰皿に叩きつけ取り出し、息を吸った。

 

「さぁ、修理も終わった。さっさと帰ってくれないか?」

「嫌よ?」

 

 だから吸った息を吐き出した。当然、とばかりに自身の側に佇む佳人を半眼で眺め、霖之助はもう一度息を吸った。

 溜息をつく為に。

 

 ――どうしてこんな物騒な妖怪と私室で向かい合わなけりゃいけない。

 

 深くなっていく眉間の皺を意識しながら、霖之助は天井を仰ぎ見た。

 相当に暇なのだろう。隣に幽香も、それを真似ていた。それほどに暇でも、幽香は部屋から出て行く気配は無い。

 かけらも、なかった。

 

 

 

   ○   ○   ○

 

 

 

 後の世、某書物において日光回避の専門家とされてしまった霖之助ではあるが、稀に、極々稀に陽の下に身を晒すこともある。人里を適当に歩くこともあれば、未知なる道具を求めて無縁塚までリアカーを引いて汗を流すことも少なくは無い。

 気になった事を人伝に聞いて納得する行動の鈍さはあるが、逆に言えば気になった事があるのに誰も家に来なければ自身の足で情報を拾いに行く事もあるのだ。その日は、最近あった異変の顛末を人里の守護者に聞きにいった帰りであった。

 新緑の匂いが深まり、鼻腔をくすぐる生命の匂いに若干の居心地の悪さを感じをながら、未だ高くにある陽を忌々しげに睨んでいる、まさにその時だった。

 霖之助の耳に、水の跳ねる音が聞こえた。気にするような事でもないだろう。

 偶の外出で、道を歩くような者でもなければ、道の側を流れる川で、小魚が跳ねた程度だと思ったに違いない。が、霖之助はその、偶の外出だ。興味をそそられた彼は道から外れ、特に草も刈られていない、音源たる小川を目指した。

 ふらりふらりと歩き、さしたる時間も消費せず音源は見つかった。倒れた一人の少女と、舌をびろんとだした傘が一つ。その側で、女性が持っている日傘を川に突っ込みかき回していた。

 

「あぁ、もう……これは想定外だわ……やってくれるわね、この小物」

 

 ちらり、と忌々しげに倒れている少女を睨んだ女性は、その視界の端に移った人影を異に思い、振り返った。

 

「あら、こんにちわ」

「……あぁ、こんにちわ」

 

 挨拶。ただそれだけだ。

 そのくせ、その日常的なそれが、何かひずんで見えたのは霖之助の気のせいであったのかどうか。

 

「最近は物騒よね」

「あぁ、そうみたいだね」

 

 困った、といった貌で話を続ける女性から目を離し、霖之助は川原に伏せた少女を見た。胸は上下している。生きている事は間違いない。目に見える怪我らしい怪我は、顔を覆う紅い殴打の痕くらいだ。命に別状はないらしい、と霖之助は貌を上げ、女性を見た。

 美しい女性である。柔らかげで、目の端には慧敏の験が見えた。ただ、慧敏には様々な質がある。刃物染みた恐ろしさを感じさせる物もあれば、対となる愚鈍の後ろに隠れる物もある。

 そして女は、明らかに前者だった。対すれば舌であろうと腕であろうと切って捨てる抜き身の輝きが見える。

 

 ――危ない。

 

 霖之助自身、智慧の徒であるという自覚がある。天風威風、人知を超えた力が確固と存在する事は理解できていても、精神を得た存在が最後に宿し振るう事が出来るのは智であると信じた。

 強力を振るって。そんな事を許されなかった彼は、自らの脳袋に沈み溜まっていくそれに縋る事で無力を嘆く事を忘れた非力な生物だ。

 認めようと認めまいと、力の有無は人でない者にとって絶対に等しい。故に、知識を求めた。そんな霖之助が、目の前の女の慧敏を恐れた。

 

 ――触れてはいけない。

 

 我知らず。まさに我知らず一歩下がろうとした霖之助は、その行いを許されなかった。

 

「少し手伝ってくれないかしら?」

 

 声だった。助力を求める声であったが、向けられた女の目には反対を許さないとはっきりと語っていた。

 好奇心が僕を殺したのだ。霖之助はそんな事を胸中でつぶやき、一歩前に出て恭順を示した。

 

「そう、賢い男は嫌いじゃないわよ?」

「でも、こいつは弱いと馬鹿にはしているんだろう?」

「歯牙にかけていないだけでしょ? これみたいに腕も頭も弱ければ叩く程度でやめるけど、小賢しいのなら引っこ抜くわよ」

 

 未だ伏せたまま、うらめしやー、などとうめき出した少女を一瞥し、女は鼻で笑った。

 攻撃的感情の見える笑みだった。その笑みが、霖之助の背を押す。

 

 ――聞いた事のある風貌だ。

 

 里か、山か、川か。どこかで誰かが噂していた、"大妖怪"の話。

 

 嫌でも勝手に進む自身の足を冷たげに眺め、明日は家から出るものか、と霖之助は誓った。女は動かず、男は動く。やがて距離は縮まり、もう触れる事も殺す事もできる、といった間合いに入ったとき、女は無造作に腕を突き出した。

 霖之助の頬に水滴が幾つもぶつかり、今日の暑さと水の冷たさを思い出させた。自身の胸あたりに突きつけられた、先ほどまで小川に浸されていた日傘を見てから、霖之助は視線を女の目に移し首をかしげた。

 

「で?」

「これ、洗って頂戴」

「……」

「……」

 

 互いに無言のまま佇んだ。

 ぬるい風が一陣凪ぎ、木々から小さなざわめきが起こる。

 先ほどの風で少しばかり乱れたのか、女は髪を撫で付け

 

「これ、洗って頂戴」

 

 全く同じ事を口にした。

 

「……どういう事だい?」

 

 この疑問は当然の事だ。

 いきなり洗えと、見知らぬ女性に言われて、はい洗います、とはいかない。命欲しさに恭順を示した身とはいえ、ここまで奇矯な願いなら戸惑いや躊躇は許可されてしかるべきである。

 

「なるほど、説明をしろと言うのね、この賢げに見えるだけの小者は」

「ここまで意味不明なら、仕方ないと僕は思うんだが」

 

 口答えする霖之助を軽く睨んでから、女は腕を組んだ。

 

「そう……よく聞きなさい」

 

 不満はあるが、説明はするらしい。霖之助はとりあえずうなずいて、彼女の言葉の続きを促した。

 

「今日の暑さは、酷い物よね」

「まぁ、そうだね」

「で、家で陽を避けていたんだけれど、我慢できなくなったわけ」

「ふむ」

「小川に行って少し涼もうかと歩いてここまで来たら……どうなったと思う?」

「さぁ」

「この酔っ払いみたいな小娘がね」

 

 つん、と倒れたままの少女をつま先で軽く蹴ってから、女は前髪をかき上げた。

 

「うらめしやー」

「……」

「……」

「は?」

「うらめしやー」

 

 霖之助は天を仰ぎ陽の高さを確かめてから、地に伏せた少女を驚愕の瞳で見つめた。

 

「……こんな、真昼間に、うら、めしや?」

「そう、こんな真昼間に、うらめしやーって言っていきなり目の前に躍り出てきたの」

 

 女は溜息をついてそっぽ向いた。

 

「で、私が呆然としていると、なにか成功だとかこれでもう幻想郷貰った私の――じゃ、じゃなくてわちきの伝説がここからマッハ! とかはしゃぎ出したから」

「はしゃぎだしたから?」

「日傘で殴ったのよ」

「あぁ……」

 

 なるほど、と霖之助は頷いた。

 仰向けに倒れた少女の貌を走る横一文字の赤い殴打の痕は、つまり女の日傘が火を噴いた痕なのである。

 

「顔の真ん中を突きで貫通させて穴を開けてやってもよかったんだけど、余りに無邪気に喜ぶ姿で哀れでね……仏心を出したわけよ」

「……仏心」

 

 うんうんと呻きだした地に這う少女に、霖之助は軽い同情を覚えた。

 

「私も、初めて刃向かってきた妖怪を潰したときは、あぁ、こんな風だったって思ったのよ」

「次元が違うと思うんだ」

「で」

 

 霖之助を無視して、女は続ける。

 

「それはまぁ、良いんだけれど。良くはないけど、良いんだけれど……殴った際に鼻の辺りをやったから、ここにこいつの鼻水とか鼻血がついたのよ」

「……」

 

 伏せているとはいえ、それなりに可憐……一歩前と言ってもいい容姿の少女だ。鼻水だの鼻血だのというのは、何か酷である。

 

「で、君はそれを洗っていたと?」

「そう。触りたくないから、川に日傘を浸して混ぜていたんだけれど、落ちないのよね……」

「なるほど」

「だから、はいお願い」

 

 渡された日傘の重さを確かめて、霖之助は目を伏せた。

 

 ――誰を恨めばいいのだろう。

 

 少なくとも、ここで倒れている少女を軽く日傘で小突いても非難の声が上がる事はないだろう。 そんな事を思ったが、結局行動に移す事は無かった。

 

「被害者同士、だからなぁ」

 

 懐に仕舞っていた懐紙を取り出し、霖之助は今日の不幸を呪った。

 

 

 

   ○   ○   ○

 

 

 

 後の世、某書物において日光回避の専門家とされてしまった霖之助ではあるが、まさにその通りであった。過日に起きた喜劇的な悲運に嫌気が差し、彼は陽の下で歩む事に強い拒否感を持つに至ったのである。

 元々が厭世的とでも言うか、世捨て人的存在である。その癖どうにも俗物的存在ではあったが、家に篭って過ごす分には、森近霖之助という男は適していた。

 種族的な特徴で食料を必要としない身は買出しを必要とさせず、某所から拾ってきた書物等は倉庫の積み上げられるほどあるのだ。それらを読み、一文を捉えては意味を深淵に解するために思考の渦に身を任せる。それだけで陽と月は彼の上を知らぬ間に何度も巡った。であるから、その日もそうなるのだと彼は信じて疑わなかった。

 疑う余地などどこにも無かった。その筈であったのに。

 

「カビだらけね……ちゃんと掃除してるの、この家」

 

 ここ数日、誰も開かなかった自宅の扉のその向こうに。

 

「さて……お願いできるかしら?」

 

 少しばかり汚れた日傘を持つ女が立っていた。

 霖之助は読もうとしていた本をテーブルに置いて、頭を抱えた。

 

「……誰にここを?」

「里で優しく聞きまわって居たら、丁寧に教えてくれたわよ」

「あぁ、そうかい」

 

 霖之助は仙人ではない。俗世と交わりを絶って生きている分けではないのだから、自ずと所在はばれている。

 特に隠しても居ないのだから、それは仕方の無い事ではあった。が、こうも物騒な者が住処を特定してきたとなれば、どうして昔日の自分は隠すという事を怠ったのだと自戒の念に囚われないでもなかった。

 

 こつこつ、と自身の額を人差し指で叩く霖之助を珍しげに眺めていた女は、一切の遠慮なく家屋に入り扉を閉めた。

 

「……薄暗いわね、ここ」

「陽の下は嫌いなんだ……今しがた、屋内も嫌いになったけどね」

「じゃあ水中にでも住めばいいんじゃないかしら?」

「あいにくと、僕はそういう生き物じゃない」

「不便ね」

「そういう君は、水中で生活できるのかい?」

「出来るわけないでしょう? 貴方頭大丈夫なの?」

「……」

 

 霖之助は軽く呻いた。

 そんな彼に、日傘が差し出される。

 

「……なんだい?」

 

 反射的に道具を見ていた。

 全体的に汚れた日傘だ。よく見れば歪んでおり、これを日傘として使うには少々の無理があるように、霖之助には見えた。過日見た際には、もっと綺麗だった筈である。

 

「馬鹿が襲ってきたから、殴ったのよ。するとどうでしょう、なんと曲がってしまったのよね」

「当たり前だ」

「貴方が拭くあの日まで、こんな事はなかったわ」

「僕のせいだと言いたいのかい?」

「そう聞こえないの?」

 

 テーブルに肘を着き、手の甲に頬を預けたリラックスした姿。そんな姿で、女はにやりと笑う。

 

「私はね、子分には優しい女よ」

「僕がいつ子分になった」

「あの日」

「……」

 

 厄日であったのだ。

 あれはまさに、呪われた日であったのだ。

 

「で、優しい親分の私は、子分が暇しないように仕事を持ってきたわけね」

「優しさで涙腺が崩壊しそうだ」

「えぇ、えぇ、ないて喜びなさい小物くさい子分」

「親分、僕はもう貴方の優しさで胸が一杯だ。今から一人うれし泣きをしたいから、出て行ってくれないか」

「大丈夫よ、親分は優しいから、ないてる貴方の頭を静かに撫でていてあげる」

 

 視線がぶつかった。勘弁してくれ、と語る霖之助の視線と、弄り倒そう、と語る女の視線が。

 先に目を逸らしたのは、霖之助だった。無力な身としては、よくやった方であろう。

 せめて、と女の視線が本物の不快を宿す二歩ほど前で引いた手並みは、むしろ褒められてもいい。一歩前まで踏み込めないのが、霖之助の限界ではあったが。

 

「で、親分」

「あら、そのまま親分子分を続けるの?」

「……で、あー……」

 

 霖之助は女を見たまま、少し俯いた。

 知らぬわけではない。ただ、それは噂の領分で耳にした情報だ。

 確かな情報を――女の姓名を得ているわけではない。

 言いよどむ霖之助の、その悩みを察したのか。女は槍の透けて見える笑貌で名乗った。

 

「風見幽香。貴方は?」

 

 決闘前の名乗り上げに見えたのは、きっと幽香がそんな場面でばかり名のっているからだろう。 不憫な女性であるのかも知れない、と霖之助は思い、名乗りを返した。

 

「森近霖之助」

「変な名前ね」

「君の名前だって――」

「何?」

 

 ぎらりとした、どろりとした眼だった。

 

「いい名前だと思うよ、あぁ、心底思うさ」

 

 肩を落とし、投げやりに答える霖之助を鼻で笑い、幽香は自身の髪を弄りながら日傘を指差した。

 

「で、仕事の話ね。直せる?」

「僕の仕事は、道具の修繕ではないんだけどね……まぁ、直せる。忌々しい事に」

 

 眼鏡の置くにある眼を強く閉じて、霖之助は小さな声で応じた。霖之助は、無力だ。

 いや、人からすれば彼もまた力ある者なのかもしれない。しかし、彼は人ではない。半分だけではあるが、妖怪である。

 

 半人半妖。そんな半端な存在だ。

 だが、そんな半端な存在が非力であるかというと、そうではないという事例も多い。人と神の間に生まれたものは、時に神さえ手を焼くような怪物を殺している。

 吸血鬼にしても、人と彼らの間に生まれた者は長所の掛け合いが起こり優秀な者が多い。水に弱い、などという所まで似る場合もあるが、それでも強力である事に違いは無い。

 混じり者というのは、あぁ、なんと英雄の多いことであろうか。神話、伝承、口伝、土地を選ばず、人種を問わず、彼らは賞賛の賦で歌われるではないか。

 だというのに、霖之助は非力であった。種族的な力は特に無く、個人的な力も特に無く、先天的にも後天的にも、特に芽吹く才能は無い。そんな非力な彼に唯一与えられた、確固たる力こそが、道具に関わる物である。

 

 とにもかくにも、彼は道具と交わらずに生きていく事が出来なかった。自らの非力を晒したのはその能力であると理解はしても、憎む事が出来ない。これが個の力なのだとしたら、それは進むべき道への導にも思えたからだ。

 力を求めず、知恵を求めよ。そんな風に。

 

 結局、彼はそう生きる事にした。

 生来好戦的な性格からは程遠い自身であったし、それでいいだろうと諦めがついたのは、意外に早い時期だったと彼は覚えている。だから、道具と言えば彼にはどうにも他人事ではなかった。

 里の道具屋をながめては、主人や弟子達の修繕を見て覚え、自身の血肉としていた。道具屋の看板を見るたび、店の奥で道具に触れている店員を見るたび、胸の奥でうねる何かを漠然と感じながらも、彼はそうやって過ごしたのだ。

 

「まあ、じゃあお願いできるわけね?」

「そのつもりだろうに」

 

 どこぞの令嬢を装う幽香に苦笑を浮かべ、霖之助はやれやれと首を横に振った。

 

「ただし、僕のは趣味でやっている範疇だ。正確に直らなくても、怒らないでくれよ?」

「大丈夫よ、そのときは新しい日傘作らせるから」

「……難易度が上がっているんだが?」

「親分優しいから、その程度で許してくれるって事よ」

 

 ――どうせすぐ切れる縁だ。

 

 霖之助からすれば、接点の多い女性だとは思わなかった。

 力の強い妖怪。力の弱い半妖。

 半妖を探しに里まで聞きに行く上に、日ごろから決闘過多な行動的な女性。知的興味以外無視で家から出ない日陰専門家の男性。接点などあるはずも無く、どうせすぐに解れて失せる縁だと霖之助は溜息をついた。

 

 が、である。

 友人、知人、というカテゴリーを一度整頓すると誰もが、おや、と思う事があるだろう。確かに、自身に似た存在が多いのは事実だ。事実だが、どうにも、似ていない、接点の少ない友人知人というのは、確実に存在する。その癖、付き合いも付かず離れずで、気づけば長くを共にしている事は良くある。

 そう、そんな物なのである。

 

 

 

   ○   ○   ○

   

   

 

 ――どうしてこんな物騒な妖怪と私室で向かい合わなけりゃいけない。

 

 深くなっていく眉間の皺を意識しながら、霖之助は天井を仰ぎ見た。

 相当に暇なのだろう。隣に幽香も、それを真似ていた。それほどに暇でも、幽香は部屋から出て行く気配は無い。

 かけらも、なかった。

 

 あれからどれだけの月日が流れただろうか。

 それを考えるのも、もう霖之助は億劫だ。相当に長い時間である事だけは、確かである。

 

 ある時などは、幽香の大乱闘紛いの喧嘩に巻き込まれた事もある。

 ある時などは、幽香に貰った向日葵を病気にさせて怒られた事もある。

 ある時などは、丸々二日一方的に愚痴を聞かされた事もある。

 酒につき合わされ、散歩につき合わされ、最近の子分は親分に冷たいと詰られ、日傘の修理が遅いと怒られ、勝手に部屋の一室を別荘に改造され……

 

 いい思い出ではない。

 それでも縁は切れず、今もこうして霖之助は、その物騒な妖怪と向かいあっているわけである。

 日々は平坦で在って良い。そんな生き方の霖之助からすれば、息苦しい筈のその日々も、どうした事か悪くないのだ。良い思い出ではないが、悪い思い出でもない。

 風見幽香という女性と過ごした日々は、彼の中に在って形容しがたい色と意味を持ってしまっている。

 

 眼を閉じ、そっと眼を開き。仰ぎ見ていた天井から眼を離し、隣にいる幽香に視線を移した。

 いつの間にか隣に座っている幽香は直った日傘を見て常の貌で居た。

 長いまつげも、女性らしく柔らかげな頬の輪郭も、攻撃的な言葉をつむぎ易い小さな唇も、夏の新緑を思わせる深い緑の髪も、全部幽香だ。天から授かった、と言うよりは、彼女が彼女のために打ち直した力強さが其処にある。

 

 霖之助の視線に気づいたのか、幽香は日傘から眼を離して真っ直ぐと正面を見た。彼と彼女の視線がぶつかる。

 

 小物だといいながら、そこに侮蔑の色が完全に消えたのは、何時頃だったか。稀に、太陽みたいに輝く瞳を向けてくるようになったのは、何時頃だったか。

 陽を嫌う自身では、いつかその瞳に焼き殺されると信じて、すぐに目を逸らすようになったのは、何時頃だったか。

 全ては、良くも悪くも無い思い出の中だ。それを思い返すには、やはり霖之助は億劫だった。

 だからいつも通り、霖之助が先に目を逸らす。

 

「はい、貴方の負け」

「……何時の間にやら睨めっこ、と?」

「違うの?」

「いや、その通りだ」

 

 最近、ともすれば頻繁に見つめ合う事が多くなった霖之助と幽香だ。

 暇すぎてやる事が無いからこその現象だろうが、一応は男女である。薄暗い一室でふと目が合った、というのが頻繁であっては、まるで恋人同士だ。

 そうではない二人からすれば、そこに遊びでも理由があれば良い。知らぬ間の遊びでもあっても、そういう物だと定義すれば、後腐れも今後も起きるだろう睨めっこを肯定しやすい。

 

「あぁ、それにしても……本当に馬鹿馬鹿しい」

 

 幽香はそうつぶやいてテーブルに突っ伏した。なんともらしかぬ姿だと思えたのは、もう霖之助からすれば相当昔の話になる。

 うじうじと髪をゆっくりとかき乱して、幽香は息を吐いた。

 

「喧嘩売るのはいいわよ、えぇ、腕自慢が多いことはいい事だわ。むしろ大歓迎でもあるわよ、けれどね」

 

 がばり、とテーブルから顔を離し、幽香は攻撃的双眸で中空を眺めて拳を握り締めた。

 

「弱いって何。ねぇ、傘の一発でダウンって何。何、今のここってあれなの、あの日川原で叩き倒したうらめしやの酩酊小娘より駄目なのばっかりなの?」

「あぁ、彼女最近人里で歩いているのを見たよ。うらめしやーって言って驚かしたはずのお爺さんに、おーおー、めんこいなぁ、って水あめを貰っていたな」

「駄目じゃない」

「うん。物凄い喜んでいたしね、彼女。勘違いしないでよね! 別に水あめなんて欲しくないんだからね! ……水あめうめぇ! まじうめぇ! って」

「完全に駄目じゃない」

「うん、というか相変わらず真昼間にあれやってるしね」

「……すごいわね」

「うん、すごいね」

 

 すでに妖怪だとか幽霊だとかそんな物を超越した何かに、少女はなろうとしていた。それが少女の目指す場所ではないとしても、偉業は偉業である。

 ただし、

 

「尊敬できないわ」

「うん、無理だね」

 

 望むと、望むまいと、人や妖怪、挙句の果ては神でさえ、自身の思い通りには人生という航路を進めない。

 

「というか、あの子はどこに行こうとしているのよ……」

「たぶん僕らの知らない遠い遥か向こうだよ……」

 

 何もせず、ただ二人黄昏た。

 

 夜になると忙しなく鳴く虫も眠り、静かに鳴く虫が活動を始める。

 まだまだ季節は夏で、陽が落ちようとぬるりとした空気が消える事も無く、じとりとうなじを湿らせた。霖之助は自身のうなじを手拭で拭い、手にした灯りのついた提灯を眺めた。

 

「大丈夫よ、いつも持ってきて返しているでしょう?」

「あぁ、君の美点は物を返すと言う所だ。誇ってもいい、胸を張って大きな声で叫んでいい」

「……大変ね、保護者も」

「僕は彼女の保護者じゃない」

 

 香霖堂の客としての年季は、幽香の方が長いのだから、白黒のやらかした事など全て耳に入ってしまう。個人的な付き合いもあるのだから、情報が漏れるのは当たり前だとも言える。

 

「しかし、君も暇だな」

「……そう?」

「そうじゃないか」

 

 周囲はもう暗く、明かりは香霖堂から漏れる光と、霖之助の手にある提灯だけだ。そんな時間まで幽香はここに居たのだから、暇だと言われたのである。しかも、こんな時間まで居る事は珍しい事でもない。

 

「……まぁ、そうなのかもね」

 

 幽香は肩をすくめて応じただけで、霖之助の手のひらを向ける。その手のひらに、霖之助は何を言うでもなく提灯を渡し、

 

「いつも言うけれど……気をつけて」

「いつも言うけれど……気をつけなきゃいけないの?」

「社交辞令だよ」

「で、しょうね」

 

 この幻想郷で風見幽香をどうこうできる存在などかなり限られている。まさに一握り、という奴だ。

 夜道だから気をつけて、などと言ってみても、襲われる相手が狼どころではないのだから、霖之助の言葉は何の意味も持てない。ただ、その想いは大切なものだ。

 

「貴方の言葉でもあるし、それなりに気をつけて帰るけれど……じゃあ、また明日」

「あぁ、また明日……だね」

 

 また明日も来る。そんな幽香の宣言に溜息を返し、霖之助は苦笑を浮かべた。

 幽香は踵を返し、歩み去っていった。小さくなっていく背を眺めながら、霖之助はもう一度うなじの辺りを手拭で拭いた。ほぼ毎日の儀式であるのに、何かさびしさを感じるのは、夏の夜の幻なのだと信じて、彼は香霖堂へと戻り扉を閉めた。

 

 

 

   ○   ○   ○

   

   

 

 夜道をゆっくりと歩けば、月の明るさが良くわかる。

 煌々と冴える月は欠けた円で、いやと言う程幽香には大きく見えた。

 

 ――そろそろ満月だ。

 

 だからどうした。自身の胸中の呟きに同じく胸中で呟き返した。手にある提灯を眺め、自嘲を浮かべる。

 

「この位の明かりの方が良いなんて思えるのは、あれかしら、年をとった証拠なのかしら」

 

 昔は、月でよかったし、太陽なら尚良かった。

 輝きというのは巨大で無比で在れば良いと彼女は思っていた。なのに今は、手にある提灯程度でも良いと思えた。

 

「どうなのかしらねぇ?」

 

 おそらく答えの無い問題である。疼く物が胸の奥にあろうが、子宮の奥にあろうが、取り出せない物の正体を知るには、落ちるか、燃え尽きた後しかない。あぁ、そうだったのか、と理解するのは、いつだってそんな時だ。

 焦がれ、落ちて、唐突に。

 それでも口にするのは、つまり

 

「どういうことだと思う?」

 

 立ち止まり、日傘を握る。いつも通り、何の抵抗も無く答えるグリップの硬さは信頼にたる力強さを感じさせた。

 

 ――道具に関しては、なるほど、大した物ね。

 

 修理を終えた後でもいつも通り、というのは頼もしい事である。幽香は自然体でそのままどこかに居るのだろう誰か――襲撃者の行動を待ち……

 刹那、振り返った。

 

「なんか夜道で独り言言ってやばげなおねーさんだけどうらめし――」

「殴るわよ」

「――たわばっ!?」

 

 突如出てきた妖怪少女――水あめを口にしたまま出てきた傘もち娘――を日傘で殴った。

 殴るわよ、の言葉と同時に殴った。

 風見幽香は、そんな女なのである。大きく息を吐き、幽香は殴り倒した少女に提灯を近づけた。

「……あぁ」

 

 ぐにょーん、とばかりに倒れていたのは、いつぞや川原で叩き伏せた妖怪少女であったし、件の水あめうめーの妖怪少女でもあった。とりあえず、額にわちきばかです、と油性マジックで三重に書いた後、幽香は手にある日傘を見つめた。

 じっと、じぃっと見つめ、彼女は肩をすくめる。笑貌を零し、くつくつと喉を鳴らし、ぽんぽんと日傘を叩く。

 

「直ったと思ったら、また曲がった。……戻らないと、ね?」

 

 やれやれ、と首を横に振り、幽香は来た道を少しばかり急いて戻り始めた。

 月に照らされた日傘は、傷一つ無い真っ直ぐな物であったのに、彼女は壊れた壊れた、と呟き"帰っていった"。

 

 ――了

 

 

 後日。

 額にわちきばかですと書いたまま歩く妖怪少女に、そんな事はわかっている、と返す里人が複数居た事をここに記す。



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『紅い糸を繰る』 メイン:霖之助 永琳 優曇華
前編


「……ない、と?」

「えぇ、申し訳ありません。これ以上の物は、うちでも……」

 

 人里一番の道具屋、霧雨道具店の店主はそう言いながら、壊れた顕微鏡を持った目の前の女に頭を下げていた。

 女は底を見せないぼんやりとした目で、少し困った顔を浮かべ、自身の頬に人差し指を当て首を傾げる。

 霧雨道具店店主、霧雨何某は眼前に佇む、ここ最近よく顔を見せるようになった美しい女性の、妙齢らしからぬ幼い仕草に一切の違和感が無い事に奇妙さを覚えた。と、同時に、もう一つの妙な違和感にも囚われた。

 目の前の女性は、女である。当たり前の事だが、言うまでも、確認するまでも無い事なのだが、どうにもそれが噛み合わない。今まで何度も顔を合わせているし、会話とて何度も交わしている。

 それでも今日、突如そんな不透明な不安に体を取られた。何故か、何故今なのか、と聞かれても彼には応えられない。燦々と降り注ぐ太陽の光の下に在りながら、どこにも影が無いような、或いは、影が幾百も重なり在って、影であって影ではない黒い何かを足元に置いているような、そんな妙な違和感が目の前の女性には纏わり着いている。

 

 勿論彼は里一番の道具屋の主、一廉の人物である。顔には出さない。

 

「ここにも無いとなると、もう絶望的……と言うことなのかしら」

「界隈の人間には悪いでしょうが、そうであるか……と……」

 

 その仕草、その困った顔のまま呟く女性に、店主は言葉を舌にのせたが、それは途中で途絶えた。それまで、どこを見ているのか判然とさせなかったぼんやりとしていた目に、少しばかりの煌めきを宿し、女は視線で続きを促す。

 

「あぁ、いえ……随分前に独立した自分の弟子の一人に、少し変わった者がおりまして。もしかしたら、あいつなら……」

「あいつなら?」

「直すか、同じ位の物なら持っているかも知れません。持っていたとしても、蔵から出すかどうかは、分かりませんが」

 

 それまでの接客用の顔を崩し、地の見えるしかめっ面で、けれでもどこか楽しげに口を動かす店主を見ながら、女は頬から指を離し笑みを浮かべた。

 

「手のかかるお弟子さんでしたか?」

「えぇ、そりゃあもう。あいつと来たら――」

 

 店主は、一つ語れば二つ語り、三つ語れば四つほども語り、ぽんぽんと淀みなく舌を回した。やがて六つも語った頃か、店主は慌てて頭を下げる。

 

「あぁいや、こりゃあ、すいません。どうにもあいつって男は、ここに居なくても私を崩してしまう」

「いえ、楽しい話でしたよ」

 

 内心ではそれほど楽しい話だとは思わなかったが、女はぺこぺこと頭を下げる店主に、社交辞令としてそう返した。そして、今一番必要とする情報を女――八意永琳は求める。

 

「それで……その困ったお弟子さんの道具屋は、どこに?」

 

 霧雨道具店店主は、後にその困った弟子とこんな会話をしている。

 

「俺はお前の世話をしてばかりだなぁ。おっと、世話してばかり、だった、が正しいか?」

「僕は別に、今も昔も、それほど世話されちゃあいませんよ、親父さん」

 

 憮然としたかつての弟子に、霧雨何某は呵々と笑った。

 

 

 

 

   《赤い糸を繰る》

 

 

 

 

「ふむ……こんな物かな」

 

 薄暗い室内で、男が呟いた。

 右手には精密ドライバー、左手には少しばかり汚れた布。そして机には工具が一通り置かれている。

 ここは男の城、森の入り口に建てられた古道具屋、香霖堂である。ただし、今男――店主森近霖之助が篭っている部屋は、一日の殆どを過ごしている店内スペースではなく、道具を調整、製作する際に使用する、工房を兼ねた私室だった。

 

 霖之助は右手の精密ドライバーを机に置き、次いで眼鏡も外し同じ様に机に置く。

 それから拳を作って、肩を二度、三度叩いた。

 

「終わりましたか?」

 

 一仕事終え、肩から力を抜いた霖之助の背後に、声が掛かる。突如掛けられた声に彼は驚き、驚いたが何事も無い様を装って、ゆっくりと振り返った。

 

「……」

 

 そのまま喋れば、どうにも落ち着かない言葉が勝手に転がり出ると感じた霖之助は、少しばかりの唾液を嚥下してから口を開く。

 

 霖之助の尖り過ぎた、攻性に過ぎる視線の先に居たのは、美しい銀髪と、見る者を不安にさせる、底の見えない笑みを浮かべた女性が一人。

 

「八意さん……いつからそこに?」

 

 誰かの入店を知らせるカウベルは鳴っておらず、気配も無く、気付けば女が背後に居る。となれば、誰であれそう聞きたくなるだろう。

 

「つい先程です」

 

 霖之助はなるほど、と一つ頷いた。目の前の女性が正解を口にするつもりが全く無い事に対して、彼は理解したのだ。勿論、口にした事が正解と言う可能性もあるが、それを正解だと思わせないだけの胡散臭さがこの八意永琳には在る。

 

 ――こんな女性との縁は、一つだけで十分なんだが……

 

 彼の脳裏に、胡散臭い隙間妖怪の姿が過ぎる。胡散臭い笑みで、胡散臭い姿で、胡散臭い匂いで、胡散臭すぎる胡散臭さで。

 

「女性を前に、違う女性を思い出すのは失礼だとは思いませんか、森近さん?」

 

 いつの間に用意された物か。永琳は来客用の湯飲みでお茶を飲みながら、笑顔のまま霖之助を軽く詰る。

 知った事かと霖之助が永琳から視線を外すと、霖之助の膝の傍に湯飲みが一つあった。湯気を燻らせるそれは先程置かれたばかりだと言う事を主張しており、霖之助はもう何事も驚くまいと決めて頭を横に振った。

 

「失礼だというのなら、八意さん、貴方はどうなんですか? 家主に断らず部屋まで上がり、かつ、勝手にお茶まで入れている。僕を礼に欠くと言うのなら、それらをやった貴方は、今どれほどに失礼なのでしょうね?」

「店と言うのは開かれたものですよ、森近さん。客が店に入る事に、許可が必要ですか? それに、お茶は善意でしょう? 私は、貴方の為に熱いお茶を入れ、そのついでに自分のお茶を用意しただけですもの。貴方が上位、私が下位、ですよ」

 

 それで終わり、とばかりに永琳は再び湯飲みへ、その艶やかな唇をつけた。なんとはなく、その仕草を見届けてから霖之助は自身に用意されたと一応言われている湯飲みを手に取り、口をつける。

 口惜しい事に、そのお茶は霖之助好みの熱さと僅かばかりの苦さだった。これで不味ければ難癖もつけられる物を、などと思いながら霖之助は目を瞑る。

 

 一方的にではあるが親しげに見える森近霖之助と八意永琳は、そうも長い時間を共有していない。出会いは、霖之助の師匠からの紹介だった。

 

 永琳が愛用する道具が壊れ、それに代わる物を彼女は探した。薬学、医学、更には専門外、多岐にわたる彼女の知識ならば道具の一つや二つ難なく直せそうな物だが、何もかもが自身だけで事足る、と言うのは生物として他者を必要としない寂しさに繋がってしまう。

 だから彼女は、過去の傷と経験則から、直す事が可能であっても、それだけの事が出来る素養が在ってもそれをしなかった。今は出来ないとしても、少しばかりの時間でそれらの技術を修める事は可能だ。悲しいことだが、彼女は寂しい生き物への片鱗を確かに有してしまっているのだから。

 

 しかし、それを自身が為す事に彼女は必要性を感じなかった。

 修理に割く時間あるならば、それを学ぶ時間があるならば、もっと有益な時間を過ごす。例えば弟子にあたる少女への指導であり、患者達への診療であり、輝夜との何気ない日常であり、てゐとの遊びであり、研究である。それらを押しのけてまで、彼女は自身の手で修理する意味を見出せなかった。故に合理的に、心情的に、餅は餅屋と言う事になったのである。

 

 紹介された香霖堂でも無理となれば、在る意味で彼女の同類である隙間妖怪に頼もうかとも思っていたのだ。

 言葉は悪いが、所詮隔離された小さな世界、その道具屋風情である。代用品などほぼ皆無だろうし、修理出来るとは余り思っていなかった。

 のだが。が、である。

 霧雨道具店店主の紹介状と、壊れた顕微鏡を見た、人間外の色素を多く持つ偏屈そうな青年は、こうのたまわった。

 

『五日ほど貰えますか、八意さん』

 

 永琳は愛用する道具を五日も手渡して大丈夫なものかと思ったが、続く言葉に納得した。

 

『これの代わりになるものを、用意しますので……幾分、型落ちはしますが』

 

 これは自身の仕事に誇りを持つ男だと永琳は感じ入った。少なくとも、道具を直し、または製作する存在として、目の前の青年は足る者だと永琳は評価した。

 思えば、里一番道具屋、その霧雨が紹介する男である。下手はないだろうと、彼女は一つ頷いた。

 

 そして、実はそれ以来今まで、二人には何も関係が無かった。修理を頼んだ客と、任された店主、という以外の関係は。

 

 で、あるから。今のこの、霖之助の私室兼工房で二人してお茶を飲む、という距離はおかしい。金銭を払う者、払われる者という事を考慮しても、霖之助には今のこの距離が適距離だとは思えない。

 けれども、永琳は特におかしいとは思わず、悠々とお茶を飲んでいる。その様が常の通りなのかどうなのか、霖之助には分かり得ない事ではあるが、少なくとも、理解は出来た。

 

「……なにか?」

「いいえ、何も」

 

 霖之助に胡乱げな目で見られているこの女性は、

 

――少々奇矯な所があるのだろう。

 と言うこと程度が。

 

 

 

   ●

 

 

 

 陶器の類が割れる音が、永遠亭の一室から響いた。

 音源になる部屋の襖には鈴仙の部屋と書かれた札が貼られている。 その部屋の主、件の鈴仙、永琳からは優曇華と呼ばれる少女は、割れたて散らばった陶器片を、

 

「……」

 

 ただ呆然と見つめていた。そして数秒、自失の状態から立ち直り、彼女は慌てて陶器片に手を伸ばした。

 

「痛……ッ!」

 

 そんな慌てふためいて鋭利に尖った陶器片に手を出せば、指先を切ってしまうと分かりそうな物だが、彼女は実際に身を刻まれるまで、その程度の事さえも一切気付けなかった。

 故に未熟と言われるのである。

 

 少女は顔を歪ませて、自身の血を吸った赤い陶器片を見つめる。

 痛いから、ではない。その陶器片、その原型たる花瓶が、自身の師匠から譲られた物だから、彼女は顔を歪めてしまう。

 ただの花瓶ではある。だが、ただの花瓶ではない。それは彼女がこの幻想郷に来て、永琳から部屋が寂しいのは花が無いからだと言われ手渡されたその日から、割れてしまった今日までの思い出が詰まった、世でたった一つだけの花瓶だった。だから彼女は、それが悲しかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 少しばかりの雑談の後、永琳は報酬を手渡し帰路に着いた。

 戻ってきた永琳に言葉をかけてくるてゐと輝夜に返事をしながら、彼女は自身の持つ研究室へと歩いていく。鍵を開け、扉を開き、壁に掛かっていた白衣に袖を通し、手に持っていた包みを机の上に置いた。

 昨日まで霖之助に借りていた型落ちの顕微鏡で見ていた新薬を取り出し、それを顕微鏡の隣に置き椅子に座った。自分の研究室に戻ってきた顕微鏡の包みを解き、永琳は未だ記録も碌に取れていない薬を砕いて顕微鏡にセットする。

 そして、少しばかり驚いた。

 

「……」

 

 声も無く、そのままいつも通りレンズを拡大させていく。

 違和感が無い。勿論、無くて当たり前だ。

 だが、それが修理から返ってきたばかりと言う事を考えれば……どうだろうか。一旦を目を離し、顕微鏡を睨みつけるように眺め……再び目を当てる。

 同じ様に、レンズを徐々に拡大させ、今見ている薬物の分裂、劣化過程を見つめ続けた。長くを使い続け、それでも残っていた拡大時の時間差が少なく、それを成す為に指で回さなければならないつまみの硬さもない。前までは実現出来なかった、ほんの僅かばかりの馬鹿げた拡大が、笑い話ではあるだろうが可能になっているのだ。

 

 永琳はまたも顕微鏡から目を離し、その白魚のような美しい指先で叡智の詰まった額をとんとんと軽く叩く。

 信賞必罰、と言う言葉ある。

 余計な事をして機能を落としたのであれば、その言葉の下二句が実行されるのだろうが、功績は讃えなければならない。音も無く立ち上がり、研究室では常に着用している白衣を脱ぎ、それを今まで座っていた椅子の背もたれにかける。

 そして扉を開けて――、一人の少女を見つけた。

 

 月から来た玉兎、彼女を師匠と呼ぶ未熟者、永琳にだけそう呼ばれることを喜ぶ少女――優曇華。

 その少女が、今無言のまま手に布で包んだ何かを両手で持ち、立っている。まるで永琳を待っていたかのように。

 だから彼女は、声を掛けた。

 

「どうしたの、優曇華?」

「……あの」

 

 永琳自身は出来るだけ優しげに言葉をかけたつもりだったが、問い掛けられた優曇華はびくりと肩を震わせて大きくは無いその体を、更に小さくしてしまった。

 

 「どうしたの、優曇華?」

 

 彼女は再度言葉を掛ける。言葉を持つ動物は、言葉以外で確りと意思の疎通が出来る事が無い。

 だから彼女は、応えてくれるまで声を掛けるしかない。

 

「あの……花瓶を……」

 

 両手に持っていた、その布に包まれたそれをおずおずと差し出しながら、優曇華は俯いたまま言葉を零す。

 

「師匠からもらった花瓶を……割って……しまって……」

 

 永琳は、自身に差し出されたそれに視線を落とし、割れたと言う花瓶持つ少女の右手、その中指に赤い彩がある事に少しばかり驚いた。永琳が、手を伸ばす。

 それを察知した優曇華は、永琳がこの程度の事で癇を立てる訳が無いと分かっていながらもびくりと肩を震わせ――……

 

「仕方ない事だわ……それは、完全な物ではないから、いつか壊れるのが当たり前なのよ」

 

 優しく響く声と、自身の頭の上にある重さに気をやられた。

 茫然としたまま、優曇華は顔を上げる。俯いた状態から、常の視界へと戻った目の先にあったのは、その声同様、優しげな永琳の笑顔。頭に乗せられた重さは、彼女の手の平。

 

「さて……まずはその指の治療かしら」

 

 その手の平の心地良い冷たさに、優曇華は千々に乱れて纏まらぬ思考のまま、ふと、かつてどこかで聞いた迷信を思い出した。

 

『手の平が冷たい人は、心が温かい人』

 

 その日から、その迷信は優曇華にとって真実になった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 余りそう多くは無い永琳の外出、それから戻ってきたと思ったら、さほどの間を置かずまたの外出。てゐや輝夜は大層驚いたが、一番驚いたのは霖之助である。

 カウベルが鳴り、眺めていた小道具から目を離して扉を見れば、そこに先程まで居た女性が一人。何がしかの感情を抱くなと言う方が無理だ。

 

 ――何か不備でもあっただろうか?

 

 彼の思うことは、先刻返した顕微鏡の事である。

 久方ぶりの、折角懐に入ってきたまとまった金銭を返金しなければならないかも知れない。

 その憶測は彼の肩を重くするに十分だった。霖之助は金銭に執着がある訳でもないが、だからと言って必要ないと言う物でもない。生きていけば必要になる。先を見越せば、無いよりはあった方が絶対に良い物なのだ、金銭は。まして世の俗事は金、金、金で回っている。世を捨て霞を食らって生きるつもりもまだ無い、趣味人の彼には辛いことだった。

 

 それと、もう一つ。なんとなく、彼女はもう来ないだろうと霖之助は思っていた。根拠などどこにもない勘の様なものだが、多分そうなるだろうと彼は考えていたのだ。

 だと言うのに、彼女は再び、そう間を置かずやって来た。香霖堂に。

 

 何やら暗い顔で俯く店主の前まで永琳は歩を進め、頭を一つ下げた。突然に、予備動作も無く、である。きょとんとしたまま、何も言葉に出来ない霖之助を前にしたまま、永琳は口を開いた。

 

「申し訳ありません、修理料金が足りていなかったと思いまして」

 

 すでに十分報酬は貰っている。それでも目の前の、頭を下げている女性は足りていないと言った。

 言う必要などない事だ。それで足ると言えば、それで終わっていたのだ、これは。こういった、個として向き合った謝罪行為に永琳という女性が慣れていない事は一目瞭然である。

 そもそも失敗する事が少なく、失敗しても被害を抑える事に長けているせいだろう。それでも、永琳は不慣れでも霖之助に謝罪し、報酬の上乗せを申し出た。金銭の現物を持って。

 

 ちょっとばかし頬を赤らめ、困ったように囁いた永琳に、霖之助は初めて好意を抱いた。

 奇矯ではあるが誠実なその在り方と、自身を高く評価してくれた、と言う事実に。生物として、苦手意識も先に立たず、胡散臭さに寒気を感じる事も無く、真っ当に向き合える存在だと霖之助に思わせた。

 

「それと……頼みたいことが在るのですが、宜しいでしょうか?」

「頼みたい事……? さて、僕に出来る事ならばお聞きしますが?」

「えぇ、実は花瓶を一つ、そう、若い娘向きの、花やかな花瓶を探しているのですが――」

 

 そしてその縁は、その日確かに繋がった。

 一つの糸と共に、もう一つの糸を絡めて。

 

 

 

   ●

 

 

 

 優曇華と呼ばれる少女は、言葉に出来ないほどの満足感と、日に日に大きくなってゆく不満感の間でゆらゆらと揺られていた。

 

「……はー」

 

 永琳から貰った、部屋に置いてある彼女好みの花瓶を思い出しながら、彼女は恍惚とため息を吐く。 そしてそのまま、顔を更に蕩けさせた。だらしなく。

 脳裏で、その花瓶を貰った少し後、二ヶ月程前に永琳が彼女に言った言葉を思い出しながら。

 

『貴方にもう少し仕事を任せましょうか』

 

 彼女の師である八意永琳が、診療所の仕事をある程度優曇華に任せるようになった事だ。認められたという事なのだから、嬉しくない筈が無い。

 だが、

 

「……ぅうう」

 

 だらしなく惚けた顔を一変させ、少し俯き彼女はこめかみ辺りを揉みながら呻いた。どうにもその仕事を任された理由に、彼女は納得できないで居た。

 確かに、彼女の努力は認められたのだろう。それは間違いない。

 

 ただ、優曇華に回された仕事、その時間がぽっかりと空いた永琳が、よく外出する事が不満だった。

 

「……うー」

 

 これが日に日に大きくなっていく不満感。認めて貰ったから仕事を与えられたのは勿論彼女も理解しているが、それと同時に永琳が楽しげな顔で診療所から抜け出すのは、どうにもそちらの為に仕事を回されたのではないかと思えて不満だった。

 しかもその外出の理由が――

 

「あれ、今日も行くの、お師匠様?」

「えぇ、前に頼んでいたフラスコと薬草一式を受け取りにね」

「はいはい、いってらいってら。お土産よろしくー」

「あの店に置いてある物で、貴方が欲しい物ってあるかしら?」

「うん、無い。ごめんなさい」

「うううううううぅ……」

 

 てゐと永琳の会話に在る、あの店、だから始末が悪い。優曇華としては、歓迎出来ない事態である。

 優曇華が地上兎を如何にか宥め、すかし、独自に調べた情報では。野蛮な地上の民、その中でも特に半端な、半人半妖の店主が開いている奇妙な店である。

 

 そんな場所に、誰かを遣う事もなく、用事の大小関係なく、敬愛する自身の師匠が入り浸るようになれば、彼女はもう自らの内からふつふつと絶え間無く湧き続ける心配と悋気に、良い様に弄ばれるしかないのだ。だから優曇華は釘を刺しておく。

 出来るならば、その釘を、特注の五寸釘を、某店主の両目に刺したい等と思いながら、釘を刺す。出来るならば、こんな理由で胃炎になる前に全て終わって欲しいと思いながら、釘を刺す。

 

「師匠、早く帰ってきて下さいよ。私一人じゃ限度があるんですから」

 

 腰に手をあて、頬を膨らませて、私ちょっと怒ってますよ、といった顔で優曇華は自身の師匠に言う。 永琳はここ最近反抗期に入ってしまった、自身を師匠と呼ぶ玉兎の頭に手を置き、そっと撫でた。

 普段に見せる曖昧な、接客用の笑みではなく、親愛を感じさせる暖かな笑顔で。

 

「貴方も、もう立派なものよ……自分を卑下するなんて、良くないことだわ」

「わ、分かりました! 私頑張ります!」

 

 だから優曇華は、ころりと参った。

 そして彼女は、楽しげに飛んでいく永琳の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。

 幸せそうな蕩けた笑顔で、ぶんぶんと。今日はあの花瓶にどんな花を生けようか、等と思いながら。

 

 そして、その場に二人だけが残る。地上兎のてゐと、月兎の優曇華の二人だけが。

 

「……」

「……なによ、てゐ。言いたい事があるなら――」

「言って良いの? 言って良いの? ねぇ?」

「……やめて」

「鈴仙、弱ッ」

「やめてって言ったでしょー!?」

 

 しかし事実だった。

 

 

 

   ●

 

 

 

「あぁ、フラスコと薬草のついでに、前に頼まれておいた道具の絞込みもやって置いたよ」

「あら、ありがとう」

 

 店に入った際出された熱いお茶に唇を寄せながら、永琳は礼を言う。彼女の前に薬草が三束程と、フラスコ二つ、そして書類が十枚ほどを置かれる。

 湯飲みをテーブルの上に戻し、永琳はそれらを手に取った。特に念入りに見るのは、十枚ほどの書類。

 香霖堂にある医療関係の、外の世界の道具の状態等が書き記された物である。外の世界から落ちてくる道具を扱う、ただ一つだけの道具屋。それだけが香霖堂という店が他店に対して持っている優位性である。それ以外は何も無い。マイナス方面ならば幾らでもあるが、優位性となると驚くほど少ないのがこの店の凄さである。

 

 ただ、この店主、その優位性を表にあまり出さない。気に入った道具や使い方が判別した道具、自分好みのそれらを、彼は秘匿して倉庫に隠してしまう悪癖がある。

 用途は兎も角、使い方が全く分からなくとも、なんとなく奥へ奥へと隠してしまう様な子供じみたところまで、彼には在った。まさに趣味人である。

 

 永琳は、その香霖堂の蔵で死蔵されている道具達の買取を申し出たのだ。

 霖之助としては表に出すつもりも無いただの趣向品としてしか成り立たないそれも、八意永琳を頂とする診療所で扱えば、人を救う為の道具となる。

 過ぎた技術を有した物は、恐らく隙間妖怪の横槍が入るだろうが、逆に言えば横槍さえ入らなければ幻想郷でも使っていいのだ。

 

 ――道具は、使ってこそ道具ではありませんか? 貴方の倉庫に、命を救う物があって、私にも恐らくそれの使い方が分かるのです。どうか、お願いします。

 

 真摯に、彼女は真摯に命を説き、頭まで下げた。人の命に携わる現場にいる者としての永琳の言葉は、霖之助が無視するには鋭すぎた。

 用意するといった金銭も大層な額ではあったし、霖之助は素直に頷く事にしたのである。それ以上に、現場で使われる道具達を生でじっくりと見たかったと言うのが、彼の本音であるが。

 

 そして現在、それらの紙媒体への情報化が行われている訳である。

 もっとも、それらに用途は書かれていても、使い方までは書かれていない。それを不審に思った永琳が、霖之助に問うた。

 

「用途や現在の状況は記されているのに、どうしてここには使用方法が書かれていないのかしら?」

「僕の能力では、用途までしか分からないんだ。それに、使い方は……君なら全部分かるんだろう?」

「まぁ、そうだけど……あら、何かしら、この要河童相談と言うのは?」

 

 今度は、数箇所に書かれたその文字が気になったらしい。

 

「口惜しいことに、僕では手に負えない状況に陥っている道具もあるんだ。こうなるともう、神頼みかお山の河童頼みになる」

「なるほど……その辺りは、買い取って使うつもりなら、此方でやれと言う事かしら?」

「僕が優れた交渉人に見えるなら、そこまで頼んでみるといい。勿論、そんなものは別料金だ」

「じゃあ、この辺りは自分とてゐで行きましょうか」

 

 自分で言っておきながら、永琳の返事に霖之助はむくれた。自身の能力をあっさりと否定されたのは、やはり悔しいらしい。

 そんな反応を横目に見ながら、永琳は微笑む。 

 

 ――だからここは、楽しい。

 

 ここは、永琳がそのまま笑える。永琳は、だからここが好きだった。

 永琳は女である。

 女である以上は、若い、それなりの容姿を持つ男と語り合って楽しくない筈が無い。会話も淀みなく、時には高い知識を必要とする言葉の交換さえ可能で、霖之助は会話を楽しむだけなら、なんら問題ない存在であったのだ。知識、知恵という点では遥か高みに座す永琳に、噛みつかんばかりに挑みかかってくる青年の姿は、永琳に陶酔にも似た喜びさえ感じさせた。

 特に色のある、艶のある会話など無いが、永琳は楽しいと心から思った。

 

 異性と言葉を交わし、何も感じられないと言うのなら、それは性別の死である。男でも女でもない、何かになってしまっているのだ。

 だが、永琳は女でありたかった。その性別で世に生まれ出でた以上は、女である事を恥じるも誇るも無く、平然と女でありたかった。例え自身の女に、欠陥があろうとも。

 いや、あるからこそ。誰に断るでもなく、誰に宣誓する必要も無く、ただ普通に女で居られる。

 それは――

 

 カウベルが鳴り響き、小さな地上兎が店内に入り込んでくる。

 

「お師匠様ー、鈴仙が怪我した上に気絶までしてるんで、治療お願いしまーす」

「あら、てゐ……どういう事?」

「いや、いきなり鈴仙が襲い掛かってきたんで、ついこう、打ち返したらいいとこに当たって……うん、そんな感じですよ?」

「はいはい……じゃあ、霖之助、また来るわ」

「あぁ、ここは店だからね。客の許可なんて必要ないさ。勝手に来るといい。お茶も勝手に入れるといい」

 

 常の通り、あるがまま、偽るでもなく、霖之助は偏屈な古道具屋店主のまま、永琳に応える。永琳はてゐに背を押されながら、そんな霖之助に笑みを零して去っていく。てゐの方は、にやにやとした笑顔を霖之助に向けて。

 診療所まで、てゐと永琳はそれなりの速度で飛びながら言葉を交わした。

 

「お師匠様」

「なに、てゐ?」

「私、もしかして馬に蹴り殺される?」

「そんな関係じゃないわよ、私と彼は。女と男では、あるけれどね」

 

 それは――だから嬉しいのだ。女のままで居て、在っていいと言う、たったそれだけの事が。何もかもが自身だけで事足る、と言うのは生物として他者を必要としない寂しさに繋がってしまう。

 殊、女であれば尚更に。

 

 

 

   ●

 

 

 

 ――珍しいものが手に入った。

 

 兄弟子のそんな言葉に、霖之助は里まで出て、兄弟子の構える店まで来ていた。

 香霖堂のような、閉ざされた店ではなく、通行人からも商品が見えるようにと考慮された開かれた店内の、その店先にある長椅子に座り、霖之助は兄弟子が大事そうに持ってきたそれを、じっと見ていた。

 

「どうだ、霖之助。年代物の横笛だぞ」

「……」

 

 箱の中に赤い布に包まれて置かれている横笛の余りの余りさに、霖之助は額に手を当てる事しか出来ない。

 

「なんだ、目をやられたのか?」

「いえ、今額に手を当てているでしょう、僕は」

「お前ならそこにも目が在りそうだ」 

「あってたまるか」

 

 勿論、彼の兄弟子が言うような理由で霖之助が額に手を当てている訳ではない。

 

「この横笛はな、なんとあの信玄公が使っていたと言う特注造りの――」

 

 兄弟子は霖之助の顔に浮かぶ表情に気付くことなく、得意げに長広舌を打とうとして

 

「あら、数打ちの横笛がどうしてこんな大事そうに仕舞われているのかしら?」

 

 美しく鳴る音の介入に、言葉を失った。

 

「……え?」

 

 そのまま、彼は横笛を数秒見やり……先程奏でられた美しいの音の主、偶然通りかかったのだろう診療所の女主人、八意永琳の顔を見つめた。

 

「幾らで購入されたのかは知りませんが……ご愁傷様です、ご主人」

 

 永琳の無慈悲な斬撃に商人としての止めを刺され、音も無く倒れる兄弟子を見届けてから、霖之助はため息をついた。

 

「一応、彼の名誉の為にも言っておくが、彼が商人として無能だと言うわけじゃあないんだ」

「あら、そうなの?」

「そうさ。彼の接客能力や交渉の粘り強さは霧雨の親父さんだって認めた、立派な物さ。……ただ、どういう訳か鑑定眼が、少々、あれだが」

 

 霖之助は兄弟子を思ってか、何がどうあれなのかははっきりと言葉にしない。

 ちなみに、霖之助への評は『鑑定眼と審美眼は太鼓判。ただし接客態度が最悪』である。あの兄弟子と霖之助を足して割ったら真っ当な商売人になるだろう、と同期の弟子達と霧雨道具店の店主は良く酒の席で言っていた。

 

 兄弟子の介抱を丁稚の少年に頼んで、気を確りと持つようにと伝言してから霖之助は店を出た。

 なんとも言えない顔のまま店を出る霖之助に、永琳達は極々自然とついて行った。少なくとも、永琳自身は。

 

「そんな物よね……全てを出来る人間なんて居ないわ」

「……そうかな? 君なら出来るんじゃあないかな? さっきだって、確りと門外の事をやってのけたじゃあないか」

「あらあら……なぁに、お駄賃でも欲しいの?」

「僕は君の茶坊主か。いや、世辞やおべっかではなく、ただ僕は事実を」

「そうなると、いつも熱いお茶しか出ないのかしら……ねぇ霖之助、それは困るわ」

「僕だって現在進行形で困っているよ。噛み合わない、この頓珍漢な会話に……それにね」

 

 三人は人里の大通りを歩いていく。そう、彼ら、彼女らは三人であり、霖之助は永琳達と伴だって歩いている。

 だから霖之助は、永琳にこう言った。

 

「そろそろ、そちらの彼女を紹介してもらえないものかな。この場合、僕とその少女、どちらとも交友のある君の役割だと思うのだけれどね」

「あぁ、この子は――」

「鈴仙……です」

 

 ちらりと、自身に投げかけられた二つの視線に、優曇華は冷たく、ばっさりと応えた。

 最低限を名乗るつもりだったが、そこは敬愛する師匠の顔を立てたのである。それでも、仏頂面を正さないのは、彼女の限度が近いからだ。

 師匠であり、姉とも母とも言える憧れの対象を独り占めしつつある地上の民、それも半端な存在相手に冷静に向き合えるほどの余裕は無い。そんな優曇華を見て、永琳はなんとなく微笑を浮かべる。霖之助は、特に表情を変えない。

 

 ――まぁ、どうにも嫌われているんだろうなぁ。

 

 そんな事はとっくに分かっていた事である。どちら着かずの半人半妖の霖之助は、悪感情で見られる事に慣れている。

 自ら紹介をせず、今の今まで不機嫌な顔で、無言のまま永琳の隣を歩き、時折威嚇するかのように目を細めて自身を睨む少女が、好意的な、或いは凡庸な感情を抱いているとは思えなかった。

 一応の確認を込めて永琳越しに会話を申し込んでみただけの事だ。

 ただ、だからと言って嫌われて悲しくない訳ではない。何故嫌われているのか分からないから、尚の事それは霖之助の中で疑問となって残った。

 

 歩いたまま腕を組み、何事か考え込み始めた霖之助を優曇華はしてやったりとほくそ笑む。何に悩んでいるかは分からないが、先程までの極楽トンボが一転、悩み呻く様は優曇華の溜飲を下げるに十分だった。だったのだが、次の会話で十分に十二分過ぎた満足感は吹き飛んだ。

 

「ごめんなさいね、霖之助。この子、最近反抗期に入ってしまったみたいで」

「ん……あぁ、そう言えば魔理沙もあの頃はこんな感じだったなぁ……なるほど、君も大変だね」

「違います! 私そんなのじゃないです! 反抗期とかもう終わってます! そこのも! 納得した顔で頷かないでよ!!」

 

 永琳と霖之助は立ち止まり、同じく立ち止まって手をわたわたと勢い良く降って全力で否定する優曇華を無言のまま眺め、お互いの顔を見……ゆっくりと頷いた。

 

「あぁ、少しばかり違うが、魔理沙もこんなだった……僕が何を言っても首を横に振るばかりでね……懐かしいなぁ」

「えぇ、姫にもこんな頃があったわ……機嫌を直そうとして玩具とか手渡すと、怒って投げつけてくるのよねぇ。あの時の積み木、痛かったわ……」

 

 完全に保護者の顔で、懐かしそうにそんな事を言う。

 

「反抗期とかもうとっくに過ぎてますってば!! しかもなんか第一次反抗期っぽいし! もう、そんなじゃないんだから!!」

 

 里の人間たちが、往来の真ん中で騒ぐ三人を遠目に見ながら、避けて歩いていく。

 因みに、第一次反抗期とは二歳から三歳辺りの幼児が、何をやってもイヤイヤと首を振るあれである。

 

「で、君達はどうして里へ?」

 

 霖之助達は歩みを再開し、道をゆっくりと進む。優曇華だけが肩で息をしていたが、永琳と霖之助は我関せずと会話を続けた。

 

「東屋のご隠居さまを定期診察しに……ね」

「……そうか、もう、歩けないほどなのか……彼は」

 

 霖之助の脳裏に、昔日の、闊達で腰の軽い彼の姿が蘇る。里一番の呉服屋になると息巻き、どんな時でも笑顔を絶やさなかった人間。そんな人間が、今はもう……

 

 人は、早い。妖怪から見れば早すぎる速度で歩み、走り、死んでしまう。 

 それゆえに、人は危機感を抱き、それを背に置くからこそ成長する。それは長寿の存在には無い強みでもあった。短いからこそ、鮮烈に彼らは、彼女らはその軌跡を刻み込む。

 時間の中に、残される存在の記憶の中に。

 霖之助は空を遊弋する大きな雲をぼんやりと見ながら、軽く息を吐いた。

 

「寂しいね……また、置いてけぼりだ」

 

 ぽつりと霖之助は呟く。

 隣を歩く永琳には、当然聞こえているだろう。だが、別に彼はそれを気にしなかった。

 弱さを見せるを好まない彼でも、他者の生死から生まれる自身の感情の如何は、どうにもしがたい。

 優曇華は何も応えず、自らの歩む道をただ進む。永琳は、霖之助を一瞥してから、同じ様に空を見上げた。くじらのように空を遊弋していた大きな雲は、徐々に千切れ始め、小さくなっていく。

 

「寂しいと言うのはね、霖之助。貴方がそこに生きて、誰かを愛している証拠でしょう」

 

 里から離れ、独り森に店を構える青年。それでも、彼は人の中にいるその証拠なのだと永琳は言う。

 絆がある。それが消えようとしているから、寂しいのだ。

 

「……愛している、か。里一番の医者先生に言われたんじゃ、きっとそうなんだろうさ」

 

 一つから二つ、三つ、四つ……それぞれに独立し、孤独をばらまいていく雲から目を離し、霖之助は肩をすくめ小さく笑う。あの雲のように、独りである事は出来ない。

 人も妖怪も神も、何もかもが。一つで生きて行くことの出来る強さなど持ち合わせては居ないのだから。

 対、または反。それらがあって、生き物は初めて自身を知り、思いやりを知り、愛を知り、憎しみを知る。笑顔の意味を、愛すると言う貴さを、生きる苦しみを、死んでしまう悲しみを、頬を伝う涙の意味も。

 相して、愛して、逆して、探して。

 存在は存在の価値を知る。

 

 幾多の、誰かと共に繰り作り上げた、人の体温を持った赤い糸――絆達に絡まれて、そこに生まれ、そこで死ぬ理由を知る。

 

 争いも無ければ平和も無く、何も無ければ何も起こらない。そんな中で生き続ければ、ただ信号で生きるだけのブリキ人形になってしまう。

 だから向き合うのだ。時に牙を剥き合ってでも、判然としない、このどこかに在るだろう温かくも冷たい心を殺さない為に。

 霖之助が、ふと歩みを止める。

 

「……寂しい、か」

 

 ぽつり、意識もせず口から零した。

 そして、永琳を見る。永琳は、静かに笑顔で佇むだけ。

 

 ――一番寂しい置いてけぼりは、誰だろう。

 

 霖之助の瞳に映る永遠に生きる女は、ただ笑顔。

 そのただの笑顔が、一瞬寂しげ揺らめいたのは、霖之助の錯覚だったのだろうか。

 

 

 

   ●

 

 

 

 朝からどこかどんよりとした雲が空を覆っている為か、いつもより大分暗い診療所の中で、優曇華は備品を確認していく。彼女の努力の結実か、仕事に張り合いでもあるのか、優曇華はてきぱきと備品を見て、触れて、それぞれの状態を見定めていく。

 そんな彼女を見ながら、一緒に備品の点検をしていた永琳は、満足気に微笑んだ。

 そして自分の点検すべき箇所を見て……

 

「……あら」

 

 ころりと言葉を落とした。

 

「……? 師匠? 何か何か不備でもありましたか?」

 

 優曇華が自身の持ち場を離れ、心配げな顔で永琳の傍へと寄ってくる。

 自分の仕事に穴があったと思い込み、顔を歪める優曇華に、だから彼女は優しく言葉を掛ける。

「いいえ、私のミスよ」

「師匠のミス……ですか?」

 

 ほっとしたのも束の間、釈然としないと言った表情で優曇華は永琳を見る。

 

「私だって失敗するわよ? おかしいかしら?」

「あ、いえ、そういう訳じゃないんですけど……」

 

 顔を俯かせ言いよどむ彼女の、くるくる変わる百面相を前に、永琳は自然と優曇華の頭に手を置いた。

 

 冷たい掌。その涼やかな掌に撫でられ、優曇華は目を細める。

 まるで喉を撫でられる猫のように。だが、その幸せも長続きはしない。

 

「じゃあ、診療所を開く前に霖之助の店に行って買って来るわ」

「ちょ、ちょっと待ってください師匠!!」

 

 とりあえず、備品が壊れたり足りないとすぐあの店に行こうとする永琳に、優曇華は勢いで反対した。

 そして、そうなった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 とうとう降り出した空を窓から見つめたまま、霖之助は手に持っていたタオルケットを先程店内に乱入してきた少女に差し出した。

 

「こんな時に災難だったね、鈴仙」

「う、五月蝿いわよ!」

 

 そして、こうなった訳である。

 めそめそと泣きながら、ぐしぐしと鼻を鳴らしながら、彼女は自身の長い髪を拭っていく。

 

「本当に、もう! この店、やっぱり鬼門なんだわ……」

「そうかい? それほど悪い方向じゃあなかった筈だけどね」

「五月蝿い疫病神」

 

 歯に衣を着せぬ優曇華の言葉にも、霖之助は笑ったまま返す。

 

「厄病とは言え神か……うん、悪くは無いな」

「……」

 

 鈴仙は無言のまま、手にしていたタオルケットを霖之助の顔目掛けて投げつけた。

 湿ったそれを顔に受け、霖之助は軽く鈴仙を睨む。優曇華の目の既に据わっており、二人は互いに睨み合った。

 

 「……くしゅん!」

 

 が、それも優曇華の可愛らしいくしゃみによって終わる。霖之助は肩をすくめ、投げつけられたタオルケットをテーブルの上に置き、私室へと足を向けた。

 そして、僅かばかりの時間で霖之助は香霖堂に戻ってくる。手にはお盆を持っており、その盆の上には湯気を燻らせる湯飲みと茶請けの菓子があった。

 

「……何それ?」 

 

 優曇華はくしゃみをする前から続く、据わった目のまま言葉を紡ぐ。

 

「いらないかい?」

「私は、師匠の遣いで来たんだから、そんなの――くしゅん!!」

 

 またも愛らしいくしゃみが一つ出る。しかもくしゃみをする際には、態々霖之助から顔を逸らす。

 

 些細な事だが、人間性の発露である。この少女は、霖之助を見ると余り良い顔もしなければ、時に隠すことなく攻撃的な感情をぶつけてくる。

 だが、この通り悪い者ではないのだ。本当に些細な事ではあるが。

 それに文句や攻撃的感情を向けてくる事はあっても、優曇華は霖之助の店で無法を行わない。

 彼女はあの出会いとも言えぬ出会いから、既に何度かこの店に来ているが、問題のある行為を行ってはいないのだから。

 具体的な例で言えば、勝手に商品を持っていかないし、食事をたからないし、何も買わないまま帰る事も無い。永琳の遣いで来ている以上は、商品を買って帰るのは当たり前だが、その当たり前と言うのが霖之助にとって既に貴重で希少だ。

 

 我の強い少女達を見る事が多くなってしまった霖之助には、優曇華程度なら特に問題なく付き合うことが出来た。

 とうの優曇華は、霖之助を決して付き合い易い存在などとは思っていないが。むしろ敵である。仇である。悪であって怨敵である。共に天――永琳――を抱く事など出来ない不具戴天の敵なのだ。

 

 故に、彼女は現在のこの境遇に納得していない。彼女の前に置かれた熱いお茶も、茶請けに用意されたグミも、敵からの施しなのだ。

 何故に日本茶にグミだと突っ込むほどの余裕さえ、彼女にはなかった。どうでも良い話だろうが、茶請けになりそうな菓子は全て巫女と魔法使いに食い散らかされただけの事である。

 

 このままやられっぱなしで良いだろうか? いや、良くない。

 

 何をやられた訳でもない優曇華は、それでもそう結論し、何か反撃への口実はないかとなんとなく店内を見回し――それを見つけた。

 雑多な店内の、その棚に置かれた――

 

「……不細工な花瓶」

「ふん、不細工か」

 

 花瓶で反撃を開始した。

 

「こんな花瓶をこれ見よがしにあんな目立つ場所に置くなんて、道具屋としてどうかと思うわ」

「ほうほう、なるほど」

 

 しかし霖之助は平然とそれを聞いているだけ。良く見れば、その顔にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。

 のだが、優曇華はそれに気付かず、自分に攻撃の番が回っているのだと得意げに喋るだけだった。

 

「私の部屋に師匠から貰った花瓶があるけれど、あれの倍は……いいえ、天と地ほどの差があるわ」

「ほほーう、それはそれは」

 

 そして時間は流れていく。

 

 足りていなかった薬の包装紙も買い取って、優曇華は乾いた髪を手の甲で軽く弾いてから香霖堂の扉を開けた。鳴り響くカウベルと、雨足。

 

「……」

 

 無言のまま、彼女はその来た時より激しい雨足に一歩後ずさった。

 と、背に何かが当たる。

 

「……何よ」

「いや、何も」

 

 後ろを見ると、そこには霖之助が居た。優曇華は慌てて彼から離れ、また扉に近づく。

 しかし雨足はそのままで、一切の容赦なく降り注いでいるだけだ。

 

 ――折角髪も乾いたのに……

 

 髪を一房つまみ、そんな事を考えていると、横から何かが差し出された。

 傘である。傘を、霖之助が差し抱いているのである。

 

「……何よ?」

「いや、何も」

 

 睨み付ける優曇華に、霖之助は常の表情のまま返す。優曇華は霖之助の瞳から目を離し、その差し出されている傘に目を落す。

 

「買えって事かしら?」

「あぁ、それも良いだろう」

 

 彼女は唇を噛んだ。

 買いたくとも、永琳から手渡された備品購入分きっちりの金銭だけを持って店まで来た身だ。

 愛用の財布は自室の机の棚の中で休憩中である。買いたくとも、買えない。

 

 ――借りるのは貸しを作るようで嫌だし……あぁでも、あぁもう!

 

 悶々とし、とうとう頭まで掻き乱し始めた優曇華に、霖之助は語りだした。

 

「この店は、実に不躾な客が多くてね」

「……は?」

 

 現状において、何ら関係なさそうな話を。

 

「勝手に商品を持って行っては、死ぬまで借りておくとか、あとで払うからツケて置いてくれと言う客が多いんだ。だのに、彼女達にはどうも返却の意志が無い。少なくとも、僕には見えない。どう思う?」

「……?」

 

 優曇華は意味が分からず首を傾げた。突如振られた会話に意味も分からず、彼女はきょとんと、険の無い瞳で霖之助を見る。子犬の様な仕草と、目で。

 自身の言わんとしている事を一割も理解していない彼女に、霖之助は常の顔、常の声でゆっくりと続ける。

 

「だから、君がそうでない事を、僕は祈るばかりだ」

 

 無遠慮に、彼は左手を伸ばし、その手で優曇華の右手を取った。

 一瞬びくりとした彼女は、その以外と硬い霖之助の手を払おうとしたが、何故か払う事が出来なかった。動かぬ優曇華をそのままに、霖之助はその少女らしい柔らかい掌の上に、持っていた傘を手渡す。

 そして、無言のまま背を向けて、自身の座すべき場所に戻っていった。テーブルにつき、霖之助は本を読み始める。

 

 終わり、と言う事なのだろう。なのだろうが……

 

「……」

 

 優曇華には、良く分からなかった。

 いや、分かってはいるのだ。つまり、今自身の掌に握られている傘を、ツケで売ってくれたと言う事は。

 

 優曇華は霖之助を倣った訳ではないが、なんとなく無言のまま店を出て、傘に当たる雨の音を聞きながらあぜ道を歩いていく。釈然としない顔で、歩いていく。

 

 ――なんで、手を払えなかったんだろう?

 

 女性の手を断りも無く取ったのだから、払う程度許された行為だろう。

 まして、彼女の中で霖之助が置かれている位置は極めて低い。それを為すことに優曇華が抵抗を覚える理由は一切無い。

 だのに、何故。

 

 ――……なんで? どうして?

 

 何故、と、どうして、がぐるぐる、くるくる頭の中で回り、彼女は静かに混乱したまま診療所へと続くあぜ道を歩くしかなかった。だから気付かない。

 

「優曇華?」

「え? あ……師匠……」

 

 彼女の目の前に、彼女の師匠、永琳がいた事に。

 右手に傘、左手にも傘を持って彼女は優曇華の前に立っていた。勿論、突如そこに現れた訳ではない。

 傘を差して、ただ普通に道を歩いてきたのだ。考え事をしていた優曇華が気づけなかっただけの事である。

 

「どうして……ここに?」

 

 彼女は驚いた顔で、永琳を見上げる。

 

「貴方が出て行った後、この雨でしょう? 難儀してないかと思って、傘を持ってきたのだけれど……」

 

 要らなかったわね、と永琳は呟き笑った。

 今の優曇華には、霖之助からツケで買った傘がある。必要の無い行為だった。

 けれど、その行為は無意味ではない。生き物と生き物の間で為される絆は、こんな些細な事の積み重ねで作られていく。だから、そうではないのだ。

 それが分からなくとも、優曇華は首を横に振って永琳の言葉を否定する。

 頭はそれを知っていなくとも、心は触れ合いに敏感な羽毛の様な何かで、優しさにも冷たさにも繊細に反応する。優曇華は永琳の左手から傘を取って、今まで差していた傘を閉じ、永琳の持ってきた傘を取って差す。

 

「師匠、早く帰りましょうか」

「……えぇ、そうね」

 

 優曇華の左手に握られている傘を見つめ、彼女は少し困ったように苦笑を浮かべてそう応えた。

 

 彼女は――優曇華は、優しさを知っている。

 それは冷たい掌を持つ存在が、彼女に与えてくれる安らぎや幸せだと知っている。

 けれど、気付けない。未熟な彼女は、気付けない。

 閉ざされ、役割を終えてしまった傘を手渡した誰かもまた、同じだと言う事実に。

 

 

 

   ●

 

 

 

 香霖堂の奥にある私室の雨戸を開け、霖之助は空を見上げる。

 昨日の、一夜も続いた雨は嘘のように引け、空は晴れ渡る常の夏景色を取り戻していた。

 寝巻きから普段着に着替え、彼は肩を叩きながら店へと足を向ける。薄暗い店内を抜け、扉を開けて営業中の看板を立て、雨戸とカーテンを開けた事により日の光が射し込まれ、先程までの薄暗さが払われた店内に踵を返し、永琳に頼まれている道具の鑑定でもしようかと考えていると……ふと、見えた。

 外の世界から落ちてきた道具、旧式の大型テレビに腰掛けながら、足をぶらぶらと揺らしている少女の姿が。

 

「遅いわねぇ、もう昼じゃあないのよ」

「……勝手に入っておいて何を言うかと思えば、それかい……で、何用かな?」

「お師匠様から伝言があって来たの」

「あぁ、じゃあ早く伝言だけ伝えて早く帰ってくれないか。出口は、ここだ」

 

 霖之助は無表情に、今自身の立つ場所を指差して少女にそう返した。愛想一切無し、で。

 そんな霖之助を、テーブルに座ったまま少女はしげしげと観察する。

 

「んー……やっぱり、お師匠様がお熱を上げるほどの男には見えないんだけどなぁー……」

 

 無遠慮に。

 

「不躾に眺めるのはやめてくれないかな、てゐ」

「なになに? 気恥ずかしいの? やだもう、霖之助ったら。お堅いお堅い」

「君に見られていると寒気がするんだ」

「なにそれ、私幸せ白兎様よ?」

「生憎と、僕はその恩恵を受けた事がないからね。むしろ皺寄せ白兎だ」

「それで上手い事言ったつもり、貴方?」

「ただの事実だよ」

 

 眉間に皺を寄せながら溜息を吐く霖之助と、それを見て笑みを一層深くするてゐ。

 遊ばれている。間違いなく、霖之助はてゐに遊ばれている。

 その構図が気に食わない霖之助は、本題を求めた。彼女が勝手に店内に進入していたその本題を。

 

「で……もう良いだろう? 君だって伝言に来たのなら、その役目を全うすべきだ」

「はいはい。じゃ、言うわよ?」

 

 そしててゐは、さらっと永琳に頼まれた言葉を伝えた。たったの10秒で終わったその言葉に、霖之助は呆れとも驚きとも言えぬ感情を覚えた。

 

「……永琳が?」

「そ、うちのお師匠様が、是非って」

 

 霖之助は一度眼鏡を外し、眉間を揉んでから再び眼鏡を掛けなおす。

 そして、今はテーブルから離れ、彼の前に立つ少女を見やった。シンプルな服を着た、小柄で愛らしい少女である。その垂れた耳も、少女の甘い外見を強調するなかなかの物であると言えただろう。そう、言えただろう。何も知らなければ。

 

「……なぁに? あらやだ貴方、もしかしなくても私に欲情した?」

「青い果実は食べない主義だよ」

「酸っぱいのも偶には良いんじゃない?」

「君が酸っぱい程度で済む者か」

「えぇ、下すどころか、昇る羽目になるものねー」

 

 にやにやと笑い、霖之助の反応の楽しむてゐは、甘ったるい外見に反してぴりりと辛(から)い、びりりと辛(つら)い妖怪兎である。

 この幻想郷に、有史以来の古参は多けれども、彼女に並ぶ者は少ない。

 決して多くは無い。彼女自身が自分を語る事はないので、その噂される彼女の経歴がどこまで正しい物かは分からないが、霖之助が睨むところ、名の通りの兎なのだ、彼女は。

 であれば、霖之助はもっと彼女に敬意を持って接するべきかもしれないが、そこは幻想郷の空気と言うべきか。どうにもこの狭い世界、古参になればなるほど厄介な存在が多い。

 海千山千は兎も角として、皆一癖二癖が強すぎるのだ。

 

 殊この妖怪兎の少女は、その筆頭のような存在である。

 悪戯好きで嘘つきで狡猾で自由気ままで、その癖幸運の運び手。面倒臭い相手である。

 どう言い繕っても面倒臭い相手なのである。

 だから霖之助は、永琳との知己を得て以来、偶に遣いと言う事で店に顔を出しては、今のように霖之助"で"遊ぶ彼女に敬意を払う事が出来ないで居た。

 もっとも、出会いや関係が真っ当でも、彼が彼女に敬意を払う事はなかっただろう。彼も十分すぎるほどに面倒な男だった。

 

「で、君が甘いか酸っぱいかは兎も角だ」

「おや、確かめないの?」

「ご免だよ。確かめたが最後、僕は死んでしまうよ。どうせ毒があるんだろう? ……後でじわじわ来る、毒が」

 

 てゐは何も応えず、にやっと笑った。それが答えだ。

 霖之助は溜息を付き、話の筋を戻す。

 

「で、だ。で、なんだよ、てゐ。永琳が、本当にそう言ったのか?」

「うん、間違いなく、ばっちり、嘘なんてないよ?」

 

 霖之助の言葉を受け、てゐは容姿相応、眩しい笑顔を見せる。それがまた嘘くさいのだが、多分事実なのだろうと霖之助は思う事にした。

 

「それじゃ、永遠亭まで案内するから、さっさと準備しなさいよ」

 

 霖之助が、永琳に呼ばれた。

 そういう事らしい。

 

 

 

   ●

 

 

 

「師匠……やっぱりおかしくないですか?」

「なにが?」

「いえ、この状況が」

「……そうかしら?」

 

 優曇華と永琳は、永遠亭の広い台所でそれぞれに何事か為していた。

 優曇華は包丁でニンジンの皮むきを。永琳はおたまで大きな鍋をかき回して。

 律儀に家事の正装、三角巾と割烹着を身に着け。

 

「いや、だってこんなのしてどうするんですか?」

「どうもなにも……世話になったのは貴方もでしょう?」

 

 優曇華は、玄関に無造作に置いている傘を思い出し、首を振る。

 

「あれはツケで買ったものだから、世話とかそんなのじゃ……」

「まぁ良いじゃない。姫も良いって言っているのだし」

「……」

 

 彼女は脳内に姫様を思い浮かべ、その首を絞めた。実際にやったら大変な事だが、想像上なら何をしても良い。

 もっとも、彼女にあの姫をどうこうする事など不可能だ。永琳と同じく、姫と呼ばれる少女もまた一種の頂上者だ。間違いではなく、一つの頂点を極めている存在である。

 

 猛者揃いの幻想郷でも上から数えて十に悠々と入る存在相手に、彼女が首を絞めるなどと出来たものではない。もっと何かを言おうとした優曇華だったが、永琳の楽しげな顔を見て喉元まで出かけていた言葉を飲み込んだ。

 笑顔で居て貰えるなら、その方が良い。しかし、その原因が彼女には、優曇華には気に食わない。

 

 皮をむき終わったニンジンをまな板に置いて、それを一気に叩き斬る。脳裏に、その元凶を思い浮かべながら、叩き斬る。

 

「私も彼には世話になっているから、良い機会だったのよ……巻き込んでしまったのは、申し訳ないけれど」

「そんな、師匠は何も悪くないですよ!」

 

 悪いのは全てあの男である。

 彼女はそう信じて、包丁を全力で振るい続けた。

 

 永琳は、霖之助に世話になっていると言った。

 永遠亭の倉庫から出てくる用途不明の道具の鑑定、帳簿化。依頼される道具の修理、偶の息抜き。

 だから永琳は、霖之助に世話になったと言い、その礼を返す方法を考えて、こうなった。永遠亭で軽く宴会。

 

 喧騒を好まない霖之助だと永琳は理解してたが、それが少数での宴会なら問題ないだろうと思い、その思い付きを実行に移した。ただ、永琳自身はある程度自身の中にある、不確かな物に気づいてしまっている。

 

 ――だとしても、暫らくは様子見……でしょうね。

 

 礼、恩返し。そんな言葉を並べてみても、彼女の内にある不明瞭な灯火は納得しない。

 色々口にして、様々な理由で隠してみても、隠された火はただ不安げに揺れるだけだ。

 

 胸に宿るその灯火は弱々しい物で。だから彼女は、見極めなければならない。

 宿したそれが、いつか知らぬ間に消える埋み火なのか、それとも――猛り狂う炎になる物なのか。

 彼女はその不確かな、遠い昔にどこかに置いてきたそれと、向き合わなければならない。

 

 

 

   ●

 

 

 

 てゐと世間話をしながら竹林を歩く霖之助の目の前に、その屋敷はあった。

 純日本家屋、どこか懐かしくも、怖くもあるその屋敷を前にして、霖之助は我知らず喉を鳴らした。

 

「おーい、置いてくわよー?」

「……あぁ、すまない」

 

 立ち止まった霖之助にてゐは声を掛け、彼は少女の後ろについて歩いていく。

 そして、そんな二人を出迎えたのが。玄関で無造作に置かれている、優曇華にツケで売られた傘と――

 

「……てゐ、それが永琳の客なの?」

「あ、お姫様、おはよう。うん、これがお師匠様のあれ」

 

 あれだのそれのこれだのと言われた霖之助は、一瞬むっとしながらもお姫様と呼ばれた少女を見る事にした。

 美しい少女だった。霊夢や魔理沙も美しい少女ではあるが、これに敵う事がないだろう。そう思わせるほどに美しい少女だった。

 ただ、その顔は能面のようで、威圧感はあっても生きている存在が持つ重さを持っていなかった。

 

 ――まるで人形だ。

 

 美しすぎる事、そして生を感じさせない事から、霖之助はそう思った。

 と、その少女がそれまでの表情を一変させ、底意地の悪そうな笑顔を見せる。霖之助の隣にいる、てゐと通じる物のある笑顔だ。

 

「私を見ても惚けなかった事を考慮しても……そうね、52点……かしらね」

「お姫様は高望みし過ぎだと思うなぁ、私」

「じゃあてゐ、お前は何点つけたの?」

「54点」

「変わらないじゃない」

「いやぁお姫様、2点の差は大きいと思うわけよ、私」

「当人を前にした採点は、もう終わったかな?」

 

 自身を前に、何やら良く分からない点数付けをしている少女達に、霖之助は割って話しかけることにした。こういった事は、経験則から余り良い結果に繋がる事は無いと分かっていたが、題材が自分となれば放置する訳にもいかない。

 が、結果は予想通り。

 

「人の話の最中に割ってはいる……減点ね。-5点」

「しかもそこから減点か……」

「分かりやすいでしょう? 昇るも下がるも、お前次第……努力が形になるわけね、これ」

「特に下がっても上がっても、僕にはどうでも良さそうな気がするんだが」

「向上心が人を豊かにするんでしょう? 知らないけれど」

「知らない事を口にするか、君は」

「知らないから口にするんじゃない」

「あぁ、そうか」

「えぇ、そうよ」

 

 濡れた様に淑やかに輝く長い黒髪を持つ美しい少女は、そこで初めて険のない笑顔を見せた。

 

「まぁ、良いわ。全くの不良物件と言う訳でも無いようだし……私はこの永遠亭の主、輝夜よ。お姫様でもお嬢様でも麗しの君でも天上の至宝でも、この世全ての綺羅とでも、好きなようにお呼びなさいな」

 

 腕を組み、その少々薄い胸を張って輝夜はそう歌った。

 どこか疲れた顔で、霖之助は呟く。

 

「そう呼べと?」

「その耳は飾りなのかしら? 好きになさいと言ったでしょう? ほら、私は自己紹介したわよ? 早くお前もなさいよ」

「……あぁ、本日はお招き有難う御座います、"お嬢さん"。初めまして。僕は香霖堂店主、森近霖之助だ」

 

 耳を打った霖之助の言葉に、輝夜は一瞬きょとんとしてから――どこからか取り出した扇子を広げ口元を隠した。

 そして、にたぁと笑った。口元が見えない以上、それは霖之助の想像でしかないのだが、事実その様に彼女は口元を歪めていた。

 

「+5点……良かったわね、また52点に戻ったわよ?」

「嬉しくないのは、どうしてなんだろうね?」

「高くも低くも無いからじゃないかなぁー」

 

 点数、及び会話の内容が、である。

 三人はそんな会話を続けたまま、てゐの案内で宴会場へと向かっていった。

 

 宴会場、と今回呼ばれている広い居間で、霖之助は先程まであった気持ちが消えていくのを感じた。恐らく、永琳が自分に気を遣ってこの席を用意してくれただろうと言う事は彼も理解している。だから申し訳ないともありがたいとも思っていた。

 のだが、今の現状を思えば、彼はここに来るべきではなかったのだ。

 

 客、という事で上座に座る事になった霖之助と、その右隣に彼を呼んだ永琳、反対の左隣には永遠亭の主、輝夜。そして三人と向かい形で、優曇華、てゐが座っている。

 優曇華は永琳の前に、てゐは輝夜に前に、である。

 両手に花、それも高嶺の花だ。気分の悪いものではない。

 用意された酒も良いもので、料理に関してはもう言葉も無いほどに上質な物だった。舌鼓を打つ霖之助を見て嬉しそうに微笑むのが永琳である以上、これを作ったのは永琳なのだろう。

 席も特に騒がしいものではなく、静かで、それでも稀に笑い声が響く程度には賑やかなものだった。霖之助にとっては、至れり尽くせりの一席である。

 

 筈だ。

 しかし、世の全てが円満ではないように、世界の小さな縮図たるこの居間にも、黒い澱みがあった。

 永琳の前で箸を食い千切らんばかりの勢いで噛み続けている優曇華である。

 この少女、霖之助に隙あらば目で殺しに掛かってきている。勿論、霖之助もやられてばかりではない。故に、彼と彼女は、こんな暖かい席上でありながら目だけで下記される様な会話をしていた。

 

 ――いい気にならないでよ、この半端者。

 ――ほう、君には僕がいい気になっているように見える、と?

 ――そうじゃないの。何よ、鼻の下なんて伸ばして、だらしない馬鹿面。

 ――そういう君はまるで般若面のようだ。若い女性としてどうなんだろうな、それは?

 ――なんですって……! あんたねぇ! 本当もうねぇ! プチ殺すわよ!? 指とか反対に曲がるようにしてやりましょうか!?

 ――便利だね……その調子で膝が反対に曲がるようにならないかい、君が。

 ――なにその気持ち悪い私! ……ちょっと、想像しちゃったじゃないの!!

 ――あぁ、想像力豊かな事は良い事だよ。

 ――良くないわよ! 何これ夢に出そうなんだけど!?

 ――僕から言えることは一つだけだ。……頑張れ。

 ――あんたが原因でしょ!?

 ――気をつけろ……それは、見たものを呪い殺すらしいよ?

 ――私なのに私を呪い殺すの!?

 ――通称、枕返しだ。

 ――枕関係ないのに!?

 ――あと、特技は袖引きだと聞いた事がある。

 ――枕全然関係ないの!?

 ――……君、実は面白いな。

 ――遊ばれてる、私!?

 

 もう一度記しておくが、目、だけで、である。

 何故にここまで目で会話できるかは兎も角、概ねこんな話をしてた。

 しかも態々永琳と輝夜とてゐの目を掻い潜って。

 無駄である。本当に無駄な労力である。

 

 

 

   ●

 

 

 

 楽しければ楽しいだけ、時間の流れは速くなる。宴会は、恙無く終わり、あとは霖之助がここから帰るだけである。

 少々の諍いもあったが、それはそれで霖之助にとって有意義、とまでは言えずとも、十分暇つぶしになる物ではあった。そして、それに関して霖之助は思う事があった。

 

 ――彼女は、あぁ見えて律儀……なのだろうな。

 

 件の優曇華嬢、彼女は霖之助と永琳が話している最中は決して、生まれたての雀程度ならなんとか驚かす事も出来るかも知れない程の殺気をもった瞳で邪魔をしてこなかった。

 意外に無害だという意味であって、本当にそうだという訳ではない。輝夜、てゐ、彼女達と霖之助が話している最中も、優曇華は同様だった。理由あって霖之助を嫌っているのだろうが、彼女は悪い者ではない。

 霖之助当人は、そうだろうと思っていたが、今回の件でそれに間違いないと確信を抱いた。

 そんなどうでもいい確信を抱いた彼は、何故か現在――……

 

「いい、絶対入ってこないでよ!」

「……あぁ、言われても絶対入らないよ。聞いた話だけれども、最近じゃあ部屋を片付けられない若い女性が多いらしいじゃあないか。うん、違うんだ。別に君がそうだと言っているわけじゃあないんだよ、流してくれて結構さ。あぁ、是非流してくれ」

「こ、このぉ……!」

 

 優曇華の部屋の前で、立って居た。

 

「それで、僕はいつまでここにこうやって立っていれば良いんだい? いい加減、君の部屋の襖も見飽きていたところなんだがね?」

「じゃあ廊下の床でも眺めてなさいよ」

 

 襖の向こうから、優曇華の不機嫌な声が響く。霖之助は襖から目を逸らし、天井を見上げる事にした。

 言われた事に反して上を向く霖之助の耳朶に、小さな笑い声が入り込んできた。

 

「貴方も優曇華も、可愛いわねぇ……本当、素直じゃないんだから」

「男に、可愛い、はどうなんだろうか……」

 

 小さな笑い声の主は、口元を手で隠す永琳だった。霖之助が永琳の評に苦い顔をしていると、襖が開いて優曇華が飛び出してきた。

 その勢いのまま、彼女は霖之助の掌をとって無理矢理小銭をねじ込むように置く。勢いとは言え、男性の、しかも嫌っている筈の霖之助の手を取った優曇華の顔には不思議と不快感は無く、

ただただ憤怒の相だけが見て取れた。

 

「傘の代金、これで良いでしょ! もう借り貸し無し! 良いわね!」

 

 霖之助は渡された小銭を見て、数え、それを一枚摘まんで優曇華に差し出す。

 

「……何よ?」

「多いよ」

「あ……うん、そう?」

 

 少しばかし呆気に取られとし、優曇華はその差し出された小銭を受け取ってポケットに仕舞った。

 

「あぁ、多いね。君は物の相場を知るべきだ」

「う、五月蝿いわよ……」

 

 口惜しさからそっぽ向く彼女に、永琳は先程の笑みを浮かべたまま声を紡ぐ。

 

「本当に可愛いわね……貴方達」

 

 だから優曇華は驚いた。

 

「い、居たんですか師匠!?」

「さっきからずっと」

「あぁ、さっきからずっと居たよ」

「……き、気付いてたなら言ってよ!」

「気付くだろう、普通」

 

 優曇華の小さな非難の声に、霖之助は律儀に付き合って小さな声で返す。

 身を屈めた為か、優曇華に近づいた為か……彼の目は、開かれた襖の向こう、優曇華の部屋の棚の上にある、彼の良く知った花瓶を見つけた。

 

 霖之助は背を伸ばし、優曇華を見て……永琳を見た。彼の一連の動作に優曇華は怪訝な顔を見せ、永琳は笑顔のまま続きを待つ。

 

「あぁ、あれが永琳から貰ったという花瓶かな?」

 

 霖之助は、優曇華にそう語りかけた。

 何事かと訝しむも、前に自身が主導権の得る事が出来たと思っている話題の無いように気をよくし、舌を回す。

 

「え、えぇそうよ。良い花瓶でしょう、貴方の店に在ったあんな――」

「良い花瓶だね。流石永琳と僕で選んだ花瓶だ」

 

 優曇華はその言葉に、ぴしりと動きを止める。

 

「……え?」

 

 鼓膜に響いたその音の内容が判然としなかったのか、意識として聞きたい物ではなかったのか。

 彼女は良く分からないと言った顔で、霖之助と永琳を茫然とした顔で見る。

 

「えぇ、あれは確かに霖之助の店で選んだ物だけれど」

「……えぇええええええ――……」

 

 だが、そこで話は終わりではない。彼女の目は、確かに見たのだ。

 この時、まるで捕食者のような瞳で彼女――優曇華を見ていた、霖之助の物騒な双眸を。

 それは彼女が良く知った瞳だった。彼女のここに来て以来の日常において、一応部下に当たる地上兎の統括者が、優曇華に"何か"する時、良く見せる目。

 

「あの花瓶を買うとき、永琳が最後までどっちにするか迷っていた花瓶があったね。今それを良く見える場所に置いてあるんだが、悲しいかな、先日ちょっとした寂しいお言葉を貰ってしまってね……片してしまう事になってしまいそうなんだ」

 

 その語られる内容に、優曇華は大粒の涙を浮かべ、大きく開かれた口から意味も無く、あわわと零していた。

 がたがた震えながら。

 

「あら……あれも良い意匠の花瓶だったのに……残念だわ」

 

 それまで浮かべていた笑顔を崩し、心底残念だという顔を見せる永琳に、優曇華は、はわわと零しながらわたわたおろおろし始める。

 

「で、その原因を作った存在なんだが、永琳、何と言ったと思う、これがまた酷いもので――」

「あー! 私森近さん送って行きますねー! さぁ森近さん、さっさと行きますよー!!」

 

 霖之助を無理矢理掴んで、彼女は廊下をどたどたと走っていく。

 後に一人残された永琳は、ただただそんな二人を眺めている事しか出来なかった。ぽっかりと空いた、自身の胸の空白を意識しながら。

 

 優曇華に無理矢理引っ張られて行く霖之助は、だからこう言った。

 

「もう一度言っておくよ。君は物の相場を知るべきだ」

「う、五月蝿い!」

 

 涙目で、優曇華は走っていく。

 

 

 

   ●

 

 

 

 玄関の扉を開けると、また雨が降っていた。

 ざぁざぁと振るその雨の勢いは酷いもので、これほどの降水量ともなれば五月蝿い物だと思うのだが、先程まで奥まった部屋に集まり、杯を傾け舌鼓を打って喧騒の中にあった彼らは、それに気付けなかった。

 

「君と僕、さてどっちに雨が憑いているのかな」

「勿論そっち」

「かも知れない、僕は五行だと水に当たるからね」

「どうでもいい」

 

 常人ならば間違いなく躊躇する豪雨の中を、二人は歩いていく。

 

「しかし、今月は良く降る……梅雨もあけたというのに」

 

 一人は饒舌に。

 

「あぁ、もう、貴方……ううん、あんた五月蝿い!」

 

 一人は無愛想に。かつ怒声を放って。

 

「霊夢や魔理沙にも偶にそんな事を言われるね」

 

 永遠亭にあった傘を借り受け、霖之助は先を歩く少女を見ながらそう言った。香霖堂で買った傘を差して、肩を怒らせて歩く少女を見ながら。

 

「んんもう……あんたもてゐも、私を怒らせて楽しいのかしら……?」

「さて、どうだろうか」

 

 掴めぬ霖之助の返答に、彼女は息を吸って気負い口を開く。一つ、はっきりと形にしてしまおうと。

 

「私は、あんたが嫌いだわ」

「だろうね」

 

 だと言うのに、霖之助はあっさりと受け止めてしまう。

 なものだから、優曇華は口を大きく開き、間抜け面を見せてしまう。嫌っている、そんな霖之助相手に。

 

 霖之助は、そんな歳相当とも言うべき愛嬌のある顔を見たまま、

 

「君が僕を嫌っている事なんて、とうに分かっていた事だし、君だってそのつもりだったんだろう?」

 

 問うた。今までは間違いではないのだろう、と。

 

「……え、えぇ……そうだけど、そこまで普通に返されると……何と言うか」

 

 霖之助は優曇華の言葉に、肩をすくめ口元を歪めた。これが彼のささやかな笑顔だと知らない優曇華は、思わず警戒してしまう。

 立ち止まり、身を固め、次に備える優曇華を無視して、彼は歩きながら喋る。自然、二人の距離が狭まっていく。

 

「嫌われて好い気はしない。けれどね、鈴仙。それはまだマシだと、僕は思うわけだ。僕は道具を作るんだがね、そういう時、一番困る事がある」

「?」

 

 少々方向の怪しくなっている言葉に、優曇華は首を傾げた。

 

「評価を得られない事だ」

「……?」

 

 益々彼が何を言わんとしているのか分からず、優曇華の頭は混迷を深めた。

 

「褒められたのならば、次を作る意欲になる。怒られたのなら、それは次への宿題となる。だろう? 作った以上、次はそれ以上でなければならない。意見は貴重なものだ」

 

 聴いた言葉をなんとなく、なんとなく意味を理解し始めた優曇華は、小さく頷いた。

 

「一番辛いのは、意見を貰えない事だ。次に如何するべきか、問題点はどうだったのか、自分の作品はどうだったのか、分からないのは辛いよ。君の事に当てはめて言えば、そうだな……薬草を煎じて薬を作ったとして、永琳から言葉をもらえなかったら、どうだい?」

 

 彼に言われたことを、彼女は想像してみた。

 

 ――……あれ、それって困るんじゃない?

 

「ほら、困るだろう?」

 

 優曇華の表情から言いたい事を読み取り、霖之助は続ける。

 

「褒められたら、次も頑張れる。怒られたのなら、どこがおかしかったのか聞き出して改善する事もできる。存在同士の関係も、これだよ鈴仙。無視されていたら、もう次はただただ困るしかないんだ」

 

 彼女は頷いた。この関係は確かに良好な物ではないが、改善される可能性のある、まだどこかに歩み寄りの余地がある関係だ。

 双方、どちらかが無視をしている限り、可能性は限りなく低く、改善は無いと言っても過言ではない。そして優曇華は、霖之助をきつい双眸でねめつけた。

 

「……これ、釘を刺したって事じゃないの?」

「なんだ、そこそこに頭が回るんじゃあないか、君も」

「私は……」

「これから先、君が無視しない事を僕は祈るだけだ」

「あんた、祈ってばっかり」

「神ならぬ半端者だから、慈悲に縋って世を渡るしかないんだ」

 

 そう言う霖之助の瞳には、しかし挑発的な光が見て取れる。

 優曇華は、何か返してやろうと特に考えないまま言葉を紡ぎ上げようとして――

 

 突如奔った雷鳴の鋭さに、傘を放り投げて小さく悲鳴を上げながら、傍まで来ていた霖之助に飛びついた。

 全く、意識せぬまま。

 

 少女一人と言えど、一切の容赦なく全力で飛びつけば、大の大人でも無事ではいられない。

 現に、霖之助はその衝撃から体を揺らし、手からは永遠亭で借りた傘を零れ落ちていた。

 

 ざぁざぁと、時にごろごろと鳴り響く空の下、尋常ならぬ雨の衣の中で二人は何をするでもなくそのまま佇む。

 震える体から力を抜き、優曇華は今誰にしがみ付いているのかに思い至り、飛びついた時同様に声もなく、たたらを踏んで離れる。ぬかるんだ地面は連続で踏まれた事で粘着的な音を立てて、それを飛ばし少女の顔に付着させた。

 それでも、少女はそれに気付かない。

 

 一方の霖之助は、濡れた頭と首筋を持っていた手ぬぐいで拭い、落ちた傘を拾い上げていた。

 別段、挙動に常と異なるところはなく、ただ霖之助と言う存在そのままに動いている。そのまま、同じく足元に落ちていた優曇華の傘を拾い上げ、目の前で何やら悔しげな顔をしている優曇華に、いつかの様に傘を手渡した。

 

「そそっかしいな、君は」

「う、五月蝿い! 良い、今のは無し! 今日はこんな事無かった! そうよね! そうでしょ!?」

 

 必死に言い募る優曇華に、霖之助は何も応えず、呆れた顔しか浮かべる事しかできなかった。

 が、その顔が少しばかり曇る。

 

「……な、何よ?」

 

 無言のまま自身の顔を見つめる霖之助に、優曇華は狼狽した。

 そんな彼女を無視して、霖之助はズボンのポケットから手ぬぐいを取り出す。

 が、溜息を吐いた。目の前の男が何をしているのか優曇華は分からず、彼女は思ったまま口を開く。

 

「な、何をしているの?」

「いや、手ぬぐいがこの通り濡れて使い物にならなくてね……服の袖――……あぁ、傘を落とした時に濡れたな、ここも」

「……? ねぇ、あんた本当に何を――」

 

 霖之助が濡れていないズボンで軽く手を拭い、それを伸ばす。

 

「すまないが、手で失礼するよ」

 

 優曇華の頬に触れた指先は、掌は――

 

「――……」

 

 誰かのように冷たかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 雨雲の帳の向こうで淡く光を放つ月を窓から見ながら、永琳は化粧台を前に座っていた。

 化粧台に掛けられた布は人の手に触れられたという温かみにかけた物で、見る者が見れば長く使われていない物だと分かる物だった。

 実際、彼女は長くこの化粧台を使う事が無かった。常の化粧は薄く簡素な物で、態々化粧台を使う必要も無かったからだ。

 今彼女は、そんな使う事無かった女としての道具を前にして、ただ月を見上げている。はっきりとは見えない、そんな雨の向こうの月を。

 

 独りきり。雨の音以外、何も音が無い筈のその空間に、声が響いた。

 

「面白い男だったわね、永琳」

「……姫」

 

 永琳の部屋の入り口、無造作に開け放たれた襖の向こうに、輝夜が立っていた。

 

「姫、作法がなっていません」

「今日は教育係と生徒だった事を忘れて、女同士、腹を割って話がしたいのよ。良いでしょう?」

 

 永琳の鋭い非難にも一切顔色を変えず、輝夜は平然と部屋に入り襖を閉めた。

 たったそれだけの挙動だと言うのに、それは見る者に清流の様な涼やかさと静かな世界の美しさを感じさせる。だが、永琳は何も感じない。

 当然だ。そう出来る様に、そう在る様に教えたのは、他ならぬ彼女なのだから。

 

 輝夜は一つスカートを払い、永琳の前に座った。

 

「今まで見てきた、貴方の夫だった男達とは、また随分と違った者だったわね……あれは」

 

 永琳は、何も言わず、輝夜を見ようともせず、ただ窓から覗く小さな空を見上げている。 

 会話する、対話するという中にあって在っていい作法ではない。だが、それを咎める者がいない以上、それは今許された事なのだ。少なくとも、二人の間では。

 

「今までの貴方の背と言えば、落ち着いた大人の男達、それも高位の公達や文官だったのに、随分と変り種を持ってきたじゃない? 最初、本当にあれが貴方のお気に入りなのか、疑ったわよ?」

「……そうですね」

 

 永琳は応えながら、かつての男達を脳裏に思い浮かべた。

 皆高い地位につき、野心的な男、知識を求める男、求道者、或いは、枠の中で有能であった男達。

 

「私は、知識や知恵の中でしか、男を選んで……いえ、選ばれていませんでしたから……」

「えぇ、それを奪おうとして、利用しようとする男にしか、縁が無かった」

 

 棘のある言葉で、輝夜は言う。

 

「……初めは、皆そうじゃなかったんですよ……姫」

「結果が全てだわ」

 

 輝夜は吐き捨てる。

 汚らわしいと言わんばかりの顔で。

 

 男達は、愛を囁く。

 美しく、気高く、聡明な華を自身が手折ろうと、愛で永琳を求めた。真摯な男達の求愛は永琳の胸を打ち、その幾度か彼女は応じる。

 

 そして、真摯な愛は時の流れの中で泥に濁り、手折った華へ水をやる事を忘れた。

 

 最初に愛があろうとも、いや、愛があるからこそ、それは重荷になっていく。

 

 男と言うのは面倒な生き物で、ただ美しいだけの女性を望む傾向がある。

 知識や知恵は無い方が、厳密に言えば、自分より低い方がいいのだ。自身以上に優れるのは容姿だけでいいと、男達は言外、またははっきりと言葉の中に含めて社会を築いてきた。

 事実、過去の歴史と社会を見ればそれは如実に、探す必要も無く散見される。権力の為の道具であれば良い、賢しい言葉を持って家を乱す様な者は必要ない。

 

 美人で、少々足りない程度を可愛く思えるのが男であって、すべてが自身を凌駕する女性の傍では、男は自身を否定されているような気が先に立ってしまう。

 言ってしまえば、彼女は余りに完璧すぎたのだ。男にとっては、忌避の感情が強く濃く出てしまうほどには。

 

 彼女とて女性だ。異性との語らいに楽しみが無い訳ではない。

 異性と言葉を交わし、何も感じられないと言うのなら、それは性別の死である。

 男でも女でもない、何かになってしまっているのだ。だが、永琳は女でありたかった。その性別で世に生まれ出でた以上は、女である事を恥じるも誇るも無く、平然と女でありたかった。

 

 しかし、男は彼女を拒む。愛を囁いて、その高い知識と教養を求めておきながら、家庭を築いておきながら、いつしか。いつしか、お前は可愛くないと、お前は面倒だと、お前は俺を馬鹿にしていると。

 そんなつもりは無くとも、男は被害妄想からそんな言葉を叩きつけ永琳から去っていく。永琳から知識と知恵だけを借り出し、持ち出し、去っていく。

 

 老いる事も無く、美しいままある彼女を最初だけ喜んで、自身が老いに蝕まれだすと在りもしない邪推に簡単に足を取られる。

 そして、容易に転ぶのだ。

 

 "こんな老いた俺に満足しているはずが無い、あいつはツバメを囲っているんだ"

 "俺の知らない間に、逃げてしまうんだ"

 "微笑んでいたって心の中じゃ、馬鹿な俺を、賢いあいつはほくそ笑んでいるんだ"

 

 愛人、仕事、新しい家庭。

 男達は空想の中にある自身が築き上げた邪な永琳に裏切られる前に、自分が先んじて裏切る事で痛みなく、どこかへと消えていく。痛みを与えられるのは、愛という不確かな物を信じたまま残される永琳だけだった。

 

 傷口は痛み、膿を出し、長い時間の中でようやっと癒されていく。

 それでも、繰り返しそれは襲ってくる。信じれば信じただけ、彼女は裏切られて捨てられる。

 女として完璧でありながら、女として在る事の出来ない永琳は、愛という怜悧な刃物に幾度も殺され、それでも今、愛をまた信じようとしている。

 

「酷い物だわ……それだけ。たったそれだけの事で――子供が産めないと言うだけで、貴女は呪いに自分からかかっている。これ程に聡明な貴女が」

 

 残せないから、せめてそれだけでも残そうと、永琳は愛を信じる。

 

「……所詮、理性や知性で御せるものではないのですよ……心は。そこに在るか分からないから、薬で消す事もできない……開いて、取り除く事もできない」

 

 永琳の体は、心は女だ。その身の総て、その心の総て、彼女の血も肉も、思いも願いも、生も性も女だ。

 だと言うのに、彼女の子宮は退化器官のように中にあるだけで意味を持たない。女でありながら、彼女は女として意味がない。

 

 何度夢に見ただろう。永琳は雲に包み込まれた月を見ながら淡く息を吐いた。

 何度も夢に見た。

 

 愛した、愛する男の赤子をこの手に抱き、赤子に頬ずりをし、囁く。貴方の母だ、と。お母さんだと。

 

 その当たり前が彼女には用意されなかった。

 蓬莱人。

 ただそれだけで、それが用意されなかった。月は神秘を女に与えながら、しかし月に住まう存在に恩恵を与えなかったのだ。

 それはどれ程の皮肉だろうか。それはどれ程の呪いだろうか。

 

 女としての生に見切りをつけた輝夜とは違い、永琳はそれを夢見る。女として完成体に近い彼女が、そんな女の当たり前の能力に夢を見る。

 

 だから彼女は見上げる。

 死を前にした痩せ衰えた老犬の様に、寒い夜空を見上げる。月と言う届かぬ光を。

 眩い、向こう側の世界を。愛の先にあるだろう、淡い命の輪郭を。

 掌の上にのせる事は出来ないと分かっているからこそ、手を伸ばす。

 

 人が見れば滑稽だと笑うその思いの先を、輝夜は目を閉じて哀れに想った。だから永琳は、首を横に振る。

 

「いいえ、輝夜……哀れだと想ってもらう事は、ないわ」

「でも、貴女は哀れだわ、永琳。愛なんて、私達には無くても良い物なのに、貴女はそんな物を欲しがってしまっている。哀れだわ」

 

 輝夜は断言する。

 

 故に、

 

「いいえ、輝夜。それでも私は、貴女より幸せだもの」

 

 永琳もまた断言する。

 

「あの人が私の用意した食事を食べて、笑ってくれた時……私はこの上もなく嬉しかったのだもの」

 

 自身のどこかに在る心が宿した火種は、今はもう炎となって愛の形を照らし出したと。

 

「貴女は、こんなにも熱い感情を知らないでしょう?」

 

 輝夜は緩やかに首を振り、永琳と同じ様に、窓から見える空を見上げる。

 

「……ねぇ、永琳」

「なぁに、輝夜?」

 

 二人、見えない月の下で言葉を交わす。

 

「貴女が今度こそ、幸せになって、傷つけられないで……愛なんて物を全う出来たのなら」

「出来たのなら?」

「……私も、それをしてみようかしら?」

「……えぇ、その時は、また一から教えて差し上げますよ、姫」

「じゃあ、楽しみに待っておくわ……貴女の幸せと、笑顔を」

 

 雨に濡れる空の下、彼女達は晴れやかに笑った。

 

 

 

   ●

 

 

 

 降りしきる雨の中、女達は笑い、男と少女は繋がりを持つ。

 未だ形の分からない繋がり――絆を。

 

 

 

 

   ――続

 

 

 

 

 からからと、それは回り出す。

 男と、女二人を乗せて。

 狭い世界でからからと回り出す。

 その狭い世界、檻、その中で。

 この世でも最も美しく、最も醜い。

 愛と呼ばれる物の中で、回り出す。

 からから、と。



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中篇

「うぅううう……」

 

 永遠亭にある一室で、その少女は頭を抱えて呻いていた。

 特に頭が痛いわけではないのだが、いや、彼女の前にあるテーブルの上に置かれた如何にも難解そうな本が原因であるとすれば、確かに頭が痛いのだろうが、今回彼女が頭を抱えているのは、それが理由と言う訳ではない。

 なるほど、難解な医学書ではある。が、彼女もまた高い能力を有する少女だ。

 現在その能力が花開いて居ない為、偶にはこうして呻く羽目になっているが、理解し己の物とするにそう時間は必要としないだろう。

 

 もう一度記すが、本が原因ではないのだ。

 

「あぁああああああああ、もう……もう、本当に……」

 

 それでも少女は――優曇華と永琳に呼ばれる少女は呻く。開かれた医学書など見もしないで、彼女は窓から見える鬱蒼とした竹林を眺めながら、頬を膨らませてテーブルに突っ伏した。

 顔を開かれた医学書に埋め、紙の匂いの中で息を吐く。そして意識しないまま、彼女は自身の頬に右の掌を当て、そっと撫でた。

 

『すまないが、手で失礼するよ』

 

 脳裏で数日前に、雨の中であったそれが再生され、優曇華はバネ細工の玩具の様に、曲げていた背をピンと伸ばし、テーブルを両の手のひらでばんばんと何度も叩く。

 

『君も一応女性……いや、少女か。なのだから、顔に泥をつけたまま、と言うのはどうかと思うよ』

 

「あいつ……! あいつあいつ! あいつぅ! 乙女の柔肌を、断りも無く、断りも無くッ!! あと一応ってどーゆー意味よ!?」

 

 何事か小さく叫びながら、彼女はその行為を暫らく続けた。

 しかも、そう、しかも、だ。

 

『明日にでも、借りた傘を診療所に持って来るそうです』

 

 そう優曇華から聞いた永琳が、翌朝部屋に篭り、出て来た時には女として完全武装状態だったのだ。

 

「あ、あの優眼鏡……ッ!」

 

 すっと立ち上がり、次に優曇華は畳んで置かれている布団にパンチを何度も繰り出し始める。拳の握りが甘く、手首に力が入っていない、俗に言うところの猫パンチを、ボスボスと何度も何度も。 軍人だったとは思えないほどのへなちょこ猫パンチだ。

 奇行である。どう見ても、どう取っても奇行である。だから、その優曇華の私室と廊下を区切る襖の隙間からそれを見ていたてゐと輝夜は、

 

「……やばい、鈴仙やば面白い事になってる、お姫様」

「永琳を呼ぶべきなのかしら……これ」

「あと兎なのに猫パンチ打ってる」

「お前だって今、兎なのに亀よ」

「……競争?」

「どれだけおとぎ話でこの家を塗りつぶしたいの……状況を鑑みなさいよ、お前は」

「……出歯亀?」

「えぇ」

「姫様……ないわ、それはないわ」

「五月蝿いわよ」

 

 そんな言葉を交わした。

 そしてそんな彼女達が隠れて見ている優曇華は、テーブルの上に在ったシャーペンを全部壁に投げつけ、全損している最中だった。

 

「……くしゅッ!」

「……風邪かい? 医者の不養生なんて、君らしくないと思うけれど」

「んんー……そうねぇ、霖之助、ちょっと手の平貸して貰えないかしら?」

 

 輝夜とてゐに名を呼ばれた永琳は、普段に比べ人影の少ない……殆ど無い診療所の診断室で向き合っている霖之助に、甘えたような声と仕草で言葉を掛けた。

 

「僕の手の平をどうするつもりだい?」

「ここに、優しく置いてくれないかしら?」

 

 永琳は自身の額を指差し、霖之助に応えた。少女のような笑顔で。

 だから霖之助は、溜息を吐きながら永琳の額に手の平を当てた。

 

「……あら、これ私の手の平じゃないかしら?」

 

 永琳の手首を持って、手の平が永琳の額に当たるようにして。

 

「里一番のお医者様の手の平だよ。ご満足かな?」

「全然」

 

 女性らしい化粧の施された顔に、女性を強く感じさせる笑みを浮かべ、永琳は囁いた。常も魅力的なその笑顔が、一層輝いて見えたからか、霖之助は顔を背ける。

 永遠亭で借りた傘を返しに来ただけの霖之助は、永琳にばれないように再び溜息を吐く。

 

「甘えられるのは、苦手かしら?」

「……さぁね」

 

 永琳の額に自身の手の平を当てながら、彼は深く、また深く。

 溜息を。

 

 

 

 

   《赤い糸を繰る》

 

 

 

 

 少しばかり暖かかった永琳の額の体温を手の平に残したまま、霖之助は竹林から人里へと続く道を歩いていた。帰ると言った際に見せた永琳の寂しげな顔に、後ろ髪を引かれる様な思いが無かった訳でもないが、至極健康な自分が診療所に長居するのは良くない事だと、彼は席を立った。

 しかし、そんな理由よりも、もっと深い理由があった。

 

 ――なんで確りと化粧しているんだ、彼女は。

 

 それは悪い事ではない。

 むしろ女性として当たり前の事だ。が、今の今まで薄く化粧を施す程度しかしなかった永琳が、いきなり確りと化粧をすれば、彼だって落ち着かないのだ。

 里の人間からは、枯れているだの、山に住む烏天狗の少女からは、もう尽きているだの、散々に言われるほどの彼であっても、美しすぎる顔で優しく微笑まられると勝手に鳴り出す胸の中の鐘は、如何ともし難い物である。

 彼は男である。少女達と話す事に何も思わない事が多くとも、それが女性となれば、美しく好意的な関係の輪の中で友誼を育んでいる相手となれば、全く違う事なのだ。

 永琳は、少しばかり今彼の交友範囲に中に在る女性達とは毛色が違うのだから。

 

 なるほど、霊夢や魔理沙は愛らしいだろう。紫や咲夜は美しいだろう。

 彼女達は霖之助が基準の第一に置く聡明ささえ持っているだろう。

 しかし、彼女達には欠けた物がある。未だ満ちていない物がある。

 

 それは女性らしさや温かみと言った物で、霖之助がここ最近を良く共に過ごす永琳には、それらが在るのだ。永琳が他者にどんな顔を見せてるのかまで霖之助には分からないが、少なくとも彼女は霖之助の前ではそう振舞っている。女性として、温もりを持つ存在として。

 

 里人、烏天狗言うところの枯れている霖之助でも、それが女性らしい女性となれば、自身が男である事を否が応でも思わせるのだ。

 それが、気まずかった。そして、気恥ずかしかった。だから、長居が出来ない。

 

 実に子供じみた思考である。

 が、男はそんな物だ。何事も自分に素直になれず、見栄と虚勢と伊達を通すのが男なのだ。大人に成れないから、男なのだ。

 

 例えば、良妻賢母、という女性を讃える言葉があるが、これはそう難しい事ではないらしい。賢母であれば、良妻足るからである。その意は単純な事で、"よく面倒を見れるなら、『良妻』『賢母』両方やれる"という事なのだそうだ。

 子供、夫、両方の面倒を、母親の視点で確りと見る。たったそれだけの事だ、と。

 女性が早熟だと言われる原因は、恐らく対人関係における、どちらかが大人に成れば大抵は収まる、という物と同一なのだろう。

 

 さて、森近霖之助。彼は里へと差し掛かる前で立ち止まり、頬にさす朱を、頭を振る事で追い出そうとしていた。

 勿論、それで消えるような感情ではないが、僅かほどの冷静さは戻ってきた。そして、その拙い冷静さは霖之助に言葉を零す。

 

 ――見舞いに行かなくて良いのか?

 

 と。

 

 人里の東にある呉服屋、東屋。東屋先代主人が、町の東に建てるから東屋と名付けられた、その趣きも何も無い店の二階の居住区には、霖之助の友人が一人、病に伏せている。

 

『熱っ! おい霖之助! なんだこの茶ぁ! 熱すぎんだろこれ!?』

 

 厳つい風貌の癖に、熱い茶を嫌い甘い物が好きだったかつての少年。

 

『おい、霖之助! 店ぇもったぜ俺ぁよ。これからは仲五郎なんて呼ぶんじゃあねぇぞ! 東屋さん、だ! 仲五郎なんて呼びやがったらぁ、お前その頭に三つ四つ、いや六つは瘤つくってやるから覚悟しときな!』

 

 豪快で、言葉遣いが粗いくせに誰からも好かれた人間。

 丁稚から自身の店(たな)を持つまでに至った苦労人。

 妖怪だろうが半人半妖だろうが、気に入ったら懐に入れてしまう変人。

 霖之助の、友人の一人。

 

 その男が、今は伏せ、自身の足では歩けぬほどになっている。

 霖之助は戸惑った。見舞いに行く事を躊躇った。

 すぐに怒鳴り。

 

『おいこら霖之助! やめろ、そんな話俺に聞かせるんじゃあねぇよ!』

 

 人の話を聞く時は全身で聞き。

 

『……』

 

 涙もろい。

 

『くそ! 畜生……なんだくそおい、神様ってなぁ……えぇおい、なにやってやがるんだい、まったくよぉ……!』

 

 鼻をすすりながら、真っ赤に腫らした目を手で覆って隠し、おいおいと泣く東屋仲五郎のまだまだ元気だった頃の姿が霖之助の双眸の奥に蘇る。それが、霖之助を見舞いに行かせない。

 

 病に倒れ、布団の中で一日を過ごす老いた男の姿が、果たして霖之助の中に居る仲五郎と重なり合うのか。重なったとしても、自身と彼は時の流れの無情さを恨まずに居られるのだろうか。

 それが分からないから、霖之助は見舞いに行くことが出来ない。

 

 ――いつもいつも、僕は同じ事で悩む……

 

 それが愚かな事だと分かっていても、悩む事は尽きない。消えた絆は、また違った形で生み出され、無くならないから、悩みも消えない。

 誰かと繋がっていく以上、0に成るまで消える事は出来ないのだから。

 

 

 

   ●

 

 

 

 結局、霖之助は呉服屋東屋に行く事はなかった。

 彼その足を速め、逃げるように、隠れるようにして香霖堂に戻り。そして、閉ざされた扉の前で俯く、最近馴染みの少女――

 

「あんた、どこ行ってたのよ!」

 

 優曇華に吼えられた。英国では人に向かってやってはいけない、人差し指を突きつけるという行為と共に。

 しかし、その行為はある意味では暗示的なものでもあった。時の先を思えば。

 

「今日も診療所の備品かな?」

「今日は暇だから、帰って勉強してなさいって言われたの」

「あぁ、あすこが暇な事は良い事だよ。平和だと言う証拠だ」

「あんたのとこみたく、いつも暇じゃないものね」

「今の君、まるでてゐの様な笑みだったよ」

「嘘ッ!?」

 

 含むところがある笑みから一変、まさに驚愕と言った顔で悲鳴を上げる優曇華。

 

「……で、今日は如何なる用事で?」

 

 表情豊かな少女の相に肩をすくめながら、霖之助は優曇華の隣を通り過ぎ、店の扉に手をかける。すれ違う際、なにやら優曇華が大げさな仕草で霖之助を避けたが、彼は特にそれを気にしなかった。

 嫌われている事はもう仕方無い事だと諦めているからだ。それでも、少しばかりの納得できない気持ちを胸に、彼は鍵を開け店へ入っていく。

 優曇華が遅れて入ってくる。

 

「今日は……ちょっと、探し物」

「探し物……里の店へは?」

「行ったけど、無いって言われた」

「ふむ。と、なると……この店特有の物、と言う事になるか」

「じゃなきゃ、こんな店来ないもの」

「来ておいて、随分と言ってくれるね」

 

 霖之助は備え付けのテーブルに座り、優曇華は外の世界の大型旧式テレビを軽く手ぬぐいで拭ってから座る。いつかてゐが座っていたそれに。

 

 そのテレビには妖怪兎の類を座らせるような磁場でもあるのか、等とと思いながら、霖之助は口を開く。

 

「で……何を買いにここへ?」

「……シャーペン。それから……それの、芯」

「……」

 

 霖之助は目を瞑り、優曇華の口にした道具の在庫があったかどうか思い出す。

 

 ――確か未だ、三本程はあったかな……芯も確か同じところに……

 

 記憶を手繰り寄せながら、彼は座ったばかりの椅子から離れ、仕舞っておいたと記憶しいてる場所へ歩いていく。

 

「あぁ、在ったよ」

「どれ、どんなの?」

 

 傍へより、霖之助の手の中にあるシャーペンを見、彼女は顔を顰めた。

 

「……なんて言うか、趣味悪い」

 

 黒一色、飾り気など何も無い、全く同じ意匠のシャーペン三本が気に入らないらしい。

 

「他のは無いの?」

「無いよ」

 

 間を置かず返ってきた答えに、優曇華は眉を顰め霖之助を睥睨する。

 

「私だからって、適当な事言ってるんじゃないんでしょうね?」

 

 その穏やかではない視線にも揺るがず、睨まれている当人は平然としたまま投げつけられた言葉を打ち返す。

 

「僕だって商人だ。売れる物があるなら真面目に答えるよ。君には、そう見えないかな?」

「どうかしら……あんた、私と師匠に対する態度、全然違うもの」

「それはそうだよ」

 

 霖之助は左手の人差し指と中指で、眼鏡を軽く押し上げた。

 

「君と永琳は、違うだろう?」

「……まぁ、そうだけども」

「それに、同じ様に接して欲しければ、まず君がそのつっけんどんな態度を改める事だね」

「あんただって同じでしょ! それに、私は別に……!」

 

 肩を怒らせる優曇華に、霖之助は肩を竦めてにやりと笑う。

 

「求める者が支払うのがこの世の鉄則だよ、鈴仙。払わなければ、欲しい物を得る事なんて出来やしないんだ。だろう?」

 

 確かに、その通りである。何かをして欲しいのなら、まず自分が何かをして上げなければ、誰も何も与えてはくれない。何も犠牲にせず何かを欲しいと言うのは、子供のわがままと同じだ。そう、誰も耳を貸しはしない。

 

 しかし、優曇華にそんな事が可能な訳が無い。

 彼女は彼が嫌いなのだ。自分の尊敬する女性から、特別視されている彼が。だから、彼女は困る。

 

「しかし……まぁ、この場合は僕が折れるべきなのかも知れないね……待っているといい。僕の使っているシャーペンで、君好みの物もあるかも知れない……あぁ、勿論値段は安くしておくよ。僕のお古だしね」

 

 自身の部屋へ足を向ける霖之助の背を見ながら、彼女は口をへの字にして声にならない声で呻いた。困るのだ。

 あの夜触れた冷たい手の平は、やはり嘘ではなかったと胸の奥に居座る、もやもやとした何かが

 彼女自身にちくちくと針を立てる様に囁くようで。 

 

 ――大嫌いだ。

 

 それは嘘ではない。

 

 ――だけど、あの手の平の冷たさは……

 

 それも嘘ではない。

 

「あぁあああああああ、もうッ!!」

 

 困るのだ。だから困るのだ。

 彼女は頭を大きく横に振りながら、困るのだ。

 

「鈴仙、これならどうかな? ……なんでそんなに首を横に振って……?」

「う、五月蝿い! ……そこに、置きなさいよ」

 

 自身の私物であるシャーペンを差し出す霖之助に、優曇華はテーブルを指差した。

 

「……?」

「良いから! そこに、置きなさいってば!」

 

 その理由は実に簡単な事だ。今、彼女はその手の平に触れたいけど触れるべきではないと、本能が警鐘を鳴らしている。

 どうしてそんなことで鐘が鳴り響いているのか、それは彼女にも判然としないのだが、自身が自身に警告をこれほどに分かりやすく発しているのだから、彼女としては拒む理由も無い。

 

 釈然としないまま、彼は優曇華の言うままにテーブルに手に持っているそれを置く。

 が、この男が言われるままそれをする筈が無い。余計であっても、分かっていても、霖之助という存在は言葉を弄してしまうのだ。

 

「魔理沙も偶に不可解な行動を要求するんだが……君達少女と言う存在は、実に自侭で不明瞭だね」

「あんたが未熟なのよ、この極楽トンボ」

「極楽トンボ……目利きも出来ない君に言われてもね」

「私は道具屋になるつもりなんてないから、良いのよ」

「永琳は出来たが、弟子の君は出来ない、と。いや、なんとも。弟子は師匠を超える為に存在すると言うのに、不甲斐ないね」

「あんただって、どうせ道具屋の師匠超えてないでしょ」

「……そうだ、良い茶請けがあるんだが、どうかな?」

 

 話題を逸らした霖之助の、なんとも言えぬ白々しさに優曇華は溜息を吐いた。

 

「……未熟者」

「故に、僕らは生きるのだ。と誰かが言ってたよ」

 

 二人は、同時に肩を竦める。それぞれの師匠を脳裏に思い浮かべながら。

 苦笑いを浮かべながら。

 

「……で、あんた。ちゃんと師匠の事、その……ほら、あれ」

「あれ?」

「……褒めて、あげたんでしょうね?」

「……褒める? 何を?」

 

 そっぽ向きながら、小さく呟く優曇華の言葉の意味が分からず、問い返す霖之助。それに溜息を吐いて、分からないでよかったのか、それとも良くないのかと胸中で呟きながら、優曇華は言った。

 

「本当に、未熟者」

 

 存在は皆未熟である。

 どれ程生きようと、自律し、本当の意味で自立する事など出来ない。生物として。男として。そして、乙女として。

 

 

 

   ●

 

 

 

 雨がまた降っていた。

 霖之助は、一人中空を眺める。今はもう、先程までいた優曇華も永遠亭に帰り、寂れた香霖堂に不似合いな筈の少女の声が木霊する事は無い。

 だがしかし、何故かこの店は常に少女の彩がある。主に白黒赤、偶に紫。最近では、赤青、そして紫。

 それらの色は今どこにも無い。探す必要すらない。

 

 寂れた店は、その外観と内観に相応しい静寂の中、店主一人を置くだけで、薄呆けて見えた。

 音の無い中で、霖之助はただただ中空を眺める。時計の秒針、そして分針が刻む小さな音、雨の音、それ以外何もなく、人の音が無いその静寂の中で霖之助は思考の海をゆらりふらりと揺蕩う。

『……褒めて、あげたんでしょうね?』

 

 ――あぁ、意味は分かる。

 

 恐らく、それはそういう意味だったのだろう。だが、褒めなければ成らない理由は無い。

 

 ――意味は分かるんだが……

 

 今それを成す理由が、彼には無い。だから彼はそれをしない。いずれ、また、いつか、あとで。

 長い生を持つ彼は、褒める機会などいつでもある。

 だから今、彼は褒めない。今はまだ、気恥ずかしさが先立つが、いつかはそれもなくなり、純粋に褒める事ができるだろうと信じて。

 時間は――

 

「も、森近さん!」

 

 余りあるほどにあった。筈なのに。

 

 カウベルの音と共に店へと足を踏み入れた、かつての弟弟子の言葉に、それは叩き潰された。

 

 人に指をさす。英国において残る古い逸話の中で語られる、魔女という悪の象徴。または恐怖。

 それが見せる一つの仕草。

 

 魔女が人に災いを、不幸を、呪いを掛ける際……彼女らは、その人差し指を相手に突きつけ、囁くのだ。私より不幸になれ、と。そうすれば、魔女は幸せになれる。

 呪われた誰かよりは。

 

 

 

   ●

 

 

 

 高い、高い、遥かに高い、雨の止んだ夕焼けに染まる茜の空の上で、火の花が咲き誇っていた。

「最近そっち、どうなの」

「特に何も無いわね……そっちは?」

 

 それに混じって、茜よりも尚赤い雪が降っていた。そして、それらを生み出しているのが――

 

「授業がつまんないって言われてへこんでる慧音……は毎度だし」

「えぇ、それ前にも聞いたわね」

 

 手にした刀を振るう少女達である。

 片や、黒い髪を吹く風のままに靡かせる麗しくも紅に染まった少女。

 片や、銀の髪を背から吹く火の羽に揺らめかせる美しくも紅に染まった少女。

 彼女達は、ただ刀を持って空を飛翔する。

 

「面白い事と言えば……そうね、うちの永琳が面白いことをしている……かしら」

「へー……なに、また物騒な薬でも作った?」

 

 無骨な、首切り包丁である刀を右から、左から、上から、下から、斜め、後ろ、突き、平打ちし、重ねられるたびに音を、火花を放つ、今では失伝し生産も出来ぬ古鉄の刃の、その鋭い軌跡の中で地も踏まずステップを踏む。耳鳴りするような、肌寒い空の上だと言うのに。

 

「そうねぇ……薬と言えば、薬なのかしら。ある意味では、毒でしょうけれど」

「物騒だな、ほっといていいの、それ?」

 

 一旦距離を取り、そして二人はまた間合いを詰める。その最速からの迫撃は風か、林か、火か、山か、陰か、雷か。

 いいや、そうではあるまい。

 それは命を速さにのせた、余りに苛烈な疾くに過ぎたる刃の撃ち合いである。その剣技が拙かろうと、刃に生涯を掛けたる如何な達人も、この命を糧に燃え盛る武の雅から目を離せようか。

 離せまい。

 それは拙いからこそ、輝く。それは無様であるからこそ、尚煌く泥の中の蓮が如く清冽に心を打つ。ただそこに在るだけで。ただ、そこで撃ち合うだけで。

 

「良いんじゃないかしら。永琳、楽しそうだったし……邪魔するのも悪いわ」

「楽しそう……ってあんた」

 

 肉が裂け、血が舞い、肉片が飛び、骨片が散る。

 内臓が日の赤い光で照り、皮膚の下にある美しい桃色の肉が脈打ち、滴り落ちる血は遥か高き空の上が故に風に巻かれ舞う。まるで桜のように、まるで雪のように、淡く、それでいて濃厚な血の香を振り撒いて。

 剣先の先にあるは勝利である。

 勝利の先にあるのは生である。

 生の前にあるのは――恐怖である。彼女達は今、その恐怖の中に身を晒し、剣林を走りその身を弾丸として血の雨を降らしている。片腕が千切れかけ、耳が切れ落ちかけ、片目がつぶれ、頬からは肉と骨と歯が覗き見え、足は膝から下がなかろうとも、肺に穴が開こうとも、器官が機能を終えてしまおうとも。当然の如く、に。

 

「で……そろそろ怪しいわね……死んでおきましょうか、妹紅?」

「あぁ、そっちがね、輝夜」

 

 それぞれ、構えにもならぬ構えで刀を持ち、ともすれば今にも勝手に落ちてしまいそうな切っ先を相手へと突きつける。さぁ最後だと、誰でもなく、全てが知る。最後が故に、二つの肉はこの度の合せにおいて、鋭く穿つ最々速を自然の全てに見せ付けた。

 風も追えず、林よりも静謐に、火よりも猛々しく、山よりも堅牢に、影さえも惑わし、雷をも後ろに引いて。ただの一振りが世界全てを振り払い、ただ断つ為だけにと叫び吼える。

 

「あれ……でも」

「うん? なに?」

 

 ――刹那、音が消える。

 

 放たれるは断たれるが故に鈍き音。肉を断ち切った一触の弦の奏でのみ。

 

「さっき見たとき……永琳って――」

「永琳がどうしたの、妹紅――」

 

 言葉は繋がず、乙女達の首から上は空から落ち、続き、そこから下が落ちていった。遥か下にある、竹林へと。

 

「痛い痛い死ぬ、死んじゃうー、もう痛いー」

「同感……あぁ、今日も相打ちだなんて、日が悪いにも程があるわ」

 

 自身の頭を首に乗せ、それが接着した事を確認してから、二人は頭から手を離した。

 二人は同時に腰を掛けるに適した岩へと座り、空を見上げた。

 

「で……妹紅、貴方何か言いかけてなかったかしら?」

「んー……? あぁ、永琳ね」

「そう、それ」

 

 輝夜は夕焼けから目を離し、妹紅へと視線を向けた。

 

「こっちに来る前、永琳とすれ違ったんだけど、なんというか、楽しげって感じじゃなくってさ」「なら、どんな感じだったの?」

「一言で言うなら、落ち込んでる? とか」

「二言で言うなら?」

「落ち込んで、落ち込んでた」

「貴方、慧音の寺小屋に行きなさい」

「えー」

 

 妹紅の小さな悲鳴を無視して、輝夜はスカートを払って立ち上がった。そして、そのまま背を向けて歩み去る。

 

「もう帰るの?」

「えぇ、夜に淑女が出歩くものじゃないわ。貴方も早くお帰りなさいよ」

「はいはい……次は勝つからなー」

「それはこっちの台詞よ」

 

 淑女らしからぬ、背を向けたまま手を振るといった仕草で、彼女は永遠亭に戻っていく。

 景色の変わらぬ竹林の道なき道の中で、彼女は今しがた妹紅から聞いた永琳の様子を思い浮かべる。

 

「落ち込んでいた……か」

 

 面白そうだ。当人には悪いのだろうが、輝夜はそんな事にほくそ笑みながら自身の家へと歩を進めた。

 血まみれの服で、夕焼けの赤を受けながら。真っ赤に。

 

 そして永琳に怒られた。

 服は大事に、と言う話である。多分。

 そして同時刻、妹紅が慧音に同じ様に怒られていた事は割りとどうでも良い事なのだ。

 

 

 

   ●

 

 

 

「いったい、どうして、何故、弾幕勝負ではなく、態々刀での決闘などされたのです、姫。しかも業物の刀を二振り、ここまで駄目にして」

 

 永琳がテーブルの上に置かれた刀を指差し、彼女の正面で正座している輝夜に言う。

 

「飾られているだけじゃ、それも可哀想でしょう? それに、弾幕勝負にも飽きていたのよ」

 

 輝夜の方はしれっとした物で、平然と返した。

 

「飽きたからと言って、これは酷過ぎます」

 

 テーブルの上にある二振りの刀は、鍔元が捩じれ、切っ先が曲がり、刀身全体に至っては完全に反りと鋭さを失っていた。刀と言うのは斬る事に特化した首切り包丁であり、槍や剣の様に打ち合うことを前提とした物ではない。

 殊刀はその刀身は鋭さに反して弱く、下手に打ち合えば根元から捻じ曲がると言う事すらあった。刀と言うのは江戸時代、そして後の幕末の世でその価値を露にしたが、戦国期においてはただの護身用、または前述の如く首切り包丁でしか無かった。

 これはただ、戦場の主役であった槍、または弓で討ち取った武将、足軽の首を切る為の道具でしかなかったのだ。故に、丈夫さよりも早く切れる事をそれは求めた。素早く、次の首を取る為に、である。

 これは戦う為の道具ではないのだ。そう、なかったのだ。

 

 では何故に江戸時代と幕末に刀が主体と成ったかと言うと、実に簡単な話である。

 太平の世で、槍が使われなくなった上に、お座敷剣術が幅を利かし、武士が皆剣術を前提に習ったからである。この時代、槍術――それも戦場の花形、一騎当千の大前提である馬上槍をまともに使う人間のほうが少ない。

 というか、居ない。

 

 であるから、どうしても刀が出張るしかなかったのだ。後は、武士階級の人間が刀に異常なほど執着してしまった事も原因だろうか。

 首切り道具を魂、等と呼んで重宝し、剣術を修め金銭で買える目録等を得る為に腐心し、その実戦場では鉄砲隊が要だったという時点で、江戸時代の武士の程度が知れたと、恐らく戦国侍等は草葉の陰で笑い転げた事だろう。

 

 蛇足だろうが、少しばかり。

 戦国時代の合戦で足軽が何を持っているか思い浮かべれば分かるだろうが、彼らは槍を持っている。または弓、鉄砲であって刀ではない。

 皆、殆どが槍だ。間合いを考慮すれば分かる事だが、それは相対する足軽や武将も同じである。

 槍の又左、槍の才蔵、槍の半蔵、槍の勘兵衛、槍の又兵衛、血槍九郎、槍弾正。

 槍の名を持つ有名どころだけでも、ざっと簡単にこれだけ出てくる。

 更に武将は馬上槍を重視し――実際は槍合わせの際馬から下りる事が多かったそうだが――彼らは刀の扱いなどに殆ど時間を割いては居ない。中国に遅れる事約二千年、戦術戦略技術、また才人奇人、百花繚乱の中世熟成期である、名の通りの戦国時代、戦場で刀を用いて名を轟かせた者と言えば賤ヶ岳の三振太刀だが、彼らは間もなく亡くなっている。

 皆槍傷等が原因で亡くなったと言うから、如何に戦場で太刀が不利であったか分かろうと言うものだ。剣術家などもこの時代にはいたが、彼らが刀を用い合戦で活躍したなど終ぞ聞いた事がない。

 あの宮本武蔵などは、そもそも刀を抜く前に負傷して戦線を離脱している。

 戦場に参加した際、老齢だったという事を考えても余りにお粗末だ。ただ、例外もある。

 

 戦国時代、"一応"の戦場で、刀を使って大きく名を残している人物が居るのだ。

 第十三代足利将軍、剣豪将軍の名で知られる足利義輝である。彼は塚原卜伝に剣術を習い、奥義一の太刀まで修めていた一己の剣豪であった。

 この時点で既に奇妙な人物であるが、最後またなんとも奇天烈に凄まじい。自身が集めた業物や伝来の名刀を畳に刺し、迫ってくる兵を切っては払い切っては払い、脂と刃毀れで切れぬようになると、刺してあった刀を抜き取り、握り締めまた振るった。

 その余りの気迫と剣戟に、間合いと数で遥かに勝る槍兵達が怖気づいたと言うのだから、まさに暴風、独楽のように狂い舞い回った事だろう。彼は畳で囲まれ動きを封じられ、槍で穿ち殺されるまでの間、ただただ刀で戦い続けたと言う。

 長得物が不利な屋内とは言え、槍相手に刀でここまでやった人間は稀有だ。これ程までに刀で暴れた人間は、刀主体の"乱戦――合戦に非ず――"蔓延る幕末京都でも居ない。

 まさに刀と剣術と、人の執念の極致だ。足利義輝、後に剣聖、剣豪と呼ばれるのも、なるほど、である。将軍としては正直どうなのかと思わないでもないが。

 蛇足、終了。

 

 兎に角、刀は短く弱く脆く鈍い。そんな物でお互いを削りあえば、人の脂で刃は鈍る。

 骨に当たれば刃は毀れる。更には曲がる。

 それが駄作だろうが業物だろうが、曲がるときは曲がるし、折れるときは簡単に折れるのだ。

 

 今永琳と輝夜の前に置かれている、それと同じく。

 しかし、上記された理由があろうと、死蔵される事を嫌ったという理由があろうとも、道具を駄目にしたと言う事、服をズタズタにし汚した事がひっくり返って帳消しになる訳ではない。訳が無い筈なのだが、今の永琳にはもう言葉が無かった。

 

「……はぁ、もう、良いです」

 

 常なら三倍にして返ってくるだろう小言も無く、輝夜は助かったとも思ったし、またなるほどとも思ったのだ。彼女は力なく項垂れる永琳の姿を見ながら、どこからとも無く取り出した扇子を広げ、口元を隠す。そして流し目で覇気の無い永琳の姿を見やりながら、こう零した。

 

「上手く行かなかったのかしら?」

 

 永琳が一瞬息を止めた。そしてそのまま、永琳は肩を小さく震わせた。

 どうやら、一発で心臓を射止めてしまったらしい。ちくちく弄るつもりだった輝夜は、さぁ永琳怒鳴りやるか、と、いつでも耳を塞げる様に扇子を仕舞い、手を開き肩から余分な力を抜いた。

 が、それは無駄な事だった。何故なら、その余分な力を抜いた両肩に、永琳の手が文字通り、目にも留まらぬ速さで置かれたからである。

 

「どうしたら良いんでしょう、姫……!!」

 

 何やら必死な形相で自身に縋るかつての教育係に、輝夜は胸の中に在ったからかいの気持ちが溶け失せ、変わりにやたらと重い物が胃に入り込んできた事に空しさを覚えた。

 

「いや、まぁ……分かるけれどもね?」

 

 輝夜にせよ、永琳にせよ、与えられる立場に在る者である。賞賛も名誉も愛も。

 彼女達は人から受ける者であって、受け取るだけの存在だ。愛を与えた事はない。

 永琳にはあっただろうが、しかしこの場合愛ではなく――恋である。求愛から始まった関係で、彼女はそれに応じた事はあっても、恋から始まった愛が無い。故に彼女は、今こうして狼狽している訳だ。

 

「だって姫、こんなに重装備というか頑張って久しぶりに化粧したのに、霖之助無視ですよ? 褒めてもくれないんですよ? 帰らないでって目で言っても、口で言っても帰っちゃうんですよ? 私あれですか、女としてそんなに駄目ですか? 輝夜、こういう場合どうしたら良いのかしら? ねぇ、何か案は無い?」

 

 女として以前に、今賢者として駄目である。こんな姿、優曇華がもし見ればどう思うだろうか。

 案外こんな師匠もアリとか言いそうな気がしないでも無い輝夜は、とりあえず眉間を揉みながら眼前で目を潤ませている珍しいどころか希少な永琳の目を真っ直ぐ見つめ、肩をぽんぽんと叩いた。あぁ、的確な助言でも言ってくれるのか、と瞳を輝かせる永琳に、輝夜は静かに言った。

 

「私が愛だ恋だなんて知るわけ無いでしょう」

「貴方に期待した私が馬鹿だったわ」

 

 お互いばっさりである。

 

 事実、輝夜にそんなことが助言できる訳が無い。求愛を利用して遊び倒した彼女に、真面目な話、真剣の恋愛で助言出来ようはずが無い。

 翻弄する事なら輝夜は適任だろうが、それ以外となると彼女は話にも成らない。

 何せ経験が無いのだ。永琳とてそれは分かっていた筈である。分かっていて案を求めた辺り、彼女の置かれている窮状が知れようと言う物だ。

 

「まぁ、気長にやる事ね……貴女も相手も、まだまだ余裕はあるでしょう? と言いますかね、永琳。たった一日二日でどうこうなるものでもないでしょうに」

「……そう、ですが」

 

 人ならざる者の命の長さ。悠長に在りすぎるという在り方は、こういう時には残酷だ。

 勇気をもぎ取る。明日があるから、と。

 十年、百年、在るからと。課題を先延ばしに出来る。それは人から見れば、どれ程に愚かな事だったろうか。

 

「え、永琳先生!」

 

 そして、報せを告げる声が永遠亭に響いた。最近変化を覚えた若い地上兎の少女が叫ぶ。

 

「東屋さんの容態が!!」

 

 明日がある。そう信じ、そうある者は愚かだ。

 今まさに流されようとしている今日を、切実に求める人間も居ると言うのに。

 

 

 

   ●

 

 

 

 商店が立ち並ぶ区画、方角にしてその東側に建つ大きな呉服屋、その店の二階居住区にある先代店主の臥していた寝室で、霖之助は何をするでもなくただ座っていた。

 

「……」

 

 常の服ではなく、黒一色の落ち着いた着物を纏った彼は、手に持っていた数珠を強く握り締める。

 

「……あの時、見舞いに来るべきだったのか」

 

 それとも、これで良かったのか。

 彼の遺影が飾られた部屋で馴染みある古い顔達に混じり、酒を飲みながら昔話に花を咲かせるには、今の彼は感傷的に過ぎた。永琳から容態が悪い事は聞いていたが、あの日彼は、見舞いに行く事を躊躇った。そして明日があると信じて行く事をしなかった。その結果がこれである。

 彼はもう死んでしまった。ここにはもう居ない。昔日の記憶の中に留まり、この先語り合う事の出来ない存在になってしまったのだ。

 

 会うべきだったのだろうか。それとも、これで良かったのだろうか。それが彼には分からない。不明であった自分以外、分からない。

 

 東屋仲五郎。豪快で、凡そ商売に向いた性格では無かった筈だが、成功をおさめた人間。妖怪だろうが人間だろうが、気に入ったらそれでいいと言って憚らなかった珍奇で奇矯な人間。

 ただの丁稚の仲五郎という少年だった彼。走り回り、荒っぽい口調でまくし立てる癖に皆から愛された彼。弱みを見せる事を嫌い、いつだって強気を装った男。

 それが霖之助に、見舞いに行く事を躊躇わせ……結果、こんな事になってしまった。時間は限られていたと言うのに、勝手に次があると妄信し、躊躇した愚かな彼に用意された結末が、今のこの、何も無い部屋なのだ。

 

『店の名前だけどな、東に建てたから東屋でいいや。あぁ? 趣がねぇだぁ? 知るか、そんなもん』

 

 かつてそう言いながら、豪快に笑っていた彼の姿を霖之助は思い出す。しかしその彼が、豪快な笑顔を振りまき、霖之助の背を容赦なく叩く日はもう二度と来ない。

 ぷつりと切れた糸は、もう結ばれる事はないのだ。

 

 霖之助はすっと立ち上がり、その狭い一室から立ち去る。成功をおさめ、皆から愛された男が最後を迎えた、その前半生から見れば余りに寂し過ぎる部屋から。

 

――ぉう、いつも以上に辛気くせぇつらぁしやがって。その茶ぁ飲んだら、さっさと帰ぇんな――

 

 声が聞こえた様な気がして、霖之助は振り返った。

 しかし、そこには何も無い。そう、何も無い。

 ただ畳が在るだけの部屋だ。花も、棚も、何も無い。だから、何も無い事にはしたくなかった。

 感傷だとしても、身勝手な思い込みだとしても、声は聞こえたのだ。

 

「あぁ、君好みの、実に温いお茶だったよ……不味いったらありゃあしない」

 

 彼は誰も居ない部屋で、何も出されなかった部屋で、何も無い部屋にあるだろう何かに向かって返事をし、今度こそ部屋から立ち去った。ぼやける視界も、締め付けられて痛い胸も、全て無視して。

 

 東屋仲五郎、彼と付き合いの在った者達が酒を飲みながら、故人の思い出を語り合う席を通り抜け、彼は誰もいない庭まで足を向け、そこで一人息を吐いた。

 地面を眺めていると、腹を見せて伏せている蝉の亡骸と、それに集る蟻達が視界に映る。蟻達はその顎で蝉を分解し、銜え、巣穴へと持ち帰っていく。

 

 循環。

 そこで絶え、そこから先に行く存在に還っていく。繰り返される生命の環。

 

 ふと、この蟻達を全て、一匹残らず踏み潰せば循環が壊れ、亡き故人が蘇り、またあの笑顔が見られるのではないかと、またあの図太い声が聞けるのではないかと思い、彼は苦笑にならぬ苦笑を浮かべ頭を横に振った。

 

「大馬鹿者め」

 

 霖之助は、自身に向かってそう唾を吐いた。

 拳を握り締め、奥歯を強く噛み締め、彼は空を見上げる。地に這う蝉の亡骸と蟻と、地に縛られたそれら――自身から目を逸らす為に、彼は空を睨みつける。

 

 雨模様の多かった空は、こんな時に晴天で全てを覆っていた。

 それがまるで、死んでよかったと笑っているようで、何故今雨でないのかと、お前は何故泣いていないのかと霖之助は胸を締め付けられた。空の青を黒に塗り替え、そこに鞠の様に浮かぶ太陽を月にすり替え、纏わりつく暑さを裂く様な寒さで壊す事が出来たならば。

 ならば――それはどれ程に痛み苦しみ悲しみを覆い隠す事が出来ただろうか。

 

 人と彼は、定められた寿命が違う。死別は常の儀式である。

 だが、今回のこれはもっと良い方向で別れる事の出来た別離だった。

 それが、彼を苦しめた。霖之助は視線を落とし、再び地面を見た。

 

 地に落ちていた蝉は、もう羽しか残っていなかった。

 だから彼は、その羽を拾い上げ。そっと風の中に乗せた。

 せめてそれだけでも、循環の外へ――空へ逝けと。風に乗って飛んでいく羽は、しかしまたどこかで落ちると分かっていながら。

 

 

 

   ●

 

 

 

 喪主を務める二代目と先代の内儀に頭を下げ、結局皆が集まる部屋には顔を出さず、霖之助は軒先で空を眺め続けた。と、そこに影がさす。

 見上げると、そこには

 

「……隣、いいかしら」

 

 黒に身を包んだ永琳が居た。

 普段とは違った色であったが、それも彼女には良く似合っていた。こんな場所で、こんな理由で纏われた色でなければ。

 

「……好きにすると良い、ここもまた、店だ。皆に開かれた場所なのだから、君も好きにするといい……もっとも、僕にそう語る権限は、ここには一切ありはしないが……」

 

 永琳は霖之助のらしい言葉と、そのらしからぬ苦み走った表情に一切何も返さず、霖之助の隣に腰を下ろした。次ぎ、彼と同じ様に空を見上げ、ぽつり、言葉を零す。

 

「貴方がそんな顔をしていたら、彼が安心して逝けないわ」

「……あぁ、それは魅力的だ」

 

 永琳の言葉に霖之助は自嘲の相を浮かべ、先の言葉はどういう意味だ、と目で問う永琳に、無理矢理笑ったような滑稽な姿で舌を捻り回す。常からぬ軽さで。

 

「だってそうだろう、永琳? 逝けないのなら、またどこかで会う……僕の愚かさを、帳消しにする機会がある」

「……貴方の為に、人の眠りを妨げるというの?」

「永遠に眠らない君が言った所で、詮無いことだと思わないか?」

 

 それは冷たい言葉だった。だからこそ、甘えが見えた。

 霖之助は今、確かに永琳に寄りかかろうとしている。無責任に。

 

 それもまた、良いだろう。だが、それでも決して良くは無い事だ。

 許されようとも、許されない。永琳と霖之助。

 二人が築き上げた体温を持った絆は、そんな事の為に生まれた物ではないのだ。

 

「私に頬を打たれたところで、何も得る事は無いでしょう、霖之助? 貴方が楽になってなんだと言うの? らしからぬ浅薄な言動の意味を良く知りなさい、霖之助。貴方がどんな失敗をしたのかは、私には分からない……けれど、貴方は今、繋がりのあった自身の大切な者まで汚したわ。それは、恥じなさい」

「……」

 

 霖之助は一瞬顔を険しくし、そして次に喉を鳴らし、口を開こうとして……閉ざし、そのまま俯いた。彼は右手で顔半分を覆い、溜息を吐く。深く。

 

 人と彼の寿命は違う。別れは常にあった。

 だが、それでもこんな事はなかった。友人の死の間際、彼は傍にある事ができた。

 それが出来なくとも、最後の見舞いは出来たのだ。だと言うのに、彼は自身の不明によりその機会を失い、友人を喪った。

 

 それでも、甘えるなと。甘える事で消そうとするなと、彼女は言う。

 

「軽躁な世にあって、僕らは個として重く在らなければならないか……」

「軽い貴方なんて、きっと誰も求めはしないわ。東屋さんも、そんな貴方に見送られたいとは思わないでしょうね」

「けれど、僕は見送れ無かったよ……永琳。長年の友誼に、僕は背いた。これが軽薄で無いと言うのなら、何が軽薄なんだい。僕の今居るここが、底なんだ」

「それで許されようとする態度こそが、最も軽薄だわ」

 

 甘えたい。

 しかし、隣に座る暖かい筈の体温は、甘えさせてくれない。

 自嘲するなと彼女は言う。そんな態度で濁すなと彼女は言う。そんな顔で死者を汚すなと彼女は言う。

 故に、彼は問う。

 

「僕は、何をすればいい?」

 

 彼には未だ見えぬ答えを。愚かな男の、時間の限を見誤った男のその滑稽に過ぎる後悔の念が、如何にすれば友への弔いの黙祷になるのかと。

 

「皆に混じって、語って上げなさい。貴方しか知らない東屋さんの話を。そうすれば、安心して逝けるわ。あぁ、愛されていた、と最後に見せ付けてあげなさい。早く新しい生で戻って来たいと思わせてあげなさい。あれは、その為の儀式よ」

 

 永琳の視線の先には、皆が集まる一室。皆、きっとそんな話をしているのだ。

 東屋仲五郎という男がここにいた事を、在って成した事を。愛したという証明を、舌にのせて歌っているのだ。泣きながら、または小さく笑いながら、慎ましく。

 

 霖之助は泣き笑いの表情で、立ち上がる。そして、永琳に手を伸ばした。

 

「一緒に……来てくれるかい?」

「えぇ。そんな甘えなら、大歓迎よ」

 

 重い荷物に背を潰され、それでも歩く為に助けてくれという言葉は、意味がある。

 歩きもせず座ったまま、ただ荷物が重いから助けてくれと言う言葉は意味が無い。苦しみは理解できる、だが、理解できるだけだ。

 荷物を全部持ってくれ、と言われても、人は頭を横に振るだけだ。荷物を半分持ってくれ、と言わなければ、誰も頷きはしないのだ。

 永琳は霖之助の差し出した手を、愛撫するように自身の手で包み込んだ。

 

「君の手は、冷たいな」

「貴方もね」

 

 手を取り合ったまま廊下を歩く二人の姿を、今は亡き友人が見たらどう思うだろう。

 

『仲人は俺か、それとも霧雨か?』

 

 らしい言葉が耳を打つから、彼は胸の中で返事をした。

 

 ――さっさと逝って、さっさと戻って来い。この馬鹿者。

 

 じゃあないと、君は招待しないぞ。そんな諧謔も混ぜながら。

 

 彼はその日、夜遅くまでそこに居た。

 語る為に。そんな霖之助の隣には、永琳がずっと居た。共通の友人達はそれを楽しげに眺め、席を同じくした霧雨の店主は首を傾げていた。

 

 地に落ちて、蟻に貪られ、循環の中に還った蝉が居る。風に乗って飛んでいく羽は、しかしまたどこかで落ちると分かっていた。しかし、その羽が一時、例え一瞬でも空に舞った事に意味は無いのだろうか。

 意味はある。誰かが見た。

 その羽が日の光に透かされて、輝きを放った事を誰かがきっと見て……胸に刻み込んだ。美しかった、と。その一瞬の世界を。

 

 

 

   ●

 

 

 

 月が煌々と照る夜の下、彼と彼女は歩く。お互い何を語るでもなかったが、少なくとも霖之助は隣にある影に安堵を得ていた。

 しかし歩けば全て進み、やがて別れはやって来る。そもそも、二人の向かうべき場所は逆方向だ。

 人を惑わす竹林、そして瘴気漂う森の入り口。それでも、二人は出来る限りの時間を共有したかった。十秒でも一秒でも。

 

 人里の分かれ道。彼と彼女は――霖之助と永琳は、言葉を交わした。

 

「今日は……済まなかったね。出来れば、忘れて欲しい」

「えぇ、貴方の泣きそうだった顔は忘れて上げても良いわ」

「……忘れてくれ」

「嫌よ。甘えてくれた事は、きっと一生、永遠に忘れないでしょうね」

 

 からからと微笑む彼女の横で、霖之助はとんでもない事をしたものだと頭を抱えた。

 

「それこそ、一番最初に忘れて欲しい事なんだが……」

「無理ね」

「無理と来たか……」

「何かをして欲しいのなら、貴方が私に何かをしなくてはいけないでしょう? 何もくれない以上、私は忘れないわよ?」

「真理だ。真理だから反感を覚えるね……これは」

 

 そんな反感を覚えさせるような真理を、少し前に誰かへとぶつけておきながら霖之助は呻いた。

 

「何か用意しておくよ……だから、君も忘れてくれ……今日は、ありがとう。色々と、助かったよ」

 

 霖之助はそのまま、永琳に背を見せたまま歩いていく。彼の城、香霖堂へと続く道を。

 

「えぇ、期待しておくわ」

 

 永琳はその背中をみつめたまま、静かに返す。そのまま自身も永遠亭へと続く道へ足を進めようとして……耳朶をくすぐった音の鮮やかさに足を止めた。

 

「……永琳」

 

 永琳が振り返ると、霖之助もまた同じ様に、足を止めていた。彼は背を向けたまま、言葉を続ける。

 

「あー……まぁ、なんと言うか。いきなり何を言うのかと思うだろうが……君の化粧は……その、うん、なかなかに、良いと僕は思うよ」

 

 言い終わるや、彼は足早に去っていった。

 時間は有限だ。明日があるとは、限らない。だから、彼はそれを言葉にした。

 未だ気恥ずかしさが残っていても、甘えた以上は甘えた分の代償を払わなければならない。

 

 月の下、残されたのは永琳だけ。彼女は今しがた耳の奥を揺るがした音の香を確かめようとして、それより先にすべき事がある事に気付いた。

 口元を手で押さえ、彼女は笑う。温かい笑みで、先程見せた彼のらしからぬ、それでも彼女が求めた姿を瞳の奥に映して。

 彼女はその飾り気などどこにも無い、ただただ温かい気持ちを胸に抱いて夜の道を歩いて去っていく。軽い足取りで。

 

 そして永遠亭に着くと同時に、

 

「しぃしょぉぉおおおーーーーー!!」

 

 弟子による奇襲で軽く吹っ飛んだ。

 

「う……優曇華……いきなりタックルなんて……貴方、ちょっと落ち着きなさい……」

 

 不意打ちであるが為、碌に防御もとれなかった永琳は、腹部を押さえながら必殺必中の吶喊してきた優曇華に諭した。今度同じ事をしてきたら、とりあえず確認の前に思いっきり崩拳で迎撃しようと胸に誓いながら。

 

「早く帰って来るって言ったじゃないですか! もう夜ですよ! 私、今日殆ど一人で診療所見てましたよ!? 作蔵さんとこのお爺ちゃんの愚痴とか倅の嫁にどう? とかずっと聞いてましたよ! 聞かされてましたよ!」

「あぁ、作蔵さんもう結婚して子供もいるのに、これ以上嫁を増やしてあの人は何がしたいのかしらねぇ」

「何か冷静に返された!」

「鈴仙、落ち着くべきだと思うなぁ……、私も」

 

 わたわた、わきわきと身振り手振りで叫ぶ一向に落ち着く気配の見えない優曇華の後ろで、てゐが珍しく困ったような顔で呟いた。どうにもまともに会話出来そうにない弟子を永琳は放置し、てゐに話しかけた。

 

「てゐ……他には何か連絡、あるかしら?」

「んー……特には? ま、優曇華が力みすぎてヘマ打った話なら幾らでも」

「それは後で聞くとして」

「聞くんですか!?」

 

 当然、と異口同音で返す師匠と一応の部下に、優曇華は絶望した。だがそれもまた仕方ない事である。

 落ち込んだ事でどうにか普段一歩、二歩前程度の状態に戻った優曇華は、本来真っ先にすべき筈だった事を行う。

 

「湊屋さんとこの若奥さんが、常備薬を切らしたからお願いします、と。後は注射器の針がちょっと在庫不足です。カルテ用紙も少し足りないです、それとー……各務さん、もしかしたらお腹を開く必要があるかも知れません」

「どういう事かしら?」

 

 優曇華のまともな言葉に、永琳もまた真面目に応じる。

 

「あの、一応触診したんですが、ちょっとしこりがある様な気がしたんです。

いえ、私の気のせいだと思うんですけれど……」

 

 上目遣いで弱々しく呟く優曇華に、永琳は一つ頷いた。件の患者は、永琳が睨んだ通りならそれで合っている。

 急の手術は必要ない為、まだ誰にも知らせていない事だった。それを優曇華は、独力で気付いた。

 気付ける程になっていた。良い傾向だと彼女は思う。

 

「もう少し、貴方は自信を持ちなさい……優曇華」

「あ、はい」

 

 頭の上に置かれた、永琳の冷たい優しさに彼女は素直に頷いた。目を閉じてその冷たさに癒されていく彼女は、目蓋の奥に霖之助の姿を思い出し……唇を尖らせる。

 

 ――……もう、邪魔しないでよ。

 

 しかし浮かぶ霖之助は、肩を竦めるだけで消えてはくれなかった。

 

 それは多分、彼女が消える事を本当に望まなかったから。

 或いは、と彼女は後に思った。或いは、この時気付けてさえ居れば、また違った結末もあったのだろうと。

 彼女は一人、後にそんな事を思ったのだ。

 

 無意味にも。

 

 

 

   ●

 

 

 

 時間は流れる。留まらないのだから、流れるしかない。その中で、彼らは交わりあった。

 カウベルが鳴り響き、少女が一人入ってくる。

 

「ちょっとー、居るのー?」

「ん……、鈴仙。今日は何用かな? 頼まれていた外の世界の初級医学書なら、こっちにあるよ」

 

 家庭の医学書初級編、等と銘打たれた書の束を指差しながら、霖之助は店に来た優曇華に言葉を返す。

 

「それもあるけど……また、師匠が夕食一緒にどうかって……」

「あぁ、今日は君が案内役なのか」

「何、私じゃ不満なの? 良いわよ、竹林の真ん中で置いて行って上げましょうか? ……そうよ、それが良いわ。あんたなんかに、師匠お手製の夕食なんて……」

「それをやると、君が永琳に怒られると思うけれどね、僕は」

「……うわ、どうするのよ! 今頭の中の師匠、凄い形相で怒ってたわよ!? なんか弓矢まで持ってきたわよ!?」

「頑張れ」

「また見捨てられた、私!」

「と言うか、ただの君の想像の産物だろう、それは」

「あと、弓で射られて横たわる私に、「みね打ちよ」って言ってる!!」

「矢にないだろう、みね。というか、君は永琳をどんな目で見てるんだ」

「そりゃ勿論綺麗で聡明で格好良くて優しくて偶に怖くて結構マイペースで――……割りと常識知らず……とか……」

「……」

「……」

 

 二人は同時に頷いた。ちょっと疲れた顔で。

 

 

 

   ●

 

 

 

 何も無い日常の中で、向かい合って語り合う。

 

「紅、ちょっと薄めにしたのだけれど……どうかしら?」

「……それを僕に聞くか、君は」

「ね、どう?」

 

 自身の唇を指差し、永琳は霖之助の言葉を待つ。

 

「……」

 

 無言のままでいるには、永琳から放たれる重圧は重すぎた。霖之助は読んでいた本で顔の全てを隠し、小さな声で応える。

 

「いいと……思うよ」

「こっちのほうが、貴方好みなのね?」

「あぁ、まぁ……落ち着いた色だとは」

「ふぅん……じゃあ、今日からこれにしましょうか」

 永琳は微笑み、やっと重圧から開放された霖之助は息を吐いた。

「僕の意見なんて、参考になった物じゃあないだろう……」

「いいえ、そうでもないわよ?」

 

 

 

   ●

 

 

 

「……えっと、その……いいかしら?」

「……おや、鈴仙。今日は静かに入ってきたね……どうしたんだい?」

 

 常らしからぬ、楚々とした……と言うよりは、恐々と店に入ってきた優曇華に、霖之助は何事かと問うた。その程度には、その日彼女の醸し出す雰囲気はおかしかったのだ。

 

「……その、これ……壊しちゃって……」

「ふむ……」

 

 静々、おずおずと自身に差し出された道具――懐中時計を見て、霖之助は眉を顰める。

 

「師匠に相談したら、あんたなら大丈夫だって言って……その、直らない?」

「いや、直せるよ」

「はぁー……もう、ならそんな顔しないでよ」

 

 安堵の溜息を吐きながら、優曇華は悪態をつく。

 

「ただ、安くは出来ないと思うよ」

「――……」

 

 優曇華が動きを止めた。

 

「僕の見たところ、幻想郷に余りない型だし、僕もそう見た事のない形だね。つまり……修理の為に必要な部品が、余りないんだ」

「……買いなおした方が、安くつくの?」

「んー……微妙、だねぇ……」

 

 顎に手をあて、神妙に呟く霖之助の顔を見て、優曇華は肩を落とす。

 

「私……今月、あんまり余裕が……」

「……お得意様だ、少々の勉強はさせて貰うよ」

「へ?」

「今後とも、ご贔屓に……という事さ」

 

 驚いた優曇華の瞳に映るのは、いつも通りの、冷たげな霖之助の顔だった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 カウベルが小さく奏でられ、永琳が店へと入ってくる。

 

「霖之助、注文していた物は、あるかしら?」

「……前から言っているけどね、僕は薬剤に関しての知識が余り無い。間違っていても文句は言わないでくれよ?」

 

 霖之助が無造作にテーブルの上に置いたそれらを吟味しながら、永琳は小さく頷いた。

 

「んー……まずまずね。霖之助、貴方も少しは薬学を身に着けてはどう? 悪くないと思うのだけれど?」

「君に弟子入りしろと? 君の知識は魅力的だがね、僕は薬学に魅力は感じないよ」

「私自身に魅力が無い、みたいに聞こえるわ」

「そこにある鏡を見るといい。傾国どころか、傾世の美女がお目にかかれるよ」

「なるほど、あすこに貴方を誑かす雌狐が居るのね?」

「……あぁ、それで良いんじゃあないかな。いや、良くはないが……いや、もうどうでも良いか……」

 

 面倒臭げに、霖之助は応える。

 

「それで、霖之助。今日の夕飯なのだけれど」

「いや、君……それで、って言っても何一つ接続しちゃあいないだろう」

「? 夕飯、何が食べたい?」

「いやだ、だから……あぁ、もう良い……僕には無理そうだ」

 

 その日霖之助は、気付くと夕食の約束まで取られていた。

 

 

 

   ●

 

 

 

「あんた、最近良く来るわよね?」

 

 永遠亭での夕餉の席上、霖之助は隣に座っている優曇華に小さな声を掛けられた。

 

「気付くとここに居る事が多いよ……最近は」

「……嫌なら断りなさいよ」

「嫌ではないんだ……美味だしね。ただ、主導権が自分に無いのが……いや、なんでもない」

「ふーん……」

「美味いんだが……この味噌汁は少々、雑だね」

「……」

 

 僅かばかり目を逸らした優曇華に、霖之助は察した。

 

「君か」

「五月蝿い、さっさと食べてさっさと帰りなさい」

「それも良いんだが、この後永琳に誘われてね……」

「さ、さそ……!?」

「見て欲しい道具があるそうだ」

「あ、あぁ……そう言う事……」

 

 明らかにほっとした顔で胸を撫で下ろす優曇華に、彼は首を傾げる。

 

「……?」

「あぁもう、いいからさっさと食べてしまいなさい!」

「ふむ……まぁ、なんだ。これはこれで味わい深い味だと思うよ、この味噌汁も。この後上手くなっていくと言うのなら、今だけ味わえるものだからね」

「……覚えておきなさいよ」

 

 そして一年が過ぎて。

 

「おぅい、霖之助。居るかー?」

 

 扉を開き、男が入ってくる。霖之助はその馴染みのある声に、読んでいた本をテーブルに置き顔を上げた。

 彼にはその声に、そして目に映る姿に、馴染みがある。性別も違う、声も違う、仕草も違う。

 だがその男には、この店に良く来る普通の魔法使いと良く似た"匂い"があった。

 いや、厳密には

 

「お久しぶりです、親父さん」

「あぁ、ここもお前も、相も変わらずで、嬉しいやら悲しいやらだ」

 

 あの少女がこの男に似ているのだ。

 人里一の道具屋大店、霧雨道具店の店主に。

 

「夏祭り?」

「あぁ、毎年恒例の夏祭りなんだが……ちとうちでやる出店の、手が足りなくてな」

「なるほど、僕に手伝えと」

「裏方でな」

「……不肖の弟子で申し訳ない。親父さん」

「まったくだ」

 

 常通りの薄暗い香霖堂で、霖之助は師にあたる男と、お茶を飲みながらそんな話をした。

 

「しかし……僕を呼ぶほどに人が足りませんか?」

「足りないんだよ。なんと言っても、若い従業員達は良い人と一緒に回るって言うし、他の独立した連中はお前、今回に限っては自分の店で忙しいから呼べもしない」

 

 幻想郷には、こういった祭りの際に出張ってくる的屋、つまりはその手の筋の人間が居ない。

 ヤクザな人間が幅を利かせる前に、神と妖怪が実在する土地である。自然の猛威の力が神威宿る形となって語り座す世界で、いったい彼らが土地の人間達の何を守れると言うのか。

 そんな理由で、彼らが居ない。だから祭りの際は、大店や大きな庄屋が店を出す。

 

「なるほど……で、裏方と言っても、僕は何をすれば?」

「あぁ、それなんだがな」

 

 霧雨店主は霖之助に任せたい仕事の内容を語り、その程度ならば、と霖之助は頷いた。

 本当は騒がしい世界に関わりたくない彼だが、そこは恩のある人間の頼みである。断る事など出来る筈がなかった。

 

 一年と二ヶ月ほど前、霖之助は霧雨店主との縁によって、とある女性達と関わりを持った。

 そして今回も、そうなった。

 

 時は進んでいく。

 歩く早さで。

 その中で、心を持った命達は共に進んでいく。走る早さで。

 

 

 

   ●

 

 

 

 夏祭りは盛況であった。

 霖之助自身は喧騒に身を置くことに少々の拒絶が出るが為、それが例年と比べどうなのかと言う事が分からなかったが、少なくとも彼が見て歩いた限りでは、大層な賑わいだった。普段が普段だけに、思わず彼が一歩引いてしまう程に。

 故に彼は、その喧騒の波音を打ち出す人の波の流れに逆らい、行くべき道を帰ろうとしていた。

 多少の違いはあれども、皆一方に進む波の中で、一人、しかも人の常ならざぬ色素で外観を彩られた男がそんな事をすれば、いやでも目立つ。

 だから彼は、声を掛けられた。

 

「あら、霖之助?」

「あ、森の日陰半端者」

 

 永琳と優曇華と、

 

「あー……最近良く家に夕餉をとりに来る……も、森……もりなんとかなんとか助」

「森永りゅんの助だわよ、姫様」

 

 輝夜とてゐである。今しがた耳にした聞きなれぬ名前に彼は首を横に振り、訂正を入れる。

 

「そんな珍奇な名前が在る物か。森近霖之助、もりちか、りんのすけ、だ」

「覚えたわ。森塚」

「森塚違う」

「お前、面倒臭いわ。もう森塚になさいよ。首塚でも良いから」

「なんで間違っておいて上から目線なんだい。しかも物騒だよ、後者」

 

 けらけらと笑う輝夜に、永琳が拳を落とした。涙目でうずくまる輝夜を無視して、永琳は霖之助に、にこりと笑いながら話を続けた。

 

「珍しいわね……貴方はこういう場所は苦手だと思っていたのだけれど?」

「あぁ、それは正しい。苦手だ」

「ふーん……苦手なのに、祭りに出てるの?」

 

 てゐの言葉に、永琳は目を細めて辺りを見回す。特に念入りに、彼の傍を過ぎる女性達を見定めながら、口を開く。

 

「と、言う事は……誰かに呼ばれたのかしら? 良い人?」

 

 冷たい声である。優曇華はその永琳の余りに冷たい声に、夜とは言えまだまだ夏の盛りだと言うのに身を震わせた。

 霖之助は特に何も感じず、いつも通りの様子で応じる。

 

「そんな人が居るなら永琳、僕は夕餉の誘いに応じちゃあいないよ」

 

 友人の家とは言え、女性だけの場所に行くのは不義に当たるからね。霖之助はそんな事を言って、腕を組みながら肩を竦めた。

 

「……そう」

 

 効きに過ぎたる冷房から開放されて、優曇華は息を吐いた。

 何故にそんな事で永琳が人間冷房扇風機(極強)になったのか、彼女は釈然としなかったが、開放されたことは喜ばしい。優曇華は手に持っていたりんご飴を舐めながら、そんな事を思ったのである。

 未熟である。乙女として。

 

「先程まで、親父さん……道具屋の師匠の出店の手伝いをしていてね。今はそれも終わったから、帰りの途中と言うわけさ」

「なるほど……」

 

 その言葉に頷く永琳。

 

 さて、うずくまっていた輝夜。彼女はすっと立ち上がると、優曇華とてゐに目配せをした。

 

 ――あとは若い者達に任せるわよ。

 ――いや姫、お師匠様若くない。幻想郷でぶっちぎり一番くらいに若くない。

 

 目で会話する二人の中で、優曇華は何もわからず首を傾げるだけ。

 

 ――隊長、鈴仙准尉が作戦の趣旨に気付けてません!

 ――仕方ない……殿にしてしまいなさい! 撤退よ! 金ヶ崎撤退並にざっぱり退くわよ!

 ――大将だけ真っ先に離脱って意味ですね! らじゃー!

 

 激しくなっていく目配せの中で、ますます分からない優曇華はきょとんとし、そして

 

「永琳、私達ちょっと戻って煙玉買って食べてくるわ」

「お師匠様、私もそれ買ってもぐもぐしてくる」

 

 置いていかれた。

 輝夜とてゐは、朝倉攻めの際、同盟関係にあった筈の浅井から背面を突かれた際に見せた信長並の速さで彼女達は去っていく。ちなみに、件の戦場で信長は自身を優先して逃げたのである。

 この状況、まさしくそれに該当するだろう。

 優曇華的には、てゐは自身の配下な訳だが。あと、どうでも良いことだが煙玉は食べ物ではない。決して食べ物ではない。

 

 さて……この場合、優曇華には少々の不幸があった。

 輝夜とてゐから少しばかり距離があったこと、目配せの意味が分からなかった事、永琳と霖之助のあやふやな関係に確信を抱いて……いや、抱こうとしなかった事。そして残された優曇華には、それら含めて諸々の不幸が舞い降りてしまった。

 

「……元気だね、君の所のあの子達は」

「本当にね……あんなに走ったんじゃ、はぐれてしまうでしょうに。そうそう、霖之助。良かったら少し一緒に歩いてみない? 嫌なら……別に良いのだけれど」

 

 良いのだけれど、等と言いながら、その縋りつくような目は口よりも遥かに雄弁だ。

 しかも確りとちょっと涙目で上目遣いだ。夜と言う視界の狭まる中に在っても、夜用のしっとりしたしっかり魅せる化粧でばっちりでがっちりだ。

 重武装である。女性の武器満載の重武装である。

 

 で、あるから、霖之助は悩んだ。彼自身の素直な意見としては、すぐに帰りたい。

 だが、この祭りの出店を手伝ってくれと言って来た霧雨店主同様、彼女もまた彼の恩人である。

 寄りかかり甘え、存在として落ちようとした時、彼女はそれを叱り助けた。

 そして最近では完全に餌付けされているところである。本来食事に然したる理由ももたぬ霖之助だが、それが美味な食事となれば理由は在る。美味いものは、食べたいのだ。

 彼は趣味人である。趣味の一環として、美食への欲望もあるのだ。だから彼は悩み、小さく唸り、首を大きく捻り……大きく息を吐き。

 

 ――星の巡り会わせだろうな……どうにもならない。

 

 諦めた。

 

「あぁ、僕でよければ付き合おう……けれども、良いのかな?」

 

 彼は永琳、それと永琳の横に居る優曇華の顔を見て呟いた。

 

「私から誘ったのだから、当然良いわよ?」

 

 即応答する永琳と

 

「……まぁ、別に、師匠が良いなら……別に、別に……べつにぃー……?」

 

 恨みつらつら、といった感じで応える優曇華。

 二人の温度差に苦笑を浮かべ、霖之助は、さて、と呟いた。

 

「歩くのは良いが……どこへ行くんだい?」

「祭りなんて当て所なく歩くものよ? というわけで……はい」

「……なんだい、この手は?」

 

 永琳が霖之助に差し伸べた手のひらに、彼は何事かと返す。

 

「はぐれてしまうでしょう? だから、手」

「なるほど、繋げ……と」

「却下!」

 

 笑顔で話す永琳と、疲れた顔で呟く霖之助の間に割って入り、優曇華が手を振り回す。敬愛する師匠の手を男が、霖之助が取るなど彼女には許され無い事だ。それが例え、彼の持つ――

 

 ――駄目でしょ! いやもう駄目でしょほんとに!

 

 優しい冷たさを持つ手のひらだとしても。

 彼女には許容出来かねる事だった。

 嫌だった。永琳と霖之助が、そんな風にするのは絶対に嫌だった。

 

 何やら本気で駄目だ、と目で語ってしまっている可愛い弟子の奇行に、永琳は頬に手を当ててどうしようかと考えて――

 

「じゃあ、こうしましょうか」

「……へ?」

 

 優曇華の手にあったりんご飴を取って、開いた手のひらを握った。

 

「霖之助は、そっち」

「……恨むなら、君の師匠を恨んでくれ」

 

 諦めた顔で、霖之助は永琳の言葉に従う。それが今、彼にとって一番疲れない結果だからだ。

「へ……?」

 

 茫然としたのは、優曇華だった。彼女は中央。左に永琳、右に霖之助。

 左手には優しい冷たさ。右手にも優しい冷たさ。

 

「じゃあ、行きましょうか」

「あぁもう、好きにしてくれ」

「……え、えぇえええええええええええええええええええええ!?」

 

 休日の家族、とでも言うべきそんな姿で、彼らは人波へと埋もれていった。

 

「……イナバ、南無」

「鈴仙、南無」

 

 離れたところで眺めていた輝夜とてゐは、そんな三人に手を合わせていた。一方的とは言え、甘ったるい空気のど真ん中に置かれてしまった優曇華の、この先の苦難を思って。

 

 

 

   ●

 

 

 

 ぱっと見、三人家族の子供位置に置かれてしまった優曇華は、暫らく自失の中でふわふわと漂っていたが、祭りの喧騒と熱気に当てられ徐々に自我を取り戻していった。

 

「し、師匠!? なんですかこれ!? なんか新手の呪いとか虐めですかこれ!? しゅ、羞恥プレイとかそんなですか!?」

「大人の遊びだと貴方は言うのね?」

「凄い冷静に返されてる、私!!」

「今の君達は、足して割ったら丁度良さそうだ」

「あんたを真っ二つに割って上げましょうか!」

「怖い医者の卵も居たもんだよ。先生、弟子のこの言葉、どう思うね?」

「優曇華……何か悩みでもあるの?」

「今この現状に悩みがあります師匠!」

 

 実に騒がしい連中である。だが今は夏祭り。彼ら、彼女らのこの狂態も、埋もれるて喧騒になる物でしかない。

 

「あぁ……喉、渇いた……」

 

 一人叫び続けた代償で、優曇華は項垂れる。と、頬に冷たい物を感じた。

 

「さっき、そこで買ったお茶だよ。良ければ飲むと良い」

「……何、嫌がらせ?」

 

 両手をそれぞれに取られた優曇華は、それを差し出されても手を伸ばして持つ事が出来ない。

 

「あぁ、そうだったね」

 

 霖之助は紙コップを優曇華の口元に運び、促した。

 飲め、と。

 

「……いや、まぁ……良いけど」

 

 喉の渇きからか、それとも両の手の平から伝わる冷たさが素直にさせたのか。結局彼女は、手を離すと言う簡単な事もせず、そのままそれを飲んだ。それを飲み終え、彼女はふと思う。

 

 ――あれ? おや? あのお茶はあいつが買った物で、と言う事は、これ、もしかして……

 

 頬を朱に染め、眉を顰め、次いで口をへの字に曲げて、そのまま目を見開いていく百面相実行中の優曇華の眼前に、またも何かが差し出される。

 見るとそれは、チョコバナナだった。

 

「食べる?」

 

 差し出しているのは永琳。差し出されているのは甘い物。さて、拒む理由などあるだろうか。

 

 ――ない。

 

 優曇華は瞬時に頷き。

 

「はい、あーん」

 

 何やらこれ以上も無い笑みで頬を緩める永琳のその声に、素直に、あーんした。

 完全に三人家族子供ポジションである。場所も、行動も。

 

「おぅい、霖之助。なんだお前、不貞腐れて帰ったん……じゃ…………」

 

 その三人に声を掛ける者が居た。

 霖之助が聞きなれた声に振り返ると、その声同様見慣れた、というか先程まで一緒に居た人物がそこに居た。なんともいえない、困ったような、笑いかけのような、そんな表情を浮かべて。

 

「……お邪魔……だったか?」

「いや、ある意味助かります。ある意味では見られたくも無かった訳ですが」

「そうか……いや、そうだよなぁ……」

 

 霧雨道具店店主、魔理沙の父親、霖之助の師匠、霧雨の親父さんである。彼は一年ほど前まではよく顔を見せていた二人、永琳と優曇華に会釈し、二人も会釈を返す。

 そして言葉を続けた。

 

「いや、散々弄ってやったから、もう帰ったと思ってたんだが……」

「えぇ、人が悠々と裏で蛸を捌いて、玉子と小麦粉をとかしていたのに、いきなり店番やれとか言う人に散々使われましたんで」

「人が汗水流してるのに、余裕って顔したお前が気に食わなかった」

「そういうところ、本当に魔理沙そっくりですよ、親父さん」

「そりゃ順番が逆だ」

「あぁそうでしたね。それで、今霧雨たこ焼き店は誰が見て?」

「おう、兵衛が逢引の途中で寄って来たから、無理矢理詰め込んでおいた。今頃ひーひー言ってる頃だろうなぁ……」

「頃だろうなぁ……じゃあないよ、親父さん」

「安心しろ、付き合ってる女も一緒に放り込んで置いたから、あれはあれで経験になるぞ、多分」「なんて師匠だ」

 

 ぽんぽんと応酬する言葉の殴り合いに、永琳と優曇華は目を見開いた。なるほど、二人は確かに霖之助との付き合いも、一年程度とは言え深い物になった。

 が、ここまで楽しそうな霖之助の、外見年齢相応の顔というのを見た事は、余り無い。無い筈なのに、今そこにある。

 だから二人は、驚いた。

 

「人が真面目に接客してると言うのに、後ろからじっと見ている人が居るし」

「お前の接客は、放っておくとすぐぼろが出るからなぁ……不安なんだよ、こっちも」

「免許皆伝で、僕はちゃんと独立させてもらった筈ですがね」

「ありゃあお前、お情け、おまけの皆伝だろ。弟子のお前が下手うったら、俺の監督能力不足になっちまうし」

「……」

「待て霖之助、なんだその、にたぁ、とした笑いは。なんだお前、わざとやらかすつもりか? そうなのか?」

「いいえ? まさか? そんな筈が?」

「お前もう一回店に来い。一から叩きなおしてやる」

「お断りだ」

 

 数秒ほどにらみ合い、霧雨店主と霖之助は同時に、これ見よがしに額に手をあて息を吐いた。だが、その顔は変わらず楽しげだ。

 

「まぁ……あんまり邪魔したら怖そうだから、俺は行くよ……お二人さん、霖之助をどうぞよろしく」

「えぇ、任されました」

「あの……えーっと……はぁ」

「いや、君達ね」

 

 それぞれがそれぞれに返事をし、それを聞いてから霧雨店主は去っていく。三人はそれを見送ってから、また歩き出した。

 

 そして、霧雨店主は立ち止まって振り返り、今はもう辛うじて見える霖之助と永琳の背を見た。

 優曇華はもう完全に人の波の中に埋もれてしまっている。永琳が微笑み、霖之助が困った顔で頭を振っている。

 多分見えない優曇華も、今なにがしかやっているのだろう。そんな事が、彼には容易に想像できた。彼自身、多少の違いはあれども、昔通った道だからだ。

 

「……なるほどなぁ」

 

 彼は小さく呟いた。違和感が無い。

 かつて彼が感じた、言葉に出来ない違和感が永琳には無い。

 あの不気味な違和感が。 友人の葬式で見た時より、一層、完璧に無い。

 

 そう、だから。

 

「あぁ、なるほどなぁ……」

 

 彼はもう一度、同じ言葉を呟いた。

 祭りが終わって帰ったら、この事を妻に話してやろうか、なんて思いながら。それ用の服を、新しく下ろしておくか、とも思いながら。

 

 結果として、新しく用意したそれは無駄にならなかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 多くの吊り提灯に照らされた広場で、青年は隣に居る女性と話しをしていた。

 二人。今はただ、霖之助と永琳しか居ない。

 

「彼女は、どこまで飲み物を買いにいったんだろうな……」

「多分、良い物を探してるんじゃないかしら」

「……彼女の目利きで、かい?」

「食べ物なら、少々はマシな……筈よ?」

 

 珍しく、自信なさ気に見える顔で永琳は応える。

 

「じゃあ、その良い物を待つとするか……」

 

 霖之助は長椅子に腰を掛け、隣を軽く払う。そこへ、永琳が腰を掛ける。

 

「貴方、そんな事もするのねぇ……」

「一応の礼儀なんだろう? まぁ、僕には余り縁のない礼儀だけどね」

 

 苦笑を浮かべる霖之助に、永琳は笑顔を見せた。

 そしてそのまま、顔を上に上げる。なんとはなく、霖之助はその顔を眺め……その顔が光に照らされたのを見て、彼もまた同じ様に空を見上げる。手を腰の後ろ辺りにおいて、寛いだ姿勢で。

 

 雷が落ちたような、そんな炸裂音。続き、夜空に咲き誇る大輪の花、花、花。

 それが何度も続き、周囲に居た皆が声を上げた。歓声、そして恒例のあの声。

 大輪、大音、大声。それらが交じり合って、興奮は、感動は広がっていく。

 

「あぁ……始まったね」

「えぇ、祭りと言えば、これよね」

 

 轟音と共に産声をあげ、短く、一瞬だけを奔り、人にその美しさを刻み込んで火の粉は散り溶けていく。花火は続き、人は声を上げ、霖之助と永琳は無言のまま、光と音の中で二人静かにそれを眺めていた。

 

 やがて音は消え、夜はただの黒に戻る。

 そこにもう、花が咲く事はない。来年まで。

 先程まで居た老若男女達は広場から一人去り、二人去り……それは連鎖し多くの影はまた違う場所に喧騒をばら撒いていく。

 やがて、あれほど人の居た広場に二人だけが残った。

 人の熱気も喧騒も、もうそこには無い。二人で先程の人数分の熱を生み出せる筈も無いのだから、今広場に漂う静寂は必然の物だった。霖之助は、息を吐くように呟く。

 

「寂しいね」

「そうね」

 

 霖之助は、もう何も無い夜空を見上げたまま続ける。

 

「陳腐だろうが、祭りが続けば良いと……昔、思った事があったんだ」

「……貴方は、騒がしいのは好きじゃないんじゃなくて?」

「そんな僕でも、だ。どんな喧騒も、一度身を置けば……そうだな、愛着がわくんだろうね。

魔理沙や霊夢の騒がしさも、まぁ気にはなるけど……結局受け入れてしまったよ。君の所の、鈴仙なんかもね」

「あら、酷い」

 

 二人は笑い、そのまま、また沈黙が舞い降りる。

 無理にはしゃぐ必要の無い二人は、そこでただ無言のままあり続ける。

 

 ――このまま、夜が明けるまでこうしているのも悪くない。

 

 そんな事にはならないだろうが、霖之助はそう思った。

 だが、それは霖之助だけの想いだ。永琳は、違う。

 彼女の想いは違う。それだけでは、足りないのだ。ただ夜を共に過ごす、程度では全く足りていないのだ。

 

 夜の風が吹き、霖之助の――そして、永琳の背を押した。だから、彼女は動いた。

 折り紙で鶴を折るように、繊細な指使いで、彼女は霖之助の手の平を取った。

 

「……? 永り――」

 

 霖之助の言葉は、塞がれた。

 永琳の唇で。

 静寂。沈黙。

 瞬く星の下、森閑とした世界で二人は僅かばかり重なり合い。

 やがて、離れた。

 

「……」

 

 霖之助に、言葉は無い。

 彼は今しがた触れた唇の感触さえも理解できず、目を見開いて眼前の永琳を凝視する事しか出来なかった。

 

「ねぇ、霖之助」

 

 だというのに、永琳は明らかに冷静さを欠いた霖之助を見つめたまま、優しく微笑み、常のまま口を開くのだ。霖之助から、平静を奪った張本人だと言うのに。

 

「私は、子供が産めないわ……」

 

 なんら関係ない話を、彼女は口から紡いでいく。だから霖之助は、ますます混乱した。

 

「ま、待ってくれ、僕にはさっぱり――」

「そんな女が、貴方を欲しいなんて言ったら……貴方は、迷惑?」

 

 繋がっていた。少なくとも、その話は永琳の中では繋がっていた。

 

「――……」

 

 いきなりだ。いきなり唇を唇でふさがれ、いきなり二重の告白をされた。

 彼はこれ以上ないほどに混乱した頭で、ただ無言のままある事しか出来ない。

 

「……そう」

 

 その無言を、永琳は答えだろうと取った。

 

「ごめんなさいね」

 

 目は背けられ、その顔に浮かんでいた微笑は消えた。

 そして彼は気付く。永琳の肩の小さな揺れと、今離されようとしている手の平の震えに。

 瞳に溜まった、小さな輝きに。それが、紅く染まった頬に伝うまでに、

 

「……違う」

 

 彼は永琳の顔を微笑みの色に戻さなければならない。それは義務からではない。それは良心からではない。それは、

 

「違うんだ、永琳」

 

 彼の手の平を包む、その冷たい温もりが霖之助の胸を打つからだ。

 時は無限ではない。

 どれほど永くをいき様とも、今日が、この時がまた在ると言う訳ではない。それを彼は知った。友に教えられた。今繋がっている、その冷たい手の平に、教えられたのだ。

 離されようとした手の平を彼は強く握り締め、彼は冷たさを逃げないようにそこに留めた。二度とない、今この時を失わない為に。

 

「僕は……その、こういう事に、不慣れだ」

 

 彼は混乱したままの頭で喋る。だからこそ、その言葉には霖之助自身の素直な、偽りのない色があった。

 

「だから……まずはその、前提に……と言う訳には……いかないだろうか?」

 

 永琳は霖之助の普段ない強引な行為と、その言葉に驚き俯いた。

 

「……それは、また……友人から始めて……恋仲になるのを、前提に……と、言うこと?」

 

 弱々しい言葉に、霖之助は頭を横に振る。

 

「ここから、また始めて……結婚を……前提に、と言うのが、その……僕の希望でも、ある」

 

 返事は、無い。幾ら待っても、彼女の返事は無い。

 

 ――やはり、不満――か。

 

 自身の煮え切らない態度に、彼自身が苛立った。そして、何か言葉を掛けようとして、彼はようやっと気付いた。

 

 永琳の肩が震え、小さな声が零れている。静謐な夜の中で、清浄な音が響き、彼は知った。

 永琳が、泣いている事を。

 

「あ……貴方が……そんな人、で……良かった……私……わた、し――」

 

 貴方を好きになれて、良かった。小さな、たったそれだけの、喉を震わせた呟き。

 両者が幸せを感じた。

 

 女であっても、女になれない女が、女の幸せに触れて涙を零す。

 どれだけ強く目を瞑っても、どれだけ強く目を抑えても、頬を伝い零れ落ちる涙を流しながら。

 霖之助はそんな事に、どうしようもないほどに幸福を感じた。彼は強く握り締めていた永琳の手を、優しく包みなおす。

 

「参ったな……君が、愛おしくてしょうがない」

 

 彼女は泣いたまま、何も応えず、ただ小さく頷くだけだった。

 

 

 

   ●

   

   

  

「師匠ー! すいません、出店の店員さんに言い寄られて遅れ――」

 

 優曇華が両手にコップを二つ持って走りよって来た。だが、彼女はその途中で気付いた。

 

 ――違う。

 

 そう、違う。

 永琳の顔が、空気が、違う。

 月明かりと提灯の明かりだけでもそれは分かった。

 目元が腫れている。頬が朱に染まっている。そして、何かが決定的に違う。

 彼女は永琳に慌てて走りより、そして霖之助を睨んだ。

 

「あんた、私が居ない間に師匠に何をしたのよ!!」

 

 肩を怒らせ、怒鳴る。

 霖之助は何も応えず、如何した物かという顔で優曇華を眺めるだけだった。

 それが優曇華の癪に触る。もう一度、彼女は怒鳴ろうとして、冷たい手の平に止められた。

 肩に、永琳の手が置かれている。優曇華は振り返り、永琳を見た。

 

「違うのよ」

「で、でも……! こいつが何かしたのは、分かりきった事じゃないですか!」

 

 ――分かりきった事なのか。何かしたのは、分かりきった事なのか。

 

 悪し様に断言された霖之助は、流石に気落ちした。そこまで酷い目で見られていたのかと。

 

 永琳は首を横に振り、霖之助に目配せする。

 話しても良いか、と。霖之助はうなじ辺りを掻き、目を泳がせた。

 

 そのなんとも言えない空気の中、優曇華は憤懣に身を任せたまま事の成り行きを見守っていた。

 事と次第によっては手と足が音速で飛ぶぞ、などと胸中で叫びながら。

 時間にして約一分、長いような短いような微妙な時間をかけて、霖之助は苦虫を噛み潰したような顔をして、頷いた。好きにしてくれ、と。

 

 永琳は、そんな彼に嬉しそうに頷き返し、優曇華の目を真っ直ぐ見た。

 

 ――……

 

 嫌な予感がした。二人のそんな姿にも、また、そんな嬉しそうな笑顔にも。

 明らかに、泣いた後だと言うのに、同性でさえ見惚れてしまうそんな笑顔を浮かべる目の前の女を、優曇華は初めて嫌だと思った。敬愛する、師匠の笑顔だと言うのに。

 

「鈴仙、私達ね――」

 

 その幸せに彩られた音色を、彼女は聞いた。

 数秒。

 恐らく、先程の霖之助と同じ程度の時間を無言のまま、無表情のままで過ごし。彼女は耳に届いた音の意味を理解して、大声を上げた。

 

「け、け、結婚ー!?」

「いや、それを前提に、と言う話であって、今すぐどうこうという話じゃあ……」

「……」

「永琳、そんな無言で睨まれても……」

 

 騒がしい連中だった。

 

「ど、どどどどどどど、どうして!? なんで!? えぇ、本当に!?」

 

 混乱を極めた優曇華の姿に、まだまだ僕も混乱振りが甘いと見える、等と呟きながら霖之助は言葉を紡いだ。

 

「まぁ……何と言うか。そもそも、そうなる様な、ならない様な、なんと言うか、気配は前からあった訳でだね?」

「貴方もまだ混乱から抜け切れてないわね……」

 

 霖之助のはっきりしない言葉に、優曇華はこめかみに両手の人差し指を突き立てて記憶を再生する。

 

 完全武装の永琳、良く霖之助の店へ行く永琳、夕餉に霖之助を呼ぶ永琳、自身が作った物を美味そうに食べる霖之助を嬉しそうに眺める永琳。

 帰ろうとする霖之助を、道具の鑑定やら仕事の相談などで引き止めていた永琳。

 微笑む永琳、苦笑いの霖之助。優曇華にとって苦くも、永琳が穏やかに笑う、温かい、その日常。

 ここ一年、正確には一年と二ヶ月と少し。毎日とは言えないが、"ほぼ"毎日と言えるその繰り返し。

 

「あ、あぁ………………なる……ほど」

 

 彼女は頷いた。そうなる気配は、あったのだ。

 優曇華は一瞬だけ霖之助を睨みつけ、そして言葉にしなければならない事を口にした。

 

「……えっと、おめでとう……ございます?」

「えぇ、有難う、鈴仙」

「……いや、最後疑問符が付いていなかったかな?」

「五月蝿い……っと、えっと、じゃあ、その、私先に戻りますから……」

 

 先を霖之助に、後を永琳に。

 彼女は二人に自身の基準のうちで相応な返事を返し、二人の言葉を待たずに走っていく。

 彼女は今、ここに居るべきではないからだ。それ以上に、居たくないからだ。

 

 その居たくないという理由も分からぬまま、彼女は走り、走り、走り。

 目の前には、自身の部屋と廊下を隔てる襖があった。彼女はここまで、立ち止まることなくただ走り続けた。息を切らし、喘ぎながら、優曇華は部屋に入って襖を強く締める。

 真っ暗だ。

 この部屋も、永遠亭その物も。未だ誰も帰ってきていないのだろう。

 地上兎達はどこかに居るのだろうが、そんな事を優曇華は気にしなかった。少なくとも、今この部屋には彼女のしか居ない。それだけで、十分だった。落ち着く為には、十分だった。

 

 胸を撫で、乱れ打つ鼓動が落ち着くのを待つ。

 しかし、その鼓動は彼女同様、落ち着かない。いつまで待っても落ち着く事がない。

 分かりきった話だ。彼女が落ち着かない以上は、鼓動もその音をかき鳴らす事を止めはしないだろう。

 それでも、それが彼女には分からなかった。自身の体が思い通りにならない事に苛立った彼女は、強く拳を振り上げて壁を一つ叩いた。

 強く。

 けれども、胸は鳴り止まない。

 叩いた。

 鳴り止まない。

 叩いた。

 鳴り止まない。

 壁を、叩き、叩き、叩き、叩き叩き叩き叩き叩き叩き。

 皮が破れ、血が滲み出ても叩き続け。

 ゆっくりと、臥した。

 崩れ落ちるように。

 そのまま、優曇華は血の滲み出た拳を無視して、顔を上に向ける。そこには見慣れた天井しかない。

 

 だが、それが彼女を落ち着かせた。

 普段はなんの意味も持たない天井が、彼女の胸を平静の物へと戻したのだ。そして、彼女は呟いた。

 

「……天井、おかしい」

 

 だから彼女は、目線を下げて周囲を見回して、花瓶を眺めた。じっと眺め、見つめ、また呟く。

 

「……そっか、師匠……結婚、するんだ」

 

 永琳、そして霖之助。二人が選んでくれたという花瓶を眺めていた彼女は、音も無く立ち上がり、それに近づいていく。

 

「……壁も、天井も、布団も、箪笥も、棚も……花瓶も、おかしいよ……」

 

 小さく囁きながら、彼女は歩く。やがて花瓶の前まで来た彼女は、それに手を置いた。

 冷たい。

 陶器なのだから、冷たいのは当然だ。それでも、彼女には許容出来ない事だった。

 普段は、暇な時に撫でて冷たさを楽しむ陶器だと言うのに、それが許せなかった。優曇華は乱暴にそれを持ち上げる。水は飛び散り、活けられていた花は畳の上にうち捨てられる。

 

 そのまま、花瓶を壁に叩き付けようとして、彼女は叫んだ。

 

「なんで――ッ!」

 

 振りかぶり、それを投げ捨てようとして

 

「なんで! どうして!! なんで歪んでるのよッ!!!」

 

 叶わず、立ち尽くした。目に映る全ては歪み、目の奥が熱い。

 頬に伝う何かが熱過ぎて、胸の中で猛る何かが痛すぎて、肩に寄りかかる何かが悲しすぎて、彼女は叫ぶ。

 

「――それだけの事でしょう! 師匠とあの人が、ただ一緒になるだけでしょ!!」

 

 先は見えている。あの二人だ。

 それを前提に付き合うというのなら、そうなるだろう。

 二人は、結婚するだろう。たったそれだけの事だ。ただその事実がもう見えているだけだ。

 

 彼女は関係ない。

 師匠が人の妻になろうと、彼女と永琳の関係に大きな変化がある訳ではない。その筈なのに。

「なんで……こんなに痛いのよ……辛いのよ……ッ!!」

 

 花瓶を畳の上に投げ捨て、胸を掻き抱き、優曇華は小さく叫ぶ。悲しくて、寂しくて、胸は錆びた音を立てて優曇華を苦しめる。

 

 彼女は、悲しかった。

 だから、求める。

 安らぎをくれる冷たい手の平を。

 その持ち主を、存在を。

 けれど、今その存在は傍に居ない。

 

 "もう居ない。"

 

 だから、彼女は、せめてと思い。

 最後にその人が触れた手の平を自身の頬に当てた。

 何も考えず、ただその為にと。

 

 それが、魔女の指差した先だった。

 

 右手。

 その、頬。

 冷たい、手の平。

 銀と、青と、黒の、誰か。

 

「……なに……よ……それ」

 

 せめてと思った手は、彼女の右手。夏祭り、右に居た存在の冷たさ。

 せめてと思った場所は、彼女の頬。あの雨の日、触れた冷たさ。

 心の奥には、誰かの顔。誰かの声。

 

『求める者が支払うのがこの世の鉄則だよ、鈴仙。払わなければ、欲しい物を得る事なんて出来やしないんだ。だろう?』

 

 その通りだ。本当に、その通りだ。

 

「わたし……わた――し――」

 

 恋だった。

 それは多分、彼女の恋だった。

 時間があれば良かった。彼女に、もっと緩やかに過ぎる時間があれば良かった。

 そうすれば、その恋は何物にも邪魔されず、あるがまま芽吹く事が、咲き誇る事ができただろう。

 だが、もうその時間が無い。先は無い。どこにも。

 時間は、限られている。どんな存在にも、等しく、優しく、冷たく。

 時間はただ、進むだけなのだ。立ち止まった者を置き去りにして。

 

「そん、な……でも、だって――」

 

 俯き、目を見開いて、彼女は渇いた声で呟く。

 

「だって、だって――」

 

 うずくまり、彼女は血の滲んだ、しかし冷たい優しさのあったその手の平を抱きしめて。

 強く、強く抱きしめて。

 

「――――――――」

 

 叫んだ。

 声も無い声で、叫んだ。

 

 気付いたときには、終わっていた。

 彼女は今、心の底から生まれ出でた恋を、自身の手で消さなければならない。今ここで生れ落ちた、産声を上げた幼い恋心を、殺さなければならない。

 自身ではない、二人の幸せの為に。それは余りに残酷な間引きだった。それは余りに滑稽な幕引きだった。

 

 せめて。せめてその恋に、救いを求めるとするならば。

 

 これ以上の底が無い事だけが、救いだった。

 そんな事だけが、救いだった。

 

 

 

 

   ――続

 

 

 

 

 不幸な、絆も持たない魔女が、指をさす。

 糸を断ち切る鋏を左手に持って、右手の指で人を指す。

 幸せの数は決まっていて、魔女は不幸になるしかないから。

 だから指をさす。

 さされた誰かが不幸になれば、魔女より不幸になれば。

 

 ほら、だって。

 

 魔女はその分幸せになれるから。

 その鋏で糸を切れば。

 

 ほら、だって。

 

 魔女はその時絆と交われるから。

 狭い世界で、それは回る。   

 多分、永遠に。

 からからと。



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後編

 ――何度も何度も、何時も何時も。

 ――それは繰り返される。

 

   たった一つの、赤い糸を巡って。

 

 繰り返される。

 朝が去るから、昼は訪れる。昼が在るから、夜は現れる。夜が散るから、朝は溢れる。

 空に眩い光の大輪が咲き、朧の光の虚が浮かぶ。それを繰り返して、時は回って、廻って、朝は来る。

 

 永琳の朝は早い。

 名残惜しい布団とすぐ側の温もりを、強靭な意志で渋々と引き離し、彼女は起き上がる。

 まだのんびりと寝ている隣の存在、森近霖之助の寝顔を数分眺め、顎や頬を思う存分撫で、少しばかり払われた冬布団を霖之助に掛けなおし、彼女は一つ頷いて床を離れた。寝起きの霖之助分補給完了と言うわけである。

 先日、正確には先日"深夜"から今日"早朝"まで霖之助分をたっぷりと注いで貰った上に、寝ている間も抱きつき、抱きしめられていたのだが、それはそれ、これはこれ、なのだ。彼女は寝巻きのまま風呂場まで歩き、軽く湯浴みしてから普段着に着替えた。

 一応用意してもらった、殆ど朝にしか使う事がない自室の、その端に置かれた化粧台の前で髪を梳かし、軽く化粧を施し、箪笥から割烹着を取り出し、それを着ける。

 

 霖之助より遅く起きるなど言語道断である。更に言えば霖之助より先に寝る事など以ての外である。如何に先日遅くまで起きていようと、先に床を離れるのがまず最初の仕事なのだ。

 少なくとも、彼女はそう在るべきだと思っているし、愛する存在の為なのだからそうしたいと思っていた。義務ではない。規則でもない。

 ただ、したい。やりたいのだ。

 

 かつてには無く、今に在る"先へと続く温もり"は、永琳にそれを自然とさせるだけの物が在った。

 

「さて……今日の朝食は何にしましょうか……」

 

 だからそれは、苦ではない。むしろその真逆にある感情で、彼女は動いている。

 

 歩けばギシギシとなる廊下を出来るだけ音を立てないようにゆっくりと歩き、彼女は顎に指を当て台所へと向かっていく。早朝と言えば、夏でも無い限り寒さがそこかしこに漂っている物で、板張りの廊下もそうだが、たった数時間だけでも存在の温もりから放置された台所は、嫌と言うほどに冷たい物だった。

 永琳は台所用の西洋床履きを履いて、主婦の戦場へと足を踏み入れる。何を作るにしても味噌汁と米は当然出るのだから、彼女は土鍋と西洋鍋に水を張り、それを火にかけて、隣に置かれている冷蔵庫に目を移す。明治時代には良く見られた氷嚢室付きの冷蔵庫を開け、中を見て……ぽつりと呟いた。

 

「よし」

 

 中に在った物を素早く数個掴み取り、彼女はそれらをまな板の上に置く。一見、気ままな、乱暴とも言える所作に見えるが、永琳の頭の中では恐るべき速さで料理が決定されている。月のオモイカネの高速思考、未だ健在と言う訳だ。

 

 そして一時間後、永琳が居間にちゃぶ台を置こうとしていた時、霖之助が寝巻きのまま顔を見せた。

 

「……おはよう」

「おはよう。着替えは」

「いつもの場所だろう? 顔を洗って着替えてくるよ」

 

 永琳は歩いていく霖之助の背を少しばかり眺めて、再び準備に戻る。皿を取り、それに今しがた作り終えた料理を盛り付け、満足気に頷く。

 それが終わると、今度は米びつ、味噌汁の鍋、それらを居間に運ぶ。朝食の用意が終わる頃には、霖之助がいつもの服に着替え、居間に戻ってきた。

 

「いや、この季節ともなると、もう水が冷たいね」

「変わり目ですもの。でも、寒さにも感謝、かしら?」

「……」

 

 その意するところは、簡単な事だ。寒ければ、寝具の中で抱き合える。夏には少々酷な事も、寒さがあれば心置きなく出来る。

 それはもう、たっぷりと。霖之助は何も答えず、無言のまま自身の指定位置に腰を下ろした。頬を僅かばかり朱に染めてそっぽ向く目の前の青年を、永琳はくすくすと小さく笑う。

 

 知識はある。知恵もある。

 だが、結局はそれだけだ。何でも出来る訳ではない。何でも卒なくこなせる訳ではない。

 だから、良いのだ。

 不器用な愛で、無愛想な愛だから、彼女には心地良い。未熟であるから、成長する。

 人も、命も、永琳と霖之助の間にある、男女の愛も、その愛さえも超えた所にある愛以上の何かも。明日が在る。それはなんと幸せな事だろうか。

 

 自身の眼前で、幸せそうに微笑む永琳の顔をなんとなく見つめながら、霖之助は朝食はまだだろうかと溜息を吐いた。

 が、その顔に浮かぶのが苦笑では、彼もかなり毒されてしまっているのだろう。二人が朝食に箸をつけるまで、まだ少しばかり時間が必要だった。

 

 ただ、この――妙に甘ったるい空気を撒き散らす二人を、他者が見ればなんと思っただろうか。

 

 少なくとも。そう、少なくとも。

 結婚してもう十年、等と誰も信じはしないだろう。

 こんな新婚家庭そのものな空間を見せられては。

 

 

 

 

   《赤い糸を繰る》

 

 

 

 

 少しばかり騒がしく、少しばかり静かに、竹林にある診療所は、いつも通りほどほどの忙しさで回っていた。当然、その一室である診療室も同様に。

 

「なるほど……では、腕のほうは?」

「えぇ、ちょっとばかし鈍くなってるくらいで……特には」

「分かりました。打ち身に効く軟膏を出しておきます。窓口で受け取って下さい」

「あ、はい。ありがとうございます、先生」

「……いえ、お大事に」

 

 頭を下げる男に、白衣を纏った女はいつも通り笑顔で答えた。その間にも、手は止まる事無くカルテとメモに様々な事を記している。状態、今後の予想、私見、効果が見込めるだろう塗り薬、消耗の激しい備品、等々を。

 それを側で見ながら、十年ほど前から診療所で助手を務めている少女は、歳もそう変わらぬ外見をもった女性――少女の顔を誇らしげに眺めていた。患者である男性が去ってから、少女は口を開いた。

 

「これを窓口に回しておいて。あと……そうね、ここから暇そうだから、少し備品の補充に行って貰える?」

「は、はい!」

 

 差し出されたメモを受け取り、十年ほど前から働き出した、大親分に良く似た垂れ下がった耳を持つ地上兎の妖怪少女は、笑顔で自分を見つめるその少女――優曇華に微笑み返した。

 

「行ってきます、先生!」

 

 受け取ったメモを片手に、慌しく退室していく少女の背が見えなくなってから、優曇華は息を吐いた。

 深く。

 

「……先生、か」

 

 その口元を、自嘲に歪める。果たして、そんな名で呼ばれるに相応しいものか、と。

 他人から見れば立派に仕事をしているのだろう。だが、優曇華にはそれを誇る事ができない。

 胸を張って、診療所の長であると語る事が出来ない。今はもうここに居ない、先代の長が優秀すぎたと言う事も原因では在る。しかしそれ以上に。

 

 ――道具の仕入先である店にも、怖くていけない馬鹿な女なのに。

 

 胸の中で呟いたその言葉は、自身が思ったよりも鋭く。先程向けられた地上兎の少女の笑顔は、目を背けたくなるほど眩く。

 

「……本当、馬鹿な女」

 

 呟きと共に吐き出された溜息は、長く。何もかもが重かった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 まだ満足に飛ぶ事も出来ないその少女が駆け足でやって来た場所は、人里を挟んで正反対の場所にある瘴気の森、その入り口に佇む奇妙不可思議な店だった。

 中華風でもあり、和風でも在る。東洋の息吹を色濃く現す幻想郷において、そう珍しい建物でも無い筈なのだが、その側に置かれたモノ達が場違いだった。狸の置物、道路標識、錆びたポスト……粗大ゴミとも言えるそれらに囲まれた建物は奇怪、異様である。

 なまじ幻想郷にあってもおかしくない東洋風の建造物である為、外に置かれたその馴染み薄い異物の存在は、ここへ足を運ぶ存在に奇妙な圧迫感を与えた。

 もっとも、それは外観だけを見た場合である。

 では内観を見れば馴染めるのかと言えば決してそうではないが、少なくともこの建物――店の店主はどうにか許容出来る存在だ。どうにか、ではあるのだが。

 故に、ここに来る存在は限られる。外を見て引き返す者多々在れど、これを見て尚中に入る存在が居るのもまた、幻想郷という檻の中に生きた者達の強かさなのだ。

 そしてこの店、香霖堂にやって来た少女もまた、そんな強かさを僅かばかりでも持った存在だった。

 

 少女は一歩、二歩と足を進め、視界全てを占領する扉を親の仇のような目で見つめ、手を伸ばして口を開いた。

 

「森近さーん、お邪魔しますよー……?」

 

 店である。であるから、態々入る事を先に断る必要は無い。

 それでも少女はそれを行い、そっと扉をあける。恐る恐る、といった姿で。

 申し訳程度に鳴り響くカウベルを聞きながら、少女は今日も"また"それを見た。

 

「……あぁ、いらっしゃい」

「あら、今日も優曇華のお遣い? 偉いわね」

 

 椅子に座り、本を読む香霖堂店主――森近霖之助と。その店主を後ろから抱きしめ、店主のうなじ辺りに鼻を埋めている自称看板娘兼新妻兼若妻兼美人妻、旧姓八意、現森近永琳を。

「……」

 

 少女は顔を真っ赤にして、無言のまま、そっと扉を閉めて退出した。

 

「……いつもだけれど、面白い子よねぇ」

「君には負けると思うよ」

 

 笑顔で呟きながら、うなじへと甘えるように鼻先をくっ付ける永琳に、霖之助が溜息混じりに返事をする。結局少女は、霖之助が声を掛けるまでの間、律儀に外で待っていた。

 それも、常の通りである。

 

 

 

   ●

 

 

 

「なるほど……これを、ね」

 

 少女から渡されたメモを眺め、霖之助は目を細めた。それから一つ咳を払い、彼は続ける。

 

「少し時間が掛かるから、そこに座って待つといい。永琳、お茶とお菓子を頼むよ」

「えぇ、分かったわ」

 

 そして霖之助は奥にある倉庫へ、永琳は少女に頭を軽く一撫でしてから台所へ向かっていく。

 残されたのは少女である。彼女は言われた通り、指定された席に腰を下ろし、足をぶらぶらとさせながら二人が戻ってくるのを待った。

 特にやる事も無い彼女は、周囲を見回す。この店は、そういう時には便利だ。何せ雑多である。見る角度を少し変えたり、日を改めてやって来ると、大抵知らない物が一つ二つは見つかる。

 少女が見て、楽しい、等と思える物などそう多くは無い――というか全く無い店内であるが、それでも変化が無い事よりはマシだ。果たして、意味も無く彷徨う少女の視線は今日も意味不明の何かを見つける事が出来た。なんとなく、見えたそれに興味を覚えた少女は、立ち上がりそれの側へと歩いていく。そしてしゃがみこみ、それをじっと見つめた。

 

 少女から見て、黒い、大きな、重そうな、良く分からない、箱。である。

 前面には硝子がはめ込まれており、背面は突き出ていてしかもそこに穴が幾つも開いている。しかも良く見れば、尻尾らしきものが巻かれて背に貼り付けられていた。

 それが何であるかを知らない存在から見れば、実に奇妙な物だった。だから彼女は、無意識に言葉を零してしまう。

 

「なんだろう、これ?」

「霖之助曰く、妖怪兎の類を引きつける箱だそうよ」

 

 背後から掛かった声に、少女は慌てて立ち上がり背を伸ばした。目が少し潤んでいる。驚きの余り涙が少しばかり出てしまったらしい。

 

「あらあら、脅かすつもりはなかったのだけれど……ごめんなさいね」

 

 そんな少女に、永琳はスカートから手ぬぐいを取り出し、彼女の目じりを優しく拭う。涙を拭き終わると、永琳は店に置かれている長椅子に座り、その隣をぽんぽんと叩いた。

 

 ――ここにどうぞ。

 

 という意味である。拒む理由も無く、拒む理由がもしあっても"先生の師匠"という地位を占め、しかも一年程とは言え診療所で僅かばかりでも教えを受けた女性の言葉に首を横に振れる訳も無く、少女は大人しく、身を硬くして隣に座る。そのまま、差し出されたお茶を受け取り、飲みながら日常的な会話を交わした。

 

「そう……優曇華は大過なく過ごしいるのね」

「は、はい!」

 

 最初に見た二人の睦合いと先刻の恥ずかしさで火照った頬の熱を分散させる為か、少女は自身の頬をぺちぺちと何度も叩き、それでも真面目な顔で隣に座る永琳の言葉に元気良く返事をした。

 今少女が行っている事は、頬から赤みをけすどころか更に色を濃くしてしまうような、まったく意味の無い行為だが、少なくとも永琳の胸に温かみを宿らせるには十二分に意味のあることだった。永琳は穏やかに微笑みながら、その少女を眺める。

 

 彼女が永遠亭に居た頃、やっと変化を覚えた妖怪兎。

 特に高い能力も知能も持たない、幻想郷の種族としては二流以下の有象無象。実際、永琳は彼女に何を期待した事も無かった。

 今現在能力が開花していない、では無く、この少女は開花する種が無いのだ。優曇華のように、後々花開く才能など、欠片もなかった。少なくとも、永琳はそう見ているし、今も紙面上に記せる能力をその程度だと思っている。

 

 ただの凡庸な、今後また生まれるだろうただの地上兎の変化でしかない。以前の永琳なら、表面上は兎も角、胸の内では冷めた目でこの少女を見ていただろう。

 しかし、

 

「貴方も、頑張っているのね……優曇華を、助けてあげて頂戴ね?」

「そ、そんな! 私が先生を助けるなんて、そんなのないです! 助けて貰ってばかりです!」

 

 命は尊い物だ。殊、それを生み出せない彼女にとって、そこに生きて在る命は、きらきらと輝く春の太陽のようなものだ。

 

「優曇華は、貴方にとって良い先生なのね……嬉しいわ」

「……えっと……はい」

 

 永琳は微笑の色を尚一層濃くして少女の頭を撫でる。

 少女はただただ、困惑したような、嬉しいような、そんな顔で目を細めてなすがままにされていた。妻にはなれても、母には成れないと痛感する永琳にとっては、この少女は今好ましくて好ましくて仕方ないらしい。

 

 ――甘くなったのかしら。

 

 確かに、それもある。

 甘ったるい新婚家庭を十年も続ければ、骨が溶け失せてしまい、しゃんと立つ気概も何処かに消えたかもしれない。が、永琳はそれを不快とも堕落とも思わなかった。

 胸に宿る安息感と充実感は、今はもう鳴りを潜めた怜悧に過ぎる永琳の老獪さを補うに余りある物だったらしい。そのまま、永琳は笑顔のまま少女を撫で続けた。

 霖之助が戻ってくるまで。

 

 だから、少女は霖之助が来るまで、困った顔で笑うしかなかったのだ。でもちょっと嬉しいから、少女は何も言わなかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

「すまない。君にはいつも、苦労をかける」

 

 少しばかり頭頂部の髪を乱した少女に、霖之助は謝罪した。

 

「あの、いえ……そんな、別に」

「それと、これもいつもだが……」

 

 霖之助は少し間を置いて、永琳を横目で眺めてから――その眺められた当人はニコニコと笑っていたが――眉間に皺を寄せ、言った。

 

「……最初に見た物は、忘れてくれ」

「……はい」

 

 変化してからこの十年ほどの、長くは無い妖怪少女見習い人生で長く聞き続けている、

そして長く見続けている諦めとも悲壮とも取れる霖之助の声と相に、少女は苦笑いを浮かべて頷いた。

 

「あの……頑張ってください」

「ありがとう……これも毎回だね」

 

 霖之助から受け取った道具を胸に抱き、少女は頭を下げた。そのまま、くるりと身を翻し、扉を開けて去っていく。

 去っていく前にもう一度頭を下げたのは、少女の善性か、それとも優曇華の仕込が良いのか。扉のガラス越しに、小さくなっていく少女の背を見ていた霖之助へ、永琳は言葉を掛けた。

 その霖之助の顔に浮かぶ些細な疑問への回答を。

 

「私の孫弟子だもの。良い子に決まっているでしょう?」

「結局、いいとこ取りというわけかい?」

「当然じゃない」

「しかし……鈴仙が、ねぇ」

「意外かしら?」

「良い先生、という言葉と、彼女が結びつかない程度には、意外だよ」

「私はそれが意外だわ。貴方は、その目で答えと過程を見ている筈なのに」

 

 永琳の言葉に、霖之助は首をかしげた。優曇華は、彼と彼女が結婚して以来ここには殆ど来ていない。

 病気にもかからず、永琳の監視下の元、厄介事にも巻き込まれない霖之助は怪我を負う事も無く、一切の大過なく十年を過ごした。つまり、彼は結婚式場で優曇華にあって以来、まともに彼女と会話を交わしていないのだから、過程だの答えだのと言われても、諾と易々頷く事が出来ない。

 

 そんな風に、難しい顔をし始めた霖之助を真っ直ぐ見つめたまま、永琳は自身を指差し――口を開く。

 

「あなたの可愛いお嫁さんは、最初からこんな女だったかしら?」

 

 少女の様でもあり、女の様でもあり、愛らしくもあり、白々しくもあった。そしてそれら全てをひっくるめて、色あせさせるほどに艶やかだった。

 

 霖之助は視線を横へずらし、棚に並ぶ商品たちを睥睨しながらなるほどと一つ頷く。

 時の流れの中で、永琳は八意永琳から森近永琳になった。それだけでは変わったと言えないだろう。

 だが、彼女は変わって行った。一つ変え、二つ変え、三つ変え。化粧が変わり、仕草が変わり、温度と匂いが変わった。

 それを堕ちた、などと霖之助は思わない。永琳の顔には堕ちた者特有の翳りなどなく、温かい笑顔が浮かぶばかりなのだから、それは彼女にとっても好ましい変化だったのだろう。

 

 変わる。十年もあれば、生物は変わる。

 一日一歩の緩やかな前進でも、徐々に、確かに。皆が皆。

 永琳も、霊夢も、魔理沙も、そして――優曇華も。

 

 だから、なるほどともう一つ頷く霖之助の両の頬に手をあて、無理矢理自身の方向へと顔と視線の向かう先を移動させた永琳のそんな仕草も、変化のもたらした形なのだと、彼は妙な心地で得心した。

 

「今は私が隣に居るのだから、他に気をやらないで欲しいわ……寂しいもの、そんなの」

「……」

 

 それも、得心した。

 

「だから、抱擁、接吻、舌吸いを三本立てでしましょう。うん、これなら寂しくないわ」

「いや、それは無理だ」

 得心しがたい事だった。

 

「君の変化は受け入れる。あぁ、好ましいのだろう。けれども、僕だってそれ全てを受け入れられる訳じゃあ、ない」

「つまり、この件は顔なじみの烏天狗に相談しろ……と、そう言うのね?」

「言っていないよ。あと無駄な位大事になるから、やめてくれないか」

「じゃあ、今あなたは私に何をすれば良いのかしら? 言葉ではなく、態度で答えを示してね?」

 

 変わった者が居る。変わった物が在る。

 赤い糸に絡まれて。変わった者が居る。

 変わってしまった者が居る。

 

 永琳も、霖之助も。そして、ここに居ない少女も。

 誰も彼も、変わっていく。そう、当然だ。

 

 優曇華の名と顔を思い浮かべた時、背筋に僅かばかりの寒さを覚えた霖之助は、確かにもう、あの頃から変わっているのだ。

 

「もう一度言うわよ……私が居るのに、他の誰かを思うのは不躾じゃなくて?」

 

 そんな薄暗い思考に囚われた霖之助に、寄りかかる温かさがあった。

 言うまでも無く、永琳である。ついでに、首筋には永琳の爪が立てられていた。

 

「……この添えられた爪を退かす為に、僕は何をしたら良いんだい?」

「抱擁、接吻、舌吸い」

「……最初だけで勘弁してくれないか」

 

 冗談を交わしながら、霖之助は見ない振りをする。永琳が無意識にしている仕草の、そのたった一つだけを。

 

 

 

   ●

 

 

 

 無音。

 音の無い、涼に過ぎる寒さに背を撫でられながら、優曇華は身を丸めるでもなく、抱くでもなく、身を包む秋物の服と、羽織った白衣だけの防壁で、寒さを物ともせず座っていた。

 

「……」

 

 無音。つまり、一人。

 だから彼女は、無言のまま窓から見える景色を気だるげな、どこか攻撃色の灯った瞳で睥睨した。

 

 変わり映えしない竹林を視界におさめたまま、優曇華はテーブルに置いてある未記入のカルテを一枚手に取り、碌に確かめもしないまま、右手に握られたボールペンで何かを書き込んでいく。

 それはただの模倣。かつて、このテーブルにつき、椅子に座っていた誰かが、こんな時にやっていた事の、模倣。

 やがて彼女は景色から目を離し、カルテへと静かに視線を移す。視界に映し出されたカルテには、文字の体を辛うじて整えた、らしきものが幾重にも重なりあい、のた打ち回っているだけだった。一種暗号の様な、インクの染みの様な、得体の知れない物にそれは見えた。

 

 ――ロールシャッハ・テスト。

 

 人格解析・分析法の一つである、現在では疑問視されているような、それ。

 

 優曇華の脳に、その単語が淡く明滅する。万華鏡のように広がり、狭まり、色彩を変えて模様を変えて、脳内を走り回る。

 だから彼女は首を振り、脳髄をチロチロと舐める、不気味な蛇の舌じみた不気味な不快感を追い出した。彼女は、大雑把な分別ではあるが、それを行う者であってそれを受ける者では無い。

 手の中に在るカルテをもう一度眺めて、彼女は呟いた。

 

「……読めない」

 

 そう、それだけの事だ。

 一つ一つは文字であっても、重なり合い潰しあったそれはもう文字ではなく、ただの模様だ。優曇華は苛立ちも不快感も口惜しげな色も見せず、出さず、平坦な表情でカルテを丸めゴミ箱へと放り投げた。そのまま、机上に重ね置かれたカルテに再び手を伸ばし、一枚手に取って見つめた。

 それは滔滔とした物で、完全に一つの動作として成っていた。彼女が日常的にこんな事を繰り返しているのだと、他者に理解させるに十分な物である。

 だが、見る者が居ない以上、これは誰も知らない。

 

「ただいま戻りました」

 

 もう往診客も急患も居ない、たった一人だけが篭る寂とした診療所に、張りの在る、幼い声が木霊する。その声を耳に受けてから数秒、手に取ったカルテをなんとはなく、見るとはなしに見ていた優曇華は、ぼんやりとしていた瞳に輝きを戻し、羽織っている白衣の襟を正して背筋を伸ばす。

 カルテをテーブルの上に戻し、彼女は喉を二度、三度人差し指で叩いてから……声を鳴らした。

 

「お帰りなさい。備品はあった?」

「は、はい、ちゃんと揃いました」

 

 袋を抱え、とてとてと自身に近づいて来る少女を眺め、優曇華は小さく口を歪めた。自身も、昔はあんな風だったのか。等と思いながら。

 差し出された袋を受け取り、机の上に置いて中を見る。それらを取り出し、軽く調べ、優曇華は頷いた。

 

「……確かに。ご苦労様」

「は、はい!」

 

 常なら、これで終わりである。これ以上会話は必要も無いし、遣いをした少女にはまだまだすべき事がある。簡単な医学書の復習であったり、備品の殺菌であったり、やる事は諸々ある。

 だが、少女は優曇華の前から立ち去る事はなかった。

 

 ――あぁ、そうか……また言われたんだ。

 

 優曇華には、思い当たる事がある。

 偶に、そう言う日が在るのだ。少女が、香霖堂に行きたがらない優曇華の代わりに遣いをした日には、偶にこんな事が在るのだ。

 

「あの……先生、大先生が、今度暇な時にでも顔を見せなさい……と」

 

 少女が口にした大先生とは、つまり優曇華の師、永琳をさした言葉だ。だから優曇華は、

 

「えぇ、暇なときがあったら、そうするから」

 

 間も置かず、考えもせず、柔らかな拒絶を口にした。

 

 ――嘘だ。

 

 自分で紡いだ言葉でありながら、優曇華は内心で嘲笑を零す。暇な時に顔を出していたなら、永琳がこんな事を言う筈がない。

 

 顔を会わしていない訳ではない。永琳が永遠亭に顔を出した時は、言葉を交わしているし、お互い近況を話し合ったりもする。けれども、優曇華から永琳に会いに行くことは、仕事を別とすれば無かった。

 永琳が永遠亭に来ない時等は、半年もの間互いの顔を見ない事もあった。

 

 優曇華は、香霖堂に行かない。

 遠慮、と言う物もある。師弟、或いはそれ以上の絆で結ばれた仲とは言え、新婚"然"とした家庭に割り込めるほど、優曇華の顔の皮は厚くない。

 しかし。それ以上に、行けない。それ以上に、行きたくない。

 彼女はそこを拒絶し、忌避した。

 

 かつて、十年以上も前のあの日、あの夏の祭りの夜に自身の胸で熾ったあの炎が、再び灯る事を恐れた。殺す事も出来ず、今辛うじて埋火となっているそれが、猛り狂う事に恐怖した。

 その炎が、愛する存在全てを燃やし尽くしてしまうのは、文字通り火を見るより明らかであるから、忌避した。

 

 だから行きたくない。

 優曇華は少女に悟られぬよう、笑みを装い嘘をついた。まだまだ精神の幼い少女は、それを見抜く事が出来ない。少女は一礼してから出て行く。自身の仕事を、または自室で自習でもするのだろう。

 

 室内から自分以外の気配が失せた事に満足し、優曇華は大きく息を吐いた。

 椅子の背にもたれかけ、天井を仰ぎ見る。そしてまた、息を吐いた。

 今度は小さく。

 

 ――何をしているんだろう、私は。

 

 胸の中で淡く呟き、腹の中で苦く唸り、頭の中で辛く囀り、心の中で酷く零した。何をしているのか、と。

 

「……昔は、こんなじゃ、なかったのにね」

 

 すでに居ない少女を脳裏に浮かべ、彼女は昔日の自身と重ねる。言いたい事を隠す事も余り無かった。そう多くは無かった。少なくとも、一人で居るほうが気楽だと言うことは無かった筈だ。

 単純で、未熟で。それ故に懊悩も苦悩も未成熟で、迷う事はなかった。

 

「……昔の私……どこに行ったんだろう」

 

 無意識のうちに白紙のカルテを手に取り、彼女はそう呟いていた。

 

「戻りたい……」

 

 カルテを握りつぶし、胸に手をあて零す。叶うなら、昔に戻りたいと思いながら。

 

「戻りたいよ……」

 

 俯いて囁く。叶わないから、強く願った。

 

 愛がこれほど苦しい物だと知らなかったあの頃に。愛がもっと綺麗だと信じていたあの頃に。

 

「戻りたいのに……」

 

 震える体をかき抱き、泣く。

 戻れない。戻れないから、尚一層強く願い、尚一層絶望する。大量の感情を受け入れられない優曇華の未熟な心は、十年の時を経て尚、滂沱の涙を流させた。

 

 

 

   ●

 

 

 

 人里から森の入り口まで続く細い道を、その少女――てゐは歩いていた。

 てくてくと歩くその様は愛らしい物であるが、その内面まで知れば誰もそう思わない。そんな妖怪少女である。普段は、どちらかと言えば茶目っ気のある顔を見せて過ごす事が多いてゐが、どこかぼうっとしながら道を歩いている。

 

 思考中。と言う事だ。考えている事は、思っている事は一つ。

 一応、名目上の"師匠"、事実上の協力者、永琳の事である。

 

 てゐは永琳と出会った頃、助力を求められた際にこう言った。

 

 『地上兎達に知恵を与えて欲しい』

 

 なるほど、確かに地上に居る妖怪兎達は知恵を持った。だが、それはまだ幼稚なもので、妖怪兎達はまだまだ稚気に在りすぎている。

 だと言うのに、その約束も半ばと言ったところで永琳は永遠亭――竹林から去った。勿論、竹林に居なければ約束が果たせないと言う訳ではないが、大きく遅れる事は確かだ。

 

 尤も、全てを永琳に任せ、知恵の全てを授けろとまで言うつもりは、てゐには無い。所詮は自己成長以外に道など無い。子供や、幼い妖怪少女に成り立ての子分達を見れば、そんな事は分かりきった事だ。

 これは駄目、あれは駄目、やるな、するな。どれほど言ってみても聞く者は少なく、一度手ひどい傷を負う以外で物事を覚える事など不可能なのだ。

 

 熱い鍋に触っては駄目だとどれほど言ってみても、触ろうとする者は触る。それが"熱い"と知らないからだ。

 だが、触れば分かる。分かってその幅を広げ、熱い物は熱いのだと、それらは危険なのだと覚える。

 

 そうやって知恵を蓄えて行く事が、結局は必要なのだ。だから、それは仕方ない。

 

 学習する為には、自身が傷を負って繰り返すしかないのだ。

 

 だから。そう、だから。今はもう目の前にある香霖堂の古ぼけた扉を見つめながら、彼女は呟いた。

 

「仕方ないけど……そうなんだろうけどさぁ……」

 

 そして扉を開けて、

 

「そうなんだろうけどさぁ……」

 

 重く、そして長く、

 

「あら、いらっしゃい、てゐ」

「……やぁ、久しぶりだね」

「うん、そうねー……」

 

 溜息を吐いた。こんな昼間から店内で抱き合っている二人を視界におさめながら。

 こんな物は学習したくないと思いながら。

 

 

 

   ●

 

 

 

 抱き合っている、などと言えば語弊がある。

 実際は永琳が霖之助のぴったり隣に椅子を置き、それに座ってがっちり抱きついているだけの話だ。霖之助が抱き返している訳ではない。抱き合っているわけでは決して無い。

 のだが。

 

「それを諌めない時点で、何言っても同じだと思うのよ、私。他者から見た場合っての言うのは、当人達の事情なんて無視じゃない」

「何度言っても聞いてくれないから、諦めただけだ」

 

 なんとも言えないてゐの冷たい視線に晒されながらも、霖之助は口を尖らして反論する。するが、永琳に抱きつかれた姿でそんな事を言っても、その姿は滑稽で、それ以上に間抜けなだけだ。

 反論した彼自身が、もうそれに気付いているし諦めても居る。諦めて尚口が動くのは、彼の性分に過ぎない。

 

「なんて言うかなぁ……仮にも師匠って呼んでた存在が、こうなってるのを毎回毎回毎回毎回見るのは、私でもちょっときつい」

 

 そして、こんな風に挑発してしまうのも、てゐの性分だった。

 毎回毎回、扉を開けるたびに永琳は霖之助に甘えているし、霖之助は憮然とした顔で椅子に座っているのである。捨て鉢な、煤けた挑発の一つも出ようと言うものだ。

 ただ、そんなやさぐれた挑発も、

 

「ねぇ霖之助、今日の夕食は久しぶりにお鍋にしようと思っているんだけど、良いかしら?」

「そうだね、少し肌寒いし、鍋も良いだろうね」

 

 しっかり無視された。

 

「なにこの敗北感」

「良かったわね、てゐ。貴方その手の感情中々手に入れられないでしょう?」

「うわーい、嬉しくないなーちくしょー」

 

 永琳の音だけ優しげな言葉に、てゐは真っ白な、白々しい笑顔と棒読みでそう返した。

 特に必要ない感情だから、要らないのだ。何やら危なげな気配を察知し、霖之助はてゐに声を掛ける。女同士の会話と言うのは、それがただの世間話で在っても、男が傍で聞いていて心地良い物ではないのだ。いつ、何事で爆発するか、まったく分かったものではないのだから。

 

「それでてゐ、今日は何をお求めかな? 日用品なら、いつもの棚だよ」

「うん、適当に見とく。あぁ、それと」

 

 てゐは扉の前から移動し、棚を見ながら言葉を続ける。

 

「お姫様が、顔を見せなさいって」

「んー……そうね、もう二ヶ月くらい顔を見せて居ないかしら?」

「うん、ちょっと……むくれ……ふてくさ……怒ってたかな」

「いや、てゐ。全部同じ様な意味だよ」

 

 てゐの言葉に、永琳は頬に指をあて考え込み、霖之助は突っ込みを入れる。

 てゐは笑顔を浮かべるだけで、その言葉に返事をしなかった。彼女は棚を眺め、必要な品物を探す作業へと移る。

 

 女二人は思考と探索、残された男一人――霖之助は、永遠亭と聞いて一人の少女の姿を思い浮かべた。数日前、永遠亭の見習い助手の少女が来た際話題に上がり、また霖之助がふと思い出した少女。

 優曇華。彼はもう、長く彼女に会って居ない。

 永琳は偶に会うようだが、霖之助は永琳と連れ立って永遠亭に顔を出しても、会う機会が無かった。彼が彼女の姿を最後に見たのは結婚式の式場で、それ以外は忙しいときに限って遠目に見た程度であり、落ち着いた時や比較的余裕がある時などに会ったためしがない。

 それはつまり、十年もの間、長くを別にしていると言う事だ。

 

 噂では、聞いている。

 診療所の二代目女医兼所長。先代に薬剤・診療技術は及ばぬまでも、面倒見のよさと親しみ易さは先代をも越えると噂される、月の玉兎の少女。

 

 その噂は、霖之助の思い出の中にある優曇華とは、遠く離れた全くの別物だった。何せ彼の中に住まう優曇華は、どこか危なげのある未熟者で、人伝に聞く姿とは重なり合わない。

 だが、それでも納得はしている。

 

 十年。その歳月は長い時間だ。

 妖怪からすれば長短判断のつかないところではあるが、人間からすれば長い時間だ。

 その長い時間を有意義に、それこそ身を切るような思いで修練に捧げれば、なるほど、そう噂される存在になる事も可能だろう。直に姿を見た事はないが、その辺りは永琳から聞いたことはある。

 

『吃驚したわ……あの子、化ける可能性はあったけど、ここまでだなんて』

 

 もう八年も前の永琳の言葉である。

 優曇華は永琳が香霖堂に嫁ぎ、永遠亭から去ったあとも、稀に顔を出して患者の難しい判断や、治療方法を相談に来る事もあったらしい。今となっては、もうその相談にも来ないと言うのだから、彼女は一己の存在として確立しているのだろう。

 ただ、優曇華が来たと言う時に必ず自身が"店に居ない"と言う事は、さすがに彼も首を傾げた。

 一度や二度は偶然で済むが、三度四度とそれが重なれば既に偶然ではない。

 

 彼は覚えている。最後に見た、あの花やかな、輝夜達が用意した式場で目にした、優曇華の顔を。

 

「あれ……? ねぇ霖之助ー、石鹸って棚変えたのー?」

 

 てゐの声が霖之助の耳を打ち、彼は意識を戻した。隣に居る永琳の訝しげな視線に囚われながらも、それを意に介していない振りをして席を立ち、彼は歩いていく。

 

「あぁ、済まないね。石鹸は確かこっちだよ」

 

 問われた物が置いてある場所にまで足を進め、彼はてゐを呼んだ。とてとてと走り寄ってくるてゐは、棚を見ながら口を膨らませる。

 

「……ないじゃない」

「下だよ」

 

 霖之助はしゃがみ込み、指を差した。

 

「あ、ほんとだ」

「……で、君は何を?」

「ん? 指差したところを、見てるの」

 

 首を傾げて、愛らしいその姿に相応しい、無邪気な顔でてゐは微笑んだ。

 霖之助の首に手を回し、霖之助の背に身を乗せて、霖之助の顔の、すぐ隣で。稚気さえ宿した、幼芽が如き無垢な香りが霖之助の鼻腔を強くくすぐった。が、てゐの細められた瞳の奥に見える光は、老獪で狡猾な色を身震いさせるほどに放っていた。

 

「……重いよ」

「女に言うべき言葉じゃないと思う」

「はッ」

「何その鼻で笑ったみたいなの」

「鼻で笑ったんだよ」

「私、優しい店主さん好きだなー」

「そう言えば全ての男が自分に都合よく動くだなんて思わない事だよ、てゐ」

「……ちッ」

「なんだい、その舌打ちしたような音は」

「舌打ちしたのよ」

 

 数秒、二人は睨みあう。静かに火花を散らし、やがててゐは溜息を吐きながら霖之助の背から離れた。

 彼女は霖之助の前に在る石鹸を数個手に取り、それを持って永琳に金銭を渡し、扉へと向かっていく。

 

「おや、今日はそれだけかい?」

「うん、まぁ、今日は伝言が本題で、買い物はついで、だから。じゃ」

 

 しゅたっと手を上げて、てゐはカウベルの音に見送られながら香霖堂を後にした。霖之助は石鹸があった棚の前で、しゃがんだまま溜息を吐く。

 

「なんとも……たったこれだけの事で、台風一過みたいだよ」

「よいっしょ……っと」

 

 その背後からの声と同時に、霖之助の背と肩に、何かが載せられた。

 

「……」

 

 ぐっ、と前へ押された体勢のまま振り返る事も無く、霖之助は至極冷静な音で言葉を返す。

 

「……永琳」

「なぁに?」

「なんだい、これは?」

「さぁ、なにかしら?」

 

 霖之助の背に、先程のてゐそのままに、永琳が負ぶさっていた。

 

「悪くないわね……これ」

「いや、重いよ」

「罰が必要ね。今日はこれで一日過ごしましょう」

「有史以来、これほどの拷問があっただろうか……」

 

 

 

   ●

 

 

 

 人は変わる。生き物は変わる。

 存在は変わる。何度も言うが、変わる。

 不変のまま生きていく事は出来ない。ある事は出来ない。

 例えば思い出が徐々に改竄されていく様に、例えば無垢な少女が狡猾な女に変わって行く様に、生まれ出でた朝日が絶えるが如く朱に染まり沈んでいく様に、全ては当然と変わっていく。

 

 故に、

 

 ――それはどうしようもない事なのだ。

 

 人里を歩きながら、森近霖之助は自分に言い聞かせるようにそう胸中で繰り返し呟いていた。 

 

「酷いわ、霖之助。今日はあのまま一日過ごそうって言ったのに」

「酷いのは君の頭だ、永琳。外であんな真似が出来るわけがない。今のこれが、精一杯の譲歩だ」

「なら、屋内でなら良いのね?」

「いや、待ってくれ。なんで君は茶屋を見ながらそんな事を言うんだ? いや、待ってくれ、引っ張るんじゃない」

 

 人里の一画、商店通りと呼ぶには少々規模の小さな売店通りを、腕を組んで歩く男女が居た。男女は双方共に身長が高く、すらりとしている。

 男はそれなりに整った顔であるが、女は恐ろしいまでに整った顔をしていた。そんな男女が二人、腕を組み、指を絡めて握り合い――所謂恋人つなぎ――道を歩けば、何事かと皆目を見張るだろう。

 が、それがない。

 

 皆道を行き、それぞれの店で商品を眺め、また店主や客同士で他愛も無い会話をしている。

 日常である。その場所の、日常である。であるから、男女のそれは日常の物であった。

 見慣れているからだ。

 

 むしろこの二人が離れて歩いて居た方が、皆目をむいて見入っただろう。そしてそんな男女二人が――

 

「輝夜が寂しがっているから、永遠亭に顔を出すと言ったのは君だろう? あのお姫様の性分だ。

早くに行った方が良い、なんて事は、今更僕が言うまでも無い事だと思うんだけどね」

「私より輝夜を優先するの?」

 

 森近霖之助と、その妻永琳なのである。

 

 声音にこそ険があれ、霖之助と腕を組み隣を歩く永琳の顔は、常の通りである。

 が、彼女を良く知る者が一見すれば、その顔に浮かぶ常ならぬ物が見えただろう。そして当然、霖之助にはそれが見えていた。

 嫌と言うほどに。

 

「僕を虐めて、楽しいものかい?」

「えぇ、それは、もう」

 

 間を置かぬ永琳の返事に、霖之助は何も言えず、ただ溜息で応えた。

 

「幸せ、逃げてしまうわよ?」

「元凶に言われてもね……」

「えぇ、えぇ。そうなんでしょうとも。あなたが私を不幸の元凶としてしまうのなら、そうなんでしょうとも」

「そこで目を伏せられてもね……」

「あなたの為を想って、私なりに頑張っているのに……届かないなんて……」

「そこで肩を小さく震わされてもね……」

「こんなに想っているのに……」

「永琳」

「霖之助」

 

 二人は立ち止まり、見つめあう。そしてきっかり三十秒後、霖之助は口を開いた。

 

「僕で遊んで、楽しいものかい?」

「貴方と遊ぶのは、とても楽しいわよ?」

「君の場合、と、ではなく、で、だろう? あぁもう、なんだろうね。目的地に着く前から、僕は疲れてしまったよ。どういう事だい、これは」

「運動不足ね」

「医者が、平然と嘘をつく」

「医者の嘘は、薬みたいなものよ? まぁ……元医者、なのだけれど」

 

 穏やかに微笑む永琳の顔に当てられ、霖之助も微笑み返す。返してしまう。

 

 永琳のその外へと向かう温度が変わったように、霖之助の温度もまた変わった。二人を繋ぐ絡み合った手の平は冷たくとも、組まれた腕は温かく、憎らしいほどに心は穏やかで。まるで春の日に草原を撫でる風の様な、今の二人。

 

 ――それはどうしようもない事だ。

 

 再び歩を進め、しっかりと永琳の手を握ったまま、森近霖之助は自分に言い聞かせるようにそう胸中で呟いた。

 

 かつての自身が見たら、まず受け入れないだろう現状の姿。そういった在り方まで否定はしないだろうが、それが霖之助自身の事となればまず肯定しなかっただろう。

 

 それでも。

 そんな自分が、永琳が。優しく微笑む彼女と、その隣に居る自身が嫌いではないのだから、どうしようもないのだ。

 

「君は、麻薬みたいだ」

「それもまた、薬よ」

 

 馬鹿みたいに穏やかだから、二人は稚児の様に無邪気に笑いあった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 永遠亭に住まう輝夜には、現状不満がある。

 退屈なのだ。永遠に在ると言うことは、退屈と向き合う事を余儀なくされる事ではあるから、

それを上手く誤魔化す術もやり過ごす術も知ってはいるのだが、根本に退屈があるまま解決を見ず一時的な回避を行っているだけでは、どうしても限界が在る。せめてそれを"どうにか"するのが近習の仕事なのだろうが……

 

「今のイナバにそれは無理だし」

「よし来たお姫様、どんと来い」

 

 永琳去りし今、一番彼女に近しい存在は、すぐ側で薄い胸をどんと叩く少女――てゐなのである。さて、言うまでも無いだろうが……

 

「お前だと、疲れるのよねぇ」

「わたし、こんなにお姫様の事考えて愛して想ってるのにッ」

「疲れるのよねぇ……」

 

 てゐという存在は、ただ従うだけの存在ではない。

 薬で言えば鎮静剤としてあるべき近習にあって、彼女は対となる興奮剤の様な存在である。四六時中を共にする近習としては、これほど不似合いな存在もそうはないだろう。為に、輝夜は肩を落とし、息を吐くのだ。

 

「そんな重い上に長い溜息と一緒に言われても」

「言わせてるのはお前でしょう」

 

 肩に掛かる濡れた烏の羽根の様な、長く美しい黒髪を手の甲で払い、輝夜は半眼で中空をねめつけながら呟く。

 

「永琳があの首塚だか宝塚だかの家にとついでから、イナバは仕事一筋になって詰まらないわ、

お前は変わらず面倒だわで、私はもう息が詰まって死んでしまいそうよ」

「その程度で死ねるなら、お姫様の場合はそれはそれで幸せなんじゃ?」

「嫌よ、そんな死に方。不幸も不幸、この世で一番美しい私の死に方じゃないわ、そんな物」

「ほほう……じゃあ、どんな"死に方"がお姫様には相応しいと?」

「……」

 

 輝夜は自身の顎に白魚のような人差し指をあて、俯いた。そっと目を閉じて、思考の海へと身を投じ、一分程も考え込み、顔を上げて口を開いた。

 

「死ねたら、それは、たったそれだけで相応しいのかもしれないわね」

「お姫様、それは相応しいじゃなくて、願望とか、幸せ探しだと思う」

 

 いつも通りの顔のままで、さらりと返すてゐのその言葉に、輝夜は

 

「岡目八目、ね」

 

 笑顔でそう零し、続けた。

 

「まぁ、その辺りは幸せ探しに成功した永琳に聴くとしましょう」

「夜は皆で猥談と言う事ですね」

「猥談言うな」

 

 霖之助と永琳が来る、一時間ほども前の話。

 

 

 

   ●

 

 

 

 通された一室の用意された座布団に座り、永琳と霖之助は室内を見回す。掃除の行き届いた和室で、飾られた掛け軸や壷は、侘び寂びを感じさせる見事なものだった。

 

 が、永琳は息を吐く。そこに見慣れた顔が無い事に、またか、と思ったからだ。

 顔にこそ出さないが、それは霖之助も同様である。

 少しばかり残念そうな、納得がいきかねると言った顔の二人を無視して、輝夜は口を開く。

 

「と言うわけで、艶のある話の一つでもして貰えるかしらそこの馬鹿……馬鹿……なんだったかしら?」

「バカップルです、お姫様」

「そう、ばかっぷる」

「誰が馬鹿だ」

 

 永遠亭について早々、身内用の居間――と言うか、身内以外ほぼこない永遠亭なのだが――で、霖之助は目の前に座る二人の少女に一応の反論をした。一応、なのである。

 

「あら、てゐ。この一里塚とか言うの、この様であんな事を言ってるわよ」

「香霖堂の店主さんは見え張りだから致し方なしなのですよ」

「五月蝿い。あと森近だ。森近。誰が街道に置かれた標か」

 

 返って来た言葉に応酬するも、その音には常の硬さや鋭さは無い。霖之助自身、輝夜曰くの"この様"なのだから、仕方ないのだ。

 そして"この様"の原因である女性は

 

「あら、そうねぇ……どの話が良いかしら?」

 

 艶然と微笑み、霖之助に肩に頭を乗せて寄りかかりながら確り腕を組みつつ余裕綽々泰然自若と答えなさったのである。

 

「イナバ、お前のお師匠様、末期よ」

「うん、お姫様の元教育係、末期ですね」

 

 二人とも在りし日の永琳を綺麗なまま残したいので、お互いに放り投げる事にした。そんな二人へと、永琳は無邪気に次の言葉を掛けた。

 

「冗談よ。霖之助との大事な日々だもの。誰にも言わないわ」

「そっちが冗談なんだ」

 

 てゐは一応突っ込みを入れたが、輝夜に至ってはもう額に手を当てて肩を落とすより他すべき事がなかった。毎度、である。

 永遠亭に夫婦二人で来れば、こうなると輝夜は理解しているのだが、だからと言ってそれが全て受け入れられると言う訳でもない。

 

 輝夜は少しばかり目を鋭くして、永琳を流し見た。その視線に気付いても、永琳はその表情――無邪気とも、艶然ともとれる不可思議な笑み――を崩さない。

 

 輝夜自身は、永琳の昔日、夫の隣に立つ彼女の姿を見ている。幸福感に彩られた顔が、徐々に翳って行く様を、輝夜は無力なまま見ていたのだ。

 愛だ、恋だ。そんな物、輝夜には分からない。

 だから彼女は、窮屈そうな服と退屈そうな家と偏屈そうな掟に縛られる彼女を、ただ見ている事しかできなかった。

 永琳が自身の意志でそこに居る以上、良しも悪しも、いつかそれは時間が解決するからだ。

 人間ならば20年ほど。妖怪ならば200年ほど。

 その程度しか永琳を迎えた家庭とやらはもたないし、その程度なら永遠を生きる存在にとってそう長い時間でもない。時が解決する以上、永琳が自らの意志でそこに留まる以上、輝夜は動く必要などどこにもなかった。ただ、やり場のない怒りのような物が日々胸の底に沈殿していくのは、流石の彼女も堪えた。

 

 だからそう、今はまだ良い。

 

 ――そんな顔がずっと続くなら、良い。

 

 輝夜は胸中で呟き、冷たい視線を伏せて肩を落とす。再び目を開いた時には、瞳にはもう先程の冷厳とした色はどこにも無かった。

 

 そして、それが失せたと同時に、彼女が持つ強すぎる悪戯心がチロチロと舌を出しながら鎌首をもたげる。久方ぶりの永琳と霖之助の来訪であり、どこか灯が消えてしまったような永遠亭の現状。為に、基本的に退屈を嫌う彼女にとって、それを御するのは無理な話だった。

 

「ねぇ、永琳」

「なんですか、姫」

 

 輝夜の極上の笑顔と、永琳の無垢な笑みが交差する。

 

「私、久しぶりに貴方の淹れたお茶が飲みたいのだけれど……良いかしら?」

 

 希望である。

 が、それがどうしてか命令に聞こえてしまうのだから、輝夜という存在は骨の髄までお姫様だった。永琳は少しだけ考える素振りを見せて、

 

「えぇ、分かりました。お茶の場所は、変わっていませんか?」

 

 良しとした。我侭に付き合ってあげる事も、友情の形である。偶になら問題はない。

 

 彼女は霖之助の腕から自身の腕を解き、肩に乗せていた頭を放す。

 たったそれだけで寂しさが胸に到来するのだから、おかしな物だと少し笑い、ゆっくりと部屋を後にした。そして、それが大きな間違いだった。

 付き合いが長いが故に、油断する。長年の友誼があるからこそ、見誤る。

 永遠を生き、完璧に近い永琳という一己の存在もまた、間違いを犯す生き物だったのだ。

 

 永琳が部屋から去って僅かに三十秒、輝夜はすっと立ち上がり、霖之助の隣、つい先程まで永琳が座っていた場所まで歩を進め、そこで立ち止まりスカートを一つ、優雅に払った。

 そして、座る。

 

「……?」

 

 訳の分からない事態に、霖之助は首を傾げる。

 

「じゃあ、勉強会でも始めましょうか?」

 

 輝夜の言葉が居間に響いた。

 

 そして。次いで輝夜によって為された事に、霖之助は石化した。

 

「確か、こうして……こうよね? どう、イナバ?」

「お姫様、あと肩に」

「あぁ、そうだったわね。ほら、少し肩を下げなさいよお前」

 

 そんな彼を無視して、少女二人は勝手に話を進めていく。現状の異常を無情に放り投げて。

 

「いや、君……いったい、何を?」

「勉強会よ。私が貴方程度で我慢するのだから、有り難く思いなさい」

「いや、てゐ、これはなんだい?」

「勉強会」

 

 勉強会。であるらしい。

 が、霖之助の頭の中にある勉強会とは、教科書を開いてお互いがお互いに分からない部分を聞きあう様な物で、決してこんな物ではない。そう、決して"こんな"物ではない筈なのだ。

 

 脳に突然と湧いて出てきた悩みの重さに耐えられず、霖之助は頭を項垂れた。

 同時に肩も落ちたものだから、輝夜ご希望の体勢になってしまう。故に、輝夜はそれを見逃す筈も無く。当然、運命の神とやらがそれらを見逃す筈も無く。

 

「姫、戻りまし――」

 

 居間へと戻ってきた永琳の眼は、その勉強会を確りと見てしまった訳である。

 

「お早いお帰りで」

 

 にまにまと笑うてゐと。

 

「あら、お帰りなさい」

 

 平然と霖之助の隣に座り、霖之助の腕に自身の腕を絡め、霖之助の手を指を絡ませて握っている輝夜の姿と。

 

「永琳、これは勉強会だそうだ」

 

 疲れた顔で何か戯言を口にしている霖之助を。

 

 永琳が手に持っていたお盆を投げ捨てナースキャップから愛用の弓矢を取り出したのは、霖之助の言葉が発せられてからきっかり十秒後の事だった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 下は黒。上も黒。

 ただそこに違う色が在るとすれば、空にぽっかりと空いた穴から降り注ぐ、淡い光だけが違う彩だった。

 

「……あれ?」

 

 優曇華はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。箪笥、布団、机、襖、そして――何もいけられていない花瓶。

 人口の灯りなど一つも無い暗い部屋ではあるが、ここは彼女が住まう場所であることは間違いない。

 

「……」

 

 無言のまま、頭を横に振ってから彼女は長い息を吐いた。

 

 ――こんなのばっかり……

 

 一人、机の前に座り読みもしない本を置いてこの暗闇の中で虚ろに漂っていた時、誰かが部屋に入ってきて呼んだ様な気もしたが、その辺りは定かではない。

 机に突っ伏して寝ていたような気もするし、寝ていなかった様な気もする。その辺りもあやふやだ。

 

 彼女は思う。あの頃から、こんな時間ばかりが過ぎている。

 診療所で患者を相手にし、永遠亭で輝夜とてゐ、それから弟子に当たる少女と会話し、自分の部屋に戻ると、もう時間が溶けて失せている。無味乾燥とした、なんの価値も意味も持たないただ流れてしまうだけの時間の中で、彼女は白痴の如き様で呆けて過ごすだけ。

 

 これがまだ数年、そう、永琳が出て行ったあの頃ならば、彼女はこの部屋で一心不乱に医学書を読み解いていた。けれど今はもう、彼女にあの日に、あの時に在った言葉に出来ない後ろ向きの情熱は無い。そうしていれば、全てを忘れる事が出来るのだという事実は、今は読み込まれた幾多の医学書と共に奥へと仕舞い込まれた、日を見ない本棚の中にある置物でしかないのだ。

 本を読むたび、知識を溜め込むが為に書を紐解く青年の姿が脳裏を過ぎったが、それさえ泣きながら無視して、ぼやける視界で滲んだ文字を読み漁った日々は、彼女にとっては過去の事である。

 胸に宿る埋火以外、もう何も無い。大事な物を一瞬で二つも失った心は瀕死の体で、軋み上げる悲鳴は最早耳を凝らしても聞こえるものではないのだから。

 当人以外には。

 

 だから、彼女は思う。だから、彼女は呟く。

 

「つまらない生き物……」

 

 そこに在るだけ、そこに居るだけ、底で在るだけ、底で居るだけ。自身はもう価値も無い路傍の石か何かなのだと、彼女は思った。ただ寝るだけの、そんな場所になってしまった自身の部屋で、灯りも付けず彼女は零した。

 

 呟いたまま、もう何も零すつもりも無い彼女は、このまま静寂が朝まで続くのだと思っていた。 が、それは裏切られる。

 

 ――……?

 

 きしきしと音を立てる二つの足音。そして、足音は優曇華の部屋の側で止み、彼女の耳を聞きなれた二つの声が打つ。

 

「あら、今晩は」

「あ、こんばんわです、大先生」

 

 かつての師匠。弟子のような少女。

 そんな二人の、声。親しげな永琳の声で、嬉しげな少女の声で、僅か十年前の自身と永琳の、何気ない一幕。

 

 ――聞きたくないッ!

 

 どうして聞きたくないのか。そんな事を考えるほどの余裕も優曇華には無く、彼女は咄嗟に手の平で両の耳を強く強く押さえて塞ぐ。

 そこでやっておいて、頭蓋に痛みが来るほどに強く押さえておいてそれでも尚、二人の声は耳へと入り込んで来る。嫌嫌と横に頭を振っても、声は無情に優曇華の耳を蹂躙する。静寂を望めば望むほどに、鼓膜は確かに音を聞き入れた。

 

「あら……その本」

「あ、はい。先生から貰った本なんです」

「そう……偉いわね、こんな時間まで勉強?」

「早く先生みたいになりたいですから」

 

 ――駄目ッ!

 

 自分のようになってはいけない。もう何も無い自分のようになって絶対にいけない。

 そう叫ぼうと思っても、優曇華の喉は砂漠を彷徨う愚者の様にからからに渇き、うめき声一つ零せはしない。そして、聞こえてくる声と同じく、優曇華には今の二人の姿が鮮明に思い浮かべる事ができた。それが、更に彼女を苦しめる。

 

 灯りの頼りない廊下で。

 二人向かい合って。永琳は優しい笑顔を浮かべて。

 少女ははにかんで。多分。

 いいや、きっと。少女の頭の上には、永琳の手のひらがあって。

 

 優しく、本当に優しく……撫でているのだ、と。

 それは幻視であるが、幻視であるからこそどうにも出来ない。目蓋の裏に強く濃く酷く焼き付いた幻は、現実だと主張する。ならそれは――彼女にとって現実なのだ。

 

 もう戻れない。

 彼女はそんな事、とうの昔に理解していた。それでも、それが確固とした存在となって胸を貫いた事はない。

 無かったのだ。

 

 ――……もう……無いんだ……

 

 それが今、こうして現実に。鋭い刃となって心に突き刺された。

 

 やがて声は遠ざかり、静寂がまた彼女を包む。つい先ほどまで望みに望んだその静寂に、優曇華が耐えられる筈も無く。

 体から零れ出ようとする悲しみを抑える事等出来る筈も無く。何かに憑かれた様に、彼女は部屋から飛び出した。

 

 視界は、いつかの様にぼやけている。心は、いつかの様にくるっている。

 当ても無くただ廊下を走り、行き先など一つも無い彼女は――偶然にも。

 そう、偶然にも。

 

 捨てようとして捨てられなかった彼と再会した。

 

 

 

   ●

 

 

 

 誰も居ない庭で、霖之助は空に浮かぶ月を眺めながら自身の肩を揉んだ。

 そして、一つ溜息。

 

「あぁ、まったく……」

 

 疲労困憊、といった顔で彼は呟き、つい先ほど逃げ出してきた居間の惨状を脳裏から追い出す為に頭を振る。

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図。

 等と一言で言えば、あぁそうか、で済むものだが、現実にそれを体験した者にとってそれは実に重い物である。特に普段の静けさを知っている彼にしてみれば、妻の狂乱の姿はどの様な角度で見ても心地良い物ではない。

 

「まったく……とんだ実家帰りもあったものだよ」

 

 再び溜息。

 次いで、庭にある小さな岩に腰を下ろす。夜の風に吹かれた岩はひやりと冷たく、霖之助の体をぶるりと一つ震わせた。

 が、それでも彼は岩から腰を上げようとはしない。今はその冷たさが、彼には必要だったからだ。

 

「あぁもう……まったく」

 

 三度溜息。三度まったく、と彼は続ける。

 

 永琳が席をはずした際に行われた輝夜の悪ふざけは、その後この世に大量の血の雨を降らした。 ナースキャップから取り出された弓が放つ矢は正確無比で、坂東武者の手本ともなりそうな物だった。

 それが、輝夜を打ち抜いていく。ついでにてゐにもかすって行く。

 霖之助はあたる事も、かする事もなかったが、それでも永琳の冷たい目で一瞥された時などは、流石にこれは死んだと思えたものだ。特に永琳が息も絶え絶えな二人に掛けた言葉など、今思い出しても寒気がする。

 

 しかしそれ以上に、頬が緩むのを彼は抑えられない。

 そして、溜息、まったく――

 

「あぁ、まったく……なんでだろうなぁ」

 

 四度目。

 苦笑を浮かべ、風が凪ぐ夜空を見上げ、胸中で呟く。

 

 ――これが楽しいなんて、どうかしている。

 

 風の吹く音、笹の揺れる音、それから、遠くで聞こえる小さな悲鳴が二つ彼の耳へと飛び込んでくる。

 その声の哀れさに肩を竦め同情するが……これも自業自得である。

 しかし、一応霖之助にも分かっている。明日か、それともあの悲鳴が途絶えた後か、今度は霖之助があの哀れな声を出す羽目になるだろうということ程度は。

 先程まであった苦笑を消し、霖之助は、さてどうすれば被害が皆無に、或いは軽微になるものかと没頭した。為に――外の世界全ての音を遮断して自身の深遠へと埋没し、木石の如く自然と一体したが為に……彼は再び出会った。

 

 十年近い時を経て、もう一つの赤い糸と。

 

 

 

   ●

 

 

 

 大きな雲が月を隠し、頼りない明かりが遮られる。

 沈黙、そして少しばかりの風。二人は寒い暗い夜の下、きょとんと向かい合う。

 

 十年。人から見れば長く、それ以外から見れば短いとも言える時間。

 だが、交友の在った者同士が離れるには、人だろうとそれ以外だろうと、十分に長い時間だ。

 特にこの二人には、因縁染みた物がある。霖之助から見れば、今目の前に居る少女――優曇華から最愛の師匠を奪ったようなもので、優曇華から見れば、その想いを殺さなければならなかった初恋の相手だ。優曇華に至っては、会う事を拒み、遠ざけもした。

 双方、決して容易に向かい合える関係ではない。

 

「やぁ、久しぶりだね……こうして近くで顔を見るのは」

「え、えぇ……そう、ね」

 

 だと言うのに、お互い顔をきょとんと見合わせてから、最初に交わした事はそんな事だった。

 霖之助は戸惑いを遠くへと払い、気負いも無く言葉を続ける。未だに目を点にして突っ立っている優曇華へと、かつてのままに。

 

「なんだろうね……人伝に聞いていたほど、君が成長したようには、僕には見えないな」

「……いきなり喧嘩売ってくるとか、あんたも変わりないようね」

 

 双方、特に霖之助の相に浮かぶのは常の物で、突如前置きもなく出会ったという驚きこそあれそれ以外は無い。優曇華はやはり少々の堅さと、今も胸に残る悲しさや先程の涙の跡も在るが、それは夜の闇に紛れて瞭とする物ではなかった。

 ただ、彼女にとって意外な事と言えば、考えるより先に口が勝手に動く事だ。

 どうにも、御せ無い。

 

「しかし、なんだね……鈴仙。君の師匠像は、極めて正確だったと思い知らされたよ」

「何よ……いきなり」

 

 霖之助が口にした事の意味が分からず、優曇華は首を傾げて目で続きを促す。

 

「あぁ、ほら、いつか君が言っただろう? みね打ちだ、と」

「……?」

「覚えていないかい?」

 

 霖之助の、昔と変わらない皮肉気な表情で見返されて、優曇華は傾げていた首の角度を深め昔日の事を思い出し――あぁ、と手を叩き言葉を零した。

 

『あと、弓で射られて横たわる私に、「みね打ちよ」って言ってる!!』

 

 何事かで永琳を評した際に、優曇華自身が脳裏に描いた永琳像の行動である。

 が、それが今霖之助の口にしている内容に何か関係あるのか、まだ優曇華にはさっぱり分からない。為、目を細め、霖之助を睨みつけてさっさと答えを言えと彼女は催促する。

 果たして、その視線の冷たさに良くない物でも感じたのか、霖之助は特に言葉も弄さず要求された物を出した。

 答え――

 

「お姫様に矢を十本ほど刺して、永琳が全く同じ事を言った」

「なにそれこわい」

 

 優曇華、再度涙目である。

 ただ、今の涙目は恐怖からのもので、そこに悲しさは欠片も無い。

 

「ただ違う点が在るとすれば、凄く良い笑顔だった事くらいだろうか」

「なにそれほんとこわい」

 

 優曇華、肩を抱いて超微振動。悲しさは欠片も無かった筈だが、そこに一つまみ分の悲しさが感じられるのは、優曇華が大人に近づいた証拠なのかどうか……。

 

 二人は同時に首を横に振り、溜息を吐く。そして互いの顔を見て、小さく笑った。

 

「あぁ……安心したよ」

 

 そのまま、霖之助が言葉を零す。

 

「安心?」

 

 出会ってから、こればかりだと思いながらも、優曇華はまた首を傾げる。

 

 医療に関わる者として大成しつつあると聞いていた優曇華の、何度も見せる幼いそんな仕草に、霖之助は伝聞なんていい加減な物だと思った。思いながら、口は胸中にある物とは違うモノを外へと出していく。

 

「君は……まぁ、怒っていると思っていたんだ」

 

 最後。

 今を別とすれば、二人が顔を意識してはっきり見た最後の場所を脳裏に浮かべながら、霖之助は優曇華を静かに見る。向けられた静かな視線に、優曇華は、うッ、と呻いて俯いた。

 

 優曇華と霖之助が約十年前、最後に会ったのは祝言の席だった。

 角隠しを被り、白無垢に包まれた永琳の隣に座る紋付羽織袴姿の霖之助を、優曇華はずっと暗い目で見つめていたのだ。祝いの席にあって良い作法では決して無いが、霖之助や優曇華と親しい存在達はある程度の理解を示していた。

 

 ――師匠を取られたのが、やはり口惜しいのだろう。

 

 と。

 

 確かに、取られたと言う意味では間違いではない。

 だが他者が思うほどそれは簡単な事ではなかった。初恋が終わった、尊敬する師匠が人の妻になった、そんな、たったそれだけの言葉で尽きるような思いではない。

 その時の彼女の――優曇華の心境など、それこそ同じ時間を過ごし、同じ出会いをし、同じ恋をし、同じ過ちを犯したもう一人の優曇華が居たとして、辛うじて理解出来ただろうと言う複雑奇妙な物だ。他者には決して分かる物ではない。

 

 兎角、終始優曇華はそんな顔だった。ともなれば、霖之助としてはそれほどに不愉快だったのかと、怒ったのかと思うより他無い。

 永琳の告白を受けるまで結局好意に気付けなかった男に、初心な少女の中で無理矢理枯らされようとしている幼芽など気付ける筈も無いのだ。多分、どちらも愚かで未熟だった。

 恋と言う、一生を突き動かす行動理念にもなる癖に、どうしようもなくあやふやな物に対して。

 

 それでも、今分かっている事はある。優曇華は顔を上げて、自然、にこりと微笑む。

 

「別に、あんたが悪いわけじゃないし……私の方が悪かったのよ。祝言の席で見せるような顔じゃ……なかったわよね」

 

 式での無作法と、

 

「だから……ごめんなさい」

 

 今の喜び。

 

 もう何もかも変わっていた。少なくとも、つい先程までそう思っていた。

 けれども、どうだろう。変わっていない存在が在った。

 それも、彼女の大切な一つである男が、変わっていなかった。あれほど会う事を怖がって置いて……会ってみれば癒された。

 その隣にいる自身は、あの頃に戻れていた。悪態をついて、軽口を叩いて、自然に笑っている。居場所がある。そこは前の通り彼女が居ついて良い場所ではないだろうが、確かに立ち止まって良い場所なのだ。

 

 ――身勝手にも程がある。

 

 彼女に自身、そう思った。それでも、心はもう納得してしまっている。

 

 風が強く吹き、月から雲が払われる。

 弱々しく、それでもどこか神秘的な蛍火の様な月明かりが優曇華の姿を照らす。泣いて弱ったその顔に浮かぶ笑顔は、月が恥らうほどに愛らしく、それでいて何処か大人びた美しさをきらきらと放っていた。

 

 ――あぁ。

 

 霖之助は声も出さず息を吐く。

 

 ――あぁ、だから女は分からない。

 

 と。

 

 愛らしく、美しい。

 

 それは矛盾だが、そんな物彼の妻の笑顔によく散見される物で、不可思議だと言うのに腑に落ちてしまう。おかしいだなんて思っていられない事は、見聞した事を思考し吟味する事を趣とする霖之助にとっては不本意な事だ。

 それでも、もう上手くかちりと嵌って収まってしまったからには、どうしようもない。

 分からないものは分からない。考えても分からない事は考えても仕方ない。

 

 霖之助は左手の人差し指と中指で眼鏡を押し上げてから、強がりの皮肉を言う。

 

「なんだ、君だって少しは大人になっていたんだな」

「あんたは子供のままよね」

 

 返された優曇華の言葉に霖之助は、むっとして、次はどんな言葉で甚振ってやろうかと考える。そんな彼の姿が、"変わらない"仕草が、優曇華の中を清涼の風となって悲しみも苦しみも凪ぎ払ったなどと、彼は知らない。その風が、悲しみや苦しみや暗さの瓦礫の下に埋もれていた火種に、再び猛る為の命を与えたなど。

 

「それにしたってなんだい、化粧の一つも覚えたものかと思ったけれど、まだ女童みたいな顔だね、君は」

「化粧なんてまだ必要ないのよ。まだまだ水を弾く珠肌だもの。良い、化粧って肌に悪いのよ? あんたそんな事も知らないの?」

「知っているさ。僕が言いたいのは、女性としての嗜みという事であってだ」

「そういうあんたこそ、男としての嗜み位覚えなさいよ。久しぶりにこうしてまともに話すんだから、言うべきこととかあるでしょう」

「……何を言えば良い?」

「……それ、真面目にいってるのよね?」

 

 彼は知らない。分からない。

 

「あぁ、良かった……」

「……ん?」

 

 二人の関係が変わらないと言う事が、今、彼女にどれほどの意味を与えたかなど。

 

「居場所……一つだけで良かったのよね……」

「……鈴仙?」

 

 穏やかな愛に溺れ、愛と言うものが如何に厄介かと考える事も出来なかった霖之助には、分からない。

 

 彼女にとっての盲亀の浮木……或いは。

 優曇華の華。

 

 故に、彼女はそれだけを信じる事にした。たったこれだけの事が、泣き続けた彼女の救いだったから。

 

 

 

   ●

 

 

 

『先生なら、もう寝ていましたよ』

 

 お茶を淹れに行った際、件の少女の部屋の前で永琳は優曇華の弟子である少女に出会い、少しばかりの会話の後、優曇華はどうして居間に居ないのかと聞くとそう返された。

 残念だと思いながら居間に戻ると、にやけ面のてゐと困った顔の霖之助とすまし顔の輝夜の"勉強会"とやらを目にする羽目となり、永琳は久方ぶりに一方的肉体言語及び肉体的説教を行う事となったのである。

 

 彼女の熱意が届いたのか、最後の辺りではてゐも輝夜も土下座して許しを肯定たが乞うていたが、とりあえず泣いても許さないと決め込んでいた永琳は矢を次々と番え放ち続けた。

 途中自分の声にも似たくぐもった低い笑い声が聞こえたような気もしたが、そんな事は無かった。気のせいだと思うから、気のせいだ。

 

 夜の寒い廊下を一人歩きながら、永琳はほう、っと息を吐く。吐き出された息は白く染まり、季節の運ぶ寒い風を永琳に教える。

 彼女は自身の肩を撫で、あぁ、寒いわけだと思った。居間を出たのは数分前。

 弟子一名と元教え子をのしてから、永琳は室内に霖之助が居ない事にやっと気付いた。久しぶりの狩りは彼女から普段の冷静さを多大に奪ったようで、

そう広くは無い室内から最愛の人が消えたと言う事すら感じさせなかったらしい。

 

 ――妻失格ね。

 

 のろけでしかない事を心で呟きながら彼女は冷たい廊下の上を足音も無く歩いていく。

 二ヶ月ぶりの永遠亭ではあるが、彼女には歩き慣れた家屋である。目を瞑っても目的地を違える事無く歩けるような、彼女の元居場所――実家だ。

 

 しかし、どうだろうか。

 

 ――えぇ、どうなんでしょうね。

 

 苦笑を浮かべる。

 そんな家だと言うのに、彼女にはここに対して愛着が前ほどには無い。自身の居場所、居るべき場所、そう言われて思い浮かべるのは、あの森の入り口にある混沌とした香霖堂。

 更に言うなら、そこに座す男の隣だ。その隣にさえ居られるなら、それで良い。

 

 のろけでもなく、冗談でもなく、ただの真実として永琳はそう思う。な、ものだから、同時にこうも思う。

 

 ――病気だ。

 

 それも、深刻な。もう摘出も治癒も見込めない、末期の病気だ、と。

 

 長い生の、本当に馬鹿みたいに長い生の中で幾度恋をして幾度愛に浸っただろう。

 その最後が不本意な終わりばかりでも、彼女は確かに恋をして愛を育んだ。それでも、ここまで極端な、在る意味価値観を上書きされてしまうような恋を彼女は知らない。知る筈も無い。

 

 求愛に応じるばかりで、自身から動いて求愛した事の無い彼女は、誰かから与えられた愛と、

自身から求めた愛の違いがよく分かっていないのだ。為に、彼女はたった十年ほどの時間で霖之助に依存する事となった。

 

 そもそも、おかしな話だ。

 医者、薬師、それらの立場を捨ててまで嫁に行く必要があっただろうか。

 家を出て行く必要は、本当にあっただろうか。どれもこれも、どこか妥協点のあった事だと言うのに、永琳は霖之助の側に居る事を望み、望んだ時の流れの中でより一層霖之助に依存してしまった。

 馬鹿馬鹿しい話である。

 

 ただ、これの救いは。それを幸せのためなら、と誰も責めなかった事と。

「取りあえず……明日は性のつく物を沢山食べて、頑張って貰いましょうか」

 彼女の相に浮かぶ、その明るさだろうか。相は幸により色を変えると言うから、その病気は彼女にとって必要なものという事だ。

 一生の付き合い……になるかは、彼女の頑張り次第であり、霖之助の妥協次第だが、暗くないのはただそれだけで良い。

 

 何を食べさせようかと、用意しようかと考えつつ、さて先程の不義を、どうやって布団の中で返してもらおうかと悶々と考え、あぁ、早く夜が明けて明日になってしまえと思いながら永琳は足を進めて……導かれるようにそこに着いたのである。

 

 夜空の下、佇む二人の後姿。

 月明かりの下、美しく微笑む優曇華。苦笑を浮かべる霖之助。

 後姿からも容易に察せられる二人の姿を目にして……永琳の身は小さく震えた。

 

 彼女の耳に届くのは、ただの雑談。彼女の目に映るのは、ただの談笑。

 

 永琳が長く見なかった、優曇華と霖之助の組み合わせで、それは昔にも在った日常の一コマだ。

 なのに、彼女は震えた。何かに、震えた。

 

 我知らず、永琳は一歩後ずさる。

 その音が耳に入ったのだろうか。霖之助が振り返り、次いで、優曇華が振り返る。

 

 震えた。大きく。

 その優曇華の想像したとおりの笑顔と……大切なものが何か欠けた様な優曇華の瞳の暗さに。

 

 永琳は、恐怖した。

 いつか。そう、いつか必ず。

 あの暗い瞳が自分から大切なものを奪うのだと、なんら確証も無いまま確信し――

 

 恐怖した。

 

 十年は長いだろうか。

 それは分からない。

 しかし優曇華と言う一人の少女に関して言えば――長かった。

 大切なものを二つ、一瞬で失い、孤独の中で唯一つの想いと言う消えかけの火種だけが温もりだった少女には、長かった。

 

 だから。

 

 女であっても、母になれない女は。女であって、母になれる少女に。

 恐怖した。

 

 月が雲に再び隠れ、やがて時が経てば月は消え朝日が昇るだろう。

 そんな当たり前の事が、永琳には……酷い事だと思えた。

 

 

 

 

 

   ――了

 

 

 

 

 

 赤い糸が繰られ、絡まりあい。

 魔女は笑いながら糸の全てを断ち切る。

 それが彼女の――幸せだから。

 そんな事が、幸せだから。




ちんちんかゆい


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旧サイト拍手類
続くから、続く


ここからは拍手やスレではなくサイトで公開した作品などを出す予定です


 ――森近さん! 森近さん!

 

 ――……頂けないね、君ももう霧雨の親父さんから独立して、一店主だろう? 屋号で呼ぶ位は……

 

 ――今は、そんな場合じゃないんですよ、森近さん!

 

 ――……なにか、あったのかい?

 

 ――じ、実は――……

 

 少しばかり、前の話。

 少しばかり。

 少し、ばかり。

 

 

 

    ■ ■ ■

 

 

 

「ごめんください」

 

 カウベルの音と共に、鈴のように鳴る少女の声が香霖堂に小さく響いた。だが、それに応える者は無い。

 煩雑に、乱暴に並べられた道具達は勿論の事、店主すらその声には応じなかった。店内に入ってきた少女、メイド服の美しい彼女――十六夜咲夜の声に応じたのは、ただちくたくと鳴る古時計だけだった。

 

 

 

『続くから、続く』

 

 

 

 いつも通り店内に置かれた椅子に座り、暗い面差しで鋭く中空を見つめる霖之助のその視界に、

 

「ごめんください」

 

「……やぁ」

 

 視界一杯に、その少女の整った顔が突如現れた。

 内心では酷く驚いた霖之助だったが、それを悟られるのを厭い、彼は平静を装って軽く手を上げて彼女に応える。

 

「まぁ、めいいっぱい驚いて頂けたようなので、挨拶無しの件は不問としましょう。感謝するように」

 

「僕が驚いた? 君の目はなんて節穴なんだろうね。メイド長、聞いて呆れるよ」

 

 咲夜は満足気に頷いて、数歩ほど下がる。

 そんな姿が気に入らないのか、霖之助は自身の顎辺りを撫でながらせせら笑った。無論、ただの強がりである。

 霖之助のそんな姿が面白いのか、咲夜はにこりと笑うだけで何も言わない。この場合、何も言わない事が一番効くと理解しているからだ。

 

「……で、今日は何用で?」

 

 意味も無く、本当に意味も無く。霖之助は襟を軽く合せ直し、咳を一つ払って向かい合う少女を若干睨み付けながらそう問うた。

 先程と言い、今と言い、接客業に就く者としては致命的な所作ではあるが、彼の場合は皆、誰しもが諦めている。そんな男なのだ、と。

 今霖之助の前に佇む少女も、それを理解している一人である。今更そんなことで目くじらを立てる筈もない。

 むしろ、涼やかな笑顔で佇む彼女には、霖之助のそんな様を楽しんでいる様な、大人びた余裕さえ見えた。

 

「貴方はお嬢様と同じ様な行動を取る時があるので、なんとも、見ていて飽きが来ません。もっと弄って良いかしら?」

 

「僕は、ここに来た用件は何かと、聞いたんだがね」

 

 咲夜の発した不穏当な言葉をかき消す様に、霖之助は語気を荒めた。

 切実に方向修正を求める霖之助の、その顔に咲夜は一つ浅く頷いた。

 どうやら一応、満足したらしい。そして彼女は、先程とは打って変わった真面目な顔で霖之助の双眸を見つめ、言葉を紡いだ。

 

「暇なんです」

 

「出て行ってくれ」

 

 にべも無い。

 

「暇なんです」

 

「だから、出て行ってくれ」

 

 相手にしない。

 

「暇なんです」

 

「あぁ、そうかい」

 

 適当に相槌を打つ。

 

「暇なんです」

 

「……」

 

 無視する。

 

「そういえば、先ほどは何故、あんな目で何も無い場所を睨んでいたのかしら?」

 

 目の前に居た筈の少女の姿は消え、霖之助は一瞬何が起こったのか分からなかった。

 しかも、声が近い。先程聞こえた声は、近かった。

 まるでそう。霖之助の隣から発せられたほどに近かった。

 

「……」

 

 無言のまま、彼はゆっくりと自身の右隣へと視線を移していく。

 テーブル、台帳、読みかけの本、仕入れてきた外の道具、それらが順番に視界におさまって行き……

 

「あら、このお茶薄い……」

 

 すぐ隣に、少女は座っていた。椅子と、お茶と、受け菓子まで用意して。

 霖之助は顔を右の手のひらで覆い、深いため息と共に言葉を吐き出した。

 

「ここは、君達の暇つぶしの場所ではないよ……ここは、僕の店なんだ」

 

「魔理沙と霊夢だけの特権だ、と」

 

「人の言葉は良く聞くべきだよ、メイド長殿。僕は"達"と言った」

 

「あぁ、なら私もここに居て良いと。ありがとう」

 

 霖之助は何も応えず、自身が用意し置いてあった湯飲みを掴み、それを一気に飲み干した。

 それを乱暴にテーブルの上に戻し、彼は体ごと咲夜に向き直って口を開いた。開いたのだが、開きこそしたのだが。

 

「そういえば、先ほどは何故、あんな目で何も無い場所を睨んでいたのかしら?」

 

 見惚れる様な、おぞましい様な、美しいから気持ち悪い、そんな蛇の目にも似た少女の瞳に、言葉を全て奪われた。

 小さく首を横に振って、霖之助は肩を落とした。

 

「君達は、あぁ君"達"は、いつもそうだ。結局、最後は僕をひん剥く」

 

「まぁ、夜這いされたの?」

 

「一回小突いてもいいかな、その君の額」

 

「私も傷物にされるんですね」

 

「あぁ、責任をとって消毒してあげるから、帰ってくれ」

 

「まるで行き場の無い子供みたいな目でしたよ、先程の貴方」

 

 そんな咲夜の言葉に、霖之助は小さく震えた。

 霖之助は無言のまま数秒、咲夜の瞳をまじろぎもせず睨めた。

 彼の普段にはない暴力的な視線を、彼女は同じくまじろぎもせず見つめ返す。静かに、波もない水面のような瞳で。

 

 古ぼけた時計の秒針が一周した頃だろうか。

 霖之助はくるりと身を返し、再び香霖堂の扉を正面に置き、急須を手に取った。

 湯飲みにそれを注ぎ、目を閉じ、湯のみを手にとって、ゆっくりと嚥下する。一連の動作が終わった後、霖之助が目を開けると、咲夜は来た時と同じ場所に佇んでいた。

 つまりは、正面に。

 

「そういえば、先ほどは何故、あんな目で何も無い場所を睨んでいたのかしら?」

 

 正面に、隣に、また正面にと目まぐるしく移動しても、言葉にする内容に変化は無い。

 

「……言うまで、続くのかい?」

 

「はい」

 

 当たり前だ、と言わんばかりの笑顔に、霖之助はおっかないと心から思った。

 

「単純な事だよ、とても、どうでも良い事だ」

 

「暇なので、それで良いです」

 

「酷い理由だよ……君はそれを駄賃に、僕の口を動かそうとしている」

 

「大丈夫でしょう。放っておいても口を動かす存在です」

 

 確かに、そこに人が居て、この男が無言のままで居られる筈もない。

 

「昔、人里の道具屋で共に修行時代を送った兄弟子がね、亡くなったんだ」

 

「……お悔やみ申し上げます」

 

 頭を下げる咲夜に、霖之助は何も応えなかった。

 

「人間は、いつもそうだ。置いていかれる。道具の鑑定も、選定も、彼の方が上だった」

 

「……妖怪と人間の寿命が違うのは、どうしようもない事でしょう」

 

 彼女は仕える主人を思い出しながら、言葉を呟いた。

 

「あぁ、仕方の無い事さ。だから、いつも取り残されるのも仕方無い事さ」

 

 口ではそういいながらも、その顔には納得などどこにも浮かんでいない。

 

「あの人は、道具のことなんて余り知らなかった僕に、色々教えてくれたよ。世話も、良くしてくれた。今僕が道具屋家業にあれるのは、間違いなくあの人と親父さんのお陰だ。ここに店を構える時だって世話をしてくれた。自分の店の客に、僕の店を宣伝してくれていた。兄弟弟子なんて言ったって、独立すれば商売敵だ。それをあの人は、そんな事までしてくれてね。子供が生まれたとき、お前も子供の顔を見に来いと言ってくれたよ。その子供に、僕みたいになるなと言ったと思ったら、こいつみたいになれ、なんて言っていた」

 

 一つ言葉が転がり出れば、彼はそれを止めようともせずそのまま舌に任せた。

 

「まだ40と少しだ。早すぎるんだ、早すぎるんだよ、人間は。いつも、皆、早すぎるんだ……」

 

 咲夜は何も言わず、霖之助の言葉を聴き続けた。

 

「いっそ……あぁいっそ、庭の桜に大事な人間達を全て、並べて埋めてしまおうか。大きな、硬い塀を作って桜と僕をここの全てから隠すんだ。扉なんて作らないさ。鍵がもしあったら、僕が飲み込んで隠すよ。僕を殺して、刃物で胃を開いて取り出さないと扉は開かないんだ。けど、僕は殺せないんだ。だって四方全て壁だから、誰も入れないよ。鍵だって、本当はどこにも無いんだ。壁だからね、高い、壁だよ。全部覆うんだ、ここの全てを。そうすれば、僕は残される事もないだろうな」

 

 嘲笑を浮かべ、世を捨てた老人のような面を貼り付け霖之助は言い捨てる。霖之助の中で朝霧のように不確かにあったそれが、確固たる形を伴って外へ出ようとする。

 それを、彼は抑えられない。それがまた、彼の心を苛立たせた。

 

「それで皆が笑って別れられるなら、今すぐ親しい人間達を殺しまわれば良いでしょう? その後、汗だくになりながら桜の下に穴を掘ればいいでしょう? 泣きながらでも、何か言いながらでも、死体に話しかけて埋めて行けばいいでしょう? 寂しいのなら、それは多分仕方ない事でしょうから」

 

 目の前で、彼女は霖之助の気が違った言葉に否定も顔を背ける事もせず、ただ答えた。

 幻想郷は、全てを受け入れる。寂しさも、そこから生まれる歪んだ悲しさも。

 受け入れて、やがて霖之助を殺すだろう。

 隙間から零れ落ちた刃が、霖之助の首を切り落とすのだ。全てを受け入れて尚、異物を排除し、幻想郷は冷たく続くのだ。

 怜悧に。

 

 霖之助は力なく微笑み、弱々しく首を横に振る。

 

「桜が、人が、そんな理由で綺麗に在れるものか……あれはね、桜はね、君。人間の君」

 

 どこか疲れたその視線の先に、庭で春を待つ桜の木を置いて、霖之助は舌をふるう。

 

「ただの桜だから、美しいんだ。霊夢や、魔理沙みたく、ただ霊夢で、ただ魔理沙だから――」

 

「美しい、と。その言でいくと、私も美しい、と。なるほど」

 

 ふむふむと頷いて、咲夜は呟いた。

 

「……発情期?」

 

 呟きの割には、どうも語調が強かったが、霖之助は無視した。後の言葉も当然無視した。

 

「失言だ。忘れてくれ。消してくれ。忘却してくれ」

「では、交換条件」

 

 楽しげに、彼女は言う。

 

「あぁ、なんだい。言っておくが、無茶を言われても困るよ?」

 

「無茶では在りませんよ、まぁ、その無茶に関わる話ですが」

 

「?」

 

 怪訝そうな顔をする霖之助に、咲夜はこう言った。

 

「茶葉、交換しましょう」

 

 急須を指さして。

 

「あぁ、なるほど……無茶に関わる話だね」

 

「待ってますんで、急いで交換して下さい」

 

「メイドの仕事と言うのを、一つ見てみたい訳だが」

 

「あら、給金が出まして?」

 

「……行って来る」

 

「はい、お早めにお願いします」

 

 霖之助は急須を片手に、台所へと向かっていった。

 兄弟子が死んだという事は、頭から消えていない。胸にあいた穴も塞がっては居ない。

 けれども、寂しさを埋める為にじっと考え続けた仄暗い何かは、もう消えていた。

 

「あぁ、覆らない」

 

 ぽつりと呟く。

 他に誰もいない、台所で。

 

「あぁ、僕は置いていかれる」

 

 脳裏によぎるのは、香霖堂に屯する少女達、遠き日の兄弟子、弟弟子、そして道具屋の師匠。友人、知人、その子供や孫達。

 

「寂しいからなんて、僻む理由にはならないな」

 

 だから暗い思いに囚われる。

 しかし、それは理由にしてはいけない。自身の暗い何かの為に理由にしたら、その思いの根底にある人間達まで、汚れた物になってしまう。

 

「美しくあって、悪いわけじゃあ、ないんだものな」

 

 美しすぎて困ることは、ありそうだ。

 そんな事を考えながら、霖之助は茶葉を交換した。

 

 戻ってきた霖之助に咲夜は、

 

「遅い」

 

 そう言って迎えた。

 受け菓子を食べながら、霖之助がテーブルの上に置いていた読みかけの本を読みながら。

 

「……君は、なんというか凄いな」

 

「えぇ、私、瀟洒なメイドですから」

 

 誇らしげに返事をする咲夜に、霖之助は笑う。

 

「そこまで他人の居場所で寛げるのは、霊夢と魔理沙だけだと思っていたよ。人間は凄いな」

 

「えぇ、凄いでしょう。何せ自分が先に死ぬと分かっていても、人間は妖怪と付き合います」

 

「……あぁ、そうだね」

 

 笑顔から一変。複雑な顔で、霖之助は急須をテーブルの上に置いた。

 

「まだ、桜の下に埋めてしまおうなんて馬鹿な事を考えていますか?」

 

「まさか……まぁ、実行するとしても、僕はそれを他人に理由を譲ってやりはしないよ。自分の意志でなら、いつかやってしまうかも知れないね」

 

 例えば、この先娶るかもしれない女性が、妻が人間で。先に死んでしまえば。

 

「――僕は埋めてしまうかも、知れない」

 

「なら、奥様は幸せ者ですね」

 

「そう思ってくれる伴侶を探すのは、難しそうだ」

 

「当たり前です」

 

「はは、違いない」

 

 全てをいきなり消す事はできない。どこか暗く微笑む彼に、彼女は言葉を零す。

 

「全てを払える爆弾でもあれば、そんな笑顔を見ないですむのかしら」

 

「弾幕ごっこはご遠慮願うよ」

 

「瀟洒な弾幕を否定するなんて、酷い」

 

「弾幕ごっこは場所を遵守してやって欲しいね。それに、僕は弾幕やらなにやらの美しさには、然程興味が無いよ」

 

「では、今の暗い思いを払う爆弾には、興味おあり?」

 

「……」

 

 珍しく、にんまりと少女らしく笑う咲夜に、そんな笑顔でも瀟洒にある彼女を凄いものだと思いながら、霖之助は軽く頷いた。

 

「そんな物があるなら、見たいものさ」

 

「では、見せましょう」

 

「……」

 

 目で、正気かと問う霖之助に、咲夜は失礼な、と言ってから立ち上がった。

 

「さて、目を瞑って貰えますか?」

 

「……目を、かい?」

 

「えぇ。それから十秒後、目を開けて下さい。悩みも悲しみも、全て消し飛ばしましょう。それが一時でも」

 

「一時か……十分だよ。それが良い。ずっと忘れては、生きていけそうにないからね」

 

 そう言って、霖之助は、ここまで来たら騙されるのもまぁ良いだろうと思い目を瞑った。

 そして待つ事十秒。

 彼はゆっくりと目を開け、

 

「……何も無い、か」

 

 それまで居た咲夜の姿も無い、寂しい正面をただぼんやりと眺めた。

 

 首を振り、それ、やっぱりそんな物はないのだと愚痴ろうかと思った時。

 それが見えた。

 テーブルの上。台帳。湯のみ。急須。読みかけの本。

 

 そして、その本の上にある、檸檬。

 

 霖之助は、笑った。

 一時。

 全てを忘れて笑った。

 

 

 

――了

 

 

 

 翌日、彼は兄弟子の葬式に参列した。

 涙をこらえて、じっと、じっと。

 人と妖怪と、それ以外の何か。それは続いていく。

 続いていくから――全てを受け入れる世界は、続いていく。



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妖夢と霖之助で百物語

リクを頂いて、拍手として一時使用していたものです。
時期的にも丁度良いのでこちらでも、と。


■ 00 たいとるこーる■

 

 八月。

 時代の流れから隔離された幻想郷と言えど、四季が運び込む暑さ、または寒さから隔離されている訳ではない。暦は八月、夏と呼ばれる暑い暑い季節は、夜になれども涼しさを運ぶ事も無く。

 

「では、私はこれで……」

 

 例年通りと言うべきか、闇雲にただ暑い日々に頭をやられたのか、それとも単なる暇つぶしか。

 

「99話目……終わらせて頂きます」

 

 美しいその唇を小さくすぼめ、少しばかりの息を吐き。その見るからに美しく、どう見ても胡散臭い隙間妖怪は自身の眼前に置かれた、ゆらゆらと揺らめく蝋燭の小さな灯火を消した。ふっ……と、部屋は灯りが消えた分だけ明るさを喪い、今や光源はただの一つとなる。

 

「では、霖之助さん……100話目、どうぞ」

 

 光源、その最後の一つ。

 その頼りなくゆらゆら、ふらふらと左右する灯火を前に、霖之助は閉じていた目をゆっくりと開いた。

 

 夏の、ある暑い夜に。

 

 

 

  『妖夢と霖之助で百物語』

 

 

 

 幻想郷の少女達が季節の行事と言う物に忠実なのか、それとも、集まって騒ぐ事が出来れば何でも良いのか。彼女達は何事も行い、そして何事も大宴会にする。

 花見、祭り、お月見、ハロウィン、クリスマス、正月、節分、ヴァレンタイン、和洋折衷でなんでも御座いだ。

 ここに海でもあれば、海開きさえ宴会にしてしまうだろう。

 このように、騒ぐ事になら活動的な少女達であったが、今年の夏の暑さはその少女達の活動力を根元からごっそりと奪った。

 

 暑い。

 暑いなんて言えないほど、暑い。

 外を歩けば汗が絶え間なく流れ落ち、ならばと日陰で休めど汗が止め処なく浮いては落ちる。だったらどうだと河や湖に向かうも、妖精達と河童達の死屍累々。実際に死んでいるわけではないが……。

 兎に角、その様な状態だった。

 

 さて、こうなると涼む事は不可能だ。

 だが、体感温度上なら、涼む事は可能ではないかと思い至った天狗が居た。お山にお住いの売れない新聞記者兼編集長、烏天狗の射命丸文さんである。

 少々暑さにやられたのか、考え付いた事を特に推敲も推察もせず、彼女は知己のある少女達全てに新聞をばらまいた。

 内容は、こうである。

 

    "百物語、開催"

 

 場所は指定されず、また日時も記されていない、ただの文字列である。だが、皆がそれに飛びついた。

 普段なら文に投げ込まれた新聞など、真面目に見ない彼女達が、真剣にそのたった六文字が記された紙を、穴が開くほどに見つめた。

 

 ゆっくりと腰を上げる者、文字通り飛び出す者、それぞれ違う挙動ではあったが、向かう先はただの一つ。

そう、この報を投げ入れた者が住まう、山である。

 

 

■ 01 やってくるさいなん■

 

 さて、この新聞とも呼べぬただの文字列が記された紙。

 それを毎度のように投げ込まれた香霖堂、その主森近霖之助は、手におさまっているその紙を冷たい目で見下ろしていた。

 百物語、開催。

 などと言われても、この幻想郷、幽霊や妖怪の跋扈する土地である。夜どころか、昼間でも幽霊や妖怪のふらふらしている場所である。

 

 ――何を以ってして怪談とするか。

 

 そう、由来があり、因縁があり、未知であるからこそ、怪談は成立する。

 事件がある。その事件が風化し、その現場となった場所に人が立ち寄り、なにかしがの事態に陥り、噂が流れる。そこに未知の要素が、妄想や想像で補強され怪談が成り立つ。

 それが、夏の季節に語られるべき怖い話、と言う物だ。

 

 だが、この幻想郷。

 今更何を怖いとすれば良いのか、いまいち判然としない場所ではないだろうか。幽霊がその辺に居るし、見える。妖怪が人里に買い物に来るし、会話も可能だ。神様だって普通に居るではないか。

 

 しかも、そういった事を解決する空飛ぶ巫女まで居るのだ。

 こうもなれば、怖い話と言うのは知能を持った存在が為す、情念から生まれた薄ら寒い話しかない。愛憎の複雑怪奇にもつれ合った刃傷沙汰や、妄執から為った黒過ぎる話、などだ。

 

 ――一応聡明な筈の彼女が、それに気付いて居ない訳ではないだろうが。

 

 霖之助は手に持っていた紙を机の上に置き、自身の顎を一撫でする。

 

 ――まぁ、毎度の通り、彼女達が騒ぐだけの話だ。僕には関係ない。

 

 基本、宴会に参加しない彼はどうでも良いかと思い、机の上に置いてあった団扇を手に取り、ぱたぱたと振った。そこから生まれた生ぬるい風に、紙はひらひらと押され、そのまま床に落ちる。

 

 そして、霖之助はその事をすっぱりと忘れた。

 きっちり、かっちりと。忘れてしまったのだ。

 

 数日後、暑い、蒸し暑い夜の夜中に、19人の少女達が100本の蝋燭と燭台を持って香霖堂にやって来るまで。彼は忘れていた。

 

 

■ 02 ものがたりはかそくする■

 

 何故に百物語の会場が香霖堂になったのかと言えば、簡単な事だった。

 

『今から名前の上がった人は、強制参加としましょうか』

 

 烏天狗の文が放った、無責任な言葉に皆が頷いた。形を持たない企画の議題は、まずは誰を語り手にするかである。生贄募集中とも言う。

 優れた踊り手無く、踊りが成立する事は無い。優れた語り手無く、怪談が成立する事は、まず無い。

 怪談とは、常識から外れた中に常識を以って語る、"枠の中の埒の外"の話であるのだ。故に、その語り手足るは。

 

『怪談が上手そうな奴って、誰だろう?』

 

『まぁ知識とか雑学とか豊富な者じゃないかしら? あと……空気を読むのが上手とか』

 

 そう言った、常識を良く知る者達で無ければならない。

 常識を良く知る彼ら、彼女達が語る非常識の世界は、本当に怖い物なのだ。

 

 妹紅と輝夜が会話し、それをこいしが継ぐ。

 

『だったら、アリス、文、慧音、幽々子、永琳、紫、藍、衣玖、咲夜……あとてゐとか上手そうかな? あー、お姉ちゃんも上手そう』

 

 その言葉に、場にいる少女達の殆どが頷いた。どうして地上に出ることが殆ど無い筈のこいしが、それらの存在を知っているのか分からないが、口に上げた者達は確かに基準を満たしていた。

 

 ふらふらと地上を遊泳した際、無意識に収集した情報だろうと、姉のさとりはなんとなく当たりをつけた。正解。その通りである。

 

 そのこいしの発言に、二人ほど頷かない"人間"がいた。

 

『確かに……そうなんだけど』

 

『なんか、一人足りない気がするなぁ……』

 

 霊夢と魔理沙が腕を組み、うんうん唸るその姿を少女達は眺めていた。

 

『何が足りないの?』

 

 代表して、永琳が二人に話しかける。

 すると、二人は同時に顔を上げ、それぞれが口にする。

 

『なんだろう……こう、いつもこう言った場所にいないんだけど……』

 

『結構普段から雑学とか色々薀蓄をべらべら語ってる奴が……』

 

『なんかこう……なんだろう、多分こんな事にも詳しそうな気がするんだけど出てこないのよ……』

『あー……私もだぜ、なんだろうな、この埋没してる何かなんだけど、別に掘り起こす必要も無いというか、かなり普段から見えてる物みたいな……』

 

 そう口にしてから、また二人は俯き思考に没頭する。二人の頭の中には、朧げながら一人の影が過ぎっていた。

 

 宴会等には顔を出さず、その癖妙にこう、存在感があるような無い様な、雑学豊富でその癖偏った知識人、かつ趣味人。二人はうんうん唸っていたが……やがて雷にでも打たれたかのように、一度大きく震え、勢い良く顔を上げた。

 雑学豊富。

 偏った知識人。

 趣味人。

 銀髪の、眼鏡の、青と、黒の、偏屈な。

 

『霖之助さんよ!!』

『香霖だよ!!』

 

 少女達の中で、霊夢と魔理沙が叫んだ存在と知己がある者達だけが

 

 ――あぁ。

 

 と頷いた。

 

 名前の挙がった人物は強制参加。

 暑いから仕方ない、仕方ないのだ。

 会議に参加してもいないのに、某店主参加決定。

 そう言う事である。

 

■ 03 そしてしょうじょたちはよるにさく■

 

「で……何故僕の店でやる必要があると?」

 

「霖之助さん、絶対来ないでしょ、そういう場所」

 

「あぁ、行かないだろうね」

 

「だからこっちから来たんだよ」

 

「あぁ、そうかい。そうかいそうかい、光栄だね。光栄過ぎて目の前が見えないね」

 

 眼鏡を押し上げ、目頭を揉む霖之助を横に、霊夢と魔理沙は勝手に居住区へと上がっていった。それに続き、一応、強制的に呼び出された参加者達が靴を脱ぎ上がっていく。

 

 霖之助に声を掛けてから上がって行く者、何も言わず上がって行く者、会釈して過ぎて行く者。対応はそれぞれだったが、辞めるつもりはないらしい。最後に横へやって来た慧音に、だから霖之助は零した。

 

「これ自体が、僕にとっての怪談みたいな物だよ」

 

「あぁ、ひやりとしたか」

 

 しない筈が、ない。

 

 さて、百物語。

 百の物語りともなれば、百人がそれぞれ持ち寄った怪談を一つ一つ語るのかと思うかもしれないが、そうではない。変則的な百物語と言うのも、実は存在する。

 場所の問題もある。そう広い場所ではない香霖堂だ。

 くじ引きで参加者を選定し、当たった者と名の上がった者達だけが参加する事になった。

それぞれが一つ語り、また間を置き、参加者全てが語って一回りすると、また最初の語り手に戻る。都合20名、5回転で百となる。

 古来より脈々と、営々と伝えられる正統な伝統的それとは違うが、悲しいかな、歴史の流れと共に変化するのもまた伝統である。

 

 20名、百物語をやるとしては少々足りない数ではあるが、宴会を想定しない一般的な家庭の居間に集まるには、多すぎる数だ。だが、そこは問題ない。

 問題ないのだ。

 霊夢と魔理沙が二人して、襖を外してそれを壁に立てかける。居間、霖之助の私室、使われる事などまぁ無い客間、それらが繋がり、広い空間が用意された。強引に、かつ家主に無許可で。無認可で。

 

 諦めたのか、霖之助はそれを見ているだけだった。

 居間に座布団を敷き、それに座り、無言で見ているだけだった。ただ一つ、彼がやった事と言えば。

 

「僕が百話目をやる。それが交換条件だね」

 

 左隣で悠然と佇む紫に、そう言った事だけだった。その言葉に、紫は扇で口元を隠し妖艶に微笑み、顰め面の霖之助を見つめていた。右隣に座っていた妖夢が、きょとんとした顔でそれを眺めていた。

 それだけの事だ。そう、それだけ。

 

 

■ 04 ひゃくものがたり■

 

 場所は用意され、場所の主たる存在はそれを一応容認し、準備と舞台は整った。

 あとはもう、灯された蝋燭を前に佇む少女達が、その美しい唇から世にも恐ろしい話を語るだけである。

 

 一番手、この百物語の企画者である新聞記者、文。永くを生きた烏天狗、しかも情報を多く持つ少女だ。

 持っている情報はピンきりではあるが、多くを知る情報通の彼女。

 さぞ恐ろしい話でも語るかと思いきや、別段、なんの衒いも無い、在り来たりの怪談だった。妖怪少女の語る怪談となれば、少々おかしな物になるのかと期待していた霖之助にとっては肩透かしもいいところだったが、それ以上に彼女の、場の空気を読んだ狡猾な"配慮"に一つ軽く頷いた。

 見れば大半の少女達が、同じ様に感心している。彼と同じく、強制参加を申し渡された少女達全員と、霊夢である。

 

 霖之助の隣に座る紫は曖昧な笑顔で底を覗かせず、それでも同意を思わせる素振り。

 右隣の妖夢は、"前座"に過ぎない文の怪談で、既にガタガタ震え霖之助の手を握っていた。

 半分は今語られている幽霊その物だと言うのに。

 

 さて……これは前座だ。

 徐々に空気を重くする為に、寒くする為に、烏天狗の少女はかなり抑えた、定番ともいえる良くある話で、まず場を作り上げたのだ。恐らく、彼女は二周目に先程よりも少々怖い話を、三周目に更に怖い話を、四周目に尚怖い話を、そして五周目に自身が持つ最恐の話を語り完全なる退路無き怪談の空気を作り上げるつもりなのだ。

 後続する者達に、さぁこれ以上の弾を撃てと。お前達の知る最恐を語れと。

 なんという狡猾さだろうか。そしてなんという配慮だろうか。

 無駄だ。余りに無駄な心遣いだ。

 

 語りは続く。

 百まで語るから百物語。

 続いて当然の事だ。その間中、霖之助の隣に座る妖夢は、ずっと彼の手を握り続けていた。

 

 なんと彼女自身が怪談を語っている最中までもだ。

 妖夢の語った話の内容自体は、一周目の軽く低い水準から見ても決して高い物ではなかった。この調子では、最後に語る内容もそう恐ろしい物ではあるまい。

 

 集まった20名の中で言えば、人間を除けば最年少組になる彼女である。

 若いというのは諸事板につかぬといわれるが、なるほど、そうであるのかも知れない。

 ただ、彼女の名誉の為に言わせて貰えば、この百物語に集まった面子が海千山千に過ぎるのだ。別にこんな事で名誉を守る必要など一切ないのだが。

 

 話は続く。

 抑え気味の話、定番とも言える話、それらが一周し、まずはお互いの持つ怪談の水準、語りの特徴、優劣を見極めさせた。文はにやりと笑い、口を開く。

 

「……さて、では少々順番を変えましょうか」

 

「なるほど」

 

 さとりが頷き、それに皆が追従する。

 この天狗、実に狡猾である。狡猾に過ぎる。

 

「あ、あの……なんで順番を変えるんですか?」

 

「あぁ、簡単な話だよ。一周目で皆の力量を、彼女は把握したんだ」

 

「えぇーっと……つまり……もしかして……」

 

「君の思ったことが、答えだ」

 

 妖夢は凍りついた。

 つまりは、そうつまりは。

 妖夢の視線の先にいる、扇をぱたぱたと振っている烏天狗は。

 

「上手いわねー。徐々に怖い話になるように、調整してるわ」

 

「……」

 

 自身の主、妖夢の右隣に愛らしく正座で佇む幽々子に、妖夢は泣きそうな顔で目を向けた。いや、泣いていた。

 

「まだ一周目なんだがね……」

 

「良いじゃない。こういう娘がいないと、やる気も起きないでしょう?」

 

「……それもそうか」

 

 霖之助は紫の言葉に同意した。ただ、ぎゅっと握られた妖夢の手は、いい加減どうにかして欲しかった。

 魔理沙と霊夢の目が、なんとも言えぬ色を宿して彼らを見ているのも、彼はどうにかして欲しかった。

 

 ――君のその細かい配慮、ここでこそ生かされないものかな。

 

 ――お断りします。

 

 霖之助と文は、目でそんな会話をした。

 

 

■ 05 てんしゅ、かたる■

 

 割愛となるが、少女達は時に朗々と、時に切々と、口調を変え、身振りを交え恐ろしい話を語り続けた。

 最後の周回、五周目ともなれば各々、自身が持つ最高の一品を持ち出した。ここからこそが本番、と言う訳だ。

 

 妖夢が落ち武者の微妙な話を、橙が化け猫の微妙な話を、魔理沙がある道具にまつわる怨念の話を、こいしが地底の救われない話を、妹紅が自身の家にあった不気味な古い話を。

 霊夢が神社にあったという昔の実話を元にした話を、輝夜が権力に見入られ狂気に至った者の起こした惨劇とその後の話を、パルスィが男と女の愛憎から生まれた永遠の呪いの話を、アリスが血を求めて夜な夜な動き出す人形の話を、咲夜が館にまつわる開かずの間の少女の話を。

 さとりが人に宿った狂気の先の黒過ぎる話を、てゐが廃屋であった一夜ばかりの愚かな旅人の話を、文が山であった愛憎の果てに起こった怪異の話を、慧音が廃墟であった不可思議な話を、藍がある一家に起きた惨劇の話を、衣玖が女の悲しくも恐ろしい悲恋の話を。

 幽々子が自身の体験した怖気の走る話を、永琳が一切の救いもない背筋の凍る話を、紫が実在した一夜にして滅んだ小さな村の話を――

 

 そして百話目、彼が――霖之助が要求した様に、彼に最後が回された。

 少女達は我知らず喉をならす。

 百に至るまで、霖之助は皆と同じく四度語った。その内容、実に秀逸であった。

 語りの抑揚、間の読み方、視点移動の滑らかさ、実に素晴らしいものであったのだ。薀蓄を語ることが半場趣味だと認識されている彼ではあるが、それはつまり、単純に。

 語るに慣れた存在であるという証左ではあるまいか。

 分かりやすく、更にはあえてぼかして、不自然に、或いは自然に。恐怖を語る彼は、それはもう恐ろしかった。

 彼自身が恐怖その物であると言わんばかりに、怖かった。紫や永琳や藍、更には幽霊である幽々子でさえ背中に嫌な汗が流れたのだ。

 

 その彼が、そんな彼が。最後の札を切るという。

 なんと恐ろしく、なんと待ち遠しい事か。

 

 少女達は期待と恐怖に包まれて、店主をじっと見つめた。

 そして――霖之助は口を開いた。

 

■ 06 じつざいのちめい、だんたいとはいっさいかんけいありませんまたとうじょうじんぶつはすべて18さいいじょうであります■

 

 場所は……言えないか。約束もあるんでね。結婚式場、とだけ言っておくよ。

 兎に角そこだ、僕は行ったんだよ。

 何のことは無い、ただの式場だ。

 そこは宿も兼ねているし、大きな行事があった際には会場を開放している場所でね。あぁ、君達も決まった相手が出来たらそこで式を挙げるといい、中々のものだよ。

 僕はそこにね、友人の結婚式に呼ばれて行ったんだ。

 祝辞を述べて、愛の誓い合いを見て、何も無い普通の、当たり前の結婚式だったね。気になった事と言えば、新婦の友人席に座る一人の女性が、やけに暗い顔だった事位だよ。やがてまぁ、式は終えてね。

 手持ち無沙汰だった僕は踵を返して帰ろうとしたんだ。それが見える前ではね。

 

 ふっとね、それは見えたんだ。

 広い会場の、その奥の通路、その辛うじて見える一番奥の扉にね……札が張ってあるじゃないか。

 札だよ、おかしいだろう? 冠婚葬祭、それらを行う会場だ。

 ここは二つほど広い会場があってね、祝い事と、それ以外を行う会場があるんだ。僕が来たのは祝い事、それも結婚式をやるような会場だよ、そこで札が見える扉なんて、穏やかじゃあない。

 もう一つの会場でそんな物を見たら、あぁそういう事もあるだろうと納得も出来ただろうがね……

 僕はその扉の前まで歩いていったんだ。

 

 まぁ正直な話、その時点でもうこれは何もないな、と思っていたんだね、僕は。

 そうだろう? 誰も止めないし、注意しない。ならそれは何も無い証拠だよ。

 そのまま扉の前で、やけに新しい札を見ながらね、僕はなんとなく口惜しくて、その札を指で軽く弾いたんだ。

 

 するとね、あーお……

 もう一度弾くとね、んあーお……

 

 猫の鳴き声がしたんだ。偶然としてはおかしな話だよ。

 猫なんてこんな場所にはいないんだから。しかもその猫の鳴き声、傍からしたんだよ。

 それも、おかしな話なんだが……扉の向こうさ。

 そう、真新しい札の張られた、その扉の向こうだよ。僕はなんとなく周りを見渡したね。

 それぞれの扉には、色直しだとか新郎控え室、新婦控え室、色々書かれた紙が張られているのに、この扉には真新しい札と来たものさ。

 

 こうなると、本格的におかしな物を感じたね。

 僕は猫の鳴き声の場所を特定する為に、もう一度札を弾こうとしたら――

 

『どいて、貰えませんか?』

 

 小さな声だ。

 寒気のする声でね、いきなり背後から声をかけられた物だから、僕も流石に驚いてしまったよ。慌てて振り返って、その声の主を見たんだ。

 すると、そこには一人の若い女性が一人いたよ。なんだこいつは……人を驚かせてと思って、僕はその女性の顔を良く見たんだ。

 

 思い出したね、この女性を。新婦の友人席で、一人暗い顔で新郎新婦を見ていた件の女性さ。

 僕は一礼した。その場の礼儀だね、一応はしたさ。

 だというのに、この女性、礼を返しもせずただじっと、じいっと扉を――いや、札を見てるんだ。

 気持ち悪いと思ったが、どうにも好奇心が勝ってしまってね。この女性、どうにもその札の貼られた扉の向こうに用があるようなんだ。

 おかしいだろう?

 札の貼られた部屋に、新郎新婦を場にそぐわない顔で見ていた女性が入ろうとしているんだ。何事かあると思うのが普通だよ。

 

 僕はまぁ、遠慮の無い話ではあるがね、つい聞いてしまったんだ。

 この先に何か御用ですか、とね。

 女性は何も応えなかった。ただ、じっと見てるんだ、先を。札を。

 で、言うんだよ。

 

『札を……』

 

 札を? 僕は先を促した。少しばかり、何を言うつもりか興味も在ったんでね。

 

『札を、外して下さい』

 

 重ね重ね、おかしな事を言う女性だと思ったよ。

 札を外せ? 僕に? それは無理だ。何せ僕はこの式場の関係者じゃあ、ない。

 それを外す権利なんてないんだ。それでも女は言うんだよ、何度も言うんだよ。

 

『札を、外して下さい……札を……札を――』

 

 おかしいなんて物じゃあなかった。

 完全に気が触れた様な、人間の形をした別の……音を再生するだけの道具のように、女は同じ声で、同じ音量で口を同じ動きで、まったく一分も違わず言い続けるんだ。

 あぁ、怖かったさ。

 僕は言葉もなく、かと言って逃げるにも機会を喪った状態で、ただ呆然と立ち尽くしていたよ。じれたのか、それともそれが動作の一つにあったのか……女がね、それまでじっと札を見てた眼を、僕に向けたんだ。

 何も映ってない、まるで濁った河の底の泥が固まって、ひび割れた様な瞳だったよ。怖かった。それ以上に、気持ち悪かったね……

 

 僕は口惜しい事だが、一瞬全てを忘れて、一歩引いてしまったんだ。けれど、後ろは扉があるだけ……どん! と扉に当たって、背に奇妙な寒気と痛みが走ったんだ。

 あーお、あーお……

 そして……猫の鳴き声がまたしたんだ。

 それも、さっきまでよりはっきりと、後ろから。間違いなく、今背にしている扉の向こうに猫がいるんだと、場違いながら僕は確信したんだ。

 

 その時、目の前の女が呟いたんだ。

 

『札が……』

 

 そう、札を、じゃない。札が、そう言ったんだ。

 女の死んだひび割れた眼が、僕ではなくもっとした……僕の足元を見ている事に気付いた僕は、嫌だったんだがね……同じ様に足元を見たんだ。

 あったんだ、あったんだよ、そこに。

 

 札が。

 

 

■ 07 なにもかたらぬものがかたること かたりたくとも……かたれぬもの■

 

 札が、落ちている。札が落ちたんだ、扉に張られた真新しい札が。

 妙な焦燥感に駆られて、僕は顔を上げたんだ……

 すると……女がね、あぁ、先程までの女だよ。眼の死んだ、あぁ眼の死んだ女だよ。その女が、笑っていたんだよ。

 貼り付けたような、嫌に口の裂けた笑顔で。近寄ってくる。それまで少しばかり離れていた女が、僕に近寄ってくる。

 僕は何かの命ずるままに、横に逃げたんだ。女はそんな僕に目もくれず、怖気のくる笑顔のまま、札のはがれた扉に手をやって――開けたんだ。

 

 んぎぃいいいいいいいいいい……

 

 開いたんだ、扉が。

 蛇が背筋を舐めるような、そんな不快感を伴ってね……何か、どこかで嗅いだ事のある匂いと一緒にさ。

 

 んあーお、あぁーおおお

 

 その匂いと一緒に、猫の声がまた響くんだ。

 嫌に、はっきりとね……女はそれを、嬉しそうに聞きながら……扉の向こうに入っていったんだよ。

 

 白い、本当に白い腕がにゅっと出てきて……扉を閉めたんだ。

 

 んぎぃいいいいいいいいいい……ばたん。

 

 声がするんだよ、声が。猫の。

 あぁああああおぅ

 猫だと、僕が思っていた声が。

 

 あぁあああああああおうぅうう

 

 臭いが、一層濃くなったんだ。嗅いだ事の在る匂いなんだよ。

 その癖、僕には分からなかったんだ。

 でもね……次の瞬間、はっきりと思い出したんだ、その匂いを。

 

んんあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああお!!!!!

 

 鉄の錆びた……血の匂いだったんだ。

 呆然としたね。あぁ、それ以外何も出来なかった。

 

 そんな僕に気付いたんだろうね。その会場の従業員が、慌てて走りながらこっちに来るんだよ。

 

『お、お客様! ここは、立ち入り禁止なんですよ!』

 

 おかしい。

 だってそうだろう? この扉は兎も角、他の扉には新郎の控え室だ、新婦の控え室だと紙が張っているんだ。立ち入り禁止なんておかしいだろう?

 僕はそう言ったんだ。従業員は苦い顔をしてね……僕の足元にあるはがれた札を見て、ついで目を見開いて僕を見たんだ。

 

『もしかして……見られたん……ですか?』

 

 あぁ、何をかは知らないが、常識の埒の向こうにあるモノを見たよ、と言うと、従業員は観念したのか、誰にも言わないで下さいと言ってから、語ってくれたよ。

 札を、扉に貼りなおしながら、持っていたんだろうね、塩を振りまいて。

 

 つまりは、そういう事さ。

 ここには、従業員が塩を常に携帯するような事態が、あるんだ。必要があったんだ、その清めの塩が。こんな祝いの式場で。

 

 その従業員――彼が言うにはね。

 もう十年ほど前の事らしいが、この式場で入場を拒否された女性が居たんだ。その女性、誰も知らないうちに勝手に入り込んだらしくてね……

 そのまま、新婦の控え室の隣……つまり、件の扉の部屋で……自殺したんだよ。

 すぐそれはその式場にいた全ての人間に知れ渡ったんだ。何せ……その女性が自殺する僅か数秒前、大きな、大きな声が式場いったいに響き渡ったんだからね……

 

 そう、僕がさっきから聞いてた、猫の鳴き声だよ。

 でもね……猫じゃあ、ないんだ。その声はね。

 

 女が抱いてた、赤子なんだよ。

 

■ 08      ■

 

「その女性、その日行われる結婚式の主役の一人、新郎の恋人……いや、愛人だったそうだよ……子供まで作っておいて、裏切った男に……女は自分とその男の間に出来た赤ん坊で……一矢、報いたんだ。しかもね……この話の一番怖いところは。この女は……死んで尚、未だにこの場所に留まってその赤ん坊を――」

 

 霖之助は口を閉じ、そこで蝋燭の火を消した。

 

 うっすらと消えてゆく灯火。暗闇が覆うその直前に、少女達は見た。

 

「君たちがもし結婚するとき……その式場を選んでしまったら……札の張られた扉を見つけてしまったら――」

 

 霖之助の、

 

「自身の夫となる男を、じっと暗い目で見ている女性を探してみると良い……自分の、友人席をね」

 

 悪意に満ちたその笑顔を。

 

 妖夢は、完全に気絶していた。

 

 

■ 09 おわり■

 

「あ、あの……」

 

 弱弱しい声音に後ろ髪を引かれ、霖之助は振り返った。彼の背後に佇む少女の姿はどこか不安げで、どこか庇護欲を刺激する。霖之助のような男であっても、であるからそれは相当な物だった。

 振り返った霖之助の視線と、自身の視線がぶつかった事に焦ったのか。少女は一度顔を俯かせたがやがておずおずと視線を戻す。

 再び重なった視線を、今度はそらさず少女は霖之助に問うた。

 

「友人席、気にしないと駄目なんでしょうか?」

 

 問う声は頼りないくせに、霖之助に重ねられた問う瞳はどこまでも真っ直ぐだ。霖之助は一度小さく息を吐いてから、先ほどの――百物語の席で見せた悪意ある笑顔とはまったく別種の苦笑を浮かべて応じた。

 

「そうだ、と言ったら君はどうする?」

 

「斬ります」

 

 少女即答である。

 そして……霖之助は後に気づいた事であるが。

 少女は、誰を斬るかは明言してない。つまりそれは――……そういう事である。

 

 

 ――了

 




稲川淳二調で読んで下さい。
んぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃ

あと、オチを変えてます。こっちの方が、らしいかなぁ、と。


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りんのすけとさくやのへや

 夜も遅く、そろそろ店じまいするかと思いながら、それでも本の続きが気になり椅子から離れられない僕の耳に、一つ音が入り込んできた。

 からん、と小さく草臥れたカウベルが鳴く。僕は読んでいた本から顔を上げ、入り口に居るだろう誰かを確かめる事もせず、適当に挨拶をした。

 

「いら――」

 

「えぇ、いらっしゃいました」

 

 しかし、客と思しき人影の返事は僕より早く、しかも何故か近かった。

 おかしな事はそれだけでなく、その声が決して大きな声で無かった事だ。まるで耳の側で囁かれたような、そんな小さな声である。

 それがカウベルの音がなったすぐ後に、僕の挨拶よりも早く、しかも側で、しっかりと聞こえるというのは、どう考えても普通ではない。

 

 更には、人影が在るであろう筈の入り口は常の通りで、扉ももう閉まっていると来たものだ。

 嫌な予感が背筋を悪寒となって走るが、僕はその動揺をどうにか抑え込み平然とした顔で動作を開始した。手に持っていた本をゆっくりと机に戻し、同様、ゆっくりと顔だけを横へと動かしていく。声のした、その方向へと。

 

 果たして、僕の視線の先には――いや、視界一杯には、想像通りというべきか、願い叶わずと言うべきか……見知った女性の顔が在った。

 

「紅魔館一の働き者、お嫁さんにしたいメイド№1、十六夜咲夜、まかり越しまして御座います」

「ご苦労様。出口はあちらだよ」

 

 唇が触れるかという距離で、いきなり出て行けと言い放っても、これは仕方ない。誰だってそうする。

 

        ●

 

「いきなり帰れと言われましても、今来たばかりでしょう? それとも、何か虫の居所が悪くて、無力な少女に八つ当たり?」

 

「君が無力なら、この幻想郷も随分と平和な場所なんだろうね。寝言をここで言うほどに疲れているのなら、自室で静養するべきだと僕は思うよ」

 

「あら……でしたら、そうしましょうか」

 

 にこり、と微笑み、彼女は靴を脱いでこの店の奥へと入ろうとする。さぁ、おかしい。

 

「何故上がる?」

 

 咲夜の腕を強く握り、引き止める。

 

「まぁ、怖い顔。そんな顔、のんきな店主さんには似合っていないわ」

 

「そう思うなら、そんな顔をさせないでくれないか」

 

「まぁまぁ、誰があなたをそんな顔へとさせているのかしら? 良ければ聞いて差し上げますよ? 聞くだけですけれど」

 

「君は僕の眉間に皺を寄せさせて、何か得るものであるのか?」

 

「そうねぇ……ちょっと面白い」

 

「そんないつも通りの余所行きの顔で言っても、白々しいと言うのだよ、咲夜」

 

「あらやだ、この人うまい事言ったつもりかしら」

 

 それまで浮かべていた普段の相から一変、気の毒、と言った顔でこれ見よがしに大きく溜息を吐く。おまけに肩まで竦められた。

 

 僕は空いている左手の親指と人差し指で眉間を揉みながら、摺り返られそうな話題を修正する為に口を開く。

 

「何故、君は、僕の、私室へと、上がろうとしているのか」

 

「そこに、私の部屋が、あるから」

 

「ないだろう」

 

「あります、ほら」

 

 咲夜は掴まれていない右手で、奥にある僕の私室の襖を指差した。

 目を細め、廊下の先にある薄暗いそれを見ると――……

 

 "りんのすけとさくやのへや"

 

 そう書かれた可愛らしい、如何にも女性が好みそうなネームプレートが五寸釘で打ち付けられていた。

 襖に。

 語る必要はないだろうが、文字は赤かった。生乾きを打ち付けたからだろうか、文字が所々垂れて不吉だった。

 これは新手の呪いか嫌がらせだ。

 

 僕は掴んでいた咲夜の腕を放し、先程の彼女と同じ様に大きく溜息を吐いた。肩だって竦めた。竦めるより他無いだろう、そりゃあ。

 

「なんて能力の無駄遣いだ……」

 

「この世に無駄なものなんてないのよ?」

 

「その言葉、君の職場にいる自称メイド達にでも言ってあげれば良い」

 

「時間の無駄」

 

「ほら、無駄なんじゃあないか」

 

「あらやだ、この人うまい事言ったつもりかしら」

 

 先程と同じ様に咲夜が溜息を吐くから、僕もそうした。乗じた訳じゃあない。ただ偶々動作が被っただけの事だ。

 

「取りあえず、ここで話を聞くから、用件を言ってくれないか。早く終わらせて、早く日常に戻りたい」

 

「巫女と魔法使いにたかられる日常に戻りたいんですね」

 

「あれを僕の日常に組み込むな」

 

 確かに彼女達は顔を見せる頻度も、勝手に物を持って帰る頻度も、勝手にお茶を入れてお茶菓子まで貪りつくす頻度も高いが、だからと言ってそれが僕にとっての日常と言うわけではない。決して無い。

 

「僕の日常と言うのは、静かな一日の事であって、彼女達や君が来る日が、平々凡々であってたまるものか」

 

「特別だと、そう仰るのねあなたは」

 

「一度診療所へ行くべきだ」

 

「その前に一度自室でゆっくり休んでいきます」

 

「だから、待てと言っているんだ」

 

 再び腕を掴み、勝手に僕の私室へと行こうとする咲夜を留める。すると彼女は、僕の顔をじっと見つめてからこう言った。

 

「今の店主さん、まるで外の世界のロックスターみたい」

 

「……なんだい、それは?」

 

 あまり聞いた事の無い単語である。聞き流しても良かったが、気になったので僕は遥か年下の少女相手に、ついつい聞き返してしまった。

 僕の言葉を聞いて、彼女の唇が少しばかり釣りあがったから、本当に"しまった"だ。

 

「適当な言葉を並べて歌って、寄ってくる女に乱暴を振るうお星様」

 

「それこそ、随分と乱暴だ。僕がそんな性分だと、君は今言ったか?」

 

「私が部屋に戻ろうとすると、あなたは私の手を取って今みたく適当にうまい事言って、自由を奪おうとするのだから、ほら、ロックスター」

 

「本当にそんな意味なのかい、その言葉は?」

 

「お嬢様が仰るには、そんな意味だそうで」

 

「君の主の言は、正直半分真面目に聞くくらいで良いと僕は思うんだが」

 

「半分不真面目に聞いていると、涙目で怒るんです、お嬢様」

 

「あぁ、つまりやったのか」

 

「えぇ、ご馳走様でした」

 

 大変美味しゅう御座いました、と言った顔で頷く咲夜に、僕は少しばかりレミリアに同情した。

 同時に、その位で涙目になるなとも思った。そんな事だから下である咲夜がこうもなるのだ。

 この意味不明な問答で覚える疲労の責任は、幼い吸血鬼に行き着くのだと僕は確信し、目下の問題の解決へと舌を動かした。

 あの吸血鬼への正当な仕返しは、今度来た時にしっかりとするから今は良いとする。同情? そんな物始めから無かった。無かったのだ。

 

「僕はそういった類の者ではないと君に言い聞かせたいが、時間が勿体無いから、言わせて貰うよ」

 

「えぇ、どうぞ、なんなりと」

 

 居住まいを正し、全身で言葉を聞く熱心な儒教徒の様な姿を装い、咲夜は僕の次の言葉を待つ。

 なんだろうか、その振りは。これも新手の嫌がらせか擬態なのだろうか。

 大声で笑えと言うのなら、僕は今それを成すことになんら抵抗もなく出来そうだ。

 だが、今はそんな時じゃあない。さっさと終わらせて、僕は店を閉めて静かな明日を望むだけなのだ。

 

「何か求めているのなら言ってくれ。持ってくる。何か探しているのなら、言ってくれ。取りあえず覚えておく」

 

「あなたが欲し――」

 

「出口はあっちだ」

 

「最後まで言わせないとか、あなた本当にロックスター」

 

「気に入ったのかい、その単語」

 

「言うたびにお嬢様の涙目の顔を思い出せるから、大好きです」

 

「そんな理由で好きになったと聞けば、そのロックスターとやらも涙目になるだろうね」

 

「可愛くて良いんじゃないかしら?」

 

「僕は売り物じゃない、はい、終わっただろう? 帰ってくれ」

 

「私くらいの容姿があれば、こう言うと大抵の男は驚いた後何かしらの良からぬ事をやってくれると聞きました」

 

「誰に」

 

「お嬢様に」

 

 なんだろうか、レミリアお嬢様はそんなに暇なのだろうか。暇なのだろう。そう思わなければ、五百年を生きた吸血鬼に対する神秘性や偶像が壊れてしまいそうだ。

 畏敬の念など既に木っ端微塵であるから、せめてその程度の物は求めたいのだが。もっと長くを生きる胡散臭い隙間妖怪が脳裏を掠めたが、彼女は苦手だからどうでも良い。

 

「では、用件を終わりましたので、お休みなさい店主さん」

 

「だから、奥へ行くなと言っているんだ」

 

 三度、彼女の腕を掴む。

 

「ここで情を契れと?」

 

「無情か薄情で良いなら、それで君を千切ってあげよう」

 

「情事には縁遠い言葉ね」

 

「情事じゃあないからだ……なんだろうな……君達は、魔理沙や霊夢や君は、何か。僕の店でこういった事でもしないと、落ち着かないとでも言うのか? それとも、これを善行か何かだと勘違いしているのか?」

 

「……そう、ですねぇ」

 

 その言葉、肯定の意味で放った言葉じゃあないと信じたい。

 

 咲夜は顔を俯かせ顎に手をやり、私今考えてます、といった姿を見せる。

 彼女の長い睫が伏せられ、元々切れ長の瞳は更に剣呑な物へとなったが、それを僕は不快とも怖いとも思わなかった。

 

「私は……休みに来ました」

 

 顔を上げ、常の顔で口を開く彼女が、少々頓珍漢だと分かっているからだ。

 

「なら、あのお屋敷の、君の部屋で休めば良い」

 

「休める場所を増やす事は、悪い事かしら?」

 

 先程までのどこか楽しげな雰囲気はなりを潜め、咲夜は真っ直ぐと僕を見つめながら語っている。

 どうやらやっとここに来た用件へと話が近づいたようだ。僕は少々乱れた着物の襟元を直してから、目で続きを促す。

 

「私は、ご存知の通りメイドです」

 

「あぁ、メイド長だね」

 

「はい、常に紅魔館で働く、恐らく、この幻想郷でも一二を争う労働者です」

 

「……ふむ、かもしれない」

 

 それは多分、そう大きな間違いでも無い。

 何せ彼女の下に居るメイド達は、自称メイドで手数に入らない。言ってしまえば、猫の手以下の手だ。それらを束ね、一人あの屋敷を切り盛りする彼女は、なるほど、そう言っても頷ける。

 少なくとも、鼻で笑って終わるといったものじゃあ、ない。

 

「ですから……あの屋敷以外で、休める場所が欲しいと思いまして、ここに来ました」

 

「……言葉が足りないと、僕は思うんだが」

 

「察して頂けるでしょうから、足りなくても問題ないでしょう?」

 

 メイドとしての言葉と、咲夜と言う一少女の言葉が入り混じって、なるほどと僕に思わせた。

 なるほど、ちぐはぐだ、と。

 過去の記憶がなく、彼女が見せる所作は礼にこそかなっているがどこか古臭い。人里の転生者も記していたが、まるで数百年前の人物と向かい合っているような錯覚を、咲夜は時として与える。

 しかし彼女はこうも鮮明に、忘れる事を許さないかのように存在を見せ付ける。

 記憶を失う前に体にしみこんだ古い所作と、今を生きて覚えた所作と言葉。

 メイドと言う咲夜と、咲夜と言う少女の言葉。混ぜ込んで、織り込んで、ほら、彼女は今僕の目の前で当たり前に堂々と立っている。

 

「ですから、部屋で休みます」

 

 堂々と立ち過ぎだ。

 

「なんですか、その遠慮をしろと言う視線は」

 

「そのままだよ、他意は一切無い」

 

「私が私らしく在れるのは、なんと吃驚このお店だけなんです店主さん」

 

「ロックスター云々の会話の流れで、君が自然体のままに職場で働いている事は分かっている」

 

「察しが良すぎる殿方は、嫌われるものよ?」

 

「わがままだ」

 

「お嬢様のわがままに比べたら、私なんて慎ましやかな物でしょう?」

 

「自由奔放さは、同じくらいだ」

 

「わたし、しょくばでいじめられてるんですッ!」

 

 誰がこの少女を虐められると言うのだろうか。該当者は、ちょっと思いつかない。

 

「もんばんとか!」

 

 無い。絶対無い。逆はあってもそれはない。

 

「さて、疲れたので本題に入りましょうか」

 

「なんて我がままさと時間の無駄遣い振りだろうか」

 

「余裕があると言ってくれないかしら」

 

「物は言い様、とは言えど、君ほど暴力的に言葉を弄り倒す存在は稀有だろうな」

 

「希少で瀟洒ですから、私」

 

 少しばかり誇らしげな咲夜に、僕は無言のまま肩をすくめた。

 

「あなたの時間を、少々貰いに着ました」

 

「君はどこでも、好きな場所で休むといい。僕は診療所へ行ってくる」

 

 行ってくれないのなら、僕が行くしかない。平穏は多分そこに在るのだ。

 

「あなたは、あんな不吉なネームプレートが打ち付けられた部屋で私一人休めと言うのね」

 

「なぁ、僕がここで君をぶったら、誰が非難すると思う?」

 

「私」

 

「いや、君にはその権利が無い、間違いなく、絶対無い」

 

 元凶にそんな権利がある筈も無いだろうに。

 

「折角本題に入ったというのに、どこかに行こうだなんてあなたは酷い男よ?」

 

「ここまで付き合いの良い僕が酷いのなら、君の方が余程に酷いよ。極悪非道だ」

 

「こんな愛らしいメイドに極悪非道とか……って、あら、どこへ?」

 

 立ち上がり、不吉なネームプレートの突き刺された襖へと歩み寄る僕に、どこか気の抜けた声が掛かる。が、そんな物は半ば無視して僕は言った。

 

「今日はもう、寝る」

 

「なるほど、お供します」

 

「するな」

 

 当然と言った顔でとてとてと近づいてくる少女に、僕は短く鋭く言葉を返した。

 

「ちょっとだけ、先っちょだけですから」

 

「言わせて貰うがね……」

 

 僕の後ろ三歩分にぴたりと張り付き、とうとう寝室に足を踏み入れてきた上に意味不明な事を口走る咲夜に、僕は背を向けたまま苦み走った顔で、頭を押さえながら見えずともその相が伝わるだろう声音で、はっきりと言った。

 

「僕で遊んで、楽しいものかい?」

 

「大丈夫、天井の染みを数えていれば終わりますから」

 

「……意味は分かって言っているんだろうね?」

 

「実は知りません」

 

「……」

 

 なんて危険な少女だろうか。

 

「ただ、こう思うの」

 

「なんだい?」

 

 彼女の言葉の続きを待つ。今度馬鹿げた事を言ったら、もう四の五の言わず叩き出そうと決意して。

 もしくは――

 

「作りたいと、願ってしまうから」

 

 彼女の、どこか寂しげな声に少しばかりは胸打たれて。

 僕は振り返り、彼女の言葉の続きを待つ。

 

「何も無い過去だから、貴方達からすれば少ない先を、いろんな場所に残したい、と」

 

 危険な少女だ。危険すぎる少女だ。

 吸血鬼の従者で、吸血鬼の最愛の人間で。

 霊夢や魔理沙の友人で。同様、それ以上、聡明で。

 それ以上に、貪欲だ。

 先に死ぬと分かっていて、自身の居場所をまだ広げようとする人間は、長くを生きてしまう者にとって酷く厄介で残酷な存在だ。

 

「……君たちは短い癖に、太く生きるから、困る」

 

「大人になるのが早いから、わがままを沢山したがるのよ」

 

 居なくなってしまった時、心に抜けない楔を残していくから。

 

 多分、振り返るべきでは無かった。僕は、振り返るべきでは無かった。

 例え咲夜が真摯な声音で呟こうとも、泣き叫ぼうとも、今のように、寂しげな苦笑を浮かべてい様とも。僕は振り返るべきでは無かった。

 

 咲夜は浮かんだ苦笑を無理矢理消して、怪しく濡れた唇を動かした。

 

「そんなことより枕投げしましょうか」

 

「二人でやれというのか」

 

 台無しだ。

 

「人間はすぐに大人になってしまうから、わがままな生き物なの」

 

「頼むから今すぐ大人になってくれないか」

 

「私、もう大人です」

 

「絶対違う」

 

 結局、僕が折れて布団をもう一組用意させれた挙句、きっちり枕投げまでやった。

 それだけの話だ。

 何も無い、咲夜と言う少女が好き勝手出来る場所が増えたというだけの、そんな話だ。




これで手元にあるファイルは出し尽くしました。
が、一応完結タグはつけずにいきたいと思います。


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空気 読む

拍手作品ではないのですが、余りに短い実験作なのでこちらに。
いくさん2連発です


  《空気 読む》

 

 秋が運んでくる早い夜に、霖之助がそろそろ店も閉めようかとしていた頃、その女性はやって来た。

 

「あぁ、申し訳ないが、もう閉めるんだ。明日にでも来てくれないかい」

 

「嫌です。此処はお店なのですから、客をいつ何時でも受け入れるべきでしょう?」

 

「胡散臭いお客様はお断りなんですよ。さぁ、どうぞ出口へ」

 

「えらく横着な店なのですね……あ、これ良さそうですね。包んで頂けますか? 一つだけを」

 

「おかえりはあちらです、と言いましたがね。それとも、君のその耳は聞こえていないのか?」

 

 顔に馴染みも一切ない女性を見ながら、霖之助は溜息を零した。

 

「かなり高性能な耳ですが。そうですね、ここの埃が耳に入って、少々落ちたかもしれません。ありますか、耳かき」

 

「気を遣うべきだね、君は。まぁ、在るにはあるが……勿論、お買取頂くから宜しく」

 

「苦痛ですね……たった一度の為、部屋に在る耳かきを買い取るなんて……綿棒ならどうでしょう? ありましたっけ?」

 

「毛玉ならその辺に幾らでもあるよ。ほら、あすことか、ここ」

 

「ここまで自由気ままな店も珍しいですね……では、ちょっと私が頑張りましょうか。さぁ、そこを退いてくださいまし。さぁさ」

 

 さて、腕を捲くり袖を捲くりながら、女性は掃除道具を物色し始めた。

 

「さても妙な女性が居たものだ……あぁ、そこに在る道具で掃除するといい。あぁ、そこの物差し」

 

「したくても、これでは出来た物ではありませんよ? これで如何しろと言うのです」

 

「少しばかりでも自身を計るといい。それはそう言う道具だ。気に入ったなら買ってくれると嬉しいよ。君はそれで何度も計りなおせ」

 

「背は女性としては少々高めなので、余り計りたくはありません……そうだ、この店を潰して新築と言うのはどうでしょうか、いっそ」

 

「そんな事をして僕に何の利益が……いや、もう良い……兎に角、また明日にでも来て下さい、明日」

 

 溜息をまた吐きながら、霖之助は女性にそう言う。

 

「確かに、それでも良いでしょう。貴方は早く店を閉めたい。私は店を見たい。これで手打ち」

 

「ちっとも手打ちじゃないよ。いや、と言うかだね、君は誰だい? 挨拶くらいできないかい? 挨拶」

 

「つまり、店主様は私の全てを知りたい、と……全て? 構いませんが、聞きたいですか? 全て?」

 

「提案がある……一つ道具を上げるから、帰ってくれ。早々と」

 

「と、言われましても、私は買い物にきた訳で御座いまして……それに、もっと優しく接してくださいな」

 

 なんとも言えぬ妖艶な流し目だったが、霖之助にとっては正体不明で夜分に転がり込んできた迷惑な客でしかない。

 

「何を言うかと思えば……優しくしてほしければ、まず君の正体を明かして貰えないものかな。まずはそこが第一だろうに」

 

「兄さん……忘れたんですか? 私ですよ? ほら、遠い日に一緒に草原を駆けた、遠い記憶の片隅に追いやられた貴方の雌犬」

 

「縫い針を取ってくるから、ちょっとそこで待っていてくれ。大丈夫、すぐ持ってくるからね」

 

「姉さん、それで何をなさるお積りですの?」

 

「脳に百本ほど刺すには丁度良いだろう、縫い針は」

 

 儚むような顔を霖之助に見せ、女性は呟いた。

 

「はて……縫い針にそんな使い方が在ったでしょうか……仮にも道具屋の貴方が、そんな間違った遣い方をなさるなんて……なんて無慈悲」

 

「人にそんな使い方をさせているのは君だ。姉だの兄だの無慈悲だのと…………あぁ、じゃあこうしよう、あすこにあるナイフ」

 

「ふふふ……ご冗談がお上手な方なんですね。さぁ、このナイフは片付けましょうか、あちらの方へ」

 

「平穏を脅かす存在ばかりが店に来る……もういい。歩いて帰りなさい。徒歩」

 

「本当は嬉しい癖に……可愛いですよ、ご主人様」

 

 目蓋を強く閉じ、霖之助は首を横に振った。

 

「また聞きなれない言葉で呼ぶ……兄だ姉だご主人様だと、僕を如何したいんだい、君」

 

「未来の私の旦那様、なんてどうなんでしょう? あ……、今胸がときめきました。これがドキドキハッピータイム?」

 

「無視したいんだが……言わせて貰おうか。馬鹿め」

 

「面と向かってそんな事を言われるなんて……流石私の見初めた方……私もう、何されても良いかも……」

 

「もっと自分を大事にしてくれないものか、僕の精神的な苦痛削減の為にも。いやもう、呼ぶべきか、医者」

 

 ややもすれば、萎えようとする気勢をどうにか奮い立たせ霖之助は言葉を打つ。が、先制攻撃は戦場の常套である。先を越された。

 

「や……そんな、いきなりお医者様を呼ぶなんて……まだお腹にややこは居ませんのに……もう、困ったご亭主……」

 

「結納もおさめていないのに、何故いきなり夫扱いか。君、本当に力尽くで追い出すよ?」

 

「宜しくお願いいたします。何分伽は初めてですので、粗相をするかと思いますが……頑張りますから」

 

 埒の明かぬこの会話に、いい加減霖之助は焦れる。だから彼は、最初に戻ることにしたのだ。

 

「来訪の理由は、なんですか、お客様? ただ遊びたいだけなら、もう夜も遅いからさっさとお帰り」

 

「理由……ですか。ここに珍しい道具があるとお聞きまして。つい立ち寄ったのでございまする」

 

「累の割にはあっさりとした理由だね……まぁ、誰が教えたのかはいずれはっきりさせるとして……あぁ、いずれ」

 

「冷酷な仕打ちはご勘弁差し上げてくださいまし……爪をゆっくり剥ぐ程度で宜しいかと……そぞろ」

 

「碌な物じゃあないね……君も。なんとなくでそんな事をしろと君は僕に言うのかい? そんな事をやりそうに見えるかい、僕は?」

 

 訳も分からぬ会話のまま、彼は彼女に聞いた。早く終わらせたいのなら、それは悪手に他ならないのだが、彼の場合は口が動くから仕方ない。

 

「私からなんとも……でも、そんな貴方様も私は愛せますよ? さぁ、一緒に白寿まで祝いましょう。さぁ、これにサインを」

 

「おもむろに婚姻届を出されてもね……それに白寿も何も……あぁもう霊夢、来てくれ……君が解決すべきことだ、これは……異変だ、異変」

 

「んー……実はその霊夢さんに、この店を聞いたのですよ、私……さて、これで……クリア?」

 

 二人はゆっくりと頷き、手を握り合った。

 

 

 

     で

 

 

 

「……で、君は本当に、何か道具を買いに?」

 

「勿論です。途中から意図に気付き、遊ばせて頂きましたが」

 

「なるほど……回転が速いね、君は。また来ると良い。君なら歓迎しよう」

 

「あら、嬉しいお言葉ですこと……でも、怒られてしまうかも知れませんね?」

 

「?」

 

「ふふふ。さて、では少し掃除をしましょうか」

 

「……そっちも、本当にやるのかい?」

 

「勿論です」

 

 この夜、香霖堂にやってきたこの女性――永江衣玖が、その後も足繁く店に通い、五年後、森近衣玖になる等と誰が予想出来ただろうか。

 

 縁は異なもの。

 

「旦那様、あなた、おまえ様、ご主人様、兄さん、姉さん……ねぇ、どれが宜しいと思われます?」

 

「とりあえず後ろ三つは却下だ」

 

「まぁ」

 

 なるほど、その通りだろう。

 

 

 

 

 

 ――了

 




え→へ
お←→を
わ→は


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深海にいるからって静かだとは限らない

 

 頭上に在った天は徐々に傾き、紅に染まって落ちていく。それに伴い雲も空も赤くなって行く様は酷く心を落ち着かせ、反面寂しくもさせた。

 そんな空を、香霖堂の小さな窓を開け、店主――森近霖之助は何をするでもなく眺めていた。

 

 枯れ木を凪ぐ風は冷たいのだから、日が落ちれば窓を閉めなければならない。賢者の気まぐれか、それともただ忘れているだけなのか、未だ足されぬ灯油では、ストーブも赤々と灯る事も許されず、せめてと用意した湯飲みの中のお茶も、既に冷めて久しい。

 

 それと分かっていても、心持つ生物の一人として、霖之助は窓を閉める事が出来なかった。幻想郷に許された小さな人里から離れた、温もり少ない寂寞たる世界――香霖堂という彼の自身の居で、彼は一人息を吐いて沈み行く天を見つめ続ける。

 

 ――寂しいのだろうか。

 

 空にある紅い色の消え行く太陽を眺めていなければ、時間も潰せないほどに、寂しいのだろうか。

 

 自身の問いに、自身が答えられない。恐らくそうなのだろうが、それをそうだと認めるには、彼は未だ若すぎた。

 何より、その寂しさが、本来彼自身好ましいと思っていた物であるとすれば、ますます認められる訳がない。

 

 ――五月蝿い巫女と魔法使いがここ数週間、来ていないだけの事じゃあないか。

 

 もう冷め切ったお茶を軽く嚥下し、喉を湿らせて尖り気味の顎をつるりと撫でた。

 いつも通り。五月蝿い妹分と、その友人が店に来ない。

 そんな、数年前なら当たり前だった静かな時間が、店内の中にあるだけの事だ。

 

 ――認めたところで持て余した時間と感情は消えやしない。

 

 ならば認めないほうがまだ有意義だ。と考えてしまうのが森近霖之助と言う天邪鬼な男の性質であるから、彼はやはり自身の感情の如何を決められない。

 だから彼は。

 

 ――明日、暇だったら無縁塚にでも行こう。

 

 仕入れと暇つぶし。一挙両得だと一人頷き、自身の考えに迷い一つなく賛同したのである。暇でないとしたらどうするか、彼は考えない。わざと、迂回し、触れない。

 

 が。

 

 そんな彼の無聊を神か仏か隙間妖怪が憂いたのか。香霖堂の扉に着けられた懈怠なカウベルが、音を鳴らした。

 

「すいません、幻想郷のち●こ係の小屋ってここでしょうか」

 

「帰れ」

 

 寂寞に、騒音来る。

 

 

 

 

 

《深海にいるからって静かだとは限らない》

 

 

 

 

 

 何やら意味不明な事を口にして入ってきた女性を、攻性に過ぎた瞳で睨みつけながら、霖之助は開け放たれたままの扉を指差した。意味としては、先程言葉にしたまま、即帰還命令である。

 が、今しがたあけた扉を背にした女性は、自身に突き刺さらんばかりの霖之助の指先を不思議そうに眺めた後、ぽん、と手を叩き

 

「申し訳ありません、東方界の大神ソ●マ様のウサギ小屋はここでしょうか?」

 

「良く分からないが不快だ。不快なんで帰ってくれないか」

 

 とりあえず思ったままを返す。何故か背中が一気に寒くなったとか妙な眩暈がした等と言う事はない。

 ないのだ。

 百合百合しい世界で苦労だけを与えられる男に同情したなんて事は、霖之助には一切ないのだ。邪魔だから視界に入ってくるな、なんて言われたこともないのだ。

 

「うちの総領娘様が元祖西遊記スーパーモンキー大冒険を突如プレイしたいとダダをこねまして……胡散臭い隙間賢者に聞けば、なんですか、こちらにもしかしたらあるんじゃないかと面倒臭そうに唾と一緒に吐き棄てられたものですから」

 

「ながいたびがはじまる」

 

「突然放り出されて、何をしろというのでしょうね、あれも」

 

「とりあえず、そんな物はないから出て行ってくれないか」

 

 女性は霖之助の言葉に、なるほど、と頷き、再び口を開いた。

 

「実はうちの総領娘様が府立メタトポロジー大学付属女子高校に突然入学したいとダダをこねまして……兎臭い診療所の女医に聞けば、なんですか、こちらに入学希望書類等がもしかしたらあるんじゃないかと面倒臭そうに唾と一緒に吐き棄てられたものですから」

 

「類似品の蓬莱学園で我慢しておきなさい」

 

「あれの小説の続き、いつ出るんでしょうね?」

 

「とりあえず、そんな物はないから出て行ってくれないか」

 

 女性は霖之助の言葉に、なるほど、と頷き、再び口を開いた。

 

「さて、うちの総領娘様が稲川淳二のHelp Me!を歌いたくなったと俄然ダダをこねまして……酒臭い神社の神様に聞けば、なんですか、こちらにカラオケバージョンがもしかしたらあるんじゃないかと面倒臭そうに唾と一緒に吐き棄てられたものですから」

 

「ハングマンのモルモットおじさんでも見て我慢していなさい」

 

「ところであれ、稲川淳二台詞だけなんですけれど幾ら貰ってたんでしょうか?」

 

「とりあえず、そんな物はないから出て行ってくれないか」

 

 女性は霖之助の言葉に、なるほど、と頷き、再び口を開いた。

 

「貴方の店には、何も無いのですね?」

 

 心底がっかりだ、と肩を落として見せるわざとらしい女性の姿に、霖之助は眉間の皺を一層深めた。 

 

「貴方の言う意味不明な物ばかりを求められても、如何ともし難いと言っているんですよ」

 

「帰ってくれと言われましたが」

 

「そうとも言いました」

 

「それはそうと、うちの総領娘様がメタモルパニックDOKIDOKI妖魔バスターズをプレイしたいとぬかしやがりまして」

 

「いや、無いから。そんな無駄に豪華な声優陣起用した初期PSゲームはうちには無いんで」

 

「……ないんですか」

 

 先程まで比ではないほどに、女性は肩を落としがっかりした。まるで自身が欲しかったような素振りにも見えたが、霖之助はそれを無視した。

 無視するより外無い。これ以上のメタな会話は、彼だって嫌なのだ。

 

「ところで……」

 

「なんでしょうか」

 

 それまでの空気を一掃し、女性は生来のものであるのか、それなりに生真面目な貌で霖之助を見つめる。空気に当てられた、という事もないだろうが、霖之助はその貌と相対するに相応しい相で応えた。

 

「前述したお三方の前に出る時、\ババァーン/ と言いながら扉を開けたら即弾幕が飛んできたんですがどう思われますか?」

 

「君はもっと上手に生きた方がいい」

 

「なるほど……」

 

 女性は自身の柔らかそうな顎に右手を拳にして当て考え込み、

 

「年下少ないですよねあなた方(笑)、の方が良かった、と?」

 

「泉下に沈みたいのなら実践するといい」

 

 霖之助は小さく息を吸い、姿勢を正してから最早香霖堂に必要不可欠となってしまった自身の椅子、その背もたれに全体重を預けるつもりでもたれかかる。そのまま、疑問を口にした。

 

「で、今日は?」

 

「ジンギスカンでしたが、何か?」

 

「…………何が?」

 

「今日の朝食ですが何か?」

 

「朝から……重い物を……」

 

「若いですから」

 

 そういいながら、何故か\ババァーン/と言いながら扉を閉める女性。やってくる為に開けられた扉は今閉じられ、香霖堂の中には霖之助と女性だけが佇む異界へと変わり果てた。

 つまりそれはなんなんだ、と彼自身思ったが、思っても意味の無いことである。

 

「僕は、貴方の朝食なんかに興味は無いんだ」

 

「三時のおやつはみかんの皮でした」

 

「食糧事情には興味を抱かされたけどもだな」

 

 そうではなく、と彼は首を横に振り、正面に佇む自然体の女性をにらみ付けた。

 

「今日は、どんな御用で来られたんですか、と僕は聞いたんだよ」

 

「珍しい道具屋があるから、偵察にいって来いと言われまして」

 

「総領娘様、とやらにかい?」

 

「はい」

 

 霖之助の問いかけに、にこり、と微笑むその姿は、実に可憐な物である。先程まで意味不明な言葉を繰っていたとは到底思えない。

 だがしかし、そこは幻想郷である。

 

「貴方の様な存在は、本当に困る」

 

 心底疲れた顔で、霖之助は溜息と共に零した。

 紅白の巫女にしても、あの白黒の魔法使いにしても、隙間妖怪にしても、悪魔の召使にしても、黙っていれば可憐であるが、その中身がどうであるか……言うまでも無い事だ。中と外が合致していない事は幻想郷では良くあることで、しかもそれらがどうにも彼と相性が悪いとなれば、自然に疲れた顔で溜息も出てしまう。

 

「……で?」

 

「でっていう?」

 

「いや、そうではなく。で、偵察した限り、どうだい? この店は?」

 

 一応、強がって鼻で笑いながら自身の店を指差してみたが、内心の疲労は隠しきれて居ない。そんな霖之助を不思議そうに眺めてから、女性は店内をぐるりと見回し……

 

「道具屋ですね」

 

「そりゃあ……どうも」

 

 完全に根元から折られ、霖之助は白黒調で項垂れた。

 分かりきった事をこうも爽やかに言い切る存在を、霖之助は多く知らない。これ以上知りたくも無いだろうが。

 

「外の物がある、とは聞いておりましたが……余りそれらしき物は見当たりませんが?」

 

「……ふむ」

 

 その程度は分かるらしい女性の言葉に、霖之助は気を取り直して背を伸ばした。

 

「だっこちゃん人形とか無いものでしょうか?」

 

 また項垂れた。

 

「……あったとして、どうするんだ……それを」

 

「前述したお三方にそれぞれ無理矢理装着していこうかと」

 

「君は冒険心が強すぎる」

 

「少年の様な目をされた貴方にそういわれたとなると、照れてしまいます」

 

 本当に嬉しそうに、口元を手で隠しながら微笑む女性に、霖之助は根こそぎ何かを奪われた様な気がした。気力やら体力といった物を、ごっそりと、だ。

 

「あぁ、そうだね、秘密基地に僕の大事なものは全部隠してあるんだよ」

 

「えぇ、そうだと思いましたよ、私」

 

 実際には秘密基地ではない。ないが、しかし。

 偶にお気に入りの道具を並べた倉庫に行っては、それらを眺め触れて時間も見失うとなれば、そこは霖之助にとっての秘密基地だ。おおよそ、間違いでもない。

 

「そうですね、総領娘様に報告できる内容も出来ましたので、今日は戻らせて頂きます」

 

「台風一過だ」

 

「お兄様」

 

「それは一家だ」

 

 自身の眼前に突如無言のまま手を差し出してくる女性の、その柔らかそうな手のひらを一応握り返す。もっとも、疲れた顔のままではあったが。

 

「いずれ、秘密基地を見せてくださいましね?」

 

「お断りだ」

 

 霖之助のそんな言葉に、ふわりと微笑んだまま女性は出入り口まで歩み、扉に手をかけて口を開いた。

 

「\ババァ――」

 

 隙間に飲み込まれた。

 

「……」

 

 突如現れた視界の片隅に浮かぶ空間の切れ目から、何やら生々しい打撃音が響いてくるが、霖之助はそれを無視して、未だ開けっ放しだった小さな窓を閉めて溜息を吐いた。

 

「だから言ったじゃないか……上手に生きた方がいい、と」

 

 どうでも良い事なのだろうが、心底からそう呟いた。

 

        ●

 

「今月分の灯油、確かに」

 

「えぇ、どうぞ」

 

 赤々と灯るストーブに両の手をかざしながら、霖之助は彼の隣で静かに佇む賢者の姿を眺めた。

 

 いつも通り、胡散臭いまでに美しい胡散臭い賢者がそこに居るだけだ。それ以上でもそれ以下でも無い。

 ただ――

 

「……あら、何か?」

 

「いいえ、何も」

 

 常より若干草臥れて見えるのは、霖之助の気のせいであるのか、それとも先日やってきた女性客による物か。聞くわけにもいかない以上は、拙くとも咳の一つもして目を逸らすと言う演技しか選択肢は無いのである。

 巻き込まれては溜まった物ではないからだ。

 

 誰も何も話さない。

 元々、そう会話が多い関係でも無い。

 偶に霖之助の説を、正すでも無く認めるでもなく、ただ聞いているだけの隙間賢者の間柄でしかないのだ。霖之助としては、一応賢者と呼ばれる彼女に尊敬の念がないでもないが、それ以上に苦手意識が先に立つ。

 このような場ではない限り、会いたいとも思っていない。見目麗しい女性を前にした、そんな彼の在りかたは間違いかもしれないが、女性として見るには隙間妖怪――八雲紫は性云々を超えてしまっている。

 

 そんな霖之助の思考が透けて見えたのか、紫は珍しく常に相に浮かべている薄い笑みを払い、扇子で貌の半分以上を隠して霖之助の眼前まで、その顔を近づけた。

 

「……な、なんだい?」

 

 となれば、驚く。当たり前の事だ。

 常に無い事は、椿事だ。椿事が、美しい顔が、扇子に隠されて半分だけとは言え眼前に在るとすれば、しかもそれが八雲紫の少々冷たい瞳となれば、彼にしてみれば驚き以外何を相に出せと言うのだろうか。

 

「……女、でしてよ?」

 

「……はぁ?」

 

「……若い、美少女でしてよ?」

 

「……はぁ」

 

「まだまだ水を弾く珠の肌でしょ?」

 

「はぁ」

 

 気の無い霖之助の返事であったが、彼女はそれで満足したらしく、付き合わせていた顔を引っ込めていつも通り、薄い笑みで胡散臭い空気をまとって満足そうに頷いた。

 

「えぇ、"はぁ"で結構よ。その朱に染まった頬が、何よりも雄弁に語ってますもの」

 

 扇子に遮られた紫の口元に、からかいを過分に含んだ笑みを幻視して、霖之助はそっぽを向いた。

 

 弱い生物に見えた。

 

 視界一杯にあった紫の顔を、一瞬、そんな風に見てしまったのは事実だ。女性らしい物とも見え、美しいとも思え、柔らかそうだとも感じた。

 可憐だと、確かに、そんな気がしたのだ。それこそ、気の迷いである。

 彼は強く首を横に振り、迷いの一切を外へと放り投げた。その姿がまた、紫には面白い。

 くつくつと、くすくすと微笑む姿は、歳相応に見えるのだから、霖之助は自身の眉間を軽く人差し指で叩いた。

 

 そして、眉間を軽く叩く指先の音と同調して、

 

「\ババァーン/」

 

 叫びながら香霖堂の扉を開けた桃のついた帽子を被った少女目掛けて、紫はスペルカード置きっぱなし式霖之助抱き枕を放った。

 

 ぎゃばー、と吹っ飛んでいく少女の後ろで、先日やってきた女性の、総領娘様ー今夜スイカの皮ですから早く戻って来て下さいねー、とやる気の欠片も無く腕を振って見送っている姿が霖之助には見えた。見えてしまった。

 あとそれはカブトムシの餌じゃないのかと思ったが、もうどうでも良かった。自身の姿がプリントされた抱き枕の存在も、最早地平の遥か彼方向こうである。

 何の用途でそれが用意され、何故そんな物を八雲紫が持っているのか等、興味も無い。興味を持ってはいけないのだ。

 

「とりあえず」

 

「はい」

 

 いつの間にか、自身の隣に平然と、自然と佇んでいる女性に、彼は言った。

 

「その入り方は危険すぎる」

 

「幻想郷は本当に恐ろしい所です」

 

 そんな世界で平然と、天然に住まい過ごす彼女はなんであるのか、彼はもう考えない事にした。

 

「と、言いますか。本当に実践しながら入るとは思いませんでした」

 

 幻想郷は恐ろしい。

 視線を逸らした先から響き渡る生々しい打撃音をBGMに、霖之助は空へと視線を移した。

 

 天は傾き、色は紅に染まり、それでも寂寞はどこにもない。

 

「総領娘様ー、そこでトンファー置きっぱなし式ブレーンバスターですー」

 

「よしきたー!」

 

「やらせるか、小娘ぇッ!!」

 

 

「……」

 

 あるはずも、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後日。

 霊夢と魔理沙が駄弁りにやって来た際、妙に優しい霖之助が居たと言う。




今使ってるPCを色々触っていたらかなり昔に書いた拍手用のとかサイトだけで公開してたもんが色々出てきました。さて、どうしたもんか……


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