神の存在証明 (ドブ)
しおりを挟む

覚醒

俺には普通の人間とは違う、一つの力がある。

 

 

その力は有象無象の大衆の中には和として染まらぬ排斥されるべき異端であり、悪と言っても差支えない力だ。

 

 

何故、そんな力が俺にあるのか、と何度も悩んだこともある。俺のこの力は決して身につけようと思って身につけたものではなく、日々の絶え間ないなんでもない日常をおくる最中で、自然と形成されていった力なのだ。望んだことはない、と言えば嘘になる。俺は確かに日々、ただ何を思うわけでもなく無知蒙昧と過ごす日常に退屈さを感じていたし、それを脱却する力を欲しなかったかと言えばそれは真実望んだことなのだ。

 

 

事実生まれた力が、決して俺が望んだ方向のものとは違う力だったとしても、自ら望んでいたことだけは、受け止めなければならない真実だ。

 

 

最初、この力を得たときは、正直言って、悦に浸っていたと思う。

 

 

当時の俺はその力をただ単純な力としてしか見れず、その本質を見誤っていたのだ。

 

 

結果俺は、その力によって、振り回され、俺はある事件を契機にようやく、自分がやってはいけないことをやっていたんだという罪の意識を得た。それはきっとごく普通の人間にとっては当たり前のような常識で、けれども俺は特別な力を得た人間だからと、超えてしまった境界線。その咎として与えられた罰はあまりにも重いものだったが、自業自得だと、俺は思っている。

 

 

それ以来、俺はこの力の使用を控えてきた。

 

 

この力は決して、社会には染まらない。自重しなければ身を滅ぼすことになるのは自分自身。結局は自分に跳ね返ってくる不利益を直視せずに、ただ短絡的に力を使うことはあまりにも愚かなことだから。俺はこの力を封印した。

 

 

それでも、ときどき、衝動のようなものが襲ってくる。

 

 

この力をツカイタイ。

 

 

この力の限りを使って蹂躙シタイ。

 

 

それらは、腐りそうなほど甘い臭気と一緒に俺にささやいてくる。

 

 

――――ナラバ

               ツカッテシマエバイイ――――

 

 

そのたび、俺は全身が振るう衝動に抗うよう、身を沈め、強く目を見開き、右手を握り、思うのだ。

 

 

この身が猛る想いよ、霧散せよ、と。

 

 

それはある種の自己暗示で、呪文でもあった。何回も何回も繰り返すことで、培ってきた経験ともいえるそれにより、俺は衆目の場でその力を晒すことなく、衝動を抑えることに成功していた。

 

 

始めは大変だった。何せ毎日のようにその衝動が襲ってくるのだ。身体を焦がす熱のような衝動に俺は悩まされた。何回も、何回も、この身が猛る想いよ、霧散せよ、と繰り返した。苦難の日々だった。しかし、俺は何度も、あの力を使った後の無気力な状態を思い返し、耐えた。

 

 

週に何回かのペースで今でもその衝動は襲ってくる。しかし、これは生涯を通して向き合う問題であり、俺はこの衝動に今後も悩まされているのだろう、と達観した思いを持てるだけの精神的な余裕も持てた。

 

 

これは、力の制御に成功したと言ってもいいのだろう。

 

 

本来であれば、適度に使用できるだけの余裕もあったらよかったのだろうが、今の俺はそこまでは望まない。何より俺の望んだのは、この力に振り回されることのない平穏な日常なのだ。俺の日常が力の差し挟む余地のない平穏なものであるのならそれでいい。

 

 

俺はそう思った、いや、そう思っていた、と言った方が適切なのかもしれない。

 

 

俺のこの異常な力は、人に知られれば、人を寄せ付けず、人に嫌悪され、軽蔑されるものだと思っていた。

 

 

今までの経験からも、常識的な観点から言ってもそうだ。

 

 

しかし。

 

 

俺とは違う選択肢をとった人間もいたのだ。

 

 

そいつらと出会ったことは俺の人生を変えた。

 

 

その人間は俺と同じように“異端”に属する人間だった。俺のように特殊な力、こそ持っていなかったが、明らかに彼の行為は悪だった。そして、その力に酔いしれているように思えた。その人間と友人になった俺は偶然にもその現場に立会い、咎めたのだ。

 

 

過去のそういう経験がある身からして、その行為は友人として看過しがたいものだった。

 

 

しかし、彼は言ったのだ。

 

 

それがどうした、と。

 

 

悪だからなんだというのか。この行動は自分の欲望のままに行った、自分にとっては肯定されるべき正義であり、他者への評価など求めていない。例え、他者に悪と呼ばれようが、自分は気にしない。世界が俺を悪だというのなら、よろしい、俺はこの鬼畜の道を歩んで見せよう。例え、一人になったって俺は、俺が誇れる自分である。俺が誇れる俺をけなすような世界なら、俺は一人この立ち位置にて自らが正義によがり狂い、高らかに謳いあげよう、と。

 

 

正直言ってあほらしかった。

 

 

俺のソレに比べれば、彼の行いは、ひどく矮小なもので、そこまでの主義主張が通せるほどのものではなかった。良くも悪くも常識の範囲内で留まる彼の行為はただの小悪であり、その大層な主張に割に合っていない。ギャグなんじゃないかと思った。

 

 

しかし、語る彼の顔はいたって本気。

 

 

そのギャップに俺は呆気にとられ、彼の行いの是非の結論を出すことなく、その行いを見届けてしまった。

 

 

無論、彼はこの後、排斥されることになる。

 

 

しかし、排斥された後の彼の顔つきはどこか精悍だった。

 

 

排斥された彼にもはや退路はなく、だからこそふんぎりがついたのだ、と彼は言っていた。これで畜生道を迷いなく進める、と。

 

 

俺は彼から距離をとった。いや、一般的な人間として当たり前の行動だろう。他の人間もそんなような感じで対応していた。しかし、俺は他の人間のそんな感情と合わせて、どこか彼の前に顔を出すことへの居心地の悪さを感じていたのだ。

 

 

自らの欲求に逆らわず、排斥されたとしても、その道を突き進んだ彼がまぶしく思えてしまったのだ。

 

 

こんなことを思うのはいけない、と自制の声を理性が発するも、その眩さの前にはトンと小さくなっていく。

 

 

ああ、こんな風に感じるのは、俺が、この力を使って蹂躙したいからなのだろう。

 

 

抑え込んだ衝動が、沸々とよみがえってきていた。

 

 

やはり、無理矢理に抑え込んでいたが、俺が肯定するべきなのは、いや、肯定しているのは、この衝動なのだろう。何百遍の言葉も積み重ね、理を説こうが抗えない原初の欲求は俺の中で確かに膨らみ始めていた。しかし、その一方で過去の失敗から学んだことがあるのも事実であり、それがあと一歩のところで俺の欲求に寸止めをかけていた。

 

 

そこで出会ったのが俺のもう一人の友人だった。

 

 

彼もまた、俺や排斥された友人のごとく“異端”の側に属していた。しかし、彼には失礼かと思うが、あまりに拙つたなかった。その欲求の発露の仕方を知らないように、赤子のようにその欲求を言葉や表情に出す。ここまで人生おくっていれば、それなりの処世術もあるだろうに、何も知らぬ赤子のように欲求に対しまっすぐでそのくせ、そのやり口は未熟に過ぎる。

 

 

しかし、彼は、排斥された友人とは違った意味で眩しかった。排斥された友人が自覚ありきの背徳者であるのなら、彼は自覚のない背徳者だ。人間が醜悪だと断じ、建前の後ろに隠そうとするその感情にただ従順に従うその姿は違った意味で眩しかった。

 

 

二人の眩しさにあてられた俺は激しく迷っていた。

 

 

例え排斥されようとも、彼らのように欲求に従順に生きるべきか。

 

 

それとも、今まで通りこの力、欲求を隠し生きていくか。

 

 

選択が迫られていた。

 

 

そんなときだったのだ。

 

 

ふと、目をやった、その先にいた、少女。

 

 

まだ年端もいかぬ、おおよそ、小学校高学年、もしくは中学一年生ぐらいの歳頃か。白く少し癖のある髪質ながらのまっすぐとおろした髪。無表情ながらに眠そうな、幼さがまだ目立つくりくりとした目。丸みを帯びた小さな鼻。啄めば消えてしまいそうな、朱の唇。

 

 

俺の中で何かが爆発した。

 

 

いや、何かが目醒めたと言っても過言ではない。年端もいかぬその少女を見た瞬間、突如俺の中の衝動が抑えきれない強大なものになって、俺の理性と言う殻を破ったのだ!! 

 

 

俺の息はすでに荒い!! はぁはぁ、と何もしてないのに、ただ一人の少女を見つめて息つくその様子はまさに変態であっただろう!! 

 

 

しかし!! 俺はもはや止まれそうになかった!!

 

 

この世のどんな女性を見たときよりも興奮した!! 滾った!! 

 

 

変態の友達と言う最後の防波堤までぶっ壊されていた俺に隙はない。

 

 

俺はあの少女をあらゆる手段を使ってでも蹂躙したかった。

 

 

そう、ようやく俺は覚醒した。今までは、その異常な性癖に気づかぬふりをしていた。公園で遊ぶ少女を見た日には衝動が増すことを自覚していたというのに俺は気づかないふりをしていたのだ。なんと愚かなことだろう。それはまるで、吸血鬼が満月の夜に力を増す、と言う事実を無視するのと同義ではないか。自らが一番力を発揮できる分野に何故今まで目を瞑ってきたのか。

 

 

世間? それがどうしたというのだ。わが親友二人があんなにも正面切って欲求を訴えているというのに、今さら俺に何を躊躇うことがあろうか。

 

 

素直に認めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はロリコンだったのだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふっ、YES、ロリータ、NO、タッチ?

 

 

NO!!NO!!NO!! YEEEEEEEEEEEEES,ロリィィィィィータァァァ!!! タッチ!! タッチ!! タッチ!! ロリィィィィィィィィタァァァアァアア!!!

 

 

もはや俺は、ロリータ分を存分に吸ったせいで酸欠状態だ。全力疾走した長距離走の後のごとく息が切れている。しかし、俺のあくなき衝動は俺の行動を加速させる。

 

 

すでに俺の“力”は蛇蝎のごとく彼女を捉えようと、発動している。

 

 

しかし、ブランクが大きすぎたせいか、“力”はうまく作動せずに、俺はやきもきする羽目になる。

 

 

寸止めされた分、俺の欲求は、頂点にまで高まった! 

 

 

中途半端に果たせないその欲求を暴走させたい、とさながら暴れ馬を幻視させるような勢いで、俺の股間を突き上げるそれに、しかし、俺は地に膝を突き、うなだれた。

 

 

嗚呼、俺はなんと無力なのだろうか。

 

 

俺が、この力を恐れたせいで、俺は肝心なところで足踏みしている。こんなところで異能を使うなど、なんという才能の無駄遣いだろうか、と言われても構わない。しかし、俺の恐れていた力は、きっと、このときのためのものだったのだ。この力が持つ理不尽で蹂躙する非日常をもたらすのではなく、ただ一人の少女のために使う、日常の延長線上にあるちっぽけな非日常を。他人から見ればくだらない、と思われるかもしれない。その力を使えば、もっと大きなことができるだろう、と呆れるのかもしれない。

 

 

けれど、俺の力はそうやって使うべきだったのだ。

 

 

今、運命の少女に出会い、ようやく、俺はそのことに気づけたのだ。

 

 

俺の中で以前まで燻っていた衝動が消えていることが何よりの証拠だ。

 

 

嗚呼、俺は今覚醒している。

 

 

ロリコン、という名の賢者に。

 

 

しかし、だからこそ、俺は無力を痛感せざるを得ない。

 

 

こんな時に役に立たない、俺の力に対して。

 

 

今まで何を俺はやっていたのか、と。

 

 

賢者の俺は、深い失望を自身に覚えていた。

 

 

そんな俺の賢者の凪いだ水面のように平静を保った心に一滴の水滴が垂れる。

 

 

——―——————————欲すか。

 

 

それはさながら悪魔の囁きのようだった。

 

 

ドロリと、とろみのある甘い蜜が融け落ちるように、ほんのりと淡く、ぞっとするほどの陶酔感に心を包み上げる。

 

 

—————————————―求めよ。■を、■の御力を尋ね、求めよ。

 

 

貪り食らうようにその陶酔感に身を任せ酔いしれると、聞こえる声はさらにはっきりと、力を持った言となる。

 

 

別世界に誘われるような飛躍感が足の裏で強く踏み込むような溜めとともに、今か今かとその時を待ち望んでいる。別世界への階段が俺の足元で作られていく。ふわふわとした足元がおぼつかないような感覚ではない。確かにそこにいけるのだという確信。俺の足はすでに上を向き、その眼もはるか天上の空へと向かっているというのに、地に這いつくばる俺に不安定な浮遊感などない。

 

 

天上へと続く階段の一段目はすでに俺の足にかかっているのだ。

 

 

先ほどまで抱いていた失望感など露知らぬと言った希望溢れる展望が俺の前に広がっている。

 

 

———————————————声をあげ、我に向かって叫べ!! さすれば汝が欲すところを得られん!!

 

 

違和感など何もなかった。

 

 

これはきっと神の導きなのだ、とそう信じられた。俺の真摯な欲望にこたえてくれた神の慈愛なのだ、と。それがどれだけ不条理なことであってもその一言で片づけられてしまっていた。理性が死んだわけではない。正常な判断ができなくなったわけじゃなかった。

 

 

ただ単に論理を超えた力が其処に在っただけ。

 

 

そして、彼が……………………………………ロリコンであっただけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようじょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおぉおぉぉおぉぉおおおぉおぉぉおぉおぉぉおぉおぉぉお」

 

 

 

 

 

 

そうして、彼は…………死んだ。

 




感想もらえると励みになります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

転生

雨が身体を薄く弾いていく。

 

 

よみがえる記憶は忌々しい魔王との戦闘。

 

 

我がその罪深さゆえに地獄へとなる贖罪の地に放逐した悪魔たちの中から飛びぬけて邪をその身に宿した魔王。いつしか彼奴らは我が司る聖なる力と背反する邪の力を司るようにまでなり、それだけには飽き足らず、我が箱庭たる人間界に干渉することで、我らに牙を剥いた。

 

 

聖を保ちし、人間たちの中からも、いつしか魔王たち悪魔の邪に染まる者も現れ、その聖と邪の大勢の変化を機に我が率いる天界の天使勢と、魔王が率いる、悪魔勢、そして天より堕ちし堕天使勢との三つ巴での戦争が勃発した。

 

 

そして長きにわたる三つ巴の戦争にどの陣営も例外なく疲弊し、我が率いる天界の天使のその具合を見ていた我も現状を憂いていた。さらに言及すれば、我自身、天界と人間界の消耗と同じくして、力が減衰していた。このままでは、泥沼の戦争はさらに長期にわたり、我らを苦しめることはわかっていた。

 

 

その考えは悪魔たちを率いる魔王も同じであったのだろう。事実、彼奴ら魔王が四の内の三はすでに我らと、堕天使勢との戦いで、死を賜っており、残る魔王はルシファーのみであった。もちろん、そうなるまでに我らも堕天使どもも相応の代償を払っており、堕天使勢は、幹部以外のほとんどの手足を失い、壊滅状態。もはや戦えるだけの余力を持っていない。

 

 

あともう少しで幕引きであった。

 

 

ここで、我かもしくは魔王ルシファーが尻込みし、決戦を拒めば、泥沼化するだろう。しかし我らは戦争を主導したものとして、お互いに引けぬところまでやってきており、我もルシファーもその矜持から、決戦を拒むような真似はしなかった。

 

 

忌々しい魔王との邂逅。

 

 

我はある意味、認めるのも癪だが、驕り昂ぶっていたのかもしれん。邪を司る魔王の内の三柱はもはや死んでいるのだ。対して聖を司る我は力こそ衰えているものの、こうして存命している。あともう一柱。それを殺せば終わるのだ、と。

 

 

神と魔王。

 

 

不倶戴天の我らはその身が宿す聖と邪をもってして戦い、我が勝利をもってして、その威光は光となり遍く世界を照らし、あらゆる邪を打ち砕く、そう喧伝する戦いになるはずだった。

 

 

しかし、魔王はある意味で分をわきまえていたのだ。

 

 

決戦の地にて彼奴がしたことは単純。

 

 

邪の力による自爆だった。

 

 

我はその煽りを直接にくらい、我が聖の力は、邪の力に犯された。

 

 

絶対神聖を誇る我が力は、消滅の域にまで達していた。

 

 

屈辱だった。魔王、悪魔風情に一敗地にまみれたことが。

 

 

しかし、何より、我がいなくなった後の世界の事が心配だった。

 

 

我は聖書に記されし神。他の神話体系の神々とは違い、世界を監督、管理し、そこに住まいし人間たちに慈愛を与える神。そんな我がいなくなったら、世界はどうなるか。世界を管理する『システム』があるからしばらくは保つだろうが、聖を司る我、そして邪を司る魔王がいなくなりある種の均衡が崩れた世界で、それらの均衡を前提としていた『システム』が正常に動くとは思えない。あまつさえ『システム』がそのまま稼働することこそ、害悪になる可能性がある。

 

 

だから我は死ぬわけにはいかなかった。

 

 

それが我の存在意義であるが故。

 

 

我は消滅間近の存在全てをかき集めて、我の存在を保持する、ある一つの賭けをした。

 

 

我が可能性の具現。かつて我が世界を管理するうえで、人間たちに託せし、力の集積。神器、セイクリッドギアシステム。そこに我の意識、我の力をシステムのバグとして潜り込ませ、そのままそのバグを一つの神具としてしまおう形づけようという不確定要素の大きい博打。

 

 

しかし。

 

 

我はその賭けに勝ったのだ!!

 

 

 

 

 

 

「クックック、フハハッハッハハハッハハハハハハッ!!」

 

 

 

 

 

我は表現しえない至福の喜び、神の福音、を爆発させる。それも当然と言えよう。何せ我は分の悪い賭けに勝ち、何十年という雌伏の時を得てようやく、今ここに再び降り立つことができたのだから!!

 

 

しかし、我はある変化に気づき顔をしかめた。

 

 

「ちっ、予想外、器に引っ張られてるようだな。忌々しいっ」

 

 

本来神の福音と表現しても過言ではない我の愉悦は、人間という器に引っ張られて、下卑た笑い声になっていた。

 

 

だが器に引っ張られるのはある意味で仕方がないことだ。あのときは意識が薄く、あまり考えていなかったことだが神具としてこの我が存在している以上、神器が人間の存在中枢にある以上、感情や思考、道徳観念が器に引きずられるのは当然だ。

 

 

例え、この人間の器であった意識が消滅していたとしても、だ。

 

 

「本当に忌々しいが、我に器を提供してくれたのだ。そのくらいの影響は許容すべき、か? いや、違う! 人間なら我に器を提供できることを光栄に思うべきで! 我が許容することなどない! 彼奴に譲歩すべき点などないっ」

 

 

我は彼奴の感情、思考に自らが影響を受けていることに気づき、それを断ち切るように、我自身の考えを吐き出す。我がたかが器の人間に影響を受けていることに反吐が出そうだった。もちろん、ある程度仕方がないことは我も理解できているのだ。だが、この胸のむかつきは取れそうにない。

 

 

これが、人間の感情というやつか。理解できても納得はできない、とでも言うのか? これは。不条理に尽きるな。さすがは人間といったところか。神である我からしてみれば、忌々しくもあり愛おしくもある。矛盾しているような感情ではあるが、これは天上にて世界を管理していたころから変わりない、人に抱く我の感情だ。我の祝福を受け聖なるが聖人になることもできれば、反対に悪魔どもの誘いによって悪魔になることもできる。まさしく両極端の可能性を秘めた矛盾した存在であるがゆえに、人間はこうもややこしい感情を持っているのだろう。

 

 

しかし、この反発はこの器の生来の下劣さから来るものでもあるのだろう。

 

 

そもそも我が神であるにせよ今の我が神器に存在を封ずることで存在を保全していることは間違いない。その神器が自らの器の肉体を乗っ取るなどという離れ業、本来であれば成立しない。

 

 

しかし、何事にも例外はある。

 

 

神器のなかに龍、ないしはそれに準ずる生物を封ずることは、何も我が初めての例ではない。あの忌々しいニ天龍などはその多くを含む例の中でも顕著なものであろう。何せ神具に封じた後も自らを宿す器に狂気と闘争本能を植え付け、それぞれ争いあっていたのだから。しかし、そのおかげで、生物が宿ったイレギュラーな神器の前知識があり、今ここに役立ったのもまた事実。

 

我が注目したのは赤龍帝、ドライグが宿主に対して行った力の譲渡だ。

 

 

本来の龍の体躯の一部を、宿主の体の一部を代償として捧げることで顕現させる。あれは宿主の強い欲望を引き出し、その意識をもってして、神器の深層に誘導し、代わりに赤龍帝の存在を器の表層に紛れ込ませる、という荒業だ。

 

 

しかし、なかなかどうして、神器の身である我には興味深い事例だった。うまくやれば、そのまま器を乗っ取ることができるのだから。

 

 

当初、神器として覚醒した我は、現状の危うさに気づいた。あのときは、とにかく我の存在を保持することに精いっぱいであったせいで気にも留める暇などなかったが、我が神器である以上、我が宿った器に、我の神の力が悪用される可能性がある。

 

 

たかが人間に、我が力の存在を知られれば、どうなるか。

 

 

想像するだけで恐ろしかった。

 

 

しかし、このまま現状の流れに身を委ねていれば、どうなるかわかったものではない。そう考えた我が、赤龍帝と同じように器を乗っ取ろうと決断するまでに時間はかからなかった。

 

 

問題は、我が意識を乗っ取るまでの欲望をどうこの宿主から引き出すか、だ。これに関してはどうしようもなかった。何せ我が器に働きかけようものなら、最悪、己が内に宿る絶大な力に気づいてしまう。それこそ、我が最も憂慮すべき問題である。そうなってくると我自身による手出しができるはずもなく、時を待つ以外に方法はなかった。我にできたのはせいぜい、外の堕天使や、悪魔どもに我が神器の存在を気づかれぬよう、ただひたすらに宿主の中に身を潜めることだった。

 

 

そして、好機はやってきた。

 

 

経緯や事情は、身を潜めていた関係上、知ることはできなかったが、我が神器を震わせるほどの絶望が感じ取れたのだ。

 

 

長い雌伏の時に嫌気が差していた我は、器に働きかけることを決意し、宿主の絶望に我が救済の存在を深く働きかけながら、欲望を引出し――――――――それは成功した。

 

 

しかし、だ。

 

 

意識を乗っ取ってみて、脳を探ってみて初めて事情が呑み込め…………生理的な嫌悪を覚えた。

 

 

一人の幼女のために死ぬとは…………お前はどこまで人間を超越したロリコンなのか、と。

 

 

ちっ、言葉までもが、俗に塗れてしまっている…………忌々しい。

 

 

これが一人の少女を救いたい、とかであれば、我も神として、その清廉さに慈愛を注いだであろう。

 

 

しかし、こいつが抱いていたのは、ただの肉欲である。その過程に何やら『yes ロリータ no タッチ』とかいう訳のわからんアガペーにも似た大きな感情を感じたが、なんか最終的にはタッチ! タッチ! タッチ! とか下賤な感情を振りまいているのである。

 

 

肉欲のためにあれほど大きな欲望を引き出し、我が召還されるなど、我が器を乗っ取れたことに喜ぶべきか、人間の猥褻さに悲しむべきなのか、もうどうしていいかわからない感じである。

 

 

そんな器に感情、思考、道徳観念が引きずられている、もう忌々しくてたまらない。

 

 

「ああ! 忌々しい!!」

 

 

我は己の明確な変節を感じ取り、粗雑な髪をかきむしる。指が梳いていくごわごわとした髪質にさえ、我は寛容という言葉を忘れたかのごとく苛立ちを感じた。ふと、いくつも波紋作り出す水たまりに映りこむ顔を見て、自嘲めいた笑みが頬をひきつらせた。

 

 

 

 

なんと、なんと不細工な、お顔だろうか。

 

 

 

 

ひどい言いぐさかもしれないが、これは神からしてみれば、当然なのだ。天界には方向性の違いこそあるが、基本的に容姿の整った者しかいない。もちろん、愛すべき人間たちの容姿には出来不出来があることは知っていたが、所詮は天上から見下ろす視点からの見識に過ぎない。

 

 

だからこそ、実際自らの器の容姿を見て驚愕したのだ。

 

 

なんだ、この不細工は、と。

 

 

「…………せめて、顔ぐらいは最低限整っていてほしいものだ」

 

 

あまりの不出来さに呆然自失としたものだが、すぐに我は首を振って、侮蔑の感情を言の葉に滲ませ、吐き捨てた。

 

 

我はメガネと呼称される視覚矯正器を投げ捨て、その上に足を落した。器が器という存在であったことを切り捨てるように、胸の内にこもる忌々しさをぶつけるように、地面に擦り付けるようにして踏みにじる。視覚矯正器を失ったせいか視界が霞みがかったように曇った。

 

 

「…………肉欲に溺れるばかりか、視覚すら覚束ないとは…………まったく見下げ果てた人間だ」

 

 

どうやら我の器は人間の中でも悪魔に近い資質を持った人間だったようだ。忌々しい、忌々しいが、だからこそ我が乗っ取れるほどの欲望を引き出せたのだから、ずいぶんと皮肉の効いたことである。何せ悪魔の欲望をもって神を呼びだしたのだから。

 

 

「…………まぁ、いい」

 

 

忌々しさは、いまだ胸の内で燻っているが、どのみち我がこの器を占有した以上、以前、この器の持ち主であった人間の事は忘れよう。

 

 

「まずは、このどうしようもない視覚機能からだな」

 

 

我は顔を覆うようにして右手の指を広げる。

 

 

我が神の力は、すべて神器の内に封じ込めてあるのだ。その力を使えば視覚の矯正はおろか人間の視覚機能を超越した遠視も可能となるだろう。まぁ、今はそこまで望んではいないので従来の人間の視力に戻すように底上げする。

 

 

我の本体、神器が右手を通して力を注ぎこむ。祝福の光が鱗粉のような細かい粒子を零しながら、我が視界を白く染め上げる。神経一本一本が感じ取れるような感覚がヒヤリとした透き通るような爽快感と共に目の周りを突き抜ける。

 

 

白く染め上げられた視界は、徐々に世界の輪郭を捉えだし、やがてそこに明瞭な世界を映しだした。

 

 

――――――――と同時に。

 

 

身体の中に重石を突っ込まれたような痛みにも似た疲労感が我を貫いた。

 

 

「な、はっっぐぅうぅううえほっ! な、んだ、これ、はっっっ!」

 

 

たまらず我は膝をつき、擦りつけるようにして頭を地面に預けた。

 

 

正常な視界を取り戻した視覚機能が、今度は噴き出した汗や疲労から霞み始める。

 

 

これが身体機能の酷使による疲労だということは理解できた。しかし、何故そんな状態に至ったのか理解できなかったし、そもそも神にとって疲労という感覚は初体験だった。魔王との戦争でも、力の減衰による倦怠感じみた疲労はあったが、全身が動かないというような金縛りのような疲労は神にとって未だかつて味わったことのない未知の領域であった。

 

 

肺が圧迫されるような息苦しさに我は、空気を求めてだらしがなく口を開ける。心肺機能などというものがあるから、こんなことになるのだ…………と理不尽に押し寄せてくる感覚に恨みがましい不満が頭をかすめるが、すぐにそんなくだらない考えも霧散した。

 

 

我はあまりの苦しさに意識を放棄したのだ。

 

 

神は忍耐というものを知らなかった。

 






いや、ホント感想もらえるとうれしいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

屈辱たる現実

「…………っ、く、ここは、どこだ」

 

 

意識を取り戻した我は霞む視界の中に浮かぶ見慣れない景色に疑問の声が口について出る。もっともすぐにこの地において我に親しみのあるものなどないと気づかされたが、徐々に明瞭になっていく視界の中に浮かび上がってきたものに我は困惑よりも不快感が先立ち、疑問の声は先細りに嫌悪混じりの唸りに変わっていった。

 

 

何せ意識を取り戻し、始めに目に飛び込んできたものが我の生涯最大の屈辱を与えた悪魔が使用していた魔法体系の魔法陣が描かれたタペストリーだったのだから、我の心が如何に寛大であっても、その心境が穏やかならざるものになったとして、それは当然のことであろう。

 

 

「あら、起きたの?」

 

 

我が魔法陣を睨んでいるその認識外からかけられた声に対する我の反応は、意識を取り戻したばかりということもあり、緩慢なものであったが、かけられた声の発信源に視線を移した途端我の顔はわずかに引きつった。

 

 

理解る。

 

 

存在が空間に干渉する歪みの音が悲鳴のような金切り音をあげているのが、ちくちくと人間の肌に刺激として触覚を敏感に反応させている。

 

 

この世界の理から外れた異質なもの。

 

 

我は警戒心も露わに目の前の悪魔に目を眇めた。

 

 

紅い流麗な髪を腰元まで伸ばし、碧眼は悪戯っぽく気まぐれにしかしそこには確かな落ち着きが見え、刻まれる微笑も人をひどく惹きつけ安心させるような効能を持ち合わせている。その胸に抱く果実も豊満であってハリを失わない素晴らしいものである。その中央にあるであろう種もその紅き髪と同様色鮮やかなものであるのだろう。いっそその種我が神の雫をもって芽吹かせたいものよ………………………………

 

 

………………………………………………

 

 

「あら、ぼーっとしちゃって、まだ気分悪い?」

 

 

「…………ああ」

 

 

「そう? やっぱり初めては負担が大きいのかしらね。私もそっち方面に詳しいわけじゃないからわからないけど」

 

 

どことなく思わせぶりな発言に、我の器はその言の真意を歪曲し、自らが都合のよいほうへ我の思考を導こうとする。そうした思考回路すらも受け継ぎ変節した我は器に歯噛みするも、それよりもはるか身体の変態には目に余るものがある。

 

 

そう、下半身を突き上げる男根である。

 

 

「…………く、き、貴様ほどになると会話の口について出る言葉すら誘惑の睦言となりえるのだな! 恐れ入ったわ!」

 

 

苦し紛れに吐き捨てるも、見苦しいことは百も承知。しかし、この身体が悪魔の淫靡な気配に異常なまでに敏感であると言う結果が起こした醜態、その大元たる悪魔に非があることに変わりはないのだ。言わばこれは糾弾なのである。我の好ましい人間像からかけ離れた器の在り方に怒りを覚えぬでもないが、その感受性の高さは悪魔の罪深さを再認識させてくれる人間としての重大な指針である。その認識の仕方に対しての憤りが本来正当であるべき糾弾を歪めてしまっていることについては遺憾以外の何物でもないが、糾弾することをやめてしまえばただの発情バカである。

 

 

「……………ふふっ、そうね。ごめんなさい?」

 

 

生暖かい目をしながら至って変わらぬ冷静さで流された悪魔の余裕を見るにその発情バカと大差ないようであるが。

 

 

「…………とんでもないサキュバスだな」

 

 

思わず言葉にした悪態は我の情けなさに拍車をかけていた。

 

 

「ふふっ、鋭いわね。」

 

 

しかしながら、そんな我にとってはどうでもいい一言が目の雨の悪魔の琴線に引っかかったようだった。

 

 

目の前の悪魔は我が意得たり、とばかりに訳知り顔で笑みを浮かべ、うなずく。その思わせぶりな態度に我は言い知れぬ苛立ちを感じる。

 

 

そして、もったいぶって口にした言葉は、

 

 

 

 

 

 

「でも、ちょっと違う。私は悪魔ではあるけど淫魔の類ではないわ」

 

 

 

 

 

 

「悪魔も淫魔も人の欲望を引き出し醜い面を露出させるという点では変わらんと思うがな」

 

 

至極今更のことであった。

 

 

興味を失った我は苦々しげに下半身に突起したそれに視線を向けつつも淀みなく言葉を紡ぐ。今視線を逸らせば間違いなく、我の器は悪魔の誘惑に捕らわれてしまうからだ。

 

 

静まれ、静まるのだ! この身が猛る思いよ、霧散せよ!

 

 

「そ、そうかもしれないわね」

 

 

ちらりと見れば、何故か物語のワンシーンのような会心の表情(どや顔)をしていたが、我のにべのない返答に逆に困惑した様子で、おざなりな相槌をうつ。

 

 

当てが外れたと言わんばかりの表情だ。我は諸事情によりすぐさま視線を戻したが、そこにあったブツの存在に今一度痛感する。

 

 

今の我は人間であるのか、と。

 

 

覚醒直後は喜悦が上回ったが、喉元過ぎれば、自嘲めいた思いとこの程度の肉体に囚われていることへのもどかしさと怒りしか沸き立ってこない。

 

 

…………おそらくこの悪魔は我が何の事情も知らぬ人間と思って、侮り、真実の開陳を前にした我の反応を楽しもうとしていたのだろう。

 

 

まったく忌々しいことこの上ない。

 

 

我はあたりを見回し、眉をひそめ、鼻を鳴らした。

 

 

「それで悪魔よ。ここはどこだ? さながら悪魔の根城と言ったところか」

 

 

我は魔法陣のタペストリーやら西欧の魔導書やら雑多に詰め込まれた狭苦しい部屋を見ながら侮蔑混じりの笑みを浮かべる。センスがまるでない、粗末なものだな、というニュアンスを含ませながら。

 

 

「あなた、信じてないでしょう。私たちは紛れもない本物の悪魔よ」

 

 

しかし目の前の悪魔はそうは受け取らなかったようだ。それもあからさまに馬鹿にされて怒っているのか、プリプリしながら、頬を高潮させている。

 

 

「はっ、信じているとも、淫欲な悪魔よ」

 

 

「淫欲はどちらかしら」

 

 

「き、貴様のせいでこうなったんだろうが!」

 

 

「…………あら、そうだったわね」

 

 

紅い悪魔は呆れたような顔をして、心にもない肯定を返す。我は怒気の熱に浮かされた。蔑まれている、見下されている、神であったころの我であれば、所詮下賤の輩の言うことと、相手にもしなかっただろうが、我自身が人間であることに辟易し、悪魔よりか下位の存在であることを自覚しているのだ。そして同様に以前の我であるのなら、これは再び神の座につくための雌伏の期間なのだ、と割り切ることもできただろうに、今の我にはそれができないでいる。

 

 

わかってはいるのだ。我は全知全能の神なのだ。無知でも愚昧でもない。我が生存するには下位の人間に身をおとす以外なく、それは仕方のないことで、その選択に後悔の余地など残すはずがない。むしろ、そういった感情を持つことこそが神の選択に対する侮辱だ。しかし、実際我はどうしようもない感情に振り回されている。

 

 

それは我が常に上位にあり、下位の者に実際に降りかかる事象への配慮の足りなさを示しているが、それでいいのだ。神は絶対上位者である。下位の者に降りかかる苦難のその途上にある感情など考慮に値しない。これくらいの苦難であれば耐えられる、これ以上は耐えられない、と結果だけを見据えていればいい。

 

 

そうやって、我は存在し続けて、こうして今我は儘ならない感情に苛立ちを覚えている。いくら下位の身に身を堕とそうが、我が神であることに変わりはない。しかし、神の選択をし続けようと足掻く結果、その身振りに合わぬ器の小ささに我は苛立ちを覚えていた。我の選択は内外含めた感情に晒されており、その脆弱な身体は我の意向を守りたる鎧とはなりえない。そしてその果て人間であることですら無意識に否定しようとしているのだ。

 

 

それを認めなければ、神への求道にすら至らぬというのに。

 

 

本当に儘ならない。人間にできる範囲は狭く、我の選択を満たしえない。人間は天使にも悪魔になることができる。これだけ言えば、人間の無限の可能性を示しているように思えるが、実際は逆なのだ。人間の可能性は狭く、我は我の信望する者たちの可能性の範囲を広げてやり、悪魔も同様に広げてやろうとする。両者は方向が違うだけで本質的には共通している。人間はできることが少ないがゆえに、それとは異なる可能性を極限した存在に憧れ焦がれ、人間とは別のものになろうとする。人間は魅力のない中道的な存在だからこそ、その中道を容易く捨てられる。真に特筆すべきは、人間の己が存在に対する執着の少なさなのだ。ある意味、そういった点では人間は天使と悪魔の始点であると言える。

 

 

しかし、だからこそ希望がある。中道的な存在だから、人間だから、神にもなれる。

 

 

どんなに今現在の我が狂おしいぐらい非力でもどかしいぐらい邪念に満ちた存在だったとして。

 

 

その希望がある限りは仕方のないことなのだ。

 

 

「…………………ちっ、もう、いい。それで悪魔、我に何の用だ? 精でも吸いにきたか?」

 

 

「あなたね…………」

 

 

本当に頭が痛そうな顔で額に手を当てる紅い悪魔。

 

 

「あら、彼、起きたんですか」

 

 

我がそれを胡乱な目眺めていると、部屋の扉が開き、ちくちくするような感じとともに丁寧な物言いをする女が部屋に入ってきた。

 

 

…………また、悪魔か。

 

 

「おい、悪魔。どうやらここは本当に罪深い淫魔が集う場所らしいな」

 

 

我はムクムクと再び元気を取り戻したそれを忌々しげに見ながら、吐き捨てるように言う。

 

 

「あなたは本当に…………」

 

 

心底呆れた風でため息をつく紅い悪魔に黒髪の悪魔が戸惑いを滲ませた笑みを浮かべ、首を傾げる。

 

 

「…………あの、これはどういう状況なんでしょう?」

 

 

口から出た言葉は取り繕った表情ほどに内心が隠せていなかった。状況に対する困惑からか不自然に抑揚のない口調になっている。

 

 

「…………もう色々ややこしいから省略するけど、彼、私たちのこと悪魔だと信じてないのよ」

 

 

「…………はぁ」

 

 

あからさまに納得していなさそうな顔でちらりと我に視線をやり、徐々に下にいくにつれ笑みを浮かべる頬がひきつらせていく。その視線は我が怒張に集中しているようである。全くこれだから悪魔は…………そんなにもこの淫欲の象徴たる一物に興味を示すか。まぁ、淫欲なる悪魔故の所業とも謂えるが。

 

 

「…………それに関してはたぶんド変態なのよ」

 

 

「な、なるほど。でもそ、そういう性癖である可能性もありますわ………見せびらかして悦ぶ露出狂的な」

 

 

「おい、我の前でで何をこそこそやっているのだ…………全く悪魔とは存在が下賤であるばかりか礼儀すら知らぬらしい」

 

 

「…………貴方はもう少し忍ぶべきよ」

 

 

紅髪の悪魔が頬に手を当てため息とともに指摘するも、それこそ受け入れられない選択である。

 

 

「ふん、如何に醜聞違わぬような姿であれど、貴様ら悪魔の前でどのような姿であれ恥じるようなことがあれば、それこそ我が尊厳が疑われるようなことよ」

 

 

これを隠したり、ことさら動揺した態度をとればそれこそ単なる人間の発情になってしまう。この雄々しく立つ男根のある限り如何なる態度を取れど、客観的には大差のない見てくれになってしまうのであろうが、そこだけは譲れない一線である。

 

 

故に我は傲慢に驕りたかぶるのだ。悪魔とは対極の存在として。

 

 

「あなた…………」

 

 

侮蔑の言葉は欲望のことしか眼中にない頭の片隅でも理解できたのか、淫靡なる欲望を掻き立てるような艶を地肌とする声に怒気を滲ませ、顔を歪ませる。

 

 

「…………随分な挨拶ね」

 

 

「はっ、そう感じるは貴様らが自らの罪を自覚していないが故だ。罪を知り、恥を知ればこそ、貴様ら悪魔は死を選ぶべきだというのに。あろうことか貴様ら悪魔は己の所業の恥辱を知りてなお、欲望を、罪を肯定する。そんな貴様ら悪魔が、誉高い我から受ける誹りとしては至極生ぬるいものであろう」

 

 

逆に己が清廉さを俗に塗れた悪魔どもに合わせて穢させぬためとはいえ、言葉を慎んでいる我に感謝してほしいものだ。

 

 

「あなた…………教会の関係者ね」

 

 

疑問ではない確信からくる言葉。

 

 

我はそれを鼻で嗤った。

 

 

「ほう、欲望に曇った頭でも我の清廉さは目につくものか。感心だな、誉めて遣わす」

 

 

「…………ずいぶんと舐めくさった真似をしてくれますのね」

 

 

紅毛の悪魔の隣にいた黒髪の悪魔が表面上平静を保ちつつ笑みを浮かべる。しかし、押し隠せぬ憤りから我の前に一歩に出るその勇往な右足こそが彼の者の本音なのだろう。その拙い欺瞞は我からしてみれば、いじらしいままごととしか捉えられなかった。

 

 

我が悠然とした態度を崩さぬことを敵意を向ける自分への不敵と受け取ったか、黒髪の悪魔は笑みを見せ、持ち前の美貌で華々しさを演出しつつも、刺々しさを全面に押し出してくる。

 

 

水面下の想念の鍔競り合い。

 

 

澄んだ黒瞳の奥に潜む光が剣呑に細まった瞼から鋭く差し込み、ゆらり、悠然と据える我の視線が交差する。

 

 

そんな均衡を打ち破ったのは、大きな大きなため息だった。

 

 

「…………朱乃、やめなさい。あなたが心配しているようなことはないわ」

 

 

「…………ですが」

 

 

「朱乃、これは主としての判断よ」

 

 

決然と言い放たれた言葉に黒髪の悪魔も下僕として何か感じ入るところがあったのか、頭を下げ、一歩身を引いた。

 

 

一方、突然水を差され蚊帳の外に置かれた我はと言うと、情けのないことに苛立っていた。一瞬、流された紅髪の悪魔の視線に憐憫の兆しが見えたからだ。そうした感情に囚われ、先入観をもってその会話を聞いてみると、何やら含むものを感じてしまうのは当然だろう。そしてその方向性を器が人間である我は負へと進めてしまう。

 

 

もどかしくて、けれど、どうしようもなくって、我はやきもきしながら歯噛みしながら、正答を求めて威風堂々と構える紅髪悪魔と背後に控える黒髪の悪魔に目を向けた。

 

 

「…………何の話だ?」

 

 

「何の話? そこまで愚かなのかしら?」

 

 

心底呆れたような仕草で手をパタパタと振り、紅髪の悪魔は一息入れて答える。

 

 

「この私、グレモリー家次期当主、リアス・グレモリーのテリトリーに教会の関係者がいるという事実に対しての邪推よ」

 

 

ここまで言えばさすがにわかるでしょう、当たり前の常識を語るような口調の言外にそう言い含んだ紅髪の悪魔————改めリアス・グレモリーの言に、我も自らが痛恨を知らざるをえなかった。

 

 

よりにもよって、器の所在地が悪魔の管轄にあったとは…………思いもよらなかった。いや、本当は最初に思い至るべきであった。悪魔への蔑み、人間への自嘲が先行して思考が全く回っていなかった。こうも人間の感情表現は直向くのというのか。いちいち律さねばならぬ儘ならぬ感情に対比して、人間の言うところの理性が際立つ。人間の価値観では相反する対義語として感情と理性が成り立つ理由が今では、よくわかった。

 

 

本当に、人間と言うのは難儀な…………どうしようもない生命体だ。これが両極端の矛盾を併せ持つ人間だというのかっ。

 

 

自らの至らなさを、言い訳へと転化していく様を醒めた目で客観視する我がいることをひしひしと感じながら、我は人間を厳しく評価し続けた。

 

 

そうあってなお続けられるのは、客観視する我がこれを冷静な原因究明だと判断する自分がいるからで、苛立ちを感じるのは、この過剰に揺れる感情を、言い訳だと判断している自分がいるからだ。

 

 

しかしそうやって、自省の悪循環の中にいつつも、目を逸らしてはいけない存在がいる。

 

 

紅髪の悪魔リアス・グレモリーは相対するような敵意めいたものを露見せず、どことなく気の抜けた弛緩した様子らを我の眼前に晒し、息をついていた。その不自然さに警鐘を鳴らすように、胸が早鐘のごとく脈打っている。

 

 

「でも邪推は邪推に過ぎなかったということよ、朱乃。あなたの心配しているような、彼が教会の密偵、あるいは刺客と言うことはあり得ないわ」

 

 

あえて話題の中心である我から矛先を逸らしたような言い口に我は唸りにも近い声で言葉を発した。

 

 

「…………どういうことだ?」

 

 

話の流れからして、我をそのように疑うのは当然の帰結である。

 

 

「あなたが神を信じること、悪魔を排斥すること。それ自体はあなたの価値を高めることにはならない、ということよ」

 

 

しかし、そうした流れからリアス・グレモリーの発言は、的を射ないものであった。

 

 

「なにが言いたいっ」

 

 

話の流れから脱線したように見える彼女の意図は、単に頭が足りていないというわけではなく、我には想像しえない背景にその双眸が向いているような気がしてならなかった。

 

 

「わからない? あなたは人間。今までの言動からして、あなたが欲望の象徴である悪魔を嫌い、清きを好んでいることはわかったわ。そのことから私たち悪魔があなたを教会の関係者だとみても何ら不思議はない。事実朱乃はそう見た。けれど私はそうは見なかった。それが何故か?」

 

 

リアス・グレモリーは、物わかりの悪い子供を諭すように、腰までたおやかに伸びた紅髪を揺らしながら、人差し指を一本立てて言った。

 

 

「あなたがあまりにも未熟で、中途半端すぎるからよ」

 

 

我はその言葉に衝撃を受けた。理屈もない、意図も読めない端的な一言でありながら、その言葉は混濁する我の頭に重く沈んでいった。

 

 

「“我”という自己形容。あまりにも不遜で傲慢な自讃。あなたの発言の多くに含まれる、神よりも自己が先んずる言動。何においても真っ先に主の名を口にだし、それを自らの行動の逃げ道とする信徒どもとはあなたは違う」

 

 

「…………ずいぶんと馬鹿にしてくれたものだな。逃げ道にする、だと? 信者が主の名を紡ぐのはそんな理由ではない。聖書、一節口ずさみ、聖歌を謳い、神に祈り、日々を過ごすことで人生という名の試練の中を過ごし生きていく信者が神の名を紡ぐのは、自らの行動への戒めだ。断じて逃げ道などではない!」

 

 

「自らの行動を他者にゆだねている時点でそれは逃げ道だと思うけど…………でもそんなことあなたに話しても仕方がないわよね」

 

 

我が受けた衝撃の跳ね返りに合わせ、我が信徒を侮辱され、息巻く我は過剰な怒りを孕んだ主張を舌鋒鋭く振るったが、肝心の紅髪の悪魔は気に留めた様子もなく淡々と言う。

 

 

「あなたが信徒の何を語れるというの? 神の名を出すよりも先に我が我がと誇り、信仰を疎かにするあなたに」

 

 

「…………っ!」

 

 

…………神の名を出すはずがない。

 

 

我が神なのだから。

 

 

だけれども、そんな訴えが目の前の悪魔に届くはずもなく。

 

 

だけれども、我が誇ることはやめることができるはずもなく。

 

 

目の前の悪魔には貴様に信徒を語れる資格などない、と言外に捨て置かれた。

 

 

我はどうしようもなく人間なのだ、と改めて痛感した。

 

 

「そういった意味、貴方はとても愚かだわ。訳知り顔で神の教えについて語るくせして、実際誇っているのはそんな知識を披露するあなた自身なんだもの。己の知識と信仰をひけらかして、したり顔で自慢する。子供の稚気みたいなものかしらね」

 

 

なかなかどうして、リアス・グレモリーの発言は我の本質を見抜いたものであったが、下された評価は我の器越しに曇りを見せた劣悪なモノであった。

 

 

かつては天界の頂にいた我が、よりにもよって、知識をひけらかして己の優位を見せつけることで満足する、そこらの痛々しい人間扱いされるなど! 何故我がこんな扱いをされなければならぬのだ!

 

 

口から感情が言葉という形になり、濁流のごとく流れ吐き出されそうになるのをそれでも、と堰き止め我は拳を握り手の平に爪を差し込み自傷することで均衡を保つ。

 

 

それに屈してしまうことこそが、我がこの器の人間に敗北することを示すに他ならないことを我は知っていたからだ。

 

 

「けれど、ここで疑問がある。あなたが、どうして悪魔を知っているような言動を見せたのか? 今までの発言からして、少なくとも天界や冥界————―実際の事情―————を知り教育された敬虔な信徒ではないことは確かなのにね…………でもそれもあなたの人間性とあなたの特殊性を視野に入れれば、なんとなくだけれど見えてくるものがあるのよ」

 

 

異論はあった。しかし、口を開き如何な意味の言葉を放てど、そこにはふさわしくない感情が介在してしまうだろう。だから我は口を噤み、ただ黙ってリアス・グレモリーの話を聞くに甘んじるしかなかった。

 

 

「……………………神器の保持者はその神器が強力であればあるほど、人間社会には馴染みにくい。そのことに起因して否応なく不遇の身に置かれたり、あるいはその強大すぎる力を巡って、事件に巻き込まれたりしてしまうものだ、と聞いているわ」

 

 

しかし、遅まきながらに、我が神器を保持していることに気づかれているのだと知り、我は唇を噛みしめる。これもまた本来の我であれば真っ先に思い至るであろうこと。

 

 

相手に主導されるような形で自らを取り巻く現状を明らかにされていく過程は我にとって恥辱以外の何物でもない。しかして我はその掌で弄ばれぬよう優艶な音楽響かせる舞踏場の中、木阿弥気取り、中央にして立ちすくむ。感情を発散することは、磨かれた床に踵を鳴らす行為に他ならず、自身はステップ踏まずにしてこの舞踏場を出る自信がない。

 

 

どうしようもない負のスパイラルだった。人間の理不尽なまでの感情に振り回され、最後の一線は、自身が神の矜持、と発散させることを許さず、内に汚泥のように溜め続ける。

 

 

その上、神として思考を巡らせようにも、その汚泥のように鬱屈した感情が冷静さに水を差すのだ。

 

 

本当に…………どうしようもない。

 

 

我は己の不甲斐なさに嘆き、理性の声に耳を傾け、感情の迸りにその身を焼き、身体を縮こめた。

 

 

「私はあなたもその一例だと考えている。その驕り高ぶったその態度も、何の説明もなく、事情も知らない、他人にはない自分の力を自分なりに理由づけた努力の結果ではないか、と私は思うの」

 

 

フッと、悪魔の声に焦点が戻り、我は自暴自棄にも投げやりに言った。

 

 

「………………言いたいことがあるならはっきり言え」

 

 

「………………あなたは他人にはない力がある。そしてそれは私たちが今まで気づかなかったことからも、慎ましやかで隠せる程度のもので。けれど周囲は誤魔化せても周囲との違いを認識する心は誤魔化せない。誤魔化す必要があった」

 

 

自暴自棄な心根にも悪魔の声は響くものがあった。それは我の儘ならぬ現状に救いの手を差し伸べるようなものではない。それよりも深く奈落の底から忍び寄る魔手。さらに我を深淵に突き落とす、予感がした。

 

 

「だからあなたは優越感としてそれを処理した。他人とは違う、“何か”を持っているってね。そうやってあなたは異常を飲み込んだ。それがどこまでのものを麻痺させたのかはわからないけど、少なくともあなたにとって悪魔という存在はそこまで異常なものではなかった。いえ、むしろ、自らの力の由を確定させる上で悪魔はかっこうの“設定”だったのでしょうね、勿論自分の優越感を補強する上でも。あなたの特別な力を根本に据え、展開する優越感とその価値観からしてあなたにとって悪魔はその力を際立たせるための贄であり、神はあなたの力の正当化する都合のいい存在だった。だからあなたは都合よく信仰を語りもするし、悪魔を排斥しもする、というわけよ」

 

 

そして、招いたのは一瞬の空虚。

 

 

「勿論、これは私の想像も大いに混じった推測よ。あなたが信仰というものの根本を知らないことから、教会関係者ではない、と仮定した上での、あなたの人間味と事情を加味した結果行き着いた結論。間違っていたらごめんなさい」

 

 

真摯に、頭を軽くとはいえ下げる目の前の悪魔には、これといって、こちらを貶めようという邪気が感じられない。

 

 

こいつは気づいているのか。

 

 

今、目の前の人間に最低な評価を下していることに。

 

 

他人にはない力で驕り、優越感に浸り、自らの境遇を説明する手立てとして神、悪魔の存在をご都合主義的に解釈する人間。だとするならその人間は神やそれを信ずる信者、悪魔までもを巻き込み馬鹿にする行為をしており、それを知らぬという愚か極まりない人間だ。その道の者からしたら、無知とはいえ醜悪極まりない存在だ。

 

 

そんな存在だと推測しておいてなお真摯に対応するこの態度。

 

 

ククッ、と自重の笑みがこぼれた。こぼれた音は喉の奥で響いた。

 

 

上位者としての位格、この悪魔の格の高さが痛感できる、己の器の矮小さに対して心底絶望した。

 

 

いっそ、このまま矮小なこの人間の器の中に我を押し込め、分相応な態度を心がけるべきではないか。底なしの絶望から生まれいでた戯れにも似た考えだが、そう悪いもののようには思えなかった。

 

 

せめてそれなりの力を得るまでは、という予防線を引いたその内側に留まることは、今の我にとっての妥協点であるように思えたのだ。

 

 

「…………気を悪くしたのならごめんなさい。それでも最初に言っておくべきだと思ったの。無知を認めるところから始めなければ、あなたは何も始められない」

 

 

「…………かもしれん、な」

 

 

どのみち人間(無能)であることを認めなければ、何も始められないのだ。

 

 

我の素直な肯定に意外そうに瞼を瞬かせ。

 

 

そうして悪魔は嗤った。

 

 

「うん、素直でよろしい。あなたは、悪魔を明確な悪だと決めつけているようだけれど。それだって勝手なイメージの産物でしょう? まずはあなたの無知を埋めるために悪魔を知ることから始めてみてはどうかしら」

 

 

しかし、その一言で我は一気に引き戻された。

 

 

自然な流れの中にありながらも、垣間見えた意図。

 

 

この悪魔、よりにもよって我を堕としにかかっていたのだ!

 

 

迂闊に見せた隙にすぐに食いつくことなく、入念に傷口を広げた上で、抉ってきた。全知全能、神であった頃には無かったウィークポイント。弱点。

 

 

それは、我が人間であること。

 

 

狙ってやったことではないにせよ、我は晒したそれを切り口に、この悪魔の術中にはまっていたのだ。

 

 

不覚、と自己を嫌悪の真っただ中に落とし見るに、物事を見つめなおせば、我がついさっきまで思考していたことにまで恣意的な誘導の魔の手の存在がちらつく。

 

 

そもそも人間の分相応な態度をとるなどと、一体何を考えているのか。

 

 

そのことこそ、我が嫌っていた人間の本質に我が意思をも添わせて本質が引きずられてしまうことになるというのに。

 

 

例え、この身が人間であっても、我は全信徒が主と仰ぐ神であることに変わりない。

 

 

そのこと、疑いなきものであるのなら。誇ればいい。驕ればいい。示せばいい。

 

 

その姿、無様であったとして。

 

 

その姿、嘲笑に値うものだったとして。

 

 

総身、屹然と其処にあることこそ我の本懐にて、唯一絶対の存在証明に他ならないのだ。

 

 

「く、ははっ」

 

 

先とは質の違う自嘲の声が部屋の中に響いた。表面だけを笑いになぞったその声はひどく楽しげで、ひどく憎々しげだった。

 

 

「? 何かおかしいことでもあった?」

 

 

何も知らぬ無垢の子供のように訝しげに恍けるその様子でさえ、我の欲望をそそらせる。光の頂であった我が今では見つめること叶わない悪魔の本質を己の反応によって再び見定めることになろうとは何たる皮肉か。

 

 

「はっ、よりにもよってこの我が下賤な悪魔に惑わされているなどとな、気の狂いそうな現実におかしみを感じたまでよ」

 

 

「あなた…………まだ認めないつもりなの」

 

 

「ふふっ。嗚呼、全く、なんと儘ならぬ、なんと儘ならぬことか! この身は悪魔が誘う欲望に敵対するどころか理解すら示してしまう!」

 

 

我は悩ましくも、嘆きの意を露わに腕を大きく振り上げ、器の、人間の身体を抱きしめる。輪郭を撫でるように手を這わせていく。

 

 

「故にこそ知る! 我に課せられた試練の厳しさを!」

 

 

しかし、裏腹に我は理解してしまったのだ。

 

 

このように悪魔にさえ理解を示せるような人間が神たる我でさえ惑わす快楽に身を委ねることなく、我を慕ってくれるその信仰の尊さに。

 

 

身をもって知る、人間と言うものに課せられた試練。

 

 

真に理解を得た人間に、よりいっそうの愛を感じずして何が神と言えよう。

 

 

このような試練に抗い純潔の愛をささげてくれる信徒たちの敬虔さが愛おしくて仕方がない。

 

 

しかし、その試練の困難を知ったからこその愛に殉じてはならない。

 

 

我は神であり、人間の上位者である。この身が困難を知るは、人間であるからこそだ。

 

 

その愛は嬉しい。しかし、その愛は当然だ。

 

 

信徒としての当然を、我が更に愛してどうするというのだ。

 

 

我は神である。

 

 

ならば例えこの身が人間だとしても、同じ人間の、信徒の当然など、通り越して然るべきものなのだ。

 

 

だから、我は行こう。

 

 

目先の欲望にすら屈してしまいそうなこの身体。それを抑えることを試練とし、愛すら感じてしまうこの我には、神への道は程遠い。

 

 

だが、いい。

 

 

その距離感さえ、我はついぞ掴めていなかった。

 

 

それをこの身が猛らす欲望によって知った。

 

 

遠い、と。

 

 

しかし、我は神だ。

 

 

信徒として当然と要求される試練がある。

 

 

神として当然と要求される試練もあって然るべきだ。

 

 

成し遂げられずして何が神か。

 

 

我は、人間の身にて課せられた、かつてない無窮の試練――――神への道程を踏破し、万夫不当のこの身を示して、神の試練の道標はここにぞある、と人の矮小な愛を壮大な愛をして包もう。

 

 

それこそが、神。それこそが、我。

 

 

だからこそ、

 

 

「我に課せられた試練の第一歩である。邪悪な悪魔よ、艱難至るその道、石ころとて我は容赦しない」

 

 

目の前の悪魔は障害物だ。

 

 

我が求道における踏み台にもなれぬ、邪魔者。

 

 

「道を開けろ、その道は貴様ごときが塞いでいいものではない」

 

 

「あなたは…………あくまで自分の世界を守るというのね…………」

 

 

紅髪の悪魔は我の壮大な気宇に気圧されたように腰が引けていた。黒髪の悪魔は価値観の相違からか気持ち悪いようなものを見る目でこちらを拒絶しようとするのみだ。

 

 

それでも、そこから持ち直し、毅然とした顔つきを取り戻した紅髪の悪魔は一端の悪魔なのだろう。黒髪の悪魔の女の態度が変わらぬあたり、異なる価値観に理解を得ているだけこの悪魔は大物なのかもしれない。

 

 

「…………ここは悪魔のテリトリーよ。そこにあなたが住まう以上、最低限のルールは守ってもらう」

 

 

「我が道妨げるようなルールなら破るまで」

 

 

「…………せいぜい他人の迷惑にならない範囲でやってちょうだい」

 

 

深いため息をつき、扉の前までの道を指し示すように身体を引く。

 

 

我がどうしようと脅威にもならない、そのような自負が透けて見える態度に相対する我とは明確な温度差が存在している。否定はすまい。我がどのような覚悟をもって相対したとして、所詮この悪魔には取るに足らない些末事に過ぎぬのだ。対応も杜撰になろう。

 

 

理解はしている。故に我は悪魔に用意された道を一歩一歩踏みしめ、去り際に言葉を投げつける。

 

 

「我に手傷を与え殊勲を上げる機会、逃したことを後悔するといい」

 

 

そんな言葉がいつの日か真実、力を持つ日を信じて。

 

 

悪魔がいる限り我は滅びない。

 

 

その心新たにして我はその道を踏み固めた。

 

 

開けた扉の先にあった光はかくも眩しかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

我は神である

我はどこまで堕ちたのか。

 

 

神器に神であった頃の我が力が封ぜられていることは疑いようのない事実。

 

 

聖書の神の“全知全能”。

 

 

文字通り世界のすべてを知り世界のすべてを能う絶対無二の力が我にはあるはずなのだ。にもかかわらず未だに我は神聖と邪悪の大地に足をつけ、遥かなる天空を見つめることでしか望郷に思い馳せることを赦されない。いくら歩けど天界の輪郭すら辿れぬ等身大の歩幅と一寸先の闇さえ見通せぬ視界は日常についてまわって我のみじめさを今後も痛感させていくのだろう。

 

 

見えるものが違う、聞こえてくるものが違う、嗅ぐものが違う、触れるものが違う、感じとれるものが違う、膂力が、魔力が、肉体が、器官が、生物が、希望が、絶望が、幸福が、不幸が、考え方が、何もかもが!

 

 

異なる生物に堕とされたときの違和感、異物感に憑いてまわられる苦行など想像するに堪えない。幸いにも人間の姿かたちと言うのは、我の偉容を真似て作られたものであるから、基本的な運用に関して――――一挙手一投足における感覚――――は問題がなかったが、ここまで能力が落ちているとなると、もはや異生物である。本当に我の形だけ真似たような木偶の坊。少しでも、と創造者たる我に近づくための努力をしなかった人間の成れの果てはこうも醜悪なのか、と失望の念も禁じえない。

 

 

「まぁ、悪魔の学び舎の学徒ではこれも当然である、か」

 

 

果たして扉の先に待っていたのは、人間の、とりわけ高等学校に属する校舎のようだった。どうにも先ほどの悪魔の居城はその校舎の中の一室を擬態として間借りしていたものらしい。ちらりと見た部屋の外のプレートにはオカルト研究部と銘打たれていた。

 

 

なるほど、なかなかに皮肉が利いているじゃないか……………

 

 

振り返りざま、背後にする閑散とした校舎を目にし、次いで向き直った正面にある喧噪華々しい校舎を捉え唇を歪める。

 

 

どちらも邪の気配がするが、背後にした旧い校舎の方が断然にその気が濃い。この日の当たらない場所に立地する校舎は後ろ暗い、学び舎の影に属する部分、ということか。

 

 

「…………出るか」

 

 

ここからどこに行くのかもわからない身であるが、悪魔が根城にしていることからして、ここは悪魔の影響力の強い学び舎なのだろう。テリトリーと言っていたからには近辺一帯はその影響力の及ぶ範囲であると思われる。

 

 

我が介在するには大変ふさわしくない場所である。取り急いでは、神器の力の実態を確認しつつ、教会の保護を求めるべきだろう。

 

 

器の記憶からこの校舎の構造を取り出し、足並みを早めようとした最中、

 

 

「うおおおおおおおおおおおおおおい! 元浜ぁあああああ!」

 

 

背面からのダイビングクロスチョップが我を襲った!

 

 

「元浜ぁあああ、確保ぉおおおおおおおおお!」

 

 

我は地面にしたたかに顔面を打ち付けつつも背後から衝撃はその勢いとどまるところを知らず、そのまま雑巾がけのように地面に擦り続ける。

 

 

敵襲か!? と思う余地など一瞬足らずで、我の頭に締め付けたのは、痛いたいたいである。

 

 

「うぉおうぉおおおぅふぐ」

 

 

仰向けに転がり、後ろに陣取っていたハゲをどかすと両手で顔面を覆い悶絶する。痛い痛い痛い、涙が出る、痛い、死ぬ、本気で。

 

 

「泣きたいのはこっちだよぉ! 元浜!」

 

 

指の隙間から見えたのは、血涙を流す丸刈りの男である。

 

 

「き、ざま…………何をずる! 松田ぁ!」

 

 

自然と口に出た名前はこの器が生前親しくしていた男の名字である。生存本能によって脳がインプットしている“敵”の名前を引き出したのだ。感覚にも残っているのだろう。何故かその名を呼ぶとき、なんともいえぬ親しみがわいた。

 

 

今の行為ですら憎からず、と思えてしまうのだ。

 

 

相手の邪気のなさから瞬時に普通の人間と定義して神としての理性が直接的な力の行使を踏みとどまったわけだが、暴力の理不尽さには怒り心頭である。怒り心頭のはずである。

 

 

しかし、どこか箍がかかったように自制を求めてくる理性は我、神生来のものではない気がするのだ。

 

 

これは神としての判断の天秤の公正さに関わる重大な問題である。捨ててはおけぬ、いきなり暴力を振るってくるようなこの男に器は如何なる意義を見出しているというのか、それを理解しなければ…………

 

 

至極寛大ともいえる状況判断を下す我はかくも優しく冷静に相手を見つめているというのに、このハゲはというと、我の誰何の声に般若のような表情を見せる。

 

 

ビキッ、ビキッ、と青白い血管がこめかみに浮かび、右手の指の骨を鳴らす。

 

 

「おい、てめえ今何してやがった」

 

 

「何だと?」

 

 

「だから! 俺たちとの昼飯断っててめええはぁ! あの美少女ぞろいのオカルト研究部で何やってたんだって! 聞いてんだよぉおおおおおおおお!」

 

 

「……………………」

 

 

しかし、所詮は余人。そんな高をくくっていた隙を突くような指摘に我の胸中に邪推が生まれ、それを糸口に疑心が生まれる。

 

 

すなわち、この松田と言う人物はこちら側の人間ではないか、と。

 

 

しかし、次の言葉でそんな疑問は霧散した。

 

 

「ああぁ!? なんなんだよなんなんだよぉ! イッセーに彼女ができたとき、言ったじゃねえか!? 俺らは裏切らねえって、永遠の友達だってよぉ! それがどうした! 今度はお前もか! お前もなのか!! このロリぺド野郎、俺には二大お姉さん紹介してください!!」

 

 

この器にしてこの友あり。

 

 

下賤すぎて反吐が出るが、こちらの関係者か、と実態を読み切れず、警戒を露わにしていたときよりかは、気持ちが緩んだ。それを見て取った松田は馬鹿にするな、とさらにいかつい顔で迫ってくる。

 

 

「なぁに生暖かい目してんだよ、こらぁ! なんだ憐れみか、憐れみなのか!?」 

 

 

「静粛にしろ」

 

 

しかし、そうして安穏としていられたのは束の間で、鬱陶しいことには変わりなく、遠巻きにこちらに視線を送る群衆の目もあまりよろしくない。物理的な手段での排除の検討を始める我と相も変わらず能のないことをまくし立て続ける松田。その間に剣呑な空気でも感じたのか、遠巻きにしていた群衆をよけて一人の少年が駆け寄ってきた。

 

 

「松田!」

 

 

兵頭一誠。

 

 

その姿を見て、名前がパッと思う浮かび、イッセー、と言う呼び名に何とも言えぬ親しみを感じるあたり、この少年も生前の器と仲の良い人物だったのであろう。

 

 

「全く元浜、お前も隅に置けないな…………」

 

 

その“イッセー”なる人物は駆け寄ってきて第一声訳知り顔でそんなことを嘯く。とりわけ落ち着かせなければならない方がどちらかを判断し、立ち位置を決めるその姿は、仲裁者としては理知的と言えるが、取り繕った表情の奥からは、何故だろう、下衆のにおいが漂ってくる。

 

 

そんな予感の通り、兵頭一誠は松田の肩に手を置き、妙に演技かかった大仰なそぶりで首を振って一言。

 

 

「男の嫉妬は見苦しいぜ…………?」

 

 

と。

何故かイケメン顔である。

 

 

しかし、そんな薄っぺらい仕草にプルプルと身体を震わすのが松田である。滂沱のごとく頬に流れるのは瞳を源泉地とした涙の川。事情の深刻さに理解が及ばない我ながらに、マジ泣きしている、と思わせるだけのせつなさがそこにはあった。

 

 

「ちくしょう、なんで、なんで俺だけ彼女ができないんだ、ちくしょうちくしょぅ」

 

 

「きっとお前にもいい人が現れるさ」

 

 

「…………なんだ、この茶番劇は」

 

 

呆れた面持ちで事態の収束を見守った我の感想である。神に依らない人間とは日々このような茶番を繰り広げているのか。人間の健全な営みを促成する恋愛感情については我も悪いことと思わぬが、こうもその恋愛とやらに終始し、醜い一面を見ていると呆れてものも言えない。というかくだらなすぎる。

 

 

これが器の生活環境だと言うのか…………だとしたらあの愛憎に満ちた心の叫びに至った経緯もなんとなく理解できる気がする。

 

 

こんなのに囲まれていたらそれは歪みもするだろう。

 

 

そんな男同士の気持ちの悪い慰め合いを見ているうちに、学び舎からチャイムの音が鳴り響いた。こんなことで休憩時間を終えるのか……………

 

 

「おっとそろそろ教室帰らねえとな。松田、元浜行こうぜ」

 

 

「まともに授業なんて受けれっか! 教科書の裏にエロ本挟んでシコってやる!」

 

 

「おう存分にやれ、存分に、って……どうしたんだ、元浜、早く行こうぜ」

 

 

「あ、ああ…………」

 

 

続くバカなやり取りの輪の中、何故かそこに自分が入ることに尻込みした。入ったとしても疎外感に悩まされる自分しか想像できなかった。そんな輪の中に入る必要などないのに、頭悩まされるこの思考は何故生まれるのだろうか。器の影響か、と割り切るには容易いが、これに関しては我個人として嫌悪感すらわいてこないのは何故なのか。

 

 

器とその周辺環境への隔意を超えた純粋な疑問に首を傾げるも、呼びかけに自然と肯定し足を急かしている自分への戸惑いの中にその疑問は紛れた。

 

 

チャイムを聞いた瞬間もそうだったが、この器に染みついている無意識下の義務感というのは、たびたび表面に出てきては、我の行動を妨げようとする。

 

 

今の我にはそんなもの必要ないと言うのに。

 

 

元浜…………か。

 

 

この器の真の名前。我からしてみれば、その性根は下衆の極みで、今のところ我が神への求道を阻む一番の敵と言っても過言ではない存在。

 

 

“元浜”は俗に染まり、穢れに満ち、それでもなお意気軒高にその身を欲でうずめている。そういった存在。我らからしてみれば憎むべき怨敵。

 

 

しかし、元浜は既に死んでいるのだ。

 

 

我が殺したのだ。

 

 

生きていればこそ、その穢れから逃れ洗礼を受けることもあったやもしれぬのに、その可能性を、機会を摘み取ったのは他ならぬ我である。

 

 

後悔など一遍もない。そうせねばならなかった。今もなお“元浜”はその負の遺産となって苦しめている。そのことに嫌悪すら覚える程度には気にしていない。呵責などあろうはずもない。

 

 

しかし、我が元浜を殺したのである。

 

 

「ん、そういや元浜、お前メガネどうしたんだ?」

 

 

「…………不要になったのでな」

 

 

何気なく話の矛を兵頭一誠に向けられた。自然に答えてしまう相手との敷居の低さは神のときには存在しなかったもの。それは器に対する憐憫にもとるものなのか。

 

 

眼鏡という視覚矯正器より始め、少しずつ少しずつ、“元浜”であったものがこれから先も消えていく。一般的な常識観念にとらわれている内は我もまだまだ俗に染まっていると言えよう。そうしたものを排していくことこそ我の本懐であるともいえるが、そうして“元浜”は死んでいくのだ。

 

 

すでに元浜という存在は死んでいるというのに、誰に認識されるでもなく。誰にもその死を悼まれることがないのだ。我と言う新たな個性の誕生はそのまま元浜の変化とだけ捉えられる。

 

 

「眼鏡が必要ないってお前…………」

 

 

このようにどことなく納得いかなさそうにしてはいても、元浜が死んだから、とは捉えられはしない。それどころか、そのまま我からのそれなりに納得のいく説明を聞きもせず、ぶつぶつ、と「そうか、彼女ができてAVがいらなくなるように元浜も…………」と自己完結してしまう。

 

 

憐れかな、元浜。

 

 

しかし、誇りに思えよ、元浜。

 

 

この身体、いつの日かは神の座に上るものである。その試金石となれたことはこの上ない栄誉であろう。

 

 

それでも、誰にもその死を悼んでもらえないことは悲しい、と言うのなら。

 

 

少しばかり我が感情に浸ってやる。悼みはすまい、お前と言う存在は我が忌むべき邪悪に満ち満ちでいる。そうするにはあまりにもお前は分不相応。

 

 

故にこのまま少しばかり、お前が見聞きしていたものを見てやろう。“元浜”と言う存在の影響が器に色濃く残っている今のうちに。

 

 

それが我からの最大の麗辞である。

 

 

「その間に確認しておきたいこともあるしな…………」

 

 

むしろそちらこそが本命。先ほどから付きまとう違和感並びに諸々を考察する時間を取るべく、我は兵頭一誠らの後について歩く。

 

 

管理者としての矜持もあろう悪魔たちが事を起こさないであろう、人の多き場所にその身を置くべく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我は数学の教科書のなかほどを開き、ようやく事態の核心をつかみ始めていた。

 

 

まったくわからん…………

 

 

そんなことは本来ありえない。おおよそ人間界に流布されている数の理などたかが知れているのだ。その程度の知識が“全知全能”たる我にないはずがない。何せ人間界をつかさどるすべての理を知っているのだ。すべての力を有しているのだ。

 

 

ならば何故か。これはそう(・・)いう(・・)こと(・・)なのだ。

 

 

我の力が神器の中に全て封じ切れなかった、という結果を意味しているのではない。単純に“全知全能”を行使するにはこの器のスペックが足りなすぎるのだ。

 

 

事実、目の前に広げられた教科書に載る数式。解けない気はしない。しかし解ける気もしないのだ。既視感めいた数式の向こうにある答え。それを明確に掴もうとすれば得られる内なる我の鼓動の高鳴り。

 

 

この数式を理解するのに、“全知全能”の神器が発動しようとしているのだ。

 

 

それで説明がつく。

 

 

我の意識は今、器にあれど、その力は神器の中に眠ったままなのだ。それを丸ごと全て起こそうとすると、神器の圧力にこの肉体が耐え切れなくなる。視覚を回復させたときもそうだ。視覚を回復させるために用いた神器の圧力に耐え切れなくなることを察知した肉体が疲労、痛覚に訴えかけて、自動的に意識をシャットダウンさせたのだ。

 

 

それが意味することは今まで以上に深刻な現状だ。

 

 

我は今まで己の不甲斐なさの原因は神器に宿る我の神であった頃の“力”が運用できないからだと思っていた。我の“全知全能”に隙が出来たが故だ、と。しかし事はそこに留まらない。

 

 

我は今まで判断基準としていた人間界の全てを網羅する知識までも失ったのだ。拠り所をなくした我の思考は器準拠の高等学校レベルの知識にまで幅を狭められ、極めて狭い範囲にしか頭が回らなくなる。

 

 

無論神という我(が)があればこそ、それは単純に高等学生レベルにまで知能が劣るようになったことを意味しないが、視野が狭まったのは間違いではない。

 

 

簡潔に言ってしまえば、我は“馬鹿”になったのだ。

 

 

屈辱ではらわたが煮えくり返っている。

 

 

力もない知識もない、あるのは、我が神であったという自意識だけ。

 

 

かみしめた唇から鉄の味がする。

 

 

なんだ、あの悪魔が言ったこと、何も間違ってはいなかったではないか。何もないただの人間のくせに、我が我が、と。なるほど笑わせてくれる。

 

 

全く我は笑えないが。

 

 

「おい、元浜! お前はそんなに数学が好きだったのかぁ!?」

 

 

無粋な教壇に立つ愚昧の声。今は語学の時間。そんな時間に数学の教科書など開いているのだから確かに愚昧からしてみれば腹立たしいことこの上ないのだろうが、今を何時ぞと心得る。我の進退に関わる! 言わば世界の危機だぞ!?

 

 

「よぉし、そんなに英語勉強する必要ないなら次の問題も当然答えられるよなぁ――」

 

 

【我に触れるな!】

 

 

「松田ぁ!!」

 

 

「俺関係なくない!?」

 

 

笑いが巻き起こる中、我の額に脂汗が一筋したたり落ちた。

 

 

…………今、神器が発動した。

 

 

神器は感情に反応する、というデリケートな部分にいささか鈍感になっていた。

 

 

今さっき行われたのは、小規模ながらも間違いなく“全知全能”のなかの“確率操作”だった。教師の指名に当たらない確率を無理矢理引き延ばしたのだ。

聞き耳を立てるにどうにも教師は松田がエロ本を教科書裏に隠していたことに目がついていたらしい。今の確率操作には間違いなく松田を当てる心積もりが教師にあってこその成功と言っても過言ではない。

 

 

視覚回復で全精力を使い果たすようなスペックしか持ち合わせていない器に容易く確率操作などできるわけがないのだ。

 

 

事実、松田のエロ本騒動の収拾が、廊下に正座に落ち着いた今、教師が次に目を向けたのが――――

 

 

「さて元浜、まさか上手く逃げられた、なんて思ってないよな?」

 

 

元浜に甘んじる我である。やはり今の確率操作は一時しのぎのものに過ぎなかったのだ。不自然が出る形での確率操作は負担が大きいと、神器の発動の気を少しでも出すと、警鐘のように頭の中で危険を訴えてくる。

 

 

逃れられる確率も、数値にして0に近いのだ、と理解できる。これを引き延ばそうとすれば宿主は死ぬ、と。

 

 

長々ともっともらしいことを垂れる教師の忠言の最中そんな予感と向き合い、“全知全能”の力の実態を少しでも探らんとする。

 

 

その姿勢が違う方向で評価されたのか、教師もほどほどのところで切り上げ、

 

 

「じゃあ、元浜。罰としてこの英文を和訳してみろー」

 

 

と、黒板に問題を写しはじめた。

 

 

教師の言葉など話半分に、土台興味もなかった我であったが黒板のアルファベット目にして、ひとつこれを利用することを思いついた。

 

 

I would like to become a pediatrician.

Because, it is since a little girl's nakedness can be seen lawfully.

 

 

やはり、読めない。英語も満足に読めないとはこの器の能力の低さが知れる。その知識を“全知全能”の我が神器を発動することによってひっぱり出す。

 

 

必要なのは【この英文を読むだけの英語知識】だ。

 

 

これだけ条件が限定されていれば、最低限の労力で済むだろう。そう見切りをつけながらも最大限の不安を抱えつつ、発動する。

 

 

しかし、蓋を開けてみれば、わずかな頭痛がよぎった程度だった。

 

 

目が醒めるような感覚と同時に、目の前の英文を構成する英単語の意味・用法・文法が頭の中にインプットされていた。

 

 

「な、ななななななな…………」

 

 

そして愕然とする。なんだこの英文は!? 仮にも高等教師ともあろうものがこのような不謹慎な英文を!?

 

 

これは断固許しておけぬ、と非難の声を上げようとした我に水を差す教師の一声。

 

 

「元浜覚えてるかー。これはお前がこの高校に入ってきて、英語で自己紹介文を書きなさいって言われて書いた一文目の文章だー。あのときのお前と今のお前、ちゃんと更正することができたかー」

 

 

「……………………」

 

 

もうぐうの音も出なかった。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…………」

 

 

英語の授業が終わり、我は一つ息をつく。

 

 

授業中、色々試してみて大体の神器の能力は把握できた。

 

 

能力不足に心が揺らぎはしたが、検証結果を得て改めて神器の中には“全知全能”の力が宿っていることを再確認できた。

 

 

宿っているというだけで、とても“全知全能”の能力を持った神器であるとは言えない状態ではあるが。

 

 

その点は宿主を人間としたことで相当以上位格が下がった結果ともいえる。

 

 

この神器が発揮できる力は“可能性の拡張”である。

 

 

“全知全能”をそのまま格下げしたような能力だ。否、実際は“全知全能”なのだろうが、それを満たすスペックがないせいで全く活用できない。

 

 

そして結果として、そのスペックが足りない、というところにこの神器の能力が発揮されてしまうのだ。

 

 

例えば我が“全知全能”の神の頃のように何かをなそうとする。すると神であった頃と器が人間である今とで能力的な差異が生じ、不可能というバグが発生する。“全知全能”の能力を持つ神器はその名に冠する通りの力。その矛盾は許容しがたいものであり、我が望みを為すために発生している能力的な差異――――それに必要な能力を埋めるよう働きかけそのバグを修正しようとする。例えるのなら5という答えを我が得ようとした際に必要な方程式を神器が自動で割り出し、強制的に理解させるのだ。先の英語の翻訳で言うのなら、英文を読む、そのために必要な単語の意味や文法などか。

 

 

その過程で神器は我の器の潜在的な魔力、気力、生命力、といった力を必要なだけ引き出していく。そしてその過程に生じるエネルギーというのは、器の始点に準ずることになる。要するに現時点の器のスペックで、そこに到達するまでどれだけの労力を必要とするかによるというわけだ。器がもう少しで届きそうなことであれば、さほどエネルギーは使わないし、器ではどうがんばったってできないことであれば、それだけエネルギーの消費量は増える。

 

 

器が可能性をどれだけ秘めているか、それによって左右される力。

 

 

それが“可能性の具現”

 

 

幸いにもその可能性については発動前の予感によっておおざっぱながら数値化できそうではある。

 

 

「ふん…………」

 

 

我はノートの切れ端を丸めた物を握りしめ、屑籠を目視する。

 

 

ここから投擲して、あの屑籠に入る可能性というのは如何ほどのものか。

 

 

神器の発動に指向性を与えて読み取るに、必要なのは『力加減・右手右腕(コントロール・ライト)』。現時点での達成可能性はおおよそ35%ほど。まぐれでいいのであれば、このままでも35%の確率で屑籠に入る。いっそ確実に今この一回だけを成功させたいのなら80%程度まで上げれば十分だろう。“全知全能”ではその先の結果のみを優先するために数字を調整することはできないが、ならばこちらで結果のほうを低く設定してやればいい。その分であがった『力加減・右手右腕』で再度屑籠に入れる可能性を図ってやれば、任意で調整することができる。

 

 

しかし、この場に限ってではない、ある程度恒常的な技能として屑籠にゴミを入れる可能性というものを昇華させたいのであれば100%まで上げきらなければいけない。

 

 

そこが、“全知全能”が元となった我が神器“可能性の具現”の融通の利かないところだ。この神器は結果を望み発動したら最後、その結果を現出するまで魔力、体力、生命力をはじめとしたエネルギーを吸い続けてしまうのだ。視覚矯正もそういう意味ではエネルギーが底をつきるギリギリのラインを彷徨っていたように思える。

 

 

「まぁ、使いどころにもよるか」

 

 

神器の実態が理解できたところで、この器に眠っている可能性を掘り起こさないことにはこれからの未来予想図も立てられない。

あまり期待はしない方がよさそうではあるが。

 

 

「おう、元浜。一緒に帰ろうぜ」

 

 

場所を移して再度始めるか、と席を立ったところで松田から声を掛けられた。そこでそういえば、器の感傷に付き合ってやるという目的もあったな、と思い出す。

 

 

そういう点ではいつもつるんでいるであろう兵頭一誠の影が見当たらないことには不十分さを感じるが、そもそも現状を確認した今となっては、早く可能性を探りたいという気が急いていて、その感傷に付き合うだけの余裕(ウェイト)を持ち合わせていなかった。

 

 

「そういや、お前英語の田村に当てられたとき目つき悪かったよな~」

 

 

そんな気も知らずに松田は我が“確率操作”した際の話を振ってくる。

 

 

まぁ、そうであろうな。あの時点で暗示のような純粋な干渉の類が出来ていたとは思わない。せいぜい自身の印象を変えて、“確率操作”するくらい関の山であろう。

 

 

「あれか、ほら、やっぱお前はさ眼鏡がないとしっくりこないっていうか、女のことだって見えないだろ?」

 

 

松田が下衆な顔で何かを揶揄するように、親指を立てて女子が固まって話している場所を指す。

 

 

この男は女のことしか目にないのか、ほとほとあきれ果てる。

 

 

「…………眼鏡などなくてもそれくらい見えるわ」

 

 

「ほ、ほぉ~~! じゃああの片瀬のデータ教えてくれよ…………!」

 

 

「…………データ、だと?」

 

 

話の脈絡が見えてこない。何故見える見えないの視力の話をしていたのに、いきなり特定個人のデータの話になるのだろうか。

 

 

「とぼけんなって…………片瀬の身体的なデータだよ! お前なら視ればわかるだろ!?」

 

 

躍起になって我を小突く松田の鼻息が荒い。大変鬱陶しいがそれよりも松田の発言が気にかかった。

 

 

「視れば、わかる…………」

 

 

松田の指さす先につられて焦点を動かせば、そこには片瀬何某の姿が。何の変哲もない女学生が会話する平和な光景。

 

 

いや…………よく見れば何かが透けて見えるような、その先に何かがあるような! 手ごたえを感じる。

 

 

ドクン、と胸の鼓動が大きく跳ね上がった。

 

 

神器の発動の気配もそれに感応し色濃く、胸打つ脈動に指向性を与えようとしている。

 

 

これは、まさか、いや錯覚ではない。

 

 

“可能性の具現”が“元浜”の可能性の一つの顕現を察知しているのだ。それはおそらく“元浜”であったときよりなじみ深いもの。それはこの我ではない器の感情が証明している!

 

 

我としてはその力の正体が知りたい。

 

 

しかし力が失われたことにより見識が狭まったせいか、その力の正体を明確に定義することができずにいる。

 

 

あえてこの力、定義づけるなら、“審美眼”か何かか…………?

 

 

それならば、歓迎すべき可能性である。きっかけさえ掴めれば発現する能力だったのか、可能性は90%台にある。

 

 

この時我は少しばかり興奮していたのであろう。この煩悩にしか能のない人間もやはり我の被造物。一つくらいは誰にも負けぬ可能性があるのだ、と。

 

 

事簡単に言うなら我は慎重さに欠けていたのだ。

 

 

“可能性の具現”が発動する。

 

 

瞼の裏、新しい可能性が蕾開く。ある種の悟りを開いたかのように、今まで見えなかったものが見える。我の中の世界が広がった、その息吹を感じる!

 

 

「嗚呼…………」

 

 

ゆっくりと瞼を開け、広がる視界。

 

 

そこはありとあらゆる“俗”が抜け落ちた世界。

 

 

 

 

 

 

裸の女体の園が其処にはあった。

 

 

 

 

 

 

「見える! 見える!! 見えるのだぁああああぁぁぁぁああああ!」

 

 

「見えたのか! 元浜見えたのかぁあああ!?」

 

 

前面から衝撃を受けたように身体をクの字に曲げ、脂汗を浮かべる。

 

 

「裸の女体が見えるのだ! 片瀬の裸が! 村山の裸が! 桐生の裸がぁあああああああ! 全てがぁ見える!! おなごの全てが我の前にさらけ出されているうぅううううう」

 

 

「なんだと!? お前の魔眼“スリーサイズスカウター”はそこまで進化してたのか!?」

 

 

魔眼“スリーサイズスカウター”だと…………?

 

 

器の記憶を探ってみると、確かにそのような認識がある。

 

 

 

 

“スリーサイズスカウター” 

女子の戦闘力の基本である三種の力。胸(バスト)・くびれ(ウェスト)・尻(ヒップ)を視るだけで正確に測ることができる能力。その年齢が幼なければ幼いほどより正確にミリ単位で測ることができる。

 

 

 

 

「な、なんだこれは…………なんだ、このくだらない力はぁああああああああ!」

 

 

少なくとも股間をおったてている奴のセリフではない。

 

 

「触れられなければ意味がない! 今お前はそういう生殺し感を味わっているというわけか! お察しするぜ! だがうらやましい!」

 

 

見当違いな共感を得てさらに我は前かがみになる。

 

 

いきなり大騒ぎし始めた我と松田のやりとり、嫌でも耳に入ってくるのだろう、おなごどもがひそひそ叩き合う陰口が聞こえてくる。

 

 

な、なんたる屈辱!

 

 

我が前かがみになっているのは、必死におなごたちのプライバシーを守るためであるというのに! 誤解を受けてしまっている!

 

 

「ち、違うのだ…………これは」

 

 

しかし、その言葉に力はない。わかっているのだ、これは器の罪。“元浜”のくだらない可能性と我の軽率さのせいなのだ、と。

 

 

わかってはいても、抗弁したくなる。我はこんなよこしまな存在ではない、と。

 

 

そんな気持ちを込めるように視線を上げる、そこには相も変わらず、裸をさらけ出すおなごたちの姿。

 

 

そしてその横に表示される、棒状のパラメーター。

 

 

「こ、これは…………!」

 

 

下半身が抵抗とともに突っ張るのを感じつつも、顔をあげ、視線を大きく動かす。

 

 

先ほどは気が付かなかった。見えるのは裸だけではない! その横にはスリーサイズ以外の筋力値や魔力値なども詳細に記載されていた! しかも我が一人のおなごに焦点を当てれば、そのおなごの過去の経歴やら家族構成までもが手に取るように理解できたのだ!

 

 

「こ、これは…………!」

 

 

ある意味で使える能力だ。見る限り女子にしか効果がないようではあるが、女性限定であっても視れば相手の情報すべてを裸にできる! というのは我が神であった頃の全てを見通すことのできた“眼”にも通ずるものがある。

 

 

「ふっふっふふふふふふふ! これは……………勝てる!」

 

 

教室に響く悲鳴、怒号。それらの景色を睥睨し、我は束の間神であった頃の視界を思い出す。我が被造物を眺めている気分もこんな感じだったな、と。手に取るように理解できるおなごたちのデータを弄び考えた。まるで神を見たような崇敬の念を込めてこちらを見てくる松田の目も、松田ながらに素晴らしい。

 

 

これは危険な能力だ。この器の持ち主である“元浜”などが覚醒していたら大変なことになっていただろう。

 

 

そういう意味、この“スリーサイズスカウター”が進化一歩手前の可能性まで辿りついていたことには戦慄する。

 

 

しかし、今その能力が自らの手の内にあることを想えば、よくやった、“元浜”と褒め称えてもいい。むしろこの能力が神として堕ちてきた我のためにあったのではないか、とさえ思う。

 

 

ともあれ、これで少しはこの器にも期待が持てるようになったわけだ。

 

 

あとはこれを生かし、さらなる可能性への希求に励むのみ。

 

 

「ふぅふっふふふふうう! ハハッハハッハハハハハッ!」

 

 

神の求道への展望への希望の喜びをここぞとばかりに我は爆発させたのだった。

 

 

 

…………ちなみに我がこの学校に来ることはしばらくなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

接敵

「……………………ふぅ」

 

 

一時の高ぶりも落ち着きを見せ賢者のごとき聡明さを取り戻した我。そんな帰路の夕暮れどき、我はこれからの方針を改めて確認する。

 

 

我が神器“可能性の具現”は器の可能性を開花させることができる。故に一つの可能性を突き詰めることで、別の可能性を生み出し切り拓いていくことができたのなら、その連鎖の果てにこそ“神”があり、その道程こそが我に課せられし、無窮の試練。

 

 

神への指標はここに立った。ああ我が愛おしき被造物にて我を慕う信者たちよ。我が空白を残したことにより、さぞやその愛を失ったことだろう。ああ、箱庭たる世界よ。我が不在にてさぞや悲鳴をあげたことだろう。神の絶対性への揺らぎは、許されるものではない。揺らいだ我に神の資格なし、と罵られても仕様がない。世界の愛の欠如、世界の悲鳴、形となってそこにあるはずの糾弾我は甘受しよう。

 

 

しかし、実際我の神たる由縁である絶対性などとうに存在してはいない。故にその愛のない人類も、悲鳴を上げる世界も感じ取ることができない。

 

 

罪の存在を知りつつも、罪の在り処を知りようがないこのジレンマ。償うことどころか、人間の脳では罪の意識すら現実感のないものとして処理されてしまう。

 

 

ああ、これほど罪深いことがあろうか、いやない。

 

 

然らば、ここに我は誓おう。神であった我は天から救いの手を差し伸べた。どこまでも上から目線であり、被造物の苦悩など理解しようがなかった。しかし、今なら理解できるのだ。今ならその悩みを一緒に悩んでやれるのだ。

 

 

最底辺。悪魔のごときこの器の欲望に満ちた身体から、地の果てから天の地まで登ってやろう。苦しかろう、辛かろう、しかしその道々には人の愛のなさ、世界の悲鳴、被造物らが悩んだ我の罪の全てがあるはずだ。そこに我が登っていって、苦しむ隣人の隣に立って、ただ黙々進み続けていって。己らが隣に我が踏みしめていった道を遺そう。

 

 

神の道標をそこに創ろう。

 

 

かつて我が神器セイクリッドギアシステムを作ったように。

 

 

それこそが我が神の絶対性を疎かにしたことに対する償いとなろう。それこそが我が神である証左となろう。

 

 

我は神になるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

差しあたって、切り拓くべき可能性は“神器”に必要となる魔力や体力の底上げだ。それらを継続的に上昇させていくことで、より多くの可能性を開花させる。魔力も運用し続ければ、より洗練されていく。体力も同様だ。それらと同じ効果を神器によって求めてやればいい。直接的な結果を神器によって求められるのだから匙加減さえ間違わなければ、通常の成長速度を大きく上回ることができるだろう。

 

 

【魔力量の増加】

【体力量の増加】

 

 

これだけは継続的に維持していこう。最初は全体としても多めに力を割き、ある程度並行的に神器を使えるだけの分母を確保できたら、徐々に可能性の探求に注力していく。基本の充実は差しあたっての急務であろう。

 

 

徐々に悪魔に抗するための術理も習得せねばなるまい。とはいえ、この器、もともとは一般人の身である。世に言う普遍的な“一般人”が悪魔や天使を抗するための才能を持たぬからこその“一般人”であるように、この器もその例に漏れず、如何な術式においても適性を持っていないようであった。唯一天の術式の中でも精神性を重んじる術は我の影響からか強く適性を持っているようだが。

 

 

天性の才能というものはやはりあれひとつきりらしい。冷静になってから再評価してみるに、あれの成長を促したのはくだらない性的欲求だろうが、方向性は面白い、と言ったところか。元からあった、女を裸にする、という方向で伸びていた能力がうまく我が神器の行使の際想像していた知的欲求の結実と合わさったことが功を為したのだろう。結果として視界には裸の女体とそのパーソナルデータが映し出されるようになった。

 

 

しかし、以前は性を超越していた我も器の影響からか、今はそういった欲求とは無縁でいられない。そういった欲をかき乱されることがこの能力の欠点と言えば欠点か。あとどうあがいても、この能力から男を裸にできる可能性が皆無と言う点も。男を裸にすることに関しては別の可能性から模索していかざるをえないようだ。

 

 

まぁ難はあるとはいえ、一つ極めているものがあるのは大きな長所。まずはあの紅い女悪魔にかなう程度の力量を得るために、魔力・体力の増量とともにそれを生かす術理を知識から引き出していこう。相手の性質・弱点は読み取れるのだから、どのようなパターンにも【汎用できる術式】を広く浅く網羅していき、同時に【瞬時に】【戦術を立てる】頭を鍛える。あるいは男の敵に出くわした時のため、自身にかけるための全てが女に見える幻術の術式も学んでおくか…………それがこのレベルの“目”に作用するかはわからないが。

 

 

「方針はそんなものか…………」

 

 

大体の神器の運用方針が決まったところで我は足を止める。

 

 

 

 

我が向かっていたのは、器の記憶にあった町はずれの教会である。この身からはすでに元浜の人格が失われている。両親と一つ違いの妹と仲睦まじく暮らしていた家に帰る気にはなれなかった。それは器のものだ、奪うのは残酷であろう。二度と家族の目の前に現れないことで“元浜”は死んだ、と認識してもらえれば、その思い出にこそ“元浜”の墓標が立とう。何も残していけなかった器に対する我なりのささやかな配慮であった。

 

 

とはいえ、神たる我とて今はしがない学生の身。他に行くあてなどなく、どうしたものか、と悩んでいた我に思い当たる行先など教会しかなかったのだ。

 

 

器の記憶から察するにどうにもとうの昔に廃れた教会であるようだが、それならいっそ好都合。いずれはきちんとした教会に保護を求めることを考えてはいたが、何の実力もない一般人レベルの状態で教会の門戸を叩くことなど、神であった我の矜持に障る。神であった我からしてみれば、今の状況全てが矜持に障るが、それでも譲れない一線というものはささやかながらに存在していた。それがかつての信者たちに向けられるものであればなおさらである。

 

 

そういう意味で廃れた教会と言うのは、我にとってはこの上ない好都合な物件であった。ほどほどに矜持を守れ、ほどほどに我の状況を戒めてくれる。

 

 

「ここか…………」

 

 

詳しい地理までは記憶から読み取れず、しばし道に迷うことになるも辿りついた教会。どことなく懐かしい雰囲気を感じ取りつつも、教会に足を踏み入れることにためらいを覚えているこの身体を縛っているのは、きっと我の負い目が原因であろう。

 

 

今の我には奉られるほどの力はないのだ、と。

 

 

「いや、奉られてすらいないか…………」

 

 

自嘲の念が我の中にこだまする。我がいなくなったことで教会も衰退の一途を辿っていることは想像に難くない。無論、それは魔王を失った悪魔どもも同様だろうが。

 

 

推測の域を出なかった勢力衰退も、こうもまざまざと見せつけられてしまえば、罪の意識を駆る現実となって我の自意識を崩壊させる一つの礫となる。

 

 

すなわち神にはなれぬのだ、と。

 

 

「いかんな…………」

 

 

これなど序の口。我の苦行は始まったばかりだ。

 

 

重石の乗ったような抵抗感を務めて無視して我は教会へと足を踏み入れる。夕暮れ時、影は北東に細長く伸びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、ようこそ、迷える子羊さん? なんて冗談が利きすぎてるかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥肌がさざめく波のように皮膚の上を通り抜けた。

 

 

教会の祭壇の上に胡坐をかく女が一人。その脇を囲むように神父と思わしき恰好をした男たちがズラリと並ぶ。

 

 

その背に宿るは黒の翼。邪な加護を受けるその身の邪悪。極めついては凛然と現在を象徴する御像の無惨に破壊された頭部。

 

 

「堕天使どもが…………」

 

 

我はとんだ虎穴に飛び込んでしまったらしい。

 

 

どうやら我はその身に余る清浄さから門をくぐったときにご丁寧にチャイムを鳴らしてしまったようだ。全く、もって生まれた高貴さというのはこれだから厄介だ。例えどんな相手でも貴賤なく振舞うことを礼とする心。今はとんでもなく愚かしい方向へ働いてしまっている。

 

 

「あら、てんで何にも知らないで入ってきたのかとも思ったけど、そうでもないみたいね?」

 

 

少なくともあの子よりはましだわ、とくすくす笑うその姿は可憐の一言。しかし我の目は騙されない。この目は全てを見抜く“審美眼”この堕天使が実に豊満な体つきをしていることは…………ゲフンゲフン。この堕天使が今までどれだけの悪行を重ねてきたかは手に取るようにわかる。

 

 

中級堕天使・レイナーレ、か。その身が宿す光の力は、悪魔の殺傷性を優先しているがゆえに発光力―――――遠距離、広範囲の攻撃の適性を犠牲にしているが、その分単一の遠近攻撃には十分な指向性を持つ。

 

 

女性限定とはいえ、相手の戦闘の性質まで読めるこの目はやはり素晴らしい。

 

 

このレイナーレも、中級堕天使の割には大した実力を持っていないのだと理解できる。しかし、問題はその大したことのないレイナーレにさえ及ばない力しか持ってないわが身のこと。

 

 

敵意を向けられれば死ぬ。

 

 

これは絶体絶命の危機だ。

 

 

「まぁいいわ。どんな輩であれ、ある程度の事情に通じた人間が入ってきたのなら、容赦はしないわ。私の任務と計画に邪魔だもの」

 

 

自分の言葉におかしみを覚えたのか、再び可憐な微笑みを浮かべるレイナーレ。

 

 

その言葉とともに、並んでいた神父がこちらに迫ってくる。

 

 

くっ、予想通りと言えば予想通り。ここは逃げの一手を打つしかないかっ。

 

 

我があとずさりしつつ、踵を返そうとしたそのとき、背後で大きな音を立てて扉が閉まる。

 

 

「はぁーーーい、バァアアン! ここから先は一歩通行DEATH! 冥界行きの特急電車ぁ! おひとり様ごあんなぁあーい! てかてか!? あべ、俺ちゃんちょっとユーモラスすぎるっしょ!」

 

 

ケタケタ嗤うは、白髪の神父。扉に手をかけ、歯をむき出しにして、顔立ちに狂気を浮かべる。目は男には通用しないが、肌で感じられる。並ぶ神父たちより、こいつ一人の方が強い。

 

 

くそっ! くそくそくそくそくそくそくそくそくそく!

 

 

何故我がこんな目に合っている我は神だぞこの程度の連中造作にない指一つ動かせば死ぬ言葉紡げばそれだけでひれ伏すそんな程度の価値しかないゴミ屑同然の生命に何故我はこんなにも萎縮している何を迷っているお前たちは存在すら許されない我が神なら殺す死ね消えろ我を脅かすなちっぽけでくそったれな俗物くそくそくそくそ、だというのに何故我の身体はこんなにも、

 

 

震えているというのだ。

 

 

そうだ、これは器の影響だ。器が脆弱すぎるせいだ、だからこの程度の中級堕天使と悪魔祓いどもに怯えている。屈辱、まさに屈辱。嗚呼くそ! どうすれば、この状況から……

 

 

「天使様ぁ! こいつ殺しちゃっていいスかぁ!? 悪魔じゃないけど! 悪魔に頼ってる気配もないケド! それ殺しちゃっていいのカナ!? ほら俺ら一応悪魔祓いだし? やっぱり大義的なものがないとあかんと思うのですよぉ? こいつ殺すのに大義とかあるかなぁ…………? あった、俺殺したい! 以上! いいともぉ!」

 

 

光の凶刃を携え、イカれた神父が舌なめずりしながら、我に迫ってくる。

 

 

こいつを、こいつを殺せるだけの実力を身につけるには、どれだけ…………? くそ、そんなことをすればエネルギーに枯渇し死ぬ、そう意思表示するかの如く、神器が拒絶の気配を出している。よしんば殺せるかもしれない程度の確率に頼った実力を引き出したとしても、さらにその後には、居並ぶ神父たちと堕天使が待っている。到底そこまで我の器が持つとも思えない。

 

 

我の神器はこういった土壇場での行使に向かないのだ! 力を引き出すのにコストがかかる上、それを行使するのにも、コストがかかる。限られた燃料しか使えないこの脆弱な器では燃費が悪すぎるのだ。

 

 

「まぁ、待ちなさい、フリード」

 

 

静止の声をかけたのは、堕天使レイナーレ。

 

 

一対一のにらみ合いから一転、我らは待ったをかけたレイナーレに注意を向けざるを得なくなる。といっても我には振り返る余裕などないが。

 

 

「そこの人間。命が惜しかったら命乞いでもしてみなさい? それが面白かったら、そうね…………命だけは助けてあげるわ」

 

 

極大の悪意が息をひそめた慈悲の言葉がかかる。

 

 

命乞いだと、冗談ではない。すぐさま切って捨てたい我ではあったが言葉にならない。もしかしたらそれだけが我の生き残る唯一の手段ではないか、それならばいっそ、と。一縷の希望のように感じられてしまうのだ。ありえない、こいつは楽しんでるだけだ、と神である我は判断しているのに。想像力が貧弱な器。必死に現実から目を逸らそうとする姿勢が現実の認識を妨げているということに気づけ。いや気づいてはいる! だがそれが上手く飲み込めない! 

 

 

「おぉおと! まさかの無力な子羊ちゃんによる一発芸タイーム! キタよコレ! 確変確変! 君の命はベットされた! 生きるも死ぬも君次第! さぁいってみよぉ!」

 

 

完全に遊ばれている、ニヤニヤと憐れな獲物を嬲り悦に浸る下衆の視線が視聴者気取りで我の反応を試している。

 

 

「ほらどうしたの? やってごらんなさい?」

 

 

声だけ聴けば優しい女性の声。しかし語尾は嘲笑に歪んでいる。ほらどうした、やらなきゃお前の命はないぞ、我の非力を笑って優越感を得ている。性根が腐っている。

 

 

どうする、やるか、やるだけなら損はないか、駄目で元々微細な確率ではあるが、生き残れるやもしれぬ、その確率を上向きに操作すればあるいは…………

 

 

しかし、わかっているのか、その確率を神器で操作するということは、英語教師の矛先を威圧して避けさせたように、より情けない命乞いで堕天使の機嫌を伺うということだ。そんなことをすれば、我の、神の矜持が! しかしここで死んでしまえば、千載一遇の機会が再び巡ってくるまでいつだ? その時世界は、信徒はどうなっている? 信徒思えばこそ一時の泥水すするくらいの苦行は耐えて然るべきではないのか…………

 

 

頭の中が思考の渦に飲み込まれそうになる。その状態は傍から見てて面白いのか、下卑た笑い声が神父たちの中から時々漏れる。

 

 

堕天使もやはり同じたちなのか指先で突っついていじるように我に指図する。

 

 

「ほら? どうしたの、命乞いの仕方わからないの? 仕方ないわねぇ、フリードお手本見せてあげなさい?」

 

 

「ほらキタ! こういうとき人気者の俺様困っちゃうよ! いくら博識でイケメンパラダイスな俺でも命乞いのやり方なんてわかるわけ…………」

 

 

ない、と言い切ろうとしたところで、目から光を失い次の瞬間、フリードと呼ばれた神父は手を組み、膝をつき涙ながらに訴え始める。

 

 

「ゆ、許してくだせぇ! お代官様ぁ! もうおらぁんちの家に金はないだ! らめれ!持ってかないで! それナマポで買ったナマコ! おいしくないよ! ちょ、マッテ臓器は勘弁! それ命、俺の命! 命ばかりはお助けよぉ!」

 

 

へいこらへいこら、馬鹿みたいにははぁ、ははぁと平伏するフリード。あからさまな道化を演じ、周囲も笑いをこらえきれず声を上げて笑ってしまう者もあらわれた。

 

 

これを、我にやれと言うのか…………

 

 

目の前の道化の調子に辟易してしまう我である。到底やる気など起きないし、そもそも周りの空気も緩んでしまっている。

 

 

どうにかこれで隙はできぬものか、苦し紛れにもそう思える余裕ができた直後であった。

 

 

フリードと呼ばれた道化が、奇術師のごとくもったいぶった手つきで胸元を探り、一気に引き抜く。その手に握られていたのは一丁の拳銃。

 

 

何が起きたかわからなかった。遅れて我の耳に届いたのは一発の銃声。さらに遅れること鼻についたのは火薬と硝煙の香り。しかし次いで来るはずの痛みがやってこない。

 

 

そう、フリードが銃弾を放ったのは声を上げて笑った神父の男の胸元であった。

 

 

何が起こったかわからない、そんな空気に支配された聖堂の中、フリードだけが気炎を上げて叫ぶ。

 

 

「こっちぁ、真剣にやってんのに何嗤ってんだぁ! このくそども! 真剣の命乞いだぞ? 命がけのレッスンだぞ? てめえらも命がけで聞けやボケェ!」

 

 

神父の列に向けツカツカと苛立たしげに足音を鳴らしながら近づき、撃たれてもんどりうっている神父を足蹴にする。

 

 

「おいおい、これくらいで死んじゃいますかぁ? 俺のフォーリンラブが熱烈すぎましたかねぇ、でもたっぷり味わえたっしょ。こんなパラダイスイケメンのラブ! てめえみたいなブサにはもったいないくらいですよなぁ。いやぁでも愛溢れた俺の責めがこんな形になっちまうとは俺様ちょい反省。俺食らったことないけど、対悪魔用祓魔弾ってどんな感じ? やっぱ悪魔じゃねえしそんな痛くないもんかな? そうだよねぇ! 俺たち堕天使レイナーレ様の加護を受けた選ばれし勇者! だもん、こんくらいで死ぬわけねえ! OKOK!」

 

 

狂気であった。まさしく狂気。我の心胆冷やさせるほど悪。この白髪の神父には仲間意識というものが圧倒的に欠けている。かといって敵対意識をもっているわけでもない。ただ単にこの神父にとって他者とは屑なのだ。それくらいの価値観しか持っていないから、こうも容易く単純に事に運べる。

 

 

これが堕ちた人間の果てだというのか。

 

 

この器に入って以前からの認識改めて実感した。人間の愛の欠如。神の監督なくば、ここまで堕ちるか人間。

 

 

これはなんとかせねばなるまい。そういった義務感すら喚起させられた、この少年の狂気。まだ年頃は器と同じくらいであろうに…………我が抱いたそれは圧倒的な弱者に対する憐憫であった。

 

 

「お、おお? 死んじゃった? 死んじゃったよこの男! あれじゃね悪魔用の祓魔弾で死ぬとかこの男悪魔だったんじゃね!? そうだよ! 天使様の加護受ける悪魔とか! かぁーーーーー、図々しいにも程があるぅ!」

 

 

そう言ってつま先で神父の死体を引っかけ聖堂の影の方に蹴り飛ばした。そしてちらりと、レイナーレのほうを伺う。こんな感じでいいっすよねぇ、理由としては、と。この少年の癇癪で神父が死んだことは間違いない。しかし、例え堕天使の下とはいえ、そんな理由で死がまかり通っていいはずもない。組織である以上ある程度の理由は必要だ。それが体裁というもの。どんなに馬鹿らしい理屈でもあったほうがいいに決まっている。

 

 

それに少年は強い。弱ければそんなバカみたいな理屈は通らないが強ければ通る。強ければレイナーレも重視せざるを得ない。元よりここは正しき天の理より追放された無法者まがいの集まり。弱肉強食の実力主義。強者が幅を利かせるのが当然の社会なのだ。

 

 

事実レイナーレも少し眉をひそめた程度で大して気にした様子がない。強いて言えばフリードの蛮行に不快感を覚えているが、神父一人の損失自体は鼻もかけていない。

 

 

どうでもいいのだ、そんなこと。

 

 

「…………まぁいいけどね。後で誰かあの死体処分しときなさいよ」

 

 

故に弱者はその立場を思い出し、息を潜ませ強者に膝をつくしかない。神父たちは目線を下に落とす。選んだのは彼らだ。これが天の理より外れた社会の実態なのだ。

 

「ほらこんな感じよ? 命乞い。ジャパンに免じて江戸っ子verでやってやったんだからさぁ、ほらレッツレッツレッツ!」

 

 

道化の調子が明るく変わったが、目の色は紛れもなく本気だった。やれ、できなきゃ殺す。この男はそのためなら独断で我を斬りかねない、そんな危うさは先ほどの狂気の鱗片を感じさせる。

 

 

「ふん、できるわけがなかろう」

 

 

しかし、調子を取り戻したのは、我も同じである。今の狂気を見て思った。我はこれを正すためにあるのだ、と。これを誅するためにあるのだ、と。

 

 

「あっれ~~、この子どうしちゃったのかなぁ~~? 自分の立場アンダスタン? そんな生意気ぶってると殺しちゃうよ? 俺調教とか趣味じゃないからでも新たな世界を切り拓いちゃうのもありかもとか思ってたりしちゃったりして!? 拷問調教楽しいぃ~な、hey! 皆さんもご一緒に!?」

 

 

調子っぱずれな歌でノリノリに唱和することを求めるフリード。先の一件を見ているからか、神父たちも戸惑いながら野太い声で合唱する。拷問調教楽しいぃ~な hey? と。

 

 

そこは無視しろや、てめえの合唱なんて聞きたくねえよ、拳銃を振り回すフリード。滅茶苦茶なノリに神父たちもどうしていいかわからないようだ。

 

 

「狂ってるな…………神の慈悲無きこの世の無常を感じるかのごとき光景だ」

 

 

一人毒づくと、フリードのノリに呆れて見かねていたレイナーレが面白そうに口を開く。

 

 

「あら、ずいぶんと落ち着いたものね。あなたの立場は一向に変わらないっていうのに」

 

 

「忘れてなどいない。ただ思いだしただけだ。貴様らのような穢らわらしい連中に下げる頭などないことに」

 

 

その言葉にレイナーレの目がスッと細まる。フリードの調子っぱずれな口舌が止まる。両者ともにあるのは馬鹿にされたことへの憤りではなく、面白がるような空気だけだ。

 

 

そこにあるのは絶対的な優劣の差。差して相手のことを評価していないからこその態度。人間だって蟻が喧嘩売ってきたら嗤う。それほどの差。

 

 

しかし我は屈しない。死んでもこのような輩に頭下げてなるものか。

 

 

「ほぅ、言うねえぇ、少年! そういうの僕ちん大好き!! 結婚して!」

 

 

「面白いわね、その程度でよく吠えたわ」

 

 

両者ともに立ち上がる。

 

 

フリードは拳銃を投げ、光の剣を抜き身に、柄元をペロリとなめ、

 

 

レイナーレは折りたたんでいた黒翼を広げ、初めてまともに我に視線をやる。

 

 

「任務で童貞クサい少年の相手を務めさせられ疲れた私の無聊を慰めるぐらいにしか思ってなかったのだけれど。そうね、もうちょっと趣向を凝らしてもいいのかもしれないわ」

 

 

その顔に湛える悪魔の微笑み。

 

 

「フリード、そいつ、殺していいわ。でも、できるだけ長く、相手を苦しませながら、ね」

 

 

「アイアイサ! なんちって! 趣味わりー! さすが我らが愛おしき天使様! そういうの大好物です!」

 

 

そして幕を開けた、殺戮劇の始まり。

 

 

全くもって最悪だ。しかし勝てないと決まったわけではない。ネズミを狩るぐらいにしか思っていない連中の油断につけこんでくれよう。

 

 

窮鼠の力思い知れよ、我は手ごわいぞ。

 

 

棒立ちで構える我の戦闘姿勢。どのみち異形との戦闘には何のかじりもない器だ。下手にらしい構えをとっても動きが阻害されるだけ。

 

 

如何に神器を上手く使えるか、それが問われる戦いとなろう。

 

 

「ふふ、コロッセオで猛獣に立ち向かう人間の憐れな闘いを観戦した人間たちの気持ちはこんな感じだったのかしら。少し楽しくなってきたわ♪」

 

 

先制はもちろん白髪の神父。飛び込んでくる低姿勢からの光の斬撃。弧の軌跡の始点は膝よりも低き床のすれすれから。

 

 

この、女にしか役に立たない“目”も生存本能に駆られれば、別なのか、相手の動きを追うことはできた。まぁもとより性欲がねじくれて発達した目だ。性欲の源はすなわち子孫を残そうという生存本能に由来する。ここぞというときその目の真価は動体視力にも発揮された。しかし後に知る事実はなんと残酷か。この目の動体視力が揺れる乳の微動に対応するため進化したと知ったときの絶望感。絶壁な乳の揺れを感じ取るには目を皿にする必要があった。そこから派生した動体視力なのだ、と。今はただただ予想外の目の汎用性の高さに驚くばかりであり、その手の思考に回らなかったのがこの場では吉と出る。

 

 

太ももを切り裂く斬撃。血しぶきが舞い上がり、白髪の神父の顔が愉悦に歪む。

 

 

「ほらほらどうしちゃったんですかぁ!? さっきまでの威勢のよさはぁ! はったり? 虚勢? どっちも意味は同じだけどそれしかねえもん!! まさかの選択肢にて正答一つ! でもねそういうとこ可愛いと思いますよ! 僕はぁ! その痛みに歪む顔も! どんどん歪めてあげますから、もっとかわいいとこ見せてくださいよぉ!!!」

 

 

「ペラペラペラ、とよくしゃべる…………!」

 

 

血を見たことで昂ぶる器の感情。それに呼応させ、我は神器に【痛みの緩和】を命じる。戦闘により少しばかり分泌されていたアドレナリンが神器によって大量に行きわたり、頭がカッ、と熱くなる。しかし、おかげで痛みは和らいだ。意地でも痛みに歪む、奴らの望む顔など見せてたまるか!

 

 

「ほらぁ! なら次はこれぇ!!」

 

 

光の剣を十字に斬れば軌跡が空中に残り、光が形を成す。次の瞬間残像として残っていた光の軌跡が刃となってこちらに飛んでくる。

 

 

しかし、それよりも早く我はすでにその対面から退避している。

 

 

敵の【行動分析】。あまたの知識は神器により保存されている。目の前の敵が何をやっているのかを見て、あまたの知識の中から類似攻撃を検索、その攻撃の知識だけを抜き出す! 

 

 

実質は類似攻撃の【知識習得】のコストだけなので消耗は少ない。単純な攻撃であればそれほどの知識を必要としないために、今の我にも運用が可能だ。知識の検索を神器が自動化してくれる点はありがたくもある。

 

 

本気で当てるつもりはおそらくフリードにもなかっただろう。観客を意識したエンターテイメントを気取り派手な技を使ったに過ぎない。その際の隙は我が避けてから逆算される時間、十分補える猶予のある時間だったはず。

 

 

しかし、フリードが攻撃を始めた直後ゼロコンマに満たない時間で我が回避行動をとったためにフリードの目算に誤りが生じる。

 

 

今のフリードは隙だらけである。フリードの目に焦りが生じるが、それでもフリードの立つ位置まで到達するのに我も時間がかかる。十分フリードも体勢を立て直せる、そう踏んだのだろう、フリードの余裕は消えない。むしろそれを隙と取って、強襲してくればカウンターを浴びせてやろうという気概も見える。

 

 

しかし、それは命取りだ、フリードよ。

 

 

【瞬発力強化】

【瞬発力強化】

【瞬発力強化】

 

 

途端、足の筋力がたわみ、足が一回り太くなる。今までとは違う地面の踏み心地。地面がより固くしっかりとしたものに変わったかのごとく力強く反発し足の裏を押し出してくる。

同時に極度の疲労が頭を揺らしたが、アドレナリンの大量分泌が意識を失うことだけは避けてくれた。

 

 

「フリィイイイイイドォオオ!」

 

 

フリードの位置までは一瞬だった。それこそ飛ぶように景色が流れる。それに対しフリードはいまだ構えの残心を解いたばかり。フリードの表情が驚愕に歪む。

 

 

【筋力一時100%運用】

【確率操作・敵の昏倒】

 

 

バネのような跳躍の勢いを殺さずそのまま拳を振りきる。稚拙な腕の振りではあったが、確率操作、まぐれの賜物か、フリードの顎下に吸い込まれるようにしてヒット。そのまま救い上げられるようにフリードの身体が吹き飛ばされた。並んでいた長椅子を巻き込み、フリードは床にたたきつけられる。

 

 

「ぐぅはぁ、はぁはぁはぁ」

 

 

頭痛が止まらない、身体を覆う疲労感に意識を失いそうだ。しかし、ここで意識を失えばたちどころに死が待っている。我はフリードが完全に気絶したことを確認する手間も惜しんで、傍観に徹していたレイナーレと神父たちに向き直る。

 

 

唖然とした空気が嫌でも伝わってきた。当然だろう、神父たちはフリードの力の前に黙らされてきた。その神父たちから見れば圧倒的であったフリードを神父たちでさえ馬鹿にしていた一般人と思わしき人間があっという間に倒してしまったのだ。驚かない方がおかしい。

 

 

もう一方のレイナーレはと言うと、余裕めいた笑みを崩さぬままだ。これだ、これが危険なのだ。レイナーレにしてみればありえない力を発揮した我を前にして驚きも見せない。ありえない反応だ、その力が自分たちに向けられるとは思わないのか? なんとなく納得したような顔を見せるレイナーレが不気味でたまらない。

 

 

「へぇ~あなた神器を持っているのね、その正体はわからないけど」

 

 

伝う汗、霞む視界のなかレイナーレが何やらレーダーのようなものを握っているのが見えた。

 

 

「あ、これ? 気になる? これはね神器好きのアザゼル様が開発なされた、神器の発動を察知する機械よ。神器の収拾が目下私たちみたいな中級堕天使のお上へのご機嫌伺い、もとい得点稼ぎみたいなものだからね、全員に配られているの」

 

 

ご機嫌な様子でわざわざ丁寧に説明してくれるレイナーレに揺れる視界の中で必死に捉えようとする。足に負担をかけすぎたか、立っているのも精一杯なくらいである。

 

 

くそ、神器を持っていることがばれた…………予想以上に負荷がかかった、かくなるうえは…………

 

 

「ああ、でももうだめね。実力の次元が違うフリードを倒すくらいすごいのはわかったけど所詮そこまで、ほら神器の明滅がどんどん弱くなっていく」

 

 

【確率操作・敵の昏―――――

 

 

ぐらりと身体が傾いていく。ああ、くそ、くそ、意識が薄れて…………

 

 

「アザゼル様へのいい手土産になったわ。こう言うのを…………日本では棚からぼたもちっていうのかしら? ふふふ、待っていてくださいアザゼル様、レイナーレは必ずや―――――」

 

 

そこでパッタリ、と意識が暗転した。

 

 

…………悔いはない。連中にこの躯晒すことだけは堪えがたい屈辱ではあるが…………少なくとも我は神を守れたのだ。それだけで…………今はいい…………

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一筋の光明

「くそがっ…………」

 

 

状況は最悪だ。短慮に身を任せたことが仇となった。今にして思えば、もう少しやりようがあったのではないか、と後悔は尽きぬが、行為自体には後悔はしていない。

 

 

あれは神たる身として当然の意思であった。それを非力な人間だから、という理由で曲げるのはおかしい。それは絶対性を持つ神のするべきことではない。

 

 

神になることが必ずしも重要なのではない。神に相応する実力を身につけたそのとき、我が変節してしまっては意味がないのだ。我が我のまま神になること、それこそが全信徒の待望なのだ。その理想から一時たりとも外れてはならない。厳格を求める信者、公正を求める信者、救世を求める信者、絶対を求める信者、その全ての信者の信仰、ぴたりとはまるその全てこそ神。神こそ我。

 

 

故に我の行いは正しい。最善であったはず。器が人間であるからこそ起きた過ちなのだ、これは。その過ち正さなくてはなるまい。この器をより我にふさわしいものに仕上げるためにも、これは必要な試練なのだ。

 

 

「くっ…………しかし」

 

 

頭は重い、腕は痛い、足は熱い、暗い、寒い、動けない。器の全感覚が異常なまでに足並み揃えず手前勝手に悲鳴を上げている。熱いのか寒いのか痛いのか重いのか、どれか一つに声を揃えて鳴きやがれ、くそが!

 

 

精神も荒んできている。罵倒の一つでもしなければ、意識を正常に保っていられない器に嫌気がさす。不満を言えばきりがないのだから、突き詰めるのはやめだ。

 

 

現状をどうにか打破することに思考を尽くした方がいくらかましというものだろう。

 

 

腕を動かす。軋む金属音。後ろ手に縛られた腕が金属の冷たさに中てられて、ひりひりと痛む。しかし、努めて無視。さっきよりも強く、腕を自由に動かすことよりも、腕を縛っている鎖を引きちぎらん、と前後左右に激しく腕振る。ガシャンガシャン、冷えた仄暗い一室に無機質に響く金属音。

 

 

天井付近で鎖を固定している金属具の抵抗に合うだけで、何の解決にもならない。

 

 

今は発熱により動かせないが、足輪につながれている鎖も同様だろう。

 

 

本気で抵抗したかったわけではない。ただ現状の確認を身体で済ませたかっただけだ。頭では理解できていても身体がどうにも理解してくれないときがある。完全に我の手中に身体のコントロールがない証拠であろう。完璧に掌握するにはこの器にもせいぜい身の程わきまえてもらわねばならん。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁはぁああはぁ」

 

 

しかし、そんな些細な動作でも我の身体が悲鳴を上げるほどに我は消耗している。思考まで身体の異常に乗っ取られ、億劫だと言う倦怠感に悩まされている。思考と身体、感情と理性とのせめぎ合い。そんなとりとめのない思考に手間取る中、我はかろうじて回せるリソースを現状の観察にあてる。

 

 

身体の自由はご覧のとおり、厳重に縛られた鎖によって奪われている。コンディションは最悪。まともに機能している器官の方が少ない。神器で緩和しようにも行使するためのエネルギーがない。一時の体調の調整に神器を行使すれば、かえって悪化しそうなくらいだ。

 

 

夜目になれてくると、さらに見たくないものまで見えてくる。

 

 

我が鎖に縛られ座す床を中心として魔方陣が描かれているのだ。どのような効力を持っているかまでは、“全知全能”ではない我にはわからない。しかし、見覚えはある。そんな曖昧な感覚の下、我の勘は、非常に不味いものだ、と言う。流石は神たる我の第六感、冴えわたっている。何もわからん。

 

 

まぁ、いいとこ、拘束用の魔方陣であろう。当て推量ではあるがそれほど正答から遠いとも思えん。

 

 

しかし、これでまた一歩、我の脱出から遠のいたのは間違いない。

 

 

そこはかとなく漂ってくる絶望感。見れば見るほど、脱出の糸口がどこにも見当たらない。仮にその手口があったとして、立って歩けるかも怪しいのでは儘ならない。

 

 

「今は……っ、体力をっ回復、優先、だな…………」

 

 

そう、今の我ではどうにもならないのだ。エネルギーの回復を待つしかないのだ、そうだ、それしかない…………正しい判断のはずだ、しかし現状の打破に一時でも時間を費やさないことが怠惰のように思えてならず、うまく眠りにつけなかった。回復を待つしかない、という判断がとってつけたような免罪符のようにしか感じられないのだ。人間で言えば病的と言ってもいい、全てが為すがままであった万能たる神ゆえの苦悩。“全知全能”の力を有していたがゆえに時など選ぶことを知らなかった神の名残が病となってこの器を蝕んでいた。分不相応を蝕むのは神の精神だけではない、人間の身体もまた同様であることに気づかされた。

 

 

 

 

 

夢か現かそれすらも判断できない朦朧とした意識。一体どれだけの日月が経った。一日か三日か一週間か一ヶ月か、それとも一時間か。時間感覚はとっくのとうに失われている。回復の兆しはいまだ見えない。それどころかますます悪化しているかのように、身体が言うことを聞かない。そもそもまともな飲食すらとれていないのだから身体が弱るのも当たり前か。くそ、やつら捕虜の遇し方も知らぬと見える。まぁ無教養故の愚行と取れば奴らも大分憐れに思える。神のごとき寛大な我は寛大極まりなく許してやろう、わははは。

 

 

「はぁはぁぁあは…………くくくっ」

 

 

糞も小便も垂れ流し。ああくさいくさい、湿ったズボンを寝返りがてら擦る度ねちょねちょ排便が潰れる。かゆいかゆい、穴がかゆい…………

 

 

しかし手も自由が利かんとなると、このような生理現象の処理もままならないのだな。世話役も全く姿を見せぬことだし、仕様がない。いや我も神である。人間の生理現象まで尻のしまりの悪い器だ! と器のせいにするつもりはない。どんな人間だって糞はする。仕方ない。いや仕方ないな、はははははは。

 

 

「……っ、……あるかっ……!」

 

 

仕方ないわけがあるか!! 

 

 

しかし、そうでもして誤魔化さなければ、我の精神が持たん…………衰弱して間もない我には怒気を声に出して表現する元気もない。

 

 

ふふふ、なるほどこれは大した拷問だよ…………我の精神的な面を責め立ててくるとはな…………間違っていない。器が人間であることで一番無防備にさらけ出されているのは我の精神だ。我の精神を崩壊もしくは浸食を招いてしまえば、それは奴らの勝利にはならないにしろ我の敗北にはなるのだ。

 

 

正気を、正気を保て、もはや我の身分は地の果てにまで堕ちている。落ちぶれている。立場的にも最低な人間でもここまで屈辱にまみれたことはないだろう。人間の中でもとりわけ軟弱な精神を持つ者であれば発狂してもおかしくない。そうだ、我が神だから、我が神であるからこのような汚辱にも耐えられているのだ。我の高潔さあればこそだ、そうだ故に我は神なのだ、ちくしょう!

 

 

取りとめのない思考が垂れ流される中、我は唯一自分が神であることの証左である神器に聞く。この状況どうにかなるまいか、と。あるいは復調させることはできないか、と。しかし神器の答えは決まって渋いもの。下手に残されたエネルギーを神器に奪われれば何もできなくなる、と。しかもそのエネルギーの量も衰弱とともに日に日に目減りしていくばかりなのだ。

 

 

そうであれば減る前に、とも思うが、どうせできることなんて限られている。そんな些細なことに力を使ってどうするのだ、と無気力感に包まれる。

 

 

繰り返し、繰り返し。もはや思考も一定の定石を辿るまでにパターンが限られていきた。出口のない思考迷路。そんなことして何が楽しいのか、とも思うが、何もしないことよりはある程度同じでも思考していた方が弱っていく身体から目が逸らせる。もしかしたら煮詰まった思考から何かの間違いで新しい発見があるかもしれないではないか。

 

 

そうやって延々延々性懲りもなく精神の内にこもり、もはや時間間隔すらどうでもよくなった頃、ガチャリ、と扉を開けて誰かが入ってきた。

 

 

退屈な日常に新しい変化。誰かと思えば、いつぞやの白髪の神父であった。ああ、まったくこの顔が懐かしいとも思える。そんな感慨すら凝り固まった思考に囚われ続ける我は目新しい未知のように感じられた。

 

 

開口一番、フリードは顔を歪める。

 

 

「おえぇええ! こ、こいつは糞のにおいがプンプンしやがる! ホームレスだってもう少しましな体臭だよね! お体はキレイ! キレイ! にしましょ!?」

 

 

真上から水をぶっかけられる。冷や水をかけられ、熱に茹だった頭が冷却され、少しだけ呼吸が落ち着いた。伝ってきた水が唇の隙間から入り込み、わずかに喉がうるおった。

 

 

「はい! 残飯処理ご苦労様です!!」

 

 

続いてトレイに乗せられていた料理らしきものごと頭にたたきつけられ脳を揺さぶられる。何を思う暇もない、ただただ理不尽な暴力。ついでとばかりに横面を霞むほど蹴撃で張られるも、繋いだ鎖が慣性に従って地を離れるのを許さず、肌に食い込み、強引にも我を地に伏せさせる。首を圧迫され、咳きこむ我にさらなる追い打ちが加えられる。

 

 

フリードを駆り立てているのは間違いなく先立っての顎への一撃だろう。ゴミ屑同然に思っていた相手に良いようにやられたのだ。しかも彼がエンターテイメントとばかりに派手な一撃をかましたばかりに、だ。でなければ我の勝利はなかった。敗北の原因が己にあることがわかっているからこそなおいっそう腹立たしいのだろう。しかも当の我がこうも無様な醜態をさらしているのだ。こんなやつに俺はやられたのか、と憂さ晴らしに執念を燃やすのもわかる。

 

 

「ほらほらぁ! どうしたんだぁ屑! 天も悪魔もねえ、ただのくそ人間さん! 役に立たねえならせめてブヒブヒ泣いて俺ちゃまを楽しませてくれよぉ!! 黙ってるだけじゃ先生わかりませんよ!! ね!! ね!!」

 

 

これでもかというくらい吹き荒れる暴力の嵐。蹴る、踏む、潰す、壊す。人はかくも残酷になれるのか、とぼんやりとしてきた意識の中で思う。神の愛が届かぬ人間の末路とはこんなものか、とどうでもいいことを思う。

 

 

「う~ん、ここまで骨がないと俺様マジ困っちゃう! だっていじめ甲斐がないんだもん! 魚の骨はないほうがいいけどね!! もしかして魚類だったりする!? 人間じゃなかったり? ねえねえ、そこんとこ1文字以内で応えてくださいよぉ、ねぇ」

 

 

だからだろうか。問いかけられてそんな言葉が出てきたのは。

 

 

「…………れ、だぁ」

 

 

「え、なんて言ったの? 何を言ったの? ほ~らいいこでちゅから聞かせて~、パパですよ、パ・パ」

 

 

「あ、われ…………ぁわれだと…………こほっ、言ったのだ」

 

 

ああ、口の中が切れて、うまくしゃべれんな…………

 

 

「…………あ? え、え、え、え、え? やだこの子今何て言った、もう一回? もう一回言ってみて?」

 

 

「………………憐れだよ、貴様は。どうしようもなく憐れだ、お前ほど寂しい奴は見たことがない」

 

 

他人に価値を見いだせず、暴力で他者を潰すことでしか自己表現の仕方を知らない。よほど無体な教育を受けたのだろう。これも我の責任の一端か。あのとき魔王を倒し、我が全てを管理できていたのなら、こんなことにはならなかったろうに。

 

 

「はぁあああああああああああああああああああああ!?!?!? 憐れ!? この俺ちんが!? ははっ! こいつぁは笑えるますなぁ! 今際の際での一世一代のジョークかい!? こいつは流石に俺もシビれちゃうよ! あこがれちゃうよ!?」

 

 

腹を抱えてのけぞりかえって大爆笑するフリード。だろうな、お前はそうだろうよ。

 

 

「俺が憐れならあんたはどんだけ憐れなんすよって話だべ!! 糞尿にまみれて飯もろくに食えねえ! これぞ屑! まさしくゴミ! 生きる産業廃棄物、場所が場所なら業者さん呼ばれてシュッシュッシュですよ!! ゴミ屑ちゃん、人間様に向かって何様のつもりですか!? え!? ジョークも身をわきまえないとおっちんじゃいますよ?」

 

 

くくっ、我を前にして面白いことを言うな、この憐れな人間も。

 

 

「何様かって…………貴様が人間様なら我が神様だろうよ」

 

 

それは真理を突いた答え。この憐れで屑みたいな被造物が人間だというのなら、それこそ我はそれを生み出した神。今の世を統べる多くの被造物の前で我が神だと言うにはあまりにも被造物が眩しすぎる、我が吊りあわなさすぎる。しかしこの少年との間であればその対比は成り立つ。本当に、本当に愛すべきくそったれの被造物の神ぐらいであれば我も胸を張って神と名乗れようぞ。事実我はそれぐらいに力のない存在なのだから。本当はこんなやつの神様になんぞなりたくないが、仕方ない。今はそれしか我の存在証明となりえないのだから。お前の神でいてやろう。

 

 

我の答えをフリードがどうとったのかは知らない。しかしその顔には今まで常にあった狂乱の熱が消えている。一気に熱から醒めたそんな顔をしていた。

 

 

「うわ、うわ、流石のフリードちゃんもドン引きですわ。つか、は? 意味わかんねえ、醒めた、興ざめですわ、これ、つまんねー。マジつまんねえ」

 

 

パタパタ手を振りながらお土産に、と我の身体を足蹴にしてフリードは去っていく。

 

 

蹴られた身体の節々が痛い。ああ、痛くて痛くてたまらない。

 

 

しかし、まぁ。気まぐれにも似た戯言であったが、存外効果のあるものだ。我は本当のことを言ったまで、だったのだがな。よほどフリードには荒唐無稽に聞こえたのだろう。我自身どうかとも思ったが。

 

 

奴が入ってきて体力が予想以上に消費されたが、見返りにいいことを思いついた。それさえ思えば、悪くはない。問題は未だ山積みであるが、なに、脱出の糸口すら見えなかったときに比べれば、光明も見えてきたというものよ。

 

 

一人、うずくまりほくそ笑む。まだあきらめるには早い。機会はいずれ訪れる。それまでじっと耐え忍ぶのだ! と。

 

 

そして、その機会は予想以上に早くやってくることになる。

 

 

フリードが去ったのと入れ替わりにして扉を開け入ってくる一人の少女。

 

 

金髪碧眼のシスター。アーシア・アルジェント。

 

 

これがアーシアと我が、顔を突き合わせた初めての日であった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アーシア・アルジェント

 

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 

見るからにあわてた様子で走り寄ってきた金髪シスターを胡乱な目で見やる。一瞬、耐えがたい臭気を感じたのだろう、くしゃりとその愛らしい顔を歪めたが、生理的な嫌悪感を催したわけではなく単に我の痛ましさについて慮っただけのようであった。嫌味なくそうと感じさせるぐらいには金髪の少女の面立ちには純粋さが感じられた。

 

 

「ひどい、こんな…………」

 

 

叩きつけられぐちゃぐちゃの料理だった生ごみに塗れて、倒れこんでいる我の姿はさぞ憐れであろうに、この少女は何の衒いもなく我に接してくる。なんと清きことか。先ほどのフリードのことも相まって不覚にも我は感動してしまっていた。

 

 

しかし、ほどなく気づくのだ。腐った堕天使の陣営の中にそんな我の理想ともいえる人間像を持った少女などいるはずがないことに。

 

 

「…………少しじっとしててください」

 

 

金髪の少女はしゃがみこみ、両手の掌を真っ直ぐこちらに向け目を閉じた。神に祈る祈祷にも似た雰囲気を醸し、黙する。

 

 

するとどうだろうか。掌から仄かな緑色の光が灯り、我の身体の傷が癒えはじめたではないか! 手の平の光が鱗粉のように霧散し、細かな傷を包みあげ、回復させていく。焦点すら定かでなかった視界も、全身に圧しかかっていた疲労感も、発熱していた足も、全て憑き物が落ちたかのように元通りに戻っていく。

 

 

まさしく天にも昇る気持であったと言ってもいい。そのせいか、完全にすべての機能が元通りになった今、物足りなさを感じ、おかしみを覚えたくらいだ。神であった頃の能力に戻らないことに一瞬とはいえ疑問を抱いたのだ。馬鹿馬鹿しい勘違いだが、むしろそこまで錯覚させてしまえるのなら、いっそ清々しかった。

 

 

「はぁ、よかった…………もう大丈夫ですよね?」

 

 

小首を傾げこちらを窺ってくる少女。初めてまともに焦点を合わせた。

 

 

アーシア・アルジェント。神器・????所持。

 

 

先ほどの力は神器の力か…………しかし、どのような神器か、知識がないせいかわからない。身体が復調し、気が大きくなっていた。少女の力で元気になったのだ。回復して余裕ができた力を彼女を知るために使いたい、と思った。

 

 

【知識習得・対象アーシア・神器】

 

 

神器・聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)。人間、悪魔、天使、堕天使、対象を問わず宿主の意思で損傷した箇所を回復させることができる能力。

 

 

なるほどな、堕天使の陣営に席をおく身としては、回復の術を扱うこの少女は異端であるとは思ったが、神器の力であればうなずける。

 

 

礼を言おうと思った。しかし、この少女が堕天使の陣営の中で何の拘束もなく動いている時点で、我にとっての敵であることは明らかなのだ。

 

 

そんな相手に礼を言うことなぞ、否、そもそも回復した際のあまりの衝撃で気にも留めなかったが、我は今施しを受けているのではあるまいか。

 

 

相手にしたって都合があるのだろう。どうにもあの堕天使は我を、正確には我の中にある神器をアザゼルへの手土産としたいという思惑があるようだし。それを考えれば、我を回復させた目的が、自然、説明がつく。死なれて神器が転移されるような事態は向こうとしても避けたいというわけだ。

 

 

しかし、そんな相手側の都合があり、感謝する謂れなどないにしても。例えそれが我が堕天使の人間に施しを受けている、という屈辱だったとしても。ならばなおさらに感謝の意は示さなければならないとも思った。そうでなければ我は神でなくなってしまう。一方的に施しを甘受しているなどというより屈辱的な状況にはしてはならない。

 

 

「…………感謝してやってもいい」

 

 

元はと言えば、貴様らの陣営の人間がやったことだがな!

 

 

「???? あ、えっと…………」

 

 

しかし、その意は伝わらなかったようである。

 

 

まぁ、それはそうだろう。何せ相手が何を話しているのか、先ほどからまるでわからないのだから。察するに英語だろうか、仕方ない、フリードやレイナーレなどはあちらの方で対策を取っていたようだから意思疎通に問題は生じなかったが、この少女はそうではないようだ。簡単な英語くらいなら、この器も心得がある。治療してもらった礼を言う必要があるのはこちらだ、我の方から歩み寄ってやろうではないか。

 

 

「…………ありがとう」

 

 

異国語にすると器の語彙が貧弱なせいで我の意を正確に伝える術がせいぜい身体言語(ボディランゲージ)に頼るくらいしかない。

 

 

しかし、正確なところはわからずとも我が素直に礼を言っていることぐらいは伝わるだろう、そう思っていたのだが、少女の反応は至って素直。花開くような笑顔をパッと浮かべると、

 

 

「いえいえ! あ、お水とかタオルとってきますね! お掃除もしなくちゃいけませんし!」

 

 

早口でまくし立てて出ていった。

 

 

なんだったのだ、我の不敵な態度が気に食わなかったのか……? 

 

 

それにしても。堕天使の陣営に与するとは思えぬような少女であった。少なくともわが目にはそのように映る。シスター服を纏った姿もそれなりに様になっていた。普通に教会にいたとしても不自然には映らぬぐらいには堂に入ったものだった。

 

 

そんな少女が堕天使に囲われているなどと、なんと嘆かわしいことか。これも我がいなくなり、正しき導きがなされなかったことによる弊害なのか。ミカエルたちでは所詮代わりは務まらぬと言うことか。そこまで期待は持っていなかったが、いや、ここでミカエルたちに失望を抱くのは我の責任転嫁になるのか。わからぬ、わからぬな、我は正しき審判の指針を持っていないのだから、如何ともしがたい。

 

 

もどかしい、もどかしい。全てを意のままにする力があれば、“全知全能”があれば、こんなことにはならぬというのに!

 

 

我が己のもどかしさに悶えていると、先ほど出ていったばかりのアーシアがうんしょ、うんしょ、と両手にバケツを抱えて戻ってきた。その腕にはタオルもかかっている。

 

 

「ちょっと待っててください。今綺麗にしますので」

 

 

幾分か申し訳なさそうに、タオルを水で濡らし、こちらに近づけてくる。

 

 

優しく身体にへばりついた生ごみを拭うタオルを見つめ、我は当惑する。これ以上何のためにこの少女の手をここまで煩わせるというのだ。真意を探るようにアーシアの目を覗き込んでもそこには我を労わる色しか見えない。

 

 

これは善意なのか。我が器故にこの目曇り、この少女の行動の裏に潜んだ悪意を見抜けないだけではないのか。確かに一目見たとき、純粋に感じたこの少女の真心。しかし、ここまで甲斐甲斐しくもあると真実かどうか疑う余地も出てくる。自分に都合のいい幻想に身を委ねていられるのも、自分に害のない範囲のことであったから許容できたのだ。我の中にある、人間としての理想にまで踏み込んでくるような人格を持った少女ともなれば、それが偽りであったとき、大きく我の心を犯されることになる。それだけは看過しがたい。

 

 

それに…………偽りでなかったとして…………これを認めろと言うのか? この善意を認めなくてはいけないのか?

 

 

このような無垢な精神を持ち誠意をもって接してくれる少女が堕天使陣営にいることを認めろ、と? このような善意の塊の少女が堕天使陣営にいることを認めてしまったらそれこそ…………我の罪ではないか。

 

 

どちらにしたって、我が精神的にダメージを被ることには違いない。

 

 

一番安易に思いつくのは、やはりこの少女の善意が演技であった場合。あるいは命令されて嫌々やらされているか、どうにもそういう雰囲気は感じられないが。可能性として高いのはその二つだろうが、これ以上は。流石に善意でやってくれているかもしれない相手を心の中だとしても貶めるのは気を引けた。何よりそうすることが一番自分の心が傷つかずに済むとわかっていたからこそなおさらに。

 

 

「ひどい、本当にひどいです…………こんな、どうして」

 

 

縛られた鎖と肌の隙間まで丁寧に拭きながらアーシアはぶつぶつと早口で呟いている。本当に皮肉なほどに優しく、慈愛に満ちている。

 

 

だから、アーシアが次に口を開いたとき、何を話したのか気になった。力の無駄使いとわかりつつ、神器を行使した。もう一度ゆっくり話してくれ、と言って。

 

 

「あの…………私は、あなたが悪いことをしてここに捕えられているって聞きました。それって本当なんですか?」

 

 

アーシアの口から出たのは疑問だった。そんな疑問が口から出るってことは、アーシアは悪いことをしたかもしれない人間にここまでの誠意を尽くしたのか…………?

 

 

思い知らされる、アーシアの善意。まだ決まったわけではない、まだ決まったわけではないが…………真実であればそれはすなわち。

 

 

「悪いことか…………アーシアの想像している悪い事っていうのは例えばどんなことだ?」

 

 

「えっと、何かを盗んでしまったりとか、傷つけてしまったりとか、でしょうか?」

 

 

「仮にそうだとしても、堕天使が取り締まる理由にはならないと思うが」

 

 

「えっと、じゃあ、悪魔に何かをお願いをしちゃったり、とかですか?」

 

 

おっかなびっくり悪魔という単語を出して我の反応を窺ってくるアーシアに我はため息をついた。これが演技だったら、もうこの世に救いはないな、と考え、諦め。我はこの少女を認めた。

 

 

「悪魔に与するなどありえん。我は我(神)を信じているからな。故に堕天使に与することもありえん。いわば敵対関係にあるわけだ、貴様らと我は。そしてそんな目障りな我が神器を持っている…………我の価値はゴミ同然処分してもいいが、我の神器には価値がある。だからこうして捕えられているのだろうよ」

 

 

「そんな…………でも、やっぱり」

 

 

思い当たる節があるのか、アーシアは下を向く。堕天使の陣営にいるのにその自覚もないのか、奴らにとっては当然の行為であろうに。

 

 

一つだけ疑問がある。

 

 

何故アーシアが堕天使勢力に所属しているのか、その理由だ。我の至らなさが原因であることは疑いようもないが、細かな事情も知っておきたかった。認めようとはしてもまだ信じれきれない心にけじめをつけるための最後のテスト。確かめておきたかった。

 

 

「アーシア、何故お前はこんなところにいるのだ?」

 

 

聞いて、そしてアーシアを真っ直ぐに見つめること数秒。目はすぐさま機能した。過去の経歴まで見通してしまうこの目は残酷な真実を我に突きつけてくる。

 

 

その衝撃を押し殺して、唇をかんで。我は絞り出すように言う。

 

 

「話してくれ…………頼む」

 

 

我が尋常ではない様相で迫ったからだろう。聞き返すような野暮はせずアーシアはつまらないですよ? と前置きして話してくれた。

 

 

そして語られる彼女の生い立ち。

 

 

子供のころは教会兼孤児院で育ち信仰深く育った彼女は八つのころに治癒の力に目覚める。幼き頃より強力な治癒を使えたらしく、その力を見た周囲の者が「聖女」として担ぎ崇めたくらいであった。勘違いはそのときから始まったのだ。周囲の者たちはその力が信仰により神のシステムから授けられた加護による治癒の力だと思い込んだのだ。このとき神器によるものだと、誰かが気付いてやれたのなら結末は変わっただろうに。絶大な治癒の力は彼女の誰よりも深い信仰が神に認められたおかげだ、と思われたのだ。

 

 

もしかしたら。気づいた上で信仰の象徴として担いだのかもしれないが。

 

 

普通の治癒の力と神器・聖母の微笑の力。前者は当人の精神の信仰にもよるが、それを勘定に入れても後者の方が圧倒的に絶大であり、他の十人並みの治癒の力よりかはよほど聖女として担ぎやすくかつ、民衆にとってわかりやすい効果を示す。

 

 

理想は前者が信仰によって聖母の微笑ほどの治癒の力を得られることだが、早々容易くはない。早々容易くないから、妄執ともいえる神への傾倒を見せるから、聖女として立派だ、と教会は担ぎ上げられるのだ。

 

 

後者はただ単に絶大な治癒の力として存在してしまうために、信仰など関係ない。教会としても旨味がない。ならばそれを偽って前者の理想を追求すればどうか。これは少女の気高き信仰によって授けられたものだ、と。ばれなければわからない。我の存在の空白により求心力を失った教会としてはよい宣伝になるのではないだろうか。

 

 

第一アーシアは言った。力が発現した直後カトリック本部にまで連れて行かれた、と。そこの人間が神器の存在に気づかぬはずがなかろう、思い当たらぬはずはなかろう。

 

 

…………それが答えだ。

 

 

だから。その物語の破局は結果として訪れてしまった。聖女として人々を治癒する日々に訪れた転機。傷ついた悪魔を見かけ治癒してしまったのだ。

 

 

神の加護により授けられる治癒の力は同じ我の加護を持った人間にしか効かない。他者の勘違いが、教会の小細工が、露見してしまったのだ。

 

 

そしてアーシアは「魔女」の烙印を押されたという。そのままトカゲの尻尾切りだ。アーシアをかばう人間は誰もおらず、そのままアーシアは野に放り出された。誰も味方してくれなかったことが何より悲しい、とアーシアは涙ぐんだ。

 

 

後は流れるがまま。行き場を失ったアーシアを拾ったのは極東の堕天使の勢力。レイナーレの下であった。

 

 

なんだ、これは。なんだこれは、なんだこれは!

 

 

なんだ、その理不尽は!? 許されていいのか、それが!!

 

 

糞が! 教会の糞上層部どもが!! いやわかっている、我のそれはただの推測! 証拠も何もないただの想像。たまたま気づかないことも、そんな偶然が重なることもあるのかもしれない! しかし! しかし!! 

 

 

そんなことがまかり通っていいのか!!

 

 

わかっている!! もし仮にそれが教会の小細工であったとして我に責める資格など一切ない!! 我が! 神がいなかったのだ! そのくらいのことをしなければ、教会を運営できなかったのかもしれない。

 

 

それは優しい嘘だ。誰も損することはない、加護を求める信者たちの身体を治せるのも真実、少女に信仰があり、それを実践する理想的な聖女であったことも真実、そこに少し、みんなが幸せになるように嘘を混ぜ込んだだけ。

 

 

それが露見して一人の少女が不幸になっただけ。

 

 

我がいない間のことなど責められるはずもなく。残された少女の不幸はどこへ行くのか。

 

 

「これは主の試練なのです。私が鈍くさいから、こうやってきびしー試練を与えて直してくださろうしてくれているんです。だから私はへっちゃらです!」

 

 

その罪の在り処はどこにあるのか。

 

 

悪かったのは誰だったのか。

 

 

一生懸命聖女として励んできた少女か?

 

 

嘘を混ぜ込んだかもしれない教会の上層部か?

 

 

違う、断じて違う、皆ががんばった、皆が努力した。

 

 

 

 

 

 

悪かったのは、我一人だったのだ。

 

 

 

 

 

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

実感したよ! ああ今初めて実感した! 我が犯した絶対性というのはつまるところこれなのだ! 愛がない! 愛がない! 愛がない! 我がいなくなったことで全てが不調和の形を取り始めた!! 悲鳴を上げている! これが全てと思うなよ! 神! こんな悲劇が山ほど転がっているのが、今のセカイなのだ! だからこの程度で潰れてくれるなよ!! 俺!!! 

 

 

「だ、だいじょぶですよ、私は本当に…………グスッ。こ、この試練を超えたらきっといっぱいの幸せが待っているんです、主が、主が、そう導いてくれるはずです! これだけ、これだけがんばっているんですから」

 

 

その主は今ここにいる! 神はここにいるのだ! なのになのに、少女一人救う力がないのか!? このように健気に信じ続けているアーシアに手一つ差し伸べてやることができないのか!? なんだそれはなんだそれはなんだそれは!! いつまで寝転がり続けている!? いつまでくそ堕天使の鎖に絡まっている!! 今すべきことなぞ決まっているではないか!! 泣いている泣いているアーシアの涙をぬぐってやるのが、彼女が信じている我じゃなくていったい誰だと言うのだ!!!!!????

 

 

ギシギシ、と鎖が揺れる。我を縛る鎖の全てを壊さんと体中の力をこめて。

 

 

「わ、私、夢があるんですよ? と、友達作って、一緒にお話したりっ、お買い物したり…………小っちゃいですけど、この試練の先にはそんなことが待ってるとっ、思うんです」

 

 

「ああ、叶うさ、叶うよ! アーシアの願い!!」

 

 

神器! “全知全能”“の神器よ! このくらい叶えるのは簡単だろう!? こんなに健気に思ってくれているのだ! こんなに我がどうにかしたいと思っているのだ! 感情に応えろ! 神器よ!! せめて! せめて!! 今の我でも!! 彼女が望む我でなくとも!! 手ぐらいは差し伸べさせろ!! それが神の務めだろう!!??

 

 

「そうです、かね? 叶います、かね?」

 

 

神器が我の高鳴りに合わせて唸りはじめる。身体は治ってもエネルギーは湧いてこない。神器は我の願いを知って、本来は手を伸ばしてはいけないところにまで手を伸ばす。枷が外れる音がする。莫大な生命の息吹が全身に向け脈を打ち始める。

 

 

鎖に罅が割れる音がした。

 

 

魔方陣が描かれる床が軋む音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ!! 叶う!! 必ず我が!!! かなえてみせる!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、戒めの鎖が解かれる。

 

 

鎖の全てのことごとくがバラバラになり、雨のごとく降りしきる地面をたたく音の中、我はそっと、ぽかん、と口を開けているアーシアの頭に手を伸ばす。

 

 

そして。触れた。

 

 

掌に感じるかすかな温もり。涙でぬれた瞳を真っ直ぐ向けるアーシア。ずっとずっと神に祈り続けて報われる時を待っていたアーシア。

 

 

もうそのときはすぐそこまで来ている。

 

 

「報われるさ、報われる、お前の願いは必ず我が叶えよう」

 

 

アーシアの頭に乗せた手をゆっくりと撫でるように頬に添え、伝った涙を親指で拭う。

 

 

「本当…………ですか? 私のお友達になってくれるんですか…………?」

 

 

「ああ、アーシアは我の友だ」

 

 

「う…………じゃ、じゃあ一緒に話したり、お買いものしたり」

 

 

「もちろんだ、アーシアの望むことならなんでもやろう」

 

 

「うぅ、う、ぅ…………ホントのホントですか?」

 

 

「ホントだ」

 

 

なおも、今の言葉が信じられない、といった様子で確認をせがむアーシア。

 

 

…………心臓がこれ以上ないくらいに早鐘をうっている。全身に汗が噴き出してきた。身体の一部がごっそり抜けおちたかのように苦しい。

 

 

だがそんな辛さ、今はどうでもいい。

 

 

その億倍の辛さをアーシアは味わってきたのだ。このぐらい、どうということはない。

 

 

「それじゃ、それじゃ、えっと、あ、お名前まだ聞いてませんでした」

 

 

そうだ、どうということはないはずだ。我は神なのだ、アーシアの願いをかなえる神なのだ。何も問題はない何も問題はないないない。

 

 

…………………………………………………………

 

 

「名前、名前かぁ…………」

 

 

ああ、何て答えようか。我は神だしな、神とでも答えようか。でも彼女が望んでいる友達はそんなんじゃないだろう、神に願いがかなうことを求めても、神と友達になりたいわけではない矛盾、矛盾だな、これは、神ならもっとうまく願いを叶えてやれるのに非力だからなぁアーシアの神は、自分が友達になるぐらいでしか解決できないし、でもアーシアの神はもっと偉大だし、困った名乗るべき名前がない、ああほら名前ごときで躊躇ってるか「だめですか」って涙ぐんできちゃってるバカか我はまったく、名…………前、まえね、じゃあパッと思い、つ、いた名、でいいだろう、

 

 

「……ぉはま、だ」

 

 

「え、今何て!?」

 

 

ああ、そんな嬉々蘭々としちゃって、くだらない下劣な存在の名前が初めての友達でごめんなぁ、でもこれぐらいしかできぬしなぁ、少しは役に立てるなら…………

 

 

「元浜、だ、アーシア。お前の、友の、名前、元浜」

 

 

「元浜さんですね!? わかりました! 私はアーシアです!! お友達、よろしくお願いします!」

 

 

ぺこりと満面の笑みを浮かべて頭を下げるアーシア。

 

 

そこまで聞けてガクンと我は身体を折った。くそ、まだ話すこと、……も満足にできていないと、言うのに、このくだらない器は、全く…………

 

 

「え、元浜さん、大丈夫ですか!? 元浜さん!!」

 

 

「ん……ぁあ、ぃじょぶ…………少し休めなかったから眠くなって……きた、だけだ」

 

 

「…………あ、……すよ…………ゆ……」

 

 

意識が途切れそうになる。くそ、“全知全能”ならもう少し融通利かせろ…………

 

 

「…………っ………い…ぅ………!!」

 

 

ぁああ、でもよかった…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

笑顔だなぁ、アーシア。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

神の一手

神器の使い過ぎで意識を失うのは、何度目か。意識を取り戻した我が思ったのはそんなことだ。切羽詰まった状況下での緊急対応であるがゆえに後悔はないが、こうも立て続けに神器の行使を強いられるまでに陥るとは、この器の不運を呪いたくもなる。

 

 

しかし、感謝もしている。堕天使との接敵もフリードとの応酬もアーシアとの出会いも、我の現状を知らしめると言う意味では悪いものではなかった。

 

 

「…………この体勢は辛いがな」

 

 

殺されなかっただけましか、我はどこぞの原罪を償う聖人のように鎖で手首と足を縛りつけられ吊るされている。背後の壁には幾重にも重なりあった魔方陣、そこからラインが鎖にまで伸び蔦のように我を絡め取る拘束具の一部となっていた。

 

 

「あ、ぐぅう!」

 

 

神器の行使によりいくらか強化されている我の身体を振り絞ってみても、ロウで固められたように微動だにしない縛鎖。我が壊す前の拘束が温いと感じられるほどに、その拘束は厳重になっている。

 

 

それでも、無駄な足掻きと分かっていても、一通りの抵抗は試す。確認作業のようなものだが、やはりこの程度で抜け出せるようなやわな拘束はしていないらしい。

 

 

しかし。諦めはしない。我はかつてないほどの使命感に駆られていた。

 

 

アーシアを救う。

 

 

我の神への試練の第一歩。気づけたのは僥倖だった。傲慢にも上ばかり見ていた我は足元の路傍の石に目を向けることを知らなかった。いつか何かの拍子に躓くことになるそれに気づけてよかった。知ることができてよかった。

 

 

このまま何事もなく神への道を邁進したら、と想像してゾッとする。それでは何も変わらない、我の神の座からの失墜に対して表面上責任を取ったつもりでいるだけの虚に満ちた偶像と我は成り果てていたに違いない。

 

 

信者が崇拝する主とはすなわち、信者にとって都合よく理想化された偶像に過ぎない。それは人間の感覚では偶像としか捉えられないが故の罪だ。しかし、実はきちんとある、我の存在こそがそれを証明している。そして、その実である我とはすなわち合理性と論理性に最適化された存在なのだ。

 

 

我が築いた論理(システム)に基づき、信者の信仰と境遇に掛け合わせて加護を授ける、あるいは試練を下す。その過程にある信者の感情など顧みない。我は神なのだ、理解しようもないこと。

 

 

時に授ける加護は信者からすれば我からの愛なのだろう、時に下す試練は信者からすれば我の鞭撻なのだろう。それは視点と規格の問題。我の愛と信者の愛に相思など不要なのだ。元より比べようのないそれだ。我に愛がなくとも信者に愛が灯ればそれでよい。そうでなくては世界など管理できないのだ。故に我は合理である。公平を正義を貫く神であるがゆえに。

 

 

その合理を正義としていたのは我が神であったからに他ならない。力があったからこそに他ならない。そして今の我に力などない。

 

 

故にもう一度。我が神となるのであれば、それにふさわしい力とそして合理にたどり着かなくてはならない。

 

 

アーシア、我は友となると言った。しかしそれは一時のこと。いつか我とアーシアは友ではなくなるだろう。完全なる合理に近づくにつれ、その不合理は自然排されていく。だから一時、ほんの一時、我の論理(システム)がバグを起こしているその一時だけ、我はその不合理をそなたへの罪への償いとして認める。そのバグが修正されるその一時の間に、我がお前の望みを、夢を我なしで実現できるようにしてやる。

 

 

我にできることなどそれくらいなのだ。

 

 

我が神に戻るにはそうするしかない。この分不相応な器、不具合などたくさんある。そのうちの一つが、目の前の人間に痛みを感じてしまうこと、感情移入してしまうこと。

 

 

だからこそ。

 

 

痛みを知って、感情を知って、今までは知らなかったものを糧として。我はもう一度。

 

 

以前とまるっきり同じ無慈悲な合理性を獲得しなければいけないのだ。

 

 

今なら理解できる、人間の煩悩、わが愛おしい息子たちが堕天した理由。しかしその立場になって理解してなお、引き裂かれそうな相反する感情を知ってなお、もう一度我は同じ地点に辿りつく。

 

 

それこそ神の合理が正しかった、と証明できる、我の唯一の手段なのだから。

 

 

それこそが、我の責任の取り方なのだから。

 

 

我は今、非常に不合理に満ちた存在だ。これを合理に変えなければならない。しかし、その不合理が甘受できるその過程において、我は我の不在によって出てしまった神のシステムの不合理(バグ)の罪を償っていこうと思う。

 

 

不合理には不合理を。神たるわが身には許されぬ公正を曇らせる贔屓だが、この身が器である限り、その不合理は許されるのだ。

 

 

とことん向き合っていこうではないか、この不合理と!

 

 

そのスタートこそがアーシアの夢の実現。

 

 

非力たる我にはいささか手におえるが、神への道の試練だと言うのなら申し分ない。

 

 

「やってやろうではないか…………!」

 

 

我は不敵な笑みを浮かべて、宣言した。

 

 

 

 

 

「へぇ~~、何をやってくれちゃおうとしてるのかなぁ~~?」

 

 

 

 

 

厳粛な場を貶める道化の声。満を持しての宣言に水を差されたはずの我はというと笑みを深めるだけだ。

 

 

「何、薄汚い堕天使どもをどう殺そうかと、な」

 

 

我の視線の先、扉が音を立てて開かれ、口で弧を描いてせせ笑う白髪の神父、道化のフリードが姿を現した。

 

 

「へぇ、なにそれなにそれ。俺にも詳しく聞かせてくれよ。俺と君とのトークタァイム!」

 

 

フリードは相変わらず道化っぷりで我を茶化してくる。

 

 

その空気の読まなさ加減に我はいっそう笑う。なに、予定よりかは少し早かったが、こちらの手の平に状況は乗ってくれた。

 

 

我がここから出るための策、糸口を手繰り寄せる術だけが不足していたのだが、運のいいことに自分から飛び込んできてくれるとは何と幸先のいいことか。

 

 

条件はすべて揃った。

 

 

さぁ、始めようか、道化。せいぜいうまく踊ってくれよ。

 

 

「お前と話か…………悪くはないな。ペラペラとよくしゃべるその口も暴力を交えてでなければ、我の無聊を慰めるよい暇つぶしとなるであろう」

 

 

「まさかの上から目線ですかそうですかでも俺は怒りませんよ、なぜなら俺は善良な一般人を悪魔の魔の手から守る悪魔祓いだから! あなたのお悩み解決しないで俺のお悩み解決しちゃう感じですんでよろしく!」

 

 

…………神器を起動する。行使に必要となる力の源は“生命力”。我は気づいていた。本来であれば触れることすらかなわぬ、生命力を保全する檻が拘束を破る際に壊されていたことに。それは人間としては致命的な欠陥だ。障害と言ってもいい。本来であれば、生きていくために少しずつ消費していくはずの生命力を、エネルギーとして転換できるのだ。一時的には莫大な力を得ることができるだろうが、その代償はあまりにも早すぎる死。それを防ぐための檻が壊れているのだ。尋常ではない。

 

 

それはそれだけ、アーシアへの想いが強かったこと、そして神器がそれを叶えたことを意味する。結構、大いに結構。そのおかげでこうして神器が使えるのだ、文句などあろうはずがない。

 

 

…………生命力を回復させる手立てがないわけではないしな。当分生きるのに苦労しない程度の生命力以外はここで全て使い果たす予定である。それぐらいしなければ、ここを抜け出した上で堕天使たちと矛を交え、アーシアを救うことなどできない。

 

 

「ほぉ、お前の悩みな…………悩みなどあるようにも思えぬが。ふん、そのわざとらしい道化の仮面の下にはいったいどのような罪が隠れているのであろうな?」

 

 

音もなく神器が行使される。もちろんフリードが気づいた様子はない。我にも行使されたかどうかまではわからない。それほどまでに微細な変化。あとは我の思うが儘、辛抱強く会話していくしかない。

 

 

「あらあらずいぶんとかましてきやがりますねえこの野郎は。道化とかもしかして俺のことばかにしてますぅ? 俺のエキセントリックスーパートゥルーラブなトーク術に理解がないとは人生損してますよ、お客さん!?」

 

 

フリードにも変わった様子は見受けられないか。まぁ、そうでなければ意味がない。

 

 

神の言葉には重みがある。神の一言で世界が変わり、神の腕一振りで多くの命の行く末が決まる。神とは、その行動一つで全てを変えることができる存在。

 

 

それまであったものをあっけなく、簡単に変えてしまう。神の御前に召し出されればどんな殺人鬼も己の罪を悟るのだ。自らが悪であると自覚するのだ。人はそれを告解と呼ぶ。

 

 

今からやろうとしていることはその延長線上、要はフリードの【洗脳】だ。フリードに我が神である、とこれからなされる会話の中で刷り込む。無意識領域にくさびを打ち込む。

 

 

それがただの魔術・魔法になってはいけない。フリードもそこまでの領域となれば危機意識から自ずと自覚症状が出て気づいてしまうだろう。そうなれば元も子もない。

 

 

あくまで言葉による説法。少しずつ少しずつじわじわじわじわ、と、フリードの心の奥深くに響くような言葉を投げかけ続ける。我の存在を印象付ける。

 

 

それを助けるための力を我の言葉には持たせた。後はその言葉のどれかがフリードの琴線に引っかかるのを辛抱強く待つしかない。

 

 

「フリード。お前は何故そのような道化を演じる? 我にはその必要性が理解できない」

 

 

「だから道化とか言わないでくれますかねぇ、こいつは俺の素であって演じるも何もないわけなんですが」

 

 

「道化をありのままの自分と語るか。ならばお前はキチガイだ。癇癪で人を殺す性根と言い、その物言いと言い我には理解できぬ醜悪ばかりである、何故そのような愚を犯す?」

 

 

「あーあーあーあーあ。めんどくせえどっかのお偉いさんが語りだすようなこと言い出しましたよぉ、この人は。俺的にはそんなことよりもどやって拘束解いたのーとか、どんな神器もってんのー、とか聞きたいんですがねえ、ぶっ殺すぞ」

 

 

 

少しばかり殺気立った空気を纏い、顎を上向ける仕草で、俺の疑問に答えろ、と脅しをかけてくる。フリードにしてみれば、我は捕虜の身。まともに会話をするだけ無駄と弁えているのだろうがこうも短気では話にもならない。しかしこんなことでめげていては先が思いやられる。我は根気よく粘った。

 

 

「ふん、短気なものだな。我としては、堕天使に与する仇敵とのせっかくの機会。矛を交えることはあっても言葉を交わすことは稀な我々だ。少しばかり双方の認識をもって話をするも一興と思っただけなのだがな」

 

 

「ふーん、でも俺そういうのあんま興味ないんですわ。殺したいから殺す、理由なんて語らずとも散々剣で示してきたでしょ、俺たちは相容れねえって! ま、殺せればいい俺としては何とも簡単な感じでラッキー的な?」

 

 

なんとか話は続いている。自分で嗾けていておいてなんだが、このキチガイとまともに話ができていることは意外の一言である。口よりも先に焦れて剣が出そうな男という印象が先行していたためになおさらだ。まぁ神器が相手からそれを引き出しているだけなのかもしれないが、それでもこの男に思慮という人間らしいものが存在していることに安堵した。

 

 

「殺せればいい、か。確かに戦士としてそれは理想であるな。しかし貴様は俗に言うはぐれ悪魔祓いと呼ばれるものであろう。貴様とて教会の法理は学んだが故に知っているはず。何故そのようになってしまったのだ?」

 

 

「何故って!? はっ、教会はね、あれやこれやうるせえんですよ。そうなるように育てたくせに、殺し方に問題があるだの、周りを巻き添えにしすぎだの。殺せれば問題ないだろうによぉ、教会は神様がどうだの、って俺らは神様のために悪魔狩ってんじゃねーつうの!! 俺様人間様のために殺してんの! アイアムジャスティス!」

 

 

なるほど、この男きちんと教会の下で育てられたくせに信心の一つも身についていないようだ。これでは教会から追放されたというのもうなずける。

 

 

「ふむ、道理ではあるな。神のために殺しているのではない、人間のために殺している…………まことにもってその通りだ。そも貴様ら悪魔祓い程度で狩れる悪魔の実力など下級天使の足元にも及ばぬもの。実際被害を受けるのは人間なのだから結果として貴様らは自分たちのために悪魔を殺していることになる」

 

 

しかし、この男の言っていること理解できなくもないのだ。この身が器であるからにはなおさらに。だからあえて同意をする。思わぬ肯定にフリードも目を丸くする。そうだ、そうしてフリードの興味を引きこんだところで神器を強く行使する。

 

 

「おっと、おっと? 君、なんか言動からして神信仰してたっぽいけど、ここにきての寝返り? 偉そうにしてても命は惜しいとかいうあれ? 命乞いやっぱする? お代官様やっちゃいます? 今なら税込で俺の越後谷さんつきだよ? さらにもう一セットお付けしちゃいますよ?」

 

 

少し、乗ってきた…………か? 相変わらずすっとぼけた調子であるから判別がつきにくい。釣り上げ時がわからぬのは痛いが、あまり本意に欠けたことを言うのも本末転倒。我は我の考えを吐き出した。

 

 

「そうではない…………人間のために悪魔を殺しているという道理を認めるだけだ。貴様が問題視されたのは、悪魔が相手とはいえ、殺害という行為を神に委ねない、信心の欠如にある。この場合の信心とはすなわち公平の天秤を神に預けることだ。秤を他者に預けることで己の情動とは別のところで自らを律する術を持つことこそが殺害という行為では肝要なのだ」

 

 

それは一般の人間でいうところの刑法にあたるものだ。常に己の欲望を監督する不変の目がある。それだけで、人は衝動的に何かを行うと言うことを避けられるのだ。

 

 

「いやいや意味が分からないんですけど? 律してねえだろっていう。神様ファンだって自分が悪魔憎いから殺してんだろ? 殺したいから殺してるんだろ? だったらなんで神様のためにってわざわざ自分誤魔化さなくちゃいけねえんだよ。そこは素直にGO! 俺殺したいから殺してるんです、殺すのが気持ちいいから殺してるんですぅ! ってよ。そこでいい子ちゃんぶるのはなぁ、神様って言葉を逃げ道してるだけ、自分で自分のケツをもてねえ弱者の言い訳だろうが」

 

 

暗にお前もそうだろう、と我に蜜を垂らしこむように、殺人の享楽への自覚を促そうとするフリード。この男を狂気に駆り立てているのは、意外にも理の通った理屈であった。

 

 

「そうだな…………間違ってはいない。己の価値基準を完全に律し、人間のため、と悪魔を殺せるのなら、な。しかし、な。お前は、人間は違うだろう。人間というものがそうまでして傲慢につけ上がれば、最後享楽に溺れ見境を見失う。悪魔にその享楽が当てつけられている内はまだいいのやもしれぬが、お前は違うだろう。お前は現に癇癪で人間を殺している」

 

 

信心が戦闘においてはくだらぬ、実力には関係ないものと決めつけている戦闘者であればあるほどそのきらいは強い。戦闘本能に心の全てを明け渡したものを止めるものなど享楽以外に何一つとして存在しないのだ。そうして、勘違いする、悪魔を殺す権利は、人を殺す権利は、我にあり、と。その傲慢がフリードのような享楽者の典型を生む。まるで自らが正義と信じて疑わぬ、殺害という行為からついて離れない、剥がしてはいけないベールを剥がして小憎らしい理屈まで並べて、享楽者は語る。お利口ぶるな、と。お前と俺は同じ人種だと。

 

 

人ならば誰もがその存在を知っている享楽だからこそ、このフリードの言葉は時として誰かに響くのだろう。

 

 

全く、我がその罪を覆い隠し、泥を被ってやろうというのに、人間というものつくづく好きものだな。

 

 

「いやいや、人なんか俺は殺してませんよ? だってあいつ悪魔だし、悪魔に与するやつは屑だって教会で習いましたよ? 優等生な俺はそれにきちんと従っただけですからねぇ」

 

 

途端に論を失い、道化じみた調子が戻るフリード。調子の良い奴だな、自分の理屈が通る間は一席ぶりもするが、都合が悪くなるとすぐ理性を道化の仮面の下にひそめる。

 

 

そんなフリードに我は一言だけ告げた。別に意図したわけではないが、神器が強く働き掛けるのを感じた。

 

 

「…………楽しいか?」

 

 

「はい?」

 

 

「楽しいか、と聞いた。屑を斬るのは楽しいか、と」

 

 

こいつが屑だと思っているのは、もう悪魔だけではないのだ。すでに見境を失った狂乱者は等しく周りをゴミだとしか思っていない。そんな状況で屑を斬って楽しいか、と我は問いかけた。

 

 

「いやいやぁ! もうすっげええええ楽しいわ。なんつーんすかねぇ、俺って勤労意欲の高い少年だからさぁ、こうゴミを掃除した後? 町がこう綺麗になっていると清々しいんですよねぇ。あ、俺がきれいにしたんだな、って。わかりませんかぁ、この達成感?」

 

 

「ゴミを掃除した後? お前にとってゴミなんぞそこらじゅうに転がっているだろうが。お前は片付けた気になっているのかもしれないが、はっ、とんだ無精だな。まだまだ世界はゴミに溢れているぞ」

 

 

格下の生物を足蹴にし続けて優越感に浸れるのは一時だ。その果てにあるのは、享楽が享楽に感じられなくなる不能。相手がゴミだと思えば思うほどに、その感情は摩耗していく。

 

 

そうなったとき、戦闘者はさらなる強者との戦闘を求める。足蹴にする生物も階段のように高くなっていかなければ感情がついていかないのだ。ゴミとの享楽を経て得るのはもっともっと快楽を、と高望みする感情ばかり。その落差が次第に世界を平坦にしていく。ある一定度の戦闘者の末路なんてそんなものなのだ。

 

 

だからこうして、フリードは我に会いに来ている。普通のゴミ掃除では得られない享楽の予感を我に嗅ぎ取ったから。しかし、その我はというとどこぞのゴミと変わらずその身を縛られ、うずくまっているだけ、フリードの鬱憤も溜まるばかりであろう。

 

 

そんなお前に朗報だ。ゴミでないものがここにいるぞ。貴様の罪を裁く神がここにある。その鬱憤我にぶつけてみよ。貴様の罪は我が罪も同然。貴様を受け止め、裁いて冥府の淵へと送り込んでやろう。そのような念を送り、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フリード、もう一度聞こうか。ゴミ掃除は楽しいか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな、君に朗報で~す!」

 

 

そして一瞬で、空気の流れが変わった。

 

 

我の挑発にフリードは一瞬顔を歪めたが、次の瞬間には目が覚めるようなさわやかな笑みを浮かべていた。

 

 

「本日の話題は君がフォーリンラブしてるアーシアちゃんについて、どう、知りたくない?」

 

 

「…………ちっ」

 

 

小さく舌打ちをして、我は完全に主導権をフリードに握られたことを認めた。もとより一度で成功させようなどとは思っていなかったが、こうも鮮やかに手のひらを返されると、苛立ちの念はかくしようがない。

 

 

しかもこの場面でフリードがアーシアの話題を切り出すということはよい知らせではまずあるまい。いいように詰られた我に意趣返しをしたいと思っているのならなおさらに。

 

 

「どう、知りたい? 知りたいのなら、俺に頼んでみなよ? お願いしますフリード様、どうかアーシアちゃんのこと教えてくださいおねがぁぃしまぁす! っってね」

 

 

くそ、知りたい、それはそうだ。あの後のことを我は何も知らない。図らずともあの場面での拘束具の破壊は、アーシアにその手引きをした嫌疑をかけることになったのかもしれないのだ。アーシアの情報は喉から手が出るほどに欲しい。

 

 

しかし、ここでフリードに屈するわけにはいかないのも事実。それは単純に矜持に障る云々以前に、ようやく綻んだフリード攻略の糸のほつれを、フリードに嬲られることによって台無しにしてしまう可能性を考慮した上での判断だ。

 

 

あのタイミングでフリードの話題の切り替え。間違いなく奴は動揺していた。自陣の情報を漏洩させてまで隠そうとしていることからもそれは明らか。

 

 

このまま奴にそれをさせて、再び我を足蹴にする優越感に浸らせるのか…………正答は見えない。だが、どのみちアーシアが危ないことなどわかっているのだ。時間はそう残されていない、それだけ認識できれば…………十分だ。

 

 

「必要ない、それより先ほどの問いに答えろ。お前はゴミ掃除してて楽しいのか?」

 

 

「……………………はぁあああああああああ!? なんでてめえの疑問にいちいち答えなきゃいけねえんだよ! てめえは俺の言葉に答えてりゃいいんだよぉ! ちょっと甘やかしたらつけあがりやがって、このくそ神様信者がよぉ!」

 

 

反射的に手が出たのか、罵倒ともに拳を振りかぶり我に突きだしてくるも、その手前透明な壁に遮られたかのように、鈍い音を響かせた。

 

 

「~~~~~~~~っ! いってぇぇええ、くそが! 障壁のこと忘れてた~~」

 

 

「…………馬鹿が」

 

 

都合が悪くなるとすぐ暴力。あきれ果ててものも言えない。しかし、外部からの干渉も容易ではないか。そうなってくると計画にも変更が必要になってくるが、如何せん拳の一振りでは、強度の測りようがない。

 

 

「あ~~~もう! イライラする!!」

 

 

地団駄を踏み、恨めしげというには優しすぎる表現でこちらを睨んでくるフリード。ひとしきりこちらを睨みきると踵を返して、足早に部屋から出ていった。

 

 

さて、くさびは打てたが、時間の猶予がないと考えるのなら少しきついな。やはり自力での脱出を目論んだ方が賢明か。

 

 

思考を巡らせようと、自らの世界に入り込もうとしたところ、出ていったはずの道化の声が再び部屋に響いた。

 

 

「脱出すんなら早くした方がいいと思うぜって俺からのやさし~い忠・告。早くしねえとアーシアちゃんが…………ケケケ!」

 

 

悪趣味な、悪趣味な仕返しだな、子供の稚気ほどに信用のならない言葉だ、おおまか負け惜しみだろう。しかし、しかし、本当にそうか? アーシアの命が危機に陥っていないなどと断言できるだけの論拠は我には無いのだ。今もその魔の手が伸びていないなどという確証はないのだ。ならならどうする、いや待てそう焦るな、まずは計画を前倒しにする。そのための準備をしよう、それが終わった後ならば少しは視野も広くなるはず。

 

 

手を伸ばすは禁断の果実である“生命力”。

 

 

これからこの器が消費するであろう50年分の生命力。それらを総てこの器の能力の向上に当てる。この拘束具堕天使はぐれ悪魔祓いそのことごとくを容易く打ち砕ける力をこの手にする。負担は大きい、代償は計り知れない。しかし躊躇などするものか、我は神である。その役目に沿って今は邁進するのみ。

 

 

さぁ、始めよう。願わくばかつての我の力の鱗片ほどの力でも取り戻せることを祈って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。